ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト (hirotani)
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プロローグ

 hirotaniです。以前は『ラブライブ! feat.仮面ライダー555』という作品を投稿していました。

 『ラブライブ! feat.仮面ライダー』とシリーズ化して良いものか葛藤はありましたが、読者様からの熱いお言葉を頂きまた作品の投稿をさせていただきます。本作は実験的な試みのため、どんな出来になるかは分かりませんが長い目で読んでいただけると幸いです。

 よろしくお願いいたします。




 始まりは、見慣れた海だった。

 

 その日はいつもと同じ日和で、同じ海だと思っていた。

 幼い頃から慣れ親しんだ、静岡県沼津市の内浦から広がる駿河湾の海。波の音も、1年の大半は頭に雪を被った富士山も、何も変わらない日常のありふれた風景だった。

 けれどその日だけ、わたしはありふれた日常から外れた。

「千歌ちゃん、誰か倒れてるよ!」

 わたしの親友が慌ただしげに海岸を指さしたのは、休日に沼津の市街へ遊びに行こうと家を出た朝のこと。楽しみ、という期待がまっさらに消えて、「待ってよ曜ちゃん」と親友の後を追って波打ち際まで走ると、確かに見慣れた風景の一点でその人は海水に身を浸していた。

「生きてる……、かな?」

 まだ子供だった故の不謹慎さから、わたしは恐る恐るその人の顔を覗き込みながらそう言った。見たところ若い青年だった。濡れた長めの髪がうつ伏せの顔面に張り付いて、その顔が一定の間に押し寄せる波で洗われていく。

「引き揚げなきゃ」

 親友の言葉で、わたしはまずやべきことを見出す。どれくらいの時間に青年が海を漂って内浦の海岸に流れ着いたのかは分からないけど、まだ海水が冷たい季節だから低体温症で危ない状態かもしれない。現に、そのときのわたし達はとても興奮して大声でまくし立てていたというのに、青年は微動だにせず砂浜に顔を埋めていたのだから。

 「よいしょ」とわたし達は片方ずつ腕を掴んで、青年を波から引っ張り上げた。子供――といってもその頃はもう中学生だったけど――にとって青年の体はとても重くて、普段から運動をしている親友は平気そうにしていたけどわたしはすっかり息をあえがせた。砂浜に腰を下ろしたわたしの手を青年の手が握り返したとき、「うわあっ」と驚いて反射的に放り投げるように放してしまった。

 微かな痙攣を起こしながら、ゆっくりと青年の目蓋が開けられる。緩慢に頭を持ち上げた青年はわたし達に気付くと、緊張感なんて無縁そうな笑みを浮かべて言った。

「靴が濡れちゃいますよ」

 このときに抱いた気持ちは、今でも鮮明に思い出すことができる。確かに青年を引っ張り上げるときに靴を海水で濡らしてしまったけど、まさかそのことを心配されるなんて。ここはどこ、とか君たちは誰、とか疑問が飛んでくるとばかり思っていたのに。

 この浜辺から、全てが始まった。

 本格的にわたし達の物語が動き出すのはこの日から1年と半年も待たなければならなかったのだけれど、わたしにとっての始まりはこの出会いだ。

 これを読むあなたにとっては既に知っている過去のことだから、少し退屈かもしれない。でも、わたし達が過ごした時間が一緒でも、わたし達それぞれが感じていたことは違うと思う。わたしは皆が感じていたことを知りたかったし、皆にも知ってほしいんだ。わたし達が何を想いながらあの頃を過ごしていたのか。わたし達の知らないところで、何が起こっていたのか。

 

 これからわたしが語るのは、わたし達が伝説の輝きを追いかけ、わたし達自身の輝きを探し求めた物語。

 輝きを力に変えた、アギトの神話の物語。



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第1章 輝きたい‼ / 戦士の覚醒 第1話

   1

 

 わたしは待ち続けていた。普通なわたしの日常に、突然訪れる奇跡を。

 何かに夢中になりたくて――

 何かに全力になりたくて――

 脇目もふらずに走りたくて――

 でも何をやっていいか分からなくて、(くすぶ)っていたわたしの全てを吹き飛ばし、舞い降りてくるものを。

 

 

   2

 

 壁と天井を覆うコンクリートに、ゆっくりとしたリズムの足音が反響する。ジュラルミン合金製の靴底が150キログラムもの総重量を床に叩き付けているが、その鎧を全身にまとう当人にとって、重さはさほど苦ではなかった。自分の体重を超える武装には、筋力補正も組み込まれている。100メートルの距離を10秒で走ることも可能だ。

 大丈夫。訓練と演習通りにやればいい。

 マスクの奥で、装着員は深く深呼吸した。

『用意は良い? 氷川(ひかわ)君』

 マスクに搭載されたスピーカーから女性の声が聞こえてくる。「はい」と装着員は応じた。大丈夫だ、と再び深呼吸する。ただ警視庁の上層部がモニタリングに同席しているだけ。普段の演習との違いはそれだけだ。指揮を執るのは小沢澄子(おざわすみこ)。オペレーターは尾室隆弘(おむろたかひろ)。そして装着員は自分。何も変わりはない。

『G3戦術演習(マヌーバー)、開始』

 小沢が告げると、演習ルームの奥に設置されたモノリスが警告のブザーを鳴らす。続けてその窓から黒いハンドボールほどの鉄球が無数に飛び出してくる。まっすぐ向かってきたそれらを紙一重で避けると、背後に衝突する音が幾重にも響く。床に落下する音は聞こえなかった。砲丸よりも重い鉄球だ。コンクリートの壁では衝撃に耐えきれず、球を埋めさせてしまっているのだろう。以前、演習後に何気なく鉄球が埋まった壁を見たときは、まるで無数の目に睨まれているようで少し怖気づいた。

 続けて飛び出してきた鉄球も全て避けてみせたが、最後の1球のみは避け切れず、鋼鉄の胸部装甲に直撃する。スピーカーから中年男性特有の、しわがれかけた「おお……」という声が漏れる。この1球は敢えて避けなかった。回避はスーツではなく、スーツを動かす装着員の動体視力に左右されるからだ。だからスーツの耐久性を示すため、1撃のみは許した。

 胸に抱えた鉄球から手を放す。ごとり、と床に鈍い音を立てて落ちると同時、再び投球機から鉄球が飛んでくる。右手に携えた拳銃を構え、トリガーを引く。すぐ目の前まで迫っていた鉄球は木端微塵となり、辺りに欠片をまき散らす。続けざまに飛び出す鉄球の数だけトリガーを引くと、銃口から放たれた弾丸は一寸の狂いもなく全て中心を撃ち抜き砕いていく。

 この精密な射撃もスーツの補正によるものだ。目標をマスクのディスプレイにてポインターが補足し、AIが腕部ユニットに理想的な構えを促してくれる。装着員はただトリガーを引くだけでいい。普段の射撃訓練がまるで意味をなしていないようで複雑ではあるが、生身の射撃ではどうしても誤差が生じてしまう。

『うん、良い良い。良い感じよ氷川君』

 ご機嫌な小沢の声の奥で、「おお……」と今度は感嘆の声が聞こえてくる。上層部の面々も満足しているらしい。

 モノリスは鉄球を吐き出し続けるが、飛び出すと同時に全て撃ち落された。銃声と破砕音。銃身から排出される薬莢が落ちる甲高い金属音。これだけ騒がしくても、実のところ半径1メートルも動いていない。

 やがて、鉄球の射出が止んだ。いつも通りの演習なら、そろそろだろう。

『オーケー、氷川君。以上で今日のマヌーバーは終了よ』

 「はい」と応じ、再びゆっくりとした足取りで演習ルームを出る。隣接している控え室の柔らかな照明の光に出迎えられながら、両側頭部に手をかける。マスクの後頭部カバーが開いた。この動作だけでも緻密な計算が労されている。誤差0.01秒以内のタイミングでふたつのスイッチを押さなければ、カバーは開かない。作戦中にうっかりマスクが脱げないようにするための措置だ。

 自分の頭を覆っていたマスクの正面を、氷川誠(ひかわまこと)は見つめる。顔の半分以上を占める大きなふたつのセンサーアイが、照明を反射してオレンジ色の光を放ち、誠を見つめ返す。

 このユニットを運用するために、警視庁は新たな部署を結成するに至っている。元は特殊急襲部隊(SAT)の技術支援班のひとつでしかなかったのだが、単独での作戦遂行を目的とした特殊強化戦闘スーツの開発計画が発足するにあたり、開発部門は独立した。まだ試作機の域を出ないが、先の演習で性能を直に見た本庁の幹部達も、実戦での導入を前向きに検討してくれるだろう。理想的なのは、これが活躍する機会が来ないことではあるのだが。

 1号機のG1、2号機のG2を経て完成した、第3世代型(GENERATION-3)であるこのG3を。

 

 

   3

 

 桜が花を咲かせる頃、全国各地で入学式が執り行われ、新入生たちは新生活に期待と不安を躍らせる。既に在学している生徒にとっても、後輩の入る時期とあって学校は大賑わいになる。静岡県沼津市の内浦にある浦の星女学院もその例に漏れない。

「スクールアイドル部でーす!」

 校庭で桜の花弁が舞うなかで、高海千歌(たかみちか)は他の勧誘している部に負けじと段ボール箱の上で声を張り上げた。

「春から始まる、スクールアイドル部!」

 メガホンを口に押し当て、道行く新入生たちに「あなたも! あなたも‼」と『スクールアイドル部』と――因みに『部』の部首と意符(いふ)が逆になっていたので訂正した――書かれたプレートを押し付けるように示す。

「スクールアイドルやってみませんか? 輝けるアイドル! スクールアイドル‼」

 千歌は校舎へ歩く新入生たちの背中に声を張り続ける。しっかりと耳には届いていたと思うのだが、意識までには届かなかったらしく誰も振り向くことなく校舎へとまっすぐ向かっていく。

「千歌ちゃん」

 チラシ配りを手伝ってくれていた渡辺曜(わたなべよう)が、隣で呼んでいる。もう皆行っちゃったよ、と言っているようだった。それは千歌にも見れば分かる。千歌はがっくりと頭を垂れるが、それでも、とばかりに震える声を絞り出す。

「スクールアイドル部でーす………」

 曜が心配そうに顔を覗き込んでくる。その気遣いにどう答えればいいか分からず、千歌は勧誘していた生徒も撤収を始めた校庭に、再び声を張り上げた。

「今大人気の……、スクールアイドルでーす!」

 千歌の声が、春の蒼穹へと霧散していく。予想はしていた。でもどこかにあった期待のせいで落胆が生じ、再び千歌は頭を垂れる。

「あ、いたいた」

 そこへ聞こえてくる声に、千歌は「入部ですか⁉」と勢いよく顔を上げるのだが、駆け寄ってきたのは勧誘したものの断られた同級生3人組だった。

「残念だったね。新入生じゃなくて」

 よしみが意地悪く笑い、「はいこれ」と小包を差し出してくる。お気に入りのみかん柄ハンカチで包まれたそれは、いつも家を出るときに鞄に入れる弁当箱だ。

「さっき男の人が教室に来て、千歌に渡してほしい、って」

 あ、と千歌は口を開ける。今朝は勧誘の準備で大慌てだったから忘れてしまったのかもしれない。

「わざわざ持って来てくれたんだ。あの人らしいね」

 曜はそう言って笑った。千歌もつられて笑い、よしみから弁当箱を受け取る。

「千歌って、お兄さんいたっけ?」

 いつきがそう聞いてくる。続けてやや興奮気味にむつが、

「もしかして彼氏?」

 違うよ、と千歌は笑ってはぐらかす。

「ちょっと事情があって、うちで預かってるの」

 

 

   4

 

 かつて民間企業の工場として使われていたその施設は、まさに無機質という言葉が似合う。G3の改修設備として警察に買い取られた施設は、東京都内ではなく静岡県沼津市に住所を置いている。まだ試作機故にあまり重要視されていないという皮肉が、暗に提示されているようだった。

 沼津にありながら管轄は静岡県警ではなく警視庁。だから地元の警察とも馴染めないこの工場は、ある意味で箱庭だ。綿密なデータを採取するため、工場も演習ルームも沼津にあるものだから、誠は首都警察の警部補でありながらこの街に滞在を続けている。静岡は誠の地元であり、静岡県警はかつての勤務先でもあるのだが、仲間意識の強い警察組織というものは寛容じゃない。一度輪から外れた者を再び受け入れてはくれず、かといって誠の居場所は本部とも言えない。故郷の海は心安らぐ光景なのだが、一種の疎外感を誠は拭えない。

 誠が呼び出されて脚を運んだのは、G3の施設と隣接する別部門だった。そこでは研究者然とした白衣が至る所ではためいている。

「すみません、三雲さんは」

 施設に入ってすぐの所で計器をチェックしていた研究員に話しかけると、「あちらに」と奥を指し示す。示された手の先を視線で追うと、彼女は部下と何か話しているところだった。その視線が合うと、彼女は「ちょっと待って」と話を打ち切って誠へと駆け寄ってくる。会釈する誠に無言で手招きをするあたり、会話すら惜しいほど訪問を楽しみにしていたらしい。三雲は工場の奥で、無数の電線コードに繋がれた目測で2メートルほどあるその物体の前で脚を止める。

 誠が見上げる十字架に長方形の柱が4つ付いた「それ」は、3ヶ月前に大型台風が通過した与那国島の海岸で発見されたもの。調査は科学警察研究所に委託されたが、昔のことを調べて何になる、と考古学に理解を示さない上層部によってG3ユニットと同じ僻地を研究所として割り当てられた。

「信じられないな。本当に古代にできたものなんですか? これが」

 事前に聞いた海岸に打ち揚げられたという話から十字架に付いている無数の点は遠目でフジツボかと思ったが、近くで見るとそれは金属製のダイアルのように見える。古代にダイアルなんてものが既に存在していたというのか。しかも加工技術も見事だと、素人の誠にも分かる。機械で研磨したかのように面が滑らかだ。

 三雲は女性でありながら、まるで少年のように得意げな顔で説明を始める。

「様々なテストの結果、ほぼ同じ年代を指してるわ。そう、古代っていうくらいの表現じゃ足りないくらいの年代ね」

 「始めて」と三雲が指示し、「はい」と応じた研究員がキーボードをタッチする音が聞こえる。すると、物体のダイアルがひとつだけ回転を始めた。「動いた……」と誠は驚愕の声を漏らす。

「超古代のパズルってとこね。ダイアル状の可動部の数から計算すると、天文学的な組み合わせが可能だけど、それをコンピューターで計算して効率よくパズルを解いていくの」

 聞けば聞くほど奇妙な話だ。古代と呼ぶには足りない時代に、既に人類は石や金属を加工し研磨する技術を持っていた可能性がある。それは現代よりも進んでいた技術で、悠久の歴史のなかで忘却されたのかもしれない。

 オーパーツ。

 この物体はまさにそれだ。制作されたとされる時代では作れるはずのない、場違いな工芸品。多くのオーパーツは勘違いや捏造されたものだが、この物体は果たして本当に失われた高度文明の遺物なのだろうか。その文明の人々はパズルによって現代に何を伝えようとしているのか。その不可思議さは、考古学やオカルトの類にあまり関心のない誠でさえも胸が躍る。

「誰が、何のためにこんなものを?」

 誠が聞くと三雲は笑いながら、

「私も知りたいわね、それ」

 

 

   5

 

 夕方になると、西に沈む夕陽の光が駿河湾をオレンジ色に染め上げる。まだ海水浴シーズンではないから海に入る人はいないし、家の窓から景色を堪能できる地元民も、波辺でセンチメンタルな想いを夕陽に馳せることはしない。でも、約1年半も前には毎日のようにオレンジ色の海を眺めていた青年を、千歌は知っている。

 少し離れた先でバイクを重そうに押しているその青年を呼びながら、千歌は駆けていく。

「翔一くーん!」

 青年は振り返り、「千歌ちゃん」と人の好さそうな笑みで迎えてくれる。きっと買い物の帰りだ、と千歌には分かった。背負っているリュックから長ネギがはみ出ているから。

「お弁当届けてくれてありがとう」

「どういたしまして」

 翔一は屈託のない笑みを浮かべて応じる。

「バイクどうしたの?」

「ガス欠」

 何それ、と千歌は笑った。まあ翔一らしいと言えば翔一らしいのだが。

「それよりさ、翔一くん、ていうのやめてくれないかな。ほら、一応年上なんだし」

「だって翔一さん、て感じじゃないんだもん」

 このやり取りも何度目になっただろう。翔一が家に来た日から、千歌はずっと彼を「翔一くん」と呼んでいる。今年で21歳らしいのだが、年上としての威厳を翔一からは全く感じない。だからこそ千歌と打ち解けたのかもしれないが。

「で、どう? 何か思い出した?」

「それもやめてくれないかな。毎日そんな風に聞かれると、結構プレッシャー感じちゃってさ」

 翔一は少し困ったように言った。でもこの質問は、翔一のためを思ってのものだ。千歌の興味本位であることは否定しないが、翔一にとっても良いことのはず。

「気持ち悪くないの? 記憶喪失のまま生きていくなんて」

 そう、翔一には過去の記憶がない。津上翔一(つがみしょういち)という名前も社会生活を送るために付けられた便宜上の名前で、本名は分からない。翔一自身にも。

「別に今のところ不都合ないしね」

 あっけらかんと翔一は言ってのける。記憶喪失だというのに、翔一からは不安の色が全く感じられない。千歌が毎日のように何か思い出した、なんて無神経な質問ができるのも翔一の大らかさ故のものかもしれない。

 「それにほら」と翔一は悪戯っぽく笑い、

「もし過去を思い出して、俺が凶悪な犯罪者だったらどうよ?」

 それはない、と千歌は断言できる。翔一はきっと万引きすらできない。犯罪者と同じく、翔一に似合わなそうな過去の案がもうひとつある。

「意外と大金持ちのお坊ちゃまかもしれないよ」

 

 

   6

 

 水中はとても静かだった。

 吐く息が気泡として弾ける音と、自分の心臓の鼓動しか聞こえない。すっかり夜も更けた水の中は真っ暗で、音のみが現実へアクセスする方法として機能している。

「涼……、涼!」

 水面の向こうからくぐもった声が聞こえてくる。葦原涼(あしはらりょう)はゴーグルの奥で目を開き、暗い水中を昇り地上へと帰還する。

「やっぱりお前か」

 プールサイドの縁からこちらを見下ろす中年男性の呆れたような、でも嬉しそうな声がクリアになる。

「練習時間とっくに終わってるぞ」

「すみません」

 プールサイドにあがりベンチに腰掛けると、隣でコーチの両野がタオルを投げてよこしてきた。

「体が火照ってしまって」

「今度の大会は、お前のカムバック戦だからな。気持ちは分かるが、少しは抑えろ」

 タオルで体を拭く涼に両野はそう告げる。だが厳格な声色はすぐに消え失せ、ふっ、と笑みを零す。

「それにしてもよくあの事故から立ち直ってくれたな。一時はもう駄目かと思ったが」

 涼自身も、こうして再びプールに戻ってこられるとは思ってもみなかった。車を追い越そうと反対車線に出た大型トラックにバイクで真正面から衝突し、涼は数日もの間に死線を彷徨った。一命を取り留めたもののあちこちの骨が折れていて、医者から完全な回復は難しいと無慈悲に宣告された。

 でも、涼は戻ってきた。リハビリを根気よく続け、日常生活どころか再び水泳選手として泳げる体に仕上げて。

「しかも事故の前よりも記録が伸びてる。びっくりだ」

 大学の水泳部に復帰した日の練習。半年以上のブランクがあったにも関わらず、涼は最高記録を更新してみせた。しかも、記録は日に日に伸びている。まるで、あの事故で何かが目覚めたかのように。いや、目覚めつつある、という表現が正しいだろうか。復帰してからというもの、体が疼いて仕方ない。冷たい水に浸からなければ燃えてしまいそうだ。大会が近いから武者震いのようなものか。

「もう一度だけ泳いできます」

 そう言って涼はタオルを両野に手渡し、ゴーグルで目元を覆い水面へと飛び込む。水飛沫が散る音の後には、プールの水がたゆたう音が全身を包み込む。

 地上から遠ざかり、涼は暗いプールの底へと潜っていく。

 

 



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第2話

 1話分のエピソードを分割して正解でした。多分ひとつに纏めたら1話2万文字越えでとてつもなく長くなります。


   1

 

「ごめんねー、何度も付き合わせちゃって。でもこれが終われば完成だから」

 フィッティングデータの採取を終え、スーツを脱いだ誠に小沢は労いの言葉をかける。G3のスーツは装着員である誠の体形に合わせ、日々改修を重ねている。実践でポテンシャルを最大限に発揮できるよう必要な措置だ。誠としても自分の身を預ける装備なのだから、面倒だなんて思わない。ましてや警察が開発したG3の資金源は市民の税金。ぬかりはあってはならない。

 とはいえ、誠の思考はG3とは他にあった。カーゴベイの飾り気のないベンチでそのことにふける誠の隣に、小沢が腰掛ける。

「氷川君、何考えてるか当ててみましょうか? 例のオーパーツのことでしょ?」

 「はい」と誠は重苦しく答える。半分は正解だ。半分は。

「確かにそれもあるんですが、獅子浜(ししはま)中学校での事件のこと、ご存じですか?」

「樹の中に生徒の死体が入ってた、っていう?」

 誠の懊悩の根源にあるのは、先日にこの沼津の街で発生した殺人事件のことだった。人命が、それも子供の命が失われただけでも気が重くなるのだが、それ以上に発見された遺体の状況がまた奇妙だ。現場は被害者が通っていた中学校のグラウンドで、部活の朝練習をしていた生徒に遺体は発見された。

 グラウンドの外縁に植えられていた樹の幹から飛び出した、被害者の腕が。

「気になるんです。普通なら、あんなこと有り得ない」

 現場は騒然としていたらしい。殺人事件で死体を隠そうとしたという意図にしても樹とは奇天烈な発想なのだが、被害者が収まっていた樹には切断された跡が全く見受けられなかったらしい。まるでその樹は、被害者を腹に抱えたまま数十年かけて成長したようだ。

 勿論そんなことは「有り得ない」こと。樹が成長する間に死体は腐敗する。それなのに検死によると被害者の死亡推定時刻は発見から僅か14時間前だという。

「気持ちは分かるけど、ここで構えてたって仕方ないわ。あなたも捜査に参加するんでしょ?」

 小沢の言う通りだ。ここでただ考えていたって何も進展はしない。本庁の刑事として、誠も静岡県警と合同で事件の捜査に参加する。あまりにも奇怪だから、本庁の捜査一課にも捜査協力の要請が通達されている。

 迷いを吐き出すように深呼吸し、誠は着替えにカーゴベイの更衣室へと足を進めた。

 

 

   2

 

 天井からどすん、という振動が響いてくる。同時に甲高い「うわっ」という幼さの残った呻きも。今日も元気だなあ、と思いながら、翔一は居間へと続く廊下を歩く。「何?」という棘のある女性の声色が襖を挟んだ先から聞こえてきた。次に落ち着いた、優しい別の女性の声が。

「千歌ちゃんだと思うけど」

「まさか、まだやってるの? お客さんに迷惑だよ」

 「言ったんだけど」と高海家の長女が苦笑を漏らす。「お前も言ってやって」と次女のほうは次に声量を増した。

「こんな田舎じゃ無理だ、って」

 そこで丁度、翔一は襖を開きご機嫌な笑顔で居間に入る。畑で採れた大振りの大根を抱えて。

「いやー、せっかく頑張ってるんだから見守ってあげようよ」

 翔一が言うと湯呑を手にくつろいでいた次女の美渡(みと)は「いや」と呆れた視線を向けてくる。

「翔一じゃなくてしいたけにだよ」

 その通り、と言わんばかりに美渡の横で座る大型犬が「わん」と鳴いた。台所で朝食の食器を洗っている長女の志満(しま)は、「わあ」と翔一の持ってきた大根を嬉しそうに眺める。

「大きいわね」

「今年一番の大きさですよ」

 この大根で何を作ろうか、と翔一が思案しているところで、美渡が何気なしに聞いてくる。

「翔一が作るとどうしてそんなに大きくなるんだろ?」

「そりゃあ愛だよ、愛」

 そう答えると、志満は「ふふ、そうね」と微笑した。高海家の裏にある畑は、高海家が経営している旅館「十千万(とちまん)」で出す料理のために耕されたもの。だが旅館を始めてすぐに食材を提携農家から仕入れるようになったから、お役御免となり放置されていた。そこで暇を持て余していた翔一が趣味として手入れし、いまや彼の畑になっている。

「もしかしてさ、翔一って農家の生まれだったりして」

 美渡がそう言うと、翔一は「それは――」と言葉を途切れさせ逡巡の後に、

のうか(・・・)な?」

 決まった、と翔一は確かな手応えを感じる。だが自信とは裏腹に美渡は呆れた視線を向けてきて、志満はただ無言のまま優しい微笑を湛える。助けをしいたけに視線で訴えるが、しいたけは我干渉せず、とでも言いたげにそっぽを向いた。

 

「大丈夫?」

 床の畳に打った尻をさする千歌に、曜は尋ねた。今日の勧誘の打ち合わせということで普段より早い時刻に自宅を出て高海家に寄ったのだが、家に着くなり千歌は練習したというポージングを決めようとして、結果としてこの光景だ。

 すぐに千歌は「平気平気」と立ち上がり、「もう一度」とターンしてピースした右手を顔に添える。

「どう?」

 出来栄えの確認として、曜は千歌とスマートフォンの画面に表示された少女を見比べてみる。千歌の憧れるグループのリーダーらしいのだが、「スクールアイドル」なる単語を知って間もない曜には良し悪しが分からない。

「ああ、うん……、多分」

 違うような気もするが、別にコピーするのではなく雰囲気としては上々だと、曖昧ながらに思う。

「できてると思う!」

 曜がそう言うと、「よし!」と千歌は納得したように両拳を握りしめる。そんなやる気に満ちた千歌をまじまじと眺めながら、曜は尋ねる。

「本当に始めるつもり?」

 思えば今更ながらの質問だった。昨日は千歌の勢いに押されて手伝いはしたが、誰ひとりとして興味を持ってくれなかったから諦めるのでは、と微かに予想していた。その予想に反して千歌は「うん!」と『部』の文字が訂正された『スクールアイドル部』のプレートを見せ、

「新学期始まったら、すぐに部活立ち上げる!」

「他に部員は?」

「まだ。曜ちゃんが水泳部じゃなかったら誘ってたんだけど」

 千歌から部の設立は前もって聞いてはいたのだが、幼い頃からよく遊んでいた曜に勧誘の声はかからなかった。曜は2年生へ進級する時点で既に水泳部のエース選手だから、千歌なりに配慮してのことだったのだろう。

「でも、どうしてスクールアイドルなの?」

 曜が尋ねると、千歌は「何で?」と返す。何でも何も、曜にとって千歌がここまで熱心になること自体が驚きだった。千歌を発起させた「スクールアイドル」とは、一体何なのだろう。

「今までどんな部活にも興味ない、って言ってたでしょ。どうして?」

 千歌はすぐに答えず、明後日の方向を向いた。逡巡を挟んで曜へ向き直ると含みのある笑みを浮かべたのだが、それがむしろ疑問を深めてくる。

「千歌ちゃーん、曜ちゃーん」

 廊下と部屋を隔てる障子の奥から翔一の声が聞こえてくる。「はーい」と曜が応じると、

「そろそろバスが来るんじゃないかな?」

 曜と千歌は目を合わせ、そして柱に掛けてある時計に視線を移す。現時刻は7時45分。最寄りの停留所にバスが来る時間。

 「もうこんな時間⁉」とふたりは声を揃えた。

 鞄を掴み急いで階段を駆け下りて玄関へ向かう。普段使っている裏口からだと遠回りになってしまうから旅館の正面玄関へと靴を持っていく。その様子を見られた志満から「もう、こっちの玄関使っちゃ駄目って言ってるでしょ」と小言を飛ばされ、「ごめんなさーい!」と謝りながらまだ靴の踵が潰れたまま外へ出る。「千歌ちゃんお弁当!」と翔一が玄関まで弁当箱を持って来てくれたのだが、「大丈夫、間に合わないから!」と踵を靴に収めたところで、旅館の目の前をバスが通っていく。

 「ああ、待って!」と曜が。

 「乗りますよー!」と千歌が叫び、ふたりはバス停へと駆けていく。

 

 十千万の目と鼻の先にある停留所で、千歌と曜を乗せたバスが発車する様子を翔一は見届ける。

「あ、間に合ったみたい。良かったあ、バイクじゃふたりも乗せられないからさ」

 朗らかに言うと、翔一の隣で妹とその親友を見送った美渡は溜め息交じりに、

「本当、そそっかしいんだよね」

 皮肉を含んだ笑みを浮かべる美渡を、翔一はじ、と見つめる。「何?」と目を細める彼女に「別に」と返した。美渡とそっくりじゃないか、なんて言ったら機嫌を損ねそうだ。翔一は千歌に用意した弁当箱に視線を移す。

「これどうしよう。美渡、食べる?」

「わたし弁当ふたつ食べるほど大食いに見える?」

「じゃあ俺が食べよう」

 玄関へと足を向ける。大根で作る料理のメニューを思案しようとしたが、それは唐突に遮られる。

 叫び。

 形容しがたいその感覚を表現するのに最も近い言葉がそれだった。咄嗟に頭を抱えた翔一の手から弁当箱が落ちて、包んだハンカチのお陰で中身の散乱は防げたものの蓋が外れたのか詰めた煮物の汁がハンカチにしみ込んでくる。

「翔一? ねえ翔一!」

 近くにいるはずの美渡の声が、遥か彼方からのように朧気になっていく。翔一は頭を必死に抑えつけた。恐怖と悲鳴。それは確かに感じ取れるのだが、自分の感情として認識するにはどこか違和感を覚える。分かるのは、自分ではない他人の激しい感情が頭の中でピンボールのように跳ね返っていることだけだった。

 叫びが苦痛へと変わり、翔一はその場で崩れるように膝を折った。

 

 

   3

 

 その日の朝、佐伯邦夫(さえきくにお)はいつもの時刻に会社へと出勤し、妻の安江(やすえ)は夫を玄関先で見送った。家に戻った安江はリビングで夫が職務書類を忘れていたことに気付き、届けようと再び家を出たところで、それを見つけた。

 住宅街に立つ樹の幹から飛び出した、携帯電話を握る夫の右手を。

 今朝、まだ1時間も経っていない過去を誠に語る佐伯安江の表情は悲しみの色を浮かべず淡々としている。窓の外を見やると、腕が飛び出した樹を見上げる鑑識の面々が一様に首を傾げている。普段なら閑静なはずの住宅街には、パトカーの鳴らすサイレンが日常をかき消している。

 まだ現実を受け止め切れていないに違いない、と誠は推測する。この短期間で家族をふたりも失ってしまうだなんて、誰が予想できることだろう。

 誠より早く現場入りしていた先輩刑事――本庁捜査一課から出向してきた刑事だ――から聞いたところによると、獅子浜中学校で発見された被害者は、この佐伯家の一人息子だった。親子が同じ状態で殺害されている。被害者の妻、母親である安江からすれば、悲しみに悲しみが上塗りされている状況だ。そんな未亡人に聴取なんて無神経であることは重々に理解している。それでも聞かなければならない。この悲しみを引き起こした犯人を暴き、被害者の無念を晴らすためにも。

「何でもいいんです。ご主人と息子さんについて、生前何か変わったことはありませんでしたか?」

 誠が開いている手帳のページは、遺体が発見された状況を綴ったところで止まっている。ソファに腰掛ける安江はただ視線を俯かせ、空虚を見つめている。

「佐伯さん」

 誠が語気を強めると、安江の顔が一気に悲哀へと沈んだ。両手で顔を覆い、嗚咽交じりに「すみません」と台所へと駆け込んでいく。しまった、と誠は自身の性急さを(かえり)み、「すみません」と謝罪して手帳のページを捲ってペンを走らせる。

「何か思い出したら、連絡をください」

 自分の名前と仕事用の電話番号を書いたページを切り離し、テーブルに置いたところで「何をしているんです?」と冷たい声がリビングに入ってくる。振り向くと、同年代らしき若年の同僚が誠に怪訝な視線を向けている。先輩刑事から聞いている。名前は確か北條透(ほうじょうとおる)。階級は誠と同じ警部補ながら、本庁から将来を期待されている若手刑事。

「あなたはG3ユニットの人間だ」

 お前の出る幕じゃない。その拒絶の意が含まれていると、痛々しいほどに理解できる。

「僕もG3ユニットの人間であると同時に現職の警察官です。管轄内の事件を捜査しても問題ないはずですが」

 この奇怪な事件は静岡県警と警視庁の合同で捜査が行われている。保守的な警察組織のなかで県警同士の確執があることは承知だ。同時に自身の立場の難しさも。G3という装備の出現によって、警察が守り続けてきた組織の均衡が危ぶまれている。だからG3ユニットに配属された面々に対する風当たりは強い。

 だが、同じ本庁の刑事同士で軋轢を生んで何になるというのか。負の慣習に呑まれてなるものか。警察は市民を守るためにある。誠はG3装着員としての誇りは当然あるが、その根底に抱く警察官としての誇りを捨てたつもりはない。意思が伝わってかそうでないのか、北條は冷たく吐き捨てる。

「ま、邪魔にならないようにお願いしますよ」

 

 

   4

 

 昨日は入学式で、今日は校則やカリキュラム等の説明会。チャンスはまだある。そう意気込み千歌は曜と共に大声で校門を潜る新入生たちに勧誘を呼びかけた。

「スクールアイドル部でーす………」

 始めたばかりの頃は溌剌(はつらつ)としていた曜の声が、今は弱々しく人気のなくなった校門前に消えていく。勧誘の結果は昨日と同じく、入部希望者ゼロ。

「大人気、スクールアイドル部でーす………」

 もはや立っている気力すらなくなり、ふたり揃って段ボール箱に腰を沈める。

「全然だねえ……」

 応じるのも億劫になり、千歌は深く溜め息をつく。どうしてだろう。輝ける場があるというのに、誰も興味を持ってくれないなんて。皆、輝きたくないのだろうか。

 ふと上げた千歌の視線の先で、ふたり組の生徒が通り過ぎていく。友達同士なのだろうか。ひとりは亜麻色の髪を肩まで流して、冷え性なのか制服の上に黄色のカーディガンを重ねている。もうひとりは両サイドに纏めた髪の房を風で花弁と共に揺らし、成長を考慮してか制服のサイズは大きめに見繕われ手が半分まで袖で隠れている。とても親し気に笑うふたりはまだ幼さが大きいが、邪さのない笑顔がとても愛おしい。

 「あの!」と千歌は素早くふたりの正面へと回り込んだ。唐突に話しかけられたふたりは驚きのあまり口を開いたまま静止する。

「スクールアイドルやりませんか?」

 千歌が前置きもなくそう言うと、「ずら?」とカーディガンの少女は漏らした。

「ん、ずら?」

 千歌が反芻すると、少女は慌てた様子で口元を手で覆い「い、いえ……」と言葉を詰まらせる。間髪入れず千歌は「大丈夫」とチラシを差し出し、

「悪いようにはしないから。あなた達きっと人気が出る。間違いない!」

 「でもマルは………」と返答に困った様子のカーディガンの少女の背後で、ツーサイドの少女が千歌の持つチラシを睨むように見ていることに気付く。試しにチラシを左右に動かすと、ツーサイドの少女の目線も移動する。間違いない、と千歌は確信する。

「興味あるの?」

 尋ねると少女は輝かせた目を千歌へ向け、

「ライブとか、あるんですか?」

「ううん、これから始めるところなの。だから、あなたみたいな可愛い子に是非」

 と千歌がツーサイドの少女の腕に触れると、笑顔だった彼女は表情を凝固させ一気に血の気を引かせる。千歌が「ん?」と言葉を待った瞬間、

「ピギャアアアアアアアアアアアアアアア‼」

 少女期特有の高周波な叫びが辺りの空気を震わせる。突然のことに驚き、千歌は尻もちをついた。少し離れたところで傍観していた曜が手で耳を押さえている。

「ルビィちゃんは究極の人見知りずら」

 振り返ると、カーディガンの少女は取り乱すことなく耳を押さえている。既に何度かこの光景を目の当たりにしているのかもしれない。ルビィとは未だ叫び止まない少女の名前だろうか。

 続けて違う声の悲鳴が聞こえてくる。上からだ。見上げると浦の星の制服を着た人影が、桜の木から花弁を散らせて落ちてきた。辛くも転ばず着地に成功したようだが、落下時の衝撃で脚が痛むのか膝が笑っている。長い黒髪の少女で、右の側頭にシニヨンを纏めている。俯いたその頭に鞄が落下し、少女は「ぐえっ」と呻いた。

「ちょ……、色々大丈夫?」

 驚くことが続けざまに起きて、千歌は立ち上がる余裕もなく四つん這いの姿勢のまま少女に尋ねる。今にも泣きそうな声が止んだと思うと、頭に鞄を乗せたまま少女は不敵な笑みを浮かべた顔を上げる。

「ここはもしかして、地上?」

 「大丈夫じゃ、ない……」と思わず漏らした。後ろにいる皆の「ひいっ」という声にならない悲鳴が聞こえるのだが、それでも鞄を頭に乗せた少女は続ける。

「ということは、あなた達は下劣で下等な人間ということですか?」

 「うわ……」という曜の声が背後から聞こえた。関わるべきじゃない、と悟ったのかもしれない。千歌の関心は少女の言動よりも未だに震えている脚に向いていて、「それより脚大丈夫?」と指で彼女の膝をつつく。やはり痛いのか、少女は顔をしかめて目尻に涙を浮かべるも、すぐに表情を不敵に繕い、

「痛いわけないでしょう。この体は単なる器なのですから。ヨハネにとっては、この姿はあくまで仮の姿。おっと、名前を言ってしまいましたね。堕天使ヨハ――」

善子(よしこ)ちゃん?」

 カーディガンの少女が、ヨハネと自称する少女の言葉を遮る。

「やっぱり善子ちゃんだ。花丸(はなまる)だよ。幼稚園以来だね」

 花丸と名乗るカーディガンの少女が、親し気に善子と呼ばれた少女に歩み寄る。善子――多分「ヨハネ」は本名じゃない――の表情が引きつった。「は、な、ま……る………」と反芻した後、「人間風情が何を言って………」と繕おうとするが、

「じゃんけん――」

 「ぽん」と花丸がグーを出すと、吊られたのか善子も手を差し出す。人差し指、薬指、親指を立てた独特のサインだった。「そのチョキ」と花丸は懐かしそうに善子の手を眺める。それはチョキだったのか。

「やっぱり善子ちゃん!」

「善子言うな! いい? わたしはヨハネ、ヨハネなんだからね!」

 逃げるように校舎へ走っていく善子を「善子ちゃん!」と花丸が追いかけ、更に「待って!」とルビィが追っていく。慌しい3人の背中を見つめながら、千歌は不思議な縁を感じていた。こんなインパクトに満ちた出会いは、何かが始まる予兆のように思える。

「あの子たち、後でスカウトに行こう」

 隣で曜は何も言わず、代わりに乾いた笑い声を漏らす。

「あなたですの? このチラシを配っていたのは」

 不意に静かな、でも強かな声が背後から聞こえて、千歌は曜と共に振り返る。長い黒髪をストレートに伸ばした少女が、さっきルビィが叫んだときに落としたチラシを見つめている。

「いつ何時(なんどき)、スクールアイドル部なるものがこの浦の星女学院にできたのです?」

 その吊り上がった双眸が向けられる。可愛い、というより美人な少女だ。口元のほくろが(うら)らかな印象を与える。「あなたも1年生?」と能天気に聞く千歌の隣にいた曜が、「千歌ちゃん違うよ」と耳元で囁いてくる。どこか怯えているような声色だった。

「その人は新入生じゃなくて3年生。しかも………」

 更に声を潜めて告げられる事柄を、千歌は全身が凍り付くような緊張感を覚えながら反芻する。

「………生徒会長?」

 

 通された生徒会室には、千歌と生徒会長である黒澤(くろさわ)ダイヤのふたりだけだった。ダイヤは曜が水泳部員で、エースであることも把握していて「スクールアイドル部」とは無関係ということでこの場からは外されている。とはいえ生徒会室前までは一緒に来てくれたから、今も事を見守ってくれているだろうけど。

「つまり、設立の許可どころか申請もしていないうちに、勝手に部員集めをしていたというわけ?」

 部屋に置かれた長机、生徒会長の席につくダイヤは厳しい口調と視線を千歌に向ける。腰を落ち着かせているときも、この生徒会長は背筋を凛と伸ばしている。

「悪気はなかったんです。ただ皆勧誘してたんで、ついでというか……、焦ったというか………」

 重苦しい雰囲気を何とか消そうと照れ笑いを浮かべてみるが、ダイヤは冷たい表情を崩さない。

「部員は何人いるんですの? ここにはひとりしか書かれていませんが」

 ダイヤはそう言って、千歌が今しがた提出した部活動設立申請書に目を通す。部員の欄に書いてあるのは、現段階で千歌の名前だけ。

「今のところ、ひとりです」

「部の申請は最低5人は必要というのは知っていますわよね?」

「だーから勧誘してたんじゃないですかあ」

 努めて明るく言ってのけるが、千歌の態度はむしろ生徒会長の神経を逆撫でしてしまったらしい。ばんっ、と乱暴に申請書が机に叩きつけられ、千歌は驚愕のあまり上体を反らせてしまう。次に叱責が飛んでくると身構えたのだが、「いったあ……」とダイヤは机を叩いた右手を振る。思わずくすり、と笑ってしまったのだが、そこへダイヤが千歌の眼前に人差し指を突き出し、

「笑える立場ですの!」

 「すいません……」と言ったところで、もっと早く謝罪しておけば怒らせずに済んだかも、と千歌は遅れた反省を裡に秘める。

「とにかくこんな不備だらけの申請書、受け取れませんわ」

 「ええええええ⁉」と落胆の声をあげる。不満をぶちまけようとしたところでドアの空く音がして、続けて「千歌ちゃん、一回戻ろう」と曜の控え目な声が聞こえてくる。

 喉元まで出かかった文句を堪え、千歌は告げる。

「じゃあ、5人集めてまた持ってきます」

「別に構いませんけど、たとえそれでも承認は致しかねますわね」

「どうしてです?」

 5人集めれば申請は通るはず。それなのに何故、条件を満たしても承認されないというのか。まったくもって納得できない。

 ダイヤはその理由を言い放つ。はっきりと、冷たく。

「わたくしが生徒会長でいる限り、スクールアイドル部は認めないからです」

 

 




 善子ちゃんは私の暗黒時代を思い出させるキャラで敬遠していたのですが、何気に書いてみると楽しかったりします(笑)。


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第3話

 あれおかしいな。分割したのにまた1話の文字量が多くなりましたぞ(笑)。


 

   1

 

 暗い水の底と光の射し込む水面の狭間を、涼は漂っている。光へ向かい、水中から出て空気を肺いっぱいに吸い込みたい。でもそこへ至るのに体は言うことを聞かず、ただ波に身を委ねるしかない。

「それで、どうなんです彼の容態は」

 両野の弱々しい声が聞こえてくる。意外な声色だった。コーチとしての両野はいつも熱く、でも冷静に涼を指導してくれていたからだ。どんな顔で涼を見ているのだろう。見たくても目蓋が重くて開けられない。目蓋だけでなく、全身が鉛のようだ。それでも嗅覚と聴覚は機能していて、涼は自分がどこにいるのかを把握できる。

 消毒用アルコールの匂い。ぴ、ぴ、と一定のリズムで響く電子音。口元を覆う酸素マスクの感触。きっと病院だ。

「検査の結果が出ないと、詳しいことは分かりません」

 知らない男の冷静な声。おそらくは医者だろう。

「ただ全身の筋肉が発熱し、微かに痙攣を起こしています。何か激しいトレーニングを?」

 「いいえ」と両野は即答する。

「彼は一流の水泳選手です。競技会当日に影響を及ぼすようなトレーニングをするはずはありません」

 両野の言う通り、涼は昨日の練習を早めに切り上げて、家に帰ると指定されたメニューの夕飯を食べて床に就いた。大会直前に無理をしないように、という両野の教えに従い、本番にポテンシャルを最大限発揮できるよう体調管理は万全のはずだった。

 今日、市民プールで開催された水泳競技会は涼が事故から復帰して初めての大会。カムバック戦ということもあり気持ちが(はや)っていたのは否定しない。だが体調はすこぶる良好だった。その涼の体が、競技中に悲鳴をあげた。

 クロールで水を漕いでいる途中、唐突に体が熱くなった。体内で炎が燃え盛っているかのような熱だった。冷たいプールのなかにいながら体温の上昇は止まらず、空気を求めて水面へと手を伸ばしたところで記憶が途絶えている。きっと、そこで意識を失い病院に搬送されたのだろう。

 完治したと思っていたが、事故の後遺症が残っているのか。

 俺は水泳を続けられるんですか。そう聞こうとするも、唇は微かに震えるだけで言葉を紡ぐことができない。両野に気付いてほしい。自分は既に目を覚ましている、と。

 懸命に伝えようとしている涼の手が、ぴくりと震える。両野はそれに気付いてはくれなかった。

 

 

   2

 

 西の空へ傾く夕陽を反射させた海面が、船の軌跡に沿って揺らめいている。尾を引いて内浦湾を泳ぐ小型連絡船のデッキで、千歌は全身の力を抜いて身を縁にもたげさせる。

「あーあ、失敗したなあ。でもどうしてスクールアイドル部は駄目、なんて言うんだろう?」

 その疑問は一緒に乗っている曜ではなくダイヤにぶつけるべき、と理解はしているのだが、あの生徒会長はろくな説明もないままスクールアイドル部は承認不可、という剣幕だった。

 曜はおそるおそる言う。

「嫌いみたい………」

 「ん?」と千歌が視線を向けると曜は顔を背け、

「クラスの子が前に作りたい、って言いに行ったときも断られた、って………」

「え、曜ちゃん知ってたの?」

 通りで、ダイヤを見たときに怯えていたわけだ。「ごめん!」と両手を合わせる曜に「先に言ってよお………」とごちりながら頭を垂れる。

「だって、千歌ちゃん夢中だったし。言い出しにくくて。とにかく生徒会長の家、網元で結構古風な家らしくて、だからああいうチャラチャラした感じのものは、嫌ってるんじゃないかっ、て噂もあるし」

 曜の言葉を聞きながら、千歌は藍色に染まり始めた空を見上げる。1羽のカモメが飛んでいた。地上を歩く自分たち人間とは異なる世界を飛んでいる生物には、自分には到底見えない景色が見えているのだろうか。腕を伸ばし、手がカモメと重なったところで拳を握ってみる。当然、カモメは手中には収まらず、自分が捕まえられようとしていたことに気付かないまま気流に乗って西の空へと飛び去っていく。

 ダイヤは知らないのだろうか。千歌が観たあのグループは、そんな俗なものではないということを。ステージで歌う彼女たちが、世界を照らすかのように輝いていたことを。

 千歌はがらんどうに呟く。

「チャラチャラじゃないのにな」

 

 連絡船の目的地である淡島は、島全域が娯楽施設と言って良い。主とした施設は水族館だが、その周辺にはレストランやホテルも充実していて、リゾート地として観光客が利用している。連絡船が到着すると、千歌と曜は真っ直ぐに船着き場のすぐ近くにあるダイビングショップへと向かった。本日の営業を終えた店のウッドデッキで、ウェットスーツを着た少女が客の使用したらしいウェットを縁に干している。足音だけで気付いたのか、少女は黒髪を纏めたポニーテールを揺らして振り返る。

「遅かったね。今日は説明会だけでしょ?」

 「うん、それが色々と」と曜はその先を言わない。話ならこれからたっぷりと聞いてもらおう。「はい」と千歌はビニール袋を差し出す。

「回覧板とお母さんから」

 「どうせまたミカンでしょ?」と笑いながら穏やかな皮肉を飛ばす少女に、「文句ならお母さんに言ってよ」と千歌は口を尖らせる。この手土産を持ってくる際のお約束なやり取りに、少女は笑みを零した。

 千歌たちがテラスのテーブルに着いても、店主――といっても一時的な代理だが――の松浦果南(まつうらかなん)は腰を落ち着けようとしない。まだ仕事が残っているようで、重そうな酸素ボンベを並べるその背中に曜が「それで」と切り出す。

「果南ちゃんは新学期から学校来れそう?」

 ちゃん付けで呼んでいるが、果南は千歌と曜よりもひとつ年上で、浦の星の先輩にあたる。とはいえ幼い頃からよく顔を合わせていた仲で、学校の先輩後輩という形になっても今更訂正は効かない。それに、3人にとってはこの気兼ねない関係が最も心地いい。

「まだ家の手伝いも結構あってね。父さんの骨折も、もうちょっとかかりそうだし」

 果南は休学中の身だ。父親が交通事故で脚を骨折し、しばらく入院が必要とのことで家が経営する「ドルフィンハウス」を手伝う必要に駆られたからだった。随分と長く学校に来ていないが、出席日数は足りているから進級は問題なくできるらしい。

 「そっかあ」と千歌はボンベの手入れをする果南の背中を見つめる。

「果南ちゃんも誘いたかったな」

 「誘う?」と果南は作業を続けながら問う。「うん!」と千歌は揚々と応える。

「わたしね、スクールアイドルやるんだ!」

「ふーん。でもわたしは千歌たちと違って3年生だしね」

 そう言って果南は屋内へと入っていく。千歌は続ける。

「知ってるー? 凄いんだよ――」

 「はい、お返し」という果南の声と眼前に突き付けられた魚の干物で、千歌の言葉は遮られる。それを見て曜はおかしそうに笑っている。

「また干物?」

「文句は母さんに言ってよ」

 ミカンのお返しは干物というのも毎回のお約束だ。松浦自家製で味も翔一の折り紙付きなのだが、慣れた味は有難みを感じない。

「ま、そういうわけでもうちょっと休学続くから、学校で何かあったら教えて」

 休学中じゃなかったら、もっと粘れるのに。事情から来る遠慮に千歌は言葉を探しあぐねる。果南は手足が長くスタイルがいい。体にフィットしたウェット姿だと、それがよく見て取れる。アイドルとしては申し分ない素質を持っているというのに、勿体ない。

 ばりばり、と空気を割くような音が空から聞こえ、次第に大きくなっていく。「何だろ?」と千歌は曜と共に音の方向を見上げる。ヘリコプターだった。果南はふたりよりも早く気付いていたようで、腕を組みながら淡島の北に敷地を持つリゾートホテルへ飛ぶヘリを視線で追っている。

 果南は何の気なしに言う。それにどんな感情が伴っていたのか、この時の千歌はまだ分からなかった。

「小原家でしょ」

 そこで果南はいつもの余裕ある表情でふたりに向き直り、

「早く帰ったほうが良いよ。お客さんから聞いたけど獅子浜のほうで事件があった、って」

 「事件? どんな?」と曜が聞くと、果南は顎に指を添える。

「それが分かんないんだよね。お巡りさんが結構来てたけど、何も教えてくれなかったらしいよ」

 

 

   3

 

 沼津方面に家がある曜と別れ、ひとりでバスに乗った千歌は三津(みと)海水浴場前のバス停で降車した。大きく伸びをして、とぼとぼと歩き始める。疲れる1日だった。疲労するほどの奔走は報われず、成果は無しだったが。

「どうにかしなくちゃな。せっかく見つけたんだし………」

 自作したチラシを眺めながら、千歌は思わず独りごちる。興味を持ってくれる人がいなくても、学校から承認を得られなくても、諦めきれることじゃない。スクールアイドルとは、千歌が見つけたステージだ。

 流れてくる潮風に頬を撫でられ、何気なく千歌は海岸へと目を向ける。まだ海水浴シーズンではないから、三津海水浴場は人気がない。だから、桟橋で長い髪をなびかせながら立っているその少女の存在は、とても目立って映る。紺色のブレザーはどこの学校だったっけ、と記憶を探っていると、少女はブレザーを脱いだ。「え?」と千歌はその場で立ち止まり呆けた声をあげる。少女は更にホックを外したプリーツスカートを勢いよく下げる。白いブラウスも脱ぎ捨てると、下着の代わりに着ていた紺色の競泳水着が露になった。

「うそ、まだ4月だよ?」

 いくら気候が温暖でも、内浦だって四季のある日本だ。冬は寒いし、春になっても水温はまだ16度前後。あんな保温性皆無の水着で耐えられるものじゃない。長時間浸かっていたら間違いなく低体温症、最悪の場合は心臓麻痺を起こす。

 千歌は鞄を放って走り出す。それに気付かない少女もローファーと靴下を脱ぎ捨てて駆け出した。桟橋の先端へ到達し夕陽の茜色を映す海面へと身を躍らせようとしたその華奢な腰に、追いついた千歌はすがりつく。

「待って! 死ぬから死んじゃうから!」

 「放して! 行かなくちゃいけないの!」と少女は千歌を振り払おうと身を悶えさせる。千歌はより一層腕に力を込める。力が拮抗していて、ふたりは前へと進み、後ろへと下がり、といった様相を繰り返す。前と後ろと引き合った脚が絡まり、千歌の脚が少女の脚を払ってしまった。

 少女の体がふわり、と宙に浮く。やがて重力に従って前のめりとなり、しがみついていた千歌も悲鳴を反響させながら穏やかに揺れる海面へと落ちていった。

 

「翔一君! 大変だよ翔一君!」

 そう叫びながら千歌が帰宅してきたのは、翔一が夕飯の準備をしている最中だった。今朝採れた大根の味を引き立たせるには、やはりふろふき大根がいい。鍋で大根を炊いている間に味噌だれを作ろうと調味料を合わせていた翔一は、全身を濡らす千歌の姿に目を剥いた。

「千歌ちゃん、どうしたのそれ?」

「とにかく早くしないと。あの子震えちゃってるよ!」

「震えてる?」

「いいから早くタオル持ってきて! あとライターと着火剤!」

 緊急事態らしく、翔一は急いで洗面所からバスタオル数枚、台所に戻るとライターとゼリータイプの燃料を持って玄関で水を滴らせる千歌のもとへ持っていく。

「ありがと!」

 荷物を受け取ると、千歌はそれだけ言って飛び出していく。一体何があったのか、全く状況を掴めない翔一はただ千歌の背中を見送るしかできない。

「何があったの?」

 そこへ、聞きつけたのか志満がやってくる。

翔一はただ苦笑を浮かべるしかない。

「いやあ、俺もよく分かんなくて」

 「あっ」と翔一は台所の鍋を火にかけたままだったことを思い出し、急いで戻る。蓋を開けると、切り分けた大根は薄く飴色になっている。

「良い感じじゃないですか?」

 鍋を覗く志満にそう言うと「美味しそうね」と笑って応えてくれるのだが、すぐに不安げに翔一の顔を見つめてくる。

「翔一君、本当に大丈夫? 今日ぐらいご飯は私が作るわよ」

 志満が心配しているのは、今朝翔一に起こった謎の発作だった。あの叫びのような奔流はすぐに治まった。まるで波が一気に引いていくように、叫びは止んだ。特に体調の異変も感じなかったから今日は普段通りに過ごしていたのだが、志満は何度も翔一の体を気遣ってくる。

 翔一はあっけらかんと答える。

「平気ですって。寝てたらかえって落ち着かないですよ」

「なら良いけど、具合悪くなったらすぐに言うのよ」

 志満はそう言って台所を後にする。たれを仕上げよう。そう思いフライパンの上で温めた味噌にみりんをかけようとしたとき、翔一を奔流がなぶってくる。

 それは今朝と同じ見知らぬ誰かの叫びで、翔一は自分のなかで暴れるものを抑えつけようと、両手で頭を押さえつけた。

 

 タオルとライターと着火剤、家の倉庫から引っ張ってきた薪を抱えた千歌が海岸へ戻ると、浜辺でうずくまる少女の唇が血の気のない紫色へと変わっていた。浜辺に転がっていた煤まみれのドラム缶――きっと漁師が使っていたもの――に薪を入れ、着火剤のゼリーを添えるとライターで火を点けた。しっかりと薪に火が燃え渡るのに少し時間はかかったが、その間に千歌はタオルで少女の体を拭いた。

 ぶるぶる、という少女の震えは火の温かみにあてられてようやく治まり、唇にも血色が戻った。

「大丈夫? 沖縄じゃないんだから」

 千歌はそう言って少女の肩に新しいタオルをかける。

「海に入りたければダイビングショップもあるのに」

 多分この辺りの人じゃないだろうな、と千歌は思った。綺麗に畳んだ少女の制服は沼津では見たことのない学校のものだ。

「………海の音を聴きたいの」

 少女はぽつり、と言った。「海の音?」と千歌は反芻する。

「どうして?」

 千歌の問いは空しく波の音に呑まれていく。少女は背を向けたまま体を丸めている。答えてくれそうにない。初対面で名前も知らない千歌には。

「分かった、じゃあもう聞かない」

 そうげんなりと言いながらも、千歌は気になって仕方ない。海に音なんて、吐いた気泡が弾けるくらいの音しかない。

「海中の音ってこと?」

 前言撤回、とばかりに千歌は質問を重ねる。くす、という少女の笑みが聞こえた気がした。

「わたし、ピアノで曲を作ってるの。でも、どうしても海の曲のイメージが浮かばなくて」

 「ふーん、曲を」と千歌は興味を深め、

「作曲なんて凄いね」

 何かを表現することは、何かを生み出すことでもある。まだこの世にないもの、景色、世界を見つめ、それを絵や言葉や曲として視覚的、聴覚的に見聞きできるものとして産み落とす。それは誰も見たことのない境地を見出す先駆者になるということだ。

 「ここら辺の高校?」と千歌は聞いた。少女の逡巡を経ての「東京」という返答は波の音に消えてしまいそうで、耳を澄ましていなければ聞こえなかっただろう。

「東京? わざわざ?」

「わざわざっていうか………」

 口をまごつかせる少女の隣に、千歌は腰を下ろす。東京に住んでいるのなら、知っているかもしれない。

「そうだ、じゃあ誰かスクールアイドル知ってる?」

「スクールアイドル?」

「うん! ほら、東京だと有名なグループたくさんいるでしょ?」

「何の話?」

「え?」

 千歌は口を開いたまま静止させる。千歌がスクールアイドルを知った東京なら、この内浦よりも身近なはず。それなのに、少女はまるで今初めてスクールアイドルという単語を聞いたかのように首を傾げている。ふたりの間に漂う沈黙をすり抜けるように、後ろでバスが通る音が聞こえた。

「まさか知らないの⁉」

 興奮のあまり、千歌の声が大きくなる。

「スクールアイドルだよ! 学校でアイドル活動して、大会が開かれたりする」

「有名なの?」

「有名なんてもんじゃないよ。ドーム大会が開かれたことあるくらい、超人気なんだよ――って、わたしも詳しくなったのは最近だけど………」

 「そうなんだ」と少女は何の気なしに応える。あまり興味が湧いていないらしく、それが申し訳ないように視線を俯かせ、

「わたしずっとピアノばかりやってきたから、そういうの疎くて」

「じゃあ、見てみる? 何じゃこりゃあ、ってなるから」

 「何じゃこりゃあ?」と顔を上げる少女の眼前に「何じゃこりゃ」と千歌はスマートフォンを差し出す。少女は目を細めて画面を眺めた。どう述べようか感想を探るように、

「これが?」

「どう?」

「どうって……、何と言うか………、普通?」

 おそるおそる見上げてくる少女にそう言うと、「ああいえ、悪い意味じゃなくて」と慌てた様子で繕う。

「アイドルっていうから、もっと芸能人みたいな感じかと思ったっていうか………」

 千歌は少女へ背中を向け、海へと視線を流す。別に気を悪くしたわけじゃない。少女に見せた画像のグループは、在籍していた高校の制服を着ていたから当然の感想だ。他にもアイドルらしい可憐な衣装の画像もたくさんあるのだが、千歌にとって彼女らが制服で歌った曲は特別に想い入れのある曲だった。

「だよね」

 「え?」と少女は上ずった声をあげる。確かに彼女らがスクールアイドルと知らなければ、9人でポーズを決めた画像は単なる女子高生の集合写真に見えてしまうだろう。でも、ありふれた制服姿でありながら、ステージに立つ彼女らは違う世界に立っていた。

「だから、衝撃だったんだよ」

 千歌は西の空を眺める。太陽が海へ沈もうとしている方向。世界を照らす、その中心へと。

「あなたみたいにずっとピアノを頑張ってきたとか、大好きなことに夢中でのめり込んできたとか、将来こんな風になりたいって夢があるとか、そんなのひとつもなくて」

 頑張ったと誇れるもの、これは手放せないと熱中できるもの、こうなりたいと願える夢のどれも、千歌は持っていなかった。それはずっと抱いてきた虚無だ。

「わたしね、普通なの」

 幼い頃、小学校低学年から水泳の高飛び込みで才を発揮していた曜を、千歌は観客席で眺めているしかなかった。自分はあの場所にいることはできない。近くにいる親友でも、曜に追いつくことはできない。自分はただの、才能ある人間を羨むだけの、何の取り柄もない普通の女の子。

「わたしは普通星に生まれた普通星人なんだって、どんなに変身しても普通なんだって、そんな風に思ってて。それでも何かあるんじゃないか、って思ってたんだけど。気が付いたら高2になってた」

 口を開けて待っていれば、空から何かが降ってきてくれるんじゃないか。そんな根拠のない期待を捨てきれず、何も行動を起こさなかった千歌のもとには何も降ってはこなかった。ただ日々は淡々と、でも容赦なく過ぎて言って、「普通」のまま千歌は高校2年目の春を迎えようとしていた。

「まず! このままじゃ本当にこのままだぞ! 普通星人を通り越して普通怪獣ちかちーになっちゃう、って!」

 「がおー!」と千歌は大口を開けて少女に迫る。続けて「ぴー! どかーん!」と怪獣ごっこをする子供のようにまくし立て、振り返ると少女はくすりと笑みを零していた。

「そんなとき、出会ったの。あの人たちに」

 それは2ヶ月前、修学旅行で訪れた秋葉原の街でのことだった。

 自由時間に曜と都心のビル街を散策していて、客の呼び込みをしていたメイドから店のチラシを受け取ろうとしたとき、強いビル風が吹いた。メイドの持っていたチラシが撒き散らされて、拾おうと風に運ばれる紙を追いかけ、千歌はそこへ辿り着いた。

 ビルの壁に設置された街頭モニター。その中で制服姿の彼女たちは踊り、歌っていた。

「みんなわたしと同じような、どこにでもいる普通の高校生なのに、キラキラしてた」

 千歌はその曲が終わるまで、チラシの回収を忘れて見惚れていた。アイドルなだけあって、容姿はもちろん優れているほうだった。でもそれ以上に彼女らのダンスと歌は理屈や言葉での説明では物足りないほどに、千歌の心を震わせた。彼女たちの立つステージは千歌の居場所とは別の世界のようで、彼女たちはその世界を照らす太陽のように輝いて見えた。

「それで思ったの。一生懸命練習して、みんなで心をひとつにしてステージに立つと、こんなにもかっこよくて、感動できて、素敵になれるんだって」

 運命だと思った。待ち焦がれていたものとようやく出会えた。自分の行くべき世界。そこから見える景色。彼女たちと同じ場所へ行きたい、と願えるものがスクールアイドルだった。

「スクールアイドルってこんなにも――こんなにもキラキラ輝けるんだって」

 彼女たちの歌とダンス。太陽のような輝きが、千歌の空虚を埋めてくれた。空っぽだった自分のなかに、宝石がどんどん詰まっていくようだった。

「気付いたら全部の曲を聴いてた。毎日動画見て、歌を覚えて、そして思ったの。わたしも仲間と一緒に頑張ってみたい。この人たちが目指したところを、わたしも目指したい。わたしも輝きたい、って」

 普通な自分が、普通でない特別なものになれるかもしれない。彼女たちのように誰かを感動させる人間になれるかもしれない。確証はなくとも、その可能性だけで千歌は熱中できる。目指すところは光。ひいては自分が光になることが、千歌の願い。

「ありがとう」

 少女は穏やかに言った。

「何か頑張れ、って言われた気がする。今の話」

「本当に?」

「ええ。スクールアイドル、なれるといいわね」

 「うん!」と応えて、千歌は遅れて思い出す。そういえば事が事だったから、互いに自己紹介する余裕もなかった。大切な手順を飛ばしてしまった気がする。

「わたし、高海千歌。あそこの丘にある浦の星女学院、て高校の2年生」

 丘の頂に建つ学校を指さす千歌の隣に、少女は「同い年ね」と並ぶ。

「わたしは桜内梨子(さくらうちりこ)

 この出会いが何をもたらすのか、この時の千歌はまだ知らない。出会いに思慕を感じられるのは、少しばかり遅れた後になる。

「高校は、音ノ木坂学院高校」

 ふと、重厚なエンジン音が響いている。千歌と梨子は車道へと振り向いた。十千万の駐車場から1台のバイクが飛び出して、猛スピードで沼津方面へと走っていく。あのVTR1000Fは美渡が学生時代に乗っていて、今は翔一へと譲渡されたバイクだった。買い物かな、と思いながら千歌は翔一が去っていった方向を目で追った。

 この時、千歌は知らなかった。

 もうひとつの運命が動き出していたことに。

 

 



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第4話

 

   1

 

『実はお見せしたいものがあるんです。主人と息子が殺された事と、関係があるかどうかは分からないんですけど』

 通話越しの佐伯安江の声は、少し震えていたように誠は記憶している。連絡を受けたのは夕刻で、過去に類似した事件がないか署のデータベースをチェックしている時だった。収穫が無くて諦めようとした矢先での連絡は、迷うことなく誠を快諾させた。

 すぐに準備をして待ち合わせの公園に向かったのだが、到着した頃には既に陽が暮れていた。夕陽が空を茜に染める時間は短い。まだ西には茜の残滓が残っているが、あと10分程度で完全に夜の闇を映すだろう。数少ない遊具で遊んでいたであろう子供たちも家に帰り、静まり返った公園はどこか不気味だった。植えられた桜の樹は花を咲かせているが、朧気な街頭に照らされた樹木は公園に現れる魔物のように見えてくる。それほど公園は広くもなく、いくら暗くても安江はすぐに見つかるだろう。ひとまず敷地を一周してみたのだが、人気がまったくない。まだ安江は来ていないのか。

 しばらく待ってみよう。そう思い公園に設置されている唯一のベンチへと歩く誠の視線が、散った薄紅色の花弁が積もる地面の一画で留まる。花弁を敷物のように、女性もののハンドバッグが鎮座していた。誠は駆け寄りバッグを拾い上げる。

「佐伯さん」

 嫌な予感がして、誠は夜へ染まろうとしている周囲に呼びかける。応える者はなく、誠の声は宵闇のなかへと吸い込まれ、彼方へと消えていく。誠は視線をやや上へと移す。静かに、動くことなく立ち並ぶ樹木はどれも空に向かって枝を伸ばしている。誠の視線が止まった先で、1本だけ枝がだらりと垂れ下がっている。誠は目を凝らす。

 ぶらりと下がったもの。それは枝ではなかった。

 春物のコートに袖を通した、人間の腕だった。

「佐伯さん!」

 驚愕こそしたが、誠の意識は即座に警戒へと移った。犯人がまだ近くにいるかもしれない。ジャケットの内ポケットからM1917リボルバーを取り出し、周囲に険しい視線を這わす。

 安江の埋まった樹の根本で、背の低い常緑樹がかさかさ、と音を立てた。駆け寄り銃口を向けようとしたとき、横から何かがぶつかってくる。不意打ちに対処しきれず誠は地面に身を伏した。すぐに起き上がろうとしたのだが、上体を起こしたところで誠は視界に入った「それ」に目を剥き、呼吸するのも忘れてしまう。

 「それ」は人のようであって、獣のようでもあった。

 一瞬は被り物だと思った。犯罪者が雑貨屋で売っているマスクで顔を隠すのはよくあることだ。でも目の前にいるジャガーの顔をした「それ」はゴムやシリコンでは出せない肉の質感が見て取れる。被り物とするなら、本物のジャガーの皮を被っているようだ。

「貴様の仕業か!」

 ようやく体の緊張が解けて、誠は声を飛ばす。人の言語が理解できないのか否か、「それ」は何も答えず獣の呻きを漏らしながら誠の喉元を人と同じ形の手で掴んでくる。片手で首を持ち上げられながら、誠は冷静さを失わず「それ」を分析する。体は人間と同じだ。盛り上がった筋肉はダビデ像のような理想的な肉体美を湛えている。

 「それ」は無造作に誠を投げ飛ばした。体重が60キロ以上ある誠の体を片手で。受け身も取れず無様に着地する誠には一瞥もくれず、「それ」は踵を返して暗闇の中へと潜り込んでいく。そこで誠はようやく、夕陽の残滓すらも消えて完全な夜が訪れたことに気付いた。

 懐からスマートフォンを取り出し、素早く通話モードにして耳に押し当てる。すぐに小沢の声が聞こえた。

『氷川君、どうした?』

「現在謎の生物に遭遇。G3システムの出動をお願いします!」

 「きたきたきた!」と小沢の嬉しそうな声が聞こえるが、文句を言っている暇はなく誠は通話を切った。本来なら対テロ用の装備として開発されたG3を謎の生物への対処という形で運用するなど、警視庁幹部が簡単に許可を出すとは思えない。しかも、まだ試作機のG3システム運用は世間に公表されていない。世に出すには早すぎる段階だ。でもあの小沢澄子なら、許可が下りる前に強引に出動へと乗り出すだろう。複雑だが、そんな逞しい彼女への信頼があった。

 誠は暗闇へと乗り出す。謎の生物は慌てる様子もなく悠然と歩いていたからすぐに見つけることができた。その背広筋が盛り上がった背中にM1917の銃口を向けトリガーを引く。外れたのか。耳をつく銃声を意に介さずこちらを振り向く生物を見て、そう判断せざるを得ない。照準を頭に定め、再びトリガーを引く。

 今度は正確だったらしい。らしい、というのも発射された弾丸が謎の生物の眼前で静止し浮いているのが見えたからだ。もし止まっていなければ、間違いなく目標の顔面を吹き飛ばしたはず。しかし弾丸は目標の頭蓋を貫くことなく、まるで共振動を起こしたかのように砕け宙に霧散していく。

 「なに……!」と呆然と声をあげる誠に背を向けて、謎の生物は走り出した。とても人間の筋力が出せるようなスピードではなく、追跡を試みるもすぐに引き離されて夜の静けさへと逃げられてしまう。誠は進路を変え、大通りへと向かった。近づくにつれてサイレンの音が聞こえてくる。街路樹の通りを抜けて舗装された道路へ出ると、丁度赤いパトランプを光らせる大型トラックが到着したところだった。

 警視庁のエンブレムが刻まれた、G3装備一式とオペレーティングシステムが積載されたGトレーラー。装着員がひとりに限られている制約上、自由に動けるように設計された拠点。調整のために本来の持ち場である東京を離れ、整備施設のあるこの沼津に移っていたのは不幸中の幸いと言うべきか。

 誠が乗り込んですぐにトレーラーは発車した。カーゴに移ると誠は急いで衣服を全て脱ぎ捨てる。G3のインナースーツには、装着員のメディカル情報を採取するための信号素子が張り巡らされている。だからたとえ肌着一枚でも誤差が生じてしまう。黒のインナースーツで首から下を覆い、脚部、次いで胸部装甲を身に纏っていく。ひとりでは手の届かない部分のユニットは小沢と尾室が手伝った。背中のバッテリーパックの残量を示すバックルを腰に装着した後、最後の仕上げとして小沢がマスクを誠の顔に当てる。網膜認証のセンサーが眼球を読み取ると、マスクのディスプレイ上にロゴが表示される。

 認証 装着員:氷川誠警部補

 開いた後頭部がカバーに覆われた。小沢から警棒を受け取ると、マスクに搭載されたカメラとオペレーションモニターの中継を確認した尾室が「装着完了」と告げる。誠はカーゴに佇むバイクに跨り、欠けた右ハンドルに警棒を射し込む。計器類が点灯し、スタータースイッチを押すとエンジンが駆動した。背後でごおん、という音がする。装備で全身を覆われているから感じ取れないが、開いたハッチから風がカーゴ内に吹き込んでいることだろう。小沢がPCのキーを叩くと、ハンガーごとバイクが後ろへと追いやられ、トレーラーから道路へと伸びたスロープの上に乗ったところで停止する。

「2123、G3システム戦闘オペレーション開始」

 小沢が告げると、尾室が壁に設置されたレバーに手をかけ、

「ガードチェイサー、離脱します」

 ハンガーのロックが外された。バイクは重力に従い、後ろ向きのままカーゴから吐き出され、路面へと降りていく。車体のバランスが取れた頃を見計らい、誠はG3専用ビークルとして設計されたガードチェイサーのアクセルを捻り、Gトレーラーを追い越して宵闇へと走り出す。

 

 

   2

 

『沼津港付近に高速で移動する熱源あり』

 マスクのスピーカーから尾室の声が飛んでくると同時、視界のディスプレイ上に港への最短ルートのマップが送信されてくる。地図の案内に従い、誠はサイレンを唸らすガードチェイサーを向かわせる。

 熱を持つということは、あれは生物なのか。G3のコンピューターが視覚補正し暗がりに隠れた街をヴァーチャル表示するなか、誠は考える。あんな生物がいつ、どこで生まれたというのか。ジャガーが人間のように二足歩行し、長い時代をかけて進化を遂げた姿だというのか。自力で進化を遂げたには、いささか完成度が高すぎるような気がした。何せ造形が完璧すぎる。

 まるで、神が最高の形として創り出したかのように。

 港に近づいたあたりで、G3のセンサーが目標を捉えた。目標は走っていた。時速60キロを越えるガードチェイサーとほぼ互角の速度で。

「目標を確認。接近します」

 『了解』と小沢が応える。誠はガードチェイサーのスピードを上げ、謎の生物が駆け込んだ港の一画へと入ったところでマシンを停車させた。

 そこはコンテナ置き場だった。荷物を詰め込まれ、貨物船に積載されるのを待つ立方体の箱がまるで積木のようにいくつも重なっている。既に本日の積み下ろし業務は終えたようで、職員はいない。ここに駆け込んだはずの謎の生物も。静寂が波の音と、潮風がコンテナの間をすり抜ける音を際立たせている。

『GM-01アクティブ。発砲を許可します』

「了解」

 武器の使用許可を小沢から受け、ガードチェイサーのリアトランクから銃を取り出す。GM-01スコーピオン。銃身の長さは拳銃と変わりないが、設計上はアサルトライフルだ。

『氷川君、近いわよ』

 オペレーションモニターと同期するディスプレイで、目標の熱源反応を示す座標がゆっくりと、しかし確実に誠との距離を詰めている。周囲に視線を巡らせ、街灯の光を受けてコンテナに映った人ならざる者の影を捉える。

 誠は影、その前にいる謎の生物に銃口を向けトリガーを引いた。腕部装甲が発砲時の反動を全て抑え、一寸の狂いもなく目標へ弾丸を浴びせていく。

 

 はずだった。

 

 連射された弾丸は全て目標の寸前で弾道を反らし、背後のコンテナに穴を開けていくだけだった。

「効かない、そんな⁉」

 鋼鉄製の砲丸も破壊する威力だぞ。咄嗟にGM-01を見てしまったことが致命的だった。謎の生物は一瞬で距離を詰めてきて誠に掴みかかる。銃身で打撃を与えようとするが撥ねつけられ、手から零れ落ちてしまう。

『GM-01をロストしました! ステータスZに移行』

 尾室の上ずった声がマスク内に響く。尾室にとっても想定外の事態に違いない。多数のテロリストを単体で制圧するために設計されたG3が、たった1体の敵で武器を失うなんて。

 謎の生物が誠の腹を蹴り上げる。スーツを装着した150キロある誠の体が宙へと投げ出され、停車していた事業所のものらしき車のボンネットに落下しフロントガラスを砕く。背中から落ちたことが状況を悪化させ、尾室が知らせてくれる。

『バッテリーユニットに強度の衝撃。バッテリー出力80パーセントにダウン』

 想定外の事態が多すぎる。敵はテロリストどころか人間ですらなく、武器を失い、耐衝撃用の機構が組み込まれたバッテリーユニットにダメージを負うなど。

 痛みに歯を食いしばりながらボンネットから滑り落ちると、態勢を立て直す暇もなく謎の生物の蹴りが胸に響く。武器を失っても、誠は刑事として日々近接戦の訓練も受けている。G3運用に伴い、米海軍特殊部隊(ネイビーシールズ)出身の元軍人を講師に招いて近接戦を叩きこまれた。己の体ひとつでも十分に戦える。

 培った技術とスーツの筋力補正を上乗せした拳を浴びせ、更に蹴りを入れる。謎の生物の体が、先ほどの誠と同じように宙へと舞う。だが謎の生物は蹴り飛ばされたわけではなかった。蹴りを受けると同時に自ら跳んだのだと、車の屋根に着地した余裕ある佇まいで理解できた。

 屋根から下りた謎の生物が車体を押した。あまりのパワーでサイドブレーキが破壊されたらしく、重量が1トン近くある車体が誠へと向かってくる。馬鹿な、G3の筋力補正でも1トンの物体は動かせないというのに。驚愕のあまりに回避を忘れ、まともに車体と衝突してしまう。ボンネットから屋根へ、屋根からトランクという順に地面へと転がる。

『胸部ユニットにダメージ!』

 胸部装甲が火花を散らした。内部でパーツがいくつか故障したらしい。誠を轢いても車は止まることなく、先ほど誠がフロントを破壊した車と衝突した。ガソリンタンクに当たったのか爆発を起こし、赤い炎を燃え上がらせる。

 謎の生物の拳が誠の顔面を打った。地面に伏す誠に追撃を加えようとするが、それはなけなしの蹴りを入れて阻む。立ち上がって近接戦へ持ち込もうとするが、完全に相手のペースだった。誠が何発拳を入れても動じない謎の生物は、たった一撃の蹴りで誠の体を突き飛ばしてしまう。ぶつかったコンテナがひしゃげ、肩と腕の装甲が火花を散らした。

『姿勢制御ユニット損傷。G3システム戦闘不能!』

 謎の生物が誠の頭を掴み、コンテナに打ち付けてくる。頭蓋に衝撃が響き、危うく意識が飛びそうになる。『映像信号ロストしました!』という尾室の声で意識を押し戻すことができたが、伝えられた状況は最悪を示している。

『オペレーション中止、氷川君離脱しなさい! 氷川君――』

 小沢の声がノイズにかき消されていく。通信機もやられたらしい。姿勢制御機構が使い物にならなくなったせいで、スーツがずしりと重くなった。もはやG3システムはただの硬い鎧でしかない。この圧倒的パワーの怪人を前にしては、次に強烈な一撃を食らえば装着員である誠の生命が危ぶまれる。

 離脱しようにも思うように動けない。謎の生物が拳を振り上げようとしたとき、誠は直感的に最期を悟った。

 だが、その直感は外れる。

 謎の生物は拳を下ろし、背後を振り返る。息をあえがせる誠への興味が失せたかのように暗闇の一点、こちらへゆっくりと歩いてくる人影を見つめている。誠も人影へと視線を向けた。人影の腹のあたりが光を放っていて、逆光で全貌がよく見えない。

 人影が炎上する2台の車のそばで歩みを止めた。その時点で腹の光は消えていて、完全に闇と同化している。再びガソリンに引火したのか、車が爆炎を起こす。プラズマの光を受け、影に隠れたその姿が露わになる。

 それは生物と呼ぶべきか判断しかねた。黄金の鎧に覆われた体は人型のシルエットでありながら、額から金色の角が2本そびえ立ち、顔の半分を大きなふたつの赤い目が占めている。生物というより戦士だった。

 謎の生物は呻き声をあげ、戦士へと向かっていく。戦士の出現に激しく怒っているように見えた。殴りかかってきた謎の生物の拳を戦士はいなし、その顔面に肘打ちを見舞う。更に拳を顔面に打たれた謎の生物が仰け反るのを見て、誠は驚愕した。G3の拳を受けても意に介さなかった謎の生物を、あの戦士はたった1発の拳でダメージを与えた。

『氷川君聞こえる? 氷川君!』

 通信が復旧したらしい。小沢の声に応えることなく、誠の意識は突如現れた金色の戦士へと向けられて離れない。

 謎の生物が掴みかかった。戦士はまるで力の流れを掴んでいるかのように、合気道の容量で謎の生物の肩を掴み投げ飛ばす。誠を圧倒した謎の生物が、離れた地面に投げ出された。

 戦士の双角が扇のように、左右へ開き6本の角になった。足元には金色の、開いた角によく似た紋章が浮かび上がり、その光を受けて戦士の鎧も輝いている。紋章は渦を巻き、戦士の両足へと収束する。身を屈めた戦士へと向かって謎の生物が駆け出した。戦士は跳躍し、宙で右足を突き出してキックで迎え撃つ。

 胸にキックを受けた謎の生物の体が跳ね返された。起き上がろうとしたところで頭上に光が渦巻く。まるで天使の輪のようだ。謎の生物は打たれた胸を押さえつけ、苦しそうに悶える。

「ア……ギ………ト……………」

 謎の生物が発した声が、そう紡いだ気がした。何かにすがるように手を伸ばした瞬間、その体が爆散した。飛び散った肉片にはまだ炎が灯っていて、細胞一片も残さず焼き尽くそうとしている。

 たった1撃のキックだった。それだけであの戦士は敵を葬ってしまった。爆発の凄まじさに(おのの)きもしない戦士は、ただ燃え残る炎を見つめている。その角が閉じて2本に戻った。赤い目が誠へと向けられる。

 来るか――

 身構えようにも、戦闘不能に陥った今では対処のしようがない。だが戦士は誠に背を向けて、悠然と歩き始める。謎の生物を倒すことが目的で、誠の存在など眼中にないように。追跡しようにも、G3装備がまともに機能していない今の状況では無理だ。危機を脱したからか、意識が遠のいていく。体から力が抜けて倒れるも、誠は立ち込める煙の中へと消えていく戦士の背中を視線で追い続けた。その背中もぼやけていく。燃え残る炎も、宙をたゆたう煙も。

 まだ機能している聴覚がサイレンの音を捉える。Gトレーラーが回収に来たらしい。

 意識が完全に埋没しようとしているなか、誠は爆散する直前に謎の生物が発した声を思い出した。あれは何かを意味していたのだろうか。それとも単なる獣の咆哮がそう聞こえただけだろうか。

 マスクのなかで誠の唇がその音をなぞった。

「アギト………」

 

 

   3

 

「もう一度?」

 浦の星女学院前の停留所でバスを降りて、千歌から教室へ行く前の用事を聞いた曜はそう言った。昨日撥ねつけられた申請書を手にした千歌は「うん」と、

「ダイヤさんの所にいって、もう一回お願いしてみる」

 「でも――」と曜が言いかけたところで、千歌は「諦めちゃ駄目なんだよ」と遮った。

「あの人たちも歌ってた。その日は絶対来る、って」

 それは千歌が見つけたグループの歌にあった詞の1節。未来を切り開くのは、熱い胸だと。今の熱を保てば、きっと始まるはずだ。

「本気なんだね」

 穏やかに曜が言ってすぐ、千歌の手から申請書をくすねる。「ちょっと」と文句を飛ばそうとしたところで、千歌の背中が曜の背中と合わさる。その不意打ちに千歌は反応に困り、開いた口を静止させる。曜は言う。

「わたしね、小学校の頃からずーっと思ってたんだ。千歌ちゃんと一緒に夢中で何かやりたいな、って」

「曜ちゃん……?」

「だから、水泳部と掛け持ちだけど」

 曜の背中が離れた。代わりに千歌の背に紙がかさり、と押し付けられ、何か細いものを当てられたのかこそばゆい感触を覚える。振り返ると視界いっぱいに申請書の書面が入った。部員の欄に書かれた「高海千歌」という唯一の名前。その下に「渡辺曜」という名前が追加され、書面を差し出す曜は満面の笑みを向けている。

「曜ちゃん………」

 思わず涙が出そうになった。親友故の情けかもしれない。ただ見かねただけなのかもしれない。それでも、曜の「一緒にやりたい」という気持ちが胸を熱くさせてくれた。千歌は申請書を放り、曜を力強く抱きしめる。「苦しいよ」と曜が苦笑した。昂る気持ちのままに拳を振り上げ、

「よーし、絶対すっごいスクールアイドルになろうね!」

 

 一度3年生の教室を訪ねたところ、ダイヤは生徒会室にいるとのことだった。毎朝早く登校し、ホームルームが始まる前に生徒会の職務をこなしているらしい。

「よくこれでもう1度持ってこようという気になりましたわね」

 千歌が半ば押し付けるように差し出した申請書を眺め、ダイヤは皮肉を漏らす。

「しかもひとりがふたりになっただけですわよ」

 呆れと困惑が混在しているような口ぶりだった。設立に必要なのは5人以上、という話を聞いていなかったのか、と。

 やっぱり、と予想していた通りだったが、曜は隣に立つ千歌を止めようとは思わない。乗りかかった、いや既に乗った船だ。千歌と一緒にやると決めた以上、曜もここは押し通さねばならない。

 千歌は言う。

「やっぱり、簡単に引き下がったら駄目だ、って思って。きっと生徒会長は、わたしの根性を試しているんじゃないか、って」

 「違いますわ!」とダイヤは身を乗り出して千歌に顔を近付ける。

「何度来ても同じ、とあの時も言ったでしょ!」

 千歌も負けじと顔を近付ける。

「どうしてです!」

「この学校には、スクールアイドルは必要ないからですわ!」

「何でです!」

 これでは交渉どころじゃない。「まあまあ」と曜はふたりをなだめようと試みるも、まったく耳に入っていないようだ。千歌がここまで強気になるのは珍しいし、両家の令嬢という印象が強かったダイヤがここまで感情的になるなんて思ってもみなかった。彼女が唾を飛ばす勢いで吐き捨てる姿も。

「あなたに言う必要はありません! 大体やるにしても曲は作れるんですの?」

 「曲?」と千歌が目を丸くして、ダイヤは更に怒りを増大させたが寸でのところで飲み込んだらしい。説明するダイヤの口調は少しばかり落ち着きを取り戻していた。

「ラブライブに出場するにはオリジナルの曲でなくてはいけない。スクールアイドルを始めるときに、最初に難関になるポイントですわ。東京の高校ならいざ知らず、うちのような高校だと、そんな生徒は………」

 そんな生徒はいないだろう。ダイヤの濁した最後の言葉は、きっとそれだ。浦の星女学院の生徒は100人にも満たない。「ラブライブ」というスクールアイドルの全国大会があることを、曜は千歌から聞いている。千歌の憧れのグループもラブライブで優勝しているらしい。そのグループは東京の高校に在籍していた。人口の多い東京は高校の数も多い。様々な生徒――作曲ができる生徒もいたことだろう。

 沼津という日本の一画にある街の小さな高校で、果たして音楽への造詣が深く、かつ自ら曲を作れる生徒がいるだろうか。そもそも、あのグループとは始まった環境がまるで違うのかもしれない。

 

「探してみせます!」

 そう啖呵をきって生徒会室を飛び出した。教室に戻って同級生たちに作曲ができるか、またできる生徒を知らないか聞いて回ったのだが、

「ひとりもいない………」

 ホームルームの開始時刻が近付き、席についた千歌は深い溜め息を漏らす。隣席の曜もがっくりと机にもたれている。

「生徒会長の言う通りだった………」

 「大変なんだね、スクールアイドル始めるのも」と曜は応じる。100人未満の小さなコミュニティとなれば、情報はすぐに広まる。だから1クラス聞いて回って収穫なしとすれば、本当に浦の星女学院に作曲のできる生徒はいないのだろう。

 「こうなったら」と千歌は机の中から音楽の教科書を取り出し、

「わたしが、何とかして――」

「できる頃には卒業してると思う」

 曜の指摘通り。カラオケは好きだが音楽に関して千歌は素人だ。楽器なんて学校で習う鍵盤ハーモニカとリコーダーくらいしか弾けない。それに得意でもない。開いた教科書にうなだれると、「はーい皆さん」と担任教師が教卓でホームルーム開始を告げる。

「ここで転校生を紹介します」

 教室の生徒たちがざわめき始める。転校生が来るという噂は聞いてはいたが、スクールアイドル部設立のことが思考の大半を占めていたから気にも留めていなかった。「どうぞ」と教師が促すと、ドアから長い髪を揺らした少女が入ってくる。

 少し緊張気味な面持ちで、まだ糊のきいたしわのない制服に袖を通した少女の顔を、千歌はじっと見つめる。初めて見る顔じゃない。だからこそ瞬きもせず、視線が離れない。

 「今日からこの学校に編入することになった――」と教師は区切り、続きを少女が引き継ぐ。少女は控え目なくしゃみを経て、「失礼」と前置きして自己紹介する。

「東京の音ノ木坂という高校から転校してきました」

 そこで少女はまたくしゃみをして、照れ笑いと共に名乗る。

「桜内梨子です。よろしくお願いします」

 繋がった、と千歌は確信する。枝分かれした川がひとつになって海へ流れるように、全てがあるべきところへ収まった。

「奇跡だよ!」

 思わず高らかに言って、千歌は立ち上がる。そこで梨子は千歌に気付き、「あなたは……⁉」と漏らす。

 ここから物語は動き出す。目指すべき場所へ続く道。そこへ至る入口がようやく見つかった。ひとりでは無理でも、一緒に頑張れる仲間がいれば、きっと扉は開ける。

 彼女たちと同じステージ。

 輝ける世界への扉が。

 共に輝けるであろう梨子に手を差し伸べ、千歌は言った。

「一緒にスクールアイドル始めませんか?」

 

 





 原作1話に相当するエピソードでお察し頂けたかもしれませんが、本作はこの通り『サンシャイン』と『アギト』のストーリーが並行して進むという構成になっております。

 なぜこんな形にしたかといいますと、私のなかで二次創作を書く目的意識が変化しまして、原作を知らない方に魅力を知って頂くため敢えて改変させない方向にしました。なので本作は原作のファンは勿論ですが、原作を知らない方にこそ読んでほしいと思っております。


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第2章 転校生をつかまえろ! / 俺の変身! 第1話

 先日、沼津へロケハンに行きました。土地の雰囲気を掴んだようなそうでないような………。微妙なのでお盆休みあたりにまた沼津へ脚を運ぼうと思います。




   1

 

 物心ついた頃から、音楽が好きだった。

 ピアノの教室に通って、レッスンの時間だけでは物足りなくて、そんな娘に両親は決して安くないピアノを買い与えてくれた。それから梨子の人生はピアノと共にあったと言って良い。

 もっと上手くなりたい。もっと綺麗な音を奏でたい。自分にしか弾けない曲、自分にしか作れない音色が欲しい。

 暇さえあれば鍵盤を叩いていた梨子が上達するのは必然的なもので、自然とコンクールにも上位に入れるほどの実力を身に着けていった。

 ピアノは好きだからこそ続けてきたし、楽しく弾いていた。それが、あのコンクールの日から砂の城のように崩れていった。

 まだ音ノ木坂学院に在籍していた頃に出場したコンクールだった。大規模なホールを舞台にドレスを着て演奏するなんて随分と慣れたものだから、緊張なんてしないはずだった。事実、壇上で観客に礼をするまで、梨子の所作はとても自然になされた。

 でもいざピアノに向かったとき、梨子の指は石膏で固められたように動かなくなった。鍵盤の前でかざした手はコンクールの課題曲を何度も弾いてきた。ミスタッチは全て修正したし、動けば楽譜通り完璧に弾けるはずだった。

 ――わたしがやりたい音楽って、これなの?――

 梨子の意識の奥底にある疑問が、手を固めてしまったようだった。ピアニストに求められるのは楽譜が指示する通りに演奏すること。完成された曲にアレンジを加えることなく、作曲家の描いた音の連なりを忠実に再現することにある。完璧な演奏とは、悠久の時を経て昔の音楽を現代に蘇らせる崇高な行為。教室の講師がそう言っていた。

 若気の至りなのかもしれない。思春期のつまらない反骨精神なのかもしれない。それでも、蓋が開かれたピアノの中に梨子の音楽は見つからない。ここに自分の音楽は、音はない。

 そのコンクールで梨子は弾くことができなかった。ざわめく観客に礼をして、ステージを逃げるように退いた。

 あの日を境に梨子は鍵盤に触れることすらできなくなった。自分に相応しい音を見つけるまで触れさせない。そうピアノに拒絶されているような――いや、それは物言わぬピアノに責任転嫁しているだけ。拒絶しているのは梨子のほうだ。

 それでも何度もピアノを弾こうと試みたのは、梨子がまだピアノへの思慕を捨てきれていないから。辞めることなんてできない。梨子にとってピアノとは人生の大半を占めるものだから。ピアノはある意味で魔物だ。美しい歌声で惹き寄せられた者を殺すセイレーンのよう。

 梨子もピアノという美声の魔物(セイレーン)に惑わされているのかもしれない。歌声は目蓋のない耳に入り、知らずのうちに呪いとなって首を絞められるように息苦しくなる。

 

「ごめんなさい!」

 

 だから梨子は、千歌から差し伸べられた手を拒んだ。申し訳ない、と深々と頭を下げて、でもはっきりとした口調で。

 わたしにはピアノがある。

 たとえピアノに呪われていても、逃げるわけにはいかないの。

 大好きなものは、捨てられないから。

 

 

   2

 

『これが、君が遭遇したという敵かね?』

 警視庁警備部長の厳しい声が、スピーカーから流れてくる。誠の意識は声に込められた威圧よりも、PCの液晶が映すG3に搭載されたカメラの映像に向けられている。

 そこには何も映っていない。誠が戦った敵がいたはずの場所にはオーロラのようなもやがかかっていて、その姿が朧気でシルエットすらも捉えることができていない。

『戦闘オペレーションの実行時間は21分41秒と記録されている』

 記録映像が途切れたところで、警備部長補佐官の声が淡々と、

『だが録画された映像は僅か12秒。しかもこの状態で、G3は大破』

 「分かりません、何故映っていないのか」と誠はPCに接続されたマイクに向かって応じる。

「あの時、G3のカメラで確かに敵の存在を捉えたはずなんですが」

 『まさに未確認だな』と警備部長は言う。『それからこれ』と続けて、

『最終的にこの未確認生命体を倒したという謎の生物だが、何なのかね?』

 慎重に言葉を選別し、誠は答える。

「分かりません。しかし私が遭遇したのは、人間ではないと思います。人間であれば、たとえ防弾装備を固めていたとしても、G3システムの武器で制圧できたはずです」

『人間を超えた敵が現れた、とでも言いたいのかね?』

 補佐官の問いに誠は一瞬の間を置いて「はい」と答える。こんな報告、嘲笑か憤慨を買っても文句は言えない。だが映像になくても、大破したG3の装甲が物語っているはずだ。

 人類は未知の敵に遭遇した、と。

『君の言うことが本当なら、君が遭遇した生物はアンノウンとしか言いようがないな』

 アンノウン。

 警備部長による便宜的な呼び名を、誠は裡で反芻する。あれが現時点でまだ未発見の、道の生命体である以上、警視庁は呼称をそう定めるだろう。

『G3は修理中だが、また敵が現れるかもしれない。警戒を怠らないよう、捜査に取り組んでほしい。以上』

 当たり障りのない警備部長の口上で、聴聞会が締め括られる。PCの通話ウィンドウが閉じられた。張り詰めていた気分が解け、誠は深いため息をつく。誠は沼津警察署。警備部長と補佐官は東京の霞が関にある庁舎。電波越しでの報告であれほど緊張したとなれば、直に面と向かってしまうとまともな受け答えができるのか自信がない。

 PCをシャットダウンし、誠は会議室を出る。会議室を出てすぐの所にある階段で、男性刑事が腕を組んで佇んでいるのが視界に入る。明らかに自分を待っていた。それを悟りながらも、誠は何食わぬ顔で北條透の横を素通りしようとしたのだが、

「氷川誠」

 名指しされては、無反応はできない。やれやれ、と思いながら誠は同じ警視庁の刑事である北條へと向く。

「静岡県警からG3ユニットにスカウトされたと聞いたときに素朴な人間だろうと思いましたが、とんだ食わせ物でしたね」

 「何のことです?」と誠は訊いた。何て白々しい、とでも言いたげな視線を北条はくべて、

「謎の敵と遭遇したという、君の作り話だ。違いますか?」

「作り話……。私が何のためにそんな?」

「莫大な予算と大規模な人事異動をかけておきながら、現実的に考えてG3ユニットは大した成果を望めない。テロが起こったとしてもSATで事足りる。このままでは間違いなくG3ユニットは解散になる。それを防ぐために君は話をでっち上げた」

 誠はつい笑ってしまう。極めて特殊な部署に配属された故に皮肉や陰口を言われることは慣れているが、ここまで面と向かって言い掛かりをつけられるとは。刑事という身において不釣り合いなほど瀟洒(しょうしゃ)なスーツを着こなす男を見据えて、誠は告げる。

「聞きましたよ。北條透といえば本庁きっての若手エリート。でも意外と暇なんですね」

 北条の顔が僅かに曇るのも構わず、誠は続ける。

「そんなことを言うために私を待ってるなんて」

 礼儀正しく会釈し「失礼します」と誠は階段をのぼっていく。出世を目指しての蹴落とし合いは飽きるほど見てきた。誠の本庁への異動が決まったときも、静岡県警で同僚たちの陰口は嫌でも耳に入った。異端者扱いされているG3ユニットの連中がどれだけ成果を上げようと評価なんてしてやるものか、という本庁に移ってからの声も。

 ただ自分は職務を全うするだけだ、という決意を誠は裡で繰り返す。

 警察官として、市民を守るという職務を。

 

「アンノウンかあ。上手いこと言ったもんね」

 Gトレーラーに戻り、聴聞会の内容を誠から聞いた小沢は感心したように言う。トレーラーのカーゴベイは戦闘オペレーション用のものだが、待機を名目としてユニットメンバーは常にこの車内をオフィスとしている。現在の一時的な停留所である沼津警察署にメンバーのオフィスは設けられていないし、本庁の庁舎にはオフィスがあるのだが周囲からの冷たい視線に長時間晒されるのは勘弁願いたい。

 「アンノウン、ですか?」と尾室は訊いた。意味を尋ねる意図を汲み取った小沢は言う。

「例えば、国籍不明の戦闘機とか航空機に対して使う呼称ね。要するに正体不明ってこと」

 なるほど、と頷いた尾室は誠へと視線を移し、

「その敵を倒した謎の生物も気になりますね。本当に我々の味方なのかどうか」

「アギト………」

 誠は虚空に向かって呟く。「え?」と尾室が訊き、誠は視線を向ける。

「アンノウンが倒される直前、そう言っていました」

「それが、謎の生物の名前なんですか?」

 「名前だけ分かってもしょうがないわ」と小沢が打ち切った。

「まず、敵の正体を知りたいところね」

 そう、まずはそこだ。アンノウンがどこから現れたのか、何故人間を殺すのか。

 「でも手掛かりが何も……」と尾室が言う。そこで誠は思い出した。制服の内ポケットから出した1枚の、ビニールに包まれたそれを見て小沢が「何?」と訊いてくる。

「アンノウンに殺されたと思われる佐伯安江さんは、僕に見せたいものがある、と連絡をくれました。約束の場所に行ったとき彼女は既に亡くなっていたんですが、現場に落ちていたバッグのなかにこの写真が入っていたんです」

 小沢と尾室が、誠が持つ写真を覗き込む。池か湖の(ほとり)で、どこかの山を背景にひとりの少年を撮影した写真だった。少年の顔が佐伯一家殺害事件の最初の被害者、ひとり息子の信彦(のぶひこ)であることは記憶に新しい。データの状態で保存する今のご時世にわざわざ現像したところ、額に入れて飾っておくつもりだったのかもしれない。誠は漏れそうになった溜め息を堪えた。聴取であがった佐伯家のリビングには、家族写真や息子の成長を記念した写真が多く飾られていた。これほど愛情に溢れた家族がどうして全員殺されなければならなかったのか。

 「どこの写真かしら」と小沢の手へ写真が移る。小沢は現像された写真の右端にプリントされた撮影日時の数字に目を凝らし、

「日付は最近のものね」

 「ええ」と応じた誠はデスクに置かれたファイルを開き、まとめられた捜査資料を確認しながら述べる。

「佐伯家の人間は安江さんだけでなくご主人の邦夫(くにお)さん、ひとり息子の信彦君までが殺されています。写真の日付は、信彦君の死亡推定時刻の前の日です」

 「ちょ、ちょっと待ってくださいこの写真。何か変ですよ」と尾室が慌てた様子で小沢の手から写真を取る。誠が覗き込むと尾室は写っている信彦の右肩を「ほら、ここ」と指さす。

 誠は目を剥いた。現場維持のために落とさなかった汚れと思っていたもの。それは背後から信彦の肩を掴む手だった。

 まるで、殺される前日の信彦を死者の国へと引きずり降ろそうとしているかのように。

 

 

   3

 

「翔一、いつまで寝てんの? 千歌もう学校行っちゃったよ」

 美渡の声が、頭まで被った布団越しに聞こえてくる。続けて志満の声も。

「翔一君、熱でもあるの?」

 翔一は答えない。無言のまま布団に顔を埋め、暗闇へと自分を沈めようと試みる。それでも布団の隙間から外の光は容赦なく入り込んできて、完全な孤独に至ることは難しい。

 「翔一が寝坊なんて初めてじゃない?」と美渡が言った。「そうね………」と志満が応じた後、襖が静かに閉められる音が聞こえた。

 布団のなかで翔一は体を丸める。母のなかで胎児が眠るように。その頃の温もりを思い出そうとするように。でも、翔一にはその頃の記憶がない。記憶喪失でなくても、母の胎内にいた頃の記憶なんて誰も覚えていないだろう。そもそも、と翔一は恐ろしい核心への疑問を抱く。

 ――俺は人間なのだろうか――

 自分は母の胎から産み落とされてこの世界に誕生したのだろうか。そんな馬鹿げた疑問を抱いてしまう理由は、昨夜の出来事に他ならない。夕飯の準備をしていた際に頭のなかで響いていた叫び。それが誰のものかは分からなくても、それがどこから発せられたもののか、翔一には分かった。行かなければならない。獲物を見つけた肉食動物がそうするように、翔一は叫びのもとへとバイクを走らせた。

 そこにいたのは青の鎧を纏った戦士と、戦士を(なぶ)る異形の存在。翔一は異形の存在が敵と分かった。あのとき、翔一は自分の人格が消えたように思える。体が変化したにも関わらず、それに恐怖も迷いも抱かずに異形と戦った。格闘技の心得なんて無いはずなのに、翔一には戦い方が分かった。頭で理解するよりも、体が知っていた。

 何か思い出した、という千歌や美渡から頻繁に投げかけられる質問に、翔一は恐怖した。本物の恐怖だった。布団に温められたはずの体がぶるぶる、と震えだし、歯をがちがち、と打ち鳴らす。

 俺は何者なんだ。

 俺はどこで、何から生まれたんだ。

 その疑問に相反する願望を、翔一は認識する。

 

 何も、思い出したくない。

 

 

 

   4

 

「ごめんなさい」

 「だからね、スクールアイドルっていうのは――」という千歌の声には耳を貸さず、梨子はすたすたと廊下を歩き去ってしまう。

 

「ごめんなさい」

 食後のお茶を啜る梨子に「学校を救ったりもできたりして、すごく素敵で――」と憧れのグループが成し遂げた偉業を説明しようとしたのだが、テーブルを叩く缶の音で遮られる。梨子は席を立ち、弁当箱を手に食堂から出ていく。

 

「どうしても作曲できる人が必要で――」

 体育の授業中にグランドを走る梨子の背中へ呼びかけるが、「ごめんなさい」と梨子はスピードを上げて距離を取っていく。「待って――」と千歌もスピードを上げようとしたのだが、脚がもつれて盛大に転んでしまう。

 諦めちゃ駄目だ。その想いで立ち上がり、千歌は「桜内さーん!」と走り出す。

 

 

   5

 

 ずるずる、と思い脚を動かし涼は地下道を歩く。地上へ続く階段の先にある光を目指し、まるで胎児が産道から外へはい出そうとしているように思えてくる。脚がもつれて倒れそうになり、涼は壁に手をついた。荒い吐息と、激しく脈打つ心臓の音が聞こえる。立って歩けるくらいは容態も落ち着いたと思ったのだが、まだ熱があるようだ。

 医師によると、涼の体は未だに筋肉の発熱と痙攣を起こし、それが激しくなっているらしい。それは涼の筋肉組織が膨張を続けていること、と医師が両野に説明しているのを涼はベッドで聞いていた。

 ――俺の体は、どうしたっていうんだ――

 未だ朦朧とする意識で、涼は自分自身に問う。まだ退院できる体じゃないのに病院から抜け出した理由は、昨夜の出来事に他ならない。

 ベッドで寝ていた涼の体は、何の前触れもなく再び発作を起こした。全身が熱くなり、腹のあたりが疼いた。診察衣を剥ぐと腹が光を放っていた。まるで涼の体に宿った何かが産まれようとしているかのように。

 驚愕よりも先に、涼は恐怖した。男である自分の胎から何が産まれようとしているのか。本来なら何も産むはずのない自分から産まれるもの。それは決して良くないものだ、と確信できる。

 何かの病気か。病気だとしても、これは医者に治せるようなものじゃない。

 ぽたり、と涼の額から玉のような汗が落ちた。発熱のせいで常に汗が噴き出している。服も汗を吸って随分と重くなり、涼の体力を奪っていく。それでも、と涼は地上への階段を上る。一段上るのにかなりの体力を使い、転倒しそうになる。

 地上から射し込む光に向かう涼に、もう迷いも恐怖もなかった。ただ熱で脳細胞ごと溶けそうな、陶酔にも似た感覚が頭のなかでかき回されていくようだった。

 

 

   6

 

 撮影に使用されたスマートフォンのGPS記録によると、写真が撮影された場所は沼津市と伊豆の国市の境にある山岳地帯。発端丈山(ほったんじょうさん)葛城山(かつらぎやま)の間だった。沼津警察署から車で約1時間程度の距離ということもあり、誠は現場へ向かうことにした。

 市街を抜けて海沿いの道を通る途中でスマートフォンが着信音を鳴らす。近くの静浦漁港で車を停めた誠は端末を耳に当てて「はい氷川ですが」と応じる。小沢の声だった。

『全国の山の画像を検索して照合してみたんだけど、写真の背景の山は富士山らしいわね』

 「富士山?」と誠は眉を潜め、ジャケットから出した写真の背景を凝視する。続けて窓から見える富士山へと。

 見比べてみると確かにシルエットが同じだ。だが、今の時期富士山は頂にまだ雪が残っている。富士山頂の雪は夏になってようやく溶ける。

「富士山によく似た、別の山ではないんですか?」

『私もそう思ったのよ。写真の山には雪が無いし。でも、照合結果で一番確率が高いのは富士山だわ』

 光の加減だろうか。そう思うも、富士山の青みがかったシルエットが被る雪化粧はよく映える。スマートフォンに搭載されたカメラでも、その景色を捉えることは可能のはずだ。

「とにかく、まずは撮影場所に行ってみます」

 そう言って誠は通話を切り、再び車を走らせる。合成写真なのだろうか。だがそれは科学警察研究所の解析結果で否定され、何の加工もされていない写真であることが証明されている。一体どういうことか。春に夏の富士山が撮影されているなんて。

 思考を巡らせる間もなく、誠の車は目的地へ到着した。カーナビは目的地到着とアナウンスしたのだが、誠は困惑を拭えない。写真のなかで、信彦は山中の池か湖の畔で立っていた。なのに、誠が到着した場所はマンションが立ち並ぶ集合住宅街で、さらに新しいマンションの工事が進められている。工事現場の前には完成予定の建物の写真と、「入居者募集中」と書かれた看板が掲げられている。

 誠は写真のなかと、マンションの間に佇む富士山を見比べる。距離も角度も同じだ。違いといえば雪の有無だけ。カーナビに設定した住所はスマートフォンのGPS記録と一字一句同じだから、撮影場所はここで間違いないはず。なのに、どうしてこんなにも様相が違うのか。

 ひとまず小沢に連絡しよう、とスマートフォンを取り出したのだが、端末のバッテリーは残り10パーセントを切っていた。充電を忘れていたらしい。周囲に視線を巡らせると、開発されてまだ年月の経っていない住宅街には不釣り合いな古めかしい駄菓子屋がある。こういった店には公衆電話が置かれている、と中年の先輩刑事から聞いたことがある。誠は煙草の自動販売機に挟まれた引き戸を開け、店に入った。先輩刑事の言った通り、入ってすぐ近くの壁際にピンクの電話が置かれている。

「すみません、電話をお借りしたいんですが」

 誠がそう言うと店の奥で本を片手に詰将棋を指していた店主の老人が「あ、どうぞ」とぶっきらぼうに答える。受話器を取り小銭を入れようとしたとき、誠の視線が壁に掛けられた写真に留まった。富士山を背景に池を取った風景写真だった。信彦を写した風景とよく似ている。この写真の富士山は雪を被っているが。

「あの、これは………」

 誠が尋ねると、面倒臭そうにこちらを向いた店主が受話器で指し示された写真を見て「ああ」と、

「この辺りの昔の写真ですよ。青澄沼(あおすみぬま)っていいましてね、ヘラブナがそりゃあよく釣れたもんです。でも10年ばかり前に、埋め立てられてしまいましたけどね」

 「10年前?」と誠は訊いた。店主はこちらには見向きもせず詰将棋を再開し、「ええ」という声と共に盤を打つ駒の音が小さく響いた。

「マンションの建設計画が持ち上がりましてね」

 

 






 『アギト』は前年度に放送された『クウガ』との繋がりが示唆されていますが、本作では『クウガ』の要素はカットし、G3は対テロ用の装備として開発されたという設定にしてあります。『サンシャイン』とクロスさせた上に『クウガ』まで交えるとややこしいので………。

 実は本作は前作の『ラブライブ! feat.仮面ライダー555』と同じ世界観という設定で、未確認生命体はオルフェノクということを考えていました。ですが前作の結末の形から実現は難しいのでその設定もカットしました。繋がりを持たせたとしても前作のキャラクターを登場させる予定はありませんので、あくまで裏設定です。


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第2話

 今回は機能に挑戦してみました。




   1

 

 どうすればスクールアイドルの魅力を分かってくれるんだろう。

 バスで曜と別れて、千歌はとぼとぼ、と重い足取りで十千万に帰宅した。今日は何度梨子からの「ごめんなさい」を聞いたことか。もう、スクールアイドルがどうとか以前に意地からの「ごめんなさい」に思えてくる。もっとも、それは千歌も同じではあるのだけど。

「ただいまあ」

 「お帰り」という志満の声が台所から聞こえてくる。いつもなら、台所からの「お帰り」は翔一だ。台所を覗くと志満が夕飯の煮物を炊いているところだった。千歌は尋ねる。

「翔一くんはまだ寝てるの?」

「起きてるけど、元気無いみたい。変なのは昨日からかしらね。夕飯の前に急に飛び出して」

 昨日、翔一がバイクで十千万を飛び出したのは千歌も目撃している。あの後、千歌が美渡、志満と3人で夕飯を済ませてしばらくした後に翔一は帰ってきた。その時に千歌は自室にいたから見ていないのだが、志満と美渡によると翔一はとても怯えた顔をしていたらしい。残しておいた夕飯を断り、翔一は部屋に籠ってしまった。今朝も千歌のほうが早く起床して、登校の時間になっても翔一は起きてこなかった。だから今日は翔一の顔をまだ見ていない。

 そういえば、と千歌は思い出す。梨子を勧誘することが最優先だったから気にも留めなかったが、昨夜に沼津港で爆発事故が起こったらしい。警察が捜査中とのことでまだ詳しいことは分からないが。もっとも、それに翔一が関係しているとも思えない。翔一は犯罪に手を染めるような人間じゃない。

「いまどこにいるのかな?」

「多分、畑にいると思うわ」

 「ちょっと様子見てくる」と言って千歌は裏口に向かった。畑を覗くと、うずくまった翔一の小さく縮こまった背中が見える。指先で深緑に色付いたほうれん草の葉をつつく翔一の背中に、千歌はおそるおそる声をかける。

「翔一くん」

 翔一は何も応じない。普段なら、呼べば「千歌ちゃん」と笑みを返してくれるのに。千歌は翔一の隣にしゃがみ込んで、その横顔を見つめる。傍から見ればほうれん草を眺めているようだが、翔一の目には何も映っていないことが分かる。ただ見つめる虚無が顔面に転写されたように、翔一の表情は何も浮かべていない。

「ねえ、昨日の夜に何があったの? 翔一くんの過去と関係あること? 何か思い出したの?」

 質問を重ねた直後にしまった、と千歌は思った。記憶を取り戻したとしてもこの表情だ。あまり良い記憶とは思えない。

「全然、何も」

 翔一は弱々しく応える。無神経な質問だとは理解している。でも、ここまで来たら後に引けない。まだ出会って1年半の仲でも、千歌にとって翔一は家族と言っていい。兄のような存在である翔一が悩んでいるのなら、寄り添わなければ。

「本当のこと言ってよ。何聞いても驚かないから」

「本当だって。別に何か思い出したわけじゃないよ」

「じゃあ、何で落ち込んでるの?」

 翔一はちらり、と千歌のほうを向いた。ほうれん草へ視線を戻し、葉の輪郭を指でなぞった後に答える。

「過去のことじゃなくて、これからのことだよ。どうやって生きていけば良いか分からなくてさ」

 意外な答えだった。記憶喪失に不自由を感じない翔一は、常に前を見て生きているものだと思っていた。不安とは過去の失敗や挫折から訪れる。翔一にはその「過去」の記憶がない。だからこそ不安なく日々を送り、立ち止まることなく歩いて行けるものだと。

「何か、翔一くんらしくないね」

 「何だよそれ」と翔一は少し苛立ったように、

「俺らしくない、ってどういうこと? 俺だって俺のことが分からないのに、千歌ちゃんに何が分かるっていうんだよ?」

 千歌はどう答えたらいいか分からない。翔一のこんな鬱屈とした顔を見るのは初めてのことで、過去が一切分からない翔一がこういう人間、と何故断言できるのか。

 答えあぐねているうちに「千歌」と後ろから聞こえてくる。振り返ると美渡が手招きしていて、千歌は背中を丸めた翔一を置いて次姉のあとを着いていく。居間に入ると志満が神妙そうな顔で待っていた。「どうしたの?」と訊いておきながら、既に千歌には翔一のことだと分かる。予想通り、志満は「翔一君のことなんだけど――」と切り出した。

「家事ノイローゼじゃないかと思うの」

 「家事ノイローゼ?」と千歌は反芻する。「ええ」と志満は続ける。

「私たち、家事は全部翔一君に任せてきたでしょ?」

 志満は十千万、美渡は会社、千歌が学校、と家族それぞれが普段から旅館の居住スペースにいるわけじゃない。翔一が何もしないのは悪い、と自ら名乗りをあげたのを良いことに訳あって両親不在な高海家の炊事、洗濯、掃除と家事全般を頼ってきたのは事実だ。

「それで翔一くん落ち込んでるの?」

 大学で心理学を専攻していた志満は精神疾患に関して一般以上の知識は持ち合わせているが、千歌にはどうにも的外れに思える。志満は頷き、

「翔一君の症状は、抑圧された人が発症する典型的なものだから」

「美渡姉が日曜日の夕方に仕事行きたくないー、て言うのと同じ?」

 「おい」と美渡は声に険を込めて千歌を睨んだ。次姉との皮肉の言い合いなんて幼い頃から繰り返してきたから今更喧嘩になんてならず、千歌は知らんぷりを決め込む。妹ふたりのよくある光景に志満は苦笑し、

「とにかく翔一君の負担を減らすために、私たちで家事を分担しましょう。掃除は美渡、洗濯は千歌ちゃん、料理は私がやるわ」

 「しょうがないかあ」と美渡は溜め息をついた。千歌も面倒臭いとは思うけど、洗濯機の使い方ぐらいは分かるから問題はない。それに、それで翔一がまたいつもの笑顔を戻せるのなら異論はなかった。

 

 

   2

 

 昼休みの校舎はとても賑やかだった。女子しかいない校舎の各所には少女特有の甲高い声が重なっている。生徒たちが談笑するなりボール遊びをしている中庭の一画で、「ワンツー、ワンツー」と曜は千歌と並んでステップを踏む。スクールアイドルたるものダンス練習も必要だ。とはいえ練習は自己流ではあるけど。

「翔一さんも落ち込むことってあるんだねえ」

 ステップを踏みながら、曜は奇妙な感慨を覚える。千歌から聞いた翔一の家事ノイローゼ。十千万を訪れた曜に笑顔で料理を振る舞ってくれた翔一もストレスを感じることがあるとは意外だ。

「どうやって生きていけばいいか分からない、って翔一くん言っていたんだ。何て言ってあげれば良かったんだろう」

 千歌の疑問の正解を曜は見出せない。結局のところ、翔一の問題は本人にしか解決できないことだ。記憶喪失の彼から世界がどう見えて、過去なき翔一のこれからに対する不安の大きさは想像もできない。まだ高校生という若さから曜にも将来に漠然とした不安はあるが、それほど深刻には考えていない。

「記憶を思い出したら、不安もなくなるかもしれないよ」

 曜はそう言うしかできない。もっとも、翔一は記憶を取り戻すことにあまり積極的ではないそうだから、彼にとって最善なのかは分からないが。少なくとも、過去の職歴や学歴を思い出せば、何かやりたいことを見出せるのかもしれない。

 「そういえば――」と曜は話題を変える。翔一のことは、本人には悪いが力になれそうにない。

「勧誘、また駄目だったの?」

 「うん」と応えた千歌の声が、少しだけ明るくなったような気がする。

「でも、あと1歩あとひと押し、って感じかな」

 「本当かなあ………」と曜は苦笑する。梨子を誘う場には曜も立ち会っているのだが、ここ数日の間に梨子からの「ごめんなさい」は全く変化がない。

 ひとまず休憩ということで、曜はスマートフォンで流していた音楽を止める。ベンチに腰掛け、千歌から勧誘の経過を聞いてみる。

「だって最初は――」

 と始めた千歌は顔に苦笑を浮かべ頭を下げながら、

「ごめんなさい!」

 「だったのが最近は――」と今度は目を細めて迷惑そうな顔をしながらぼそりと、

「………ごめんなさい

 「――になってきたし!」と千歌は胸の前で拳を握る。「嫌がってるとしか思えないんだけど」と苦笑を漏らす曜に「大丈夫、いざとなったら――」と千歌は音楽の教科書を示す。

「何とかするし!」

「それは、あんまり考えないほうが良いかもしれない………」

 素人から作曲なんて、何年かかるのやら。自分たちが高校生でいられるのは残り2年だというのに。

「それより、曜ちゃんのほうは?」

 千歌がそう訊いてきて、曜は両手を合わせて表情を明るくさせる。既にこちらの作業は完了している。待ってました、というように曜は応える。

「描いてきたよ」

 

 中庭から教室に移って、千歌は曜の成果をまじまじと見つめる。思わず「おお……」と声が漏れた。

「どう?」

 自信ありげに曜はスケッチブックに描かれたイラストを見せた。手先が器用で何でもそつなくこなせるから、曜には衣装のデザインを頼んでおいた。絵が上手いことは知ってのことだからその点の称賛は省くことにする。それを抜きにしても、曜のデザイン画は息を呑む出来だ。

 何せ、紙面に色鉛筆でポップに描かれたのは船員服を着て笛を吹く千歌なのだから。

「凄いね。でも衣装というより制服に近いような………」

 紺色のダブルジャケットに制帽。シンプルといえば聞こえが良いのだがアイドルとして考えると飾り気がない。そもそもアイドルなのにスラックスとは。

「スカートとか、無いの?」

 千歌が訊くと曜は「あるよ」とページを捲る。2枚目のイラストに描かれた千歌は女性警察官の制服で敬礼をしている。確かにスカートを穿いているのだが、そのスカートも装飾品が全くない。

「いや、これも衣装っていうか………。もうちょっと、こう可愛いのは?」

 「だったらこれかな」と曜はまたページを捲る。見た瞬間に「武器持っちゃった」と声に出した通り、紙の中で迷彩柄の野戦服を着た千歌がロケットランチャーを構えている。

「可愛いよねえ」

「可愛くないよ、むしろ怖いよ!」

 指摘が腑に落ちないようで、曜は首をかしげる。これではただのコスプレだ。曜が制服マニアということは知っていたがここまでとは。

「もう、もっと可愛いスクールアイドルっぽい服だよ」

「と思ってそれも描いてみたよ」

 また曜がページを捲ると、紙面にはフリルやリボンで装飾されたオレンジ色のワンピースを着た千歌が描かれている。

「うわあ、凄い。キラキラしてる」

 まさにアイドルな、千歌がイメージしていた衣装だ。「でしょう?」と得意げに言う曜に訊く。

「こんな衣装作れるの?」

「うん、勿論。何とかなる!」

「本当? よーし、挫けてるわけにはいかない!」

 

 準備は着実に進んでいる。決してつまずいているわけじゃない。そんな勢いを保ち部設立の申請も通るのではないか、ということで生徒会室を訪ねたのだが、

「お断りしますわ!」

 ダイヤは明確に撥ねつける。「こっちも⁉」と声をあげる千歌の横で曜は「やっぱり」と苦笑する。一応止めはしたのだが、熱中した千歌を止める術はなかった。未だ部員の欄に千歌と曜の名前しかない申請書をダイヤは苛立たし気に指でつつき、

「5人必要だと言ったはずです。それ以前に、作曲はどうなったのです?」

 「それは……、多分、いずれ、きっと………」としどろもどろに言葉を稼ぎ、ようやく千歌は告げる。

「可能性は無限大!」

 ああ、これは怒られる。曜は思ったのだがダイヤは無言で冷たい視線をこちらにくべる。「で、でも……」とおそるおそる千歌はゆっくりと切り出す。言葉を選んでいるように見えた。

「最初は3人しかいなくて大変だったんですよね、ユーズも」

 グループの名前が千歌の口からでたとき、ダイヤの眉がぴくり、と動いた気がした。それを捉えた曜は切り揃えられた前髪の奥にある目元を注視する。ダイヤの肩がわなわなと震えていることに気付かない千歌は「知りませんか?」と、

「第2回ラブライブ優勝。音ノ木坂学院スクールアイドル、ユーズ!」

 ダイヤは立ち上がり、窓の外へと向く。

 ユーズとは千歌の憧れるスクールアイドルのグループ名だ。第2回ラブライブで当時の人気グループだったA-RISE(アライズ)を破り優勝。優勝後も海外でのライブ開催で後の活動が期待されていたが、3年生メンバーの高校卒業と同時にグループの活動終了を表明。惜しまれつつも多くのスクールアイドルと共に秋葉原での路上ライブを開催し、その盛況ぶりは「スクールアイドル」というジャンルの普及と、以降のアキバドームでのラブライブ開催に大きく貢献したという。

「それはもしかして、μ’s(ミューズ)のことを言っているのではありませんですわよね?」

 ダイヤは背中越しに冷たく問う。曜は千歌と顔を見合わせ、同時に唾と共に恐怖を飲み込もうとする。当然恐怖なんて腹に収まらず、おそるおそる千歌は訊いた。

「あ、もしかしてあれってミューズ、って読むんで――」

 

「お黙らっしゃああああああい‼」

 

 あまりの剣幕に千歌は壁際まで追いやられる。

「言うに事欠いて名前を間違えるですって?」

 「はああ?」とダイヤは千歌に迫る。ユーズ、もといμ’s(ミューズ)について曜が知っていることは千歌から聞いた話が主だったから、読みの間違えに気付かなかった。まさかファンである千歌が間違えるだなんて思ってもみなかった。

 ダイヤは早口にまくし立てた。

「μ’sはスクールアイドル達にとって伝説、聖域、聖典、宇宙にも等しき生命の源ですわよ。その名前を間違えるとは。片腹痛いですわ」

 「ち、近くないですか………?」と眼前にまで迫られた千歌は困惑気味に状況を指摘すると、ダイヤは「ふん」と鼻を鳴らし一旦顔を離す。

「その浅い知識だと、たまたま見つけたから軽い気持ちで真似をしてみようと思ったのですね」

 「そんなこと――」と千歌は反論しようとする。「ならば」とダイヤは遮った。

「μ’sが最初に9人で歌った曲、答えられますか?」

 「え、えっと………」と口ごもる千歌にダイヤは再び顔を至近距離にまで近づけ、

「ぶー、ですわ!」

 顔を離したダイヤを、千歌は口を半開きにしたまま見つめている。曜もダイヤを制止させることもできず、ただ彼女の口から出るμ’sの軌跡を聞いていることしかできない。

「僕らのLIVE君とのLIFE、通称ぼららら。次、第2回ラブライブ予選でμ’sがA-RISEと一緒にステージに選んだ場所は?」

 「ステージ?」と漏らす千歌を一瞥したダイヤは「ぶっぶー、ですわ!」と長い黒髪を振り乱して言った後に正解を告げる。

「秋葉原UTX屋上。あの伝説といわれるA-RISEとの予選ですわ。次、第2回ラブライブ決勝。μ’sがアンコールで歌った曲は――」

 「知ってる!」と千歌は挙手して答える。

「僕らは今のなかで」

 しかしダイヤは不敵な笑みを向けて「ですが」と、

「曲の冒頭をスキップしている4名は誰?」

 そんなマニアックな質問、ファンでも答えられるのはかなりコアな層に限られるのではないだろうか。「ええええ⁉」と意地悪な問いに文句を言いそうになった千歌にダイヤは三度迫り、

「ぶっぶっぶー、ですわ!」

 その声が部屋に備え付けられたスピーカーから聞こえてくる。生徒会室は放送室も兼ねているから音響機器が備え付けられている。千歌が丁度背を預けているのがその機器で、迫られたとき手をかけた拍子に起動させてしまったらしい。放送は校舎全域に及ぶ。音量が最大なら学校近隣にも聞こえるほどだ。だがダイヤは自分の声が全校生徒に聞こえていることに気付いていないらしく、答えを告げる。

絢瀬絵里(あやせえり)東條希(とうじょうのぞみ)星空凛(ほしぞらりん)西木野真姫(にしきのまき)。こんなの基本中の基本ですわよ」

 「す、すごい……」と曜は呟いた。続けて千歌が「生徒会長、もしかしてμ’sのファン?」と。するとダイヤは得意げに口角を上げて、

「当たり前ですわ。わたくしを誰だと――」

 そこでダイヤは言葉を飲み込み「一般教養ですわ一般教養」と強調する。

「へえー」

 曜は千歌と共に細めた視線を向ける。ファンにとっては一般教養に等しい常識、という意味ですか、と不敵な眼差しで問いてみる。たじろいだダイヤは「と、とにかく」と真一文字に結んでいた口を開いた。自分の声がハウリングして放送されていることにも気づかないまま。

「スクールアイドル部は認めません!」

 

 





 μ’sの活躍については原作『ラブライブ!』無印か私が以前投稿していた『ラブライブ! feat.仮面ライダー555』にてどうぞ。

 はい宣伝です。申し訳ございません。補足しておきますと原作『ラブライブ! サンシャイン‼』はμ’sを知らなくても内容を理解できるので予習は必要ありません。『サンシャイン』はAqoursの物語なので。


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第3話

   1

 

 その死体が発見されたのは、沼津市の市街から少しばかり離れた住宅街の一画だった。数カ月前に新居住宅の建設現場で縄文時代のものらしき土器の破片が見つかり、工事は中止。研究チームが発掘作業で土を掘っている最中に、土器ではなく人間の死体が掘り出されたらしい。

「死体が発見されたのは縄文時代の地層からだ。しかも掘って死体を埋めた形跡もない」

 誠と同じく本庁から派遣された河野(こうの)が、死体を収めた寝袋に似た収納袋を見下ろしながら説明してくれる。

 平日の昼間だというのに、現場の周辺は野次馬が集まっていた。立ち入り禁止の黄色いテープの前で、巡査たちがメディアの記者たちに入らないよう絶え間なく呼びかけている。無理矢理入ろうとした一般人がいたらしく、スマートフォンを手にした若者を巡査が数人がかりで怒号を飛ばしながら取り押さえていた。別の場所では立ち入りはしなくても、近所の主婦たちが不安そうにこちらを眺めている。関心があるのも当然だ。1週間も経たずにまた同市内で殺人事件が起こったのだから。

「前回の樹の中の死体と同様、これも人間の仕業じゃないな」

 河野は誠に視線を移し、そう言った。飄々とした口調だが、戸惑いを隠しきれていないと表情で分かる。刑事歴20年を越えるベテランの彼でも、このような奇怪な事件は今まで担当したことがないという。河野だけでなく、日本警察全体にとっても初めての事件だろう。

 誠は「ええ」と応じ、

「犯人がアンノウンだとすると、次にまた被害者の親族が狙われる可能性があります」

 樹の中に埋められた佐伯一家殺害事件。同じく犯人がアンノウンならば、また一家全員が殺害されると考えるのが妥当だ。だとしても、誠が遭遇しG3を起動不可までに追い込んだアンノウンは、「アギト」によって倒された。アンノウンは1体だけではない。この事件が本当に人間によるものではないとしたら、その可能性は高まる。

 「えーと」と河野は手帳のページを捲る。

「両親を3年前に事故で亡くし、弟がいるが別々に暮らしていたようだ」

「では、弟さんに護衛を付けるよう手配をお願いできますか?」

 「おう」と河野は何気なしに応じる。警視庁上層部でも、アンノウンの存在には懐疑的な見方が大きい。静岡県警もいるかも分からない敵のために人員を割くことはしないだろうから、きっと護衛は誠たち本庁から来た刑事に役が回ってくるだろう。

 「どいて下さい」と不機嫌そうに鑑識たちが死体袋へと集まってくる。やれやれ、という溜め息を吐く河野に続いて誠も傍から離れる。鑑識たちが運んでいく死体袋を誠は眺めた。殺人事件としては不可思議な点が多すぎる。捜査を難航させるために、死体から身元を特定させるようなものは犯人によって持ち去られるのが定石だ。今回の被害者の身元や家族構成がすぐに特定できたのは、死体の衣服から運転免許証や所持金がしっかりと残った財布が発見されたからだ。隠蔽工作においてそんな初歩的なミスをするのは、犯人がよほど慌てていたか、被害者と何の接点もない通り魔的な犯行か。

「被害者の住所、教えてもらえますか?」

「おお、それは構わんが何を調べる?」

「犯人がアンノウンだとしたら、どうしても無作為に人を殺していると思えないんです。被害者たちの間に何か共通点が見つかれば、未然に被害を防ぐことができるかもしれません」

 

 

   2

 

「前途多難すぎるよお………」

 浦の星女学院前のバス停近くで千歌はがくり、と頭を垂れた。校舎の建つ丘を下ると駿河湾に面した道路に出て淡島がよく見える。バスを待つ間、こうして道路の淵に並んで腰掛けて海を眺めるのも良い。

「じゃあ、やめる?」

 曜がそう言うと「やめない!」と千歌は即答する。口を真一文字に結ぶその真剣な表情を見て、曜は「だよね」と頬を(ほころ)ばせた。

 「ん?」と千歌は視界に何か入り込んだのか、バス停へと顔を向けた。曜も千歌の視線をなぞる。

「あ、花丸ちゃん!」

 「おーい」と手を振る千歌の視線の先で、花丸が微笑と共に「こんにちは」と慎ましく返してくれる。「はあ、やっぱり可愛い」と千歌は呟いた。だがすぐに目を細めて、花丸のすぐ近くにあるシュロの樹をじ、と睨む。曜も目を凝らしてみると、シュロの太い幹から纏められた髪がひと房はみ出ているのが見えた。

「あ、ルビィちゃんもいるー!」

 千歌は嬉しそうに言うと、鞄から出した棒つきキャンディーの包装袋を解いて立ち上がる。ルビィの隠れているシュロの樹へ近付き、「ほーらほら怖くなーい」と小さな子供に呼びかけるように飴を振ると、幹の陰から怯えた目をしたルビィが半分だけ顔を覗かせる。

「食べる?」

 千歌が穏やかに差し出すと、ルビィは少しだけ緊張した表情を緩めて飴を取ろうとする。袖から半分だけ出した手が飴に届こうとした直前で、千歌は飴を僅かに引っ込めた。ルビィはこの手の挑発に乗りやすいらしく、樹の陰から出てきて飴を取ろうと再び手を伸ばす。届こうとしたところでまた千歌が引っ込め、「ルールルルー」とまるで羊でも呼ぶようにハミングしながらその応酬を繰り返す。

 「とりゃあっ!」と千歌は真上へと飴を投げた。宙を舞う飴に気を取られたルビィに、好機とばかりに千歌は「捕まえた!」と抱き着く。逃れようとばたばた、と両手を暴れさせるルビィの口に落下してきた飴が収まり、驚いたルビィは動きを止めた。

 丁度、そこへ沼津駅行きのバスが到着した。

 

 バスの乗客は千歌たち意外誰もいない。浦の星の生徒たちの多くは部活、1年生は部の見学でまだ校内に残っているのだろう。曜と最後尾の座席についた千歌は、ひとつ前の席につく後輩ふたりに早速と言う。

「ふたりとも、スクールアイドルやらない?」

 直球だなあ、と思いながら曜は特に口を出さずに見守ることにした。一緒にやれる仲間が増えるのは、千歌のみならず曜にとっても嬉しい。

「スクールアイドル?」

 そのコンテンツを知らないのか、花丸が反芻する。「すっごく楽しいよ、興味ない?」と千歌が訊くと、花丸は申し訳なさそうに、

「いえ、マルは図書委員の仕事があるずら」

 「いや、あるし………」と花丸は最後を訂正する。「ずら」は確か静岡の方言だ。今時方言を使うのは祖父母の世代くらいだから、花丸の家は3世代で同居しているのかもしれない。

 「そっか、ルビィちゃんは?」と千歌が振ると、所在なさげに飴を舐めていたルビィは「あ、う……」としどろもどろに小声で答える。

「ルビィはその……、お姉ちゃんが………」

 「お姉ちゃん?」と千歌が訊くと、本人の代わりに花丸が答えてくれた。

「ルビィちゃんはダイヤさんの妹ずら」

 「え、あの生徒会長の?」と千歌は上ずった声をあげた。曜も初耳だった。あまり似ていない姉妹だ。ダイヤは堂々としている反面、ルビィは天敵に怯える小動物のようにおどおどしている。

「何でか嫌いみたいだもんね、スクールアイドル」

 曜は何気なしに言う。ルビィは「はい……」と消え入りそうに応じた。妹だったら何でダイヤがスクールアイドルを毛嫌いしているのか知っていそうだが、それはこの場で訊くべきことじゃない、と思った。この人見知りな少女は、出会って間もない自分たちに踏み込んだ話をしてくれそうにない。

 それに、本当にダイヤがスクールアイドルを嫌っているのかも怪しい。あんなにμ’sについて詳しいのに、どうして認めようとしないのか。古風な家柄の娘という意識故のものなのだろうか。

「今は曲作りを先に考えたほうが良いかも。何か変わるかもしれないし」

 曜は直面している課題を提示する。「そうだねえ」と千歌は気の抜けた返事をした。次に思い出したように、

「花丸ちゃんはどこで降りるの?」

「今日は沼津までノートを届けに行くところで」

 「ノート?」と千歌は訊いた。花丸は「はい」と相槌を打って、「実は説明会の日――」と事情を説明する。

 

 説明会で1年生は教科書の配布と在籍している間のカリキュラムについての説明。そしてクラスでの自己紹介と進んでいた。今年度、浦の星女学院の新入生は1クラスに収まる程度の人数で、必然的に同じ面子で高校生活を過ごすことになる。他の生徒たちは自分の名前と、他には趣味や中学時代に所属していた部という当たり障りのない自己紹介をしたのだが、ひとりだけ一線を画す同級生がいた。

 その同級生、津島善子(つしまよしこ)の自己紹介はこうだった。

「堕天使ヨハネと契約して、あなたもわたしのリトルデーモンに、なってみない?」

 どこか挑発的とも取れる不敵な眼差しをクラス全域に向けたのだが、生徒たちはもとより、担任教師ですら言葉を失った。花丸にとっては幼稚園の頃と変わらない言動だったから特に思うことはなかったのだが、当人は生徒たちから放射される不穏さを感じ取ったのか、教室から出たきり戻ってくることはなかった。

 結局その日は放置された善子の鞄を花丸が届けに行ったのだが、対応してくれたのは母親で彼女の顔を見ることはなかった。

 

「それっきり、学校に来なくなったずら」

 花丸はそう締め括る。「そうなんだ」としか曜は言葉を見つけることができなかった。千歌も苦笑するしかなくなっている。

 今年の1年生は濃いなあ、と曜は思った。

 

 

   3

 

 夕陽を反射した海面が、太陽への道を形作るように光の道を波打ち際まで伸ばしている。この道を辿ったらどこへ行くのかな、とぼんやり眺めながら梨子は思った。当然そこは海面だ。足を踏み入れれば沈むし、太陽めがけて泳いだとしても延々と海が続くだけ。水平線の彼方なんてものは存在しない。水平線は続き、この地球を1周するだけで完結する。

「桜内さーん!」

 後方から溌剌とした声が聞こえてくる。またか、と梨子は溜め息をついた。またスクールアイドルについて延々と聞かされるのか。そう憂鬱になっている間に砂浜を踏む足音は近付いてきて、

「まさか、また海入ろうとしてる?」

 予想の斜め上で、千歌は梨子のスカートを捲って覗き込んできた。「してないです!」と咄嗟にスカートをおさえる。「良かった」と呑気に言う千歌に顔を向けることなく、露骨に迷惑と声に乗せながら梨子は言う。

「あのねえ、こんなところまで追いかけてきても、答えは変わらないわよ」

 「え?」と千歌は漏らし、「違う違う、通りかかっただけ」と笑った。

「そういえば、海の音聴くことはできた?」

 千歌の質問に、梨子は沈黙を返す。千歌を巻き込んで海に飛び込んだとき、海は何も梨子に聴かせてはくれなかった。代わりとして冷たい海水で梨子を包み込んで、冷たさを刺すような痛みへと変えて梨子を陸へと追いやった。ピアノだけでなく、海にも拒絶されたように思えた。人生の大半を占めるピアノに続いて、地球の大半を占める海にまで拒まれるとは。

 まるで世界そのものから異物のように吐き出されたような気分だった。吐き出されても、梨子の耳は未だ世界の一部として存在できる千歌の声がはっきりと聞くことができる。

「じゃあ、今度の日曜日空いてる?」

 「どうして?」と梨子は訊いた。「お昼にここに来てよ」と千歌は答えになっていない返答をし、

「海の音、聴けるかもしれないから」

「聴けたらスクールアイドルになれ、って言うんでしょ?」

 少しだけ皮肉を込めて問うと、千歌は「うーん、だったら嬉しいけど」と腕を組む。きっと提案の根拠はそれにあったのだろう。

「その前に聴いてほしいの。歌を」

「歌?」

「梨子ちゃん、スクールアイドルのこと全然知らないんでしょ? だから知ってもらいたいの」

 「駄目?」と千歌が訊いてくる。どう答えたらいいのか、しばし考える必要があった。イエスかノーで答えられるものじゃない。逡巡を挟み、梨子は「あのね」と、

「わたし、ピアノやってる、って話したでしょ?」

「うん」

「小さい頃からずっと続けてたんだけど、最近いくらやっても上達しなくて、やる気も出なくて。それで、環境を変えてみよう、って」

 言うなれば、今の状態はスランプ。決して珍しいことじゃない。何かに打ち込んでいる人間にとって、必ずぶつかるものだろう。傍から見れば何のことでもないのかもしれない。でも梨子にとって、幼い頃からずっと上達し続けてきた演奏に変化が無いのは恐怖意外の何者でもない。傷ついたレコードが何度も同じ部分をリピートし続けるように、梨子の指は同じ音を反復している。

「海の音を聴ければ、何かが変わるのかな、って」

 梨子は目の前に両手をかざした。ピアノを弾くように、でも鍵盤に触れることができない手を。

「変わるよ、きっと」

 穏やかに言って、千歌が両手を握ってくる。笑みを浮かべる彼女に梨子は撥ねつけるように言った。

「簡単に言わないでよ」

 あなたに何が分かるの、と眼差しで訴える。汲み取っているのかそうでないのか、千歌は笑みを崩さない。

「分かってるよ。でも、そんな気がする」

 真っ直ぐな瞳だった。澄み切っていて、迷いのない。常に前進している者こそができる瞳に、思わず梨子はふ、と笑みを零してしまう。

「変な人ね、本当」

 結局は、自分をスクールアイドルに誘うため。作曲をさせるために言っているだけ。梨子は裡で自身に言い聞かせる。断る理由もないのに一蹴するほど、梨子は薄情じゃない。でも、今は断る理由がある。

「とにかく、スクールアイドルなんかやってる暇はないの」

 「ごめんね」と手を放そうとするが、千歌は手を放してくれない。力強かったが、無理矢理、というものは感じない。その不可思議さに梨子は眉を潜め千歌の瞳を見つめる。

 千歌は言った。

「分かった。じゃあ海の音だけ聴きに行ってみようよ。スクールアイドル関係なしに」

「え?」

「なら良いでしょ?」

 それだと、あなたの目的から外れてるじゃない。思ったその言葉を梨子は喉元へ留める。屈託のない笑顔の千歌に、取引じみたことは似合わないように感じ取れる。この少女は純粋に、自分に海の音を聴いてほしいんだな、と信じることができた。こんな笑顔ができる人間は、他にどれほどいるのだろう。

「本当、変な人」

 

 

   4

 

 十千万に帰宅すると掃除機の音が聞こえてきた。高海家の居住スペースの方からだ。居間を覗くと、千歌に気付いた美渡が手にする掃除機に負けず声を張り上げる。

「遅い! 洗濯までする羽目になったじゃない!」

 文句を飛ばし、美渡はテーブルの上に置かれた洗濯籠を指さす。

「アイロンかけといてよ」

 はあ、と溜め息をつきながら千歌はひとまず鞄を置きに行こうと自室へと向かう。部屋着に着替えようか迷ったが、もたついていたら美渡がうるさそうだからすぐ居間に戻ってアイロンと台を押し入れから引っ張り出した。

 普段はやらないことでも、旅館の手伝いによく駆り出されるから洗濯やアイロンがけくらいはできる。特に苦労もなく、滞りなく済むと思っていた。

「一丁上がり、と」

 アイロン台の近くで掃除機をかけていた美渡がヘッドを振り上げた。電源がついたままのヘッドがすれ違いざまに千歌の髪を吸い込んでくる。

「うわああああっ!」

 咄嗟にアイロンから手を放し、千歌は髪をおさえる。「やばっ」と美渡はすぐ電源を切ったのだが、吸引口に絡まったせいで髪が数本抜けてしまった。

「美渡姉わざとでしょ!」

「わざとじゃないって、本当!」

 「どうしたの?」と台所で料理をしていた志満が入ってくる。指先から血が滲んでいた。

「志満姉こそ指どうしたの?」

 千歌が訊くと、「包丁で切っちゃって」とおどけたように志満は笑った。「絆創膏……」と美渡がタンスの上に置いてある薬箱へ手を伸ばしたのだが、ロックが外れていたのか取っ手を掴んだ瞬間に蓋が開いて傾いた箱から中身が盛大に零れ落ちてしまう。

 「あちゃー」と言う美渡に「もう何やってるの」と呆れながら千歌が中身の回収を手伝おうとするのだが、「ワン!」と吠えるしいたけの声にはっ、とアイロン台へと目を向ける。熱を帯びたアイロンを当てたまま放置していたシャツから火がめらめらと燃えている。

「志満姉、水水!」

 千歌が促し、志満は大慌てで台所へと戻っていく。とはいえバケツか鍋に水を張るまでに、火は範囲を広げようとしている。十千万は木造だから火の手なんて一気に広まって全焼してしまう。千歌と美渡が特に対処法も考えないままアイロンへと駆けだしたとき、居間に入ってきた翔一が服に毛布を被せた。

 千歌と美渡の動きが止まる。翔一が2、3度毛布を押し付けた後に捲ると、火は消えていた。水を張ったボウルを手にした志満が戻ってくるが、お役御免になったボウルをどうしたものか手に持ったまま翔一を見つめている。

 アイロンを焦げたシャツから放し、翔一はいつものあっけらかんとした表情で言った。

「もういい、俺がやろう」

 

 アイロンがけ、掃除、しいたけの世話、夕飯の下ごしらえ。翔一がそれらを全てこなすのに2時間もかからなかった。

 霧吹きの水で湿らせた衣類に翔一は焦げ目を落としたアイロンを当てて、すう、と生地に滑らせるとしわが一気に消えた。美渡が吸い残した隅のゴミや埃をすぐさま発見し、すぐさま美渡と千歌の部屋の埃も全て吸い取った。しいたけにブラシをかけると毛に艶が出て、気持ちよかったのかしいたけはすやすやと小屋の中で眠りについた。台所では志満がかつお節から味噌汁の出汁を取っている間、翔一は薄く切った豚肉に醤油ベースの合わせ調味料と絞った生姜汁で下味をつけた。今日の献立は生姜焼きらしい。

 全ての作業が滞りなく、見事な手際でなされた。その反面で千歌と美渡の容量の悪さが明るみになったわけだが。

 諸々のことが落ち着いても翔一は休もうとせず、裏庭の畑でほうれん草を摘み始めた。ハサミで摘み取った深緑の葉をザルに乗せる翔一はとても上機嫌で、鼻歌まで歌っている。

「良かった、元気になって」

 しばらくほうれん草が食卓に並ぶのかな、と一抹の不安を抱きながらも千歌は安心していた。「そう? 別に普通だけど」と返す翔一の隣に千歌はしゃがみ込む。

「心配したんだよ。ずーっと落ち込んでて」

「ああ、あれ忘れていいから」

 「もう」と千歌は口を尖らせる。翔一はそんな千歌に笑みを向けた。いつもの翔一の笑顔だ。

「何かちょっと自信ついた、っていうかさ。さっき家の仕事してて俺思ったんだよね。こう、自分のいるべき場所があるって良いな、って」

 「いるべき、場所?」と千歌は反芻する。「うん」と翔一は頷き、

「俺だけじゃなくて、志満さんにも美渡にも千歌ちゃんにもあるだろ、自分の場所がさ」

 千歌は翔一の顔を見つめた。十千万は確かに千歌の生まれ育った、千歌のいるべき場所だ。翔一はその場所が分からない。どこで生まれ、どこで育ったのか、一切の記憶を失っている翔一には。

「そういうのって誰にでもあるんだよきっと。で、皆自分の場所にいるときが1番幸せなんだと思う。だから――」

 そこで翔一は言葉を詰まらせる。「だから、何?」と千歌が促すと、翔一は照れ臭そうに言った。

「そういう皆の場所を、俺が守れたらいいな、って」

 明るい翔一の表情は、裏腹に千歌に寂しさを覚えさせた。皆それぞれに、自分の居場所がある。それは居場所を知らない翔一だからこそ俯瞰(ふかん)できる言葉なのかもしれない。それを守るだなんて、家事をこなしてばかりの毎日を送る翔一には大仰なことだ。それに、皆の居場所を守ろうとする翔一自身の居場所はどこにあるのだろう。

 裡の寂しさを出すまいと、千歌は笑みを返して翔一の手を引きながら立ち上がる。

「じゃあ早く晩御飯作って。もうお腹ぺこぺこだよお」

 

 



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第4話

   1

 

「これがどうしたっていうんです?」

 Gトレーラーのカーゴで、誠から受け取った空の瓶を眺めながら尾室が訊いてくる。この空瓶は今朝発見された被害者の住んでいたアパートから、誠が回収してきたものだ。結論から述べれば、被害者はごくありふれた独身男性だった。六畳一間の部屋で、散らかっているというほどではないにしろ物の整理が多少杜撰(ずさん)な。釣りが趣味だったらしく、壁には魚拓が飾られ押し入れには釣り道具が収納されていた。そんなどこにでもいる市民の居室で、この瓶は危うく見落としてしまいそうなほど自然に、窓際の棚の上に佇んでいた。誠以外の刑事が捜査していたら、銭湯へ行った際に買った牛乳瓶として見向きもしなかっただろう。でも誠はその瓶から見出した。

 被害者の間に繋がる共通点の、その一端としての価値を。

「ちょっと見せて」

 尾室から瓶を受け取った小沢が、ガラスの容器を振ってみる。カチャカチャ、と軽い音がして、底を見ると100円硬貨が縁日の屋台で売られているラムネのビー玉のように収まっている。

「なるほど、言いたいことは分かるわ」

 流石は小沢だ。これだけで誠の意図を汲み取ってくれるとは。「何がですか?」と未だに飲み込めていない様子の尾室に、小沢はすぐに答えず財布から100円硬貨を出して瓶の飲み口に当てる。硬貨は飲み口よりも大きい。

「ほら、入らないでしょ100円玉が」

 尾室も硬貨を瓶に入れようとする。角度を変えても硬貨は飲み口から入らない。これを持ち込んできた理由を、質問という形で誠は告げる。

「一体、どうやって被害者は100円玉を瓶の中に入れたんでしょう?」

 「何かのマジックじゃないんですか?」と尾室が言う。確かに、普通はそう考える。「じゃあ、これはどうです?」と誠はポケットから出した写真を見せる。佐伯信彦と、既に埋め立てられたはずの沼を写した写真を。

「今では存在しない10年前の場所に、つい先日殺された被害者が写っています。確かに単なる合成写真かもしれない。でもそうじゃないとしたら、何の種もないとしたら――」

 「普通じゃあり得ませんね」と尾室が引き継ぐ。その言葉を誠は待っていた。

「普通じゃなかったとしたらどうです。被害者たちが」

「何が言いたいんですか?」

 そう訊いてすぐ、尾室は何かを悟ったように「まさか――」と誠を見据える。「ええ」と誠は頷いた。こんな推理、刑事として馬鹿げているだろう。でも、この沼津で立て続けに起こっている事件は「あり得ないこと」だらけだ。樹の中に埋められた死体。形跡を残さず地中に埋められた死体。人智を越えた未知の存在アンノウン。アンノウンを倒した「アギト」と呼ばれる存在。普通の発想で捜査しては何も進展する気配がない。

 「分かった」と小沢はスマートフォンを手にする。

「そっち方面の話に詳しい人がいるから紹介してあげる。大学時代の同期なんだけどね」

 

 

   2

 

「あなたは待機ではないんですか?」

 誠の隣を歩く北條が訊いてくる。今のG3の状況を、このエリートと期待されている若手刑事が見落とすはずもない。分かった上での皮肉だろう。

「河野さんからの指示です」

 誠が短く言い返すと、北條は露骨に不機嫌そうな顔をして護衛対象に目を向ける。河野も随分と意地悪な人員配置をしたものだが、G3が修理中の今、小沢の知り合いに会う日を待つだけの誠にできることは捜査一課と被害者遺族の護衛くらいしかない。G3ユニットのふたりに話したことを北條にも聞かせたところで、否定されて捜査協力を拒まれるのは目に見えている。

「犯人は現れるんでしょうね?」

 苛立ちを隠さず北條は訊いてくる。「ええ」と誠は意に介すことなく応え、

「佐伯家は一家全員殺されています。今回も親族が狙われるかもしれません」

「あなたの言うアンノウンに、ですか?」

「ええ」

「戯言に付き合うほど私は暇ではありませんがね」

 沼津の市街を歩く被害者の弟、本間悟(ほんまさとる)は時折後ろを歩く誠と北條へ振り返った。特に言葉を交わすことなく、うんざりと言いたげな視線をくべてくる。一応護衛のことは説明しているが、こうして行動を監視されることに対してストレスが生じることは容易に想像できる。兄を亡くしたばかりの疲弊した状況で気の毒だとは思うが、これは必要な措置だ。次の被害者になるかもしれないのだから。

 護衛に就いてから2日が経とうとしている。本間は1日目こそ家から出ず大人しくしていたのだが、まだ若い身体で何もしないことに耐えかねたのか、2日目の今日は昼を過ぎた頃から外を出歩いている。特に目的地もなく、気分転換の散歩らしい。行動の制限は特にないから好きに過ごしてくれても構わない。ただ、誠と北條も同行することが条件だが。

 本間は駅前の通りを歩いたのち、港付近の公園で脚を落ち着けた。本居宣長と勝田香月の記念碑がある公園のベンチに腰掛け、来る途中に立ち寄ったコンビニで買った缶コーヒーを啜っている。もう夕刻で、遊具のない公園で遊ぶ子供と見守る親もいない。身内を失っての虚無からか、本間は深く溜め息をついた。

 まだ外を出歩く気力があるだけましなものだ。被害者遺族に事情聴取の途中でトイレに行くと席を外されてしばらく経ったら隣室で首を吊っていた、なんて河野の若手時代の体験談のようにはならないだろう。

 誠の裡で本間への同情が湧こうとしたところで、意識が揺れる樹々に向けられる。風なんて吹いていないのに、何故揺れているのか。しかも枝ではなく、幹が。根本へ目を向けると、そこに人ならざるものが、まるで切り傷のように細い目を対象へと向けている。

「あれは………」

 アンノウンを初めて見たであろう北條が、普段の振る舞いからかけ離れた狼狽を晒している。それに対する皮肉など飛ばす間もなく、誠は駆け出した。アンノウンに気付き悲鳴をあげる本間の前に立ち、誠は人外の生命体と対峙する。前回に遭遇した個体とはかなり容姿が異なっている。人型でありながら、甲羅を背負うその姿は亀のようだ。

 ゆっくりと、だが猟奇性を感じさせる足取りでアンノウンがこちらへと歩いてくる。

「止まれ!」

 携行を許可されたM1917を構える北條が吼える。アンノウンは止まらず、北條はトリガーを引いた。銃声と共に発射された弾丸は照準を定めたアンノウンの眉間寸前で静止し、砕け散って宙に塵と消える。

「無駄です北條さん!」

 同じ現象を既に体験済みの誠は唖然と口を開いた北條へ言う。だが北條はきっ、とまなじりを吊り上げ、再びアンノウンに発砲する。アンノウンは北條のもとへ歩き出す。飛んでくる弾丸を塵と変えながら。「よせ!」と誠が飛び掛かるが、アンノウンの太い腕が誠の胸を強かに打ち付ける。肺が圧迫され、中の空気が咳として吐き出される。ようやく無駄と北條が判断したときには、既にアンノウンの手が届く範囲にまで接近を許していた。

 アンノウンの手が北條の首にかけられる。喉元を圧迫されて声が出せない北條はひゅー、と空気が漏れる音のみを吐きながら恐怖に顔を歪ませる。誠は懐から出したM1917を発砲するが牽制にもなっていない。

「逃げてください! 早く!」

 背後で腰を抜かしている本間に告げる。本間はよろよろ、と膝を笑わせながら立ち上がり、缶コーヒーを握ったまま決して平坦ではない公園の地面に足を取られながらも走り出す。

 アンノウンは対象の走り去った方向を見やる。北條の首から手を放すと、その足元の地面が波のようにうねりをあげた。まるでそこだけが沼になったように、アンノウンは足元からどろどろになった地面に体を沈めていく。駆け出した誠は、アンノウンが頭まですっぽりと隠した地面に触れてみる。何の変哲もない、硬い土の地面だった。

「北條さん、北條さん!」

 すぐさま白目を剥いて倒れている北條に呼びかけ、口元に手をかざす。息はある。酸欠で意識が混濁しただけのようだ。スマートフォンを通話モードにして耳に当てて相手の応答を待たず、

「小沢さん、アンノウンが出現しました。G3の修理のほうは」

『まだ時間が掛かるみたいね。今すぐ出動は無理だわ』

 誠は唇を噛む。何てタイミングの悪い。破裂しそうな怒りを押し留め、「分かりました、何とか対処します」とだけ言って通話を切る。ひとまず北條を安全なところへ。意識を失った北條の腕を自分の肩に回して立ち上がったところだった。

 本間の悲鳴が、公園の空気を震わせたのは。

 

 

   3

 

 バスが十千万近くの停留所に着こうとしたところで、1台のバイクがバスの前に割って入った。内浦はツーリングスポットとしてバイクの交通量も多く、法定速度をしっかりと守るバスが走り屋に追い越されるなんてよくあること。

 千歌にとって学校帰りの日常風景として意識から遠ざけることができなかったのは、そのバイクのナンバーが翔一のものだったからだ。

「あれって、翔一さんだよね?」

 隣の座席に座る曜が驚いた様子で言う。翔一は法定速度をしっかり守る性分だ。血気盛んな走り屋じゃない。

 下車ボタンを押していないにも関わらず、運転手は千歌のために停留所でバスを停車させてくれた。その気遣いに礼も告げず、千歌は走り去っていく翔一のバイクを視線で追う。

「降りないんですか?」

 運転手が言ってきた。

「出してください!」

 千歌が言うと「え?」と運転手は困惑の声をあげるが、何も追求せずにバスを発車させる。

「どうしたの、千歌ちゃん?」

「追いかけよう」

 梨子と初めて会ったときも、翔一はバイクを猛スピードで走らせていた。様子がおかしくなったのはその日の帰ってきた頃からだ。やはり、あの日に何かがあった。そして今日も何かが起こった。

 とはいえ、千歌の焦燥に反してバスは追跡に向いていない。終点の沼津駅までにはまだ停留所がいくつもあって、待っている乗客がいればバスは停車して乗せなければならない。翔一のバイクとの距離はどんどん離れていって、そう時間がかからないうちに見失ってしまう。

「翔一くん、どこ行ったんだろう?」

 焦りを口に出す千歌の隣で、曜が不意に額に手をかけた。「曜ちゃん?」と彼女の顔を覗くと、曜はうわ言のように呟く。

「港……」

「え?」

「翔一さん、港公園に行ったんだと思う」

「どうして分かるの?」

「分からないけど、何となくそんな気がする」

 つまりは直感だろうか。でも、翔一の目的地が分からない今はそれしか頼るものがない。

 千歌と曜は港付近でバスを降りた。狩野川にかかる橋を通り、遠くからでも見える水門を目指して走る。公園は水門のすぐ隣だ。曜の予感の通り、公園の敷地内にある小さな(やしろ)の傍に翔一のバイクが停まっている。「ううっ!」という呻き声が聞こえる。声の方角へ目を向けると、乱雑に植えられた樹々の合間で翔一が拾い上げた枯れ木で誰かを殴っている。一瞬人かと思ったが、翔一の枯れ木を平然と受け止めるそれは人ではなかった。まるで亀が人間のように進化を遂げたような生物だった。恐竜が絶滅した後に知的生命体として進化した種が人間ではなく爬虫類だったら、というような。

 怪物の太い手が、翔一の頬を打つ。体を半回転させてよろめいた翔一に更に追撃の一手を与え、地面に倒れた彼の首を掴むと、剛腕で持ち上げて樹の幹に押し付ける。

「何、あれ………」

 千歌と曜は咄嗟に社の陰に隠れた。助けなくちゃ、翔一くんが殺される。その思考ができても、体は未知の怪物に対する恐怖を抑えられず、千歌の脚は震えるばかりで踏み出すことができない。

 苦悶に歪む翔一の目が、かっ、と見開かれた。怪物の腹に蹴りを入れ、体から突き放す。千歌は目を剥いた。翔一の腹が光を放っている。光は渦を巻き、球形を成して両端からベルトのように翔一の腰に巻き付く。

 翔一は吼えるように、

「変身!」

 怪物が拳を振り上げた。拳が自分の顔面に迫るより速く、翔一の拳が怪物の胸に打ちつけられる。怪物はよろめいた。さっき翔一に枯れ木で殴られても平然としていたというのに。脇腹に蹴りを入れる翔一のベルトが、更に強い光を放っている。光は際限なく強まり、遠くで傍観する千歌の視界を白く塗り潰すほど眩く周囲を照らした。

 一瞬で光が収まる。まだ視界に残滓がちらつくなかで、千歌は翔一の姿を捉えた。「あれって……」と声を詰まらせる曜のあとを、千歌が引き継ぐ。

「………翔一くん?」

 怪物を殴り倒したそれは、翔一の姿をしていなかった。金色の鎧を身に纏った、額から2本の角を生やした戦士だった。戦士は赤い両眼で怪物を見据える。再び襲い掛かってきた怪物の腕を戦士は掴み、そのまま背負い投げる。立ち上がろうとしたその顔面に拳を見まい、怪物の体が再び地面に伏す。

 そこで、戦士の背後で地面が盛り上がった。土をまき散らして、全く同じ姿をしたもう1体の怪物が戦士の背中に組み付いてくる。姿形はまったく同じだ。違いといえば初めから交戦していた個体は銀色の体で、新しく現れた個体は金色の体という程度。

 不意打ちと剛腕で、戦士も拘束を解けずに身を強張らせる。そこへ、起き上がった銀色がタックルをかましてきた。追撃の拳を浴びせようと腕を引いたとき、戦士は金色の拘束を振り払い銀色が拳を突き出すと同時に跳躍する。本来の標的が消えて、銀色の拳が仲間らしき金色の顔面を打ち、勢いを抑えられないまま共に倒れてしまう。

 着地した戦士は焦った素振りを見せず、2体に増えた敵へと向く。その角が開いた。まるで翼のように見えた。戦士の足元が光っている。身を屈めた戦士へ金色が駆け出した。戦士は向かってくる金色を1撃の拳でねじ伏せ、敵の背負う甲羅を踏み台にして跳躍し銀色へ右足を突き出す。銀色は背を向けた。甲羅に右足が直撃し、前のめりに数歩だけよろめく。振り返った銀色がふん、とせせら笑ったような気がした。

 戦士の角が閉じる。背後から金色が再三で向かってきた。戦士は仰向けに身を捨てて、金色の腹を足で押し上げる。巴投げの容量だった。投げ飛ばされた金色の体が銀色に衝突し、倒れると同時にどぷん、とまるで入水したかのように地面に沈んでいく。

 戦士は2体が沈んだもとへと駆け寄り、次に周囲に視線を巡らせる。殴打の音が鳴り響いていた公園に、どこか恐ろしい静寂が漂った。思い出したかのように波の音が聞こえてきて、悪夢から醒めたように千歌は錯覚してしまう。

 戦士の体が光った。変わったときと同じように光は一瞬で消えて、晴れるとそこには翔一の姿が。

 踵を返した翔一の視線が、社から顔を出した千歌の視線と交わる。翔一は視線を曜へと移し、再び千歌へと戻す。

「千歌ちゃん、曜ちゃん………」

 翔一の顔は驚愕を浮かべていた。千歌もそれは同じだった。ただし千歌のほうは驚愕と同時に、恐怖が混在している。あれほど動かなかった脚が、まるでバネのように素早く動き出した。隣にいた曜も同じように。千歌は振り返ることなく夕暮れの茜に染まった街へと全速力で駆けた。

 曜と並んで走っている間、千歌は何も考えなかった。思考する余裕もなくなった脳裏には、異形へと変わった翔一の姿だけが張り付いていた。

 

 

   4

 

「本間さん!」

 西の空が僅かに茜を残すなかで、誠の声が公園の空気へと拡散していく。北條を車へ乗せたあとすぐに戻ってきたが、先ほどの騒がしさは遥か彼方へと去っていったようだ。その静寂が誠の焦りを助長してくる。

 走れば1分もかからず一周できる公園の敷地に本間の姿は見当たらない。家に戻ったのだろうか。そう思いながら完全な夜へ沈もうとする公園を見渡し、視線が一画で留まる。

 コーヒーの缶が落ちている。いや、落ちているというより半分が地面に埋まっている。ただのポイ捨てと言ってしまえばそれまでだが、ゴミなら近所のボランティアか市の職員がすぐに拾う。誠は近付き、キノコのように突き出した缶を地面から引き抜く。

 間違いない。先ほど本間が飲んでいた銘柄と同じ、キリマンジャロの山がプリントされたブラックのコーヒー缶だった。

 

 

   5

 

 スマートフォンの時刻表示が、2時13分へと切り替わる。証明の消えた室内で、唯一の光源として液晶画面が寂しげに光を放つ。しばらく眺めているうちに液晶表示が消えた。それでも完全な暗闇にはならず、カーテンが開けられた窓から月光が射し込んでくる。今夜は満月だ。月が部屋のなかを覗き見しているように錯覚する。

「千歌ちゃん、大丈夫?」

 ベッドのなかで、声を潜めて曜が言ってくる。「うん」と弱く応じ、千歌はもぞもぞと頭を布団に埋める。

 翔一から逃げたあと、千歌は十千万に帰らず曜の家に上がり込んだ。幼い頃から知った仲だから曜の親も歓迎してくれたし、泊まることも特に何も追求してはこなかった。曜の家には何度も泊まったことがある。だから珍しいことじゃない。志満に電話したら「分かったわ」と怪しむ様子もなく了承してくれた。

 曜が顔を寄せてくる。ウェーブのかかった髪が千歌の頬を撫でた。寒くもないのに、触れている曜の肩から震えが伝わってくる。千歌が泊まらせてほしいと頼まなくても、曜の方から泊ってほしいと頼まれたかもしれない。

 恐怖を共有したところで、何の慰めにもならなかった。千歌は何度も眠りに落ちようと目を瞑った。眠れるようリラックスできることを思い浮かべた。曜と遊んだ思い出。μ’sのPV。そして翔一の顔。

 台所に立つ翔一。部屋を掃除している翔一。しいたけに餌をやる翔一。畑で野菜の種を植える翔一。

 そして、変身した翔一。

 いつか、翔一が冗談で言っていたことを思い出す。

 ――もし過去を思い出して、俺が凶悪な犯罪者だったらどうよ?――

 犯罪者よりもっと衝撃的だ。翔一のあの姿は、明らかに人間とかけ離れていた。翔一はいつ、あんな姿を持つようになったのだろう。記憶を失う前からそうだったのか。それとも記憶を失ってから、十千万で過ごしていた日々のなかでそうなったのか。だとしたら、何がきっかけなのか。

 いつも気になっていた疑問が、とても恐ろしい核心に迫ろうとしていたことのように思える。知ったら最後、いつもの日常が壊されて後戻りができないような。それでも千歌の中には疑問が鎮座し続けている。追い払おうにも、既に一端を目の当たりにした千歌を逃すまいとするように。

 

 翔一くんは、記憶を失う前はどこで何をしていたんだろう。

 翔一くんは、いつから戦っていたんだろう。

 翔一くんは、何で変身したんだろう。

 翔一くんは、何者なんだろう。

 

 



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第5話


h:hirotani 友:友人(μ’sでは凛ちゃん、Aqoursでは梨子ちゃん推しのラブライバー)

友「ふたつの原作を並行させるってさ、これ何を目指す作品なわけ?」
h「hirotaniという作者の個性を出さない作品にする」
友「………ん?」
h「つまりだ、脚色なく原作準拠のままストーリーを進めることで俺の描く物語ではなく、原作キャラ自身が描く本当の意味でのアギトとAqoursの物語にする、ということだ」
友「なるほど、分からん」

 要は原作の魅力を最大限に引き出す物語にする、と説明したら納得してくれました。




   1

 

『千歌、早く帰ってきて!』

 曜の家での朝を迎えてすぐ、美渡からその電話はかかってきた。曜の母は千歌の分の朝食も用意してくれていたのだが、それを断り千歌は曜と始発のバスに乗って十千万へ向かった。

 電話口での美渡はひどく慌てた様子だった。何が起こったのか。翔一と結び付けてしまうのは、彼のあの姿を見てしまったからだろうか。満足に眠っていないせいか思考がぼんやりとしている。曜も同じようで、千歌の隣の座席に腰掛ける曜はとても疲れているように、頭をシートに沈めている。いつもは朝から元気だというのに。他愛もない親友とのおしゃべりも今日ばかりはなく、千歌は窓の外へと目を向ける。東雲の切れ間から降り注ぐ日光に照らされた内浦湾に何隻かの漁船が見える。漁師たちも早朝の漁から戻ってきたらしい。

 千歌の予想は、翔一がらみという点では的中していた。十千万に着くと玄関先で待ちくたびれた、と喚く美渡の横で、志満が神妙そうに1枚の紙を持っている。

「いつまでも起きてこないから様子見に行ったら、部屋にこれがあって………」

 志満から受け取った紙には短く1文だけ書かれている。

 

 お世話になりました 翔一

 

「あんた、何か知らない?」

 美渡がそう訊いてくる。ううん、と千歌は答えた。昨日のことを話したところで、姉ふたりに信じてもらえる気がしなかった。曜が説得してくれるとしてもだ。千歌だって、直に目撃しなければ信じない。この世界には怪物がいて、同じく怪物のような力を持った人間がいる。それが翔一だ、なんて。

「翔一君、何か過去のことを思い出したのかしら?」

「だからって翔一が何も言わずに出てく?」

 志満と美渡が口々に言う。その後も何か憶測のようなことを続けていたが、千歌には内容が全く耳に入ってこなかった。何気なく視線を向けた壁掛けのカレンダーを見て、今日が土曜日であることに気付く。あまりにも目の前の状況を咀嚼できない故の逃避なのか、千歌はふと思い出した。

 

 そうだ、明日は海の音を聴きに行くんだった。

 

 

   2

 

 PCの画面上で、警備部長と補佐官が渋い顔つきで報告書に目を通している。先日遭遇したアンノウンについての報告。今回は誠だけでなく、共に遭遇した北條も同席している。ふう、と警備部長が溜め息をついた。君もか、と言いたげに北條を一瞥し、報告書を机に置く。

『では君も、アンノウンに遭遇したと言うのかね?』

 液晶越しに補佐官が確認するように訊いてくる。PCを前に、誠の隣に座る北條は明確に「はい」と答えた。すると老眼鏡を外した警備部長が諭すような穏やかな声で、

「ふたりとも、発言は慎重にしたまえよ。君たちの言葉には君たちの将来だけではなく、警視庁全体の在り方が懸かっている」

 G3は警視庁においてフラッグシップ的な存在だ。ただでさえ莫大な資金をかけて開発されたというのに、初陣でいきなり大破。修理のせいで第2の遭遇には出動できず犠牲者を出してしまった。しかも敵はカメラに映らない正体不明(アンノウン)。まだアンノウンの存在は公表されていない――というより、警視庁が存在を認めていないから公表しようがない――が、もし世間に知られたとしてもG3が太刀打ちできなかった、なんて事実も付随したとなっては警視庁の威厳は地に堕ちる。首都警察というブランドの株も爆下がりだ。

 君たちの首ひとつで片が付く問題ではないのだよ。警備部長はそう牽制しているようだった。

 「ですから――」と身を乗り出した誠を北條が手で制し、画面に向き直る。

「我々が未知との敵に直面しているのは疑いありません。この事実を踏まえ、早急なる対応策が必要だと思われます。まずG3システムの重要性を認識し、ユニット全体の強化、充実を図るべきです。このままだと被害者の数は増え続ける一方です。そして今、我々がアンノウンに対抗しようとするならG3システムに頼るしかありません」

 とても饒舌な北條は、警備部長も補佐官も反論を許さないという毅然とした態度だ。上層部であり、人事の采配を下す権限を持つふたりは何か言いあぐね、口を微かに開き再び閉じる。ここで頭ごなしに否定しては自らの器の矮小さを露呈させてしまうだけだ。被害者が出ている。アンノウンは否定できても、この事実だけは認めざるを得ない。不可思議な死の状況を解明できずにいる現状も。

 北條は言った。

「同システムの量産、組織化がすぐにでも必要になるでしょう」

 

 単なる聴聞会のつもりだったが、まさか収穫があるとは思ってもみなかった。完膚なきまでに否定されG3ユニットの解散まで言い渡されることを覚悟していたのだが、自分の話をまともに聞いてくれるようになるとは。嫌味な人間と思っていたが、流石は北條というべきか。本庁きっての若手エリートと期待されているだけある。

「ありがとうございました」

 署内の無機質な廊下を歩きながら、誠は隣の北條に言う。

「これで上層部のユニットに対する見方も少しは変わってくれると思います。今まで何かと、色眼鏡で見られてきましたから」

「アンノウンが現れた以上、これからはG3が警視庁を引っ張っていくことになるでしょう。装着員であるあなたは、警視庁の責任を一身に背負うことになると言っても過言ではありません」

 表情を一変もさせない北條は脚を止め、

「氷川さん、未だ起動不可能なほどG3システムを傷つけたあなたの責任は大きい」

 彼にならい脚を止めた誠に、先日の無力感が再び押し寄せてくる。地中から出てきた死体。もしG3が出動できていたら、自分が初陣でG3を激しく損傷させなければ。そんな後に立たない後悔ばかりを延々と繰り返している。

「G3が正常に機能していれば、被害者を救うことができたかもしれない。違いますか?」

「それは………」

 反論ができない。北條の言うことは悔しいが的を射ている。結局のところ、G3の戦力は装着員に頼るところが大きい。いくら装甲が頑丈で、武装がシミュレーション上で軍隊の1個小隊を制圧できるほどでも。

「G3がいかに優れていても、装着員が無能ではどうしようもない」

 そう吐き捨て、北條は廊下を歩いていく。その背中を、誠は何も告げることなく見送ることしかできなかった。

 

 

   3

 

 今日は4月の何日だっただろう。窓の外に広がる街を眺めながら、涼はそう思った。何日も部屋に閉じこもっているうちに、焼けるような熱は引いた。謎の発作は何度か起こっているが、それを除けば日常生活に支障はない。いや、支障はあるか。それを怖れて涼はこうしてアパートの自室に籠っているのだから。

 アウトドア派の涼にとって、こうして外に出ない日は今まで1度としてなかった。子供の頃は何をして遊ぶか考える前に外に飛び出していったものだ。友達の家に突然押しかけて遊びに連れ出すことなんてよくあった。家よりも外のほうが楽しい。家の中にいてばかりのインドア派の気持ちは理解しがたい。

 でも、今ならインドア派の気持ちはよく分かる。家の中なら安心できる。自分がどうなろうと、誰の目にも晒されることは無いのだから。もっとも、それは涼だけが得る安心だろう。「普通の」インドア派が家に籠るのは、読書や映画鑑賞やゲームといった趣味に没頭するためだ。何もしないわけじゃない。

 薄い壁からぎしぎし、と音が聞こえた。隣人が起床したらしい。ベッド脇に置いてあるデジタル時計を見ると9時を過ぎている。遅い目覚めだな、と思ったが、このアパートは学生向けの格安物件だ。大学生は講義の割り振りを自分でしているから、午後だけに講義を入れて午前中は睡眠なんて生活を送るのも珍しくない。練習で朝早くから通学していた涼にとって、そんな生活習慣は堕落したものでしかなかったが。

 ピンポーン、とインターホンが聞こえた。昨日は新聞の勧誘で、一昨日は生協だったか。律儀に対応するのも面倒だ。居留守を使おうとベッドに横になったところで、今度はごんごん、と強くドアを叩く音が響く。続けてドア越しにくぐもった声が。

「涼! 開けるんだ涼! いるのは分かってるんだ!」

 両野の声だ。涼は咄嗟にベッドから身を起こした。「涼!」とドアを叩きながら両野が呼んでいる。理由は何となく悟ることができる。先日部の仲間に渡した退部届の件についてだろう。両野には何も言わなかったから、わけを聞こうとするのは当然だ。

 涼は鍵を開錠し、ゆっくりとドアを開けた。

「ようやく会えたな涼」

 僅かに開いたドアを挟んで、ほっとしたように両野は告げた。顔を合わせるのは何日振りだろうか。日付を数えていないから分からない。

「どういうつもりだ? 勝手に病院抜け出して退部までしやがって。水臭いぞ、俺とお前の仲じゃないか。俺はお前のことを、身内同然だと思っているんだ」

 涼には頼れる身内がいない。母親は幼い頃に他界し、父親も訳あって今はどこにいるか分からない。そんな涼の水泳選手としての才能を高校時代の全国大会で見出してくれた両野は、大学へのスポーツ推薦や学費免除の特待生認定まで世話を焼いてくれた。実質的に両野は後見人と言っていい。涼にとって父親代わりの存在で、一番頼れる人。

 俺は俺を受け入れられない。

 でも、この人なら受け入れてくれるかもしれない――

「分かりました。コーチだけには全てをお見せします」

 そう言って涼はドアを全開にする。両野は部屋に足を踏み入れ、ドアがばたん、と金属音を鳴らして閉じられる。

 

 

   4

 

 カーゴベイの中で、ガードチェイサーは無言のまま役目が来ることを待ち続けている。大破したG3のなかで、唯一無事に済んだ装備。警視庁と提携しているメーカーの車両をベースにしているとしても、これだってG3のスペックに合わせて製造されたワンメイド品だ。このマシンだけでもどれだけの血税が費やされるのか。

「明日にはG3の修理も終わるだろうから」

 誠にコーヒーを手渡しながら小沢が言う。

「済みません。僕のせいで、G3を傷つけてしまって」

 もう何度目になるかも分からない謝罪を誠は述べる。G3の話になると決まって「済みません」という言葉が出てしまう。慰めなんて生温い言葉を向けない小沢の代わりに、努めて明るい口調で尾室が、

「それもただの修理じゃないんですよ。GM-01の弾丸もパワーアップしたし、G3システム自体その反動に耐えられるように姿勢制御ユニットを強化しているんです。まあ、見た目は変わらないけど早くもG3は生まれ変わるってことです」

 初陣でのG3はまだ試作段階の域を出なかった。これから実戦を重ねていくにつれて、更に改修を重ねていくことだろう。敵に合わせて。そして、装着員である誠に合わせて。

「装着員は、僕で良いんでしょうか?」

 カップの中で揺れるコーヒーを眺めながら、誠は呟く。「何だって?」と聞き逃さなかった小沢は声に険を込める。G3を誠の体格や戦闘時の癖に合わせて調整してくれたのは小沢だ。今までの苦労を足蹴にするような発言が気に食わなかったのだろう。誠は彼女に視線を向け、

「いや、ただG3が生まれ変わるなら、装着員も変わったほうが良いのかな、って………」

「何言ってんの? もしかして北條君に何か言われた?」

 北條のことを知っているのか。そんな疑問が沸くが、それを訊く気力もない。そもそも北條は面識がなかった頃の誠にも噂が届くほど、警視庁の中では期待を背負う人材だ。小沢や尾室が知っていても不思議なことじゃない。

 小沢は苛立たし気に言った。

「いいのよあんな奴の言うことなんか気にしなくて」

「でも北條さんは間違ったことは言っていません」

「馬鹿ね。正しいか間違ってるかなんてどうでもいいの。男はね、気に食うか食わないかで判断すればそれで良いの」

 「そんな無茶苦茶な」と尾室が呆れ声で言う。こんな豪快なことを言ってのけるが、小沢はこの若さでG3の開発と設計を一手で成し遂げている。天才肌とはこういう人間のことを言うのかもしれない。

「小沢さん、北條さんに厳しいですね」

 尾室がそう言うと小沢は溜め息をついて、

「実を言うとね、G3プロジェクトが発足したとき、装着員に真っ先に志願したのが北條君だったの。でも選ばれたのは氷川君だった。快く思ってるはずがないわ」

 だからといって、選ばれなかった(ひが)みから自分に厳しいことを言うだろうか。先の聴聞会でも、北條はG3ユニットの脚を引っ張るどころか、チームとしての強化と充実を進言してくれた。真っ先に志願したという話から、彼の誠に対する厳しさがG3への情熱故と納得できる。

 「ああ、それと」と小沢は思い出したように、

「知り合いのほうには都合つけるよう頼んでおいたから、来週明けにでも行ってきなさい」

「はい………」

 気のない返事をしたところで、内線通信のコール音が響く。機器の並ぶデスクについた小沢がヘッドセットを付け、「はいG3-OP」と応答する。「はい」と何度か相槌を打ち、ヘッドセットを外すと誠へと向いた。

「オーパーツ研の三雲さんから」

 

 この日のオーパーツ研究所のラボは、非番なのか三雲以外は誰もいない。機器の駆動音も聞こえず、冷たい静寂のなかでモノリスは佇んでいる。パズルの解読に成功した。その知らせを受けて脚を運んだ誠は十字架のようなモノリスを見上げる。

 モノリスの、十字架を囲むような柱の上2本。そこから1本ずつ突き出した螺旋形のオブジェを。

「何ですかあれ?」

「何に見える?」

 悪戯っぽく三雲が訊いてくる。三雲によると、コンピュータで進めていた演算処理が突然進展しはじめたという。ダイヤルの組み合わせは瞬く間に紐解かれ、やがてひとつの正解へと至ったところで、上2本の柱が蓋を開け、螺旋のオブジェが現れた。

 まるで、オーパーツ自身が何かに反応したかのような速さでの解読だったらしい。

 誠はじっ、と螺旋のオブジェを凝視する。ただの螺旋ではなく、2本の螺旋が互いに絡み合っている。この複雑な形状が何を表すのか、現代に生きる誠にはその意味が理解できる。ただ問題なのは、これを古代人が既に知っていたということ。

「遺伝子のモデルのように見えますが」

 「そうね」と三雲は少年のような笑みで応える。「まさか……」と誠は漏らした。遺伝子が2重の螺旋構造を持つと発見されたのは、20世紀の半ばになってからだ。西暦に入って2千年以上経ってようやく辿り着いた生命の構造を、古代という表現で足りない時代には発見されていたというのか。

「非常に特異なパターンなんだけどね」

「でも、このオーパーツは3万年以上前のものなんじゃないんですか?」

 3万年前。ネアンデルタール人が絶滅し、ヒト属が現生人類であるホモ・サピエンスのみになった時代。まだ石を打ち砕いて刃物を作っていた石器時代のはずだ。

「そんな昔に遺伝子モデルなんて………」

「常識的に考えればね」

 そう言って三雲は両腕を広げてラボ全体を示し、

「でもここはオーパーツ研究局よ。有り得べからざるものを研究する場所なの。常識の枠をまず取り払わなければ、研究はできないわ。どんなに荒唐無稽だと思われていることでも、それを信じること。信じてみること。それが第1歩ね」

 オーパーツを見上げる三雲の眼差しは、これからへの期待に満ちているように輝いている。昨日までの非常識は明日になれば常識になるかもしれない。かつて、ヨーロッパでは地球こそ世界の中心であり、太陽が地球の周囲を回っていると信じられる時代があった。ガリレオ・ガリレイが主張した、太陽と地球の立場が逆転した地動説が認められたのは、彼の死から3世紀以上経ってのことだ。

 もしこのオーパーツが本当に3万年前に造られたものと証明できたとしても、学会で受け入れられるのは難しいだろう。これは今までの人類史を根本からひっくり返しかねない代物だ。3万年前の時点で、人類は既に現代と同等かそれ以上に優れた文明を築き上げた。しかし何らかの要因で滅び、現代はかつての栄華を追いかけている、と。

 三雲が期待を馳せる未来は、果たしてどれほど先なのだろう。もしかしたら、自分が存在していない数百年後を見据えているのか。誠にはそんな先の未来なんて全くイメージが沸かない。小沢といい三雲といい、天才というのはどうにも理解しがたいところがある。

 三雲は楽しげに早口で言う。

「事実、このオーパーツから得られた遺伝子情報をもとに、特別に編成された研究班が実験を始めているの」

「実験?」

 誠が反芻すると三雲は頷き、

「これが遺伝子モデルだとしても、塩基配列はまだ未知のものだわ。それが何なんなのか解明するために、メッセンジャーRNAを合成してタンパク質を作らせようとしているの」

 次々と三雲の口から発せられる学術的専門用語は、あくまで一般人程度の知識しか持ちえない誠には何かの呪文のように聞こえる。高校時代までに習った生物学の知識で考えてみると、即ちこの遺伝子モデルを再現した新しい生命体を創り出すということ。2重螺旋という設計図があるにしても、そんなことが可能なのだろうか。人工細菌の作成がアメリカで成功したという話は聞いているが、このモデルが細菌という微小なものではなく、もっと高等な生命体のものだとしたら。

 未知の遺伝子モデル。その正体はこの地球上に存在していた生命なのか。それとも現代より優れた古代人の技術で創り出そうとして、成し遂げられなかった人工生命体なのか。これもまた正体不明(アンノウン)だ。世界には未知のものがまだ存在している。だとしたら、人間にも未知の領域が存在しているのだろうか。

「ひとつ、訊いていいですか?」

「何かしら?」

「三雲さんは、超能力の存在を信じていますか?」

 やぶからぼうにどうしたの。そんな三雲の思考が表情から読み取れる。信じてみることが第1歩、と述べても、あくまで科学者である三雲は無条件に信じることはないらしい。肩をすくめて、三雲は曖昧な笑みと共に答えた。

「どうかしら」

 

 



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第6話

 今更ながら気付きました。この更新ペースだと完結まで2年かかります。
 他にも書きたいの沢山あるのにな………。




 

   1

 

 天気予報では曇りのち晴れ、とキャスターは言っていた。本当に晴れるだろうか、と千歌は少しだけ心配になりながら灰色の雲に覆われた空を見上げる。船に乗ることに慣れていないのか、淡島への連絡船で梨子は居心地悪そうに座っている。

「わたし、ダイビングなんて初めて」

「大丈夫、ちゃんとインストラクターが付いてるから」

 緊張した面持ちの梨子に曜がいつもの溌剌とした言葉を向けている。凄いな、と千歌は思った。あんなことがあっても冷静でいられるなんて。千歌は十千万の目の前にある三津海水浴場へ視線を向ける。1年半前、記憶を失った青年が波打ち際に倒れていた海岸へと。

 彼が高海家に来る3日前に、千歌は志満から青年を家で預かることになったという報告を受けた。青年が記憶喪失だという話を聞いたとき、千歌はとても驚いた。海岸で意識を取り戻した青年の第一声は「靴が濡れちゃいますよ」で、通報を受けて駆け付けた巡査に対しても青年は笑みを浮かべて対応する余裕を見せていた。青年の事情聴取を担当した巡査もかなり驚いていたらしい。過去の記憶が一切なく自分の名前すらも分からないというのに、青年の明朗快活な態度に終始困惑していたとか。

 病院での検査、カウンセラーによる診断でも青年は心身共に健康で、社会生活に支障なしと警察は判断した。そうなると彼の後見人は誰に依頼するべきか、ということになったのだが、その役目は志満に回ってきた。家が旅館を経営しているのなら、住み込みの従業員として雇ってはどうか、と警察から頼まれたらしい。発見者である千歌の親族という責任感からか、志満は了承した。

 警察は青年の身元を突き止めることができなかった。青年は財布も携帯電話も、身元が分かるものは何一つ所持していなかった。唯一の所有物は、ポケットに入っていた1通の封筒。中身はなく、差出人の名前も海水に浸かっていたせいでインクが溶けて読むことができない。

 ――津上翔一です。今日からお世話になります――

 志満に連れられて十千万にやってきた日、青年は笑顔で千歌と美渡に挨拶した。青年は自分の名前を言い慣れていないように見えた。自分の存在を証明するものとして、実感が沸いていないような。青年が名乗ったのは、彼が所持していた封筒の宛先として綴られた名前だ。封筒は今でも高海家で保管している。

 津上翔一

 それが、記憶喪失の青年が戸籍と共に与えられた名前だった。

 

 

   2

 

 淡島の船着き場の近くにあるダイビングショップには客が殆どいなかった。曇りの日はダイビング日和じゃないからこんなもの、と自嘲する店主の果南は随分と世慣れしたような雰囲気を醸し出していて、とても年齢がひとつしか違わないようには見えない。

 千歌が梨子のことを紹介すると、事前に話を聞いていたのか果南は「音ノ木坂から来た転校生?」と梨子のことをまじまじと見つめていた。

「そうなんだよ、あのμ’sの」

 「そんなに有名なの?」と梨子が訊くと、「へえ、知らないんだ」と果南は意外そうに言った。μ’sとはスクールアイドルの界隈では知らない人はいない程の有名グループらしい。自分が通っていた高校にそんな人たちが在籍していたなんて、梨子は全く知らなかった。友人はそれなりにいたが、会話のなかでμ’sもスクールアイドルも登場したことはない。

 挨拶もそこそこに、千歌と曜がウェットスーツに着替えている間、初めての梨子は果南からダイビングについての簡単なレクチャーを受けた。シュノーケルでの呼吸、耳抜き、フィンを装着しての泳ぎ、海中での意思疎通のためのジェスチャー。あまり難しいことではなさそうで、不安は少しだけ和らいだ。

「海の音か………」

 曜とスーツの着心地を確かめている千歌を眺めながら、果南がぽつりと呟く。

「松浦さんは、海の音を聴いたことがあるんですか?」

 梨子が訊くと、果南は波打つ海面へと視線を移し、

「聴いた、っていうか、イメージは何となくね」

「イメージ?」

「水中では、人間の耳には音は届きにくいからね。ただ、景色はこことは大違い。見えてるものからイメージすることはできると思う」

「想像力を働かせる、ってことですか?」

「ま、そういうことね。できる?」

 ダイビングが初めてなのだから、海の音をイメージする余裕があるのか分からない。でも、ここまで来て何も得られず徒労で終わらせるわけにもいかない。この海に音があるのなら、必ず聴いてみたい。

 梨子自身の音を見つけるためにも。

「やってみます」

 

 実際に潜ってみると、ダイビングはそれほど難しいものではなかった。鼓膜で感じ取る気圧の変化は耳抜きで調整できるし、フィンのおかげでそれほど強く脚を動かさなくても水をかくことができる。ウェットのおかげで水の冷たさは苦にならない。

 梨子は海の底を眺める。真っ暗で底が見えない。深く潜れば潜るほど深淵に吸い込まれそうで、二度と這い上がれないような恐怖を覚える。水中メガネ越しに見える海中の塵はまるで雪のようだ。これは海の底で朽ちた死骸の一部なのだろうか。見えない底には様々な海洋生物の死骸が横たわっていて、それは墓場なのかもしれない。

 果南の言った通り、海中はほぼ無音と言ってもいい。聞こえるのは梨子の吐いた気泡が弾ける音だけ。それも梨子の体内で発した音で、梨子の骨格を通じて鼓膜に届いただけに過ぎない。海は音を発していない。とても静かだ。光も音も届かない世界。

 息が続かなくなり船に上がる。水中メガネを上げて呼吸を整えると、よほど落胆した顔をしていたのか曜が「駄目?」と訊いてくる。

「うん、残念だけど」

 海に身を沈めれば、自然と音を聴けるのではないかと期待したが、そう簡単なものではなかった。海はどこまでも広くて深く、そして虚しい。

「イメージか、確かに難しいよね」

 千歌はそう言うと、空の灰色を映す海を眺めてぽつり、と呟いた。

「翔一くんは聴いたことあるのかな………」

 翔一とは誰だろう、と梨子が思っていると果南が、

「翔一さんまだ帰ってきてないの? 連絡はした?」

「翔一くん携帯持ってないから………」

 友人だろうか。果南が敬称で呼んでいることから、彼女より年上のようだが。果南はふ、と笑みを零した。

「翔一さんにとって、海の音は千歌と曜の声だったかもしれないね」

 「え?」と千歌と曜は果南へと向く。

「真っ暗な海の底からふたりの声が引き揚げてくれて、だから目を覚ました。そう思うとロマンチックじゃない?」

 果南は明後日の方向を向くと、また笑みをひとつ零す。

「にしても、何度聞いても笑っちゃうよね。目覚まして第一声が『靴が濡れちゃいますよ』って。でも翔一さんらしいかな」

 千歌と曜は無言のまま互いを見つめ合っている。その翔一という人と何かあったのだろうか。思えば翔一という名前が出た途端、ふたりの表情は一気に沈んだように見える。何かがあったに違いない。あまり良いことではなさそうだ。でも、梨子はその翔一という人に会ってみたいと思った。その人が聴いた音がどんな音か聞いてみたい。

「真っ暗か………。もう1回いい?」

 そう断りを入れて、千歌は曜と一緒に再び海へと飛び込む。梨子も水中メガネを下げて、ゆっくりと海水へ身を沈めた。

 千歌と曜は目的地を見出したのか海中を進んで、梨子はふたりの後をついていく。藍色が深く濃くなった海中の暗闇は、まるで梨子の心を映しているようだ。自然とあのコンクールの日を思い出す。思えば、あの日から梨子の心は海の底に沈んでいるのかもしれない。一切の光も届かない底なしの暗闇へと。

 不意に、視界が明るくなった。ほんの微かに。

 待っていたかのように、千歌と曜が頭上を指さす。見上げると水面に太陽が浮かんでいた。雲が晴れたのだろう。日光が海中に射し込んできて、穏やかな波と共に光が揺らめいている。日差しにあてられた海中の粒子が光っていて、それはまるで音符が泳いでいるような錯覚にとらわれる。これらの取り纏めのない音符を集めて譜面に並べたら、曲になるのだろうか。

 梨子は海面に映る太陽に両手をかざした。ピアノを弾くように、指で見えない鍵盤を叩く。ピアノの旋律が聴こえた。ただ音階をなぞるのではなく、しっかりとメロディーを伴って。初めて聴くメロディーだった。まだ聴いたこのない、梨子の作ったことのない音の連なり。

 でも、まだ足りない。曲としてまだこの音は完成していない。もっとこの音を聴きたい。その想いに従って、梨子は光を目指して上へと昇っていく。光に手が届こうとしたとき、様々な音が一斉に鼓膜へと飛び込んできた。波の音。カモメの鳴き声。船のエンジン音。もう少しで手が届くはずだった光は雲が晴れた空高くで燦々(さんさん)と輝いている。あんなに遠くては掴めそうにない。

「聴こえた?」

 上がってきた千歌が訊いてきて、反射的に「うん」と梨子は応える。

「わたしも聴こえた気がする」

 千歌は自分でも驚いているようで、数舜遅れて上がってきた曜も、

「本当? わたしも!」

 皆で同じ音を聴いたのだろうか。だとしたら、あのメロディーは梨子の裡から沸いたものではなく、海が与えてくれた音だったのか。そんなことは有り得ない、と普段なら否定するだろう。でもこの時ばかり、梨子はそんなロマンチックなことが起こっても良いかな、と思った。

 海には音がある。

 暗い底から引き揚げてくれる、灯のようなメロディーが。

 

 

   3

 

 内浦の船着き場で梨子と別れて、千歌は曜と一緒に帰路へついた。梨子はすぐに帰ろうとせず、しばらく海を眺めていたいらしい。イメージが更に膨らむ気がするのだとか。

「海の音、確かに聴こえたよね」

 確認するように千歌は言った。「うん、聴こえたよ」と曜は応えてくれる。まるで夢でも見ていたような気分だ。ダイビングは何度か経験があっても、「海の音」なる体験は初めてだ。千歌にとってはふ、と現れて消えるように儚い音だったが、梨子はあれから曲に仕上げてしまうのか。

「翔一くんも、同じ音を聴いたのかな?」

 千歌が言うと曜はふふ、と含みのある笑みを零し、

「聞きたいよね。翔一さんの聴いた海の音」

「うん、でも………」

 翔一くんはいないんだ。その言葉を裡に留めると寂しさが込み上げてくる。奇妙なものだった。あれほど怖れていた翔一がいなくなって寂しいだなんて。いや、確かに感じていたはずだ。ただ恐怖で誤魔化していただけだ。

 ちゃんと本人から話を聞いていない。たとえ姿が変わっても、あの戦士が翔一であることに変わりはないはずだ。いつも料理を食べる千歌を見て嬉しそうに笑っていたあの翔一が、強靭な力を持ったとして他人を傷つけることに使うはずがない。

「わたし、翔一くん探してみる」

 千歌が決意を表明すると、曜は「え?」と目を丸くした。

「探すってどうやって? 翔一さん携帯持ってないんだし」

「何とかしてみる!」

 翔一を探すためなら何だってしてみせる。たとえどこに行っても、地の果てまで追いかける。その決意を瞳に込める千歌を曜は呆然と見つめ、次に笑みを零す。

「じゃあ、わたしも探す」

 「曜ちゃん……」と呟く千歌は、感激のあまり涙が零れそうになる。スクールアイドル部に入ってくれたときも、こんな感じだった。曜は千歌が本気と分かると、とことん協力してくれる。こうして笑顔で、それが当然であるかのように。

 本当に良いの、という問いを喉元に留め、千歌は宣言した。

「うん、絶対に見つけようね!」

 

 まずは色々と準備が必要だ。ひとまずは警察へ捜索願を出しに行こう、と曜が提案してきて、千歌はその手があった、と思った。それが最も見つかる可能性が高い。けど高校生の自分たちではまともに取り合ってくれるか不安だから、志満か美渡に同伴してもらおう。

 上手く段取りを見据えている曜と共に十千万へ入ろうとしたとき、千歌は数台分だけのスペースが設けられた駐車場で脚を止める。曜も駐車場に停めてあった機械に気付いて、千歌にならった。

 翔一の移動手段として美渡から譲られた、VTR1000F。

「もしかして……」

 続きを言う前に、千歌の脚は無意識に裏の畑へと向かっていた。あとを曜がついてくる。大根やほうれん草の葉の緑色に満ちた畑の中心で、見慣れた青年の背中が見えた。

「翔一くん!」

 千歌の声に振り返った翔一は逃げもせず、かといっていつもの笑顔も見せず、所在なさげに口を結んでほうれん草へと視線を戻す。

「短い家出でしたね」

 曜が呆れたように、でも嬉しそうに言う。翔一は千歌たちには一瞥もくれず、畑を見下ろしながら沈んだ声色で、

「こいつらの面倒頼むの、忘れてたから………」

 たったそれだけのことで戻ってきたのか。翔一らしい理由だ。他人にとっては大したことなくても、翔一にとってこの畑は自分の子供も同然かもしれない。彼は高海家でずっと野菜を育ててきた。野菜と共に、記憶を失った空虚を埋めるために津上翔一という自己を育んできたのかもしれない。

 千歌の胸の奥にあった溜まりが一気に消え失せた。

「わたしじゃ上手くできないよ。やっぱり翔一くんじゃなきゃ」

 翔一は千歌に目を向けた。とても不安げで、何か言いたそうに口を開くもすぐに閉じて、目を逸らす。「ごめんね」と千歌は言った。

「この前は驚いて逃げ出しちゃって………」

「当然だよね………」

 「あれって、何なんですか?」と訊いたのは曜だ。

「………分からない」

 弱く答える翔一に、「翔一くんも変身してたよね?」と千歌が質問を重ねる。

「あれは何なの?」

「だから分からないんだよ。ただ、俺戦わなくちゃならないんだ。あいつらと」

 そこで千歌は思い出す。この畑で翔一が語った、彼が十千万にいる意義を。

「みんなの居場所を守るために?」

 そう言うと、翔一は逡巡を挟み無言で頷く。やっぱり、と思うと笑みが自然と零れた。どこまでも翔一らしい。戻ってくる理由も、戦う理由も。自分のためでなく他人のためであるところが。

「だったら、自分の居場所もきちんと守ってよ。ここが翔一くんの居場所なんだから」

「じゃあ、ここに居て良いの?」

 不安な顔で尋ねる翔一に、千歌は頷く。

「俺のこと、怖くないの?」

 「怖くない」と千歌は即答した。嘘じゃなかった。むしろ、あの戦士の力を持ったのが翔一であることに安心できる。なぜなら――

「だって翔一くんは翔一くんだもん」

 生まれ育った十千万は千歌の居場所。志満と美渡としいたけのいる、千歌の家だ。血縁上、翔一は赤の他人でしかない。でも生まれも育ちも違う、血の繋がりが無いからといって、翔一だけを爪弾きにできるだろうか。それだけで居場所を決める規範なんてどこにもない。千歌が居てほしい、と望む。それだけで十分だ。その存在で千歌が幸福を感じ取れることが、翔一の居るべき理由になるのだから。

「でも、本当に怖くない? 無理してない?」

 尚も翔一は尋ねてくる。痺れを切らしたのか曜が笑いながら、

「もう、いつもの翔一さんに戻ってくださいよ」

「いつもの、俺?」

 それって何だろう、と自問しているのが表情で分かる。明後日の方向を見つめる翔一に、千歌は言った。

「いつもの翔一くんなら、そろそろ晩御飯の支度してるよ」

 「ほら」と千歌は翔一の腕を掴んだ。もう片方の腕を曜が掴み、家の中へと引っ張っていく。最初はうろたえたものの、ふたりに歩幅を合わせて歩き始めた翔一は口角を上げて訊いてくる。

「何食べたい?」

 それは、いつもの翔一の笑顔だった。

 

 



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第7話

 やっと『サンシャイン』の第2話が消化できました。まさか1ヶ月もかかるとは………。




 

   1

 

 曲作りを手伝う。

 梨子がその旨を千歌と曜に告げたのは、終業のチャイムが鳴ってすぐ、同級生たちが鞄を手に教室から出ていく頃だった。どうせ千歌がまた朝からしつこく勧誘しに来るだろうからそこで言おうと思ったのだが、千歌は曜と一緒に朝は生徒会室へ部設立の直談判――門前払いだったらしい――に、昼休みは校庭でダンスの練習へ行って、梨子には話しかけてこなかった。だから夕方になってようやく梨子のほうから話を持ち掛けることになった。

 梨子の話を聞いたふたりは目を丸くしたまま数秒の逡巡を経て、ようやく咀嚼できたのか「えええええ⁉」と驚愕の声をあげた。

 「嘘?」と千歌が「本当に?」と曜が訊く。「ええ」と梨子は短く答えた。千歌は目に涙を溜めながら「ありがとう」と嗚咽交じりに言って再び、

「ありがとう!」

 抱き着こうとしてきたところをひょい、と避けた。勢いを抑えられないまま千歌は梨子の後ろにいたよしみに「うえっ」とつんのめりながら抱き着いてしまう。

 何だか早とちりしているらしい。

「待って、勘違いしてない? わたしは曲作りを手伝う、って言ったのよ。スクールアイドルにはならない」

 手伝うのは、あくまでお礼としてだ。海の音を聴かせてくれたことへの恩義はある。だから恩返しはするけれど、それとスクールアイドルになることは別の話。千歌にとってスクールアイドルが特別なものであることは理解できるが、梨子にとって特別なのはピアノであることに変化はない。

 よしみに回した腕を放さないまま、千歌は「ええ?」と落胆を顔に出す。

「そんな時間は無いの」

 そう告げると、「無理は言えないよ」と曜が理解を示してくれた。「そうだねえ……」と千歌も諦めてくれたところで、梨子は言う。

「それじゃあ詞をちょうだい」

 「し?」と千歌は反芻した。

「し、って何?」

 まさか、と梨子は思った。苦笑を浮かべた曜が代わりに説明してくれる。

「多分、歌の歌詞のことだと思う」

 「そうだよね?」と確認してくる曜に、梨子は苦笑を返すことしかできなかった。

「………ええ」

 

 まさか詞とメロディ作りを分けるものだとうは思わなかった。

 バスの中で笑いながら言う千歌に、梨子はただただ呆れ果てるしかない。スクールアイドルがどんなものかは知らないが、アイドルと名が付くのだから音楽の知識ぐらいは多少あるものと思っていた。曜によるとスクールアイドルというコンテンツを千歌が知ったのは2ヶ月前で、しかも憧れのμ’sの読みを間違えていたらしい。

 そんな音楽に関しては素人同然のふたりが作詞を行えるとなると怪しいもので、梨子の同伴が必然的になった。まずふたりがどんな歌にしたいのか、最も把握しやすいのが歌詞だ。完成とまではいかなくても、イメージさえ知ることができればいい。

 そういうわけで千歌の家で作業することになったのだが、ここだよ、と案内された木造の建物を見上げた梨子は「あれ?」と呟く。

「ここ、旅館でしょ?」

 「そうだよ」と千歌はさも当然のように答える。続けて曜が、

「ここなら時間気にせずに考えられるから。バス停近いし帰りも楽だしね」

 まさか料金を払って滞在しようとしているのか、と思ったが、この旅館が千歌の家なのだとようやく理解できた。看板にある「十千万」とはどう読めばいいのか、と考えているところで、動物の速い吐息が聞こえてくる。向くと、人間の腰ぐらいまでの高さしかない小屋の前で大型犬がこちらを見ている。

「あら、いらっしゃい」

 突然その声が聞こえてきて、梨子は咄嗟に視線を戻す。玄関の暖簾の前に女性が立っている。目元が千歌とよく似ている。

「そちらは千歌ちゃんの言ってた子?」

 「うん」と答え、千歌は女性を手で示し、梨子に紹介してくれる。

「志満姉ちゃんだよ」

 「桜内梨子です」と礼をするが、梨子は志満ではなく犬のほうにちらり、と視線をくべる。犬はじ、とこちらを見つめ続けている。

「よろしく。美人さんね」

「そうなんだよ。さすが東京から来た、って感じでしょ?」

「本当に。何にもないところだけど、くつろいでいってね」

 「あれ、お客さん?」と男性の声が聞こえてきたと同時、「すみません」と門のほうから別の男性の声が聞こえてくる。ようやく犬から視線を放して門へ向くと、スーツを着た若い男性が会釈してこちらへと歩いてくる。

「こちらに、高海志満さんはご在宅ですか?」

 「はい、私です」と志満は男性へと歩み寄り、

「もしかして、澄子に紹介された刑事さんですか?」

「はい、氷川誠です」

 そう名乗って男性はジャケットの内ポケットから手帳を出した。ふたつ折りの黒革を開くと、証明写真つきの下に「警視庁警部補」という階級と「氷川誠」という名前。更に金色のエンブレムが付いている。

「刑事さん⁉」

 と曜が感嘆の声をあげて氷川へと駆け寄る。

「制服姿の写真とか、ありますか?」

 「え?」と氷川は戸惑いの声を漏らす。そんな氷川に目を輝かせる曜は刑事に憧れているのだろうか。そこへ志満が穏やかに「曜ちゃん」と、

「ここじゃ何だし、上がってもらいましょう。翔一君、お茶淹れてくれる?」

 翔一と呼ばれた青年は「はい」と応じて中へと戻っていく。曜も「すみません」と照れ笑いを浮かべながら千歌と共に玄関へと入っていく。

 とはいえ警察が一体何の用事なのだろう。そう思いちらりと見た氷川と視線が交わる。所在なさげに会釈する氷川に梨子も同じように会釈で応え、一緒におずおずと暖簾を潜った。

 

 

   2

 

 旅館十千万の様相は、古き良き、という言葉が何よりも似合う。経年劣化による壁や柱の変色も趣を感じられて、幼い頃に祖父の家に遊びに行った夏の日々を思い出させてくれる。大きくはないがその慎ましさが安らぎを与えてくれて、旅の途中に脚を休める場としては魅力的だ。

 もっとも、居間に通された誠は安らぎを覚える間もなかったのだが。

「これが巡査時代の写真です」

 スマートフォンの中で片肘の張ったぎこちない敬礼をする自分を見るのは、何年経っても慣れないものだ。ましてや他人、それも高校生の子供に見せるなんて。でも誠の羞恥などよそに、少し癖のあるショートボブの少女は「うわあ、かっこいい」と画面を見る目を輝かせている。

「他にもありますか?」

 「ええ」と誠は画面をスワイプした。今度は少しだけ敬礼も様になった、気がする。

「警視庁へ異動になったときの頃です」

 式典くらいにしか袖を通す機会のない本庁の制服にも、少女は同じように感嘆の声をあげる。珍しいな、と誠は思った。こういう警察官の制服に憧れを持つのは少年ばかりだと思っていた。

「刑事さんにも制服ってあるんだ。ずっとスーツなのかと思ってましたよ」

 1歩引いたところから画面を見ていた少女がそう言ってくる。志満の妹だろうか。目元が似ている。

「ええ、一応。あまり着る機会は無いですが」

 そう言ったところで、「ねえ」と先ほど誠に会釈したロングヘアの少女が声をかけた。

「邪魔しちゃ悪いんじゃない? 刑事さん仕事で来てるんでしょ」

 助かった、と誠は裡で胸を撫でおろす。悪い気はしないが話が進まなくてどうしようかと思っていたところだ。「すみません」と罰が悪そうに笑った少女は友人たちと一緒に奥へと引っ込んでいく。

「すみません、お仕事中なのに」

 お茶菓子を乗せたお盆を手に、志満が苦笑しながら居間に入ってくる。「いえ、こちらこそお時間をありがとうございます」と誠は応じた。

「お茶、もう少し待ってくださいね」

 誠の前に羊羹を置いた志満の第一印象は、とても穏やか、というのが誠の感想だ。あの小沢の学友とは思えないほどに。どういう接点で知り合ったのか興味はあるが、今は置いておく。

「澄子から不思議なものを見てほしい、と聞いたんですけど」

「ええ、これについて」

 誠は懐から瓶を取り出す。被害者の家から回収した、100円硬貨の入った空き瓶を。受け取った志満が瓶を軽く揺らすと、中の硬貨がかちゃり、と音を立てる。

「飲み口が100円玉より小さいのに、何故こんな事ができたのか」

 「それと、これも」と誠はポケットから出した写真を手渡す。一見すれば沼を背景にした少年の写真を、志満は何気なく眺める。

「それは最近撮影された写真ですが、背景の沼は10年前に埋め立てられ、今は存在しないはずの場所です」

 写っている少年が殺人事件の被害者であることは伏せておく。あまり良い気分はしないだろうし、捜査上で重要なことを一般人に漏洩させることは禁止だ。もっとも、写真も瓶も事件との関連は無し、と判断されるのは目に見えているが。

 不思議そうに瓶と写真を交互に眺めた志満は誠に向き直り、

「氷川さんは、これが人間の特殊能力によってなされたもの、と考えているんですか?」

「その可能性を考慮していいか、お尋ねしたいんです」

 「大学を出ただけの私がお力になれるかは分かりませんけど」と前置きし、瓶と写真をテーブルに置いた志満は告げる。

「私は常に未知の可能性をむやみに否定すべきじゃない、と考えています。人間にはまだ謎が多いのも確かです。ですが――」

 そこで「いらっしゃいませ」という朗らかな声と共に若い男がお盆を手に居間に入ってくる。お茶が入ったらしい。この青年は旅館の従業員だろうか。確か、さっき玄関先でも見かけた。

「粗茶ですけど、どうぞ」

「すみません」

 さて、それでは続きを聞こう。誠が話を再開しようとしたところで、

「冷めないうちに、ちゃちゃ(・・)っと飲んでください」

「は?」

 そんなにお茶汲みにこだわりがあるのか。高級な茶葉でも使っているのだろうか。そう疑問が沸いたところで志満が、

「すみません、お茶にかけた洒落なんです」

 そう説明してくれると、青年は朗らかに笑みを見せる。次に青年は誠をじい、と見つめてきた。

「そういえば刑事さんなんですよね。まさか志満さん、何かしたんじゃ。そういえば最近、しごうとう(・・・・)ばかりしてるけど………」

「強盗⁉」

 まさかこんな人が犯罪なんて、と視線をくべた先の志満は笑みを浮かべ、でもこめかみに指を添えている。

「すみません。今のも仕事と強盗をかけた洒落で………」

 何て紛らわしい。というより、この青年はいつまでここに居るつもりか。お陰で話が全く進まない。察してくれたのか志満は「翔一君」と青年を呼び、

「下がってくれる?」

 

 ようやく千歌の自室に通されたところで、梨子は妙な疲労感に見舞われる。座布団の上で正座するも、溜め息をついたら力が抜けて背筋が曲がりそうになる。とはいえ、ようやく目的の手前まで来たところだ。日も傾いてきたところだし、暮れる前に済ませてしまおう。

 そう思った矢先で、「千歌ちゃん、開けてくれるかな? 両手塞がっててさ」と襖の奥から声が聞こえてくる。「はーい」と千歌が開けると、お盆を手にした青年が笑顔を浮かべている。先ほど玄関先で見かけた青年だった。千歌の兄だろうか。あまり似てはいないが。

 「あ、紹介するね」と思い出したように千歌が、

「うちで居候してる津上翔一くん」

 「よろしく」と少年のような笑みを見せる翔一に、「桜内梨子です」と挨拶する。

「もしかしておやつですか?」

 ベッドに腰掛けている曜が、どこか恐る恐る、といった声色で訊く。「うん」と頷いた翔一はちゃぶ台にお盆を置いた。お茶菓子と思ったのだが、お盆の上に乗っているのは湯呑に注がれたお茶以外は梨子の予想になかったものばかりが並んでいる。スナック菓子もチョコレートも、旅館の土産らしき和菓子もない。4つのお椀の中にある葉物野菜と根菜といったラインナップは、どこか年寄りじみている気がする。

「梨子ちゃん、大根の一夜漬けは好きかな? 庭の菜園で採れたんだけど」

「嫌いじゃ、ないですけど………」

 戸惑いながら答えると、翔一は薄く切った大根のお椀を箸と一緒に梨子の前に置く。

「どうぞ、食べてみて」

 梨子は大根から翔一の顔へと視線を上げる。翔一に「どうぞ」と促され、せっかく出してくれたんだから、と思い直す。

「いただきます」

 輪切りにした唐辛子が添えられた大根をひと切れ箸でつまみ、口に運ぶ。噛む事にぽりぽり、という音と共に酢の酸味と砂糖の甘味が丁度いいバランスで咥内に広がる。大根と仄かな唐辛子の香りが鼻から抜けていった。

「どうかな?」

「美味しいです」

 お世辞抜きで美味しい、と思った。味付けが薄めだから食べやすい。すると気を良くした――元から気の良い人という印象を抱いたが――のか、翔一は他の器も次々と梨子の前に並べていく。

「じゃあ、大根の煮つけはどう? ほうれん草の胡麻和えもあるよ。それとこれは実験的なんだけど、ほうれん草の酢の物も作ってみたんだよね」

 厚意は嬉しいのだが、食べてばかりいてはいつまでも作詞が始められない。梨子はなるべく翔一の気を悪くしないよう、苦笑と共に言う。

「すみません、外してもらえますか?」

 杞憂だったようで、翔一は笑みを崩さないまま3人分のお茶をちゃぶ台に置いて「ゆっくりしてってね」と出ていく。やっと始められる、と思うと同時に随分と回り道をした気がする、と溜め息が漏れる。

「さ、始めるわ――」

 そうふたりに告げようとしたところでまたふたりは道を逸らす。

「曜ちゃんもしかしてスマホ変えた?」

「うん、進級祝い」

 曜の最新機種スマートフォンを見て千歌が「いいなあ」と言ったところで、梨子は床を強く踏み鳴らしふたりの前に立つ。

「は・じ・め・る・わ・よ」

 自分がどんな顔をしているのかは分からないが意思は伝わったようで、ふたりは少し怯えた面持ちで「はい……」とか細い声を揃えた。

 ようやく3人でちゃぶ台を囲み、翔一の置いていった料理を時折つまみながら千歌がルーズリーフにペンを走らせていく。千歌が思いついたフレーズ、曜と梨子が助言したフレーズを書き連ねていき、10枚を優に越す曲が出来上がるのに、そう時間はかからなかった。でも千歌にとっては納得がいかないようで、没案の紙は床に散乱していく。

 因みに、ほうれん草の酢の物は意外と美味だった。

 とうとう思いつく言葉全てを出し切り、新しいフレーズが詰まる。どれも決して悪くはないと思うのだが、千歌の思い描く曲には合わないらしく、イメージと実際に並ぶ言葉の乖離(かいり)にどうしたものかと千歌は「うう……」と呻きながらちゃぶ台に顔を埋める。

「やっぱり、恋の歌は無理なんじゃない?」

 梨子が言うと、「嫌だ」と千歌は顔を上げて即答する。

「μ’sのスノハレみたいなの作るの」

 千歌の中で曲の方向性はラブソングと初めから決まっていたらしい。理由はμ’sの『Snow halation』略して『スノハレ』がラブソングだから。

「そうは言っても、恋愛経験ないんでしょ?」

 梨子が言うと「何で決めつけるの?」と千歌は口を尖らせる。確かに恋愛話をしたことは無いが、梨子が「あるの?」と試しに訊くと千歌は気まずそうに視線を逸らして呟く。

「………ないけど」

「やっぱり。それじゃ無理よ」

 何となくだが、純朴な千歌は男性を知っているようには見えない。翔一という若い男性と同じ屋根の下で暮らしているにしても、あの青年とそういう仲じゃない、とひと目で分かる。

 もっとも、梨子も人のことは言えないのだが、今はそのことは関係ないから黙っておく。

「でも、ていうことはμ’sの誰かがこの曲を作ってたとき、恋愛してたってこと?」

 μ’sで作詞を担当していたメンバーに恋愛経験があって、それを基にして『Snow halation』の詞ができたのなら、それこそ千歌に似たようなラブソングを作るのは無理な話だろう。経験で感じたものはその人だけのものだ。

 でも、梨子は果たしてμ’sが「恋愛」をテーマに曲を作ったとは、曲のメロディからは感じ取れない。先ほど参考曲として『Snow halation』を聴かせてもらったのだが、恋愛ひと括りにしてはスケールの大きい曲の気がする。もっと、たったひとりのためではなく大勢の、自分を取り巻くもの全てへの愛を告げるような。

「ちょっと調べてみる」

 そう言って千歌はノートPCを立ち上げキーを叩き始める。気になるとしても、今は曲の批評会じゃないというのに。

「何でそんな話になってるの。作詞でしょ?」

 梨子は論点の軌道修正を試みるも、「でも気になるし」と液晶を真剣に見つめる千歌は聞く耳を持ちそうにない。

「千歌ちゃん、スクールアイドルに恋してるからね」

 曜がそんな捻りの利いた例えをする。「本当に……」と何気なく相槌を打ったところで、梨子は何かがはまったように錯覚する。しかし錯覚ではないようで、曜も気付いたらしく梨子と視線が交わる。その視線を千歌へと流すと、自身に向けられたものに気付くもすぐにPCへと意識を戻して「何?」と訊いてくる。

「今の話、聞いてなかった?」

 梨子に続いて曜が、

「スクールアイドルにどきどきする気持ちとか、大好きって感覚とか、それなら書ける気しない?」

 あ、と千歌は液晶から目を離す。探していたものがようやく見つかったかのように。

「うん、書ける。それならいくらでも書けるよ!」

 千歌はペンを手に取り、ルーズリーフに芯を走らせていく。途切れ途切れだった先ほどとは打って変わって、すらすらと文字が書き連なっていく。

「えっと、まず輝いているところでしょ。それから――」

 独りごちながら詞を書く千歌は、まるで自分の頭の中にあるもの全てを吐き出そうとしているようにも見える。とても楽しそうだ。思い描くものが形になり、文字になり、音になり、歌になる。しっかりと実体を持つものを生み出せる喜びは、梨子にも理解できる。

 わたしも、前はこんな顔でピアノを弾いていたのかな。梨子はぼんやりと思った。幼い頃は、ピアノを弾くことに何の偽りもなく楽しいと思えた。教室の講師から上手、と褒められるのは嬉しかったし、それ以上に鍵盤を叩いて現れる音が、幼く小さかった自分の体を空高く舞い上がらせてくれるような、そんな浮足立った気分になれた。ピアノから出た音は光になって、梨子の周りでシャボン玉のように弾けていく。霧散した光の残滓が小さな梨子を包み込み、また梨子自身も光と一体になって夜空を照らす星のように輝ける。

 「はい」という千歌の声と視界に入り込んだルーズリーフで、梨子の意識は過去から現在へと引き戻される。

「もうできたの?」

「参考だよ。わたし、その曲みたいなの作りたいんだ」

 受け取った紙面に綴られた歌のタイトルを、梨子の唇がなぞる。

「ユメノトビラ……?」

 千歌は言う。

「わたしね、それを聴いてスクールアイドルやりたいって、μ’sみたいになりたいって、本気で思ったの」

「μ’sみたいに?」

「うん。頑張って努力して、力を合わせて、奇跡を起こしていく。わたしもできるんじゃないかって、今のわたしから変われるんじゃないかって、そう思ったの」

 千歌の声色が初めて会ったとき、μ’sを語るときと同じであることに梨子は気付いた。あのとき、千歌は自分を普通と言っていた。普通星に生まれた普通星人。自分も輝きたい、という願い。それは幼い頃の梨子と同じ、大好きなものに触れているときに願うこと。自分が輝ける場を見つけることのできた喜び。だからこそ夢中になれるし、頑張れる。

「本当に好きなのね」

 梨子が言うと、千歌は子供のように屈託のない笑みを浮かべて答える。

「うん、大好きだよ!」

 ぶうん、という駆動音が外から聞こえてきて、梨子は窓へ視線を向ける。確か十千万の駐車場にバイクが停まっていた。

「翔一くん……」

 振り返ると、千歌と曜も物言いたげに窓の外を見やっている。あのバイクは翔一のものだったのか。

「また行くんだね、翔一さん」

 曜が感慨深そうに言った。「もう夕方なのに、どこに行くの?」と梨子が訊くと、千歌はしばし明後日の方角を向き、これだ、と言うように答える。

「みんなの居場所を守りに、かな」

 

「じゃあ、何らかのトリックが使われていると」

 確認するように誠が尋ねると、志満は首肯する。人間の持つ未知の力を否定はしないが、テーブルの上にある不可思議な瓶と写真に関しては無縁、というのが志満の見解だ。

 志満は言う。

「これは合成写真と考えるのが理に叶っているでしょうし」

 「これは――」と瓶を自身に寄せると、志満は先ほどタンスから出してきたコインを飲み口の上に乗せる。飲み口よりも大きいコインは外国通貨なのか、初めて見るデザインだ。志満が手を被せると、コインは軽い音を立てて瓶の底へ落ちる。

 誠は息を呑んだ。確かにコインは飲み口よりも大きかったのに。

「一体、どうやって………」

 言葉を詰まらせながら訊くと、志満は得意げに微笑み「これです」ともう一枚、同じデザインのコインを見せる。志満が細い指を添えると、コインは折れ曲がった。だが指を離すとすぐ平面に戻り、目を凝らせば切れ目が入っているのが分かる。デザインの凹凸に沿っているから、人目では分かりにくい。

「フォールディング・コイン。雑貨屋さんで買える手品グッズですよ」

「では、瓶を割って中のコインを確かめてみれば、高海さんの説が正しいかどうか分かりますね」

「ええ」

 臨むところです、という自身が志満の笑みから窺えた。

 ふたりは裏庭に出た。裏庭には小さな畑が耕されていて、ホウレン草が植えられている。旅館の料理に出すものだろう。志満が倉庫から持ってきた金槌を受け取り、誠は瓶を地面に置く。正直なところ、中のコインが本物か手品グッズか、どちらにしても良いものか誠には分からない。手品グッズだったら誠の推理した被害者たちの共通点は否定され、捜査は振り出しに戻る。本物だったとしても、それが超能力によるものとどうやって証明したものか。上層部に進言したとしても鼻で笑われるのは目に見えている。とはいえ、確かめる価値はあるのかもしれない。現にアンノウンという不可思議な存在がいる以上は。

 金槌を振り上げたところで、誠のスマートフォンが鳴った。「失礼します」と金槌を置いて端末に応答する。

「はい氷川ですが」

『氷川君、アンノウンが出現』

 電波越しに小沢が簡潔に告げる。

「G3の修理のほうは?」

『G3システムは修理完了よ』

「分かりました、すぐに行きます」

 通話を切り、誠は「すみません、失礼します」と志満に金槌を手渡した。「ええ」と困惑気味に応じる彼女に会釈し、誠は車へと走り出した。

 

 

   3

 

「ガードチェイサー、離脱します!」

 尾室がハンガーのロックを外し、G3はマシンごとカーゴベイから吐き出される。カウルに搭載されたパトランプとサイレンを鳴らし、G3装備に身を包んだ誠はガードチェイサーを走らせた。

 パトロール中だった巡査からの通報によると、アンノウンは沼津市江ノ浦、江浦横穴群(えのうらおうけつぐん)近くにて目撃。酷く錯乱した様子の巡査から通報を受けた静岡県警通信指令センターは所轄である沼津署へ連絡し、沼津署は駐在しているG3ユニットへ指令を出した。本庁所属のG3ユニットは本部へG3システム運用申請を出して許可を貰わなければならないのだが、小沢のことだから省いたに違いない。

 誠は細い山道へと入った。蛇のように曲がりくねった道路脇に広がる地元農家の畑を抜け、山肌の斜面に空いた無数の穴を見つけると、マシンを止める。サーモグラフィ・モードで索敵すると、山中での熱源を捉える。かつて古代人が死者を埋葬するために開けたとされる墓穴を過ぎると、少女を抱きかかえて恐怖に満ちた表情を浮かべた巡査がいた。その目の前には、亀のような正体不明(アンノウン)の怪物。

 アンノウンが腕を振り上げると同時、誠はその懐に飛び込んだ。アンノウンの拳が背中のバックパックに当たるが、改修された装甲は衝撃を吸収しきれたらしく、損傷を知らせるアラームは鳴らない。

「本庁の者です。早く逃げて!」

 誠が言うと、中年の巡査は少女を抱えたまま走り出す。その目の前の地面が揺れ、巡査は脚を止めた。波打つ地面から泥と草を撒き散らし、またアンノウンが現れる。誠が相手をしている個体と姿が似ているが、色が異なっていた。

『もう1体のアンノウンです!』

 尾室が報告してくる。誠は金色の個体に肘打ちを見舞い、現れた銀色の前に立ちふさがる。巡査に近づこうとする銀色の腹に蹴りを入れたところで、背後から金色が掴みかかってくる。金色を相手すれば銀色が巡査へと向かう。銀色を阻止すれば金色が巡査へ、ときりがない。敵もそう判断するだけの知性を持ち合わせているのか、2体は標的を誠へと変える。

 銀色が誠を羽交い絞めにし、がら空きになった胴に金色がタックルをかましてくる。1度目は胸部装甲が軽く火花を散らしただけで耐えることができた。だが2度目でシステムにダメージを負った。鈍い痛みが装甲から響いてくる。

『コンバーターユニット損傷!』

 装甲から煙が立ち上っている。回路が断線したらしい。

『氷川君踏ん張りなさい! 根性見せなさい!』

『何言ってるんですか小沢さん、敵が2体じゃ勝ち目ないですよ! 早く離脱命令を!』

『市民やPM(警官)を見殺しにするっていうの?』

 ふたりを見捨てて離脱なんてできない。その点では小沢と同意見だ。だが改修を経ても、G3は2体のアンノウンに上手く立ち回ることができていない。恐らく、この2体はそれぞれ前回の個体よりもパワーがある。単純な力勝負では、完全にG3は負ける。武器を手にしなければ。そう判断はできるがアンノウンの追撃は隙をくれない。

 地面に倒れた誠の胸を金色が踏み付けてくる。まだ耐えられる痛みだが、装甲がみしみし、と悲鳴を上げ始めた。筋力補正のためのコンバーター(電力変換機構)が破壊されて重い上に亀裂でも入れば、防具としての機能性も完全に破壊される。

 誠は金色の腹を蹴り上げた。ダメージは多少なりともあったようで、爬虫類じみた皮膚に覆われた体がよろめく。立ち上がって組み付き、力を拮抗させるも破られるのは時間の問題だ。

 そこへ、バイクのような駆動音が聞こえてくる。次の瞬間、猛スピードで何かが誠と金色に衝突し、止まることなくそのまま走りすぎていく。地面を転がった誠は、突如現れたそれを見やる。金と赤にカラーリングされたバイクに、見覚えのある背中の人影が跨っている。頭頂部から見える2本の金色の角で、誠はそれが何者かを悟った。

「お前は………!」

 戦士の駆るバイクは、どうやら市販のカスタム品ではないらしい。2本のマフラーからは灰色のガスではなく光の粒子が排出されている。機関部が唸りを上げると共に、マフラーからの光の粒子も大量に噴出されていく。光の尾を引いて、戦士のバイクは巡査へと向かっていた銀色を猛スピードのまま撥ね飛ばした。

 バイクを停車させた戦士が巡査を一瞥する。巡査は突如現れた戦士に敵か味方かの判断もせず、息をあえがせ逃げていく。

「アギトおお……!」

 立ち上がった金色が忌々しげに声を発する。誠は確信した。間違いない、あの戦士の名前は「アギト」だ。何故アンノウンが知っているのかは分からないが。

 金色はアギトに飛びついた。アギトはバイクのシートに腰を預けたまま、金色の胴に手を添えて軌道を逸らし、その背中に手刀を叩きこむ。金色は地面に伏した。

『GM-01、GG-02、アクティブ』

 スピーカーから小沢の声が聞こえてくる。誠はガードチェイサーへと走り、武装パックからふたつの武装を取り出す。GM-01のアンダーバレルにグレネードランチャーの弾頭であるGG-02サラマンダーを連結させる。

 アギトは襲い掛かってきた銀色の拳をいなし、その頭をタンクに押し付けるとバイクのエンジンを吹かした。殆ど引きずられるような形で、丘陵を駆け抜けていく。

 金色の目が誠に向けられる。大口径の砲口を向け、照準が定まると同時に誠はトリガーを引いた。発射されたグレネードが金色に命中し炸裂する。金色はよろめくも、再び誠へと向いて足を踏み出そうとする。G3装備の中で最大火力を誇るGG-02をまともに受けても意に介さないその姿に誠は逡巡した。

 だが、金色の足は止まる。その頭上に光輪が渦を巻き、悶えるように身をよじらせた金色の呻きが、自身の発した爆炎にかき消された。

『氷川君、もう1体を追撃』

「了解」

 ようやく敵を倒したことへの安堵を後回しにして、誠は武器を抱えたまま走り出す。山中にはまだアギトのバイクが吐き出した光の粒子が残っていて、尾を引くそれを追っていくことができた。アギトと銀色はそう離れてはなく、丘の頂にいた。アギトが急ブレーキでバイクを停めると、慣性に乗っ取って銀色が宙に投げ出される。バイクから下りたアギトの角が開き、足元で紋章が光った。紋章の光が足に集束すると同時、銀色が向かってくる。アギトは跳躍した。突き出された右足に銀色は背を向け、甲羅にキックを受ける。

 よろめいただけの銀色がふん、と笑ったように見えた。誠はGG-02の銃口を向ける。だが、銀色は呻いた。ぼろぼろ、と甲羅の破片が地面に零れ、頭上に光輪が生じる。体内からの爆炎で身を裂かれる様子を見届けたアギトの角が閉じた。誠の存在に気付いたのか、アギトはその赤い両眼を向けてくる。

「お前は敵なのか? それとも味方なのか?」

 アギトは応えない。言葉が通じないのか、そもそも奴に言葉という概念があるのか。永遠のように思える沈黙の後、アギトはゆっくりとした所作でバイクに跨り、エンジンを吹かして丘陵を下っていく。

 肉体を燃え尽くしたアンノウンの火は既に消えている。ただ、アギトのバイクが撒いた光の粒子は、まるで霞のように山中に漂っていた。

 

 

   4

 

 帰宅して部屋でぼう、っとしているうちに陽が暮れていた。照明の灯っていない部屋のなかで、スマートフォンの液晶が朧気に光っている。大好き、という千歌の声と笑顔が、未だに梨子の頭から離れない。好き、という気持ちを語る千歌はとても輝いて見えた。自分はどうだろうか。千歌のように、大好きだったピアノを今でも大好き、と言えるだろうか。

 動画サイトにアクセスし、アップロードされたμ’sの『ユメノトビラ』のPVを再生する。画面の中で踊り歌うμ’sのメンバー達は、当時は自分と同じ高校生だった。同じ音ノ木坂学院で勉学に励みながら、こんなにキラキラしながら歌っていた。ぼんやりと思っているうちに、動画は終わる。梨子はピアノの前に立った。教室に通い始めてしばらくしてから親が買ってくれた、文字通り梨子の人生と共にあったピアノ。鍵盤蓋を開くと、舞い上がった微粒子が窓から射し込む月光を浴びて光る。

 試しに黒鍵を指で押してみる。音程は乱れていないから調律は必要なさそうだ。思い返せば当然だ。あのコンクールの日から触れてさえいないのだから。ピアノは梨子を拒絶なんてしていない。音を出す箱は奏者を選んだりはしない。選ぶのはいつだって奏者、人間のほうだ。

 梨子がなぞる指の通りに、ピアノは音を出してくれる。耳で聴いただけだから簡単なメロディしか分からないが、ピアノは『ユメノトビラ』のメロディを奏でてくれる。梨子は歌詞をハミングした。前のように、なんて意識せず、裡に沸く想いのままに。

 序盤だけの演奏を終え、何気なく向けた窓の奥に人影がある。隣家に聞こえてしまったのか。窓を開けた隣人は梨子に笑顔を向け、手を振っている。

「高海さん?」

 窓を開けて呼ぶと、「梨子ちゃん!」と千歌は応じた。風呂上りらしく、頭にタオルを巻いている。

「そこ梨子ちゃんの部屋だったんだ!」

「引っ越したばかりで、全然気づかなくて………」

 十千万を訪ねたときも家に近い、と思ったがまさか隣だったとは。

「今の、『ユメノトビラ』だよね。梨子ちゃん歌ってたよね?」

「いや……、それは………」

「ユメノトビラ、ずっと探し続けていた」

 それは、曲の冒頭にある歌詞だ。

「その歌、わたし大好きなんだ。第2回ラブライブの――」

 「高海さん」と、熱弁しようとする千歌を遮る。千歌は迷わず進んでいる。夢への扉を探しに、立ち止まることなく遠くへと歩み続けている。だからこそ際立ってしまう。未だに1歩も動けずにいる自分の苦しさが。

「わたし、どうしたら良いんだろう。何やっても楽しくなくて。変われなくて………」

「梨子ちゃん……」

 海の音は聴けた。ただ、聴けただけだ。海が音を授けてくれても、梨子自身に何の変化も起こっていない。未だにあの音を譜面に起こすこともできず、ただ梨子の裡で取りまとめのない音を鳴らし続ける。やがてそれは劣化して、錆ついてしまうだろう。

「やってみない? スクールアイドル」

 千歌はそう言って手を伸ばす。「駄目よ」と梨子は弱く答える。

「このままピアノを諦めるわけには――」

「やってみて笑顔になれたら、変われたらまた弾けばいい。諦めることないよ」

 諦めるんじゃなくて、ただ休むだけ。それまでの繋ぎとしてスクールアイドルをやればいい。千歌はそう言っているのかもしれない。でも梨子は千歌が本気と知っている。本気で打ち込める仲間を探していることも。

「失礼だよ。本気でやろうとしている高海さんに。そんな気持ちで、そんなの失礼だよ………」

 ピアノに打ち込んでいた頃の梨子は、楽しんでいても遊び気分で弾いていたわけじゃない。本気で楽譜と向き合いメロディが最も美しく響くリズムで音を奏でること。生半可な演奏は曲を死なせてしまう。曲本来の美しさを引き出さない演奏を、梨子は何よりも嫌った。スクールアイドルにしても同じだろう。涙が零れてくる。千歌から誘われて、少しの間なら良いんじゃないかな、と揺らいだ自分が情けなくなった。スクールアイドルを、音楽を冒涜しようとした自分が嫌になった。

「梨子ちゃんの力になれるなら、わたしは嬉しい」

 千歌は嫌悪も迷いも、おくびに出さず言う。冒涜なんかじゃない、という赦しを提示しているように聞こえた。

「皆を笑顔にするのが、スクールアイドルだもん。それって、とっても素敵なことだよ」

 千歌は更に手を伸ばす。窓際の柵を乗り越えようとして、頭からタオルが離れて下へと落ちた。梨子は千歌へと手を伸ばす。自分に差し伸べられた手。もしかしたら、自分を海の底のような暗闇から引き揚げてくれるかもしれない手へと。でも、距離がある。どんなに伸ばしても届かない。

「さすがに、届かないね」

 引こうとしたところで、「待って! 駄目!」と千歌は更に窓から身を乗り出した。ここで引いたら、前に進めないよ。そう叱責されているようだった。梨子は再び手を伸ばす。月光が、半分以上を外へ乗り出した千歌の体を照らしていた。半袖の部屋着から伸びる腕が白く反射している。

 光へと通じる道。この人と一緒なら、わたしも行けるのだろうか。まだ見えない、新しい世界へ――

 懸命に伸ばしたふたりの手がゆっくりと、でも確かに距離を縮めていく。伸びきって小刻みに震えながらも体を柵から乗り出して、残りの数センチを縮める。

 そして、指先が触れ合った。

 

 






次章 ファーストステップ / 哀しき妖拳


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第3章 ファーストステップ / 哀しき妖拳 第1話

 

   1

 

 アンノウンはカメラで捉えることができない。

 撮影された映像を何度も本庁の鑑識に出してはいるが、以前として原因は不明のまま。警視庁内でも異端とされているG3ユニットから出された資料をまともに扱ってくれたかは疑問が残るが、結果として出たのは映像に加工された痕跡は無し、という潔白だけ。結果だけを見ればG3は本当に空間の揺らめきを捉えたということなのだが、だとしたらG3のスーツに刻まれた損傷はどう説明したら良いものか。

 ここまでくると、アンノウンはこの世ではない、別の世界や次元から来た存在なのではないかと思えてくる。アンノウンが存在する次元の物質はこの世界とは作りが根本から異なり、だからカメラに映らないのではないか。

 アンノウンと戦う術を持つ、アギトもまた。

「氷川君の言う通り、何度見てもアギトを敵として認識するのは難しいわね」

 カーゴベイで先日の戦闘映像を見ながら、小沢が告げる。一応重要な記録映像ではあるのだが、そこに映っているのは空間の揺らめきだけ。誠が視認できたアンノウンの甲羅も、アギトの姿もぼかされている。ふたつのオーロラがひとつのオーロラへ向かっていることだけが、辛うじて認識できた。

 「ええ」と誠は溜め息交じりに応じる。この映像も聴聞会で散々に文句を言われると目に見えている。

「彼に助けられたのは間違いありません。僕の力だけでは、アンノウンを倒すことはできなかったと思います」

 「でもだからって」と尾室が口を挟んだ。

「アギトを味方だと思うのは危ないんじゃないですか?」

 「そうね」と小沢は応じて椅子を立ち、検査用電線に繋がれているG3装備へと向かう。

「アギトの正体が分かるまでは、判断を保留にしておいたほうが賢明かもね」

 「アギトの正体か。かなり興味ありますね、それ」と尾室が言う。アギトはアンノウンと同じ存在かもしれない。それがG3ユニットでの見解だ。ただ、同類と見ても疑問は更に深まっていく。何故アギトはアンノウンと戦うのか。誠たち人間から見たらアギトとアンノウンは同じでも、当人同士では全く異なる存在なのだろうか。

「そういえばどうなった? 例の件」

 小沢の唐突な話題の変換に、誠は「例の件?」と尋ねる。アンノウン、アギト、オーパーツと抱えている案件が多いから、どれのことを指しているのか分からない。

「ほら、瓶の中にお金が入ってた、ってやつよ」

 ああ、と思い出すと同時に溜め息が漏れる。「それが……」と切り出すと「それが?」と小沢が念強く促し、叱責を覚悟で答える。

「紛失、してしまって………」

「はあ?」

 語気を強めた小沢の声にうろたえてしまう。誠がアンノウン出現の連絡を受け出て行ってすぐのこと。高海家の飼い犬が加えて走り回った末、口から落として割ってしまったという。しかも中身の硬貨は側溝に落ちて水流に流れて下水管の奥へ。たかが硬貨1枚のために市役所の管理下に回収を依頼するのは職権乱用になってしまう。

「真相は下水の中へ、ってわけですか」

 そう言った尾室を小沢が睨みつける。誰が上手いこと言えと、という無言の圧力に、尾室は目を背けた。

 

 

   2

 

『相談に乗るとも。ああ、待ってる』

 電話口で、両野はそう言って会う約束を取りつけてくれた。どうやって生きていけばいいか分からない。そんな涼の切実な悩みを聞いてくれる、と。

 城南大学の門はセキュリティもなく誰にでも開かれている。学生にも、講師にも、大学から籍を外した涼にも。よほど不審や恰好でなければ門前で警備員に止められることはない。だから涼は何食わぬ顔をしてバイクで正面の門から大学のキャンパスに入り、在籍時と同じように慣れた足取りでプールへと向かった。まだ早い時間帯のせいか学生も職員も殆どいない。プールサイドで朝練に精を出す部員もまばらだ。かつて毎日泳いでいたプールサイドに私服で入ることは初めてで、どこか奇妙な疎外感を覚える。それは涼が城南大学の学生でなくなった故か、それとも練習していた部員たちの訝しげな視線故か、判然としない。

「コーチならついさっき出かけたぜ。急用だってさ」

 両野に会いたい旨を伝えると、かつてタイムを競い合っていた部員は冷たく告げた。部員は3人で固まって、涼の前に立っている。これ以上は聖域であるプールに近付けさせない、とでも主張するように。さながら聖地を守る衛兵のようだ。

「俺に何か伝言は?」

「知らねえな」

 別の部員が突き放すように言う。まさか両野が約束を蹴ったというのか。親のように涼の面倒を見てくれた、あの両野が。

「お前大学辞めたんだろ?」

「関係者以外は、立ち入り禁止です」

 並べられる拒絶の声に反発する気力が沸かない。退学した涼はもう部外者だ。プールサイドに近付くことはできない。水泳選手として大学に貢献してくれる人材として、涼は入学し学費を免除された。もう水泳ができない今の体では、大学に身を置いても無意味。

「明日また来る、って伝えておいてくれ」

 「やだね」とすぐに返される。言ったのは、涼が事故の怪我で入院している間、繰り上げで大会の選抜メンバーに選ばれた部員だった。

「ちょっとばかり才能があるからって随分偉そうだったけど、お前もう終わりだよ」

 俺がいつ偉そうな態度を取った、と反発しようとする気持ちを抑えつけたところで、

「まあせいぜい頑張って生きてけよ。じゃあな」

 と部員たちはそそくさと奥へと歩いていく。涼も踵を返して歩き出した。もう二度と入ることのないプールの水面は見る気になれない。見たら未練が込み上げてくるだろう。自分にとっての古巣であり、生きる実感の持てた水の中は、もう涼の居るべき場所じゃない。

「もういいですよコーチ」

 離れた後方から部員の声が聞こえてきて、涼は脚を止めた。すぐそばにある扉の陰に隠れ耳を澄ます。そんなに大きな声ではないが、はっきりと涼は聞き取ることができた。何故だか、感覚が異常なほど鋭くなっている。前より物がはっきりと見えるようになり、音がしっかりと聞けるようになった。

「どうした奴は?」

 潜めた両野の声が聞こえる。「言われた通り追い返しましたけど」と部員が答える。さっき涼に向けたときとは全く異なる、困惑を帯びた声色だった。

「一体何があったんです? 喧嘩でもしたんですか?」

 そう、こんな声だ、と涼は過去の思い出を懐古する。まだ水泳選手でいれた頃、彼はこんな青さの残る声で涼と言葉を交わしていた。また追いつかなかった、次は追い越してみせるかなら、とライバルとして互いに競い合っていた。

「知らん……、俺は何も知らん!」

 震えた両野の声が涼の耳に染み入ってくる。涼は再び歩き出した。もう二度と来ることのないキャンパスに想いを馳せることなく、当然だ、と自分に言い聞かせながら。

 もしコーチと自分の立場が逆なら、俺も拒絶していたかもしれない。いや、絶対に拒絶する。いくら相手が身内に等しい存在であっても。

 俺自身が、俺を受け入れられないのだから。

 

 

   3

 

「ワン・トゥー・スリー・フォー、ワン・トゥー・スリー・フォー」

 朝の海水浴場に3人の掛け声が波の音に重なる。3人を前にして立っている譜面台は梨子が持ってきたもので、1台のスマートフォンはアプリでメトロノームの規則的なリズムを刻み、もう1台はカメラを動画モードにしてステップを踏む3人を撮影している。

「はいストップ!」

 曜が呼びかけて、千歌と梨子もステップを止めた。まだ朝方は肌寒い時期だが、運動で体温の上がった体を冷たい潮風が冷やしてくれて心地良い。

 3人でスマートフォンの画面を囲むと、曜が動画を再生する。画面のなかで3人の動きに、千歌が「どう?」と、梨子が「大分良くなってきている気がするけど」と曜に判断を仰ぐ。

「でも、ここの蹴り上げが皆弱いのと、ここの動きも」

 動画のタイミングに合わせ、曜が動きを指摘する。数秒だけ巻き戻して確認すると、指摘通り腕の上がりがやや甘く、「ああ本当だ」と千歌は漏らす。

 これでも良くなったほうだ。日頃から運動している曜は問題なかったのだが、運動なんて体育の授業くらいの千歌と、今までピアノに精を出してきた梨子は始めたばかりの頃はすぐに疲労で動きが緩慢になってしまったものだ。

「流石ね、すぐ気付くなんて」

 梨子の言う通り流石だ。今日は一見すればうまく調和が取れているように見えるのだが、曜は修正点を見落とさない。

「高飛び込みやってたから、フォームの確認は得意なんだ。リズムは?」

 曜が訊くと、「大体良いけど」と梨子が含みのある返答をする。

「千歌ちゃんが少し遅れてるわ」

 「わたしかあ」と千歌は空を仰ぐ。上手くできたと思っていたのに。ダンスは本当に難しい。ひとりでも振り付けのタイミングがずれてしまえばそこだけ悪目立ちしてしまう。

 見上げた空はまだ日が昇ったばかりで、藍色が夜の哀愁をまだ残している。その一点で飛ぶヘリコプターの胎を千歌は捉えた。全容がはっきり見えるほどの低空飛行で、ばりばりというローター音が波の音をかき消す。

「何あれ?」

 梨子が訊くと、「小原家のヘリだね」と曜が応えた。言われてみれば、前にも一度見たことがある。ピンクという派手なカラーリングだったから印象深い。

「小原家?」

「淡島にあるホテル経営してて、新しい理事長もそこの人らしいよ」

 ふたりの会話を聞いて千歌は思い出した。そういえば今年度から理事長が変わるらしい。新学期が始まってから当人から何の挨拶もなかったからすっかり忘れていたが。

 ヘリが空を旋回し、こちらに機首を向けてくる。視界のなかで小さかった機体が次第に大きくなっていく。

「何か、近付いてない?」

 千歌はおそるおそる言った。「気のせいよ」と梨子は言うが、いや気のせいじゃない。「でも――」と曜が言いかけたところでヘリは明らかに下降してきて、その進路は砂浜にいる千歌たちへと向いている。

 ヘリの回転翼が巻き起こす下降気流で、海水浴場の砂が舞い上がった。あまりの突風に身を伏した3人から少しだけ距離を置き、平面ではない砂浜に着地しないヘリは砂塵を舞い上げながら僅かに浮き上がったままの姿勢を維持している。

 「なになに?」という千歌の声が、自身の鼓膜にも届かないほどにローター音が周囲を満たしている。他の音が何も聞こえず、しかも舞い上がる砂が入らないよう目を細めていたから、ヘリの扉が開くのに千歌はしばし時間を要した。中にいる人物は既に千歌たち3人を捉えていて、顔の横にピースサインを添えている。

 視覚で捉えやすいほど目立つブロンドの髪を拭き晒す女性、いや少女というべきか。髪に続いて捉えた服は浦の星女学院の制服で、千歌たちと同年代だ。少女のソプラノボイスはローター音をするりと抜けるように、千歌の耳に届いた。

「チャオー!」

 

 

   4

 

 工場内は殺風景な様相を晒している。機器類は外に停められたトラックに詰め込まれ、残るは僅かなデスクとオーパーツのみ。貴重な研究物だったオーパーツは支える台座もなく、無造作に身を傾けてバランスを保っている。前に見たときには無かったはずの傷が、作業員たちの雑な扱いを表していた。まるで遊び飽きた子供に捨てられた玩具のようだった。

 小沢から知らせを受けて訪ねた誠を出迎える研究員はいない。オーパーツ研究プロジェクトのために召集された彼等は本来の職場へ戻ったようだ。大学の研究室か、民間の研究機関か。唯一工場に残っている三雲は、デスクに腰掛けて煙草をくゆらせている。彼女のこんな姿を見るのは初めてだ。喫煙者であることは彼女の白衣に染み付いた煙草の匂いから気付いてはいたが、大事な研究対象にヤニが付着するのを良しとするはずがない。誠の訪問に気付くと、三雲は自嘲気味に力なく笑った。

「見ての通り、オーパーツ研究局は今日で解散。当然よね、結局実験は失敗に終わったんだから」

 三雲は所在なさげに傾くオーパーツの前に立った。オーパーツから得られた遺伝子モデルの再現実験。それの失敗は既に小沢から聞いている。オーパーツに隠された二重螺旋は古代人の芸術作品であり、科学的な意味は全くない。したがって研究は終了。オーパーツは古代人により難解なパズルと結論付けられた。

「でも、では古代人は何のためにこんなものを作ったんです?」

 事情を知りつつも、誠は訊かずにはいられなかった。ただ大昔の人間が質の悪い趣向を凝らした遺物に過ぎない。現代人の我々はお遊びに付き合わされていただけだ。一蹴することは簡単にできる。でも、三雲は研究で確かにこのオーパーツの二重螺旋から遺伝子モデルを読み取った。ただの偶然と言えるだろうか。このオブジェに隠されていた遺伝子モデルは、一体どんな生命を象っていたのか。

「オーパーツから導き出されたコードは何を意味するんですか?」

「知らないわよ」

 三雲は紫煙と共に吐き捨てる。

「私に分かるのは、結局何も起きなかった、っていうことだけ」

 誠は三雲の目を見た。オーパーツから何かを探すような、彼女の眼差しを。このオーパーツから見つかったのは、無発見というだけの虚構だろうか。やはり彼女は何かを見つけたのではないか。遺伝子モデルから、何かが産まれたのでは。

「そうよ、何も起こらなかったのよ」

 その言葉は、まるで三雲が自分自身に言い聞かせているようだった。何か大きな過ちを犯し、その事実から逃避しているような。彼女は科学の力で何を産み出したのだろう。いや、古代人は何の遺伝子を現代に託したのだろう。古代人の残した遺伝子モデルは、産まれてはいけない悪魔の種だったとでもいうのか。

 煙草を咥える三雲に、誠はもう何も訊くことができずにいた。冷たい沈黙のなかで、三雲の吸った煙草の筒から灰が零れ落ちた。

 

 

   5

 

 アパートの自室に戻ると、涼はベッドに身を預けた。眠気が訪れることもなく、隣人も出かけたのか壁から物音は聞こえてこない。時折外から車の通る音が聞こえるが、それ以上に大きな音のない静けさの中に沈んでいく。

 何気なく向けた視線が、キャビネットの上で留まる。キャビネットの上にはバイクのヘルメットが無造作に、その横にはいくつか写真立てが置いてある。大学に入って初めての大会で優勝した際に撮った記念写真。部員全員で映る写真の中心には優勝盾を手にした涼が慣れない笑顔を作っていて、隣には両野が満面の笑顔を浮かべている。ベッドから起き上がった涼は写真を引き抜いてゴミ箱に捨てた。もう戻れない過去は見たくない。他の写真も処分に取り掛かる。優勝記念の打ち上げで撮った写真。合宿先の海水浴場でバーベキューをしている写真。

 写真が最後の1枚になったところで、涼の手が止まる。他の写真がどれも水泳部がらみだったなかで、この1枚は一線を画している。写真の中にいるのは涼と、長い髪をポニーテールに纏めた少女だけだった。ウェットスーツを着た少女は屈託のない笑顔で涼に寄り添っている。これはいつ撮ったものだろう。そう昔のものではない気がする。成人した涼はこれ以上体が成長することはないが、子供は短期間で成長し外見が様変わりする。少女は今どんな姿に成長しているのか。この写真の頃と同じ笑顔を、今でも涼に向けてくれるだろうか。

「何考えてるんだ俺は………」

 自分への戒めが、無意識のうちに口から出ていた。恩師に拒まれたからといって、どうして彼女が涼を受け入れてくれるというのか。今の自分を偽って彼女の前に現れて再びこの笑顔に出会えたとしても、結局はそれも偽りでしかない。

 涼は写真立てを寝かせた。

 

 



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第2話

 

   1

 

 理事長室に千歌たち3人が呼ばれたのは始業前だった。新任の理事長から話があるとのことでおそるおそる訪れたのだが、デスクと応接用のソファが備え付けられた部屋で待っていたのは今朝方に会ったブロンドの少女だけで、理事長らしき人物はまだ来ていないようだった。

「あの、理事長は?」

 千歌が訊くとブロンドの少女は得意げに胸に手を添え、

「このわたし、小原鞠莉(おはらまり)が新理事長でーす!」

 え、と首を傾げながら「新理事長?」と千歌は反芻する。鞠莉は「Yes!」と揚々と応じる。一挙一動が大きいから、動く度にセミロングの金髪が揺れる。

「でもあまり気にせず、気軽にMarieって呼んでほしいの」

 「でも――」と曜が言いかけるが「紅茶、飲みたい?」と鞠莉が訊いてくる。顔立ちは日本人離れした白人系だが、日本語が通じないわけではないだろう。現に本人が日本語を流暢に話している。

「あの、新理事長――」

「Marieだよ」

 どうやらその呼び方に拘りがあるようで、鞠莉は千歌に詰め寄る。このフランクさは外国人特有のコミュニケーションなのか、まず相手の文化に歩み寄るべく千歌は「ま、マリー……」と巻き舌で発音する。すると鞠莉は満足そうに笑った。ようやく話が進められそうだ。

「その制服は?」

「どこか変かな? 3年生のリボン、ちゃんと用意したつもりだけど」

 鞠莉の緑色のリボンは3年生の色だし、日本人よりも成長の早い大人びた肢体を包む制服も似合っていないわけじゃない。ただ制服について訊きたいのはそこじゃないということ。

「理事長ですよね?」

「しかーし、この学校の3年生、生徒兼理事長。curry牛丼みたいなものね!」

 「例えがよく分からない――」と呟く梨子に「分からないの?」と素早く鞠莉は詰め寄る。千歌もカレー牛丼とは何ぞや、という疑問が沸いているのだが、それを口にしたところで話は進まず泥沼に停滞するだけ。

「分からないに決まってます」

 停滞を破らんと、隣の生徒会室に通じるドアからダイヤが入ってくる。会話が聞こえていたらしい。壁が薄いのか、それとも鞠莉の声が大きいからなのか。ダイヤの姿を認識した鞠莉は飛びつかんとばかりに抱き着いた。

「Wow! ダイヤ久しぶり。随分大きくなって」

 まるでお姉さんのように頭を撫でる鞠莉にダイヤは「触らないで頂けます?」と冷たく言い放つ。鞠莉は気を悪くした様子は見せず、ダイヤの胸を掴み感触を確かめ、

「胸は相変わらずねえ」

「やかましい!」

 怒号を飛ばされたことでようやく鞠莉は離れた。ダイヤは「……ですわ」と平静を取り繕い、それに対し鞠莉は「It`s joke」と軽口を返す。ダイヤは目を背けた。これ以上鞠莉のペースに乗せられてたまるか、と千歌には見えた。

「全く、1年のときにいなくなったと思ったら、こんなときに戻ってくるなんて。一体どういうつもりですの?」

 ちらりとダイヤは視線をくべるが既にその先に鞠莉はおらず、窓際に移り勢いよくカーテンを開け放ち射し込む日光を燦々と浴びる。

「Shiny!」

 見れば見るほど鞠莉の掴みどころがなくなっていく。言動がどれも突拍子がなく、まだそう時間は経っていないはずなのに千歌は疲労を感じ始める。鞠莉と知り合いらしいダイヤも同じようで、彼女のリボンを掴み無理矢理引き寄せる。

「人の話を聞かない癖は相変わらずのようですわね」

「It's joke」

 「とにかく」とダイヤはリボンから手を放し、

「高校生3年生が理事長なんて、冗談にもほどがありますわ」

「そっちはjokeじゃないけどね」

 すると鞠莉はポケットから出した三つ折りの紙を広げてこちらに見せる。「は?」と呆けた声を漏らしてダイヤが凝視するその紙を千歌も覗き込む。その紙は任命状だった。

 浦の星女学院三年 小原鞠莉 殿

 貴殿を浦の星女学院の理事長に任命します

 浦の星女学院

「わたしのhome、小原家のこの学校への寄付は、相当な額なの」

 法人用の角印が押された任命状は、どうやら偽装ではなく本物らしい。つまりこの小原鞠莉は浦の星女学院の3年生として籍を置きながら、同時に理事長として経営に携わるということを、学校側から承認されている。

 「嘘――」という千歌の声にダイヤが「そんな、何で……!」と重ねる。「実は――」と先ほどとは打って変わって落ち着いた口調の鞠莉は千歌たちへと歩み寄り。

「この浦の星にSchool Idolが誕生したという噂を聞いてね」

「まさか、それで?」

「そう。ダイヤに邪魔されちゃ可哀想なので、応援しに来たのです」

 「本当ですか⁉」と千歌は興奮気味に言った。理事長の件はまだ半信半疑だが、学校からの支援を受けられるかもしれない。部としての承認も得られそうだ。

「Yes! このMarieが来たからには、心配いりません」

 すると鞠莉は手帳サイズのノートPCを開き、

「デビューライブはアキバdomeを用意してみたわ」

 曜と梨子が千歌を挟む形でPCの液晶を見る。画面にはペンライトが煌めくドーム会場の様子が映っている。これは確か、初めてドームが会場として使用された第3回ラブライブ決勝戦の映像だ。「そ、そんないきなり……」と困惑する梨子をよそに、千歌は感激の声をあげる。

「き……、奇跡だよ!」

「It's joke!」

 と鞠莉はノートPCを閉じた。感動が一気に引いて、千歌は冷たい眼差しを鞠莉へ向ける。

「ジョークのためにわざわざそんなもの用意しないでください………」

 小原は淡島のホテルオハラ以外にも世界中に多くのホテルをチェーン展開している。財産も相当なものと、内浦では有名な家柄だ。そこの令嬢となればアキバドームを押さえることも可能、と期待した自分はどれほどおめでたいのだろうか。

 人を食った鞠莉は不敵に笑う。正直、千歌には不安しかなかった。

「実際には……」

 

 今度はどんな突拍子のないことに付き合わされるのだろう。そう千歌は身構えていたのだが、鞠莉が会場として千歌たちを案内したのは会場としてはありきたりな、ある意味で「スクールアイドル」らしい学校の体育館だった。体育の授業や部活動以外にも、全校集会や式典にも使用される場所。だから当然、ステージもある。

「ここで?」

 始業前の誰もいない体育館を見渡しながら曜が訊くと、鞠莉は「はい」と応じ、

「ここを満員にできたら、人数に関わらず部として承認してあげますよ」

 「本当⁉」と千歌は訊いた。つまりはライブができる。ライブを多くの観客に観てもらって、スクールアイドルの魅力を知ってもらえるチャンスだ。「部費も使えるしね」という鞠莉の言葉通り、学校から活動資金も援助してくれる。

 梨子が冷静に問いを投げる。

「でも、満員にできなければ?」

「そのときは、解散してもらうほかありません」

 「ええ、そんなあ」と千歌は肩を落とす。認めてもらえないばかりか解散して活動するな、なんて酷すぎる。

「嫌なら断ってもらっても結構ですけど」

 挑発的に笑う鞠莉は「どうします?」と訊いてくる。「どうって……」と梨子は助け船を求めるような眼差しを千歌へ向ける。

「結構広いよねここ。やめとく?」

「やるしかないよ!」

 曜の問いとして向けた言葉に、千歌は即答した。

「他に手があるわけじゃないんだし」

 「そうだね」と曜は応じた。ピンチでもあるがチャンスでもある。こんなことで怖気づいて、μ’sのようなスクールアイドルになれるはずがない。満員にすればいい。観客が楽しめる歌とダンスを魅せればいい。条件はそれだけ。

「OK、行うということでいいのね」

 そう言って鞠莉は体育館から出ていく。彼女の背中が見えなくなったところで「待って」と梨子が、

「この学校の生徒って、全部で何人?」

 「ええと――」と曜が指を数え、数舜を置いて「あ!」と。全く容量を得ない千歌は「なになに?」と訊いた。答えたのは梨子だった。

「分からない? 全校生徒、全員来ても………。ここは満員にならない」

 そう遠くない過去である入学式の様子を千歌は思い出す。在校生である2、3年生と新入生と教員。それと外部からの来賓。総勢100人は越えていたであろう人数を抱えても、この体育館はがらんとした様子だった。浦の星女学院はあまり生徒が多くない。昔はそれなりに生徒もいたそうだが、今は教室にも空きが生じている有様だ。

「嘘……」

 遅れて理解すると同時に、現実から逃避したい衝動に駆られる。

「まさか、鞠莉さんそれ分かってて………」

 曜はそれ以上のことを言わなかった。初めから無謀な条件を突き付けられていた。言葉としてはっきりと口に出してしまえば、未だ朧気でいられる絶望もはっきりと実体を得てしまうような気がする。始める前から絶望するのは早計だ。でも、希望が見えているわけでもなかった。

 

 

   2

 

 被害者の名前は片平久雄(かたひらひさお)。年齢は56歳。杉並区在住で職業は都内のIT企業社員。被害当時は、仕事で営業先へ移動中だったと推測される。

 PCに映し出される被害者のプロファイルからは、何の血生臭さも感じられない。無機質なフォントは、本庁の捜査一課が特定した被害者の情報を綴ることで「生きた」感触をごっそりと抜き取っている。被害者の血に濡れていた現場の状況が事細かに記録されているにも関わらず、文字だけというのは現実味が削がれてしまう。沼津署のオフィスに漂うのは、コンクリートや樹脂に塗られた補強用塗装の臭いだ。血の臭いなんて嗅ぎ取れない。

 今回の事件は東京で発生した。沼津に滞在中の身でありながらも本庁所属である誠のPCにも、一応事件の内容が送信されている。もっとも、今は沼津を離れるわけにいかないから、捜査に参加することはできないが。

 被害者の死因は転落死。空から被害者が落下してきたという、目撃者たち数人の証言は一致している。通常なら事故もしくは自殺として処理される。事件として捜査が進められている理由は、落ちてきた建造物が特定できていないから。現場である公園の周辺には高層ビルが立ち並んでいるのだが、どれも公園とは距離があってどこのビルから落ちても公園まで到達するとは考えられない。つまりは「有り得ない」はずの転落。

「また不可能犯罪。アンノウンの仕業ですか」

 その声に振り返ると、オフィスに北條が入ってくる。本庁から派遣された捜査員のために設置されたオフィスには誠と北條のふたりしかいない。他の捜査員たちも出勤しているはずだが、沼津署の人間から向けられる排他的な視線に耐えかねて「捜査」として出払っているのだろう。誠も、本庁から送られる事件の概要に目を通す以外は、基本的にGトレーラーに出向く。北條も目的は誠と同じようで、自分のデスクにつくとPCを立ち上げる。他に人がいないから、PCの起動音がよく聞こえた。

「被害者の遺族ひとりひとりに護衛を付けるべきです」

 本庁でアンノウンの存在が認識されているかは判然としない。恐らく、あの上層部たちは重い腰を動かさないだろう。まだ下位階級の誠が進言したところで聞き入れてくれる確証もない。だがエリートと将来を期待されている北條なら、少なくとも誠よりは影響力があるはず。そう期待して述べたのだが、北條は「護衛ですか」と溜め息をついて、

「それもいいが、問題はどうアンノウンと戦うかでしょう。唯一の頼みの綱であるG3の装着員があまりにも頼りない」

 反論の言葉が見つからない。アンノウンと戦うために改修されたG3でも、誠は2体を相手に危うくまたG3を破壊されてしまうところだった。何とか1体を撃破できたものの、それはアギトが乱入してきたから。

 北條は続ける。

「報告書、読ませてもらいましたよ。この間の戦いのときも、アギトなる謎の存在に助けられたそうですね。氷川さん。とにかく私としては、上層部に訴えるつもりでいます。勿論、G3の装着員としてあなたが本当に相応しいかどうか、もう一度検討してもらうように」

 

 

   3

 

「どうしよう………」

 帰りのバスのなかで、千歌は窓にもたれかかりぼやく。窓ガラスには表情を不安で満たした自分の顔が映っていて、どうすればいい、という問いすらも反射しているようだ。

「でも、鞠莉さんの言うことも分かる。これくらいできなきゃ、この先もう駄目ということでしょ」

 後ろの席で曜と並んで座る梨子が言った。

「やっと曲ができたばかりだよ。ダンスもまだまだだし」

 そんな状況でライブを満員にしろ、だなんて目標が高すぎる。まだ自分たちは始めたばかりなのに。そう続けようとしたところで、「じゃ、諦める?」と曜が口を挟む。

「諦めない!」

 千歌は即答した。条件反射のように。「何でそんな言い方するの?」と梨子が声を潜めて訊くと、曜はどこか嬉しそうに答えた。

「こう言ってあげたほうが、千歌ちゃん燃えるから」

 

 ライブの勧誘に知り合いに全員に声を掛けようにも、高校生の交友関係なんて大概が校内に収まってしまう。別の高校に進学した友人を誘いそこからネズミ算式に交友の範囲を広げていこうにも、やはり現実的じゃない。

 そこで千歌は身内に助けを求めることを思いついた。仕事から帰宅して居間でテレビを見ている次姉に、好物のプリンを差し出して。

「お願い! いるでしょ従業員」

 「そりゃいることはいるよ」と美渡はぶっきらぼうに答えながらプリンを受け取る。

「何人くらい?」

「本社も入れると200人くらい」

 「200人……」と千歌はその数字を反芻する。全員は無理でも、全校生徒約100人と合わせれば体育館を満員にできそうだった。

「あのね、わたし達来月の始めにスクールアイドルとしてライブを行うことにしたんだよね」

 「スクールアイドル? あんたが?」と美渡は笑った。普段ならここから口喧嘩が始まるところだが、今は下手に出なければ。

「お姉ちゃんにも来てほしいな、って思って」

 普段の「美渡姉」と生意気な呼称は控え、「お姉ちゃん」と最大の敬意を込めて千歌は両手を合わせる。

「会社の人200人ほど誘って………」

 返答を待つが、美渡は無言のままプリンを食べている。妹の頼みよりもプリンの味のほうに意識が向いているようで、じれったくなった千歌はプリンを口に運び続ける次姉に口調を荒げる。

「満員にしないと学校の公認が貰えないの。だからお願い!」

 美渡は空になったプリンのプラスチック容器をテーブルに置いた。ようやく答えると思ったら、美渡は無言のままテーブルの隅に置かれているマジックペンに手を伸ばした。

 

 バカチカ

 手鏡に映る額に大きく書かれた文字を千歌は凝視する。この「バカチカ」が美渡の答えだった。幼い頃から姉妹喧嘩のときに決まって吐かれた姉からの暴言。

「おかしい。完璧な作戦のはずだったのに」

 自室の机にうなだれながら、千歌はウェットティッシュで額を擦った。

「お姉さんの気持ちも分かるけどね」

 ちゃぶ台で縫い物をしている曜が何気なしに言う。「ええ⁉ 曜ちゃんお姉ちゃん派?」と文句を飛ばしたところで、千歌は部屋にいるはずのもうひとりがいないことに気付く。

「あれ、梨子ちゃんは?」

「お手洗い行く、って言ってたけど」

 場所分かるかな、と思ったところで「あれ、梨子ちゃん」と翔一の声が廊下から聞こえてくる。お茶でも持ってきてくれたのか。出迎えようと障子を開けると、梨子はすぐそこにいた。両足を障子に、両手を窓際の柵に押し付け体を橋にしているような恰好で。その下にはしいたけが寝ていて、そんな彼女にお盆を手にした翔一は目を丸くしている。

「何やってんの?」

 千歌が訊くと梨子は安堵したように溜め息をついたのだが、「それよりも」と曜が話の続きをすると「え?」と目を見開く。

「人を集める方法でしょ?」

「そうだよねえ。何か考えないと」

「町内放送で呼びかけたら? 頼めばできると思うよ」

「後は沼津かな。向こうには高校いっぱいあるからスクールアイドル興味ある高校生もいると思うし」

 「まあまあ難しい話は後にしてさ、休憩しなよ」と翔一が部屋に入ってくる。3人分の湯呑をちゃぶ台に並べると翔一は廊下へと顔を向けて、

「梨子ちゃんもおいでよ。しいたけも遊び疲れたみたいだしさ」

 ああ、しいたけと遊んでくれていたのか、と千歌は納得した。しかし壁に上って何の遊びをしていたのか。

 そこでどすん、という音が盛大に響いた。

 

 



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第3話

 『サンシャイン』の劇場版は来年の1月公開らしいですね。

 本作も劇場版編までやる予定です。『アギト』サイドのストーリーは『サンシャイン』に組ませやすいよう考えてはいるのですが、『サンシャイン』劇場版の内容次第で変わると思います。てか必ず変わるでしょうね(笑)。




 

   1

 

「果南ちゃん、俺だけど」

 この日の初めての来客の声を聞き取り、果南は表に向かった。テラスに出ると、その来客である翔一がビニール袋を差し出してくる

「はい、回覧板とお土産」

「どうせまたミカンでしょ?」

「いいじゃない、ミカン美味いしさ」

 笑いながら果南はビニール袋を受け取る。中身は回覧板と大量のミカン。翔一は照明の点いていない店舗を見ながら、

「あれ、今日はお店やってないの?」

「今日は火曜日。うちは定休日だよ」

「あれ、そうだっけ?」

 翔一はおどけたように笑った。何度も来ているのに、と果南もつい笑ってしまう。一般人向けのドルフィンハウスにとって土日は売上が最も高いから、休日は多くの客が仕事に行く平日に限られる。

「こんな天気の良い日なんだから、どこか出掛ければいいのに」

 確かに天気も良いし、母も父の見舞いに行ったから暇といえば暇だ。でも休学中とはいえ高校生の自分が平日の昼間に堂々と街を歩くのは少し気が引ける。

「そうだけど、勉強しとかないと。休学も長引いてるし」

「偉いなあ果南ちゃんは」

 うんうん、と翔一は腕を組む。何だか年寄り臭い。

「天気も良いし、勉強もきっと捗るよ」

「さっき出掛けたら、って言ったのに」

 調子のいい翔一に、果南は呆れた視線を送る。年寄りじみたところがあると思えばどこか少年じみたところがある。だからこの年上の青年に対してついため口をきいてしまうのだが、本人も気を悪くしているわけじゃないのだから問題はあるまい。

「それに勉強なんて退屈だもん。数学とか苦手だし」

 出席日数は足りていたから進級はできたが、復学した頃に授業に着いていけずテストで赤点は取りたくない。赤点なんて取ったら補習で夏休みが潰れて家の手伝いができなくなってしまう。

「分かった!」

 唐突に翔一は組んでいた腕を解き、人差し指を立てる。

「ここはひとつ、俺が果南ちゃんの家庭教師をするとしよう」

 「ええ?」と果南は困惑気味に声をあげる。「ほら」と翔一は心配御無用とばかりに、

「俺の過去、もしかしたら一流大学のとても頭の良い学生だったかもしれないしさ」

 確かに年齢としては大学生でもおかしくないのだが、翔一に勉強ができるイメージは失礼ながらあまり沸かない。記憶を失う前も、どこかの家庭で家政夫として家事に勤しんでいたのでは、と思える。

 でも、天才とはこういった独特の雰囲気を持つ人のことを言うのかもしれない。もし本人の言う通り翔一が一流大学の学生だったら、翔一の過去の手掛かりになるし果南は勉強を教えてもらえる。一石二鳥だ。

「じゃあ、見てもらおうかな」

 そう言って果南は翔一を招き入れた。

 

 翔一を居間に通して、果南は自室から問題集を持ってきた。翔一が人畜無害な人間であることは重々承知なのだが、成人男性を自室へ招くのは多少の抵抗がある。千歌は翔一に部屋の掃除をしてもらっているそうだが、それは千歌にまだ幼さが残っていることが大きいだろう。

「果南ちゃん、お茶っ葉と急須ってどこかな?」

 居間に戻ると翔一がそう訊いてくる。客人だというのにお茶の準備をしようとするのは彼らしいが、果南は呆れと共に笑みを零し、

「もう、いいから早く始めよう」

 釈然としないのか口を尖らせつつも、翔一はテーブルについた。隣に果南が座り、「この問題なんだけど」と開いた問題集の頁を指さす。四角形が円に内接するための条件を問う証明問題。選択式で、1から4の中から正しい回答を選ぶ。

 翔一はシャーペンで問題文をなぞりながら、こめかみに指を当ててページを睨む。時折ペンを顎に当てて、再び問題文をなぞり、また顎に当てて、を繰り返す。

「どうしたの? 早く教えてよ」

 果南が急かすと、翔一はペンでページを指して「分かった!」とようやく声を発した。「本当?」と期待を込めて訊くと翔一は果南へと向き、

「俺の過去、一流大学のとても頭の良い学生――、じゃなかったんだやっぱり」

 駄目だこりゃ、と果南は思った。

「もう、これの答えは3だよ」

 言ってすぐ、「え?」と果南は漏らした。解き方なんて未だに分からない。でも、何となくこの問題の答えは3番という確信がある。別紙の回答集を開いて照らし合わせると、正解だった。

「当たってる……」

 「じゃあ、これは?」と翔一が問2を指さす。果南はじ、と回答の選択肢を見つめた。4通りの回答のなかで、「1」の文字がぼんやりと光を放っているように見える。

「1」

 果南が答えると、翔一は回答集を見て「正解だよ」と驚いた様子で果南を見ている。

「果南ちゃん凄いよ。家庭教師なんて必要ないんじゃない?」

「調子が良いだけだよ」

 きっと直感だ。2問続けて正解を当てるなんて確率が低いわけじゃない。そう自分に言い聞かせるも、偶然であることを証明するために次の問いを解こうと思えない。もし全問正解してしまったら。そんな有り得ない妄想に捉われ恐怖してしまう。

「あ!」

 壁に掛けた時計に目をやった翔一が声をあげた。

「そろそろ約束の時間だ」

「約束?」

「駅で千歌ちゃん達のチラシ配り手伝う約束しててさ」

「チラシ配りって、何の?」

「千歌ちゃん達が来月の始めにライブするらしいんだ」

 そう言って翔一はテーブルに置いた袋から回覧板を出し、中に挟んであるチラシを見せてくる。手書きをコピーした紙面の「ライブやります‼」という見出しの下に会場と日時、デフォルメされた千歌、曜、梨子のイラストが描かれている。会場は浦の星女学院体育館。日程は来月の第1日曜日。

「果南ちゃんも来てよ。千歌ちゃん達頑張ってるから、きっと良いライブになるよ」

 「あ、うん。時間取れたらね」と果南は答えるしかなかった。妹のような千歌を応援してあげたいという想いに偽りはない。でも表立って、千歌に「頑張れ」と言えない理由が果南にはある。

 「それじゃ」と翔一は急ぎ足で玄関から出て行った。まだ履き潰した靴の踵を歩きながら整えて、船着き場へと全速力で走っていく。テラスに出て翔一が無事に連絡船に乗ることができたのを見届けると同時、果南は翔一と入れ違いに船から降りた青年に視線を留める。視線と共に脚も固定されたように動かない。果南はただドルフィンハウスへと歩いてくる青年を瞬きせずに見つめ続ける。

 テラスの前で青年は脚を止めた。最後に会ったのはいつだっただろう。久々に会った青年の容姿は変わりなく、でも顔つきは随分と疲れ切った様子で、別人のようにも見えてしまう。

 その存在を確認するかのように、果南は青年の名前を呼んだ。

「……涼」

 

 

   2

 

 沼津市内で最も人通りの多い場所といえば沼津駅、というのが市民の共通認識だ。駅周辺には学校や企業の事業所も多く、そこへ電車で通う人々に向けての娯楽として、駅に隣接した商業ビルには映画館とゲームセンターが営業している。

 終業後の千歌たちがバスで向かうと、同じく学校帰りの学生や仕事帰りのOLたちが駅構内への階段を上がり、また構内から階段を下りていく。

「東京に比べると人は少ないけど、やっぱり都会ね」

 東京に暮らしていた梨子がそう述べるのなら、本当にここは人が多いのだろう。市内で遊びに行くとしたら真っ先に候補として挙がるのが駅周辺の市街地だ。人が集まる所には娯楽も集まり、その分バスやタクシーといった交通の弁も多く移動しやすい。

「いやー、お待たせ」

 と翔一が走ってくる。

「駐輪場探してたら遅くなっちゃって」

 「丁度良かったですよ」と曜が言った。

「そろそろ部活終わった人たちが来る頃ですし」

 帰宅部の学生が通るピークは過ぎてしまったが、まだ部活帰りがある。その時間帯を見計らい、チラシを配りライブの告知をするのが狙いだ。

「よーし、気合入れて配ろう!」

 意気込み、千歌は鞄からチラシの束を出して翔一に「はい」と手渡す。

「ひょっとしたら翔一くんのこと知ってる人がいるかもしれないし」

 「何で知り合いを探すの?」と梨子が訊いた。「ああ、そういえば梨子ちゃんは知らなかったよね」と曜が言って千歌も思い出す。梨子には翔一の境遇をまだ教えていなかった。これから彼との付き合いもあるだろうし、知ってもらっていいかもしれない。

「翔一くん記憶喪失なんだ」

 千歌がそう言うと、梨子は「え?」と目を丸くして翔一を見上げる。えへへ、と翔一は照れ臭そうに笑った。何で照れるのかは分からないが。梨子は息を詰まらせながら訊く。

「記憶喪失って………、何かの事故?」

「それが分からないんだよねえ。何も覚えてないからさ」

 一応当人が質問に答えたのだが、翔一はまるで他人事と捉えているように見える。梨子は向けるべき言葉を探しあぐねているみたいで、口を半開きにしたまま翔一を見つめている。千歌も翔一が高海家に来た日には似たような反応をした。彼が記憶喪失であると初めて知ったときの曜も同じく。

 バスターミナルに車両が停まった。中からぞろぞろと制服姿の学生たちが降りてそれぞれの行き先へと歩き始める。駅改札への階段か、ゲームセンターのあるビルか。

「さ、早く配っちゃおう」

 翔一が促し、千歌はチラシを手に取った。すぐ目の前を横切ろうとしたふたり組の女子高生たちに「あの、お願いします!」と笑顔でチラシを差し出すのだが、女子高生たちは他愛もないお喋りに夢中で至近距離にいる千歌に気付くことなく歩き去っていく。

「意外と難しいわね」

 その光景を目の当たりにした梨子が不安げに言う。

「こういうのは気持ちとタイミングだよ」

 そう言ってチラシを手にした曜は「見てて」と別の女子高生ふたりのもとへと向かい、「ライブのお知らせでーす!」と目の前に立つ。突然目の前に現れた曜に女子高生たちは驚くも、間髪入れず曜は「よろしくお願いしまーす!」とチラシを差し出す。興味を持ってくれたようで、受け取ったチラシを眺めながら「ライブ?」「あなたが歌うの?」と訊かれると、待ってました、というように曜は「はい、来てください!」と敬礼する。日にちが日曜ということで、互いの予定を確認しながら歩き去っていく様子から好感触のようだ。

 「凄い……」と梨子は呟いた。誰とでもすぐ仲良くなれる曜の性分を幼い頃から知っている千歌には見慣れた光景だが、いつ見ても流石だと思う。学校でスクールアイドル部――承認どころか申請もしていたかった頃だ――の勧誘をしていたときも、曜はすぐにチラシを捌き切ってしまった。

「よーし、わたしも!」

 気合と共に鼻をふん、と鳴らして千歌はひとりで駅の壁沿いを歩いている女子高生へと歩き、「あの」と声をかける。「はい?」と振り向いた彼女のすぐ脇の壁に手をつき動きを止めさせる。

「ライブやります、ぜひ」

 チラシを見せ、控え目な声で「あの……、その………」と困惑している女子高生に「ぜひ」と念を押して顔を近付ける。耐えかねたのか、女子高生はチラシを受け取ると「どうも」と律儀に告げて階段へと駆けていった。

「勝った」

 ガッツポーズする千歌に、「それいいね!」と翔一も品定めするように女子高生たちへと視線を巡らせる。

「津上さんがやったら犯罪になっちゃいますよ」

 呆れた様子の梨子だが、未だチラシを配れずにいる彼女に「次、梨子ちゃんだよ」と千歌は促す。梨子は少し臆した様子で、

「え、わたし?」

「当たり前でしょ。4人しかいないんだよ」

「それは分かってるけど……」

 梨子は曜へ視線を向けた。曜は順調にチラシを配っていて、彼女が声をかけた女子高生たちはみんなチラシを手にしている。次に翔一へ。翔一の持っている束も厚みが随分と減っていた。成人男性だから警戒されるかも、というのは杞憂で、持ち前の人懐っこい笑顔でチラシを配っていく。

「こういうの苦手なのに………」

 ぼやきながらも梨子は商業ビルのほうへ歩き、満を持してチラシを差し出す。

「あの、ライブやります」

 「来てね」と告げた先の少女は笑みで迎えてくれる。映画の広告ポスターのヒロインが。

「何やってるの?」

「練習よ、練習」

「練習してる暇なんてないの」

 「ほら」と千歌は背中を押した。こういうものは慣れだ。場数をこなしていくうちに羞恥も消えるだろう。「ちょっと」と脚をもつれさせながら前進した梨子の前に丁度よく人が通りかかった。初夏に差し掛かろうとしているこの時期には暑苦しい冬物のコートにサングラス、更にマスクという出で立ちの女性だった。顔が殆ど隠れているから年齢が判別しづらい。見るからに怪しいその女性に、引けなくなったのか梨子は意を期して「お願いします!」とチラシを差し出す。しばし逡巡を挟み、女性はチラシを受け取ると逃げるように走り去っていった。

 市街へと消えていく女性の側頭に纏められたシニヨンを千歌は見送る。似たような髪型を見たような気がしたが、いつどこでのことなのか思い出せなかった。

 

 

   3

 

 その青年がドルフィンハウスに客として訪れたのは、果南が高校に入った年の夏だった。

 第一印象は、正直なところ良くはなかった。幼い頃から家業を手伝ってきた果南は多くの客と接してきたし、当然若い男性の接客も慣れたものだった。中には年齢より上に見られがちな果南に言い寄ってくる男もいたが、そういった軽薄な誘いの受け流し方を、既に10代のうちに果南は身に着けていた。

 でも青年は果南に言い寄るどころか、果南から世間話を持ち掛けるまでひと言も発さなかった。話しかければ対応はするが、淡泊な態度でくすりとも笑わない。苦手意識を持つどころか嫌悪感すら抱いた。果南がダイビングのレクチャーをしようとしたら、必要ない、と突っぱねるように言ってそそくさと海に飛び込んだ。はいはいお好きにどうぞ、と当たり障りなく対応して帰ってもらおうと思っていたら、青年はすぐ水面に上がってきた。息継ぎをすると再び潜ろうとするのだが、フィンでの泳ぎ方をまともに聞かなかった青年は不格好なばた足で水飛沫をあげるばかりで、全く水面へ潜ることができていなかった。

「済まない。潜り方を教えてくれないか?」

 船上の果南を見上げて、青年はそう言った。果南は笑ってしまった。まるで子供が意地を張った末に折れたような姿に。不愛想な青年は機嫌を損ねると思ったのだが、果南の言うことには素直に耳を澄ませてくれた。一緒に潜ってレクチャーしていくうちに、青年は飲み込みが早いのかすぐにダイビングでの泳ぎ方を習得してしまった。

「競泳とはまた違うんだな」

 船に上がった青年は感慨深そうに言った。そのとき、ふっ、と青年が浮かべた笑みは果南にとって不意打ちだった。この人、こんな風に笑うんだ、と。

「俺、大学で水泳をするためにこっちに越してきたんだ。ずっとプールで泳いできたから、海での泳ぎがどんなものか知りたくてな」

 そう語る青年はとても楽しそうだった。店に訪れたときの仏頂面とはまるで別人のように。この人、泳ぐのが好きなんだな、と果南にはすぐに分かった。水に包まれることの心地よさ。特に夏の温められた海中は、まるで母親の胎内に戻ったかのような安らぎがある。子供の頃は、何で自分にはエラが無いのか、と疑問に思ったものだ。そのことを何気なしに話すと、「俺も思った」と青年も共感してくれた。果南と青年は互いに濡れた顔を見合わせながら、声をあげて笑った。

 その日から、青年は毎週日曜日にドルフィンハウスを訪ねた。水泳部の練習が休みなのは日曜日だけらしい。果南は自然と日曜日が待ち遠しくなり、日曜日を迎えると開店前から青年を待ちわびて船着き場を眺めるようになった。青年が船から降りるのが見えると胸が高鳴り、無意識に緩む頬で青年の来店を出迎えた。

 この気持ちの正体に気付いたのは、青年が事故のせいで来店が途絶えた頃だった。会わずにいたら忘れるどころか、青年の存在は果南のなかで着実に大きくなっていくばかりで、来るはずない、と分かっていても日曜日は落ち着かなくなった。

 これが、恋か。

 そう気付いたのは、青年が来店しなかった日曜日に閉店準備をしている際中だった。まさか自分が恋をするだなんて。言葉の意味は知っていても、それが持つ響きは実際にしてみないと分からなかっただろう。顔、声、仕草の全てが愛おしく、胸を熱くさせる存在。

 その青年こそが、葦原涼。

 果南の初恋の相手だった。

 

 沼津と三島の境目にある、かつては北條氏が城を構えていた丘はそれほど高くはない。遊歩道も整備されているし、十数分ほど歩けば山頂の公園へと到着する。普段から運動を欠かさない果南と涼は息を乱すことなく、山頂にて切り株をモチーフとした展望台に迎えられた。

 平日の淡島は静かだが、涼はできるだけ人気のない、間違っても知り合いと鉢合わせることのない場所を選んだような気がした。まだ高校生の自分に気を遣っているのだろうか。浦の星女学院に男女交際禁止、なんて校則は無い――不純異性交遊禁止、とあのお硬い生徒会長は言っていたけど――し、むしろ果南は知り合いに見せつけたい、とすら思った。わたしにはこんな素敵な彼氏がいます、と。

 でも、果南と涼は決して恋人同士とは言えない。こうしてふたりでどこかへ出掛けるのも今日が初めてだ。涼の運転するバイクの後ろに乗せてもらったのも初めて。果南は涼への想いは隠していない。直接本人に告白こそしなかったけど、分かりやすいくらいのアプローチはしてきたつもりだ。でも涼は果南が自然体を装って抱擁を誘っても適当に受け流すか、「本当に好きな奴のために取っておけ」と拒んだ。互いに触れられない、一定の距離を保つ。涼はそうすることで、果南とは店員と客という関係を維持してきた。唯一距離を詰めることができたのは、ふたりで写真を撮ったときだったか。子供扱いされていることにやきもきしたが、自分のことを尊重してくれる涼の硬派な一面に果南は一層に好意を深めた。

 それを改めて認識すると、果南は無性に自分の出で立ちが気になりポニーテールにした髪を手櫛でとく。恰好も野暮ったくないだろうか。ファッションにはあまり興味がないからよく分からない。

「1年ぶりかな、会うの」

 広場を歩く涼の背中に、果南は切り出す。話をしよう、とここへ連れてきたのは涼のほうだったが、山頂まで歩く道中でも無言を貫いていた。久々に会う果南に向けるべき言葉を探して、未だ見つかっていないように。

「聞いたよ。水泳も大学も辞めた、って」

 城南大学水泳部のホープとして、涼の活躍は沼津の地方新聞でも度々取り上げられていた。だから本人から連絡がなくても果南は涼が事故に遭ったことも、復帰してから初の大会で体調を崩したことも知っている。退学のことは、最近になってドルフィンハウスに客として訪れた城南の学生から聞いた。

「何かあったの? 復帰してからお店に来なかったの、水泳に打ち込んでるからだと思ってたけど」

 訊くと、涼は脚を止めてゆっくりと果南へと顔を向ける。とても寂しそうな眼差しだった。

「もう泳げない。もう選手ではいられないんだ」

「どうして? 事故の後遺症?」

 果南の問いに、涼は無言のまま顔を背ける。答えてくれるのを待ってみるが、涼は俯いたままの視線を上げることなく、ただ空虚を見つめ続ける。

 「勝手だよね」と痺れを切らした果南は呟く。

「ずっと顔見せなかったくせに、久々に会いに来てくれたと思ったら何にも話してくれないし。涼ってすっごいわがままですっごい弱虫なんだよね」

 ぶっきらぼうで粗暴に見える涼が、実はとても繊細な青年だと果南は知っている。店に訪れた涼はよく果南に打ち明けてくれた。水泳選手としての伸びしろ。周囲から寄せられる期待へのプレッシャー。

「お前の言う通りだ。やっぱり来るべきじゃなかったか」

 そう言って涼は遊歩道へと歩き出す。その背中に果南は告げる。

「いいよ、頼ったって」

 1年ぶりに会っても涼への気持ちは変わらない、と確信できる。だから以前のように話してほしい。果南は今年で18歳になる。もう子供扱いせずに頼ってほしい。振り向いてくれる涼に果南は微笑む。

「わがままで弱虫な涼が好きなんだから」

 

 



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第4話

 特撮原作なので怪人の名前とか技名とか出すべきじゃ、とは思ったのですが、『アギト』の怪奇ものテイストを演出するために省くことにしました。




 

   1

 

「お願いしまーす!」

 すっかり聞き慣れたその声は、遠くからでも花丸の耳に届いた。たまにルビィと書店で本を買いに行くのに利用する沼津駅は今日も人が多いのだが、いつもと異なり多くの女子高生たちがチラシを手にする光景が映る。女子高生たちのチラシの中心に、あの先輩たちがいた。

「花丸ちゃーん!」

 こちらに気付いた千歌が駆け寄ってくる。同時にルビィが花丸の大量買いした本が包まれた風呂敷の陰に隠れる。「はい」と差し出されたチラシを手に取った花丸は見出しの「ライブ」という文字を声に出す。

「花丸ちゃんも来てね」

 千歌が言うと「やるんですか?」と背後からルビィが顔を出した。でもすぐに花丸の後ろに隠れて身を縮こませる。人見知りのルビィは未だに千歌に慣れていないらしい。そんな彼女の隣に千歌はそっとチラシを差し出す。

「絶対満員にしたいんだ。だから来てね、ルビィちゃん」

 おそるおそるチラシを受け取ったルビィは千歌を見上げる。その光景に花丸は少し驚いた。ルビィが他人と目を合わせるなんて滅多にない。

「じゃあわたし、まだ配らなきゃならないから」

 千歌は人の多いバスターミナルへと戻ろうとしたのだが、その背中に「あの」と震えながらもルビィが呼び止める。ルビィが大声を出すなんて、悲鳴以外にあっただろうか。ましてや他人との会話のなかで。脚を止めて振り返った千歌に、顔を赤くしながらもルビィは尋ねる。

「グループ名は、何ていうんですか?」

 「グループ名?」と反芻した千歌は自分のチラシへと視線を落とし、「あ……」と何かを思い出したのか気の抜けた声をあげる。何だろう、と花丸が思ったとき、ばさり、という音がバスターミナルの方から聞こえてきた。

 花丸の視線の先で、千歌の他にいる先輩たちとチラシを配っていた青年が棒立ちになっている。その足元でチラシが散らばっていた。

「翔一くん?」

 同じく青年に視線を向ける千歌が呟く。あの青年の名前だろうか。翔一と呼ばれた青年は千歌のほうを向く。何やらただ事ではないような、そんな顔をしている。

「ごめん千歌ちゃん、俺行かなくちゃ」

 そう言うと、青年は落としたチラシを拾うことなく走り出す。「翔一くん!」と千歌は青年の背中に言った。青年は脚を止めることなく走り続けるが、それでも構わず千歌は大声で続けた。

「ちゃんと帰ってきてよ! いつもの翔一くんのままで帰ってきてよ!」

 

 

   2

 

「これから海潜ってく?」

「いや、そこまで図々しくなれないよ」

 果南の誘いをやんわりと断りながら、涼は不思議な感慨を覚える。さっきまでの恐怖はすっかり抜け落ち、無意識に頬を緩めた。そんな涼を見て、果南も笑みを零す。

「そういえば、今日学校はどうしたんだ?」

 今更になって今日が平日であることを思い出した。高校生の果南は学校に行っているはず。会えたから良かったが間抜けなものだ。部屋に閉じこもって曜日の感覚が抜けかけていたとはいえ、平日の昼間に訪ねようだなんて。

「父さんが怪我で入院しててね。お店手伝わなきゃいけないから休学中」

「そうだったのか。そんな大変なときに………」

 「ごめん」と言おうとしたところで、「だから」と果南に遮られる。

「散々ほったらかしにされた分、いっぱい埋め合わせしてもらわないとね」

 果南は嬉しそうだった。年齢不相応に大人びた彼女だが、以前も時折見せていた少女らしい屈託のない笑顔に涼は頬の熱さを感じる。顔を背けようとしたが、いや、と思い直した。もう彼女と距離を取る必要はない。水泳という目標は失った。今の自分に残されたのは果南だけだ。どう生きていけばいいか、その答えが彼女の笑顔で見つかった。

 これからは、この少女のために生きていけばいい。

「約束する。もう寂しい想いはさせない」

 しっかりと果南の澄んだ瞳を見据え、涼は言った。果南は頬を赤く染めて、でも笑顔で頷いてくれた。

 海のほうから風が吹いてくる。そろそろ帰ったほうがよさそうだ。休学中とはいえ、果南を連れ回すのはあまり良くない。涼が歩き出すと、果南は隣につく。歩く度に、互いの服の袖が触れ合うほどの距離だ。以前のように離れはしない。

「ひとつ、訊いてもいい?」

「ん?」

「涼が水泳を辞めたわけを知りたいの。涼の支えになりたいし」

 果南の問いに、涼はどう答えたらいいか言葉を探る。身に起こったことを正直に話す勇気はまだ沸かない。果南なら受け入れてくれると信じたいが、両野のこともある。

「もうなってるさ。お前が俺を必要としてくれれば、それでいい」

 精いっぱいの返答だ。騙しているようで後ろめたさはある。でも、胸に感じる温もりは絶対に放したくない。もう泳げなくても構わない。果南が傍にいてくれれば、それで十分。

 不意に、展望広場に突風が吹いた。体が持っていかれそうなほどの強風で、涼は果南共々芝生の上に倒れてしまう。しゅるしゅる、という音が聞こえて、涼は視線を上げる。

 いつからそこにいたのか、「それ」は涼と果南の目の前に立ってふたりを見下ろしている。一瞬、筋骨隆々な不審者が裸でいると思った。だが「それ」の頭はまるでコブラのようで、人間に似た胴体とのアンバランスさに体が硬直してしまう。再び突風が吹いた。叩きつけるような風が涼と果南の体を持ち上げる。地面に背中から落ちると、肺に溜まった空気が咳と共に吐き出された。

「果南!」

 痛みに顔を歪める果南に駆け寄り肩を抱く。謎の生物はゆっくりと歩いてきて、しゅるしゅる、と蛇が地面を這うような呼気を歯が無数に並んだ口から吐き出す。

 その呼気が、バイクの走行音で打ち消された。

 ぶうん、とエンジンを唸らせながら、1台のバイクが展望広場の決して平坦ではない地面を走ってこちらへ近付いてくる。見るもの全ての光景が、涼の理解を越えていた。停車したバイクに乗るのもまた人ではなく、金色の鎧に覆われた戦士然としたものだ。バイクから降りた戦士を、謎の生物はぎょろりとした目で睨む。異形同士で交錯させていた戦士の赤い目がこちらへ向いた。それを隙と見たのか、謎の生物が拳を振り上げる。攻撃を察知した戦士は拳を腕で受け止め、腹に蹴りを入れた。よろめいたその顔面に、戦士は拳をぶつける。

 謎の生物は耳元まで裂けた口を歪めた。まるで怒っているように見えた。その頭上に光が渦を巻き、形成された光輪から1本の棒が突き出てくる。謎の生物は棒を掴み、引き抜くように下へ降ろすとそれが身の丈ほどある杖だと見て取れた。二又に別れた先端が現れると、光輪が消えていく。武器を得た謎の生物が、杖を横薙ぎに振った。戦士はバックステップを踏んで逃れ、腰にあるベルトのバックルにあたる球に手をかざす。

 謎の生物がそうしたように、戦士のベルトからも棒が伸びてきた。自分の腹から出てきた武器を掴み引き抜くと同時、周囲に先ほどよりは弱いが、十分に激しい風が吹く。風は戦士を中心として吹き荒れているようだった。吹き上げられる草に囲まれながら戦士の鎧が金色から青へと変わり、左腕の筋肉が一回り大きく隆起していく。それがベルトから出した棍棒を扱うに相応しい姿のように。

 戦士の棍棒の両端がぎらり、と鋭い光を反射しながら開き、一対の刃になる。戦士は刃を謎の生物に向け、ゆっくりと脚を動かしながら間合いを計っている。精神に一寸の狂いも見られない、全てが合理に叶ったかのような所作だ。まさに嵐を纏いながらも動じない、超越精神の青(ストームフォーム)

 互いに武器の切っ先を向け、先手を切ったのは戦士のほうだった。走り出す戦士を謎の生物が追い、林のなかへと飛び込んでいく。

「逃げるぞ果南」

 有無を言わさず果南の手を引いて起こそうとしたとき、涼の腹が疼いた。「うっ」と呻き膝を折る。「涼? 涼!」と今度は果南が涼の肩を抱いてきた。こんなときに発作か、と涼は苦痛に顔を歪める。腹を押さえ、額に汗を滲ませながら脚を持ち上げ、涼は果南と共に遊歩道へと駆け出す。

 

 広場から十分に離れた頃合いを見計らい、翔一は脚を止めた。これだけ離れれば、戦いの余波が果南に及ぶことはない。敵もまた脚を止め、杖をこちらに向けてくる。杖の切っ先を鋭く光らせながら、敵の武器が迫った。それをハルバートで受け流しつつ、交差した武器を上から抑えつけて動きを拘束する。力ずくで拘束を解こうとする敵の構えに緩みが生じた瞬間を翔一は見逃さず、がら空きになった腹に蹴りを入れる。

 互いの体が離れ、再び間合いを計る。この姿で戦うのは初めてだが、勝てる、と翔一は冷静に分析する。素早く立ち回れるこの姿なら。

 ふふふ、という笑みに似た声が聞こえ、翔一は僅かに視線を背後へと向ける。相対する敵が視界から外れないように。背後にも敵が立っていた。こちらも蛇に似た顔で、体躯はどこか女性じみた丸みとしなやかさがある。ドレッドヘアのように絡まり合った頭髪は目を凝らして見ると蛇だ。区別するなら杖を構える敵は雄蛇、光輪から鞭を取り出した敵は雌蛇というべきか。

 雌蛇が鞭を振った。しなる革紐がハルバートに絡みつく。自由がきかないなかで無理矢理にハルバートを振り回して引き千切ろうとするが、頑丈な鞭はむしろきつく柄に縛りつく。空気を裂く音を捉え、翔一は身を屈めた。雄蛇の振る杖の切っ先が翔一の頭上を掠め、振り切ったところで柄で胸を突かれる。

 流石に2体を相手取るのは分が悪い。先日も2体を相手に戦ったが、青の戦士が片方を倒してくれなければ危ないところだった。不利な状況が長引けばいずれ致命的な隙が生じる。

 翔一は勢いをつけて体を反転させた。鞭で繋がれた雌蛇が脚をもつれさせる。そこへ援護に回ってきた雄蛇の突き出された杖をハルバートで軌道を逸らし、慣性のまますれ違おうとする雄蛇の背中に拳を打ち付ける。前のめりになった雄蛇は地面を転がり、そのまま重力に従って丘の斜面を転げ落ちていく。

 これで1体1。雄蛇が戻ってくる前に雌蛇を倒し、次に雄蛇を倒す。

 鞭がハルバートから離れた。まるで意志を持っているかのように。よく見れば、鞭の素材は革じゃなく蛇だった。鱗をてらつかせ、先端にある頭をもたげてこちらを見据えると、細長い舌をちろりと出している。

 翔一がハルバートを構えたとき、突風が林のなかを吹き抜けた。枯草が舞い上がり、土煙が視界を妨げる。翔一はハルバートを振った。空気を震わせる刃が風を吹き、翔一の体を中心として旋風を巻き起こす。旋風が土煙を吹き飛ばすと、そこにいたはずの雌蛇が消えていた。どこへ行ったのか、足跡も残さず。

 ざわざわ、と樹々の葉が擦れ合う音が聞こえてくる。翔一は耳を澄まし、雌蛇の笑い声を探ったが、それは聞き取ることができずただ林のざわめきばかりが耳をついてきた。

 

 発作は治まるどころか悪化していくばかりだった。激しくなる脈が走っているせいか、それとも発作のせいか分からなくなる。それでも涼は懸命に脚を動かし走り続ける。後で倒れてもいい。でも果南だけは逃がさなくては。

 遊歩道を下った先の駐車場まであと少しのところで、樹の陰から人影が出てきた。明らかに人ならざる者、蛇面の生物がふたりを待っていたかのように立つ。

「この野郎!」

 果南から手を放し、涼は謎の生物に掴みかかった。顔面に拳を見舞うが、謎の生物の顔を多少歪めたばかりで佇まいは一寸の乱れもない。いとも容易く、まさに赤子の手を捻るように涼は突き飛ばされた。

「涼!」

 樹にぶつかった衝撃が発作の苦しみに上乗りされたのか、目眩がしてきた。ぼやける視界でこちらへ果南が駆け寄ろうとしてくるのが見える。その果南へ脚を進めようとする謎の生物の姿も。涼は声を絞り出した。

「逃げろ果南!」

 起き上がり謎の生物へ組み付く。決して離すまいと肩を掴みながら、涼は叫ぶ。

「逃げろおっ!」

 謎の生物を道連れに、涼は遊歩道から外れて林の中へと飛び込んだ。互いに掴み合ったまま地面を転がり、何度か視界がぐるぐる回ったところで背中に衝撃と鈍い痛みが走り、涼は手を放した。どうやら樹に激突したらしい。荒い呼吸を繰り返しながら涼は謎の生物を睨んだ。この生き物は果南を狙っていた。何故彼女を標的にするのか。この生物にとって、果南は敵だというのか。

 突風が吹いた。さっき現れたときといい、奴は風を操ることができるのだろうか。吹き飛ばされる周囲の枯草が散らず、むしろ一点に集束していくのが分かった。風の吹く先を見やると、林の樹々が揺らめいている。揺らめきは渦を巻き、そこへ枯草や折れた枝が吸い込まれていく。涼の体も渦へと引かれ、ずるずる、とまるで巨大な蛇に飲み込まれていくかのように、空間の渦へと体が沈んでいく。渦の奥へ広がる虚無の暗闇へと。涼はか、と目を見開いた。頭まで渦へ引きずり込まれる寸前まで、涼は謎の生物を見続けた。謎の生物は風に体を運ばれることなく、まるで鑑賞物のように涼を眺める。大きなその口が、まるで笑っているかのように歪む。

 次の瞬間、視界に蒼穹が広がった。

 

 駐車場へ辿り着くと悲鳴が聞こえてきた。涼の声だ。でもおかしい、と果南は思った。涼の声が上空から聞こえるからだ。見上げると果南は目を剥いた。さっきまで山頂への道にいたはずの涼が、手足をばたつかせながら落ちてくる。このまま落下すれば涼は果南のすぐ目の前、舗装された駐車場のアスファルトに叩きつけられるだろう。想像できる光景のあまりの恐ろしさに、果南は目をぎゅ、と閉じた。数舜の間を置いて鈍い音が耳孔に響く。続けて力の抜けた「うう……」という呻き声が。

「涼!」

 生きてる。奇跡が起きた。彼に駆け寄ろうと目を開くと同時、果南は踏み出そうとした脚を止めた。

 目の前に倒れて身をよじらせているのは、涼ではなかった。

 涼どころか、人間とも呼べない生物だった。

 黒ずんだ皮膚には太い血管が浮き出ていて、皮膚を覆う緑色の鎧もまた生体組織のようにどくん、と脈打っている。顔の半分を占める両眼は赤く充血していて、額から左右へと角が伸びている。

 生物の黒い皮膚が瑞々しい肌色になっていく。角も引っ込んでいき、赤い目も小さくなって涼の顔を形作っていく。

 果南に気付いた涼が、未だ赤く染まった目を向けてきた。ぞくり、と背中に冷たい汗が伝っていくのが分かる。それを認識してようやく、果南は脚を動かすことができた。涼が上体を起こそうと地面に手をつくと同時、果南は全速力で駆け出した。

 住宅街へ出ると、パトカーのサイレンが聞こえてくる。音が大きくなるにつれて、屋根に赤いパトランプを付けた黒のクラウンが近付いてくる。警察だ、助かった。果南に気付いたのか、クラウンが本城山へ入る曲がり角のところで停車した。運転席から若いスーツ姿の男性が出てくる。

「大丈夫ですか?」

「助けてください! 化け物が………」

 息をあえがせながら果南が言うと、男性の眼差しが鋭くなった。果南が走ってきた方向を一瞥し、「乗りなさい」と果南を助手席に急かす。急いで乗り込むと同時、男性はシートベルトも着けずアクセルを踏み込む。ぶうん、とエンジンが甲高くうねりをあげ、静かだった街へと走り出した。

「こちら氷川。現場近くにて女性ひとりを保護しました」

 男性が車に備え付けられた通信機に話しかけている。通信機のスピーカーから何やら聞こえるが、ノイズ交じりでよく聞き取れない。通信機を所定の位置に戻した男性が尋ねてきた。

「他に人はいましたか?」

 「いいえ、いません……」と果南は答えた。あれは人じゃない。

 涼だって、人間じゃなかった。

 

 

   3

 

 グループ名。

 一応アイドルなのだから、それくらいはあるものと梨子にも分かる。自分たち3人が何というグループなのかは気にはなっていたのだが、決まってなくても千歌は考えているものと思っていた。

「まさか決めてないなんて………」

 夕焼けに染まる千本浜の海岸で、ストレッチをしながら梨子は呆れを漏らす。「梨子ちゃんだって忘れてたくせに」と千歌が文句を飛ばしてきたのだが、呆れて皮肉をこれ以上言う気になれない。

「とにかく、早く決めなきゃ」

 と曜が言った。ライブ当日まであまり日がない。歌唱やダンスのレッスンに時間を割きたいところを、グループ名なんて初歩的なもので潰したくない。「そうだよねえ」と千歌が応じ、

「どうせなら学校の名前入ってるほうがいいよね。浦の星スクールガールズとか」

「まんまじゃない」

 指摘すると「じゃあ梨子ちゃん決めてよ」と千歌が振ってくる。「そうだね」と曜も便乗してきて、

「ほら、東京で最先端の言葉とか」

 いきなり何てハードルを上げてくれたのか。音ノ木坂にいた頃もピアノばかりやっていたのだから流行なんて全く知らなかった。ましてや最先端の言葉なんて自分のほうが知りたい。とはいえ早くグループ名を決めたいのは梨子も同じで、「えっと、じゃあ」と言葉のボキャブラリを絞り出す。

「3人海で知り合ったから、スリーマーメイドとか」

 「いち、にー、さん、しー」とふたりは開脚ストレッチを続行した。まさか採用ということか。

「待って、今のなし!」

 もし本当に採用されてしまったら、忘却したい青春の1ページになるところだった。我ながら捻りがない。今後千歌から作詞を手伝ってほしいと頼まれても絶対に断ろう、と梨子は誓った。

「曜ちゃんは何かない?」

 砂浜をランニングしながら、千歌が尋ねる。「んー」としばし唸り、曜は脚を止めると敬礼して、

「制服少女隊、どう?」

 「ないかな」という千歌に「そうね」と梨子も同意する。「ええええ⁉」と不満の声をあげるあたり、曜にとっては名案だったらしい。

 ひとまず練習を中断して、砂浜に落ちていた木の枝で候補を書いていく。Sunshine、波の乙女、みかん、エトセトラエトセトラ。

「こういうのはやっぱり、言い出しっぺが付けるべきよね」

 梨子が言うと、「賛成!」と曜が挙手する。「戻ってきたあ」と空を仰ぐ千歌に梨子は詰め寄り、

「じゃあ制服少女隊で良いっていうの?」

「スリーマーメイドよりはいいかな………」

「それはなし、って言ったでしょ!」

「だってえ――」

 言いかけたところで、「ん?」と千歌の視線が下へと落ちる。その視線を追うと、波打ち際に他の案よりも大きな文字で『Aqours』と書かれている。波が迫ってくる寸前で、このまま潮が満ちたら波に洗われて消えてしまいそうだ。こんな案が出ただろうか。いくら候補が多く出たからといって、こんな目立つ大きさなら覚えていそうだが。

 「エー、キュー、アワーズ?」と千歌は読み上げた。それだと語呂が悪い気がする。「アキュア?」と梨子も声に出してみるが、それも少しおかしい。

「もしかして、アクア?」

 と曜が言った。それが一番しっくりくる。水という意味だろうか。でも、水ならばスペルは『Aqua』のはずだが。

「水かあ」

 と千歌はしみじみ言った。

「何か良くない? グループ名に」

「これを? 誰が書いたのかも分からないのに?」

「だから良いんだよ。名前決めようとしているときに、この名前に出会った。それって、凄く大切なんじゃないかな?」

 「そうかもね」と曜が応じた。誰が書いたかも分からず、でも確かにそこにある『Aqours』という文字。出自の曖昧さがどこか神秘的な響きを醸し出している。

「このままじゃ、いつまでも決まりそうにないし」

 皮肉を言いながら、梨子もこの名前が良いと思った。更に案を出しても、これ以上に自分たちにしっくり来る言葉は見つからない気がする。

「じゃあ決定ね」

 千歌は言った。

「この出会いに感謝して、今からわたし達は『Aqours(アクア)』だ!」

 

 



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第5話

 

   1

 

 Gトレーラーのカーゴでは昼夜を感じ取られない。窓なんて設けられず外光は完全に遮断されているから、常に白色蛍光灯の光に照らされている。こんな場所に閉じこもっている小沢は体内時計に狂いが生じないのだろうか。訪れる度に誠はそう思う。尾室のほうは外に出て交感神経を整えるようにしているらしい。

「じゃあアギトが市民を守った、っていうの?」

「はい。保護した少女の証言から、そう推測するのが妥当だと思います」

 松浦果南という、アンノウンに襲われた少女を保護できたのは偶然の幸いと言っていい。パトロール中の巡査がスピード違反のバイクを目撃したが、そのバイクの運転手がとても人間とは思えない容姿をしていたという通報を受け、まさかと思い誠はそのバイクが向かったという本城山公園へと車を走らせた。そして果南の保護へと至る。

 一応沼津署で聴取はしたのだが、果南はまだ気が動転しているようでその時の状況をさわりだけしか聞けていない。金色の角を持つ生物が怪物と戦っていた、という証言からアギトで間違いないだろう。今日のところは母親に迎えに来てもらい家に帰したが、後日詳しく話を聞く必要がある。

「アギトは襲われた少女を庇っていたようです」

 「でも」と尾室が口を挟む。

「それだけでアギトを味方と見るのは――」

「あなたいつまでそんなこと言ってるのよ」

 と小沢が遮った。「男らしくないわね」とデスクについてPCのキーを叩き始める。誠がカーゴを訪れるまでG3の油圧システムを調整していたらしい。「そ、そんな」と狼狽えた様子で尾室は小沢の背中へ、

「小沢さんだって判断を保留とか言ってたじゃないですか」

「あーうるさいうるさい。市民を助けるために戦ったならもう味方に決まってんでしょ」

 そこで小沢は手を止めて誠へ向き直る。

「でも、こうなると何としてでも彼の正体を知りたいところね」

 小沢はまるで楽しんでいるような声色だ。未知の領域に迫ろうとしていること、それを解明できるかもしれない可能性。全く予測できないことに期待を膨らませている。市民を守る警察官としてはあまり褒められるものじゃないが、誠も理解できなくはない。

 アギトは味方かもしれない。同じ人間を守る者同士、対話が可能なら分かり合える気がする。

 誠の横で、尾室が拗ねたように言った。

「名刺交換でもしたらどうですか」

 

 

   2

 

 這うようにして涼がアパートまで辿り着く頃になると、すっかり夜が更けていた。玄関で腰を落ち着かせたところでバイクを置いてきたことに気付くが、どの道こんなに疲れ切った体では運転なんてできそうにない。徒歩でも途中で何度か倒れて意識を失いそうになった。

 発作のあとは酷い疲労感に襲われる。全身から汗を噴き出し、まるで長距離マラソンを完走した直後のように。今日はとりわけ酷い。目を閉じたら泥のように眠れそうだ。高所から落下したことを考えれば当然だが。

 体の異変には既に気付いていた。前の発作のときも、手が黒く変色し腕の筋肉が隆起した。人とは到底呼べない姿へと変わりつつある自分の手に涼は恐怖した。まるで寄生虫が自分の胎内で成長し、皮を破り羽化しようとしているようだった。でも変化した手は紛れもなく涼の手だった。涼の開けと脳から信号を出せば拳を開き、閉じれと信号を出せば拳を握った。

 果南の前で自分はどこまで変わっていたのだろう。手足だけだっただろうか。それとも全身か。変わった自分がどんな顔をしていたのか、涼は知らない。でも、今でも目に焼き付いた果南のあの怯え切った目から、とても醜い顔をしていたに違いない。両野は腕だけ変化した涼を見て吐き気を催していたのだから。

 涼はまずキッチンで水を飲んだ。コップ一杯だけでは足りず、何杯もコップに注いで貪るように飲んだ。ようやく喉の渇きが癒えて、照明も点けず部屋の壁に背を預ける。果南の無事を確かめなければ。そう思いポケットからスマートフォンを出して、果南の電話番号を発信する。

『…………はい』

 消え入りそうな果南の声が耳に届く。ああ、やっぱり彼女は見てしまったんだ、と虚しい感慨を抱きながら、涼は掠れた声を絞り出す。

「あれが………、あれが水泳を辞めた理由だ。もう、普通の体じゃないんだ………」

 自分から逃げていった時点で、既に答えは提示されていたのかもしれない。それでも涼は希望を捨てることができずにいた。普通の体じゃない。人間じゃなくなった。それでも俺はお前のために生きたい。その想いに応えてくれ、と。

『………同じだよあなたも。あの化け物と』

 「違う」と反射的に涼は言った。でも、何が違うのだろう、とすぐに思い直す。もはや人間でなくなった自分があの怪物と異なる存在と、人間と証明できる根拠がどこにあるというのか。ただ、果南を想う気持ちは間違いなく人間のはずだ。それは伝えなければならない。「俺は――」と言いかけたところで『聞きたくない』と果南の嗚咽交じりの声で遮られる。

『わたしを巻き込まないで。あなたのせいじゃないの? あなたがわたしのところに来たから化け物が来たんじゃないの? お願いだからわたしを巻き込まないで』

 矢継ぎ早に飛んでくる果南の声は激しく、そして次第に弱々しくなっていく。鼻をすする音が聞こえた。巻き込まないで。その言葉が腹の底に重く圧し掛かってくるようだ。化け物である自分が化け物を呼び寄せた。そのせいで果南が巻き込まれたのか。そうかもしれない。同族というのは引かれ合う性質なのかもしれない。

「………分かった」

 果南には泣いてほしくない。彼女には何の不安もなく、幸せに生きていってほしい。俺のせいで日常が壊れてしまうなら、喜んで消えてやろうじゃないか。

『涼………、ごめん』

 震える声で果南は言った。

『でも、わたしには無理だから』

「気にするな。それでいいんだ」

 果南は何も悪くない。不思議と笑みが零れた。果南、本当にお前の言う通りだったよ。俺はわがままで弱虫だ。お前の気持ちに気付いていながら目を逸らしたくせに、自分がどうしようもないと都合よくお前を求めた。これは当然の報いだ。だから謝ることはないさ。

「………それで、いいんだ」

 静かに告げて、涼は通話を切った。

 

 

   3

 

『浦の星女学院スクールアイドル、Aqoursです!』

 三津会館の屋根から伸びる広報スピーカーから、3人の声が揃って街中へ響き渡っている。漁協の近くにある施設の放送設備は主に広報もしくは災害時の緊急用に使用される。こうした女子高生たちによるライブ告知なんてきっと初めてのことだから、住民たちはきっと何か、と興味を持ってくれるだろう。

『待って。でもまだ学校から正式な承認貰ってないんじゃ――』

 梨子の声だ。放送で三津・内浦全域に声が届いていることを忘れるほど緊張しているらしい。『じゃあ、えっと――』と千歌の声が逡巡を置いて、

『浦の星女学院非公認アイドル、Aqoursです! 今度の日曜、14時から浦の星女学院体育館にて、ライブを――』

 『非公認ていうのはちょっと――』と再び梨子が指摘する。段取りが見事に崩れて、口上を見失った千歌の大声は電波に乗って街へと響き渡った。

『じゃあ何て言えばいいのー⁉』

 千歌ちゃんらしいなあ、と三津会館の前でバイクに寄りかかりながら、翔一は笑みを零した。スクールアイドル。数ヶ月前に修学旅行から帰ってきたら、千歌はそればっかりだ。テレビはニュースくらいしか観ない翔一はアイドルのことはあまり知らないし、千歌の熱弁するμ’sなるグループがどれほど凄いのかも分からない。

 とってもキラキラしてる。そう語る千歌の目も輝いていた。自分には何もできないが、できる限りの力になってあげよう。翔一はそう思い、千歌が活動の手伝いを頼み込んでくるとふたつ返事でOKした。毎日3人で練習しているんだから精が出るものを食べさせてあげよう、と。

 しばらく待つと、会館の正面玄関から3人が出てきた。顔を赤くして俯き加減な梨子を、千歌と曜が何やら慰めているように見える。

「もう、段取りくらい決めておいてよ」

 文句を飛ばす梨子に「まあ何とか宣伝はできたんだし、上出来じゃない?」と曜がフォローを入れる。そんな3人に「そうそう、良い感じだったよ」と翔一が声をかけると、千歌がぱっ、と表情を明らめて駆け寄ってくる。

「お待たせ翔一くん」

「お疲れ様」

 片肘を張っての敬礼で迎えると、曜が同じポーズで「ヨーソロー!」と応えてくれる。梨子は翔一の背負うリュックからはみ出したものを指さし、

「あの、それ何ですか?」

 「ああこれ?」と翔一はリュックの中身を引き抜き、自分の腕よりもふた回りは大きい大根を自慢げに見せる。

「お見舞いにいいかなって。果南ちゃんミカンばっかで飽きてるみたいだし」

 まだたくさんあるし、曜と梨子の家にもお裾分けしよう。そんなことを考えていると曜は踵を返し、

「じゃあ、わたし達は千歌ちゃん家で準備してるね」

「うん、後でね」

 十千万への道を歩いていく曜と梨子を見送ると、翔一は千歌にヘルメットを手渡す。千歌はヘルメットのハーネスを顎にかけながら淡島のほうを見やり、

「でもびっくりしちゃったよ。おじさんの次は果南ちゃんが事故に遭うなんて」

「まあ、怪我はしてないみたいだし良かったじゃない」

「そうだねえ」

 

 ダイビングショップを経営する松浦家を訪問すると、玄関先で迎えてくれた面々に誠は少しばかり驚いた。十千万の娘が「あ、あの時の刑事さん」と誠に少し緊張した面持ちで会釈してくる。青年は誠よりも、「立派なリンゴですねえ」と手土産のほうに意識が向いているらしい。

「つまらないものですが、どうぞ」

 誠はスーパーで見舞い用に包装してもらったリンゴの籠を手渡した。笑顔で受け取る果南はしっかりしている。とてもまだ高校生とは思えない。

「すみません、こんなお気遣いまで」

「いえ、気にしないでください」

 良かった。精神的に安定しているようだ。誠が裡で安堵していると、「俺、剥くね」と翔一が果南の手から籠を取り奥へと引っ込んでいく。

「さ、どうぞ」

 居間に入ると、果南に促され誠はソファに腰を落ち着ける。キッチンを見ると翔一が慣れた手つきでリンゴの皮を包丁で剥いている。ダイニングテーブルでは新聞紙でくるまれた大きな大根が横たえていた。ふたりが持ってきた見舞いの品かもしれない。

 十千万の娘と並んで誠の向かいにあるソファにつくと、果南はそう言って頭を下げてくる。

「この間は助けてもらって、本当にありがとうございました」

「いやーそんな、気にしないでよ」

 そう応じたのは誠ではなく、お盆を手にした翔一だった。

「なぜ君が返事をするんです?」

 誠が冷ややかに訊くと翔一は「それは……」と詰まらせるが「お待ちどうさま」とはぐらかしてテーブルに切り分けたリンゴの皿を並べていく。

 「わたしは後で」と手を振る果南に「食べないの?」と翔一は訊いた。フォークを手にした十千万の娘はまだ幼げだから仕方ないとして、視た感じ成人している翔一はこの場の雰囲気ぐらい察することはできないのか。

「どうぞ」

 自分の隣に座る青年に呆れと共に誠は言った。「じゃあいただきまーす」と翔一と十千万の娘は声を揃え、大口を開けてリンゴを頬張る。ふたりがしゃりしゃり、と咀嚼音を鳴らすなか、誠は果南に向き直った。

「あんなことがあった後です。すぐに忘れることはできないと思いますが――」

 「あの」という声に、誠は視線を横に流す。まだ口をもぐもぐと動かしながら、翔一は誠の前に置かれた皿を見て、

「もうひとつ食べていいですか? リンゴ」

「あ、わたしも」

 元気よく便乗する十千万の娘の横で、果南は苦笑を誠に向ける。すみません、こういう子なんです、と言いたげに。本来ならこの苦笑を向けるべきなのは君だろう、と思いながら誠は翔一に言った。

「申し訳ありませんが席を外してもらえませんか。大事な話があるものですから」

 誠に続いて果南が、

「ごめんね千歌。翔一さんもせっかく来てもらったのに」

 千歌と呼ばれた十千万の娘は「ううん」とかぶりを振る。

「果南ちゃん元気そうで良かったよ。ほら行こう翔一くん」

 千歌に促された翔一は慌てて咥内のリンゴを飲み込んだ。危うく喉に詰まらせかけたのか胸を叩き、ようやくソファを立つ。やっとこれで話ができる、と誠が溜め息をつくと、

「あの」

 振り返り「まだ何か」と多少の苛立ちを覚えながら誠は翔一を見上げる。誠の視線に気付いていない様子の翔一は果南へ笑みを向けた。

「果南ちゃん、元気出して。必ず果南ちゃんを守ってくれる人がいるから」

 

 翔一と千歌が出て行ったのを見計らい、誠は改まって果南へ両眼を向けてくる。その眼差しに、恩人という認識がありながらも果南は少し怖気づいてしまう。誠の眼差しがとても険しくなった。多分、本人は無自覚のうちに身に着けた視線なのかもしれない。

「松浦さん、奇妙な質問ではありますが――」

 誠の前置きに「はい」と応えながら、果南は鼓動がどくん、と強く脈打つのを感じた。まさか、涼のことが知られたか。署で聴取を受けた際は咄嗟に涼の存在を伏せてしまったが、警察の捜査能力を甘く見ていたかもしれない。

「松浦さんは普通の人間にはない力、何か特別な才能を持っていることはありませんか?」

 「え?」と思わず声を漏らす。涼ではなかったことに拍子抜けし、更に予想の斜め上をいく質問だ。とても刑事が捜査でするような質問とは思えない。

「いえ、そんなものは………」

 昨日、勉強中に何故か答えが分かったことは勘が良かっただけ。何ら特別なことじゃない。誰にだってあることだろう。

「すみません、おかしなことを訊いてしまって」

「特別な才能を持っていることが、あれに襲われたことと関係があるんですか?」

 「それは――」と誠は言葉を詰まらせる。関係があるとしたら、誠はあの怪物について何か知っているのだろうか。そう考えると質問は溢れるように出てきた。

「刑事さん、あれって何なんですか? 最近起こっている事件も、あれに関係してるんですか? 一体何が起こってるんですか?」

 春先からこの沼津で立て続けに起こっている事件について、警察からは何の発表もない。人伝いの噂で化け物だ何だというものは聞いたが、話題づくりの出まかせと思っていた。でも、実際に遭遇してしまった果南は噂が真実と知ってしまった。

 誠は沈黙した。波の音が静かに響いている。果南も沈黙して答えを待った。そう長くない沈黙を経て、誠は弱々しく答える。ただ、険しい眼差しを携えたまま。

「分かりません、まだ何も」

 警察は一体何をしているんだろう。そんな文句が出そうになるが、果南は喉元で抑える。果南だってこの若い刑事に隠しているのだから。

 

 内浦の船着き場に着いた誠の背を、淡島の方角から吹く潮風が押してくる。もう来るな、と告げられたようだった。とはいえ、風に拒絶されても誠が淡島を、松浦家を訪ねることは今後もあるかもしれない。松浦果南という、アンノウンの襲撃を受けた生存者は貴重だ。これから訪問を重ねていくうちに、彼女が超能力者であるという確信を得られるかもしれない。もっとも、それは誠の仮説が正しければの話だが。

 駐車場へ歩くと、誠の車のすぐそばに色違いのクラウンが停めてあって、その灰色の車体に北條透が背を預けている。

「氷川さん、前回の被害者である片平久雄と今回の松浦果南に血縁関係は無いようです」

「分かりました。では松浦家の人間にも護衛を付けるよう手配しましょう」

 自分の車へと駆け寄り、ロックを解除して乗ろうとしたとき、北條の声が背後から飛んでくる。

「分かりましたよ、あなたの過去が」

 ドアに掛けた手が止まる。「僕の過去?」と視線を向けると北條は不敵に微笑み、

「G3の装着員としてあなたが本当に相応しいかどうか、もう一度検討すべきではないかと上層部に訴えたのですが拒絶されましてね。そこで調べさせてもらったんです、あなたの過去をね。まさかあなたが、あの『あかつき号事件』の英雄だったとは。驚きましたよ」

 あかつき号事件。

 もう1年と半年前だったか。フェリーボート「あかつき号」が暴風雨のなかで遭難し、雨と海水に濡れながらも誠が単身で乗員乗客の救助に向かった。

「もっともひとりだけ行方不明になった乗客がいたらしいが、それでもあなたが英雄であることに変わりはない。しかし――」

 そこで北條は間を置く。あの事件について今更何を語ろうというのか。状況については現場にいた誠のほうが詳しい。あれほどの事件、忘れたくてもそう忘れることはできないだろう。

 北條は続ける。

「あの事件は警視庁にとって忘れたい事件。いわば封印しなければならなかった事件のはずだ。本庁は口止め料として、あなたをG3の装着員として抜擢した。つまりあなたは賄賂を受け取ったんだ」

 腹の底から深い溜め息が出てきた。ここまで馬鹿らしい言い掛かりをつけられると、怒りを通り越して呆れるしかない。確かにあかつき号事件の後、救助活動を行った誠は静岡県警本部長から功労賞を受け取り警視庁へ異動、そしてG3ユニットへの配属となった。だが異動にしても警視庁の人事は誠が首都警察として適任か審査したはずで、G3装着員にしても高い倍率の試験をクリアして抜擢された。

 小沢さんから聞きました。あなたもG3装着員の候補だったそうですね。でも自分を差し置いて選ばれた僕が気に入らない。だからこうして突っかかってくるんですか。

 皮肉が出そうになるが、誠は押し留める。ここで口論したって仕方がない。それにこの手の嫌味は散々聞いてきたじゃないか。氷川は上層部の親戚らしいとか、氷川は上層部の黒い秘密を握っているとか。

「………失礼します」

 それだけ言って誠は車に乗り込んだ。

 

 



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第6話

 

   1

 

 ライブの準備は順調に進んでいる。チラシ配りに歌唱レッスン、衣装とダンスステップの調整。やることは多いけど、手応えは確かに感じている。それでも、曜にまったくの緊張が無いわけでもなかった。何せ初めてのライブ。大勢の人に歌を聴いてダンスを観てもらう、初めての舞台だ。楽しさの合間にふと訪れる不安は、ほんの一瞬だけど大きい。

 夜の内浦はとても静かだった。夜はまだ浅いが、陽が暮れると住民たちは外に出ることは基本的になく、車もほとんど通らない。幼い頃から見慣れた街の景観は良く言えば慎ましやか、悪く言えば寂れて見える。内浦湾を見て何の感慨も浮かばない自分が、何か大切なものが見えていないように思えてしまう。そう考えてしまうのは曜の隣で軽トラックを運転する翔一が、乗る前に「夜の海も綺麗だよね」と嬉しそうに言ったからだろうか。

 十千万で作業に没頭しているうちに終電バスの時間が過ぎて家まで送ってもらうことになった、と母に報告を済ませ曜はスマートフォンの通話を切る。

「大丈夫だった?」

 翔一が尋ねた。「はい」と曜は照れ笑いを浮かべ、

「いい加減にしなさい、って怒られちゃったけど」

「俺も謝ってあげるよ。ついでに大根も渡してさ」

「絶対に大根のほうが目的ですよね?」

「あれ、ばれた?」

 おどけたように笑い、翔一は「にしても」と遠くを見るような目で、

「本当、夢中だよね」

「え?」

「千歌ちゃんがここまでのめり込むなんて思わなかったからさ」

「そうですか?」

「ほら、千歌ちゃんてああ見えて飽きっぽいところあるから」

「飽きっぽいんじゃなくて、中途半端が嫌いなんですよ」

 「え?」と翔一はちらりと曜を一瞥する。確かに千歌は、今まで何かを初めても長続きしなかった。傍から見れば飽きっぽい、と思われても仕方ないかもしれない。でも、彼女の傍にいた曜には分かる。伊達に人生の大半を共に過ごしてきた仲じゃない。

「やるときはちゃんとやらないと、気が済まない、っていうか」

 そう言うと、「そっか」と翔一は満足げに頷いた。

「さすが曜ちゃん」

 何だか照れ臭くなり、誤魔化すように曜は笑った。もう千歌の兄と言っていい翔一からお墨付きを貰えると、不思議と自信がつく。

「それでさ、ライブは上手くいきそう?」

「………うん、いくと良いけど」

 煮え切らない返答をするしかなかった。何せ初めてだ。どう転ぶか分からない。そんな曜の懊悩を、こういう時ばかりは鋭い翔一は察したのか「満員か」と呟いた。曜は窓に頭をもたれて、眠りに落ちた街を眺める。

「人、少ないですからね。ここら辺」

 言ってすぐに、曜はそれが言い訳じみたように思える。初めてかどうかは関係ない。アイドルとして歌う以上、失敗は許されないということ。それが鞠莉から提示された条件の趣旨だ。ただでさえ人口が多くない内浦で満員にできなければ、活動を始めてインターネットにPVを掲載したところで誰からも見向きなんてしてもらえない。全国中にファンを作り、数千という会場の客席を埋めるまで集客できるほどのグループでなければ、ラブライブ出場なんて夢のまた夢。中途半端が嫌いな千歌が、取り敢えずの目標としてラブライブを目指すはずがない。だから鞠莉の酷な条件を呑み、そんな彼女だからこそ曜は付き合うと決めた。

「大丈夫だよ」

 翔一は朗らかに言った。

「皆、温かいから」

 記憶を失いどこから来たのかも分からず、人間を超えた姿に変身する青年。そんな翔一の口から出た「温かい」が、とても大きなものに感じ取れる。見ず知らずの自分を受け入れたこの街の温もりを、翔一は抱きしめているのかもしれない。不思議と安心できた。温かいのは翔一も同じだ。たとえ異形がもうひとつの姿だとしても曜が、千歌が彼を受け入れることができたのは、彼が津上翔一だからだろう。

 

 

   2

 

 十千万を訪ねると、裏手のほうからエプロンを泥で汚した翔一が出迎えてくれた。

「あれ、果南ちゃんどうしたの?」

「この前の大根のお返し」

 「はい」と干物の入ったビニール袋を差し出す。千歌と違って翔一は嬉しそうに「ありがとう」と受け取った。

「干物って、焼く以外にも食べ方あると思うんだよね。千歌ちゃんに聞いてみたら変なもの作らないでよ、って言われてさ」

「それ同感。焼くのが一番だよ」

 苦笑を返し、果南は十千万の2階を見上げ、

「千歌は?」

「もう学校行ったよ。ライブの準備とか、色々あるみたい。果南ちゃんもライブ見に行くの?」

 「うん」と答えると同時、ぽつり、と雫が果南の頬に落ちる。続けて雫が落ち続け、灰色の雲から雨が地面を叩く音が大きくなっていく。降る前に淡島を発って正解だった。海が荒れたら連絡船は運航しない。

「うわ、雨か。ライブ中止になったりしないかな?」

「会場は体育館でしょ。雨天決行だよ」

「あ、そうだった」

 見慣れたおとぼけを決め込み、「ちょっと待ってて」と翔一は中へ入った。すぐに傘を手に玄関へ戻ってきた彼はエプロンを脱いでいる。

「翔一さんも行くの?」

「勿論、千歌ちゃん達頑張ってたんだし、これは見ないといけないでしょ」

 もし天気が晴れていたら、翔一はバイクに乗せてくれたかもしれない。雨で良かった、と果南は密かに胸を撫でおろす。バイクはもう乗りたくない。涼のことを思い出してしまいそうで。

 バス停までのそう長くない道を並んで歩きながら、果南は尋ねる。

「ねえ、翔一さんは自分が何者か考えたことある?」

「うーん、考えても思い出せないしなあ。何て言うか、あの家が俺の居場所だと思うと、別に思い出さなくても良いと思うんだよね」

「居場所?」

「うん。千歌ちゃんが言ってくれたんだ。ここが俺の居場所、って。だからあの家を守れるなら、記憶がなくてもそれだけで十分かな」

 そこにいる意味を見出しているということは、それについて悩んだことがあるという証拠になる。いくら明朗な翔一でも、人間なのだから悩むことぐらいはあるだろう。自分の居場所はどこなのか。果たして十千万が、高海家が自分の在るべき場所なのか。そう悩むこの青年に千歌は手を差し伸べ、ここに居て、と告げたのだろうか。

 千歌は凄いな、と果南は思った。同時に罪悪感が込み上げてくる。涼もきっと、翔一と同じだった。普通の体じゃなくなって、それまで自分が生きてきた水泳という居場所がなくなって、果南に会いに来てくれた。必要とされたい。支えになりたい。そう思いながらも、果南は涼を拒絶してしまった。でも、拒んでしまった今となってはもう手遅れだ。自分では涼のために何もできない。支えることも、慰めることも、何も。

 バス停が目と鼻の先になったところで、不意に翔一が脚を止めた。「翔一さん?」と果南は呼びかけるが、翔一はどこか遠くへ視線をやり、その顔つきが今まで見たことのない険しいものであることに、果南は困惑を覚える。

「俺、行かなくちゃ。本当にごめん!」

 翔一は来た道を走って引き返していく。「ちょっと――」と果南が理由を訊く間もなく。翔一と入れ違いにバスがやってきた。

 

「やっぱり慣れないわ。本当にこんなに短くて大丈夫なの?」

 不安げな表情で衣装のスカートをつまむ梨子に、千歌は「大丈夫だって」とスマートフォンの画面を見せる。

「μ’sの最初の衣装だって、これだよ」

 今回の衣装は、μ’sが初ライブで披露した『START:DASH!!』をインスパイアして曜がデザインしたものだ。スクールアイドルらしく、きらきらしたイメージを集約させたもの。千歌にとっては彼女らと似た衣装に袖を通せるだけでも気分が昂ぶっているのだが、梨子は少し冷めたように、

「はあ、やっぱりやめておけば良かったかも。スクールアイドル」

 愚痴が止まりそうにない梨子に、曜も「大丈夫!」と元気よく、

「ステージ出ちゃえば忘れるよ」

 髪飾りのリボンを締めて、準備が整う。果たして出来栄えがどれほどのものかは怪しいところだ。着替えに使用している体育館の舞台袖には照明がない。色彩は光の加減で微妙に変わる。ステージの照明を浴びたらどんな色を映すのだろう。

「そろそろだね。えっと、どうするんだっけ?」

 段取りはしっかり頭に入れたと思っていたのに。楽しみにしていたはずが、自分も緊張していることに千歌は気付く。

「確か、こうやって手を重ねて」

 曜が差し出した手の甲に、千歌は自分の手を乗せる。続けて梨子の手が千歌の手に乗る。これもμ’sの動画を真似たもの。彼女らはピースサインした手で九角形(エニアグラム)を描き、コールと共に一斉に上へと掲げていた。

「………繋ごっか」

 千歌は呟き、右にいる梨子と、左にいる曜の手を取る。

「こうやって互いに手を繋いで、ね。あったかくて好き」

 千歌にならい、梨子と曜も手を繋ぐ。3人で腕を繋ぐことで成す円陣。それぞれの温もりが想いを乗せて、円を巡っていくように感じられる。緊張も、不安も、楽しみという期待も、3人で共有できる。

「本当だ」

 曜の呟きの後に沈黙が訪れる。完全な静寂というわけではなく、外の雨音と雷鳴がよく聞こえてくる。

「雨……、だね」

 千歌は呟く。「皆、来てくれるかな?」という曜に続き、「もし、来てくれなかったら……」と梨子も吐露する。

「じゃあ、ここで辞めて終わりにする?」

 千歌が問うと、3人一斉に笑みを吹き出した。普段自分が言われていることを他人に言うのは、少し奇妙な感慨を覚える。

 やめない。言葉はなくても、ふたりの意思が強く握られる手から伝わってくる。

「さあ行こう。いま全力で、輝こう!」

 そう告げて、3人で声を揃えた。

「Aqours、サンシャイン!」

 

 

   3

 

 地面を強く叩く雨のなかで、彼女はひとり傘をさして坂道を登っていく。目的地はきっと、この坂道の先にある浦の星女学院女学院。彼女が通う高校だ。この道を下り県道に面したところでチラシが貼ってあった。何でも今日、学校の体育館でアイドルがライブをするらしい。どうやら彼女はそれを観覧しに来たようだ。それなら学校へ行くのに私服姿なのも得心がいく。

 慣れているであろう道を歩く彼女を、それは岬に広がるミカン畑の樹の陰からじっと見つめていた。これほどの雨の中、傘もささずに。いや、その生物に傘は必要ないのかもしれない。それは人間のように、雨に濡れたところで困るほどの衣類を身に着けていないからだ。

 そのコブラに似た姿の、でも人にも似た生物は頭上に渦巻く光輪から杖を取り出す。コブラは杖を携え、彼女のもとへと脚を進め――

「いい加減にしろ」

 その脚を止めて、コブラは振り返る。樹の陰からゆっくりと、涼は自らの姿を晒した。コブラと同じように傘を持たず、激情で火照る体を雨で冷ましながら。

 こうして改めて対峙して、涼はようやく苦しめられた発作の正体に気付いた。脈絡もなく訪れたかのように襲う発作は、涼の中で目覚めたものがこの生物に反応しての疼きだった。同じ人間でない存在同士としての共鳴なのか。判然としないが、自分はもうかつての日々を取り戻すことができないということ。それは裏を返せば、人間でない目の前の怪物と戦うことのできる存在になったということ。

 あの夜、果南に拒絶された夜から涼はずっと考えていた。これからどう生きていけばいいのか。水泳という居場所を失い、親代わりになってくれたコーチにも、慕ってくれた少女にも拒絶された。もう自分には何もない。そう思っていた。でも、その虚心こそが涼に残された最後の持ち物だった。どんなに自分の姿が変わろうとも、心までは変わることがなかった。葦原涼という意識は、確かにこの脳のなかに存在している。ならば、おのずと選択は決まっていた。

「二度と果南には触らせない。二度と果南の前には立たせない」

 どくん、と鼓動が強くなっていく。前は抑えようと躍起になっていたその鼓動を受け入れ、涼は身を委ねる。体の奥底から何かが、足音を立てて近付いてくるようだった。足音は大きくなり、背後から歩み寄り、涼の隣に立つ。足音と肉体の完全な一致を認識できたとき、涼は姿を変えた。

 果南に拒絶された、果南を守るための、妖拳の姿へと。

 足元の土が窪んでいて、そこに水溜まりができている。見下ろすと、波紋に揺れる水面で大きな真っ赤な目が涼を見返している。俺は果南の前でこんな顔になっていたのか。これじゃ逃げられるのも当然だ。

 びちゃり、と水溜まりを踏み涼は駆け出した。コブラが杖を向け、こちらに向かってくる。互いに肉迫すると、コブラが杖を横薙ぎに振ってきた。身の丈ほどの武器にも関わらず、コブラは軽々と素早く先端の刃で涼の首を狙ってくる。身を屈めて避け、涼はコブラの腹に拳を打った。痛みを感じさせるほどの強さはあるらしく、コブラはたたらを踏むようによろめく。追撃を加えようとしたところで蹴りが飛んできた。強烈な一撃で、今度は涼の体がよろめく。追撃の蹴りもまともに受けてしまい、背中をミカンの樹にぶつけた。太い幹は衝撃に耐えられず、中腹から折れて地面に倒れる。

 この姿になっても、まだ奴には敵わないというのか。歯ぎしりしながら敵を捉えようとしたとき、すぐ目の前に杖の切っ先が迫ってくる。咄嗟に掴み眼前で止めたが、コブラは杖を振り上げ、涼の体を投げ飛ばす。再び樹に衝突し、幹をへし折りながら涼の体は地面に伏した。雨で水気を含んだ土が、緑に変色した体に纏わりつく。

 どくん。

 鼓動が更に強くなった。血流が激しく体中を巡り、全身の細胞ひとつひとつが脈打っているようだ。立ち上がると同時に抑えきれない昂ぶりが迫ってくる。この一線を越えてしまったら、もう自分は元に戻れないかもしれない。身だけでなく心も化け物になってしまうかもしれない。そんな恐怖を感じながらも、涼に迷いはなかった。

 ここでくたばるわけにはいかない。完全な化け物になるのなら、なってやろうじゃないか。もう失えるものは全て失った。でも、決して奪われてはいけないものはひとつだけ残っている。せめて果南は、果南だけは――

「うおおおおおおああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 大口を開け涼は咆哮をあげた。獣と言ってもよかったが、涼は湧き上がる衝動を発散させてもまだ理性を保つことができていた。いや、まだ「俺」という意識があるにしても、それが理性と呼ぶかは曖昧だ。獣と人の境界線上に立っているというべきか。

 水溜まりに目をやると、額から突き出していただけの双角が高く伸びている。コブラが杖を構え向かってくる。突き出される杖を腕で弾き、顔面に回し蹴りを見舞った。さっきよりも強い力が漲るのを感じる。拳を倒れた敵へ向けると、手首の突起が伸びて鋭い刃を形作った。杖を支えに起き上がったコブラが、涼へ跳び掛かってくる。涼も跳躍した。すれ違いざまに刃を滑らせ、コブラの腹筋が浮き出た脇腹に創傷を与える。赤い鮮血が傷口から流れた。

 受け身も取れず泥に身を打ち付けたコブラは、切られた腹を見て目を剥いた。痛みよりも、自分が傷を付けられたことに驚愕しているようだ。その首筋に、涼は鋭く尖った牙を突き立てる。首の筋肉にずぶずぶ、と牙を沈めて肉を噛み千切ろうとしたとき、顔面を殴られて離してしまった。

 首筋から血を流しながら、コブラが樹々の中へと走っていく。逃がすものか。息の根を止めるまで追いかけてやる。

 

 沼津駅前通りにてアンノウン出現。小沢からの出動要請を受け、G3を装着して現場へ向かうと既に戦闘は始まっていた。雨のなか鞭を手にしたアンノウンと戦うアギトを視界に収め、誠はやっぱりという確信を覚える。アンノウンが現れたとなれば、必ずアギトも現れる。

 女性のようなフォルムで、だが蛇のような顔のアンノウンにアギトは苦戦を強いられているようだった。アンノウンの動きは素早く、アギトは追いつけていない。アンノウンの鞭がアギトの首に巻き付いた。喉を締めあげられまいとアギトは鞭を掴み引き寄せるが、アンノウンもアギトの拳の範囲に入るまいと拮抗している。突如現れ同じ敵と戦う存在。それが誠にとって味方かどうかは分からないが、今の状況から見れば敵でないことは確かだ。

『GM-01、GG-02、アクティブ』

 小沢の声がスピーカーから届く。誠はガードチェイサーの武装パックを開き、取り出した銃とグレネードランチャーの弾頭をドッキングさせる。誠の存在に気付かないアンノウンに照準を合わせるのは容易だった。発射したグレネードはアンノウンの手首に命中し、その皮膚に裂傷を与える。その拍子に鞭が手から離れて、アギトは拘束から解かれた。

 アンノウンの目がこちらに向く。睨むように目を細めた生物に、誠は2発目のグレネードを発射した。さすがにこちらは避けられて、放物線を描いたグレネードは地面で炸裂してアスファルトを砕く。こちらへ向かってくるアンノウンにGG-02の砲身を叩きつけるも、手首に手刀を打たれ落としてしまう。

 そこへ、アギトが乱入してきた。アギトは薙刀のような、両の先端に刃の付いた武器を振りかざしている。

「変わった………」

 思わず誠は呟いた。アギトの鎧が金色から青に変わっている。武器を軽々と降るその動きも、先ほどよりも素早い。アギトは戦い方に応じて姿を変えることができるのか。

 アギトの薙刀が、アンノウンの足元へ滑り込む。払われる直前に跳躍し、自分の頭上へ達したアンノウンの頭にアギトは薙刀を掠めた。バランスを崩し、受け身を取れずアンノウンが地面に伏す。アギトの足元に、掠めた際に切断されたアンノウンのドレッドヘアが落ちた。目を凝らすとそれは髪ではなく蛇だ。鎌首を斬られた蛇がうねうねと動き、断末魔が終わると塵になって霧散していく。

 頭を押さえるアンノウンの背後から強風が吹いてくる。風は渦を巻き、小さな竜巻になって振ってくる雨を上空へと返していく。雨水と粉塵に覆われ、アンノウンの姿が見えなくなっていく。アギトは薙刀を振った。闇雲に振り回していると思ったがそうでなく、アギトを中心に第二の旋風が巻き起こっている。ふたつの竜巻が接触し、相殺された。再び雨が垂直に降ってくる。その雨のなかに、アンノウンはいない。

『氷川君、アンノウンらしき熱源を感知』

 小沢の報告の後、マスクのディスプレイに街の地図上を移動している赤い点が表示される。

「了解、追跡します」

 落とした武装を拾い上げると、バイクのエンジン音が聞こえた。見ると、アギトがバイクに跨って雨のなかを疾走していく。アギトもアンノウンを追うのだろうか。誠も急ぎガードチェイサーへ走り、武装を素早くパックへ納めるとマシンを発進させた。

 

 コブラは岬を下り、県道へ出ようとしていた。もう息も絶え絶えで、走ることも辛そうに見える。涼は岬の中腹から跳躍し、コブラの前に降り立った。涼を視認したコブラは目を見開く。

 もはや満身創痍と言っていい敵に対して、涼は慈悲なんて微塵も与えない。容赦なく顔面に拳を浴びせ、更に追い打ちの蹴りを入れてねじ伏せる。仰向けに倒れたコブラが杖を突き出した。降り下ろされた涼の手刀が杖の中腹を折る。武器を失った敵の肩を掴んで無理矢理起き上がらせ、先ほど傷を負わせた脇腹に膝蹴りを見舞う。痛みに絶叫したコブラの口から血飛沫が飛んで涼の顔にかかった。敵を後ろへと投げ飛ばし、涼はまた咆哮をあげる。

「ウアアアアアアアアアアアアアアアア‼」

 踵から刃が伸びた。涼は跳躍と同時に右足を振りかざす。敵の眼前に迫り、その肩に踵の爪(ヒールクロウ)を叩きこんだ。ずぶり、と刃がコブラの肩口から体内へ滑り込む。腹に蹴りを入れて引き剥がし、同時に突き刺した刃が肩から胸までを切り裂いた。

 道路に面した海に、コブラの体が落ちていく。飛沫をあげて落水してから数舜の間を置いて、まるで間欠泉のように海水が噴き上げられた。

 乱された海面の波が戻っていくまで、涼はその一点を見つめる。体の疼きが治まっていることに気付き、ふと手を見ると元の肌色の手に戻っていた。完全な化け物にならずに済んだ。そう思っても安堵は訪れない。姿が戻っても、もうあの日々は戻ってこない。

 雨に濡れた顔を岬へ向ける。自分が行けるのはここまでだ。この岬には、彼女のもとへ登ることはできない。

「………さよならだ、果南」

 決して届かない言葉を呟き、涼は雨に濡れたまま帰路へついた。

 

 

   4

 

 3人で手を繋いだまま、ステージの真ん中に立った。垂れ幕が体育館とステージを遮っていて、向こう側の様子が分からない。

 大丈夫、きっと満員になってる。半ば祈りを込めて、千歌は目を閉じて自身に言い聞かせる。ダンスのステップは意識せずとも踏めるまで仕上げた。歌唱だってしっかりとテンポと音程を崩さずにできるようになった。宣伝も抜かりない。チラシ配りだって曜が駅前で人だかりを作るほど人々にライブ開催を知らせることができた。やれることは全部やった。それをこれからぶつけていくだけ。

 リールを巻く音が微かに聞こえてくる。垂れ幕が上がっていると分かった。さあ、始まりだ。意を決して千歌は目を開く。

 ステージ以外の照明が落とされた体育館に拍手が響き渡る。控え目な拍手。いや、観客たちは強い拍手で迎えてくれている。控え目に聞こえてしまうのは、その数が少ないからだった。ざっと10数人程度。主にクラスメイト達が体育館の中央で千歌たちを見上げている。少し離れたところに鞠莉が立っていて、出入口の辺りには花丸とルビィがいる。

 そうだよね、と千歌は目の前の光景を受け入れることができた。意外なほど、すぐに。

 μ’sが活動していた秋葉原と違って、ここは過疎化の進む地方集落。ただでさえ人は少ないし、そもそも自分たちは活動を始めたばかり。初めてのライブでいきなり会場を満員にするなんて、最初から無理な話だったということ。

 それでも、やり遂げなきゃ。千歌は一歩前へ踏み出す。最初で最後になっても構わない。ずっとやりたかったライブができるだけでも十分じゃないか。まだ部として承認されていないのに歌う場を与えられて、少ないけど観てくれる人達だっている。観客が少なかろうが関係ない。観てくれる人に全力のパフォーマンスを魅せる。

「わたし達は、スクールアイドル」

 「せーの」という掛け声で、曜と梨子が千歌の両隣に立って宣言する。

「Aqoursです!」

「わたし達はその輝きと」梨子が始め、

「諦めない気持ちと」曜が引き継ぎ、

「信じる力に憧れ、スクールアイドルを始めました」千歌がまとめる。

「目標はスクールアイドル、μ’sです」

 「聴いてください」と告げて、3人それぞれの位置につく。これが合図。打ち合わせ通りに、ライブの音響を頼んでおいたクラスメイトのよしみへの。

 歌い出しと共に、曲のイントロが流れた。曲の構成上タイミングを合わせるのが難しいが、まずは成功。一度動き出せば、千歌は自然と踊ることが、歌うことができた。反復練習の賜物だ。どうせもう、最後のライブになってしまう。なら、自分たちの想いを乗せた歌に、今の全力を出し切ろう。

 スクールアイドルというものに出会ったときに感じた胸の高鳴り。普通だった自分が普通でない、輝ける存在になれる場を見つけたこの想い。どこまでも走っていけると、どこまでも高く昇っていけるという、ときめきを――

 ステージが暗転した。曲が途切れ、観客たちのざわめきが聞こえる。体育館の屋根を叩く雨音と雷鳴も。落雷による停電か。

「どうすれば………」

「一体、どうしたら………」

 梨子と曜の震える声が聞こえる。電気系統の復旧はすぐにはいかないだろう。観客だって少ない。このまま中止にしたほうがいいのかもしれない。

 それでも、千歌は続きを歌い始めた。最初で最後なんだよ。せめてやり切らせてよ。

 曜と梨子も歌い始める。まだできる。照明がなくても、音響が機能しなくても、まだ自分たちの声がある。歌い続けよう。最後まで歌い切ろう。その想いがあっても、声の張りがなくなっていく。震えてか細くなり、とうとう声も途切れた。

 何でこうなっちゃうんだろう。悔しさと共に湧き上がる問いを誰に向けるべきか分からない。ただ輝きたかっただけなのに。μ’sのように、誰かを笑顔にできる存在になりたかっただけなのに。どうして何もかもが無常に過ぎ去って、なけなしに積み上げてきたものが崩れていくのだろう。

 もう駄目だ。こんな現実、耐えられない。

「千歌ちゃん!」

 その声に、千歌は俯いていた顔を上げた。出入口で翔一が手を振っている。その隣でレインコートを着た三津が「バカ千歌!」と、

「あんた開始時間間違えたでしょ!」

 照明が復旧した。様変わりした体育館の光景を見て、驚きのあまり千歌は目尻に溜まった涙を拭くのも忘れてしまう。

 体育館の床が見えなくなるほど人が溢れかえっている。浦の星だけでなく他校の制服を着た少女たち、学外の人も大勢いる。まさか主催側の自分が、ライブの開始時間を間違えていたなんて。

「本当だ、わたしバカ千歌だ」

 涙を拭い、今度こそ続きを歌う。蘇った音響が会場に曲を流した。歓声が沸く。あまりにも大きくて体育館の壁が振動しそうなほどだ。曲はもう残り僅かだけど、その残りに全力を注ぎ込む。せっかく来てくれた観客たち。協力してくれた生徒たち。その人たちへの「ありがとう」という気持ちを込めて、千歌は歌い上げた。

 フィニッシュを迎え、ポーズを決める。汗と疲労が一気に押し寄せてきた。同時に先ほどよりも大きな拍手と歓声が。あまりに大きすぎて他の音が一切聞こえない。長く聞き続けたら難聴になってしまいそうだけど、この大音響が心地いい。最後列でサイリウムの光が見えた。目を凝らすと翔一だった。そういえば、昨夜翔一にサイリウムの使い方を教えた。

 これが千歌の望んでいたもの。ステージで歌って踊り、観客から楽しかった、という賛辞の拍手喝采を浴びること。みんなで楽しむ場を作る。それがスクールアイドル。μ’sの築き上げたもの。

「彼女たちは言いました」曜は告げる。続けて梨子が、

「スクールアイドルはこれからも広がっていく。どこまでだって行ける。どんな夢だって叶えられる、と」

 それは、かつてμ’sがラストライブで告げた言葉の連なり。たとえ普通の少女でも、自分たちは輝ける。輝ける世界がきっとある。その夢を信じ続け、走り続けた末に辿り着いた境地。自分もそこへ行きたいと、心から願えた。

「これは今までのスクールアイドルの努力と、街の人達の善意があっての成功ですわ」

 鋭いその声に、千歌はステージの前へ視線を下げる。観客の最前にダイヤが立っていた。自分たちの実力じゃない。スクールアイドルというブランドがもたらしてくれた集客と、そう告げられていると理解できた。

「勘違いしないように」

「分かってます」

 迷うことなく千歌は言う。

「でも……、でもただ見てるだけじゃ始まらない、って。上手く言えないけど、今しかない瞬間だから」

 ずっと、「普通」であることに燻っていた。水泳で才覚を示した曜と、ピアノに打ち込んできた梨子。両隣にいるふたりに比べたら、自分には何もない。今までのように、口を開けて待っているだけじゃ駄目だ。待っている間に「今」という瞬間は過ぎていく。流れを止めることはできないけど、限られた流れの中だからこそ一生懸命になれる。その果てにある、μ’sが視たであろう光景を目指して。

 千歌は両隣にいるふたりと声を揃えて宣言する。

「だから、輝きたい!」

 体育館に、3人の声が反響していく。勢いに任せて言っちゃった、と千歌は微かに目を伏せた。活動はできるけど、成功するのは今回だけかもしれない。やっぱり、無謀なのだろうか。こんな地方で、世界の片隅で彼女たちと同じ場所に行きたい、だなんて。

 ぱらぱら、と拍手が起こった。どこかで起きた拍手が体育館中に伝播していく。さっきのものが割れんばかり、というなら、これは優しい拍手だ。千歌の宣言を受け入れるような、肯定してくれるような。笑みが零れて、目頭が熱くなった。サイリウムを脇に抱えて拍手する翔一に向けたい言葉を、千歌は裡に秘めた。

 翔一くん、ここがわたしの、Aqoursの「居場所」だよ。

 

 

   5

 

 アンノウンの熱源は各地を移動している。とある場所に留まったと思えば凄まじいスピードで移動し別の場所に留まっている。まるで瞬間移動でもしているみたいだ。終わりの見えない鬼ごっこを繰り広げているうちに夜になっている。ガードチェイサーの燃料はまだ余裕があるものの、長時間G3を装着している誠のほうが参ってしまいそうだ。

 小沢から通信が飛んでくる。

『氷川君、近いわ』

「はい」

 誠はアクセルを捻りスピードを上げた。街灯が朧気に照らす暗闇のなかで、その人ならざる生物のシルエットをG3のセンサーアイが捉えた。今度こそ逃がさない、と同時に違和感を覚える。アギトがいない。あの戦士はどこへ行ったのか。

 疑問が晴れるのを待たず、アンノウンが駆け出す。逃げるつもりか。そう思ったとき、アンノウンの走る先で女性が歩いているのが見えた。まさか次の標的か。更にアクセルを捻り疾走するが、辿り着くと同時、アンノウンの手が女性の腹に沈む。

 誠はガードチェイサーを突進させた。カウルに衝突したアンノウンの体が突き飛ばされる。急いでバイクから降りて、倒れた女性を前に屈む。服に血が滲み、範囲を広げていく。アンノウンの鋭利な爪で腹を刺されたらしい。傷口を手で圧迫し、呼吸を確かめようと顔を見たとき、誠は目を剥いた。

「三雲さん⁉」

 その女性は、解散したオーパーツ研究局の三雲だった。思わぬ知人との遭遇でただでさえ困惑している誠の耳に追い打ちが来る。

「死ね、自らの手で」

 その幼い声に、誠は視線を上げる。いつからそこにいたのか、まだ10歳にも満たなそうな少年が三雲の傍に立っている。少年は驚きも恐れもしていない。ただ無表情に、アンノウンを見つめている。

「逃げなさい! 早く!」

 誠は少年の前に立ちふさがる。近接戦の構えを取るが、アンノウンの様子がおかしいことに気付く。何かに怯えているように見えた。威風堂々とした出で立ちは消え失せ、脚をすくませるその頭上に光輪が浮かび上がる。爆死する直前に浮かぶ光だ。アンノウンは呻き声をあげながら、指先に鋭く生えた爪を自らの腹に突き刺す。ごぽ、と奇声を発しながら、口から鮮血が流れ出た。地面に零れた血が、乾く前に光の粒子を散らして蒸発していく。アンノウンの体も血と同じように、体の細胞が内部から燃えているかのように光りだして、やがて跡形もなく宙へ散っていく。

 分からないが、アンノウンは消滅した。振り返ると、少年の姿がない。周囲に視線を巡らせるが、暗視モードに切り替わったG3のセンサーでも捉えられない。まるで初めからいなかったみたいに。

 そうだ、と誠は思い直す。それよりも三雲を助けなければ。

「三雲さん、三雲さん!」

 呼びかけながら、誠は三雲の首筋に触れる。脈動が感じられない。出血のせいで顔が青白くなっている。誠はモニタリングしているであろうふたりに向けて叫んだ。

「小沢さん、救急車をお願いします! 三雲さんが……、三雲さんがアンノウンに――」

 

 





次章 ふたりのキモチ / 記憶の一片


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第4章 ふたりのキモチ / 記憶の一片 第1話

 

   1

 

 これは、ひとりの短い物語。

 

 小さい頃から隅っこで遊ぶ、目立たない子だった。運動も苦手で、学芸会の演劇で務めたのは樹の役。自己主張するのに消極的で、人の輪に入っても流されるまま。大きな流れの中にいては、「自分」という認識が薄れていく。自己を保つために国木田花丸(くにきだはなまる)が人の輪から外れ、孤独という自由を手にしたのは小学校にあがってすぐの頃だった。孤独であることに寂しさを感じなかったのは、図書室というひとりで過ごす絶好の場所を見つけられたからだろう。だから、花丸が読書に傾倒するのは必然的だったと言える。

 人生は物語に例えられる。でも多くの小説において、語られるのは主人公の人生のほんの一幕。幼少から晩年までを語ったのは、有名どころだとプルーストの『失われた時を求めて』くらいだろう。そうなると、まだ15年だけの花丸の物語は、全て事細かく語ったとしても1冊の本にはなれない。退屈で、平凡で、派手さのない。ただ淡々と日常が過ぎていくだけの、読み捨てられるだけの空虚な物語。花丸が本を読み漁っていたのは、そんな自分の空虚さを他者の物語で埋めようとしていたからかもしれない。

 ひとりで過ごしていては、登場人物は花丸ひとりの物語として完結する。他者の物語で埋めようとしても、結局のところ本は一方的に読者へ告げるだけ。キャッチボールに例えられる言葉の応酬なんてものはない。本と花丸の間に、物語は生まれない。

 そのことに気付いてしまったのは、すっかり文学少女に成長した中学生の頃だった。本を読み終わったときに覚えた達成感と、孤独。読了した本はもう花丸に語りかけてくれない。それでも、本は世の中にたくさんある。新しい本を探せばいい。自分の物語はそうやって語られる価値もなく淡々と変わらずに過ぎていく。そう思っていた。

 でも、人生という物語は予想外な章が展開される。花丸はその伏線にまったく気付いていなかった。

 図書室の隅でアイドル雑誌を読んでいた少女、黒澤(くろさわ)ルビィ。彼女との出会いが、花丸を大きな物語へ導くことになるなんて。

 

 

   2

 

 1歩ずつ脚を進める度に、体が重くなっていく。まるで体が磁石になって、道端の砂鉄や金属を吸い寄せているかのように。もはや真っ直ぐ進むことができず、酔っ払いのように千鳥足ながらも涼は懸命に夜道を歩き続けた。あと少しでアパートに着く。そうすれば思う存分、泥のように眠ろう。もしかしたら永遠の眠りにつくかもしれない。不謹慎な予想だが、それが冗談と言えないほどに涼の体は重い。いつもの発作の後に訪れる疲労とは比べようのない重さだった。原因として考えられるのは、長くあの姿でいたせいか。

 倒れそうになった体を傍の電柱に傾け、そのまま膝を折る。手に提げていたコンビニのビニール袋を落としてしまって、購入したミネラルウォーターや栄養剤が散乱する。拾おうと視線を下ろしたとき、手に留まった。自らの手を見て涼は驚愕のあまり粗い呼吸を一瞬だけ詰まらせる。

 涼はまだ20歳だ。肌も水分を十分に含んでいるはずが、涼の手はからからに干からびて皮膚が収縮している。まるで老人のようだ。指はいとも簡単に骨が折れてしまいそうなほどに細くなっている。

 ただでさえ汗だくなのに、更に冷や汗が溢れてくる。俺の体に何が起こっているんだ。ただ化け物になるだけじゃないのか。

 小刻みな足音が聞こえてくる。小走りのような、それかまだ脚が短い子供特有の歩き方のような。前方を見やると、低い背丈の人影がこちらへ歩いてくる。街灯の光が弱く、目も霞んでいるせいで顔がよく見えない。でもなぜだ。見るからに子供なのに、なぜ俺はこんなにも怯えている。なぜこの足音を怖れているんだ。

 多汗で脱水症状を起こしたのか頭がぼんやりしてくる。重い頭を支えるだけの余力もなくなり、涼はアスファルトの地面に横たえる。ゆっくりと目蓋が閉じられるなか、涼は視界が暗闇になる直前に辛うじて自分を見下ろす存在の顔を見ることができた。

 それは少年の姿をしていた。

 

 

   3

 

「これは、馬券ですか?」

 競馬のチケットを映した写真をぱらぱらとめくりながら、尾室が尋ねる。現物は警視庁舎に保管されていて持ち出すことはできず、先方の捜査員に頼んで送ってもらった画像をプリントアウトしたものだ。

「ええ。先日の被害者、片平久雄の所持品のなかにあったものなんですが、これを見てください。当日のレース結果です」

 そう言って誠はレースの成績をまとめた紙片を手渡す。片平久雄の購入した馬券のレース番号には分かりやすくマーカーで線を引いておいた。

「何だ全部外れじゃないですか」

 うんざりした様子で尾室がひらひらと振る紙を指さし、

「馬券のレースナンバーをひとつずつ繰り上げてみてください」

 誠が告げると尾室は再び馬券と成績表に視線を交互に巡らせる。

 片平の予想では、レース4Rで勝つ馬の番号は4-9。レースの結果は4-12で外れたが、次のレース5Rの結果は4-9。片平の予想したレース5Rは1-2。これも外れだが、次のレース6Rの結果は1-2。レース番号ひとつ違いでの一致が、その後の購入した馬券で同様に続いていく。

「片平久雄はひとつ先のレースを全て的中させていたんです」

「偶然じゃないかな。それとも、氷川さんまだアンノウンの被害者が超能力者だっていう説を捨ててないんですか? 片平久雄は不完全ながら予知能力を使っていたとでも?」

「まだ、そこまで言い切れるような確信はないのですが………」

 そこへ、小沢がカーゴに戻ってきた。月に1度の定例会議は終わったらしい。もっとも、G3の設計や運用は開発者である小沢に一任されているから、これからのG3改修について彼女に意見できる者がいるとは思えない。

 小沢は尾室が持っているレースの成績表に気付くと眉を潜め、

「何、競馬? やめときなさい。あなた達どう見てもツキがありそうには見えないから」

 「いやそうじゃなくて――」と尾室が弁解しようとするが「それよりも」と小沢は遮り、

「オーパーツ研の三雲咲子さん。通り魔に殺害された、って上は処理するつもりよ」

 「そんな……」と誠は声を詰まらせ、端を切ったようにまくし立てる。

「小沢さんと尾室さんだってモニタリングしてたはずです。三雲さんはアンノウンに――」

「一応、主張はしておいたわ」

 小沢は至極冷静に、でもどこか苛立ちを含んだ声色で言った。

「でも死因は鋭利なもので腹部を刺されたことによる失血死。『不可能』ではないし、例によってアンノウンはカメラに映らない。証拠としては不十分なのよ」

 アンノウンが映らないG3の記録映像は、既に三雲が殺害された現場に誠が偶然通りすがったと捉えられても仕方ない。ならば誠は犯行を目撃せず、犯人は行方不明。

 現場にいた少年のことも気になる。映像には少年の姿も映っていなかった。G3のセンサーが暗視モードだったから誠には見えていたが、街灯の光量が不十分なあの場所ではカメラで捉えることはできなかったのだろうか。そもそも、何故少年は現場にいたのか。ただ散歩していたところを遭遇したとしても、あんな年端もいかない子供を親がひとり夜に出歩くのを許すとは到底思えない。

「有耶無耶にする、ってことですか」

 溜め息と共に尾室が漏らす。誠は拳をきつく握りしめた。真実を追うことが警察の職務じゃないのか。犯人が正体不明(アンノウン)な存在だからといって、自分たちでは手に負えない存在だからと匙を投げて何が法の番人だ。苦虫を噛み潰すのは遺族だというのに。でも、反感を抱くのは誠だけではないはず。小沢だって、会議の場で主張したのなら誠と同じ想いだったはずだ。でも、小沢の主張でも上層部の意向を覆すことができなかったのなら、刑事のなかで最下位の警部補である誠の言葉など聞き入れてもらえない。

「ねえ、ちょっと気になるんだけど」

 小沢がそう切り出してくれなかったら、誠は行き場のない怒りを八つ当たり同然に発散させていたかもしれない。

「例のオーパーツのコードを基にした遺伝子実験。あれ本当に失敗だったのかしら?」

 それが単純な質問でないことが理解できる。誠も違和感を覚えていた。研究所が撤去されるなか、打ち捨てられたように佇んでいたオーパーツを見つめる三雲の顔。彼女はやはり、あのオーパーツから何かを見つけたのでは。それ故にアンノウンに殺害されたのなら、オーパーツとアンノウンに繋がりがある気がする。思えば、オーパーツの研究が始まると同時期にアンノウンが現れた。無関係とは思えないが、結び付ける材料が足りない。あと少し、あと少し何かあれば真実へ辿りつけそうなのに。

 調べ直そうにも、オーパーツがどこの博物館へ引き取られたのか分からない。ただ遠い昔に製造され、難解なパズルが組み込まれた「だけ」のオブジェを誰が引き取るのだろうか。

 まともな回答を得られないと悟ったのか、小沢はデスクに向いてPCを起動させた。

「何か嫌な感じね。今以上に厄介なことが起こらなきゃいいけど」

 

 

   4

 

「そうそう、ふたりとも土曜日は空けておいてね」

 夕食後にリビングでくつろいでいるなか、志満が何気なしに告げてきた。

 「え?」と美渡がスナック菓子を咥えながら、「何かあったっけ?」と千歌も翔一の淹れたお茶の湯呑を受け取りながら訊く。「もう」と志満は溜め息をついて、

「その日はお父さんの命日でしょ」

 「ああ」と美渡と千歌は声を揃えた。

「お父さんに報告しなきゃいけないこと、たくさんあるんだから。美渡の就職とか、千歌ちゃんの進学とか」

 「あとスクールアイドルもね」と千歌が補足する。これは必ず報告せねばならない。やりたいことが見つかったよ、と。

「じゃあこれ持っていく? ほら、お供え物にさ」

 そう言って翔一がお茶請けに用意した大根の一夜漬けの小鉢を手に取る。「ううん、いらない」と断りながら、千歌は翔一のことも報告しよう、と思った。兄のような存在ができた。記憶喪失で戦士に変身する不思議な人だけど良い人だよ、と。

「お父さんが死んで3年か………。早いもんだね」

 美渡がしみじみと言う。「そうね」と志満が応じ、湯呑のお茶を啜った。

「どういう人だったんですか? 3人のお父さんて」

 翔一が訊くと、志満は湯呑をテーブルに置いてどこか遠くへと視線を向けながら答える。

「大学の教授をしていてね、神話や伝説を研究していたの」

 続いて美渡が、

「たまにしか帰ってこなかったけど。結構忙しかったみたいで大学の近くで家買って住んでたんだよね」

 千歌もふたりの姉と同じように遠くを見やり、父の記憶を土から掘り起こすように回顧した。千歌の父にまつわる最も古い記憶は手だった。とても大きく、幼い千歌の頭を包むように撫でてくれた父の手。

「優しい人だったな。手が大きいの、風呂敷みたいに」

 「風呂敷⁉」と翔一は自分の両手をまじまじと見つめる。実際、そんなに手の大きい人間はいないだろう。父の手が風呂敷のように大きかったのは、千歌が幼かった故の錯覚だ。実際は翔一と同じくらいかもしれない。

 一旦思い出すと、千歌の意識はそのまま海底へ潜るように過去へと遡っていく。父の手がとても大きく見えた頃、千歌が物心のついたばかりの頃の記憶は、今でも鮮明に思い出せる。

 父は仕事が休みの日は必ず十千万へ帰宅し、天気が良ければ千歌と曜、たまに果南も一緒に海釣りへ連れて行った。釣りを趣味としていた父の腕前は確かなもので、毎回アジやサビキをクーラーボックスいっぱいになるまで釣り上げた。幼い千歌たちも子供用の竿を垂らして待っていたが、なかなか釣れずに曜と果南が別の遊びを始めていた。

 千歌は竿を握る父の姿を常に眺めていた。竿を両手でしっかりと持つ父は、竿を通じて魚の泳ぎを読み取っているように見えた。「それ」と父が竿を揚げると必ず魚が食いついていて、父は大きな手ですっぽりと釣れた獲物を千歌に見せてくれた。

 ――お父さんすごーい!――

 千歌が感嘆の声をあげると、父も嬉しそうに娘と一緒になってはしゃいだ。

 ――凄いだろう。お父さんは凄いんだぞ!――

 

 

   5

 

「これでよし!」

 引き戸の真上にある枠にすっぽりと収まったスクールアイドル部の札――「部」が「陪」と間違っているから訂正した――を、千歌はまじまじと見上げる。

「それにしても、まさか本当に承認されるなんて」

 未だに信じられない、でも嬉しそうに梨子が言った。「部員足りないのにねえ」と曜も続く。でも、これは現実だ。先ほど頬をつねってみたところ痛かったから間違いない。

「理事長が良い、って言うんだから良いんじゃないの」

「良い、ていうかノリノリだったけどね………」

 先の理事長室で揚々と紙面に承認の判を押した鞠莉を思い出したのか、曜が戸惑い気味に言う。

「どうして理事長はわたし達の肩を持ってくれるのかしら?」

 と梨子が尋ねた。千歌はさほど深く考えず「スクールアイドルが好きなんじゃない?」と返す。「それだけじゃないと思うけど………」と梨子は腑に落ちないようで顎に手を添える。自分たちの熱意が伝わった、ということで良いや、と千歌は思った。わたし達は条件通りにライブを満員にさせた。だから鞠莉は約束通り承認してくれた。それだけのこと。

「とにかく入ろうよ」

 そう言って千歌は鞠莉から預かった鍵で開錠し、戸を開けて中へ入る。

 部室として割り振られた部屋は随分と物が散乱している。バレーボールにバスケットボールにバドミントンのシャトル、何が入っているのか分からない段ボールの山。使われなくなって久しいらしく、まだ戸の近くまでしか踏み込んでいないというのに3人が中に入ると積もっていた埃が一気に舞い上がった。

「片付けて使え、って言ってたけど………」

 言葉を詰まらせた梨子の続きを千歌が大声で引き継いだ。

「これ全部う⁉」

 せっかく部として本格的な活動ができると思ったのに、出鼻をくじかれた。片付けが終わる頃にはまだ練習する時間が残っているだろうか。練習だけでなく次の曲の制作にも取り掛かりたいというのに。

「文句言っても誰もやってくれないわよ」

 淡々と言いながら梨子は制服の袖をまくる。無言で頷く曜も同じように。仕方ないかあ、と思いながら千歌も袖に手をやったとき、何気なく視界に入ったホワイトボードの文字に気付いた。インクが酷くかすれていて、近くで凝視しなければ見えない。

「何か書いてある」

 「歌詞、かな?」と梨子が言うと、確かに歌詞のフレーズに見えてくる。「どうしてここに?」という曜の質問には「分からない」と答えるしかない。前に使っていた生徒が書いたものだろうか。まあ、今はそんなことはどうでもいい。

 「それにしても」と千歌は備え付けのテーブルや床に散らばっている本に目を向け、

「こんなにたくさんの本、どこに置こうかな?」

 棚は一応あるのだが、殆ど埋まっている。もっとも、整理すれば不要なものが出てスペースは確保できるかもしれないが。

「図書室のものかもしれないし、返しに行こっか」

 と曜は埃まみれの本を集め始めた。

 

 放課後の図書室はとても静かだ。昼休みには少ないながらも利用する生徒はいるのだが、放課後となると多くが部活か帰宅する。勉強するのも、読書をするのもリラックスできる自宅のほうが捗るだろう。だから図書当番でありながら暇を持て余す花丸は、入学間もないながらも読書で下校時間が来るのを待つという業務スタイルを既に確立させていた。

 図書室を漂っていた静寂が、戸を開けると同時に発せられるルビィの声で破られる。

「やっぱり部室できてた!」

 図書室ではお静かに。カウンターの前で子供のようにはしゃぐルビィにそう言うべきなのだが、今は迷惑を被る人は文字通り誰もいないのだから注意するほどのことでもない。

「スクールアイドル部、承認されたんだよ!」

 「良かったねえ」と花丸は笑みを浮かべた。ルビィはとても嬉しそうだった。勧誘してきた千歌に怯えながらも、Aqoursのライブに行くと真っ先に言ったのはルビィだった。普段は人見知りが激しく口数も少ないが、スクールアイドルのことになると途端に饒舌になり、花丸にμ’sなるグループがどれほど凄いのかを教えてくれる。それほどルビィはスクールアイドルが好きということ。

「またライブ観られるんだあ」

 うっとりと両手を合わせたと同時に戸が開く。ほぼ反射的にルビィはカウンターの陰に隠れた。まだ花丸以外とは上手く会話ができない。クラスでもルビィが花丸以外の生徒と話すのところは見たことがなかった。

「こんにちはー!」

 意気揚々と挨拶して図書室に訪れた先輩だったら、隠れても仕方がないかもしれない。そう思いながら、花丸は「こんにちは」と挨拶を返す。千歌と曜と梨子。Aqoursの3人はそれぞれ山積みの本を抱えている。

「花丸ちゃん」

 とカウンターの前に立った千歌は次いで人差し指をカウンターの陰に向け、

「と、ルビィちゃん!」

 「ピギャあ!」とルビィは声をあげた。観念したのか立ち上がり、おそるおそる「こ、こんにちは……」と挨拶する。

「可愛い!」

 そう言って千歌はまじまじとルビィを眺める。向けられる視線にルビィはたじろぎ、どう返していいか分からないようで視線を右往左往させる。それを見かねてか、「千歌ちゃん」と曜が制した。

「もう、勧誘に来たんじゃないでしょ」

 梨子も呆れを口にしながら、カウンターに抱えている本を置く。

「これ部室にあったんだけど、図書室の本じゃないかな?」

 花丸は山の1番上を手に取り裏表紙を開く。頁に図書室の蔵書を示す判が押されている。

「多分そうです。ありがとうございま――」

 最後まで言い切る前に、花丸の手が取られた。傍に立つルビィの手も。千歌はふたりの手を離すまいと強く握り、

「スクールアイドル部へようこそ!」

 「千歌ちゃん……」と梨子が口で制止を試みるも全く効いてなく、千歌は続ける。

「結成したし、部にもなったし、絶対悪いようにはしませんよお」

 鼻息を粗くした千歌の出で立ちは完全に変質者だ。同性でなかったら通報されているかもしれない。いや、同性でもなかなか危うい境界線か。

「ふたりが歌ったら絶対キラキラする。間違いない!」

 容貌がアイドルとして成立すると見初められるのは嬉しいのだが、だからといってふたつ返事で容認できることじゃない。アイドルになるということは、この先輩たちのようにステージで、大勢の人の前で歌って踊るということ。

「おら……」

 「おら?」と千歌が反芻したところで、無意識に祖父母譲りの方言が出てしまったことに気付く。

「ああ、いえ……。マル、そういうの苦手っていうか………」

「ル、ルビィも………」

 しどろもどろに言うルビィに花丸は視線をくべる。違うでしょ、ルビィちゃん。アイドルのライブを観たいんじゃなくて、本当はアイドルになってライブに出たいんでしょ。そう告げたとしても、ルビィの後押しになれる自信がなく口を結ぶ。そこでようやく曜と梨子が助け舟を出してくれた。

「千歌ちゃん、強引に迫ったらかわいそうだよ」

「そうよ、まだ入学したばかりの1年生なんだし」

 「そうだよね」と笑いながら千歌は手を離した。

「可愛いから、つい」

 「千歌ちゃん、そろそろ練習」と曜が促し、「じゃあね」と千歌は手を振ってふたりと共に図書室から出ていく。戸が閉められると、ルビィがぽつりと呟いた。

「スクールアイドルか……」

「やりたいんじゃないの?」

「でも………」

 

 






 本作で千歌ちゃんのお父さんは故人としていますが、原作では健在です。一瞬しか登場しませんが。


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第2話

 

   1

 

「すいません納得はできません」

 毅然とした小沢の声が会議室の壁に反響する。PC画面を通じての会議で、対峙しているという認識はどうにも薄くなりがちだ。だからこうして真っ向から強気でいられるのかもしれないが、小沢なら直接の対峙でも同じ態度でいられるだろう、と隣の席につく誠は思った。

 液晶のなかで警備部長は『何か勘違いしているようだが』と前置きし、

『氷川誠主任がG3システムの装着員として本当に相応しいかどうか、もう一度検討し直す――』

「部長!」

『これは既に決定したことで君が納得するかどうかは問題ではない』

 小沢は誠を見やる。あなたも何か言ってやりなさい、と視線で告げているのが分かる。でも誠にそんな気力は起きない。国家試験に合格しただけで現場を理解せず幹部になったお飾りのキャリア組が知ったような口をきくな。そんな不満は多くのノンキャリア組が抱いているだろうが、大半がキャリア組の上層部に告げれば日本警察の組織形態を全否定しているようなものだ。

 痺れを切らした小沢は早口に言う。

「彼以上にG3システムを理解し、その力を引き出せる人はいません」

『G3システムが大した成果を挙げていないのも事実だ』

 淡々と告げる補佐官に「それは――」と小沢は反論しようとするが、警備部長によって遮られる。

『我々は何も氷川主任を更迭(こうてつ)すると言っているわけではない。もう一度、検討し直すと言っている』

 そこで警備部長は『氷川君、何か言いたいことはあるかね?』と訊いてくる。返答に誠はしばしの時間を要した。G3への執着は、確かに抱いているかもしれない。でもだからといって、それを主張したとしても何か変わるだろうか。自分はG3としての成果を挙げていない。初陣では大破させ、その後の戦闘オペレーションはアギトの加勢で乗り切る始末。

「いや、自分が未熟であることは、自分が1番よく分かっています」

 結局、誠はこの場において最も求められているであろう答えを返す。唯一、その答えを求めていない者がまくし立てる。

「あんたここで弱気になってどうすんのよ!」

 『とにかく』とため息交じりに警備部長が小沢を遮った。早く終わらせたい、というような口ぶりだった。

『結論が出るまでG3ユニットは全ての活動を停止すること。従って君たちは、速やかにGトレーラーから撤収するように』

 『いいね』という圧力のこもった警備部長の声を最後に、通信が切れた。絶望、怒り。それらの感情は誠の裡に全くと言っていいほど湧いてこない。ただ、自分の後任を議論している間にアンノウンが現れたらどうするのか、とぼんやり考えていた。きっとアギトが現れて倒してくれる。そう楽観的に思ってみるが、もしアギトが現れなかったり、もしくはアンノウンに敗れてしまったりしたら。

 何のためのG3だ。何のための警察だ。警察官としての矜持が崩れていくような気がした。

「何よ、頭の固い親父連中が」

 会議室から出るや否や、小沢がそう毒づく。

「声が大きいですよ、小沢さん」

 皮肉を飛ばしてくる声に振り向くと、署内では目立つ仕立ての良いスーツの北條が廊下を歩いてくる。

「話は終わりましたか?」

 どうやら偶然通りかかったわけではないらしい。また何か嫌味でも言いに待っていたのか。それとも――

 疑念を小沢が口に出す。

「あなたのせいね。どういうつもり? 一体上に何て吹き込んだの?」

 向けられる嫌悪に北條はふ、という微笑で応え、

「私は知りませんよ、何も」

 「失礼します」と会釈し、北條は会議室のドアを開ける。中へ入る直前、彼がこちらへ笑みを向けるのを、誠は見逃さなかった。

 

 Gトレーラーが本格的に運用されてからまだ2ヶ月程度だが、カーゴ内にはすっかりユニットメンバーの私物が溜まっている。車内をオフィス代わりに使用していたために、それらを整理する前に尾室は少し気疲れしているようだった。職場に私物を持ち込むことは極力控えていた誠は段ボールひとつで事足りたが、尾室は既に3個目にファイルを詰めている。

「ひょっとして、俺も小沢さんもお払い箱になっちゃうのかな」

 溜め息と共に尾室が言った。G3運用に際して疑問視されているのは装着員である誠だけのはず。なら尾室は引き続きユニットのオペレーターとしてGトレーラーに戻るだろう。小沢は分からない。いくら彼女がG3を開発した才媛だとしても、先の会議の場での態度は上層部にとって目障りに映るかもしれない。誠の戦闘オペレーションの失態もあって、ユニットから降ろされる名目は十分に成立してしまう。

「済みません、僕のせいで」

「あ、別にそういう意味じゃないんですけどね。ただ、何か寂しいですよね」

 尾室の言葉で、誠はG3ユニットを離れることの意味に気付く。本庁所属の自分たちはこの沼津から離れるという意味だ。仕事ばかりで故郷の空気を感じる間なんてなかったから、そう思うと寂しさが思い出したように湧いてくる。せめて、十千万で一泊だけでもゆっくりしていきたかった。

 カーゴのドアが開き、小沢が入ってくる。「分かったわよ。北條透、やっぱりあのバカ男のせいだったわ」

 先にカーゴに戻るように、と別れたあと、やはり小沢は北條について訊き回っていたらしい。そしてやはり、小沢にとって不愉快な事実を突き止めた、と怒り心頭な声色で分かる。

「あのアホ男、あかつき号事件のことで上層部をゆすったらしいの。事件の裏をマスコミに流す、って」

 小沢はどか、と椅子にふんぞり返る。そんな彼女に怯えながら、尾室がおそるおそる訊いてくる。

「あかつき号事件て、氷川さんがたったひとりで遭難したフェリーから乗員乗客を救出した、っていうあれですよね。あれでどうして上をゆすれるんです? あの事件に裏なんてあるんですか?」

「あのとき何故海上保安庁はあかつき号を救出に向かわなかったのか」

 小沢の提示した問いに尾室は「そういえば、確かにおかしいですね」と呟く。小沢は続けた。

「その日海上保安庁の巡視船は田子(たご)浦港(うらこう)っていう港にある人物を迎えに出払っていたの。当時本庁の警視正だったお偉方をね。お偉いさん同士が幼馴染の関係にあった。要するに里帰りした友人を迎えに行ってたのね」

「なるほど、巡視船を私用に使って救助信号を無視したってわけですか」

 公用の船を使っての私的な送迎。公務員にとってはそんな些細なことも大問題になりえる。給与が税金で賄われているから世論の反発は免れない。しかし悲しいかな、警察内部においてはよくある話だ。当時の巡視船は不幸にもあかつき号事件と重なってしまったことで不正が明るみになったということ。

 でも誠は、救助信号が無視された原因がお偉方の私用だけでないことを知っている。当事者だからこそ。

「いや、それよりもまず海上保安庁は救助信号を信用しなかったんじゃないかと思います」

 「どういうこと?」と小沢が訊いた。誠はその日の、まだ鮮明に思い出せる記憶を回顧しながら語り始める。

「不思議な日でした。僕だってまさか、あんな事故が発生するとは思わなかった」

 

 その日は1年と半年前の夏で、誠は当時静岡県警の巡査として、静岡市清水区の派出所に勤めていた。

 日常業務のパトロールルートだった駿河湾の沿岸は快晴だった。雲はひとつもなく、水平線まで広がる青空は同じ青色を映す海との境界を曖昧にしていて、パトカーの窓から眺めて気持ち悪いと思ったほどだ。

 青い海の一画で生じていた現象を目撃し、誠はパトカーを止めた。最初は蜃気楼かと思った。でもそれは空気の揺らめきではなかった。光の柱が海に立っていた。その柱が海底から空へ突き出しているのか、空から海に突き刺さっているのか分からない。

 稀に、雲中の氷の粒が陽光をプリズムのように反射して光の柱を伸ばす現象を聞いたことがある。でも、その日は快晴で雲なんてどこにも見当たらなかった。それに、あの光は陽光の反射にしては、はっきりとし過ぎていた。まるでそこが第2の太陽のように。

 

「そして現場に向かった僕は、光のなかで暴風雨に見舞われているあかつき号を発見したんです」

 思い出せば思い出すほど奇妙だ。現地の漁師から借りたボートで辿り着けるほどの距離だったというのに、その光のなかだけピンポイントで嵐が吹き荒れていた。ならば、あの光は超小型の台風が陽光の加減で柱のように見えたのだろうか。いや、台風なら中心は「台風の目」になるはず。中心点だけ暴風雨だなんて「ありえない」ことだ。

「そうだったの。初めて知ったわ」

 小沢が言った。尾室も腕を組んで唸るように、

「海には謎が多い、って言いますけど、本当不思議なことが起こるものなんですね」

 「だけど」と小沢が話題を軌道修正する。

「だからといって本庁の罪が消えるわけじゃないわ。北條透の脅迫は十分成立する」

 あなたは賄賂を受け取ったんだ、と北條から言われたことを思い出す。確かにそうかもしれない。首都警察というポストを与えると同時に、自らの管轄内に置き誠が口を滑らせないか監視する。辻褄の合う話だ。

 小沢は立ち上がり、誠を見上げる。

「氷川君、G3の装着員としてのあなたの立場、危ういわね」

「とにかく今は、上の決定を待つしかないでしょう。たとえG3を使えなくなっても、自分は自分なりにアンノウンと戦っていければと思っています」

 G3装着員であること以前に、誠は刑事だ。ユニットが活動停止したとしても、アンノウンは待ってくれない。ならば一刻も早く、アンノウンが人間を襲う理由を突き止めなくては。有事の際にだけ動くのが警察じゃない。起こる前に防がなくては、警察の矜持は今度こそ堕ちる。

「でも、具体的には何をするつもり?」

「もう一度、高海さんに会いに行きます」

 

 

   2

 

 スクールアイドルになりたい。

 そんなルビィの望みを、花丸は漠然とだが感じ取っていた。部もできたことだし、入部を申し込めば簡単にその望みは叶う。たった1歩で叶えられるのに、ルビィは踏み出そうとしない。そのことにやきもきする気持ちはあったが、どうにも人見知り以上に1歩を踏み出せない理由があることも感じ取っていた。

 黒澤ダイヤ。

 浦の星女学院生徒会長で、ルビィの姉。実際に会ったことはないが、その人柄はルビィからよく聞いている。ルビィにとって自慢の姉であるダイヤは、網元である黒澤家の娘として幼い頃から茶道、華道、琴、日本舞踊といった様々なものを嗜み、それらを完璧に習得したらしい。古くから続く文化で育ったダイヤにとって、文化も伝統もないアイドルとは俗なものに見えるのかもしれない。

 その推測が、間違いだったことを花丸は知る。ルビィ本人の口から聞いたことで。

「お姉ちゃん、昔はスクールアイドル好きだったんだけど――」

 バス停で海を眺めながらルビィの語るダイヤの姿を、花丸は懸命に想像しようと試みる。入学式の生徒会長挨拶で凛とした佇まいだったダイヤから、アイドルが好きな年相応の感性を持った少女へと。

「一緒にμ’sの真似して、歌ったりしてた」

 読書で現実と離れた世界に意識を落としているのだから、想像力を働かせることに自信はある。でも、とてもアイドルファンとしてのダイヤは想像しがたい。あの硬派な生徒会長が、家では妹と共にアイドルのコスプレをしていただなんて。

「でも、高校に入ってしばらく経った頃――」

 そう語るルビィの表情が曇った。ダイヤが高校1年になった年の半ば。家でアイドル雑誌を読んでいたルビィに、ダイヤは冷たく言い放った。

 ――片付けて。それ、見たくない――

 まるで汚いものを見るような眼差しだったという。

「そうなんだ」

「本当はね、ルビィも嫌いにならなきゃいけないんだけど………」

「………どうして?」

「お姉ちゃんが見たくない、っていうもの好きでいられないよ」

 どうしてそういう理屈になるんだろう、と花丸は思った。スクールアイドルが嫌いになった理由は知らないが、それはダイヤ自身の問題。ルビィにまで嫌悪を押し付けていい根拠なんて、どこにもない。

「それに………」

 言葉の途切れたルビィに「それに?」と促す。ルビィは俯いた顔を挙げて、

「花丸ちゃんは興味ないの? スクールアイドル」

「マル? ないない」

 突拍子もない問いに面食らって、花丸は上ずった声で応えた。何故そこで自分が出てくるのか。今までアイドルに興味を示したことなんてなかったのに。Aqoursのライブに行ったのもルビィに誘われなければ行かなかった。

「運動苦手だし。ほら、『おら』とか言っちゃうときあるし」

 そう言うと、ルビィは笑みを向けた。アイドルを語るときとは全く違う、寂しさを隠すような笑みだった。きっとルビィは、花丸の答えを知っている上で質問をしたのだろう。自分を納得させるために。

「じゃあルビィも平気」

 

 

   3

 

 十千万へ向かう途中、誠は淡島のドルフィンハウスに立ち寄った。平日の昼間だが客はいるようで、「ありがとうございました。またよろしくお願いします」と果南は髪を湿らせた客を見送っていたところだった。店のウッドデッキへの階段を上る誠に気付いた果南は、高校生にして職業病なのか「いらっしゃ――」と言いかける。

「済みません、仕事中に」

「いえ、今日は空いてますし大丈夫です」

 「どうぞ」とテーブルを指し示すが、「いえ、すぐ行きますので」とやんわり断る。

「今日はどうしたんですか?」

「もうあの生物が襲ってくる心配はなさそうなので、松浦さんの護衛が解かれることになりました。そのことを伝えに」

 アンノウンによる高所落下の不可能犯罪は止んだ。また新しい個体に狙われる可能性も捨てきれないが、ひとまずは解決ということで処理されている。とはいえ、G3で撃破したわけでもなく、アンノウンの消滅を目撃しながらも上層部に揉み消されるという形になったが。

「わざわざありがとうございます」

「ご家族の様子はどうですか?」

「あれから何も起こっていませんし、両親も落ち着いてますよ」

「そうですか、良かった」

 まだ子供だからトラウマになりはしないか気掛かりだったが、果南は誠が思っているより成熟しているらしい。安堵の溜め息をつくと「あ、そうだ」と果南は思い出したように、

「お礼にお土産でも持って行ってください。うちの干物、味は折り紙付きですよ」

「いえ、仕事でやったことなので――」

 断ろうとしたが果南は聞かず、中へ入ろうと踵を返す。歩き出そうとしたところで、その足が止まった。いつからいたのか、制服を着た金髪の少女が果南の胸元に顔を埋めている。

「やっぱりここは果南のほうが安心できるなあ」

 「って、鞠莉!」と果南は鞠莉と呼んだ少女を引き剥がす。刑事としてここは注意するべきか、誠は迷った。鞠莉が男性なら明らかわいせつ行為なのだが、同性で顔見知りなら友人としてのスキンシップかもしれない。スキンシップにしても行き過ぎな気がするが。

「果南、Shiny!」

 そう言って鞠莉は再び果南に抱き着く。

「どうしたのいきなり?」

 今度は成すがままに抱擁を受け入れた果南は、険のこもった声色で尋ねた。鞠莉は抱擁を解くと真っ直ぐと果南の目を見据え、

「Scoutに来たの」

「スカウト?」

「休学が終わったら、School Idol始めるのよ。浦の星で」

 スクールアイドルとは何だろう、と思ったが、このふたりの間に割って入り質問できる雰囲気でないことを誠は察した。果南は眉根を寄せて鞠莉を睨んでいるのだから。

「本気?」

「でなければ、戻ってこないよ」

 果南の表情がより険しくなった。初めて見る顔だ。客商売をしている身なら、普段からこういった表情なんて出さないだろう。雰囲気に耐えかねて、誠は告げる。

「関係のない僕が言うのもなんですが、無理に誘うのは良くないかと」

 ふたりの視線が誠に向いた。果南は後ろめたくなったのか顔を背け、鞠莉のほうは誠の顔をじっと見上げてくる。

「あなた……」

「何か?」

 「刑事の氷川さん」と果南はぼそりと告げる。果南は苦笑を誠に向けて、

「氷川さん、お土産すぐに持ってくるので少し待っていてください」

 そう言って、果南は店内へと急ぎ足で入っていく。彼女の背中を眺めながら、鞠莉が独り言のように呟いた。

「相変わらず頑固親父だね」

 

 

   4

 

 翔一がほぼ毎日掃除をしているおかげで、十千万の居住スペースにはほとんど塵が落ちていない。でもだからといって、さぼってしまえばすぐに塵は積もる。たった1日でも人が過ごす部屋というものは結構汚れるものだ。居間にも、昨日美渡が食べたスナック菓子の欠片が結構落ちていた。

 居間の隅々にまで掃除機をかけると、翔一は千歌の部屋に入った。残りはこの部屋だけ。何故最後にしたかというと、千歌の部屋が最も時間が掛かるから。

 女の子の部屋の割には散らかってるんだよねえ、と思いながら翔一は掃除に取り掛かる。まず床に物が散乱していては掃除機をかけられない。水族館で買ったという伊勢海老のぬいぐるみを定位置であるベッドに置き、脱ぎ捨てられた寝間着は畳んでミニテーブルに。何冊ものスクールアイドル雑誌を本棚に戻そうとしたのだが、押しのけた英和辞典が床に落ちてしまった。持ち主の不勤勉さを物語るようにまったく傷みのない辞書のページから、落ちた拍子に新聞紙の切り抜きが何枚も散らばる。

 手に取ると、全て同じ内容の記事だった。見出しは「大学教授、他殺体で発見」というもの。紙面には犯行現場と被害者の顔写真が掲載されている。被害者は高海伸幸(のぶゆき)というらしい。

「嘘だろ、千歌ちゃんのお父さんて殺されたわけ?」

 思わず声をあげると同時、脳裏に映像が現れた。写真とよく似た、いや、これは紙面のモノクロ写真にそのまま色を付けたような景色、同じ場所だ。写真と違うのは、その一角でスーツを着た中年男性がだらりとスーツを投げ出していること。次々と知らないはずの風景が飛び込んでくる。全ての光景が早く過ぎ去っていくようで、処理が追いつかないのか目眩がしてくる。視界がぼやけていく。黒いもやのようなものがかかり、全てが真っ黒に塗りつぶされて――

 翔一は意識を失った。

 

 



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第3話

   1

 

 何とか3人がかりで部室を片付けたものの、時間をかけてしまった。余裕があれば海岸でダンスの練習でもしたかったが、疲労もあるし無理はよくない。そういうわけで、疲れてもできる曲作りを千歌の家でするという方針になった。曜は曲作りに関してはからっきしだが、衣装についても話し合いたい。

「ただいまー」

「お邪魔しまーす」

「お邪魔します」

 千歌、曜、梨子の声が、十千万の居間に吸い込まれるように消えていく。とても静かだった。宿泊客も部屋でくつろいでいるか、出払っているらしい。自分たちを出迎える沈黙に、千歌は「あれ?」と首をかしげる。

「誰もいないの?」

 梨子が訊くと、千歌は明後日のほうを向き、

「翔一くん、買い物かも」

「でも、バイクあったよ」

 曜の指摘に千歌は「うーん」と唸るが、「とにかく部屋行こ」と2階への階段を上っていく。曜と梨子も後に続いた。千歌の部屋の前に掃除機が放置されている。襖も開いたままだ。

 「ん?」と小首をかしげながら、千歌は自室へ入ると同時に声をあげる。

「翔一くん!」

 梨子も曜と一緒に入ると、床で翔一が倒れている。「どうしたの翔一くん!」と千歌が肩を揺さぶっても、翔一の目蓋は開く気配がない。突然のことで困惑はあったが、曜は冷静を保ちつつ対処に入る。

「千歌ちゃんは脈があるか確かめて。梨子ちゃんは救急車」

 曜の指示に従い、千歌は翔一の胸に耳を当て、梨子はスマートフォンを取り出す。呼吸を確かめるため、翔一の頭を固定しようと額に手を添えたときだった。

 黒い霧のようなものが脳裏をよぎった。朧気だったもやがはっきりと像を成し、狭い路地の光景になる。誰かが見たものを、そのままの視点で見せられているようだった。視点の主は薄暗い路地を進み、その先で中年男性が地面を這いながらこちらに怯えた目を向けている。

 この男性を曜は知っている。幼い頃に海釣りへ連れて行ってくれた千歌の父、高海伸幸だ。

 ――やめてくれ………――

 うわ言のように伸幸が呟いている。ごぼっ、と口から血の泡を吐いて、瞳が閉じられると頭が力なく垂れる。伸幸は3年前に亡くなった。当時、連日ニュースで報道された現場にこの光景の場所が似ていることに気付く。いや、似ているどころか同じだ。

 視点の主は伸幸を置いてその場から離れていく。粗い息遣いが聞こえた。息をあえがせながら走り、地下道へと潜り込んで――

「曜ちゃん?」

 不意に声が聞こえて、光景は霧のように脳裏から消滅する。視線を下げると、翔一が心配そうに曜を見ていた。「良かったあ」と千歌が溜め息をつく。慌ててスマートフォンの通話を止めた梨子も同じように溜め息交じりに、

「一体どうしたんですか?」

「さあ、確かここで目眩がして………」

 良かった、と思う余裕がなかった。さっきの光景は翔一の失った記憶なのだろうか。

「翔一さん、出ていってくれますか」

 無感情に言うと、「え?」と皆が一斉に曜へ視線を集める。

「でもほら、まだ掃除終わってないし――」

「それはわたし達がやりますから、出ていってください」

 思わず声を荒げてしまう。翔一は罰が悪そうに「はい」と言って部屋から出て行く。千歌と梨子は困惑の視線をこちらへ向けている。

「曜ちゃん、急にどうしたの?」

 尋ねる千歌を曜はじ、っと見つめる。先の光景を話すべきだろうか。翔一の記憶らしき、伸幸の死の瞬間を。身内の死の真相を知る権利は当然ある。でもそれが、身近にいる存在が家族に手を下したと知れば、千歌の心に一生消えることのない傷を付けてしまう。

 曜は無理矢理に笑顔を繕った。

「翔一さんいると、作業進まないし」

 

 

   2

 

 十千万を訪問すると、誠を出迎えたのは翔一だった。

「高海さんは?」

「千歌ちゃんなら部屋にいますよ」

「志満さんです」

 溜め息を挟んで誠は言った。悲しいかな、慣れつつある翔一のおとぼけだ。

「志満さんなら旅館協同組合の集まりで遅くなる、って言ってました。中へどうぞ、お茶でも淹れますから」

「お構いなく、日を改めてまた伺いますから」

「いやあ、お客さんにお茶くらい出すのは当然のことです」

 「ささ、どうぞ」と促されるまま、誠は居間の座布団に腰掛ける。また不可解な殺人事件が起こったらしいから署に戻りたいのだが、お茶を飲むくらいなら良いだろう。

 翔一はお盆を手に戻ってくると、テーブルに茶器を並べる。受け皿付きの湯呑、急須、茶筒、水指。お茶というのは結構道具がいるものだ。急須に適当な量の茶葉と熱湯を入れて湯呑に注ぐだけと思っていた。

「随分丁寧に淹れるんですね」

「そうかな? お客様ですから」

 宿泊客にも、翔一は普段からこうしてお茶を淹れているのかもしれない。水指のお湯をまだ茶葉を入れていない急須に注ぐ翔一に、誠は尋ねる。

「ひとつ訊いていいですか?」

「はい?」

「君は超能力というものを信じますか?」

 「うーん」と唸りながら翔一はお湯の入った急須を回し、熱を均一にしていく。

「信じません」

「何故です?」

「俺が超能力者じゃないからです」

 なるほど、と誠は納得できた。確かに超能力なんて不可思議なもの、身の回りになければ信じようもない。誠もアンノウンによる事件がなければ信じなかった。

「あ、違った。やっぱり信じます」

 そう言って翔一は湯呑にまだ無色な急須のお湯を注ぐ。

「信じる、何故? いま信じないと言ったばかりじゃないですか」

「俺、超能力者でした。ちょっと違うような気もしますけど、多分似たようなもんです」

「超能力者……、君が」

 誠はまじまじと翔一を眺める。翔一は急須に茶葉を入れて、湯呑のお湯を急須に戻した。

「見せてください」

「駄目です」

「何故です? 自分の力を制御できないということですか?」

「いえ。前はそうでしたけど、今ではちゃんと自分の意思でやっています」

「じゃあ何故?」

 「んー」と翔一は湯呑の水気を布巾で拭き取りながら、

「氷川さんきっと驚いちゃうから………」

「テレパシーですか? サイコキネシスですか?」

「違います。もっと全然凄いやつです」

「自分は刑事です。大概のことには驚きません」

「絶対絶対驚いちゃいます。もしかして気絶しちゃうぐらい驚いちゃいます」

「ではせめてどんな力なのか教えてください」

「強くなるんです」

「それで?」

「パンチやキックで相手と戦います」

「………もしかしてからかってるんですか?」

「とんでもない、マジです」

 付き合っていられない。興奮が一気に冷めて目眩がしてくる。翔一の言った通り気絶してしまいそうだ。

 待てよ、と誠は思い直す。もし翔一が本気で自分を超能力者と「思い込んで」いるとしたら。

「君はお酒を飲みますか?」

「お酒ですか? 飲みませんけど、どうしてそんなこと訊くんです?」

 「いや、別に」とはぐらかした。巡査時代に酒乱癖のある酔っ払いを介抱した経験から翔一もその類かと思ったが、見たところアルコールの影響は無さそうだ。そもそも本人が飲まないと言った。これも詰まらない冗談だろう。

「そうだ、昨日常連のお客さんから貰った美味しい茶菓子があるんです。待っててください」

 水気を取った湯呑を置いて、翔一が台所へと向かっていく。早くお茶を頂いて署に戻ろう、と思い誠が急須を取ると、

「駄目ですよまだ。お茶っ葉がお湯に馴染むまで待たなくちゃ」

 目ざとい注意を受け、誠は素直に急須を置いた。茶葉がお湯に馴染むまで何分待てばいいのか。まあ、そんなに長い時間待つ必要もないだろう。翔一が茶菓子を持ってくる頃には飲んでもいいはずだ。

 誠は腕を組み、しばらく同じ姿勢のまま待ち続ける。何だか瞑想しているような虚無に耐え切れず急須の蓋を開けて中を覗いてみる。十分に茶葉は抽出されていると思うが、ここで淹れると翔一が小うるさそうだ。誠は蓋を閉じて待ち続ける。一体、翔一は茶菓子の用意にどれだけ時間をかけるのだろう。

 

 

   3

 

 真夏日のような熱気に、善子は熱中症を起こすのではと思った。

 とはいえこの日はまだ初夏に入ったばかりで、夕暮れ時ということもあり気温はそう高くない。暑さの原因は善子の冬物のコートにマスクにサングラスという出で立ちにあった。高校に入学して早々に起こした失態から知り合いに遭遇するのを怖れた結果がこの変装だ。内浦にある浦の星女学院の生徒で沼津市街に住む者はそういないと思うが、万が一という場合もある。現に先ほど、駅前の本屋で同級生の花丸を目撃したから警戒意識はより強い。

 本屋で購入した『天使図鑑』という本を抱えて自宅のマンションまで歩いたところで、ふと善子は後ろを振り返った。誰かに見られている気がする。道路には車が行き交っているばかりで、通行人は善子の他にはいない。視界の隅、茜色に染まった空に黒い点がある。カラスだろうか。サングラスをずらして凝視してみると、カラスにしては大きい気がする。人のようなシルエットだった。真っ黒で腕からは鳥のような羽がある。

 まさか、堕天使。

 思うと同時にまさか、とかぶりを振る。だがシルエットはこちらへ近付いているようで、瞬く間に大きくなっていく。何やら不気味な寒気を覚え、善子は走った。マンションの前を素通りし、狩野川にかかる御成橋に出る。堕天使のようなシルエットは空から明らかに善子めがけて滑空してくる。近付いてくるにつれて、まるでカラスのような黒いくちばしがはっきりと視認できた。

 突然、堕天使は方向転換する。旋回し、離れた所にあるあゆみ橋にそびえ立つ鉄塔の頂に停まる。

 バイクのエンジン音が聞こえてくる。御成橋の下、川沿いに整備された遊歩道からだ。銀色のバイクが停車し、運転手がヘルメットを脱いであゆみ橋の方角を見据えている。バイクのシートから降りた運転手は若い青年だった。どこかで見たような気がする。記憶を探る間もなく、驚愕の光景に善子は青年を凝視した。

 青年の腹で光が渦巻き、ベルトを形成して腰に巻き付く。

「変身!」

 力強く告げて、青年はゆっくりと歩き始める。1歩進む毎に、ベルトのバックルから発せられる光が強くなっていく。橋の真下へと進んだところで、青年の姿が隠れた。善子は対岸へ走り、そこから出てくるであろう青年を目で追おうとする。

 だが、出てきたのは青年ではなかった。それは金色の戦士だった。

 堕天使が鉄塔から飛び経つ。両腕を広げ、漆黒の羽を散らしながら猛スピードで滑空してきた。衝突しようと向かってきた堕天使を戦士は紙一重で避け、その背中に裏拳を見舞う。多少バランスを崩しながらも堕天使は体制を整え、急旋回して再び戦士へ向かっていく。今度も避けようとしたが、その頬を堕天使の拳が掠めたことでよろめいてしまう。

 堕天使が三度急旋回し、戦士めがけて滑空していく。戦士は両脚を広げてどっしりと腰を落とした。額から伸びた2本の角が開く。

「何よ、あれ………」

 善子は思わず呟く。こんなこと起こるはずがない。堕天使が現れて、見知らぬ青年が金色の戦士に変身して、目の前で戦っているなんて。

 戦士の足元に紋章が浮かぶ。戦士の角に似た紋章が渦を巻き、その足に集束していく。堕天使が肉迫しようとする直前、タイミングを見計らったのか戦士は跳躍した。人間では跳べない高さに身を躍らせ、キックの体制を取って堕天使を迎え撃つ――

 その足が触れようとした瞬間、堕天使の体が弧を描いた。空を蹴った戦士の真上へと回り、がら空きになった胸を蹴り落とす。突然の反撃に戦士も対処できず、受け身も取れないまま地面に背中から落ちた。角が閉じられる。

 胸を押さえながら立ち上がると、それを待っていたかのように堕天使が空から突進してきた。戦士の体を持ち上げたまま上昇し、川沿いにあるビルの壁に打ち付ける。衝撃で離れた戦士の体が、成す術なく地面に叩きつけられた。「うう……」と呻きながら戦士は立ち上がる。そこへ再び堕天使は滑空し、強烈な頭突きを戦士に見舞った。戦士の体が大きく突き飛ばされる。御成橋の中腹にぶつかり、鉄柵を掴んで橋上へ上がろうとする。善子は戦士のもとへ走った。助けないと、何故かそう悟った。

 善子が辿り着くまであと数メートルのところで、戦士の手が鉄柵から滑り落ちる。金色の体は重力に従って落ちていき、狩野川に飛沫をあげて沈んでいった。

 「ふっふっふ……」という気味悪い声を聞き取り、善子は上空を見上げた。あの声は堕天使のものか。堕天使は善子を一瞥する。背中に冷や汗が流れ、脚が震えた。そんな善子を嘲笑うようにまた「ふっ」と笑みを零し、堕天使は沼津市街のビル群へと飛び経ち、その陰に消えていく。

 がくり、と善子はその場に座り込む。全てが一瞬のように短く過ぎ去った。これは夢だろうか。いや、夢だとしたらこの上気する鼓動は何だ。あれは全て現実だったのだろうか。駄目だ、頭が混乱して思考がおぼつかない。

 未だに冷め止まない体温を確かに感じ取りながら、善子は呟いた。

「堕天使って、本当にいたんだ………」

 

 

   4

 

「翔一君まだ帰ってきてないの? 珍しいわね」

 夜も更けた頃に帰宅した志満が、無人の台所を眺めて呟く。長姉を出迎えた千歌はまた戦いに行ったのかな、と何となくだが悟った。

 居間でテレビを観ながら羊羹を――台所に放置されていたものだ――つまみながら美渡が、

「翔一も年頃なんだし、夜遊びくらいするよ」

 何て悠長なことを。千歌は皮肉を込めた視線を次姉に送る。気付きもしない美渡はテーブルに放置されたままの茶器を指さす。

「そういえばさっきまで刑事さん来てたよ。また今度来るってさ。何か訊きたいことがあるんだって」

 千歌は部屋で曜、梨子と一緒に曲の打ち合わせをしていたから気付かなかったのだが、誠が訪問していたらしい。翔一が対応していたそうだが、いつの間にか外出していたとか。

 志満は「そう」と応え、台所に脱ぎ捨てられたエプロンを着る。翔一が着ているものだから、志満にはサイズが大きい。

「さ、晩ごはん作るから手伝って」

 「えー?」と千歌は美渡と共に口を尖らせる。妹ふたりに志満は溜め息まじりに、

「翔一君がいないんじゃ、私たちがするしかないでしょ」

 仕方ない、と自分に言い聞かせて、千歌はテーブルの茶器をお盆に乗せ始める。翔一のことも心配だが、曜のことも気掛かりだった。部屋で話し合うときも明るくて、はきはきとしていて。曲の方向性が定まらず帰路につくまで、曜はいつもの曜だった。なのに、何故翔一にあんな突き放すようなことを言ったのか。曜だって、翔一のことを慕っているはずなのに。

 あの記事を見つけたからだろうか。3年前、父が殺害された事件を扱った新聞記事の切り抜き。当時、千歌と曜が事件を詳しく知りたくて集めていたものだ。曜は翔一にあの記事を知られたくなかったのか。でも、何で隠す必要があるのだろう。翔一だって子供じゃないし、それくらいの受容はできるはずなのに。

 

 バスの車窓から、曜は宵闇の空と同じ色を映す海を眺めた。海には魔物が潜んでいる。そんなおとぎ話を、幼い頃に伸幸が聞かせてくれた。

 その魔物はどんな姿をしているか、誰も知らない。その姿を見た者はみんな魔物に食べられてしまったからだ。魔物は特に子供が大好物だ。だから子供はひとりで海に入っちゃいけない。海の底から魔物が常に目を光らせて、大きな口を開けて一瞬で飲み込まれてしまう。

 伸幸は昔の神話や伝説に詳しかった。大学で教授をしていたから、職務上詳しいのは当然だったのだが。長期の休日が取れると十千万に帰って、夏休みで毎日のように千歌を訪ねた曜にも昔話を聞かせてくれた。伸幸が話す昔話のレパートリーは多様だった。同じ話、似通った話がない。ひとりで百物語すべてを語ってしまいそうなほどに。

 伸幸は釣りにもよく連れていってくれたが、曜はただじっと魚の食いつきを待つばかりの釣りよりも昔話を聞いているほうが好きだった。伸幸はレパートリーの多様さもさることながら、話し方も上手かった。伸幸の口から出る言葉の連なりは曜の脳裏に情景を浮かばせ、意識を現実から遠く離れた場所へと導いてくれた。

 でも、伸幸の語りは3年前に終わった。唐突に、何の前触れもなく。

 曜は目を閉じる。目蓋に覆われた暗闇のなかに、終わりの瞬間が浮かび上がってくる。

 骸になった伸幸を置いて、視点は地下道への階段を下っていく。息をあえがせながら微かに照明が落とされた通路を走り、地上への階段の前で立ち止まると呼吸を整える。その視線の隅で何かが動く。視点がそちらへ向くと、その正体は何てことのない、道路ならどこにでもあるカーブミラーだ。鏡に映った自分自身を他人と勘違いしただけのこと。

 視点がカーブミラーを見たのは一瞬の間だけだった。落ち着きなく揺れているせいで、映った人物への焦点が定まらない。でも、鏡に映った視点の人物は男性のようなシルエットをしていた。

 やはり、あの(ビジョン)は翔一の記憶なのだろうか。そう考えるのが妥当だろう。翔一の額に触れて、どうして翔一以外の記憶が視えたというのか。

 ――まさか、翔一さんがおじさんを――

 その憶測をするのに曜は恐怖する。いつも朗らかな翔一が殺人を、それも伸幸を殺したなんて。確信に至る根拠なんてない。でも、否定できる根拠もなかった。

 

 



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第4話

 

   1

 

 平日の早朝だと、狩野川の遊歩道には殆ど人がいない。時折ジョギングに精を出す若者や、犬の散歩をしている老人を見かけるが、それらの人々が通り過ぎれば無人の静けさに川のせせらぎが際立つ。

 だから、早起きして川の下流へと歩いた善子は、彼をすぐに見つけることができた。御成橋から少し歩いたところで、彼はコンクリートの地面に横たわっている。服が乾いているところ、自力で這い上がってから随分とそこに倒れていたようだ。

 近付いて顔を覗き込んでみる。血色は良く、生きてはいるみたいだ。

「ねえ」

 善子が呼びかけると、青年の目蓋がゆっくりと開く。眠気眼で上体を起こし、青年は「んん………」と両腕を上げて伸びをした。何て呑気なのよ、と善子は心配して探しに来たことを多少後悔する。まあ、大丈夫そうならそれで良い。

「危ない危ない。こんなところで寝ちゃったら風邪引いちゃうね」

 「はあ?」と善子は青年の発言に眉根を寄せる。あんな超人じみた力を持っていながら風邪の心配をするとは。青年は善子を見つめ、

「君が助けてくれたの?」

「いや、ただ起こしただけだけど………」

「ありがとう。俺、津上翔一」

 何をさも当然のように自己紹介するのか。まさかこの青年、昨日あの場に善子がいたことを忘れているのでは。いや、今の善子は変装していないから気付いていないだけかもしれない。

「津島よし――」

 普通に名乗ろうとしたところで善子は改まり、

「………ヨハネよ」

 自分から名乗っておいて何だが、ここは深刻な状況なのではないだろうか。でも翔一と名乗った青年は善子の気持ちなど全く悟っていないようで、朗らかに笑っている。

「ヨハネちゃんか、お洒落な名前だね」

 今までにない反応に、善子はどう返せばいいか分からなくなる。こうして真に受けられると何故か頭が冷静に物事を考えられて、自分の発言が恥ずかしくなってくる。

 翔一は立ち上がると、上流に向かって歩き始めた。御成橋の辺りにはまだ翔一のバイクが放置されたままだから、そこへ行くのだろう。善子は隣に並び、歩きながら尋ねる。

「ねえ、あなた変身してたわよね?」

「うん」

「あれって何なの?」

 「うーん」と翔一は首を傾げながら、

「俺もよく分かんないんだよね」

「分かんないって……、分かんないまま戦ってたわけ? あの堕天使が何者なのかも?」

「まあ、そうなるかな。俺の過去に関係あるかもしれないけど、覚えてないからさ」

「覚えてないって?」

「俺、記憶喪失なんだ。海で事故に遭ったみたいなんだけど、何にも覚えてなくて」

 「そう……」とだけ善子は言った。その割には随分明るいな、と思いながら。翔一があっけらかんと笑うせいか、全く同情が芽生えない。むしろ羨ましいとすら思う。

「まあ、記憶が無いなら無いでいいかもね。思い出したくないことだって、あるかもしれないし」

 あの入学早々に犯した失態を忘れられたらどんなに良いことか。何食わぬ顔して登校して、同級生たちにからかわれても平気なのに。過去が事実でも、覚えてなければ自分のなかでは虚実にできるのだから。

「ごめん」

 そんな声が聞こえて、善子は翔一の顔を見上げる。しまった、という彼の思考が見事なほど表情に出ている。分かりやすい人だな、と善子は頬を緩ませた。

「別に謝らなくていいわよ。ただちょっと恥ずかしいこと思い出しただけ」

「ああ、あるよねそういうの。こんなでかい大根なかなかできないでしょ、ってご近所さんに見せたらもっとでかいのあった、みたいなことでしょ?」

「何か微妙」

「あれ?」

 かさ、という靴裏の感触に善子は脚を止めて視線を下ろす。厚紙で作られたクラフト飛行機だった。この辺で遊んでいた子供が落としたまま放置したのだろう。翼の端が善子の足で潰れてしまっている。拾い上げて翼の曲がり具合を修正すると、善子は対岸へ向けてクラフト飛行機を投げた。

 厚紙の飛行機はとても軽く、エンジンも必要なしに宙を真っ直ぐと飛んでいく。海の方角から潮風の残り香が吹いてきて、僅かに軌道が逸れるも一直線に対岸へと向かっていく。

 あんな風に、わたしもどっか遠くへ飛んでいけたらな………。

 そんな妄想も早くに途切れ、善子はふと翔一を見る。翔一も脚を止めていた。その目はクラフト飛行機を追っている。瞬きもせず、一瞬たりとも視線を外すことなく、翔一はクラフト飛行機を見つめ続けていた。

 

 

   2

 

 まだしばらく、沼津にいることになりそうだな。会議室に漂う重い雰囲気を肌で感じ取りながら、誠は思った。本庁から派遣されてきた捜査一課、静岡県警の捜査一課、そしてユニット活動が停止して手持ち無沙汰なG3ユニットの面々。こうした歪な捜査員が沼津署の会議室に召集され、事件の対策本部が編成されている。

 資料の紙をめくりながら、河野がどこか間延びした口調で事件の概要を報告する。

「昨日までに起こった5件の事件は手口から同一犯による連続殺人と思われますが、それぞれの犯行現場と犯行時間から考えて、これは有り得るはずのない犯罪です」

 『もう少し詳しく説明してくれませんか』と警備部長が画面の奥で言う。会議の場には警備部長と補佐官も、聴聞会と同様に霞ヶ関の庁舎からPCを通じて参加している。「はい」と応えた河野が資料を捲りながら「6ページをご覧ください」と言うと、捜査員たちに配布された資料を捲る音が会議室に伝播する。

「捜査の結果、第1の犯行現場である御殿場(ごてんば)から第2の犯行現場裾野(すその)まで、犯人はおよそ10分以内に移動していることが判明しました。これはどんな手段を使っても無理なことです」

 御殿場市から裾野市までの距離は直線で約15km。車でも30分以上はかかる。つまりこの事件は何か。会議室全体を満たす問いを警備部長が総括する。

『不可能犯罪。アンノウンか』

 犯行がアンノウンによるものならば、確かめなければならないことがある。誠は訊いた。

「被害者たちに血縁関係はあるんですか?」

 河野は資料を置くと手帳を開き、

「被害者5人のうち3人は親子、後のふたりは兄弟で他に身寄りはいません」

 「間違いないわね」と誠の隣に座る小沢が小声で言った。きっと離れた席にいる尾室も、これがアンノウンの犯行と確信しているに違いない。

 そこで、北條が起立する。

「こうなった以上、どうしてもG3システムの力が必要となる。一刻も早く、同システムの装着員を決定していただきたいのですが」

 北條の射貫くような視線に、画面のなかで警備部長と補佐官が苦虫を噛み潰したように口を結ぶ。一蹴できないのは、あかつき号事件のことがあるからか。上層部の沈黙を良いことに、北條は続ける。

「このまま結論を引き延ばしておいても、被害者の数が増えるだけです。選択肢はひとつしかないと思いますが」

 たったひとつの選択肢。それは即ちG3ユニットの活動再開。でも同じユニットメンバーというわけにはいかない。誠よりも上手くG3を動かし、アンノウンと戦える人材が必要だ。でも、果たして見つかるだろうか、と誠は思った。尾室の伝える状況も、それに対する小沢の判断もいつだって的確だった。G3を動かすこと自体も、それほど難しいものじゃない。誠が懸念しているのは、アンノウンが強すぎるということだ。

 人間などいとも容易く踏みにじってしまうほどに。

 

 会議が終わると、捜査員たちは割り振られた班ごとに固まって会議室を出た。指示もなく、それが自然の流れとして。小沢班である誠も尾室と共に上司の後ろを着いていくのだが、後ろから「氷川さん」という北條の声が聞こえ足を止める。

「あなたがG3の装着員から外されたことについては、私も残念に思っています」

 そう語る北條はとても晴れ晴れとした表情を浮かべ、

「でも、あなたが優秀な刑事であることに変わりはない。別の部署で活躍できることを祈っています」

 エリートらしい悠然とした所作で誠の肩に手を添えると、北條は廊下をせわしなく歩く操作員たちのなかへと混ざっていく。彼の仕立ての良いスーツは群衆のなかでもよく目立ち、そう簡単に凡人のなかへ埋もれまいとしているように見えた。

 小沢は北條の背中を睨みながら舌を打ち、

「何て嫌な奴なの」

 「まあそう言うな」と河野が小沢の肩に丸めた資料をぽん、と叩く。

「あれで根は良い奴なんだ」

「どこがです?」

 苛立ちのあまり上ずった声をあげた小沢は眉間にしわを刻み、

「十分悪い奴ですよあれは」

「ちょっと思い込みが激しいだけさ」

 部下に対する苦言を河野は人好しの笑みで受け流し、廊下を歩いていく。河野の背中は北條と違って、すぐに他の捜査員たちに埋もれていった。

「でも氷川さん結構不器用だからな」

 不意に飛んできた尾室の声に誠は振り向く。

「G3の扱いも北條さんのほうが上手かったりして」

 「不器………」と誠は反芻する。自分のどこが不器用だというのか。確かにG3としての戦果は芳しくないが、特別下手というわけでもないだろう。そもそも、自分は高倍率の試験と訓練をパスして装着員として選ばれた。他の候補になった者たちよりも器用なはず。

「ちょっとあんた何てこと言うのよ」

 小沢の指摘で失言と気付いたらしく、尾室は誠に「すみません」と申し訳なさそうに頭を下げる。

 行き場のない苛立ちをどうしたものか、小沢は肩まで伸ばした髪を掻きむしるとため息交じりに言った。

「焼肉でも食べに行こっか」

 

 

   3

 

 十千万に帰宅すると、翔一は真っ先に千歌の部屋へ向かった。

「千歌ちゃん」

 障子の前で呼んでみるも返事がない。恐る恐る開けると、部屋には誰もいなかった。代わりに、ちゃぶ台の上に畳まれた制服がふたり分置いてある。それを特に気に留めることなく、翔一は本棚から英和辞典を引き抜いた。あの新聞記事の切り抜き。被害者の高海伸幸の顔を、どこかで見たような気がする。失った過去に、自分は彼と出会っていたのだろうか。この違和感の正体を探すようにページを捲るが、記事はなかなか出てこない。

「あれ?」

 本を振ってみるが何も落ちない。本を間違えたのか。もしかして記事を挟んでいたのは英和辞典ではなく国語辞典だっただろうか。本棚に戻して国語辞典へと手を伸ばしたところで、

「何してんの翔一?」

 咄嗟に手を引っ込める。仕事用のスーツを着た美渡が開けたままの障子を前にして立っている。「ああ、ただいま」と笑ってはぐらかすと、美渡はにやにやしながら歩み寄ってくる。

「朝帰りなんて初めてじゃない?」

「うん、ちょっとあってさ」

「もしかしてデート? 相手はどんな娘?」

「うーん、飛んでる奴かな」

 「もう」と美渡は肘で脇腹をつつく。

「誤魔化さないで教えてよ」

 「おいおいやめろって」とこそばゆさから逃げようとするが、美渡は止まることなく翔一をつついてくる。

「お客さんに迷惑だろ」

「翔一が早く言えばいいの!」

 と美渡がタックルをかましてきた。あまり強くはないが、勢いあまって翔一の体がベッドに倒れる。ばき、と鈍い音がして、翔一の体が深く沈んだ。底板が折れたらしい。千歌が小学生の頃から使っているベッドも、流石に劣化していたようだ。

「やば………」

 苦笑を浮かべた美渡が隣の自室へと逃げる。「おい美渡待てって」と言ったと同時、翔一の顔に何かが乗ってくる。持ち上げてみると伊勢海老のぬいぐるみだった。

「うー、疲れたー」

 千歌の声が聞こえてくる。まずい、この状況は結構まずい。起き上がろうとするが、底板が抜けたベッドはまるで棺桶のようで狭苦しく身動きが取り辛い。もぞもぞと動いているうちに千歌が入ってくる。続いて曜と梨子が。3人とも練習着を着ていて、汗をかいたのか顔がてかっている。ベッドに寝ている翔一を見て、当然のごとく千歌が訊いた。

「あれ、翔一くん何してるの?」

「いや、これは――」

 ばごん、とベッドの枠組みが崩れた。まるコントみたいに倒れた枠板が顔面に直撃する。

「出てってください」

 曜の微かに険のこもった声が聞こえた。「いや、だからその」と弁明しようと板をどけると、曜の大きな瞳がじ、と翔一を睨みつけてくる。親友のそんな顔に、千歌と梨子は丸くした眼差しを向けていた。

「着替えたいんです。片付けはわたし達でしますから出ていってください」

 

 

   4

 

 スクールアイドルになる。

 いつもと同じように談笑しながら登校し、まだ生徒もまばらな教室に入ると、花丸はその意思をルビィに告げた。何気なしに、という雰囲気で。

 花丸の予想通り、ルビィはとても驚いた。「えええええ⁉」と周囲の目を引くほどの大声をあげて。同級生たちは最初、その声がルビィと気付かなかったようだ。ルビィは普段から声が小さいから。

「どうして?」

「どうしてって、やってみたいからだけど。駄目?」

 「全然!」とルビィは興奮した様子で花丸の顔を見つめる。

「ただ、花丸ちゃん興味とかあんまりなさそうだったから」

 確かに、あまり興味はなかった。アイドルなんて、自分の物語のなかで組み込まれるものじゃない。

「いや、ルビィちゃんと一緒に見ているうちに、いいなあ、って。だから、ルビィちゃんも一緒にやらない?」

「ルビィも?」

「やってみたいんでしょ?」

「それはそうだけど……。人前とか苦手だし、お姉ちゃんが嫌がると思うし………」

 予想通り、拒む理由にダイヤが出てきた。ルビィは意外と強情な面がある。花丸もあまり強気な性分ではないから、この場でルビィを説得することはできないだろう。だから、この手が最も冴えたやり方。

「そっか、じゃあ体験入部はどう?」

「体験入部?」

 

 放課後になると、花丸はルビィと一緒にスクールアイドル部の部室を訪ねた。体験入部したい、と趣旨を告げると3人の先輩、特に千歌は一際嬉しそうに「本当⁉」と声をあげる。

 「はい」と落ち着いた返事をする花丸の隣で、背筋を伸ばしたルビィが「よろしくお願いします」とはっきりした声で言う。

「やったあ!」

 歓喜の声をあげた千歌は曜と梨子の肩を抱き、

「これでラブライブ優勝だよ、レジェンドだよ!」

 何だか早とちりされている気がする。「千歌ちゃん待って」と曜がそれを指摘してくれた。

「体験入部だよ」

 「え?」と表情を曇らせる千歌に梨子が補足するように、

「要するに、仮入部っていうかお試しってこと。それでいけそうだったら入るし、合わないっていうならやめるし」

 「そうなの?」と向ける千歌の視線に花丸は苦笑を返す。

「いや、まあ……色々あって」

「もしかして生徒会長?」

 曜が助け舟を出してくれた。スクールアイドルを嫌うダイヤの、ましてや妹のルビィが部室を訪ねたなんて知られたら良い顔はされない。もっとも、理由はそれだけではないのだか。

「はい。だからルビィちゃんとここに来たのは内密に………」

 ところで、と花丸はテーブルでチラシに何か書いている千歌を見やる。何しているんだろう、と目を凝らすと「新入生 国木田花丸&黒澤ルビィ 参加」とチラシにペンで書き足している。

「できた!」

 満足げにチラシを眺める千歌の肩に曜が手を添えて、

「千歌ちゃん、人の話は聞こうね」

 

 

   5

 

 ホームセンターで買ってきた板を並べ終えて、翔一はふう、と深呼吸する。家具店なら既製品のベッドを変えるだろうが、手作りのほうが安く済む。それに、木材の香りはきっと心地よく安眠できるだろう。もっとも、千歌はどこでも熟睡できるが。

「よし!」

 気合を込めて頭にタオルを巻くと、「すみません」という声が表のほうから聞こえてくる。宿泊客だろうか。正面玄関へ回ると誠が立っている。

「ああ、いらっしゃい」

「志満さんは?」

「まだ帰ってないみたいですけど」

「今日はアポを取ってから来たんですが」

「志満さん意外と時間の観念無いんです。この間なんか――」

 「いえ、ご不在なら結構です」とため息交じりに遮られる。誠は裏へと回り、そこで広げられた木材を見て、

「君は何をしてるんです?」

「ベッドを作っています」

「ベッド? 何故?」

 「いやほら」と翔一は誠を木材のそばへと促す。もう夕方近くだし、人手が欲しいと思っていたところだから丁度いい。

「ちょっと手伝ってくれません? ほら、ここんとこ切ってほしいんですよ」

 そう言って翔一は工具箱から折り畳み式のこぎりを出して誠に握らせる。誠は困惑気味にのこぎりの刃を開いた。「ここです」と翔一は角材の上に置いた板の、鉛筆で引いた線を指さす。はあ、と溜め息を漏らしながらも、誠は無言で板を足で固定しのこぎりで線に沿って切り始める。

 さて、残りの木材も採寸しよう。定規と鉛筆を手にしたところで、鈍い金属音が響く。同時に「あっ」という誠の声も。

 振り返ると、のこぎりの刃だけが板に突き刺さっていて、誠は柄だけを握っている。刃が根本から折れたらしい。のこぎりは引くときだけに力を入れればいい。誠はきっと押すときに余計な力を入れたのだろう。

「うわ、不器用なんですね」

「………不器用?」

 無意識に言ってしまったが、失言だったらしい。誠は威圧するように翔一の前に立ち、

「そんなことありません、のこぎりが悪かっただけです」

 「こっちのを貸してください」と誠は工具箱にあるもう1本を指さす。折り畳み式よりは刃の幅が広くて切れ味も良い。翔一は咄嗟にそれを掴み、

「いやもういいです。こっちのまで壊されちゃ大変ですから」

「そんな心配はありません。僕のほうが上手いはずだ」

「いや、もう結構です」

「いいから貸したまえ!」

 よほど癇に障ったのか、誠は翔一の手からのこぎりをひったくる。奪い返そうと試みたが、誠はすぐさま背中にのこぎりを隠した。刃物を奪い合って怪我なんてさせたら大変だ。ましてや相手は警察。傷害罪で逮捕されかねない。

 仕方ない、と翔一は諦めて誠の好きにさせた。倉庫にまだあったかな、と思いながら板から折れた刃を抜いて再び切り始める誠の手つきを眺める。やっぱり押すときに余計な力が入っている。誠が更に力を込めると、薄いのこぎりの刃はまた根本からばきん、と音を立てて折れた。

「あーあ………」

 結構いいのこぎりなのに、と翔一は溜め息をつく。「いや、これは……その………」と誠が言い訳を探っているとき、着信音が鳴った。丁度いいときに、とばかりに誠は懐からスマートフォンを出して耳に当てる。

「はい。分かりました、至急現場に向かいます」

 通話を切ると、誠は柄だけになったのこぎりを翔一に手渡す。

「失礼します」

 頭を下げて告げると、足早に裏庭から立ち去っていく。弁償代は警察に請求すればいいのかな、と思いながら、翔一は誠の背中を見送った。

 

 



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第5話

 久々に絵描きたいなあ、と思いつくのですが需要あるか微妙でございます。挿絵は必要不可欠ってわけじゃありませんしね。


   1

 

 花丸とルビィの体験入部はタイミングとして良い時期だったな、と梨子は思った。

 まだ設立して間もないスクールアイドル部の活動内容は、まだ手探りと言っていい。練習はしているが行き当たりばったりな面も否めず、決まった練習メニューもない。だから、この体験入部で改めて自分たちも今後の練習を固めていく方向だ。

 まだ手探りではあるが、様々なスクールアイドルのブログを参考に練習メニューを考案した。大半は基礎体力づくりとダンスレッスン。ボイストレーニングも組み込んでいるが、準備運動程度の割合だ。曲作りは別に時間を見つけて作業するしかない。衣装づくりも同様に。

 色々とあるが、最優先に解決しなければならない課題は練習場所だ。

 ひとまず練習着に着替えてグラウンドを見に来たが、ソフトボール部が使用している。バットがボールを打つ音が盛大に響いた。部員たちが声を張り上げる様子を遠目にして、千歌が言う。

「中庭もグラウンドもいっぱいだね。部室もそこまで広くないし」

 隅の一画なら練習に使わせてくれると思ったのだが、あまり現実的ではなさそうだ。ボールがどこへ跳ぶか分からない以上、ここなら絶対に干渉しない、という場所はグラウンドのどこにもない。

 「砂浜じゃ駄目なの?」と曜が訊いた。確かに海水浴場は初ライブ前に使っていたし、悪くはない。

「移動の時間考えると、練習場所はできれば学校内で確保したいわ」

 とはいったものの、と梨子は思う。まだ転校してあまり経っていないから、梨子だって学校施設を完全に把握しているわけじゃない。1年以上いる千歌が険しい表情をしているから、きっと思い当たる場所がないのかもしれない。

 そこで、ルビィが意見を飛ばす。

「屋上は駄目ですか?」

 「屋上?」と千歌が反芻し、ルビィは続ける。

「μ’sはいつも、屋上で練習してた、って」

 有名なグループが屋上で練習してたなんて、と梨子は意外に思った。屋上は広くて練習場所としては好条件なのだが、これから暑くなる季節には直射日光が厳しく日陰になる場所もない。雨が降れば使えないが、それは屋外で活動する部なら共通することか。もしかしたらμ’sも、設立当初は何かと憂き目に遭うことが多かったのかもしれない。

 とはいえ、現状では他に使えそうな場所もない。行ってみると、開けた空気に潮風が吹いていた。青空が広がる屋上を、千歌は「すごーい!」と子供のように駆けた。

「富士山くっきり見えてる」

 帽子を被り直しながら曜が言う。丘の上に位置する浦の星女学院の最も高い場所。何の障害もなく、山頂に雪を被った富士山のシルエットがよく見えた。青々とした山肌は、今にも空に溶けそうだ。

「でも日差しは強いかも」

 花丸が言うと、「それが良いんだよ」と千歌が、

「太陽の光をいっぱい浴びて、海の空気を胸いっぱいに吸い込んで」

 梨子は深呼吸してみる。海から流れてきた潮の香りを仄かに感じ取れる。見上げると太陽が輝いている。言ってみれば、この屋上は内浦で最も太陽に近い場所。輝きたい、という千歌の願いに最も近付ける場所なのかもしれない。

「あったかい」

 屋上のコンクリートの床に触れて、千歌が呟く。皆で集まって同じように触れると、日光で温められた熱が心地良い。思わず昼寝をしたくなってくる。そんなことを梨子が思っていると、花丸が仰向けになって空を仰ぐ。

「気持ちいいずら」

 心地良さそうに目をつむる花丸の隣で、同じように千歌も仰向けになる。

「ねえ、曜ちゃん」

 穏やかに千歌と花丸を眺めていた曜に梨子は呼びかける。「え?」と目を丸くする彼女の耳元に顔を近付けて尋ねる。なるべく責め立てないよう、穏やかな口調で。

「今朝、何で津上さんにあんなこと言ったの?」

 曜の表情が陰りを帯びた。今朝も同じ顔をしていた。昨日、翔一が千歌の部屋で倒れていたときも。

 「ちょっとごめんね」と花丸の頬を指でつついているルビィに断りを入れて、曜は立ち上がる。梨子も立ち、ふたりは3人から少し離れた場所に移動した。

 曜が翔一に腹を立てる気持ちは、まあ理解できる。梨子だって自室に男性が入っていたら驚くし嫌悪だってする。いくら人畜無害な翔一でも。

「女の子の部屋に入る津上さんもデリカシーないけど――」

「ううん、そうじゃないの。千歌ちゃん、翔一さんに部屋の掃除してもらってるから」

 それは年頃の女の子としてどうなんだろう、と呆れながらも、梨子は質問を重ねる。

「じゃあ、どうして?」

 曜は口を結んで視線を落とす。まるで別人みたいだ。いつも溌剌とした曜がこんな顔をするなんて。沈黙は長く感じるが、梨子は急かすことなく待つ。髪を揺らす潮風がやんだところで、曜は言った。

「わたし、翔一さんの記憶が視えたの」

「え?」

 そこで曜は真っ直ぐ梨子を見据え、

「何でか分からないけど、頭の中に浮かんできたんだ。幻覚……、って思いたいけど………」

「津上さんの記憶って………」

 逡巡するしかない。曜の言っていることの意味がまるで分からなかった。記憶が視えるとは、どういうことか。翔一自身ですら思い出せない彼の過去を、曜は知ったということだろうか。困惑と驚愕が入り混じりながらも、梨子は訊く。

「何を、視たの?」

「千歌ちゃんのお父さん」

「千歌ちゃんの?」

 「うん」と首肯して、曜は再び顔を俯かせる。

「千歌ちゃんのお父さん、殺されたの。犯人はまだ捕まってなくて、捜査も進んでないみたい」

 言われてみれば、と梨子は十千万を訪ねた記憶を辿ってみる。何度も訪問しているが、千歌の両親を見たことがない。

 曜は震える声で続ける。

「翔一さんの記憶のなかにおじさんがいた。場所も、多分おじさんの遺体が見つかった場所と同じ」

「まさか、津上さんが犯人だっていうの?」

 安っぽいサスペンスドラマじゃあるまいし、そんな偶然があっていいものだろうか。父親を殺した犯人が記憶を失って、自分の家で悠々と暮らしているなんて。

「きっと気のせいよ。津上さん、犯罪なんてできそうにないし」

「思いたいよ。でも、翔一さんも普通じゃなくて」

「普通じゃないって、どういうこと?」

「翔一さん、変身するんだ」

 ふざけているの、と苛立ちが込み上げるところだった。曜の俯く仕草も、震える声も全てが自分を騙すための壮大な仕込みと思った。でも曜は冗談と明かすどころか、更に神妙そうに、

「翔一さん、変身して怪物と戦ってるの。翔一さんは皆のために戦ってるんだって信じてたけど、でも……翔一さんがおじさんを殺したんじゃないかって思うと、何もかもが信じられなくなって………」

 曜は口を固く結んだ。今にも泣きだしそうな顔をしている。ここまでくると冗談とは思えない。でも、話を咀嚼することもできずにいる。怪物がいて、翔一が変身して戦う。そんなことが、本当に起こっているのだろうか。毎日学校へ通い、こうして練習している日常のどこかで、何が起こっているのだろう。

「まあ、千歌ちゃんにその話はしないほうが良いわね」

 「うん」とだけ曜は弱々しく応じた。他人の曜でさえこの様子だ。身内を亡くした千歌がどれほど気分を沈めることか。

「さあ、始めようか!」

 千歌の声が聞こえた。悟られちゃ駄目。そう梨子が目配せし、曜は首肯していつもの顔つきに戻り、3人のもとへと走り出す。

 

 

   2

 

 現場は高架下の歩道だった。バリケードとして現場を囲うビニールシートの前に、野次馬が集まっている。誠はそれを掻き分けながら進み、野次馬の侵入を阻む警察官に敬礼するとシートを潜る。

 囲われた歩道の一画では、鑑識による痕跡の採取がせわしなく行われている。特に多いのが被害者、つまり死体のもとだ。写真撮影や記録に勤しむ彼等から1歩引いたところで、誠よりも先に現場入りしていた小沢と尾室が死体を睨んでいる。

「またアンノウンですか」

 死体を見て誠は言った。まだ司法解剖に出していないから確定ではないが、恐らく死因は頭部外傷だろう。死体の後頭部からまだ渇き切っていない血が首筋にてらついている。即死だっただろうが息絶えた後も血は流れ続けたようで、地面にも血が広がっていた。人間の頭部は血液が多く通っているから、こうした頭部を損傷した死体からは結構な血が流れる。

 「間違いないわ」と小沢は断言する。

「何とかしないと、このままじゃ被害者が増える一方だわ」

 頭部外傷。全身打撲。脛骨骨折。心臓破裂。一連の不可能犯罪による被害者たちの死因はまちまちだ。でも共通しているのは、どれも大型トラックに匹敵するほどの衝撃を受けていること。それほどの衝撃を街中で受けておきながら、どこの現場にも衝突したと思われる物体の痕跡がまったく残されていない。

 こんな時に、G3ユニットが活動できれば。歯を食いしばるが、同時に自分自身への疑問が沸いてくる。ユニットが機能していたとしても、自分はこの犠牲者を助けることができただろうか。こんな疑問、装着員どころか警察官としても失格だ。できるできないじゃなくて、することが職務だ。そのためのG3システムなのに、満足に成果を挙げられず活動停止にまで追い込んで、こうして犠牲者を増やし続ける。

 僕は何をしているんだ、何のために警察になった。

 G3装着員どころか、刑事としての矜持すらも危うくなってくる。G3を運用できなくても自分なりにアンノウンと戦う。そう決めたはずなのに、結局は何もできていない。

 ただの人間である誠に、アンノウンは決して到達できない存在なのか。

 

 十千万に戻る頃には陽は傾いていて、空はまるで1日中太陽に焼かれていたかのような茜色を映していた。

「氷川さん、これは単なる外れ馬券です」

 誠が見せた馬券の写真とレースの成績表を見ながら、志満は何の気なしに言う。一応捜査上の遺留品のため、犯罪被害者のものだということは伏せてある。あくまでこれは、この馬券を購入した片平久雄が超能力を使っていたか、その是非についての相談だ。

「ただ外れ方に特徴があるだけです。偶然ですよ」

「偶然にしては、出来すぎていると思いますが」

「でも有り得ない話じゃありません。この馬券を買った人が超能力者という証明にはなりませんよ」

 志満は誠に資料を返し、「どうぞ」と居間の座布団に促してくれる。腰を落ち着けたところで、台所から出てきた女性が「粗茶ですが」とお茶をテーブルに置いてくれた。昨日誠が待ちぼうけていたときに帰宅してきた高海家の次女だ。確か美渡と名乗っていたか。美渡が居間から出たところでお茶を啜ると、苦味に思わず顔をしかめてしまう。淹れ慣れていないらしい。

「何の捜査かは分かりませんが、こんなことからは手を引いたほうが良いです。刑事として他に仕事があるんじゃないですか?」

 至極まっとうな志満の問いに、誠はいたたまれなくなり目を逸らす。さっき現場で見た被害者の死体。そう、目下に起きている事件の早期解決が最優先だ。それを被害者たちの共通点が超能力者なんて推理、市民から見れば自分はとんだぼんくら刑事だ。

「すみません、今のは私情でした」

 志満はそう言って視線を落とした。

「私情?」

 思わず尋ねたところで、誠は自分の軽薄さに呆れてしまう。事情に踏み込みすぎてしまった。だが志満は迷惑そうな顔をせず、自分のお茶を啜ると「刑事さんにならお話ししても良いでしょうね」と誠を見据える。

「実は私の、私たち姉妹の父親は3年前に殺害されているんです」

「お父さんが?」

「ええ、犯人はまだ捕まっていません」

 刑事としての立場上、犯罪によって日常の壊れた家庭は何度も見ている。身内の死とは決して癒えない傷だ。前兆のある病や寿命でもなく、殺人事件という突然訪れた死。日常に空いた穴を目撃していながらも、当事者でない誠はその虚無を知らない。一見すれば平和に過ごしていると錯覚できるが、志満も美渡も、そしてあの無垢な千歌も父の死という虚無を背負わされている。

「すみません」

 意味のない謝罪をすると、志満は笑みを零して、

「何も氷川さんが謝ることじゃありません」

 まだ若いのに、何て気丈な人なんだろう。志満のように、一見では分からなくても理不尽な現実を背負わされている人間は多いはず。誠は改めて、自分の刑事としての矜持が問われているような気がした。自分の仕事が、世の中からどれほどの悲しみを減らせるのか。

「できたー!」

 そこで、叫び声が聞こえてくる。どかどか、と床を鳴らしながら、タオルを頭に巻いた翔一が居間に入ってきた。

「氷川さん、ちょっと手伝ってもらっていいですか?」

 またのこぎりを使う作業じゃなければいいが、と思いながら、誠は翔一の後について裏庭へ出た。散乱した木の端材に囲まれてベッドが佇んでいる。既製品と遜色ない出来だ。ニスもむらなく塗られている。

「君は、ずっとこれを作っていたんですか?」

「はい。俺は後ろ持ちますんで、氷川さんは前をお願いします」

 まあ、のこぎりを2本も折ってしまったし、これくらいの手伝いはするべきだろう。

 そういうわけで、ふたりがかりでベッドを入口の広い正面玄関から入れたのは良いが、問題は屋内を傷付けないように運ばなければならないことだ。旅館なのだから、壁や柱に傷を付けるわけにはいかない。清潔を保っているが年季の入った宿だし、その辺に置いてあるインテリアも価値あるものばかりかもしれない。

「すみません、そこの階段の上なんですけど」

 翔一がそう言ってきて、誠は振り返り横幅の狭い階段を見る。「ええ?」と思わず情けない声をあげた。こんな階段に接触もしないでベッドを運べるのか。

 ベッドを縦にして、誠は慎重に1歩ずつ階段を後ろ向きに上がっていく。ようやく階段を上り終えて、ほっと溜め息をついたとき、

「氷川さん、そこ気を付けてください」

 翔一の声に「え?」と眉を潜めると同時、どん、と背中を壁にぶつけた。

「もう一度お願いします」

 罰の悪さを誤魔化すように、翔一は笑いながら言った。あまり広くない廊下に滑り込ませようと、ベッドの角度を変えて再び挑戦してみる。今度はベッドが柱にぶつかった。それほど強い衝撃じゃないから、大きな傷は付いていない。「もう一度」と翔一が言うものだから、今度はベッドを更に傾けてみる。やはりつっかえた。

「もう一度だけお願いします」

「………何度やっても同じですよ」

 

 

   3

 

 スクールアイドルというのはとにかく体力が求められるらしい。花丸とルビィを加えての練習は念入りなストレッチにダンスレッスン、その後に休憩がてら新曲の打ち合わせ。Aqoursは曲まで自分たちで作っているという。だとすると初ライブで披露した『ダイスキだったらダイジョウブ!』も、曲と振り付けと衣装全てを2年生の3人だけで作り上げたということだ。

 凄い、と花丸は率直に思った。本を読んで「消費」するばかりの花丸に、彼女たちのように何かを生み出せる自信はない。

 互いに協力し切磋琢磨して歌を作る。少しだけ、ルビィがスクールアイドルを好きな理由が分かった気がした。確かにこんな風に、一緒に何かをするのは楽しいかもしれない。

 実際、花丸の目から見てルビィはとても楽しそうだった。初参加のダンスレッスンでは2年生に後れを取ることなく、完璧にステップを踏んだ。ルビィのアイドル好きは並じゃない。きっと色々なスクールアイドルのダンスを見ていくうちに、鋭い観察眼を身に着けたのだろう。好きこそものの上手なれ、とはよく言ったものだ。

 曲の打ち合わせはそこそこに――千歌が作詞を進められなかったからすぐに終了した――この日最後の練習は学外で行う。淡島に場所を移し訪れたのは、島の山頂に位置する淡島神社へと続く石段。

「これ、一気に登ってるんですか?」

 ルビィが少し怖気づいて訊くと、「勿論」と千歌は答える。

「いつも途中で休憩しちゃうんだけどね」

 曜が茶化すように言うと、見得をばらされた千歌は苦笑する。休憩を挟んだとしても、この石段を登りきるのは運動部の練習よりもハードなのではないか。もっとも、花丸は中学時代も帰宅部だったから実際のところは分からないが。

 梨子は言う。

「でもライブで何曲も踊るには、頂上まで駆け上がるスタミナが必要だし」

 「じゃあ、μ’s目指して――」と千歌が言うと、曜と梨子はスタートの体勢を取る。それにならい花丸とルビィも構えたところで、千歌は告げた。

「よーい、どん!」

 鳥居を潜り、森の中へ延びる石段を全員で駆け上がっていく。石段は1段1段の間隔が広くて、歩幅を広くしなければ1歩であがることができない。なるほど、確かにこれは体力づくりにはうってつけだ。最初こそ勾配は緩やかだったのだが、疲労の度合いで登っていくにつれて険しくなっていくのが分かった。前を走る4人との距離が広がっていく。先のダンスレッスンでもそれなりに体を動かしたせいか、蓄積していた疲労が一気に来た。

 見上げるとルビィが待っていた。2年生は先に行ったらしい。崩れた姿勢で何とかルビィのもとまで辿り着くと、花丸は膝に手をついて乱れた呼吸を繰り返す。

「一緒に行こう」

 明るくルビィは言ってのけた。花丸と同じ運動量のはずなのに、自分はどれほど体力が無いのだろう。花丸は息をあえがせながら声を絞り出す。

「………駄目だよ、……ルビィちゃんは走らなきゃ………」

「花丸ちゃん?」

 気遣いは嬉しい。でも、ルビィはこんなところで立ち止まっては駄目だ。自分と一緒の歩幅では、ルビィはいつまでも進めない。

「ルビィちゃんは……もっと自分の気持ち大切にしなきゃ………」

 ようやく呼吸が整ってきた。花丸は顔を上げ、ルビィの顔を見据えて告げる。

「自分に嘘ついて、無理に人に合わせても辛いだけだよ」

「合わせてるわけじゃ――」

「ルビィちゃんはスクールアイドルになりたいんでしょ?」

 その問いにルビィは答えあぐねた。それでも答えはとうに出ている。こうして練習に参加して、最後までこの石段を登り切ろうとしていることが答えじゃないか。後ろにいる花丸を見ちゃいけない。

「だったら前に進まなきゃ」

 家柄とか友達とか、そんなものは自分の気持ちに蓋をする理由になんてならない。自分を騙して縛り付けようだなんて、花丸は望まない。花丸自身がルビィを縛り付けてしまうのなら、この親友を解き放つことができるのなら、喜んで見送ろうじゃないか。

「さあ、行って」

 「でも――」とルビィは不安げな目を向けてくる。大丈夫、ルビィちゃんはひとりじゃないよ。花丸は言葉の代わりに笑みを向けた。ここで花丸と別れても、この先には千歌と曜と梨子がいる。一緒に輝ける仲間が、ステージが、ルビィが望んでいたものがある。

「さあ」

 そう促すと、ルビィはにっこりと笑った。別の意味と受け取ったのだろうか、石段を駆け上がっていく。ルビィは花丸のほうを振り返らず、真っ直ぐに走り続けた。その背中が見えなくなると、花丸はゆっくりと階段を下りながら、ルビィとの思い出を懐古した。

 初めて会ったのは中学時代。花丸の居場所だった学校の図書室で、ルビィは蔵書のなかでは珍しいアイドル雑誌を読んでいた。ひとり過ごしていた花丸の友達になってくれた少女。とても優しくて、気にし過ぎな女の子。素晴らしい夢と、きらきらと輝く憧れを持ちながらも、彼女は胸に閉じ込めてしまう。胸のなかに詰まった光を。世界を照らすほどの大きな輝きを。

 その想いを大空に解き放ちたいと、いるべき場所へ向かわせたいと、ずっと願っていた。ルビィの夢が叶い、彼女が輝くことが、花丸の夢だった。

「やったよ、登りきったよ!」

 頂上のほうから、千歌の大きな声が響き渡った。良かった、と花丸は安堵に溜め息を漏らす。ルビィは無事に頂上へ辿り着いたのだろう。きっと山頂から臨む内浦は綺麗な景色なんだろうな、と羨ましく思う。登りきれなかった花丸には、頂から見える光景は想像するしかない。いつも本を読むとき、文字で情景を見るように。夕陽で焼かれたような茜色の空と、空と同じ色を映す海。思い浮かべるのは簡単でも、そこへ至っていないのだから感慨なんて湧くはずもない。

「何ですの? こんなところに呼び出して」

 凛々しい声がロックテラスから聞こえてくる。木製のベンチに背筋を伸ばして腰掛けるダイヤは、一望できる内浦湾の景色を眺めることなく花丸に鋭い視線を向ける。

 驚愕も恐怖もなかった。何せ、学校を出る前に生徒会室を訪ね、ここへ来るよう頼んだのは花丸本人なのだから。ルビィにとって最後の壁になるのは、彼女が敬愛する姉のダイヤだ。ダイヤは知る必要がある。姉妹だからこそ。最も近い存在であるからこそ。

「あの、ルビィちゃんの話を、ルビィちゃんの気持ちを聞いてあげてください」

「ルビィの?」

 ダイヤは続けて何か言おうと口を開いたが、花丸は一礼して足早に石段を下りた。

 花丸とルビィの、ふたりの物語はここでお終い。ルビィは自分自身の物語をようやく紡ぎ始めることができた。彼女の物語に、もう花丸は登場することはないだろう。

 でも、それでいい。それがあるべき姿だ。いつだって花丸は物語の紡ぎ手じゃなくて、読み手だったのだから。

 

 



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第6話

 

   1

 

 石段を駆け下りていく花丸の姿が見えなくなると、ダイヤはロックテラスから臨める内浦湾へ目を向けた。穏やかに波のたゆたう海面が夕陽を反射している。空は東の方角から徐々に藍色がかっていた。もうすぐ陽も暮れるだろう。

 国木田花丸。彼女と話すのは今日が初めてだが、話はルビィからよく聞いていた。本が好きでとても優しい子だ、と。重度の人見知りの妹に友達が、妹を想ってくれる親友ができたことは嬉しい。想ってくれているからこそ、花丸から向けられた言葉と、そこに込められた意味が針のようにダイヤの胸に突き刺さる。

 ルビィ気持ちを聞いてあげてほしい。ルビィを縛らないであげてほしい。

「………そんなの、分かってる」

 遅れた反論を呟き、ダイヤは唇を噛んだ。2年前、スクールアイドルへの鬱屈した感情をルビィに八つ当たり同然にぶつけたことを、ずっと悔いていた。あれからルビィとアイドル談義に華を咲かせることはなく、ルビィもダイヤの前で曲を聴くことも、アイドル雑誌を読むこともしなくなった。でもダイヤは知っている。ルビィがまだ曲の鑑賞に勤しんでいることを。収集したアイドル雑誌を自室の箪笥に隠していることを。

 ルビィはずっとスクールアイドルへの熱を失わずにいた。ルビィがダイヤの妹だからといって、ダイヤにルビィの趣味を咎める資格はない。ルビィの人生はルビィのもの。ダイヤの都合の良い人形なんかじゃない。

 でも、ダイヤはスクールアイドルを認めるわけにはいかない。たとえ妹と熱中していたあの頃に戻ることができなくても。いや、あの日々には戻っていけない。

「お姉ちゃん⁉」

 不意にその声が聞こえて、ダイヤはき、っとまなじりを吊り上げて振り返る。

「ルビィ?」

 思わず声が上ずった。スクールアイドル部の3人と、ルビィが所在なさげに立っている。「ダイヤさん、何でここに?」という千歌の問いには答えず、ダイヤは質問を返す。

「これはどういうことですの?」

 鋭いダイヤの声色に、「あの、その……」とルビィがしどろもどろに言葉を紡ごうとしている。人見知りな妹のよく見る姿。それを向けられているのが家族である自分という事実に、ダイヤは寂しさを必死に押し隠す。見かねたのか慌てた様子で千歌が、

「違うんです。ルビィちゃんは――」

 「千歌さん」とルビィは遮った。ゆっくりと前に出て、ダイヤと対峙するように立つ。

「お姉ちゃん」

 静かに告げる妹の声にダイヤは裡で(おのの)いていた。ルビィは臆病な面が目立つ。姉であるダイヤにさえ怯えてしまうほどだ。こうして内緒でスクールアイドル部の練習に参加することを予想していなかったわけじゃない。遅かれ早かれ来ると思っていたし、「辞めなさい」と言えば従うとも思っていた。

「ルビィ………」

 そう言うと、ルビィは真っ直ぐダイヤと視線と交わす。その力強さを湛えた眼差しを受けてダイヤは理解する。

 妹は自分が思っていたよりも強かったのだ、と。

「ルビィね――」

 

 

   2

 

 黒澤姉妹と別れた後、十千万へ向かう曜の足取りはひどく重かった。なかなか新曲の作詞が進まない千歌を手伝うという話になったのだが、あまり気が乗らない。作詞自体は何てことない。問題は場所が十千万ということだ。十千万に行けば、当然翔一がいる。千歌の父親を殺したかもしれない翔一が。

 歩きながら曜はちらりと、梨子から作詞の遅れに説教を受けている千歌を一瞥する。言うべきだろうか。曜が視た翔一の記憶を。記憶のなかで怯えていた伸幸の姿を。

 すっかり陽の暮れたなかで、十千万の暖かな照明が曜たちを迎えてくれる。こんこん、と音が聞こえた。「何だろう?」と首をかしげる千歌に続いて、曜は梨子と一緒に部屋へと向かう。近づいていくにつれて音が大きくなっていく。何かの工事でもしているのか。もう夜だというのに。

 障子の開け放たれた部屋に入ると、翔一が何やら作業をしていた。木製の骨組みを木槌で叩いて連結している。

「何してるの?」

 千歌が言うと、こちらに気付いた翔一がいつもの笑顔を浮かべる。

「ああ、お帰りなさい」

 「何を作ってるんですか?」と梨子が訊くと、「千歌ちゃんのベッド」と翔一は応えた。続けて作業しながら、

「ほら、俺壊しちゃっただろ。だからさ、一度庭で作ったんだけど入んなくてさ。で、バラバラにして組みなおしてるとこ」

 もしかして翔一は、曜の態度は千歌のベッドを壊したことに端を発していると勘違いしているのか。

「ちょっと待ってて。すぐできるからさ」

 その笑顔を見て、曜は胸の奥にあった不快な溜まりが消えていくのを感じた。そうだ、翔一はこうしてベッドや料理を、誰かのために何かを作る人だった。他人から奪うような人間じゃない。

「そうだよね………」

 無意識にそう呟いていた。隣にいる梨子に聞こえたらしく、「え?」と小声で曜の顔を覗き込んでくる。自然と出た笑みと共に曜は言った。

「翔一さんにあんなことできるわけないもんね」

 すると梨子も笑みを零した。作業に勤しむ翔一を見て「そうね」と呟く。

「もう遅いし、ふたりも夕飯うちで食べてく?」

 翔一が訊いてくる。千歌は「うん、そうしよう」と嬉しそうに骨組みの傍でしゃがみ、

「早くこれ完成させよう。ほら、わたしも手伝うから」

 「あ、わたしも」と曜も加わる。「これ手作りなんですか?」と感心したように梨子も。

 おじさん、と曜は裡で伸幸に告げた。

 翔一さんじゃないですよね。

 翔一さんは、翔一さんですもんね。

 

 

   3

 

 渡辺家は狩野川沿いに家を構えている。堤防に阻まれて川面を見ることはできないが、耳を澄ませばせせらぎが聴こえる。すっかり夜も更けると、水の流れる音は一層際立って涼しげな気分になれる。十千万では毎日波の音を聴くことができるが、川の音もいいな、と翔一は思った。

 夕食後に曜と梨子は千歌の部屋で曲について話していたが、どうにも成果は芳しいものでなかったらしい。最終バスの時間を過ぎたということで、翔一がバイクで送ることになった。もう車も殆ど通っていない時間帯だから移動時間はそうかからない。

 リアシートから降りた曜が、鞄の中からタッパーを取り出して中身を確認する。液漏れはないようだ。

「怒られそうになったらそれ渡しなよ。お母さんの機嫌も直るからさ」

「食べ物でご機嫌取りって、子供じゃないんですから」

「あれ、曜ちゃんのお母さん芋の煮っころがし嫌いだった?」

「いや、そうじゃなくて………」

 苦笑しながら手を振る曜が、翔一はいまいち腑に落ちない。刻んだミカンの皮を加えたからさっぱりと食べられる自信作なのだが。

「でも、きっと喜びます。お母さん翔一さんの料理好きなので」

 どうやら杞憂だったらしい。翔一はご機嫌に曜に貸していたヘルメットをリアシートに括りつける。

「それじゃ、お休み」

「はい、お休みなさい」

 他愛もない挨拶もそこそこに、翔一はバイクを走らせる。冷えた潮風がヘルメットに吹き込み頬を撫でていく。信号が赤く灯る交差点で停止したときだった。

 突如、痺れにも似た戦慄が翔一の頭蓋を駆け回った。いる、奴が近くに。自分の裡に目覚めた力がそう告げている。丁度信号が青に変わり、翔一は予定のルートを外れて沼津駅へとバイクを向かわせた。

 いくら駅前が市内でも賑わいのある地区とはいえ、居酒屋もしくは24時間営業のコンビニを除く商業施設の殆どが営業時間を過ぎている。そんな夜の街を歩くのは泥酔した仕事帰りのお勤め人か明日の授業がない大学生くらいだ。眠りに落ちたほぼ無人と言っていい街を駆け、駅前通りに出る。翔一の視界に駅の構内からたったひとり出てきた若い女性が映った。同時に彼女へ近付く、空気を裂くような音も。

「変身!」

 翔一の腹が光った。光はベルトを形成し、更に強い光を放って翔一の体を戦士の姿へと変える。翔一の駆るバイクも、ベルトの光を受けて金色へと変わった。アクセルを捻りマシンを加速させる。彼女の僅か数メートル後ろ。そこへ到達すると同時、翔一と別方向から彼女へ向かっていた影がカウルに衝突した。

 ビルのコンクリート壁に叩きつけられた影のシルエットが、街灯を受けてはっきりと視認できる。善子が「堕天使」と呼んでいた、両腕からカラスのような翼の生えた敵。

 翔一は女性のほうを見やる。自分の後ろで何が起こっているのか、イヤホンで音楽を聴いている彼女はまるで気付かず歩き続けていく。

「アギトお……!」

 立ち上がった敵は忌々しげに翔一を睨んでくる。敵は一気にこちらへと肉迫してきた。翼で飛ぶほどの腕力に加え脚力もそれなりにあるらしく、素早い接近だ。翔一は迫る拳をかわし、アクセルを捻りながら前輪ブレーキを効かせてバイクをターンさせる。後輪に足を払われたたらを踏むようによろめいた敵の鼻面に、渾身の拳を沈めた。吹き飛んだ敵が、両腕の翼を広げて夜空へと飛翔する。

 翔一はバイクから降りた。空へ逃げられては飛ぶ術のないこちらは追跡のしようがない。それに、敵は再びやってくると気配で分かる。これまで現れた敵たちは、どうにも翔一の存在が気に入らないらしい。

 予想通り、気流の動きが変わった。翔一はオーバーヘッドキックの容量で上空に蹴りを入れる。闇から現れた敵の腹を蹴り上げると同時、翔一の腹も蹴り落とされた。ふたり同時に倒れ、互いに間合いを保ちながらゆっくりと立ち上がる。

 数秒間の睨み合いを経て、先に攻撃を仕掛けてきたのは敵のほうだった。降り下ろされた拳を受け止め胸を殴る。敵は空中での機動性こそ手強いが、陸上ではこちらに分がある。単純な力勝負では敵わないと察したのか、敵は黒翼を広げた。すぐさま翔一は、飛ぼうしたその体に組み付く。翔一を抱えたまま敵は街のビルを沿うように上へ上へと昇り、すぐに屋上へと到達する。

 翔一の拳が敵の背中を穿った。バランスを崩した敵が、屋上の床へ翔一を道連れにして墜落する。すぐさま立ち上がった敵の蹴りを紙一重で避け、すれ違いざまに背中を裏拳で殴る。よろめいて隙だらけになったところ、追撃の拳を胸と腹に打ち込んでいく。

 刹那、敵が翔一に組み付いた。そのまま翔一の体を押し倒し、好機とばかりに空へ逃げる。さっきのように飛びつかれないためか。昨日のように空中からの頭突きをかましてくるつもりだろう。流石にビルの屋上から突き落とされては、この姿でも助かるかは分からない。

 翔一はベルトに手をかざした。バックルの球から柄が出てくる。掴んで引き抜くと、それは一振りの刀だった。素早く動き回る敵はストームでも追いつかない。鋭い切れ味を持った刃と、攻撃の瞬間を見極める研ぎ澄まされた感覚で確実に仕留める。

 体が熱くなっていくのを感じる。見下ろすと、金色の鎧が赤く染まっている。刀を持つ右腕が一回りほど太く隆起した。

 翔一は深呼吸した。戦いの緊張を沈め、超越感覚の赤(フレイムフォーム)で目と耳を澄ます。遠くから届く空気の流れを肌で感じ取れる。敵が旋回し方向転換するのが、風を切る音で分かった。宵闇のなか真っ直ぐこちらへ向かってくる、怪しく光る敵の目を捉える。

 両手で刀を構える。変身した翔一の角に似た鍔が開くのを感じる。

 思考がとてもクリアだった。今朝、善子が飛ばしていたクラフト飛行機を思い出す。飛行機は真っ直ぐ飛んでいく。敵もまた真っ直ぐ飛んでくる。脇目もふらず、一直線に――

「はっ!」

 上段から刀を振り下ろすと同時、敵が翔一の頭上を通過した。確かな手応え。刀の鍔が閉じる。振り返ると、敵の体が左右真っ二つに分かれた。切断された面から炎が噴き出す。

 夜空を舞うふたつの肉体が一気に燃え上がる。闇のなかで爆発の光を灯し、そしてほどなくして闇へと還っていった。

 

 

   4

 

「よろしくお願いします」

 ルビイから差し出された入部届を千歌は受け取る。「よろしくね」と笑みを向けるとルビィも満面の笑みで「はい、頑張ります」と応じてくれる。晴れて今日から、ルビィはスクールアイドル部の一員になる。ダイヤに自分の意志を伝えて、堂々とスクールアイドルが「好き」という気持ちを出すことができる。

「そういえば、国木田さんは?」

 何気なしに梨子が訊くとルビィは表情を曇らせた。

「きつかったのかな? 昨日も帰っちゃったみたいだし」

 遅れた反省を裡に秘めながら、千歌はそう言った。必要な練習とはいえ、ゆっくりと段階を踏めば良かった。ルビィが頂上まで辿り着いたから失念していた。でも、初めて花丸を見たときから一緒にやれれば、と思っていたし、だからこそ体験入部に来てくれたときは飛びそうになるほど嬉しかった。

「入ってほしかったな………」

 「まあ、無理強いは可哀想だよ」と曜が言う。確かに、嫌々やってもらうのも良くない。

「あの――」

 不意にルビィが言った。

 

 花丸の物語は終章に入る。

 人生のなかで誰かに語る節があるとすればここまでだ。これでもAqoursの物語の一節に過ぎない。Aqoursにルビィが加わるための脇役として花丸は登場しただけ。脇役としての役目を果たした花丸は元の日常に戻る。放課後、暇な図書委員の業務を読書で過ごす日常に。

 図書室のドアを開けると、住み慣れた我が家のような紙とインクの香りが迎えてくれる。カウンターの椅子に腰かけると、帰ってきたという感慨が沸いてきた。ここが自分の居場所。

 これからが今までと異なるのは、もうルビィと花丸の物語は交わることがないということ。これからルビィは毎日スクールアイドル部の練習へと行く。もう花丸と図書室で談笑することはない。

 世の中の関節は外れてしまった。

 不意に『ハムレット』の台詞を思い出す。そう、これは関節が元通りに、あるべきところへ収まっただけの話だ。

 カウンターの引き出しを開けると、図書室の蔵書には不釣り合いなほど華やかなアイドル雑誌が置いてある。花丸の私物だ。開き、とあるページで捲る手を止める。そのページ一面に掲載された写真のなかで、ウェディングドレスをモチーフとした衣装を着た少女がマイクをブーケのように両手で握っている。名前は星空凛(ほしぞらりん)というらしい。ルビィが特に熱中しているμ’s(ミューズ)というグループのメンバーだ。アイドルなだけあって愛らしい。

 自分も、こんな風に可愛くなれるかな。

 初めて凛を見たとき、そんな想いを抱いた。彼女のように輝けるスクールアイドルとは何だろう。自分には無理と理解していても、ルビィの背中を押す目的とは別に知りたかった。

 でも、そんな好奇心はもう無意味だ。最大の目的は果たされたのだから。

「ばいばい……」

 花丸がそっと雑誌を閉じようとしたとき――

「ルビィね」

 不意に聞こえた声に振り向くと、ルビィがカウンター越しに立っていた。

「ルビィちゃん?」

 何でルビィがここにいるんだろう。授業が終わるとすぐ部室へ向かったはずなのに。

 駄目だよルビィちゃん。せっかく前に進めたのに、ここに戻ってきちゃいけないよ。

 そう言おうとしたが、ルビィの力強い言葉に阻まれる。

「ルビィね、花丸ちゃんのこと見てた。ルビィに気を遣ってスクールアイドルやってるんじゃないか、って。ルビィのために無理してるんじゃないか、って心配だったから」

 間違っていない。ルビィのために体験入部を提案したのだから。

「でも練習のときも、屋上にいたときも、皆で話してるときも、花丸ちゃん嬉しそうだった。それ見て思った。花丸ちゃん好きなんだ、って。ルビィと同じくらい好きなんだ、って。スクールアイドルが」

 「マルが? まさか……」と花丸は顔を背ける。確かに練習は楽しかった。運動は不慣れでダンスも素人だから思うように体は動かなかった。でも千歌たちは花丸に嫌な顔ひとつせず教えてくれて、皆で何かをすることが楽しいと心の底から思えた。

「じゃあ、何でその本そんなに読んでたの?」

 涙に潤んだルビィの目が花丸の手にある雑誌に向けられる。「それは……」と誤魔化そうとするができそうにない。雑誌のページは何度も捲られて折り癖がついている。

「ルビィね、花丸ちゃんと一緒にスクールアイドルできたら、ってずっと思ってた。一緒に頑張れたら、って」

 自分の行動が恥ずかしくなってくる。練習の間、ルビィはずっとスクールアイドルになれたことへの歓喜に満ちていると思っていた。親友は自分のことなんて眼中にないと高を括っていた。でも、ルビィも花丸のことを見ていた。花丸がルビィを想うように、ルビィも花丸を想ってくれていた。

 一緒に頑張れたら。ダンスのステップを踏めたとき、一瞬だけ花丸もそんな想いがよぎった。それは叶わぬ夢だ。花丸では輝けない。この雑誌の一面を飾る凛のようには。

 花丸はかぶりを振り、

「それでも、おらには無理ずら。体力ないし向いてないよ」

「そこに写ってる凛ちゃんもね、自分はスクールアイドルに向いてない、ってずっと思ってたんだよ」

 「え?」と花丸は誌面に目を向ける。こんなに可愛らしいのに、こんなにも輝いているのに。

「でも好きだった。やってみたいと思った。最初はそれで良いと思うけど」

 不意に梨子の声が聞こえた。向くと入口の近くに2年生の3人が立っている。千歌がカウンター越しに手を差し伸べてきた。この手を取る資格が自分にあるだろうか。今まで華のある事なんて何ひとつ成し遂げられず、物語を消費するだけだった自分に。

 ルビィが身を乗り出して力強く告げる。

「ルビィ、スクールアイドルがやりたい! 花丸ちゃんと!」

「………マルに、できるかな?」

 物語の読み手でしかない自分が紡ぎ手になる。花丸はその可能性に怖気づいた。花丸がAqoursの物語に組み込まれるということは、花丸次第でこの場にいるメンバー達全員の物語に影響を及ぼすということだ。間違えればバッドエンドを迎える。やってみたい。そんな軽い気持ちで彼女たちの物語の責任を背負うだなんて荷が重すぎる。

「わたしだってそうだよ」

 千歌は言う。

「一番大切なのはできるかどうかじゃない。やりたいかどうかだよ」

 千歌に続いて、皆が笑みを向けてくれる。あなたと一緒にやりたい。物語を紡いでいきたい、と。

 花丸は気付く。自分もルビィと同じように、心に蓋をしていたことを。本では決して埋めることのできない虚無に、目を背けていたことを。心の蓋を取り払うのは、被せることよりも勇気がいる。誰かに背中を押してもらうか、こうして手を差し伸べてもらわなければ、決して蓋は開けないだろう。

 花丸は千歌の手を取った。その上を更に梨子と曜とルビィの手が重なっていく。

 ここから花丸の物語は新しい章を迎える。

 花丸とルビィが紡ぎ手として加わった、Aqoursの次の章へと。

 

 

   5

 

 長い夢を見ていたような気がした。

 どんな夢だったのか、まるで霧のように霞んで暗闇のなかへと消滅していく。夢を暗闇へと置いていき、涼の意識は海面に射し込む光へと向かった。

 目蓋を開くと見知らぬタイル張りの天井が視界に映る。眠気が一気に飛んだ。ここはどこだ。その疑問と共に視線を巡らせながら、ゆっくりと上体を起こす。

 ベッドに寝かされていたらしい。枕もなく、シーツの敷かれていない剥き出しのマットレスはかなり粗末でかび臭い。鉄製のパイプで組まれたベッドは白い塗装が剥げ落ちていて、そこから錆が侵食している。

「大丈夫?」

 幼い声が聞こえ、咄嗟に涼は右手を向いた。寝起きのせいか、強張った首の筋肉がきしむ。

「君は3日間眠っていたんだ」

 それは二次性徴を迎えて間もない年頃の少年だった。錆びついたパイプ椅子に腰かけ、涼を見つめている。

「誰だ?」

 問いかける声に思わず恐怖が混ざる。

「まだ無理をしないほうが良い」

「誰なんだお前は」

 少年は答えない。無言のまま浮かべた微笑はとても美しかった。

 

 




次章 ヨハネ堕天 / 銀の点と線


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第5章 ヨハネ堕天 / 銀の点と線 第1話

   1

 

 涼が運び込まれたのは廃墟だった。おそらくは病院だったのだろう。所々に薬瓶が散乱していて、すっかり汚れているが壁紙や床の色が白に統一されている。すすだらけの窓ガラスを見やると森が広がっている。沼津はすり鉢状に山岳が囲む地域だから、どこの山に建っている病院なのか分からない。

 3日間眠っていた、と少年は言っていた。こんな朽ち果てた病院に点滴なんてないだろうから、涼は眠っていた間は栄養を補給できない状態にあったはず。それなのに、喉の渇きも空腹もまったくない。本能的な警戒心が生理的欲求を抑えているのか。

 スマートフォンの地図アプリで現在地が分かるかもしれない。もっとも、この山が電波圏外でなければの話だが。

 ポケットから端末を取り出した手を見て涼は目を剥いた。意識を失う直前、老人のようだった手が瑞々しさを取り戻している。あれは幻覚だったのか。いや、朦朧としていたがはっきりとあの瞬間の恐怖は覚えている。

 涼は外を見下ろす。少年は瓦礫の散乱する地面にしゃがみ、水を張った桶を眺めていた。長めに伸ばした亜麻色の髪がそよ風に揺れている。見れば見るほど奇妙な少年だ。いかにも温室育ちといった品の良い容貌のせいか、この廃墟にいるのは酷く場違いに思える。黒ずくめの服装も殺風景で、少年の透き通るような肌の白さを際立てている。ただの家出少年じゃない。涼を匿い、この手を治した彼は何者なのか。

 ひゅー、と強い風が吹く。目にゴミが入り涼は瞬きし目を擦った。視線を戻すと視界に映る光景に、涼は再び目を擦る。

 少年の背が遠目でも分かるほどに伸びていた。体格はもう青年と言っていい。一瞬もうひとりいたのか、と思った。でも、あの青年はさっきの少年に違いない。肌の白さも、亜麻色の髪も同じだ。

 青年はこちらを振り返った。建物の3階にいる涼を見上げている。その顔も美しく成長を遂げていた。造形が整いすぎて男女の区別がつかない。まるで古代ギリシャの彫刻が命を吹き込まれて動いているようだった。人類が突き詰めてきた理想的な美しさを全て集約させた、まさに芸術としては最高傑作。ダビデ像を造ったミケランジェロでも、あの青年を精巧に再現した作品を造れるだろうか。

 青年の瞳がじっと涼を見据えている。琥珀を埋め込んだような美しい瞳だ。ぞわり、と涼の背中に悪寒が走る。

「やめろ……」

 がたがたと歯を打ち鳴らしながら涼は呟く。体の奥底が疼いた。青年に涼の力が反応しているのか。鼓動が強くなる。歯止めがきかず、裡から沸き出す奔流を吐き出すように涼は叫んだ。

「うあああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 あたりの空気が震えているのが分かる。共振現象を起こした窓ガラスが一斉に割れた。

 ガラスの破片と共に涼は外に降り立った。3階から飛び降りれば無事では済まないが、変身した涼の脚は落下衝撃を全て吸収する。青年を睨むと恐怖が更に増していく。あれだけの破片が降っておきながら青年の白い肌は傷ひとつ付いていない。足元を見やると青年の周囲だけ破片が落ちていない。見えないカプセルの中に青年は収まっていて、破片の直撃を防いだかのように。

「アギト………。いや、ギルスか。珍しいな」

 青年の声はけして大きくはないが、透き通るような恐ろしいほどの美声が涼の耳をついてくる。湧き出る衝動に従い涼は青年へと駆け出す。

「そう、怖いんだね僕が。いいよ、好きにして」

 黙れ、もう何も言うな。お前は消す。お前は俺の前から消えなければならない。

 涼は跳躍した。右足を振りかざし青年の肩にヒールクロウを突き立てる。尖刀が青年の肩に刺さり、胸まで切り裂く。眩い光がまるで血のように青年の肩から溢れ出した。光は青年を飲み込み、その姿を隠す。直視できないほど眩しいが、涼は光のなかにいる青年を見つめ続ける。青年が笑みを向けた気がした。

 やがて光が晴れる。青年はそこにいない。最初からいなかったように、光と共に消滅していた。

「………何故だ、何故俺は奴を怖れたんだ?」

 元の姿に戻り、呆然としながら涼はひとり呟く。

 理由は分からない。明らかに青年は人間の姿をしていた。でも、何故か恐怖が裡から込み上げてきた。おそらくは、あの青年の存在そのものに。

「ギルス………」

 涼の唇がその音をなぞる。青年は変身した涼を見て「ギルス」と言っていた。それが涼の名前なのか。名前があるということは、他にも涼と同じ力に目覚めた人間がいるのだろうか。

 

 

   2

 

 一切の光が届かない空間を、蝋燭(ろうそく)に灯った火が弱く照らしている。その光は近くにいる自分以外を照らせるほど強くはない。

「感じます。聖霊結界の損壊により、魔力構造が変化していくのが」

 黒翼と黒髪が風に揺れる。蝋燭の火が無ければいとも簡単に闇へ溶けてしまいそうな黒を纏いながら、自身を見つめる魔眼に向けて語る。

「世界の趨勢(すうせい)が天界議決により、決していくのが。かの約束の地に降臨した、堕天使ヨハネの魔眼がその全てを見通すのです。全てのリトルデーモンに授ける、堕天の力を」

 ふ、と蝋燭の火を吹き消す。そして完全な闇が訪れる。

「やってしまったー!」

 善子は頭を抱えて叫んだ。

「何よ堕天使って! ヨハネって何! リトルデーモン? サタン? いるわけないでしょそんなもん!」

 いや、堕天使はいる。この前目の当たりにした。でも自分は違う。ただの人間だ。

 カーテンを開けると朝陽が射し込んでくる。全貌が露わになった自室を見て善子は深く溜め息をついた。魔眼もとい撮影用のインカムに、風を演出するためのまだ出すには早い扇風機。机のノートPC画面には撮影した映像を配信しているインターネットの動画サイト。

 見れば見るほどうんざりだ。壁に掛けてある鏡に映った堕天使衣装の自分自身も。

「もう高校生でしょ、津島善子。もういい加減卒業するの。そう、この世界はもっとリアル、リアルこそ正義。リア充にわたしはなる!」

 いくら摩訶不思議な存在がこの世界に存在したとしても、自分には関われるようなものじゃない。あの堕天使と戦っていた戦士のような特別なものなんて自分にはない。だったら現実を受け入れなければ。学校に行って、友達を作って充実した華の高校生活を――

 

 堕天使ヨハネと契約して、あなたもわたしのリトルデーモンになってみない?

 

 不意に始業初日で犯した失態を思い出す。羞恥のあまり善子は身を悶えさせた。

「何であんなこと言ったのよ! 学校行けないじゃない!」

 

 

   3

 

 十千万の朝は早い。自分たちのみならず宿泊客の朝食も用意しなければならないから、必然的に準備は早いうちに済ませている。とはいえ今の時期は繁盛期じゃないからお客も少なく、高海家はゆっくりと朝食を摂ることができた。

 朝練習が習慣になったとはいえ、千歌は未だに早起きが苦手だ。この日も翔一が起こしてくれなかったら寝坊していたことだろう。居間に降りると千歌以外の皿は全て片付けられている。味噌汁を置いた翔一が「ほら千歌ちゃん」と朝から元気よく千歌をテーブルに促した。

「眠いしご飯いらないよお」

 眠気で開き切らない目を擦りながら言うと、「何言ってんの」と翔一が、

「朝ご飯は元気の源なんだからしっかり食べなきゃ」

 せっかく用意してくれたのに食べないのも申し訳ない。のっそりと座った千歌は「いただきまあす」と味噌汁を啜る。

「そうそう、皆集まっているうちに話しておかないとね」

 食器を洗っていた志満が大きな封筒をテーブルに置く。テレビを観ていた美渡も「なになに?」と封筒へ興味を示した。

「何ですか、これ?」

 翔一が訊いた。千歌は口に詰めた白米を噛みながら封筒を覗き込む。「学校法人 沼津国際調理師専門学校」と印字されている。入学手続きの資料らしい。「願書?」と訊く美渡に続き翔一は「へえ」と漏らし、

「志満さん調理師の学校に行くんですか? 凄いなあ」

「私じゃないのよ」

「え? じゃあ千歌ちゃん?」

 千歌は無言で首を横に振る。何となく話が見えてきた。「じゃあ美渡?」と翔一が言うと、美渡も既に察しているのか「んなわけないでしょ」と呆れを声に出す。

 ようやく趣旨を察した翔一は自身を指さし、

「俺?」

 「そう」と志満は首肯する。

「私なりに色々考えたんだけど、翔一君もいつまでも家でぶらぶらしていても仕方ないと思うの」

 「なるほど、確かに」と美渡が同意した。「家で、ぶらぶら………」と力なく反芻する翔一を見て志満は少し慌てたように、

「誤解しないでね。勿論あなたには家事の全てをやってもらっているから感謝しているわ。でもそれだけじゃ詰まらないでしょ?」

「いえ、十分楽しいですけど」

 翔一は迷うことなく言う。その笑顔から影はまったく感じない。翔一は毎日本当に楽しそうだ、と千歌の目には映っていた。掃除、洗濯、炊事、畑としいたけの世話。その全てを笑顔でこなしている。その返答に戸惑い気味の志満は改まって、

「別に調理師学校じゃなくてもいいのよ。何かやりたいことがあれば」

 「そうですねえ」と翔一は明後日のほうを向く。

「朝起きたときは顔洗って歯を磨きたいと思うし、掃除もしたいし洗濯もしたいし」

「いや、そういうことじゃなくて………」

 「志満姉ちょっと急すぎるよ」と千歌は長姉を制止する。

「翔一くんが何か始めたとしても記憶が戻ったら違うことしたい、って思うかもしれないし」

 「それは、そうだけど……」と志満は言葉を探しあぐねる。翔一が専門学校に通い調理師の資格を取って、十千万の板前として働いてくれたら千歌も嬉しい。でも、将来の志望は翔一自身から言うことを待つのが一番良いとも思った。翔一が本当の意味で自身の人生を送るためにも。

「俺、別にどっちでも良いですけど。記憶が戻っても、戻らなくても。まずいですか?」

 罰が悪そうに苦笑する翔一を見つめながら志満は言う。というより、それしか言えなかったのだろう。

「変わってるわね翔一くん。本当に」

 

 

   4

 

 強化ガラスの向こうで、G3がGM-01を構えてゆっくりと脚を進める。自分がこの前まで同じ装備を身に着けていたと思うと、何だか自分自身を見ているような気分に捉われる。

 G3ユニットの活動再開へ向けた演習で、誠の立場は「元」装着員。新しい装着員の技量が果たしてアンノウンに通用するかを見定める側にある。装着員が誠でないこと以外に面子は変わりない。指揮を執るのは小沢。オペレーターは尾室。そしてモニタリングに同席するのは霞ヶ関から沼津まで足を運んだ警備部長と補佐官。

 G3が所定の位置につくと、誠の隣に座る小沢がマイクに向かって告げる。

「G3戦術演習(マヌーバー)、開始」

 ブザーが鳴り響くと同時、G3が銃を構えた。尾室がPCのキーを叩き、

「GM-01、アクティブ」

 G3の周囲で黒の板が起き上がった。人間を簡易的に模した射撃訓練用の的。通常の訓練用と異なるのは、センサーと銃口が取り付けられているという点だ。複数の的が取り囲んだG3へ弾丸を射出していく。左右前後から飛び交う銃撃を全て紙一重で避けながら、G3はGM-01の銃口を向けトリガーを引いた。

 的のひとつの、人間でいうと心臓にあたる位置に命中し銃撃が止まる。横へ跳びながら宙で発砲。またひとつ的の心臓へ。更に着地時に前転して衝撃を和らげながら発砲。それもまた心臓へ命中。残るひとつの的はまだ銃撃を続けているが、それもあっけなくGM-01の弾丸を受けて沈黙した。

「命中率100パーセント」

 尾室が報告し、全ての的が倒れる。G3は警戒を緩めず、GM-01を構え直し周囲に視線を巡らせている。

 ご機嫌な様子で警備部長が言った。

「やはり彼を装着員にして正解だったようだな」

 隣の補佐官も満足げに頷く。「氷川君」と警備部長に呼ばれ、誠は思わず「はい」と上ずった声で応える。

「君から見て彼はどう思う?」

 その警備部長からの質問が形式的なものに感じ得ないが、誠は率直に述べた。

「お見事です。何も言うことはありません」

 本心からの言葉だ。全ての動きに一切の無駄がない。G3の性能を余すところなく使いこなしている。

 やりとりを横目で見ていた小沢は淡々とマイクへ、

「マヌーバー終了、お疲れ様」

 構えを解いたG3がマスクの両側面に手を当てる。後部カバーが開きマスクを脱ぐと、涼しい表情をした北條透の顔が現れた。

「凄い、完璧ですよ北條さん!」

 尾室が興奮した様子で言うと、北條は不敵に笑みを零し控え室へと歩いていく。その背中を睨みながら小沢が机の脚を控え目に蹴るのを、誠は見逃さなかった。

 

 演習後にGトレーラーへ戻る道中も、尾室の北條への賛辞は止まらない。

「いやー凄いですよ北條さん。これだけ短い期間でG3システムの扱いを完璧にマスターしちゃうなんて」

「あなた達のサポートがあってこそです。これからもよろしくお願いします」

 北條は(おご)ることなく応える。

「氷川さんのときはもっと時間かかったもんなあ。さすが北條さんですよ」

 その言葉に小沢は何か言いかけたが、すぐに口を結ぶ。尾室だって、誠本人が一緒にいながらも悪気があって言っているわけじゃないだろう。それに、誠を装着員とした頃の調整に時間が掛かっていたのも事実だ。

 廊下の分かれ道に差し掛かって誠は「すみません」と、

「僕はここで」

 誠が3人と歩く道はここで別れる。3人はG3ユニット、誠は捜査一課へと。「ええ」と小沢が応え、続けて北條が笑顔で、

「氷川さん、あなたなら捜査一課でも十分通用しますよ」

「ありがとうございます。私も北條さんの活躍に期待しています。アンノウンとの戦いは大変でしょうが、私もできる限り力になりたいと思っていますので」

「それは心強いな。まあ、今のところあなたの力が必要になるとは思えないが」

 そう告げて北條は行くべきところへと歩き始める。ユニットメンバーに支給される制服を着こなすその背中を見送ると、誠は「失礼します」と小沢に一礼して別方向へと歩く。

「氷川君」

 小沢に呼ばれ足を止めた。振り返ると小沢はいつもの強気な、でも優しい表情を向けてくる。

「どこに行っても応援してるから、あなたのこと」

 元とはいえ上司からの激励に、誠は無意識に笑みを返す。報いよう、小沢の期待に。これから現場は違えど、警察官である自分たちの守るものは同じだ。小沢たちが実働部隊としてアンノウンと戦うのなら、自分はアンノウンの謎を追っていく。

 戦おう。砂漠に落ちた一粒の小石でも、真実があるのなら放棄せず。警察官という矜持を携えて、市民のために。

 

 

   5

 

 スクールアイドル活動をするならば、ラブライブ運営委員会が展開しているソーシャルサイトへの登録が一般的だ。サイト内でブログを立ち上げての活動報告ができ、プロモーション動画をアップロードすればスクールアイドルの検索で発見されやすくなる。アカウントを持てば、サイト内でのブログや動画の閲覧数と評価に応じてのランキングが付く。

 浦の星女学院スクールアイドル・Aqoursとして登録された千歌たちのランキングは現在4768位。これでも一応順位が上がっているのだが、競争率の高さを突き付けられて千歌は盛大な溜め息をつく。

「まあ落ちてはないけど」

 放課後の部室にて、全員でPC画面を凝視するなかで曜が現状を総括する。

「ライブの歌は評判良いんですけど……」

 ルビィが控え目に述べる。ライブ動画は今のところ初ライブの曲だけだ。決して悪い状況ではないはず。千歌はサイトのコメント欄を見ながら、

「それに新加入のふたりも可愛い、って」

 「そうなんですか⁉」とルビィが興奮気味に言った。ふたりが入部してすぐブログに紹介文と写真を掲載したのだが、どうやら反応は良好らしい。続けて曜が、

「特に花丸ちゃんの人気が凄いんだよね」

 梨子がコメントを読み上げる。

「花丸ちゃん応援してます。花丸ちゃんが歌ってるところ早く観たいです、って」

 「ね、大人気でしょ?」と言う千歌の横につき、花丸はPCをじっと見つめる。感激しているのかと千歌は思ったのだが、

「こ、これがパソコン?」

 花丸のその言葉に曜が「そこ⁉」と椅子から立ち上がる。

「もしかして、これが知識の海に繋がってるという、インターネット?」

 まさかパソコンを初めて見るのだろうか。目を輝かせる花丸に戸惑いながらも梨子が「そ、そうね」と応える。

「知識の海かどうかはともかくとして………」

 千歌はルビィに訊く。

「花丸ちゃんパソコン使ったことないの?」

「実はお家が古いお寺で電化製品とかほとんどなくて」

 現代で家電が殆どないとは、まさか洗濯物は手で洗い米は釜戸で炊いているのだろうか。十千万も1世紀以上続く老舗旅館だが、流石に現在は家電くらい置いている。

「この前沼津行ったときも――」

 ルビィによると、沼津駅前の本屋へ行った際、トイレでセンサー式の蛇口とジェットタオルを見て花丸はこう言ったらしい。

 

「未来ずら! 未来ずらよルビィちゃん!」

 

 既に現代の技術なのだが、古風な家庭に育った花丸にとっては未来へタイムスリップしたかのような衝撃を受けたのかもしれない。

 そんな未来の産物に等しいPCを目の当たりにした花丸はこちらを向き、

「触ってもいいですか?」

 「勿論」と千歌が応えると、花丸はPCへと手をかざす。キーを押して画面に出力されたらもっと驚きそうだな、と思っていると液晶が暗転した。

「何をしたのいきなり?」

 梨子が訊くと花丸は興奮冷めやらぬ様子で、

「1個だけ光るボタンがあるなあ、と思いまして――」

 それは電源ボタンだ。最後まで聞く前に梨子と曜が強制終了されたPCへ向かう。

「大丈夫?」

「衣装のデータ保存してたかなあ?」

 PCを立ち上げながら交わされるふたりの会話で、花丸は事態を察したらしく表情を引きつらせる。強制終了のことは多分知らないだろうが。

「ま、マル何かいけないことしました?」

 「大丈夫大丈夫」と千歌は苦笑を返した。

 

 



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第2話

 以前ネットニュースでライダー主人公の職業について取り上げた記事を見まして、その記事で翔一君がニート扱いされていて「記事書くんならしっかり観てからにしてほしいな」と思ったことがあります。

 翔一君はニートではありません。言うなれば住み込みの家政夫さんです!




 

   1

 

 練習着に着替えて屋上に場所を移し練習。そのはずだったのだが、花丸が曜の操作するPC画面に釘付けになっているせいで始められない。梨子が溜め息をついていることは、花丸の眼中に入っていないことだろう。

「おお! こんなに弘法大師空海の情報が!」

 どうやら空海について検索しているらしい。確かに沼津にある禅長寺(ぜんちょうじ)の母体は空海の広めた真言宗だからゆかりはあるのだが。

「ここで画面切り替わるからね」

「凄いずらあ」

 曜が簡単な操作を説明している。痺れをきらし梨子は告げる。

「もう、これから練習なのに」

 「少しくらい良いんじゃない?」と呑気なことを言ったのは翔一だった。何故彼がここにいるのかというと、千歌が家に忘れてきたタオルを届けに来たからだった。ついでに差し入れとしてミカンのはちみつ漬けなんて持ってきて皆で試食する始末だ。

「どうかなルビィちゃん?」

「美味しいです」

 薄く輪切りにされたミカンを食べながらルビィが屈託なく笑っている。花丸曰く究極の人見知りのルビィが。この人は本当に打ち解けるのが早いな、と梨子は思った。

 ミカンを飲み込んだ千歌が言う。

「それよりランキングどうにかしないとだよね」

 「毎年スクールアイドル増えてますから」とルビィが補足する。ランキングで確認できる数だと、全国でスクールアイドルは約5千組。これからも増える可能性があることから、競争率は上がっていくことだろう。全国各地、様々な土地と様々な学校でアイドルが結成されている。

 千歌はあちこちを指さしながら、

「しかもこんな何もない場所の地味、アンド地味、アンド地味、なスクールアイドルだし」

 梨子はまだ移住して間もないから全てを知っているわけじゃないが、お世辞にも沼津は華やかな土地とは言い難い。観光名所になるのは内浦から臨む富士山と駿河湾くらいだ。でも土地柄なんて関係あるのだろうか。梨子は尋ねる。

「やっぱり目立たなきゃ駄目なの?」

 「人気は大切だよ」と曜が言った。「確かに」と翔一も腕を組んで唸る。この人はちゃんと理解しているの、と思ったが敢えて言及しないでおく。翔一と同じように千歌も腕を組み、

「何か目立つことか………」

 すぐに名案が浮かぶわけじゃない。梨子は取り敢えず思い浮かんだことを何気なく投げかける。

「例えば、名前をもっともっと奇抜なのに付け直してみるとか?」

 すると千歌は不敵に笑って、

「奇抜って、スリーマーメイド? あ、ファイブだ」

 しまった、と後悔後に立たず。ルビィが「ファイブマーメイド………」と目を輝かせている。その路線で行くなら人魚のように脚にヒレを付けてプールでシンクロナイズドスイミングのように踊るということか。いや、考えては駄目だ。そもそも梨子が提案したとき却下されたはずなのに。

「何で蒸し返すの⁉」

 噛みつくように言うと「良いねえ、それ!」と翔一も便乗してきた。

「良くないです!」

 「て、その脚じゃ踊れない」と千歌が思い至ると今度はルビィが、

「じゃあ、皆の応援があれば脚になっちゃう、とか」

 「おお、何か良いその設定!」と千歌が言う。まさに話に尾ひれがついてきた。かと思えば今度は曜が目を細め、

「でも代わりに声が無くなるという………」

 「ダメじゃん!」と喚く千歌の胸倉を掴んで「だからその名前は忘れて、って言ってるでしょ」と揺さぶる。その頭からマーメイドという単語を弾き出そうとばかりに。後輩ふたりと翔一の前でなんてことを暴露してくれるのか。

 翔一は言う。

「悲しい話だよねえ、人魚姫ってさ」

 「でも」と曜が補足する。

「人魚姫は泡になっちゃうんですけど、その後は風の精に生まれ変わるんですよ」

 それは初めて知った。「曜ちゃん詳しいね」と翔一が感心すると曜は照れ臭そうに笑う。

「千歌ちゃんのお父さんが聞かせてくれたんです」

 

 今日こそは学校へ行こう。

 善子がいきり立って家を出たは良いが、そう簡単にいくものじゃない。いざ登校となると足がすくみ、駅前のゲームセンターで気分転換という名目で油を売っているうち、ようやく浦の星女学院の門を潜ったのは放課後になってしまった。

 放課後になっても部活や委員会で校内に生徒はいる。この期に及んでまだ知り合いと遭遇したくない善子は屋上へ向かった。屋上で適当に時間を潰して、全生徒が帰ったあたりを見計らって自分も帰ろう。

 学校で屋上は唯一誰もいない場所というのが定番と思っていたのだが、浦の星は例外だったらしい。

「何でこんなところに先客が………」

 ドアの陰に隠れながら独りごちる。鍵が施錠されていない時点でおかしいとは思ったのだが。一体どこの部だろうか。何やら談笑していて練習はまだ始まっていないらしい。善子の存在に気付いたのか、談笑している集団のひとりがこちらを向いた。

「ずら丸⁉」

 思わず声をあげてしまい、咄嗟に覗かせた身を隠す。善子へと向いたのは間違いなく国木田花丸だった。幼稚園が一緒だった、この浦の星では唯一の顔見知り。何とも間が悪い。善子はそそくさと校舎へ潜り込んだ。

 いきなり屋上から堕天してしまった。

 屋上以外で人のいない場所として善子が選んだ、というより選ばざるを得なかったのは廊下にあるロッカーだった。狭いが身を屈めれば入れないこともない。まるでかくれんぼでもしているみたいだ。ある意味で当たっているかもしれない。

 これじゃ何のために登校してきたのか分からない。中学時代の醜態を知る者がいない、沼津市街から離れた浦の星を受験してせっかく入学したというのに。

 不意にロッカーの戸が開かれる。中を覗き込んできた花丸が悪戯っぽく笑っている。

「学校来たずらか?」

 咄嗟に飛び出し、善子はしどろもどろに口を動かす。

「き、来たっていうか、たまたま近くを通りかかったから寄ってみたっていうか………」

「たまたま?」

 家から散歩して通りかかるような距離でもないだろう、という指摘をされる前に「どうでもいいでしょそんなこと!」とまくし立てる。

「それよりクラスの皆は何て言ってる?」

「え?」

「わたしのことよ! 変な子だねえ、とか。ヨハネって何、とか。リトルデーモンだって、ぷふ、とか!」

 「……はあ」と花丸は気のない返事をする。

「そのリアクション、やっぱり噂になってるのね。そうよね、あんな変なこと言ったんだもん。終わった、神々の黄昏(ラグナロク)。まさにデッドオアアライブ」

 善子はロッカーに戻った。戸を閉めると闇が包み込んでくれる。このまま闇に溶けてしまおう。そんなことを考えるも、戸を挟んで聞こえる花丸の声が否応にも現実を認識させる。

「それ生きるか死ぬか、って意味だと思うずら。というか、それも気にしてないよ」

「でしょう………、え?」

 花丸の微笑が聞こえた。

「それより、皆どうして来ないんだろうとか、悪いことしちゃったのかな、って心配してて」

「………本当?」

「うん」

 戸を僅かに開き、花丸をじっと見つめる。

「本当ね? 天界堕天条例に誓って嘘じゃないわよね?」

 その条例は何、と訊きたげだったが、花丸は追求せず「ずら」と首肯する。

 「よし!」と善子は戸を勢いよく開け放った。驚いた花丸が尻もちをつくが構わず、

「まだいける、まだやり直せる! 今から普通の生徒でいければ!」

 自分の高校生活はまだ希望がある。友達を作って仲良く談笑して、素敵な彼氏を作って甘いデートを――後者ほどの贅沢は望まないとして。

 「ずら丸」と善子は未だ立ち上がれない花丸に顔を近付ける。怯えながら「な、何ずら?」と声をあげる花丸に更に詰め寄り、

「ヨハネたってのお願いがあるの」

 

 生徒の同居人とはいえ、翔一は学校にとっては部外者になる。でも学校の教員たちは何度も千歌の忘れ物を届けに訪れる青年に対しては寛容で、廊下ですれ違うと「あら翔一君、こんにちは」と挨拶を交わすほどだ。

「学校かあ、何だか良いよね」

 千歌が玄関まで見送る道中、初めて来たわけでもない校舎を物珍しそうに眺めながら翔一が言う。そもそも翔一だって学生時代はあったはずだ。本人が思い出せないだけで。

「調理師学校もこんな感じかな?」

「それは分からないけど、もしかして志満姉の言ったこと気にしてる?」

 千歌が訊くと翔一は「うーん」と首を傾げる。

「志満さん、俺が家にいるの迷惑なのかな?」

「そんなことないよ。志満姉も美渡姉も翔一くんのこと大好きだよ」

 志満が言ったように、高海家の家事は全て翔一に一任している。十千万の仕事がある志満としては大助かりだ。翔一の考案した新作料理が宿泊客の夕飯として採用されたことだってある。もはや高海家にとってかけがえのない家族の一員だ。家族と思えるからこそ、翔一の将来を案じて志満は専門学校の資料を取り寄せたのだろう。

「でもさ、志満姉の言いたいことも分かるかな。ほら翔一くん言ってたでしょ。皆の居場所を守るために戦いたい、って。それって人のためだよね。何か自分のための夢とかないの?」

「夢?」

 まるで考えたことがない、というような口ぶりだった。裏表のない翔一のことだから、志満に言ったことも本心だろう。記憶が戻っても戻らなくてもいい。ただ日々を高海家で過ごせれば。

 とはいっても否が応でも身の回りに変化が訪れるのが人生だ。できれば千歌もあまり考えたくはないが、翔一が高海家から離れる日が来るだろう。

「毎日毎日記憶喪失になりたいかな」

 不意に翔一はわくわく、といった調子で言う。「ええ?」と千歌は困惑を漏らした。

「毎日記憶喪失になりたい、ってどういうこと?」

「例えば朝目が覚めるじゃない。で、昨日のこと何も覚えてなければさ、見るもの全てがすごい新鮮なわけよ。そんな風に毎日生きていけたら良いなあ、って」

 「何それ、わけわかんないよ」と千歌は言う。翔一にとっては毎日が発見に満ち溢れた日々かもしれない。でも、それは千歌と今まで築き上げてきたもの全てがリセットされるということ。そんなのは寂しすぎる。

 玄関に着いて翔一が靴を履き替えているとき、ふと千歌は気付いた。玄関先に停まっているバン――きっと学校に掃除用具を貸し出している業者だ――に荷物を積んでいた女性の視線に。千歌が駆け寄って声をかけるまで、その女性は翔一をずっと凝視していた。

「あの、翔一くんに何か用ですか?」

 「あ……、何でもないの」と女性はしどろもどろに笑顔を繕う。

「どこかで会ったような気がしたものだから」

「翔一くんに?」

「翔一くん、ていうんだ」

「はい、津上翔一くんです」

 女性はじ、っと翔一を見つめるとまたぎこちなく笑みを零し、

「ごめんね。多分私の勘違いだわ」

 荷物をそそくさと車内に納めて、女性は運転席へ乗り込もうとドアを開ける。「あ、ちょっと待ってください」と千歌は呼び止めてポケットからスマートフォンを取り出す。

 「千歌ちゃん、どうしたの?」と翔一が訊いた。「決まってるでしょ」と千歌は答える。

「何か思い出したら連絡してもらうの。もしかしたら翔一くんの過去知ってるかもしれないし」

 

 

   2

 

 事はその日のうちに動いていた。

 翔一は帰宅してすぐ畑で実り始めたキャベツを収穫していた。そこへ翔一に、学校で千歌と連絡先を交換した女性から電話が来たという。

 夕飯の食卓で電話を対応した美渡から顛末を聞くと、志満は「そう」と感慨深そうに応える。千歌は翔一がいつも座っている席を眺める。今日の夕飯に翔一はいない。畑で物思いにふけっているようだ。

「じゃあ翔一君の過去を知っていそうな人が現れたってことね」

 志満にとっては願ってもないことだろう。過去を知れば、翔一の将来を考えるヒントになるかもしれない。

 美渡が期待を込めた口調で言う。

「その人に聞けば、翔一の正体が分かるってことね」

 まるで珍獣みたいに、と思ったが的を射ているかもしれない。その三浦という女性に会えば分かるかもしれない。

 翔一がどこで生まれ育ち何をしていたのか。

 翔一がいつどこで金色の戦士に変身する力を得たのか。

 翔一が戦う怪物は一体何なのか。

 事は進むのが早く、翔一が三浦と会う約束をしたのは明日の午後1時、沼津港近くの千本浜公園だ。夜が明けたら全てが分かるかもしれない。

 「にしても――」と美渡は視線を落とし、

「夕飯のおかずがキャベツの千切りだけって………」

 今日の夕飯は白米とインスタントの味噌汁とキャベツの千切りのみ。何かの付け合わせに使うつもりだったのか、冷蔵庫にあったものを更に持ってドレッシングをかけただけ。物足りないが、お客用に用意した料理に手を出すわけにもいかない。そう自身を納得させて千歌は言った。

「仕方ないよ。翔一くん作る気ない、って言うんだから」

 千歌は裏庭のほうを見やる。翔一にかけるべき言葉が見つからない。きっと大丈夫、心配することない。そんな上辺だけの言葉を並べたところで、全ては明日になってしまえば明らかになるかもしれない。きっと翔一にとって良いほうへ働くはずだと思いながらも、千歌は願わずにはいられない。

 どうか三浦の勘違いであってほしい、と。

 細く切られたキャベツを眺めながら、志満がぽつりと呟いた。

「翔一君も、自分の過去を知るのが怖いのかもね」

 

 

   3

 

 花丸の言った通り、誰も善子の失態は気にも留めていないようだった。学校の門を潜った善子をクラスメイト達が視線を送ってくるが、善子が慎ましやかなに微笑して「おはよう」と挨拶すれば「おはよう」と返してくれる。

 こんなことならもっと早く復学しておけばよかった。下手に口を開かなければぼろが出ることはない。

 朝のホームルームが終わるとクラスメイト達が一斉に善子の席へと集まってくる。

「雰囲気変わってたからびっくりしちゃった」

「皆で話してたんだよ。どうして休んでるんだろう、って」

 口々に述べられるクラスメイト達の声から歓迎されていると確信し、善子は「ごめんね」と微笑む。

「でも今日からちゃんと来るから、よろしく」

 「こちらこそだよ」という反応から、このキャラクターで好感触らしい。いける、と善子は机の下で見えないよう拳を握った。今はぎこちなくても時間を経ていけば慣れる。そうすれば自然とクラスメイト達に普通の女子高生として認識されるはずだ。

「津島さんて、名前なんだっけ?」

 申し訳なさそうに尋ねられた質問に善子は肩を微かに震わせる。

「確か、よ……よは――」

 「善子!」と遮る。口調が思わず強くなってしまい、クラスメイト達が少しばかり驚いた。

「わたしは津島善子だよ」

 「そうだよね」と皆が笑った。笑いながら善子はこちらを遠巻きに眺める花丸をちらり、と一瞥する。大丈夫、花丸がついている。昨日頼んだのだから。

 気が緩むと堕天使が顔を出す。だから危なくなったら止めてほしい、と。

 それにしても、普通の女子高生は疲れる。ただ笑って会話するだけでも冷や汗が滲む。

「津島さんて趣味とかないの?」

 何気なく質問される。仲を深めるのなら利かれて当然なのだが、自分の趣味を隠さなければならない善子は「と、特に何も……」とおずおず応える。いや、とすぐに思い直した。これは上手くクラスに溶け込む絶好のチャンスじゃないか。ここで好感度を上げられれば、友達に恵まれた高校生活が決まったようなものだ。

「う、占いをちょっと………」

 善子が言うと「へえ」という期待に満ちた声が沸いた。皆占いには大なり小なり興味があるらしい。

「本当? わたし占ってくれる?」

「わたしもわたしも!」

 口々に希望されて「もちろん」と応じる。

「今占ってあげるわね」

 「やった!」という小規模な歓声に包まれながら、善子は鞄から必要な小道具を取り出す。魔法陣の描かれたマルチクロスを床に敷いて黒のローブを身に纏い、更に黒い羽をシニヨンに挿す。その出で立ちにクラスメイト達は目を丸くしたまま沈黙しているのだが、気付かない善子は燭台に立てた蝋燭にマッチで火を点けて占い、もとい儀式を開始する。

「天界と魔界に蔓延るあまねく聖霊。煉獄に落ちたる眷属たちに告げます。ルシファー、アスモデウスの洗礼者、堕天使ヨハネと共に――」

 そして善子は大きく両腕を広げ、

「堕天の時が来たのです!」

 宣言の後に沈黙が教室を満たす。クラスメイト達の怯えた表情を見て、ようやく善子は冷静になることができた。

 

 ――やってしまった――

 

 

   4

 

 北條と入れ替わりに部下として配属された誠に、河野は昼食をご馳走してくれた。訪れたのは沼津駅近くに軒を落ち着けるラーメン屋台で、誠にとって見るのは初めての移動式店舗だった。数十年前はリアカーもしくは軽トラックでラーメンを売り歩く光景は多かったらしいが、現代ではもう姿を見ることが殆どない。九州地方ではまだ営業している屋台も多いそうだが、それはラーメンが名物の現地が保護する観光名所みたいなもので、自治体が条例を整備したおかげで成り立っている。

 すっかり常連なのか、河野は挨拶のように「おやじ、醤油ふたつ」と店主に告げると誠を背もたれもない粗末な椅子に促す。屋台のカウンタースペースは詰めても3人が限界で、すぐ目の前の厨房スペースも鍋や食器類が所狭しと並んでいる。こういう店はラーメンがどういう工程で調理されるかが間近で見ることができた。

「なあ、これ以上聞き込みを続けても無駄なんじゃないか?」

 ラーメンを待っている間、河野が言う。

「アンノウンによる被害者たちが超能力者だったというお前の説は、まあ俺としては面白いと思うんだが」

 捜査一課に配属されてからも、さしあたり誠の捜査内容はあまり変わっていない。アンノウンに殺害された被害者たちが超能力者だったという証明。被害者遺族を訪ね、河野と共に根拠を探っている。被害者は生前、不思議な力を使うことはなかったのか、と。こんな奇天烈な推理に付き合わせてしまって河野には申し訳ないと思うが、何もしないわけにはいかない。アンノウンの謎を探る根拠としては、今のところ超能力の存在しかない。

「もう少し頑張ってみます」

 誠が言うと、河野は特に否定を口にすることなく飄々と頷く。そこへ「へいお待ち」と店主が目の前にラーメンの丼を置いた。「おお来た来た」と頬を綻ばせながら河野が誠に割り箸を手渡す。「どうも」と箸を割って麺を啜ると、醤油味の奥からエビの香りが鼻から抜けていく。海鮮出汁のスープとは港町の沼津らしいラーメンだ。

「北條のやつはひとり屋でな。こういう店には付き合わなかったが、お前はどうだ?」

「美味しいです」

 「そうか」と河野は嬉しそうに笑った。こういう外で食べるラーメンもなかなか風情がある。味も申し分ない。

 河野のスマートフォンが着信音を鳴らす。「はいもしもし河野ですが」と食事を中断して応答した河野は「何? 分かった」と通話を切り誠へ告げる。

「殺しだ」

 

 



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第3話

 

   1

 

 海岸沿いに松の木が無数に植えられた千本浜公園の一画で、その死体は市民によって発見された。現場維持のためにまだ横たえたままの死に顔を、誠はじっと見下ろす。血色が良い――死体相手におかしな言い方だが――ことから、絶命してまだ間もないらしい。

「どうした?」

 無意識に長い間眺めていたからか、河野が声をかけてくる。「いや――」とかぶりを振ろうとするが、率直に述べようと思い直す。こういう仕事は、何か気に掛かることがあれば言ったほうが良い。

「この被害者、どこかで会ったような気がするんですが………」

 記憶を探ってみるが判然としない。街ですれ違った程度か。河野は現場に放置されていた黒革のハンドバッグから運転免許証を抜き取る。証明写真と死体の容姿が同じことから、被害者の所持品であることは間違いないようだ。

「被害者は三浦智子29歳。知り合いか?」

「いや………」

「まあ不思議と死体というやつは皆どこか似てるもんだ」

 そう言って河野は死体の傍でバネのように広がった針金の束を手に取る。

「これは絞殺だな。酷いもんだ」

 刑事としてのキャリアが長いためか、河野は死体の首に刻まれた跡を見ても溜め息に留まる。悲しいかな誠も死体には慣れつつある。この三浦智子の骸は比較的損傷もなく生前に近い状態を保っているから冷静に観察することができた。

「でもこれは殺しの手口がはっきりしている。アンノウンの仕業ではありませんね」

 人間が「可能」な殺人。そうなると不可能犯罪捜査本部の誠と河野が担当する事件にはなるまい。現場捜査が済んだら沼津市警の刑事に後を引き継いでもらわなければ。

 それにしても堂々と殺したものだ。千本浜公園は森のように松の樹が密集しているが、見通しが悪いわけでもない。そんな公園のなかで殺害し、死体を隠すことなく凶器の針金も放置したまま犯人は現場を去った。殺人を犯したことで気が動転していたのか。計画的な犯行にしては杜撰すぎるし、衝動的な犯行だったとしても針金なんてその場で手元に持っているものだろうか。

 そんなことを考えていると「おい、これを見ろ」と被害者の手帳を捲っていた河野がページを見せてくる。今日の日付のページに時間と場所――つまりはこの千本浜公園――、そして名前が綴られている。待ち合わせの約束のようだ。

「どうやら被害者は今日ここでこの津上翔一とかいうやつに会っていたらしいな」

「津上翔一………」

 待ち合わせの相手として綴られた名前を反芻する。知っている名前。この事件、すぐに引き下がってはいけない気がした。

 

 

   2

 

「あ、志満姉? 翔一くんどうだった?」

 スマートフォンを耳に当てて訊くと、しばしの逡巡を挟んで長姉の声がスピーカーから聞こえてくる。

『それが……、会えなかったらしいの』

「会えなかったって1時に千本浜でしょ? 翔一くんちゃんと行ったの?」

『私も訊いたの。ホームセンターで買い物してきたみたいだからそのまま帰って来たんじゃないかと思って。でも公園行って1時間近く待っても三浦さん来なかったみたい』

 千歌は連絡先を交換したことを思い出し、

「三浦さんに電話できないの?」

『一応かけてはみたんだけど、誰も出なくて』

「翔一くんの様子は?」

『すっかり元気よ。昨日夕飯作れなかったから今日はご馳走作る、って張り切ってるわ』

 「そうなんだ」と相槌を打ちながら、千歌は自分が安堵していることに気付く。過去が明らかになることで翔一が変わってしまうかもしれない。そんな根拠のない恐怖に似た感情のせいで、今日は何事も身が入らない日になった。でも三浦は約束に訪れず、翔一の過去についてはひとまず先送り。まだいつもの日常が続いていく。もしかしたら翔一も同じように思っているのかもしれない。

 不意に戸を挟んだ部室から声が聞こえた。

「どうして止めてくれなかったのー!」

 善子の声だ。放課後になると花丸の陰に隠れるようにして部室へ訪れたのだが、入部希望ではないらしい。何でもクラスに馴染もうと試みたが堕天使が顔を出して失敗したのだとか。

「じゃあ、そろそろ部活だから切るね」

『ええ』

 スマートフォンの通話を切って、千歌は部室に入る。あれ、と部室を見渡すが善子の姿が見えない。探す間もなく再び善子の泣きそうな声がテーブルの下から聞こえる。

「せっかく上手くいってたのに!」

 覗き込むと善子が小さくうずくまっている。花丸が呆れ顔で言った。

「まさかあんなもの持って来てるとは思わなかったずら」

 あんなものとは、テーブルに置かれた明らか備品ではない燭台と羽とローブと魔法陣だろうか。一体これを何に使ったのか。

 「どういうこと?」と梨子が訊くとルビィが、

「ルビィもさっき聞いたんですけど、善子ちゃん中学時代はずっと自分は堕天使だと思い込んでたらしくて。まだその頃の癖が抜けきってない、って」

 空想が豊かな子なんだなあ、と思っていると、のそりと静かに善子がテーブルから這い出てくる。

 善子は力の抜けた声で言う。

「分かってる。自分が堕天使のはずない、って。たとえ堕天使がいるとしても………」

 じゃあこれは何、と疑問に思ったところで、それを梨子が訊いた。

「だったらどうしてあんなもの学校に持ってきたの?」

 「それは、まあ……」と善子は次第に饒舌になっていき、

「ヨハネのアイデンティティみたいなもので、あれがなかったらわたしはわたしでいられない、っていうか――」

 そこでヨハネ、もとい善子の表情が引きつる。教室ではここで制止できなかったから失敗したのだろう。そんな善子を細めた目で見ながら梨子が、

「何か、心が複雑な状態にあるということはよく分かった気がするわ」

 「ですね」とルビィがノートPCのキーを叩く。インターネットの動画サイトにアクセスしてキーワード検索を入力しながら、

「実際今でもネットで占いやってますし」

 動画が始まった。蝋燭だけが光源の薄暗い部屋のなか、黒のファンタジーチックな衣装を着た善子が不敵な笑みを浮かべている。

『またヨハネと堕天しましょう』

 「わーやめて!」と動画に映っていた本人がPCを乱暴に閉じる。善子は行儀悪くテーブルに乗ったまま喚いた。

「とにかくわたしは普通の高校生になりたいの! 何とかして!」

 本人にとっては深刻な問題らしく、目尻に涙を溜めている。でも、千歌には何とかしてあげたい、なんて気持ちは微塵もなかった。あったとしても力にはなれない。「普通」から脱するためにスクールアイドルを始めた千歌には。むしろ、この「普通」からかけ離れていることが良いじゃないか。

「………可愛い」

 呟くと場の皆の視線が集まる。千歌は再び開いたPCの画面を示し、

「これだ! これだよ!」

 千歌は期待と共に告げる。無意識に善子と同じようにテーブルに乗っていたが、驚きのあまりか誰からも咎められなかった。

「津島善子ちゃん。いや、堕天使ヨハネちゃん。スクールアイドルやりませんか?」

 

 

   3

 

 学校や仕事が終わる時刻は大体どこも同じなのか、夕方の百貨店ビルは混みあっている。沼津駅前という立地条件が客足に拍車をかけているのだろう。

「ねえ、本当に大丈夫なの?」

 迷うことなく雑貨屋へ向かう千歌の後ろで梨子が訊いてくる。「大丈夫」と千歌は揚々と善子直伝の堕天使要素を書き連ねたルーズリーフを示す。勧誘の返事は先送りにするとして、善子はしばらくの間スクールアイドル部の堕天使アドバイザーという形として話をまとめた。早速その日のうちに、と練習は早めに切り上げて2年生の3人で買い出しに出ている。

「素材さえ揃えば衣装にできるよ。ね、曜ちゃん」

 「うん」と隣を歩く曜が頷き、

「わざわざ生地から作らなくても既製品をアレンジすればすぐにできるから。ルビィちゃんも手伝ってくれるって」

 1年生のふたりが入部してくれたことは嬉しいのだが、そうなると衣装制作を担当する曜の負担が増える。でも幼い頃から熱心なスクールアイドルのファンだったルビィは自分で衣装を作ったこともあり、裁縫はお手の物らしい。

「絶対に可愛いって。大丈夫」

 千歌が言うと「いや、そうじゃなくて――」と梨子は言いかけるが、それ以上は何も続けることなく歩き続ける。スクールアイドルを熟知するルビィに堕天使ヨハネとして善子が監修する衣装だ。千歌には絶対的な確信があった。

 雑貨屋での買い物を終えてエスカレーターで1階に降りると、食品コーナーのカウンタースペースで見慣れた青年が商品を袋に詰めているのが見えた。

「翔一くん!」

 呼びながら千歌が駆け寄ると、翔一は昨晩の様子が無かったことのように「千歌ちゃん」といつもの笑顔で千歌たちを迎える。

「皆どうしたの?」

 「買い物です」と曜が両手に提げた袋を見せる。

「新しい衣装作るんだ」

 千歌が言うと翔一は「へえ」と目を輝かせ、

「どんな衣装なの?」

「それはできてからのお楽しみ」

 そこで「ちょ、ちょっと」と梨子が口を挟む。

「まさか津上さんに見せるの?」

 「え、そうだけど?」と千歌は言った。応援してくれているのだから当然と思うのだが、顔を赤くした梨子は髪を振り乱さんとばかりに首を振る。

「見せるなら千歌ちゃんのだけにして!」

 「ええ」と翔一は声をあげる。

「大丈夫だって梨子ちゃんなら何着ても似合うからさ」

「そういう問題じゃありません!」

 恥ずかしがる梨子を面白そうに見ていた曜が、翔一のあまり物が入っていない袋へと視線を移す。

「今日は買ったの少ないんですね」

 そう言うと翔一は待ってました、というような笑みを浮かべる。

「菜園のキャベツが良い出来でさ。今日はそれ使った新しい料理に挑戦しようと思うんだよね」

 「へえ、どんな料理?」と千歌が訊く。

「それはできてからのお楽しみ」

「えー、教えてよ」

「じゃあ早く帰って準備しよ――」

 翔一の動きが止まった。笑みが消え失せ、明後日のほうを向く。

「翔一くん?」

 呼びかけるが、翔一は無反応のままその場に立ち尽くしている。ぞわり、と千歌の背中に悪寒が走る。

「ごめん千歌ちゃん、俺行かなくちゃ!」

 そう言って、翔一は袋を置いたまま店内を走り出した。「ちょ、翔一くん!」と千歌は慌てて袋を掴んで後を追う。

「ねえ、津上さんどうしたの?」

 後ろを走る梨子が訊いたが、説明できる余裕なんてなかった。きっと翔一は戦いに行く。言わなくちゃ、と思った。

 ちゃんと帰ってきて。いつもの翔一くんのまま帰ってきてご飯作ってよ、と。それがたとえ翔一の耳に届かなくても、言い続けなければ。

 自動ドアを潜って外へ出る。翔一は駐輪場へ向かおうとしていた。その背中へ千歌が大声で告げようとしたところに、白のクラウンがタイヤの摩擦音を立てながら翔一の目の前で急停止し行く手を阻む。すぐさま運転席と助手席からスーツを着た男ふたりが出てきた。ひとりは中年の見知らぬ男。もうひとりはよく十千万を訪ねてくる氷川誠だった。

「津上翔一だな?」

 中年の男――おそらくは刑事――に尋ねられると翔一は困惑しながらも「はい」と応じる。

「氷川さんどうしたんですか?」

 千歌が駆け寄ると中年の刑事が「知り合いか?」と誠に尋ねる。「はい」とだけ答えて誠は翔一に訊いた。

「君は今日13時に三浦智子なる女性と千本浜公園で会う約束をしましたね?」

 「それがどうかしたんですか?」と翔一が質問を返すと、すかさず中年の刑事が告げる。

「殺されたんだよ彼女」

 告げられた意味を理解するのに千歌はしばしの時間を要した。翔一と会う約束をしていた女性が何者かに殺された。きっと約束を記したメモか何かを誠たちは発見して、翔一が事件に関係していると睨んだ。おそらくは殺人事件の容疑者として。

 誠は淡々と告げる。

「詳しく話を聞かせてもらいたいのですが、署まで任意同行してもらえますか」

 誠は翔一の腕を掴んでクラウンへと促す。大人しく歩き出す翔一の前に、千歌は回り込んだ。

「違います。翔一くんは三浦さんに会えなかったんです。そうでしょ翔一くん?」

 翔一は呼びかけに応じない。「何とか言ってよ!」と肩を揺さぶるとようやく反応を示した。ただそれは千歌に対してではなく別のものらしい。翔一は先ほどと同じように明後日のほうを向き、目を見開く。

 翔一は駆け出した。すぐさま中年の刑事が掴みかかるが、乱暴に振り払ってそのまま走り去ろうとする。寸前で誠が翔一の腕を掴み引き寄せ、更に後頭部に手を添える。すると重心を押さえられた翔一はなすがまま車体に押し付けられ身動きを封じられてしまう。

「津上翔一、逮捕します」

 誠はポケットから出した手錠を翔一の手首にかける。すぐにもう片方の手首にも。

「公務執行妨害ってことだな」

 中年の刑事がそう言って翔一の肩を掴み車の後部座席へと押し込むように乗らせる。シートに座る翔一の顔は何かを焦っているように見えた。

 翔一を乗せたクラウンがパトランプを鳴らしながら走り去ってようやく、千歌は周囲に野次馬が集まっていることに気付く。駅前でいきなり人が警察に逮捕されれば当然かもしれない。駅前交番の巡査も唖然としていた。

「ねえ千歌ちゃん、これってどういうこと?」

 困惑に満ちた表情で梨子が訊いてくる。千歌はしどろもどろに言葉を紡いだ。

「昨日学校で翔一くんのこと知ってるかもしれない人と会って、その人と今日会う約束して………。でも翔一くん会えなかったって………」

「その人殺されたんでしょ? 警察が来たってことは津上さんが――」

「違うよ! 何かの間違いだよ!」

 「ふたりとも落ち着いて」という曜の声で、千歌は高鳴る脈を抑えようと深呼吸する。辺りを見回して曜は言った。

「ひとまず家に帰ろう。志満さんにこのこと言わないと」

 

 

   4

 

 逃走を図ったことで重要参考人から容疑者となった津上翔一の取り調べは、沼津署に到着してすぐ開始された。48時間後には検察に身柄を移さなければならない。短いが、何としても翔一から事件の全容を聞き出さなくては。

「被害者の三浦智子と千本浜公園で待ち合わせをしたことは認めるんだな?」

「はい」

 河野の質問に翔一は怯えも憤りも見せず応じる。この4畳の狭く殺風景な取調室に入った者の多くは委縮なり憤慨なりするものだが、翔一はいつもの調子を崩さない。そんな彼を誠は観察するように眺める。嘘をついていないか、表情に出たところを見逃さないために。

「で、それからどうした?」

「でも会えなかったんです。1時間くらい待ったんですけど」

「会えなかった………。変じゃないか? 被害者は千本浜公園で発見されたんだぞ。お前と待ち合わせをした場所だろ。大体お前と被害者は一体どんな関係だったんだ?」

 「関係って……」と翔一は困ったように眉を潜め、

「昨日偶然学校で会って――」

「学校? どこの?」

「浦の星女学院です。お世話になってる家の高海千歌ちゃんて子が通ってる」

「お前は何でその学校に行ってたんだ?」

「千歌ちゃんの忘れ物を届けに行ったんです。あの子よく弁当とか部活の着替えとか忘れちゃうから。この前なんか――」

「いや、それはいい。そんで、三浦智子と学校で会ってその後は?」

「学校で会って、あの人が僕の過去を知ってるからって。もしかしたら僕の記憶が取り戻せるかもしれないから………」

「記憶を取り戻すってお前、何言ってんだ?」

 「河野さん」と誠は口を挟む。

「この男、実は記憶喪失らしいんです」

「記憶喪失?」

「はい、そのことについては嘘ではないと思います」

 以前、十千万を訪ねた際に志満から聞いている。翔一は記憶喪失で過去のことを何も覚えていない、と。

 スマートフォンの着信音が鳴った。ポケットからバイブレーションの振動を感じ、誠は「失礼します」と取調室から出て通話に応じる。

「はい氷川ですが」

 『氷川君?』と小沢の声が聞こえた。

『実はね、おめでたいようなそうでもないような微妙な報告があるんだけど』

 何事も白黒はっきりしている小沢にしては曖昧な物言いだ。どんな難しい案件なのか、「何でしょうか?」と誠は尋ねる。

『1時間ほど前にアンノウンが出現してね、北條透がG3システムで撃破したわ』

 丁度誠と河野が翔一を逮捕した頃だ。当然ユニットを離れた誠に出動の報告をする義務を小沢は負っていない。だから事後報告という形になっても特に思うことはない。それどころか撃破という報告に安堵すらしている。市民が守られたということだ。

「そうですか、流石北條さんだ。おめでとうございます、と伝えて頂けますか。あ、それからもしアンノウンに被害者がいるなら、その手口を教えてほしいんですが」

『被害者は1名。死因は水のない場所での溺死よ。やっぱり不可能犯罪ね』

 前回の不可能犯罪とは違う手口。つまりはアンノウンも別個体ということだ。強い衝撃による不可能犯罪はぱたり、と止んでいる。最後にアンノウン出現の通報を受けた日、小沢は無理矢理にもGトレーラーを出動させようとしたが、既に北條を装着員とした改修に出払っていたために未遂で済んだらしい。同日に沼津駅前、翔一を逮捕した商業ビル付近で爆発があったという通報があった。誠は漠然とだが、アギトがアンノウンを撃破したと推測している。

「分かりました、ありがとうございます。できれば、後で僕のパソコンに報告書を送って頂けますか?」

『ええ、記録映像も一緒にメールしておくわ。例のごとく、アンノウンは映ってないけどね』

「ありがとうございます。それじゃ失礼します」

 通話を切って取調室に戻る。

「やはり三浦智子はアンノウンに殺されたわけではないようですね。手口が全く違っています」

 そう誠が告げると、河野は労わるような、それとも皮肉とも取れるように翔一の肩に手を添える。

「長くなりそうだな、ええ?」

 「はあ………」と翔一は曖昧に応じる。何やらそわそわと体を揺らしていて、「トイレですか?」と誠が尋ねると翔一は「いいえ」とかぶりを振る。

「今日、皆の夕飯どうしようかな、と思って。ご馳走作るつもりだったから」

 

 





 『サンシャイン』とクロスさせるライダーは『アギト』と『ウィザード』で迷いました。『ウィザード』を候補にした理由は魔法繋がりで善子ちゃんとの絡みが面白そうだったので。

 結局『アギト』とのクロスにした理由は現代の中高生が『アギト』をあまり知らないという話を聞き、平成初期のライダーを知ってもらうための宣伝としてこのような形になっております。


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第4話

 更新が遅れて申し訳ありません。ここしばらくの間モチベーションが著しく下がっていました。

 読んでくれる読者様を意識すると「こんな出来でいいだろうか」と変に物怖じしていましたが、そもそもプロの作家でもない私がそんな気取った悩み抱える必要は無かったですね(笑)。「書きたいから書く」という原点を忘れず肩の力を抜いて書いていこうと思いますので、よろしくお願いいたします。


 

   1

 

「大変だよ! 翔一くんが警察に連れてかれちゃった!」

 曜と梨子と一緒に十千万へ帰宅してすぐ、千歌は姉ふたりに先の顛末を報告した。

「翔一が警察に連れてかれたって、それどういうことよ?」

 宿泊客への迷惑も構わず美渡が語気を強める。

「津上さんが会う約束をしていた人が殺されたらしくて………」

 千歌が省いてしまったことを梨子が補足してくれる。

「まさか翔一が――」

 「何かの間違いだって!」と美渡の言葉を遮る。続けて曜が「そうですよ」と、

「絶対に翔一さんは犯人じゃありません。アリバイとかあればきっと………」

 それだ、と千歌は希望を見出す。アリバイが、三浦が殺害されたと思われる時間帯に翔一が何をしていたか証明できれば、証人がいれば彼を釈放させられる。

 「でも――」と美渡は気まずそうに、

「翔一、約束にはひとりで行ったんだよね。ホームセンター寄ったみたいだけど時間近いしアリバイになるのかな」

 一気に不安が押し寄せる。意図はないだろうが、梨子が更に追い打ちをかけるようなことを言った。

「警察の取り調べって、結構強引だって聞いたことあるわ。もし津上さんが嘘の自白とかしちゃったら………」

 「そんな………」と千歌は息を詰まらせる。もし翔一が刑務所に服役するなんてことになったら。そんな想像をすると脚から力が抜けて崩れてしまいそうになる。いつか別れの日が来るかもしれない、と漠然と思っていた。でも、こんな形で突然別れるなんてあっていいのだろうか。

「皆落ち着いて」

 そう静かに告げたのは志満だった。受話器を片手に電話帳を捲りながら、

「知り合いの弁護士さんに相談してみるわ。きっと翔一君の無実を証明してくれる」

 「志満姉」と千歌は長姉へ強く言う。

「わたし警察に行ってくる。翔一くんのために何かできるかもしれないし」

「気持ちは分かるけど、私たちにできることは何もないわ」

 反論できず、千歌は唇を結ぶ。志満の言う通り、何かできるかもと言っても何ができるのか全く考えが思いつかない。いくら誠に説得を試みたとしても、高校生の証言が通るのか。しかもアリバイもない。

「それに翔一君なら大丈夫よ。きっとカツ丼でも食べさせてもらってるわ」

 志満が穏やかにそう言うと、呆れ顔で美渡が漏らした。

「刑事ドラマじゃあるまいし」

 

 

   2

 

「食えよ、腹減っただろ」

 そう言って河野が差し入れた蓋つきの丼を、翔一はまじまじと見つめる。蓋を取ると卵で閉じられた豚カツが湯気と共に出汁の香りを昇らせる。

「へえ、こういうときって本当にカツ丼が出るものなんですね。刑事ドラマで見たことあります」

 この男、自分の置かれた状況が分かっているのだろうか。嬉しそうに破顔する翔一を見て誠はそう思った。普通なら差し入れの食事なんて近くのコンビニで売っているおにぎりかパンで済ませる。わざわざカツ丼を出前で頼んだのは、刑事ドラマに憧れてこの仕事を志したという河野のこだわりだ。

「いいから食え」

 河野がぶっきらぼうに言うと、翔一は律儀に「いただきまーす」と合掌する。箸を手に豚カツを頬張る姿を見て河野が「美味いか?」と訊くと翔一は「はい」と笑顔で応え、

「あの、ひとつ訊いてもいいですか?」

「何だ?」

「このカツ丼てどこのお店の出前ですか?」「何でまたそんなことを訊く?」

 河野が呆れ顔で言うと、翔一はまるで新しい発見でもしたかのように笑った。

「今度、千歌ちゃんやAqoursの皆にも食べさせてあげようかな、と思って」

 そう言って翔一は箸を動かす。深い溜め息をつき、河野は誠へ視線をくべてくる。こいつ普段からこうなのか、と訊きたげだ。誠は無言で視線を返す。はい、普段からこうです、という返答を込めて。

 話せば話すほど、津上翔一という人間は得体が知れない。それが数時間の取り調べで誠が思い知ったことだった。取り調べは一種の心理戦と言っていい。容疑者を疲弊させ真実を証言させようと、誠と河野は飴と鞭の法則を駆使した。でもその試みは翔一のペースを前にしてあっけなく頓挫している。厳しく詰問しようが穏やかに諭そうが、翔一のペースは全く崩れない。疲弊した様子もなく溌剌と受け応えている。

 河野の言った通り長くなりそうだ。もっとも、参ってしまうのは翔一ではなくこちらのほうかもしれないが。とはいえまだ始まって数時間。これからが正念場だ。

 「津上君」と誠が呼ぶと、翔一は箸を止める。

「君はさっき被害者に会いに行く前に買い物をしたと言いましたが、一体何を買ったんです?」

「庭の樹を直したくて、ガムテープとか針金とか――」

 それを聞いた瞬間、河野は射貫くような視線を翔一に向け、

「語るに落ちたな。被害者はな、針金で殺されていたんだよ」

 

 

   3

 

 気付けばすっかり夜が更けていた。

 カーテンの隙間から街灯の白んだ光が部屋に入り込んでいる。気付くと色々なことが浮かび上がってきた。まずは自分自身から発せられている強い臭気。あの青年に匿われていた廃病院から家に辿り着いてからというもの、風呂に入らず部屋でぼう、と過ごして結構な日が経っていたらしい。

 時間の経過を認識できても、不思議と空腹はなかった。無意識に何か口にしていたのだろうか。いや、もしかしたら空腹を感じられるほど意識がはっきりしていないのかもしれない。ずっと現実と夢想の狭間にあるような、ぼんやりとした感覚に身を委ねていたのだから。

 全てに対する反応が鈍くなっているようだ。恐ろしいほど静かな部屋に、突然スマートフォンの着信音が響いても動揺なんてしない。応対なんてする気になれず放置する。着信音はしばらく鳴り続けた後に止んで、続けて人の声が発せられる。留守電モードに切り替わったのだろう。

『涼か? 神奈川の松井だ』

 母方の叔父の声だった。幼い頃に母が死んだ後も色々と世話を焼いてくれて、父とも実の兄弟のように仲が良かった。

『久しぶりだな、2年前の正月以来か。突然だが、驚かないでくれよ』

 今更何に驚くというのか。軽く聞き流すつもりでいた叔父の声は震えているようだった。

『行方不明になっていた義兄さんが……、お前の父親が、死体で発見されたそうだ』

 端末から発せられた声に、涼は目を見開く。耳孔に入った音声に電流でも走っていたかのように、全身に痺れのような戦慄が駆け抜けた。

『私はこれからその件で警察に行く。お前もこの電話を聞いたら連絡をくれ』

 留守電が終わった。涼はただ虚空を見つめ続ける。父が死んだ。1年半前に突然行方をくらまして、それでもどこかで生きているだろうと淡い希望を信じ続けた果てに。

 

 

   4

 

 放課後になってすぐ、スクールアイドル部と善子は十千万に集合した。曜とルビィがたった一晩でメンバー全員分の衣装を仕上げたということで、その衣装合わせだ。量販店で安く買った服に雑貨屋で買った装飾を組み合わせるだけとは言っていたが、簡単といっても仕事が早い。

 十千万に上がり込んで千歌の部屋へと向かう間、梨子はせわしなく館内を見渡した。当然のことながら翔一はいない。たった一晩だけとはいえ、翔一が掃除をしてない千歌の部屋は心なしか散らかっているように見える。

「はい、これは花丸ちゃんのね。それでこれが梨子ちゃん」

 完成した衣装を手渡す千歌はいつも通りの様子だ。明るく元気で、笑顔の絶えない。たまらず梨子は訊く。

「ねえ千歌ちゃん、津上さんのこと心配じゃないの?」

 早速着替えようと制服のボタンを外しながら千歌は「え? ああ……」と思い出したように、

「何か一晩寝たら大丈夫、って思って。翔一くんは犯人じゃないんだし、すぐに疑いも晴れるよ」

 そこで「ねえ、何の話?」と善子が口を挟んだ。

「ああ、3人にはまだ言ってなかったよね。翔一くんちょっと警察行ってるんだ」

 さら、っと言いのけた事実に、1年生の3人は「ええ⁉」と声をあげる。「翔一さん何かしたずらか?」と花丸が「大丈夫なんですか?」とルビィが口々に言う。ただひとり、善子だけは「翔一……」と呟いた。

「そういえば善子ちゃんはまだ翔一くんと会ったことなかったよね。帰ってきたら紹介するね」

 千歌の言葉に善子は「うん……」とぼんやりした様子で聞いていたのだが、すぐに「ヨハネ!」と噛みつくように言う。

「何か大丈夫って思えちゃうんだよね、翔一さん」

 曜が笑いながら言った。続けて千歌も、

「翔一くんのことだから、取り調べでもお茶とか淹れてそうなんだよね」

 

 取り調べが始まって丸1日が経とうとしているが、翔一の容疑が濃厚になったところから進展はみられない。あとひと押し。容疑者の自白があれば容疑は確定する。

 職務上、誠は翔一から何としてでも情報を引き出さなければならないのだが、この気の良い青年が果たして罪を犯すとは到底思えずにいる。とはいえ、現状からして彼の無実を晴らすことは難しそうだが。

 先ほど三浦の勤務先へ河野が聞き込みに行ったが、特に他人から恨みを買うような人物でもなかったという。仕事ぶりは真面目で、プライベートでもトラブルの相談はなし。殺害へと繋がるようなことが日常で起きていなかったということは、突然出会ったこの青年へと消去法で容疑が向く。

 もし翔一が、自分を記憶喪失者と偽っていたと仮定する。自分の身元を隠さなければならない事情があり、過去の自分を知っている三浦智子の存在は都合が悪い。だから殺害へと至った。

 推理はしてみたが粗だらけだ。翔一の記憶喪失が嘘と証明できていない上に、そもそも何故身元を偽る必要があるのか、という話に昇華してより事件が複雑になる。

 いたずらに推理を深めても仕方ない。翔一の身元に関しては、今河野が捜査を進めてくれているはずだ。自分は取り調べに専念しなければ。

 取調室にお茶のセットを持ち込んだ誠は、急須に適当な量の茶葉とお湯を入れる。トイレ以外はずっと座っている翔一からまだ疲労の色は見えない。急須を揺らし、茶葉にお湯が馴染んだ頃を見計らって湯呑に注ぎながら誠は言う。

「以前君にお茶を淹れてもらったことがありましたが、今日は僕が淹れましょう」

 「どうぞ」と差し出された湯呑を一口だけ啜ると翔一は顔をしかめた。

「あの、俺が淹れ直してもいいですか?」

 そんなに自分の淹れたお茶は不味いか。そもそもお茶に美味いも不味いもあるのか。ともあれ、容疑者に物を触らせるわけにはいかない。お湯のポットだって鈍器になりえるし、ポットの熱湯だって立派な凶器だ。

 無言で冷ややかな視線を送る誠に、翔一はおそるおそる「駄目?」と訊いてくる。溜め息をつき、誠は椅子に腰かけた。この男、とことん得体が知れない。

「では、もう一度最初から昨日の君の行動を教えてもらえますか?」

「はい。朝6時に起きて顔を洗って歯を磨いてから、菜園のキャベツに水をやって、そのキャベツがまた出来が良くって――」

「そこの所はもういいです。もう少し先に進んでください」

「はい。朝食のために白味噌を使った大根の味噌汁を作って。うちはお客さん用の味噌汁には赤味噌を使うんですけど、千歌ちゃんと美渡は甘い白味噌が好きなんです」

「もっと先です」

 ここまでくると、この男は取り調べを送らせるためわざと話を逸らしているのでは、と思えてくる。何度目になるかも分からない溜め息を漏らしそうになったとき、開けられたドアの間から河野が「ちょっといいか?」と顔を出す。「はい」と応じて席を立つと、

「ああ、それからキャベツを――」

 翔一の声を無視し、部屋から出てドアを閉めると完全に音が遮断される。

 河野は言った。

「間違いないな。奴が購入したというホームセンターの針金は、凶器に使われたものと同じものだ」

 そうなると、もう翔一の容疑は確定したも同然だ。他に容疑者が現れない限り。河野は取調室のドアへ視線を向け、

「それにしてもあの容疑者、指紋を照合しても前科はないし、記憶喪失だそうだが捜索願も出ていない。全くの正体不明。奴こそアンノウンてところだな」

 

 既製品に手を加えただけと安心していたのだが、どうやら曜は一晩でかなりの改造をやってのけたらしい。着替え終わった衣装のスカートを押さえながら梨子はおそるおそる言う。

「こ、これで歌うの? この前より短い……。これでダンスしたら流石に見えるわ………」

 羞恥に身を強張らせながら隣を見やると、下に体操着の半ズボンを履いている千歌がスカートを大きく捲って、

「大丈夫!」

「そういうことしないの!」

 咄嗟に千歌のスカートを押さえた。「良いのかな、本当に」と溜め息交じりに呟くと千歌が、

「調べたら堕天使アイドルっていなくて、結構インパクトあると思うんだよね」

 「確かに、昨日までこうだったのが――」と曜が視線をベッドの上に広げた『ダイスキだったらダイジョウブ!』の衣装からメンバー達へと移し、

「こう変わる」

 白と黒のモノクロ調、所謂ゴシックアンドロリータにコーディネートされた衣装は、スクールアイドルでは邪道と言える。アイドルとして踊るならばもっとカラフルに彩った華やかな衣装が定番なのだが、こういったシンプルな色合いもある意味で目立つ。

 「何か恥ずかしい………」とルビィが、「落ち着かないずら………」と花丸が言う。ふたりにとっては初めての衣装だから照れもあるだろう。まさかルビィも憧れのスクールアイドルになって初めての衣装テーマが堕天使とは。因みにひとりだけ自前衣装の善子は着慣れた様子だ。違和感がない、というより今回の衣装は善子の趣向を参考にしたのだから当然なのだが。

 梨子は千歌に訊いた。

「ねえ、本当に大丈夫なの? こんな格好で歌って」

「可愛いねえ!」

「そういう問題じゃない」

 可愛いかどうかじゃなくて、これで人気が出るかが焦点のはずだ。「そうよ、本当に良いの?」と善子も同意を示す。千歌は明確に答える。

「これで良いんだよ。ステージ上で堕天使の魅力を皆に思いっきり振りまくの!」

 「堕天使の魅力………」と善子は興味ある素振りを見せたのだが、すぐに「ダメダメ!」と首を振る。

「そんなのドン引かれるに決まってるでしょ!」

 善子は部屋の隅でこちらに背を向けてうずくまる。それでも千歌は「大丈夫だよ」と、

「きっと人気でるよ。『天界からのドロップアウト。堕天使ヨハネ、堕天降臨!』みたいな感じで」

 想像したのか、善子の背中から「大人気……、くくくっ」と控え目な笑い声が聞こえてくる。正直なところ薄気味悪いが、協力はしてくれるらしい。

 

 衣装サイズの調整を済ませる頃には、陽が傾いて西の空が燃えるような色を映し始めている。今日の活動はここまでにして、家が沼津市街の曜と善子を見送りにメンバー全員でバス停へ移動した。

「じゃあ、衣装よろしくね」

 千歌が言うと、善子と共にバスへ乗り込んだ曜は「ヨーソロー!」と応えて敬礼する。ほどなくしてバスは走り出し、手を振って車体が建物の陰に隠れて見えなくなるまで見送った。

「じゃあマルたちも」

「失礼します」

 花丸とルビィも自分たちの帰路を歩いていく。「じゃーねー」と手を大きく振って見送る千歌の横顔を、梨子はじっと見つめる。その顔の奥に秘められている想いを読み取ろうと、観察するように。

「ん、どうしたの?」

 視線に気付かれて咄嗟に「あ……、別に………」と応える。

「もしかしてスカート丈のこと不安? 大丈夫、曜ちゃんきっと上手くやってくれるよ」

 それも不安といえば不安だが。言いかけたところで、千歌はふふ、と笑みを零した。「どうしたの?」と今度は梨子が訊く。千歌は言った。

「皆色々と個性があるんだなあ、って」

「え?」

「ほら、わたし達始めたは良いけどやっぱり地味で普通なんだなあ、と思ってた」

「そんなこと思ってたの」

「そりゃ思うよ。一応言い出しっぺだから責任はあるし。かといって、今のわたしに皆を引っ張っていく力はないし………」

 こんな、千歌から弱音のような言葉を聞くのは初めてだ。いつだって前向きで真っ直ぐな千歌が、このときばかりは小さく見えてしまう。弱気になってしまう理由を梨子は悟った。

 「でも」と千歌は続ける。

「皆と話して少しずつ皆のこと知って、全然地味じゃないって思ったの。それぞれ特徴があって魅力的で。だから、大丈夫じゃないかな、って」

 元気で溌剌とした曜。アイドルへの熱が人一倍強いルビィ。達観しているようで無邪気な花丸。そして梨子。

 それらの人々をメンバーとして見出した千歌。真っ直ぐ前だけ見ているようで、この少女は意外と隣も見ている。

「………やっぱり変な人ね。初めて会ったときから思ってたけど」

 そう言うと、千歌は「ええ⁉」と口を尖らせる。

「何、褒めてるのけなしてるの?」

「どっちも」

「何? 分かんないよ!」

 子供のように地団駄を踏む千歌が何だかおかしくて笑みが零れた。

「とにかく頑張っていこう、ってこと。地味で普通の皆が集まって、何ができるか」

 「ね」と千歌の肩にぽん、と手を添える。

「よく分からないけど………。ま、いっか」

 その言葉に、また梨子は笑みを零す。周りを見ている割には、自分のことをあまり見ない人なんだ、と思った。

「じゃ、頑張る前に片付けなくちゃね」

「え?」

 目を丸くする千歌をよそに、梨子はバス停の時刻表を見る。次のバスは40分後。千歌が訊いてきた。

「どこ行くの?」

「警察署。千歌ちゃん場所分かる?」

「分かるけど、梨子ちゃん………」

 正解、とまるで生徒に回答を促す教師になった気分で、梨子は続きを告げた。

「津上さんの無実、晴らさないと」

 

 

   5

 

 昨日、誠が翔一を逮捕したのとほぼ同時刻、北條透を装着員としたG3システムは清水町営野球場へと出動した。

 G3の主観カメラが写す現場は無人だった。球場に隣接している中学校のグラウンドにも人影はない。そんな開けた場所で、誰かが倒れていたらすぐに気付く。停車させたガードチェイサーからGM-01を掴むと、視点はすぐさま倒れている人影のもとへと進んでいく。

 うつ伏せで倒れているのは全身を濡らした男性だった。奇妙なことに、男性の周辺は全く濡れていない。球場は狩野川に近いが、川に落ちて球場まで移動したのだとしたら、その道程は必ず濡れる。でも、グラウンドで濡れているのは男性だけ。

 報告書によれば、この時点で北條はG3の生体センサーで生体反応の消失を確認。男性は死亡と判断された。

 視点が背後へと流れる。視界の中央で、もやのかかった影のなかで小学生くらいの少年が手足をばたつかせながら「助けて!」と叫んでいる。北條は少年を抱えたアンノウンへ発砲。この時点で小沢は少年の救出を優先するよう指示したが、北條は発砲を継続。13発命中させたところで、アンノウンは少年の拘束を解いた。

 アンノウンが迫ってくるが、それに伴い視界の殆どがもやに覆われて状況が把握できない。報告書には、G3はアンノウンの猛攻を掻い潜りながらGM-01で牽制。近接格闘術を駆使しアンノウンを投げ飛ばし、次にGG-02を使用。グレネードを受けたアンノウンは頭上に光輪を浮かび上がらせ、直後に溶解するようにして消滅。残された体液はほどなくして気化したためサンプルの採取は不可能。

 

 小沢から誠のPCに送られてきた映像と報告書から見れば、北條の初陣は輝かしい勝利で飾られている。少年を巻き添えにする危険性を無視してまで発砲したことは問題だが、保護された少年に外傷がなかったことから厳重注意で済まされるかもしれない。むしろ北條の腕をより信頼させる材料だ。結果論ではあるが、上層部もせっかく見つけたG3装着員を簡単に降ろしはしないだろう。

 問題は多少あれど、前任の氷川誠よりも優秀。

 そんな上層部の声が聞こえてくるようだった。誠という「失敗例」がより北條の株を上げる。少しばかり気分は落ち込むが、人には適材適所というものがある。誠はG3装着員として向いていなかっただけ。北條のほうが適任だったというだけのこと。

 まあ、G3装着員としての適性なんて今はどうでもいい。気掛かりな点がふたつあることが重要だ。

 ひとつはアギトが現れなかったこと。アンノウンが現れれば必ずアギトも現れアンノウンと戦う。現れなかったのは確認できるものでは今回が初めてだ。

 もうひとつはアンノウンが溶解したということ。アンノウンがアギト、又はG3の攻撃を受けて消滅するときには必ずその身を爆散させていた。明らかにこれまでとは異なる最期。本当にアンノウンは撃破されたのだろうか。

「氷川さん」

 不意に呼ばれて振り返ると、オフィスに同じ不可能犯罪捜査本部の刑事が顔を覗かせている。

「面会ですよ。容疑者の身内だそうですが」

 

 



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第5話

 

   1

 

 沼津署の簡素な応接室に入ると、ふたりの女子高生が少しばかり緊張した面持ちで誠を出迎える。

「君たちは………」

 確か翔一を逮捕したとき、一緒にいた少女たちだ。ふたりは一礼しそれぞれ名乗る。

「高海千歌です」

「桜内梨子です」

 誠も礼を返す。「氷川さん」と千歌はすがるように誠を見上げ、

「翔一くんに会わせてください」

「申し訳ないが、今は無理です。たとえ身内でも、容疑者との面会は禁止されているので」

「どうして? 翔一くんに人殺しなんてできるはずないじゃないですか。氷川さん本気で翔一くんが犯人だって思ってるんですか?」

 誠は視線を泳がせる。翔一の知り合いとしてか、刑事としてか。どちらの立場で言うべきか迷ってしまう。

「私だって、彼のことを知らないわけじゃない。彼が犯人だと思いたくありません」

「じゃあ――」

「だからといって彼を釈放するわけにはいきません。彼が無実だという証拠が無ければ」

 千歌からすれば、突然家族を奪われたような気分かもしれない。不安げな表情を浮かべる千歌を見て、誠のなかで罪悪感に似た重圧がのしかかった。自分の仕事は刑事だ。市民を守る誇るべき職務のはず。でも、自分の所業で目の前の少女のように人の笑顔を消してしまう。たとえそれが法に従ったことであっても。

「あの、氷川さん」

 不意に、梨子が控え目に歩み寄ってきた。

「犯人が現場に残したものって、何かありませんか?」

「何故です」

「見せてください。試してみたいことがあるんです」

「試す?」

 一体何をするつもりか。千歌も梨子の意図が分からないようで首を傾げながら友人に視線を向けている。

「分かりました。ここで少し待っていてください」

 

 誠を待っている間、応接室には冷たい沈黙が漂っている。気を利かせた誠が出してくれたお茶を啜ると、梨子は翔一のことを思い出した。隣で珍しく黙ったままの千歌も同じことを思っていたのか、湯呑を見つめながら呟く。

「翔一くんが淹れてくれたほうが、美味しいね」

「………そうね」

 千歌はじ、と梨子を見つめてきた。

「ねえ梨子ちゃん。何するつもりなの?」

「ちょっとね。上手く説明することはできないんだけど、でも………津上さんの潔白は証明できると思う」

「どうやって?」

 どう説明したものか、梨子は答えあぐねる。見れば分かるものでもないし、これからやろうとしていることは初めての試みだ。だから上手くいくのか、梨子にも分からない。

「ねえ千歌ちゃん」

 彼女を呼ぶ声が、無意識に震えてしまう。

「これからわたしがすることを見て、わたしのこと気持ち悪い、って思うかもしれない。そうなったらわたしはAqoursから――」

「思ったりしないよ」

 力強い千歌の声が、梨子の言葉を遮る。

「何が起こるのか分からないけど、わたし梨子ちゃんのこと気持ち悪いだなんて思わないよ。せっかく一緒にスクールアイドルやってきたんだもん。これからも一緒だよ、絶対」

 視線を流すと、千歌の目はしっかりとこちらを捉えて離そうとしない。強張っていた肩の力が抜けた気がした。この人なら自分のどんな部分も受け入れてくれる。そう信じることができた。

「ありがとう」

 そう告げる梨子の声はもう震えていなかった。

 しばらくして、誠はプラスチックのコンテナボックスを抱えて戻ってきた。

「これが、犯人が現場に残した凶器です」

 コンテナボックスのなかでビニール袋を被せられた針金を梨子は眺める。ビニールは付着した犯人の皮膚組織などの証拠を保護するためのものだろう。見たところただの針金。でも、これは殺人に使われた。これがひとりの人間の命を奪ったと思うと、鼓動が激しくなってくる。

 深呼吸を何度か繰り返し、梨子はビニール越しに針金へ指先を触れさせる。

「っ!」

 触れた瞬間、頭にぴりり、と痺れのようなものが走った。咄嗟に指を引っ込めると「桜内さん?」「梨子ちゃん?」と誠と千歌が心配そうに梨子へ呼びかける。

「大丈夫」

 そう言って梨子は再び針金に触れる。今度は痺れがない。代わりにきいん、という耳鳴りのような音が頭蓋に響く。音は規則性を成していき、脳裏にモザイクめいた像が少しずつ鮮明になり、梨子は目を閉じた。

 

 商品棚にずらりと値札の付いた針金が並んでいる。そのひとつを見慣れた青年が手に取って籠に入れた。

 

「確かにこれを買ったのは津上さんです」

 梨子は意識を指先へと集中させる。脳裏に浮かぶ像を更に進めていく。

 

 店の自動ドアを潜ってすぐ、翔一に通行人がぶつかった。突然のことに避けられず、翔一は店の紙袋を地面に落としてしまう。ペンチ、潤滑油、金属用ボンド。購入した商品を袋に戻しているなかで、遠くに転がった針金の束を黒い手袋を嵌めた手が拾い上げる。

 場面が変わった。松の木が不規則に並ぶ森のような場所。確か梨子も行ったことがある。そう、千本浜公園だ。除草されただけの簡素な道を、ひとりの髪の長い女性が歩いている。女性の細く白い首に、背後から銀の細い線が巻かれた。黒い袖に覆われた腕が針金を締め上げる。

 地面に落ちて、バネのように伸びる針金の束。たたらを踏むようによろめく女性の脚と、その背後に立つ黒いズボンに覆われた脚。締められた喉から絞り出される呻き。

 バイクのエンジン音が聞こえた。樹々の合間から翔一がヘルメットを脱ぐのが見えた。視線は下がり、地面に血の気を失った女性が横たわっている。

 

 目を開くと、像も音も消えた。目の前にあるのは針金。自分のいる場所は沼津警察署の応接室。現実を認識すると共に、背中から汗が一気に吹き出す。「梨子ちゃん大丈夫?」と千歌が肩を抱いてくれた。「ありがとう」と返した梨子は誠へと視線を移し、

「犯人は津上さんじゃありません。顔は分からないですけど、黒い服と黒いズボンを着た男の人です」

「君はまさか………」

 誠の反応に梨子は驚いた。正直、視える視えない以前に信じてもらえない、と思っていた。FBIではこういった能力を用いた捜査が行われているとテレビで見たことがあるものの、日本警察はで採用されていないだろう。

「氷川さん、免許証持っていますか?」

「持ってますが………」

 困惑しながらも誠はジャケットの内ポケットから財布を出し、免許証を抜き取る。備考欄と臓器提供の承認蘭が記載されたカードの裏面を凝視すると、脳裏に数字が浮かび上がる。そのひとつひとつを梨子は口に出した。

「309504133950」

 誠は目を剥く。どうやら合っているらしい。これで能力が本物だという証明になったはず。

「犯行現場に連れて行ってもらえませんか? もしかしたらもっと何か分かるかもしれません」

 

 千本浜公園はすっかり事件前の静けさを取り戻していた。既に現場の捜査も終了し、立ち入り禁止のテープも撤去されている。三浦の遺体が発見された場所へ梨子と千歌を案内すると、梨子は何かを探すように地面へ視線を這わせる。その様子を千歌と共に見守りながら、誠は告げる。

「無駄だと思いますよ。鑑識が調べた後ですから」

 「もう少し待ってください」と梨子は探索を続ける。超能力者の存在を捜査しておきながら、いざ目の当たりにしても誠は梨子の能力を半信半疑のままでいる。科学では説明できない能力。常識の枠を取り払われた、有り得べからざるもの。

 ――どんなに荒唐無稽だと思われていることでも、それを信じること。信じてみること。それが第1歩ね――

 不意に三雲の言葉を思い出した。刑事としての誠が信じるべきは事実のみだ。誰が何を犯したか。道具は何が使われたのか。

「高海さんは彼女の力を知っていたんですか?」

 「いえ」と千歌はかぶりを振る。

「初めて見ました。梨子ちゃんにあんな力があったなんて………」

 梨子は現場から少し歩いたところで足を止めた。千歌と一緒に彼女の視線を追うと、土に靴跡が残っている。

「これが、犯人のものだと?」

 誠が訊くと、梨子は「見てみます」と跡のついた土に触れる。数秒ほどの時間だろうか、梨子は目を閉じて微動だにしなかった。ほんの僅かな間でも長く感じられる。

「間違いありません。犯人のものです」

 それだけでもかなりの収穫だ。型を取ってメーカーと販売店を調べれば、そこから購入した人物を特定できる。

「2本の銀色の線が見えます。それと……、数字。多分ナンバープレートだと思います。犯人の車のかもしれません。末尾の数字が、6と………2」

 署のときと同じように、咄嗟に手を引っ込めた梨子の肩を千歌が支える。額に汗が滲んでいた。呼吸を荒げながら、梨子は絞り出すように言う。

「それだけしか、分かりません………」

 これだけ揃えば十分な手掛かりだ。翔一を送検するのにあと1日しかないが、今は梨子しか頼れるものがない。

「信じてみますよ、君の力を」

 

 

   2

 

「涼、海に抗おうとしては駄目だ。海を受け入れろ。そうすれば海も受け入れてくれる」

 父からの教えを初めて受けたのは、涼が子供の頃に海で溺れかけたときだった。涼を抱えて海岸へ泳ぎ着いたとき、涼は父の逞しい腕のなかで咳き込みながらその言葉を聞いた。

 幼い頃に母を病で失った涼にとって、父は唯一の家族だった。時折親戚が訪れて涼の面倒を見てくれたが、家族という強い結びつきを感じ取れるのは父だけだった。漁師をしていた父は船で漁に出ていたが、素潜りでの漁も村で一番の腕を持っていた。ウニにアワビにサザエ。時には大振りのエビを捕らえて家に帰ってきた。

 父は説教をするような親ではなかった。涼が勝手に漁船を動かしても、学校で父子家庭であることをからかわれて同級生を殴っても、息子を諭すことも叱ることもしなかった。代わりに父はよく涼を海に連れていき泳ぎを教えた。とはいえ、技術的なものは何ひとつ伝授されていない。波の荒い岩場に有無を言わさず涼を放り込み、波に揉まれる涼をただじ、っと見守るだけだった。ばた足も水のかき方も、全て涼は極限状態のなかで生存するために習得していった。

 肉体を通しての教育に疑問を抱いたことはある。傍から見れば虐待だ。不満を叔父に打ち明けたら、叔父は笑いながら言った。

「義兄さんは海の男だからな。大切なことは全て海が教えてくれる、って信じてるんだ」

 中学に上がった頃、涼は荒波で漁にも出られない海で泳いだ。いくら手足を動かしても、波の前ではちっぽけな人間の体なんて無力だ。涼は全身の力を抜き波に身を委ねた。しばらくたゆたっていると浅瀬まで体が流されていた。まるで海が涼を安全な場所まで運んでいるようだった。

「海は拒絶したりなんかしない。たとえお前がどんなろくでなしでもな」

 その声に振り返ると父がいた。まるで涼がそこへ辿り着くことを知っていたかのように。

 父は嬉しそうに言った。

「涼、海を受け入れろ。そうすれば海もお前を受け入れてくれる」

 

 群馬県の山中にある駅に降りると、樹々と土の匂いが纏わりつくように漂っていた。当然のことながら潮の匂いはどこにもない。緑の香りといえば生命を感じ取れるようなフレーズだが、涼にとって生命とは潮の香りだ。生命は海から産まれ海へと還る。でも、陸という場も生命を産む。土から産まれ土へと還る。そういった意味では、海も陸も同じものだ。生に満ち、同時に死も満ちている。

 先に到着していた叔父の案内で、涼は山間の警察署を訪ねた。通された部屋のテーブルには開かれた旅行鞄が置かれていて、この土の匂いに満ちた土地で、その中身からは微かに潮の匂い、父の匂いが感じ取れる。

「見なさい。これが、義兄さんが最期に所持していた物の全てだ」

 衣類、タオル、靴、傘。旅行へ出掛けるには必ず持っていくものだ。

「惨めなもんじゃないか………」

 叔父は苦虫を噛み潰したように言った。

西青柳(にしあおやぎ)駅のベンチで死んでいたそうだが、衰弱死だったらしい」

 発見された死体は既に荼毘に付されたそうだが、撮影された現場写真で死体が葦原和雄(かずお)であることは叔父が確認している。人違いであってほしい。そんな淡い期待なんてものは軽く一蹴された。父はこれだけの持ち物で誰にも看取られることなく、ひとり孤独に死んでいった。

 どうして。

 最初に出たのが疑問だった。悲しみでも怒りでもなく。父は海に生きる男だった。だから死ぬとすれば、最期の場所は海だ。陸で死ぬだなんて、父が望むはずがない。

「お前、本当に何も聞いていないのか? 義兄さんが行方をくらましたのは旅行で事故に遭った直後だったが、一体何があったのか?」

 そういえば、と涼は思い出す。父は行方不明になる直前に旅行へ出掛けていた。駿河湾フェリーに乗ると楽しみにしていたが、船が事故に遭ったらしい。幸い怪我もなく救助され、帰宅して間もなくどこかへ出掛けたまま帰ってこなかった。その頃には沼津に移り住んでいた涼に何も告げることなく。

 もし自分が様子を見に帰省していたら、何か気付けたのだろうか。遅れた後悔を喉元に押し留めながら、涼は答える。

「………聞いてません。何も」

 

 

   3

 

 一晩明けて、誠はすぐに河野と共に捜査を開始した。梨子が視た番号のナンバープレートを割り振られた車を国土交通省に取り合って絞り出し、しらみ潰しに聞き込みをする。

 別々に回っている河野からの電話が来たのは、誠が8件目を訪ねた頃だった。

「はい氷川ですが」

『どうだそっちは』

「ええ、私のほうは全員にアリバイがありました。そちらはどうですか?」

『こっちもだ。大体お前末尾が62の車の持ち主が怪しいなんて、どっから仕入れたネタなんだ?』

 「それは、ちょっと………」とはぐらかす。桜内梨子という超能力者からです、なんて言えば、流石の河野も怒るだろう。

「とにかくもう少し付き合ってもらえませんか?」

『まあそれは構わんが。ラーメン付き合ってもらったしな』

「ありがとうございます」

 今度は自分がラーメンをご馳走しよう。そう思い、誠は通話を切って車へと乗り込んだ。

 

『はーい。水のビーチから登場した待望のニューカマー、ヨハネよ。皆で一緒に堕天しない?』

 善子の文言に続き、後ろに並ぶゴスロリ衣装を着た他の面々も『しない?』と続き、動画が終わる。

 これが新しいPV。堕天使アイドルとしてのAqoursだ。特に凝った編集も必要なく、撮影からアップロードまで朝の始業前に済ませることができた。放課後の部室に集まった5人は動画の出来をPCの前に集まって確認しているのだが、唯一梨子だけが壁に額をこつん、軽くつきながら「やってしまった………」と呻いている。まあ、撮影時も梨子は恥ずかしがって最後のフレーズを拒否していたのだが。何とか説得して敢行できたが、画面のなかでメンバー達が得意げに笑うなか梨子だけが苦笑を浮かべている。

 千歌はウェブページをスクロールする。ランキングは954位。「嘘⁉」と驚いていると順位がひとつ繰り上がり953位になった。

「一気にそんなに?」

 梨子が駆け込んで画面を覗き込む。

「じゃあ効果あったってこと?」

 結果がこうして出ている。これは間違いなく成功と言っていい。ルビィが跳ねるように言った。

「コメントもたくさん、すごい!」

 コメント欄を表示すると、アップロードしてからまだ数時間にも関わらず多くの声が寄せられている。今もコメント欄の更新が止まらないくらいに。

 ルビィちゃんと一緒に堕天する!

 ルビィちゃん最高

 ルビィちゃんのミニスカートがとても良いです

 ルビィちゃんの笑顔――

「いやあ、そんな」

 今現在で最も人気のある当人が、謙遜しながらもにやけ顔で言った。

 とはいえ人気があることが良いのは確かだ。最も好意的な反応があったルビィに焦点を合わせたPVを作成すれば、もっとランキングは上がるかもしれない。

 そういうわけで、その日のうちに急遽新しい動画の作成に取り掛かり、完成したものを生徒会室へ持って行った。これだけ順位が上がったことを見れば、ダイヤだってスクールアイドル部を好意的に見てくれるだろう。

 ルビィを主役としたPVのフレーズはこんなもの。

『ヨハネ様のリトルデーモン4号。く、黒澤ルビィです。1番小さい悪魔……、可愛がってね!』

 出演がひとりだけということでルビィはかなり恥ずかしがっていたが、最後の「可愛がってね」のところは頑張って決めポーズしてくれた。アイドルならばもっと堂々とするところだが、ルビィの恥ずかしがり屋な面はむしろ受けが良い。それはダイヤと鞠莉も分かってくれる、と千歌は確信していた。

 動画を見た鞠莉は開口一番、

Oh! Pretty bomber head!(わあ! 可愛すぎて頭沸きそう!)

 英語だから意味はよく分からなかったが好感触らしい。一方、液晶で顔が隠れるほど食い入るように画面を見ていたダイヤは肩を震わせながら、

「プリティ……? どこがですの?」

 ああ、これは怒られる。千歌の緊張が伝播したのか、場にいる全員が表情を強張らせている。

「こういうものは破廉恥と言うのですわ!」

 ダイヤの怒号が室内に飛ぶ。「いや、そういう衣装というか………」「キャラというか………」と千歌と曜がおそるおそる弁明を試みるが、ここで何を言っても火に油を注ぐだけなのは目に見えているわけで。

 隣の梨子が耳元で囁いた。

「だからわたしは『良いの?』って言ったのに」

 怒り心頭のダイヤはまだ収まらないようで、

「そもそも、わたくしがルビィにアイドル活動を許可したのは節度を持って自分の意思でやりたい、と言ったからです。こんな格好で注目を浴びようなど――」

「ごめんなさい、お姉ちゃん」

 ルビィが言うと、少しは冷静になったのかダイヤは一呼吸置く。

「とにかく、キャラが立ってないとか個性がないとか人気が出ないとか、そういう狙いでこんなことをするのはいただけませんわ」

 「でも」と曜が口を挟む。

「一応順位は上がったし………」

 そう、順位は上がった。一気に千位圏内にまで。ダイヤだって動画を見る前にそれは確認済みのはず。堕天使アイドルは今後の方針として十分に得策と言っていい。

「そんなもの一瞬に決まってるでしょう。試しに今、ランキングを見てみればいいですわ」

 そう吐き捨てたダイヤはPCをこちらへ寄越す。液晶を見ると、ランキングの数字が1536と表示されている。「え?」と声をあげると同時、順位がひとつ繰り下がった。

「本気で目指すのならどうすればいいか、もう一度考えることですね」

 ダイヤの声は突き刺すように鋭かった。

 

 



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第6話

 『feat.555』の頃は『555』サイドの方が書きやすく『ラブライブ!』サイドが書き辛かったのですが、本作では逆の事態になっております。『アギト』サイドの方が難しいです、何故か。

 うーむ、執筆とは不思議です。




 

   1

 

 次の件へ向かう道の途中、警報機が点滅する踏切の前で誠は車を一時停止させた。

 思わず溜め息が漏れる。沼津市内と範囲を絞っても、意外と末尾が62と登録された車は多い。捜査は脚と言うが、これほど聴取しても何の手掛かりも掴めなければ、流石に心が折れそうだ。

 目の前を電車が通過していく。編成車両がそれほど多くないのは地方ならではのもので、すぐに電車は過ぎ去った。警報が止むと同時にバーが上がる。アクセルを踏もうとしたとき、誠は電車が走っていた「そこ」に気付いた。

 2本の銀色の線。

 バックミラーで後続車がないことを確認すると、誠はスマートフォンを出して河野の番号を呼び出して耳に当てる。

『おお、どうした?』

「河野さん、2本の銀色の線ですよ。あれは車のバンパーかサイドラインを表しているのかと思ってましたが、線路のことかもしれません」

『何?』

「線路ですよ。だとすると、62という数字も車のナンバーではないのかもしれません。ひょっとしたら、貨車番号かも」

『まあ調べて損はない。ひとまず署で落ち合おう』

「はい」

 通話を切り、誠は車を走らせた。

 

 沼津署で河野と合流した誠は急いで貨物駅へ向かった。物流企業に62番のコンテナがないか問い合わせ、貨車から降ろされコンテナ置き場にあることは確認が取れている。

 立ち入ったコンテナ置き場はとても静かだった。立ち並ぶ立方体の箱はかくれんぼをするのに最適だ。それほどの広さがない置き場で、探し求める数字はすぐに見つかった。

 ED62

「間違いない」

 河野の言葉に誠は頷き、懐からM1917を抜く。グリップを握る手に汗が滲む。この中にいるかもしれないのは、ひとりの人間を殺した殺人犯。遥かに人間を超えたアンノウンを相手に戦ってきた誠でも、緊張というものは生じる。

 扉のロックを静かに解除し取っ手を掴む。いきます、と河野に目配せし、誠は一気にコンテナの引き戸を開けた。薄暗いコンテナのなかで、何かがもぞもぞと動く。即座に誠は銃口を向けた。

「動くな!」

 中にいた者は入り込んだ光に目が眩んだのか、目元と手で覆い隠している。

 上下ともに黒い服。梨子の言っていた通りの恰好をした青年だった。

 

 

   2

 

 バスを待っている間、すっかり力の抜けた千歌はアスファルトの地面にうなだれた。他の面々にも疲労の色が見えていて、練習をしていないのに立つのも億劫らしい。

「失敗したなあ……」

 この日の成果を総括するなら、その一言だ。成功すると確信していただけあって、尚更重い響きになる。

「確かにダイヤさんの言う通りだね。こんなことでμ’sになりたいなんて失礼だよね………」

 堕天使アイドルなんて所詮は一過性の人気で終わる色物。結果はランキングの順位で十分示されているし、こんな有様では伝説と謳われるμ’sには遠く及ばない。我ながら浅はかだった。

「千歌さんが悪いわけじゃないです」

 ルビィが言うと、間髪入れず「そうよ」と善子が続く。波の音に消えてしまいそうなほどのか細い声だが、しっかりと千歌の耳には届いた。全員が視線を向けるも、善子は海へと目を向けたままこちらを向こうとしない。

「いけなかったのは堕天使よ。やっぱり高校生にもなって通じないよ」

「それは――」

 違う、と否定しようとしたが善子は遮るように、

「何か、すっきりした。明日から今度こそ普通の高校生になれそう」

 善子は立ち上がり深呼吸する。今までの懊悩全てを吐き出そうとしているように見えた。

「じゃあ、スクールアイドルは?」

 ルビィが訊くと、善子は腕を組んで「うーん」と唸った後に、

「やめとく。迷惑かけそうだし」

 「じゃあ」と歩き出した善子はすぐに立ち止まり、言い忘れた、というようにこちらへと振り向く。

「少しの間だけど、堕天使に付き合ってくれてありがとね。楽しかったよ」

 優しく、でも寂しい笑みを残し、善子は再び歩いていく。その背中を引き留めることも、かといって何か言うこともできず千歌も、他の皆も見送ることしかできなかった。

「どうして堕天使だったんだろう?」

 梨子が何気なしに、誰にもなく尋ねる。当人が去ったなかで、答えたのは花丸だった。

「マル、分かる気がします。ずっと、普通だったんだと思うんです。マルたちと同じであまり目立たなくて。そういう時、思いませんか? これが本当の自分なのかな、って」

 千歌にも理解できた気がした。どこへ行っても、何をしても普通な自分。他人よりも秀でたものを持てないことの虚無。それに耐えかねて、普通じゃない自分を否定したい気持ちは何度もあった。

 こんなわたしはわたしじゃない。わたしはもっと凄い人間のはず。善子の抱えていたものは、きっとこれと似たようなもの。

「元々は天使みたいにキラキラしてて、何かの弾みでこうなっちゃってるんじゃないか、って」

 自分の人生はどこから普通になってしまったのだろう。何の華もなく、平凡な日々はどこから始まってしまったのか。そんなもの、誰かに転嫁できる責任じゃない。それでも、何かの力が自分を縛り付けている、と思わずにはいられない。そうしなければ自分が普通と認めてしまうから。

「幼稚園の頃に善子ちゃんいつも言ってたんです。わたし本当は天使で、いつか羽が生えて天に帰るんだ、って」

 本当の自分は神の使い。今は地上に降ろされてしまったけど、いつかは神のもとへ帰る存在。

 だから堕天使だったんだ。

 千歌は理解する。たとえ神から見放されたとしても、自分が特別であることに変わりはない。特別だと思いたい。天から堕ちても、裡にはまだ輝きがあると信じたい。

 そう、千歌には確かに感じ取れた。PCの画面越し、闇の中でも輝いている堕天使の姿を。善子のなかにある輝きを。でも、善子はそれを捨てようとしている。自らの輝きを恥ずべきものとして。

 不意にスマートフォンの着信音が鳴った。液晶には志満の名前が表示されている。「もしもし」と応答し、長姉の弾んだ声を聞いて千歌は「え、本当⁉」と上ずった声をあげる。

「どうしたの?」

 曜が訊いた。また通話中なのも構わず、千歌は皆に告げる。

「翔一くん釈放だって!」

 

 外から車の音が聞こえると、「来た!」と勢いよく立ち上がる千歌を追って梨子も玄関へ向かう。宿泊客用の広い玄関で、志満に続いて暖簾を潜った翔一は旅館の空気を堪能するかのように深呼吸した。

「おかえり、翔一くん」

 満面の笑みで迎える千歌と共に、梨子も「おかえりなさい」と告げる。家を空けていたのはたったの2日程度なのだが、翔一はまるで久しぶりのように感慨深げに笑った。

「ただいま」

 ふと梨子は思う。釈放されたということは、真犯人が逮捕されたということだろうか。梨子の視た像が役立ったのか、それとも誠は別の糸口を見つけて犯人逮捕へと至ったのか。気にはなるが警察の捜査情報を教えてもらえそうにない。翔一が事件と関係ないと分かったのなら尚更だ。

「取り調べ、乱暴なことされなかった?」

 千歌が心配そうに翔一の顔を覗き込む。翔一はあっけらかんと、

「全然。それどころか美味いカツ丼食べさせてもらってさ。お店教えてもらったから今度皆で食べに行こうよ」

 「良いわね、たまには外で食べるのも」と志満が微笑する。心配して少しだけ損した気分だが、こうして無事に帰ってこられたのだから良いだろう。千歌の笑顔も戻ったのだから。

 不意に千歌が梨子の肩に手を添えて、

「梨子ちゃん凄いんだよ。翔一くんの無実証明してくれたんだ」

「ちょ、ちょっと千歌ちゃん」

 慌てて制止して耳元で囁く。

「あれのことは言わないで」

「え、どうして?」

「信じてもらえないでしょ? お願い」

 釈然としないながらも、千歌は「うん」と応じてくれる。首を傾げている翔一に苦笑を返して誤魔化すと、翔一は「そうそう」と思い出したように、

「俺がいない間、家のこと大丈夫だったかな? 皆ちゃんとご飯食べてた?」

「大丈夫だよ。まあ不便はあったけど」

「ごめん! 今日はご馳走作るから。梨子ちゃんも食べてってよ」

 昨日と今日の千歌の昼食は購買のパンだったことを思い出しながら、梨子は「ありがとうございます」と応える。

 ふふん、と千歌が得意げに笑う。

「あのね、Aqoursにどうしても入ってほしい子がいるんだ」

 翔一が帰る少し前まで、十千万にはメンバー達が集まって話し合っていた。善子をAqoursに迎えるにはどうすれば良いのか。一応話はまとまったのだが、名案と言えるわけでもない。でも賭けてみる価値はある。

「へえ、どんな子?」

 翔一が訊くと、千歌はずっと後ろ手に隠し持っていた衣装を広げて、

「堕天使だよ」

 

 

   3

 

 堕天使と謳っておきながら、衣装や小道具は全てネット通販や雑貨屋で買ったものだった。魔力なんて込められていない。水晶玉もネックレスの宝石も、実際はプラスチックに色を付けただけ。衣装の翼も生のカラスから獲ったものじゃなく、商品として色付けされたものだ。

 今まで収集してきたもの全てを段ボールに詰めると、部屋がすっきりと片付いた。清々しいのに、どこか寂しさを感じる。まるで他人の部屋にいるようで落ち着かない。

 いや、と善子はかぶりを振る。これが自分の部屋。何もない、地味で普通な自分を映した部屋だ。これが自分の本当の姿。堕天使であることを捨てるのなら、向き合わなければ。

 マンションのゴミ捨て場にそっと段ボールを置くが、その場をすぐに離れることができない。そんな未練がましい自分に嫌気が指す。もうやめる、って決めたでしょ、津島善子。堕天使は確かにいる。でもあなたは人間。あの堕天使と、それと戦っていた戦士とは住む世界が違う。この地上で生きていくしかないの。

 普通の学校生活。普通の友達。何も特別なことなんて起こらない人生。それで十分じゃない。皆そうして生きているんだから。それが一番幸せなことなんだから。

「堕天使ヨハネちゃん」

 ゴミ捨て場から出たところで、年上の割には幼げな先輩の声が聞こえる。向くと、そこには堕天使衣装を着たAqoursの面々が立っていた。

 彼女たちは声を揃えて、

「スクールアイドルに入りませんか?」

 数舜の間を置いても「はあ?」という声しか出てこない。こんな朝早くから何言ってるの、と言おうとしたところで千歌が、

「ううん、入ってください、Aqoursに。堕天使ヨハネとして」

「何言ってるの。昨日話したでしょ? もう――」

「良いんだよ、堕天使で。自分が好きならそれで良いんだよ!」

 力強い千歌の言葉が、まるで貫くように響いてくる。誰が何と言おうと、自分が好きならそれで良い。そう思っていたし、思い続けたかった。でもそのせいで害が及んでいる。中学の頃なんて周囲に敬遠されて友達はいなかった。高校でも入学早々自己紹介で失敗して学校に行き辛くなった。

「駄目よ」

 善子は逃げた。「待って!」と千歌たちは負ってくる。数人分の足音から逃れるため、善子は沼津の市街を走った。

「生徒会長にも怒られたでしょ!」

「うん、それはわたし達が悪かったんだよ。善子ちゃんは良いんだよ、そのままで!」

「どういう意味⁉」

 そのままなんて、今の延長でしかない。周囲から変な目で見られて、友達もろくにできない惨めな青春を送るだけだ。

 アーケード商店街から仲見世通り、そこから駅に着くと方向転換する。それでも追いかけながら千歌は言う。

「わたしね、μ’sがどうして伝説を作れたのか、どうしてスクールアイドルがそこまで繋がってきたのか、考えてみて分かったんだ」

「もう、いい加減にして!」

 μ’sがどうとか、スクールアイドルがどうとかなんてどうでもいい。自分はただ普通に生きていきたいだけなのに、どうして阻もうとするのか。

 気付けば沼津港の水門まで走っていた。車でも駅から10分ほどかかる距離だ。運動不足な善子にとってはかなりハードなもので、とうとう脚が止まる。笑っている膝をおさえて粗い呼吸を繰り返していると、同じように息も絶え絶えなのに千歌は告げる。

「ステージの上で、自分の好きを迷わずに見せることなんだよ。お客さんにどう思われるかとか、人気がどうかじゃない。自分が一番好きな姿を、輝いてる姿を見せることなんだよ」

 自分が輝いていると言いたいのか。あんな恥ずかしい姿を。暗闇のなかに身を置いている自分に酔いしれている姿のどこが。

「だから善子ちゃんは捨てちゃ駄目なんだよ! 自分が堕天使を好きな限り!」

 千歌の声が、真っ直ぐ届く。善子は戸惑った。堕天使ヨハネという、切り捨てるべきもうひとりの自分。千歌は、Aqoursはそれを受け止めてくれるのか。

「………良いの? 変なこと言うわよ」

 「良いよ」と曜が即答する。

「時々、儀式とかするかも」

 「それくらい我慢するわ」と梨子が答える。

「リトルデーモンになれ、って言うかも」

 「それは……」と千歌は苦笑する。ほら、やっぱり無理じゃない、と思ったとき、

「でも、やだったら『やだ』って言う」

 変に気遣いなんかしない。わたし達はあなたと向き合うよ。そう告げられたように思えた。いや、そう告げたと理解できる。こうして堕天使衣装で自分を訪ねてきたのも、全ては善子を、ヨハネを受け入れるため。堕天使ヨハネとして、暗闇のなかで灯る輝きを見出してくれた。

 千歌は歩み寄り、黒く染色された羽を差し出してくる。

「わたし、変われるのかな?」

「無理に変わらなくていいよ」

 千歌は穏やかに言う。

「善子ちゃんは善子ちゃんのままで、変われば良いんだよ」

 初めてだった。こんなに自分と向き合い、受け入れてくれる人が現れるなんて。この人と一緒に行けば、望んでいたものが得られるかもしれない。ただ変に見られるだけの堕天使から、本当の天使よりも輝ける堕天使に。最初に望んでいたものとは違うけれど、きっとそれ以上に尊いものなのかもしれない。

 善子は千歌の手を取る。捨てなくていいなら、これは契約と取って良いだろう。

 スクールアイドル、堕天使ヨハネとして。

 ぼごん、と泡が立つような音が聞こえた。皆が視線を向けると、すぐ傍の海面の一点が呻くように気泡を弾けさせている。まるで水中から打ち上げられたかのように、何かが水面から飛び出してきた。

 思わず尻もちをつく。海水を滴らせながら降り立ったのはタコだった。いや、タコのような頭を持った、それでいて体は人間に似た生物だった。

 悲鳴をあげながら立ち上がり、港口公園へ走り出す。

「何よあれ! 何なのよ‼」

 「翔一さん、翔一さん呼ばなきゃ!」と曜が言う。確か警察に行っているという千歌の同居人だったか。何故その翔一をここへ呼ばなきゃいけないのか。

 さっきまで走っていたせいで、公園の樹々のなかで脚がすぐに止まってしまう。振り返ると、謎の生物の姿がどこにもいない。

「どこ行ったずら?」

 花丸があちこちへ視線を巡らせている。ルビィは涙を浮かべながら震えている。「翔一くん……」と千歌はポケットからスマートフォンを出そうとする。

 その時、公園の土から水が噴き出す。水道管が破裂したかのように激しい勢いで、すぐに池とも言えるほどの水溜まりが生じる。土と混ざって茶色く濁った水の中から、謎の生物が触手をしならせながら上がってくる。

 サイレンが聞こえてきた。続けてバイクの甲高いエンジン音が。警察の白バイが公園に入ってきて、こちらへと向かってくる。バイクを駆るのは青のジャケットを着た隊員ではなく、青の鎧を身に纏った戦士だ。戦士はスピードを緩めることなくバイクを走らせ、怪物を容赦なく撥ね飛ばす。

 善子には何が起こっているのか全く理解が追いついていなかった。タコが現れて、白バイに乗った青の戦士まで。あれは警察なのか。警察がいつ、あんな怪物と戦うための鎧を造り出したのか。

 善子だけでなく、その場の全員が状況を呑み込めていなかったのだろう。だから逃げることもせず、バイクから降りた青の戦士を凝視していたに違いない。

 「生きていたのか」と青の戦士は怪物を見て言う。一度戦ったことのある相手なのだろうか。青の戦士は動揺の素振りを見せず、バイクのフロントケースから拳銃を取り出して怪物へ発砲する。

 腕が良いらしく、怪物の体に次々と銃創が撃ち込まれていく。少なくとも10発くらいは受けているはず。人間ならば絶命してもおかしくない量だ。にも関わらず、怪物はまるで汚れを落とすように胸を撫でる。ぱら、と弾丸が体から零れ落ちた。

 青の戦士はなお余裕の佇まいを崩さない。バイクから取り出した砲門を拳銃に連結させ、コッキングレバーを引いて砲口を向けて数舜、特大の火を噴いた。今度も見事に命中。それでも怪物は倒れない。気味の悪い呻き声を発しながら足を進めていく。

「何、効かない⁉」

 さすがに青の戦士も焦りを見せ始める。更にもう1発を撃とうと砲口を向けたとき、一気に距離を詰めたタコが触手を鞭のように振った。青の戦士の鎧に火花が散り、手から銃を落としてしまう。格闘で応戦しようと拳を構えたが、タコの触手が青の戦士をいたぶるように打ち付けられる。

 素人目でも分かる。完全にタコの優勢だ。青の戦士は腹を蹴られ、大きく吹き飛んで樹の幹を抉りながら地面を転がる。タコがじりじりと歩み寄っていく。青の戦士は仰向けのまま立ち上がろうとせず、腰のベルトに触れた。

 胸の鎧が左右に開く。続けて肩と腕、太腿と脚のプロテクターが外れていき、最後に残った頭のマスクも後頭部が開く。

 マスクを脱ぎ捨てて現れたのは若い男だった。怯え切った表情で顔を歪め、全身黒のインナースーツ姿でその場から走り出す。途中でつまずきながらも、男は全速力で鎧と、そして善子たちを残して逃げていった。

 タコの白く濁った両眼がこちらへと向けられる。

 絶体絶命、という文字が脳裏に浮かぶ。それを掻き消すように再びバイクのエンジン音が聞こえた。白バイの音とは違う。公園にもう1台、銀色のバイクが入ってきた。運転手はバイクを善子たちの傍で停め、ヘルメットを脱ぎ捨ててシートから降りる。知っている顔だった。あの堕天使と戦っていた青年。名前は確か、と思い出そうとしたところで、千歌が青年を呼ぶ。

「翔一くん!」

 声が届いていないのか、青年はこちらに一瞥もくれず怪物を見据える。腹に光が渦巻きベルトを形作る。

「変身!」

 力強く告げると同時、ベルトから発せられた光が視界を呑み込んだ。一瞬で晴れると同時、青年のいた場所に金色の戦士が立っている。

 「え……」と梨子の口から洩れている。「ずら⁉」「ピギィ!」という花丸とルビィの声も。

 タコが低く唸った。金色の戦士はゆっくりと歩き出す。タコは触手を振るうが、金色の戦士はそれを腕で防ぐ。追撃が来ようとしたところで、その腹に拳を打ち付けた。ごぽ、とタコの歯が無数に並んだ口から黒い隅が吐き出される。口元が黒く染まった顔面に、金色の戦士が鋭い突きを見舞う。

 タコの体が突き飛ばされ、両者に距離が生じる。戦士の角が開いた。堕天使と戦ったときと同じく足元に紋章が浮かび、渦を巻いて足に集束する。

 跳躍した戦士の右足がタコへ突き出される。勇敢に立ち向かおうとしたタコだったが、その胸にキックを受け、後へと土の上に(わだち)を刻みながら転がっていく。倒れたタコの頭上に光輪が浮かぶ。まるで天使のように。神から授けられたリングだというのに、タコは苦しそうに胸をかきむしり、その胸が体内から生じた爆発で裂かれた。

 家一件は飲み込むほどの爆炎が昇ったが、それはすぐに消えてしまう。視えているのに、まるで現世の炎でないようだ。タコがいた場所の土と草は焼け焦げているが、肉片らしきものが全く見えない。

 戦士の角が閉じた。ベルトのバックルに埋め込まれた球が眩い光を放ち、収まると同時に戦士が翔一の姿になる。

 翔一はあっけらかんと、前に会ったときと同じ呑気な笑顔を善子たちに向けた。

「皆、怪我はない?」

 

 





次章 PVを作ろう / 繋がる過去


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第6章 PVを作ろう / 繋がる過去 第1話

ダイ「鞠莉さん!」
草加「真理⁉ いま真理と言ったか? 真理がその学校にいるのか?」
鞠莉「鞠莉ならわたしだけど?」
草加「まりいいいいいいいいいいいい‼」

 ~~~

氷川「未成年に対する強制わいせつの疑いで現行犯逮捕します」
草加「違うんだ。真理は俺の母親になってくれるかもしれない女なんだ!」
北條「詳しくは署で聞きますので」
草加「琢磨⁉ 貴様ああ‼」
氷川「知り合いなんですか北條さん?」
北條「いえ知りません。琢磨? 誰ですかそれは?」

 先日こんな夢を見ました(笑)




 

   1

 

 メンバー全員が揃っているのに、千歌の部屋は一切の音が立たない。もし音があるのだとしたら、1年生の3人と梨子が翔一に向けるじい、という効果音だろうか。まあ、あんな光景を見てしまえば仕方ない。千歌と曜も初めて見たときは驚いたし逃げ出したほどだ。

 部屋の中心に有無を言わさずに座らされた翔一は、向けられた好奇と困惑の混ざった視線にどう対応すればいいか分からないようで苦笑を返している。

「ええと………、俺お茶淹れてこようかな」

 そう言って立ち上がろうとした翔一の肩を千歌は掴み「いいから」と再び座らせる。

「いやほら、せっかくの皆来たんだしゆっくり――」

「いいから座ってよ。皆にも説明しないといけないんだから」

 「そうです」と梨子が言う。

「訊きたいことたくさんあるんですから。そもそも千歌ちゃんと曜ちゃんは何で言ってくれなかったの?」

 「いやその……」と千歌は言葉を詰まらせる。翔一のことを秘密にしていたわけではないのだが、打ち明けるタイミングを計っていたというか何というか。

 千歌と同じように視線を泳がせた曜がおそるおそると、

「訊かれなかったから、かな?」

 「そう!」と千歌は便乗する。

「誰も翔一くん変身するの、って訊かなかったでしょ? だからだよ!」

「普通そんなピンポイントで訊かないでしょ!」

 即座に梨子が指摘する。「はい……」と千歌が縮こまると、曜が「でも」と

「梨子ちゃんには話したことあるし……」

「それは曜ちゃんが、津上さんが千歌ちゃんのおと――」

 「わー!」と曜は咄嗟に梨子の口を手で塞ぐ。「何のこと?」と千歌が訊いても「何でもない、何でもないから」と曜はもがく梨子を抑えながらはぐらかす。翔一に視線を向けても首を傾げられた。翔一が千歌に何かしただろうか。翔一が千歌の部屋に入って掃除したり服を洗濯したとしても、それはいつものことだから気にはしない。

 ようやく梨子と曜が落ち着くと、善子が口を開いた。

「ていうか、本人に訊いても分からないでしょ。その人記憶喪失なんだし」

 「え?」と千歌は驚きの目を善子へ向ける。善子と翔一を会わせるのは今日が初めてのはずなのに。

「善子ちゃん何で知ってるの?」

「何でって、前に会ったことあるから。その時も変身して戦ってたわよ、この人」

 そこで翔一は思い出したように「あー、あの時の」と、

「あれ、でも君ヨハネちゃんじゃなかったっけ?」

 翔一が訊くと、善子は表情を引きつらせて視線を逸らす。そんな彼女にルビィと花丸が冷ややかな視線をくべて、

「善子ちゃん………」

「外でも堕天使やってたずらか?」

 「そ、それは仕方ないというか……、ヨハネが出たというか………」と善子はしどろもどろに述べるも、弁明にはなっていない。

 「とにかく!」と千歌は半ば押し通すように強く告げた。

「翔一くんは記憶喪失だし変身もするけど、でも良い人だから、絶対! さっきだってわたし達を守ってくれたんだし」

 何とか言ってよ、と当人にも視線で訴えるが、翔一は皆に頼りなさげな苦笑を向けるだけだった。

「そういうわけで、皆よろしく」

 

 

   2

 

「鞠莉さん!」

 始業前に朝の紅茶を楽しんでいたところで、理事長室に声を荒げながらダイヤが入ってくる。大体の要件は察しがつくが、敢えて「どうしたのデスカ?」と迎える。

 ダイヤは理事長用のデスクを叩き、鋭く吊り上がった目を向けてくる。

「あのメールは何ですの?」

 やっぱり、最初に気付くのはダイヤだと思っていた。始業前に生徒会の職務をこなすダイヤなら、教員と生徒会のPCに送ったメールに目を通すだろう、と。

「何、って……書いてある通りよ。沼津の高校と統合して、浦の星女学院は廃校になる。分かっていたことでしょう?」

「それは、そうですけど………」

「まだ決定ではないの。まだ待って欲しい、とわたしが強く言ってるからね」

「鞠莉さんが?」

「何のためにわたしが理事長になったと思っているの?」

 理事長という立場にあるとはいえ、所詮は自分が一介の高校生でしかないことは理解している。鞠莉が理事長に就任できたのは小原グループのCEOである父の代理として、傀儡としての理事長だ。でも逆に言えば自分の言葉は父の言葉。父を説得できれば、真っ当な父からの指示として理事会の役員たちも文句は言えない。子供だ、お嬢様だ、と嘲笑われようが構わない。この立場は活用させてもらう。

「この学校はなくさない。わたしにとって、どこよりも大事な場所なの」

 その目的のために、自分を理事長として推薦するよう父に頼んだ。全てはこの浦の星女学院を守るため。自分がいて、ダイヤがいて、果南がいた居場所を。

「方法はあるんですの? 入学者はこの2年、どんどん減っているんですのよ? それに最近は何やら事件が頻繁に起こっているようですし、状況は悪くなる一方ですわ」

 ダイヤの言う通り、浦の星女学院の生徒数減少は深刻化している。だから理事会で統廃合が議論され、それを覆すために鞠莉が戻ってきた。

 かつて成せなかったことを果たすために。

「だからスクールアイドルが必要なの」

「鞠莉さん……」

 それは無理です、とでも言いそうなダイヤの言葉を遮るように、鞠莉は続ける。

「あのときも言ったでしょ。わたしは諦めない、と。今でも決して、終わったとは思っていない」

 鞠莉は手を差し伸べる。あの頃と同じように、また一緒に。ささやかな願いを込めても、それは相手には伝わらない。いや、ダイヤにはきっと伝わっているはず。それを分かった上で彼女は手を取らない、と痛いほど理解できた。

「わたくしは、わたくしのやり方で廃校を阻止しますわ」

 寂しそうな視線をくべて、ダイヤは理事長室を出ていく。追おうとは思わなかった。まだ時間はあるし、スクールアイドル部の誕生は果たされた。先日も新メンバーが参加したと聞いている。

 大丈夫、今度は上手くいく。自分に言い聞かせながら、鞠莉はダイヤの取ってくれなかった自分の手を見つめる。

「本当、ダイヤは好きなのね、果南が」

 

 

   3

 

 放課後になって教室から次々と生徒が出て行くなか、善子は机に突っ伏して盛大な溜め息をついた。

「疲れたあ………、普通って難しい」

 約2ヶ月遅れてようやく始まった高校生活は、何かと気苦労が絶えない。授業のほうはかねてから花丸が家にノートを届けてくれたお陰で何とか着いていけるが、問題は交友関係のほう。同級生とどういった会話をすれば良いのかさっぱり分からない。先ほども談笑の中でちぐはぐな受け答えしかできなかったが、それがかえって同級生たちには面白く感じられたらしい。尚更「普通」という感性が分からなくなった。

「無理に普通にならなくても良いと思うずら――」

 「よっ」と花丸がどこから出したのか黒羽を善子のシニヨンに挿したとき、「ぎらり!」と開眼する。

「深淵の深き闇から、ヨハネ堕天!」

 とポーズを決めてようやく我に返る。無意識にやってしまうこの癖も直さなければ。

「やっぱり善子ちゃんはそうじゃないと」

「これを止めてほしいのよ!」

 はあ、と二度目の溜め息をつきながら、シニヨンから羽を外す。

「てか、ずら丸は気にならないの?」

「何のことずら?」

「翔一のことよ」

 善子がその名前を告げると、花丸は明後日のほうを向き考えるように「うーん」と唸る。

「善子ちゃんも言ってたけど、翔一さんが何も覚えてないなら仕方ないずら」

「確かにそうだけど………」

 いくら考えを巡らせたところで、翔一と化け物の正体が分かるわけでもない。青の戦士を出動させた警察なら何か知っているかもしれないが、訊いたところで極秘事項だろう。何せ世間には、あの謎の生物について公表されていないのだから。あの生物は本当に悪魔か堕天使の類で、翔一は天からの遣いなのでは、と善子にとっては夢の広がる話だが、そういった話はフィクションだからこそ楽しめる。現実になってしまえば恐怖以外の何者でもない。

 全ての真実は翔一の記憶が戻るまで分からない、ということ。

「翔一の記憶が戻ってくれれば、何か分かるかもしれないのに………」

「それは気長に待つしかないずら」

 それはいつになることやら。教室にはもう善子と花丸しかいない。わたし達も部活に行こう、と鞄を手に取ったとき、

「大変! 大変だよ!」

 ホームルームが終わってすぐに教室を出たルビィが戻ってきた。走ってきたのか息が上がっている。どうやら良くないことらしいのは、善子にも察しがついた。

 

「統廃合⁉」

 ルビィが持ってきた知らせを聞いて、部室に集まった全員が思わず声を揃えた。ルビィは続ける。

「そうみたいです。沼津の学校と合併して、浦の星女学院は無くなっちゃうかも、って………」

 「そんな!」と悲痛な声をあげる曜に続いて、梨子も「いつ⁉」と上ずった声で続く。梨子にとっては転校したばかりの居場所なのに、無くなってしまうなんて急すぎる。

 ルビィは気まずそうに答える。

「それは、まだ………。一応、来年の入学希望者の数を見てどうするか決めるらしいんですけど………」

 まだ決定したわけじゃない。でも、入学希望者の数次第では今年度で浦の星女学院は廃校になるということ。

 冷たい沈黙が部室を満たす。とても長く感じたその沈黙を破ったのは、梨子の隣で俯く千歌だった。

「………廃校」

 わたしより1年長く過ごしてきたんだからショックよね、と梨子が思っていると千歌は顔を上げて、

「来た、ついに来た! 統廃合ってつまり廃校ってことだよね? 学校のピンチってことだよね?」

 何故嬉しそうな顔をしているのか。曜が千歌の顔に手をかざしながら尋ねる。

「千歌ちゃん? 何か心なしか嬉しそうに見えるけど」

 ショックのあまりおかしくなったのか。そう思わずにいられないほど意気揚々と千歌は声を張り上げる。

「だって廃校だよ!」

 ええ、廃校ね。

「音ノ木坂と一緒だよ!」

 確かに廃校になりかけた時期がある、って転入前に聞いたことあるわ。

「これで舞台が整ったよ!」

 何の?

「わたし達が学校を救うんだよ!」

 何でそうなるの?

「そして輝くの! あのμ’sのように!」

 ああ、そういうことね。

 梨子は納得できてしまった。千歌から聞いたことがある。音ノ木坂学院で活動していたμ’sは学校の廃校を阻止するために発足し、活動を通じて学校の宣伝をしたことで入学希望者を大幅に増やし廃校阻止を成し遂げた。

 千歌の言いたいこととは、μ’sが在籍していた当時の音ノ木坂と現在の浦の星は状況が似ている。自分たちも廃校阻止というμ’sと同じ物語を紡ぎ伝説を再来させよう、ということ。

「そんな簡単にできると思ってるの?」

 冷めた梨子の言葉は当人に届いていないらしい。千歌の脳内には『Aqours μ’sに続き廃校阻止』なんて文言でスクールアイドル雑誌の一面を飾る自分たちを映しているのだろうか。

「花丸ちゃんはどう思う?」

 ルビィが訊いた。そういえば花丸は何も発言をしていない。彼女の意見も聞きたいところだ。そう思っていると振り返った花丸は目を輝かせて、

「統廃合!」

「こっちも⁉」

 呆れて溜め息しか出てこない。しっかりした後輩だと思っていたのに、何故彼女も千歌と同じ反応なのか。

 花丸はルビィへと迫り、

「合併ということは、沼津の高校になるずらね? あの街に通えるずらよね?」

「ま、まあ………」

 感嘆の声をあげる花丸を呆れ顔で眺めながら善子が呟く。

「相変わらずね。ずら丸、昔っからこんな感じだったし」

 善子によると、幼稚園の頃に園舎のセンサー式ライトを目の当たりにした花丸は当時上手く回らなかった舌でこう言ったらしい。

 

――未来じゅらー!――

 

 まるでずっと城の外を知らなかったお姫様みたいね、と梨子は思った。感動している千歌と花丸は取り敢えず放置し、ルビィは質問を善子へと向ける。

「善子ちゃんはどう思う?」

「そりゃ統合したほうが良いに決まってるわ」

 冷めたように聞こえるが、生徒数が少ないことを考えれば至極真っ当な意見だ。そう思っていたら、

「わたしみたいな流行に敏感な生徒も集まってるだろうし」

 こっちの後輩は何とも高飛車なものだ。流行に敏感というか、個性的な流行というか。すると花丸が「良かったずらねえ」と、

「中学の頃の友達に会えるずら」

 その言葉でようやく統廃合の意味を理解したのか、善子の顔が青ざめる。

「統廃合絶対反対!」

 家が沼津市街にあるのにわざわざ浦の星を受験した理由は何となく察していたが、やはり中学の知り合いから離れるためだったか。

 ようやく夢心地から意識が戻ってきたのか、千歌が告げた。

「とにかく廃校の危機が学校に迫っていると分かった以上、Aqoursは学校を救うため行動します!」

 

 

   4

 

 犯行現場に残されていた凶器、絞殺された被害者の死体、被害者の生前の証明写真、被害者の所有物の目録。もう何度も目を通した資料を、誠は穴が開くほど見つめる。もう犯人が逮捕された事件だが、まだ終わっていない気がしてならない。終わらせてはいけない、というべきか。

 何とも釈然としない事件だ。殺人事件という既に死者が発生したものは解決したところで清々しい気分にはならないが、今回はいつにも増して頭が重い気分になる。逮捕した青年があっさりと犯行を認めたことで捜査は終了。検察に引き渡したが、一言も口を利いていないらしい。所持品が何も無いことから身元の特定も難航している状態。容疑者として一時勾留されていた翔一に続き、彼もまた正体不明(アンノウン)だ。

 誠は写真のなかにある被害者の死に顔を見つめる。死体は不思議と皆どこか似ている、と河野は言っていた。病も老いもないのに、他者から強制的に命を奪われる者というのは、今際に皆同じ絶望の表情を固めるのだろうか。でも、誠がこの三浦智子から感じ取ったものは刑事としての経験則ではなくもっとシンプルな既視感だ。初めて見た気がしない。かといって知り合いと呼べるほどの仲だったわけでもない。

 経歴によると三浦智子は伊豆市出身で、同市の短期大学を卒業してからは清掃用具メーカーに入社、沼津の事業所に配属されていた。特に地元を離れていた期間が見当たらない。誠の静岡県警時代にもすれ違うほどの接点はない。

「おう氷川、面会だとよ」

 資料室に入ってきた河野が言った。「はい」と応えて立ち上がる。ひとまずこの資料は片付けなければ。そう思ったところで河野がデスクに広げた資料を覗き込み、

「三浦智子、この前の被害者か。何か気になることでもあるのか?」

「ええ、どこかで会ったような気がするんですが………」

 河野は資料の中から被害者の証明写真を拾い上げ、誠にずい、と見せつける。

「昔泣かした女じゃないか?」

「え、どういう意味ですか?」

 訊くと河野はつまらなそうに溜め息をつき、あごでドアの方向を指す。

「いいから早く行ってこい。資料は俺が片付けといてやるから」

 

 もう本日何度目かも分からない溜め息が無意識に漏れてしまう。先日訪ねた際と同じ応接室の空気が、梨子の溜め息で満たされてしまうのでは、という錯覚にとらわれた。

「やっぱり、警察署って緊張するよね」

 同行した千歌が梨子の隣でそわそわ、と体を小刻みに動かしている。

「そっちじゃないわ。あんなこと言っておいて何も考えてなかったなんて」

「これから考えるの。だから今日は解散にして、皆それぞれアイディアを――」

「丸投げじゃない」

 Aqoursは浦の星女学院統廃合を阻止するために活動する。今後の方針が固まったのは良いのだが、肝心な具体案を千歌は全く考えていなかった。人気グループとして大衆の目を集め学校を宣伝する。目的自体は簡潔なのだが、要は宣伝のために何をするかということ。ただ曲を作って動画サイトにアップロードするだけで、人気が右肩上がりになるなんて単純な話じゃない。だからこそμ’sは伝説のスクールアイドルになれたのだと思う。

 「でもさ」と千歌はたった今思いついたかのように、

「元々今日はここに来る予定だったんだし、どの道練習は――」

「それとこれとは話が別!」

 撥ねつけるように言うと、千歌は気まずそうに「はい……」と目を逸らした。

 そこで応接室のドアが開く。少し驚いた顔をするも、誠は微笑して会釈する。「こんにちは」と梨子と千歌は青年刑事に礼を返した。

「先日はありがとうございました。お陰様で真犯人を逮捕することができました」

 誠は梨子と千歌にコーヒーとスティックの砂糖を差し出しながら、テーブルの向かいに腰掛ける。「いえ、そんな……」と相槌を打ちながら、梨子はコーヒーに砂糖を入れる。ちらり、と隣を見やると千歌はおそるおそるカップに口を付けて、一口すすると顔をしかめた。そういえば千歌はコーヒーが苦手だった。

「コーヒー、苦手でしたか?」

 気付いたのか、誠が尋ねる。

「すみません。お茶を淹れるので、少し待っていてください」

 立とうとした誠を「いえ、大丈夫です」と千歌は止めて、「それより」と切り出す。

「真犯人てどんな人なんですか? どうして三浦さんを………」

 殺したんですか、という言葉を告げることを恐怖しているように見えた。気持ちは分からなくもない。自分たちが住む街、千歌にとっては生まれ育った街で殺人事件が起こるなんて、考えたくもないだろう。

「それが、まだ何も聞き出せていないんです。今のところ通り魔的な犯行との見方が有力なんですが」

 「じゃあ」と今度は梨子から、

「三浦さんに殺される理由は何も無かった、ってことですか?」

「そう結論付けるのはまだ早いと思いますが………」

 「あの」と千歌が口を挟む。

「三浦さんの家族の連絡先、教えてもらえませんか?」

 「何故そんなことを?」と誠は眉を潜める。千歌は一旦コーヒーに目を落とし、ぽつりぽつり、と言う。

「三浦さんは翔一くんの過去を知ってる、って感じだったんです。だから三浦さんの家族とか友達とかに、翔一くんの過去を知ってる人がいるんじゃないかな、と思って」

「なるほど、津上さんの過去ですか………。桜内さんの力で透視することはできないんですか?」

 どう答えればいいか、梨子は言葉を探る。梨子自身にも分からないものを説明するのは難しい。だから、正直に答えるしかない。

「いつも使えるわけじゃないんです。あんな風にはっきりと視たのも、この前が初めてなので。そんな大したものじゃないんです」

「そんなことありませんよ、凄い才能です。いつから、力を使えるようになったんですか?」

「はっきりとは……。いつの間にか、たまに視えたり聞こえたりするようになって………」

 この力がいつ自分の身に現れたのか、梨子は明確に覚えていない。物心ついた頃から、ピアノに触れると以前の奏者の指使いが脳裏にふわり、と浮かんでくることがあった。楽譜を手に取ると、紡がれた音符を音として感じ取ることができた。この力があったから、梨子はピアノの上達が早かったのかもしれない。

 周囲の大人に相談したことはある。教室の講師に、母に、父に。わたし、弾いてもいないピアノから音が聞こえるの。楽譜から音が聞こえるの。梨子がそう言うと、講師と母はそれが梨子の音楽の才能だと喜んでいた。でも、父だけは違った。梨子は父から言い聞かされていた。

 

 ――梨子、お前の力は絶対に他の人に言っちゃいけないよ――

 

 それを告げるときの父の顔は真剣そのもので、梨子は素直にその言いつけを守り続けていた。父は梨子の力が何なのか知っているのだろうか。

 ふと、梨子は思い出す。翔一の過去が視えた、という曜を。曜は翔一の過去を視た。梨子は針金から三浦の殺害される場面という「過去」を視た。その共通点に気が付かなかったのは、梨子がこれまで感じ取ってきたものの大半が音だったから。像というものとは別の感覚。

 でも、もしかしたら曜は梨子と同じ力を持っているのかもしれない。機会があれば曜と話をしてみたい。できることなら、機会が訪れなければいいのだが。

「あの………」

 千歌がおそるおそると言う。

「良いですか? 三浦さんの連絡先」

 そうだ。署を訪ねた目的はそれだった。誠は罰が悪そうに苦笑し、

「すみませんが個人情報ですので、教えることはできません。なので僕の方から三浦さんのご家族に連絡を取ってみます」

「本当ですか?」

「ええ。身元不明者の捜査も、我々警察の仕事ですから」

 






 前作『feat.555』は「仮面ライダー」であることにこだわっていたのですが、本作では原作遵守に徹した結果「これ仮面ライダーかな?」と感じてしまいます。
 ただ『アギト』は昭和で培われた仮面ライダーの概念を覆そうと試みた頃の作品なので、ある意味仮面ライダーとして疑問な部分が『アギト』らしいのかな、と思います。


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第2話

   1

 

 どんな死に方でも、仏教では死者へ経文が読まれる。寿命で死のうが、事故で死のうが、殺されて死のうが、自ら死のうが例外なく。

 火葬場の簡素な祭壇で、参列者が涼と叔父だけの寂しい葬儀が行われた。あんたはこんな最期で満足か、と涼は祭壇に鎮座する父に問いてみたが、当然ながら死人に口は無い。口は灰になってしまった。

 発見されたのが無人駅とあって、父は死亡してから人の目につくまで数日の間駅のベンチで腐敗しかけていた。まだ死後間もなければ防腐処置をして実家へ遺体を移すこともできたのだが、朽ちた死体は周囲に腐臭を撒き散らす。だから父は息子である涼との対面を待たず荼毘に付された。

 遺骨を納めた骨壺は両手でなければ抱えられないが、納められた人間の生前を思うと、とても小さく思える。世界で最も大きな人間と信じて疑わなかった父も、所詮は世界にいる大多数の人間のひとりだったということか。

 遺骨は業者に輸送してもらうことにした。小さくなってしまった父を、あまり長く抱えたくなかった。

 

「どうするつもりだ? これから」

 山間部の駅で電車を待つ間、叔父が訊いてくる。大学を中退したことは話あるから、今後の生活を心配してくれているんだな、と厚意を感じられる。地元に帰って父の船を継ぐべきかもしれない。でも、まだ船舶と漁業の免許を取る気にはなれない。答えずに黙っていると、叔父は質問を重ねる。

「何を考えてる?」

「……父のことです」

 「ああ」と叔父は溜め息まじりに遠くを見やり、

「全く訳が分からんよ。いなくなってから死体で発見されるまで何の連絡もなかった。前は鷹揚(おうよう)で明るい人だったのに。あかつき号に乗って事故に遭った直後だったな、義兄さんがいなくなったのは。一体何があったのか………」

 「ああ、そうだ」と叔父は背広のポケットから手帳を出してページを開き、「義兄さんの手帳だ」と涼に見せる。

「こんなものが書かれているんだが」

 そのページには何人かの名前と住所が綴られている。

 木野薫

 相良克彦

 三浦智子

 篠原佐恵子

 今時メモなんてスマートフォンで事足りるが、父は電子機器の扱いが苦手で携帯電話なんて持たなかった。家に電話があるんだからそれで充分だろ、というのが父の主張だった。そのせいで連絡が取れなかったのだが。

「お前、見覚えはあるか?」

「いえ、知らない名前ばかりです」

 一瞬、漁師仲間の連絡先だと思った。でも住所にばらつきがある。一体何の名簿なのか。でも、この名前の連なりが涼に今後の道を示している気がする。

「叔父さん。これ、俺が預かってもいいですか?」

 

 

   2

 

 誠からはその日のうちに連絡が来た。三浦の母親に電話で翔一のことを尋ねたのだが知らないという。そこで捜査は終わり、と思ったのだが、真面目なことに誠は三浦と親しかった友人の連絡先を教えてもらい、既に先方のアポイントも取ってくれていた。

『住所も近いですし、直接会ってみてはどうでしょう?』

 電話口で誠はそう言っていた。住所は伊豆市。隣の市だから気軽に行ける。そこに住む篠原佐恵子(しのはらさえこ)という女性が、翔一の過去の手掛かりになるかもしれない人物とのことだった。

 

 夕食後の食卓を囲み、千歌のメモを見た志満が「なるほど」と頷き、

「この人に会えば、翔一君の過去が分かるかもしれないのね」

 そこで「さあさあさあお茶が入りました」と翔一がお盆の湯呑とお茶請けをテーブルに置く。

「これは採れたてキャベツの浅漬けです」

 食べてみると、柔らかいけど歯ごたえのあるキャベツの葉が口の中でぽりぽり、と音を立てる。塩気も控え目で丁度いい。「あれ?」と翔一はメモに気付き、

「誰ですか篠原佐恵子さんて?」

 「この前翔一が会うはずだった三浦さんの友達だって」と美渡が言う。「ああ」と曖昧に頷く翔一を逃すまいと千歌は告げる。

「ああ、じゃなくて会いに行こうよ。わたしも着いてってあげるから」

「でも、ほら俺こう見えて結構忙しいし。明日は庭の草むしりしなきゃならないし、天井裏の掃除もしたいし。最近なんかネズミの足音うるさくない? 夜寝てると、とてとてとて、って――」

 「うちにネズミはいないわ」と志満が言った。旅館なのだから、定期的に業者を呼んで駆除してもらっている。しいたけが夜に吼えると、それがネズミ発生の合図だ。お茶を啜った美渡は意地悪く笑い、

「居候ならいるけどね、1匹」

 「美渡」と志満が窘めた。

「翔一君だって無職なりに家のことしてくれているんだから」

 「無職……」と翔一が所在なさげに反芻する。

「志満姉のほうが酷いこと言ってるよ」

 千歌が指摘すると志満は誤魔化すように咳払いし、

「翔一君。過去を思い出すのが怖いのは分からなくないけど、あなたを想って待っている人がいるかもしれないの。そう考えたことはない?」

「俺を、待っている人?」

 不安げに反芻する翔一は、そんなこと考えたこともなかった、とでも言いたげだった。無理もない。家族や友人のことを思い出せないのだから、果たして自分を待つ人がどんな人なのか、なんて想像しようがない。

 志満は続ける。

「それにあなたが昔の自分を取り戻したとしても、私たちとの縁が切れるわけじゃないわ。人と人との繋がりは大切なものよ。あなたとの繋がりを断ち切られたことで、悲しい想いをしている人がいるかもしれないわ。そのことを、よく考えてみて」

 翔一は何も応えない。まるで自分の裡にある何かを探すように、虚ろな視線を下ろしていた。

 

 

   3

 

 PCの液晶が映す事実に、ダイヤは深く溜め息をつく。対抗策を講じる前にはまず現状を理解しなければ。そう思い生徒会室のPCに保存された入学者数推移のデータを見たのだが、そこには厳しい現実が記録されていた。

 浦の星女学院は毎年度の募集定員を100人と固定している。志願者数が定員割れを起こしたのは7年度前。そこから1年度毎に10人20人と減り続け、とうとう前年度の志願者――つまりは今年度の新入生――は14人という数字。

 廃校の原因なんて考えるまでもない。多くの学校で廃校の理由は大体が共通していることだろう。受験人数の減少。直接的な原因はそれだ。使わなくなった教室は年々増えていて、学校設備は充実していても生徒数がそれに見合っていない。もはや生徒の学費から学校運営の資金を賄うことができなくなっている。統廃合が検討されているということは、既に資金の大半が経営陣からの援助金で捻出されているのだろう。

 再び深い溜め息を吐き出す。体の力が抜けそうになったところでドアをノックする音が聞こえ、即座にダイヤは背筋を伸ばして「はい」と応じる。

「お姉ちゃん?」

 ドアの陰から覗き込むように、ルビィが所在なさげに呼んでくる。

「どうしたんですの?」

「実は今日もちょっと遅くなるかも、って」

「今日も?」

「うん。千歌ちゃんが入学希望者を増やすためにPV作るんだ、って言ってて」

 先輩を「ちゃん」付けで呼んだことに引っ掛かりを覚えたが、それは敢えて指摘しなかった。μ’sもメンバー間の上下関係を過剰に意識しないよう、敬称を廃したらしい。Aqoursもそれに倣ったのだろう。

 それにしても入学希望者を増やすとは。状況が状況とはいえμ’sの活躍を反復しているようだ。一介の高校生たちがアイドル活動を通じて学校を宣伝し廃校を阻止した。前例があるとはいえ、当時とは場所も状況も異なる。同じ過程で同じ結果へ繋がるか、とは言い難いが、

「分かりましたわ」

 ダイヤが言うと、ルビィは表情を明らめる。

「お父様とお母様に言っておきますわ」

 網元の家柄といっても、両親は娘のすることに口を出すほど厳格というわけじゃない。節度さえ持っていれば反対しない。それが黒澤家の方針だ。

「良いの? 本当に?」

「ただし、陽が暮れる前には戻ってきなさい」

「うん、行ってくる!」

 そう言ってルビィが廊下を駆け出そうとしたとき、

「どう? スクールアイドルは」

 ルビィの足音が止まった。幼い頃から彼女はアイドルになりたいと願っていた。だからこそダイヤは妹が心配でならない。求めていた居場所が、輝けると信じていた居場所が、かえって苦しめてしまうのではないか、と。

「大変だけど、楽しいよ」

 その答えに「そう」とダイヤはひとまず安堵する。まだ始めたばかりで、重要なのはこれからだ。でも楽しい、と感じられるのであれば、今はそれでいい。

「他の生徒会の人は?」

「みんな他の部と兼部で忙しいのですわ」

「そう………」

 部活動を兼部する生徒は珍しくない。以前は禁止されていたそうだが、ダイヤが入学する前年度に兼部が許可されるようになったらしい。生徒数の減少によって部の廃部も増加傾向になっていった故の措置だ。

 ルビィはドアの前から動く気配がない。何を言おうとしているのか理解できる。だからルビィが告げようとしたとき、間髪入れずダイヤは遮ることができた。

「お姉ちゃ――」

「早く行きなさい。遅くなりますわよ」

 ルビィには行くべき場所がある。ようやく見つけたのに、いつまでもダイヤの顔色を見てばかりいてはいけない。

 ドアがそ、っと閉じられた。皮肉なものですわね、とダイヤは思った。Aqoursもダイヤも浦の星を存続させたい、という想いは同じなのに、決して道を交えようとしないなんて。

 

 最初見たときは、質の悪い悪戯だと思った。あれが人間の死体だなんて思いもしなかった。

 死体の第1発見者は聴取に対してそう述べていた。発見者は現場のコインパーキングから車を出そうとした際、隣に停まっていた車の運転席からその奇妙な死体を発見し、通報したという。

 既に死体が運び出された運転席に、特に気になるところは見当たらない。バックミラーには安全運転祈願の御守りが掛けられていて、ドリンクホルダーには空の缶コーヒーが置いてある。シートは汗や体液を吸い込まなかったようで、異臭もない。

「氷川さん」

 北條に呼ばれ、誠は車中から背後へと視線を移す。

「被害者の体は完全にミイラ化していたそうです。死亡推定時刻数十年前ということになりますが」

 日本の多湿な気候のなかで珍しいケースだがミイラ化死体が発見されることは前例がないわけでもない。多くが持病の発作で絶命し、そのまま誰にも発見されないまま数十年も放置されたもの。稀に殺人事件で遺棄された死体がミイラ化したというケースはあるものの、そういった死体は身分証明書を持ち去られているから身元の照合ができず、大半が身元不明死体として処理されてしまう。

 そういった点で今回の死体は幸運だった、と解釈するのは不謹慎だろうか。被害者のズボン――死体とは逆に真新しい衣服だ――に収まっていた財布から運転免許証が発見され、死体の身元は判明している。

 こんな屋外の駐車場で数十年も放置されていたとは考えにくい。遺棄した死体を移したとしても、身分証明書を残しているという杜撰な犯行。全ての違和感を拭い去る答えを北條が告げる。

「アンノウンの仕業に間違いないでしょう」

 だとすれば真っ先に浮上する疑問を誠は投げる。

「被害者の親族は?」

「3ヶ月ほど前に結婚したばかりだそうですが、血の繋がった親族はいないようです。取り敢えず護衛の必要はなさそうですが、アンノウンが現れた以上このままで済むはずがない」

 そう、被害者に血縁のある親族のいない方が厄介だ。次に誰が標的になるのか全く見当がつかない。

 何気なしに車中へ戻した誠の視線が、助手席に置かれた本に留まる。まだ買ったばかりのようで、本屋の紙袋が近くにある。手に取ってみると、それは姓名判断の本だった。占いが趣味だったのだろうか。

「既に聞いていると思いますが」

 険のこもった北條の声に、誠は再び振り返る。北條は声色と噛み合わない余裕な表情を浮かべている。

「今朝聴聞会に呼ばれましてね。言われましたよ。あなたより私のほうが、G3システムの装着員として優れているとね」

 「にも関わらず」と今度は明確な嫌悪の視線を向け、

「小沢澄子の判断ミスのせいで、私は捜査一課に戻された」

「あの人がミスをするとは考えられませんが」

 先日の小沢から送られてきた戦闘オペレーションの報告書は誠も目を通している。北條はG3システムの武装を駆使したが、GG-02がアンノウンに有効なダメージを与えられず形成が崩れた。何度かスーツにダメージを負ったが、まだ戦闘可能と小沢はオペレーション続行を指示。だが北條は独断で緊急解除システムを作動させ武装解除。現場には少女数名がいたそうだが、北條は逃走してしまったという。

 回収班が現場に赴いた頃にはアンノウンも少女たちの姿もなく、周辺住民からは現場で爆発があったという証言があった。恐らく、アンノウンはまたアギトが撃破したのだろう。

 今朝の聴聞会のことも、小沢から電話で聞いている。市民に避難を促すこともせず戦線離脱したことから、もう一度G3システムの装着員を選考し直すと上層部は判断した。選考している期間に北條は捜査一課に戻るよう言い渡されたのだが、北條はあかつき号を引き合いに抵抗を試みる。だがそのスキャンダル公表は意味がない。上層部は市民に対して謝罪するだけで済むが、公表した当人は警察内部において今後のキャリアを完全に潰されることだろう。

「とにかく、私はもう一度自分の優秀性を証明し、装着員に復帰するつもりでいます」

 ここで虚勢を指摘したとしても、売り言葉に買い言葉の口論になるだけだ。今重要なのは目先の事件。誰を狙うか分からないアンノウンをどう阻止するかを考えるべきだろう。

「分かりますか? あなたに出番はない」

 はっきりと告げる北條に、誠は力強く視線を返したまま沈黙を貫く。G3の装着員としてどちらが相応しいかなんて、そんなものはどうでもいい。互いに牽制し合ってユニットの活動を妨げたら本末転倒だ。

 あなたが相応しいなら喜んで祝福する。

 僕はあかつき号事件の英雄だとか、G3装着員なんていう勲章が欲しくて刑事をやっているんじゃない。

 

 

   4

 

 戦国時代に長浜城という城があった史跡公園は、岬という立地条件から内浦の全貌が見渡せる。ここから見る海と山は中々に絶景で、特に内浦湾を行き交うボートが特に曜のお気に入りだった。

「内浦の良いところ?」

 曜の向けるハンディカムのレンズ越しに、本日の活動内容を聞いた梨子が言う。説明した千歌は「そう!」と応じ、

「東京と違って、外の人はこの街のこと知らないでしょ? だからまずこの街の良いところ伝えなきゃ、って」

 Aqoursの活動においてライブや曲のプロモーションも大事だが、廃校阻止という目標を掲げるのなら自分たちの活動拠点を知ってもらおう。わたし達の住む街はとても良い街です、と宣伝し、浦の星女学院の入学志願者を募るのが、千歌の提案した策だった。

 これもまたμ’sの例に倣ったのかというと、少し違う。μ’sがしたことといえば、ライブをしてラブライブの大会にエントリーし、プロモーションビデオを公開して知名度を上げた。それだけの、スクールアイドルならどのグループもしていることだった。

 というのも、音ノ木坂学院は東京、日本の首都にある学校で、人口は多い。対して浦の星女学院は静岡県の過疎化が進む集落の学校で、内浦なんて場所を聞いても大半の人間はどこにある街なのか知らない。

「それでPVを?」

 善子が腕を組みながら呆れたように言った。「うん!」と千歌はその隣に移動し、

「これをネットで公開して、みんなに知ってもらう」

 ネットという単語に反応した花丸が「知識の海ずら」と感慨深げに言った。隣にいるルビィと一緒にハンディカムの視界に収めたところで千歌は後輩ふたりの間に入り、

「というわけで、ひとつよろしく!」

 そこで花丸とルビィは、自分たちに向けられたレンズに気付く。曜は花丸の顔へと画面をズームさせた。

「いや、マルには無理ずら――、いや無理」

 次にルビィへと移す。羞恥に頬を赤くしたルビィが「ピギィ!」と素早く画面から離脱して、曜は一旦ハンディカムから視線を外す。

「あれ?」

 辺りを見渡すが、見晴らしの良い公園のどこにもルビィの姿が見えない。なんて素早い。というよりどこへ行ったのか。

 すると善子が、

「見える。あそこよ!」

 と公園のなかで一際高くそびえ立つ樹を指さした。まさか木登りなんてしたのか。茂る枝のなかにいないかと思ったとき、

「違います!」

 少し離れたところにある案内板の陰からルビィが出てきた。すかさず曜がハンディカムを向けると、また画面から逃げ出した。

「おお、何だかレベルアップしてる!」

 呑気にそう述べる千歌に、梨子が口を尖らせた。

「そんなこと言ってる場合⁉」

 

 何度かメンバー紹介のプロモーションは撮っているものの、未だに花丸とルビィと梨子はカメラの前だと緊張してしまうらしい。台本なんて用意していないからほぼアドリブで紹介してもらうわけで、そういった面に最も耐性を持っていそうなメンバー、つまり千歌がメインを務めることになった。

 街紹介なんて初めてだし勝手は分からないが、内浦は景色の材料にはそれほど困らない。思いついた順にカットを切っていく。

 シーン1は富士山を背景にした。ハンディカムの前で花丸がカチンコを鳴らして画面から離脱する。因みにカチンコは曜のこだわりで用意した。まずは形から入りたい。

「どうですか? この雄大な富士山!」

 次にシーン2は内浦湾。カチンコ係は梨子。

「それと、この綺麗な海!」

 シーン3は観光案内所に場所を移した。カチンコ係のルビィは編集でカットすると分かっていても恥ずかしいのか、こちらに顔を向けてくれない。背景は観光案内所だが、メインは施設ではなく千歌の抱える段ボールに詰まった内浦の名産品だ。

「更に、ミカンがどっさり!」

 シーン4は十千万から臨む内浦の街並。カチンコ係は善子。

「そして街には……、えっと街には………、特に何もないです!」

 「それ言っちゃ駄目」と曜は苦笑交じりに言う。誤魔化しにかかった千歌のサムズアップが何とも虚しい。このシーンは完全にカットだ。

「みんなー、お茶が入ったよ」

 十千万の玄関から翔一がお盆を手に出てくると、それほど張り詰めていなかった場の雰囲気が更に緩くなる。「今日は何ずらか?」と花丸が訊くと翔一は自信ありげに、

「採れたてキャベツの浅漬けと、新ジャガの煮っころがしも作ったんだよね。ささ、みんな食べてよ」

 お盆を軒先の長椅子に置くと、花丸とルビィが先に箸を手にして料理をつまみ始める。

「お茶請けが何だか年寄りくさいわね」

 お茶を啜りながら善子が目を細める。曜は何度も振る舞われているから気にならなかったが、確かに女子高生に出すものとは違うように思う。

「翔一さんてお菓子とか作れないんですか?」

 曜が訊くと、翔一は腕を組んで「うーん」と考え込み、

「キャベツを使ったお菓子って何かあるかな?」

 「何でキャベツで作ろうとするのよ?」と善子が指摘する。翔一の創作料理は当たりもあれば外れもあるから、結構危うい。

「もう、のんびりしてる暇ないのに」

 曜の背後から梨子が呆れを漏らすが、花丸は「でも美味しいずら」とご機嫌に芋の煮っころがしを食べる。隣のルビィも頬を綻ばせながら芋を咀嚼している。因みに梨子が曜に隠れているのは、玄関先の犬小屋にしいたけがいるから。

 「翔一」と玄関から美渡が顔を出してくる。

「あんた、そろそろ行かなくていいの?」

 「あ、そうだった!」とお茶を飲んでいた千歌が声をあげる。千歌は「ごめん!」と両手を合わせ、

「今日用事があって、これから行かなきゃいけないんだ。だから今日はここまでにして、続きは明日にしよう」

 PV制作は別に急ぎでもないから問題はないが、どうにも用事に翔一が絡んでいそうなのが気に掛かる。曜は尋ねた。

「良いけど、用事って翔一さんの?」

 「うん」と千歌は首肯し、

「翔一くんの過去知ってるかもしれない人に会いに行くの」

 「連絡取れたの?」と梨子が訊くと「そう!」と千歌は応えた。

「良かったですね、翔一さん」

 ルビィは嬉しそうに言うも、当人は何とも言えなさそうな、言葉を探しあぐねて苦笑している。

「何よその顔、嬉しくないわけ?」

 善子が訊いた。「えーと……」と翔一が口ごもると花丸が、

「恥ずかしい記憶を思い出すのが怖いずらね」

 と善子へと悪戯な視線を向ける。「何よその目は!」と善子が噛みついたところで、その場を動こうとしない翔一に千歌が痺れを切らした。

「もう、早く行こうよ。ヘルメット取ってくる」

 十千万のなかへ入っていく千歌に翔一は「いやほら」と

「これから夕飯の準備しないといけないし――」

 「それは私と志満姉でやっとくから!」と美渡が無理矢理翔一のエプロンを剥ぎ取って、バイクへと背中を押していく。ようやくバイクのシートに跨ったところでヘルメットを手に戻ってきた千歌が翔一の頭に被せ、リアシートに腰掛ける。

「ほらエンジンかける!」

 美渡に促され、翔一は渋々といった様子でセルスイッチを押した。バイクのエンジンがうねりを上げる。しばしのアイドリングを経て翔一はギアペダルを踏み込み、バイクを発進させた。

「ちゃんと会ってきなよー!」

 走り去っていくバイクに、美渡は大声で告げた。海沿いの道を走っていくバイクを見送りながら、曜は不安と期待が入り交ざった、奇妙な感覚を覚える。

 翔一の過去。前に視たあの像が脳裏によぎった。翔一が千歌の父を殺していないとは信じられるが、何らかの形で関与しているのかもしれない。それは知らなければならない過去だけど、知ってしまうことが怖い。

 でも、翔一はもっと怖いのかもしれない、と思った。

 

 



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第3話

 

   1

 

「涼、学校から電話が来たぞ。同級生の子を殴ったんだってな」

 父からそう尋ねられたのは、涼の中学卒業が近付いた頃のある食卓だった。料理があまり得意でない父を気遣い、漁師仲間や隣人から貰った料理を食べる、いつもの食事風景だった。

「危うく高校の合格が取り消されるところだったんだぞ」

「どうでもいい、そんなの」

 こんな会話はすっかり慣れたものだった。幼い頃から涼は怒りを抑えつけるのが苦手で、衝動的に他者に向かって暴力を振るうことがよくあった。でも、それは理由のない暴力じゃない。涼にとっては正義の拳だった。

 いつだって涼は他人のため、特に父のために拳を振るってきた。この日のことだってそうだ。同級生が「君の父親はなけなしの金を積んで合格させたんだよ。自分に学が無いからコンプレックスを子供に押し付けたんだ」と口走ったから殴った。その同級生は偏差値の高い名門校を受験したが不合格で、滑り止めで受験した涼と同じ高校に入学する予定だった。

 許せなかった。たったひとりで涼を育ててくれた父を侮辱されたことが。傍から見れば父子家庭とは恵まれないのかもしれない。再婚して息子に母の温もりを与えない父は良い父親ではないのかもしれない。でも涼は母がいなくても父がいてくれればそれで十分だ。本人を前にして、決してそんなことは言わなかったが。

「世の中、海のように優しくて単純じゃない。陸での歩き方を知らないと苦労するぞ」

「俺は漁師になるんだ。別に知らなくたっていい」

「まあ、お前が良いならそれで良いがな」

 お前が良いなら良い。それは父の口癖のようなものだった。涼が投げやりに何かを口走っても、父は否定しなかった。そう、父はいつだって涼の意思を尊重してくれた。放任とも取れるが、子供に自分の理想を押し付けてあれこれと要求することが良い親というわけではない。父は涼をひとりの人間として認め、見守ってくれている。そんな父からの視線を涼は常に感じながら成長してきた。

 だから、その日に父から言われたことは涼にとって忘れることができない。

「涼、高校に入ったら水泳部に入れ」

 父が何を言っているのか分からなかった。今まで涼に何も要求してこなかった父が、初めて要求してきた。

「お前は海での泳ぎ方しか知らない。プールの泳ぎ方を知って、そこから陸の歩き方を知れ」

「何でだよ? さっきお前が良いならそれで良い、って言っただろ」

 苛立ちながら涼が尋ねると、父は溜め息交じりに苦笑した。

「もう、そんな単純な世の中じゃない、ってことだ」

 そう言うと父は食卓から立ち、仏壇の前に座って手を合わせた。仏壇では若くして亡くなった母が遺影の中で微笑んでいた。

「お前をしっかり育てないと、母さんに顔向けできないからなあ」

 父は涼を見守ってくれていた。それは確信をもって言える。だからこそ涼は疑問を覚えずにはいられない。何故父が、涼を置いて死んでいったのか。

 何故あかつき号事件が、父を死へと至らしめたのか。

 

 

   2

 

 そこは伊豆市の、どこにでもある風景の住宅街だった。スマートフォンのマップアプリの案内に従い、涼は家々の立ち並ぶ路地を1歩ずつ確かめながら進んでいく。

 目的地の近くまで辿り着いたのか、アプリの案内が終わる。周囲にある玄関先の表札を見比べ、その中から「篠原」と彫られた表札を見つけ出す。インターホンへ指を伸ばしたとき、玄関のドアが開いた。若い女性が大振りのバッグを手に出てくる。女性は涼に気付くなりいかにも迷惑そうな視線をくべ、

「あら、うちに何か用かしら?」

「篠原佐恵子さんですか?」

「何かの勧誘とかなら興味ないわよ」

 露骨に迷惑と告げられているのが分かるが、生憎拒絶されることには慣れてしまっている。

「いえ、自分は葦原涼という者ですが、実は――」

 言い切る前に女性はつかつかと路地を歩き始め、

「あなたがどこの誰でどんな話があるのかは興味ないの。ごめんね急いでるから」

 確かに急いでいるようで、女性は足早に歩いていった。

 

 内浦からバイクを走らせて30分程度で到着した住宅街は、あまり地元との差異を感じない空気が流れている。翔一が道中に買い物に行きたいとか言い出したが、何とか強引に誘導して辿り着くことができた。

 バイクを適当な路肩に停めて歩き始めると、翔一は辺りをきょろきょろと見渡している。千歌も住宅街に視線を巡らせてみると、不思議だな、という感慨が沸いた。三浦のときもそうだったのだが、ずっと謎だった翔一の過去が案外近くにあるかもしれないなんて。

「あ、ここだ」

 千歌が指さした家の表札に「篠原」という文字が彫られている。でも翔一は苦い顔をして、

「違う篠原さんじゃないかな? ほら、他の家とかも見て――」

「もう、早く行くよ。せっかく氷川さん教えてくれたんだから」

 強引に翔一の手を引いて玄関先に立ち、インターホンを押す。住人はすぐに出てきた。口まわりの髭が整えられた、眼鏡を掛けた男性だった。篠原佐恵子、ではないようだ。

「はじめまして、高海千歌です」

 千歌が挨拶をすると隣の翔一もそれに倣い、

「津上翔一です」

 すると男性は「ああ」と穏やかに笑みを浮かべた。

「篠原佐恵子の兄の数樹(かずき)です」

 「どうぞ」と促され、千歌と翔一は家に上がった。

「妹はちょっと出掛けてるんですが、夕方までには帰るでしょう。大体の事情は刑事さんから聞きましたが、いや驚きましたよ。記憶喪失の人に会うのは初めてです」

 「いやあ、普通ですけど」と翔一は照れ臭そうに笑う。照れるところなのかな、と思いながらも千歌は尋ねる。

「それで、妹さん何か言ってませんでしたか? 翔一くんのこと」

 「それが……」と数樹は言葉を詰まらせ、思い出したように手で千歌たちを客間のソファへと促す。腰を落ち着かせると数樹は言った。

「実は佐恵子にはまだ何も言ってないんです。少し気難しいところがありましてね。むしろ突然会ったほうが良いように思って」

 どうやら訳ありらしい、と漠然とだが察した。でも、訳ありのほうが翔一との関係に現実味を帯びてくる。

「あれ、何ですかそれ?」

 翔一が棚を指さした。棚には茶色の食器らしきものが並んでいる。単なる食器棚ではなさそうだ。どれもひびが入ったり割れていたりで、実用性はまったくない。「土器の類ですよ」と数樹は言った。

「妹が近くの湖から引き揚げたものです」

 近くに寄ってまじまじと土器を眺める翔一は「凄いですねえ」と感慨深げに漏らす。自分が生まれるずっと昔の時代に使われていた品物。男性はそういったものにロマンを感じるらしいが、千歌には良さがあまり分からない。何せ昔なんて想像ができないから。千歌は尋ねる。

「佐恵子さんて考古学者なんですか?」

 「いや」と数樹はかぶりを振り、

「私が考古学に携わってる影響でね。素人学者ってやつですよ」

 「ちょっと触っても良いですか?」と翔一が少年のように期待を込めた声色で尋ねる。貴重な品々だと思うのだが、数樹は嫌な顔せず「どうぞ」と応じてくれる。

「お茶を淹れてきます。こんなもので良かったらいくらでも見てください」

 そう言って数樹は客間の隣にあるキッチンへと向かう。わくわく、という様子で翔一は下半分が割れた壺を手に取った。あらゆる角度から、翔一は古代に使われた壺を見つめる。

 唐突に、翔一の眼差しが変わった。「どうしたの?」と千歌が尋ねると「え、ああ……、うん、ちょっと………」とはぐらかされた。

 

 

   3

 

 涼がバイクを走らせた時間帯はまだ太陽が出ていたのだが、そこに着く頃には雲に隠れて地上全体に影が落ちている。湖の湖面は空と同じ灰色を映していて、底の見えない澱みは何かが潜んでいそうな恐怖を覚える。湖ならば潜んでいるのはネッシーだろうか。

 佐恵子は車を湖畔に停めると、ウェットスーツに着替えて足にフィンを装着し、更に酸素ボンベを背負ってダイビングを始めた。長時間水中に潜ることができる、ライセンスが必要なダイビングだった。

 一旦潜るとしばらくは上がってこない。もしかして溺れて湖底へ沈んでしまったのでは、と思ったところで上がってきて、その手には何かの破片のようなものを握っている。それを車のそばに置くと、再び潜っていく。

 彼女の様子を、涼は離れたところから1歩も動くことなく眺めていた。隠れているわけではないから、佐恵子の側からも目を凝らせば涼を見つけることができる。でも、佐恵子は涼の存在にまったく気付くことなく、湖畔と湖の往復を繰り返した。まるで湖から拾ってきた破片以外など眼中にないように。

 そう、佐恵子は湖以外何も見聞きできないように思えた。湖までの道中も、涼はずっと佐恵子の車を追ってバイクを走らせた。かなり杜撰な尾行にも関わらず、佐恵子は振り切る素振りも見せず真っ直ぐに湖へと向かっていた。バイクの運転手が先ほど自分を訪ねてきた男と気付いていないのか、それとも後続する涼のXR250など見えていなかったのか。

 太陽が西に傾いた頃になって、佐恵子はダイビングを終わらせた。服を着替えて荷物を車のトランクに収めるまでの作業は手際よく、彼女が何度もこの湖に通い詰めているのが分かる。車のエンジン音が甲高く響いたが、車体は全身せず留まっている。ギアの入れ忘れかと思ったのだが、見れば車の後輪が空振りしている。浜の地面が柔らかくタイヤが沈んでしまったらしい。涼は駆け出した。佐恵子は何度もエンジンを吹かして無理矢理にでも前進を試みるが、タイヤの回転はただ砂を巻き上げるだけだ。

 車のもとへ近付くと、涼は車体を後ろから押す。バックミラーに映ったのか、それとも後方からの力を感じ取ったのか、佐恵子は窓から顔を出してこちらを一瞥する。何か言ってくるものかと思ったが、佐恵子は無言のまま顔を引っ込めエンジンを吹かす。涼はそれに合わせて車体を思い切り押した。タイヤが自ら作った(わだち)から抜け出し、ようやく車体が前進する。佐恵子は車を停め、再び窓から顔を出した。

「名前、何て言ったっけ?」

「葦原涼といいます」

「話がある、って言ったわね。良いわ。借りは返さないとね」

 

 もうすぐ陽が暮れようとしているのに、その女性は庭のベンチに腰掛けたまま宙を見つめている。力なくベンチに垂れた手元には毛色の玉があって、編み物をしていたようだが作業は全く捗っていないらしい。少なくとも誠が監視を始めてから、彼女がかぎ針を持つところを見ていない。ずっと空虚を見つめていて、今から夕飯の準備をする気配もない。

 彼女の護衛に就いているのは誠ひとりだけだ。そもそも護衛の通達なんてされていないし、彼女自身にも護衛が就くことを伝えていない。彼女は不可能犯罪の被害者遺族でありながら、護衛対象からは外されている。アンノウンは血縁者を狙うから、いくら身内とはいえ血縁上は他人である配偶者は狙わない。捜査本部はそう判断したが、誠には引っ掛かるものがあった。刑事の勘、と言ったら北條は笑うだろうか。それでも気掛かりならば様子を見るに越したことはない。もし誠の勘が的中していれば、いや、できれば外れてほしいところだ。

 だが幸か不幸か、誠の勘は的中してしまう。暗くなりつつある視界の隅で、間もなく訪れる闇に潜もうと異形の存在は動き出す。

「危ない!」

 誠は咄嗟に叫んだ。それに反応した女性は誠の方を向いて、続けてアンノウンの足音を聞き取りそちらへと顔を向ける。馬のような顔をした黒い体躯のアンノウンはゆっくりと歩を進めた。誠は家の柵を飛び越え、恐怖のあまり動けずにいる女性の肩を抱く。

「警察です、逃げてください! 早く!」

 

 

   4

 

 家に着く頃になると、陽がすっかり暮れてしまった。佐恵子が玄関のドアを開けると、中から穏やかな男の声が聞こえてくる。

「遅かったな、お客さんだぞ」

 夫だろうか。そんなことを考えていると、「こっちもね」と応じた佐恵子は振り向いて入って、と視線で促してくる。玄関へと脚を踏み入れ、涼は中で佐恵子の帰りを迎える男性に「お邪魔します」と礼をする。男性は戸惑い気味ながら、笑みを浮かべて礼を返してくれた。

「さっき湖で車が砂にはまっちゃってね。彼が助けてくれたの。葦原涼さんよ」

 佐恵子がそう説明してくれると、男性は親しみを込めて「そうですか」と笑った。

「いやあ妹がお世話になりました。兄の数樹です。どうぞ上がってください」

 夫じゃなくて兄だったのか。ほんのささやかな驚きを裡に留め、涼は家に上がる。客間に通されると先客がいた。学校の制服を着た、高校生くらいの少女だった。客間には彼女しかいないのだが、テーブルには3人分のお茶と茶菓子のパウンドケーキが置かれている。

「彼は?」

 数樹が尋ねると、少女は罰が悪そうに「すみません」と、

「翔一くん急用で………」

 

 女性を連れてアンノウンから逃走するのは困難を極めた。女性は妊娠していて、胎児を抱えた腹は大きく膨らんでいる。あまり走らせては胎児に影響が出かねないから、遠くへ逃げるよりもアンノウンから身を隠せる場所を近間で見つけなければならない。

「こっちへ」

 工業地帯へ入ったのだろうか、コンクリート製の大きな建物が軒を連ねている。その一角へ女性を促し、「逃げなさい」と走らせる。建物の陰に身を隠したのだが、アンノウンは匂いでも嗅ぎ取ったのか工場の敷地へと入ってくる。

 懐から拳銃を出し、誠はトリガーを引いた。当然、弾丸は目標の寸前で静止し砕け散る。それでも誠はトリガーを引き続ける。効かなくても、アンノウンの注意をこちらへ引けば女性が逃げ切るまでの時間稼ぎになるはずだ。狙い通り、アンノウンの目がこちらへと向けられる。誠は女性とは逆方向へと走り出し、自らを餌としてアンノウンを誘い込む。

 建物の裏手へと回ったところで、ぶるぶる、という不気味な吐息が聞こえた。まさか、と思い振り返ると、まるで物理法則なんて無視できるかのようにアンノウンが足音も立てずそこにいる。トリガーを引くとかち、という音が虚しく響いた。弾切れだ。もっとも、弾がこもっていたところで有効打にはならないが。

 誠は銃身を振り下ろし、アンノウンの馬面へ叩きつけようとした。だがアンノウンは容易く誠の手首を捻り、脇腹を強かに蹴り上げる。地面に身を投げ出しながら、誠は手加減されていると分かった。G3システムを装着しても敵わないのだから、生身なんて1発の攻撃で即死してもおかしくない。

 アンノウンが誠との距離を詰めようと足を踏み出したとき、その肩が穿たれる。誠はアンノウンとほぼ同時に、弾丸が飛んできた方を向いた。牽制とはいえアンノウンに命中させるだけの威力を持ったGM-01。それを扱うことのできるG3が、暗闇のなかオレンジ色のセンサーアイを煌かせている。

 確かG3ユニットは装着員選考のために活動停止状態にあるはずだ。装着員が早く決まったのか。

 G3はゆっくりと足を進めながらGM-01を発砲する。発射された弾丸は全てアンノウンに吸い込まれるように命中していく。あの精密な射撃は北條か。

 G3が肉迫して近接戦へ持ち込もうとしたところで、弾丸に怯んでいたはずのアンノウンが待っていたかのようにGM-01を払い落とした。焦る素振りを見せずG3は蹴りを脇腹へ入れるが、アンノウンは腕で防御し反撃の拳を浴びせる。馬面のアンノウンは筋力自慢らしく、G3の体が容易く突き倒された。立ち上がろうとするG3を、アンノウンは容赦せず蹴り伏せる。それでもG3は敵の腹に蹴りを入れて離し、素早く立ち上がって拳を打ち付ける。だがまったく効いていない。反対にアンノウンの拳はG3の胸部装甲に火花を散らしていく。1発1発が強烈で、火花が飛ぶ度にG3の装甲がひしゃげていくのが見えた。

 アンノウンの拳がG3の腹を打ち抜いた。金属の鎧を纏った体が宙を舞い、工場の廃棄物が積まれた鉄屑の山に身を伏す。

「北條さん!」

 誠が叫ぶも、G3はまるで鉄屑の仲間入りを果たしたかのように沈黙している。誠がまだ痛みで軋む脇腹を抑えながら立ち上がると、アンノウンがこちらへ向いた。

 だが、その視線はすぐに横へと移る。同じ方向を見やると、その先には金色の鎧を纏った戦士が立っている。その姿を捉えたアンノウンが、呻きとは異なる声を発した。

「アギト………」

 アギトは駆け出し、アンノウンの顔面に拳を見舞う。アンノウンは反撃の拳を突き出すが、手で払われてまた顔面に1発食らう。アギトなら、この窮地を救ってくれるかもしれない。アンノウンは鉄屑の山へ跳躍した。逃すまいとアギトも足場の悪い鉄へと跳ぶ。着地と同時に、アギトの右足が沈んだ。足を取られたか。そう誠が思ったとき、アギトの体が投げ飛ばされ、同時に鉄屑から別個体のアンノウンが姿を現す。

 もう1体いたのか。

 新しく現れた個体も馬のような姿だが、こちらの体には縞模様がある。まるでシマウマのようだ。流石のアギトも2体の敵を相手取るのは分が悪いらしい。黒馬がアギトを背後から羽交い絞めにして、シマウマががら空きの腹に拳を打ち付ける。効いたのかアギトは呻くも、黒馬の腹に肘打ちを浴びせて拘束から逃れた。それでも形成逆転とはいかず、シマウマに背中を殴られてバランスを崩し、鉄屑から転がり落ちる。すかさずシマウマはアギトの傍へと降り立ち、立ち上がろうとしたその腹を踏み付ける。

 誠の視界に、先ほどG3が取りこぼしたGM-01が入った。咄嗟に銃身を掴み、照準をシマウマに合わせる。トリガーを引いた瞬間、誠の体が大きく仰け反った。遅れて腕全体に傷みが走る。G3システムの装着を前提として設計された装備なだけに、反動はかなりのものだ。照準も大きくずれて鉄屑の一部を吹き飛ばしている。

 痛みを堪え、誠は再びGM-01を構えてトリガーを引いた。痛みが来る前に、反動で照準がずれないよう腕にしっかりと力を込めて2発目と3発目のトリガーを引く。今度は全弾命中した。アンノウンの注意がこちらへ逸れる。更に4発目と5発目。そして6発目でとうとう腕に限界が来た。力が緩んだせいで反動が体を走り、受け身も取れず地面に倒れる。

 右腕に力が入らない。痙攣で小刻みに震え、その感覚すらも曖昧になっていく。負傷がどれ程のものか判断がつかない。思考が痛覚という危険信号に覆われていき、やがて遠のいていく。

 状況はどうなった。

 アギトはアンノウンを撃破できたのか。

 なけなしに浮かべた問いも、すぐに意識と共に暗闇のなかへと沈んでいった。

 

 



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第4話

 遅くなって申し訳ございません(土下座)




 

   1

 

 青年もどうやら、佐恵子に聞きたいことがあって訪ねてきたらしい。千歌は席を外したほうが良いと思ったのだが、青年は特に気に留める様子もなく千歌の同席を許してくれた。

「じゃあ、亡くなった君のお父さんがこの手帳を持っていたと?」

 テーブルに置かれた青年の手帳を見て数樹が尋ねる。「ええ」と青年は短く応じた。先の説明の簡潔さからも、青年はあまり口数が多い方ではないらしい。青年が語った身の上はこうだ。

 自分は父親の急死の真相を調べている。遺品の手帳に佐恵子の名前があったから何か知っていると思い訪ねた。

 あまり多くを語らない人物というのは、どこか無意識の緊張感を放っているように見える。普段は喋り好きな千歌でさえ、青年の傍にいて口を結んでしまう。

 千歌は開かれた手帳を眺める。使い込まれて黄ばみのあるページには何人かの名前と住所が綴られていて、その中には確かに佐恵子の名前とこの家の住所がある。

「佐恵子さん、何故そこにあなたの名前があるんです? そのリストは何を意味するんですか?」

 青年が尋ねると、視線を俯かせたまま佐恵子は「知らない」とか細く答える。

「知らないわ、私は何も………」

 佐恵子は涼と視線を交わそうとしない。自分の瞳から何も悟られないように決して。佐恵子が知らなかったとしても、青年の父親は彼女のことを知っていたはずだ。しっかりと手帳に名前と住所が記録されているのだから。

 青年が身を乗り出して「でも――」と言うと同時、佐恵子はソファから立ってそそくさと客間から出て行く。数樹は妹を咎めるようなことは言わず、ただその背中を見送った後に青年と千歌に苦笑を向ける。

「済みません、気難しい性格なもので」

 「いえ、こちらこそ……」と青年も罰が悪そうに頭を下げる。父親の死に関わっているのかもしれないなら、必死になるのも仕方ない。そう思うのは、千歌も父親が不可解な死を遂げた故の親近感だろうか。この青年の気持ちが分かる、なんて思い上がるつもりはないが。

「また来てください。今度はちゃんと話をするよう、妹に言い聞かせておきます」

 数樹の柔和な物腰に、千歌は「はい」としか言えなかった。あの様子だと今日は何も話してはくれないだろう。

「あんた、帰りは大丈夫か?」

 家から出ると、青年はぶっきらぼうに訊いてきた。すっかり陽も暮れて、最終バスも過ぎてしまった頃だ。

「大丈夫です。翔一くん来てくれるので」

 もっとも、無事ならばの話だが。でも翔一のことだ。あっけらかんと普段通りの顔で戻ってきてくれる。

 青年がバイクで去ってしばらく、翔一が入れ違いに戻ってきた。

「良かったあ、無事だったんだ」

「うん、ごめん」

 いつも通り優しくどこか抜けたところのある顔をすると、翔一は篠原家を見やり、

「それで、佐恵子さんは?」

「会えたんだけど、何か変なことになっちゃって………」

「変なこと?」

「上手く言えないんだけど、でもまた来て良い、って。だからまた来てみようよ。今度こそ翔一くんの過去分かるかもしれないし」

 千歌は明るく言う。翔一は過去の話になると決まって浮かべる不安げな表情を見せなかった。でも笑顔というわけでもなく、ただ何の感情も感じさせない顔で篠原家を眺めていた。

 

 

   2

 

 アンノウン出現から一夜明けた日の聴聞会は、現場にいた誠にも出席が命じられた。同席するのはG3装着員である北條。いや、厳密には元装着員というべきか。まず出だしから誠は驚かされることになる。

『北條君、我々の言いたいことが何か、分かっているかね?』

 PCの液晶のなかで、警備部長は冷たい声音で続ける。

『君は我々の通達を無視して、勝手にG3システムを起動させた。どういうことかね?』

 その言葉で、誠は昨晩の戦闘オペレーションの真実を悟る。G3装着員はまだ選考中で、ユニットの活動停止もまだ解けていなかった。つまり、G3は完全に北條の独断で出動していたということ。G3に対する想い入れの強い北條と、強引な小沢だからこそ生じた事態だ。

 お偉方に対して、北條は強気な姿勢を崩さず答える。

「あの場合、命令よりも人命の救助を優先させるのが警察官としての正しい選択だったはずです。それよりも、G3システムの武器を勝手に使用した氷川主任の方にこそ問題があると思いますが」

 まさかの責任転嫁に、思わず誠は北條を横目で睨んでしまう。あなたは前回のオペレーションでは現場の市民を避難誘導せず逃走しただろう。反論する前に補佐官が尋ねてくる。

『どうかね、怪我のほうは?』

「はい、大したことありません」

 布で右腕を吊っているから見た目こそ物々しいが、肘の靭帯を傷めた程度に済んだ。しばらく安静にしていれば包帯も取れる、と医師からは説明を受けている。

 『しかし分からないことがある』と補佐官は前置きし、

『君はアンノウンに狙われた者の護衛をしていたそうだが、何故その人間が狙われると分かったのかね?』

「昨日襲われたのは、2日前に殺された被害者の配偶者だったんです」

 誠が答えると、警備部長が続けて尋ねる。

『アンノウンは血の繋がった親族を狙うと聞いているが』

「アンノウンが狙ったのは、お腹のなかの赤ん坊です。最初に殺された被害者の現場で姓名判断の本を見つけて、もしかしたらと思い護衛にあたりました」

 『なるほど』と補佐官は頷き、

『産まれてくる赤ん坊のために名前を考えていたということか。見事な推理だ。G3システムの装着員として、これからも活躍を期待しているよ』

 その言葉の意味を一瞬理解し損ねて、誠は「それじゃ……」と言葉を詰まらせる。補佐官は続ける。

『氷川主任を、もう一度G3システムの装着員として任命する。これが幹部会の決定だ』

 心臓が激しく脈打つのを感じる。もう一度Gトレーラーで、小沢と尾室と共に戦うことができる。子供のようにはしゃいでしまいそうな気持ちを抑え、警察官としての凛とした姿勢を崩さず誠は深く礼をした。

 画面の中で警備部長は腕を組み、重々しく口を開く。

『しかしまだ産まれていない赤ん坊まで狙うとは、一体どんな理由があってそんな。まるで、何かを怖れているかのようだ………』

 「怖れている……」と誠の唇がなぞる。物理的に有り得ない現象で人間を殺し、G3システムでも太刀打ちできないというのに――

「アンノウンが、人間を………」

 

 

   3

 

 波が立つたびに、内浦湾は陽光を反射する。バスの車窓から見える海の景色にも曜はハンディカムを向けているが、海は既に撮影済みだから使えるかどうか微妙なところだ。バスの最後尾の座席に並んで腰かける千歌たち2年生の会話は、自然と昨日のことについてだった。

 事の次第を千歌が説明すると、ハンディカムの電源を切った曜が「ふーん」と相槌を打つ。

「じゃあ翔一さん、まだその篠原さんて人と会えてないんだ」

 「うん」と応じながら千歌は昨晩の佐恵子の顔を思い出す。あの表情、まるで何かをとても怖れているように見えた。決して目を向けたくないような。

「しょうがないわ。だって友達が亡くなったばかりなんでしょ? 色々と不安定になるわよ」

 梨子の言うことはもっともだ。三浦智子と篠原佐恵子がどれほど親しい仲だったかは聞いていないが、友人ならばその死に何も感じていないなんてこともないだろう。そこへ記憶喪失の男や、父親の死について調べている男までやって来れば参ってしまうのかもしれない。

 ふと、千歌は根拠の分からない恐怖が込み上げてくるのを感じた。ただ翔一の過去について知りたいだけ。それだけのことなのに、この捉えようのない恐怖をどう友人たちに告げたものか。翔一の過去は知るべきだ。それが彼本人にとってプラスだという確信はある。どこかで翔一の家族や友人が待っているかもしれない。

 気のせいだ。そう自分に言い聞かせ、千歌は思考を今日の活動内容へと切り替える。バスはもう目的地へと近づいていた。

 

 PV撮影1日目は学校と十千万の周辺だったということで、2日目は少し羽を伸ばすことにした。内浦は海と富士山とミカンしか紹介するものが無かった、というのが本音だが。

 まず本日のシーン1は沼津駅前。紹介するのは市街在住の曜。

「バスでちょっと行くと、そこは大都会! お店もたくさんあるよ」

 シーン2は隣の伊豆の国市まで。結構な距離があるため自転車をレンタルして移動したのだが、それでも目的地に到着する頃にはメンバー全員が息切れし汗を滴らせる画がカメラに収められた。

 小さな伊豆長岡駅を前にして、曜のカメラに笑顔を向ける余裕もない梨子が息も絶え絶えに紹介する。

「自転車で、ちょっと坂を越えると……、そこには……伊豆長岡の、商店街が………」

 「全然、ちょっとじゃない………」と座り込んで呼吸を整えながら花丸が声を絞り出す。内浦から山ひとつ越えるから長い坂道が続くし、それだけに自転車のペダルがかなり重い。徒歩のほうが疲労は軽く済んだかもしれない。1時間ほど移動にかかるが。

「沼津へ行くのだって、バスで500円以上かかるし………」

 ルビィも長い移動にうんざりしているらしく不満を漏らす。高校生にとって片道500円は厳しい。沼津市街はまだ娯楽施設がある分良いが、この伊豆長岡駅前の商店街は苦労して坂を登っても、お世辞にも都会とはいえない。自然豊かな温泉地としてPRされているから、景観を損なわないようどちらかといえば静かな街だ。つまり、カメラに収めるべきものは何もない。

 いまいち絵面に華とインパクトがない。風景は悪くないのだが、富士山という最大のPRポイントを撮影してしまっただけに霞んで見える。

 酸素が足りない頭で何とかアイディアを絞り出そうとしたとき、地面に仰向けで寝転がる善子の姿が千歌の目に留まった。

「そうだ!」

 シーン3。場所は前回の開始と同じ長浜城跡。紹介は善子改め堕天使ヨハネが務める。移動と着替えに時間がかかったせいで夕暮れ時になったが、堕天使としては雰囲気が合っている、と思いたい。

「リトルデーモンもあなた、堕天使ヨハネです。今日はこのヨハネが堕ちてきた地上を紹介してあげましょう」

 「まずこれが――」とヨハネは近くにあるものを手で示し、

「土!」

 盛り土だ。公園の整備作業で出たものだろうか。触れられないよう周囲をカラーコーンで囲まれている。とにかく何の変哲もない土を紹介したヨハネは高笑いしている。でもすぐに違和感を覚えたのか、高笑いは勢いを失いやがて治まる。

 カメラを止めた曜は苦笑と共に言う。

「根本的に考え直したほうがいいかも」

 「そう?」と千歌は何となくこれで良いような気もした。

「面白くない?」

 疲れはしたがそれなりに画も撮れたから、後は編集次第で良いものに仕上がるような、漠然とした期待を込める。でも心配症な梨子はそうは思えないみたいで口を尖らせた。

「面白くてどうするの!」

 

 喫茶「松月」は十千万から少し歩いた、湾岸の通りに店舗を構えている。千歌たちが入った頃は空が茜に染まる頃で、あまり席数の多くない喫茶コーナーに他のお客はいない。お世辞にも繁盛しているとは言い難いが、近隣住民という常連客のおかげで安定した売り上げを得ている。

 全員の注文した菓子と飲み物が来ると、来店時からずっと眉を潜めていた善子が訊いた。

「どうして喫茶店なの?」

 すると隣のテーブルにつくルビィが、

「もしかして、この前騒いで家族の人に怒られたり………」

 「ううん、違うの」と千歌はミカンケーキにフォークを刺して持ち上げ、

「梨子ちゃんがしいたけいるなら来ない、って」

 切り分けもせずケーキをリンゴのようにかぶりつくと、向かいに座る梨子が慌てた様子で、

「行かないとは言ってないわ! ちゃんと繋いでおいて、って言ってるだけ」

 何でこんなに弁明しているかは分からなかったが、後になって梨子のわがままを聞いてあげた、と解釈されかねない千歌の口ぶりのせいだったことに気付いた。

 隣のテーブルでミカンどら焼きを食べる花丸にハンディカムを向けながら曜が言った。

「ここら辺じゃ、家のなかだと放し飼いの人の方が多いかも」

 「そんな……」とフルーツケーキをフォークで一口サイズに切りながら梨子は溜め息をつく。梨子は犬が苦手と知ったのは最近のことだ。曜は何となく察していたらしいが。しいたけは梨子のことを気に入っているようだから、てっきり梨子は動物が好きなほうだと勝手に思い込んでいた。

 咥内に残ったケーキの甘さを取ろうと梨子がコーヒーを啜ったところで「わん!」という甲高い声が店内に響く。

「またまた」

 どうせ誰かの悪戯でしょ。その手には乗らないわよ、とでも言いたげな苦笑と共に梨子はまたコーヒーを飲む。再び「わん!」と聞こえ、それが本物と気付いた梨子は目を見開き体を硬直させる。

 見れば、床に黒い毛の豆柴犬がちょこんと座って尻尾を振っている。席にいる全員の目がそこへ集中した。その一般的には愛らしい姿を見て、梨子は「ひいっ」と悲鳴をあげる。咄嗟に脚を上げて膝をテーブルにぶつけたものだから卓上の食器ががちゃん、と盛大な音を立てた。

「こんなに小さいのに⁉」

 千歌が言うと梨子は即座に上ずった声で、

「大きさは関係ないわ。その牙! そんなので噛まれたら死――」

 「噛まないよ」と千歌は大きな欠伸をして犬歯を露わにした豆柴をひょい、と抱き上げる。

「ねー、わたちゃん」

「あ、危ないわよ! そんなに顔を近付けたら――」

「そうだ、わたちゃんで少し慣れるといいよ」

 と千歌は豆柴のわたあめを梨子の顔へと近付けさせる。まずは小型犬に触れて、そこからしいたけに慣れてもらおう。でも眼前にいる小さな生き物に梨子は怖がっているのか笑っているのかよく分からない表情を固めている。松月の看板犬として人懐っこいわたあめは、その小さな舌で梨子の鼻先をちろり、と舐めた。すると硬直が解けた梨子は俊敏に椅子から立ち上がり、真っ直ぐトイレへと駆け込んでしまう。

「梨子ちゃーん」

 曜が呼びかけると、ドア越しに梨子がまくし立てる。

「話は聞いてるから早く進めて!」

 「しょうがないなあ」と千歌は溜め息をつき、善子の方へと向く。既に善子は持参してきたノートPCを開きキーを叩いていた。

「できた?」

「簡単に編集しただけだけど、お世辞にも魅力的とは言えないわね」

 と善子は肩をすくめる。堕天使ヨハネの動画配信をしていた善子でさえ限界があるとは。

「やっぱりここだけじゃ難しいんですかね?」

 ルビィが力なく言う。あと市内で撮影していない所といえば、沼津駅前のメインストリートであるリコー通りくらいか。あの辺りなら大手企業の店舗やオフィスも多いから、市内でも結構賑わっている。うっかり見逃していた。あそこが市内で最も華やかな区域だ。

「じゃあ沼津の賑やかな映像を混ぜて………」

 これがわたし達の街です、というPVにしようかと構想を膨らませたところで、

「そんなの詐欺でしょ!」

 トイレの方から梨子の声が飛んできた。

「何で分かったの⁉」

 「段々行動パターンが分かってきているのかも」と曜が穏やかに笑いながら言った。何だか嬉しいような恥ずかしいような複雑な気分だ。肩を落としたとき、不意に曜が声をあげた。

「うわ、終バス来たよ!」

 窓を振り返ると、店の目の前にあるバス停に丁度バスが停車している。曜と同じ市街在住の善子も「うそー!」と慌ててPCを片付け始めた。

「ではまた――」

「ヨーシコー」

 とバスへ走っていくふたりを見送る。

「結局何も決まらなかったな………」

 ただ街の紹介をするだけでも、何が魅力なのか全く見つけることができなかった。自分たちの住む沼津の魅力とは、いったい何なのだろう。

「なああああ!」

 突然、ルビィが声をあげて立ち上がる。

「こんな時間、失礼します!」

 まだミカンどら焼きを食べている花丸の襟首を掴み、ルビィは引きずるように店から飛び出していく。窓を挟んで、花丸はこちらにどら焼きを咥えながら手を振っていた。

 壁の時計を見ると、針は7時を回ろうとしている。

「意外と難しいんだなあ。良いところを伝えるのって」

 おもむろに言うと、まだわたあめが怖いのか、トイレから出てこられない梨子の声が聞こえてくる。先ほどよりは、穏やかな声色だった。

「住めば都。住んでみないと分からない良さも、たくさんあると思うし」

「うん。でも学校がなくなったらこういう毎日もなくなっちゃうんだよね」

「そうね………」

 それは、やっぱり嫌だな。周りには海以外何もないし、市街へ遊びに行くのにもバスで片道500円以上かかる。それでも、友達と過ごした学校はなくなってほしくない。きっと、μ’sもこんな気持ちを抱いたからこそ、伝説と謳われるまで頑張っていけたのだと思える。

「スクールアイドル、頑張らなきゃ」

 わたあめを床へ降ろすと、餌の時間なのか店のバックヤードへと一直線に走っていく。「今更?」とようやく梨子がトイレから出てきた。梨子の瞳を真っ直ぐ見据えながら、千歌は宣言する。

「だよね。でも、今気づいた。なくなっちゃ駄目だ、って。わたし、この学校好きなんだ」

 何があって何がないとか、そんな理屈では語り切れないものがこの街にはある。故郷だから、という感情が大きいのかもしれない。でもそれで良いんだ、と思う。生まれ育った街だから、大好きな家族や友達がいる街だから、その街のひとつである学校はなくなってほしくない。それで十分じゃないか。

 移り住んでまだ数ヶ月の梨子にも、想いが伝わったのだと確信できる。彼女は笑って、「うん」と頷いてくれたのだから。

「こんにちはー」

 聞き慣れた声が店内に入ってくる。「あら、いらっしゃい」と店主の女性は嬉しそうにお客を出迎えた。お客は千歌たちに気付き目を丸くする。

「あれ、千歌ちゃん? それに梨子ちゃんも」

「翔一くん、どうしたの?」

「美渡がお茶請けに漬物とかは飽きた、って言ってさ」

 翔一はそう言うと、迷わず店主に「ミカンどら焼き4つください」と店主に告げた。商品が袋に詰められている間に翔一は財布から代金ぴったりに紙幣と硬貨とカウンターのトレーに置く。翔一が品の袋を受け取ると、千歌は梨子に言った。

「わたし達も帰ろっか」

「ええ」

 ケーキを食べたばかりだというのに、千歌の腹は既に空腹だった。十千万までの道を歩きながら夕陽に焼ける海を眺めていた翔一が、ぽつりと言う。

「ねえ千歌ちゃん。俺、もう一度佐恵子さんに会いに行こうと思うんだ。明日土曜だし、千歌ちゃん学校は休みだよね?」

「うん」

「一緒に来てくれるかな?」

「大丈夫だけど………」

 ちらり、と梨子を見やる。梨子は不思議そうな表情を浮かべながら千歌に無言で視線を返した。やっぱり、梨子も違和感を覚えたらしい。翔一が自分から過去にまつわる行動を起こすだなんて。でも、良い傾向なのだろう。それが例え、千歌に根拠のない恐怖を呼び起こすものだとしても。

 

 

   4

 

 親に何も言わず夜に家を出るのは、たとえ目的地がそう離れていない場所でも子供心には大冒険、と昔は胸を躍らせていたものだ。高校生になった果南にかつての高揚感が消滅してしまったのは、単に成長しただけだろうか。それとも、このちょっとした冒険の目的が決して愉快じゃないからだろうか。

 月明りだけが頼りで、しかも訪れるのが数年ぶりでも、ホテルオハラへの「潜入」ルートは容易だった。海は真っ暗で視界はゼロ、従業員に見つかる恐れもあるからライトも使えない。それでも何度も使った経路だから、陸への距離や自分の位置も分かる。昔に興じたスパイごっこのせいで、本当にスパイになれてしまいそう。上陸した果南は噴水のある庭を歩きながら、そんなことを思っていた。

 非常用ドアは開錠されていたから、ホテルの客室棟にはすんなりと入ることができた。宿泊費が高いのに随分と不用心なホテルだが、ここの経営者の令嬢が開けておいたのだろう。きっとその令嬢は、以前と同じスイートルームを自室としているはずだ。窓から光が点滅しているのが見えたから、きっと違いない。

 目的の部屋まで辿り着いて、ドアを開ける。テーブルランプだけが光源のスイートルームで、鞠莉はウェット姿で全身を海水で濡らした果南の来訪に驚きもしない。

「来るなら来ると先に行ってよ。勝手に入ってくると家の者が怒るわよ」

 よく言うよ。モールス信号を送って鍵まで開けておいて。前と同じ方法でわたしが来る、って分かっていたくせに。皮肉を喉元に留めて、果南は訪ねた目的を問う。

「廃校になるの?」

 浦の星女学院が廃校になるという知らせを受けたのは今日の朝だった。何故、いつ廃校になるのか。理事長である鞠莉に直接訊くのが手っ取り早い。

「ならないわ」

 その廃校問題に深く関わっているはずの鞠莉はそう告げて、更に続ける。

「でも、それには力が必要なの。だからもう一度、果南の力がほしい」

 果南の視線が、部屋の丸テーブルに置かれた一枚の紙へと向いた。上に大きく「復学届」と書かれている。父も近いうちに退院するし、そろそろ復学の準備を進めようと思っていた頃だ。この理事長がどこからそんな情報を仕入れてきたのか。行動力は突き抜けて高い人間だ。

 わたしが学校に復帰して何ができるの。わたしが何の力になれるっていうの。それ以前の質問を果南は投げる。

「本気?」

 鞠莉は果南を見つめ、奥底の視えない笑みを浮かべた。

「わたしは果南のストーカーだから」

 

 



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第5話

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。



 

   1

 

 休日の午前9時となると、街もまだ寝ぼけているように静かだ。商業施設が殆どない住宅街は特に。休日として早起き――それでも8時近くまで熟睡していた――した千歌だったが、翔一の運転するバイクのシートで向かい風に吹かれていくうちに目はすっかり覚めた。

「じゃあ佐恵子さん、また湖ですか?」

 前回と同じように、玄関先で対応してくれた数樹に千歌はそう尋ねる。佐恵子は不在で、こんな朝早くから湖に行っているらしい。数樹は「すみませんねえ」と苦笑し、続けて思い至ったように、

「そうだ、ふたりとも湖のほうに行ってみたらどうですか? そんな遠い場所じゃないし」

「あの、ちょっといいですか?」

 翔一がおそるおそる訊いた。「何でしょう?」と数樹は嫌な顔せずに受け応えてくれる。

「また土器を見せて欲しいんですけど」

 翔一がそう言うと、太古にロマンを馳せる考古学者らしく数樹は嬉しそうに笑って「良いですよ、どうぞ」と家へと促してくれた。

 客間へ入ると、翔一は数ある土器の中から迷うことなく割れた壺を手に取る。

「これ何のマークですか?」

 翔一が示した土器には、日付の書かれた付箋が貼ってある。発見した日を記録したのなら特に何の違和感もないのだが、日付の横に描かれたエンブレムのようなものがとりわけ目を引いた。まるで開いた翼のように見えるし、角のようにも見える。どこかで見たことがあるような気がする。

 数樹は首を傾げた。

「妹が描いたものでしょうが、ただの悪戯描きだと思いますよ」

 悪戯描きにしては凝っているような気がする。佐恵子は何からこんなマークを思いついたのだろう。そう思いながら千歌が土器を眺めていると、翔一は更に質問を重ねる。

「湖の中からこういうものが出てくるっていうことは、やっぱり昔文明とかがあったってことですか?」

「ええ、湖の周辺には様々な言い伝えが残っています。妹が採取してくる遺物は今のところ縄文後期のものばかりですが、それよりもずっと以前に高度な文明を持った民族が存在していた、って伝説もありましてね」

 変だな、と千歌は思った。幼い頃に神話や伝説を語ってくれた父から、伊豆の湖にまつわる伝説なんて聞いたことがない。話の途中で千歌はよく寝てしまうことがあったから、単に聞き逃しただけだろうか。

 

 朝の霧が薄まったとはいえ、もやで奥に広がる山々が朧気な湖はどこか幻想的に映る。ここは彼岸と此岸の境目で、湖はどこか賽の河原ではと思えた。数樹によると山王湖(さんのうこ)というらしい。

 穏やかに波が揺れる湖を見渡すと、湖面の真ん中に何かが動いているのが見える。霞がかったその一点を見ると、それが水をかく腕と分かった。千歌はそこを指さし、

「あ、あれじゃない佐恵子さん」

 湖畔への歩みを進めていくにつれて、霧も晴れていく。それに伴い、佐恵子の挙動がよりよく見えるようになっていく。

「ねえ翔一くん、何か様子が変だよ」

 クロールの動きをしているのかと思ったが、佐恵子の腕は左右上下、でたらめに水をかいている。かいている、というより湖面を叩いているようだ。激しく飛沫をあげるその顔が恐怖に歪んでいる。

 翔一は上着のウィンドブレーカーを脱ぎ捨てて駆け出した。躊躇うことなく湖面へと潜り込み、佐恵子のもとへと泳いでいく。その距離がどんどん近付いていくにつれて、千歌は別方向から佐恵子へと泳ぐもうひとりの存在に気付いた。その人物の泳ぎは翔一よりも速く、先に佐恵子へと到達してすぐさまその肩を支える。

 その人物は、先日に佐恵子を訪ねた青年だった。青年は戸惑った様子で浮かんでいる翔一には目もくれず、佐恵子を支えてこちらへと泳いでくる。湖畔へ辿り着く頃には佐恵子も落ち着いたのか、自ら停めておいた車のトランクからタオルを取って翔一と青年に渡した。

「あなたは………」

 タオルで濡れた体を拭きながら、翔一は青年を見つめる。青年は訝し気に眉を潜め翔一を見返す。

「知り合い、なんですか?」

 千歌が訊くと、青年は「いや」とかぶりを振る。翔一も「ああ、何でもないよ」と笑みを返し佐恵子へと向く。

「篠原佐恵子さんですよね? 俺、津上翔一っていいます」

 翔一は人好しな笑顔で自己紹介したのだが、佐恵子は憮然とした表情で目を逸らす。

「情けないわね、足がつるなんて。私ももうおばさんかな」

 自嘲気味に言う佐恵子の隣に千歌は腰掛ける。翔一と青年も湖岸の砂浜に腰を落ち着けた。千歌は尋ねた。

「佐恵子さん、翔一くんに見覚えとかありませんか? 翔一くん、記憶喪失で昔のこと何も覚えてないんです。三浦さんは翔一くんのこと知ってるみたいだったんですけど………」

 佐恵子はじ、っと翔一の顔を見つめる。何が照れくさいのか、翔一は「よろしくお願いします」と曖昧に笑っている。記憶喪失の割に不安や緊張感なんて全く見えない顔だ。多くの人は、この翔一の振る舞いに戸惑いを覚える。

「残念ね、力になれそうにないわ」

 佐恵子はそう言い「それから君」と青年へ向き、

「助けてもらったのは有難いけど、無駄なことはやめた方がいいわ。あなたのお父さんのことも、私は何も知らない」

 「でもあの手帳には――」と青年は食い下がろうとしたのだが、それを遮るように佐恵子は切り出す。

「この辺りにはね、超古代の遺跡が眠っているのよ。どんな人たちが暮らしていたのか、どんな文明を築いていたのかは分からない。でもそこは聖なる戦部(いくさべ)によって護られていたの」

 「いくさべ?」と翔一は訊いた。「戦士のことよ」と応えた佐恵子は続ける。

「その村落は何度も悪霊たちの襲撃に遭った。そしてその度に聖なる戦士に助けられた。その戦士が人間だったのか、もっと特別な存在だったのかは分からない。でも人々は彼を神と崇め、感謝の印に戦士の像を造ってこの湖に沈めた。私はその戦士の像を探しているの」

 怪物を退治した戦士の伝説は各地に残っている。ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコト。ミノタウロスを退治したテセウス。ドラゴンを退治した聖ゲオルギオス。そういう話はどこの国でも勇ましい英雄譚として語り継がれるもの、と父が教えてくれた。

 「あの……、これは?」と訊いた翔一の視線を千歌は追う。翔一の目は佐恵子の手元、指で砂浜に描かれたマークに向けられていた。壺に貼ってあった付箋に描かれていたものと同じマークだった。広げた翼のようにも、角のようにも見える何かの印。

 それを見て、千歌は思い出した。このマークはよく似ている。変身した翔一が足元に浮かべていた、あの金色の紋章に。

 

 

   2

 

 理事長室に集まった千歌たちAqoursの視線を一身に集めながらも、鞠莉は落ち着いた様子でノートPCの画面を細めた目で見つめている。休日返上で善子が編集してくれたPVは果たして出来が良いものかは、制作した本人たちでは判断しかねる。だから理事長である鞠莉の判断を仰ごうとした次第だ。

『以上、がんばルビィ! こと黒澤ルビィがお伝えしました』

 ルビィの声がノートPCから聞こえる。この台詞で動画は終了する。

「どうでしょうか?」

 細い目をした鞠莉に千歌は尋ねる。息を呑んで答えを待つが、一向に鞠莉は口を開く気配がなく、目蓋が徐々に垂れていき――

「………はっ」

 大きな瞳が見開かれ、がっくりと緊張で固まった肩が一気に落ちた。

「もう、本気なのに! ちゃんと見てください!」

「本気で?」

「はい!」

 鞠莉はノートPCを閉じて言い放つ。

「それでこのTeitarakuですか?」

 「ていたらく?」と千歌は反芻する。体たらく、と言ったのか。曜と梨子が口々に言った。

「それは流石に酷いんじゃ……」

「そうです。これだけ作るのがどれだけ大変だったと思ってるんです――」

 梨子が言い切る前に、遮るように鞠莉は立ち上がる。

「努力の量と結果は比例しません! 大切なのはこのtownとschoolの魅力をちゃんと理解してるかです!」

 「それってつまり……」と言いよどむルビィの続きを花丸が「わたし達が理解してないということですか?」と引き継ぐ。更に善子も、

「じゃあ、理事長は魅力が分かってるってこと?」

 上級生で理事長相手に挑発的な物言いなのだが、鞠莉は特に気にもしない様子でむしろ余裕ある声色で答える。

「少なくとも、あなた達よりは。聞きたいですか?」

 

 閉ざされたGトレーラーのカーゴに入ると、計器類と空調の駆動音が誠を迎える。カーゴの半分近くを占めるスペースに佇むガードチェイサーのボディに手を当てると、冷たく固いマシンの感触が皮膚にじわりと侵食してくるようだった。これからは自分がこのマシンを駆る。触れてみても、その実感はどこか曖昧で現実味がない。

「復帰おめでとう、氷川君」

 明るい口調で小沢が言った。

「G3 もまたあなたに合わせるために改修に出したから」

 装着員が変わる度にG3システムは調整しなければならない。ミクロン単位で装着員の体にフィットさせなければ、防御機構が作動せずまともにオペレーションを行うことができなくなる。ほんの微調整でもかなりの費用が要されているはずだ。警察のいち部署としては破格なほどの。

「どうしたんですか氷川さん、浮かない顔して」

 尾室が訊いてくる。

「いや……。僕には北條さんほどのG3に対する情熱がないような気がして………」

 聴聞会で異動を言い渡されたときははやる気持ちを抑えるのに必死だったというのに、いざその時が来たら怖気づいてしまう。果たして本当に自分が相応しいのか。

 「馬鹿ね」と小沢は誠の前に立ち、

「それでまた自信喪失ってわけ? あなたは十分情熱的よ。北條君のは情熱とは言わないの。あれは妄執、っていうのよ。分かった?」

「………そうでしょうか?」

 「あーイライラする!」という小沢の荒げた声が遠くに聞こえるようだった。

「もういいわ。嫌なら辞めればいいでしょ? G3は尾室君に装着してもらうことにするから」

 「え、そんな……、本当ですか⁉」と尾室が喚く。小沢はしっかりと誠を見据えている。G3装着員としての誠を。こうして小沢の叱責を受けるのはいつぶりだろうか。G3ユニットは誠ひとりで活動しているわけじゃない。尾室のオペレーティングも必要だし、作戦行動の判断を下すのは小沢だ。自分はいつから思い上がっていたのか。ふたりのサポートがあれば何も怖いものなんてない。小沢の指示の通りに戦い、G3のポテンシャルを引き出すのが誠の役目だ。

「済みません、またよろしくお願いします。全力を尽くします!」

 誠が宣言すると、小沢は満足げに笑った。

「分かれば良いのよ」

 

「どうして聞かなかったの?」

 玄関で靴を履き替えているときに、梨子がそう訊いてきた。千歌は明確な返答をまだ見つけられていないが、今の心持ちをそのまま答える。

「何か、聞いちゃ駄目な気がしたから」

 「何意地張ってんのよ?」と善子が皮肉を投げる。「意地じゃないよ」と千歌は応じ、

「それって大切なことだもん。自分で気付けなきゃPV作る資格ないよ」

 鞠莉なら浦の星と沼津の魅力を熟知しているのかもしれないし、知恵を借りるのが最善なのかもしれない。でも、これはAqoursの活動だ。活動している自分たち自身で見つけたものを発信しなければ意味がない。

「そうかもね」

 穏やかに梨子が言った。続けてこの重くなった雰囲気を消すように「ヨーソロー!」と敬礼した曜が、

「じゃあ千歌ちゃん家で作戦会議だ!」

 それはつまり、しいたけもいるということ。察した梨子が顔をしかめ、曜が意地悪い笑みを浮かべている。思わず千歌も笑ってしまった。この面々といると、さっきまでの鬱屈した気持ちが嘘のように晴れていく。根拠がなくても、このメンバーなら良いものが作れるという確信が持てる。この確信が一体何なのか、どこから来るものなのか、まだ高校生の千歌には分からない。

「よーし!」

 腕を高く上げてうちに集合、と声高に言いたかったのだが、

「――あ、忘れ物した。ちょっと部室見てくる」

 皆の苦笑と呆れを背中に受けながら部室まで走る。締まりがないけど、それもまた自分たちらしい。体育館へ入り真っ直ぐ部室へ直行しようとしたが、入口のところで千歌は足を止めてステージへと視線を向ける。

 あの絹糸のような長い黒髪はダイヤだ。摺り足でステージ上を動き、扇子に見立ててか書類を手にゆったりとした舞を踊っている。窓から射し込む陽光をスポットライトのように浴びて、彼女が動く度によく手入れされた黒髪がはらり、と広がり陽光を乱反射させていく。

 いつの間にか、千歌はその舞に見惚れていた。舞踊なんてまったく知らないが、ダイヤの所作ひとつひとつに瞬きもせずに釘付けになっていた。

 千歌が拍手をすると、気付いていなかったのかダイヤは少しばかり驚いたようで丸くした目をこちらに向ける。

「凄いです! わたし感動しました!」

 「な、何ですの?」とダイヤは頬を赤く染める。大人びているが、こうした恥ずかしがる仕草を見ると自分と同年代の少女なんだ、と分かる。

「ダイヤさんがスクールアイドルを嫌いなのは分かってます。でも、わたし達も学校続いてほしいって、なくなってほしくないって思ってるんです」

 生徒会長のダイヤも、きっと廃校阻止のために奮闘しているはず。目的が一緒なのだから、例えこちらの活動が気に入らなくても分かり合えないはずはない。

「一緒にやりませんか? スクールアイドル」

 こんな勧誘、ダイヤを怒らせてしまうだろうか。少しばかり怖気づいたのだが、ダイヤは無表情のまますとん、とステージから飛び降りる。降りた拍子に書類が1枚床に落ちたのだが、それに気付かないままダイヤは歩き出す。

「残念ですけど。ただ、あなた達のその気持ちは嬉しく思いますわ。お互い頑張りましょう」

 ダイヤの背中を追って振り返ると、いつの間にか体育館に他のメンバー達も集まっていた。千歌たちの会話が聞こえていたのか。それでも構わず、ダイヤは妹であるルビィにも目を向けることなく出入口へと歩き続ける。

 千歌はダイヤが落とした紙を拾い上げる。「署名のお願い」と題目に書かれている。出入口へ視線を移すと、既にダイヤは体育館を後にしている。それを見計らってか、曜が口を開いた。

「ルビィちゃん、生徒会長って前はスクールアイドルが………」

「はい、ルビィよりも大好きでした………」

 ルビィの答えを聞いて、何で、と千歌は思った。何故大好きだったものが嫌いへと変わってしまったのか。いや、本当にダイヤはスクールアイドルが嫌いなのだろうか。彼女は最初こそ千歌たちの活動を認めてはくれなかったが、さっきの言葉。お互い頑張りましょう、と応援してくれたじゃないか。建前かもしれないし、本当は理事長の鞠莉に従って渋々見逃してくれているだけかもしれない。

 それでも、さっきステージでひとり踊っていたのは、好きだからでは。ステージに立って多くの人に踊りを見て欲しい、という願いをまだ抱いているのではないのか。

 追求しようと足を進める千歌を、ルビィが両腕を広げて阻む。

「今は言わないで!」

「ルビィちゃん………」

 ルビィにしては珍しい、強い口調だった。続けて「ごめんなさい……」とか細く言う彼女には、これ以上追求しようとは思えなかった。

 

 ステージ以外の証明が全て落とされた会場。

 唯一の光、スポットライトを浴びるダイヤたち。

 おそらく、まだ17年の人生で最も輝いていた頃を思い出しながら、ダイヤは校舎へと続く連絡通路を歩いた。

 あの頃は楽しかった。先に不安があっても、一緒にいる仲間がいてくれたら乗り越えられる、と無根拠に信じられるほどに。

「ダイヤ」

 不意に呼ぶ声に足を止める。通路の脇で立っている鞠莉が告げる。

「逃げていても、何も変わりはしないよ。進むしかない。そう思わない?」

「逃げてるわけじゃありませんわ。あの時だって………」

 続きを言おうとしたが、やめた。言う必要はない。自分は逃げたわけじゃない。引き際を見定めただけ。裡で自身に言い聞かせ、ダイヤは再び歩き始める。背後から聞こえた鞠莉の声に気付かないふりを決め込みながら。

「ダイヤ……」

 

 

   3

 

 十千万を訪れたメンバー達のお茶を用意する翔一の横顔を千歌はじ、っと見上げる。お客が来れば鼻歌でも歌いながらお茶の準備をするのに、今の翔一は無表情のまま急須に茶葉を入れている。

「ねえ翔一くん、何か気になることでもあった?」

「え、気になるって……、何が?」

 向けられた笑顔がぎこちなく引きつっている。千歌もすぐ顔に出る性分とはいえ、翔一はもっと分かりやすい。

「だって翔一くん変なんだもん。佐恵子さんのところ行ってからずっとだよ」

 翔一は何か言おうとしたのか口を開け、でも無言のまま急須にお湯を注ぐ。準備がひと段落したところで、ようやく言ってくれた。

「千歌ちゃん。俺、今まで戦ってきた奴らから『アギト』って呼ばれてきたんだ」

「アギト?」

 その名前を千歌は反芻する。アギト。聞いたことのない、不思議な響きだ。

「翔一くんが変身した姿、『アギト』っていうの?」

「うん。もしかしたら何か関係があるんじゃないか、って。佐恵子さんが話してくれた伝説と」

「古代にもアギトがいて、それが伝説のいくさべ、ってこと?」

「よくは分からないけど……。もし何か関係があるなら、俺が何故アギトになったのか、敵の正体が何なのかヒントにならないかな?」

 湖に眠る伝説は事実かもしれない。それは千歌も漠然とだが抱いていた予想だ。佐恵子が砂浜に描いたマークは、翔一が変身した「アギト」の紋章と似ていた。翔一は古代に存在していた戦士と同じ力を持っていて、その力をどうやって翔一は得たのか。本人が思い出せない以上、伝説を頼りにするしかない。

「うん。もし何か分かれば、翔一くんの過去にも繋がるかもしれないしね」

「後で調べるの手伝ってくれないかな? 俺パソコンとか使い方分からなくて」

「良いけど……。あ、じゃあお茶持ってくついでに花丸ちゃんに聞いてみたら? 花丸ちゃんなら伝説とか詳しそうだし」

「確かに、よく本読んでるもんね」

「うん。わたしお手洗い行くから先行ってて」

 

 障子を恐る恐る開き、梨子は部屋のなかを覗き込む。部屋にはメンバー全員が集まっていて、曜が大丈夫といった声色で、

「しいたけいないよ」

 「ね、千歌ちゃん」と訊くと、ベッドで布団にくるまった千歌がもぞもぞ、と動いた。お茶準備してくるから、と言っていたのに、いつから部屋にいたのか。それにしても何故布団を被っているのか。そんなに寒くもないのに。

「それよりもPVだよ。どうすんの?」

 善子が切り出し、花丸も「確かに」と、

「何も思いついていないずら」

 早く梨子も部屋に入って話し合いに参加したいところだが、本当にしいたけはいないだろうか。隣の部屋からひょっこり出てこなければいいのだが。

「あ、梨子ちゃん」

 廊下の奥から聞こえた声に振り向くと、お盆にお茶の道具を乗せた翔一が歩いてくる。流石にここで立ち往生しては邪魔になる。梨子は観念して部屋に入り、ベッドに腰を落ち着ける。翔一はお盆をちゃぶ台に乗せると、皆のお茶を湯呑に注ぎながら言う。

「皆で相談もいいけど明日みんな早いからさ、あんまり遅くなっちゃ駄目だよ」

「明日って?」

 梨子は訊いた。何があるのだろうか。翔一の口ぶりからこの場の全員が参加するようだが。曜が思い出したように、

「あ、明日って海開きだった」

「海開き?」

 まだ時期として泳ぐには早い気がする。詳しく訊きたかったが、翔一は「花丸ちゃん」と話題を変える。

「山王湖の伝説って知ってるかな?」

 「伝説、ですか?」と花丸が、「どうしてそんなことを?」と善子が訊いて、翔一はお茶を注いだ湯呑を各々に配りながら答える。

「もしかしたら、湖の伝説が俺に関係してるかもしれなくてさ。俺が変身するアギトのことに」

 「アギト?」とその場の全員で反芻した。それが変身した翔一の名前なのか。翔一は言う。

「花丸ちゃんなら、伝説とか知ってるかもしれないからさ」

「この辺りの歴史とかは本で読んだことありますけど……」

 花丸は確認するように「山王湖、ですよね?」と訊いた。翔一は頷くも、花丸は不思議そうにかぶりを振って、

「聞いたことないです。そもそも、あの湖は伝説っていうほど古くないずら」

 「え?」と翔一は呆けた顔をする。次に障子のほうから「どういうこと?」という声がして、障子の影から千歌が顔を出した。

「千歌ちゃん⁉」

 その顔を見た瞬間、梨子は悟る。自分のすぐ傍にいる、この布団にくるまったものは――

「ワン!」

 

 



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第6話

 今回の結末は結構カオスなものになりました。まあ、この作品自体がカオスなのですが………。




   1

 

 沼津市は日本国内でも比較的温暖な土地で、海水浴場も他の街よりも早く開放される。富士山を見ながらの海水浴という観光資源を保全するため、内浦では住民たちによる海岸清掃が毎年の恒例行事になっている。浦の星女学院も地域奉仕として近くに住む生徒も参加することになっていて、沼津市街在住の生徒も希望すれば参加できる。

 朝の4時となると、まだ朝陽は昇っていない。昨晩は早めに床に就いたとはいえ、眠気でぼんやりとしながらも梨子は学校指定のジャージに着替えて三津海水浴場へと向かった。

「おーい梨子ちゃーん!」

 朝早くから元気な千歌が海岸から呼んでくる。隣にいる曜も眠気など感じない。

「おはヨーソロー!」

 「おはよう」と挨拶すると、千歌は手に持った提灯を差し出してきた。

「梨子ちゃんの分もあるよ」

 受け取ると、淡いオレンジ色の光が灯った提灯には「十千万」と毛筆で書かれている。十千万も海沿いに建つ旅館として全面協力しているらしい。

「こっちの端から海のほうへ拾っていってね」

 曜の説明を聞きながら、梨子は初めて参加する海岸清掃の様子を眺める。それほど大きくはない海岸を埋めるほどの人々が、提灯と大きな袋を手に集まっていた。

「曜ちゃん」

「ん、何?」

「毎年、海開きってこんな感じなの?」

「うん、どうして?」

「この街って、こんなにたくさん人がいたんだ」

「うん、街中の人が来てるよ。もちろん、学校の皆も」

「そうなんだ………」

 何気なく視線を向けた先では、志満と美渡と翔一が談笑交じりにゴミを拾っている。別のところへ視線を移すと、善子が拾った黒い羽を花丸が捨てるよう促し、その様子をルビィが苦笑して見守っている。また別のところでは、せっせとゴミを集める果南とダイヤのもとに鞠莉が加わっている。他にも浦の星のジャージを着た生徒たち。幼い子供から老人まで、世代を隔てることなく淡い光を手に海岸を清掃している。

「これなんじゃないかな、この街や学校の良いところって」

 これは梨子が初めて見たというだけで、全国のどこにもある風景なのかもしれない。でも、この裡を温めるような提灯の光は、この内浦の人々が生み出しているものじゃないだろうか。こうして皆で助け合っていて、皆で一緒に暮らしている光景を見ることができる。

 この暗いなかで灯る光を見ることができるのは、内浦だからだ。

「そうだ!」

 不意に、千歌は道路への階段を駆け上がる。道路は波の侵入を防ぐために高く施工されているから、階段の頂で「あの、皆さん!」と呼びかける千歌の姿は海岸のどこにいても見つけることができただろう。

「わたし達、浦の星女学院でスクールアイドルをやっている、Aqoursです。わたし達は学校を残すために、ここに生徒をたくさん集めるために、皆さんに協力してほしいことがあります。皆の気持ちを形にするために!」

 

 

   2

 

「ほら浦女のとこ。もう光ってますよ」

 翔一が指さした丘の上で、夕暮れのなか淡いオレンジの光が灯っている。はいはい、というように美渡は肩をすくめ、

「見てるよ。もう子供じゃないんだから」

「でもさ、凄く綺麗じゃない。あそこからランタンがばあ、って飛ぶんだよね? 早く見たいなあ」

 ふふ、と志満が笑みを零した。

「そうね。皆で協力して作ったんだもの」

 志満は三津海水浴場に集まった観客たちを見渡す。海岸清掃のときより人が多いのは、沼津市街や他の街から来た人もいるからだろう。

 沼津の魅力を伝える次のPV。それはAqoursの新曲披露も兼ねたミュージックビデオという形になった。丁度新曲を作ろうとしていた時期とあって、その演出としてあの光は考案されたものだ。

 スカイランタン。和紙で作った灯篭の中にろうそくで火を灯し、熱気球と同じ原理で空に浮かび上がらせる。その光が映えるのは夜なのだが、千歌の提案で時刻は夕暮れ時に決まった。昼と夜の交じり合った頃が良い、と。構想が決まれば後は準備すればいいのだが、流石にAqours6人だけで曲に衣装、更に灯篭製作は酷だと、浦の星の生徒をはじめ地域の住民たちにも協力が仰がれた。

 地元の学校の生徒たちに協力する声は多く、勿論十千万も全面協力した。志満と美渡は学校まで資材を運び、翔一は作業する生徒たちのためにキャベツたっぷりのスープを振る舞った。

 街の皆が協力してくれた。浦の星のために。学校を存続させようと奮起するAqoursに。

「でもなかなか思い切ったことするよね千歌も。こんな大掛かりになるなんて思ってなかった。お陰で休日返上だよ」

 そう言って美渡は肩を回す。年寄りくさい仕草に翔一は志満と共に笑った。

「でも内浦の魅力か。確かに住んでいても案外見えないものかもしれないわね」

 「そうですか?」と翔一は言った。「え?」と志満は不思議そうな視線を向けてくる。

「俺はここに来たときから気付いてましたよ。ここの農家さんの作る野菜とか、漁師さんが獲ってくる魚は美味しい、って。食べ物の味って作る人の人柄が出るじゃないですか」

 千歌はよく遊ぶところが無い、とか文句を言っていたが、翔一は内浦や沼津に不便なんて感じたことがない。みかん農業が盛んで、海に面しているから新鮮な魚が手に入る。人は食べて生きている。食べるもの、それも美味しいものに溢れるこの街はまさに都じゃないか。

「って食べ物のことばっかじゃん」

 美渡が翔一の胸を叩いた。「ええ? 大事なことだと思うけどなあ」としかめっ面をしてみせると、姉妹は揃って笑う。この笑顔も、食べ物に困らないからこそできる笑顔だ。そんな笑顔に満ちたこの街は、翔一にとっても大切な場所。守るべき居場所だ。

 「おお!」と周囲の人々が歓声をあげた。浦の星のほうから無数の光が浮かび、黄昏時の空に向かって広がっていく。きっと今頃、学校の屋上ではAqoursが歌っていて、その模様が撮影されているはず。この海岸からは聞こえないが、翔一の裡には千歌が聴かせてくれた、完成したばかりの曲が響いていた。

 確か曲のタイトルは『夢で夜空を照らしたい』だったか。それは気付きを歌った曲。この街が好きだという、千歌が綴った想いだ。

 ふと、翔一は観客の中から見知った顔を見つける。歩いていくと、先方も翔一に気付いて「どうも」と笑みを向ける。

「篠原さんも来てくれたんですか」

「ええ、こういったイベントはあまり無いですからね。せっかくなので」

「佐恵子さんは?」

 その名前を出すと数樹は苦笑を零す。

「今日も湖です。誘ってはみたんですけど、どっぷりと浸かってるもので」

「でも、できてまだ何十年しか経ってないんですよね? あの湖」

 翔一は何の取り繕いもなく告げる。腹の探り合いなんてできる性分じゃないし、こういったことは直球で訊くのが最善な気がした。

「そうですか、知られてしまいましたか」

 ひどく疲れたような声色で数樹は呟く。

「私たちの問題にあなたを巻き込んでしまった申し訳ありません。最初から事情を話すべきでしたが、あなたと会うことが妹にとってプラスになると思って騙していました。ですが、それは失礼でしたね」

 数樹はどこか安堵しているように見えた。これまで背負ってきた肩の荷が、少しだけ降りたような。

「よろしければ、一緒に湖まで来てもらえますか? 全てをお話します」

 

 今日もまた、早朝から夕刻まで佐恵子は湖でダイビングをしている。1日中、途中に休憩と軽食を挟んで湖底から土器の破片を拾ってきて、それを手土産に車で家へと戻っていく。この数日間、涼が見守ってきた佐恵子は同じ行動をとっている。彼女にとってはその湖と家の往復が日常のようだ。

 でも、涼は見てしまった。それは一昨日のこと。まだ佐恵子が来ないうちに湖へ来ると、数樹がボートを漕いで湖の沖合へ向かっている光景を。数樹はいくつかのポイントでボートを停めると、持参していた麻袋の中身を湖の中へ沈めていた。数樹とすれ違いに湖を訪れた佐恵子は、数樹がボートを停めたポイントから土器を拾っていた。

 今日も今日とで、佐恵子は数樹が沈めたものを拾っている。それが超古代文明の遺構と信じて。この湖に聖なる戦士の像が眠っていると信じて。

 太陽が西の山々に隠れた頃、湖畔にクロカン車とバイクがやってきた。ヘルメットを脱いだバイクの運転手が涼に気付くと、「こんにちは」と溌剌とした挨拶をしてくる。確か津上翔一といったか。クロカンの方からは数樹が降りてきて穏やかな、でもどこか罰の悪そうな笑みを向けた。

「丁度いい、君にも説明しなければいけませんね」

「伝説は嘘だった、ということですか?」

 涼は尋ねた。責めるような意図はなく、淡々と。数樹は「ええ」と答えると車のボンネットに腰を預け、

「もう1年半も前になりますか。妹のやつ少しおかしくなりましてね。部屋に閉じ籠ったきり、一言も口をきかないようになってしまって。何とか心を開かせようと努力したんですが、あれは人形のように動かなかった………」

 そこで数樹は湖へと目を向けた。湖ではこちらに気付かない佐恵子が収集した土器を手にして波打ち際まで歩いている。

「そんなある日何の気なしに私はこの湖の伝説を聞かせたんですよ。誰が言い出したのか分からないが、もちろん私はそんな伝説が嘘だってことは知っていました。ここは灌漑用に造られた人造湖なんですから。ところがどういう訳かそのとき初めて、佐恵子は興味を示しましてね」

 ふふ、と数樹は笑みを零す。

「私はもう嬉しくて。これをきっかけに昔の佐恵子に戻ってくれれば……。それから佐恵子は毎日のようにこの湖に通うようになって。あれは、幻想のなかで生きてるんです。幻想を追い求めることで、辛うじて心を保ってるんです」

 何となく、涼は佐恵子の現実逃避が何からきたのかを悟る。

「訊かせてください。佐恵子さんはどうして心を閉ざしてしまったんです?」

「旅行に出掛けましてね。向こうで事故に遭ったのがきっかけらしいんですが」

 どくん、と脈が強くなる感覚を覚える。畳みかけるように、涼は更に問いかける。

「事故?」

「ええ、駿河湾のフェリーボートで」

「フェリーの名前は?」

 数樹は記憶を探るように一旦だけ視線を逸らし、再び涼に戻して答えた。

「確か……、あかつき号とか」

 裡を覆う霞が一気に晴れたようだった。やはり、佐恵子はあかつき号に乗っていた。きっとそこで何かが起こった。父と同じように心を閉ざしてしまうほどの事態に。

「でも、何か変じゃないですか?」

 おもむろに翔一が口を開いた。

「幻想のなかで心を保ってる、ってどうしてそんな必要があるんですか?」

「現実に耐えきれない人間もいる」

 涼が言い放つと、「どうしてですか?」と翔一は澱みのない眼差しで問う。

「こんなに世界は綺麗なのに。ほら、空も雲も、樹も花も虫も、家も草も海も――」

「世界は美しいだけじゃない」

 涼も翔一を見据えて告げる。それでも翔一は腑に落ちないらしく、

「そうかな? そういうのって見方によるんじゃないですか? 幻想のなかで生きるなんて、勿体なさ過ぎますよ」

 そういえば、この青年は記憶喪失だったか。羨ましいな、と涼は思った。何もかも忘れられれば、この世界は穢れのない美しいものという、ある種の幻想を現実と錯覚できるだろう。涼だって無根拠に世界は美しいものと信じていた。空はどこまでも澄み渡り、海はどんな存在でも受け入れてくれるものだ、と。翔一の感性は何も間違っていない。目に映るもの全てが美しいと思えれば幸せだし、万人がそうあるべきだ。

 でも、この世界はそれを赦してくれるほど優しくはない。逃げたくもなるし、神や幻想といった不確かな存在にすがりたくもなる。目の前にいるこの青年はそれを忘れてしまったか、もしくは知らずに生きてきた世間知らずだ。

「佐恵子………」

 そのか細い声に振り向くと、数樹が波打ち際でペットボトルの飲み物を手に休憩している佐恵子を見つめていた。「よし」と駆け出そうとする翔一の肩を涼が掴んで止める。

「余計なことをするな。人間がみんな自分と同じだと思わないほうが良い」

「大丈夫です」

 呑気に笑いながら涼の手を払い、翔一は再び駆け出そうとする。涼は先よりも強く翔一の肩を掴んだ。何かと振り向く翔一の頬に、涼の拳が突き刺さる。地面に転がった翔一は左の頬に手を当てながら、涼を戸惑った目で見上げた。少しばかり興奮したせいか、涼も呼吸が粗くなっている。

 ゆっくりと立ち上がった翔一の目が、かっと見開かれた。ああ、殴られたのは腹が立つだろう。お前の拳も受けてやるさ、と身構えたが的外れだったらしい。翔一はバイクへと走り、急いでヘルメットを被るとエンジンをかけ、アイドリングもせずに湖畔から去ってしまう。

 一体何なのか。ただバイクのエンジン音が小さくなっていくのを聞いているだけの涼に、数樹が言った。

「行きましょう、私たちも。いま佐恵子は自分のなかに潜ってるんです。私たちの出る幕じゃない」

 「はい……」と涼は弱々しく応じる。あかつき号のことをもっと聞きたかったが、本人が現実から逃げているのなら仕方がないし、現実に引き戻す気もない。涼だって父の死を調べることで、現実逃避をしているようなものなのだから。兄の数樹でさえ幻想の世界へと逃がすことで精いっぱいだったのに、涼が佐恵子にどんな言葉をかけてやれるというのか。

 休憩を終えて再び湖に潜る佐恵子を一瞥すると、涼はバイクに跨った。

 

 

   3

 

 住宅街には厳戒態勢が敷かれ、被害者の家を中心として不可能犯罪捜査本部の警察官たちが辺りに目を光らせている。住宅街の市民たちの多くがこの時間帯に外出しているようで、避難誘導は思いのほか早く済ませることができた。何でも内浦のほうでイベントがあるらしく、それの観覧に行っているとか。何にしても、出払ってくれていたほうがこちらとしては助かる。

 誠も警護に参加しているのだが、問題はアンノウンが現れたとしてもG3が改修中で出動できないことだ。これで万が一に死者が出たら北條からの皮肉が――いや、北條の皮肉なんてどうでもいい。職場での立場やユニットの沽券ではなく、市民を守ることを最優先にする。それが警察官である自分の職務だ。

 気持ちを律したところで悲鳴が聞こえた。同時に絶え間ない銃声が。音の方角を向くと、街路樹の陰から黒馬のアンノウンが堂々とこちらへ歩いてくる。警官たちが拳銃を発砲しているのだが、命中している、していないに関わらず黒馬は歩みを止めることなく突き進む。

 馬鹿な。警備網はもっと範囲が広かったはず。どうやって掻い潜ってきたのか。瞬間移動でもしたというのか。

 河野と北條も拳銃を懐から抜くなかで、誠は家へと入った。リビングのなかで、外の銃声に怯えた様子の妊婦は膨れた腹を抱えるようにしてうずくまっている。

「逃げるんです!」

 誠は女性の肩を抱き、靴も履かせないまま外へと連れ出す。

「北條さん!」

 誠が呼ぶと、北條はアンノウンへの発砲を中断して近くに停まったパトカーの後部座席のドアを開けた。女性を先に乗せ、誠も後部座席へと乗り込む。

「早くしろ!」

 傍で銃撃している河野が声を飛ばし、北條が運転席に乗ってサイレンを鳴らしながらパトカーを走らせる。

 

 脳を貫くような戦慄を覚え、涼はバイクを停めた。涼の裡で目覚めた力が、倒すべき敵の出現を告げている。場所は山王湖だと無根拠に悟る。

 涼はバイクをUターンさせ、来た道を引き返しバイクのスピードを上げていく。力が目覚めたばかりの頃は苦痛しかなかったが、逞しいことに人間は慣れるものだ。裡からとめどなく溢れようとする力をある程度だが制御する術を、涼は得ている。

 背後から追ってくるように湧き上がる力を解き放つため、涼は吼える。

「変身!」

 一瞬にして、涼の全身が変わった。あの黒ずくめの青年が「ギルス」と呼んだ姿に。涼の駆るXR250も、ギルスになった涼に合わせるように、深緑のボディへと変身する。マフラーから発せられる排気音はまるで獣の咆哮のように聞こえた。

 解き放った本能のままに、涼は向かうべき場所へとバイクを疾駆させた。

 

 サイレンとパトランプのお陰か、大通りを走行する車は次々と路肩へ寄って道を開けてくれる。時折パトカーの存在などお構いなしというようにふてぶてしく走り続ける車もあったが、ハンドルを握る北條はそれらを追い越し突き進んでいく。どこまで逃げたらいいのかは分からない。アンノウンが諦めてくれるのを待つしかないのか。そもそも、アンノウンは諦めてくれるのか。後者の期待は捨てたほうがいい。

 不意に、車の屋根が鈍い音と共に凹んだ。

 怯える女性に頭を伏せるよう指示しながら、誠は運転席の窓からこちらを覗く黒馬に気付く。黒馬の腕が窓ガラスを突き破り北條へ伸びる。ハンドル操作を妨害されたせいで、路肩に停めてあった車を掠めてしまった。衝撃に体が持っていかれそうだ。踏ん張らなければ外に放り出されてしまう。

 黒馬は次に後部座席の窓ガラスを破る。ガラス片を撒き散らしながら伸ばしてくる腕を振り払いながら懐の拳銃を手に取ろうとするが、車が激しく揺れているせいで体が思うように動かせない。

 体が右へ行ったと思えば、今度は左へと持っていかれる。北條はハンドルを大きく切りながら車を走らせていた。黒馬を振り落とすつもりか。何度車体を大きく蛇行させても、黒馬は一向に落ちる気配がない。まるで洗濯機の中にいるようだ。三半規管が狂い始め、視界が不安定になってくる。

 再び天井から乗ってきた衝撃で、誠は辛うじて意識をはっきりと保つことができた。ガラスがなくなった窓から、パトカーと並走している赤と金色のバイクが見える。バイクはシートに誰も乗せていないのに、バランスを保ったまま走り続けている。まさか、という誠の予感を代弁するように、北條が口走った。

「アギトか!」

 アギトが来てくれれば、勝機はこちらに傾く。北條は蛇行運転をやめて、それでもスピードを緩めないまま走り続ける。ボンネットにアギトが転げ落ちてきた。続けて黒馬も。こともあろうか、両者はボンネットの上で殴り合いを繰り広げた。暴れてくれるせいでフロントガラスに亀裂が蜘蛛の巣のように広がり、殆どの視界を塞がれる。

 北條は大きくハンドルを切った。すぐ何かと衝突したのかパトカーが急停止する。強烈な慣性で体が前へと引っ張られ、シートの堅い骨格にぶつかった肩が軋みをあげる。フロントガラスのまだ亀裂の入っていない部分から、サイドボディがひしゃげた車が見える。路肩に停まっていたものと衝突したのか。鈍い音が聞こえてくる。戦いはまだ継続されているらしい。アギトと黒馬もボンネットから投げ出されたはずだが、ふたりにとってその程度で痛みは感じないのか。

 膨らんだエアバッグを押しのけながら、北條が拳銃を手に車から降りた。

「何をするんですか北條さん!」

「アギトを捕獲するんですよ!」

 誠も車から降りると、北條は戦っている異形たちへ銃口を向ける。「やめてください!」と誠は拳銃を握る手を掴むが、「邪魔するな!」と振り払われる。

「やめろ‼」

 無意識に、誠の拳が北條の頬を打った。倒れた北條の手から拳銃が零れ、それを取ることなく北條は誠へ憎悪のこもった視線を向けてくる。

 こちらの揉み合いなどよそに、アギトのほうも勝負を決しようとしていた。金色の角が開き、足元に紋章を浮かべている。向かってくる黒馬へと跳躍し、突き出した右足が黒馬の胸を穿ちその体躯を蹴り飛ばす。

 ああ、決まった。誠の確信の通りに、地面を転がった黒馬は裡から生じた爆炎に包まれて、その体を消滅させた。

 

 湖で佐恵子が怯えた目を向けたそれは、まるでシマウマのような姿をしていた。涼がバイクのエンジンを吹かすと、音に気付いた敵がこちらへと目を向ける。スピードを緩めることなく、涼は湖の浅瀬にいる敵へと水飛沫をあげながらバイクを走らせ、その彫刻じみた体躯にカウルをぶつけて撥ね飛ばす。すぐさま車体をターンさせ、砂浜に身を伏せる敵へ近付けると浮かせた前輪を容赦なく叩き込む。

 タフなことに、敵はバイクごと涼を押し返してきた。それなりに重量のある車体が脇へと払われ、巻き添えを食らうまいとシートから離れた涼は敵の顔面に回し蹴りを見舞う。重心を崩した敵にすかさず追撃の蹴りを加え、湖へと追いやった。

「ウオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア‼」

 雄叫びと共に、涼の両足から尖刀が伸びた。よろめきながら立ち上がった敵へ跳躍し、その筋肉が盛り上がった肩にヒールクロウを突き刺す。胸を蹴って引き離した敵が湖面に倒れると同時、爆散した敵が辺りに水飛沫と肉片を撒き散らした。

 敵が消滅すると、涼の裡にある闘志は一気に引いていく。元の姿に戻った涼は湖を見渡した。爆発で波紋を揺らす湖面で、佐恵子の体が力なくたゆたっている。佐恵子を中心として湖の水が赤く染まり、それがじわりと広がっていく。

「佐恵子さん!」

 涼は湖面へ飛び込んだ。佐恵子の手が涼の方へ伸びるのが見える。涼は絶えず手足を動かして水を掻き、佐恵子への距離を詰めていく。めいっぱい伸ばした手で佐恵子の手を掴もうとするが、未だに掴めるのは水ばかり。どれ程泳げば届く。もう到達しても良いはずだ。涼は一旦止まり辺りを見渡した。左右前後。揺れる波間のなかにさっきいたはずの佐恵子が見つからない。

「佐恵子さん!」

 涼の叫びは水面の上でしか響かない。偽りの伝説と、偽りに塗れた者が沈んでいく湖の底には、決して届くことはなかった。

 

 

   4

 

 屋上から臨む空はオレンジから不安定な紫へと変わり、やがて藍色へと移ろう。幼い頃からずっと見慣れてきた景色だ。感慨なんて湧かなかったのに、この時の千歌の目にはその光景がとても愛おしく映る。

 故郷を眺めながら、千歌は後ろにいる皆へと告げる。

「わたし、心のなかでずっと叫んでた。助けて、って。ここには何も無い、って」

 地方の田舎町。生活に必要なものは最低限だけで、何も楽しめるものはない。でもそれは表面でしかなかったと、自分には何も見えていなかっただけだ、と17歳になろうとしている頃になってようやく気付くことができた。

「でも違ったんだ。追いかけてみせるよ。ずっと……、ずっと。この場所から始めよう」

 空へと昇っている灯篭たち。あの灯篭を作ってくれた人々の想いが、この街にはたくさん詰まっていた。こんな小さな街でも、多くの人の想いが響き合っていた。あの光のように、もっと高いところへと昇っていこう。

 振り返ると皆が千歌と同じように、期待に満ちた笑みを浮かべている。この仲間がいればきっとわたしは、以前は絶対にできないと思っていたことが今度こそ――

「できるんだ!」

 

 





次章 TOKYO / 父の手掛かり


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第7章 TOKYO / 父の手掛かり 第1話

 劇場版『ラブライブ! サンシャイン‼』観賞してきました!

 色々と所感ありますが、それは全て本作に注ぎます。『アギト』と交わったこの作品のなかでAqoursが駆け抜けていく姿をどうか見守ってあげてください。




   1

 

 アンノウン排除活動手続書。

 国家の治安を守る警察組織である以上、G3ユニットはその活動を報告する義務がある。戦闘オペレーションの時間、使用した武装、消費した弾薬数。例えG3を出動させなかったとしても、アンノウンに遭遇し何か対処したのなら、その時の状況と捜査員の行動も書面に記述しなければならない。誠の先日の行動も事細かく。

「で、北條透を殴ったわけだ」

 誠の口頭での説明をもとに、小沢がPCで報告書をまとめていく。

「はい、つい………」

 同僚に暴力を振るうなんて、警察官どころか社会人としてもあるまじき行為だ。その罪悪感は確かにある。

「でも、あの場合ああするほか無かったと思うんですが………」

「大体の事情は分かったけど、もう1度最初から話してごらんなさい」

 そう言って小沢はPCに背を向けて誠と向き合う。そこで尾室が口を挟んだ。

「小沢さんこれで5度目じゃないですか。取調べじゃないんですから」

「何言ってんの大事なことでしょ。こういう些細な確執が大きな問題に発展するのはよくあることだし、同じユニットのメンバーとして事情をよく把握しておくべきだわ」

 ここまで正論を並べられると、尾室も何も言えなくなる。

「さ、氷川君。もう1度話してごらんなさい」

「………はい」

 もし僕のせいで、G3ユニットがまた活動停止にまで追い込まれたら。悪い方向にばかり想像が向くが、ここで黙秘したって仕方ない。上に報告して、然るべき処分が下れば従うしかない。たとえまたG3装着員から降ろされたとしても。

「北條さんがアギトに銃を向けて――」

「グーで殴ったの? パーで殴ったの? チョキで殴ったの?」

 小沢の質問に答えられず、誠は拳を握った自身の右手に視線を向ける。「分かったわ、グーね」と小沢はPCに向かいキーを叩く。

「チョキで殴れるわけないじゃないですか」

 ため息交じりに言った尾室に、小沢が無言のまま視線を向ける。その眼差しに射貫かれたのか、尾室はたじろぎ目を彼女から逸らす。

「目潰しってこともあり得るでしょ」

 淡々と述べるところが、尚更恐怖を引き立てる。小沢なら本当にやりかねない。この才媛は冷静なんだか感情的なんだか時々わからなくなる。

「それで、何メートルくらい吹っ飛んだの?」

「………は?」

 その質問に何の意味が。尾室に視線で尋ねると、彼はキーを叩く小沢に呆れの視線を注ぎ、それに気付かない小沢は更に質問を続けた。

「歯の1本くらい折れたのかしら、あの馬鹿男。ねえ、どうなの? はっきりさせなさい」

 

 

   2

 

 やっと夏服だ、と汗ばむ体を冷まそうと千歌はうちわを扇ぐ。衣替えの6月に近くなるにつれて気温も上がり続け、5月下旬にはまだかまだか、と冬服が暑苦しくなった。月が変わると一気に夏日和になって、早くもセミの鳴く声がどこもかしこも響いている。

「この前のPVが5万再生?」

 皆が集まった部室で千歌は訊く。「本当に?」と曜が続けて訊くと、ノートPCに釘付けになっている1年生組の中から善子が説明してくれる。

「ランタンが綺麗だ、って評判になったみたい。ランキングも――」

 画面の文字が小さいのか、善子は目を細めて黙ってしまう。待ちきれないのか、梨子が画面を覗き込むとその目を大きく見開いた。

「99位⁉」

 その数字が何を意味するのか、驚愕のあまり千歌は理解するのに数舜を要した。

「………来た」

 「来た来た!」と集まっている皆のもとへと駆け寄り、

「それって全国でってことでしょ? 5千以上いるスクールアイドルのなかで100位以内ってことでしょ?」

「一時的な盛り上がり、ってこともあるかもしれないけど、それでも凄いわね」

 あくまで梨子は冷静に言うが、それでも嬉しさが顔に出ている。ルビィも興奮した様子で画面を見ながら、

「ランキング上昇率では1位」

 「すごいずら」と花丸も続いた。良いものができた、という手応えはあったが予想以上だ。自分たちはしっかりと階段を上っているんだ、と実感できる。その実感を千歌は告げる。

「何かさ、このままいったらラブライブ優勝できちゃうかも」

 「優勝?」と曜が、「そんな簡単なわけないでしょ」と梨子が言う。それでも、何だかいけそうな気がする。勢いに乗っている気がしてならない。

「分かっているけど、でも可能性はゼロじゃない、ってことだよ」

 事実、数字にもこうしてAqoursの人気ぶりが表れているのだから。

 不意にPCから着信音が聞こえた。皆の視線が一斉に画面へと注がれる。ルビィがメールアプリを開き、その内容を読み上げる。

「Aqoursの皆さん、東京スクールアイドルワールド運営委員会………」

 「東京?」と曜が反芻する。

「東京って、あの東にある京………」

 思ったことをそのまま口に出してしまった千歌に梨子が呆れを告げる。

「何の説明にもなってないけど」

 東京。確か日本の首都で国際的にも指折りの大都市と名高い――

 数舜を経てその地名の纏う大きさに気付き、全員で声を揃えた。

「東京だ!」

 部室にいる皆にとっての憧れの地。でも千歌にとって、東京はまた別の意味を持つ都市でもあった。

 

 

   3

 

 今度の土曜日と日曜日に東京へ行く。

 ルビィからその話を聞かされたのは夕食後のことだった。座布団の上で行儀よく正座するルビィが恐る恐る言う。

「イベントで一緒に歌いませんか、って」

「東京……、スクールアイドルイベント………」

 呟きながら、それが東京スクールアイドルワールドというイベントだとダイヤは気付いた。ラブライブ本戦前の前座のようなものだ。

「ちゃんとしたイベントで、去年優勝したスクールアイドルもたくさん出るみたいで………」

 どうせ千歌は参加する気満々なのだろう。スクールアイドル・ソーシャルサイトのランキング100位圏内のグループのみが招待されるイベントだ。参加して観客からの支持を得れば箔がつく。

「駄目?」

 弱々しい声でルビィが訊いた。すかさずダイヤは質問を返す。

「鞠莉さんは何て言ってるの?」

「皆が良ければ、理事長として許可を出す、って………」

 鞠莉ならそう言うだろう。想像がつくと同時に、何故と思った。鞠莉はイベントのことをよく知っているはずだ。どれほどの規模で、どれほどの観客がいるのか。

 立ち上がったルビィは尋ねる。

「お姉ちゃんはやっぱり嫌なの? ルビィがスクールアイドル続けること」

 嫌じゃない。それどころか――

 この想いは吐露すべきじゃない。自身を律したダイヤは「ルビィ」と優しい声音を意識して告げる。

「ルビィは自分の意思でスクールアイドルをすると決めたのですよね?」

「………うん」

「だったら、誰がどう思おうが関係ありません。でしょ?」

「でも――」

「ごめんなさい。混乱させてしまってますわね。あなたは気にしなくていいの」

 そう、ダイヤの意思を挟む必要なんてない。ルビィのアイドルへの情熱が、姉であるダイヤの影響を大きく受けたことは自覚している。それでもルビィは、ダイヤがスクールアイドルへの嫌悪を露わにしても熱を捨てなかった。自分の意思をしっかりと貫き、望んでいたAqoursという居場所を見つけてくれた。それは姉として嬉しいことだ。嬉しさが大きい分、不安もある。

「わたくしは、ただ………」

「ただ?」

 促された続きの言葉を紡ぐことなく、「いえ」とかぶりを振る。

「もう遅いから、今日は寝なさい」

 ルビィを残して居間を出ると、ダイヤはスマートフォンをポケットから出した。

 

「来ると思った」

 果南とは違って、ダイヤはしっかりとアポイントを取って正面玄関からホテルオハラの門を潜ってきた。面白みがない、と思いつつもダイヤらしい律儀さに笑ってしまう。大方の要件は見えている。部屋のテラスで外の景色を眺めていたダイヤは冷たく問う。

「どういうつもりですの? あの子たちを今、東京に行かせることがどういうことか分かっているのでしょう?」

「ならば止めればいいのに。ダイヤが本気で止めれば、あの子たち諦めるかもしれないよ」

 もっとも、その程度の熱意なら鞠莉が部設立の許可など出さなかったが。

「ダイヤも期待してるんじゃない? わたし達が乗り越えられなかった壁を乗り越えてくれることを」

「もし越えられなかったらどうなるか、十分知っているでしょう? 取返しのつかないことになるかもしれないのですよ」

「だからといって避けるわけにはいかないの。本気でSchool Idolとして、学校を救おうと考えているなら」

 鞠莉たちの代ではまだ猶予があった。でも今年度こそは、何か一手を打たなければならないほど追い詰められている状況だ。鞠莉にとっても、今のAqoursに託すのは博打に近い。それでも後輩たちにやってもらうしかない。失敗したときのリスクを最も重く被るのが、彼女たち自身だとしても。

 笑みを崩さない鞠莉にダイヤは視線をくべる。怒りと、呆れと、切なさと。その全てがない交ぜになって元が分からなくなるほどの想いが、鞠莉には分かった。

「変わっていませんわね。あの頃と」

 

 

   4

 

 結局、北條を殴ったことについて誠への処罰は下されなかった。アンノウンと交戦し市民を守ったアギトに敵性は認められず、アギトへの発砲を止めた誠の行動は適切な処置とされた。北條のほうからも、特に異議はないという。とはいえ、何のお咎めもないというのも誠の気が晴れない。上の判断なら従うしかないが、今度北條に会うことがあったら謝罪しなければ。

 そんなことを思っていた休憩の時間に、コーヒーを奢ってくれた河野が尋ねてきた。

「そういや氷川、お前北條のこと何か聞いてないか?」

「北條さんの?」

「ああ、どうも様子がおかしくてな」

 紙コップのコーヒーを自販機から出しながら、河野は何の気なしに言う。

「お前、あいつを殴ったって噂本当か?」

「すみません。僕が軽率でした」

「別に責めてるわけじゃないさ」

 のほほん、といった声音で言い、河野は休憩所の椅子に腰を預ける。誠も空いている椅子に座った。

「これであいつも少しは大人になってくれると良いんだがなあ。何しろ親にも殴られたことがないってタイプだからな」

 優秀な北條のことだ。殴られるほどの失態とは無縁な人生を送ってきたのだろう。ともすれば誠の拳は北條にとっては大きな汚点となってしまっただろうか。大人になってくれれば、と河野は言うが、一体誠が北條の成長を促すきっかけになれるだろうか。

「あ、そうだ」

 河野は話題を変える。

「例の三浦智子殺害の容疑者のことだが、不起訴処分で措置入院になったらしい」

「どういうことですか?」

「まあ精神鑑定の結果問題あり、ってことだろうな。犯行を自供してから一切口をきかず、名前すら分かっていない。勿論犯行の動機も分からない。今のところ通り魔的な殺人って見方が有力なようだが」

 結局、あの青年の素性については何も分からなかったということか。精神鑑定で問題が見られたということは、青年は錯乱状態で三浦を殺害してしまった、と検察は判断したことになる。でもその判断が、どうしても誠には妥当と思えない。

「本当にそうでしょうか? これは僕の勘なんですが、あの犯行が通り魔的なものとはどうしても思えないんです」

 ふーむ、と河野は溜め息をつく。この事件はまだ終わらせるべきじゃない、と誠は考えているが、河野はどうだろうか。ベテラン刑事の意見を聞きたかったが、河野の端末が着信音を鳴らしたためそれはお預けになる。「はい河野ですが」と彼が電話応対している横で、誠はようやくコーヒーを啜った。

「ああ、分かりました。すぐ行きます」

 そう言って通話を切ると、河野は「これからだ」とひょうきんに笑いながら右手の小指を立てる。東京に置いてきたという妻だろうか。挨拶したいところだが、遠路はるばる来てくれたのだから夫婦水入らず世間話に華を咲かせてもらおう。

「じゃあ、僕はこれで」

 会釈して立ち上がる誠を河野は「おお、ちょっと待て」と制し、

「まあそう言うな。紹介するよ。俺の自慢のガールフレンドだ」

 そう言って軽い足取りで応接室への廊下を歩く河野のあとを着いていく。ガールフレンドとはどういうことか、と気にはなるが会えば分かるだろう。

 警察官たちが行き交う廊下の奥から、瀟洒なスーツの北條が歩いてくるのが見える。

「北條さん」

 誠と河野が足を止めると、北條も同様にして向かい合う。

「先日は、すみませんでした」

 頭を下げた誠の耳に届いた北條の声は、予想よりも明るい声音だった。

「あなたが謝ることはありませんよ」

 いささか驚いて顔を上げると、北條の笑顔が視界に入り込む。

「間違っていたのは私のほうだ。今ではそう思っています。そんなことより、期待してますよ。G3装着員としての活躍を。私にできなかったことを、あなたがやってください」

 動揺のあまり、誠は上手く言葉を紡ぐことができずにいた。自分を殴った相手にこんなにも懐の大きな対応をしてみせるなんて。この同僚が本庁きってのエリートと評される理由が分かる。

「そんな……、僕にどれほどのことができるか、自信は無いんですが………」

「大丈夫、あなたならね」

 そう告げて北條は誠の肩に手を置き、河野に会釈すると颯爽と歩き去っていく。

 

 ドアが開かれた応接室で、彼女は数度目の訪問でも落ち着かないのかせわしなく辺りに視線を向けていた。河野がドアをノックすると、学校帰りなのかセーラー服姿の彼女は大きな瞳をこちらに向けて「こんにちは」とあどけない笑顔を見せる。

「高海さん」

 誠が驚きの声をあげると河野はしたり顔で、

「どうだ、驚いたか?」

 確かに自慢のガールフレンドだ。河野の年齢を考えると少し怪しげな雰囲気になってしまうが。

「ふたりとも、知り合いだったんですか?」

「翔一くんが連れていかれるときにもしかして、って思ったんですけど。こっちに来てるなんて思わなくて」

 千歌がそう言うと、河野も朗らかに笑う。

「こっちも気付きませんでしたよ。あのお嬢さんがすっかり大きくなったもんだ」

 「えへへ」と千歌は嬉しそうに笑った。一体どういうことか。お茶を用意しながら、誠は事情を聞いた。

「3年前、よく聴取に彼女の家に行っていたんだ」

「じゃあ高海さんのお父さんが殺された事件、あれの担当が河野さんだったんですか?」

「ああ、現場が都内で警視庁(うち)の管轄だからな。ずっと追いかけてるんだが………」

 誠がテーブルにお茶を置くと、河野は対面に座る千歌に尋ねる。

「で、今日はどうしました?」

「何か新しい手掛かりとか掴めたかな、って」

「それが相変わらずでねえ、申し訳ない」

「いえ、わたしのほうこそ急に押しかけちゃって………」

 苦笑を浮かべる千歌を見て、誠はやるせない気分が胸に溜まっていく感覚を覚える。まだ高校生なのに、家族を失った悲しみを背負わされるなんて。犯人が捕まっていないせいで、憎むべき者の顔すら分からない。

「しかし、まだ時効までにはたっぷり時間がある。ホシは必ず挙げてみせますよ」

 河野は断言した。いや、断言せざるを得ない、というべきか。被害者遺族に向かって、事件の進展はないから解決は望めない、だなんて無責任なことは言うべきじゃない。3年前の事件だ。今や捜査本部も縮小されて真面目に捜査している刑事も河野くらいしかいないのかもしれない。その河野も不可能犯罪発生に伴い本庁を離れ沼津に滞在する始末。警視庁としても、時効までずるずると捜査を引き延ばして迷宮入りさせようとしているのか。

 事件のことについて何も話すことがなくなってしまうと、話題は自然と千歌の身の上話になっていった。何でも千歌は学校の部活動でアイドルをしているらしく、最近インターネットにアップロードしたPVが好調なんだとか。東京で開催されるアイドルイベントにも招待され、近々上京するといった話を千歌は嬉しそうにしていた。悲しみはまだ癒えなくても、彼女は懸命に日々を過ごし青春を謳歌している。そのことは誠にとっても慰めになった。

 署の玄関で千歌を見送ると、彼女の小さな背中を眺めながら河野が言った。

「父親が殺されてよっぽど悔しかったんだろうなあ。3年前も熱心に事件のこと訊いてたんだよ。まだ子供なのに………」

「河野さん。良かったら詳しく聞かせてもらえませんか。事件について」

 誠が沼津にいるのは、G3装着員としてアンノウンから市民を守るため。だがそれ以前に刑事であり、河野の部下だ。上司の追っている事件を追ったって良い。事件の真相を明らかにすることで、千歌がしっかりと父の死にけじめをつけられるように。

 

 

   5

 

 沼津から東京までは電車で1時間半あれば着くのだが、万事に備えて、ついでに東京観光も兼ねて――後者が理由の大半だ――Aqoursはイベント前日のうちに上京することになった。千歌は東京という行き先にかなり浮かれていたが、大事なイベントを控えているということを忘れてはいけない。一応保護者として翔一も同行するらしいのだが、どうしても不安は拭えない。東京にある程度慣れている自分がしっかりしなければ。そう思いながら梨子は身支度を整えて十千万へ行ったのだが、玄関先に出てきた千歌はやはり梨子の不安を的中させた。予想の遥か上を行って。

「東京トップス!」

 赤い生地に金のボーダー柄が入ったジャケット。

「東京スカート!」

 フリルが何重にも編み込まれたティアードスカート。

「東京シューズ!」

 片方がピンクでもう片方がオレンジ。更に猫か犬らしき動物のマスコット付きの靴。

「そして、東京バッグ!」

 オレンジの生地にパンダと星のワッペンやらミカンのストラップが付けられたショルダーバッグ。

 更に述べれば脚に纏う赤とピンクに黄色の星がプリントされたタイツ。両手の指には明らか邪魔になりそうな飾りの大きな指輪。首元にはこの時期暑苦しそうなファー。耳には動く度にジャラジャラ音を立てる大きな金色のイヤリング。目元には恐らく伊達のピンク縁の眼鏡。追い打ちとばかり頭にはこれまた大きな黄色のリボン。

 どこから指摘すればいいのやら。ようやく絞り出せた梨子の第一声はこれだ。

「一体何がどうしたの?」

「可愛いでしょ!」

「東京行くからってそんなに構えなくても………」

「梨子ちゃんはいいよ。内浦から東京行くなんて一大イベントなんだよ!」

 暖簾の陰で美渡が笑いを堪えているのが見える。きっと彼女が犯人だ。

「いやーお待たせ。準備に時間かかっちゃってさ」

 何で千歌の暴走を止めなかったのか。そう文句を言おうとしたのだが、それも暖簾を潜って出てきた翔一の出で立ちを見て梨子は口をあんぐりと開けた。

「おお、良いね翔一くん!」

「そうかな? 東京なんて初めてだからさ、お洒落とかしたことないから落ち着かなくて」

 上下白で統一されたスーツ。下に着ている金色のシャツはラメが散りばめられているのかキラキラ光を反射していて、襟元も白の蝶ネクタイで飾られている。因みに足元も白の革靴。

 いつの時代の演歌歌手か。

 ステージ衣装よりも派手なふたりを見るのに疲れ始めた頃、「おはようございまーす」というルビィと花丸の声が聞こえてきた。ふたりからも何か言ってもらおう。そう思ったが後輩たちを見た梨子はまたしても絶句することになる。

「どうでしょう? ちゃんとしてますか?」

 そう尋ねるルビィは千歌に劣らず。脚を覆うカボチャのように膨らんだドロワーズパンツ。水玉模様のスカート。お気に入りなのかクマのようなキャラクターのプリントがでかでかと入ったシャツとバッグ。指には千歌と同じようにリボンやら星やらの飾りが付いた指輪。何より最も目を引くのが大きなキャンディ形の髪飾り。

「これで渋谷の険しい谷も大丈夫ずらか?」

 そう尋ねる花丸も説明するのが億劫になるほど面倒な出で立ちだが、一応説明しておく。ボーイスカウトさながらのネズミ色探検服にヘッドライト付きの作業用ヘルメット。背中にはアウトドア用ザックに丸めたテントを背負い、手には本来雪山で使うはずのピッケルが握られている。

「何その仰々しい恰好は………。それに渋谷は険しくない」

 梨子が疲れ気味に言うと、ふたりは「がーん!」と驚愕する。ぷくく、と隣で翔一と一緒になって笑いながら千歌が言った。

「ふたりとも地方感丸出しだよ」

「あなた達もよ」

「えええええええ⁉」

 

 



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第2話

 

   1

 

「結局いつもの服になってしまった………」

 志満の運転するバンの後部座席で、一度家に引き返し私服に着替えた花丸は恥ずかしそうに呟いた。助手席に座る梨子はそんな彼女の装いに、

「そっちの方が可愛いと思うけど」

「本当ずら?」

「ええ。でもその『ずら』は気を付けたほうがいいかも」

「ずら⁉」

 花丸と同じように着替えた千歌とルビィには、そんなふたりの会話などまるで耳に入っていなかった。千歌はそのとき東京に胸を躍らせていたようだが、ルビィには少し前に姉から告げられた言葉がついて離れなかった。

 ――ルビィ、気持ちを強く持つのですよ――

 家を出る直前、ダイヤはルビィに優しく言った。それが何を意味する言葉なのか、全く見当がつかない。臆病なルビィがステージで委縮してしまう、と心配されたのかもしれないが、その予想は浅薄な気がする。

「ルビィちゃん」

 花丸の声で現実に引き戻され、ルビィは隣に座る親友へと視線を向けた。

「マルが『ずら』って言いそうになったら、止めてね」

 花丸には、ダイヤから言われた言葉のことを話していない。でも、彼女は何となくルビィの不安を察してくれたのだと思える。それを直接問うのではなく、普段通りのやり取りを交わすことで、少しばかり緊張が解けた。

 大丈夫、とルビィは自分とダイヤに言い聞かせた。花丸が、皆がいてくれれば何も怖くはない。

「あと、千歌ちゃんが暴走も止めてくれたら助かるわ」

 梨子が溜め息と共に漏らした。「ええ?」と口を尖らす千歌は後方へと目を向ける。

「心配なのわたしより翔一君だよ。初めての東京なんだよ」

 ルビィも後方を見やると、翔一のバイクがバンとの車間距離を保ちながら走っている。

「志満姉、何で翔一くんに一緒に行くよう言ったの?」

 千歌が訊くと、運転席の志満が「ふふ」と含み笑いするのが聞こえた。

「もしかしたら翔一君、記憶を失う前は東京に住んでいたかもしれないでしょ? そうしたら偶然家族や知り合いと会えるかも」

 

 沼津駅前に建つモニュメントの横で、曜はスマートフォンの時刻表示を見て「遅いなあ」と独りごちる。先ほど遅れるという連絡は受けたし時間の余裕もまだあるが、早く来てほしい。隣にいるのと一刻も早くこの場を離れられるように。

「あまつ曇りの彼方から、堕天使たるこのわたくしが、後にて数多なるリトルデーモンを召喚しましょう」

 何だか訳の分からないことを言っているこの自称堕天使は曜よりも早く駅前にいたのだが、その奇異な出で立ちでたちまち自身を中心とした人だかりを作っていた。ゴスロリ調のワンピースはまだ許容できるのだが、問題なのは翼やら羽のファーやら長すぎる付け爪、更にピエロなのかビジュアル系バンドなのか分からない白塗りメイクが人目をとにかく引く。おかげで声を掛けるのがたまらなく恥ずかしかった。

 集まっている人々の多くはこの堕天使もとい善子をスマートフォンのカメラで撮影している。その中に混じって千歌、ルビィ、花丸がにやにやという視線を投げていた。

「善子ちゃんも――」

「やってしまいましたね」

「善子ちゃんもすっかり堕天使ずら」

 「みんな遅いよ」と曜がひと安心している横で、「善子じゃなくて――」と善子が不気味に笑い、

「ヨハネ!」

 いきなり大声を出したものだから、驚いた群衆が一気に散っていく。それでも善子は構わず、

「せっかくのステージ! 溜まりに溜まった堕天使キャラを解放しまくるの!」

 それは好きにして良いが、とりあえずその奇抜なメイクは落としてもらおう。東京へ行く前に通報されないように。

 今度こそ準備が整ったところで、「千歌ー!」と急ぎ足でクラスメイトのよしみ、いつき、むつの3人が走ってくる。

「イベント、頑張ってきてね」

 いつきがそう言って、続けてよしみが「これ」と袋を千歌に差し出した。中に詰め込まれているのは沼津ご当地パンの「のっぽパン」だ。

「クラスの皆から」

 「わあ、ありがとう」と受け取る千歌に、よしみが期待を込めて告げる。

「それ食べて、浦女の凄いとこ見せてやって!」

 千歌は3人に真っ直ぐと眼差しを向けた。自分たちを応援してくれる人々。クラスメイトだけでなく、学校や地域の皆も良い知らせを心待ちにしているだろう。明日には朗報を持ち帰ってくる、という決意が千歌の言葉から見えた。

「うん、頑張る!」

 さて、出発しよう。士気が高まったところで、それを見事に崩してしまうのは一行の保護者だ。

「皆ありがとね。そろそろ新しい野菜育てるからさ、皆にもご馳走するよ」

 そう告げる翔一に3人はただ苦笑するしかなく、曜も張った肩の力が抜けていくようだった。

「それより早く行こう。もう電車来ちゃうよ」

 千歌が翔一の腕を掴み、駅の改札へと向かっていく。「いってらっしゃーい!」というクラスメイト達の声に背を押されるように、曜と他の面々も後に続いていく。

 

 

   2

 

 本来の職務管轄である東京に戻ってきた誠と河野は、千代田区の有楽町駅で電車を降りた。街には出ず隣の新橋駅間を繋ぐ高架下のアーケード通りに入ると、頭上から絶え間なく電車の通る重苦しい音が響いてくる。騒音というほどうるさくないのが、このコンクリートで固められた路地の窮屈さを演出しているようだった。路地の脇には店舗が並んでいるのだが、昼間にも関わらずシャッターが閉じられて人通りも全くと言っていいほどない。

「ここが、高海伸幸の死体が発見された現場だ」

 都市の裏側とも言える暗い通路の一点で、河野は足を止めた。事件の痕跡は当然取り払われていて、何事もなかったかのようにコンクリートの壁には時代を経ての染みが生じている。河野は手帳を開き、

「3年前の5月10日。死亡推定時刻は15時前後。勿論くまなく現場は調べたが、捜査に役立ちそうな遺留品は何もなかった」

「死因は何だったんですか?」

「それがな、どうもはっきりしないんだよ」

「どういうことです?」

「検死報告書によると致命傷になるような外傷はどこにもなかった。ところが内蔵だけがボロボロになっててな。といって何らかの毒物が検出されたわけでもなかったらしい」

 到底有り得ない殺害方法。その響きはすっかり誠に馴染みある。

「不可能犯罪……。それじゃまるで――」

「アンノウンの仕業か? だがな、高海伸幸が殺されたのは3年前。アンノウンが現れたのは最近のことだろ?」

 アンノウンによる殺人が始まった今年の4月から、誠は過去に似たような事件・事故を問わず警視庁と各県警のデータベースを漁ってきた。でも前例と呼べるほどの事件も事故も起こっていない。死体が樹に埋まっていたとか、どこから落ちてきたのか特定できない死体とか、水のないところで溺死した死体とか。強いて前例として挙げるなら、この高海伸幸殺害事件のみだ。

 「それにな」と河野は続ける。

「犯人らしき者についてちょっとした情報があってな。ホシは人間だよ」

 

 駅構内から街へ出ると、そこには内浦でも沼津でもお目にかかれない光景が広がっている。右手ではメイドが通行人に満面の笑顔と共に広告を配っている。左手ではクマのキャラクターとメイドが子供たちと記念撮影をしている。行き交う人々の歩く姿は颯爽としていて、何もかもが輝いて見えた。

「ここが(あまね)く彼の者が闊歩すると言い伝えられる約束の地、魔都・東京………」

 善子の呪文のような文言を横に、千歌たちは秋葉原のビル群を見上げていた。

「見てみて、あれスクールアイドルの広告だよね!」

 ビルモニターに映し出されたプロモーション映像を指さす千歌に曜が、

「はしゃいでると地方から来た、って思われちゃうよ」

 「そ、そうですよね」と東京の街に圧されたのか、縮こまりながらルビィも、

「慣れてます、って感じにしないと」

 確かに。ここは街であってテーマパークじゃない。まだ駅の入口で子供のようにはしゃいでは地方からのお上りさんに見えてしまう。

「本当、原宿っていっつもこんな感じでマジヤバくなーい? ほーほっほ………」

 何となく千歌は都会の女子高生を意識して言ってみるが、これが果たして正しいのか分かっていない。少なくとも違う、と梨子には分かっているようで、

「ここ、秋葉………」

 「てへぺろ」と舌を出して笑うと、冷たい視線を返された。テレビで見た流行の言葉らしいのだが。

 まず、千歌たちは駅から近いスクールアイドルショップへ向かった。その店は千歌がどうしても行きたかった場所で、あまり大きくない店内に入ると同時に千歌は感嘆の声をあげる。

「うわあ、輝くう………!」

 缶バッジにポスターからタオルにクリアファイルといった日用品まで。勿論、伝説と謳われるμ’sのグッズも多く取り揃えてある。できることなら商品すべて買い占めたいが、現実問題として小遣いにも限りがある。宿代と電車賃を残し、何を買うか吟味しなければ。

「時間なくなるわよ」

 店の外で待っている梨子が窘めるように言った。続けて善子も。

「あれ、ずら丸とルビィは? 翔一もいないし」

 

 高いビルが視界に隙間なく並ぶ街並みは、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で想像できる未来都市そのままの光景だった。道行く人々の何人かはアンドロイドなのでは、と花丸に錯覚させてしまうほどに。

「未来ずら……、未来ず――」

 ぽん、と肩に手を置かれて花丸は我に返る。危うく訛りを出してしまうところだった。止めてくれたルビィに照れ笑いを返すと、そこへ翔一が走ってくる。

「いやあ、探したよ。東京って人多いよね」

 こんなところで道草を食っている場合じゃなかった。花丸は周囲を見渡すが、絶えず人の行き交う街の中に他の面々の姿がない。ルビィが気まずそうに言った。

「はぐれちゃったみたい………」

 ルビィとは真逆に笑っている翔一はというと、

「ルビィちゃんが携帯持ってるんだし、大丈夫じゃない? せっかくの東京なんだし、少し散歩してみようよ」

 本来ならこういった事態を避けるために同行しているはずの翔一も、東京の空気にすっかり呑まれているようだ。さっきの千歌と同じように、翔一は少年のような無邪気な眼差しでビル群を見上げていた。

「どっかにスーパーとかないかな? 東京の珍しい食材置いてるお店」

 

 次に河野に連れられたのは喫茶店だった。街の賑やかさと華やかさから離れつつある銀座の外れにある「ラビット」のドアを開けて中に入ると、レトロという言葉の似合う雰囲気とコーヒーの香りが漂っている。店内の所々に置いてあるウサギの人形は日本の雑貨屋ではあまり見かけないデザインだ。海外からの輸入品だろうか。

「河野さん、久しぶりだね」

 カウンターの奥で、マスターらしき初老の男性が誠たちを迎えてくれる。

「ちょっと出向しててな。久々に来ても相変わらず暇そうだなあ」

 笑いながら言って河野はカウンター席につく。誠も河野の隣に座り店内を改めて見回した。確かに誠と河野の他に、こじんまりとした店内にお客は1組の若い男女しかいない。

「これがうちの良いところですよ」

 河野の軽口をあしらい、マスターは「いつものやつでいいですか?」と注文を取る。「ああ、頼むよ」という短いやり取りから、河野はこの店にプライベートでも通っていたと分かる。

 マスターがドリッパーにお湯を注いでいる間に、河野はドアのすぐ横に置かれている大きな機械のもとへ行く。何かの自販機にも似ているその機械に河野は100円硬貨を入れて、黄ばみのあるスイッチを何個か押す。するとガラス張りになっている上部からレコードが飛び出して、定位置に収まるとノイズ交じりにクラシックギターの音色が聞こえてきた。

「ジュークボックスって言うんだ。見たことあるか?」

「いえ………」

 昔の音響装置か。お客が好きな音楽を流すことができるなんて。自分の知らない時代だが、どことなく落ち着く。

「お待ちどうさま」

 誠と河野の前に、マスターはそっとコーヒーのカップを置いてくれた。ドリップ式で淹れられたコーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。くつろぎたいところだが、ここには仕事で来ていることを誠は忘れない。

「では高海伸幸は殺される直前までこの店にいたということですか?」

 「ああ」と河野はジュークボックスから離れて席につき、

「結構なお得意さんでな。よくここで本を読んでいたらしいんだが、当日は連れと一緒だったというのが、マスターの証言だ」

 「連れ?」と誠は尋ねる。マスターは「ええ」と応え、

「あの日のことはよく覚えてますよ。丁度うちが開店10周年の記念日だったんで。まあ例によって暇だったんですけどね」

 そうマスターは微笑を挟み、

「で、最初に来てくれたのが高海先生と連れの方で――」

 「ああほら、あそこの席で」とマスターは手で店内の隅にある席を指し示す。今日は誠と河野以外で唯一の客である男女が座っている席だ。男は猫舌なのかカップに何度も息を吹きかけていて、その様子を向かいに座る女性が微笑ましく眺めている。

「ふーふーしてあげよっか?」

「いらねえよ」

 あまり見ているのも失礼だ。誠はカウンターに向き直り、マスターの話に意識を戻す。

「相手は幼いがとても物腰の落ち着いた女の子でした。最初は何かひそひそ話をしているようでしたが、そのうち口論になっちゃって」

「口論というと? 内容は覚えていますか?」

「そんなことは有り得ないとか何とか、相手の女の子は言ってましたけど………。詳しいことまではちょっと………」

 相手が若い女性であれば、高海伸幸が教鞭を執っていた大学の学生という可能性が持てる。だが少女となるとおぞましい方向へと想像が向いてしまう。まさか妻子を持つ身でありながら裏切りに等しい行為を。いや、まだ決まったわけじゃない。そんな隠すべきものを行きつけの店に連れてくるはずがない。誠は河野へと向き、

「河野さんは、その相手の少女が怪しいと?」

「まあな。まあどこの誰だかまるで手掛かりが無いんだが」

 

 買い物を終えた千歌が店を出ると、待っているはずの皆が誰もいなかった。ひとりずつ連絡を取ってみると、それぞれが別の場所にいるとのことで。

 まず千歌は曜に電話した。

『制服100種類もあるお店があってね。凄いよこのお店!』

 次に善子。

『黒魔術グッズ見たいから。これはヨハネが彼の地に呼ばれたのよ! ライブとかにも使えそうでしょ!』

 次に梨子。

『ちょっと寄りたいお店があって………。本屋さんよ、本屋さんなんだから!』

 最後にルビィ。

『はい、花丸ちゃんと翔一さんも一緒です。ふたりともすっかり楽しんじゃって………』

 次は神田明神でライブの成功祈願に行く、って電車の中で話したというのに。

「もう、みんな勝手なんだから!」

 東京に胸が躍る気持ちは分からなくもないが。何となく家を出るとき梨子に呆れられた理由が分かった気がする。神社の場所は皆分かっているらしいから合流はできるだろうが、果たしてそれぞれの用事が済むまでどれほど待たされることやら。

 千歌はスマートフォンの電車乗り換えアプリを開き、秋葉原周辺の路線図を見てみる。行く予定はなかったのだが、時間が余ってしまうのなら「そこ」へ行くのも良いかもしれない。

 来た道を引き返し、千歌は秋葉原駅へと向かった。

 

 

   3

 

 そこは豊島区の住宅街だった。駅周辺にはそれなりに高層ビルが立ち並んでいるのだが、少し離れれば都会の喧騒から遠ざかった、静かな街が広がっている。

「あれが、高海伸幸が住んでいた家だ。事件以来空き家になっているがな」

 河野が指さした家は、外観でも分かりやすいほどに整備が行き届いていなかった。庭の雑草が伸び放題になっていて、家の外壁にまで(つた)が絡まっている。

「高海伸幸はここから近い大学に勤めていてな。この家を買って単身で住んでいた。沼津の家に帰るのも、年に数回だけだったみたいだな」

 家主を失ってまだ3年しか経っていないというのに、人の手が届かないとここまで朽ちてしまうものなのか。被害者が不可解な死を遂げた以上、この家にも捜査の手が及んだに違いない。でも未だに進展なしということは、事件に関連するものは何も見つからなかったということだ。

 ふと、誠の視線が家の傍を歩く通行人に向いた。そこへ意識が向いたのは空き家であるはずの家に通行人が玄関の鍵を開けて入り、更にその通行人が千歌だったからだ。見慣れた制服じゃなくて私服だったから、危うく気付かないところだった。

「河野さん」

 それだけで誠の意図は伝わったようで、河野は頷き誠の後に続いて家へと歩き出す。

 

 1歩踏み出す度に溜まった埃が舞い上がる。家の中はかび臭く、板張りの床には所々にささくれが生じていた。無理もない。父が死んでからというもの、家は一応高海家の名義となっているが誰も寄り付かなかったのだから。近所で幽霊屋敷だなんて噂されているかもしれない。

 幼い頃に数えるほどしか訪れていないが、家の間取りは記憶通りで千歌は迷わず居間へと入った。ひとり暮らしには少々広すぎるくらいの一戸建て住宅で、父は空いたスペースに観葉植物を置くことが趣味になっていた。今でも放置されたままの植木には幼い頃の面影はなく、茶色く枯れた葉を垂らしている。

 居間にある埃に覆われたテーブル。そこで父は千歌に絵本を読んでくれた。当時の千歌はまだ幼稚園で、美渡が小学生、志満は中学生だったか。千歌が『桃太郎』の全て平仮名で書かれた文章を読み上げると、父は褒めてくれた。

 ――凄いぞ千歌、よく読めたな――

 ――ねえお父さん、おにがしまってどこにあるの?――

 ――さあなあ。でも、意外と近いところにあるかもしれないぞ――

 確かそのとき、美渡が「すぐお隣さんだったりして」と言ってきて、とても怖くなった覚えがある。

 ――こら美渡、千歌を怖がらせるんじゃない。大丈夫だ千歌、お父さんがやっつけてやる!――

 そう拳を握る父は誰よりも大きく見えて、誰にも負けないと信じて疑わなかった。ましてや誰かに殺されるだなんて、考えてもみなかった。テーブル以外にも父にまつわる思い出はある。それどころか、この家自体が父との思い出そのものだ。家を支える、居間の中央に立つ大黒柱。白く塗装された木柱には色とりどりの鉛筆で横線が引かれている。それは父が娘たちの成長を記録した線だ。志満の身長は黒の鉛筆。美渡の成長は青の鉛筆。千歌の成長は赤の鉛筆。

 ――千歌気を付け!――

 ――はい!――

 ――凄いぞ千歌。3センチも背が伸びてるぞ!――

 定規を当てて柱に線を引く父はとても嬉しそうだった。父に今の千歌を見てほしかった。スクールアイドルとしてステージに立つ姿を。

 玄関のあたりから物音が聞こえて、千歌は咄嗟に背後を振り返る。

「河野さん、氷川さん」

 驚きのあまり上ずった声で呼ぶと、ふたりの刑事は所在なさげに会釈する。

「すみません、勝手に入ってしまって」

 律儀に謝罪する誠に「いえ」と返し、

「どうしてここに?」

 その質問には河野が答えた。

「たまには、1から事件を洗い直してみても、良いかなと思いましてね」

「高海さんは、どうしてここに?」

 誠が訊いた。千歌からすれば沼津にいるはずのふたりが東京に来ていることに驚いているのだが、ふたりもまた然りなのかもしれない。

「明日スクールアイドルのイベントがあるので、それで。ここには来るつもりなかったんですけど………」

 父のことを思い出させるこの家を訪ねることに、何の意味があるのか千歌にも分からない。父の死を悲しんでいるという確信を得たいのか。顔も分からない犯人への憎しみを確認するためなのか。正直、犯人に対しての憎しみは千歌の裡に見つからない。顔が分かれば、はっきりと湧き出るのだろうか。それとも憎しみ以外の感情が芽生えるのか。

 悲しみとか犯人の顔とかよりも、千歌が知りたいのは父が殺された理由だ。何故あんなにも千歌を愛してくれた父が殺されなければならなかったのか。その理由が知りたい。

 柱に触れた指の感触に、千歌は「ん?」と眉を潜める。「どうしました?」と誠が訊いて、千歌は違和感を覚えた部分を凝視しながら、