ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト (hirotani)
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プロローグ

 hirotaniです。以前は『ラブライブ! feat.仮面ライダー555』という作品を投稿していました。

 『ラブライブ! feat.仮面ライダー』とシリーズ化して良いものか葛藤はありましたが、読者様からの熱いお言葉を頂きまた作品の投稿をさせていただきます。本作は実験的な試みのため、どんな出来になるかは分かりませんが長い目で読んでいただけると幸いです。

 よろしくお願いいたします。




 始まりは、見慣れた海だった。

 

 その日はいつもと同じ日和で、同じ海だと思っていた。

 幼い頃から慣れ親しんだ、静岡県沼津市の内浦から広がる駿河湾の海。波の音も、1年の大半は頭に雪を被った富士山も、何も変わらない日常のありふれた風景だった。

 けれどその日だけ、わたしはありふれた日常から外れた。

「千歌ちゃん、誰か倒れてるよ!」

 わたしの親友が慌ただしげに海岸を指さしたのは、休日に沼津の市街へ遊びに行こうと家を出た朝のこと。楽しみ、という期待がまっさらに消えて、「待ってよ曜ちゃん」と親友の後を追って波打ち際まで走ると、確かに見慣れた風景の一点でその人は海水に身を浸していた。

「生きてる……、かな?」

 まだ子供だった故の不謹慎さから、わたしは恐る恐るその人の顔を覗き込みながらそう言った。見たところ若い青年だった。濡れた長めの髪がうつ伏せの顔面に張り付いて、その顔が一定の間に押し寄せる波で洗われていく。

「引き揚げなきゃ」

 親友の言葉で、わたしはまずやべきことを見出す。どれくらいの時間に青年が海を漂って内浦の海岸に流れ着いたのかは分からないけど、まだ海水が冷たい季節だから低体温症で危ない状態かもしれない。現に、そのときのわたし達はとても興奮して大声でまくし立てていたというのに、青年は微動だにせず砂浜に顔を埋めていたのだから。

 「よいしょ」とわたし達は片方ずつ腕を掴んで、青年を波から引っ張り上げた。子供――といってもその頃はもう中学生だったけど――にとって青年の体はとても重くて、普段から運動をしている親友は平気そうにしていたけどわたしはすっかり息をあえがせた。砂浜に腰を下ろしたわたしの手を青年の手が握り返したとき、「うわあっ」と驚いて反射的に放り投げるように放してしまった。

 微かな痙攣を起こしながら、ゆっくりと青年の目蓋が開けられる。緩慢に頭を持ち上げた青年はわたし達に気付くと、緊張感なんて無縁そうな笑みを浮かべて言った。

「靴が濡れちゃいますよ」

 このときに抱いた気持ちは、今でも鮮明に思い出すことができる。確かに青年を引っ張り上げるときに靴を海水で濡らしてしまったけど、まさかそのことを心配されるなんて。ここはどこ、とか君たちは誰、とか疑問が飛んでくるとばかり思っていたのに。

 この浜辺から、全てが始まった。

 本格的にわたし達の物語が動き出すのはこの日から1年と半年も待たなければならなかったのだけれど、わたしにとっての始まりはこの出会いだ。

 これを読むあなたにとっては既に知っている過去のことだから、少し退屈かもしれない。でも、わたし達が過ごした時間が一緒でも、わたし達それぞれが感じていたことは違うと思う。わたしは皆が感じていたことを知りたかったし、皆にも知ってほしいんだ。わたし達が何を想いながらあの頃を過ごしていたのか。わたし達の知らないところで、何が起こっていたのか。

 

 これからわたしが語るのは、わたし達が伝説の輝きを追いかけ、わたし達自身の輝きを探し求めた物語。

 輝きを力に変えた、アギトの神話の物語。



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第1章 輝きたい‼ / 戦士の覚醒
第1話


   1

 

 わたしは待ち続けていた。普通なわたしの日常に、突然訪れる奇跡を。

 何かに夢中になりたくて――

 何かに全力になりたくて――

 脇目もふらずに走りたくて――

 でも何をやっていいか分からなくて、(くすぶ)っていたわたしの全てを吹き飛ばし、舞い降りてくるものを。

 

 

   2

 

 壁と天井を覆うコンクリートに、ゆっくりとしたリズムの足音が反響する。ジュラルミン合金製の靴底が150キログラムもの総重量を床に叩き付けているが、その鎧を全身にまとう当人にとって、重さはさほど苦ではなかった。自分の体重を超える武装には、筋力補正も組み込まれている。100メートルの距離を10秒で走ることも可能だ。

 大丈夫。訓練と演習通りにやればいい。

 マスクの奥で、装着員は深く深呼吸した。

『用意は良い? 氷川(ひかわ)君』

 マスクに搭載されたスピーカーから女性の声が聞こえてくる。「はい」と装着員は応じた。大丈夫だ、と再び深呼吸する。ただ警視庁の上層部がモニタリングに同席しているだけ。普段の演習との違いはそれだけだ。指揮を執るのは小沢澄子(おざわすみこ)。オペレーターは尾室隆弘(おむろたかひろ)。そして装着員は自分。何も変わりはない。

『G3戦術演習(マヌーバー)、開始』

 小沢が告げると、演習ルームの奥に設置されたモノリスが警告のブザーを鳴らす。続けてその窓から黒いハンドボールほどの鉄球が無数に飛び出してくる。まっすぐ向かってきたそれらを紙一重で避けると、背後に衝突する音が幾重にも響く。床に落下する音は聞こえなかった。砲丸よりも重い鉄球だ。コンクリートの壁では衝撃に耐えきれず、球を埋めさせてしまっているのだろう。以前、演習後に何気なく鉄球が埋まった壁を見たときは、まるで無数の目に睨まれているようで少し怖気づいた。

 続けて飛び出してきた鉄球も全て避けてみせたが、最後の1球のみは避け切れず、鋼鉄の胸部装甲に直撃する。スピーカーから中年男性特有の、しわがれかけた「おお……」という声が漏れる。この1球は敢えて避けなかった。回避はスーツではなく、スーツを動かす装着員の動体視力に左右されるからだ。だからスーツの耐久性を示すため、1撃のみは許した。

 胸に抱えた鉄球から手を放す。ごとり、と床に鈍い音を立てて落ちると同時、再び投球機から鉄球が飛んでくる。右手に携えた拳銃を構え、トリガーを引く。すぐ目の前まで迫っていた鉄球は木端微塵となり、辺りに欠片をまき散らす。続けざまに飛び出す鉄球の数だけトリガーを引くと、銃口から放たれた弾丸は一寸の狂いもなく全て中心を撃ち抜き砕いていく。

 この精密な射撃もスーツの補正によるものだ。目標をマスクのディスプレイにてポインターが補足し、AIが腕部ユニットに理想的な構えを促してくれる。装着員はただトリガーを引くだけでいい。普段の射撃訓練がまるで意味をなしていないようで複雑ではあるが、生身の射撃ではどうしても誤差が生じてしまう。

『うん、良い良い。良い感じよ氷川君』

 ご機嫌な小沢の声の奥で、「おお……」と今度は感嘆の声が聞こえてくる。上層部の面々も満足しているらしい。

 モノリスは鉄球を吐き出し続けるが、飛び出すと同時に全て撃ち落された。銃声と破砕音。銃身から排出される薬莢が落ちる甲高い金属音。これだけ騒がしくても、実のところ半径1メートルも動いていない。

 やがて、鉄球の射出が止んだ。いつも通りの演習なら、そろそろだろう。

『オーケー、氷川君。以上で今日のマヌーバーは終了よ』

 「はい」と応じ、再びゆっくりとした足取りで演習ルームを出る。隣接している控え室の柔らかな照明の光に出迎えられながら、両側頭部に手をかける。マスクの後頭部カバーが開いた。この動作だけでも緻密な計算が労されている。誤差0.01秒以内のタイミングでふたつのスイッチを押さなければ、カバーは開かない。作戦中にうっかりマスクが脱げないようにするための措置だ。

 自分の頭を覆っていたマスクの正面を、氷川誠(ひかわまこと)は見つめる。顔の半分以上を占める大きなふたつのセンサーアイが、照明を反射してオレンジ色の光を放ち、誠を見つめ返す。

 このユニットを運用するために、警視庁は新たな部署を結成するに至っている。元は特殊急襲部隊(SAT)の技術支援班のひとつでしかなかったのだが、単独での作戦遂行を目的とした特殊強化戦闘スーツの開発計画が発足するにあたり、開発部門は独立した。まだ試作機の域を出ないが、先の演習で性能を直に見た本庁の幹部達も、実戦での導入を前向きに検討してくれるだろう。理想的なのは、これが活躍する機会が来ないことではあるのだが。

 1号機のG1、2号機のG2を経て完成した、第3世代型(GENERATION-3)であるこのG3を。

 

 

   3

 

 桜が花を咲かせる頃、全国各地で入学式が執り行われ、新入生たちは新生活に期待と不安を躍らせる。既に在学している生徒にとっても、後輩の入る時期とあって学校は大賑わいになる。静岡県沼津市の内浦にある浦の星女学院もその例に漏れない。

「スクールアイドル部でーす!」

 校庭で桜の花弁が舞うなかで、高海千歌(たかみちか)は他の勧誘している部に負けじと段ボール箱の上で声を張り上げた。

「春から始まる、スクールアイドル部!」

 メガホンを口に押し当て、道行く新入生たちに「あなたも! あなたも‼」と『スクールアイドル部』と――因みに『部』の部首と意符(いふ)が逆になっていたので訂正した――書かれたプレートを押し付けるように示す。

「スクールアイドルやってみませんか? 輝けるアイドル! スクールアイドル‼」

 千歌は校舎へ歩く新入生たちの背中に声を張り続ける。しっかりと耳には届いていたと思うのだが、意識までには届かなかったらしく誰も振り向くことなく校舎へとまっすぐ向かっていく。

「千歌ちゃん」

 チラシ配りを手伝ってくれていた渡辺曜(わたなべよう)が、隣で呼んでいる。もう皆行っちゃったよ、と言っているようだった。それは千歌にも見れば分かる。千歌はがっくりと頭を垂れるが、それでも、とばかりに震える声を絞り出す。

「スクールアイドル部でーす………」

 曜が心配そうに顔を覗き込んでくる。その気遣いにどう答えればいいか分からず、千歌は勧誘していた生徒も撤収を始めた校庭に、再び声を張り上げた。

「今大人気の……、スクールアイドルでーす!」

 千歌の声が、春の蒼穹へと霧散していく。予想はしていた。でもどこかにあった期待のせいで落胆が生じ、再び千歌は頭を垂れる。

「あ、いたいた」

 そこへ聞こえてくる声に、千歌は「入部ですか⁉」と勢いよく顔を上げるのだが、駆け寄ってきたのは勧誘したものの断られた同級生3人組だった。

「残念だったね。新入生じゃなくて」

 よしみが意地悪く笑い、「はいこれ」と小包を差し出してくる。お気に入りのみかん柄ハンカチで包まれたそれは、いつも家を出るときに鞄に入れる弁当箱だ。

「さっき男の人が教室に来て、千歌に渡してほしい、って」

 あ、と千歌は口を開ける。今朝は勧誘の準備で大慌てだったから忘れてしまったのかもしれない。

「わざわざ持って来てくれたんだ。あの人らしいね」

 曜はそう言って笑った。千歌もつられて笑い、よしみから弁当箱を受け取る。

「千歌って、お兄さんいたっけ?」

 いつきがそう聞いてくる。続けてやや興奮気味にむつが、

「もしかして彼氏?」

 違うよ、と千歌は笑ってはぐらかす。

「ちょっと事情があって、うちで預かってるの」

 

 

   4

 

 かつて民間企業の工場として使われていたその施設は、まさに無機質という言葉が似合う。G3の改修設備として警察に買い取られた施設は、東京都内ではなく静岡県沼津市に住所を置いている。まだ試作機故にあまり重要視されていないという皮肉が、暗に提示されているようだった。

 沼津にありながら管轄は静岡県警ではなく警視庁。だから地元の警察とも馴染めないこの工場は、ある意味で箱庭だ。綿密なデータを採取するため、工場も演習ルームも沼津にあるものだから、誠は首都警察の警部補でありながらこの街に滞在を続けている。静岡は誠の地元であり、静岡県警はかつての勤務先でもあるのだが、仲間意識の強い警察組織というものは寛容じゃない。一度輪から外れた者を再び受け入れてはくれず、かといって誠の居場所は本部とも言えない。故郷の海は心安らぐ光景なのだが、一種の疎外感を誠は拭えない。

 誠が呼び出されて脚を運んだのは、G3の施設と隣接する別部門だった。そこでは研究者然とした白衣が至る所ではためいている。

「すみません、三雲さんは」

 施設に入ってすぐの所で計器をチェックしていた研究員に話しかけると、「あちらに」と奥を指し示す。示された手の先を視線で追うと、彼女は部下と何か話しているところだった。その視線が合うと、彼女は「ちょっと待って」と話を打ち切って誠へと駆け寄ってくる。会釈する誠に無言で手招きをするあたり、会話すら惜しいほど訪問を楽しみにしていたらしい。三雲は工場の奥で、無数の電線コードに繋がれた目測で2メートルほどあるその物体の前で脚を止める。

 誠が見上げる十字架に長方形の柱が4つ付いた「それ」は、3ヶ月前に大型台風が通過した与那国島の海岸で発見されたもの。調査は科学警察研究所に委託されたが、昔のことを調べて何になる、と考古学に理解を示さない上層部によってG3ユニットと同じ僻地を研究所として割り当てられた。

「信じられないな。本当に古代にできたものなんですか? これが」

 事前に聞いた海岸に打ち揚げられたという話から十字架に付いている無数の点は遠目でフジツボかと思ったが、近くで見るとそれは金属製のダイアルのように見える。古代にダイアルなんてものが既に存在していたというのか。しかも加工技術も見事だと、素人の誠にも分かる。機械で研磨したかのように面が滑らかだ。

 三雲は女性でありながら、まるで少年のように得意げな顔で説明を始める。

「様々なテストの結果、ほぼ同じ年代を指してるわ。そう、古代っていうくらいの表現じゃ足りないくらいの年代ね」

 「始めて」と三雲が指示し、「はい」と応じた研究員がキーボードをタッチする音が聞こえる。すると、物体のダイアルがひとつだけ回転を始めた。「動いた……」と誠は驚愕の声を漏らす。

「超古代のパズルってとこね。ダイアル状の可動部の数から計算すると、天文学的な組み合わせが可能だけど、それをコンピューターで計算して効率よくパズルを解いていくの」

 聞けば聞くほど奇妙な話だ。古代と呼ぶには足りない時代に、既に人類は石や金属を加工し研磨する技術を持っていた可能性がある。それは現代よりも進んでいた技術で、悠久の歴史のなかで忘却されたのかもしれない。

 オーパーツ。

 この物体はまさにそれだ。制作されたとされる時代では作れるはずのない、場違いな工芸品。多くのオーパーツは勘違いや捏造されたものだが、この物体は果たして本当に失われた高度文明の遺物なのだろうか。その文明の人々はパズルによって現代に何を伝えようとしているのか。その不可思議さは、考古学やオカルトの類にあまり関心のない誠でさえも胸が躍る。

「誰が、何のためにこんなものを?」

 誠が聞くと三雲は笑いながら、

「私も知りたいわね、それ」

 

 

   5

 

 夕方になると、西に沈む夕陽の光が駿河湾をオレンジ色に染め上げる。まだ海水浴シーズンではないから海に入る人はいないし、家の窓から景色を堪能できる地元民も、波辺でセンチメンタルな想いを夕陽に馳せることはしない。でも、約1年半も前には毎日のようにオレンジ色の海を眺めていた青年を、千歌は知っている。

 少し離れた先でバイクを重そうに押しているその青年を呼びながら、千歌は駆けていく。

「翔一くーん!」

 青年は振り返り、「千歌ちゃん」と人の好さそうな笑みで迎えてくれる。きっと買い物の帰りだ、と千歌には分かった。背負っているリュックから長ネギがはみ出ているから。

「お弁当届けてくれてありがとう」

「どういたしまして」

 翔一は屈託のない笑みを浮かべて応じる。

「バイクどうしたの?」

「ガス欠」

 何それ、と千歌は笑った。まあ翔一らしいと言えば翔一らしいのだが。

「それよりさ、翔一くん、ていうのやめてくれないかな。ほら、一応年上なんだし」

「だって翔一さん、て感じじゃないんだもん」

 このやり取りも何度目になっただろう。翔一が家に来た日から、千歌はずっと彼を「翔一くん」と呼んでいる。今年で21歳らしいのだが、年上としての威厳を翔一からは全く感じない。だからこそ千歌と打ち解けたのかもしれないが。

「で、どう? 何か思い出した?」

「それもやめてくれないかな。毎日そんな風に聞かれると、結構プレッシャー感じちゃってさ」

 翔一は少し困ったように言った。でもこの質問は、翔一のためを思ってのものだ。千歌の興味本位であることは否定しないが、翔一にとっても良いことのはず。

「気持ち悪くないの? 記憶喪失のまま生きていくなんて」

 そう、翔一には過去の記憶がない。津上翔一(つがみしょういち)という名前も社会生活を送るために付けられた便宜上の名前で、本名は分からない。翔一自身にも。

「別に今のところ不都合ないしね」

 あっけらかんと翔一は言ってのける。記憶喪失だというのに、翔一からは不安の色が全く感じられない。千歌が毎日のように何か思い出した、なんて無神経な質問ができるのも翔一の大らかさ故のものかもしれない。

 「それにほら」と翔一は悪戯っぽく笑い、

「もし過去を思い出して、俺が凶悪な犯罪者だったらどうよ?」

 それはない、と千歌は断言できる。翔一はきっと万引きすらできない。犯罪者と同じく、翔一に似合わなそうな過去の案がもうひとつある。

「意外と大金持ちのお坊ちゃまかもしれないよ」

 

 

   6

 

 水中はとても静かだった。

 吐く息が気泡として弾ける音と、自分の心臓の鼓動しか聞こえない。すっかり夜も更けた水の中は真っ暗で、音のみが現実へアクセスする方法として機能している。

「涼……、涼!」

 水面の向こうからくぐもった声が聞こえてくる。葦原涼(あしはらりょう)はゴーグルの奥で目を開き、暗い水中を昇り地上へと帰還する。

「やっぱりお前か」

 プールサイドの縁からこちらを見下ろす中年男性の呆れたような、でも嬉しそうな声がクリアになる。

「練習時間とっくに終わってるぞ」

「すみません」

 プールサイドにあがりベンチに腰掛けると、隣でコーチの両野がタオルを投げてよこしてきた。

「体が火照ってしまって」

「今度の大会は、お前のカムバック戦だからな。気持ちは分かるが、少しは抑えろ」

 タオルで体を拭く涼に両野はそう告げる。だが厳格な声色はすぐに消え失せ、ふっ、と笑みを零す。

「それにしてもよくあの事故から立ち直ってくれたな。一時はもう駄目かと思ったが」

 涼自身も、こうして再びプールに戻ってこられるとは思ってもみなかった。車を追い越そうと反対車線に出た大型トラックにバイクで真正面から衝突し、涼は数日もの間に死線を彷徨った。一命を取り留めたもののあちこちの骨が折れていて、医者から完全な回復は難しいと無慈悲に宣告された。

 でも、涼は戻ってきた。リハビリを根気よく続け、日常生活どころか再び水泳選手として泳げる体に仕上げて。

「しかも事故の前よりも記録が伸びてる。びっくりだ」

 大学の水泳部に復帰した日の練習。半年以上のブランクがあったにも関わらず、涼は最高記録を更新してみせた。しかも、記録は日に日に伸びている。まるで、あの事故で何かが目覚めたかのように。いや、目覚めつつある、という表現が正しいだろうか。復帰してからというもの、体が疼いて仕方ない。冷たい水に浸からなければ燃えてしまいそうだ。大会が近いから武者震いのようなものか。

「もう一度だけ泳いできます」

 そう言って涼はタオルを両野に手渡し、ゴーグルで目元を覆い水面へと飛び込む。水飛沫が散る音の後には、プールの水がたゆたう音が全身を包み込む。

 地上から遠ざかり、涼は暗いプールの底へと潜っていく。

 

 



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第2話

 1話分のエピソードを分割して正解でした。多分ひとつに纏めたら1話2万文字越えでとてつもなく長くなります。


   1

 

「ごめんねー、何度も付き合わせちゃって。でもこれが終われば完成だから」

 フィッティングデータの採取を終え、スーツを脱いだ誠に小沢は労いの言葉をかける。G3のスーツは装着員である誠の体形に合わせ、日々改修を重ねている。実践でポテンシャルを最大限に発揮できるよう必要な措置だ。誠としても自分の身を預ける装備なのだから、面倒だなんて思わない。ましてや警察が開発したG3の資金源は市民の税金。ぬかりはあってはならない。

 とはいえ、誠の思考はG3とは他にあった。カーゴベイの飾り気のないベンチでそのことにふける誠の隣に、小沢が腰掛ける。

「氷川君、何考えてるか当ててみましょうか? 例のオーパーツのことでしょ?」

 「はい」と誠は重苦しく答える。半分は正解だ。半分は。

「確かにそれもあるんですが、獅子浜(ししはま)中学校での事件のこと、ご存じですか?」

「樹の中に生徒の死体が入ってた、っていう?」

 誠の懊悩の根源にあるのは、先日にこの沼津の街で発生した殺人事件のことだった。人命が、それも子供の命が失われただけでも気が重くなるのだが、それ以上に発見された遺体の状況がまた奇妙だ。現場は被害者が通っていた中学校のグラウンドで、部活の朝練習をしていた生徒に遺体は発見された。

 グラウンドの外縁に植えられていた樹の幹から飛び出した、被害者の腕が。

「気になるんです。普通なら、あんなこと有り得ない」

 現場は騒然としていたらしい。殺人事件で死体を隠そうとしたという意図にしても樹とは奇天烈な発想なのだが、被害者が収まっていた樹には切断された跡が全く見受けられなかったらしい。まるでその樹は、被害者を腹に抱えたまま数十年かけて成長したようだ。

 勿論そんなことは「有り得ない」こと。樹が成長する間に死体は腐敗する。それなのに検死によると被害者の死亡推定時刻は発見から僅か14時間前だという。

「気持ちは分かるけど、ここで構えてたって仕方ないわ。あなたも捜査に参加するんでしょ?」

 小沢の言う通りだ。ここでただ考えていたって何も進展はしない。本庁の刑事として、誠も静岡県警と合同で事件の捜査に参加する。あまりにも奇怪だから、本庁の捜査一課にも捜査協力の要請が通達されている。

 迷いを吐き出すように深呼吸し、誠は着替えにカーゴベイの更衣室へと足を進めた。

 

 

   2

 

 天井からどすん、という振動が響いてくる。同時に甲高い「うわっ」という幼さの残った呻きも。今日も元気だなあ、と思いながら、翔一は居間へと続く廊下を歩く。「何?」という棘のある女性の声色が襖を挟んだ先から聞こえてきた。次に落ち着いた、優しい別の女性の声が。

「千歌ちゃんだと思うけど」

「まさか、まだやってるの? お客さんに迷惑だよ」

 「言ったんだけど」と高海家の長女が苦笑を漏らす。「お前も言ってやって」と次女のほうは次に声量を増した。

「こんな田舎じゃ無理だ、って」

 そこで丁度、翔一は襖を開きご機嫌な笑顔で居間に入る。畑で採れた大振りの大根を抱えて。

「いやー、せっかく頑張ってるんだから見守ってあげようよ」

 翔一が言うと湯呑を手にくつろいでいた次女の美渡(みと)は「いや」と呆れた視線を向けてくる。

「翔一じゃなくてしいたけにだよ」

 その通り、と言わんばかりに美渡の横で座る大型犬が「わん」と鳴いた。台所で朝食の食器を洗っている長女の志満(しま)は、「わあ」と翔一の持ってきた大根を嬉しそうに眺める。

「大きいわね」

「今年一番の大きさですよ」

 この大根で何を作ろうか、と翔一が思案しているところで、美渡が何気なしに聞いてくる。

「翔一が作るとどうしてそんなに大きくなるんだろ?」

「そりゃあ愛だよ、愛」

 そう答えると、志満は「ふふ、そうね」と微笑した。高海家の裏にある畑は、高海家が経営している旅館「十千万(とちまん)」で出す料理のために耕されたもの。だが旅館を始めてすぐに食材を提携農家から仕入れるようになったから、お役御免となり放置されていた。そこで暇を持て余していた翔一が趣味として手入れし、いまや彼の畑になっている。

「もしかしてさ、翔一って農家の生まれだったりして」

 美渡がそう言うと、翔一は「それは――」と言葉を途切れさせ逡巡の後に、

のうか(・・・)な?」

 決まった、と翔一は確かな手応えを感じる。だが自信とは裏腹に美渡は呆れた視線を向けてきて、志満はただ無言のまま優しい微笑を湛える。助けをしいたけに視線で訴えるが、しいたけは我干渉せず、とでも言いたげにそっぽを向いた。

 

「大丈夫?」

 床の畳に打った尻をさする千歌に、曜は尋ねた。今日の勧誘の打ち合わせということで普段より早い時刻に自宅を出て高海家に寄ったのだが、家に着くなり千歌は練習したというポージングを決めようとして、結果としてこの光景だ。

 すぐに千歌は「平気平気」と立ち上がり、「もう一度」とターンしてピースした右手を顔に添える。

「どう?」

 出来栄えの確認として、曜は千歌とスマートフォンの画面に表示された少女を見比べてみる。千歌の憧れるグループのリーダーらしいのだが、「スクールアイドル」なる単語を知って間もない曜には良し悪しが分からない。

「ああ、うん……、多分」

 違うような気もするが、別にコピーするのではなく雰囲気としては上々だと、曖昧ながらに思う。

「できてると思う!」

 曜がそう言うと、「よし!」と千歌は納得したように両拳を握りしめる。そんなやる気に満ちた千歌をまじまじと眺めながら、曜は尋ねる。

「本当に始めるつもり?」

 思えば今更ながらの質問だった。昨日は千歌の勢いに押されて手伝いはしたが、誰ひとりとして興味を持ってくれなかったから諦めるのでは、と微かに予想していた。その予想に反して千歌は「うん!」と『部』の文字が訂正された『スクールアイドル部』のプレートを見せ、

「新学期始まったら、すぐに部活立ち上げる!」

「他に部員は?」

「まだ。曜ちゃんが水泳部じゃなかったら誘ってたんだけど」

 千歌から部の設立は前もって聞いてはいたのだが、幼い頃からよく遊んでいた曜に勧誘の声はかからなかった。曜は2年生へ進級する時点で既に水泳部のエース選手だから、千歌なりに配慮してのことだったのだろう。

「でも、どうしてスクールアイドルなの?」

 曜が尋ねると、千歌は「何で?」と返す。何でも何も、曜にとって千歌がここまで熱心になること自体が驚きだった。千歌を発起させた「スクールアイドル」とは、一体何なのだろう。

「今までどんな部活にも興味ない、って言ってたでしょ。どうして?」

 千歌はすぐに答えず、明後日の方向を向いた。逡巡を挟んで曜へ向き直ると含みのある笑みを浮かべたのだが、それがむしろ疑問を深めてくる。

「千歌ちゃーん、曜ちゃーん」

 廊下と部屋を隔てる障子の奥から翔一の声が聞こえてくる。「はーい」と曜が応じると、

「そろそろバスが来るんじゃないかな?」

 曜と千歌は目を合わせ、そして柱に掛けてある時計に視線を移す。現時刻は7時45分。最寄りの停留所にバスが来る時間。

 「もうこんな時間⁉」とふたりは声を揃えた。

 鞄を掴み急いで階段を駆け下りて玄関へ向かう。普段使っている裏口からだと遠回りになってしまうから旅館の正面玄関へと靴を持っていく。その様子を見られた志満から「もう、こっちの玄関使っちゃ駄目って言ってるでしょ」と小言を飛ばされ、「ごめんなさーい!」と謝りながらまだ靴の踵が潰れたまま外へ出る。「千歌ちゃんお弁当!」と翔一が玄関まで弁当箱を持って来てくれたのだが、「大丈夫、間に合わないから!」と踵を靴に収めたところで、旅館の目の前をバスが通っていく。

 「ああ、待って!」と曜が。

 「乗りますよー!」と千歌が叫び、ふたりはバス停へと駆けていく。

 

 十千万の目と鼻の先にある停留所で、千歌と曜を乗せたバスが発車する様子を翔一は見届ける。

「あ、間に合ったみたい。良かったあ、バイクじゃふたりも乗せられないからさ」

 朗らかに言うと、翔一の隣で妹とその親友を見送った美渡は溜め息交じりに、

「本当、そそっかしいんだよね」

 皮肉を含んだ笑みを浮かべる美渡を、翔一はじ、と見つめる。「何?」と目を細める彼女に「別に」と返した。美渡とそっくりじゃないか、なんて言ったら機嫌を損ねそうだ。翔一は千歌に用意した弁当箱に視線を移す。

「これどうしよう。美渡、食べる?」

「わたし弁当ふたつ食べるほど大食いに見える?」

「じゃあ俺が食べよう」

 玄関へと足を向ける。大根で作る料理のメニューを思案しようとしたが、それは唐突に遮られる。

 叫び。

 形容しがたいその感覚を表現するのに最も近い言葉がそれだった。咄嗟に頭を抱えた翔一の手から弁当箱が落ちて、包んだハンカチのお陰で中身の散乱は防げたものの蓋が外れたのか詰めた煮物の汁がハンカチにしみ込んでくる。

「翔一? ねえ翔一!」

 近くにいるはずの美渡の声が、遥か彼方からのように朧気になっていく。翔一は頭を必死に抑えつけた。恐怖と悲鳴。それは確かに感じ取れるのだが、自分の感情として認識するにはどこか違和感を覚える。分かるのは、自分ではない他人の激しい感情が頭の中でピンボールのように跳ね返っていることだけだった。

 叫びが苦痛へと変わり、翔一はその場で崩れるように膝を折った。

 

 

   3

 

 その日の朝、佐伯邦夫(さえきくにお)はいつもの時刻に会社へと出勤し、妻の安江(やすえ)は夫を玄関先で見送った。家に戻った安江はリビングで夫が職務書類を忘れていたことに気付き、届けようと再び家を出たところで、それを見つけた。

 住宅街に立つ樹の幹から飛び出した、携帯電話を握る夫の右手を。

 今朝、まだ1時間も経っていない過去を誠に語る佐伯安江の表情は悲しみの色を浮かべず淡々としている。窓の外を見やると、腕が飛び出した樹を見上げる鑑識の面々が一様に首を傾げている。普段なら閑静なはずの住宅街には、パトカーの鳴らすサイレンが日常をかき消している。

 まだ現実を受け止め切れていないに違いない、と誠は推測する。この短期間で家族をふたりも失ってしまうだなんて、誰が予想できることだろう。

 誠より早く現場入りしていた先輩刑事――本庁捜査一課から出向してきた刑事だ――から聞いたところによると、獅子浜中学校で発見された被害者は、この佐伯家の一人息子だった。親子が同じ状態で殺害されている。被害者の妻、母親である安江からすれば、悲しみに悲しみが上塗りされている状況だ。そんな未亡人に聴取なんて無神経であることは重々に理解している。それでも聞かなければならない。この悲しみを引き起こした犯人を暴き、被害者の無念を晴らすためにも。

「何でもいいんです。ご主人と息子さんについて、生前何か変わったことはありませんでしたか?」

 誠が開いている手帳のページは、遺体が発見された状況を綴ったところで止まっている。ソファに腰掛ける安江はただ視線を俯かせ、空虚を見つめている。

「佐伯さん」

 誠が語気を強めると、安江の顔が一気に悲哀へと沈んだ。両手で顔を覆い、嗚咽交じりに「すみません」と台所へと駆け込んでいく。しまった、と誠は自身の性急さを(かえり)み、「すみません」と謝罪して手帳のページを捲ってペンを走らせる。

「何か思い出したら、連絡をください」

 自分の名前と仕事用の電話番号を書いたページを切り離し、テーブルに置いたところで「何をしているんです?」と冷たい声がリビングに入ってくる。振り向くと、同年代らしき若年の同僚が誠に怪訝な視線を向けている。先輩刑事から聞いている。名前は確か北條透(ほうじょうとおる)。階級は誠と同じ警部補ながら、本庁から将来を期待されている若手刑事。

「あなたはG3ユニットの人間だ」

 お前の出る幕じゃない。その拒絶の意が含まれていると、痛々しいほどに理解できる。

「僕もG3ユニットの人間であると同時に現職の警察官です。管轄内の事件を捜査しても問題ないはずですが」

 この奇怪な事件は静岡県警と警視庁の合同で捜査が行われている。保守的な警察組織のなかで県警同士の確執があることは承知だ。同時に自身の立場の難しさも。G3という装備の出現によって、警察が守り続けてきた組織の均衡が危ぶまれている。だからG3ユニットに配属された面々に対する風当たりは強い。

 だが、同じ本庁の刑事同士で軋轢を生んで何になるというのか。負の慣習に呑まれてなるものか。警察は市民を守るためにある。誠はG3装着員としての誇りは当然あるが、その根底に抱く警察官としての誇りを捨てたつもりはない。意思が伝わってかそうでないのか、北條は冷たく吐き捨てる。

「ま、邪魔にならないようにお願いしますよ」

 

 

   4

 

 昨日は入学式で、今日は校則やカリキュラム等の説明会。チャンスはまだある。そう意気込み千歌は曜と共に大声で校門を潜る新入生たちに勧誘を呼びかけた。

「スクールアイドル部でーす………」

 始めたばかりの頃は溌剌(はつらつ)としていた曜の声が、今は弱々しく人気のなくなった校門前に消えていく。勧誘の結果は昨日と同じく、入部希望者ゼロ。

「大人気、スクールアイドル部でーす………」

 もはや立っている気力すらなくなり、ふたり揃って段ボール箱に腰を沈める。

「全然だねえ……」

 応じるのも億劫になり、千歌は深く溜め息をつく。どうしてだろう。輝ける場があるというのに、誰も興味を持ってくれないなんて。皆、輝きたくないのだろうか。

 ふと上げた千歌の視線の先で、ふたり組の生徒が通り過ぎていく。友達同士なのだろうか。ひとりは亜麻色の髪を肩まで流して、冷え性なのか制服の上に黄色のカーディガンを重ねている。もうひとりは両サイドに纏めた髪の房を風で花弁と共に揺らし、成長を考慮してか制服のサイズは大きめに見繕われ手が半分まで袖で隠れている。とても親し気に笑うふたりはまだ幼さが大きいが、邪さのない笑顔がとても愛おしい。

 「あの!」と千歌は素早くふたりの正面へと回り込んだ。唐突に話しかけられたふたりは驚きのあまり口を開いたまま静止する。

「スクールアイドルやりませんか?」

 千歌が前置きもなくそう言うと、「ずら?」とカーディガンの少女は漏らした。

「ん、ずら?」

 千歌が反芻すると、少女は慌てた様子で口元を手で覆い「い、いえ……」と言葉を詰まらせる。間髪入れず千歌は「大丈夫」とチラシを差し出し、

「悪いようにはしないから。あなた達きっと人気が出る。間違いない!」

 「でもマルは………」と返答に困った様子のカーディガンの少女の背後で、ツーサイドの少女が千歌の持つチラシを睨むように見ていることに気付く。試しにチラシを左右に動かすと、ツーサイドの少女の目線も移動する。間違いない、と千歌は確信する。

「興味あるの?」

 尋ねると少女は輝かせた目を千歌へ向け、

「ライブとか、あるんですか?」

「ううん、これから始めるところなの。だから、あなたみたいな可愛い子に是非」

 と千歌がツーサイドの少女の腕に触れると、笑顔だった彼女は表情を凝固させ一気に血の気を引かせる。千歌が「ん?」と言葉を待った瞬間、

「ピギャアアアアアアアアアアアアアアア‼」

 少女期特有の高周波な叫びが辺りの空気を震わせる。突然のことに驚き、千歌は尻もちをついた。少し離れたところで傍観していた曜が手で耳を押さえている。

「ルビィちゃんは究極の人見知りずら」

 振り返ると、カーディガンの少女は取り乱すことなく耳を押さえている。既に何度かこの光景を目の当たりにしているのかもしれない。ルビィとは未だ叫び止まない少女の名前だろうか。

 続けて違う声の悲鳴が聞こえてくる。上からだ。見上げると浦の星の制服を着た人影が、桜の木から花弁を散らせて落ちてきた。辛くも転ばず着地に成功したようだが、落下時の衝撃で脚が痛むのか膝が笑っている。長い黒髪の少女で、右の側頭にシニヨンを纏めている。俯いたその頭に鞄が落下し、少女は「ぐえっ」と呻いた。

「ちょ……、色々大丈夫?」

 驚くことが続けざまに起きて、千歌は立ち上がる余裕もなく四つん這いの姿勢のまま少女に尋ねる。今にも泣きそうな声が止んだと思うと、頭に鞄を乗せたまま少女は不敵な笑みを浮かべた顔を上げる。

「ここはもしかして、地上?」

 「大丈夫じゃ、ない……」と思わず漏らした。後ろにいる皆の「ひいっ」という声にならない悲鳴が聞こえるのだが、それでも鞄を頭に乗せた少女は続ける。

「ということは、あなた達は下劣で下等な人間ということですか?」

 「うわ……」という曜の声が背後から聞こえた。関わるべきじゃない、と悟ったのかもしれない。千歌の関心は少女の言動よりも未だに震えている脚に向いていて、「それより脚大丈夫?」と指で彼女の膝をつつく。やはり痛いのか、少女は顔をしかめて目尻に涙を浮かべるも、すぐに表情を不敵に繕い、

「痛いわけないでしょう。この体は単なる器なのですから。ヨハネにとっては、この姿はあくまで仮の姿。おっと、名前を言ってしまいましたね。堕天使ヨハ――」

善子(よしこ)ちゃん?」

 カーディガンの少女が、ヨハネと自称する少女の言葉を遮る。

「やっぱり善子ちゃんだ。花丸(はなまる)だよ。幼稚園以来だね」

 花丸と名乗るカーディガンの少女が、親し気に善子と呼ばれた少女に歩み寄る。善子――多分「ヨハネ」は本名じゃない――の表情が引きつった。「は、な、ま……る………」と反芻した後、「人間風情が何を言って………」と繕おうとするが、

「じゃんけん――」

 「ぽん」と花丸がグーを出すと、吊られたのか善子も手を差し出す。人差し指、薬指、親指を立てた独特のサインだった。「そのチョキ」と花丸は懐かしそうに善子の手を眺める。それはチョキだったのか。

「やっぱり善子ちゃん!」

「善子言うな! いい? わたしはヨハネ、ヨハネなんだからね!」

 逃げるように校舎へ走っていく善子を「善子ちゃん!」と花丸が追いかけ、更に「待って!」とルビィが追っていく。慌しい3人の背中を見つめながら、千歌は不思議な縁を感じていた。こんなインパクトに満ちた出会いは、何かが始まる予兆のように思える。

「あの子たち、後でスカウトに行こう」

 隣で曜は何も言わず、代わりに乾いた笑い声を漏らす。

「あなたですの? このチラシを配っていたのは」

 不意に静かな、でも強かな声が背後から聞こえて、千歌は曜と共に振り返る。長い黒髪をストレートに伸ばした少女が、さっきルビィが叫んだときに落としたチラシを見つめている。

「いつ何時(なんどき)、スクールアイドル部なるものがこの浦の星女学院にできたのです?」

 その吊り上がった双眸が向けられる。可愛い、というより美人な少女だ。口元のほくろが(うら)らかな印象を与える。「あなたも1年生?」と能天気に聞く千歌の隣にいた曜が、「千歌ちゃん違うよ」と耳元で囁いてくる。どこか怯えているような声色だった。

「その人は新入生じゃなくて3年生。しかも………」

 更に声を潜めて告げられる事柄を、千歌は全身が凍り付くような緊張感を覚えながら反芻する。

「………生徒会長?」

 

 通された生徒会室には、千歌と生徒会長である黒澤(くろさわ)ダイヤのふたりだけだった。ダイヤは曜が水泳部員で、エースであることも把握していて「スクールアイドル部」とは無関係ということでこの場からは外されている。とはいえ生徒会室前までは一緒に来てくれたから、今も事を見守ってくれているだろうけど。

「つまり、設立の許可どころか申請もしていないうちに、勝手に部員集めをしていたというわけ?」

 部屋に置かれた長机、生徒会長の席につくダイヤは厳しい口調と視線を千歌に向ける。腰を落ち着かせているときも、この生徒会長は背筋を凛と伸ばしている。

「悪気はなかったんです。ただ皆勧誘してたんで、ついでというか……、焦ったというか………」

 重苦しい雰囲気を何とか消そうと照れ笑いを浮かべてみるが、ダイヤは冷たい表情を崩さない。

「部員は何人いるんですの? ここにはひとりしか書かれていませんが」

 ダイヤはそう言って、千歌が今しがた提出した部活動設立申請書に目を通す。部員の欄に書いてあるのは、現段階で千歌の名前だけ。

「今のところ、ひとりです」

「部の申請は最低5人は必要というのは知っていますわよね?」

「だーから勧誘してたんじゃないですかあ」

 努めて明るく言ってのけるが、千歌の態度はむしろ生徒会長の神経を逆撫でしてしまったらしい。ばんっ、と乱暴に申請書が机に叩きつけられ、千歌は驚愕のあまり上体を反らせてしまう。次に叱責が飛んでくると身構えたのだが、「いったあ……」とダイヤは机を叩いた右手を振る。思わずくすり、と笑ってしまったのだが、そこへダイヤが千歌の眼前に人差し指を突き出し、

「笑える立場ですの!」

 「すいません……」と言ったところで、もっと早く謝罪しておけば怒らせずに済んだかも、と千歌は遅れた反省を裡に秘める。

「とにかくこんな不備だらけの申請書、受け取れませんわ」

 「ええええええ⁉」と落胆の声をあげる。不満をぶちまけようとしたところでドアの空く音がして、続けて「千歌ちゃん、一回戻ろう」と曜の控え目な声が聞こえてくる。

 喉元まで出かかった文句を堪え、千歌は告げる。

「じゃあ、5人集めてまた持ってきます」

「別に構いませんけど、たとえそれでも承認は致しかねますわね」

「どうしてです?」

 5人集めれば申請は通るはず。それなのに何故、条件を満たしても承認されないというのか。まったくもって納得できない。

 ダイヤはその理由を言い放つ。はっきりと、冷たく。

「わたくしが生徒会長でいる限り、スクールアイドル部は認めないからです」

 

 




 善子ちゃんは私の暗黒時代を思い出させるキャラで敬遠していたのですが、何気に書いてみると楽しかったりします(笑)。


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第3話

 あれおかしいな。分割したのにまた1話の文字量が多くなりましたぞ(笑)。


 

   1

 

 暗い水の底と光の射し込む水面の狭間を、涼は漂っている。光へ向かい、水中から出て空気を肺いっぱいに吸い込みたい。でもそこへ至るのに体は言うことを聞かず、ただ波に身を委ねるしかない。

「それで、どうなんです彼の容態は」

 両野の弱々しい声が聞こえてくる。意外な声色だった。コーチとしての両野はいつも熱く、でも冷静に涼を指導してくれていたからだ。どんな顔で涼を見ているのだろう。見たくても目蓋が重くて開けられない。目蓋だけでなく、全身が鉛のようだ。それでも嗅覚と聴覚は機能していて、涼は自分がどこにいるのかを把握できる。

 消毒用アルコールの匂い。ぴ、ぴ、と一定のリズムで響く電子音。口元を覆う酸素マスクの感触。きっと病院だ。

「検査の結果が出ないと、詳しいことは分かりません」

 知らない男の冷静な声。おそらくは医者だろう。

「ただ全身の筋肉が発熱し、微かに痙攣を起こしています。何か激しいトレーニングを?」

 「いいえ」と両野は即答する。

「彼は一流の水泳選手です。競技会当日に影響を及ぼすようなトレーニングをするはずはありません」

 両野の言う通り、涼は昨日の練習を早めに切り上げて、家に帰ると指定されたメニューの夕飯を食べて床に就いた。大会直前に無理をしないように、という両野の教えに従い、本番にポテンシャルを最大限発揮できるよう体調管理は万全のはずだった。

 今日、市民プールで開催された水泳競技会は涼が事故から復帰して初めての大会。カムバック戦ということもあり気持ちが(はや)っていたのは否定しない。だが体調はすこぶる良好だった。その涼の体が、競技中に悲鳴をあげた。

 クロールで水を漕いでいる途中、唐突に体が熱くなった。体内で炎が燃え盛っているかのような熱だった。冷たいプールのなかにいながら体温の上昇は止まらず、空気を求めて水面へと手を伸ばしたところで記憶が途絶えている。きっと、そこで意識を失い病院に搬送されたのだろう。

 完治したと思っていたが、事故の後遺症が残っているのか。

 俺は水泳を続けられるんですか。そう聞こうとするも、唇は微かに震えるだけで言葉を紡ぐことができない。両野に気付いてほしい。自分は既に目を覚ましている、と。

 懸命に伝えようとしている涼の手が、ぴくりと震える。両野はそれに気付いてはくれなかった。

 

 

   2

 

 西の空へ傾く夕陽を反射させた海面が、船の軌跡に沿って揺らめいている。尾を引いて内浦湾を泳ぐ小型連絡船のデッキで、千歌は全身の力を抜いて身を縁にもたげさせる。

「あーあ、失敗したなあ。でもどうしてスクールアイドル部は駄目、なんて言うんだろう?」

 その疑問は一緒に乗っている曜ではなくダイヤにぶつけるべき、と理解はしているのだが、あの生徒会長はろくな説明もないままスクールアイドル部は承認不可、という剣幕だった。

 曜はおそるおそる言う。

「嫌いみたい………」

 「ん?」と千歌が視線を向けると曜は顔を背け、

「クラスの子が前に作りたい、って言いに行ったときも断られた、って………」

「え、曜ちゃん知ってたの?」

 通りで、ダイヤを見たときに怯えていたわけだ。「ごめん!」と両手を合わせる曜に「先に言ってよお………」とごちりながら頭を垂れる。

「だって、千歌ちゃん夢中だったし。言い出しにくくて。とにかく生徒会長の家、網元で結構古風な家らしくて、だからああいうチャラチャラした感じのものは、嫌ってるんじゃないかっ、て噂もあるし」

 曜の言葉を聞きながら、千歌は藍色に染まり始めた空を見上げる。1羽のカモメが飛んでいた。地上を歩く自分たち人間とは異なる世界を飛んでいる生物には、自分には到底見えない景色が見えているのだろうか。腕を伸ばし、手がカモメと重なったところで拳を握ってみる。当然、カモメは手中には収まらず、自分が捕まえられようとしていたことに気付かないまま気流に乗って西の空へと飛び去っていく。

 ダイヤは知らないのだろうか。千歌が観たあのグループは、そんな俗なものではないということを。ステージで歌う彼女たちが、世界を照らすかのように輝いていたことを。

 千歌はがらんどうに呟く。

「チャラチャラじゃないのにな」

 

 連絡船の目的地である淡島は、島全域が娯楽施設と言って良い。主とした施設は水族館だが、その周辺にはレストランやホテルも充実していて、リゾート地として観光客が利用している。連絡船が到着すると、千歌と曜は真っ直ぐに船着き場のすぐ近くにあるダイビングショップへと向かった。本日の営業を終えた店のウッドデッキで、ウェットスーツを着た少女が客の使用したらしいウェットを縁に干している。足音だけで気付いたのか、少女は黒髪を纏めたポニーテールを揺らして振り返る。

「遅かったね。今日は説明会だけでしょ?」

 「うん、それが色々と」と曜はその先を言わない。話ならこれからたっぷりと聞いてもらおう。「はい」と千歌はビニール袋を差し出す。

「回覧板とお母さんから」

 「どうせまたミカンでしょ?」と笑いながら穏やかな皮肉を飛ばす少女に、「文句ならお母さんに言ってよ」と千歌は口を尖らせる。この手土産を持ってくる際のお約束なやり取りに、少女は笑みを零した。

 千歌たちがテラスのテーブルに着いても、店主――といっても一時的な代理だが――の松浦果南(まつうらかなん)は腰を落ち着けようとしない。まだ仕事が残っているようで、重そうな酸素ボンベを並べるその背中に曜が「それで」と切り出す。

「果南ちゃんは新学期から学校来れそう?」

 ちゃん付けで呼んでいるが、果南は千歌と曜よりもひとつ年上で、浦の星の先輩にあたる。とはいえ幼い頃からよく顔を合わせていた仲で、学校の先輩後輩という形になっても今更訂正は効かない。それに、3人にとってはこの気兼ねない関係が最も心地いい。

「まだ家の手伝いも結構あってね。父さんの骨折も、もうちょっとかかりそうだし」

 果南は休学中の身だ。父親が交通事故で脚を骨折し、しばらく入院が必要とのことで家が経営する「ドルフィンハウス」を手伝う必要に駆られたからだった。随分と長く学校に来ていないが、出席日数は足りているから進級は問題なくできるらしい。

 「そっかあ」と千歌はボンベの手入れをする果南の背中を見つめる。

「果南ちゃんも誘いたかったな」

 「誘う?」と果南は作業を続けながら問う。「うん!」と千歌は揚々と応える。

「わたしね、スクールアイドルやるんだ!」

「ふーん。でもわたしは千歌たちと違って3年生だしね」

 そう言って果南は屋内へと入っていく。千歌は続ける。

「知ってるー? 凄いんだよ――」

 「はい、お返し」という果南の声と眼前に突き付けられた魚の干物で、千歌の言葉は遮られる。それを見て曜はおかしそうに笑っている。

「また干物?」

「文句は母さんに言ってよ」

 ミカンのお返しは干物というのも毎回のお約束だ。松浦自家製で味も翔一の折り紙付きなのだが、慣れた味は有難みを感じない。

「ま、そういうわけでもうちょっと休学続くから、学校で何かあったら教えて」

 休学中じゃなかったら、もっと粘れるのに。事情から来る遠慮に千歌は言葉を探しあぐねる。果南は手足が長くスタイルがいい。体にフィットしたウェット姿だと、それがよく見て取れる。アイドルとしては申し分ない素質を持っているというのに、勿体ない。

 ばりばり、と空気を割くような音が空から聞こえ、次第に大きくなっていく。「何だろ?」と千歌は曜と共に音の方向を見上げる。ヘリコプターだった。果南はふたりよりも早く気付いていたようで、腕を組みながら淡島の北に敷地を持つリゾートホテルへ飛ぶヘリを視線で追っている。

 果南は何の気なしに言う。それにどんな感情が伴っていたのか、この時の千歌はまだ分からなかった。

「小原家でしょ」

 そこで果南はいつもの余裕ある表情でふたりに向き直り、

「早く帰ったほうが良いよ。お客さんから聞いたけど獅子浜のほうで事件があった、って」

 「事件? どんな?」と曜が聞くと、果南は顎に指を添える。

「それが分かんないんだよね。お巡りさんが結構来てたけど、何も教えてくれなかったらしいよ」

 

 

   3

 

 沼津方面に家がある曜と別れ、ひとりでバスに乗った千歌は三津(みと)海水浴場前のバス停で降車した。大きく伸びをして、とぼとぼと歩き始める。疲れる1日だった。疲労するほどの奔走は報われず、成果は無しだったが。

「どうにかしなくちゃな。せっかく見つけたんだし………」

 自作したチラシを眺めながら、千歌は思わず独りごちる。興味を持ってくれる人がいなくても、学校から承認を得られなくても、諦めきれることじゃない。スクールアイドルとは、千歌が見つけたステージだ。

 流れてくる潮風に頬を撫でられ、何気なく千歌は海岸へと目を向ける。まだ海水浴シーズンではないから、三津海水浴場は人気がない。だから、桟橋で長い髪をなびかせながら立っているその少女の存在は、とても目立って映る。紺色のブレザーはどこの学校だったっけ、と記憶を探っていると、少女はブレザーを脱いだ。「え?」と千歌はその場で立ち止まり呆けた声をあげる。少女は更にホックを外したプリーツスカートを勢いよく下げる。白いブラウスも脱ぎ捨てると、下着の代わりに着ていた紺色の競泳水着が露になった。

「うそ、まだ4月だよ?」

 いくら気候が温暖でも、内浦だって四季のある日本だ。冬は寒いし、春になっても水温はまだ16度前後。あんな保温性皆無の水着で耐えられるものじゃない。長時間浸かっていたら間違いなく低体温症、最悪の場合は心臓麻痺を起こす。

 千歌は鞄を放って走り出す。それに気付かない少女もローファーと靴下を脱ぎ捨てて駆け出した。桟橋の先端へ到達し夕陽の茜色を映す海面へと身を躍らせようとしたその華奢な腰に、追いついた千歌はすがりつく。

「待って! 死ぬから死んじゃうから!」

 「放して! 行かなくちゃいけないの!」と少女は千歌を振り払おうと身を悶えさせる。千歌はより一層腕に力を込める。力が拮抗していて、ふたりは前へと進み、後ろへと下がり、といった様相を繰り返す。前と後ろと引き合った脚が絡まり、千歌の脚が少女の脚を払ってしまった。

 少女の体がふわり、と宙に浮く。やがて重力に従って前のめりとなり、しがみついていた千歌も悲鳴を反響させながら穏やかに揺れる海面へと落ちていった。

 

「翔一君! 大変だよ翔一君!」

 そう叫びながら千歌が帰宅してきたのは、翔一が夕飯の準備をしている最中だった。今朝採れた大根の味を引き立たせるには、やはりふろふき大根がいい。鍋で大根を炊いている間に味噌だれを作ろうと調味料を合わせていた翔一は、全身を濡らす千歌の姿に目を剥いた。

「千歌ちゃん、どうしたのそれ?」

「とにかく早くしないと。あの子震えちゃってるよ!」

「震えてる?」

「いいから早くタオル持ってきて! あとライターと着火剤!」

 緊急事態らしく、翔一は急いで洗面所からバスタオル数枚、台所に戻るとライターとゼリータイプの燃料を持って玄関で水を滴らせる千歌のもとへ持っていく。

「ありがと!」

 荷物を受け取ると、千歌はそれだけ言って飛び出していく。一体何があったのか、全く状況を掴めない翔一はただ千歌の背中を見送るしかできない。

「何があったの?」

 そこへ、聞きつけたのか志満がやってくる。

翔一はただ苦笑を浮かべるしかない。

「いやあ、俺もよく分かんなくて」

 「あっ」と翔一は台所の鍋を火にかけたままだったことを思い出し、急いで戻る。蓋を開けると、切り分けた大根は薄く飴色になっている。

「良い感じじゃないですか?」

 鍋を覗く志満にそう言うと「美味しそうね」と笑って応えてくれるのだが、すぐに不安げに翔一の顔を見つめてくる。

「翔一君、本当に大丈夫? 今日ぐらいご飯は私が作るわよ」

 志満が心配しているのは、今朝翔一に起こった謎の発作だった。あの叫びのような奔流はすぐに治まった。まるで波が一気に引いていくように、叫びは止んだ。特に体調の異変も感じなかったから今日は普段通りに過ごしていたのだが、志満は何度も翔一の体を気遣ってくる。

 翔一はあっけらかんと答える。

「平気ですって。寝てたらかえって落ち着かないですよ」

「なら良いけど、具合悪くなったらすぐに言うのよ」

 志満はそう言って台所を後にする。たれを仕上げよう。そう思いフライパンの上で温めた味噌にみりんをかけようとしたとき、翔一を奔流がなぶってくる。

 それは今朝と同じ見知らぬ誰かの叫びで、翔一は自分のなかで暴れるものを抑えつけようと、両手で頭を押さえつけた。

 

 タオルとライターと着火剤、家の倉庫から引っ張ってきた薪を抱えた千歌が海岸へ戻ると、浜辺でうずくまる少女の唇が血の気のない紫色へと変わっていた。浜辺に転がっていた煤まみれのドラム缶――きっと漁師が使っていたもの――に薪を入れ、着火剤のゼリーを添えるとライターで火を点けた。しっかりと薪に火が燃え渡るのに少し時間はかかったが、その間に千歌はタオルで少女の体を拭いた。

 ぶるぶる、という少女の震えは火の温かみにあてられてようやく治まり、唇にも血色が戻った。

「大丈夫? 沖縄じゃないんだから」

 千歌はそう言って少女の肩に新しいタオルをかける。

「海に入りたければダイビングショップもあるのに」

 多分この辺りの人じゃないだろうな、と千歌は思った。綺麗に畳んだ少女の制服は沼津では見たことのない学校のものだ。

「………海の音を聴きたいの」

 少女はぽつり、と言った。「海の音?」と千歌は反芻する。

「どうして?」

 千歌の問いは空しく波の音に呑まれていく。少女は背を向けたまま体を丸めている。答えてくれそうにない。初対面で名前も知らない千歌には。

「分かった、じゃあもう聞かない」

 そうげんなりと言いながらも、千歌は気になって仕方ない。海に音なんて、吐いた気泡が弾けるくらいの音しかない。

「海中の音ってこと?」

 前言撤回、とばかりに千歌は質問を重ねる。くす、という少女の笑みが聞こえた気がした。

「わたし、ピアノで曲を作ってるの。でも、どうしても海の曲のイメージが浮かばなくて」

 「ふーん、曲を」と千歌は興味を深め、

「作曲なんて凄いね」

 何かを表現することは、何かを生み出すことでもある。まだこの世にないもの、景色、世界を見つめ、それを絵や言葉や曲として視覚的、聴覚的に見聞きできるものとして産み落とす。それは誰も見たことのない境地を見出す先駆者になるということだ。

 「ここら辺の高校?」と千歌は聞いた。少女の逡巡を経ての「東京」という返答は波の音に消えてしまいそうで、耳を澄ましていなければ聞こえなかっただろう。

「東京? わざわざ?」

「わざわざっていうか………」

 口をまごつかせる少女の隣に、千歌は腰を下ろす。東京に住んでいるのなら、知っているかもしれない。

「そうだ、じゃあ誰かスクールアイドル知ってる?」

「スクールアイドル?」

「うん! ほら、東京だと有名なグループたくさんいるでしょ?」

「何の話?」

「え?」

 千歌は口を開いたまま静止させる。千歌がスクールアイドルを知った東京なら、この内浦よりも身近なはず。それなのに、少女はまるで今初めてスクールアイドルという単語を聞いたかのように首を傾げている。ふたりの間に漂う沈黙をすり抜けるように、後ろでバスが通る音が聞こえた。

「まさか知らないの⁉」

 興奮のあまり、千歌の声が大きくなる。

「スクールアイドルだよ! 学校でアイドル活動して、大会が開かれたりする」

「有名なの?」

「有名なんてもんじゃないよ。ドーム大会が開かれたことあるくらい、超人気なんだよ――って、わたしも詳しくなったのは最近だけど………」

 「そうなんだ」と少女は何の気なしに応える。あまり興味が湧いていないらしく、それが申し訳ないように視線を俯かせ、

「わたしずっとピアノばかりやってきたから、そういうの疎くて」

「じゃあ、見てみる? 何じゃこりゃあ、ってなるから」

 「何じゃこりゃあ?」と顔を上げる少女の眼前に「何じゃこりゃ」と千歌はスマートフォンを差し出す。少女は目を細めて画面を眺めた。どう述べようか感想を探るように、

「これが?」

「どう?」

「どうって……、何と言うか………、普通?」

 おそるおそる見上げてくる少女にそう言うと、「ああいえ、悪い意味じゃなくて」と慌てた様子で繕う。

「アイドルっていうから、もっと芸能人みたいな感じかと思ったっていうか………」

 千歌は少女へ背中を向け、海へと視線を流す。別に気を悪くしたわけじゃない。少女に見せた画像のグループは、在籍していた高校の制服を着ていたから当然の感想だ。他にもアイドルらしい可憐な衣装の画像もたくさんあるのだが、千歌にとって彼女らが制服で歌った曲は特別に想い入れのある曲だった。

「だよね」

 「え?」と少女は上ずった声をあげる。確かに彼女らがスクールアイドルと知らなければ、9人でポーズを決めた画像は単なる女子高生の集合写真に見えてしまうだろう。でも、ありふれた制服姿でありながら、ステージに立つ彼女らは違う世界に立っていた。

「だから、衝撃だったんだよ」

 千歌は西の空を眺める。太陽が海へ沈もうとしている方向。世界を照らす、その中心へと。

「あなたみたいにずっとピアノを頑張ってきたとか、大好きなことに夢中でのめり込んできたとか、将来こんな風になりたいって夢があるとか、そんなのひとつもなくて」

 頑張ったと誇れるもの、これは手放せないと熱中できるもの、こうなりたいと願える夢のどれも、千歌は持っていなかった。それはずっと抱いてきた虚無だ。

「わたしね、普通なの」

 幼い頃、小学校低学年から水泳の高飛び込みで才を発揮していた曜を、千歌は観客席で眺めているしかなかった。自分はあの場所にいることはできない。近くにいる親友でも、曜に追いつくことはできない。自分はただの、才能ある人間を羨むだけの、何の取り柄もない普通の女の子。

「わたしは普通星に生まれた普通星人なんだって、どんなに変身しても普通なんだって、そんな風に思ってて。それでも何かあるんじゃないか、って思ってたんだけど。気が付いたら高2になってた」

 口を開けて待っていれば、空から何かが降ってきてくれるんじゃないか。そんな根拠のない期待を捨てきれず、何も行動を起こさなかった千歌のもとには何も降ってはこなかった。ただ日々は淡々と、でも容赦なく過ぎて言って、「普通」のまま千歌は高校2年目の春を迎えようとしていた。

「まず! このままじゃ本当にこのままだぞ! 普通星人を通り越して普通怪獣ちかちーになっちゃう、って!」

 「がおー!」と千歌は大口を開けて少女に迫る。続けて「ぴー! どかーん!」と怪獣ごっこをする子供のようにまくし立て、振り返ると少女はくすりと笑みを零していた。

「そんなとき、出会ったの。あの人たちに」

 それは2ヶ月前、修学旅行で訪れた秋葉原の街でのことだった。

 自由時間に曜と都心のビル街を散策していて、客の呼び込みをしていたメイドから店のチラシを受け取ろうとしたとき、強いビル風が吹いた。メイドの持っていたチラシが撒き散らされて、拾おうと風に運ばれる紙を追いかけ、千歌はそこへ辿り着いた。

 ビルの壁に設置された街頭モニター。その中で制服姿の彼女たちは踊り、歌っていた。

「みんなわたしと同じような、どこにでもいる普通の高校生なのに、キラキラしてた」

 千歌はその曲が終わるまで、チラシの回収を忘れて見惚れていた。アイドルなだけあって、容姿はもちろん優れているほうだった。でもそれ以上に彼女らのダンスと歌は理屈や言葉での説明では物足りないほどに、千歌の心を震わせた。彼女たちの立つステージは千歌の居場所とは別の世界のようで、彼女たちはその世界を照らす太陽のように輝いて見えた。

「それで思ったの。一生懸命練習して、みんなで心をひとつにしてステージに立つと、こんなにもかっこよくて、感動できて、素敵になれるんだって」

 運命だと思った。待ち焦がれていたものとようやく出会えた。自分の行くべき世界。そこから見える景色。彼女たちと同じ場所へ行きたい、と願えるものがスクールアイドルだった。

「スクールアイドルってこんなにも――こんなにもキラキラ輝けるんだって」

 彼女たちの歌とダンス。太陽のような輝きが、千歌の空虚を埋めてくれた。空っぽだった自分のなかに、宝石がどんどん詰まっていくようだった。

「気付いたら全部の曲を聴いてた。毎日動画見て、歌を覚えて、そして思ったの。わたしも仲間と一緒に頑張ってみたい。この人たちが目指したところを、わたしも目指したい。わたしも輝きたい、って」

 普通な自分が、普通でない特別なものになれるかもしれない。彼女たちのように誰かを感動させる人間になれるかもしれない。確証はなくとも、その可能性だけで千歌は熱中できる。目指すところは光。ひいては自分が光になることが、千歌の願い。

「ありがとう」

 少女は穏やかに言った。

「何か頑張れ、って言われた気がする。今の話」

「本当に?」

「ええ。スクールアイドル、なれるといいわね」

 「うん!」と応えて、千歌は遅れて思い出す。そういえば事が事だったから、互いに自己紹介する余裕もなかった。大切な手順を飛ばしてしまった気がする。

「わたし、高海千歌。あそこの丘にある浦の星女学院、て高校の2年生」

 丘の頂に建つ学校を指さす千歌の隣に、少女は「同い年ね」と並ぶ。

「わたしは桜内梨子(さくらうちりこ)

 この出会いが何をもたらすのか、この時の千歌はまだ知らない。出会いに思慕を感じられるのは、少しばかり遅れた後になる。

「高校は、音ノ木坂学院高校」

 ふと、重厚なエンジン音が響いている。千歌と梨子は車道へと振り向いた。十千万の駐車場から1台のバイクが飛び出して、猛スピードで沼津方面へと走っていく。あのVTR1000Fは美渡が学生時代に乗っていて、今は翔一へと譲渡されたバイクだった。買い物かな、と思いながら千歌は翔一が去っていった方向を目で追った。

 この時、千歌は知らなかった。

 もうひとつの運命が動き出していたことに。

 

 



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第4話

 

   1

 

『実はお見せしたいものがあるんです。主人と息子が殺された事と、関係があるかどうかは分からないんですけど』

 通話越しの佐伯安江の声は、少し震えていたように誠は記憶している。連絡を受けたのは夕刻で、過去に類似した事件がないか署のデータベースをチェックしている時だった。収穫が無くて諦めようとした矢先での連絡は、迷うことなく誠を快諾させた。

 すぐに準備をして待ち合わせの公園に向かったのだが、到着した頃には既に陽が暮れていた。夕陽が空を茜に染める時間は短い。まだ西には茜の残滓が残っているが、あと10分程度で完全に夜の闇を映すだろう。数少ない遊具で遊んでいたであろう子供たちも家に帰り、静まり返った公園はどこか不気味だった。植えられた桜の樹は花を咲かせているが、朧気な街頭に照らされた樹木は公園に現れる魔物のように見えてくる。それほど公園は広くもなく、いくら暗くても安江はすぐに見つかるだろう。ひとまず敷地を一周してみたのだが、人気がまったくない。まだ安江は来ていないのか。

 しばらく待ってみよう。そう思い公園に設置されている唯一のベンチへと歩く誠の視線が、散った薄紅色の花弁が積もる地面の一画で留まる。花弁を敷物のように、女性もののハンドバッグが鎮座していた。誠は駆け寄りバッグを拾い上げる。

「佐伯さん」

 嫌な予感がして、誠は夜へ染まろうとしている周囲に呼びかける。応える者はなく、誠の声は宵闇のなかへと吸い込まれ、彼方へと消えていく。誠は視線をやや上へと移す。静かに、動くことなく立ち並ぶ樹木はどれも空に向かって枝を伸ばしている。誠の視線が止まった先で、1本だけ枝がだらりと垂れ下がっている。誠は目を凝らす。

 ぶらりと下がったもの。それは枝ではなかった。

 春物のコートに袖を通した、人間の腕だった。

「佐伯さん!」

 驚愕こそしたが、誠の意識は即座に警戒へと移った。犯人がまだ近くにいるかもしれない。ジャケットの内ポケットからM1917リボルバーを取り出し、周囲に険しい視線を這わす。

 安江の埋まった樹の根本で、背の低い常緑樹がかさかさ、と音を立てた。駆け寄り銃口を向けようとしたとき、横から何かがぶつかってくる。不意打ちに対処しきれず誠は地面に身を伏した。すぐに起き上がろうとしたのだが、上体を起こしたところで誠は視界に入った「それ」に目を剥き、呼吸するのも忘れてしまう。

 「それ」は人のようであって、獣のようでもあった。

 一瞬は被り物だと思った。犯罪者が雑貨屋で売っているマスクで顔を隠すのはよくあることだ。でも目の前にいるジャガーの顔をした「それ」はゴムやシリコンでは出せない肉の質感が見て取れる。被り物とするなら、本物のジャガーの皮を被っているようだ。

「貴様の仕業か!」

 ようやく体の緊張が解けて、誠は声を飛ばす。人の言語が理解できないのか否か、「それ」は何も答えず獣の呻きを漏らしながら誠の喉元を人と同じ形の手で掴んでくる。片手で首を持ち上げられながら、誠は冷静さを失わず「それ」を分析する。体は人間と同じだ。盛り上がった筋肉はダビデ像のような理想的な肉体美を湛えている。

 「それ」は無造作に誠を投げ飛ばした。体重が60キロ以上ある誠の体を片手で。受け身も取れず無様に着地する誠には一瞥もくれず、「それ」は踵を返して暗闇の中へと潜り込んでいく。そこで誠はようやく、夕陽の残滓すらも消えて完全な夜が訪れたことに気付いた。

 懐からスマートフォンを取り出し、素早く通話モードにして耳に押し当てる。すぐに小沢の声が聞こえた。

『氷川君、どうした?』

「現在謎の生物に遭遇。G3システムの出動をお願いします!」

 「きたきたきた!」と小沢の嬉しそうな声が聞こえるが、文句を言っている暇はなく誠は通話を切った。本来なら対テロ用の装備として開発されたG3を謎の生物への対処という形で運用するなど、警視庁幹部が簡単に許可を出すとは思えない。しかも、まだ試作機のG3システム運用は世間に公表されていない。世に出すには早すぎる段階だ。でもあの小沢澄子なら、許可が下りる前に強引に出動へと乗り出すだろう。複雑だが、そんな逞しい彼女への信頼があった。

 誠は暗闇へと乗り出す。謎の生物は慌てる様子もなく悠然と歩いていたからすぐに見つけることができた。その背広筋が盛り上がった背中にM1917の銃口を向けトリガーを引く。外れたのか。耳をつく銃声を意に介さずこちらを振り向く生物を見て、そう判断せざるを得ない。照準を頭に定め、再びトリガーを引く。

 今度は正確だったらしい。らしい、というのも発射された弾丸が謎の生物の眼前で静止し浮いているのが見えたからだ。もし止まっていなければ、間違いなく目標の顔面を吹き飛ばしたはず。しかし弾丸は目標の頭蓋を貫くことなく、まるで共振動を起こしたかのように砕け宙に霧散していく。

 「なに……!」と呆然と声をあげる誠に背を向けて、謎の生物は走り出した。とても人間の筋力が出せるようなスピードではなく、追跡を試みるもすぐに引き離されて夜の静けさへと逃げられてしまう。誠は進路を変え、大通りへと向かった。近づくにつれてサイレンの音が聞こえてくる。街路樹の通りを抜けて舗装された道路へ出ると、丁度赤いパトランプを光らせる大型トラックが到着したところだった。

 警視庁のエンブレムが刻まれた、G3装備一式とオペレーティングシステムが積載されたGトレーラー。装着員がひとりに限られている制約上、自由に動けるように設計された拠点。調整のために本来の持ち場である東京を離れ、整備施設のあるこの沼津に移っていたのは不幸中の幸いと言うべきか。

 誠が乗り込んですぐにトレーラーは発車した。カーゴに移ると誠は急いで衣服を全て脱ぎ捨てる。G3のインナースーツには、装着員のメディカル情報を採取するための信号素子が張り巡らされている。だからたとえ肌着一枚でも誤差が生じてしまう。黒のインナースーツで首から下を覆い、脚部、次いで胸部装甲を身に纏っていく。ひとりでは手の届かない部分のユニットは小沢と尾室が手伝った。背中のバッテリーパックの残量を示すバックルを腰に装着した後、最後の仕上げとして小沢がマスクを誠の顔に当てる。網膜認証のセンサーが眼球を読み取ると、マスクのディスプレイ上にロゴが表示される。

 認証 装着員:氷川誠警部補

 開いた後頭部がカバーに覆われた。小沢から警棒を受け取ると、マスクに搭載されたカメラとオペレーションモニターの中継を確認した尾室が「装着完了」と告げる。誠はカーゴに佇むバイクに跨り、欠けた右ハンドルに警棒を射し込む。計器類が点灯し、スタータースイッチを押すとエンジンが駆動した。背後でごおん、という音がする。装備で全身を覆われているから感じ取れないが、開いたハッチから風がカーゴ内に吹き込んでいることだろう。小沢がPCのキーを叩くと、ハンガーごとバイクが後ろへと追いやられ、トレーラーから道路へと伸びたスロープの上に乗ったところで停止する。

「2123、G3システム戦闘オペレーション開始」

 小沢が告げると、尾室が壁に設置されたレバーに手をかけ、

「ガードチェイサー、離脱します」

 ハンガーのロックが外された。バイクは重力に従い、後ろ向きのままカーゴから吐き出され、路面へと降りていく。車体のバランスが取れた頃を見計らい、誠はG3専用ビークルとして設計されたガードチェイサーのアクセルを捻り、Gトレーラーを追い越して宵闇へと走り出す。

 

 

   2

 

『沼津港付近に高速で移動する熱源あり』

 マスクのスピーカーから尾室の声が飛んでくると同時、視界のディスプレイ上に港への最短ルートのマップが送信されてくる。地図の案内に従い、誠はサイレンを唸らすガードチェイサーを向かわせる。

 熱を持つということは、あれは生物なのか。G3のコンピューターが視覚補正し暗がりに隠れた街をヴァーチャル表示するなか、誠は考える。あんな生物がいつ、どこで生まれたというのか。ジャガーが人間のように二足歩行し、長い時代をかけて進化を遂げた姿だというのか。自力で進化を遂げたには、いささか完成度が高すぎるような気がした。何せ造形が完璧すぎる。

 まるで、神が最高の形として創り出したかのように。

 港に近づいたあたりで、G3のセンサーが目標を捉えた。目標は走っていた。時速60キロを越えるガードチェイサーとほぼ互角の速度で。

「目標を確認。接近します」

 『了解』と小沢が応える。誠はガードチェイサーのスピードを上げ、謎の生物が駆け込んだ港の一画へと入ったところでマシンを停車させた。

 そこはコンテナ置き場だった。荷物を詰め込まれ、貨物船に積載されるのを待つ立方体の箱がまるで積木のようにいくつも重なっている。既に本日の積み下ろし業務は終えたようで、職員はいない。ここに駆け込んだはずの謎の生物も。静寂が波の音と、潮風がコンテナの間をすり抜ける音を際立たせている。

『GM-01アクティブ。発砲を許可します』

「了解」

 武器の使用許可を小沢から受け、ガードチェイサーのリアトランクから銃を取り出す。GM-01スコーピオン。銃身の長さは拳銃と変わりないが、設計上はアサルトライフルだ。

『氷川君、近いわよ』

 オペレーションモニターと同期するディスプレイで、目標の熱源反応を示す座標がゆっくりと、しかし確実に誠との距離を詰めている。周囲に視線を巡らせ、街灯の光を受けてコンテナに映った人ならざる者の影を捉える。

 誠は影、その前にいる謎の生物に銃口を向けトリガーを引いた。腕部装甲が発砲時の反動を全て抑え、一寸の狂いもなく目標へ弾丸を浴びせていく。

 

 はずだった。

 

 連射された弾丸は全て目標の寸前で弾道を反らし、背後のコンテナに穴を開けていくだけだった。

「効かない、そんな⁉」

 鋼鉄製の砲丸も破壊する威力だぞ。咄嗟にGM-01を見てしまったことが致命的だった。謎の生物は一瞬で距離を詰めてきて誠に掴みかかる。銃身で打撃を与えようとするが撥ねつけられ、手から零れ落ちてしまう。

『GM-01をロストしました! ステータスZに移行』

 尾室の上ずった声がマスク内に響く。尾室にとっても想定外の事態に違いない。多数のテロリストを単体で制圧するために設計されたG3が、たった1体の敵で武器を失うなんて。

 謎の生物が誠の腹を蹴り上げる。スーツを装着した150キロある誠の体が宙へと投げ出され、停車していた事業所のものらしき車のボンネットに落下しフロントガラスを砕く。背中から落ちたことが状況を悪化させ、尾室が知らせてくれる。

『バッテリーユニットに強度の衝撃。バッテリー出力80パーセントにダウン』

 想定外の事態が多すぎる。敵はテロリストどころか人間ですらなく、武器を失い、耐衝撃用の機構が組み込まれたバッテリーユニットにダメージを負うなど。

 痛みに歯を食いしばりながらボンネットから滑り落ちると、態勢を立て直す暇もなく謎の生物の蹴りが胸に響く。武器を失っても、誠は刑事として日々近接戦の訓練も受けている。G3運用に伴い、米海軍特殊部隊(ネイビーシールズ)出身の元軍人を講師に招いて近接戦を叩きこまれた。己の体ひとつでも十分に戦える。

 培った技術とスーツの筋力補正を上乗せした拳を浴びせ、更に蹴りを入れる。謎の生物の体が、先ほどの誠と同じように宙へと舞う。だが謎の生物は蹴り飛ばされたわけではなかった。蹴りを受けると同時に自ら跳んだのだと、車の屋根に着地した余裕ある佇まいで理解できた。

 屋根から下りた謎の生物が車体を押した。あまりのパワーでサイドブレーキが破壊されたらしく、重量が1トン近くある車体が誠へと向かってくる。馬鹿な、G3の筋力補正でも1トンの物体は動かせないというのに。驚愕のあまりに回避を忘れ、まともに車体と衝突してしまう。ボンネットから屋根へ、屋根からトランクという順に地面へと転がる。

『胸部ユニットにダメージ!』

 胸部装甲が火花を散らした。内部でパーツがいくつか故障したらしい。誠を轢いても車は止まることなく、先ほど誠がフロントを破壊した車と衝突した。ガソリンタンクに当たったのか爆発を起こし、赤い炎を燃え上がらせる。

 謎の生物の拳が誠の顔面を打った。地面に伏す誠に追撃を加えようとするが、それはなけなしの蹴りを入れて阻む。立ち上がって近接戦へ持ち込もうとするが、完全に相手のペースだった。誠が何発拳を入れても動じない謎の生物は、たった一撃の蹴りで誠の体を突き飛ばしてしまう。ぶつかったコンテナがひしゃげ、肩と腕の装甲が火花を散らした。

『姿勢制御ユニット損傷。G3システム戦闘不能!』

 謎の生物が誠の頭を掴み、コンテナに打ち付けてくる。頭蓋に衝撃が響き、危うく意識が飛びそうになる。『映像信号ロストしました!』という尾室の声で意識を押し戻すことができたが、伝えられた状況は最悪を示している。

『オペレーション中止、氷川君離脱しなさい! 氷川君――』

 小沢の声がノイズにかき消されていく。通信機もやられたらしい。姿勢制御機構が使い物にならなくなったせいで、スーツがずしりと重くなった。もはやG3システムはただの硬い鎧でしかない。この圧倒的パワーの怪人を前にしては、次に強烈な一撃を食らえば装着員である誠の生命が危ぶまれる。

 離脱しようにも思うように動けない。謎の生物が拳を振り上げようとしたとき、誠は直感的に最期を悟った。

 だが、その直感は外れる。

 謎の生物は拳を下ろし、背後を振り返る。息をあえがせる誠への興味が失せたかのように暗闇の一点、こちらへゆっくりと歩いてくる人影を見つめている。誠も人影へと視線を向けた。人影の腹のあたりが光を放っていて、逆光で全貌がよく見えない。

 人影が炎上する2台の車のそばで歩みを止めた。その時点で腹の光は消えていて、完全に闇と同化している。再びガソリンに引火したのか、車が爆炎を起こす。プラズマの光を受け、影に隠れたその姿が露わになる。

 それは生物と呼ぶべきか判断しかねた。黄金の鎧に覆われた体は人型のシルエットでありながら、額から金色の角が2本そびえ立ち、顔の半分を大きなふたつの赤い目が占めている。生物というより戦士だった。

 謎の生物は呻き声をあげ、戦士へと向かっていく。戦士の出現に激しく怒っているように見えた。殴りかかってきた謎の生物の拳を戦士はいなし、その顔面に肘打ちを見舞う。更に拳を顔面に打たれた謎の生物が仰け反るのを見て、誠は驚愕した。G3の拳を受けても意に介さなかった謎の生物を、あの戦士はたった1発の拳でダメージを与えた。

『氷川君聞こえる? 氷川君!』

 通信が復旧したらしい。小沢の声に応えることなく、誠の意識は突如現れた金色の戦士へと向けられて離れない。

 謎の生物が掴みかかった。戦士はまるで力の流れを掴んでいるかのように、合気道の容量で謎の生物の肩を掴み投げ飛ばす。誠を圧倒した謎の生物が、離れた地面に投げ出された。

 戦士の双角が扇のように、左右へ開き6本の角になった。足元には金色の、開いた角によく似た紋章が浮かび上がり、その光を受けて戦士の鎧も輝いている。紋章は渦を巻き、戦士の両足へと収束する。身を屈めた戦士へと向かって謎の生物が駆け出した。戦士は跳躍し、宙で右足を突き出してキックで迎え撃つ。

 胸にキックを受けた謎の生物の体が跳ね返された。起き上がろうとしたところで頭上に光が渦巻く。まるで天使の輪のようだ。謎の生物は打たれた胸を押さえつけ、苦しそうに悶える。

「ア……ギ………ト……………」

 謎の生物が発した声が、そう紡いだ気がした。何かにすがるように手を伸ばした瞬間、その体が爆散した。飛び散った肉片にはまだ炎が灯っていて、細胞一片も残さず焼き尽くそうとしている。

 たった1撃のキックだった。それだけであの戦士は敵を葬ってしまった。爆発の凄まじさに(おのの)きもしない戦士は、ただ燃え残る炎を見つめている。その角が閉じて2本に戻った。赤い目が誠へと向けられる。

 来るか――

 身構えようにも、戦闘不能に陥った今では対処のしようがない。だが戦士は誠に背を向けて、悠然と歩き始める。謎の生物を倒すことが目的で、誠の存在など眼中にないように。追跡しようにも、G3装備がまともに機能していない今の状況では無理だ。危機を脱したからか、意識が遠のいていく。体から力が抜けて倒れるも、誠は立ち込める煙の中へと消えていく戦士の背中を視線で追い続けた。その背中もぼやけていく。燃え残る炎も、宙をたゆたう煙も。

 まだ機能している聴覚がサイレンの音を捉える。Gトレーラーが回収に来たらしい。

 意識が完全に埋没しようとしているなか、誠は爆散する直前に謎の生物が発した声を思い出した。あれは何かを意味していたのだろうか。それとも単なる獣の咆哮がそう聞こえただけだろうか。

 マスクのなかで誠の唇がその音をなぞった。

「アギト………」

 

 

   3

 

「もう一度?」

 浦の星女学院前の停留所でバスを降りて、千歌から教室へ行く前の用事を聞いた曜はそう言った。昨日撥ねつけられた申請書を手にした千歌は「うん」と、

「ダイヤさんの所にいって、もう一回お願いしてみる」

 「でも――」と曜が言いかけたところで、千歌は「諦めちゃ駄目なんだよ」と遮った。

「あの人たちも歌ってた。その日は絶対来る、って」

 それは千歌が見つけたグループの歌にあった詞の1節。未来を切り開くのは、熱い胸だと。今の熱を保てば、きっと始まるはずだ。

「本気なんだね」

 穏やかに曜が言ってすぐ、千歌の手から申請書をくすねる。「ちょっと」と文句を飛ばそうとしたところで、千歌の背中が曜の背中と合わさる。その不意打ちに千歌は反応に困り、開いた口を静止させる。曜は言う。

「わたしね、小学校の頃からずーっと思ってたんだ。千歌ちゃんと一緒に夢中で何かやりたいな、って」

「曜ちゃん……?」

「だから、水泳部と掛け持ちだけど」

 曜の背中が離れた。代わりに千歌の背に紙がかさり、と押し付けられ、何か細いものを当てられたのかこそばゆい感触を覚える。振り返ると視界いっぱいに申請書の書面が入った。部員の欄に書かれた「高海千歌」という唯一の名前。その下に「渡辺曜」という名前が追加され、書面を差し出す曜は満面の笑みを向けている。

「曜ちゃん………」

 思わず涙が出そうになった。親友故の情けかもしれない。ただ見かねただけなのかもしれない。それでも、曜の「一緒にやりたい」という気持ちが胸を熱くさせてくれた。千歌は申請書を放り、曜を力強く抱きしめる。「苦しいよ」と曜が苦笑した。昂る気持ちのままに拳を振り上げ、

「よーし、絶対すっごいスクールアイドルになろうね!」

 

 一度3年生の教室を訪ねたところ、ダイヤは生徒会室にいるとのことだった。毎朝早く登校し、ホームルームが始まる前に生徒会の職務をこなしているらしい。

「よくこれでもう1度持ってこようという気になりましたわね」

 千歌が半ば押し付けるように差し出した申請書を眺め、ダイヤは皮肉を漏らす。

「しかもひとりがふたりになっただけですわよ」

 呆れと困惑が混在しているような口ぶりだった。設立に必要なのは5人以上、という話を聞いていなかったのか、と。

 やっぱり、と予想していた通りだったが、曜は隣に立つ千歌を止めようとは思わない。乗りかかった、いや既に乗った船だ。千歌と一緒にやると決めた以上、曜もここは押し通さねばならない。

 千歌は言う。

「やっぱり、簡単に引き下がったら駄目だ、って思って。きっと生徒会長は、わたしの根性を試しているんじゃないか、って」

 「違いますわ!」とダイヤは身を乗り出して千歌に顔を近付ける。

「何度来ても同じ、とあの時も言ったでしょ!」

 千歌も負けじと顔を近付ける。

「どうしてです!」

「この学校には、スクールアイドルは必要ないからですわ!」

「何でです!」

 これでは交渉どころじゃない。「まあまあ」と曜はふたりをなだめようと試みるも、まったく耳に入っていないようだ。千歌がここまで強気になるのは珍しいし、両家の令嬢という印象が強かったダイヤがここまで感情的になるなんて思ってもみなかった。彼女が唾を飛ばす勢いで吐き捨てる姿も。

「あなたに言う必要はありません! 大体やるにしても曲は作れるんですの?」

 「曲?」と千歌が目を丸くして、ダイヤは更に怒りを増大させたが寸でのところで飲み込んだらしい。説明するダイヤの口調は少しばかり落ち着きを取り戻していた。

「ラブライブに出場するにはオリジナルの曲でなくてはいけない。スクールアイドルを始めるときに、最初に難関になるポイントですわ。東京の高校ならいざ知らず、うちのような高校だと、そんな生徒は………」

 そんな生徒はいないだろう。ダイヤの濁した最後の言葉は、きっとそれだ。浦の星女学院の生徒は100人にも満たない。「ラブライブ」というスクールアイドルの全国大会があることを、曜は千歌から聞いている。千歌の憧れのグループもラブライブで優勝しているらしい。そのグループは東京の高校に在籍していた。人口の多い東京は高校の数も多い。様々な生徒――作曲ができる生徒もいたことだろう。

 沼津という日本の一画にある街の小さな高校で、果たして音楽への造詣が深く、かつ自ら曲を作れる生徒がいるだろうか。そもそも、あのグループとは始まった環境がまるで違うのかもしれない。

 

「探してみせます!」

 そう啖呵をきって生徒会室を飛び出した。教室に戻って同級生たちに作曲ができるか、またできる生徒を知らないか聞いて回ったのだが、

「ひとりもいない………」

 ホームルームの開始時刻が近付き、席についた千歌は深い溜め息を漏らす。隣席の曜もがっくりと机にもたれている。

「生徒会長の言う通りだった………」

 「大変なんだね、スクールアイドル始めるのも」と曜は応じる。100人未満の小さなコミュニティとなれば、情報はすぐに広まる。だから1クラス聞いて回って収穫なしとすれば、本当に浦の星女学院に作曲のできる生徒はいないのだろう。

 「こうなったら」と千歌は机の中から音楽の教科書を取り出し、

「わたしが、何とかして――」

「できる頃には卒業してると思う」

 曜の指摘通り。カラオケは好きだが音楽に関して千歌は素人だ。楽器なんて学校で習う鍵盤ハーモニカとリコーダーくらいしか弾けない。それに得意でもない。開いた教科書にうなだれると、「はーい皆さん」と担任教師が教卓でホームルーム開始を告げる。

「ここで転校生を紹介します」

 教室の生徒たちがざわめき始める。転校生が来るという噂は聞いてはいたが、スクールアイドル部設立のことが思考の大半を占めていたから気にも留めていなかった。「どうぞ」と教師が促すと、ドアから長い髪を揺らした少女が入ってくる。

 少し緊張気味な面持ちで、まだ糊のきいたしわのない制服に袖を通した少女の顔を、千歌はじっと見つめる。初めて見る顔じゃない。だからこそ瞬きもせず、視線が離れない。

 「今日からこの学校に編入することになった――」と教師は区切り、続きを少女が引き継ぐ。少女は控え目なくしゃみを経て、「失礼」と前置きして自己紹介する。

「東京の音ノ木坂という高校から転校してきました」

 そこで少女はまたくしゃみをして、照れ笑いと共に名乗る。

「桜内梨子です。よろしくお願いします」

 繋がった、と千歌は確信する。枝分かれした川がひとつになって海へ流れるように、全てがあるべきところへ収まった。

「奇跡だよ!」

 思わず高らかに言って、千歌は立ち上がる。そこで梨子は千歌に気付き、「あなたは……⁉」と漏らす。

 ここから物語は動き出す。目指すべき場所へ続く道。そこへ至る入口がようやく見つかった。ひとりでは無理でも、一緒に頑張れる仲間がいれば、きっと扉は開ける。

 彼女たちと同じステージ。

 輝ける世界への扉が。

 共に輝けるであろう梨子に手を差し伸べ、千歌は言った。

「一緒にスクールアイドル始めませんか?」

 

 





 原作1話に相当するエピソードでお察し頂けたかもしれませんが、本作はこの通り『サンシャイン』と『アギト』のストーリーが並行して進むという構成になっております。

 なぜこんな形にしたかといいますと、私のなかで二次創作を書く目的意識が変化しまして、原作を知らない方に魅力を知って頂くため敢えて改変させない方向にしました。なので本作は原作のファンは勿論ですが、原作を知らない方にこそ読んでほしいと思っております。


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第2章 転校生をつかまえろ! / 俺の変身!
第1話


 先日、沼津へロケハンに行きました。土地の雰囲気を掴んだようなそうでないような………。微妙なのでお盆休みあたりにまた沼津へ脚を運ぼうと思います。




   1

 

 物心ついた頃から、音楽が好きだった。

 ピアノの教室に通って、レッスンの時間だけでは物足りなくて、そんな娘に両親は決して安くないピアノを買い与えてくれた。それから梨子の人生はピアノと共にあったと言って良い。

 もっと上手くなりたい。もっと綺麗な音を奏でたい。自分にしか弾けない曲、自分にしか作れない音色が欲しい。

 暇さえあれば鍵盤を叩いていた梨子が上達するのは必然的なもので、自然とコンクールにも上位に入れるほどの実力を身に着けていった。

 ピアノは好きだからこそ続けてきたし、楽しく弾いていた。それが、あのコンクールの日から砂の城のように崩れていった。

 まだ音ノ木坂学院に在籍していた頃に出場したコンクールだった。大規模なホールを舞台にドレスを着て演奏するなんて随分と慣れたものだから、緊張なんてしないはずだった。事実、壇上で観客に礼をするまで、梨子の所作はとても自然になされた。

 でもいざピアノに向かったとき、梨子の指は石膏で固められたように動かなくなった。鍵盤の前でかざした手はコンクールの課題曲を何度も弾いてきた。ミスタッチは全て修正したし、動けば楽譜通り完璧に弾けるはずだった。

 ――わたしがやりたい音楽って、これなの?――

 梨子の意識の奥底にある疑問が、手を固めてしまったようだった。ピアニストに求められるのは楽譜が指示する通りに演奏すること。完成された曲にアレンジを加えることなく、作曲家の描いた音の連なりを忠実に再現することにある。完璧な演奏とは、悠久の時を経て昔の音楽を現代に蘇らせる崇高な行為。教室の講師がそう言っていた。

 若気の至りなのかもしれない。思春期のつまらない反骨精神なのかもしれない。それでも、蓋が開かれたピアノの中に梨子の音楽は見つからない。ここに自分の音楽は、音はない。

 そのコンクールで梨子は弾くことができなかった。ざわめく観客に礼をして、ステージを逃げるように退いた。

 あの日を境に梨子は鍵盤に触れることすらできなくなった。自分に相応しい音を見つけるまで触れさせない。そうピアノに拒絶されているような――いや、それは物言わぬピアノに責任転嫁しているだけ。拒絶しているのは梨子のほうだ。

 それでも何度もピアノを弾こうと試みたのは、梨子がまだピアノへの思慕を捨てきれていないから。辞めることなんてできない。梨子にとってピアノとは人生の大半を占めるものだから。ピアノはある意味で魔物だ。美しい歌声で惹き寄せられた者を殺すセイレーンのよう。

 梨子もピアノという美声の魔物(セイレーン)に惑わされているのかもしれない。歌声は目蓋のない耳に入り、知らずのうちに呪いとなって首を絞められるように息苦しくなる。

 

「ごめんなさい!」

 

 だから梨子は、千歌から差し伸べられた手を拒んだ。申し訳ない、と深々と頭を下げて、でもはっきりとした口調で。

 わたしにはピアノがある。

 たとえピアノに呪われていても、逃げるわけにはいかないの。

 大好きなものは、捨てられないから。

 

 

   2

 

『これが、君が遭遇したという敵かね?』

 警視庁警備部長の厳しい声が、スピーカーから流れてくる。誠の意識は声に込められた威圧よりも、PCの液晶が映すG3に搭載されたカメラの映像に向けられている。

 そこには何も映っていない。誠が戦った敵がいたはずの場所にはオーロラのようなもやがかかっていて、その姿が朧気でシルエットすらも捉えることができていない。

『戦闘オペレーションの実行時間は21分41秒と記録されている』

 記録映像が途切れたところで、警備部長補佐官の声が淡々と、

『だが録画された映像は僅か12秒。しかもこの状態で、G3は大破』

 「分かりません、何故映っていないのか」と誠はPCに接続されたマイクに向かって応じる。

「あの時、G3のカメラで確かに敵の存在を捉えたはずなんですが」

 『まさに未確認だな』と警備部長は言う。『それからこれ』と続けて、

『最終的にこの未確認生命体を倒したという謎の生物だが、何なのかね?』

 慎重に言葉を選別し、誠は答える。

「分かりません。しかし私が遭遇したのは、人間ではないと思います。人間であれば、たとえ防弾装備を固めていたとしても、G3システムの武器で制圧できたはずです」

『人間を超えた敵が現れた、とでも言いたいのかね?』

 補佐官の問いに誠は一瞬の間を置いて「はい」と答える。こんな報告、嘲笑か憤慨を買っても文句は言えない。だが映像になくても、大破したG3の装甲が物語っているはずだ。

 人類は未知の敵に遭遇した、と。

『君の言うことが本当なら、君が遭遇した生物はアンノウンとしか言いようがないな』

 アンノウン。

 警備部長による便宜的な呼び名を、誠は裡で反芻する。あれが現時点でまだ未発見の、道の生命体である以上、警視庁は呼称をそう定めるだろう。

『G3は修理中だが、また敵が現れるかもしれない。警戒を怠らないよう、捜査に取り組んでほしい。以上』

 当たり障りのない警備部長の口上で、聴聞会が締め括られる。PCの通話ウィンドウが閉じられた。張り詰めていた気分が解け、誠は深いため息をつく。誠は沼津警察署。警備部長と補佐官は東京の霞が関にある庁舎。電波越しでの報告であれほど緊張したとなれば、直に面と向かってしまうとまともな受け答えができるのか自信がない。

 PCをシャットダウンし、誠は会議室を出る。会議室を出てすぐの所にある階段で、男性刑事が腕を組んで佇んでいるのが視界に入る。明らかに自分を待っていた。それを悟りながらも、誠は何食わぬ顔で北條透の横を素通りしようとしたのだが、

「氷川誠」

 名指しされては、無反応はできない。やれやれ、と思いながら誠は同じ警視庁の刑事である北條へと向く。

「静岡県警からG3ユニットにスカウトされたと聞いたときに素朴な人間だろうと思いましたが、とんだ食わせ物でしたね」

 「何のことです?」と誠は訊いた。何て白々しい、とでも言いたげな視線を北条はくべて、

「謎の敵と遭遇したという、君の作り話だ。違いますか?」

「作り話……。私が何のためにそんな?」

「莫大な予算と大規模な人事異動をかけておきながら、現実的に考えてG3ユニットは大した成果を望めない。テロが起こったとしてもSATで事足りる。このままでは間違いなくG3ユニットは解散になる。それを防ぐために君は話をでっち上げた」

 誠はつい笑ってしまう。極めて特殊な部署に配属された故に皮肉や陰口を言われることは慣れているが、ここまで面と向かって言い掛かりをつけられるとは。刑事という身において不釣り合いなほど瀟洒(しょうしゃ)なスーツを着こなす男を見据えて、誠は告げる。

「聞きましたよ。北條透といえば本庁きっての若手エリート。でも意外と暇なんですね」

 北条の顔が僅かに曇るのも構わず、誠は続ける。

「そんなことを言うために私を待ってるなんて」

 礼儀正しく会釈し「失礼します」と誠は階段をのぼっていく。出世を目指しての蹴落とし合いは飽きるほど見てきた。誠の本庁への異動が決まったときも、静岡県警で同僚たちの陰口は嫌でも耳に入った。異端者扱いされているG3ユニットの連中がどれだけ成果を上げようと評価なんてしてやるものか、という本庁に移ってからの声も。

 ただ自分は職務を全うするだけだ、という決意を誠は裡で繰り返す。

 警察官として、市民を守るという職務を。

 

「アンノウンかあ。上手いこと言ったもんね」

 Gトレーラーに戻り、聴聞会の内容を誠から聞いた小沢は感心したように言う。トレーラーのカーゴベイは戦闘オペレーション用のものだが、待機を名目としてユニットメンバーは常にこの車内をオフィスとしている。現在の一時的な停留所である沼津警察署にメンバーのオフィスは設けられていないし、本庁の庁舎にはオフィスがあるのだが周囲からの冷たい視線に長時間晒されるのは勘弁願いたい。

 「アンノウン、ですか?」と尾室は訊いた。意味を尋ねる意図を汲み取った小沢は言う。

「例えば、国籍不明の戦闘機とか航空機に対して使う呼称ね。要するに正体不明ってこと」

 なるほど、と頷いた尾室は誠へと視線を移し、

「その敵を倒した謎の生物も気になりますね。本当に我々の味方なのかどうか」

「アギト………」

 誠は虚空に向かって呟く。「え?」と尾室が訊き、誠は視線を向ける。

「アンノウンが倒される直前、そう言っていました」

「それが、謎の生物の名前なんですか?」

 「名前だけ分かってもしょうがないわ」と小沢が打ち切った。

「まず、敵の正体を知りたいところね」

 そう、まずはそこだ。アンノウンがどこから現れたのか、何故人間を殺すのか。

 「でも手掛かりが何も……」と尾室が言う。そこで誠は思い出した。制服の内ポケットから出した1枚の、ビニールに包まれたそれを見て小沢が「何?」と訊いてくる。

「アンノウンに殺されたと思われる佐伯安江さんは、僕に見せたいものがある、と連絡をくれました。約束の場所に行ったとき彼女は既に亡くなっていたんですが、現場に落ちていたバッグのなかにこの写真が入っていたんです」

 小沢と尾室が、誠が持つ写真を覗き込む。池か湖の(ほとり)で、どこかの山を背景にひとりの少年を撮影した写真だった。少年の顔が佐伯一家殺害事件の最初の被害者、ひとり息子の信彦(のぶひこ)であることは記憶に新しい。データの状態で保存する今のご時世にわざわざ現像したところ、額に入れて飾っておくつもりだったのかもしれない。誠は漏れそうになった溜め息を堪えた。聴取であがった佐伯家のリビングには、家族写真や息子の成長を記念した写真が多く飾られていた。これほど愛情に溢れた家族がどうして全員殺されなければならなかったのか。

 「どこの写真かしら」と小沢の手へ写真が移る。小沢は現像された写真の右端にプリントされた撮影日時の数字に目を凝らし、

「日付は最近のものね」

 「ええ」と応じた誠はデスクに置かれたファイルを開き、まとめられた捜査資料を確認しながら述べる。

「佐伯家の人間は安江さんだけでなくご主人の邦夫(くにお)さん、ひとり息子の信彦君までが殺されています。写真の日付は、信彦君の死亡推定時刻の前の日です」

 「ちょ、ちょっと待ってくださいこの写真。何か変ですよ」と尾室が慌てた様子で小沢の手から写真を取る。誠が覗き込むと尾室は写っている信彦の右肩を「ほら、ここ」と指さす。

 誠は目を剥いた。現場維持のために落とさなかった汚れと思っていたもの。それは背後から信彦の肩を掴む手だった。

 まるで、殺される前日の信彦を死者の国へと引きずり降ろそうとしているかのように。

 

 

   3

 

「翔一、いつまで寝てんの? 千歌もう学校行っちゃったよ」

 美渡の声が、頭まで被った布団越しに聞こえてくる。続けて志満の声も。

「翔一君、熱でもあるの?」

 翔一は答えない。無言のまま布団に顔を埋め、暗闇へと自分を沈めようと試みる。それでも布団の隙間から外の光は容赦なく入り込んできて、完全な孤独に至ることは難しい。

 「翔一が寝坊なんて初めてじゃない?」と美渡が言った。「そうね………」と志満が応じた後、襖が静かに閉められる音が聞こえた。

 布団のなかで翔一は体を丸める。母のなかで胎児が眠るように。その頃の温もりを思い出そうとするように。でも、翔一にはその頃の記憶がない。記憶喪失でなくても、母の胎内にいた頃の記憶なんて誰も覚えていないだろう。そもそも、と翔一は恐ろしい核心への疑問を抱く。

 ――俺は人間なのだろうか――

 自分は母の胎から産み落とされてこの世界に誕生したのだろうか。そんな馬鹿げた疑問を抱いてしまう理由は、昨夜の出来事に他ならない。夕飯の準備をしていた際に頭のなかで響いていた叫び。それが誰のものかは分からなくても、それがどこから発せられたもののか、翔一には分かった。行かなければならない。獲物を見つけた肉食動物がそうするように、翔一は叫びのもとへとバイクを走らせた。

 そこにいたのは青の鎧を纏った戦士と、戦士を(なぶ)る異形の存在。翔一は異形の存在が敵と分かった。あのとき、翔一は自分の人格が消えたように思える。体が変化したにも関わらず、それに恐怖も迷いも抱かずに異形と戦った。格闘技の心得なんて無いはずなのに、翔一には戦い方が分かった。頭で理解するよりも、体が知っていた。

 何か思い出した、という千歌や美渡から頻繁に投げかけられる質問に、翔一は恐怖した。本物の恐怖だった。布団に温められたはずの体がぶるぶる、と震えだし、歯をがちがち、と打ち鳴らす。

 俺は何者なんだ。

 俺はどこで、何から生まれたんだ。

 その疑問に相反する願望を、翔一は認識する。

 

 何も、思い出したくない。

 

 

 

   4

 

「ごめんなさい」

 「だからね、スクールアイドルっていうのは――」という千歌の声には耳を貸さず、梨子はすたすたと廊下を歩き去ってしまう。

 

「ごめんなさい」

 食後のお茶を啜る梨子に「学校を救ったりもできたりして、すごく素敵で――」と憧れのグループが成し遂げた偉業を説明しようとしたのだが、テーブルを叩く缶の音で遮られる。梨子は席を立ち、弁当箱を手に食堂から出ていく。

 

「どうしても作曲できる人が必要で――」

 体育の授業中にグランドを走る梨子の背中へ呼びかけるが、「ごめんなさい」と梨子はスピードを上げて距離を取っていく。「待って――」と千歌もスピードを上げようとしたのだが、脚がもつれて盛大に転んでしまう。

 諦めちゃ駄目だ。その想いで立ち上がり、千歌は「桜内さーん!」と走り出す。

 

 

   5

 

 ずるずる、と思い脚を動かし涼は地下道を歩く。地上へ続く階段の先にある光を目指し、まるで胎児が産道から外へはい出そうとしているように思えてくる。脚がもつれて倒れそうになり、涼は壁に手をついた。荒い吐息と、激しく脈打つ心臓の音が聞こえる。立って歩けるくらいは容態も落ち着いたと思ったのだが、まだ熱があるようだ。

 医師によると、涼の体は未だに筋肉の発熱と痙攣を起こし、それが激しくなっているらしい。それは涼の筋肉組織が膨張を続けていること、と医師が両野に説明しているのを涼はベッドで聞いていた。

 ――俺の体は、どうしたっていうんだ――

 未だ朦朧とする意識で、涼は自分自身に問う。まだ退院できる体じゃないのに病院から抜け出した理由は、昨夜の出来事に他ならない。

 ベッドで寝ていた涼の体は、何の前触れもなく再び発作を起こした。全身が熱くなり、腹のあたりが疼いた。診察衣を剥ぐと腹が光を放っていた。まるで涼の体に宿った何かが産まれようとしているかのように。

 驚愕よりも先に、涼は恐怖した。男である自分の胎から何が産まれようとしているのか。本来なら何も産むはずのない自分から産まれるもの。それは決して良くないものだ、と確信できる。

 何かの病気か。病気だとしても、これは医者に治せるようなものじゃない。

 ぽたり、と涼の額から玉のような汗が落ちた。発熱のせいで常に汗が噴き出している。服も汗を吸って随分と重くなり、涼の体力を奪っていく。それでも、と涼は地上への階段を上る。一段上るのにかなりの体力を使い、転倒しそうになる。

 地上から射し込む光に向かう涼に、もう迷いも恐怖もなかった。ただ熱で脳細胞ごと溶けそうな、陶酔にも似た感覚が頭のなかでかき回されていくようだった。

 

 

   6

 

 撮影に使用されたスマートフォンのGPS記録によると、写真が撮影された場所は沼津市と伊豆の国市の境にある山岳地帯。発端丈山(ほったんじょうさん)葛城山(かつらぎやま)の間だった。沼津警察署から車で約1時間程度の距離ということもあり、誠は現場へ向かうことにした。

 市街を抜けて海沿いの道を通る途中でスマートフォンが着信音を鳴らす。近くの静浦漁港で車を停めた誠は端末を耳に当てて「はい氷川ですが」と応じる。小沢の声だった。

『全国の山の画像を検索して照合してみたんだけど、写真の背景の山は富士山らしいわね』

 「富士山?」と誠は眉を潜め、ジャケットから出した写真の背景を凝視する。続けて窓から見える富士山へと。

 見比べてみると確かにシルエットが同じだ。だが、今の時期富士山は頂にまだ雪が残っている。富士山頂の雪は夏になってようやく溶ける。

「富士山によく似た、別の山ではないんですか?」

『私もそう思ったのよ。写真の山には雪が無いし。でも、照合結果で一番確率が高いのは富士山だわ』

 光の加減だろうか。そう思うも、富士山の青みがかったシルエットが被る雪化粧はよく映える。スマートフォンに搭載されたカメラでも、その景色を捉えることは可能のはずだ。

「とにかく、まずは撮影場所に行ってみます」

 そう言って誠は通話を切り、再び車を走らせる。合成写真なのだろうか。だがそれは科学警察研究所の解析結果で否定され、何の加工もされていない写真であることが証明されている。一体どういうことか。春に夏の富士山が撮影されているなんて。

 思考を巡らせる間もなく、誠の車は目的地へ到着した。カーナビは目的地到着とアナウンスしたのだが、誠は困惑を拭えない。写真のなかで、信彦は山中の池か湖の畔で立っていた。なのに、誠が到着した場所はマンションが立ち並ぶ集合住宅街で、さらに新しいマンションの工事が進められている。工事現場の前には完成予定の建物の写真と、「入居者募集中」と書かれた看板が掲げられている。

 誠は写真のなかと、マンションの間に佇む富士山を見比べる。距離も角度も同じだ。違いといえば雪の有無だけ。カーナビに設定した住所はスマートフォンのGPS記録と一字一句同じだから、撮影場所はここで間違いないはず。なのに、どうしてこんなにも様相が違うのか。

 ひとまず小沢に連絡しよう、とスマートフォンを取り出したのだが、端末のバッテリーは残り10パーセントを切っていた。充電を忘れていたらしい。周囲に視線を巡らせると、開発されてまだ年月の経っていない住宅街には不釣り合いな古めかしい駄菓子屋がある。こういった店には公衆電話が置かれている、と中年の先輩刑事から聞いたことがある。誠は煙草の自動販売機に挟まれた引き戸を開け、店に入った。先輩刑事の言った通り、入ってすぐ近くの壁際にピンクの電話が置かれている。

「すみません、電話をお借りしたいんですが」

 誠がそう言うと店の奥で本を片手に詰将棋を指していた店主の老人が「あ、どうぞ」とぶっきらぼうに答える。受話器を取り小銭を入れようとしたとき、誠の視線が壁に掛けられた写真に留まった。富士山を背景に池を取った風景写真だった。信彦を写した風景とよく似ている。この写真の富士山は雪を被っているが。

「あの、これは………」

 誠が尋ねると、面倒臭そうにこちらを向いた店主が受話器で指し示された写真を見て「ああ」と、

「この辺りの昔の写真ですよ。青澄沼(あおすみぬま)っていいましてね、ヘラブナがそりゃあよく釣れたもんです。でも10年ばかり前に、埋め立てられてしまいましたけどね」

 「10年前?」と誠は訊いた。店主はこちらには見向きもせず詰将棋を再開し、「ええ」という声と共に盤を打つ駒の音が小さく響いた。

「マンションの建設計画が持ち上がりましてね」

 

 






 『アギト』は前年度に放送された『クウガ』との繋がりが示唆されていますが、本作では『クウガ』の要素はカットし、G3は対テロ用の装備として開発されたという設定にしてあります。『サンシャイン』とクロスさせた上に『クウガ』まで交えるとややこしいので………。

 実は本作は前作の『ラブライブ! feat.仮面ライダー555』と同じ世界観という設定で、未確認生命体はオルフェノクということを考えていました。ですが前作の結末の形から実現は難しいのでその設定もカットしました。繋がりを持たせたとしても前作のキャラクターを登場させる予定はありませんので、あくまで裏設定です。


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第2話

 今回は機能に挑戦してみました。




   1

 

 どうすればスクールアイドルの魅力を分かってくれるんだろう。

 バスで曜と別れて、千歌はとぼとぼ、と重い足取りで十千万に帰宅した。今日は何度梨子からの「ごめんなさい」を聞いたことか。もう、スクールアイドルがどうとか以前に意地からの「ごめんなさい」に思えてくる。もっとも、それは千歌も同じではあるのだけど。

「ただいまあ」

 「お帰り」という志満の声が台所から聞こえてくる。いつもなら、台所からの「お帰り」は翔一だ。台所を覗くと志満が夕飯の煮物を炊いているところだった。千歌は尋ねる。

「翔一くんはまだ寝てるの?」

「起きてるけど、元気無いみたい。変なのは昨日からかしらね。夕飯の前に急に飛び出して」

 昨日、翔一がバイクで十千万を飛び出したのは千歌も目撃している。あの後、千歌が美渡、志満と3人で夕飯を済ませてしばらくした後に翔一は帰ってきた。その時に千歌は自室にいたから見ていないのだが、志満と美渡によると翔一はとても怯えた顔をしていたらしい。残しておいた夕飯を断り、翔一は部屋に籠ってしまった。今朝も千歌のほうが早く起床して、登校の時間になっても翔一は起きてこなかった。だから今日は翔一の顔をまだ見ていない。

 そういえば、と千歌は思い出す。梨子を勧誘することが最優先だったから気にも留めなかったが、昨夜に沼津港で爆発事故が起こったらしい。警察が捜査中とのことでまだ詳しいことは分からないが。もっとも、それに翔一が関係しているとも思えない。翔一は犯罪に手を染めるような人間じゃない。

「いまどこにいるのかな?」

「多分、畑にいると思うわ」

 「ちょっと様子見てくる」と言って千歌は裏口に向かった。畑を覗くと、うずくまった翔一の小さく縮こまった背中が見える。指先で深緑に色付いたほうれん草の葉をつつく翔一の背中に、千歌はおそるおそる声をかける。

「翔一くん」

 翔一は何も応じない。普段なら、呼べば「千歌ちゃん」と笑みを返してくれるのに。千歌は翔一の隣にしゃがみ込んで、その横顔を見つめる。傍から見ればほうれん草を眺めているようだが、翔一の目には何も映っていないことが分かる。ただ見つめる虚無が顔面に転写されたように、翔一の表情は何も浮かべていない。

「ねえ、昨日の夜に何があったの? 翔一くんの過去と関係あること? 何か思い出したの?」

 質問を重ねた直後にしまった、と千歌は思った。記憶を取り戻したとしてもこの表情だ。あまり良い記憶とは思えない。

「全然、何も」

 翔一は弱々しく応える。無神経な質問だとは理解している。でも、ここまで来たら後に引けない。まだ出会って1年半の仲でも、千歌にとって翔一は家族と言っていい。兄のような存在である翔一が悩んでいるのなら、寄り添わなければ。

「本当のこと言ってよ。何聞いても驚かないから」

「本当だって。別に何か思い出したわけじゃないよ」

「じゃあ、何で落ち込んでるの?」

 翔一はちらり、と千歌のほうを向いた。ほうれん草へ視線を戻し、葉の輪郭を指でなぞった後に答える。

「過去のことじゃなくて、これからのことだよ。どうやって生きていけば良いか分からなくてさ」

 意外な答えだった。記憶喪失に不自由を感じない翔一は、常に前を見て生きているものだと思っていた。不安とは過去の失敗や挫折から訪れる。翔一にはその「過去」の記憶がない。だからこそ不安なく日々を送り、立ち止まることなく歩いて行けるものだと。

「何か、翔一くんらしくないね」

 「何だよそれ」と翔一は少し苛立ったように、

「俺らしくない、ってどういうこと? 俺だって俺のことが分からないのに、千歌ちゃんに何が分かるっていうんだよ?」

 千歌はどう答えたらいいか分からない。翔一のこんな鬱屈とした顔を見るのは初めてのことで、過去が一切分からない翔一がこういう人間、と何故断言できるのか。

 答えあぐねているうちに「千歌」と後ろから聞こえてくる。振り返ると美渡が手招きしていて、千歌は背中を丸めた翔一を置いて次姉のあとを着いていく。居間に入ると志満が神妙そうな顔で待っていた。「どうしたの?」と訊いておきながら、既に千歌には翔一のことだと分かる。予想通り、志満は「翔一君のことなんだけど――」と切り出した。

「家事ノイローゼじゃないかと思うの」

 「家事ノイローゼ?」と千歌は反芻する。「ええ」と志満は続ける。

「私たち、家事は全部翔一君に任せてきたでしょ?」

 志満は十千万、美渡は会社、千歌が学校、と家族それぞれが普段から旅館の居住スペースにいるわけじゃない。翔一が何もしないのは悪い、と自ら名乗りをあげたのを良いことに訳あって両親不在な高海家の炊事、洗濯、掃除と家事全般を頼ってきたのは事実だ。

「それで翔一くん落ち込んでるの?」

 大学で心理学を専攻していた志満は精神疾患に関して一般以上の知識は持ち合わせているが、千歌にはどうにも的外れに思える。志満は頷き、

「翔一君の症状は、抑圧された人が発症する典型的なものだから」

「美渡姉が日曜日の夕方に仕事行きたくないー、て言うのと同じ?」

 「おい」と美渡は声に険を込めて千歌を睨んだ。次姉との皮肉の言い合いなんて幼い頃から繰り返してきたから今更喧嘩になんてならず、千歌は知らんぷりを決め込む。妹ふたりのよくある光景に志満は苦笑し、

「とにかく翔一君の負担を減らすために、私たちで家事を分担しましょう。掃除は美渡、洗濯は千歌ちゃん、料理は私がやるわ」

 「しょうがないかあ」と美渡は溜め息をついた。千歌も面倒臭いとは思うけど、洗濯機の使い方ぐらいは分かるから問題はない。それに、それで翔一がまたいつもの笑顔を戻せるのなら異論はなかった。

 

 

   2

 

 昼休みの校舎はとても賑やかだった。女子しかいない校舎の各所には少女特有の甲高い声が重なっている。生徒たちが談笑するなりボール遊びをしている中庭の一画で、「ワンツー、ワンツー」と曜は千歌と並んでステップを踏む。スクールアイドルたるものダンス練習も必要だ。とはいえ練習は自己流ではあるけど。

「翔一さんも落ち込むことってあるんだねえ」

 ステップを踏みながら、曜は奇妙な感慨を覚える。千歌から聞いた翔一の家事ノイローゼ。十千万を訪れた曜に笑顔で料理を振る舞ってくれた翔一もストレスを感じることがあるとは意外だ。

「どうやって生きていけばいいか分からない、って翔一くん言っていたんだ。何て言ってあげれば良かったんだろう」

 千歌の疑問の正解を曜は見出せない。結局のところ、翔一の問題は本人にしか解決できないことだ。記憶喪失の彼から世界がどう見えて、過去なき翔一のこれからに対する不安の大きさは想像もできない。まだ高校生という若さから曜にも将来に漠然とした不安はあるが、それほど深刻には考えていない。

「記憶を思い出したら、不安もなくなるかもしれないよ」

 曜はそう言うしかできない。もっとも、翔一は記憶を取り戻すことにあまり積極的ではないそうだから、彼にとって最善なのかは分からないが。少なくとも、過去の職歴や学歴を思い出せば、何かやりたいことを見出せるのかもしれない。

 「そういえば――」と曜は話題を変える。翔一のことは、本人には悪いが力になれそうにない。

「勧誘、また駄目だったの?」

 「うん」と応えた千歌の声が、少しだけ明るくなったような気がする。

「でも、あと1歩あとひと押し、って感じかな」

 「本当かなあ………」と曜は苦笑する。梨子を誘う場には曜も立ち会っているのだが、ここ数日の間に梨子からの「ごめんなさい」は全く変化がない。

 ひとまず休憩ということで、曜はスマートフォンで流していた音楽を止める。ベンチに腰掛け、千歌から勧誘の経過を聞いてみる。

「だって最初は――」

 と始めた千歌は顔に苦笑を浮かべ頭を下げながら、

「ごめんなさい!」

 「だったのが最近は――」と今度は目を細めて迷惑そうな顔をしながらぼそりと、

「………ごめんなさい

 「――になってきたし!」と千歌は胸の前で拳を握る。「嫌がってるとしか思えないんだけど」と苦笑を漏らす曜に「大丈夫、いざとなったら――」と千歌は音楽の教科書を示す。

「何とかするし!」

「それは、あんまり考えないほうが良いかもしれない………」

 素人から作曲なんて、何年かかるのやら。自分たちが高校生でいられるのは残り2年だというのに。

「それより、曜ちゃんのほうは?」

 千歌がそう訊いてきて、曜は両手を合わせて表情を明るくさせる。既にこちらの作業は完了している。待ってました、というように曜は応える。

「描いてきたよ」

 

 中庭から教室に移って、千歌は曜の成果をまじまじと見つめる。思わず「おお……」と声が漏れた。

「どう?」

 自信ありげに曜はスケッチブックに描かれたイラストを見せた。手先が器用で何でもそつなくこなせるから、曜には衣装のデザインを頼んでおいた。絵が上手いことは知ってのことだからその点の称賛は省くことにする。それを抜きにしても、曜のデザイン画は息を呑む出来だ。

 何せ、紙面に色鉛筆でポップに描かれたのは船員服を着て笛を吹く千歌なのだから。

「凄いね。でも衣装というより制服に近いような………」

 紺色のダブルジャケットに制帽。シンプルといえば聞こえが良いのだがアイドルとして考えると飾り気がない。そもそもアイドルなのにスラックスとは。

「スカートとか、無いの?」

 千歌が訊くと曜は「あるよ」とページを捲る。2枚目のイラストに描かれた千歌は女性警察官の制服で敬礼をしている。確かにスカートを穿いているのだが、そのスカートも装飾品が全くない。

「いや、これも衣装っていうか………。もうちょっと、こう可愛いのは?」

 「だったらこれかな」と曜はまたページを捲る。見た瞬間に「武器持っちゃった」と声に出した通り、紙の中で迷彩柄の野戦服を着た千歌がロケットランチャーを構えている。

「可愛いよねえ」

「可愛くないよ、むしろ怖いよ!」

 指摘が腑に落ちないようで、曜は首をかしげる。これではただのコスプレだ。曜が制服マニアということは知っていたがここまでとは。

「もう、もっと可愛いスクールアイドルっぽい服だよ」

「と思ってそれも描いてみたよ」

 また曜がページを捲ると、紙面にはフリルやリボンで装飾されたオレンジ色のワンピースを着た千歌が描かれている。

「うわあ、凄い。キラキラしてる」

 まさにアイドルな、千歌がイメージしていた衣装だ。「でしょう?」と得意げに言う曜に訊く。

「こんな衣装作れるの?」

「うん、勿論。何とかなる!」

「本当? よーし、挫けてるわけにはいかない!」

 

 準備は着実に進んでいる。決してつまずいているわけじゃない。そんな勢いを保ち部設立の申請も通るのではないか、ということで生徒会室を訪ねたのだが、

「お断りしますわ!」

 ダイヤは明確に撥ねつける。「こっちも⁉」と声をあげる千歌の横で曜は「やっぱり」と苦笑する。一応止めはしたのだが、熱中した千歌を止める術はなかった。未だ部員の欄に千歌と曜の名前しかない申請書をダイヤは苛立たし気に指でつつき、

「5人必要だと言ったはずです。それ以前に、作曲はどうなったのです?」

 「それは……、多分、いずれ、きっと………」としどろもどろに言葉を稼ぎ、ようやく千歌は告げる。

「可能性は無限大!」

 ああ、これは怒られる。曜は思ったのだがダイヤは無言で冷たい視線をこちらにくべる。「で、でも……」とおそるおそる千歌はゆっくりと切り出す。言葉を選んでいるように見えた。

「最初は3人しかいなくて大変だったんですよね、ユーズも」

 グループの名前が千歌の口からでたとき、ダイヤの眉がぴくり、と動いた気がした。それを捉えた曜は切り揃えられた前髪の奥にある目元を注視する。ダイヤの肩がわなわなと震えていることに気付かない千歌は「知りませんか?」と、

「第2回ラブライブ優勝。音ノ木坂学院スクールアイドル、ユーズ!」

 ダイヤは立ち上がり、窓の外へと向く。

 ユーズとは千歌の憧れるスクールアイドルのグループ名だ。第2回ラブライブで当時の人気グループだったA-RISE(アライズ)を破り優勝。優勝後も海外でのライブ開催で後の活動が期待されていたが、3年生メンバーの高校卒業と同時にグループの活動終了を表明。惜しまれつつも多くのスクールアイドルと共に秋葉原での路上ライブを開催し、その盛況ぶりは「スクールアイドル」というジャンルの普及と、以降のアキバドームでのラブライブ開催に大きく貢献したという。

「それはもしかして、μ’s(ミューズ)のことを言っているのではありませんですわよね?」

 ダイヤは背中越しに冷たく問う。曜は千歌と顔を見合わせ、同時に唾と共に恐怖を飲み込もうとする。当然恐怖なんて腹に収まらず、おそるおそる千歌は訊いた。

「あ、もしかしてあれってミューズ、って読むんで――」

 

「お黙らっしゃああああああい‼」

 

 あまりの剣幕に千歌は壁際まで追いやられる。

「言うに事欠いて名前を間違えるですって?」

 「はああ?」とダイヤは千歌に迫る。ユーズ、もといμ’s(ミューズ)について曜が知っていることは千歌から聞いた話が主だったから、読みの間違えに気付かなかった。まさかファンである千歌が間違えるだなんて思ってもみなかった。

 ダイヤは早口にまくし立てた。

「μ’sはスクールアイドル達にとって伝説、聖域、聖典、宇宙にも等しき生命の源ですわよ。その名前を間違えるとは。片腹痛いですわ」

 「ち、近くないですか………?」と眼前にまで迫られた千歌は困惑気味に状況を指摘すると、ダイヤは「ふん」と鼻を鳴らし一旦顔を離す。

「その浅い知識だと、たまたま見つけたから軽い気持ちで真似をしてみようと思ったのですね」

 「そんなこと――」と千歌は反論しようとする。「ならば」とダイヤは遮った。

「μ’sが最初に9人で歌った曲、答えられますか?」

 「え、えっと………」と口ごもる千歌にダイヤは再び顔を至近距離にまで近づけ、

「ぶー、ですわ!」

 顔を離したダイヤを、千歌は口を半開きにしたまま見つめている。曜もダイヤを制止させることもできず、ただ彼女の口から出るμ’sの軌跡を聞いていることしかできない。

「僕らのLIVE君とのLIFE、通称ぼららら。次、第2回ラブライブ予選でμ’sがA-RISEと一緒にステージに選んだ場所は?」

 「ステージ?」と漏らす千歌を一瞥したダイヤは「ぶっぶー、ですわ!」と長い黒髪を振り乱して言った後に正解を告げる。

「秋葉原UTX屋上。あの伝説といわれるA-RISEとの予選ですわ。次、第2回ラブライブ決勝。μ’sがアンコールで歌った曲は――」

 「知ってる!」と千歌は挙手して答える。

「僕らは今のなかで」

 しかしダイヤは不敵な笑みを向けて「ですが」と、

「曲の冒頭をスキップしている4名は誰?」

 そんなマニアックな質問、ファンでも答えられるのはかなりコアな層に限られるのではないだろうか。「ええええ⁉」と意地悪な問いに文句を言いそうになった千歌にダイヤは三度迫り、

「ぶっぶっぶー、ですわ!」

 その声が部屋に備え付けられたスピーカーから聞こえてくる。生徒会室は放送室も兼ねているから音響機器が備え付けられている。千歌が丁度背を預けているのがその機器で、迫られたとき手をかけた拍子に起動させてしまったらしい。放送は校舎全域に及ぶ。音量が最大なら学校近隣にも聞こえるほどだ。だがダイヤは自分の声が全校生徒に聞こえていることに気付いていないらしく、答えを告げる。

絢瀬絵里(あやせえり)東條希(とうじょうのぞみ)星空凛(ほしぞらりん)西木野真姫(にしきのまき)。こんなの基本中の基本ですわよ」

 「す、すごい……」と曜は呟いた。続けて千歌が「生徒会長、もしかしてμ’sのファン?」と。するとダイヤは得意げに口角を上げて、

「当たり前ですわ。わたくしを誰だと――」

 そこでダイヤは言葉を飲み込み「一般教養ですわ一般教養」と強調する。

「へえー」

 曜は千歌と共に細めた視線を向ける。ファンにとっては一般教養に等しい常識、という意味ですか、と不敵な眼差しで問いてみる。たじろいだダイヤは「と、とにかく」と真一文字に結んでいた口を開いた。自分の声がハウリングして放送されていることにも気づかないまま。

「スクールアイドル部は認めません!」

 

 





 μ’sの活躍については原作『ラブライブ!』無印か私が以前投稿していた『ラブライブ! feat.仮面ライダー555』にてどうぞ。

 はい宣伝です。申し訳ございません。補足しておきますと原作『ラブライブ! サンシャイン‼』はμ’sを知らなくても内容を理解できるので予習は必要ありません。『サンシャイン』はAqoursの物語なので。


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第3話

   1

 

 その死体が発見されたのは、沼津市の市街から少しばかり離れた住宅街の一画だった。数カ月前に新居住宅の建設現場で縄文時代のものらしき土器の破片が見つかり、工事は中止。研究チームが発掘作業で土を掘っている最中に、土器ではなく人間の死体が掘り出されたらしい。

「死体が発見されたのは縄文時代の地層からだ。しかも掘って死体を埋めた形跡もない」

 誠と同じく本庁から派遣された河野(こうの)が、死体を収めた寝袋に似た収納袋を見下ろしながら説明してくれる。

 平日の昼間だというのに、現場の周辺は野次馬が集まっていた。立ち入り禁止の黄色いテープの前で、巡査たちがメディアの記者たちに入らないよう絶え間なく呼びかけている。無理矢理入ろうとした一般人がいたらしく、スマートフォンを手にした若者を巡査が数人がかりで怒号を飛ばしながら取り押さえていた。別の場所では立ち入りはしなくても、近所の主婦たちが不安そうにこちらを眺めている。関心があるのも当然だ。1週間も経たずにまた同市内で殺人事件が起こったのだから。

「前回の樹の中の死体と同様、これも人間の仕業じゃないな」

 河野は誠に視線を移し、そう言った。飄々とした口調だが、戸惑いを隠しきれていないと表情で分かる。刑事歴20年を越えるベテランの彼でも、このような奇怪な事件は今まで担当したことがないという。河野だけでなく、日本警察全体にとっても初めての事件だろう。

 誠は「ええ」と応じ、

「犯人がアンノウンだとすると、次にまた被害者の親族が狙われる可能性があります」

 樹の中に埋められた佐伯一家殺害事件。同じく犯人がアンノウンならば、また一家全員が殺害されると考えるのが妥当だ。だとしても、誠が遭遇しG3を起動不可までに追い込んだアンノウンは、「アギト」によって倒された。アンノウンは1体だけではない。この事件が本当に人間によるものではないとしたら、その可能性は高まる。

 「えーと」と河野は手帳のページを捲る。

「両親を3年前に事故で亡くし、弟がいるが別々に暮らしていたようだ」

「では、弟さんに護衛を付けるよう手配をお願いできますか?」

 「おう」と河野は何気なしに応じる。警視庁上層部でも、アンノウンの存在には懐疑的な見方が大きい。静岡県警もいるかも分からない敵のために人員を割くことはしないだろうから、きっと護衛は誠たち本庁から来た刑事に役が回ってくるだろう。

 「どいて下さい」と不機嫌そうに鑑識たちが死体袋へと集まってくる。やれやれ、という溜め息を吐く河野に続いて誠も傍から離れる。鑑識たちが運んでいく死体袋を誠は眺めた。殺人事件としては不可思議な点が多すぎる。捜査を難航させるために、死体から身元を特定させるようなものは犯人によって持ち去られるのが定石だ。今回の被害者の身元や家族構成がすぐに特定できたのは、死体の衣服から運転免許証や所持金がしっかりと残った財布が発見されたからだ。隠蔽工作においてそんな初歩的なミスをするのは、犯人がよほど慌てていたか、被害者と何の接点もない通り魔的な犯行か。

「被害者の住所、教えてもらえますか?」

「おお、それは構わんが何を調べる?」

「犯人がアンノウンだとしたら、どうしても無作為に人を殺していると思えないんです。被害者たちの間に何か共通点が見つかれば、未然に被害を防ぐことができるかもしれません」

 

 

   2

 

「前途多難すぎるよお………」

 浦の星女学院前のバス停近くで千歌はがくり、と頭を垂れた。校舎の建つ丘を下ると駿河湾に面した道路に出て淡島がよく見える。バスを待つ間、こうして道路の淵に並んで腰掛けて海を眺めるのも良い。

「じゃあ、やめる?」

 曜がそう言うと「やめない!」と千歌は即答する。口を真一文字に結ぶその真剣な表情を見て、曜は「だよね」と頬を(ほころ)ばせた。

 「ん?」と千歌は視界に何か入り込んだのか、バス停へと顔を向けた。曜も千歌の視線をなぞる。

「あ、花丸ちゃん!」

 「おーい」と手を振る千歌の視線の先で、花丸が微笑と共に「こんにちは」と慎ましく返してくれる。「はあ、やっぱり可愛い」と千歌は呟いた。だがすぐに目を細めて、花丸のすぐ近くにあるシュロの樹をじ、と睨む。曜も目を凝らしてみると、シュロの太い幹から纏められた髪がひと房はみ出ているのが見えた。

「あ、ルビィちゃんもいるー!」

 千歌は嬉しそうに言うと、鞄から出した棒つきキャンディーの包装袋を解いて立ち上がる。ルビィの隠れているシュロの樹へ近付き、「ほーらほら怖くなーい」と小さな子供に呼びかけるように飴を振ると、幹の陰から怯えた目をしたルビィが半分だけ顔を覗かせる。

「食べる?」

 千歌が穏やかに差し出すと、ルビィは少しだけ緊張した表情を緩めて飴を取ろうとする。袖から半分だけ出した手が飴に届こうとした直前で、千歌は飴を僅かに引っ込めた。ルビィはこの手の挑発に乗りやすいらしく、樹の陰から出てきて飴を取ろうと再び手を伸ばす。届こうとしたところでまた千歌が引っ込め、「ルールルルー」とまるで羊でも呼ぶようにハミングしながらその応酬を繰り返す。

 「とりゃあっ!」と千歌は真上へと飴を投げた。宙を舞う飴に気を取られたルビィに、好機とばかりに千歌は「捕まえた!」と抱き着く。逃れようとばたばた、と両手を暴れさせるルビィの口に落下してきた飴が収まり、驚いたルビィは動きを止めた。

 丁度、そこへ沼津駅行きのバスが到着した。

 

 バスの乗客は千歌たち意外誰もいない。浦の星の生徒たちの多くは部活、1年生は部の見学でまだ校内に残っているのだろう。曜と最後尾の座席についた千歌は、ひとつ前の席につく後輩ふたりに早速と言う。

「ふたりとも、スクールアイドルやらない?」

 直球だなあ、と思いながら曜は特に口を出さずに見守ることにした。一緒にやれる仲間が増えるのは、千歌のみならず曜にとっても嬉しい。

「スクールアイドル?」

 そのコンテンツを知らないのか、花丸が反芻する。「すっごく楽しいよ、興味ない?」と千歌が訊くと、花丸は申し訳なさそうに、

「いえ、マルは図書委員の仕事があるずら」

 「いや、あるし………」と花丸は最後を訂正する。「ずら」は確か静岡の方言だ。今時方言を使うのは祖父母の世代くらいだから、花丸の家は3世代で同居しているのかもしれない。

 「そっか、ルビィちゃんは?」と千歌が振ると、所在なさげに飴を舐めていたルビィは「あ、う……」としどろもどろに小声で答える。

「ルビィはその……、お姉ちゃんが………」

 「お姉ちゃん?」と千歌が訊くと、本人の代わりに花丸が答えてくれた。

「ルビィちゃんはダイヤさんの妹ずら」

 「え、あの生徒会長の?」と千歌は上ずった声をあげた。曜も初耳だった。あまり似ていない姉妹だ。ダイヤは堂々としている反面、ルビィは天敵に怯える小動物のようにおどおどしている。

「何でか嫌いみたいだもんね、スクールアイドル」

 曜は何気なしに言う。ルビィは「はい……」と消え入りそうに応じた。妹だったら何でダイヤがスクールアイドルを毛嫌いしているのか知っていそうだが、それはこの場で訊くべきことじゃない、と思った。この人見知りな少女は、出会って間もない自分たちに踏み込んだ話をしてくれそうにない。

 それに、本当にダイヤがスクールアイドルを嫌っているのかも怪しい。あんなにμ’sについて詳しいのに、どうして認めようとしないのか。古風な家柄の娘という意識故のものなのだろうか。

「今は曲作りを先に考えたほうが良いかも。何か変わるかもしれないし」

 曜は直面している課題を提示する。「そうだねえ」と千歌は気の抜けた返事をした。次に思い出したように、

「花丸ちゃんはどこで降りるの?」

「今日は沼津までノートを届けに行くところで」

 「ノート?」と千歌は訊いた。花丸は「はい」と相槌を打って、「実は説明会の日――」と事情を説明する。

 

 説明会で1年生は教科書の配布と在籍している間のカリキュラムについての説明。そしてクラスでの自己紹介と進んでいた。今年度、浦の星女学院の新入生は1クラスに収まる程度の人数で、必然的に同じ面子で高校生活を過ごすことになる。他の生徒たちは自分の名前と、他には趣味や中学時代に所属していた部という当たり障りのない自己紹介をしたのだが、ひとりだけ一線を画す同級生がいた。

 その同級生、津島善子(つしまよしこ)の自己紹介はこうだった。

「堕天使ヨハネと契約して、あなたもわたしのリトルデーモンに、なってみない?」

 どこか挑発的とも取れる不敵な眼差しをクラス全域に向けたのだが、生徒たちはもとより、担任教師ですら言葉を失った。花丸にとっては幼稚園の頃と変わらない言動だったから特に思うことはなかったのだが、当人は生徒たちから放射される不穏さを感じ取ったのか、教室から出たきり戻ってくることはなかった。

 結局その日は放置された善子の鞄を花丸が届けに行ったのだが、対応してくれたのは母親で彼女の顔を見ることはなかった。

 

「それっきり、学校に来なくなったずら」

 花丸はそう締め括る。「そうなんだ」としか曜は言葉を見つけることができなかった。千歌も苦笑するしかなくなっている。

 今年の1年生は濃いなあ、と曜は思った。

 

 

   3

 

 夕陽を反射した海面が、太陽への道を形作るように光の道を波打ち際まで伸ばしている。この道を辿ったらどこへ行くのかな、とぼんやり眺めながら梨子は思った。当然そこは海面だ。足を踏み入れれば沈むし、太陽めがけて泳いだとしても延々と海が続くだけ。水平線の彼方なんてものは存在しない。水平線は続き、この地球を1周するだけで完結する。

「桜内さーん!」

 後方から溌剌とした声が聞こえてくる。またか、と梨子は溜め息をついた。またスクールアイドルについて延々と聞かされるのか。そう憂鬱になっている間に砂浜を踏む足音は近付いてきて、

「まさか、また海入ろうとしてる?」

 予想の斜め上で、千歌は梨子のスカートを捲って覗き込んできた。「してないです!」と咄嗟にスカートをおさえる。「良かった」と呑気に言う千歌に顔を向けることなく、露骨に迷惑と声に乗せながら梨子は言う。

「あのねえ、こんなところまで追いかけてきても、答えは変わらないわよ」

 「え?」と千歌は漏らし、「違う違う、通りかかっただけ」と笑った。

「そういえば、海の音聴くことはできた?」

 千歌の質問に、梨子は沈黙を返す。千歌を巻き込んで海に飛び込んだとき、海は何も梨子に聴かせてはくれなかった。代わりとして冷たい海水で梨子を包み込んで、冷たさを刺すような痛みへと変えて梨子を陸へと追いやった。ピアノだけでなく、海にも拒絶されたように思えた。人生の大半を占めるピアノに続いて、地球の大半を占める海にまで拒まれるとは。

 まるで世界そのものから異物のように吐き出されたような気分だった。吐き出されても、梨子の耳は未だ世界の一部として存在できる千歌の声がはっきりと聞くことができる。

「じゃあ、今度の日曜日空いてる?」

 「どうして?」と梨子は訊いた。「お昼にここに来てよ」と千歌は答えになっていない返答をし、

「海の音、聴けるかもしれないから」

「聴けたらスクールアイドルになれ、って言うんでしょ?」

 少しだけ皮肉を込めて問うと、千歌は「うーん、だったら嬉しいけど」と腕を組む。きっと提案の根拠はそれにあったのだろう。

「その前に聴いてほしいの。歌を」

「歌?」

「梨子ちゃん、スクールアイドルのこと全然知らないんでしょ? だから知ってもらいたいの」

 「駄目?」と千歌が訊いてくる。どう答えたらいいのか、しばし考える必要があった。イエスかノーで答えられるものじゃない。逡巡を挟み、梨子は「あのね」と、

「わたし、ピアノやってる、って話したでしょ?」

「うん」

「小さい頃からずっと続けてたんだけど、最近いくらやっても上達しなくて、やる気も出なくて。それで、環境を変えてみよう、って」

 言うなれば、今の状態はスランプ。決して珍しいことじゃない。何かに打ち込んでいる人間にとって、必ずぶつかるものだろう。傍から見れば何のことでもないのかもしれない。でも梨子にとって、幼い頃からずっと上達し続けてきた演奏に変化が無いのは恐怖意外の何者でもない。傷ついたレコードが何度も同じ部分をリピートし続けるように、梨子の指は同じ音を反復している。

「海の音を聴ければ、何かが変わるのかな、って」

 梨子は目の前に両手をかざした。ピアノを弾くように、でも鍵盤に触れることができない手を。

「変わるよ、きっと」

 穏やかに言って、千歌が両手を握ってくる。笑みを浮かべる彼女に梨子は撥ねつけるように言った。

「簡単に言わないでよ」

 あなたに何が分かるの、と眼差しで訴える。汲み取っているのかそうでないのか、千歌は笑みを崩さない。

「分かってるよ。でも、そんな気がする」

 真っ直ぐな瞳だった。澄み切っていて、迷いのない。常に前進している者こそができる瞳に、思わず梨子はふ、と笑みを零してしまう。

「変な人ね、本当」

 結局は、自分をスクールアイドルに誘うため。作曲をさせるために言っているだけ。梨子は裡で自身に言い聞かせる。断る理由もないのに一蹴するほど、梨子は薄情じゃない。でも、今は断る理由がある。

「とにかく、スクールアイドルなんかやってる暇はないの」

 「ごめんね」と手を放そうとするが、千歌は手を放してくれない。力強かったが、無理矢理、というものは感じない。その不可思議さに梨子は眉を潜め千歌の瞳を見つめる。

 千歌は言った。

「分かった。じゃあ海の音だけ聴きに行ってみようよ。スクールアイドル関係なしに」

「え?」

「なら良いでしょ?」

 それだと、あなたの目的から外れてるじゃない。思ったその言葉を梨子は喉元へ留める。屈託のない笑顔の千歌に、取引じみたことは似合わないように感じ取れる。この少女は純粋に、自分に海の音を聴いてほしいんだな、と信じることができた。こんな笑顔ができる人間は、他にどれほどいるのだろう。

「本当、変な人」

 

 

   4

 

 十千万に帰宅すると掃除機の音が聞こえてきた。高海家の居住スペースの方からだ。居間を覗くと、千歌に気付いた美渡が手にする掃除機に負けず声を張り上げる。

「遅い! 洗濯までする羽目になったじゃない!」

 文句を飛ばし、美渡はテーブルの上に置かれた洗濯籠を指さす。

「アイロンかけといてよ」

 はあ、と溜め息をつきながら千歌はひとまず鞄を置きに行こうと自室へと向かう。部屋着に着替えようか迷ったが、もたついていたら美渡がうるさそうだからすぐ居間に戻ってアイロンと台を押し入れから引っ張り出した。

 普段はやらないことでも、旅館の手伝いによく駆り出されるから洗濯やアイロンがけくらいはできる。特に苦労もなく、滞りなく済むと思っていた。

「一丁上がり、と」

 アイロン台の近くで掃除機をかけていた美渡がヘッドを振り上げた。電源がついたままのヘッドがすれ違いざまに千歌の髪を吸い込んでくる。

「うわああああっ!」

 咄嗟にアイロンから手を放し、千歌は髪をおさえる。「やばっ」と美渡はすぐ電源を切ったのだが、吸引口に絡まったせいで髪が数本抜けてしまった。

「美渡姉わざとでしょ!」

「わざとじゃないって、本当!」

 「どうしたの?」と台所で料理をしていた志満が入ってくる。指先から血が滲んでいた。

「志満姉こそ指どうしたの?」

 千歌が訊くと、「包丁で切っちゃって」とおどけたように志満は笑った。「絆創膏……」と美渡がタンスの上に置いてある薬箱へ手を伸ばしたのだが、ロックが外れていたのか取っ手を掴んだ瞬間に蓋が開いて傾いた箱から中身が盛大に零れ落ちてしまう。

 「あちゃー」と言う美渡に「もう何やってるの」と呆れながら千歌が中身の回収を手伝おうとするのだが、「ワン!」と吠えるしいたけの声にはっ、とアイロン台へと目を向ける。熱を帯びたアイロンを当てたまま放置していたシャツから火がめらめらと燃えている。

「志満姉、水水!」

 千歌が促し、志満は大慌てで台所へと戻っていく。とはいえバケツか鍋に水を張るまでに、火は範囲を広げようとしている。十千万は木造だから火の手なんて一気に広まって全焼してしまう。千歌と美渡が特に対処法も考えないままアイロンへと駆けだしたとき、居間に入ってきた翔一が服に毛布を被せた。

 千歌と美渡の動きが止まる。翔一が2、3度毛布を押し付けた後に捲ると、火は消えていた。水を張ったボウルを手にした志満が戻ってくるが、お役御免になったボウルをどうしたものか手に持ったまま翔一を見つめている。

 アイロンを焦げたシャツから放し、翔一はいつものあっけらかんとした表情で言った。

「もういい、俺がやろう」

 

 アイロンがけ、掃除、しいたけの世話、夕飯の下ごしらえ。翔一がそれらを全てこなすのに2時間もかからなかった。

 霧吹きの水で湿らせた衣類に翔一は焦げ目を落としたアイロンを当てて、すう、と生地に滑らせるとしわが一気に消えた。美渡が吸い残した隅のゴミや埃をすぐさま発見し、すぐさま美渡と千歌の部屋の埃も全て吸い取った。しいたけにブラシをかけると毛に艶が出て、気持ちよかったのかしいたけはすやすやと小屋の中で眠りについた。台所では志満がかつお節から味噌汁の出汁を取っている間、翔一は薄く切った豚肉に醤油ベースの合わせ調味料と絞った生姜汁で下味をつけた。今日の献立は生姜焼きらしい。

 全ての作業が滞りなく、見事な手際でなされた。その反面で千歌と美渡の容量の悪さが明るみになったわけだが。

 諸々のことが落ち着いても翔一は休もうとせず、裏庭の畑でほうれん草を摘み始めた。ハサミで摘み取った深緑の葉をザルに乗せる翔一はとても上機嫌で、鼻歌まで歌っている。

「良かった、元気になって」

 しばらくほうれん草が食卓に並ぶのかな、と一抹の不安を抱きながらも千歌は安心していた。「そう? 別に普通だけど」と返す翔一の隣に千歌はしゃがみ込む。

「心配したんだよ。ずーっと落ち込んでて」

「ああ、あれ忘れていいから」

 「もう」と千歌は口を尖らせる。翔一はそんな千歌に笑みを向けた。いつもの翔一の笑顔だ。

「何かちょっと自信ついた、っていうかさ。さっき家の仕事してて俺思ったんだよね。こう、自分のいるべき場所があるって良いな、って」

 「いるべき、場所?」と千歌は反芻する。「うん」と翔一は頷き、

「俺だけじゃなくて、志満さんにも美渡にも千歌ちゃんにもあるだろ、自分の場所がさ」

 千歌は翔一の顔を見つめた。十千万は確かに千歌の生まれ育った、千歌のいるべき場所だ。翔一はその場所が分からない。どこで生まれ、どこで育ったのか、一切の記憶を失っている翔一には。

「そういうのって誰にでもあるんだよきっと。で、皆自分の場所にいるときが1番幸せなんだと思う。だから――」

 そこで翔一は言葉を詰まらせる。「だから、何?」と千歌が促すと、翔一は照れ臭そうに言った。

「そういう皆の場所を、俺が守れたらいいな、って」

 明るい翔一の表情は、裏腹に千歌に寂しさを覚えさせた。皆それぞれに、自分の居場所がある。それは居場所を知らない翔一だからこそ俯瞰(ふかん)できる言葉なのかもしれない。それを守るだなんて、家事をこなしてばかりの毎日を送る翔一には大仰なことだ。それに、皆の居場所を守ろうとする翔一自身の居場所はどこにあるのだろう。

 裡の寂しさを出すまいと、千歌は笑みを返して翔一の手を引きながら立ち上がる。

「じゃあ早く晩御飯作って。もうお腹ぺこぺこだよお」

 

 



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第4話

   1

 

「これがどうしたっていうんです?」

 Gトレーラーのカーゴで、誠から受け取った空の瓶を眺めながら尾室が訊いてくる。この空瓶は今朝発見された被害者の住んでいたアパートから、誠が回収してきたものだ。結論から述べれば、被害者はごくありふれた独身男性だった。六畳一間の部屋で、散らかっているというほどではないにしろ物の整理が多少杜撰(ずさん)な。釣りが趣味だったらしく、壁には魚拓が飾られ押し入れには釣り道具が収納されていた。そんなどこにでもいる市民の居室で、この瓶は危うく見落としてしまいそうなほど自然に、窓際の棚の上に佇んでいた。誠以外の刑事が捜査していたら、銭湯へ行った際に買った牛乳瓶として見向きもしなかっただろう。でも誠はその瓶から見出した。

 被害者の間に繋がる共通点の、その一端としての価値を。

「ちょっと見せて」

 尾室から瓶を受け取った小沢が、ガラスの容器を振ってみる。カチャカチャ、と軽い音がして、底を見ると100円硬貨が縁日の屋台で売られているラムネのビー玉のように収まっている。

「なるほど、言いたいことは分かるわ」

 流石は小沢だ。これだけで誠の意図を汲み取ってくれるとは。「何がですか?」と未だに飲み込めていない様子の尾室に、小沢はすぐに答えず財布から100円硬貨を出して瓶の飲み口に当てる。硬貨は飲み口よりも大きい。

「ほら、入らないでしょ100円玉が」

 尾室も硬貨を瓶に入れようとする。角度を変えても硬貨は飲み口から入らない。これを持ち込んできた理由を、質問という形で誠は告げる。

「一体、どうやって被害者は100円玉を瓶の中に入れたんでしょう?」

 「何かのマジックじゃないんですか?」と尾室が言う。確かに、普通はそう考える。「じゃあ、これはどうです?」と誠はポケットから出した写真を見せる。佐伯信彦と、既に埋め立てられたはずの沼を写した写真を。

「今では存在しない10年前の場所に、つい先日殺された被害者が写っています。確かに単なる合成写真かもしれない。でもそうじゃないとしたら、何の種もないとしたら――」

 「普通じゃあり得ませんね」と尾室が引き継ぐ。その言葉を誠は待っていた。

「普通じゃなかったとしたらどうです。被害者たちが」

「何が言いたいんですか?」

 そう訊いてすぐ、尾室は何かを悟ったように「まさか――」と誠を見据える。「ええ」と誠は頷いた。こんな推理、刑事として馬鹿げているだろう。でも、この沼津で立て続けに起こっている事件は「あり得ないこと」だらけだ。樹の中に埋められた死体。形跡を残さず地中に埋められた死体。人智を越えた未知の存在アンノウン。アンノウンを倒した「アギト」と呼ばれる存在。普通の発想で捜査しては何も進展する気配がない。

 「分かった」と小沢はスマートフォンを手にする。

「そっち方面の話に詳しい人がいるから紹介してあげる。大学時代の同期なんだけどね」

 

 

   2

 

「あなたは待機ではないんですか?」

 誠の隣を歩く北條が訊いてくる。今のG3の状況を、このエリートと期待されている若手刑事が見落とすはずもない。分かった上での皮肉だろう。

「河野さんからの指示です」

 誠が短く言い返すと、北條は露骨に不機嫌そうな顔をして護衛対象に目を向ける。河野も随分と意地悪な人員配置をしたものだが、G3が修理中の今、小沢の知り合いに会う日を待つだけの誠にできることは捜査一課と被害者遺族の護衛くらいしかない。G3ユニットのふたりに話したことを北條にも聞かせたところで、否定されて捜査協力を拒まれるのは目に見えている。

「犯人は現れるんでしょうね?」

 苛立ちを隠さず北條は訊いてくる。「ええ」と誠は意に介すことなく応え、

「佐伯家は一家全員殺されています。今回も親族が狙われるかもしれません」

「あなたの言うアンノウンに、ですか?」

「ええ」

「戯言に付き合うほど私は暇ではありませんがね」

 沼津の市街を歩く被害者の弟、本間悟(ほんまさとる)は時折後ろを歩く誠と北條へ振り返った。特に言葉を交わすことなく、うんざりと言いたげな視線をくべてくる。一応護衛のことは説明しているが、こうして行動を監視されることに対してストレスが生じることは容易に想像できる。兄を亡くしたばかりの疲弊した状況で気の毒だとは思うが、これは必要な措置だ。次の被害者になるかもしれないのだから。

 護衛に就いてから2日が経とうとしている。本間は1日目こそ家から出ず大人しくしていたのだが、まだ若い身体で何もしないことに耐えかねたのか、2日目の今日は昼を過ぎた頃から外を出歩いている。特に目的地もなく、気分転換の散歩らしい。行動の制限は特にないから好きに過ごしてくれても構わない。ただ、誠と北條も同行することが条件だが。

 本間は駅前の通りを歩いたのち、港付近の公園で脚を落ち着けた。本居宣長と勝田香月の記念碑がある公園のベンチに腰掛け、来る途中に立ち寄ったコンビニで買った缶コーヒーを啜っている。もう夕刻で、遊具のない公園で遊ぶ子供と見守る親もいない。身内を失っての虚無からか、本間は深く溜め息をついた。

 まだ外を出歩く気力があるだけましなものだ。被害者遺族に事情聴取の途中でトイレに行くと席を外されてしばらく経ったら隣室で首を吊っていた、なんて河野の若手時代の体験談のようにはならないだろう。

 誠の裡で本間への同情が湧こうとしたところで、意識が揺れる樹々に向けられる。風なんて吹いていないのに、何故揺れているのか。しかも枝ではなく、幹が。根本へ目を向けると、そこに人ならざるものが、まるで切り傷のように細い目を対象へと向けている。

「あれは………」

 アンノウンを初めて見たであろう北條が、普段の振る舞いからかけ離れた狼狽を晒している。それに対する皮肉など飛ばす間もなく、誠は駆け出した。アンノウンに気付き悲鳴をあげる本間の前に立ち、誠は人外の生命体と対峙する。前回に遭遇した個体とはかなり容姿が異なっている。人型でありながら、甲羅を背負うその姿は亀のようだ。

 ゆっくりと、だが猟奇性を感じさせる足取りでアンノウンがこちらへと歩いてくる。

「止まれ!」

 携行を許可されたM1917を構える北條が吼える。アンノウンは止まらず、北條はトリガーを引いた。銃声と共に発射された弾丸は照準を定めたアンノウンの眉間寸前で静止し、砕け散って宙に塵と消える。

「無駄です北條さん!」

 同じ現象を既に体験済みの誠は唖然と口を開いた北條へ言う。だが北條はきっ、とまなじりを吊り上げ、再びアンノウンに発砲する。アンノウンは北條のもとへ歩き出す。飛んでくる弾丸を塵と変えながら。「よせ!」と誠が飛び掛かるが、アンノウンの太い腕が誠の胸を強かに打ち付ける。肺が圧迫され、中の空気が咳として吐き出される。ようやく無駄と北條が判断したときには、既にアンノウンの手が届く範囲にまで接近を許していた。

 アンノウンの手が北條の首にかけられる。喉元を圧迫されて声が出せない北條はひゅー、と空気が漏れる音のみを吐きながら恐怖に顔を歪ませる。誠は懐から出したM1917を発砲するが牽制にもなっていない。

「逃げてください! 早く!」

 背後で腰を抜かしている本間に告げる。本間はよろよろ、と膝を笑わせながら立ち上がり、缶コーヒーを握ったまま決して平坦ではない公園の地面に足を取られながらも走り出す。

 アンノウンは対象の走り去った方向を見やる。北條の首から手を放すと、その足元の地面が波のようにうねりをあげた。まるでそこだけが沼になったように、アンノウンは足元からどろどろになった地面に体を沈めていく。駆け出した誠は、アンノウンが頭まですっぽりと隠した地面に触れてみる。何の変哲もない、硬い土の地面だった。

「北條さん、北條さん!」

 すぐさま白目を剥いて倒れている北條に呼びかけ、口元に手をかざす。息はある。酸欠で意識が混濁しただけのようだ。スマートフォンを通話モードにして耳に当てて相手の応答を待たず、

「小沢さん、アンノウンが出現しました。G3の修理のほうは」

『まだ時間が掛かるみたいね。今すぐ出動は無理だわ』

 誠は唇を噛む。何てタイミングの悪い。破裂しそうな怒りを押し留め、「分かりました、何とか対処します」とだけ言って通話を切る。ひとまず北條を安全なところへ。意識を失った北條の腕を自分の肩に回して立ち上がったところだった。

 本間の悲鳴が、公園の空気を震わせたのは。

 

 

   3

 

 バスが十千万近くの停留所に着こうとしたところで、1台のバイクがバスの前に割って入った。内浦はツーリングスポットとしてバイクの交通量も多く、法定速度をしっかりと守るバスが走り屋に追い越されるなんてよくあること。

 千歌にとって学校帰りの日常風景として意識から遠ざけることができなかったのは、そのバイクのナンバーが翔一のものだったからだ。

「あれって、翔一さんだよね?」

 隣の座席に座る曜が驚いた様子で言う。翔一は法定速度をしっかり守る性分だ。血気盛んな走り屋じゃない。

 下車ボタンを押していないにも関わらず、運転手は千歌のために停留所でバスを停車させてくれた。その気遣いに礼も告げず、千歌は走り去っていく翔一のバイクを視線で追う。

「降りないんですか?」

 運転手が言ってきた。

「出してください!」

 千歌が言うと「え?」と運転手は困惑の声をあげるが、何も追求せずにバスを発車させる。

「どうしたの、千歌ちゃん?」

「追いかけよう」

 梨子と初めて会ったときも、翔一はバイクを猛スピードで走らせていた。様子がおかしくなったのはその日の帰ってきた頃からだ。やはり、あの日に何かがあった。そして今日も何かが起こった。

 とはいえ、千歌の焦燥に反してバスは追跡に向いていない。終点の沼津駅までにはまだ停留所がいくつもあって、待っている乗客がいればバスは停車して乗せなければならない。翔一のバイクとの距離はどんどん離れていって、そう時間がかからないうちに見失ってしまう。

「翔一くん、どこ行ったんだろう?」

 焦りを口に出す千歌の隣で、曜が不意に額に手をかけた。「曜ちゃん?」と彼女の顔を覗くと、曜はうわ言のように呟く。

「港……」

「え?」

「翔一さん、港公園に行ったんだと思う」

「どうして分かるの?」

「分からないけど、何となくそんな気がする」

 つまりは直感だろうか。でも、翔一の目的地が分からない今はそれしか頼るものがない。

 千歌と曜は港付近でバスを降りた。狩野川にかかる橋を通り、遠くからでも見える水門を目指して走る。公園は水門のすぐ隣だ。曜の予感の通り、公園の敷地内にある小さな(やしろ)の傍に翔一のバイクが停まっている。「ううっ!」という呻き声が聞こえる。声の方角へ目を向けると、乱雑に植えられた樹々の合間で翔一が拾い上げた枯れ木で誰かを殴っている。一瞬人かと思ったが、翔一の枯れ木を平然と受け止めるそれは人ではなかった。まるで亀が人間のように進化を遂げたような生物だった。恐竜が絶滅した後に知的生命体として進化した種が人間ではなく爬虫類だったら、というような。

 怪物の太い手が、翔一の頬を打つ。体を半回転させてよろめいた翔一に更に追撃の一手を与え、地面に倒れた彼の首を掴むと、剛腕で持ち上げて樹の幹に押し付ける。

「何、あれ………」

 千歌と曜は咄嗟に社の陰に隠れた。助けなくちゃ、翔一くんが殺される。その思考ができても、体は未知の怪物に対する恐怖を抑えられず、千歌の脚は震えるばかりで踏み出すことができない。

 苦悶に歪む翔一の目が、かっ、と見開かれた。怪物の腹に蹴りを入れ、体から突き放す。千歌は目を剥いた。翔一の腹が光を放っている。光は渦を巻き、球形を成して両端からベルトのように翔一の腰に巻き付く。

 翔一は吼えるように、

「変身!」

 怪物が拳を振り上げた。拳が自分の顔面に迫るより速く、翔一の拳が怪物の胸に打ちつけられる。怪物はよろめいた。さっき翔一に枯れ木で殴られても平然としていたというのに。脇腹に蹴りを入れる翔一のベルトが、更に強い光を放っている。光は際限なく強まり、遠くで傍観する千歌の視界を白く塗り潰すほど眩く周囲を照らした。

 一瞬で光が収まる。まだ視界に残滓がちらつくなかで、千歌は翔一の姿を捉えた。「あれって……」と声を詰まらせる曜のあとを、千歌が引き継ぐ。

「………翔一くん?」

 怪物を殴り倒したそれは、翔一の姿をしていなかった。金色の鎧を身に纏った、額から2本の角を生やした戦士だった。戦士は赤い両眼で怪物を見据える。再び襲い掛かってきた怪物の腕を戦士は掴み、そのまま背負い投げる。立ち上がろうとしたその顔面に拳を見まい、怪物の体が再び地面に伏す。

 そこで、戦士の背後で地面が盛り上がった。土をまき散らして、全く同じ姿をしたもう1体の怪物が戦士の背中に組み付いてくる。姿形はまったく同じだ。違いといえば初めから交戦していた個体は銀色の体で、新しく現れた個体は金色の体という程度。

 不意打ちと剛腕で、戦士も拘束を解けずに身を強張らせる。そこへ、起き上がった銀色がタックルをかましてきた。追撃の拳を浴びせようと腕を引いたとき、戦士は金色の拘束を振り払い銀色が拳を突き出すと同時に跳躍する。本来の標的が消えて、銀色の拳が仲間らしき金色の顔面を打ち、勢いを抑えられないまま共に倒れてしまう。

 着地した戦士は焦った素振りを見せず、2体に増えた敵へと向く。その角が開いた。まるで翼のように見えた。戦士の足元が光っている。身を屈めた戦士へ金色が駆け出した。戦士は向かってくる金色を1撃の拳でねじ伏せ、敵の背負う甲羅を踏み台にして跳躍し銀色へ右足を突き出す。銀色は背を向けた。甲羅に右足が直撃し、前のめりに数歩だけよろめく。振り返った銀色がふん、とせせら笑ったような気がした。

 戦士の角が閉じる。背後から金色が再三で向かってきた。戦士は仰向けに身を捨てて、金色の腹を足で押し上げる。巴投げの容量だった。投げ飛ばされた金色の体が銀色に衝突し、倒れると同時にどぷん、とまるで入水したかのように地面に沈んでいく。

 戦士は2体が沈んだもとへと駆け寄り、次に周囲に視線を巡らせる。殴打の音が鳴り響いていた公園に、どこか恐ろしい静寂が漂った。思い出したかのように波の音が聞こえてきて、悪夢から醒めたように千歌は錯覚してしまう。

 戦士の体が光った。変わったときと同じように光は一瞬で消えて、晴れるとそこには翔一の姿が。

 踵を返した翔一の視線が、社から顔を出した千歌の視線と交わる。翔一は視線を曜へと移し、再び千歌へと戻す。

「千歌ちゃん、曜ちゃん………」

 翔一の顔は驚愕を浮かべていた。千歌もそれは同じだった。ただし千歌のほうは驚愕と同時に、恐怖が混在している。あれほど動かなかった脚が、まるでバネのように素早く動き出した。隣にいた曜も同じように。千歌は振り返ることなく夕暮れの茜に染まった街へと全速力で駆けた。

 曜と並んで走っている間、千歌は何も考えなかった。思考する余裕もなくなった脳裏には、異形へと変わった翔一の姿だけが張り付いていた。

 

 

   4

 

「本間さん!」

 西の空が僅かに茜を残すなかで、誠の声が公園の空気へと拡散していく。北條を車へ乗せたあとすぐに戻ってきたが、先ほどの騒がしさは遥か彼方へと去っていったようだ。その静寂が誠の焦りを助長してくる。

 走れば1分もかからず一周できる公園の敷地に本間の姿は見当たらない。家に戻ったのだろうか。そう思いながら完全な夜へ沈もうとする公園を見渡し、視線が一画で留まる。

 コーヒーの缶が落ちている。いや、落ちているというより半分が地面に埋まっている。ただのポイ捨てと言ってしまえばそれまでだが、ゴミなら近所のボランティアか市の職員がすぐに拾う。誠は近付き、キノコのように突き出した缶を地面から引き抜く。

 間違いない。先ほど本間が飲んでいた銘柄と同じ、キリマンジャロの山がプリントされたブラックのコーヒー缶だった。

 

 

   5

 

 スマートフォンの時刻表示が、2時13分へと切り替わる。証明の消えた室内で、唯一の光源として液晶画面が寂しげに光を放つ。しばらく眺めているうちに液晶表示が消えた。それでも完全な暗闇にはならず、カーテンが開けられた窓から月光が射し込んでくる。今夜は満月だ。月が部屋のなかを覗き見しているように錯覚する。

「千歌ちゃん、大丈夫?」

 ベッドのなかで、声を潜めて曜が言ってくる。「うん」と弱く応じ、千歌はもぞもぞと頭を布団に埋める。

 翔一から逃げたあと、千歌は十千万に帰らず曜の家に上がり込んだ。幼い頃から知った仲だから曜の親も歓迎してくれたし、泊まることも特に何も追求してはこなかった。曜の家には何度も泊まったことがある。だから珍しいことじゃない。志満に電話したら「分かったわ」と怪しむ様子もなく了承してくれた。

 曜が顔を寄せてくる。ウェーブのかかった髪が千歌の頬を撫でた。寒くもないのに、触れている曜の肩から震えが伝わってくる。千歌が泊まらせてほしいと頼まなくても、曜の方から泊ってほしいと頼まれたかもしれない。

 恐怖を共有したところで、何の慰めにもならなかった。千歌は何度も眠りに落ちようと目を瞑った。眠れるようリラックスできることを思い浮かべた。曜と遊んだ思い出。μ’sのPV。そして翔一の顔。

 台所に立つ翔一。部屋を掃除している翔一。しいたけに餌をやる翔一。畑で野菜の種を植える翔一。

 そして、変身した翔一。

 いつか、翔一が冗談で言っていたことを思い出す。

 ――もし過去を思い出して、俺が凶悪な犯罪者だったらどうよ?――

 犯罪者よりもっと衝撃的だ。翔一のあの姿は、明らかに人間とかけ離れていた。翔一はいつ、あんな姿を持つようになったのだろう。記憶を失う前からそうだったのか。それとも記憶を失ってから、十千万で過ごしていた日々のなかでそうなったのか。だとしたら、何がきっかけなのか。

 いつも気になっていた疑問が、とても恐ろしい核心に迫ろうとしていたことのように思える。知ったら最後、いつもの日常が壊されて後戻りができないような。それでも千歌の中には疑問が鎮座し続けている。追い払おうにも、既に一端を目の当たりにした千歌を逃すまいとするように。

 

 翔一くんは、記憶を失う前はどこで何をしていたんだろう。

 翔一くんは、いつから戦っていたんだろう。

 翔一くんは、何で変身したんだろう。

 翔一くんは、何者なんだろう。

 

 



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第5話


h:hirotani 友:友人(μ’sでは凛ちゃん、Aqoursでは梨子ちゃん推しのラブライバー)

友「ふたつの原作を並行させるってさ、これ何を目指す作品なわけ?」
h「hirotaniという作者の個性を出さない作品にする」
友「………ん?」
h「つまりだ、脚色なく原作準拠のままストーリーを進めることで俺の描く物語ではなく、原作キャラ自身が描く本当の意味でのアギトとAqoursの物語にする、ということだ」
友「なるほど、分からん」

 要は原作の魅力を最大限に引き出す物語にする、と説明したら納得してくれました。




   1

 

『千歌、早く帰ってきて!』

 曜の家での朝を迎えてすぐ、美渡からその電話はかかってきた。曜の母は千歌の分の朝食も用意してくれていたのだが、それを断り千歌は曜と始発のバスに乗って十千万へ向かった。

 電話口での美渡はひどく慌てた様子だった。何が起こったのか。翔一と結び付けてしまうのは、彼のあの姿を見てしまったからだろうか。満足に眠っていないせいか思考がぼんやりとしている。曜も同じようで、千歌の隣の座席に腰掛ける曜はとても疲れているように、頭をシートに沈めている。いつもは朝から元気だというのに。他愛もない親友とのおしゃべりも今日ばかりはなく、千歌は窓の外へと目を向ける。東雲の切れ間から降り注ぐ日光に照らされた内浦湾に何隻かの漁船が見える。漁師たちも早朝の漁から戻ってきたらしい。

 千歌の予想は、翔一がらみという点では的中していた。十千万に着くと玄関先で待ちくたびれた、と喚く美渡の横で、志満が神妙そうに1枚の紙を持っている。

「いつまでも起きてこないから様子見に行ったら、部屋にこれがあって………」

 志満から受け取った紙には短く1文だけ書かれている。

 

 お世話になりました 翔一

 

「あんた、何か知らない?」

 美渡がそう訊いてくる。ううん、と千歌は答えた。昨日のことを話したところで、姉ふたりに信じてもらえる気がしなかった。曜が説得してくれるとしてもだ。千歌だって、直に目撃しなければ信じない。この世界には怪物がいて、同じく怪物のような力を持った人間がいる。それが翔一だ、なんて。

「翔一君、何か過去のことを思い出したのかしら?」

「だからって翔一が何も言わずに出てく?」

 志満と美渡が口々に言う。その後も何か憶測のようなことを続けていたが、千歌には内容が全く耳に入ってこなかった。何気なく視線を向けた壁掛けのカレンダーを見て、今日が土曜日であることに気付く。あまりにも目の前の状況を咀嚼できない故の逃避なのか、千歌はふと思い出した。

 

 そうだ、明日は海の音を聴きに行くんだった。

 

 

   2

 

 PCの画面上で、警備部長と補佐官が渋い顔つきで報告書に目を通している。先日遭遇したアンノウンについての報告。今回は誠だけでなく、共に遭遇した北條も同席している。ふう、と警備部長が溜め息をついた。君もか、と言いたげに北條を一瞥し、報告書を机に置く。

『では君も、アンノウンに遭遇したと言うのかね?』

 液晶越しに補佐官が確認するように訊いてくる。PCを前に、誠の隣に座る北條は明確に「はい」と答えた。すると老眼鏡を外した警備部長が諭すような穏やかな声で、

「ふたりとも、発言は慎重にしたまえよ。君たちの言葉には君たちの将来だけではなく、警視庁全体の在り方が懸かっている」

 G3は警視庁においてフラッグシップ的な存在だ。ただでさえ莫大な資金をかけて開発されたというのに、初陣でいきなり大破。修理のせいで第2の遭遇には出動できず犠牲者を出してしまった。しかも敵はカメラに映らない正体不明(アンノウン)。まだアンノウンの存在は公表されていない――というより、警視庁が存在を認めていないから公表しようがない――が、もし世間に知られたとしてもG3が太刀打ちできなかった、なんて事実も付随したとなっては警視庁の威厳は地に堕ちる。首都警察というブランドの株も爆下がりだ。

 君たちの首ひとつで片が付く問題ではないのだよ。警備部長はそう牽制しているようだった。

 「ですから――」と身を乗り出した誠を北條が手で制し、画面に向き直る。

「我々が未知との敵に直面しているのは疑いありません。この事実を踏まえ、早急なる対応策が必要だと思われます。まずG3システムの重要性を認識し、ユニット全体の強化、充実を図るべきです。このままだと被害者の数は増え続ける一方です。そして今、我々がアンノウンに対抗しようとするならG3システムに頼るしかありません」

 とても饒舌な北條は、警備部長も補佐官も反論を許さないという毅然とした態度だ。上層部であり、人事の采配を下す権限を持つふたりは何か言いあぐね、口を微かに開き再び閉じる。ここで頭ごなしに否定しては自らの器の矮小さを露呈させてしまうだけだ。被害者が出ている。アンノウンは否定できても、この事実だけは認めざるを得ない。不可思議な死の状況を解明できずにいる現状も。

 北條は言った。

「同システムの量産、組織化がすぐにでも必要になるでしょう」

 

 単なる聴聞会のつもりだったが、まさか収穫があるとは思ってもみなかった。完膚なきまでに否定されG3ユニットの解散まで言い渡されることを覚悟していたのだが、自分の話をまともに聞いてくれるようになるとは。嫌味な人間と思っていたが、流石は北條というべきか。本庁きっての若手エリートと期待されているだけある。

「ありがとうございました」

 署内の無機質な廊下を歩きながら、誠は隣の北條に言う。

「これで上層部のユニットに対する見方も少しは変わってくれると思います。今まで何かと、色眼鏡で見られてきましたから」

「アンノウンが現れた以上、これからはG3が警視庁を引っ張っていくことになるでしょう。装着員であるあなたは、警視庁の責任を一身に背負うことになると言っても過言ではありません」

 表情を一変もさせない北條は脚を止め、

「氷川さん、未だ起動不可能なほどG3システムを傷つけたあなたの責任は大きい」

 彼にならい脚を止めた誠に、先日の無力感が再び押し寄せてくる。地中から出てきた死体。もしG3が出動できていたら、自分が初陣でG3を激しく損傷させなければ。そんな後に立たない後悔ばかりを延々と繰り返している。

「G3が正常に機能していれば、被害者を救うことができたかもしれない。違いますか?」

「それは………」

 反論ができない。北條の言うことは悔しいが的を射ている。結局のところ、G3の戦力は装着員に頼るところが大きい。いくら装甲が頑丈で、武装がシミュレーション上で軍隊の1個小隊を制圧できるほどでも。

「G3がいかに優れていても、装着員が無能ではどうしようもない」

 そう吐き捨て、北條は廊下を歩いていく。その背中を、誠は何も告げることなく見送ることしかできなかった。

 

 

   3

 

 今日は4月の何日だっただろう。窓の外に広がる街を眺めながら、涼はそう思った。何日も部屋に閉じこもっているうちに、焼けるような熱は引いた。謎の発作は何度か起こっているが、それを除けば日常生活に支障はない。いや、支障はあるか。それを怖れて涼はこうしてアパートの自室に籠っているのだから。

 アウトドア派の涼にとって、こうして外に出ない日は今まで1度としてなかった。子供の頃は何をして遊ぶか考える前に外に飛び出していったものだ。友達の家に突然押しかけて遊びに連れ出すことなんてよくあった。家よりも外のほうが楽しい。家の中にいてばかりのインドア派の気持ちは理解しがたい。

 でも、今ならインドア派の気持ちはよく分かる。家の中なら安心できる。自分がどうなろうと、誰の目にも晒されることは無いのだから。もっとも、それは涼だけが得る安心だろう。「普通の」インドア派が家に籠るのは、読書や映画鑑賞やゲームといった趣味に没頭するためだ。何もしないわけじゃない。

 薄い壁からぎしぎし、と音が聞こえた。隣人が起床したらしい。ベッド脇に置いてあるデジタル時計を見ると9時を過ぎている。遅い目覚めだな、と思ったが、このアパートは学生向けの格安物件だ。大学生は講義の割り振りを自分でしているから、午後だけに講義を入れて午前中は睡眠なんて生活を送るのも珍しくない。練習で朝早くから通学していた涼にとって、そんな生活習慣は堕落したものでしかなかったが。

 ピンポーン、とインターホンが聞こえた。昨日は新聞の勧誘で、一昨日は生協だったか。律儀に対応するのも面倒だ。居留守を使おうとベッドに横になったところで、今度はごんごん、と強くドアを叩く音が響く。続けてドア越しにくぐもった声が。

「涼! 開けるんだ涼! いるのは分かってるんだ!」

 両野の声だ。涼は咄嗟にベッドから身を起こした。「涼!」とドアを叩きながら両野が呼んでいる。理由は何となく悟ることができる。先日部の仲間に渡した退部届の件についてだろう。両野には何も言わなかったから、わけを聞こうとするのは当然だ。

 涼は鍵を開錠し、ゆっくりとドアを開けた。

「ようやく会えたな涼」

 僅かに開いたドアを挟んで、ほっとしたように両野は告げた。顔を合わせるのは何日振りだろうか。日付を数えていないから分からない。

「どういうつもりだ? 勝手に病院抜け出して退部までしやがって。水臭いぞ、俺とお前の仲じゃないか。俺はお前のことを、身内同然だと思っているんだ」

 涼には頼れる身内がいない。母親は幼い頃に他界し、父親も訳あって今はどこにいるか分からない。そんな涼の水泳選手としての才能を高校時代の全国大会で見出してくれた両野は、大学へのスポーツ推薦や学費免除の特待生認定まで世話を焼いてくれた。実質的に両野は後見人と言っていい。涼にとって父親代わりの存在で、一番頼れる人。

 俺は俺を受け入れられない。

 でも、この人なら受け入れてくれるかもしれない――

「分かりました。コーチだけには全てをお見せします」

 そう言って涼はドアを全開にする。両野は部屋に足を踏み入れ、ドアがばたん、と金属音を鳴らして閉じられる。

 

 

   4

 

 カーゴベイの中で、ガードチェイサーは無言のまま役目が来ることを待ち続けている。大破したG3のなかで、唯一無事に済んだ装備。警視庁と提携しているメーカーの車両をベースにしているとしても、これだってG3のスペックに合わせて製造されたワンメイド品だ。このマシンだけでもどれだけの血税が費やされるのか。

「明日にはG3の修理も終わるだろうから」

 誠にコーヒーを手渡しながら小沢が言う。

「済みません。僕のせいで、G3を傷つけてしまって」

 もう何度目になるかも分からない謝罪を誠は述べる。G3の話になると決まって「済みません」という言葉が出てしまう。慰めなんて生温い言葉を向けない小沢の代わりに、努めて明るい口調で尾室が、

「それもただの修理じゃないんですよ。GM-01の弾丸もパワーアップしたし、G3システム自体その反動に耐えられるように姿勢制御ユニットを強化しているんです。まあ、見た目は変わらないけど早くもG3は生まれ変わるってことです」

 初陣でのG3はまだ試作段階の域を出なかった。これから実戦を重ねていくにつれて、更に改修を重ねていくことだろう。敵に合わせて。そして、装着員である誠に合わせて。

「装着員は、僕で良いんでしょうか?」

 カップの中で揺れるコーヒーを眺めながら、誠は呟く。「何だって?」と聞き逃さなかった小沢は声に険を込める。G3を誠の体格や戦闘時の癖に合わせて調整してくれたのは小沢だ。今までの苦労を足蹴にするような発言が気に食わなかったのだろう。誠は彼女に視線を向け、

「いや、ただG3が生まれ変わるなら、装着員も変わったほうが良いのかな、って………」

「何言ってんの? もしかして北條君に何か言われた?」

 北條のことを知っているのか。そんな疑問が沸くが、それを訊く気力もない。そもそも北條は面識がなかった頃の誠にも噂が届くほど、警視庁の中では期待を背負う人材だ。小沢や尾室が知っていても不思議なことじゃない。

 小沢は苛立たし気に言った。

「いいのよあんな奴の言うことなんか気にしなくて」

「でも北條さんは間違ったことは言っていません」

「馬鹿ね。正しいか間違ってるかなんてどうでもいいの。男はね、気に食うか食わないかで判断すればそれで良いの」

 「そんな無茶苦茶な」と尾室が呆れ声で言う。こんな豪快なことを言ってのけるが、小沢はこの若さでG3の開発と設計を一手で成し遂げている。天才肌とはこういう人間のことを言うのかもしれない。

「小沢さん、北條さんに厳しいですね」

 尾室がそう言うと小沢は溜め息をついて、

「実を言うとね、G3プロジェクトが発足したとき、装着員に真っ先に志願したのが北條君だったの。でも選ばれたのは氷川君だった。快く思ってるはずがないわ」

 だからといって、選ばれなかった(ひが)みから自分に厳しいことを言うだろうか。先の聴聞会でも、北條はG3ユニットの脚を引っ張るどころか、チームとしての強化と充実を進言してくれた。真っ先に志願したという話から、彼の誠に対する厳しさがG3への情熱故と納得できる。

 「ああ、それと」と小沢は思い出したように、

「知り合いのほうには都合つけるよう頼んでおいたから、来週明けにでも行ってきなさい」

「はい………」

 気のない返事をしたところで、内線通信のコール音が響く。機器の並ぶデスクについた小沢がヘッドセットを付け、「はいG3-OP」と応答する。「はい」と何度か相槌を打ち、ヘッドセットを外すと誠へと向いた。

「オーパーツ研の三雲さんから」

 

 この日のオーパーツ研究所のラボは、非番なのか三雲以外は誰もいない。機器の駆動音も聞こえず、冷たい静寂のなかでモノリスは佇んでいる。パズルの解読に成功した。その知らせを受けて脚を運んだ誠は十字架のようなモノリスを見上げる。

 モノリスの、十字架を囲むような柱の上2本。そこから1本ずつ突き出した螺旋形のオブジェを。

「何ですかあれ?」

「何に見える?」

 悪戯っぽく三雲が訊いてくる。三雲によると、コンピュータで進めていた演算処理が突然進展しはじめたという。ダイヤルの組み合わせは瞬く間に紐解かれ、やがてひとつの正解へと至ったところで、上2本の柱が蓋を開け、螺旋のオブジェが現れた。

 まるで、オーパーツ自身が何かに反応したかのような速さでの解読だったらしい。

 誠はじっ、と螺旋のオブジェを凝視する。ただの螺旋ではなく、2本の螺旋が互いに絡み合っている。この複雑な形状が何を表すのか、現代に生きる誠にはその意味が理解できる。ただ問題なのは、これを古代人が既に知っていたということ。

「遺伝子のモデルのように見えますが」

 「そうね」と三雲は少年のような笑みで応える。「まさか……」と誠は漏らした。遺伝子が2重の螺旋構造を持つと発見されたのは、20世紀の半ばになってからだ。西暦に入って2千年以上経ってようやく辿り着いた生命の構造を、古代という表現で足りない時代には発見されていたというのか。

「非常に特異なパターンなんだけどね」

「でも、このオーパーツは3万年以上前のものなんじゃないんですか?」

 3万年前。ネアンデルタール人が絶滅し、ヒト属が現生人類であるホモ・サピエンスのみになった時代。まだ石を打ち砕いて刃物を作っていた石器時代のはずだ。

「そんな昔に遺伝子モデルなんて………」

「常識的に考えればね」

 そう言って三雲は両腕を広げてラボ全体を示し、

「でもここはオーパーツ研究局よ。有り得べからざるものを研究する場所なの。常識の枠をまず取り払わなければ、研究はできないわ。どんなに荒唐無稽だと思われていることでも、それを信じること。信じてみること。それが第1歩ね」

 オーパーツを見上げる三雲の眼差しは、これからへの期待に満ちているように輝いている。昨日までの非常識は明日になれば常識になるかもしれない。かつて、ヨーロッパでは地球こそ世界の中心であり、太陽が地球の周囲を回っていると信じられる時代があった。ガリレオ・ガリレイが主張した、太陽と地球の立場が逆転した地動説が認められたのは、彼の死から3世紀以上経ってのことだ。

 もしこのオーパーツが本当に3万年前に造られたものと証明できたとしても、学会で受け入れられるのは難しいだろう。これは今までの人類史を根本からひっくり返しかねない代物だ。3万年前の時点で、人類は既に現代と同等かそれ以上に優れた文明を築き上げた。しかし何らかの要因で滅び、現代はかつての栄華を追いかけている、と。

 三雲が期待を馳せる未来は、果たしてどれほど先なのだろう。もしかしたら、自分が存在していない数百年後を見据えているのか。誠にはそんな先の未来なんて全くイメージが沸かない。小沢といい三雲といい、天才というのはどうにも理解しがたいところがある。

 三雲は楽しげに早口で言う。

「事実、このオーパーツから得られた遺伝子情報をもとに、特別に編成された研究班が実験を始めているの」

「実験?」

 誠が反芻すると三雲は頷き、

「これが遺伝子モデルだとしても、塩基配列はまだ未知のものだわ。それが何なんなのか解明するために、メッセンジャーRNAを合成してタンパク質を作らせようとしているの」

 次々と三雲の口から発せられる学術的専門用語は、あくまで一般人程度の知識しか持ちえない誠には何かの呪文のように聞こえる。高校時代までに習った生物学の知識で考えてみると、即ちこの遺伝子モデルを再現した新しい生命体を創り出すということ。2重螺旋という設計図があるにしても、そんなことが可能なのだろうか。人工細菌の作成がアメリカで成功したという話は聞いているが、このモデルが細菌という微小なものではなく、もっと高等な生命体のものだとしたら。

 未知の遺伝子モデル。その正体はこの地球上に存在していた生命なのか。それとも現代より優れた古代人の技術で創り出そうとして、成し遂げられなかった人工生命体なのか。これもまた正体不明(アンノウン)だ。世界には未知のものがまだ存在している。だとしたら、人間にも未知の領域が存在しているのだろうか。

「ひとつ、訊いていいですか?」

「何かしら?」

「三雲さんは、超能力の存在を信じていますか?」

 やぶからぼうにどうしたの。そんな三雲の思考が表情から読み取れる。信じてみることが第1歩、と述べても、あくまで科学者である三雲は無条件に信じることはないらしい。肩をすくめて、三雲は曖昧な笑みと共に答えた。

「どうかしら」

 

 



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第6話

 今更ながら気付きました。この更新ペースだと完結まで2年かかります。
 他にも書きたいの沢山あるのにな………。




 

   1

 

 天気予報では曇りのち晴れ、とキャスターは言っていた。本当に晴れるだろうか、と千歌は少しだけ心配になりながら灰色の雲に覆われた空を見上げる。船に乗ることに慣れていないのか、淡島への連絡船で梨子は居心地悪そうに座っている。

「わたし、ダイビングなんて初めて」

「大丈夫、ちゃんとインストラクターが付いてるから」

 緊張した面持ちの梨子に曜がいつもの溌剌とした言葉を向けている。凄いな、と千歌は思った。あんなことがあっても冷静でいられるなんて。千歌は十千万の目の前にある三津海水浴場へ視線を向ける。1年半前、記憶を失った青年が波打ち際に倒れていた海岸へと。

 彼が高海家に来る3日前に、千歌は志満から青年を家で預かることになったという報告を受けた。青年が記憶喪失だという話を聞いたとき、千歌はとても驚いた。海岸で意識を取り戻した青年の第一声は「靴が濡れちゃいますよ」で、通報を受けて駆け付けた巡査に対しても青年は笑みを浮かべて対応する余裕を見せていた。青年の事情聴取を担当した巡査もかなり驚いていたらしい。過去の記憶が一切なく自分の名前すらも分からないというのに、青年の明朗快活な態度に終始困惑していたとか。

 病院での検査、カウンセラーによる診断でも青年は心身共に健康で、社会生活に支障なしと警察は判断した。そうなると彼の後見人は誰に依頼するべきか、ということになったのだが、その役目は志満に回ってきた。家が旅館を経営しているのなら、住み込みの従業員として雇ってはどうか、と警察から頼まれたらしい。発見者である千歌の親族という責任感からか、志満は了承した。

 警察は青年の身元を突き止めることができなかった。青年は財布も携帯電話も、身元が分かるものは何一つ所持していなかった。唯一の所有物は、ポケットに入っていた1通の封筒。中身はなく、差出人の名前も海水に浸かっていたせいでインクが溶けて読むことができない。

 ――津上翔一です。今日からお世話になります――

 志満に連れられて十千万にやってきた日、青年は笑顔で千歌と美渡に挨拶した。青年は自分の名前を言い慣れていないように見えた。自分の存在を証明するものとして、実感が沸いていないような。青年が名乗ったのは、彼が所持していた封筒の宛先として綴られた名前だ。封筒は今でも高海家で保管している。

 津上翔一

 それが、記憶喪失の青年が戸籍と共に与えられた名前だった。

 

 

   2

 

 淡島の船着き場の近くにあるダイビングショップには客が殆どいなかった。曇りの日はダイビング日和じゃないからこんなもの、と自嘲する店主の果南は随分と世慣れしたような雰囲気を醸し出していて、とても年齢がひとつしか違わないようには見えない。

 千歌が梨子のことを紹介すると、事前に話を聞いていたのか果南は「音ノ木坂から来た転校生?」と梨子のことをまじまじと見つめていた。

「そうなんだよ、あのμ’sの」

 「そんなに有名なの?」と梨子が訊くと、「へえ、知らないんだ」と果南は意外そうに言った。μ’sとはスクールアイドルの界隈では知らない人はいない程の有名グループらしい。自分が通っていた高校にそんな人たちが在籍していたなんて、梨子は全く知らなかった。友人はそれなりにいたが、会話のなかでμ’sもスクールアイドルも登場したことはない。

 挨拶もそこそこに、千歌と曜がウェットスーツに着替えている間、初めての梨子は果南からダイビングについての簡単なレクチャーを受けた。シュノーケルでの呼吸、耳抜き、フィンを装着しての泳ぎ、海中での意思疎通のためのジェスチャー。あまり難しいことではなさそうで、不安は少しだけ和らいだ。

「海の音か………」

 曜とスーツの着心地を確かめている千歌を眺めながら、果南がぽつりと呟く。

「松浦さんは、海の音を聴いたことがあるんですか?」

 梨子が訊くと、果南は波打つ海面へと視線を移し、

「聴いた、っていうか、イメージは何となくね」

「イメージ?」

「水中では、人間の耳には音は届きにくいからね。ただ、景色はこことは大違い。見えてるものからイメージすることはできると思う」

「想像力を働かせる、ってことですか?」

「ま、そういうことね。できる?」

 ダイビングが初めてなのだから、海の音をイメージする余裕があるのか分からない。でも、ここまで来て何も得られず徒労で終わらせるわけにもいかない。この海に音があるのなら、必ず聴いてみたい。

 梨子自身の音を見つけるためにも。

「やってみます」

 

 実際に潜ってみると、ダイビングはそれほど難しいものではなかった。鼓膜で感じ取る気圧の変化は耳抜きで調整できるし、フィンのおかげでそれほど強く脚を動かさなくても水をかくことができる。ウェットのおかげで水の冷たさは苦にならない。

 梨子は海の底を眺める。真っ暗で底が見えない。深く潜れば潜るほど深淵に吸い込まれそうで、二度と這い上がれないような恐怖を覚える。水中メガネ越しに見える海中の塵はまるで雪のようだ。これは海の底で朽ちた死骸の一部なのだろうか。見えない底には様々な海洋生物の死骸が横たわっていて、それは墓場なのかもしれない。

 果南の言った通り、海中はほぼ無音と言ってもいい。聞こえるのは梨子の吐いた気泡が弾ける音だけ。それも梨子の体内で発した音で、梨子の骨格を通じて鼓膜に届いただけに過ぎない。海は音を発していない。とても静かだ。光も音も届かない世界。

 息が続かなくなり船に上がる。水中メガネを上げて呼吸を整えると、よほど落胆した顔をしていたのか曜が「駄目?」と訊いてくる。

「うん、残念だけど」

 海に身を沈めれば、自然と音を聴けるのではないかと期待したが、そう簡単なものではなかった。海はどこまでも広くて深く、そして虚しい。

「イメージか、確かに難しいよね」

 千歌はそう言うと、空の灰色を映す海を眺めてぽつり、と呟いた。

「翔一くんは聴いたことあるのかな………」

 翔一とは誰だろう、と梨子が思っていると果南が、

「翔一さんまだ帰ってきてないの? 連絡はした?」

「翔一くん携帯持ってないから………」

 友人だろうか。果南が敬称で呼んでいることから、彼女より年上のようだが。果南はふ、と笑みを零した。

「翔一さんにとって、海の音は千歌と曜の声だったかもしれないね」

 「え?」と千歌と曜は果南へと向く。

「真っ暗な海の底からふたりの声が引き揚げてくれて、だから目を覚ました。そう思うとロマンチックじゃない?」

 果南は明後日の方向を向くと、また笑みをひとつ零す。

「にしても、何度聞いても笑っちゃうよね。目覚まして第一声が『靴が濡れちゃいますよ』って。でも翔一さんらしいかな」

 千歌と曜は無言のまま互いを見つめ合っている。その翔一という人と何かあったのだろうか。思えば翔一という名前が出た途端、ふたりの表情は一気に沈んだように見える。何かがあったに違いない。あまり良いことではなさそうだ。でも、梨子はその翔一という人に会ってみたいと思った。その人が聴いた音がどんな音か聞いてみたい。

「真っ暗か………。もう1回いい?」

 そう断りを入れて、千歌は曜と一緒に再び海へと飛び込む。梨子も水中メガネを下げて、ゆっくりと海水へ身を沈めた。

 千歌と曜は目的地を見出したのか海中を進んで、梨子はふたりの後をついていく。藍色が深く濃くなった海中の暗闇は、まるで梨子の心を映しているようだ。自然とあのコンクールの日を思い出す。思えば、あの日から梨子の心は海の底に沈んでいるのかもしれない。一切の光も届かない底なしの暗闇へと。

 不意に、視界が明るくなった。ほんの微かに。

 待っていたかのように、千歌と曜が頭上を指さす。見上げると水面に太陽が浮かんでいた。雲が晴れたのだろう。日光が海中に射し込んできて、穏やかな波と共に光が揺らめいている。日差しにあてられた海中の粒子が光っていて、それはまるで音符が泳いでいるような錯覚にとらわれる。これらの取り纏めのない音符を集めて譜面に並べたら、曲になるのだろうか。

 梨子は海面に映る太陽に両手をかざした。ピアノを弾くように、指で見えない鍵盤を叩く。ピアノの旋律が聴こえた。ただ音階をなぞるのではなく、しっかりとメロディーを伴って。初めて聴くメロディーだった。まだ聴いたこのない、梨子の作ったことのない音の連なり。

 でも、まだ足りない。曲としてまだこの音は完成していない。もっとこの音を聴きたい。その想いに従って、梨子は光を目指して上へと昇っていく。光に手が届こうとしたとき、様々な音が一斉に鼓膜へと飛び込んできた。波の音。カモメの鳴き声。船のエンジン音。もう少しで手が届くはずだった光は雲が晴れた空高くで燦々(さんさん)と輝いている。あんなに遠くては掴めそうにない。

「聴こえた?」

 上がってきた千歌が訊いてきて、反射的に「うん」と梨子は応える。

「わたしも聴こえた気がする」

 千歌は自分でも驚いているようで、数舜遅れて上がってきた曜も、

「本当? わたしも!」

 皆で同じ音を聴いたのだろうか。だとしたら、あのメロディーは梨子の裡から沸いたものではなく、海が与えてくれた音だったのか。そんなことは有り得ない、と普段なら否定するだろう。でもこの時ばかり、梨子はそんなロマンチックなことが起こっても良いかな、と思った。

 海には音がある。

 暗い底から引き揚げてくれる、灯のようなメロディーが。

 

 

   3

 

 内浦の船着き場で梨子と別れて、千歌は曜と一緒に帰路へついた。梨子はすぐに帰ろうとせず、しばらく海を眺めていたいらしい。イメージが更に膨らむ気がするのだとか。

「海の音、確かに聴こえたよね」

 確認するように千歌は言った。「うん、聴こえたよ」と曜は応えてくれる。まるで夢でも見ていたような気分だ。ダイビングは何度か経験があっても、「海の音」なる体験は初めてだ。千歌にとってはふ、と現れて消えるように儚い音だったが、梨子はあれから曲に仕上げてしまうのか。

「翔一くんも、同じ音を聴いたのかな?」

 千歌が言うと曜はふふ、と含みのある笑みを零し、

「聞きたいよね。翔一さんの聴いた海の音」

「うん、でも………」

 翔一くんはいないんだ。その言葉を裡に留めると寂しさが込み上げてくる。奇妙なものだった。あれほど怖れていた翔一がいなくなって寂しいだなんて。いや、確かに感じていたはずだ。ただ恐怖で誤魔化していただけだ。

 ちゃんと本人から話を聞いていない。たとえ姿が変わっても、あの戦士が翔一であることに変わりはないはずだ。いつも料理を食べる千歌を見て嬉しそうに笑っていたあの翔一が、強靭な力を持ったとして他人を傷つけることに使うはずがない。

「わたし、翔一くん探してみる」

 千歌が決意を表明すると、曜は「え?」と目を丸くした。

「探すってどうやって? 翔一さん携帯持ってないんだし」

「何とかしてみる!」

 翔一を探すためなら何だってしてみせる。たとえどこに行っても、地の果てまで追いかける。その決意を瞳に込める千歌を曜は呆然と見つめ、次に笑みを零す。

「じゃあ、わたしも探す」

 「曜ちゃん……」と呟く千歌は、感激のあまり涙が零れそうになる。スクールアイドル部に入ってくれたときも、こんな感じだった。曜は千歌が本気と分かると、とことん協力してくれる。こうして笑顔で、それが当然であるかのように。

 本当に良いの、という問いを喉元に留め、千歌は宣言した。

「うん、絶対に見つけようね!」

 

 まずは色々と準備が必要だ。ひとまずは警察へ捜索願を出しに行こう、と曜が提案してきて、千歌はその手があった、と思った。それが最も見つかる可能性が高い。けど高校生の自分たちではまともに取り合ってくれるか不安だから、志満か美渡に同伴してもらおう。

 上手く段取りを見据えている曜と共に十千万へ入ろうとしたとき、千歌は数台分だけのスペースが設けられた駐車場で脚を止める。曜も駐車場に停めてあった機械に気付いて、千歌にならった。

 翔一の移動手段として美渡から譲られた、VTR1000F。

「もしかして……」

 続きを言う前に、千歌の脚は無意識に裏の畑へと向かっていた。あとを曜がついてくる。大根やほうれん草の葉の緑色に満ちた畑の中心で、見慣れた青年の背中が見えた。

「翔一くん!」

 千歌の声に振り返った翔一は逃げもせず、かといっていつもの笑顔も見せず、所在なさげに口を結んでほうれん草へと視線を戻す。

「短い家出でしたね」

 曜が呆れたように、でも嬉しそうに言う。翔一は千歌たちには一瞥もくれず、畑を見下ろしながら沈んだ声色で、

「こいつらの面倒頼むの、忘れてたから………」

 たったそれだけのことで戻ってきたのか。翔一らしい理由だ。他人にとっては大したことなくても、翔一にとってこの畑は自分の子供も同然かもしれない。彼は高海家でずっと野菜を育ててきた。野菜と共に、記憶を失った空虚を埋めるために津上翔一という自己を育んできたのかもしれない。

 千歌の胸の奥にあった溜まりが一気に消え失せた。

「わたしじゃ上手くできないよ。やっぱり翔一くんじゃなきゃ」

 翔一は千歌に目を向けた。とても不安げで、何か言いたそうに口を開くもすぐに閉じて、目を逸らす。「ごめんね」と千歌は言った。

「この前は驚いて逃げ出しちゃって………」

「当然だよね………」

 「あれって、何なんですか?」と訊いたのは曜だ。

「………分からない」

 弱く答える翔一に、「翔一くんも変身してたよね?」と千歌が質問を重ねる。

「あれは何なの?」

「だから分からないんだよ。ただ、俺戦わなくちゃならないんだ。あいつらと」

 そこで千歌は思い出す。この畑で翔一が語った、彼が十千万にいる意義を。

「みんなの居場所を守るために?」

 そう言うと、翔一は逡巡を挟み無言で頷く。やっぱり、と思うと笑みが自然と零れた。どこまでも翔一らしい。戻ってくる理由も、戦う理由も。自分のためでなく他人のためであるところが。

「だったら、自分の居場所もきちんと守ってよ。ここが翔一くんの居場所なんだから」

「じゃあ、ここに居て良いの?」

 不安な顔で尋ねる翔一に、千歌は頷く。

「俺のこと、怖くないの?」

 「怖くない」と千歌は即答した。嘘じゃなかった。むしろ、あの戦士の力を持ったのが翔一であることに安心できる。なぜなら――

「だって翔一くんは翔一くんだもん」

 生まれ育った十千万は千歌の居場所。志満と美渡としいたけのいる、千歌の家だ。血縁上、翔一は赤の他人でしかない。でも生まれも育ちも違う、血の繋がりが無いからといって、翔一だけを爪弾きにできるだろうか。それだけで居場所を決める規範なんてどこにもない。千歌が居てほしい、と望む。それだけで十分だ。その存在で千歌が幸福を感じ取れることが、翔一の居るべき理由になるのだから。

「でも、本当に怖くない? 無理してない?」

 尚も翔一は尋ねてくる。痺れを切らしたのか曜が笑いながら、

「もう、いつもの翔一さんに戻ってくださいよ」

「いつもの、俺?」

 それって何だろう、と自問しているのが表情で分かる。明後日の方向を見つめる翔一に、千歌は言った。

「いつもの翔一くんなら、そろそろ晩御飯の支度してるよ」

 「ほら」と千歌は翔一の腕を掴んだ。もう片方の腕を曜が掴み、家の中へと引っ張っていく。最初はうろたえたものの、ふたりに歩幅を合わせて歩き始めた翔一は口角を上げて訊いてくる。

「何食べたい?」

 それは、いつもの翔一の笑顔だった。

 

 



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第7話

 やっと『サンシャイン』の第2話が消化できました。まさか1ヶ月もかかるとは………。




 

   1

 

 曲作りを手伝う。

 梨子がその旨を千歌と曜に告げたのは、終業のチャイムが鳴ってすぐ、同級生たちが鞄を手に教室から出ていく頃だった。どうせ千歌がまた朝からしつこく勧誘しに来るだろうからそこで言おうと思ったのだが、千歌は曜と一緒に朝は生徒会室へ部設立の直談判――門前払いだったらしい――に、昼休みは校庭でダンスの練習へ行って、梨子には話しかけてこなかった。だから夕方になってようやく梨子のほうから話を持ち掛けることになった。

 梨子の話を聞いたふたりは目を丸くしたまま数秒の逡巡を経て、ようやく咀嚼できたのか「えええええ⁉」と驚愕の声をあげた。

 「嘘?」と千歌が「本当に?」と曜が訊く。「ええ」と梨子は短く答えた。千歌は目に涙を溜めながら「ありがとう」と嗚咽交じりに言って再び、

「ありがとう!」

 抱き着こうとしてきたところをひょい、と避けた。勢いを抑えられないまま千歌は梨子の後ろにいたよしみに「うえっ」とつんのめりながら抱き着いてしまう。

 何だか早とちりしているらしい。

「待って、勘違いしてない? わたしは曲作りを手伝う、って言ったのよ。スクールアイドルにはならない」

 手伝うのは、あくまでお礼としてだ。海の音を聴かせてくれたことへの恩義はある。だから恩返しはするけれど、それとスクールアイドルになることは別の話。千歌にとってスクールアイドルが特別なものであることは理解できるが、梨子にとって特別なのはピアノであることに変化はない。

 よしみに回した腕を放さないまま、千歌は「ええ?」と落胆を顔に出す。

「そんな時間は無いの」

 そう告げると、「無理は言えないよ」と曜が理解を示してくれた。「そうだねえ……」と千歌も諦めてくれたところで、梨子は言う。

「それじゃあ詞をちょうだい」

 「し?」と千歌は反芻した。

「し、って何?」

 まさか、と梨子は思った。苦笑を浮かべた曜が代わりに説明してくれる。

「多分、歌の歌詞のことだと思う」

 「そうだよね?」と確認してくる曜に、梨子は苦笑を返すことしかできなかった。

「………ええ」

 

 まさか詞とメロディ作りを分けるものだとうは思わなかった。

 バスの中で笑いながら言う千歌に、梨子はただただ呆れ果てるしかない。スクールアイドルがどんなものかは知らないが、アイドルと名が付くのだから音楽の知識ぐらいは多少あるものと思っていた。曜によるとスクールアイドルというコンテンツを千歌が知ったのは2ヶ月前で、しかも憧れのμ’sの読みを間違えていたらしい。

 そんな音楽に関しては素人同然のふたりが作詞を行えるとなると怪しいもので、梨子の同伴が必然的になった。まずふたりがどんな歌にしたいのか、最も把握しやすいのが歌詞だ。完成とまではいかなくても、イメージさえ知ることができればいい。

 そういうわけで千歌の家で作業することになったのだが、ここだよ、と案内された木造の建物を見上げた梨子は「あれ?」と呟く。

「ここ、旅館でしょ?」

 「そうだよ」と千歌はさも当然のように答える。続けて曜が、

「ここなら時間気にせずに考えられるから。バス停近いし帰りも楽だしね」

 まさか料金を払って滞在しようとしているのか、と思ったが、この旅館が千歌の家なのだとようやく理解できた。看板にある「十千万」とはどう読めばいいのか、と考えているところで、動物の速い吐息が聞こえてくる。向くと、人間の腰ぐらいまでの高さしかない小屋の前で大型犬がこちらを見ている。

「あら、いらっしゃい」

 突然その声が聞こえてきて、梨子は咄嗟に視線を戻す。玄関の暖簾の前に女性が立っている。目元が千歌とよく似ている。

「そちらは千歌ちゃんの言ってた子?」

 「うん」と答え、千歌は女性を手で示し、梨子に紹介してくれる。

「志満姉ちゃんだよ」

 「桜内梨子です」と礼をするが、梨子は志満ではなく犬のほうにちらり、と視線をくべる。犬はじ、とこちらを見つめ続けている。

「よろしく。美人さんね」

「そうなんだよ。さすが東京から来た、って感じでしょ?」

「本当に。何にもないところだけど、くつろいでいってね」

 「あれ、お客さん?」と男性の声が聞こえてきたと同時、「すみません」と門のほうから別の男性の声が聞こえてくる。ようやく犬から視線を放して門へ向くと、スーツを着た若い男性が会釈してこちらへと歩いてくる。

「こちらに、高海志満さんはご在宅ですか?」

 「はい、私です」と志満は男性へと歩み寄り、

「もしかして、澄子に紹介された刑事さんですか?」

「はい、氷川誠です」

 そう名乗って男性はジャケットの内ポケットから手帳を出した。ふたつ折りの黒革を開くと、証明写真つきの下に「警視庁警部補」という階級と「氷川誠」という名前。更に金色のエンブレムが付いている。

「刑事さん⁉」

 と曜が感嘆の声をあげて氷川へと駆け寄る。

「制服姿の写真とか、ありますか?」

 「え?」と氷川は戸惑いの声を漏らす。そんな氷川に目を輝かせる曜は刑事に憧れているのだろうか。そこへ志満が穏やかに「曜ちゃん」と、

「ここじゃ何だし、上がってもらいましょう。翔一君、お茶淹れてくれる?」

 翔一と呼ばれた青年は「はい」と応じて中へと戻っていく。曜も「すみません」と照れ笑いを浮かべながら千歌と共に玄関へと入っていく。

 とはいえ警察が一体何の用事なのだろう。そう思いちらりと見た氷川と視線が交わる。所在なさげに会釈する氷川に梨子も同じように会釈で応え、一緒におずおずと暖簾を潜った。

 

 

   2

 

 旅館十千万の様相は、古き良き、という言葉が何よりも似合う。経年劣化による壁や柱の変色も趣を感じられて、幼い頃に祖父の家に遊びに行った夏の日々を思い出させてくれる。大きくはないがその慎ましさが安らぎを与えてくれて、旅の途中に脚を休める場としては魅力的だ。

 もっとも、居間に通された誠は安らぎを覚える間もなかったのだが。

「これが巡査時代の写真です」

 スマートフォンの中で片肘の張ったぎこちない敬礼をする自分を見るのは、何年経っても慣れないものだ。ましてや他人、それも高校生の子供に見せるなんて。でも誠の羞恥などよそに、少し癖のあるショートボブの少女は「うわあ、かっこいい」と画面を見る目を輝かせている。

「他にもありますか?」

 「ええ」と誠は画面をスワイプした。今度は少しだけ敬礼も様になった、気がする。

「警視庁へ異動になったときの頃です」

 式典くらいにしか袖を通す機会のない本庁の制服にも、少女は同じように感嘆の声をあげる。珍しいな、と誠は思った。こういう警察官の制服に憧れを持つのは少年ばかりだと思っていた。

「刑事さんにも制服ってあるんだ。ずっとスーツなのかと思ってましたよ」

 1歩引いたところから画面を見ていた少女がそう言ってくる。志満の妹だろうか。目元が似ている。

「ええ、一応。あまり着る機会は無いですが」

 そう言ったところで、「ねえ」と先ほど誠に会釈したロングヘアの少女が声をかけた。

「邪魔しちゃ悪いんじゃない? 刑事さん仕事で来てるんでしょ」

 助かった、と誠は裡で胸を撫でおろす。悪い気はしないが話が進まなくてどうしようかと思っていたところだ。「すみません」と罰が悪そうに笑った少女は友人たちと一緒に奥へと引っ込んでいく。

「すみません、お仕事中なのに」

 お茶菓子を乗せたお盆を手に、志満が苦笑しながら居間に入ってくる。「いえ、こちらこそお時間をありがとうございます」と誠は応じた。

「お茶、もう少し待ってくださいね」

 誠の前に羊羹を置いた志満の第一印象は、とても穏やか、というのが誠の感想だ。あの小沢の学友とは思えないほどに。どういう接点で知り合ったのか興味はあるが、今は置いておく。

「澄子から不思議なものを見てほしい、と聞いたんですけど」

「ええ、これについて」

 誠は懐から瓶を取り出す。被害者の家から回収した、100円硬貨の入った空き瓶を。受け取った志満が瓶を軽く揺らすと、中の硬貨がかちゃり、と音を立てる。

「飲み口が100円玉より小さいのに、何故こんな事ができたのか」

 「それと、これも」と誠はポケットから出した写真を手渡す。一見すれば沼を背景にした少年の写真を、志満は何気なく眺める。

「それは最近撮影された写真ですが、背景の沼は10年前に埋め立てられ、今は存在しないはずの場所です」

 写っている少年が殺人事件の被害者であることは伏せておく。あまり良い気分はしないだろうし、捜査上で重要なことを一般人に漏洩させることは禁止だ。もっとも、写真も瓶も事件との関連は無し、と判断されるのは目に見えているが。

 不思議そうに瓶と写真を交互に眺めた志満は誠に向き直り、

「氷川さんは、これが人間の特殊能力によってなされたもの、と考えているんですか?」

「その可能性を考慮していいか、お尋ねしたいんです」

 「大学を出ただけの私がお力になれるかは分かりませんけど」と前置きし、瓶と写真をテーブルに置いた志満は告げる。

「私は常に未知の可能性をむやみに否定すべきじゃない、と考えています。人間にはまだ謎が多いのも確かです。ですが――」

 そこで「いらっしゃいませ」という朗らかな声と共に若い男がお盆を手に居間に入ってくる。お茶が入ったらしい。この青年は旅館の従業員だろうか。確か、さっき玄関先でも見かけた。

「粗茶ですけど、どうぞ」

「すみません」

 さて、それでは続きを聞こう。誠が話を再開しようとしたところで、

「冷めないうちに、ちゃちゃ(・・)っと飲んでください」

「は?」

 そんなにお茶汲みにこだわりがあるのか。高級な茶葉でも使っているのだろうか。そう疑問が沸いたところで志満が、

「すみません、お茶にかけた洒落なんです」

 そう説明してくれると、青年は朗らかに笑みを見せる。次に青年は誠をじい、と見つめてきた。

「そういえば刑事さんなんですよね。まさか志満さん、何かしたんじゃ。そういえば最近、しごうとう(・・・・)ばかりしてるけど………」

「強盗⁉」

 まさかこんな人が犯罪なんて、と視線をくべた先の志満は笑みを浮かべ、でもこめかみに指を添えている。

「すみません。今のも仕事と強盗をかけた洒落で………」

 何て紛らわしい。というより、この青年はいつまでここに居るつもりか。お陰で話が全く進まない。察してくれたのか志満は「翔一君」と青年を呼び、

「下がってくれる?」

 

 ようやく千歌の自室に通されたところで、梨子は妙な疲労感に見舞われる。座布団の上で正座するも、溜め息をついたら力が抜けて背筋が曲がりそうになる。とはいえ、ようやく目的の手前まで来たところだ。日も傾いてきたところだし、暮れる前に済ませてしまおう。

 そう思った矢先で、「千歌ちゃん、開けてくれるかな? 両手塞がっててさ」と襖の奥から声が聞こえてくる。「はーい」と千歌が開けると、お盆を手にした青年が笑顔を浮かべている。先ほど玄関先で見かけた青年だった。千歌の兄だろうか。あまり似てはいないが。

 「あ、紹介するね」と思い出したように千歌が、

「うちで居候してる津上翔一くん」

 「よろしく」と少年のような笑みを見せる翔一に、「桜内梨子です」と挨拶する。

「もしかしておやつですか?」

 ベッドに腰掛けている曜が、どこか恐る恐る、といった声色で訊く。「うん」と頷いた翔一はちゃぶ台にお盆を置いた。お茶菓子と思ったのだが、お盆の上に乗っているのは湯呑に注がれたお茶以外は梨子の予想になかったものばかりが並んでいる。スナック菓子もチョコレートも、旅館の土産らしき和菓子もない。4つのお椀の中にある葉物野菜と根菜といったラインナップは、どこか年寄りじみている気がする。

「梨子ちゃん、大根の一夜漬けは好きかな? 庭の菜園で採れたんだけど」

「嫌いじゃ、ないですけど………」

 戸惑いながら答えると、翔一は薄く切った大根のお椀を箸と一緒に梨子の前に置く。

「どうぞ、食べてみて」

 梨子は大根から翔一の顔へと視線を上げる。翔一に「どうぞ」と促され、せっかく出してくれたんだから、と思い直す。

「いただきます」

 輪切りにした唐辛子が添えられた大根をひと切れ箸でつまみ、口に運ぶ。噛む事にぽりぽり、という音と共に酢の酸味と砂糖の甘味が丁度いいバランスで咥内に広がる。大根と仄かな唐辛子の香りが鼻から抜けていった。

「どうかな?」

「美味しいです」

 お世辞抜きで美味しい、と思った。味付けが薄めだから食べやすい。すると気を良くした――元から気の良い人という印象を抱いたが――のか、翔一は他の器も次々と梨子の前に並べていく。

「じゃあ、大根の煮つけはどう? ほうれん草の胡麻和えもあるよ。それとこれは実験的なんだけど、ほうれん草の酢の物も作ってみたんだよね」

 厚意は嬉しいのだが、食べてばかりいてはいつまでも作詞が始められない。梨子はなるべく翔一の気を悪くしないよう、苦笑と共に言う。

「すみません、外してもらえますか?」

 杞憂だったようで、翔一は笑みを崩さないまま3人分のお茶をちゃぶ台に置いて「ゆっくりしてってね」と出ていく。やっと始められる、と思うと同時に随分と回り道をした気がする、と溜め息が漏れる。

「さ、始めるわ――」

 そうふたりに告げようとしたところでまたふたりは道を逸らす。

「曜ちゃんもしかしてスマホ変えた?」

「うん、進級祝い」

 曜の最新機種スマートフォンを見て千歌が「いいなあ」と言ったところで、梨子は床を強く踏み鳴らしふたりの前に立つ。

「は・じ・め・る・わ・よ」

 自分がどんな顔をしているのかは分からないが意思は伝わったようで、ふたりは少し怯えた面持ちで「はい……」とか細い声を揃えた。

 ようやく3人でちゃぶ台を囲み、翔一の置いていった料理を時折つまみながら千歌がルーズリーフにペンを走らせていく。千歌が思いついたフレーズ、曜と梨子が助言したフレーズを書き連ねていき、10枚を優に越す曲が出来上がるのに、そう時間はかからなかった。でも千歌にとっては納得がいかないようで、没案の紙は床に散乱していく。

 因みに、ほうれん草の酢の物は意外と美味だった。

 とうとう思いつく言葉全てを出し切り、新しいフレーズが詰まる。どれも決して悪くはないと思うのだが、千歌の思い描く曲には合わないらしく、イメージと実際に並ぶ言葉の乖離(かいり)にどうしたものかと千歌は「うう……」と呻きながらちゃぶ台に顔を埋める。

「やっぱり、恋の歌は無理なんじゃない?」

 梨子が言うと、「嫌だ」と千歌は顔を上げて即答する。

「μ’sのスノハレみたいなの作るの」

 千歌の中で曲の方向性はラブソングと初めから決まっていたらしい。理由はμ’sの『Snow halation』略して『スノハレ』がラブソングだから。

「そうは言っても、恋愛経験ないんでしょ?」

 梨子が言うと「何で決めつけるの?」と千歌は口を尖らせる。確かに恋愛話をしたことは無いが、梨子が「あるの?」と試しに訊くと千歌は気まずそうに視線を逸らして呟く。

「………ないけど」

「やっぱり。それじゃ無理よ」

 何となくだが、純朴な千歌は男性を知っているようには見えない。翔一という若い男性と同じ屋根の下で暮らしているにしても、あの青年とそういう仲じゃない、とひと目で分かる。

 もっとも、梨子も人のことは言えないのだが、今はそのことは関係ないから黙っておく。

「でも、ていうことはμ’sの誰かがこの曲を作ってたとき、恋愛してたってこと?」

 μ’sで作詞を担当していたメンバーに恋愛経験があって、それを基にして『Snow halation』の詞ができたのなら、それこそ千歌に似たようなラブソングを作るのは無理な話だろう。経験で感じたものはその人だけのものだ。

 でも、梨子は果たしてμ’sが「恋愛」をテーマに曲を作ったとは、曲のメロディからは感じ取れない。先ほど参考曲として『Snow halation』を聴かせてもらったのだが、恋愛ひと括りにしてはスケールの大きい曲の気がする。もっと、たったひとりのためではなく大勢の、自分を取り巻くもの全てへの愛を告げるような。

「ちょっと調べてみる」

 そう言って千歌はノートPCを立ち上げキーを叩き始める。気になるとしても、今は曲の批評会じゃないというのに。

「何でそんな話になってるの。作詞でしょ?」

 梨子は論点の軌道修正を試みるも、「でも気になるし」と液晶を真剣に見つめる千歌は聞く耳を持ちそうにない。

「千歌ちゃん、スクールアイドルに恋してるからね」

 曜がそんな捻りの利いた例えをする。「本当に……」と何気なく相槌を打ったところで、梨子は何かがはまったように錯覚する。しかし錯覚ではないようで、曜も気付いたらしく梨子と視線が交わる。その視線を千歌へと流すと、自身に向けられたものに気付くもすぐにPCへと意識を戻して「何?」と訊いてくる。

「今の話、聞いてなかった?」

 梨子に続いて曜が、

「スクールアイドルにどきどきする気持ちとか、大好きって感覚とか、それなら書ける気しない?」

 あ、と千歌は液晶から目を離す。探していたものがようやく見つかったかのように。

「うん、書ける。それならいくらでも書けるよ!」

 千歌はペンを手に取り、ルーズリーフに芯を走らせていく。途切れ途切れだった先ほどとは打って変わって、すらすらと文字が書き連なっていく。

「えっと、まず輝いているところでしょ。それから――」

 独りごちながら詞を書く千歌は、まるで自分の頭の中にあるもの全てを吐き出そうとしているようにも見える。とても楽しそうだ。思い描くものが形になり、文字になり、音になり、歌になる。しっかりと実体を持つものを生み出せる喜びは、梨子にも理解できる。

 わたしも、前はこんな顔でピアノを弾いていたのかな。梨子はぼんやりと思った。幼い頃は、ピアノを弾くことに何の偽りもなく楽しいと思えた。教室の講師から上手、と褒められるのは嬉しかったし、それ以上に鍵盤を叩いて現れる音が、幼く小さかった自分の体を空高く舞い上がらせてくれるような、そんな浮足立った気分になれた。ピアノから出た音は光になって、梨子の周りでシャボン玉のように弾けていく。霧散した光の残滓が小さな梨子を包み込み、また梨子自身も光と一体になって夜空を照らす星のように輝ける。

 「はい」という千歌の声と視界に入り込んだルーズリーフで、梨子の意識は過去から現在へと引き戻される。

「もうできたの?」

「参考だよ。わたし、その曲みたいなの作りたいんだ」

 受け取った紙面に綴られた歌のタイトルを、梨子の唇がなぞる。

「ユメノトビラ……?」

 千歌は言う。

「わたしね、それを聴いてスクールアイドルやりたいって、μ’sみたいになりたいって、本気で思ったの」

「μ’sみたいに?」

「うん。頑張って努力して、力を合わせて、奇跡を起こしていく。わたしもできるんじゃないかって、今のわたしから変われるんじゃないかって、そう思ったの」

 千歌の声色が初めて会ったとき、μ’sを語るときと同じであることに梨子は気付いた。あのとき、千歌は自分を普通と言っていた。普通星に生まれた普通星人。自分も輝きたい、という願い。それは幼い頃の梨子と同じ、大好きなものに触れているときに願うこと。自分が輝ける場を見つけることのできた喜び。だからこそ夢中になれるし、頑張れる。

「本当に好きなのね」

 梨子が言うと、千歌は子供のように屈託のない笑みを浮かべて答える。

「うん、大好きだよ!」

 ぶうん、という駆動音が外から聞こえてきて、梨子は窓へ視線を向ける。確か十千万の駐車場にバイクが停まっていた。

「翔一くん……」

 振り返ると、千歌と曜も物言いたげに窓の外を見やっている。あのバイクは翔一のものだったのか。

「また行くんだね、翔一さん」

 曜が感慨深そうに言った。「もう夕方なのに、どこに行くの?」と梨子が訊くと、千歌はしばし明後日の方角を向き、これだ、と言うように答える。

「みんなの居場所を守りに、かな」

 

「じゃあ、何らかのトリックが使われていると」

 確認するように誠が尋ねると、志満は首肯する。人間の持つ未知の力を否定はしないが、テーブルの上にある不可思議な瓶と写真に関しては無縁、というのが志満の見解だ。

 志満は言う。

「これは合成写真と考えるのが理に叶っているでしょうし」

 「これは――」と瓶を自身に寄せると、志満は先ほどタンスから出してきたコインを飲み口の上に乗せる。飲み口よりも大きいコインは外国通貨なのか、初めて見るデザインだ。志満が手を被せると、コインは軽い音を立てて瓶の底へ落ちる。

 誠は息を呑んだ。確かにコインは飲み口よりも大きかったのに。

「一体、どうやって………」

 言葉を詰まらせながら訊くと、志満は得意げに微笑み「これです」ともう一枚、同じデザインのコインを見せる。志満が細い指を添えると、コインは折れ曲がった。だが指を離すとすぐ平面に戻り、目を凝らせば切れ目が入っているのが分かる。デザインの凹凸に沿っているから、人目では分かりにくい。

「フォールディング・コイン。雑貨屋さんで買える手品グッズですよ」

「では、瓶を割って中のコインを確かめてみれば、高海さんの説が正しいかどうか分かりますね」

「ええ」

 臨むところです、という自身が志満の笑みから窺えた。

 ふたりは裏庭に出た。裏庭には小さな畑が耕されていて、ホウレン草が植えられている。旅館の料理に出すものだろう。志満が倉庫から持ってきた金槌を受け取り、誠は瓶を地面に置く。正直なところ、中のコインが本物か手品グッズか、どちらにしても良いものか誠には分からない。手品グッズだったら誠の推理した被害者たちの共通点は否定され、捜査は振り出しに戻る。本物だったとしても、それが超能力によるものとどうやって証明したものか。上層部に進言したとしても鼻で笑われるのは目に見えている。とはいえ、確かめる価値はあるのかもしれない。現にアンノウンという不可思議な存在がいる以上は。

 金槌を振り上げたところで、誠のスマートフォンが鳴った。「失礼します」と金槌を置いて端末に応答する。

「はい氷川ですが」

『氷川君、アンノウンが出現』

 電波越しに小沢が簡潔に告げる。

「G3の修理のほうは?」

『G3システムは修理完了よ』

「分かりました、すぐに行きます」

 通話を切り、誠は「すみません、失礼します」と志満に金槌を手渡した。「ええ」と困惑気味に応じる彼女に会釈し、誠は車へと走り出した。

 

 

   3

 

「ガードチェイサー、離脱します!」

 尾室がハンガーのロックを外し、G3はマシンごとカーゴベイから吐き出される。カウルに搭載されたパトランプとサイレンを鳴らし、G3装備に身を包んだ誠はガードチェイサーを走らせた。

 パトロール中だった巡査からの通報によると、アンノウンは沼津市江ノ浦、江浦横穴群(えのうらおうけつぐん)近くにて目撃。酷く錯乱した様子の巡査から通報を受けた静岡県警通信指令センターは所轄である沼津署へ連絡し、沼津署は駐在しているG3ユニットへ指令を出した。本庁所属のG3ユニットは本部へG3システム運用申請を出して許可を貰わなければならないのだが、小沢のことだから省いたに違いない。

 誠は細い山道へと入った。蛇のように曲がりくねった道路脇に広がる地元農家の畑を抜け、山肌の斜面に空いた無数の穴を見つけると、マシンを止める。サーモグラフィ・モードで索敵すると、山中での熱源を捉える。かつて古代人が死者を埋葬するために開けたとされる墓穴を過ぎると、少女を抱きかかえて恐怖に満ちた表情を浮かべた巡査がいた。その目の前には、亀のような正体不明(アンノウン)の怪物。

 アンノウンが腕を振り上げると同時、誠はその懐に飛び込んだ。アンノウンの拳が背中のバックパックに当たるが、改修された装甲は衝撃を吸収しきれたらしく、損傷を知らせるアラームは鳴らない。

「本庁の者です。早く逃げて!」

 誠が言うと、中年の巡査は少女を抱えたまま走り出す。その目の前の地面が揺れ、巡査は脚を止めた。波打つ地面から泥と草を撒き散らし、またアンノウンが現れる。誠が相手をしている個体と姿が似ているが、色が異なっていた。

『もう1体のアンノウンです!』

 尾室が報告してくる。誠は金色の個体に肘打ちを見舞い、現れた銀色の前に立ちふさがる。巡査に近づこうとする銀色の腹に蹴りを入れたところで、背後から金色が掴みかかってくる。金色を相手すれば銀色が巡査へと向かう。銀色を阻止すれば金色が巡査へ、ときりがない。敵もそう判断するだけの知性を持ち合わせているのか、2体は標的を誠へと変える。

 銀色が誠を羽交い絞めにし、がら空きになった胴に金色がタックルをかましてくる。1度目は胸部装甲が軽く火花を散らしただけで耐えることができた。だが2度目でシステムにダメージを負った。鈍い痛みが装甲から響いてくる。

『コンバーターユニット損傷!』

 装甲から煙が立ち上っている。回路が断線したらしい。

『氷川君踏ん張りなさい! 根性見せなさい!』

『何言ってるんですか小沢さん、敵が2体じゃ勝ち目ないですよ! 早く離脱命令を!』

『市民やPM(警官)を見殺しにするっていうの?』

 ふたりを見捨てて離脱なんてできない。その点では小沢と同意見だ。だが改修を経ても、G3は2体のアンノウンに上手く立ち回ることができていない。恐らく、この2体はそれぞれ前回の個体よりもパワーがある。単純な力勝負では、完全にG3は負ける。武器を手にしなければ。そう判断はできるがアンノウンの追撃は隙をくれない。

 地面に倒れた誠の胸を金色が踏み付けてくる。まだ耐えられる痛みだが、装甲がみしみし、と悲鳴を上げ始めた。筋力補正のためのコンバーター(電力変換機構)が破壊されて重い上に亀裂でも入れば、防具としての機能性も完全に破壊される。

 誠は金色の腹を蹴り上げた。ダメージは多少なりともあったようで、爬虫類じみた皮膚に覆われた体がよろめく。立ち上がって組み付き、力を拮抗させるも破られるのは時間の問題だ。

 そこへ、バイクのような駆動音が聞こえてくる。次の瞬間、猛スピードで何かが誠と金色に衝突し、止まることなくそのまま走りすぎていく。地面を転がった誠は、突如現れたそれを見やる。金と赤にカラーリングされたバイクに、見覚えのある背中の人影が跨っている。頭頂部から見える2本の金色の角で、誠はそれが何者かを悟った。

「お前は………!」

 戦士の駆るバイクは、どうやら市販のカスタム品ではないらしい。2本のマフラーからは灰色のガスではなく光の粒子が排出されている。機関部が唸りを上げると共に、マフラーからの光の粒子も大量に噴出されていく。光の尾を引いて、戦士のバイクは巡査へと向かっていた銀色を猛スピードのまま撥ね飛ばした。

 バイクを停車させた戦士が巡査を一瞥する。巡査は突如現れた戦士に敵か味方かの判断もせず、息をあえがせ逃げていく。

「アギトおお……!」

 立ち上がった金色が忌々しげに声を発する。誠は確信した。間違いない、あの戦士の名前は「アギト」だ。何故アンノウンが知っているのかは分からないが。

 金色はアギトに飛びついた。アギトはバイクのシートに腰を預けたまま、金色の胴に手を添えて軌道を逸らし、その背中に手刀を叩きこむ。金色は地面に伏した。

『GM-01、GG-02、アクティブ』

 スピーカーから小沢の声が聞こえてくる。誠はガードチェイサーへと走り、武装パックからふたつの武装を取り出す。GM-01のアンダーバレルにグレネードランチャーの弾頭であるGG-02サラマンダーを連結させる。

 アギトは襲い掛かってきた銀色の拳をいなし、その頭をタンクに押し付けるとバイクのエンジンを吹かした。殆ど引きずられるような形で、丘陵を駆け抜けていく。

 金色の目が誠に向けられる。大口径の砲口を向け、照準が定まると同時に誠はトリガーを引いた。発射されたグレネードが金色に命中し炸裂する。金色はよろめくも、再び誠へと向いて足を踏み出そうとする。G3装備の中で最大火力を誇るGG-02をまともに受けても意に介さないその姿に誠は逡巡した。

 だが、金色の足は止まる。その頭上に光輪が渦を巻き、悶えるように身をよじらせた金色の呻きが、自身の発した爆炎にかき消された。

『氷川君、もう1体を追撃』

「了解」

 ようやく敵を倒したことへの安堵を後回しにして、誠は武器を抱えたまま走り出す。山中にはまだアギトのバイクが吐き出した光の粒子が残っていて、尾を引くそれを追っていくことができた。アギトと銀色はそう離れてはなく、丘の頂にいた。アギトが急ブレーキでバイクを停めると、慣性に乗っ取って銀色が宙に投げ出される。バイクから下りたアギトの角が開き、足元で紋章が光った。紋章の光が足に集束すると同時、銀色が向かってくる。アギトは跳躍した。突き出された右足に銀色は背を向け、甲羅にキックを受ける。

 よろめいただけの銀色がふん、と笑ったように見えた。誠はGG-02の銃口を向ける。だが、銀色は呻いた。ぼろぼろ、と甲羅の破片が地面に零れ、頭上に光輪が生じる。体内からの爆炎で身を裂かれる様子を見届けたアギトの角が閉じた。誠の存在に気付いたのか、アギトはその赤い両眼を向けてくる。

「お前は敵なのか? それとも味方なのか?」

 アギトは応えない。言葉が通じないのか、そもそも奴に言葉という概念があるのか。永遠のように思える沈黙の後、アギトはゆっくりとした所作でバイクに跨り、エンジンを吹かして丘陵を下っていく。

 肉体を燃え尽くしたアンノウンの火は既に消えている。ただ、アギトのバイクが撒いた光の粒子は、まるで霞のように山中に漂っていた。

 

 

   4

 

 帰宅して部屋でぼう、っとしているうちに陽が暮れていた。照明の灯っていない部屋のなかで、スマートフォンの液晶が朧気に光っている。大好き、という千歌の声と笑顔が、未だに梨子の頭から離れない。好き、という気持ちを語る千歌はとても輝いて見えた。自分はどうだろうか。千歌のように、大好きだったピアノを今でも大好き、と言えるだろうか。

 動画サイトにアクセスし、アップロードされたμ’sの『ユメノトビラ』のPVを再生する。画面の中で踊り歌うμ’sのメンバー達は、当時は自分と同じ高校生だった。同じ音ノ木坂学院で勉学に励みながら、こんなにキラキラしながら歌っていた。ぼんやりと思っているうちに、動画は終わる。梨子はピアノの前に立った。教室に通い始めてしばらくしてから親が買ってくれた、文字通り梨子の人生と共にあったピアノ。鍵盤蓋を開くと、舞い上がった微粒子が窓から射し込む月光を浴びて光る。

 試しに黒鍵を指で押してみる。音程は乱れていないから調律は必要なさそうだ。思い返せば当然だ。あのコンクールの日から触れてさえいないのだから。ピアノは梨子を拒絶なんてしていない。音を出す箱は奏者を選んだりはしない。選ぶのはいつだって奏者、人間のほうだ。

 梨子がなぞる指の通りに、ピアノは音を出してくれる。耳で聴いただけだから簡単なメロディしか分からないが、ピアノは『ユメノトビラ』のメロディを奏でてくれる。梨子は歌詞をハミングした。前のように、なんて意識せず、裡に沸く想いのままに。

 序盤だけの演奏を終え、何気なく向けた窓の奥に人影がある。隣家に聞こえてしまったのか。窓を開けた隣人は梨子に笑顔を向け、手を振っている。

「高海さん?」

 窓を開けて呼ぶと、「梨子ちゃん!」と千歌は応じた。風呂上りらしく、頭にタオルを巻いている。

「そこ梨子ちゃんの部屋だったんだ!」

「引っ越したばかりで、全然気づかなくて………」

 十千万を訪ねたときも家に近い、と思ったがまさか隣だったとは。

「今の、『ユメノトビラ』だよね。梨子ちゃん歌ってたよね?」

「いや……、それは………」

「ユメノトビラ、ずっと探し続けていた」

 それは、曲の冒頭にある歌詞だ。

「その歌、わたし大好きなんだ。第2回ラブライブの――」

 「高海さん」と、熱弁しようとする千歌を遮る。千歌は迷わず進んでいる。夢への扉を探しに、立ち止まることなく遠くへと歩み続けている。だからこそ際立ってしまう。未だに1歩も動けずにいる自分の苦しさが。

「わたし、どうしたら良いんだろう。何やっても楽しくなくて。変われなくて………」

「梨子ちゃん……」

 海の音は聴けた。ただ、聴けただけだ。海が音を授けてくれても、梨子自身に何の変化も起こっていない。未だにあの音を譜面に起こすこともできず、ただ梨子の裡で取りまとめのない音を鳴らし続ける。やがてそれは劣化して、錆ついてしまうだろう。

「やってみない? スクールアイドル」

 千歌はそう言って手を伸ばす。「駄目よ」と梨子は弱く答える。

「このままピアノを諦めるわけには――」

「やってみて笑顔になれたら、変われたらまた弾けばいい。諦めることないよ」

 諦めるんじゃなくて、ただ休むだけ。それまでの繋ぎとしてスクールアイドルをやればいい。千歌はそう言っているのかもしれない。でも梨子は千歌が本気と知っている。本気で打ち込める仲間を探していることも。

「失礼だよ。本気でやろうとしている高海さんに。そんな気持ちで、そんなの失礼だよ………」

 ピアノに打ち込んでいた頃の梨子は、楽しんでいても遊び気分で弾いていたわけじゃない。本気で楽譜と向き合いメロディが最も美しく響くリズムで音を奏でること。生半可な演奏は曲を死なせてしまう。曲本来の美しさを引き出さない演奏を、梨子は何よりも嫌った。スクールアイドルにしても同じだろう。涙が零れてくる。千歌から誘われて、少しの間なら良いんじゃないかな、と揺らいだ自分が情けなくなった。スクールアイドルを、音楽を冒涜しようとした自分が嫌になった。

「梨子ちゃんの力になれるなら、わたしは嬉しい」

 千歌は嫌悪も迷いも、おくびに出さず言う。冒涜なんかじゃない、という赦しを提示しているように聞こえた。

「皆を笑顔にするのが、スクールアイドルだもん。それって、とっても素敵なことだよ」

 千歌は更に手を伸ばす。窓際の柵を乗り越えようとして、頭からタオルが離れて下へと落ちた。梨子は千歌へと手を伸ばす。自分に差し伸べられた手。もしかしたら、自分を海の底のような暗闇から引き揚げてくれるかもしれない手へと。でも、距離がある。どんなに伸ばしても届かない。

「さすがに、届かないね」

 引こうとしたところで、「待って! 駄目!」と千歌は更に窓から身を乗り出した。ここで引いたら、前に進めないよ。そう叱責されているようだった。梨子は再び手を伸ばす。月光が、半分以上を外へ乗り出した千歌の体を照らしていた。半袖の部屋着から伸びる腕が白く反射している。

 光へと通じる道。この人と一緒なら、わたしも行けるのだろうか。まだ見えない、新しい世界へ――

 懸命に伸ばしたふたりの手がゆっくりと、でも確かに距離を縮めていく。伸びきって小刻みに震えながらも体を柵から乗り出して、残りの数センチを縮める。

 そして、指先が触れ合った。

 

 






次章 ファーストステップ / 哀しき妖拳


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第3章 ファーストステップ / 哀しき妖拳
第1話


 

   1

 

 アンノウンはカメラで捉えることができない。

 撮影された映像を何度も本庁の鑑識に出してはいるが、以前として原因は不明のまま。警視庁内でも異端とされているG3ユニットから出された資料をまともに扱ってくれたかは疑問が残るが、結果として出たのは映像に加工された痕跡は無し、という潔白だけ。結果だけを見ればG3は本当に空間の揺らめきを捉えたということなのだが、だとしたらG3のスーツに刻まれた損傷はどう説明したら良いものか。

 ここまでくると、アンノウンはこの世ではない、別の世界や次元から来た存在なのではないかと思えてくる。アンノウンが存在する次元の物質はこの世界とは作りが根本から異なり、だからカメラに映らないのではないか。

 アンノウンと戦う術を持つ、アギトもまた。

「氷川君の言う通り、何度見てもアギトを敵として認識するのは難しいわね」

 カーゴベイで先日の戦闘映像を見ながら、小沢が告げる。一応重要な記録映像ではあるのだが、そこに映っているのは空間の揺らめきだけ。誠が視認できたアンノウンの甲羅も、アギトの姿もぼかされている。ふたつのオーロラがひとつのオーロラへ向かっていることだけが、辛うじて認識できた。

 「ええ」と誠は溜め息交じりに応じる。この映像も聴聞会で散々に文句を言われると目に見えている。

「彼に助けられたのは間違いありません。僕の力だけでは、アンノウンを倒すことはできなかったと思います」

 「でもだからって」と尾室が口を挟んだ。

「アギトを味方だと思うのは危ないんじゃないですか?」

 「そうね」と小沢は応じて椅子を立ち、検査用電線に繋がれているG3装備へと向かう。

「アギトの正体が分かるまでは、判断を保留にしておいたほうが賢明かもね」

 「アギトの正体か。かなり興味ありますね、それ」と尾室が言う。アギトはアンノウンと同じ存在かもしれない。それがG3ユニットでの見解だ。ただ、同類と見ても疑問は更に深まっていく。何故アギトはアンノウンと戦うのか。誠たち人間から見たらアギトとアンノウンは同じでも、当人同士では全く異なる存在なのだろうか。

「そういえばどうなった? 例の件」

 小沢の唐突な話題の変換に、誠は「例の件?」と尋ねる。アンノウン、アギト、オーパーツと抱えている案件が多いから、どれのことを指しているのか分からない。

「ほら、瓶の中にお金が入ってた、ってやつよ」

 ああ、と思い出すと同時に溜め息が漏れる。「それが……」と切り出すと「それが?」と小沢が念強く促し、叱責を覚悟で答える。

「紛失、してしまって………」

「はあ?」

 語気を強めた小沢の声にうろたえてしまう。誠がアンノウン出現の連絡を受け出て行ってすぐのこと。高海家の飼い犬が加えて走り回った末、口から落として割ってしまったという。しかも中身の硬貨は側溝に落ちて水流に流れて下水管の奥へ。たかが硬貨1枚のために市役所の管理下に回収を依頼するのは職権乱用になってしまう。

「真相は下水の中へ、ってわけですか」

 そう言った尾室を小沢が睨みつける。誰が上手いこと言えと、という無言の圧力に、尾室は目を背けた。

 

 

   2

 

『相談に乗るとも。ああ、待ってる』

 電話口で、両野はそう言って会う約束を取りつけてくれた。どうやって生きていけばいいか分からない。そんな涼の切実な悩みを聞いてくれる、と。

 城南大学の門はセキュリティもなく誰にでも開かれている。学生にも、講師にも、大学から籍を外した涼にも。よほど不審や恰好でなければ門前で警備員に止められることはない。だから涼は何食わぬ顔をしてバイクで正面の門から大学のキャンパスに入り、在籍時と同じように慣れた足取りでプールへと向かった。まだ早い時間帯のせいか学生も職員も殆どいない。プールサイドで朝練に精を出す部員もまばらだ。かつて毎日泳いでいたプールサイドに私服で入ることは初めてで、どこか奇妙な疎外感を覚える。それは涼が城南大学の学生でなくなった故か、それとも練習していた部員たちの訝しげな視線故か、判然としない。

「コーチならついさっき出かけたぜ。急用だってさ」

 両野に会いたい旨を伝えると、かつてタイムを競い合っていた部員は冷たく告げた。部員は3人で固まって、涼の前に立っている。これ以上は聖域であるプールに近付けさせない、とでも主張するように。さながら聖地を守る衛兵のようだ。

「俺に何か伝言は?」

「知らねえな」

 別の部員が突き放すように言う。まさか両野が約束を蹴ったというのか。親のように涼の面倒を見てくれた、あの両野が。

「お前大学辞めたんだろ?」

「関係者以外は、立ち入り禁止です」

 並べられる拒絶の声に反発する気力が沸かない。退学した涼はもう部外者だ。プールサイドに近付くことはできない。水泳選手として大学に貢献してくれる人材として、涼は入学し学費を免除された。もう水泳ができない今の体では、大学に身を置いても無意味。

「明日また来る、って伝えておいてくれ」

 「やだね」とすぐに返される。言ったのは、涼が事故の怪我で入院している間、繰り上げで大会の選抜メンバーに選ばれた部員だった。

「ちょっとばかり才能があるからって随分偉そうだったけど、お前もう終わりだよ」

 俺がいつ偉そうな態度を取った、と反発しようとする気持ちを抑えつけたところで、

「まあせいぜい頑張って生きてけよ。じゃあな」

 と部員たちはそそくさと奥へと歩いていく。涼も踵を返して歩き出した。もう二度と入ることのないプールの水面は見る気になれない。見たら未練が込み上げてくるだろう。自分にとっての古巣であり、生きる実感の持てた水の中は、もう涼の居るべき場所じゃない。

「もういいですよコーチ」

 離れた後方から部員の声が聞こえてきて、涼は脚を止めた。すぐそばにある扉の陰に隠れ耳を澄ます。そんなに大きな声ではないが、はっきりと涼は聞き取ることができた。何故だか、感覚が異常なほど鋭くなっている。前より物がはっきりと見えるようになり、音がしっかりと聞けるようになった。

「どうした奴は?」

 潜めた両野の声が聞こえる。「言われた通り追い返しましたけど」と部員が答える。さっき涼に向けたときとは全く異なる、困惑を帯びた声色だった。

「一体何があったんです? 喧嘩でもしたんですか?」

 そう、こんな声だ、と涼は過去の思い出を懐古する。まだ水泳選手でいれた頃、彼はこんな青さの残る声で涼と言葉を交わしていた。また追いつかなかった、次は追い越してみせるかなら、とライバルとして互いに競い合っていた。

「知らん……、俺は何も知らん!」

 震えた両野の声が涼の耳に染み入ってくる。涼は再び歩き出した。もう二度と来ることのないキャンパスに想いを馳せることなく、当然だ、と自分に言い聞かせながら。

 もしコーチと自分の立場が逆なら、俺も拒絶していたかもしれない。いや、絶対に拒絶する。いくら相手が身内に等しい存在であっても。

 俺自身が、俺を受け入れられないのだから。

 

 

   3

 

「ワン・トゥー・スリー・フォー、ワン・トゥー・スリー・フォー」

 朝の海水浴場に3人の掛け声が波の音に重なる。3人を前にして立っている譜面台は梨子が持ってきたもので、1台のスマートフォンはアプリでメトロノームの規則的なリズムを刻み、もう1台はカメラを動画モードにしてステップを踏む3人を撮影している。

「はいストップ!」

 曜が呼びかけて、千歌と梨子もステップを止めた。まだ朝方は肌寒い時期だが、運動で体温の上がった体を冷たい潮風が冷やしてくれて心地良い。

 3人でスマートフォンの画面を囲むと、曜が動画を再生する。画面のなかで3人の動きに、千歌が「どう?」と、梨子が「大分良くなってきている気がするけど」と曜に判断を仰ぐ。

「でも、ここの蹴り上げが皆弱いのと、ここの動きも」

 動画のタイミングに合わせ、曜が動きを指摘する。数秒だけ巻き戻して確認すると、指摘通り腕の上がりがやや甘く、「ああ本当だ」と千歌は漏らす。

 これでも良くなったほうだ。日頃から運動している曜は問題なかったのだが、運動なんて体育の授業くらいの千歌と、今までピアノに精を出してきた梨子は始めたばかりの頃はすぐに疲労で動きが緩慢になってしまったものだ。

「流石ね、すぐ気付くなんて」

 梨子の言う通り流石だ。今日は一見すればうまく調和が取れているように見えるのだが、曜は修正点を見落とさない。

「高飛び込みやってたから、フォームの確認は得意なんだ。リズムは?」

 曜が訊くと、「大体良いけど」と梨子が含みのある返答をする。

「千歌ちゃんが少し遅れてるわ」

 「わたしかあ」と千歌は空を仰ぐ。上手くできたと思っていたのに。ダンスは本当に難しい。ひとりでも振り付けのタイミングがずれてしまえばそこだけ悪目立ちしてしまう。

 見上げた空はまだ日が昇ったばかりで、藍色が夜の哀愁をまだ残している。その一点で飛ぶヘリコプターの胎を千歌は捉えた。全容がはっきり見えるほどの低空飛行で、ばりばりというローター音が波の音をかき消す。

「何あれ?」

 梨子が訊くと、「小原家のヘリだね」と曜が応えた。言われてみれば、前にも一度見たことがある。ピンクという派手なカラーリングだったから印象深い。

「小原家?」

「淡島にあるホテル経営してて、新しい理事長もそこの人らしいよ」

 ふたりの会話を聞いて千歌は思い出した。そういえば今年度から理事長が変わるらしい。新学期が始まってから当人から何の挨拶もなかったからすっかり忘れていたが。

 ヘリが空を旋回し、こちらに機首を向けてくる。視界のなかで小さかった機体が次第に大きくなっていく。

「何か、近付いてない?」

 千歌はおそるおそる言った。「気のせいよ」と梨子は言うが、いや気のせいじゃない。「でも――」と曜が言いかけたところでヘリは明らかに下降してきて、その進路は砂浜にいる千歌たちへと向いている。

 ヘリの回転翼が巻き起こす下降気流で、海水浴場の砂が舞い上がった。あまりの突風に身を伏した3人から少しだけ距離を置き、平面ではない砂浜に着地しないヘリは砂塵を舞い上げながら僅かに浮き上がったままの姿勢を維持している。

 「なになに?」という千歌の声が、自身の鼓膜にも届かないほどにローター音が周囲を満たしている。他の音が何も聞こえず、しかも舞い上がる砂が入らないよう目を細めていたから、ヘリの扉が開くのに千歌はしばし時間を要した。中にいる人物は既に千歌たち3人を捉えていて、顔の横にピースサインを添えている。

 視覚で捉えやすいほど目立つブロンドの髪を拭き晒す女性、いや少女というべきか。髪に続いて捉えた服は浦の星女学院の制服で、千歌たちと同年代だ。少女のソプラノボイスはローター音をするりと抜けるように、千歌の耳に届いた。

「チャオー!」

 

 

   4

 

 工場内は殺風景な様相を晒している。機器類は外に停められたトラックに詰め込まれ、残るは僅かなデスクとオーパーツのみ。貴重な研究物だったオーパーツは支える台座もなく、無造作に身を傾けてバランスを保っている。前に見たときには無かったはずの傷が、作業員たちの雑な扱いを表していた。まるで遊び飽きた子供に捨てられた玩具のようだった。

 小沢から知らせを受けて訪ねた誠を出迎える研究員はいない。オーパーツ研究プロジェクトのために召集された彼等は本来の職場へ戻ったようだ。大学の研究室か、民間の研究機関か。唯一工場に残っている三雲は、デスクに腰掛けて煙草をくゆらせている。彼女のこんな姿を見るのは初めてだ。喫煙者であることは彼女の白衣に染み付いた煙草の匂いから気付いてはいたが、大事な研究対象にヤニが付着するのを良しとするはずがない。誠の訪問に気付くと、三雲は自嘲気味に力なく笑った。

「見ての通り、オーパーツ研究局は今日で解散。当然よね、結局実験は失敗に終わったんだから」

 三雲は所在なさげに傾くオーパーツの前に立った。オーパーツから得られた遺伝子モデルの再現実験。それの失敗は既に小沢から聞いている。オーパーツに隠された二重螺旋は古代人の芸術作品であり、科学的な意味は全くない。したがって研究は終了。オーパーツは古代人により難解なパズルと結論付けられた。

「でも、では古代人は何のためにこんなものを作ったんです?」

 事情を知りつつも、誠は訊かずにはいられなかった。ただ大昔の人間が質の悪い趣向を凝らした遺物に過ぎない。現代人の我々はお遊びに付き合わされていただけだ。一蹴することは簡単にできる。でも、三雲は研究で確かにこのオーパーツの二重螺旋から遺伝子モデルを読み取った。ただの偶然と言えるだろうか。このオブジェに隠されていた遺伝子モデルは、一体どんな生命を象っていたのか。

「オーパーツから導き出されたコードは何を意味するんですか?」

「知らないわよ」

 三雲は紫煙と共に吐き捨てる。

「私に分かるのは、結局何も起きなかった、っていうことだけ」

 誠は三雲の目を見た。オーパーツから何かを探すような、彼女の眼差しを。このオーパーツから見つかったのは、無発見というだけの虚構だろうか。やはり彼女は何かを見つけたのではないか。遺伝子モデルから、何かが産まれたのでは。

「そうよ、何も起こらなかったのよ」

 その言葉は、まるで三雲が自分自身に言い聞かせているようだった。何か大きな過ちを犯し、その事実から逃避しているような。彼女は科学の力で何を産み出したのだろう。いや、古代人は何の遺伝子を現代に託したのだろう。古代人の残した遺伝子モデルは、産まれてはいけない悪魔の種だったとでもいうのか。

 煙草を咥える三雲に、誠はもう何も訊くことができずにいた。冷たい沈黙のなかで、三雲の吸った煙草の筒から灰が零れ落ちた。

 

 

   5

 

 アパートの自室に戻ると、涼はベッドに身を預けた。眠気が訪れることもなく、隣人も出かけたのか壁から物音は聞こえてこない。時折外から車の通る音が聞こえるが、それ以上に大きな音のない静けさの中に沈んでいく。

 何気なく向けた視線が、キャビネットの上で留まる。キャビネットの上にはバイクのヘルメットが無造作に、その横にはいくつか写真立てが置いてある。大学に入って初めての大会で優勝した際に撮った記念写真。部員全員で映る写真の中心には優勝盾を手にした涼が慣れない笑顔を作っていて、隣には両野が満面の笑顔を浮かべている。ベッドから起き上がった涼は写真を引き抜いてゴミ箱に捨てた。もう戻れない過去は見たくない。他の写真も処分に取り掛かる。優勝記念の打ち上げで撮った写真。合宿先の海水浴場でバーベキューをしている写真。

 写真が最後の1枚になったところで、涼の手が止まる。他の写真がどれも水泳部がらみだったなかで、この1枚は一線を画している。写真の中にいるのは涼と、長い髪をポニーテールに纏めた少女だけだった。ウェットスーツを着た少女は屈託のない笑顔で涼に寄り添っている。これはいつ撮ったものだろう。そう昔のものではない気がする。成人した涼はこれ以上体が成長することはないが、子供は短期間で成長し外見が様変わりする。少女は今どんな姿に成長しているのか。この写真の頃と同じ笑顔を、今でも涼に向けてくれるだろうか。

「何考えてるんだ俺は………」

 自分への戒めが、無意識のうちに口から出ていた。恩師に拒まれたからといって、どうして彼女が涼を受け入れてくれるというのか。今の自分を偽って彼女の前に現れて再びこの笑顔に出会えたとしても、結局はそれも偽りでしかない。

 涼は写真立てを寝かせた。

 

 



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第2話

 

   1

 

 理事長室に千歌たち3人が呼ばれたのは始業前だった。新任の理事長から話があるとのことでおそるおそる訪れたのだが、デスクと応接用のソファが備え付けられた部屋で待っていたのは今朝方に会ったブロンドの少女だけで、理事長らしき人物はまだ来ていないようだった。

「あの、理事長は?」

 千歌が訊くとブロンドの少女は得意げに胸に手を添え、

「このわたし、小原鞠莉(おはらまり)が新理事長でーす!」

 え、と首を傾げながら「新理事長?」と千歌は反芻する。鞠莉は「Yes!」と揚々と応じる。一挙一動が大きいから、動く度にセミロングの金髪が揺れる。

「でもあまり気にせず、気軽にMarieって呼んでほしいの」

 「でも――」と曜が言いかけるが「紅茶、飲みたい?」と鞠莉が訊いてくる。顔立ちは日本人離れした白人系だが、日本語が通じないわけではないだろう。現に本人が日本語を流暢に話している。

「あの、新理事長――」

「Marieだよ」

 どうやらその呼び方に拘りがあるようで、鞠莉は千歌に詰め寄る。このフランクさは外国人特有のコミュニケーションなのか、まず相手の文化に歩み寄るべく千歌は「ま、マリー……」と巻き舌で発音する。すると鞠莉は満足そうに笑った。ようやく話が進められそうだ。

「その制服は?」

「どこか変かな? 3年生のリボン、ちゃんと用意したつもりだけど」

 鞠莉の緑色のリボンは3年生の色だし、日本人よりも成長の早い大人びた肢体を包む制服も似合っていないわけじゃない。ただ制服について訊きたいのはそこじゃないということ。

「理事長ですよね?」

「しかーし、この学校の3年生、生徒兼理事長。curry牛丼みたいなものね!」

 「例えがよく分からない――」と呟く梨子に「分からないの?」と素早く鞠莉は詰め寄る。千歌もカレー牛丼とは何ぞや、という疑問が沸いているのだが、それを口にしたところで話は進まず泥沼に停滞するだけ。

「分からないに決まってます」

 停滞を破らんと、隣の生徒会室に通じるドアからダイヤが入ってくる。会話が聞こえていたらしい。壁が薄いのか、それとも鞠莉の声が大きいからなのか。ダイヤの姿を認識した鞠莉は飛びつかんとばかりに抱き着いた。

「Wow! ダイヤ久しぶり。随分大きくなって」

 まるでお姉さんのように頭を撫でる鞠莉にダイヤは「触らないで頂けます?」と冷たく言い放つ。鞠莉は気を悪くした様子は見せず、ダイヤの胸を掴み感触を確かめ、

「胸は相変わらずねえ」

「やかましい!」

 怒号を飛ばされたことでようやく鞠莉は離れた。ダイヤは「……ですわ」と平静を取り繕い、それに対し鞠莉は「It`s joke」と軽口を返す。ダイヤは目を背けた。これ以上鞠莉のペースに乗せられてたまるか、と千歌には見えた。

「全く、1年のときにいなくなったと思ったら、こんなときに戻ってくるなんて。一体どういうつもりですの?」

 ちらりとダイヤは視線をくべるが既にその先に鞠莉はおらず、窓際に移り勢いよくカーテンを開け放ち射し込む日光を燦々と浴びる。

「Shiny!」

 見れば見るほど鞠莉の掴みどころがなくなっていく。言動がどれも突拍子がなく、まだそう時間は経っていないはずなのに千歌は疲労を感じ始める。鞠莉と知り合いらしいダイヤも同じようで、彼女のリボンを掴み無理矢理引き寄せる。

「人の話を聞かない癖は相変わらずのようですわね」

「It's joke」

 「とにかく」とダイヤはリボンから手を放し、

「高校生3年生が理事長なんて、冗談にもほどがありますわ」

「そっちはjokeじゃないけどね」

 すると鞠莉はポケットから出した三つ折りの紙を広げてこちらに見せる。「は?」と呆けた声を漏らしてダイヤが凝視するその紙を千歌も覗き込む。その紙は任命状だった。

 浦の星女学院三年 小原鞠莉 殿

 貴殿を浦の星女学院の理事長に任命します

 浦の星女学院

「わたしのhome、小原家のこの学校への寄付は、相当な額なの」

 法人用の角印が押された任命状は、どうやら偽装ではなく本物らしい。つまりこの小原鞠莉は浦の星女学院の3年生として籍を置きながら、同時に理事長として経営に携わるということを、学校側から承認されている。

 「嘘――」という千歌の声にダイヤが「そんな、何で……!」と重ねる。「実は――」と先ほどとは打って変わって落ち着いた口調の鞠莉は千歌たちへと歩み寄り。

「この浦の星にSchool Idolが誕生したという噂を聞いてね」

「まさか、それで?」

「そう。ダイヤに邪魔されちゃ可哀想なので、応援しに来たのです」

 「本当ですか⁉」と千歌は興奮気味に言った。理事長の件はまだ半信半疑だが、学校からの支援を受けられるかもしれない。部としての承認も得られそうだ。

「Yes! このMarieが来たからには、心配いりません」

 すると鞠莉は手帳サイズのノートPCを開き、

「デビューライブはアキバdomeを用意してみたわ」

 曜と梨子が千歌を挟む形でPCの液晶を見る。画面にはペンライトが煌めくドーム会場の様子が映っている。これは確か、初めてドームが会場として使用された第3回ラブライブ決勝戦の映像だ。「そ、そんないきなり……」と困惑する梨子をよそに、千歌は感激の声をあげる。

「き……、奇跡だよ!」

「It's joke!」

 と鞠莉はノートPCを閉じた。感動が一気に引いて、千歌は冷たい眼差しを鞠莉へ向ける。

「ジョークのためにわざわざそんなもの用意しないでください………」

 小原は淡島のホテルオハラ以外にも世界中に多くのホテルをチェーン展開している。財産も相当なものと、内浦では有名な家柄だ。そこの令嬢となればアキバドームを押さえることも可能、と期待した自分はどれほどおめでたいのだろうか。

 人を食った鞠莉は不敵に笑う。正直、千歌には不安しかなかった。

「実際には……」

 

 今度はどんな突拍子のないことに付き合わされるのだろう。そう千歌は身構えていたのだが、鞠莉が会場として千歌たちを案内したのは会場としてはありきたりな、ある意味で「スクールアイドル」らしい学校の体育館だった。体育の授業や部活動以外にも、全校集会や式典にも使用される場所。だから当然、ステージもある。

「ここで?」

 始業前の誰もいない体育館を見渡しながら曜が訊くと、鞠莉は「はい」と応じ、

「ここを満員にできたら、人数に関わらず部として承認してあげますよ」

 「本当⁉」と千歌は訊いた。つまりはライブができる。ライブを多くの観客に観てもらって、スクールアイドルの魅力を知ってもらえるチャンスだ。「部費も使えるしね」という鞠莉の言葉通り、学校から活動資金も援助してくれる。

 梨子が冷静に問いを投げる。

「でも、満員にできなければ?」

「そのときは、解散してもらうほかありません」

 「ええ、そんなあ」と千歌は肩を落とす。認めてもらえないばかりか解散して活動するな、なんて酷すぎる。

「嫌なら断ってもらっても結構ですけど」

 挑発的に笑う鞠莉は「どうします?」と訊いてくる。「どうって……」と梨子は助け船を求めるような眼差しを千歌へ向ける。

「結構広いよねここ。やめとく?」

「やるしかないよ!」

 曜の問いとして向けた言葉に、千歌は即答した。

「他に手があるわけじゃないんだし」

 「そうだね」と曜は応じた。ピンチでもあるがチャンスでもある。こんなことで怖気づいて、μ’sのようなスクールアイドルになれるはずがない。満員にすればいい。観客が楽しめる歌とダンスを魅せればいい。条件はそれだけ。

「OK、行うということでいいのね」

 そう言って鞠莉は体育館から出ていく。彼女の背中が見えなくなったところで「待って」と梨子が、

「この学校の生徒って、全部で何人?」

 「ええと――」と曜が指を数え、数舜を置いて「あ!」と。全く容量を得ない千歌は「なになに?」と訊いた。答えたのは梨子だった。

「分からない? 全校生徒、全員来ても………。ここは満員にならない」

 そう遠くない過去である入学式の様子を千歌は思い出す。在校生である2、3年生と新入生と教員。それと外部からの来賓。総勢100人は越えていたであろう人数を抱えても、この体育館はがらんとした様子だった。浦の星女学院はあまり生徒が多くない。昔はそれなりに生徒もいたそうだが、今は教室にも空きが生じている有様だ。

「嘘……」

 遅れて理解すると同時に、現実から逃避したい衝動に駆られる。

「まさか、鞠莉さんそれ分かってて………」

 曜はそれ以上のことを言わなかった。初めから無謀な条件を突き付けられていた。言葉としてはっきりと口に出してしまえば、未だ朧気でいられる絶望もはっきりと実体を得てしまうような気がする。始める前から絶望するのは早計だ。でも、希望が見えているわけでもなかった。

 

 

   2

 

 被害者の名前は片平久雄(かたひらひさお)。年齢は56歳。杉並区在住で職業は都内のIT企業社員。被害当時は、仕事で営業先へ移動中だったと推測される。

 PCに映し出される被害者のプロファイルからは、何の血生臭さも感じられない。無機質なフォントは、本庁の捜査一課が特定した被害者の情報を綴ることで「生きた」感触をごっそりと抜き取っている。被害者の血に濡れていた現場の状況が事細かに記録されているにも関わらず、文字だけというのは現実味が削がれてしまう。沼津署のオフィスに漂うのは、コンクリートや樹脂に塗られた補強用塗装の臭いだ。血の臭いなんて嗅ぎ取れない。

 今回の事件は東京で発生した。沼津に滞在中の身でありながらも本庁所属である誠のPCにも、一応事件の内容が送信されている。もっとも、今は沼津を離れるわけにいかないから、捜査に参加することはできないが。

 被害者の死因は転落死。空から被害者が落下してきたという、目撃者たち数人の証言は一致している。通常なら事故もしくは自殺として処理される。事件として捜査が進められている理由は、落ちてきた建造物が特定できていないから。現場である公園の周辺には高層ビルが立ち並んでいるのだが、どれも公園とは距離があってどこのビルから落ちても公園まで到達するとは考えられない。つまりは「有り得ない」はずの転落。

「また不可能犯罪。アンノウンの仕業ですか」

 その声に振り返ると、オフィスに北條が入ってくる。本庁から派遣された捜査員のために設置されたオフィスには誠と北條のふたりしかいない。他の捜査員たちも出勤しているはずだが、沼津署の人間から向けられる排他的な視線に耐えかねて「捜査」として出払っているのだろう。誠も、本庁から送られる事件の概要に目を通す以外は、基本的にGトレーラーに出向く。北條も目的は誠と同じようで、自分のデスクにつくとPCを立ち上げる。他に人がいないから、PCの起動音がよく聞こえた。

「被害者の遺族ひとりひとりに護衛を付けるべきです」

 本庁でアンノウンの存在が認識されているかは判然としない。恐らく、あの上層部たちは重い腰を動かさないだろう。まだ下位階級の誠が進言したところで聞き入れてくれる確証もない。だがエリートと将来を期待されている北條なら、少なくとも誠よりは影響力があるはず。そう期待して述べたのだが、北條は「護衛ですか」と溜め息をついて、

「それもいいが、問題はどうアンノウンと戦うかでしょう。唯一の頼みの綱であるG3の装着員があまりにも頼りない」

 反論の言葉が見つからない。アンノウンと戦うために改修されたG3でも、誠は2体を相手に危うくまたG3を破壊されてしまうところだった。何とか1体を撃破できたものの、それはアギトが乱入してきたから。

 北條は続ける。

「報告書、読ませてもらいましたよ。この間の戦いのときも、アギトなる謎の存在に助けられたそうですね。氷川さん。とにかく私としては、上層部に訴えるつもりでいます。勿論、G3の装着員としてあなたが本当に相応しいかどうか、もう一度検討してもらうように」

 

 

   3

 

「どうしよう………」

 帰りのバスのなかで、千歌は窓にもたれかかりぼやく。窓ガラスには表情を不安で満たした自分の顔が映っていて、どうすればいい、という問いすらも反射しているようだ。

「でも、鞠莉さんの言うことも分かる。これくらいできなきゃ、この先もう駄目ということでしょ」

 後ろの席で曜と並んで座る梨子が言った。

「やっと曲ができたばかりだよ。ダンスもまだまだだし」

 そんな状況でライブを満員にしろ、だなんて目標が高すぎる。まだ自分たちは始めたばかりなのに。そう続けようとしたところで、「じゃ、諦める?」と曜が口を挟む。

「諦めない!」

 千歌は即答した。条件反射のように。「何でそんな言い方するの?」と梨子が声を潜めて訊くと、曜はどこか嬉しそうに答えた。

「こう言ってあげたほうが、千歌ちゃん燃えるから」

 

 ライブの勧誘に知り合いに全員に声を掛けようにも、高校生の交友関係なんて大概が校内に収まってしまう。別の高校に進学した友人を誘いそこからネズミ算式に交友の範囲を広げていこうにも、やはり現実的じゃない。

 そこで千歌は身内に助けを求めることを思いついた。仕事から帰宅して居間でテレビを見ている次姉に、好物のプリンを差し出して。

「お願い! いるでしょ従業員」

 「そりゃいることはいるよ」と美渡はぶっきらぼうに答えながらプリンを受け取る。

「何人くらい?」

「本社も入れると200人くらい」

 「200人……」と千歌はその数字を反芻する。全員は無理でも、全校生徒約100人と合わせれば体育館を満員にできそうだった。

「あのね、わたし達来月の始めにスクールアイドルとしてライブを行うことにしたんだよね」

 「スクールアイドル? あんたが?」と美渡は笑った。普段ならここから口喧嘩が始まるところだが、今は下手に出なければ。

「お姉ちゃんにも来てほしいな、って思って」

 普段の「美渡姉」と生意気な呼称は控え、「お姉ちゃん」と最大の敬意を込めて千歌は両手を合わせる。

「会社の人200人ほど誘って………」

 返答を待つが、美渡は無言のままプリンを食べている。妹の頼みよりもプリンの味のほうに意識が向いているようで、じれったくなった千歌はプリンを口に運び続ける次姉に口調を荒げる。

「満員にしないと学校の公認が貰えないの。だからお願い!」

 美渡は空になったプリンのプラスチック容器をテーブルに置いた。ようやく答えると思ったら、美渡は無言のままテーブルの隅に置かれているマジックペンに手を伸ばした。

 

 バカチカ

 手鏡に映る額に大きく書かれた文字を千歌は凝視する。この「バカチカ」が美渡の答えだった。幼い頃から姉妹喧嘩のときに決まって吐かれた姉からの暴言。

「おかしい。完璧な作戦のはずだったのに」

 自室の机にうなだれながら、千歌はウェットティッシュで額を擦った。

「お姉さんの気持ちも分かるけどね」

 ちゃぶ台で縫い物をしている曜が何気なしに言う。「ええ⁉ 曜ちゃんお姉ちゃん派?」と文句を飛ばしたところで、千歌は部屋にいるはずのもうひとりがいないことに気付く。

「あれ、梨子ちゃんは?」

「お手洗い行く、って言ってたけど」

 場所分かるかな、と思ったところで「あれ、梨子ちゃん」と翔一の声が廊下から聞こえてくる。お茶でも持ってきてくれたのか。出迎えようと障子を開けると、梨子はすぐそこにいた。両足を障子に、両手を窓際の柵に押し付け体を橋にしているような恰好で。その下にはしいたけが寝ていて、そんな彼女にお盆を手にした翔一は目を丸くしている。

「何やってんの?」

 千歌が訊くと梨子は安堵したように溜め息をついたのだが、「それよりも」と曜が話の続きをすると「え?」と目を見開く。

「人を集める方法でしょ?」

「そうだよねえ。何か考えないと」

「町内放送で呼びかけたら? 頼めばできると思うよ」

「後は沼津かな。向こうには高校いっぱいあるからスクールアイドル興味ある高校生もいると思うし」

 「まあまあ難しい話は後にしてさ、休憩しなよ」と翔一が部屋に入ってくる。3人分の湯呑をちゃぶ台に並べると翔一は廊下へと顔を向けて、

「梨子ちゃんもおいでよ。しいたけも遊び疲れたみたいだしさ」

 ああ、しいたけと遊んでくれていたのか、と千歌は納得した。しかし壁に上って何の遊びをしていたのか。

 そこでどすん、という音が盛大に響いた。

 

 



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第3話

 『サンシャイン』の劇場版は来年の1月公開らしいですね。

 本作も劇場版編までやる予定です。『アギト』サイドのストーリーは『サンシャイン』に組ませやすいよう考えてはいるのですが、『サンシャイン』劇場版の内容次第で変わると思います。てか必ず変わるでしょうね(笑)。




 

   1

 

「果南ちゃん、俺だけど」

 この日の初めての来客の声を聞き取り、果南は表に向かった。テラスに出ると、その来客である翔一がビニール袋を差し出してくる

「はい、回覧板とお土産」

「どうせまたミカンでしょ?」

「いいじゃない、ミカン美味いしさ」

 笑いながら果南はビニール袋を受け取る。中身は回覧板と大量のミカン。翔一は照明の点いていない店舗を見ながら、

「あれ、今日はお店やってないの?」

「今日は火曜日。うちは定休日だよ」

「あれ、そうだっけ?」

 翔一はおどけたように笑った。何度も来ているのに、と果南もつい笑ってしまう。一般人向けのドルフィンハウスにとって土日は売上が最も高いから、休日は多くの客が仕事に行く平日に限られる。

「こんな天気の良い日なんだから、どこか出掛ければいいのに」

 確かに天気も良いし、母も父の見舞いに行ったから暇といえば暇だ。でも休学中とはいえ高校生の自分が平日の昼間に堂々と街を歩くのは少し気が引ける。

「そうだけど、勉強しとかないと。休学も長引いてるし」

「偉いなあ果南ちゃんは」

 うんうん、と翔一は腕を組む。何だか年寄り臭い。

「天気も良いし、勉強もきっと捗るよ」

「さっき出掛けたら、って言ったのに」

 調子のいい翔一に、果南は呆れた視線を送る。年寄りじみたところがあると思えばどこか少年じみたところがある。だからこの年上の青年に対してついため口をきいてしまうのだが、本人も気を悪くしているわけじゃないのだから問題はあるまい。

「それに勉強なんて退屈だもん。数学とか苦手だし」

 出席日数は足りていたから進級はできたが、復学した頃に授業に着いていけずテストで赤点は取りたくない。赤点なんて取ったら補習で夏休みが潰れて家の手伝いができなくなってしまう。

「分かった!」

 唐突に翔一は組んでいた腕を解き、人差し指を立てる。

「ここはひとつ、俺が果南ちゃんの家庭教師をするとしよう」

 「ええ?」と果南は困惑気味に声をあげる。「ほら」と翔一は心配御無用とばかりに、

「俺の過去、もしかしたら一流大学のとても頭の良い学生だったかもしれないしさ」

 確かに年齢としては大学生でもおかしくないのだが、翔一に勉強ができるイメージは失礼ながらあまり沸かない。記憶を失う前も、どこかの家庭で家政夫として家事に勤しんでいたのでは、と思える。

 でも、天才とはこういった独特の雰囲気を持つ人のことを言うのかもしれない。もし本人の言う通り翔一が一流大学の学生だったら、翔一の過去の手掛かりになるし果南は勉強を教えてもらえる。一石二鳥だ。

「じゃあ、見てもらおうかな」

 そう言って果南は翔一を招き入れた。

 

 翔一を居間に通して、果南は自室から問題集を持ってきた。翔一が人畜無害な人間であることは重々承知なのだが、成人男性を自室へ招くのは多少の抵抗がある。千歌は翔一に部屋の掃除をしてもらっているそうだが、それは千歌にまだ幼さが残っていることが大きいだろう。

「果南ちゃん、お茶っ葉と急須ってどこかな?」

 居間に戻ると翔一がそう訊いてくる。客人だというのにお茶の準備をしようとするのは彼らしいが、果南は呆れと共に笑みを零し、

「もう、いいから早く始めよう」

 釈然としないのか口を尖らせつつも、翔一はテーブルについた。隣に果南が座り、「この問題なんだけど」と開いた問題集の頁を指さす。四角形が円に内接するための条件を問う証明問題。選択式で、1から4の中から正しい回答を選ぶ。

 翔一はシャーペンで問題文をなぞりながら、こめかみに指を当ててページを睨む。時折ペンを顎に当てて、再び問題文をなぞり、また顎に当てて、を繰り返す。

「どうしたの? 早く教えてよ」

 果南が急かすと、翔一はペンでページを指して「分かった!」とようやく声を発した。「本当?」と期待を込めて訊くと翔一は果南へと向き、

「俺の過去、一流大学のとても頭の良い学生――、じゃなかったんだやっぱり」

 駄目だこりゃ、と果南は思った。

「もう、これの答えは3だよ」

 言ってすぐ、「え?」と果南は漏らした。解き方なんて未だに分からない。でも、何となくこの問題の答えは3番という確信がある。別紙の回答集を開いて照らし合わせると、正解だった。

「当たってる……」

 「じゃあ、これは?」と翔一が問2を指さす。果南はじ、と回答の選択肢を見つめた。4通りの回答のなかで、「1」の文字がぼんやりと光を放っているように見える。

「1」

 果南が答えると、翔一は回答集を見て「正解だよ」と驚いた様子で果南を見ている。

「果南ちゃん凄いよ。家庭教師なんて必要ないんじゃない?」

「調子が良いだけだよ」

 きっと直感だ。2問続けて正解を当てるなんて確率が低いわけじゃない。そう自分に言い聞かせるも、偶然であることを証明するために次の問いを解こうと思えない。もし全問正解してしまったら。そんな有り得ない妄想に捉われ恐怖してしまう。

「あ!」

 壁に掛けた時計に目をやった翔一が声をあげた。

「そろそろ約束の時間だ」

「約束?」

「駅で千歌ちゃん達のチラシ配り手伝う約束しててさ」

「チラシ配りって、何の?」

「千歌ちゃん達が来月の始めにライブするらしいんだ」

 そう言って翔一はテーブルに置いた袋から回覧板を出し、中に挟んであるチラシを見せてくる。手書きをコピーした紙面の「ライブやります‼」という見出しの下に会場と日時、デフォルメされた千歌、曜、梨子のイラストが描かれている。会場は浦の星女学院体育館。日程は来月の第1日曜日。

「果南ちゃんも来てよ。千歌ちゃん達頑張ってるから、きっと良いライブになるよ」

 「あ、うん。時間取れたらね」と果南は答えるしかなかった。妹のような千歌を応援してあげたいという想いに偽りはない。でも表立って、千歌に「頑張れ」と言えない理由が果南にはある。

 「それじゃ」と翔一は急ぎ足で玄関から出て行った。まだ履き潰した靴の踵を歩きながら整えて、船着き場へと全速力で走っていく。テラスに出て翔一が無事に連絡船に乗ることができたのを見届けると同時、果南は翔一と入れ違いに船から降りた青年に視線を留める。視線と共に脚も固定されたように動かない。果南はただドルフィンハウスへと歩いてくる青年を瞬きせずに見つめ続ける。

 テラスの前で青年は脚を止めた。最後に会ったのはいつだっただろう。久々に会った青年の容姿は変わりなく、でも顔つきは随分と疲れ切った様子で、別人のようにも見えてしまう。

 その存在を確認するかのように、果南は青年の名前を呼んだ。

「……涼」

 

 

   2

 

 沼津市内で最も人通りの多い場所といえば沼津駅、というのが市民の共通認識だ。駅周辺には学校や企業の事業所も多く、そこへ電車で通う人々に向けての娯楽として、駅に隣接した商業ビルには映画館とゲームセンターが営業している。

 終業後の千歌たちがバスで向かうと、同じく学校帰りの学生や仕事帰りのOLたちが駅構内への階段を上がり、また構内から階段を下りていく。

「東京に比べると人は少ないけど、やっぱり都会ね」

 東京に暮らしていた梨子がそう述べるのなら、本当にここは人が多いのだろう。市内で遊びに行くとしたら真っ先に候補として挙がるのが駅周辺の市街地だ。人が集まる所には娯楽も集まり、その分バスやタクシーといった交通の弁も多く移動しやすい。

「いやー、お待たせ」

 と翔一が走ってくる。

「駐輪場探してたら遅くなっちゃって」

 「丁度良かったですよ」と曜が言った。

「そろそろ部活終わった人たちが来る頃ですし」

 帰宅部の学生が通るピークは過ぎてしまったが、まだ部活帰りがある。その時間帯を見計らい、チラシを配りライブの告知をするのが狙いだ。

「よーし、気合入れて配ろう!」

 意気込み、千歌は鞄からチラシの束を出して翔一に「はい」と手渡す。

「ひょっとしたら翔一くんのこと知ってる人がいるかもしれないし」

 「何で知り合いを探すの?」と梨子が訊いた。「ああ、そういえば梨子ちゃんは知らなかったよね」と曜が言って千歌も思い出す。梨子には翔一の境遇をまだ教えていなかった。これから彼との付き合いもあるだろうし、知ってもらっていいかもしれない。

「翔一くん記憶喪失なんだ」

 千歌がそう言うと、梨子は「え?」と目を丸くして翔一を見上げる。えへへ、と翔一は照れ臭そうに笑った。何で照れるのかは分からないが。梨子は息を詰まらせながら訊く。

「記憶喪失って………、何かの事故?」

「それが分からないんだよねえ。何も覚えてないからさ」

 一応当人が質問に答えたのだが、翔一はまるで他人事と捉えているように見える。梨子は向けるべき言葉を探しあぐねているみたいで、口を半開きにしたまま翔一を見つめている。千歌も翔一が高海家に来た日には似たような反応をした。彼が記憶喪失であると初めて知ったときの曜も同じく。

 バスターミナルに車両が停まった。中からぞろぞろと制服姿の学生たちが降りてそれぞれの行き先へと歩き始める。駅改札への階段か、ゲームセンターのあるビルか。

「さ、早く配っちゃおう」

 翔一が促し、千歌はチラシを手に取った。すぐ目の前を横切ろうとしたふたり組の女子高生たちに「あの、お願いします!」と笑顔でチラシを差し出すのだが、女子高生たちは他愛もないお喋りに夢中で至近距離にいる千歌に気付くことなく歩き去っていく。

「意外と難しいわね」

 その光景を目の当たりにした梨子が不安げに言う。

「こういうのは気持ちとタイミングだよ」

 そう言ってチラシを手にした曜は「見てて」と別の女子高生ふたりのもとへと向かい、「ライブのお知らせでーす!」と目の前に立つ。突然目の前に現れた曜に女子高生たちは驚くも、間髪入れず曜は「よろしくお願いしまーす!」とチラシを差し出す。興味を持ってくれたようで、受け取ったチラシを眺めながら「ライブ?」「あなたが歌うの?」と訊かれると、待ってました、というように曜は「はい、来てください!」と敬礼する。日にちが日曜ということで、互いの予定を確認しながら歩き去っていく様子から好感触のようだ。

 「凄い……」と梨子は呟いた。誰とでもすぐ仲良くなれる曜の性分を幼い頃から知っている千歌には見慣れた光景だが、いつ見ても流石だと思う。学校でスクールアイドル部――承認どころか申請もしていたかった頃だ――の勧誘をしていたときも、曜はすぐにチラシを捌き切ってしまった。

「よーし、わたしも!」

 気合と共に鼻をふん、と鳴らして千歌はひとりで駅の壁沿いを歩いている女子高生へと歩き、「あの」と声をかける。「はい?」と振り向いた彼女のすぐ脇の壁に手をつき動きを止めさせる。

「ライブやります、ぜひ」

 チラシを見せ、控え目な声で「あの……、その………」と困惑している女子高生に「ぜひ」と念を押して顔を近付ける。耐えかねたのか、女子高生はチラシを受け取ると「どうも」と律儀に告げて階段へと駆けていった。

「勝った」

 ガッツポーズする千歌に、「それいいね!」と翔一も品定めするように女子高生たちへと視線を巡らせる。

「津上さんがやったら犯罪になっちゃいますよ」

 呆れた様子の梨子だが、未だチラシを配れずにいる彼女に「次、梨子ちゃんだよ」と千歌は促す。梨子は少し臆した様子で、

「え、わたし?」

「当たり前でしょ。4人しかいないんだよ」

「それは分かってるけど……」

 梨子は曜へ視線を向けた。曜は順調にチラシを配っていて、彼女が声をかけた女子高生たちはみんなチラシを手にしている。次に翔一へ。翔一の持っている束も厚みが随分と減っていた。成人男性だから警戒されるかも、というのは杞憂で、持ち前の人懐っこい笑顔でチラシを配っていく。

「こういうの苦手なのに………」

 ぼやきながらも梨子は商業ビルのほうへ歩き、満を持してチラシを差し出す。

「あの、ライブやります」

 「来てね」と告げた先の少女は笑みで迎えてくれる。映画の広告ポスターのヒロインが。

「何やってるの?」

「練習よ、練習」

「練習してる暇なんてないの」

 「ほら」と千歌は背中を押した。こういうものは慣れだ。場数をこなしていくうちに羞恥も消えるだろう。「ちょっと」と脚をもつれさせながら前進した梨子の前に丁度よく人が通りかかった。初夏に差し掛かろうとしているこの時期には暑苦しい冬物のコートにサングラス、更にマスクという出で立ちの女性だった。顔が殆ど隠れているから年齢が判別しづらい。見るからに怪しいその女性に、引けなくなったのか梨子は意を期して「お願いします!」とチラシを差し出す。しばし逡巡を挟み、女性はチラシを受け取ると逃げるように走り去っていった。

 市街へと消えていく女性の側頭に纏められたシニヨンを千歌は見送る。似たような髪型を見たような気がしたが、いつどこでのことなのか思い出せなかった。

 

 

   3

 

 その青年がドルフィンハウスに客として訪れたのは、果南が高校に入った年の夏だった。

 第一印象は、正直なところ良くはなかった。幼い頃から家業を手伝ってきた果南は多くの客と接してきたし、当然若い男性の接客も慣れたものだった。中には年齢より上に見られがちな果南に言い寄ってくる男もいたが、そういった軽薄な誘いの受け流し方を、既に10代のうちに果南は身に着けていた。

 でも青年は果南に言い寄るどころか、果南から世間話を持ち掛けるまでひと言も発さなかった。話しかければ対応はするが、淡泊な態度でくすりとも笑わない。苦手意識を持つどころか嫌悪感すら抱いた。果南がダイビングのレクチャーをしようとしたら、必要ない、と突っぱねるように言ってそそくさと海に飛び込んだ。はいはいお好きにどうぞ、と当たり障りなく対応して帰ってもらおうと思っていたら、青年はすぐ水面に上がってきた。息継ぎをすると再び潜ろうとするのだが、フィンでの泳ぎ方をまともに聞かなかった青年は不格好なばた足で水飛沫をあげるばかりで、全く水面へ潜ることができていなかった。

「済まない。潜り方を教えてくれないか?」

 船上の果南を見上げて、青年はそう言った。果南は笑ってしまった。まるで子供が意地を張った末に折れたような姿に。不愛想な青年は機嫌を損ねると思ったのだが、果南の言うことには素直に耳を澄ませてくれた。一緒に潜ってレクチャーしていくうちに、青年は飲み込みが早いのかすぐにダイビングでの泳ぎ方を習得してしまった。

「競泳とはまた違うんだな」

 船に上がった青年は感慨深そうに言った。そのとき、ふっ、と青年が浮かべた笑みは果南にとって不意打ちだった。この人、こんな風に笑うんだ、と。

「俺、大学で水泳をするためにこっちに越してきたんだ。ずっとプールで泳いできたから、海での泳ぎがどんなものか知りたくてな」

 そう語る青年はとても楽しそうだった。店に訪れたときの仏頂面とはまるで別人のように。この人、泳ぐのが好きなんだな、と果南にはすぐに分かった。水に包まれることの心地よさ。特に夏の温められた海中は、まるで母親の胎内に戻ったかのような安らぎがある。子供の頃は、何で自分にはエラが無いのか、と疑問に思ったものだ。そのことを何気なしに話すと、「俺も思った」と青年も共感してくれた。果南と青年は互いに濡れた顔を見合わせながら、声をあげて笑った。

 その日から、青年は毎週日曜日にドルフィンハウスを訪ねた。水泳部の練習が休みなのは日曜日だけらしい。果南は自然と日曜日が待ち遠しくなり、日曜日を迎えると開店前から青年を待ちわびて船着き場を眺めるようになった。青年が船から降りるのが見えると胸が高鳴り、無意識に緩む頬で青年の来店を出迎えた。

 この気持ちの正体に気付いたのは、青年が事故のせいで来店が途絶えた頃だった。会わずにいたら忘れるどころか、青年の存在は果南のなかで着実に大きくなっていくばかりで、来るはずない、と分かっていても日曜日は落ち着かなくなった。

 これが、恋か。

 そう気付いたのは、青年が来店しなかった日曜日に閉店準備をしている際中だった。まさか自分が恋をするだなんて。言葉の意味は知っていても、それが持つ響きは実際にしてみないと分からなかっただろう。顔、声、仕草の全てが愛おしく、胸を熱くさせる存在。

 その青年こそが、葦原涼。

 果南の初恋の相手だった。

 

 沼津と三島の境目にある、かつては北條氏が城を構えていた丘はそれほど高くはない。遊歩道も整備されているし、十数分ほど歩けば山頂の公園へと到着する。普段から運動を欠かさない果南と涼は息を乱すことなく、山頂にて切り株をモチーフとした展望台に迎えられた。

 平日の淡島は静かだが、涼はできるだけ人気のない、間違っても知り合いと鉢合わせることのない場所を選んだような気がした。まだ高校生の自分に気を遣っているのだろうか。浦の星女学院に男女交際禁止、なんて校則は無い――不純異性交遊禁止、とあのお硬い生徒会長は言っていたけど――し、むしろ果南は知り合いに見せつけたい、とすら思った。わたしにはこんな素敵な彼氏がいます、と。

 でも、果南と涼は決して恋人同士とは言えない。こうしてふたりでどこかへ出掛けるのも今日が初めてだ。涼の運転するバイクの後ろに乗せてもらったのも初めて。果南は涼への想いは隠していない。直接本人に告白こそしなかったけど、分かりやすいくらいのアプローチはしてきたつもりだ。でも涼は果南が自然体を装って抱擁を誘っても適当に受け流すか、「本当に好きな奴のために取っておけ」と拒んだ。互いに触れられない、一定の距離を保つ。涼はそうすることで、果南とは店員と客という関係を維持してきた。唯一距離を詰めることができたのは、ふたりで写真を撮ったときだったか。子供扱いされていることにやきもきしたが、自分のことを尊重してくれる涼の硬派な一面に果南は一層に好意を深めた。

 それを改めて認識すると、果南は無性に自分の出で立ちが気になりポニーテールにした髪を手櫛でとく。恰好も野暮ったくないだろうか。ファッションにはあまり興味がないからよく分からない。

「1年ぶりかな、会うの」

 広場を歩く涼の背中に、果南は切り出す。話をしよう、とここへ連れてきたのは涼のほうだったが、山頂まで歩く道中でも無言を貫いていた。久々に会う果南に向けるべき言葉を探して、未だ見つかっていないように。

「聞いたよ。水泳も大学も辞めた、って」

 城南大学水泳部のホープとして、涼の活躍は沼津の地方新聞でも度々取り上げられていた。だから本人から連絡がなくても果南は涼が事故に遭ったことも、復帰してから初の大会で体調を崩したことも知っている。退学のことは、最近になってドルフィンハウスに客として訪れた城南の学生から聞いた。

「何かあったの? 復帰してからお店に来なかったの、水泳に打ち込んでるからだと思ってたけど」

 訊くと、涼は脚を止めてゆっくりと果南へと顔を向ける。とても寂しそうな眼差しだった。

「もう泳げない。もう選手ではいられないんだ」

「どうして? 事故の後遺症?」

 果南の問いに、涼は無言のまま顔を背ける。答えてくれるのを待ってみるが、涼は俯いたままの視線を上げることなく、ただ空虚を見つめ続ける。

 「勝手だよね」と痺れを切らした果南は呟く。

「ずっと顔見せなかったくせに、久々に会いに来てくれたと思ったら何にも話してくれないし。涼ってすっごいわがままですっごい弱虫なんだよね」

 ぶっきらぼうで粗暴に見える涼が、実はとても繊細な青年だと果南は知っている。店に訪れた涼はよく果南に打ち明けてくれた。水泳選手としての伸びしろ。周囲から寄せられる期待へのプレッシャー。

「お前の言う通りだ。やっぱり来るべきじゃなかったか」

 そう言って涼は遊歩道へと歩き出す。その背中に果南は告げる。

「いいよ、頼ったって」

 1年ぶりに会っても涼への気持ちは変わらない、と確信できる。だから以前のように話してほしい。果南は今年で18歳になる。もう子供扱いせずに頼ってほしい。振り向いてくれる涼に果南は微笑む。

「わがままで弱虫な涼が好きなんだから」

 

 



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第4話

 特撮原作なので怪人の名前とか技名とか出すべきじゃ、とは思ったのですが、『アギト』の怪奇ものテイストを演出するために省くことにしました。




 

   1

 

「お願いしまーす!」

 すっかり聞き慣れたその声は、遠くからでも花丸の耳に届いた。たまにルビィと書店で本を買いに行くのに利用する沼津駅は今日も人が多いのだが、いつもと異なり多くの女子高生たちがチラシを手にする光景が映る。女子高生たちのチラシの中心に、あの先輩たちがいた。

「花丸ちゃーん!」

 こちらに気付いた千歌が駆け寄ってくる。同時にルビィが花丸の大量買いした本が包まれた風呂敷の陰に隠れる。「はい」と差し出されたチラシを手に取った花丸は見出しの「ライブ」という文字を声に出す。

「花丸ちゃんも来てね」

 千歌が言うと「やるんですか?」と背後からルビィが顔を出した。でもすぐに花丸の後ろに隠れて身を縮こませる。人見知りのルビィは未だに千歌に慣れていないらしい。そんな彼女の隣に千歌はそっとチラシを差し出す。

「絶対満員にしたいんだ。だから来てね、ルビィちゃん」

 おそるおそるチラシを受け取ったルビィは千歌を見上げる。その光景に花丸は少し驚いた。ルビィが他人と目を合わせるなんて滅多にない。

「じゃあわたし、まだ配らなきゃならないから」

 千歌は人の多いバスターミナルへと戻ろうとしたのだが、その背中に「あの」と震えながらもルビィが呼び止める。ルビィが大声を出すなんて、悲鳴以外にあっただろうか。ましてや他人との会話のなかで。脚を止めて振り返った千歌に、顔を赤くしながらもルビィは尋ねる。

「グループ名は、何ていうんですか?」

 「グループ名?」と反芻した千歌は自分のチラシへと視線を落とし、「あ……」と何かを思い出したのか気の抜けた声をあげる。何だろう、と花丸が思ったとき、ばさり、という音がバスターミナルの方から聞こえてきた。

 花丸の視線の先で、千歌の他にいる先輩たちとチラシを配っていた青年が棒立ちになっている。その足元でチラシが散らばっていた。

「翔一くん?」

 同じく青年に視線を向ける千歌が呟く。あの青年の名前だろうか。翔一と呼ばれた青年は千歌のほうを向く。何やらただ事ではないような、そんな顔をしている。

「ごめん千歌ちゃん、俺行かなくちゃ」

 そう言うと、青年は落としたチラシを拾うことなく走り出す。「翔一くん!」と千歌は青年の背中に言った。青年は脚を止めることなく走り続けるが、それでも構わず千歌は大声で続けた。

「ちゃんと帰ってきてよ! いつもの翔一くんのままで帰ってきてよ!」

 

 

   2

 

「これから海潜ってく?」

「いや、そこまで図々しくなれないよ」

 果南の誘いをやんわりと断りながら、涼は不思議な感慨を覚える。さっきまでの恐怖はすっかり抜け落ち、無意識に頬を緩めた。そんな涼を見て、果南も笑みを零す。

「そういえば、今日学校はどうしたんだ?」

 今更になって今日が平日であることを思い出した。高校生の果南は学校に行っているはず。会えたから良かったが間抜けなものだ。部屋に閉じこもって曜日の感覚が抜けかけていたとはいえ、平日の昼間に訪ねようだなんて。

「父さんが怪我で入院しててね。お店手伝わなきゃいけないから休学中」

「そうだったのか。そんな大変なときに………」

 「ごめん」と言おうとしたところで、「だから」と果南に遮られる。

「散々ほったらかしにされた分、いっぱい埋め合わせしてもらわないとね」

 果南は嬉しそうだった。年齢不相応に大人びた彼女だが、以前も時折見せていた少女らしい屈託のない笑顔に涼は頬の熱さを感じる。顔を背けようとしたが、いや、と思い直した。もう彼女と距離を取る必要はない。水泳という目標は失った。今の自分に残されたのは果南だけだ。どう生きていけばいいか、その答えが彼女の笑顔で見つかった。

 これからは、この少女のために生きていけばいい。

「約束する。もう寂しい想いはさせない」

 しっかりと果南の澄んだ瞳を見据え、涼は言った。果南は頬を赤く染めて、でも笑顔で頷いてくれた。

 海のほうから風が吹いてくる。そろそろ帰ったほうがよさそうだ。休学中とはいえ、果南を連れ回すのはあまり良くない。涼が歩き出すと、果南は隣につく。歩く度に、互いの服の袖が触れ合うほどの距離だ。以前のように離れはしない。

「ひとつ、訊いてもいい?」

「ん?」

「涼が水泳を辞めたわけを知りたいの。涼の支えになりたいし」

 果南の問いに、涼はどう答えたらいいか言葉を探る。身に起こったことを正直に話す勇気はまだ沸かない。果南なら受け入れてくれると信じたいが、両野のこともある。

「もうなってるさ。お前が俺を必要としてくれれば、それでいい」

 精いっぱいの返答だ。騙しているようで後ろめたさはある。でも、胸に感じる温もりは絶対に放したくない。もう泳げなくても構わない。果南が傍にいてくれれば、それで十分。

 不意に、展望広場に突風が吹いた。体が持っていかれそうなほどの強風で、涼は果南共々芝生の上に倒れてしまう。しゅるしゅる、という音が聞こえて、涼は視線を上げる。

 いつからそこにいたのか、「それ」は涼と果南の目の前に立ってふたりを見下ろしている。一瞬、筋骨隆々な不審者が裸でいると思った。だが「それ」の頭はまるでコブラのようで、人間に似た胴体とのアンバランスさに体が硬直してしまう。再び突風が吹いた。叩きつけるような風が涼と果南の体を持ち上げる。地面に背中から落ちると、肺に溜まった空気が咳と共に吐き出された。

「果南!」

 痛みに顔を歪める果南に駆け寄り肩を抱く。謎の生物はゆっくりと歩いてきて、しゅるしゅる、と蛇が地面を這うような呼気を歯が無数に並んだ口から吐き出す。

 その呼気が、バイクの走行音で打ち消された。

 ぶうん、とエンジンを唸らせながら、1台のバイクが展望広場の決して平坦ではない地面を走ってこちらへ近付いてくる。見るもの全ての光景が、涼の理解を越えていた。停車したバイクに乗るのもまた人ではなく、金色の鎧に覆われた戦士然としたものだ。バイクから降りた戦士を、謎の生物はぎょろりとした目で睨む。異形同士で交錯させていた戦士の赤い目がこちらへ向いた。それを隙と見たのか、謎の生物が拳を振り上げる。攻撃を察知した戦士は拳を腕で受け止め、腹に蹴りを入れた。よろめいたその顔面に、戦士は拳をぶつける。

 謎の生物は耳元まで裂けた口を歪めた。まるで怒っているように見えた。その頭上に光が渦を巻き、形成された光輪から1本の棒が突き出てくる。謎の生物は棒を掴み、引き抜くように下へ降ろすとそれが身の丈ほどある杖だと見て取れた。二又に別れた先端が現れると、光輪が消えていく。武器を得た謎の生物が、杖を横薙ぎに振った。戦士はバックステップを踏んで逃れ、腰にあるベルトのバックルにあたる球に手をかざす。

 謎の生物がそうしたように、戦士のベルトからも棒が伸びてきた。自分の腹から出てきた武器を掴み引き抜くと同時、周囲に先ほどよりは弱いが、十分に激しい風が吹く。風は戦士を中心として吹き荒れているようだった。吹き上げられる草に囲まれながら戦士の鎧が金色から青へと変わり、左腕の筋肉が一回り大きく隆起していく。それがベルトから出した棍棒を扱うに相応しい姿のように。

 戦士の棍棒の両端がぎらり、と鋭い光を反射しながら開き、一対の刃になる。戦士は刃を謎の生物に向け、ゆっくりと脚を動かしながら間合いを計っている。精神に一寸の狂いも見られない、全てが合理に叶ったかのような所作だ。まさに嵐を纏いながらも動じない、超越精神の青(ストームフォーム)

 互いに武器の切っ先を向け、先手を切ったのは戦士のほうだった。走り出す戦士を謎の生物が追い、林のなかへと飛び込んでいく。

「逃げるぞ果南」

 有無を言わさず果南の手を引いて起こそうとしたとき、涼の腹が疼いた。「うっ」と呻き膝を折る。「涼? 涼!」と今度は果南が涼の肩を抱いてきた。こんなときに発作か、と涼は苦痛に顔を歪める。腹を押さえ、額に汗を滲ませながら脚を持ち上げ、涼は果南と共に遊歩道へと駆け出す。

 

 広場から十分に離れた頃合いを見計らい、翔一は脚を止めた。これだけ離れれば、戦いの余波が果南に及ぶことはない。敵もまた脚を止め、杖をこちらに向けてくる。杖の切っ先を鋭く光らせながら、敵の武器が迫った。それをハルバートで受け流しつつ、交差した武器を上から抑えつけて動きを拘束する。力ずくで拘束を解こうとする敵の構えに緩みが生じた瞬間を翔一は見逃さず、がら空きになった腹に蹴りを入れる。

 互いの体が離れ、再び間合いを計る。この姿で戦うのは初めてだが、勝てる、と翔一は冷静に分析する。素早く立ち回れるこの姿なら。

 ふふふ、という笑みに似た声が聞こえ、翔一は僅かに視線を背後へと向ける。相対する敵が視界から外れないように。背後にも敵が立っていた。こちらも蛇に似た顔で、体躯はどこか女性じみた丸みとしなやかさがある。ドレッドヘアのように絡まり合った頭髪は目を凝らして見ると蛇だ。区別するなら杖を構える敵は雄蛇、光輪から鞭を取り出した敵は雌蛇というべきか。

 雌蛇が鞭を振った。しなる革紐がハルバートに絡みつく。自由がきかないなかで無理矢理にハルバートを振り回して引き千切ろうとするが、頑丈な鞭はむしろきつく柄に縛りつく。空気を裂く音を捉え、翔一は身を屈めた。雄蛇の振る杖の切っ先が翔一の頭上を掠め、振り切ったところで柄で胸を突かれる。

 流石に2体を相手取るのは分が悪い。先日も2体を相手に戦ったが、青の戦士が片方を倒してくれなければ危ないところだった。不利な状況が長引けばいずれ致命的な隙が生じる。

 翔一は勢いをつけて体を反転させた。鞭で繋がれた雌蛇が脚をもつれさせる。そこへ援護に回ってきた雄蛇の突き出された杖をハルバートで軌道を逸らし、慣性のまますれ違おうとする雄蛇の背中に拳を打ち付ける。前のめりになった雄蛇は地面を転がり、そのまま重力に従って丘の斜面を転げ落ちていく。

 これで1体1。雄蛇が戻ってくる前に雌蛇を倒し、次に雄蛇を倒す。

 鞭がハルバートから離れた。まるで意志を持っているかのように。よく見れば、鞭の素材は革じゃなく蛇だった。鱗をてらつかせ、先端にある頭をもたげてこちらを見据えると、細長い舌をちろりと出している。

 翔一がハルバートを構えたとき、突風が林のなかを吹き抜けた。枯草が舞い上がり、土煙が視界を妨げる。翔一はハルバートを振った。空気を震わせる刃が風を吹き、翔一の体を中心として旋風を巻き起こす。旋風が土煙を吹き飛ばすと、そこにいたはずの雌蛇が消えていた。どこへ行ったのか、足跡も残さず。

 ざわざわ、と樹々の葉が擦れ合う音が聞こえてくる。翔一は耳を澄まし、雌蛇の笑い声を探ったが、それは聞き取ることができずただ林のざわめきばかりが耳をついてきた。

 

 発作は治まるどころか悪化していくばかりだった。激しくなる脈が走っているせいか、それとも発作のせいか分からなくなる。それでも涼は懸命に脚を動かし走り続ける。後で倒れてもいい。でも果南だけは逃がさなくては。

 遊歩道を下った先の駐車場まであと少しのところで、樹の陰から人影が出てきた。明らかに人ならざる者、蛇面の生物がふたりを待っていたかのように立つ。

「この野郎!」

 果南から手を放し、涼は謎の生物に掴みかかった。顔面に拳を見舞うが、謎の生物の顔を多少歪めたばかりで佇まいは一寸の乱れもない。いとも容易く、まさに赤子の手を捻るように涼は突き飛ばされた。

「涼!」

 樹にぶつかった衝撃が発作の苦しみに上乗りされたのか、目眩がしてきた。ぼやける視界でこちらへ果南が駆け寄ろうとしてくるのが見える。その果南へ脚を進めようとする謎の生物の姿も。涼は声を絞り出した。

「逃げろ果南!」

 起き上がり謎の生物へ組み付く。決して離すまいと肩を掴みながら、涼は叫ぶ。

「逃げろおっ!」

 謎の生物を道連れに、涼は遊歩道から外れて林の中へと飛び込んだ。互いに掴み合ったまま地面を転がり、何度か視界がぐるぐる回ったところで背中に衝撃と鈍い痛みが走り、涼は手を放した。どうやら樹に激突したらしい。荒い呼吸を繰り返しながら涼は謎の生物を睨んだ。この生き物は果南を狙っていた。何故彼女を標的にするのか。この生物にとって、果南は敵だというのか。

 突風が吹いた。さっき現れたときといい、奴は風を操ることができるのだろうか。吹き飛ばされる周囲の枯草が散らず、むしろ一点に集束していくのが分かった。風の吹く先を見やると、林の樹々が揺らめいている。揺らめきは渦を巻き、そこへ枯草や折れた枝が吸い込まれていく。涼の体も渦へと引かれ、ずるずる、とまるで巨大な蛇に飲み込まれていくかのように、空間の渦へと体が沈んでいく。渦の奥へ広がる虚無の暗闇へと。涼はか、と目を見開いた。頭まで渦へ引きずり込まれる寸前まで、涼は謎の生物を見続けた。謎の生物は風に体を運ばれることなく、まるで鑑賞物のように涼を眺める。大きなその口が、まるで笑っているかのように歪む。

 次の瞬間、視界に蒼穹が広がった。

 

 駐車場へ辿り着くと悲鳴が聞こえてきた。涼の声だ。でもおかしい、と果南は思った。涼の声が上空から聞こえるからだ。見上げると果南は目を剥いた。さっきまで山頂への道にいたはずの涼が、手足をばたつかせながら落ちてくる。このまま落下すれば涼は果南のすぐ目の前、舗装された駐車場のアスファルトに叩きつけられるだろう。想像できる光景のあまりの恐ろしさに、果南は目をぎゅ、と閉じた。数舜の間を置いて鈍い音が耳孔に響く。続けて力の抜けた「うう……」という呻き声が。

「涼!」

 生きてる。奇跡が起きた。彼に駆け寄ろうと目を開くと同時、果南は踏み出そうとした脚を止めた。

 目の前に倒れて身をよじらせているのは、涼ではなかった。

 涼どころか、人間とも呼べない生物だった。

 黒ずんだ皮膚には太い血管が浮き出ていて、皮膚を覆う緑色の鎧もまた生体組織のようにどくん、と脈打っている。顔の半分を占める両眼は赤く充血していて、額から左右へと角が伸びている。

 生物の黒い皮膚が瑞々しい肌色になっていく。角も引っ込んでいき、赤い目も小さくなって涼の顔を形作っていく。

 果南に気付いた涼が、未だ赤く染まった目を向けてきた。ぞくり、と背中に冷たい汗が伝っていくのが分かる。それを認識してようやく、果南は脚を動かすことができた。涼が上体を起こそうと地面に手をつくと同時、果南は全速力で駆け出した。

 住宅街へ出ると、パトカーのサイレンが聞こえてくる。音が大きくなるにつれて、屋根に赤いパトランプを付けた黒のクラウンが近付いてくる。警察だ、助かった。果南に気付いたのか、クラウンが本城山へ入る曲がり角のところで停車した。運転席から若いスーツ姿の男性が出てくる。

「大丈夫ですか?」

「助けてください! 化け物が………」

 息をあえがせながら果南が言うと、男性の眼差しが鋭くなった。果南が走ってきた方向を一瞥し、「乗りなさい」と果南を助手席に急かす。急いで乗り込むと同時、男性はシートベルトも着けずアクセルを踏み込む。ぶうん、とエンジンが甲高くうねりをあげ、静かだった街へと走り出した。

「こちら氷川。現場近くにて女性ひとりを保護しました」

 男性が車に備え付けられた通信機に話しかけている。通信機のスピーカーから何やら聞こえるが、ノイズ交じりでよく聞き取れない。通信機を所定の位置に戻した男性が尋ねてきた。

「他に人はいましたか?」

 「いいえ、いません……」と果南は答えた。あれは人じゃない。

 涼だって、人間じゃなかった。

 

 

   3

 

 グループ名。

 一応アイドルなのだから、それくらいはあるものと梨子にも分かる。自分たち3人が何というグループなのかは気にはなっていたのだが、決まってなくても千歌は考えているものと思っていた。

「まさか決めてないなんて………」

 夕焼けに染まる千本浜の海岸で、ストレッチをしながら梨子は呆れを漏らす。「梨子ちゃんだって忘れてたくせに」と千歌が文句を飛ばしてきたのだが、呆れて皮肉をこれ以上言う気になれない。

「とにかく、早く決めなきゃ」

 と曜が言った。ライブ当日まであまり日がない。歌唱やダンスのレッスンに時間を割きたいところを、グループ名なんて初歩的なもので潰したくない。「そうだよねえ」と千歌が応じ、

「どうせなら学校の名前入ってるほうがいいよね。浦の星スクールガールズとか」

「まんまじゃない」

 指摘すると「じゃあ梨子ちゃん決めてよ」と千歌が振ってくる。「そうだね」と曜も便乗してきて、

「ほら、東京で最先端の言葉とか」

 いきなり何てハードルを上げてくれたのか。音ノ木坂にいた頃もピアノばかりやっていたのだから流行なんて全く知らなかった。ましてや最先端の言葉なんて自分のほうが知りたい。とはいえ早くグループ名を決めたいのは梨子も同じで、「えっと、じゃあ」と言葉のボキャブラリを絞り出す。

「3人海で知り合ったから、スリーマーメイドとか」

 「いち、にー、さん、しー」とふたりは開脚ストレッチを続行した。まさか採用ということか。

「待って、今のなし!」

 もし本当に採用されてしまったら、忘却したい青春の1ページになるところだった。我ながら捻りがない。今後千歌から作詞を手伝ってほしいと頼まれても絶対に断ろう、と梨子は誓った。

「曜ちゃんは何かない?」

 砂浜をランニングしながら、千歌が尋ねる。「んー」としばし唸り、曜は脚を止めると敬礼して、

「制服少女隊、どう?」

 「ないかな」という千歌に「そうね」と梨子も同意する。「ええええ⁉」と不満の声をあげるあたり、曜にとっては名案だったらしい。

 ひとまず練習を中断して、砂浜に落ちていた木の枝で候補を書いていく。Sunshine、波の乙女、みかん、エトセトラエトセトラ。

「こういうのはやっぱり、言い出しっぺが付けるべきよね」

 梨子が言うと、「賛成!」と曜が挙手する。「戻ってきたあ」と空を仰ぐ千歌に梨子は詰め寄り、

「じゃあ制服少女隊で良いっていうの?」

「スリーマーメイドよりはいいかな………」

「それはなし、って言ったでしょ!」

「だってえ――」

 言いかけたところで、「ん?」と千歌の視線が下へと落ちる。その視線を追うと、波打ち際に他の案よりも大きな文字で『Aqours』と書かれている。波が迫ってくる寸前で、このまま潮が満ちたら波に洗われて消えてしまいそうだ。こんな案が出ただろうか。いくら候補が多く出たからといって、こんな目立つ大きさなら覚えていそうだが。

 「エー、キュー、アワーズ?」と千歌は読み上げた。それだと語呂が悪い気がする。「アキュア?」と梨子も声に出してみるが、それも少しおかしい。

「もしかして、アクア?」

 と曜が言った。それが一番しっくりくる。水という意味だろうか。でも、水ならばスペルは『Aqua』のはずだが。

「水かあ」

 と千歌はしみじみ言った。

「何か良くない? グループ名に」

「これを? 誰が書いたのかも分からないのに?」

「だから良いんだよ。名前決めようとしているときに、この名前に出会った。それって、凄く大切なんじゃないかな?」

 「そうかもね」と曜が応じた。誰が書いたかも分からず、でも確かにそこにある『Aqours』という文字。出自の曖昧さがどこか神秘的な響きを醸し出している。

「このままじゃ、いつまでも決まりそうにないし」

 皮肉を言いながら、梨子もこの名前が良いと思った。更に案を出しても、これ以上に自分たちにしっくり来る言葉は見つからない気がする。

「じゃあ決定ね」

 千歌は言った。

「この出会いに感謝して、今からわたし達は『Aqours(アクア)』だ!」

 

 



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第5話

 

   1

 

 Gトレーラーのカーゴでは昼夜を感じ取られない。窓なんて設けられず外光は完全に遮断されているから、常に白色蛍光灯の光に照らされている。こんな場所に閉じこもっている小沢は体内時計に狂いが生じないのだろうか。訪れる度に誠はそう思う。尾室のほうは外に出て交感神経を整えるようにしているらしい。

「じゃあアギトが市民を守った、っていうの?」

「はい。保護した少女の証言から、そう推測するのが妥当だと思います」

 松浦果南という、アンノウンに襲われた少女を保護できたのは偶然の幸いと言っていい。パトロール中の巡査がスピード違反のバイクを目撃したが、そのバイクの運転手がとても人間とは思えない容姿をしていたという通報を受け、まさかと思い誠はそのバイクが向かったという本城山公園へと車を走らせた。そして果南の保護へと至る。

 一応沼津署で聴取はしたのだが、果南はまだ気が動転しているようでその時の状況をさわりだけしか聞けていない。金色の角を持つ生物が怪物と戦っていた、という証言からアギトで間違いないだろう。今日のところは母親に迎えに来てもらい家に帰したが、後日詳しく話を聞く必要がある。

「アギトは襲われた少女を庇っていたようです」

 「でも」と尾室が口を挟む。

「それだけでアギトを味方と見るのは――」

「あなたいつまでそんなこと言ってるのよ」

 と小沢が遮った。「男らしくないわね」とデスクについてPCのキーを叩き始める。誠がカーゴを訪れるまでG3の油圧システムを調整していたらしい。「そ、そんな」と狼狽えた様子で尾室は小沢の背中へ、

「小沢さんだって判断を保留とか言ってたじゃないですか」

「あーうるさいうるさい。市民を助けるために戦ったならもう味方に決まってんでしょ」

 そこで小沢は手を止めて誠へ向き直る。

「でも、こうなると何としてでも彼の正体を知りたいところね」

 小沢はまるで楽しんでいるような声色だ。未知の領域に迫ろうとしていること、それを解明できるかもしれない可能性。全く予測できないことに期待を膨らませている。市民を守る警察官としてはあまり褒められるものじゃないが、誠も理解できなくはない。

 アギトは味方かもしれない。同じ人間を守る者同士、対話が可能なら分かり合える気がする。

 誠の横で、尾室が拗ねたように言った。

「名刺交換でもしたらどうですか」

 

 

   2

 

 這うようにして涼がアパートまで辿り着く頃になると、すっかり夜が更けていた。玄関で腰を落ち着かせたところでバイクを置いてきたことに気付くが、どの道こんなに疲れ切った体では運転なんてできそうにない。徒歩でも途中で何度か倒れて意識を失いそうになった。

 発作のあとは酷い疲労感に襲われる。全身から汗を噴き出し、まるで長距離マラソンを完走した直後のように。今日はとりわけ酷い。目を閉じたら泥のように眠れそうだ。高所から落下したことを考えれば当然だが。

 体の異変には既に気付いていた。前の発作のときも、手が黒く変色し腕の筋肉が隆起した。人とは到底呼べない姿へと変わりつつある自分の手に涼は恐怖した。まるで寄生虫が自分の胎内で成長し、皮を破り羽化しようとしているようだった。でも変化した手は紛れもなく涼の手だった。涼の開けと脳から信号を出せば拳を開き、閉じれと信号を出せば拳を握った。

 果南の前で自分はどこまで変わっていたのだろう。手足だけだっただろうか。それとも全身か。変わった自分がどんな顔をしていたのか、涼は知らない。でも、今でも目に焼き付いた果南のあの怯え切った目から、とても醜い顔をしていたに違いない。両野は腕だけ変化した涼を見て吐き気を催していたのだから。

 涼はまずキッチンで水を飲んだ。コップ一杯だけでは足りず、何杯もコップに注いで貪るように飲んだ。ようやく喉の渇きが癒えて、照明も点けず部屋の壁に背を預ける。果南の無事を確かめなければ。そう思いポケットからスマートフォンを出して、果南の電話番号を発信する。

『…………はい』

 消え入りそうな果南の声が耳に届く。ああ、やっぱり彼女は見てしまったんだ、と虚しい感慨を抱きながら、涼は掠れた声を絞り出す。

「あれが………、あれが水泳を辞めた理由だ。もう、普通の体じゃないんだ………」

 自分から逃げていった時点で、既に答えは提示されていたのかもしれない。それでも涼は希望を捨てることができずにいた。普通の体じゃない。人間じゃなくなった。それでも俺はお前のために生きたい。その想いに応えてくれ、と。

『………同じだよあなたも。あの化け物と』

 「違う」と反射的に涼は言った。でも、何が違うのだろう、とすぐに思い直す。もはや人間でなくなった自分があの怪物と異なる存在と、人間と証明できる根拠がどこにあるというのか。ただ、果南を想う気持ちは間違いなく人間のはずだ。それは伝えなければならない。「俺は――」と言いかけたところで『聞きたくない』と果南の嗚咽交じりの声で遮られる。

『わたしを巻き込まないで。あなたのせいじゃないの? あなたがわたしのところに来たから化け物が来たんじゃないの? お願いだからわたしを巻き込まないで』

 矢継ぎ早に飛んでくる果南の声は激しく、そして次第に弱々しくなっていく。鼻をすする音が聞こえた。巻き込まないで。その言葉が腹の底に重く圧し掛かってくるようだ。化け物である自分が化け物を呼び寄せた。そのせいで果南が巻き込まれたのか。そうかもしれない。同族というのは引かれ合う性質なのかもしれない。

「………分かった」

 果南には泣いてほしくない。彼女には何の不安もなく、幸せに生きていってほしい。俺のせいで日常が壊れてしまうなら、喜んで消えてやろうじゃないか。

『涼………、ごめん』

 震える声で果南は言った。

『でも、わたしには無理だから』

「気にするな。それでいいんだ」

 果南は何も悪くない。不思議と笑みが零れた。果南、本当にお前の言う通りだったよ。俺はわがままで弱虫だ。お前の気持ちに気付いていながら目を逸らしたくせに、自分がどうしようもないと都合よくお前を求めた。これは当然の報いだ。だから謝ることはないさ。

「………それで、いいんだ」

 静かに告げて、涼は通話を切った。

 

 

   3

 

『浦の星女学院スクールアイドル、Aqoursです!』

 三津会館の屋根から伸びる広報スピーカーから、3人の声が揃って街中へ響き渡っている。漁協の近くにある施設の放送設備は主に広報もしくは災害時の緊急用に使用される。こうした女子高生たちによるライブ告知なんてきっと初めてのことだから、住民たちはきっと何か、と興味を持ってくれるだろう。

『待って。でもまだ学校から正式な承認貰ってないんじゃ――』

 梨子の声だ。放送で三津・内浦全域に声が届いていることを忘れるほど緊張しているらしい。『じゃあ、えっと――』と千歌の声が逡巡を置いて、

『浦の星女学院非公認アイドル、Aqoursです! 今度の日曜、14時から浦の星女学院体育館にて、ライブを――』

 『非公認ていうのはちょっと――』と再び梨子が指摘する。段取りが見事に崩れて、口上を見失った千歌の大声は電波に乗って街へと響き渡った。

『じゃあ何て言えばいいのー⁉』

 千歌ちゃんらしいなあ、と三津会館の前でバイクに寄りかかりながら、翔一は笑みを零した。スクールアイドル。数ヶ月前に修学旅行から帰ってきたら、千歌はそればっかりだ。テレビはニュースくらいしか観ない翔一はアイドルのことはあまり知らないし、千歌の熱弁するμ’sなるグループがどれほど凄いのかも分からない。

 とってもキラキラしてる。そう語る千歌の目も輝いていた。自分には何もできないが、できる限りの力になってあげよう。翔一はそう思い、千歌が活動の手伝いを頼み込んでくるとふたつ返事でOKした。毎日3人で練習しているんだから精が出るものを食べさせてあげよう、と。

 しばらく待つと、会館の正面玄関から3人が出てきた。顔を赤くして俯き加減な梨子を、千歌と曜が何やら慰めているように見える。

「もう、段取りくらい決めておいてよ」

 文句を飛ばす梨子に「まあ何とか宣伝はできたんだし、上出来じゃない?」と曜がフォローを入れる。そんな3人に「そうそう、良い感じだったよ」と翔一が声をかけると、千歌がぱっ、と表情を明らめて駆け寄ってくる。

「お待たせ翔一くん」

「お疲れ様」

 片肘を張っての敬礼で迎えると、曜が同じポーズで「ヨーソロー!」と応えてくれる。梨子は翔一の背負うリュックからはみ出したものを指さし、

「あの、それ何ですか?」

 「ああこれ?」と翔一はリュックの中身を引き抜き、自分の腕よりもふた回りは大きい大根を自慢げに見せる。

「お見舞いにいいかなって。果南ちゃんミカンばっかで飽きてるみたいだし」

 まだたくさんあるし、曜と梨子の家にもお裾分けしよう。そんなことを考えていると曜は踵を返し、

「じゃあ、わたし達は千歌ちゃん家で準備してるね」

「うん、後でね」

 十千万への道を歩いていく曜と梨子を見送ると、翔一は千歌にヘルメットを手渡す。千歌はヘルメットのハーネスを顎にかけながら淡島のほうを見やり、

「でもびっくりしちゃったよ。おじさんの次は果南ちゃんが事故に遭うなんて」

「まあ、怪我はしてないみたいだし良かったじゃない」

「そうだねえ」

 

 ダイビングショップを経営する松浦家を訪問すると、玄関先で迎えてくれた面々に誠は少しばかり驚いた。十千万の娘が「あ、あの時の刑事さん」と誠に少し緊張した面持ちで会釈してくる。青年は誠よりも、「立派なリンゴですねえ」と手土産のほうに意識が向いているらしい。

「つまらないものですが、どうぞ」

 誠はスーパーで見舞い用に包装してもらったリンゴの籠を手渡した。笑顔で受け取る果南はしっかりしている。とてもまだ高校生とは思えない。

「すみません、こんなお気遣いまで」

「いえ、気にしないでください」

 良かった。精神的に安定しているようだ。誠が裡で安堵していると、「俺、剥くね」と翔一が果南の手から籠を取り奥へと引っ込んでいく。

「さ、どうぞ」

 居間に入ると、果南に促され誠はソファに腰を落ち着ける。キッチンを見ると翔一が慣れた手つきでリンゴの皮を包丁で剥いている。ダイニングテーブルでは新聞紙でくるまれた大きな大根が横たえていた。ふたりが持ってきた見舞いの品かもしれない。

 十千万の娘と並んで誠の向かいにあるソファにつくと、果南はそう言って頭を下げてくる。

「この間は助けてもらって、本当にありがとうございました」

「いやーそんな、気にしないでよ」

 そう応じたのは誠ではなく、お盆を手にした翔一だった。

「なぜ君が返事をするんです?」

 誠が冷ややかに訊くと翔一は「それは……」と詰まらせるが「お待ちどうさま」とはぐらかしてテーブルに切り分けたリンゴの皿を並べていく。

 「わたしは後で」と手を振る果南に「食べないの?」と翔一は訊いた。フォークを手にした十千万の娘はまだ幼げだから仕方ないとして、視た感じ成人している翔一はこの場の雰囲気ぐらい察することはできないのか。

「どうぞ」

 自分の隣に座る青年に呆れと共に誠は言った。「じゃあいただきまーす」と翔一と十千万の娘は声を揃え、大口を開けてリンゴを頬張る。ふたりがしゃりしゃり、と咀嚼音を鳴らすなか、誠は果南に向き直った。

「あんなことがあった後です。すぐに忘れることはできないと思いますが――」

 「あの」という声に、誠は視線を横に流す。まだ口をもぐもぐと動かしながら、翔一は誠の前に置かれた皿を見て、

「もうひとつ食べていいですか? リンゴ」

「あ、わたしも」

 元気よく便乗する十千万の娘の横で、果南は苦笑を誠に向ける。すみません、こういう子なんです、と言いたげに。本来ならこの苦笑を向けるべきなのは君だろう、と思いながら誠は翔一に言った。

「申し訳ありませんが席を外してもらえませんか。大事な話があるものですから」

 誠に続いて果南が、

「ごめんね千歌。翔一さんもせっかく来てもらったのに」

 千歌と呼ばれた十千万の娘は「ううん」とかぶりを振る。

「果南ちゃん元気そうで良かったよ。ほら行こう翔一くん」

 千歌に促された翔一は慌てて咥内のリンゴを飲み込んだ。危うく喉に詰まらせかけたのか胸を叩き、ようやくソファを立つ。やっとこれで話ができる、と誠が溜め息をつくと、

「あの」

 振り返り「まだ何か」と多少の苛立ちを覚えながら誠は翔一を見上げる。誠の視線に気付いていない様子の翔一は果南へ笑みを向けた。

「果南ちゃん、元気出して。必ず果南ちゃんを守ってくれる人がいるから」

 

 翔一と千歌が出て行ったのを見計らい、誠は改まって果南へ両眼を向けてくる。その眼差しに、恩人という認識がありながらも果南は少し怖気づいてしまう。誠の眼差しがとても険しくなった。多分、本人は無自覚のうちに身に着けた視線なのかもしれない。

「松浦さん、奇妙な質問ではありますが――」

 誠の前置きに「はい」と応えながら、果南は鼓動がどくん、と強く脈打つのを感じた。まさか、涼のことが知られたか。署で聴取を受けた際は咄嗟に涼の存在を伏せてしまったが、警察の捜査能力を甘く見ていたかもしれない。

「松浦さんは普通の人間にはない力、何か特別な才能を持っていることはありませんか?」

 「え?」と思わず声を漏らす。涼ではなかったことに拍子抜けし、更に予想の斜め上をいく質問だ。とても刑事が捜査でするような質問とは思えない。

「いえ、そんなものは………」

 昨日、勉強中に何故か答えが分かったことは勘が良かっただけ。何ら特別なことじゃない。誰にだってあることだろう。

「すみません、おかしなことを訊いてしまって」

「特別な才能を持っていることが、あれに襲われたことと関係があるんですか?」

 「それは――」と誠は言葉を詰まらせる。関係があるとしたら、誠はあの怪物について何か知っているのだろうか。そう考えると質問は溢れるように出てきた。

「刑事さん、あれって何なんですか? 最近起こっている事件も、あれに関係してるんですか? 一体何が起こってるんですか?」

 春先からこの沼津で立て続けに起こっている事件について、警察からは何の発表もない。人伝いの噂で化け物だ何だというものは聞いたが、話題づくりの出まかせと思っていた。でも、実際に遭遇してしまった果南は噂が真実と知ってしまった。

 誠は沈黙した。波の音が静かに響いている。果南も沈黙して答えを待った。そう長くない沈黙を経て、誠は弱々しく答える。ただ、険しい眼差しを携えたまま。

「分かりません、まだ何も」

 警察は一体何をしているんだろう。そんな文句が出そうになるが、果南は喉元で抑える。果南だってこの若い刑事に隠しているのだから。

 

 内浦の船着き場に着いた誠の背を、淡島の方角から吹く潮風が押してくる。もう来るな、と告げられたようだった。とはいえ、風に拒絶されても誠が淡島を、松浦家を訪ねることは今後もあるかもしれない。松浦果南という、アンノウンの襲撃を受けた生存者は貴重だ。これから訪問を重ねていくうちに、彼女が超能力者であるという確信を得られるかもしれない。もっとも、それは誠の仮説が正しければの話だが。

 駐車場へ歩くと、誠の車のすぐそばに色違いのクラウンが停めてあって、その灰色の車体に北條透が背を預けている。

「氷川さん、前回の被害者である片平久雄と今回の松浦果南に血縁関係は無いようです」

「分かりました。では松浦家の人間にも護衛を付けるよう手配しましょう」

 自分の車へと駆け寄り、ロックを解除して乗ろうとしたとき、北條の声が背後から飛んでくる。

「分かりましたよ、あなたの過去が」

 ドアに掛けた手が止まる。「僕の過去?」と視線を向けると北條は不敵に微笑み、

「G3の装着員としてあなたが本当に相応しいかどうか、もう一度検討すべきではないかと上層部に訴えたのですが拒絶されましてね。そこで調べさせてもらったんです、あなたの過去をね。まさかあなたが、あの『あかつき号事件』の英雄だったとは。驚きましたよ」

 あかつき号事件。

 もう1年と半年前だったか。フェリーボート「あかつき号」が暴風雨のなかで遭難し、雨と海水に濡れながらも誠が単身で乗員乗客の救助に向かった。

「もっともひとりだけ行方不明になった乗客がいたらしいが、それでもあなたが英雄であることに変わりはない。しかし――」

 そこで北條は間を置く。あの事件について今更何を語ろうというのか。状況については現場にいた誠のほうが詳しい。あれほどの事件、忘れたくてもそう忘れることはできないだろう。

 北條は続ける。

「あの事件は警視庁にとって忘れたい事件。いわば封印しなければならなかった事件のはずだ。本庁は口止め料として、あなたをG3の装着員として抜擢した。つまりあなたは賄賂を受け取ったんだ」

 腹の底から深い溜め息が出てきた。ここまで馬鹿らしい言い掛かりをつけられると、怒りを通り越して呆れるしかない。確かにあかつき号事件の後、救助活動を行った誠は静岡県警本部長から功労賞を受け取り警視庁へ異動、そしてG3ユニットへの配属となった。だが異動にしても警視庁の人事は誠が首都警察として適任か審査したはずで、G3装着員にしても高い倍率の試験をクリアして抜擢された。

 小沢さんから聞きました。あなたもG3装着員の候補だったそうですね。でも自分を差し置いて選ばれた僕が気に入らない。だからこうして突っかかってくるんですか。

 皮肉が出そうになるが、誠は押し留める。ここで口論したって仕方がない。それにこの手の嫌味は散々聞いてきたじゃないか。氷川は上層部の親戚らしいとか、氷川は上層部の黒い秘密を握っているとか。

「………失礼します」

 それだけ言って誠は車に乗り込んだ。

 

 



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第6話

 

   1

 

 ライブの準備は順調に進んでいる。チラシ配りに歌唱レッスン、衣装とダンスステップの調整。やることは多いけど、手応えは確かに感じている。それでも、曜にまったくの緊張が無いわけでもなかった。何せ初めてのライブ。大勢の人に歌を聴いてダンスを観てもらう、初めての舞台だ。楽しさの合間にふと訪れる不安は、ほんの一瞬だけど大きい。

 夜の内浦はとても静かだった。夜はまだ浅いが、陽が暮れると住民たちは外に出ることは基本的になく、車もほとんど通らない。幼い頃から見慣れた街の景観は良く言えば慎ましやか、悪く言えば寂れて見える。内浦湾を見て何の感慨も浮かばない自分が、何か大切なものが見えていないように思えてしまう。そう考えてしまうのは曜の隣で軽トラックを運転する翔一が、乗る前に「夜の海も綺麗だよね」と嬉しそうに言ったからだろうか。

 十千万で作業に没頭しているうちに終電バスの時間が過ぎて家まで送ってもらうことになった、と母に報告を済ませ曜はスマートフォンの通話を切る。

「大丈夫だった?」

 翔一が尋ねた。「はい」と曜は照れ笑いを浮かべ、

「いい加減にしなさい、って怒られちゃったけど」

「俺も謝ってあげるよ。ついでに大根も渡してさ」

「絶対に大根のほうが目的ですよね?」

「あれ、ばれた?」

 おどけたように笑い、翔一は「にしても」と遠くを見るような目で、

「本当、夢中だよね」

「え?」

「千歌ちゃんがここまでのめり込むなんて思わなかったからさ」

「そうですか?」

「ほら、千歌ちゃんてああ見えて飽きっぽいところあるから」

「飽きっぽいんじゃなくて、中途半端が嫌いなんですよ」

 「え?」と翔一はちらりと曜を一瞥する。確かに千歌は、今まで何かを初めても長続きしなかった。傍から見れば飽きっぽい、と思われても仕方ないかもしれない。でも、彼女の傍にいた曜には分かる。伊達に人生の大半を共に過ごしてきた仲じゃない。

「やるときはちゃんとやらないと、気が済まない、っていうか」

 そう言うと、「そっか」と翔一は満足げに頷いた。

「さすが曜ちゃん」

 何だか照れ臭くなり、誤魔化すように曜は笑った。もう千歌の兄と言っていい翔一からお墨付きを貰えると、不思議と自信がつく。

「それでさ、ライブは上手くいきそう?」

「………うん、いくと良いけど」

 煮え切らない返答をするしかなかった。何せ初めてだ。どう転ぶか分からない。そんな曜の懊悩を、こういう時ばかりは鋭い翔一は察したのか「満員か」と呟いた。曜は窓に頭をもたれて、眠りに落ちた街を眺める。

「人、少ないですからね。ここら辺」

 言ってすぐに、曜はそれが言い訳じみたように思える。初めてかどうかは関係ない。アイドルとして歌う以上、失敗は許されないということ。それが鞠莉から提示された条件の趣旨だ。ただでさえ人口が多くない内浦で満員にできなければ、活動を始めてインターネットにPVを掲載したところで誰からも見向きなんてしてもらえない。全国中にファンを作り、数千という会場の客席を埋めるまで集客できるほどのグループでなければ、ラブライブ出場なんて夢のまた夢。中途半端が嫌いな千歌が、取り敢えずの目標としてラブライブを目指すはずがない。だから鞠莉の酷な条件を呑み、そんな彼女だからこそ曜は付き合うと決めた。

「大丈夫だよ」

 翔一は朗らかに言った。

「皆、温かいから」

 記憶を失いどこから来たのかも分からず、人間を超えた姿に変身する青年。そんな翔一の口から出た「温かい」が、とても大きなものに感じ取れる。見ず知らずの自分を受け入れたこの街の温もりを、翔一は抱きしめているのかもしれない。不思議と安心できた。温かいのは翔一も同じだ。たとえ異形がもうひとつの姿だとしても曜が、千歌が彼を受け入れることができたのは、彼が津上翔一だからだろう。

 

 

   2

 

 十千万を訪ねると、裏手のほうからエプロンを泥で汚した翔一が出迎えてくれた。

「あれ、果南ちゃんどうしたの?」

「この前の大根のお返し」

 「はい」と干物の入ったビニール袋を差し出す。千歌と違って翔一は嬉しそうに「ありがとう」と受け取った。

「干物って、焼く以外にも食べ方あると思うんだよね。千歌ちゃんに聞いてみたら変なもの作らないでよ、って言われてさ」

「それ同感。焼くのが一番だよ」

 苦笑を返し、果南は十千万の2階を見上げ、

「千歌は?」

「もう学校行ったよ。ライブの準備とか、色々あるみたい。果南ちゃんもライブ見に行くの?」

 「うん」と答えると同時、ぽつり、と雫が果南の頬に落ちる。続けて雫が落ち続け、灰色の雲から雨が地面を叩く音が大きくなっていく。降る前に淡島を発って正解だった。海が荒れたら連絡船は運航しない。

「うわ、雨か。ライブ中止になったりしないかな?」

「会場は体育館でしょ。雨天決行だよ」

「あ、そうだった」

 見慣れたおとぼけを決め込み、「ちょっと待ってて」と翔一は中へ入った。すぐに傘を手に玄関へ戻ってきた彼はエプロンを脱いでいる。

「翔一さんも行くの?」

「勿論、千歌ちゃん達頑張ってたんだし、これは見ないといけないでしょ」

 もし天気が晴れていたら、翔一はバイクに乗せてくれたかもしれない。雨で良かった、と果南は密かに胸を撫でおろす。バイクはもう乗りたくない。涼のことを思い出してしまいそうで。

 バス停までのそう長くない道を並んで歩きながら、果南は尋ねる。

「ねえ、翔一さんは自分が何者か考えたことある?」

「うーん、考えても思い出せないしなあ。何て言うか、あの家が俺の居場所だと思うと、別に思い出さなくても良いと思うんだよね」

「居場所?」

「うん。千歌ちゃんが言ってくれたんだ。ここが俺の居場所、って。だからあの家を守れるなら、記憶がなくてもそれだけで十分かな」

 そこにいる意味を見出しているということは、それについて悩んだことがあるという証拠になる。いくら明朗な翔一でも、人間なのだから悩むことぐらいはあるだろう。自分の居場所はどこなのか。果たして十千万が、高海家が自分の在るべき場所なのか。そう悩むこの青年に千歌は手を差し伸べ、ここに居て、と告げたのだろうか。

 千歌は凄いな、と果南は思った。同時に罪悪感が込み上げてくる。涼もきっと、翔一と同じだった。普通の体じゃなくなって、それまで自分が生きてきた水泳という居場所がなくなって、果南に会いに来てくれた。必要とされたい。支えになりたい。そう思いながらも、果南は涼を拒絶してしまった。でも、拒んでしまった今となってはもう手遅れだ。自分では涼のために何もできない。支えることも、慰めることも、何も。

 バス停が目と鼻の先になったところで、不意に翔一が脚を止めた。「翔一さん?」と果南は呼びかけるが、翔一はどこか遠くへ視線をやり、その顔つきが今まで見たことのない険しいものであることに、果南は困惑を覚える。

「俺、行かなくちゃ。本当にごめん!」

 翔一は来た道を走って引き返していく。「ちょっと――」と果南が理由を訊く間もなく。翔一と入れ違いにバスがやってきた。

 

「やっぱり慣れないわ。本当にこんなに短くて大丈夫なの?」

 不安げな表情で衣装のスカートをつまむ梨子に、千歌は「大丈夫だって」とスマートフォンの画面を見せる。

「μ’sの最初の衣装だって、これだよ」

 今回の衣装は、μ’sが初ライブで披露した『START:DASH!!』をインスパイアして曜がデザインしたものだ。スクールアイドルらしく、きらきらしたイメージを集約させたもの。千歌にとっては彼女らと似た衣装に袖を通せるだけでも気分が昂ぶっているのだが、梨子は少し冷めたように、

「はあ、やっぱりやめておけば良かったかも。スクールアイドル」

 愚痴が止まりそうにない梨子に、曜も「大丈夫!」と元気よく、

「ステージ出ちゃえば忘れるよ」

 髪飾りのリボンを締めて、準備が整う。果たして出来栄えがどれほどのものかは怪しいところだ。着替えに使用している体育館の舞台袖には照明がない。色彩は光の加減で微妙に変わる。ステージの照明を浴びたらどんな色を映すのだろう。

「そろそろだね。えっと、どうするんだっけ?」

 段取りはしっかり頭に入れたと思っていたのに。楽しみにしていたはずが、自分も緊張していることに千歌は気付く。

「確か、こうやって手を重ねて」

 曜が差し出した手の甲に、千歌は自分の手を乗せる。続けて梨子の手が千歌の手に乗る。これもμ’sの動画を真似たもの。彼女らはピースサインした手で九角形(エニアグラム)を描き、コールと共に一斉に上へと掲げていた。

「………繋ごっか」

 千歌は呟き、右にいる梨子と、左にいる曜の手を取る。

「こうやって互いに手を繋いで、ね。あったかくて好き」

 千歌にならい、梨子と曜も手を繋ぐ。3人で腕を繋ぐことで成す円陣。それぞれの温もりが想いを乗せて、円を巡っていくように感じられる。緊張も、不安も、楽しみという期待も、3人で共有できる。

「本当だ」

 曜の呟きの後に沈黙が訪れる。完全な静寂というわけではなく、外の雨音と雷鳴がよく聞こえてくる。

「雨……、だね」

 千歌は呟く。「皆、来てくれるかな?」という曜に続き、「もし、来てくれなかったら……」と梨子も吐露する。

「じゃあ、ここで辞めて終わりにする?」

 千歌が問うと、3人一斉に笑みを吹き出した。普段自分が言われていることを他人に言うのは、少し奇妙な感慨を覚える。

 やめない。言葉はなくても、ふたりの意思が強く握られる手から伝わってくる。

「さあ行こう。いま全力で、輝こう!」

 そう告げて、3人で声を揃えた。

「Aqours、サンシャイン!」

 

 

   3

 

 地面を強く叩く雨のなかで、彼女はひとり傘をさして坂道を登っていく。目的地はきっと、この坂道の先にある浦の星女学院女学院。彼女が通う高校だ。この道を下り県道に面したところでチラシが貼ってあった。何でも今日、学校の体育館でアイドルがライブをするらしい。どうやら彼女はそれを観覧しに来たようだ。それなら学校へ行くのに私服姿なのも得心がいく。

 慣れているであろう道を歩く彼女を、それは岬に広がるミカン畑の樹の陰からじっと見つめていた。これほどの雨の中、傘もささずに。いや、その生物に傘は必要ないのかもしれない。それは人間のように、雨に濡れたところで困るほどの衣類を身に着けていないからだ。

 そのコブラに似た姿の、でも人にも似た生物は頭上に渦巻く光輪から杖を取り出す。コブラは杖を携え、彼女のもとへと脚を進め――

「いい加減にしろ」

 その脚を止めて、コブラは振り返る。樹の陰からゆっくりと、涼は自らの姿を晒した。コブラと同じように傘を持たず、激情で火照る体を雨で冷ましながら。

 こうして改めて対峙して、涼はようやく苦しめられた発作の正体に気付いた。脈絡もなく訪れたかのように襲う発作は、涼の中で目覚めたものがこの生物に反応しての疼きだった。同じ人間でない存在同士としての共鳴なのか。判然としないが、自分はもうかつての日々を取り戻すことができないということ。それは裏を返せば、人間でない目の前の怪物と戦うことのできる存在になったということ。

 あの夜、果南に拒絶された夜から涼はずっと考えていた。これからどう生きていけばいいのか。水泳という居場所を失い、親代わりになってくれたコーチにも、慕ってくれた少女にも拒絶された。もう自分には何もない。そう思っていた。でも、その虚心こそが涼に残された最後の持ち物だった。どんなに自分の姿が変わろうとも、心までは変わることがなかった。葦原涼という意識は、確かにこの脳のなかに存在している。ならば、おのずと選択は決まっていた。

「二度と果南には触らせない。二度と果南の前には立たせない」

 どくん、と鼓動が強くなっていく。前は抑えようと躍起になっていたその鼓動を受け入れ、涼は身を委ねる。体の奥底から何かが、足音を立てて近付いてくるようだった。足音は大きくなり、背後から歩み寄り、涼の隣に立つ。足音と肉体の完全な一致を認識できたとき、涼は姿を変えた。

 果南に拒絶された、果南を守るための、妖拳の姿へと。

 足元の土が窪んでいて、そこに水溜まりができている。見下ろすと、波紋に揺れる水面で大きな真っ赤な目が涼を見返している。俺は果南の前でこんな顔になっていたのか。これじゃ逃げられるのも当然だ。

 びちゃり、と水溜まりを踏み涼は駆け出した。コブラが杖を向け、こちらに向かってくる。互いに肉迫すると、コブラが杖を横薙ぎに振ってきた。身の丈ほどの武器にも関わらず、コブラは軽々と素早く先端の刃で涼の首を狙ってくる。身を屈めて避け、涼はコブラの腹に拳を打った。痛みを感じさせるほどの強さはあるらしく、コブラはたたらを踏むようによろめく。追撃を加えようとしたところで蹴りが飛んできた。強烈な一撃で、今度は涼の体がよろめく。追撃の蹴りもまともに受けてしまい、背中をミカンの樹にぶつけた。太い幹は衝撃に耐えられず、中腹から折れて地面に倒れる。

 この姿になっても、まだ奴には敵わないというのか。歯ぎしりしながら敵を捉えようとしたとき、すぐ目の前に杖の切っ先が迫ってくる。咄嗟に掴み眼前で止めたが、コブラは杖を振り上げ、涼の体を投げ飛ばす。再び樹に衝突し、幹をへし折りながら涼の体は地面に伏した。雨で水気を含んだ土が、緑に変色した体に纏わりつく。

 どくん。

 鼓動が更に強くなった。血流が激しく体中を巡り、全身の細胞ひとつひとつが脈打っているようだ。立ち上がると同時に抑えきれない昂ぶりが迫ってくる。この一線を越えてしまったら、もう自分は元に戻れないかもしれない。身だけでなく心も化け物になってしまうかもしれない。そんな恐怖を感じながらも、涼に迷いはなかった。

 ここでくたばるわけにはいかない。完全な化け物になるのなら、なってやろうじゃないか。もう失えるものは全て失った。でも、決して奪われてはいけないものはひとつだけ残っている。せめて果南は、果南だけは――

「うおおおおおおああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 大口を開け涼は咆哮をあげた。獣と言ってもよかったが、涼は湧き上がる衝動を発散させてもまだ理性を保つことができていた。いや、まだ「俺」という意識があるにしても、それが理性と呼ぶかは曖昧だ。獣と人の境界線上に立っているというべきか。

 水溜まりに目をやると、額から突き出していただけの双角が高く伸びている。コブラが杖を構え向かってくる。突き出される杖を腕で弾き、顔面に回し蹴りを見舞った。さっきよりも強い力が漲るのを感じる。拳を倒れた敵へ向けると、手首の突起が伸びて鋭い刃を形作った。杖を支えに起き上がったコブラが、涼へ跳び掛かってくる。涼も跳躍した。すれ違いざまに刃を滑らせ、コブラの腹筋が浮き出た脇腹に創傷を与える。赤い鮮血が傷口から流れた。

 受け身も取れず泥に身を打ち付けたコブラは、切られた腹を見て目を剥いた。痛みよりも、自分が傷を付けられたことに驚愕しているようだ。その首筋に、涼は鋭く尖った牙を突き立てる。首の筋肉にずぶずぶ、と牙を沈めて肉を噛み千切ろうとしたとき、顔面を殴られて離してしまった。

 首筋から血を流しながら、コブラが樹々の中へと走っていく。逃がすものか。息の根を止めるまで追いかけてやる。

 

 沼津駅前通りにてアンノウン出現。小沢からの出動要請を受け、G3を装着して現場へ向かうと既に戦闘は始まっていた。雨のなか鞭を手にしたアンノウンと戦うアギトを視界に収め、誠はやっぱりという確信を覚える。アンノウンが現れたとなれば、必ずアギトも現れる。

 女性のようなフォルムで、だが蛇のような顔のアンノウンにアギトは苦戦を強いられているようだった。アンノウンの動きは素早く、アギトは追いつけていない。アンノウンの鞭がアギトの首に巻き付いた。喉を締めあげられまいとアギトは鞭を掴み引き寄せるが、アンノウンもアギトの拳の範囲に入るまいと拮抗している。突如現れ同じ敵と戦う存在。それが誠にとって味方かどうかは分からないが、今の状況から見れば敵でないことは確かだ。

『GM-01、GG-02、アクティブ』

 小沢の声がスピーカーから届く。誠はガードチェイサーの武装パックを開き、取り出した銃とグレネードランチャーの弾頭をドッキングさせる。誠の存在に気付かないアンノウンに照準を合わせるのは容易だった。発射したグレネードはアンノウンの手首に命中し、その皮膚に裂傷を与える。その拍子に鞭が手から離れて、アギトは拘束から解かれた。

 アンノウンの目がこちらに向く。睨むように目を細めた生物に、誠は2発目のグレネードを発射した。さすがにこちらは避けられて、放物線を描いたグレネードは地面で炸裂してアスファルトを砕く。こちらへ向かってくるアンノウンにGG-02の砲身を叩きつけるも、手首に手刀を打たれ落としてしまう。

 そこへ、アギトが乱入してきた。アギトは薙刀のような、両の先端に刃の付いた武器を振りかざしている。

「変わった………」

 思わず誠は呟いた。アギトの鎧が金色から青に変わっている。武器を軽々と降るその動きも、先ほどよりも素早い。アギトは戦い方に応じて姿を変えることができるのか。

 アギトの薙刀が、アンノウンの足元へ滑り込む。払われる直前に跳躍し、自分の頭上へ達したアンノウンの頭にアギトは薙刀を掠めた。バランスを崩し、受け身を取れずアンノウンが地面に伏す。アギトの足元に、掠めた際に切断されたアンノウンのドレッドヘアが落ちた。目を凝らすとそれは髪ではなく蛇だ。鎌首を斬られた蛇がうねうねと動き、断末魔が終わると塵になって霧散していく。

 頭を押さえるアンノウンの背後から強風が吹いてくる。風は渦を巻き、小さな竜巻になって振ってくる雨を上空へと返していく。雨水と粉塵に覆われ、アンノウンの姿が見えなくなっていく。アギトは薙刀を振った。闇雲に振り回していると思ったがそうでなく、アギトを中心に第二の旋風が巻き起こっている。ふたつの竜巻が接触し、相殺された。再び雨が垂直に降ってくる。その雨のなかに、アンノウンはいない。

『氷川君、アンノウンらしき熱源を感知』

 小沢の報告の後、マスクのディスプレイに街の地図上を移動している赤い点が表示される。

「了解、追跡します」

 落とした武装を拾い上げると、バイクのエンジン音が聞こえた。見ると、アギトがバイクに跨って雨のなかを疾走していく。アギトもアンノウンを追うのだろうか。誠も急ぎガードチェイサーへ走り、武装を素早くパックへ納めるとマシンを発進させた。

 

 コブラは岬を下り、県道へ出ようとしていた。もう息も絶え絶えで、走ることも辛そうに見える。涼は岬の中腹から跳躍し、コブラの前に降り立った。涼を視認したコブラは目を見開く。

 もはや満身創痍と言っていい敵に対して、涼は慈悲なんて微塵も与えない。容赦なく顔面に拳を浴びせ、更に追い打ちの蹴りを入れてねじ伏せる。仰向けに倒れたコブラが杖を突き出した。降り下ろされた涼の手刀が杖の中腹を折る。武器を失った敵の肩を掴んで無理矢理起き上がらせ、先ほど傷を負わせた脇腹に膝蹴りを見舞う。痛みに絶叫したコブラの口から血飛沫が飛んで涼の顔にかかった。敵を後ろへと投げ飛ばし、涼はまた咆哮をあげる。

「ウアアアアアアアアアアアアアアアア‼」

 踵から刃が伸びた。涼は跳躍と同時に右足を振りかざす。敵の眼前に迫り、その肩に踵の爪(ヒールクロウ)を叩きこんだ。ずぶり、と刃がコブラの肩口から体内へ滑り込む。腹に蹴りを入れて引き剥がし、同時に突き刺した刃が肩から胸までを切り裂いた。

 道路に面した海に、コブラの体が落ちていく。飛沫をあげて落水してから数舜の間を置いて、まるで間欠泉のように海水が噴き上げられた。

 乱された海面の波が戻っていくまで、涼はその一点を見つめる。体の疼きが治まっていることに気付き、ふと手を見ると元の肌色の手に戻っていた。完全な化け物にならずに済んだ。そう思っても安堵は訪れない。姿が戻っても、もうあの日々は戻ってこない。

 雨に濡れた顔を岬へ向ける。自分が行けるのはここまでだ。この岬には、彼女のもとへ登ることはできない。

「………さよならだ、果南」

 決して届かない言葉を呟き、涼は雨に濡れたまま帰路へついた。

 

 

   4

 

 3人で手を繋いだまま、ステージの真ん中に立った。垂れ幕が体育館とステージを遮っていて、向こう側の様子が分からない。

 大丈夫、きっと満員になってる。半ば祈りを込めて、千歌は目を閉じて自身に言い聞かせる。ダンスのステップは意識せずとも踏めるまで仕上げた。歌唱だってしっかりとテンポと音程を崩さずにできるようになった。宣伝も抜かりない。チラシ配りだって曜が駅前で人だかりを作るほど人々にライブ開催を知らせることができた。やれることは全部やった。それをこれからぶつけていくだけ。

 リールを巻く音が微かに聞こえてくる。垂れ幕が上がっていると分かった。さあ、始まりだ。意を決して千歌は目を開く。

 ステージ以外の照明が落とされた体育館に拍手が響き渡る。控え目な拍手。いや、観客たちは強い拍手で迎えてくれている。控え目に聞こえてしまうのは、その数が少ないからだった。ざっと10数人程度。主にクラスメイト達が体育館の中央で千歌たちを見上げている。少し離れたところに鞠莉が立っていて、出入口の辺りには花丸とルビィがいる。

 そうだよね、と千歌は目の前の光景を受け入れることができた。意外なほど、すぐに。

 μ’sが活動していた秋葉原と違って、ここは過疎化の進む地方集落。ただでさえ人は少ないし、そもそも自分たちは活動を始めたばかり。初めてのライブでいきなり会場を満員にするなんて、最初から無理な話だったということ。

 それでも、やり遂げなきゃ。千歌は一歩前へ踏み出す。最初で最後になっても構わない。ずっとやりたかったライブができるだけでも十分じゃないか。まだ部として承認されていないのに歌う場を与えられて、少ないけど観てくれる人達だっている。観客が少なかろうが関係ない。観てくれる人に全力のパフォーマンスを魅せる。

「わたし達は、スクールアイドル」

 「せーの」という掛け声で、曜と梨子が千歌の両隣に立って宣言する。

「Aqoursです!」

「わたし達はその輝きと」梨子が始め、

「諦めない気持ちと」曜が引き継ぎ、

「信じる力に憧れ、スクールアイドルを始めました」千歌がまとめる。

「目標はスクールアイドル、μ’sです」

 「聴いてください」と告げて、3人それぞれの位置につく。これが合図。打ち合わせ通りに、ライブの音響を頼んでおいたクラスメイトのよしみへの。

 歌い出しと共に、曲のイントロが流れた。曲の構成上タイミングを合わせるのが難しいが、まずは成功。一度動き出せば、千歌は自然と踊ることが、歌うことができた。反復練習の賜物だ。どうせもう、最後のライブになってしまう。なら、自分たちの想いを乗せた歌に、今の全力を出し切ろう。

 スクールアイドルというものに出会ったときに感じた胸の高鳴り。普通だった自分が普通でない、輝ける存在になれる場を見つけたこの想い。どこまでも走っていけると、どこまでも高く昇っていけるという、ときめきを――

 ステージが暗転した。曲が途切れ、観客たちのざわめきが聞こえる。体育館の屋根を叩く雨音と雷鳴も。落雷による停電か。

「どうすれば………」

「一体、どうしたら………」

 梨子と曜の震える声が聞こえる。電気系統の復旧はすぐにはいかないだろう。観客だって少ない。このまま中止にしたほうがいいのかもしれない。

 それでも、千歌は続きを歌い始めた。最初で最後なんだよ。せめてやり切らせてよ。

 曜と梨子も歌い始める。まだできる。照明がなくても、音響が機能しなくても、まだ自分たちの声がある。歌い続けよう。最後まで歌い切ろう。その想いがあっても、声の張りがなくなっていく。震えてか細くなり、とうとう声も途切れた。

 何でこうなっちゃうんだろう。悔しさと共に湧き上がる問いを誰に向けるべきか分からない。ただ輝きたかっただけなのに。μ’sのように、誰かを笑顔にできる存在になりたかっただけなのに。どうして何もかもが無常に過ぎ去って、なけなしに積み上げてきたものが崩れていくのだろう。

 もう駄目だ。こんな現実、耐えられない。

「千歌ちゃん!」

 その声に、千歌は俯いていた顔を上げた。出入口で翔一が手を振っている。その隣でレインコートを着た三津が「バカ千歌!」と、

「あんた開始時間間違えたでしょ!」

 照明が復旧した。様変わりした体育館の光景を見て、驚きのあまり千歌は目尻に溜まった涙を拭くのも忘れてしまう。

 体育館の床が見えなくなるほど人が溢れかえっている。浦の星だけでなく他校の制服を着た少女たち、学外の人も大勢いる。まさか主催側の自分が、ライブの開始時間を間違えていたなんて。

「本当だ、わたしバカ千歌だ」

 涙を拭い、今度こそ続きを歌う。蘇った音響が会場に曲を流した。歓声が沸く。あまりにも大きくて体育館の壁が振動しそうなほどだ。曲はもう残り僅かだけど、その残りに全力を注ぎ込む。せっかく来てくれた観客たち。協力してくれた生徒たち。その人たちへの「ありがとう」という気持ちを込めて、千歌は歌い上げた。

 フィニッシュを迎え、ポーズを決める。汗と疲労が一気に押し寄せてきた。同時に先ほどよりも大きな拍手と歓声が。あまりに大きすぎて他の音が一切聞こえない。長く聞き続けたら難聴になってしまいそうだけど、この大音響が心地いい。最後列でサイリウムの光が見えた。目を凝らすと翔一だった。そういえば、昨夜翔一にサイリウムの使い方を教えた。

 これが千歌の望んでいたもの。ステージで歌って踊り、観客から楽しかった、という賛辞の拍手喝采を浴びること。みんなで楽しむ場を作る。それがスクールアイドル。μ’sの築き上げたもの。

「彼女たちは言いました」曜は告げる。続けて梨子が、

「スクールアイドルはこれからも広がっていく。どこまでだって行ける。どんな夢だって叶えられる、と」

 それは、かつてμ’sがラストライブで告げた言葉の連なり。たとえ普通の少女でも、自分たちは輝ける。輝ける世界がきっとある。その夢を信じ続け、走り続けた末に辿り着いた境地。自分もそこへ行きたいと、心から願えた。

「これは今までのスクールアイドルの努力と、街の人達の善意があっての成功ですわ」

 鋭いその声に、千歌はステージの前へ視線を下げる。観客の最前にダイヤが立っていた。自分たちの実力じゃない。スクールアイドルというブランドがもたらしてくれた集客と、そう告げられていると理解できた。

「勘違いしないように」

「分かってます」

 迷うことなく千歌は言う。

「でも……、でもただ見てるだけじゃ始まらない、って。上手く言えないけど、今しかない瞬間だから」

 ずっと、「普通」であることに燻っていた。水泳で才覚を示した曜と、ピアノに打ち込んできた梨子。両隣にいるふたりに比べたら、自分には何もない。今までのように、口を開けて待っているだけじゃ駄目だ。待っている間に「今」という瞬間は過ぎていく。流れを止めることはできないけど、限られた流れの中だからこそ一生懸命になれる。その果てにある、μ’sが視たであろう光景を目指して。

 千歌は両隣にいるふたりと声を揃えて宣言する。

「だから、輝きたい!」

 体育館に、3人の声が反響していく。勢いに任せて言っちゃった、と千歌は微かに目を伏せた。活動はできるけど、成功するのは今回だけかもしれない。やっぱり、無謀なのだろうか。こんな地方で、世界の片隅で彼女たちと同じ場所に行きたい、だなんて。

 ぱらぱら、と拍手が起こった。どこかで起きた拍手が体育館中に伝播していく。さっきのものが割れんばかり、というなら、これは優しい拍手だ。千歌の宣言を受け入れるような、肯定してくれるような。笑みが零れて、目頭が熱くなった。サイリウムを脇に抱えて拍手する翔一に向けたい言葉を、千歌は裡に秘めた。

 翔一くん、ここがわたしの、Aqoursの「居場所」だよ。

 

 

   5

 

 アンノウンの熱源は各地を移動している。とある場所に留まったと思えば凄まじいスピードで移動し別の場所に留まっている。まるで瞬間移動でもしているみたいだ。終わりの見えない鬼ごっこを繰り広げているうちに夜になっている。ガードチェイサーの燃料はまだ余裕があるものの、長時間G3を装着している誠のほうが参ってしまいそうだ。

 小沢から通信が飛んでくる。

『氷川君、近いわ』

「はい」

 誠はアクセルを捻りスピードを上げた。街灯が朧気に照らす暗闇のなかで、その人ならざる生物のシルエットをG3のセンサーアイが捉えた。今度こそ逃がさない、と同時に違和感を覚える。アギトがいない。あの戦士はどこへ行ったのか。

 疑問が晴れるのを待たず、アンノウンが駆け出す。逃げるつもりか。そう思ったとき、アンノウンの走る先で女性が歩いているのが見えた。まさか次の標的か。更にアクセルを捻り疾走するが、辿り着くと同時、アンノウンの手が女性の腹に沈む。

 誠はガードチェイサーを突進させた。カウルに衝突したアンノウンの体が突き飛ばされる。急いでバイクから降りて、倒れた女性を前に屈む。服に血が滲み、範囲を広げていく。アンノウンの鋭利な爪で腹を刺されたらしい。傷口を手で圧迫し、呼吸を確かめようと顔を見たとき、誠は目を剥いた。

「三雲さん⁉」

 その女性は、解散したオーパーツ研究局の三雲だった。思わぬ知人との遭遇でただでさえ困惑している誠の耳に追い打ちが来る。

「死ね、自らの手で」

 その幼い声に、誠は視線を上げる。いつからそこにいたのか、まだ10歳にも満たなそうな少年が三雲の傍に立っている。少年は驚きも恐れもしていない。ただ無表情に、アンノウンを見つめている。

「逃げなさい! 早く!」

 誠は少年の前に立ちふさがる。近接戦の構えを取るが、アンノウンの様子がおかしいことに気付く。何かに怯えているように見えた。威風堂々とした出で立ちは消え失せ、脚をすくませるその頭上に光輪が浮かび上がる。爆死する直前に浮かぶ光だ。アンノウンは呻き声をあげながら、指先に鋭く生えた爪を自らの腹に突き刺す。ごぽ、と奇声を発しながら、口から鮮血が流れ出た。地面に零れた血が、乾く前に光の粒子を散らして蒸発していく。アンノウンの体も血と同じように、体の細胞が内部から燃えているかのように光りだして、やがて跡形もなく宙へ散っていく。

 分からないが、アンノウンは消滅した。振り返ると、少年の姿がない。周囲に視線を巡らせるが、暗視モードに切り替わったG3のセンサーでも捉えられない。まるで初めからいなかったみたいに。

 そうだ、と誠は思い直す。それよりも三雲を助けなければ。

「三雲さん、三雲さん!」

 呼びかけながら、誠は三雲の首筋に触れる。脈動が感じられない。出血のせいで顔が青白くなっている。誠はモニタリングしているであろうふたりに向けて叫んだ。

「小沢さん、救急車をお願いします! 三雲さんが……、三雲さんがアンノウンに――」

 

 





次章 ふたりのキモチ / 記憶の一片


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第4章 ふたりのキモチ / 記憶の一片
第1話


 

   1

 

 これは、ひとりの短い物語。

 

 小さい頃から隅っこで遊ぶ、目立たない子だった。運動も苦手で、学芸会の演劇で務めたのは樹の役。自己主張するのに消極的で、人の輪に入っても流されるまま。大きな流れの中にいては、「自分」という認識が薄れていく。自己を保つために国木田花丸(くにきだはなまる)が人の輪から外れ、孤独という自由を手にしたのは小学校にあがってすぐの頃だった。孤独であることに寂しさを感じなかったのは、図書室というひとりで過ごす絶好の場所を見つけられたからだろう。だから、花丸が読書に傾倒するのは必然的だったと言える。

 人生は物語に例えられる。でも多くの小説において、語られるのは主人公の人生のほんの一幕。幼少から晩年までを語ったのは、有名どころだとプルーストの『失われた時を求めて』くらいだろう。そうなると、まだ15年だけの花丸の物語は、全て事細かく語ったとしても1冊の本にはなれない。退屈で、平凡で、派手さのない。ただ淡々と日常が過ぎていくだけの、読み捨てられるだけの空虚な物語。花丸が本を読み漁っていたのは、そんな自分の空虚さを他者の物語で埋めようとしていたからかもしれない。

 ひとりで過ごしていては、登場人物は花丸ひとりの物語として完結する。他者の物語で埋めようとしても、結局のところ本は一方的に読者へ告げるだけ。キャッチボールに例えられる言葉の応酬なんてものはない。本と花丸の間に、物語は生まれない。

 そのことに気付いてしまったのは、すっかり文学少女に成長した中学生の頃だった。本を読み終わったときに覚えた達成感と、孤独。読了した本はもう花丸に語りかけてくれない。それでも、本は世の中にたくさんある。新しい本を探せばいい。自分の物語はそうやって語られる価値もなく淡々と変わらずに過ぎていく。そう思っていた。

 でも、人生という物語は予想外な章が展開される。花丸はその伏線にまったく気付いていなかった。

 図書室の隅でアイドル雑誌を読んでいた少女、黒澤(くろさわ)ルビィ。彼女との出会いが、花丸を大きな物語へ導くことになるなんて。

 

 

   2

 

 1歩ずつ脚を進める度に、体が重くなっていく。まるで体が磁石になって、道端の砂鉄や金属を吸い寄せているかのように。もはや真っ直ぐ進むことができず、酔っ払いのように千鳥足ながらも涼は懸命に夜道を歩き続けた。あと少しでアパートに着く。そうすれば思う存分、泥のように眠ろう。もしかしたら永遠の眠りにつくかもしれない。不謹慎な予想だが、それが冗談と言えないほどに涼の体は重い。いつもの発作の後に訪れる疲労とは比べようのない重さだった。原因として考えられるのは、長くあの姿でいたせいか。

 倒れそうになった体を傍の電柱に傾け、そのまま膝を折る。手に提げていたコンビニのビニール袋を落としてしまって、購入したミネラルウォーターや栄養剤が散乱する。拾おうと視線を下ろしたとき、手に留まった。自らの手を見て涼は驚愕のあまり粗い呼吸を一瞬だけ詰まらせる。

 涼はまだ20歳だ。肌も水分を十分に含んでいるはずが、涼の手はからからに干からびて皮膚が収縮している。まるで老人のようだ。指はいとも簡単に骨が折れてしまいそうなほどに細くなっている。

 ただでさえ汗だくなのに、更に冷や汗が溢れてくる。俺の体に何が起こっているんだ。ただ化け物になるだけじゃないのか。

 小刻みな足音が聞こえてくる。小走りのような、それかまだ脚が短い子供特有の歩き方のような。前方を見やると、低い背丈の人影がこちらへ歩いてくる。街灯の光が弱く、目も霞んでいるせいで顔がよく見えない。でもなぜだ。見るからに子供なのに、なぜ俺はこんなにも怯えている。なぜこの足音を怖れているんだ。

 多汗で脱水症状を起こしたのか頭がぼんやりしてくる。重い頭を支えるだけの余力もなくなり、涼はアスファルトの地面に横たえる。ゆっくりと目蓋が閉じられるなか、涼は視界が暗闇になる直前に辛うじて自分を見下ろす存在の顔を見ることができた。

 それは少年の姿をしていた。

 

 

   3

 

「これは、馬券ですか?」

 競馬のチケットを映した写真をぱらぱらとめくりながら、尾室が尋ねる。現物は警視庁舎に保管されていて持ち出すことはできず、先方の捜査員に頼んで送ってもらった画像をプリントアウトしたものだ。

「ええ。先日の被害者、片平久雄の所持品のなかにあったものなんですが、これを見てください。当日のレース結果です」

 そう言って誠はレースの成績をまとめた紙片を手渡す。片平久雄の購入した馬券のレース番号には分かりやすくマーカーで線を引いておいた。

「何だ全部外れじゃないですか」

 うんざりした様子で尾室がひらひらと振る紙を指さし、

「馬券のレースナンバーをひとつずつ繰り上げてみてください」

 誠が告げると尾室は再び馬券と成績表に視線を交互に巡らせる。

 片平の予想では、レース4Rで勝つ馬の番号は4-9。レースの結果は4-12で外れたが、次のレース5Rの結果は4-9。片平の予想したレース5Rは1-2。これも外れだが、次のレース6Rの結果は1-2。レース番号ひとつ違いでの一致が、その後の購入した馬券で同様に続いていく。

「片平久雄はひとつ先のレースを全て的中させていたんです」

「偶然じゃないかな。それとも、氷川さんまだアンノウンの被害者が超能力者だっていう説を捨ててないんですか? 片平久雄は不完全ながら予知能力を使っていたとでも?」

「まだ、そこまで言い切れるような確信はないのですが………」

 そこへ、小沢がカーゴに戻ってきた。月に1度の定例会議は終わったらしい。もっとも、G3の設計や運用は開発者である小沢に一任されているから、これからのG3改修について彼女に意見できる者がいるとは思えない。

 小沢は尾室が持っているレースの成績表に気付くと眉を潜め、

「何、競馬? やめときなさい。あなた達どう見てもツキがありそうには見えないから」

 「いやそうじゃなくて――」と尾室が弁解しようとするが「それよりも」と小沢は遮り、

「オーパーツ研の三雲咲子さん。通り魔に殺害された、って上は処理するつもりよ」

 「そんな……」と誠は声を詰まらせ、端を切ったようにまくし立てる。

「小沢さんと尾室さんだってモニタリングしてたはずです。三雲さんはアンノウンに――」

「一応、主張はしておいたわ」

 小沢は至極冷静に、でもどこか苛立ちを含んだ声色で言った。

「でも死因は鋭利なもので腹部を刺されたことによる失血死。『不可能』ではないし、例によってアンノウンはカメラに映らない。証拠としては不十分なのよ」

 アンノウンが映らないG3の記録映像は、既に三雲が殺害された現場に誠が偶然通りすがったと捉えられても仕方ない。ならば誠は犯行を目撃せず、犯人は行方不明。

 現場にいた少年のことも気になる。映像には少年の姿も映っていなかった。G3のセンサーが暗視モードだったから誠には見えていたが、街灯の光量が不十分なあの場所ではカメラで捉えることはできなかったのだろうか。そもそも、何故少年は現場にいたのか。ただ散歩していたところを遭遇したとしても、あんな年端もいかない子供を親がひとり夜に出歩くのを許すとは到底思えない。

「有耶無耶にする、ってことですか」

 溜め息と共に尾室が漏らす。誠は拳をきつく握りしめた。真実を追うことが警察の職務じゃないのか。犯人が正体不明(アンノウン)な存在だからといって、自分たちでは手に負えない存在だからと匙を投げて何が法の番人だ。苦虫を噛み潰すのは遺族だというのに。でも、反感を抱くのは誠だけではないはず。小沢だって、会議の場で主張したのなら誠と同じ想いだったはずだ。でも、小沢の主張でも上層部の意向を覆すことができなかったのなら、刑事のなかで最下位の警部補である誠の言葉など聞き入れてもらえない。

「ねえ、ちょっと気になるんだけど」

 小沢がそう切り出してくれなかったら、誠は行き場のない怒りを八つ当たり同然に発散させていたかもしれない。

「例のオーパーツのコードを基にした遺伝子実験。あれ本当に失敗だったのかしら?」

 それが単純な質問でないことが理解できる。誠も違和感を覚えていた。研究所が撤去されるなか、打ち捨てられたように佇んでいたオーパーツを見つめる三雲の顔。彼女はやはり、あのオーパーツから何かを見つけたのでは。それ故にアンノウンに殺害されたのなら、オーパーツとアンノウンに繋がりがある気がする。思えば、オーパーツの研究が始まると同時期にアンノウンが現れた。無関係とは思えないが、結び付ける材料が足りない。あと少し、あと少し何かあれば真実へ辿りつけそうなのに。

 調べ直そうにも、オーパーツがどこの博物館へ引き取られたのか分からない。ただ遠い昔に製造され、難解なパズルが組み込まれた「だけ」のオブジェを誰が引き取るのだろうか。

 まともな回答を得られないと悟ったのか、小沢はデスクに向いてPCを起動させた。

「何か嫌な感じね。今以上に厄介なことが起こらなきゃいいけど」

 

 

   4

 

「そうそう、ふたりとも土曜日は空けておいてね」

 夕食後にリビングでくつろいでいるなか、志満が何気なしに告げてきた。

 「え?」と美渡がスナック菓子を咥えながら、「何かあったっけ?」と千歌も翔一の淹れたお茶の湯呑を受け取りながら訊く。「もう」と志満は溜め息をついて、

「その日はお父さんの命日でしょ」

 「ああ」と美渡と千歌は声を揃えた。

「お父さんに報告しなきゃいけないこと、たくさんあるんだから。美渡の就職とか、千歌ちゃんの進学とか」

 「あとスクールアイドルもね」と千歌が補足する。これは必ず報告せねばならない。やりたいことが見つかったよ、と。

「じゃあこれ持っていく? ほら、お供え物にさ」

 そう言って翔一がお茶請けに用意した大根の一夜漬けの小鉢を手に取る。「ううん、いらない」と断りながら、千歌は翔一のことも報告しよう、と思った。兄のような存在ができた。記憶喪失で戦士に変身する不思議な人だけど良い人だよ、と。

「お父さんが死んで3年か………。早いもんだね」

 美渡がしみじみと言う。「そうね」と志満が応じ、湯呑のお茶を啜った。

「どういう人だったんですか? 3人のお父さんて」

 翔一が訊くと、志満は湯呑をテーブルに置いてどこか遠くへと視線を向けながら答える。

「大学の教授をしていてね、神話や伝説を研究していたの」

 続いて美渡が、

「たまにしか帰ってこなかったけど。結構忙しかったみたいで大学の近くで家買って住んでたんだよね」

 千歌もふたりの姉と同じように遠くを見やり、父の記憶を土から掘り起こすように回顧した。千歌の父にまつわる最も古い記憶は手だった。とても大きく、幼い千歌の頭を包むように撫でてくれた父の手。

「優しい人だったな。手が大きいの、風呂敷みたいに」

 「風呂敷⁉」と翔一は自分の両手をまじまじと見つめる。実際、そんなに手の大きい人間はいないだろう。父の手が風呂敷のように大きかったのは、千歌が幼かった故の錯覚だ。実際は翔一と同じくらいかもしれない。

 一旦思い出すと、千歌の意識はそのまま海底へ潜るように過去へと遡っていく。父の手がとても大きく見えた頃、千歌が物心のついたばかりの頃の記憶は、今でも鮮明に思い出せる。

 父は仕事が休みの日は必ず十千万へ帰宅し、天気が良ければ千歌と曜、たまに果南も一緒に海釣りへ連れて行った。釣りを趣味としていた父の腕前は確かなもので、毎回アジやサビキをクーラーボックスいっぱいになるまで釣り上げた。幼い千歌たちも子供用の竿を垂らして待っていたが、なかなか釣れずに曜と果南が別の遊びを始めていた。

 千歌は竿を握る父の姿を常に眺めていた。竿を両手でしっかりと持つ父は、竿を通じて魚の泳ぎを読み取っているように見えた。「それ」と父が竿を揚げると必ず魚が食いついていて、父は大きな手ですっぽりと釣れた獲物を千歌に見せてくれた。

 ――お父さんすごーい!――

 千歌が感嘆の声をあげると、父も嬉しそうに娘と一緒になってはしゃいだ。

 ――凄いだろう。お父さんは凄いんだぞ!――

 

 

   5

 

「これでよし!」

 引き戸の真上にある枠にすっぽりと収まったスクールアイドル部の札――「部」が「陪」と間違っているから訂正した――を、千歌はまじまじと見上げる。

「それにしても、まさか本当に承認されるなんて」

 未だに信じられない、でも嬉しそうに梨子が言った。「部員足りないのにねえ」と曜も続く。でも、これは現実だ。先ほど頬をつねってみたところ痛かったから間違いない。

「理事長が良い、って言うんだから良いんじゃないの」

「良い、ていうかノリノリだったけどね………」

 先の理事長室で揚々と紙面に承認の判を押した鞠莉を思い出したのか、曜が戸惑い気味に言う。

「どうして理事長はわたし達の肩を持ってくれるのかしら?」

 と梨子が尋ねた。千歌はさほど深く考えず「スクールアイドルが好きなんじゃない?」と返す。「それだけじゃないと思うけど………」と梨子は腑に落ちないようで顎に手を添える。自分たちの熱意が伝わった、ということで良いや、と千歌は思った。わたし達は条件通りにライブを満員にさせた。だから鞠莉は約束通り承認してくれた。それだけのこと。

「とにかく入ろうよ」

 そう言って千歌は鞠莉から預かった鍵で開錠し、戸を開けて中へ入る。

 部室として割り振られた部屋は随分と物が散乱している。バレーボールにバスケットボールにバドミントンのシャトル、何が入っているのか分からない段ボールの山。使われなくなって久しいらしく、まだ戸の近くまでしか踏み込んでいないというのに3人が中に入ると積もっていた埃が一気に舞い上がった。

「片付けて使え、って言ってたけど………」

 言葉を詰まらせた梨子の続きを千歌が大声で引き継いだ。

「これ全部う⁉」

 せっかく部として本格的な活動ができると思ったのに、出鼻をくじかれた。片付けが終わる頃にはまだ練習する時間が残っているだろうか。練習だけでなく次の曲の制作にも取り掛かりたいというのに。

「文句言っても誰もやってくれないわよ」

 淡々と言いながら梨子は制服の袖をまくる。無言で頷く曜も同じように。仕方ないかあ、と思いながら千歌も袖に手をやったとき、何気なく視界に入ったホワイトボードの文字に気付いた。インクが酷くかすれていて、近くで凝視しなければ見えない。

「何か書いてある」

 「歌詞、かな?」と梨子が言うと、確かに歌詞のフレーズに見えてくる。「どうしてここに?」という曜の質問には「分からない」と答えるしかない。前に使っていた生徒が書いたものだろうか。まあ、今はそんなことはどうでもいい。

 「それにしても」と千歌は備え付けのテーブルや床に散らばっている本に目を向け、

「こんなにたくさんの本、どこに置こうかな?」

 棚は一応あるのだが、殆ど埋まっている。もっとも、整理すれば不要なものが出てスペースは確保できるかもしれないが。

「図書室のものかもしれないし、返しに行こっか」

 と曜は埃まみれの本を集め始めた。

 

 放課後の図書室はとても静かだ。昼休みには少ないながらも利用する生徒はいるのだが、放課後となると多くが部活か帰宅する。勉強するのも、読書をするのもリラックスできる自宅のほうが捗るだろう。だから図書当番でありながら暇を持て余す花丸は、入学間もないながらも読書で下校時間が来るのを待つという業務スタイルを既に確立させていた。

 図書室を漂っていた静寂が、戸を開けると同時に発せられるルビィの声で破られる。

「やっぱり部室できてた!」

 図書室ではお静かに。カウンターの前で子供のようにはしゃぐルビィにそう言うべきなのだが、今は迷惑を被る人は文字通り誰もいないのだから注意するほどのことでもない。

「スクールアイドル部、承認されたんだよ!」

 「良かったねえ」と花丸は笑みを浮かべた。ルビィはとても嬉しそうだった。勧誘してきた千歌に怯えながらも、Aqoursのライブに行くと真っ先に言ったのはルビィだった。普段は人見知りが激しく口数も少ないが、スクールアイドルのことになると途端に饒舌になり、花丸にμ’sなるグループがどれほど凄いのかを教えてくれる。それほどルビィはスクールアイドルが好きということ。

「またライブ観られるんだあ」

 うっとりと両手を合わせたと同時に戸が開く。ほぼ反射的にルビィはカウンターの陰に隠れた。まだ花丸以外とは上手く会話ができない。クラスでもルビィが花丸以外の生徒と話すのところは見たことがなかった。

「こんにちはー!」

 意気揚々と挨拶して図書室に訪れた先輩だったら、隠れても仕方がないかもしれない。そう思いながら、花丸は「こんにちは」と挨拶を返す。千歌と曜と梨子。Aqoursの3人はそれぞれ山積みの本を抱えている。

「花丸ちゃん」

 とカウンターの前に立った千歌は次いで人差し指をカウンターの陰に向け、

「と、ルビィちゃん!」

 「ピギャあ!」とルビィは声をあげた。観念したのか立ち上がり、おそるおそる「こ、こんにちは……」と挨拶する。

「可愛い!」

 そう言って千歌はまじまじとルビィを眺める。向けられる視線にルビィはたじろぎ、どう返していいか分からないようで視線を右往左往させる。それを見かねてか、「千歌ちゃん」と曜が制した。

「もう、勧誘に来たんじゃないでしょ」

 梨子も呆れを口にしながら、カウンターに抱えている本を置く。

「これ部室にあったんだけど、図書室の本じゃないかな?」

 花丸は山の1番上を手に取り裏表紙を開く。頁に図書室の蔵書を示す判が押されている。

「多分そうです。ありがとうございま――」

 最後まで言い切る前に、花丸の手が取られた。傍に立つルビィの手も。千歌はふたりの手を離すまいと強く握り、

「スクールアイドル部へようこそ!」

 「千歌ちゃん……」と梨子が口で制止を試みるも全く効いてなく、千歌は続ける。

「結成したし、部にもなったし、絶対悪いようにはしませんよお」

 鼻息を粗くした千歌の出で立ちは完全に変質者だ。同性でなかったら通報されているかもしれない。いや、同性でもなかなか危うい境界線か。

「ふたりが歌ったら絶対キラキラする。間違いない!」

 容貌がアイドルとして成立すると見初められるのは嬉しいのだが、だからといってふたつ返事で容認できることじゃない。アイドルになるということは、この先輩たちのようにステージで、大勢の人の前で歌って踊るということ。

「おら……」

 「おら?」と千歌が反芻したところで、無意識に祖父母譲りの方言が出てしまったことに気付く。

「ああ、いえ……。マル、そういうの苦手っていうか………」

「ル、ルビィも………」

 しどろもどろに言うルビィに花丸は視線をくべる。違うでしょ、ルビィちゃん。アイドルのライブを観たいんじゃなくて、本当はアイドルになってライブに出たいんでしょ。そう告げたとしても、ルビィの後押しになれる自信がなく口を結ぶ。そこでようやく曜と梨子が助け舟を出してくれた。

「千歌ちゃん、強引に迫ったらかわいそうだよ」

「そうよ、まだ入学したばかりの1年生なんだし」

 「そうだよね」と笑いながら千歌は手を離した。

「可愛いから、つい」

 「千歌ちゃん、そろそろ練習」と曜が促し、「じゃあね」と千歌は手を振ってふたりと共に図書室から出ていく。戸が閉められると、ルビィがぽつりと呟いた。

「スクールアイドルか……」

「やりたいんじゃないの?」

「でも………」

 

 






 本作で千歌ちゃんのお父さんは故人としていますが、原作では健在です。一瞬しか登場しませんが。


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第2話

 

   1

 

「すいません納得はできません」

 毅然とした小沢の声が会議室の壁に反響する。PC画面を通じての会議で、対峙しているという認識はどうにも薄くなりがちだ。だからこうして真っ向から強気でいられるのかもしれないが、小沢なら直接の対峙でも同じ態度でいられるだろう、と隣の席につく誠は思った。

 液晶のなかで警備部長は『何か勘違いしているようだが』と前置きし、

『氷川誠主任がG3システムの装着員として本当に相応しいかどうか、もう一度検討し直す――』

「部長!」

『これは既に決定したことで君が納得するかどうかは問題ではない』

 小沢は誠を見やる。あなたも何か言ってやりなさい、と視線で告げているのが分かる。でも誠にそんな気力は起きない。国家試験に合格しただけで現場を理解せず幹部になったお飾りのキャリア組が知ったような口をきくな。そんな不満は多くのノンキャリア組が抱いているだろうが、大半がキャリア組の上層部に告げれば日本警察の組織形態を全否定しているようなものだ。

 痺れを切らした小沢は早口に言う。

「彼以上にG3システムを理解し、その力を引き出せる人はいません」

『G3システムが大した成果を挙げていないのも事実だ』

 淡々と告げる補佐官に「それは――」と小沢は反論しようとするが、警備部長によって遮られる。

『我々は何も氷川主任を更迭(こうてつ)すると言っているわけではない。もう一度、検討し直すと言っている』

 そこで警備部長は『氷川君、何か言いたいことはあるかね?』と訊いてくる。返答に誠はしばしの時間を要した。G3への執着は、確かに抱いているかもしれない。でもだからといって、それを主張したとしても何か変わるだろうか。自分はG3としての成果を挙げていない。初陣では大破させ、その後の戦闘オペレーションはアギトの加勢で乗り切る始末。

「いや、自分が未熟であることは、自分が1番よく分かっています」

 結局、誠はこの場において最も求められているであろう答えを返す。唯一、その答えを求めていない者がまくし立てる。

「あんたここで弱気になってどうすんのよ!」

 『とにかく』とため息交じりに警備部長が小沢を遮った。早く終わらせたい、というような口ぶりだった。

『結論が出るまでG3ユニットは全ての活動を停止すること。従って君たちは、速やかにGトレーラーから撤収するように』

 『いいね』という圧力のこもった警備部長の声を最後に、通信が切れた。絶望、怒り。それらの感情は誠の裡に全くと言っていいほど湧いてこない。ただ、自分の後任を議論している間にアンノウンが現れたらどうするのか、とぼんやり考えていた。きっとアギトが現れて倒してくれる。そう楽観的に思ってみるが、もしアギトが現れなかったり、もしくはアンノウンに敗れてしまったりしたら。

 何のためのG3だ。何のための警察だ。警察官としての矜持が崩れていくような気がした。

「何よ、頭の固い親父連中が」

 会議室から出るや否や、小沢がそう毒づく。

「声が大きいですよ、小沢さん」

 皮肉を飛ばしてくる声に振り向くと、署内では目立つ仕立ての良いスーツの北條が廊下を歩いてくる。

「話は終わりましたか?」

 どうやら偶然通りかかったわけではないらしい。また何か嫌味でも言いに待っていたのか。それとも――

 疑念を小沢が口に出す。

「あなたのせいね。どういうつもり? 一体上に何て吹き込んだの?」

 向けられる嫌悪に北條はふ、という微笑で応え、

「私は知りませんよ、何も」

 「失礼します」と会釈し、北條は会議室のドアを開ける。中へ入る直前、彼がこちらへ笑みを向けるのを、誠は見逃さなかった。

 

 Gトレーラーが本格的に運用されてからまだ2ヶ月程度だが、カーゴ内にはすっかりユニットメンバーの私物が溜まっている。車内をオフィス代わりに使用していたために、それらを整理する前に尾室は少し気疲れしているようだった。職場に私物を持ち込むことは極力控えていた誠は段ボールひとつで事足りたが、尾室は既に3個目にファイルを詰めている。

「ひょっとして、俺も小沢さんもお払い箱になっちゃうのかな」

 溜め息と共に尾室が言った。G3運用に際して疑問視されているのは装着員である誠だけのはず。なら尾室は引き続きユニットのオペレーターとしてGトレーラーに戻るだろう。小沢は分からない。いくら彼女がG3を開発した才媛だとしても、先の会議の場での態度は上層部にとって目障りに映るかもしれない。誠の戦闘オペレーションの失態もあって、ユニットから降ろされる名目は十分に成立してしまう。

「済みません、僕のせいで」

「あ、別にそういう意味じゃないんですけどね。ただ、何か寂しいですよね」

 尾室の言葉で、誠はG3ユニットを離れることの意味に気付く。本庁所属の自分たちはこの沼津から離れるという意味だ。仕事ばかりで故郷の空気を感じる間なんてなかったから、そう思うと寂しさが思い出したように湧いてくる。せめて、十千万で一泊だけでもゆっくりしていきたかった。

 カーゴのドアが開き、小沢が入ってくる。「分かったわよ。北條透、やっぱりあのバカ男のせいだったわ」

 先にカーゴに戻るように、と別れたあと、やはり小沢は北條について訊き回っていたらしい。そしてやはり、小沢にとって不愉快な事実を突き止めた、と怒り心頭な声色で分かる。

「あのアホ男、あかつき号事件のことで上層部をゆすったらしいの。事件の裏をマスコミに流す、って」

 小沢はどか、と椅子にふんぞり返る。そんな彼女に怯えながら、尾室がおそるおそる訊いてくる。

「あかつき号事件て、氷川さんがたったひとりで遭難したフェリーから乗員乗客を救出した、っていうあれですよね。あれでどうして上をゆすれるんです? あの事件に裏なんてあるんですか?」

「あのとき何故海上保安庁はあかつき号を救出に向かわなかったのか」

 小沢の提示した問いに尾室は「そういえば、確かにおかしいですね」と呟く。小沢は続けた。

「その日海上保安庁の巡視船は田子(たご)浦港(うらこう)っていう港にある人物を迎えに出払っていたの。当時本庁の警視正だったお偉方をね。お偉いさん同士が幼馴染の関係にあった。要するに里帰りした友人を迎えに行ってたのね」

「なるほど、巡視船を私用に使って救助信号を無視したってわけですか」

 公用の船を使っての私的な送迎。公務員にとってはそんな些細なことも大問題になりえる。給与が税金で賄われているから世論の反発は免れない。しかし悲しいかな、警察内部においてはよくある話だ。当時の巡視船は不幸にもあかつき号事件と重なってしまったことで不正が明るみになったということ。

 でも誠は、救助信号が無視された原因がお偉方の私用だけでないことを知っている。当事者だからこそ。

「いや、それよりもまず海上保安庁は救助信号を信用しなかったんじゃないかと思います」

 「どういうこと?」と小沢が訊いた。誠はその日の、まだ鮮明に思い出せる記憶を回顧しながら語り始める。

「不思議な日でした。僕だってまさか、あんな事故が発生するとは思わなかった」

 

 その日は1年と半年前の夏で、誠は当時静岡県警の巡査として、静岡市清水区の派出所に勤めていた。

 日常業務のパトロールルートだった駿河湾の沿岸は快晴だった。雲はひとつもなく、水平線まで広がる青空は同じ青色を映す海との境界を曖昧にしていて、パトカーの窓から眺めて気持ち悪いと思ったほどだ。

 青い海の一画で生じていた現象を目撃し、誠はパトカーを止めた。最初は蜃気楼かと思った。でもそれは空気の揺らめきではなかった。光の柱が海に立っていた。その柱が海底から空へ突き出しているのか、空から海に突き刺さっているのか分からない。

 稀に、雲中の氷の粒が陽光をプリズムのように反射して光の柱を伸ばす現象を聞いたことがある。でも、その日は快晴で雲なんてどこにも見当たらなかった。それに、あの光は陽光の反射にしては、はっきりとし過ぎていた。まるでそこが第2の太陽のように。

 

「そして現場に向かった僕は、光のなかで暴風雨に見舞われているあかつき号を発見したんです」

 思い出せば思い出すほど奇妙だ。現地の漁師から借りたボートで辿り着けるほどの距離だったというのに、その光のなかだけピンポイントで嵐が吹き荒れていた。ならば、あの光は超小型の台風が陽光の加減で柱のように見えたのだろうか。いや、台風なら中心は「台風の目」になるはず。中心点だけ暴風雨だなんて「ありえない」ことだ。

「そうだったの。初めて知ったわ」

 小沢が言った。尾室も腕を組んで唸るように、

「海には謎が多い、って言いますけど、本当不思議なことが起こるものなんですね」

 「だけど」と小沢が話題を軌道修正する。

「だからといって本庁の罪が消えるわけじゃないわ。北條透の脅迫は十分成立する」

 あなたは賄賂を受け取ったんだ、と北條から言われたことを思い出す。確かにそうかもしれない。首都警察というポストを与えると同時に、自らの管轄内に置き誠が口を滑らせないか監視する。辻褄の合う話だ。

 小沢は立ち上がり、誠を見上げる。

「氷川君、G3の装着員としてのあなたの立場、危ういわね」

「とにかく今は、上の決定を待つしかないでしょう。たとえG3を使えなくなっても、自分は自分なりにアンノウンと戦っていければと思っています」

 G3装着員であること以前に、誠は刑事だ。ユニットが活動停止したとしても、アンノウンは待ってくれない。ならば一刻も早く、アンノウンが人間を襲う理由を突き止めなくては。有事の際にだけ動くのが警察じゃない。起こる前に防がなくては、警察の矜持は今度こそ堕ちる。

「でも、具体的には何をするつもり?」

「もう一度、高海さんに会いに行きます」

 

 

   2

 

 スクールアイドルになりたい。

 そんなルビィの望みを、花丸は漠然とだが感じ取っていた。部もできたことだし、入部を申し込めば簡単にその望みは叶う。たった1歩で叶えられるのに、ルビィは踏み出そうとしない。そのことにやきもきする気持ちはあったが、どうにも人見知り以上に1歩を踏み出せない理由があることも感じ取っていた。

 黒澤ダイヤ。

 浦の星女学院生徒会長で、ルビィの姉。実際に会ったことはないが、その人柄はルビィからよく聞いている。ルビィにとって自慢の姉であるダイヤは、網元である黒澤家の娘として幼い頃から茶道、華道、琴、日本舞踊といった様々なものを嗜み、それらを完璧に習得したらしい。古くから続く文化で育ったダイヤにとって、文化も伝統もないアイドルとは俗なものに見えるのかもしれない。

 その推測が、間違いだったことを花丸は知る。ルビィ本人の口から聞いたことで。

「お姉ちゃん、昔はスクールアイドル好きだったんだけど――」

 バス停で海を眺めながらルビィの語るダイヤの姿を、花丸は懸命に想像しようと試みる。入学式の生徒会長挨拶で凛とした佇まいだったダイヤから、アイドルが好きな年相応の感性を持った少女へと。

「一緒にμ’sの真似して、歌ったりしてた」

 読書で現実と離れた世界に意識を落としているのだから、想像力を働かせることに自信はある。でも、とてもアイドルファンとしてのダイヤは想像しがたい。あの硬派な生徒会長が、家では妹と共にアイドルのコスプレをしていただなんて。

「でも、高校に入ってしばらく経った頃――」

 そう語るルビィの表情が曇った。ダイヤが高校1年になった年の半ば。家でアイドル雑誌を読んでいたルビィに、ダイヤは冷たく言い放った。

 ――片付けて。それ、見たくない――

 まるで汚いものを見るような眼差しだったという。

「そうなんだ」

「本当はね、ルビィも嫌いにならなきゃいけないんだけど………」

「………どうして?」

「お姉ちゃんが見たくない、っていうもの好きでいられないよ」

 どうしてそういう理屈になるんだろう、と花丸は思った。スクールアイドルが嫌いになった理由は知らないが、それはダイヤ自身の問題。ルビィにまで嫌悪を押し付けていい根拠なんて、どこにもない。

「それに………」

 言葉の途切れたルビィに「それに?」と促す。ルビィは俯いた顔を挙げて、

「花丸ちゃんは興味ないの? スクールアイドル」

「マル? ないない」

 突拍子もない問いに面食らって、花丸は上ずった声で応えた。何故そこで自分が出てくるのか。今までアイドルに興味を示したことなんてなかったのに。Aqoursのライブに行ったのもルビィに誘われなければ行かなかった。

「運動苦手だし。ほら、『おら』とか言っちゃうときあるし」

 そう言うと、ルビィは笑みを向けた。アイドルを語るときとは全く違う、寂しさを隠すような笑みだった。きっとルビィは、花丸の答えを知っている上で質問をしたのだろう。自分を納得させるために。

「じゃあルビィも平気」

 

 

   3

 

 十千万へ向かう途中、誠は淡島のドルフィンハウスに立ち寄った。平日の昼間だが客はいるようで、「ありがとうございました。またよろしくお願いします」と果南は髪を湿らせた客を見送っていたところだった。店のウッドデッキへの階段を上る誠に気付いた果南は、高校生にして職業病なのか「いらっしゃ――」と言いかける。

「済みません、仕事中に」

「いえ、今日は空いてますし大丈夫です」

 「どうぞ」とテーブルを指し示すが、「いえ、すぐ行きますので」とやんわり断る。

「今日はどうしたんですか?」

「もうあの生物が襲ってくる心配はなさそうなので、松浦さんの護衛が解かれることになりました。そのことを伝えに」

 アンノウンによる高所落下の不可能犯罪は止んだ。また新しい個体に狙われる可能性も捨てきれないが、ひとまずは解決ということで処理されている。とはいえ、G3で撃破したわけでもなく、アンノウンの消滅を目撃しながらも上層部に揉み消されるという形になったが。

「わざわざありがとうございます」

「ご家族の様子はどうですか?」

「あれから何も起こっていませんし、両親も落ち着いてますよ」

「そうですか、良かった」

 まだ子供だからトラウマになりはしないか気掛かりだったが、果南は誠が思っているより成熟しているらしい。安堵の溜め息をつくと「あ、そうだ」と果南は思い出したように、

「お礼にお土産でも持って行ってください。うちの干物、味は折り紙付きですよ」

「いえ、仕事でやったことなので――」

 断ろうとしたが果南は聞かず、中へ入ろうと踵を返す。歩き出そうとしたところで、その足が止まった。いつからいたのか、制服を着た金髪の少女が果南の胸元に顔を埋めている。

「やっぱりここは果南のほうが安心できるなあ」

 「って、鞠莉!」と果南は鞠莉と呼んだ少女を引き剥がす。刑事としてここは注意するべきか、誠は迷った。鞠莉が男性なら明らかわいせつ行為なのだが、同性で顔見知りなら友人としてのスキンシップかもしれない。スキンシップにしても行き過ぎな気がするが。

「果南、Shiny!」

 そう言って鞠莉は再び果南に抱き着く。

「どうしたのいきなり?」

 今度は成すがままに抱擁を受け入れた果南は、険のこもった声色で尋ねた。鞠莉は抱擁を解くと真っ直ぐと果南の目を見据え、

「Scoutに来たの」

「スカウト?」

「休学が終わったら、School Idol始めるのよ。浦の星で」

 スクールアイドルとは何だろう、と思ったが、このふたりの間に割って入り質問できる雰囲気でないことを誠は察した。果南は眉根を寄せて鞠莉を睨んでいるのだから。

「本気?」

「でなければ、戻ってこないよ」

 果南の表情がより険しくなった。初めて見る顔だ。客商売をしている身なら、普段からこういった表情なんて出さないだろう。雰囲気に耐えかねて、誠は告げる。

「関係のない僕が言うのもなんですが、無理に誘うのは良くないかと」

 ふたりの視線が誠に向いた。果南は後ろめたくなったのか顔を背け、鞠莉のほうは誠の顔をじっと見上げてくる。

「あなた……」

「何か?」

 「刑事の氷川さん」と果南はぼそりと告げる。果南は苦笑を誠に向けて、

「氷川さん、お土産すぐに持ってくるので少し待っていてください」

 そう言って、果南は店内へと急ぎ足で入っていく。彼女の背中を眺めながら、鞠莉が独り言のように呟いた。

「相変わらず頑固親父だね」

 

 

   4

 

 翔一がほぼ毎日掃除をしているおかげで、十千万の居住スペースにはほとんど塵が落ちていない。でもだからといって、さぼってしまえばすぐに塵は積もる。たった1日でも人が過ごす部屋というものは結構汚れるものだ。居間にも、昨日美渡が食べたスナック菓子の欠片が結構落ちていた。

 居間の隅々にまで掃除機をかけると、翔一は千歌の部屋に入った。残りはこの部屋だけ。何故最後にしたかというと、千歌の部屋が最も時間が掛かるから。

 女の子の部屋の割には散らかってるんだよねえ、と思いながら翔一は掃除に取り掛かる。まず床に物が散乱していては掃除機をかけられない。水族館で買ったという伊勢海老のぬいぐるみを定位置であるベッドに置き、脱ぎ捨てられた寝間着は畳んでミニテーブルに。何冊ものスクールアイドル雑誌を本棚に戻そうとしたのだが、押しのけた英和辞典が床に落ちてしまった。持ち主の不勤勉さを物語るようにまったく傷みのない辞書のページから、落ちた拍子に新聞紙の切り抜きが何枚も散らばる。

 手に取ると、全て同じ内容の記事だった。見出しは「大学教授、他殺体で発見」というもの。紙面には犯行現場と被害者の顔写真が掲載されている。被害者は高海伸幸(のぶゆき)というらしい。

「嘘だろ、千歌ちゃんのお父さんて殺されたわけ?」

 思わず声をあげると同時、脳裏に映像が現れた。写真とよく似た、いや、これは紙面のモノクロ写真にそのまま色を付けたような景色、同じ場所だ。写真と違うのは、その一角でスーツを着た中年男性がだらりとスーツを投げ出していること。次々と知らないはずの風景が飛び込んでくる。全ての光景が早く過ぎ去っていくようで、処理が追いつかないのか目眩がしてくる。視界がぼやけていく。黒いもやのようなものがかかり、全てが真っ黒に塗りつぶされて――

 翔一は意識を失った。

 

 



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第3話

   1

 

 何とか3人がかりで部室を片付けたものの、時間をかけてしまった。余裕があれば海岸でダンスの練習でもしたかったが、疲労もあるし無理はよくない。そういうわけで、疲れてもできる曲作りを千歌の家でするという方針になった。曜は曲作りに関してはからっきしだが、衣装についても話し合いたい。

「ただいまー」

「お邪魔しまーす」

「お邪魔します」

 千歌、曜、梨子の声が、十千万の居間に吸い込まれるように消えていく。とても静かだった。宿泊客も部屋でくつろいでいるか、出払っているらしい。自分たちを出迎える沈黙に、千歌は「あれ?」と首をかしげる。

「誰もいないの?」

 梨子が訊くと、千歌は明後日のほうを向き、

「翔一くん、買い物かも」

「でも、バイクあったよ」

 曜の指摘に千歌は「うーん」と唸るが、「とにかく部屋行こ」と2階への階段を上っていく。曜と梨子も後に続いた。千歌の部屋の前に掃除機が放置されている。襖も開いたままだ。

 「ん?」と小首をかしげながら、千歌は自室へ入ると同時に声をあげる。

「翔一くん!」

 梨子も曜と一緒に入ると、床で翔一が倒れている。「どうしたの翔一くん!」と千歌が肩を揺さぶっても、翔一の目蓋は開く気配がない。突然のことで困惑はあったが、曜は冷静を保ちつつ対処に入る。

「千歌ちゃんは脈があるか確かめて。梨子ちゃんは救急車」

 曜の指示に従い、千歌は翔一の胸に耳を当て、梨子はスマートフォンを取り出す。呼吸を確かめるため、翔一の頭を固定しようと額に手を添えたときだった。

 黒い霧のようなものが脳裏をよぎった。朧気だったもやがはっきりと像を成し、狭い路地の光景になる。誰かが見たものを、そのままの視点で見せられているようだった。視点の主は薄暗い路地を進み、その先で中年男性が地面を這いながらこちらに怯えた目を向けている。

 この男性を曜は知っている。幼い頃に海釣りへ連れて行ってくれた千歌の父、高海伸幸だ。

 ――やめてくれ………――

 うわ言のように伸幸が呟いている。ごぼっ、と口から血の泡を吐いて、瞳が閉じられると頭が力なく垂れる。伸幸は3年前に亡くなった。当時、連日ニュースで報道された現場にこの光景の場所が似ていることに気付く。いや、似ているどころか同じだ。

 視点の主は伸幸を置いてその場から離れていく。粗い息遣いが聞こえた。息をあえがせながら走り、地下道へと潜り込んで――

「曜ちゃん?」

 不意に声が聞こえて、光景は霧のように脳裏から消滅する。視線を下げると、翔一が心配そうに曜を見ていた。「良かったあ」と千歌が溜め息をつく。慌ててスマートフォンの通話を止めた梨子も同じように溜め息交じりに、

「一体どうしたんですか?」

「さあ、確かここで目眩がして………」

 良かった、と思う余裕がなかった。さっきの光景は翔一の失った記憶なのだろうか。

「翔一さん、出ていってくれますか」

 無感情に言うと、「え?」と皆が一斉に曜へ視線を集める。

「でもほら、まだ掃除終わってないし――」

「それはわたし達がやりますから、出ていってください」

 思わず声を荒げてしまう。翔一は罰が悪そうに「はい」と言って部屋から出て行く。千歌と梨子は困惑の視線をこちらへ向けている。

「曜ちゃん、急にどうしたの?」

 尋ねる千歌を曜はじ、っと見つめる。先の光景を話すべきだろうか。翔一の記憶らしき、伸幸の死の瞬間を。身内の死の真相を知る権利は当然ある。でもそれが、身近にいる存在が家族に手を下したと知れば、千歌の心に一生消えることのない傷を付けてしまう。

 曜は無理矢理に笑顔を繕った。

「翔一さんいると、作業進まないし」

 

 

   2

 

 十千万を訪問すると、誠を出迎えたのは翔一だった。

「高海さんは?」

「千歌ちゃんなら部屋にいますよ」

「志満さんです」

 溜め息を挟んで誠は言った。悲しいかな、慣れつつある翔一のおとぼけだ。

「志満さんなら旅館協同組合の集まりで遅くなる、って言ってました。中へどうぞ、お茶でも淹れますから」

「お構いなく、日を改めてまた伺いますから」

「いやあ、お客さんにお茶くらい出すのは当然のことです」

 「ささ、どうぞ」と促されるまま、誠は居間の座布団に腰掛ける。また不可解な殺人事件が起こったらしいから署に戻りたいのだが、お茶を飲むくらいなら良いだろう。

 翔一はお盆を手に戻ってくると、テーブルに茶器を並べる。受け皿付きの湯呑、急須、茶筒、水指。お茶というのは結構道具がいるものだ。急須に適当な量の茶葉と熱湯を入れて湯呑に注ぐだけと思っていた。

「随分丁寧に淹れるんですね」

「そうかな? お客様ですから」

 宿泊客にも、翔一は普段からこうしてお茶を淹れているのかもしれない。水指のお湯をまだ茶葉を入れていない急須に注ぐ翔一に、誠は尋ねる。

「ひとつ訊いていいですか?」

「はい?」

「君は超能力というものを信じますか?」

 「うーん」と唸りながら翔一はお湯の入った急須を回し、熱を均一にしていく。

「信じません」

「何故です?」

「俺が超能力者じゃないからです」

 なるほど、と誠は納得できた。確かに超能力なんて不可思議なもの、身の回りになければ信じようもない。誠もアンノウンによる事件がなければ信じなかった。

「あ、違った。やっぱり信じます」

 そう言って翔一は湯呑にまだ無色な急須のお湯を注ぐ。

「信じる、何故? いま信じないと言ったばかりじゃないですか」

「俺、超能力者でした。ちょっと違うような気もしますけど、多分似たようなもんです」

「超能力者……、君が」

 誠はまじまじと翔一を眺める。翔一は急須に茶葉を入れて、湯呑のお湯を急須に戻した。

「見せてください」

「駄目です」

「何故です? 自分の力を制御できないということですか?」

「いえ。前はそうでしたけど、今ではちゃんと自分の意思でやっています」

「じゃあ何故?」

 「んー」と翔一は湯呑の水気を布巾で拭き取りながら、

「氷川さんきっと驚いちゃうから………」

「テレパシーですか? サイコキネシスですか?」

「違います。もっと全然凄いやつです」

「自分は刑事です。大概のことには驚きません」

「絶対絶対驚いちゃいます。もしかして気絶しちゃうぐらい驚いちゃいます」

「ではせめてどんな力なのか教えてください」

「強くなるんです」

「それで?」

「パンチやキックで相手と戦います」

「………もしかしてからかってるんですか?」

「とんでもない、マジです」

 付き合っていられない。興奮が一気に冷めて目眩がしてくる。翔一の言った通り気絶してしまいそうだ。

 待てよ、と誠は思い直す。もし翔一が本気で自分を超能力者と「思い込んで」いるとしたら。

「君はお酒を飲みますか?」

「お酒ですか? 飲みませんけど、どうしてそんなこと訊くんです?」

 「いや、別に」とはぐらかした。巡査時代に酒乱癖のある酔っ払いを介抱した経験から翔一もその類かと思ったが、見たところアルコールの影響は無さそうだ。そもそも本人が飲まないと言った。これも詰まらない冗談だろう。

「そうだ、昨日常連のお客さんから貰った美味しい茶菓子があるんです。待っててください」

 水気を取った湯呑を置いて、翔一が台所へと向かっていく。早くお茶を頂いて署に戻ろう、と思い誠が急須を取ると、

「駄目ですよまだ。お茶っ葉がお湯に馴染むまで待たなくちゃ」

 目ざとい注意を受け、誠は素直に急須を置いた。茶葉がお湯に馴染むまで何分待てばいいのか。まあ、そんなに長い時間待つ必要もないだろう。翔一が茶菓子を持ってくる頃には飲んでもいいはずだ。

 誠は腕を組み、しばらく同じ姿勢のまま待ち続ける。何だか瞑想しているような虚無に耐え切れず急須の蓋を開けて中を覗いてみる。十分に茶葉は抽出されていると思うが、ここで淹れると翔一が小うるさそうだ。誠は蓋を閉じて待ち続ける。一体、翔一は茶菓子の用意にどれだけ時間をかけるのだろう。

 

 

   3

 

 真夏日のような熱気に、善子は熱中症を起こすのではと思った。

 とはいえこの日はまだ初夏に入ったばかりで、夕暮れ時ということもあり気温はそう高くない。暑さの原因は善子の冬物のコートにマスクにサングラスという出で立ちにあった。高校に入学して早々に起こした失態から知り合いに遭遇するのを怖れた結果がこの変装だ。内浦にある浦の星女学院の生徒で沼津市街に住む者はそういないと思うが、万が一という場合もある。現に先ほど、駅前の本屋で同級生の花丸を目撃したから警戒意識はより強い。

 本屋で購入した『天使図鑑』という本を抱えて自宅のマンションまで歩いたところで、ふと善子は後ろを振り返った。誰かに見られている気がする。道路には車が行き交っているばかりで、通行人は善子の他にはいない。視界の隅、茜色に染まった空に黒い点がある。カラスだろうか。サングラスをずらして凝視してみると、カラスにしては大きい気がする。人のようなシルエットだった。真っ黒で腕からは鳥のような羽がある。

 まさか、堕天使。

 思うと同時にまさか、とかぶりを振る。だがシルエットはこちらへ近付いているようで、瞬く間に大きくなっていく。何やら不気味な寒気を覚え、善子は走った。マンションの前を素通りし、狩野川にかかる御成橋に出る。堕天使のようなシルエットは空から明らかに善子めがけて滑空してくる。近付いてくるにつれて、まるでカラスのような黒いくちばしがはっきりと視認できた。

 突然、堕天使は方向転換する。旋回し、離れた所にあるあゆみ橋にそびえ立つ鉄塔の頂に停まる。

 バイクのエンジン音が聞こえてくる。御成橋の下、川沿いに整備された遊歩道からだ。銀色のバイクが停車し、運転手がヘルメットを脱いであゆみ橋の方角を見据えている。バイクのシートから降りた運転手は若い青年だった。どこかで見たような気がする。記憶を探る間もなく、驚愕の光景に善子は青年を凝視した。

 青年の腹で光が渦巻き、ベルトを形成して腰に巻き付く。

「変身!」

 力強く告げて、青年はゆっくりと歩き始める。1歩進む毎に、ベルトのバックルから発せられる光が強くなっていく。橋の真下へと進んだところで、青年の姿が隠れた。善子は対岸へ走り、そこから出てくるであろう青年を目で追おうとする。

 だが、出てきたのは青年ではなかった。それは金色の戦士だった。

 堕天使が鉄塔から飛び経つ。両腕を広げ、漆黒の羽を散らしながら猛スピードで滑空してきた。衝突しようと向かってきた堕天使を戦士は紙一重で避け、その背中に裏拳を見舞う。多少バランスを崩しながらも堕天使は体制を整え、急旋回して再び戦士へ向かっていく。今度も避けようとしたが、その頬を堕天使の拳が掠めたことでよろめいてしまう。

 堕天使が三度急旋回し、戦士めがけて滑空していく。戦士は両脚を広げてどっしりと腰を落とした。額から伸びた2本の角が開く。

「何よ、あれ………」

 善子は思わず呟く。こんなこと起こるはずがない。堕天使が現れて、見知らぬ青年が金色の戦士に変身して、目の前で戦っているなんて。

 戦士の足元に紋章が浮かぶ。戦士の角に似た紋章が渦を巻き、その足に集束していく。堕天使が肉迫しようとする直前、タイミングを見計らったのか戦士は跳躍した。人間では跳べない高さに身を躍らせ、キックの体制を取って堕天使を迎え撃つ――

 その足が触れようとした瞬間、堕天使の体が弧を描いた。空を蹴った戦士の真上へと回り、がら空きになった胸を蹴り落とす。突然の反撃に戦士も対処できず、受け身も取れないまま地面に背中から落ちた。角が閉じられる。

 胸を押さえながら立ち上がると、それを待っていたかのように堕天使が空から突進してきた。戦士の体を持ち上げたまま上昇し、川沿いにあるビルの壁に打ち付ける。衝撃で離れた戦士の体が、成す術なく地面に叩きつけられた。「うう……」と呻きながら戦士は立ち上がる。そこへ再び堕天使は滑空し、強烈な頭突きを戦士に見舞った。戦士の体が大きく突き飛ばされる。御成橋の中腹にぶつかり、鉄柵を掴んで橋上へ上がろうとする。善子は戦士のもとへ走った。助けないと、何故かそう悟った。

 善子が辿り着くまであと数メートルのところで、戦士の手が鉄柵から滑り落ちる。金色の体は重力に従って落ちていき、狩野川に飛沫をあげて沈んでいった。

 「ふっふっふ……」という気味悪い声を聞き取り、善子は上空を見上げた。あの声は堕天使のものか。堕天使は善子を一瞥する。背中に冷や汗が流れ、脚が震えた。そんな善子を嘲笑うようにまた「ふっ」と笑みを零し、堕天使は沼津市街のビル群へと飛び経ち、その陰に消えていく。

 がくり、と善子はその場に座り込む。全てが一瞬のように短く過ぎ去った。これは夢だろうか。いや、夢だとしたらこの上気する鼓動は何だ。あれは全て現実だったのだろうか。駄目だ、頭が混乱して思考がおぼつかない。

 未だに冷め止まない体温を確かに感じ取りながら、善子は呟いた。

「堕天使って、本当にいたんだ………」

 

 

   4

 

「翔一君まだ帰ってきてないの? 珍しいわね」

 夜も更けた頃に帰宅した志満が、無人の台所を眺めて呟く。長姉を出迎えた千歌はまた戦いに行ったのかな、と何となくだが悟った。

 居間でテレビを観ながら羊羹を――台所に放置されていたものだ――つまみながら美渡が、

「翔一も年頃なんだし、夜遊びくらいするよ」

 何て悠長なことを。千歌は皮肉を込めた視線を次姉に送る。気付きもしない美渡はテーブルに放置されたままの茶器を指さす。

「そういえばさっきまで刑事さん来てたよ。また今度来るってさ。何か訊きたいことがあるんだって」

 千歌は部屋で曜、梨子と一緒に曲の打ち合わせをしていたから気付かなかったのだが、誠が訪問していたらしい。翔一が対応していたそうだが、いつの間にか外出していたとか。

 志満は「そう」と応え、台所に脱ぎ捨てられたエプロンを着る。翔一が着ているものだから、志満にはサイズが大きい。

「さ、晩ごはん作るから手伝って」

 「えー?」と千歌は美渡と共に口を尖らせる。妹ふたりに志満は溜め息まじりに、

「翔一君がいないんじゃ、私たちがするしかないでしょ」

 仕方ない、と自分に言い聞かせて、千歌はテーブルの茶器をお盆に乗せ始める。翔一のことも心配だが、曜のことも気掛かりだった。部屋で話し合うときも明るくて、はきはきとしていて。曲の方向性が定まらず帰路につくまで、曜はいつもの曜だった。なのに、何故翔一にあんな突き放すようなことを言ったのか。曜だって、翔一のことを慕っているはずなのに。

 あの記事を見つけたからだろうか。3年前、父が殺害された事件を扱った新聞記事の切り抜き。当時、千歌と曜が事件を詳しく知りたくて集めていたものだ。曜は翔一にあの記事を知られたくなかったのか。でも、何で隠す必要があるのだろう。翔一だって子供じゃないし、それくらいの受容はできるはずなのに。

 

 バスの車窓から、曜は宵闇の空と同じ色を映す海を眺めた。海には魔物が潜んでいる。そんなおとぎ話を、幼い頃に伸幸が聞かせてくれた。

 その魔物はどんな姿をしているか、誰も知らない。その姿を見た者はみんな魔物に食べられてしまったからだ。魔物は特に子供が大好物だ。だから子供はひとりで海に入っちゃいけない。海の底から魔物が常に目を光らせて、大きな口を開けて一瞬で飲み込まれてしまう。

 伸幸は昔の神話や伝説に詳しかった。大学で教授をしていたから、職務上詳しいのは当然だったのだが。長期の休日が取れると十千万に帰って、夏休みで毎日のように千歌を訪ねた曜にも昔話を聞かせてくれた。伸幸が話す昔話のレパートリーは多様だった。同じ話、似通った話がない。ひとりで百物語すべてを語ってしまいそうなほどに。

 伸幸は釣りにもよく連れていってくれたが、曜はただじっと魚の食いつきを待つばかりの釣りよりも昔話を聞いているほうが好きだった。伸幸はレパートリーの多様さもさることながら、話し方も上手かった。伸幸の口から出る言葉の連なりは曜の脳裏に情景を浮かばせ、意識を現実から遠く離れた場所へと導いてくれた。

 でも、伸幸の語りは3年前に終わった。唐突に、何の前触れもなく。

 曜は目を閉じる。目蓋に覆われた暗闇のなかに、終わりの瞬間が浮かび上がってくる。

 骸になった伸幸を置いて、視点は地下道への階段を下っていく。息をあえがせながら微かに照明が落とされた通路を走り、地上への階段の前で立ち止まると呼吸を整える。その視線の隅で何かが動く。視点がそちらへ向くと、その正体は何てことのない、道路ならどこにでもあるカーブミラーだ。鏡に映った自分自身を他人と勘違いしただけのこと。

 視点がカーブミラーを見たのは一瞬の間だけだった。落ち着きなく揺れているせいで、映った人物への焦点が定まらない。でも、鏡に映った視点の人物は男性のようなシルエットをしていた。

 やはり、あの(ビジョン)は翔一の記憶なのだろうか。そう考えるのが妥当だろう。翔一の額に触れて、どうして翔一以外の記憶が視えたというのか。

 ――まさか、翔一さんがおじさんを――

 その憶測をするのに曜は恐怖する。いつも朗らかな翔一が殺人を、それも伸幸を殺したなんて。確信に至る根拠なんてない。でも、否定できる根拠もなかった。

 

 



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第4話

 

   1

 

 平日の早朝だと、狩野川の遊歩道には殆ど人がいない。時折ジョギングに精を出す若者や、犬の散歩をしている老人を見かけるが、それらの人々が通り過ぎれば無人の静けさに川のせせらぎが際立つ。

 だから、早起きして川の下流へと歩いた善子は、彼をすぐに見つけることができた。御成橋から少し歩いたところで、彼はコンクリートの地面に横たわっている。服が乾いているところ、自力で這い上がってから随分とそこに倒れていたようだ。

 近付いて顔を覗き込んでみる。血色は良く、生きてはいるみたいだ。

「ねえ」

 善子が呼びかけると、青年の目蓋がゆっくりと開く。眠気眼で上体を起こし、青年は「んん………」と両腕を上げて伸びをした。何て呑気なのよ、と善子は心配して探しに来たことを多少後悔する。まあ、大丈夫そうならそれで良い。

「危ない危ない。こんなところで寝ちゃったら風邪引いちゃうね」

 「はあ?」と善子は青年の発言に眉根を寄せる。あんな超人じみた力を持っていながら風邪の心配をするとは。青年は善子を見つめ、

「君が助けてくれたの?」

「いや、ただ起こしただけだけど………」

「ありがとう。俺、津上翔一」

 何をさも当然のように自己紹介するのか。まさかこの青年、昨日あの場に善子がいたことを忘れているのでは。いや、今の善子は変装していないから気付いていないだけかもしれない。

「津島よし――」

 普通に名乗ろうとしたところで善子は改まり、

「………ヨハネよ」

 自分から名乗っておいて何だが、ここは深刻な状況なのではないだろうか。でも翔一と名乗った青年は善子の気持ちなど全く悟っていないようで、朗らかに笑っている。

「ヨハネちゃんか、お洒落な名前だね」

 今までにない反応に、善子はどう返せばいいか分からなくなる。こうして真に受けられると何故か頭が冷静に物事を考えられて、自分の発言が恥ずかしくなってくる。

 翔一は立ち上がると、上流に向かって歩き始めた。御成橋の辺りにはまだ翔一のバイクが放置されたままだから、そこへ行くのだろう。善子は隣に並び、歩きながら尋ねる。

「ねえ、あなた変身してたわよね?」

「うん」

「あれって何なの?」

 「うーん」と翔一は首を傾げながら、

「俺もよく分かんないんだよね」

「分かんないって……、分かんないまま戦ってたわけ? あの堕天使が何者なのかも?」

「まあ、そうなるかな。俺の過去に関係あるかもしれないけど、覚えてないからさ」

「覚えてないって?」

「俺、記憶喪失なんだ。海で事故に遭ったみたいなんだけど、何にも覚えてなくて」

 「そう……」とだけ善子は言った。その割には随分明るいな、と思いながら。翔一があっけらかんと笑うせいか、全く同情が芽生えない。むしろ羨ましいとすら思う。

「まあ、記憶が無いなら無いでいいかもね。思い出したくないことだって、あるかもしれないし」

 あの入学早々に犯した失態を忘れられたらどんなに良いことか。何食わぬ顔して登校して、同級生たちにからかわれても平気なのに。過去が事実でも、覚えてなければ自分のなかでは虚実にできるのだから。

「ごめん」

 そんな声が聞こえて、善子は翔一の顔を見上げる。しまった、という彼の思考が見事なほど表情に出ている。分かりやすい人だな、と善子は頬を緩ませた。

「別に謝らなくていいわよ。ただちょっと恥ずかしいこと思い出しただけ」

「ああ、あるよねそういうの。こんなでかい大根なかなかできないでしょ、ってご近所さんに見せたらもっとでかいのあった、みたいなことでしょ?」

「何か微妙」

「あれ?」

 かさ、という靴裏の感触に善子は脚を止めて視線を下ろす。厚紙で作られたクラフト飛行機だった。この辺で遊んでいた子供が落としたまま放置したのだろう。翼の端が善子の足で潰れてしまっている。拾い上げて翼の曲がり具合を修正すると、善子は対岸へ向けてクラフト飛行機を投げた。

 厚紙の飛行機はとても軽く、エンジンも必要なしに宙を真っ直ぐと飛んでいく。海の方角から潮風の残り香が吹いてきて、僅かに軌道が逸れるも一直線に対岸へと向かっていく。

 あんな風に、わたしもどっか遠くへ飛んでいけたらな………。

 そんな妄想も早くに途切れ、善子はふと翔一を見る。翔一も脚を止めていた。その目はクラフト飛行機を追っている。瞬きもせず、一瞬たりとも視線を外すことなく、翔一はクラフト飛行機を見つめ続けていた。

 

 

   2

 

 まだしばらく、沼津にいることになりそうだな。会議室に漂う重い雰囲気を肌で感じ取りながら、誠は思った。本庁から派遣されてきた捜査一課、静岡県警の捜査一課、そしてユニット活動が停止して手持ち無沙汰なG3ユニットの面々。こうした歪な捜査員が沼津署の会議室に召集され、事件の対策本部が編成されている。

 資料の紙をめくりながら、河野がどこか間延びした口調で事件の概要を報告する。

「昨日までに起こった5件の事件は手口から同一犯による連続殺人と思われますが、それぞれの犯行現場と犯行時間から考えて、これは有り得るはずのない犯罪です」

 『もう少し詳しく説明してくれませんか』と警備部長が画面の奥で言う。会議の場には警備部長と補佐官も、聴聞会と同様に霞ヶ関の庁舎からPCを通じて参加している。「はい」と応えた河野が資料を捲りながら「6ページをご覧ください」と言うと、捜査員たちに配布された資料を捲る音が会議室に伝播する。

「捜査の結果、第1の犯行現場である御殿場(ごてんば)から第2の犯行現場裾野(すその)まで、犯人はおよそ10分以内に移動していることが判明しました。これはどんな手段を使っても無理なことです」

 御殿場市から裾野市までの距離は直線で約15km。車でも30分以上はかかる。つまりこの事件は何か。会議室全体を満たす問いを警備部長が総括する。

『不可能犯罪。アンノウンか』

 犯行がアンノウンによるものならば、確かめなければならないことがある。誠は訊いた。

「被害者たちに血縁関係はあるんですか?」

 河野は資料を置くと手帳を開き、

「被害者5人のうち3人は親子、後のふたりは兄弟で他に身寄りはいません」

 「間違いないわね」と誠の隣に座る小沢が小声で言った。きっと離れた席にいる尾室も、これがアンノウンの犯行と確信しているに違いない。

 そこで、北條が起立する。

「こうなった以上、どうしてもG3システムの力が必要となる。一刻も早く、同システムの装着員を決定していただきたいのですが」

 北條の射貫くような視線に、画面のなかで警備部長と補佐官が苦虫を噛み潰したように口を結ぶ。一蹴できないのは、あかつき号事件のことがあるからか。上層部の沈黙を良いことに、北條は続ける。

「このまま結論を引き延ばしておいても、被害者の数が増えるだけです。選択肢はひとつしかないと思いますが」

 たったひとつの選択肢。それは即ちG3ユニットの活動再開。でも同じユニットメンバーというわけにはいかない。誠よりも上手くG3を動かし、アンノウンと戦える人材が必要だ。でも、果たして見つかるだろうか、と誠は思った。尾室の伝える状況も、それに対する小沢の判断もいつだって的確だった。G3を動かすこと自体も、それほど難しいものじゃない。誠が懸念しているのは、アンノウンが強すぎるということだ。

 人間などいとも容易く踏みにじってしまうほどに。

 

 会議が終わると、捜査員たちは割り振られた班ごとに固まって会議室を出た。指示もなく、それが自然の流れとして。小沢班である誠も尾室と共に上司の後ろを着いていくのだが、後ろから「氷川さん」という北條の声が聞こえ足を止める。

「あなたがG3の装着員から外されたことについては、私も残念に思っています」

 そう語る北條はとても晴れ晴れとした表情を浮かべ、

「でも、あなたが優秀な刑事であることに変わりはない。別の部署で活躍できることを祈っています」

 エリートらしい悠然とした所作で誠の肩に手を添えると、北條は廊下をせわしなく歩く操作員たちのなかへと混ざっていく。彼の仕立ての良いスーツは群衆のなかでもよく目立ち、そう簡単に凡人のなかへ埋もれまいとしているように見えた。

 小沢は北條の背中を睨みながら舌を打ち、

「何て嫌な奴なの」

 「まあそう言うな」と河野が小沢の肩に丸めた資料をぽん、と叩く。

「あれで根は良い奴なんだ」

「どこがです?」

 苛立ちのあまり上ずった声をあげた小沢は眉間にしわを刻み、

「十分悪い奴ですよあれは」

「ちょっと思い込みが激しいだけさ」

 部下に対する苦言を河野は人好しの笑みで受け流し、廊下を歩いていく。河野の背中は北條と違って、すぐに他の捜査員たちに埋もれていった。

「でも氷川さん結構不器用だからな」

 不意に飛んできた尾室の声に誠は振り向く。

「G3の扱いも北條さんのほうが上手かったりして」

 「不器………」と誠は反芻する。自分のどこが不器用だというのか。確かにG3としての戦果は芳しくないが、特別下手というわけでもないだろう。そもそも、自分は高倍率の試験と訓練をパスして装着員として選ばれた。他の候補になった者たちよりも器用なはず。

「ちょっとあんた何てこと言うのよ」

 小沢の指摘で失言と気付いたらしく、尾室は誠に「すみません」と申し訳なさそうに頭を下げる。

 行き場のない苛立ちをどうしたものか、小沢は肩まで伸ばした髪を掻きむしるとため息交じりに言った。

「焼肉でも食べに行こっか」

 

 

   3

 

 十千万に帰宅すると、翔一は真っ先に千歌の部屋へ向かった。

「千歌ちゃん」

 障子の前で呼んでみるも返事がない。恐る恐る開けると、部屋には誰もいなかった。代わりに、ちゃぶ台の上に畳まれた制服がふたり分置いてある。それを特に気に留めることなく、翔一は本棚から英和辞典を引き抜いた。あの新聞記事の切り抜き。被害者の高海伸幸の顔を、どこかで見たような気がする。失った過去に、自分は彼と出会っていたのだろうか。この違和感の正体を探すようにページを捲るが、記事はなかなか出てこない。

「あれ?」

 本を振ってみるが何も落ちない。本を間違えたのか。もしかして記事を挟んでいたのは英和辞典ではなく国語辞典だっただろうか。本棚に戻して国語辞典へと手を伸ばしたところで、

「何してんの翔一?」

 咄嗟に手を引っ込める。仕事用のスーツを着た美渡が開けたままの障子を前にして立っている。「ああ、ただいま」と笑ってはぐらかすと、美渡はにやにやしながら歩み寄ってくる。

「朝帰りなんて初めてじゃない?」

「うん、ちょっとあってさ」

「もしかしてデート? 相手はどんな娘?」

「うーん、飛んでる奴かな」

 「もう」と美渡は肘で脇腹をつつく。

「誤魔化さないで教えてよ」

 「おいおいやめろって」とこそばゆさから逃げようとするが、美渡は止まることなく翔一をつついてくる。

「お客さんに迷惑だろ」

「翔一が早く言えばいいの!」

 と美渡がタックルをかましてきた。あまり強くはないが、勢いあまって翔一の体がベッドに倒れる。ばき、と鈍い音がして、翔一の体が深く沈んだ。底板が折れたらしい。千歌が小学生の頃から使っているベッドも、流石に劣化していたようだ。

「やば………」

 苦笑を浮かべた美渡が隣の自室へと逃げる。「おい美渡待てって」と言ったと同時、翔一の顔に何かが乗ってくる。持ち上げてみると伊勢海老のぬいぐるみだった。

「うー、疲れたー」

 千歌の声が聞こえてくる。まずい、この状況は結構まずい。起き上がろうとするが、底板が抜けたベッドはまるで棺桶のようで狭苦しく身動きが取り辛い。もぞもぞと動いているうちに千歌が入ってくる。続いて曜と梨子が。3人とも練習着を着ていて、汗をかいたのか顔がてかっている。ベッドに寝ている翔一を見て、当然のごとく千歌が訊いた。

「あれ、翔一くん何してるの?」

「いや、これは――」

 ばごん、とベッドの枠組みが崩れた。まるコントみたいに倒れた枠板が顔面に直撃する。

「出てってください」

 曜の微かに険のこもった声が聞こえた。「いや、だからその」と弁明しようと板をどけると、曜の大きな瞳がじ、と翔一を睨みつけてくる。親友のそんな顔に、千歌と梨子は丸くした眼差しを向けていた。

「着替えたいんです。片付けはわたし達でしますから出ていってください」

 

 

   4

 

 スクールアイドルになる。

 いつもと同じように談笑しながら登校し、まだ生徒もまばらな教室に入ると、花丸はその意思をルビィに告げた。何気なしに、という雰囲気で。

 花丸の予想通り、ルビィはとても驚いた。「えええええ⁉」と周囲の目を引くほどの大声をあげて。同級生たちは最初、その声がルビィと気付かなかったようだ。ルビィは普段から声が小さいから。

「どうして?」

「どうしてって、やってみたいからだけど。駄目?」

 「全然!」とルビィは興奮した様子で花丸の顔を見つめる。

「ただ、花丸ちゃん興味とかあんまりなさそうだったから」

 確かに、あまり興味はなかった。アイドルなんて、自分の物語のなかで組み込まれるものじゃない。

「いや、ルビィちゃんと一緒に見ているうちに、いいなあ、って。だから、ルビィちゃんも一緒にやらない?」

「ルビィも?」

「やってみたいんでしょ?」

「それはそうだけど……。人前とか苦手だし、お姉ちゃんが嫌がると思うし………」

 予想通り、拒む理由にダイヤが出てきた。ルビィは意外と強情な面がある。花丸もあまり強気な性分ではないから、この場でルビィを説得することはできないだろう。だから、この手が最も冴えたやり方。

「そっか、じゃあ体験入部はどう?」

「体験入部?」

 

 放課後になると、花丸はルビィと一緒にスクールアイドル部の部室を訪ねた。体験入部したい、と趣旨を告げると3人の先輩、特に千歌は一際嬉しそうに「本当⁉」と声をあげる。

 「はい」と落ち着いた返事をする花丸の隣で、背筋を伸ばしたルビィが「よろしくお願いします」とはっきりした声で言う。

「やったあ!」

 歓喜の声をあげた千歌は曜と梨子の肩を抱き、

「これでラブライブ優勝だよ、レジェンドだよ!」

 何だか早とちりされている気がする。「千歌ちゃん待って」と曜がそれを指摘してくれた。

「体験入部だよ」

 「え?」と表情を曇らせる千歌に梨子が補足するように、

「要するに、仮入部っていうかお試しってこと。それでいけそうだったら入るし、合わないっていうならやめるし」

 「そうなの?」と向ける千歌の視線に花丸は苦笑を返す。

「いや、まあ……色々あって」

「もしかして生徒会長?」

 曜が助け舟を出してくれた。スクールアイドルを嫌うダイヤの、ましてや妹のルビィが部室を訪ねたなんて知られたら良い顔はされない。もっとも、理由はそれだけではないのだか。

「はい。だからルビィちゃんとここに来たのは内密に………」

 ところで、と花丸はテーブルでチラシに何か書いている千歌を見やる。何しているんだろう、と目を凝らすと「新入生 国木田花丸&黒澤ルビィ 参加」とチラシにペンで書き足している。

「できた!」

 満足げにチラシを眺める千歌の肩に曜が手を添えて、

「千歌ちゃん、人の話は聞こうね」

 

 

   5

 

 ホームセンターで買ってきた板を並べ終えて、翔一はふう、と深呼吸する。家具店なら既製品のベッドを変えるだろうが、手作りのほうが安く済む。それに、木材の香りはきっと心地よく安眠できるだろう。もっとも、千歌はどこでも熟睡できるが。

「よし!」

 気合を込めて頭にタオルを巻くと、「すみません」という声が表のほうから聞こえてくる。宿泊客だろうか。正面玄関へ回ると誠が立っている。

「ああ、いらっしゃい」

「志満さんは?」

「まだ帰ってないみたいですけど」

「今日はアポを取ってから来たんですが」

「志満さん意外と時間の観念無いんです。この間なんか――」

 「いえ、ご不在なら結構です」とため息交じりに遮られる。誠は裏へと回り、そこで広げられた木材を見て、

「君は何をしてるんです?」

「ベッドを作っています」

「ベッド? 何故?」

 「いやほら」と翔一は誠を木材のそばへと促す。もう夕方近くだし、人手が欲しいと思っていたところだから丁度いい。

「ちょっと手伝ってくれません? ほら、ここんとこ切ってほしいんですよ」

 そう言って翔一は工具箱から折り畳み式のこぎりを出して誠に握らせる。誠は困惑気味にのこぎりの刃を開いた。「ここです」と翔一は角材の上に置いた板の、鉛筆で引いた線を指さす。はあ、と溜め息を漏らしながらも、誠は無言で板を足で固定しのこぎりで線に沿って切り始める。

 さて、残りの木材も採寸しよう。定規と鉛筆を手にしたところで、鈍い金属音が響く。同時に「あっ」という誠の声も。

 振り返ると、のこぎりの刃だけが板に突き刺さっていて、誠は柄だけを握っている。刃が根本から折れたらしい。のこぎりは引くときだけに力を入れればいい。誠はきっと押すときに余計な力を入れたのだろう。

「うわ、不器用なんですね」

「………不器用?」

 無意識に言ってしまったが、失言だったらしい。誠は威圧するように翔一の前に立ち、

「そんなことありません、のこぎりが悪かっただけです」

 「こっちのを貸してください」と誠は工具箱にあるもう1本を指さす。折り畳み式よりは刃の幅が広くて切れ味も良い。翔一は咄嗟にそれを掴み、

「いやもういいです。こっちのまで壊されちゃ大変ですから」

「そんな心配はありません。僕のほうが上手いはずだ」

「いや、もう結構です」

「いいから貸したまえ!」

 よほど癇に障ったのか、誠は翔一の手からのこぎりをひったくる。奪い返そうと試みたが、誠はすぐさま背中にのこぎりを隠した。刃物を奪い合って怪我なんてさせたら大変だ。ましてや相手は警察。傷害罪で逮捕されかねない。

 仕方ない、と翔一は諦めて誠の好きにさせた。倉庫にまだあったかな、と思いながら板から折れた刃を抜いて再び切り始める誠の手つきを眺める。やっぱり押すときに余計な力が入っている。誠が更に力を込めると、薄いのこぎりの刃はまた根本からばきん、と音を立てて折れた。

「あーあ………」

 結構いいのこぎりなのに、と翔一は溜め息をつく。「いや、これは……その………」と誠が言い訳を探っているとき、着信音が鳴った。丁度いいときに、とばかりに誠は懐からスマートフォンを出して耳に当てる。

「はい。分かりました、至急現場に向かいます」

 通話を切ると、誠は柄だけになったのこぎりを翔一に手渡す。

「失礼します」

 頭を下げて告げると、足早に裏庭から立ち去っていく。弁償代は警察に請求すればいいのかな、と思いながら、翔一は誠の背中を見送った。

 

 



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第5話

 久々に絵描きたいなあ、と思いつくのですが需要あるか微妙でございます。挿絵は必要不可欠ってわけじゃありませんしね。


   1

 

 花丸とルビィの体験入部はタイミングとして良い時期だったな、と梨子は思った。

 まだ設立して間もないスクールアイドル部の活動内容は、まだ手探りと言っていい。練習はしているが行き当たりばったりな面も否めず、決まった練習メニューもない。だから、この体験入部で改めて自分たちも今後の練習を固めていく方向だ。

 まだ手探りではあるが、様々なスクールアイドルのブログを参考に練習メニューを考案した。大半は基礎体力づくりとダンスレッスン。ボイストレーニングも組み込んでいるが、準備運動程度の割合だ。曲作りは別に時間を見つけて作業するしかない。衣装づくりも同様に。

 色々とあるが、最優先に解決しなければならない課題は練習場所だ。

 ひとまず練習着に着替えてグラウンドを見に来たが、ソフトボール部が使用している。バットがボールを打つ音が盛大に響いた。部員たちが声を張り上げる様子を遠目にして、千歌が言う。

「中庭もグラウンドもいっぱいだね。部室もそこまで広くないし」

 隅の一画なら練習に使わせてくれると思ったのだが、あまり現実的ではなさそうだ。ボールがどこへ跳ぶか分からない以上、ここなら絶対に干渉しない、という場所はグラウンドのどこにもない。

 「砂浜じゃ駄目なの?」と曜が訊いた。確かに海水浴場は初ライブ前に使っていたし、悪くはない。

「移動の時間考えると、練習場所はできれば学校内で確保したいわ」

 とはいったものの、と梨子は思う。まだ転校してあまり経っていないから、梨子だって学校施設を完全に把握しているわけじゃない。1年以上いる千歌が険しい表情をしているから、きっと思い当たる場所がないのかもしれない。

 そこで、ルビィが意見を飛ばす。

「屋上は駄目ですか?」

 「屋上?」と千歌が反芻し、ルビィは続ける。

「μ’sはいつも、屋上で練習してた、って」

 有名なグループが屋上で練習してたなんて、と梨子は意外に思った。屋上は広くて練習場所としては好条件なのだが、これから暑くなる季節には直射日光が厳しく日陰になる場所もない。雨が降れば使えないが、それは屋外で活動する部なら共通することか。もしかしたらμ’sも、設立当初は何かと憂き目に遭うことが多かったのかもしれない。

 とはいえ、現状では他に使えそうな場所もない。行ってみると、開けた空気に潮風が吹いていた。青空が広がる屋上を、千歌は「すごーい!」と子供のように駆けた。

「富士山くっきり見えてる」

 帽子を被り直しながら曜が言う。丘の上に位置する浦の星女学院の最も高い場所。何の障害もなく、山頂に雪を被った富士山のシルエットがよく見えた。青々とした山肌は、今にも空に溶けそうだ。

「でも日差しは強いかも」

 花丸が言うと、「それが良いんだよ」と千歌が、

「太陽の光をいっぱい浴びて、海の空気を胸いっぱいに吸い込んで」

 梨子は深呼吸してみる。海から流れてきた潮の香りを仄かに感じ取れる。見上げると太陽が輝いている。言ってみれば、この屋上は内浦で最も太陽に近い場所。輝きたい、という千歌の願いに最も近付ける場所なのかもしれない。

「あったかい」

 屋上のコンクリートの床に触れて、千歌が呟く。皆で集まって同じように触れると、日光で温められた熱が心地良い。思わず昼寝をしたくなってくる。そんなことを梨子が思っていると、花丸が仰向けになって空を仰ぐ。

「気持ちいいずら」

 心地良さそうに目をつむる花丸の隣で、同じように千歌も仰向けになる。

「ねえ、曜ちゃん」

 穏やかに千歌と花丸を眺めていた曜に梨子は呼びかける。「え?」と目を丸くする彼女の耳元に顔を近付けて尋ねる。なるべく責め立てないよう、穏やかな口調で。

「今朝、何で津上さんにあんなこと言ったの?」

 曜の表情が陰りを帯びた。今朝も同じ顔をしていた。昨日、翔一が千歌の部屋で倒れていたときも。

 「ちょっとごめんね」と花丸の頬を指でつついているルビィに断りを入れて、曜は立ち上がる。梨子も立ち、ふたりは3人から少し離れた場所に移動した。

 曜が翔一に腹を立てる気持ちは、まあ理解できる。梨子だって自室に男性が入っていたら驚くし嫌悪だってする。いくら人畜無害な翔一でも。

「女の子の部屋に入る津上さんもデリカシーないけど――」

「ううん、そうじゃないの。千歌ちゃん、翔一さんに部屋の掃除してもらってるから」

 それは年頃の女の子としてどうなんだろう、と呆れながらも、梨子は質問を重ねる。

「じゃあ、どうして?」

 曜は口を結んで視線を落とす。まるで別人みたいだ。いつも溌剌とした曜がこんな顔をするなんて。沈黙は長く感じるが、梨子は急かすことなく待つ。髪を揺らす潮風がやんだところで、曜は言った。

「わたし、翔一さんの記憶が視えたの」

「え?」

 そこで曜は真っ直ぐ梨子を見据え、

「何でか分からないけど、頭の中に浮かんできたんだ。幻覚……、って思いたいけど………」

「津上さんの記憶って………」

 逡巡するしかない。曜の言っていることの意味がまるで分からなかった。記憶が視えるとは、どういうことか。翔一自身ですら思い出せない彼の過去を、曜は知ったということだろうか。困惑と驚愕が入り混じりながらも、梨子は訊く。

「何を、視たの?」

「千歌ちゃんのお父さん」

「千歌ちゃんの?」

 「うん」と首肯して、曜は再び顔を俯かせる。

「千歌ちゃんのお父さん、殺されたの。犯人はまだ捕まってなくて、捜査も進んでないみたい」

 言われてみれば、と梨子は十千万を訪ねた記憶を辿ってみる。何度も訪問しているが、千歌の両親を見たことがない。

 曜は震える声で続ける。

「翔一さんの記憶のなかにおじさんがいた。場所も、多分おじさんの遺体が見つかった場所と同じ」

「まさか、津上さんが犯人だっていうの?」

 安っぽいサスペンスドラマじゃあるまいし、そんな偶然があっていいものだろうか。父親を殺した犯人が記憶を失って、自分の家で悠々と暮らしているなんて。

「きっと気のせいよ。津上さん、犯罪なんてできそうにないし」

「思いたいよ。でも、翔一さんも普通じゃなくて」

「普通じゃないって、どういうこと?」

「翔一さん、変身するんだ」

 ふざけているの、と苛立ちが込み上げるところだった。曜の俯く仕草も、震える声も全てが自分を騙すための壮大な仕込みと思った。でも曜は冗談と明かすどころか、更に神妙そうに、

「翔一さん、変身して怪物と戦ってるの。翔一さんは皆のために戦ってるんだって信じてたけど、でも……翔一さんがおじさんを殺したんじゃないかって思うと、何もかもが信じられなくなって………」

 曜は口を固く結んだ。今にも泣きだしそうな顔をしている。ここまでくると冗談とは思えない。でも、話を咀嚼することもできずにいる。怪物がいて、翔一が変身して戦う。そんなことが、本当に起こっているのだろうか。毎日学校へ通い、こうして練習している日常のどこかで、何が起こっているのだろう。

「まあ、千歌ちゃんにその話はしないほうが良いわね」

 「うん」とだけ曜は弱々しく応じた。他人の曜でさえこの様子だ。身内を亡くした千歌がどれほど気分を沈めることか。

「さあ、始めようか!」

 千歌の声が聞こえた。悟られちゃ駄目。そう梨子が目配せし、曜は首肯していつもの顔つきに戻り、3人のもとへと走り出す。

 

 

   2

 

 現場は高架下の歩道だった。バリケードとして現場を囲うビニールシートの前に、野次馬が集まっている。誠はそれを掻き分けながら進み、野次馬の侵入を阻む警察官に敬礼するとシートを潜る。

 囲われた歩道の一画では、鑑識による痕跡の採取がせわしなく行われている。特に多いのが被害者、つまり死体のもとだ。写真撮影や記録に勤しむ彼等から1歩引いたところで、誠よりも先に現場入りしていた小沢と尾室が死体を睨んでいる。

「またアンノウンですか」

 死体を見て誠は言った。まだ司法解剖に出していないから確定ではないが、恐らく死因は頭部外傷だろう。死体の後頭部からまだ渇き切っていない血が首筋にてらついている。即死だっただろうが息絶えた後も血は流れ続けたようで、地面にも血が広がっていた。人間の頭部は血液が多く通っているから、こうした頭部を損傷した死体からは結構な血が流れる。

 「間違いないわ」と小沢は断言する。

「何とかしないと、このままじゃ被害者が増える一方だわ」

 頭部外傷。全身打撲。脛骨骨折。心臓破裂。一連の不可能犯罪による被害者たちの死因はまちまちだ。でも共通しているのは、どれも大型トラックに匹敵するほどの衝撃を受けていること。それほどの衝撃を街中で受けておきながら、どこの現場にも衝突したと思われる物体の痕跡がまったく残されていない。

 こんな時に、G3ユニットが活動できれば。歯を食いしばるが、同時に自分自身への疑問が沸いてくる。ユニットが機能していたとしても、自分はこの犠牲者を助けることができただろうか。こんな疑問、装着員どころか警察官としても失格だ。できるできないじゃなくて、することが職務だ。そのためのG3システムなのに、満足に成果を挙げられず活動停止にまで追い込んで、こうして犠牲者を増やし続ける。

 僕は何をしているんだ、何のために警察になった。

 G3装着員どころか、刑事としての矜持すらも危うくなってくる。G3を運用できなくても自分なりにアンノウンと戦う。そう決めたはずなのに、結局は何もできていない。

 ただの人間である誠に、アンノウンは決して到達できない存在なのか。

 

 十千万に戻る頃には陽は傾いていて、空はまるで1日中太陽に焼かれていたかのような茜色を映していた。

「氷川さん、これは単なる外れ馬券です」

 誠が見せた馬券の写真とレースの成績表を見ながら、志満は何の気なしに言う。一応捜査上の遺留品のため、犯罪被害者のものだということは伏せてある。あくまでこれは、この馬券を購入した片平久雄が超能力を使っていたか、その是非についての相談だ。

「ただ外れ方に特徴があるだけです。偶然ですよ」

「偶然にしては、出来すぎていると思いますが」

「でも有り得ない話じゃありません。この馬券を買った人が超能力者という証明にはなりませんよ」

 志満は誠に資料を返し、「どうぞ」と居間の座布団に促してくれる。腰を落ち着けたところで、台所から出てきた女性が「粗茶ですが」とお茶をテーブルに置いてくれた。昨日誠が待ちぼうけていたときに帰宅してきた高海家の次女だ。確か美渡と名乗っていたか。美渡が居間から出たところでお茶を啜ると、苦味に思わず顔をしかめてしまう。淹れ慣れていないらしい。

「何の捜査かは分かりませんが、こんなことからは手を引いたほうが良いです。刑事として他に仕事があるんじゃないですか?」

 至極まっとうな志満の問いに、誠はいたたまれなくなり目を逸らす。さっき現場で見た被害者の死体。そう、目下に起きている事件の早期解決が最優先だ。それを被害者たちの共通点が超能力者なんて推理、市民から見れば自分はとんだぼんくら刑事だ。

「すみません、今のは私情でした」

 志満はそう言って視線を落とした。

「私情?」

 思わず尋ねたところで、誠は自分の軽薄さに呆れてしまう。事情に踏み込みすぎてしまった。だが志満は迷惑そうな顔をせず、自分のお茶を啜ると「刑事さんにならお話ししても良いでしょうね」と誠を見据える。

「実は私の、私たち姉妹の父親は3年前に殺害されているんです」

「お父さんが?」

「ええ、犯人はまだ捕まっていません」

 刑事としての立場上、犯罪によって日常の壊れた家庭は何度も見ている。身内の死とは決して癒えない傷だ。前兆のある病や寿命でもなく、殺人事件という突然訪れた死。日常に空いた穴を目撃していながらも、当事者でない誠はその虚無を知らない。一見すれば平和に過ごしていると錯覚できるが、志満も美渡も、そしてあの無垢な千歌も父の死という虚無を背負わされている。

「すみません」

 意味のない謝罪をすると、志満は笑みを零して、

「何も氷川さんが謝ることじゃありません」

 まだ若いのに、何て気丈な人なんだろう。志満のように、一見では分からなくても理不尽な現実を背負わされている人間は多いはず。誠は改めて、自分の刑事としての矜持が問われているような気がした。自分の仕事が、世の中からどれほどの悲しみを減らせるのか。

「できたー!」

 そこで、叫び声が聞こえてくる。どかどか、と床を鳴らしながら、タオルを頭に巻いた翔一が居間に入ってきた。

「氷川さん、ちょっと手伝ってもらっていいですか?」

 またのこぎりを使う作業じゃなければいいが、と思いながら、誠は翔一の後について裏庭へ出た。散乱した木の端材に囲まれてベッドが佇んでいる。既製品と遜色ない出来だ。ニスもむらなく塗られている。

「君は、ずっとこれを作っていたんですか?」

「はい。俺は後ろ持ちますんで、氷川さんは前をお願いします」

 まあ、のこぎりを2本も折ってしまったし、これくらいの手伝いはするべきだろう。

 そういうわけで、ふたりがかりでベッドを入口の広い正面玄関から入れたのは良いが、問題は屋内を傷付けないように運ばなければならないことだ。旅館なのだから、壁や柱に傷を付けるわけにはいかない。清潔を保っているが年季の入った宿だし、その辺に置いてあるインテリアも価値あるものばかりかもしれない。

「すみません、そこの階段の上なんですけど」

 翔一がそう言ってきて、誠は振り返り横幅の狭い階段を見る。「ええ?」と思わず情けない声をあげた。こんな階段に接触もしないでベッドを運べるのか。

 ベッドを縦にして、誠は慎重に1歩ずつ階段を後ろ向きに上がっていく。ようやく階段を上り終えて、ほっと溜め息をついたとき、

「氷川さん、そこ気を付けてください」

 翔一の声に「え?」と眉を潜めると同時、どん、と背中を壁にぶつけた。

「もう一度お願いします」

 罰の悪さを誤魔化すように、翔一は笑いながら言った。あまり広くない廊下に滑り込ませようと、ベッドの角度を変えて再び挑戦してみる。今度はベッドが柱にぶつかった。それほど強い衝撃じゃないから、大きな傷は付いていない。「もう一度」と翔一が言うものだから、今度はベッドを更に傾けてみる。やはりつっかえた。

「もう一度だけお願いします」

「………何度やっても同じですよ」

 

 

   3

 

 スクールアイドルというのはとにかく体力が求められるらしい。花丸とルビィを加えての練習は念入りなストレッチにダンスレッスン、その後に休憩がてら新曲の打ち合わせ。Aqoursは曲まで自分たちで作っているという。だとすると初ライブで披露した『ダイスキだったらダイジョウブ!』も、曲と振り付けと衣装全てを2年生の3人だけで作り上げたということだ。

 凄い、と花丸は率直に思った。本を読んで「消費」するばかりの花丸に、彼女たちのように何かを生み出せる自信はない。

 互いに協力し切磋琢磨して歌を作る。少しだけ、ルビィがスクールアイドルを好きな理由が分かった気がした。確かにこんな風に、一緒に何かをするのは楽しいかもしれない。

 実際、花丸の目から見てルビィはとても楽しそうだった。初参加のダンスレッスンでは2年生に後れを取ることなく、完璧にステップを踏んだ。ルビィのアイドル好きは並じゃない。きっと色々なスクールアイドルのダンスを見ていくうちに、鋭い観察眼を身に着けたのだろう。好きこそものの上手なれ、とはよく言ったものだ。

 曲の打ち合わせはそこそこに――千歌が作詞を進められなかったからすぐに終了した――この日最後の練習は学外で行う。淡島に場所を移し訪れたのは、島の山頂に位置する淡島神社へと続く石段。

「これ、一気に登ってるんですか?」

 ルビィが少し怖気づいて訊くと、「勿論」と千歌は答える。

「いつも途中で休憩しちゃうんだけどね」

 曜が茶化すように言うと、見得をばらされた千歌は苦笑する。休憩を挟んだとしても、この石段を登りきるのは運動部の練習よりもハードなのではないか。もっとも、花丸は中学時代も帰宅部だったから実際のところは分からないが。

 梨子は言う。

「でもライブで何曲も踊るには、頂上まで駆け上がるスタミナが必要だし」

 「じゃあ、μ’s目指して――」と千歌が言うと、曜と梨子はスタートの体勢を取る。それにならい花丸とルビィも構えたところで、千歌は告げた。

「よーい、どん!」

 鳥居を潜り、森の中へ延びる石段を全員で駆け上がっていく。石段は1段1段の間隔が広くて、歩幅を広くしなければ1歩であがることができない。なるほど、確かにこれは体力づくりにはうってつけだ。最初こそ勾配は緩やかだったのだが、疲労の度合いで登っていくにつれて険しくなっていくのが分かった。前を走る4人との距離が広がっていく。先のダンスレッスンでもそれなりに体を動かしたせいか、蓄積していた疲労が一気に来た。

 見上げるとルビィが待っていた。2年生は先に行ったらしい。崩れた姿勢で何とかルビィのもとまで辿り着くと、花丸は膝に手をついて乱れた呼吸を繰り返す。

「一緒に行こう」

 明るくルビィは言ってのけた。花丸と同じ運動量のはずなのに、自分はどれほど体力が無いのだろう。花丸は息をあえがせながら声を絞り出す。

「………駄目だよ、……ルビィちゃんは走らなきゃ………」

「花丸ちゃん?」

 気遣いは嬉しい。でも、ルビィはこんなところで立ち止まっては駄目だ。自分と一緒の歩幅では、ルビィはいつまでも進めない。

「ルビィちゃんは……もっと自分の気持ち大切にしなきゃ………」

 ようやく呼吸が整ってきた。花丸は顔を上げ、ルビィの顔を見据えて告げる。

「自分に嘘ついて、無理に人に合わせても辛いだけだよ」

「合わせてるわけじゃ――」

「ルビィちゃんはスクールアイドルになりたいんでしょ?」

 その問いにルビィは答えあぐねた。それでも答えはとうに出ている。こうして練習に参加して、最後までこの石段を登り切ろうとしていることが答えじゃないか。後ろにいる花丸を見ちゃいけない。

「だったら前に進まなきゃ」

 家柄とか友達とか、そんなものは自分の気持ちに蓋をする理由になんてならない。自分を騙して縛り付けようだなんて、花丸は望まない。花丸自身がルビィを縛り付けてしまうのなら、この親友を解き放つことができるのなら、喜んで見送ろうじゃないか。

「さあ、行って」

 「でも――」とルビィは不安げな目を向けてくる。大丈夫、ルビィちゃんはひとりじゃないよ。花丸は言葉の代わりに笑みを向けた。ここで花丸と別れても、この先には千歌と曜と梨子がいる。一緒に輝ける仲間が、ステージが、ルビィが望んでいたものがある。

「さあ」

 そう促すと、ルビィはにっこりと笑った。別の意味と受け取ったのだろうか、石段を駆け上がっていく。ルビィは花丸のほうを振り返らず、真っ直ぐに走り続けた。その背中が見えなくなると、花丸はゆっくりと階段を下りながら、ルビィとの思い出を懐古した。

 初めて会ったのは中学時代。花丸の居場所だった学校の図書室で、ルビィは蔵書のなかでは珍しいアイドル雑誌を読んでいた。ひとり過ごしていた花丸の友達になってくれた少女。とても優しくて、気にし過ぎな女の子。素晴らしい夢と、きらきらと輝く憧れを持ちながらも、彼女は胸に閉じ込めてしまう。胸のなかに詰まった光を。世界を照らすほどの大きな輝きを。

 その想いを大空に解き放ちたいと、いるべき場所へ向かわせたいと、ずっと願っていた。ルビィの夢が叶い、彼女が輝くことが、花丸の夢だった。

「やったよ、登りきったよ!」

 頂上のほうから、千歌の大きな声が響き渡った。良かった、と花丸は安堵に溜め息を漏らす。ルビィは無事に頂上へ辿り着いたのだろう。きっと山頂から臨む内浦は綺麗な景色なんだろうな、と羨ましく思う。登りきれなかった花丸には、頂から見える光景は想像するしかない。いつも本を読むとき、文字で情景を見るように。夕陽で焼かれたような茜色の空と、空と同じ色を映す海。思い浮かべるのは簡単でも、そこへ至っていないのだから感慨なんて湧くはずもない。

「何ですの? こんなところに呼び出して」

 凛々しい声がロックテラスから聞こえてくる。木製のベンチに背筋を伸ばして腰掛けるダイヤは、一望できる内浦湾の景色を眺めることなく花丸に鋭い視線を向ける。

 驚愕も恐怖もなかった。何せ、学校を出る前に生徒会室を訪ね、ここへ来るよう頼んだのは花丸本人なのだから。ルビィにとって最後の壁になるのは、彼女が敬愛する姉のダイヤだ。ダイヤは知る必要がある。姉妹だからこそ。最も近い存在であるからこそ。

「あの、ルビィちゃんの話を、ルビィちゃんの気持ちを聞いてあげてください」

「ルビィの?」

 ダイヤは続けて何か言おうと口を開いたが、花丸は一礼して足早に石段を下りた。

 花丸とルビィの、ふたりの物語はここでお終い。ルビィは自分自身の物語をようやく紡ぎ始めることができた。彼女の物語に、もう花丸は登場することはないだろう。

 でも、それでいい。それがあるべき姿だ。いつだって花丸は物語の紡ぎ手じゃなくて、読み手だったのだから。

 

 



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第6話

 

   1

 

 石段を駆け下りていく花丸の姿が見えなくなると、ダイヤはロックテラスから臨める内浦湾へ目を向けた。穏やかに波のたゆたう海面が夕陽を反射している。空は東の方角から徐々に藍色がかっていた。もうすぐ陽も暮れるだろう。

 国木田花丸。彼女と話すのは今日が初めてだが、話はルビィからよく聞いていた。本が好きでとても優しい子だ、と。重度の人見知りの妹に友達が、妹を想ってくれる親友ができたことは嬉しい。想ってくれているからこそ、花丸から向けられた言葉と、そこに込められた意味が針のようにダイヤの胸に突き刺さる。

 ルビィ気持ちを聞いてあげてほしい。ルビィを縛らないであげてほしい。

「………そんなの、分かってる」

 遅れた反論を呟き、ダイヤは唇を噛んだ。2年前、スクールアイドルへの鬱屈した感情をルビィに八つ当たり同然にぶつけたことを、ずっと悔いていた。あれからルビィとアイドル談義に華を咲かせることはなく、ルビィもダイヤの前で曲を聴くことも、アイドル雑誌を読むこともしなくなった。でもダイヤは知っている。ルビィがまだ曲の鑑賞に勤しんでいることを。収集したアイドル雑誌を自室の箪笥に隠していることを。

 ルビィはずっとスクールアイドルへの熱を失わずにいた。ルビィがダイヤの妹だからといって、ダイヤにルビィの趣味を咎める資格はない。ルビィの人生はルビィのもの。ダイヤの都合の良い人形なんかじゃない。

 でも、ダイヤはスクールアイドルを認めるわけにはいかない。たとえ妹と熱中していたあの頃に戻ることができなくても。いや、あの日々には戻っていけない。

「お姉ちゃん⁉」

 不意にその声が聞こえて、ダイヤはき、っとまなじりを吊り上げて振り返る。

「ルビィ?」

 思わず声が上ずった。スクールアイドル部の3人と、ルビィが所在なさげに立っている。「ダイヤさん、何でここに?」という千歌の問いには答えず、ダイヤは質問を返す。

「これはどういうことですの?」

 鋭いダイヤの声色に、「あの、その……」とルビィがしどろもどろに言葉を紡ごうとしている。人見知りな妹のよく見る姿。それを向けられているのが家族である自分という事実に、ダイヤは寂しさを必死に押し隠す。見かねたのか慌てた様子で千歌が、

「違うんです。ルビィちゃんは――」

 「千歌さん」とルビィは遮った。ゆっくりと前に出て、ダイヤと対峙するように立つ。

「お姉ちゃん」

 静かに告げる妹の声にダイヤは裡で(おのの)いていた。ルビィは臆病な面が目立つ。姉であるダイヤにさえ怯えてしまうほどだ。こうして内緒でスクールアイドル部の練習に参加することを予想していなかったわけじゃない。遅かれ早かれ来ると思っていたし、「辞めなさい」と言えば従うとも思っていた。

「ルビィ………」

 そう言うと、ルビィは真っ直ぐダイヤと視線と交わす。その力強さを湛えた眼差しを受けてダイヤは理解する。

 妹は自分が思っていたよりも強かったのだ、と。

「ルビィね――」

 

 

   2

 

 黒澤姉妹と別れた後、十千万へ向かう曜の足取りはひどく重かった。なかなか新曲の作詞が進まない千歌を手伝うという話になったのだが、あまり気が乗らない。作詞自体は何てことない。問題は場所が十千万ということだ。十千万に行けば、当然翔一がいる。千歌の父親を殺したかもしれない翔一が。

 歩きながら曜はちらりと、梨子から作詞の遅れに説教を受けている千歌を一瞥する。言うべきだろうか。曜が視た翔一の記憶を。記憶のなかで怯えていた伸幸の姿を。

 すっかり陽の暮れたなかで、十千万の暖かな照明が曜たちを迎えてくれる。こんこん、と音が聞こえた。「何だろう?」と首をかしげる千歌に続いて、曜は梨子と一緒に部屋へと向かう。近づいていくにつれて音が大きくなっていく。何かの工事でもしているのか。もう夜だというのに。

 障子の開け放たれた部屋に入ると、翔一が何やら作業をしていた。木製の骨組みを木槌で叩いて連結している。

「何してるの?」

 千歌が言うと、こちらに気付いた翔一がいつもの笑顔を浮かべる。

「ああ、お帰りなさい」

 「何を作ってるんですか?」と梨子が訊くと、「千歌ちゃんのベッド」と翔一は応えた。続けて作業しながら、

「ほら、俺壊しちゃっただろ。だからさ、一度庭で作ったんだけど入んなくてさ。で、バラバラにして組みなおしてるとこ」

 もしかして翔一は、曜の態度は千歌のベッドを壊したことに端を発していると勘違いしているのか。

「ちょっと待ってて。すぐできるからさ」

 その笑顔を見て、曜は胸の奥にあった不快な溜まりが消えていくのを感じた。そうだ、翔一はこうしてベッドや料理を、誰かのために何かを作る人だった。他人から奪うような人間じゃない。

「そうだよね………」

 無意識にそう呟いていた。隣にいる梨子に聞こえたらしく、「え?」と小声で曜の顔を覗き込んでくる。自然と出た笑みと共に曜は言った。

「翔一さんにあんなことできるわけないもんね」

 すると梨子も笑みを零した。作業に勤しむ翔一を見て「そうね」と呟く。

「もう遅いし、ふたりも夕飯うちで食べてく?」

 翔一が訊いてくる。千歌は「うん、そうしよう」と嬉しそうに骨組みの傍でしゃがみ、

「早くこれ完成させよう。ほら、わたしも手伝うから」

 「あ、わたしも」と曜も加わる。「これ手作りなんですか?」と感心したように梨子も。

 おじさん、と曜は裡で伸幸に告げた。

 翔一さんじゃないですよね。

 翔一さんは、翔一さんですもんね。

 

 

   3

 

 渡辺家は狩野川沿いに家を構えている。堤防に阻まれて川面を見ることはできないが、耳を澄ませばせせらぎが聴こえる。すっかり夜も更けると、水の流れる音は一層際立って涼しげな気分になれる。十千万では毎日波の音を聴くことができるが、川の音もいいな、と翔一は思った。

 夕食後に曜と梨子は千歌の部屋で曲について話していたが、どうにも成果は芳しいものでなかったらしい。最終バスの時間を過ぎたということで、翔一がバイクで送ることになった。もう車も殆ど通っていない時間帯だから移動時間はそうかからない。

 リアシートから降りた曜が、鞄の中からタッパーを取り出して中身を確認する。液漏れはないようだ。

「怒られそうになったらそれ渡しなよ。お母さんの機嫌も直るからさ」

「食べ物でご機嫌取りって、子供じゃないんですから」

「あれ、曜ちゃんのお母さん芋の煮っころがし嫌いだった?」

「いや、そうじゃなくて………」

 苦笑しながら手を振る曜が、翔一はいまいち腑に落ちない。刻んだミカンの皮を加えたからさっぱりと食べられる自信作なのだが。

「でも、きっと喜びます。お母さん翔一さんの料理好きなので」

 どうやら杞憂だったらしい。翔一はご機嫌に曜に貸していたヘルメットをリアシートに括りつける。

「それじゃ、お休み」

「はい、お休みなさい」

 他愛もない挨拶もそこそこに、翔一はバイクを走らせる。冷えた潮風がヘルメットに吹き込み頬を撫でていく。信号が赤く灯る交差点で停止したときだった。

 突如、痺れにも似た戦慄が翔一の頭蓋を駆け回った。いる、奴が近くに。自分の裡に目覚めた力がそう告げている。丁度信号が青に変わり、翔一は予定のルートを外れて沼津駅へとバイクを向かわせた。

 いくら駅前が市内でも賑わいのある地区とはいえ、居酒屋もしくは24時間営業のコンビニを除く商業施設の殆どが営業時間を過ぎている。そんな夜の街を歩くのは泥酔した仕事帰りのお勤め人か明日の授業がない大学生くらいだ。眠りに落ちたほぼ無人と言っていい街を駆け、駅前通りに出る。翔一の視界に駅の構内からたったひとり出てきた若い女性が映った。同時に彼女へ近付く、空気を裂くような音も。

「変身!」

 翔一の腹が光った。光はベルトを形成し、更に強い光を放って翔一の体を戦士の姿へと変える。翔一の駆るバイクも、ベルトの光を受けて金色へと変わった。アクセルを捻りマシンを加速させる。彼女の僅か数メートル後ろ。そこへ到達すると同時、翔一と別方向から彼女へ向かっていた影がカウルに衝突した。

 ビルのコンクリート壁に叩きつけられた影のシルエットが、街灯を受けてはっきりと視認できる。善子が「堕天使」と呼んでいた、両腕からカラスのような翼の生えた敵。

 翔一は女性のほうを見やる。自分の後ろで何が起こっているのか、イヤホンで音楽を聴いている彼女はまるで気付かず歩き続けていく。

「アギトお……!」

 立ち上がった敵は忌々しげに翔一を睨んでくる。敵は一気にこちらへと肉迫してきた。翼で飛ぶほどの腕力に加え脚力もそれなりにあるらしく、素早い接近だ。翔一は迫る拳をかわし、アクセルを捻りながら前輪ブレーキを効かせてバイクをターンさせる。後輪に足を払われたたらを踏むようによろめいた敵の鼻面に、渾身の拳を沈めた。吹き飛んだ敵が、両腕の翼を広げて夜空へと飛翔する。

 翔一はバイクから降りた。空へ逃げられては飛ぶ術のないこちらは追跡のしようがない。それに、敵は再びやってくると気配で分かる。これまで現れた敵たちは、どうにも翔一の存在が気に入らないらしい。

 予想通り、気流の動きが変わった。翔一はオーバーヘッドキックの容量で上空に蹴りを入れる。闇から現れた敵の腹を蹴り上げると同時、翔一の腹も蹴り落とされた。ふたり同時に倒れ、互いに間合いを保ちながらゆっくりと立ち上がる。

 数秒間の睨み合いを経て、先に攻撃を仕掛けてきたのは敵のほうだった。降り下ろされた拳を受け止め胸を殴る。敵は空中での機動性こそ手強いが、陸上ではこちらに分がある。単純な力勝負では敵わないと察したのか、敵は黒翼を広げた。すぐさま翔一は、飛ぼうしたその体に組み付く。翔一を抱えたまま敵は街のビルを沿うように上へ上へと昇り、すぐに屋上へと到達する。

 翔一の拳が敵の背中を穿った。バランスを崩した敵が、屋上の床へ翔一を道連れにして墜落する。すぐさま立ち上がった敵の蹴りを紙一重で避け、すれ違いざまに背中を裏拳で殴る。よろめいて隙だらけになったところ、追撃の拳を胸と腹に打ち込んでいく。

 刹那、敵が翔一に組み付いた。そのまま翔一の体を押し倒し、好機とばかりに空へ逃げる。さっきのように飛びつかれないためか。昨日のように空中からの頭突きをかましてくるつもりだろう。流石にビルの屋上から突き落とされては、この姿でも助かるかは分からない。

 翔一はベルトに手をかざした。バックルの球から柄が出てくる。掴んで引き抜くと、それは一振りの刀だった。素早く動き回る敵はストームでも追いつかない。鋭い切れ味を持った刃と、攻撃の瞬間を見極める研ぎ澄まされた感覚で確実に仕留める。

 体が熱くなっていくのを感じる。見下ろすと、金色の鎧が赤く染まっている。刀を持つ右腕が一回りほど太く隆起した。

 翔一は深呼吸した。戦いの緊張を沈め、超越感覚の赤(フレイムフォーム)で目と耳を澄ます。遠くから届く空気の流れを肌で感じ取れる。敵が旋回し方向転換するのが、風を切る音で分かった。宵闇のなか真っ直ぐこちらへ向かってくる、怪しく光る敵の目を捉える。

 両手で刀を構える。変身した翔一の角に似た鍔が開くのを感じる。

 思考がとてもクリアだった。今朝、善子が飛ばしていたクラフト飛行機を思い出す。飛行機は真っ直ぐ飛んでいく。敵もまた真っ直ぐ飛んでくる。脇目もふらず、一直線に――

「はっ!」

 上段から刀を振り下ろすと同時、敵が翔一の頭上を通過した。確かな手応え。刀の鍔が閉じる。振り返ると、敵の体が左右真っ二つに分かれた。切断された面から炎が噴き出す。

 夜空を舞うふたつの肉体が一気に燃え上がる。闇のなかで爆発の光を灯し、そしてほどなくして闇へと還っていった。

 

 

   4

 

「よろしくお願いします」

 ルビイから差し出された入部届を千歌は受け取る。「よろしくね」と笑みを向けるとルビィも満面の笑みで「はい、頑張ります」と応じてくれる。晴れて今日から、ルビィはスクールアイドル部の一員になる。ダイヤに自分の意志を伝えて、堂々とスクールアイドルが「好き」という気持ちを出すことができる。

「そういえば、国木田さんは?」

 何気なしに梨子が訊くとルビィは表情を曇らせた。

「きつかったのかな? 昨日も帰っちゃったみたいだし」

 遅れた反省を裡に秘めながら、千歌はそう言った。必要な練習とはいえ、ゆっくりと段階を踏めば良かった。ルビィが頂上まで辿り着いたから失念していた。でも、初めて花丸を見たときから一緒にやれれば、と思っていたし、だからこそ体験入部に来てくれたときは飛びそうになるほど嬉しかった。

「入ってほしかったな………」

 「まあ、無理強いは可哀想だよ」と曜が言う。確かに、嫌々やってもらうのも良くない。

「あの――」

 不意にルビィが言った。

 

 花丸の物語は終章に入る。

 人生のなかで誰かに語る節があるとすればここまでだ。これでもAqoursの物語の一節に過ぎない。Aqoursにルビィが加わるための脇役として花丸は登場しただけ。脇役としての役目を果たした花丸は元の日常に戻る。放課後、暇な図書委員の業務を読書で過ごす日常に。

 図書室のドアを開けると、住み慣れた我が家のような紙とインクの香りが迎えてくれる。カウンターの椅子に腰かけると、帰ってきたという感慨が沸いてきた。ここが自分の居場所。

 これからが今までと異なるのは、もうルビィと花丸の物語は交わることがないということ。これからルビィは毎日スクールアイドル部の練習へと行く。もう花丸と図書室で談笑することはない。

 世の中の関節は外れてしまった。

 不意に『ハムレット』の台詞を思い出す。そう、これは関節が元通りに、あるべきところへ収まっただけの話だ。

 カウンターの引き出しを開けると、図書室の蔵書には不釣り合いなほど華やかなアイドル雑誌が置いてある。花丸の私物だ。開き、とあるページで捲る手を止める。そのページ一面に掲載された写真のなかで、ウェディングドレスをモチーフとした衣装を着た少女がマイクをブーケのように両手で握っている。名前は星空凛(ほしぞらりん)というらしい。ルビィが特に熱中しているμ’s(ミューズ)というグループのメンバーだ。アイドルなだけあって愛らしい。

 自分も、こんな風に可愛くなれるかな。

 初めて凛を見たとき、そんな想いを抱いた。彼女のように輝けるスクールアイドルとは何だろう。自分には無理と理解していても、ルビィの背中を押す目的とは別に知りたかった。

 でも、そんな好奇心はもう無意味だ。最大の目的は果たされたのだから。

「ばいばい……」

 花丸がそっと雑誌を閉じようとしたとき――

「ルビィね」

 不意に聞こえた声に振り向くと、ルビィがカウンター越しに立っていた。

「ルビィちゃん?」

 何でルビィがここにいるんだろう。授業が終わるとすぐ部室へ向かったはずなのに。

 駄目だよルビィちゃん。せっかく前に進めたのに、ここに戻ってきちゃいけないよ。

 そう言おうとしたが、ルビィの力強い言葉に阻まれる。

「ルビィね、花丸ちゃんのこと見てた。ルビィに気を遣ってスクールアイドルやってるんじゃないか、って。ルビィのために無理してるんじゃないか、って心配だったから」

 間違っていない。ルビィのために体験入部を提案したのだから。

「でも練習のときも、屋上にいたときも、皆で話してるときも、花丸ちゃん嬉しそうだった。それ見て思った。花丸ちゃん好きなんだ、って。ルビィと同じくらい好きなんだ、って。スクールアイドルが」

 「マルが? まさか……」と花丸は顔を背ける。確かに練習は楽しかった。運動は不慣れでダンスも素人だから思うように体は動かなかった。でも千歌たちは花丸に嫌な顔ひとつせず教えてくれて、皆で何かをすることが楽しいと心の底から思えた。

「じゃあ、何でその本そんなに読んでたの?」

 涙に潤んだルビィの目が花丸の手にある雑誌に向けられる。「それは……」と誤魔化そうとするができそうにない。雑誌のページは何度も捲られて折り癖がついている。

「ルビィね、花丸ちゃんと一緒にスクールアイドルできたら、ってずっと思ってた。一緒に頑張れたら、って」

 自分の行動が恥ずかしくなってくる。練習の間、ルビィはずっとスクールアイドルになれたことへの歓喜に満ちていると思っていた。親友は自分のことなんて眼中にないと高を括っていた。でも、ルビィも花丸のことを見ていた。花丸がルビィを想うように、ルビィも花丸を想ってくれていた。

 一緒に頑張れたら。ダンスのステップを踏めたとき、一瞬だけ花丸もそんな想いがよぎった。それは叶わぬ夢だ。花丸では輝けない。この雑誌の一面を飾る凛のようには。

 花丸はかぶりを振り、

「それでも、おらには無理ずら。体力ないし向いてないよ」

「そこに写ってる凛ちゃんもね、自分はスクールアイドルに向いてない、ってずっと思ってたんだよ」

 「え?」と花丸は誌面に目を向ける。こんなに可愛らしいのに、こんなにも輝いているのに。

「でも好きだった。やってみたいと思った。最初はそれで良いと思うけど」

 不意に梨子の声が聞こえた。向くと入口の近くに2年生の3人が立っている。千歌がカウンター越しに手を差し伸べてきた。この手を取る資格が自分にあるだろうか。今まで華のある事なんて何ひとつ成し遂げられず、物語を消費するだけだった自分に。

 ルビィが身を乗り出して力強く告げる。

「ルビィ、スクールアイドルがやりたい! 花丸ちゃんと!」

「………マルに、できるかな?」

 物語の読み手でしかない自分が紡ぎ手になる。花丸はその可能性に怖気づいた。花丸がAqoursの物語に組み込まれるということは、花丸次第でこの場にいるメンバー達全員の物語に影響を及ぼすということだ。間違えればバッドエンドを迎える。やってみたい。そんな軽い気持ちで彼女たちの物語の責任を背負うだなんて荷が重すぎる。

「わたしだってそうだよ」

 千歌は言う。

「一番大切なのはできるかどうかじゃない。やりたいかどうかだよ」

 千歌に続いて、皆が笑みを向けてくれる。あなたと一緒にやりたい。物語を紡いでいきたい、と。

 花丸は気付く。自分もルビィと同じように、心に蓋をしていたことを。本では決して埋めることのできない虚無に、目を背けていたことを。心の蓋を取り払うのは、被せることよりも勇気がいる。誰かに背中を押してもらうか、こうして手を差し伸べてもらわなければ、決して蓋は開けないだろう。

 花丸は千歌の手を取った。その上を更に梨子と曜とルビィの手が重なっていく。

 ここから花丸の物語は新しい章を迎える。

 花丸とルビィが紡ぎ手として加わった、Aqoursの次の章へと。

 

 

   5

 

 長い夢を見ていたような気がした。

 どんな夢だったのか、まるで霧のように霞んで暗闇のなかへと消滅していく。夢を暗闇へと置いていき、涼の意識は海面に射し込む光へと向かった。

 目蓋を開くと見知らぬタイル張りの天井が視界に映る。眠気が一気に飛んだ。ここはどこだ。その疑問と共に視線を巡らせながら、ゆっくりと上体を起こす。

 ベッドに寝かされていたらしい。枕もなく、シーツの敷かれていない剥き出しのマットレスはかなり粗末でかび臭い。鉄製のパイプで組まれたベッドは白い塗装が剥げ落ちていて、そこから錆が侵食している。

「大丈夫?」

 幼い声が聞こえ、咄嗟に涼は右手を向いた。寝起きのせいか、強張った首の筋肉がきしむ。

「君は3日間眠っていたんだ」

 それは二次性徴を迎えて間もない年頃の少年だった。錆びついたパイプ椅子に腰かけ、涼を見つめている。

「誰だ?」

 問いかける声に思わず恐怖が混ざる。

「まだ無理をしないほうが良い」

「誰なんだお前は」

 少年は答えない。無言のまま浮かべた微笑はとても美しかった。

 

 




次章 ヨハネ堕天 / 銀の点と線


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第5章 ヨハネ堕天 / 銀の点と線
第1話


   1

 

 涼が運び込まれたのは廃墟だった。おそらくは病院だったのだろう。所々に薬瓶が散乱していて、すっかり汚れているが壁紙や床の色が白に統一されている。すすだらけの窓ガラスを見やると森が広がっている。沼津はすり鉢状に山岳が囲む地域だから、どこの山に建っている病院なのか分からない。

 3日間眠っていた、と少年は言っていた。こんな朽ち果てた病院に点滴なんてないだろうから、涼は眠っていた間は栄養を補給できない状態にあったはず。それなのに、喉の渇きも空腹もまったくない。本能的な警戒心が生理的欲求を抑えているのか。

 スマートフォンの地図アプリで現在地が分かるかもしれない。もっとも、この山が電波圏外でなければの話だが。

 ポケットから端末を取り出した手を見て涼は目を剥いた。意識を失う直前、老人のようだった手が瑞々しさを取り戻している。あれは幻覚だったのか。いや、朦朧としていたがはっきりとあの瞬間の恐怖は覚えている。

 涼は外を見下ろす。少年は瓦礫の散乱する地面にしゃがみ、水を張った桶を眺めていた。長めに伸ばした亜麻色の髪がそよ風に揺れている。見れば見るほど奇妙な少年だ。いかにも温室育ちといった品の良い容貌のせいか、この廃墟にいるのは酷く場違いに思える。黒ずくめの服装も殺風景で、少年の透き通るような肌の白さを際立てている。ただの家出少年じゃない。涼を匿い、この手を治した彼は何者なのか。

 ひゅー、と強い風が吹く。目にゴミが入り涼は瞬きし目を擦った。視線を戻すと視界に映る光景に、涼は再び目を擦る。

 少年の背が遠目でも分かるほどに伸びていた。体格はもう青年と言っていい。一瞬もうひとりいたのか、と思った。でも、あの青年はさっきの少年に違いない。肌の白さも、亜麻色の髪も同じだ。

 青年はこちらを振り返った。建物の3階にいる涼を見上げている。その顔も美しく成長を遂げていた。造形が整いすぎて男女の区別がつかない。まるで古代ギリシャの彫刻が命を吹き込まれて動いているようだった。人類が突き詰めてきた理想的な美しさを全て集約させた、まさに芸術としては最高傑作。ダビデ像を造ったミケランジェロでも、あの青年を精巧に再現した作品を造れるだろうか。

 青年の瞳がじっと涼を見据えている。琥珀を埋め込んだような美しい瞳だ。ぞわり、と涼の背中に悪寒が走る。

「やめろ……」

 がたがたと歯を打ち鳴らしながら涼は呟く。体の奥底が疼いた。青年に涼の力が反応しているのか。鼓動が強くなる。歯止めがきかず、裡から沸き出す奔流を吐き出すように涼は叫んだ。

「うあああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 あたりの空気が震えているのが分かる。共振現象を起こした窓ガラスが一斉に割れた。

 ガラスの破片と共に涼は外に降り立った。3階から飛び降りれば無事では済まないが、変身した涼の脚は落下衝撃を全て吸収する。青年を睨むと恐怖が更に増していく。あれだけの破片が降っておきながら青年の白い肌は傷ひとつ付いていない。足元を見やると青年の周囲だけ破片が落ちていない。見えないカプセルの中に青年は収まっていて、破片の直撃を防いだかのように。

「アギト………。いや、ギルスか。珍しいな」

 青年の声はけして大きくはないが、透き通るような恐ろしいほどの美声が涼の耳をついてくる。湧き出る衝動に従い涼は青年へと駆け出す。

「そう、怖いんだね僕が。いいよ、好きにして」

 黙れ、もう何も言うな。お前は消す。お前は俺の前から消えなければならない。

 涼は跳躍した。右足を振りかざし青年の肩にヒールクロウを突き立てる。尖刀が青年の肩に刺さり、胸まで切り裂く。眩い光がまるで血のように青年の肩から溢れ出した。光は青年を飲み込み、その姿を隠す。直視できないほど眩しいが、涼は光のなかにいる青年を見つめ続ける。青年が笑みを向けた気がした。

 やがて光が晴れる。青年はそこにいない。最初からいなかったように、光と共に消滅していた。

「………何故だ、何故俺は奴を怖れたんだ?」

 元の姿に戻り、呆然としながら涼はひとり呟く。

 理由は分からない。明らかに青年は人間の姿をしていた。でも、何故か恐怖が裡から込み上げてきた。おそらくは、あの青年の存在そのものに。

「ギルス………」

 涼の唇がその音をなぞる。青年は変身した涼を見て「ギルス」と言っていた。それが涼の名前なのか。名前があるということは、他にも涼と同じ力に目覚めた人間がいるのだろうか。

 

 

   2

 

 一切の光が届かない空間を、蝋燭(ろうそく)に灯った火が弱く照らしている。その光は近くにいる自分以外を照らせるほど強くはない。

「感じます。聖霊結界の損壊により、魔力構造が変化していくのが」

 黒翼と黒髪が風に揺れる。蝋燭の火が無ければいとも簡単に闇へ溶けてしまいそうな黒を纏いながら、自身を見つめる魔眼に向けて語る。

「世界の趨勢(すうせい)が天界議決により、決していくのが。かの約束の地に降臨した、堕天使ヨハネの魔眼がその全てを見通すのです。全てのリトルデーモンに授ける、堕天の力を」

 ふ、と蝋燭の火を吹き消す。そして完全な闇が訪れる。

「やってしまったー!」

 善子は頭を抱えて叫んだ。

「何よ堕天使って! ヨハネって何! リトルデーモン? サタン? いるわけないでしょそんなもん!」

 いや、堕天使はいる。この前目の当たりにした。でも自分は違う。ただの人間だ。

 カーテンを開けると朝陽が射し込んでくる。全貌が露わになった自室を見て善子は深く溜め息をついた。魔眼もとい撮影用のインカムに、風を演出するためのまだ出すには早い扇風機。机のノートPC画面には撮影した映像を配信しているインターネットの動画サイト。

 見れば見るほどうんざりだ。壁に掛けてある鏡に映った堕天使衣装の自分自身も。

「もう高校生でしょ、津島善子。もういい加減卒業するの。そう、この世界はもっとリアル、リアルこそ正義。リア充にわたしはなる!」

 いくら摩訶不思議な存在がこの世界に存在したとしても、自分には関われるようなものじゃない。あの堕天使と戦っていた戦士のような特別なものなんて自分にはない。だったら現実を受け入れなければ。学校に行って、友達を作って充実した華の高校生活を――

 

 堕天使ヨハネと契約して、あなたもわたしのリトルデーモンになってみない?

 

 不意に始業初日で犯した失態を思い出す。羞恥のあまり善子は身を悶えさせた。

「何であんなこと言ったのよ! 学校行けないじゃない!」

 

 

   3

 

 十千万の朝は早い。自分たちのみならず宿泊客の朝食も用意しなければならないから、必然的に準備は早いうちに済ませている。とはいえ今の時期は繁盛期じゃないからお客も少なく、高海家はゆっくりと朝食を摂ることができた。

 朝練習が習慣になったとはいえ、千歌は未だに早起きが苦手だ。この日も翔一が起こしてくれなかったら寝坊していたことだろう。居間に降りると千歌以外の皿は全て片付けられている。味噌汁を置いた翔一が「ほら千歌ちゃん」と朝から元気よく千歌をテーブルに促した。

「眠いしご飯いらないよお」

 眠気で開き切らない目を擦りながら言うと、「何言ってんの」と翔一が、

「朝ご飯は元気の源なんだからしっかり食べなきゃ」

 せっかく用意してくれたのに食べないのも申し訳ない。のっそりと座った千歌は「いただきまあす」と味噌汁を啜る。

「そうそう、皆集まっているうちに話しておかないとね」

 食器を洗っていた志満が大きな封筒をテーブルに置く。テレビを観ていた美渡も「なになに?」と封筒へ興味を示した。

「何ですか、これ?」

 翔一が訊いた。千歌は口に詰めた白米を噛みながら封筒を覗き込む。「学校法人 沼津国際調理師専門学校」と印字されている。入学手続きの資料らしい。「願書?」と訊く美渡に続き翔一は「へえ」と漏らし、

「志満さん調理師の学校に行くんですか? 凄いなあ」

「私じゃないのよ」

「え? じゃあ千歌ちゃん?」

 千歌は無言で首を横に振る。何となく話が見えてきた。「じゃあ美渡?」と翔一が言うと、美渡も既に察しているのか「んなわけないでしょ」と呆れを声に出す。

 ようやく趣旨を察した翔一は自身を指さし、

「俺?」

 「そう」と志満は首肯する。

「私なりに色々考えたんだけど、翔一君もいつまでも家でぶらぶらしていても仕方ないと思うの」

 「なるほど、確かに」と美渡が同意した。「家で、ぶらぶら………」と力なく反芻する翔一を見て志満は少し慌てたように、

「誤解しないでね。勿論あなたには家事の全てをやってもらっているから感謝しているわ。でもそれだけじゃ詰まらないでしょ?」

「いえ、十分楽しいですけど」

 翔一は迷うことなく言う。その笑顔から影はまったく感じない。翔一は毎日本当に楽しそうだ、と千歌の目には映っていた。掃除、洗濯、炊事、畑としいたけの世話。その全てを笑顔でこなしている。その返答に戸惑い気味の志満は改まって、

「別に調理師学校じゃなくてもいいのよ。何かやりたいことがあれば」

 「そうですねえ」と翔一は明後日のほうを向く。

「朝起きたときは顔洗って歯を磨きたいと思うし、掃除もしたいし洗濯もしたいし」

「いや、そういうことじゃなくて………」

 「志満姉ちょっと急すぎるよ」と千歌は長姉を制止する。

「翔一くんが何か始めたとしても記憶が戻ったら違うことしたい、って思うかもしれないし」

 「それは、そうだけど……」と志満は言葉を探しあぐねる。翔一が専門学校に通い調理師の資格を取って、十千万の板前として働いてくれたら千歌も嬉しい。でも、将来の志望は翔一自身から言うことを待つのが一番良いとも思った。翔一が本当の意味で自身の人生を送るためにも。

「俺、別にどっちでも良いですけど。記憶が戻っても、戻らなくても。まずいですか?」

 罰が悪そうに苦笑する翔一を見つめながら志満は言う。というより、それしか言えなかったのだろう。

「変わってるわね翔一くん。本当に」

 

 

   4

 

 強化ガラスの向こうで、G3がGM-01を構えてゆっくりと脚を進める。自分がこの前まで同じ装備を身に着けていたと思うと、何だか自分自身を見ているような気分に捉われる。

 G3ユニットの活動再開へ向けた演習で、誠の立場は「元」装着員。新しい装着員の技量が果たしてアンノウンに通用するかを見定める側にある。装着員が誠でないこと以外に面子は変わりない。指揮を執るのは小沢。オペレーターは尾室。そしてモニタリングに同席するのは霞ヶ関から沼津まで足を運んだ警備部長と補佐官。

 G3が所定の位置につくと、誠の隣に座る小沢がマイクに向かって告げる。

「G3戦術演習(マヌーバー)、開始」

 ブザーが鳴り響くと同時、G3が銃を構えた。尾室がPCのキーを叩き、

「GM-01、アクティブ」

 G3の周囲で黒の板が起き上がった。人間を簡易的に模した射撃訓練用の的。通常の訓練用と異なるのは、センサーと銃口が取り付けられているという点だ。複数の的が取り囲んだG3へ弾丸を射出していく。左右前後から飛び交う銃撃を全て紙一重で避けながら、G3はGM-01の銃口を向けトリガーを引いた。

 的のひとつの、人間でいうと心臓にあたる位置に命中し銃撃が止まる。横へ跳びながら宙で発砲。またひとつ的の心臓へ。更に着地時に前転して衝撃を和らげながら発砲。それもまた心臓へ命中。残るひとつの的はまだ銃撃を続けているが、それもあっけなくGM-01の弾丸を受けて沈黙した。

「命中率100パーセント」

 尾室が報告し、全ての的が倒れる。G3は警戒を緩めず、GM-01を構え直し周囲に視線を巡らせている。

 ご機嫌な様子で警備部長が言った。

「やはり彼を装着員にして正解だったようだな」

 隣の補佐官も満足げに頷く。「氷川君」と警備部長に呼ばれ、誠は思わず「はい」と上ずった声で応える。

「君から見て彼はどう思う?」

 その警備部長からの質問が形式的なものに感じ得ないが、誠は率直に述べた。

「お見事です。何も言うことはありません」

 本心からの言葉だ。全ての動きに一切の無駄がない。G3の性能を余すところなく使いこなしている。

 やりとりを横目で見ていた小沢は淡々とマイクへ、

「マヌーバー終了、お疲れ様」

 構えを解いたG3がマスクの両側面に手を当てる。後部カバーが開きマスクを脱ぐと、涼しい表情をした北條透の顔が現れた。

「凄い、完璧ですよ北條さん!」

 尾室が興奮した様子で言うと、北條は不敵に笑みを零し控え室へと歩いていく。その背中を睨みながら小沢が机の脚を控え目に蹴るのを、誠は見逃さなかった。

 

 演習後にGトレーラーへ戻る道中も、尾室の北條への賛辞は止まらない。

「いやー凄いですよ北條さん。これだけ短い期間でG3システムの扱いを完璧にマスターしちゃうなんて」

「あなた達のサポートがあってこそです。これからもよろしくお願いします」

 北條は(おご)ることなく応える。

「氷川さんのときはもっと時間かかったもんなあ。さすが北條さんですよ」

 その言葉に小沢は何か言いかけたが、すぐに口を結ぶ。尾室だって、誠本人が一緒にいながらも悪気があって言っているわけじゃないだろう。それに、誠を装着員とした頃の調整に時間が掛かっていたのも事実だ。

 廊下の分かれ道に差し掛かって誠は「すみません」と、

「僕はここで」

 誠が3人と歩く道はここで別れる。3人はG3ユニット、誠は捜査一課へと。「ええ」と小沢が応え、続けて北條が笑顔で、

「氷川さん、あなたなら捜査一課でも十分通用しますよ」

「ありがとうございます。私も北條さんの活躍に期待しています。アンノウンとの戦いは大変でしょうが、私もできる限り力になりたいと思っていますので」

「それは心強いな。まあ、今のところあなたの力が必要になるとは思えないが」

 そう告げて北條は行くべきところへと歩き始める。ユニットメンバーに支給される制服を着こなすその背中を見送ると、誠は「失礼します」と小沢に一礼して別方向へと歩く。

「氷川君」

 小沢に呼ばれ足を止めた。振り返ると小沢はいつもの強気な、でも優しい表情を向けてくる。

「どこに行っても応援してるから、あなたのこと」

 元とはいえ上司からの激励に、誠は無意識に笑みを返す。報いよう、小沢の期待に。これから現場は違えど、警察官である自分たちの守るものは同じだ。小沢たちが実働部隊としてアンノウンと戦うのなら、自分はアンノウンの謎を追っていく。

 戦おう。砂漠に落ちた一粒の小石でも、真実があるのなら放棄せず。警察官という矜持を携えて、市民のために。

 

 

   5

 

 スクールアイドル活動をするならば、ラブライブ運営委員会が展開しているソーシャルサイトへの登録が一般的だ。サイト内でブログを立ち上げての活動報告ができ、プロモーション動画をアップロードすればスクールアイドルの検索で発見されやすくなる。アカウントを持てば、サイト内でのブログや動画の閲覧数と評価に応じてのランキングが付く。

 浦の星女学院スクールアイドル・Aqoursとして登録された千歌たちのランキングは現在4768位。これでも一応順位が上がっているのだが、競争率の高さを突き付けられて千歌は盛大な溜め息をつく。

「まあ落ちてはないけど」

 放課後の部室にて、全員でPC画面を凝視するなかで曜が現状を総括する。

「ライブの歌は評判良いんですけど……」

 ルビィが控え目に述べる。ライブ動画は今のところ初ライブの曲だけだ。決して悪い状況ではないはず。千歌はサイトのコメント欄を見ながら、

「それに新加入のふたりも可愛い、って」

 「そうなんですか⁉」とルビィが興奮気味に言った。ふたりが入部してすぐブログに紹介文と写真を掲載したのだが、どうやら反応は良好らしい。続けて曜が、

「特に花丸ちゃんの人気が凄いんだよね」

 梨子がコメントを読み上げる。

「花丸ちゃん応援してます。花丸ちゃんが歌ってるところ早く観たいです、って」

 「ね、大人気でしょ?」と言う千歌の横につき、花丸はPCをじっと見つめる。感激しているのかと千歌は思ったのだが、

「こ、これがパソコン?」

 花丸のその言葉に曜が「そこ⁉」と椅子から立ち上がる。

「もしかして、これが知識の海に繋がってるという、インターネット?」

 まさかパソコンを初めて見るのだろうか。目を輝かせる花丸に戸惑いながらも梨子が「そ、そうね」と応える。

「知識の海かどうかはともかくとして………」

 千歌はルビィに訊く。

「花丸ちゃんパソコン使ったことないの?」

「実はお家が古いお寺で電化製品とかほとんどなくて」

 現代で家電が殆どないとは、まさか洗濯物は手で洗い米は釜戸で炊いているのだろうか。十千万も1世紀以上続く老舗旅館だが、流石に現在は家電くらい置いている。

「この前沼津行ったときも――」

 ルビィによると、沼津駅前の本屋へ行った際、トイレでセンサー式の蛇口とジェットタオルを見て花丸はこう言ったらしい。

 

「未来ずら! 未来ずらよルビィちゃん!」

 

 既に現代の技術なのだが、古風な家庭に育った花丸にとっては未来へタイムスリップしたかのような衝撃を受けたのかもしれない。

 そんな未来の産物に等しいPCを目の当たりにした花丸はこちらを向き、

「触ってもいいですか?」

 「勿論」と千歌が応えると、花丸はPCへと手をかざす。キーを押して画面に出力されたらもっと驚きそうだな、と思っていると液晶が暗転した。

「何をしたのいきなり?」

 梨子が訊くと花丸は興奮冷めやらぬ様子で、

「1個だけ光るボタンがあるなあ、と思いまして――」

 それは電源ボタンだ。最後まで聞く前に梨子と曜が強制終了されたPCへ向かう。

「大丈夫?」

「衣装のデータ保存してたかなあ?」

 PCを立ち上げながら交わされるふたりの会話で、花丸は事態を察したらしく表情を引きつらせる。強制終了のことは多分知らないだろうが。

「ま、マル何かいけないことしました?」

 「大丈夫大丈夫」と千歌は苦笑を返した。

 

 



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第2話

 以前ネットニュースでライダー主人公の職業について取り上げた記事を見まして、その記事で翔一君がニート扱いされていて「記事書くんならしっかり観てからにしてほしいな」と思ったことがあります。

 翔一君はニートではありません。言うなれば住み込みの家政夫さんです!




 

   1

 

 練習着に着替えて屋上に場所を移し練習。そのはずだったのだが、花丸が曜の操作するPC画面に釘付けになっているせいで始められない。梨子が溜め息をついていることは、花丸の眼中に入っていないことだろう。

「おお! こんなに弘法大師空海の情報が!」

 どうやら空海について検索しているらしい。確かに沼津にある禅長寺(ぜんちょうじ)の母体は空海の広めた真言宗だからゆかりはあるのだが。

「ここで画面切り替わるからね」

「凄いずらあ」

 曜が簡単な操作を説明している。痺れをきらし梨子は告げる。

「もう、これから練習なのに」

 「少しくらい良いんじゃない?」と呑気なことを言ったのは翔一だった。何故彼がここにいるのかというと、千歌が家に忘れてきたタオルを届けに来たからだった。ついでに差し入れとしてミカンのはちみつ漬けなんて持ってきて皆で試食する始末だ。

「どうかなルビィちゃん?」

「美味しいです」

 薄く輪切りにされたミカンを食べながらルビィが屈託なく笑っている。花丸曰く究極の人見知りのルビィが。この人は本当に打ち解けるのが早いな、と梨子は思った。

 ミカンを飲み込んだ千歌が言う。

「それよりランキングどうにかしないとだよね」

 「毎年スクールアイドル増えてますから」とルビィが補足する。ランキングで確認できる数だと、全国でスクールアイドルは約5千組。これからも増える可能性があることから、競争率は上がっていくことだろう。全国各地、様々な土地と様々な学校でアイドルが結成されている。

 千歌はあちこちを指さしながら、

「しかもこんな何もない場所の地味、アンド地味、アンド地味、なスクールアイドルだし」

 梨子はまだ移住して間もないから全てを知っているわけじゃないが、お世辞にも沼津は華やかな土地とは言い難い。観光名所になるのは内浦から臨む富士山と駿河湾くらいだ。でも土地柄なんて関係あるのだろうか。梨子は尋ねる。

「やっぱり目立たなきゃ駄目なの?」

 「人気は大切だよ」と曜が言った。「確かに」と翔一も腕を組んで唸る。この人はちゃんと理解しているの、と思ったが敢えて言及しないでおく。翔一と同じように千歌も腕を組み、

「何か目立つことか………」

 すぐに名案が浮かぶわけじゃない。梨子は取り敢えず思い浮かんだことを何気なく投げかける。

「例えば、名前をもっともっと奇抜なのに付け直してみるとか?」

 すると千歌は不敵に笑って、

「奇抜って、スリーマーメイド? あ、ファイブだ」

 しまった、と後悔後に立たず。ルビィが「ファイブマーメイド………」と目を輝かせている。その路線で行くなら人魚のように脚にヒレを付けてプールでシンクロナイズドスイミングのように踊るということか。いや、考えては駄目だ。そもそも梨子が提案したとき却下されたはずなのに。

「何で蒸し返すの⁉」

 噛みつくように言うと「良いねえ、それ!」と翔一も便乗してきた。

「良くないです!」

 「て、その脚じゃ踊れない」と千歌が思い至ると今度はルビィが、

「じゃあ、皆の応援があれば脚になっちゃう、とか」

 「おお、何か良いその設定!」と千歌が言う。まさに話に尾ひれがついてきた。かと思えば今度は曜が目を細め、

「でも代わりに声が無くなるという………」

 「ダメじゃん!」と喚く千歌の胸倉を掴んで「だからその名前は忘れて、って言ってるでしょ」と揺さぶる。その頭からマーメイドという単語を弾き出そうとばかりに。後輩ふたりと翔一の前でなんてことを暴露してくれるのか。

 翔一は言う。

「悲しい話だよねえ、人魚姫ってさ」

 「でも」と曜が補足する。

「人魚姫は泡になっちゃうんですけど、その後は風の精に生まれ変わるんですよ」

 それは初めて知った。「曜ちゃん詳しいね」と翔一が感心すると曜は照れ臭そうに笑う。

「千歌ちゃんのお父さんが聞かせてくれたんです」

 

 今日こそは学校へ行こう。

 善子がいきり立って家を出たは良いが、そう簡単にいくものじゃない。いざ登校となると足がすくみ、駅前のゲームセンターで気分転換という名目で油を売っているうち、ようやく浦の星女学院の門を潜ったのは放課後になってしまった。

 放課後になっても部活や委員会で校内に生徒はいる。この期に及んでまだ知り合いと遭遇したくない善子は屋上へ向かった。屋上で適当に時間を潰して、全生徒が帰ったあたりを見計らって自分も帰ろう。

 学校で屋上は唯一誰もいない場所というのが定番と思っていたのだが、浦の星は例外だったらしい。

「何でこんなところに先客が………」

 ドアの陰に隠れながら独りごちる。鍵が施錠されていない時点でおかしいとは思ったのだが。一体どこの部だろうか。何やら談笑していて練習はまだ始まっていないらしい。善子の存在に気付いたのか、談笑している集団のひとりがこちらを向いた。

「ずら丸⁉」

 思わず声をあげてしまい、咄嗟に覗かせた身を隠す。善子へと向いたのは間違いなく国木田花丸だった。幼稚園が一緒だった、この浦の星では唯一の顔見知り。何とも間が悪い。善子はそそくさと校舎へ潜り込んだ。

 いきなり屋上から堕天してしまった。

 屋上以外で人のいない場所として善子が選んだ、というより選ばざるを得なかったのは廊下にあるロッカーだった。狭いが身を屈めれば入れないこともない。まるでかくれんぼでもしているみたいだ。ある意味で当たっているかもしれない。

 これじゃ何のために登校してきたのか分からない。中学時代の醜態を知る者がいない、沼津市街から離れた浦の星を受験してせっかく入学したというのに。

 不意にロッカーの戸が開かれる。中を覗き込んできた花丸が悪戯っぽく笑っている。

「学校来たずらか?」

 咄嗟に飛び出し、善子はしどろもどろに口を動かす。

「き、来たっていうか、たまたま近くを通りかかったから寄ってみたっていうか………」

「たまたま?」

 家から散歩して通りかかるような距離でもないだろう、という指摘をされる前に「どうでもいいでしょそんなこと!」とまくし立てる。

「それよりクラスの皆は何て言ってる?」

「え?」

「わたしのことよ! 変な子だねえ、とか。ヨハネって何、とか。リトルデーモンだって、ぷふ、とか!」

 「……はあ」と花丸は気のない返事をする。

「そのリアクション、やっぱり噂になってるのね。そうよね、あんな変なこと言ったんだもん。終わった、神々の黄昏(ラグナロク)。まさにデッドオアアライブ」

 善子はロッカーに戻った。戸を閉めると闇が包み込んでくれる。このまま闇に溶けてしまおう。そんなことを考えるも、戸を挟んで聞こえる花丸の声が否応にも現実を認識させる。

「それ生きるか死ぬか、って意味だと思うずら。というか、それも気にしてないよ」

「でしょう………、え?」

 花丸の微笑が聞こえた。

「それより、皆どうして来ないんだろうとか、悪いことしちゃったのかな、って心配してて」

「………本当?」

「うん」

 戸を僅かに開き、花丸をじっと見つめる。

「本当ね? 天界堕天条例に誓って嘘じゃないわよね?」

 その条例は何、と訊きたげだったが、花丸は追求せず「ずら」と首肯する。

 「よし!」と善子は戸を勢いよく開け放った。驚いた花丸が尻もちをつくが構わず、

「まだいける、まだやり直せる! 今から普通の生徒でいければ!」

 自分の高校生活はまだ希望がある。友達を作って仲良く談笑して、素敵な彼氏を作って甘いデートを――後者ほどの贅沢は望まないとして。

 「ずら丸」と善子は未だ立ち上がれない花丸に顔を近付ける。怯えながら「な、何ずら?」と声をあげる花丸に更に詰め寄り、

「ヨハネたってのお願いがあるの」

 

 生徒の同居人とはいえ、翔一は学校にとっては部外者になる。でも学校の教員たちは何度も千歌の忘れ物を届けに訪れる青年に対しては寛容で、廊下ですれ違うと「あら翔一君、こんにちは」と挨拶を交わすほどだ。

「学校かあ、何だか良いよね」

 千歌が玄関まで見送る道中、初めて来たわけでもない校舎を物珍しそうに眺めながら翔一が言う。そもそも翔一だって学生時代はあったはずだ。本人が思い出せないだけで。

「調理師学校もこんな感じかな?」

「それは分からないけど、もしかして志満姉の言ったこと気にしてる?」

 千歌が訊くと翔一は「うーん」と首を傾げる。

「志満さん、俺が家にいるの迷惑なのかな?」

「そんなことないよ。志満姉も美渡姉も翔一くんのこと大好きだよ」

 志満が言ったように、高海家の家事は全て翔一に一任している。十千万の仕事がある志満としては大助かりだ。翔一の考案した新作料理が宿泊客の夕飯として採用されたことだってある。もはや高海家にとってかけがえのない家族の一員だ。家族と思えるからこそ、翔一の将来を案じて志満は専門学校の資料を取り寄せたのだろう。

「でもさ、志満姉の言いたいことも分かるかな。ほら翔一くん言ってたでしょ。皆の居場所を守るために戦いたい、って。それって人のためだよね。何か自分のための夢とかないの?」

「夢?」

 まるで考えたことがない、というような口ぶりだった。裏表のない翔一のことだから、志満に言ったことも本心だろう。記憶が戻っても戻らなくてもいい。ただ日々を高海家で過ごせれば。

 とはいっても否が応でも身の回りに変化が訪れるのが人生だ。できれば千歌もあまり考えたくはないが、翔一が高海家から離れる日が来るだろう。

「毎日毎日記憶喪失になりたいかな」

 不意に翔一はわくわく、といった調子で言う。「ええ?」と千歌は困惑を漏らした。

「毎日記憶喪失になりたい、ってどういうこと?」

「例えば朝目が覚めるじゃない。で、昨日のこと何も覚えてなければさ、見るもの全てがすごい新鮮なわけよ。そんな風に毎日生きていけたら良いなあ、って」

 「何それ、わけわかんないよ」と千歌は言う。翔一にとっては毎日が発見に満ち溢れた日々かもしれない。でも、それは千歌と今まで築き上げてきたもの全てがリセットされるということ。そんなのは寂しすぎる。

 玄関に着いて翔一が靴を履き替えているとき、ふと千歌は気付いた。玄関先に停まっているバン――きっと学校に掃除用具を貸し出している業者だ――に荷物を積んでいた女性の視線に。千歌が駆け寄って声をかけるまで、その女性は翔一をずっと凝視していた。

「あの、翔一くんに何か用ですか?」

 「あ……、何でもないの」と女性はしどろもどろに笑顔を繕う。

「どこかで会ったような気がしたものだから」

「翔一くんに?」

「翔一くん、ていうんだ」

「はい、津上翔一くんです」

 女性はじ、っと翔一を見つめるとまたぎこちなく笑みを零し、

「ごめんね。多分私の勘違いだわ」

 荷物をそそくさと車内に納めて、女性は運転席へ乗り込もうとドアを開ける。「あ、ちょっと待ってください」と千歌は呼び止めてポケットからスマートフォンを取り出す。

 「千歌ちゃん、どうしたの?」と翔一が訊いた。「決まってるでしょ」と千歌は答える。

「何か思い出したら連絡してもらうの。もしかしたら翔一くんの過去知ってるかもしれないし」

 

 

   2

 

 事はその日のうちに動いていた。

 翔一は帰宅してすぐ畑で実り始めたキャベツを収穫していた。そこへ翔一に、学校で千歌と連絡先を交換した女性から電話が来たという。

 夕飯の食卓で電話を対応した美渡から顛末を聞くと、志満は「そう」と感慨深そうに応える。千歌は翔一がいつも座っている席を眺める。今日の夕飯に翔一はいない。畑で物思いにふけっているようだ。

「じゃあ翔一君の過去を知っていそうな人が現れたってことね」

 志満にとっては願ってもないことだろう。過去を知れば、翔一の将来を考えるヒントになるかもしれない。

 美渡が期待を込めた口調で言う。

「その人に聞けば、翔一の正体が分かるってことね」

 まるで珍獣みたいに、と思ったが的を射ているかもしれない。その三浦という女性に会えば分かるかもしれない。

 翔一がどこで生まれ育ち何をしていたのか。

 翔一がいつどこで金色の戦士に変身する力を得たのか。

 翔一が戦う怪物は一体何なのか。

 事は進むのが早く、翔一が三浦と会う約束をしたのは明日の午後1時、沼津港近くの千本浜公園だ。夜が明けたら全てが分かるかもしれない。

 「にしても――」と美渡は視線を落とし、

「夕飯のおかずがキャベツの千切りだけって………」

 今日の夕飯は白米とインスタントの味噌汁とキャベツの千切りのみ。何かの付け合わせに使うつもりだったのか、冷蔵庫にあったものを更に持ってドレッシングをかけただけ。物足りないが、お客用に用意した料理に手を出すわけにもいかない。そう自身を納得させて千歌は言った。

「仕方ないよ。翔一くん作る気ない、って言うんだから」

 千歌は裏庭のほうを見やる。翔一にかけるべき言葉が見つからない。きっと大丈夫、心配することない。そんな上辺だけの言葉を並べたところで、全ては明日になってしまえば明らかになるかもしれない。きっと翔一にとって良いほうへ働くはずだと思いながらも、千歌は願わずにはいられない。

 どうか三浦の勘違いであってほしい、と。

 細く切られたキャベツを眺めながら、志満がぽつりと呟いた。

「翔一君も、自分の過去を知るのが怖いのかもね」

 

 

   3

 

 花丸の言った通り、誰も善子の失態は気にも留めていないようだった。学校の門を潜った善子をクラスメイト達が視線を送ってくるが、善子が慎ましやかなに微笑して「おはよう」と挨拶すれば「おはよう」と返してくれる。

 こんなことならもっと早く復学しておけばよかった。下手に口を開かなければぼろが出ることはない。

 朝のホームルームが終わるとクラスメイト達が一斉に善子の席へと集まってくる。

「雰囲気変わってたからびっくりしちゃった」

「皆で話してたんだよ。どうして休んでるんだろう、って」

 口々に述べられるクラスメイト達の声から歓迎されていると確信し、善子は「ごめんね」と微笑む。

「でも今日からちゃんと来るから、よろしく」

 「こちらこそだよ」という反応から、このキャラクターで好感触らしい。いける、と善子は机の下で見えないよう拳を握った。今はぎこちなくても時間を経ていけば慣れる。そうすれば自然とクラスメイト達に普通の女子高生として認識されるはずだ。

「津島さんて、名前なんだっけ?」

 申し訳なさそうに尋ねられた質問に善子は肩を微かに震わせる。

「確か、よ……よは――」

 「善子!」と遮る。口調が思わず強くなってしまい、クラスメイト達が少しばかり驚いた。

「わたしは津島善子だよ」

 「そうだよね」と皆が笑った。笑いながら善子はこちらを遠巻きに眺める花丸をちらり、と一瞥する。大丈夫、花丸がついている。昨日頼んだのだから。

 気が緩むと堕天使が顔を出す。だから危なくなったら止めてほしい、と。

 それにしても、普通の女子高生は疲れる。ただ笑って会話するだけでも冷や汗が滲む。

「津島さんて趣味とかないの?」

 何気なく質問される。仲を深めるのなら利かれて当然なのだが、自分の趣味を隠さなければならない善子は「と、特に何も……」とおずおず応える。いや、とすぐに思い直した。これは上手くクラスに溶け込む絶好のチャンスじゃないか。ここで好感度を上げられれば、友達に恵まれた高校生活が決まったようなものだ。

「う、占いをちょっと………」

 善子が言うと「へえ」という期待に満ちた声が沸いた。皆占いには大なり小なり興味があるらしい。

「本当? わたし占ってくれる?」

「わたしもわたしも!」

 口々に希望されて「もちろん」と応じる。

「今占ってあげるわね」

 「やった!」という小規模な歓声に包まれながら、善子は鞄から必要な小道具を取り出す。魔法陣の描かれたマルチクロスを床に敷いて黒のローブを身に纏い、更に黒い羽をシニヨンに挿す。その出で立ちにクラスメイト達は目を丸くしたまま沈黙しているのだが、気付かない善子は燭台に立てた蝋燭にマッチで火を点けて占い、もとい儀式を開始する。

「天界と魔界に蔓延るあまねく聖霊。煉獄に落ちたる眷属たちに告げます。ルシファー、アスモデウスの洗礼者、堕天使ヨハネと共に――」

 そして善子は大きく両腕を広げ、

「堕天の時が来たのです!」

 宣言の後に沈黙が教室を満たす。クラスメイト達の怯えた表情を見て、ようやく善子は冷静になることができた。

 

 ――やってしまった――

 

 

   4

 

 北條と入れ替わりに部下として配属された誠に、河野は昼食をご馳走してくれた。訪れたのは沼津駅近くに軒を落ち着けるラーメン屋台で、誠にとって見るのは初めての移動式店舗だった。数十年前はリアカーもしくは軽トラックでラーメンを売り歩く光景は多かったらしいが、現代ではもう姿を見ることが殆どない。九州地方ではまだ営業している屋台も多いそうだが、それはラーメンが名物の現地が保護する観光名所みたいなもので、自治体が条例を整備したおかげで成り立っている。

 すっかり常連なのか、河野は挨拶のように「おやじ、醤油ふたつ」と店主に告げると誠を背もたれもない粗末な椅子に促す。屋台のカウンタースペースは詰めても3人が限界で、すぐ目の前の厨房スペースも鍋や食器類が所狭しと並んでいる。こういう店はラーメンがどういう工程で調理されるかが間近で見ることができた。

「なあ、これ以上聞き込みを続けても無駄なんじゃないか?」

 ラーメンを待っている間、河野が言う。

「アンノウンによる被害者たちが超能力者だったというお前の説は、まあ俺としては面白いと思うんだが」

 捜査一課に配属されてからも、さしあたり誠の捜査内容はあまり変わっていない。アンノウンに殺害された被害者たちが超能力者だったという証明。被害者遺族を訪ね、河野と共に根拠を探っている。被害者は生前、不思議な力を使うことはなかったのか、と。こんな奇天烈な推理に付き合わせてしまって河野には申し訳ないと思うが、何もしないわけにはいかない。アンノウンの謎を探る根拠としては、今のところ超能力の存在しかない。

「もう少し頑張ってみます」

 誠が言うと、河野は特に否定を口にすることなく飄々と頷く。そこへ「へいお待ち」と店主が目の前にラーメンの丼を置いた。「おお来た来た」と頬を綻ばせながら河野が誠に割り箸を手渡す。「どうも」と箸を割って麺を啜ると、醤油味の奥からエビの香りが鼻から抜けていく。海鮮出汁のスープとは港町の沼津らしいラーメンだ。

「北條のやつはひとり屋でな。こういう店には付き合わなかったが、お前はどうだ?」

「美味しいです」

 「そうか」と河野は嬉しそうに笑った。こういう外で食べるラーメンもなかなか風情がある。味も申し分ない。

 河野のスマートフォンが着信音を鳴らす。「はいもしもし河野ですが」と食事を中断して応答した河野は「何? 分かった」と通話を切り誠へ告げる。

「殺しだ」

 

 



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第3話

 

   1

 

 海岸沿いに松の木が無数に植えられた千本浜公園の一画で、その死体は市民によって発見された。現場維持のためにまだ横たえたままの死に顔を、誠はじっと見下ろす。血色が良い――死体相手におかしな言い方だが――ことから、絶命してまだ間もないらしい。

「どうした?」

 無意識に長い間眺めていたからか、河野が声をかけてくる。「いや――」とかぶりを振ろうとするが、率直に述べようと思い直す。こういう仕事は、何か気に掛かることがあれば言ったほうが良い。

「この被害者、どこかで会ったような気がするんですが………」

 記憶を探ってみるが判然としない。街ですれ違った程度か。河野は現場に放置されていた黒革のハンドバッグから運転免許証を抜き取る。証明写真と死体の容姿が同じことから、被害者の所持品であることは間違いないようだ。

「被害者は三浦智子29歳。知り合いか?」

「いや………」

「まあ不思議と死体というやつは皆どこか似てるもんだ」

 そう言って河野は死体の傍でバネのように広がった針金の束を手に取る。

「これは絞殺だな。酷いもんだ」

 刑事としてのキャリアが長いためか、河野は死体の首に刻まれた跡を見ても溜め息に留まる。悲しいかな誠も死体には慣れつつある。この三浦智子の骸は比較的損傷もなく生前に近い状態を保っているから冷静に観察することができた。

「でもこれは殺しの手口がはっきりしている。アンノウンの仕業ではありませんね」

 人間が「可能」な殺人。そうなると不可能犯罪捜査本部の誠と河野が担当する事件にはなるまい。現場捜査が済んだら沼津市警の刑事に後を引き継いでもらわなければ。

 それにしても堂々と殺したものだ。千本浜公園は森のように松の樹が密集しているが、見通しが悪いわけでもない。そんな公園のなかで殺害し、死体を隠すことなく凶器の針金も放置したまま犯人は現場を去った。殺人を犯したことで気が動転していたのか。計画的な犯行にしては杜撰すぎるし、衝動的な犯行だったとしても針金なんてその場で手元に持っているものだろうか。

 そんなことを考えていると「おい、これを見ろ」と被害者の手帳を捲っていた河野がページを見せてくる。今日の日付のページに時間と場所――つまりはこの千本浜公園――、そして名前が綴られている。待ち合わせの約束のようだ。

「どうやら被害者は今日ここでこの津上翔一とかいうやつに会っていたらしいな」

「津上翔一………」

 待ち合わせの相手として綴られた名前を反芻する。知っている名前。この事件、すぐに引き下がってはいけない気がした。

 

 

   2

 

「あ、志満姉? 翔一くんどうだった?」

 スマートフォンを耳に当てて訊くと、しばしの逡巡を挟んで長姉の声がスピーカーから聞こえてくる。

『それが……、会えなかったらしいの』

「会えなかったって1時に千本浜でしょ? 翔一くんちゃんと行ったの?」

『私も訊いたの。ホームセンターで買い物してきたみたいだからそのまま帰って来たんじゃないかと思って。でも公園行って1時間近く待っても三浦さん来なかったみたい』

 千歌は連絡先を交換したことを思い出し、

「三浦さんに電話できないの?」

『一応かけてはみたんだけど、誰も出なくて』

「翔一くんの様子は?」

『すっかり元気よ。昨日夕飯作れなかったから今日はご馳走作る、って張り切ってるわ』

 「そうなんだ」と相槌を打ちながら、千歌は自分が安堵していることに気付く。過去が明らかになることで翔一が変わってしまうかもしれない。そんな根拠のない恐怖に似た感情のせいで、今日は何事も身が入らない日になった。でも三浦は約束に訪れず、翔一の過去についてはひとまず先送り。まだいつもの日常が続いていく。もしかしたら翔一も同じように思っているのかもしれない。

 不意に戸を挟んだ部室から声が聞こえた。

「どうして止めてくれなかったのー!」

 善子の声だ。放課後になると花丸の陰に隠れるようにして部室へ訪れたのだが、入部希望ではないらしい。何でもクラスに馴染もうと試みたが堕天使が顔を出して失敗したのだとか。

「じゃあ、そろそろ部活だから切るね」

『ええ』

 スマートフォンの通話を切って、千歌は部室に入る。あれ、と部室を見渡すが善子の姿が見えない。探す間もなく再び善子の泣きそうな声がテーブルの下から聞こえる。

「せっかく上手くいってたのに!」

 覗き込むと善子が小さくうずくまっている。花丸が呆れ顔で言った。

「まさかあんなもの持って来てるとは思わなかったずら」

 あんなものとは、テーブルに置かれた明らか備品ではない燭台と羽とローブと魔法陣だろうか。一体これを何に使ったのか。

 「どういうこと?」と梨子が訊くとルビィが、

「ルビィもさっき聞いたんですけど、善子ちゃん中学時代はずっと自分は堕天使だと思い込んでたらしくて。まだその頃の癖が抜けきってない、って」

 空想が豊かな子なんだなあ、と思っていると、のそりと静かに善子がテーブルから這い出てくる。

 善子は力の抜けた声で言う。

「分かってる。自分が堕天使のはずない、って。たとえ堕天使がいるとしても………」

 じゃあこれは何、と疑問に思ったところで、それを梨子が訊いた。

「だったらどうしてあんなもの学校に持ってきたの?」

 「それは、まあ……」と善子は次第に饒舌になっていき、

「ヨハネのアイデンティティみたいなもので、あれがなかったらわたしはわたしでいられない、っていうか――」

 そこでヨハネ、もとい善子の表情が引きつる。教室ではここで制止できなかったから失敗したのだろう。そんな善子を細めた目で見ながら梨子が、

「何か、心が複雑な状態にあるということはよく分かった気がするわ」

 「ですね」とルビィがノートPCのキーを叩く。インターネットの動画サイトにアクセスしてキーワード検索を入力しながら、

「実際今でもネットで占いやってますし」

 動画が始まった。蝋燭だけが光源の薄暗い部屋のなか、黒のファンタジーチックな衣装を着た善子が不敵な笑みを浮かべている。

『またヨハネと堕天しましょう』

 「わーやめて!」と動画に映っていた本人がPCを乱暴に閉じる。善子は行儀悪くテーブルに乗ったまま喚いた。

「とにかくわたしは普通の高校生になりたいの! 何とかして!」

 本人にとっては深刻な問題らしく、目尻に涙を溜めている。でも、千歌には何とかしてあげたい、なんて気持ちは微塵もなかった。あったとしても力にはなれない。「普通」から脱するためにスクールアイドルを始めた千歌には。むしろ、この「普通」からかけ離れていることが良いじゃないか。

「………可愛い」

 呟くと場の皆の視線が集まる。千歌は再び開いたPCの画面を示し、

「これだ! これだよ!」

 千歌は期待と共に告げる。無意識に善子と同じようにテーブルに乗っていたが、驚きのあまりか誰からも咎められなかった。

「津島善子ちゃん。いや、堕天使ヨハネちゃん。スクールアイドルやりませんか?」

 

 

   3

 

 学校や仕事が終わる時刻は大体どこも同じなのか、夕方の百貨店ビルは混みあっている。沼津駅前という立地条件が客足に拍車をかけているのだろう。

「ねえ、本当に大丈夫なの?」

 迷うことなく雑貨屋へ向かう千歌の後ろで梨子が訊いてくる。「大丈夫」と千歌は揚々と善子直伝の堕天使要素を書き連ねたルーズリーフを示す。勧誘の返事は先送りにするとして、善子はしばらくの間スクールアイドル部の堕天使アドバイザーという形として話をまとめた。早速その日のうちに、と練習は早めに切り上げて2年生の3人で買い出しに出ている。

「素材さえ揃えば衣装にできるよ。ね、曜ちゃん」

 「うん」と隣を歩く曜が頷き、

「わざわざ生地から作らなくても既製品をアレンジすればすぐにできるから。ルビィちゃんも手伝ってくれるって」

 1年生のふたりが入部してくれたことは嬉しいのだが、そうなると衣装制作を担当する曜の負担が増える。でも幼い頃から熱心なスクールアイドルのファンだったルビィは自分で衣装を作ったこともあり、裁縫はお手の物らしい。

「絶対に可愛いって。大丈夫」

 千歌が言うと「いや、そうじゃなくて――」と梨子は言いかけるが、それ以上は何も続けることなく歩き続ける。スクールアイドルを熟知するルビィに堕天使ヨハネとして善子が監修する衣装だ。千歌には絶対的な確信があった。

 雑貨屋での買い物を終えてエスカレーターで1階に降りると、食品コーナーのカウンタースペースで見慣れた青年が商品を袋に詰めているのが見えた。

「翔一くん!」

 呼びながら千歌が駆け寄ると、翔一は昨晩の様子が無かったことのように「千歌ちゃん」といつもの笑顔で千歌たちを迎える。

「皆どうしたの?」

 「買い物です」と曜が両手に提げた袋を見せる。

「新しい衣装作るんだ」

 千歌が言うと翔一は「へえ」と目を輝かせ、

「どんな衣装なの?」

「それはできてからのお楽しみ」

 そこで「ちょ、ちょっと」と梨子が口を挟む。

「まさか津上さんに見せるの?」

 「え、そうだけど?」と千歌は言った。応援してくれているのだから当然と思うのだが、顔を赤くした梨子は髪を振り乱さんとばかりに首を振る。

「見せるなら千歌ちゃんのだけにして!」

 「ええ」と翔一は声をあげる。

「大丈夫だって梨子ちゃんなら何着ても似合うからさ」

「そういう問題じゃありません!」

 恥ずかしがる梨子を面白そうに見ていた曜が、翔一のあまり物が入っていない袋へと視線を移す。

「今日は買ったの少ないんですね」

 そう言うと翔一は待ってました、というような笑みを浮かべる。

「菜園のキャベツが良い出来でさ。今日はそれ使った新しい料理に挑戦しようと思うんだよね」

 「へえ、どんな料理?」と千歌が訊く。

「それはできてからのお楽しみ」

「えー、教えてよ」

「じゃあ早く帰って準備しよ――」

 翔一の動きが止まった。笑みが消え失せ、明後日のほうを向く。

「翔一くん?」

 呼びかけるが、翔一は無反応のままその場に立ち尽くしている。ぞわり、と千歌の背中に悪寒が走る。

「ごめん千歌ちゃん、俺行かなくちゃ!」

 そう言って、翔一は袋を置いたまま店内を走り出した。「ちょ、翔一くん!」と千歌は慌てて袋を掴んで後を追う。

「ねえ、津上さんどうしたの?」

 後ろを走る梨子が訊いたが、説明できる余裕なんてなかった。きっと翔一は戦いに行く。言わなくちゃ、と思った。

 ちゃんと帰ってきて。いつもの翔一くんのまま帰ってきてご飯作ってよ、と。それがたとえ翔一の耳に届かなくても、言い続けなければ。

 自動ドアを潜って外へ出る。翔一は駐輪場へ向かおうとしていた。その背中へ千歌が大声で告げようとしたところに、白のクラウンがタイヤの摩擦音を立てながら翔一の目の前で急停止し行く手を阻む。すぐさま運転席と助手席からスーツを着た男ふたりが出てきた。ひとりは中年の見知らぬ男。もうひとりはよく十千万を訪ねてくる氷川誠だった。

「津上翔一だな?」

 中年の男――おそらくは刑事――に尋ねられると翔一は困惑しながらも「はい」と応じる。

「氷川さんどうしたんですか?」

 千歌が駆け寄ると中年の刑事が「知り合いか?」と誠に尋ねる。「はい」とだけ答えて誠は翔一に訊いた。

「君は今日13時に三浦智子なる女性と千本浜公園で会う約束をしましたね?」

 「それがどうかしたんですか?」と翔一が質問を返すと、すかさず中年の刑事が告げる。

「殺されたんだよ彼女」

 告げられた意味を理解するのに千歌はしばしの時間を要した。翔一と会う約束をしていた女性が何者かに殺された。きっと約束を記したメモか何かを誠たちは発見して、翔一が事件に関係していると睨んだ。おそらくは殺人事件の容疑者として。

 誠は淡々と告げる。

「詳しく話を聞かせてもらいたいのですが、署まで任意同行してもらえますか」

 誠は翔一の腕を掴んでクラウンへと促す。大人しく歩き出す翔一の前に、千歌は回り込んだ。

「違います。翔一くんは三浦さんに会えなかったんです。そうでしょ翔一くん?」

 翔一は呼びかけに応じない。「何とか言ってよ!」と肩を揺さぶるとようやく反応を示した。ただそれは千歌に対してではなく別のものらしい。翔一は先ほどと同じように明後日のほうを向き、目を見開く。

 翔一は駆け出した。すぐさま中年の刑事が掴みかかるが、乱暴に振り払ってそのまま走り去ろうとする。寸前で誠が翔一の腕を掴み引き寄せ、更に後頭部に手を添える。すると重心を押さえられた翔一はなすがまま車体に押し付けられ身動きを封じられてしまう。

「津上翔一、逮捕します」

 誠はポケットから出した手錠を翔一の手首にかける。すぐにもう片方の手首にも。

「公務執行妨害ってことだな」

 中年の刑事がそう言って翔一の肩を掴み車の後部座席へと押し込むように乗らせる。シートに座る翔一の顔は何かを焦っているように見えた。

 翔一を乗せたクラウンがパトランプを鳴らしながら走り去ってようやく、千歌は周囲に野次馬が集まっていることに気付く。駅前でいきなり人が警察に逮捕されれば当然かもしれない。駅前交番の巡査も唖然としていた。

「ねえ千歌ちゃん、これってどういうこと?」

 困惑に満ちた表情で梨子が訊いてくる。千歌はしどろもどろに言葉を紡いだ。

「昨日学校で翔一くんのこと知ってるかもしれない人と会って、その人と今日会う約束して………。でも翔一くん会えなかったって………」

「その人殺されたんでしょ? 警察が来たってことは津上さんが――」

「違うよ! 何かの間違いだよ!」

 「ふたりとも落ち着いて」という曜の声で、千歌は高鳴る脈を抑えようと深呼吸する。辺りを見回して曜は言った。

「ひとまず家に帰ろう。志満さんにこのこと言わないと」

 

 

   4

 

 逃走を図ったことで重要参考人から容疑者となった津上翔一の取り調べは、沼津署に到着してすぐ開始された。48時間後には検察に身柄を移さなければならない。短いが、何としても翔一から事件の全容を聞き出さなくては。

「被害者の三浦智子と千本浜公園で待ち合わせをしたことは認めるんだな?」

「はい」

 河野の質問に翔一は怯えも憤りも見せず応じる。この4畳の狭く殺風景な取調室に入った者の多くは委縮なり憤慨なりするものだが、翔一はいつもの調子を崩さない。そんな彼を誠は観察するように眺める。嘘をついていないか、表情に出たところを見逃さないために。

「で、それからどうした?」

「でも会えなかったんです。1時間くらい待ったんですけど」

「会えなかった………。変じゃないか? 被害者は千本浜公園で発見されたんだぞ。お前と待ち合わせをした場所だろ。大体お前と被害者は一体どんな関係だったんだ?」

 「関係って……」と翔一は困ったように眉を潜め、

「昨日偶然学校で会って――」

「学校? どこの?」

「浦の星女学院です。お世話になってる家の高海千歌ちゃんて子が通ってる」

「お前は何でその学校に行ってたんだ?」

「千歌ちゃんの忘れ物を届けに行ったんです。あの子よく弁当とか部活の着替えとか忘れちゃうから。この前なんか――」

「いや、それはいい。そんで、三浦智子と学校で会ってその後は?」

「学校で会って、あの人が僕の過去を知ってるからって。もしかしたら僕の記憶が取り戻せるかもしれないから………」

「記憶を取り戻すってお前、何言ってんだ?」

 「河野さん」と誠は口を挟む。

「この男、実は記憶喪失らしいんです」

「記憶喪失?」

「はい、そのことについては嘘ではないと思います」

 以前、十千万を訪ねた際に志満から聞いている。翔一は記憶喪失で過去のことを何も覚えていない、と。

 スマートフォンの着信音が鳴った。ポケットからバイブレーションの振動を感じ、誠は「失礼します」と取調室から出て通話に応じる。

「はい氷川ですが」

 『氷川君?』と小沢の声が聞こえた。

『実はね、おめでたいようなそうでもないような微妙な報告があるんだけど』

 何事も白黒はっきりしている小沢にしては曖昧な物言いだ。どんな難しい案件なのか、「何でしょうか?」と誠は尋ねる。

『1時間ほど前にアンノウンが出現してね、北條透がG3システムで撃破したわ』

 丁度誠と河野が翔一を逮捕した頃だ。当然ユニットを離れた誠に出動の報告をする義務を小沢は負っていない。だから事後報告という形になっても特に思うことはない。それどころか撃破という報告に安堵すらしている。市民が守られたということだ。

「そうですか、流石北條さんだ。おめでとうございます、と伝えて頂けますか。あ、それからもしアンノウンに被害者がいるなら、その手口を教えてほしいんですが」

『被害者は1名。死因は水のない場所での溺死よ。やっぱり不可能犯罪ね』

 前回の不可能犯罪とは違う手口。つまりはアンノウンも別個体ということだ。強い衝撃による不可能犯罪はぱたり、と止んでいる。最後にアンノウン出現の通報を受けた日、小沢は無理矢理にもGトレーラーを出動させようとしたが、既に北條を装着員とした改修に出払っていたために未遂で済んだらしい。同日に沼津駅前、翔一を逮捕した商業ビル付近で爆発があったという通報があった。誠は漠然とだが、アギトがアンノウンを撃破したと推測している。

「分かりました、ありがとうございます。できれば、後で僕のパソコンに報告書を送って頂けますか?」

『ええ、記録映像も一緒にメールしておくわ。例のごとく、アンノウンは映ってないけどね』

「ありがとうございます。それじゃ失礼します」

 通話を切って取調室に戻る。

「やはり三浦智子はアンノウンに殺されたわけではないようですね。手口が全く違っています」

 そう誠が告げると、河野は労わるような、それとも皮肉とも取れるように翔一の肩に手を添える。

「長くなりそうだな、ええ?」

 「はあ………」と翔一は曖昧に応じる。何やらそわそわと体を揺らしていて、「トイレですか?」と誠が尋ねると翔一は「いいえ」とかぶりを振る。

「今日、皆の夕飯どうしようかな、と思って。ご馳走作るつもりだったから」

 

 





 『サンシャイン』とクロスさせるライダーは『アギト』と『ウィザード』で迷いました。『ウィザード』を候補にした理由は魔法繋がりで善子ちゃんとの絡みが面白そうだったので。

 結局『アギト』とのクロスにした理由は現代の中高生が『アギト』をあまり知らないという話を聞き、平成初期のライダーを知ってもらうための宣伝としてこのような形になっております。


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第4話

 更新が遅れて申し訳ありません。ここしばらくの間モチベーションが著しく下がっていました。

 読んでくれる読者様を意識すると「こんな出来でいいだろうか」と変に物怖じしていましたが、そもそもプロの作家でもない私がそんな気取った悩み抱える必要は無かったですね(笑)。「書きたいから書く」という原点を忘れず肩の力を抜いて書いていこうと思いますので、よろしくお願いいたします。


 

   1

 

「大変だよ! 翔一くんが警察に連れてかれちゃった!」

 曜と梨子と一緒に十千万へ帰宅してすぐ、千歌は姉ふたりに先の顛末を報告した。

「翔一が警察に連れてかれたって、それどういうことよ?」

 宿泊客への迷惑も構わず美渡が語気を強める。

「津上さんが会う約束をしていた人が殺されたらしくて………」

 千歌が省いてしまったことを梨子が補足してくれる。

「まさか翔一が――」

 「何かの間違いだって!」と美渡の言葉を遮る。続けて曜が「そうですよ」と、

「絶対に翔一さんは犯人じゃありません。アリバイとかあればきっと………」

 それだ、と千歌は希望を見出す。アリバイが、三浦が殺害されたと思われる時間帯に翔一が何をしていたか証明できれば、証人がいれば彼を釈放させられる。

 「でも――」と美渡は気まずそうに、

「翔一、約束にはひとりで行ったんだよね。ホームセンター寄ったみたいだけど時間近いしアリバイになるのかな」

 一気に不安が押し寄せる。意図はないだろうが、梨子が更に追い打ちをかけるようなことを言った。

「警察の取り調べって、結構強引だって聞いたことあるわ。もし津上さんが嘘の自白とかしちゃったら………」

 「そんな………」と千歌は息を詰まらせる。もし翔一が刑務所に服役するなんてことになったら。そんな想像をすると脚から力が抜けて崩れてしまいそうになる。いつか別れの日が来るかもしれない、と漠然と思っていた。でも、こんな形で突然別れるなんてあっていいのだろうか。

「皆落ち着いて」

 そう静かに告げたのは志満だった。受話器を片手に電話帳を捲りながら、

「知り合いの弁護士さんに相談してみるわ。きっと翔一君の無実を証明してくれる」

 「志満姉」と千歌は長姉へ強く言う。

「わたし警察に行ってくる。翔一くんのために何かできるかもしれないし」

「気持ちは分かるけど、私たちにできることは何もないわ」

 反論できず、千歌は唇を結ぶ。志満の言う通り、何かできるかもと言っても何ができるのか全く考えが思いつかない。いくら誠に説得を試みたとしても、高校生の証言が通るのか。しかもアリバイもない。

「それに翔一君なら大丈夫よ。きっとカツ丼でも食べさせてもらってるわ」

 志満が穏やかにそう言うと、呆れ顔で美渡が漏らした。

「刑事ドラマじゃあるまいし」

 

 

   2

 

「食えよ、腹減っただろ」

 そう言って河野が差し入れた蓋つきの丼を、翔一はまじまじと見つめる。蓋を取ると卵で閉じられた豚カツが湯気と共に出汁の香りを昇らせる。

「へえ、こういうときって本当にカツ丼が出るものなんですね。刑事ドラマで見たことあります」

 この男、自分の置かれた状況が分かっているのだろうか。嬉しそうに破顔する翔一を見て誠はそう思った。普通なら差し入れの食事なんて近くのコンビニで売っているおにぎりかパンで済ませる。わざわざカツ丼を出前で頼んだのは、刑事ドラマに憧れてこの仕事を志したという河野のこだわりだ。

「いいから食え」

 河野がぶっきらぼうに言うと、翔一は律儀に「いただきまーす」と合掌する。箸を手に豚カツを頬張る姿を見て河野が「美味いか?」と訊くと翔一は「はい」と笑顔で応え、

「あの、ひとつ訊いてもいいですか?」

「何だ?」

「このカツ丼てどこのお店の出前ですか?」「何でまたそんなことを訊く?」

 河野が呆れ顔で言うと、翔一はまるで新しい発見でもしたかのように笑った。

「今度、千歌ちゃんやAqoursの皆にも食べさせてあげようかな、と思って」

 そう言って翔一は箸を動かす。深い溜め息をつき、河野は誠へ視線をくべてくる。こいつ普段からこうなのか、と訊きたげだ。誠は無言で視線を返す。はい、普段からこうです、という返答を込めて。

 話せば話すほど、津上翔一という人間は得体が知れない。それが数時間の取り調べで誠が思い知ったことだった。取り調べは一種の心理戦と言っていい。容疑者を疲弊させ真実を証言させようと、誠と河野は飴と鞭の法則を駆使した。でもその試みは翔一のペースを前にしてあっけなく頓挫している。厳しく詰問しようが穏やかに諭そうが、翔一のペースは全く崩れない。疲弊した様子もなく溌剌と受け応えている。

 河野の言った通り長くなりそうだ。もっとも、参ってしまうのは翔一ではなくこちらのほうかもしれないが。とはいえまだ始まって数時間。これからが正念場だ。

 「津上君」と誠が呼ぶと、翔一は箸を止める。

「君はさっき被害者に会いに行く前に買い物をしたと言いましたが、一体何を買ったんです?」

「庭の樹を直したくて、ガムテープとか針金とか――」

 それを聞いた瞬間、河野は射貫くような視線を翔一に向け、

「語るに落ちたな。被害者はな、針金で殺されていたんだよ」

 

 

   3

 

 気付けばすっかり夜が更けていた。

 カーテンの隙間から街灯の白んだ光が部屋に入り込んでいる。気付くと色々なことが浮かび上がってきた。まずは自分自身から発せられている強い臭気。あの青年に匿われていた廃病院から家に辿り着いてからというもの、風呂に入らず部屋でぼう、と過ごして結構な日が経っていたらしい。

 時間の経過を認識できても、不思議と空腹はなかった。無意識に何か口にしていたのだろうか。いや、もしかしたら空腹を感じられるほど意識がはっきりしていないのかもしれない。ずっと現実と夢想の狭間にあるような、ぼんやりとした感覚に身を委ねていたのだから。

 全てに対する反応が鈍くなっているようだ。恐ろしいほど静かな部屋に、突然スマートフォンの着信音が響いても動揺なんてしない。応対なんてする気になれず放置する。着信音はしばらく鳴り続けた後に止んで、続けて人の声が発せられる。留守電モードに切り替わったのだろう。

『涼か? 神奈川の松井だ』

 母方の叔父の声だった。幼い頃に母が死んだ後も色々と世話を焼いてくれて、父とも実の兄弟のように仲が良かった。

『久しぶりだな、2年前の正月以来か。突然だが、驚かないでくれよ』

 今更何に驚くというのか。軽く聞き流すつもりでいた叔父の声は震えているようだった。

『行方不明になっていた義兄さんが……、お前の父親が、死体で発見されたそうだ』

 端末から発せられた声に、涼は目を見開く。耳孔に入った音声に電流でも走っていたかのように、全身に痺れのような戦慄が駆け抜けた。

『私はこれからその件で警察に行く。お前もこの電話を聞いたら連絡をくれ』

 留守電が終わった。涼はただ虚空を見つめ続ける。父が死んだ。1年半前に突然行方をくらまして、それでもどこかで生きているだろうと淡い希望を信じ続けた果てに。

 

 

   4

 

 放課後になってすぐ、スクールアイドル部と善子は十千万に集合した。曜とルビィがたった一晩でメンバー全員分の衣装を仕上げたということで、その衣装合わせだ。量販店で安く買った服に雑貨屋で買った装飾を組み合わせるだけとは言っていたが、簡単といっても仕事が早い。

 十千万に上がり込んで千歌の部屋へと向かう間、梨子はせわしなく館内を見渡した。当然のことながら翔一はいない。たった一晩だけとはいえ、翔一が掃除をしてない千歌の部屋は心なしか散らかっているように見える。

「はい、これは花丸ちゃんのね。それでこれが梨子ちゃん」

 完成した衣装を手渡す千歌はいつも通りの様子だ。明るく元気で、笑顔の絶えない。たまらず梨子は訊く。

「ねえ千歌ちゃん、津上さんのこと心配じゃないの?」

 早速着替えようと制服のボタンを外しながら千歌は「え? ああ……」と思い出したように、

「何か一晩寝たら大丈夫、って思って。翔一くんは犯人じゃないんだし、すぐに疑いも晴れるよ」

 そこで「ねえ、何の話?」と善子が口を挟んだ。

「ああ、3人にはまだ言ってなかったよね。翔一くんちょっと警察行ってるんだ」

 さら、っと言いのけた事実に、1年生の3人は「ええ⁉」と声をあげる。「翔一さん何かしたずらか?」と花丸が「大丈夫なんですか?」とルビィが口々に言う。ただひとり、善子だけは「翔一……」と呟いた。

「そういえば善子ちゃんはまだ翔一くんと会ったことなかったよね。帰ってきたら紹介するね」

 千歌の言葉に善子は「うん……」とぼんやりした様子で聞いていたのだが、すぐに「ヨハネ!」と噛みつくように言う。

「何か大丈夫って思えちゃうんだよね、翔一さん」

 曜が笑いながら言った。続けて千歌も、

「翔一くんのことだから、取り調べでもお茶とか淹れてそうなんだよね」

 

 取り調べが始まって丸1日が経とうとしているが、翔一の容疑が濃厚になったところから進展はみられない。あとひと押し。容疑者の自白があれば容疑は確定する。

 職務上、誠は翔一から何としてでも情報を引き出さなければならないのだが、この気の良い青年が果たして罪を犯すとは到底思えずにいる。とはいえ、現状からして彼の無実を晴らすことは難しそうだが。

 先ほど三浦の勤務先へ河野が聞き込みに行ったが、特に他人から恨みを買うような人物でもなかったという。仕事ぶりは真面目で、プライベートでもトラブルの相談はなし。殺害へと繋がるようなことが日常で起きていなかったということは、突然出会ったこの青年へと消去法で容疑が向く。

 もし翔一が、自分を記憶喪失者と偽っていたと仮定する。自分の身元を隠さなければならない事情があり、過去の自分を知っている三浦智子の存在は都合が悪い。だから殺害へと至った。

 推理はしてみたが粗だらけだ。翔一の記憶喪失が嘘と証明できていない上に、そもそも何故身元を偽る必要があるのか、という話に昇華してより事件が複雑になる。

 いたずらに推理を深めても仕方ない。翔一の身元に関しては、今河野が捜査を進めてくれているはずだ。自分は取り調べに専念しなければ。

 取調室にお茶のセットを持ち込んだ誠は、急須に適当な量の茶葉とお湯を入れる。トイレ以外はずっと座っている翔一からまだ疲労の色は見えない。急須を揺らし、茶葉にお湯が馴染んだ頃を見計らって湯呑に注ぎながら誠は言う。

「以前君にお茶を淹れてもらったことがありましたが、今日は僕が淹れましょう」

 「どうぞ」と差し出された湯呑を一口だけ啜ると翔一は顔をしかめた。

「あの、俺が淹れ直してもいいですか?」

 そんなに自分の淹れたお茶は不味いか。そもそもお茶に美味いも不味いもあるのか。ともあれ、容疑者に物を触らせるわけにはいかない。お湯のポットだって鈍器になりえるし、ポットの熱湯だって立派な凶器だ。

 無言で冷ややかな視線を送る誠に、翔一はおそるおそる「駄目?」と訊いてくる。溜め息をつき、誠は椅子に腰かけた。この男、とことん得体が知れない。

「では、もう一度最初から昨日の君の行動を教えてもらえますか?」

「はい。朝6時に起きて顔を洗って歯を磨いてから、菜園のキャベツに水をやって、そのキャベツがまた出来が良くって――」

「そこの所はもういいです。もう少し先に進んでください」

「はい。朝食のために白味噌を使った大根の味噌汁を作って。うちはお客さん用の味噌汁には赤味噌を使うんですけど、千歌ちゃんと美渡は甘い白味噌が好きなんです」

「もっと先です」

 ここまでくると、この男は取り調べを送らせるためわざと話を逸らしているのでは、と思えてくる。何度目になるかも分からない溜め息を漏らしそうになったとき、開けられたドアの間から河野が「ちょっといいか?」と顔を出す。「はい」と応じて席を立つと、

「ああ、それからキャベツを――」

 翔一の声を無視し、部屋から出てドアを閉めると完全に音が遮断される。

 河野は言った。

「間違いないな。奴が購入したというホームセンターの針金は、凶器に使われたものと同じものだ」

 そうなると、もう翔一の容疑は確定したも同然だ。他に容疑者が現れない限り。河野は取調室のドアへ視線を向け、

「それにしてもあの容疑者、指紋を照合しても前科はないし、記憶喪失だそうだが捜索願も出ていない。全くの正体不明。奴こそアンノウンてところだな」

 

 既製品に手を加えただけと安心していたのだが、どうやら曜は一晩でかなりの改造をやってのけたらしい。着替え終わった衣装のスカートを押さえながら梨子はおそるおそる言う。

「こ、これで歌うの? この前より短い……。これでダンスしたら流石に見えるわ………」

 羞恥に身を強張らせながら隣を見やると、下に体操着の半ズボンを履いている千歌がスカートを大きく捲って、

「大丈夫!」

「そういうことしないの!」

 咄嗟に千歌のスカートを押さえた。「良いのかな、本当に」と溜め息交じりに呟くと千歌が、

「調べたら堕天使アイドルっていなくて、結構インパクトあると思うんだよね」

 「確かに、昨日までこうだったのが――」と曜が視線をベッドの上に広げた『ダイスキだったらダイジョウブ!』の衣装からメンバー達へと移し、

「こう変わる」

 白と黒のモノクロ調、所謂ゴシックアンドロリータにコーディネートされた衣装は、スクールアイドルでは邪道と言える。アイドルとして踊るならばもっとカラフルに彩った華やかな衣装が定番なのだが、こういったシンプルな色合いもある意味で目立つ。

 「何か恥ずかしい………」とルビィが、「落ち着かないずら………」と花丸が言う。ふたりにとっては初めての衣装だから照れもあるだろう。まさかルビィも憧れのスクールアイドルになって初めての衣装テーマが堕天使とは。因みにひとりだけ自前衣装の善子は着慣れた様子だ。違和感がない、というより今回の衣装は善子の趣向を参考にしたのだから当然なのだが。

 梨子は千歌に訊いた。

「ねえ、本当に大丈夫なの? こんな格好で歌って」

「可愛いねえ!」

「そういう問題じゃない」

 可愛いかどうかじゃなくて、これで人気が出るかが焦点のはずだ。「そうよ、本当に良いの?」と善子も同意を示す。千歌は明確に答える。

「これで良いんだよ。ステージ上で堕天使の魅力を皆に思いっきり振りまくの!」

 「堕天使の魅力………」と善子は興味ある素振りを見せたのだが、すぐに「ダメダメ!」と首を振る。

「そんなのドン引かれるに決まってるでしょ!」

 善子は部屋の隅でこちらに背を向けてうずくまる。それでも千歌は「大丈夫だよ」と、

「きっと人気でるよ。『天界からのドロップアウト。堕天使ヨハネ、堕天降臨!』みたいな感じで」

 想像したのか、善子の背中から「大人気……、くくくっ」と控え目な笑い声が聞こえてくる。正直なところ薄気味悪いが、協力はしてくれるらしい。

 

 衣装サイズの調整を済ませる頃には、陽が傾いて西の空が燃えるような色を映し始めている。今日の活動はここまでにして、家が沼津市街の曜と善子を見送りにメンバー全員でバス停へ移動した。

「じゃあ、衣装よろしくね」

 千歌が言うと、善子と共にバスへ乗り込んだ曜は「ヨーソロー!」と応えて敬礼する。ほどなくしてバスは走り出し、手を振って車体が建物の陰に隠れて見えなくなるまで見送った。

「じゃあマルたちも」

「失礼します」

 花丸とルビィも自分たちの帰路を歩いていく。「じゃーねー」と手を大きく振って見送る千歌の横顔を、梨子はじっと見つめる。その顔の奥に秘められている想いを読み取ろうと、観察するように。

「ん、どうしたの?」

 視線に気付かれて咄嗟に「あ……、別に………」と応える。

「もしかしてスカート丈のこと不安? 大丈夫、曜ちゃんきっと上手くやってくれるよ」

 それも不安といえば不安だが。言いかけたところで、千歌はふふ、と笑みを零した。「どうしたの?」と今度は梨子が訊く。千歌は言った。

「皆色々と個性があるんだなあ、って」

「え?」

「ほら、わたし達始めたは良いけどやっぱり地味で普通なんだなあ、と思ってた」

「そんなこと思ってたの」

「そりゃ思うよ。一応言い出しっぺだから責任はあるし。かといって、今のわたしに皆を引っ張っていく力はないし………」

 こんな、千歌から弱音のような言葉を聞くのは初めてだ。いつだって前向きで真っ直ぐな千歌が、このときばかりは小さく見えてしまう。弱気になってしまう理由を梨子は悟った。

 「でも」と千歌は続ける。

「皆と話して少しずつ皆のこと知って、全然地味じゃないって思ったの。それぞれ特徴があって魅力的で。だから、大丈夫じゃないかな、って」

 元気で溌剌とした曜。アイドルへの熱が人一倍強いルビィ。達観しているようで無邪気な花丸。そして梨子。

 それらの人々をメンバーとして見出した千歌。真っ直ぐ前だけ見ているようで、この少女は意外と隣も見ている。

「………やっぱり変な人ね。初めて会ったときから思ってたけど」

 そう言うと、千歌は「ええ⁉」と口を尖らせる。

「何、褒めてるのけなしてるの?」

「どっちも」

「何? 分かんないよ!」

 子供のように地団駄を踏む千歌が何だかおかしくて笑みが零れた。

「とにかく頑張っていこう、ってこと。地味で普通の皆が集まって、何ができるか」

 「ね」と千歌の肩にぽん、と手を添える。

「よく分からないけど………。ま、いっか」

 その言葉に、また梨子は笑みを零す。周りを見ている割には、自分のことをあまり見ない人なんだ、と思った。

「じゃ、頑張る前に片付けなくちゃね」

「え?」

 目を丸くする千歌をよそに、梨子はバス停の時刻表を見る。次のバスは40分後。千歌が訊いてきた。

「どこ行くの?」

「警察署。千歌ちゃん場所分かる?」

「分かるけど、梨子ちゃん………」

 正解、とまるで生徒に回答を促す教師になった気分で、梨子は続きを告げた。

「津上さんの無実、晴らさないと」

 

 

   5

 

 昨日、誠が翔一を逮捕したのとほぼ同時刻、北條透を装着員としたG3システムは清水町営野球場へと出動した。

 G3の主観カメラが写す現場は無人だった。球場に隣接している中学校のグラウンドにも人影はない。そんな開けた場所で、誰かが倒れていたらすぐに気付く。停車させたガードチェイサーからGM-01を掴むと、視点はすぐさま倒れている人影のもとへと進んでいく。

 うつ伏せで倒れているのは全身を濡らした男性だった。奇妙なことに、男性の周辺は全く濡れていない。球場は狩野川に近いが、川に落ちて球場まで移動したのだとしたら、その道程は必ず濡れる。でも、グラウンドで濡れているのは男性だけ。

 報告書によれば、この時点で北條はG3の生体センサーで生体反応の消失を確認。男性は死亡と判断された。

 視点が背後へと流れる。視界の中央で、もやのかかった影のなかで小学生くらいの少年が手足をばたつかせながら「助けて!」と叫んでいる。北條は少年を抱えたアンノウンへ発砲。この時点で小沢は少年の救出を優先するよう指示したが、北條は発砲を継続。13発命中させたところで、アンノウンは少年の拘束を解いた。

 アンノウンが迫ってくるが、それに伴い視界の殆どがもやに覆われて状況が把握できない。報告書には、G3はアンノウンの猛攻を掻い潜りながらGM-01で牽制。近接格闘術を駆使しアンノウンを投げ飛ばし、次にGG-02を使用。グレネードを受けたアンノウンは頭上に光輪を浮かび上がらせ、直後に溶解するようにして消滅。残された体液はほどなくして気化したためサンプルの採取は不可能。

 

 小沢から誠のPCに送られてきた映像と報告書から見れば、北條の初陣は輝かしい勝利で飾られている。少年を巻き添えにする危険性を無視してまで発砲したことは問題だが、保護された少年に外傷がなかったことから厳重注意で済まされるかもしれない。むしろ北條の腕をより信頼させる材料だ。結果論ではあるが、上層部もせっかく見つけたG3装着員を簡単に降ろしはしないだろう。

 問題は多少あれど、前任の氷川誠よりも優秀。

 そんな上層部の声が聞こえてくるようだった。誠という「失敗例」がより北條の株を上げる。少しばかり気分は落ち込むが、人には適材適所というものがある。誠はG3装着員として向いていなかっただけ。北條のほうが適任だったというだけのこと。

 まあ、G3装着員としての適性なんて今はどうでもいい。気掛かりな点がふたつあることが重要だ。

 ひとつはアギトが現れなかったこと。アンノウンが現れれば必ずアギトも現れアンノウンと戦う。現れなかったのは確認できるものでは今回が初めてだ。

 もうひとつはアンノウンが溶解したということ。アンノウンがアギト、又はG3の攻撃を受けて消滅するときには必ずその身を爆散させていた。明らかにこれまでとは異なる最期。本当にアンノウンは撃破されたのだろうか。

「氷川さん」

 不意に呼ばれて振り返ると、オフィスに同じ不可能犯罪捜査本部の刑事が顔を覗かせている。

「面会ですよ。容疑者の身内だそうですが」

 

 



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第5話

 

   1

 

 沼津署の簡素な応接室に入ると、ふたりの女子高生が少しばかり緊張した面持ちで誠を出迎える。

「君たちは………」

 確か翔一を逮捕したとき、一緒にいた少女たちだ。ふたりは一礼しそれぞれ名乗る。

「高海千歌です」

「桜内梨子です」

 誠も礼を返す。「氷川さん」と千歌はすがるように誠を見上げ、

「翔一くんに会わせてください」

「申し訳ないが、今は無理です。たとえ身内でも、容疑者との面会は禁止されているので」

「どうして? 翔一くんに人殺しなんてできるはずないじゃないですか。氷川さん本気で翔一くんが犯人だって思ってるんですか?」

 誠は視線を泳がせる。翔一の知り合いとしてか、刑事としてか。どちらの立場で言うべきか迷ってしまう。

「私だって、彼のことを知らないわけじゃない。彼が犯人だと思いたくありません」

「じゃあ――」

「だからといって彼を釈放するわけにはいきません。彼が無実だという証拠が無ければ」

 千歌からすれば、突然家族を奪われたような気分かもしれない。不安げな表情を浮かべる千歌を見て、誠のなかで罪悪感に似た重圧がのしかかった。自分の仕事は刑事だ。市民を守る誇るべき職務のはず。でも、自分の所業で目の前の少女のように人の笑顔を消してしまう。たとえそれが法に従ったことであっても。

「あの、氷川さん」

 不意に、梨子が控え目に歩み寄ってきた。

「犯人が現場に残したものって、何かありませんか?」

「何故です」

「見せてください。試してみたいことがあるんです」

「試す?」

 一体何をするつもりか。千歌も梨子の意図が分からないようで首を傾げながら友人に視線を向けている。

「分かりました。ここで少し待っていてください」

 

 誠を待っている間、応接室には冷たい沈黙が漂っている。気を利かせた誠が出してくれたお茶を啜ると、梨子は翔一のことを思い出した。隣で珍しく黙ったままの千歌も同じことを思っていたのか、湯呑を見つめながら呟く。

「翔一くんが淹れてくれたほうが、美味しいね」

「………そうね」

 千歌はじ、と梨子を見つめてきた。

「ねえ梨子ちゃん。何するつもりなの?」

「ちょっとね。上手く説明することはできないんだけど、でも………津上さんの潔白は証明できると思う」

「どうやって?」

 どう説明したものか、梨子は答えあぐねる。見れば分かるものでもないし、これからやろうとしていることは初めての試みだ。だから上手くいくのか、梨子にも分からない。

「ねえ千歌ちゃん」

 彼女を呼ぶ声が、無意識に震えてしまう。

「これからわたしがすることを見て、わたしのこと気持ち悪い、って思うかもしれない。そうなったらわたしはAqoursから――」

「思ったりしないよ」

 力強い千歌の声が、梨子の言葉を遮る。

「何が起こるのか分からないけど、わたし梨子ちゃんのこと気持ち悪いだなんて思わないよ。せっかく一緒にスクールアイドルやってきたんだもん。これからも一緒だよ、絶対」

 視線を流すと、千歌の目はしっかりとこちらを捉えて離そうとしない。強張っていた肩の力が抜けた気がした。この人なら自分のどんな部分も受け入れてくれる。そう信じることができた。

「ありがとう」

 そう告げる梨子の声はもう震えていなかった。

 しばらくして、誠はプラスチックのコンテナボックスを抱えて戻ってきた。

「これが、犯人が現場に残した凶器です」

 コンテナボックスのなかでビニール袋を被せられた針金を梨子は眺める。ビニールは付着した犯人の皮膚組織などの証拠を保護するためのものだろう。見たところただの針金。でも、これは殺人に使われた。これがひとりの人間の命を奪ったと思うと、鼓動が激しくなってくる。

 深呼吸を何度か繰り返し、梨子はビニール越しに針金へ指先を触れさせる。

「っ!」

 触れた瞬間、頭にぴりり、と痺れのようなものが走った。咄嗟に指を引っ込めると「桜内さん?」「梨子ちゃん?」と誠と千歌が心配そうに梨子へ呼びかける。

「大丈夫」

 そう言って梨子は再び針金に触れる。今度は痺れがない。代わりにきいん、という耳鳴りのような音が頭蓋に響く。音は規則性を成していき、脳裏にモザイクめいた像が少しずつ鮮明になり、梨子は目を閉じた。

 

 商品棚にずらりと値札の付いた針金が並んでいる。そのひとつを見慣れた青年が手に取って籠に入れた。

 

「確かにこれを買ったのは津上さんです」

 梨子は意識を指先へと集中させる。脳裏に浮かぶ像を更に進めていく。

 

 店の自動ドアを潜ってすぐ、翔一に通行人がぶつかった。突然のことに避けられず、翔一は店の紙袋を地面に落としてしまう。ペンチ、潤滑油、金属用ボンド。購入した商品を袋に戻しているなかで、遠くに転がった針金の束を黒い手袋を嵌めた手が拾い上げる。

 場面が変わった。松の木が不規則に並ぶ森のような場所。確か梨子も行ったことがある。そう、千本浜公園だ。除草されただけの簡素な道を、ひとりの髪の長い女性が歩いている。女性の細く白い首に、背後から銀の細い線が巻かれた。黒い袖に覆われた腕が針金を締め上げる。

 地面に落ちて、バネのように伸びる針金の束。たたらを踏むようによろめく女性の脚と、その背後に立つ黒いズボンに覆われた脚。締められた喉から絞り出される呻き。

 バイクのエンジン音が聞こえた。樹々の合間から翔一がヘルメットを脱ぐのが見えた。視線は下がり、地面に血の気を失った女性が横たわっている。

 

 目を開くと、像も音も消えた。目の前にあるのは針金。自分のいる場所は沼津警察署の応接室。現実を認識すると共に、背中から汗が一気に吹き出す。「梨子ちゃん大丈夫?」と千歌が肩を抱いてくれた。「ありがとう」と返した梨子は誠へと視線を移し、

「犯人は津上さんじゃありません。顔は分からないですけど、黒い服と黒いズボンを着た男の人です」

「君はまさか………」

 誠の反応に梨子は驚いた。正直、視える視えない以前に信じてもらえない、と思っていた。FBIではこういった能力を用いた捜査が行われているとテレビで見たことがあるものの、日本警察はで採用されていないだろう。

「氷川さん、免許証持っていますか?」

「持ってますが………」

 困惑しながらも誠はジャケットの内ポケットから財布を出し、免許証を抜き取る。備考欄と臓器提供の承認蘭が記載されたカードの裏面を凝視すると、脳裏に数字が浮かび上がる。そのひとつひとつを梨子は口に出した。

「309504133950」

 誠は目を剥く。どうやら合っているらしい。これで能力が本物だという証明になったはず。

「犯行現場に連れて行ってもらえませんか? もしかしたらもっと何か分かるかもしれません」

 

 千本浜公園はすっかり事件前の静けさを取り戻していた。既に現場の捜査も終了し、立ち入り禁止のテープも撤去されている。三浦の遺体が発見された場所へ梨子と千歌を案内すると、梨子は何かを探すように地面へ視線を這わせる。その様子を千歌と共に見守りながら、誠は告げる。

「無駄だと思いますよ。鑑識が調べた後ですから」

 「もう少し待ってください」と梨子は探索を続ける。超能力者の存在を捜査しておきながら、いざ目の当たりにしても誠は梨子の能力を半信半疑のままでいる。科学では説明できない能力。常識の枠を取り払われた、有り得べからざるもの。

 ――どんなに荒唐無稽だと思われていることでも、それを信じること。信じてみること。それが第1歩ね――

 不意に三雲の言葉を思い出した。刑事としての誠が信じるべきは事実のみだ。誰が何を犯したか。道具は何が使われたのか。

「高海さんは彼女の力を知っていたんですか?」

 「いえ」と千歌はかぶりを振る。

「初めて見ました。梨子ちゃんにあんな力があったなんて………」

 梨子は現場から少し歩いたところで足を止めた。千歌と一緒に彼女の視線を追うと、土に靴跡が残っている。

「これが、犯人のものだと?」

 誠が訊くと、梨子は「見てみます」と跡のついた土に触れる。数秒ほどの時間だろうか、梨子は目を閉じて微動だにしなかった。ほんの僅かな間でも長く感じられる。

「間違いありません。犯人のものです」

 それだけでもかなりの収穫だ。型を取ってメーカーと販売店を調べれば、そこから購入した人物を特定できる。

「2本の銀色の線が見えます。それと……、数字。多分ナンバープレートだと思います。犯人の車のかもしれません。末尾の数字が、6と………2」

 署のときと同じように、咄嗟に手を引っ込めた梨子の肩を千歌が支える。額に汗が滲んでいた。呼吸を荒げながら、梨子は絞り出すように言う。

「それだけしか、分かりません………」

 これだけ揃えば十分な手掛かりだ。翔一を送検するのにあと1日しかないが、今は梨子しか頼れるものがない。

「信じてみますよ、君の力を」

 

 

   2

 

「涼、海に抗おうとしては駄目だ。海を受け入れろ。そうすれば海も受け入れてくれる」

 父からの教えを初めて受けたのは、涼が子供の頃に海で溺れかけたときだった。涼を抱えて海岸へ泳ぎ着いたとき、涼は父の逞しい腕のなかで咳き込みながらその言葉を聞いた。

 幼い頃に母を病で失った涼にとって、父は唯一の家族だった。時折親戚が訪れて涼の面倒を見てくれたが、家族という強い結びつきを感じ取れるのは父だけだった。漁師をしていた父は船で漁に出ていたが、素潜りでの漁も村で一番の腕を持っていた。ウニにアワビにサザエ。時には大振りのエビを捕らえて家に帰ってきた。

 父は説教をするような親ではなかった。涼が勝手に漁船を動かしても、学校で父子家庭であることをからかわれて同級生を殴っても、息子を諭すことも叱ることもしなかった。代わりに父はよく涼を海に連れていき泳ぎを教えた。とはいえ、技術的なものは何ひとつ伝授されていない。波の荒い岩場に有無を言わさず涼を放り込み、波に揉まれる涼をただじ、っと見守るだけだった。ばた足も水のかき方も、全て涼は極限状態のなかで生存するために習得していった。

 肉体を通しての教育に疑問を抱いたことはある。傍から見れば虐待だ。不満を叔父に打ち明けたら、叔父は笑いながら言った。

「義兄さんは海の男だからな。大切なことは全て海が教えてくれる、って信じてるんだ」

 中学に上がった頃、涼は荒波で漁にも出られない海で泳いだ。いくら手足を動かしても、波の前ではちっぽけな人間の体なんて無力だ。涼は全身の力を抜き波に身を委ねた。しばらくたゆたっていると浅瀬まで体が流されていた。まるで海が涼を安全な場所まで運んでいるようだった。

「海は拒絶したりなんかしない。たとえお前がどんなろくでなしでもな」

 その声に振り返ると父がいた。まるで涼がそこへ辿り着くことを知っていたかのように。

 父は嬉しそうに言った。

「涼、海を受け入れろ。そうすれば海もお前を受け入れてくれる」

 

 群馬県の山中にある駅に降りると、樹々と土の匂いが纏わりつくように漂っていた。当然のことながら潮の匂いはどこにもない。緑の香りといえば生命を感じ取れるようなフレーズだが、涼にとって生命とは潮の香りだ。生命は海から産まれ海へと還る。でも、陸という場も生命を産む。土から産まれ土へと還る。そういった意味では、海も陸も同じものだ。生に満ち、同時に死も満ちている。

 先に到着していた叔父の案内で、涼は山間の警察署を訪ねた。通された部屋のテーブルには開かれた旅行鞄が置かれていて、この土の匂いに満ちた土地で、その中身からは微かに潮の匂い、父の匂いが感じ取れる。

「見なさい。これが、義兄さんが最期に所持していた物の全てだ」

 衣類、タオル、靴、傘。旅行へ出掛けるには必ず持っていくものだ。

「惨めなもんじゃないか………」

 叔父は苦虫を噛み潰したように言った。

西青柳(にしあおやぎ)駅のベンチで死んでいたそうだが、衰弱死だったらしい」

 発見された死体は既に荼毘に付されたそうだが、撮影された現場写真で死体が葦原和雄(かずお)であることは叔父が確認している。人違いであってほしい。そんな淡い期待なんてものは軽く一蹴された。父はこれだけの持ち物で誰にも看取られることなく、ひとり孤独に死んでいった。

 どうして。

 最初に出たのが疑問だった。悲しみでも怒りでもなく。父は海に生きる男だった。だから死ぬとすれば、最期の場所は海だ。陸で死ぬだなんて、父が望むはずがない。

「お前、本当に何も聞いていないのか? 義兄さんが行方をくらましたのは旅行で事故に遭った直後だったが、一体何があったのか?」

 そういえば、と涼は思い出す。父は行方不明になる直前に旅行へ出掛けていた。駿河湾フェリーに乗ると楽しみにしていたが、船が事故に遭ったらしい。幸い怪我もなく救助され、帰宅して間もなくどこかへ出掛けたまま帰ってこなかった。その頃には沼津に移り住んでいた涼に何も告げることなく。

 もし自分が様子を見に帰省していたら、何か気付けたのだろうか。遅れた後悔を喉元に押し留めながら、涼は答える。

「………聞いてません。何も」

 

 

   3

 

 一晩明けて、誠はすぐに河野と共に捜査を開始した。梨子が視た番号のナンバープレートを割り振られた車を国土交通省に取り合って絞り出し、しらみ潰しに聞き込みをする。

 別々に回っている河野からの電話が来たのは、誠が8件目を訪ねた頃だった。

「はい氷川ですが」

『どうだそっちは』

「ええ、私のほうは全員にアリバイがありました。そちらはどうですか?」

『こっちもだ。大体お前末尾が62の車の持ち主が怪しいなんて、どっから仕入れたネタなんだ?』

 「それは、ちょっと………」とはぐらかす。桜内梨子という超能力者からです、なんて言えば、流石の河野も怒るだろう。

「とにかくもう少し付き合ってもらえませんか?」

『まあそれは構わんが。ラーメン付き合ってもらったしな』

「ありがとうございます」

 今度は自分がラーメンをご馳走しよう。そう思い、誠は通話を切って車へと乗り込んだ。

 

『はーい。水のビーチから登場した待望のニューカマー、ヨハネよ。皆で一緒に堕天しない?』

 善子の文言に続き、後ろに並ぶゴスロリ衣装を着た他の面々も『しない?』と続き、動画が終わる。

 これが新しいPV。堕天使アイドルとしてのAqoursだ。特に凝った編集も必要なく、撮影からアップロードまで朝の始業前に済ませることができた。放課後の部室に集まった5人は動画の出来をPCの前に集まって確認しているのだが、唯一梨子だけが壁に額をこつん、軽くつきながら「やってしまった………」と呻いている。まあ、撮影時も梨子は恥ずかしがって最後のフレーズを拒否していたのだが。何とか説得して敢行できたが、画面のなかでメンバー達が得意げに笑うなか梨子だけが苦笑を浮かべている。

 千歌はウェブページをスクロールする。ランキングは954位。「嘘⁉」と驚いていると順位がひとつ繰り上がり953位になった。

「一気にそんなに?」

 梨子が駆け込んで画面を覗き込む。

「じゃあ効果あったってこと?」

 結果がこうして出ている。これは間違いなく成功と言っていい。ルビィが跳ねるように言った。

「コメントもたくさん、すごい!」

 コメント欄を表示すると、アップロードしてからまだ数時間にも関わらず多くの声が寄せられている。今もコメント欄の更新が止まらないくらいに。

 ルビィちゃんと一緒に堕天する!

 ルビィちゃん最高

 ルビィちゃんのミニスカートがとても良いです

 ルビィちゃんの笑顔――

「いやあ、そんな」

 今現在で最も人気のある当人が、謙遜しながらもにやけ顔で言った。

 とはいえ人気があることが良いのは確かだ。最も好意的な反応があったルビィに焦点を合わせたPVを作成すれば、もっとランキングは上がるかもしれない。

 そういうわけで、その日のうちに急遽新しい動画の作成に取り掛かり、完成したものを生徒会室へ持って行った。これだけ順位が上がったことを見れば、ダイヤだってスクールアイドル部を好意的に見てくれるだろう。

 ルビィを主役としたPVのフレーズはこんなもの。

『ヨハネ様のリトルデーモン4号。く、黒澤ルビィです。1番小さい悪魔……、可愛がってね!』

 出演がひとりだけということでルビィはかなり恥ずかしがっていたが、最後の「可愛がってね」のところは頑張って決めポーズしてくれた。アイドルならばもっと堂々とするところだが、ルビィの恥ずかしがり屋な面はむしろ受けが良い。それはダイヤと鞠莉も分かってくれる、と千歌は確信していた。

 動画を見た鞠莉は開口一番、

Oh! Pretty bomber head!(わあ! 可愛すぎて頭沸きそう!)

 英語だから意味はよく分からなかったが好感触らしい。一方、液晶で顔が隠れるほど食い入るように画面を見ていたダイヤは肩を震わせながら、

「プリティ……? どこがですの?」

 ああ、これは怒られる。千歌の緊張が伝播したのか、場にいる全員が表情を強張らせている。

「こういうものは破廉恥と言うのですわ!」

 ダイヤの怒号が室内に飛ぶ。「いや、そういう衣装というか………」「キャラというか………」と千歌と曜がおそるおそる弁明を試みるが、ここで何を言っても火に油を注ぐだけなのは目に見えているわけで。

 隣の梨子が耳元で囁いた。

「だからわたしは『良いの?』って言ったのに」

 怒り心頭のダイヤはまだ収まらないようで、

「そもそも、わたくしがルビィにアイドル活動を許可したのは節度を持って自分の意思でやりたい、と言ったからです。こんな格好で注目を浴びようなど――」

「ごめんなさい、お姉ちゃん」

 ルビィが言うと、少しは冷静になったのかダイヤは一呼吸置く。

「とにかく、キャラが立ってないとか個性がないとか人気が出ないとか、そういう狙いでこんなことをするのはいただけませんわ」

 「でも」と曜が口を挟む。

「一応順位は上がったし………」

 そう、順位は上がった。一気に千位圏内にまで。ダイヤだって動画を見る前にそれは確認済みのはず。堕天使アイドルは今後の方針として十分に得策と言っていい。

「そんなもの一瞬に決まってるでしょう。試しに今、ランキングを見てみればいいですわ」

 そう吐き捨てたダイヤはPCをこちらへ寄越す。液晶を見ると、ランキングの数字が1536と表示されている。「え?」と声をあげると同時、順位がひとつ繰り下がった。

「本気で目指すのならどうすればいいか、もう一度考えることですね」

 ダイヤの声は突き刺すように鋭かった。

 

 



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第6話

 『feat.555』の頃は『555』サイドの方が書きやすく『ラブライブ!』サイドが書き辛かったのですが、本作では逆の事態になっております。『アギト』サイドの方が難しいです、何故か。

 うーむ、執筆とは不思議です。




 

   1

 

 次の件へ向かう道の途中、警報機が点滅する踏切の前で誠は車を一時停止させた。

 思わず溜め息が漏れる。沼津市内と範囲を絞っても、意外と末尾が62と登録された車は多い。捜査は脚と言うが、これほど聴取しても何の手掛かりも掴めなければ、流石に心が折れそうだ。

 目の前を電車が通過していく。編成車両がそれほど多くないのは地方ならではのもので、すぐに電車は過ぎ去った。警報が止むと同時にバーが上がる。アクセルを踏もうとしたとき、誠は電車が走っていた「そこ」に気付いた。

 2本の銀色の線。

 バックミラーで後続車がないことを確認すると、誠はスマートフォンを出して河野の番号を呼び出して耳に当てる。

『おお、どうした?』

「河野さん、2本の銀色の線ですよ。あれは車のバンパーかサイドラインを表しているのかと思ってましたが、線路のことかもしれません」

『何?』

「線路ですよ。だとすると、62という数字も車のナンバーではないのかもしれません。ひょっとしたら、貨車番号かも」

『まあ調べて損はない。ひとまず署で落ち合おう』

「はい」

 通話を切り、誠は車を走らせた。

 

 沼津署で河野と合流した誠は急いで貨物駅へ向かった。物流企業に62番のコンテナがないか問い合わせ、貨車から降ろされコンテナ置き場にあることは確認が取れている。

 立ち入ったコンテナ置き場はとても静かだった。立ち並ぶ立方体の箱はかくれんぼをするのに最適だ。それほどの広さがない置き場で、探し求める数字はすぐに見つかった。

 ED62

「間違いない」

 河野の言葉に誠は頷き、懐からM1917を抜く。グリップを握る手に汗が滲む。この中にいるかもしれないのは、ひとりの人間を殺した殺人犯。遥かに人間を超えたアンノウンを相手に戦ってきた誠でも、緊張というものは生じる。

 扉のロックを静かに解除し取っ手を掴む。いきます、と河野に目配せし、誠は一気にコンテナの引き戸を開けた。薄暗いコンテナのなかで、何かがもぞもぞと動く。即座に誠は銃口を向けた。

「動くな!」

 中にいた者は入り込んだ光に目が眩んだのか、目元と手で覆い隠している。

 上下ともに黒い服。梨子の言っていた通りの恰好をした青年だった。

 

 

   2

 

 バスを待っている間、すっかり力の抜けた千歌はアスファルトの地面にうなだれた。他の面々にも疲労の色が見えていて、練習をしていないのに立つのも億劫らしい。

「失敗したなあ……」

 この日の成果を総括するなら、その一言だ。成功すると確信していただけあって、尚更重い響きになる。

「確かにダイヤさんの言う通りだね。こんなことでμ’sになりたいなんて失礼だよね………」

 堕天使アイドルなんて所詮は一過性の人気で終わる色物。結果はランキングの順位で十分示されているし、こんな有様では伝説と謳われるμ’sには遠く及ばない。我ながら浅はかだった。

「千歌さんが悪いわけじゃないです」

 ルビィが言うと、間髪入れず「そうよ」と善子が続く。波の音に消えてしまいそうなほどのか細い声だが、しっかりと千歌の耳には届いた。全員が視線を向けるも、善子は海へと目を向けたままこちらを向こうとしない。

「いけなかったのは堕天使よ。やっぱり高校生にもなって通じないよ」

「それは――」

 違う、と否定しようとしたが善子は遮るように、

「何か、すっきりした。明日から今度こそ普通の高校生になれそう」

 善子は立ち上がり深呼吸する。今までの懊悩全てを吐き出そうとしているように見えた。

「じゃあ、スクールアイドルは?」

 ルビィが訊くと、善子は腕を組んで「うーん」と唸った後に、

「やめとく。迷惑かけそうだし」

 「じゃあ」と歩き出した善子はすぐに立ち止まり、言い忘れた、というようにこちらへと振り向く。

「少しの間だけど、堕天使に付き合ってくれてありがとね。楽しかったよ」

 優しく、でも寂しい笑みを残し、善子は再び歩いていく。その背中を引き留めることも、かといって何か言うこともできず千歌も、他の皆も見送ることしかできなかった。

「どうして堕天使だったんだろう?」

 梨子が何気なしに、誰にもなく尋ねる。当人が去ったなかで、答えたのは花丸だった。

「マル、分かる気がします。ずっと、普通だったんだと思うんです。マルたちと同じであまり目立たなくて。そういう時、思いませんか? これが本当の自分なのかな、って」

 千歌にも理解できた気がした。どこへ行っても、何をしても普通な自分。他人よりも秀でたものを持てないことの虚無。それに耐えかねて、普通じゃない自分を否定したい気持ちは何度もあった。

 こんなわたしはわたしじゃない。わたしはもっと凄い人間のはず。善子の抱えていたものは、きっとこれと似たようなもの。

「元々は天使みたいにキラキラしてて、何かの弾みでこうなっちゃってるんじゃないか、って」

 自分の人生はどこから普通になってしまったのだろう。何の華もなく、平凡な日々はどこから始まってしまったのか。そんなもの、誰かに転嫁できる責任じゃない。それでも、何かの力が自分を縛り付けている、と思わずにはいられない。そうしなければ自分が普通と認めてしまうから。

「幼稚園の頃に善子ちゃんいつも言ってたんです。わたし本当は天使で、いつか羽が生えて天に帰るんだ、って」

 本当の自分は神の使い。今は地上に降ろされてしまったけど、いつかは神のもとへ帰る存在。

 だから堕天使だったんだ。

 千歌は理解する。たとえ神から見放されたとしても、自分が特別であることに変わりはない。特別だと思いたい。天から堕ちても、裡にはまだ輝きがあると信じたい。

 そう、千歌には確かに感じ取れた。PCの画面越し、闇の中でも輝いている堕天使の姿を。善子のなかにある輝きを。でも、善子はそれを捨てようとしている。自らの輝きを恥ずべきものとして。

 不意にスマートフォンの着信音が鳴った。液晶には志満の名前が表示されている。「もしもし」と応答し、長姉の弾んだ声を聞いて千歌は「え、本当⁉」と上ずった声をあげる。

「どうしたの?」

 曜が訊いた。また通話中なのも構わず、千歌は皆に告げる。

「翔一くん釈放だって!」

 

 外から車の音が聞こえると、「来た!」と勢いよく立ち上がる千歌を追って梨子も玄関へ向かう。宿泊客用の広い玄関で、志満に続いて暖簾を潜った翔一は旅館の空気を堪能するかのように深呼吸した。

「おかえり、翔一くん」

 満面の笑みで迎える千歌と共に、梨子も「おかえりなさい」と告げる。家を空けていたのはたったの2日程度なのだが、翔一はまるで久しぶりのように感慨深げに笑った。

「ただいま」

 ふと梨子は思う。釈放されたということは、真犯人が逮捕されたということだろうか。梨子の視た像が役立ったのか、それとも誠は別の糸口を見つけて犯人逮捕へと至ったのか。気にはなるが警察の捜査情報を教えてもらえそうにない。翔一が事件と関係ないと分かったのなら尚更だ。

「取り調べ、乱暴なことされなかった?」

 千歌が心配そうに翔一の顔を覗き込む。翔一はあっけらかんと、

「全然。それどころか美味いカツ丼食べさせてもらってさ。お店教えてもらったから今度皆で食べに行こうよ」

 「良いわね、たまには外で食べるのも」と志満が微笑する。心配して少しだけ損した気分だが、こうして無事に帰ってこられたのだから良いだろう。千歌の笑顔も戻ったのだから。

 不意に千歌が梨子の肩に手を添えて、

「梨子ちゃん凄いんだよ。翔一くんの無実証明してくれたんだ」

「ちょ、ちょっと千歌ちゃん」

 慌てて制止して耳元で囁く。

「あれのことは言わないで」

「え、どうして?」

「信じてもらえないでしょ? お願い」

 釈然としないながらも、千歌は「うん」と応じてくれる。首を傾げている翔一に苦笑を返して誤魔化すと、翔一は「そうそう」と思い出したように、

「俺がいない間、家のこと大丈夫だったかな? 皆ちゃんとご飯食べてた?」

「大丈夫だよ。まあ不便はあったけど」

「ごめん! 今日はご馳走作るから。梨子ちゃんも食べてってよ」

 昨日と今日の千歌の昼食は購買のパンだったことを思い出しながら、梨子は「ありがとうございます」と応える。

 ふふん、と千歌が得意げに笑う。

「あのね、Aqoursにどうしても入ってほしい子がいるんだ」

 翔一が帰る少し前まで、十千万にはメンバー達が集まって話し合っていた。善子をAqoursに迎えるにはどうすれば良いのか。一応話はまとまったのだが、名案と言えるわけでもない。でも賭けてみる価値はある。

「へえ、どんな子?」

 翔一が訊くと、千歌はずっと後ろ手に隠し持っていた衣装を広げて、

「堕天使だよ」

 

 

   3

 

 堕天使と謳っておきながら、衣装や小道具は全てネット通販や雑貨屋で買ったものだった。魔力なんて込められていない。水晶玉もネックレスの宝石も、実際はプラスチックに色を付けただけ。衣装の翼も生のカラスから獲ったものじゃなく、商品として色付けされたものだ。

 今まで収集してきたもの全てを段ボールに詰めると、部屋がすっきりと片付いた。清々しいのに、どこか寂しさを感じる。まるで他人の部屋にいるようで落ち着かない。

 いや、と善子はかぶりを振る。これが自分の部屋。何もない、地味で普通な自分を映した部屋だ。これが自分の本当の姿。堕天使であることを捨てるのなら、向き合わなければ。

 マンションのゴミ捨て場にそっと段ボールを置くが、その場をすぐに離れることができない。そんな未練がましい自分に嫌気が指す。もうやめる、って決めたでしょ、津島善子。堕天使は確かにいる。でもあなたは人間。あの堕天使と、それと戦っていた戦士とは住む世界が違う。この地上で生きていくしかないの。

 普通の学校生活。普通の友達。何も特別なことなんて起こらない人生。それで十分じゃない。皆そうして生きているんだから。それが一番幸せなことなんだから。

「堕天使ヨハネちゃん」

 ゴミ捨て場から出たところで、年上の割には幼げな先輩の声が聞こえる。向くと、そこには堕天使衣装を着たAqoursの面々が立っていた。

 彼女たちは声を揃えて、

「スクールアイドルに入りませんか?」

 数舜の間を置いても「はあ?」という声しか出てこない。こんな朝早くから何言ってるの、と言おうとしたところで千歌が、

「ううん、入ってください、Aqoursに。堕天使ヨハネとして」

「何言ってるの。昨日話したでしょ? もう――」

「良いんだよ、堕天使で。自分が好きならそれで良いんだよ!」

 力強い千歌の言葉が、まるで貫くように響いてくる。誰が何と言おうと、自分が好きならそれで良い。そう思っていたし、思い続けたかった。でもそのせいで害が及んでいる。中学の頃なんて周囲に敬遠されて友達はいなかった。高校でも入学早々自己紹介で失敗して学校に行き辛くなった。

「駄目よ」

 善子は逃げた。「待って!」と千歌たちは負ってくる。数人分の足音から逃れるため、善子は沼津の市街を走った。

「生徒会長にも怒られたでしょ!」

「うん、それはわたし達が悪かったんだよ。善子ちゃんは良いんだよ、そのままで!」

「どういう意味⁉」

 そのままなんて、今の延長でしかない。周囲から変な目で見られて、友達もろくにできない惨めな青春を送るだけだ。

 アーケード商店街から仲見世通り、そこから駅に着くと方向転換する。それでも追いかけながら千歌は言う。

「わたしね、μ’sがどうして伝説を作れたのか、どうしてスクールアイドルがそこまで繋がってきたのか、考えてみて分かったんだ」

「もう、いい加減にして!」

 μ’sがどうとか、スクールアイドルがどうとかなんてどうでもいい。自分はただ普通に生きていきたいだけなのに、どうして阻もうとするのか。

 気付けば沼津港の水門まで走っていた。車でも駅から10分ほどかかる距離だ。運動不足な善子にとってはかなりハードなもので、とうとう脚が止まる。笑っている膝をおさえて粗い呼吸を繰り返していると、同じように息も絶え絶えなのに千歌は告げる。

「ステージの上で、自分の好きを迷わずに見せることなんだよ。お客さんにどう思われるかとか、人気がどうかじゃない。自分が一番好きな姿を、輝いてる姿を見せることなんだよ」

 自分が輝いていると言いたいのか。あんな恥ずかしい姿を。暗闇のなかに身を置いている自分に酔いしれている姿のどこが。

「だから善子ちゃんは捨てちゃ駄目なんだよ! 自分が堕天使を好きな限り!」

 千歌の声が、真っ直ぐ届く。善子は戸惑った。堕天使ヨハネという、切り捨てるべきもうひとりの自分。千歌は、Aqoursはそれを受け止めてくれるのか。

「………良いの? 変なこと言うわよ」

 「良いよ」と曜が即答する。

「時々、儀式とかするかも」

 「それくらい我慢するわ」と梨子が答える。

「リトルデーモンになれ、って言うかも」

 「それは……」と千歌は苦笑する。ほら、やっぱり無理じゃない、と思ったとき、

「でも、やだったら『やだ』って言う」

 変に気遣いなんかしない。わたし達はあなたと向き合うよ。そう告げられたように思えた。いや、そう告げたと理解できる。こうして堕天使衣装で自分を訪ねてきたのも、全ては善子を、ヨハネを受け入れるため。堕天使ヨハネとして、暗闇のなかで灯る輝きを見出してくれた。

 千歌は歩み寄り、黒く染色された羽を差し出してくる。

「わたし、変われるのかな?」

「無理に変わらなくていいよ」

 千歌は穏やかに言う。

「善子ちゃんは善子ちゃんのままで、変われば良いんだよ」

 初めてだった。こんなに自分と向き合い、受け入れてくれる人が現れるなんて。この人と一緒に行けば、望んでいたものが得られるかもしれない。ただ変に見られるだけの堕天使から、本当の天使よりも輝ける堕天使に。最初に望んでいたものとは違うけれど、きっとそれ以上に尊いものなのかもしれない。

 善子は千歌の手を取る。捨てなくていいなら、これは契約と取って良いだろう。

 スクールアイドル、堕天使ヨハネとして。

 ぼごん、と泡が立つような音が聞こえた。皆が視線を向けると、すぐ傍の海面の一点が呻くように気泡を弾けさせている。まるで水中から打ち上げられたかのように、何かが水面から飛び出してきた。

 思わず尻もちをつく。海水を滴らせながら降り立ったのはタコだった。いや、タコのような頭を持った、それでいて体は人間に似た生物だった。

 悲鳴をあげながら立ち上がり、港口公園へ走り出す。

「何よあれ! 何なのよ‼」

 「翔一さん、翔一さん呼ばなきゃ!」と曜が言う。確か警察に行っているという千歌の同居人だったか。何故その翔一をここへ呼ばなきゃいけないのか。

 さっきまで走っていたせいで、公園の樹々のなかで脚がすぐに止まってしまう。振り返ると、謎の生物の姿がどこにもいない。

「どこ行ったずら?」

 花丸があちこちへ視線を巡らせている。ルビィは涙を浮かべながら震えている。「翔一くん……」と千歌はポケットからスマートフォンを出そうとする。

 その時、公園の土から水が噴き出す。水道管が破裂したかのように激しい勢いで、すぐに池とも言えるほどの水溜まりが生じる。土と混ざって茶色く濁った水の中から、謎の生物が触手をしならせながら上がってくる。

 サイレンが聞こえてきた。続けてバイクの甲高いエンジン音が。警察の白バイが公園に入ってきて、こちらへと向かってくる。バイクを駆るのは青のジャケットを着た隊員ではなく、青の鎧を身に纏った戦士だ。戦士はスピードを緩めることなくバイクを走らせ、怪物を容赦なく撥ね飛ばす。

 善子には何が起こっているのか全く理解が追いついていなかった。タコが現れて、白バイに乗った青の戦士まで。あれは警察なのか。警察がいつ、あんな怪物と戦うための鎧を造り出したのか。

 善子だけでなく、その場の全員が状況を呑み込めていなかったのだろう。だから逃げることもせず、バイクから降りた青の戦士を凝視していたに違いない。

 「生きていたのか」と青の戦士は怪物を見て言う。一度戦ったことのある相手なのだろうか。青の戦士は動揺の素振りを見せず、バイクのフロントケースから拳銃を取り出して怪物へ発砲する。

 腕が良いらしく、怪物の体に次々と銃創が撃ち込まれていく。少なくとも10発くらいは受けているはず。人間ならば絶命してもおかしくない量だ。にも関わらず、怪物はまるで汚れを落とすように胸を撫でる。ぱら、と弾丸が体から零れ落ちた。

 青の戦士はなお余裕の佇まいを崩さない。バイクから取り出した砲門を拳銃に連結させ、コッキングレバーを引いて砲口を向けて数舜、特大の火を噴いた。今度も見事に命中。それでも怪物は倒れない。気味の悪い呻き声を発しながら足を進めていく。

「何、効かない⁉」

 さすがに青の戦士も焦りを見せ始める。更にもう1発を撃とうと砲口を向けたとき、一気に距離を詰めたタコが触手を鞭のように振った。青の戦士の鎧に火花が散り、手から銃を落としてしまう。格闘で応戦しようと拳を構えたが、タコの触手が青の戦士をいたぶるように打ち付けられる。

 素人目でも分かる。完全にタコの優勢だ。青の戦士は腹を蹴られ、大きく吹き飛んで樹の幹を抉りながら地面を転がる。タコがじりじりと歩み寄っていく。青の戦士は仰向けのまま立ち上がろうとせず、腰のベルトに触れた。

 胸の鎧が左右に開く。続けて肩と腕、太腿と脚のプロテクターが外れていき、最後に残った頭のマスクも後頭部が開く。

 マスクを脱ぎ捨てて現れたのは若い男だった。怯え切った表情で顔を歪め、全身黒のインナースーツ姿でその場から走り出す。途中でつまずきながらも、男は全速力で鎧と、そして善子たちを残して逃げていった。

 タコの白く濁った両眼がこちらへと向けられる。

 絶体絶命、という文字が脳裏に浮かぶ。それを掻き消すように再びバイクのエンジン音が聞こえた。白バイの音とは違う。公園にもう1台、銀色のバイクが入ってきた。運転手はバイクを善子たちの傍で停め、ヘルメットを脱ぎ捨ててシートから降りる。知っている顔だった。あの堕天使と戦っていた青年。名前は確か、と思い出そうとしたところで、千歌が青年を呼ぶ。

「翔一くん!」

 声が届いていないのか、青年はこちらに一瞥もくれず怪物を見据える。腹に光が渦巻きベルトを形作る。

「変身!」

 力強く告げると同時、ベルトから発せられた光が視界を呑み込んだ。一瞬で晴れると同時、青年のいた場所に金色の戦士が立っている。

 「え……」と梨子の口から洩れている。「ずら⁉」「ピギィ!」という花丸とルビィの声も。

 タコが低く唸った。金色の戦士はゆっくりと歩き出す。タコは触手を振るうが、金色の戦士はそれを腕で防ぐ。追撃が来ようとしたところで、その腹に拳を打ち付けた。ごぽ、とタコの歯が無数に並んだ口から黒い隅が吐き出される。口元が黒く染まった顔面に、金色の戦士が鋭い突きを見舞う。

 タコの体が突き飛ばされ、両者に距離が生じる。戦士の角が開いた。堕天使と戦ったときと同じく足元に紋章が浮かび、渦を巻いて足に集束する。

 跳躍した戦士の右足がタコへ突き出される。勇敢に立ち向かおうとしたタコだったが、その胸にキックを受け、後へと土の上に(わだち)を刻みながら転がっていく。倒れたタコの頭上に光輪が浮かぶ。まるで天使のように。神から授けられたリングだというのに、タコは苦しそうに胸をかきむしり、その胸が体内から生じた爆発で裂かれた。

 家一件は飲み込むほどの爆炎が昇ったが、それはすぐに消えてしまう。視えているのに、まるで現世の炎でないようだ。タコがいた場所の土と草は焼け焦げているが、肉片らしきものが全く見えない。

 戦士の角が閉じた。ベルトのバックルに埋め込まれた球が眩い光を放ち、収まると同時に戦士が翔一の姿になる。

 翔一はあっけらかんと、前に会ったときと同じ呑気な笑顔を善子たちに向けた。

「皆、怪我はない?」

 

 





次章 PVを作ろう / 繋がる過去


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第6章 PVを作ろう / 繋がる過去
第1話


ダイ「鞠莉さん!」
草加「真理⁉ いま真理と言ったか? 真理がその学校にいるのか?」
鞠莉「鞠莉ならわたしだけど?」
草加「まりいいいいいいいいいいいい‼」

 ~~~

氷川「未成年に対する強制わいせつの疑いで現行犯逮捕します」
草加「違うんだ。真理は俺の母親になってくれるかもしれない女なんだ!」
北條「詳しくは署で聞きますので」
草加「琢磨⁉ 貴様ああ‼」
氷川「知り合いなんですか北條さん?」
北條「いえ知りません。琢磨? 誰ですかそれは?」

 先日こんな夢を見ました(笑)




 

   1

 

 メンバー全員が揃っているのに、千歌の部屋は一切の音が立たない。もし音があるのだとしたら、1年生の3人と梨子が翔一に向けるじい、という効果音だろうか。まあ、あんな光景を見てしまえば仕方ない。千歌と曜も初めて見たときは驚いたし逃げ出したほどだ。

 部屋の中心に有無を言わさずに座らされた翔一は、向けられた好奇と困惑の混ざった視線にどう対応すればいいか分からないようで苦笑を返している。

「ええと………、俺お茶淹れてこようかな」

 そう言って立ち上がろうとした翔一の肩を千歌は掴み「いいから」と再び座らせる。

「いやほら、せっかくの皆来たんだしゆっくり――」

「いいから座ってよ。皆にも説明しないといけないんだから」

 「そうです」と梨子が言う。

「訊きたいことたくさんあるんですから。そもそも千歌ちゃんと曜ちゃんは何で言ってくれなかったの?」

 「いやその……」と千歌は言葉を詰まらせる。翔一のことを秘密にしていたわけではないのだが、打ち明けるタイミングを計っていたというか何というか。

 千歌と同じように視線を泳がせた曜がおそるおそると、

「訊かれなかったから、かな?」

 「そう!」と千歌は便乗する。

「誰も翔一くん変身するの、って訊かなかったでしょ? だからだよ!」

「普通そんなピンポイントで訊かないでしょ!」

 即座に梨子が指摘する。「はい……」と千歌が縮こまると、曜が「でも」と

「梨子ちゃんには話したことあるし……」

「それは曜ちゃんが、津上さんが千歌ちゃんのおと――」

 「わー!」と曜は咄嗟に梨子の口を手で塞ぐ。「何のこと?」と千歌が訊いても「何でもない、何でもないから」と曜はもがく梨子を抑えながらはぐらかす。翔一に視線を向けても首を傾げられた。翔一が千歌に何かしただろうか。翔一が千歌の部屋に入って掃除したり服を洗濯したとしても、それはいつものことだから気にはしない。

 ようやく梨子と曜が落ち着くと、善子が口を開いた。

「ていうか、本人に訊いても分からないでしょ。その人記憶喪失なんだし」

 「え?」と千歌は驚きの目を善子へ向ける。善子と翔一を会わせるのは今日が初めてのはずなのに。

「善子ちゃん何で知ってるの?」

「何でって、前に会ったことあるから。その時も変身して戦ってたわよ、この人」

 そこで翔一は思い出したように「あー、あの時の」と、

「あれ、でも君ヨハネちゃんじゃなかったっけ?」

 翔一が訊くと、善子は表情を引きつらせて視線を逸らす。そんな彼女にルビィと花丸が冷ややかな視線をくべて、

「善子ちゃん………」

「外でも堕天使やってたずらか?」

 「そ、それは仕方ないというか……、ヨハネが出たというか………」と善子はしどろもどろに述べるも、弁明にはなっていない。

 「とにかく!」と千歌は半ば押し通すように強く告げた。

「翔一くんは記憶喪失だし変身もするけど、でも良い人だから、絶対! さっきだってわたし達を守ってくれたんだし」

 何とか言ってよ、と当人にも視線で訴えるが、翔一は皆に頼りなさげな苦笑を向けるだけだった。

「そういうわけで、皆よろしく」

 

 

   2

 

「鞠莉さん!」

 始業前に朝の紅茶を楽しんでいたところで、理事長室に声を荒げながらダイヤが入ってくる。大体の要件は察しがつくが、敢えて「どうしたのデスカ?」と迎える。

 ダイヤは理事長用のデスクを叩き、鋭く吊り上がった目を向けてくる。

「あのメールは何ですの?」

 やっぱり、最初に気付くのはダイヤだと思っていた。始業前に生徒会の職務をこなすダイヤなら、教員と生徒会のPCに送ったメールに目を通すだろう、と。

「何、って……書いてある通りよ。沼津の高校と統合して、浦の星女学院は廃校になる。分かっていたことでしょう?」

「それは、そうですけど………」

「まだ決定ではないの。まだ待って欲しい、とわたしが強く言ってるからね」

「鞠莉さんが?」

「何のためにわたしが理事長になったと思っているの?」

 理事長という立場にあるとはいえ、所詮は自分が一介の高校生でしかないことは理解している。鞠莉が理事長に就任できたのは小原グループのCEOである父の代理として、傀儡としての理事長だ。でも逆に言えば自分の言葉は父の言葉。父を説得できれば、真っ当な父からの指示として理事会の役員たちも文句は言えない。子供だ、お嬢様だ、と嘲笑われようが構わない。この立場は活用させてもらう。

「この学校はなくさない。わたしにとって、どこよりも大事な場所なの」

 その目的のために、自分を理事長として推薦するよう父に頼んだ。全てはこの浦の星女学院を守るため。自分がいて、ダイヤがいて、果南がいた居場所を。

「方法はあるんですの? 入学者はこの2年、どんどん減っているんですのよ? それに最近は何やら事件が頻繁に起こっているようですし、状況は悪くなる一方ですわ」

 ダイヤの言う通り、浦の星女学院の生徒数減少は深刻化している。だから理事会で統廃合が議論され、それを覆すために鞠莉が戻ってきた。

 かつて成せなかったことを果たすために。

「だからスクールアイドルが必要なの」

「鞠莉さん……」

 それは無理です、とでも言いそうなダイヤの言葉を遮るように、鞠莉は続ける。

「あのときも言ったでしょ。わたしは諦めない、と。今でも決して、終わったとは思っていない」

 鞠莉は手を差し伸べる。あの頃と同じように、また一緒に。ささやかな願いを込めても、それは相手には伝わらない。いや、ダイヤにはきっと伝わっているはず。それを分かった上で彼女は手を取らない、と痛いほど理解できた。

「わたくしは、わたくしのやり方で廃校を阻止しますわ」

 寂しそうな視線をくべて、ダイヤは理事長室を出ていく。追おうとは思わなかった。まだ時間はあるし、スクールアイドル部の誕生は果たされた。先日も新メンバーが参加したと聞いている。

 大丈夫、今度は上手くいく。自分に言い聞かせながら、鞠莉はダイヤの取ってくれなかった自分の手を見つめる。

「本当、ダイヤは好きなのね、果南が」

 

 

   3

 

 放課後になって教室から次々と生徒が出て行くなか、善子は机に突っ伏して盛大な溜め息をついた。

「疲れたあ………、普通って難しい」

 約2ヶ月遅れてようやく始まった高校生活は、何かと気苦労が絶えない。授業のほうはかねてから花丸が家にノートを届けてくれたお陰で何とか着いていけるが、問題は交友関係のほう。同級生とどういった会話をすれば良いのかさっぱり分からない。先ほども談笑の中でちぐはぐな受け答えしかできなかったが、それがかえって同級生たちには面白く感じられたらしい。尚更「普通」という感性が分からなくなった。

「無理に普通にならなくても良いと思うずら――」

 「よっ」と花丸がどこから出したのか黒羽を善子のシニヨンに挿したとき、「ぎらり!」と開眼する。

「深淵の深き闇から、ヨハネ堕天!」

 とポーズを決めてようやく我に返る。無意識にやってしまうこの癖も直さなければ。

「やっぱり善子ちゃんはそうじゃないと」

「これを止めてほしいのよ!」

 はあ、と二度目の溜め息をつきながら、シニヨンから羽を外す。

「てか、ずら丸は気にならないの?」

「何のことずら?」

「翔一のことよ」

 善子がその名前を告げると、花丸は明後日のほうを向き考えるように「うーん」と唸る。

「善子ちゃんも言ってたけど、翔一さんが何も覚えてないなら仕方ないずら」

「確かにそうだけど………」

 いくら考えを巡らせたところで、翔一と化け物の正体が分かるわけでもない。青の戦士を出動させた警察なら何か知っているかもしれないが、訊いたところで極秘事項だろう。何せ世間には、あの謎の生物について公表されていないのだから。あの生物は本当に悪魔か堕天使の類で、翔一は天からの遣いなのでは、と善子にとっては夢の広がる話だが、そういった話はフィクションだからこそ楽しめる。現実になってしまえば恐怖以外の何者でもない。

 全ての真実は翔一の記憶が戻るまで分からない、ということ。

「翔一の記憶が戻ってくれれば、何か分かるかもしれないのに………」

「それは気長に待つしかないずら」

 それはいつになることやら。教室にはもう善子と花丸しかいない。わたし達も部活に行こう、と鞄を手に取ったとき、

「大変! 大変だよ!」

 ホームルームが終わってすぐに教室を出たルビィが戻ってきた。走ってきたのか息が上がっている。どうやら良くないことらしいのは、善子にも察しがついた。

 

「統廃合⁉」

 ルビィが持ってきた知らせを聞いて、部室に集まった全員が思わず声を揃えた。ルビィは続ける。

「そうみたいです。沼津の学校と合併して、浦の星女学院は無くなっちゃうかも、って………」

 「そんな!」と悲痛な声をあげる曜に続いて、梨子も「いつ⁉」と上ずった声で続く。梨子にとっては転校したばかりの居場所なのに、無くなってしまうなんて急すぎる。

 ルビィは気まずそうに答える。

「それは、まだ………。一応、来年の入学希望者の数を見てどうするか決めるらしいんですけど………」

 まだ決定したわけじゃない。でも、入学希望者の数次第では今年度で浦の星女学院は廃校になるということ。

 冷たい沈黙が部室を満たす。とても長く感じたその沈黙を破ったのは、梨子の隣で俯く千歌だった。

「………廃校」

 わたしより1年長く過ごしてきたんだからショックよね、と梨子が思っていると千歌は顔を上げて、

「来た、ついに来た! 統廃合ってつまり廃校ってことだよね? 学校のピンチってことだよね?」

 何故嬉しそうな顔をしているのか。曜が千歌の顔に手をかざしながら尋ねる。

「千歌ちゃん? 何か心なしか嬉しそうに見えるけど」

 ショックのあまりおかしくなったのか。そう思わずにいられないほど意気揚々と千歌は声を張り上げる。

「だって廃校だよ!」

 ええ、廃校ね。

「音ノ木坂と一緒だよ!」

 確かに廃校になりかけた時期がある、って転入前に聞いたことあるわ。

「これで舞台が整ったよ!」

 何の?

「わたし達が学校を救うんだよ!」

 何でそうなるの?

「そして輝くの! あのμ’sのように!」

 ああ、そういうことね。

 梨子は納得できてしまった。千歌から聞いたことがある。音ノ木坂学院で活動していたμ’sは学校の廃校を阻止するために発足し、活動を通じて学校の宣伝をしたことで入学希望者を大幅に増やし廃校阻止を成し遂げた。

 千歌の言いたいこととは、μ’sが在籍していた当時の音ノ木坂と現在の浦の星は状況が似ている。自分たちも廃校阻止というμ’sと同じ物語を紡ぎ伝説を再来させよう、ということ。

「そんな簡単にできると思ってるの?」

 冷めた梨子の言葉は当人に届いていないらしい。千歌の脳内には『Aqours μ’sに続き廃校阻止』なんて文言でスクールアイドル雑誌の一面を飾る自分たちを映しているのだろうか。

「花丸ちゃんはどう思う?」

 ルビィが訊いた。そういえば花丸は何も発言をしていない。彼女の意見も聞きたいところだ。そう思っていると振り返った花丸は目を輝かせて、

「統廃合!」

「こっちも⁉」

 呆れて溜め息しか出てこない。しっかりした後輩だと思っていたのに、何故彼女も千歌と同じ反応なのか。

 花丸はルビィへと迫り、

「合併ということは、沼津の高校になるずらね? あの街に通えるずらよね?」

「ま、まあ………」

 感嘆の声をあげる花丸を呆れ顔で眺めながら善子が呟く。

「相変わらずね。ずら丸、昔っからこんな感じだったし」

 善子によると、幼稚園の頃に園舎のセンサー式ライトを目の当たりにした花丸は当時上手く回らなかった舌でこう言ったらしい。

 

――未来じゅらー!――

 

 まるでずっと城の外を知らなかったお姫様みたいね、と梨子は思った。感動している千歌と花丸は取り敢えず放置し、ルビィは質問を善子へと向ける。

「善子ちゃんはどう思う?」

「そりゃ統合したほうが良いに決まってるわ」

 冷めたように聞こえるが、生徒数が少ないことを考えれば至極真っ当な意見だ。そう思っていたら、

「わたしみたいな流行に敏感な生徒も集まってるだろうし」

 こっちの後輩は何とも高飛車なものだ。流行に敏感というか、個性的な流行というか。すると花丸が「良かったずらねえ」と、

「中学の頃の友達に会えるずら」

 その言葉でようやく統廃合の意味を理解したのか、善子の顔が青ざめる。

「統廃合絶対反対!」

 家が沼津市街にあるのにわざわざ浦の星を受験した理由は何となく察していたが、やはり中学の知り合いから離れるためだったか。

 ようやく夢心地から意識が戻ってきたのか、千歌が告げた。

「とにかく廃校の危機が学校に迫っていると分かった以上、Aqoursは学校を救うため行動します!」

 

 

   4

 

 犯行現場に残されていた凶器、絞殺された被害者の死体、被害者の生前の証明写真、被害者の所有物の目録。もう何度も目を通した資料を、誠は穴が開くほど見つめる。もう犯人が逮捕された事件だが、まだ終わっていない気がしてならない。終わらせてはいけない、というべきか。

 何とも釈然としない事件だ。殺人事件という既に死者が発生したものは解決したところで清々しい気分にはならないが、今回はいつにも増して頭が重い気分になる。逮捕した青年があっさりと犯行を認めたことで捜査は終了。検察に引き渡したが、一言も口を利いていないらしい。所持品が何も無いことから身元の特定も難航している状態。容疑者として一時勾留されていた翔一に続き、彼もまた正体不明(アンノウン)だ。

 誠は写真のなかにある被害者の死に顔を見つめる。死体は不思議と皆どこか似ている、と河野は言っていた。病も老いもないのに、他者から強制的に命を奪われる者というのは、今際に皆同じ絶望の表情を固めるのだろうか。でも、誠がこの三浦智子から感じ取ったものは刑事としての経験則ではなくもっとシンプルな既視感だ。初めて見た気がしない。かといって知り合いと呼べるほどの仲だったわけでもない。

 経歴によると三浦智子は伊豆市出身で、同市の短期大学を卒業してからは清掃用具メーカーに入社、沼津の事業所に配属されていた。特に地元を離れていた期間が見当たらない。誠の静岡県警時代にもすれ違うほどの接点はない。

「おう氷川、面会だとよ」

 資料室に入ってきた河野が言った。「はい」と応えて立ち上がる。ひとまずこの資料は片付けなければ。そう思ったところで河野がデスクに広げた資料を覗き込み、

「三浦智子、この前の被害者か。何か気になることでもあるのか?」

「ええ、どこかで会ったような気がするんですが………」

 河野は資料の中から被害者の証明写真を拾い上げ、誠にずい、と見せつける。

「昔泣かした女じゃないか?」

「え、どういう意味ですか?」

 訊くと河野はつまらなそうに溜め息をつき、あごでドアの方向を指す。

「いいから早く行ってこい。資料は俺が片付けといてやるから」

 

 もう本日何度目かも分からない溜め息が無意識に漏れてしまう。先日訪ねた際と同じ応接室の空気が、梨子の溜め息で満たされてしまうのでは、という錯覚にとらわれた。

「やっぱり、警察署って緊張するよね」

 同行した千歌が梨子の隣でそわそわ、と体を小刻みに動かしている。

「そっちじゃないわ。あんなこと言っておいて何も考えてなかったなんて」

「これから考えるの。だから今日は解散にして、皆それぞれアイディアを――」

「丸投げじゃない」

 Aqoursは浦の星女学院統廃合を阻止するために活動する。今後の方針が固まったのは良いのだが、肝心な具体案を千歌は全く考えていなかった。人気グループとして大衆の目を集め学校を宣伝する。目的自体は簡潔なのだが、要は宣伝のために何をするかということ。ただ曲を作って動画サイトにアップロードするだけで、人気が右肩上がりになるなんて単純な話じゃない。だからこそμ’sは伝説のスクールアイドルになれたのだと思う。

 「でもさ」と千歌はたった今思いついたかのように、

「元々今日はここに来る予定だったんだし、どの道練習は――」

「それとこれとは話が別!」

 撥ねつけるように言うと、千歌は気まずそうに「はい……」と目を逸らした。

 そこで応接室のドアが開く。少し驚いた顔をするも、誠は微笑して会釈する。「こんにちは」と梨子と千歌は青年刑事に礼を返した。

「先日はありがとうございました。お陰様で真犯人を逮捕することができました」

 誠は梨子と千歌にコーヒーとスティックの砂糖を差し出しながら、テーブルの向かいに腰掛ける。「いえ、そんな……」と相槌を打ちながら、梨子はコーヒーに砂糖を入れる。ちらり、と隣を見やると千歌はおそるおそるカップに口を付けて、一口すすると顔をしかめた。そういえば千歌はコーヒーが苦手だった。

「コーヒー、苦手でしたか?」

 気付いたのか、誠が尋ねる。

「すみません。お茶を淹れるので、少し待っていてください」

 立とうとした誠を「いえ、大丈夫です」と千歌は止めて、「それより」と切り出す。

「真犯人てどんな人なんですか? どうして三浦さんを………」

 殺したんですか、という言葉を告げることを恐怖しているように見えた。気持ちは分からなくもない。自分たちが住む街、千歌にとっては生まれ育った街で殺人事件が起こるなんて、考えたくもないだろう。

「それが、まだ何も聞き出せていないんです。今のところ通り魔的な犯行との見方が有力なんですが」

 「じゃあ」と今度は梨子から、

「三浦さんに殺される理由は何も無かった、ってことですか?」

「そう結論付けるのはまだ早いと思いますが………」

 「あの」と千歌が口を挟む。

「三浦さんの家族の連絡先、教えてもらえませんか?」

 「何故そんなことを?」と誠は眉を潜める。千歌は一旦コーヒーに目を落とし、ぽつりぽつり、と言う。

「三浦さんは翔一くんの過去を知ってる、って感じだったんです。だから三浦さんの家族とか友達とかに、翔一くんの過去を知ってる人がいるんじゃないかな、と思って」

「なるほど、津上さんの過去ですか………。桜内さんの力で透視することはできないんですか?」

 どう答えればいいか、梨子は言葉を探る。梨子自身にも分からないものを説明するのは難しい。だから、正直に答えるしかない。

「いつも使えるわけじゃないんです。あんな風にはっきりと視たのも、この前が初めてなので。そんな大したものじゃないんです」

「そんなことありませんよ、凄い才能です。いつから、力を使えるようになったんですか?」

「はっきりとは……。いつの間にか、たまに視えたり聞こえたりするようになって………」

 この力がいつ自分の身に現れたのか、梨子は明確に覚えていない。物心ついた頃から、ピアノに触れると以前の奏者の指使いが脳裏にふわり、と浮かんでくることがあった。楽譜を手に取ると、紡がれた音符を音として感じ取ることができた。この力があったから、梨子はピアノの上達が早かったのかもしれない。

 周囲の大人に相談したことはある。教室の講師に、母に、父に。わたし、弾いてもいないピアノから音が聞こえるの。楽譜から音が聞こえるの。梨子がそう言うと、講師と母はそれが梨子の音楽の才能だと喜んでいた。でも、父だけは違った。梨子は父から言い聞かされていた。

 

 ――梨子、お前の力は絶対に他の人に言っちゃいけないよ――

 

 それを告げるときの父の顔は真剣そのもので、梨子は素直にその言いつけを守り続けていた。父は梨子の力が何なのか知っているのだろうか。

 ふと、梨子は思い出す。翔一の過去が視えた、という曜を。曜は翔一の過去を視た。梨子は針金から三浦の殺害される場面という「過去」を視た。その共通点に気が付かなかったのは、梨子がこれまで感じ取ってきたものの大半が音だったから。像というものとは別の感覚。

 でも、もしかしたら曜は梨子と同じ力を持っているのかもしれない。機会があれば曜と話をしてみたい。できることなら、機会が訪れなければいいのだが。

「あの………」

 千歌がおそるおそると言う。

「良いですか? 三浦さんの連絡先」

 そうだ。署を訪ねた目的はそれだった。誠は罰が悪そうに苦笑し、

「すみませんが個人情報ですので、教えることはできません。なので僕の方から三浦さんのご家族に連絡を取ってみます」

「本当ですか?」

「ええ。身元不明者の捜査も、我々警察の仕事ですから」

 






 前作『feat.555』は「仮面ライダー」であることにこだわっていたのですが、本作では原作遵守に徹した結果「これ仮面ライダーかな?」と感じてしまいます。
 ただ『アギト』は昭和で培われた仮面ライダーの概念を覆そうと試みた頃の作品なので、ある意味仮面ライダーとして疑問な部分が『アギト』らしいのかな、と思います。


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第2話

   1

 

 どんな死に方でも、仏教では死者へ経文が読まれる。寿命で死のうが、事故で死のうが、殺されて死のうが、自ら死のうが例外なく。

 火葬場の簡素な祭壇で、参列者が涼と叔父だけの寂しい葬儀が行われた。あんたはこんな最期で満足か、と涼は祭壇に鎮座する父に問いてみたが、当然ながら死人に口は無い。口は灰になってしまった。

 発見されたのが無人駅とあって、父は死亡してから人の目につくまで数日の間駅のベンチで腐敗しかけていた。まだ死後間もなければ防腐処置をして実家へ遺体を移すこともできたのだが、朽ちた死体は周囲に腐臭を撒き散らす。だから父は息子である涼との対面を待たず荼毘に付された。

 遺骨を納めた骨壺は両手でなければ抱えられないが、納められた人間の生前を思うと、とても小さく思える。世界で最も大きな人間と信じて疑わなかった父も、所詮は世界にいる大多数の人間のひとりだったということか。

 遺骨は業者に輸送してもらうことにした。小さくなってしまった父を、あまり長く抱えたくなかった。

 

「どうするつもりだ? これから」

 山間部の駅で電車を待つ間、叔父が訊いてくる。大学を中退したことは話あるから、今後の生活を心配してくれているんだな、と厚意を感じられる。地元に帰って父の船を継ぐべきかもしれない。でも、まだ船舶と漁業の免許を取る気にはなれない。答えずに黙っていると、叔父は質問を重ねる。

「何を考えてる?」

「……父のことです」

 「ああ」と叔父は溜め息まじりに遠くを見やり、

「全く訳が分からんよ。いなくなってから死体で発見されるまで何の連絡もなかった。前は鷹揚(おうよう)で明るい人だったのに。あかつき号に乗って事故に遭った直後だったな、義兄さんがいなくなったのは。一体何があったのか………」

 「ああ、そうだ」と叔父は背広のポケットから手帳を出してページを開き、「義兄さんの手帳だ」と涼に見せる。

「こんなものが書かれているんだが」

 そのページには何人かの名前と住所が綴られている。

 木野薫

 相良克彦

 三浦智子

 篠原佐恵子

 今時メモなんてスマートフォンで事足りるが、父は電子機器の扱いが苦手で携帯電話なんて持たなかった。家に電話があるんだからそれで充分だろ、というのが父の主張だった。そのせいで連絡が取れなかったのだが。

「お前、見覚えはあるか?」

「いえ、知らない名前ばかりです」

 一瞬、漁師仲間の連絡先だと思った。でも住所にばらつきがある。一体何の名簿なのか。でも、この名前の連なりが涼に今後の道を示している気がする。

「叔父さん。これ、俺が預かってもいいですか?」

 

 

   2

 

 誠からはその日のうちに連絡が来た。三浦の母親に電話で翔一のことを尋ねたのだが知らないという。そこで捜査は終わり、と思ったのだが、真面目なことに誠は三浦と親しかった友人の連絡先を教えてもらい、既に先方のアポイントも取ってくれていた。

『住所も近いですし、直接会ってみてはどうでしょう?』

 電話口で誠はそう言っていた。住所は伊豆市。隣の市だから気軽に行ける。そこに住む篠原佐恵子(しのはらさえこ)という女性が、翔一の過去の手掛かりになるかもしれない人物とのことだった。

 

 夕食後の食卓を囲み、千歌のメモを見た志満が「なるほど」と頷き、

「この人に会えば、翔一君の過去が分かるかもしれないのね」

 そこで「さあさあさあお茶が入りました」と翔一がお盆の湯呑とお茶請けをテーブルに置く。

「これは採れたてキャベツの浅漬けです」

 食べてみると、柔らかいけど歯ごたえのあるキャベツの葉が口の中でぽりぽり、と音を立てる。塩気も控え目で丁度いい。「あれ?」と翔一はメモに気付き、

「誰ですか篠原佐恵子さんて?」

 「この前翔一が会うはずだった三浦さんの友達だって」と美渡が言う。「ああ」と曖昧に頷く翔一を逃すまいと千歌は告げる。

「ああ、じゃなくて会いに行こうよ。わたしも着いてってあげるから」

「でも、ほら俺こう見えて結構忙しいし。明日は庭の草むしりしなきゃならないし、天井裏の掃除もしたいし。最近なんかネズミの足音うるさくない? 夜寝てると、とてとてとて、って――」

 「うちにネズミはいないわ」と志満が言った。旅館なのだから、定期的に業者を呼んで駆除してもらっている。しいたけが夜に吼えると、それがネズミ発生の合図だ。お茶を啜った美渡は意地悪く笑い、

「居候ならいるけどね、1匹」

 「美渡」と志満が窘めた。

「翔一君だって無職なりに家のことしてくれているんだから」

 「無職……」と翔一が所在なさげに反芻する。

「志満姉のほうが酷いこと言ってるよ」

 千歌が指摘すると志満は誤魔化すように咳払いし、

「翔一君。過去を思い出すのが怖いのは分からなくないけど、あなたを想って待っている人がいるかもしれないの。そう考えたことはない?」

「俺を、待っている人?」

 不安げに反芻する翔一は、そんなこと考えたこともなかった、とでも言いたげだった。無理もない。家族や友人のことを思い出せないのだから、果たして自分を待つ人がどんな人なのか、なんて想像しようがない。

 志満は続ける。

「それにあなたが昔の自分を取り戻したとしても、私たちとの縁が切れるわけじゃないわ。人と人との繋がりは大切なものよ。あなたとの繋がりを断ち切られたことで、悲しい想いをしている人がいるかもしれないわ。そのことを、よく考えてみて」

 翔一は何も応えない。まるで自分の裡にある何かを探すように、虚ろな視線を下ろしていた。

 

 

   3

 

 PCの液晶が映す事実に、ダイヤは深く溜め息をつく。対抗策を講じる前にはまず現状を理解しなければ。そう思い生徒会室のPCに保存された入学者数推移のデータを見たのだが、そこには厳しい現実が記録されていた。

 浦の星女学院は毎年度の募集定員を100人と固定している。志願者数が定員割れを起こしたのは7年度前。そこから1年度毎に10人20人と減り続け、とうとう前年度の志願者――つまりは今年度の新入生――は14人という数字。

 廃校の原因なんて考えるまでもない。多くの学校で廃校の理由は大体が共通していることだろう。受験人数の減少。直接的な原因はそれだ。使わなくなった教室は年々増えていて、学校設備は充実していても生徒数がそれに見合っていない。もはや生徒の学費から学校運営の資金を賄うことができなくなっている。統廃合が検討されているということは、既に資金の大半が経営陣からの援助金で捻出されているのだろう。

 再び深い溜め息を吐き出す。体の力が抜けそうになったところでドアをノックする音が聞こえ、即座にダイヤは背筋を伸ばして「はい」と応じる。

「お姉ちゃん?」

 ドアの陰から覗き込むように、ルビィが所在なさげに呼んでくる。

「どうしたんですの?」

「実は今日もちょっと遅くなるかも、って」

「今日も?」

「うん。千歌ちゃんが入学希望者を増やすためにPV作るんだ、って言ってて」

 先輩を「ちゃん」付けで呼んだことに引っ掛かりを覚えたが、それは敢えて指摘しなかった。μ’sもメンバー間の上下関係を過剰に意識しないよう、敬称を廃したらしい。Aqoursもそれに倣ったのだろう。

 それにしても入学希望者を増やすとは。状況が状況とはいえμ’sの活躍を反復しているようだ。一介の高校生たちがアイドル活動を通じて学校を宣伝し廃校を阻止した。前例があるとはいえ、当時とは場所も状況も異なる。同じ過程で同じ結果へ繋がるか、とは言い難いが、

「分かりましたわ」

 ダイヤが言うと、ルビィは表情を明らめる。

「お父様とお母様に言っておきますわ」

 網元の家柄といっても、両親は娘のすることに口を出すほど厳格というわけじゃない。節度さえ持っていれば反対しない。それが黒澤家の方針だ。

「良いの? 本当に?」

「ただし、陽が暮れる前には戻ってきなさい」

「うん、行ってくる!」

 そう言ってルビィが廊下を駆け出そうとしたとき、

「どう? スクールアイドルは」

 ルビィの足音が止まった。幼い頃から彼女はアイドルになりたいと願っていた。だからこそダイヤは妹が心配でならない。求めていた居場所が、輝けると信じていた居場所が、かえって苦しめてしまうのではないか、と。

「大変だけど、楽しいよ」

 その答えに「そう」とダイヤはひとまず安堵する。まだ始めたばかりで、重要なのはこれからだ。でも楽しい、と感じられるのであれば、今はそれでいい。

「他の生徒会の人は?」

「みんな他の部と兼部で忙しいのですわ」

「そう………」

 部活動を兼部する生徒は珍しくない。以前は禁止されていたそうだが、ダイヤが入学する前年度に兼部が許可されるようになったらしい。生徒数の減少によって部の廃部も増加傾向になっていった故の措置だ。

 ルビィはドアの前から動く気配がない。何を言おうとしているのか理解できる。だからルビィが告げようとしたとき、間髪入れずダイヤは遮ることができた。

「お姉ちゃ――」

「早く行きなさい。遅くなりますわよ」

 ルビィには行くべき場所がある。ようやく見つけたのに、いつまでもダイヤの顔色を見てばかりいてはいけない。

 ドアがそ、っと閉じられた。皮肉なものですわね、とダイヤは思った。Aqoursもダイヤも浦の星を存続させたい、という想いは同じなのに、決して道を交えようとしないなんて。

 

 最初見たときは、質の悪い悪戯だと思った。あれが人間の死体だなんて思いもしなかった。

 死体の第1発見者は聴取に対してそう述べていた。発見者は現場のコインパーキングから車を出そうとした際、隣に停まっていた車の運転席からその奇妙な死体を発見し、通報したという。

 既に死体が運び出された運転席に、特に気になるところは見当たらない。バックミラーには安全運転祈願の御守りが掛けられていて、ドリンクホルダーには空の缶コーヒーが置いてある。シートは汗や体液を吸い込まなかったようで、異臭もない。

「氷川さん」

 北條に呼ばれ、誠は車中から背後へと視線を移す。

「被害者の体は完全にミイラ化していたそうです。死亡推定時刻数十年前ということになりますが」

 日本の多湿な気候のなかで珍しいケースだがミイラ化死体が発見されることは前例がないわけでもない。多くが持病の発作で絶命し、そのまま誰にも発見されないまま数十年も放置されたもの。稀に殺人事件で遺棄された死体がミイラ化したというケースはあるものの、そういった死体は身分証明書を持ち去られているから身元の照合ができず、大半が身元不明死体として処理されてしまう。

 そういった点で今回の死体は幸運だった、と解釈するのは不謹慎だろうか。被害者のズボン――死体とは逆に真新しい衣服だ――に収まっていた財布から運転免許証が発見され、死体の身元は判明している。

 こんな屋外の駐車場で数十年も放置されていたとは考えにくい。遺棄した死体を移したとしても、身分証明書を残しているという杜撰な犯行。全ての違和感を拭い去る答えを北條が告げる。

「アンノウンの仕業に間違いないでしょう」

 だとすれば真っ先に浮上する疑問を誠は投げる。

「被害者の親族は?」

「3ヶ月ほど前に結婚したばかりだそうですが、血の繋がった親族はいないようです。取り敢えず護衛の必要はなさそうですが、アンノウンが現れた以上このままで済むはずがない」

 そう、被害者に血縁のある親族のいない方が厄介だ。次に誰が標的になるのか全く見当がつかない。

 何気なしに車中へ戻した誠の視線が、助手席に置かれた本に留まる。まだ買ったばかりのようで、本屋の紙袋が近くにある。手に取ってみると、それは姓名判断の本だった。占いが趣味だったのだろうか。

「既に聞いていると思いますが」

 険のこもった北條の声に、誠は再び振り返る。北條は声色と噛み合わない余裕な表情を浮かべている。

「今朝聴聞会に呼ばれましてね。言われましたよ。あなたより私のほうが、G3システムの装着員として優れているとね」

 「にも関わらず」と今度は明確な嫌悪の視線を向け、

「小沢澄子の判断ミスのせいで、私は捜査一課に戻された」

「あの人がミスをするとは考えられませんが」

 先日の小沢から送られてきた戦闘オペレーションの報告書は誠も目を通している。北條はG3システムの武装を駆使したが、GG-02がアンノウンに有効なダメージを与えられず形成が崩れた。何度かスーツにダメージを負ったが、まだ戦闘可能と小沢はオペレーション続行を指示。だが北條は独断で緊急解除システムを作動させ武装解除。現場には少女数名がいたそうだが、北條は逃走してしまったという。

 回収班が現場に赴いた頃にはアンノウンも少女たちの姿もなく、周辺住民からは現場で爆発があったという証言があった。恐らく、アンノウンはまたアギトが撃破したのだろう。

 今朝の聴聞会のことも、小沢から電話で聞いている。市民に避難を促すこともせず戦線離脱したことから、もう一度G3システムの装着員を選考し直すと上層部は判断した。選考している期間に北條は捜査一課に戻るよう言い渡されたのだが、北條はあかつき号を引き合いに抵抗を試みる。だがそのスキャンダル公表は意味がない。上層部は市民に対して謝罪するだけで済むが、公表した当人は警察内部において今後のキャリアを完全に潰されることだろう。

「とにかく、私はもう一度自分の優秀性を証明し、装着員に復帰するつもりでいます」

 ここで虚勢を指摘したとしても、売り言葉に買い言葉の口論になるだけだ。今重要なのは目先の事件。誰を狙うか分からないアンノウンをどう阻止するかを考えるべきだろう。

「分かりますか? あなたに出番はない」

 はっきりと告げる北條に、誠は力強く視線を返したまま沈黙を貫く。G3の装着員としてどちらが相応しいかなんて、そんなものはどうでもいい。互いに牽制し合ってユニットの活動を妨げたら本末転倒だ。

 あなたが相応しいなら喜んで祝福する。

 僕はあかつき号事件の英雄だとか、G3装着員なんていう勲章が欲しくて刑事をやっているんじゃない。

 

 

   4

 

 戦国時代に長浜城という城があった史跡公園は、岬という立地条件から内浦の全貌が見渡せる。ここから見る海と山は中々に絶景で、特に内浦湾を行き交うボートが特に曜のお気に入りだった。

「内浦の良いところ?」

 曜の向けるハンディカムのレンズ越しに、本日の活動内容を聞いた梨子が言う。説明した千歌は「そう!」と応じ、

「東京と違って、外の人はこの街のこと知らないでしょ? だからまずこの街の良いところ伝えなきゃ、って」

 Aqoursの活動においてライブや曲のプロモーションも大事だが、廃校阻止という目標を掲げるのなら自分たちの活動拠点を知ってもらおう。わたし達の住む街はとても良い街です、と宣伝し、浦の星女学院の入学志願者を募るのが、千歌の提案した策だった。

 これもまたμ’sの例に倣ったのかというと、少し違う。μ’sがしたことといえば、ライブをしてラブライブの大会にエントリーし、プロモーションビデオを公開して知名度を上げた。それだけの、スクールアイドルならどのグループもしていることだった。

 というのも、音ノ木坂学院は東京、日本の首都にある学校で、人口は多い。対して浦の星女学院は静岡県の過疎化が進む集落の学校で、内浦なんて場所を聞いても大半の人間はどこにある街なのか知らない。

「それでPVを?」

 善子が腕を組みながら呆れたように言った。「うん!」と千歌はその隣に移動し、

「これをネットで公開して、みんなに知ってもらう」

 ネットという単語に反応した花丸が「知識の海ずら」と感慨深げに言った。隣にいるルビィと一緒にハンディカムの視界に収めたところで千歌は後輩ふたりの間に入り、

「というわけで、ひとつよろしく!」

 そこで花丸とルビィは、自分たちに向けられたレンズに気付く。曜は花丸の顔へと画面をズームさせた。

「いや、マルには無理ずら――、いや無理」

 次にルビィへと移す。羞恥に頬を赤くしたルビィが「ピギィ!」と素早く画面から離脱して、曜は一旦ハンディカムから視線を外す。

「あれ?」

 辺りを見渡すが、見晴らしの良い公園のどこにもルビィの姿が見えない。なんて素早い。というよりどこへ行ったのか。

 すると善子が、

「見える。あそこよ!」

 と公園のなかで一際高くそびえ立つ樹を指さした。まさか木登りなんてしたのか。茂る枝のなかにいないかと思ったとき、

「違います!」

 少し離れたところにある案内板の陰からルビィが出てきた。すかさず曜がハンディカムを向けると、また画面から逃げ出した。

「おお、何だかレベルアップしてる!」

 呑気にそう述べる千歌に、梨子が口を尖らせた。

「そんなこと言ってる場合⁉」

 

 何度かメンバー紹介のプロモーションは撮っているものの、未だに花丸とルビィと梨子はカメラの前だと緊張してしまうらしい。台本なんて用意していないからほぼアドリブで紹介してもらうわけで、そういった面に最も耐性を持っていそうなメンバー、つまり千歌がメインを務めることになった。

 街紹介なんて初めてだし勝手は分からないが、内浦は景色の材料にはそれほど困らない。思いついた順にカットを切っていく。

 シーン1は富士山を背景にした。ハンディカムの前で花丸がカチンコを鳴らして画面から離脱する。因みにカチンコは曜のこだわりで用意した。まずは形から入りたい。

「どうですか? この雄大な富士山!」

 次にシーン2は内浦湾。カチンコ係は梨子。

「それと、この綺麗な海!」

 シーン3は観光案内所に場所を移した。カチンコ係のルビィは編集でカットすると分かっていても恥ずかしいのか、こちらに顔を向けてくれない。背景は観光案内所だが、メインは施設ではなく千歌の抱える段ボールに詰まった内浦の名産品だ。

「更に、ミカンがどっさり!」

 シーン4は十千万から臨む内浦の街並。カチンコ係は善子。

「そして街には……、えっと街には………、特に何もないです!」

 「それ言っちゃ駄目」と曜は苦笑交じりに言う。誤魔化しにかかった千歌のサムズアップが何とも虚しい。このシーンは完全にカットだ。

「みんなー、お茶が入ったよ」

 十千万の玄関から翔一がお盆を手に出てくると、それほど張り詰めていなかった場の雰囲気が更に緩くなる。「今日は何ずらか?」と花丸が訊くと翔一は自信ありげに、

「採れたてキャベツの浅漬けと、新ジャガの煮っころがしも作ったんだよね。ささ、みんな食べてよ」

 お盆を軒先の長椅子に置くと、花丸とルビィが先に箸を手にして料理をつまみ始める。

「お茶請けが何だか年寄りくさいわね」

 お茶を啜りながら善子が目を細める。曜は何度も振る舞われているから気にならなかったが、確かに女子高生に出すものとは違うように思う。

「翔一さんてお菓子とか作れないんですか?」

 曜が訊くと、翔一は腕を組んで「うーん」と考え込み、

「キャベツを使ったお菓子って何かあるかな?」

 「何でキャベツで作ろうとするのよ?」と善子が指摘する。翔一の創作料理は当たりもあれば外れもあるから、結構危うい。

「もう、のんびりしてる暇ないのに」

 曜の背後から梨子が呆れを漏らすが、花丸は「でも美味しいずら」とご機嫌に芋の煮っころがしを食べる。隣のルビィも頬を綻ばせながら芋を咀嚼している。因みに梨子が曜に隠れているのは、玄関先の犬小屋にしいたけがいるから。

 「翔一」と玄関から美渡が顔を出してくる。

「あんた、そろそろ行かなくていいの?」

 「あ、そうだった!」とお茶を飲んでいた千歌が声をあげる。千歌は「ごめん!」と両手を合わせ、

「今日用事があって、これから行かなきゃいけないんだ。だから今日はここまでにして、続きは明日にしよう」

 PV制作は別に急ぎでもないから問題はないが、どうにも用事に翔一が絡んでいそうなのが気に掛かる。曜は尋ねた。

「良いけど、用事って翔一さんの?」

 「うん」と千歌は首肯し、

「翔一くんの過去知ってるかもしれない人に会いに行くの」

 「連絡取れたの?」と梨子が訊くと「そう!」と千歌は応えた。

「良かったですね、翔一さん」

 ルビィは嬉しそうに言うも、当人は何とも言えなさそうな、言葉を探しあぐねて苦笑している。

「何よその顔、嬉しくないわけ?」

 善子が訊いた。「えーと……」と翔一が口ごもると花丸が、

「恥ずかしい記憶を思い出すのが怖いずらね」

 と善子へと悪戯な視線を向ける。「何よその目は!」と善子が噛みついたところで、その場を動こうとしない翔一に千歌が痺れを切らした。

「もう、早く行こうよ。ヘルメット取ってくる」

 十千万のなかへ入っていく千歌に翔一は「いやほら」と

「これから夕飯の準備しないといけないし――」

 「それは私と志満姉でやっとくから!」と美渡が無理矢理翔一のエプロンを剥ぎ取って、バイクへと背中を押していく。ようやくバイクのシートに跨ったところでヘルメットを手に戻ってきた千歌が翔一の頭に被せ、リアシートに腰掛ける。

「ほらエンジンかける!」

 美渡に促され、翔一は渋々といった様子でセルスイッチを押した。バイクのエンジンがうねりを上げる。しばしのアイドリングを経て翔一はギアペダルを踏み込み、バイクを発進させた。

「ちゃんと会ってきなよー!」

 走り去っていくバイクに、美渡は大声で告げた。海沿いの道を走っていくバイクを見送りながら、曜は不安と期待が入り交ざった、奇妙な感覚を覚える。

 翔一の過去。前に視たあの像が脳裏によぎった。翔一が千歌の父を殺していないとは信じられるが、何らかの形で関与しているのかもしれない。それは知らなければならない過去だけど、知ってしまうことが怖い。

 でも、翔一はもっと怖いのかもしれない、と思った。

 

 



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第3話

 

   1

 

「涼、学校から電話が来たぞ。同級生の子を殴ったんだってな」

 父からそう尋ねられたのは、涼の中学卒業が近付いた頃のある食卓だった。料理があまり得意でない父を気遣い、漁師仲間や隣人から貰った料理を食べる、いつもの食事風景だった。

「危うく高校の合格が取り消されるところだったんだぞ」

「どうでもいい、そんなの」

 こんな会話はすっかり慣れたものだった。幼い頃から涼は怒りを抑えつけるのが苦手で、衝動的に他者に向かって暴力を振るうことがよくあった。でも、それは理由のない暴力じゃない。涼にとっては正義の拳だった。

 いつだって涼は他人のため、特に父のために拳を振るってきた。この日のことだってそうだ。同級生が「君の父親はなけなしの金を積んで合格させたんだよ。自分に学が無いからコンプレックスを子供に押し付けたんだ」と口走ったから殴った。その同級生は偏差値の高い名門校を受験したが不合格で、滑り止めで受験した涼と同じ高校に入学する予定だった。

 許せなかった。たったひとりで涼を育ててくれた父を侮辱されたことが。傍から見れば父子家庭とは恵まれないのかもしれない。再婚して息子に母の温もりを与えない父は良い父親ではないのかもしれない。でも涼は母がいなくても父がいてくれればそれで十分だ。本人を前にして、決してそんなことは言わなかったが。

「世の中、海のように優しくて単純じゃない。陸での歩き方を知らないと苦労するぞ」

「俺は漁師になるんだ。別に知らなくたっていい」

「まあ、お前が良いならそれで良いがな」

 お前が良いなら良い。それは父の口癖のようなものだった。涼が投げやりに何かを口走っても、父は否定しなかった。そう、父はいつだって涼の意思を尊重してくれた。放任とも取れるが、子供に自分の理想を押し付けてあれこれと要求することが良い親というわけではない。父は涼をひとりの人間として認め、見守ってくれている。そんな父からの視線を涼は常に感じながら成長してきた。

 だから、その日に父から言われたことは涼にとって忘れることができない。

「涼、高校に入ったら水泳部に入れ」

 父が何を言っているのか分からなかった。今まで涼に何も要求してこなかった父が、初めて要求してきた。

「お前は海での泳ぎ方しか知らない。プールの泳ぎ方を知って、そこから陸の歩き方を知れ」

「何でだよ? さっきお前が良いならそれで良い、って言っただろ」

 苛立ちながら涼が尋ねると、父は溜め息交じりに苦笑した。

「もう、そんな単純な世の中じゃない、ってことだ」

 そう言うと父は食卓から立ち、仏壇の前に座って手を合わせた。仏壇では若くして亡くなった母が遺影の中で微笑んでいた。

「お前をしっかり育てないと、母さんに顔向けできないからなあ」

 父は涼を見守ってくれていた。それは確信をもって言える。だからこそ涼は疑問を覚えずにはいられない。何故父が、涼を置いて死んでいったのか。

 何故あかつき号事件が、父を死へと至らしめたのか。

 

 

   2

 

 そこは伊豆市の、どこにでもある風景の住宅街だった。スマートフォンのマップアプリの案内に従い、涼は家々の立ち並ぶ路地を1歩ずつ確かめながら進んでいく。

 目的地の近くまで辿り着いたのか、アプリの案内が終わる。周囲にある玄関先の表札を見比べ、その中から「篠原」と彫られた表札を見つけ出す。インターホンへ指を伸ばしたとき、玄関のドアが開いた。若い女性が大振りのバッグを手に出てくる。女性は涼に気付くなりいかにも迷惑そうな視線をくべ、

「あら、うちに何か用かしら?」

「篠原佐恵子さんですか?」

「何かの勧誘とかなら興味ないわよ」

 露骨に迷惑と告げられているのが分かるが、生憎拒絶されることには慣れてしまっている。

「いえ、自分は葦原涼という者ですが、実は――」

 言い切る前に女性はつかつかと路地を歩き始め、

「あなたがどこの誰でどんな話があるのかは興味ないの。ごめんね急いでるから」

 確かに急いでいるようで、女性は足早に歩いていった。

 

 内浦からバイクを走らせて30分程度で到着した住宅街は、あまり地元との差異を感じない空気が流れている。翔一が道中に買い物に行きたいとか言い出したが、何とか強引に誘導して辿り着くことができた。

 バイクを適当な路肩に停めて歩き始めると、翔一は辺りをきょろきょろと見渡している。千歌も住宅街に視線を巡らせてみると、不思議だな、という感慨が沸いた。三浦のときもそうだったのだが、ずっと謎だった翔一の過去が案外近くにあるかもしれないなんて。

「あ、ここだ」

 千歌が指さした家の表札に「篠原」という文字が彫られている。でも翔一は苦い顔をして、

「違う篠原さんじゃないかな? ほら、他の家とかも見て――」

「もう、早く行くよ。せっかく氷川さん教えてくれたんだから」

 強引に翔一の手を引いて玄関先に立ち、インターホンを押す。住人はすぐに出てきた。口まわりの髭が整えられた、眼鏡を掛けた男性だった。篠原佐恵子、ではないようだ。

「はじめまして、高海千歌です」

 千歌が挨拶をすると隣の翔一もそれに倣い、

「津上翔一です」

 すると男性は「ああ」と穏やかに笑みを浮かべた。

「篠原佐恵子の兄の数樹(かずき)です」

 「どうぞ」と促され、千歌と翔一は家に上がった。

「妹はちょっと出掛けてるんですが、夕方までには帰るでしょう。大体の事情は刑事さんから聞きましたが、いや驚きましたよ。記憶喪失の人に会うのは初めてです」

 「いやあ、普通ですけど」と翔一は照れ臭そうに笑う。照れるところなのかな、と思いながらも千歌は尋ねる。

「それで、妹さん何か言ってませんでしたか? 翔一くんのこと」

 「それが……」と数樹は言葉を詰まらせ、思い出したように手で千歌たちを客間のソファへと促す。腰を落ち着かせると数樹は言った。

「実は佐恵子にはまだ何も言ってないんです。少し気難しいところがありましてね。むしろ突然会ったほうが良いように思って」

 どうやら訳ありらしい、と漠然とだが察した。でも、訳ありのほうが翔一との関係に現実味を帯びてくる。

「あれ、何ですかそれ?」

 翔一が棚を指さした。棚には茶色の食器らしきものが並んでいる。単なる食器棚ではなさそうだ。どれもひびが入ったり割れていたりで、実用性はまったくない。「土器の類ですよ」と数樹は言った。

「妹が近くの湖から引き揚げたものです」

 近くに寄ってまじまじと土器を眺める翔一は「凄いですねえ」と感慨深げに漏らす。自分が生まれるずっと昔の時代に使われていた品物。男性はそういったものにロマンを感じるらしいが、千歌には良さがあまり分からない。何せ昔なんて想像ができないから。千歌は尋ねる。

「佐恵子さんて考古学者なんですか?」

 「いや」と数樹はかぶりを振り、

「私が考古学に携わってる影響でね。素人学者ってやつですよ」

 「ちょっと触っても良いですか?」と翔一が少年のように期待を込めた声色で尋ねる。貴重な品々だと思うのだが、数樹は嫌な顔せず「どうぞ」と応じてくれる。

「お茶を淹れてきます。こんなもので良かったらいくらでも見てください」

 そう言って数樹は客間の隣にあるキッチンへと向かう。わくわく、という様子で翔一は下半分が割れた壺を手に取った。あらゆる角度から、翔一は古代に使われた壺を見つめる。

 唐突に、翔一の眼差しが変わった。「どうしたの?」と千歌が尋ねると「え、ああ……、うん、ちょっと………」とはぐらかされた。

 

 

   3

 

 涼がバイクを走らせた時間帯はまだ太陽が出ていたのだが、そこに着く頃には雲に隠れて地上全体に影が落ちている。湖の湖面は空と同じ灰色を映していて、底の見えない澱みは何かが潜んでいそうな恐怖を覚える。湖ならば潜んでいるのはネッシーだろうか。

 佐恵子は車を湖畔に停めると、ウェットスーツに着替えて足にフィンを装着し、更に酸素ボンベを背負ってダイビングを始めた。長時間水中に潜ることができる、ライセンスが必要なダイビングだった。

 一旦潜るとしばらくは上がってこない。もしかして溺れて湖底へ沈んでしまったのでは、と思ったところで上がってきて、その手には何かの破片のようなものを握っている。それを車のそばに置くと、再び潜っていく。

 彼女の様子を、涼は離れたところから1歩も動くことなく眺めていた。隠れているわけではないから、佐恵子の側からも目を凝らせば涼を見つけることができる。でも、佐恵子は涼の存在にまったく気付くことなく、湖畔と湖の往復を繰り返した。まるで湖から拾ってきた破片以外など眼中にないように。

 そう、佐恵子は湖以外何も見聞きできないように思えた。湖までの道中も、涼はずっと佐恵子の車を追ってバイクを走らせた。かなり杜撰な尾行にも関わらず、佐恵子は振り切る素振りも見せず真っ直ぐに湖へと向かっていた。バイクの運転手が先ほど自分を訪ねてきた男と気付いていないのか、それとも後続する涼のXR250など見えていなかったのか。

 太陽が西に傾いた頃になって、佐恵子はダイビングを終わらせた。服を着替えて荷物を車のトランクに収めるまでの作業は手際よく、彼女が何度もこの湖に通い詰めているのが分かる。車のエンジン音が甲高く響いたが、車体は全身せず留まっている。ギアの入れ忘れかと思ったのだが、見れば車の後輪が空振りしている。浜の地面が柔らかくタイヤが沈んでしまったらしい。涼は駆け出した。佐恵子は何度もエンジンを吹かして無理矢理にでも前進を試みるが、タイヤの回転はただ砂を巻き上げるだけだ。

 車のもとへ近付くと、涼は車体を後ろから押す。バックミラーに映ったのか、それとも後方からの力を感じ取ったのか、佐恵子は窓から顔を出してこちらを一瞥する。何か言ってくるものかと思ったが、佐恵子は無言のまま顔を引っ込めエンジンを吹かす。涼はそれに合わせて車体を思い切り押した。タイヤが自ら作った(わだち)から抜け出し、ようやく車体が前進する。佐恵子は車を停め、再び窓から顔を出した。

「名前、何て言ったっけ?」

「葦原涼といいます」

「話がある、って言ったわね。良いわ。借りは返さないとね」

 

 もうすぐ陽が暮れようとしているのに、その女性は庭のベンチに腰掛けたまま宙を見つめている。力なくベンチに垂れた手元には毛色の玉があって、編み物をしていたようだが作業は全く捗っていないらしい。少なくとも誠が監視を始めてから、彼女がかぎ針を持つところを見ていない。ずっと空虚を見つめていて、今から夕飯の準備をする気配もない。

 彼女の護衛に就いているのは誠ひとりだけだ。そもそも護衛の通達なんてされていないし、彼女自身にも護衛が就くことを伝えていない。彼女は不可能犯罪の被害者遺族でありながら、護衛対象からは外されている。アンノウンは血縁者を狙うから、いくら身内とはいえ血縁上は他人である配偶者は狙わない。捜査本部はそう判断したが、誠には引っ掛かるものがあった。刑事の勘、と言ったら北條は笑うだろうか。それでも気掛かりならば様子を見るに越したことはない。もし誠の勘が的中していれば、いや、できれば外れてほしいところだ。

 だが幸か不幸か、誠の勘は的中してしまう。暗くなりつつある視界の隅で、間もなく訪れる闇に潜もうと異形の存在は動き出す。

「危ない!」

 誠は咄嗟に叫んだ。それに反応した女性は誠の方を向いて、続けてアンノウンの足音を聞き取りそちらへと顔を向ける。馬のような顔をした黒い体躯のアンノウンはゆっくりと歩を進めた。誠は家の柵を飛び越え、恐怖のあまり動けずにいる女性の肩を抱く。

「警察です、逃げてください! 早く!」

 

 

   4

 

 家に着く頃になると、陽がすっかり暮れてしまった。佐恵子が玄関のドアを開けると、中から穏やかな男の声が聞こえてくる。

「遅かったな、お客さんだぞ」

 夫だろうか。そんなことを考えていると、「こっちもね」と応じた佐恵子は振り向いて入って、と視線で促してくる。玄関へと脚を踏み入れ、涼は中で佐恵子の帰りを迎える男性に「お邪魔します」と礼をする。男性は戸惑い気味ながら、笑みを浮かべて礼を返してくれた。

「さっき湖で車が砂にはまっちゃってね。彼が助けてくれたの。葦原涼さんよ」

 佐恵子がそう説明してくれると、男性は親しみを込めて「そうですか」と笑った。

「いやあ妹がお世話になりました。兄の数樹です。どうぞ上がってください」

 夫じゃなくて兄だったのか。ほんのささやかな驚きを裡に留め、涼は家に上がる。客間に通されると先客がいた。学校の制服を着た、高校生くらいの少女だった。客間には彼女しかいないのだが、テーブルには3人分のお茶と茶菓子のパウンドケーキが置かれている。

「彼は?」

 数樹が尋ねると、少女は罰が悪そうに「すみません」と、

「翔一くん急用で………」

 

 女性を連れてアンノウンから逃走するのは困難を極めた。女性は妊娠していて、胎児を抱えた腹は大きく膨らんでいる。あまり走らせては胎児に影響が出かねないから、遠くへ逃げるよりもアンノウンから身を隠せる場所を近間で見つけなければならない。

「こっちへ」

 工業地帯へ入ったのだろうか、コンクリート製の大きな建物が軒を連ねている。その一角へ女性を促し、「逃げなさい」と走らせる。建物の陰に身を隠したのだが、アンノウンは匂いでも嗅ぎ取ったのか工場の敷地へと入ってくる。

 懐から拳銃を出し、誠はトリガーを引いた。当然、弾丸は目標の寸前で静止し砕け散る。それでも誠はトリガーを引き続ける。効かなくても、アンノウンの注意をこちらへ引けば女性が逃げ切るまでの時間稼ぎになるはずだ。狙い通り、アンノウンの目がこちらへと向けられる。誠は女性とは逆方向へと走り出し、自らを餌としてアンノウンを誘い込む。

 建物の裏手へと回ったところで、ぶるぶる、という不気味な吐息が聞こえた。まさか、と思い振り返ると、まるで物理法則なんて無視できるかのようにアンノウンが足音も立てずそこにいる。トリガーを引くとかち、という音が虚しく響いた。弾切れだ。もっとも、弾がこもっていたところで有効打にはならないが。

 誠は銃身を振り下ろし、アンノウンの馬面へ叩きつけようとした。だがアンノウンは容易く誠の手首を捻り、脇腹を強かに蹴り上げる。地面に身を投げ出しながら、誠は手加減されていると分かった。G3システムを装着しても敵わないのだから、生身なんて1発の攻撃で即死してもおかしくない。

 アンノウンが誠との距離を詰めようと足を踏み出したとき、その肩が穿たれる。誠はアンノウンとほぼ同時に、弾丸が飛んできた方を向いた。牽制とはいえアンノウンに命中させるだけの威力を持ったGM-01。それを扱うことのできるG3が、暗闇のなかオレンジ色のセンサーアイを煌かせている。

 確かG3ユニットは装着員選考のために活動停止状態にあるはずだ。装着員が早く決まったのか。

 G3はゆっくりと足を進めながらGM-01を発砲する。発射された弾丸は全てアンノウンに吸い込まれるように命中していく。あの精密な射撃は北條か。

 G3が肉迫して近接戦へ持ち込もうとしたところで、弾丸に怯んでいたはずのアンノウンが待っていたかのようにGM-01を払い落とした。焦る素振りを見せずG3は蹴りを脇腹へ入れるが、アンノウンは腕で防御し反撃の拳を浴びせる。馬面のアンノウンは筋力自慢らしく、G3の体が容易く突き倒された。立ち上がろうとするG3を、アンノウンは容赦せず蹴り伏せる。それでもG3は敵の腹に蹴りを入れて離し、素早く立ち上がって拳を打ち付ける。だがまったく効いていない。反対にアンノウンの拳はG3の胸部装甲に火花を散らしていく。1発1発が強烈で、火花が飛ぶ度にG3の装甲がひしゃげていくのが見えた。

 アンノウンの拳がG3の腹を打ち抜いた。金属の鎧を纏った体が宙を舞い、工場の廃棄物が積まれた鉄屑の山に身を伏す。

「北條さん!」

 誠が叫ぶも、G3はまるで鉄屑の仲間入りを果たしたかのように沈黙している。誠がまだ痛みで軋む脇腹を抑えながら立ち上がると、アンノウンがこちらへ向いた。

 だが、その視線はすぐに横へと移る。同じ方向を見やると、その先には金色の鎧を纏った戦士が立っている。その姿を捉えたアンノウンが、呻きとは異なる声を発した。

「アギト………」

 アギトは駆け出し、アンノウンの顔面に拳を見舞う。アンノウンは反撃の拳を突き出すが、手で払われてまた顔面に1発食らう。アギトなら、この窮地を救ってくれるかもしれない。アンノウンは鉄屑の山へ跳躍した。逃すまいとアギトも足場の悪い鉄へと跳ぶ。着地と同時に、アギトの右足が沈んだ。足を取られたか。そう誠が思ったとき、アギトの体が投げ飛ばされ、同時に鉄屑から別個体のアンノウンが姿を現す。

 もう1体いたのか。

 新しく現れた個体も馬のような姿だが、こちらの体には縞模様がある。まるでシマウマのようだ。流石のアギトも2体の敵を相手取るのは分が悪いらしい。黒馬がアギトを背後から羽交い絞めにして、シマウマががら空きの腹に拳を打ち付ける。効いたのかアギトは呻くも、黒馬の腹に肘打ちを浴びせて拘束から逃れた。それでも形成逆転とはいかず、シマウマに背中を殴られてバランスを崩し、鉄屑から転がり落ちる。すかさずシマウマはアギトの傍へと降り立ち、立ち上がろうとしたその腹を踏み付ける。

 誠の視界に、先ほどG3が取りこぼしたGM-01が入った。咄嗟に銃身を掴み、照準をシマウマに合わせる。トリガーを引いた瞬間、誠の体が大きく仰け反った。遅れて腕全体に傷みが走る。G3システムの装着を前提として設計された装備なだけに、反動はかなりのものだ。照準も大きくずれて鉄屑の一部を吹き飛ばしている。

 痛みを堪え、誠は再びGM-01を構えてトリガーを引いた。痛みが来る前に、反動で照準がずれないよう腕にしっかりと力を込めて2発目と3発目のトリガーを引く。今度は全弾命中した。アンノウンの注意がこちらへ逸れる。更に4発目と5発目。そして6発目でとうとう腕に限界が来た。力が緩んだせいで反動が体を走り、受け身も取れず地面に倒れる。

 右腕に力が入らない。痙攣で小刻みに震え、その感覚すらも曖昧になっていく。負傷がどれ程のものか判断がつかない。思考が痛覚という危険信号に覆われていき、やがて遠のいていく。

 状況はどうなった。

 アギトはアンノウンを撃破できたのか。

 なけなしに浮かべた問いも、すぐに意識と共に暗闇のなかへと沈んでいった。

 

 



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第4話

 遅くなって申し訳ございません(土下座)




 

   1

 

 青年もどうやら、佐恵子に聞きたいことがあって訪ねてきたらしい。千歌は席を外したほうが良いと思ったのだが、青年は特に気に留める様子もなく千歌の同席を許してくれた。

「じゃあ、亡くなった君のお父さんがこの手帳を持っていたと?」

 テーブルに置かれた青年の手帳を見て数樹が尋ねる。「ええ」と青年は短く応じた。先の説明の簡潔さからも、青年はあまり口数が多い方ではないらしい。青年が語った身の上はこうだ。

 自分は父親の急死の真相を調べている。遺品の手帳に佐恵子の名前があったから何か知っていると思い訪ねた。

 あまり多くを語らない人物というのは、どこか無意識の緊張感を放っているように見える。普段は喋り好きな千歌でさえ、青年の傍にいて口を結んでしまう。

 千歌は開かれた手帳を眺める。使い込まれて黄ばみのあるページには何人かの名前と住所が綴られていて、その中には確かに佐恵子の名前とこの家の住所がある。

「佐恵子さん、何故そこにあなたの名前があるんです? そのリストは何を意味するんですか?」

 青年が尋ねると、視線を俯かせたまま佐恵子は「知らない」とか細く答える。

「知らないわ、私は何も………」

 佐恵子は涼と視線を交わそうとしない。自分の瞳から何も悟られないように決して。佐恵子が知らなかったとしても、青年の父親は彼女のことを知っていたはずだ。しっかりと手帳に名前と住所が記録されているのだから。

 青年が身を乗り出して「でも――」と言うと同時、佐恵子はソファから立ってそそくさと客間から出て行く。数樹は妹を咎めるようなことは言わず、ただその背中を見送った後に青年と千歌に苦笑を向ける。

「済みません、気難しい性格なもので」

 「いえ、こちらこそ……」と青年も罰が悪そうに頭を下げる。父親の死に関わっているのかもしれないなら、必死になるのも仕方ない。そう思うのは、千歌も父親が不可解な死を遂げた故の親近感だろうか。この青年の気持ちが分かる、なんて思い上がるつもりはないが。

「また来てください。今度はちゃんと話をするよう、妹に言い聞かせておきます」

 数樹の柔和な物腰に、千歌は「はい」としか言えなかった。あの様子だと今日は何も話してはくれないだろう。

「あんた、帰りは大丈夫か?」

 家から出ると、青年はぶっきらぼうに訊いてきた。すっかり陽も暮れて、最終バスも過ぎてしまった頃だ。

「大丈夫です。翔一くん来てくれるので」

 もっとも、無事ならばの話だが。でも翔一のことだ。あっけらかんと普段通りの顔で戻ってきてくれる。

 青年がバイクで去ってしばらく、翔一が入れ違いに戻ってきた。

「良かったあ、無事だったんだ」

「うん、ごめん」

 いつも通り優しくどこか抜けたところのある顔をすると、翔一は篠原家を見やり、

「それで、佐恵子さんは?」

「会えたんだけど、何か変なことになっちゃって………」

「変なこと?」

「上手く言えないんだけど、でもまた来て良い、って。だからまた来てみようよ。今度こそ翔一くんの過去分かるかもしれないし」

 千歌は明るく言う。翔一は過去の話になると決まって浮かべる不安げな表情を見せなかった。でも笑顔というわけでもなく、ただ何の感情も感じさせない顔で篠原家を眺めていた。

 

 

   2

 

 アンノウン出現から一夜明けた日の聴聞会は、現場にいた誠にも出席が命じられた。同席するのはG3装着員である北條。いや、厳密には元装着員というべきか。まず出だしから誠は驚かされることになる。

『北條君、我々の言いたいことが何か、分かっているかね?』

 PCの液晶のなかで、警備部長は冷たい声音で続ける。

『君は我々の通達を無視して、勝手にG3システムを起動させた。どういうことかね?』

 その言葉で、誠は昨晩の戦闘オペレーションの真実を悟る。G3装着員はまだ選考中で、ユニットの活動停止もまだ解けていなかった。つまり、G3は完全に北條の独断で出動していたということ。G3に対する想い入れの強い北條と、強引な小沢だからこそ生じた事態だ。

 お偉方に対して、北條は強気な姿勢を崩さず答える。

「あの場合、命令よりも人命の救助を優先させるのが警察官としての正しい選択だったはずです。それよりも、G3システムの武器を勝手に使用した氷川主任の方にこそ問題があると思いますが」

 まさかの責任転嫁に、思わず誠は北條を横目で睨んでしまう。あなたは前回のオペレーションでは現場の市民を避難誘導せず逃走しただろう。反論する前に補佐官が尋ねてくる。

『どうかね、怪我のほうは?』

「はい、大したことありません」

 布で右腕を吊っているから見た目こそ物々しいが、肘の靭帯を傷めた程度に済んだ。しばらく安静にしていれば包帯も取れる、と医師からは説明を受けている。

 『しかし分からないことがある』と補佐官は前置きし、

『君はアンノウンに狙われた者の護衛をしていたそうだが、何故その人間が狙われると分かったのかね?』

「昨日襲われたのは、2日前に殺された被害者の配偶者だったんです」

 誠が答えると、警備部長が続けて尋ねる。

『アンノウンは血の繋がった親族を狙うと聞いているが』

「アンノウンが狙ったのは、お腹のなかの赤ん坊です。最初に殺された被害者の現場で姓名判断の本を見つけて、もしかしたらと思い護衛にあたりました」

 『なるほど』と補佐官は頷き、

『産まれてくる赤ん坊のために名前を考えていたということか。見事な推理だ。G3システムの装着員として、これからも活躍を期待しているよ』

 その言葉の意味を一瞬理解し損ねて、誠は「それじゃ……」と言葉を詰まらせる。補佐官は続ける。

『氷川主任を、もう一度G3システムの装着員として任命する。これが幹部会の決定だ』

 心臓が激しく脈打つのを感じる。もう一度Gトレーラーで、小沢と尾室と共に戦うことができる。子供のようにはしゃいでしまいそうな気持ちを抑え、警察官としての凛とした姿勢を崩さず誠は深く礼をした。

 画面の中で警備部長は腕を組み、重々しく口を開く。

『しかしまだ産まれていない赤ん坊まで狙うとは、一体どんな理由があってそんな。まるで、何かを怖れているかのようだ………』

 「怖れている……」と誠の唇がなぞる。物理的に有り得ない現象で人間を殺し、G3システムでも太刀打ちできないというのに――

「アンノウンが、人間を………」

 

 

   3

 

 波が立つたびに、内浦湾は陽光を反射する。バスの車窓から見える海の景色にも曜はハンディカムを向けているが、海は既に撮影済みだから使えるかどうか微妙なところだ。バスの最後尾の座席に並んで腰かける千歌たち2年生の会話は、自然と昨日のことについてだった。

 事の次第を千歌が説明すると、ハンディカムの電源を切った曜が「ふーん」と相槌を打つ。

「じゃあ翔一さん、まだその篠原さんて人と会えてないんだ」

 「うん」と応じながら千歌は昨晩の佐恵子の顔を思い出す。あの表情、まるで何かをとても怖れているように見えた。決して目を向けたくないような。

「しょうがないわ。だって友達が亡くなったばかりなんでしょ? 色々と不安定になるわよ」

 梨子の言うことはもっともだ。三浦智子と篠原佐恵子がどれほど親しい仲だったかは聞いていないが、友人ならばその死に何も感じていないなんてこともないだろう。そこへ記憶喪失の男や、父親の死について調べている男までやって来れば参ってしまうのかもしれない。

 ふと、千歌は根拠の分からない恐怖が込み上げてくるのを感じた。ただ翔一の過去について知りたいだけ。それだけのことなのに、この捉えようのない恐怖をどう友人たちに告げたものか。翔一の過去は知るべきだ。それが彼本人にとってプラスだという確信はある。どこかで翔一の家族や友人が待っているかもしれない。

 気のせいだ。そう自分に言い聞かせ、千歌は思考を今日の活動内容へと切り替える。バスはもう目的地へと近づいていた。

 

 PV撮影1日目は学校と十千万の周辺だったということで、2日目は少し羽を伸ばすことにした。内浦は海と富士山とミカンしか紹介するものが無かった、というのが本音だが。

 まず本日のシーン1は沼津駅前。紹介するのは市街在住の曜。

「バスでちょっと行くと、そこは大都会! お店もたくさんあるよ」

 シーン2は隣の伊豆の国市まで。結構な距離があるため自転車をレンタルして移動したのだが、それでも目的地に到着する頃にはメンバー全員が息切れし汗を滴らせる画がカメラに収められた。

 小さな伊豆長岡駅を前にして、曜のカメラに笑顔を向ける余裕もない梨子が息も絶え絶えに紹介する。

「自転車で、ちょっと坂を越えると……、そこには……伊豆長岡の、商店街が………」

 「全然、ちょっとじゃない………」と座り込んで呼吸を整えながら花丸が声を絞り出す。内浦から山ひとつ越えるから長い坂道が続くし、それだけに自転車のペダルがかなり重い。徒歩のほうが疲労は軽く済んだかもしれない。1時間ほど移動にかかるが。

「沼津へ行くのだって、バスで500円以上かかるし………」

 ルビィも長い移動にうんざりしているらしく不満を漏らす。高校生にとって片道500円は厳しい。沼津市街はまだ娯楽施設がある分良いが、この伊豆長岡駅前の商店街は苦労して坂を登っても、お世辞にも都会とはいえない。自然豊かな温泉地としてPRされているから、景観を損なわないようどちらかといえば静かな街だ。つまり、カメラに収めるべきものは何もない。

 いまいち絵面に華とインパクトがない。風景は悪くないのだが、富士山という最大のPRポイントを撮影してしまっただけに霞んで見える。

 酸素が足りない頭で何とかアイディアを絞り出そうとしたとき、地面に仰向けで寝転がる善子の姿が千歌の目に留まった。

「そうだ!」

 シーン3。場所は前回の開始と同じ長浜城跡。紹介は善子改め堕天使ヨハネが務める。移動と着替えに時間がかかったせいで夕暮れ時になったが、堕天使としては雰囲気が合っている、と思いたい。

「リトルデーモンもあなた、堕天使ヨハネです。今日はこのヨハネが堕ちてきた地上を紹介してあげましょう」

 「まずこれが――」とヨハネは近くにあるものを手で示し、

「土!」

 盛り土だ。公園の整備作業で出たものだろうか。触れられないよう周囲をカラーコーンで囲まれている。とにかく何の変哲もない土を紹介したヨハネは高笑いしている。でもすぐに違和感を覚えたのか、高笑いは勢いを失いやがて治まる。

 カメラを止めた曜は苦笑と共に言う。

「根本的に考え直したほうがいいかも」

 「そう?」と千歌は何となくこれで良いような気もした。

「面白くない?」

 疲れはしたがそれなりに画も撮れたから、後は編集次第で良いものに仕上がるような、漠然とした期待を込める。でも心配症な梨子はそうは思えないみたいで口を尖らせた。

「面白くてどうするの!」

 

 喫茶「松月」は十千万から少し歩いた、湾岸の通りに店舗を構えている。千歌たちが入った頃は空が茜に染まる頃で、あまり席数の多くない喫茶コーナーに他のお客はいない。お世辞にも繁盛しているとは言い難いが、近隣住民という常連客のおかげで安定した売り上げを得ている。

 全員の注文した菓子と飲み物が来ると、来店時からずっと眉を潜めていた善子が訊いた。

「どうして喫茶店なの?」

 すると隣のテーブルにつくルビィが、

「もしかして、この前騒いで家族の人に怒られたり………」

 「ううん、違うの」と千歌はミカンケーキにフォークを刺して持ち上げ、

「梨子ちゃんがしいたけいるなら来ない、って」

 切り分けもせずケーキをリンゴのようにかぶりつくと、向かいに座る梨子が慌てた様子で、

「行かないとは言ってないわ! ちゃんと繋いでおいて、って言ってるだけ」

 何でこんなに弁明しているかは分からなかったが、後になって梨子のわがままを聞いてあげた、と解釈されかねない千歌の口ぶりのせいだったことに気付いた。

 隣のテーブルでミカンどら焼きを食べる花丸にハンディカムを向けながら曜が言った。

「ここら辺じゃ、家のなかだと放し飼いの人の方が多いかも」

 「そんな……」とフルーツケーキをフォークで一口サイズに切りながら梨子は溜め息をつく。梨子は犬が苦手と知ったのは最近のことだ。曜は何となく察していたらしいが。しいたけは梨子のことを気に入っているようだから、てっきり梨子は動物が好きなほうだと勝手に思い込んでいた。

 咥内に残ったケーキの甘さを取ろうと梨子がコーヒーを啜ったところで「わん!」という甲高い声が店内に響く。

「またまた」

 どうせ誰かの悪戯でしょ。その手には乗らないわよ、とでも言いたげな苦笑と共に梨子はまたコーヒーを飲む。再び「わん!」と聞こえ、それが本物と気付いた梨子は目を見開き体を硬直させる。

 見れば、床に黒い毛の豆柴犬がちょこんと座って尻尾を振っている。席にいる全員の目がそこへ集中した。その一般的には愛らしい姿を見て、梨子は「ひいっ」と悲鳴をあげる。咄嗟に脚を上げて膝をテーブルにぶつけたものだから卓上の食器ががちゃん、と盛大な音を立てた。

「こんなに小さいのに⁉」

 千歌が言うと梨子は即座に上ずった声で、

「大きさは関係ないわ。その牙! そんなので噛まれたら死――」

 「噛まないよ」と千歌は大きな欠伸をして犬歯を露わにした豆柴をひょい、と抱き上げる。

「ねー、わたちゃん」

「あ、危ないわよ! そんなに顔を近付けたら――」

「そうだ、わたちゃんで少し慣れるといいよ」

 と千歌は豆柴のわたあめを梨子の顔へと近付けさせる。まずは小型犬に触れて、そこからしいたけに慣れてもらおう。でも眼前にいる小さな生き物に梨子は怖がっているのか笑っているのかよく分からない表情を固めている。松月の看板犬として人懐っこいわたあめは、その小さな舌で梨子の鼻先をちろり、と舐めた。すると硬直が解けた梨子は俊敏に椅子から立ち上がり、真っ直ぐトイレへと駆け込んでしまう。

「梨子ちゃーん」

 曜が呼びかけると、ドア越しに梨子がまくし立てる。

「話は聞いてるから早く進めて!」

 「しょうがないなあ」と千歌は溜め息をつき、善子の方へと向く。既に善子は持参してきたノートPCを開きキーを叩いていた。

「できた?」

「簡単に編集しただけだけど、お世辞にも魅力的とは言えないわね」

 と善子は肩をすくめる。堕天使ヨハネの動画配信をしていた善子でさえ限界があるとは。

「やっぱりここだけじゃ難しいんですかね?」

 ルビィが力なく言う。あと市内で撮影していない所といえば、沼津駅前のメインストリートであるリコー通りくらいか。あの辺りなら大手企業の店舗やオフィスも多いから、市内でも結構賑わっている。うっかり見逃していた。あそこが市内で最も華やかな区域だ。

「じゃあ沼津の賑やかな映像を混ぜて………」

 これがわたし達の街です、というPVにしようかと構想を膨らませたところで、

「そんなの詐欺でしょ!」

 トイレの方から梨子の声が飛んできた。

「何で分かったの⁉」

 「段々行動パターンが分かってきているのかも」と曜が穏やかに笑いながら言った。何だか嬉しいような恥ずかしいような複雑な気分だ。肩を落としたとき、不意に曜が声をあげた。

「うわ、終バス来たよ!」

 窓を振り返ると、店の目の前にあるバス停に丁度バスが停車している。曜と同じ市街在住の善子も「うそー!」と慌ててPCを片付け始めた。

「ではまた――」

「ヨーシコー」

 とバスへ走っていくふたりを見送る。

「結局何も決まらなかったな………」

 ただ街の紹介をするだけでも、何が魅力なのか全く見つけることができなかった。自分たちの住む沼津の魅力とは、いったい何なのだろう。

「なああああ!」

 突然、ルビィが声をあげて立ち上がる。

「こんな時間、失礼します!」

 まだミカンどら焼きを食べている花丸の襟首を掴み、ルビィは引きずるように店から飛び出していく。窓を挟んで、花丸はこちらにどら焼きを咥えながら手を振っていた。

 壁の時計を見ると、針は7時を回ろうとしている。

「意外と難しいんだなあ。良いところを伝えるのって」

 おもむろに言うと、まだわたあめが怖いのか、トイレから出てこられない梨子の声が聞こえてくる。先ほどよりは、穏やかな声色だった。

「住めば都。住んでみないと分からない良さも、たくさんあると思うし」

「うん。でも学校がなくなったらこういう毎日もなくなっちゃうんだよね」

「そうね………」

 それは、やっぱり嫌だな。周りには海以外何もないし、市街へ遊びに行くのにもバスで片道500円以上かかる。それでも、友達と過ごした学校はなくなってほしくない。きっと、μ’sもこんな気持ちを抱いたからこそ、伝説と謳われるまで頑張っていけたのだと思える。

「スクールアイドル、頑張らなきゃ」

 わたあめを床へ降ろすと、餌の時間なのか店のバックヤードへと一直線に走っていく。「今更?」とようやく梨子がトイレから出てきた。梨子の瞳を真っ直ぐ見据えながら、千歌は宣言する。

「だよね。でも、今気づいた。なくなっちゃ駄目だ、って。わたし、この学校好きなんだ」

 何があって何がないとか、そんな理屈では語り切れないものがこの街にはある。故郷だから、という感情が大きいのかもしれない。でもそれで良いんだ、と思う。生まれ育った街だから、大好きな家族や友達がいる街だから、その街のひとつである学校はなくなってほしくない。それで十分じゃないか。

 移り住んでまだ数ヶ月の梨子にも、想いが伝わったのだと確信できる。彼女は笑って、「うん」と頷いてくれたのだから。

「こんにちはー」

 聞き慣れた声が店内に入ってくる。「あら、いらっしゃい」と店主の女性は嬉しそうにお客を出迎えた。お客は千歌たちに気付き目を丸くする。

「あれ、千歌ちゃん? それに梨子ちゃんも」

「翔一くん、どうしたの?」

「美渡がお茶請けに漬物とかは飽きた、って言ってさ」

 翔一はそう言うと、迷わず店主に「ミカンどら焼き4つください」と店主に告げた。商品が袋に詰められている間に翔一は財布から代金ぴったりに紙幣と硬貨とカウンターのトレーに置く。翔一が品の袋を受け取ると、千歌は梨子に言った。

「わたし達も帰ろっか」

「ええ」

 ケーキを食べたばかりだというのに、千歌の腹は既に空腹だった。十千万までの道を歩きながら夕陽に焼ける海を眺めていた翔一が、ぽつりと言う。

「ねえ千歌ちゃん。俺、もう一度佐恵子さんに会いに行こうと思うんだ。明日土曜だし、千歌ちゃん学校は休みだよね?」

「うん」

「一緒に来てくれるかな?」

「大丈夫だけど………」

 ちらり、と梨子を見やる。梨子は不思議そうな表情を浮かべながら千歌に無言で視線を返した。やっぱり、梨子も違和感を覚えたらしい。翔一が自分から過去にまつわる行動を起こすだなんて。でも、良い傾向なのだろう。それが例え、千歌に根拠のない恐怖を呼び起こすものだとしても。

 

 

   4

 

 親に何も言わず夜に家を出るのは、たとえ目的地がそう離れていない場所でも子供心には大冒険、と昔は胸を躍らせていたものだ。高校生になった果南にかつての高揚感が消滅してしまったのは、単に成長しただけだろうか。それとも、このちょっとした冒険の目的が決して愉快じゃないからだろうか。

 月明りだけが頼りで、しかも訪れるのが数年ぶりでも、ホテルオハラへの「潜入」ルートは容易だった。海は真っ暗で視界はゼロ、従業員に見つかる恐れもあるからライトも使えない。それでも何度も使った経路だから、陸への距離や自分の位置も分かる。昔に興じたスパイごっこのせいで、本当にスパイになれてしまいそう。上陸した果南は噴水のある庭を歩きながら、そんなことを思っていた。

 非常用ドアは開錠されていたから、ホテルの客室棟にはすんなりと入ることができた。宿泊費が高いのに随分と不用心なホテルだが、ここの経営者の令嬢が開けておいたのだろう。きっとその令嬢は、以前と同じスイートルームを自室としているはずだ。窓から光が点滅しているのが見えたから、きっと違いない。

 目的の部屋まで辿り着いて、ドアを開ける。テーブルランプだけが光源のスイートルームで、鞠莉はウェット姿で全身を海水で濡らした果南の来訪に驚きもしない。

「来るなら来ると先に行ってよ。勝手に入ってくると家の者が怒るわよ」

 よく言うよ。モールス信号を送って鍵まで開けておいて。前と同じ方法でわたしが来る、って分かっていたくせに。皮肉を喉元に留めて、果南は訪ねた目的を問う。

「廃校になるの?」

 浦の星女学院が廃校になるという知らせを受けたのは今日の朝だった。何故、いつ廃校になるのか。理事長である鞠莉に直接訊くのが手っ取り早い。

「ならないわ」

 その廃校問題に深く関わっているはずの鞠莉はそう告げて、更に続ける。

「でも、それには力が必要なの。だからもう一度、果南の力がほしい」

 果南の視線が、部屋の丸テーブルに置かれた一枚の紙へと向いた。上に大きく「復学届」と書かれている。父も近いうちに退院するし、そろそろ復学の準備を進めようと思っていた頃だ。この理事長がどこからそんな情報を仕入れてきたのか。行動力は突き抜けて高い人間だ。

 わたしが学校に復帰して何ができるの。わたしが何の力になれるっていうの。それ以前の質問を果南は投げる。

「本気?」

 鞠莉は果南を見つめ、奥底の視えない笑みを浮かべた。

「わたしは果南のストーカーだから」

 

 



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第5話

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。



 

   1

 

 休日の午前9時となると、街もまだ寝ぼけているように静かだ。商業施設が殆どない住宅街は特に。休日として早起き――それでも8時近くまで熟睡していた――した千歌だったが、翔一の運転するバイクのシートで向かい風に吹かれていくうちに目はすっかり覚めた。

「じゃあ佐恵子さん、また湖ですか?」

 前回と同じように、玄関先で対応してくれた数樹に千歌はそう尋ねる。佐恵子は不在で、こんな朝早くから湖に行っているらしい。数樹は「すみませんねえ」と苦笑し、続けて思い至ったように、

「そうだ、ふたりとも湖のほうに行ってみたらどうですか? そんな遠い場所じゃないし」

「あの、ちょっといいですか?」

 翔一がおそるおそる訊いた。「何でしょう?」と数樹は嫌な顔せずに受け応えてくれる。

「また土器を見せて欲しいんですけど」

 翔一がそう言うと、太古にロマンを馳せる考古学者らしく数樹は嬉しそうに笑って「良いですよ、どうぞ」と家へと促してくれた。

 客間へ入ると、翔一は数ある土器の中から迷うことなく割れた壺を手に取る。

「これ何のマークですか?」

 翔一が示した土器には、日付の書かれた付箋が貼ってある。発見した日を記録したのなら特に何の違和感もないのだが、日付の横に描かれたエンブレムのようなものがとりわけ目を引いた。まるで開いた翼のように見えるし、角のようにも見える。どこかで見たことがあるような気がする。

 数樹は首を傾げた。

「妹が描いたものでしょうが、ただの悪戯描きだと思いますよ」

 悪戯描きにしては凝っているような気がする。佐恵子は何からこんなマークを思いついたのだろう。そう思いながら千歌が土器を眺めていると、翔一は更に質問を重ねる。

「湖の中からこういうものが出てくるっていうことは、やっぱり昔文明とかがあったってことですか?」

「ええ、湖の周辺には様々な言い伝えが残っています。妹が採取してくる遺物は今のところ縄文後期のものばかりですが、それよりもずっと以前に高度な文明を持った民族が存在していた、って伝説もありましてね」

 変だな、と千歌は思った。幼い頃に神話や伝説を語ってくれた父から、伊豆の湖にまつわる伝説なんて聞いたことがない。話の途中で千歌はよく寝てしまうことがあったから、単に聞き逃しただけだろうか。

 

 朝の霧が薄まったとはいえ、もやで奥に広がる山々が朧気な湖はどこか幻想的に映る。ここは彼岸と此岸の境目で、湖はどこか賽の河原ではと思えた。数樹によると山王湖(さんのうこ)というらしい。

 穏やかに波が揺れる湖を見渡すと、湖面の真ん中に何かが動いているのが見える。霞がかったその一点を見ると、それが水をかく腕と分かった。千歌はそこを指さし、

「あ、あれじゃない佐恵子さん」

 湖畔への歩みを進めていくにつれて、霧も晴れていく。それに伴い、佐恵子の挙動がよりよく見えるようになっていく。

「ねえ翔一くん、何か様子が変だよ」

 クロールの動きをしているのかと思ったが、佐恵子の腕は左右上下、でたらめに水をかいている。かいている、というより湖面を叩いているようだ。激しく飛沫をあげるその顔が恐怖に歪んでいる。

 翔一は上着のウィンドブレーカーを脱ぎ捨てて駆け出した。躊躇うことなく湖面へと潜り込み、佐恵子のもとへと泳いでいく。その距離がどんどん近付いていくにつれて、千歌は別方向から佐恵子へと泳ぐもうひとりの存在に気付いた。その人物の泳ぎは翔一よりも速く、先に佐恵子へと到達してすぐさまその肩を支える。

 その人物は、先日に佐恵子を訪ねた青年だった。青年は戸惑った様子で浮かんでいる翔一には目もくれず、佐恵子を支えてこちらへと泳いでくる。湖畔へ辿り着く頃には佐恵子も落ち着いたのか、自ら停めておいた車のトランクからタオルを取って翔一と青年に渡した。

「あなたは………」

 タオルで濡れた体を拭きながら、翔一は青年を見つめる。青年は訝し気に眉を潜め翔一を見返す。

「知り合い、なんですか?」

 千歌が訊くと、青年は「いや」とかぶりを振る。翔一も「ああ、何でもないよ」と笑みを返し佐恵子へと向く。

「篠原佐恵子さんですよね? 俺、津上翔一っていいます」

 翔一は人好しな笑顔で自己紹介したのだが、佐恵子は憮然とした表情で目を逸らす。

「情けないわね、足がつるなんて。私ももうおばさんかな」

 自嘲気味に言う佐恵子の隣に千歌は腰掛ける。翔一と青年も湖岸の砂浜に腰を落ち着けた。千歌は尋ねた。

「佐恵子さん、翔一くんに見覚えとかありませんか? 翔一くん、記憶喪失で昔のこと何も覚えてないんです。三浦さんは翔一くんのこと知ってるみたいだったんですけど………」

 佐恵子はじ、っと翔一の顔を見つめる。何が照れくさいのか、翔一は「よろしくお願いします」と曖昧に笑っている。記憶喪失の割に不安や緊張感なんて全く見えない顔だ。多くの人は、この翔一の振る舞いに戸惑いを覚える。

「残念ね、力になれそうにないわ」

 佐恵子はそう言い「それから君」と青年へ向き、

「助けてもらったのは有難いけど、無駄なことはやめた方がいいわ。あなたのお父さんのことも、私は何も知らない」

 「でもあの手帳には――」と青年は食い下がろうとしたのだが、それを遮るように佐恵子は切り出す。

「この辺りにはね、超古代の遺跡が眠っているのよ。どんな人たちが暮らしていたのか、どんな文明を築いていたのかは分からない。でもそこは聖なる戦部(いくさべ)によって護られていたの」

 「いくさべ?」と翔一は訊いた。「戦士のことよ」と応えた佐恵子は続ける。

「その村落は何度も悪霊たちの襲撃に遭った。そしてその度に聖なる戦士に助けられた。その戦士が人間だったのか、もっと特別な存在だったのかは分からない。でも人々は彼を神と崇め、感謝の印に戦士の像を造ってこの湖に沈めた。私はその戦士の像を探しているの」

 怪物を退治した戦士の伝説は各地に残っている。ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコト。ミノタウロスを退治したテセウス。ドラゴンを退治した聖ゲオルギオス。そういう話はどこの国でも勇ましい英雄譚として語り継がれるもの、と父が教えてくれた。

 「あの……、これは?」と訊いた翔一の視線を千歌は追う。翔一の目は佐恵子の手元、指で砂浜に描かれたマークに向けられていた。壺に貼ってあった付箋に描かれていたものと同じマークだった。広げた翼のようにも、角のようにも見える何かの印。

 それを見て、千歌は思い出した。このマークはよく似ている。変身した翔一が足元に浮かべていた、あの金色の紋章に。

 

 

   2

 

 理事長室に集まった千歌たちAqoursの視線を一身に集めながらも、鞠莉は落ち着いた様子でノートPCの画面を細めた目で見つめている。休日返上で善子が編集してくれたPVは果たして出来が良いものかは、制作した本人たちでは判断しかねる。だから理事長である鞠莉の判断を仰ごうとした次第だ。

『以上、がんばルビィ! こと黒澤ルビィがお伝えしました』

 ルビィの声がノートPCから聞こえる。この台詞で動画は終了する。

「どうでしょうか?」

 細い目をした鞠莉に千歌は尋ねる。息を呑んで答えを待つが、一向に鞠莉は口を開く気配がなく、目蓋が徐々に垂れていき――

「………はっ」

 大きな瞳が見開かれ、がっくりと緊張で固まった肩が一気に落ちた。

「もう、本気なのに! ちゃんと見てください!」

「本気で?」

「はい!」

 鞠莉はノートPCを閉じて言い放つ。

「それでこのTeitarakuですか?」

 「ていたらく?」と千歌は反芻する。体たらく、と言ったのか。曜と梨子が口々に言った。

「それは流石に酷いんじゃ……」

「そうです。これだけ作るのがどれだけ大変だったと思ってるんです――」

 梨子が言い切る前に、遮るように鞠莉は立ち上がる。

「努力の量と結果は比例しません! 大切なのはこのtownとschoolの魅力をちゃんと理解してるかです!」

 「それってつまり……」と言いよどむルビィの続きを花丸が「わたし達が理解してないということですか?」と引き継ぐ。更に善子も、

「じゃあ、理事長は魅力が分かってるってこと?」

 上級生で理事長相手に挑発的な物言いなのだが、鞠莉は特に気にもしない様子でむしろ余裕ある声色で答える。

「少なくとも、あなた達よりは。聞きたいですか?」

 

 閉ざされたGトレーラーのカーゴに入ると、計器類と空調の駆動音が誠を迎える。カーゴの半分近くを占めるスペースに佇むガードチェイサーのボディに手を当てると、冷たく固いマシンの感触が皮膚にじわりと侵食してくるようだった。これからは自分がこのマシンを駆る。触れてみても、その実感はどこか曖昧で現実味がない。

「復帰おめでとう、氷川君」

 明るい口調で小沢が言った。

「G3 もまたあなたに合わせるために改修に出したから」

 装着員が変わる度にG3システムは調整しなければならない。ミクロン単位で装着員の体にフィットさせなければ、防御機構が作動せずまともにオペレーションを行うことができなくなる。ほんの微調整でもかなりの費用が要されているはずだ。警察のいち部署としては破格なほどの。

「どうしたんですか氷川さん、浮かない顔して」

 尾室が訊いてくる。

「いや……。僕には北條さんほどのG3に対する情熱がないような気がして………」

 聴聞会で異動を言い渡されたときははやる気持ちを抑えるのに必死だったというのに、いざその時が来たら怖気づいてしまう。果たして本当に自分が相応しいのか。

 「馬鹿ね」と小沢は誠の前に立ち、

「それでまた自信喪失ってわけ? あなたは十分情熱的よ。北條君のは情熱とは言わないの。あれは妄執、っていうのよ。分かった?」

「………そうでしょうか?」

 「あーイライラする!」という小沢の荒げた声が遠くに聞こえるようだった。

「もういいわ。嫌なら辞めればいいでしょ? G3は尾室君に装着してもらうことにするから」

 「え、そんな……、本当ですか⁉」と尾室が喚く。小沢はしっかりと誠を見据えている。G3装着員としての誠を。こうして小沢の叱責を受けるのはいつぶりだろうか。G3ユニットは誠ひとりで活動しているわけじゃない。尾室のオペレーティングも必要だし、作戦行動の判断を下すのは小沢だ。自分はいつから思い上がっていたのか。ふたりのサポートがあれば何も怖いものなんてない。小沢の指示の通りに戦い、G3のポテンシャルを引き出すのが誠の役目だ。

「済みません、またよろしくお願いします。全力を尽くします!」

 誠が宣言すると、小沢は満足げに笑った。

「分かれば良いのよ」

 

「どうして聞かなかったの?」

 玄関で靴を履き替えているときに、梨子がそう訊いてきた。千歌は明確な返答をまだ見つけられていないが、今の心持ちをそのまま答える。

「何か、聞いちゃ駄目な気がしたから」

 「何意地張ってんのよ?」と善子が皮肉を投げる。「意地じゃないよ」と千歌は応じ、

「それって大切なことだもん。自分で気付けなきゃPV作る資格ないよ」

 鞠莉なら浦の星と沼津の魅力を熟知しているのかもしれないし、知恵を借りるのが最善なのかもしれない。でも、これはAqoursの活動だ。活動している自分たち自身で見つけたものを発信しなければ意味がない。

「そうかもね」

 穏やかに梨子が言った。続けてこの重くなった雰囲気を消すように「ヨーソロー!」と敬礼した曜が、

「じゃあ千歌ちゃん家で作戦会議だ!」

 それはつまり、しいたけもいるということ。察した梨子が顔をしかめ、曜が意地悪い笑みを浮かべている。思わず千歌も笑ってしまった。この面々といると、さっきまでの鬱屈した気持ちが嘘のように晴れていく。根拠がなくても、このメンバーなら良いものが作れるという確信が持てる。この確信が一体何なのか、どこから来るものなのか、まだ高校生の千歌には分からない。

「よーし!」

 腕を高く上げてうちに集合、と声高に言いたかったのだが、

「――あ、忘れ物した。ちょっと部室見てくる」

 皆の苦笑と呆れを背中に受けながら部室まで走る。締まりがないけど、それもまた自分たちらしい。体育館へ入り真っ直ぐ部室へ直行しようとしたが、入口のところで千歌は足を止めてステージへと視線を向ける。

 あの絹糸のような長い黒髪はダイヤだ。摺り足でステージ上を動き、扇子に見立ててか書類を手にゆったりとした舞を踊っている。窓から射し込む陽光をスポットライトのように浴びて、彼女が動く度によく手入れされた黒髪がはらり、と広がり陽光を乱反射させていく。

 いつの間にか、千歌はその舞に見惚れていた。舞踊なんてまったく知らないが、ダイヤの所作ひとつひとつに瞬きもせずに釘付けになっていた。

 千歌が拍手をすると、気付いていなかったのかダイヤは少しばかり驚いたようで丸くした目をこちらに向ける。

「凄いです! わたし感動しました!」

 「な、何ですの?」とダイヤは頬を赤く染める。大人びているが、こうした恥ずかしがる仕草を見ると自分と同年代の少女なんだ、と分かる。

「ダイヤさんがスクールアイドルを嫌いなのは分かってます。でも、わたし達も学校続いてほしいって、なくなってほしくないって思ってるんです」

 生徒会長のダイヤも、きっと廃校阻止のために奮闘しているはず。目的が一緒なのだから、例えこちらの活動が気に入らなくても分かり合えないはずはない。

「一緒にやりませんか? スクールアイドル」

 こんな勧誘、ダイヤを怒らせてしまうだろうか。少しばかり怖気づいたのだが、ダイヤは無表情のまますとん、とステージから飛び降りる。降りた拍子に書類が1枚床に落ちたのだが、それに気付かないままダイヤは歩き出す。

「残念ですけど。ただ、あなた達のその気持ちは嬉しく思いますわ。お互い頑張りましょう」

 ダイヤの背中を追って振り返ると、いつの間にか体育館に他のメンバー達も集まっていた。千歌たちの会話が聞こえていたのか。それでも構わず、ダイヤは妹であるルビィにも目を向けることなく出入口へと歩き続ける。

 千歌はダイヤが落とした紙を拾い上げる。「署名のお願い」と題目に書かれている。出入口へ視線を移すと、既にダイヤは体育館を後にしている。それを見計らってか、曜が口を開いた。

「ルビィちゃん、生徒会長って前はスクールアイドルが………」

「はい、ルビィよりも大好きでした………」

 ルビィの答えを聞いて、何で、と千歌は思った。何故大好きだったものが嫌いへと変わってしまったのか。いや、本当にダイヤはスクールアイドルが嫌いなのだろうか。彼女は最初こそ千歌たちの活動を認めてはくれなかったが、さっきの言葉。お互い頑張りましょう、と応援してくれたじゃないか。建前かもしれないし、本当は理事長の鞠莉に従って渋々見逃してくれているだけかもしれない。

 それでも、さっきステージでひとり踊っていたのは、好きだからでは。ステージに立って多くの人に踊りを見て欲しい、という願いをまだ抱いているのではないのか。

 追求しようと足を進める千歌を、ルビィが両腕を広げて阻む。

「今は言わないで!」

「ルビィちゃん………」

 ルビィにしては珍しい、強い口調だった。続けて「ごめんなさい……」とか細く言う彼女には、これ以上追求しようとは思えなかった。

 

 ステージ以外の証明が全て落とされた会場。

 唯一の光、スポットライトを浴びるダイヤたち。

 おそらく、まだ17年の人生で最も輝いていた頃を思い出しながら、ダイヤは校舎へと続く連絡通路を歩いた。

 あの頃は楽しかった。先に不安があっても、一緒にいる仲間がいてくれたら乗り越えられる、と無根拠に信じられるほどに。

「ダイヤ」

 不意に呼ぶ声に足を止める。通路の脇で立っている鞠莉が告げる。

「逃げていても、何も変わりはしないよ。進むしかない。そう思わない?」

「逃げてるわけじゃありませんわ。あの時だって………」

 続きを言おうとしたが、やめた。言う必要はない。自分は逃げたわけじゃない。引き際を見定めただけ。裡で自身に言い聞かせ、ダイヤは再び歩き始める。背後から聞こえた鞠莉の声に気付かないふりを決め込みながら。

「ダイヤ……」

 

 

   3

 

 十千万を訪れたメンバー達のお茶を用意する翔一の横顔を千歌はじ、っと見上げる。お客が来れば鼻歌でも歌いながらお茶の準備をするのに、今の翔一は無表情のまま急須に茶葉を入れている。

「ねえ翔一くん、何か気になることでもあった?」

「え、気になるって……、何が?」

 向けられた笑顔がぎこちなく引きつっている。千歌もすぐ顔に出る性分とはいえ、翔一はもっと分かりやすい。

「だって翔一くん変なんだもん。佐恵子さんのところ行ってからずっとだよ」

 翔一は何か言おうとしたのか口を開け、でも無言のまま急須にお湯を注ぐ。準備がひと段落したところで、ようやく言ってくれた。

「千歌ちゃん。俺、今まで戦ってきた奴らから『アギト』って呼ばれてきたんだ」

「アギト?」

 その名前を千歌は反芻する。アギト。聞いたことのない、不思議な響きだ。

「翔一くんが変身した姿、『アギト』っていうの?」

「うん。もしかしたら何か関係があるんじゃないか、って。佐恵子さんが話してくれた伝説と」

「古代にもアギトがいて、それが伝説のいくさべ、ってこと?」

「よくは分からないけど……。もし何か関係があるなら、俺が何故アギトになったのか、敵の正体が何なのかヒントにならないかな?」

 湖に眠る伝説は事実かもしれない。それは千歌も漠然とだが抱いていた予想だ。佐恵子が砂浜に描いたマークは、翔一が変身した「アギト」の紋章と似ていた。翔一は古代に存在していた戦士と同じ力を持っていて、その力をどうやって翔一は得たのか。本人が思い出せない以上、伝説を頼りにするしかない。

「うん。もし何か分かれば、翔一くんの過去にも繋がるかもしれないしね」

「後で調べるの手伝ってくれないかな? 俺パソコンとか使い方分からなくて」

「良いけど……。あ、じゃあお茶持ってくついでに花丸ちゃんに聞いてみたら? 花丸ちゃんなら伝説とか詳しそうだし」

「確かに、よく本読んでるもんね」

「うん。わたしお手洗い行くから先行ってて」

 

 障子を恐る恐る開き、梨子は部屋のなかを覗き込む。部屋にはメンバー全員が集まっていて、曜が大丈夫といった声色で、

「しいたけいないよ」

 「ね、千歌ちゃん」と訊くと、ベッドで布団にくるまった千歌がもぞもぞ、と動いた。お茶準備してくるから、と言っていたのに、いつから部屋にいたのか。それにしても何故布団を被っているのか。そんなに寒くもないのに。

「それよりもPVだよ。どうすんの?」

 善子が切り出し、花丸も「確かに」と、

「何も思いついていないずら」

 早く梨子も部屋に入って話し合いに参加したいところだが、本当にしいたけはいないだろうか。隣の部屋からひょっこり出てこなければいいのだが。

「あ、梨子ちゃん」

 廊下の奥から聞こえた声に振り向くと、お盆にお茶の道具を乗せた翔一が歩いてくる。流石にここで立ち往生しては邪魔になる。梨子は観念して部屋に入り、ベッドに腰を落ち着ける。翔一はお盆をちゃぶ台に乗せると、皆のお茶を湯呑に注ぎながら言う。

「皆で相談もいいけど明日みんな早いからさ、あんまり遅くなっちゃ駄目だよ」

「明日って?」

 梨子は訊いた。何があるのだろうか。翔一の口ぶりからこの場の全員が参加するようだが。曜が思い出したように、

「あ、明日って海開きだった」

「海開き?」

 まだ時期として泳ぐには早い気がする。詳しく訊きたかったが、翔一は「花丸ちゃん」と話題を変える。

「山王湖の伝説って知ってるかな?」

 「伝説、ですか?」と花丸が、「どうしてそんなことを?」と善子が訊いて、翔一はお茶を注いだ湯呑を各々に配りながら答える。

「もしかしたら、湖の伝説が俺に関係してるかもしれなくてさ。俺が変身するアギトのことに」

 「アギト?」とその場の全員で反芻した。それが変身した翔一の名前なのか。翔一は言う。

「花丸ちゃんなら、伝説とか知ってるかもしれないからさ」

「この辺りの歴史とかは本で読んだことありますけど……」

 花丸は確認するように「山王湖、ですよね?」と訊いた。翔一は頷くも、花丸は不思議そうにかぶりを振って、

「聞いたことないです。そもそも、あの湖は伝説っていうほど古くないずら」

 「え?」と翔一は呆けた顔をする。次に障子のほうから「どういうこと?」という声がして、障子の影から千歌が顔を出した。

「千歌ちゃん⁉」

 その顔を見た瞬間、梨子は悟る。自分のすぐ傍にいる、この布団にくるまったものは――

「ワン!」

 

 



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第6話

 今回の結末は結構カオスなものになりました。まあ、この作品自体がカオスなのですが………。




   1

 

 沼津市は日本国内でも比較的温暖な土地で、海水浴場も他の街よりも早く開放される。富士山を見ながらの海水浴という観光資源を保全するため、内浦では住民たちによる海岸清掃が毎年の恒例行事になっている。浦の星女学院も地域奉仕として近くに住む生徒も参加することになっていて、沼津市街在住の生徒も希望すれば参加できる。

 朝の4時となると、まだ朝陽は昇っていない。昨晩は早めに床に就いたとはいえ、眠気でぼんやりとしながらも梨子は学校指定のジャージに着替えて三津海水浴場へと向かった。

「おーい梨子ちゃーん!」

 朝早くから元気な千歌が海岸から呼んでくる。隣にいる曜も眠気など感じない。

「おはヨーソロー!」

 「おはよう」と挨拶すると、千歌は手に持った提灯を差し出してきた。

「梨子ちゃんの分もあるよ」

 受け取ると、淡いオレンジ色の光が灯った提灯には「十千万」と毛筆で書かれている。十千万も海沿いに建つ旅館として全面協力しているらしい。

「こっちの端から海のほうへ拾っていってね」

 曜の説明を聞きながら、梨子は初めて参加する海岸清掃の様子を眺める。それほど大きくはない海岸を埋めるほどの人々が、提灯と大きな袋を手に集まっていた。

「曜ちゃん」

「ん、何?」

「毎年、海開きってこんな感じなの?」

「うん、どうして?」

「この街って、こんなにたくさん人がいたんだ」

「うん、街中の人が来てるよ。もちろん、学校の皆も」

「そうなんだ………」

 何気なく視線を向けた先では、志満と美渡と翔一が談笑交じりにゴミを拾っている。別のところへ視線を移すと、善子が拾った黒い羽を花丸が捨てるよう促し、その様子をルビィが苦笑して見守っている。また別のところでは、せっせとゴミを集める果南とダイヤのもとに鞠莉が加わっている。他にも浦の星のジャージを着た生徒たち。幼い子供から老人まで、世代を隔てることなく淡い光を手に海岸を清掃している。

「これなんじゃないかな、この街や学校の良いところって」

 これは梨子が初めて見たというだけで、全国のどこにもある風景なのかもしれない。でも、この裡を温めるような提灯の光は、この内浦の人々が生み出しているものじゃないだろうか。こうして皆で助け合っていて、皆で一緒に暮らしている光景を見ることができる。

 この暗いなかで灯る光を見ることができるのは、内浦だからだ。

「そうだ!」

 不意に、千歌は道路への階段を駆け上がる。道路は波の侵入を防ぐために高く施工されているから、階段の頂で「あの、皆さん!」と呼びかける千歌の姿は海岸のどこにいても見つけることができただろう。

「わたし達、浦の星女学院でスクールアイドルをやっている、Aqoursです。わたし達は学校を残すために、ここに生徒をたくさん集めるために、皆さんに協力してほしいことがあります。皆の気持ちを形にするために!」

 

 

   2

 

「ほら浦女のとこ。もう光ってますよ」

 翔一が指さした丘の上で、夕暮れのなか淡いオレンジの光が灯っている。はいはい、というように美渡は肩をすくめ、

「見てるよ。もう子供じゃないんだから」

「でもさ、凄く綺麗じゃない。あそこからランタンがばあ、って飛ぶんだよね? 早く見たいなあ」

 ふふ、と志満が笑みを零した。

「そうね。皆で協力して作ったんだもの」

 志満は三津海水浴場に集まった観客たちを見渡す。海岸清掃のときより人が多いのは、沼津市街や他の街から来た人もいるからだろう。

 沼津の魅力を伝える次のPV。それはAqoursの新曲披露も兼ねたミュージックビデオという形になった。丁度新曲を作ろうとしていた時期とあって、その演出としてあの光は考案されたものだ。

 スカイランタン。和紙で作った灯篭の中にろうそくで火を灯し、熱気球と同じ原理で空に浮かび上がらせる。その光が映えるのは夜なのだが、千歌の提案で時刻は夕暮れ時に決まった。昼と夜の交じり合った頃が良い、と。構想が決まれば後は準備すればいいのだが、流石にAqours6人だけで曲に衣装、更に灯篭製作は酷だと、浦の星の生徒をはじめ地域の住民たちにも協力が仰がれた。

 地元の学校の生徒たちに協力する声は多く、勿論十千万も全面協力した。志満と美渡は学校まで資材を運び、翔一は作業する生徒たちのためにキャベツたっぷりのスープを振る舞った。

 街の皆が協力してくれた。浦の星のために。学校を存続させようと奮起するAqoursに。

「でもなかなか思い切ったことするよね千歌も。こんな大掛かりになるなんて思ってなかった。お陰で休日返上だよ」

 そう言って美渡は肩を回す。年寄りくさい仕草に翔一は志満と共に笑った。

「でも内浦の魅力か。確かに住んでいても案外見えないものかもしれないわね」

 「そうですか?」と翔一は言った。「え?」と志満は不思議そうな視線を向けてくる。

「俺はここに来たときから気付いてましたよ。ここの農家さんの作る野菜とか、漁師さんが獲ってくる魚は美味しい、って。食べ物の味って作る人の人柄が出るじゃないですか」

 千歌はよく遊ぶところが無い、とか文句を言っていたが、翔一は内浦や沼津に不便なんて感じたことがない。みかん農業が盛んで、海に面しているから新鮮な魚が手に入る。人は食べて生きている。食べるもの、それも美味しいものに溢れるこの街はまさに都じゃないか。

「って食べ物のことばっかじゃん」

 美渡が翔一の胸を叩いた。「ええ? 大事なことだと思うけどなあ」としかめっ面をしてみせると、姉妹は揃って笑う。この笑顔も、食べ物に困らないからこそできる笑顔だ。そんな笑顔に満ちたこの街は、翔一にとっても大切な場所。守るべき居場所だ。

 「おお!」と周囲の人々が歓声をあげた。浦の星のほうから無数の光が浮かび、黄昏時の空に向かって広がっていく。きっと今頃、学校の屋上ではAqoursが歌っていて、その模様が撮影されているはず。この海岸からは聞こえないが、翔一の裡には千歌が聴かせてくれた、完成したばかりの曲が響いていた。

 確か曲のタイトルは『夢で夜空を照らしたい』だったか。それは気付きを歌った曲。この街が好きだという、千歌が綴った想いだ。

 ふと、翔一は観客の中から見知った顔を見つける。歩いていくと、先方も翔一に気付いて「どうも」と笑みを向ける。

「篠原さんも来てくれたんですか」

「ええ、こういったイベントはあまり無いですからね。せっかくなので」

「佐恵子さんは?」

 その名前を出すと数樹は苦笑を零す。

「今日も湖です。誘ってはみたんですけど、どっぷりと浸かってるもので」

「でも、できてまだ何十年しか経ってないんですよね? あの湖」

 翔一は何の取り繕いもなく告げる。腹の探り合いなんてできる性分じゃないし、こういったことは直球で訊くのが最善な気がした。

「そうですか、知られてしまいましたか」

 ひどく疲れたような声色で数樹は呟く。

「私たちの問題にあなたを巻き込んでしまった申し訳ありません。最初から事情を話すべきでしたが、あなたと会うことが妹にとってプラスになると思って騙していました。ですが、それは失礼でしたね」

 数樹はどこか安堵しているように見えた。これまで背負ってきた肩の荷が、少しだけ降りたような。

「よろしければ、一緒に湖まで来てもらえますか? 全てをお話します」

 

 今日もまた、早朝から夕刻まで佐恵子は湖でダイビングをしている。1日中、途中に休憩と軽食を挟んで湖底から土器の破片を拾ってきて、それを手土産に車で家へと戻っていく。この数日間、涼が見守ってきた佐恵子は同じ行動をとっている。彼女にとってはその湖と家の往復が日常のようだ。

 でも、涼は見てしまった。それは一昨日のこと。まだ佐恵子が来ないうちに湖へ来ると、数樹がボートを漕いで湖の沖合へ向かっている光景を。数樹はいくつかのポイントでボートを停めると、持参していた麻袋の中身を湖の中へ沈めていた。数樹とすれ違いに湖を訪れた佐恵子は、数樹がボートを停めたポイントから土器を拾っていた。

 今日も今日とで、佐恵子は数樹が沈めたものを拾っている。それが超古代文明の遺構と信じて。この湖に聖なる戦士の像が眠っていると信じて。

 太陽が西の山々に隠れた頃、湖畔にクロカン車とバイクがやってきた。ヘルメットを脱いだバイクの運転手が涼に気付くと、「こんにちは」と溌剌とした挨拶をしてくる。確か津上翔一といったか。クロカンの方からは数樹が降りてきて穏やかな、でもどこか罰の悪そうな笑みを向けた。

「丁度いい、君にも説明しなければいけませんね」

「伝説は嘘だった、ということですか?」

 涼は尋ねた。責めるような意図はなく、淡々と。数樹は「ええ」と答えると車のボンネットに腰を預け、

「もう1年半も前になりますか。妹のやつ少しおかしくなりましてね。部屋に閉じ籠ったきり、一言も口をきかないようになってしまって。何とか心を開かせようと努力したんですが、あれは人形のように動かなかった………」

 そこで数樹は湖へと目を向けた。湖ではこちらに気付かない佐恵子が収集した土器を手にして波打ち際まで歩いている。

「そんなある日何の気なしに私はこの湖の伝説を聞かせたんですよ。誰が言い出したのか分からないが、もちろん私はそんな伝説が嘘だってことは知っていました。ここは灌漑用に造られた人造湖なんですから。ところがどういう訳かそのとき初めて、佐恵子は興味を示しましてね」

 ふふ、と数樹は笑みを零す。

「私はもう嬉しくて。これをきっかけに昔の佐恵子に戻ってくれれば……。それから佐恵子は毎日のようにこの湖に通うようになって。あれは、幻想のなかで生きてるんです。幻想を追い求めることで、辛うじて心を保ってるんです」

 何となく、涼は佐恵子の現実逃避が何からきたのかを悟る。

「訊かせてください。佐恵子さんはどうして心を閉ざしてしまったんです?」

「旅行に出掛けましてね。向こうで事故に遭ったのがきっかけらしいんですが」

 どくん、と脈が強くなる感覚を覚える。畳みかけるように、涼は更に問いかける。

「事故?」

「ええ、駿河湾のフェリーボートで」

「フェリーの名前は?」

 数樹は記憶を探るように一旦だけ視線を逸らし、再び涼に戻して答えた。

「確か……、あかつき号とか」

 裡を覆う霞が一気に晴れたようだった。やはり、佐恵子はあかつき号に乗っていた。きっとそこで何かが起こった。父と同じように心を閉ざしてしまうほどの事態に。

「でも、何か変じゃないですか?」

 おもむろに翔一が口を開いた。

「幻想のなかで心を保ってる、ってどうしてそんな必要があるんですか?」

「現実に耐えきれない人間もいる」

 涼が言い放つと、「どうしてですか?」と翔一は澱みのない眼差しで問う。

「こんなに世界は綺麗なのに。ほら、空も雲も、樹も花も虫も、家も草も海も――」

「世界は美しいだけじゃない」

 涼も翔一を見据えて告げる。それでも翔一は腑に落ちないらしく、

「そうかな? そういうのって見方によるんじゃないですか? 幻想のなかで生きるなんて、勿体なさ過ぎますよ」

 そういえば、この青年は記憶喪失だったか。羨ましいな、と涼は思った。何もかも忘れられれば、この世界は穢れのない美しいものという、ある種の幻想を現実と錯覚できるだろう。涼だって無根拠に世界は美しいものと信じていた。空はどこまでも澄み渡り、海はどんな存在でも受け入れてくれるものだ、と。翔一の感性は何も間違っていない。目に映るもの全てが美しいと思えれば幸せだし、万人がそうあるべきだ。

 でも、この世界はそれを赦してくれるほど優しくはない。逃げたくもなるし、神や幻想といった不確かな存在にすがりたくもなる。目の前にいるこの青年はそれを忘れてしまったか、もしくは知らずに生きてきた世間知らずだ。

「佐恵子………」

 そのか細い声に振り向くと、数樹が波打ち際でペットボトルの飲み物を手に休憩している佐恵子を見つめていた。「よし」と駆け出そうとする翔一の肩を涼が掴んで止める。

「余計なことをするな。人間がみんな自分と同じだと思わないほうが良い」

「大丈夫です」

 呑気に笑いながら涼の手を払い、翔一は再び駆け出そうとする。涼は先よりも強く翔一の肩を掴んだ。何かと振り向く翔一の頬に、涼の拳が突き刺さる。地面に転がった翔一は左の頬に手を当てながら、涼を戸惑った目で見上げた。少しばかり興奮したせいか、涼も呼吸が粗くなっている。

 ゆっくりと立ち上がった翔一の目が、かっと見開かれた。ああ、殴られたのは腹が立つだろう。お前の拳も受けてやるさ、と身構えたが的外れだったらしい。翔一はバイクへと走り、急いでヘルメットを被るとエンジンをかけ、アイドリングもせずに湖畔から去ってしまう。

 一体何なのか。ただバイクのエンジン音が小さくなっていくのを聞いているだけの涼に、数樹が言った。

「行きましょう、私たちも。いま佐恵子は自分のなかに潜ってるんです。私たちの出る幕じゃない」

 「はい……」と涼は弱々しく応じる。あかつき号のことをもっと聞きたかったが、本人が現実から逃げているのなら仕方がないし、現実に引き戻す気もない。涼だって父の死を調べることで、現実逃避をしているようなものなのだから。兄の数樹でさえ幻想の世界へと逃がすことで精いっぱいだったのに、涼が佐恵子にどんな言葉をかけてやれるというのか。

 休憩を終えて再び湖に潜る佐恵子を一瞥すると、涼はバイクに跨った。

 

 

   3

 

 住宅街には厳戒態勢が敷かれ、被害者の家を中心として不可能犯罪捜査本部の警察官たちが辺りに目を光らせている。住宅街の市民たちの多くがこの時間帯に外出しているようで、避難誘導は思いのほか早く済ませることができた。何でも内浦のほうでイベントがあるらしく、それの観覧に行っているとか。何にしても、出払ってくれていたほうがこちらとしては助かる。

 誠も警護に参加しているのだが、問題はアンノウンが現れたとしてもG3が改修中で出動できないことだ。これで万が一に死者が出たら北條からの皮肉が――いや、北條の皮肉なんてどうでもいい。職場での立場やユニットの沽券ではなく、市民を守ることを最優先にする。それが警察官である自分の職務だ。

 気持ちを律したところで悲鳴が聞こえた。同時に絶え間ない銃声が。音の方角を向くと、街路樹の陰から黒馬のアンノウンが堂々とこちらへ歩いてくる。警官たちが拳銃を発砲しているのだが、命中している、していないに関わらず黒馬は歩みを止めることなく突き進む。

 馬鹿な。警備網はもっと範囲が広かったはず。どうやって掻い潜ってきたのか。瞬間移動でもしたというのか。

 河野と北條も拳銃を懐から抜くなかで、誠は家へと入った。リビングのなかで、外の銃声に怯えた様子の妊婦は膨れた腹を抱えるようにしてうずくまっている。

「逃げるんです!」

 誠は女性の肩を抱き、靴も履かせないまま外へと連れ出す。

「北條さん!」

 誠が呼ぶと、北條はアンノウンへの発砲を中断して近くに停まったパトカーの後部座席のドアを開けた。女性を先に乗せ、誠も後部座席へと乗り込む。

「早くしろ!」

 傍で銃撃している河野が声を飛ばし、北條が運転席に乗ってサイレンを鳴らしながらパトカーを走らせる。

 

 脳を貫くような戦慄を覚え、涼はバイクを停めた。涼の裡で目覚めた力が、倒すべき敵の出現を告げている。場所は山王湖だと無根拠に悟る。

 涼はバイクをUターンさせ、来た道を引き返しバイクのスピードを上げていく。力が目覚めたばかりの頃は苦痛しかなかったが、逞しいことに人間は慣れるものだ。裡からとめどなく溢れようとする力をある程度だが制御する術を、涼は得ている。

 背後から追ってくるように湧き上がる力を解き放つため、涼は吼える。

「変身!」

 一瞬にして、涼の全身が変わった。あの黒ずくめの青年が「ギルス」と呼んだ姿に。涼の駆るXR250も、ギルスになった涼に合わせるように、深緑のボディへと変身する。マフラーから発せられる排気音はまるで獣の咆哮のように聞こえた。

 解き放った本能のままに、涼は向かうべき場所へとバイクを疾駆させた。

 

 サイレンとパトランプのお陰か、大通りを走行する車は次々と路肩へ寄って道を開けてくれる。時折パトカーの存在などお構いなしというようにふてぶてしく走り続ける車もあったが、ハンドルを握る北條はそれらを追い越し突き進んでいく。どこまで逃げたらいいのかは分からない。アンノウンが諦めてくれるのを待つしかないのか。そもそも、アンノウンは諦めてくれるのか。後者の期待は捨てたほうがいい。

 不意に、車の屋根が鈍い音と共に凹んだ。

 怯える女性に頭を伏せるよう指示しながら、誠は運転席の窓からこちらを覗く黒馬に気付く。黒馬の腕が窓ガラスを突き破り北條へ伸びる。ハンドル操作を妨害されたせいで、路肩に停めてあった車を掠めてしまった。衝撃に体が持っていかれそうだ。踏ん張らなければ外に放り出されてしまう。

 黒馬は次に後部座席の窓ガラスを破る。ガラス片を撒き散らしながら伸ばしてくる腕を振り払いながら懐の拳銃を手に取ろうとするが、車が激しく揺れているせいで体が思うように動かせない。

 体が右へ行ったと思えば、今度は左へと持っていかれる。北條はハンドルを大きく切りながら車を走らせていた。黒馬を振り落とすつもりか。何度車体を大きく蛇行させても、黒馬は一向に落ちる気配がない。まるで洗濯機の中にいるようだ。三半規管が狂い始め、視界が不安定になってくる。

 再び天井から乗ってきた衝撃で、誠は辛うじて意識をはっきりと保つことができた。ガラスがなくなった窓から、パトカーと並走している赤と金色のバイクが見える。バイクはシートに誰も乗せていないのに、バランスを保ったまま走り続けている。まさか、という誠の予感を代弁するように、北條が口走った。

「アギトか!」

 アギトが来てくれれば、勝機はこちらに傾く。北條は蛇行運転をやめて、それでもスピードを緩めないまま走り続ける。ボンネットにアギトが転げ落ちてきた。続けて黒馬も。こともあろうか、両者はボンネットの上で殴り合いを繰り広げた。暴れてくれるせいでフロントガラスに亀裂が蜘蛛の巣のように広がり、殆どの視界を塞がれる。

 北條は大きくハンドルを切った。すぐ何かと衝突したのかパトカーが急停止する。強烈な慣性で体が前へと引っ張られ、シートの堅い骨格にぶつかった肩が軋みをあげる。フロントガラスのまだ亀裂の入っていない部分から、サイドボディがひしゃげた車が見える。路肩に停まっていたものと衝突したのか。鈍い音が聞こえてくる。戦いはまだ継続されているらしい。アギトと黒馬もボンネットから投げ出されたはずだが、ふたりにとってその程度で痛みは感じないのか。

 膨らんだエアバッグを押しのけながら、北條が拳銃を手に車から降りた。

「何をするんですか北條さん!」

「アギトを捕獲するんですよ!」

 誠も車から降りると、北條は戦っている異形たちへ銃口を向ける。「やめてください!」と誠は拳銃を握る手を掴むが、「邪魔するな!」と振り払われる。

「やめろ‼」

 無意識に、誠の拳が北條の頬を打った。倒れた北條の手から拳銃が零れ、それを取ることなく北條は誠へ憎悪のこもった視線を向けてくる。

 こちらの揉み合いなどよそに、アギトのほうも勝負を決しようとしていた。金色の角が開き、足元に紋章を浮かべている。向かってくる黒馬へと跳躍し、突き出した右足が黒馬の胸を穿ちその体躯を蹴り飛ばす。

 ああ、決まった。誠の確信の通りに、地面を転がった黒馬は裡から生じた爆炎に包まれて、その体を消滅させた。

 

 湖で佐恵子が怯えた目を向けたそれは、まるでシマウマのような姿をしていた。涼がバイクのエンジンを吹かすと、音に気付いた敵がこちらへと目を向ける。スピードを緩めることなく、涼は湖の浅瀬にいる敵へと水飛沫をあげながらバイクを走らせ、その彫刻じみた体躯にカウルをぶつけて撥ね飛ばす。すぐさま車体をターンさせ、砂浜に身を伏せる敵へ近付けると浮かせた前輪を容赦なく叩き込む。

 タフなことに、敵はバイクごと涼を押し返してきた。それなりに重量のある車体が脇へと払われ、巻き添えを食らうまいとシートから離れた涼は敵の顔面に回し蹴りを見舞う。重心を崩した敵にすかさず追撃の蹴りを加え、湖へと追いやった。

「ウオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア‼」

 雄叫びと共に、涼の両足から尖刀が伸びた。よろめきながら立ち上がった敵へ跳躍し、その筋肉が盛り上がった肩にヒールクロウを突き刺す。胸を蹴って引き離した敵が湖面に倒れると同時、爆散した敵が辺りに水飛沫と肉片を撒き散らした。

 敵が消滅すると、涼の裡にある闘志は一気に引いていく。元の姿に戻った涼は湖を見渡した。爆発で波紋を揺らす湖面で、佐恵子の体が力なくたゆたっている。佐恵子を中心として湖の水が赤く染まり、それがじわりと広がっていく。

「佐恵子さん!」

 涼は湖面へ飛び込んだ。佐恵子の手が涼の方へ伸びるのが見える。涼は絶えず手足を動かして水を掻き、佐恵子への距離を詰めていく。めいっぱい伸ばした手で佐恵子の手を掴もうとするが、未だに掴めるのは水ばかり。どれ程泳げば届く。もう到達しても良いはずだ。涼は一旦止まり辺りを見渡した。左右前後。揺れる波間のなかにさっきいたはずの佐恵子が見つからない。

「佐恵子さん!」

 涼の叫びは水面の上でしか響かない。偽りの伝説と、偽りに塗れた者が沈んでいく湖の底には、決して届くことはなかった。

 

 

   4

 

 屋上から臨む空はオレンジから不安定な紫へと変わり、やがて藍色へと移ろう。幼い頃からずっと見慣れてきた景色だ。感慨なんて湧かなかったのに、この時の千歌の目にはその光景がとても愛おしく映る。

 故郷を眺めながら、千歌は後ろにいる皆へと告げる。

「わたし、心のなかでずっと叫んでた。助けて、って。ここには何も無い、って」

 地方の田舎町。生活に必要なものは最低限だけで、何も楽しめるものはない。でもそれは表面でしかなかったと、自分には何も見えていなかっただけだ、と17歳になろうとしている頃になってようやく気付くことができた。

「でも違ったんだ。追いかけてみせるよ。ずっと……、ずっと。この場所から始めよう」

 空へと昇っている灯篭たち。あの灯篭を作ってくれた人々の想いが、この街にはたくさん詰まっていた。こんな小さな街でも、多くの人の想いが響き合っていた。あの光のように、もっと高いところへと昇っていこう。

 振り返ると皆が千歌と同じように、期待に満ちた笑みを浮かべている。この仲間がいればきっとわたしは、以前は絶対にできないと思っていたことが今度こそ――

「できるんだ!」

 

 





次章 TOKYO / 父の手掛かり


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第7章 TOKYO / 父の手掛かり
第1話


 劇場版『ラブライブ! サンシャイン‼』観賞してきました!

 色々と所感ありますが、それは全て本作に注ぎます。『アギト』と交わったこの作品のなかでAqoursが駆け抜けていく姿をどうか見守ってあげてください。




   1

 

 アンノウン排除活動手続書。

 国家の治安を守る警察組織である以上、G3ユニットはその活動を報告する義務がある。戦闘オペレーションの時間、使用した武装、消費した弾薬数。例えG3を出動させなかったとしても、アンノウンに遭遇し何か対処したのなら、その時の状況と捜査員の行動も書面に記述しなければならない。誠の先日の行動も事細かく。

「で、北條透を殴ったわけだ」

 誠の口頭での説明をもとに、小沢がPCで報告書をまとめていく。

「はい、つい………」

 同僚に暴力を振るうなんて、警察官どころか社会人としてもあるまじき行為だ。その罪悪感は確かにある。

「でも、あの場合ああするほか無かったと思うんですが………」

「大体の事情は分かったけど、もう1度最初から話してごらんなさい」

 そう言って小沢はPCに背を向けて誠と向き合う。そこで尾室が口を挟んだ。

「小沢さんこれで5度目じゃないですか。取調べじゃないんですから」

「何言ってんの大事なことでしょ。こういう些細な確執が大きな問題に発展するのはよくあることだし、同じユニットのメンバーとして事情をよく把握しておくべきだわ」

 ここまで正論を並べられると、尾室も何も言えなくなる。

「さ、氷川君。もう1度話してごらんなさい」

「………はい」

 もし僕のせいで、G3ユニットがまた活動停止にまで追い込まれたら。悪い方向にばかり想像が向くが、ここで黙秘したって仕方ない。上に報告して、然るべき処分が下れば従うしかない。たとえまたG3装着員から降ろされたとしても。

「北條さんがアギトに銃を向けて――」

「グーで殴ったの? パーで殴ったの? チョキで殴ったの?」

 小沢の質問に答えられず、誠は拳を握った自身の右手に視線を向ける。「分かったわ、グーね」と小沢はPCに向かいキーを叩く。

「チョキで殴れるわけないじゃないですか」

 ため息交じりに言った尾室に、小沢が無言のまま視線を向ける。その眼差しに射貫かれたのか、尾室はたじろぎ目を彼女から逸らす。

「目潰しってこともあり得るでしょ」

 淡々と述べるところが、尚更恐怖を引き立てる。小沢なら本当にやりかねない。この才媛は冷静なんだか感情的なんだか時々わからなくなる。

「それで、何メートルくらい吹っ飛んだの?」

「………は?」

 その質問に何の意味が。尾室に視線で尋ねると、彼はキーを叩く小沢に呆れの視線を注ぎ、それに気付かない小沢は更に質問を続けた。

「歯の1本くらい折れたのかしら、あの馬鹿男。ねえ、どうなの? はっきりさせなさい」

 

 

   2

 

 やっと夏服だ、と汗ばむ体を冷まそうと千歌はうちわを扇ぐ。衣替えの6月に近くなるにつれて気温も上がり続け、5月下旬にはまだかまだか、と冬服が暑苦しくなった。月が変わると一気に夏日和になって、早くもセミの鳴く声がどこもかしこも響いている。

「この前のPVが5万再生?」

 皆が集まった部室で千歌は訊く。「本当に?」と曜が続けて訊くと、ノートPCに釘付けになっている1年生組の中から善子が説明してくれる。

「ランタンが綺麗だ、って評判になったみたい。ランキングも――」

 画面の文字が小さいのか、善子は目を細めて黙ってしまう。待ちきれないのか、梨子が画面を覗き込むとその目を大きく見開いた。

「99位⁉」

 その数字が何を意味するのか、驚愕のあまり千歌は理解するのに数舜を要した。

「………来た」

 「来た来た!」と集まっている皆のもとへと駆け寄り、

「それって全国でってことでしょ? 5千以上いるスクールアイドルのなかで100位以内ってことでしょ?」

「一時的な盛り上がり、ってこともあるかもしれないけど、それでも凄いわね」

 あくまで梨子は冷静に言うが、それでも嬉しさが顔に出ている。ルビィも興奮した様子で画面を見ながら、

「ランキング上昇率では1位」

 「すごいずら」と花丸も続いた。良いものができた、という手応えはあったが予想以上だ。自分たちはしっかりと階段を上っているんだ、と実感できる。その実感を千歌は告げる。

「何かさ、このままいったらラブライブ優勝できちゃうかも」

 「優勝?」と曜が、「そんな簡単なわけないでしょ」と梨子が言う。それでも、何だかいけそうな気がする。勢いに乗っている気がしてならない。

「分かっているけど、でも可能性はゼロじゃない、ってことだよ」

 事実、数字にもこうしてAqoursの人気ぶりが表れているのだから。

 不意にPCから着信音が聞こえた。皆の視線が一斉に画面へと注がれる。ルビィがメールアプリを開き、その内容を読み上げる。

「Aqoursの皆さん、東京スクールアイドルワールド運営委員会………」

 「東京?」と曜が反芻する。

「東京って、あの東にある京………」

 思ったことをそのまま口に出してしまった千歌に梨子が呆れを告げる。

「何の説明にもなってないけど」

 東京。確か日本の首都で国際的にも指折りの大都市と名高い――

 数舜を経てその地名の纏う大きさに気付き、全員で声を揃えた。

「東京だ!」

 部室にいる皆にとっての憧れの地。でも千歌にとって、東京はまた別の意味を持つ都市でもあった。

 

 

   3

 

 今度の土曜日と日曜日に東京へ行く。

 ルビィからその話を聞かされたのは夕食後のことだった。座布団の上で行儀よく正座するルビィが恐る恐る言う。

「イベントで一緒に歌いませんか、って」

「東京……、スクールアイドルイベント………」

 呟きながら、それが東京スクールアイドルワールドというイベントだとダイヤは気付いた。ラブライブ本戦前の前座のようなものだ。

「ちゃんとしたイベントで、去年優勝したスクールアイドルもたくさん出るみたいで………」

 どうせ千歌は参加する気満々なのだろう。スクールアイドル・ソーシャルサイトのランキング100位圏内のグループのみが招待されるイベントだ。参加して観客からの支持を得れば箔がつく。

「駄目?」

 弱々しい声でルビィが訊いた。すかさずダイヤは質問を返す。

「鞠莉さんは何て言ってるの?」

「皆が良ければ、理事長として許可を出す、って………」

 鞠莉ならそう言うだろう。想像がつくと同時に、何故と思った。鞠莉はイベントのことをよく知っているはずだ。どれほどの規模で、どれほどの観客がいるのか。

 立ち上がったルビィは尋ねる。

「お姉ちゃんはやっぱり嫌なの? ルビィがスクールアイドル続けること」

 嫌じゃない。それどころか――

 この想いは吐露すべきじゃない。自身を律したダイヤは「ルビィ」と優しい声音を意識して告げる。

「ルビィは自分の意思でスクールアイドルをすると決めたのですよね?」

「………うん」

「だったら、誰がどう思おうが関係ありません。でしょ?」

「でも――」

「ごめんなさい。混乱させてしまってますわね。あなたは気にしなくていいの」

 そう、ダイヤの意思を挟む必要なんてない。ルビィのアイドルへの情熱が、姉であるダイヤの影響を大きく受けたことは自覚している。それでもルビィは、ダイヤがスクールアイドルへの嫌悪を露わにしても熱を捨てなかった。自分の意思をしっかりと貫き、望んでいたAqoursという居場所を見つけてくれた。それは姉として嬉しいことだ。嬉しさが大きい分、不安もある。

「わたくしは、ただ………」

「ただ?」

 促された続きの言葉を紡ぐことなく、「いえ」とかぶりを振る。

「もう遅いから、今日は寝なさい」

 ルビィを残して居間を出ると、ダイヤはスマートフォンをポケットから出した。

 

「来ると思った」

 果南とは違って、ダイヤはしっかりとアポイントを取って正面玄関からホテルオハラの門を潜ってきた。面白みがない、と思いつつもダイヤらしい律儀さに笑ってしまう。大方の要件は見えている。部屋のテラスで外の景色を眺めていたダイヤは冷たく問う。

「どういうつもりですの? あの子たちを今、東京に行かせることがどういうことか分かっているのでしょう?」

「ならば止めればいいのに。ダイヤが本気で止めれば、あの子たち諦めるかもしれないよ」

 もっとも、その程度の熱意なら鞠莉が部設立の許可など出さなかったが。

「ダイヤも期待してるんじゃない? わたし達が乗り越えられなかった壁を乗り越えてくれることを」

「もし越えられなかったらどうなるか、十分知っているでしょう? 取返しのつかないことになるかもしれないのですよ」

「だからといって避けるわけにはいかないの。本気でSchool Idolとして、学校を救おうと考えているなら」

 鞠莉たちの代ではまだ猶予があった。でも今年度こそは、何か一手を打たなければならないほど追い詰められている状況だ。鞠莉にとっても、今のAqoursに託すのは博打に近い。それでも後輩たちにやってもらうしかない。失敗したときのリスクを最も重く被るのが、彼女たち自身だとしても。

 笑みを崩さない鞠莉にダイヤは視線をくべる。怒りと、呆れと、切なさと。その全てがない交ぜになって元が分からなくなるほどの想いが、鞠莉には分かった。

「変わっていませんわね。あの頃と」

 

 

   4

 

 結局、北條を殴ったことについて誠への処罰は下されなかった。アンノウンと交戦し市民を守ったアギトに敵性は認められず、アギトへの発砲を止めた誠の行動は適切な処置とされた。北條のほうからも、特に異議はないという。とはいえ、何のお咎めもないというのも誠の気が晴れない。上の判断なら従うしかないが、今度北條に会うことがあったら謝罪しなければ。

 そんなことを思っていた休憩の時間に、コーヒーを奢ってくれた河野が尋ねてきた。

「そういや氷川、お前北條のこと何か聞いてないか?」

「北條さんの?」

「ああ、どうも様子がおかしくてな」

 紙コップのコーヒーを自販機から出しながら、河野は何の気なしに言う。

「お前、あいつを殴ったって噂本当か?」

「すみません。僕が軽率でした」

「別に責めてるわけじゃないさ」

 のほほん、といった声音で言い、河野は休憩所の椅子に腰を預ける。誠も空いている椅子に座った。

「これであいつも少しは大人になってくれると良いんだがなあ。何しろ親にも殴られたことがないってタイプだからな」

 優秀な北條のことだ。殴られるほどの失態とは無縁な人生を送ってきたのだろう。ともすれば誠の拳は北條にとっては大きな汚点となってしまっただろうか。大人になってくれれば、と河野は言うが、一体誠が北條の成長を促すきっかけになれるだろうか。

「あ、そうだ」

 河野は話題を変える。

「例の三浦智子殺害の容疑者のことだが、不起訴処分で措置入院になったらしい」

「どういうことですか?」

「まあ精神鑑定の結果問題あり、ってことだろうな。犯行を自供してから一切口をきかず、名前すら分かっていない。勿論犯行の動機も分からない。今のところ通り魔的な殺人って見方が有力なようだが」

 結局、あの青年の素性については何も分からなかったということか。精神鑑定で問題が見られたということは、青年は錯乱状態で三浦を殺害してしまった、と検察は判断したことになる。でもその判断が、どうしても誠には妥当と思えない。

「本当にそうでしょうか? これは僕の勘なんですが、あの犯行が通り魔的なものとはどうしても思えないんです」

 ふーむ、と河野は溜め息をつく。この事件はまだ終わらせるべきじゃない、と誠は考えているが、河野はどうだろうか。ベテラン刑事の意見を聞きたかったが、河野の端末が着信音を鳴らしたためそれはお預けになる。「はい河野ですが」と彼が電話応対している横で、誠はようやくコーヒーを啜った。

「ああ、分かりました。すぐ行きます」

 そう言って通話を切ると、河野は「これからだ」とひょうきんに笑いながら右手の小指を立てる。東京に置いてきたという妻だろうか。挨拶したいところだが、遠路はるばる来てくれたのだから夫婦水入らず世間話に華を咲かせてもらおう。

「じゃあ、僕はこれで」

 会釈して立ち上がる誠を河野は「おお、ちょっと待て」と制し、

「まあそう言うな。紹介するよ。俺の自慢のガールフレンドだ」

 そう言って軽い足取りで応接室への廊下を歩く河野のあとを着いていく。ガールフレンドとはどういうことか、と気にはなるが会えば分かるだろう。

 警察官たちが行き交う廊下の奥から、瀟洒なスーツの北條が歩いてくるのが見える。

「北條さん」

 誠と河野が足を止めると、北條も同様にして向かい合う。

「先日は、すみませんでした」

 頭を下げた誠の耳に届いた北條の声は、予想よりも明るい声音だった。

「あなたが謝ることはありませんよ」

 いささか驚いて顔を上げると、北條の笑顔が視界に入り込む。

「間違っていたのは私のほうだ。今ではそう思っています。そんなことより、期待してますよ。G3装着員としての活躍を。私にできなかったことを、あなたがやってください」

 動揺のあまり、誠は上手く言葉を紡ぐことができずにいた。自分を殴った相手にこんなにも懐の大きな対応をしてみせるなんて。この同僚が本庁きってのエリートと評される理由が分かる。

「そんな……、僕にどれほどのことができるか、自信は無いんですが………」

「大丈夫、あなたならね」

 そう告げて北條は誠の肩に手を置き、河野に会釈すると颯爽と歩き去っていく。

 

 ドアが開かれた応接室で、彼女は数度目の訪問でも落ち着かないのかせわしなく辺りに視線を向けていた。河野がドアをノックすると、学校帰りなのかセーラー服姿の彼女は大きな瞳をこちらに向けて「こんにちは」とあどけない笑顔を見せる。

「高海さん」

 誠が驚きの声をあげると河野はしたり顔で、

「どうだ、驚いたか?」

 確かに自慢のガールフレンドだ。河野の年齢を考えると少し怪しげな雰囲気になってしまうが。

「ふたりとも、知り合いだったんですか?」

「翔一くんが連れていかれるときにもしかして、って思ったんですけど。こっちに来てるなんて思わなくて」

 千歌がそう言うと、河野も朗らかに笑う。

「こっちも気付きませんでしたよ。あのお嬢さんがすっかり大きくなったもんだ」

 「えへへ」と千歌は嬉しそうに笑った。一体どういうことか。お茶を用意しながら、誠は事情を聞いた。

「3年前、よく聴取に彼女の家に行っていたんだ」

「じゃあ高海さんのお父さんが殺された事件、あれの担当が河野さんだったんですか?」

「ああ、現場が都内で警視庁(うち)の管轄だからな。ずっと追いかけてるんだが………」

 誠がテーブルにお茶を置くと、河野は対面に座る千歌に尋ねる。

「で、今日はどうしました?」

「何か新しい手掛かりとか掴めたかな、って」

「それが相変わらずでねえ、申し訳ない」

「いえ、わたしのほうこそ急に押しかけちゃって………」

 苦笑を浮かべる千歌を見て、誠はやるせない気分が胸に溜まっていく感覚を覚える。まだ高校生なのに、家族を失った悲しみを背負わされるなんて。犯人が捕まっていないせいで、憎むべき者の顔すら分からない。

「しかし、まだ時効までにはたっぷり時間がある。ホシは必ず挙げてみせますよ」

 河野は断言した。いや、断言せざるを得ない、というべきか。被害者遺族に向かって、事件の進展はないから解決は望めない、だなんて無責任なことは言うべきじゃない。3年前の事件だ。今や捜査本部も縮小されて真面目に捜査している刑事も河野くらいしかいないのかもしれない。その河野も不可能犯罪発生に伴い本庁を離れ沼津に滞在する始末。警視庁としても、時効までずるずると捜査を引き延ばして迷宮入りさせようとしているのか。

 事件のことについて何も話すことがなくなってしまうと、話題は自然と千歌の身の上話になっていった。何でも千歌は学校の部活動でアイドルをしているらしく、最近インターネットにアップロードしたPVが好調なんだとか。東京で開催されるアイドルイベントにも招待され、近々上京するといった話を千歌は嬉しそうにしていた。悲しみはまだ癒えなくても、彼女は懸命に日々を過ごし青春を謳歌している。そのことは誠にとっても慰めになった。

 署の玄関で千歌を見送ると、彼女の小さな背中を眺めながら河野が言った。

「父親が殺されてよっぽど悔しかったんだろうなあ。3年前も熱心に事件のこと訊いてたんだよ。まだ子供なのに………」

「河野さん。良かったら詳しく聞かせてもらえませんか。事件について」

 誠が沼津にいるのは、G3装着員としてアンノウンから市民を守るため。だがそれ以前に刑事であり、河野の部下だ。上司の追っている事件を追ったって良い。事件の真相を明らかにすることで、千歌がしっかりと父の死にけじめをつけられるように。

 

 

   5

 

 沼津から東京までは電車で1時間半あれば着くのだが、万事に備えて、ついでに東京観光も兼ねて――後者が理由の大半だ――Aqoursはイベント前日のうちに上京することになった。千歌は東京という行き先にかなり浮かれていたが、大事なイベントを控えているということを忘れてはいけない。一応保護者として翔一も同行するらしいのだが、どうしても不安は拭えない。東京にある程度慣れている自分がしっかりしなければ。そう思いながら梨子は身支度を整えて十千万へ行ったのだが、玄関先に出てきた千歌はやはり梨子の不安を的中させた。予想の遥か上を行って。

「東京トップス!」

 赤い生地に金のボーダー柄が入ったジャケット。

「東京スカート!」

 フリルが何重にも編み込まれたティアードスカート。

「東京シューズ!」

 片方がピンクでもう片方がオレンジ。更に猫か犬らしき動物のマスコット付きの靴。

「そして、東京バッグ!」

 オレンジの生地にパンダと星のワッペンやらミカンのストラップが付けられたショルダーバッグ。

 更に述べれば脚に纏う赤とピンクに黄色の星がプリントされたタイツ。両手の指には明らか邪魔になりそうな飾りの大きな指輪。首元にはこの時期暑苦しそうなファー。耳には動く度にジャラジャラ音を立てる大きな金色のイヤリング。目元には恐らく伊達のピンク縁の眼鏡。追い打ちとばかり頭にはこれまた大きな黄色のリボン。

 どこから指摘すればいいのやら。ようやく絞り出せた梨子の第一声はこれだ。

「一体何がどうしたの?」

「可愛いでしょ!」

「東京行くからってそんなに構えなくても………」

「梨子ちゃんはいいよ。内浦から東京行くなんて一大イベントなんだよ!」

 暖簾の陰で美渡が笑いを堪えているのが見える。きっと彼女が犯人だ。

「いやーお待たせ。準備に時間かかっちゃってさ」

 何で千歌の暴走を止めなかったのか。そう文句を言おうとしたのだが、それも暖簾を潜って出てきた翔一の出で立ちを見て梨子は口をあんぐりと開けた。

「おお、良いね翔一くん!」

「そうかな? 東京なんて初めてだからさ、お洒落とかしたことないから落ち着かなくて」

 上下白で統一されたスーツ。下に着ている金色のシャツはラメが散りばめられているのかキラキラ光を反射していて、襟元も白の蝶ネクタイで飾られている。因みに足元も白の革靴。

 いつの時代の演歌歌手か。

 ステージ衣装よりも派手なふたりを見るのに疲れ始めた頃、「おはようございまーす」というルビィと花丸の声が聞こえてきた。ふたりからも何か言ってもらおう。そう思ったが後輩たちを見た梨子はまたしても絶句することになる。

「どうでしょう? ちゃんとしてますか?」

 そう尋ねるルビィは千歌に劣らず。脚を覆うカボチャのように膨らんだドロワーズパンツ。水玉模様のスカート。お気に入りなのかクマのようなキャラクターのプリントがでかでかと入ったシャツとバッグ。指には千歌と同じようにリボンやら星やらの飾りが付いた指輪。何より最も目を引くのが大きなキャンディ形の髪飾り。

「これで渋谷の険しい谷も大丈夫ずらか?」

 そう尋ねる花丸も説明するのが億劫になるほど面倒な出で立ちだが、一応説明しておく。ボーイスカウトさながらのネズミ色探検服にヘッドライト付きの作業用ヘルメット。背中にはアウトドア用ザックに丸めたテントを背負い、手には本来雪山で使うはずのピッケルが握られている。

「何その仰々しい恰好は………。それに渋谷は険しくない」

 梨子が疲れ気味に言うと、ふたりは「がーん!」と驚愕する。ぷくく、と隣で翔一と一緒になって笑いながら千歌が言った。

「ふたりとも地方感丸出しだよ」

「あなた達もよ」

「えええええええ⁉」

 

 



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第2話

 

   1

 

「結局いつもの服になってしまった………」

 志満の運転するバンの後部座席で、一度家に引き返し私服に着替えた花丸は恥ずかしそうに呟いた。助手席に座る梨子はそんな彼女の装いに、

「そっちの方が可愛いと思うけど」

「本当ずら?」

「ええ。でもその『ずら』は気を付けたほうがいいかも」

「ずら⁉」

 花丸と同じように着替えた千歌とルビィには、そんなふたりの会話などまるで耳に入っていなかった。千歌はそのとき東京に胸を躍らせていたようだが、ルビィには少し前に姉から告げられた言葉がついて離れなかった。

 ――ルビィ、気持ちを強く持つのですよ――

 家を出る直前、ダイヤはルビィに優しく言った。それが何を意味する言葉なのか、全く見当がつかない。臆病なルビィがステージで委縮してしまう、と心配されたのかもしれないが、その予想は浅薄な気がする。

「ルビィちゃん」

 花丸の声で現実に引き戻され、ルビィは隣に座る親友へと視線を向けた。

「マルが『ずら』って言いそうになったら、止めてね」

 花丸には、ダイヤから言われた言葉のことを話していない。でも、彼女は何となくルビィの不安を察してくれたのだと思える。それを直接問うのではなく、普段通りのやり取りを交わすことで、少しばかり緊張が解けた。

 大丈夫、とルビィは自分とダイヤに言い聞かせた。花丸が、皆がいてくれれば何も怖くはない。

「あと、千歌ちゃんが暴走も止めてくれたら助かるわ」

 梨子が溜め息と共に漏らした。「ええ?」と口を尖らす千歌は後方へと目を向ける。

「心配なのわたしより翔一君だよ。初めての東京なんだよ」

 ルビィも後方を見やると、翔一のバイクがバンとの車間距離を保ちながら走っている。

「志満姉、何で翔一くんに一緒に行くよう言ったの?」

 千歌が訊くと、運転席の志満が「ふふ」と含み笑いするのが聞こえた。

「もしかしたら翔一君、記憶を失う前は東京に住んでいたかもしれないでしょ? そうしたら偶然家族や知り合いと会えるかも」

 

 沼津駅前に建つモニュメントの横で、曜はスマートフォンの時刻表示を見て「遅いなあ」と独りごちる。先ほど遅れるという連絡は受けたし時間の余裕もまだあるが、早く来てほしい。隣にいるのと一刻も早くこの場を離れられるように。

「あまつ曇りの彼方から、堕天使たるこのわたくしが、後にて数多なるリトルデーモンを召喚しましょう」

 何だか訳の分からないことを言っているこの自称堕天使は曜よりも早く駅前にいたのだが、その奇異な出で立ちでたちまち自身を中心とした人だかりを作っていた。ゴスロリ調のワンピースはまだ許容できるのだが、問題なのは翼やら羽のファーやら長すぎる付け爪、更にピエロなのかビジュアル系バンドなのか分からない白塗りメイクが人目をとにかく引く。おかげで声を掛けるのがたまらなく恥ずかしかった。

 集まっている人々の多くはこの堕天使もとい善子をスマートフォンのカメラで撮影している。その中に混じって千歌、ルビィ、花丸がにやにやという視線を投げていた。

「善子ちゃんも――」

「やってしまいましたね」

「善子ちゃんもすっかり堕天使ずら」

 「みんな遅いよ」と曜がひと安心している横で、「善子じゃなくて――」と善子が不気味に笑い、

「ヨハネ!」

 いきなり大声を出したものだから、驚いた群衆が一気に散っていく。それでも善子は構わず、

「せっかくのステージ! 溜まりに溜まった堕天使キャラを解放しまくるの!」

 それは好きにして良いが、とりあえずその奇抜なメイクは落としてもらおう。東京へ行く前に通報されないように。

 今度こそ準備が整ったところで、「千歌ー!」と急ぎ足でクラスメイトのよしみ、いつき、むつの3人が走ってくる。

「イベント、頑張ってきてね」

 いつきがそう言って、続けてよしみが「これ」と袋を千歌に差し出した。中に詰め込まれているのは沼津ご当地パンの「のっぽパン」だ。

「クラスの皆から」

 「わあ、ありがとう」と受け取る千歌に、よしみが期待を込めて告げる。

「それ食べて、浦女の凄いとこ見せてやって!」

 千歌は3人に真っ直ぐと眼差しを向けた。自分たちを応援してくれる人々。クラスメイトだけでなく、学校や地域の皆も良い知らせを心待ちにしているだろう。明日には朗報を持ち帰ってくる、という決意が千歌の言葉から見えた。

「うん、頑張る!」

 さて、出発しよう。士気が高まったところで、それを見事に崩してしまうのは一行の保護者だ。

「皆ありがとね。そろそろ新しい野菜育てるからさ、皆にもご馳走するよ」

 そう告げる翔一に3人はただ苦笑するしかなく、曜も張った肩の力が抜けていくようだった。

「それより早く行こう。もう電車来ちゃうよ」

 千歌が翔一の腕を掴み、駅の改札へと向かっていく。「いってらっしゃーい!」というクラスメイト達の声に背を押されるように、曜と他の面々も後に続いていく。

 

 

   2

 

 本来の職務管轄である東京に戻ってきた誠と河野は、千代田区の有楽町駅で電車を降りた。街には出ず隣の新橋駅間を繋ぐ高架下のアーケード通りに入ると、頭上から絶え間なく電車の通る重苦しい音が響いてくる。騒音というほどうるさくないのが、このコンクリートで固められた路地の窮屈さを演出しているようだった。路地の脇には店舗が並んでいるのだが、昼間にも関わらずシャッターが閉じられて人通りも全くと言っていいほどない。

「ここが、高海伸幸の死体が発見された現場だ」

 都市の裏側とも言える暗い通路の一点で、河野は足を止めた。事件の痕跡は当然取り払われていて、何事もなかったかのようにコンクリートの壁には時代を経ての染みが生じている。河野は手帳を開き、

「3年前の5月10日。死亡推定時刻は15時前後。勿論くまなく現場は調べたが、捜査に役立ちそうな遺留品は何もなかった」

「死因は何だったんですか?」

「それがな、どうもはっきりしないんだよ」

「どういうことです?」

「検死報告書によると致命傷になるような外傷はどこにもなかった。ところが内蔵だけがボロボロになっててな。といって何らかの毒物が検出されたわけでもなかったらしい」

 到底有り得ない殺害方法。その響きはすっかり誠に馴染みある。

「不可能犯罪……。それじゃまるで――」

「アンノウンの仕業か? だがな、高海伸幸が殺されたのは3年前。アンノウンが現れたのは最近のことだろ?」

 アンノウンによる殺人が始まった今年の4月から、誠は過去に似たような事件・事故を問わず警視庁と各県警のデータベースを漁ってきた。でも前例と呼べるほどの事件も事故も起こっていない。死体が樹に埋まっていたとか、どこから落ちてきたのか特定できない死体とか、水のないところで溺死した死体とか。強いて前例として挙げるなら、この高海伸幸殺害事件のみだ。

 「それにな」と河野は続ける。

「犯人らしき者についてちょっとした情報があってな。ホシは人間だよ」

 

 駅構内から街へ出ると、そこには内浦でも沼津でもお目にかかれない光景が広がっている。右手ではメイドが通行人に満面の笑顔と共に広告を配っている。左手ではクマのキャラクターとメイドが子供たちと記念撮影をしている。行き交う人々の歩く姿は颯爽としていて、何もかもが輝いて見えた。

「ここが(あまね)く彼の者が闊歩すると言い伝えられる約束の地、魔都・東京………」

 善子の呪文のような文言を横に、千歌たちは秋葉原のビル群を見上げていた。

「見てみて、あれスクールアイドルの広告だよね!」

 ビルモニターに映し出されたプロモーション映像を指さす千歌に曜が、

「はしゃいでると地方から来た、って思われちゃうよ」

 「そ、そうですよね」と東京の街に圧されたのか、縮こまりながらルビィも、

「慣れてます、って感じにしないと」

 確かに。ここは街であってテーマパークじゃない。まだ駅の入口で子供のようにはしゃいでは地方からのお上りさんに見えてしまう。

「本当、原宿っていっつもこんな感じでマジヤバくなーい? ほーほっほ………」

 何となく千歌は都会の女子高生を意識して言ってみるが、これが果たして正しいのか分かっていない。少なくとも違う、と梨子には分かっているようで、

「ここ、秋葉………」

 「てへぺろ」と舌を出して笑うと、冷たい視線を返された。テレビで見た流行の言葉らしいのだが。

 まず、千歌たちは駅から近いスクールアイドルショップへ向かった。その店は千歌がどうしても行きたかった場所で、あまり大きくない店内に入ると同時に千歌は感嘆の声をあげる。

「うわあ、輝くう………!」

 缶バッジにポスターからタオルにクリアファイルといった日用品まで。勿論、伝説と謳われるμ’sのグッズも多く取り揃えてある。できることなら商品すべて買い占めたいが、現実問題として小遣いにも限りがある。宿代と電車賃を残し、何を買うか吟味しなければ。

「時間なくなるわよ」

 店の外で待っている梨子が窘めるように言った。続けて善子も。

「あれ、ずら丸とルビィは? 翔一もいないし」

 

 高いビルが視界に隙間なく並ぶ街並みは、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で想像できる未来都市そのままの光景だった。道行く人々の何人かはアンドロイドなのでは、と花丸に錯覚させてしまうほどに。

「未来ずら……、未来ず――」

 ぽん、と肩に手を置かれて花丸は我に返る。危うく訛りを出してしまうところだった。止めてくれたルビィに照れ笑いを返すと、そこへ翔一が走ってくる。

「いやあ、探したよ。東京って人多いよね」

 こんなところで道草を食っている場合じゃなかった。花丸は周囲を見渡すが、絶えず人の行き交う街の中に他の面々の姿がない。ルビィが気まずそうに言った。

「はぐれちゃったみたい………」

 ルビィとは真逆に笑っている翔一はというと、

「ルビィちゃんが携帯持ってるんだし、大丈夫じゃない? せっかくの東京なんだし、少し散歩してみようよ」

 本来ならこういった事態を避けるために同行しているはずの翔一も、東京の空気にすっかり呑まれているようだ。さっきの千歌と同じように、翔一は少年のような無邪気な眼差しでビル群を見上げていた。

「どっかにスーパーとかないかな? 東京の珍しい食材置いてるお店」

 

 次に河野に連れられたのは喫茶店だった。街の賑やかさと華やかさから離れつつある銀座の外れにある「ラビット」のドアを開けて中に入ると、レトロという言葉の似合う雰囲気とコーヒーの香りが漂っている。店内の所々に置いてあるウサギの人形は日本の雑貨屋ではあまり見かけないデザインだ。海外からの輸入品だろうか。

「河野さん、久しぶりだね」

 カウンターの奥で、マスターらしき初老の男性が誠たちを迎えてくれる。

「ちょっと出向しててな。久々に来ても相変わらず暇そうだなあ」

 笑いながら言って河野はカウンター席につく。誠も河野の隣に座り店内を改めて見回した。確かに誠と河野の他に、こじんまりとした店内にお客は1組の若い男女しかいない。

「これがうちの良いところですよ」

 河野の軽口をあしらい、マスターは「いつものやつでいいですか?」と注文を取る。「ああ、頼むよ」という短いやり取りから、河野はこの店にプライベートでも通っていたと分かる。

 マスターがドリッパーにお湯を注いでいる間に、河野はドアのすぐ横に置かれている大きな機械のもとへ行く。何かの自販機にも似ているその機械に河野は100円硬貨を入れて、黄ばみのあるスイッチを何個か押す。するとガラス張りになっている上部からレコードが飛び出して、定位置に収まるとノイズ交じりにクラシックギターの音色が聞こえてきた。

「ジュークボックスって言うんだ。見たことあるか?」

「いえ………」

 昔の音響装置か。お客が好きな音楽を流すことができるなんて。自分の知らない時代だが、どことなく落ち着く。

「お待ちどうさま」

 誠と河野の前に、マスターはそっとコーヒーのカップを置いてくれた。ドリップ式で淹れられたコーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。くつろぎたいところだが、ここには仕事で来ていることを誠は忘れない。

「では高海伸幸は殺される直前までこの店にいたということですか?」

 「ああ」と河野はジュークボックスから離れて席につき、

「結構なお得意さんでな。よくここで本を読んでいたらしいんだが、当日は連れと一緒だったというのが、マスターの証言だ」

 「連れ?」と誠は尋ねる。マスターは「ええ」と応え、

「あの日のことはよく覚えてますよ。丁度うちが開店10周年の記念日だったんで。まあ例によって暇だったんですけどね」

 そうマスターは微笑を挟み、

「で、最初に来てくれたのが高海先生と連れの方で――」

 「ああほら、あそこの席で」とマスターは手で店内の隅にある席を指し示す。今日は誠と河野以外で唯一の客である男女が座っている席だ。男は猫舌なのかカップに何度も息を吹きかけていて、その様子を向かいに座る女性が微笑ましく眺めている。

「ふーふーしてあげよっか?」

「いらねえよ」

 あまり見ているのも失礼だ。誠はカウンターに向き直り、マスターの話に意識を戻す。

「相手は幼いがとても物腰の落ち着いた女の子でした。最初は何かひそひそ話をしているようでしたが、そのうち口論になっちゃって」

「口論というと? 内容は覚えていますか?」

「そんなことは有り得ないとか何とか、相手の女の子は言ってましたけど………。詳しいことまではちょっと………」

 相手が若い女性であれば、高海伸幸が教鞭を執っていた大学の学生という可能性が持てる。だが少女となるとおぞましい方向へと想像が向いてしまう。まさか妻子を持つ身でありながら裏切りに等しい行為を。いや、まだ決まったわけじゃない。そんな隠すべきものを行きつけの店に連れてくるはずがない。誠は河野へと向き、

「河野さんは、その相手の少女が怪しいと?」

「まあな。まあどこの誰だかまるで手掛かりが無いんだが」

 

 買い物を終えた千歌が店を出ると、待っているはずの皆が誰もいなかった。ひとりずつ連絡を取ってみると、それぞれが別の場所にいるとのことで。

 まず千歌は曜に電話した。

『制服100種類もあるお店があってね。凄いよこのお店!』

 次に善子。

『黒魔術グッズ見たいから。これはヨハネが彼の地に呼ばれたのよ! ライブとかにも使えそうでしょ!』

 次に梨子。

『ちょっと寄りたいお店があって………。本屋さんよ、本屋さんなんだから!』

 最後にルビィ。

『はい、花丸ちゃんと翔一さんも一緒です。ふたりともすっかり楽しんじゃって………』

 次は神田明神でライブの成功祈願に行く、って電車の中で話したというのに。

「もう、みんな勝手なんだから!」

 東京に胸が躍る気持ちは分からなくもないが。何となく家を出るとき梨子に呆れられた理由が分かった気がする。神社の場所は皆分かっているらしいから合流はできるだろうが、果たしてそれぞれの用事が済むまでどれほど待たされることやら。

 千歌はスマートフォンの電車乗り換えアプリを開き、秋葉原周辺の路線図を見てみる。行く予定はなかったのだが、時間が余ってしまうのなら「そこ」へ行くのも良いかもしれない。

 来た道を引き返し、千歌は秋葉原駅へと向かった。

 

 

   3

 

 そこは豊島区の住宅街だった。駅周辺にはそれなりに高層ビルが立ち並んでいるのだが、少し離れれば都会の喧騒から遠ざかった、静かな街が広がっている。

「あれが、高海伸幸が住んでいた家だ。事件以来空き家になっているがな」

 河野が指さした家は、外観でも分かりやすいほどに整備が行き届いていなかった。庭の雑草が伸び放題になっていて、家の外壁にまで(つた)が絡まっている。

「高海伸幸はここから近い大学に勤めていてな。この家を買って単身で住んでいた。沼津の家に帰るのも、年に数回だけだったみたいだな」

 家主を失ってまだ3年しか経っていないというのに、人の手が届かないとここまで朽ちてしまうものなのか。被害者が不可解な死を遂げた以上、この家にも捜査の手が及んだに違いない。でも未だに進展なしということは、事件に関連するものは何も見つからなかったということだ。

 ふと、誠の視線が家の傍を歩く通行人に向いた。そこへ意識が向いたのは空き家であるはずの家に通行人が玄関の鍵を開けて入り、更にその通行人が千歌だったからだ。見慣れた制服じゃなくて私服だったから、危うく気付かないところだった。

「河野さん」

 それだけで誠の意図は伝わったようで、河野は頷き誠の後に続いて家へと歩き出す。

 

 1歩踏み出す度に溜まった埃が舞い上がる。家の中はかび臭く、板張りの床には所々にささくれが生じていた。無理もない。父が死んでからというもの、家は一応高海家の名義となっているが誰も寄り付かなかったのだから。近所で幽霊屋敷だなんて噂されているかもしれない。

 幼い頃に数えるほどしか訪れていないが、家の間取りは記憶通りで千歌は迷わず居間へと入った。ひとり暮らしには少々広すぎるくらいの一戸建て住宅で、父は空いたスペースに観葉植物を置くことが趣味になっていた。今でも放置されたままの植木には幼い頃の面影はなく、茶色く枯れた葉を垂らしている。

 居間にある埃に覆われたテーブル。そこで父は千歌に絵本を読んでくれた。当時の千歌はまだ幼稚園で、美渡が小学生、志満は中学生だったか。千歌が『桃太郎』の全て平仮名で書かれた文章を読み上げると、父は褒めてくれた。

 ――凄いぞ千歌、よく読めたな――

 ――ねえお父さん、おにがしまってどこにあるの?――

 ――さあなあ。でも、意外と近いところにあるかもしれないぞ――

 確かそのとき、美渡が「すぐお隣さんだったりして」と言ってきて、とても怖くなった覚えがある。

 ――こら美渡、千歌を怖がらせるんじゃない。大丈夫だ千歌、お父さんがやっつけてやる!――

 そう拳を握る父は誰よりも大きく見えて、誰にも負けないと信じて疑わなかった。ましてや誰かに殺されるだなんて、考えてもみなかった。テーブル以外にも父にまつわる思い出はある。それどころか、この家自体が父との思い出そのものだ。家を支える、居間の中央に立つ大黒柱。白く塗装された木柱には色とりどりの鉛筆で横線が引かれている。それは父が娘たちの成長を記録した線だ。志満の身長は黒の鉛筆。美渡の成長は青の鉛筆。千歌の成長は赤の鉛筆。

 ――千歌気を付け!――

 ――はい!――

 ――凄いぞ千歌。3センチも背が伸びてるぞ!――

 定規を当てて柱に線を引く父はとても嬉しそうだった。父に今の千歌を見てほしかった。スクールアイドルとしてステージに立つ姿を。

 玄関のあたりから物音が聞こえて、千歌は咄嗟に背後を振り返る。

「河野さん、氷川さん」

 驚きのあまり上ずった声で呼ぶと、ふたりの刑事は所在なさげに会釈する。

「すみません、勝手に入ってしまって」

 律儀に謝罪する誠に「いえ」と返し、

「どうしてここに?」

 その質問には河野が答えた。

「たまには、1から事件を洗い直してみても、良いかなと思いましてね」

「高海さんは、どうしてここに?」

 誠が訊いた。千歌からすれば沼津にいるはずのふたりが東京に来ていることに驚いているのだが、ふたりもまた然りなのかもしれない。

「明日スクールアイドルのイベントがあるので、それで。ここには来るつもりなかったんですけど………」

 父のことを思い出させるこの家を訪ねることに、何の意味があるのか千歌にも分からない。父の死を悲しんでいるという確信を得たいのか。顔も分からない犯人への憎しみを確認するためなのか。正直、犯人に対しての憎しみは千歌の裡に見つからない。顔が分かれば、はっきりと湧き出るのだろうか。それとも憎しみ以外の感情が芽生えるのか。

 悲しみとか犯人の顔とかよりも、千歌が知りたいのは父が殺された理由だ。何故あんなにも千歌を愛してくれた父が殺されなければならなかったのか。その理由が知りたい。

 柱に触れた指の感触に、千歌は「ん?」と眉を潜める。「どうしました?」と誠が訊いて、千歌は違和感を覚えた部分を凝視しながら、

「何かここ、隙間があるような気がして………」

 誠と河野が歩み寄り、柱に視線を向ける。鉛筆とは違う直線が引いてあって、そこの部分が微かに出っ張っている。誠は線を指でなぞり、次に手でみし、と軋みをあげるまで押してみる。誠は居間を見渡すと、近くに放置されていたハードカバーの本を手にする。

「ちょっと済みません」

 千歌が退くと、誠は柱に本を打ち付ける。四角く切り取られた部分が柱から浮き出て、誠は更に本を打つ。柱から手で外すと、上面が開かれたそれは箱のようだった。埃が舞い上がるのも構わず、誠は箱を逆さにして中身を床に出す。

 箱から出てきたのはUSBメモリと、黒いゴムボールのふたつだけだった。

 






 今回はファンサービス的な演出として「とあるふたり」を脇役として登場させたのですが、お気付き頂けたでしょうか?


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第3話

   1

 

 いくら人通りが多い秋葉原でも、路地裏となると流石に人はほとんどいない。こういったところに隠れた商店はないものか、と翔一は辺りを見渡すが、生憎めぼしい店らしきものは何もない。

「んー、何かないかな? 物凄くでっかいカボチャとか売ってるお店」

 「秋葉まで来てお買い物ですか」とルビィが苦笑する。「カボチャで今度は何作ってくれるずら?」と花丸も。翔一はふたりに両腕を大きく広げて、

「明日のライブ成功させてさ、帰ったらお祝いにパーティしたいじゃない。おっきなカボチャで特大ケーキ作ってさ」

 「ケーキ!」とふたりは声を揃えて瞳を輝かせる。

「ケーキ作れるずら?」

「作ったことはないけど、松月に習いに行こうと思うんだよね。ふたりとも楽しみにしててよ」

 まずカボチャは砂糖で炊いて、潰して生地に練り込もう。少量の砂糖でも、カボチャ本来の甘味を引き立たせてくれるはずだ。どうせなら生クリームにもカボチャをペーストにして混ぜたい。モンブランのようにするのも手だ。

「翔一さん」

 ケーキの調理工程を思索していたが、ルビィの声で現実に引き戻される。

「東京に来て、何か思い出しましたか?」

「え、どうしたのいきなり?」

「志満さんが言ってたんです。翔一さんはもしかしたら東京に住んでたかもしれない、って。だから、懐かしいとか感じないのかな、と思って」

 「うーん」と翔一は唸りながら空を見上げる。秋葉原のビル群に狭められた空。飲食店の排気ダクトから発せられる蒸した臭気。街を埋め尽くさんとばかりに行き交う人々。

「ピンと来ないなあ」

 以前は来たことがあったのかもしれないが、記憶を失った今では東京とは生まれて初めて訪れた都市のような感覚だ。記憶はなくても心は覚えている、だなんてノスタルジックな感慨もない。沼津しか知らないせいか、こんな街があってこんなにも人がいるものか、と世界の広さに感心しているほどだ。

 刹那、翔一の背筋に戦慄が走る。辺りを見回していると、よほどの剣幕をしていたのか花丸が「どうしたずら?」と訊いてくる。ルビィも不安げに花丸に寄り添う。

 しゅるしゅる、と蛇が這うような音が聞こえて、翔一は振り返った。視界にサソリの尾にも似た触手が入り込み、猛スピードでこちらに向かってくる。咄嗟に翔一が手刀で払い落としたおかげで、触手は地面に落ちる。見れば、先端に針が付いている。すぐに触手は引っ込み、その先を目で追うと建物の陰から異形の存在が翔一たちにその姿を晒した。サソリの甲羅を鎧のように纏ったそれは、じりじりとこちらへ歩いてくる。

「ふたりとも逃げて!」

 花丸とルビィが駆け出し、ふたりの背中へと目を向けた敵の前に翔一は立ちはだかる。

「変身!」

 翔一は変身した。この敵と同じ存在たちが、「アギト」と呼ぶ姿に。

 敵は頭上の後輪から一振りの斧を取り出した。振り下ろされた武器の柄を掴み、脇に絞めて動きを止める。その隙に、翔一もベルトの玉から刀の柄を掴み引き抜く。同時に、鎧をフレイムフォームの赤に染め上げた。刀を上段から敵の肩口めがけて振り下ろすが、敵の反応も早く鍔迫り合いに持ち込まれる。互いに武器を押し込み、その反動でバックステップを踏む。

 間合いと取ると、翔一は武器を構え直し敵の出方を待つ。敵は一気に間合いを詰め、斧を横薙ぎに振るってきた。翔一は再び刀で受け止め、再び鍔迫り合いへ持ち込む。このパワーに特化させた姿なら、鍔迫り合いは自分に分がある。一気に押し込もうとしたが、予想に反して敵のパワーは翔一を上回り逆に押し込まれる。壁際まで追い込まれ、受け流した敵の武器は壁にめり込んだ。にも関わらず、豆腐のように壁を容易く砕きながら敵は武器を押し込んでくる。

 その腹に蹴りを見舞い、生じた一瞬の隙をついて翔一は跳躍した。敵の背後へと回り込みひとたび距離を広げるが、振り返った瞬間に翔一は目を剥いた。何かが向かってくる。咄嗟に避けて紙一重で顔面の横を通過していくそれは、敵の投げた斧だった。まさか武器を自ら捨てるなんて。だが回転しながら飛ぶ斧は宙を旋回し、まるでブーメランのように敵の手元へ戻っていく。

 長期戦だとこちらが消耗する。熱を帯びた力を手元に注ぎ込み、刀の鍔を展開させる。次は並の攻撃でない、と敵は察したのか駆け出してくる。同時に翔一も駆け出し、互いに距離を詰めてそれぞれの領域へと踏み込んでいく。

 翔一は跳躍した。落下と同時に刀を両手で振り降ろし、渾身の一刀を叩きこもうとする。刃が触れようとした寸前、敵の空いていた左手に盾が出現した。がちん、という金属音と共に翔一の刀が防がれる。

 翔一は逡巡した。確かに感触があるのに、刀は盾に触れてすらいない。力任せに圧そうとするが、刀は宙で震えているばかりで前進しない。

 にたり、と敵が笑ったような気がした。その瞬間、敵の後頭部から触手が伸びて翔一の首に絡まる。妙なことに圧迫感がそれほど強くない。その気になれば引き剥がせるくらいだ。その理由を悟ったのは、首筋に走った激痛だった。刺された、と認識すると同時、右肩に強烈な殴打を食らい体が投げ出される。

 地面に身を打ち付けると、痛みの後で急速に意識が薄れていく。花丸ちゃんとルビィちゃんは。ふたりが気掛かりでも、翔一の体にそれを確かめる余力は残されていない。

 意識を完全に失う直前、翔一の耳孔に届いたのは銃声だった。

 

 秋葉原にアンノウン出現。

 その報を小沢から受けた誠が東京にいたのは幸いだったのだが、肝心のGトレーラーは沼津にある。当然到着を待っている余裕もないから、誠は警視庁舎に保管されていた間に合わせの装備で現場へと向かった。

 予備として複数製造されたガードチェイサーの1機で現場の路地裏に到着すると、サソリのようなアンノウンが2人の少女へ斧と盾を手に歩み寄っている。

 誠は前腕部のユニットしか装備していない右手でGM-01を発砲する。胸を狙ったのだが、装甲が反動を吸収しきれなかったせいで弾道が逸れ盾を持った左手に命中する。今度は左手を添えて、照準に狂いがないよう固定する。頭部に装備したヘルメットはポインターなんて映しはしないが、全弾がアンノウンに命中した。

『氷川君、絶対に近接戦に持ち込まれては駄目』

 ヘルメットに備え付けられたインカムから小沢の指示が聞こえる。「はい」と応じ、誠はガードチェイサーのハッチからGG-02を取り出す。

『GG-02、アクティブ』

 今の誠が装備するG3システムは、改修用として本庁が保管していた予備だ。インナースーツに前腕部と脚部だけ装甲ユニットを装備しただけで、バックパックに繋がれた配線コードも露出している。ヘルメットだって市販のものに通信用のインカムを搭載したのみで気休めに近い。最大の懸念は誠専用に調整されていないことだ。インナースーツはサイズが大きく、逆に装甲ユニットはサイズが小さくて窮屈になっている。わずかな動作でも誤差が生じるため、近接戦は自殺行為だ。間違っても手の届く範囲に近付いてはならない。

 GM-01とドッキングさせたGG-02の砲口をアンノウンに向け、トリガーを引く。胸に命中したグレネードが炸裂し、辺りに噴煙を撒き散らした。流石に堪えたのか、アンノウンはよろめきながら建物の陰へと千鳥足で向かっていく。

 追撃しようとしたが、背後から聞こえた「翔一さん!」という声に振り向く。「しっかりするずら!」とふたりの少女に体を揺さぶられているのは、津上翔一だった。

 

 

   2

 

 アンノウンに襲われた翔一は最寄りの病院に緊急搬送された。正確にはアンノウンの標的になった少女たちを庇い、攻撃を受けたとのことだが。

 外傷と言えるものは首筋にある針のようなもので刺された跡くらいで、救急車の中で目覚めた翔一はいつもの溌剌とした様子で担架から降り、自らの足で検査室へ向かっていった。

「これが俺の体の中に?」

 全ての検査を終えた翔一は、診察室で自分の胸部が写されたレントゲン写真を見て眉を潜める。CTスキャンによる精密検査も行われたが、翔一の体に見られた異常は胸部のみ。アンノウンに埋め込まれたとされる、卵型の影が心臓の辺りに写っている。

 検査の間、誠は小沢から沼津にてアンノウンに殺害されたと思われる死体が発見された、という連絡を受けていた。被害者は運送会社社員の男性。目撃情報によると誰かに襲われた様子もなく、荷物を積み下ろしていた際に突然倒れたという。

 司法解剖の結果、死因は凍死とされた。もう夏に入ろうとしている時期に。少し前にも、群馬県と埼玉県でも同じ状態の変死体が発見されたらしい。3人の共通点は首筋に虫刺されのような跡があり、調べてみたところ血縁関係があったという。今回のものと同一個体かは不明だが、標的とされた黒澤ルビィと国木田花丸という少女たちに聴取したところ、ふたりとも3人とは血縁関係はない。

「何ですかこれ?」

「何らかの金属らしいんですが、まだ特定はできていないそうです」

 医師から受けた説明をそのまま告げると、翔一は自分の胸をさすりながら、

「何か気持ち悪いな。取り出してくれません?」

「それが心臓にごく近い位置で、手術しても取り出すのは難しいと………」

「それで、どうなるんですか俺?」

「今まで、君と同じようにアンノウンと同じ被害に遭った人々が3人、全員が襲われてからおよそ24時間後に亡くなっていると思われます」

「じゃあ、俺死んじゃうってことですか?」

 流石に翔一もこれには堪えたようで、神妙な表情を浮かべて視線を下げる。千歌たちのイベントに同行して上京してきたらしいが、せっかくの旅先で怪物に襲われて余命24時間なんて宣告を受ければ泣き喚いてもおかしくない。でも、その余命宣告も確信は持てない。

「それが、そうとも言い切れないんです」

 誠はスマートフォンを取り出し、小沢から送られてきた資料を開く。

「アンノウンに襲われた人々の死体を解剖した結果、体内から君と同じような金属異物が発見されて、どうもそれが人体の熱エネルギーを奪って被害者を凍死させるそうです。ですが君の体内の異物は他の被害者のものと比べると、とても小さいんです」

「どういうことですか?」

「多分、24時間のうちに金属異物が肥大していくんだと思います。でも金属がそれ自身で大きくなるとも考えづらく、アンノウンの力が作用しているというのが我々の見解です」

「それって、アンノウンとかを倒せば助かるかもしれない、ってことですか?」

「そうかもしれません」

「分かりました」

 ん、いま分かりました、と言ったか?

 自分の耳を疑いたくなり、誠は翔一を凝視する。流石に笑ってはいないが、怯えているようにも見えない。

「あの氷川さん、このこと皆には内緒にしといてもらえますか?」

「それは、構いませんが………」

「ありがとうございます。色々お世話になりました」

 愛想よく言うと、翔一は立ち上がって診察室から出ていく。変わった人とは思っていたが、あそこまでいくと能天気を通り越している気がする。いや、自分が明日には死んでしまうことを信じていないのか。

 でも不思議と、ルビィと花丸のもとへ向かう翔一の背中が明日に失われてしまうとは、誠にも思えなかった。

 

 

   3

 

「いや、俺本当に大丈夫だからさ。ほら、宿だって俺の部屋も取ってくれてるんでしょ? キャンセル料とかさ」

 まくし立てるように言う翔一に、千歌は切符を押し付けるように渡し、

「もう、気にしなくていいから! ひょっとしたらどこか怪我してるかもしれないでしょ? 帰って休んでなよ!」

「いやちゃんと病院行ってきたし――」

 メンバー全員で翔一の背中を押して、改札へと無理矢理連れていく。なかなかゲートを通ろうとしないから、曜が切符を入れた。ようやく観念した翔一は渋々ゲートを過ぎて、千歌たちに大声を張り上げた。

「皆、明日頑張ってね! ご馳走作って待ってるからさ!」

 

 神田明神へ続く路地を歩く頃には、空が茜色になっていた。

「せっかくじっくり見ようと思ったのに………」

 まあ、緊急事態だったのだから仕方ない。ルビィと花丸が無事で、翔一も大事に至らなかったのだから幸いと言うべきか。そんな大変だったときに、他の面々はすっかり東京を楽しんでいたようだが。千歌が視線をくべると、梨子は買った本の袋を咄嗟に背中へ隠す。一体何の本を買ったのか。

「な、何よ、だから言ってるでしょ。これはライブのための道具なの!」

 善子はそう言って両手に提げた袋を示す。少なくとも明日のライブで堕天使グッズは使わない。次に視線は巫女服姿の曜へ流れる。

「そんな恰好して………」

「だって、神社に行くって言ってたから。似合いますでしょうか?」

 随分と満足げに敬礼する曜に「敬礼は違うと思う……」とやんわり指摘する。

「ふたりは、大丈夫?」

 尋ねた視線の先で歩くルビィと花丸は不安げな表情だった。特にルビィは悪寒がするのか両腕を抱いている。花丸もルビィを気遣うよう肩に手を添えているが、怖いに違いないだろう。それでもふたりは千歌に笑顔を返し、

「大丈夫です」

「マルたちより翔一さんの方が心配です」

 あの怪物がまた襲ってくるかもしれないから、明日から千歌たちには警察の護衛が就くと誠から告げられた。でも、アギトになった翔一を退けるほどの怪物に、警察が太刀打ちできるだろうか。以前目撃した青の戦士がやってくるとしても、正直なところ期待はできない。

 あれこれと考えているうちに目的地が見えた。街の低地から神田明神の台地を繋ぐ男坂。坂と付いているが階段が整備されている。それでも勾配は急で、登るにはそれなりに体力を要する。

 ここが、千歌がどうしても来たかった場所。向こうにある社が見えないほど急な階段を前に、ルビィは先ほどの恐怖も払うことができたようだ。

「これが、μ’sがいつも練習していた、って階段………」

 この男坂は神田明神への入口とは他に、かつてのμ’sの練習場という面を持っている。

「登ってみない?」

 千歌の提案に反対するメンバーは誰もいなかった。何故ならこの地は伝説のグループがいた場所。彼女たちに憧れる、スクールアイドルの聖地だ。

「よーし、じゃあみんな行くよー!」

 千歌の号令で、皆が一斉に階段を駆け上がる。1段1段を踏みながら、千歌はかつての光景を想像していた。μ’sのメンバー達は毎日この階段を登っていた。この険しい階段を、ラブライブ優勝への道のりとして、夢を膨らませていった。みんなで叶える物語。そのキャッチフレーズの通り、皆でひとつの光となって、時を越えるほどの輝きを放った。

 そうして、μ’sは伝説のスクールアイドルになった。

 階段を登りきると一気に疲労が押し寄せ、額から玉汗が伝い千歌は膝に手をついた。普段のランニングで呼吸を乱さないよう意識しているのに、興奮のあまり忘れてしまっていた。改めてμ’sの偉大さを実感できた気がする。こんな練習を毎日続けていたなんて。でも千歌だって登りきることができた。可能性はゼロじゃない。Aqoursだってμ’sのようになれる、という確信が持てる。

 そう遠くない方からハミングが聞こえてくる。ひとりじゃなくふたりだ。それぞれが高音と低音のパートで歌っていて、見事なハーモニーが耳に心地良い。まさかμ’s、と思ったがすぐに違うと分かる。どのメンバーの歌声とも似ていない。

 音を頼りに近付いてみると、本殿を前にしてふたりの少女が歌っている。ひとりは背が高く、もうひとりは対称的に小柄だ。ふたりとも同じ服を着ていた。白のブラウスの上に紺色のベスト。上と同じ色に纏められたプリーツスカートはきっと学校の制服。それはつまり、ふたりは千歌たちと同年代ということ。

 一体誰なんだろう、と思っていると歌が終わった。本殿に向かっていたふたりが、千歌に気付いたのかこちらへと振り向く。

 背の高い少女は柔和ながら、どこか棘を感じさせるほどの自信に満ちた笑みを向けてくる。

 小柄な方の少女は目尻を鋭く釣り上げていて、他を寄せ付けようとしない棘どころか針を思わせる。その口元に浮かんでいるのが笑みなのか、千歌には判断しかねた。

 

 

   4

 

 沼津に戻ってきた誠は、その日のうちに東京での出来事を真っ先にGトレーラーへ持ち帰った。あまりにも不可能犯罪に近い高海伸幸の死と、彼の家から発見された物品を。

「2年前の殺人事件がアンノウンと関係があるかもしれない、って?」

 小沢の言葉に誠は「ええ」と頷き、

「捜査一課の河野さんが担当している事件なんですが、被害者の高海伸幸は不可能犯罪と思われるような殺され方をしています」

 「そして――」と誠はベンチに置いてある押収品を手にして「これを見てください」と、

「昨日被害者宅から新たに発見されたものなんですが」

 「何ですかこれ?」と尾室がゴムボールを詰めた袋を手に取った。

「テニスボールにしては変わってますけど」

 「テニスボールですよ」と誠はすかさず、

「ただし、裏と表が逆転しているんです」

 その一見するとゴムボールなのが実はテニスボールと分かったのは、誠が高校時代テニス部だったことが大きい。毎日ボールに触れていたのだから、手に持った感触だけでもしや、と思い実物を持ってきたら的中していた。

「これは普通のテニスボールをふたつに切ったものなんですが」

 半分だけのテニスボールを尾室に手渡す。尾室はボールを裏返して押収品と同じ状態にし、その感触の一致を認識して「本当だ」と呟く。

「でもどうやって? 切って張り付けた痕は無いですし………」

 切断せずにテニスボールを裏返すなんて、普通なら「有り得ない」こと。それを察したのか、小沢が頷く。

「言いたいことは分かるわ。その被害者の高海伸幸は超能力者だった。そしてアンノウンに殺された」

「ええ。でもそれはあくまで僕の推理で。河野さんは、犯人は人間と信じているようですが………」

 アンノウンが出現し始めたのは今年に入ってから。河野からはそれを根拠に誠の推理を否定されたが、どうにも不可能犯罪と似通っている。被害者は不可解な死を遂げて、自宅からは超能力によるものと思わしき物品。でも違和感があるのも確かだ。3年前にアンノウンが既に活動していたのだとしたら、何故現在に至るまで鳴りを潜めていたのか。

「じゃあこのUSBメモリは?」

 尾室の質問に、誠は我に返り思考を一旦止める。そういえば、この記憶媒体の中身はまだ確認していない。犯人の指紋が残されているかもしれないからまだ手を付けていなかったが、先ほど鑑識から指紋の検出はなし、と報告を受けていた。物体そのものに証拠は残っていない。残っているとしたら中身のほうか。

「見てみましょう」

 誠が言うと、尾室は袋からUSBを出してPCのポートに繋ぐ。開かれたファイルの中に保存されているデータはひとつだけ。

「動画ですね。再生します」

 尾室がアイコンをクリックすると、動画再生のウィンドウが開きタイムコードのバーが左から右へと動き出す。確かに動画は再生されているのだが、画面に映るのは真っ暗闇だ。音声もノイズしか聞こえない。じ、と僅かな変化も見逃すまいも画面を食い入るように見ていたのだが、20秒ほどで動画は終わってしまう。

 尾室は肩を落とし、

「何だ、何も映ってないじゃないですか」

 落胆しているのは誠も同じだ。研究者だった高海伸幸の経歴から、何か重要な研究データが残されているのでは、と期待していた。

「このUSBメモリは被害者宅の隠し戸棚から発見されました。何故何も映っていないデータを隠しておかなければならなかったのか」

 そこで「あれ?」と尾室が声を漏らす。動画を何度かリプレイしていたようだ。「どうしたの?」と小沢が訊く。でも尾室は「いや、別に………」と濁しただけだった。ふう、と溜め息をついた小沢は話題を変える。

「そういえばどうしてるかしら? アンノウンに襲われた、って子」

「津上翔一ですか?」

「話を聞いただけでも変わってる、って分かるわ。もうすぐ死ぬかもしれないっていうのに、淡々としてたんでしょ? よっぽどの大物か、ただ呑気なのか、どっちかでしょうね」

 実際に何度か話した誠には、後者のほうだと思うのだが。翔一の場合、こちらのほうが心配してしまうほどに。彼も養生のため沼津に戻ったらしい。明日もルビィと花丸を護衛するためにGトレーラーごと東京へ行かなければならないが、出発する前に様子を見に行ったほうがよさそうだ。

 それに、志満にも高海伸幸について訊いておきたい。

 

 



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第4話

 

   1

 

「こんにちは」

 背の高いほうの少女が、よく通る透き通った声で言う。「こ、こんにちは」と返す千歌の声が思わず弱くなった。すぐ隣で「千歌ちゃん?」と尋ねる梨子の声が聞こえる。きっと他のメンバー達も集まっているのだろう。それを確認することなく、千歌の視線はふたりの少女に貼りついて離れない。

「まさか、天界勅使(ちょくし)?」

 善子の頓珍漢な発言に動じることもなく、背の高い少女はこちらの面々を見渡す。

「あら、あなた達もしかしてAqoursの皆さん?」

 素直に肯定の言葉を返すべきなのだが、「え……、嘘。どうして………」と千歌の口からは戸惑いの声しか出ない。

「この子、脳内に直接………」

「マル達、もうそんなに有名人?」

 善子と花丸が口々に言う。背の高い少女は続けた。

「PV観ました。素晴らしかったです」

 そこでようやく、千歌は「ありがとうございます」と返すことができた。でも、目の前のふたりがただのファンとは思えない。

「もしかして、明日のイベントでいらしたんですか?」

「はい……」

「そうですか。楽しみにしています」

 そう言って背の高い少女は歩き出す。結局ひと言も口をきかなかった小柄なほうの少女は後を追う素振りを見せず、しばらくその場に立ったままでいた後に深々と礼をする。

 背の高いほうが千歌たちの横を通り過ぎようとしたとき、小柄なほうは突然こちらへと駆け出してきた。勢いをつけて床に手をつき、側方倒立回転(ロンダート)を決めるとその勢いのまま両脚で跳び上がる。彼女が宙を舞っているのは1秒にも満たなかっただろうが、その瞬間はとても長く感じられた。宙で体を捻る少女が、視線を交錯させたこちらへ不敵な笑みを向けたと認識できるほどに。

 その着地も見事だった。1歩も足を踏み外すことなく、狙っていたかのように背の高いほうの横に足を落ち着ける。

「では」

 背の高いほうが穏やかな口調でそれだけ言うと、ふたりは境内から颯爽と歩き去っていく。

「……凄いです」

 その短い、でも記憶にまざまざと刻み付けられた瞬間を総括するようにルビィが言う。

「東京の女子高生って、皆こんなに凄いずら?」

 のほほん、と言う花丸に善子が噛みつくように、

「あったり前でしょ! 東京よ東京!」

 ふたりの背中が見えなくなっても、千歌は彼女たちの去った方向をずっと見ていた。名前を訊くのを忘れていた。彼女たちは一体誰なんだろう。ただの女子高生じゃないことは確かだ。あのアクロバットもそうだが、何よりも千歌の記憶のなかで鮮明に残っているのは、あの調和の取れた歌声だった。

「歌、綺麗だったな………」

 

 

   2

 

 開発が進行中の都心の中で、Aqoursが予約した和風旅館は異彩だった。街中はお世辞にも空気が良いとは言えないから、畳の香りがとても心地よく感じられる。

「落ち着くずらあ」

 風呂上りで火照った体をうちわで扇ぎながら、花丸がしみじみと言う。この旅館はある程度東京に土地勘のある梨子が紹介したが、宿泊したことはなかったから良し悪しまでは分からなかった。ただ明日の会場とそう離れていなくて、かつ値段もビジネスホテル並の手軽さだったから候補として提案してみただけだ。

「気に入ってくれたみたいで嬉しいわ」

 髪を梳かし終え、姿見の扉を閉じて梨子はテーブルにつく。思わず目が向くのは曜の恰好。皆はもう浴衣に着替えたというのに、曜はおそらく制服専門店で購入したキャビンアテンダントの制服を着ている。

「何か、修学旅行みたいで楽しいね」

 あなた修学旅行でもコスプレしてたの、と訊きたくなったが、それは善子の挙動に遮られる。

「堕天使ヨハネ、降臨!」

 まだ私服のままの善子も黒魔術ショップで購入した黒いマントを広げテーブルの上に立つ。「やばい、カッコいい………」とご満悦らしい。

「ご満悦ずら」

 はっきりと告げた花丸に善子は噛みつくように、

「あんただって東京のお菓子でご満悦のくせに!」

 行儀の悪い後輩を「降りなさい!」と梨子が窘めると、善子は素直にテーブルから降りた。今度は窓を開けて何やらぶつぶつと呟いているが、面倒臭いから無視しておこう。

 テーブルに置いてあった饅頭をつまみながら曜とお茶を飲んでいると、花丸が鞄からお菓子の箱を出す。

「お土産に買ったけど、夜食用にまだ別に取ってあるず――」

 辺りを見回す花丸の視線が梨子たちに留まる。見てみると、花丸が手にしている箱と梨子たちがつまんでいる茶菓子の箱は同じものだった。「あれ?」と曜がそのことに気付き、梨子も、

「旅館のじゃなかったの?」

「マルのバックトゥザぴよこ饅頭!」

 ふたりで平謝りして帰りに買うから、と花丸をなだめていると、呆れ顔でこちらを見ていたルビィが「花丸ちゃん夜食べると太るよ」と苦言を呈す。

「静かにして! 集中できないでしょ!」

 窓際にいた善子が喚く。花丸も一向に落ち着きそうにないし、どうしたものか、と梨子が思索しているうちに花丸は「もういいずら、食べちゃうずら」とお土産用の包装紙を乱暴に破いて箱を開ける。「駄目よ!」「花丸ちゃん落ち着いて!」と曜とふたりで花丸の饅頭を掴む手を止める。明日はライブだというのに前日にやけ食いなんてしたら。

 もはや収拾のつかなくなった場を静観していたルビィはおもむろに立ち上がって押入れの襖を開ける。

「それより、そろそろ布団敷かなきゃ」

 押入れから畳まれた布団を出すが、ルビィの細い腕に布団は重すぎたようで、おぼつかない足取りで振り返った拍子によろけて盛大に転んでしまう。当然、すぐ近くのテーブルに集まっていた梨子たちも巻き添えを被った。

「ねえ、今旅館の人に聞いたんだけど――」

 丁度そこへ千歌が戻ってきたのだが、目の当たりにした部屋の状況を呑み込めない彼女は「あれ?」と戸惑いの声を漏らした。

 

 6人分の布団を敷いて改まって話を聞くと、千歌が旅館の従業員から知らされたのは、近くに音ノ木坂学院があるとのことだった。千歌にとっては憧れのμ’sが在籍していた高校。梨子にとってはかつて自分も在籍していた高校。

「梨子ちゃん。今からさ、行ってみない? 皆で」

 千歌が期待に満ちた眼差しでそう提案する。

「わたし、1回行ってみたい、って思ってたんだあ。μ’sが頑張って守った高校、μ’sが練習していた学校!」

 憧れの人々がいた場所なのだから、行ってみたい気持ちは分からなくもない。

「ルビィも行ってみたい!」

「わたしも賛成!」

 ルビィと曜も乗り気だ。

「東京の夜は物騒じゃないずら?」

「な、な、何よ。怖いの?」

「善子ちゃん震えてるずら」

 花丸と善子は違うみたいだ。まあ無理もない。昼間にルビィと花丸は怪物に襲われたのだから。今は守ってくれる翔一もいない。

 まるで神社へ参拝に行くような雰囲気だが、実際に通っていた梨子にとって音ノ木坂学院なんて普通の高校だ。生徒がいて、教師がいて、授業と部活動が行われているだけ。神聖なものなんて何もない。

「ごめん、わたしはいい」

 「え?」と皆の視線を受ける。気に留めない風を装い、梨子は立ち上がって布団へ向かう。

「先寝てるから。皆で行ってきて」

 布団に潜り込むと、曜の「やっぱり、寝ようか」という明るい声が聞こえてくる。続けてルビィの「そうですね。明日ライブですし」という声も。

 しばらく布団のなかで目を瞑ったまま何も考えずにいる間、他の皆も床に就いたようで静かになった。虫の鳴き声が聞こえて、時折車の通る音も過ぎ去っていく。

 どれほど時間が経っただろうか。梨子はなかなか寝付くことができず布団から出た。他の皆は気持ちよさそうに寝息を立てている。窓の障子を開けて夜空を見ると月が出ていた。旅館の趣と相まって、なかなかに風情がある。こちらに住んでいた頃は、こうして夜空を眺めることなんてなかった。東京で見る月も良い、と離れてから気付くことになるなんて。

「眠れないの?」

 静かな声と共に、千歌が布団から身を起こす。

「千歌ちゃんも?」

「うん、何となく」

「ごめんね、何か空気悪くしちゃって」

 「ううん」と千歌は所在なさげに笑い、

「こっちこそ、ごめん」

 話して良いものだろうか。梨子の音ノ木坂への想いを。いや、話すべきだろう、と思い直す。千歌は梨子の音楽への想いを汲んだ上で、スクールアイドルに誘ってくれたじゃないか。

 この人ならわたしの、どんな想いも受け止めてくれる。

「音ノ木坂って、伝統的に音楽で有名な高校なの。わたし、中学の頃ピアノの全国大会行ったせいか、高校では結構期待されてて」

「そうだったんだ」

 いくつかの高校からスカウトの声が来て、音ノ木坂を選んだのは音楽室の設備が最も充実しているからだった。ピアノは信頼できるメーカーの上等品で、定期的に調律がされている。何より梨子の音楽活動を優先してくれて、学校が全面的にサポートしてくれるという条件も入学の決め手になった。

 入学当初はピアノに専念できる環境ができたことに胸が躍った。友人だっていたし、学校生活はそれなりに楽しんでいたと思う。でも、それは自分が何故スカウトされたのかを理解していなかったから。優先的に学校のピアノを使わせてもらったのは梨子への期待の表れ。高校でもコンクールに出場し、結果を残して学校の広告塔になってほしい、と。

 

 ――音楽室? ああ、いくらでも使いなさい。桜内さんには頑張ってもらわないとね――

 ――頑張ってね桜内さん。クラスの皆で応援してるから――

 

 教師や級友たちから毎日のように向けられた激励や労いの言葉で、梨子は次第に自分の置かれた立場を理解していった。

「音ノ木坂が嫌いなわけじゃないの。ただ期待に応えなきゃ、って。いつも練習ばかりしてて………」

 周囲の応援は純粋に嬉しかった。自分を支えてくれる人々への恩に報いなければ、と思った。でもそのために練習を重ねていっても、なかなか思うように鍵盤を弾けなくなった。スランプから脱するために練習の時間を増やして、休日には寝食以外の時間を全てピアノに費やした。でも弾く毎に納得のいく演奏ができなくなって。周囲が重圧をかけたせい、と責任を転嫁させたくなくて。でも自分の実力不足を認める勇気も出なくて。

 その頃からだっただろうか。ピアノを楽しめなくなったのは。

「でも結局、大会では上手くいかなくて………」

「期待されるって、どういう気持ちなんだろうね?」

 「え?」と梨子は千歌の顔を見た。この夜に千歌は梨子に不安げな表情を見せる。

「沼津出るとき、みんな見送りに来てくれたでしょ? 皆が来てくれて凄い嬉しかったけど、実はちょっぴり怖かった。期待に応えなくちゃ、って。失敗できないぞ、って」

「千歌ちゃん………」

 あの頃のわたしと一緒だ、と思った。かつて期待を背負っていた身として、梨子は千歌に何かアドバイスをすべきなのかもしれない。でも、何が最善なのか梨子にも分からない。気にしない、なんて無責任に考えられず、ただ重圧を背負ったまま受け流すことが梨子にはできなかった。今だって、スクールアイドル活動でその頃の不安を誤魔化しているだけ。千歌にかけてあげられる言葉が、全く見つからない。

「ごめんね」

 沈黙を破ったのは千歌だった。

「全然関係ない話して」

 「ううん」と梨子はかぶりを振る。こうして互いの不安を打ち明けることができただけでも、少しは肩の荷が降りたのかもしれない。不安なのは自分だけじゃない。そう思えるだけでも十分だ。

「ありがとう」

 梨子の言葉に込めた意味が分からなかったのか、千歌は「え?」と呆ける。梨子はそれ以上のことを言わなかった。この会話がどれだけ有難いか、今の千歌ならそう遠くないうちに理解してくれるはず。

「寝よ、明日のために」

 いくら怖くても明日は必ずやって来る。全力を出すために今できることは、体を休めることだ。「うん」と千歌は応え、布団に横になる。梨子も布団に戻った。虫の音色がまるで子守歌のように、梨子を眠りへと誘ってくれた。

 

 

   3

 

 十千万の朝は随分と早かった。玄関では美渡が宿泊客の靴を並べていて、暖簾を潜った誠に「ああ、いらっしゃいませ」と挨拶してくれた。日を改めて出直そうとしたのだが、美渡は志満を呼んでくれて、多忙であろう志満も嫌な顔せず誠を居間へ通してくれた。

 前日でもアポイントくらいは取っておくべきだった。

 お盆を手にした従業員が宴会場と厨房を行き来し朝食の準備に追われているのを見て、誠はそう思った。

「いつも朝はこんな感じなんですか?」

「これでも暇なほうですよ。ここ最近はお客様も少ないですし」

 アンノウンだろうな、と誠は察しがつく。警視庁はアンノウンの公表をまだ決断しかねているが、市民にはとっくに異形の存在が知られているだろう。志満もきっと、客足が遠のいた原因を察しているはずだ。それを言わないのは、きっと刑事である誠を気遣ってのこと。市民の恐怖を全く取り除けない刑事を前にしても、志満は嫌味など微塵も見せず誠にコーヒーを出してくれる。

「済みません、お忙しいところに突然お邪魔してしまって」

 「いえ、気にしないでください」と志満は誠の向かいに腰かけ、

「それで、今日はどうしたんですか?」

 誠は先日のことを話した。高海伸幸の家で発見された、裏返ったテニスボールとUSBメモリのことを。

「じゃあ、その映像には何も映っていなかったんですか?」

「ええ。志満さんはお父さんの家に行ったことは?」

「何度かあります。でも、隠し棚があっただなんて知りませんでした。それに………」

「ええ、妙ですよね。何故お父さんはUSBをあんな場所に隠しておかなければならなかったのか。お父さんは神話や伝説の研究者だと聞きましたが、具体的にはどんな研究をなさっていたんですか?」

 志満は自分のコーヒーカップに視線を落とし、

「詳しいことは知りません。ただ、古い神話は全てひとつに繋がっている、と言ってましたけど」

 誠は高校時代、よく歴史の教師が自慢げに話していたことを思い出した。色々な国の神話には似通った部分がある。例えば日本神話でイザナギは亡き妻に会うために黄泉の国へ行くエピソードがある。ギリシャ神話でもオルフェウスという吟遊詩人がイザナギ同様に亡き妻に会うため冥界へと行く。

 宗教や民族の数だけ伝説は存在している。それぞれに共通点があり、それら全ての起源を辿ると、やがてひとつの神話へと収束する。高海伸幸の研究とは、全てのルーツとなる神話の祖を突き止めることだったのだろうか。だとしたら、超能力がその研究にどう関係しているというのか。

「志満さん、お父さんに何か特別な力を持っていたということはありませんか?」

 「父がですか?」と志満は少しばかり戸惑ったように誠を見返す。

「いえ、そんなことはないと思いますけど………」

「力を隠していたとか」

 「氷川さん」と志満はまるで諭すように言った。その眼差しに誠は思わず怖気づいてしまう。

「父の事件を捜査してくれているのは嬉しいですけど、超能力なんて信じられません。裏返ったテニスボールだって、初めからそういう風に作ろうと思えば作れるかもしれないですし」

 試しに梨子の力を見てもらおうか、と思ってみる。だが彼女の力を見せて超能力の存在を実証してみせたとして何になるのだろう。ただ志満を論破するだけで、事件そのものは解決しない。仮に高海伸幸がアンノウンに殺害された推理が的中していたとしても、アンノウンなんて不可思議な存在に父を奪われた遺族の空虚は決して埋まらないのだから。

「そんなものは有り得ません」

 志満の断言に、誠は反論することができなかった。コーヒーを飲み干し、「今日は済みませんでした」と頭を下げると、客人を謝罪させてしまったことで罰が悪くなったのか志満は「いえ」と両手を振って、

「私のほうこそ済みません。氷川さんは私たち家族のために捜査してくれているのに………」

「いえ、警察が不甲斐ないばかりに何も進展せず――」

「あなたの責任じゃありません。またいつでもいらしてください。うちは日帰り温泉もやってますので。あとモーニングコーヒーも」

 そう言ってくれる志満の優しい笑顔が、誠の決意を更に強める。この人と、この人の家族が心の底から笑えるよう、この事件を解決させなければ。

「そういえば、津上さんは?」

「翔一君なら畑にいますよ。東京で怪我したみたいなんですけど、本人は平気って全然休もうとしなくて」

 どうやら翔一はアンノウンに襲われたことを言わなかったらしい。もっとも、警察としてはそちらの方が都合の良いことだ。依然として正体不明なアンノウンの存在を市民に告げたところで混乱が生じるだけ。まだ時期じゃない、と上層部は沈黙を決め込んでいる。

 志満の言う通り、翔一は裏庭の畑で野菜の苗に水をやっていた。青々と生い茂る葉の間に、同系色のピーマンが見える。

「津上さん」

 誠が声をかけると、翔一はこちらを振り返りいつもの笑みで迎えてくれる。

「ああ、氷川さんもこっちに戻ってたんですか。やだなあ言ってくださいよ」

 「今お茶でも淹れます」と立ち上がる翔一を「あ、いや」と手で制し、

「そんなことより、どうです? その後体の具合は」

「特に変わりないです。あ、そうだ。今何時ですか?」

 誠は腕時計を見ながら答える。

「8時10分です」

「ということは後6時間で俺死ぬかもしれないんだ。忘れてました」

 「忘れてた?」と誠は水道場へと歩く翔一を追う。昨日もだが、何故そんなにあっけらかんとしていられるのか、まるで理解できない。

「君は怖くないんですか?」

 誠の質問に翔一はジョウロに水を注ぎながら「うーん」と、

「分かりません」

「分からない?」

「俺、何か死なないような気がするんですけど」

 よっぽどの大物か呑気なのか。小沢は翔一のことをそう推測していたが、こうして話すと確信できる。この青年はただ底抜けに呑気なだけだ。自分には平穏しか訪れず、それがほんの一手で崩れることがないと信じ切っている。呑気という言葉じゃ足りないくらいだ。

「何故? 何故そんな風に思うんです?」

「だって、『いま』生きてるじゃないですか」

 そう言って翔一は水道の蛇口を締め、まだ土が濡れていないピーマンの苗に水をやり始める。

「何が言いたいのか分からないな………」

 今この瞬間に生きているからといって、それが続いていくわけじゃない。事故や災害という理不尽から突然命を落とす者だって大勢いる。世の中は人間にそう甘くない。この青年は記憶を失ってこうなったのか、それとも元からこうだったのか。

 「あ、そんなことより」と翔一は実ったピーマンのひとつを摘み取る。

「どうですかピーマン。うちのは無農薬ですから、生でも安心して食べられますよ」

「いや、僕は………」

「ピーマン嫌いでした?」

「いや、嫌いじゃないですが………」

 「あれ?」と翔一は分かりやすいほどに悲しい表情を浮かべ、

「もうすぐ死ぬかもしれない俺のピーマンが食べられないんだ。寂しいなあ………」

 しゃがみ込んで子供のようにべそをかく翔一の後ろ姿は見るに堪えない。

「あ……、いただきます。是非食べさせてください」

 誠が言うと翔一はまるでバネのような勢いで立ち上がり、満面の笑みで「はい」とピーマンを差し出してくる。張りのある青く色付いた実を一口齧ると、無意識に「美味しい」という言葉がこぼれ出た。生なのに苦味も青臭さもない。

「あ、そうだ。ついでに草むしりも手伝ってもらえません?」

「ああ済みません。これから仕事でまた東京に行かなくちゃいけないので」

 「そうですか……」と翔一の声がまた沈む。

「あーあ。もうすぐ死ぬかもしれないのに、死ぬ前に氷川さんと草むしりしたかったなあ………」

 ピーマンを食べる手を止めて振り返ると、翔一はまたしゃがみ込んでいる。こんな姿を見ると本当にこの人は死なないんじゃないか、と思えてしまうが、万が一本当に死なれたら後味が悪い。死なないようアンノウンは必ず倒すが。

「分かりましたやりましょう津上さん」

 スーツのジャケットを脱いで、誠は翔一の隣にしゃがんで肩を叩いた。

「やりましょうよ草むしり。ほらそこの所生えてますよ」

 

 






 氷川さんはAqoursメンバーよりも志満さんとの絡みが多い気がしてきました。

 志満さんは『アギト』の美杉先生の役割なので氷川さんと絡むのは必然的ではあるのですが、男女ということから少しでも気を抜くとロマンスになりそうなので厄介です。


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第5話

 

   1

 

「翔一くーん、電話よ。千歌ちゃんから」

 志満から呼ばれ、翔一は土に汚れた軍手を外して中へ入った。志満から受話器を受け取り「もしもし」と言うと、受話器から千歌の明るい声が聞こえてくる。

『あ、翔一くん?』

「千歌ちゃん、どうしたの?」

『もう、心配だから電話したんじゃん。どこか痛いところとかない?』

「大丈夫だよ。昨日だってよく眠れたしさ。もう、千歌ちゃんも氷川さんも心配症だなあ」

『え、氷川さんもそっち戻ってたの?』

「うん。さっき草むしり手伝ってもらったけど帰ってもらった。あの人不器用なんだよね。根っこだけ残したりしてさ」

 千歌の控え目な笑い声が聞こえる。「そんなことより」と翔一は続ける。

「千歌ちゃん達こそ眠れた?」

 『うん』と返ってきた声は逡巡を挟んだ。それを誤魔化すように千歌は早口に、

『皆ぐっすりだったよ』

「そっかあ。千歌ちゃん達も結構立ち直り早いよね」

『何が?』

「だってさ、昨日ルビィちゃんと花丸ちゃんがアンノウンてやつに襲われたばっかなのにさ」

『だって翔一くんわたし達のこと守ってくれるんでしょ?』

 その言葉に翔一は逡巡した。確かにそれは約束した。千歌や志満や美渡のいる十千万。千歌が頑張っているAqoursの皆。その人たちのいる居場所を守りたい、と。

「そりゃそうだけど………」

『わたし達は翔一くんのこと信じてるだけだよ。いけない?』

「いけなかないけど………」

『離れてても翔一くんが守ってくれるから、わたし達頑張れるんだよ。今日のライブも絶対に成功させるから、翔一くん楽しみに待ってて』

「……うん、頑張って」

 

 通話を切ると、千歌はスマートフォンをポケットに仕舞った。旅館の前は朝早いからか、車も人も通っていない。こっそり練習着に着替えて部屋から出てきたが、皆はまだ寝ているだろうか。東の空から射し込む朝陽が眩しくて、千歌は目を細める。ひとりだけでいると、まるでこの時間と場所が自分の物のように感じられる。

 千歌は軽いストレッチを経て走り出す。慣れない土地だが昨日散策したお陰で周辺の地理情報は頭に入っているし、ランニングの目的地まではそう遠くもない。

 流石の東京も朝は静かだ。まだ通勤時間には早くて、道を通っているのは犬を散歩に連れている婦人に、千歌と同じくトレーニングに励むランナーしかいない。でも目的地の秋葉原が近くなると、昨日ほどではないにしろ喧騒が耳に届いてくる。

 秋葉原駅に隣接する高層ビル。その壁に設置されたモニターこそ、千歌が神田明神の他にどうしても行きたかった目的地だった。

 千歌が初めてμ’sを、スクールアイドルという存在を知った場所。

 千歌の夢が始まった場所。

 画面の中で歌っていた彼女たちは、千歌と同じ普通の高校生のはずだった。制服を着て学校に行って授業を受ける。そんなありきたりな日常の中で、皆で一丸になって歌とダンスを披露した。その活動は音ノ木坂学院の廃校を阻止しただけに留まらず、千歌のように後を続く者の(しるべ)としてその人気は衰えることを知らない。

 μ’sのリーダー、高坂穂乃果(こうさかほのか)。画面の中で千歌は彼女からこう言われた気がした。

 

 ――飛べるよ。いつだって飛べる――

 

「千歌ちゃん!」

 後ろから聞こえた曜の声に振り返ると、練習着姿の皆が息をあえがせている。

「やっぱり、ここだったんだね」

 曜がしたり顔で言う。

「練習するなら声かけて」

「ひとりで抜け駆けなんてしないでよね」

 と梨子と善子は呆れ気味に。

「帰りに神社でお祈りするずら!」

 張り切って拳を掲げる花丸に「だね」とルビィが穏やかに応じる。

 あの時とは違うんだ、と千歌は裡の温もりを覚える。こうして一緒に、またこの秋葉原に来る仲間ができた。わたしは確かに、夢への階段を上っている。

 暗転していたビルのモニターが突然BGMと共に映像を映し出す。画面をピンク色のハートマークが無数に埋め尽くし、やがてそれらが散るとロゴが表れた。

 『Love Live!』と。

「ラブライブ!」

 ルビィがいち早く反応する。

「今年のラブライブが発表になりました!」

 画面の中で『Love Live!』の下に『ENTRY START』のロゴが浮かんでいる。会場は例年通りアキバドーム。

「ついに来たね」

 曜が真剣な声色で告げる。「どうするの?」と梨子が訊いてきたが、そんなものは決まっている。

「もちろん出るよ。μ’sがそうだったように、学校を救ったように」

 学校の廃校。共に目指す仲間。そしてラブライブ。舞台も役者も全て揃った。Aqoursは今、μ’sと同じ物語に確かな1歩を踏み出している。

「さあ、行こう! 今、全力で輝こう!」

 千歌は手を差し出す。千歌の手に皆もそれぞれ手を重ねていき、世界に響かせようと声を揃えた。

「Aqours、サンシャイン!」

 

 

   2

 

 ――信じてる――

 

 千歌から告げられたその言葉は、一向に離れることなく翔一の裡で響き続けている。洗面所に掃除機をかけているとき、翔一はふと手を止めて鏡に映る自分を見つめた。もしかしたら、今日自分は死んでしまうかもしれない。

 今まで死というものは怖くなかった。生命はみな死ぬものだし、この世界にある生命のひとつである翔一にもいつかは必ず死が訪れる。ただ世界から消えるだけ。眠るときの闇が永遠になるだけ。翔一にとって死とはそれだけの、何てことのないはずだった。

 でもいざ、自分が死んだ後のことを想像してみると沸々とした恐怖が裡の奥底から這い出てくる。まず十千万の家事をする者がいなくなる。これは大した問題じゃない。翔一が世話になる前は姉妹で交代してやっていたらしい。高海家の家庭事情は翔一が来る前に戻るだけだ。

 なら、アンノウンはどうする。突如現れた怪物たちは誰が倒すのか。あの青い戦士か。いや、あの戦士には期待できない。いつもアンノウンは翔一が倒してきた。翔一が死ぬということは、もうアンノウンを倒せる者がいなくなるということだ。

 

 ――もし俺が死んだら、誰が千歌ちゃんを守るんだ――

 

 翔一が死ねば、千歌たちAqoursの面々も襲われて、成す術もなく殺されてしまう。翔一を受け入れてくれたあの笑顔が、歌が、この世界から無くなってしまう。

 この命は自分だけのものじゃない。翔一は気付く。記憶を失い身軽だったはずの自分が、いつの間にか多くの守るべきものを背負っていたということを。

 翔一は水道から水を出して、顔に冷水を打ち付けた。タオルで乱暴に水気を拭き取ると、掃除機を押し入れに片付けて外出の準備をする。

「あれ、翔一どっか行くの?」

 ヘルメットを手に玄関へ向かう途中、美渡から声をかけられる。

「ああ、うん。千歌ちゃん達夕方には帰ってくるんだよね? ライブの成功祝いにケーキ作ろうかな、って」

「ええ? それ気が早いんじゃない? 明日でもいいよ」

「でもほら、明日のことなんて分からないしさ、今日できることは今日やっておこうよ」

「何かちょっと変……」

 顔を覗き込んでくる美渡から逃れるように、靴を履きながら翔一は早口に言った。

「良いから良いから。気にしない気にしない。松月にレシピ貰いに行ってそれから買い物してくるから志満さんに言っといて」

 

 東京に戻ると、誠は初めに千歌たちの宿泊先を訪ねた。旅館の従業員に聞いたら不在とのことで、建物の前で待ってしばらくすると彼女たちは運動着姿で額に汗を滲ませながら帰ってきた。

 良かった、と誠は胸を撫でおろす。無事に一晩を明かせたらしい。誠に気付き、千歌たちは旅館の前で足を止めた。

「高海さん。皆さんも」

「氷川さん、沼津に戻ってたんじゃ………」

 千歌が目を丸くする。

「皆さんの護衛に、僕も就くことになっているので」

 そう告げると、言葉の意味を察したのか花丸が言う。

「護衛って、あのアンノウンずら?」

 先ほどまで楽し気に談笑していた彼女たちの表情が、一気に固まった。ルビィに至っては涙目になっている。「アンノウン……、知られざる者………」と呟く髪をシニヨンに纏めた少女はよく分からないが。

 大丈夫。今日は誠と一緒にGトレーラーも本庁に来ている。アンノウンが現れたらG3を万全の状態で出動させることができるはず。彼女たちが参加するアイドルイベントの会場にも護衛人員が配備される。抜かりはない。

 不安材料があるとすれば、それは誠がアンノウン相手に上手く立ち回れるか。不安を表に出すまいと、誠は力強く告げた。

「心配しないでください。皆さんの身の安全は、警察が全力をあげて守ります」

 

 

   3

 

「翔一君がケーキかあ。細かく教えちゃうとうちより美味しく作られちゃいそうね」

 カフェスペースのテーブルでメモ用紙にペンを走らせながら、女性店主が感慨深そうに言う。

「カボチャを使いたいんですけど、どうすれば美味しくできますか?」

「チーズを合わせると良いわ。生地と混ぜて焼くだけだし、濃厚でしっとり仕上がるわよ」

 「へえー」と翔一は漏らす。チーズを使う発想はなかった。あと卵の臭みを消すためにバニラオイルで香り付けすることも。

「バニラオイルって添加物ですよね? できれば使いたくないんですけど、レモンとかオレンジ果汁とかで代用できないですか?」

 試しに行ってみると、店主は「ふふ」と微笑し、

「研究熱心ね翔一君。うちではそうしてるわ。本当に、すぐ追い越されちゃいそう」

 レシピを書き終えると、店主はメモを翔一に手渡してくれる。材料を一通り頭に入れると、翔一はポケットに大切に仕舞った。

「ありがとうございます。今度お礼にうちのピーマン持ってきますんで。あ、でも俺今日で――」

 言いかけたところで失言に気付く。「ん?」と眉を潜める店主に「ああ何でもないです」と誤魔化すと、翔一はヘルメットを掴み店を出た。

 あとはスーパーで材料を揃えよう。早く帰って調理に取り組まなければ。バイクで海岸沿いの道路を走っている途中で、前触れもなく戦慄が翔一の体を走る。いる、奴が。この近くにアンノウンと誠が呼んだ敵がいる。

 バイクを路肩で停め辺りを見渡す。人は殆どいない。この場にいるのは翔一と、歩道を歩く長い黒髪の少女ふたりだけ。きょろきょろと視線を巡らせる翔一を不審がってか、少女はほくろのある口元を固く結び吊り上がった眼差しを向けてくる。その少女の足元に、昨日も見た触手が這っていた。咄嗟にバイクのギアを入れてアクセルを捻る。同時に触手が飛び掛かり、少女に到達する寸前に回り込んだバイクのボディが触手の針を弾いた。

「逃げて!」

「な、何ですの?」

「早く!」

 うろたえている少女に声を飛ばし、翔一は主のもとへ引っ込んでいく触手を追うべくバイクを走らせる。道路のすぐ近くに広がる山の樹々から、サソリのアンノウンが跳び出してくる。

「変身!」

 裡から沸き出た光で、アギトに変身した翔一は容赦なくアンノウン目掛けてバイクで突っ込んでいく。ただ轢かれただけでは何ともないのか、アンノウンはカウルにしがみ付いてきた。翔一は更にエンジンを吹かし、アンノウンに組み付かれたままバイクを走らせる。

 確か近くにボート置き場があったはず。そこなら少しは戦いやすくなるだろう。アンノウンに前方の視界を遮られているせいで上手く走れない。蛇行運転を繰り返し、組み付いた状態で繰り出される拳をいなし、時に反撃しながらも翔一はボートが並べられた目的地へと辿り着く。内浦湾に突き出すように伸びる埠頭の中腹でバイクを急停止させると、慣性でアンノウンが投げ出された。でも、それくらいで倒れるほどやわな敵じゃない。

 バイクから降りた翔一は角を開いた。神経を集中させ、跳躍と同時に力を込めた右足をアンノウンへ突き出す。アンノウンは慄くことなく、頭上の光輪から出した盾を掲げた。翔一の右足が、盾の寸前で見えない障壁に阻まれる。

 一瞬の間を置いて、翔一の体が弾かれた。足から力が抜けて、角が閉じる感覚を覚える。並の攻撃では駄目か。ならば、あの盾で弾けないほどの突進力なら。

 翔一はバイクに跨り、アクセルを捻りエンジンのスロットルを上げていく。十分な動力を得た頃を見計らい、マシンを発進させた。さっきよりも速く。奴の盾を弾くほど速く。アクセルを更に捻り、スピードをあげていく。一瞬、目の前の地面が青く光った気がした。それが何かを確認する間もなく通過してしまう。

 

 ――アギトは、もうすぐ死にます――

 

 頭の中で甘美な声が響いた。何だ今のは。だがそれに意識を向ける間もなく、翔一はバイクに意識を戻さなければならなくなった。あの光は罠だったのか。ハンドルが固定されたように動かない。ハンドルだけでなくアクセルとブレーキバーも。これはアンノウンの能力なのか。

 敵は好機と見たのか、光輪から出した斧を翔一目掛けて投げてきた。バイクは猛スピードのまま止まらない。止む無しと、翔一はシートから跳び上がる。

 

 ――まだ早い。アギトは貴重なサンプルだ。アギトを殺してはならない――

 

 宙を舞っている間にまた声が聞こえた。今度は違う声。全く聞き覚えのない男の声だ。だがまた、翔一の意識は声に向ける間がなくなった。

 腰を降ろそうとしたバイクの車体が、スライドするようにして前後に伸びた。前輪と後輪は縦から横へと回転する。地面からホイールが離れたにも関わらず、バイクは浮いたまま高速で走っていた。なし崩しに翔一はサーフボードの容量で、ホバー走行する車体に両足を落ち着けた。

 これは一体――

 考えている間にアンノウンの横を通り過ぎてしまう。埠頭の先端へ差し掛かったところで、バイクは急旋回する。何故かは分からないが、こいつは俺の意思で動いてくれるのか。試しに念じてみると、スピードが上がった。

 この速さなら、いける。

 翔一は再び角を開く。狼狽したアンノウンも再び斧を投げてくるが、マシンはすう、と宙を滑るようにして避けてしまう。

 バイクを急停止させると共に、翔一の体が射出される。アンノウンは盾を構えたが、「はああああああああああああっ‼」と雄叫びと共に突き出した翔一の右足は障壁も盾本体も貫き、アンノウンの胸に突き刺さった。あまりのスピードのせいか、着地して数メートルほど足裏が地面を擦って止まる。

 振り返ると穴の開いた盾が落ちていて、傍では仰向けになり胸を陥没させたアンノウンが、倒れた反動で上がった両脚を遅れて地面に降ろす。同時に、その体が爆発し木端微塵に四散していく。

 バイクが翔一の傍まで飛んできた。もはやバイクでなくなったマシンをどう扱えばいいか。悩んでいるとマシンは車体を縮小させ、ホイールを地面に付けたバイクへと戻った。

 

 

   4

 

 旅館をチェックアウトして会場に向かうと、全面ガラス張りの開放的なロビーでスタッフの女性がイベントの説明をしてくれた。

「ランキング?」

 千歌が反芻するとスタッフは「ええ」と揚々とした様子で応え、

「会場のお客さんの投票で、出場するスクールアイドルのランキングを決めることになったの!」

 このスタッフとは初対面だが、千歌の知っている顔だ。まだμ’sが活動していた時期、この人はラブライブやスクールアイドル関連のイベントのレポーターを務めていた。当時はかなりのハイテンションぶりで有名だったが、数年たって流石に落ち着いたらしい。

「上位に入れば、一気に有名になるチャンス、ってことですか?」

 曜が訊くと「まあ、そうだね」と応え、

「Aqoursの出番は2番目。元気にはっちゃけちゃってね!」

 とスタッフルームに引っ込んでいく。確かイベントに参加するグループは全部で30組だったはず。その2番目に披露。それの意味することを梨子が口に出す。

「前座ってことね」

 「仕方ないですよ」とルビィが続いた。

「周りは全部ラブライブの決勝に出たことあるグループばかりですから」

 「そうずらか……」と花丸も沈んだ声で言う。

 千歌だって、強者揃いのイベントだということは理解していた。全国で5千以上ものスクールアイドルのなかで人気上位の30組。ルビィの言う通りラブライブ決勝への出場経験があるグループが揃っている。

「でも、チャンスなんだ。頑張らなきゃ」

 その言葉と共に千歌は拳を強く握りしめる。

周りは人気グループ。自分たちには場違いなステージなのかもしれない。でもわたし達はここにいる。Aqoursが肩を並べるほどに上り詰めた。それは紛れもない事実だ。

 だから成功させなければいけない。更に人気を押し上げるために。

 

 控え室では特にライバル同士で意識するような緊迫した雰囲気はなく、違うグループでも顔見知りの面々が談笑に華を咲かせている。人気グループでも自分たちと同じ高校生なんだな、と千歌は感慨を覚えた。

 割り当てられたスペースで衣装に着替えると、自然と体に力が入るようだった。ふと隣を見やると、梨子が微かに脚を震わせている。そんな彼女に曜が「緊張してる?」と声を掛けると、隠すことなく「そりゃあね」と梨子は応えた。

「じゃあ、わたしと一緒に敬礼」

 「おはヨーソロー!」と曜が敬礼すると、「お、おはヨーソロー……」と梨子は戸惑いながらも倣う。すると曜は満足げに笑い、

「よくできました。緊張が解けるおまじないだよ」

 それでも梨子以上に緊張している者もいる。隅でルビィがうずくまり嗚咽を漏らしている。

「やっぱり無理です………」

 スクールアイドルに熱心なルビィはこのイベントがどれ程のものか、きっとメンバーの中で最も理解している。千歌がどう言葉をかければ良いか探しあぐねていると、花丸がルビィの肩を抱いてささやく。

「ルビィちゃん、ふんばルビィずら」

 まるで魔法でもかけられたかのように、ルビィの表情から不安が抜けていく。目尻に涙を浮かべた彼女は、花丸と一緒になってようやく笑うことができた。

 善子はというと、何やら気色悪い笑みを浮かべながら何かをぶつぶつと呟いている。彼女は大丈夫そうだ。

「駄目駄目、弱気になっちゃ」

 千歌は自分の両頬を叩く。大事なステージで、観客に不安な顔なんて見せるわけにいかない。

「Aqoursのみなさーん! お願いしまーす!」

 女性スタッフの声が聞こえる。まだイベントは始まっていないが、Aqoursは2番目。開始前の時点から舞台袖で待機しなければならない。

 ステージの袖ではスタッフ達がイベントの進行チェックにせわしない。我慢できなかったのか1年生たちが幕の間から観客席を覗き込んでいて、ルビィが「す、すごい人です……」と怖気づいている。「だ、だ、だ、大丈夫よ」と善子が上ずった声で何とかはっぱを掛けようとしている様子がおかしくて、千歌はつい笑ってしまう。

 背後からふたり分の足音が近づいてきた。その音は訓練された軍靴のように揃っていて、何度歩みを重ねても狂いが生じない。振り返ると、バレリーナを思わせる衣装のスクールアイドル、昨日に神田明神で会ったふたりが靴を鳴らしてこちらへと歩いてくる。ふたりは千歌の前で足を止めた。長身の少女が昨日と同じ自信に満ちた眼差しで千歌を射貫く。

「よろしくお願いしますね」

「スクールアイドル、だったんですか……」

 驚愕のあまりに声が詰まってしまう。そんな千歌がおかしいのか、長身の少女は微笑を零し、

「あれ、言ってませんでしたっけ? わたしは、鹿角聖良(かづのせいら)

 名乗ると、聖良は颯爽とステージへ向かっていく。もうひとりの小柄な少女はひと言も発することなく無言で千歌に刺すような視線を向けてくる。千歌だけでなく、Aqours全員に対してのようにも思えた。

「理亜」

 聖良が呼ぶと、理亜と呼ばれた少女は相棒のもとへと歩き出す。理亜が隣につくと、聖良は千歌たちに背を向けたまま告げた。重圧も不安も、全て自信というものに変換したかのような、よく通った声で。

「見てて。わたし達、Saint_Snow(セイントスノウ)のステージを」

 

 






次章 くやしくないの? / 捕獲作戦!


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第8章 くやしくないの? / 捕獲作戦!
第1話


 今回、『アギト』原作では榊亜紀(さかきあき)というキャラクターが涼の恋人ポジションとして登場するエピソードなのですが、本作では登場することはありません。
 理由としましては果南がまだ生存しているのに他の女性に目移りしてしまっては涼が浮気性に見えてしまうので、本作で涼の相手は果南ひとりという方針になりました。
 なので今回の『アギト』サイドは氷川視点以外は本作オリジナルエピソードになります。




 

   1

 

 ステージ上で、ふたり組のアイドルがスポットライトを浴びている。満員の観客席から談笑の声が次第に小さくなっていき、誰もがステージから放たれる音を心待ちにする期待の波紋が広がっていくようだ。初めて見るライブという雰囲気を、誠は観客席の最後列から俯瞰する。

 仕事上ステージばかりを見ているわけにはいかないのだが、彼女たちの堂々とした出で立ちは無意識に誠が視線を向けてしまうほどに煌びやかに映った。アイドルというコンテンツに疎い誠でも、彼女たちが「普通の」女子高生でないことは理解できる。これだけ多くの人々を目の前にして、ああも背筋を伸ばして立っているだけでも褒められたことなのに、これから更に歌って踊ろうとしているだなんて。

 インカムから微かにノイズが聞こえた。誠は意識を耳元へ向ける。小沢の声だ。

『氷川君、そっちの様子は?』

「まだアンノウンは現れていません」

 『そう……』と小沢の安堵のような吐息が聞こえた。

『実はね、さっき沼津市内でアンノウン出現の通報があったわ』

「沼津で?」

 またルビィと花丸を狙うと東京まで来たのに、とんだ見当外れだ。『それで――』と小沢は続ける。

『アギトによって撃破されたそうよ』

 深い安堵の溜め息が漏れた。でもまだ安心はできない。

「アンノウンの姿について、情報はありますか?」

『斧と盾を持っていて、サソリみたいな姿をしていたそうよ』

 間違いない。昨日と同一個体だ。

『あと、その通報を沼津署にしたのが津上翔一なんだけど………』

「津上さんが?」

『ええ、彼の体内にある金属異物がどうなったか、確かめるために私たちは沼津に戻りましょう。昨日襲われた少女たちも、もうアンノウンに襲われる心配はないわけだし』

 『それに……』と濁す小沢の声は普段からは考えられない程に弱く、誠の不安を煽った。

『何やら大きなことが動いているようね』

 

「ではー! トップバッターはこのグループ、Saint_Snow!」

 マイクを手にした司会者――さっきの女性スタッフだ――が告げると、観客たちが一斉に歓声をあげる。でもそれはすぐに静まって、観客もSaint_Snowのふたりも、そして舞台袖にいる千歌もパフォーマンスの始まりを見守る。

 ふたりを照らすスポットライトが消えた。間髪入れず曲のイントロが流れ始める。同時にステージの舞台ライトが四方から彼女たちを照らし、その光も赤から青へ、青から白へ、白からまた赤へと変化していく。

 これが東京のステージ、と千歌は会場の雰囲気に呑み込まれてしまいそうだった。それでも会場より意識が向くのは、やはりSaint_Snowのダンスと歌声。最初は聖良のソロパートで、彼女に目が向きそうだが隣で踊る理亜の存在感にも引かれていく。

 メインボーカルの聖良の声に、理亜のコーラスを乗せても阻害されることなく引き立たせている。それでいてダンスのステップも、まるでふたりは同じ糸で吊られた人形のように狂いなく同調している。

 曲の時間はどれくらいだっただろう。ふたりがフィニッシュのポーズを決めたときには、とても短い時間のように感じられる。気が付けば会場には空気を割る勢いの歓声が沸き上がっていて、その空気の震えがこのイベントがどれほど高レベルなものかを示している。それを見せつけたのは、紛れもなくSaint_Snowのふたり。

 まだ歓声が止まないうちにも進行が次へと移る。

「続いて人気急上昇中のフレッシュなスクールアイドル、Aqoursの皆さんです!」

 その司会の声が耳に届いた観客はどれほどいたのだろう。観客席に手を振りながらステージから消えていく聖良とそれを追う理亜の背中を呆然と見つめる千歌に、曜が「千歌ちゃん」と呼びかけてくれたお陰でようやく我に返る。

 大丈夫、と千歌は裡で自身に言い聞かせる。ちゃんと練習した。体調も万全に整えてある。絶好のコンディションだ。

 怖がる心配なんてない。望んでいた大きな舞台。ここで、ひいてはラブライブのドーム大会で歌うんだ。きゅ、と拳を握り、千歌は曲がりそうな背筋を伸ばして足を踏み出した。

 

 

   2

 

 対アンノウンの最前線であるG3ユニットも、警察組織の中で所詮は末端の実働部隊でしかない。だから上層部で何が動いているかは全てが決定してから通達されるのが常だ。いかにも官僚的な発想は現場の人間にとっては迷惑なものだが、その上からの命令で市民にアンノウンの存在を大っぴらに告白することができない誠も同じ穴の狢といったところか。

 イベント会場からGトレーラーに戻ってすぐ、小沢から聞いた決定事項を誠は反芻する。

「アギト捕獲作戦?」

「ええ、さっき上から通達があってね。北條透の指揮のもと、機動隊の人員を使って特別チームを編成しているらしいわ」

「アギトを………」

「いつかこうなるとは思っていたけど、指揮官が北條透というのがどうもね………」

 そういえば、と誠は思い出す。河野は最近になって北條の様子がおかしいと言っていた。霞が関の本庁舎に足しげく通っているという話も聞いている。全ては作戦の準備のためだったということか。

「もし捕獲された場合、アギトはどうなるんでしょう?」

「まあ、感謝状に金一封ってことはないわね。アンノウンとの関係性。その存在はいかなるものなのか。当局は利用できるのかできないのか。とにかくあらゆる角度から徹底的な調査がなされるでしょう」

「研究材料、ってことですか?」

「そういうことになるわね」

 アギトの正体を知りたいのは誠も同じだ。でも、この捕獲作戦には嫌な予感しかしない。もし機動隊が必要以上の装備を行使してアギトを殺してしまったら、と。これまでアンノウンの殆どがアギトによって倒されてきた。G3装着員としては情けない考えだが、もしアギトが失われてしまった場合、果たして誠だけでアンノウンと戦えるのか自信がない。

 「あれ?」と小沢はカーゴ内を見渡し、

「ところで普段から影が薄いせいか今やっといないことに気付いたけど、尾室君は?」

 何て酷い言い方を、と苦言を呈したいが、誠も今気付いた。「もう」と小沢は苛立ちを露わにして、

「置いてって私たちだけで戻りましょうか?」

「それは流石に………」

 噂をすれば何とやら。丁度そこへ尾室がカーゴに入ってくる。

「ああ氷川さん、戻ってましたか」

 「あんたどこで油売ってたのよ?」と小沢が言うと尾室は口を尖らせる。

「失敬な、科捜研に行ってたんですよ。これを調べに」

 ずい、と尾室はポリ袋に入ったUSBメモリを示す。

「それがどうしたって?」

 面倒臭そうに小沢が訊く。「ええ、変だと思いませんか?」と尾室はベンチに腰掛け、

「3年前に殺害された高海氏は、何故何も映っていない映像を隠しておかなければならなかったのか」

 確かにそれは気になっていたことだ。ただ暗闇とノイズだけのデータに、高海伸幸は何の意味を見出していたのか。

「実は、初めてこれの映像を見たときから、ある違和感を抱いていたのですが………」

 顎に手を添える尾室の仕草が芝居じみて滑稽に見えたのか、小沢は吹き出しながら、

「ちょっとあんた何カッコつけてんのよ。言いたいことあるならさっさと言いなさい」

「だから音ですよ音!」

 いつもの調子に戻った尾室に、誠は「音?」と尋ねる。

「はい。これの映像、殆ど聞き取れないくらいの声が入っていたんです。増幅して録音してきましたから、聴いてみてください」

 そう言って尾室はポケットからICレコーダーを出して再生ボタンを押す。ざざ、というノイズが流れ始め、カーゴ内に響く。

「何よ、何も入ってないじゃない」

 小沢が言うと尾室はすかさず「しっ」と人差し指を口に当てる。再び沈黙のなかノイズだけの時間が訪れ、しばらく経ってレコーダーからようやく女性の声と認識できる音が紡ぎ出された。

『……………こっちに来て……――こっちに来て……――こっちに来て………――』

 

 

   3

 

 スカイツリーにシンボルの座と電波塔としての役割を譲っても、東京タワーは現役で稼働していた。非常時の予備電波塔に切り替わり、塔周辺に展開していた商業施設の多くが撤退している。それでも長く東京のシンボルであり続けた赤い塔の大展望台には、かつてよりは慎ましやかだが観光客もいる。

 デッキから見下ろせる中心都市(メトロポリス)の摩天楼を眺めながら、梨子は隣にいる曜に語る。

「この街、1300万人も人が住んでいるのよ」

 「そうなんだ」と曜はがらんどうに答えた。語っておきながら、梨子もその人口数の意味することをよく理解できていない。

「って言われても、全然想像できないけどね」

「やっぱり違うのかな? そういう所で暮らしていると」

 曜の質問に梨子はどう答えたらいいか分からない。自分も以前は、この街に住む1300万人のひとりだった。だからといって、沼津に住む曜や他の面々と意識の相違があるとも思えない。

「どこまで行ってもビルずら」

 すぐ隣で花丸の声が聞こえる。ルビィの声も。ちらりと横目で見ると、ふたりは双眼鏡で街を見ている。

「あれが富士山かな?」

「ずら」

 沼津ではすぐ近くに大きく見える富士山も、東京では遠くて小さい。

 結論から述べると、イベントでのAqoursのパフォーマンスは失敗に終わった。大きなミスは犯さなかったが、成功と失敗の2択だと失敗に天秤は傾いた。

 曲が終わった後に観客から向けられたのは、Saint_Snowの時とは分かりやすいほどに慎ましやかな拍手だった。まるで子供のお遊戯会を労うような。こんな大勢の前でよく歌って踊れたね、というお世辞の拍手。

「ふっふっふ………」

 後ろから不気味な笑い声が聞こえる。振り返ると、感傷なんて微塵も感じられない善子が、昨日購入したマントとアクセサリーを身に着けて不敵に笑っている。

「最終呪詛プロジェクト、ルシファーを解放。リトルデーモンを召喚!」

 すっかり堕天使を楽しんでいるらしい。「かっこいい」と呟くあたり満足のいく出来に仕上がったようだ。さっきのステージで披露したのは堕天使とは無縁の『夢で夜空を照らしたい』だったから、ここで発散させたいのだろう。一種のガス抜きだ。

「善子ちゃんは元気だね」

 ルビィが言うと善子はすかさず、

「善子じゃなくて、ヨ・ハ・ネ!」

 はあ、と梨子は深く溜め息をつく。善子と同じくらい気持ちの切り替えができたらどれほど幸せなことか。

「お待たせー!」

 いつもの明るい声で、千歌がアイスクリームの箱を抱えて駆け寄ってくる。

「何これ凄い、キラキラしてる!」

 普段と変わらない様子が、尚更に梨子の裡を重くする。曜も同じらしく、「千歌ちゃん……」と消え入りそうに呼びかけるも当の本人には届いていないのか、千歌は皆にアイスを配り始める。

「それにこれもすっごい美味しいよ。食べる?」

 沼津にはアイスクリームパーラーが無いから、こういったコンビニ以外で買えるアイスは珍しい。でも、アイスを受け取る面々の表情はどれも暗くて重い。

「全力で頑張ったんだよ。わたしね、今日のライブ今まで歌ってきたなかで出来は1番良かった、って思った。声も出てたし、ミスも1番少なかったし」

 それは梨子も感じていたことだ。出来は良かった。これまでで1番のパフォーマンスと言っていいほどに。あくまでAqoursとしては。「でも――」と言いかけるが千歌は遮るように、

「それに、周りは皆ラブライブ本戦に出場しているような人たちでしょ? 優勝できなくて当たり前だよ」

 こんなものが、千歌の言葉なのだろうか。スクールアイドルが好きで、μ’sのように輝きたいと願って、ラブライブ出場に向かって走る千歌が、こんなことを言っていいのだろうか。

 梨子は反論する。とはいえ、言葉を追うごとに声が弱くなっていったが。

「だけど、ラブライブの決勝に出ようと思ったら、今日出ていた人たちくらい上手くならないといけない、ってことでしょ………?」

 「それはそうだけど」と千歌は言いかけるが、畳みかけるように曜が、

「わたしね、Saint_Snow見たときに思ったの。これがトップレベルのスクールアイドルなんだ、って。このくらいできなきゃ駄目なんだ、って。なのに入賞すらしていなかった。あの人たちのレベルでも無理なんだ、って」

 ライバルなのに魅了されてしまうほどのパフォーマンスをしてみせたSaint_Snowでも、優勝どころか上位入賞を逃した。イベントの勝者として優勝盾を受け取ったのは、スクールアイドルのソーシャルサイトでのランキング上位に座しているグループだった。既に人気を得たグループが観客の支持を集めるのは当然と言える。

「それはルビィもちょっと思った」

「マルも………」

 沈んだふたりに反して、善子は「な、何言ってるのよ」と腕を組み、

「あれはたまたまでしょ? 天界が放った魔力によって――」

「何がたまたまなの?」

「何が魔力ずら?」

 とルビィと花丸が双眼鏡で善子の顔を覗き込む。「いや、それは――」と頬を染めながら善子がそっぽを向くと、ふたりはようやく笑みを零した。

「慰めるの下手すぎずら」

「な、何よ! 人が気利かせてあげたのに!」

 「そうだよ」と言う千歌の声は、まるで自身に言い聞かせているように梨子には思えた。

「今はそんなこと考えてもしょうがないよ。それよりさ、せっかくの東京だし皆で楽しもうよ」

 とてもじゃないけど楽しめないよ。こんな、皆が上辺だけの笑顔で取り繕ったところで、どこへ行っても楽しめるはずがない。

 着信音が聞こえた。千歌のスマートフォンらしく、端末をタッチして耳に当てる。

「高海です。………え? はい、まだ近くにいますけど」

 

 

   4

 

 沼津に戻ったGトレーラーは市内の病院に直行した。昨日アンノウンに襲われた時間帯を考えると、翔一は余命1時間もない。にも関わらず、バイクで病院に来た翔一はあっけらかんとした笑顔で「こんにちは」と氷川に挨拶し、誠と共に検査に立ち会う小沢とも互いに自己紹介した。

「氷川君と働いてる小沢澄子よ」

「津上翔一です」

 何故小沢も検査に立ち会うことになったのかというと、彼女が単純に翔一に興味があるとのことだった。天才である小沢の目に翔一はどう映っているのだろう。よほどの大物か、ただ呑気なのか。もしかしたら、また別の人物像を捉えるのかもしれない。少なくとも誠には、やはり呑気にしか見えない。

 昨日と全く同じ検査が行われたわけだが、結果は異常なし。心臓付近に確かにあったはずの異物は跡形もなく消滅していた。初めから無かったかのように。本当に異物なんてあったのか、と医師が疑うほどだった。

「そっかあ、やっぱり治ってたんだ」

 検査を終え、診察室に張り出されたレントゲン写真を見て翔一は自分の胸をさすり、

「何かこの辺がすっきりしたなあ、って思ってたんです」

 「良かったわね、本当に」と小沢は翔一に笑みを向けると視線をレントゲン写真へと戻し、

「それにしてもこの短時間でこうも綺麗に金属異物が消滅するとはね。やっぱりこの異物の存在はアンノウンの力によって支えられていた、ってことでしょうね」

 金属異物を取り出して分析したわけじゃないからまだ仮説の域を出ないが、的中していたら本当に翔一は危ないところだった。今頃は誠の目の前で凍死していたかもしれない。

「君はアギトがアンノウンを倒したと言いましたが――」

 誠の続きを小沢が身を乗り出す勢いで引き継ぐ。

「それなのよ。君の目から見て何か気付いたことはない? アギトとアンノウンについて。彼らについてはまだ何も分かっていなくてね。どんな小さな情報でも欲しいんだけど」

 「そういわれても………」と翔一は顔をしかめ、

「俺もアンノウンについて知りたいんですけど」

 「アギトは?」と誠は訊いた。

「アギトに関してはどうです? どんな印象を持ちました?」

「アギトですか………」

 翔一は更に顔をしかめる。命を救ってくれた恩人なのだからきっと感謝の念を抱くと思っていたのだが、翔一はさも興味なさげに、

「まあ……、別に」

「別に? 君はアンノウンには興味があるのに、アギトには関心がないと言うんですか?」

 思わず語気を強めて詰め寄ると翔一は手を振りながら、

「いやそんな大した奴じゃありませんよ」

「アギトに助けてもらったのに何故そんなことを言うんです? 君には感謝の念というものが無いんですか?」

「あれ氷川さん、何だってそんなムキになるんです? もしかしてアギトのこと好きなんですか? やだなあ」

 何で翔一が照れているのか分からない。大体論点は誠でなく翔一のアギトに対する情だろう。

「君は――」

 言いかけたところで誠は口を止めた。何を言っても翔一には無駄な気がする。助け船を求めに小沢のほうを向いたが、彼女は面白そうに誠と翔一を見て笑っている。

 「あ、そうそう」と翔一は思い出したように、

「氷川さんさっきまで東京行ってたんですよね?」

「ええ、そうですが」

「どうでした千歌ちゃん達。ライブ盛り上がってましたか?」

「ああ、済みません。彼女たちの出番が来る前に戻ったので」

 「そうですか……」と翔一は少しばかり残念そうな顔を見せるもすぐ笑顔になり、

「でも頑張ってましたしね皆。早く帰ってケーキ作らないと。ありがとうございました」

 そう言って翔一は軽い足取りで診察室を出て行く。出口に向かってロビーを歩くその背中を見送りながら小沢が開口一番に、

「面白い子ね。気に入ったわ」

「彼がですか?」

 一体彼のどこに面白味を見出したのか。天才という人間の感性は凡人の誠には理解できない。もしかして小沢と翔一は波長が合うというのだろうか。だとしたら翔一も呑気ではなく本物、ということか。

「氷川君はああいう子と付き合ったほうが良いわね。きっとあなたのプラスになるから」

「そんな、まさか」

 勘弁してほしい。翔一と話すと疲労度が一気に増す。体力も気力も削っていく彼との交流が一体誠に何をもたらすのか。小沢がそれを見出したのなら正体を教えてほしいところだ。

「それにしても、どうせ無事なら戻る前に観てくれば良かったわね。アイドルイベント」

「別にいいですよ。アイドルには興味ないですし」

 「そう?」と小沢は誠をじ、と見上げてくる。何もかもが見透かされそうで視線を逸らしたいが、そうしたところで効果はないだろう。一聞(いちぶん)すれば奇天烈でも、小沢の発言には不思議と説得力がある。本当にそうなってしまうのではないか、と思わせるような。

「案外氷川君はハマるかもしれないわね。そういった息抜きもプラスになるわ」

 



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第2話

   1

 

 渡したい物があるから、まだ近くにいるなら会場まで来てほしい。

 女性スタッフからその旨の連絡を受けて、千歌たちは会場前まで戻ってきた。イベントが終わってある程度経ったから、会場の建物周辺にあまり人はいない。それでも内浦に住む千歌にとっては東京ではありふれた人の多さが縁日並に感じる。そういえば沼津はもうすぐ夏祭りだった、と今更ながらに千歌は思い出した。

「ごめんなさいね呼び戻しちゃって。これ渡し忘れていたから、って思って」

 会場前で待っていた女性スタッフは申し訳なさそうに言いながらA4サイズの封筒を差し出してくる。「何だろう?」と後ろのほうでルビィの声がする。「もしかして、ギャラ?」と期待する善子に「卑しいずら」と窘める花丸の声も。

 千歌はすぐに封筒を受け取ることができなかった。不安が込み上げてくる。続けて紡がれた女性スタッフの言葉はまるで予感を裏付けるように、

「今回、お客さんの投票で入賞グループ決めたでしょ。その集計結果」

「わざわざすみません」

 手の震えを何とか抑えつけ、ようやく千歌は封筒を受け取る。

「正直どうしようかなあ、ってちょっと迷ったんだけど、出場してもらったグループにはちゃんと渡すことにしてるから」

「はあ………」

 「じゃあ」と挨拶もそこそこに、女性スタッフは建物に駆け足で入っていった。

「見る?」

 曜が訊いてきて、千歌は「うん」と応える。皆が集まって、視線を封筒に集中させている。封筒を開けることができた根拠が勇気によるものなのか、正直なところ分からない。この時、千歌は不安も期待も抱いていなかったように思えるし、同時に両方を抱いていたとも言える。不安も期待も同じ量で、互いを相殺し無になっていたのかもしれない。

 封筒に入っている紙は2枚あった。

「上位入賞したグループだけじゃなくて、出場グループ全部の得票数が書いてある」

 左から順位、グループ名、得票数という順に記されている目録の中で、Saint_Snowは9位に位置している。入賞は8位までだから、惜しいところまで行ったということだ。

「Aqoursはどこずら?」

 花丸に促され、千歌は上からグループ名を追っていく。1枚目に記されたのは15位まで。2枚目を差し替え、16位からのグループ名を追っていくと、ようやくAqoursの名前を見つけることができた。

 目録の最後にある30、つまりは最下位に。

「30位………」

 「ビリってこと⁉」と声をあげる善子に「わざわざ言わなくていいずら」と花丸が文句を飛ばす。

「得票数はどれくらい?」

 あくまで冷静に梨子が訊いてくる。微かな望みを取り零すまいと、千歌は右端に記録されている数字を見た。

 記されていた数字は――

「………ゼロ?」

 得票数ゼロ。それの意味することを理解するのに、千歌はしばしの時間を要した。ようやく実感が持てたのはルビィが「そんな……」と漏らし、続けて梨子の述べた言葉によってだ。

「わたし達に入れた人、ひとりもいなかったってこと?」

 つまりはそういうこと。ステージ上で、Aqoursは何も成せなかったということになる。

 観客の誰も笑顔にできず。

 観客の誰も感動させられず。

 Aqoursの誰も輝くことができなかった。

 全身が冷たくなっていくように錯覚する。ライブ前に感じていたはずの熱が消えて、足元がふらついてくる。

「お疲れ様でした」

 その声に紙から視線を離すと、Saint_Snowのふたりが立っている。

「Saint_Snowさん………」

「素敵な歌で、とても良いパフォーマンスだったと思います」

 皮肉などおくびにも出さず聖良は告げる。ふたりにもこの集計結果は渡されているはず。自分たちの結果は勿論、こうして声をかけたのならAqoursの結果も知っているのだろう。ここは同じステージに立ったライバルとして千歌も健闘を称えるべきだった。でも何も言葉が見つからず、千歌がただ口を半開きにしている間にも聖良の言葉は続く。よく通る声で、とても冷たく。

「ただ、もしμ’sのようにラブライブを目指しているのだとしたら、諦めたほうが良いかもしれません」

 聖良は笑顔だ。それなのにとても恐ろしく感じられる。

 絶対に諦めない。

 せっかく見つけた夢を、そう簡単に手放したくない。

 諦めちゃ駄目なんだ、ってμ’sも歌っていた。それで彼女たちは成し遂げた。

 わたし達にだってできるはず。

 ライブ前なら、反論の言葉をいくらでも並べることができただろう。でも後になっては、得票数ゼロのパフォーマンスを晒した千歌が言っても負け犬の遠吠え。実力も伴わずに大声ばかりを張り上げる愚者の妄言だ。

 聖良は去っていく。でも理亜のほうは千歌たちへ鋭い視線を向けたまま動かない。

「馬鹿にしないで」

 ステージ上での歌声は聞いたが、こうして会話上での理亜の声を聞くのは初めてだった。まるで棘、いや剣のように鋭い声色だが、千歌の意識が向いたのは彼女の吊り上がった目尻に浮かぶ涙だった。

「ラブライブは、遊びじゃない!」

 それは、本気でイベントに臨んだ者が流せる涙だ。遊びじゃないのはこっちも同じ、と言うべきなのだが、千歌は理亜の涙で気付く。Saint_Snowよりも散々な結果だったのに、ついさっき1番のパフォーマンスだった、と豪語していた千歌には、反論する資格なんて無い。

 涙を乱暴に拭い、理亜は聖良の後を追っていった。

 

 

   2

 

 半日の間に東京と沼津を往復してきて流石に疲労を否めないが、沼津署に戻った誠と小沢に休息を取る暇はなかった。そもそも沼津へ戻ることになった理由が沼津署で行われる「アギト捕獲作戦」の会議で、G3ユニットの誠たちにも当然出席義務がある。

 会議室へ向かう廊下で、できることなら会わせたくない顔と遭遇する。もっとも、ここで避けられたとしても会議で顔合わせになるのだが。

「お久しぶりです小沢さん」

 相変わらずスーツが瀟洒な北條の挨拶を「はいどうも」と適当にいなし、小沢はそのまま素通りしようとする。だが「ああそういえば――」と続けようとする北條の声に小沢は深い溜め息をつき足を止め、誠も彼女に倣う。

「まだお礼を言っていませんでしたね」

「お礼?」

 「ええ」と応える北條はとても溌剌としている。

「短い間でしたがあなたと一緒にG3ユニットで働けて、とても勉強になりました」

「そう、良かったわね」

 それ以上の会話をしたくないのか、小沢は再び歩き出す。誠も彼女を追おうとしたとき、「ああ、氷川さん」とまた北條に呼び止められる。

「いらしたんですか。影が薄いせいで今気付きましたよ」

 極力関わろうとしなかった小沢も我慢の限界が来たのか、誠の代わりと言わんばかりに声を荒げて北條に詰め寄る。

「ちょっとあんた喧嘩売ってんの?」

「冗談ですよ。でもアギト捕獲作戦が成功したらどうでしょう。対アンノウンの戦力としてアギトを制御できるようになったら、本当にG3は影が薄くなるでしょうね」

 もしアギトが警察に協力してくれたら、と誠は想像してみる。きっと殆どのアンノウンはアギトによって撃破されるだろう。戦果を挙げないG3ユニットは規模が縮小され、やがて解散に追い込まれて完全に戦力はアギトに取って代わられるかもしれない。でも誠に危機感はなかった。G3装着員の立場を北條に取って代わられた頃、とうに決心したことだ。たとえG3装着員でなくなっても、自分はアンノウンと戦う、と。

「失礼します」

 そう告げて一足先に会議室へと歩いていく北條の背中に向けて、小沢は吐き捨てる。

「まったく信じられないわ。あんな嫌な奴が現実にこの世にいるなんて」

「でも、本当に可能なんでしょうか? アギトの力を制御して利用するなんてことが」

「さあね、捕まえてみなければ何とも言えないけど」

 

 会議の様相は、これまでとは異なるものになっていた。

 不可能犯罪対策本部、ひいては警察においての会議とは大抵の場合事件が起こってから行われる。まだ何も起こっていないこの場は会議というより、PC越しにいる警備部長からの報告会に近い。

『これまでの例を見て、G3システムの活躍を期待しても、アンノウンの出現に際して常に速やかなる対応ができるわけではない。諸君らも既に知っていると思うが、我々幹部会がアギト捕獲作戦を決議したのもそのためだ。同作戦が成功すれば、アンノウンに対抗する新たな手段が見出せる。我々はそう信じている』

 誠の隣に座る小沢はひどく機嫌が悪そうだった。北條が指揮を執るということもあるだろが、恐らく上層部がG3ユニットの意見を聞くことなく作戦を決議したことも気に入らないのだろう。アンノウンとアギトに最も肉迫しているのは自分たち、特にG3装着員として前線に立つ誠だ。アンノウンの恐ろしいほどの強さと、それに渡り合うアギトの力を誠は間近で目撃している。だからこそ、この捕獲作戦が果たして上手くいくか疑問を拭えない。果たして捕獲に成功したとしても、何をもってアギトの力を制御しようというのか。相手が言葉を持つ生命体なのかも分からないのに。

 北條が進言する。

「安心してください。期待を裏切るようなことにはなりません。既に機動隊の人員を借り、アギト捕獲のための特別チームを編成しました。隊員たちは既にこちらへ到着しています。いつでも動くことができるでしょう」

『しかし問題はいつどこでアギトが現れるかだ』

「焦ることはありません。必ずチャンスは訪れます」

 すると北條は誠のほうを一瞥し微笑を浮かべ、

「アンノウンに襲われて生還した人物が、また襲われる可能性があります。その人たちに護衛を付けましょう。既に3名ほど絞り込めています。先日東京で襲撃を受けた黒澤ルビィ、国木田花丸。2ヶ月ほど前に襲われた松浦果南」

 何が護衛だ、と誠は裡で怒りを覚えた。まるで彼女たちがアンノウンをおびき寄せる囮じゃないか。守るはずの市民を、作戦のために敢えて危険に晒そうなんて。

 反対してくれることを期待して警備部長の映るPCへ目を向けるが、部長も補佐官も合点がいったかのように頷いている。我慢しきれず誠は立ち上がった。

「ひとつ質問があるのですが」

『何かね?』

「我々の敵はアンノウンのはずです。アギトよりもまず、アンノウンの捕獲を優先するべきではないでしょうか?」

 「私も氷川主任の意見に賛成です」と小沢も立ち上がり、

「我々はまだアンノウンについて何も知らない。アンノウンを捕獲できれば貴重なサンプルになると思いますが」

 ふふ、と鼻で笑う音が聞こえた。見やるとその音源はやはり北條で、やれやれ、といった表情を向けてくる。

「どうやらあなた達は大きな勘違いをしているようですね」

 「勘違い?」と小沢が威圧するように訊くが北條は余裕な佇まいを崩さず、

「我々はアギトもアンノウンと同種の者と考え、この捕獲作戦を立案したんです。当然でしょう。アギトもアンノウンも我々の常識を遥かに超えた力を持っている。アギト捕獲も、アンノウン捕獲も同じことですよ」

 悔しいが反論ができない。反論するのに、現状で誠たちには知らないことが多すぎる。アギトの正体も、アギトがアンノウンと戦う理由も。

 会議が始まる前に小沢が言っていた通り、捕まえてみないことには何も分からない。何せ、相手は正体不明(アンノウン)の存在なのだから。

 

 結局G3ユニットの意見は聞き入れられないまま、会議は終了した。機動隊まで参加するほどの作戦だから、上層部としても面子を保つために今更覆すことなんてできない。捕獲対象もアンノウンに切り替えることもできず、作戦の変更は一切なし。会議室から出た小沢は北條をバカ男アホ男と、上層部を頭の固い親父連中と悪態をつくことなく、誠の横で静かに歩いている。

 完全に自分たちは蚊帳の外だ。G3は万が一の事態に陥った場合の保険でしかない。そもそも、警備部長だって作戦の立案当初はG3ユニットの参加に前向きだったはずだ。それをしなかったのは、きっと北條の進言だろう。G3システムに頼らず自らの手でアギトを捕獲し、優秀性を認めさせるために。

 彼のことを考えてしまったせいか、「小沢さん」と本人の声に振り返る。相手が明らか拒絶を表情に出しているにも構わず、北條は小沢へと歩み寄る。

「今日は嬉しかったですよ。あなたの人間らしい一面が垣間見えて」

「嬉しい? 何のことよ?」

「アギトを捕獲されたくないという、あなたの気持ちですよ」

 心情を読み取られまいと、小沢は黙って口を結ぶ。それを良いことに北條の弁は止まらない。

「アギトを我々の戦力として制御できるようになれば、G3の必要性が薄くなるかもしれない。あなたはそうなることを怖れているんだ。出来の悪いG3システムでも、生みの親のあなたとしては愛着があるようですね」

 「何言ってんのよ」と小沢は語気を強め、

「出来が悪いのはあなたのほうでしょ!」

「まあそうムキにならないでください。G3システムにもまだ使い道はあります」

 すると北條は誠へと向き、

「交通整理くらいならできるでしょう。ね、氷川さん」

 ぽん、と肩に手を置いて颯爽と歩き去っていく。その背中が見えなくなると、ようやく誠は気付いたことを口に出す。

「小沢さん、いま初めて思いましたよ。北條さん、やっぱり嫌な人かもしれない、って」

「今更何言ってんのよ。でも最近益々グレードアップしてるみたいだけど」

 じゃあ、前から北條は嫌な人間だったということか。それも今更ながらに気が付いた。既に知っていたとは、やはり小沢は天才と謳われるだけある。

 

 

   3

 

 線路を走る電車の音が絶えず響いているが、東京の喧騒に比べると不思議と静かに思える。実際車内は静かで、皆の誰もが会話もせずシートに身を預けている。ちらり、と曜が花丸のほうを見ると、東京駅で買ってきた饅頭を手に持ったまま口に運ぼうとしない。

「泣いてたね、あの子」

 花丸の隣に座るルビィが、走行音でかき消されそうなほどか細い声で呟いた。

「きっと悔しかったんだね、入賞できなくて」

「ずら………」

 「だからって」と善子は苛立ったように、

「ラブライブを馬鹿にしないで、なんて――」

 言葉を詰まらせ、善子は沈んだ顔で視線を落とす。馬鹿になんてしていない。それは曜も同じだ。曜だけでなく、この場にいる皆も同じはず。本気でラブライブを目指して練習してきた。だからといって熱意で実力が付くかと問われれば、肯定もできるわけじゃない。

「でも、そう見えたのかも」

 曜がその事実を告げると、場の雰囲気がまた深く落ちていく。AqoursやSaint_Snowだけじゃなく、あのイベントに出場した全てのグループがお遊び気分だったわけじゃない。皆が本気だった。本気だったからこそ、観客の誰からも支持されないパフォーマンスでステージに立ったAqoursを理亜は許せなかったのかもしれない。

「わたしは良かったと思うけどな」

 車窓から見える海を眺めていた千歌が言った。

「精一杯やったんだもん。努力して頑張って東京に呼ばれたんだよ。それだけで凄いことだと思う。でしょ?」

 「それは……」と花丸が言いかけたが、続きを詰まらせる。同意したいけど、して良いものかためらったように見える。千歌は続きを遮るように、

「だから、胸張っていいと思う。今のわたし達の精一杯ができたんだから」

 こんな時でも、千歌は笑顔を絶やさない。幼い頃からそうだった。一緒にやっていた水泳を辞める時も、父の葬式の時も、千歌は曜に一切悲しい顔なんて見せなくて、笑顔を浮かべていた。

「千歌ちゃん」

 曜はじっと千歌の顔を見つめ呼ぶ。千歌の笑顔に今まで元気を与えてもらった。でも、その笑顔が苦しめてしまう時だってある。だから曜はその問いを投げなければならなかった。

「千歌ちゃんは悔しくないの?」

 他の皆の視線を一斉に感じる。この問いは、皆が抱いていたものだ。ずっと笑顔で1番の出来だった、良かった、と言う千歌に向けての。曜は再び問う。それがどれだけ酷な質問だろうと。

「悔しくないの?」

 千歌は戸惑いながらもまだ笑っている。

「そ、そりゃあちょっとは。でも満足だよ。皆であそこに立てて。わたしは……嬉しかった」

 どうして、と曜は訊きたかった。得票率ゼロで、ラブライブ出場は諦めたほうが良いなんて言われ、馬鹿にしないでと吐き捨てられた。悔しがっていい。悔しがったって誰も咎めない。それなのに、どうして千歌はここまで笑顔でいられるのだろう。どうして満足だなんて言葉を告げることができるのか。

「…………そっか」

 曜はそう言って会話を打ち切るしかできなかった。悔しくないの、とまたしつこく問い詰めたところで千歌は一貫して「満足」と返すだろう。埒の明かない口論をするには旅で疲れすぎた。

 

 

   4

 

 西の水平線に沈もうとしている夕陽の眩しさに、涼は目を細めた。海面には反射した陽光が一筋に伸びている。穏やかな波に揺れて不安定なその道はほどなくすれば消えてしまいそうで、異界へ繋がる道のように感じられる。

 ふと、涼はあの光の道を辿ってみようか、と考えてしまう。連絡船の操縦士に頼んで陽が沈んでしまう前にあの夕陽を越えれば、どこか違う世界へ行けそうな気がする。苦しみも悲しみもなく、何も失うこともない世界へ。

 でも、そんなことはできないだろう。水平線の先まで泳いでいきたい、と幼い頃は願っていた。でも水平線は延々と続くだけで、向こう側なんてものは存在しない。涼の乗る連絡船だって、長く航海できるほどのエンジンは積んでいないだろう。この連絡船が行くのは本土の目と鼻の先にある淡島だ。

 船着き場の桟橋を踏んだ涼は、そこから見えるダイビングショップへと視線を向けた。またここに来るなんて、と質の悪い悪戯のような縁に嬉しいのか悲しいのか分からない感慨を覚える。

 ポケットから出した手帳を開く。開いたページの中身は昨日初めて見つけた。隣のページと密着していることに気付いて開いてみると、そこに綴られた名前は涼に衝撃を与えるに十分なものだった。

 小原鞠莉。

 黒澤ダイヤ。

 松浦果南。

 3人目の名前は、最初こそ同姓同名の別人と思った。でも住所は間違いなくドルフィンハウスのもので、店のホームページにアクセスして確認してみると一字一句違えることなく一致していた。

 何で父さんが果南のことを。何度繰り返したのかも分からない問いを携えながら、涼は店へと歩いていく。足を進めていく毎に体が重くなり、動悸が激しくなっていく。一旦足を止め、深呼吸しても体の不安な強張りは治まる気配がない。

 ウッドデッキのテラスへ上がると、営業を終えた彼女は箒を手にテラスの掃き掃除をしている際中だった。

「あ、すみません。今日はもう閉店で――」

 愛想よく振り返った彼女の顔が、涼と視線を交わすと同時に険しくなる。こんな顔をされることは予想していた。こんなときは敢えて明るく「久しぶりだな」と声をかけるのが良いものか、涼が言葉を探しあぐねているうちに果南のほうから口を開いた。とても刺々しい口調で。

「何しに来たの?」

 

 



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第3話

   1

 

 沼津駅に到着する頃には、もう陽が暮れかけていて空が藍色になっていた。駅前で故郷の空気を味わうようにルビィが「戻ってきたあ」と溜め息交じりに告げる。花丸も胸を撫でおろしながら、

「やっと『ずら』って言えるずら」

「ずっと言ってたじゃない」

「ずらあ!」

 善子との漫才じみたやり取りを見て、梨子も戻ってきたんだな、という実感が沸いた。

 「おーい!」という大勢の声が聞こえて、商店街のほうを向く。そこにはクラスメイト達が集まっていて、「お帰りー!」と声を揃えながら梨子たちのほうへ駆け寄ってくる。

「どうだった、東京は?」

 いつきが訊いた。「ああ、うん……」と千歌は最初こそ歯切れが悪かったがすぐにいつもの調子を取り戻し、

「凄かったよ。何かステージもキラキラしてて」

 「ちゃんと歌えた?」とむつが訊いて、「緊張して間違ったりしなかった?」といつきも質問を重ねてくる。

「うん、それは何とか」

 応えた曜が「ね?」と目配せしてきて、意図を汲み取った梨子も「そうね」と調子を合わせる。

「ダンスのミスも無かったし」

 「そうそう」と千歌が総括するように言った。それ以上の追求を避けようとしているかのように。

「今までで1番のパフォーマンスだったね、って皆で話していたところだったんだ」

 「なあんだ、心配して損した」とよしみが安心したように言う。むつが興奮した様子で訊いてくる。

「じゃあじゃあ、もしかして本気でラブライブ決勝狙えちゃう、ってこと?」

 そのとき、千歌の表情が固まった。梨子たちにしか気付くことのできない変化に目を向けることなく、クラスメイト達は盛り上がっている。

「そうだよね。東京のイベント、呼ばれるくらいだもんね」

 止めることなんて梨子にはできなかった。止めれば本当のことを明かさなければいけなくなる。本当は失敗だったの。お客さんは誰もわたし達に投票してくれなかったの。ラブライブは諦めたほうが良い、って言われたの。

「そうだね。だと、良いけど」

 千歌は当たり障りなく応じた。応援してくれたこれだけの人達を失望させたくない。そんな彼女の想いが痛いほど伝わってきて、梨子の胸を締めつける。

 どうして、何も言ってあげられなかったんだろう。

 それは梨子の自身に向けた問いだった。昨晩の千歌は不安を打ち明けてくれたのに、梨子はどうして何もかけるべき言葉を見つけられなかったのだろう。失敗したときの絶望を乗り切る術を知っていたら、こんな気分にはならなかったかもしれない。クラスメイト達に矮小な嘘をつくこともなかったかもしれない。

「お帰りなさい」

 その声に向くとダイヤが立っていた。「お姉ちゃん………」とルビィが呼ぶと、ダイヤは普段とは全く異なる優しい微笑を浮かべる。笑うと凄く美人さんね、と梨子は思った。

 嗚咽が聞こえてくる。それを漏らしたのはルビィで、彼女は目に溜めた涙を弾かせながら姉の胸に飛び込んだ。ダイヤにはそれで全てが伝わった。いや、ダイヤはここに来た時点で察していたのかもしれない。彼女は驚くことなく、抱き留める妹の頭を優しく撫でているのだから。

「よく頑張ったわね」

 わたくしの前では、何も隠すことはありません。ダイヤはまるでそう言っているようで、ルビィの涙を優しく受け止めていた。

 

 

   2

 

 話を聞くのは少しだけ。

 そう決めていたのだが、陽が暮れたせいか長く話を聞いていたように思える。時間が経ったのはドルフィンハウスから移動したせいかもしれない。両親に涼の存在を知られるのは避けたい。

 街灯の光だけが頼れる夜のなかで、涼の開いた手帳の字が目を凝らさなければ見えないほど宵闇は深くなっていた。ページには確かに「松浦果南」という名前とドルフィンハウスの住所が綴られている。同じページには果南だけでなくダイヤと鞠莉の名前と住所まで。ぞわり、と背筋に走る悪寒を抑えながら果南は尋ねる。

「じゃあ、亡くなった涼のお父さんがこのリストを持ってた、ってこと?」

「ああ、父の遺品の中にあった。父は死ぬ1年半前に、あかつき号というフェリーボートに乗って事故に遭った。そしてその直後に消息を絶ち、死んだ」

 そこで涼は手帳を閉じ、果南に以前よりも疲れ切った目を向ける。

「聞き覚えはないか? あかつき号という名前に」

 あかつき号。

 裡でその船の名前を反芻するも、果南には全く思い当たる節がなかった。「知らない」と首を横に振ると涼は手帳を示し、

「じゃあ何故ここにお前の名前があるんだ? 何か隠してるんじゃないか? お前もあかつき号に乗っていた。一体あかつき号で何があったんだ?」

「いい加減にしてよ」

 沸々とした怒りを露わにしながら果南は言い放つ。

「お父さんのことは気の毒だけど、わたしを巻き込まないでよ。それ、わたしに会うための嘘なんじゃないの?」

「違う、俺は――」

「ごめん、わたし用事あるから」

 逃げるように果南は目的の場所へと歩く。後ろから涼が強引に手を引いてきたら大声でも出して人を呼ぼうとまで考えたが、涼はそうしなかった。それが尚更果南の胸を締め付ける。涼がもっと酷い男だったら、こんな想いをしなくて済むのに。もっと清々しい気持ちで、彼から離れることができるのに。

 

 狩野川に沿って吊られた提灯が優しい光を放っている。祭り当日までは期間があるが、準備を早めに行うことから大きな祭りなのだろう。東京と違って沼津で多くの人が行き交うのは、祭りやイベントのほんの一時だけ。間もなく街は眠るだろう。

「得票、ゼロですか」

 護岸が整備された川岸の階段に腰掛け、全てを聞いたダイヤは穏やかに言う。労いとも慰めとも取れるその声色に梨子は「はい……」と返した。

「やっぱりそういう事になってしまったのですね。今のスクールアイドルの中では」

 どういう事なのか。梨子は俯いていた視線をダイヤへ向ける。ダイヤは膝の上で眠るルビィの背中を撫でている。ルビィは気持ちようさそうに寝息を立てていて、その姿がまだ幼子のように映った。

「先に言っておきますけど、あなた達は決して駄目だったわけではないのです。スクールアイドルとして十分練習を積み、観てくれる人を楽しませるに足りるだけのパフォーマンスもしている」

 これまで彼女から向けられてきた言葉を顧みると、まるで手の平を返しているように聞こえる。でも、決して意気消沈した梨子たちを気遣っての安い慰めではないはず。彼女がその評価を下してくれているのなら、事実Aqoursは東京スクールアイドルワールドに出場するに相応しい実力があったということ。

「でも、それだけでは駄目なのです。もう、それだけでは………」

 「どういう事です?」と曜が訊いた。ダイヤは即答する。

「7,236。何の数字か分かります?」

 それに答えたのは善子だったのだが、

「ヨハネの――」

「違うずら」

「突っ込みはや!」

 善子と花丸の漫才に少しだけ気分が和んだのか、ダイヤは微笑を零して続ける。

「去年、最終的にラブライブにエントリーしたスクールアイドルの数ですわ」

 あまりの数字の大きさに、梨子はとても鵜呑みにはできなかった。現在スクールアイドル・ソーシャルサイトに登録されているグループよりも遥かに多い。アカウントを作らなくても活動はできるが、それを加味すれば日本で活動しているスクールアイドルはかなり膨大な数に昇りそうだ。

「第1回大会の10倍以上」

 「そんなに………」と千歌は上の空のように応じる。第1回ラブライブは数年前、μ’sが活動していた頃に開催された。優勝したのは当時から既に絶大な人気を誇っていたA-RISEで、μ’sは出場しなかったらしいのだが。

「スクールアイドルは確かに、以前から人気がありました。しかし、ラブライブの開催によってそれは爆発的なものになった。A-RISEとμ’sによってその人気は揺るぎないものになり、アキバドームで決勝が行われるまでになった。そして、レベルの向上を生んだのですわ」

 出場グループが増えて競争率が高まれば、必然的に全体のレベルは上がっていく。どのグループもA-RISEやμ’sのようなスクールアイドルを目指し、彼女たちのように輝きたい、と。当時の10倍以上にまで競争率が膨れ上がった今は、言うなればスクールアイドル全盛期。スクールアイドルは芸能事務所に所属していないアマチュアなのだが、全体的なレベルはもはやプロに匹敵していると言って良い。

「あなた達が誰にも支持されなかったのも、わたくし達が歌えなかったのも、仕方ないことなのです」

 「え?」と梨子は目を丸くする。梨子だけでなく、この場にいる皆が同じだった。ルビィも目を覚ましたのか、寝息が止まる。

「歌えなかった?」

 千歌が反芻した。「どういう事?」と善子も問う。

 ダイヤは語ってくれた。それが自分のものだろうが他人のものだろうが関係なしに、物語を読み聞かせるように淡々と。

「2年前、既に浦の星には統合になるかも、という噂がありましてね」

 それは浦の星女学院にかつて存在していた、もうひとつのスクールアイドルの物語。

 

 ダイヤと果南と鞠莉が入学した年、浦の星女学院の入学者は既に定員を大幅に下回っていた。入学試験なんてもはや形骸化していて、学費さえ積めば簡単に入学することができるほどに。入学した時点で空き教室が物置として使用されている学校では、どこから発したのか分からない統廃合という雰囲気が蔓延していた。

 状況を打破するのに、ダイヤが出した案は勿論スクールアイドルだった。自分たちが広告塔となって入学希望者を増やそう、と。幼い頃から妹のルビィと共に憧れ続けていた、μ’sと同じ偉業を自分たちも成し遂げよう、と。

 仲間として誘ったのは幼馴染でもある果南と鞠莉。幼い頃から習い事で歌と舞踊と嗜み、何よりもスクールアイドルを熟知しているダイヤ。ダイビングで鍛えた体力でダンスをすぐに習得できる果南。外国の血を受け継ぎ日本人離れした外見が華やかな鞠莉。この3人が揃えば絶対にできる、と確信していた。勧誘当初こそスクールアイドルに関心がなかった鞠莉に断られたが、そこは果南が入るまでハグする、と強引に引き入れた。

 季節は夏に入る頃で、その年のラブライブ開催が発表されたのとほぼ同時期。ソーシャルサイトにアップロードしたダイヤ達の初めての曲は好評で、一時的にだがランキング上昇率1位にまで跳ね上がった。グループの人気ランキングではいきなり99位に潜り込み、東京スクールアイドルワールドの出場権を勝ち取るほどにまでなった。

 順調にスターダムを駆け上がっている、と当時は思っていた。このままイベントで知名度を上げて、ラブライブに出場し、優勝を沼津へ持ち帰る。次の年度からは入学希望者が爆発的に増え、自分たちは学校を救いμ’sの再来と謳われる、と浮足立っていた。

 

「でも、歌えなかったのですわ」

 それが、ダイヤ達の物語の結末だった。

「他のグループのパフォーマンスの凄さと、巨大な会場の空気に圧倒され、何も歌えなかった」

 その悲しい結末を告げたダイヤは、どこか寂しそうに梨子の目には映った。いや、寂しいに違いない。幼い頃から憧れていた夢に近付いたと思ったら、一気に絶望へと突き落とされた。自分の未来を明るくしてくれる、と信じた夢にダイヤは裏切られてしまった。裏切りに対して怒っても、憎んでも、それは誰にも向けることができない。強いて向けられるとしたら、それは夢を見てしまった自分自身だ。

「あなた達は歌えただけ立派ですわ」

 全てを悟ったのか、曜が訊く。

「じゃあ、反対してたのは………」

「いつかこうなると思っていたから」

 梨子の裡で、ダイヤにこれまで向けられていた言葉が、全く別の意味へと変わった。

 

 ――これは今までのスクールアイドルの努力と、街の人達の善意があっての成功ですわ。勘違いしないように――

 

 あのファーストライブの直後に告げられた言葉を思い出す。あれは熱心なファンとしての苦言ではなく、スクールアイドルの先輩としての警告だった。このまま続けても自分たちと同じ轍を踏むだけ。二度と這い上がれない奈落にまで落ちてしまうことになる。自分の前でそんな様を見せてくれないでほしい。誰も自分たちと同じ想いをしないでほしい。

 歌えただけ立派と評されても、慰めにはならない。ダイヤもきっとただ純粋に評価しただけで、慰めの意図なんて無いのだろう。

 全力も出せずに下されたゼロと、全力を出してのゼロは全く意味が違うのだから。

 

 

   3

 

 ホテルオハラへの潜入ルートは、海路の他に陸路もある。幼い頃にダイヤと共に鞠莉を迎えに行くため、よく使っていたルートだ。同じルートを使えば鞠莉の親に見つかってしまうことも見越して、何通りかを切り開いている。子供だったから杜撰なところはあるが、成長した今でも陸路はなかなかに見つかりにくい有効な道程だった。

 小原家プライベート用のヘリポートと併設された船乗り場に着くと、果南は持参してきた懐中電灯を点滅させる。しばらく待っていると、モールス信号を受け取った鞠莉が部屋着のワンピース姿でやってきた。

「いつ以来かな、こうやって呼び出されるの」

 懐かしむように言う鞠莉に苛立ちを覚えながら果南は言う。

「ダイヤから聞いた。千歌たちのこと」

 「そう」とだけ何の気なしに鞠莉は応じる。鞠莉は理解しているはずだ。東京スクールアイドルワールドに行かせること。あのステージで叩きつけられる挫折を。

「どうするつもり? わたしもダイヤもずっと離れていたのに。千歌たちにスクールアイドルやらせて――」

「その何が悪かったの?」

 波の飛沫が降りかかってくる。上等な服が濡れるのも構わず、鞠莉は果南と対峙する。

「街の人も学校の人も、School Idolだと応援してくれたじゃない」

「ライブも上手くいったしね………」

 千歌たちAqoursのファーストライブは果南も見ていた。成功して良かった、という想いは確かにある。同時に不安もあった。このまま順調にソーシャルサイトの順位を上げたら、いずれ東京のイベントに呼ばれる日が来る。そこでレベルの高さと現実を目の当たりにしてしまうだろう、と。こんな事になるならわたしも止めればよかった、と果南は遅れた後悔を噛む。

「でも、外の人にも観てもらうとか、ラブライブに優勝して学校を救うとか、そんなのは絶対に無理なんだよ」

 それは自分たちで立証されたはず。現実を前にして、一介の高校生でしかない自分たちは無力だった。挫折から這い上がれず、同じ人間を生むまいと芽を摘み取りながら今まで過ごしてきた。それが最善だと思っていたのに、鞠莉は戻ってくるといきなり場をかき乱している。

「だから諦めろ、っていうの?」

「わたしはそうすべきだと思う」

 続きを告げようとしたとき、果南は鞠莉の仕草に目を剥いた。細くしなやかな両腕を広げて、鞠莉は果南を迎え入れようとしている。

「果南……」

 きっと、ダイヤにも手を差し伸べたに違いない。彼女がその手を取らなかったのは想像がつく。ならば果南は。答えは決まっている。

 つかつかと果南は鞠莉へと歩き、彼女の横を素通りする。すれ違い様にさっきの続きを告げながら。

「誰かが、傷付く前に」

 もう誰も傷付いてほしくない。それが千歌なら尚更だ。妹のように想ってきたあの子の笑顔を奪わないで。

「………わたしは諦めない」

 背後から波の音に消されそうなほど弱い声が聞こえてきたが、果南は足を止めなかった。止めてしまったら全てが無駄になる。立ち止まってはいけない。鞠莉と同じ道を歩いてはいけない。背にした彼女が泣き喚いていると分かっていても。

「必ず取り戻すの、あの時を! 果南とダイヤと失ったあの時を! わたしにとって……、宝物だったあの時を………」

 もう鞠莉の声は聞こえない。波の音しか響いていなかった。誰の耳にも届くことはないと分かっていても、果南は口に出さずにいられなかった。鞠莉とダイヤと千歌と、そして自分自身に向けたその言葉を。

「奇跡なんて起きないんだよ」

 

 ホテルオハラの敷地を出てすぐ、宵闇に溶けそうな人影を見つけた。見知った人物ではあったが、果南は警戒の目を向けながら影に告げる。

「しつこいね、本当に」

 慣れたものだ、とでも言いたげに影は月光の当たる場所へと出てくる。

「そこが良い所さ、俺の」

 そういえば、と果南は思い出す。涼の手帳にはダイヤと鞠莉の名前もあった。

「お願い涼。鞠莉とダイヤには会わないで。わたし達、いまそんなに余裕ないから」

「なら教えてくれ。何故死んだ父の手帳に果南の名前があるんだ?」

 涼はじ、っと果南の瞳を見つめてくる。その真剣な眼差しがどうしても嘘を付いているとは思えなかった。でも嘘でないとしても、どうして涼の父が果南とダイヤと鞠莉を知っていたのかは本当に分からない。

「ねえ、涼のお父さんがあかつき号に乗ったのって………」

「今から2年前だ」

 だとすると、果南たちが東京スクールアイドルワールドに出場したのとほぼ同時期だ。確か、それからしばらく経って涼がドルフィンハウスに初めて訪れた。でも、涼と出会ったのは夏休みに入ってから。イベントと出会いの中間。数週間ほどの期間が空いているのに、その辺りの記憶がどうにも曖昧だ。何の当たり障りもない日々だったから忘却してしまったのか。そういえば、夏休みの間は両親からとても心配されていたような気がする。果南が店の手伝いをしようとすれば「大丈夫?」と母は気遣っていた。

「………思い出せない、何も」

 駄目だ。思い出せないものはどうしようもない。しかし何故覚えていないのか。ぽっかりとその領域だけ穴が空いたみたいだ。

「果南!」

 唐突に、涼が果南を突き飛ばした。数舜前まで果南がいた所に、暗闇から異形の存在が飛び込んでくる。前とは違う。目の前にいるのはまるでジャッカルのような鋭い歯を剥き出しにした個体だった。逃げなくちゃ。そう思ったときには遅く、ジャッカルの怪物は鋭い爪が伸びた手を果南へ振り降ろす。

 その手が、横から伸びてきた涼の腕によって阻まれた。一回り大振りな剛腕を涼は容易く弾き、果南と怪物の間に割って入る。

「変身!」

 涼は変身した。あの時と同じ、明らか人間ではない緑と黒の筋肉を纏った生物に。

 怪物は涼に拳を突き出した。涼の反応は拳よりも早く、伸びてきた腕を右脇で挟み込み動きを封じて顔面に何度も左の拳を叩きこむ。追撃で腹を蹴り飛ばし、ようやく両者は離れた。すぐさま立ち上がった怪物は頭上に浮かぶ光輪から垂れてきた棒のようなものを手に取って引き抜く。身の丈ほどもある棒の先には大振りの鎌があって、涼の接近を拒むように前へ切っ先を向ける。

 涼もまた武器を取った。両手首から鋭い刃が伸びて、月光をぎらりと反射する。振るわれた鎌が涼の刃に弾かれた。怪物は足元に鎌を一閃するが、跳躍で避けられ宙を切る。そしてがら空きになった胸元に着地と同時に降ろされた涼の刃が走った。

 よろめいた怪物の胸から腹にかけて引かれた一筋の傷から血が垂れる。胸を抑えつけ、怪物は海へと飛び込んだ。

 恐ろしいほど静かになり、波の音が際立つ。涼は敵が浮上してこないかずっと赤い両眼で海面を見つめていたが、やがてその姿を元に戻す。人間の姿に戻った涼は崩れるように膝をついた。咄嗟に果南は駆け寄り、粗い呼吸を繰り返す彼の肩を支える。

「涼! 涼‼」

 果南の呼びかけに応じるように涼は地面に手をつき、懸命に体を持ち上げようとする。でもその腕も崩れ、涼は頭を地面に垂らした。

 

 



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第4話

 

   1

 

「早くお風呂入っちゃいなよ」

 十千万に到着すると、車で迎えに来てくれた美渡が文句を飛ばす。その文句の先にいる千歌はというと、しいたけの顎を撫でながら気の抜けた「うん」という返事を返す。

「梨子ちゃんも早く休んでね」

「はい、ありがとうございます」

 大口を開けて欠伸をしながら十千万に入っていく美渡を見送ると、まだしいたけを撫でる千歌の背中へと視線を向ける。しゃがんでいるせいか、千歌の背中はとても小さく感じられた。

「千歌ちゃん」

「ん?」

「大丈夫?」

 それは無駄な質問だったのかもしれない。そんな気遣いを寄せたところで、千歌の答えは決まっていると分かっているはずなのに。予想通り千歌は「うん」と返事をし、梨子のほうへ振り向く。

「少し考えてみるね。わたしがちゃんとしないと、みんな困っちゃうもんね」

 千歌の向けてくる笑顔が、普段なら不安を彼方へと吹き飛ばしてしまうほどのその笑顔が、今はとても梨子の胸を締め付ける。こんな時には何て言えばいいのだろう。敢えて普段通りに接するのか、励ませばいいのか。いや、励ましは既に受け取った。ダイヤから今のAqoursをファンとしても、スクールアイドルの先輩としても評価された。それが励ましと捉えられるかは本人次第だが。

「お帰り!」

 不意に、玄関から翔一が出てきた。こちらの懊悩など知らない彼は笑顔だ。いつも千歌と一緒になって浮かべている笑顔。知ればこの笑顔は消えるだろうか。彼の場合、それでも笑って過ごせそうだが。

「ふたりともお疲れ様。お祝いにケーキ作ったんだけどさ、食べる? 初めて作ったけど結構自信作なんだよねえ」

 「あの、津上さん………」と制止しようと試みるが、翔一を止めたのは梨子じゃなく千歌のほうだった。

「ごめん翔一くん。今日は疲れたからもう休むね。明日食べるよ」

 すっと立ち上がりそう言うと、千歌は十千万へと入っていく。ようやく、全てとはいかなくても何かを察してくれた翔一は真顔になって梨子に尋ねる。

「梨子ちゃん、何かあったの?」

 逡巡したが、梨子は言うべきという方に天秤を傾けた。梨子よりも千歌の傍にいる翔一には、知ってほしい。

「実は――」

 

 フォトフレームに縁どられた写真のなかで、幼い頃の千歌と曜がピースサインをしている。確か小学生の頃、運動会で撮った写真だ。曜が千歌との思い出を撮ったものはこの1枚だけじゃない。自室の壁に掛けてあるコルクボードには、曜が人生の大半を共に過ごしてきた千歌との思い出で埋め尽くされている。旅行先でのものから、何気ない日常まで。

 一緒に多くを過ごしてきたからこそ、曜には千歌の笑顔に隠れたものが視えている。

「千歌ちゃん、辞める?」

 まだ近い先ほどのこと。迎えの車に乗り込もうとする千歌に、曜はそう尋ねた。

「辞める? スクールアイドル」

 重ねて問いたが、千歌は無言のまま車に乗ってしまった。辞める、と問えば千歌は条件反射のように辞めない、と答える。それが千歌を鼓舞する応酬のはずだった。今更ながら、どうしてあんな言葉を吐いてしまったんだろう、と後悔する。

 千歌のスクールアイドルへの想いを誰よりも理解している、という自負があったのに。彼女がどれほどμ’sに憧れ、裡に灯した火を大事に温めてきたかを知っていたはずなのに。

 全国レベルの実力を見せつけたSaint_Snow。

 観客たちの視線を一身に受けるステージの空気。

 結果はゼロ。

 それらの事実は千歌の火を焚くどころか、消してしまうかもしれない。「好き」という気持ちが大きかった分、それだけふり幅も大きく絶望へと叩きつけられる。それこそダイヤ達のように。

 どうすれば良いんだろう。千歌の火は消したくない。でも、何が最善なのだろう。

 答えの出ない問いに、曜は深く溜め息をつくことしかできなかった。

 

『ええ、話しましたわ、きちんと』

「そう………」

『良かったんですわよね、これで』

 普段からは考えられない口調だ。白黒はっきりさせなければ気が済まないダイヤが、こんな他人に答えを委ねるなんて。迷ったところで、もう過ぎてしまったことだ。正しかった、と信じるほかない。

「良かったんだよ、これで」

 通話を切ると果南は対岸の、十千万の方角を眺めた。千歌はもう帰宅した頃だろうか。

 運命は何て残酷な仕打ちをするのだろう。スクールアイドルの事なんて当時も話したことはなかったし、イベント後なんて決して口に出すことはなかった。全ては同じ轍は踏まないために。同じ絶望を繰り返さないよう努めてきたはずなのに、まさか千歌が自分の後に続いてしまうなんて。

 自分たちの味わった絶望とは、大人になるための通過儀礼なのだろうか。誰もが同じ二度と這い上がれないほどの現実を突きつけられなければ、大人になれないということか。過ちを防ごうとしていた自分たちが、まるで馬鹿みたいだ。

 でもダイヤの言う通り、これで良かったのだろう。時間が解決してくれるとは限らないけど、千歌が立ち直ってくれることを願うしかない。スクールアイドルなんて無謀なことは辞めて、地に足のついたことを始めてほしい。

 リビングに戻ると、ソファに横たわる涼が寝息を立てている。さっきまでうなされていたが落ち着いたらしい。朝になれば両親が起きて気付かれる。そうなったら何て説明しよう。見ず知らずの他人が倒れていたから家にあげた。そう説明したところで、今度は何故救急車を呼ばなかったのか、と訊かれるのは目に見えている。訳あって病院には連れていけない、と言えば更に言い訳が苦しくなるだけだ。

 考え事をするには疲れすぎた。何もかもが億劫になる。もう、後は成すがままに任せよう。テーブルに身を預け、果南は眠りに落ちた。

 

 

   2

 

 波の音が聞こえた。押しては引いてを繰り返し、潮の香りを運んでくれる海の音。内浦も涼の故郷も関係なく、海は同じ音を奏でる。穏やかに波を揺らす日もあれば、激しく波を叩きつける日もある。海はとても気まぐれだ。人間も魚も広大な海の気まぐれに付き合わなければならない。荒れ狂う日になると漁師は出航を断念し、魚たちは激流に呑まれまいとねぐらに籠る。

 親だったら威厳も何もあったものじゃない我儘さだが、それでも海は涼を育ててくれた。父が獲ってきた魚介は涼の血となり肉となって、作られた肉体を荒波は更に鍛え上げてくれた。長い間プールで泳いできたから、幼い頃に教わった海の泳ぎ方はいつしかうろ覚えになっていた。

 故郷の海は、今はどうなっているだろう。人間でなくなった涼を、海は変わらず受け入れてくれるだろうか。

 

 ゆっくりと目蓋を開くと、まだ明けきっていない朝特有の薄暗さが意識の覚醒を遅らせた。鉛が沈んだかのような体の重さは眠気だけではないだろう。重い頭を横へ向けると、テーブルに突っ伏した果南の寝顔がある。普段は大人ぶって強がるくせに、こうした顔は子供のままだ。

 どうやらソファに寝かされているようだ。涼の体が収まりきらず、脚がはみ出している。そうなると、ここは果南の家なのか。店には何度も来たが、こうして居住スペースに入れてもらうのは初めてだ。もっとも、こんな事で入れてもらうことは望んでもいなかったが。

 上体を起こすにもひと苦労を要した。体重が何倍にも、体の筋肉が削ぎ落されたかのような錯覚に陥る。こんな体で果南を起こさないよう物音を立てないだけでも至難だ。腹筋も背筋も背筋を伸ばせないほど弱っているらしい。窓をそっと開けると潮風が室内に流れ込んでくる。深呼吸して香りを吸い込むと、少しだけ楽になった気がする。

 ウッドデッキに揃えられていた靴を履いて、重い体を引きずるように歩く。船着き場はドルフィンハウスのすぐ近くなのだが、それでも長い道のりのような疲労感が襲ってくる。船着き場には小舟が一艘だけ浮いていた。連絡船が出せないときの予備だろう。不安定な船に乗り込んだら危うく足を踏み外しそうになる。揺れで三半規管が狂い吐き気を催した。海に向かって嘔吐しようとするが、何も入っていない胃から出るものなんてない。ただ唾液が糸を引いて海面に落ちるだけだった。

 吐くものが無ければ、ただこの不快な胸やけが続いていくだけだ。体は明らか不調なのに、桟橋と船を繋ぐ鎖は素手で容易く引き千切ることができた。でたらめだ。弱っているのか強くなっているのか全く区別がつかない。いや、この異常な腕力の代償がこの倦怠感なのか。原因が分かったとしても力を抑える術が分からない。

 治まる気配のない吐き気を飲み込みながら、涼はオールを漕ぎ始める。

 

 ひゅー、というすきま風の音が、眠りの海から果南を浮上させる。目をこすると視界がはっきりと輪郭を取り戻し、タオルケットが無造作に放置された無人のソファを映し出す。咄嗟にウッドデッキへのガラス窓を見ると、閉じ切っていない窓から流れる風がカーテンを揺らしている。窓際へ行くと涼の靴がない。

 不意に頭に電流が走ったかのような感覚を覚え、果南は額を手で押さえる。数舜、頭の中で映像のようなものが流れた。海沿いの岩場で涼が這うように小舟から降りている。たったそれだけで映像は霞のように消える。一体これが何なのか、正体を推測する間も惜しくなり果南は玄関へ向かう。リモコン式のキーを掴み、外へ飛び出すと迷わず桟橋へ走り海面に揺れているジェットスキーに跨った。

 

 昨晩にアンノウンらしき通報を淡島の住民から受けてから、不可能犯罪対策班は本格的に作戦実行へと動いていた。護衛を松浦果南ひとりに絞り、再びアンノウン出現を見越して淡島へ、誠たちG3ユニットも捕獲チームと共に集結させる。離島である淡島へ隊員たちを移送するのに北條はボートの手配までしたそうだが、それは果南が本土に上陸したことで手間が省けた。

 待機が始まってから数時間、夜通しインナースーツを着て待ち構えているがアンノウンはまだ現れていない。Gトレーラーで味気ない携帯食のゼリーを喉に流し込みながら、誠は小沢の向かうPCの液晶を眺める。画面に映るのは撮影班のカメラが映すライブ映像の、獅子浜にある無人のボート置き場。正確に言うと無人ではない。果南がジェットスキーで来る少し前、小舟に乗った男性が上陸したことが確認されている。

 男性は千鳥脚だった。泥酔しているのか、数歩進んだだけで脚をもつれさせて地面に膝をつく。護衛とはいえ監視されていることに気付かない果南は男性へと駆け寄っていく。誰が見ても、彼女が男性を追ってきたと分かる。

「恋人ですかね?」

 尾室が何気なしに尋ねるが、待機が始まってから不機嫌な小沢はぴしゃりと撥ねつけるように、

「他人の痴情に口を出さない」

「はい」

 

 

   3

 

 獅子浜の岬は、その海に大きく突き出した形から大久保の鼻という地名が付けられている。かつて大久保山という山が岬に存在していたのだが、開発事業によって石材が採掘され尽くし、現代では一部を残して山は平地になっている。その事業は環境保護の観念がなかった時代の自然破壊という括りではなかった。角柱形の岩が多い石山は亀裂に雨水が浸透しやすく、よく落石事故が起こっていたために解決策として採石場として開発された。

 更地になった跡地は現代では食堂やダイビングショップ、学校まで立ち並んで活用されているが、まだ持て余している土地は広く残っている。

 ダイビングショップに隣接しているボート置き場のなかで、涼は無数に並べられた船体のひとつに背を預けていた。ぜえぜえ、と息をあえがせながら灰色の雲に覆われた空を仰いでいる。淡島から直線距離で1㎞以上あるこの岬にわざわざ来たのは、きっとオールを漕ぐ力もなく波に流されて辿り着いたのだろう。

 近付くと、果南に気付いた涼は驚きと戸惑いの混ざった目を向けてくる。何で来た、とでも言いたげだが、声を出すのも辛いようだった。

 昨夜は暗闇のせいで気付かなかったが、夜明けのなかで見ると涼の手はまるで老人のように皺が刻まれていた。顔も肌に張りがなく、一気に年老いたような印象を受ける。確かまだ20歳のはずだが、初老に差し掛かっていると言われても違和感がない。

「涼……、これって………」

 果南が訊くと、息をあえがせながら涼はまだ若いままの声を絞り出す。

「あの姿に変わる度に、体がおかしくなるんだ………。俺はもう長くないかもしれない………」

 長くないかもしれない。その言葉は決して大袈裟には聞こえない。随分と長く粗い呼吸を繰り返しているのに、彼の体にはまだ酸素が足りていないらしい。あの姿が何かのウィルスによるものなのか、腫瘍によるものなのか。現代の医療でどうにかなるのか。きっと医療や科学の範疇を越えている。人間にどうにかできるものじゃない。

「悪かった、果南………」

 やめてよ、と果南は涼の言葉を撥ねつけたい衝動に駆られた。そう思わなければ堪えられそうになかった。だけど、目の前で起こっていることも、果南の裡で起こっていることも紛れもない現実だった。

「俺はもうお前に何も聞かない。俺のことも忘れてくれていい。本当言うと、俺は別に興味ないんだ。あかつき号で父さんに何があったのか。そんなことはどうだっていい」

 目の前にいる男は人間じゃない。怪物と戦う力を持った涼もまた、怪物と同等の存在なのかもしれない。でも――

「ただ、俺は何をしていいのか分からないんだ。あかつき号のことを追っているのも、他に何をしていいのか分からないからだ」

 でも、それだけなんだ。

 現実と認めたことで、果南はまるで胸が抉られたような心地だった。最初に彼の異形の姿を見たときから既に気付いていたはずなのに、この心地を怖れていたから目を背けていた。

 例え人間でなくなったとしても、この人は葦原涼のままだ。わがままで弱虫で、本当は誰かにすがりたいのに強がってしまう。

 果南が恋をした、葦原涼だ。

 ああ、わたしは酷い女だ。あの姿になったせいで涼は全てを失ってしまった。ずっと何かにすがりたいと願いもがき続けていたのに、どうして自分は彼の手を掴んであげられなかったのか。どうしてその苦しみを抱き留められてあげられなかったのか。

 果南は涼の手を優しく包むように取った。

「何のつもりだ?」

 涼が訊いてくる。「放っとけないよ」と果南は弱くなった彼の目を見据える。

「わたしも、同じだから」

「同じ?」

「わたしも、どう生きていけばいいか分からないんだ。前に熱中してたことがあったんだけど、辞めちゃって」

 スクールアイドルを諦めた果南と水泳を諦めた涼。ふたりには挫折という共通点がある。果南が涼に抱くシンパシーはそれだけじゃない。先ほど視た像。果南には説明ができない不思議な力がある。きっと普通の人間とは違う、涼と似た存在なのかもしれない。この世界のはみ出し者。

「わたし達ふたりだったら、生きていけるよ」

 似た境遇なら、お互いを理解できる。苦しみを分かち合い、手を取り合っていける。この世界に居場所がないのなら、ふたりだけの世界を作ってしまおう。何せ、それしか生きていく術がないのだから。

「うちに来なよ。父さんと母さん説得するから」

「でも、果南――」

「良いの!」

 遮るように告げて、涼の腕を肩に回す。誰が何と言おうと、この手は絶対に放したくない。肉体を蝕むものを食い止めることはできないが、彼が求めていた温もりを与えることくらいはできるはず。

 これからは涼と共に、涼のために生きていこう。

 だが、その手は早くも離れた。涼のほうから果南を振り払い、重そうな体を立ち上がらせる。彼の視線を追うと、ボートからボートへと人に似た異形の怪物が飛び跳ねてこちらへ近付いてくる。昨日と同じジャッカルの怪物だった。

「逃げろ果南!」

 嫌だ、と言おうとしたが涼は良しとしてくれない。ようやく手を取れたのに、また離れるなんてできない。

「早く!」

 でも、状況もまた赦してくれない。果南はボート乗り場を出て道路へと走るが、すぐ目の前に怪物が降り立ってくる。鋭い牙が生えた口が歪む様はまるで不敵に笑っているように見えた。怪物は頭上の光輪から鎌を出すが、得物を構えてすぐに果南から目を逸らし明後日の方向を向く。

 直後、その方向からもうひとりの異形が跳び込んで怪物に組み付いた。乱入してきたのは、緑の生物に変身した涼だった。

 涼は鎌を持つ怪物の手に回し蹴りを見舞い、敵の武器を払い落とす。敵の腹や顔に止めどなく殴打を繰り出し、よろめいたところで更に背中に肘を打ち付ける。

「ウオオアアアアアアアアアアアアアア‼」

 咆哮する涼は、裡から際限なく湧き出る力を発散させているように見えた。戦線から離れた果南はダイビングショップの駐車場に停めてあった車の影から、涼の戦いをじっと見つめる。今まで目を背けてきた涼の姿。きっとこの戦いに勝利できたとしても、涼の体は更に蝕まれる。

 自分を貪ろうとする力に抗うように、涼の拳は怪物の頬に突き刺さる。

 

『こちら北條、アンノウン出現。各自アギト出現に備えてください』

 スピーカーから捕獲チーム全員に繋がっている北條の報告を受け、小沢が誠へと振り向く。

「始まるわね、いよいよ」

 緊迫したその声に頷き、誠はG3装備の収納スペースに向かう。小沢と尾室の補助を受けながら装備を装着していき、あとはマスクのみとなったところで再びスピーカーから機動隊員のものらしき音声が入る。

『どうしました、北條主任。こちら捕獲隊、北條主任!』

 急かすような口調に、小沢は誠にマスクを被せようとした手を止めてPCへ戻る。誠と尾室も画面を見ると、ライブ映像のなかでアンノウンが何者かと交戦している。アギトと思ったが違うようだ。アギトが姿を変えて戦う能力を持つことは確認しているが、画面の中にいる生物はアギトとは似ても似つかない。

「何が起こっているの?」

 誰に向けてか分からない問いを小沢が漏らす。隊員たちも混乱している、と誠には想像がついた。事前にアギトの容姿について資料が渡されたはずだが、現れたのは資料とは異なりアギトとみなすべきか迷う存在。こういった想定外の事態に陥ると、判断は指揮官に委ねるしかない。

 その指揮官である北條の声が、スピーカーから飛んできた。

『作戦開始!』

 

 



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第5話

 

   1

 

 始発のバスも出ていない内浦は未だ眠りのなかにいる。道路を走る車は翔一がハンドルを握るワゴン車のみで、歩道にも通行人は全くいない。

「どうだった?」

 助手席に座る曜がスマートフォンの画面を確認すると、ちらりと横目で見た翔一が訊いてくる。

「ルビィちゃんも花丸ちゃんも起きてました。今から向かうって」

 そう答えると、後部座席にいる善子が「まったく」と呆れたように、

「こんな朝早く起きてるなんてね」

「それは善子ちゃんも同じじゃない?」

 「ヨハネ」と強く念押ししつつも、善子は照れ臭そうにそっぽを向く。市街在住の曜と善子は翔一の迎えを要したが、ルビィと花丸の住所なら徒歩で十千万へ行けるだろう。

 端末をポケットにしまった曜は翔一に尋ねる。

「翔一さん、梨子ちゃんから聞いたんですよね?」

「うん、誰からも応援されなかったんだよね?」

 あっさりと翔一は曜たちにとって酷なことを言ってしまう。悪意がないことは理解しているのだが、この悪意のなさがどこかで誰かの神経を逆撫でしなければいいのだが。

「俺も何かできれば良いんだけど、やっぱりこういうのは皆で話し合ったほうが良いと思ってさ」

 皆で話し合ったほうが良い、という提案はAqoursメンバーの中でなく、翔一からもたらされたものだった。早朝から電話が来て十千万に集まろう、と翔一から告げられたときは戸惑ったものだ。まさか翔一がAqoursのことを考えてくれていたことが意外だった。

「千歌ちゃん、夕べはどうでした?」

「何も言わなかったけど、結構落ち込んでたんじゃないかな? お風呂入らなかったし、ご飯も食べなかったから。だから俺心配で夜寝れなくて」

 「そんなに?」と善子が訊いた。「うん」と応じた翔一は寝不足など感じさせない溌剌とした調子で、

「だってあの子、どんなに疲れても晩ご飯たくさん食べるからさ。前に学校でマラソン大会あった日なんて――」

 「いや、いいわ」と善子は無理矢理会話を打ち切る。自信のある漫談だったのか、翔一は不服そうに首を傾げた。

「でもさ、やっぱり千歌ちゃんには元気でいてほしいじゃない。慰めてあげてよ。俺ケーキ作ったからそれ食べながらさ」

 もしかしてケーキを食べさせることが目的なんじゃ、と思ってしまう。理由が何であれ、こうして機械を設けてくれたんだから翔一には感謝すべきだ。もっとも、これから千歌には酷な想いをさせてしまうかもしれないが。

 不意に、車が急停止した。歓声で前へと体が押しやられ、シートベルトで押し返される。後部座席で善子も「ぐえっ」と呻いた。

「危ないじゃない!」

 善子の文句は翔一に届いていないらしい。まさか、と曜は大体のことを察しながら翔一の横顔を眺める。いつもの笑顔が消えて、不気味なほど無表情な彼の顔が物語るものを。

「ごめん、俺行かなくちゃ」

 

 

   2

 

 車の陰に隠れながら、果南はただ困惑してその状況を見ることしかできなかった。戦いが繰り広げられている道路に1台のマイクロバスが通りかかったのだが、車体の屋根にはパトライトが付いていて市営の車両とは明らかに趣が異なる。停車するとドアから乗客たちが続々と出てくるのだが、ヘルメットを被りライフルを担いだ出で立ちは単なるバスの利用客でないことは混乱した頭でも理解できた。

 規律の取れた動きの乗客たちは数人毎に離れた場所に散らばり、それぞれの配置で1列に並ぶとライフルの銃口を涼と怪物へと向ける。中には銀色の身の丈ほどある盾を持った者もいて、盾に隠れるよう列の後ろに唯一武装していないスーツ姿の男がつく。

 涼は自分を取り囲む者たちの存在に気付いていないようだ。彼の赤い両眼には目の前にいる敵しか見えていない。雄叫びをあげながら敵の顔面に拳を浴びせ、脇腹を蹴り上げる。

「涼……!」

 車から身を乗り出そうとしたとき、果南の行く先を「松浦さん!」と青い鎧を纏った人物が阻む。

「氷川さん⁉」

 またも驚愕が上乗せされた。スーツをしっかりと着込んだ姿しか思い浮かばない氷川誠が、鎧で武装して果南の目の前に現れた。ヘルメットも被っていない丸裸の顔を緊迫で満たし、果南の肩を堅いグローブで覆われた手で掴んでくる。

「ここは危険です、逃げてください」

 そんなことをしたら涼はどうなる。あの無数に並ぶ銃口が狙うのは涼と怪物のどちらなのか。嫌だ、離れたくない。あれは人間なんです。わたしの好きな、わがままで弱虫なくせに強がってしまう人なんです。だから傍にいさせてください。あの人を撃たないでください。

 そうまくし立てたかったが、絞り出そうとした果南の声は涼の雄叫びにかき消された。

「ウアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 涼の踵から鋭い刃が伸びる。足を大きく上げ、踵の刃を敵の肩にずぶりと突き立てる。刃渡りは肩から深々と刺された心臓まで届くほどの長さだ。あの生物にも心臓という器官があるらしく、苦しそうに身を悶えさせながら頭上に光輪を浮かべている。空いた足で胸を蹴ると、飛び散った怪物の血が涼の顔にかかった。

 道路の中心で爆発が生じる。怪物から発した爆炎はその体を飲み込み、辺りに火の粉を撒き散らして、道路上に燃え移るものがなければ空気中に拡散して何事もなかったかのように消えていく。海に近いからか、爆炎は潮風に流されて怪物のいた痕跡は完全に消滅した。

 まるでその時を待ち構えていたかのように、スーツの男が声を張り上げる。

「撃て!」

 ばん、と耳をつく銃声が響いた。同時に弾丸が涼の肩を穿つ。間髪入れず銃声が幾重にも鳴り、弾丸を浴びた涼の体から血飛沫が辺りに撒かれる。

「危ない!」

 誠が果南を抱き寄せ、流れ弾が当たらないよう現場に背を向ける。状況を見ようと上げた頭は、誠の手によって抑えつけられ堅い鎧のなかに埋もれる。銃声に混じって鈍く不快な音が響いた。涼の肉が弾丸で削がれる音だ。その音がする度に涼の叫びも聞こえる。弾丸の痛みに苦しむ涼の声。体を削ぎ落されていく苦痛の叫びに、果南は誠の腕のなかで震えが止まらなくなる。

 銃声が止んだ。誠の力が緩み、彼の腕から抜け出した果南は頭を上げる。

 涼は全身を自身の鮮血で濡らしていた。両肩と胸は大きく抉られ、頭の角が片方欠けている。逃げられないよう撃たれた足は爪先がなく、それでも涼は懸命にふらつきながらも立っていた。

 全身を撃たれても、屈強に変化した体は死ぬことを拒み、生の痛みに耐えながらゆったりと前進している。どこへ向かおうとしているのか、人間とは異なる造形の目が捉えているものは分からない。自分を襲った狙撃手たちか、まだ生きたいと望む未来なのか。あんな体になっても、涼の本能はまだ懸命に生存しようとしている。

 ――やめて、もうやめて――

 その願いが狙撃手たちに向けてか、涼に向けてか、果南自身にも分からなくなっている。もう涼を傷付けないで。涼もこれ以上苦しまないで。

 声にすら出せない願いなど、あっけないほど簡単に踏みにじられる。静寂を破った1発の弾丸が、涼の左胸を穿った。弾の威力で後ろへと反った涼の体が、そのまま制御を失い仰向けに倒れる。

「松浦さん、逃げてください」

 立ち尽くしていた果南に誠が促してくる。ずっと見開いたままの目で見上げると、誠は更に声を荒げた。

「逃げなさい、早く!」

 びくり、と体が震える。硬直していた筋肉が一気に解けたように、足は意図せずその場から走り去っていく。

 まだ目覚めるには早い時間の街には誰もいない。果南の足音と息遣いしか聞こえない。ランニングは普段からしているというのに、フォームは崩れて呼吸も乱れ切っている。それでも果南は走り続けた。あの場から離れれば、元の日常に戻れるかもしれない。ドルフィンハウスに戻って店の手伝いをして、もうすぐ復学する学校へ行き、友人たちと他愛のない会話を楽しむ日々に。

 でも、その日常に涼はいない。もう永遠に現れることはない。

 その事実がせり上げてきた途端に、足の力が抜けた。走るペースは落ちていき、やがて1歩も進めず道路の真ん中で立ち尽くす。

 そこへ1台のワゴン車が対面から走ってきた。見覚えのあるナンバーだ。停止した車の運転席から出てきたのは十千万に居候している気の良い青年で、彼は困惑した表情を浮かべながらこちらに駆け寄ってくる。

「果南ちゃん?」

 何で翔一がここにいるのか、なんて果南は全く疑問を抱いていなかった。ただ悲しみのみが裡を満たし、翔一を前にして涙が溢れ出る。

「ちょ、どうしたの? 果南ちゃん?」

 シートから降りた翔一が、崩れるように膝をついた果南を支える。目の前にいる翔一の顔は涙で見えなくなり、声も認識できなくなった。

 涼が死んだ。

 今度は離さないと決めたのに。これからはふたりで生きていけると思っていたのに。もうあの手の温もりは感じられない。世界は涼という異物の存在を許さず、果南だけが取り残されて何もかもが手遅れになった。

 もう、どうしたらいいのか分からない。ひとりぼっちになった恐怖に立ち向かう術すらも見出せず、果南は泣きじゃくることしかできなかった。

 

 ガードチェイサーへと走り、誠はシートに置いてあったG3のマスクを顔に被せた。マスクが誠の網膜を認証し、後頭部のカバーを閉じる。Gトレーラーにシステムがフル稼働状態に入ったことが伝達されたのか、すぐさま小沢の声が入ってくる。

『氷川君、松浦果南は?』

「無事に避難しました」

 誠は先ほどまで銃撃の渦中にあった道路へと目を向ける。地面に横たわる生物を隊員たちが囲んでいた。まだ警戒を緩めず、銃口は未だにその生物の顔面へと向けられている。

 北條はそんな生物の傍から異形の存在を見下ろし、

「やったか?」

 血は大量に流れているが、死んでいるかは分からない。顔面が人間とは全く異なるのだから、外見から生死の判別がどうにも付き辛かった。隊員のひとりが生物の顔面にサイレンサーを装着したライフルの銃口を近付ける。

 ライフルのバレルが、突然緑色の手に捕まれた。隊員は引き金に指をかけたのだが、生物にぐしゃり、とバレルを握り潰されて発砲を断念する。暴発を防いだその判断は流石機動隊といったところか。銃を潰された隊員が食らったのは跳ね返る弾丸ではなく生物の蹴りで、口から唾を吐きながら突き飛ばされる。

 立ち上がった生物に他の隊員が銃口を向けるが、それもまた握りつぶされ、また蹴りや拳を受ける。生物が動く度に、その体からからん、と乾いた音と共に弾丸が零れ落ちた。暴動鎮圧に用いられる非致死性のものではなく、貫通性を高めるため先端を尖らせたライフル弾だ。北條の容赦のなさを物語る弾が、生物の強固な筋肉に押し返されるよう地面にばら撒かれていく。

『GM-01アクティブ! 目標を迎撃!』

 小沢の指示を受け、誠はガードチェイサーの武装ハッチから銃を取る。

 緑の生物は隊員たちの殆どをねじ伏せていた。離れた場所にいる隊員たちも、同士討ちを怖れてか発砲する気配がない。生物は北條を守る隊員の構える盾に拳を打ち付ける。鈍い音と共にジュラルミン製の盾がひしゃげ、衝撃に耐えきれなかった隊員も倒れる。

 守りを失った北條は懐から出した拳銃を向けたが、それはあっけなく手で払われ首に手をかけられる。身動きを封じられた北條に生物が空いた拳をめきめき、と骨が鳴るほど強く握る。

 その拳が北條の顔面に迫った瞬間、射程距離に達した誠の手が寸前で掴んだ。一瞬でも遅れていたら、北條の顔面はスイカを割ったように砕かれていたことだろう。

 生物を押しやり北條から引き離す。拳を向けてきたが、銃創が堪えたのか動きが遅い。避けると同時に背後へ回り込み羽交い絞めにする。

「逃げてください、北條さん!」

 北條は苦虫を噛み潰したように顔を歪めている。あまり気分のいい顔ではないが、怪我を負っていないということ。北條が走り去ったことで気が緩んでしまったのか、生物に拘束を解かれた。肘を胸に受け、衝撃の大きさに誠はごほっ、と咳き込む。緑の手が首に伸びて、喉を潰される前に誠も相手の手首を捻り抵抗する。

「お前は、アギトではない………!」

 至近距離で見ると、生物に刻まれたはずの創傷が見えない。抉られた肩は元通りになっていて、欠けた片方の角も伸び始めている。まさか治癒しているのか。この短時間で。

 アギトに似ているが、明らかに目の前の生物はアギトではない。かといってアンノウンでもない。何だこいつは。何故こんなものが。生物は応えない。言葉を持っていないのか、咆哮で空気を震わせる。

「ウアアアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 みしみし、と頸部パッドが悲鳴をあげ始めた。関節部分の装備は動きを阻害しないよう、どうしても脆弱になりがちだ。誠は右手のGM-01を生物の腹に向けトリガーを引く。たった1発だが、弾丸を受けた生物が後ろへと追いやられた。

 銃を構え直し、更に発砲する。最初こそ生物はこちらへ迫ろうとしてきたのだが、間髪入れずに発射される弾丸を胸に受けて呻き声をあげながら後退していく。

 更に撃ち続けた。足元に排出された薬莢が溜まり、比例して治りかけていた相手の胸に再び創傷が刻まれていく。堪えかねたのか、生物は胸を押さえつけながらおぼつかない足取りで走り出す。

 地面に血を垂らしながら去ろうとするその背中に、誠はGM-01の銃口を向ける。足を撃って動きを封じた上でGG-02のグレネードを撃ち込めば息の根を止められるかもしれない。でも、あの生物をこの場で倒してはいけないような気がする。

 アギトではない別の存在。だがあれもまたアンノウンと戦う存在なら、もっと知る必要がある。アンノウンが現れれば、アギトと同じように再び現れるかもしれない。

 

 全身が焼かれているようにも、刺されているようにも感じられた。傷ついていない所など無いかのでは、と思えるほどに。痛覚の他には足を動かしているという感覚しかない。もしかしたら疲労しているのかもしれないが、それは痛みに塗り潰されている。

 徐に後ろを見やると、狙撃手たちが追ってくる気配はない。安堵したせいかふ、と脚から力が抜けて、涼は前のめりに倒れた。血はもう流れていない。もしかしたら、体内の血を全て流しきってしまったのかもしれない、とおかしな事を考えてしまう。

 もう起き上がる力も出せない。それでも涼は地面を這って進もうとした。逃げなければ。また撃たれるかもしれない。体を持ち上げようとした腕が一回りほど細くなり、元の肌色を取り戻す。腕の力も抜けて、涼はアスファルトの地面に頬を擦り当てる。

 もう痛みは感じない。さっきまで体中を駆け巡っていた熱も。どくん、という自身の鼓動のみが聞こえる。それもまた弱く、間隔が長くなっていく。

 脳裏に果南の顔がよぎり、彼女は無事に逃げられただろうか、と思い出す。まだ幸せだった頃、水泳のみに打ち込んでいた頃に出会った、まだ幼さが色濃かった彼女が涼に笑いかける。

 果南、昔はああいう風によく笑っていたよな。正直、また会いに行ってお前に嫌な顔されたときは堪えたよ。あかつき号のことを訊きたかったのは嘘じゃないさ。でも、本当はお前に会いたかったんだ。またあの頃みたいに笑ってくれたらな、って期待してた。だから、俺の手を握ってくれたときはとても嬉しかった。お前とふたりで生きていけるのなら、こんな体になったことも受け入れることができる。お前を奴らから守るために、俺は戦うことができる。たとえ命が長くなくても、残された時間をお前が傍にいてくれるなら、絶対に幸せな人生だった、って肯定できる。

 この気持ちをお前に伝えるにはどうしたらいいだろうな。また店に行けば、お前はいるかな。ああ、またお前と海に潜りたいな。

 まだ、死にたくないな――

 

 

   3

 

 目が覚めて梨子が最初に感じたのは、頬に当たるピアノの冷たさだった。自室でぼう、っとしているうちに眠っていたらしい。服も着替えていないから生地の吸った汗の匂いがした。

 バルコニーに出てみると、厚い灰色の雲が空を覆っていた。これでは朝陽がどれほど昇ったのか分からない。朝の早い十千万が静かだから、目覚めるにはまだ早い時間帯なのかもしれない。

 ふと海のほうへ視線を向けると、海岸へと歩く人の姿が見えた。梨子と同じように昨日と同じ服のまま。

「千歌ちゃん………?」

 梨子はすぐに家を出て海へと走った。三津海水浴場はそれほど大きくないから全域を見渡せるのだが、砂浜のどこにも千歌の姿がない。まさか、彼女がそんなことをするはずがない。そう自身に言い聞かせるも、この空と同じ灰色の海は何もかも飲み込んでしまいそうで、彼女の熱も夢も深い底へ消えてしまいそうな恐怖が込み上げてくる。

「千歌ちゃーん!」

 波の音に向かって梨子は叫ぶ。海中に音は届きにくいが、それでも呼ばなければならなかった。この波の奥から呼び戻さないと絶対に後悔する。何度も梨子は呼び続けた。

「千歌ちゃーん!」

 飛沫のあがる音が聞こえた。浅瀬のところで全身を濡らした千歌が普段通り何の気なしに、

「あれ、梨子ちゃん?」

 安堵と呆れで、背筋が曲がるほどの溜め息が出た。深刻に考えすぎた自分が馬鹿みたいだ。

「一体何してるの?」

 訊くと千歌は「え、ああ……」と、まるで裡を探るようにして言った。

「何か視えないかなあ、って」

「え?」

「ほら、梨子ちゃん海の音を探して潜ってたでしょ? だからわたしも何か視えないかなあ、って」

 もしかしたら、梨子が海の音を聴こうとしたときも、今の千歌と同じように見えたのかもしれない。確かに今思い返せば、知らなかったとはいえ春の海に水着で入るなんて危ない。

「それで?」

 訊くと、こちらを振り向いた千歌はあの日のことを思い出したのか笑みを零した。

「それで、視えたの?」

「ううん、何も」

「何も?」

「うん、何も視えなかった。でもね、だから思った。続けなきゃ、って」

 それは、昨晩に曜から投げかけられた「辞める?」という問いへの答えだった。

「わたし、まだ何も視えてないんだ、って。先にあるものが何なのか。このまま続けても、ゼロなのか1になるのか、10になるのか。ここで辞めたら全部分からないままだ、って」

 続けた先に待っているものが成功とは限らない。高みへと昇るのか、それとも今よりも深い絶望へ落ちていくのか。可能性は五分五分。いや、昨日の結果から後者のほうへ傾いているのかもしれない。それでも千歌は続ける、と言っている。止まってしまえば永遠に夢の果てに視えるものが分からないから。

「だからわたしは続けるよ、スクールアイドル。だってまだゼロだもん」

 誰だって絶望は辛いし感じたくない。避けられるものなら避けて通りたい。ここで止まれば先に待っている絶望から逃れられるのは確実だ。同時に希望が潰えるのも。

「ゼロなんだよ。あれだけ皆で練習して、皆で歌を作って、衣装も作ってPVも作って。頑張って頑張って皆に良い歌聴いてほしい、って。

 今まで重ねてきたもの。重ねてきたつもり、と言うべきなのかもしれない。Aqoursとして活動してきたことは、何も積み重なってはいなかった。その事実が結果として無慈悲に告げられた。体を酷使したダンスレッスンも、喉を潰しそうになった歌唱レッスンも。衣装やPVを制作した手間も時間も。そして何より根底にあった願いすらも。

「スクールアイドルとして輝きたい、って………」

 千歌は両の拳で自らの頭を叩いた。裡の痛みをリアルに体感しようと試みているように見えた。その口調が激しくなる。

「なのにゼロだったんだよ、悔しいじゃん! 差があるとか昔とは違うとか、そんなのどうでもいい!」

 他のグループはラブライブ決勝まで進んでいた。μ’sの頃よりもスクールアイドル全体のレベルが高くなった。それもまた事実ではある。でも、千歌の裡にあるものの根源はそれらではなかった。最下位だったことではなく、誰からも票を貰えなかったこと。誰かを笑顔にするためのスクールアイドルなのに、誰も笑顔にさせられなかったことだった。

「悔しい……! やっぱりわたし……、悔しいんだよ………」

 俯いた千歌の目元から雫が落ちた。梨子は服が濡れるのも構わず海へ入り、千歌を後ろから抱きしめる。

 やっぱり、千歌ちゃんも悔しかったんだ。その安堵が梨子の裡を満たす。皆が全員悔しかったはずだ。全力を出してゼロだったのだから。今までの努力が努力とみなされず、切磋琢磨してきた時間の全てが無駄だ、と断じられてしまったのだから。

 でも千歌だけは悔しさをおくびにも出してくれなくて。普段明るい千歌は本当に悔しくないんじゃ、もしかしたら満足しているんじゃ、とすら思った。そんな彼女が自分と同じ気持ちを抱いていた。無理矢理にも飲み込もうとしたものを吐き出してくれた。それがとても嬉しい。

「良かった……、やっと素直になれたね」

 悔しい、という言葉を待っていた。わたしはそれを聞きたかった。

「だってわたしが泣いたら、皆落ち込むでしょ。今まで頑張ってきたのに、せっかくスクールアイドルやってくれたのに、悲しくなっちゃうでしょ。だから……、だから………――」

 自分が始めたことだから。自分の夢に皆を巻き込んでしまったから。

 そうやって千歌は自分を制していたのだろう。前だけを見ているようで隣も見ていて、時には後ろも見てしまう。全部を抱え込むのに千歌の体ではちっぽけで押し潰されてしまう。

 「馬鹿ね」と梨子は抱擁の手を離し、

「皆千歌ちゃんのためにスクールアイドルやってるんじゃないの。自分で決めたのよ、わたしも」

 確かに勧誘はしつこかったけど、最終的に決めたのは梨子自身だった。梨子だけじゃない。「おーい!」という声が砂浜から聞こえて振り向くと、梨子と千歌と同じように昨日の服のまま集まった皆がいて、その中で曜が手を振っている。

「曜ちゃんも、ルビィちゃんも、花丸ちゃんも、勿論善子ちゃんも」

 趣味も個性もまとまりのない面々ばかりだ。でもきっと、皆どこかできっかけを求めていたのだと思う。自分を納得させようとしたり、気付かない振りをして目を背けたり。

 皆だってそれぞれが輝きを探していた。一緒に探そう、と手を差し伸べて、きっかけを与えてくれたのが千歌だった。だから悔しいに決まっている。こうして同じ気持ちを抱いて分かち合える。

「でも………」

 「だから良いの」と梨子は千歌の手を握る。

「千歌ちゃんは、感じたことを素直にぶつけて。声に出して」

 皆も海へと入り、梨子と千歌のもとへ集まる。千歌は確かめるように、皆の顔をひとりずつ眺めた。千歌は知るべきだ。悔しいときも一緒にいてくれる仲間がいることを。

「皆で一緒に歩こう。一緒に」

 もう全部ひとりで抱え込もうとしないで。悔しさはあなただけのものじゃない。わたし達皆のものなんだから。皆で分け合おう。あなたがわたし達の想いを受け止めてくれたように。

 千歌の目から更に涙が溢れた。まるで赤ん坊のように大声で泣き出す。千歌が心配したような、悲しい気持ちなんて梨子は沸かなかった。千歌の気持ちが伝播したのか、梨子の頬にも涙が伝う。梨子だけでなく他の面々も。その涙の暖かさが愛おしい。ようやくAqoursがひとつになれたような気がして。

「今からゼロを100にするのは無理だと思う。でも、もしかしたら1にすることはできるかも。わたしも知りたいの、それができるか」

 ゼロからの1。たったの1でも、踏み出せたら更に進んでいけると思える。1歩ずつ、前進していけばいい。

 ひとしきり泣くと、千歌は笑って「うん」と頷いた。今からでも遅すぎるなんてことはない。ゼロなら、そこから始めればいい。何もないのなら、これからは得るものの方が多いはずだ。

 空から光が射し込んでくる。見上げると厚い雲が割れて、太陽が世界に光をもたらした。千歌は太陽を見上げる。自分の、自分たちの目指す輝きの象徴へと。

 まずは第1歩を曜が告げた。

「さ、戻って翔一さんのケーキ食べよ」

 

 






次章 未熟DREAMER / 新しいボス


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第9章 未熟DREAMER / 新しいボス
第1話


 

   1

 

「わたし、スクールアイドル辞めようと思う」

 果南からそう告げられたのは、東京スクールアイドルワールドからしばらく経った頃だった。放課後の部室で、いつものように次の曲について話し合っていたとき、ホワイトボードに歌詞を書いていた果南は唐突に言った。あまりにも予想外だったから、鞠莉は「何で?」と当然のごとく訊いた。

「まだ引きずっているの? 東京で歌えなかったくらいで………」

 いつもは饒舌なのに、このときばかりは鞠莉も混乱して上手く言葉を紡ぐことができずにいた。あんなに頑張ってきたのに。鞠莉と果南とダイヤの3人で、スクールアイドルとして廃校を阻止しよう、って決めたはずなのに。

「鞠莉、留学の話が来てるんでしょ? 行くべきだよ」

「どうして? 冗談はやめて」

 留学の話なんて以前から何度も来ていた。高校に進学するときだって、親から海外の高校を勧められたが頑として断り浦の星を受験したのだから。鞠莉にとっては今更な話だった。

「前にも言ったでしょ。その話は断った、って。ダイヤも何か言ってよ」

 窓辺に佇むダイヤに助けを求めたが、神妙そうに顔を俯かせた彼女は無言のままで、鞠莉の肩を持ってくれなかった。

「ダイヤ……?」

 どうしてあなたまで。スクールアイドルを始めよう、ってわたしを誘ってくれたのに。わたしが「うん」て言うまでハグする、って離さなかったのは果南なのに。

 果南はペンを置いてダイヤの横に立った。

「ダイヤも同じ意見。続けても意味がない」

 部室から出ようとするふたりを「果南、ダイヤ!」と呼び止め、振り向く彼女たちに鞠莉は衣装を突き出した。

 3人で作った、初めての衣装。もっとこうしたほうが良いとか、この部分にこういった装飾を付けたいとか、案を出し合って作る時間はとても楽しかった。時には意見が食い違って口論になったこともあったけど、その記憶すらも鞠莉にとっては愛おしい。

 あのとき果南とダイヤの瞳に宿っていたのは、紛れもない高揚の輝きだった。衣装を見せることで鞠莉は問いたかった。

 ふたりには、もうあのときの輝きはないの、と。このホワイトボードに歌詞を書いた曲を永遠に歌わなくて良いの、と。

「終わりにしよう」

 それが果南の答えだった。

 その日を境に、部室は空き部屋として放置されることになった。

 約2年後、Aqoursに割り当てられるまで。

 

 

   2

 

「今日の会議、今度こそヤバいわねあの男」

 休憩所の自販機から缶コーヒーを取った小沢がそう言った。月に1度行われるG3ユニットの定例会議をこれから控えているのだが、もっぱら戦績の不甲斐なさを上層部から糾弾されるだけの場になりつつある。

 「は?」と誰のことを言っているのか尋ねた誠に小沢は「決まってるでしょ」と、

「北條透よ。G3装着員としては使い物にならなかったし、アギト捕獲作戦は失敗するし。きっとめげてるわよ今頃」

 したり顔で小沢がコーヒーを啜ると、噂をすれば本人の声が後ろから聞こえてくる。

「相変わらず声が大きいですね、小沢さん」

 もう季節は夏だというのに、質の良さそうなスーツは暑苦しく見える。でも北條は涼し気に着こなしていた。

「会話が筒抜けだ」

「良いでしょ別に。私は人に聞かれて困るようなことは言わない主義なの」

 ならさっきの会話は聞かれても良かったというのか。その境界を決めるのは小沢本人だから危うさは拭えない。雰囲気が険悪になる前にと誠は愛想よく、

「コーヒーでもいかがですか?」

「結構です。サイフォンで淹れたもの以外飲みませんので」

 コーヒーですら拘るか。この性格の良くない刑事は靴下まで高級ブランドに拘っていそうだ。既に彼の性分を知っていた小沢は「はいはい」と適当に返す。その時点で関わりたくない、と言っているようなものだが、北條はお構いなしだ。

「しかし分かりませんね小沢さん。何故私がめげなければならないのか」

「分からない? だったら良いわよ、お黙りなさい」

 何だか会う度に憎まれ口がエスカレートしていくような気がするが、北條は相変わらず余裕な構えを崩さない。

「どうやらあなたは、今日の会議の議題について何も聞かされていないようだ」

「何よ?」

 質問されたことが北條にとっては随分とご満悦だったらしい。私はあなたが知らないことを知っている。そんな優位性に浸るように、北條は笑みを零した。

「いえ、黙りますよ。あなたの言う通りにね」

 そう言って北條は靴音を鳴らしながら会議室への廊下を歩いていく。

 

 先日のアンノウン出現に際し、アギトに代わるように現れた謎の生物が撃破したのに対してG3は相変わらず戦果をあげていないまま。

 そんな毎回お決まりのような圧力を控えた糾弾から始まった定例会議は、この日は少しだけ方向性が違うようだ、と誠は感じた。

『この現状を変えるには、G3ユニットの体制を改める必要がある。装着員のみならず、指揮を執る人間もね』

 変化球ばかりな警備部長の発言に、最初から苛立ちを隠さなかった小沢はとうとう爆発した。

「それはどういう意味ですか! 私をクビにするということですかG3ユニットを解散するということですか!」

『誰もそんなことは言っていない』

 確かに、警備部長は直接には言っていない。でもそれは言葉のあやというものだ。遠回しにユニットメンバー総入れ替えというようにしか聞こえない。補佐官がまたか、という疲れをおくびにも出さずに、

『アンノウンにアギト、更に謎の第3の生物。問題はますます混迷を深めていくアンノウン関連の事件に、どう対応していくかだ。そこで、G3ユニットの在り方をもう1度考え直す必要がある。我々はそう言っているのだ』

 それは先ほども遠回しに聞いている。誠と小沢が知りたいのは、その在り方をどう変えていくかだ。人員を替えるのか、G3の装備を替えるのか。具体案が全くない。

 会議に同席している北條は具体案を既に考えているのか。どんな案にしても、誠たちにとって気分の良い案とは思えない。再びアギト捕獲作戦を敢行するとでも言うつもりか。

 北條はまだ発言を控えていて、警備部長が方針を語る。

『アンノウンによる被害者の数は増える一方。そしてG3システムにより撃破した数はあまりにも少ない』

 「それは――」と小沢が反論しようとしたが、誠が声を被せて阻止する。

「それは私の力不足のせいです」

『我々は個人の責任を追及するつもりはない』

 どういうことだ、と誠は違和感を覚える。以前なら誠が自らの適性を否定すれば、装着員の交代で話は済むはずだ。

『あくまでG3ユニット全体の強化を図りたい。そしてそのためには、G3ユニットを客観的に監査できる人物が必要だと感じている』

「G3ユニットを監査する?」

 流石の小沢も意味の咀嚼に時間を要するらしく、告げられたことを反芻する。『そう』と警備部長は頷き、

『いらないものを切り捨て、足りないものを補うためにね』

 警備部長は画面の奥で右へと向いた。この会議室とは別のところとも通信しているらしい。『入りたまえ』とだけ言ってこちらに向き直ると同時、会議室のドアが2回ノックして開かれた。

「失礼します」

 入室した壮年の男性はお偉方の映るPCへ一礼する。それなりに年齢を重ねているようだがむさ苦しさを感じない。髪は白髪が1本も見えないほど黒く染め上げられ、スーツも仕立ての良い一級品の光沢を放っている。

 北條に雰囲気が似ている。誠が男性に抱いた第1印象はそれだった。

 警備部長が紹介の弁を述べる。

『G3ユニットの監査官として警察庁から来てもらった、司龍二(つかさりゅうじ)課長だ。北條主任には課長のサポートをしてもらいたい。司課長のたっての願いでね』

 「何ですって?」と小沢が拒絶を露骨に出す。警視庁と警察庁は同じ警察組織ではあるのだが、その畑は全くの別物だ。警視庁をはじめとする各県警が市民を取り締まるのに対し、警察庁は警察内部を取り締まる。いわば警察に対する警察。司の課長という役職は小沢の就く管理官と同列なのだが、監査官の立場なら小沢よりも上に立つ。

 つまりは、この男がG3ユニットを率いるということだ。

 

 

   3

 

 高海家で話し合いの場は決まって夕食後が多い。食後にお茶を飲んでいる居間が一家の集う場で、それ以外の時間は各々の自室にいることが多いからだ。とはいえ高海家には現在、姉妹3人と居候ひとりだから全員が集まっているわけではないが。

 この日の話し合いは、珍しいことに翔一から切り出された。4人分のお茶を用意した翔一は「皆に相談があるんだけど」とスーパーで無料配布されていたという求人誌をテーブルに置く。

「俺、バイトしようと思うんです」

 「バイト?」と湯呑を手にした姉妹3人で声を揃える。千歌にとっても寝耳に水だった。今まで彼がそんな素振りを全く見せたことがなかったから。

「俺、ここ最近ずっと考えてたんです。このままで良いのかな、って。ここに住まわせてもらって楽しくやってますけど、やっぱりいつまでも家でぶらぶらしてるはまずいかな、って」

 その問題は今に始まったことじゃなく、翔一が高海家に来てからずっと千歌たち姉妹の間で囁かれていた。主に志満が心配していたことだ。家事を全て任せているが、やはり社会経験は積ませておいたほうが良いのでは、と。けして翔一は引きこもりなわけじゃない。毎日買い物に出かけているし、近所に菜園の野菜を分けているから地域でも顔が広い。十分社会に出てもやっていけるほどの人格は有している。

 だからこそ志満は気掛かりで、専門学校の入学を進めたこともあったのだろう。高海家がむしろ翔一を縛っているのではないか、と。最近だって、そろそろ翔一を十千万の従業員として正式に雇おうか、と姉妹の間だけで話していたこともあった。

 今回のことが驚きなのは、その問題を翔一から提起してきたことだ。記憶が戻らなくても今のままで良い、と言ってのけていたのに。

 美渡が顔を近付けて耳打ちしてくる。

「千歌、あんた何か言った?」

「言ってないよ。美渡姉こそ何か言ったんじゃないの? 無職とか居候とか」

「それは、会話の流れっていうかなんて言うか………」

「え、言ったの?」

 「聞こえてるわよ、ふたりとも」という志満の声に、ふたりして顔を引きつらせる。翔一は苦笑しながらも志満に尋ねた。

「駄目、ですか?」

「全然、むしろ大賛成よ」

 かぶりを振った志満はお茶を啜り一息つく。

「でも良いバイトは見つかりそうなの? 何なら私が知り合いのお店に掛け合ってみるけど」

 「あ、私も」と美渡も、

「会社でパート雇う話があってね、事務仕事だから翔一にもできると思う」

 わたしも何か、と思ったが生憎学生である千歌に仕事の伝手はない。Aqoursのマネージャーを頼もうにも、給料の相場がよく分からないし部費から捻出するのも厳しい。

 でも翔一は「いや」と掌を向ける。

「バイトは自分で探したいんです。何から何までお世話してくれるのは有難いんですけど、今は志満さん達がやってくれることも、いつかは俺ひとりでやらなきゃ、と思って」

 「へえ」と美渡は頷く。

「成長したじゃん翔一」

 「そうね」と志満も嬉しそうに笑った。直後にふと目を伏せる。まるで息子の成長に喜ぶべきか寂しがるべきか迷っている母親のように見えた。未婚で20代なのに。でも千歌も同じ気持ちだ。翔一が前を向いているのは素直に嬉しい。だけどそれは翔一が十千万を出る日が近付くということ。まだ分からない「いつか」へと向かっている。

 それを隠して千歌は努めて明るく尋ねる。

「それで、何か見つかりそう?」

 「うん」と翔一は求人誌を開いて千歌たちにページを見せる。

「色々と探してみたんだけど、ここなんか良いかなあ、って」

 翔一が指さした項目は赤ペンの丸で囲まれている。仕事内容は販売レジとパンの製造。

 店の名前は花村ベーカリーというらしい。

 

 これから共に戦うのだから親睦を深めたい。

 司からの誘いで催された食事会の店は、沼津の中でも最高級と名高い四川中華料理店だった。やはり北條が予約したらしい。道中、尾室から聞いた話によると北條がG3装着員だった時期も別の高級が付くフランス料理店で食事をしたらしい。ただ小沢はそういう「気取った」店が大層気に入らず、お開きになった後に尾室を連れて焼き肉屋へはしごしたとか。

「こういう店は食べた気がしないのよ」

 そう語るのは小沢本人だ。ドレスコードとのことでクローゼットから久々に出した礼服を着てきたのだが、普段着ているスーツでもあまり袖を通さないものは糊がききすぎて落ち着かない。尾室も同じようで店に入ってからしきりにネクタイを直している。小沢もパンツスーツを着ているのだが、女性の場合これはドレスコードになるのだろうか。かしこまった場にあまり馴染みのない誠には分からないが、3人はあまり華やかな場に行くような装いではない気がする。まるで葬式帰りみたいだ。

 店員に案内された席へ歩くと、既に茶を飲みながら談笑している北條と司の背中が見えた。顔が見えなくてもふたりだと分かる。何故ならスーツが素人目でも分かるほど質が良いから。前を歩いていた小沢は足を止める。「どうしたんですか?」と誠が訊くと小沢は口に人差し指を当て、

「何か話してるわ。ちょっと聞いてみましょう」

 盗み聞きなんて格式高い店ではみっともないが、誠も気になっているのは確かだ。北條はどうにも、司とは今日が初対面とは思えないほど明るい口調だ。あんな彼の声は初めて聞いた。

 大衆よりも遥かに上品な店内は静かなもので、ふたりの声は少し離れていてもよく聞こえた。

「あなたから連絡を貰ったときは本当に嬉しかったですよ、司さん。またあなたと一緒に働けるとは、これ以上の喜びはありません」

 本当に彼は北條透なのだろうか。誠はまず気味悪さを覚えた。

「そう言ってくれると嬉しいよ。俺も色々な部下を持ったが、君以上に優秀な人間は中々いない」

 「嫌な人間の間違いでしょ」と小沢が静かに悪態をつく。「そんな……」と北條は照れているのか、少しばかりの間続きを詰まらせる。

「私ほど司さんに迷惑をかけた部下はいないはずです。司さんがいなかったら、今頃私は………」

 どうやら北條は司に大きな恩があるらしい。警察庁だとしたら司はキャリア組だろう。誠と同じ若さで刑事になった北條も同じく。だとしたら、北條は将来司を継ぐように警察庁へ栄転するのかもしれない。

「私がこうして今生きていられるのも、司さんのお陰です。しかも司さんの入院中に妹さんが………」

 そこで北條は顔を俯かせる。声も耳を澄まさなければ聞こえないほど弱々しくなっていく。

「全て、私の責任です」

「昔の事だ、忘れろ」

 司は淡々と告げる。次に北條へ向ける横顔に悪戯な笑みを浮かべ、

「しかし、相変わらず思い込みの激しい男だな君は。そういう所が少し心配なんだよ」

 「そろそろ行きましょうか」と小沢は歩き出す。誠と尾室も後に続き、テーブルに着くとようやくふたりはこちらに気付いた。

「お待たせしました」

 小沢の挨拶に続き、誠も尾室と共に一礼する。北條は腕時計を見やり、いつもの憮然とした表情をこちらへ向けてきた。

「1分30秒の遅刻ですよ、小沢さん」

 早々に険悪な雰囲気で食事会は始まった。

 北條が予約したのはひとり2万円のコースで、それを知った尾室は分かりやすいほど顔を引きつらせていたのだが、確かなシェフの腕で作られた料理の味にすぐ頬を綻ばせた。

 薄切りの豚肉には四川料理のイメージに違わない辛味のあるソースが絡んでいるのだが、辛味のなかに甘味が仄かに浮かび上がる。あまり食事に気を遣わない誠でも、この料理が1流だと分かる。

「そうか、噂には聞いてたが君があかつき号事件の英雄か」

 ツバメの巣のスープが運ばれてきた頃、スコッチをショットグラスで楽しむ司はその話題を振ってくる。警察内部で誠が初対面の人物から訊かれるのは決まってG3ユニットかあかつき号についてだ。最初はこそばゆかったが段々と慣れつつある。

「いえ、そんな。英雄というわけでは………」

「謙遜するな。たったひとりで荒れ狂うフェリーから救出するなんて、余程の勇気がなければできることじゃない」

 「もっとも」とそこで北條が口を挟む。

「ひとりだけ行方不明になった者がいたそうですがね」

 ちらり、と北條へ険を込めた視線を向けるが、ここでの口論は無駄と誠は真っ赤に染まったノドグロの煮つけを食べる。これもまた香辛料が効いてぴり、と舌を痺れさせる。

 次に司の興味は小沢へと移った。

「そして、G3システムを設計した天才、小沢澄子。中々優秀な人材が揃ってるじゃないか」

 ここで名前を呼ばれていない尾室が不服そうに自分を指さすのだが、司は特に反応を見せることなく続ける。

「俺は優秀な人間が大好きでな」

 やっぱり、この男は北條に似ている。いや、北條が司に似たのか。

「そこで氷川君に尋ねたいんだが、まずアンノウンが人間を殺す目的は何か」

 試すような問いに、これは長く話すことになりそうだ、と誠は食事の手を止める。

「それは、個人的な見解ですがアンノウンは普通にはない力を持った人間、超能力者を殺していると思われます」

「超能力者を?」

「はい。多分我々が思ってる以上にそういう人間は数多く存在するんじゃないでしょうか。本人すら気付いていないような、ごく弱い超能力者も含めて」

「小沢君はどう思う? 氷川君の見解について」

 「支持します」と小沢は即答し、

「更に付け加えるなら被害者は特殊能力者から2親等までの親族に及ぶようです。これは潜在的な特殊能力者をもターゲットに入れているということだと思います」

 既に能力を得た人間のみならず、得る可能性を持った人間まで。それはまだ産まれていない胎児にまで及ぶ。まるで何かを怖れているようだ、と警備部長は言っていた。人間よりも遥かに超越したアンノウンが、人間を怖れるとはどういうことだろう。

「しかし分からんな」

 司はスコッチのグラスを置いて腕を組む。

「何故……、何故アンノウンは超能力者を殺すんだ? 何のために」

「それは………」

 人間を怖れているから、なんて回答で司が納得するとは思えない。怖れているとしたら、何故アンノウンに恐怖される被害者たちはあっけなく殺されてきたのか。的を射ているとは言い難い見解だ。

「分かりません、今のところ」

 包み隠さず小沢が応えると、「おいおい」と司は呆れを露骨に示す。

「要するに何も分かっていないのか? 呑気だな」

 「同感です」と北條は司が飲み干したグラスにスコッチを注ぎながら、

「司さんがもっと早く来てくれればG3ユニットも、もっと良い仕事をしていたと思うのですが」

 いくら司が優秀な監査官でも捜査が飛躍するとは、どうしても誠には考えられなかった。これまで現場に立ってきた意地という面もあるし、資料でしか事件を知らない司に対しての不信感もある。

 それを抜きにしても、アンノウンはとても人間が追いつける存在とは思えない。超能力者を殺す理由も、知能や能力も、どこから生まれてきたのかも、全てが謎に包まれている。現代でこそ謎の生物と認識しているが、時代が違えば彼らは神として崇められていただろう。

 

 



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第2話

 

   1

 

 ゼロから1へ。

 そのスローガンを掲げたAqoursに、次のステージの話は早いうちに舞い込んできた。

「夏祭り?」

 練習前の打ち合わせで、その話を聞いたルビィが期待を込めた声色で反芻する。この日の打ち合わせの場は沼津に開店したばかりの花村ベーカリー。学校が閉まっている日曜日での話し合いはそれなりの広さがあって集まりやすい十千万と決まっているのだが、この日は翔一のバイト先を見たい、というメンバーの創意だった。パン屋は朝に昼食を買うお客が多いためか開店が早い。朝の繁盛期を過ぎた店内でお客は千歌たちしかいなかった。

「屋台も出るずら」

 練習前の栄養補給に、と購入したミルクフランスパンを頬張りながら花丸が言う。日本という四季のある国柄、夏祭りという行事はどこの地域にもある。祖先の霊を祀る時期に催される行事の由来は多くの土地では死者を弔うことにあるのだが、現代においては地域の憩いの場や土着文化の維持という意味合いが強い。花丸のように屋台に並ぶ食べ物を楽しむ場でもある。

「これは……、痕跡。僅かに残っている気配………」

 丸テーブルに頬を摺り寄せながら善子が何やら呟いている。正直何を言っているのかは分からない。この様子の原因をルビィが述べた。

「どうしよう。東京行ってからすっかり元に戻っちゃって」

「ほっとくずら」

 かたん、という軽い音に千歌は陳列スペースへと振り向く。エプロンを着て頭にバンダナを巻いた、普段と殆ど変わらない出で立ちの翔一がクロワッサンを乗せたトレーを置いている。

 千歌は席から立って、焼き立てのパンの香りを近くで楽しむ。

「良い匂い」

 「だろ?」と翔一は得意げに笑い、

「なんせうちは厳選した素材を使った手作りでさ。そこらの店とは違うんだ。特にほら、このピクルスサンドなんて絶品でさ」

「自分のお店じゃないんだから」

 そう指摘しながらも、千歌はどこかで安心していた。十千万の外に出てしまったら、翔一は変わってしまうかもしれない。でも、こうして笑顔で店に立つ翔一はいつもと同じ。そもそも不安になることなんてなかったのかもしれない。アギトに変身しても、翔一は翔一のままなのだから。

「いやそうだけど、でも本当親父さんの腕が良くって」

 「ねえ親父さん」と丁度厨房から焼き上がったパンのトレーを手に出てきた店主に言う。

「無駄口叩いてないで仕事しろ。それから親父さんて呼ぶのやめてくれ。まだそんな歳じゃない」

 「すいません」と苦笑しながら翔一はトレーを受け取った。そこでテーブルから曜の声が飛んでくる。

「千歌ちゃんは夏祭りどうするの?」

 危うく忘れそうになった議題に「そうだねえ、決めないとねえ」と気のない返事をする。沼津の夏祭りでは地元の学生による催し物もイベントとして組み込まれている。恒例が吹奏楽部の演奏会なのだが、今年は東京のイベントに出たということでAqoursに市役所の運営委員会から出演依頼が来た。得票ゼロではあったが、あのイベントでAqoursにも箔が付いたということか。

「沼津の花火大会ていったら、ここら辺じゃ1番のイベントだよ。そこからオファーが来てるんでしょ?」

 今年が祭り初参加の梨子に、曜が説明する。狩野川の河口から打ち上げられる花火は、街中でも間近に見られる迫力から人気は高い。「Aqoursを知ってもらうには1番ずらね」と花丸の言う通り、多くの観客にAqoursを観てもらう絶好の場だろう。悪くはないのだが、唯一かつ最大の不安要素をルビィが言う。

「でも今からじゃあまり練習時間ないよね」

 それは致命的な問題だ。既にある曲だと面白味に欠けるから、どうせなら新曲が良い。でも祭りの日まであまり期間は無い。作詞作曲にダンス考案に衣装作成。曲作りでやることはとにかく多い。

「わたしは、今は練習を優先した方が良いと思うけど」

 梨子の意見は後ろ向きとも取れるが、現状ではそれが最も堅実だ。地方の祭りだからといって、中途半端なパフォーマンスはできない。焦らず実力を磨くべき、ということ。

「千歌ちゃんは?」

 曜から促され、千歌はいま1度自身の想いを確認してみる。現実的に考えて梨子の意見に沿うのが最善だが、夏祭りというイベントは年に1度だけ。披露の場を与えられる機会なんてそうそうない。

「わたしは出たいかな」

 期間はなくても、絶対に不可能というわけじゃない。要は気持ちの問題だ。出たいか出たくないか問われたら、出たいに決まっている。理由なんてそれで十分だ。

 「そっか」と曜が嬉しそうに笑う。「千歌ちゃん……」と消極的だった梨子も同じだった。

「今のわたし達の全力を見てもらう。それで駄目だったらまた頑張る。それを繰り返すしかないんじゃないかな」

 また誰からも支持されないかもしれない。その恐怖はある。でも、泣いてもこの面々が千歌と一緒に泣いてくれる。絶望の底に落ちても引っ張り上げてくれる。そう思うと活力が溢れてきた。皆で一緒に歩く。互いに手を引いて、背中を押していけばいい。

「ヨーソロー! 賛成であります!」

 敬礼する曜に続いて他の皆も笑顔で頷く。胸の奥を満たす思慕に、千歌は満面の笑みを向けた。

 でもすぐに、もやもやとした溜まりが裡で撹拌(かくはん)していく。その元はつい先日の記憶。淡島神社で交わした果南とのやり取りだ。

 

 果南は毎朝、淡島神社への長い石段をランニングコースとして走っていた。Aqoursも練習メニューに組み込んでいるそのコースを、その日千歌ははいつもより早い時間帯に訪れた。普段ならすれ違いになる時間。山頂にある拝殿まで行ってようやく果南と会うことができた。

 拝殿の前で立っていた果南は、粗い千歌の息遣いに気付いて振り向きただ一言だけ、

「練習、頑張ってね」

 それだけ笑顔で告げて、果南は階段へと走り出そうとした。

「やってたんだよね、スクールアイドル」

 千歌の質問に果南は足を止めて「聞いちゃったか……」と呟き、

「ちょっとだけね」

 またも一言だけで階段を駆け下りていった。千歌が更に追求しようとしても、果南の背中はすぐに遠ざかっていった。

 

「どうしたの?」

 思い悩んでいることが顔に出ていたのか、梨子が訊いてくる。

「果南ちゃん、どうしてスクールアイドル辞めちゃったんだろう?」

 「生徒会長が言ってたでしょ」と善子が気だるげに、

「東京のイベントで歌えなかったからだ、て」

 それは知っているし、ダイヤが嘘を告げたとも思えない。だからといって納得はしていなかった。

「でも、それで辞めちゃうような性格じゃないと思う」

 「そうなの?」と梨子が訊く。「うん」と千歌は頷き、

「小さい頃は、いつも一緒に遊んでて――」

 千歌は翔一と出会うより、父と死別するよりも更に昔を追憶する。幼い頃に海で遊んだ記憶。桟橋から海に飛び込むことを怖がっていた千歌に、先に飛び込んだ果南が水面から呼びかけていた。

 ――怖くないって千歌。ここでやめたら後悔するよ。絶対できるから――

 志満と美渡に次ぐ3人目の姉のような存在。果南は実姉たちよりも千歌と歳が近く、傍に寄り添ってくれていた。

 そのことを話すと「そうだったのね」と梨子が言う。千歌の知る果南はもっと勇気に溢れていて、例え大きな失敗をしても諦めるような人間ではなかった。それに、もうひとつ気掛かりなことがある。淡島神社で会ったとき、千歌に気付く前に彼女が発していた鼻をすするような声。

「果南ちゃん、あのとき泣いてたような………」

 「果南ちゃんが? まさかあ」と曜は笑う。気のせいだろうか。果南が泣いている姿なんて千歌も見たことがない。

「もう少し、スクールアイドルやっていた頃のことが分かればいいんだけどなあ」

 テーブルにうなだれると曜も溜め息交じりに、

「聞くまで全然知らなかったもんね」

 それほど彼女にとっては酷な過去だったということか。ダイヤから聞かされなければこの先も決して知ることはなかっただろう。

 そう、ダイヤから――

 場にいる全員の視線がルビィに集中する。一斉に見られたことにルビィは「ピギッ」と小さな悲鳴をあげた。

「ルビィちゃん、ダイヤさんから何か聞いてない?」

 千歌に続いて曜も、

「小耳に挟んだとか」

 梨子も追い打ちをかけるように、

「ずっと一緒に家にいるのよね? 何かあるはずよ」

 先輩たちからの追求にルビィはしばし口をまごつかせていたのだが、とうとう耐え切れなくなったのか店の外へ飛び出す。

「あ、逃げた!」

 千歌が言うとすかさず善子も飛び出し、店先で追いつくと背後からプロレス技のコブラツイストで拘束する。

「堕天使奥義、堕天龍鳳凰縛!」

 せっかく捕まえてもらって有難いのだが、生憎ここはよその店だ。溜め息と共に店先へ出た花丸が「やめるずら」と止めた。

「君たち、今は他にお客さんいないが静かにな」

 1年生たちがテーブルに戻ってくるとき、店長から注意された。全員で「ごめんなさい」と謝ると、店長は叱り慣れていないのか罰が悪そうに頭をかく。棚からピクルスサンドを人数分取ってテーブルに置いてくれた。

「せっかく来てくれたんだ、ゆっくりしていきな」

 「おお、さすが親父さん。懐が広いなあ」と翔一が茶々を入れてきた。

「代金は津上の給料から引いとくよ」

「ええ⁉」

「あと親父さんて呼ぶな」

 不機嫌そうに顔をしかめる店長の顔を見て、自然と千歌は頬が綻ぶ。翔一もいずれはパンを焼いてこの店を任されるのだろうか。そう考えるとこれからが楽しみになってくる。

「ありがとうございます」

 千歌は言った。店長は照れ臭そうに頭をかいて厨房に戻っていく。

 本筋に戻ってルビィに尋ねると、彼女も本当に詳しくは知らないとのことだった。

「ルビィが聞いたのは、東京のライブが上手くいなかった、て話くらいです。それからスクールアイドルの話は殆どしなくなっちゃったので。ただ――」

 「ただ?」と全員で続きを促す。どれほど皆の興味があるかというと、花丸がピクルスサンドを食べる手を止めるほど。

「鞠莉さんがうちに来て――」

 その日、ルビィは客間にいるふたりのもとへお茶を運んでいた。部屋の前に着いたとき、ダイヤはこう言っていたらしい。

 ――逃げてるわけじゃありませんわ。だから、果南さんのことを逃げたなんて言わないで――

「逃げたわけじゃない、か………」

 声に出してみても、千歌にはその言葉が意味することを見出せない。事の当事者でないのだから当然。3人のことは3人にしか分からない。

 結局、本人たちから引き出す他ないことだ。

 

 

   2

 

 司がG3ユニットに加入して初めて参加する事件捜査は間もなくして訪れた。現場は沼津市街にあるコンビニの駐車場で、朝の通勤時間帯に被害者は焼死を遂げた。目撃したコンビニの店員によると、被害者はペットボトルのお茶を購入し店を出てすぐ、自動ドアの目の前で突然燃え上がったという。

 死体は既に検死へと回されたが、現場には焦げ跡が人の形にくっきりと残されている。回収される前に白線が死体に沿って引かれたのだが、あまり必要性を感じない。

「何の理由もなく人体が発火する」

 鑑識が記録を採取している死体の跡を見下ろしながら、苦々しく司が呟く。現場周辺を聞き込みしたところ可燃性ガスと思わしき異臭はなし。しかも燃えたのは被害者のみ。

「不可能犯罪。これがアンノウンの犯行か」

 司は隣に立つ北條に尋ねる。

「それで、被害者の身元は?」

「それが、被害者の所持品は全て焼失し、今のところ手掛かりはありません」

 聴取によると、コンビニの店員はよく被害者と顔を合わせていたらしい。だが顔を知っていても関係は店員と客。商品を買うだけで特に世間話をすることはなく、被害者がどこの誰かまでは情報を得ることができなかった。

「その袋は?」

 北條が誠の手にある紙袋を見やる。

「被害者のものだと思われるんですが」

 現場で唯一焼失しなかった遺留品。被害者がこの紙袋を所持していたことは、店員も認めている。恐らくは発火してすぐ被害者の手から離れたのだろう。多少煤がこびり付いているが、完全な状態で残っている。中身を覗いてみると、ラップで包装されたサンドイッチが入っている。

 紙袋には商品の販売元が印字されていた。

 花村ベーカリー

 被害者はこの店でサンドイッチを購入したらしい。

 

 昼食の時間帯ということもあり、花村ベーカリーは混雑していた。香ばしく焼かれた生地の香りに誘われて来店しているのは女性が多く、年齢層は幅広い。香りと暖色系の壁紙に彩られた店内は夏でも心地良い温かみがある。

 女性ばかりの店内で、誠以外では唯一の男性である店員は慣れない手つきながら笑顔でレジを打っていた。

「津上さん!」

「あれ、氷川さん」

「何をしてるんですこんな所で」

「ちょっとバイトを」

 接客中の翔一は紙袋にパンをトングで入れながら、

「氷川さんこそ……、ああお客さんですよね? いらっしゃいませ」

「それがですね………」

 かき入れ時に厨房から呼び出された店長の花村久志は最初こそ不機嫌だったが、誠が警察手帳を出して自己紹介するとかしこまってカフェスペースでの聴取に応じてくれた。商品と一緒に入っていたレシートの発行時刻を伝えると、腕組みしながら聞いていた花村は「それなら……」と口を開く。

「石倉さんかもしれないな」

「石倉?」

「ええ。よく町内会で顔を合わせるんですが、よく仕事前にピクルスサンドを3つ買っていってくれたんです」

「詳しく話を聞かせてくれませんか?」

 コンビニの店員よりは被害者との関係は深いようだが、やはり花村も被害者とは店主と客であまり私生活については知らないとのことだった。ましてや被害者が超能力者を持っていたか、なんてことは知るはずもない。だが、身元の手掛かりが見つかっただけでも収穫は大きい。

「親父さん、お願いします」

 電話応対をしていた翔一に呼ばれ、花村は「すみません」と断りを入れて席を立つ。「親父さんて言うな」と悪態をつきながら受話器を受け取ったときに丁度、司と北條が店に入ってくる。

「どうです、氷川さん」

 北條に尋ねられ、誠は手帳のページをペンでなぞりながら、

「ええ、被害者は石倉大介という人物と思われます。連絡が取れなければ親族と遺体のDNA鑑定を。それと親族への護衛も付けましょう」

 

 パン屋の1日は朝が早く夜は遅い。夕方には閉店するのだが、その後は次の日に焼くパンの仕込みで営業時間と同じくらい店に留まらなければならない。翔一はバイトということもあって、閉店後の片付けを済ませれば仕事が終わる。十千万で家事全般をこなしていたお陰か、掃除は1時間も経たずに終えることができた。

「今日もお疲れさん。お茶でもしないか?」

 この日、いつもなら夕飯の支度に早く帰ろうとする翔一に、花村はそう言った。

「その間の時給は出す。大事な話があるんだ」

「いや、いらないですよ。俺コーヒー淹れます」

 花村ベーカリーではコーヒー豆も販売している。パンに合うブレンドを花村自らが吟味して、提携しているコーヒー店から仕入れているらしい。

 翔一が「親父さんブレンド」と勝手に名付けたコーヒーを淹れると、花村は香りを楽しんでからゆっくりと啜った。

「君はコーヒーを淹れるのが上手いな」

「そうですか? お茶のほうが得意なんですけど」

 仕事のときは厳しい顔ばかりだが、この時の花村はとても穏やかに笑った。翔一もコーヒーを一口啜る。甘い菓子パンや塩気のある総菜パンのどちらにも合う、苦味のなかにすっきりとした酸味のあるブレンドだ。

 おもむろに、花村が鞄から出したキャンパスノートを差し出してくる。

「何ですかこれ?」

「うちのパンのレシピだよ」

 受け取ってページを開くと、パンの作り方がイラスト付きで丁寧に綴られている。パン生地の材料の割合。焼く際のオーブンの温度と時間。使用する小麦の産地と味の特徴。花村がこれまで研究を重ねてきた、まさに秘伝のレシピだった。

 「へえ、凄いな」と言いながら翔一はページを捲った。これで更に料理のレパートリーが増える。実のところ花村ベーカリーのバイトに募集したのも、パン作りに興味が湧いてあわよくば作り方を伝授してもらおう、と考えてのことだった。どうせなら実生活の身になる所で働きたい。

「でも、何でこれを俺に?」

「俺にもしものことがあった場合、君にこの店を続けてほしいと思ってね」

「もしものこと、て………。どういう意味です?」

「いや、例えばの話だよ。特にピクルスサンドだけは作り続けてほしい」

 花村は真正面から翔一に視線を合わせて言った。それは翔一からしてみればとても奇妙な頼みだった。翔一はレジ打ちの他にサンドイッチの調理を任されている。ただ食パンに具材を挟むだけの簡単な作業だ。でも花村は店の一押しであるピクルスサンドだけは作らせてくれなかった。これは自分の手で、とこだわっていたのに、どうしてまだバイトを始めて間もない翔一に託そうとするのだろう。

「あれには想い入れがあってね」

 花村は翔一から視線を外す。

「やだな、変なこと言わないでくださいよ」

 翔一は笑った。これじゃまるで遺言みたいだ。つられたのか花村もふ、と笑みを零してコーヒーを啜った。

 

 



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第3話

 

   1

 

 まだ朝陽が昇らない早朝に、果南は無人の桟橋に小型ボートを停めた。準備運動に軽いストレッチをして、波の音だけが響く内浦の道路を走り出す。海沿いにある水族館の看板の陰に隠れて、千歌たちはその後ろ姿をじ、と逃すまいと見つめていた。

「まだ眠いずら」

 花丸が大きく口を開けて欠伸をする。この尾行を提案した千歌自身もつられて欠伸を漏らした。

 過去を探るために果南を尾行。そんなスパイの真似事にもならない作戦は思いのほか難しい。ある程度の距離を置きながら果南を追跡しなければならないのだが、ただでさえ人が少ない内浦は早朝になるとほぼ無人。隠れる場所も殆どない。

「毎日こんな朝早く起きてるんですね」

 声を潜めながらルビィが言う。

「それより、こんな大人数で尾行したらばれるわ」

 今更な苦言を呈す梨子に曜が、

「だって皆来たい、て言うし」

 結構な距離を走っているが、今の所果南はこちらの尾行に気付いていない。多少の音は波の音が掻き消してくれるから丁度よかった。

 ただ、ここで問題が発生する。

「しっかし速いね………」

 息も絶え絶えに千歌が言った。浦の星への通学路である長浜方面へと果南を追っていったのだが、いくら通い慣れた道でも徒歩で行く距離じゃない。

「どこまで走るつもり?」

 善子もここで疲労を見せているが、果南は全くペースを落とさない。毎日走っているとこれが平気になるほど体力がつくものだろうか。

「結構走ってるよね」

 曜が涼しい顔で言った。水泳部と兼部している彼女にとって、これくらいの運動は何てことないらしい。

「マル、もう駄目ずら………」

 花丸がとうとう足を止めてしまう。ペースを落とすどころか速くなっている果南との距離はすぐに広がっていく。

「何だか、逃げてるみたい」

 逃げてるわけじゃない、とダイヤが言っていた事と矛盾していると分かっていながら、千歌はそう思わずにはいられない。

「逃げてる、て何から?」

 梨子から訊かれても、千歌には「………さあ?」と答えるしかなかった。

 ペースこそ着いていけなかったが、果南の追跡は何とか継続することができた。それは果南が内浦湾に突き出した岬の森に入っていくのが見えたからだった。それほど高くはない山なのだが、頂にある弁天島神社までの石段を果南は休憩を挟まず駆け上がっていく。

 千歌たちが石段の入口に着くと、とうとう体力がもたなくなった1年生たちは石段に腰を落ち着けた。曜と梨子も途中で膝に手をつく。千歌は何とか社のもとまで行けたのだが、流石に気付かれないよう音を潜めての呼吸が難しくなった。

 社の前で果南は流石に休憩していると思ったのだが、彼女の足は音を上げることなくしっかりと地面を踏んでいる。千歌は木陰に隠れてその様子を見ていた。遅れて他の皆が千歌の傍に集まって果南へ視線を注ぐ。

 果南は片足を軸にしてその場をターンし、数歩の助走を経て大きくスキップする。彼女のポニーテールに纏めた黒髪がふわ、と舞い朝陽を反射する。着地して再び1回転。途中でよろけることなく、しっかりと背筋を伸ばして。

「綺麗……」

 思わず千歌は呟いていた。とてもしなやかで、艶やかなダンスだ。元とはいえ果南もスクールアイドル。かつて東京のイベントに呼ばれたほどの実力者だったということだ。

 次のステップを踏むと思い期待しながら待つが、果南はその場に立ったまま動こうとしない。俯くと、その顔が次第にくしゃくしゃに歪んでいく。え、と千歌は口を半開きに呆けさせた。彼女の目尻に溜まった涙が頬へ零れようとする寸前、拍手の音が響く。果南は咄嗟に腕で乱暴に目元を拭った。

「復学届、提出したのね。思ったより遅かったけど」

 見ると、社の前に鞠莉が立っていた。「まあね」と素っ気なく応じる果南は、赤く腫らした目元を見せたくないのか鞠莉のほうを向こうとしない。

「やっと逃げるのを諦めた?」

 その言葉を受け、果南の目が険しくなる。

「勘違いしないで。学校を休んでたのは父さんの怪我が元で――」

「お父さんは2週間も前に退院したんでしょ? 他に何かあった?」

「………別に。それに復学しても、スクールアイドルはやらない」

 一切の感情が乗っていない声で言うと、果南は石段に向かって歩き出す。

「わたしの知っている果南は、どんな失敗をしても笑顔で次に向かって走り出していた。成功するまで諦めなかった」

 果南は足を止める。

「卒業まであと1年もないんだよ」

「それだけあれば十分。それに、今は後輩もいる」

「だったら千歌たちに任せればいい」

「果南………」

「どうして戻ってきたの? わたしは戻ってきてほしくなかった」

 そこで果南は腫れの引いた目を鞠莉へ向けた。鞠莉は戸惑いの表情を果南へ返す。それでも苦し紛れな笑みを零し、

「相変わらず果南は頑固な――」

「やめて」

 果南の声はそれほど大きくはなかったが、はっきりと聞こえて、冷たさを感じさせた。

「もう、あなたの顔見たくないの」

 流石に堪えたのか、鞠莉は口を結んで何も言わなくなる。まるで鞠莉をいないもののように、果南は石段を下りていった。

 

 

   2

 

 第2の焼死体は、狩野川に沿って整備された広場にて発見された。河川敷にはささやかながらゴルフ場が整備されていて、被害者は道路から逸れてすぐのコース上に黒焦げで倒れていた。道路には被害者のものと思わしき自転車が放置されていて、アンノウンによる不可能犯罪なら被害者は自転車で走行中に発火。転倒しコース上を転がった後に絶命したというのが、司の推理だ。

 ビニールシートを被せられた死体を前に北條が報告する。

「燃え残った免許証から被害者の身元が分かりました。名前は花村久志。ですが、前回の被害者との血縁関係はないようです」

 奇妙だ、と誠は思った。前回の被害者は手元になかったベーカリーの袋以外、つまり身に着けていた遺留品全てが焼失していた。この花村久志の財布に入っていた免許証は、多少燃えてこそいたがしっかり残っている。被害者を焼いた炎の温度が低いからだ。アンノウンの能力にむらが生じたとでもいうのか。

「どういうことだ? アンノウンは血の繋がった人間を襲うんじゃなかったのか?」

 司の質問に、誠も北條もすぐには答えることができない。こういった事態は前例が無いわけじゃない。だが、それは前の被害者に血縁者がいないか、血縁者が全て殺害された場合だ。前回の被害者である石倉大介には兄がいる。北條と他の刑事が護衛を担当しているが、まだ襲われていない。

 現時点で考えられる可能性を誠は述べる。

「もしかしたら、複数のアンノウンが活動しているのかもしれません」

「そんな目撃情報があるのか?」

 司の鋭い指摘に誠は「いえ……」と弱く答える。そもそも、今回のアンノウンについての目撃情報はまだない。だからどんな姿をしているのか、何体いるのかも不明だ。

「なら、君の推理が間違っていたという可能性もあるわけだ。アンノウンにとって、血縁関係などどうでもいいのかもしれない」

 司は淡々と告げる。今まで誠が、G3ユニットが積み上げてきた推理を崩すように。自らの加入で、全てをゼロに洗い流そうとするように。

「だとすれば、G3ユニットは今までずっと間違った基盤の上で行動していたことになるな」

 その間違った基盤は正さなければならない。その意図が読み取れた。司の隣で北條がほくそ笑んでいる。反論の言葉を探しあぐねていると、誠のスマートフォンがポケットのなかで振動する。すかさず「はい氷川ですが」と通話に応じると小沢の声が飛んできた。

『アンノウン出現。G3システム出動よ』

 

 通報元は前回の被害者、石倉大介の兄を護衛していた刑事からだった。運送会社に勤める護衛対象が沼津港で荷物の積み下ろし作業をしていた際に発火。それに伴いアンノウンが姿を現したという。

 避難誘導が完了した港は静かだった。ガードチェイサーのサイレンのみが鳴り響き、波の音を掻き消す。魚市場の幅広な建物を通り過ぎた先で、異形の存在は佇んでいた。まるで頭にクラゲを被ったかのようなアンノウンに向かって、誠はガードチェイサーのスピードを更に上げる。このままの勢いで撥ね飛ばそうと接近したとき、カウルに衝突の感触はなく何の障害もないまま前進し続ける。

 誠はマシンを急停止させ辺りを見回した。サイレンを止めると恐ろしいほど静かだ。活気を失った魚市場には誰もいない。人間も、異形も。視界の隅で炎が上がっている。焦点を合わせると、停まっているワゴン車の横で何かが燃えていた。まさか護衛対象か。

 はあ、と背後から吐息が聞こえた。咄嗟に振り返るとクラゲを被ったアンノウンの顔面が至近距離まで迫っていて、驚愕すると同時に肘打ちを見舞う。よろめいたアンノウンはそれほど強いわけではないらしい。追撃の拳を突き出すが、すぐ目の前にいたはずのアンノウンは音もなく消えて拳が宙を切る。

 視界を這わせると、アンノウンは少し距離を取った場所にいた。

『GM-01、アクティブ』

 小沢の報告が聞こえ、誠はハッチから銃を取る。敵に向けて発砲すると同時、胸部装甲から火花が散った。何が起こった。これが発火現象か。G3のスーツは素材上燃えないが、内部に張り巡らされた回路を焼かれてしまえば致命的ダメージだ。

 誠は再びGM-01を発砲する。それに伴い敵の攻撃も再び。スーツが火花を散らす。これでは分が悪い。敵に与えるダメージよりこちらが負うダメージが深刻だ。GG-02で一気に畳みかけるか。でもその判断は遅すぎた。姿勢制御ユニットをやられたらしく筋力補正が効かない。マスク内のスピーカーもやられたのかノイズが響いた。

 アンノウンの拳が胸に打たれ、誠の体が地面に倒れた。更に迫ってくる敵の腹に蹴りを入れるが、それはただ敵の攻撃を遅らせる効果しかない。

 視界の隅から、強烈な光に包まれた何かが接近してくる。光が晴れると同時、黄金の戦士の拳がアンノウンの顔面を突いた。アギトは更に拳と蹴りを追撃し、アンノウンを圧倒していく。

 投げ飛ばされたアンノウンが、地面に埋まる顔を市場の建物へ向けた。視線の先でパトランプを付けたクラウンが停まり、北條と司が出てくる。アンノウンがゆったりとした動作で立ち上がる。骸骨を薄皮で覆ったかのような口が動いた。

「人が人を殺してはならない」

 え、と誠は漏らす。今の声はアンノウンが発したのか。

 アギトがアンノウンへ駆け出す。誠もGM-01の銃口を向けたとき、ふたりの鎧が火花を散らす。アギトも炎上こそしないがダメージを負ったようで、胸を抑えつけながらガードチェイサーに寄りかかる。

 アンノウンは既に消えていた。港には波の音だけが響く。

 

 

   3

 

 Gトレーラーに帰還後、誠は揃ったユニットメンバーたちに事を報告した。アンノウンの攻撃でG3の通信機器がやられたせいで、小沢と尾室はアンノウンに起こったことを知らない。

「アンノウンが喋った?」

「はい間違いありません」

「で、何て言ったの?」

「人が人を殺してはならない、と」

 「何よ偉そうに」と小沢は苛立たしげに椅子に腰かける。

「さんざん人を殺しといて説教でもするつもりなのかしら?」

 「それよりも」と司が口を挟む。

「今まで君たちはアンノウンが喋れることに気付かなかったのか? そっちの方が迂闊だろ」

 「そんな」と小沢が噛みつくように、

「アンノウンが意味のある言葉を発したのはこれが初めてのことです。気付きようがありません」

 そう、誠がこれまで遭遇してきたアンノウン達が発した言葉は「アギト」のみ。知性のある生命体なのかは不明だった。敵が人語を解せるという事実を、不可能犯罪発生から数ヶ月経ってようやく発見したことに司は我慢ならないらしい。

「どうかな? 君たちの不注意だった、てことも考えられるだろう」

 小沢が口をつぐんでしまう。それを良いことに司は続ける。

「今回の連続殺人で、アンノウンが血縁関係者を狙うという君たちの説も怪しくなった」

 今まで現場に立ってこなかったあなたが何を知っているのか、という憤りはある。だが捜査は結果が全てだ。誠たちは捜査を日々進めているように感じているがそれはあくまで主観でしかなく、監査官である司や上層部にとっては何も進展していないのかもしれない。

「正直、俺は失望している。天才小沢澄子は威勢が良いだけ。英雄氷川誠は、図体がでかいだけの無骨漢」

 「無骨⁉」と我を忘れて詰め寄ってしまう。激昂は踏みとどまったが、そんな誠を司は冷ややかに見つめる。

「というのは、言い過ぎか?」

 ここで下手に声を荒げればG3ユニットの存続がまた危ぶまれるかもしれない。司はそういった権限を与えられ出向してきた。この場でこそ対応は慎重にしなければならない。

「あなた達に警察官としての司さんのモットーを教えてあげましょう」

 北條が言った。

「あらゆる偏見を排除して、ただ事実を事実として直視する。これです。きっと勉強になると思いますよ」

 込み上げる怒りが治まるをどこへ向けたらいいものか。いま発散させるわけにもいかず、誠はそっぽを向いて治まるのを待つ。偏見や先入観が障害となってしまう事件捜査において、司のモットーは理想的だ。だがそのモットーを掲げる本人はどうだ。自分の意にそぐわない人間を無能と決めつけ、ただ否定しているだけじゃないか。

 がた、という音が聞こえて振り返ると、小沢が椅子から立って北條と対峙している。10代半ばでマサチューセッツ工科大学(MIT)卒業という誰が見ても輝かしい経歴を持つ才媛が、どうふたりを論破してくれるのか。

「ありがとう北條君。嬉しいわ、とっても」

 穏やかな声で小沢は告げた。意を突かれた北條は多少面食らうも、すぐにいつもの憮然とした表情に戻す。小沢は再び椅子に座った。カーゴ内に重い沈黙が漂う。

 誠の裡で怒りが治まっていく代わりに、呆れが浮上してきた。こんなユニット内の確執が捜査を妨害している。アンノウンはこちらの都合なんてお構いなしに人を狙っているというのに。

 司の加入でG3ユニットの質が向上するとは、どうしても考えられなかった。

 

 この日の花村ベーカリーは店主不在のため臨時休業だが、翔一は出勤していて誠の聴取に応じてくれた。誠が遺留品の免許証を見せると、翔一は神妙な顔をする。

「じゃあ親父さん………」

 まだオープンして間もないのに、店主の死という憂き目に遭っているベーカリーは寂しい様相だった。陳列スペースには殆どパンが並んでいない。花村は毎朝開店前にパンを焼いていたのだろう。

「津上さん、花村さんには何か特別な力があったということはありませんか? それも、際立った超能力が」

 翔一はじ、と花村の免許証に視線を落としながら答える。

「俺には分かりません。でも――」

「でも?」

「親父さん、自分が死ぬことを知ってたような感じが………」

「どういう意味ですか?」

 翔一は席を立ち、厨房へ行くとノートを手に戻ってきた。翔一は誠へノートを差し出し、

「見てくださいこれ」

「これは?」

「パンのレシピです」

 受け取ったノートを開くと、ページに隙間なくパンの作り方が綴られている。アンパンやクリームパンといった定番から、イカ墨パンやピクルスサンドといった変わり種まで。

 翔一は言った。

「親父さん、自分にもしものことがあったら俺にパンを作ってくれ、て………」

 誠はページを捲り続ける。もし花村が自分の死を予見していて、その運命を受け入れて翔一にこのレシピを託したのだとしたら。どこかに遺言らしき書き込みはないか探してみるが、最後のページを捲ってもそのような文言は見当たらない。ノートには、ただパンの作り方だけが書かれているだけだった。

 

 

   4

 

『では司課長は、G3ユニットの活動内容にやはり問題があると言いたいのかね?』

 この緊急会議のために時間を割いた警備部長はPC画面上で迷惑そうな顔ひとつ見せず、司からの報告を要約する。いくら立場が上とはいえ、司は警察庁の人間。自分の直属の部下でない者に対して、部長も強気には出られないようだ。

 「はい」と応じた司は淡々と、

「例えば、アンノウンによる被害者が特殊能力者及びその親族であるというのも、憶測の域を出ていません。小沢管理官らは何も知らないのです」

 ならあなたは何を知っているのか。誠がそう思っている横で、小沢が代弁するように小声で愚痴を零す。

「知らないのはあんたの方でしょ、このアホ男」

『何か? 小沢管理官』

 目ざとく補佐官が問う。PCの収音性は高く、小沢の愚痴も逃さなかったらしい。小沢は億すことなく強気に言う。

「先日殺害された花村久志の件は例外的な事例です。事実、同じアンノウンに殺害されたと思われる他の2名は親族関係にありました。司課長はアンノウンのことを何も知らないのです」

 そう、これまでの不可能犯罪の犠牲者たちは親族関係にあることが多かった。これが単なる偶然で片付けられるのか。誰が見てもそれは明らかなはずなのに、司はそれを真っ向から否定し別の推理を立ててもいない。なのに、何故警備部長も補佐官も司に意義を申し立てないのか。

 司の隣で、北條は不敵に微笑むだけだった。

 

「あーあ、もうG3ユニットもおしまいですね。監査員に目付けられちゃ」

 屋台でラーメンを啜りながら、尾室が溜め息交じりにごちる。小沢はちらりと彼を見やるも、無視して誠のほうを向き、

「なかなか良い店を知ってるじゃない氷川君」

「はい、河野さんに教えてもらいました」

 こういった店のほうが好みでは、と昼食に誘ったのは正解だった。小沢はずるずる、と豪快に音を立ててラーメンを啜る。あまり良い状況ではなくても美味なものは美味だ。

 尾室がまた愚痴を零す。

「あーあ、せめて小沢さんがあんなこと言わなければな」

「ちょっとあんた何ぐだぐだ言ってんのよ? 別に死ぬわけじゃないでしょ」

 そこで、新聞を読んでいた店主が「どうしたんですか?」と尋ねてくる。

「何かあったんですか?」

 「ええ、ちょっと……」と誠は濁した。店主は深くは聞こうとしなかったが、椅子から立って誠たちの背後へと回り込んでくる。

「どれどれ………」

 ラーメンの丼を覗き込む店主に小沢が「何か?」と尋ねる。店主は「ナルト占い、てやつでね」と答えた。

「ナルトでその人の運勢が分かるんですがね」

 本当だろうか、と誠が眉を潜めると、店主は小沢の丼にあるナルトを凝視して「あっ」と声をあげる。

「あなたは何の心配もいらない。いやあ、憎らしいほど運に恵まれた人だ」

 気を良くした小沢は「味玉もらうわ」と注文する。「毎度」と笑顔で応じた店主は次に誠の丼を覗き、

「ああ、あんたはちょっと微妙だなあ。何て言うかこう、浮き沈みが激しいね」

 「はあ……」と気のない返事をしながら誠はナルトを眺める。小沢のと見比べてみるが、違いがあるようには思えない。ただ白のすり身に渦巻き模様があるだけだ。

「あ、ちょっと僕のも見てくださいよ」

 尾室に言われ、店主は彼の丼を覗く。

「あ、これは……!」

 店主は目を見開いた。尾室は少したじろぎながら、

「な、何ですか?」

「………何でもありません」

 真顔に戻り、店主は厨房のスペースに戻って小沢の注文した味付玉子の準備を始める。誠は小沢と一緒に尾室のナルトを見てみるが、やはり普通のナルトだ。麺が伸びないうちに、と食事を再開した。

 

 昼過ぎの花村ベーカリーは営業こそしていたが、あまり客足が芳しいとは言えない。商品は日持ちするジャムやコーヒー豆の類しかなく、パンは殆ど並んでいない。

 店主亡き店で唯一の店員になってしまった翔一は、厨房でパン作りに励んでいた。カタツムリのように渦を巻いたデニッシュパンに絞り袋でホイップクリームを添えている。誠が厨房に入っても、作業に熱心な翔一は気付かずパンにのみ視線を向けている。

「やってますね」

 声をかけられてようやく誠に気付いた翔一は「ああ、いらっしゃいませ」と挨拶もそこそこに作業を継続しながら、

「少しは親父さんの気持ちに応えようかな、て」

「実はそのことなんですが、君は花村さんが殺されることを知っていたようであったと言いましたが、自分の死を予知していたということはありませんか? つまり、花村さんは予知能力を持っていたと………」

 「んー」と翔一はクリームを絞りながら唸り、

「ちょっと違うと思うけど、よく分かりません。俺、親父さんとは知り合ったばっかだったし」

「そうですか………」

 そうなると花村の親族に問い合わせるしかなさそうだ。そう思っていると翔一は作業を中断し、

「そんなことより、ちょっとこれ手伝ってもらえませんか? 俺違う仕事がありますから」

「いや私は………」

 断ると翔一は粘ることなくあっさりと作業に戻る。

「そうですよね。こういう細かい仕事は無理ですよね。氷川さん無骨そうだし」

「ぶ、無骨?」

 今のは聞き捨てならない。図体がでかいだけの無骨漢だなんて。

「そんなことありません、貸してください」

 手を差し出すと翔一は絞り袋を後ろ手に引っ込めて、

「いいですから本当に」

「いや貸してくださいよ」

「いいですよ!」

「いいから貸したまえ!」

 無理矢理にでも翔一の手から絞り袋を奪おうとしたのだが、乱暴に掴んだせいでクリームが飛び出してしまう。しかも口が誠のほうを向いていたせいで、背広にクリームが盛大にかかった。

 

 クリームを布巾で落としてもまだ背広が甘い香りを纏ったまま、誠は署に戻って捜査資料の整理を始めた。ひとまずは被害者たちの親族関係を洗わなければ。護衛が必要になるかもしれない。

 まず第1の被害者である石倉大介。彼の両親は既に死亡していて、本人も未婚で子供はいない。血の繋がった親族は今朝方殺害された兄ひとりだけ。その兄も独身で子供はいない。これで石倉家の親族は途絶えたことになり、次に狙われるとしたら第2の被害者である花村久志の親族。

 彼の身辺調査は思いのほか手強いものだった。市役所に問い合わせてみると花村は最近になって、花村ベーカリーの開店に伴いこの沼津へ住民票登録を移している。元は東京に暮らしていたようだが、それ以前の経歴はまだ不明のままだ。転居したばかりなのだから、こちらで親しい友人がいるという望みも薄い。

 考えていたら小腹が空いてきた。誠はデスクの隅に置いた花村ベーカリーの紙袋からピクルスサンドを取って食べる。仕事の邪魔をしてしまったお詫びに購入したものだった。ピクルスの強い酸味はあまり好きではないが、このサンドイッチはマヨネーズで緩和させている。

「氷川さん」

 オフィスのドアを前にして、北條が不敵に笑っている。先ほどの会議のあと司とふたり会議室に残っていたが、もう終わったのだろうか。

「聞いてますか? 今度の会議のこと」

 また会議か、と誠は思った。

「何か重大な通達があるらしいですよ。いやあ、今から楽しみです」

 北條が楽しみと述べるということは、誠にとって都合の良いものではないだろう。また誠がG3装着員から降ろされるか。それとも今後の捜査方針を大幅に変えていくのか。もしくは、北條が司の右腕として小沢よりも高い地位を得るのか。

「そのサンドイッチは確か………」

 北條の目が、デスクの紙袋へ向けられる。

「ええ、例の花村ベーカリーのものなんですが――」

 最後まで言い切る前に、北條は紙袋の中から小沢と尾室にもと買ってきたピクルスサンドを掴む。

「良かったら、どうぞ」

 誠の声が届いていないのか、北條はサンドイッチを凝視している。

「どこかで見たことがあると思ったが………」

「どうかしましたか北條さん」

 誠の声で我に返ったのか、北條は誠を一瞥するも無言のままサンドイッチを手にしてオフィスから足早に出て行った。

 

 



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第4話

 

   1

 

 数ヶ月ぶりの登校ということもあり、朝の教室に入った果南はまるで芸能人のように同級生たちに囲まれていた。しばらくの間は話し相手といえば大半が年上のお客ばかりだったから、同い年の少女たちばかりの場に少し気負ってしまう。でも、休学前は自分もこの場にいた。すぐに慣れて、以前の調子を取り戻すだろう。

 学校っていいな、と果南は思った。授業や受験、就職準備に追われていれば、嫌なことも忘れられる気がする。この前まで裡を満たしていた悲しみも虚しさも、これからの忙しい日々が埋めてくれそうだ。

「果南」

 同級生たちの輪から抜け出したところで、待ち構えていたかのように鞠莉が声をかけてきた。抱き着いてくるかと顔つきを険しくして身構えたが、鞠莉はそんなことはせず代わりに後ろ手に隠していたものを果南の眼前に広げる。

 それは2年前、まだ果南たちがスクールアイドルだった頃のステージ衣装。スクールアイドルとして最後の活動をした、あの日の部室と同じように鞠莉は衣装を広げ、

「果南」

 覚えてるよね、あの時のこと。鞠莉はそう問いているようだった。うん、覚えてるよ。忘れた日なんてない。忘れようとはしていたけどね。

 突き付けられた衣装を手に取ると、鞠莉はぱあ、と顔を明らめる。ごめんね、鞠莉。もうわたし達にこれは必要ない。

 

 何だか賑やかだな、と千歌は思った。生徒が次々と登校してくる朝の学校はいつも賑やかなものだが、この日はいつにも増している気がする。それが気のせいでないと、水泳部のミーティングから教室に戻ってきた曜から知ることができた。

「果南ちゃんが?」

 ベランダに出た千歌が訊くと、曜は「うん、今日から学校に来るって」と答える。確か3年生もクラスはひとつだけのはず。だとしたらダイヤとも、鞠莉とも顔を合わせることになる。もう果南は教室にいるのだろうか。

「それで、鞠莉さんは?」

 梨子が訊いた。曜は眉を潜め、

「まだ分からないけど………」

 千歌は天井を見上げる。上階の3年生の教室はどんな様子なのだろう。

 何かが上階のベランダから飛んできた。布だろうか、ひらひらと宙を踊るそれは千歌たちの目の前まで降りてきて、更に下へと風に煽られながら落下しようとする。千歌の隣で曜がくんくん、と鼻を鳴らした。

「せいふくうっ!」

 と曜がベランダから跳びついた。「駄目え‼」と梨子とふたり掛かりで腰を掴んだおかげで落下は免れたが、少しでも気を抜いたら手を滑らせそうで冷や汗が額に滲む。制服好きもここまで来たら病的だ。

「これって、スクールアイドルの………」

 曜は得物を獲得したらしい。同級生たちの手を借りて引き上げると、両手にはしっかりと降ってきた服が握られていた。セーラー服のようだが、機能的には不要なリボンやフリルが施されている。

「これって、スクールアイドルの衣装?」

 千歌に続いて梨子も、

「どうしてこんなものが3階から?」

 考えているよりは確かめに行ったほうが早い。3階に上がると何やら騒ぎが起こっているようだった。教室の前では別のクラスの生徒のみならず2年生と1年生も群がっていて、その中にはルビィと花丸と善子もいる。千歌が教室を覗くと、教卓のあたりで生徒たちが密集している。その中心から、渦中のふたりの声が聞こえた。

「離して! 離せ、て言ってるの!」

「良い、と言うまで離さない!」

 生徒たちの奥で、鞠莉にしがみ付かれた果南が必死に抵抗しているのが見えた。周りの生徒たちはどう止めたらいいか手を出せずにいるようだ。

「強情も大概にしておきなさい! たった1度失敗したくらいで、いつまでもネガティブに――」

「うるさい! いつまでもはどっち? もう2年前の話だよ! 大体今更スクールアイドルなんて! わたし達もう3年生なんだよ!」

 「ふたりともおやめなさい! 皆見てますわよ!」と傍でダイヤが強く言っているが、まるで効果がない。

「ダイヤもそう思うでしょ?」

 鞠莉が訊いてもダイヤは「やめなさい!」と言い続ける。

「果南さんが再びスクールアイドルを始めることはありませんわ」

「どうして? あの時の失敗はそんなに引きずること? チカっち達だって再スタートを切ろうとしてるのに何で――」

 「千歌とは違うの!」と果南が吐き捨てたところで、その千歌本人にとうとう我慢の限界が来た。教室に足を踏み出す。「千歌ちゃん?」と曜の声が聞こえたが、千歌の耳には入っていなかった。

 千歌が上級生たちを掻き分けて渦中に入ると、気付いた3人たちの視線を一気に受ける。

「いい加減に、しろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ‼」

 その怒号が教室内のみならず廊下にも響き渡り、果南たちも野次馬たちも、場の全員の声を静めた。後から聞いた話によると、声は1階の職員室にまで届いていたらしい。

「もう、何かよく分からない話をいつまでもずうっとずうっとずううっと! 隠してないでちゃんと話しなさい!」

 「千歌には関係な――」という果南を「あるよ!」と無理矢理黙らせる。「いや、ですが――」と困惑気味のダイヤにも飛び火した。

「ダイヤさんも、鞠莉さんも。3人そろって放課後、部室に来てください」

 「いや、でも――」と往生際の悪い果南に、千歌は更に語気を強める。

「いいですね?」

 3人は逡巡を挟んで応えた。果南と鞠莉は揉み合った体勢のまま。

「はい………」

 これでやっと全てが明らかになる。早く放課後にならないかな、と思っていると、曜の「千歌ちゃん凄い……」という声が聞こえた。

「3年生に向かって………」

 ルビィの言葉で、千歌はようやく頭が冷える。そういえば3人は上級生で、ここは3年生の教室だった。

「あ………」

 仕方がなかったとはいえ、先輩たちに粗相をした千歌はただ笑って誤魔化すしかなかった。

 

 

   2

 

 G3ユニット改革案。現在のユニットを解散し、司と北條を中心とした新たなメンバーに再編成する。その噂が誠たちの耳に入るのに、そう時間は掛からなかった。正式な通達はおそらく今日の会議で行われるのだろうが、既に噂は不可能犯罪捜査本部の刑事ほぼ全員にまで広がっている。

 これまでの成果の乏しさ。監査官である司の発案であること。これらのことから幹部会の決議が覆ることはまず無いだろう、というのが大多数の意見だ。英雄氷川誠の伝説もこれまでか、という揶揄の声まで聞いている。同情したのか河野がラーメンに誘ってくれたが、とても食べる気にはなれず誠は断った。

 ラーメン屋の店主はナルトで浮き沈みが激しい、と言っていた。浮いていた時期はG3装着員に抜擢された頃で、これからは沈んでいく時期に突入するのだろうか。占いなんて、と今まで気に留めたことはなかったが、こうして的中した状況になると信じてしまう。

「聞きました? 今日の会議のこと」

 尾室がそう切り出したのは、ユニットメンバーがGトレーラーで待機を命じられた午前だった。司と北條はいない。きっと新しいユニットの準備をふたりで進めているのだろう。

「やっぱり俺たちクビみたいですよ。新しいG3ユニットが誕生するって」

 知っています、と応える気にはなれず、誠は無言でガードチェイサーを眺めた。短い間だったが共に現場へと向かった相棒のバイク。次にこのマシンのシートに跨るのは誰になるのか。

 誰もが一言も発しない空気に堪えかねたのか、尾室がうんざりしたように言う。

「元気出しましょうよ。別に死ぬわけじゃないんですから――」

「うるさいわね」

 小沢が遮った。ヒステリックさは無いが、どこか痛々しい声色だった。

「あんたにはデリカシーってもんが無いの? 少しはしんみりしなさい」

 小沢もユニットを離れることを、幹部会は良しとしたのか。G3の開発者でシステムを隅々まで熟知している小沢なしで、一体誰がG3を上手く扱えるのだろう。

 尾室はべそをかいた子供のように沈んだ声で言った。

「何ですかそれ。ころころ態度変えないでくださいよ………」

 

 

   3

 

「だから、東京のイベントで歌えなくて」

 放課後の部室に渋々訪れた果南は、不機嫌さを隠すことなく椅子にふんぞり帰って言った。

「その話はダイヤさんから聞いた」

 千歌が言うと、果南は無言で隣に座るダイヤを睨む。ダイヤは一瞬怯んだ顔を見せるが、すぐに口を真一文字に結んでそっぽを向いた。千歌は続ける。

「けど、それで諦めるような果南ちゃんじゃないでしょ?」

 「そうそう」と千歌の背後から鞠莉が、

「チカっちの言う通りよ。だから何度も言ってるのに」

 この時ばかりは、鞠莉もおどけた様子は見せない。千歌は目を合わせようとしない果南に語りかける。

「何か事情があるんだよね?」

 果南は応えない。まるでPCがフリーズしたみたいに、微動だにせず無言を貫く。

「ね?」

 やっぱり何かあったんだ。イベントで歌えなかったことよりも、もっと深いものが。千歌が念を押すと、果南は視線を落として応える。

「そんなものないよ。さっき言った通り、わたしが歌えなかっただけ」

 ここまで強情だとは。

「ああ、イライラする!」

 千歌が頭を抱えると「その気持ちよーく分かるよ。本当腹立つよねこいつ!」と鞠莉が果南を指さす。

「勝手に鞠莉がイライラしているだけでしょ」

 果南が言うと、それまで口を挟まなかったルビィが「でも」と、

「この前弁天島で踊っていたような………」

 果南は紅潮した顔でルビィを睨んだ。先輩に睨まれたルビィは「ピギィッ」と小さく悲鳴をあげてそれ以上は何も言えなくなる。

「おお、赤くなってる」

 鞠莉が面白そうに覗き込むと、果南は「うるさい」と苦し紛れに返した。それでも鞠莉は嬉しそうに、

「やっぱり未練あるんでしょう?」

 がた、と音を立てて果南は椅子から立った。誰であろうと介入を許さない鋭い視線で鞠莉を見下ろす。

「うるさい、未練なんてない。とにかくわたしはもう嫌になったの。スクールアイドルは絶対にやらない」

 そう告げて、果南は部室から出て行く。誰も引き留めようとはしなかった。これだけ問い詰めても何も言わないのだから、引き留めたところで状況は泥沼の一途だろう。

「ダイヤさん」

 唐突に梨子から呼ばれ、ダイヤはびくり、と過敏に反応した。

「何か知ってますよね?」

「え? わたくしは何も………」

「じゃあどうしてさっき、果南さんの肩を持ったんですか?」

 「そ、それは……」とダイヤはゆっくりと席を立ち、次に勢いよく駆け出して部室から出て行く。

「善子ちゃん!」

 千歌が呼ぶと「ギラン」と擬音を口に出した善子はすぐさま後を追い、部室を出てすぐの所でダイヤを捕らえ堕天使奥義堕天龍鳳凰縛で拘束する。

「流石姉妹ずら」

 妹と同じく「ピギャアアアアアッ」と悲鳴をあげるダイヤを見て、花丸が呟いた。

 

 アンノウンに襲われた者の叫びを感じ取り、翔一は花村ベーカリーを飛び出してバイクで現場へと向かった。場所は恐らく、伊豆長岡方面へ伸びる狩野川の畔。

 バイクを走らせると、川辺の道路上でクラゲを被ったようなアンノウンが腰の抜けた青年にじりじり、と歩み寄っている。すぐ近くでは何かが燃えていて、地面に伸びたものが人間の手であることが視認できた。

 翔一はスピードを緩めることなく、バイクのカウルをアンノウンに突進させる。アンノウンが大きく吹き飛び、草むらへと投げ出された。

「逃げて、早く!」

 バイクから降りた翔一が手を貸すと、青年は何とか立ち上がって泣き出しそうな声をあげながら逃げていく。草むらで立ち上がったアンノウンが、翔一に憎悪のこもった目を向けた。

 翔一の腹で光が渦巻きベルトになる。アンノウンがゆったりとした歩みで距離を詰めてくるが、翔一は逃げることなく敵を見据えながら湧き上がる力に身を任せた。

「変身!」

 ベルトの発する光に包まれ、翔一はアギトに変身した。同時にアンノウンが拳を突き出してきたが、腕で受け流しつつその顔面を拳で突く。

 アンノウンの動きはそれほど素早くはなかった。翔一は立て続けに拳を浴びせていく。背中に反撃の拳を受けたが、耐えられないものじゃない。腹に渾身の拳を打ち込み、追撃の蹴りを回そうとした。

 だが、翔一の蹴りが空振る。目の前にいたはずのアンノウンが消えていた。ふう、という吐息が聞こえ咄嗟に振り返ると、背後にアンノウンが猫背で佇んでいる。

 翔一は跳躍し、アンノウンへキックを叩き込もうと右足を突き出す。

 その時、翔一の胸が爆ぜた。体勢を崩して地面に伏してしまう。胸の鎧には多少の傷こそあるが、戦いに支障をきたすほどの致命傷じゃない。だが、徒手空拳ではこの前のように逃げられてしまうかもしれない。

 翔一はベルトのバックルに手をかざした。ベルトに埋め込まれた玉からハルバートの柄が伸び、引き抜くと同時に鎧をストームの青に染め上げる。

 ハルバートを首めがけて振るうも、アンノウンには身を屈めて避けられてしまう。だがそれは予想の範疇で、翔一はすかさず敵の腹に蹴りを入れた。敵の体が突き飛ばされ、間合いを取って地面に倒れる。

 距離を取られてしまえば敵の思う壺。あの爆撃を食らうか、逃げられるかだ。翔一はハルバートを振り回して風を起こす。降る毎に風を更に強めていき、旋風で舞い上がった塵で敵の目を眩ませていく。

 アンノウンが手をかざした。翔一の足元でちり、と火花が散るが、それが爆発を起こすときには既に風のごとく猛スピードで駆け出していた。翔一の目は旋風に煽られた敵を捉え、その腹にハルバートの刃を滑らせる。

 武器を振り切ると同時、背後から爆風を感じ取る。爆ぜたアンノウンの肉片が辺りに散らばり、それは自らが燃やしてきた人間たちのように炭となっていた。

 

 

   4

 

 長い話になるから、とダイヤは黒澤邸にAqoursのメンバー達と鞠莉を招待した。移動する間に空には灰色の雲が立ち込めていて、今にも雨が降りそうだ。沿岸に位置する沼津市は降水量が多いから、きっと降るだろう。

 ダイヤは語った。2年前のあの日、鞠莉だけが知らなかった真実。ダイヤと果南が2年間抱えていた秘密を。

「わざと⁉」

 居間でダイヤが告げたことを、下級生たちが反芻する。

「そう。東京のイベントで果南さんは歌えなかったんじゃない。わざと歌わなかったんですの」

 本来なら鞠莉が最も驚愕しそうなのだが、鞠莉自身は思いのほか冷静なようだった。驚愕よりも疑問が勝っていたからだろう。

「どうして?」

 鞠莉は訊いた。善子が「まさか、闇の魔術――」と話の腰を折ろうとしたが、それは花丸が無理矢理に口を塞いだことで阻止された。

「あなたのためですわ」

 ダイヤは答える。「わたしの?」と鞠莉は問いを重ねる。何故イベントで歌わないことが、わたしのためになるのだろう。せっかく掴み取った大舞台で失態を犯し、3人で積み重ねてきた努力を無駄にすることが何故、と。

「覚えていませんか? あの日、鞠莉さんは怪我をしていたでしょう」

 イベント当日、鞠莉は右足首にテーピングをして本番に臨もうとした。数日前のダンス練習での捻挫だった。パフォーマンスを納得のいく出来にまで仕上げるため、と疲労した体で練習を続行したために起こった事故だった。

 ダイヤと果南は辞退をする方針でいたが、鞠莉はそれを押し切った。自分のせいでそれまでの努力を無駄にしたくない。3人でやり遂げたい。そんな彼女の想いが汲み取れて、だからこそダイヤと果南は無下にしなければならなかった。

「わたしは、そんなことして欲しいなんてひと言も………」

 そう、足の痛みが辛いなんて鞠莉は一度も告げたことはない。彼女が決して弱音を吐かない性格であることは当然知っていた。

「あのまま進めていたら、どうなっていたと思うんですの?」

 ダイヤは淡々と言う。

「怪我だけでなく、事故になってもおかしくなかった」

「でも………」

 言葉を詰まらせていると、ルビィが得心したように言う。

「だから、逃げたわけじゃない、て………」

 それはダイヤの言葉だった。鞠莉が沼津に戻ってすぐ、スクールアイドルの活動再開を話し合おうと訪ねた日の会話。そういえば、あの日ルビィはお茶を持って来てくれていた。その時に聞かれたのだろう。

 「でも、その後は?」と曜が訊く。「そうだよ」と千歌も、

「怪我が治ったら、続けても良かったのに」

 ぽつ、と雨粒が窓ガラスを叩いた。鞠莉の声は震えていて、強くなる雨音に掻き消されてしまいそうだった。

「そうよ……。花火大会に向けて、新しい曲作って、ダンスも衣装も完璧にして。なのに………」

 事実、鞠莉の捻挫はさほど重症でもなかった。翌日には腫れも治まったし、しばらくしたら普通に歩けるようになって3人で旅行にも出掛けられるほどだった。夏祭りまでは完治して、練習するほどの期間は十分にあった。もっとも、祭りに参加するつもりでいたのは鞠莉だけだったのだが。

「心配していたのですわ。あなた、留学や転校の話がある度に全部断っていたでしょう」

「そんなの当たり前でしょ!」

 鞠莉は叫んだ。浦の星を離れることなんて微塵も考えていなかっただろう。鞠莉は3人でスクールアイドルをやっていくことを強く望んでいた。それは嬉しくはある。ダイヤだって叶うのならそうしたかった。きっと果南も。

 ダイヤは淡々とした口調を崩さずに続ける。

「果南さんは思っていたのですわ。このままでは自分たちのせいで、鞠莉さんから未来の色んな可能性が奪われてしまうのではないか、て」

 鞠莉に留学と転校の話が来ていることは知っていた。高校も鞠莉の偏差値ならもっとレベルの高い学校へ進学することなど容易だったはずなのに、彼女は浦の星に行く、と譲らなかった。中学生だったダイヤは親友として一緒に高校も過ごしてくれることを嬉しく感じていたが、それが子供故の無責任さだった、と遅れて気付かされた。

 学校を救うためにスクールアイドルを始めた。だから浦の星に残る。

 果南から聞いた、職員室での教師と鞠莉の会話。ああ、大人になるべきなんだ、とダイヤは決めなければならなかった。

 いずれ親の会社を継ぐ鞠莉には、学ぶべきことが多くある。海外にも事業を展開しているホテルオハラの経営者として相応しい、一流の教育を受けるべきだ。調べてみたら、鞠莉が推薦された学校はどこも名門と呼べる、有名な実業家や政治家を輩出している学校ばかりだった。そこへ進めば、鞠莉の未来は大きく広がっていくだろう。自分たちと居るために本来享受すべきものが得られず可能性が少しずつ削ぎ落されれば、いずれ彼女をどこにでもいる平凡な人間にまで堕落させてしまう。

 まだ世間的には何の力も持たない「子供」のダイヤと果南には、鞠莉の将来に対する責任なんて取れない。子供の我儘で、親友の将来を潰すわけにはいかない。

 その懸念はイベントのずっと前から沸き起こっていた。スクールアイドル活動のせいで盲目的になっていた鞠莉は全く気付いていなかっただろうが。

 本番直前に鞠莉が怪我したことは、むしろ好機だった。いくらダイヤと果南が説得を試みても、鞠莉が浦の星を離れることは絶対にない。ならば、留まる理由を奪ってしまおう。鞠莉をこの地方集落に縛り付けている、スクールアイドル活動を終わらせて。

 その計画の発案者は果南だった。鞠莉からの誤解をひとり背負おうとする彼女にダイヤは別の方法を提案したが、果南は譲らなかった。

 ――元はと言えばわたしが鞠莉を無理矢理誘ったんだもん。ごめんねダイヤ。せっかくスクールアイドルになれたのに、台無しにしちゃって――

 果南はそう言っていた。更に元を辿れば、スクールアイドルを始めよう、と提案したダイヤにも事の責任はある。誰かを笑顔にするためのスクールアイドルが、あろうことか親友から将来を奪うだなんて耐えられない。そんな卑しい夢なら、捨てることになっても構わない。

 そうしてダイヤは、沈黙を貫くことを決めた。後輩に自分たちと同じ轍を踏ませまい、という名目で浦の星からスクールアイドルを抹消させて。

 そうすることで、鞠莉が戻ってこないように。

 彼女が海外で、自らの可能性を広げられるように。

「まさか、それで………」

 全てを悟った鞠莉が声を絞り出す。玄関へ向かおうとする彼女を、「どこへ行くんですの?」と引き留める。

「ぶん殴る。そんなこと、ひと言も相談せずに………」

 ダイヤだって、出来ることなら話し合って互いが納得できる形で離れたかった。晴れ晴れとした気持ちで鞠莉を送り出したかった。でも鞠莉は絶対に応じなかっただろう、と確信できる。苦しいが、あれが最善だった。互いにわだかまりを残す以外に選択肢は無かった。

「おやめなさい。果南さんはずっとあなたの事を見てきたのですよ」

 全ては、想うからこそ起きてしまったこと。幼い頃に、海を越えて異国の地からやってきた金の髪を持つ少女を。

「あなたの立場も」

 本来なら関わるはずのない家柄の子。

「あなたの気持ちも」

 それでも出会えて、心を通わせた。

「そしてあなたの将来も」

 きっと自分たちよりも輝かしい未来を行く。

 たとえ離れることになっても、祝福して送り出そうと――

「誰よりも考えている」

 

 

   5

 

 まだ明るくてもいい時間帯なのに、外は厚い雲に覆われて日光が遮られている。弱く雨が降っているが、夕立ならたちまち強雨になっていくだろう。これから告げられることを思うと、雨がいつもより億劫になってくる。

 まだ会議まで時間があるから缶コーヒーでも買いに行こうと、休憩所への廊下を歩いている時だった。足音と共に話し声が聞こえる。できることなら聞きたくなかった、司の声だ。

「頼むぞ北條。新しいG3ユニットで、存分に力を発揮してくれ」

 どうやら北條も一緒らしい。尾室の持ってきた噂は残念ながら本当だったようだ。

 今更議場で抗論したところで、もはや上層部の決断が覆ることはない。もしかしたら新しい装着員とオペレーターの選定も済んでいるのかもしれない。

「司さん」

「ん?」

「あなたには色々と教わりました。例えば、あらゆる偏見を排除して、ただ事実を事実として直視する」

「刑事には必要な態度だ」

「でもそれを実践するのが、これほど辛いとは思いませんでしたよ」

 顔を合わせたくないから彼らとは反対方向へ回り道しようとしたが、誠は北條の声色に違和感を覚えて足を止める。邪魔者である誠たちがいなくなりG3ユニットを自分のものにできるというのに、北條の声には全く気力が感じられない。

 誠は廊下の角から、息を潜めてふたりを見た。司と北條が向かい合っていて、誠からでは北條の顔が見えない。

「何が言いたい?」

「先日殺された花村久志は、ちょっと変わったサンドイッチを作っていました。これがあなたの妹さん、さおりさんが作ったものと全く同じものでした」

「ほお、偶然だな。そういえば、君にもさおりのサンドイッチを食わせたことがあったな。あいつの作るピクルスのサンドイッチは美味かった」

 そうか、と合点がいく。誠が購入したピクルスサンドに北條が過剰な反応を見せたのは、自身の記憶にあるものと同じだったから。ピクルスの強い酸味をマヨネーズで緩和し、更にマスタードで味に彩りを添えたあのサンドイッチは、赤の他人が簡単に真似できるものじゃない。

「偶然? 違います」

 とても尊敬する上司に向けるものとは思えない鋭い声で、北條は続ける。

「調べたんですよ、花村久志について。花村は以前、ある事件の被疑者だったことがあった。司さおり殺害事件です。花村とさおりさんは以前婚約していたそうです。そして、婚約が解消された直後にさおりさんは殺害された。当然花村は疑われたが、犯行を立証することはできなかった」

 司と花村の思わぬ関係。妹の元婚約者であり、そして殺害の被疑者。妹のさおりと婚約という深い関係にあったのなら、花村がピクルスサンドのレシピを知っていても何ら不思議はない。

「はっきり言ったらどうなんだ?」

 司は余裕な佇まいを崩さない。北條に大きな影響を与えた上司らしく、彼によく似た佇まいだ。自身の指針とする人物へ、北條は明確に告げる。

「花村久志はアンノウンに殺されたんじゃない。アンノウンの犯行に見せかけて、司さん、あなたが殺したんだ」

 

 






 ダイヤが真相を語る場面は元は鞠莉視点で書いていたのですが、「何か違うなあ」と思いダイヤ視点に描き直しました。結構疲れました。


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第5話

 今回は翔一君が空気です。あと長いです。
 ごめん翔一君。主役なのに………。




   1

 

 誠は息を呑んだ。確かに花村の焼死体は、アンノウンの犯行にしては違和感があった。他の被害者たちに比べて花村は火傷の度合いが軽く、衣類や所持品も燃え残っている。捜査状況から不可能犯罪と断定していたが、もし人間に「可能」な犯罪だとしても、何故司が犯人なのか。

 司は笑っている。あまりにも馬鹿らしい、とばかりに。

「君は自分が何を言っているのか分かってるのか? 大体、俺にはアリバイがある。花村の死亡推定時刻に、私はGトレーラーにいた」

 花村の右腕に付けられた腕時計。炎で焼かれ針が止まった時刻が、花村の死亡した時とされている。確かにその時間帯に司はGトレーラーにいて、誠がこれまで集めてきた被害者たちを超能力者とする証拠を子供騙しと一蹴していた。

「ええ。あのとき私は丁度、最初の被害者の親族の護衛にあたっていた時間でした。あなたは花村をGトレーラー内から遠隔操作で燃やしたんです」

「遠隔操作………」

「スマートフォンのアンテナですよ。花村の遺留品を改めて調べてみたんです。花村の所持していたスマートフォンには、電波拡張用のアンテナが付いていました。そのアンテナには超高出力のLEDが使われていましたよ。通電しようものなら、簡単にショートしてしまうほどのね。あなたは、これを発火源として利用したんだ」

 あらかじめ標的を殺して、他人と一緒にいる状況下で現場に残しておいたスマートフォンに電話をかける。電波を受信したスマートフォンに接続されたアンテナのLEDが発光する際、高出力故に導線がショートして散った火花が遺体に燃え移り、殺害の証拠を全て焼却する。

 アリバイを作りながら同時に証拠隠滅をこなす。よく出来たトリックだが、完全犯罪とするにはいくつか粗がある。

「電話会社に、あなたのスマートフォンから花村に発信をした記録が残っていましたよ。更に花村の遺体を詳しく調べれば、あなたが使った揮発性のオイルが検出されるはずです」

 その可能性を司は見落としてわけではないだろう。現場を経験した警察官ほど、犯罪トリックの専門家はいない。

 そのリスクを加味してでも犯行に及ばせた根拠を、北條は告げる。

「でもあなたには花村を殺しても、アンノウンの仕業として処理される。いや、今の立場を利用して、強引にでもアンノウンのせいにする自信があった」

 不可能犯罪による焼死体が発見された直後なら、第2の焼死体も不可能犯罪と推理してしまう。更に自身の監査官とユニット責任者という立場。状況と権力によって、司はトリックの粗をカバーしようとしたのか。

 とても卑劣な行いだ。警察官としても、ひとりの人間としても。だが同時に誠には、本当に司がやったのか、という疑念がある。

 司は雨粒に覆われた窓へと視線を移した。何かを探しているように見えた。

「花村が、さおりを殺したのは間違いない」

 ぼそり、と呟くように司は言った。それは自らの犯行を認めた、自白にも等しい言葉だった。ああ、と誠は溜め息を押し殺すのに必死だった。

「奴は振られた腹いせに妹を殺したんだ。だからこそ、事件の直後に行方を眩ました」

 花村が自分の死を悟り翔一にレシピを託したのなら、本当に彼は司の妹を殺したのだろうか。真実を確かめようにも、花村もこの世には存在しない。全ては闇の中だ。皮肉なことに、その真実を葬ってしまったのは最も知りたかったであろう司本人だった。

「あのベーカリーで奴を見つけた瞬間、俺は奴を殺す決心をした。さおりの夢……、美味しいコーヒーとサンドイッチを出す小さな喫茶店をやるという、あいつの夢を横取りした奴を赦せなかった」

 司は北條に向き直る。自らの罪にやましさなど感じさせない、はっきりとした声で告げる。

「後悔はしてない。奴が殺したんだ」

「それを、偏見と言うのではないのですか?」

 北條が司から教授した、刑事としての矜持。あらゆる偏見を排除して、ただ事実を事実として直視する。冷静に物事を俯瞰することで真実を導き出し、法律の下に犯罪を裁く。それが法の番人である、警察官としての理想。

 司は妹を失った復讐という感情に任せ、自らの矜持を捨ててしまった。同情の余地がないわけじゃない。だからといって、仮に花村が本当に妹殺害の犯人だったとしても、同じ殺人者に身を堕とす行為は決して赦されはしない。

 それは人が守ってきた、法という正義。悔しいが、あのアンノウンが言っていたことは間違いじゃない。人が人を殺してはならないという戒めは、人類の長い歴史の中で決して揺らぐことのなかった絶対的な禁忌だ。

「あなたは、最後に自分の心情を裏切った」

「そして君が、俺の心情を守ったというわけか」

 もはや警察官でなくなった司は問う。罪を暴かれた殺人者として。

「いつ分かった? やはりサンドイッチか?」

「それと、腕時計です。花村は右利きという証言だったのに、右腕に時計をはめていた。これは1度外れた花村の時計を、左利きの人間が付け直したせいです」

 「なるほど……」と司は頷き、

「つい、普段の癖が出てしまったか。しかし俺が左利きになったのは、君を庇って右腕に銃弾を受けた後遺症のせいだ」

 司は右腕をさする。北條は逡巡を挟み「ええ」と、

「分かっています」

「あのとき君を助けたのは、失敗だったな」

 人間とは、ここまで堕ちてしまうものなのか。刑事としての矜持を掲げ、それを部下に授けていた司にも確かな職務への誇りがあったはずなのに。

「いや、良かったと思う」

 司は震える声で言った。

「素晴らしく優秀な刑事の命を、救ったんだからな」

 その優秀な刑事が、俺から受け継いだ正義の下に俺を裁いてくれる。皮肉だが、これ以上に嬉しいことは無いよ。

 司はそう告げているかのように、満面の笑みを浮かべる。殺人者である彼に、北條の上司面して彼を評価する資格はない。それでもこの瞬間だけは、部下の成長を見届けさせてほしい。業に抗うよう笑う司の目から、大粒の涙が頬を伝っていく。

「行こうか」

 司はそう言って、会議室とは別方向へと歩き出す。北條は俯いたままその場を動かなかった。誠からは彼の顔が見えない。彼がどんな想いで尊敬する上司を断罪したのかも計り知れない。でもその全ては、北條の袖で顔を拭う仕草で悟ることができた。

 北條は司の後を追う。司にこれから待ち受ける司法の場へと。その先にあるものを受け入れたかのように、凛と背筋を伸ばして歩いていった。

 雨音が強く、署の屋根を叩いていた。

 

 

   2

 

「そんなの分からないよ。どうして言ってくれなかったの?」

 鞠莉は訊いた。言ってくれれば、何かが変わっていたかもしれないのに。

「ちゃんと伝えていましたわよ。あなたが気付かなかっただけ」

 ダイヤの答えを聞くと、鞠莉は黒澤邸を飛び出した。強い雨が頬を叩きつけてきたが、傘もささずに鞠莉は全速力で学校への道を走った。

 どうして、という問いが鞠莉の裡を満たしていた。誘われたときは興味なかったけど、3人で練習しているうちにスクールアイドルの楽しさに気付いて、どっぷりと魅力の虜になった。浦の星を離れることなんて考えられなかった。ふたりがいない場所で暮らしていくことなんて有り得ない。スクールアイドルはどこへ行ってもできるかもしれない。でも鞠莉がスクールアイドルをやっていたのは、ダイヤと果南がいたからに他ならない。ふたりがいなければ、輝けない。

 その気持ちもふたりは理解していたと思っていたのに。3人で過ごした日々を全員が望んでいたはずなのに、どうして――

 雨に濡れたアスファルトに滑って、鞠莉は盛大に転んだ。

 起き上がりながら、鞠莉は過去を回想した。人生の大半である果南とダイヤと過ごした日々。その中で交わされた何気ない会話。それぞれの想いが乗った言葉のしらべ。

 そして鞠莉は、記憶の一点でそれを探し当てた。

 それは2年前の下校中のこと。自宅が淡島にある鞠莉と果南は、本土からふたりで連絡船に乗って学校に通っていた。その日常はスクールアイドルを終わらせても変わることなく、表面上は普段と変わらなくても裡に鉛を飲み込んだかのようにどこか重い時期だった。

 当時、鞠莉は両親の勧めに従い海外留学を決めた。スクールアイドルという目標を失い、浦の星に留まる理由を見出せなかった。

 日本を発つのが近くなったあの日、以前よりも会話が少なくなった果南は言っていた。

 ――離れ離れになってもさ、わたしは鞠莉のこと忘れないから――

 同級生たちや教師たちから告げられたものと大差ないその言葉に、果南がどんな意味を込めたのか、今になって気付く。

 ああ、馬鹿だ。果南もわたしも。

 あんな言葉足らずで気付くはずがないよ。わたしだって自分勝手すぎるよ。

 鞠莉の未来のため、とダイヤは言っていた。どんなに未来の可能性を広げたところで、ホテルオハラ経営者一族の娘である鞠莉の未来は産まれたときから確定している。海外で経営を学び、父の跡を継いで事業を更に展開していく。良い大学へ進み、良い企業に入社し、もしくは自ら起業して豊かな資産を得ることが幸福なのかもしれない。鞠莉がその幸福を得ることを強く求められたのは、偶々得やすい家柄に産まれついたから。

 そんな幸福は一般論だ。鞠莉にとっての幸福とは、スクールアイドルとして親友たちと切磋琢磨し、その証を学校存続という形で残すこと。それを捨てなければならない未来なんて、たとえ幸福であってもいらない。

 でも、果南とダイヤは良しとしなかった。ふたりはいずれ過去になってしまう「いま」に傾倒するよりも、未来を鞠莉本人よりも見据えていた。ふたりとも鞠莉のことを見てくれていたのに、鞠莉のほうはふたりを全く見ていなかった。勝手にふたりも自分と同じ気持ちだ、と思い込んでいた。

 こんな事があって良いはずがない。互いに想い合っていたのにすれ違ったままだなんて。自分のために夢を捨てたふたりの真意に気付かないまま2年も過ごしていたなんて。

 鞠莉は叫んだ。雨音に掻き消されようが、涙が頬を打つ雨に混ざろうが、構うことなく。

 

 果南は自室で布団を被っていた。ここ最近、部屋にいるときはいつもベッドで横になって、そして泣いている。人前では普段通りでいられるが、ひとりになるとどうしようもない虚しさに耐えられなくなって悲しみに暮れていた。

 実のところ、復学が予定より遅れたのもこの悲しみ、涼を失った悲しみでずっと部屋に引きこもっていたからだった。両親は事故現場に巻き込まれたショックのせい、と警察から説明を受けていたらしい。現場にいた果南はその説明が嘘であることを知っていたが、それを訂正する気は起こらなかった。警察が市民に隠し事をしているとか、今はもうどうでもいい。

 あの日の涼の悲鳴、涼の体に浴びせられた銃弾。その時の記憶はふとした拍子にフラッシュバックする。

「涼………」

 布団のなかで、果南は嗚咽交じりにその名前を呼んだ。握った涼の手の感触を思い出そうとしたが、失われたあの手の温もりは次第に忘れかけている。失ったときの冷たさは残り続けているのに、温もりのほうは忘却へと沈んでいく。

 机のスマートフォンが鳴った。のそり、と起きて画面を見ると、鞠莉から2年振りのメッセージが届いている。

『今すぐ部室に来て』

 メッセージの文面はそれだけだった。少しだけ、虚しさが薄れた気がする。以前も遊びにしろ練習にしろ、鞠莉から呼び出されるのはいつも突然だった。こちらの都合なんてお構いなしに。

 さっきまで夕立が降っていたが、もう雨は途絶えて雲間からは夕陽が射し込んでいる。連絡船も復旧して、本土に渡れるとのことだった。

 既に生徒たちは全員下校したようだが、まだ教員たちが仕事中らしく学校の門は開いていて、駐車場にはまだ車が停まっていた。昼間は賑やかな学校なだけに、静寂は一層際立つ。部室に佇んでいた彼女も普段は何か喋っていないと落ち着かない質と知っているから、無言でそこにいる鞠莉の姿は余計に物々しく映った。

「………何?」

 部室の入口で、ぶっきらぼうに果南は訊く。

「いい加減話をつけようと思って」

 鞠莉の小さな声が聞き取り辛く、果南は中へ入ろうとする。1歩踏み出した足裏に冷たい水の感触がした。見ると床には水溜まりができていて、部室の薄暗さで気付かなかったが目を凝らすと鞠莉は全身を濡らしている。金髪の先端から雫が落ちて、彼女の足元に溜まる水にぴちゃ、と音を立てた。

 背を向けたまま鞠莉は言う。

「どうして言ってくれなかったの? 思ってることちゃんと話して。果南がわたしのことを想うように、わたしも果南のこと考えているんだから」

 ダイヤは全部話したんだ。もう逃げることはできない。

 うん、そうだね鞠莉。わたしはずっと逃げてた。スクールアイドルからも、鞠莉からも。

「将来なんか今はどうでもいいの。留学? 全く興味なかった」

 そうはいかないんだよ。鞠莉はわたしとは家柄が違うんだから。将来、わたしがなれないものに鞠莉はなれる。その可能性を自分から捨てるなんて馬鹿だよ。何でそれが分からないの。

「当たり前じゃない。だって、果南が歌えなかったんだよ。放っておけるはずない」

 振り返った鞠莉の目尻に涙が浮かんでいる。果南は思わず視線を俯かせた。鞠莉のこんな顔は見たくなかった。こんな顔をさせるために、スクールアイドルを諦めさせたんじゃない。海外で将来のために頑張ってほしかったのに、こっちに戻ってきてほしくなかったのに。それでも久しぶりに顔を見たときは、表面上は冷たくしたけどやっぱり嬉しかった。

 不意に、ぱん、という乾いた音と共に頬が痛んだ。

「わたしが……、わたしが果南を想う気持ちを甘く見ないで!」

 腕を振り切った鞠莉に、果南は抑えきれない言葉を吐き出す。

「だったら……、だったら素直にそう言ってよ」

 ひりひりと痛む頬の熱が全身に伝播していくようだった。2年間も保ってきた沈黙、溜めてきた言葉がぼろぼろと出てきた。

「リベンジとか負けられないとかじゃなく、ちゃんと言ってよ!」

 何で口達者な癖に、そういう肝心なことは言ってくれないの。わたしのためを想うなら隠さないでよ。そうすれば、鞠莉の怪我をだしに無理矢理終わらせる必要なんて無かったのに。2年もこんな気持ち抱えずに済んだのに。何のための友達なの。

「………だよね」

 反論してくるかと思ったが、笑みを浮かべる鞠莉に果南は呆気にとられた。「だから――」と鞠莉は自らの頬を指さす。わたしがやったようにあなたも、と。

 それがけじめというものだ。互いに告げるべきことを告げなかったことに対する。

 果南が手を振り上げると、鞠莉は目を閉じて然るべき瞬間を待つ。いや、と鞠莉は手を降ろした。自分たちに相応しい和解とは、暴力なんてもので成すべきじゃない。もう一度やり直すなら、初めてのときと同じがいい。

 初めて会ったあの日。

 小学校に上がって間もなかった果南は、淡島に同い年の少女が外国から移住してきた、と聞いた。人形みたいなとても可愛い女の子だよ、と両親から聞かされて、ひと目見てみたくダイヤを連れてホテルオハラの庭園に侵入した。

 ――み、見つかったら怒られますわ――

 ――平気だよ――

 大人からの叱責に怯えるダイヤの声で、庭を散歩していたその少女に見つかってしまった。話に聞いた通り、いやそれ以上に美しい少女だった。金色の髪に金色の瞳。淡く赤みが浮く頬は白い肌によく映えて、本当に人形がピノキオのように命を与えられて動いているように思えた。

 ――あなたは?――

 舌足らずな日本語を紡ぐ少女に、幼い果南はどう対処したらいいか逡巡した。いつか見た内容すら覚えていない海外の映画で、確か親友同士が親愛の証として行っていたことを思い出し、

 ――は、はぐ………――

 それはお互いの存在を感じるためのもの。

 触れる相手の肉体の持つ熱を確かめ、心を通わせる儀式。

 始まりのときと同じように、果南は両腕を広げた。

「ハグ……、しよ」

 その言葉に開かれた鞠莉の目から涙が落ちる。外見は大人びているのに、まだお子様な中身に違わず声をあげて泣き出して果南の胸に飛び込んでくる。前はよく、こうして事ある毎に抱擁を交わしていた。二度と来ることは無いと思っていた瞬間が戻ってきてくれたこの現実に、果南の目からも温かい涙が流れる。

 ふと、涼もこんな温もりを望んでいたのかな、と思った。

 永遠の零下へと落とされた彼に、この熱も、感触も与えることはできない。こうして鞠莉に再び抱擁を与えたことが、彼にできなかったことの罪滅ぼしになることは決してないだろう。

 でも、これで良いよね。

 涼に何もあげられなかったわたしでも、また親友に温もりをあげられたんだから。まだ誰かの冷えた心を温められるんだから。

 果南は強く鞠莉を抱きしめた。心が溶け合っていく感覚。交わり合う想いが、どうかずっと結ばれ続けることを祈りながら。

 

 部室から届くふたりの嗚咽と笑い声を聞いて、ダイヤは安堵の溜め息をついた。鞠莉が戻ってきた時点で何かが起こることは覚悟していたが、良い方向へ転がってくれたことは喜ばしい。全てが当時に戻ったとは言い難いが、ふたりがまたあの頃のように分かり合う日が来た。それだけで十分。

 校門まで戻ると、総出で待っていたメンバーの中で千歌が笑みを零す。

「ダイヤさんて、本当にふたりが好きなんですね」

 肯定はするが、後輩相手にそれもまた照れ臭いから「それより――」と強引に話題を変える。

「ふたりを頼みましたわよ。ああ見えてふたりとも繊細ですから」

「じゃあ、ダイヤさんもいてくれないと」

 千歌が悪戯っぽく笑う顔を近付けてくる。思ってもいない言葉に「ええ?」と声が上擦り、ダイヤはそっぽを向く。

「わたくしは生徒会長ですわよ。とてもそんな時間は――」

 それに、自分にまたスクールアイドルをやり直す資格なんてない。親友と後輩たちのため、という名目で千歌たちの輝きたい、という願いを否定してきた。同時に彼女たちなら、という期待も抱き、自分たちにできなかった夢を勝手に託していた。そんな都合の良い無責任な生徒会長に対して、千歌は言ってくれる。

「それなら大丈夫です。鞠莉さんと果南ちゃんと、あと6人もいるので」

 他の面々も、ダイヤに笑みを向けている。これまでしてきたことの報いを受けられず、正反対なこの和みにどう返したらいいか逡巡していると、ルビィがダイヤの前に立った。

「親愛なるお姉ちゃん。ようこそAqoursへ」

 もし妹と共にステージに立てたら。そんな夢を見なかったことはない。自分が1年生の頃、ルビィも浦の星に入学したら一緒にスクールアイドルをやりたい。でもその夢は自らの手で潰した。自分のせいでルビィもスクールアイドルを諦めかけ、あくまで曲の聴き手に徹しようとする姿を見るのは辛かった。

 だから、2年後にルビィが自らの意思で夢を掴んでくれたのは、直接伝えることはできなくても自分のことのように嬉しい。自分に妹と同じ夢のステージに立つことは、本来ならば赦されないことだ。

 でも、目の前の妹はダイヤが自ら嵌めた枷を外そうとしてくれる。ルビィだけでなく、他の後輩たちも。一緒に歌い踊ってほしい、と迎えてくれる。

 まだ自分には、夢を見る資格がある。資格を彼女たちは与えてくれた。ならばその恩に報いよう。再び、あの頃の夢を取り戻して。

 ダイヤは笑みを返した。

 2年前に止まった時が、動き出した瞬間だった。

 

 

   3

 

 もうすぐ陽も暮れようとしているにも関わらず、普段なら眠ろうとするこの地方市街もこの日は大いに賑わっていた。駅から川までの道には屋台が並び、リンゴ飴や綿菓子といった祭り限定の食べ物が売られている。道行く人々の多くは浴衣を着て、時たま扇子やうちわで穏やかな風を顔に浴びている。その喧騒はどこか東京に似ているが、年に多くはないこの街で起こる人々の織り成す声に東京で連日感じられる鬱陶しさはない。むしろ暖かで心地良い。

 狩野川の河口で打ち上げられる沼津夏祭りの花火は、海に面した沼津市の土地を活かし市街地からも間近で見られる全国でも珍しい催しだ。河川沿いに建つマンションのバルコニーから顔を覗かせる者も多く、街に降りなくても祭りの雰囲気を楽しむことができる。

 祭りの日こそ酔っ払い同士が喧嘩をしやすく警官が配備されるのだが、それは沼津市警の役目で、誠たち警視庁からの出向組は仕事終わりに祭りを楽しむ余暇を与えられた。

「良いわね、こういうのも」

 屋台で購入した牛串焼きを肴に缶ビールを飲みながら、小沢が言う。因みに駅前で缶1本を飲み干し、今は2本目に突入しているがアルコールの影響は見られない。

「氷川さんは静岡出身なんですよね。来たことあるんですか?」

 尾室の質問に誠はかぶりを振った。

「いえ、沼津には来たことがなかったので」

 いくら地元と同じ県内といっても、親戚や友人がいなければ足を運ぶ縁はない。花火大会はどこの自治体でも催されるもので、珍しいものではない。誠たちは警察官という仕事柄、あまりこういった場で羽目を外す機会に恵まれなかった。

「でも驚きましたね。あの司さんが殺人犯だったなんて」

 尾室が言うと、小沢も「全くね」と応じる。

「いくら自首したとはいえ、とんだ食わせ者だったわ」

 アンノウンとは別件だった花村久志殺害事件。その犯人が司龍二だったことの衝撃は、すぐに署内に広まった。その罪を暴いたのが北條透であることも。誠はあの場のことを誰にも告げ口していないが、黙っていても殺人という警察官として最大の汚職はどうしても同業への警鐘として広められる。

 警察官だからといって聖人君主なわけじゃない。だからこそ自身を律し法の番人として在れ、と。

「ちょっと複雑ですよね。これで司さんが立案したG3ユニット改革案も白紙に戻って、僕たちの首も繋がった、てわけですけど」

 尾室の言う通り、司発案の新生G3ユニットは稼働直前にして頓挫し、引き続き誠たち現在のユニットメンバーで運用を継続する形になった。市民からの目撃情報からアンノウンもアギトが撃破した、と推測され、当面の問題は解決された。

 でも、誠の裡は晴れない。小沢に誘われなければ、こうして祭りに足を運んで喧騒に身を埋もれさせる気も起きなかっただろう。

「氷川君、どうかした?」

 この懊悩は小沢にお見通しだったらしい。

「あの司さんが、どうしても信じられなくて………」

 彼が自ら罪を自白する現場を目撃したというのに、未だに受け入れることができていない。同じ法の番人としての警察官が罪を犯してしまうなんて。多くの犯罪者を見てきて、自分はこうはなるまい、と戒めてきたはずなのに。北條はどうやってこの気持ちに整理をつけたのだろうか。

「時として人は信じられないことをする。あなたも刑事なら、それくらい分かってるでしょ」

「それは、そうですが………」

 犯罪者とは皆が同類というわけじゃないことは理解している。過去に何度も犯罪歴のある者もいれば、素行不良もなく健全な社会生活を送っていたのに突然罪を犯す者もいる。例え善良な人間でも、何かがきっかけで悪意の根を裡に降ろし表層へと茎を伸ばしてしまう。

 ビールをあおり、小沢は言った。

「ある意味アンノウンより人間のほうが怖いのかもしれない。裏があって表があって、更にまた裏がある。そんな生き物はまあ、人間だけでしょうね」

 空を飛ぶ鳥も、水中を泳ぐ魚も、悪意なんて感情は持たない。それは複雑な神経系統を持った人間のみの感情だ。この世界で最も高度な知能を与えられたにも関わらず、他者を傷付けるために使ってしまう。この祭りで賑わう人々の裡に、今この瞬間に悪意の種を植え付けられる者はいるだろうか。

 街を行き交う人々は狩野川に行くにつれて密度が高くなり、やがて河川敷に着くとピークを迎える。群衆はもはや潜り込む余地もないほどすし詰め状態だが、河川敷から多少離れていても花火を見るのにさして障害はない。

 誠たちは打ち上げの瞬間を河川敷の淵で待っていたが、駿河湾で咲いたのは別の花だった。海上に設営されたステージで黄色い柔らかな光が灯り、舞台に立つ9人の少女たちの姿が浮かび上がる。

 その少女たちは、誠とも浅からぬ縁があるAqoursだった。東京で護衛にあたったときは6人だったが、新メンバーを迎えたらしい。その新メンバーの3人のなかに果南の顔があった。アギト捕獲作戦の現場に遭遇したばかりにショックでしばらく部屋に籠っていた、と彼女の両親から聞かされていたが、立ち直ったらしく彼女はこちら側の観客に笑顔を振り撒いている。

「へえ、良い機会だったわね。東京じゃあの子たちのライブ観られなかったわけだし」

 小沢が笑みと共に言うと尾室も、

「僕、学生の頃μ’sのファンだったんですよ。秋葉のライブなんか感動して泣いちゃって」

「μ’s?」

 小沢が訊くと尾室は目を見開き、

「知らないんですか? 伝説のスクールアイドルですよ。ラブライブ決勝戦がアキバドームで開催されるのもμ’sが秋葉のライブを成功させたからこそ――」

「はいはい分かった分かった。曲始まりそうだから静かにしなさい」

 まだ語り足りないらしく尾室は口を尖らせるが、素直に黙ってステージへ目を向ける。穏やかな旋律で曲のイントロが始まり、Aqoursの9人が(たお)やかに踊る。

 それは少女期の幼さを歌った曲だった。幼い故に間違い、すれ違い、それでも前を向いて、まだ視えない未来へ恐れず進んでいこうとする。

 未熟さは恥とも捉えられるが、それは大人特有の矮小なものかもしれない。恥を恥と感じるのは、それを糧としないからだ。彼女たちはきっと、自分の未熟さも夢や未来への糧として受け入れた。自分になくてはならないもの、と肯定できた。だからこうして歌うことができる。恥でなく、誇りとして。

 曲がサビの部分へ突入すると同時、花火が打ち上がった。大音響だがそれに掻き消されることなく、Aqoursの歌声も響く。夜空に咲く花のように、自分たちの夢もまた空に大きく花弁を広げていきたい、という願いが。

「未熟DREAMER………」

 サビで歌われた曲のタイトルを、誠は反芻する。彼女たちよりも少しばかり長く生きているだけの自分もまた、人としても刑事としても未熟なまま。いや、どれだけ生きようとも人は皆未熟なのかもしれない。完成された人間なんてどこにもいない。皆どこかに綻びがあり、そこから歪んでしまう。誠もそうだし、天才と謳われる小沢もまた然りだ。

 でもだからこそ、もっと良くありたい、と強く思う。刑事としても、人としても正しく在りたい。何人にも侵すことのできない、確固な信念を抱いて生きたい。

 僕はG3の装着員。Aqoursと、このライブを観ている人々の平穏を背負った、警察官なのだから。

 

「Aqoursか………」

 歌い終わった舞台袖で、果南が感慨を抱きしめながら自分たちの名前を口にする。久し振りのステージで、まさかそのグループを名乗ることになるなんて。

「ん、どうしたの?」

 曜が訊いてくる。

「わたし達のグループもAqours、て名前だったんだよ」

 「え、そうなの?」と千歌が言った。梨子が顎に手を当てて思案しながら、

「そんな偶然が………」

 梨子の言う通り、そんな偶然は有り得ない。Aqoursのスペルは、ラテン語で「水」を意味する「Aqua」と英語で「わたし達の」を意味する「ours」を繋げた、決して誰にも真似できないように考えた名前。

「わたしもそう思ってたんだけど」

 千歌たちの初ライブでその名前を聞いたときは、鞠莉の入れ知恵と思っていた。でも鞠莉本人からそれを否定されて、残るはこの会話に知らない振りを決め込む者に限られる。全員の視線が、その本人へと向けられた。

 堅物に見えて、実は誰よりもスクールアイドルが好きな者。まだ夢に目を輝かせていた頃の想いを捨てきれなかった、生徒会長へと。

「千歌たちも、わたしも鞠莉も。多分まんまと乗せられたんだよ。誰かさんに」

 

 




次章 シャイ煮はじめました / 暴走する力


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第10章 シャイ煮はじめました / 暴走する力
第1話



てぇんさぁい「スクールアイドルとしてラブライブ出場を目指すAqours。だが彼女たちの道のりにはアンノウンと呼ばれる謎の生物が立ちはだかっていた。そこに現れたのが、我がてぇんさぁいの先輩ヒーローである仮面ライダーアギト――」

筋肉バカ「なあおい」

てぇんさぁい「何だよ先輩のあらすじ紹介させてもらってるのに」

筋肉バカ「アギトって『仮面ライダー』なんて単語出てこないのに言っていいのかよ?」

てぇんさぁい「万丈がまともなこと言ってる……!」

ドルオタ「うわ怖え……!」

ヒゲ「雨が降るか? 槍が降るか? それともまたスカイウォールの惨劇が………!」

筋肉バカ「お前ら失礼すぎんだろっ!」

てぇんさぁい「良いんだよこういうメタな台詞が俺たちの持ち味なんだから」

ドルオタ「お前は黙ってプロテインでも飲んでろ筋肉バカ」

筋肉バカ「誰が筋肉バカだ! どうせなら『プロテインの貴公子』とか――」

ドルオタ「さあプロテインバカはほっといて!」

筋肉バカ「バカって付いてんぞ!」

てぇんさぁい「おお、突っ込みのタイミングバッチリ」

ヒゲ「成長したな………」

ドルオタ「今回からスクールアイドルの頂点を目指すみーたんとかずみんのラブストーリー『ラブみーたん! feat.仮面ライダーグリス』が始まります!」

てぇんさぁい「始まらない!」

ドルオタ「え?」

てぇんさぁい「何先輩の作品乗っ取ろうとしてんの。今回も『アギト』が主役。どうなる第10章!」


 多分『アギト』世代の方には分からないネタだと思うので一応説明を。
 あらすじ紹介に登場した4人は去年放送された『仮面ライダービルド』の主要キャラクターでございます。
 すみません、ずっと真面目な作風に疲れてしまったのです………。




 

   1

 

 それは翔一が十千万の玄関を掃除している昼間のことだった。もうすぐ本格的な海水浴シーズンが訪れ、十千万も繁盛期になる。それほど大きくはないが古風な趣が売りの十千万には全国から宿泊の予約が来て、シーズン前にして既に全部屋埋まっている。

 遠路はるばる来てくれるのだから最大のもてなしを用意しよう、と念入りに箒でゴミを掃き、砂利を均等に敷いていたときに、そのお客は訪れた。

 いや、お客ではないことは一目瞭然だった。訪ねてきたのは若い男なのだが足取りはおぼつかず、顔は汗で濡れていて目の焦点も合っていない。

「あの……、お客さんですか?」

 一応確認してみたが、青年は答えなかった。答えられるほどの余裕すらないようで、翔一の声も聞こえているのか怪しいほどに。それでも翔一があまり青年に対して警戒を抱かなかったのは、しいたけが吼えることなく小屋で寝ていたからだった。しいたけは人を見る目がある。この犬が大人しくしているのなら、相手は悪い人じゃないはず、と。

 青年は翔一の前で足を止めて、崩れるように砂利の上に倒れた。

「どうかしましたか⁉ 大丈夫ですか⁉」

 翔一が肩を揺さぶって呼びかけても、青年はこめかみを手で押さえながら苦しそうに呻くだけだった。

 

「あーつーいー!」

 本格的な暑さをもたらす日光に押し潰されているように、千歌は肩を落とす。「ずらあ」とメンバーの中で体力不足気味な花丸と、黒のローブを日除け代わりに纏っている善子も。

「天の業火に闇の翼が………」

 「その服やめたほうがいいんじゃ」とルビィが的確な指摘をする。黒なんてかえって熱が籠りやすいだろうに。善子もそれは理解しているはずなのだが、黒は堕天使の色と譲らない彼女のこだわりだ。

「どうしたんですか? 全員集めて」

 曜が集合をかけたダイヤに尋ねる。よりにもよって夏休みの、しかもこんな直射日光が容赦なく射し込む屋上に。

 暑さなんかに負けてられない、と言わんばかりに涼しい顔をしながら、ダイヤは「ふふ……」と不敵に笑い、

「さて、いよいよ今日から夏休み」

 「Summer vacationといえば……」と鞠莉が言って、「はい、あなた!」とダイヤが千歌を指名する。一体何の話なのか、戸惑いながら千歌は答える。

「やっぱり、海だよね……?」

 次に曜が、

「夏休みはパパが帰ってくるんだ」

 次に花丸。

「マルはお婆ちゃんちに」

 そして善子がローブをばさり、と翻し、

「夏コミ!」

 夏コミとは夏に開催される同人誌――個人出版した本――の即売会のことらしい。夏のコミックマーケットを略して夏コミ。

「ぶっぶーですわ!」

 ダイヤの怒号で、一部を除く全員が慄く。鞠莉と果南は慣れているのか、微笑まし気だ。

「あなた達それでもスクールアイドルなのですか? 片腹痛い片腹痛いですわ!」

 夏休み期間にあるスクールアイドル関連のイベントといえば、ラブライブの予選くらい。それもまだ時期的に余裕がある。現在それに向けた新曲の制作中だ。もっとも、千歌が歌詞を完成させていないから早くも遅延が生じているが。

 詳しい説明のために場所を部室に移すと、ダイヤはホワイトボードに円グラフを書いた紙を貼った。

「いいですか皆さん。夏といえば――」

 そこでダイヤは視線を横へ流し「はい、ルビィ」と隣に立つ妹を指名する。ここまで来れば流石に話も見えてきて、ルビィは自信満々に答えた。

「多分、ラブライブ」

「流石我が妹。可愛いでちゅね、よくできましたあ」

 見事正解した妹を猫なで声で褒めながら頭を撫でている。ルビィ本人も満更でないようで「がんばルビィ」とスクールアイドルとしての決め台詞をくべる。そんな姉妹の様子を呆れ顔で眺めていた善子が隠すことなく、

「何この姉妹コント」

「コント言うな!」

 普段からは考えられない口調で噛みつくとダイヤは改まって話を続ける。

「夏といえばラブライブ! その大会が開かれる季節なのです」

 ダイヤはホワイトボードの紙を指さし、

「ラブライブ予選突破を目指して、Aqoursはこの特訓を行います!」

 紙面にあるのはAqoursの夏合宿の日程スケジュールを表した円グラフだった。

「これはわたしくが独自のルートで手に入れた、μ’sの合宿のスケジュールですわ」

 「すごいお姉ちゃん!」とルビィが目を輝かせているが、千歌はじめとする他の面々は真逆に訝し気な視線をホワイトボードに送っている。どんな入手ルートかはともかく、その練習メニューが遠泳10㎞とランニング15㎞、更に腕立て腹筋20セットとでたらめな内容で。一応歌唱レッスンやダンス練習も含まれているのだが、そんなものは申し訳程度に組み込んだようなもの。因みに精神統一というものまで組み込まれている。本当にμ’sはこんな練習をこなしていたのだろうか。

「こんなの無理だよ………」

 千歌は呟くが、

「ま、何とかなりそうね」

 と果南が涼しい顔で言ってのける。スクールアイドルから離れていた頃も体力作りに余念がなかったことは承知だが、こんな練習メニューをこなしていたらラブライブどころかトライアスロン大会も優勝してしまいそうな気がする。

「熱いハートがあれば何でもできますわ」

 こんな根性論を言ってしまうダイヤはどうしたのか、その疑問を曜が述べる。

「何でこんなにやる気なの?」

 答えたのは、最もこの場ではしゃぎそうな鞠莉だ。

「ずっと我慢してただけに、今までの想いがShinyしたのかも」

 つまりこの興奮ぶりは2年間の反動ということか。彼女が生粋のスクールアイドルファンであることを考えれば納得はできるが、それと着いていけるかどうかは別なわけで。

「何をごちゃごちゃと! さあ、外に行って始めますわよ!」

 張り切ったダイヤはそう言うが、外を見ると蜃気楼で景色が揺らめくほどに暑いのが分かる。

「そういえば千歌ちゃん、海の家の手伝いがある、て言ってなかった?」

 曜が芝居めいた棒読み口調で訊いてくる。助かった、と思いながら、

「ああ、そうだそうだよ。自治会で出してる海の家手伝うように言われてるのです」

 一応、嘘はついていない。十千万と周辺の旅館やホテルが所属する観光協会で海の家を出店するため、その手伝いをするよう志満から言われていた。

「あ、わたしもだ」

 果南も思い出したように言う。ドルフィンハウスも夏は絶好のダイビングシーズンだから繁盛するだろう。

「そんなあ。特訓はどうするんですの?」

 露骨に肩を降ろすダイヤに申し訳ないと思いつつ、

「残念ながら、そのスケジュールでは………」

 曜も補足するように、

「勿論、サボりたいわけではなく………」

 ダイヤは腕を組みしばし考えるように目を伏せる。すぐに代案を思いついたらしく、不敵に笑った。まさか海の家の営業が終わったらグラフのメニュー全てこなすとか言いそうで、千歌と曜は「ひっ……」と短い悲鳴を漏らす。

 そこで鞠莉が助け舟を出してくれた。

「じゃあ、昼は全員で海の家手伝って涼しいmorning and eveningに練習、てことにすれば良いんじゃない?」

 「それ賛成ずら」と代案に花丸が同意する。でもダイヤはそうはいかないようで、

「それでは練習時間が………」

 そうだ、と千歌は我ながら良いアイディア、と自画自賛できる案を思いついた。

「じゃあ夏休みだし、うちで合宿にしない?」

 「合宿?」と全員で反芻する。

「ほら、うち旅館でしょ? 頼んでひと部屋借りれば、皆泊まれるし」

 意図を察してくれた曜が、

「そうか、千歌ちゃんちなら目の前が海だもんね」

 寝食と海の家以外の時間を全て練習に当てるのなら、皆で一箇所に固まったほうが効率が良い。それなら合宿という形が1番。それも海岸が目と鼻の先にある十千万に。

「移動がない分、早朝と夕方時間とって練習できるもんね」

 果南が言った。「でも」と花丸はまだ懸念があるらしく、

「急に皆で泊まりに行って大丈夫ずらか?」

 旅館の予約状況がどうなっているかは確認してみないと分からないが、千歌はあまり深く考えなかった。

「何とかなるよ。じゃあ決まり!」

 その後は合宿の日程についての話し合いに移ったのだが、それは善は急げということで明日に即決した。

「では明日の朝4時、海の家に集合ということで」

 ダイヤの言葉に「お、おお……」と全員で戸惑い気味に応じつつ、この日は解散になった。部室からぞろぞろと皆で出て行くなか、ふと千歌は未だ部室から動かない梨子に気付く。梨子は宙に視線を向けていて、その目には何も映っていないように見えた。

「梨子ちゃんどうかした?」

 ようやく部室に自分だけであることに気付いた梨子は「ううん」と笑いながら歩き出した。

「何でもない」

 

 

   2

 

 氷水を絞ったタオルを額に乗せると、その冷たさに反応してかぴくり、と青年は顔を震わせる。でも閉じられた瞳は開かず、粗い呼吸を繰り返し続ける。どこかで見たような顔だが、一体どこの誰だか思い出せない。妙な既視感だが、記憶喪失の翔一にとっては慣れたものだから気に留めることでもない。

 ひとまず自室のベッドに寝かせたは良いが、姉妹たちには何て説明したらいいものか翔一は頭を悩ませる。汗を大量に滲ませていたから熱中症かもしれないが、寝ているときに水を無理矢理飲ませるのもあまり良くない。見たところ顔色は優れないが重篤というわけでもなさそうだ。しばらく様子を見て目が覚めるのを待とう。花村ベーカリーが閉店した今の時期、翔一は1日中十千万にいる。

 店主の花村久志が殺人事件で死亡した後、唯一の店員になった翔一はひとりで店を続けていこうと考えていた。レシピは受け取ったし、生前の花村からも望まれていたことだ。でもすぐに店舗を貸し出していた大家から立ち退きを命じられ、店舗経営の知識なんてまるで無い翔一は従うしかなかった。理不尽な事情で無職に戻ってしまった翔一を気遣って大家はベーカリーの後に新しく開店するラーメン屋で働くことを勧めてくれたのだが、どうしてもその気になれず断った。丁度十千万の繁盛期に入ろうとしていたから、それを理由に。

 かくして花村ベーカリーは閉店したわけだが、消滅したわけでもない。花村の遺産とも言えるレシピはまだ翔一が持っているし、いつでも花村の味を復活させられる。別のパン職人に託すか、翔一がパンを作っていくか。どちらの選択を取るかは悩みどころだが。

 翔一はレシピノートを開く。十千万の厨房には流石にパン専用のオーブンなんて備えていないが、家庭用オーブンでも作れるパンはある。その試作でもしようと、ノートを片手に翔一は部屋を出た。

 

 日が暮れた自室の照明を点けることもせず、梨子はピアノの前に佇んでいた。作曲作業に使うようになってからは毎日触れているし、鍵盤を弾く指が震えることもなくなった。ピアノの呪いは解けつつある。スクールアイドルとして曲を作っていくうちに、解放される日が来るのかもしれない。思いのほか、その機会は早くやってきた。

 先日の夜、梨子のスマートフォンに届いたメール。送信元は以前出場したことのあるピアノコンクールの運営委員会で、間もなく大会のエントリー締め切りが近いことの通知だった。

 呪いを解くには、その呪いが生じた場を克服しなければならない。その瞬間に覚えた恐怖と絶望を塗り替えなければいけない。そうしなければ、いくら効力が弱まったとしても完全に解かれたとは言えない。時間が解決してくれないのが呪いの厄介なところだ。

 演奏する曲はある。Aqoursの曲を作る合間に書いていた譜面が。淡島でのダイビングで聴いた海の音を元に、自分なりに咀嚼しメロディに起こし曲にしたもの。納得の出来になったし、既にタイトルも決めてある。今すぐにでもコンクールのホームページにアクセスしてエントリーすることは可能だ。

 でも、わたしにはAqoursがある。

 ゼロから1へ、と皆で決めて走り出したばかり。予選に向けた新曲だって制作中なのだから、コンクールの練習に当てる時間もないだろう。ましてや明日から合宿。生活は完全にスクールアイドル中心になっている。

 ピアノが大事であることに変わりはない。

 でも、スクールアイドルが大事という気持ちだって、嘘じゃない。

 

 

   3

 

 青空に浮かぶ太陽が燦々(さんさん)と光を地上に注ぎ、砂浜を白く、海を青く反射させる。「いやっほう!」「眩しい!」と砂浜を駆ける千歌と曜が水着で海へと跳びこみ、上昇する気温で熱くなった体を海水で冷やす。すぐに海中から顔を出した千歌の顔面にビーチボールが直撃し、痛くはないだろうが驚いて再び海中へ押し戻される千歌を鞠莉がボールを拾いながら笑っている。

 沖合いのほうでは果南が波に押し上げられたサーフボードを見事に乗りこなしていて、別のところではルビィが浮き輪に乗って穏やかな波に揺られながらくつろいでいる。水面下で何かに掴まれたのか、じたばたともがいていると浮き輪が転覆し海中に沈んでしまう。でもすぐに浮かび上がってきて、悪戯の犯人である曜に抱えられたルビィは少しばかり疲れた様子だ。

 こうなるだろうな、とは思っていたけど。

 海水浴を楽しむメンバー達を砂浜で眺めながら、梨子は溜め息をつく。

「結局遊んでばかりですわね」

 同じく腕組みして事を眺めるダイヤが皮肉を漏らした。

「朝4時に来たら、マル以外誰もいなかったずら」

 砂浜に刺したパラソルの影の下で、花丸が溜め息交じりに言った。その隣で日光浴をしている善子が「あったり前よ。無理に決まってるじゃない」と皮肉を飛ばす。遅れないように、と釘を刺しておきながら見事に自身も寝坊したダイヤはそっぽを向きながら、

「ま、まあ練習は後からきちんとするとして。それより手伝いは午後から、て言ってましたわね、確か」

 砂浜に建てられた簡易小屋を前にして、それほど広くない三津海水浴場を見渡す。

「はて、そのお店はどこですの?」

 「現実を見るずら」と花丸が容赦なく言った。もっとも、目を背けたくなるのも無理はない。建てられたのは数日前だというのにかなり年季の入った店に仕上がっているのだから。きっと何年も木材を新調せずに使い回しているのだろう。古き良き、と言えば聞こえは良いが、言い換えればオンボロ。閑古鳥が鳴く、という比喩がこれほど似合う有様もない。

 かといって、海水浴客が梨子たちAqoursメンバーだけ、というわけでもない。他にもお客はいるし、人がいるなら飲み物や軽食を求めて海の家はそれなりに繁盛する。

 なのに何故自治体運営の海の家がこれほど閑散としているのかというと、お客が全て隣のもうひとつの店舗に流れているから。隣の店舗は木材が白く塗装されたオープンテラスで、解放的な南国のバーを思わせる雰囲気になっている。湘南の海水浴場ではよく見かける店舗なのだが、沼津では珍しいようでほぼ満席になっている。

「都会ずらあ」

 花丸が目を輝かせた。ダイヤのほうは肩を落としている。

「駄目ですわ………」

 店に立つ前にして戦意喪失したところで、海のほうから鞠莉が、

「都会の軍門に下るのデースカ?」

 その言葉に皆の視線が集まる。どこか芝居じみているようにも聞こえるが、彼女の場合本気にも聞こえるからどちらか判断しがたい。

「わたし達はラブライブの決勝を目指しているんでしょう。あんなチャラチャラした店に負けるわけにはいかないわ!」

 こんなことを言っているが、あの店舗はホテルオハラの出店と聞いている。それでもダイヤには鼓舞が響いたらしく、

「鞠莉さん。あなたの言う通りですわ!」

 そうして張り切って――主にダイヤが――海の家の手伝いを始めることになったのだが、

「これ、何?」

 互いの恰好を見て、梨子と千歌は声を揃える。ふたりとも店の脇に置いてあった箱型の看板で首から下をすっぽり覆っているのだが、これを指示したダイヤは声高々に、

「それで、この海の家にお客を呼ぶのですわ。聞けば、去年も売り上げで隣に負けたそうではありませんか。今年はわたくし達が救世主となるのです!」

 何ともスケールの大きい。千歌から聞いた話によると、去年は翔一がスイカ焼きそばなる新作料理を出していたのだが売れ行きが芳しくなかったとか。そのためか今年はシフトから外されているらしい。

「果南さん!」

 次にダイヤは果南に詰め寄る。

「さあ、果南さんはこのチラシを。商売もスクールアイドルも大切なのは宣伝! あなたのそのグラマラスな水着姿でお客を引き寄せるのですわ。他の砂利どもでは女の魅力に欠けますので」

「何か顔が怖いんだけど………」

 戸惑いながらも果南はチラシを受け取る。言い方に棘はあるものの、納得の人選ではある。果南のスタイルには敵わない。

「砂利ってなあに?」

 その意味を千歌から訊かれて、梨子は苦笑と共に返した。

「知らないほうが良いと思う」

 腑に落ちない千歌が首を傾げていると、ダイヤは更に人員の配置を進めていく。

「そして鞠莉さん、曜さん、善子さん」

 「ヨハネ!」という善子の抗議は無視して、

「あなた達には料理を担当してもらいますわ。都会の方々に負けない料理でお客のハートを鷲掴みにするのですわ!」

 あの3人は料理できるの、と疑問に思ったが、当人たちは割と乗り気らしい。

「面白そうだね」

「堕天使の腕の見せどころ」

「じゃあLet’s cooking!」

 

 

   4

 

 本格的な暑さに、誠は額にじっとりと滲む汗をハンカチで拭き取る。一応沼津署内は冷房が備えられているのだが、省エネルギーとして気温が30度以上でなければ電源は入れられない。庁舎の維持は市民の税金で賄われているのだから、あまり贅沢はできない。とはいえ公務員だって税金を納めている。多少は快適な職場環境を享受する権利はあるはずなのだが、世間というものはそこまで寛容に見てくれない。

 定例会議を終えて小沢とGトレーラーへ戻る道中、廊下に相変わらず季節に不釣り合いな高級スーツの背中が見えた。

「北條君」

 あまり棘のない声で小沢が呼ぶ。珍しい光景だった。以前なら小沢のほうから声は絶対にかけなかったし、北條のほうからかけられても小沢は適当に応じて関わらないようにするのが常だったのに。

「………何か?」

 振り返った北條は短く応じた。以前とは真逆だ。小沢は北條の前で足を止め、誠もそれに倣う。

「もし良かったら一緒に食事でも行かない? これから焼肉食べに行くんだけど」

 「ええ、是非一緒に」と誠もなるべく明るい口調で、

「今日は僕が奢りますが」

 北條はふ、と不敵な笑みを零す。

「心外だな。ひょっとして、司さんの一件でこの私に同情しているんですか?」

「別にそういう訳じゃないけど」

 小沢はそう言うが、実のところ図星だ。そうでなければ北條と食事なんてするはずがない。同情もあるが、北條を警察官として見直した、ということもある。例え尊敬する上司でも、罪を犯したとなれば見逃さず断罪する。そんな警察官としての矜持を北條透も携えている、と。

 北條は言った。

「断っておきますが、司龍二はこの私が自首に追い込んだんです。私の名推理で彼の犯行を暴いて。あの男は昔から目の上の(こぶ)だった。全く清々しましたよ」

「あなた本気で言ってるの?」

 そう訊く小沢の声は、以前北條に向けるものへと戻っていた。

 「当然です」と即答した北條は皮肉に笑い、

「しかし、昼間から焼肉ですか。どうでもいいが、しばらく私に近付かないようお願いします。あの匂いが嫌いなんです」

 そう言ってかつかつ、と革靴の音を鳴らして去っていく。

「一瞬でも同情した私が馬鹿だったわ」

 まだ本人に聞こえる距離だというのに、小沢は隠すことなく言ってのける。あんな言い方は酷い、と誠も思うのだが、それでも北條に対して嫌悪ばかりを向ける気にはなれなかった。

 実際に断罪する場を目撃したからといって、誠に北條の心情を理解できるなんて超能力はない。でも確かなのは、北條もまた自分と同じ、市民のために戦う刑事だということ。和気藹々とまではいかなくても、同志として彼を認めていたい。

 

 



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第2話

 

   1

 

 ふわ、と額に何かが乗った感触がした。

 果南、と唇が無意識になぞる。応えてくれないということは、きっとこの感触は果南ではないのだろう。でも馴染みのある感触に、涼の気分は少しだけ安らいだ。

 ダイビングに疲れてボートで一息ついていると、つい眠ってしまうことがよくあった。穏やかな波に揺られる船の上だと、どうしても睡魔に逆らえないことがある。しばしの眠りから覚めると、開いた視界に映るのは果南の顔だった。一度、涼の顔を至近距離で覗き込む果南の顔に驚いて、反射的に起き上がったせいで互いに頭をぶつけてしまったことがある。痛みに悶えている涼の額を、果南はおかしそうに笑いながらも優しく撫でてくれた。自分も痛いだろうに、わたしは石頭だから、とおくびにも出さず。

 年下の少女に頭を撫でられるのは複雑な気分だったが、嫌ではなかった。物心つく前に亡くなった母からも赤ん坊の頃はこうして頭を撫でてもらっていただろうか、と想像することができた。父から撫でてもらったこともあったが、父は乱暴で涼の髪をかき回すようだったから。

 果南。もう少しだけ、寝てもいいか。

 涼が言うと果南は微笑んで――

 

 ――起きろ――

 

 それは果南の声ではなかった。聞き覚えのない、でも不気味で本能的に恐ろしいと直感できる声だった。微笑んでいたはずの果南の顔が歪んでいく。彼女の顔は渦を巻き、まるで虚無の彼方への入口のように深い闇へと染まっていく。

 ――起きろ――

 声は再び言う。果南も、船も、海も、空も。全てが闇に塗り潰されて、意識が解けるように散開していく。

 

 目を開けると同時、解けかけていた意識が葦原涼という肉体の感触を取り戻した。服が生温い汗に濡れている不快さ。絶えず呼吸しても止まない息苦しさ。体が熱いのに震えが止まらない。寒いのか。感覚が滅茶苦茶だ。

 額に乗っている生温いものを掴むと、濡れたタオルだった。布団の感触もする。ようやく自分がベッドで寝かされていることに気付いた。ここは病院か。ぼやけた視線を横へと流す。少しずつ目の焦点が合っていき、病院の殺菌された白とは程遠い暖色の壁と天井が見えてくる。そして、誰かの背中も。

 ――襲え――

 また声が聞こえた。ゆっくりと、涼は体を起こす。

 ――襲え――

 這うようにベッドから降りて、背中へと腕を伸ばす。

 ――襲え――

 手の皮膚が緑色に変色していく。指先から鋭い爪が伸びて、触れただけでも背中の肉を引き裂いてしまいそうだ。

 背中がす、と立ち上がった。見たところ若い男らしい。涼の目覚めに気付かない青年が部屋から出て行く。手が元の肌色に戻ると同時、体が一気に重くなり涼は床に倒れ込んだ。

 涼は老人のようになった自分の手を見つめる。

「何なんだ………」

 誰も応えてくれる者はいない。まるで自分の裡から沸いたように、脳に直接響いてきた、あの声すらも。

 あの恐ろしい声はもう聞こえない。代わりにセミの鳴き声が聞こえてくる。それに何やら大勢の人の声も。すぐ近くで祭りでも催されているのだろうか。

 セミにしても人にしても、涼にはとても遠くに感じられた。

 

 

   2

 

「良い感じだなあ」

 賑わう海水浴場と、そこに建つ海の家を見て翔一は感慨深く呟く。設営を手伝ったときも思ったが、こうして店として機能していると改めて自分が作ったものとして実感できる。

「あ、翔一くーん!」

 看板ですっぽりと体を覆っている千歌が声をかけてきて、それに吊られて近くにいた長い黒髪の少女が翔一へ目を向ける。

「お知り合いですの?」

「うちで居候してる津上翔一くんです」

 確か、夏祭りのステージに立っていた少女だ。千歌からAqoursの新しい、でも最古参のメンバーだと聞いている。

「黒澤ダイヤと申します」

 少女は名乗り、整った礼をする。翔一も吊られて会釈し、

「津上翔一です。よろしくねダイヤちゃん」

 「ちゃん」付けで呼ばれることが珍しいのか、ダイヤは照れ臭そうに頬を赤くする。

「どうしたんですか、その荷物」

 千歌と同じように看板を被った梨子が訊いてきた。翔一は右手に提げたビニール袋を示し、

「曜ちゃんから届け物頼まれてさ。料理の材料が足りないみたい」

 店の中に入ってみると、まだお客は来ていないらしい。小さな店だから、客席は数席のみで厨房も一般家庭のキッチン並。大きな鉄板が厨房の半分近くを占領していて、その脇で曜は慣れた手つきで包丁を握りニンジンを切っていた。

「あ、翔一さん」

 曜は調理の手を止めて、翔一の差し出した袋を受け取る。

「ソースと卵、これくらいで足りるかな?」

「うん、ありがとうございます」

 「じゃあ早速」と曜は調理を再開する。熱された鉄板で切った野菜と豚肉を炒め、程よく火が通ったところで麺を投入。翔一が持ってきたソースをかけると、黄色かった麺が茶色に染まり、更に鉄板の熱で焦がされてじゅう、という音を立てながら香ばしい匂いを昇らせる。これだけで焼きそばの完成なのだが、曜はひと手間を加える。鉄板に溶き卵を円形に広げ、一気に焼き上げると更に盛った焼きそばの上に卵を包むように乗せる。仕上げにケチャップで卵に「YO」と書いてオムそばの完成。

「ほい、美味しいヨキそば。ヨーソロー!」

 「おお!」とその手際の良さに翔一は拍手を贈る。他人の料理を見て創作意欲が疼き、自分も何か作りたくなる。

「よーし、じゃあ俺も。昨日新しい料理思いついたんだよねえ」

 と厨房に入ろうとしたのだが、「わあ!」と何故か慌てた曜に静止させられる。

「翔一さんは大丈夫ですから。ほら、人手足りてますし」

 厨房には曜の他に善子と、金髪の外国人らしき少女が立っている。確かこの少女もAqoursの新メンバーだ。でもふたりは翔一の訪問に気付かず、各々の調理に夢中になっている。楽しそうに笑いながら。

 善子は専用の型取りされた鉄板でタコ焼きらしきものを作っているのだが、生地は黒焦げになっている。針を入れるとぶしゅ、と赤い液体が飛び出した。

「くくく………。堕天使の涙、降臨………」

 一方で金髪の少女のほうは、寸胴鍋の煮えたぎる中身をかき混ぜている。鍋の周りには様々なオイルやらワインやらハーブが並んでいるが、一体何を煮込んでいるのだろう。

「Unbelievable. シャイ煮complete………」

 ふたりの様子を見て、曜はとても不安そうに顔をしかめる。

「ふたりとも何作ってるのかな?」

 翔一の素朴な疑問に、曜は「………さあ?」と苦笑し自分の持ち場に戻った。

 

「さあ、これでお客がドバドバと!」

 店内からソースの焼ける香りが漂ってきたところでダイヤが言うのだが、まだお客はひとりも来ていない。隣の店のほうはテラスに人が収まりきらず外に行列ができていた。

「何で来ないんですの!」

 と千歌と梨子に怒りの矛先が向きかけたところで、「こんにちは」とようやくお客がやって来て、「あ、はーい」とダイヤは営業スマイルに切り替えた。

「ここが千歌たちが手伝ってる海の家?」

 そう訊くのは千歌のクラスメイトだった。友人たちを引き連れ、早速ヨキそばを人数分注文してくれる。

「皆に連絡したら、すぐ来てくれたよ」

 千歌が言った。それを聞いた果南が溜め息交じりに、

「最初からこうすれば良かったんだね。ほんとダイヤはお馬鹿さん」

 続けて厨房から出てきた鞠莉も、

「ほんと、オ・バ・サ・ン」

「一文字抜けてますわ!」

 客足こそ少ないが、去年よりも賑やかな夏だな、と果南は思った。去年は翔一新作のスイカ焼きそばが不評でお客が殆ど来なかっただけに、今思えば寂しい夏だったと思う。

 たった1年で同じ場所でも、こうして変化はある。千歌が自分のやりたいことを見つけて、同じ想いを抱く人々が集まっていく。去年と異なる夏になったのは、果南も同じだ。きっとこの場にいる皆の誰もが。もっとも、果南には悪い変化もあったのだが。

「翔一さん」

 翔一の隣に立ち、小声で話しかける。

「この前のこと、言ってない?」

「この前?」

「ほら、獅子浜でわたしが泣いてたこと」

「ああ、言ってないよ」

 良かった、と果南は胸を撫でおろした。翔一のことを信用していないわけではないのだが、やはり不安はある。涼が殺されたあの日、偶然獅子浜に来ていた翔一には何も訊かないで、誰にも言わないで、と頼んでいた。何かしらの説明はするべきだろうが、まだ果南には諸々の整理がついていない。この悲しみ、いくら楽しい出来事があっても、ふとした拍子に突き落とされる涼のいない虚しさにどう折り合いをつけたら良いのか。

「果南ちゃんが話す気になったときで良いからさ、いつでも言ってよ。きっと皆も聞いてくれるからさ」

 翔一は言う。「ありがとう」と返しつつも、果南はその日がとても遠くに感じられた。もしかしたら話す日は来ないかもしれない。涼のことは誰にも話したことがないし、まさか果南が恋をしたなんてここの面々は誰も考えはしないだろう。ましてや恋の相手が殺されて、ずっと悲観に暮れているなんて。この悲しみは消えてはくれない。この海、涼と潜った海を見る度に思い出す。

「ふたりとも何話してるの?」

 会話に鞠莉が割って入ってきた。

「鞠莉の料理が不安、て話」

 果南が答えると、鞠莉は「No problem」とウィンクする。不安なのは本当だ。

「そういえば鞠莉は初対面だったよね。千歌の家に居候してる津上翔一さん」

 紹介すると、翔一は「よろしく」と笑みを浮かべる。大概の相手はこの人好しな笑顔で翔一に親しみを覚えるものなのだが、似た者同士なはずの鞠莉は翔一の顔を呆けた表情で見上げながら、

「津上……翔一?」

 そう反芻すると、鞠莉は無言のまま翔一の顔を見つめている。見られている翔一も笑顔が消えて、どう応じたらいいか分からず無言で鞠莉に視線を返している。

「鞠莉、翔一さんのこと知ってるの? もしかして小原グループの人とか」

「え、ううん………。どうして?」

「翔一さん記憶喪失だから」

 「Oh」と納得したように鞠莉は頷き、「I don’t know」とようやくいつもの笑顔を浮かべる。

「わたしは小原鞠莉。良かったら何か食べていってね」

 そう言って鞠莉は厨房へと戻っていく。一体何なんだろう、と気にはなったが、その疑問は海の家の来客の会話で打ち消された。

「にしてもこの間の作戦て何だったんだろうな? あの生き物ってアンノウンて奴なのか?」

「さあな。上は何も言ってくれないし、不気味で仕方ないよ」

 それは若い男ふたり組の会話だった。「美味そうだな。食ってくか」とヨキそばの香りに誘われて店に入っていく。

「ヨキそばふたつ」

 「へい、ヨーソロー!」と屋台の親父よろしく、曜は早速調理に取りかかる。料理を待っている間、ふたりの間に交わされる会話を果南は聞き逃すまいと耳を澄ませていた。

「あれって、結局どうなったんだ? 捕獲されたのか?」

「分からん。何から何まで極秘だ。アギトだかアンノウンだか、どっちにしても訳分かんないのは変わらないよ」

 

 

   3

 

 西から焼けるような茜色が空に広がっていくにつれて、海水浴客も帰路につき始める。海の家の手伝いも切り上げてようやくAqoursは本来の目的として練習を始めた。

 まずはランニング15㎞。足場の安定しない砂浜で走れば、トレーニングとしての効果は高い。それほど広くない海水浴場を何周か回ったところで、流石に毎日ランニングをこなしている果南も疲れが出ている。今何㎞走っただろうか。

 足を止めると息が粗くなった。ランニングの後は遠泳10㎞に腕立て腹筋それぞれ20セットを控えているというのに。

「流石にお店の後だと、ちょっときついね」

 後方に続いているはずの皆に声をかけるのだが、その皆は海水浴場の隅で倒れ込んでいる。もう、と溜め息をついて駆け寄ると、息も絶え絶えなダイヤが声を絞り出す。

「こ、こんな特訓をμ’sはやっていたのですか………」

 ラブライブに優勝するほどのグループなのだから、これくらい朝飯前だろうに。

「これくらいでバテちゃ、優勝なんてできないよ」

 他の皆もいつから足を止めていたのか。鞠莉に至ってはビーチチェアでくつろいでいる始末だ。

「こ、これくらいで………」

 ダイヤは起き上がろうとしたのだが、腕の力が抜けたのか再び砂浜に伏した。

「まあ、いきなりは無理かもね」

 普段よりも倍以上の練習メニューだから、まずは体を慣らしたほうが良さそうだ。もうすぐ陽も暮れそうだし、明日の練習もあるのだから遠泳はやめておこう。

 1年生の頃に振り付けと練習メニュー考案を担当していた果南主導の下、体幹を鍛えるための比較的緩いトレーニングに切り替えた。果南からすれば軽い準備運動のようなものなのだが、それでも1日の疲労が蓄積していたメンバー達にはハードだったようだが。

 

 太陽が水平線の彼方に沈み、空に夜の帳が降りる。三津海水浴場には仮説シャワーが備えられていないから、皆は十千万の玄関先で砂と潮を洗い流す。

「ひゃっこい……」

 バケツで冷水を浴びたルビィが震えながら言う。

「我慢して。まだ砂落ちてないよ」

 そう言って千歌も水を被る。いくら暑い季節といっても、水道水の冷たい水は流石に堪える。

「まったく、お湯は無いんですの?」

 文句を飛ばすダイヤに「すぐ慣れるよ」と果南は水をかけた。冷たさに震える姿がついさっきの妹と重なる。

「それにしてもμ’sって凄い特訓してたんだね」

 憧れのグループと同じ経験ができたことが嬉しいのか、ルビィが目を輝かせる。「リトルデーモンね」と善子が言うのだが、すかさず花丸が「違うずら」とそれ以上の発言を阻止した。

「みんなー」

 玄関から翔一が顔を出す。

「他のお客さんもいるから静かにね」

 「分かってる」と千歌が応えた。

「じゃないと美渡が怖いからさ」

 翔一がそう言うと千歌がふふ、と笑みを零した。「何か言った?」と奥のほうから本人の声が聞こえて、翔一は慌てた様子で中へ戻っていく。

 ぐう、と音が鳴った。その音を発した鞠莉は羞恥など見せず、

「I’m hungry.ご飯まだ?」

 もう夕飯時には丁度いい時刻だ。

「じゃあ、わたし買い出し行ってくるよ」

 果南が挙手すると、千歌は「あ、それなら大丈夫。食材の余りあるから」とかぶりを振る。曜も「それに終バス出ちゃったよ」と言うが、果南は構わず、

「良いって。まだ走り足りないから、ちょっと街まで走ってくる」

 「え、果南ちゃん?」と千歌の声がしたが、果南は無視して十千万から駆け出した。

 

 海の家に置いたリュックの中から適当な服を掴んで着込み、外に出た時だった。

 宵闇のなかで小さく青の光が灯っている。まるでホタルイカみたいだ。でもホタルイカと違うのは、その光は梵字のような形をしていたこと。青い光は海の家へと近付いてくる。

 光が一際眩しく瞬き、果南は反射的に目を瞑った。まるで目を焼かれたようだった。でも熱さは感じられず、目を開くと視覚は問題なく機能している。

 目の前に男が立っていた。年齢は壮年くらいだろうか。まるで影のような男だった。真っ暗な夜の海から這い出てきた、闇から産まれたかのような。腕を組んだ男の手の甲で、青い梵字が徐々にその光を失っていく。

「お前はまだ赤ん坊だ。だが、俺がお前の(とき)を早めた。お前の力は、更に強く覚醒する」

 一体何をされたんだろう。この男は何者なんだろう。様々な問いが次から次へと浮かび、その度に恐怖が上乗せされる。

「その力をどう使うかは、お前の自由だ」

 男は背を向けて、夜の闇へと歩き出す。「あ、あなたは……?」と果南がようやく声を絞り出すと、男は一旦足を止めて振り向く。

「俺は誰でもない。名前はとっくの前に捨てた。だが、そうだな。仮に名乗るとしたら、これが相応しいか………」

 果たして名前を知ったところで、果南にはそれが意味のあることに思えなかった。誰でもない。それはこの男を表すのに最も相応しい。この男は自分とは違う、と直感できる。もしくは果南の裡に目覚めた力が告げている。きっと涼とも、金色の戦士ともまた異なる存在。

 ふ、と男は笑う。無意味なのに、と自嘲するように。

沢木哲也(さわきてつや)だ」

 

 

   4

 

 気配を感じ取れたのは、内浦湾沿いに立つ民宿からだった。まだ寝るには早い時間で、殆どの客室らしき窓には灯りが点いている。目を閉じて耳を澄ませると、壁の奥に響く様々な声が聞こえた。まるで神経が研ぎ澄まされたようだった。どの声もはっきりと、クリアに聞こえる。

 はしゃぐ子供を嗜める母親の声。友人と釣りの成果を自慢し合う老人の声。お客の予約を確認する女将の声。

 ――すみません、この辺りに飲み屋はありませんか?――

 見つけた。間違いない。海の家に来た男の声。

 ――この辺りには無いですねえ。街まで行かないと――

 女将が困ったように言う。

 ――そうですか、分かりました。どうも――

 そう言ってほどなく、民宿の玄関から男が出てくる。果南は建物の陰に隠れ、男が車の運転席に乗る様子を観察するように見る。民宿から漏れた光で、男の顔は宵闇の中でもはっきりと見えた。

 あの人が――

 悲しい記憶が蘇ってくる。変身した涼を穿つ銃声。苦悶に満ちた涼の悲鳴。それらが想起させる悲しみが、怒りへと変わっていくことが分かる。悲しみは怒りへ。怒りは殺意へ。

 プラグが点火する音が聞こえるが、エンジンは起動する気配がない。キュルル、という虚しい音を何度か繰り返し、完全に停止する。果南には車内の様子が手に取るように分かった。男のエンジンが掛からないことに困惑している顔も。男の体内で脈打っている心臓の鼓動も。その全てが果南の手の中にある。

 車内の空気が震えた。男が左胸を抑えつけ、突き立てた爪がシャツ越しに食い込んで血が滲んでいる。ドアのレバーに手をかけるが、すかさず果南はドアをロックし固定する。いくらロックを外そうとしても、並の力では動かせないほど強固にしておいた。

 男の鼓動が激しくなっていくのが分かる。心臓が風船のように大きく膨らんで、肺を圧迫していく。男は大口を開けて空気を吸い込もうとするが、肺は空気を取り込めない。

 この状態を維持しておけば、男は窒息死するだろう。その前に鼓動を更に激しくさせれば、心臓が破裂する。

 不意に恐怖が込み上げた。力を解いたせいで、男の心臓が正常な脈を刻み始める。肺は元の大きさに戻り、気道から送り込まれた空気から酸素を体内へと取り込んでいく。

 できない。わたしには――

 昼間、男が涼を殺した隊員のひとりと悟った時に決めたはずだ、涼の仇を討つ。涼と同じ苦しみを与えてやる、と。

 殺人というものがどういう行為なのか、果南は今更になって気付く。人の死とは呪縛を与える。涼の死は悲しみという呪縛。自ら手を下すとなれば、罪という呪縛。この先一生、この誰にも明かせない罪を抱えて、周囲にも自分にも嘘をつき続けなければならない。Aqoursの皆に、何食わぬ顔をしてステージに立つことなんてできない。誰かの笑顔のために歌うスクールアイドルが、誰かの命を奪っていたなんて。

 果南は泣き崩れた。涼は自分を守るために力を使っていたのに、どうして自分は殺めるために力を使おうとしたのか。とてつもなく怖かった。涼のためという想いが、殺意というおぞましいものへと変わってしまうことへの恐怖。

 再び悲鳴が聞こえた。車の中で男が胸を抑えて悶えている。強引にも車内から抜け出そうと窓ガラスを何度も蹴っている。

 どうして。力は解いたはず。いや、そもそも力の扱い方なんて分かっていない。激情に任せていたら発しただけだ。

 やめて………

 果南は強く念じる。男の足がガラスを蹴破る。閉ざされていた空間から悲鳴が放たれる。

 やめて!

 ぶち、と太い何かが切れるような音を感じた。悲鳴が途絶え、割れた窓からはみ出した脚がだらりと垂れる。

 鼓動はもう聞こえなくなっていた。

 

 



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第3話

 

   1

 

「果南ちゃん出ないなあ」

 通話の応答が無かったスマートフォンの画面を眺めながら、千歌は呟く。食材の買い出しに行くと言っても、もうスーパーだって閉店間近の時間帯。それに食材が無いわけでもないから戻ってくるよう何度も電話をかけているが、虚しく着信履歴には果南の名前と番号が記録されていくばかり。

「もう待ちきれないから先に食べちゃわない? I’m berry hungry」

 鞠莉が腹をさすりながら言う。確かに千歌も空腹だ。

「先に食べよっか。果南ちゃんの分残しておけば大丈夫だよ」

 曜もそう言っている。「うん」と千歌は応じ、果南宛てに短くメッセージを送った。

「さて………」

 スマートフォンをポケットにしまい、海の家の厨房に目を向けた千歌は溜め息を漏らす。食材に関しては本当に無問題だ。何故なら昼間の営業での売れ残りが大量にあるから。

「どれくらい余ったの?」

 テーブルについたメンバーの中から梨子が訊いてくる。

「ヨキそばはほぼ売り切れたんだけど、シャイ煮と堕天使の涙、全く売れてなくて………」

 厨房に広がっているのは大量に作られた堕天使の涙――黒焦げのタコ焼きのようなもの――と寸胴鍋からはみ出したシャイ煮の具――熊の手のようなものが見えるのだが食べられるのだろうか――と、いくら9人いても食べきれるかどうか。保存が効けば明日の営業でも売ればいい話だが、生憎売れ残りにそんな期待は持てない。

「申し訳ない!」

「デース!」

 善子と鞠莉が三つ指を揃えて深々と頭を下げる。とはいえこの場にいる誰もがふたりを責める雰囲気はなく、むしろその売れ残った料理に興味を示す。

「それってどんな味がするんですか?」

 ルビィが訊くと「マルも食べてみたいずら」と花丸も目を輝かせる。ただひとり、ダイヤが怪訝そうに眼を細めたのが気になったが、それに気付かない善子と鞠莉は揚々と立ち上がり、

「良いですわ!」

 と声を揃えて応じ厨房に立つ。ふたりとも出来上がりを温めるだけなのだが、火にかけた鍋をかき回す鞠莉は魔女のように見え、電子レンジから出した堕天使の涙に善子は何やらぶつぶつ呟きながらマヨネーズをかけている。

「堕天使の涙に溺れなさい」

 それぞれの器にごった煮と黒い球焼きが行き渡ったところで、ふたりは自信満々に告げる。

「さあ、召し上がれ!」

 見るからに両方ともゲテモノなのだが、まさか毒なんて入っていないだろう。唯一の不安要素といえば、全く売れていないからお客からの評判が分からないだけ。そう、それだけ。

 自身に言い聞かせながら、千歌は箸で摘まんだ魚のヒレのような具を恐る恐る口に運ぶ。

「シャイ煮美味しい!」

 このプルプルとしたゼラチン質の舌触りはフカヒレだ。魚介の出汁を吸い取っている。他の皆も頬を綻ばせていて、かき込んで食べた花丸は「おかわりずら」と空の器を見せる。

「でも一体、何が入っているの………?」

 丸ごと入ったアワビを箸で掴みながら、梨子が恐る恐る尋ねる。「ふっふっふ……」と鞠莉は笑みを浮かべ、

「シャイ煮はわたしが世界から集めたspecialな食材で作った究極の料理デース!」

 小原家の財力なら取り寄せることも可能なのだろうが、丸ごと入っている食材はどれも素人の千歌から見ても高級なものばかりだ。タイに伊勢エビにタラバガニに、松茸や牛肉まで。あと食材として入れたのか出汁として入れたのか分からない熊の手。

「1杯いくらするんですのこれ?」

 ダイヤが訊くと鞠莉はさらりと、

「さあ? 10万円くらいかな?」

 その金額を聞いた途端、鞠莉と善子以外の全員が口に含んだシャイ煮を吹き出す。

「高すぎるよ!」

 千歌が言っても「え、そうかなあ?」と金銭感覚がまるで違う鞠莉は腑に落ちない顔をする。屋台や出店で1万円札を10枚出せるのか、と訊きたくなるが、きっと彼女はクレジットカードで決算を済ませているのだろう。庶民にとって金銭がどれほど重いものか分かっていない。

 苦笑しながらルビィが気を取り直すように、

「次は堕天使の涙を………」

 と大皿に山盛りになっている球焼きのひとつを爪楊枝に刺して口に運ぶ。皆が反応を見守る中、堕天使の涙を口に含んだまま微動だにしなくなったルビィの顔がみるみるうちに紅潮していき――

「ピギャアアアアアアアアアアアアアア‼」

 「辛い辛い辛い辛い!」と喚きながら外へ飛び出していく。

「ちょっと、一体何を入れたんですの⁉」

 ダイヤが問い詰めると、善子は不敵に笑いながら堕天使の涙をひと粒取る。

「タコの代わりに大量のタバスコで味付けした、これぞ堕天使の涙」

 善子も堕天使の涙を口に放るのだが、その辛さに顔色ひとつ変えることなく咀嚼を続ける。もしやルビィが辛いものが食べられないだけでそんなに辛くないのでは、と一瞬だけ考えたが、やはり食べるべきじゃないだろう。全く売れなくて良かった。もし食べたお客がいたら店が営業停止になっていたかもしれない。

 堕天使の涙についてダイヤと鞠莉が善子に質問していると、会話に取り残された2年生の3人は自然と集まる。

「そういえば歌詞は?」

 梨子に訊かれ「うーん、中々ね……」と歯切れ悪く応える。

「難産みたいだね。作曲は?」

 今度は曜が梨子に訊いた。

「色々考えているけど、やっぱり歌詞のイメージもあるから」

 詰まるところ、千歌が歌詞を作らなければ曲の制作は進まないということ。梨子も先に曲を作っても、千歌の歌詞に合わせて大幅に変えることになったら限られた時間と労力を浪費するだけ。それに何より、妥協はしたくない。

「良い歌にしないとね」

 地区予選を通りたい。もっと輝きたい。もっと上手く踊り歌いたい。もっと、という望みが千歌の裡を満たしている。元々ゼロだった。ならばこれから先は失うものなんてなく、きっと何かを得ていくのだと思える。集まった9人で。

「うん」

 梨子は頷いた。

「外の空気吸ってくる。ルビィちゃんも心配だし」

 そう言って梨子は店を出ていく。やっぱり何か様子が変だ、と千歌は思った。昨日からどこか上の空で、意識が別のところへ向いている気がする。本人に直接訊くべきだろうか。でも、梨子自身が言いたくないことだったどうしよう。悩みがあるのなら言ってほしいが、無理強いして傷付けたくはない。決めあぐねていると、曜の声が飛んでくる。

「千歌ちゃーん。ソース切れちゃった」

「分かった。取ってくるね」

 急ぎ足で店を出ると、ルビィがペットボトルで水を飲んでいた。ようやく辛さが治まったらしい。いつもは静かな三津海水浴場には波の音に海の家から聞こえる少女たちの声が上乗せされていて、ささやかながら祭り気分になってくる。十千万の玄関に着いてガラス戸を開けようとしたのだが、寸前で千歌は手を止めた。

「ピアノコンクール?」

 翔一の声だった。暖簾の間から覗き見ると、翔一と梨子によく似た彼女の母親が話している。そういえば、野菜のお裾分けをしによく家を訪ねていると言っていた。今日も翔一から受け取ったのか、大量のキュウリが入ったビニール袋を手に提げている。

「ええ。案内が来たらしいんだけど、あの子出るとも出ないとも言ってなくて」

「うーん、千歌ちゃんからは何も聞いてないですけど」

 ピアノコンクールって、と会話に入ろうとしたのだが、そこで翔一の眼差しが変わった。ぞわり、と千歌の背中に寒気が走る。翔一があの目をしたということは、あれが現れたということだ。

 梨子の母も翔一の変化に戸惑ったのか、「翔一君?」と呼びかける。でも翔一は無言のまま、玄関に置いてあるヘルメットを掴むと靴の踵を踏み潰す勢いで履いて外に出る。

「翔一くん!」

 すぐ傍にいた千歌の声も届かず、翔一はバイクに跨るとエンジンを吹かして夜の闇へと走り出した。

 

 

   2

 

 内浦湾沿岸の民宿にて変死体発見。

 民宿の女将からの通報で、要請を受けた誠は現場へと急行した。

 普段ならば静かに波の音だけが響く夜の民宿の駐車場には、警官と野次馬たちがひしめき合っている。

「河野さん、お久しぶりです」

「おう」

 久々に捜査を共にする河野への挨拶もそこそこに、誠は事件について尋ねる。

「アンノウンの仕業かもしれないと聞きましたが」

「それがな……」

 河野は捜査をメモした手帳を見ながら説明してくれる。

「被害者は中野博和(なかのひろかず)。警視庁機動隊第8中隊の機動隊員なんだが、致命傷となるような外傷はどこにも見当たらない。内臓が破壊されてるらしいというのが、現時点での鑑識の意見だ」

 致命的な外傷なし。内臓が破壊されている。そのふたつの事項がぴたりと当てはまる前例がある。

「それじゃあまるで――」

 河野も同じことを思っていたのか「ああ」と頷き、

「3年前の高海伸幸殺しと同じ手口だ」

 一体どういうことか。今回の犯行がアンノウンによるものだとしたら、高海伸幸もまたアンノウンに殺された可能性が高い。しかし、河野の捜査では伸幸は人間に殺されたという見立てだ。だとしたら今回も人間によるものか。だとしてもどうやって。

 ごちゃ混ぜになった思考を整理しようとしたとき、「何⁉」と河野の上ずった声が聞こえた。他の捜査員から報告を受けていたらしい。

「どうしました?」

「駅前通りの方でも変死体が見つかったのは知ってるか?」

「ええ」

 それは現場への道中に車に届いた通信で聞いている。民宿での通報から1時間も経たず、市街のほうでも死体が発見されていた。

「そっちの被害者もこっちと同じ手口で殺されてるんだが、被害者はふたりとも機動隊の同じ隊所属で、アギト捕獲作戦に参加していたらしい」

「アギト捕獲作戦に? どういうことです?」

「分からん。ただ作戦のメンバーが襲われたとなると、次は北條が狙われるかもしれん」

 誠は素早くスマートフォンで北條に電話をかける。車に搭載された通信機に切り替わったということは、今運転中なのだろう。

「氷川です。北條さん今どちらですか?」

『駅前モールの駐車場で死体発見の連絡を受けましてね。今現場へ向かっているところです。どうかしましたか?』

「それが――」

 誠が説明しようとしたところで、端末のスピーカーから甲高い音が響き咄嗟に耳を離した。次に鈍い衝突音が。

「北條さん? 北條さん!」

 誠がいくら強く呼びかけても、北條は応答せず回線が途絶えた。

 

 街灯の弱々しい光が、急停止した車の運転席を照らしている。運転手は戸惑いの表情を浮かべていた。それも当然のことだ。運転手がブレーキペダルを踏んでいないにも関わらず、車のブレーキが作動したのだから。

 果南が念じると、車は発進し右へ急カープを描く。運転手は勝手に回ったハンドルを戻そうと手をかけるが動かない。止められないようブレーキペダルもがっちりと固めておいた。

 車はビルのコンクリート壁へと突っ込み、スピードを緩めないまま激突する。ボンネットが開き中のパーツが火花を上げるが、爆発するには至らない。距離が近すぎたか。

 膨らんだエアバッグに顔を埋めもがく運転手を見て、果南はきつく歯ぎしりする。失念していた。エアバッグも潰しておけばよかった。まあ、別にいい。少しずつ(なぶ)り、最大の苦痛を与えた上で息の根を止めればいいだけの話。

 もう、果南に良心の枷は外れている。ふたりも殺してしまった。一生かけても償えないし、死後の世界があるとすれば自分は間違いなく地獄へ行くだろう。人としての誇りが、魂がいくら穢れてしまおうが構うものか。既に超えてはいけない一線を越えてしまったのなら、後は際限なく進むしかない。

 何よりの理由は、涼を殺されたことへの憎しみ。さっき殺したふたりも、そしてこの男も、葦原涼という「人間」の命を奪った。彼にも人生があったのに。彼とふたりで生きていこうと思ったのに。例えスクールアイドルに、千歌たちのもとへ戻れなくても構わない。全てを捨てることになっても涼がいれば生きていける。その希望を奪われた。人間じゃない、その異形な姿で化け物と決めつけられて。

 その償いはさせなければ。果南は念の力でドアを開け、男を運転席から引っ張り出した。宙を跳ねる男は背中をガードレールに打ち付け、地面に倒れると痛みのあまりに悶絶する。

 ――痛い? でもね、涼はもっと痛かったんだよ――

 男はガードレールに手をかけてゆっくりと立ち上がる。周囲に視線を這わせているが、宵闇に隠れる果南を見つけることはできない。果南は更に強く念じた。ガードレールの鋲が弾け飛び、金属製の厚いガードレールが男の体に巻き付く。男は驚愕の次に苦悶と表情をころころ変えて、それがどこか滑稽に見える。ガードレールを強く締め付け、男の体を圧迫していく。男の悲鳴は弱かった。肺が圧迫されて呼吸もままならないのだろう。みしみし、と肋骨が軋む音が聞こえる。

 どうしてやろうか。このまま窒息死するのを見届けようか。それとも更に苦痛を与え悶え死なせるか。

「っ!」

 肩を掴まれ、咄嗟に果南は振り向いた。力が途絶えてしまう。

「あまり目立つ真似はするな」

 果南の肩を掴む男は言う。知らない男だ。いつからそこにいたのだろう。

「奴らが来るぞ」

 男がどこかを指さした。その先を視線で追うと、暗闇の中で光る眼が果南と男を睨んでいる。その眼を光らせる人影はゆっくりと街灯の光が届く所まで歩み出てきた。人に似たシルエットでありながら、ジャガーのような顔をした異形の存在。

「こっちだ、早く!」

 男は果南の腕を掴んで走り出す。ジャガーは追ってくるかと思ったが、割り込むように走ってきたバイクに行く手を阻まれた。男に連れられてその場を離れた果南は、そのバイクに乗って現れたのが誰なのか分からなかった。

 

 ジャガーのアンノウンは闇夜へ消えたふたりの人影から、翔一へと光る眼を向けた。頭上に浮かべた光輪から剣を出すところから、標的を翔一へと切り替えたらしい。翔一が奴らの存在を感じるように、やはり奴らも翔一の裡にある力を感じ取れるらしい。何故なのかは分からないが、戦うのに都合が良いから気にはしない。惜しみなく使わせてもらう。

「変身!」

 翔一はアギトに変身した。ジャガーが剣を振り降ろすが、それよりも速く翔一の拳が敵の腹を打つ。痛みを感じたのか多少たじろいだものの、ジャガーは剣を構え直す。突き出された剣を避けると、剣先は空を切り翔一の背後に建つビルのコンクリート壁を豆腐のように切り裂いた。

 敵の後ろへと回り込み腰に蹴りを見舞う。よろけたジャガーは足を踏ん張り、体を反転させながら剣を振るい翔一と対峙する。上段からの攻撃はバックステップを踏んで避け、突き出された剣も紙一重で避け、敵の得物を取る腕を脇で固めその顔面に拳を打つ。鼻面は流石に効いたのか、ジャガーはたたらを踏みながら後退した。

 それほど手強くはないが、武器を持っている点では向こうが有利か。あまり長期戦は得策じゃない。翔一はベルトの球に手をかざし、現れた刀の柄を掴み引き抜いた。

 ジャガーが再び剣を振り降ろし、刀で受け止める。同時、翔一の鎧が超越感覚の赤(フレイムフォーム)に染まった。敵の力の緩みが、刀身越しに伝わってくる。その隙を逃さず、翔一は剣を弾きその腹に膝打ちする。不利と見たのか、ジャガーが踵を返して走り出した。

 逃がさない。

 跳躍した翔一は敵を飛び越え、その行く手に降り立つ。敵は進路を変えることなく、迎撃を決めたのか剣を構えて跳びかかってくる。翔一は手元に力を込めた。刀の鍔にある角が開き、赤熱した刀身を肉迫した敵の頭に突き刺す。すう、と滑らかに、翔一の刀はジャガーの体を切り裂く。

 左右ふたつに別れた敵の体は背後へと流れ、ふたつの爆発を起こして木端微塵に散っていった。

 刀の鍔が閉じる。姿を戻そうとしたとき、翔一の鋭敏になった聴覚はひゅ、と空気を裂く音を捉えた。咄嗟に右手へ刀を向けると、長い錫杖が刀身に叩きつけられる。それを握っているアンノウンもジャガーのような姿をしているが、体躯はまるで女性のようにしなやかだ。錫杖を弾いて間合いを取ると、背後からも別のアンノウンが現れ翔一を羽交い絞めにする。動きを封じられた翔一の胸に女性のようなアンノウン――雌豹は錫杖を打ち付けた。ごほ、と咳き込むが構わず雌豹は錫杖を叩き込もうと構える。比較的自由な脚を振り上げ、翔一は迫ってきた敵の武器を防いだ。

 背後の力に緩みが生じる。するりと抜いた腕で背後のアンノウンに肘打ちを見舞い、よろめいたところで背中を刀の柄で叩く。

 もう1体のアンノウンもジャガーの姿をしている。先ほど倒した個体と色以外は同じ容姿。さしずめ雄豹といったところか。

 振り降ろした刀が雌豹の錫杖に防がれる。そのとき生じた隙で、雄豹に腹を蹴られた。かなりの脚力で、翔一の体が大きく宙に蹴り飛ばされ地面に伏せる。すぐさま立ち上がるが、2体のアンノウンは翔一に襲い掛かろうとしない。ゆっくりと後退し、暗闇の中へと姿を消していく。

 追跡しようにも翔一の体にはそれほどの力が残っていない。敵が去ったことへの安堵かそれとも単純に疲労のためか、翔一は膝をついた。

 

 

   3

 

 沼津署の通信司令部に確認を取ったところ、北條の車は市街で停まったまま動いていないとのことだった。通信はしたが応答はないらしい。毎秒ごとに誠のなかで焦りが募っていき、車のアクセルペダルを踏む足も強くなる。

 通信司令部の警官が言った通りの場所で、北條の車はビルの壁に頭から突っ込んでいた。しかも結構なスピードで衝突したらしく、ボンネットがひしゃげヘッドライトの破片が散らばっている。その近くで北條は白い物体に巻き付かれ、まるで(はりつけ)にされたように直立のまま頭を垂れている。

「北條さん!」

 車から降りた誠は北條のもとへと走る。彼の体に巻き付いたものを剥がそうとしたが、とても堅くて人力では動きそうにない。よく見れば、その白い物体はガードレールだ。本来なら真っ直ぐ伸ばされているはずのガードレールが丸まって北條の体を締め付けている。

「北條さん! しっかりしてください!」

 呼びかけながら、誠は北條の肩を揺さぶる。彼の目が僅かに開いた。何か言いたそうに口が動くが、「ああ……」と呻いた後に再び目を閉じる。

 良かった、生きている。ひとまず安堵した誠は、北條に纏わりつくガードレールを緩めようと全力で引っ張る。でも事故の被害最小化を目的に造られた金属板は人力で曲がるほどやわじゃない。

 北條が不思議な力で襲われたのは間違いない。でもアンノウンの仕業と決めつけることはできなかった。今回の事件は、人間によるものという可能性が出てきたのだから。

 

 



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第4話

 

   1

 

 夜の沼津はとても静かだ。静寂のなか、先ほどのような怪物たちが街に潜んでいることを、住民たちは知っているのだろうか。少なくとも、果南を乗せた車を走らせるこの男は知っているらしいが。

「あの、あなたは………」

 恐る恐る、果南は声を絞り出す。乱暴することを目的に果南を車に乗せたわけではなさそうだし、万が一のことがあれば力を使って逃げ出せばいい。それに、この男が何故あの怪物を知っているのかも気になる。

相良克彦(さがらかつひこ)だ」

 男は短く応える。それ以上のことは何も語らず、夜の街に車を走らせていく。

 相良が車を停めたのは市内のマンションだった。エントランスに入るときも、エレベーターに乗るときも、廊下を歩くときも、相良は無言を貫いていた。時折果南が着いてきているか確認するように目を配せることはあったものの、何か言葉をかけるどころか体に触れさえもしなかった。

 その沈黙が尚更恐怖を掻き立てる。歩みを進める度、足音が響く毎に冷や汗が背中を伝っていく。

 やがて、相良は廊下に並ぶドアのひとつを前にして足を止めた。インターホンを押すと、すぐにスピーカーから若い女性らしき声が聞こえてくる。

『はい』

「俺だ」

 その短いやり取りの後、すぐにドアからがちゃん、と鍵を開錠する音が響いた。それも3回。鍵が3個も付いているなんて多すぎる。このマンション独自のセキュリティとでも言うつもりか。

 中からドアがゆっくりと開けられ、相良はじれったいのか無造作に開け放ち狭い玄関へ入る。部屋の中から眼鏡を掛けた大人しそうな女性が、果南をじ、と凝視する。

「本当なの? その子の力が覚醒を始めた、て」

「ああ、しかもかなり強力にな」

 ふたりは夫婦なのだろうか。それにしては随分と淡泊な雰囲気だが。廊下で立ったままでいると、「入れ」と相良に言われ果南は部屋へと入る。

 部屋の中はとても綺麗に片付けられていた。生活感がまるでない。つい最近引っ越してきたばかりか、住居としての部屋でないのか。インテリアの類が全く見当たらない。テーブルとソファしか置かれていないリビングに通された果南は、女性に促されるままソファに腰掛ける。女性は相良の隣に立ち、彼と共に果南へ冷たい視線を送ってくる。

「俺たちがあかつき号であの事件に遭遇して2年。いつかこうなると分かっていたが………」

 相良が何を言っているのか、果南には咀嚼できていなかった。あかつき号。確か涼の父が乗っていたというフェリーボートの名前。このふたりもあかつき号に乗っていたということか。いや、相良の口ぶりはまるで果南も乗っていた、とでも言っているよう。

「アギトに接触して、覚醒の時が早まったか」

 「アギト……?」と果南は反芻する。それは何を意味する言葉なのだろう。

 「ねえ」と女性は相良に訊く。

「この子は思い出したの?」

「いや、まだ忘れているらしい」

 相良が言うと女性は「そう……」と安堵したように溜め息をつく。

「一体何のことなんですか」

 我慢できなくなり、果南は立ち上がって語気を強める。さっきからふたりの会話が全く理解できない。

「忘れているならそれでいい。思い出そうともするな。思い出したら地獄を見ることになる」

 「いいか」と相良は果南の両肩を掴み、真っ直ぐに瞳を見据える。

「何があったのかは知らないが、静かに暮らしたいなら無暗やたらに力を使うな。奴らに嗅ぎつかれるぞ」

「勝手に決めないで!」

 肩の手を払いのけ、喚くように言う。

「あの人たちはわたしの好きな人を殺した。だからわたしが殺す。涼の仇を討つ!」

 復讐が何の解決にもならないことは理解している。涼がこんなことを望まないことも。でも、だからといってこの止めどない悲しみはどうすればいい。この虚無はどうやって埋めればいい。もうスクールアイドルで埋まるものじゃない。あの居場所は涼の代替にはならない。

 ならばもう、復讐しか生きる道はないじゃないか。

「これはお前のためなんだ。何もかも忘れろ。奴らは恐れているんだ。お前のような存在が――」

 最後まで聞かず、果南は念を部屋中に巡らせた。リビング、キッチン、寝室からありったけの電気コードをかき集め、それらは蛇のように床を這って相良の体へと巻き付かせる。足元と胴体、更に喉元を締め付ける。

「やめて! お願い!」

 女性が叫ぶ。果南が駆け出すと女性は「ひっ」と短い悲鳴をあげ、身悶えする相良はバランスを崩して床に倒れる。そのふたりを無視し、その横をするりと素通りして玄関で靴を掴むと裸足のまま外へ飛び出した。

 街灯のみが照らす街のなかをひたすら走り続けた。時折後ろを見て、ふたりが追ってこないか確認しながら。車が通りかかると家の陰に隠れた。現在地もどこへ向かっているのかも分からないまま走り、マンションが見えなくなったところでようやく足を止める。ペース配分も考えず長く全力疾走したせいか、一気に疲労が押し寄せてきた。粗い呼吸を繰り返す口に入った玉汗がしょっぱい。ひとまず地図アプリで現在地を確認しよう、とスマートフォンを取り出すと、画面にたくさんの着信とメッセージ通知が表示されていた。着信は全て千歌から、最後に通知されているメッセージも千歌からだった。

 ――先に皆で食べてるね。果南ちゃんの分も残しておくから早く帰ってきてね――

 その短い文面を見た途端、両眼から涙が溢れてくる。千歌は、Aqoursの皆は待ってくれている。自分がついさっき、人を殺していたなんて知らず。いや、きっと知ったとしても信じないだろう。

 あの場所に戻るなんて赦されない。でも、それでも赦しを請わずにいられない。例えもう、スクールアイドルとしてステージに立てなくても構わない。でも、せめて彼女たちにもう1度会わせてほしい。それが皆を騙すことになっても。全てを知られたとき、全てを失うことになっても。

 

 

   2

 

 合宿の間は十千万にメンバー分の部屋を取ろうと思ったのだが、生憎繁盛期の今は旅館としては有難いことに満室になっている。予約のキャンセルもなく、やむなく千歌の部屋に全員分の布団を敷いて寝ることになった。

 店の営業に練習というハードな1日を過ごしたからか、皆は床に就いてすぐ寝息を立てていた。千歌もかなり疲れてはいたが、なかなか寝付くことができずにいた。まだ戻ってこない果南が心配ということもあるが、もうひとつ気掛かりなことがある。布団を被り、千歌はスマートフォンで「ピアノコンクール」と検索をかける。

 検索リストの中で直近に開催されるコンクールのホームページを開くと、予選の開催日は8月20日とある。その日はラブライブの予備予選の日でもあった。間違いない、と千歌は確信する。梨子のもとに届いたコンクールはこれだ。そろり、と千歌は布団から出て、床で寝ている梨子に「梨子ちゃん」と小声で呼びかける。起きる気配はないが、大声を出すわけにもいかないので彼女の両頬を摘まんで「梨子ちゃーん」と再び呼ぶ。

「千歌ちゃん……」

 ゆっくりと目蓋を開いた梨子が、千歌を見上げながらすぼめられた口で言う。

「面白がってませんか………?」

 皆が寝ている部屋で話をするわけにはいかない。ふたりは忍び足で十千万を出て、三津海水浴場に場所を移した。できることなら皆にも話を聞いてほしいが、きっと梨子はそれを望まないだろう。きっと梨子も答えを出しあぐねている。なら、彼女の悩みを知るのは千歌ひとりでいい。

「ピアノコンクール、案内来てるんだよね?」

 ふたりだけで立つ砂浜で唐突に切り出すと、梨子は目を微かに見開き、すぐに苦笑を漏らした。

「ばれてたか」

 ラブライブとピアノコンクール。どちらを優先すべきか、千歌には決められない。勿論一緒にラブライブの方に出て欲しいが、梨子にとってはピアノだって大事なはず。これは梨子自身が答えを出さなければならない。誰かのためとかじゃなく、梨子自身がやりたいこととして。

「心配しなくて大丈夫。ちゃんとラブライブに出るから」

「え?」

 本当にそれで良いの、と訊きそうになり、千歌は口を閉じる。続きを聞かないと。梨子の気持ちを。

「確かに、初めて知らせが届いたときはちょっと戸惑ったよ。チャンスがあったらもう1度、て気持ちもあったし」

 雲間から月が出てきて、海面が月光を反射する。月光に照らされた梨子は笑っていた。

「でも合宿が始まって、皆と一緒に過ごして。ここに越してきてから、この学校や皆やスクールアイドルが、自分のなかでどんどん大きくなって。皆とのAqoursの活動が楽しくて」

 最初は梨子にとって、内浦はとても退屈な場所だったと思う。生まれ育った千歌でさえ退屈していたのだから。あまり人はいないし、娯楽だって少ない。こんな土地じゃ夢も持てない。ただ退屈を持て余して流れゆく時間を無為に過ごしていくだけ。

「千歌ちゃんとの出会いも」

 でも、都会から来た梨子は内浦にいる意味を見出していた。その意味に、千歌は相応しい人間になれているだろうか。こんな、何の取り柄もない普通怪獣に。

「自分に訊いたの。どっちが大切なのか。すぐ答えは出た。今のわたしの居場所はここなんだ、て」

 スクールアイドルとピアノ。そのふたつを天秤にかけて、梨子はスクールアイドルを選んでくれた。それはとても嬉しくはある。でも、本当にそれで良いのかな、とも思った。大切なものに優劣なんて付けるべきだろうか。どちらかを選ぶのに、片方を捨てなければならないなんて一体誰が決めたのだろう。

「………そっか」

 納得はできないが、するしかない。それが梨子の出した答えなら、千歌は受け入れるだけ。

「今のわたしの目標は、今までで1番の曲を作って予選を突破すること。それだけ」

「うん、分かった。梨子ちゃんがそう言うなら」

「だから早く歌詞ください」

「えー⁉ 今言うそれ」

「当たり前でしょ。さ、風邪ひくといけないから、戻ろ」

 踵を返して十千万へと歩く梨子の背中をじ、と見つめる。今の彼女はピアニストじゃなく、スクールアイドルとして在ることを選んだ。その選択を否定してはいけない。Aqoursのために曲を作ろうとしているのだから。

 でも、やっぱり――

 千歌が梨子の背中へ告げようとしたとき、

「果南さん?」

 梨子がそう言って早足で向かう。千歌も後を着いていくと、十千万の門の前で果南が佇んでいた。

「果南ちゃん!」

 呼ぶと「千歌……」と応じた果南は、額から汗を滴らせている。買い出しに行くと言っていたが手に荷物はない。やはりどの店も閉まっていたのだろう。

「もう、どこまで走ってきたの? 何度も連絡したのに」

 口を尖らせると、果南は「ごめんごめん」とおどけた笑みを浮かべる。

「気が付いたら結構遠くまで行っちゃっててさ。それよりお腹空いちゃった。わたしの分ある?」

「うん。取ってくるからお店のほうで待ってて」

 そう言って千歌は十千万へと早足で戻っていく。後ろで「梨子ちゃんは寝てなよ」「いえ、付き合います」とふたりの会話が聞こえた。

 台所で冷蔵庫から果南用に残しておいたシャイ煮と堕天使の涙――これは果南の口に合うか分からない――を出したとき、天井からどん、という音が響いた。最初は千歌の部屋でハンモックを吊るしていた善子が落ちたのかと思ったが、位置からして翔一の部屋だ。戻ってきたのだろうか。料理をテーブルに置いて、千歌は翔一の部屋へと向かった。

 部屋の前に着くと、襖をノックする。

「翔一くん?」

 返事はない。千歌は襖を開けて部屋に入った。

 

 ――立て――

 裡から沸く声に起こされた涼は全身がとても熱かった。血液が沸騰し、このまま体内から蒸発してしまいそうなほどに。ベッドから這い出ただけで汗が大量に吹き出してくる。

「翔一くん?」

 少女の声が聞こえる。涼はまるで赤ん坊のように、腕を這って押入れへと進む。少女が部屋に入ってきたのは、涼が押入れへ潜り込んだのとほぼ同時だった。閉まり切っていない襖から覗くと、部屋に入ってきたのは寝間着姿の、果南よりも少し幼い少女だった。「翔一くん」と呼びながら部屋のなかを見渡している。

 ――襲え――

 また声が聞こえてくる。心臓がどくん、と強く脈打つ。

 ――あの無垢な少女を汚せ――

 黙れ。びくん、と痙攣する腕を抑えながら涼は念じる。それでも裡から目覚めようとしているものは黙ろうとしない。

 ――彼女の柔らかい肌を握り潰せ。あの体に詰まっている血を啜れー―

 腕の筋肉が隆起し始めた。唇を噛み、滲んだ血の匂いが口の中に広がっていく。

 ――襲え!――

 首を傾げながら、少女が部屋から出ていく。襖が閉じられるのと同時、涼は押入れから出て床に身を伏せた。殆ど動いていないのに疲労が激しい。このまま目を閉じたら眠れるだろうか。いずれ裡の力に呑まれて人を襲ってしまうのなら、このまま永遠に眠ってしまいたい。

 そう願っても、涼の体は生きようとしている。どくん、という心臓の鼓動が強く涼の体に響いていた。

 

 

   3

 

「どうなの? 北條透の具合は」

 昨夜の事件から一夜明けたGトレーラーで、誠に尋ねる小沢はどこか嬉しそうだった。

「はい、大したことはないようです。もう現場に復帰すると言っていました」

 ガードレールで簀巻(すま)きにされ、救急搬送された北條に誠も付き添った。救急車のなかで彼は意識を取り戻し、病院での検査で特に外傷も内傷も無しと診断された。大事を取って一晩だけ入院という措置が取られたが、先ほど不可能犯罪捜査本部のオフィスに出勤してきたところだ。

「そ、残念ね」

 表情を一転させ、小沢は椅子に腰かける。

「それにしても北條透を襲ったのが人間だったなんてね。それも超能力者なんて」

 北條の証言では、襲われた際に人影のようなものを目撃したという。夜だったこともあり顔は見えなかったそうだが、体形からして女性らしいとのことだ。他に目撃証言もなく、足取りは完全に途絶えている。

「手口から見て、殺された2名の機動隊員と同一犯と思われます。そして直後にアンノウンが現れた」

 現れたアンノウンは、無防備にも関わらず北條を襲わなかった。この事実が、襲撃犯が人間で、しかも超能力者と裏付けている。

「皮肉なもんよね。結果的に北條透はアンノウンに助けられたことになるんだから」

 確かに。あのままアンノウンが現れなかったら、北條はふたりの機動隊員のように殺されていたかもしれない。

 因みに本庁所属の機動隊員が沼津に滞在していたのは、作戦後の長期休暇を利用してのバカンスだった。他の作戦に参加していた隊員たちに聴取したところ、殺害されたふたりはサーフィンが趣味で駿河湾での波乗りを楽しみにしていたという。

「でも何を考えているんでしょう、その犯人」

 尾室が言った。

「どうしてアギト捕獲メンバーばっかりを」

 犯人が人間であるなら、捕獲隊メンバーに対して怨恨を抱いているということだろう。アンノウンに比べれば「人間味」があるから、犯行動機の推理もしやすい。でも、何故捕獲隊を恨んでいるのか。あの緑色の生物に何らかの想い入れがあるのだろうか。

 「さあね」と小沢はいくら考えても現状では答えが出ない尾室の疑問を一蹴し、

「でもこれでアンノウンは超能力者を狙う、ていう氷川君の説も信憑性を帯びてきたわね」

「でも何故、何故アンノウンは超能力者を襲うんでしょう?」

 それは以前、司龍二から向けられた疑問だった。何もかもが謎に包まれた存在に、そんな疑問を向けるのは無駄なのかもしれない。理由を知ったところでアンノウンによる不可能犯罪を防ぐ手立てがあるとは言えないが、やはり疑問は抱かずにはいられない。

 小沢は明後日の方向へ視線を向け、探るように言葉を紡ぐ。

「超能力というのが人間の未知の可能性の芽生えとするなら、アンノウンはそれを怖れているのかもしれないわね」

「未知の、力………」

 人間は脳を全体のうち10%しか使っていない、という説がある。この説は科学的には「神話」即ち根拠のない娯楽的な都市伝説だ。でもこの10%神話の本質は説の真偽ではなく、人間には未知の可能性がある根拠として扱われていること。自分たちにはまだ進化の余地が残されている。脳が残りの90%を発揮できるようになったとき、現在の科学では説明のつかない現象が起こせるかもしれない、という希望。

「とにかく今はアギト捕獲作戦に関わった者の護衛のことを考えましょう。さっき上から通達があったわ。氷川君は北條透の護衛をするように、て」

 「ま、仕方ないわね」と溜め息をつきながら、小沢はPCのキーを打ち始めた。

 

 青年を翔一の部屋に寝かせてもう3日経つが、未だ目覚める気配はない。いや、1度目覚めてはいるのかもしれない。昨夜アンノウンとの戦いから戻ったら、青年は床でうつ伏せになっていた。いくら呼びかけても起きないからまたベッドに寝かせたのだが、今度目覚めるのはいつになるか、全く予想はつかない。

 冷水を絞ったタオルを額に乗せ、翔一は眠り続ける青年の顔を覗き込む。顔色は健康的とは言えないが、大分血色が良くなってきた気がする。

 続いて腕へと視線を移した。顔よりも腕のほうの血色が悪い。水気もなく、皮膚が収縮して皺が寄っている。まるで死人の皮を貼り合わせたみたいだ。

「翔一くん」

 襖の奥から千歌の声が聞こえて、翔一は「はい」と応じて襖を半分だけ開ける。朝の練習に向かうのか、部屋の前に立つ千歌は既に練習着に着替えていた。

「ああ千歌ちゃん。おはよう」

「おはようじゃないよ。昨日もまた戦いに行ったんでしょ? 無事に帰ってきたんなら言ってよ。心配したんだから」

「ああそうかそうか、ごめん」

 ずんずん、と詰め寄ってくる千歌をこれ以上進ませまいと、両腕を広げて立ち往生する。その挙動が怪しまれたのか、

「誰かいるの?」

「いや、別に」

 と翔一は部屋を覗き込もうとする千歌の眼前を体で覆う。

「何か変。もしかして猫でも拾ってきたとか?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「じゃあ何? 見せてよ」

 襖を更に開けようとする千歌の腕を「不味いって!」と掴み、

「千歌ちゃんきっと驚いちゃうからさ」

「驚く、て何に?」

 「良いから良いから」と肩を掴んで回れ右させ、背中を押して部屋から追いやる。

「落ち着いたら言うからさ、今日のところはごめん!」

 ばたん、と勢いよく襖を閉じると、奥から「もう!」という千歌の声が聞こえた。ふう、と安堵しながら振り返ると、すぐ目の前に青年が立っていた。「おおっ」と驚くが、すぐに青年の目覚めに頬が綻ぶ。

「あれ、目覚めました?」

「ここはどこだ?」

 青年は無感情に訪ねてきた。

「十千万旅館です。あ、そんなことよりお腹空いてません?」

 

 



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第5話

 

   1

 

「はい、どうぞ」

 ちゃぶ台にお粥の入ったお椀を置くが、青年は手を付ける素振りを見せず翔一へ視線を向けている。人見知りはしない質なのだが、こうして無言で見つめられると流石の翔一も何て言葉を向けるべきか悩む。

「お前……」

 重い沈黙を破ったのは青年のほうだった。

「俺を恨んでいないのか?」

「恨む? 何をです?」

 そこで青年は眉を潜め、

「覚えてないのか? 山王湖でのこと」

 「山王湖……」と翔一は反芻する。確か篠原佐恵子という、翔一の過去を知っているかもしれない女性に会った湖だ。あの後、佐恵子が湖で溺死したと聞いてから足を運んではいないが。だが何故この青年が山王湖を知っているのか。その疑問が沸いてすぐ、当時の記憶が蘇った。当時と言っても半年も経っていないのだが。

「あ、俺を殴った人!」

 そうだ、この青年とは山王湖でも会った。青年は少し呆れたように翔一を見ている。

「助けないほうが良かったな」

 と青年は皮肉っぽく言うが、「いえいえ」と翔一は手を振り、

「もう過ぎたことじゃないですか。あ、そういえばお互いまだ名前も知りませんでしたね。俺、津上翔一っていいます」

「葦原涼だ」

「どうですか葦原さん、お粥。ずっと寝てましたし、食べたほうが良いですよ」

 翔一はお椀を手で示すのだが、涼は依然として手を出そうとしない。代わりに「なあ」と不愛想に尋ねてくる。

「ここは内浦なのか?」

「はい、そうですけど」

 翔一が答えると涼はす、と立ち上がる。さっきまで寝ていたとは思えないくらい身軽な動作だった。関心してる場合じゃない、と翔一は慌てて「ちょ、ちょっと」と涼の肩を掴んで静止させる。

「どこ行くんですか?」

「淡島のドルフィンハウスという店にな」

「だからって今は無理に動いちゃ駄目ですよ。用事あるなら俺が代わりに行きますから。俺、あのお店の娘さんと知り合いなんです」

「果南を知っているのか?」

「ええ、ここの娘さんの友達です。てか、葦原さんこそ果南ちゃんと知り合いなんですか? もしかしてお店の常連とか」

 涼はすぐには答えず、再び床に腰を降ろした。翔一も座り直し、返答を待つ。

「果南は、俺の支えになってくれるかもしれない女だ」

「………は?」

「俺と一緒に生きていきたい。果南は俺にそう言ってくれた」

 翔一はつい笑ってしまう。果南はAqoursに入ったばかりで、スクールアイドルとしての活動が忙しい。今日だってAqoursの合宿の際中だ。そんな果南に恋人だなんて。

「またそんな冗談ばっかり」

 でも、涼が嘘を言っているようにも見えなかった。涼は翔一の笑いにつられることなく、ただ無表情に無言を貫く。段々とそれが真実味を帯びていくような気がして、翔一の笑みも消えていく。

「マジ、ですか………?」

 涼は無言で頷いた。

 

 昨夜の事件現場は、当時のまま維持されている。既に鑑識による現場捜査は済んでいるが、前例のない状況のためひしゃげたガードレールはそのままにされていた。この現場に来たい、と言ったのは北條で、彼の護衛に当たっている誠も共に現場へと赴いていた。

「この目で見なかったら、とても信じられませんよ。これが、人間の超能力によってなされたと」

 自分の体に巻き付いていたガードレールの破片を忌々しげに見つめながら、北條は重苦しく言う。発見当初、北條をガードレールから救出するのに人力では適わず、市内の工場から借り受けた金切りバサミで切断した。北條の証言ではガードレールがひとりでに体に巻き付いてきたという。

「超能力は、人間の未知なる可能性の芽生えだと小沢さんは言っていました。そしてアンノウンは人間の未知なる可能性を怖れているのかもしれない、と」

 アンノウンが怖れるということは、超能力者とはいずれアンノウンをも超える存在になりえるということか。

「北條さんはどう思います? 超能力について。そういう力は人間にとってプラスになるのか、マイナスになるのか」

「それは人間を善と見るか、悪と見るかによりますね」

 確かに北條の答えは的を射ている。力そのものに善悪なんてものはない。力はそこに在るだけだ。それが善と悪のどちらに転じるかは扱う超能力者、つまり人間に委ねられる。

「氷川さんはどうです? どっちだと思いますか?」

 逆に尋ねられ、誠はしばし逡巡する。人間の善性を信じたいが、この仕事はそういった尊いものが稀少に感じられてしまう。正直な答えを誠は述べた。

「こういう仕事をしていると、人間の嫌な部分ばかり目についてしまって………。まだ判断しかねるというのが正直なところです」

 警察官という職務上、出会う人間は善人より悪人のほうが圧倒的に多い。自分で選択した仕事だし、誇りもある。それでも、この世の中には悪人しかいないのでは、と考えてしまうこともある。だからといってこの職から退くこともできない。僅かではあっても、善に生きる人間がいることも確かだし、そんな人間が胸を張って生きられる社会を守りたい。

「私は、人間は善なるものだと信じています」

 北條は明確に告げる。続けて「意外ですか?」と皮肉に笑った。

「理由は簡単です。この私が、良い人間だからですよ」

「………………はあ」

 しばし思考が停止した。

 いやあなたは善人ではないでしょう。あなたのせいで何度G3ユニットが憂き目に遭ったことか。いやでも司の件で北條にも警察官としての矜持があることは確かで。でもやっぱり嫌な部分が目立つから一緒に仕事をするのは億劫になることもあって。

 分からない。北條こそ善なのか悪なのか判別がつかない。

 言葉を探しあぐねているうちに、北條は「行きますか」と車に乗り込む。問答をやめ、誠も助手席に乗った。

 

 

   2

 

 合宿2日目の海の家営業は、まずまずと言ったところだった。大繁盛とまではいかなくても、お客の入りは昨日よりも上々になっている。曜のヨキそばの評判が良かったからだ。因みに当初の価格設定が10万円だったシャイ煮は500円に大幅値下げして販売中。

 午後の昼食時が過ぎた頃、チラシ配りを担当していた果南が、客引きをしていた千歌と梨子のところに来た。

「梨子ちゃん、お店落ち着いてきたしそろそろ行こっか?」

「はい」

 「どこ行くの?」と千歌は訊いた。

「梨子ちゃんとダンスの相談。来る?」

「良いの?」

「勿論。良いよね梨子ちゃん?」

 「ええ」と梨子は嫌な顔せずに答え、

「歌詞も見せてもらいたいし」

 そう言われ、千歌は尻込みしてしまう。でも、果南も交えて相談に乗ってもらうのも良いかもしれない。

 桜内家の梨子の部屋に場所を移した打ち合わせで、ダンスのほうは滞りなく進められた。もっとも、果南は既に大部分の考案を済ませていて、梨子が多少修正や提案を添える、といった程度だったが。果南は1年生の頃も活動していただけあって作業が早い。もし完成した曲とイメージが合わなくても修正可能というのだから、流石としか言いようがない。

 そして打ち合わせはすぐ曲のほうへと移った。

「大切なもの?」

 千歌が告げたそのフレーズを、梨子は確かめるように反芻する。

「それが歌詞のテーマ?」

 と果南が訊いた。「うん」と応じながら、千歌はキャンパスノートを梨子に手渡す。

「まだ出だしだけしか書けてないんだけど」

 千歌は観察するように、ノートを開く梨子の顔を注視する。気に入ってもらえるだろうか。誰かに詞を見てもらうのは何度経験しても緊張する。

「大切な、もの………」

 また梨子はそう呟いた。何か、心に打つものがあったのだろうか。となれば反応は好感触か。とはいえ、まだ完成していない。曲のテーマが決まっただけだ。

 ふと、千歌の視界に紙の束が映った。綺麗に整頓された梨子の勉強机に譜面用紙が置いてある。

「梨子ちゃん」

 反応の無さがじれったくなったのか、果南が呼ぶ。「え?」と梨子は上ずった声を返した。

「梨子ちゃんも読んでみて、どう?」

「ああ、はい………」

 千歌の意識はふたり会話より、机上の譜面に向けられていた。千歌の作詞があまりにも遅れているから、先に曲のほうを作ったのだろうか。でも、だとしたら梨子は相談してくれるはず。書き連ねられた楽譜の上には、梨子らしい几帳面な字でタイトルが記されている。

 海に還るもの

 それは、あまりAqoursらしさを感じられないタイトルだった。どこか情緒的で淑やかで、でも大胆さもある。

 まるで、梨子自身のような響きを感じた。

 歌詞に関しては平行線を辿ったまま打ち合わせが終了した。結局のところ、多少の意見を取り入れるにしても完成度は千歌次第になる。ただふたりからのプレッシャーが余計に重くなっただけだった。

 海の家の営業に戻ろうと海岸へ歩いていたとき、丁度十千万から翔一が出てきた。

「あ、翔一くん」

 千歌が呼ぶと、こちらに気付いた翔一は「ああ、皆」と笑顔を浮かべる。

「どうしたの? 3人で」

「梨子ちゃん家で曲の打ち合わせ。翔一くんは?」

「鞠莉ちゃんから材料持ってきて、て頼まれてさ」

 そう言って翔一は手に持ったビニール袋の中身を見せてくれる。3人で覗き込むと、中にはピンポン玉くらいの黒い物体がたくさん詰め込まれていた。一瞬堕天使の涙と思ったが、形が少し歪だ。それに何だか妙な匂いがする。スパイスのような、それか土のような。

「何これ?」

 果南が恐る恐る訊く。

「トリュフだって」

 「トリュフ⁉」と3人で驚愕の声を揃えた。黒いダイヤモンドにも例えられる高級食材だ。そんなものがスーパーのビニール袋に無造作に詰められている。

「これ、シャイ煮に入れるんですか?」

 そんなダイヤモンドを指さしながら梨子が訊く。「そうみたい」と翔一は何の気なしに言った。

「これだから金持ちは………」

 と果南が皮肉を漏らす。「あ、そうだ」と翔一は思い出したように、

「うちで果南ちゃんを待ってる人がいるんだよね」

 「わたし?」と果南は首を傾げる。「何て人?」と千歌が訊くと、翔一はこめかみに指を当てて、

「確か芦田さん……、いや木原さん………。いや、金剛寺さんだったかなあ?」

 駄目だこりゃ、と千歌は苦笑する。大体最後のはもはや原型を留めていない。原型が何なのかは分からないけど。

 

 

   3

 

 この日の夕食も売れ残りだ。ヨキそばは昨日と同じく完売。シャイ煮と堕天使の涙の在庫状況によって買い出しが必要かどうかが決まるのだが、今晩もその必要はなさそうだ。壁際でうなだれている鞠莉と善子の様子でその有様が分かる。

「今日も売れなかったんだね………」

 千歌も肩を落とした。堕天使の涙はもとより、シャイ煮は美味なのだから少しは売れると思っていた。

「できた!」

 と曜の声が聞こえ、振り返るとテーブルに今日の献立が既に並べられている。

「カレーにしてみました!」

 そういえば先ほどからカレーの匂いがしていた。曜が任せて、と張り切っていたから調理は一任したが、これもまた普通のカレーとは言えない。曜はその料理名を高々に宣言する。

「翔一さん直伝! 船乗りカレーウィズ、シャイ煮と愉快な堕天使の涙たち」

 つまりはカレーにシャイ煮と堕天使の涙を全部投入したものだ。これもまた見事ゲテモノに仕上がっている。人数分皿が並べられているのだが各々にアワビや伊勢エビといった異なる高級食材が丸ごと乗っていて、脇に福神漬けやラッキョウ代わりなのかキャビアが添えられている。散らされている薄いチップのような物体はきっとスライスしたトリュフだろう。極めつけは潰れて中身のタバスコが漏れ出した堕天使の涙。

「ルビィ死んじゃうかも………」

 ルビィのみならず、皆がそのゲテモノカレーを不安げに見下ろしている。

「じゃあ梨子ちゃんから召し上がれ」

 調理した本人から指名された梨子はびく、と小さく震えた。これじゃ味見というより毒見役だ。逡巡しながらも梨子はスプーンを手に取り、ひと口よりも少ない量を掬ってやけくそ気味に口へと放り込む。

「…………美味しい」

 その感想に皆が「え⁉」と声をあげた。曜は満足そうに胸を張っている。

「凄い、こんな特技あったんだ」

 すると壁際にいた鞠莉が素早く駆け寄ってきてカレーを口に運び、

「うーんdelicious!」

 翔一直伝と聞いて不安は増していたが、杞憂だったらしい。今回は当たりの方だったようだ。ダイヤも味に満足しているのかいつ出したのかそろばんを指で弾き、

「これなら明日は完売ですわ」

 その顔が完全に守銭奴だったから、場にいた皆の表情が一気に冷める。唯一気にも留めずにカレーをかき込んでいた花丸は早くも「おかわりずら!」と空になった皿を曜へ差し出した。

 千歌も空腹なのだが、食卓に混ざってカレーを食べる気にはまだなれなかった。無意識に視線が梨子へと向く。楽しそうに食事をする彼女は、一見すると迷いなんて無さそうに見える。昨夜に本人から聞いたのだから、本当に迷いなんて無いのかもしれない。でも、彼女の部屋にあった楽譜を見た後では、どうしてもそうは思えなかった。

 

 食後は千歌の部屋にて皆で談笑、といきたかったのだが、それはダイヤが許してくれなかった。かねてから用意していたのか小さめのホワイトボードを立てて、他のメンバー達はその前に座らされている。

 教師然と皆の前に立つダイヤは、ホワイトボードにこれまた達筆な字で「ラブライブの歴史!」と書き、

「では、これからラブライブの歴史とレジェンドスクールアイドルの講義を行いますわ」

 「今から?」と果南が苦笑交じりに訊く。聞く側で乗り気なのは「うわあ」と感嘆の声をあげるルビィだけだ。

「大体あなた方はスクールアイドルでありながら、ラブライブの何たるかを知らなすぎですわ」

 そう言われたら反論できない。千歌だって昔のスクールアイドルはμ’sやA-RISEといった有名グループしか知らないのだから。しかも最初の頃はμ’sをユーズと読んでいたわけで。

「まずはA-RISEの誕生から――」

 講義を始めようとしたのだが、ダイヤは弁を一旦止めて鞠莉のほうを向く。千歌の隣に座っているのだが、鞠莉にしてはいやに静かだ。しっかりと目を開けて話を聞いているはず。

 ん? 目?

 千歌は開かれた鞠莉の目を注視する。確か鞠莉の瞳は金色のはず。なのに今、鞠莉の瞳は蒼い。

「鞠莉さん、聞こえてますか?」

 ダイヤも違和感に気付いたのか、鞠莉の眼前で手を振りながら呼びかける。

「おーい、ミス鞠莉――」

 そこで、鞠莉の目が捲れた。それも物理的に。至近距離で目撃したダイヤは奇声にも似た悲鳴をあげてひっくり返る。

 畳に落ちた鞠莉の目は紙だった。紙に目を描いて顔に貼りつけるとは、何とも古典的な擬態だろう。隠されていた本来の目は目蓋が閉じられていて、鞠莉は座ったまま気持ちよさそうに寝息を立てている。

「お姉ちゃん!」

 ルビィが介抱しているダイヤは気絶してしまったようで、目を閉じたまま起きそうにない。張り切ってはいたが彼女も合宿で疲れていたのだろう。形としてはともかく、これで面倒な講義から解放された。

 トランプでも出そうかな、と棚のほうを見た千歌の視線が、棚のすぐ傍の僅かに開けられた襖で留まる。襖の奥からこちらを覗いている美渡の瞳に。

「今日はもう遅いから早く寝よ!」

 千歌がそう言うと、美渡の視線に気付かない曜が「遅いって、まだ9時だよ」と壁の時計を見る。確かに深夜ではないけれどもう寝なければ。

「今日のところは早く静かにしないと、旅館の神様に尻子玉抜かれるよ」

 尻子玉を抜くのは河童なのだが、千歌の剣幕に圧されたのか曜は指摘せず「よ、ヨーソロー……」と戸惑い気味に敬礼する。

 襖が音も立てずに閉じられ、千歌は安堵の溜め息をついた。

 

 



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第6話

 

   1

 

「梨子ちゃん」

 その声と、頬を包み込む手の温もりが梨子の意識を眠りから引き揚げる。重い目蓋を開くと、昨夜と同じく宵闇のなかで笑っている千歌の顔が見える。

「なあにい……?」

「ひとつお願いがあるの」

 一体何だろう、とまだ眠い脳を巡らせながら、梨子は音を立てないよう布団から出る。

「海に還るもの」

 千歌の口から出たタイトルで残っていた眠気が飛ぶ。どうしてそれを、と訊きたかったが、顔に出ていたのか千歌は先に答えを言う。

「ごめんね。今日の昼、梨子ちゃんの部屋で楽譜見たんだ。聴いてみたくて」

「でも、こんな夜遅くは………」

「それなら大丈夫」

 千歌はそう言って笑った。

 自宅から譜面を取ってくると、十千万の前で千歌は2台の自転車と共に待っていた。

「こんな夜中にどこ行くの?」

 「良いから良いから」と千歌はサドルに跨ってペダルを漕ぎ始める。梨子も残された自転車に乗って後を追った。

 太陽が水平線の彼方へ隠れた夜は、昼間と比べて断然涼しい。海の方から流れてくる潮風はどこか湿り気を含んでいて、冷たいというより温めだ。

 千歌は長井浜方面へと自転車を走らせていた。途中でもしかして、と梨子は思ったが、予想通り千歌は県道から丘への道、浦の星女学院への道を走っていた。こんな深夜に校門は当然閉じているのだが、千歌は軽々と門をよじ登って学校の敷地に侵入する。校門なんて人の背丈くらいしかないから乗り越えるのは簡単だが、夜の学校に入るなんて忍びない。でも「ほら」と手招きする千歌に、しょうがないな、と思いながら梨子も門を乗り越えた。

 校内にはスクールアイドル部の部室から入った。部長の千歌が鍵を管理していたから、侵入事態は簡単だ。

「考えてみたら聴いてみたことなかったな、て」

 目的の場所までの廊下で、千歌はそう言っていた。確かに、家が隣同士でいつでも機会はあったのだが、千歌に梨子が作った曲を聴かせたことはなかった。自室に招いてピアノを披露することはあったが、それはAqoursの曲の試聴のため。梨子が誰かのためじゃなく、自分のために作った曲を千歌は知らない。

「ここなら思いっきり弾いても大丈夫だから」

 目的の教室、音楽室に着くと千歌はそう言って梨子をグランドピアノへと促す。確かに学校なら、周辺に民家はないし近所迷惑にならない。

「梨子ちゃんが自分で考えて、悩んで、一生懸命気持ち込めて作った曲でしょ。聴いてみたくて」

「でも………」

「お願い、少しだけでいいから」

 千歌の言う通り、この曲を作るのは簡単な作業ではなかった。誰かのためでなく、自分のための曲。自分の想いのままを表現するというのは、結構な根気を要する。何度も鍵盤を弾いて、何度も音符を書き直した。こうして完成した今でも、この曲の良し悪しは分からない。

「そんな、良い曲じゃないよ」

 梨子は椅子に腰を落ち着かせ、鍵盤の蓋を開いた。鍵盤に触れようとすると、しばし逡巡する。観客が千歌だけとはいえ、人前で弾くのは少し緊張する。コンクールの全国大会に出場した経験もあるというのに、妙なものだ。

 意を決し、鍵盤を指で弾く。いざ演奏を始めると、思いのほかすんなりといくことができた。

 海に還るもの

 内浦の海でダイビングをしたときに聴こえた、海の奏でる音。波のうねりのようで、でも海の底から湧き出る胎動のようでもあって。不思議な音だった。獣の咆哮とも、人の言葉とも異なる。全ての生命の根源から発せられる息吹にも感じられたけど、それに当てはまるとも断言できない。

 あのときの音が、この曲になったの?

 演奏しながら、梨子は裡で自身に問う。違う、と答えはすぐに出た。あの音がきっかけになったのは変わりない。でも譜面に書き起こした音符は、この内浦で過ごすうちに、自然と並んでいったもの。Aqoursとして皆と歌い踊って、ひとりまたひとりと仲間も増えていって。良いことばかりじゃなく、挫折も味わった。それでも皆でまた進むと決めた。輝きたい。千歌が発したその願いに、どうして共に歩こうと思えたのか。

 ああ、と梨子は気付く。

 わたしも、輝きたかったんだ。

 千歌や、他の皆と同じように、わたしも輝ける場所を探していたんだ。

「………いい曲だね」

 演奏が終わると、千歌は純粋な感想を述べてくれる。

「すっごく良い曲だよ。梨子ちゃんがいっぱい詰まった」

 面と向かって褒められると照れ臭く、梨子は顔を逸らす。自分で作った曲を褒められるということは、つまりは曲に詰め込んだ自分の想いを肯定されたということ。千歌は感じ取ってくれただろうか。この曲に込められた、内浦で過ごした日々への思慕を。千歌やAqoursの皆と育んだ絆を。

「梨子ちゃん。ピアノコンクール出てほしい」

 その言葉に梨子は息を呑んだ。千歌もコンクールの日程は知っているはず。ラブライブの予備予選に出られない。

「こんなこと言うの変だよね。滅茶苦茶だよね」

 と千歌は苦笑する。

「スクールアイドルに誘ったのはわたしなのに。梨子ちゃん、Aqoursのほうが大切、て言ってくれたのに」

 そう、今はAqoursのほうが大事だ。皆で、9人でゼロを1にするために合宿で猛特訓したじゃないか。梨子の問題に皆を巻き込むわけにはいかない。いや、雑念がなかったわけじゃない。さっきの曲が証拠だ。口ではAqoursが大切と言っておきながら、どっちつかずに迷っている。千歌はそれを見抜いていたのだろう。

「でも、でもね――」

「わたしが一緒じゃ……、嫌?」

 「違うよ! 一緒がいいに決まってるよ!」と千歌は強く言う。

「思い出したの。最初に梨子ちゃん誘ったときのこと。あのときわたし、思ってた。スクールアイドルを一緒に続けて、梨子ちゃんの中の何かが変わって、またピアノに前向きに取り組めたら素晴らしいな、て。素敵だな、て」

 その時のことは、梨子もしっかりと覚えている。ピアノから逃げ出してしまいそうで、そんな自分が赦せなかった梨子に、千歌は赦しを与えてくれた。やってみて笑顔になれたら、変われたらまた弾けばいい。千歌はそう言ってくれた。

「でも………」

 梨子は視線を落とす。自信が持てない。今が、弾く時なのだろうか。曲を作れたからといって、自分は変われたのだろうか。実感が、確信が沸かない。

 視界に何かが入り込み、梨子は顔を上げた。それは千歌の手だった。

「この街や学校や、皆が大切なのは分かるよ。わたしも同じだもん。でもね、梨子ちゃんにとってピアノは同じくらい大切なものだったんじゃないの? その気持ちに答えを出してあげて」

 胸の奥から熱が込み上げてくるのを感じた。ああ、あの時と同じだ。千歌は梨子の気持ちを汲み取って、手を差し伸べて海の底のように暗い場所から引っ張り上げてくれる。

「わたし待ってるから。どこにも行かない、て。ここで皆と一緒に待ってる、て約束するから。だから――」

 最後まで待てず、梨子は千歌を抱きしめる。

「本当、変な人………」

 どうしてわたしのために。ささやかな疑問が沸いたがすぐに消えた。逆の立場なら、梨子もきっと千歌に前進を促した、と断言できる。何故なら、千歌は大切な友達だから。この内浦で出会って、梨子を前へと進ませてくれた人だから。望みを叶えてあげたい。足を踏み出せずにいるのなら、背中を押してあげたい。

 腕を離すと、自然とふたりで両手を繋いでいた。とても暖かい千歌の手。彼女の裡から発せられる想いは、いつだって梨子と繋がっている。たとえ離れてしまっていても。

「大好きだよ」

 だから、必ずまた戻ってくる。この内浦に。大好きなAqoursがいる、この居場所に。

 

 

   2

 

 窓の障子を僅かに開けると、水平線から太陽の光が漏れ出ているのが見えた。懐かしいな、と涼は今となっては悲しくなってしまった感慨を覚える。故郷の漁村に暮らしていた頃、朝釣りに出掛けたときはよく岬で夜明けの瞬間を見ていた。

 翔一によると3日は眠っていたらしい。長く休めたお陰か、体は前よりも軽くなった。老人のような腕はそのままだが、ちゃんと動くし力も入る。

 障子を閉じて振り返ると、翔一は床に敷いた布団で気持ちよさそうに寝息を立てている。ベッドは涼に譲ってくれた。どこまでもお人好しな青年だ。自分を殴った男を介抱するなんて。

 「世話になった」とちゃぶ台のメモ用紙に書き、涼は部屋を静かに出た。

 

 ――果南――

 愛しいその声が聞こえたような気がして、果南は目を覚ました。寝たはずなのに、体がひどく重い。でも当然だ、と思い直す。人をふたりも殺してしまったのだから。皆の前ではどうにか何食わぬ顔ができたけど、完全に蓋をすることはできない。フラッシュバックは涼の今際の叫びに、殺したふたりの叫びまでが加わっている。ふとした時に叫びは果南の脳裏にこだましていた。

 布団から出て、まだ寝ている皆の寝顔をひとりずつ眺める。誰もが幸せそうな顔だ。良い夢を見ているのだろう。

 ふと、千歌と梨子の寝顔がないことに気付く。ふたりの布団は無人で、梨子の布団は綺麗に畳まれているが千歌の布団は無造作に捲られたまま。こんなところにふたりの性格がよく出ている。障子から光が僅かに透過していた。もしかしたら日の出でも見に行ったのかもしれない。

 わたしも外に出よう、と果南は練習着に着替えて部屋を出た。波の音を聞いて潮風を浴びれば、少しは気分が和らぐかもしれない。

 まだ従業員も出勤していない十千万の門前で準備運動をしていると、玄関ががらがら、と音を立てて開くのが聞こえた。

 振り返ると男のようだった。きっと翔一だろう。彼は朝が早い。水平線から出てきた太陽の光が、足元から青年の姿を照らしていく。

 光の下に晒されたその顔は翔一ではなかった。それはいくら望んでも2度と見ることのできないはずの顔で、向こうもまた光の眩しさに目を細めるどころか、更に見開いて果南を見返している。

「果南………」

 その口から発せられた声は間違いなく涼の声だった。あれほど望んでやまなかったのに、果南は咄嗟に走っていた。「おい果南!」と涼の声が追ってくる。幻じゃない。全速力なのに、毎朝ランニングをこなしている果南に涼はすぐに追いついてきて、腕を掴んでくる。

 幽霊じゃない。手から体温を感じ取れる。

「放して!」

 果南は腕を振りほどいた。

「どうして? 死んだと思ってたのに」

 生きていると知っていたら、ふたりを殺す必要なんてなかった。二度と会えないと思っていたから、あのふたりを憎んだのに。憎しみも殺した事実も、全て無駄になってしまった。正当化する意義が、皮肉なことに涼の生存で失われてしまった。

 不意に肩を掴まれた。全身が硬直して動けず、されるがまま涼に抱き寄せられる。顔を埋める涼の胸の奥から鼓動が感じ取れた。走ったせいか激しく脈打っている。

「傍にいてくれ」

 涼の囁きが果南の耳に入り込む。

「お前が一緒にいてくれれば、あの声も消えるかもしれない」

 震える声で果南は訊いた。

「………声?」

「時々声が聞こえるんだ。嫌な声が………。だから頼む、俺の傍にいてくれ」

 涼は強く果南を抱きしめた。涼の熱くなった体が、密着する果南の体温を上昇させていく。思えば、こうして抱擁するのは初めてだった。こうなることを望んでいたはずなのに、喜ぶことができない。何もかも変わってしまった。前は涼が。今度は果南のほうが。

「駄目だよ……、できないよ………」

 果南が言うと、「何故?」と涼は背中に回した手を引いた。体が離れたことで、互いの顔が向かい合う。

「何があった? 俺と一緒に生きるんじゃなかったのか?」

「もう前のわたしじゃない。元には戻れないよ」

「果南………」

 涼が浮かべる困惑の表情に堪えきれず、果南は目を逸らす。

 涼は愛してくれるだろうか。こんな人殺しの女を。こんな自分に、彼から愛される資格なんて無い。

 でも、とそこで思い直す。果南がいくら拒絶しても、涼は果南を守ってくれていた。人間でなくなった自分を受け入れてもらえなくても、それでも彼は果南を想ってくれていた。

 今更ながら彼の強さに気付く。見返りなんていらない。ただこの人が生きてくれていれば、それでいい。この人を苦しめるものを排除するための力が、わたしの中に宿っているんだから。果南は涼の瞳を見据える。

「元には戻れないけど、涼を守ることはできる」

「俺を守る……?」

「涼を傷付けた人が、また涼を襲うかもしれない。だからわたしが守る」

「何を言ってるんだ………?」

 果南は念じた。涼の体が後ろへと突き飛ばされ、突然のことに彼は尻もちをつく。

「果南?」

 涼は見開いた目で果南を見上げた。踵を返して果南は走り出す。あの男、一昨日に仕留め損ねたあの男はパトカーに乗っていた。きっと警察官だろう。警察署へ行けば見つかるかもしれない。そこを殺してやる。もう涼は傷付けさせない。

 

 

   3

 

 朝の7時半を過ぎると、マンションの正面エントランスから立て続けに住人たちが出てくるのが見えた。

 本庁から出向している警察官には沼津市警の独身寮があてがわれている。家賃は特別手当として免除され、署にも徒歩で通えるほど近い。いくら警察官とはいえ所詮は公務員で住居をふたつも構えるほど高給ではないから、出向組の大半は寮に入居している。誠もそのひとりだ。でも「大半」に迎合しようとしない北條透は住まいにも拘りが強く、わざわざ市内のマンションを賃貸していた。実際に訪れて初めてその外観を見たが、ざっと10階はある地方集落の中では高層になる集合住宅は、とても20代の独身男性が住めるような家賃ではないだろう。収入の額は誠とそう変わらないはずなのだが、高級なスーツにしても一体どこから金が出てくるのか。

 エントランスの自動ドアから出てくる北條はすぐに分かった。相変わらず質の良さそうなスーツで颯爽と誠の待つクラウンへと歩いてくる。

「おはようございます氷川さん」

「おはようございます」

「せっかく迎えに来てくれたんです。私が運転しますよ」

「すみません」

 こうして誠が迎えに来ているのも護衛のため。北條を襲った超能力者が特定できない以上、この遠回りな出勤もいつまでなのかは分からない。

 ふたりでの出勤は静かなものだった。何か会話をしようにも、ハンドルを握る北條の趣味が分からないから話の種がない。もっとも、北條のほうに何か趣味があったとしても、誠のほうが無趣味だからどちらにしろ会話は弾まないのだが。

「北條さん」

 信号待ちをしているとき、誠のほうから会話を振った。

「何です?」

「昨日の話なんですが――」

 昨日の人間の善悪についてもっと深く話そうとしたところで、信号が青に変わる。エンジンを吹かす音が聞こえるのだが、車は進もうとしない。視線を横へ流すと、北條は何度もアクセルペダルを踏み込んでいる。ギアがニュートラルになっているのでは、とレバーを見たが、しっかりとドライブに入っている。

「どうしました?」

「いえ、調子が――」

 体が一気に前のめりになった。追突された、と一瞬思ったが衝撃が弱すぎる。体がシートから離れそうになったが、シートベルトがロックされみしみし、と体に食い込んでくる。

 後部が浮いている。そのことに気付いたのは、フロントガラスが全面アスファルトの地面を映したときだった。まるでワイヤーで吊り上げられているようだ。

 そのワイヤーが切れたように、車は一気に地面へと戻った。衝撃で跳ね返りそうになった体をシートベルトが押し留める。そのシートベルトのロックが外れた。次にドアが開いて、何かに押されたように車内から吐き出される。

「氷川さん、奴がいます! この近くに!」

 同じく車内から投げ出された北條が言う。すぐさま立ち上がり、誠は懐から拳銃を出した。相手が人間では躊躇もあるが、超能力がどれほどのものか分からない以上、発砲も止む無しかもしれない。

 刹那、強烈な圧が正面から襲ってきた。まるで巨大な手で突き飛ばされたようだ。見えないから対処のしようもなく、宙を飛んだ誠の体が街路樹の幹に叩きつけられる。

「氷川さん!」

 駆け寄ろうとした北條に、今度は無人になった車が迫ってきた。しかも僅かに浮いている。強固なボディが北條に突進し、その体を弾き飛ばす。

「北條さん!」

 道路沿いに建つ工場の壁に激突した北條が白目を剥いて頭を垂れた。車はゆっくりと旋回し、フロントを北條へと向ける。

 エンジン音と共にマフラーが排気ガスを吹かしたが、それはすぐに止まる。誠は痛みに軋む体を起こし、北條へと駆け寄った。

 

 誠に北條と呼ばれた男に引導を渡そうとしたが、それは果南の視界に入った怪物によって阻まれた。「ウウ……」と唸ったジャガーのような怪物が、果南へと鋭い眼光を向けている。

 果南は工場の敷地へと駆け込んだ。すぐに頭上から影が落ちる。それはジャガーだった。数メートルほどの距離があったにも関わらず、驚異的な脚力でひと跳びしただけで追いついてくる。果南の前に着地したジャガーが鋭い爪で掴みかかってくるが、果南が念じるとその体は後方へ吹き飛ばされた。果南は更に念じ、積み上げられていた鉄パイプをジャガーへとぶつける。

 大丈夫、怖れることなんてない。わたしにだって力はある。

 果南は駐車場へと走った。大型トラックでも見つければ、あの怪物を押し潰せるかもしれない。

「果南!」

 その声に思わず足を止める。向くと、涼が立っていた。涼はすぐ果南へと駆け寄ってくる。その視線が別のものへ向けられていることに気付き、追うと後ろからジャガーが走ってきていた。

「逃げろ!」

 嫌だ、離れたくない。涼に戦ってほしくない。また変身したら、涼の体が蝕まれてしまう。今度こそ死んでしまうかもしれない。

 涼は優しい声色で言った。

「心配するな、すぐに会える。俺とお前は、何度でも会わなくちゃいけないんだ」

 涼の力を感じ取ったのか、ジャガーが足を止めた。敵と対峙した涼は吼える。

「変身!」

 涼は変身した。黒ずんだ筋肉を隆起させ、ジャガーへと走り出す。果南も反対方向へと走った。今は逃げなくては。逃げて、涼の勝利を祈るしかない。

 道路へ出たところで、街路樹にもたれて呼吸を整える。「フウ……」と吐息が聞こえ、咄嗟に果南は横を向いた。同時に首が絞めつけられる。

 涼が対峙したのとは微妙な顔つきが異なるそのジャガーは、「フフフ」と笑みのような声を発していた。

 

 アンノウンの気配を察知して工業区へバイクを走らせた翔一は、その光景に息を呑んだ。

「果南ちゃん⁉」

 何故果南がここに。疑問は沸いたが、今はそんな余裕はない。翔一は腰にベルトを出現させた。

「変身!」

 バイクのシートから飛び降りると同時に、アギトへ変身する。翔一の存在に気付いた雌豹が、果南の首から手を離した。解放された果南の体が、糸が切れたように倒れる。着地した翔一は、その勢いのまま雌豹に拳を振り降ろした。その頬を打ち、怯んだところで後ろへと押しやり果南の傍から引き離す。

 腹に蹴りを入れて間合いを取ると、雌豹は好機と見たのか頭上の光輪から錫杖を引っ張り出した。武器を手にして有利と見たのか、口の端を歪める。突き出された錫杖に手を添えて軌道を逸らし、一気に肉迫したところで再び腹を蹴る。

 戦況がさほど傾いていないことに焦ったのか、「ウウッ」と唸り錫杖を振り回してきた。動きに隙がありすぎだ。雌豹が武器を構え直すよりも速く、翔一の拳が雌豹の顔面に打たれる。更に激昂したようで、大振りに錫杖を振り降ろしてくる。長い柄を掴み敵の動きが封じられた一瞬を逃さず、顔面に裏拳を見舞う。更に渾身の拳を顎へ突き上げる。

 殴り飛ばされた雌豹の口元から牙が零れ落ちた。力を漲らせ、角を開く。跳躍した翔一に雌豹は錫杖を突き出してきたが、その先端を蹴りで弾き飛ばし、がら空きになったふたつの膨らみがある敵の胸にキックを見舞う。

 胸を抑えつけた雌豹の頭上に光輪が浮かぶ。苦しそうに、まるで助けを求めるように伸ばされた雌豹の腕は、体内から生じた爆炎で吹き飛ばされた。

 翔一は急いで果南のもとへと走った。

「果南ちゃん!」

 倒れた果南の口元に手を当てる。掌に呼気を感じる。首筋に指を当てると脈を感じ取れた。

 まだ生きてる。安堵した翔一は果南の体を抱き起こした。

 

 敵が跳躍すると同時、涼も地面を蹴って高く跳んだ。宙で肉迫し、ジャガーが剣を振るよりも速くその脇腹に横蹴りを入れる。受け身も取れず背中から着地する敵を見据えながら、涼は肩に微かな痛みを感じた。見ると、浅いが創傷が刻まれて血が垂れている。ジャガーの剣を掠められたか。

 涼は手首に生えた突起を掴んだ。ずるずる、と体液に塗れながら、ムカデのような触手を引っ張り出す。ジャガーの剣が涼の脇腹めがけて迫ってくる。涼がひと振りすると、腕の触手は剣に絡みつき軌道を逸らす。がら空きになった腹に蹴りを入れると、持ち主の手から離れた剣が乾いた音を立てて地面に転がる。

 ぶち、と涼は不要になった触手を引き千切った。痛みはあるが、あの全身に浴びれせられた銃弾の雨よりはましだと思えてしまう。無造作に捨てた触手は本物のムカデのように蠢いていたが、その動きを止めると急速に腐敗して原型を留めなくなる。

 武器を失っても迫ってきた敵の腹に拳を埋める。足を振り上げ、鋭く伸ばしたヒールクロウをその肩に叩きつけた。

 ジャガーの頭上に光輪が浮かぶ。蹴りを入れて離すと、その強靭な筋肉が盛り上がった肉体は爆散して辺りに血と肉片を撒き散らした。

 体が元に戻っていく。涼は周囲を見渡して果南を探した。すっかり皺まみれになってしまったが、この腕でもう一度彼女を抱きしめたい。その欲求だけが涼の裡を満たした。

 果南、俺はもう離れたりしない。ずっとお前の傍にいる。だからお前も俺の傍にいてくれ。お前は俺を守ると言っていたが、そんなことはしなくていい。奴らが現れたら俺が戦ってお前を守る。お前はいてくれるだけで良いんだ。またお前に触れさせてほしい。また名前を読んで欲しい。

 道路へ出たところで、涼は街路樹の傍で身を屈めている人影を見つけた。人じゃないが、怪物でもない。見覚えがある。初めてギルスに変身した日、果南と一緒にいて怪物に襲われたときに現れた金色の戦士だ。何故ここにいる。あれも怪物の気配を察知していたのか。

 戦士の傍で誰かが倒れているようだった。顔は戦士の手に覆われて見えない。すぐに戦士は手をどかし、地面に横たわるその顔が見えた。

 その顔は、涼は求めてやまない顔。

 愛しいその顔は、目蓋を閉じたまま戦士に抱き起され、力なく頭を垂れている。

「果南………」

 俺と一緒に生きる、と言ってくれた少女。

 守ると誓った、俺の生きる理由。

 体の奥から止めどなく熱が溢れてくる。全身の筋肉が軋みをあげて、腕がびくり、と痙攣を起こす。

 ――殺せ――

 あの声が聞こえた。抗っていた声を受け入れる。裡を塗り潰そうとする衝動に、涼は身を委ねる。

「ウオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 空気を裂かんとばかり、涼の咆哮がこだました。

 

 





次章 友情ヨーソロー / 資格ある者


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第11章 友情ヨーソロー / 資格ある者
第1話


 更新が遅くなり申し訳ございません。



 

   1

 

 けたたましい咆哮が耳孔に響き、誠は肩を支えようとした北條の体を壁に落ち着かせて音源のもとへと向かった。駐車場に出ると、アギトに向かって異形の生命体が疾走していく。アギトは抱きかかえていた人物を地面に寝かせ、同時に生物の突進を受ける。

 誠はしばし呆然と立ち尽くした。アギトに襲い掛かったのはアンノウンじゃない。アギト捕獲作戦で狙撃されながらも逃走した、あの緑色の生物だった。突進の勢いのまま共倒れになった両者はすぐに立ち上がり、緑の生物はアギトの腹に蹴りを入れる。アギトは腹に食い込んだ足を掴んで動きを封じようとしたが、緑の生物は空いたほうの足を振り上げアギトの横顔を蹴り通す。

 我に返り、誠はスマートフォンを手に取った。コール音が鳴るとすぐに小沢が応答してくれる。

『氷川君、どうした?』

「アギトが謎の生物と交戦中。G3システムの出動をお願いします!」

 謎の生物がアギトの肩に掴みかかった。互いに足をもつれ合わせながら、工場の塀へと向かっていく。石のブロックを積み上げられた塀は謎の生物ふたりを前にあっけなく崩れて粉塵を撒き散らす。立ち込める塵煙の奥から、緑の生物の叫びが聞こえた。

 

 視界を奪う粉塵の中から、緑色の腕が伸びてくる。辛うじて腕で軌道を逸らすことができたが、間髪入れず繰り出されたもう片方の拳までは防ぎきれず腹に食らってしまう。更に膝蹴りが飛んできた。重い一発に咳き込みながら、後退し間合いを取る。

 粉塵が晴れてきた。緑の生物は大口を開け吼える。

「ウアアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 その両足の踵から鋭い尖刀が伸びた。何だこいつは、と翔一は戸惑わずにいられない。アンノウンとは違う。アンノウンから感じ取れるものを、この生物からは感じられない。

 どちらかといえば、自分と似ている。

 いや、似ているけど違う。何が違うのかも分からないが、翔一の裡にある力がそう悟っている。

 緑の生物は跳躍した。宙で足を振り上げ、踵に生えた尖刀の切っ先を翔一へと向ける。振り下ろされた尖刀が自身に達するより速く、翔一は脚で払う。着地した生物の腹に渾身の蹴りを入れるが、向こうは痛みを感じないのか全く怯むことなく翔一の足を掴んでくる。

 ふわり、という浮遊感と共に視界が急速に駆け抜けていく。一瞬遅れて持ち上げられた、と気付いた。何て腕力だ。変身した翔一の体は増強された筋肉で重量が増しているはずなのに。

 ハンマー投げの容量で投げ飛ばされ、翔一の体は工場のシャッターを破り構内へ放り込まれる。鈍い痛みが背中に走った。鉄製のシャッターを破るほど頑丈な鎧を纏っているが、この姿でも痛覚はある。逆に言えば、この姿で痛みを感じるということは、かなり深刻な状況に陥っていることになる。

 よろめきながら立ち上がる翔一の腹に、生物は蹴りを見舞う。衝撃で微かに浮き上がったところで拳が胸に食い込み、怪力によって突き飛ばされる。工場内に停められていた車のボンネットに倒れ込むと、跳躍して距離を詰めた生物が踏み潰そうとしてくる。咄嗟に避け、生物の足はフロントガラスを蹴破り辺りに破片を撒き散らす。

 滅茶苦茶な強さだ。戦い方は野蛮そのものだが、圧倒的なパワーで全て帳消しにしている。まさに本能のみで戦っているみたいだ。

 首を両手で掴まれ、翔一の体が持ち上げられる。生物の爪が首筋に食い込み、喉が圧迫されて呼吸ができない。手を掴んで引き剥がそうとするがびくともしない。

 このままでは変身する力すらも削がれる――

 銃声が響いた。同時に生物の手が離れ、翔一の体はボンネットから床へと転げ落ちる。さきほど破ったシャッターの穴から、青の鎧を纏った戦士が拳銃をこちらに向けていた。右手に銃を、左手には腕と一体化した剣を装備している。

「アギト!」

 青の戦士が翔一を見て言う。「ハア………」と呻く緑の生物の背中から、からん、と乾いた音を立てて弾丸が零れ落ちた。まさか、あの筋肉は銃弾すらも弾いてしまうのか。

 翔一とよく似た赤い両眼を青の戦士へと向け、次の標的としたのか跳びかかる。青の戦士はすぐさま銃を発砲した。何発もの弾丸を受けた生物は、流石に堪えたのか身を仰け反らせて地面に伏せる。

 銃口を向けまま、青の戦士はオレンジの目を翔一へと向けた。危ない、と翔一は叫ぼうとした。それよりも速く、生物の蹴りが青の戦士に飛ぶ。咄嗟に避けて剣を振ったが、それも避けられたばかりか背後へと回られ背中に肘を打ち付けられる。

 翔一は追撃を加えようとする生物を背中から羽交い絞めにしようとするが、いとも簡単に振り払われ腹に蹴りを受ける。青の戦士は剣を振り回すが、空振りしたばかりか反撃の拳を食らった。

 やめろ、敵う相手じゃない。翔一は両者の間に割って入るが、生物は邪魔だ、と言わんばかりに翔一を突き飛ばす。食らいつこうとする青の戦士は再び剣を横なぎに一線するが、生物の手首から伸びた尖刀がその刃を叩き折る。更に胸に強烈な蹴りを食らい、機械仕掛けの鎧が火花を散らした。間髪入れず投げ飛ばされ、壁に激突するとまた火花を散らし装甲を焦がす。

 丸腰になった得物を仕留めようとする生物に、死角から掴みかかる。繰り出された拳を腕で受け止め、渾身の力を込めた拳をその肩に食らわせる。流石に仰け反った生物はすぐに体勢を立て直し翔一と対峙した。肩を上下させながら吐息を荒げ、血走った目はしっかりとこちらを捉えている。間合いを保ちながら互いの出方を窺う。

 ほぼ同時に跳躍し、回し蹴りを繰り出す。足の甲で打たれた脇腹が痛み、肋骨が軋みをあげる。翔一の蹴りも命中したはずだが、僅かに軌道が逸れたのか生物はよろめきながらも倒れない。

 そこへ、剣を腕から外した青の戦士が拳を生物の腹に食い込ませた。でも効果なんてなく、掴まれた腕を振り回されてあっけなく床につんのめってしまう。

 立ち上がろうとしたところで、生物は踵から伸びた尖刀を青の戦士の顔面へ振り降ろした。次の瞬間には辺りにオレンジの破片が散らばる。青の戦士は寸でのところ腕で防御したが、尖刀が掠めた顔面の右半分を抉られていた。断面から煙が立ち昇っている。半分だけ露わになったマスクから覗く顔を見て、翔一は息を呑んで動きを止めた。

「氷川さん………!」

 間違いなく、それは氷川誠だった。マスクを削がれながらも、まだ1歩も引こうとしない強い意志を込めた眼光を緑の生物へ向けている。その意志なんてものはあっけなく、頭に蹴りを食らった。衝撃でマスクが脱げて、完全に誠の顔が露になる。

 腹を踏み付けられ、誠は苦悶の叫びをあげた。生物がむき出しになった顔面に拳を向けたと同時、翔一の蹴りを脇腹に受けて身をよじらせる。間髪入れず翔一は拳を浴びせた。腹も胸も肩も。どこが致命傷を与えられるか、なんて考えもせず、ただひたすらに。

 渾身の蹴りを入れて突き飛ばした生物の体が、壁を破って外に放たれる。追跡せず、翔一は仰向けになったままの誠へと駆け寄る。誠は気を失ったのか、目を閉じたまま力なく頭を垂れている。肩で担いだ体は鎧を着こんでいるだけあって重かった。

 誠を担いだまま外に出ると、どこからか生物の咆哮が聞こえた。怒っているように聞こえたが、どこか悲しげにも聞こえた。

 

 

   2

 

 野次馬の多くが、現場になった工場の従業員だった。出勤したら勤務先に警察が来ていて、立ち入り禁止なものだから大半が困惑か苛立ちを露わにしている。

「何があったんですか?」

「爆発があったよな? 事故か?」

「おい説明しろよ!」

 規制線を前に、従業員たちが警官に立て続けに野次の混ざった質問を飛ばしている。

「まだ詳しくはお話できません。とにかく下がってください」

 警官の曖昧な返答が、今日の仕事を潰された従業員たちの苛立ちの火に油を注ぐ。

「ふざけんな! 説明しろって言ってんだよ!」

「警察のくせに何やってんだ!」

 怒号が飛び交うなか、涼は黙って規制線の奥で進められている捜査を眺めていた。パトカーに混ざって現場に停まる救急車の傍で、担架に長い黒髪の少女が慎重に乗せられる。

 先ほどまでの怒りが嘘のように引いていた。裡にあったものが全て垂れ流されたように、涼はガス欠のような虚無を覚えながらただ愛しい少女の姿を視界に収めている。

 少女の顔が、ゆっくりとだが動いた。

「果南……」

 届く距離じゃないのに、涼はその名前を呼ぶ。果南は緩慢ながらも上体を起こし、周囲に戸惑いの視線を向けている。救急隊員が果南に何か言いながら、ゆっくりと担架に寝かせた。

 生きている。

 空っぽだった裡が歓喜に満たされていく。涼は人混みを掻き分けながら、彼女を抱きしめたい、という望みのまま進む。でも、その歩みはすぐに止めた。

 元はといえば俺のせいじゃないか。

 俺が果南に会いに行ったから、彼女は巻き込まれてしまったんじゃないか。異形は異形を引き寄せる。これからも果南を求めてしまえば、また果南は奴らに狙われる。眠れない夜を過ごして、涼の愛したあの笑顔は失われてしまう。生きながら死んでいくようなものだ。

 俺たちはもう会ってはいけないんだ。

 それはとても苦しく、とても寂しい。果南からもう名前を呼ばれることはない。彼女の笑顔を間近で見ることもない。でも、それが彼女にとっては最善だ。涼のことは一時の感情、若気の至りと切り捨てて、いずれは忘れてしまったほうがいい。

 果南を乗せた担架が救急車に乗せられていく。涼は踵を返して野次馬の中から抜け出した。

 果南、俺はもうお前のもとには現れない。でも大丈夫、お前のことはこれからも守り続ける。たとえ気付いてもらえなくてもいい。お前が笑ってさえいてくれたら、それで。お前の笑顔を奪おうとする奴は、全て俺が倒す。

 再び空っぽになりかけた裡に、今度は怒りが注ぎ込まれていく。拳を強く握りすぎたせいで、指の骨がめき、と軋んだ。

「アギト………!」

 あの乱入してきた青の戦士が呼んでいた名前。それを憎しみに満ちた声で呟く。

 奴だけは許さない。もう果南は傷付けさせない。だから――

 地の果てまで探し出して、俺の手で殺す。

 

 

   3

 

「果南!」

「果南さん!」

 病室に入ってくるや否や、鞠莉が大声をあげる。マナーにはうるさいはずのダイヤでさえ。夏の暑さのせいか、それとも焦燥からなのか、ふたりは顔中を汗で濡らしていた。

 鞠莉はベッドまで急ぎ足で向かってきて、果南をきつく抱きしめる。

「苦しいよ」

「もう、心配したんだから!」

 頬を摺り寄せられながら、果南は鞠莉の金髪を撫でる。鞠莉よりは落ち着いた様子、でも不安を表情に出したダイヤもベッドの傍に立ち、

「みんな、心配してましたのよ。お布団は空っぽだし、電話には出ないし、しかも事件に巻き込まれたなんて………」

 「………ごめん」と果南は力なく返す。

「お店は?」

「千歌さんたちに任せましたわ。皆さんもお見舞いに来たがっていましたが、お店を休むわけにもいきませんので」

「そう………」

 普段の気力がごっそりと抜け落ちた声色を気遣ってか、ふたりにも懊悩が伝播したように雰囲気が重苦しい。昨日まで空元気でやり過ごしてきたけど、それすら抜けている。

 ダイヤは訊いた。

「どうして工場になんていたんですの?」

 「そうよ」と鞠莉は離れ、果南の真正面に顔を据える。その真っ直ぐな瞳に堪えきれず果南は目を逸らす。

「果南」

 不意に頬を掴まれた。くい、と顔の向きを鞠莉の真正面へと修正させられる。鞠莉の隣にダイヤも顔を並べた。

「隠し事はなし、ですわよ」

 それはこの3人が、再びスクールアイドルになったときに決めた約束だ。どんな些細なことでも、隠さずに相談する。本音を打ち明ける、と。

 やっぱりわたしは酷い女だな、とつくづく思う。罪としては最大のものを犯したのだから、親友を騙すことなんて微小なことだ。でも、もう逃げられない。ここで隠したところで、いずれは果南自身に限界が来る。呵責に堪えられなくなって壊れてしまう。

 それに、このふたりには明かさなければならない。ふたりとは、Aqoursとは別の場所へと引き離されるだろう。離れることは罰として受け入れる。でもせめて、理由を告げなければならない。果南がふたりと一緒にいられなくなる理由を。

 果南は順を追って話した。

 葦原涼という青年との出会い。

 彼との日々のなかで育んでいった初恋。

 涼の変貌と、果南にも起こった変化。

 犯してしまった罪。

「わたしは無意味な復讐のために、人を殺したの」

 その告白は、自分でも意外に思えるほど淡々と口に出すことができた。

「それでまた殺そうとしたところで、化け物に襲われた」

 どこか、他人事のように感じられた。あまりにも現実からかけ離れている。でも紛れもなく事実。果南自身に降りかかったことだ。

 全てを話し終えて、果南はふたりへと視線を向けた。話している間、ふたりのほうに目を向けずにいた。ふたりも途中で質問を挟むことはしなかったから、独り言のようにすらすらと話せたのかもしれない。

 予想していた通り、鞠莉とダイヤは困惑の表情を浮かべている。

「そんな……、有り得ませんわ」

 ダイヤが震える声で言った。「本当だよ」と果南の声も震えだす。

「ごめん。わたし、もうスクールアイドル続けられない――」

Wait(待って)

 と鞠莉が遮った。

「本当に果南がしたの?」

 え、と俯いた顔を上げる。普段は冗談ばかり飛ばす鞠莉だが、このときばかりは真剣な眼差しで果南に問いかけている。

「果南が力を使ったとき、近くに化け物がいたんでしょ? その化け物がやったんじゃないの?」

 何言ってるの、と思った。それを口にする前に、鞠莉は続ける。

「果南に人を殺すほどの力があるなら、ここで見せて。例えば――」

 そこで鞠莉は病室を見渡し「そう、これ」とベッドの脇に設置されているテレビを指さす。

「これ、壊してみて」

 「ちょっと、鞠莉さん……」とダイヤは窘めるが、語気が弱く建前としか聞こえない。きっとダイヤも証明してほしいんだ、と分かった。それもそうだ。いきなりわたしは超能力を持っている、なんて言ったところで信じてもらえるはずがない。普通の人間にないものを持っているというのなら、見せなければ。

 果南はテレビへと手をかざし、イメージする。薄型の長方形の中に張り巡らされた配線と、端子に使用されている金属。それらを共振させる波動を送り、内部からの崩壊を促す。

 鞠莉とダイヤはひと言も発することなく、果南の力が発現する瞬間を待っている。沈黙のなか、果南は念じる。

 ――爆ぜろ――

 殺したふたりにしたように、中にある部品を握り潰すように壊せばいい。場数を踏んだことで、破壊の容量は掴んだはず。なのに、テレビは微動だにしない。ただ沈黙が行き場もなく部屋中を彷徨っている。

「…………あれ?」

 かざした手を引っ込める。何の手応えもない。手を使わずに壊すのだから当然だが、力を使った感覚がない。

「壊れたの?」

 鞠莉がリモコンを手にして、電源ボタンを押す。画面が灯り、ワイドショーを映し出す。ふう、と安堵したような溜め息をつき、鞠莉はテレビを消した。

「殺したなんて果南の思い込みよ。果南にそんなことできるわけないじゃない」

 「そうですわ」とダイヤも慈愛に満ちた笑みを向けてくれる。

「あなたは誰かを傷つける人じゃありません。それはわたくし達が1番よく知っていますわよ」

「でも………」

 確かに、違和感はあった。途中で止めようとしたのに、抑えがきかなくなって相手を絶命へと至らせた。もしあれが自分の手によるものじゃなかったとしたら。そんな可能性があったとしても、罪の意識は消えない。彼らへ殺意を向けていたことは確かだ。果南は確かな殺意を抱き彼らのいる場所へと向かった。それは紛れもない事実。

 否定の言葉をまくし立てようとしたが、それは鞠莉の抱擁に遮られる。さっきのとは違う優しい、果南を包み込むようなハグだった。今度はダイヤも加わる。

「苦しかったわよね、果南」

 その温かな鞠莉の声が、凍り付いた裡を融かすようだった。

「じゃあわたし、皆と一緒にいて良いの?」

 「当然ですわ」とダイヤが囁く。ダイヤの声も温かい。

「ようやくまた一緒にスクールアイドルになれたんですもの」

 ふたりの抱擁によって、融けた懊悩が溢れ出てくるようだった。もう決して戻ることのできないと思っていた温もり。それは失われてはいなかった。こうしてまた、ふたりを感じ取ることができる。絶対に放したくない、と強く願いながら、果南は涙に濡れた顔をふたりの腕に埋めた。

 

 

   3

 

 日本の夏は湿度が高いから、いくら日陰に入ろうとも湿った空気が体に纏わりついて一向に涼しく感じられない。幼い頃から沼津で過ごしてきたから慣れたものだと思っていたが、アメリカの乾いた気候のなかで過ごした期間で体感がリセットされてしまったのだろうか。

「一体、何が起こっているのでしょう………」

 病院前のバス停でベンチに腰かけているとき、ダイヤが独りごちるように呟く。

「What?」

 鞠莉が訊くと、ダイヤは汗で首筋に貼りついた髪をはらいながら、

「ここのところ、ずっと殺人事件ばかりが起こっていますわ。鞠莉さんも気付いているでしょう?」

「………まあね」

 確かに異常だ。アメリカから戻ってきてからというもの、毎日のように沼津市とその周辺で殺人事件のニュースが報じられている。日を追うごとに街から活気がなくなっていく様子は、鞠莉も肌で感じていた。海の家が経営できるほど海水浴客が訪れるのも奇跡と言っていい。もしくは誰も事件のことなんて身近に感じていないのか。もっとも、鞠莉だって果南が巻き込まれていなかったら、完全に対岸の火事としか捉えられなかっただろうが。

 警察が何も公表しないものだから、痺れを切らしたのかSNS上では市民による情報交換と推理の応酬が交わされている。木の中に埋め込まれた死体。水のない場所での水死体。初夏に発見された凍死体。街中で突然燃えあがったという焼死体。挙げられた事例はどれも荒唐無稽でデマという噂もある。

「果南さんを襲った化け物と、ここ最近の事件は関係があるのでしょうか?」

 「さあ?」と鞠莉は肩をすくめる。謎の死体とセットで付いてくる目撃情報は、決まって異形の怪物だ。中でも鞠莉が気掛かりだったのは、怪物と戦っていたという金色の戦士の話。肝心の写真が無いから真偽のほどは不明。サイト上に載せられていた写真は見事にピンボケしていて、シルエットすら分からない。これもデマという意見が大多数を占めている。

「わたし達のするべきことは、予備予選に向けて練習。それと果南を支えてあげること、でしょ?」

 鞠莉は言った。ダイヤは釈然としない様子だが「そうですわね」と一応の納得を告げる。

 そう、今は練習あるのみ。いくら不可解な事件が連発しているからといって、一介の高校生でしかない自分たちが少年探偵団のように立ち回れるわけじゃない。今はラブライブ。それだけだ。

It’s humid!(蒸し暑いわ)

 そう吐き捨て、鞠莉はベンチから立ち上がる。

「次のバスまでまだ時間あるわよね?」

「ええ……」

「飲み物買ってくるわ。ダイヤ何がいい?」

「では、お茶で」

「OK、お汁粉ね」

「言ってませんわ!」

 と冗談の通じないダイヤを置いて、病院のなかへと戻る。構内は冷房が効いていて涼しい。売店の前にある自販機は素通りし、トイレに入ると鞠莉はどの個室にも人がいないことを確認してスマートフォンで通話をかける。呼び出し音がしばらくなったのち、留守番電話のアナウンスへと切り替わった。

「マリーだけど、これ聞いたら連絡ちょうだい。『彼』が沼津にいるの」

 この留守電メッセージも何度送ったことだろう。こちらに戻ってから連絡を試みているが、未だに向こうからの返信はない。何かあったのかと心配にはなったが、まだ携帯会社から振り分けられた電話番号が使われているということは無事なはず。

 耳から離したスマートフォンの通話履歴に「木野薫」という名前が追加された。

 

 



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第2話

 

   1

 

 アンノウンとアギトはカメラでその姿を捉えることができない。中継では問題なく映るのだが、録画された映像になると決まって彼らの姿はもやのようなものに覆われて原型が分からなくなる。だから市民に目撃され、スマートフォンで撮影された映像をインターネットに流されても、世間では単なる悪戯やデマとされ異形の存在は世間になかなか広まることがない。

 これまでのG3オペレーションでは全て、アンノウンおよびアギトの映像を記録できていない。映像をチェックしたところで無駄だから、ほぼ形式だけになっていた。でも例外として、あの緑の生物と遭遇したオペレーションは念入りに映像チェックをすることになっている。

 尾室が記録の「正常さ」を発見したのは、アギト捕獲作戦の記録だった。勿論そのオペレーションもアンノウンの姿を映すことができなかったのだが、アンノウンを撃破し誠が撃退した緑の生物は、しっかりと映像記録に姿を捉えられていた。

 空調と機器の駆動音が規則的に響くGトレーラーのカーゴのなか、再生された映像から緑の生物の野性的な咆哮が画面越しに牙を剥く。G3の視界カメラのなか、鮮明に映る生物の踵から生えた尖刀が振り降ろされ、それと同時に映像がノイズに覆われ途絶える。マスクの半分を抉られた際、センサー類も破壊されてしまったから映像記録はここまでだ。誠もすぐに意識を失ってしまった。回収に来た小沢と尾室によると、現場から少し離れた路上に寝ていたらしい。だからこの後に状況がどうなったのかは分からない。緑の生物はアギトに倒されたのか。それともアギトを倒したのか。それに誰が誠を安全圏まで運んだのか。

 まさかアギトが。そんな期待にも似た憶測が浮かぶ。

 映像を止めた尾室が嘆息交じりに言う。

「何度見ても凄いパワーですね」

 「そうね」と小沢が応え、

「アンノウンとは全く別の力を感じるわ。何と言うか、感情の爆発とでも言うような………」

 アンノウンとは違うが、アギトとも違う。ここに来てまた謎が増えた。一体この生物は何で、どこから生まれたのか。

「あの存在に遭遇したのはアギト捕獲作戦のときと合わせて2度目ですが、僕も同じようなものを感じました。人間臭さと言っても良いと思うのですが、それはアギトに関しても同じです」

 この生物から自分を救ったのはアギトでは。そう思えてしまうのは、あの戦いでアギトはまるで誠を庇うように立ち回っていたと感じたからだった。こちらがアギトを認識しているように、アギトも誠のほうを同志のようなもの、と認識しているのかもしれない。アギトが情を抱いたということか。

「どういう意味です?」

 尾室が訊いた。

「こいつもアギトも、正体は人間てことですか?」

「いえ、詳しいことは分かりませんが………」

 正体が人間だとしても、攻撃してきたこの生物は敵性ありと判断するしかない。もし再び相まみえたとしても、勝てる見込みは薄い。そもそも、再戦の機会すら危うくなってきた。

「とにかく謎が多いわよね」

 少し疲れたように小沢が言う。流石に今回のオペレーションの損失は、彼女にとっても堪えたらしい。

「この存在がアンノウンでないとするなら何故アギトに襲い掛かったのか。両者の関係はいかなるものなのか」

 小沢の提示する謎について、この時の誠は思索している余裕は持っていなかった。ただ自身の不甲斐なさに憤慨する気力も失せ、自責ばかりに捕らわれていた。

「どうした? 元気ないみたいだけど」

 やはり小沢にはお見通しだったらしい。

「G3システムが破壊されたことに責任を感じている、てところかしら?」

「………はい。彼らの戦いに、全く太刀打ちできませんでした」

 通信、情報処理といったシステムの中枢が詰め込まれたマスクを破壊されたのは致命的だ。他の装甲部位の損傷も激しい。胸部はサスペンション、腕部は油圧シリンダーのほぼ全てが破壊されたという。これまで修理改修を手掛けてきた整備班も匙を投げる有様だ。直すよりは再製造したほうが効率的、と言えるほどに。

「G3システムの能力を十分に引き出すためには、僕では力不足なのかもしれません」

 こんなことを言ったら、また小沢さんに叱責されるだろうか。そんなことを考えたが、尾室が口を開いたことによってそれは現実にはならなかった。

「というより………」

 そこで口をつぐむ。こういったことに苛立ちを覚える質の小沢が「何?」と促すが、尾室は「いや、別に」と苦笑しはぐらかそうとする。

「言いたいことがあるならはっきり言いなさい気持ち悪い」

「いや、小沢さんきっと怒るから――」

「早く言いなさい怒らないから」

 この時点で既に語気が強くなっている。尾室は逡巡を挟み、意を決して告げる。

「G3を破壊されたのは氷川さんのせい、ていうより、G3システムそのものが……ちょっと弱いんじゃないかなって………」

 いくら促されたとはいえ、その発言は流石にまずかった。怖れていた通り、小沢は無言で椅子から立ち上がり尾室へと詰め寄る。

「怒らない、て言ったじゃないですか!」

 まるで蛇に睨まれたカエルのように縮こまった尾室の姿に小沢も頭が冷えたのか、

「尾室君の言う通りね」

 その素直さに尾室は目を丸くする。誠も驚いていた。自ら設計したG3システムを「弱い」と言われたのに、小沢があっさりとそれを認めるとは。

 小沢は続ける。

「確かにG3システムの性能はまだ十分じゃないわ。でもね、G3はいわば試作型(プロトタイプ)なのよ。氷川君は今までよくやってくれたわ。お陰で新しいG3システムを作るためのデータを集めることができたんだから」

 さらりと言ってのけたその言葉を、誠は反芻した。

「新しい……G3」

 

 

   2

 

 ピアノコンクールに出たい。

 梨子からその話を切り出されたのは、合宿の3日目――事故に巻き込まれて半日入院していた果南が戻ってきた頃――の夕飯の席だった。

 どうしても発表したい曲がある。日程が重なるラブライブの予備予選には出られないけど、どうか出場させてほしい。

 そう頭を下げられたときはメンバー揃って困惑したが、そう長く話し合う必要もなく、満場一致で賛成という形に落ち着いた。まだ本番まで期間はあるし、歌唱とダンスのパートを修正する余裕はある。

 それに、梨子自身も無責任に頼んだわけじゃないということは、十分に伝わった。彼女も悩みぬいた上での決断だったのだろう。だったら仲間として、友達として彼女を彼女自身のステージへ送り出したい。それがメンバー達の総意だった。

 この梨子が一時的に抜けたAqoursを語るうえで、中心になるのは梨子でも、彼女の背を押した千歌でもない。

 今回は、渡辺曜の話だ。

 

 沼津駅の改札前で、梨子と千歌が固い握手を交わしている。

「しっかりね」

 そう告げる千歌に「お互いに」と梨子は返した。コンクールは東京にて開催される。大会の運営委員会が手配してくれたスタジオで、本番前の練習に集中するためらしい。離れるのはそう長くないけれど、しばしの別れを惜しみにこの日はメンバー全員が駅に見送りに来ていた。

「梨子ちゃん、頑張ルビィ!」

「東京に負けては駄目ですわよ」

 黒澤姉妹が激励を送ったところで、曜は電光板へと目を向ける。

「そろそろ時間だよ」

 曜が告げると、「うん」と応じた梨子はスーツケースに手をかける。

「Ciao、梨子」

「気をつけて」

「ファイトずら」

 鞠莉、果南、花丸の順に激励を受け取ると、梨子はスーツケースを引いて手を振りながら改札へと歩いていく。彼女が改札ゲートを潜ったところで、千歌が「梨子ちゃん!」と呼びかけた。

「次は、次のステージは絶対みんなで歌おうね!」

 一緒にステージに立てないというのに、梨子を送り出せたのは予備予選で終わらせるつもりが毛頭ないからだ。目標は優勝。こんなところで終わりはしない。皮肉なものだが、梨子が離れたことでその意識がより一層強まった気がする。

「勿論!」

 笑顔で応じた梨子が、ホームへの階段に消えていく。自分たちが一緒に来られるのはここまで。応援には行けないけれど、代わりに彼女が戻ってきたときはその先の東海地区予選への切符を贈ろう。

「さ、練習に戻りますわよ」

 ダイヤが告げると、皆はそろそろと歩き出す。今日もこれから練習だ。

「よし、これで予備予選で負けるわけにはいかなくなったね」

 最初から負けるつもりなんて無かったけど、果南の言うように重みが更に増した。プレッシャーと受け止めてしまいそうだが、「何か気合が入りマース!」と意気込む鞠莉のように、前向きに捉えて練習により熱を入れられそうだ。

「ね、千歌ちゃん」

 と曜も同意を求めるが、隣にいると思っていた千歌がいないことに気付く。振り返ると、千歌だけは改札の前から動こうとせず、とうに消えていった梨子を追うように奥へと視線を釘付けていた。

 このとき、曜は梨子の不在をあまり重く受け止めてはいなかった。ただ、梨子の分の衣装を作る必要がなくなったのは少しだけ寂しいな、とだけしか考えていなかった。まさかこの出来事が、自身に予想だにしない変化をもたらすことになるなんて。

 ここで語るのは気恥ずかしいけれど、これもまたAqoursにとって、曜にとって必要不可欠な通過儀礼だ。

 しばし、この話にお付き合い願いたい。

 

 

   3

 

「翔一君、お茶にしない? ご近所さんから美味しいお茶菓子貰ったのよ」

 畑に実ったキュウリとトマトを眺める翔一に志満が語りかけるが、翔一の耳にはまるで入らなかった。

「翔一、ねえ何かあったの? 女の子にでも振られた?」

 美渡が冗談交じりに言うが、それも翔一は無言で受け流す。視線は畑に向いてこそいたが、その目には何も映っていなかった。普段なら野菜が実ると何よりも喜ばしいものだが、この時は何も感じられない。

 守れなかった。

 ただその懊悩だけが裡に渦巻いて汚泥のように撹拌していく。

 何故あの場所に果南がいたのかは分からない。でも、彼女がアンノウンに狙われたのなら自分が守らなければならなかった。それなのに――

 しいたけが寄ってきて、翔一の目の前に座る。無意識に頭を撫でたが、すぐに引っ込めてその掌を見つめる。

 幸いにも果南は助かった。でも、あと僅かでも遅れていたら取返しのつかないことになっていたかもしれない。

 俺の力は、皆の居場所を守るためにあるんじゃなかったのか。守れないのなら、これは何のための力なんだ。

 自分がアギトの力を持つ理由は分からないが、そのことに意義を持っていたのは確かだ。皆を怪物から守る力を持っている。この力はそのために使おう。皆の居場所――皆がいるべき、皆が幸せでいられる場所――を守ることが自分のすべきこととして見出し、そのための力を誇りに思えていたのに。

 どうして、俺にアギトの力があるんだろう。

 久しぶりの問いだった。以前に沸いたのは、初めてアンノウンと戦った数ヶ月前。無意味な問いだということは理解している。理由を探っても、その力を手にした過去は覚えていない。以前は自分の出自についての問いだったが、今度は意義についての問い。もし何らかの意義があって翔一にアギトの力が目覚めたのだとしたら、一体その意義とは何なのか。自分にアギトの力を手にする資格があったのだとしたら、それは一体何だったのだろう。

 

 もはやシステム本体すら失ったG3ユニットの会議の場で、今度こそ更迭か、と誠は腹を括る。以前浮上したユニット再編案は立案者の司が汚職を働いたことで有耶無耶になったが、今度こそ逃れられないかもしれない。巨額の資産が投じられやっと完成したシステムを修理不能まで破壊されてしまった。責任は被ることになるだろう。

 会議には誠と小沢、北條も出席している。やはり小沢が構想中の新しいG3の装着員として、上層部は北條を推薦するつもりだろうか。

 だが、会議の内容は誠の予想を遥かに超えていた。渡された資料の表紙を凝視する誠の隣で、小沢が警備部長を映すPCへ噛みつくように訊く。

「V-1システム………。何ですかこれは?」

 上司に向かって相変わらずな小沢の態度に嘆息しつつ、部長は答える。

『北條主任が立案した、対アンノウンのための新しいシステムだ。同システムが完成した場合、G3システムに取って代わる可能性がある』

 そんなことは初耳だ。部長の口ぶりからしてまだ完成には至っていないようだが、こうして資料が作成されているということはある程度話は進んでいるのだろう。そのことに我慢ならなかったのか、小沢は立ち上がり強い語気で言う。

「待ってください。私が提案したG3-Xのことをお忘れではないですか?」

 『忘れてはいない』と怪訝そうに補佐官が、

『我々は北條主任のV-1システム、小沢管理官のG3-X両方を完成させ、どちらか優れたほうを正式に採用したいと考えている』

 その言葉を聞いて、小沢は追求を止めて大人しく椅子に腰を戻す。その口元に浮かんだ微笑を北條は見逃さない。

「何が可笑しいんです? 自信満々ということですか?」

「まあ、そういうことなら頑張りましょう、お互い」

「V-1プロジェクトは、既に日本のトップ頭脳によって動き始めています。スタッフリストを見れば、あなたにも分かるはずだ」

 北條はそう言って、開いた資料のページを見せる。そのページにはプロジェクトの参加メンバーが、証明写真と経歴を添付された上で記載されている。全てが盛りを過ぎた、老年に差し掛かろうとしている男性だ。名前の横に太字でそれぞれの専門が記載されている。ロボット工学やエネルギー工学は勿論、精神医学を専門とする者まで計画に携わるらしい。

 小沢のことだから歯牙にもかけない言葉で一蹴してしまうと思ったが、彼女は無言のままページを見下ろしている。それを見て、北條は不敵に微笑んでいた。

 

 

   4

 

「特訓ですわ!」

 梨子を見送った後、集合した部室でダイヤが開口一番にそう宣言する。当人と曜たちメンバーの熱量はかなりの差があって、妹のルビィに至ってはPCのキーを叩いて完全に無視を決め込んでいる。

 「また?」と千歌が冷めた声で訊く。「本当に好きずら」と花丸も先輩相手に容赦ない。そこで「あっ」とルビィが声をあげたから、メンバー達の関心はそちらへと移りPCの画面に注目する。

 どうやらルビィはラブライブのホームページで、別地区での予選についてチェックしていたらしい。先に行われた予選の動画のなかで踊っているのは、

「これって、Saint_Snow!」

 千歌が興奮した声色でそのふたりのグループ名を言う。曲は東京スクールアイドルワールドで披露したものと同じらしい。ルビィが動画の説明欄にあるテキストを読み上げる。

「北海道予備予選をトップで通過した、て」

 「へえ」と果南が感慨深そうに、

「これが千歌たちが東京で会った、ていう………」

 そういえば、3年生たちはまだSaint_Snowとは会っていない。イベントで上位入賞を逃しはしたが、あの艶やかなパフォーマンスを目の当たりにすれば、彼女たちも闘志を燃やすことだろう。

「頑張ってるんだ………」

 千歌は嬉しそうに呟いた。親しい間柄、とまではいかず、むしろ厳しい言葉を投げかけられた相手だが、同じスクールアイドルとして知り合いが努力を実らせたことは曜にとっても喜ばしい。千歌にとってSaint_Snowは競争相手というより、スクールアイドル仲間という認識が強いのかもしれない。

「気持ちは分かるけど、大切なのは目の前の予備予選。まずはそこに集中しない?」

 そう冷静に告げる果南をからかうように鞠莉が、

「果南にしては随分堅実ね」

「誰かさんのお陰で、色々勉強したからね」

 「では」と共にダイヤはぱん、と両手を叩き会話を打ち止めにさせる。

「それを踏まえて――」

 

 ダイヤの言う「特訓」の場は屋上ではなくプールだった。とはいえ水は抜かれていて、1年近く放置されている間に発生した藻がこびり付く床をデッキブラシで擦りながらメンバー達はこの状況の意味について考えているのだろう。

 そう、特訓と聞いていた。だから予選に向けた練習メニューをダイヤが考えてきてくれていたと思っていたのに――

「何でこうなるの!」

 千歌がとうとうその疑問を投げた。

「文句言ってないでしっかり磨くのですわ!」

 ひとり、プールサイドに立って場を監督するダイヤが告げる。「ずらっ」と声がしたほうに目を向けると、ぬかるんだ床に花丸が足を滑らせて、すぐ傍で作業していたルビィが巻き添えを食って共倒れしてしまう。

「これで特訓になるの?」

 千歌の疑問に答えたのはダイヤではなく悪戯に笑う鞠莉だった。

「ダイヤがプール掃除の手配を忘れていただけね」

 道理で今年はプール開きが遅いな、と思った。生徒会長としての不手際を指摘されたダイヤは噛みつくように、

「忘れていたのは鞠莉さんでしょう」

「言ったよ。夏休みに入ったらプール掃除何とかしろ、て」

「だから何とかしてるじゃないですか!」

「へえ、何とかねえ」

 おちょくる理事長に睨みつける生徒会長。ふたりをどう静めたらいいか、間にいる千歌も対処に困っている。

「生徒会長と理事長があんなんで大丈夫?」

 巻き添えを食らうまい、と遠くで傍観を決め込んでいる善子が、傍にいる果南に訊く。いくら親友でもこれはフォローしきれないのか、「わたしもそう思う……」と果南は苦笑を返すことしかできない。

 何とかダイヤの怒りが頂点に達しないよう、千歌は「まあでも」と、

「皆で約束したもんね。生徒会長の仕事は手伝う、て」

 その言葉を好機とみて、更衣室の影でずっと待機していた曜は満を持して燦々と煌めく太陽のもとへと踏み出す。他の皆より準備に手間取り、ずっと出るタイミングを窺っていた。

「そうだよそうだよ、皆ちゃんと磨かなきゃ。ヨーソロー!」

 皆の注目を確かに感じながら、自宅のコレクションから引っ張り出してきた水兵服に敬礼も更に身を引き締める。断じてセーラー服じゃない。

「デッキブラシといえば甲板磨き。となれば、これです!」

 とここまでは決めることができたものの、ぬかるみに足を滑らせて盛大に尻もちをついてしまう。

「あなた、その恰好は何ですの!」

 遅れてきた上に恰好もふざけている、とダイヤには映ったのか檄を飛ばされる。「本当にいつになったら終わるのやら……」とひとり嘆いている横で、尻をさする曜を心配そうに見ていた千歌の口元にふ、と笑みが浮かぶ。

 そういえば、幼い頃も似たようなことがあったな、と曜は思い出す。確か海岸で捕まえたフナ虫を、虫嫌いな美渡に見せて脅かせたことがあった。当然ふたり揃って叱られたのだが、そのとき千歌はやっちゃったね、というように曜へ笑みを向けていた。

 あの頃から自分たちは何も変わっていない。人生の大半を共に過ごしてきたから、ちょっとした所作で互いの考えていることが分かってしまう。今も変わらないし、これからも変わることはないだろう。

 そんなことを想っていると、曜の口元も綻んだ。

 

 



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第3話

 

   1

 

 城北大学の構内には、当然ながら20歳前後の若者たちが他愛もない話をしながら行き交っている。誠と小沢も彼らと2、3ほど歳の差がないのだが、どうにもこの若者たちの集まる場には疎外感を覚えてしまう。年齢があまり変わらないとしても、ふたりの出で立ちはどう見ても学生には見えないが。誠はスーツ、小沢は白のブラウスに黒のパンツと、シンプルすぎる故にファッション性豊かなこの場では浮いている。

 高校卒業後は警察学校に進み大学というものを知らないまま現在に至る誠はともかく、小沢にとって城北大学は母校なのに、どうしてこんなにも周囲との温度差が大きいのか。まるで雰囲気に馴染めていない。在学当時も、彼女はこうだったのだろうか。とはいえ小沢はこの大学に入学する頃には、既にアメリカでの大学卒業資格を取得していたから、別にここに通う必要はなかったはず。廊下を歩きながら、誠はその疑問を尋ねた。

「小沢さんは、どうしてこの大学に入ったんですか?」

「暇つぶしにね。日本のレベルがどうなのか興味があったの。マサチューセッツ(MIT)に比べたら大したことないと思っていたけど、結構面白いゼミがあったわ」

「それが、高村教授の?」

「そう」

 V-1プロジェクトの資料にあった参加メンバー。その一員として名を連ねていた高村光介(たかむらこうすけ)という人物を訪ねるため、誠たちは彼が教授として勤務するこの大学へと来ていた。敵情視察という見方もできるが、それよりも大きな理由としては高村が小沢の学生時代の恩師であること。プロジェクトの中で競う間柄、挨拶として自らが手掛けるG3-Xの装着員として誠を紹介したい、と同行を求められた。

「そういえば、高海さんとはご学友だったんですよね」

「意外? 私と志満じゃタイプが全然違うものね」

「いや、そういうわけでは――」

「良いのよ。あの子のお陰でこっちの生活には退屈しなかったし、花札なんて面白い遊びを知ることができたんだから」

「花札?」

「ええ。志満のほうから話しかけてきて、強引に花札サークルに入れられたのよ。サークルメンバーの頭数揃えるためにね」

 何とも妙な出会いだ。まさかあの淑やかな志満が、この小沢を強引に集団へと引き入れるなんて。

 この才媛の学生時代の一端を知ることができたところで、目的の研究室に着いたらしい。ドアの札には「高村研究室」とあって、緊張感が一気に高まる。小沢がドアをノックすると、奥から「入りたまえ」と気難しそうな男の声が聞こえた。臆せず小沢はドアを開け「失礼します」と中へ入る。誠も後に続き、視界に北條の姿が収まったことで思わず礼をするのを忘れてしまう。

「これはこれは小沢さん。氷川さんも。こんなところに何の用です?」

 考えてみれば、プロジェクトの発案者である北條が高村の研究室にいるのは自然なことだ。改まって誠は礼をする。声に違わず眉間に皺を寄せた表情を緩めることなく、高村はまるで値踏みするような目で誠を足元から見上げてくる。

 北條が起動していたPCディスプレイの電源を落とした。きっと表示されていたのはV-1システムの設計データだろう。

「スパイ行為は反則ですよ」

「お黙りなさい。あなたには用は無いわ」

 撥ねつけるように言って、小沢は恩師へと向く。

「お久しぶりです、高村教授」

「卒業以来だね」

 その重苦しい口調は、とてもかつての教え子を歓迎しているようには聞こえなかった。

「君のことは今でもゼミで時々話すよ。私の教え子の中で1番優秀な生徒としてね」

「光栄です」

 そう返す小沢も淡泊すぎる。先ほど面白いゼミだった、と話していたのに。

「でもV-1プロジェクトに教授が関わっていたなんて、驚きました」

「北條さんから話を聞いたんだ。人の命を守るためだ。私もひと肌脱ごうと決心したんだよ」

「実は、ご存じだと思いますが私もG3-Xを開発することになっています。そのシステムのアイディアを聞いて欲しいんですが」

 小沢はバッグからファイルを取り出す。だが高村はそれを受け取ろうとはしない。

「何を考えているんです?」

 そう訊いたのは北條だった。

「我々はいわば敵同士だ。敵に手の内を見せるつもりですか?」

 「いや」と否定したのは高村だ。彼はデスクの横に置かれた冷蔵庫からワイングラスを取り出す。まさか勤務中に飲酒するつもりか、と思ったが、冷蔵庫の別の棚から取ったのはペットボトルのミネラルウォーターだった。どうやら彼も、北條と同じく拘りの強い人間なのかもしれない。

「G3-Xのアイディアを聞けば、私がV-1システムの開発を中止する。小沢君はそう思ってるんだよ」

 まさか、と誠は思う。確かに小沢は警視庁の上層部相手でも不遜な態度を崩さないが、礼儀を知らないわけじゃない。恩師を蔑むようなことをするはずがない。

 でも「違うかね?」という高村の質問に「その通りです」と小沢は即答してしまう。

「小沢さん」

 流石に口を出さずにいられなくなったが、「ごめんね氷川君、少し黙っていて」と制されてそれ以上は何も言えなくなる。小沢が感情に任せて言っているのなら先ほどの北條と同じく「お黙りなさい」と撥ねつけられる。何か考えがあってのことだろう。

 高村はグラスに水を注ぎながら、

「私に恥をかかせないための思いやりとも取れるが。しかし小沢君、君は自分が何を言っているか分かっているのか? 自分のほうがこの私より優れてる。そう言っているのと同じことなんだよ」

 グラスを口元で傾けて喉を潤すと嘆息する。

「だいいち君はV-1システムについて何を知っているというんだ? 何故G3-Xについてそれだけ自信があるのか」

「知らなくても分かります。G3-X以上のものを作るのは不可能です」

 それは挑発ではない、純粋な降伏勧告だった。自身が天才であることを自覚し、相対する人間に勝利することを冷静に分析した上での。そこに自身への過信や、他者への軽蔑は一切介在していない。

 天才小沢澄子は、他者に蔑みの念を抱かない。いくら嫉妬や憎悪を向けられたところで、それを向ける者たちが自身に決して敵わないことを理解しているからだ。いくら凡人に足を引っ張られようが、それを容易く一蹴することができてしまう。G3プロジェクトも複数の権威者たちによる共同開発として発案されたそうだが、結局は小沢ひとりで設計した形が最も優れていて、他の面々の介入する余地がなかったらしい。

「もういい、帰りたまえ。君は昔からそうだ。いつも人の上に立ってものを言う」

 でも本人に意図はなくても、凡人は蔑まれたと捉えてしまう。そう思うことで、天才を攻撃する口実になるから。

「私はただ――」

 「小沢さん」と北條が止める。

「いずれにせよ、両システムが完成すれば答えは出ます。それで良いじゃありませんか」

 両システムが完成して、一緒にユニットで運用することはできないのだろうか。そんなめでたい願望を抱かずにはいられない。単純に戦力は倍になり、小沢と高村も互いに屈折した感情を抱かずに済ませられるかもしれない。でも、それは現実的に難しいだろう。いくら警察でも、国税で賄われる資金を湯水のように使うことはできない。

「聞こえなかったのか? 帰りたまえ」

 恩師と思えない言葉に素直に従い、小沢はドアへと歩く。ノブへ手をかけようとしたところを見計らったかのように「小沢君」と高村は呼び止め追い打ちをかける。

「私は昔から君のことが嫌いだった。それはこれからも変わらんだろう」

 その言葉に小沢は振り向くが、背を向ける高村は気付かず水を飲んでいる。

「分かりました」

 あくまで淡々と小沢は言う。

「そういうことなら、私もあなたのことを嫌いになります」

 そこでようやく、誠は小沢がこの研究室を訪ねた理由が分かった。

 彼女は褒められたかった。

 日本で自分の才能を伸ばしてくれた恩師に、社会に出て活躍している姿を見て欲しかった。それは恩師を慕う教え子なら誰もが思うことだろう。あなたのお陰で私はここまで来ることができました。あなたの下で学ぶことができたからこそ、G3-Xという傑作を生み出すことができたんです。ただ、そう告げたかっただけなのに。

 小沢にとっては尊敬する恩師でも、当の高村は彼女を教え子とは見ていなかった。自身の積み上げてきた研究者としてのキャリアをあっけなく飛び越えてしまう天才。研究を簡単に凌駕され、果てには否定されてしまう脅威としてしか映っていなかった。そんな、天才の足を引っ張るその他大勢の凡人と変わらない人間だったなんて。

 小沢は足早に研究室から出て行く。誠は北條と高村に無言で一礼し、彼女を追いかけた。

 追いついた誠が隣につくと、小沢は穏やかに言う。

「ごめんね、付き合わせちゃって」

「いえ」

 一体どう言葉をかけたらいいのか、誠は思案する。もしかしたら、本当に小沢は気にしていないのかもしれない。高村から告げられた言葉も、凡人のくだらない戯言とすぐに忘れてしまうのか。全く分からない。この人は天才でも、どこまで自分たち凡人と違い、どこまでが同じなのか。こうして肩を並べて歩くことができても、絶対に縮めることのできない差がある。

 誠のスマートフォンが着信音を鳴らした。河野からだ。

「はい氷川ですが」

『不可能犯罪と思わしき変死体が発見された。現場は長泉町南一色(ながいずみちょうみなみいっしき)416、ホテル沼津インターサイドだ。今来れるか?』

 

 

   2

 

「綺麗になったね」

「ピッカピカずら」

 全ての汚れが落とされたタイル張りの床を見て、ルビィと花丸が口々に言う。床面に残った水も澄んでいて空を鏡のように映し出している。

「ほら見なさい。やってやれないことはございませんわ!」

 得意げに言うダイヤに、全員が「ええ?」と呆れの声を出した。特訓と言っておきながらやはり雑務の手伝いじゃないか。曜は水兵服を披露する機会を得られたから良かったものの。ただ善子が文句のひとつも言いたくなったのか口を開きかけるが、「そうだ」と果南が何かを思いついたらしく寸でのところで喉元に留まる。

「ここで皆でダンス練習してみない?」

「Oh,funny! 面白そう!」

 子供みたいにはしゃぐ鞠莉を「滑って怪我しないでください」とダイヤが窘める。

「じゃ、皆も一緒について」

 果南の号令にならい、皆それぞれの配置につく。既に曲も振り付けも全部頭に入っているから、メロディ抜きでも踊れる。最初はダブルセンターとして千歌と梨子が動くことになるのだが――

「………あれ?」

 千歌が声をあげる。そこでようやく、他の面々もこの曲の致命的な問題に気付いた。それぞれ取っていたポーズを崩し、ダンス担当の果南が言う。

「そっか、梨子ちゃんがいないんだよね」

「そうなると、今の形はちょっと見栄えがよろしくないかもしれませんわね」

 ダイヤの言う通り、9人から8人と些細な変更ではあるが、そのほんの「ちょっと」がバランスの綻びになってしまう。人数が多ければ多いほどダンスのフォーメーションは複雑になっていくから、小さなものでも綻びというものは目立ちやすい。

「変えるずら?」

 花丸の質問に「それとも――」と果南は顎に手を添える。

「梨子ちゃんの位置に誰かが代わりに入るか………」

 本番が近い今、ダンスも大方ものになっていて、後は細かい部分を修正するのみになっている。センターを千歌ひとりにすれば、他のメンバーの配置もそれに伴い大幅な変更が余儀なくされる。ダブルセンターのままが良いだろう。

「代役、て言ってもねえ………」

 鞠莉が嘆息した。それが最も修正点を最小に済ませられるのだが、簡単なことじゃない。センターがふたりなのだから、当然コンビネーションが求められる。適任なのは梨子がいないAqoursのなかで、最も千歌との連携が取りやすい、元から相性の良いメンバーになる。

「………ん?」

 一体誰が適役かな、と曜は考えていたのだが、皆の視線が自身に集中していることに気付いた。

 千歌と最も連携できる、互いに気心が知れていて、彼女の相棒として最適なメンバーとして見出されたのは――

「え……、わたし⁉」

 

 

   3

 

 買い物に出掛けても、翔一の気分は全く晴れることなく厚い雲のようなガス溜まりが漂い続けている。普段ならスーパーで良い食材を見つけると最高に良い気分になれるのだが、質の品定めなんてする気にもなれず惰性で商品を籠に入れていた。

 店内を無為に一周した後、翔一はニンジンとジャガイモと玉ねぎと牛肉を購入して店を出た。今晩はカレーにしよう。簡単に作れるし美味い。千歌だってカレーは好きだから喜んでくれるに違いない。付け合わせのサラダは畑のトマトとキュウリで事足りる。

 そこでレタスを買い忘れたことに気付いたが、引き返すのも面倒になりそのままバイクを停めた駐輪場へと向かう。

「君」

 若い女性の声がする。どこかで聞いた声だな、とぼんやり思いながら立ち止まることなく歩き続ける。

「ちょっと」

 声が強気になって、ようやく自身に向けられたことに気付き翔一は足を止めて振り向いた。スーパーの目の前にあるバス停に立つ女性が、真っ直ぐな視線を翔一に向けてくる。

「確か、津上翔一君だったかしら」

 特に特徴的な顔立ちをしているわけでもないのに、全身から放たれるその独特な雰囲気は街中でよく目立っている。

「小沢澄子よ」

 女性はそう名乗るも、いまいち腑に落ちない。もしかして記憶を失う前の知り合いだろうか。いや、でも自分を「津上翔一」として知っているのなら、やはり最近になって知り合ったのか。

 「はあ………」と曖昧に返す翔一に小沢は「ほら」と、

「以前氷川君と一緒のときに会ったことのある」

 そこでようやく、翔一の記憶のなかで一致する人物を見つけ出した。

 

「ごめんね付き合わせちゃって。さっきまで氷川君も一緒だったんだけど、ちょっと事件現場に行っててね」

「いえ………」

 小沢に誘われるまま、翔一は彼女の少し遅めの昼食に同席することになった。小沢が昼食の場として案内してくれたのは焼き肉屋で、何度も来ているのかメニューも見ずに注文した。

 既に昼食時を過ぎたからか、店内はそれほど混み合っていない。小沢の頼んだ肉の皿はすぐに運ばれてきて、一緒に注文したビールを小沢は一気にあおりジョッキの半分まで飲んでしまう。普段から酒を飲まない翔一はウーロン茶を頼んだが、それには口を付けることなく肉を網に乗せていく。熱せられた網に触れた途端、生肉がじゅう、と音を立てて汁と脂を滴らせる。それは網の下で燃えるコンロの火にとっては良い燃料で、更に火力が増して煙が立ち昇り天井のダクトへ吸い込まれていく。

「どうかした? 何か落ち込んでいるみたいだけど」

 小沢に訊かれ、翔一はまだ焼けてもいない肉をひっくり返しながらぼんやりと話し始める。小沢に話したところで解決すると思っていないが、別に隠すことでもない。というより、虚しさのあまり頭の回転が酷く遅かった。多分、犬のようにわん、と鳴けと命令されても躊躇することなく実行してしまっただろう。

 勿論、まだ会って2回目の人間にそんな命令をするほど小沢も歪な女性じゃない。ビールを飲みながら翔一の話に耳を傾けてくれた。それほど長話をした覚えはないのだが、翔一の話を聞いている間に小沢はビールを飲み干してしまった。

「生ビールおかわり!」

 ビールはすぐに運ばれてきた。

「そう、それで何となく元気が無いんだ。まあ気持ちは分かるわ。仲の良かった女の子が傷付けられたとなればね」

 小沢に話した中で、アギトとアンノウンについては省いている。それらのことを質問されても、翔一にだって分からないのだから説明のしようがない。小沢はきっと、果南が翔一の目の前で暴漢に襲われた、と解釈しているだろう。それであながち間違ってはいない。

「………はい」

「こんなこと言うのも無責任だけど、死ななかっただけ幸いかもね。私はついさっき、知り合いが死んだわ。ある意味でだけど」

 小沢はそう言ってビールを飲む。翔一は網に肉を並べながら、

「それが、俺悔しいわけじゃないんです………」

「どういうこと?」

「悔しい、ていうより……、何かスカスカしてるんです」

 早くも小沢は2杯目のビールを飲み干したのか「生おかわり!」と注文する。

「スカスカ?」

「その子が襲われた分だけ世界が広くなって……、その広くなった分だけスカスカして………」

 「生ビールお待たせしました」と小沢のビールが来た。

「それで?」

「椅子が1個余ってたら、て感じなんです。その子の椅子なんですけど、もしその子が死んじゃってたらそこには誰も座れなくて………。そう思うと怖いんです………」

 「生おかわり!」と小沢が店員に告げると翔一に向き直る。

「要するにぽっかりと穴が空いてる、て感じね」

 ああそうか、と翔一は焼き色が付き始めた肉を眺めながら納得する。この感覚は穴だ。裡に大きな穴が穿たれて、そこに恐怖が入り込んで埋めようとしている。でも恐怖で穴は埋まらない。その恐怖が穴の空いていることを示していて、尚更虚無という穴が広がっていく。

「で、どうするの?」

 尋ねられ、翔一は俯いていた顔を上げる。ビールが来たようで、小沢は泡が潰れないうちにと喉を鳴らしながら飲んでいる。

「君はどうやってその穴を埋めるつもり?」

 重ねられた質問にすぐには答えられず、翔一は視線を肉へと戻した。肉は十分焼き色が付いている。焦げたら勿体ないな、とおもむろにカルビを1枚箸で摘まんで口に運ぶ。カルビは脂が甘くて、とても美味しかった。もし死んでしまったら、こうして食べ物が美味しい、という感覚もなくなってしまうのだろうか。それはとても寂しい。

 何をすればぽっかりと空いた穴が埋まるかなんて、翔一には分からない。自分のすべきことといえば、アンノウンが現れれば戦って倒す。ただそれだけだ。他は高海家の家事をこなすこと。家の姉妹たちが気持ちよく毎日を過ごせるよう、千歌がスクールアイドル活動を頑張れるよう、美味しい料理を作ってあげることだけだ。

 まずは、食べなくちゃ。

 そう思うと腹が空いてきた。翔一は肉を食べ続ける。タン塩にハラミにロースと、網の上で不揃いに焼かれた肉を全て平らげていく。無くなればまだ皿に残っている肉を網に広げて、それらが焼けるとすぐに口へと放り込む。

「生おかわり!」

 自分がうじうじと立ち止まっていても、アンノウンはお構いなしに人を襲う。自分に戦う力があるのなら、いつでも万全に戦えるようにしなければ。それには食べて英気を養わなければ。

「………俺、頑張ります」

 皿の肉が残り僅かになって、ようやく翔一は答えを出した。店内の喧騒で聞き取れなかったのか「え、何?」と小沢が口元の泡を拭いながら訊いてくる、翔一が食べている間にも小沢はビールをおかわりしていたのか、テーブルには空になったジョッキが大量に置かれている。

「俺が頑張って強くなって、穴を埋めます」

 翔一が力強く言うと、小沢はふ、と笑みを零した。小沢が殆ど肉を食べていないことにようやく気がついて、翔一は残りの肉を焼いていく。

「――なさい」

 何か言われたような気がして「え?」と聞き返す。小沢はじゅう、と肉の焼ける音に負けじと声を張る。

「頑張りなさい!」

 そう告げられて、翔一の裡に穿たれた穴が少しだけ埋まった気がする。皆の居場所を守りたい。こうやって肉が美味しい、という感覚を皆にも噛みしめてもらいたい。この穴は、皆がその喜びを味わう顔を見ることで次第に埋まっていくだろう。

 久しぶりに、翔一は笑顔を浮かべることができた。

 やっぱり、後でスーパーに戻ろう。今夜はご馳走を作らないと。

 

 

   4

 

「ワン・トゥー・スリー・フォー・ファイブ・シックス・セブン・エイト。ワン・トゥー・スリー・フォー・ファイブ――」

 果南の声に合わせ、ステップを踏んでいく。次の1拍でセンターふたりが合流し――

「あっ」

 背中合わせになって足を止めようとしたところで、千歌と肩がぶつかってしまう。たった半歩ほどのズレだが、互いの立ち位置が絶妙なところだから僅かな差でもぶつかったり離れすぎたりしてしまう。

「まただ……」

 「これでもう10回目ですわね」とダイヤが溜め息を漏らす。

 午後からは曜と千歌をダブルセンターとしたダンスの調整として、練習の場を屋上へと移した。大まかなステップは特に変えることなく、曜のいた立ち位置は他のメンバーの歩幅と位置を微調整する形で落ち着いた。そうなると後は曜が梨子の務めるはずだったステップを覚えて、千歌と合わせられればパフォーマンスは完成する。

 急遽担当パートを大幅に変更することになったわけだが、特に難しいものではなく覚えるのは容易だった。でも今回の曲でセンターはふたり。動きが完璧になったところで、それを相棒である千歌とシンクロさせなければ意味がない。このシンクロが難点だった。どうしても千歌との歩幅が合わない。

「曜なら合うかと思ったんだけどな」

 果南がそう判断したのは直感ではないだろう。曜と千歌はメンバーの中で最も付き合いが長いし、身長や体形も近いからステップを合わせやすいと考えたのかもしれない。

 同じ距離で同じ歩幅でステップを踏めば合わせられる。そう単純なものではなく、いくら体形が近くても歩幅には個人差がある。

「わたしが悪いの。同じところで遅れちゃって」

 千歌はもうステップが体に染みついているわけだから、今更になって掴んだ感覚を変えるとなると負担になる。最善なのは、曜が千歌に合わせること。

「違うよ。わたしが歩幅曜ちゃんに合わせられなくて」

 苦笑がちに千歌は言う。最初はすぐに合わせられる、とふたり揃って自信満々だったが、流石に10回目になってずれてしまうとその自信も喪失していく。

「まあ、体で覚えるしかないよ。もう少し頑張ってみよう」

 果南の言う通り、上手く動きが合わさるまで反復練習を重ねるしかない。何度も繰り返し、コツを掴めばその感覚を体に染み込ませなければ。もたついている間に本番までの期間は過ぎてしまう。

「じゃ、行こうか」

 果南が言うと、曜と千歌は再び間隔を開けて最初の位置につく。

「ワン・トゥー・スリー・フォー・ファイブ・シックス・セブン・エイト。ワン・トゥー・スリー・フォー・ファイブ・シックス・セブン・エイ――」

 また肩がぶつかってしまう。先ほどのとは別のところで。

「わたしが早く出すぎて………」

 さっきは上手くできていたパートまで失敗するとは。体力はそれほど消耗していないし、普段なら「まだまだ」と活力を漲らせることができる。でもこの時ばかりは千歌への申し訳なさで、とても前向きな思考ができなくなっていく。

「ごめんね、千歌ちゃん」

 頭をかきながら、曜は苦笑するのが精いっぱいの空元気だった。

 

 



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第4話

 

   1

 

 不可能犯罪の現場は毎度のこと騒然とし、鑑識たちは戸惑いの声を交わしている。人間の手では実行不可能だからこその「不可能」犯罪で、その犯行は想像の遥か上をいく。

 まるで嘲笑われているみたいだ、と誠は思った。お前たち人間にできないことが我々にはできる、と。

 犯罪の類型には劇場型犯罪というカテゴリがある。メディアに大きく報道され、世間に衝撃と動揺を与えることを目的とした犯罪。犯罪史上を辿ればロンドンの切り裂きジャックが代表例だろう。警察はアンノウンの存在を秘匿することに躍起だが、もしこの事件現場が報道されたら世間を騒がせることは間違いない。

 現場になったのは沼津市内のビジネスホテル。被害者は出張でこのホテルに宿泊していた香川県在住の40代男性だった。不可能犯罪の例に漏れず、捜査遅延のための身分証持ち出し等の隠蔽工作は一切なく、被害者の身元割り出しは容易だった。

 もっとも、被害者の身元が分かったところで、そこから捜査は泥沼にはまってしまうことになるのだが。

 誠の見上げる先。天井から被害者の死体はぶら下がっている。それも、スラックスに包まれた両脚だけ。床には片方だけ脱げた革靴と、ホテルの自動販売機で購入したと思われるビールの缶が転がっている。部屋で1杯やろうとしていたのだろう。

「見ましたか?」

 声をかけてきたのは、誠よりも遅れて現場入りしてきた北條だった。上階から戻ってきたらしい。上階にも捜査の範囲が及んでいる。何故なら上階の床からは、被害者の右腕が突き出しているからだ。

「まるで、コンクリートに吸い込まれたような殺され方だ」

 まだ現場検証は完了していないが、恐らく天井に穴を開けた形跡は発見できないだろう。アンノウンは人智を超えた力で被害者を天井に埋め込み殺害した。推理も何もあったものじゃないが、これが揺らぎようのない事件の真相だ。

「急いだほうが良いでしょう。G3-XとV-1システムの完成を」

 北條は強く言う。

「そして、どちらかがアンノウンを倒さなければならない」

 正直、両システムの有用性を競うことに関して、未だ誠は賛同することができない。競う意義を感じられない。でもこうして事件が起こってしまった今となっては、そんな根本の問題に思考を巡らせる余裕もなくなった。

 今は「力」が必要だ。

 G3の後を引き継ぐ、アンノウンに対抗できるだけの力が。

 

 

   2

 

 西の空から放たれる黄昏の陽光が、浮かぶ入道雲を茜色に染め上げている。昼間は蒼かった内浦湾も反射する色を変えて、藍とも朱とも取れるひと時のグラデーションを持っている。

 いつもなら千歌は自室の窓から、曜は帰路のバスの車窓から見るこの景色を、この日は海に面した近くのコンビニの駐車場で共有していた。他所から来た者にとっては何かセンチメンタルな気分になれそうだが、地元民のふたりにとっては毎日見ている風景で、特に感慨なんてものはない。ここに立ち寄ったのも、練習終わりの買い食いだ。ついでに土地が余りある地方ならではの広いコンビニ駐車場で、ダンスの練習に打ち込んでいる。

 結局、昼間の練習ではコツを掴めないまま時間ばかりが過ぎてしまった。3年生たちは生徒会の仕事を片付けるため、練習はいつもより早く切り上げた。でもやっぱり曜としては無為に1日を過ごすことを許容できず、千歌に練習を提案した。

 千歌はふたつ返事で賛成してくれたのだが、場所を変えても事は劇的に変わるわけでもない。

「ごめん」

 やはりふたり並ぶところで、距離を詰め過ぎてしまい方をぶつけてしまう。「ううん」と千歌はかぶりを振り、

「わたしがいけないの。どうしても、梨子ちゃんと練習してた歩幅で動いちゃって………。もう1度やってみよう」

 「うん」と応えながら、曜はふと気付く。梨子と練習していた歩幅。元々は梨子とのセンターだったのだから、相棒に梨子を想定して千歌が動いてしまうのは当然のことだ。いくら千歌に合わせようとしても、曜のステップで動いてしまえば、また失敗してしまうだろう。

 「じゃあ行くよ」と位置につく千歌を「千歌ちゃん」と呼び止め、

「もう1度、梨子ちゃんと練習してた通りにやってみて」

 「え、でも……」と戸惑う千歌に「良いから」と告げて曜は自分の位置につく。きっと、千歌も曜に合わせようと意識していたのかもしれない。それが動いているうちに梨子を相方としたステップを踏んで、それでタイミングがずれてしまったのだろう。上手くできるかは分からないが、やってみる価値はある。

「いくよ」

 千歌が位置についた頃を見計らって、再びステップを踏む。距離を取ったところで同じパートを踊り、次にふたりは歩み寄り背中が合わさりポーズをとる。

 一通りのパートで、初めてタイミングが合った。

「おお、天界的合致!」

 様子を見ていた善子が、意味の分からない称賛を飛ばしてくる。

「曜ちゃん!」

 千歌が驚きの混ざった、でも嬉しそうな声をあげる。

「これなら大丈夫でしょ?」

「う、うん……。流石曜ちゃん、凄いね」

 千歌が梨子との動きをしてしまうのなら、曜が梨子の歩幅を真似すればいい。至って単純な話だ。曜としても、1回目で成功するとは思わなかったが。後日果南に見てもらって、細かい部分に綻びがあれば調整しなければ。でも、昼間は全く合わなかったステップがようやくものになった。それだけでも今日の中では十分すぎる収穫だろう。

 スマートフォンの着信音が聞こえる。これは千歌の端末の音だ。

「あ、梨子ちゃんからだ!」

 隅に置いてある鞄から取り出した端末の液晶を見て、千歌は嬉しそうに声をあげる。それを聞いて、店内にいたルビィと花丸がアイスを手に出てきた。連絡してきたということは、もう現地入りできたのだろうか。

 ずっと笑顔で通話していた千歌は「あ、ちょっと待って。皆に変わるから」と端末を耳から離す。

「花丸ちゃん」

 たまたま近くにいた花丸にスマートフォンを差し出す。機械にあまり馴染みのない家庭で暮らす花丸は目の前の精密機械に慄きながら、意を決して声を出す。

「え、えーと………、もすもす?」

 緊張のあまり出た訛りで分かったのか、スピーカーモードに切り替わった梨子の声は少し離れた曜にも聞こえた。

『もしもし、花丸ちゃん?』

 「み、未来ずらあ!」と花丸は驚きのあまり仰け反ってしまう。既に数年前から普及している代物なのだが。「何驚いてるのよ」と隣にいる善子が呆れ気味に、

「流石にスマホくらい知って――」

『あれ、善子ちゃん?』

 電話越しに呼ばれ、善子は何かのスイッチが入ったのか「フフフ……」と不気味に笑う。

「このヨハネは堕天に忙しいの。別のリトルデーモンに変わります」

 とルビィを端末の前に差し出す。逃げたな、とこの場で思ったのは曜だけではなかっただろう。

『………もしもし?』

 険のこもった声で、電波を越えた先で梨子の呆れ顔が目に浮かぶ。恐怖を感じたのか「ピギイイイイッ」と悲鳴をあげながらルビィは駐車場に植えられたシュロの樹に隠れてしまう。

「どうしてそんなに緊張してるの? 梨子ちゃんだよ?」

 千歌が訊くと花丸は未だスマートフォンを凝視しながら答える。

「電話だと緊張するずら。東京からだし」

「東京関係ある?」

 ふと曜の視界にコンビニのビニール袋が映り、それを拾い上げる。ルビィが落としたものらしい。曜と千歌が頼んだミカン味のアイスが入っている。

「じゃあ曜ちゃん」

 そこへ、千歌がスマートフォンを差し出してくる。

「梨子ちゃんに話しておくこと、ない?」

 話すことか、と曜は逡巡する。報告すべきことはある。梨子のパートを曜が務めることになった。何かアドバイスがあれば聞いておいた方がいい。でも、この時それを聞くのは抵抗があった。

 有難いことに、スマートフォンがアラームを鳴らす。バッテリー残量が残り少ないらしい。

「あ、ごめん電池切れそう」

 「またって言わないでよ。‥‥‥まただけど」と罰が悪そうに千歌は苦笑している。何度も電話してるんだ、と思うと同時に何故か喉の奥が詰まったような感覚を覚える。作詞担当と作曲担当なのだから、電話で相談することくらいあるだろう。当然なのだが、どうしても意識に引っ掛かって離れようとしない。

 通話を切ると、千歌はスマートフォンを大事そうに抱える。まるで梨子との大切な繋がりと捉えているように。

「良かった、喜んでるみたいで」

 そう呟く千歌も喜んでいるようだった。千歌の喜びは曜の喜びでもある。幼い頃から一緒にいた曜と千歌は喜びも辛さも、抱いた感情を共有してきたと言っていい。曜が水泳の大会で優勝したときも千歌は自分のことのように喜んでくれたし、千歌の父が亡くなったときも曜はもうひとりの父親を失ったように悲しかった。

 でも今は、千歌の喜びに共感できない。手元のアイスを見て、曜は誰にも気づかれないほど小さな溜め息を漏らした。ふたつでワンセットになっている棒アイス。無意識にパックを割ったそれらが、まるで自分たちに見えてしまう。

「じゃあ曜ちゃん」

 不意に呼ばれ、「え……」と曜は人生の大半を共有してきた親友へ視線を向ける。

「わたし達ももうちょっとだけ、頑張ろっか」

 一切の邪さがない無邪気な顔で千歌は言う。その顔に陰りを降ろしたくなくて、曜は似たような笑顔を取り繕った。さっき梨子の動きを真似したように、この時の笑顔も千歌の真似と思わずにいられなかった。

「うん、そうだね」

 

 生徒会室の机には、未処理の書類やらファイルやらが山積みになっている。理事長として生徒会の事情もあらかた把握している鞠莉はともかく、果南は予想以上だったのか書類の山へ向けた呆れ顔をダイヤへと移す。

「こんなに仕事溜めて。ひとりで抱え込んでたんでしょ?」

 「違いますわ、これはただ……」とダイヤは言うが、見事に目が泳いでいる。もっとも、ひとりで抱え込んで、なんてことは果南も人の事を言えないのだが。どうせダイヤのことだから、兼部している他の役員たちに仕事を割り振れなかったのだろう。会長として容量が悪い。それが何事にも正直すぎるダイヤらしいことだが。

「仕方ないなあ。これからはわたしと果南が手伝ってあげましょう」

 そうおどけてみせて鞠莉は部活動予算案の紙を手に取る。その拍子に、山の頂から髪が1枚零れてしまった。床に落ちたそれは部設立の申請書で、承認の判が押されていない。そもそも、設立には最低でも5人必要なのに部員の欄にはふたりの名前しかない。

「あれは……?」

「スクールアイドル部の申請書ですわ。以前千歌さんが持ってきた」

 懐かしむようにダイヤは言う。まだ数ヶ月前のことなのに、鞠莉も懐かしさを覚えながら申請書を拾い上げる。まだ頭数も揃っていないのに活動を始めた千歌の話を聞いて、とても可笑しかったことはよく覚えている。でも同時にこの子なら、と希望を見出せた。予感は的中し、鞠莉はこうしてまたふたりと一緒にいる。

「あら、最初はチカっちと曜のふたりだったのね」

 「意外?」と果南が訊く。

「てっきりStartはチカっちと梨子だとばかり思ってマシタ」

 ふたりは曲作り担当だし、曜は水泳部との兼部だから。

「まあ、確かにそう見えなくもないですわね。今の状況からすると」

 ダイヤの言葉に、鞠莉は「そうデスネ」と頷きを返す。

 梨子は今年度に音ノ木坂学院から転入しているが、千歌との仲は随分と長いように傍から見て取れる。それだけ短期間でふたりは交流を深めてきたのだろう。でも、梨子よりも長く千歌といた曜はそれについて何を想っているか、何となく鞠莉には察しがついた。

 

 

   3

 

 小沢がGトレーラーに戻ってきたのは、誠が現場から戻って2時間後だった。

「どこ行ってたんですか小沢さん!」

 カーゴに入ってきた上司を尾室は荒げた声で迎える。尾室がこんな態度を取ってしまうのも無理はない。彼は誠たちがトレーラーを出払っていた頃、V-1システムの進捗状況を知らされていた。V-1システムは先ほど設計の最終調整を終えて、いよいよスーツの作製に入るらしい。

「G3-Xはどうするんです? まだ設計図もできてないじゃないですか。やばいですよこのままじゃ」

 新しいアンノウンの被害者が発生した今、一刻の猶予もない。先に完成したシステムの方が実戦に投入され、そのまま採用されるかもしれない。小沢にとっては不戦敗になる。

 まくし立てる尾室を無視して、小沢はひと言も発しないままデスクについてPCを立ち上げる。キーボードにかざされた小沢の指は、今まで見たことがないほどのスピードでキーを打ち始めた。液晶に映し出される数字とアルファベットの羅列は、コードの入力されるスピードに遅れ気味のように見えた。すぐにプログラムを書き終えたのか、小沢は新しいウィンドウを立ち上げてそこへまた猛スピードでコードを入力していく。

 プログラミングについて誠は全くの素人だから、小沢の組み立てるコードが何を意味するのか全く理解できない。プログラムの完成度よりも、小沢の迷いのなさに舌を巻いた。基礎的な部分はG3をベースとしているのだろうが、G3から発展させるべきもの、逆に排除すべきものを取捨選択し設計を進めていく。

 ほどなくして全てのプログラムが組み上がったのか、コンピューターはプログラムを3D化し全体像を自動算出していく。

「これが、G3-X………」

 画面に映ったシステムのデザインは、G3の装甲をより重厚化させた印象を受ける。単純にパワーは上がっているだろう。この短時間で設計図ができてしまうとは。後は微調整が残っているのか、小沢は引き続きキーを打つ。

「小沢さん、本当に天才だったんですね………」

 うっかり失言してしまった尾室はすぐ「あ、すみません」と謝罪する。作業に集中している小沢は耳に入っていないようで何の反応ないのだが、

「ひっく」

 不意に小沢の口から飛び出した奇声に、誠は尾室と共にびくり、と肩を一瞬震わせる。今のはしゃっくりか。天才でも小沢だって人間なのだから横隔膜の痙攣くらい起こすだろう、と思っていたのだが、誠はそこで小沢から放たれる臭気に気付いた。

 何やらニンニク臭い。それに酒の匂いもする。漂う、というより鼻腔を刺すような酸味のきつい。まさか酒気帯びでG3-Xを設計していたのでは。

 急激に不安が押し寄せてくるが、今は小沢の天才性を信じるしかなかった。

 

 

   4

 

 演習場の壁と天井を固めるコンクリートが、ゆっくりと進む誠の靴音を反響させる。地下演習場での訓練では実弾を使用するから、いつもは実戦同様G3システム全てを装備して臨んでいた。でも今はG3が大破し、後継機のG3-Xもまだ完成していない。今回の誠の装備は、インナースーツにG3の予備部品を流用した腕部と脚部のユニットだけと脆弱だ。ヘルメットも市販のバイク用を改造したもので、内部には通信用インカムとVRディスプレイが搭載されている。

『用意はいい? 氷川君』

 インカムから聞こえてくる小沢の声に「オーケーです」と応じる。

『このシミュレーションでは、実際にG3-Xを装着して敵と戦ったときと同じ負荷があなたの体に掛かることになる。あなたにはG3-Xが完成する前に完璧に扱いを覚えてほしいの。良いわね』

「はい」

 システムが完成した後になって訓練しては、いざアンノウンとの戦闘で本来の性能を発揮できない。スーツの完成と同時に実戦投入できるよう、装着員である誠はシステムを意のままに操ることを求められる。そのことに異論はない。完成を待つ間、アンノウンによる殺人が発生していても何もできないのはもどかしい。やれることがあれば、やっておくことに越したことはない。

『じゃあ、いくわよ。ARシミュレーション開始』

 視界――正確には頭部を覆うバイザー――に微かなノイズが走る。同時にずん、と体全体の重量が増した。視界を降ろすと纏っていないはずの胸部装甲が映っている。試しに右腕を振ってみる。装甲の重量感はあるが、動きを阻害されることはない。筋力補正もしっかり再現されている。インナースーツに張り巡らされた信号素子が、誠の神経に疑似的な信号を送っているからだ。拡張現実(Augmented Reality)を併用したシミュレーション。実戦と同様の環境を作り出し、より正確なデータ採集が期待される演習だ。

 再び視界にノイズが走る。前方数メートル先にモザイクが生じ、粗かった画素が精密になっていき、何度も対峙した異形の存在を形作る。

 仮想の敵として現れたのは亀の姿をしたアンノウンだ。G3で唯一撃破に成功した個体。アンノウンは映像には映らないが、グラフィックデザイナーは提供された資料を基に見事な異形ぶりを再現してくれた。

 アンノウンが駆け出し誠へと迫ってくる。右太もものホルダーからGM-01を抜き発砲。実際に弾丸は入っていないはずだが、ARによって右腕には反動を感じ、耳には銃声が入る。5発放った銃撃は1発も漏らすことなく命中するが、やはり牽制用の装備では堅牢な肉体に傷は付けることができない。命中した弾丸は全て弾かれ、床に落ちてからん、と軽い音を立てる。

 肉迫したアンノウンが剛腕を振りかざし、誠は左腕で防御する。実際に敵は存在しない。モニタリングしている小沢と尾室には、誠が貧弱な装備でひとり動き回っているように見えるだろう。だが誠の腕には送信された電気信号で衝撃が発生し、ほぼ実戦といって差し支えのない緊迫感をもたらす。敵の腕力とシステムの衝撃吸収機構から算出された痛みは微々なものだ。G3では間違いなく装甲が破損していた攻撃も、G3-Xなら理論上では耐えられる。

 受け止めた腕を払いのけ、がら空きになった胸に右拳を打つ。更に左拳でもう1発。敵の顔面を打った瞬間、左手に鈍い痛みが走った。咄嗟に手を抑えたことで敵の反撃を許してしまう。痛みを抑えつけ、誠は目の前の敵に集中する。

 右から拳を腕で防御、一瞬の隙を逃さず左手で顔面を殴打。更に腹部への膝蹴りを見舞い、体幹バランスを崩しにかかる。狙い通り、どっしりと構えていたアンノウンがよろめく。そこで敵の片腕を脇で固め、拘束しつつ顔面に拳を浴びせていく。

 拳を打つ毎に、腕の筋肉が軋みをあげていく。咄嗟に蹴りを入れた。反撃の隙は与えず、すかさず胸に渾身の拳を入れる。

 ぶち、という感覚が右腕を貫く。その感覚がはっきりとした痛みへと変わる前に、蹴りを入れた。

 アンノウンの体が大きく跳ぶ。地面に打ち付けられた敵は苦しそうに悶えた後、内部からの爆発で身を四散させた。

『お疲れ様。以上でシミュレーションは終了よ』

 小沢の声が聞こえ、誠はだらりと力の入らない腕を垂らす。シミュレーションに集中していたからか、いつの間にか自身の顔面が汗に塗れていることに気付く。呼吸も粗い。ヘルメットは密閉されていないが、顔の閉塞感からかいくら呼吸しても酸素が取り入れられた気がしない。

『氷川君、どうかした?』

 スピーカーから聞こえる小沢の声に「大丈夫です」と言おうとするが、声が出ない。ひどく喉が渇いた。ああそうだ、シミュレーションは終わったんだった、と遅れて気付きヘルメットのバイザーを上げようとする。でも、腕に力が入らない。

「氷川君!」

 また小沢の声が聞こえる。でもおかしい。スピーカー越しのはずがやけに音がクリアだ。視界がぼやけてくる。体の感覚も朧だ。自分が立っているのか座っているのかも分からない。ここはどこだ。僕はシミュレーションを終えて控え室で一息ついているはずでは。

 がしゃん、と金属のぶつかる音がした。何だ、何が起こった。続く小沢の声すらも遠くなっていく。

「氷川君、氷川君!」

 

 



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第5話

 

   1

 

 これで良かったんだよね。

 夏の虫たちが鳴き声を重ねている帰路の道中、曜は裡で自身に言い聞かせた。昨日にコンビニの駐車場でステップのコツを掴んだことで、この日の練習は順調に終えることができた。果南監修の下で千歌との連携も更に磨きがかかったし、後は曲全体の練習を通して細かいすり合わせを行えばいいとの見立てだ。

 何も憂うことなんてないはず。それなのに、何で自分はこうもすっきりと過ごせないのか。

「うりっ」

 不意に、そんな声と共に胸を鷲掴みにされる。羞恥よりもまず驚愕で、曜は全身を硬直させた。

「Oh! これは果南にも劣らな――」

 そんな痴漢者の言葉など最後まで聞く前に、羞恥と怒りが込み上げる。咄嗟に曜は、父親譲りの護身術で相手の腕と胸倉を後ろ手に掴み背負い投げを見舞う。相手もまさか反撃を食うとは思わなかったようで、受け身もとれず見事尻から地面に落とされる。

「Ouch!」

 その甲高い声と視界に入った金髪で、曜は痴漢の正体を驚愕の混ざった声で呼ぶ。

「ま、鞠莉ちゃん⁉」

 不可抗力とはいえ、先輩でしかも学校の理事長を背負い投げてしまった。ただ鞠莉のほうも自身の行いを自覚しているのか、文句を飛ばさず打った尻をさすりながら罰が悪そうに笑った。

 

「ねえ翔一い、もう十分じゃない?」

 桐箪笥にモップをかけながら、美渡が疲れたように間延びした声色で言う。「何言ってんの」と翔一は揚々と箪笥を指で擦りながら、

「まだこんなに埃たまってるんだから、もっと丁寧に拭かないと」

 「うへえ」と美渡はモップ掃除を再開する。いくら文句を言ったところで、今の翔一は止められそうにない。千歌も練習から帰ってきていきなり掃除に駆り出されているが、頭にタオルを巻いて張り切る翔一を見ると喜んで手伝う気になれた。

 良かった、と裏庭で座布団の埃を叩き落としながら千歌は笑みを零す。ここ最近、翔一は塞ぎ込んであまり家事をしなかったから。料理は欠かさず作ってくれたけど、あまり手の込んだものがなくて味気なく感じていた。理由は分からないけど、結果として彼が元の翔一に戻ったのだから気にすることはない。

「でもどうしたの? 急に大掃除だなんて」

 床の畳を箒で掃きながら志満が訊くが、長姉もどこか嬉しそうにしているのが分かる。

「しばらく掃除サボっちゃってましたから。この際綺麗さっぱり片付けましょうよ」

 何でも今日は朝から掃除しているらしいのだが、翔一は疲れた様子なんて微塵も見せない。

「美渡、この箪笥どかすからそこ持ってよ」

 「えー?」と指名された美渡は口を尖らせる。それでも翔一はお構いなく、

「こういう目に見えない所にこそ埃が溜まるんだからさ。ほらほら早く。俺これ終わったら夕飯作らないと」

「もう………」

「あ、あと美渡の部屋も掃除しといたからさ。いやあ散らかってて大変だったよ」

「ええ⁉ ちょっと勝手に掃除しないで、て言ったじゃん!」

「だってお菓子の袋とかそのまんまだったから。流石に俺も見てられなくて」

 「はあ……」と溜め息を垂れながらも、美渡は翔一の反対側に手をかける。「せーの」という掛け声で箪笥を持ち上げたとき、翔一は顔に浮かべていた笑みを一気に冷まし明後日のほうを向いた。

 ぞわり、と千歌の背中に冷や汗が伝う。その表情の意味を知らない美渡は「翔一?」と眉を潜める。

「ごめん、俺ちょっと!」

 持ち上がった箪笥から手を離し、翔一は頭からタオルを無造作に取って玄関へと走り出す。落下の衝撃で揺れる箪笥を支えながら、美渡は「ちょっと翔一!」と声を荒げた。

 その文句も、千歌の視線にも気付かないまま、翔一はヘルメットを手に外へ飛び出していった。

 

 

   2

 

 沼津湖にある水門「びゅうお」は震災時に発生する津波を防止するために建造された。平常時には運用されず、曜もまだ10数年の人生の中で閉じたところを見たことがない。とはいえ400トン以上の扉体を支える巨大建造物は地方集落の沼津では珍しいもので、巨体を活かし地上約30メートルの連絡橋に展望デッキを併設することで観光施設としての役割を果たしている。前後ガラス張りのデッキからは蒼い駿河湾、目を転じれば緑生い茂る沼津アルプスも望めて、自然の雄大さに嘆息できるだろう。

 景色は間違いなく絶景なのだが、平日の夕方にびゅうおの展望デッキには曜と鞠莉のふたりしかいない。水門には展望台以外には売店もアトラクションもないから、娯楽施設としてはセールスポイントがあまりない。しかもワンコインだが入場料を取られる。地元民は必ず1度は来る場所だし、また来たいか、と訊かれてもそれほどの価値があるとは残念ながら言い難い。

 何故ふたりがこんな水門の展望台にまで足を運んだかというと、鞠莉からの誘いだった。鞠莉はまだ沼津に戻って数ヶ月だから、久々の景色を楽しみたいのだろう、と曜は予想していた。でも、それは少しばかり外れたらしい。

「チカっちとはどう?」

 デッキに着いて早々、鞠莉は景色を眺めることなく切り出す。

「千歌ちゃんと?」

「ハイ、上手くいってなかったでしょう?」

「ああ、それなら大丈夫。ふたりで練習して上手くいったから」

 そもそも鞠莉だって今日の練習に参加していたのだから、千歌とのステップが合っていたことは知っているはず。「いーえ」と鞠莉はかぶりを振り、

「ダンスではなく」

「え?」

「チカっちを梨子に取られて、ちょっぴり――」

 唐突に鞠莉は両腕を伸ばし「嫉妬fire!」と歌いだす。

「が燃え上がってたんじゃないの?」

「し、嫉妬⁉ まさかそんなこと――」

 言葉では一蹴できても、挙動までは取り繕うことができず曜は真正面にいる鞠莉から目を逸らす。嫉妬なんてあるはずない。梨子だって大切な友達なのだから。千歌との息が合わなくたって、元は梨子とのダブルセンターなのだから急遽曜が相方になればずれが生じるのは当然のこと。嫉妬する理由がない。

「ぶっちゃけtalk!」

 と鞠莉は曜の両頬を掴んで視線を矯正するどころか、頬を引っ張ってくる。さっきの背負い投げの仕返しか。

「する場ですよここは」

 だから人気のないびゅうおを選んだということか。解放された曜は頬をさすりながら金髪の先輩を見上げる。

「鞠莉ちゃん……」

「話して。チカっちにも梨子にも話せないでしょ?」

 そう言って鞠莉はベンチに座ると、「ほら」とその隣に曜を促す。普段は自由奔放な面が目立つのに、いざこういう先輩らしいところを見せられると調子が狂う。何だか練習よりも疲れた気がしたが、曜は促されるまま鞠莉の隣に腰掛けた。

 何から話せばいいのか逡巡する。この気持ちはどう言葉に表せばいいのだろう。こういう改まった時に限って上手くできない。普段なら小手先で大抵のことはできてしまうのに。自身に呆れながら、曜は未だ取りまとめのつかない裡を何とか言葉として紡いでいく。

「わたしね、昔から千歌ちゃんと一緒に何かやりたいな、てずっと思ってたんだけど。そのうち中学生になって………」

 中学に進学した曜は迷わず水泳部に入った。幼い頃から続けていたことで、他の部に入ることは選択肢に入れていなかった。千歌も誘ったのだが、他の部も見てから決める、というのが返答だった。だから気長に待って進級してからでも中途入部を勧めてみよう、と思っていた。でも2年生になって間もなく、千歌の父が何者かに殺されてしまった。大好きだった父親を殺された千歌の落ち込む様は傍にいた曜でさえ辛くて泣き出してしまいそうで、とても部活なんて誘う余地はなかった。結局千歌は帰宅部のまま中学を卒業して、高校でも中学の延長だと思っていた。

「だから、千歌ちゃんが一緒にスクールアイドルやりたい、て言ってくれたときは凄く嬉しくて。これでやっと一緒にできる、て思って」

 千歌の夢は曜の夢。千歌が輝きたい、と願うなら、曜も千歌の隣で一緒に輝きたい。ふたりならできる、と信じて疑わなかった。

「でも、すぐに梨子ちゃんが入って、千歌ちゃんとふたりで歌作って、気付いたら皆が一緒になってて。

 仲間が増えたことは素直に嬉しい。梨子のお陰でAqoursの曲を作れるようになったし、後輩だってできたし、3年生が入ってくれたお陰で歌もダンスにも磨きがかかった。仲間の存在が喜ばしい事は、そこから生まれる疎外感を否定する根拠にはならない。大勢で楽しそうにスクールアイドル活動に励む千歌。その隣には梨子がいて、ふたりの間に曜が立ち入る余地はない。千歌の隣にいるのはいつも自分だったはず、という自負は崩れていき、千歌にとっての渡辺曜という存在が疑わしくなっていった。

「それで思ったの。千歌ちゃん、もしかしてわたしとふたりは嫌だったのかな、て………」

 視界が霞んでくる。いつの間にか涙が浮かんでいたらしい。ああ、確かに嫉妬だ、と裡で自嘲する。ただ長く一緒に過ごしてきただけなのに、どうしてそれが千歌の隣にいられる理由になれるというのか。

「Why? 何故?」

 素朴な疑問を鞠莉は向けてくる。「わたし、全然そんなことないんだけど――」と前置きし曜は応える。

「何か容量良い、て思われることが多くて。だからそういう子と一緒に、てやりにくいのかな、て………」

 思い返してみれば、幼い頃から曜と千歌は何かと比較されることが多かった気がする。毎年、夏休みの終盤になっても千歌は宿題が終わっていなくて、序盤で既に終わらせていた曜が手伝っていると決まって美渡から皮肉を言われていた。

 ――少しは曜ちゃんを見習いなよ――

 家庭科の授業で、課題の裁縫が上手くできない千歌を見かねた教師も、

 ――渡辺さん、高海さんにやり方教えてあげて――

 水泳部の先輩から言われた何気ない一言。

 ――渡辺さんとあの子って、何か対称的よね。あの子何か普通、ていうか――

 千歌は決して何事にも劣っているわけじゃない。それなのに、一緒にいる曜が多少人より手先が器用なばかりに、常に比較され劣等性というレッテルを貼られているのだとしたら、曜の存在は千歌にとって毒でしかないのかもしれない。

 今が、千歌ちゃんと離れる良い機会なのかな。そんなことが脳裏に浮かび上がってきたところで、

「ていっ」

 不意に頭に手刀を叩かれた。結構強めで「いたっ」と反射的に声をあげる。すかさず鞠莉は両頬を手で覆い、強引に曜の顔を至近距離で向かい合わせる。

「何ひとりで勝手に決めつけてるんですか?」

「だって――」

 抗弁の余地も与えてくれず、鞠莉は曜の顔を「うりゃうりゃ」と弄んだ後にようやく放してくれる。

「曜はチカっちのことが大好きなんでしょ? なら、本音でぶつかったほうが良いよ」

 本音。その言葉に重みを感じると、鞠莉は包み隠すことなく少し恥ずかし気に笑う。

「大好きな友達に本音を言わずに、2年間も無駄にしてしまったわたしが言うんだから、間違いありません」

 

 狩野川からの水が海へと放たれる用水路までバイクを走らせた翔一は、感じ取れる異形の存在を頼りに迷うことなくハンドルを傾け方向転換する。トンネルを抜けて空間が開けると同時、眼前に黄色い影が掠めた。咄嗟にバイクを急停止させる。シートから降りて振り返ると、そこには人型のシルエットでありながらハチのような複眼を持ったアンノウンが翔一を睨んでいる。傍には腰を抜かした壮年の女性が、怯えに顔を歪ませて息も絶え絶えに場から離れようとしている。恐らくアンノウンの標的だろう。アンノウンのほうも翔一の存在を察知しこの場での標的を切り替えたらしい。間に合って良かった。

「変身!」

 翔一は変身した。その姿にアンノウンは「アギト!」と憎しみを込めた声で呻き、頭上の光輪からレイピアのような細身の剣を引っ張り出す。縦横に繰り出される剣戟を避け、翔一は敵の腹に拳を打つ。あまり手応えがない。アンノウンは寸でのところで後退し衝撃を最小限にしてみせたようだ。「フッ」とニヒルに笑い、再びレイピアを突き出してくる。剣の軌道を手で逸らし、肉迫したところで腕を掴み投げ飛ばす。だがアンノウンは素早く立ち上がり武器を構え、間合いを取りながら攻撃のタイミングを窺っている。

 何て素早い相手だ。見切れなくはないが、徒手空拳の構えでは分が悪いか。敵の剣を避けつつ背後へ回り、背中に蹴りを入れて距離を取る。ベルトの球からハルバードを取り出し、超越精神の青(ストームフォーム)へと姿を変える。

 振り降ろされたレイピアをハルバートで防御し、弾くと同時に先端の刃を胴めがけて滑らせる。だが敵も強化された翔一のスピードに追随し、寸前にレイピアで刃を阻む。一瞬の隙。アンノウンは俊敏に体を反転し、勢いを増した蹴りを翔一の胸に叩き込む。

 スピードに上乗せされたパワーで、翔一の体は狩野川の対岸にまで突き飛ばされた。敵が跳躍し、川を飛び越えようとしてくる。翔一もすぐさま立ち上がり跳躍した。河川上空で両者が交差し、すれ違うその一瞬を見極めた翔一は眼前へ突き出されたレイピアを紙一重で避けつつ、その胴にハルバートを一閃する。対岸へ渡ると同時、両断されたアンノウンの体が川に着水し爆発の飛沫をあげていった。

 敵の最期を見届けた直後、また頭蓋に戦慄が走る。察知した方へと視線を転じると同時、第2の敵が跳びかかってきた。咄嗟にハルバートを突き出し、いなされると同時に顔面へ拳をぶつける。

 さっきのと同じハチのような姿をしたアンノウンだ。呻き声が女のようで、さながらメスバチといったところか。お仲間を殺されたことで大層ご立腹らしく、その拳がハルバート越しでも重く圧し掛かる。どうやらパワーとスピードは先のオスバチよりも高いらしい。メスバチは翔一のハルバートを手から弾き落とし、首に手をかけてくる。みし、と首筋を締め付けられる寸前に腹への蹴りで引き剥がし、ベルトから刀を引っ張り出して超越感覚の赤へと変わる。

 剣を構え、相手の出方を窺いながらじりじり、と間合いをゆっくり詰めていく。向こうもまた翔一の動きを探っているようで、翔一は1歩進むと向こうも1歩後退し間合いを保ち続ける。

 来ないのなら、こちらから先手を切らせてもらう。

 翔一は上段から刀を振り降ろす。避けられ、背後へ回られたところで背中に肘打ちを食らってしまう。すかさず刀の柄で敵の脇腹を突き、怯ませたところで刀を一閃する。首を狙ったのだが、咄嗟に頭を傾けられたことで額から突き出した触覚の1本を落とすに留まる。だが掠り傷でも負傷したことに脅威を感じたのか、メスバチは背中の羽を震わせ飛び経つ。追跡しようにも、敵は山陰に隠れてしまった。いくらアンノウンの存在を察知できる翔一でも、常に感じ取れるわけじゃない。ここで追ったとしても、悪戯に体力を消耗して満足に戦えはしないだろう。

 ふと視線を降ろす。切り落とされたメスバチの触覚はほどなくして、蒸発するように塵となって霧散していった。

 

 

   3

 

『血縁関係がない? どういうことかね?』

 不可能犯罪捜査本部報告会の場で、警備部長が液晶の奥から怪訝な顔を向けている。第1の殺人から1週間も経たず、ふたり目の被害者が出てしまった。被害者が発見されたのは勤務先である沼津市内のビルで、死体はコンクリートのビル壁に埋め込まれ腕だけ突き出した状態だったという。

 同一個体のアンノウンによる犯行というのが、捜査員たち全員の推理だ。同じ個体ならば血縁者を狙うはず。だから捜査本部は、香川在住の第1の被害者の親族へと護衛の刑事を向かわせた。香川県警に協力を要請したのだが、アンノウンという懐疑的な存在のために人員を割けない、と突っぱねられ、沼津署の捜査員を出向させる羽目になった。だから今回の犯行は捜査本部にとって完全に不意打ちだったわけで、現場の刑事たちはこぞって戸惑いの表情を浮かべている。何せ香川にいる遺族は無事で、まさかの近場で事が起こってしまったのだから。

『アンノウンは血の繋がった親族を襲うはずだが』

 不可能犯罪の例に漏れず、現場から被害者の身分証は持ち去られていない。だから身元の割り出しは迅速に行われる。河野がその結果を読み上げる。

「それが、ふたりの被害者たちはお互いまったくの他人で、血縁関係はありません」

 誠は未だ軋む手で資料の束をめくる。シミュレーション中に昏倒してしばらく安静にしていたから第2の現場には訪れていないが、誠が赴いたところで新しい発見があったなんて傲慢さは持ち得ていない。

「もしかしたら――」

 ここまで静観を決め込んでいた北條が口を開く。議場にいる全員の視線が集中し、補佐官が『何かな、北條主任』と促す。

 ややあって、北條は言う。

「昨日、アンノウンに襲われたという女性の証言によりますと、アギトと戦ったアンノウンが1体逃走しています。その際に受けた傷が、アンノウンの行動と関係があるのかもしれません」

『傷を負ったアンノウンが暴走を始めた………、といことか?』

 補佐官が重々しい声色で訊く。「はい、あるいは」と北條が簡潔に答えると、画面の中にあるその顔が青ざめていくのが見て取れる。ただでさえ警察の手に余るアンノウンが無差別に人を襲うなんて、いよいよ対処方がなくなった。しかもG3が大破した今という、最悪のタイミングで。

『G3-X及びV-1システムの進捗状況はどうなっている?』

 警備部長の質問に、間髪入れず北條が「順調です」と即答する。

『これ以上アンノウンによる被害者を増やさないためにも、一刻も早い両システムの完成を期待している』

 急がなければ悪戯に被害者は増え続ける。アギトがいるから心配ない、なんて悠長に構えてはいられない。G3-Xもスーツの製造に入っている。小沢が完全な対アンノウン用戦闘システムとして開発されたG3-Xの性能は疑っていない。扱えるかどうか、それは誠の肩にかかっている。

 僕がしっかりしなければ。

 自然と腕に力が入るのだが、びり、と走った鋭い痛みに顔をしかめる。

「どうした?」

 隣に座る小沢に気付かれた。「何でもありません」と誠は答え、額に浮いた玉汗を手で拭った。

 

 人間の筋肉とは、本人が意識していなくても使われているものだ。何か動作をするときは勿論、寝床で横になっているときでさえ、姿勢を安定させるためにどこかの筋肉が使われている。だから、あまり負担をかけないよう意識しながら歩いていても、誠の無意識のうちに収縮する筋繊維は悲鳴をあげてくる。

「氷川君?」

 会議からGトレーラーへ戻る道中、危うく崩れそうになった膝を抑えつける誠に小沢が探るような視線を向けてくる。「いえ――」と上手い言い訳を考えようとしたとき、北條が近付いてきたのは幸いというべきか。

「象徴的ですね、氷川さん」

 「どういう意味よ?」と小沢の興味が移る。北條はこちらへと歩きながら、

「あなた方G3ユニットも、足元が危ないということです。V-1システムがG3-Xより優れているということが証明されれば、当然G3ユニットは解散になる」

「何言ってんの下らない」

 足を止めた北條は「下らない?」と反芻して次に「どうかな?」と鼻で笑い、

「V-1プロジェクトのリーダーはあなたの恩師にあたる高村教授だ。あなたの手の内は全て知っています」

「私は高村教授の全てを知っている。でも彼は私のごく一部しか知らないわ」

「相変わらずはったりだけは天才的だ。ま、すぐに答えは出ますよ」

 北條は小沢への眼光を鋭くする。

「V-1システムは勿論、私が装着します。私に相応しいシステムをね。今度こそ、私の本当の力を発揮できるでしょう」

「面白いおとぎ話ね」

「あなたの与太話よりはましですよ」

 散々痴話喧嘩を繰り広げてようやく気が済んだのか、北條は再び歩き始める。

「北條さん」

 誠が呼ぶと、北條はまた足を止め小沢に向けたのと同じ、いやそれ以上に鋭い眼光で振り返る。それに臆することなく、誠は宣言する。

「僕は負けません。必ず、あなたに勝ってみせます」

 

 



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第6話

   1

 

 朝から絶えず響いているセミの鳴き声は人によっては夏の風物詩として風情を、または騒音とで感性が分かれる。まだ高校生の曜にとっては夏休み中と知らせてくれるもので普段なら陽気でいられるのだが、この日ばかりはセミの声なんて意識の外へと追いやられていた。

 本音をぶつける、か。

 学校までの丘の坂道で、昨日鞠莉から告げられた言葉が強く裡で響く。千歌とは普段から何事も包み隠さず言える間柄だ。だから改まって本音を告げる必要なんてない。表面的にはいくらでもそう言えるが、裡の深いところへ潜り込むとなると、相当な勇気を必要とする。昨日鞠莉に打ち明けた「本音」こそ、千歌に言えていない。

 言おう。いつものように千歌と話して、その会話の中で本音を投げかければいい。千歌なら曜に応えてくれるはずだ。迷いを振り切るように首を振り、校舎へと足早に歩いていく。

「おはよー!」

 いつものように声を張って部室に入ると、既に他の面々は集まっていて練習着に着替えを済ませている。その中で「あ、曜ちゃん!」と待ち構えていたかのように千歌が駆け寄ってきた。

「見て見てこれ!」

 「ほら」と千歌が示す右手首に髪留めのシュシュが付けられている。

「わあ、可愛い」

 オレンジ色というのがまた千歌らしい。

「どうしたのこれ?」

「皆にお礼だ、て送ってくれたの。梨子ちゃんが」

 その名前を聞いた瞬間、曜は喉の奥で何かが引っ掛かるような感覚を覚えた。他の面々も梨子からの贈り物を見せるように、シュシュを付けた右手を掲げる。メンバーによって色が違うらしい。

「梨子ちゃんもこれ付けて演奏する、て」

 千歌はとても嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。本当に嬉しんだろうな、と曜は思った。千歌はそういった感情は隠さない。

「曜ちゃんのもあるよ」

 「はい」と差し出された水色のシュシュを受け取りながら「ありがとう」と返事をする。

「特訓始めますわよ!」

 ダイヤが告げると、皆は「はーい!」と返事をして部室から出て行く。

「曜ちゃん着替え急いでね」

 部室を出る直前に千歌が言った。

「千歌ちゃん!」

 咄嗟に呼ぶと、千歌は足を止めて振り返る。曇りを一切も帯びていない彼女の顔はとても眩しくて、いつものように長く直視することができなくなる。もし本音をぶつけたら目の前の顔に陰りを覆ってしまいそうで、曜は怖気づいてしまう。自分のせいで、千歌の笑顔を消したくない。

「頑張ろうね」

 曜はそれしか言えなかった。その裡を知るはずもない千歌は「うん!」と元気よく応じた。

 

 

   2

 

 どれくらい時間が経っただろう。診察室を前にした廊下の長椅子に腰掛けながら、誠は腕時計を見やる。小沢に病院まで連れてこられてから既に2時間は経った頃で、昼食時も過ぎているから空腹だ。

 あの北條との痴話喧嘩の後、小沢は誠の異変を忘れることなくそのまま病院へと引っ張った。道中に何度も大丈夫です、と誠が言っても聞かず、到着してすぐ即日検査を取りつけ誠はMRIによる全身スキャンと整体師による触診を受けた。しばらくして検査結果が出たとのことで診察室へと通されたのだが、何故か本人である誠は入れず小沢のみが結果を医師から聞いている。その間、誠は完全に手持ち無沙汰だった。

 誠自身、自分の身に起きていることは分かっている。何も誠だって、そこまで鈍感じゃない。入浴に服を脱いだ際、両の上腕が赤黒く腫れあがっているのを見たし、歩くだけでも脚に激痛が走り先ほどのように気を抜けば崩れてしまう。正直、今こうして座っているときでさえ腹筋と背筋が鈍く痛む。恐らく、G3-Xの強力なパワーによる負荷に耐えられなかったのだろう。シミュレーション上とはいえ、アンノウンを徒手空拳で撃破してしまうほどだ。いくらスーツに負荷軽減機構が搭載されているとしても、完全には抑えられない。装着員自身にも、ある程度の適性が必要ということだ。勿論、G3プロジェクトの際に誠は適性を認められて装着員として抜擢された。でもG3での適性が、そのままG3-Xへ持ち越されるとは限らない。

 僕じゃ、駄目なのか。

 全身に刺さる痛みのせいか、そんな弱気が出てしまう。気分を変えようにも何も思いつかない。同年代の若者なら、こんなときはスマートフォンでゲームでもするだろうが、そんなアプリケーションを誠は端末にインストールしていない。そもそも今は就業時間内だ。

 診察室のドアが開かれた。「お大事にね」と女医が言うと、小沢は「お世話になりました」と頭を下げる。誠も礼くらいはしたかったが、軋む体を持ち上げるのもやっとで、腰を上げた頃には女医も診察室へ引っ込んでしまった。

「どうでした、小沢さん?」

 内科系統は異常なしのはずだ。おかしな症状はないし、触診でも痛みに無反応を貫いたから整形外科のほうでもおそらく隠し通せたはず。

「しばらくここで静養しなさい」

 淡泊に小沢は言い放つ。でもすぐ嘆息交じりに、

「と言っても聞かないでしょうね………」

 流石に医師の目は欺けなかったか。きっと小沢は誠の体が表面上取り繕っている以上に深刻な状態だと聞かされたのだろう。誠自身、素人ながらでも筋肉の炎症程度で済まないことは分かる。恐らくは筋繊維の断裂。それも広範囲で。でもだからといって、今ぬくぬくと休んでいられる状況でないことは事実だ。

「そんな必要はありません。僕なら本当に大丈夫ですから」

「………馬鹿ね、あなたも」

 

 痛みに耐えながらGトレーラーへ戻ることができたが、そこで一息つくほどの余裕はない。

「氷川君、あなたではG3-Xを扱うのは難しいわ」

 その宣告が皮肉にも、誠に体中の痛みを一時でも忘れさせてくれる。

「僕ではG3-Xの装着員として相応しくないと?」

「はっきり言ってその通りね」

 何事も包み隠さず言ってくれる小沢の性分は有難いものだが、この時ばかりは流石に堪えた。G3装着員から外されるときも小沢は誠を強く推薦してくれたというのに。

「勘違いしないで。あなたは立派よ。何よりも人命を守るために自分を投げ出す勇気がある」

 小沢はそう言ってくれるが、誠にとっては褒められるほどのものでもない。人命を守るのは刑事として当然のことだし、相対する者がいくら脅威でも臆せず立ち向かうのが自分の仕事だからだ。誠としてはただ仕事をしているだけ。

「でもG3-Xを操るにはそれだけでは十分とは言えない。G3-Xには敵と対したとき、装着員に理想的な攻撃を促すAIが搭載されているの。G3-X自体がある程度の意思を持っていると言って良いわね」

 いまいち得心できない。あのシミュレーション時、誠の攻撃は全てAIの指示だったのだろうか。誰かに指示された記憶はない。ただ、戦っているうちに意識が遠くなっていたことしか覚えていない。筋断裂を起こした痛みによるものと思っていたが、あの意識障害もAIによる作用だったのか。

「装着員はその意思と同調しなければならない。あなたにはそれができないのよ。あなたの場合、体に無駄な力が入りすぎているのよ。それがG3-Xの意思と拮抗して、ただ動くだけでもあなたの体に余計な負荷が懸かりダメージを受けた」

「無駄な、力………」

 つまりこの体の痛みは、誠が無意識のうちAIに抵抗してしまったから生じたということだ。AIに従っていれば適切な筋力で動き、補正システムも作用する。誠のように抗おうとすれば、それらの補正のバランスが崩れむしろ装着員を傷付ける諸刃の剣になる。

 それまで静観していた尾室が口を挟んだ。

「でも氷川さんが無理だとすると、誰がG3-Xを装着するんですか?」

「それについては目を付けている人物がひとりいるんだけど………」

 小沢さんが目を付けているのなら、きっと優秀な人に違いない。他人事のようにぼんやり思っているところで、カーゴに通信が入る。

『静岡県警から各局、沼津市明治資料館、アンノウンらしき生命体出現』

 小沢がインカムを耳に付けると同時、別のところから通信がオープン回線で入る。

『V-1システム、出動します』

 その嫌でも聞き慣れた声に、小沢が「何ですって⁉」と声をあげる。

『状況は中継映像で確認せよ』

 小沢のPCに映像ウィンドウが送信されてくる。尾室と誠が覗き込む画面のなかで、ハチのような姿のアンノウンが青年の頭を掴みコンクリートの壁に押しやっている。恐らくマスクに搭載されたカメラをユニットだけでなく各局へオンラインに中継しているのだろう。

 装着員の視点で撮影されている映像のなかで、アンノウンの複眼がこちらへと向けられる。近接戦の間合いには程遠い距離で、映像の中に銀色の装甲に覆われた腕が移り込み、その手に握られた拳銃の引き金が引かれる。銃口がマズルフラッシュを散らすと同時、アンノウンの右手が弾かれるように青年の頭から離れた。突然の襲撃者に怒った様子のアンノウンは、標的だった青年を置いてこちらへと肩を鳴らしながら近付いてくる。

 その胸に弾丸が撃ち込まれ、その体を大きく仰け反らせる。G3のGM-01では牽制にしかならないのに対し、こちらの銃は効果的なダメージを与えられている。更にもう1発。今度は眉間に命中した。

 額を抑えたアンノウンが、背中の羽を振動させ空へと飛び経っていく。銃の射程圏外へ逃げられたからか、装着員は銃を降ろした。

『V-1システム、北條から静岡県警。アンノウン排撃に成功。まだテスト段階のため追跡は控えます』

 通信と映像が同時に切られる。一泊置いて、尾室が上擦った声で喚いた。

「何ですかこれ⁉ まだコンペも終わってないのに勝手に出動するなんて!」

 どか、と小沢は椅子の背もたれに背中を預け、

「らしいと言えばらしいわね。こういうスタンドプレーは北條透の得意とするところだし。人命救助の名目があれば上も目を瞑るでしょ」

「そりゃそうですけど。でも、アンノウンを追っ払って………」

 既に実戦での戦績を挙げたとなれば、コンペティションで優位に立てる。実戦投入に足る性能を証明してみせたV-1システムと、まだシミュレーション上での結果しか残せず、しかもAIによる装着員への負担という問題を抱えたG3-X。

「ヤバいんじゃないですか小沢さん。G3-Xはどうなってるんです?」

 自分たちを取り巻く状況を、尾室がはやし立てる。

「こっちはG3を造ったスタッフが全力を尽くしているのよ。多少の遅れはすぐに取り戻せるわ」

 G3-Xの製造は、G3開発に携わってエンジニアチームに引き続き委託している。基本設計はG3の延長線上にあるから、コンペティションまでには間に合うとの見立てだ。でも、いざスーツが完成しても装着員が不適任では元も子もない。いくらAIによるアシストがあっても、AIと同調できるかの素質も問われるのだから。

 先ほど有耶無耶になりかけた会話を誠は掘り返す。

「小沢さん。G3-Xの装着員として目を付けている人物がいるとのことですが」

「ええ」

「会わせてもらえませんか? その人物に」

 大した戦績は上げられなかったが、誠にもG3装着員としての誇りがある。会って、その人物がG3-Xの性能を最大限引き出すに足る人物なら、素直に身を引いてもいい。

「え、でもそれって………」

 見やると、尾室がにやにやしながら自身を指さしている。しばらく無言のままでいると、小沢が沈黙を破った。

「行くわよ」

「はい!」

 尾室はまずない。絶対にない。

 

 

   3

 

 小沢に着いて訪問したG3-X装着員候補の家は、誠にとっても既に馴染み深いところだった。年季の入った木造の柱に、夏の湿気を吸い取ってくれる畳。開け放たれた窓から入ってくる風が、窓際に吊るされた風鈴をちりん、と鳴らす。

「どういうことですか小沢さん? 何故高海さんの家に?」

 ここでその装着員候補と待ち合わせるのだろうか。そう思っていると、「お待ちどおさま」と翔一がお盆を手に台所から出てくる。お盆をテーブルに置くと、お盆の上にあるガラスの器の中で、水に浸された白い豆腐がぷるん、と揺れた。そのお茶請けに小沢は気を良くして頬を綻ばせる。

「冷奴ね。随分乙なものを出してくれるじゃない」

「ええ、夏といえばやっぱこれでしょう」

 朗らかに言いながら翔一は誠たちの前に手際よく箸と小皿を並べてくれる。

「ところで何です今日は? 志満さんも美渡も千歌ちゃんもまだ帰ってませんけど」

「今日は君に用があって来たのよ」

 手を止めて目を丸くする翔一に小沢は尋ねる。まさか、と誠は小沢の意図を悟る。

「ビールは無いの?」

「すみません、お客さん用のはあるんですけど勝手に出したら不味いので」

「冷奴だのビールだの、そんな場合ではありません」

 ふたりの間に誠が割って入った。そもそも小沢は仕事中に飲酒するつもりか。G3-Xの設計時もアルコールが入った状態で作業していて気が気でなかった。

「小沢さん。まさかG3-Xの装着員に目を付けている人物って――」

「そう、彼よ」

「ちょっと待ってください! 何故彼なんです? 全くの素人じゃありませんか。しかもよりによって――」

 こんな戦闘とは程遠い人間に。そう言おうとしたが、翔一の素朴な疑問に遮られる。

「何ですG3-X、て?」

 まあ、当然の疑問だ。いきなり尋ねてきてG3-X装着員として警察に協力してほしい、なんて不躾にもほどがある。まずはしっかりと説明し本人の同意を得なければなるまい。もっとも、誠はこの人選に不満しかないのだが。小沢が目を付けたのだからきっと優秀な人材だと思っていたのに、どうしてこんな戦闘スーツよりエプロンのほうが似合う男なのか。

 誠の不満をよそに、小沢は冷奴をつまみながら簡潔だがG3-Xの説明を始めた。システムの運用目的と戦う対象――つまりはアンノウンと、システムが及ぼす可能性のある弊害のこと。それらを守秘義務なんてお構いなしにべらべら、と。

「じゃあ俺がG3-Xとかを着てアンノウンと戦え、て?」

 大雑把ながらも理解した様子の翔一に「そうね」と小沢は応じ、

「見たところ君はいつもリラックスしていて緊張感というものがまるでない。それが良いのよ」

「無茶です。非常識すぎます」

 説明の間ずっと黙っていたが、とうとう我慢できず誠は告げる。

「何か面白そうですね」

 と翔一が言った。まるで新しい遊びに誘われたかのような物言いだ。小沢の説明を聞いていなかったのか。

「面白そう? 冗談じゃありません。遊びじゃないんだ」

 自然と声が荒くなる誠を「まあまあ」と翔一は(なだ)めながら、

「氷川さんそうムキにならないで。あれ、食べないんですか冷奴?」

 「取りましょうか?」と伸ばされた翔一の手を拒み、誠は小皿を手に取る。

「冷奴ぐらい自分で取れます」

 指の筋肉は無事なはずだから、食事に支障はない。器の豆腐を箸で摘まみあげるが、

「あっ」

 するん、と豆腐は箸の間をすり抜けて器へと戻った。ぽちゃん、と器を満たす水が飛沫をあげてテーブルを濡らす。

「駄目ですよ氷川さん、無駄に力入れちゃ」

「無駄な……力………」

 そんなことあるはずがない。ただ豆腐を掴むのに何故無駄な力を入れるというのか。豆腐も掴めないからG3-XのAIと同調できないだなんて、そんな訳がない。

「ほら、俺が取りますから」

「余計なお世話は止めてください。君は黙って見てればいいんだ」

 と再び器に箸を伸ばす。刺し箸という手もあるが、そんな行儀の悪い真似をしたら負けだ。そ、と箸で豆腐の両脇を固定し、そのままゆっくりと持ち上げていく。ぷるぷる、と豆腐が小刻みに震えているが、それは負傷のせいだろう。きっとそうに違いない。

「どうです? まさに完璧だ」

 安堵しながら豆腐を醤油に浸すが、翔一は「甘いなあ」とかぶりを振る。

「甘い? 何が」

「これは木綿豆腐だから上手くいったんです」

「も、木綿?」

 豆腐に種類なんてあるのか。この頃、食に無関心だった誠はキャベツとレタスの違いすら分からなかったほどだった。ブリとハマチが実は同じ魚だったことも、緑茶と紅茶が実は同じ茶葉だったことも結構後になって知ったこと。

「今の手つきじゃ、絹ごし豆腐は取れませんよ」

 翔一が言うと、小沢も「絹ごし……」と呟く。何でそんな納得したかのような素振りをするのか。

「では絹ごしを出してください」

「うちにはありませんけど………」

「分かりました、買ってきましょう」

 と誠は十千万を飛び出し、近くのコンビニまで行った。道中、脚を負傷しているのを忘れて転んでしまい通りすがりの老婆に起こしてもらった事と、店内で豆腐の種類の多さに戸惑い危うく玉子豆腐をレジへ持っていきそうになった事は秘密だ。

 多少のトラブルに見舞われたものの、無事に購入して戻った誠は先ほどの木綿豆腐と同様の器に盛られた白い絹ごし豆腐を箸で挟み込む。大丈夫、所詮豆腐じゃないか。木綿のときと同じようそ、と掴んで持ち上げればいい。だが木綿よりもきめの細かい絹ごし豆腐は、箸で切れてしまい器へ落下する。もう1度、とふたつに割れた豆腐の片割れを掴むが、それもすぐ切れて落下。まだまだ、と再度挑戦するが撃沈。

 もはやぼろぼろに崩れて誠でなくても掴めそうになくなった豆腐を見て、小沢は嘆息交じりに漏らす。

「やっぱりね」

 その上司の言葉に、誠は「ちょっと待ってください」と訪問させてもらっている立場でありながら、箸をテーブルに叩きつける。このとき腕が痛んだが、意に介さなかった。

「豆腐を取れないから僕は彼より劣っていると言うんですか? 納得できません! 第一、何ですか豆腐なんて! こんなものはスプーンで掬えばいい話だ!」

「氷川さんがやろう、て言い出したんじゃないですか」

 翔一が呆れたように言ってくる。そんな彼を見て、

「あ、それに今思い出しました。君は無免許でバイクに乗ってるはずだ」

 「本当なの?」と小沢が身を乗り出す。何に対してなのか分からない勝利を確信しながら、

「記憶喪失の人間に免許が取れるはずありませんからね。そんな人間にG3-Xを任せるわけにはいきません」

 「甘いな」と翔一はエプロンのポケットから出した財布を開き、中身のカードを引き抜く。

「じゃーん!」

 咄嗟に奪うように手に取って凝視すると、それは紛れもなく「津上翔一」名義の運転免許証だった。見たところ偽装ではない。住所はこの十千万で、生年月日は21年前の4月1日。自動二輪車だけでなく普通自動車に中型自動車まで運転を許可されている。

「これは?」

「記憶喪失でも免許は取れるんです。知りませんでした? 勉強不足ですね」

 勝ち誇ったように笑いながら、翔一は誠の手から免許証を取り返す。後になって調べたら、戸籍法の下に記憶喪失による身元不明者が戸籍を得ることが可能だった。戸籍があれば運転免許証が取れるし、不動産の契約もできる。翔一は何の障害もなく社会生活を送れるというわけだ。

「だ、だから何です! バイクの免許とG3-Xは関係ありません!」

「氷川さんが言い出したんじゃないですか」

 もはや訪問の趣旨から完全に逸れてしまったのを見かねてか、小沢が窘めるように言った。

「あなた達、漫才やってるわけじゃないんだから」

 どうにも翔一と話していると調子が狂う。彼のペースに乗せられるというか、一気に疲れるというか。

「とにかく、さっきの話考えてみてくれるかしら?」

 小沢の質問に、流石に軽い態度を自重した翔一は「はい」と応じ、

「よく分かりませんけど、分かりました」

 どっちだ。それを言ったらまた小沢曰く「漫才」を始めてしまいそうで、誠は深い溜め息をつくに留めた。

 

 




 不器用エピソードとして豆腐の件は外せないだろう、と思って今回出しましたが、考えてみたらこのとき氷川さん全身の筋肉ズタズタで立ってるのもやっとだったんですよね。

 そりゃあ豆腐取れませんよ。


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第7話

 

   1

 

 床と水平に吊るされている頭上のバーに、誠は軋む両腕を伸ばす。ただ掲げるだけで痛むなんて、これからやる事はどれだけの痛みが生じるのか。だからといって、止めるわけにはいかない。痛みなんて気合で何とかなる。そう、アンノウンに殺された被害者たちの痛みに比べたら、何てことはないはずだ。

 掴んだバーの両端を掴み、思い切り引き下ろす。

「――っ!」

 両肩に走った激痛のあまり手を離してしまい、バーが元の高さへと戻る。がきん、と負荷調整の重りが音を立ててトレーニングルームに響き渡る。額から一気に吹き出した玉汗が鼻梁を伝っていく。誰も利用していない時間帯で良かった。こんな体の各所をテーピングで固定した状態でトレーニングする姿を見られたら、止められるのは明らかだ。

 負荷の重量を変えず、もう1度バーに手をかける。今度はゆっくりと、反動をつけず肩に力を込めてバーを下げていく。みしみし、という痛みが激しく訪れる。まだ辛うじて繋がっている筋繊維が悲鳴をあげているのが分かる。でもこれくらいで音を上げては駄目だ。深呼吸しながら誤魔化し眼前まで降ろすと、またゆっくりと力を抜いてバーを所定の位置へと戻していく。

 たった1回しか下げていないのに、誠の全身は雨に降られたように汗で濡れていた。肩にはまだ痛みの残滓がある。

 こつこつ、と靴音が聞こえてくる。誰か来たのか。やがて見えてきた姿は、今最も見つかりたくなかった小沢だった。小沢は誠のいるマシンへ歩いてくると、苛ついた声色で言う。

「あなた何をしているの? まだそんなことをして良い体じゃないでしょ」

 粗くなった呼吸で誠は訴えた。

「小沢さん、どうしても納得がいかないんです。何故G3-Xの装着員が津上さんでなければならないのか。北條さんなら、まだ分かりますが」

 市民を護るのが誠の仕事。その護る対象であるはずの翔一が戦わなければならないなんて、受容できることじゃない。元G3装着員としての卑しい意地でも何でもいい。嘲笑われようが軽蔑されようが構うものか。

 戦うことが僕の職務だ。

「お願いします。もう1度僕にチャンスを下さい!」

 誠に向けられていた小沢の視線が逸れて、彼女の饒舌な口が沈黙する。トレーニングルームには誠の粗い息遣いのみが繰り返し響き続ける。

 しばしの逡巡を挟み、小沢は溜め息と共に誠へ視線を戻した。

 

 

   2

 

 幕が降ろされたように黒く閉ざされた空の下で、1日を終えようとする沼津の街は眠りに落ちていく。まだ灯りの灯っている家もちらついているが、それはごく少数で都会のネオンには遠く及ばない。

 1日中練習に励んだにも関わらず、未だ眠りに就くことができずにいた曜は、自室のバルコニーで外の風を浴びながら贈られたシュシュを眺めていた。

 結局話せなかった。

 贈り物をしてきた梨子のせいではないのだが、嬉しそうにシュシュを身に着ける千歌を見ていると、どうしても今朝の決意が揺らぎ打ち明けられないまま今日の練習が終了してしまった。

 本音でぶつかる、と言っても何て言えばいいのか。改めて考えると、どう切り出せばいいか分からない。試しに脳内でシミュレーションしてみる。

 シーン1。千歌を壁際に追いやって問い詰めてみる。

 ――千歌ちゃん。わたしと梨子ちゃん、どっちが大切なの? はっきりして――

 違う。少女漫画の影響を受けすぎだ。

 シーン2。千歌をどこか大きな樹のある場所に呼び出して涙声で訊いてみる。

 ――千歌ちゃん。わたしのことあんまり、好きじゃないよね?――

「これもちがーう‼」

 思わず大きな独り言を漏らしてしまい、羞恥が2乗される。咄嗟に口を閉じてバルコニーの塀に身を隠した。恐る恐る周辺の家屋を見渡して何の変化もないところをみると、どうやら床に就いた近隣住民を起こさずに済んだらしい。

 シーン3。

 内浦の三津シーパラダイスのキャラクター、うちっちーの着ぐるみを着て自身の感情を直接アピール。

 ――わたし、渡辺曜は千歌ちゃんのことが喘息全身ヨーソロー!――

 訳が分からない。自分の思考ながら。悩み過ぎて知恵熱でも出してしまっただろうか。

普段の他愛のない会話は意識しなくてもできるのに、重要な事となると何故できなくなるのか。表面上だけ取り繕って中身がない。我ながら浅薄な人間だ。周囲から容量が良い、と評されがちなだけに尚更そう思える。

 自己嫌悪が強くなってきたところで、スマートフォンの着信音が鳴る。梨子からだった。まるで図ったかのようなタイミング。しばし躊躇ったが、画面をタップして「もしもし?」と普段の明るい口調を意識して応じる。

『もしもし曜ちゃん? ごめんね夜遅くに』

「ううん、平気平気。何かあったの?」

『うん。曜ちゃんがわたしのポジションで歌うことになった、て聞いたから。ごめんね、わたしの我儘で』

「ううん。全然」

『わたしのことは気にしないで、ふたりでやりやすい形にしてね』

 そう言ってくれても今更だった。曜が梨子の動きを真似することで形になってしまったのだから。今から変えても本番に間に合わなくなる。

「でも、もう………」

 言いかけたところで喉元に押し留める。今口を開き続けたら梨子への恨み節を吐いてしまいそうだった。梨子は何も悪くない。千歌の隣という「居場所」を奪われた、だなんて八つ当たりもいいところだ。

 千歌が誰と一緒に居ても、彼女の自由なのに。

『無理に合わせちゃ駄目よ。曜ちゃんには曜ちゃんらしい動きがあるんだし』

「そうかな………?」

『千歌ちゃんも絶対そう思ってる』

 気遣い上手だな。だから千歌ちゃんは梨子ちゃんの隣が、居心地がいいのかな。

 こうして話していると、尚更自分の立場がなくなっていくのが分かる。普段の声色を維持することもできなくなり、消え入りそうな声で曜は呟く。

「…………そんなこと、ないよ」

『え?』

「千歌ちゃんの傍には、梨子ちゃんが1番合ってると思う。だって千歌ちゃん、梨子ちゃんといると嬉しそうだし。梨子ちゃんのために頑張る、て……言ってるし………」

 懸命に堪えてきた涙が目尻から零れてくる。声だけでも何とか取り繕うとするが、嗚咽が混じってどうしても震えてしまう。

 わたしの「居場所」はもう、ないんだ。

『そんなこと思ってたんだ』

 困らせてしまっただろうか。いや、困らせたに違いない。謝ろう、と涙を拭って口を開きかけると同時、梨子の声が先制した。

『千歌ちゃん、前話してたんだよ』

「え………?」

『曜ちゃんの誘い。いつも断ってばかりで、ずっとそれが気になっている、て。だから、スクールアイドルは絶対一緒にやるんだ、て。絶対曜ちゃんとやり遂げる、て』

 中学で水泳部に誘ったとき、罰が悪そうに苦笑しながら断った千歌に、曜は悪い事しちゃったな、と思っていた。千歌と一緒なら、曜はどんなことでも楽しめる、と確信できる。でも千歌はそうとは限らない。曜と一緒でも、いや、曜と一緒だからこそ楽しめなくなるでは、と考えるようになっていった。

 『曜ちゃん』と梨子は優しく言う。

『千歌ちゃんは、曜ちゃんが思ってるよりもずっと、曜ちゃんのこと大好きよ』

 どう返せばいいか、言葉が見つからない。しばし口をまごつかせていると、『それじゃ、頑張ってね』とだけ言って梨子は通話を切った。耳から離したスマートフォンの画面は何の操作も受けずにいたため自動的に暗転している。

「曜ちゃん!」

 千歌の声が聞こえた気がする。でもすぐ空耳だよね、と思い直した。もう夜も遅いのだし、千歌は寝ているだろう。

「曜ちゃーん!」

 いや、空耳なんかじゃない。見下ろすと、家の前で練習着を着た千歌が立っている。

「千歌ちゃん……、どうして?」

「練習しようと思って」

「練習?」

「うん!」

 暗がりのなか、僅かな街灯を受けた千歌の顔はやけに照り返っている。肩で息をしながら、千歌は声を張り上げる。

「考えたんだけど、やっぱり曜ちゃん自分のステップでダンスしたほうがいい。合わせるんじゃなくて、1から作り直したほうがいい」

 それは、本当の意味でパートナーと認めた者へ贈られる言葉だ。

「曜ちゃんとわたしのふたりで!」

 梨子の代役なんかじゃなくて、曜自身のステップで踊ってほしい。梨子の真似なんかしなくていい。曜としてのダンスと歌で、一緒にステージに立って欲しい。時間があまりないことなんて気にしなくていい。最高のパフォーマンスを一緒に作っていこう。

 それだけの想いが、千歌の言葉から読み取ることができた。それは単なる曜の思い込みかもしれない。千歌に言葉以上の意図はなかったのかもしれない。でも、ならどうして千歌はこんな時間に来たのだろうか。

 確信を得るために、曜はバルコニーから部屋へと引っ込んだ。「曜ちゃん⁉」と千歌の声が聞こえたが、応じることなく曜は階段を駆け下りて外へ飛び出す。ドアの前にいるだろう千歌に顔を見せる勇気がなく、背を向けたまま後ろ足に近付いていく。

「曜ちゃん?」

 そんな曜を不思議がった千歌の声を頼りに、後ろへと手を伸ばす。しばし這わせた指先が、生暖かく濡れた千歌の服に触れた。

「汗びっしょり。どうしたの?」

「バス終わってたし、翔一くんも忙しい、て言うし………」

 内浦から沼津市街なんて、結構な距離だ。ましてや徒歩や自転車だなんて、夜とはいえこんな夏真っ盛りに酷だったことだろう。

 でも、それでも千歌にはここに来るだけの理由があった。

「曜ちゃん、何かずっと気にしてた、ぽかったから。居ても立っても居られなくなって………」

 照れ臭そうな千歌の笑い声が、次第に勢いを失っていく。嬉しさが曜の裡を満たしていく。収まり切らなくて溢れ出しそうだった。同時に羞恥もある。何て行き過ぎた思い込みをしていたのか。「居場所」を自分から離れようとしていたのは、曜自身じゃないか。離れる必要なんて、最初からなかったのに。

「わたし、バカだ……。バカ曜だ………」

 「バカ曜?」と反芻する千歌へようやく向き合うと、曜は溢れる想いに抗うことなく親友へ抱き着く。突然のことに尻もちをついた千歌は「汚れるよ」と言うが、曜は「いいの」と返し背に回した腕の力を強めた。

「風邪ひくよ」

「いいの!」

「恥ずかしいって」

「いいの!」

「何泣いてるの?」

「いいの!」

 

 

   3

 

 会場として使用される劇場は東京のイベントと比べれば慎ましいものだったが、本番前の神経が張り詰めた緊張感は、毎度のこと変わりない。いくら人前に出ることに慣れている曜でも、この感覚はこれからも慣れることはないだろうな、と思った。いや、慣れていいものじゃない。半端な気持ちでライブに臨んでは駄目だ。むしろ、この緊張感が心地いいとすら思える。この緊張は曜ひとりだけのものじゃない。今ステージの袖で出番を待つ、Aqours全員のものだ。勿論、ここにいない梨子のものでもある。

 そ、と右の手首に付けたシュシュに触れる。同じ仕草をする千歌と目が合って、互いに微笑を返した。梨子も今頃は、同じシュシュを付けてコンクールの本番に臨んでいるのだろう。こうして曜と千歌が梨子を感じているように、彼女もここにいるメンバー達を感じているだろうか。

 もうすぐ出番だ。誰が言うまでもなく、皆で円陣を組み、中央に各々の手を重ねていく。千歌の声に重なる熱が、皆に伝播していくのを確かに感じ取る。

「さあ行こう、ラブライブに向けて。わたし達の第1歩に向けて。今、全力で輝こう! Aqours――」

 その続きを全員で重ね合わせ、手を高く掲げる。

「サンシャイン!」

 

 伸ばした手の上に重なる手は、ここにはない。このステージに立つのは梨子ひとりだけ。いつだってピアノはそうだ。たったひとりで舞台へ臨み曲を奏でなければならない。それはとても孤独な舞台だ。だからこそ、あの時は鍵盤に触れることができなかった。自分の他には誰もいない。誰も助けてはくれない。

 でも、今は孤独を感じない。仲間が大勢いると、ひとりでいる時間は孤独をより感じると思っていたのに、そんな空虚はどこにもない。右手にあるシュシュ。これを皆も付けているのかな、と想像するだけで裡が温かく満たされていく。

 ひとりじゃない。

 わたしには、皆がいる。わたしの「居場所」で待っていてくれる人たちが。

「Aqours、サンシャイン」

 ひとり呟き、右手を高く掲げる。そうすることで、他の皆もここにいて、梨子と声を合わせているかのような錯覚を覚える。想像にしては、とても鮮明に映った。新しく作った衣装に身を包んだ皆が、梨子の贈ったシュシュを付けてステージへ前進していく姿が。

 さあ、出番だ。梨子もまたステージへと歩き出す。

 今なら分かる気がする。どうして千歌がスクールアイドルを始めよう、と思ったのか。スクールアイドルでなければ駄目だったのか。

 千歌にとって輝くとは、ひとりで成し遂げることじゃない。誰かと手を取り合い、皆で一緒に輝くこと。「普通」であることに燻っていた千歌のもとに、「普通」な梨子や曜をはじめとする皆が集まり、ひとりでは到達できない大きな輝きを創る。その輝きは自分たちのいる学校、自分たちの曲を聴く人々へと、波のように広がっていく。かつてμ’sが成し遂げたように、無限に。

 それが、千歌がスクールアイドルに見出した輝き。

 鍵盤を前にして、梨子は曲を弾く。あの時聴いた海の音。それをきっかけに連ねられてきた、Aqoursとして千歌や皆と過ごしてきた時間。梨子の指は迷うことなく、何度も反復練習してきたメロディを奏でていく。機械的に弾けば上出来だが、そうはしない。しっかりと、内浦で過ごした日々への思慕を乗せ、一緒に過ごし、今このとき別のステージにいる皆へ届くよう、祈りを込めて。

 勿論、皆に届くなんて物理的に不可能だ。でも、この世界は理屈だけで成り立っていない。こうしてピアノを弾いている今この瞬間、梨子には確かに聞こえている。ラブライブの予選で皆が歌っている『想いよひとつになれ』が。千歌の隣で、自分のステップで踊っている曜の姿が目蓋の裏に浮かんでいる。

 皆、聞こえるかな。

 わたしは聞こえてるよ。

 曲に込めた通り、わたし達の場所は別々でも、想いは確かにひとつだよね。わたしは皆と一緒にいる。皆もわたしと一緒だよね。

 曲が終わった。椅子から立って、観客たちへ礼をする。

 観客席から何重にも連なった拍手が、会場に満ち梨子を包むように響いた。

 ああ、と梨子は万感の溜め息と共に体から重いものが抜け落ちた感覚を覚える。

 わたしはやっと、ピアノの呪いから解かれたんだ。

 

 同じ頃、Aqoursと梨子とは別の、ある意味で舞台へと臨む者がいた。

 

 

   4

 

『只今より、北條主任装着、V-1システムのマヌーバーを始めます』

 扉の向こうから女性管制官のアナウンスが聞こえてくる。次にピー、という電子音が鳴り、同時に銃声が扉越しにもはっきりと聞くことができた。

 スーツの装着をほぼ完了した誠は、扉の前で抱えたマスクを見つめる。見つめ返してくるのは馴染みのあるオレンジ色のセンサーアイ。エンジニアチームが急ピッチで完成させてくれたG3-Xのスーツは、G3よりも装甲面積が広くより堅牢な設計になっている。実際に重量も20㎏ほど増しているのだが、その分油圧の出力も増強され数値上のスペックは倍以上になっている。

 大丈夫、と誠は裡で自身に言い聞かせる。今日まで小沢の指示通り静養に努め、負傷は完治した。システムだって理論上はアンノウンと十分に渡り合える。何より、小沢澄子が対アンノウン用として設計したシステムだ。不安要素なんてない。誠がAIに身を委ねれば何も問題は起こらないはずだ。

 信じよう、AIを。AIを設計した小沢を。

 マヌーバー終了を告げるブザーが鳴り、銃声が止む。誠はマスクを顔に当てる。網膜で装着員を認証するのはG3と同じだ。

《認証 装着員:氷川誠警部補》

 視界ディスプレイにロゴが浮かび、後頭部のカバーが閉じられる。

『第1次マヌーバー終了』

 扉が開かれた。がちん、とジュラルミン製の靴音を打ち鳴らしながら、誠は演習ルームへと脚を踏み入れる。部屋の中央に立つV-1は銀色の装甲を纏っていて、右手には拳銃が握られている。他に武装らしきものは見当たらない。なるほど、射撃を得意とする北條が装着するなら射撃特化型が最適ということか。先日出撃した際も、拳銃ひとつでアンノウンを撃退していたからその威力は既に実戦で立証されている。北條にとってこのコンペティションは消化試合も同然だろう。

 無論、消化なんてさせるつもりは無いが。

『氷川誠主任装着、G3-Xのマヌーバーを始めます』

 いよいよだ。余計な雑念は捨てよう。怯えず、気負わず、目の前のことに対処すればいい。それがG3-Xの性能を最大限に発揮するための資質。

 控え室に戻ろうとするV-1とすれ違う際、マスク越しに北條が語り掛けてくる。

「ざ、とこんなもんです。私に、撃ち損じはありませんよ」

 そう言って北條は拳銃を誠に向けてくる。勿論、それは戯れで彼に発砲の意思なんてない。だがAIはそうは思わなかったようで、

《対象の敵性を認識。防衛のため実力行使を推奨》

 ディスプレイにロゴが、AIの声が表示される。その文字に誠は目を剥いた。

 違う、彼は敵じゃない。

 まるでその思考を読み取ったかのように、AIが更なるロゴを提示する。

《装着員のミッション継続は不可能と判断。システムコントロールを本機へ移行。シークエンス開始》

 何だって、一体AIは何をするつもりだ。これでは駄目だ。とても演習なんて成立しない。

 中止を申し出ようと口を開いた瞬間、誠の視界に歪みが生じた。酷い耳鳴りも襲ってくる。視界がノイズに覆われていき、体の感覚も遠くなっていく。自分がどんな体勢を取っているのかすら分からない。ふわり、という不気味な浮遊感が五感を覆い被さるように消していく。まるで脳が溶けてかき回されていくようだ。

 駄目だ、こんなところで倒れては。まだマヌーバーは始まってすらいないのに。深い奈落へ落ちようとする意識を押し留めようと、ままならない思考を続ける。一体何が起こった。マヌーバーはどうした。管制室にいる小沢は何を見ている。

 視界が戻っていく。目の前にいる朧気な影が徐々に像を形作っていき、ようやく視覚がまともに機能し相対する者を捉える。

 アンノウン!

 目の前にいるのは、カメのようなアンノウンだった。唯一G3で撃破に成功し、シミュレーションでも相対したものと似た個体。いつ演習ルームに侵入してきた。まさか、このマヌーバーの場に超能力者がいるとでも。

 考えるのは後だ。現れたのなら倒さなければ。

 アンノウンが伸ばしてくる太い腕を捻り上げる。向こうも膝蹴りで反撃してくるが、不思議なほどにそれは弱いものだった。スーツが衝撃を全て吸収し、誠へのダメージは皆無だ。いける、という確信と共に、誠は敵の胸に拳を打ち付ける。

 不謹慎な考えだが、これは好機だ。北條のV-1システムは実戦で性能を証明してみせた。ならば誠もG3-Xの性能を、実戦で証明してみせる。このアンノウンをこの場で撃破することで。

 今までのG3で苦戦していたことがまるで嘘のように、誠の拳はアンノウンに有効打を与えることができていた。1撃を見舞うごとに相手はたたらを踏むように体勢を崩し、それが誠に攻撃の隙をくれる。

 アンノウンも度重なるダメージに恐れをなしたのか、こちらに背を向けて逃亡しようと地面を蹴る。だがそれよりも速く、誠の足は敵の背に蹴りを入れる。倒れた敵の襟首を掴み無理矢理立たせると、その顔面に渾身の拳を入れた。生物じみた様相なのに、拳の感触はまるで金属を殴ったように固い。カメならではの堅牢さか。

 流石に頭部へのダメージは堪えたのか、アンノウンは糸が切れたように倒れる。まだだ。爆散していないということは、まだ敵の息の根は止まっていない。止めの1撃を加えようとしたとき、

『静岡県警から各局。沼津市大岡にてアンノウン出現との110番入電中』

 その放送を聞き取ったAIの声がディスプレイに浮かぶ。

《推奨 現場へ急行》

 言われるまでもない。バッテリー残量は十分だ。もう1体を相手取る余力はある。

 

 翔一がアンノウンの気配を感じ取ったのは、畑の手入れをしていた際中だった。すぐさまバイクを走らせ、大岡に流れる狩野川へと向かう。狩野川に渡された東海道新幹線の高架線路、その下には川へと入る直前に森を整備された広場がある。そこで、この前取り逃がしたメスバチのアンノウンは小学生くらいの少年へじりじり、と歩み寄っていた。まるで自身の姿に慄く様子を楽しんでいるかのように。

「変身!」

 翔一の体が、光に包まれアギトへと変わる。光を受けて金と赤の光沢を放つバイクのアクセルを捻り、猛スピードでアンノウンを撥ね飛ばす。不意打ちに地面を転がったアンノウンは、苦汁を舐めさせられたような憎悪に満ちた目を翔一へと向けてくる。

 バイクから降りると同時、アンノウンが接近してきた。繰り出される蹴りを腕で防御し、更に突き出された腕を掴み投げ飛ばす。倒れ込んだところに蹴りを入れようとしたが、それは寸でのところで避けられ体勢を立て直される。

 だがそれでも、格闘戦はさほど脅威でもない。腹に拳を沈ませ、相手がごふ、と咳き込んだところでその顔面へ拳を打ち込む。向こうも徒手空拳では分が悪いと判断したのか、頭上の光輪からレイピアを引き抜く。

 ならばこちらも、と翔一はベルトの球の手をかざすが、アンノウンはすかさずレイピアを突き出して阻止してくる。続けざまに繰り出される剣尖は鋭く翔一を捉えてきて、武器を取り出す余地を与えてくれない。紙一重で避けることに集中しなければ、容赦なく急所を貫かれるだろう。

 敵が突きを放ったところで、一気に懐へ入り込みレイピアを握る手を脇で固め動きを封じる。その隙で腹に肘打ちを見舞い、敵がたたらを踏んだところで間合いを取る。

 武器を取ろうとしたとき、視界の隅に青い人影が映った。アンノウンもその介入者に気付いたらしく、翔一と同じくそちらへと視線を移す。

 そこにいたのは、前よりも重厚な鎧を着こんだ青の戦士だった。両手に大振りな銃を抱え、こちらへゆっくりと歩いてくる。歩みを止めると、青の戦士は銃口をこちらへと向けた。細い銃口が束になったガトリングの砲身が、回転すると同時に火を噴いてこちらの足元を穿っていく。あまりの威力と弾丸の数に地面の芝生が捲れ上がり、土がむき出しになる。

 翔一は近くの茂みへと跳び込み、弾丸の雨から逃れた。同じように樹の陰へと逃れていたアンノウンへ、青の戦士はオレンジの目を向ける。再び放たれた無数の弾丸が樹の太い幹を削っていき、瞬く間に折ってしまう。宙へ飛んだアンノウンは追ってくる弾丸から逃れるべく旋回していく。

 弾丸の(つぶて)が止んだ。弾切れらしい。好機と見たアンノウンは口元を笑みで歪めながら、レイピアを構え一気に下降していく。青の戦士は至極冷静に、背中から四角いパーツを外す。銃身から同じパーツが外され、空いたそのジョイントに代わりが取り付けられる。向かってくる敵へ、青の戦士は銃口を向け引き金に指をかける。

 フルオートで放たれた弾丸が、アンノウンの体を削っていく。ハチに似た体が文字通りハチの巣のように銃創を開けられ、とうとう宙で四散していく。

 広場に静寂が訪れる。青の戦士が浴びたアンノウンの肉片と血はほどなく蒸発していき、その存在は初めからこの世界に無かったかのように跡形もなく消滅していく。何も知らない者が芝生の捲れた地面と折れた樹の幹を見たら、何が起こったと予想するだろう。

 茂みの中で、翔一は戦士の左肩にマーキングされた「G3-X」の文字を見る。あれがG3-X、小沢が翔一に装着を要請してきた戦闘スーツか。だとしたら、今あの鎧の下にいるのは誰なのか。G3に引き続き誠が装着しているのだろうか。

 茂みから出ると、G3-Xは翔一の存在を捉える。G3-Xは無言だ。無言のまま、抱えたガトリングの銃口をこちらへと向けてくる。

「っ!」

 背筋にぞわり、と悪寒が走る。次の瞬間、円筒に並べられた銃口が火を噴いた。

 





次章 はばたきのとき / 完璧マシン


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第12章 はばたきのとき / 完璧マシン
第1話


 

   1

 

 G3-Xのガトリングが発砲される寸前に、翔一は駆け出していた。走りながらすぐ後ろで地面が穿たれる音が聞こえる。真っ直ぐ向かっていったら良い的だ。弧を描き弾丸の雨から逃れながら、翔一は徐々にだがG3-Xへと接近していく。ある程度に間合いを詰めると、跳躍し一気に肉迫した。武器をもぎ取ろうと手をかけたが、容易に振り払われてしまう。

 再び銃口が向けられた。すかさず手を添えることで軌道を逸らし、体を反転させると共に回し蹴りでようやく武器を払い落とす。

 これで五分。そう思ったのだが、武器を失ったG3-Xは尚も拳で応戦してきた。その拳の重さもだが、無駄のない所作に恐怖すら覚える。まるで拳を翔一がどう防御するかを考慮し、それも計算に入れて攻撃を仕掛けているようにしか思えない。このG3-X、中には確かに人が収まっているはずなのに、挙動が的確すぎて機械じみている。

 徹していた防御が崩れ、がら空きになった腹に膝蹴りを食らってしまう。ごほ、と咳き込みながら倒れる翔一にG3-Xは容赦なく顔面を踏み付けようとしてくる。避けて立ち上がろうとするが、それもお見通しだったのか頭に蹴りを入れられた。重心を崩され再び倒れそうになるが、寸前で腕をばねに逆立ち跳びして距離を取る。でもそれは、相手に武器を回収させる余地を与えてしまうということ。

 G3-Xが拾い上げたガトリングの銃口は、真っ直ぐ翔一へと向けられている。相手は人間だから、と手加減するつもりでいたが、それは危険な油断だ。怪我を負わせることになってしまうかもしれないが、ここは全力をもって無力化しなければ。でなければこちらがやられる。

 はあ、と息を大きく吐き、翔一は角を開く。足元に浮かんだ金の紋章が足へ渦巻き、跳躍しようとしたときだった。

 G3-Xが膝をつき、そのまま崩れるよううつ伏せに倒れる。

 一体どうした。込み上げる力を押し留め、角を閉じる。そこへサイレンと共に、トレーラー車が広場へ入ってくる。ここで警察と相まみえるのは面倒だ。翔一はバイクへと走り、変身を解くと愛車を駆って広場から離れていった。

 

 

   2

 

 まだ夢と現実の境が曖昧な意識の中で、ぴ、ぴ、と一定のリズムで電子音が刻まれている。うっすらと開けた目は、自身を見下ろすふたりの人影を明瞭にできず朧気に映している。

「氷川君?」

「氷川さん」

 その声を聞いて、ようやく意識がはっきりしてきた。

「小沢さん………」

 体感が認識できていくにつれて、問いもまた増えていく。何故僕は寝ているんだ。マヌーバーはどうなった。アンノウンは――

 体を起こそうとするが、尾室に阻まれる。

「駄目ですよ氷川さん。まだ寝てなきゃ」

 体が酷く軋む。シミュレーションの時に負った怪我は完治したはずなのに。

「ここは……、僕は一体………」

 自分の声すらもくぐもって上手く聞き取れない。そこで誠は自分の口元にある酸素マスクに気が付いた。

「病院よ。あなたは演習中に北條透のV-1システムを破壊。そのままアンノウン出現の連絡を受けて出動したのよ」

 淡々と小沢の口から告げられた事実に、誠はどうにも実感が伴わなかった。まるで他人事のようにぼんやりとしている。

「僕が………?」

「詳しく教えてちょうだい。あなたはG3-Xを装着して、それからあなたに何があったのか」

 誠は記憶を探ってみる。おそらくそう時間は経っていないのだろう。でも記憶はまるで遠い過去のように朧気だ。昨夜食べた夕食のほうがまだ鮮明に思い出せる。

「はっきり覚えているのは、北條さんが僕に銃を向けて………。あの直後に、意識が朦朧として…………」

「それから?」

「それから、どうもはっきりしないんですが………。ただ……ずっとアンノウンと戦っていたような気がするんですが………」

 奇妙な記憶だ。北條に銃を向けられてからアンノウンとの戦闘。その間にあるはずの記憶が思い出せない。いや、小沢によると誠は北條を攻撃していた。まさか、最初に戦っていた記憶のあるカメのアンノウンは北條だったというのか。まさか、何でV-1をアンノウンと見間違えるのか。

「僕にも、何が何だか分かりません………。何故僕が北條さんを…………」

 小沢はしばし無言でいたが、ややあって「あくまで仮説だけど」と口を開く。

「北條透が氷川君に銃を向けた瞬間、G3-XのAI機能が作動したのよ」

 そうだ、と誠は思い出す。あの時、AIが攻撃を提示してきて、誠はそれを拒否した。目を見開いたことで小沢は得心がいったのか、

「あなたはV-1システムの武器を叩き落とそうとするG3-Xの動作に抵抗した。記録を解析してみたら、その時マスクの酸素濃度が急激に下げられていたわ。それであなたは意識障害を起こした。AIにシステムの主導権を奪われたのよ」

 「じゃあ」と尾室が口を挟む。

「その後のG3-Xの行動は暴走した、てことですか?」

 「いえ」と小沢はかぶりを振り、

「G3-Xはロボットじゃないわ。一時的にシステムを掌握したとしても、それは反撃の一手のみのはずよ。あそこまで勝手なことはできない。演習の直前、氷川君は緊張から脈拍と血圧が上昇していた。だからほんの些細なことでも過剰に反応して、その反応をAIが拾ってしまったの。北條君を攻撃したのは、朦朧とした意識で彼をアンノウンと誤認してしまった意思にG3-Xが同調したから」

 つまり、AIは曲がりなりにも誠の意思と同調し、それに相応しい行動を促していたのか。暴走していたのはAIではなく、誠の意識のほうだったということ。

「何だか微妙ですね。一体どっちが主人なんです。氷川さんとG3-Xと」

 尾室の問いに、小沢も答えあぐねている。装着員かAIか。システムを操る者の境界をどう決めたらいいのか。

 

 

   3

 

 穏やかな波の音に引き寄せられるように、彼女は渚へと走っていく。脱いだ靴を片手に提げて。年齢は、自分とそう変わらなそうな若い女性だ。真っ白なワンピースを海風に揺らしながら、海水に足を浸しその冷たさに子供のようにはしゃいでいる。

 彼女は両手で海水を掬うと、それを勢いよく宙へ撒いた。散っていく水粒が陽光をきらり、と反射する。その数々の光を満面の笑みで見届けると、彼女はその笑顔をこちらへと移した。

 ――こっちに来て――

 その声を境にして、翔一は夢から醒めた。

 

 女の人の夢を見る。

 翔一がそう打ち明けてきたのは、いつもの朝食でのことだった。

「ここんとこ、毎日同じ夢を見るんだよね」

 鷹揚な翔一にしては珍しく、不安そうな面持ちで味噌汁を啜る。いつも食事を千歌たちと囲むときは笑顔を絶やさないのに。

「欲求不満なんじゃない?」

 と言う美渡を「こら」と志満が窘める。

「もしかすると、過去の記憶に関係があるのかもしれないわ」

 「どういうこと?」と千歌は長姉に訊く。

「翔一君の昔の恋人が夢に出てくるとか。もしかしたら奥さんかも」

 「奥さん⁉」と千歌と美渡は上ずった声を揃える。当のあまりにも突拍子がなさすぎるのか、何の気なしに漬物のキュウリ――畑で採れたもの――をぽりぽりと食べている。

「翔一くんが結婚してた、て?」

 「まさか」と翔一は笑い飛ばす。でも志満はそれで有耶無耶にはさせず、

「有り得ない話じゃないわ。単に可能性だけの話をするなら、子供がいたことも考えられるし」

「子供⁉ 俺の?」

 今度ばかりは翔一も驚いたらしい。

「志満姉、軽い調子で無責任なこと言い過ぎだって」

 美渡に言われ、志満は肩をすくめる。記憶喪失だから何もかもが確定じゃないけど、同時に全否定できることでもない。でも千歌には、どうしても翔一の家族というものが想像できない。妻子はおろか彼の両親も。というのも、アギトに変身できる翔一を産んだ母親とは、父親とは、または兄弟とは。同じ血統の家族もまた、翔一と同じ力を持っているのだろうか。

 ふと、千歌は翔一の仕草に目を細める。翔一は箸を置いて、何かを抱えるかのように腕を胸の前に添えている。

「翔一くん、何してるの?」

 訊くと、翔一は千歌へと視線を向け、

「………千歌ちゃん」

「何?」

「抱かせてくれないかな? 俺に子供がいるなら、抱っことかすれば思い出すかもしれないし」

 「ええ?」と千歌は困惑の声を返す。そんなことで思い出せるのなら、他にもきっかけなんて沢山あっただろうに。昔食べた食べ物の味とか、昔見たものと似た風景とか。

 とはいえ、体で覚えている、ということも有り得る。子供を抱くという感触を翔一の手が確かに覚えているのなら、良いきっかけになるかもしれない。子供扱いされるのは少々腑に落ちないが。

「うん、いいよ………」

 控え目な声で応じ、千歌は翔一の傍に座る。翔一は両腕を広げて、千歌はその腕の中へそ、と身を寄せた。翔一の腕がぎこちなく千歌の背に回り、もう片方の手が頭を撫でる。千歌を包む翔一からは洗剤と朝食の玉子焼きの匂いがした。父親、というより母親みたいだ。

 「うーん」と翔一は唸り、

「何にも思い出せないな」

 はあ、と溜め息をつきながら、千歌は翔一から離れた。何を期待していたのか、にやけながら美渡が言った。

「てか、千歌と同じくらいの子供だったら翔一て何歳よ?」

 

 

   4

 

 予備予選合格者 発表まで間もなく!

 

 スマートフォンの画面上に映るラブライブの大会ホームページには、未だにそのロゴが表示されている。

「まったく、どれだけ待たせるんですの?」

「ああ、こういうの苦手」

 ダイヤと果南がじれったさを苛立ちへと変えつつある。「落ち着いて」と千歌がなだめてみるが、それで収まるようなら苦労はしない。発表の日時は事前に告知されているのだから気長に待てばその時刻が訪れるはずなのだが、メンバー間でそれを呑気に待っていられる雰囲気はない。この日だって最初は部室に集合して結果発表を待つ予定でいたのだが、集合したのが発表時刻の2時間前ということもあって時間を持て余すことになった。練習でもして時間を潰そうか、という案も出たが、こんな時に集中できるはずもない。だから学校を出て、今は松月でお菓子を買っていたところ。

「ちょっと走ってくる」

 と制服のまま駆け出す果南に「結果出たら知らせるね」と言うが「いいよ」と返される。

「じゃあ知らなくていいの?」

 そう千歌が言うと、流石に果南は頭が冷えたのか足を止めてこちらへ戻ってくる。

「あんまり食べると太るよ」

 そう言ったのは鞠莉だ。ベンチに腰掛ける彼女の隣では、花丸が松月で買ったお菓子を食べている。因みに3個目。

「食べてないと落ち着かないずら」

 動いたり食べたり、何かとせわしないなかで、また変わった気の紛らわせ方をする者もいる。

「リトルデーモンの皆さん」

 店の駐車場にラインテープを張っていた善子が、そのテープで引いた魔法陣の中央に立つ。傍では儀式の準備を手伝わされたルビィが、呆れ顔でその様子を見ていた。

「この堕天使ヨハネに魔力を、霊力を。全ての………力を!」

 両腕を広げたところで、まるで茶々を入れるかのようにトラックが道路を走り去っていった。善子の魔力が呼び寄せたのはリトルデーモンではなくトラックだった。

「来た!」

 満を持して、曜が告げる。皆が彼女の周りに集まって、スマートフォンの画面に視線を集中させる。

「うう、緊張する………」

 ここに来て恐怖が千歌の裡に広がっていく。全力は出し切ったが、だからといって努力が必ずしも結果に繋がるわけじゃないことは身を以って知っているだけに。

「Aqoursのあ、ですわよ」

 ダイヤがまくし立てているところで、大会ぺージが更新された。50音順で発表されるのなら、Aqoursはきっと最初にあたりに名前が載るはず。表示された最初のグループ名を、曜は読み上げた。

「イーズーエクスプレス」

 しばし思考が停止する。全身の血液が流れを止めたような錯覚に陥り、全てが真っ白になる。その空白になった脳裏に、無慈悲な3文字が浮かんだ。

 落ちた。

 空白が色付き始め、それに伴い感情が付随してくる。これまで重ねてきた練習の日々が走馬灯のように過ぎ去ろうとしたとき、曜があっけらかんと言った。

「あ、エントリー番号順だった」

 その時、場にいた全員の力が抜けた。「もう、曜ちゃん」と口を尖らせる千歌に「ごめんごめん」と笑いながら、曜は画面をスクロールしながら引き続きグループ名を読み上げる。

「グリーンティーズ、ミーナーナ……、Aqours」

 ずい、と画面に顔を近付ける。確かにAqoursだ。「Aqua」でも「あくあ」でもない。千歌たち浦の星女学院の「Aqours」の文字が、しっかりと表示されていた。

 「あった!」「ピギャア!」と歓声が次々と上がっていくなかで、鞠莉のソプラノボイスが海沿いの町で一際高く響いた。

「Oh my God……。Oh my God…………。Oh my God‼」

 

 

   5

 

「どう、具合は?」

 病室を訪ねてきた小沢の問いに、はっきりとした声音で誠は答える。

「ええ、もう大丈夫です」

 酸欠を起こしただけで、シミュレーション時のような筋断裂はない。体調は良好だ。一応経過観察ということでしばらく入院は続くと医師から告げられたが、誠としては早く現場復帰したいところだった。事が大きく動いているというのに、自分だけこうしてベッドの上で何もできずにいることが酷くもどかしい。

「それより聞きました、尾室さんから。V-1システムを破壊したこと。僕のせいなのかG3-Xのせいなのか、責任の所在が問題になってる、て」

 小沢とすれ違いで見舞いに来てくれた尾室から、事の詳細は全て聞いている。

 あの演習で、G3-Xの攻撃を執拗なほどに受けてしまったV-1システムは大破した。システムの装甲は装着員を保護できないほど破壊され尽くし、それは先に大破したG3同様、修理はもはや不可能と開発チームから匙を投げられたらしい。装着員である北條は昏倒し救急搬送されたが、すぐに意識が回復し負傷も腕の筋を傷めただけで済んだ。左腕を吊った状態ではあるが、既に誠よりも早く現場に復帰しているという。

 当然、晴れ舞台を汚された北條はこの事態に怒りを露わにした。先日行われた聴聞会。G3-Xの暴走について小沢が説明を求められた場で、本来の議題を差し置いて北條は責任の追及を求めた。装着員の意思によってG3-Xが暴走状態に陥ったのなら誠が責を負う。G3-Xのシステムに欠陥があったのなら、対アンノウン装備としてV-1システムの採用という2択を警備部長へ迫った。

 だが、警備部長はG3-Xがアンノウンを撃破したことに重点を置いていた。撃退に留まっていたV-1システムに対し、最適な運用ではなかったにしろG3-Xはダメージを負うことなくアンノウンの撃破に成功している。その戦績から、上層部としてはG3-Xを採用するほうに意見が傾いているらしい。勿論、北條は納得しないだろうが。

 とはいえ、これから運用していくにあたってAIの暴走に関しては目を瞑るわけにはいかない。小沢には報告書と、問題の改善案の提出が求められた。現在、G3-Xは検査のため各方面へ設計データが配られている。どこに問題があるのか、どう改善していけばいいのか、第3者の意見を参考にしようということだ。スーツの製造を委託されたスマートブレイン社、V-1プロジェクトのスタッフである高村教授にも。

「すみません。全て僕のせいなのに」

 元はと言えば、誠が強く装着員に志願したからだ。シミュレーションの時点で適性がないことは分かっていたのに、無理矢理にも決行したから。

「小沢さんが言った通り、僕はG3-Xの装着員として失格だったんです」

「何を言ってるの? あなたは何も悪くないわよ」

「悪くない? 何故です? 僕が無理を言ってG3-Xを装着したからあんなことになったんです。僕の責任です。今度の会議で、自分の口からそのことをはっきりさせるつもりですが」

 G3-Xのシステムは完璧だ。その証拠に装着員である誠が意識障害を起こした状態にも関わらずアンノウンを倒してみせたのだから。問題があるとすれば装着員自身。AIと同調するための素質が必要で、誠にはそれがない。そのことを小沢はしっかりと警告してくれた。それを子供のように駄々をこねて、ユニットの立場を悪くしてしまったのは誠だ。事の全責任は誠にある。幸いにも、上層部はG3-Xの採用に前向きらしい。誠が大人しく身を引けば、小沢と尾室は引き続きユニットに残留できるはずだ。装着員に関しては、改めて厳正な審査をしなければならないだろが。

「あなた、何でいつも自分を責めるの? G3-Xのほうに問題があるとは思わないの?」

「小沢さんの設計したシステムに欠点があるとは思えません。僕の腕が悪いんです」

「もう1度言うわ。あなたは何も悪くないのよ。もっと自信を持ちなさい」

 自信、か。

 北條のように自分は優秀だ自分に間違いはない、などとがなり立てれば良いというのか。それは違う気がする。自信を持つのは、自分の非を認めず他者に責任を転嫁することじゃない。誰がどう見ても、誠の責任であることは事実だ。それこそ、自信を持って断言できる。

 

 

   6

 

 発表から1夜明けたが、未だに夢心地な気分から醒められずにいる。夢なんじゃ、と何度か頬をつねってみたが、痛みはしっかりとあって現実と証明してくれる。綴りが似ている他のグループなんじゃ、と発表のページを何度も見返したが、やはり何度見ても「Aqours」だ。

 突破した。まだ地方の予備予選だけど。

 わたし達、やったんだ。

 そんな嬉しさすらまだぼんやりしているのは千歌だけじゃないらしい。せっかくだしお祝いしよう、とこうして部室に集まったが、誰もが心ここにあらず、といった様子でいる。

「さあ、今朝採れたばかりの魚だよ。みんな食べてね」

 そう果南がクーラーボックスから出したお祝いの料理は、刺身の船盛だった。それを見てようやく現実へ引き返してきた千歌は呆れつつ尋ねる。

「何で、お祝いにお刺身?」

「だって、干物じゃお祝いっぽくないかな、て」

「それ以外にもあるでしょ。夏ミカンとか」

 「パンとか」とのっぽパンを食べながら花丸が言う。いやパンはお祝いに出すものじゃない。

 そこへ「見てください!」とノートPCを操作していたルビィが、皆に液晶を向ける。画面に映っているのは先日の予備予選での映像だった。運営委員会のほうでステージのパフォーマンスが撮影され、そのビデオは各グループへ記念として配られる。大半のグループがその映像をPVとしてスクールアイドルのソーシャルサイトにアップロードしていて、Aqoursもその例に漏れなかった。

「PVの再生回数が………」

 驚きのあまり、ルビィは声を詰まらせる。その続きを千歌は自分の目で確かめようと、画面の隅にある再生回数の数値へと視線を向けた。

 158,372回。

 まだアップロードして数日も経っていないのに、その数値は叩き出されていた。

「凄い再生数!」

 歓喜に沸いた曜の声が響く。

「それだけじゃなくて、コメントもたくさん付いていて」

 そう言ってルビィは動画ページのコメント欄を展開する。9万9千以上綴られたコメントは、どれも好意的なものばかりだ。

《可愛い》

《全国出てくるかもね》

《これはダークホース》

「良かった、今度はゼロじゃなくて」

 そう告げる曜に「そりゃそうでしょ」と善子が皮肉を飛ばす。

「予選突破したんだから」

 着信音が鳴った。千歌の端末で、画面には「桜内梨子」と受信先の名前が表示されている。

「梨子ちゃんだ」

 画面をタップすると、スピーカーモードに切り替えてテーブルに置いた。梨子の嬉しそうな声が、部室にいる皆の耳に届く。

『予選突破、おめでとう』

「ピアノのほうは?」

『うん、ちゃんと弾けたよ。探してた曲が弾けた気がする』

 その報告に「良かったね」と千歌は安堵する。送り出した甲斐があった。声だけでも分かる。梨子は答えを出せた。ピアノに対する気持ちを。彼女自身の音と、曲を。

 曜が力強く言う。

「じゃあ、次は9人で歌おうよ。全員揃ってラブライブに」

 まだ予備予選だ。次のまた次もある。関門を乗り越えた先には、更に厳しい関門が待っていることは理解している。だからこそ全員揃って、9人で歌いたい。ステージに立ちたい。

『そうね、9人で』

 「そして」とダイヤが告げる。その先にある、Aqoursの掲げるものを。

「ラブライブで有名になって浦女を救うのですわ」

 「頑張ルビィ」とルビィが姉の宣言に同意する。

「これは学校説明会も期待できそうだね」

 果南の言ったその台詞を、千歌は反芻する。

「説明会?」

 そういえば、千歌も中学生の頃に浦の星へ見学に来た。もっとも、最初から家から近い、という理由で受験先は浦の星と決めていたのだが。

「Septemberに行うことにしたの」

 と理事長の鞠莉が言う。

「きっと今回の予選で学校の名前もかなり知れ渡ったはず」

 ダイヤの言う通り、Aqoursは今や無名からラブライブ大会のダークホースと称されるまでのグループに昇り詰めた。

「そうね、PVの閲覧数からすると説明会参加希望の生徒の数も――」

 スマートフォンを操作した鞠莉が言葉を詰まらせる。しばし画面を凝視し、鞠莉は声を絞り出すように告げる。

「………Zero。Zero……、だね」

「嘘……、嘘でしょ!」

 ダイヤがヒステリックな声をあげた。参加希望者ゼロ。

「ひとりもいない、てこと?」

 曜の言葉で、今度こそ夢から完全に現実へと引き戻された。

 

 



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第2話

 

   1

 

 病院というのはどうも退屈だ。この前まで忙しく息をつく暇もなかったせいか、尚更にそう感じる。だからといって尾室が暇つぶしにと持って来てくれた雑誌を読む気にもなれず、退院を明日に控えた誠はベッドで動かず天井を眺めていた。こうして寝ている間にも、世の中は動き続けている。

 また不可能犯罪が発生した。被害者は、現場となった沼津市内に支店を構える大手銀行の女性行員だった。営業中の店舗内で、客や行員たちの多くが、被害者が天井から降ってくるのを目撃したという。聞き込みを進めた河野によると被害者は事件発生当時、職場のあるオフィスビルの屋上で同僚と昼食を摂っていたらしい。同僚が飲み物を買いに屋上を離れ、戻ってきたときに被害者の姿はなかった。そして同時刻、1階にある職場の銀行で被害者は転落死している。遺体の損傷具合から、かなりの高さから落下したという検死結果が出た。

 つまり、被害者は屋上からビルの床や天井をすり抜けたということになる。取り敢えず、いつも通り被害者の遺族に護衛を付けるというのが現状での捜査方針だ。

 タイミングとして最悪だ。ただでさえ対策本部も慌しい状況だというのに。こうなったのも僕のせいだ、と誠は何度目か数えるのを止めた溜め息を吐く。とはいえ、誠が捜査に参加したところで進展する、だなんて傲慢さは持ち得ていないが。ましてやアンノウンが再び現れたとき、G3-Xとして出動するなんてこともできない。

 誠は窓際へと目を向けた。サイドボードに花束が挿された花瓶が置かれている。小沢が見舞いの品に持って来てくれたものだ。そういえば、と誠は思い出す。

 ――あなた、何でいつも自分を責めるの? G3-Xのほうに問題があるとは思わないの?――

 どうして小沢はあんなことを言ったのだろう。自身を天才と自覚している彼女なら、あんな弱音に似た言葉は絶対に吐かないはずだ。事実、G3-XはG3に足りなかった性能を全て補う完璧なシステムとして完成している。それが装着員である誠に弊害をもたらしたからといって、それは彼女の落ち度ではないはずだ。

 ――あなたは何も悪くないのよ。もっと自信を持ちなさい――

 その違和感が、誠をある結論へと導く。

 小沢さん、まさか僕を庇って――

 もし小沢が責任を取ることになったら、彼女はどうなるのか。まさか警察を去ることになのでは。推測でしかないが、それは全て悪い方向へと思考してしまう。

 駄目だ。彼女を追放するなんて、日本警察にとって大きな損失になってしまう。彼女以外に誰がG3ユニットを率いる。誰も代わりなんて務まるはずがない。設計した彼女の指揮下でこそ、G3-Xは運用できるのだから。

 誠はベッドから降りた。明日には退院だが、そんな悠長に待っている場合じゃない。何もかも手遅れになってしまったら、誠は何も行動しなかった自分を生涯呪うだろう。

 

 

   2

 

「G3-X?」

 昼下がりに十千万を訪ねてきた誠に、翔一は怪訝な声を返す。誠は出されたお茶に手を付けず、腰を落ち着かせることもせず翔一を真っ直ぐ見据え、

「はい。先日小沢さんも言っていましたが、是非君に装着してほしいんです」

「あれ本気だったんですか。氷川さんがやればいいじゃないですか」

 すると誠は勢いを失った、沈んだ声で言う。

「やりました………。でも、上手くいかなくて」

 何でこんなに弱気なんだろう、と翔一は疑問に思った。以前小沢と来たときは頑なだったのに。翔一はそこで、さほど気にも留めていなかった数日前のことを思い出す。アンノウンとの戦いに介入し翔一と一戦を交えた、G3-Xと刻印された機械じみた青の戦士。

「じゃあ、あれもしかして氷川さんだったんですか? 何てことするんです。何度も氷川さんのこと助けてあげたのに。いきなり襲いかかってくるなんて」

「何を言ってるんです?」

 しまった、口を滑らせた。誠は翔一がアギトだと知らない。別に隠すことでもないけど、知られたら面倒だから「何でもありません」と笑って誤魔化しにかかる。

「とにかく、お願いします。小沢さんが目を付けた人だ。きっと、君には何かがあるに違いありません」

 誠の真剣さは伝わったし、あの鎧を身に纏う素質を見出してくれたことに悪い気はしない。

 しばし逡巡するが、翔一はきっぱりと告げることにした。

「嫌です」

「嫌? この間は面白そうだ、と言ったじゃないですか」

「気が変わりました。G3-Xですか……、何か怖い感じがします」

 実際に拳を交えて感じた、あの精密すぎる挙動。人間味を全く発しない無機質さ。もし鎧を装着したら、自分もあんな風になってしまうのか。翔一も今でこそアギトの力を使いこなせるようになったが、変身できるようになったばかりの頃は裡から沸き出す力の奔流に意識が呑まれそうな錯覚を覚えた。あんな恐怖はもうごめんだ。

 「そんな………」と誠は分かりやすいほどに肩を落とした。

「それに、俺色々と忙しいんです。やることがいっぱいあって」

 例えば洗った食器の乾拭きとか。その後は布団も干したいし、菜園の手入れもしなければならない。

 台所へ向かうと誠が後をついてくる。

「僕がやります」

「結構です」

「やりますよ」

「結構ですって!」

「貸してください!」

 翔一が布巾で水気を取ろうとした皿が誠に奪われる。だが濡れていた皿は滑りやすく、誠は勢いあまって手から落としてしまった。床と衝突した陶器の皿は、ばりん、と音を立てて盛大に破片を散らす。

 口を半開きにしながら、誠が何か言いあぐねている。こうなると思っていたから断ったのに。その文句を溜め息に留め、翔一は台所の隅に置いてあるポリバケツを取って割れた皿を中へ入れていく。

「貸してください僕がやりますから」

 と生真面目な青年刑事はバケツに手をかけるのだが、

「いや本当に本当に結構ですから」

 とその厚意を押し退ける。正直、有難迷惑だ。この人に触らせると物がどんどん壊れていく。

「では、G3-Xを装着してくれますか?」

「だから嫌ですって」

「ああもう貸してくださいよ!」

 と誠はバケツの取っ手を掴んでもぎ取ろうとしてきたのだが、それほど頑丈にできていないポリエチレン製の取っ手が外れてしまう。互いに引き合ったせいで、勢いあまってふたりとも後ろで転んでしまう。床に頭をぶつけた翔一は鈍く痛む頭を上げる。誠のほうは打ち所が悪かったのか、苦悶に顔を歪めた。

「氷川さん?」

 翔一の呼びかけに応じることなく、誠は持ち上げようとした頭を床に伏せた。

「どうしたんですか? 氷川さん!」

 

 東京スクールアイドルワールドでの投票数はゼロ。

 それはもう乗り越えた過去だ。むしろあの時の悔しさをバネにしたからこそ、ゼロを本当の始まりとして再スタートを切ることができた。だから予備予選も無事通ったはず。

 だけど今度の、学校説明会参加者ゼロという、2度目のゼロという数字は流石に千歌にも堪えた。

「またゼロかあ………」

 ドルフィンハウスのテラスでうなだれながら、千歌は溜め息と共に言う。

「入学希望となると別なのかな」

 かき氷をストローでつつきながら、曜が呟く。曜も2度目のゼロで、予備予選通過の酔いが醒めたらしい。もっとも、部室にいた全員がそうだったのだが。

「だって、あれだけ再生されてるんだよ。予備予選終わった帰りだって――」

 会場を出てすぐのこと。ライブの観客らしき少女から果南がサインを、別のところでは曜が写真撮影を求められた。突然のことにふたりは戸惑いながらも応じ、ルビィは人見知りなあまり逃げ回っていた。ダイヤだけは乗り気で応じようと自ら歩み寄ったのだが、その返事はこうだ。

――どちら様ですか?――

 帰りの電車の中で不貞腐れていたことを笑い話にできるのは、ずっと後になりそうだ。

「大人気だったのに………」

「ダイヤさんの件はいらなかった気がする」

 人気は確かなはずなのに。努力が必ずしも結果へ繋がるとは限らないことは、既に思い知っている。でも、こんなにも結果が伴わないことがあるのか。微塵も報われていない気がする。

「これで生徒が全然増えなかったら、どうすれば良いんだろう?」

 現状でやれることは全てやっているはずなのに。

「μ’sはこの時期にはもう廃校を阻止してたんだよね」

 曜の何気ない言葉に千歌は身を乗り出す。

「そうだっけ?」

「うん。学校存続がほぼ決まってたらしいよ」

 この時期には既に目標を達成していて、その上でラブライブに優勝してしまうなんて。流石は伝説のスクールアイドル、と片付けてしまいそうだけど、Aqoursはその伝説を追っている。一体、根本的に何が違うのだろう。彼女たちと、自分たちと。

「差、あるな……」

 「仕方ないんじゃないかな」とダイビングスーツを濡らした果南がテラスへ上がってくる。

「ここでスクールアイドルをやるってことは、それほど大変てこと」

「それはそうだけど――」

「うちだって、今日は予約ゼロ。東京みたいにほっといても人が集まるとこじゃないんだよ」

 千歌は淡島から望む内浦の景色を見渡してみる。海沿いにある集落。山々に囲まれていて、建物よりも森林の面積が広い。とても静かでカモメの鳴き声が聞こえてくる。東京だったら、こんな静かすぎる光景は無いだろう。あの人がひっきりなしに行き交う大都市は、何かすれば人の目に留まりやすい。でもこの地方集落は違う。何かするにしても、それを見てくれる人が少ない。

「でも、それを言い訳にしちゃ駄目だと思う」

 ここには何もない。以前はそう思っていたけど、この街にだって少なくても人はいる。良いものは人の目に留まるはず。自分たちを通じて、自分たちのいるこの街の魅力をもっと伝えることができれば。

 μ’sだってそうだったはずだ。ほっといても人が集まる東京で学校が廃校になりそうになって、それでも彼女たちは辛い現実を覆してみせた。場所なんて関係ない。例え留まる目が少なくても、良いものは良いと誰もが分かってくれる。

「それが分かった上で、わたし達はスクールアイドルやってるんだもん!」

 千歌は溶けかかったかき氷を一気にかき込む。

「千歌ちゃん、一度に全部食べると――」

 曜の忠告も聞かず、千歌はかき氷を平らげてテラスから駆け下りる。

「ひとりでもう少し考えてみる!」

 それだけ言って港へ向かいながら、千歌は思考を巡らせる。μ’sとAqours。一体何が違うのか。どうして彼女たちは学校を救うことができたのか。

 働かせようとした頭がずきん、と痛み出す。思考を無理矢理中断させられた千歌は、痛む頭を抱えた。

 

 一応ベッドに寝かせたはいいが、どうしたものか翔一は頭を悩ませる。小沢に連絡するべきなのだろうが連絡先を知らないし、知っている志満も今は不在。以前同じように休ませていた葦原涼のように数日も目を覚まさなかったら、今度はしっかり病院に連れて行かなければ。

 そういえば、涼は今頃どうしているだろう。世話になった、と書置きだけ残して姿を消したが、元気にしているだろうか。しっかり食事を摂っているか気掛かりだ。

 誠の閉じられた目蓋が痙攣したように微動する。すぐに目を見開き、跳ねるように体を起こした。

「氷川さん」

 呼ぶとこちらを向いてくれるあたり、はっきりと意識はあるようだ。

「もしかして、どっか悪いんじゃ」

「いえ、疲れてるだけです」

 思い出したように誠はベッドから降りて、

「それよりお願いします。G3-Xを装着してください」

 真正面から肩を掴まれる。いくら誠や小沢が翔一に装着の素質があると見ても、やはり躊躇はある。目の前で装着した本人が倒れられては、そんな危なっかしいことはしたくない。今日だってこれから夕飯の準備をしなければならないし、もうすぐ千歌も帰ってくる頃だから練習着の洗濯もしたい。

 逡巡する翔一に、誠はすがるように言った。

「お願いします」

 

 

   3

 

 連絡船で淡島から戻ってきた千歌が十千万へ着くと、丁度翔一が玄関から出てきた。隣には誠もいる。

「あれ、氷川さん?」

 「高海さん、お邪魔してます」と誠は会釈し、

「すみませんが、津上さんを少し借ります」

「え?」

 何やら慌しい様子で、誠は車へと早足で向かっていく。

「ごめん千歌ちゃん。夕飯までには帰るからさ」

 そう言って翔一も車に乗り込む。既に誠がエンジンをかけた車が走り出し、「ちょっと、翔一くん!」という千歌の声などお構いなしに去って行く。

 

「こちら氷川、Gトレーラー出動をお願いします」

 車内通信機に告げると、スピーカーから運転手の戸惑いの声が返ってくる。

『え、ですが小沢さんも尾室さんもまだ――』

「構いません、指揮は私が執ります。装着員も既に同行しています」

『は、はい………』

 合流地点を指示し、誠は通信を切った。

 不謹慎だが、アンノウンが現れてくれたのは良いタイミングだった。お陰で翔一を半ば無理矢理だが連れ込むことができたのだから。

「これからGトレーラーと合流し、そこでG3-Xを装着してもらいます」

「はい」

 助手席で気の抜けた返事をする翔一は、未だ自分の置かれた状況に実感が追いついていないようだった。無理もない。強引に連れ出され、そこで怪物と戦え、だなんて言われたら誰だって戸惑う。

「安心してください。僕がサポートしますから」

「………はい」

 合流地点で車を路肩へ停めると、ほどなくしてGトレーラーが到着する。ふたりで乗り込んだカーゴの中には小沢も尾室もいない。オペレーティングシステムのマニュアルはしっかりと読み込んでいるから、誠でも扱えるはずだ。PCのキーを叩き、ユニットメンバーにしか配布されていないパスワードを入力し、装着員の登録者から誠の名前を外す。代わりに翔一の名前と、先ほどスキャニングした網膜のデータを追加し装着員として登録した。

 インナースーツに着替えた翔一が、ラックに収納されたG3-Xの装備を見上げる。翔一の顔から普段の笑顔は消えていたが、緊張しているという面持ちでもない。まるで歴戦の戦士のように落ち着いていて、裡の戦いの勘を研ぎ澄ましているように感じられる。

「装着、お願いします」

 誠が促すと、翔一はしっかりとこちらを見据えて応じる。

「じゃあ行きます」

 胸部、脚部、腕部。ベルト型のバッテリーメーターを点灯させ、最後にマスクを顔に装着する。システムは新たに登録された装着員を認証し、その後頭部をカバーで覆う。

 装備一式が装着されたわけだが、まだ完了じゃない。

「オートフィット機能、作動します」

 キーを叩きシステムを呼び起こす。装甲に搭載されたエアシリンダーによって、装甲が翔一の体形に合わせて引き絞られていく。

「これで体にフィットしたはずです」

 このスーツを装着員に合わせるシステムが搭載されたことで、装着員が変わっても改修する手間が省ける。G3より迅速に出動できるようになった。翔一は着心地を確かめるように、グローブに覆われた手を握る。

 PCの液晶がG3-Xの情報を映し出す。システムリンクの接続状況、武装の弾数、装着員のバイタル、AIとの同調率。

「ガードチェイサーに乗ってください」

 誠の指示に従い、翔一はカーゴに鎮座するガードチェイサーのシートに跨りエンジンを駆動させる。

「ガードチェイサー、発進」

 後部ハッチが開き、道路へスロープが伸びる。ロックが解除されたハンガーから、ガードチェイサーが滑るようにカーゴから吐き出されていく。

 路面を滑るマシンは搭載された姿勢制御機構によってバランスを保ち、パトランプを鳴らしながらガードチェイサーを追い越していく。マスク内ディスプレイとリンクした画面で確認すると、GPSが現場へのルートをナビゲートしてくれる。交通状況をリアルタイムで観測して割り出されたルートは、翔一を順調に現場へと導いてくれる。

 路上の真ん中でパトカーが数台無造作に停まっているのが見えた。パトカーの脇を通過すると、先に出動していた警官たちに囲まれた異形の怪物をG3-Xのカメラが捉える。まるでエイのような姿のアンノウンを、翔一は躊躇することなくガードチェイサーで撥ね飛ばす。

 マシンを停めた翔一は、撥ねられる直前のアンノウンが手をかけようとした男性へと視線を向けた。おそらくは護衛対象になった被害者の親族だろう。男性は顔に恐怖の感情を貼り付けながらも、護衛にあたっていた刑事に連れられ現場を離れていく。

 翔一は対峙すべき敵と向き直る。時速60㎞のバイクと正面衝突したにも関わらず、アンノウンは何事もなかったかのように突如現れた戦士を睨みつけている。

《GM-01、ガードアクセラー装備》

 AIの指示に従い、翔一はリアトランクから出したGM-01を右脚のマウントラックに固定し、ガードチェイサーの右ハンドルを引き抜いて左脚のホルスターに収める。

「GX-05アクティブ」

 誠がキーをタイプすると、ガードチェイサーのリアシートに積載された武装のロックが外される。GX-05ケルベロス。G3-X開発時に追加された、最大出力を誇る新装備。アタッシュケース状に折り畳まれた装備を取り、翔一はゆっくりとした足取りでアンノウンへと歩み寄る。

「GM-01 アクティブ」

《GM-01 で銃撃》

 敵との間合いを保ちつつ、AIの指示を受けた翔一はGX-05を地面に置く。それがまるで開戦の合図のように、アンノウンが接近してきた。

 すかさず翔一はGM-01 を抜き発砲する。AIの補正もあって、狙いは正確だ。1発も損することなく全弾を命中させる。射撃の腕そのものに憂慮はしていない。でも、初めて銃を使うはずなのに、翔一はAIの指示があったとはいえ微塵の躊躇もなく引き金を引いてみせた。

 以前より弾薬が強化された銃撃にたじろぐアンノウンが、光輪から武器を抜く。両刃の剣なのだが、まるで牙がノコギリのように並んでいる。

 翔一は再び発砲する。だがアンノウンは武器で飛んでくる弾丸全てを弾きながら接近し、ひと振るいで翔一の手から銃を払い落とした。続けざまに上段から剣が振り降ろされるが、翔一はその場から動くことなく、自分の頭を叩き斬ろうとしてくる刃を両手で挟み込む。

「白刃取り⁉」

 思わず誠は驚愕の声をあげてしまう。武術の達人でも習得が至難とされる技で攻撃を防いだ翔一は、蹴りを入れて敵を引き離すと左脚からガードアクセラーを抜いた。所詮は警棒だから、アンノウンに対して有効打は期待できない。だが翔一は敵の剣を避けつつ、攻撃の隙を突いて脇腹を警棒で叩く。思わぬ反撃に身を悶えさせたアンノウンはそれでも再び剣を振ろうとするのだが、翔一はそれよりも素早く、敵の手首に警棒を打ち付け武器を払い落とす。

 素手同士での戦い。好機とみた翔一は次々と敵に拳を浴びせ、追い打ちにガードアクセラーを叩きつける。

 翔一が渾身の拳を振ろうとしたのだが、そこに僅かだが隙が生じた。アンノウンはそれを見逃すことなく、跳躍して翔一を飛び越えようとする。逃走するつもりか。

 だが翔一の反応は速かった。頭上を通過しようとするアンノウンの足を掴み引きずり落とす。受け身も取れず地面に伏した敵へ容赦なく、翔一はその顔面を蹴り飛ばした。

「津上さん、GX-05を」

 驚かされることが一瞬のうち連続しているが、誠は何とか平静を保ち指示を飛ばす。

「GX-05アクティブ」

 武器を拾い上げた翔一が、解除コードを入力する。GX-05は設計上アンノウンに有効打を与えられる装備だが、逆に言えば強力すぎて市街地での使用はあまり推奨できない。そのためガードチェイサーでの積載ロック、オペレーターからのトリガーロック、パスコードによるバレルロックと3重ものセキュリティが施されている。積載とトリガーはオペレーターのほうで解除できるが、銃身のパスコードは装着員自身が解除しなければならない。

 事前に誠が伝えた解除コードを翔一はしっかりと覚えていて、1・3・2の順でコードを入力する。

《解除シマス》

 無機質なアナウンスが鳴った。バレルが展開し、翔一はガトリングの銃口を敵へ向けるとGM-01 のときと同じく躊躇なく引き金を引く。回転する銃口から間髪なく弾丸が発射され、アンノウンの体を穿っていく。蜂の巣にされた敵の頭上に光輪が浮かぶと、翔一は銃撃を止めた。大量に排出された薬莢が乾いた音を立てた一瞬の間を置いて、アンノウンが爆散する。

『やった、やりましたよ氷川さん!』

 戦闘の緊張が解けたからか、翔一はいつもの明朗な声音で報告した。

『聞こえますか? やりましたよ!』

 

 



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第3話

 

   1

 

 もう学校を救っていたのか。

 部屋に貼ったポスターの中にいる彼女たちを眺めながら、千歌はその裡を探ろうとしてみる。もう数年前に活動していたグループだけど、その人気は未だに衰えることなく多くの少女たちの羨望を集め続けている。

 彼女たちのようになりたい。

 彼女たちのように人を笑顔にしたい。

 彼女たちのように輝きたい。

 そんな夢を抱きしめてスクールアイドルを志す少女は、今や珍しくもなくなった。千歌もそのひとり。

 初めて彼女たちを見た秋葉原での街頭モニターを思い出す。あの時は自分とそんなに変わらない、普通の人たちが頑張ってきらきら輝いている、と思っていた。どこにでもいる普通の高校生が学校を廃校の危機から救って、更に日本一のスクールアイドルにまで上り詰めた。

 だから同じことがわたしにもできる、と思った。彼女たちと同じように仲間と一緒に切磋琢磨すれば、かつてのサクセス・ストーリーを辿れるはずだったのに。

「何が違うんだろう?」

 千歌はひとり呟く。答えを求めても、ポスターの中にいるμ’sのリーダーからは何も帰ってこない。

「リーダーの差、かな?」

 高坂穂乃果(こうさかほのか)。音ノ木坂学院でμ’sを結成した少女。活動当時は千歌と同じ2年生だったらしい。多くの曲でセンターを務めた歌声とポスターの中で浮かべている満面の笑顔からは、きっと明るい人だったんだろうな、と予想できる。でも、それだけだ。それだけしか彼女のことは分からない。一体彼女が何を想いスクールアイドルをやっていたのか。当然、学校を救いたい、という想いはあったに違いない。でも当初の目標を果たした後の彼女は、何をもってラブライブ優勝へとグループを引っ張っていったのだろう。

「もう考えててもしょうがない」

 千歌はスマートフォンを手に取った。いくら想像を膨らませたとしても、結局のところμ’sの物語は本人たちにしか分からない。それにどうにも思索ばかりするのは性に合わない。

「行ってみるか!」

「どこに?」

 不意に聞こえた声のほうを向くと翔一がいた。

「あれ、翔一くん帰ってたの?」

「今気付いたの? ご飯できたから、降りてきなよ」

「うん、ちょっと電話してから行くね」

 

 また東京に行きたい。

 μ’sとAqoursのどこが違うのか。

 μ’sがどうして音ノ木坂を救えたのか。

 μ’sの何が凄かったのか。

 自分の目で見て、皆で考えたい。

 

 皆で、か。千歌ちゃんらしいな。

 千歌からその電話を受けて、まず梨子はそう思い微笑した。予備予選を通過したのに学校説明会の参加希望者がひとりもいなかったことは聞いている。梨子としてもそれは辛いことだし、もっと多くの人に浦の星の魅力を知ってもらいたい、と思う。

「わたしは1日帰るの延ばせばいいけど………」

 そう梨子が歯切れ悪く言うと、電話口から千歌に『けど?』と促される。

「ううん。じゃあ詳しく決まったらまた教えてね」

 それだけ言って通話を切り、梨子は滞在先の部屋で積み重ねられた薄い本を睨む。

「片付けなくちゃ………」

 久々だったから買いすぎた。何としてもこの秘密の本だけは死守しないと。

 

 

   2

 

 誠が職場復帰して最初の仕事は、聴聞会への出席だった。もっとも、糾弾の場としか言いようがないのだが。

『全く、信じられんよ』

 画面越しに警備部長の苛立ちが嫌というほど伝わってくる。

『民間人にG3-Xを装着させて出動するとはな。一体何を考えてるんだ』

 じ、と黙っていると『何とか言いたまえ氷川主任』と補佐官から発言を促される。

『君は自分のしたことが分かっているのか?』

「はい、どんな処分でも受ける覚悟はできています」

 度の過ぎたことをした、という自覚はある。でも誠も、考えなしに翔一にG3-Xを装着させたわけじゃない。

「ただ今回の件で、G3-Xの優秀性は証明されたと思いますが」

 『どういうことだね?』と警備部長が声を荒げる。その圧を感じながらも誠は臆することなく、

「何の経験もない民間人がG3-Xを操りアンノウンを倒すことができたんです。先日の暴走は、この私の責任です」

 これが翔一を出動させた理由だ。G3-Xは適任な人材が装着すれば最大限の性能を発揮することができる。つまり小沢の設計に欠点はない。演習時の暴走は、誠が我を押し通したから起こってしまったこと。処分を受けるのは小沢じゃなくて誠だ。

『君はそれが言いたくてこんな無茶をしたのか?』

 はい、と口を開きかけたとき、小沢の「待ってください」という声で遮られる。

「今回出動した津上翔一なる者は、以前私がG3-Xの装着員として目を付けていた人物です。氷川主任は私の意向に従っただけです。また、津上翔一は私の見るところ特殊な才能の持ち主であり、彼の働きが氷川主任の非を証明することにはならないと思います」

 「いえ」と誠は声を強める。

「私の責任です」

 小沢も負けじと、

「私の責任です」

「いえ、私の――」

「いい加減にしたらどうです」

 この責任の被り合戦を止めたのは北條だった。

「G3-Xがどのようなものか確かめる方法は、この際ひとつだけだ。この私が、G3-Xを装着してみればいい」

 その提案に小沢は苛立ちを強める。

「何言ってんの? あなたはV-1システムの装着員でしょ」

 『いや、それがだ』と警備部長は少し疲れたような声で言う。「何か?」と上司に強気を崩さない小沢の姿勢に溜め息をつきながら、

『北條主任には既に伝えたのだが、高村教授から連絡があってな。V-1開発プロジェクトを放棄したい、と』

 「何ですって?」と小沢は上ずった声をあげる。誠も驚いていた。あの小沢への対抗心に溢れた男が、言うなれば彼女との勝負を降りるなんて。そういえば、G3-Xのデータは高村にも渡された。やはり、教え子の天才性を目の当たりにして挫折したのだろうか。

 北條を見るが、彼は何も言わず口を結ぶばかりだった。

 

「全く思い切ったことをやってくれたわね、あなたも」

 Gトレーラーへ戻る道中で、小沢が言った。すみません、と謝ろうとしたのだが、それは「小沢さん」と後ろから足早に追いかけてきた北條によってお預けになる。うわ、とあからさまに嫌な表情を作る小沢に北條は構うことなく、

「先ほどは失礼しました。いやあ、お互いにかばい合う姿には胸が熱くなりましたよ」

「分かってるわよ、あなたの魂胆ぐらい」

「何のことです?」

「V-1システムが駄目になって今度はG3-Xを乗っ取ろう、て腹でしょ。でもそう上手くいくかどうか」

「乗っとる? 人聞きが悪いな。私はいち警察官として全力を尽くしたいだけですよ」

 否定しないということは、本当にG3-Xの装着員に志願するつもりか。でも、北條に扱えるだろうか。翔一の戦闘をオペレートした誠も、彼の特異性は曖昧だが感じ取っている。

 彼は底が知れない。オペレーションが終わった後も、夕飯の支度をしたいから、と早々に帰ってしまった。銃を握った感触、戦闘時の緊張。それらを全く意に介すことなく、すぐに日常へと帰還してしまった。彼は戦いの経験があって、体に染みついているのではないか。記憶喪失で過去が分からないだけに、そんな想像をしてしまう。

「それにしても興味がありますね。あなたが目を付けたという津上翔一なる人物。果たしてどんな人間なのか」

 そんな北條の問いに、小沢は早口で返答する。

「身長2メートル体重150キロ。岩をも砕く肉体とコンピュータ並の頭脳を持った男よ」

 一体どんな鉄人だ。その嘘に誠は呆れるが、北條は信じたようで目を見開いていた。

 

 

   3

 

 来るのは2度目でも、やはり首都の名前を持つ駅のドームに立った感動は薄れることがない。各地方への新幹線が運行するこの駅から多くの人が東京を訪れて、または東京から各地へと散っていく。

「賑やかだねえ」

 千歌が都会ならではの喧騒を堪能していると、いつも以上に自身を律しようとするダイヤの声が聞こえる。

「皆さん、心をしっかり。負けてはなりませんわ。東京に呑まれないよう」

「大丈夫だよ。襲ってきたりしないから」

 前に来たときは花丸とルビィがアンノウンに襲われたけど。やっぱり翔一くんにも来てもらったほうが良かったかな、なんて考えているとダイヤの険のこもった声が飛んでくる。

「あなたは分かっていないのですわ!」

 まあ沼津とは大違いだから気負ってしまうのは分かるが。隣にいるルビィなら知っているだろうか。

「何であんなに敵対視してるの?」

「お姉ちゃん、小さい頃東京で迷子になったことがあるらしくて………」

 なるほど、道も路線も複雑でどこへどう行けばいいか分からなくなったわけだ。梨子曰く東京に住んでいても新宿駅や池袋駅の構内や路線を完全に把握できている人は少ないらしい。

「トラウシだね」

 「トラウマね」と善子に訂正された。

「そういえば梨子ちゃんは?」

 そう訊く曜に「ここで待ち合わせだよ」と応えながら、千歌は丸の内駅舎のロビーを見渡す。多くの人が行き交う構内で、彼女は思いのほかすぐに見つかった。何故ならコインロッカーで荷物を詰め込もうと奮闘している少女に目が留まって、それが梨子だったから。

「梨子ちゃん?」

 千歌が声をかけると、何やら大袈裟に驚いた梨子は短い悲鳴をあげてこちらへ振り返る。コインロッカーに入れようとしている荷物は結構な量があるらしく、今も手で押さえつけていないと崩れそうだ。梨子は何やらぎこちない笑顔を浮かべ、

「千歌ちゃん、皆も」

「何入れてるの?」

「えっと……、お土産とか、お土産とか………お土産とか――」

 「わあ、お土産!」とはしゃいだ千歌が駆け寄ったら、驚いた梨子が手を離してしまい詰め込もうした紙袋が床に落ちる。中身が散乱、とまではいかなかったものの、紙袋からはみ出したのが本らしきものだったことが気になりしゃがんでよく見ようとする。

 突然、視界が暗転した。

「わあ見えないよ!」

 すぐ梨子に目元を遮られたと悟ったのだが、いくらもがいても梨子はなかなか離してはくれなかった。

 そんな合流早々トラブルに――梨子にとってはかなりのトラブルだったらしい――見舞われたが、無事に全員揃い荷物もロッカーに収納できたところで、梨子が心底安堵したように言った。

「さあ、行きましょうか」

 「とは言っても、まずどこに行く?」と曜が訊く。そう、この東京行きはμ’sゆかりの地を巡る旅なのだが、具体的にどこへ行くかを千歌はまだ皆に言っていない。

「Tower? Tree? Hills?」

 と鞠莉が候補を挙げていく。おそらく東京タワー、東京スカイツリー、六本木ヒルズのこと。東京に来たなら見ておきたい場所ではある。でもそれは「遊びに来たわけではありませんわ」とダイヤによって却下される。

「そうだよ、まずは神社」

 千歌はかねてから予定していた場所を告げる。

「実はね、ある人に話聞きたくてすっごい調べたんだ。そしたら会ってくれる、て」

 「ある人? 誰ずら?」と花丸が訊いてくる。

「それは会ってのお楽しみ」

 と顔を近付けて言うのだが、何故か花丸は怯えた表情を浮かべていた。後で、このとき千歌の目元には梨子に押さえられた手の跡がくっきり残っていたことを知った。

「でも話を聞くにはうってつけの凄い人だよ」

 きっと皆驚くだろうな、とはやる気持ちを抱きながら、千歌は先頭を切って歩き出す。

 

 長い間変身していなかったおかげか、ここのところ体調は安定している。手に刻まれていた不気味な皺は消えて、今は年相応の瑞々しい肌になっている。

 できることなら、このまま穏やかに暮らしていきたいものだが。

 その切な願いはきっと叶わないだろう。怪物どもが現れれば涼の力は戦いへと促す。誰かと心を通わせても、涼のもうひとつの姿を見れば離れていく。そして涼の力は涼の体を蝕んでいく。

 それでも、涼はこのアパートの狭い部屋に閉じこもっているわけにはいかない。あかつき号。父親の死の遠因になったあの船で起こったのは、ただの海難事故なんかじゃない。何としてでも真実を突き止めなければ、故郷にある父の墓を参ることもできない。

 それに果南。たとえもう会うことが叶わなくても、それでも守り続けると誓った少女。果南を傷付けようものなら、怪物だろうと人間だろうと容赦はしない。それで自身が傷付こうが構うものか。

「アギト………!」

 憎しみに満ちた声で涼は呟く。奴は絶対に許さない。前は余計な横槍が入ったせいで仕留め損ねたが、今度こそ逃がしはしない。

 涼はヘルメットを掴み、部屋から出て行った。

 

 

   4

 

「すみません急にお邪魔しちゃって」

 押しかけるも同然に訪ねてきても、翔一は嫌な顔ひとつせず「いえいえどうぞ座ってください」と誠を茶の間へと促してくれる。飲み物は冷たい麦茶を出してくれた。窓辺に吊るされた風鈴と相まって、仕事中なのにここへ来るとつい和んでしまう。

 こんな場所でお茶を出すこの人好きな青年が、G3-Xを扱ってみせたことなんて信じられないほどだ。

「で、今日はどんなご用です?」

「G3-Xのことです。無理なお願いを聞いてもらって」

 「ああ」と翔一は思い出したように漏らす。彼にとって、あの戦闘はさほど大きな出来事ではない、ということか。接するほど不思議な青年だ。誠も認識を改めなければならない。

「君にあんな才能があったとは驚きました」

「そんな大したことないですって。何か簡単でしたし」

 さらりと言った翔一は麦茶を飲む。

「簡単……?」

「ええ、誰でもできますよあれくらい。猿でもできます」

 誠の頬が硬直する。シミュレーションで全身の筋肉が断裂したのも、演習で暴走したのも、猿が装着していれば起こらなかった、ということか。

「僕は、猿以下ということですか?」

「そんなムキになることないじゃないですか」

 そこで、正面玄関の引き戸が開く音がした。「はいはい」と翔一はお客を出迎えに行く。

「お邪魔します」

 ほどなくして、翔一に促されたお客が茶の間に入ってくる。何気なく視線を向けてお客と目が合うと、互いに驚愕の表情を浮かべた。

「北條さん」

「氷川さん」

 北條の麦茶を持ってきた翔一に、誠は簡潔に北條が同僚であることを説明すると、翔一は感心するように、

「へえ、北條さんも刑事さんなんですね。凄いなあ」

 「でも北條さんは何故ここに?」と誠は尋ねる。

「G3-Xを見事に使いこなした、津上翔一さんに是非お会いしたいと思いましてね」

 それを聞いた当の本人は照れ笑いを浮かべる。

「そんな大した事ありませんて」

「いえ、君ではなく津上翔一さんのことです」

 次第に小沢の嘘を真に受けた北條が憐れに思えてきて、誠は真実を告げる。

「彼が津上さんです」

 北條は改めて翔一の顔を眺め、しばし逡巡したのちにようやく声を絞り出す。

「……………は?」

 無理もないだろう。身長2メートル体重150キロ、岩をも砕く肉体とコンピュータ並の頭脳を持った男、という触れ込みで訪ねてきたのに、本物は身長目測180センチ体重恐らく60キロ代。その手は畑の野菜を優しく包み、頭の中で組み立てているのは料理の献立という平凡極まりない青年だ。

 誠のスマートフォンが鳴った。「失礼」と背広のポケットから出す。小沢からだ。

「はい氷川ですが」

『氷川君、あなた今十千万にいる?』

「はい」

『そっちに津上翔一君はいるかしら?』

「ええ、いますが」

『彼と変わってくれる? ちょっと話したいことがあるの』

「ええ………」

 気になりながらも、誠は「津上さん」と翔一にスマートフォンを差し出す。

「小沢さんが、君と話がしたいそうです」

 「俺に?」と戸惑いながらも、翔一は端末を受け取った。

「はい、お電話代わりました」

 

 神田明神へ続く男坂の階段を上り切ると、社殿の前で待ってくれていた先方が見えた。幾重にも重なるこちらの足音に気付いたのか、その待ち合わせの相手、Sain_Snowのふたりはこちらを振り向く。

「お久しぶりです」

 愛想よく、でも不敵な表情を崩さずに挨拶をする聖良に千歌も「お久しぶり」と返す。

「何だあ………」

 と失礼な落胆と共にへたり込んだのは黒澤姉妹だ。駅で千歌が待ち合わせの相手をもったいぶってから何やら興奮してサイン色紙まで用意してきた。

「誰だと思ってたの?」

 鞠莉の質問にルビィは苦笑して誤魔化し、ダイヤは表情を険しくしたまま口を結んで答えようとしない。まさかμ’sのメンバーに会えるとでも思っていたのだろうか。それは流石に無理だ。Saint_Snowと連絡が取れたのは、ふたりが在籍している学校のホームページに連絡先が載っていたから。音ノ木坂学院のホームページにμ’sの連絡先は当然のごとくない。

 μ’sメンバーたちの現在については、ひとりも分かっていない。秋葉原でのライブで活動を終えた彼女たちは、その後ひとりも表舞台に戻ることなく姿を消した。インターネットでは様々な憶測が行き交っているけど、どれも信憑性は薄い。消息の不透明さが、それほど遠い過去の人間でもない彼女たちの神秘性に拍車をかけている。もしさらに時間が経ったら、実在すら疑われてしまいそうだ。

 普通の少女からトップアイドルになった彼女たちは、普通の少女に戻っていったことになる。

 立ち話も何だから、と千歌たちは聖良が事前に予約していた店に場所を移した。その店はかつて、UTX学園という高校の校舎として使用されていたビルの1画にある喫茶店だった。

 UTX学園。スクールアイドル界隈では、音ノ木坂と同じく知らない者はいない。スクールアイドルというジャンルを世間に広めたA-RISEというグループが在籍していた高校。彼女たちは初めて行われたラブライブ大会で優勝し、第2回大会では惜しくもμ’sに負けてしまったが、それでも当時のスクールアイドルの代表格として揺るぎない人気を誇っていた。秋葉原での路上ライブも、A-RISEの働きがあってこそ実現したという。彼女たちもまた、μ’sと同じスクールアイドル黎明期を代表するグループ。

 現在UTX学園は生徒増加に伴い新設された校舎へ移設されている。残されたビルは「A-RISEがいた学校」というセールスポイントから、当時の内装がそのまま保持されカフェやレストランの商業ビルとして運営されることになった。

「凄いところですね」

 通されたラウンジのソファに腰掛けた千歌は緊張と共に言う。広いカフェスペースの中で区切られたこの一画は、かつてA-RISEの特等席として使用されていたらしい。一般人も入れるようになった現在でも、予約を取るのは難しいとか。

「予備予選突破、おめでとうございます」

「coolなperformanceだったね」

 梨子と鞠莉の賛辞を受けながらも聖良は浮かれた素振りを見せることなく、

「褒めてくれなくて結構ですよ。再生数はあなた達のほうが上なんだし」

 「いえいえ」「それほどでも」と曜とルビィが満更でもなさそうに言う。

「でも――」

 聖良のその声が、ラウンジに緊張を走らせる。

「決勝では勝ちますけどね」

 あくまで聖良は笑顔だ。隣で憮然と座っている理亜とは対照的に、Aqoursに敬意をもって接してくれている。だからこそ、その宣言は本気なんだ、と千歌には分かる。

 聖良は続ける。

「わたしと理亜はA-RISEを見てスクールアイドルを始めよう、と思いました。だから、わたし達も考えたことがあります。A-RISEやμ’sの何が凄いのか。何が違うのか」

 きっと、スクールアイドル達にとっては珍しくもない問いなのだろう。多くのグループがA-RISEやμ’sを目指し、その輝きを自分たちも得ようと奮闘している。

「答えは出ました」

 千歌の問いに「いいえ」と聖良はかぶりを振る。

「ただ、勝つしかない。勝って追いついて、同じ景色を見るしかないのかも、て」

 何となく予想はしていた。そう、彼女たち の輝きの理由を知りたければ、同じ舞台に立つしかない。ラブライブ優勝という栄誉を手にして、同じ境地に至らなければ結局のところは知る術がない。勝者と同じものを得たいのなら、自分たちも勝者になるしか方法はない。

「勝ちたいですか?」

 千歌は更に問う。馬鹿げた質問だとは理解している。それでも訊きたかった。このふたりの想いを。

「ラブライブ、勝ちたいですか?」

 ふたり揃って目を丸くする。理亜のほうはすぐ目を鋭く吊り上げ、

「姉様、この子馬鹿?」

 妹の無礼に聖良は何も言わず、千歌に真っ直ぐ視線を向けて問いを返す。

「勝ちたくなければ、何故ラブライブに出るのです?」

「それは――」

「μ’sやA-RISEは、何故ラブライブに出場したのです?」

 既にトップアイドルの座にいたA-RISEが何故また優勝の旗を求めたのか。廃校阻止という目的を果たしたμ’sが何故スクールアイドルのトップに立ちたかったのか。その理由は千歌にも分からない。彼女たちの物語を見たわけじゃないから、正解の分からない想像を膨らませるしかなかった。きっとSaint_Snowも、多くのスクールアイドル達も同じなのかもしれない。

 誰もが同じ問いを抱いて、未だに誰も辿り着けずにいる。

 聖良は言った。

「そろそろ、今年の決勝大会が発表になります。見に行きませんか? ここで発表になるのが恒例になってるの」

 

 



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第4話

 

   1

 

「はいお待ちどお」

 店主から差し出されたラーメンの丼は、脂でぬかるんでいて気を抜いたら手から滑り落ちてしまいそうだ。でも、このちょっとした粗雑さが河野のお気に入りみたいで、誠も嫌いじゃない。暑い季節で屋台だから冷房もないけど、こういう時期に汗をかきながらラーメンを食べるのが粋らしい。

 誠に割り箸を渡してくれた河野は嬉しそうに頬を綻ばせる。

「久しぶりだな、こうやってお前とラーメン食べるのも」

「はい、誘ってくれてありがとうございます」

 河野とは捜査現場くらいしか顔を合わせる機会がないから、こうやって一緒に食事をする時間がなかなか取れなかった。誠の快気祝い、と誘われたのだが、それがいつもの屋台のラーメンとは河野らしい。河野に倣って誠は最初にスープをひと啜りする。久々に口を満たす味に思わず安堵の溜め息が漏れた。

「しかしなあ、北條の奴も意地になってるんじゃないかなあ? V3だのGWだの」

「G3-Xです。V3は昔放送されてた特撮番組で、GWはゴールデンウィークの略です」

 「そうか」とおどけながら河野は麺を啜り、

「まあ何だ、北條の奴も根は悪い奴じゃない。色々迷惑をかけたかもしれんが、許してやってくれ」

 確かに北條にはユニットを振り回されてばかりだ。今もユニットを乗っ取るために何を企んでいるのか知れたものじゃない。でも、河野から頼まれると不思議とあまり彼を憎めなくなる。きっとこうしてラーメンに誘ってくれたのも、快気祝いより誠にそれを言いたかったのだろう。

「河野さん、好きなんですね北條さんのこと」

「まあ、ひとりくらいそういう奴がいないとな」

 それだけ言って河野は黙って食事を続ける。誠も笑みを零すと、伸びないうちに麺を啜った。

「美味いな」

「はい」

 

 大学時代の恩師に会いにいくから、G3-Xを扱ってみせた人間として一緒に来てほしい。

 その小沢からの頼みに、翔一はふたつ返事で了承した。家事以外は特に予定はないし、焼肉をご馳走してもらった恩もある。

 城北大学で待ち合わせてから小沢の恩師である高村教授の研究室へ向かう道中、彼女から事の顛末は聞いていた。G3-Xは今の状態では誠に扱うことができない。その問題を解決するために、小沢は高村教授に意見を聞きたいという。

 正直、説明を聞いても翔一にはいまいち腑に落ちなかった。確かにマスクの中で指示が飛んできたが、それ以外はいつもアンノウンと戦うときと同じ感覚でいたつもりだ。特に意識したことなんてない。G3-Xを装着して何も起こらなかったからといって、自分が特別だなんてことは全く思わなかった。

 氷川さん不器用だから。

 そんなふうにひとり解決していると、高村研究室という札の立つ部屋に着いた。小沢がノックすると、ドアの奥から「どうぞ」と素っ気ない男性の声が聞こえる。「失礼します」という小沢に続き、翔一も「失礼します」と中に入る。せっかく教え子が来てくれたというのに、高村は手にした書類から目を離さず吐き捨てるように、

「電話でも話したように私は忙しい。話があるなら手短にしてくれ」

 しまった、と翔一は気付く。手土産に菜園の野菜を持ってくるのを忘れてしまった。トマトが丁度赤く色付いてきた頃だというのに。

「警察の方から教授にもG3-Xの設計図が渡されたはずです。システムについて、教授のご意見を伺いたいのですが」

 小沢が言うとようやく高村はこちらを振り返る。

「珍しいな。君が人の意見を求めるとは」

「皮肉を言う時間はおありなんですか」

「前にも言ったように私は君が嫌いだ。だが君の才能は認めざるを得ない」

 そう言うと高村はデスクにあるPCのファイルを開く。液晶に映し出されたのはG3-Xだった。各部に翔一には理解できない数字やアルファベットが並んでいる。それを眺めながら高村は嘆息する。

「完璧だよ。G3-Xは素晴らしい」

 何が完璧で何が素晴らしいのはよく分からないが、高村の言葉に翔一は同意できる。実際に装着してみて、いつもとは勝手が違っても戦う分に問題はなかった。

「君が犯したミスはたったひとつだ」

「何でしょう?」

「この前一緒に来た、氷川誠だったかな? 彼を装着員に選んだことだ」

 その言葉に小沢は声を詰まらせた。高村は続ける。

「いや、少し語弊があるな。前に北條さんにも話したんだがね、G3-Xを装着できる人間なんて滅多にいない。何故ならあれは、完璧すぎるからだ」

 そうかなあ、と翔一は首を傾げる。自分にできたのなら誰でもできるんじゃないかな、と。そんな翔一を高村は一瞥し、

「今のままではG3-Xはただの飾り物にすぎない。しかし小沢君、君は何故G3-Xに手を加えようとしないんだ?」

「手を加える? G3-Xは完璧です」

「それが欠点なんだよ」

 高村は語気を強めた。

「G3-XのAI機能と同調するためには、大袈裟に言えば装着員は無我の境地にいなければならない。そんな人間はそこの彼の他にはまずいない」

 ああ、いることには気付いていたんだ、と安堵した翔一は自己紹介しようと口を開きかけるのだが、

「どうやら君はG3-XのAIレベルを落とすことを考えもつかなかったようだな。君は完璧なものを作りそれに満足してしまっている」

 まあ、美味しい料理にそれ以上味を加えようだなんて思わないし。そんなことをしたら台無しになってしまう。

「しかしG3-Xは人間のためのものだ。君は人間のことを考えるのを忘れている」

 言いたいことを全て言ったのか、高村は先ほどより僅かだが表情を緩める。おもむろにデスクの引き出しから透明なプラスチックケースを出すと、それを小沢に差し出す。

 中身は指の爪ほどに小さい電子版だった。

「これは?」

「G3-XのAI制御チップだ。それを使えばG3-XのAIレベルは落ちる。だが、人のものとなるだろう。それをどう使うかは君の自由だ」

 

 

   2

 

 UTXビルの街頭モニターの前では、既に大勢の人だかりができていた。その大半が少女たち。今年のラブライブがどうなるのか楽しみ、という熱気が伝わってくる。

 梨子たちAqoursの面々が人だかりの外縁に立つと、丁度モニターの映像が切り替わった。

 Love Live! FINAL STAGE

 AKIBA DOME

 そのアルファベットの配列を梨子は口にする。

「アキバドーム………」

 本来なら球場なのだが、現在はもはやラブライブ決勝ステージとしての施設という認識が世間で広まっている。

「本当にあの会場でやるんだ」

 感慨深げに果南が呟く。アキバドームで開催されるのは、何も今回が初めてではないらしい。第3回大会から決勝は球場で行われるのが通例になっている。

「ちょっと、想像できないな」

 千歌が言った。スクールアイドルをやりたい。ラブライブで優勝したい。そう言い出したのは千歌だったけど、いざその舞台で歌うという実感があまり沸かない。

 その怖れは梨子も同じだった。このまま勝ち上がれば、自分たちはあのドームで、歓声とサイリウムに囲まれながら歌うことができる。あの舞台に立てばμ’sの輝きの根拠が分かるかもしれない。でもそれは果てしなく遠い場所だ。宇宙よりも遠く感じられる。

 見れば、他の皆も似たような表情を浮かべていた。夢が現実になるかもしれない。それが自分たちにできるだろうか。ライバルはSaint_Snowの他にも大勢いる。日本中のスクールアイドルの頂点にしか辿り着けない境地に、普通の少女でしかない自分たちが果たして行くことができるのか。

「ねえ、音ノ木坂行ってみない?」

 そう言うと、皆の視線が梨子に集まる。

「ここから近いし、前わたしが我儘言ったせいで行けなかったから」

 「良いの?」と千歌が訊いてくる。「うん」と応えるのに逡巡は必要なかった。

「ピアノ、ちゃんとできたからかな。今はちょっと行ってみたい。自分がどんな気持ちになるか、確かめてみたいの」

 浦の星は好き、と断言できる。自分がピアノと向き合うきっかけを作ってくれた、このAqoursの皆がいるあの学校は確かな梨子の居場所になった。なら音ノ木坂はどうだろう。1年間だけの在籍で、ピアノ漬けの日々しか記憶になかった、あの学校に自分はどんな気持ちを抱いているのかは、今でも明瞭にならない。

 だから行ってみたい。

 裡の奥底にある、本当の気持ちを確かめるために。

「皆はどう?」

 訊くと、真っ先に曜が「賛成!」と挙手する。続けて果南も「良いんじゃない」と、

「見れば何か思うことがあるかもしれないし」

 音ノ木坂学院。それはスクールアイドルファンにとっては最も有名と言っていい学校。当然そのことを熟知している黒澤姉妹は、興奮に声を揃えた。

「μ’sの母校⁉」

 

 音ノ木坂学院は高台に校舎を構えていて、そこへ至るまでには長い階段が伸びている。何だか浦の星と似ているな、と少しだけ親近感が沸いた。距離は圧倒的に浦の星のほうが長いけど。

「この上にあるの?」

 まだ見えない校舎への階段を見上げながら曜が呟く。「何か緊張する」とルビィは頬を紅潮させ、

「どうしよう、μ’sの人がいたりしたら………」

「平気ですわ。その時はさ、さ、さ、サインと写真と………握手」

 妹を窘めつつも自分も緊張しているダイヤに「単なるファンずら」と花丸が微笑する。

 千歌も興奮を抑えられずにいた。この階段をのぼった先に音ノ木坂がある。その事実が、千歌の足を進ませていた。

「千歌ちゃん⁉」

「待って!」

「抜け駆けはずるい!」

 と皆が追いかけてくる。階段は思っていたよりも長くて、興奮も相まって次第に呼吸が乱れてきた。でも校舎が少しずつ見えていくにつれて足は速まり、頂上まで一気に駆け上がる。

 上り切った先で見えたのは赤レンガで造られた、でも「普通」の校舎だった。特別華やかというわけでもない。静かなのは、今は夏休み期間で生徒がいないからだろう。

 でもここは、スクールアイドルにとっては聖地と呼んでも過言じゃない。

「ここが、μ’sのいた………」

 かつて彼女たちが門を潜り、教室で学び、練習に励んでいた居場所。この学校の持つ意味はそれだけじゃない。

 一時期生徒数の減少で廃校の危機に陥りながらも、それを覆したのは経営陣ではなく生徒たちだった。世間から見ればただの子供でしかなかった少女たちが、スクールアイドルとして多くの人々に歌を届けたことで生徒を集め、現在まで存続している。

 普通の女の子たちが守った学校。彼女たちの奮闘の賜物。それこそ音ノ木坂学院が聖地といわれる由縁。

「なあ」

 不意に投げかけられたその憮然とした声に、全員で視線を向ける。路肩で茶髪を長く伸ばした青年がバイクのシートに寄りかかっていた。年齢は見たところ翔一と同年代だろうか。でも彼とは対照的で目つきが鋭い。刺すような視線に人見知りのルビィが「ピギィ!」と悲鳴をあげて花丸の背中に隠れた。

「ここに何か用か?」

 そう訊く青年も、とても学校の関係者には見えないが。

「すみません。ちょっと見学してただけで」

 曜が所在なさげに言うと、青年は「ああ」と納得したように、

「μ’sのファンか」

「わたし達もスクールアイドルです」

 千歌が訂正すると、青年は「そうか」とだけ返す。口数はあまり多くないらしい。

「μ’sのこと知りたくて来てみたんですけど」

「そういう奴、結構いるぜ」

 卒業生、というわけでもなさそうだ。音ノ木坂は女子校のはずだから。

「でも無駄足だったな。ここには何も残っちゃいない」

 そう言って青年は校舎へと目を向ける。不思議と、その眼差しが穏やかになった気がした。

「μ’sの奴ら、何も残していかなかったみたいだ。自分たちの物も、優勝の記念品も、記録も。物なんかなくても気持ちは繋がっているから、それで良いんだよ、てな」

 千歌も校舎へ視線を戻す。もし入れたとしても、μ’sの痕跡は何も見つからない。μ’sの母校として少女たちの間では聖地化されていても、その実は普通の学校と何ら変わりない。なるほど、通っていた梨子が知らなかったのも納得できる。

 でも、確かに彼女たちはここにいた。こうして学校が存在していることが、何よりの証拠。

「どう、何かヒントはあった?」

 梨子が訊いてくる。「うん」と千歌は応えた。

「ほんのちょっとだけど」

 ここで何を見つけたのか、千歌自身にもまだはっきりとは分かっていない。でも、何かが裡に灯った気がする。

「梨子ちゃんは?」

「うん、わたしは良かった。ここに来てはっきり分かった。わたしこの学校好きだったんだな、て」

 それは、ピアノが大好きな梨子だからこその答えなのかもしれない。あまり良い思い出は無かったのかもしれないけど、大好きなピアノに打ち込んできた、今の自身に至る軌跡を彼女は肯定することができた。自分のこれまで、良いことも悪いことも全て受け入れ、ようやく前に進んでいける、と。

 千歌は校舎に向けて深く礼をした。千歌を中心として皆も一列に並び礼をする。青年の言ったように、ここには何も残っていないのかもしれない。でも無駄足なんかじゃない。ほんのちょっとでも、μ’sのことが理解できたのだから。

 彼女たちが頑張れたのは、この学校が好きだったから。だから自分たちの物を残す必要なんてなかった。

 頑張った結果は、輝いた結果は置いていかなくても、こうして今ここにあるのだから。

「ありがとうございました!」

 自然と出たその言葉が9つに重なる。スクールアイドルというものを、自分たちの標を与えてくれたことへの、最大の感謝だ。

 エンジンが駆動する音が聞こえる。頭を上げると、青年はバイクで去って行った。

 

 

   3

 

「結局、東京へ行った意味はあったんですの?」

 帰りの電車のなかで、ダイヤが尋ねた。その肩には、旅で疲れた体に電車の揺れが心地よくなったのかルビィが寄り添って寝息を立てている。ルビィだけでなく、後輩たちはほとんどが夢の中だ。

「そうだね、はっきりとは分からなかったかな」

 果南にも、この旅で自分たちが何を得られたのかは分からずにいる。でも、今窓の外を見やる千歌は何かを見つけたのかもしれない。一体それが何なのか、本人も分からずにいる。答えが出るまで待つしかない。

「果南はどうしたら良いと思うの?」

 と鞠莉が訊いてきた。

「わたしは、学校は救いたい。けど、Saint_Snowのふたりみたいには思えない」

 あの姉妹のことは、素直に凄いと思う。PVでのダンスも歌も高水準に達していたし、何よりコンビネーションは他のグループより頭ひとつ抜けている。血の繋がりという濃い絆のなせる技かもしれない。実際に会ってみて、スクールアイドルとしての矜持も見習うべきところがある。でも尊敬はできても、あの姉妹のようになりたいかと問われれば、話は別だ。

「あのふたり、何か1年の頃のわたしみたいで………」

 Saint_Snowは立派だ。技術も信念もある。でも他を寄せ付けないほど立派すぎて、どこか窮屈にも見えた。立派すぎる信念は妥協を許せなくて、やがて独りよがりになって足元をすくわれてしまう。1年の頃、全部を抱え込もうとして親友を苦しめてしまった果南のように。

 不意に、鞠莉が果南の胸に顔を埋めてきた。ハグかと一瞬思ったが違うようで、鞠莉は果南の胸に顔を摺り寄せながら、

「bigになったね、果南も」

「訴えるよ」

「流石、恋をすると成長するものね」

 そう耳元で囁かれて、動揺のあまり乱暴に押し退けてしまう。それでも嫌な顔はせず、むしろにやけているあたり今の果南はかなり顔を紅潮させているのだろう。自分でも顔が熱くなっているのが分かる。

「い、い、いけませんわ。わたくしたちはスクールアイドルで、それ以前にまだ高校生で勉学に励むのが――」

 「分かったから落ち着いて」と興奮して呂律が回らなくなっているダイヤをなだめる。鞠莉はシートにもたれ、

「連絡は取れないの?」

「………うん。涼の連絡先知らなくて」

 あの日から涼の姿は見ていない。彼は1年の頃と同じように、忽然と果南の前からいなくなってしまった。あの頃はまだ良かった。店のお客や地方新聞から涼の近況を知ることができたのだから。でも今、彼がどこで何をしているのかは分からない。生きているのかさえも。

 いや、生きていると信じなければ。別れ際に涼は言ってくれた。

 ――俺とお前は、何度でも会わなくちゃいけないんだ――

 その約束を果たすのに、今度はどれくらい待つことになるのだろう。

「あまり気を煩わせないで」

 ダイヤが優しく言ってくれる。果南は笑顔でそれを受け止め、

「うん、ありがとう。でも今はAqoursのほうが大事だから」

 そう、今はこっちのほうが大事だ。自分の「居場所」でいてくれるAqoursで、浦の星を救いたい。

 駅に到着した電車が停まる。まだ沼津駅じゃないから、座ったまま発車を待っていたのだが、

「ねえ、海見て行かない? 皆で」

 不意に立ち上がった千歌がそう言った。

 

『静岡県警より各局。沼津港にてアンノウンらしき生物の目撃情報あり。G3ユニット出動せよ』

 車内通信機で指令部からの入電が来てすぐ、小沢からの通信が来た。

『氷川君、アンノウン出現。G3-X出動よ』

 ハンドルを握りながら、誠はマイクを取る。

「でも僕では――」

『私を信じて。もう1度やってみなさい』

 またG3-Xを装着したら、AIと同調できず暴走してしまうかもしれない。でも普段以上の強かさを感じ取れる小沢の声で、恐怖は少しばかり和らいだ。小沢のことだ。きっと何かを掴んだに違いない。

「分かりました」

 マイクを戻し、誠はパトランプのスイッチを押す。サイレンを鳴らしながら、Gトレーラーとの合流地点へとハンドルを切った。

 

 快晴日和が続いたから、陽光を燦々と浴びたトマトは張りのある実を赤く染めている。握り拳ほどの大きさにまでなった実だけ採って、まだ小さいものは残しておく。こうして間引きすれば、根から吸い取った栄養が残った実に行き渡って余すところなく大きく成長させることができる。

「すっかり大きくなったわね」

 嬉しそうに頬を綻ばせた志満が、菜園に顔を覗かせる。「志満さん」と笑顔で出迎えた翔一は、採取したトマトの入ったザルを手にして、

「今年は豊作ですよ。美渡も千歌ちゃんもキュウリに飽きちゃったみたいだし、今度はトマト尽くしなんてどうかなあ、て」

 ザルの中にあるトマトをひとつ掴む。水洗いしたときの水滴がまだ残っていて、夕陽を反射してきらり、と光った。

「食べてみてください。良い感じに熟してますからきっと甘いですよ」

 「ええ」と志満はひと口トマトをかじる。皮が裂けた瞬間、果汁が溢れてきて服に零れないよう志満は慌てて前のめりになった。

「美味しい。凄く甘いわね」

 笑顔を浮かべる志満の表情に、翔一は満足する。去年のトマトは酸っぱかったから、今年は肥料もこだわって改良に努めた。農薬や化学肥料を使えば効率も上がるが、それはしたくない。雑草や虫なんて毎日取り除けば農薬は必要ないし、旅館の残飯から堆肥を作れば化学肥料も買わなくていい。

 野菜は自然ありのままの環境で育てるのが1番。それだけは譲れないこだわりだ。

「さーて、千歌ちゃん夕飯までには帰ってきますよね。これ使ってご馳走作っちゃいますから」

「楽しみにしてるわ」

 何を作ろうか、と翔一は頭の中でレシピを組み立てる。確かタコがまだ残っていたからマリネに丁度いい。そういえばジャガイモとベーコンもあった。決まった。おかずのメインはポテトとベーコンのトマト煮にしよう。

 中に入ろうとしたとき、レシピでいっぱいだった脳裏に戦慄が走った。

 奴だ。アンノウンが現れた。

「すみません志満さん、俺行かなきゃ!」

「え? ちょっと翔一君?」

 トマトのザルを半ば強引に志満へ押し付け、翔一は駐車場のバイクへと走った。

 

 



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第5話

   1

 

 パトカーのサイレンがけたたましく鳴り響いている。どこかで事件でも起こったのだろうか。まあ、どうでもいい。俺には関係のないことだ。出動ついでにスピード違反で職務質問されないよう、法定速度は守っておこう。

 アクセルを緩め減速していると、対向車線から白バイが走ってくる。マシンを駆る隊員のその異様な出で立ちに涼は目を剥いた。

 青い鎧にオレンジの目。間違いない。アギトと戦ったときに乱入してきた警察の戦士だ。あれが出動しているということは、まさか怪物が出たか。

 だとしたら、アギトも現れるかもしれない。

 涼はバイクを急停止させる。車体をターンさせ、過ぎ去ろうとする戦士の白バイを追いかけた。

 

 内浦とは違う土地でも、夕陽が海に沈もうとしている光景が美しいのはどこも同じだ。μ’sもこうして、メンバー全員で海を眺めたことがあったのだろうか。自分たち以外に誰もいない夕映えの海岸で、音もなく沈もうとする太陽。もし眺めることがあったのだとしたら、そのとき彼女たちはどんな想いを抱いたのだろう。黄昏時の美しさに見惚れていたのか、それとも別のことを想っていたのか。

 千歌は想像を頭から追いやる。いくら想像したって誰も正解は提示してくれない。それに、正解が分かったところで何だというのか。同じ景色でも、彼女たちが見て抱いた感情は彼女たちのものだ。他の誰のものでもない。その時に抱いた想いというのは誰も代われるものじゃないし、決して譲ることはできないのだから。

「わたしね、分かった気がする。μ’sの何が凄かったのか」

 それは、千歌の見つけた答え。正解なのかは分からない。でも、それで良いと思える。

「多分、比べたら駄目なんだよ。追いかけちゃ駄目なんだよ。μ’sも、ラブライブも、輝きも」

 「どういうこと?」と善子が訊いてくる。「さっぱり分かりませんわ」とダイヤも。理論立てて説明できることじゃないから、すぐに理解できないのも無理はない。これは理論じゃなくて、感情で理解するもの。果南は早くもそれに気付くことができたらしく、

「そう? わたしは何となく分かる」

 梨子も同じく、

「1番になりたいとか、誰かに勝ちたいとか、μ’sってそうじゃなかったんじゃないかな」

 そう、初めから明瞭な正解なんて、どこにも用意されていなかった。

「μ’sの凄いところって、きっと何もないところを、何もない場所を、思いっきり走ったことだと思う。皆の夢を叶えるために」

 千歌たちは、輝きへ至る道を探していた。μ’sが至った輝きへの道。もしその道が敷かれているのだとしたら、μ’sはどうやってそれを見つけたのか。

 考えてみれば簡単なこと。見つけたんじゃなくて、自分たちで道を切り開いたんだ。元々何もないところから自分たち自身の手で。

 自由に。

 真っ直ぐに。

「だから飛べたんだ」

 道を作りながら彼女たちは翼を得て、更なる高いところへ飛び経っていった。

「μ’sみたいに輝く、てことはμ’sの背中を追いかけるものじゃない。自由に走る、てことなんじゃないかな。全身全霊、何にも捕らわれずに。自分たちの気持ちに従って」

 μ’sの走った道は、誰にも辿ることはできない。それは彼女たちが往った、彼女たちだけのものだから。走ったときに感じていた喜びも悲しみも、誰も決して踏み入ることはできない領域だ。でも、それは逆も然り。千歌たちの、Aqoursの往く道もμ’sは辿ることができない。

 本当の標とは先駆者たちの背中じゃない。輝きじゃない。往くべき道を示してくれるのは、自分たち自身の裡にある。その想いのまま、真っ直ぐ走り続ければいい。

 どこへ進むも自由だ。阻むものなんてない。自分たちで決めて、自分たちの脚で往ける。どこへ続いているのかは視えないけど、でも凄く気持ちが昂る。その熱を抱いて、全速全身できる。

「自由に走ったら、バラバラになっちゃわない?」

 善子の言う通り、9人全員が同じ方向でなければならない。いくら自由とはいえ、目的地は必要だ。梨子がそれを問う。

「どこに向かって走るの?」

 それについて、千歌は既に視えている。Aqoursの目指すべきところが。

「わたしはゼロを1にしたい。あの時のままで終わりたくない。それが今向かいたいところ」

 μ’sのように。Aqours結成当初と比べれば、かなりスケールダウンした。でもそれで良い。自分たちの歩幅で進んでいこう。まず目先のことが最優先。観客から応援を集めることのできるスクールアイドルになりたい。

 「ルビィも」と同意の声が挙がる。

 梨子も「そうね、皆もきっと」と。

 果南も「何か、これで本当にひとつにまとまれそうな気がするね」と。

 ダイヤも「遅すぎですわ」と。

 鞠莉も「皆shy(照れ屋さん)ですから」と。

 裡に愛しさが込み上げてくる。この9人なら同じ道を同じ歩幅で往くことができる。そして求めていたものが見つかるはずだ。

 千歌は手を前に出す。すると自然と皆で円陣を組み、全員で手を重ねていく。

「待って」

 曜がいつものコールを止めた。

「指、こうしない?」

 と拳から人差し指と親指の2本だけをぴん、と伸ばす。

「これを皆で繋いで、ゼロから1へ」

「それ良い! じゃあもう1度」

 と千歌は早速曜の提案した形の手を出す。9人でその形で指同士を繋げていき、ひとつのゼロを形作る。

「ゼロから1へ。今、全力で輝こう! Aqours――」

「サンシャイン‼」

 全員で指を高く掲げる。1が9つに重なり、その声は焼ける空へと昇っていった。

 

 

   2

 

 Dear 穂乃果さん

 

 わたしはμ’sが大好きです。

 普通の子が精いっぱい輝いていたμ’sを見て、どうしたらそうなれるのか、穂乃果さんみたいなリーダーになれるのか、ずっと考えてきました。

 やっと分かりました。

 わたしで良いんですよね。

 仲間だけを見て、目の前の景色を見て、真っ直ぐに走る。

 それがμ’sなんですよね。

 それが輝くことなんですよね。

 だからわたしは、わたしの景色を見つけます。

 あなたの背中ではなく、自分だけの景色を探して走ります。

 皆と一緒に。

 いつか。

 いつか――

 

 

   3

 

 沼津港の埠頭までバイクを走らせると、アンノウンは腰を抜かした女性へにじり寄っているところだった。女性が運動着を着ているあたり、ジョギング中に襲われたのだろう。

 近付いてくる翔一のバイクに気付いたようで、アンノウンは獲物からこちらへと目を移す。

「変身!」

 翔一はアギトに変身した。バイクのスピードを上げ、その勢いのままアンノウンを撥ね飛ばす。成す術なくアスファルトに投げ出されたアンノウンはエイのような姿をしていた。先日G3-Xで倒した個体と似ている。僅かに体色が違うが。

 バイクから降りた翔一にアンノウンは向かってくる。狩りを邪魔されたことに酷くご立腹らしい。呻きながら向かってくるその腕を掴み、背負い投げて地面に伏せる。

 追撃の蹴りを見舞おうとしたとき、翔一の首に細いものが巻き付いた。それはアンノウンの背中に垂れるマントのようなヒレから伸びている。

 強く締め付けられ、呼吸が苦しくなる。引き千切ろうと手をかけるが、強く引っ張られて無理矢理に肉迫させられる。そのとき、首の触手が緩んだ。同時に腹を蹴り上げられる。

 防御の体勢を取れなかった翔一は高く宙へと投げ出された。先には水門のびゅうおが立っていて、そのコンクリートの柱に激突するはずだったのだが、翔一の体は何の抵抗もなく柱に潜り込む。

「っ⁉」

 驚愕している一瞬のうちに、柱から抜け出した。感触がまったくなかった。まるで柱は明瞭な蜃気楼のように、まるで実体が感じられない。あれが、あの個体の能力なのか。

 水門を透過した翔一の体が、魚市場のある埠頭のアスファルトに叩きつけられる。ごほ、と咳き込みながら立ち上がり、追跡しようとしたところでバイクのエンジンのような、でも獣の咆哮のような音を聞き取り足が止まる。音の方角を見ると、アンノウンとは別の異形がバイク――のはずだがどこか生物じみている――を駆ってこちらへ向かってくる。

 緑の生物。

 目を赤く血走らせた生物は、前輪を浮かせて突進してくる。寸でのところで避けることはできたが、すぐさま向こうはマシンをターンさせて再び浮かせた前輪を叩きつける。受け止めた前輪のスパイクは、まるで獣の牙のように鋭く、翔一の手に食い込んでくる。

 生物がハンドルをきった。前輪が大きく振り切られ、スパイクが翔一の手に創傷を刻み付ける。流れる血を止める間もなく、マシンから飛び降りた生物に喉元を掴まれた。身動きを封じられたところで顔面に迫った拳を腕で防御する。強化された筋力で振り払おうにも、相手もまた強靭な筋力で拮抗している。

 脇腹に蹴りを入れられた。がく、と崩れおちたところで拳が振り降ろされるが、それを手刀でいなしその腹に拳を入れる。多少痛みはあったようだが、それだけだ。生物は足を突き出してきて、翔一が避けるとそのまま製氷工場の壁に穴を開ける。

 また首を掴まれた。翔一を上回る剛腕で持ち上げられ、壁に叩きつけられる。背中に走る痛みと共に、翔一の体は工場の壁を砕いた。

 

 現場の埠頭へ到着すると、マスクディスプレイの隅を人影がよぎった。映ったのは一瞬だったが、AIはすぐさま影を解析しその正体を割り出す。

《認定 アンノウン 前オペレーション時の個体と類似》

 誠がガードチェイサーから降りて、GM-01 とガードアクセラーをホルスターに収める。

『GM-01 アクティブ』

 小沢から発砲許可が下りた。サーモグラフィモードに移り変わった視界のなかで、人間では不可能な脚力で跳ねる影にGM-01 を発砲する。

 狙いは精密で、不意打ちを食らったアンノウンは誠へと顔を向けた。ディスプレイを通常モードに戻すと、確かに翔一が倒した個体と似ている。向かってくる敵に、誠はGM-01 を連射した。だがやはり牽制でしかない。銃撃に慣れてしまったアンノウンは跳びついてくるが、寸前でGM-01 を右脚に固定した誠は腕で防御する。

 銃撃時に出る照準用のポインタが、アンノウンの顔面に重なった。何故今、こんな至近距離で銃を取れと。

《推奨 指定箇所への打撃》

 そのロゴがディスプレイに浮かぶ。咄嗟に誠は顔面に拳を見舞った。たたらを踏んだアンノウンの各所にポインタが合わさる。攻撃に有効な箇所を、AIは示してくれているのか。

 アンノウンが組み付いてきた。推奨される打撃箇所が更新され、今度は脇腹を示している。その指示通り、誠は脇腹に蹴りを見舞った。続けて左脚からガードアクセラーを抜き、首筋に叩きつける。

 追撃を加えようとしたところで、敵が跳躍した。類似個体なだけあって、行動パターンが似ている。前回の戦闘で翔一がやってみせたように、誠は頭上を通過しようとするアンノウンの足首を掴んで引きずり落とす。襟首を掴んで立ち上がらせ、その顔面に拳を叩き込んで突き飛ばす。

『GX-05ロック解除、アクティブ』

 ガードチェイサーのリアシートに積まれたGX-05が、ハンガーラッチから解放される。自身が持つ最大の武装を掴みコードを入力した。

 1・3・2

《解除シマス》

 銃身が展開する。息を荒げている敵へ銃口を向けると、すぐに照準ポインタが重なった。躊躇なく誠は引き金を引く。

 雨あられのような弾丸がアンノウンの体を穿ち、辺りに肉片を撒き散らしていく。腕も脚も胴体も、削られていく肉体はとうとう立つこともできなくなり、地面に伏すと同時に爆散した。

 マスクの奥で、誠は安堵の溜め息をつく。やった、暴走せずミッションを完遂できた。流石は小沢だ。この短期間でこうも簡単にG3-Xを誠にも扱えるよう調整してしまうとは。手を加えたとしたら、やはりAIだろう。今回の戦闘で、AIは誠を主導するのではなく、まるでアシストするような指示をしていた。あくまで誠の意思に従い、その上で最善の動作を促すということか。

 詳しいメカニズムを理解するのは難しいが、これなら戦える。G3-Xは、人間の手で制御できる代物として完成した。

 

 高く跳躍したアギトはびゅうおの屋根に逃れた。涼も跳躍し、その後を追う。逃げられないことを悟ってか、アギトは腹に拳を打ってきた。鈍い痛みが走るものの、涼にとって意に介すほどじゃない。

 この手が果南を――

 理性が消し飛びそうなほどの怒りが駆け上っていく。腹に沈む腕を掴み、振り回してコンクリートの屋根に叩きつける。馬乗りになって、何度も顔面を殴打した。

 痛いか。お前はどれほどの痛みを果南に与えた。あいつ以上の痛みを与えてやる。殺すのはそれからだ。

 反撃の拳を胸に受ける。その拍子に離れてしまい、立ち上がったアギトは追撃を加えようとしてくる。だがそれよりも速く、涼の足はアギトの胸を蹴飛ばした。

 屋根の淵から離されたアギトが、海へと真っ逆さまに落ちていく。飛沫をあげて沈んだ金色の戦士は、しばらく待っても浮き上がってくることはなかった。

 

 

   4

 

 穏やかに打ち寄せる波打ち際にしゃがんだ彼女は、両手で優しく海水を掬いあげる。大きく広げられた両腕からは飛沫となった海水が撒かれ、陽光を反射し燦々を輝いている。

 ああ、最近になってよく見る夢だ。一体、彼女は誰なんだろう。俺の恋人、それとも奥さん。

 ――こっちに来て――

 女性が白いワンピースの裾を風になびかせながら、こちらに手を振っている。年齢は自分とあまり変わらなそうだが、その笑顔は子供のように無垢で、太陽のように眩しい。

 ――こっちこっち、こっちに来て――

 今行くよ、という声が聞こえた。翔一の声だ。

 これは、俺の記憶なのか。

 情景がモザイクのように粗くなっていく。駄目だ。あとちょっと。あとちょっとで全てが分かりそうなんだ。

 景色が変わった。いつかの夜。蒸し暑いなかずっと走っていたせいで体中が汗で濡れていた。視線が低い。民家の庭に植えられたヒマワリが翔一の背を優に越している。まるで自分を見下ろしているかのように開く花が怖ろしくて、その場を走り去った。

 そうだ、これは俺が小学生だった頃だ。夕食に嫌いな野菜を出されて、癇癪を起こして家出した夜の光景だ。道中に畑にあった野菜を勝手にもぎ取って食べたけど、空腹は治まらず疲れも相まってやがて道端に座り込み途方に暮れてしまった。

 ――もう、こんなところにいた――

 そう言って翔一の前に現れたのは、海岸にいたのと同じ女性。まだ中学生だった頃の彼女だ。

 ――ほら、帰ろう。お腹空いたでしょ?――

 うん、と頷いた少年時代の翔一は、彼女と手を繋いで夜道を歩いた。

 また景色が移り変わる。少し成長して、ふたりで暮らし始めた頃のこと。翔一が初めて作ったチャーハンを食べて、彼女は笑顔を向けてくれた。

 ――美味しい。凄く美味しいわ――

 そう、彼女はいつも笑顔を絶やさなかった。翔一が悪戯をすれば怒るころもあったけど、すぐにその顔は笑顔に戻っていた。彼女の笑顔は常に翔一を見守ってくれた。進学先を打ち明けたときだってそうだ。

 ――調理師の専門学校か………。将来は料理人になるの?――

 駄目かな、と翔一は訊いた。ううん、と彼女は笑顔で言ってくれた。

 ――料理好きなんでしょ、大賛成よ。お金は心配しないで。あなたの料理食べると笑顔になれるもの。料理で人を笑顔にできるって、とても素敵なことよ――

 そうだ、俺はあの人のために料理を始めたんだ。美味しい、て食べてくれるあの人の笑顔が見たくて。

 ――こっちに来て。こっちこっち――

 景色が海に戻った。彼女が手を振っている。

 ――こっちに来て!――

 あの笑顔は、何の前触れもなく消えてしまった。最後に見た彼女の顔は笑顔じゃなかった。

 最後に見たのは寝顔だった。閉じられた目蓋も結ばれた口元も二度と開かれることはない。握った手はとても冷たく凍り付いていて、いくら強く握りしめても握り返してくれなかった。翔一は泣きながら彼女を呼び続けていた。

 姉さん………――

 俺のたったひとりの家族。

 姉であると同時に、母でもあった人。

 姉さん!――

 

 全身を包む冷たさに目を開く。真っ暗だ。顔を上げると茜色の光が見える。その光目掛けて昇っていく。水面から顔を出すと、翔一は思いきり息を吸って肺に酸素を送り込んだ。港からそう離れていない沖合は夕陽の茜に染まっていて、沈もうとする太陽のこの日最後の輝きに目がくらむ。

 海面に浮かびながら、翔一は裡を探ってみた。夢で見た光景は朧気で、すぐに元の空白へと戻っていく。でも今、夢から醒めたはずの翔一の裡は、何も描かれていないキャンパスのようだった空白に色彩がもたらされた。

 それはとても奇妙な感覚だ。空白を日常としてきたものが一瞬で色付くと、どうしたものか分からなくなる。でも、この色彩こそが本来裡を満たしていた。

 今なら鮮明に思い浮かべることができる。彼女の笑顔や声。子供の頃から最期の時の姿まで淀みなく。

 翔一が、津上翔一になる前に確かに持っていたもの。

「思い出したぞ………、全てを!」

 

 




次章 サンシャイン‼ / 甦った記憶


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第13章 サンシャイン‼ / 甦った記憶
第1話


   1

 

「ちょっと待ってください。それはどういうことですか!」

 会議室に北條の怒声が響く。部下の不遜な態度はもう慣れたものなのか、それとも役職の余裕なのか、PCの中で警備部長は落ち着いた姿勢を崩さない。

『氷川主任はG3-Xを使いこなし見事にアンノウンを撃破した。この働きを認め彼を同システムの装着員として任命する』

 先日のオペレーション。高村教授の協力で搭載されたAI制御チップのおかげで、誠はAIの影響を受けなかった。これにより一定の普遍性を得たG3-Xを装着するのに相応しいのは、G3に引き続き氷川誠警部補。これがこの日の会議で言い渡された決定事項だ。

「異議を申し立てます!」

 当然、北條がこの決定に納得するはずがない。誠に使いこなせたということは、北條も同じようにアンノウン相手に立ち回れるかもしれないということだ。先日の出動も、試験的に北條を装着員に任命しようというなかで起こったこと。あと1歩のところで、北條の企みは頓挫したことになる。しかも、自分のシステムを担当していたはずの高村教授の手によって。

「先日のG3-XとV-1システムのコンペの際の、彼の暴挙をお忘れですか!」

 『あれは――』と補佐官が、この場で暴挙を働きかけている北條を制止する。

『小沢管理官も認めているように、G3-Xに問題があったんだ。そして今、その問題もクリアされG3-Xは理想的なシステムとして完成してる。そのことは、高村教授も認めているところだが』

「しかし――」

『頼むよ、氷川君』

 と警備部長は強引に話を打ち切る。少々乱暴な対応にも見えるが、それが最善と誠は思った。ここで何を言っても北條は決して納得はしないだろう。自身がG3-Xの装着員になれるまで。

『君の活躍に期待している』

「はい、頑張ります」

 きっぱりとした誠に、警備部長は満足そうに笑みを浮かべる。「そんな……」と苦虫を嚙み潰したように北條は憎悪を込めた視線をくべ、

「知りませんよ、どうなっても。この決定は間違っています。取返しのつかないことになるに決まってるんだ!」

 そう吐き捨て、上等な革靴を鳴らしながら北條は会議室を出て行く。すれ違いざま、小沢の椅子の脚を蹴ったのは意図的だろう。腹を立てた小沢は立ち上がろうとするが、それは誠が止めに入る。

 それからの会議は特に報告を受けることもすることもなく、すぐに解散となった。

「そういえば、あの男も津上翔一に会いに行ったそうね」

 会議室を出てすぐ、小沢が言った。

「ええ」

「どうだった?」

「かなり困惑しているようでした」

 もっとも、原因の半分は小沢のついた嘘にあるのだが。

「でも、何となく分かる気がするんです」

「どういうこと?」

「津上さんの独特のペースに巻き込まれると、何故か普段の自分を見失ってしまうんです」

 「なるほど……」と小沢は唸った。何故か翔一と話していると、不思議と気分を張り詰めさせた自身が馬鹿馬鹿しく思えてしまうことがある。彼にからかわれると無性に腹が立つし、彼に料理を出されるとその気もないのに食べてしまう。

「確かに独特なものがあるわね、彼には。記憶喪失らしいけど、一体どんな過去の持ち主なのかしらね」

 

 

   2

 

「この野菜使って凄いご馳走作っちゃうからさ、楽しみにしててよ」

 夕飯の支度をするとき、エプロンの紐を結びながら翔一はそう意気込んでいた。ご馳走を作る、なんて前からよく言っていたことだけど、大体作るものは家庭的なもので敷居の高い料理は食卓に並んだことがなかった。

 だから、その日の夕飯に並んでいた品々を見た時点で気付くべきだったのだけど、千歌は普段なら味わうことのできない絢爛さに夢中だった。

 夕飯のメインは菜園で採れたトマトだった。どの更に盛られた料理も赤く色付いている。でもそれらの料理はまるで高級店のフルコースみたいに洒落たもので、テーブルには白いクロスが敷かれるほど雰囲気作りにも凝ったものだった。

 トマトソースのパスタ。トマトのスープ。トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼ。ヨーグルトドレッシングを和えた夏野菜のサラダ。

 レストランのウェイターさながらに、翔一は志満のワイングラスに飲み物を注ぐ。飲み物はワインじゃなくてミネラルウォーターだが。

「翔一くん、いつの間にこんな技覚えたの?」

 口の中を満たす唾液を飲み込みながら千歌が訊いた。志満も早く食べたそうに料理を見ながら、

「ええ、これはもう立派なプロの仕事よ」

 「いやあ、何となく」と笑いながら翔一が席につくと、皆で手を合わせて「いただきます」と唱和する。

 ひと口啜ったパスタはとても美味しかった。行儀の悪いことに口に物を詰めたまま「美味しい!」と言わずにいられない。「甘! え、これデザート?」とサラダを食べた美渡が目を丸くする。「デザートじゃないんだなこれが」と翔一が得意げに言った。

「いつまでもうちに居て良いのよ翔一君」

 だなんて志満が調子の良いことを言う。でも千歌も同意だった。こんな美味しいものを毎日食べられるなら、翔一にはずっと十千万にいてほしい。

「ほら、ガスパッチョは自信作なんだ。トマトの酸味が苦手でもいけると思うんだ」

 翔一に勧められるままスープをひと口飲む。「美味しい」と姉妹で声を揃えた。その後も談笑を交えながら食事は進んでいったのだが、千歌は料理の味に夢中で話なんて耳に入っていなかった。

「俺子供の頃トマト嫌いでさ。夕食にトマト出されて家出しちゃったこともあってさ。家出しているうちにお腹空いてきちゃって。で、畑から野菜黙って採って食べたんだけど、それが滅茶苦茶美味しくて。その野菜がトマトでさ、それ以来トマト嫌いが直ったんだよ」

 

 その日の夜、千歌はふと目を覚ました。何てこともない、深夜に寝苦しくて目覚めるなんてよくあることだ。前はベッドから転がり落ちて起きたことがある。

 このまま目を瞑ったらまた眠れそうなのだが、喉が渇いた。こういうものは1度気になるとなかなか眠れなくなってしまうもので、千歌は台所へ降りると冷蔵庫を開けた。翔一はしっかりオレンジジュースを買い置きしてくれたらしい。ジュースの紙パックに手を伸ばしたとき、ふとトマトが目に入った。今日のトマト料理は美味しかったな、なんて思っていると、翔一の言葉を思い出す。

 ――俺子供の頃トマト嫌いでさ――

 子供の頃、という部分に違和感を覚える。翔一が昔の話をしたことなんて、今まで1度もなかった。記憶喪失なんだから当然だ。でもそれを話したということは――

 違和感の正体に気付いた千歌は、冷蔵庫を乱暴に閉めると階段を駆け上がった。宿泊客の迷惑なんて顧みず、どたどた、と足音を立てながら翔一の部屋の前に立ち襖をノックする。

「翔一くん?」

 返事はない。寝ているのだろうか。翔一は毎日決まった時間に寝て決まった時間に起きるから、夜中に目が覚めることはない、と話していた。

「翔一くん」

 再び呼びかけるも、やはり返事はない。恐る恐る、千歌は襖を開ける。真っ暗な部屋のなかを進み、手探りで電灯の紐を掴み引っ張る。

 灯りの点いた部屋の中に、翔一はいなかった。ベッドに敷かれたシーツや布団はきちんと皺が伸ばされていて新品のようだ。

 まるで、誰も最初から使っていなかったように。

 

 

   3

 

 前日の夕飯と比べると、この日の朝食はとても質素なものになった。朝食に夕食ほど手の込んだものを作る必要はないけど、翔一は毎朝栄養のバランスを考えてくれて品数を多く揃えてくれていた。だからこの日の朝食のコーンフレークは、あまり食欲をそそらない。志満も美渡も同じらしく、3人での食卓で唱和された「いただきます」はどこか火が消えたように弱々しい。

「ねえ、ふたりとも気付いた?」

 皿に牛乳を入れながら志満が訊いた。「うん」と美渡が頷き、千歌も無言のまま頷く。

「信じられないよね、翔一が記憶を思い出した、なんて」

 スプーンで皿をかき回しながら美渡が言う。やっぱり、ふたりの姉も勘付いたらしい。

「昨日子供の頃の話してたでしょ? あれって思い出した、てことだよ」

 千歌が言うと、志満は溜め息と共に、

「あまりにもいつもの翔一君と変わらないから、気が付かなかったわ」

 そう、昨日の翔一はいつもの翔一だった。仕草も話し方も、千歌たちが美味しそうに料理を食べる姿を見るときの笑顔も。本当に記憶を取り戻したのか疑ってしまうほどで、どのタイミングで思い出したのか全く分からない。

 電話が鳴りだした。こんな朝早くに誰だろう。宿泊の予約かもしれないから、志満が受話器を取る。

「はい十千万でございます………、翔一君⁉」

 その名前を聞いて、千歌と美渡は食事の手を止めて電話のもとへ駆け寄る。

「翔一君、あなた本当に記憶が戻ったの?」

 「志満姉貸して」と千歌は長姉から受話器をもぎ取る。

「翔一くん、今どこにいるの?」

『千歌ちゃん………』

 受話器から聞こえる翔一の声はいつもの張りがない。電話の液晶を見ると非通知になっている。翔一は携帯電話を持っていないから、どこかの公衆電話からかけてきたのだろう。

『俺、大丈夫だからさ………。しばらく帰れないかもしれないけど心配しないで。俺、会いたい人がいるんだよ』

「会いたい人?」

『うん………、それじゃ』

 通話が切れた。無機質なコール音を鳴らす受話器を、千歌は見つめる。この時が来ることは理解していた。翔一が記憶を取り戻せば、きっと彼に何かしらの変化は起こる。でも彼のいる日常がなくなってしまうのも怖くて、あと少し、あと少し、と先延ばしを祈り続けていた。

 でも、それは唐突に終わる。この時のために何の準備も心構えもなかった千歌には、この感情の揺さぶりをどうすればいいか分からなかった。

 

 個人に大きな出来事でも、世の中にとって記憶喪失の人間が過去を思い出したことなんて、ほんの些細なことに過ぎない。例えばラブライブ。翔一が記憶を取り戻したからといって東海地区予選の日程がずれ込むなんて当然あるはずもない。だからこの日、まだ千歌は普段通りの日常を保つことができていて、予選に向けた練習に励んでいた。

「ワン・トゥー・スリー・フォー。ワン・トゥー・スリー・フォー」

 屋上で果南の手拍子に合わせてステップを踏み、修正すべき点があれば次々と指示が飛んでくる。

「今のところの移動はもう少し速く。善子ちゃんは――」

「ヨハネ!」

「――更に気持ち急いで」

「承知。空間移動使います」

 冗談なのか本気なのか分からない善子の文言は置いといて、同じパートをもう1度踏んでみる。

「はい、じゃあ休憩しよ」

 と果南が区切りをつけると、皆が一斉にその場で座り込む。座ったら座ったで、陽光に焼かれたコンクリートの床が熱いのだが。

「暑すぎずら………」

「今日も真夏日だって………」

 とうなだれる花丸とルビィに、まだ体力を保ち続けている曜がペットボトルの水を差し出す。

「水分補給は欠かさない約束だよ」

 「ありがとう」とふたりは受け取った。たとえ喉が渇いていなくても、水分補給はしっかりと。この夏休みの練習での決まりだ。喉を鳴らして水を飲んだ果南は、屋上から内浦の港町を見下ろす。

「今日も良い天気」

 この炎天下のなか、果南もまだ体力が有り余っているらしい。その両隣に、ダイヤと鞠莉が並んだ。

「休まなくて良いんですの? 日なたにいると体力持っていかれますわよ」

「果南はshinyな子だからね」

 丘の上という立地条件から、浦の星からは内浦が一望できる。地元民でも思わず溜め息が出るのだから、他の土地から来た人間は感動できるかもしれない。事実、翔一はたまに学校へ千歌の忘れ物を届けに来るとき、必ずここで景色を見ていた。

 無言のまま地元を眺めていた3人だったが、後ろで漏れ出た呻き声に振り返る。視線の先には善子が力なく床に横たわっていた。その出で立ちでは当然なのだが。

「黒い服はやめたほうが良いとあれほど………」

 とダイヤが何度目かも分からない注意をする。善子は練習中もずっと黒のローブを脱がない。紫外線を吸収して中は熱が籠ってかなり酷なはずなのだが、彼女は決して折れない。

「黒は堕天使のアイデンティティ。黒がなければ生きていけない」

 「死にそうですが」とダイヤは一応の気遣いを見せる。本人はそれならば本望、とでも言いたげな笑みを浮かべているから、無理に脱げとまでは言わないが。

 そんな様子を見ていると、「千歌ちゃん」と梨子がペットボトルを投げてきた。宙で掴み取ると曜が「ナイスキャッチ」と賛辞の敬礼をする。

「飲んで」

「ありがとう」

 キャップを開ける前に、千歌は透明なボトル容器を空高く昇っている太陽にかざしてみる。プリズムのように7色には分かれないけど、透過する白色の光は混じり気のない清廉さを感じられた。

「わたし、夏好きだな。何か熱くなれる」

 自分が夏生まれだからだろうか。千歌は幼い頃から四季のなかで夏が好きだった。暖かな春や涼しげな秋、空気の澄んだ冬も捨てがたいけど、やっぱり夏が1番だ。気温の上昇に伴って、自身の熱もどんどん上がっていくような気分になれる。以前翔一と似た会話をしたことがあって、そのとき彼は全部の季節が好きだ、と語っていた。何故ならどの季節にも必ず美味しい旬な食べ物があるから、と。

「わたしも!」

 と曜が暑さも何てことない、とばかりに敬礼する。梨子も、これだけ炎天下でも笑みを浮かべていられる。「よーし」と千歌はこの時期に高まる裡の熱に任せ、

「そろそろ再開しようか」

 と軽く足踏みしたところで、

「ブッブー!」

 とダイヤの声が飛んできて危うく跳び跳ねそうになってしまう。

「オーバーワークは禁物ですわ」

 「by果南」と鞠莉が、

「皆のこと考えてね」

 1年生の3人はまだ立ち上がれずにいる。善子は仕方ないとして。少しだけ頭が冷えた千歌は「そっか」と、

「これから1番暑い時間だもんね」

 ダイヤは言う。

「ラブライブの地区予選も迫って焦る気持ちも分かりますが、休む間もトレーニングのうちですわよ」

 練習は厳しくても、決して無理はせず。それは3年生たちからの教訓だ。常にコンディションを最良の状態に保ち、最高のパフォーマンスを本番に出せるよう臨むこと。

「でもその前に、皆100円出して」

 練習を指揮する果南が言うと、むくり、と善子が立ち上がる。

「やって来たのですね。本日のアルティメットラグナロク………」

 くっくっく、と気味の悪い笑みを挟んで、

「未来の時が………視える!」

 そんな意味の理解しがたいことは誰の耳にも入らず、皆は片手をあげた。

「じゃーんけーん――」

 

 インターホンを鳴らしてそう待つことなく、住人は応答してくれた。

『はい』

 その女性の声は警戒の色を含んでいる。向こうからは、ドアフォンのモニターから戸口に立つ見知らぬ来訪者の姿が見えるのだろう。

「突然お邪魔してすみません。自分は葦原涼という者ですが。少し話を聞かせてほしいことがあるんです」

『何でしょう?』

「あかつき号のことについて」

 それを告げると、スピーカーからがちゃん、という音を最後に沈黙が漂う。「関谷さん?」と涼が住人に呼びかけるも、応答はない。

 やっぱりか、と嘆息しながら涼は手帳を開く。関谷真澄(せきやますみ)。綴られた住所はこのマンションで間違いはなかったようだが、話は聞けそうにない。以前訪ねた篠原佐恵子の態度から予想はしていたが、彼女もまたあかつき号で何かに見舞われた当事者であることは確信した。

 なら尚更、引き下がるわけにはいかない。今の涼に残された生きる理由は、父の死について真相を追うことだけだ。

 たとえ、それが最後に何も残らないとしても。

 

 

   4

 

 今は津上翔一として生き、しかしかつての名前を思い出したその青年をここでどう呼ぶべきなのかは分からない。かつての目的を思い出し、その記憶の下に旅立った彼は紛れもなく本来の彼として行動しているはずなのだが、津上翔一としての意識が消滅しているわけでもない。突然家を出て行ってしまったことは世話になっている家族には申し訳なく思っているし、彼女たちへの思慕もまだしっかりと残っている。でも自分がどちらなのか、どちらの名前でこの旅を往くべきなのかは、青年自身にも分からなかった。

 過去を取り戻しても、青年は両親のことを覚えていない。物心が芽生える前にふたりとも既にこの世を去っていて、思い出そうにも元から親にまつわる記憶なんて持っていなかった。

 子供たちを祖母に預けて知人の結婚式に出掛けた両親は、骸になった状態で帰宅することになった。ふたりをこの世から追いやったのは泥酔したドライバーを乗せた高級外車で、法定速度をとうに越したスピードで車線を逆走し両親を乗せた車と正面衝突した。大破した2台の車に乗っていた人間は全員が即死で、遺体の状態があまりにも悲惨だったことから両親は帰宅の前にエンバーマーによる修復を受ける羽目になった。

 突然両親を失った青年と5歳上の姉は預けられていた祖母にそのまま引き取られることになった。青年が生まれる前に夫を亡くした祖母は高齢だったが、その頃には姉はほとんど手のかからない年齢だったこともあり、主に青年の面倒は姉が見てくれた。姉は祖母と一緒に台所に立って料理をしてくれて、脚の悪かった祖母に代わって家事を率先して引き受けた。正直、姉は学校の制服よりもエプロンのほうが似合っていた。それを言ったら夕飯に嫌いなトマトを出されたが。

 だから幼かった青年にとって祖母は「おばあちゃん」のままで、「お母さん」と感じ取ることができたのは姉のほうだった。

 青年が10歳の頃に、祖母は老衰で亡くなった。姉もまだ高校に進学したばかりで大人の庇護が必要な年齢だったのだが、両親と祖母が遺してくれたなけなしの遺産を元手に弟とふたりで暮らすことを選択した。

 狭いアパートで始まった姉弟ふたりだけの生活は、傍から見れば結構な苦労に見えるだろう。でも青年は不幸を感じたことは1度もない。姉はいつも笑顔を欠かさない人で、そんな彼女と暮らすことで青年も自然と笑顔でいられた。青年が炊事や家事をするようになったのはその頃からだ。早朝の新聞配達と夕方のコンビニのアルバイトで生活費を稼いでいた姉の負担を少しでも減らしたかった。

 初めて作った料理はチャーハンだった。テレビの料理番組でシェフの動きをうろ覚えのまま真似して作ったもので、今思えば油が多すぎてべたついていたし、具材の切り方も不揃いな酷い出来だった。

 それでも、姉は美味しい、と笑いながら食べてくれた。

 

 神戸港から出航したフェリーボートの「たそがれ号」は、晴天の下で穏やかに波打つ瀬戸内海を航行している。デッキに立った青年は、先の見えない水平線を無表情のまま眺めていた。記憶喪失だった頃には全ての景色が新鮮に思えたのに、思い出した今はその新鮮さが失われている。

 本土からは明石海峡大橋が敷かれているからバイクでも四国へ渡ることは可能だが、青年はフェリーでの航路を選択した。ゆっくり海を見ることで、これまで忘れていた姉との思い出をより鮮明に追憶することができる。

 姉は海が好きだった。よく暇を見つけては弟である青年と一緒に各地の海を見に出かけた。関東の海水浴場は踏破していたし、長い休暇が取れれば沖縄まで行ったこともあった。

 きらり、と眩しい光が目をくらませる。振り向くと、柵のパイプが陽光を青年へと反射させている。それが思い出した記憶と重なり、青年は懐かしさに微笑を零す。こうしてフェリーで船旅をしていたとき、姉に化粧用の手鏡で光を当てられたことがあった。

 ――何だよ姉さん――

 ――別に、何となくしてみたかっただけ――

 そう言って悪戯っぽく笑っていたっけ。

 初めて姉弟で海に行ったのは、ふたりで暮らしてから間もない頃だった。幼かったせいか、どこの海岸かは覚えていない。ただ、そこで地元民らしき少女たちと一緒に紙飛行機を飛ばしたことは覚えている。

 ――飛べるよ。今は飛べなくても、きっといつか飛べるようになるからさ――

 なかなか上手く飛ばせなかった少女に、そんなことを言ったことがある。あの少女たちと出会ったのが何処だったのか、それは未だに思い出せない。

 

 



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第2話

 

   1

 

 夏休み練習の恒例になったアイス買い出しじゃんけんは、もはや善子がひとり負けを喰うところまでが恒例になっている。毎回同じサイン――親指と人差し指と薬指を立てた本人曰くヨハネチョキ――を出すから反則負けだ。何度も普通のサインを出したら、と言ったのだが本人が決して譲らないものだから仕方ない、とメンバー全員が諦めている。律儀に買い出しにはしっかり行ってくれているし。

「誰よ、高いアイス頼んだの!」

 そう文句を飛ばしながら汗を滴らせた善子が戻ってくると、場所を図書室に移動して溶けかけたアイスと設置された扇風機で涼む。

「全然こっちに風こないんだけど」

 と梨子が言うが、扇風機の前を陣取っている1年生の3人は先輩に遠慮などせず退こうとしない。「教室に冷房でも付いてたらなあ」と曜がぼやくも、その望みは叶わないだろう。

「統合の話が出てる学校なのに、付くわけないでしょ」

 非情だが、梨子の言う通り。「だよねえ」と暑さに項垂れていた千歌は頭を持ち上げ、

「そうだ。学校説明会の参加者って今どうなってるの?」

 よくぞ訊いてくれました、とばかりに鞠莉がカウンターに設置されたPCを起動させ、浦の星のホームページを開く。

「今のところ――」

「今のところ?」

「今のところ――!」

「今のところ………!」

 と何故か緊張を漂わせた末に、

「Zero!」

 がっくり、と千歌は再び頭を机に伏せる。

「そんなにこの学校魅力ないかな。少しくらい来てくれてもいいのに………」

 確かに沼津に比べたら田舎で通学も不憫だけど。それでも良い所だってあるのに。その良い所を具体的に述べられないところが悲しいところだが。

 翔一くんだったら、そういうことは次々に言えそうなのに。

 そう思ったところで、千歌は翔一の近況へと意識を向ける。一応、皆にも伝えておくべきだろう。決して他人事ではないのだから。

「ねえ皆」

 千歌が呼びかけると、皆が何の気なしにアイスを食べながら顔だけを向ける。

「翔一くん、記憶が戻ったみたい」

 そう告げると「え⁉」と皆が口を揃えた。中には「ピギィ⁉」「ずら⁉」という声も混ざったが。

「いつ戻ったの?」

 最初に訊いてきたのは曜だった。

「それが分からなくて………。わたしと志満姉たちが気付いたのが今朝だったんだけど――」

「本当なの?」

 千歌の言葉を遮り、鞠莉が歩み寄ってくる。

「彼、本当に思い出したの? 何か話してた?」

 今にも掴みかかってきそうな鞠莉を「落ち着きなって」と果南が静止させる。そのおどけた様子が微塵も失せた鞠莉に少したじろぎながらも千歌は応える。

「それが翔一くん出掛けちゃって、まだ何も話せてないんだ。会いたい人がいる、て言ってたけど………」

 「会いたい人……」と鞠莉は消え入りそうな声でひとりごちながら虚空を見つめている。一体どうしたのだろう。鞠莉は翔一と親しかっただろうか。でもふたりのことだから、千歌の知らないところで交流を深めていたのかもしれない。

「ですが記憶が戻ったとしたら、これからどうするんですの?」

 とダイヤが先を見据えた質問を飛ばしてくる。でも千歌にはその先が視えず、「これから?」と質問を返す。ダイヤは淡々と、

「津上さんの素性が分かったのなら、ご家族のもとへ戻ることになるかもしれませんわよ。決めるのはご本人ですが」

 意識の隅に追いやっていた不安がまた押し寄せる。そう、記憶を取り戻した翔一には本来の「居場所」がある。彼がいるべき、彼が幸せでいられる場所が。

 少し前の会話を思い出す。翔一が話していた夢に出てくる女性。その人が翔一の恋人や妻だとしたら、彼はそこへ帰らなければならない。千歌たちといた2年間、その人はずっと翔一を待ち続けていたのかもしれないのだから。

 何も言えず顔を俯かせるだけの千歌に、果南の優しい声が届く。

「寂しいよね。ずっと一緒に暮らしてきたんだから」

 辛いとき、優しい言葉に惹かれてしまうのは弱さだろうか。千歌は俯いた視線を果南へと上げる。果南は口元こそ笑っているが、物憂げに目蓋を垂らしている。

「でも、翔一さんと離れ離れになるとしても、いつだって会えるんだから別に悲しいことでもないんじゃない」

 まるで、もっと辛い別れを経験したような言い方に千歌は戸惑いを覚える。年上の幼馴染としてよく知っているはずの果南に、一体何があったのか。

 追求しようにも、それは図書室の戸が開けられたことで打ち止めになった。

「あれ?」

 休憩所になった図書室を見て、よしみ、いつき、むつが戸惑いの声を漏らす。

「むっちゃん達、どうしたの?」

「図書室に本返しに」

 そういえば夏休みでも図書室は利用できる、と図書委員の花丸が言っていた。

「もしかして今日も練習?」

 といつきの質問に「もうすぐ地区予選だし」と応じるとよしみが眉を潜め、

「この暑さだよ」

「だけど、毎日だから慣れちゃった」

 あっけらかんと答えると、3人は目を見開く。

「毎日?」

「夏休み……?」

「毎日練習してたの?」

 3人は帰宅部だから、夏休みに毎日学校に来ることに違和感を覚えたのかもしれない。千歌も1年の頃は授業がないことに歓喜して学校に寄り着かなかったが、実際に部活を始めてみると何てことはない。せっかくの長期休暇をスクールアイドル活動に当てられるのだから。

「そろそろ始めるよ」

 と果南の声が聞こえた。さっきの声色が嘘のような、いつもの溌剌とした果南の声だった。「じゃあね」と言って、千歌は勝手口へと駆け出す。図書室を出るとき、「頑張ってね」というむつの声が聞こえた。

 

 

   2

 

「離して、嫌よ私は!」

 そんなヒステリックな声をあげながら、女は男に手を引かれマンションから出てくる。声色は異なるが、さっきインターホン越しに聞いた関谷真澄と同じ声質をしている。そんな関谷の手を引く男は、意中の相手を連れ出すにはひどく必死な顔つきをしている。

「家の中が安全とは限らないだろ。早く乗れ。木野さんならきっと何か考えてくれる」

 木野。その姓にマンションの陰からふたりを見る涼は引っ掛かりを覚える。確か父親の手帳に木野薫(きのかおる)という名前があった。少し前に綴られた東京の住所を訪ねたが、既に引っ越していて徒労に終わった。

 観念したのか、関谷は大人しくマンションの前に停めてある車の助手席に乗った。男は運転席に乗り、すぐに車が走り出す。それに合わせて、涼もバイクを走らせた。

 あの男もあかつき号に関わっているのか。だとしたら、これから彼らが会うだろう木野と合わせて3人の証人が揃うことになる。尾行して押しかけるなんて本意じゃないが、致し方ない。涼だって間接的ではあるが関係者なのだから。

 車は沼津市街を出て、内浦方面へ向かっているところだった。狩野川の沿岸道路を往き、涼はバックミラーに映らない距離を保ちながら追跡していく。

 不意に、脳裏に戦慄が走った。咄嗟に視線を上げると、まるでカラス天狗のような翼を広げ、鼻面に(くちばし)を携えた怪物が車へと飛んでいく。怪物は車と並走するよう低空飛行し、その横腹に突っ込んだ。人と同じサイズでありながらそのパワーは車体をへこませ、道路から逸らし川面へと突き落とす。すぐに運転席から男が出てきた。

「逃げるぞ真澄!」

 川はそれほど深くなく、男の膝までが浸かる程度だ。でも助手席の関谷はパニックに陥ったらしく、男は車内に戻る。どうやらシートベルトを外しているらしい。ようやく女も車から出られて岸へ上がろうとするのだが、その前に怪物が降り立ち黒い翼を畳む。

 方向転換し逃走しようとするふたりを、怪物は口端を歪めながら人間と同じ足で追っていく。まるで狩りを楽しんでいるかのように悪趣味だ。

 両者の間に、涼はバイクで割って入る。怪物は何かを感じ取ったのか、その不気味な眼光を涼へ移す。その腹へ涼はバイクを突進させるが、怪物は受け止めたばかりか羽毛で覆われた腕で涼をシートから引きずり降ろす。

「変身!」

 緑色に変わった涼の腕が、怪物の拳を受け止めた。顔面に蹴りを入れて、浅い川面に沈める。翼を濡らした敵の両肩を掴み、無理矢理立ち上がらせてその腹に何発も拳を叩き込んでいく。回し蹴りで飛んだ怪物の体が、車のボンネットに叩きつけられた。涼も跳躍してボンネットに飛び乗り、その嘴をへし折ろうと拳を振り降ろす。だが寸前で避けられ、拳は車のフロントガラスを砕いた。

 怪物は翼を広げ、川面すれすれに旋回しこちらへと突撃してくる。肉迫してきたその瞬間、涼は身を沈め頭上を過ぎ去ろうとする腹を蹴り上げた。微かに突き上げられた体が再び川に沈む。なけなしの蹴りを放ってくるが、それは拳で容易にいなすことができた。

 怖れるに足る敵じゃない。首を掴んで持ち上げ、無造作に投げ捨てる。

「ウオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 咆哮をあげた涼の手首から尖刀が伸びた。立ち上がった怪物は慄いたように、涼との間合いを取ろうと後退している。逃がすか。俺の邪魔をするならその首を落としてやる。

 怪物が翼を広げた。まずは翼だ、と尖刀を振り上げたとき、高圧電流を流されたような激しい痛みが頭蓋を駆け巡る。目眩がして車のボンネットに手をつくが、それでも体を支えることができず川面に身を落とす。

 体の内側から波が一気に引いていくような脱力感があった。水で霞む視界で、肌色に戻った手が震えている。頭痛は更に激しくなっていく。脳が膨らんで今にも破裂しそうな錯覚を覚え、痛みに耐え切れない意識が途絶えようとしている。ここで倒れたら溺れる。

 脚に力が入らず、腕を這いつくばって岸を目指すが、すぐに涼は頭を水中に沈めた。

 

 覚えていた通りの住所に、その大学はキャンパスを構えていた。夏休み期間だから学生は部活動に励む者しかいなくて、本来の活気が失せたように閑散としている。ひんやりと冷房の効いた受付で青年がその人物のことを尋ねると、事務員の中年男性は眉を潜めた。

「彼なら確かにうちに勤務していましたが、随分前に退職しましたよ」

「そうですか………。住所とか、分かりますか?」

 そう訊くと事務員は青年の顔をじ、と凝視し、

「失礼ですが、君の名前は?」

 そういえば名前も言わずに尋ねちゃったな、と思いながら青年は名乗った。親から与えられ、姉に愛しみを込めて呼ばれていた、本当の名前を。

 青年の名前を聞いた事務員は「ほう、君が……」と呟く。

「あの、何でしょう?」

「ああ失礼。君と同じ名前の人が来たら、引越し先の住所を教えてやってほしい、と彼から頼まれていたんです」

 事務員は自分のデスクの引き出しを開け、1枚のメモ用紙を出すと青年に渡した。

「もし彼に会ったら、研究室を片付けるよう言ってもらえますか? 急に辞められたもんで、部屋の私物がそのままになっているんですよ」

 「はあ」と気のない返事をしながら、青年はメモに視線を落とす。

「……………え?」

 その住所に口を開いたまま声を詰まらせる。

「何か?」

 「いえ……」とはぐらかしながら、メモをバッグに押し込む。

「あの、研究室を見ていっても良いですか?」

「ええ、良いですよ」

 教えられた棟と番号の部屋に鍵はかけられてなく、青年は何の断りもなく入ることができた。研究室というだけあって壁一面が本棚になっていて、隙間なく本が並べられている。どれも歴史や宗教についての本で、この部屋の主が何の研究をしていたのかが分かる。部屋には本だけでなく、絵画も多く並んでいた。風景画は1枚もない。人物画はあるのだが、描かれているのが人間であるかは微妙なところだ。鬼のようなものが躍っていたり、太鼓を叩いていたり、奇妙な絵ばかりだ。見ていると吸い込まれてしまいそうな迫力を感じられる。きっと、何かの宗教にまつわる絵なのかもしれない。

 几帳面に整頓されたデスクに写真立てが置かれている。写真の中で姉が、男性と肩を寄せ合っている。この男が恐らくは、この部屋の主。そして――

 ――紹介したい人がいるの。その人のためにご馳走作ってくれる?――

 青年が記憶を失う前に会いに行こうとした人物。

 

 

   3

 

 太陽が西へ傾き始めた頃合いを見計らって、この日最後の練習は麓から学校への丘陵をダッシュして締め括られた。しっかり休憩を挟んだとはいえ、疲労の溜まった体での全力疾走は流石に息が上がる。

 果南の提案でゴールに指定されたプールサイドに到着する頃になると、既に空は茜を映していた。多くのメンバーが肩で息をしながら膝に手をついているのに、果南と曜はしっかりと背筋を伸ばして立っている。

「今日も目一杯だったね」

 毎日のことながら、やっぱりこの暑さでの練習は堪える。外にいるだけで体力を持っていかれるほどの猛暑だ。

「でも、日に日に良くなってる気がする」

 まったく息を荒げていない曜が言う。良くなっている、という実感は千歌も同じだった。練習は苦しいけれど、しっかりと毎日の積み重ねが身を結んでいる。

「それで、歌のほうはどうですの?」

 ダイヤが訊いた。

「花丸ちゃんと歌詞を詰めたら、果南ちゃんとステップ決めるところ」

 と梨子が答える。地区予選に向けて制作中の新曲は、千歌と花丸で歌詞を考えている。読書家なだけあって語彙が豊富な花丸の協力もあって、今回の進捗は順調だ。それに出来もかなり良いものになりそうな気がする。

「聴いてる人のheartにshinyできると良いんだけど」

 鞠莉の言うように、千歌はこれまで作詞では聴き手を意識してきた。観客の心にどれだけ自分たちの歌を響かせることができるか。歌い上げる言葉のどこに輝きがあるのか。

 答えはまだ見つからないけど、焦ることはない。μ’sの背中を追うことをやめたあの日から、確かにAqoursとしての道を進んでいるのだから。

 きっと見つかる。この9人で。

「とにかく今は、疲れを取ってまた明日に備えよう」

 そう言うと、果南は水を張ったプールへ跳び込む。触発されたのか、善子と鞠莉もプールへ跳び込んで熱くなった体を冷ます。

「また! 服のままではしたないですわよ!」

 ダイヤの苦言も「だって気持ち良いんだもん」と果南に受け流される。ゴール地点をプールにしたのはこれが理由だったらしい。

 ふと、千歌は空を見上げた。夕焼けのなかでまだ昼の蒼が残っている空に、一条の飛行機雲が伸びている。人はもう、あんな空高くまで昇ることができる。なら、自分たちも。あの飛行機雲よりも、この世界を覆う空よりももっと、高い場所へ。

「あ、いたいた。千歌!」

 伸ばそうとした腕を引っ込め、視線を降ろす。同級生の3人組がプールサイドに入ってきた。

「むっちゃん、帰ったんじゃなかったの?」

 「何かちょっと、気になっちゃって」といつきが所在なさげに言う。どういう意味か、「え?」と千歌は尋ねる。よしみが答えた。

「千歌たちさ、夏休み中ずっとラブライブに向けて練習してたんでしょ? そんなにスクールアイドル面白いのかな、て」

 総括するように、むつが恐る恐る訊いた。

「わたし達も、一緒にスクールアイドルになれたりするのかな? 学校を救うために」

 え、と千歌が呆けていると、いつきが続ける。

「実は他にも、もっと自分たちにも何かできるんじゃないか、て考えてる子結構いるみたいで」

 「そうなのですか?」とダイヤが尋ねる。そんな話、聞いたこともなかった。「はい」といつきは応じ、

「統廃合の話あったでしょ? 皆最初は、仕方ない、て思ってたみたいなんだけど………」

 そう、統廃合の話が学校中に広まったとき、生徒たちの反応は「仕方ない」だった。目に見えて生徒は少ないし、一介の高校生である自分たちの手に負える問題じゃない。中には自分には関係なし、と無関心な生徒もいたくらいだ。本気で阻止しようとしているのは自分たち9人だけ。そう思っていた。

「やっぱり、皆この学校大好きなんだよね」

 よしみはそう言いながら笑う。「だから」とむつが、

「学校を救ったり、キラキラしたり、輝きたいのは千歌たちだけじゃない。わたし達も一緒に何かできることあるんじゃないか、て」

 目元の熱を感じ、千歌は咄嗟に顔を伏せる。むつ達の願い。どこにでもいる普通の高校生の千歌と同じ願い。そう、自分の願いは、決して特別なものなんかじゃなかった。誰だって輝けるものなら輝きたい。でもどうすればそれが手に入るのか、見つからなくて何をすればいいのか分からず進みあぐねていた。

 千歌はスクールアイドルという道を見出すことができた。本当に進むべき道へと進み始めた。進むのはμ’sではなく、Aqoursだけの道。そう思っていた。

 でも、自分たちと同じところを目指すのは、Aqoursの9人だけじゃなかった。Aqoursと同じ願いを持つ目の前の3人。他の生徒たち。多くの人たちが抱く願いのために進むべき道を、自分たちは見つけた。願いとは、想いとは広がっていく。同じものを抱く者同士が互いの熱を感じ取ることで、どこまでも。

 良かった、1歩を踏み出せて。その思慕を抱きしめながら、千歌は顔を上げる。

「やろう、みんな一緒に!」

 

 

   4

 

 山の中を縫うように舗装された道路を、青年はバイクで駆けていく。いくらバイクとはいえ山を越えるのはなかなかに体力がいるもので、途中ひと息ついた。この山を越えた麓には旅館やホテルの密集した温泉街があって、この山道もバイク乗りにはツーリングスポットとして人気らしい。もっとも、青年はバイク乗りでありながら、普段の行先はスーパーのある市街地でこういった辺鄙な道はあまり馴染みがない。

 ヘルメットを脱ぎ、青年は緑色に色付く山々の合間から一望できる黄昏時の海を眺めた。記憶を失ってから2年間、ずっと見続けてきた内浦の海だ。いつもはその美しさに見惚れていたのに、今この親しんだ海を見て裡に湧き上がるのは重苦しいガス溜まりのような形容しがたい感情だった。

 皮肉なものだ。渇望していたわけではないが、自身の記憶の手掛かりがこんなに近くにあったなんて。

 訪ねた大学の事務員から受け取った住所。そこに綴られた地名は、沼津市と伊豆の国市の境目だった。青年が記憶を失う前に会うはずだった人物は、青年が津上翔一として暮らすこの伊豆半島に移住してきたことになる。そして記憶を失った青年はその人物とどこかで接触していたかもしれないが、抱くはずの違和感すらも忘却し津上翔一としての生活を営んできたことになる。

 でも、そうだとしたらひとつの疑問が生じる。向こうは青年がこの地方にいると知らず移住したとしても、2年の間に見かける可能性は十分にある。なのに何故、自分から会いに来ようとしなかったのか。会う理由はあるはずだ。青年は意図せず、大切なものを奪っていたことになるのだから。

 ヘルメットを被りエンジンを駆動させる。いま考えても仕方のないこと。これからその疑問を晴らしに行くのだから。

「――っ!」

 アクセルを捻ろうとしたとき、脳裏に戦慄が走る。酷くタイミングが悪いが、行かなければならない。青年はハンドルを切り、Uターンして来た道を下っていく。麓の県道に出れば、そこからは青年にとっては庭のようなものだ。通い慣れた海沿いの道を走り、市街へと入る。敵の存在は、大雑把ながらもその方向を感じ取ることができる。東海道新幹線の線路が走る高架下で、青年はようやく敵を見つけることができた。

 敵、アンノウンはカラスのような姿をしている。女性のようにしなやかな体躯で、自身から逃れようとしている壮年の男との距離を詰めているところだった。翼があるにも関わらず脚で寄る辺り、良い性格とは言えない。

「逃げてください!」

 バイクで間に割って入った青年は、男に向けて言い放つ。突然現れた青年に男は呆気にとられた視線を送るも、背を向けて一目散に走り出す。邪魔者を排除しようとしたのか、それとも青年の力を感じ取ったのか、雌カラスは首を掴んで壁へと押しやってくる。

「何者なんだお前たちは! 目的は何なんだ!」

 絞り出した青年の問いに、アンノウンは答えない。ただ憎悪に満ちた眼差しを向けてきて、首にかけた手の力を更に込めてくる。話の通じる相手じゃないか。

 青年は敵の腹に蹴りを入れる。突き剥がされた雌ガラスは更に血走った眼で再び接近してくる。

「変身!」

 アギトに変身した青年の拳が、雌カラスを迎え打った。ごふ、と咳き込む敵の腕を掴み、地面に組み伏せる。しかし受け身を取ってすぐさま立ち上がった敵は拳を振り上げるが、青年にしてみれば遅い。腕で拳をいなし、その胸に蹴りを入れる。

 素手では不利とみたのか、雌カラスは光輪から槍を引っ張り出す。対して青年も、ベルトから刀を出して鎧を超越感覚の赤(フレイムフォーム)に染め上げた。以前このアンノウンと似た個体を倒した姿だ。

 刀を上段から振り降ろす。パワーは増したが半面スピードが落ちたせいか、バックステップで避けられる。振り切ったところで好機と見た敵が向かってくるが、咄嗟に向けた柄で腹を突く。

 刀を構え直し、間合いを計りながら攻撃の瞬間を見定める。突き出された槍を弾いたところで、上空から空気を裂く気配を感じ取った。咄嗟にその場から離れる。一瞬遅れてもう1体の、同じくカラスのアンノウンが青龍刀のような剣を地面に叩きつけた。アスファルトを斬った刀身は刃零れすることなく、街灯を反射して不気味に煌めく。ふう、と野太い声で唸る雄カラスは、剣を手に雌と挟み撃ちにするようにしてこちらへと接近してくる。

 流石に2体を相手取るのは厳しい。刀で雄の脚を払おうとするが、跳躍で避けられたばかりかそのまま翼をはためかせて高架の淵へと逃げられる。だが、それこそ青年の狙っていた事。2体を引き離し、同時攻撃を防ぐことが。間髪入れずに繰り出される雌の槍をいなし、青年も高架へ跳躍する。横薙ぎに振るわれた刀身を刀で受け止め、鍔迫り合いに持ち込みつつ青年は裡にある力を臨界へと昇らせる。力技で敵の武器を弾き、前のめりになったその背に踵を落としてコンクリートに叩きつける。

 同時、旋風を纏った鎧がその姿を変えた。右腕は超越感覚の赤(フレイム)、左腕は超越精神の青(ストーム)、胴は超越肉体の金(グランド)

 3の力を同時に宿した、三位一体(トリニティフォーム)のアギト。

 足元にいた雄を高架下へと蹴り落とし、ベルトからハルバートを引っ張り出す。飛び降りると同時に振り降ろした刀は雌の槍に阻まれたが、もう一刀のハルバートで突きを食らわせる。迫ってきた雄の剣を刀で受け止めつつ、両者に蹴りを入れて間合いを取った。

 それでもリーチのある雌の槍が迫ってくる。刀で弾くと、すかさずその腹にハルバートを滑り込ませ、更に刀を加え二刀で胴を斬り裂いた。

 飛び散った血飛沫が、詰まっていた本体の爆発で拡散していく。至近距離で巻き込まれながらも耐えられる青年はその場で佇みながら、もう1体の敵を探す。でも、いたはずの敵は既に消えて、辺りは戦いの前の静寂を取り戻していた。

 

 



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第3話

 

   1

 

 意識が水面下へと浮かび上がろうとするも、暗い底へと遠ざかっていく。かと思えばまた浮かぼうとしてきて、そんな浮き沈みを繰り返すうちに果たして自身の感じているものが夢なのか現実なのか境界が曖昧になってくる。

 できることなら夢であってほしい、と涼は何度思ったことだろう。現実は苦痛しか与えてくれない。夢なら安らぎを得られる。それが偽りだとしても、夢の中なら死んだ父にも会えるし、果南も笑顔を向けてくれる。

 その時の感覚を、涼は現実と早くに気付いていた。夢にしてはあまりにも鮮明すぎる。それに臭気。夢に匂いはない。しゅうう、という音が耳に響いた。気体が狭い出口から高圧で噴出する音だ。制汗剤や整髪料のスプレーで馴染みのある音だろう。そして鼻をつく臭い。涼だって独り暮らしで自炊しているのだから、この臭気の正体がプロパンガスだと分かる。ガス漏れを住人に知らせるため人工的に付加された臭い。それが高圧で噴出されているということは、いま涼のいる場所は可燃性のガスが充満し、火気がなくても長く吸い続ければ一酸化炭素中毒を起こす危険がある。

 逃げなければならない状況だ。でも、意識は確かにあるにも関わらず、涼の体は金縛りのように目蓋も開けられないほど重い。従って視覚は遮断されていて、聴覚と嗅覚で状況の危険度を知れても動けなければ意味がない。

 ただ恐怖しかない。赤ん坊が泣く理由が分かった。人間なら誰もが赤ん坊だった頃があってその頃には皆が泣き喚いていただろうが、そんな生まれて間もない頃にどうしてあんなに泣いていたのか、なんて理由を覚えていられる者はいない。赤ん坊は怖いから泣く。空腹でも自力で食べ物を調達できず、排泄しても股間に溜まった排泄物をどう処理すればいいか分からない。生きていく術を身に付けていなく、どうしようもない理不尽さの恐怖に泣くことしかできないからだ。

 そういう意味では、今の涼は赤ん坊よりも弱い存在だった。喉に力が入らないから、泣き叫ぶことができない。赤ん坊が助けを求める泣くという唯一の術すらも奪われ、ただ死へと確実に迫っている。

 せめてガスを吸いすぎないように、と浅い呼吸を繰り返すが、もはやそれも無意味だ。酸欠のせいか耳鳴りがしてくる。脳が溶けそうなほどに意識がまた朦朧としてきた。そのせいで酸欠状態の体が無意識に息を大きく吸って、そのせいでガスを肺いっぱいに取り込んでしまう。生理反応で咳き込むが、か細すぎて肺への異物を吐き出すには至らない。

 死ぬのか、俺は。

 思考がままならなくなった意識のなかで、それだけがはっきりと認識できる。生命として至極シンプルな2択。この状況で生き延びられるか否か。思考せず本能のみで生きる微生物でもその判断はできる。涼の本能は後者を悟っていた。抗おうにも術がない。赤ん坊よりも弱くなった存在には、ただこの苦痛が早く終わることを祈る他ない。

 そして、苦痛がようやく終わる。

 ただし前者のほうで。

 ガスの噴出音が止まった。どたどた、という足音の後、しゃ、と何かが滑るような音と共に目蓋を透過した光を感じられる。続けて体を持ち上げられて、なすがままに涼の体は床を引き摺られていく。しばしの移動を経て無造作に床に横たえられると、風に頬を撫でられる。ガス臭さが幾分薄れて、新鮮な空気を取り入れようと大きく息を吸う。

「お前、どういうつもりだ!」

 咳き込みながら、男の声が怒号を飛ばしている。この男が涼を助けたのか。

「おい真澄!」

「………私たち皆死ぬのよ」

 真澄と呼ばれた女の声で、涼はふたりが怪物に襲われたあかつき号の関係者と気付いた。どうやら、あのとき意識を失った涼を彼らが介抱してくれたらしい。でも、関谷真澄にとっては不本意だったらしい。

「この男のせいで」

「この男はな、俺たちのこと助けてくれたんだぞ。忘れたのか!」

「信用できるもんですか! あの姿を見たでしょ? この男は化け物よ、生かしておくべきじゃない」

「それは俺たちが決めることじゃないだろ! 第一お前、こんな勝手なことして、木野さんが知ったらただで済むと思うのか?」

「木野さん何か言ってた?」

「いや、結局会えずじまいだ。また奴に襲われてな」

 その言葉を受けた関谷の声に嗚咽が混じる。

「もう駄目よ私たち………」

「とにかくもう2度と勝手なことはするな、分かったな」

 この場所は危険だと、本能と理性の両方が訴えてくる。介抱するふたりは涼を殺そうとする者と救おうとする者とで別れ、危うい境界のなかに涼は据えられている。

 でも体は思うようにはいかない。ひとまずこの場の危機を乗り越えた安堵か、意識が急速に遠のいていく。目を閉じたまま、涼は再び深い眠りへと沈んでいく。

 

 

   2

 

 家が隣同士ということもあって、梨子と千歌はバルコニー越しに顔を合わせることが多い。夜は近所迷惑になってしまうから、ということでメールでのやり取りをするようにしているが、千歌がスマートフォンを充電し忘れて直接、ということが結構ある。毎回呆れながらも梨子が直接の対面に応じてしまうのは、互いに顔を見られることにひとつの充実感を覚えているに他ならない。

 その夜、日が暮れても蒸し返すような湿気のなか、寝間着に着替えて部屋でくつろいでいた梨子は千歌からベランダに呼び出された。

「歌?」

 告げられた案を反芻すると、千歌は「うん」と応じ、

「ダンスは無理かもだけど、一緒にステージで歌うとかなら間に合うんじゃないかな、て」

 唐突だが、昼間の練習での話だ、とすぐに分かった。むつ達も抱えていた輝きたい、という願い。それを「みんな」で叶えるために、Aqours9人だけでなく学校の皆で歌いたい、と。とても素敵な演出だと思う。梨子だって、全力でその熱意に応えたい、と思う。

「できるの?」

 梨子の向けた不安も、千歌は「うん」と一蹴してしまう。

「皆が歌って、上手くいって、それで有名になってたくさん入学希望者が来れば、学校も存続できるし」

「千歌ちゃん、でもね――」

 告げるべきことを告げようとするが、「それと」と遮られる。

「今はゼロを1にしたい」

 そのどこまでも真っ直ぐで迷いのない瞳に、梨子は声を詰まらせる。千歌は続ける。

「今日、むっちゃん達と話してて思ったの。何で入学希望者がゼロなんだろう、て。だってここにいる人は、皆ここが大好きなんだよ。街も学校も人も大好きなんだよ。それって、ここが素敵な場所、てことでしょ。なのにゼロってことは、それが伝わってない、てことだよね」

 住めば都、というように、その場所の本当の魅力とは、そこに身を留めておかなければ分からないのかもしれない。梨子だって、内浦に越してきたときの第1印象は「田舎」だった。海があって富士山が見える。ただそれだけの場所。でも千歌と出会って、Aqoursとしてスクールアイドルを始めて、ようやくこの土地への思慕が裡に灯った。ただ旅の休息として、一時だけの滞在では全てを理解することは難しい。ましてやそれをスクールアイドルの出身地、という文言だけで宣伝するなんて。

 でも、千歌は絶対にやめない、と梨子は確信できる。

 自分たちがいる、自分たちを育んでくれたこの居場所を皆に知ってもらいたい、という願いのままに。

「ラブライブがどうでもいい、てわけじゃないけど、ここが素敵な場所だ、てきちんと伝えたい。そして、ゼロを1にしたい」

 その意思は梨子も同じだ。梨子もこの土地が、ただの地方集落じゃない、と多くの人々に知ってもらいたい。それに、自身をピアノの呪いから解き放ってくれた千歌たちに、彼女に巡り合わせてくれた浦の星に恩返しがしたい。

 しばし俯いていた視線をあげると、梨子は視界に映ったものに目を剥いた。

「ち、千歌ちゃん……。う、後ろ………」

 首を傾げる千歌の背後を指さしながら、梨子は「お、お、お、お化け………」と声を絞り出す。十千万は創業100年を越える老舗らしい。アンノウンなんて不可思議なものがいるのだから、幽霊だって荒唐無稽な存在じゃない。背後を振り向いた千歌も目を剥いて、

「お母さん!」

 「お母さん! その人が⁉」と上ずった声をあげてしまう。確かに千歌と顔立ちは似ているが、千歌よりも小柄で身内だとしても妹にしか見えない女性は幼さのある顔に不相応な穏やかな笑みを浮かべる。

「そうです、私が高海千歌の母です。あなたが梨子ちゃんね」

 混乱のあまり口をまごつかせながら、梨子はなんとか声をひねり出す。

「はじめまして。こんばんは」

「はじめまして。こんばんは。美人だね」

 唐突なお世辞に照れ隠しで顔を背けながら、未だ思考が落ち着いていない梨子はつい口から漏らしてしまう。

「それほどでも……、あるかな」

 千歌からの冷たい視線を感じて失態を悟るが、千歌は気を遣ってか掘り返さなかった。それがかえって梨子にとっては惨めだったのだが。

「ていうかどうしてここにいるの? 東京だったんじゃないの?」

 そういえば母親は東京で仕事をしている、と聞いたことがある。詳しいことは娘の千歌自身もあまり知らなかったようだけど。

 見た目は完全に少女なのだが、千歌の不躾な声色に穏やかな表情を崩さない余裕な佇まいは、確かに母のような奇妙な貫禄がある。それにしても一体何歳なのだろう。十千万の温泉には美肌の効能があるらしいが、ここまでとは。

「そうだけど、何か千歌がスクールアイドルとかいうのやっているから1度見に来て、て志満から連絡があって」

「また余計なこと………」

「あと、翔一君が記憶を思い出した、て聞いたから」

 千歌の母からしたら何気ないひと言だったのかもしれないが、それは千歌の表情に陰りを帯びさせる。

「どこかに出掛けたみたいだけど、連絡は来てないの?」

「うん………」

 物憂げな娘の顔を千歌の母は覗き込むが、隠すように千歌は顔を背け、

「とにかく今、梨子ちゃんと大事な話してるんだからあっち行ってて」

「はいはい、分かった分かった」

 と千歌の母は奥へと引っ込んでいくが、その足が止まる。

「あ、1個だけ良い?」

「何?」

「今度は、やめない?」

 その問いに千歌はすぐ答えない。梨子のほうへと向けられているはずの瞳は梨子を越えて、遥か遠い先を捉えている。

「うん、やめないよ」

 その親子にしか分からない答えに、千歌の母は微笑を零すと今度こそ奥へと消えていく。

「良いお母さんね」

 梨子が言うと、千歌は照れ臭そうに「そうかな?」と顔を逸らす。

「とにかく、ラブライブ目指して!」

 そう、今は何かと不安もあるけど、目の前のことに注力すべき。本番に備えて、よりパフォーマンスの研鑽に努めなくては。

 伝えたい想いを伝えるために。

 千歌に負けじと、梨子も力強く応じた。

「うん!」

 

 

   3

 

 梨子との談笑を楽しんだ後にベッドで横になった千歌は、微かに聞こえるバイクの音に気付いて跳ねるように起き上がった。廊下に出て窓を開ける。その時既にバイクの音は消えていたが、代わりにくうん、というしいたけの甘える鳴き声が。しいたけは本当に懐いた人間にしかあんな声は出さない。

 千歌は急いで外に出た。玄関先の犬小屋で寝ているしいたけは千歌に気付いて頭を上げるが、そこにはしいたけと千歌の他には誰もいない。でも、誰かがいた、という証拠はあった。旅館の駐車場に停められている銀色のバイクが。

 迷わず裏庭の菜園へと走る。菜園では力強く茎を伸ばしたキュウリとトマトの苗が逞しく実をつけている。夜の暗がりのなか、屋内から漏れた光に照らされた朧気な背中を、千歌は恐る恐る呼んだ。

「翔一くん……?」

 千歌の声に、驚いたのか咄嗟に顔が向けられる。宵闇のなかで、その兄に等しい青年は千歌を見て太陽のような笑顔を浮かべた。

「千歌ちゃん」

 その顔を見て裡に沸いたのは、喜びよりも安堵だった。その笑顔は記憶を失っていたときと変わりない、千歌にとっては紛れもなく津上翔一のものだった。

「ただいま」

「おかえり」

 いつもは逆なのにな、と思いながらも、千歌はその言葉に慈しみを覚える。翔一はいつもこんな想いを裡に満たしながら、学校や練習帰りの千歌を待って食事の用意をしてくれていたのかもしれない。

「あ、そうだ。志満姉たち呼んでくる。今日ね、お母さんも帰ってきたんだ」

 家に入ろうとする千歌を、「いや、いいよ」と翔一は制す。

「またすぐ行くからさ。ちょっと畑が気になって戻ってきただけだから」

 畑が気になって。その翔一「らしさ」に千歌は思わず笑ってしまう。そういえば翔一がアギトと知ったとき、彼は家出したにも関わらず畑を気にしてすぐに戻ってきた。今回もしばらく帰れないかもしれない、と言っておきながら、家を空けていたのは今日1日だけ。

 ふたりは縁側に並んで腰かける。翔一は摘み取ったトマトを食べると満足そうに頷いた。

「ねえ翔一くん。前に子供の頃トマトが嫌いだった、て話してたよね」

「うん。あの頃に食べたトマトの美味しさ思い出したら、千歌ちゃん達にも食べてほしくてさ」

 また会えたら、どんなふうに喋ったら良いんだろう。そんな不安が、楽し気に過去を話す翔一を見て一気に消滅する。いや、そもそも最初から不安になる必要なんてなかった。あのトマトのフルコースを振る舞ってくれたとき、記憶を取り戻しても翔一は翔一のままだったのだから。

「じゃあやっぱり思い出したんだ。過去のこと」

「うん」

「それで、今日はどこに行ってたの?」

「姉さんの恋人だった人に会いに行ってたんだけど」

「お姉さん? 翔一くん、お姉さんいるんだ。どんな人?」

「明るい人だったよ。明るくて優しい人だった」

 「だった?」と千歌は尋ねた。何故過去形になってしまうのだろう。

「ほら、よく同じ夢に出てくる人がいる、て言ってたじゃん。あれ姉さんだったんだよ。姉さんが死ぬ少し前、一緒に海にドライブに行ったことがあってさ。そのときのことを夢に視てたんだよ」

 肉親の死を自ら打ち明けたにも関わらず、翔一はいつもと同じあっけらかんとした様子を崩さない。本人よりも千歌のほうが衝撃を受けていた。せっかく思い出した肉親が既にこの世にいないだなんて。翔一は既にそのショックを乗り越えたのだろうか。落ち込んでも立ち直りが早いな、とは思っていたけど、肉親との別れでもそんなにも簡単に折り合いをつけられるものだろうか。千歌はまだ、父の死を全て受け入れることができずにいるのに。

「仲、良かったんだ」

 それしか言葉が見つからなかった。でも翔一は笑顔のまま亡き姉のことを語ってくれる。

「うん。小さい頃に親が死んでさ、ずっと姉さんと一緒に暮らしてたんだ。高校卒業して俺が調理師学校に入った時も、授業料は姉さんが払ってくれて。好きなことやれ、ていつも俺のこと応援してくれてさ」

 会ったことはないけど、千歌は翔一の姉を容易に想像することができた。普段の翔一を見ていれば分かる。姉の海よりも大きな愛が、翔一の笑顔を育ててくれたのだろう。

 翔一の声が影を帯びる。

「だからどうしても信じられないんだよ。あの姉さんが自殺したなんて」

「自殺………?」

「警察はそうじゃないか、て。でも俺は違うと思うんだ。姉さんのことは俺が1番よく知ってる。きっと何かあったんだよ」

「それを調べるために会いに行ったんだ。お姉さんの恋人だった人に」

 笑顔が消えた翔一は、見慣れない険しい顔つきで「うん」と頷く。

「それで、どうだったの?」

「結局会えなくてさ。来週の日曜日あたり、またその人のところに行こうと思うんだけど」

 来週の日曜日。ラブライブの地区予選と同じ日だ。

「俺が記憶をなくしたときも、その人に会いに行く途中だったんだ」

 これから会うということは、その時は会えなかったのだろう。記憶を失うほどの出来事に見舞われて。

「でも何があったの? 何で記憶をなくしたの?」

「そこのところがまだ思い出せなくて。フェリーボートに乗ったまでは覚えてるんだけど」

「じゃあ、フェリーで何かあった、てこと?」

「うん、多分………」

 そのフェリーでの出来事に、全ての核心がある気がする。でもその部分の記憶は、まだ翔一のなかに蘇っていない。

 できれば、あまり過去にまつわる話をこれ以上はしたくなかった。思い出したのに家族はこの世にいない。千歌だったら絶望して、思い出さなければ良かった、と思うだろう。でも翔一は、絶望よりも疑問が大きい。姉を失ったことへの悲しみではなく、何故自ら死を選んだのか、と。

「ねえ翔一くん」

「ん?」

「どんな人なの? お姉さんの恋人だった人、て」

「分からない。俺初めて会うからさ」

「どうしても、その人に会わなくちゃいけないの?」

 少しばかりの逡巡を挟み、翔一は「うん」と頷く。ダイヤの言ったことが現実味を帯びてくる。記憶を取り戻した翔一は、これからのことを決めなければならない。本来の名前と戸籍に戻り、その上でこれからの人生をどう生きていくのか。もはや記憶喪失だった頃のように、毎日高海家で家事をして野菜を育てればいい、だなんて楽観は通用しない。

 姉の恋人だったその人物に会いに行くのは、その準備のようなものだ。真実を知り、思い出してしまった過去と折り合いをつけ、これからの事を決めるための。

「その人に会いに行くまで、ここにいてくれるよね?」

 すがるように千歌は訊いた。贅沢をいえば、ずっと十千万にいてほしい。もう肉親はいないのだから、この家を実家として内浦に留まってほしい。千歌は喜んで翔一の家族になる。たった2年でも兄妹同然の関係を築けたのだから、これからだって家族でいられるはずだ。母も志満も美渡もきっと歓迎してくれる。

 でも翔一は、険しそうに眼を背けて「ごめん」と呟く。

「それまで色々なとこに行こうと思うんだ。ちょっと探したい場所があるんだよね」

「探したい、場所?」

「うん、姉さんと初めて一緒に行った海。俺まだ子供だったから、どこの海か覚えてなくてさ。そこの女の子と一緒に紙飛行機飛ばしたのは覚えてるんだけど」

 その海を見つけることができたら、そこが翔一の次の「居場所」になるのだろうか。それは嫌だな、と千歌は顔も知らない翔一と紙飛行機を飛ばした少女に嫉妬を覚える。

「ねえ、お願いがあるんだけど」

「何よ?」

「来週の日曜日、ラブライブの地区予選があるの。絶対通るからお祝いにご馳走作って。こないだのトマト料理に負けないくらい、すごいの」

 努めて千歌は明るい声色で言った。いつも料理の献立をリクエストした時と同じように、翔一は満面の笑みで応えてくれる。

「うん、期待しててよ。すっごいご馳走作っちゃうからさ」

 

 



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第4話

 

   1

 

 ご家族ですか、と警察から電話が来たのは、姉の帰りを待ってひと晩明けた朝だった。

 昨晩にいくら連絡しても電話に出なくて、暇を持て余して餃子の餡を皮に包んでいたがそれが終わった深夜になっても帰ってこなくて。テーブルに突っ伏したまま寝てしまった、皮肉なほどに日和が爽やかな朝だった。

 はい、弟です。そう応じると、電話口で警察官は淡々と告げた。警察から電話なんて何かあったのか、なんて不安になる余地も与えてくれず。

「今日、遺体で発見されました。確認のため、署までいらしてほしいのですが」

 それは傍から見れば人生最悪な朝なのだが、当事者になってみると怒りも泣き喚きもしなかった。至ってフラットに、昨夜に姉と一緒に食べるつもりだった餃子を朝食に焼いて、歯を磨いていたところで風呂に入っていなかったことを思い出してシャワーを浴びた。

 身支度を整えて警察署へ向かう道中、急ぐことなく歩いて行った。警察が発見した死体を姉と断定したのは、きっと死体の所持品のなかに姉にまつわる物品があって、そこから身内である自身へと至ったのだろう。道中、胸が塞がれる想いだったし、ゆっくり歩いているにも関わらずひどく息苦しかった。でも完全に虚無だったわけじゃない。ほんの微かな、でも絶対であってほしい確信めいたものがあった。

 姉さんが俺を残して死ぬはずがない。

 まだ約束だって果たしてないじゃないか。

 そう思うと足取りも幾分か軽くなって、でも本当に死体が姉だったら、という不安も拭えなくて、気持ちのいいはずだった初夏の新緑の香りが薄れていった。

 警察署の受付では、捜査担当の刑事と名乗る男が出迎えてくれた。すぐ死体と対面するものだと思っていたが、その前に事情聴取ということで狭い部屋に通されて色々と質問をされた。

 故人と自身の関係。交友関係。自殺の動機として思い当たること――

「自殺?」

 それまで淡々と応じていられたのだが、刑事が何気なしに告げた「自殺」という言葉に激しい違和感を覚え訊き返した。予想していたようで、刑事は表情ひとつ変えることなく、

「ええ、現場での状況から自殺として捜査を進めています」

 飛び降り自殺で、即死という簡単な説明だった。まだ死体との対面前で、遺族と確定していない以上それよりも詳しいことは聞かされないのか。あるいは本当に高所から飛び降りて死んだ、という事実しか現場には残されていなかったのか。

 安置所は署の片隅にあるらしく、そこまでの道のりはとても長く複雑に入り組んでいた。もし姉でなかったとしても、これから自分は死体を見に行く。そんな緊張感に足が重くなったが、これもよくあることなのか刑事は急かすことなく歩幅を合わせて案内してくれた。

 通された部屋はとても寒くて、その冷気に全身に鳥肌が立った。壁一面には正方形のロッカーが並んでいて、そのひとつから細長い「荷物」が抜き取られ部屋の中央に鎮座していた。その「荷物」である棺桶の蓋は開いていたのだが、顔は白い布を被せられて見えない。

 棺の傍に立つと、「では」と刑事がそ、と顔布を取った。

 死に化粧をしていないから皮膚に血色は感じられないが、その顔は高所から落下したにも関わらず生前の面影をしっかりと保っていた。眠っているみたいで、大きな音を立てたら驚いて目を覚ましそうだ、と不謹慎なことを考えてしまうほどに。

「お姉さんで間違いないですか?」

「………はい」

 確かにその顔は姉だった。いつも見せてくれた笑顔は完全に消滅していて、その寝顔は保存のための冷気に当てられるままに凍り付いている。

 どれほどの間、死体という物に成り果てた姉の顔を見つめていただろうか。死体を見るのは初めてなわけじゃない。10歳の頃に祖母が亡くなったとき、その死に顔を拝んだことがある。祖母のことは愛していたが、その死に対して当時はそれほどショックを受けていなかった。まだ死という現象の重みが理解できない子供だったというのもあるが、息を引き取る数週間前から入院していて別れが近いことを察していたこともある。かねてから予想していた事実が訪れたとしても、ショックなんて受けようがない。

 死体となった祖母の顔を見て、寂しさはあったが悲しみは沸いてこなかった。永遠の眠りについたその顔に刻まれ広げられた皺や染みが老婆の1世紀近い生命の記録のようで、確かに祖母は長い人生を生き抜いた、と不思議と清々しく思えたほどだ。

 でも姉は違った。まだ20代の顔に皺も染みもなくて、これからも長く生きる余地を十分に残していたはずだった。

「どうして自殺なんですか?」

 訊くと、刑事は事務的に答えた。

「現場と遺体に、争った形跡は発見されませんでした」

「それだけで本当に自殺だなんて分かるんですか? 遺書はなかったんですよね?」

「確かに自殺という決定的な証拠はありませんが、同時に他殺という証拠も無いのです。事件性が認められない以上、自殺と判断するしか………」

 そこで刑事は言い淀む。それなりに職務経験は積んでいるようだが、こういった遺族を納得させられる術は未だに見出せずにいるようだった。

「どうして………」

 その問いを姉へと移す。頬に触れてみると、氷のように冷たかった。もはや体温を失った姉の体。そこに彼女の意識はない。脈は止まり、全身の血液は流れを止め、生命としての機能を完全に停止している。

「姉さん………」

 体にかけられた布から手がはみ出していた。それを握っても冷たく硬くなった手に温もりは戻らない。まだ生きている自分の手も冷やし、死の冷気へと誘おうとするように。

「どうして………、どうしてなんだよ姉さん!」

 頬を涙で濡らしながら問い続けた。

 何で俺を置いてったんだ。

 まだ姉さんに食べてほしいものが沢山あったのに。

 まだ姉さんと行ってない海だってあったのに。

 まだ約束だってあったのに。

 それなのにどうして――

 ただの肉の塊になったその死体に、姉の意識はどこにもない。これからも続くはずだった姉の人生はその寝顔と共に凍り付き、二度と溶けることはない。口のない死者は何も応えてはくれず、ただ問いは生きている者の意識の中で絶えず反芻し続ける。

 あの日から、どうして、という問いが頭のなかにとり憑いた。

 

 姉の記憶を全て失うまで。

 

 

   2

 

 にゃあ、という声で目を覚ます。猫かな、と思いながら目蓋の重い目をこすり、窓を見やる。早朝の海には白い鳥が飛んでいて、それがにゃあ、と鳴いている。ウミネコだ。鳴き声が猫に似ているのが特徴で、見た目はカモメに似ているから内陸に住んでいる人間から間違われやすい。

 ロビーに降りると、朝食の準備をしている民宿の女将が「おはよう」と声をかけてくれる。結構な高齢のようだが、よく通る声だ。

「おはようございます」

「早いねえ。若いのに感心」

「いつも今くらいの時間に起きてるんです。畑の世話があるので」

「へえ、兄ちゃん畑やってんだ。何育ててんの?」

「色々です。今の時期だとトマトとかキュウリとか。あ、春は大根育ててたんですけど、今年は出来が良かったんですよ」

 からからと女将は笑った。心の底から楽しそうだった。

「朝ごはんもう少し待ってて。味噌汁温めてるから」

 「はい」と笑顔で応じ、外へ出る。海辺の街というのはどこも沿岸部に民宿が立ち並んでいて、夏真っ盛りの今はどこの朝もサーファー達が波乗りを楽しんでいる。昼間だと海水浴客が大勢来るから、朝しかサーフィンをする時間が取れない。

 砂浜に腰掛けて、打ち寄せては引いていく波を眺めた。潮の香りを含んだ空気を吸ってみる。内浦とは微妙に違う潮だ。海は土地によって色や香りが異なる。そういった微妙な違いは、姉とたくさんの海に訪れていくうちに培われていった。

 姉は夏の賑やかな海よりも、海水浴シーズンから外れた人の少ない静かな海が好きだった。泳ぐ以外にも海の楽しみ方がある。冷たさを肌で感じるならプールでもできるけど、潮の香りや波の音、体の全てで海を感じるのを、姉は好んでいた。

 この各地の海を巡る旅のなか、どうして姉は海ばかりに連れて行ってくれたのか、と考えた。生前に姉は、産まれて初めて両親に連れられた海を見たときの感動を、成長してもずっと裡に留め続けていたらしい。

 ――悲しいことも嬉しいことも、楽しいことも辛いことも、海は全部受け止めてくれるの――

 いつかそんなことを言われた。似合わない台詞だね、とからかうと、海水をかけられたことを思い出す。

 紙飛行機を飛ばした海は見つからなかったが、もう時間切れ。今日は沼津へ帰らなければならない。

 姉の恋人だった男に会うために。

 千歌のためにご馳走を作るために。

 何を作ろうかな、と思考を切り替えながら、民宿へと引き返していく。

 姉さんとの約束は果たせなかったけど、あの子との約束は果たさないと。

 

 ラブライブ東海地区予選の会場になる名古屋に到着したは良いが、電車を降りた名古屋駅で千歌たちは早くも慣れない土地でのトラブルに見舞われていた。

「待ち合わせ場所は、と………」

 スマートフォンでむつから送られたメールの場所と、自分たちのいる場所を照らし合わせる。Aqoursと他の生徒たちは別々に来るから現地集合ということで話は落ち着いたのだが、その集合場所の指定が名古屋駅、と大雑把にしたことがまずかった。名古屋も日本有数の大都市で、その交通の中心とも言える駅が地方のように慎ましやかなはずがなかった。

 高層ビルと一体になった駅構内で、取り敢えず待ち合わせ場所として定番らしい東側の桜通口の金時計前に行ってみたのだが、むつからのメールで指定された駅前の噴水とある。

 取り敢えず噴水を探せばいい、と外に出たのだが、駅の広い構内で散々迷った挙句に反対の西側から出てようやく見つかった。

「むっちゃん達、来てないね」

 人の多い駅前を見渡しながら曜が呟く。千歌も辺りに視線を這わせながら、

「多分、ここで合ってるはずなんだけど」

 他にも噴水はあっただろうか。

 「千歌!」という街の喧騒に負けない声のほうを向くと、むつとよしみといつきの3人組がバスターミナルから走ってくる。

「ごめんごめん、ちょっと道に迷っちゃって」

 そう言っているむつの額からは玉のような汗が浮かんでいる。今日も暑いから立っているだけで汗ばむのだが、その中で駆けつけてくれた、とすぐに分かった。

「他の子は?」

 曜が訊くと、3人の表情が曇りよしみが、

「うん、それなんだけど。実は………」

 芳しくはなかったらしい。それでも3人が来てくれたことが嬉しいのは本当で、千歌は「そっか」と笑う。

「しょうがないよ、夏休みなんだし」

 曜の言う通り。貴重な夏休みなんだから皆だって思い思いに過ごしたいだろう。

「わたし達何度も言ったんだよ。でも、どうしても………」

 といつきが言うと、3人の表情が明るくなる。同時に多くの足音がこちらに近付いてくる。

「皆、準備はいい?」

 むつが大声で呼びかけると、集まってきた浦の星の制服を着た少女たちが「イエー!」とサイリウムを掲げる。クラス全員とか、そんな規模で足りる人数じゃない。

「全員で参加する、て」

 「皆?」と困惑と驚愕の混ざった声で呟くが、遅れて嬉しさが込み上げてくる。「びっくりした?」とむつが悪戯に笑う。

「うん! これで全員でステージで歌ったら、絶対キラキラする。学校の魅力も伝わるよ!」

 学校の皆で歌える。ステージで浦の星の魅力を振り撒くことができる。自分たちのために総出で駆けつけてくれる学校が、魅力的に見えないはずがない。

「ごめんなさい!」

 梨子の声が完成を遮った。

「梨子ちゃん?」

 逡巡を挟んで、梨子は固く結ばれた口を開く。

「実は……、調べたら歌えるのは事前にエントリーしたメンバーに限る、て決まりがあるの。それに、ステージに近付いたりするのも駄目みたいで。もっと早く言えばよかったんだけど………」

 生徒たちに梨子は深く頭を下げる。そりゃそっか、と千歌に落胆はなかった。運営側だってエントリーした人数に合わせて舞台装置を組み立てるのだから、飛び入り参加が禁止なのは当然のこと。

「ごめんね、むっちゃん」

 千歌も謝るが、むつ達は何の気なしに笑う。

「良いの良いの。いきなり言い出したわたし達も悪いし」

 それでも皆は、抱いた熱をまだ冷ましているわけじゃなさそうだった。よしみが力強く拳を握り、

「じゃあわたし達は、客席から宇宙1の応援してみせるから。浦女魂、見せてあげるよ」

 ああ、本当に素敵な人たちだ、と千歌は裡の熱を更に強くする。ひとりひとりの輝きが小さくても、この皆が一緒になればきっと大きな輝きへ至ることができる。ライバルになるグループが多いことも知っている。でもどこのグループよりもAqoursが、浦の星女学院が最も輝ける、という確信が持てる。

「だから宇宙1の歌、聴かせてね」

 いつきの言葉に「うん」と強く頷き、千歌は会場へと脚を踏み出す。

 この裡にあるものを存分に解き放てるステージへと。

 

 

   3

 

 その邸宅は、森の中にひっそりと佇んでいる。伊豆の国の温泉街にはまだ離れている山中で、浮世離れした豪奢さもあって幻想的にも視える。まるで彼岸と此岸の境目に建っているようだ。家主がこの家に移り住んでそう経っていないはずだが、建物には結構な年季が入っている。

 志満から聞いたことがある。バブル経済の時代、富裕層向けの別荘としての開発が進められたがすぐに頓挫し、建てたものの買い手がつかなくなった物件がいくつか放置されたままになっているらしい。この家もそのひとつだったのだろう。

 立派な門の脇に設えられたインターホンを押すと、すぐに男の声で応答が来る。

『はい』

「突然すみません。僕は――」

 要件を言おうとしたところで、

『どうぞ、お入りください』

 門が左右に開かれる。門から玄関まで結構な距離があり、バイクで庭園の中央に伸びる道を進んでいく。芝生がよく整えられた庭園には小さいながら噴水があって、中央では女性像の掲げる瓶から水が注がれている。

 玄関もまた立派な木製の扉が構えられている。扉に刻まれたレリーフを背にして、研究室で見た写真と同じ顔をした男性が立っている。

 バイクから降りて尋ねた。

「あなたが“津上翔一”さんですか?」

 その名前――千歌と曜に発見されたときに持っていた封筒の宛名――を聞いた男は苦笑を零し、

「その名前は、今は君のものだ。今は別の名前を名乗っている」

 かつて「津上翔一」だった男は名乗る。

 それは、この2年間に失われていたはずの名前。

 親から授かり、姉から呼ばれ、そして忘れていた名前。

沢木哲也(さわきてつや)、とね」

 

 ひた、という音が涼の意識を現実へと引き戻す。その布が擦れるような音は眠りから目を覚ますほど大きくはなかったのだが、変異した涼の鋭くなった聴覚は、近付いてくるその音をはっきりと捉えていた。

 目を開くと、視界に透明なガラスの花瓶が映る。花の挿されていないその花瓶が一気に迫ってきて、寝起きの涼は重い体を咄嗟に退けた。続けて視界に入ったのは女だ。眼鏡を掛けた若い女性が、花瓶を手に掲げている。再び花瓶が振り降ろされた。涼はベッドから体を滑らせ、花瓶は柔らかい布団にぼふ、と衝撃を吸収される。

「何やってんだ!」

 その声と共に、部屋に男が入ってきて女に組み付いた。状況が全く呑み込めないが、身の危険に晒されていることは理解できる。

 女は目を血走らせながら喚いた。

「木野さんからの命令よ。さっき電話があったの。この男は始末しろ、て」

「何⁉」

「この男は私たちに災いをもたらす、て」

 男の手を振り払い、女が花瓶を振り降ろす。花瓶が接触する寸前で、涼は女の肩を掴んで突き飛ばした。壁に頭をぶつけたせいか、女が床に倒れる。

「真澄! おい真澄‼」

 男が真澄と呼ばれた女を揺さぶっている。涼は重い体を持ち上げて部屋から出ると、すぐに玄関を見つけて靴も履かずに外へと飛び出す。

 

 

   4

 

 沢木邸は、家主である沢木哲也以外に誰もいないようで静まり返っていた。ただでさえ静かな地方集落で、車もほとんど通らない山道沿いに建つ家にはセミの鳴き声と鳥のさえずりしか聞こえない。都会の喧騒に疲れた者にとっては心地よいかもしれないが、喧騒とは無縁の田舎暮らしの者にとっては不気味な静けさだ。まるで世界の終焉のなかに放り込まれたようだ。最後の審判で、全ての人類が地獄へと落とされ誰もいなくなった世界のよう。

 応接間の質の良いソファに腰掛けて待っていると、沢木はレモンの入ったアイスティーを持って来てくれた。沢木が対面のソファに腰掛け、こちらと向かい合う。

「やっと会えた」

 そう言うと、沢木も感慨深げに「ああ」と、

「俺も君のことは、何度も聞かされたよ。俺も会いたいと思っていた」

 こんな邂逅は本意ではなかった。沢木にとってもそうだろう。本当ならこの場には姉もいて、この人物に料理を振る舞うはずだった。

 この男は津上翔一として。

 自分は沢木哲也として。

「話してもらえませんか? 姉さんのこと」

「何が訊きたい?」

「信じられないんです。姉さんが自殺した、てこと」

 沢木は一旦視線を俯かせる。でもすぐ向き直り、

「君の気持ちは分かる。あれほど明るく前向きな人はいなかったからな」

 そう、姉は誰よりも明るかった。彼女の笑顔に育てられた。姉とは何でも包み隠さず打ち明けられたからこそ、どうして彼女が自殺なんて手段を選択するに至ったのか。彼女は隠し事が下手だった。1度恋人がいないことをからかったことがあったのだが、そのとき姉は目を泳がせ作り笑いを浮かべながら言っていた。

 ――甘えん坊な弟を持つと、恋人なんて作ってる余裕ないの――

 きっと驚かせるため秘密にしておきたかったのだろうが、その反応で恋人がいることを悟ることができた。

 大好きな姉を取られた、なんて嫉妬はなかった。幸せになれるのなら、自分のもとを離れることになっても大歓迎だったのに。

「しかし、それが彼女の全てではなかったとしたら? 例えば君は、彼女が普通の人にはない力、特別な力を持っていることを知っていたか?」

「特別な力……?」

 沢木は語る。

「俺が君の姉さんに出会ったのは、尊敬する比較宗教学の教授に会うために上京したときだった。君の姉さんは彼の生徒だったが、俺と会ったときには既に特別な力に目覚めていた」

 力の片鱗なんて、姉は1度も見せたことがなかった。あの姉が隠し通せるはずがない。ずっと一緒に暮らしていたのだから、ほんの一端でも漏らしてしまうはずだ。

 いや、とそこで否定が浮上してしまう。その嘘の下手さすらも、嘘だとしたら――

「俺も教授も彼女の力に驚愕し、賛美したものだ。まさに人間の中に宿る神の力の発現のように思われてね。我々は様々な実験を行って、彼女の力を検証した。彼女も嬉しそうだったよ。自分の力がいつか世の中のために役立つ、と信じて」

 確かに、姉は大学院に進んでから帰りが遅くなったり、家を空けたりすることが多かった。所属する研究室での勉強が忙しい、と口癖のように言っていて、それでも勉強熱心だった彼女らしい、とそれほど深くは考えなかった。その言葉の裏にあった真実なんて知りようがない。

 自分たちの間に隠すことなんてない、と信じていたから。

 それほどに強く絆で結ばれた、たったひとりの家族だったから。

「やがて俺たちは愛し合うようになった。だが、そう長い間ではなかったよ。俺たちが幸せだったのは」

 そこで沢木は悲しそうに目を伏せる。今更何を、とすら思った。姉の葬式に、この男は顔を出さなかったのだから。

「君の姉さんは、自分の力を制御できないようになっていった」

 その双眸に涙が浮かぶ。声に嗚咽を混じらせながらも、沢木は語るのをやめない。

「神の力だと思っていたのに………。実は全く別のものだったのかもしれない。彼女はそう思うようになっていった。荒れ狂うその力に……、彼女自身の心までが呑み込まれてしまうんじゃないかと………」

 人の手の届かない力。人の視る夢。そう信じていたのに、自身を喰らおうとする力。肥大化したそれは宿主である姉を神どころか、怪物にしようとした。

 たったひとりの家族にすら明かせなかった、怪物と共に抱える絶望。海よりも大きく感じられた姉にも、それは大きすぎて重すぎた。

「じゃあ、姉さんはそのせいで自殺した、ていうんですか?」

 神のものと信じた力が、姉に自殺という手段を選ばせたのか。いや、違う。姉には他の選択肢がなかった。別の方法が見出せる前に怪物になるか、更にその前に人として死ぬか。無理矢理捻り出した究極の2択で姉には後者しかなかった。まだ弟への愛情を保ったままでいられるうちに、と。

 震える声を絞り出し、沢木は答える。

「そうだ」

 

 






 『アギト』原作で翔一君の記憶が戻っていた間の不思議な雰囲気を再現するにはどうしようか、とずっと頭を抱えていました。
 そこで翔一君視点の場面は「人称(例:俺・翔一)なし」という新しい表現に挑戦してみました。読み辛く感じてしまったら、感想にてご指摘ください。次からはやりません。


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第5話


 第1期最終回です!
 ここまで長かった! そんで本編も長い!

 しかも『サンシャイン』サイドと『アギト』サイドの温度差が激しすぎてかなり全体の情緒がおかしくなってしまいました。
 なので本編を読んでいただく前に謝罪させてください。

 申し訳ございませんでした(土下座)
 そしてこれまでの応援ありがとうございました。
 引き続きこれからもよろしくお願い致します。




 

   1

 

「実はまだ、信じられないんだ」

 楽屋で化粧をしながら、ルビィがそんなことを言っている。「おらもずら」と花丸も準備を着々と進めながら、気の抜けた返しをする。

「今、こうしてここにいられることが………」

「夢みたいずら」

 スクールアイドルへの憧れを強く抱きながらも踏みとどまっていたルビィ。本の世界で自分の物語を完結させることを受け入れていた花丸。そんなふたりに髪を整えた善子は皮肉を飛ばす。

「何今更言ってるの。今こそがリアル。リアルこそが正義」

 そう、これは現実だ。自分が見ているもの、聞いているもの。それは全て「いま」起こっていること全てが本物で、決して夢なんかじゃない。

 ふと、善子は想像してみる。もしあのとき、堕天使を捨てようとしたあの日に千歌の手を取らなかった、と。そうしたら、善子は普通の高校生活を送ることができたのかもしれない。普通に友人を作って、学校帰りに街で買い物をして、あわよくば素敵な恋人ができて幸福と感じられる日常を手に入れることができたのかもしれない。

 それは確かにかつて善子が望んでいたことに違いない。ただひとつ、堕天使への「好き」という感情を偽ること以外は。

「ありがとね」

 他のグループの談笑に消えてしまいそうな声に、ルビィと花丸が「え?」と振り向こうとしてくる。ふたりの顔が向けられる前、自身の顔が見られる前に、善子はふたりの肩を抱く。目元に込み上げる熱を抑え込み、いつもの強気な口調で、

「さあ、後はスクールアイドルとなって、ステージで堕天するだけ」

 こうして感じられるふたりの温もりも、紛れもなく本物だ。これからステージで抱く想いも全て。望んでいたものとは少しだけ違うけど、それ以上のものをわたしは手に入れることができた。

「うん」

「黄昏の理解者ずら」

 捨てなかった「好き」という感情。捨てなくていい、と迎え入れてくれたふたりから腕を離し、善子は高らかに宣言する。目尻から押し留めきれなかった涙を零しながら。

「行くわよ、堕天使ヨハネとリトルデーモン。ラブライブに、降臨!」

 

 開場までまだ時間があるから、ホールには誰もいない。既にステージの準備を済ませたのか、スタッフの姿も見えなかった。照明が暗転したこの静かなホールが、数時間後には観客で埋まる。観客の声援を受けながら、自分たちはホールの中央に設えられたステージで歌い踊る。

 この日のために練習を積んできたし、楽しみにしていたはずなのに、いざその瞬間が近付くにつれて現実味が薄れていく奇妙な感覚に囚われていた。

 色々とあったからかな、と果南は思う。

「高校3年になってから、こんなことになるなんてね」

 スクールアイドルを辞めると決めたときには、今頃は就職か進学の準備をしていると思っていたのに、まさかまたステージに戻るなんて。

「全くですわ。誰かさんがしつこいおかげですわね」

 そう言ってダイヤが並んでステージを眺める。「だね、感謝してる」と応じ、隣に立つ金糸の髪の親友へ目を向ける。

「鞠莉」

 この鬱陶しいほどに押しの強い親友のお陰で、またステージに立てる。こんな償いようのない罪を抱えてしまった自分を受け入れて。

「感謝するのはわたしだよ」

 と鞠莉は言う。最初に果南が誘ったときは渋っていたのに、戻るときは立場が逆転するなんて、と果南は思わず笑みを零す。

「果南とダイヤがいたからSchool Idolになって、ずっとふたりが待っててくれたから、諦めずに来られたの」

 2年という時間を経て、果南とダイヤはあの日々を忘れようとしてきた。ダイヤは生徒会長の仕事に没頭し、果南は初恋に拠り所を求めた。でも、鞠莉は微塵も諦めていなかった。また3人でステージに戻ることを誰よりも望んでくれていた。

 互いの真意を知らずに過ごした2年間。後悔と、でも得られた「いま」という瞬間への喜びと、そして懺悔を同時に含んだ涙が流れる。

 わたし、ここに居て良いのかな、という想いはまだ裡に燻っている。人を殺したのかもしれないのに、何食わぬ顔して幸福を噛みしめていいものだろうか、と。もし神さまがいるのなら、と果南は両隣に立つふたりを抱きしめながら祈る。

「あのとき置いてきたものを、もう1度取り戻そう」

 どうかもう少しだけ時間をくれますように、と。

 このふたりと、Aqoursの皆で最後までステージに立つことを赦してください、と。

 

「不思議だな」

 と梨子が唐突に言った。

「内浦に引っ越してきたときは、こんなことになるなんて思ってもみなかった」

 その感慨は、きっと他の皆も抱いていることなのかもしれない。千歌自身、こうなることを望んできたはずなのに、どこかで無理かもしれない、と弱気になったこともあった。

「千歌ちゃんがいたからだね」

 曜がそう言ってくれるけど、皆がいてくれたから、と千歌は断言できる。

「それだけじゃないよ」

 そう返すとふたりは意外そうに目を丸くする。

「ラブライブがあったから、μ’sがあったから、スクールアイドルがいたから、曜ちゃんと梨子ちゃんがいたから」

 普通の高校生が特別な存在になれるスクールアイドルという夢。その夢を大衆に広げてくれたμ’s。きっと彼女たちにも彼女たちの物語があって、それが意図しないところで自分たちAqoursの物語へと繋がっている。とても奇妙な、素敵だと思える縁。

 でも、自分たちの夢の終着点はここじゃない。

「これからも色んなことがあると思う。嬉しいことばかりじゃなくて、辛くて大変なことだっていっぱいあると思う」

 これで本当に浦の星の廃校が阻止できるのかは分からない。まだまだ入学希望者を増やす必要はあるだろう。

 アンノウンという恐ろしい存在に怯えることもあるだろう。翔一の今後のことだってある。

 不安は山積みだ。考えればきりがないほどに。でも、千歌のなかに立ち止まる理由はない。

「でもわたし、それを楽しみたい。全部を楽しんで、皆と進んでいきたい」

 わたしにはAqoursの皆がいてくれる。学校と街の皆がいてくれる。翔一くんがいてくれる。

 仲間が、応援してくれる人たちが、守ってくれる人がいる。だから前へと進むことができる。これからも進んでいける。

「それがきっと輝く、てことだと思う」

 

 

   2

 

 目的地もなく、ただ逃げるために走り続ける。でも鉛のように重い脚はなかなか前に進んでくれなくて、涼はまるで亀にでもなったような気分だった。しばらく眠ったままろくに食事も摂れなかったせいか、目眩がして視界が歪んでいる。だから、足元にある鉄骨に気付くこともできず脚を取られて転倒してしまう。どうやら工事現場に迷い込んだらしい。でもここなら身を潜めることができそうだ。

 微かな希望と共に身を起こしたとき、転がっていたコンクリートの瓦礫が飛んできて涼の脇腹を打つ。再び地面に伏せられた涼の視界のなかで、ひとりの男がじ、と涼を睨んでいる。マンションから結構離れることができたと思っていたのだが、走ることすらままならない涼に追いつくのは容易だったらしく息もあがっていない。

 建物を囲っていた柵から、細い鉄筋が1本だけ外れる。まるで透明な巨人がねじり切ったようだった。鉄筋は真っ直ぐひとりでに涼へと向かってきて左腕に突き刺さる。焼けるような痛みに悶えながら、涼は問う。

「何故だ、何故俺を………?」

 あの男は関谷真澄から自分を守ってくれていたのに、一体どうしてこんなことに。

「助けてもらったことには感謝してる」

 ゆっくりとこちらへ歩きながら男は言う。

「だがあの人の指示なら、仕方がない」

 木野という人物か。随分とその木野に信頼を寄せているらしい。彼の迷いのない眼差しに恐怖を覚え、涼は立ち入り禁止の札を押し退けて工事中の建物へと入り込む。

 どうやら解体工事らしく、辺りに鉄パイプやスチール版といった資材が散乱し、砕いたコンクリート片も無造作に放置されたままになっている。柱の陰に身を潜めた涼は左腕に刺さったままでいる鉄筋を右手で掴む。触れただけで激痛が走った。見つからないよう息を殺し、歯を食いしばると一気に引き抜いた。

 あまりの激痛に呻き声を漏らし、抜いた鉄筋を右手から零してしまう。とコンクリートの床に落ちた鉄骨は甲高い音を立てた。傷口から沸き出すように流れる血を抑えつけながら、柱に背を預けたまま立ち上がる。口に血の味が広がった。食いしばったときに唇を噛んだらしい。腕の痛みで気付かなかった。額からも玉汗が溢れているらしく、目に入り塩気で痛む。

 不意に、顔の真横から何かが突き出してきた。柱の中に配された鉄筋だ。立て続けに突き出してくる鉄筋は折れ曲がり、涼の体を柱に縛り付ける。

 こつ、こつ、と近付いてくる足音は死神のものに思えるが、その音を立てているのは明らか人間の男だ。あの男がこんな芸当をやってのけたのか。一体奴は何者なんだ。

 男の足元にある薄いスチール版が切断される。三角形に切られたスチール版は薄いだけあってまるで鋭利な刃物のように、切っ先を不気味に光らせながらブーメランのようにこちらへ旋回してくる。

「変身!」

 涼は裡から力を呼び起こす。でも、変化があったのは右腕だけだった。スチール版を弾き返した右腕は元の姿に戻り、だらりと力が抜けていく。

 弾いたスチール版が男の顔を掠めたとき、巻き付いていた鉄筋が解けていく。好機と外へ逃れようと踏み出した右脚が痛む。今度は右の太腿に鉄筋が刺さっていた。抜いている余裕なんてなく、涼は痛みにまた歯を食いしばりながら鉄筋を脚に刺したまま外へと拙い足取りで飛び出していく。

 

 

   3

 

「信じられません。あの姉さんが………」

 真実を聞けば、納得できると思っていた。でも真実を聞けば聞くほどまさか、という反発が強まっていき、確かなはずの事実にも目を背けたくなる衝動に駆られる。

 沢木は言う。

「君は姉さんのことを、知らなかっただけかもしれない」

「姉さんのことを、知らなかった………?」

 その疑念は刃のように裡に突き刺さる。

「人は他人(ひと)に対してイメージを抱く。ただそのイメージが正しいとは限らない。思いもよらないもうひとつの顔を、知らないのだ」

 あの海に出掛けたときに見た無垢な笑顔も、料理を食べたときに向けてくれた美味しいという言葉も。姉の全てではなかった、とこの恋人だった男は言うのか。だとしたら、一緒に過ごしてきたなかで姉はどこまでの面を見せて、どれほどの面を隠していたのだろう。

 ――どうして――

 あの疑念だ。姉が去ってから呪いのように脳裏に貼りついていた疑問が強く脈打っている。

 姉さん、どうして何も言ってくれなかったんだ。たったふたりだけの家族だったのに。

「ありがとうございました」

 立ち上がって深く頭を下げる。問いは未だに溶けないままだ。あの日に対面した、凍り付いた姉の寝顔と共に。でも、これ以上沢木の話を聞くのは堪えられそうになかった。更に姉の知らなかった一面を聞いてしまったら、子供の頃から感じていたはずの愛情さえ疑ってしまいそうで。

 玄関まで送ってくれた沢木は言う。

「人間は弱く、愚かなものだ。偉大な力を持っても、その力を正しく使うことができない。自我を超越した者だけが、力を制御することができる。そのような人間がいずれ必要になるだろう」

 その口調は研究者然としたもので、先ほど垣間見られた姉への思慕は全く感じられない。姉の本当の面も見えなかったのだから、今日初めて会ったこの男の本心も霞のように明瞭としない。姉と姉の中にあった力。彼が本当に愛していたのはどっちだったのだろう。

「何か冷たいんですね。姉さんのことなんか、どうでもいいように聞こえますけど」

「時は流れたということだ」

「それは、そうですけど………」

 この男の言う通りだ。時は無情にも過ぎていく。真実を知ってしまった以上、納得するしかない。それこそ時の流れに身を委ねて、納得できる日が訪れるのを待つしかない。

 姉の時間は止まってしまったが、まだ生きている自分の時間はこれからも過ぎていくのだから。

「いずれ必要になる。君のような人間が」

 その言葉の意味が分かりかねて、どういうことか尋ねようとしたとき、

「っ!」

 脳裏に戦慄が走る。急いでヘルメットを被り、バイクを猛スピードで走らせた。

 

 

   4

 

 地区予選ではパフォーマンスの前に、グループ紹介の時間が設けられている。大会の運営から紹介の形に関しては特に決まりは提示されてはいない。口頭、映像、音楽とアピールは自由だ。ステージでのメインは当然曲なのだが、紹介もまた立派なパフォーマンスということで、他のグループも準備に余念のない、各々の趣向を凝らした紹介をしている。

 このグループ紹介で、Aqoursは演劇の形式を取ることにした。それが1番わたし達らしい、と満場一致だった。

 会場に灯された照明は、主役である演者へ向けられたスポットライトのみ。でも観客席が満員であることは、観客たちが掲げるサイリウムの光で見て取れる。各々が好きな色に灯る様子は、まるで一見すれば取りまとめなく寄せ集められた自分たちのようだ。

「今日は皆さんに伝えたいことがあります!」

 これまで立ってきたなかで最も大きなステージ。その広さと観客の多さに圧倒されるも、それもまた楽しもう、と千歌は声を張る。皆に聞いてもらえるように。見てもらえるように。

「それは、わたし達の学校のこと、街のことです」

 演目が始まる。千歌は広いステージを余すことなく駆けていく。

「Aqoursが生まれたのは、海が広がり太陽が輝く、内浦という街です。

 小さくて人もいないけど、海にはたくさんの魚がいて、いっぱいミカンが採れて、暖かな人で溢れる街。

 その街にある小さな小さな学校」

 生徒たちがいる区画の席を手で示す。観客席は暗いけど、皆が制服を着ているおかげですぐに分かった。

「今ここにいるのが、全校生徒。そこでわたし達はスクールアイドルを始めました」

 続いて曜のパートに入り、スポットライトが(かしず)くように手を組んだ彼女へ移る。

「アキバで見たμ’sのようになりたい。同じように輝きたい。

 でも――」

 気持ちはあった。でも具体的に何をすればいいのか、その目処もろくに立っていなくて、そのときの衝撃を思い出しながら、千歌と曜は声を揃える。

「作曲⁉」

 アイドルなのだから当然歌うわけで、それには曲が必要になる。その現実を突きつけたダイヤが、暗がりから現れる。

「そう、作曲ができなければラブライブは――

 出られません!」

「ハードル高っ!」

 千歌も曜も、音楽とは無縁に過ごしてきた。作詞は何とかなっても、作曲となるとお手上げ。でもそこで起こった出会い。曜は手を差し述べ、

「そんなとき、作曲のできる少女、梨子ちゃんが転校してきたのです」

「奇跡だよ!」

 だけど漠然と信じるだけでは奇跡なんて簡単に起きるわけもなく、

「ごめんなさい!」

 と梨子が深々と頭を下げる。

「がーん!」

 観客席から笑い声が聞こえてくる。自分たちとしては真剣にやってきたつもりだったけど、傍から見たら滑稽に映るかもしれない。

「東京から来た梨子ちゃんは、最初はスクールアイドルに興味はなかった。東京で辛いことがあったから」

 当時、梨子の抱えていた懊悩。ピアノに真剣だからこそ、他のことに目移りしたくなかった。でも彼女の裡にも確かに燻っていた光への渇望が、千歌の手を取ってくれた。

「輝きたい!」

「その想いは梨子ちゃんの中にもあった」

 「そして――」と曜が目を向けた先でスポットライトを浴びる次のメンバー。

「お、おら……、わたし運動苦手ずら………、だし」

「ルビィ、スクールアイドル好きだけど人見知りだから」

 1年生の最後のひとりは、観客席に現れる。その演出に観客たちは驚きの声をあげ、当人はとてもご満悦そうに光を浴びながら、

「堕天使ヨハネ、ここに降臨!

 わたしの羽を広げられる場所はどこ?」

 自分のなかにあるはずの「好き」という気持ち。それに蓋をしようとしていた彼女たちにも手を差し伸べた。千歌にとってはキラキラと輝いて見えたから。もっと輝ける、という確信があったから。観客席から善子が連絡通路でステージに戻ってくる頃合いを見計らって、

「こうして6人になったわたし達は歌を歌いました。街の皆と一緒に」

 わたし達が住む街、わたし達を育ててくれた街が大好き。その想いを込めた歌は人気を呼び、また一波乱が起こる。

「そんなとき、わたし達は東京のイベントに出ることになった」

 梨子が言うと、1年生たちが大都会を目にしたときの感嘆を口々に述べる。

「未来ずらあ!」

「人がいっぱい!」

「ここが魔都、東京!」

 地元にないもので溢れた東京。国の中心で歌えるという胸の高鳴りは、確かにあった。

「ここで歌うんだね、頑張ろう!」

 曜の告げたその意気込みは嘘じゃない。当然、ステージに立つからには全力のパフォーマンスを披露した。

「でも結果は――

 最下位」

 努力が必ずしも報われるとは限らない。まだ結成して間もないグループが実力のあるグループに競り勝つだなんて、そんな楽観視を決め込んでいたわけじゃない。

 不安はあった。

 覚悟はしていた。

 でも現実はそれを遥かに上回る絶望を突き付けてくる。

「わたし達を応援してくれた人はゼロ」

 誰も感動させられず、

 誰も笑顔にできず、

 誰も輝くことができなかった。

 μ’sが活動していた頃よりも、爆発的に増えたスクールアイドル。増えた分だけ競争率は高くなり、比例して全体のレベルも向上している。

 頑張れば、仲間がいればできる、なんて簡単なものじゃなかった。

「千歌ちゃん、やめる?」

 うずくまる千歌に曜が訊く。スクールアイドルなんて始めなければ、こんな絶望を見ることはなかったかもしれない。普通なわたしは普通に過ごしているべきだったのかもしれない。

「悔しい」

 でも千歌は、それでも前に進んでいくことを選んだ。

「悔しいんだよ。わたし、やっぱり悔しいんだよ!」

 その想いを抱けたのは、スクールアイドルが好き、という気持ちをまだ捨てずにいられたから。生まれて初めて熱中できたことを、そう簡単に諦められなかったから。

「ゼロだったんだよ、悔しいじゃん!」

 そんな千歌の傍に梨子はいてくれた。

「そのとき、わたし達に目標ができました」

 梨子だけじゃない。曜もいた。

「ゼロから1へ」

 花丸もいる。

「ゼロのままで終わりたくない」

 善子もいる。

「とにかく前に進もう」

 ルビィもいる。

「目の前のゼロを1にしよう」

 ここからが本当の始まり。

「そう心に決めて、そんな時新しい仲間が現れました」

 ようやく訪れた出番に、待ちわびたのか3年生たちが声高に告げる。

「生徒会長の黒澤ダイヤですわ!」

「スクールアイドルやるんだって?」

「Hello,everybody!」

 この3人にも物語があったことを、曜が告げる。

「以前スクールアイドルだった3人は、もう1度手を繋いでわたし達は9人になりました」

 経験者を仲間に迎えたことで、グループのレベルもより向上できる。希望はどんどん膨らんでいった。

「こうしてラブライブ予備予選に出たわたし達。結果は見事突破。でも――」

 それでもまだ、現実は厳しいままだった。

「入学希望者はゼロ」

 とルビィが。

「忌まわしきゼロが」

 と善子が。

「またわたし達に突きつけられたのです」

 と花丸が告げる。

「どうしてゼロなのおおお!」

 千歌の嘆きが会場にこだまする。進んでいるようで、実はまだ進めていない。自分たちに提示される数字はゼロのまま。

 果南は言う。

「わたし達は考えました」

 鞠莉が言う。

「どうしたら前に進めるか」

 ダイヤが言う。

「どうしたらゼロを1にできるのか」

 答えを見つけるためにまた訪れた東京の地。伝説のスクールアイドルが救った、後のスクールアイドル達の聖地と名高い音ノ木坂学院。

 そこで見出せた、願いへの道。

「そして決めました」

 千歌の横を、次々とメンバーが通り過ぎていく。新しい決意、新しい目標を携えながら。

「わたし達は――

 この街と

 この学校と

 この仲間と一緒に

 わたし達の道を歩こう、と

 起きること全てを受け止めて

 全てを楽しもう、と

 それが輝くことだから」

 最後に残った千歌も、往くべき道を見据える。自分たちだけが往ける道。たとえμ’sでも辿ることのできない、Aqoursだけの道。

 それを見出してようやく、Aqoursは前進する。

「輝く、て楽しむこと。あの日、ゼロだったものを1にするために」

 先に往った皆のもとへ辿り着き、千歌は「さあ行くよ!」と円陣の中心に手を置く。人差し指と親指のみを伸ばし、全員でゼロを形作り点呼を取る。

「1!」は高海千歌。

「2!」は渡辺曜。

「3!」は桜内梨子。

「4!」は国木田花丸。

「5!」は黒澤ルビィ。

「6!」は津島善子。

「7!」は黒澤ダイヤ。

「8!」は松浦果南。

「9!」は小原鞠莉。

 この9人で、この9人だからこそ往ける居場所へと――

「10!」

 その幾重ものコールが聞こえて、観客席を振り返る。一画に固まった浦の星の生徒たちが、サイリウムを振りながら歓声をあげていた。千歌は笑みを零す。

 そうだったね。9人だけじゃないんだよね。

 学校の皆、街の皆。たくさんの人が自分たちを応援してくれる。一緒に輝きを目指してくれる。

「いま、全力で輝こう!

 ゼロから1へ

 Aqours――」

 1の形にした手を、全員で高く掲げる。この会場。それよりも、もっと大きく広げていくために声を張り上げる。

 どこまでも広く。

 どこまでも高く。

「サンシャイン‼」

 曲が始まった。

 Aqoursの想い。願いと決意の全てを込めた曲を踊り、歌い上げる。

 裡から溢れ出す光への願望。それが未来を照らしてくれる、と今でも信じてる。

 でも、願うだけじゃせっかく生まれた夢は叶わない。その現実に涙を流したこともあった。

 それでもわたしは、皆は諦めなかった。迷いながら、遠回りしながらも辿り着いた「居場所」で、繋がった夢でようやくひとつになれた。

 だからこそ「いま」がある。もう迷いはない。最初は憧れから始まった夢だけど、その更に先へと進みたい。

 あの人たちが往ったところじゃく、わたし達だけの往ける新世界へと――

 さあ、今こそ船出のとき。全速前進ヨーソロー、と声高々に行こう。きっと青空が笑うように祝福してくれる。

 湧き上がる熱に身を任せ、千歌はステージの縁へと駆ける。

「皆! 一緒に輝こう!」

 歌いながら手を伸ばす。ステージからじゃ絶対に届くことはないけど、この手に、歌に込めた想いは確かに皆と共鳴している。生徒たちが最善席へと躍り出る。サイリウムをめいっぱい振る中には、来てくれたメンバーの母親たちもいる。

 輝くのはわたし達だけじゃない。きっと皆が輝ける。誰の心にも光はある。その光は手放さず、ずっと抱き続けていこう。

 輝きがきっと、未来への切符なのだから。

 

 

   5

 

 空を覆う灰色の雲から、大粒の雨が降ってきた。叩きつけるような雨水が涼の体に浮かぶ汗と血を流していく。

 河原の茂みに隠れた涼は脚から鉄筋を抜き、無造作に投げ捨てる。そこで涼は違和感に気付いた。脚の痛みで意に介さなかっただけと思っていたが、左腕の痛みが消えている。傷口を見ると、確かに鉄筋が刺さったはずの穴がどこにも見当たらない。

 まさか、治ったのか。この短時間で。

 自身の異物さに恐怖を覚えるが、怯えている余地すら今はなかった。

 ぱあん、と何かが弾けたような音が響く。近くに屹立していた樹の幹が根本から折れて、涼のもとへと倒れ込んでくる。避け切れず、背中を幹が打ってきた。稲光はなかった。これは落雷じゃない。

 嫌な予想通り、雨のなか傘もささずに男が涼へと確かな殺意を込めた眼差しを向けている。その視線が物理的な力を持ったように、涼の体が川面へと吹き飛ばされた。浅瀬で、ぬかるんだ泥が体にまとわりついてくる。

 立ち上がろうとする脚に痛みはない。どうやらこちらの傷も治ったらしい。踏み出そうとしたとき、顔面を泥に押し込まれた。まるで見えない手に頭を掴まれているように。泥は顔に吸い付くように鼻と口を塞いできて息ができない。もがけばもがくほど見えない力は強くなってきて、みしみし、と頭蓋骨が悲鳴をあげ鼻が潰れそうになる。

 脳に痺れのような戦慄が走ると同時、力が解ける。泥まみれになった顔を上げて新鮮な空気をめいっぱい吸い込んだ。

 振り向くと、カラスのような怪物が男に剣を向けてにじり寄っている。この前に仕留め損ねたやつか。戦え、と涼のなかにある力が喚いているが、もう変身するほどの力は残っていない。

 雨で急流になった川に、涼は体を滑り込ませる。全身を包み込む水が泥を落としていき、流れに沿ってどこか遠くへと運んでいってくれる。

 流れに抗うことなく、涼は目を閉じて水中をたゆたっていく。

 遠くなっていく意識のなか、涼は怪物とは別の存在を感じ取っていた。

 自分と似た、でも異なる力。それが発現する声と気配を感じられるも、その正体を見る前に意識が途切れた。

 

「変身!」

 アギトに変身した際の光で、アンノウンがこちらに気付く。襲われていたであろう男は泥まみれになりながら、雨の中を走り去って行く。どこかで見たような気がしたが、確認する暇もなくアンノウンが襲い掛かってくる。

 振り翳される剣の柄に手を添えて、剣尖の軌道を逸らしつつ腹に蹴りを見舞う。水溜まりの泥で翼を濡らした雄カラスは苦し紛れに剣を一閃するが、動きが見えているから避けるのは容易だ。

 でもその剣は囮だった。避けた時に間合いが生じたことで、翼を広げる敵に対処できない。低空飛行した敵は雨を弾きながら宙を舞い、猛スピードで旋回し突進してくる。辛くも回避できたが、また旋回し次の攻撃が来るだろう。

 ふう、と深呼吸する。裡から力を湧き上がらせ、鎧に火と風を纏わせ三位一体(トリニティフォーム)へと姿を変える。

 向かってきた敵に、ベルトからハルバートを飛ばす。咄嗟に剣で弾かれたが、地に降ろすことはできた。続けて出した刀を手に取り、二刀の構えで攻撃を見計らう。

 先手は向こうから来た。振り降ろされた剣をハルバートで受け止め、刀を剣の中腹に叩きつける。悲鳴のような甲高い音を立てた剣が折れ、敵はその衝撃でたたらを踏む。

 両手の武器を放ると同時に角を開き、力を臨界にまで高める。足元の光を両足に集束させ、跳躍し敵の胸に渾身のキックを両足で叩き込んだ。

 黒い羽に覆われた胸を穿った瞬間に爆発が起こる。力が強すぎたせいか、爆炎が視界を覆い尽くし雨も吹き飛ばしていく。

 炎が全てを朱く染め上げ、その朱が裡にも侵食していくような錯覚に囚われる。姉と一緒に行った蒼かった海も。姉が初めて食べてくれた油まみれで茶色く焦げたチャーハンも。

 駄目だ――

 塗り潰されていく思い出の数々を手放すまいと、懸命に目を剥く。

 やっと思い出せたんだ。

 まだ思い出さなきゃいけないことがあるんだ。

 凍り付いた姉の寝顔が、朱のなかへと沈んでいく。

 姉さん!

 姉さん

 ねえ――

 

 ――お祝いにご馳走作って。こないだのトマト料理に負けないくらい、すごいの――

 

 最後に残っていた千歌の声も、朱く塗り潰されていく。全てを覆い尽くした朱は白になり、その白になったキャンパスに色が足されていく。

 描かれた光景は全てが満ち足りていて、同時に大部分が欠けた矛盾をはらんでいる。

 全てが白紙となり、そこから彩られていったものを取り戻したとき、

「俺は………、何をやっていたんだ?」

 青年は“津上翔一”になっていた。

 

 

   6

 

 沼津駅に降り立つと、先に戻っていた生徒たちが駅前のターミナル広場で千歌たちを出迎えてくれた。

「おかえりー!」

 まだライブの熱が収まっていないのか、皆がサイリウムを掲げている。何だか凱旋みたい、と照れ臭さを覚えながら、千歌は笑顔を向ける。群衆の外縁には親たちが微笑を浮かべたまま待っていてくれて、千歌は母と姉たちのもとへ行く。

「よくやったじゃん」

 と美渡が背中を叩いた。

「お疲れ様」

 と志満が労ってくれる。そしてこの日のために東京から帰省してきてくれた母はとても優しく笑って、

「良かったね、やめなくて」

 傍にはいなくても、見てくれてたんだな。そんな感慨を抱きしめながら、千歌は「うん」と頷く。

「みんなー、お帰り!」

 そんな気の抜けた声に、高海家全員が勢いよく振り返る。バイクから降りたその青年はお馴染みの人好しな笑顔でこちらへと歩いてきて、

「いやあ驚いたよ。帰ったら誰もいなくてさ。従業員の人たちに聞いたら名古屋に行った、て言うから。それで、こんな大勢で何しに行って来たの? あ、制服着てるから遠足とか?」

 「翔一くん!」という千歌の声を皮切りに、矢継ぎ早に姉たちも質問を飛ばしていく。

「てか翔一こそ今までどこ行ってたのよ?」

「とにかく思い出したこと全部話してみて翔一君」

 翔一はきょとん、と目を丸くしている。そのとぼけた様子はいつもの翔一だが、千歌はどこか違和感を覚える。

「て何よ? 皆、変な顔してどうしたの?」

 母が翔一の顔を見上げながら、

「翔一君、過去のこと思い出したんじゃないの?」

 小柄なせいで気付かなかったのか、翔一は母の姿を認めると驚きながらも嬉しそうに笑って、

「あ、女将さん戻ってたんですか? やだなあ言ってくれればご馳走作って待ってたのに」

 じれったくなったのか、美渡が翔一の肩を叩く。

「もう、そんなことより記憶よ。思い出したんでしょ昔のこと」

「誰が? 何を?」

 冗談にしては質が悪すぎる。そもそも、翔一は嘘が付ける性分じゃない。トランプでババ抜きをしたとき、すぐに顔に出るから毎回必ず翔一が負けるほどだった。

「翔一くん覚えてる? 今日、お祝いにご馳走作ってくれる、て」

 「だから何よそれ?」と翔一は首を傾げる。

「わけ分かんないこと言わないでよ」

 目の前にいるのは、確かにいつもの翔一だった。記憶がなくても前向きで、毎日を楽しみながら生きている。千歌たちのために料理を作ってくれて、時には奇抜な料理を作ってしまう家族も同然な青年。

「あ、そうだ。そうそう実はさっきまた新しい料理のメニュー思いついたんだけど。まあ楽しみにしててよ」

 満面の笑顔でバイクに戻っていく翔一に、千歌はどんな言葉をかけていいのか分からなかった。

 

 こうして日々の出来事を整理して、物語の半ばまで語り終えても、未だに答えの出ていないことがある。

 わたし達がゼロから創りあげたもの、て何だったんだろう。

 形のないものを追いかけて、

 迷って、

 怖くて、

 泣いて、

 そんなゼロから逃げ出したい、て。

 でも何もないはずなのに、いつも心に灯る光。

 この9人でしかできないことが必ずある、て信じさせてくれる光。

 わたし達Aqoursはそこから生まれたんだ。

 叶えてみせるよ、わたし達の物語を。

 この輝きで。

 だから、この物語をここまで読み進めてくれたあなたに、わたしは訊いてみたい。

 あなたの答えはきっと、わたし達が創りあげたもの、てことだから。

 

 君の心は輝いてるかい?

 



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断章 PROJECT G4
第1話


 

   1

 

 死とは、生きている限り常に付き纏っている。

 

 まるで生き物のように、背後から命を刈る絶好の機会を伺っている。それは命を持つもの全てが例外なく背負っているものだ。大抵の者がその事実に気付かず、死という概念を意識するのは難しい。だからといって、死への意識を強めることを推奨すべきかは微妙なところだ。誰もが生を受ける瞬間が1度しかないのと同様、死も1度しか訪れないのだから。できることなら、目を背けていたい。たとえ欺瞞(ぎまん)であっても、穏やかな心持ちで日々を過ごせたら十分に幸福と言えるだろう。

 でも、我々の背後にいる死神はそれを赦してはくれない。目を背けようとしたとき、目を瞑ろうとしたとき。否応なく死神は目蓋を開けさせ、事実の方角へと顔を向けさせる。そうして死に直面させられた人間は、決して忘れることのできない恐怖や絶望を突き付けられる。それは呪いのように、背後にある死神の視線を意識させられることになる。どんなに安全な居場所にいても、常に自身が死と隣り合わせに身を置いていることを知り脳裏から離れることはない。

 まさに生きながらの地獄だ。本当の地獄とは死後ではなく、「生きた」頭の中にあるのかもしれない。

 

 氷川誠が死神からの視線を意識するようになったのは、あの激動ともいえる年の夏がもうすぐ終わろうとしている頃だった。これまでもそうだったように、その日もアンノウンらしき生命体の通報は唐突にやってきた。それは誠が正式にG3-Xの装着員として赴く初めての任務だったのだが、既に2度の出動を経験していた誠は怖気づくことなくスーツを装着し、ガードチェイサーで現場へ急行した。

 現場は富士山のすぐ南にそびえる愛鷹山(あしたかやま)の麓。GPSには陸上自衛隊の訓練場として登録された施設だった。丘陵に整備された道路で、一般人にはあまり縁のない自衛隊の施設へは何の障害もなく、ガードチェイサーで向かうことができた。

 GX-05を抱えて入った施設のエントランスは、不気味なほど静かだった。人はいる。でも、立っている者はひとりもいない。野戦服を血で濡らした自衛官たちが、そこかしこで横たわっていた。マスクに搭載された生体センサーを起動させるも、生体反応を発する体はどこにもない。つまり、転がっている者たちは全て死体になっているということだ。

『氷川君、1時の方角に熱源があるわ。生存者かもしれないけど、アンノウンの可能性もある。警戒して』

「了解」

 小沢の指示に応じ、誠は建物の奥へと進んでいく。道中に横たわっている者全てに視界の焦点を合わせていくが、どれからも生体反応がない。その肩や頭といった部位を抉られた最期は、まるで熊にでも襲われたように見える。でも熊じゃない。熊ならば、彼らが抱えている小銃で十分に対処できたはずだ。薬莢も転がっていることから、発砲はされた。それでも獲物を仕留められなかったということは、敵は弾丸が通用しない存在。

 未だ警察が正体を掴めずにいる存在、まさにアンノウン。

 Gトレーラーから送られてきた座標の部屋を前にして、誠は一気に扉を開け放つ。昼にも関わらず、窓のない部屋は暗闇だった。

『氷川君、十分注意して』

「はい」

 敵はどうやら近いらしい。GX-05のバレルに取り付けたサーチライトを点灯させ、進みながら部屋中に証明を当てる。

「っ!」

 転がっている死体のひとつの顔が照らし出されたとき、誠は戦慄し息を呑んだ。ライトを当てられても開いた瞳を微動だにさせないその死体は少年だった。まだ小学生くらいだ。そのすぐ隣に光を当てると、そこでは同年代らしき少女が眠っているかのように死んでいる。

 何だここは。どうして自衛隊の訓練場に子供がいるんだ。一体ここは何の施設なんだ。

 暗闇のなかで、何かの影が誠の眼前を横切った。すぐに動体センサーで索敵し、ポインタが示すところへ銃口を向ける。銃口と同じ方向へ光を向けるサーチライトが、その暗闇に溶け込もうとする黒い異形の姿を照らし出した。

 躊躇なくGX-05を発砲する。恐ろしい俊敏さで弾道を避けたアンノウンが、誠へ跳びついてきて手からGX-05を払い落とす。すかさず抜いたGM-01 も払われた。それでもまだ平静を保った誠は、AIが割り出した敵の体躯を読み取りその腹に蹴りを入れる。視界は最悪だが、上手く敵を捉えることができた。相手が宙に投げ出されている隙にGX-05を回収する。

 銃口を向けるが、その時既に敵は体勢を立て直していて、GX-05の銃身に掴みかかってくる。力ずくで振り払おうとするが、腕力が拮抗したまま壁にもたれかかり、そのままコンクリートを突き破って白昼の下へ晒される。はっきりと視認できた敵の姿は、まるでアリのような姿をしていた。額から伸びた2本の触覚を気味悪く動かしながら、アンノウンは誠に接近してくる。

 落としたGX-05を回収している余地はなかった。ガードアクセラーを抜き、AIの指示通り敵の脇腹を叩く。AIが割り出す有効部位の算出はあくまで人体を元にしているが、それは人型のアンノウンにも有効らしい。次に首筋を叩いて重心を崩し、その腹に拳を沈める。

 いくら殴打しても、そこは人間よりも遥かにタフネスなアンノウンだ。多少たじろぎはしつつも、痛みなど感じないのか誠に掴みかかってくる。腰に組み付いたアンノウンの背に肘を打ち、更に腹を膝蹴りする。

 AIが次の動作を促してくる。顎を下から拳で突き上げ、天を仰いだ敵の胴を蹴り上げる。宙を飛んだアンノウンが、受け身も取れず地面に伏した。その間にGX-05を回収した誠は、残った弾丸全てを消費するようにガトリング砲を撃ち放つ。全身に穴を開けられ、手足を吹き飛ばされたアンノウンの頭上に光輪が浮かぶ。それでも誠は発砲を止めず、弾倉が空になるまで撃ち続けた。

 弾切れになる頃には、既にアンノウンの体は原型を留めないほどにまで破壊し尽されている。ミンチ状になった肉片を辺りに散らし、下顎を失った口で断末魔の悲鳴をあげながら、アンノウンは残った体も爆散させた。

『氷川君、施設内を捜索して。まだ敵がいるかもしれないわ』

「了解」

 弾倉を交換し、誠は屋内へ戻る。そのとき、G3-Xの装甲を纏った誠の背中を追う生存者がいたのだが、誠はその視線に気付いていなかった。ましてやその瞳が同じ系譜の仮面を付けて自身と対峙することになるなんて、予知できるはずもない。

 G3-X。正式名称はGENERATION-3 eXtension。

 G3システムの発展強化型として開発されたこの後継機に割り振られた番号が何故「3」のままなのか、それはG3ユニットで誠と尾室との間でも度々話題に挙がっていた。G3はG1、G2を経て完成しているのに、何故後継機には「4」の番号が与えられなかったのか。第3世代型から第4世代型といえるほど革新的なシステムではないから、と憶測ばかりが広がっても、開発者の小沢本人からその理由が明かされることはなかった。あの事件が起こるまでは。

 今回は、その理由を語りたい。

 

 これは死を背負う者の章。

 そして生を背負う者の章。

 

 ふたりの「G」の章だ。

 

 

   2

 

 この日の朝も翔一は朝6時に起床して、畑の世話をし、千歌たちのために朝食を作ってくれた。翔一の作ってくれる料理。少し薄味だけど、食べると安心できる味。

 あの日から何日か経ったけど、翔一は普段と変わらないままだ。何かを思い出した素振りを見せず、自分から思い出そうともせず、日々を過ごしている。

 でもこのまま、というわけにはいかない。「かつての」彼を垣間見てしまっては、翔一も前へと進まなければならない。千歌たちAqoursが前に進み始めたように。

 朝食の後、畑の世話に向かおうとする翔一を引き留めた志満がそのことを告げると、翔一はとても驚いた。

「え、じゃあ俺記憶を取り戻したんだ」

 居間に揃った千歌たち3姉妹は、じ、と翔一の表情を見つめる。母は昨日東京に戻った。向こうでの仕事がまだ多忙らしい。

 ここ何日かの様子を見ると、翔一はどうやら思い出した過去ばかりか、思い出していた期間の記憶すらも失ってしまったようだった。

 ラブライブ地区予選から帰ったとき、千歌たちの前に姿を見せた翔一はまるでいつもと同じように買い物に行ってきたかのような素振りだった。約1週間の記憶が抜け落ちても、毎日同じことの繰り返しな日常を送っていた彼はさほど違和感を覚えなかったようで、元々そういったことはあまり気にならない性分だから特に支障はなかった。

「本当に覚えてないの?」

 千歌は訊いた。

「翔一くん調理師学校に行ってたこととか、お姉さんのこととか、わたしに話してくれたじゃん」

「俺に、姉さんが………?」

 あまり馴染みのなさそうな響きで、翔一は呟く。

「うん、でもお姉さん亡くなったみたいなんだけど………。それで翔一くん何でお姉さんが亡くなったか調べたい、て」

 自殺とは言えなかった。そう教えてくれたのは目の前にいる当人なのだが、いくら記憶がなくても身内が自殺した、なんて事実でいたずらに翔一の不安を煽りたくない。

「それもこれも、全部忘れたわけ?」

 美渡の質問すら耳に入っていないようで、翔一は険しい表情のまま沈黙する。ここで頭を抱えたところですぐに記憶が戻ることはないだろう。この数日間も全く戻った様子がなかったのだから。

「そう」

 ため息交じりに志満が言うが、穏やかに笑っている。

「でも、これで希望が見えてきたじゃない。一時的でも、記憶を取り戻すことができたんだから。翔一君の記憶は永遠に失われたわけじゃない、てことよ」

 慰めになっていないのか、翔一の険しい表情は変わらない。元々、思い出すことにどこか消極的だった過去だ。思い出して再び忘れた、なんてことは当人にとっては問題じゃなかったのかもしれない。

「ねえ千歌ちゃん。ひとつ訊いていいかな?」

「何?」

「俺、どうだった? どんな奴だった?」

 その不安げな質問で、険しい表情の理由が分かり千歌は笑みを零す。

 翔一にとって重要なのは記憶が戻るかどうかじゃなくて、記憶が戻ることで自分が変わってしまうのでは、という恐怖だった。今の翔一の人柄が記憶を失った故のものなら、過去を取り戻すことで今の自分でなくなってしまうことを怖れていた。

 それはきっと、翔一が高海家で過ごす日々に幸福を感じているから。

「全然変わらなかったよ。翔一くんは、翔一くんのままだったよ」

 千歌の答えに、志満と美渡も笑顔で同意を示す。翔一の顔にようやく笑顔が広がった。

「そっか」

 

 流れに揉まれ続けたせいか、目覚めたときは上も下も分からなかった。息を吸おうと開けた口に塩辛い水が入り込み、そこでようやく自分が水中にいることを思い出す。

 水中に注がれる光を追うと、水面に太陽の輝きが揺らめいている。その光へと向かって水をかき、ようやく水中から顔を出すことができた。

 ようやく得ることのできた空気を思い切り吸う。肺に水が溜まっていたのか、咳き込んで水を吐き出した。ようやく酸欠の苦しみから解放され、呼吸を繰り返し確かな自身の生命を実感する。

「助かった………」

 か細く口ずさんだ言葉にどうしようもない虚しさを覚える。生きているからといって、どうするというのか。父の死を調べたところで何も得られず、それどころか異形故に命を狙われた。

 俺の人生は、一体何なんだ。何で俺がこんな目に遭うんだ。

 神という存在がいるとしたら、それはどこまでも自分のことが嫌いらしい。それでも、持たされた荷物は捨てることができない。この命と力は生涯付きまとってくるだろう。

 たとえ神から見放され、人から拒絶されたとしても生きていくしかない。生きる目的なんて無いけれど、今はまだ死にたくない。

 川から海に流されたが、まだ岸からはそう離れていない。凄まじい疲労に抗い、涼は波に逆らって泳ぎ始めた。

 

 

   3

 

 警察は国家の治安を守る機関。

 自衛隊は国家の独立を守る機関。

 対処する脅威が内側と外側という違いはあれど、その理念は市民防衛という部分で共通している。今年度に入って頻発しているアンノウンという脅威に際し、警視庁と防衛省が協力体制を組むのにそう時間はかからなかった。自衛隊としては花形装備であるG3――当時はまだG3が運用されていた頃だ――の技術を欲しがっている、というのが小沢の見立てだが、警察としても自衛隊の協力を得られるのは大きな収穫だ。世界的にも第1戦級の装備を保有している自衛隊の技術で、ユニットの装備を更に充実させることができるかもしれない。

 そういった思惑を含みながらも、協力体制の要であるG3ユニットには陸上自衛隊から深海理沙(ふかみりさ)一等陸尉が研修生として派遣された。とはいえ、彼女が派遣された頃のユニットは内部でのトラブルでほぼ活動停止状態にあって、誠も装着員から外されて捜査一課にいた。そのあたりの詳しい事情は、この物語の第6章を参照してもらいたい。

 当初、深海一等陸尉には3ヶ月間ユニット活動を共にしてもらう予定だった。だが先述の通り、活動ができないユニットにいても意義はないという本人からの進言により、彼女は研修開始から僅か1週間で八王子の駐屯地へ戻った。そういうわけで、誠は深海一等陸尉と直接対面したことがない。これまでこの文面で彼女のことが触れられなかったのは、1週間の中で彼女について特筆すべきことが何もなかったから。強いて挙げるなら、深海一等陸尉に一目惚れした尾室が酷く落ち込んでいたということだけ。

 でも彼女の「研修」は、少しばかり遅れてから実を結ぶことになる。G3ユニット、特に小沢にとっては最悪な形で。

 

 後の急展開など予想できる能力なんて持っていない誠は、その日はいつも通り事件の捜査をしていた。まだアンノウンらしき生命体の目撃情報はないが、捜査本部内では不可能犯罪という見方へと既に傾いていた。

 今回の事件もまたかつてない奇妙さだ。既に全国各地で12人もの被害者を出しているが、その全てが水のない場所で謎の溺死を遂げている。似たようなケースが以前にもあったのだが、今回の特異な点は被害者たちに血縁関係がないことだ。アンノウンが無差別に殺人を起こすことも以前あった。そうなると警察としては次に狙われる人物の予想ができず完全にお手上げになってしまうのだが、今回の場合は少しばかり事情が異なる。

 血縁関係はなくても、被害者たちには共通点があった。

「ESPクイズ? 何ですかそれは?」

 誘われた休憩スペースで缶コーヒーを飲みながら、誠はその話題を持ち出してきた河野に尋ねる。河野はブラックの缶コーヒーをひと口啜り、

「いわゆる迷惑メール、てやつだ。被害者たち全員のスマホや携帯に、そのクイズのメール着信があった」

 携帯電話とインターネットが普及した現代で、迷惑メール――正確にはスパムメール――は珍しくもない。誠のスマートフォンにも定期的に登録した覚えのないウェブサイトから広告メールが送られてくる。電話番号やメールアドレスといった個人情報はどこからともなく流出し、違法に取引され詐欺を生業とする集団の「顧客」として狙われる。多くのケースとして何らかのキャンペーンに当選した、法的なトラブルに見舞われた、と相手の興奮や不安を誘発させ指定した銀行口座に金銭を振り込ませる。口座から捜査の足がつかないように、と現金を手渡しで受け取るケースもある。主に被害に遭うのがインターネットの知識に乏しい高齢者世代で、電話でのオレオレ詐欺がインターネットへと畑を移し変異したようなものだ。

 とはいえ全ての迷惑メールが本当に迷惑というわけでもなく、中には企業が新規の顧客獲得のために大量にばら撒くように配信するものもある。とはいえ流出した個人情報を扱っているのだから違法なことに変わりはないのだが。

「被害者の全員がそのメールを開いて、クイズに全問正解している」

 「これ見てみろ」と河野から手渡されたファイルを開くと、中には印刷された端末のスクリーンショットが綴じられている。問題の内容は、複数の選択肢から正解を選ぶという至ってシンプルなもの。ただしヒントはなく、同じ内容の問題が5問連続。完全に直感で解くものだ。果たしてクイズと言えるのかすら怪しい。だが被害者たちは全員、この直感で答えるクイズに全問正解している。その事実が誠をある結論へと至らせた。

「つまり、被害者たちはこのクイズで無意識に超能力を発揮しアンノウンを引き寄せていた、と?」

「まあ偶然かもしれんがな。大体、そのメールをばら撒いた奴がアンノウンと何の関係があるのか分からん」

 アンノウンがメールを使って超能力者を探している。何とも想像しがたい光景だ。

「メールの配信元は?」

「海外のサーバーをいくつも経由してるから特定はできないだろうな。リンクが貼られたクイズのサイトも閉鎖されてるらしい」

 この手の犯行の常套手段だ。インターネットという無限にも等しい場所で起こるサイバー犯罪は、ある意味で現実世界で起こる犯罪よりも捜査が困難になる。コンピュータの発達による技術の高度化や複雑化によって法整備も追いつかず、いたちごっこになっているのが現状だ。対策としては、市民に怪しいメールは開かないように、と呼びかけるしかない。

「ありがとうございました」

 河野にファイルを返すと、誠は缶に残ったコーヒーを飲み干してベンチから立ち上がる。

「ん、何か分かったのか?」

「いえ、そういうわけではないんですが………。ちょっと出てきます」

 それだけ言って誠は休憩スペースを離れる。犯人の心当たりはないが、被害者になってしまいそうな人物に心当たりがある。

 

 



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第2話

 

   1

 

「Smash!」

 ネイティブな発音で告げられる掛け声と共に、鞠莉のラケットで打たれたボールがコートに引かれたラインを掠める。寸でのところまで迫っていたにも関わらず逃してしまった果南は「ああ」と空を仰ぐ。この日も快晴で、猛暑は過ぎたもののまだ暑い。

「ゲームセットですわ」

 と審判席についていたダイヤが告げ、鞠莉は「Yeah!」とガッツポーズする。

 そのゲームをコートの隅にあるベンチで見守っていたメンバー達の中から善子が呆れ気味に、

「ねえ、こんな事してる場合?」

 同意を示すように、皆揃って苦笑する。

 時間を少し遡ること、この日の朝。東海地区予選の結果を間近に控え、通過を前提として決勝大会に向けて練習ということで集合したのだが、結果待ちというのはどうしても落ち着かず練習に身が入らない。その雰囲気を察してか自身が我慢ならなかったのか、

「テニスしましょ!」

 という鞠莉の唐突な提案で現在に至る。テニス部の練習がないのを良いことに理事長権限で部室から備品のラケットとボールを拝借し、練習でなくテニスで汗を流すということに。

 まあ、ずっと練習漬けだったし息抜きもいいかな、と千歌は思った。予選通過の通知を待って、それで気を引き締めてまた練習に励めばいい。

「はい千歌」

 とベンチに来た果南がラケットを差し出す。

「千歌の番だよ」

 「うん」とラケットを受け取る。「千歌ちゃんがんば!」「頑張ってね」と曜と梨子が激励を投げてくれる。あまり握り慣れていないラケットを軽く素振りし、コートへと入る。対戦相手は既にコート入りしていた。

「いいよ千歌ちゃん! 準備オッケー!」

 と乗り気でいる翔一に、千歌は溜め息の混ざった苦笑を零す。何故翔一がいるのかというと、千歌の忘れた昼食の弁当を届けに来てくれたところ、このテニスに参加することになった。

 それは別に構わないのだが、翔一の手に構えているものがどう見てもこのテニスコートには場違いなもので。

「翔一くん、それフライパンだよね?」

 そう、翔一の構えているのはラケットじゃなくフライパンだ。因みに家庭科室から借りてきた。

「何でフライパンなの?」

「持ち慣れた物のほうがいいかな、て」

 そう言いながら翔一はフライパンを素振りする。いくらラケットと形が似ているからといって勝負になるのだろうか。翔一にテニスの経験があるとも聞いていないし、そもそも本人が覚えていない。

 千歌だけでなく他の面々、鞠莉ですら呆れている顔なんてものともせず、翔一はフライパンを構えた。

 

 丘に建つ浦の星女学院の門を潜り、誠はテニスコートへと向かった。何でスクールアイドル部なのにテニスコートにいるんだろう、という疑問を抱きながら。

 事務員の言った通り、スクールアイドル部の面々は金網で囲まれたコートでテニスに興じていた。これがアイドルの練習なのだろうか。そんなことを思いながら、誠は隅のベンチへと呼びかける。

「桜内さん」

 誠に気付いた面々が振り返る。「氷川さん」と梨子を始めとして皆は戸惑いながらも会釈してくれる。コートにいた千歌もプレーを中断してこちらへ駆け寄ってくる。

「すみません。お宅にお邪魔したんですが、こちらだと窺ったもので」

 まだ夏休みで、見たところ他の生徒たちも登校していないのに熱心だ。梨子の母によると、大会で地区大会まで進んだとか。

「それにしても、どうしてアイドルの練習がテニスなんです?」

 ささやかな質問に、梨子は「ああ、それは……」と気まずそうに苦笑を漏らす。他の皆も細めた目を金髪の少女へと向ける。一斉に視線を受けた少女はちろ、と舌を出した。確か小原鞠莉といったか。淡島のホテルを経営している一家の娘らしい。何でも浦の星女学院の理事長だとかいう出鱈目(でたらめ)な噂話も聞いたが。

「あれ、氷川さん。どうしたんですこんな所で」

 質問の答えが返ってくる前に、翔一が歩いてきた。それはこっちの台詞だ、と返したいところだが、それ以上に翔一の手に持っている物のほうに気が向いてしまう。

「それは何です?」

「やだなあ氷川さん。フライパンも知らないんですか? 主に食べ物を炒めるときに使う調理道具ですよ」

「そんなことは分かっています。何故ここでフライパンなのかと訊いているんです」

「それは――」

 と説明しようとする翔一の前に千歌が割って入り、

「氷川さん、相手にしなくていいです」

 千歌の言う通りだ。翔一に付き合うと話が大幅に逸れる。

「すみませんが、桜内さんを少し貸してもらえますか?」

 「ええ、わたしは大丈夫です――」と梨子がベンチから立ち上がろうとしたところで、

「ちょっと待ってくださいよ。もしかしてアンノウンとかですか?」

 翔一が割って入ってくる。

「まあ、無関係というわけではないですが………」

「駄目ですよ。どんな危険な目に遭うか分からないじゃないですか」

 初めて翔一の年長者らしい面を見た気がする。感心していても、捜査情報をあまり出すわけにいかないからどう説明したものか。大抵は説明不足に相手の気分を害すものなのだが、このAqoursの面々はそれをおくびにも出さない。

「良いんじゃない? 氷川さんが付いてくれるわけだし」

 果南が助け舟を出してくれる。以前に護衛した恩義のつもりだろうか。同じくアンノウンから保護したことのあるルビィと花丸も強く頷いている。曜に至っては「刑事さんだもん」と敬礼している。でも翔一は納得していないようで、

「どうかなあ。氷川さん頼りないしなあ不器用だし。テニスなんてできないでしょ?」

「テニスなら、多少は」

「多少?」

「インターハイで準優勝したことがあります」

 誠の経歴で数少ない自慢事だ。誠本人よりも母のほうが喜んでくれて、実家の居間にトロフィーと賞状を飾ってくれた。何気なく告げた経歴に、Aqoursの面々は「すごーい!」と声を揃えて羨望の眼差しを向けてくる。あまりひけらかすのは趣味じゃないが、こういった反応は満更でもない。話を振ってきた翔一は面白くないのか険しい顔をしていて、ようやくこの青年に1杯食わせることができた誠は得意げな笑みを見せる。

「じゃあ氷川さん、俺とひと試合お願いします」

「では僕が勝ったら、桜内さんを貸してもらえますか」

「ええ良いですよ。いくらでも貸してあげます!」

 大人ふたりのやり取りに鞠莉が興奮に満ちた声をあげる。

「Oh! 梨子の奪い合いね」

 決してそういう意味ではないのだが、当の梨子は困惑しながらも頬を朱くして満更でもなさそうだ。そんな複雑な胸中に気付くことなく、誠は背広を脱いで千歌から借りたラケットとボールを手にコートへ入る。

 ラケットを握るのは高校を卒業して以来だが、グリップの感触は案外覚えているものだ。相手サイドに翔一が立ち「お願いします!」とフライパンを掲げている。

「まさか君のラケットは」

「はい、これですが」

 と手元でフライパンを回す翔一をつい笑ってしまう。考えてみたらこんな勝負、する必要がそもそも無いじゃないか。

「やめときましょう。無駄なことです」

 馬鹿馬鹿しい。早く梨子から話を聞いて署へ戻ろう、と溜め息をつきながらコートを離れようとする。

「あれ、逃げるんですか氷川さん? 男らしくないなあ」

 安い挑発だ。でもそれが誠の闘志に火を点けてしまう。ラインの縁に戻り、ボールを地面にバウンドさせる。懐かしい感覚だ。ブランクがあるとはいえ、素人相手に負けるはずがない。しかも向こうの道具はフライパン。舐めているにも程がある。

 ボールを頭上へと投げ、打点を見切り誠はラケットを振りサービスショットを炸裂させる。高校時代のフォームは骨身に染みついていたようで、ボールは翔一側のサービスライン際でバウンドする。

 勝った、と確信した矢先、翔一はボールの軌道を先回りしフライパンでボールを打ち返した。かん、というどこか間の抜けた音と共に、でも鋭い打球が中央に張られたネットを越えて誠のほうへ迫ってくる。慌てて打ち返したボールは翔一側のラインを掠め、追いつけなかった翔一の前を過ぎ金網にぶつかる。

 まずは先制。ふう、と深呼吸しながら誠は額に浮いた汗をシャツの袖で拭う。素人でフライパンだからと油断していた。あれでも翔一は改良前のG3-Xを使いこなしてみせた逸材。ポテンシャルは高い方だろう。

 相手の陣地に転がっていたボールが誠へと寄越される。ルール上、次のサービス権も誠にあるわけだが、このまま実力差を見せつけたまま圧勝というのも大人げない。少しは手加減してもいいだろう。誠はボールを翔一へと投げる。

「君のサーブでお願いします」

「良いんですか? 素人だからって甘く見てません?」

「それが嫌なら、フライパンではなく普通のラケットを使ってください」

 む、と翔一は唇を結びながらフライパンを睨む。そんなにこだわることだろうか。だが結局は折れたようで、翔一はベンチへ駆けて鞠莉が持っていたラケットを受け取り戻ってくる。

「行きます!」

 翔一は頭上へボールを投げる。初心者でファーストサーブとは大胆な。翔一のショットは力強いが、だが力みすぎている。軌道の角度がつかず、ボールはサービスラインを越えるだろう。このまま何もしなくてもフォルト(枠越え)で自滅だ。

 構えを解いた誠の視界が、顔面の衝撃と共に突如暗転する。重心を崩し仰向けに倒れた誠の近くでぽん、と軽い音を立ててボールが転がった。

 後から聞いた話によると、ボールは見事に誠の鼻筋に直撃していたらしい。

 

 

   2

 

 練習の邪魔をしてしまったお詫びということで、誠は千歌たちを沼津港前のラーメン屋に連れて行ってくれた。別に練習じゃなくて遊んでいただけなのだが、そこはせっかくの厚意として甘えることに。

「遠慮せず、皆さん好きなものを頼んでください」

 誠が愛想よく言うと、皆で「ありがとうございます」と元気よく応える。それぞれ思い思いに食べるものを決めて注文してしばらく、まとめて運ばれてきた料理の中に店の一押しメニュー「富士山デカ盛りラーメン」と「富士山デカ盛り冷やし中華」があって、その2品は誠の前に置かれる。

 談笑の声が止み、皆の視線が誠に集中する。気付いていないのか、誠は割り箸を割ると無言で手を合わせて冷やし中華の山頂にあるもやしを食べると、顔を出した麺を啜る。その次には湯気を立ち昇らせるデカ盛りラーメンの麺を啜り、また冷やし中華へ。冷たい麺と熱い麺と両極端な品を交互に食べ進め、両方とも半分ほど減ったところで味に飽きがきたのか冷やし中華には酢を、ラーメンには胡椒を大量にかけて食べ進める。細身な体躯に不相応な豪快な食事を前にして、千歌をはじめAqoursの面々と翔一は自分の料理に手をつけず見ていることしかできない。

「未来ずら………」

 そんな花丸の声も耳に入っていないようで、酢の酸味と胡椒の辛味にむせながらも誠は無言のまま食べ続け、食べ盛りな運動部員も真っ青なメニューを遂に完食。ラーメンはスープまで飲み干した。

「わざとやりましたね」

 食事中、ただひたすら咀嚼することに専念していた誠の口からようやくそのひと言が放たれる。

「見損ないましたよ。僕に勝てないからって、あんな形で潰しにかかるとは」

「違いますよ」

 翔一は一応否定したものの、続きの言葉を探しあぐねているようでしばし視線を右往左往させ、しまいには自分のラーメンを啜る。千歌もようやく冷やし中華に手を付け始めた。因みに千歌の冷やし中華は並盛。

「それより、氷川さんはわたしに何の用で来たんですか?」

 と梨子が言う。ああ、と口を半開きにしたところ、誠自身もすっかり忘れてしまっていたらしい。

「実は桜内さんと、あと皆さんにも訊きたいことが。ESPクイズというメールをご存じですか?」

 「ESPクイズ?」と千歌と翔一は声を揃える。「ええ」と誠は応じ、

「そのクイズに全問正解した人たちが、アンノウンに殺されている可能性があります。なので、皆さんのもとにメールが来ても絶対に回答しないように、と」

 誠の話を聞きながら、千歌はちらり、と食事しながら談笑する別のテーブルを一瞥する。

「ねえ、もしかしてそれって――」

 と千歌が指さした先で、1年生たちがスマートフォンの画面を見ながらはしゃいでいる。注文した料理を待っている間、善子のスマートフォンに何やら妙なメールが届いたらしい。

「また正解!」

 ルビィの感嘆に善子は得意げに笑い、

「堕天使ヨハネの力があれば造作もないこと」

「偶然じゃないずら?」

 「偶然で4問連続で当たらないでしょ」と花丸に噛みつく善子は端末を操作する。

「あ、次で最終問題みたいね」

「テレパシーで本物の王様を当ててね、だって」

 ルビィの読み上げた問題文を聞いて、誠の顔が青ざめる。「駄目です!」と善子へ手を伸ばそうとしたとき、がた、と店内の賑わいにも負けない大きな音を立てて翔一が椅子から立つ。クイズに夢中だった1年生たちも、それをやめさせようとした誠も、その他のメンバー達の視線が翔一へ集中する。

「翔一くん?」

 千歌の見上げた翔一の表情は何も浮かんでいない。この顔は何度も見ているから、これから何が起ころうとしているのか、千歌は悟った。

「みんな逃げて!」

 その言葉の意図が分からずいる皆は、ただ困惑に満ちた眼差しを翔一へ向けている。

「早く! ここにいたら危ない!」

 唯一、彼の様子を理解している千歌も「行こう! 逃げないと」と皆を店の外へ促す。まだ戸惑いながらも、ひとりまたひとりと席を立って店を出て行く。

「津上さん、どうしたんです?」

 と誠も追おうとするが、それは店員の「ちょっと、お金!」と制止させられる。そんな誠を一瞥することなく、翔一は「こっち!」とメンバー全員を率いるように港を駆けた。

 埠頭まで走ったところで、ようやく足を止めた翔一は周囲を睨む。

「ちょっと、一体何なのよ」

 息をあえがせながら善子が文句を飛ばした。隣で花丸が「苦しいずら……」と腹を手で押さえている。胃に何か入れた直後に走らされたせいで気持ち悪い。

「津上さん?」

 ダイヤが翔一へ歩み寄ろうとしたとき、不意に翔一のほうからダイヤへ覆い被さるように迫ってきた。驚くのも束の間、間髪入れず次の衝撃が襲ってくる。ダイヤに覆い被さろうとする翔一の背中に、黒い異形が圧し掛かっている。まるでアリのような触覚を持つ怪物を後ろ手に組み付きながら、翔一はダイヤからじりじりと離れる。

「逃げて皆!」

 腰を抜かすダイヤの肩を鞠莉が抱いて立ち上がらせる。メンバー全員で固まって駆け出したところで、果南が言った。

「ねえ、翔一さんは?」

 「大丈夫!」と千歌は即答する。「大丈夫、て……」と困惑した果南は足を止めて振り返る。釣られて他の皆も揃って翔一へ視線を戻すと、彼は背にいるアンノウンに裏拳を見舞い引き剥がしていた。

 その腰に光が渦巻いて、ベルトが出現する。

「変身!」

 裡から沸き出す奔流のような光を解き放ち、翔一はアギトに変身した。その姿を始めて見る3年生たちは目を剥いてその場に立ち尽くしている。

 翔一はアンノウンに反撃の余地も与えず拳を見舞っていく。信じていた勝利が千歌のなかで確信に変わった矢先、背後から同じアリのようなアンノウンが翔一に組み付いてきた。続けて3体目が加勢してくる。それでも翔一は臆することなく3体を相手取っていたのだが、敵はどこからか沸いて出て埠頭を覆い尽くそうとしている。まるでアリが大群を率いて獲物を食い殺そうとしているみたいだ。

 際限なく増え続ける敵を前にして、翔一は逃げる素振りを微塵も見せない。黄金の鎧を赤く染め上げて、ベルトのバックルから刀を抜き近付いてきた1体に一閃する。一瞬、翔一の赤い両眼が千歌たちのほうへ向けられた。

 ――逃げて――

 違う姿になっても、その顔は無言で告げていると理解できる。千歌たちとは逆方向へ駆け出す翔一を、アンノウン達が追っていく。

「今は逃げよう!」

 千歌は強く言う。いくら混乱していても、現時点での最優先を判断できる面々は頷き踵を返すのだが、

「あれ?」

 ルビィが周囲を見渡しながら、悲痛な声をあげた。

「花丸ちゃんがいない!」

 

 沼津港埠頭にて大量のアンノウン出現。現在アギトが交戦中。

 Gトレーラーで小沢から聞いた通り、現場はアンノウンに満ちている。それはまだ記憶に新しい、愛鷹山の自衛隊基地で撃破した個体とよく似ている。

《認定 前オペレーション時の個体と類似》

 AIも演算処理の結果としてその判断を下す。

《推奨 GM-01による牽制》

 ディスプレイに浮かぶAIの指示に従い、誠はガードチェイサーのハッチから取り出したGM-01を手にする。ディスプレイに次々と照準ポインタが浮かんだ。誠はただ銃を構え、トリガーを引くだけでシステムに補正されたスーツが照準を修正し精密に目標を撃ち抜いていく。

 AIの判断通り、このアンノウン達はそれほど強固な肉体ではないらしい。いつもは牽制にしかならないGM-01の弾丸で、次々と光輪を浮かべ爆散していく。その爆炎から抜け出すように、まだ生き残っているアンノウン達が誠を敵と断定したのか向かってきた。

 ちらり、と10時の方向に目をやる。そこでも爆炎が立て続けにあがっていた。その中心に、刀を振るう赤い鎧の戦士が見える。

《認定 アギト》

 いくらアギトでも、これだけの数を相手取るのは手こずるらしい。誠のほうでも近接戦で対処は可能だが、問題は数だ。いくら撃破しても次々と沸いてくる。近くにこのアリ達の巣穴でもあるのか。

 零距離で発砲しようとしたGM-01を叩き落とされる。咄嗟にガードアクセラーを抜き応戦するが、こんな警棒では不十分だ。AIもそれを承知らしい。

《推奨 一時離脱しGX-05を使用》

 指示するのは簡単だが、無尽蔵に取り囲まれた状態でガードチェイサーまで走り武器を回収するのは至難だ。それにGX-05ならこれだけのアンノウンも一掃できるかもしれないが、AIは増援を視野に入れていない。弾倉だって限りがあるというのに。

 ばりばり、という空気を裂くような音が、アンノウン達の呻きに割り込むように聞こえてくる。取りついた1体を振り払い、誠は空を仰いだ。ヘリだ。どこかの報道局の機と思ったが、それはモスグリーンに塗装された機体によって否定される。機尾にペイントされた赤い丸は日の丸を表す。だとしたら自衛隊の機か。

 ヘリは空を旋回しながら高度を落とし、埠頭上空で機体を安定させる。そのハッチから、ひとりの人影が降りてきた。落下傘兵にしては高度が低すぎる。パラシュートを開く間もない。だが人影はパラシュートなんて開くことなく、重力に任せたまま埠頭に降り立った。

 落下時の凄まじい衝撃で、コンクリートの地面が足の型を取るように穿たれる。にも関わらず、降り立った足に纏う装甲は衝撃を全て吸収したらしく、それは膝を折ることなく悠然と立っていた。その姿を認め、誠は唖然と声を絞り出す。

「黒い……G3?」

 そのシルエットは、紛れもなくGシリーズと同系列のものだった。G3-Xとの違いといえば、黒い装甲と青いセンサーアイしかないほどに。胸部装甲に施されたエンブレムは警視庁じゃない。日の丸を護るように交差させた軍刀と鞘は、自衛隊のエンブレムだ。

『そんな……、まさか………』

 モニターしている小沢の声が漏れている。どういうことだ。Gシリーズの開発者である小沢の知らないシステムとは。

 突如として現れた敵を、アンノウンは取り囲んでいく。黒いG3はそれらを青い目で見回し、交戦に入る。まず1体、最初に接近してきたアンノウンの頭が鋼鉄の拳で砕かれた。赤い血と脳漿を撒き散らし、地面に伏すと同時に爆散する。仲間の死に怒ったのか、他のアンノウン達が次々と襲い掛かった。黒いG3に一気に3体ものアンノウンが組み付くが、まず背中の個体が力づくで振り払われる。続けて両腕に抱えた2体を組み伏せ、その頭を鷲掴みにして地面に打ち付け叩き割る。間髪入れず向かってきた1体の腹に拳を埋めるのだが、埋まった拳はアンノウンの体を貫き背中から飛び出した。まだ向かってくるもう1体は、足を引っかけられ無様に転んだところで頭を踏み潰される。思い出したように、最初に振り払った個体は海へと蹴飛ばされ数舜後に間欠泉のような飛沫をあげた。

 ものの数十秒足らずで、黒いG3は自身を取り囲むアンノウンを撃破してみせた。G3-XのAIはデータベースに検索をかける。

所属不明(unknown)

 だとしたら、あの黒いG3は警視庁が認知していないシステムだ。

 アンノウンはまだ大量にいる。周囲のアンノウンを蹴散らした黒いG3は残りのもとへ向かうことなく、そこで佇んだままでいる。その上空についたヘリから物資が投げ込まれた。G3-Xと同じくAIの補正があるのか、黒いG3は見事にその身の丈ほどある物資を掴み取る。物資は携行型のミサイルランチャーだ。4本の砲塔が装填された発射装置からコードが引っ張り出され、G3-Xと同じベルト型バッテリージェネレーターの側部コネクターに接続される。

 肩に担がれた砲塔の2問が、推進剤を吹かして発射された。アンノウンの群れに直撃すると同時に炸裂した弾薬が爆炎をあげ、埠頭に粉塵を撒き散らす。アンノウンの断末魔なのか、爆発が連鎖した。

 煙が海風に吹かれると、そこには何もいない。ミサイルによって捲り上がったコンクリートの瓦礫が散乱しているだけだった。

 誠はセンサーを索敵モードに切り替え周囲を見渡す。AIが判断を下した。

《アンノウン殲滅》

 向こうのAIも同じ判断なのか、黒いG3は両の側頭部に手をかける。マスクの着脱まで同じらしい。後頭部のカバーが開いたらしく、顔からマスクが外される。

 青い目に隠された顔は壮年の男だった。唇は固く結ばれ、仮面に覆われていた本来の目が誠を見つめる。その底なしに冷たい瞳は、まるでG3-Xの装甲なんてものともせず誠を射貫く。

 男の後方で着地したヘリから女性自衛官が降りてくる。随分と若い。

「あなた………」

 気付けば、小沢が誠の隣に立っていた。すぐ後ろにはGトレーラーが停まっている。

 小沢の姿を認めた女性自衛官がふ、と微笑を零す。その隣に立つ装着員の男は、戦いの緊迫を固めた表情を崩さないままだった。

 






h:hirotani 友:友人(梨子ちゃん推し)

h「テニスの件っているかな」
友「いるでしょ。あとラーメンと冷やし中華の同時食い」
h「だよねー」


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第3話

 

   1

 

 アリのような姿をした人型の生命体が拳を突き出してくる。それを容易く受け止めた涼の右腕が、緑色に変化を遂げる。しばしの休養を経たおかげか、戦う体力は取り戻せたらしい。

「変身!」

 闘志を滾らせると共に、全身が変わった。増強された筋力で敵の腹に拳を突く。歯が不揃いに生えた口から唾液が飛んでくるが、そんなものは気にも留めず右脚で下顎を蹴り上げる。

 宙を跳んだ敵の体はそのまま重力に従って地面に伏すはずだが、上へと跳んだまま姿が消える。どこだ、と周囲を見渡していると、不意に頭上から何かが圧し掛かってくるような衝撃で涼の体が倒れる。圧し掛かってきたのは敵だった。まさか蹴られた際に天井に張り付いていたのか。そんな虫みたいな芸当を。突き出そうとした拳が阻まれる。だがそれで涼に攻撃手段が奪われたわけじゃない。

 手首に何かが蠢くような不快さを覚えてすぐ、触手が皮膚を突き破って伸び敵の首に巻き付く。狼狽えた敵を蹴りで突き放し、更に顔面に拳を打ち付ける。触手を引き千切った涼の踵から尖刀が伸びた。跳躍し、ヒールクロウを敵の肩に叩き込む。致命傷を与えられた敵は頭上に光輪を掲げながら呻き声をあげるも、自ら発した爆発でかき消された。

 闘志の波が引いていくと共に、体が元の姿に戻る。手強い相手ではなかったが、疲労感は凄まじいものでその場で膝をつく。まだ本調子ではないらしい。もっとも、この体になってから体調が万全だったことなど無いが。

 辺りに人はいない。敵に追いかけ回されていた少女は無事に逃げ延びたらしい。涼は重い脚で立ち上がる。騒ぎを聞きつけた警察の厄介になるのは面倒だし、家でゆっくり休みたい。あの悪夢のような逃走劇が終わったとも限らない。どこでまたあの男に襲われるのかも分からないのだから。

 バイクを停めた路肩までそう距離はないのだが、少し歩くだけで息が粗くなる。思えばこのバイクも不思議なものだ。海に流れ着いた涼が岸まで泳ぐと、まるでこのXR250は涼の場所を知っていたかのように岸に鎮座していた。このマシンに乗りながら変身すると、マシンもまた変化を遂げる。涼に生じた変化が機械にまで伝播したのだろうか。

 一見すれば既に生産が終了した今やひと昔前のバイクに近付くと、その陰からまだ幼さのある顔が飛び出してくる。

「ずら⁉」

 その先ほど怪物に追われていた少女は涼の顔を見て、奇妙な声をあげた。

 

 一難去ってまた一難。

 青年と視線を交わした花丸の脳裏に、そんな言葉が浮かぶ。港でアンノウンから逃げているうちに皆とはぐれ、路肩に停めてあったバイクに身を隠していたらまさか持ち主と鉢合わせるなんて。アンノウンに襲われました、なんて正直に言って信じてくれるだろうか。何か上手い言い方はないか、と言葉を探しあぐねていると、

「危ないぞ」

 そう無愛想に吐き捨てながら、青年は花丸を押し退けるようにバイクのシートに跨る。鍵を挿してヘルメットを被るとハンドルのスイッチを押したが、エンジンは空回りする音を立てるばかりで一向に駆動する気配がない。青年は何度もスイッチを押すのだが、音は次第に勢いをなくし遂には完全に沈黙する。

 はあ、と溜め息をつきながら青年は無造作にヘルメットを脱ぐと、シートを車体から外す。何をしているのか花丸は好奇心のまま傍で見ていると、青年はシートの下から無骨なハンドバッグを取り出した。地面に広げると、それが工具袋だと分かる。

「壊れちゃったんですか?」

 恐る恐る聞いてみると、青年はまだいたのか、と言わんばかりの訝し気な視線で花丸を一瞥し、

「プラグが駄目になっただけだろ。応急処置すればまだ走れる」

 そう言いながら青年は慣れた手つきでバイクの無数に伸びたコードの1本を抜いて、そこから細長い筒状の部品を工具で抜く。これがプラグ、というものなのだろうか。

「未来ずら………!」

 煤で黒くなったプラグをブラシで磨いている様子を見て、花丸は感嘆の声をあげた。また青年に訝し気な視線を向けられたことで無意識に出た口癖に気付き、咄嗟に口を手で覆う。何度も直そうとした方言はなかなか改善の予兆が見えない。皆はそのままで良い、と言ってくれるが、やはり地方民のようで花丸自身としては恥ずかしい。

「バイク、好きなのか?」

 唐突に告げられたその問いに、花丸は咄嗟に頷いてしまう。正直、バイクにはあまり興味がないのだが、先ほどまで険しかった青年の声と表情が幾分か柔らかくなったことに驚いての反応だった。ほんの微かに、青年の頬が緩んだ気がした。

「珍しいな」

 応急処置の効果は残念ながらなかったようで、煤を落としたプラグを戻しても結局エンジンは掛からなかった。諦めた青年は手でバイクを押していくことになり、花丸も車体の後部に手をかける。翔一のものと比べたらひと回りほど細身なのに、バイクはとても重かった。青年によると140キロもあるらしい。

 まだセミの鳴き声が残る晴天の下でバイクを押しているうちに、花丸の着ている制服が汗で濡れていく。青年のシャツも汗で背中に張り付いていた。

「もういいぞ。バイク屋まで結構ある」

 疲れた様子で言う青年に、花丸も絶え絶えな息で応える。

「いえおらも――、マルも一緒に行きます………」

 ようやく辿り着いた小さな整備工場では、研削機械が金属を削る甲高い音が火花と共に散っている。その音に負けじと、青年は「おやっさん!」と声を張り上げる。車の下から汚れた作業着姿の中年男性が出てきて、涼を見ると「おう」と朗らかに笑った。

 おやっさんと呼ばれた整備士は青年のバイクを見て、

「相変わらず荒っぽい乗り方してるな。ちょっと待ってろ、すぐ直す」

「よろしく」

 青年は店先の自販機で花丸に冷たいお茶を買ってくれた。自分の分のコーラも買って、ベンチに座るとすぐにプルトップを開けて缶を煽る。花丸も腰を落ち着かせて水分補給する。随分と汗をかいたからか、お茶がとても美味しく感じられた。

「家どこだ? バイク直ったら送ってく」

「ありがとうございます」

 礼を言いながら、花丸は皆のことを想う。皆は無事でいるだろうか。連絡しようにもスマートフォンを持っていないし、店の電話を借りても電話番号を覚えていない。

 それに戻れば、またいつもの日常が始まる。ラブライブ優勝を目指し、そしてアンノウンに怯える日々に。

「戻りたくない、て顔だな」

 顔に出ていたのか、青年がそう言ってくる。

「いえ、ちょっと考えちゃって」

「何を?」

 花丸は薄い雲が浮かぶ空を見上げながら想像してみる。いつか読んだ小説にあったマコンドの街のように、自分で居場所を創り出せたら。そこは蜃気楼のように朧気でほんの些細なことで砂城のように崩れてしまうけど、何の怯えもない理想郷。そこなら全てを最初からやり直すことができる。そこにいるうちに、幻が本物になって、本物だった過去も幻に変わるかもしれない。

「どこかずっと遠くに行ったら、もしかしたら今が嘘になるかな、て」

 我ながら抽象的すぎたと思い、花丸は笑ってはぐらかそうとする。訳が分からない、と一蹴されるかと思ったのだが、青年は顔を俯かせたまま黙り込む。変なことを言ってしまっただろうか。青年の裡に刺さるようなことを。

「おーい!」

 そこに、工場の奥から整備士の声が飛んでくる。

「ちょっと手貸してくれ!」

 コーラを一気に飲み干し青年は立ち上がる。だがすぐには行かず、花丸に告げた。

「どこへ行ったって同じだ。今は嘘になんかならない」

 

 

   2

 

 沼津から約3時間の移動は、緊張に満ちてとてもGトレーラーのカーゴでくつろげる余裕はなかった。八王子駐屯地から臨める高尾山は登山客で賑わっているだろうが、陸上自衛隊基地はそんな行楽とはかけ離れた無骨さに満ちている。

 沼津港でのオペレーションの直後、誠たちG3ユニットは駐屯地に案内された。迷彩の野戦服に身を包んだ自衛官の後について、誠は小沢と共に施設内へ通される。エントランスでこちらを待っていた先ほどの女性自衛官の姿を見た瞬間、小沢は歩調を早めて彼女のもとへ行く。

「研修生が聞いて呆れるわ!」

 研修生。ということは彼女が深海理沙(ふかみりさ)か。誠がユニットを離れている間に派遣され、僅か1週間で去ったという。

「あなた私のPCから盗んだわね。G4システムの設計図を!」

 小沢の怒気をはらんだ口調にこれまでにない気迫を感じ取り、誠は制止させることができない。一方の深海は余裕な佇まいを崩さず、

「盗む? 人聞きが悪いですね。埋もれていた宝を世に出しただけですよ私は」

「あなたあれが、G4システムがどういうものか分かってるの?」

「天才小沢澄子が設計した最高傑作」

 そう言って深海は小沢の肩に手を添えるも、小沢は乱暴に振りほどく。それよりも誠が気になっていたのは「G4」というシステムだ。G3の後継機は既に設計段階で存在していたというのか。小沢の剣幕から、G3の後に正当な後継機として採用されなかった理由がありそうだが。

「素晴らしいシステムです」

「違うわ!」

 小沢の怒鳴り声がエントランスホールに反響する。続けて小沢は激しく、一方で深海は穏やかにまくし立てる。

「あれは存在してはならないシステムよ。あなたにも分かってるはずだわ」

「あなたはG3システムと同時に既にG4システムを完成させていた」

「違う! 完成なんて――」

「そしてテスト段階での些細な事故のせいで同システムを破棄した」

「些細な事故? G4の装着員に会わせなさい!」

「しかし偉大な成果の前には犠牲も付き物ですよ小沢管理官」

「あれを装着してただで済むはずがないわ!」

 いよいよ小沢が殴りかかりそうになったので、護衛役の自衛官が銃を携えて無言の圧力をかける。流石に小沢も頭が冷えたようで、唇を結ぶ。

 対象的だがこのふたりは似ている、と誠は思った。特に自分の主事主張を決して曲げず、相手の主義主張を決して認めないところが。

「心配は無用です。こちらへどうぞ」

 深海はそう言い、小沢とは違って控え目で淑やかな靴音を立て歩き出す。その後を小沢はつかつか、と盛大な靴音で付いていき誠も追おうと足を踏み出すのだが、

「氷川主任、申し訳ありませんがお待ちいただけますか? 技術者同士、深い意見交換を行いたいので」

 その言葉に誠本人よりも小沢のほうが肩を怒らせるのだが、すぐ溜め息交じりに告げる。

「すぐ戻るわ」

 エントランスの奥へと消えていくふたりを見送り、手持ち無沙汰になった誠はどこで腰を落ち着かせようか周囲を見渡す。そこかしこにいるのは野戦服かダークグレーの制服を着た、いかにも戦いに身を置く者たちの醸し出す泥臭い圧を感じる。日本に自衛隊が創設されて半世紀以上、本格的な武力行使は1度もないが、それでも国防を担ってきた組織独自の「匂い」というものは警察組織とはまた違ってくる。

「君が――」

 不意に背後からそんな声が聞こえ、誠は咄嗟に振り返る。いつからいたのか、そこには戦士と呼ぶより兵士という言葉が相応しいダークグレーの制服を体に馴染ませた自衛官が立っている。その顔、特に目標を射貫かんとばかりな鋭く冷たい眼光は、誠の脳裏に深く焼き付いている。

 黒いG3――G4システムの装着員。

「君がG3-Xの装着員、氷川誠か?」

 その無骨な声は決して大きくはないが、誠には明瞭に聞き取ることができる。全身から放たれる気迫に圧されそうになりながらも、誠は「はい」と応じ深く頭を下げる。

「先ほどは、ありがとうございました」

水城史朗(みずきしろう)だ」

 無骨に名乗り、水城は手に持っていた帽子を被る。

「付いてこい。君に見せたいものがある」

 それだけ告げて歩き出す水城に着いていくか、誠は逡巡する。この場を離れて小沢を待たせてしまったら。そう思っている間に水城の背中は小さくなって、誠は迷いを振り払い小走りで後を追った。

 エレベーターで地下へ降りるとすぐ、鋼鉄製の扉が出迎えてくる。水城は扉の横に備え付けられたディスプレイに慣れた様子でパスコードを入力しロックを解除する。その先に広がるコンクリート造りの通路には根拠の見当たらない冷気が漂っていて、まだ残暑の厳しい地上との寒暖差に誠は身震いする。

 通路を少し進んだところにある部屋にもパスコードロックがあったのだが、水城はそれも難なく開錠する。ドアが横へスライドした瞬間、閉じ込められた冷気が一気に廊下へと流れてくる。

 水城はそれを意に介さず部屋に踏み入り、照明を点ける。それほど広くはない部屋には人の身の丈ほどある長方形の箱が数個横たえられていて、素材は透明なガラスのようだが表面が冷気のせいで霜に覆われ中が見えない。どうやら冷気はこの箱の中から発せられているらしい。

 まるで棺桶みたいだ、と誠が思っていると、水城は箱の霜を手で拭き取る。すると、中に収められているものが露になり、誠は息を詰まらせる。

 それは人の顔だった。見たところまだ若い男の、血色の失せた顔。

「これは………」

 箱が棺桶のよう。それが不謹慎な予想ではなかったことを察しつつ、誠は声を絞り出す。

「G4システムを装着した者たちだ」

 納められた亡骸に向けられた視線をこちらへと移し、水城は告げる。何の感情も込めず。

「いずれ、俺もこうなる」

 その瞳にある冷たさは、この部屋に満ちた冷気よりも低く思える。

「皆、俺の同僚たちだ。今でも目に浮かぶよ。彼らの死の瞬間、G4システムは糸の切れた人形のように動きを止めた。だが再びすぐに動き始めた。まるで自らの意思を持っているようにね」

 誠は骸たちを見つめる。俺もこうなる、と水城は言っていた。この永遠の冷気のなかに沈む骸と同じ場所に逝くことを、彼は受け入れている。

 そもそもだ。これだけの装着員を犠牲にするほどの欠点を抱え、まだ解決されていないにも関わらず防衛省はG4システムを実戦投入へ踏み切ったのか。片道だけの燃料と爆弾だけ積んだ飛行機で敵艦へ体当たりして散れ、なんて前大戦時にまかり通っていた思想が、平和が叫ばれ半世紀以上経った現代に蘇っているなんて。

 でも水城の声には自身の思想に対する疑念を全く感じない。かと言って、まともな思考ができずにいる狂気も感じられない。

「君はさっき、俺に礼を言ったな。君は自分の命が助かったことを喜んでる。自分の生に執着してる。だが、生への執着がある限り十分な戦いはできない」

 彼は正気だ。正気で、かつ確固な信念を裡に秘めている。

「以前の俺がそうだった。アンノウンに仲間を殺されていくなか、同じように死ぬはずだった俺は生き残った。生き残ったことに安堵した。その安堵、生への執着こそが俺の弱さだった。アンノウンと正面から戦って倒してみせた君を見て、つくづく自分の弱さを思い知ったよ」

 誠は思い出す。愛鷹山の施設に転がっていた自衛官たちの死体。あの中にはまだ息のある者もいて、それが水城だった。そうなると、あの時はG3-Xが水城に力を示し、それを目の当たりにした水城がG4として誠に力を示したことになる。

「だが、今の俺は違う。今の俺は死を背負って戦っている」

「死を、背負って………?」

「君なら分かるはずだ。聞いてるぞ、あかつき号のこと」

 まさか自衛隊にまで知られているとは。いや、水城が誠のことを知っているのなら、あかつき号事件のこともいずれ知られることだ。

「暴風雨のあかつき号に飛び込んだ君は、死に飛び込んだはずだ。だからこそ君は、あれだけの働きができた」

 本当にそうだろうか。誠があかつき号へ向かったとき、死ぬつもりなんて微塵もなかった。死んでしまえば誰も助けることができない。でも、あのとき誠も死ぬ危険があったことも事実だ。小型ボート1隻で嵐の海に漕ぎ出すなんて無謀すぎる。若さ故の無鉄砲さかと思っていたが、あの時海水に塗れながらフェリーに飛び乗った誠もまた、死を背負っていたのだろうか。永遠の零下へ沈むことを受け入れていたのだろうか。

 水城は告げる。正気のまま静かに。でも鋼のように固く、そして冷たく。

「死を背負うことこそ、我々の使命だ」

 

 

   3

 

 港での戦いの後、十千万に集まったメンバー達の間に重い沈黙が漂う。翔一が皆のお茶を出してくれたが、誰も手をつけない。千歌も未だ混乱から抜け出せずにいるし、冷静になれたとしてもどうしたらいいのか分からない。

「花丸ちゃん………」

 目尻に涙を浮かべながら、ルビィがこの場にいない親友の名前を口にする。それを皮切りに、善子が頭を抱えて喚く。

「あーもう! 何でずら丸はスマホ持ってないのよ!」

 そう、何より問題なのは花丸が携帯電話を持っていないことだ。連絡は家の固定電話で事足りたから支障はなかったが、こういった非常事態で連絡手段が無いのでは安否が分からない。もしやアンノウンに襲われてしまったのでは、なんて不安が根拠もなく増大していくばかり。

 スマートフォンでネットニュースを見ていた曜が安堵したように溜め息をつき、

「港の騒ぎで犠牲者は出てないみたい。きっと無事だよ」

 だからといって不安が消えたわけじゃない。ずっとせわしなく部屋を右往左往していた果南は、

「花丸ちゃんの行きそうなとこ探してみる。本屋さんとか」

 襖を開けようとする果南をダイヤが「おやめなさい」と制止させる。

「下手に動いたらすれ違いになりますわ」

 「そうよ」と鞠莉も同意を示す。

「取り敢えず夕方まで待って、帰ってこなかったら警察に行きましょ」

 「それまでここで待ってろ、ていうの?」と善子が噛みつく。何もせずにいるというのは歯がゆい。逆に言えば、今ここでしかできないことを千歌は告げる。

「信じることならできるんじゃ、ないかな?」

 皆の視線が一気に向けられる。考えてみれば、自分たちはいつも起こるかも分からない奇跡を信じていた。

 わたし達ならラブライブに優勝できる。

 学校を廃校から救うことができる。

 輝きを見つけられる。

 その願いのなかに、花丸の無事が追加されただけのこと。奇跡は起こる。そう信じることで何かが始まる。

 千歌は鞄からシュシュを出した。「それ……」と梨子が声を漏らす。

「いつだって繋がってる。信じれば、きっと花丸ちゃんにも届くと思う」

 そう言って千歌はシュシュを手首にはめる。

「そうね」

 梨子も頬を綻ばせて、自分のシュシュをはめた。皆も各々の、色違いのシュシュを手首にとめていく。自分たちはいつだって繋がっている。

「そうそう!」

 と翔一がお盆を手に部屋に入ってきた。お盆には人数分のおにぎりが乗っている。

「まずは腹ごしらえしよ。俺も花丸ちゃん探しに行くからさ」

 

 一方その頃の花丸は、

「美味しいずら」

「俺のも食っていいぞ」

「ずらあ」

 工場の座敷で水羊羹を堪能していた。

 

 



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第4話

   1

 

 PROJECT G4(G4計画)

 G3システムの完成と同時に、「4」のナンバーを冠する後継機の開発は発足していた。G3システムは開発当初こそ実用に足る性能を示していたが、開発者である小沢澄子は早くも課題を発見し、その克服を試みていた。

 その課題とはオペレーション時においての最大の不安要素、すなわち人間だった。

 いくらシステムが高性能でも、それを装着する人間の精神的不安や緊張によって作戦が失敗に陥る可能性もある。それを防ぐためオペレーターが的確な判断と指示をリアルタイムで下すのだが、オペレーターも人間である以上完璧とは言えない。

 当時、小沢はその不完全さを排除し完璧なシステムとして後継機を設計しようとした。既に対テロ用の装備としてはオーバーキルに達していたが、更なる進歩の可能性を前にして彼女は完璧への欲求を抑えることができなかった。彼女にはそれを成し遂げられるだけの才能があった。

 事実、完璧さを追求させたシステムとしてG4は設計された。第4世代(GENERATION-4)というナンバーを振り分けられるに相応しい性能を与えられて。

 強化戦闘服としての性能は勿論G3を大幅に凌駕しているのだが、最大の特性はAIにあった。高度な演算処理によって状況の分析と予測を行い、対処として最適な動作を装着員に提示する。字面だけ見ればG3-Xのものと大差ないのだが、G4は動作を強制的に行わせることに違いがある。そこに装着員の意思や肉体的コンディションなどの介在は許されず、ただAIの下す判断に絶対服従を強いられる。

 人材を選ばない面で、装備としては理想的だ。もはや装着員の資質など関係ない。誰が操ろうが、G4は完璧な動きでオペレーションを遂行することが可能になる。

 だが、その完璧さこそがシステム最大の欠陥だった。

 機械であるAIには不安も疲労もない。バッテリーがもつ限りオペレーションは継続される。装着員の肉体が過負荷によって異常を起こそうがその悲鳴はAIに無視され、酷使され続けた装着員はやがて死亡する。自らを纏う肉体が死体に変わろうが、AIにとっては問題ではなかった。オペレーション時の制御は全てAIによって行われるため、装着員の死亡後もシステムは稼働を続ける。

 言うなれば装着員は、G4システムを動かすための消耗品に過ぎない。最早、強化戦闘服と呼ぶべきじゃない。完全に機械制御されたロボットと呼ぶべき代物だ。ロボット工学における最大の目標。人間と同等の動作を、G4は本物の人体をフレームとして使用することで解決してしまった。

 設計段階に行われたシミュレーションでその「欠陥」が判明し、小沢はシステムの設計データを自身のPCに厳重なセキュリティをかけて封印した。これは世に放ってはならない。装着員を殺す、だが装備としては完璧なシステム。そんな悪魔的なものが知られたら、欲に塗れた権利者たちは間違いなく利用するだろう。治安維持や国防という大義の下、悪意ある者の私服のため「部品」にされた装着員たちが犠牲になるだろう。

 小沢が一線を踏み止まったことで計画は凍結された。G3の後継機として実戦投入されたナンバーが「G3-X」なのは、小沢自身の自戒の念が込められていた。悪魔のナンバーを世に出すわけにはいかない、と。

 

「これが理由よ。何故G3-XがG4じゃないのか、のね」

 八王子駐屯地からの帰り、カーゴで語り終えた小沢はコーヒーを啜った。神妙な表情で誠と話を聞いていた尾室はおもむろに口を開く。

「言うなればG3-XはG4の劣化版、てことですか」

 本人として悪気はないと思うのだが、小沢としては開発した装備を劣化版呼ばわりされては当然面白くないわけで、鋭い視線で尾室を睨む。自らの失言に気付いた尾室は咄嗟に「あ、すみません」と謝罪した。小沢はもうひと口コーヒーを啜り、

「人の手で扱えるようにしたのがG3-Xよ。まあ、それでもG4システムを越えることができなかったのは認めざるを得ないわね」

 4を冠するGシリーズの出自については理解できたが、そうするとまた疑問が生じる。誠はそれを投じた。

「ですが何故、陸自はG4システムを作れたんでしょう?」

「深海理沙が盗んだのよ」

 即答し、小沢はPCを睨む。

「ほんの僅かだけど、G4のデータを隠してあったファイルへのフィルタが突破された形跡があったわ。深海理沙は元々サイバー部隊にいたらしいから、研修に来てた間に私のPCをいじってたのね」

 小沢の設定したセキュリティを突破してみせるなんて、あの女性自衛官のプログラミング技術も相当なものだ。やはり小沢と深海は似ている。天才的な技量も、手段がかなり強引な面も。

 「それより」と小沢が語気を強める。

「あの女とG4システムを野放しにしておくのは危険だわ」

「どういうことです?」

「こっちが訊いてもいないのにあの女がべらべらと喋ったのよ。2週間前アンノウンに襲撃された愛鷹山の施設。陸自はあそこに孤児を集めて超能力の開発実験をしていたのよ」

 誠は思い出す。床に重なるようにして倒れていた子供たちの死体。あの子供たちの力がアンノウンを引き寄せてしまったというのか。

 思い出したように尾室が口を挟む。

「でも、犠牲になった子たちは地元の小学校の児童だった、て――」

「嘘に決まってるでしょそんなの。孤児なのを良いことに戸籍を改竄してたのよ。死体もこちらの検分が入る前に処理されたから立証できないけど」

 「ですが」と誠は尋ねる。

「何故超能力者の孤児たちがG4システムと関係してるんです?」

「あの女は超能力者を使ってG4を強化するつもりでいるのよ」

 「G4を強化?」と誠と尾室は声を重ねる。「一体どんな?」と誠が質問を重ねると、小沢は溜め息交じりに肩をすくめる。

「具体的には分からないわ。でもろくなものじゃなさそうね。あの女はそれだけに飽き足らず国防を理由にG4を量産するつもりよ」

 思わず想像してしまい、誠の背中にぞわり、と悪寒が走る。日本を侵略しようとする「敵」へ向かう黒い鎧を纏ったG4の軍勢。マスクの奥にある装着員の顔は苦痛に歪み、それを無視しスーツはAIの意思のままに動かされる。やがて軍勢の装着員全てが死体となり、それでもスーツは任務を続行し続ける。そして任務が終わり拠点に戻ると、スーツを脱がされた装着員たちの死体は事務的に処理されていく。

「全て、私の責任ね」

 そんな小沢の弱気な声色に、誠の意識は現実へ戻る。

「プロジェクトが破棄された時点で設計図を処分しておくべきだった」

 そんなことはない、とは言えなかった。施設に転がっていた子供たちと、冷たい棺桶に納められたG4の装着員たち。悪魔のシステムにもたらされた被害者たちの死を、簡単な言葉ひとつで片付けることになってしまう。

 それに水城史朗。

 現状のままG4システムの欠陥が解消されまいまま運用されたら、彼もいずれあの冷たい棺桶に入ることになる。彼自身、自らその領域へ片足を踏み入れている。

 小沢の罪を拭うのは自分の役目になるだろう、と誠は密かに拳を握る。G3-Xの装着員として。

 

 

   2

 

 バイクのエンジン音が聞こえ、千歌は外へ飛び出す。既に陽は暮れていて、静寂へ沈む内浦を波の音が包んでいく。十千万の駐車場に停車したバイクのリアシートには誰も乗っていなくて、千歌は肩を落とした。

「ごめん、あちこち回ったんだけど花丸ちゃんどこにもいなくて」

 ヘルメットを脱いだ翔一が、罰が悪そうに言う。千歌はかぶりを振りながら、

「ううん、しょうがないよ」

「皆は?」

「もう遅いし帰ったよ」

「そっか。取り敢えず氷川さんに電話してみるよ」

「うん」

 千歌は腕のシュシュに触れる。大丈夫、きっと見つかる、と自身に裡で言い聞かせ翔一と十千万の玄関へ歩き出そうとする。

 そこへ、背後から光を当てられ足を止める。玄関の引き戸に千歌と翔一の影がくっきりと浮かび上がっていて、振り向くと光の正体が車のヘッドライトだと分かった。宵闇に溶け込みそうな黒のクラウンだった。

「お客さんかな?」

 翔一の疑問に「さあ?」と千歌は首を傾げる。車からひと組の男女が出てきた。男性のほうはスーツで、女性のほうはダークグレーの制服を着ている。

「ここで間違い無いのね?」

 随分と若い女性が、ひと回りほど年上に見える男性に不遜な声色で問う。「はい」と応じながら、男性は手に携帯電話らしき端末を手にしている。その端末のアンテナが、こちらへ近付く毎に激しく青い光を点滅させていく。

「あの、宿泊ですか? 予約は――」

 恐る恐る千歌が訊くと、女性は笑みを浮かべながらかぶりを振る。

「いいえ、ちょっと用事があってね」

 男性が端末と千歌を交互に見ている。すぐに女性の耳元で何かを囁いているが聞こえない。耳打ちされた女性の浮かべた笑みにどこか恐怖を覚え、千歌は翔一の背に半身を隠す。

「あなたを迎えに来たの。昼間に港で怪物が現れたことは知ってる?」

「アンノウンですか?」

 翔一がいつになく険のこもった声で訊く。翔一もこの女性から何かを感じ取っているらしい。女性はあくまで柔和な笑みを崩さず、

「知っているのなら話が早いです。彼女はアンノウンに襲われる可能性がありますので、こちらで保護することにしました。ご心配なく、彼女は私が責任を持ってお守りしますので」

 正直、信用なんて無理だった。突然訪ねてきてどこかも分からないところへ連れて行かれるなんて。

「結構です」

 撥ねつけるように言ったのは翔一だった。

「行こう千歌ちゃん」

 そう言って千歌の背を押して玄関へと歩く。

「仕方ないわね」

 先ほどまでの柔和さとはまるで正反対な、冷たい声が耳孔に入る。不意に、翔一が肩を掴まれ強引に振り返させられる。「ん?」と眉を潜めた顔に拳が打ち付けられた。

「翔一くん!」

 叫んだ千歌に、男の手が覆い被さるように伸ばされた。

 

「悪いな。遅くなって」

「いえ、水羊羹美味しかったので」

 暗い内浦湾の沿道を通りながら、花丸はバイクの音に消されまいと大声で応える。青年のバイクは思いのほか不具合が多かったらしく、修理が終わるのに夕方までかかってしまった。とはいえ花丸が退屈しなかったのも事実。バイクが分解されまた組み直されていく工程なんてそうそう間近で見られるものじゃない。

 整備士から乱暴な乗り方するな、と説教を受けていた青年は、花丸を同乗させているからか、それとも沿道が蛇行しているからか安全運転でバイクを走らせている。その口に出さない配慮に、花丸は安心して青年の背中にしがみつく。

 行き先は家ではなく十千万へ、と頼んだ。まずは千歌に顔を見せて、そこから他の皆にも連絡したい。

 青年も十千万は知っているらしく、迷うことなくバイクを走らせていた。以前宿泊したことがあるのだろうか。

 目的地へ到着すると同時、黒いクラウンが走り去っていく。玄関先には口の端から血を垂らした翔一が倒れていて、花丸は急いでシートから降り駆け寄る。

「翔一さん、どうしたずら?」

「花丸ちゃん⁉」

 咳き込みながら立ち上がった翔一は花丸の肩を掴む。

「良かった、無事だったんだ」

「それより、その怪我――」

「千歌ちゃんが、千歌ちゃんがさっきの車に連れてかれて………」

 考えるよりも速く、花丸はバイクへ戻っていた。

「あの車追うずら!」

 青年は一瞬だけ戸惑っていたが、すぐに「乗れ」とリアシートに促してくれる。花丸がシートに跨ると同時にバイクが甲高い駆動音を鳴らして走り出し、スピードを上げていく。振り落とされまいと花丸は青年の背中にしがみ付いた。

 ハイビームに切り替わったヘッドライトが、離れた前方を走るクラウンを照らし出す。青年はスピードを更に上げた。クラウンもこちらに気付いてかスピードが上がっていく。内浦の曲がりくねった道だと危険な速度だ。カーブに差し掛かるとクラウンは急ブレーキでドリフトし、青年はバイクを地面に擦れそうなほどに傾けて速度を維持したまま乗り切る。

 直線道路に入ったところで、クラウンのリアガラスから千歌の顔が見える。何か叫んでいるように見えた。車のブレーキランプが赤く灯る。咄嗟に青年は急ブレーキをかけた。タイヤが摩擦音をあげ、ハンドルを切って寸でのところで衝突を避ける。クラウンが再びスピードを上げた。その窓から筒状のものが放り出される。からん、という音から空き缶かと思ったが、筒から煙が吹きあがり数舜で辺り一帯が覆われる。

「千歌ちゃあああん‼」

 何も見えないなかで花丸は叫ぶ。車の音が次第に小さくなっていくのが分かった。青年は咳き込みながらバイクを走らせ、煙幕から抜け出す。もう車はなく、内浦は本来の静寂を取り戻していた。

 

 

   3

 

 どうやら小沢の予感は当たってしまったらしい。

 誠のもとへ翔一から通報が入ったのは、八王子から戻ってすぐの頃だった。千歌が何者かに誘拐された。聴取のため沼津署を訪ねてきた翔一の顔には痣ができていて、誘拐犯から暴行を受けたという。誘拐犯たちの特徴、特に女の服装を聞いて小沢はすぐ深海理沙と断定した。

 

 一夜明けて、朝早くの署内は業務の始まりに警官たちがせわしなく動き回っている。会議室の前で翔一は口を結んだまま俯いていて、壁に背を預けた曜と梨子は祈るように手首のシュシュに触れている。他のAqoursメンバーたちも署に来ているのだが、大勢で押しかけては、と別室で待ってもらっている。

 誠も不意を突かれた気分だ。まさか超能力者としてノーマークだった千歌が狙われるなんて。もし陸自が目を付けるとしたら梨子か、もしくはラーメン屋でESPクイズを解いた善子かと思っていた。他にもアンノウンに襲われたメンバーもいる。

 超能力者のアイドルグループ。偶然にしては奇妙な団体だ。同じ力を持つ者は無意識に引き合うのだろうか。だとしたら、梨子の隣にいる渡辺曜もまた超能力の片鱗があるのかもしれない。

 会議室から小沢が出てきて、場の全員が彼女のもとへ集まる。

「どうでした?」

 翔一が訊いた。双眸の下にはうっすらと隈ができている。同居している少女が誘拐されたとなれば昨夜は満足に寝られなかっただろう。

「上に掛け合ってみてはもらったんだけど、深海理沙本人が身に覚えがない、と言っている以上事件性があるとは判断できないそうよ」

「それが向こうからの返事ですか?」

 誠は苛立ちをぶつけてしまう。そんな明け透けな嘘を上層部は真に受けたというのか。いや、疑ってかかったとしても確定的な証拠に乏しい。事件性なしなんて、警察は捜査しない、と言っているようなものだ。

「ごめんなさい」

 沈むような小沢の声色に、それ以上の追い打ちはかけようもなかった。彼女のことだから、全力であらゆる手を尽くしてくれたに違いない。

「千歌ちゃん……」

 友人の名前を呟きながら、梨子が目尻から涙を零す。曜が肩を抱くも、目を潤ませる彼女もどう言葉をかけたらいいか分からずにいるようだった。

 何の成果もないまま廊下を歩く。辛いが、別室にいる他の面々にも伝えなければならない。

「小沢君」

 その低く力強い声に、小沢のみならず全員が立ち止まる。視線の先で高年に差し掛かろうとした男性が、朗らかに笑いながらこちらへ歩いてくる。大柄な体躯は制服を纏っていても強靭な筋肉に包まれていると分かるほど隆起していて、さながら歴戦を経験した風格を漂わせている。

 直に会うのは初めてだが、誠はこの人物を知っている。いや、日本警察に籍を置く者なら知らないはずはない。

「総監」

 驚きながら、でも嬉しさを孕んだ声を小沢は返す。「誰ですか?」と翔一が耳打ちしてきて、誠は「警視総監です」と返す。

「警視総監て、警察で1番偉い人、てことですか?」

「まあ、そうですね」

 声が大きいから、誠は人差し指を唇に当てて静かに、とジェスチャーする。総監はノンキャリア組でありながら、巡査から叩き上げで現在のポストにまで上り詰めた、いわば現場上がりのトップだ。官僚的な警察組織では珍しい存在で、同時にノンキャリア組にとっては希望の星でもある。かつて国家転覆を狙った組織の壊滅に尽力した経歴を持つ、まさに警察という「正義」を体現した人物と言って良い。上層部にありがちな黒い噂も、総監に関しては誠も聞いたことがなかった。定年後はコーヒー農園を始めようとしている、なんて眉唾ものな噂は聞いたが。

「どうしてこちらに?」

「G3ユニットの視察にね。それにしても久しぶりだな。どうだ、調子は?」

「ええ、絶好調です」

 トップ相手にも、小沢はやはり普段の姿勢を崩さない。とはいえ、今回ばかりはそういうわけにもいかないらしい。

「――と言いたいところですが、思うようにならないこともあります」

「ほう、君らしくないな。だったら思うようにしたらいい。目の前の障害をものともしないところが君の良い所だ。しかしそんな行動を見過ごす目の悪いところが俺の良い所だ。違うか?」

 そう語る総監は、どこか少年のような悪戯めいた笑みを浮かべる。その笑みに気持ちが解れたのか、小沢は「ありがとうございます」と返す。

「そうそう」

 と割って入ったのは翔一だった。もし失言でもしてしまったら、と誠の背に冷や汗が伝う。翔一ならやってしまいかねない。

「行くときはやっぱ行かなくちゃ。ですよね?」

 総監は翔一の顔をじ、と覗き込む。流石の翔一もその気迫に圧されてか後ずさりするほどだ。謝罪しよう、と誠はそこへ向かおうとするが、総監が翔一の両肩を乗せたことで足を止める。

「それで良い。今の俺ができないことを君たちがやってくれ、いいな」

 そう告げる総監の厳かな表情が破顔する。翔一も満面の笑みで「はい」と応じた。肩から手を離した総監が満足そうにこの場を後にしようとする。すれ違う際に礼をした誠の肩に、大きな手が乗せられた。とても力強く、そして優しい手だった。これが市民を護り続けてきた者の手と思うと、その力が僅かばかり分け与えられたかのような錯覚を覚える。

「頼んだぞ、若いの」

 誠にしか聞こえないほどの声量だったが、その強さを備えた響きはしっかりと誠の奥底へと届く。

 誠は去り行く総監の背中を見つめる。この国の正義を一身に背負いながらも、曲がることなく歩いて行くその背中へ改めて礼をして見送った。

 

 



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第5話

 

   1

 

 皆、どうしてるずら。

 東から昇った太陽に照り出される海を見ながら、花丸はふと思った。千歌をさらった車を逃してからも探し続けたけど、結局どこへ行ってもとうとう車は見つからなかった。一睡もしていないからか、頭がぼんやりする。

「食うか?」

 コンビニから出てきた青年が、花丸にのっぽパンを差し出してきた。「ありがとうございます」と受け取って食べる。大好物なのに、あまり味を感じない。

「あいつ、お前の友達か?」

「ずら………」

 花丸は思い出を語る。まだそう経っていないが、自分の人生の中で最も濃い数ヶ月間を回顧する。

「千歌ちゃんは、マルを本の世界から連れ出してくれた人なんです。とても明るくて、頑張り屋さんで、そんな千歌ちゃんだからマルの視たことのないところに連れていってくれる気がして………」

 本というフィクションが綴られた世界。それはつまるところ「嘘」の世界。花丸はそこに入り浸っていた。物語は様々だ。現実より辛い物語もあれば、現実より優しい物語もある。何より好都合なのは、自分で手に取るものを選べること。暗い気分になりたければ暗い小説を読めばいいし、明るい気分になりたければ明るい小説を読めばいい。

 現実は花丸の都合なんてお構いなしだ。次々と不都合な事象と感情が押し寄せてくる。この数ヶ月はそれが多すぎた。楽しいことも辛いことも。何もかもが花丸の小さい背中には重すぎて、背負いきれない。人生とはそういうものなのだろうか。荷物が重すぎたら、どうやってそれを降ろせばいいのだろう。こんな重すぎる「本物」を背負わされるなら、「嘘」でもいいから優しい世界に浸っていたほうがまだ良かったのかもしれない。

 そう、自分にはそれが分相応だった。大人しく嘘の世界に染まって、大した希望もなければ大した絶望のない、平坦なままの日常でいれば良かったのに。物語の紡ぎ手じゃなく、読み手に徹しているのが正しかった。そこに千歌はいない。親友のルビィもAqoursの皆もいないけど、皆を失う恐怖もない優しい世界。

 その「嘘」こそが、花丸の現実だった。

「そういうのも全部………、全部嘘になればいいずら」

 そうだ、全部書き換えてしまおう。辛いことも怖いこともない、全てを嘘にしてしまうような物語を。今は嘘でも、嘘に身を置けば本物と錯覚できる。

「言ったろ。嘘になんかならない」

 青年は冷たく言い放った。

「今からは、逃げられない」

「そんなことないずら。そんなのマルは嫌ずら」

 花丸は駆け出そうとしたが、「よせ」と青年に腕を掴まれる。

「逃げても無駄だ」

 乱暴に腕を振り払う。何故そんなことを言うのか。年上だからって、昨日会ったばかりのこの青年に花丸の何が分かるというのか。

「逃げたことあるずら?」

 苛立ちを包み隠さず訊くと、青年は目を泳がせた。何も言ってこないのを良いことに、花丸はまくし立てる。

「マルは絶対逃げるずら。凄く遠くに行って全部……、全部嘘にするずら!」

 き、と青年の目尻が吊り上がる。その目に怯んだのと同時、花丸は青年に抱きかかえられた。

「ずらっ⁉」

 無造作にバイクのリアシートに乗せられて、頭にヘルメットを被せられる。

「気が済むまで逃げさせてやる」

 それだけ言うと、青年もヘルメットを被ってバイクを走らせる。

「どこだ?」

「ずら?」

「逃げるんだろ? どこに行ったら嘘になるんだ?」

 その試すような言い方に、花丸は不貞腐れながら「あっちずら」と右を指さす。青年は花丸の指した通り、十字路に差し掛かると右折し、あるかも分からない目的地へと向かっていった。

 

 

   2

 

 底の見えない暗闇が広がっている。とても重い目蓋を持ち上げることもできず、千歌は夢なのか現実なのか分からない境地を漂っていた。一体何が起こったんだろう。そして今は何が起こっているんだろう。車に乗せられてからの記憶が判然としない。

「驚きましたね」

 耳を打っていた雑音のようなものが、声として認識できるようになる。

「彼女のESP数値は、我々の知るどの素材も凌いでいます」

 何を話しているんだろう。全く内容が理解できない。まだ意識が混濁している。

「問題は、この素材の予知能力を覚醒させることができるかどうか」

 聞き覚えのある声。そうだ、千歌をさらった女の声だ。

「大丈夫です。彼女のシータ派のパターンは、はっきりとその素質を示しています」

 千歌は沈みそうな意識のなかで名前を呼ぶ。それは希望を示す名前。どんなに辛く怖い状況でも必ず千歌を、千歌たちAqoursを助けてくれる存在を。

 

 ――翔一くん――

 

 

 上層部を通じて駄目なら直談判ということで再び八王子駐屯地を訪ねたが、果たして成果があるとは、誠にはとても思えずにいた。取り敢えず小沢が交渉へ向かってくれたが、彼女の強引さが功を喫してくれることを願うしかない。

 車で誠と共に待機する翔一は、施設のほうへ目を向けたままだ。あの中に千歌がいるかは分からないが、いるのなら今すぐにでも助けに行きたい気持ちは理解できる。

「津上さん、ひとつ訊いていいですか?」

 誠が言うと、翔一はようやく施設から視線を移した。

「僕の知り合いに、死を背負ってより強く生きている人がいます」

 こんな話を持ち掛けたのは、純粋に気になったからだ。日々を楽しそうに生きてる翔一が、死という概念についてどう考えているのか。記憶を失ったことを悲観せず、家事をして野菜を育てる彼は、人生をどう思っているのだろう。

「何か、嘘くさいですけど」

「嘘くさい?」

「はい。生きる、てことは美味しい、てことじゃないですか」

 「美味しい……」と誠は反芻する。

「はい。キャベツを食べても大根を食べても美味しいんです。もしかしたら、何も食べなくても美味しいんです。死を背負ったりしたら、不味くなります」

 正直、意味がよく分からない。何も食べなかったら、味なんて分からないじゃないか。やはりこの青年は理解しがたい。

 丁度そのとき、車の窓がノックされる。小沢だった。窓を開けると、翔一が「どうでした?」と訊く。

「やっぱり駄目ね」

 予想はしていたが、やはり徒労に終わると肩も落ちる。

「津上君、ここから先は私たちに任せてくれない? 必ず悪いようにはしないから」

 

 門前払いされることは予想の範囲内だったから、何の対策もしていないわけじゃない。一旦市街地で翔一を降ろして、誠と小沢は待機させていたGトレーラーで再び駐屯地へ向かった。駐屯地は山岳の森林に囲まれている。駐屯地の索敵に引っ掛からない距離でトレーラーを停車させ、事前に飛ばしておいたドローンのカメラで周辺状況を確認する。

 施設周辺にも監視カメラが確認できた。数と範囲から視覚になる場所を算出すれば、そこから侵入できるの。侵入者として交戦することも視野に入れれば、必然的に潜入するのはG3-Xを装着した誠が務めることになる。潜入なんて本来の運用ではないが、生身で行くよりはましだろう。それに交戦は極力避けるのが鉄則だ。あくまで高海千歌がいるという証拠を掴むことが最優先。

 PCの液晶にドローンの映像が中継される。映像のなかで何かが動いていて、自然と意識がそちらへ向けられる。巡回中の自衛官か、それとも野生動物か。小沢が映像をズームさせると、それはどちらでもなかった。

 すっかり見慣れた浦の星女学院の制服を着た少女ふたりと、さっきまで誠と一緒にいた青年。

「どうやら先を越されたわね」

 溜め息交じりに小沢が言った。

 

 森の中に佇む駐屯地を、曜は眺める。一切の無駄が廃され、実用性が追求された無骨な棟が軒を連ねている。華やかさを追うスクールアイドルとは対極だ。じ、とそのコンクリートで造られた建物の奥へと、意識を集中させる。

「………聞こえた?」

 同じように施設を凝視していた梨子が尋ねてくる。「うん」と曜は頷いた。もう一度、意識を研ぎ澄ませる。

 曲が聞こえた。それに連なるような千歌の歌声も。これは千歌と曜と梨子、3人で歌ったAqoursの初めての曲。ステージ上での千歌はいつも元気に歌い上げるのに、曜に届く歌はとてもか細い。今にも消えてしまいそう。

「千歌ちゃんはあの中にいる」

 内浦にいたときにも届いた千歌の声。それは曜だけでなく梨子にも届いたという。他の面々、ルビィも善子も、果南もダイヤと鞠莉も聞いていた。助けて、という千歌の声。居場所を示すような歌声が。

 それを聞いたら居ても立ってもいられなくなって、曜と梨子は誠たちに気付かれないよう、こっそりとこの八王子にまで足を運んだ。他の皆も来る、と言っていたけど、まだ見つからない花丸の捜索に当たってもらうことにした。

「よし、ここからは俺が行くから、ふたりは戻って」

 翔一がそう言って、樹の陰から歩き出す。「嫌です」と曜はその後を着いていく。

「わたし達も千歌ちゃんを助けたいんです」

 「そうです」と梨子も強く言う。

「千歌ちゃんが泣いてる、て分かるんです。待ってなんていられません」

 「駄目だ」と翔一はかぶりを振る。いつも曜たちの頼みを聞いてくれる翔一は、このときばかりは頑なだった。

「何が起こるか分からない」

 そのとき、遠かったヘリのローター音が近付いてくることに気付く。耳を突くほど音が大きくなっていくと共に、強風が森の木々を揺らし草を撒き散らす。見上げると、ダークグレーに塗装されたヘリが曜たちに被さるように飛んでいる。機体から何かが降ってきた。

 それは人だった。パラシュートもなく地面に降り立ったその姿は、いつか見た警察の青い戦士によく似た、黒い鎧の戦士だった。ヘリが起こす強風のなか、黒い戦士は悠然とこちらへ歩いてくる。翔一が曜と梨子の前に立ち塞がった。だがその翔一の前にも、また新手が立ち塞がる。それは黒い戦士と似たシルエットの、警察の青い戦士。

「逃げて、早く!」

 組み付きながら告げるその声に、曜は驚愕の声をあげる。

「氷川さん⁉」

 確かめる間もなく、翔一に背を押され森の奥へと走る。背後から鈍い金属音が、ローター音に混ざって聞こえた。

 ヘリの起こす下降気流から抜け出したところで、翔一が足を止める。

「ふたりはこのまま逃げて」

「津上さんは?」

 梨子が訊くと、翔一は走ってきた方角へきつく吊り上げた眼差しを向け、

「氷川さんを助けなきゃ」

 翔一の腹に光が渦巻く。元の方角へ駆け出しながら、翔一は強くなっていく光と共に告げる。

「変身!」

 金色の鎧に身を包んだ翔一は、すぐに森の奥へ消えていく。

「翔一さん!」

 追おうと曜は駆け出したのだが、不意に響く苦痛に頭を抱えてうずくまる。

「曜ちゃん⁉」

 肩を抱いてくれた梨子にも同じことが起こったのか、彼女も頭を押さえつけ苦悶に顔を歪める。まるで頭の中で何かが暴れているようだ。

 まるで土石流のようになだれ込んでくる苦痛の正体を曜は悟る。

 この痛みは、千歌の叫びだ。

 

「アギト!」

 女性の驚愕が、どこか嬉しそうに聞こえる。

「丁度いい。G4システムの新しい力を試させてもらうわ」

 翔一くんが来てくれた。その歓喜は一瞬で消えてしまう。この女性は、アギトに勝つ自信を持っている。

「プロジェクション開始!」

 女性の張り上げた声に続けて、数々の声が上乗せされていく。

「目標、アギト及びG3-X」

「距離、共に300。G4と交戦中」

「安全装置解放。起動用意」

「ESP信号、伝導率82.5%」

「コード1405からコード3608へ移行」

 何かが頭の中へ入り込んでくるようだ。目を閉じているはずなのに、目の前に誰かがいるのが視える。ふたりの人じゃない存在が、千歌へ拳や蹴りを繰り出してくる。

 ひとりは青い戦士。

 もうひとりは、アギト。

 まるで他人の視界を見せられているようだ。目だけじゃなく耳も、嗅覚も、拳の感触も。誰かと繋がっている。

 千歌と繋がった者の鎧に覆われた拳が、青い戦士の胸を打つ。火花が散って、続けざまに打った拳が青い鎧を突き飛ばす。

 翔一の蹴りが飛んできた。紙一重で避けた脚を掴み、彼の金色の胸板に渾身の拳が突き刺さる。

 

 ――駄目、翔一くん逃げて!――

 

 懸命に叫ぶが、声にならない。戦いは続けられ、ふたりを相手にほぼ一方的な攻撃を加えていく。劣勢じゃないのに何故だろう。とても苦しい。繋がった人の荒い息遣いと振り上げる腕の激痛が、千歌にも伝わってくる。

 

 ――そうだ、それでいい。もっと死に近付け――

 

 男の声が聞こえる。ひどく掠れていて辛そうだ。その辛さも千歌は感じ取れる。同時に、男の苦痛に対する愉悦も。

 

 ――生に執着していては、人は兵器にはなれない。死だ。死を恐れるな――

 

 ――嫌だ、死にたくない!――

 

 千歌は叫ぶ。もっと生きたい。もっと皆と歌いたい。まだ夢を叶えていないのだから。まだやりたいことが沢山あるのだから。

 

 ――力を与えられた者には、それ相応の務めがある。俺とお前はその務めを果たすため、死を背負わなければならない――

 

 蹴り飛ばされた翔一の体が、草の中へ沈んでいく。

 

 ――自分もいずれ死にゆく人間であることを受け入れろ。それができてようやく――

 

 銃弾を浴びた青い戦士が、膝を折って倒れた。

 

 ――俺たちは兵器として完成する――

 

 

   3

 

 花丸の現実逃避の旅は、結局のところ1日と保たなかった。たったの数時間だけだったけど、知らない街までやって来たところで花丸は青年にバイクを停めてもらった。

「こんな程度で逃げられたのか? お手軽だな」

 青年の皮肉に反論する気になれない。分かっていた。いくら逃げたところで全てが嘘になんてなるわけがない。花丸の肉体は紛れもなく現実に生きているのだから。この現実に身を置いている限り、全てが本物だ。目を閉じたところで、目蓋のない耳から現実はやって来る。執念深く、否応なく。

 波の音が聞こえる。海が近いらしい。

「………海」

「何?」

「海に行きたいずら」

 花丸の要求に、青年は何も言わず応じてくれる。バイクでそう時間もかからず、海岸に到着した。砂浜は僅かしかなく、隆起した岩場に波が打ち寄せ飛沫に変わっていく。内浦とは違う磯の香りがした。

 青年は岩場に腰掛け、どこまでも広がる水平線を眺める。とても寂しそうな眼差しだった。今更ながらに、花丸の裡で疑問が沸く。たった1日しか行動を共にしていないのに、どうしてこの青年は花丸の我儘を聞いてくれたのだろう。この青年も、何かから逃げたかった時期があるのか。それとも、今も逃げているのだろうか。

「逃げたい、て思ったことあるずら?」

 その質問に、青年は逡巡を挟み答える。

「ああ」

「何から?」

「聞いたら、お前が俺から逃げたくなる」

 どういうことだろう。気にはなったが、訊く勇気が持てない。青年は言葉足らずに続ける。

「それでも生きていくしかない」

「それでも、生きていくしかないずら?」

 とても重く感じるその言葉を反芻すると、青年は「ああ」と、

「終わりが来るまではな」

 まるで、終わりの時を待っているかのような口ぶりだ。どんなに生きているのが辛くても、いつかは終わってくれる。最期はどうか安らかであるように、という祈り。安らかな最期を励みに生きるなんて、花丸には悲しすぎる。見たところまだ若いこの青年は、これから続く長い人生を、そんな虚無を抱えて生き続けるつもりでいるのか。

 果たして、それは「生きる」と言えるのか。まだ15年の人生しか過ごしていない花丸には分からない。そんな人生は悲しい、なんて上から目線で、花丸がどうしてこの青年に告げることができるのか。

「帰るぞ、今度こそ」

 そう言って立ち上がり、青年は花丸の背中を押す。砂浜に停めたバイクまで歩く途中で、青年は咄嗟に海を振り返った。

 その視線の先で、岩場の陰から人のようなものが跳び出してくる。昨日港で大量に出た、アリのようなアンノウンだった。

「逃げろ!」

 腰が引けた花丸の肩を掴み、青年は無理矢理に走らせる。青年は一緒には来なかった。花丸が岩場の陰に身を隠して振り返ると、アンノウンが砂浜に降り立っている。異形の怪物を前にして、青年は逃げようとしない。それどころか、アンノウンに向かって走り出す。

「変身!」

 砂浜を駆ける青年の体が、黒く変色していく。その皮膚に緑色の筋線維が束なって鎧のように形成され、額から2本の角が伸びていく。赤く充血した両眼が大きく見開かれた。

 自らも異形になってアンノウンと拳を交える青年の姿に、花丸は目を見張る。翔一と同じ力。でも翔一の変身するアギトとは似ても似つかない。

 渚にアンノウンを組み伏せると、青年は馬乗りになって顔面に拳を打ち付けていく。だが苦し紛れなアンノウンの反撃を、青年は顔面に受けてしまった。仰け反ったところで追撃の蹴りを喰らい、仰向けに倒れる。形勢逆転。今度はアンノウンが馬乗りになって、青年を一方的に(なぶ)っていく。

 首を掴まれ、無理矢理立たされたところで腹に拳を埋められる。ごふ、と咳き込む顔は変異によって表情が分からない。でも、花丸には異形になった顔の奥で、青年が苦痛に悶えているのが分かった。

 あれが、青年の逃げたかったこと。彼の言葉が、花丸の胸に次々と刺さっていく。

 

 ――どこへ行ったって同じだ。今は嘘になんかならない――

 

 どこに行っても、青年のあの姿は常につき纏ってくる。「自分自身」からは、決して逃げることができない。

 

 ――それでも生きていくしかない――

 

 辛いなら、自ら命を投げうって逃げるという選択肢もあったはず。それなのに、彼はそれをしなかった。死への恐怖という、ありふれた理由からかもしれない。だけど彼は「それでも」と生きている。異形に成り果てようが。その姿になることがどんなに痛くて苦しくても。

 

 ――終わりが来るまではな――

 

 「ウオオアアアアアッ」と吼えながら青年は拳を突き出す。でもそれは簡単にいなされ、脇腹に入った蹴りで砂浜に身を転がす。すぐさま起き上がると、青年は牙を剥いて雄々しく咆哮をあげた。

「ウウアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 呼応するように、砂浜に停めてあった青年のバイクが緑色の姿に変わった。青年と似た2本の角を生やしたカウルを顔のようにもたげ、誰も乗っていないのにタイヤが回転し砂を撒き上げながら走り出す。

 まるで忠犬のように駆け付けたマシンのシートに跨り、青年はアンノウンへ突進した。岩場へ投げ出された敵へ、青年はシートから高く跳躍し右脚を振り上げる。その踵から尖刀が伸びていた。

 アンノウンが立ち上がると同時、重力に任せて踵の尖刀がその肩へ突き立てられる。雄叫びと共に、青年はアンノウンを蹴飛ばした。肩から胸にかけて斬り裂かれた体が、爆発で四散していく。

 勝利の余韻に浸る余力もないのか、青年は岩場に膝をついた。その姿が、元の人の姿へと戻っていく。肌色の皮膚からは玉汗が流れていて、粗い呼吸に肩を上下させながらも立ち上がる彼の目が、花丸のほうへ向く。

「お前……、逃げなかったのか………」

 枯れた声を絞り出す彼に、花丸は震えた脚近付いていく。

「そんなに怖かったのか?」

 確かに怖かった。すぐにでも逃げ出したかった。でも、逃げてはいけない、と強く思った。青年は逃げなかったのだから。果敢に立ち向かっていったのだから。

「見てたら、辛いのが分かったずら。痛いのが分かったずら………」

 涙に頬が濡れていた。この青年の抱える宿命を想うと、止めることができなかった。この青年にとっては呪いでしかなくても、それでも彼の力は花丸を助けてくれた。そんな相反する因果に、泣く以外の対処が見出せない。彼の苦痛を受け止めることのできない無力さに、ただ泣くしかなかった。

「馬鹿かお前。俺のために泣くなんて」

 青年は苦笑を零す。「だって……」と嗚咽交じりに言葉を探る花丸の顔を、青年は強引に自身の胸に押し付ける。花丸の髪を無造作に撫でる青年の手つきは、こういったことに不慣れなようだ。でも花丸は青年の胸に顔を埋めながら、確かに彼の強く脈打つ心臓の音を聞いた。この人は生きている。この人自身が自分の命を否定しても、自分だけは肯定したい。でなければ、この人に助けられた事実すら嘘になってしまう。

「ありがとう」

 その言葉の後に鼻を啜る音がした。胸から顔を離して見上げる。青年は目こそ充血させていたが、涙は流していない。今までどれ程涙を堪えたのか。きっと花丸の予想を遥かに上回る。

「お願いします」

 まだ止まらない涙を流しながら、花丸は言う。向き合わなくてはならない。彼のように強くなれなくても、「それでも」生きるために。

「千歌ちゃんを……、マルの友達を助けてください」

 

 



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第6話

 

   1

 

 重い目蓋を開くと、カバーもかけられていない裸の蛍光灯が白色の光で誠を照らしている。

「気が付いたか。馬鹿な奴だ、G4システムに戦いを挑むとは。そんなにあの少女を救いたいか」

 その水城の声で、自分の寝かせられているのが「敵地」と瞬時に理解し状態を起こす。簡素な寝台の傍にあるキャビネットにはG3-Xの装備が無造作に並べられていて、誠はインナースーツのみ着せられていた。

「どこにいるんです千歌さんは?」

 水城はデスクに置かれたPCを起動しキーを叩く。液晶に映像ウィンドウが表示された。端にLIVEとあるから中継映像だろう。画面の中で、立てかけられた寝台に体を固定された千歌が眠るように目を閉じている。頭に被せられたヘッドギアからは無数のコードが伸びていて、それを取り囲むように設置された機器の前で野戦服姿の自衛官たちが作業をこなしている。

「千歌さん……!」

 寝台から降りると脚が少しばかり軋む。先の戦闘からどれ程経ったのかは分からないが、手ひどくやられていたらしい。

「今、彼女の予知能力はG4システムのAIと協調している。その負荷のせいで彼女もやがて死ぬだろう」

 何の気なしに水城は言ってのける。画面のなかで死にゆこうとしている少女。彼女のまだ続くはずの未来が閉ざされることを、この男は肯定している。

「彼女も死に近付くことで、偉大な力を発揮している」

 死を背負うことが我々の使命、と水城は言っていた。その戦士としての決意を否定するつもりはない。命を危険に晒すことになっても、それが誠の警察官としての仕事なのだから。

 でも、目の前にある光景は、明らかに逸脱している。戦うのは治安維持、市民を護るためだ。その護るべき市民にまで自身の主義を押し付けるだなんて。

「………違う、違いますよ水城さん。こんなことが赦されるはずがない!」

 喚いたことでようやく、水城の目が誠へ向けられる。

「あなたは死に近付きすぎて、生きることの意味を忘れてるんだ!」

「甘ちゃんの戯言だな」

 冷たく返し、水城は誠の肩を叩く。総監に負けないほど強い。でもあの時に感じられた温かさは全く感じられない。水城の手はとても堅く冷たかった。まるで硬直した死体のように。

「ええ、確かに僕は甘いかもしれない」

 今になって、ひとつ晴れた疑問がある。それを誠は語る。

「僕の知り合いに、無条件に人生は素晴らしい、と言える人がいます」

 翔一が何故、美味しい、などと人生を例えたのかようやく理解できた。

 彼は自分を取り巻くもの全てを、見返りなんて求めず愛しているからだ。空も海も、樹も草も花も虫も。そして人間も。この世界の全てを美しい、と純粋に捉える心のまま生きている。だから彼は何を食べても、食べていなくても美味しい、と感じられる。

「僕は彼のようにはなれないし、あなたのようにもなれない。中途半端です。でも、これだけは言えます」

 警察官という仕事柄、人間の悪意は吐き気がするほど見てきた。死後数日経って醜く腐敗した死体を見て実際に吐いたこともある。誠は世界の美しさよりも、醜さばかりに目を向けてきた。だから自分の人生の全てを肯定することはできない。

 でも、だからこそ願う。

「僕は生きるために戦う。生きることを、素晴らしいと思いたい」

 それはいわば、水城に対しての宣戦布告だった。あなたが死を背負って戦うというのなら、僕は生を背負って戦う。

 そこへ、哄笑と共に深海が入ってくる。

「脆弱な人間の精神を語ってどんな意味があるというの? 人間はただG4の力に感謝すればそれでいい」

 全てを見下すような饒舌さは語ることをやめない。

「今やG4はあの子の力を得て時間を超越する存在になった。この意味が分かる? G4は今や別次元の存在。何者もG4に触れることすらできないのよ」

 あの小沢澄子の設計を遥かに超えることの愉悦に、深海は浸っている。こんな人間のエゴのために、どれだけが犠牲になったのか。この自衛官はそれを想ったことがあるのか。いや、彼女はそんなこと気にも留めないだろう。こんな、人の命を消耗品としか捉えていない人間の皮を被った悪魔に。アンノウンのほうがまだ崇高に思えてしまう。

「もうすぐ最強の軍団が完成するわ。あの子が死んでも、種はもう撒いてあるもの。超能力者だっていくらでも補充できる」

 種は撒いた、だと。誠はこの事件の真の根源を悟り、怒りと共に訊く。

「まさか、ESPクイズはあなたが………?」

 深海は笑みで応える。それはもはや自白と捉えていい。

「あなたは、あのクイズでどれだけの人がアンノウンに殺されたか知っているんですか?」

「それがどうしたっていうの? アンノウンに襲われる前にこちらで保護すればいいだけの話よ」

「保護? どちらにしてもその人たちを犠牲にするのに変わりはない!」

「ただ無為に殺されるのと国防の礎として死ぬ。後者のほうが遥かに幸福だわ。彼らは最強の軍団を作った英雄として歴史に名を刻むのよ。これ以上に名誉なことがあるかしら?」

 狂っている。いくら同じ天才でも、小沢はここまで道を踏み外したりはしない。小沢の言った通り、彼女とG4を野放しにするわけにはいかない。ここにいる水城や千歌だけじゃない。これからも国による被害者が増え続ける。誠が守りたいのは、そんな骸によって足場を固められた世界じゃない。

 アラートが施設内に鳴り響く。深海はPCのキーを叩き、監視映像を表示させる。画面のなかで、黒い軍隊が蠢いていた。

「アンノウン! 千歌さんの力を使ったせいでアンノウンが反応して………」

 深海は動揺を見せない。勝利への確信があるのか、水城へ事務的に死への宣告をする。

「G4システム出動」

 「はい」と水城は応じ、帽子を被り部屋から出て行く。

「手伝ってくれるのならどうぞご自由に。必要ないけど」

 冷たい微笑で誠を一瞥し、深海も部屋から出て行く。誠はインナースーツのファスナーを上げ、喉元を探る。スロートマイクは外されていない。G3-Xの装備と共に並べられたインカムを耳に当て電源を入れる。しばしのノイズの後、回線が通じる。

『氷川君? 無事?』

 小沢の声に安堵しつつ、誠は「はい」と応じ装備を簡単ながら点検していく。

「駐屯地にいます。千歌さんがいることも確認できました」

『そう、良かったわ。こっちも近くに向かうから、合流地点は――』

「いえ、オペレーションをお願いします」

『え?』

「駐屯地はアンノウンの襲撃を受けています。僕も出動します。装備に問題はありません」

 武装は携行していたGM-01とGK-06にガードアクセラーの3点のみだが、先の戦闘で発砲はしていないから弾丸はあるはず。スーツのバッテリーも十分だ。

『………分かったわ』

 逡巡の後、小沢は許可を下す。誠は装甲を身に纏い、最後にマスクを顔に当てて装着する。Gトレーラーにシステム起動が送信されたのか、オートフィット機能が作動しスーツが誠の体形に合わせて収縮していく。

『G3-X、出動!』

 

 

   2

 

 脳裏に走る戦慄が、翔一の意識を覚醒させる。目を開けると木漏れ陽が射していた。どうやら森の中で眠っていたらしい。

「翔一さん!」

 曜がはやる声色で呼ぶと、梨子が「良かった」と胸を撫でおろす。ふたりだけでなく、他のAqoursメンバーたちもいた。ルビィに善子に、果南にダイヤに鞠莉。花丸と千歌が、まだこの中にいない。

「皆、どうして………」

「チカっちの声が聞こえたのよ」

 鞠莉が答えてくれる。「やっぱり、じっとなんてしていられないよ」と果南も言う。立ち上がろうとするが、胸に鈍い痛みが走った。そんな翔一の肩を梨子が支えてくれる。

「そんな体じゃ無理です」

 「大丈夫」と翔一は優しく梨子の手をどけて、重い脚に力を込めて立ち上がる。

「俺、千歌ちゃんを助けなきゃ」

 翔一はここに集まった皆の顔を見渡す。これだけの人たちが、彼女の帰りを待ちわびている。それだけで、痛みなんて簡単に抑え込むことができる。

「千歌ちゃんは今、千歌ちゃんのいるべき場所にいないからさ」

 千歌と同じ夢に向かう仲間たち。Aqoursは誰が欠けても駄目だ。この少女たちのいるところが、千歌の居場所。そして、翔一の守るべきもの。

「それに、千歌ちゃんを助けるために戦うなら、そこが俺のいるべき場所なんだ」

 大丈夫、俺はまだ戦える。あの子を守るためなら、どこへだって行く。千歌ちゃんには、まだ美味しいものをたくさん食べてもらわないと。

 

 頭の中で、誰かが叫んでいるのがずっと響いている。その声に導かれるように、花丸は青年に乗せられたバイクで八王子の山奥へと向かっていく。森の中には灰色の建物が佇んでいて、そこへ近付くにつれて叫びがどんどん大きくなっていく。

 近くまで行くと、その叫びが歌と気付いた。これはAqoursの曲、地区予選で歌った『MIRAI TICKET』だ。それを歌っている声は――

「千歌ちゃん……!」

 建物を囲む柵の前で、青年はバイクを停める。建物の中からは銃声と悲鳴が聞こえていた。

「ここにいろ」

 青年に言われ、花丸はバイクから降りる。か、と見開いた青年の両眼が、赤く染まった。

「変身!」

 緑の異形へと姿を変え、同じく変わったバイクを駆って青年は悲鳴と銃声が重なる渦中へと向かっていく。

 

 バイクで柵を蹴破った翔一を出迎えたのは、あちこちに蠢くアンノウンの群れだった。港に出たときよりも遥かに数が多い。内部に侵入できる経路を探るつもりでいたが、これはどこへ行っても同じか。

 なら、正面突破のみ。

「変身!」

 ベルトから発せられた光が、バイクをも巻き込んで翔一をアギトへ変える。シートから跳び上がると、翔一の意思のままバイクがスライダーボードに変形し、そのシートに足を落ち着かせる。こちらへ向かってくるアンノウンを車体で薙ぎ払いながら、翔一は奥へと突き進んでいく。

 

 

   3

 

「プロジェクション開始!」

「目標、敵アンノウン数複数。基地内各所に出現」

「安全装置解放。起動用意」

「ESP信号、伝導率86.7%」

「コード1405からコード3608へ移行」

「95.9%、最高値を測定」

 行き交う声と共に、また感覚がシステムを通じて繋げられていく。まるで溶け合って「わたし」という意識が無くなりそうな恐怖のなか、千歌は歌を歌うことで自身を保とうとする。

 ずっと口ずさみ続けた、Aqoursの歌。皆で叶えよう、と走ってきた夢の道程。そこに、繋げられた苦痛が割り込んでくる。

 晴れた視界のなかで、野戦服を着た兵士が目の前で倒れる。視界が上がると、目の前にはアンノウンの群れがこちらへ歩いてくる。屋根から1体が跳びついてくるのが見えた。一瞬遅れ、同じことが起きる。装着員は千歌の視た方角へ脚を向け、アンノウンは吸い込まれるように顔面に足裏を埋めさせる。

 向かってくるアンノウン達は、装着員の拳や蹴りの1撃で次々と爆炎に沈んでいく。今いる搬入口の群れを片付けるのに、そう時間はかからない。でも、その後の近い未来が千歌の脳裏を掠める。建物の陰からまた群れが沸いて出てくるのが視えると同時、電流を流されたような痛みが脳に走っていく。目を閉じても視せられる光景から、逃れることはできない。

 装着員は地面に置いてあったミサイルランチャーを肩に担ぎ、引っ張り出したコードをベルトのコネクタに挿し込む。視た通り、すぐアンノウンの群れが出てきた。既に準備完了したランチャーから2発のミサイルが放たれ、アンノウン達を吹き飛ばしていく。

 痛い。苦しい。耐え難い波が押し寄せ、とうとう歌えなくなる。どの未来も視えるのは倒れる兵士たちと屠られていくアンノウンばかり。苦しみばかりが渦巻いて、止めどなく拡散していく。

 それでも、千歌は信じることをやめない。例え指間からすり抜けてしまうほど小さくても、希望の光は残っている。例え視ることができなくても。

「これは何?」

 声が近い。懸命に目蓋を持ち上げ、千歌はうっすらと目を開く。薄暗いなかで、あの女性と白衣を着た男性が千歌へ、厳密には千歌のやや右方向へ目を向けている。

「計測の邪魔よ、外して」

 「はい」と応じた男性が、千歌の右手に手をかける。やめて、と叫びたいが苦痛に声が出せない。無抵抗の千歌の右手から、ずっと身に付けていたシュシュが外される。

 

 ――駄目、それは皆との繋がり――

 

 その瞬間、脳裏に浮かんでいた像が消え去った。同時に苦痛も、繋がっていた感覚が波のように引いていく。千歌ひとりのものに戻った耳を、ブザーのような音が突いてくる。

「どうした?」

 女性の問いに、他の作業員たちは「分かりません!」と困惑を返している。

「伝導率、急速に低下。測定不能です!」

「ESP信号、断絶!」

 「まさか……」と女性は食い入るように千歌へ顔を近付ける。一体何が起こったのか。どうしてシュシュが外された途端に。

「この子、超能力者じゃない………?」

 

 アンノウンをGM-01で牽制しながら進む誠の視界ディスプレイに、駐屯地内部のマップが浮かび上がる。どうやら小沢が陸自の衛星にハッキングを仕掛け、データを入手してくれたらしい。

『氷川君、サーバールームは近いわ。そこに高海千歌はいるはずよ』

「了解」

 マーキングされたマップの指示に従い、迷うことなく通路を進んでいく。途中で遭遇したアンノウンは止めどなく、GM-01の残弾も心もとない。アラートの音で、目的地へ近付いていると実感できた。

 マップ上では目的地を示している扉は閉ざされていて、横にはパスコード入力のパネルが備え付けられている。コードなんて知らない誠は、筋力補正された足で扉を蹴破り中へ入り込む。施設内で最も厳重なサーバールームはまだアンノウンの侵入を受けていないようで、警備の自衛官たちがカービンを誠へ向ける。侵入者へ冷静に対処する様は、流石は自衛隊といったところか。

 まるで血管のようにコードを伸ばす長方形のサーバー。そのモノリス群に囲まれるように、千歌は「繋がれ」ていた。誠はGM-01を構える。アンノウンではなく、本来なら守るべき人間に。

「自分のしていることを分かっているの?」

 そうせせら笑うのは深海理沙だ。GM-01の銃口を向けられても、自衛官として訓練された彼女は物怖じしない。

「私の邪魔をするということは、この惨劇を更に助長することよ。あなたでは止めることはできない。G4システムだけがこの危機を救うことができる」

「あなたと話すことはありません」

 この人と話すだけ無駄だ。未成年者略取及び誘拐罪で、続きは署でいくらでも聞いてやる。

 千歌のもとへ歩く誠へ、カービンの銃弾が飛んでくる。狙いは精密だが、G3-Xの装甲に傷は付けられない。だが、こうも銃弾を浴びたままだと千歌に流れ弾が飛ぶ。仕方ないが、まずは自衛官たちを無力化するしかない。

 突如、サーバールームの天井が破られた。瓦礫と共に降って来たのはアンノウン。すぐさま目標を切り替えた自衛官たちが発砲するが、頑丈なアンノウンにはまるで効果がない。

「逃げて!」

 叫びながら、誠はアンノウンに組み付く。抵抗され、サーバーをなぎ倒しながら壁へと追いやり、その壁をも砕く。どれ程の部屋の壁を突き抜けていっただろうか。施設内の仕切りなんて無視しながら突き進み続けて、ようやく開けた場所に出る。瓦礫と粉塵に塗れて出たそこは格納庫だった。搬送用のトレーラーが並べられた空間にもアンノウン達がいる。でも、それほどの数はいない。固まるように蠢くその中心に、たったひとりアンノウンを屠っていくG4がいる。

「水城さん!」

 格闘戦でアンノウン達をいなしながら、誠はG4のもとへと進んでいく。単身でありながら、水城は微塵も苦戦してはいなかった。G4の挙動は完璧だ。油圧システムからもたらされる圧倒的な力で組み付く敵を振り払い、一瞬の隙も与えず拳を振るい続ける。動作に披露や焦燥なんて感じさせない。それなのに、マスクから漏れる水城の声は酷く苦しそうに息をあえがせている。

 「うああああっ」と呻きながらも、水城は完璧な動作でアンノウンと戦い続けている。動作と声が真逆だ。膝をつきたいが、AIはその苦痛を無視しプログラムされた通りに与えられた任務、即ちアンノウン殲滅を遂行し続ける。サーバーをいくつか破壊したから千歌と接続されたシステムに障害が発生しているはずだ。水城への負担も増している可能性がある。

 誠がゆく手を阻むアンノウンの心臓を拳で貫き爆炎に変えた頃、水城のほうは既に包囲していたアンノウンの殆どを葬り最後に残った1体を相手にしていた。腹を何度も殴打し、よろけて倒れそうになるアンノウンの肩を掴んで無理矢理立たせ殴打を再開する。

「水城さん、G4システムは呪われたシステムです。離脱してください。これ以上は危険です。あなたの命までが――」

 機械に誠の忠告を聞く耳はない。黒の鎧に覆われた拳はアンノウンの顔面を潰し、吹き飛んだその体が爆散する。しっかりと伸ばされた背筋。機械に制御された姿勢。それを保ったまま、水城は枯れかけた声を絞り出す。

「俺の答えは分かっているはずだ。どうする? 俺は死を背負い、お前は生を背負っている。どちらが正しいか、今この場で答えを出すか?」

「水城さん………!」

 G4の青いセンサーアイが、誠へと向けられる。足がジュラルミン製の靴音を軍靴のように響かせながら踏み出してくる。G4のAIが誠を、G3-Xを任務の障害とみなしたのだろう。決して水城の意思じゃない。でも、その意思に同調した水城は誠との戦いに躊躇はない。彼は戦うだろう。すぐ間近に迫っている「死」を背負って。

《推奨 撤退》

 G3-XのAIが警告する。合理的な判断ならそれが妥当だ。スペックが設定されている機械に、数字は覆すことはできない。

 それでも誠は警告を撥ねつけ拳を構える。この戦いは逃げるわけにいかない。

 この男の意志は哀しすぎる。

 その肩から「死」を降ろさなければ。

 

 

   4

 

 右の手首から生えた刃を、敵の脳天に突き立てる。飛び散った血と脳漿が顔にかかり、涼の視界が一瞬だけ奪われた。その隙に、背後に回っていた敵に組みつかれ首筋を噛まれる。痛みに歯を食いしばり、肘打ちで離したところで腹に蹴りを入れる。

 左の手首から伸ばした触手で体を絡めとり、引き寄せた勢いに任せて右手の刃で胸を切り裂く。周囲に爆炎が立て続けに巻き起こり、それでも敵は際限なく沸いて出てくる。一体どれ程倒したか、涼は数えてすらいない。どれ程施設の奥へと進んだのかも分からない。自分の居場所すらも把握できていない。

 体が重くなってきた。短いスパンで何度も変身して、敵も多すぎる。ここで力尽きてしまうのも時間の問題か。

 それでも涼は引き返すことなく、外からの陽光も射し込まない奥地へと進んでいく。何としてでも千歌という少女を助け出さなくては。あのマルという、自身のために清い涙を流してくれた少女のために。誰かのために死ねるのなら、こんな化け物じみた体になった意義があるというものだ。

 ふらつきながらも歩き出すと、すぐに敵がどこからか現れる。近くに巣穴でもあるのか。両手から尖刀を伸ばし、手当たり次第に近付いてきた者から切り裂いていく。腕を振るい刃が敵に触れる度に鮮血が飛び散り涼の体を汚していく。

 我ながら何て醜い姿だろう。元の姿に戻れても力の残滓は歳不相応な皺として現れる。変身する毎に体は着実に蝕まれていく。全ての苦しみから解放される時は近いのかもしれない。それでも、涼は奇妙に満たされた気分でいた。こんな醜い拳でも誰かのために振るうことができる。目の前の脅威から逃れるためでも、大切な人を傷付けられたことの憎しみでもない。

 全ての敵を葬り更に進もうとしたところで、床の蓋が開いた。不意のことで反応が遅れ、穴から伸びてきた異形の手に脚を掴まれ引きずり込まれていく。下のフロアへの通路からは梯子が伸びているのだが、無理矢理引きずり降ろされた涼は何も掴めず床に受け身も取れず落下する。無骨なコンクリートの壁と柱で固められ、給水ポンプが並べられた地下空間は静寂に包まれている。

 先ほどまで敵の呻き声に囲まれていた涼にとってその静寂はひどく不気味なもので、血走った眼で辺りを見渡す。「敵」は向こうから現れてきた。その個体もまたアリに似ているのだが、他の個体とは少しばかり違う。体形のフォルムがどこか女性的で、手には三又の刃を付けた槍を携えている。何より、その存在から感じる力を涼は本能的に感じ取った。さながら女王アリだ。

 涼は雄叫びと共に拳を振り降ろす。だが敵の顔面に達する寸前に槍で受け止められる。腕を絡めるように槍を捻られ、涼は咄嗟に腕を引っ込めた。後退し間合いを取る。引っ込めた右手の拳を握ろうとしたとき、拳の感覚がなくなっていることに気付いた。不敵な笑みを零す女王アリの足元に転がる腕のようなものが視界に映る。

 見下ろしてみると、涼の右腕は肘から先が途絶えていた。ぼたぼた、と溢れる血が床に滴り落ち、同時に焼けるような痛みが走る。

 まだだ。腕1本なくしたところでまだ戦える。そう気張ったところで、凄まじい痛みと大量の出血は容赦なく涼の体を衰弱へと向かわせていく。血でぬかるんだ床に足を滑らせ、涼は膝をついた。視界が霞んでいく。涼をあざ笑うかのような女王アリの声も遠くなり、身を伏せたときの血の生温さも温度を失っていく。

 ここまでか。

 自身の血に沈みながら、涼は覚悟を決める。そう遠くないうちに来るとは思っていた。最期に機能を失いつつある脳裏に浮かぶのは果南の顔だと思っていたが、現実は違った。このとき涼の脳裏にいたのは、涼をここへ向かわせてくれたマルの顔だった。

 よく「ずら」という訛りのある口調で喋り、水羊羹を美味しそうに食べ、そして「いま」という現実を嘘にしようとしていた少女。

 ここで俺が死んだら、誰がマルの望みを叶えてやれる。彼女の友人を救い出すまで、くたばるわけにはいかない。

 どくん、と心臓が強く脈打つ。血の中から起き上がった涼は、湧き上がる衝動のままに咆哮をあげた。

「ウウオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア‼」

 右腕の感覚が戻った。途絶えていた肘の先から、血と体液に濡れた腕が照りついている。まるで生まれたばかりの赤ん坊のようだ。生えた右腕から触手を伸ばし、女王アリの首に絡める。予想外の出来事に狼狽えた女王アリは武器を零した。涼は力いっぱい腕を引き、女王アリを手繰り寄せる。

 一瞬で引き寄せられ恐怖に歪む女王アリの顔面に、涼はヒールクロウを叩き込む。

 脳天から股下まで真っ二つに両断された体は、ふたつになった体をそれぞれ爆散させていった。

 

 



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第7話

 

   1

 

 敵の勢いが一気に引くように感じられた。無限に察知していたアンノウン達の気配。その中でもひと際大きな気配が消えた。翔一へ迫っていたアンノウン達が、まるで触覚を抜かれたように右往左往しはじめる。指揮官を失い誰から指示を仰げばいいのか分からなくなった兵隊みたいだ。

 それでも、まだアンノウン達は翔一を敵と認識しているようだった。徘徊している群れの中で、翔一と目が合った者から襲い掛かってくる。でも、ずっと戦っていた敵だから弱点は既に知っている。たった1撃の拳や蹴りで屠っていくうち、悲鳴が聞こえた。女性の声だ。

 声を頼りに通路を走ると、アンノウン達が密集している。群れの中心で女性が腰を抜かしているのが見えた。千歌を攫った女だ。アンノウンに埋もれてすぐに悲鳴は消える。ばり、がき、という不気味な音を立てるその群れへ駆け出し、翔一はアンノウン達を数秒たらずで殲滅した。

 でも、既に手遅れだった。翔一は足元に横たわる女性――だったと言うべき残骸――を見下ろす。腹は裂かれ内臓の殆どを食い破られてしぼんだ風船のようになっている。乱暴にもがれた手足は散々かじられて、骨に筋線維が少しばかりこびりついた。顔面の皮膚は剥がされて骨が剥き出しになり、左の眼窩からは食い残された眼球が垂れ下がっている。

 憎い人間だが、死ぬことを望んでいたわけじゃない。感傷を裡から追いやり、翔一は通路を進む。ふと気付く。消えつつあるアンノウンの気配に混ざって、浮かび上がるように現れた力を感じる。それほど強い力じゃないから、敵だとしても脅威にはならないだろう。でも、翔一はその力に敵意を持つ気にはなれなかった。その力からは暖かさを感じる。まるで陽だまりのようだ。太陽に向かって伸びる植物のように、翔一は力を感じる方角へと進んでいく。

 辿り着いたサーバールームもアンノウンの襲撃を受けたのか、自衛官たちと箱型のサーバーが倒れている。

 翔一の視界に、弱く灯る小さな光が入り込んだ。床に灯っていた光は浮き上がり部屋の中央、立てかけられた寝台に眠る少女の右手に収まり、やがて灯が消える。

「千歌ちゃん!」

 翔一が駆け寄ると、光の消えた千歌の右手にはオレンジ色のシュシュがはめられている。梨子から貰った、と嬉しそうに見せてくれた、千歌が練習に必ず持っていくものだ。忘れ物が多い彼女でも、シュシュだけは忘れたことがない。この千歌とAqoursの繋がりを示すものが、ここへ導いてくれたのだろう。今はもう何も感じられないが、翔一はそう確信できた。

 無数のコードに繋がれたヘッドギアと体を寝台に固定していたベルトを外す。重力に従って倒れる千歌の小さな体を、翔一は優しく抱き留めた。腕の中で、千歌は重たげに目蓋を開ける。まだ夢心地でいるのか、目蓋を垂らし蕩けた目で翔一を見つめる。

「翔一くん………」

 呟くと、親に甘える幼子のように千歌は翔一の胸に顔を埋め、気持ちよさそうに寝息を立てた。その柔らかい髪を撫でると、千歌は眠りながら笑っている。

「千歌ちゃん、帰ろう」

 抱きかかえて立ち上がったとき、翔一はサーバールームの壁に備え付けられた大型液晶に気付いた。画面の中で、青と黒の鎧を身に纏った戦士たちが対峙している。でもその戦いは、翔一には介入できるものではなかった。

 

 

   2

 

 AIは絶えず撤退を推奨している。口やかましく各部装甲の損傷具合を表示し、リアルタイムで逃走の手順を組み立てては提示してくる。G4のどこを攻撃すれば隙が生まれるか。その隙にどこへ逃げれば逃走することができるか。そして真正面から戦っていかに勝利が低いか。

 AIが算出したG3-Xの勝率は17.8%。その数値に違わず、2機の「Gシリーズ」の戦いは一方的と言って良い。G4の繰り出す攻撃はどれも重く、しかも衰える気配が微塵もない。それもそうだ。中にいる水城がどれほど苦痛に叫ぼうが、システム運用に支障はない。装着員の悲鳴など制御するAIにとっては耳障りな騒音でしかないからだ。人間的な感情や苦痛の一切を無視し、どこまでも完璧にオペレーションを遂行するよう設計されたシステム。

 その完璧さは小沢にとっては罪でしかなかった。Gトレーラーに戻らず現地でのオペレーション開始を許可したのも彼女の罪悪、そして誠への信託もあってのものだろう。誠なら自分の犯した罪にけじめをつけてくれる、と。

 だが人間が操るとしてもG3-Xだって所詮は機械に過ぎない。設定されたスペック以上の能力は発揮できないし、故にG4システムとの差は埋まるはずもない。

 なけなしに突き出した誠の拳は、あっけなくG4の脇で固められる。逃れられなくなった誠の胸部装甲は何度も殴打を喰らい、火花を散らして陥没する。立て続けに振り降ろされた拳は何とか拘束から逃れて避けることができ、背後へ回る。だがG4の反応速度は速く、重厚な外見に見合わない俊敏さで繰り出された蹴りを腹に受けてしまう。しかも質の悪いことに、G4は装甲で覆い切れないインナー部分を狙ってきた。インナースーツでも防弾チョッキ以上の耐久性があるが、厚い鉄板を拳で貫通できるG3-X以上のパワーは流石に抑えきれない。

 「ごふっ」とマスクの奥で咳き込む誠に、慈悲なんて与えられない。顔面に迫ってきた拳を避けるも、掠めた肩の装甲が剥がされてしまう。無理矢理千切られた配線コードが飾り紐のようにぶら下がった。

 耳元でインカムがノイズを鳴らしている。どうやら通信機器がやられたらしい。また腹のインナー部分に拳を沈められ、前屈みの姿勢にさせられたところで更に背中に手刀を叩き込まれる。体の前後からの痛みに耐え切れず、誠は膝をついた。それでも立ち上がろうとしたのだが、向こうのAIはそれも予想していたとばかりに蹴りを顔面に入れてくる。衝撃のあまりに脳震盪を起こして視界が霞んだ。すぐに治まったのだが、視界を半分失っている。センサーアイに亀裂が入り、ディスプレイの右半分が潰されていた。

 追い打ちの蹴りがみぞおちに入る。床を転がり、首を掴まれ無理矢理立たされる。間髪入れず繰り出される殴打には反撃の余地がない。半分潰れてしまった視界のなかで、誠にできる対処は腕で胴と頭を防御するだけ。

 スピーカーからノイズが聞こえてくる。乱雑だった音声パターンが落ち着き、小沢の声へと変換されていく。

『氷川君、応答して! 氷川君!』

 通信が復旧した。戻ってきた上司の声に安堵し「小沢さん!」と応じる。

『G3-XとしてG4と戦っては勝ち目はないわ』

 ならどうしろというのか。小沢もAIと同じように撤退を命じるのか。だとしたら水城はどうなる。ここで逃げたら水城はG4に殺される。止めなければ小沢の罪は祓えない。

 逡巡を置いて飛んできた指示は、誠を驚愕させるのに十分だった。

『氷川誠として戦いなさい!』

 こんな時でも無茶な指示をしてくれる。でも、それが無根拠な根性論でないことを誠は知っている。小沢の根拠は、G3-Xの装着員が氷川誠であるということ。

 機械同士の戦いでは、既に机上で勝負が決している。設定されたスペックは覆ることはない。最初から絶対的な差が存在していて勝ち目なんて無かった。でもあなたなら、氷川誠なら機械なんて脆弱な代物に打ち勝つことができる。あなたの力を見せてやりなさい。

 その意思をしかと受け取った誠は、拘束していたG4の腕を振り払いやみくもに拳を振るう。反撃に流石のG4も狼狽え間合いを取った。誠はマスクの側頭部に手をかける。後頭部のカバーが開き、開けた空気が入り込んでくる。戦闘のせいか、焦げ付いた炭のような臭気が立ち込めていた。これが戦場の匂い。水城が片足を踏み込む死へと近い場所の匂いか、と奇妙な感慨を覚える。

 今、誠は仮面を脱ぎ捨てる。

 それは頭部の防御を完全に解く自殺行為だ。でも誠が飛び込むのは「死」なんかじゃない。これまでもそうだったように、誠が背負うのは「生」だ。

 自分が生きるために戦う。

 誰かを生かすために戦う。

 このオペレーションをG3-Xとしてではなく、生を背負う氷川誠として完遂する。

「勝負を投げるつもりか?」

 「違う」と誠は即答し、G4の青い両眼、その奥にある水城を見据える。

「僕は戦う。人間として、あなたを止めてみせます」

 無造作に放ったG3-Xのマスクが、鈍い音を立てて床に落ちる。その音を合図のようにして、G4が間合いを詰めてきた。やはり狙いは無防備になった頭部だ。飛んできた蹴りをいなし、反撃の蹴りを脇腹に入れる。散った火花が頬を掠めるが意に介さず、誠は組みついた。基本構造がG3と同じなら、G4の緊急離脱スイッチもベルトにあるだろう。だが容易に振り払われ、回ってきた蹴りを寸でのところで避ける。追撃の拳は腕で防御できたが、衝撃で間合いを開けてしまう。

 抑えられない水城の叫びが、誠の耳をついた。G4の装甲の隙間から蒸気が噴き出している。マスクを外している今、その蒸気がどれほどの高熱を帯びているかを感じられる。高音に包まれた状態でこれまで無理矢理に体を動かされていた水城の苦痛の一端を。

 スーツ内の温度は人間の生存限界を優に越えているだろう。上昇する体温に炎症を起こした血管が破裂して、体のあちこちで出血しているかもしれない。

「水城さん!」

 組みつこうとする誠を水城は払いのける。こんな状態でも、G4システムは水城に戦闘続行を強要している。水城もそれを拒まない。苦痛にあえぎながらも戦いの構えをし直す。兵器であろうとする男に、誠はなおも組みついた。

「危険です、離脱してください! 水城さん!」

 伸ばした手がようやくベルトのバックルに到達した。スイッチに触れられさえすれば、強制的に装備が解除される。誠はバックルに指を這わせスイッチを探す。

 だが、スイッチは無かった。

 脳裏が白紙になり、一瞬遅れて全てを悟る。

 最初から、G4システムに緊急離脱システムなんて搭載されていなかった。装着員が死亡しても稼働し続けるシステムだ。装着員を保護する機構なんて必要ない。

 垂らされた蜘蛛の糸を断ち切るように、水城は拳で誠を突き放す。情けなく尻もちをついた誠に、G4は拙い足取りで近付いてこようとする。中にいる水城はもう限界だ。スーツの補正がなければ立つこともできないだろう。いくらAIが命令を下しても、もはや水城の肉体は動かすことができない。1歩ごとに動きが鈍くなっていく。それでも水城は止まろうとしない。彼は最期まで兵士であり、兵器でいるつもりだ。

 やがて、G4は糸の切れた人形のように崩れ落ちる。制御を失った肉体は天井を仰ぎ、青いセンサーアイの奥にある瞳は永遠に閉ざされた。

 勝者は生者であり、敗者は死者となる。この究極の勝負の間に、そんな明確な違いはなくどこまでも曖昧だ。死を背負っていた水城は望んでいた通り死に両足を浸し、そのまま抗うことなく無限の奈落へと沈んだ。彼は最期まで己の信念に忠実で、そして果たすことができた。それのどこが敗北だろう。

「水城さん………」

 ぼそり、と呟いた誠の声が格納庫に消えていく。アンノウンは全て片付き、施設内は静寂に包まれていた。自衛官たちも死んでしまったのだろうか。戦場は死の匂いに満ちている。だが、感傷に浸ることを現実はまだ赦してくれない。

 不気味なモーター音が響き渡る。潤滑オイルが切れたような軋みをあげながら、倒れた水城の体がびくん、と痙攣する。かなりゆっくりと、死体になったはずの水城は上体を起こし始める。その恐ろしい姿に、誠は瞬きすらできなかった。

 これから始まろうとしているのは、G4システムの真のオペレーションだ。赤ん坊のようにやかましく泣き叫ぶ水城史朗は完全に沈黙した。その死体がフレームとして完全に馴染むまでそう時間はかからないだろう。いかにもロボット然としたぎこちない動きが少しずつなだらかになっていくのが見て取れる。ロボット工学の進歩過程を目の前で見せられているようだ。

 立ち上がった青い両眼は、しっかりと誠を見据えている。もし言葉を発するほどの演算処理ができればこう言っていることだろう。

 さあここからだ、氷川誠。

 まだオペレーションは終わっていない。

 どちらかが倒れるまで戦おうじゃないか。

「…………もういい」

 無意識に乾いた声を絞り出し、誠はホルスターにあるGM-01を手に取る。

 この人は全てから解放された。兵士としての枷も、矜持も、そして死も抱く必要はない。絶対的な安寧の中でようやく眠ることができるんだ。

 これ以上、この人を弄ばないでくれ。

 これ以上、何も背負わせないでくれ。

 

「もういいだろおっ‼」

 

 1発の銃声が空気を裂いた。

 GM-01の弾丸がG4の胸部装甲を穿つ。システムという糸を切られた鋼鉄の人形は、今度こそ完全に崩れ落ちた。スロートマイクに枯れた声で告げる。

「G4システム、活動を停止しました」

 報告を済ませてようやく、誠は感傷の涙を流すことができた。正直なところ出会ったばかりの人間の死に対して、それほどの悲しみを抱くことはできない。水城がどんな人生を歩み、何故死を背負う境地に至ったのかを知らない。

 悔しさの涙だった。

 氷川誠としてG4システムに勝利を納め、だが水城史朗には敗北した。彼を死への底なし沼から引き揚げることができず、2度と這い上がることのない深淵へと沈ませてしまった。

 何度も銃を撃ってきたが、彼に真の引導を渡した銃声は耳から離れることはない。最期まで苦痛に抗っていた彼の叫びも。彼の肉体を蝕んでいた蒸気の熱も。ここで覚えた感覚の全てが、この先一生誠には憑りつく。

 ああ、これが――

 そのとき全てを悟った。

 これが死を背負う、ということ。

 それは死を恐れないことじゃなかった。それは自ら背負えるものじゃなかった。

 目の前で散っていった者たちの無念を受け継ぎ、彼らの行けなかったところまで連れて行くこと。それは生き残った者しかできないことだ。そして、生き残った者もいずれは死者の仲間入りを果たす。その前に自分たちの無念と魂を受け継いでくれる存在を探し、全てを託す。水城は自身より前に散った装着員たちの「死」を背負っていた。

 目の前で「死」を目撃した者にしか背負うことができない。無理矢理持たされ、途中で降ろすこともできない理不尽なお荷物。ある意味で呪いでもある。次に死ぬ者に擦り付け、そして自身も死ぬことでしか解くことのできない呪い。

 それは今、水城史朗から氷川誠へと受け継がれる。この重すぎる呪いが裡に地獄を広げ、これからも続く人生を縛りつける。

 それでも、誠は水城と同じ境地には至っていない。今この瞬間、誠は自身の命が助かったことに安堵している。水城が弱さと断じたこの安堵を、決して離すものか、と握りしめる。

 誠は死を背負うと同時に、生もまだ背負っていた。

 

 

   3

 

 すっかり静かになった建物のある山に、一条の風が吹いた。少しばかり強い風は樹々をざわざわ、と揺らし木の葉を彼方へと運んでいく。建物から立ち込める焦げ臭さと煙さえも。まるで全てを洗い流していくように。

 建物の中から少女を抱えた青年が歩いてくる。少女は青年の腕のなかで安らかに眠っていた。起こさなければ、いつまでも眠り続けてしまいそう。

「千歌ちゃーん! 翔一さーん!」

 はやる声色で、抱えられた少女と同じ制服を着た少女たちが彼らのもとへ走っていく。ある少女は安堵に笑っていて、またある少女は目に涙を浮かべている。その様子を樹の陰に隠れながら、花丸は眺めていた。

 戻れば、また元の日常が始まる。いつ再びこんな恐怖の日が訪れるかも分からない。全て嘘になればいい。

 ――それでも生きていくしかない――

 彼の言葉が、花丸の背中を押してくれた。樹の陰から飛び出し「みんなー!」と駆けていく。最初に反応したのはルビィだった。

「花丸ちゃん!」

 ルビィも駆け出して、花丸と抱き合い肉体の感触を確かめる。親友の暖かさを感じ取り、花丸の目にも涙が浮かんだ。やっぱり、嘘になんかしたくない。ルビィがいて、Aqoursの皆がいるこの「本物」が好き、と断言できる。

「良かった。無事で良かったよお………」

 涙と鼻水で顔を濡らすルビィを抱きしめながら、花丸も「ごめんね」と涙を流しながら告げる。

 森のほうからバイクの音が聞こえ、花丸は振り返る。ずっと聞いていた音。間違いようがない。その姿は森の樹々に隠れて既に視えず、音も次第に小さくなっていく。

「ルビィちゃん。マル、名前聞かなかったずら」

 今更ながら、その事実に気付く。青年も花丸も互いに名乗らなかった。彼とはこれきりなのかもしれない。

「また会えるよ」

 ルビィが優しく言ってくれる。花丸もそう信じている。根拠はない。でも、信じなければ始めることはできない。

 きっと、いつかまた会える。

 その時まで生きよう。

 

 山道を下っていきながら、涼は安堵に溜め息を漏らす。結局マルの友人を見つけることはできず、敵たちもいつの間にかいなくなっていたから外に出たが、どうやら涼の出る幕はなかったらしい。友人らしき少女を抱きかかえていたのが以前世話になった翔一だったことには驚いたが。

 世話になった礼を言いたかったが、涼はあの「居場所」には行けない。何故なら翔一を囲む少女たちの中に果南がいたからだ。彼女の前に現れてはいけない。それは決して譲れないものだ。果南の知り合いなら、マルとも今後は会うことは無いだろう。

 寂しい、という気持ちはある。でもこれで良い。涼のために涙を流してくれたからこそ、マルにも幸せになってほしい。

 不意に、前方からの衝撃でシートから投げ出された。まるで視えない巨人の手で殴られたようだ。枝と葉で切り傷と擦り傷を負いながら、涼の体が地面を転がる。横転したバイクはエンストしている。かさ、と草を踏む音と共にこの怪奇現象を起こした者が、涼のもとへ歩いてくる。

「お前は……!」

 その恐ろしいほどの無表情は忘れようがない。涼の命を狙い追いかけ回していた男だ。

 起き上がろうとした涼の腹に凄まじい衝撃が突く。見下ろすと、腹から太い枝が血まみれで突き出している。気付くと、あの腕を落とされた時よりも熱い痛みが走る。破られた内臓の血が逆流してきて、ごふ、と咳き込む口から鮮血が垂れた。倒れると枝に腹の中を抉られ更に痛みが増す。息を荒げるが、喉元から血が溢れてきて呼吸すらできない。自分の血で溺れようとしている。

 ああ、今度こそだな。

 不思議なことに、涼は穏やかでいられた。やるべきことはやった。マルは友人と再会できた。これで終わることができる。もう苦しむことはない。

 受け入れると痛みが急速に引いていく。やっと全てから解き放たれる。これでいい。彼女を助けることで、少しだけ最期に報われた気がする。

 果南、マル。幸せにな。

 愛しい少女と心を通わせた少女。ふたりの顔を思い浮かべながら、涼は瞳を閉じる。

 痛みも苦しみも、そして思慕も、全てが冷たい無限の奈落へと沈んでいった。

 

 

   4

 

 これがふたりの「G」の物語。

 4のナンバーを与えられた死を背負う戦士の物語はここに幕を閉じる。続きを綴られる者はいつだって生者のほうだ。

 八王子駐屯地でのアンノウン襲撃事件は、陸上自衛隊と警視庁の間だけで完結させられ、市民に公表されることはなかった。幸いというべきかは曖昧だが、市街地にまで被害は及んでいなかったらしい。あの事件での犠牲者は、全員が陸自の自衛官たちだった。それを好機として、アンノウンの存在を未だに公表していない双方の上層部は沈黙することで口裏を合わせ、駐屯地の近隣住民には爆弾の暴発事故という虚偽の説明で済まされた。

 PROJECT G4(G4計画)の結末についてだが、概ねこの章を読んでくれたあなたの予想通りだろう。

 警視庁からのデータ盗用。未成年児の拉致監禁に無許可での人体実験。問題未解決でのシステム運用。それらの人道に反した所業の全ては、死亡した責任者である深海理沙ひとりに押し付ける形で陸自の上層部は誰も現職ポストから外れることなく責任を逃れた。当然のごとく計画は破棄。そもそも上層部は許可を出さず、計画は深海の独断で進められたもの、というのが陸自からの回答になっている。G4なんてシステムは存在しなかった。計画なんてそもそも発足すらしていなかった。抹消された事実は1世紀と待たずに風化し完全に忘れ去られるだろう。

 最強の軍団として君臨し歴史に名を刻むはずだったG4も、その開発を主導した深海も、そして国防の礎として文字通り命を捧げた水城史朗ら装着員たちも、自らが忠義を誓った国によって歴史の闇に葬られることになった。生き残った事件の当事者たちが口外しない限り、浮上してくることはないだろう。

 その生き残ったG3ユニットの面々には箝口令こそ敷かれなかったものの、明け透けな口止め料として特別手当が支給されることになった。決して高給ではない誠にとっては魅力的な金額ではあったのだが、受け取る気になれず誠は小沢と共に拒否した。尾室は受け取る気満々だったらしいのだが、自分だけ受け取ることが後ろめたかったのか結局彼も拒否した。落ち込む彼を見かねて小沢が誘ったのはやはり焼肉だ。

「特許取れば手当なんてはした金なくらい稼げるわよ」

 というのはビールを浴びるほど飲んでいた小沢の弁だ。因みにそれを聞いた尾室はやけ酒をあおって見事に酔いつぶれた。

 

「いらっしゃいませ」

 訪問した誠を、翔一はいつもの笑顔で出迎えてくれる。隣には陽だまりのような笑顔の千歌もいる。

「あれから、どうですか?」

 誠が訊くと、千歌はあれほどの惨劇を感じさせないほどの笑顔で応えてくれる。

「全然元気です。そろそろ練習にも出て良いかな、と思って」

 良かった、と誠は心底安堵する。あの事件で最大の被害者にも関わらず、彼女はしっかりと前を向いて生きている。千歌もまた、翔一と同じように人生の「美味しさ」と味わっているのだろう。

「どうぞ」

 居間に通された誠に、翔一はお茶を出してくれる。飲むと温かい緑茶の香りが鼻を抜けていく。

 生きているのなら、必ず最期の時が訪れる。命ある者なら逃れることができない宿命だ。その未知への恐怖に怯えるか、克服を試みるか、目を背けて生きるかは人それぞれだ。どれを選択しても、他人からとやかく言われる筋合いなんてない。

 生も死も背負ったところで、結局のところ誠もいつか死ぬ人間のひとりであることに変わりはない。この儚い肉体が朽ちるのに数十年もないだろう。死神は常に誠の背後にいる。鎌の切っ先で首を狩る機会を伺っている。もしかしたら、既に切っ先は誠の首筋に当てられているのかもしれない。

 でも世界は無情なものだ。多くの人々が死んでも、世間には大した衝撃にはならず市民は日常の延長を送り続ける。誠ひとりが死んだところで、僅かな人々が溜め息をついてそれで終わりだ。

 果たして自分の人生にどれ程の意味があるのだろう。ふとそんなことを考えてしまう。本質的に意味なんて無いのかもしれない。ただ産まれ死んでいく。命なんてものはそのひと言で片付いてしまうのかもしれない。

 それでも生きていこう、と誠は思う。

 お茶を出してくれた青年のように全てを素晴らしい、と肯定できなくても。無垢な少女のように心から笑うことができなくても。いつか、彼らのように生きることができるように。彼らのような人々を生かすために。

 大丈夫、僕はまだ戦える。

 生と死の両方を背負いながら。

「どうですか? 良い茶葉貰ったんですよ」

「美味しいです」

 このお茶が美味しい、と感じられるうちは。

 

 

 

   PROJECT G4 ―完―

 





 こんにちは、hirotaniです。

 『アギト』の劇場版である『PROJECT G4』いかがだったでしょうか? お楽しみ頂けたら幸いです。本作でも『サンシャイン』の1期と2期の中間に起こった番外編という位置付けで執筆させて頂きましたが、同時にこのエピソードは本編に組み込み切れない『アギト』のエピソードを消化するためのすり合わせでもあります。第28話『あの夏の日』と第29話『数字の謎⁉』を組み込ませて頂きました。29話に関してはテニスとラーメン一気食いの件だけですが(笑)。
 28話の導入は葦原涼について語るべき重要な話で、どうしても執筆したかったのですが原作では回想ということになっていて本編に組み込み辛かったのと、劇場版で涼の出番が少なかったので活躍の場を増やしたかった、という理由です。涼の相手役は1年生の3人から、と最初から決めていたのですが、誰にするかは執筆直前まで難航していました。「現実逃避」という思春期ならではの懊悩を抱えたキャラとしてルビィちゃんと善子ちゃんは涼との絡みがすぐに思い浮かんだのですが、花丸ちゃんだけしっくり来ませんでした。そのしっくり来ない違和感こそが、花丸ちゃんを相手役として書いた理由です。矛盾していますが、私自身違和感のある組み合わせでどう仕上がるか、という興味本位の人選でございます。
 それともうひとつ。『サンシャイン』2期での軽いネタバレですが、花丸ちゃん主役のエピソードが無かったことも理由です。国木田花丸は達観していて既に成熟していたキャラクターなので特筆すべきことがないのですが、彼女もまた多感な思春期の少女ということで、本作のオリジナル展開として成長の場を描く運びになりました。
 原作のほうでは劇場版でアギトとギルスの強化形態初お披露目となっていましたが、本作ではその要素はカットさせて頂きました。というのもビジュアルが大きく変わる強化形態とは映像作品だからこそ映える演出で、小説として書いている本作では必ずしも必要なわけではなかったのです。それにあくまで『PROJECT G4』の主役は氷川誠なので、いたずらに翔一君と涼を活躍させ過ぎるのは控えました。
 さて、劇場版も無事消化し、ようやく第2期へ進むことができます。1期が1年半もかかってしまったので、恐らく2期も同じくらいの時間がかかってしまうことでしょう(笑)。ストーリーは原作通り、なんて既にネタバレしているので今後の展開をお楽しみに、とは言えませんが、最後までお付き合い頂けたら幸いです。


   hirotani


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第14章 ネクストステップ / 人の居場所
第1話


   1

 

 輝き、て一体どこから来るんだろう?

 わたし達に降り注ぐ光。

 どんな暗闇も照らしてくれて、わたし達に進むべき道を示してくれる。

 目指す光は確かに視える。でもその先にあるものは、とても眩しくて視えない。ずっと直視していると目が眩んできて、でも瞬きをしたら消えてしまいそう。

 わたし達は輝きを目指して走ってきた。

 脇目もふらず、ただひたすらに。

 あとちょっと――

 もうちょっと――

 ようやく追いついたものを掴もうと手を伸ばした瞬間に、わたしの足元が脆いガラスのように砕ける。

 ようやく進んで昇ってきたのに、わたしはまた始まりへと落ちていく。

 全ての出発点になる「ゼロ」へ。

 

 がば、とバネが反発したように起き上がる。見渡すと、見慣れた自分の部屋だった。よく着替えやお菓子の袋を放置するけど、毎日翔一が掃除をしてくれて清潔さを保っている、普通の高校生の部屋。暗闇も、そこに降り注ぐひと筋の光もない。

 夢、か――

 安堵の溜め息をついたところで、目尻に違和感を覚えて指先で掬いとる。指を濡らしたそれは涙だ。何てひどい目覚めなんだろう。

「千歌ちゃん」

 廊下に面した障子が、部屋の前に立つ影を映している。目を擦りながら「おはよう翔一くん」とまだ呂律の回らない口で応じる。

「え⁉」

 と上ずった声をあげ、翔一は障子を開けて驚愕の表情を見せた。

「まだ寝てたの? 遅刻するよ」

 朧気な意識で、机に置いてある時計に目をやる。その時刻は、千歌の眠気を一気に吹き飛ばした。

「えええ⁉」

 

Hello,everybody!(ご機嫌よう皆さん)

 理事長のネイティブな英語が体育館に響き渡る。一応断っておくとここは英語圏の国じゃない。日本語が母語の日本静岡県沼津市内浦にある浦の星女学院だ。ついでに説明すると壇上にいる金髪の理事長は自分たちと同じ制服を着て生徒も兼任している小原鞠莉。何故生徒が理事長の座に就いているのかは――参考になるかは分からないが――第3章を読み返してもらいたい。

「本日より、Second seasonのstartでーす!」

 卓上にマイクがあるのだからそんなに声を張る必要なんて無いのだが、彼女は何をするのも大仰だし声も大きい。慎ましさがまだ1部では美徳とされるこの島国では容姿も相まって少々浮きがちだ。とはいえAqoursの面々をはじめ全校生徒にとっては見慣れたものだし、鞠莉の賑やかさはむしろ美徳と理解している。

「セカンドシーズン?」

 と梨子の前に並んでいる曜が小声で聞いてきて、「2学期、てことよ」と梨子は応じる。なるほど、と曜は嘆息し、

「それにしても千歌ちゃん遅いね」

 その言葉に梨子も溜め息をつく。

「これからはひとりで起きるから、て言ったそばから遅刻………」

 登校時にバス停にいなかったから悪い予感はしていたが、やはり的中したらしい。今までは翔一が、たまに曜や梨子が起こしに部屋まで上がり込んでいたことに流石に本人も反省したようなのだが、まだ朝の弱さは克服できていないみたいだ。

「理事長挨拶だと言いましたですわよね」

 壇上の隅から控え目な声が聞こえてきて、鞠莉は英語交じりのハイテンションなスピーチを一旦中断する。梨子たちのほうにまで声が届いている時点で隠せてはいないが。

「そこは浦の星の生徒らしい節度を持った行動の勉学に励む――」

「雪像を持つ?」

「せ・つ・ど!」

 とうとう生徒会長が大声と共に舞台袖から身を乗り出してしまう。こんな感じで、浦の星女学院の今年度2学期(Second season)は生徒たちが苦笑を漏らす緊張感のない体育館で迎えることになった。

Shut up!(お黙らっしゃい)

 と鞠莉の声がハウリングして、生徒たちの耳をつく。一応厳かに進めたいらしいが、肝心の理事長自身が厳かとは程遠いわけで。

 目的通り生徒たちの声が止むと、鞠莉はスピーチを続ける。

「確かに、全国大会に進めなかったのは残念でしたけど――」

 そこへ、鞠莉の隣にダイヤがついた。これが当初予定していた段取りだったのだろう。

「でも、ゼロを1にすることはできた。ここにいる皆さんの力ですわ」

 ラブライブの東海地区予選でAqoursは惜しくも落選。票数では、全国大会まであと僅か、というところだった。でも捨てる神あれば拾い神あり、と言うように悪い事ばかりじゃない。鞠莉が学校説明会の受付を確認したところ、希望者数の「ゼロ」が「1」に変わっていた。たったひとり。世間からすれば嘲笑を浴びる数値だろう。でも浦の星にとって、それは数字では量ることができない。

 「1」に至るまでの物語があったのだから。

 その「1」も膨らみつつある。説明会の希望者、即ち暫定的ではあるが入学希望者は10になった。

「それだけではありませんわよ」

 ダイヤが言い、鞠莉が引き継ぐ。

「本日、発表になりました。次のラブライブが」

 「ラブライブ⁉」「本当?」と生徒たちから興奮の声が漏れる。例年では、ラブライブは年に2度開催される。地区予選を突破できなかったが、まだチャンスは潰えていない。

「同じように、決勝はアキバdome!」

 そこへ、体育館に足音が飛び込んでくる。やっと来た、と梨子は笑みを零す。この学校の生徒の中で、そのニュースを誰よりも待っていたはずの生徒が。

「Too late!」

「大遅刻ですわよ」

 壇上のふたりが待ちわびたように言うと共に、全校生徒が2学期初日から遅刻をかましてきた生徒へ目を向ける。ここに満ちる興奮を彼女とも分かち合おう、と。

「次のラブライブ」

 走ってきたのか、彼女は息をあえがせながら口にする。

「千歌ちゃん!」

 梨子がその名前を呼び、メンバー達は立て続けに問う。

 まずは曜。

「どうする?」

 次に果南。

「聞くまでもないと思うけど」

 花丸、ルビィ、善子。

「善子ちゃんも待ってたずら」

うゆ(うん)!」

「ヨハネ!」

 呼吸を整え、彼女は残暑に汗を浮かべた顔を上げる。答えは分かり切っている。

「出よう、ラブライブ! そして……そして、1を10にして、10を100にして、学校を救って。そしたら、わたし達だけの輝きを見つけられると思う!」

 まだスタート地点から、少しだけ進んだばかり。

 これから躍進していこう。立ち止まることなく、どこまでも。

 ラブライブに優勝する。

 学校を救う。

 それらのことを成し遂げられれば――

 

 きっと輝ける。

 

 

   2

 

「やっぱりビールが無いと食べてる気しないわね」

 ぼやきながら、小沢は網に乗る肉をトングで返していく。G3ユニットでは事ある毎に焼肉だが、今回は勤務中での昼食。誠たちは警察の制服姿で来店している。こんな出で立ちで白昼堂々ビールなどあおろうものなら、いくら小沢とはいえ懲戒処分ものだ。勿論、彼女が本心から言っているわけではないことは承知だが、それでもいつアルコールに手を出すか誠は気が気でない。小沢はいくら飲んでも全く酔った様子を見せないのだから。

「でも氷川君も随分G3-Xの扱いに慣れたみたいね。やっぱりあなたを装着員にして正解だったわ」

 そう言われてこそばゆい気分になる。誠自身、G3-Xを使いこなせているか自信はない。でも、小沢が言ってくれているのならそうなのだろう。この上司は正直だ。良い意味でも悪い意味でも。

「ありがとうございます。全て小沢さんのお陰です」

「何言ってるの。あなたの力よ」

 「ほら食べなさい」と小沢は誠の取り皿に程よく焼けたカルビを乗せてくれる。

 G3を運用していた頃から何度も誠の装着員としての資質を疑問視されたが、そういった声は今となっては下火になっている。性能的には上位互換のG4システムに勝利したことが、上層部にとって目を瞑ることのできない判断材料になったそうだ。

「そういえばどうしてるのかしら、北條透は?」

 おもむろに小沢がその名前を口にする。

「ええ、捜査一課で頑張ってると思いますが」

「怪しいもんね。あの男がこのまま大人しくしているとは思えないわ」

 V-1プロジェクトが凍結されてから、北條は今のところG3ユニットに対して何の行動も起こしていない。それはそれで誠たちは妨害なくユニットを運用できるから大助かりなのだが、彼は何もせず燻っているわけではなさそうだ。

 北條の様子がおかしい、と河野から相談を受けたのは先日のこと。休憩スペースでコーヒーを飲みながら、河野は北條が高海伸幸殺害事件について捜査し始めたことを話してくれた。東京の高海邸にも足を運んでいるらしい。3年前の捜査が行き詰まり時効を待つだけの事件なんて、北條は興味を持ちそうにないのに。

 まあ、考えても仕方ない。今は食べよう、と誠は焼けたカルビを網から拾い上げる。柔らかい焼きたてを口に運ぶと、突然隣に座っていた尾室が席を立つ。トイレかと思ったら、尾室は出口へ小走りで向かっていって店を出てしまった。空いた彼の席に視線を移すと、彼のタレは肉を浸けていないのか脂が全く浮いていない。食欲がないのだろうか。

「どうしたんでしょう尾室さん」

「さあね。青春、てことかしら?」

 とさほど気にする素振りも見せず、小沢は肉を食べる。どういう意味なのか誠は理解できず、とはいえ理解する必要も感じず網の肉へ箸を伸ばした。

 

 

   3

 

 夏休み明けの2学期ということで、多くの生徒たちは久々の学校に気分も新たにしたいところかもしれない。Aqoursもそれに乗りたいところだが、生憎夏休みも殆ど練習のために登校していたこともあってあまり久しぶり、なんて感覚はない。当然他の生徒たちも登校しているから、賑やかになってはいるが。

 そういうわけで、初日だからといって放課後に屋上で練習する日課に変わりはない。

「善子ちゃんは相変わらず体硬いよね」

 ふたり組のペアを組みながら、果南が呻き声を上げる相方に告げる。

「ちゃんとストレッチやってる?」

「ヨハネ!」

「そんなんじゃダメダメ」

 と果南が長座体前屈をする善子の背中に全体重を乗せた尻を押し付ける。押す、というよりもはや乗っている。「痛い痛い!」と悶えながら、善子は減らず口を止めない。

「待ちなさいよ。この体はあくまで仮初め。堕天使の実体は――」

 なんていつもの発言を無視し、果南は悪戯な笑みを浮かべながら更に体重を乗せた。ぐぎり、なんて鈍い音がして、「あーたたたた!」と善子の喚き声が開けた屋上に響くも他のメンバー達は無視を決め込む。曜もペアを組む梨子とストレッチを再開する。

「花丸ちゃんは随分曲がるようになったよね」

 ルビィが言うと花丸は得意げに腕を伸ばしながら、

「毎日家でもやってるずら。それに腕立ても」

「本当?」

「見てるずら」

 と花丸はストレッチを中断し、うつ伏せになった体を両腕で持ち上げる。これにはメンバー達は注目した。インドア派の花丸は体力こそ日に日に付いているが、まだ筋力不足気味ではある。体を降ろそうと腕を曲げる花丸を、全員で固唾を飲んで見守る。

 胸が床に着こうとするところで体を持ち上げようとするが、限界が来たらしくそのまま腕を投げ出して床に伏せた。

「………完璧ずら」

 何故か達成感を告げる。でもペアのルビィは「凄いよ花丸ちゃん!」と労い、鞠莉も「It’s miracle!」と称賛を述べる。

「どこがよ!」

 と至極真っ当なことを言ったのは善子だ。とはいえ、腕を曲げられるようになったのは確かに進歩している。前の彼女は体を支えるだけで精一杯だったのだから。家でもトレーニングに励んでいるとは、花丸をそこまで動かすきっかけはどこにあったのだろう。あの日、千歌が攫われた頃に世話になった、という人物の影響だろうか。曜も会ってみたいと思うが、生憎名前も連絡先も知らないらしい。

「それで、次のラブライブっていつなの?」

 曜が訊き、梨子が「多分、来年の春だと思うけど――」と応えたところで、

「ブッブー、ですわ!」

 とダイヤが入ってくる。

「その前にひとつやるべきことがありますわよ」

 いまいち当てはまるものが思い当たらず、曜と梨子は揃って首を傾げる。するとダイヤは得意げに、

「忘れたんですの? 入学希望者を増やすのでしょ?」

 「学校説明会……」と梨子が呟いたところで「あ、そうだ」と曜も思い出す。予定されていた説明会の日程が近い。当然Aqoursもスクールアイドル部として学校のPRをしなければならないし、そもそもAqoursが説明会の要と言っていい。浦の星女学院唯一のPR要素なのだから。

「Of course! 既に告知済みだよ」

 鞠莉が意気揚々と告げる。理事長としての仕事は抜かりなくこなしてくれているらしい。廃校寸前なのだからそうでなくては困るが。

「せっかくの機会です。そこに集まる見学者たちにライブを披露して、この学校の魅力を伝えるのですわ」

 ダイヤが言うと、「それ良い!」と真っ先に賛同の声が挙がる。それを告げたのは、たった今屋上へやってきた千歌だ。

「それ、凄く良いと思う」

 遅れてやってきたリーダーに善子が皮肉を飛ばす。

「トイレ長いわよ。もうとっくに練習始まってんだからね」

「人のこと気にしてる場合?」

 と果南がまた背を押して黙らせた。

 学校説明会でのスクールアイドル部によるPR。その手段として、ライブをするのは最善だ。自分たちが何をしているか、何を以って学校を存続させようと奮闘しているか。実際にその活動内容を見てもらうのが、1番良い。

 それに関して、曜は反対する気なんて微塵も無かった。他のメンバー達も同じように。

 

 ユニットの定例会議を終え、Gトレーラーへ戻る道中にできれば会いたくない顔に遭遇する。同じ職場なのだから致し方ないし、会ったとしても当たり障りなく挨拶を交わして離れればいい。でも、そうはいかないのが北條透だ。

 彼への嫌悪感を隠さない小沢は無言のまますれ違おうとしたのだが、避けようとしたところ北條も同方向へ避け、その後もコントじみた立ち往生を繰り広げる。埒が明かないのか、北條は立ち止まり小沢を始め誠たちG3ユニットの面々を見回す。その顔に浮かぶのは、余裕綽々な怪しい笑み。

「何よ?」

 不遜に小沢のほうから声をかけることになった。こうなったら穏便にはいかない。

「いえ。こうして見ると、妙にあなた達が小さく視える」

 とやはり北條の嫌味が炸裂した。

「何言ってるの?」

 真っ向からそう言われれば、当然小沢も苛立ちを隠さずにはいられないだろう。

「悟ったんですよ、私は。G3-XだのV-1システムだの、そんなことはもうどうでもいい」

「そんなものもあったわね。あなた、まだ根に持っていたの?」

「可哀想な人たちだ。あなた達は何も知らずに最前線で働いている者。将棋で言えば歩に過ぎない」

「あなたは歩にもなれなかったけどね」

「いい加減に目を覚ましたらどうです? アンノウン関連の事件で1番大事なことはその根幹に何があるか、それを探ることです」

「それで?」

 核心を求める質問をしたところで北條は逡巡を挟み、

「それはそうと小沢さん、匂いますよ。また焼肉を食べましたね。知りませんよ。そのうちに角が生えてきても」

「角が生えたら真っ先にあなたを弾き飛ばしてあげるわよ」

 皮肉の応酬の末、北條は不敵な笑みを向けて去って行く。アンノウン事件の根幹。北條はそこへ辿り着くものを見つけたのだろうか。河野から聞いた、高海伸幸の事件に関係しているとでも。追いかけて問い詰めてみても聞けそうにない。何せ誠たちG3ユニットは最前線の、歩の業務に手いっぱいだ。捜査一課のほうで北條が謎を追ってくれるのなら、そのまま邁進してほしいものだが。

 

 

   4

 

「そっか、秋になると終バス早くなっちゃうんだね」

 学校前のバス停で時刻表を見ながら、曜が肩を落とし気味に告げる。ただでさえ空白まみれの時刻表が、これからの時期は更に余白が目立つことになる。東京育ちの梨子は、この地方ならではの時刻表を見てとても驚いたとか。内浦育ちの果南たちからすると、向こうのすし詰めにされた時刻表のほうが驚きなのだが。

「日が暮れるのも早くなっちゃうから、放課後の練習短くなっちゃうかも」

 ルビィが言うとダイヤも苦々しく、

「説明会まであまり日はありませんわよ。練習時間は本気で考えないと」

 ならバスの時間が過ぎてもトレーニングも兼ねて走って帰路につけばいい、と思ったのだが、それぞれ家までの距離にばらつきがある。あまり練習量に個人差をつけるのは好ましくない。普段の練習量の調整が難しくなる。

 そこで果南は名案を思い付いた。

「朝、あと2時間早く集合しよっか?」

 皆が「うーん」と考え込んでいるが、特に反対意見はなさそうだ。

「じゃあ決まりね」

「早すぎるわよ!」

 と善子から文句が飛んでくる。そもそも現時点でも朝練習の集合時間は始発バスで来る時刻なわけだから根本的な解決にはなっていないのだが、果南がそのことに気付くのは後になってから。

「それと善子ちゃん、もう少し早く帰ってくるように言われてるんでしょ?」

 梨子が思い出したように言うと、善子は分かりやすいほどに目を泳がせる。いつものように「ヨハネ!」と訂正しないあたり、かなり動揺しているらしい。

「ど、どうしてそれを………」

「うちの母親がラブライブのとき、善子ちゃんのお母さんと色々話したらしくて。何か部屋にも入れてくれない、て」

 自分のいないところで話された「色々」はかなり不都合なことばかりらしく、善子は顔を青ざめるも、すぐにいつもの調子を持ち直して、

「だ、だから、ヨハネは堕天使であって、母親はあくまで仮の同居人というか………」

 そこで千歌が疑問を投げる。

「お母さんてどんな人なの?」

「学校の先生なんだって」

 と梨子が答えると、ルビィと花丸が得心したように悪戯っぽく笑う。親としても教育者としても、娘が自称堕天使では心配事も多いだろう。梨子の母に吐露したくなるのも理解できる。

「善子ちゃん幼稚園まで哺乳瓶離さなかったから、お母さん――」

「うにゃあああああああっ‼」

 それ以上の暴露は善子の絶叫によって阻止される。場が笑い声に包まれたところで、梨子は思い出したように、

「待って。沼津からこっちに来るバスは遅くまであるのかな?」

 その疑問に笑い声が止み、皆は再び「うーん」と唸る。あまり利用しない時間帯だから、この場で知っている者はそういない。

「仕事帰りの人がいるから………」

 そう千歌は呟いてから表情を明らめて、

「向こうで練習すれば良いんだ!」

 これは名案だ。沼津市街からなら通勤通学のために便も充実しているだろう。

「それなら時間も確保できるずら」

「ルビィ、賛成!」

 果南も異議はない。

「そうだね、鞠莉は?」

 訊くと、鞠莉は「え?」と上ずった声で応じるもすぐにいつもの笑顔で、

「No problem」

 その様子に果南は違和感を覚える。鞠莉が人の話を聞かないことはよくあることだが、こういった皆での話し合いにはしっかり参加する。

「よし、じゃあ決まり!」

「明日練習場所になりそうなところ、皆で探しましょ」

「新たなリトルデーモンたちを増やそうぞ」

「善子ちゃん張り切りすぎずら」

「ヨハネ!」

 そんな皆の他愛ない談笑にもすぐ加わるはずなのだが、鞠莉は物憂げに目蓋を垂らして海を眺めていた。

 

 



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第2話

 

   1

 

 去って行くバスの車窓から手を振る曜と善子に、梨子は「またね」と手を振り返す。バスが見えなくなったところで一緒に下車したはずの千歌がいないことに気付き、辺りを見回す。海水浴客も落ち着いてきた三津海水浴場で、桟橋に立つ千歌をすぐに見つけることができた。

 そういえば初めて会ったのはここだったっけ、とそう遠くもない過去に感慨を覚えながら、梨子も桟橋を歩き千歌の隣に立つ。

「綺麗………」

 生まれ育った地元の海を眺めながら、千歌は呟く。梨子も綺麗だな、と思った。水平線に沈もうとする太陽と、太陽の輝きに合わせて色を変える空と海。プリズムに分けられた光のように、ここの海もまたいくつもの色を見せてくれる。

「本当………」

「わたしね、一瞬だけど、本当に一瞬だけどあの会場で皆と歌って、輝く、てどういうことか分かった気がしたんだ」

 沈もうとする太陽に向かって手を伸ばす千歌に「本当に?」と訊く。

「うん、勿論」

 そう答えた千歌は、突然桟橋を駆け出し、その先端に届こうとしたところで跳び上がる。桟橋の縁で着地したが、ふらついて危うく海に落ちるところを追いかけた梨子が手を掴んで落水を阻止する。妙な既視感を覚えたところで、あの時と立場が逆転していることに気付く。

 本当、変な人。いきなり突拍子のないことをしでかすから目を離せない。

「まだぼんやりだけど、でもわたし達は輝ける。頑張れば絶対、て。そう感じたんだ」

「うん、大変そうだけどね」

「だから良いんだよ」

 この海のある街で芽生えた輝きたい、という願い。道はとても険しかったけど、それでもゼロを1にできた。確かに前に進んでいる。

 もっと先に進める、という確信は梨子にもある。きっと容易ではないだろうけど、だからこそ価値があるのかもしれない。

 だからこそ、その先にある輝きを視てみたい。皆と一緒に。

 

 

   2

 

「あ、千歌ちゃんお帰り。氷川さんが千歌ちゃんに用がある、て」

 帰宅してすぐ、翔一に言われ千歌は居間へと入った。旅館なのに行儀よく座布団に正座していた青年刑事は千歌を認めると「お帰りなさい」と会釈してくれる。「こんにちは」と千歌も挨拶を返し、誠の対面に腰を落ち着ける。

「調子はどうですか?」

「変わりないです。氷川さん心配しすぎですよ」

 つい笑みを零してしまう。誘拐されてからというもの、誠は頻繁に十千万まで足を運んでくれている。仕事があるはずなのに、これも仕事ですから、と嫌な顔なんて微塵も見せずに。

「そうそう、次のラブライブが決まったんです」

「らぶ、らいぶ?」

「スクールアイドルの大会です。決勝はアキバドームでやるんですよ」

「あの会場ですか? 凄い大会なんですね」

「こんな普通なわたしでも、あの会場で歌えたら、輝けそうな気がするんです」

「そんな普通だなんて。千歌さんは凄い人ですよ。以前夏祭りのライブを観させてもらいましたが、とても良かったです」

 面と向かって褒められるとこそばゆい気分になる。こうして近況報告をしていると、何だか年上の親戚と話しているみたいだ。

「お待ちどおさまあ」

 そこで翔一がお盆を手に入ってきた。「何ですかこれは?」と誠が訊くと、翔一は刺身や細切りの野菜が盛られた大皿と白米が詰められた底の浅い桶をテーブルに並べながら、

「手巻き寿司セットですよ。まだ暑いですからね。夏と言えばやっぱこれでしょ。今日の晩御飯なんですけど、氷川さんも食べてください」

 「千歌ちゃん」と居間に志満が顔を出してくる。

「お客さんよ」

 「どうぞ」と志満に促され、険しい顔つきの青年が「失礼します」と入ってくる。パーティーにでも行くのかな、と思った。素人の千歌にも分かるほど、青年の着ているスーツは仕立てが良い。

「北條さん?」

「氷川さん?」

 知り合いなのか、互いに見開いた目で視線を交わす。だがすぐに青年は千歌へと向き、

「警視庁捜査一課の北條です」

 そう名乗りスーツの内ポケットから警察手帳を見せる。

「はじめまして、高海千歌です」

 何だか怖い人だな、と千歌は肩を強張らせる。まるで全てのものに疑いの目を向けているような顔つきだ。この人も刑事ということは、誠と同僚ということか。

「ああ北條さんいらっしゃい。ほら座ってください。千歌ちゃん、北條さん確かに顔は怖いけど悪い人じゃないからさ」

 なんて翔一が言ってくれたお陰で、北條はますます顔を険しくしながらも誠の隣に座る。北條は卓に並べられた手巻き寿司セットを不思議そうに眺めたが、敢えて追求はしない。

「北條さん、もしかして千歌さんのお父さんが殺された事件について、ですか?」

 誠が訊くと北條は「ええ」と首肯し、

「河野さんから聞きましたか。確かに今、高海伸幸氏が殺害された事件の捜査をしています」

 それを聞いて、千歌の裡で締め付けられるような感覚を覚える。鼓動が速まっているのが分かる。

「何か新しい手掛かりとか、あったんですか?」

 その千歌の質問に北條は「いえ」と即答するが、

「それを得るために、こちらに伺ったんです。実は、ひとつお尋ねしたいことがあるのですが、高海伸幸氏の周りに、いわゆる超能力を使える人物はいませんでしたか?」

 突拍子もない質問だが、ふざけるのに北條の顔は険しすぎる。

「超能力? 何だってそんなこと訊くんです?」

 訊いたのは翔一だった。北條は眉ひとつ動かさないまま答える。

「高海氏の遺体の状況からみて、彼は超能力によって殺害された可能性があるからです」

 開いた口が塞がらなかった。北條は構わず続ける。

「ある説によりますと、超能力者は知らず知らずのうちにその力を発揮することがあるといいます。もしかしたら犯人に殺意はなく、無意識のうちに高海氏を死に至らしめたのかもしれませんが」

 裡に渦巻く感情をどうしたらいいのか、千歌には分からない。もし犯人が本当に超能力者で逮捕されたら、自分はその犯人を恨むのだろうか。父の遺体はかなり特殊な状態で、殺されたのか病なのかすらも分からない、と事件当時に聞かされていた。犯人の顔も分からない。その顔すら本当は無いのかもしれない。そんな事件の曖昧さが、千歌の裡にもあるべき感情を作ってくれず無秩序に溜まっている。

 場に漂う重たい沈黙を誠が破る。

「超能力者が犯人なんて、何か証拠があるんですか? 僕としては、あれはアンノウンの仕業だと思っていますが」

「機動隊員が超能力者らしき人物に殺害された事件は氷川さんもよくご存じでしょう? 遺体の状態は高海氏とよく似ています」

 北條のよく立つ弁に、誠は反論できずにいる。北條は千歌へと向き直り、

「どうです? 何か心当たりはありませんか?」

 心当たりなんて、まるでない。離れて暮らしていてあまり会えなかったから、父の周囲にどんな人物がいたかなんて分かるはずがない。心当たりがあるのは父の周囲じゃなく、千歌の周囲。そして千歌自身にある。

「いえ、分かりません………」

 本当のことを告げる勇気を、この場では持てなかった。梨子が超能力で誠に捜査協力をしたことも。千歌が超能力を持つ故に誘拐されたことも。それを言えば、何が起こるのかは分からないが得体の知れない恐怖が迫るという確信がある。

「本当に?」

 疑り深い性分らしく、北條は探るように千歌を睨みつける。

「何かちょっと緊迫してません?」

 と明るい口調で翔一が場を持ち直そうとしてくれる。

「手巻き寿司でも食べて、肩の力を抜きましょうよ。ほら、このトマトとキュウリはうちの菜園で採れたものなんです」

 察したのか、誠も笑顔で「美味しそうですね、いただきます」と箸と海苔を手に取る。

「手巻き寿司は久しぶり。トマトとキュウリがツヤツヤしてますね」

 と海苔に酢飯と細切りの野菜を乗せていくのだが、明らかに酢飯の量が多い。海苔に収まり切らないのに無理に巻こうとすれば、どうなるか千歌は知っている。何故なら経験者だから。予想通り、巻いた海苔の端から酢飯が零れ落ちて、更に注がれた醤油の中に沈む。

 ああ、やっちゃうよね、と千歌は苦笑した。千歌も幼い頃、手巻き寿司で具と酢飯を大量に乗せて零したことがある。

「ああ氷川さんこれなんだからもう。ほら俺が巻いてあげますから」

 と翔一が海苔を取るのだが「結構です」と誠は制し、

「僕はこういうのが好きなんです」

 巻き寿司というよりおにぎりのようになった物を誇らし気に見せ、それを口いっぱいに頬張る。とても口に収まり切らない量だから、喉元にまで達したらしくむせかえった。翔一から聞いてはいたけど、本当に不器用なんだなあ、と千歌は思った。

「じゃあ、どうですか北條さん?」

 と綺麗に巻いた寿司を北條へ差し出したのだが、北條は目の前の寿司をじ、と凝視したまま手に取ろうとしない。

「こ、これは………」

 気のせいだろうか、顔が青ざめている気がする。「ささ、どうぞどうぞ」と勧める翔一の手を「い、いえ結構です」と払いのけネクタイを緩める。

「ちょっと、気分が………」

 お寿司嫌いなのかな、と千歌が思っていると、ようやく寿司もといおにぎりを咀嚼できた誠がひと言。

「トラウマですか?」

「違います!」

 

 

   3

 

「でも、パパは待つ、て約束してくれたじゃない! それを急に――」

 電話の奥からは、無慈悲な言葉が羅列されていく。伝えるべきことを伝えると、父のほうから通話は切られた。衝動的にまた連絡を、とスマートフォンの画面をタップしようとするが、すぐに落ち着きを取り戻し指を離す。

 頭を冷やそうとバルコニーに出た。夜の海風が鞠莉の髪を揺らす。父の事情も理解している。娘の我儘に付き合ってくれて、できる限りのこと全てに力を尽くしてくれている。鞠莉の我儘も、父の権限も、既に限界が来ているということだ。

 ふと、船着き場でライトが点滅していることに気付く。小原家専用だから、こんな時間に訪れるのはひとりしかいない。いつもなら来てくれると嬉しいのに、今夜だけは来てほしくなかった。気付かない振りをして部屋に引っ込んだところで、あのせっかちな親友は電話でもして呼び出してくるだろう。

 船着き場まで降りて、鞠莉はいつもの調子で「お待たせシマーシタ!」と果南を出迎える。

「何があったの?」

Sorry. I can’t speak Japanese. (ごめん。ちょっと何言ってるか分からない)

「何かあったでしょ?」

 苛ついた顔と声音で訊かれて、一瞬だけ鞠莉は怖気づいてしまう。でもすぐに調子を持ち直し、

「何の話デース?」

 と果南の胸に飛び込むのだが、返ってきた声はあまりにも冷たい。

「訴えるよ」

 流石にこれ以上ふざけたら怒られそうだから「Wait.wait.」となだめながら離れる。

「仕方ない。実は――」

「実は?」

「最近、weightがちょっと上がってblueに――」

 言い終わる前に体を抱き上げられる。果南ならこれくらい造作もない。

「嘘だね。変わりない」

「何で分かるの?」

「分かるよ。大体鞠莉はそのくらいでブルーにならないからね。何?」

 促され、鞠莉はきつく唇を結ぶ。体重が少し増えたことは本当なのだが、そんなことはどうでもいい。告げたら果南がどんな顔をするか想像できる。果南だけじゃない。他のメンバーも、生徒たちの顔が浮かぶ。

「鞠莉!」

 果南に隠し事はできない。隠したって、これは告げなければならない。

「どうしたらいいの………」

 酷すぎる現実に、鞠莉は果南の胸に涙を落とすことしかできない。誰を頼ればいいのかも分からない。こんな時に助言をしてくれそうな人物とは、一向に連絡がつかないままだ。

 鞠莉は裡で、決して返ってこないと理解しながらも助けを求めずにいられなかった。

 

 ――(かおる)、わたしはどうしたらいいの?――

 

 

   4

 

 まだ抜け切らない眠気に、千歌は大口を開けて欠伸をする。今日は何とかひとりで起床できたが、できたらできたであまり熟睡した気がしない。夜更かしのせいで尚更。

「千歌ちゃん、良い場所あった?」

 曜が訊いてくる。各々で練習場所になりそうなところを提案しよう、と朝に部室で集まったのだが、発案者でありながら千歌からは良い知らせができない。

「中々無いんだよね」

 志満や美渡や翔一にも場所を聞いてみたのだが、これといった場所がない。公園だと屋外だから天候に左右されやすいし、スタジオを借りるにしても料金がかかる。半年近くもの利用料金を部費から捻出するには厳しく、千歌たちの小遣いは衣装代や遠征費に充てたい。

「ずら丸の家お寺でしょ? 大広間とかないの?」

 善子が提案するのだが、花丸は食べているのっぽパンの屑を口元に付けながら不気味に間延びした口調で、

「うちのお寺で本当に良いずらか?」

 そういえば家電を殆ど置いていないほど古い寺だった。寺なら敷地内に墓地とかあるかもしれない。そんなことを想像したのか、善子とルビィは肩をびくり、と震わせる。

「あと、うちは遠いから無理ずら」

 ひとつ候補が消えた。

「なら、善子ちゃんの家のほうが………」

 とルビィが恐る恐る提案するのだが、

「どこにそんなスペースがあるのよ!」

 即で却下される。マンションの共同スペースも無理らしい。

「あれ、そういえばダイヤさん達は?」

 曜が指摘して、いつの間にか部室から3年生の姿がなくなっていることに気付く。何だろう、と思ったが、疑問以上に眠気が勝り再び千歌は大きな欠伸をする。

 がたん、と長机が跳ねた。ひっくり返って、埃を立てながら床に倒れる。突然のことに部室にいる全員が驚いて、花丸に至ってはのっぽパンを喉に詰まらせたのか胸を叩いている。

「な、何⁉ 地震?」

「でも揺れなかったわよね?」

 曜と梨子が動転しながら口走る。

「まさかリトルデーモンが――」

「違うずら」

 善子の的外れな予想は無事にのっぽパンを飲み込んだ花丸に否定される。

「とにかく直そう」

 いち早く冷静になったルビィに倣い、皆で長机を持ち上げて元の位置に戻す。

「わたしが欠伸したせい?」

 「どんな欠伸なの?」と梨子から細めた目を向けられてしまう。千歌だって欠伸で机をひっくり返すなんて有り得ない、と思う。

 ――超能力者は知らず知らずのうちにその力を発揮することがあるといいます――

 不意に、北條の言葉が恐怖を纏って千歌の脳裏に走った。

 

 通話相手の声が聞こえなくても、鞠莉の表情から決して好都合に事が運んでいないことは理解できる。苦々しく固定電話の受話器を置く鞠莉に、果南は察したことを口にする。

「もう、覆しようがないんだね」

 「いえ、まだ――」と再び受話器を取る鞠莉の手を制し、

「ダイヤは知ってるの?」

「言えるわけない………」

 この理事長室にいるのがふたりだけだから何となく察してはいたが、やっぱりか。果南にもしつこく詰め寄られるまで白状しなかったのだから当然ではある。理事長だからといって、どうしてひとりで抱え込もうとするのか。理事長と同時に鞠莉だって生徒なのに。

「だったらちゃんと隠しなさい」

 そんな果南の想いを代弁するかのように、その声は理事長室に入ってくる。微かに驚きながら振り向くと、果南の予想外なことにダイヤは優しい笑みを向けていた。

「本当にブッブー、ですわ」

 

 

   5

 

 メンバー全員で訪れた「プラサヴェルデ」は、沼津駅の北口から徒歩数分もないほど近くにある。主に会議場や展示場として使用され、ホテルも併設されている多目的施設になっている。フロアによって大きさは異なるが、最も大きいホールは最大1000人を収容可能になっている。Aqoursに手配されたのは、その施設内の小会議室だった。

「ひろーい!」

 部屋に入って開口1番、千歌は感嘆のあまり大声をあげる。小会議室と名が付いているが、9人いても十分すぎるほど余裕がある。

「ここ開けると鏡もありますし」

 ルビィが壁一面に張られたカーテンを開くと、そこにはカーテンと同じ面積の姿見が千歌たちの姿を映し出す。

「いざ、鏡面世界(ミラーワールド)へ!」

 なんて鏡に駆け出しそうな善子を「止めるずら」と花丸が阻止する。でもそうしたくなる気持ちも千歌は理解できてしまう。こんな場所を借りられるなんて、プロのアイドルになった気分だ。今日は下見だけ、ということで来たが今すぐにでも練習したい。

「パパの知り合いが借りてる場所なんだけど、しばらく使わないから、て」

 この場所を提案してくれた曜に「さすが船長!」と称賛を送るも「関係ないけどね」と苦笑交じりに返される。

「それに、ここなら帰りにお店もたくさんあるし」

 練習帰りに買い食いやアミューズメント施設に行けるなんて都会の高校生になったよう。

「そんな遊ぶことばっか考えてちゃ駄目でしょ」

 と梨子の苦言が来るのだが彼女も「本屋もあるずら」という花丸の声に「ええ!」と目を輝かせる。人のこと言えないじゃん、と文句のひとつも言いたくなったところで「じゃあさ」と曜が、

「皆で1度フォーメーション確認してみない?」

 やっぱり曜も早くこの場所を使いたかったらしく、勿論千歌は賛成の声をあげようと口を開く。

「ちょっと待って」

 千歌より先に、果南の声が発せられる。

「その前に、話があるんだ」

 そう切り出す果南はとても楽し気には見えない。両隣にいるダイヤと鞠莉も。特に鞠莉は、顔を俯かせて千歌たちのほうを見ようとしない。見られない、と言うべきか。

「実はさ………」

 「鞠莉」と果南から促され、ようやく鞠莉は顔を上げる。

「実は、学校説明会は中止になるの………」

 消え入りそうな声で告げられたことを理解するのに、千歌はしばしの時間を要した。どうせ嘘だ。鞠莉のことだから冗談に決まっている。すぐに「It’s joke」と言うに違いない。

 でも、どれだけ待っても鞠莉の口からは続きが出てこない。いや、いくら鞠莉でもこんな質の悪い嘘はつかない。そのあたりの良識くらいわきまえている。

「………中止?」

 千歌が反芻し、続けて梨子が訊く。

「どういう意味?」

「言葉通りの意味だよ。説明会は中止。浦の星は正式に来年度の募集をやめる」

 果南は淡々と答える。どうしてそんなに冷静でいられるのか、不気味とすら思えてくる。学校が本当になくなってしまうというのに、果南はそれを受け入れるのか。

「いきなりすぎない?」

 その冷静さが鼻についたのか、善子が噛みつくように言う。

「そうずら。まだ2学期始まったばかりで………」

 花丸の言う通りだ。まだ自分たちは何もできていない。これから躍進していこうと、1になった10をもっと増やそう、と意気込んでいたところなのに。

 ダイヤが後を引き継ぐ。

「生徒からすればそうかもしれませんが、学校側は既に2年前から統合を模索していたのですわ」

 3年生がスクールアイドルを始めた時期。その時点で既に浦の星は窮地に立たされていた。千歌たちの代が最後のチャンスなのは知っている。だからこそ、3人はまたステージに戻って一緒に廃校阻止に動いてくれたのに。

「鞠莉が頑張って、お父さんを説得して今まで先延ばしにしていたの」

 もうどうしようもない。果南はそう言っているように思えた。

「でも、入学希望者は増えてるんでしょ? ゼロだったのが、今はもう10になって、これからもっともっと増える、って――」

 曜の言う通り、増えているのは事実のはず。千歌も説明会の受付で人数を確認している。成果はしっかりと出ているのに。

「それは勿論言ったわ」

 鞠莉は苦しそうに弁明する。こんなこと言いたくなかった、という彼女の懊悩が、嫌というほど伝わってくるのが尚更に辛い。

「けど、それだけで決定を覆す理由には――」

 全て言い切る前に、千歌は衝動的に鞠莉へ詰め寄っていた。

「鞠莉ちゃん、どこ?」

「チカっち?」

「わたしが話す!」

 答えが返ってくる前に、千歌は部屋から飛び出す。

「千歌ちゃん!」

「待って、アメリカよ!」

 曜と梨子に呼び止められ、少しだけ頭が冷えた。足を止める千歌の背中に梨子は告げる。

「鞠莉さんのお父さんはアメリカなのよ」

 「そうですよね?」と訊かれ、鞠莉は気迫の失せた声で「Yes」と答える。

 だからどうした。場所なんて関係ない。まだ冷え切っていない千歌の脳裏では、そんな思考が走っている。直談判でもしなければ気が済まないほどに。

「志満姉や美渡姉やお母さんや翔一くん。あとお小遣い前借りして、前借りしまくってアメリカ行って。もう少しだけ待ってほしい、て話す」

 梨子が訊いてくる。

「できると思う?」

「できる!」

 これまで無理だと思っていたことでも、自分たちはやってこられたじゃないか。ゼロから脱することができたのだから、渡米して説得するくらい可能のはず。

 やっと進み始めたところだ。

 これから、という時にチャンスが潰えるなんて、絶対に認めない。

 これまで千歌の熱意を共にしてくれたメンバー達は、この時ばかりは同意してくれない。「こうなったらわたしの能力で――」と善子も口上を諦める。とてもそんな雰囲気じゃない。

 誰も着いてこなくなっていい、とすら千歌は思っていた。わたしひとりでもアメリカに行くから、と。

「鞠莉はさ、この学校が大好きで、この場所が大好きで。留学より、自分の将来より、この学校を優先させてきた」

 果南に続いてダイヤも、この辛すぎる現実を述べる。

「今までどれだけ頑張って学校を存続させようとしてきたか。わたくし達が知らないところで、理事長として頑張ってきたか」

「その鞠莉が、今度はもうどうようもない、て言うんだよ」

 諦めの言葉なんて聞きたくない。耳に蓋があったら塞ぎたい気分だ。頑張ってきたなら尚更諦めてはいけない。今まで諦めかけたことは何度もあった。でも諦めなかったからここまでこられた。

 次々と言葉が浮かんできて、それをぶつけようと振り返る。でも、鞠莉の顔を見たらそれらの言葉が全て消えてしまう。

「チカっち、ごめんね」

 そう謝りながら、鞠莉は笑っていた。その瞳に浮かんでいる涙を懸命に堪えているのを、千歌は見逃さなかった。

「違う、そんなんじゃない。そんなんじゃ………」

 泣きそうになるほど悔しいなら、わたしと一緒にもっと悔しがってよ。諦め切れないなら諦めないでよ。そう喚きたくても、それは子供の我儘だ。鞠莉も千歌の知らないところで散々悔しがって、枯れるほど泣いたのかもしれない。そう思うと、自分の言葉がどれも無責任に思えて仕方ない。

 突然、鞠莉の体が後方へと吹っ飛んだ。まるで見えない何かに撥ねられたみたいに。

「鞠莉!」

「鞠莉さん!」

 いち早く果南とダイヤが、床に倒れた鞠莉のもとへ向かう。他の面々も「大丈夫?」と声をかけている中、千歌は膝が震えてその場から動けずにいた。

 今の、わたしがやったの?

 部室で机を跳ね返させたのも、やはり自分の力なのか。その可能性が更に震えを激しくさせる。

 ――無意識のうちに高海氏を死に至らしめたのかもしれませんが――

 また北條の言葉が脳裏をよぎり、気付けば千歌は施設を飛び出していた。

 

 



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第3話

 

   1

 

 もしあの時。ラブライブの予選に勝って本大会に進んでいたら、未来は変わってたのかな?

 未来は違ってたのかな?

 

 ひとりバスに乗って帰宅すると、玄関先で翔一がしいたけにブラッシングをしている。

「お前もそろそろ冬毛かあ」

 ブラシに付いた大量の抜け毛を見ながら、翔一が感慨深そうに呟く。「ワン」としいたけが鳴いたところで千歌に気付き、

「お帰り、今日は遅かったね」

「………うん」

 翔一の鷹揚さに付き合う気分になれず、気の抜けた返事をする。察しているのかそうでないのか、翔一はいつもの調子を崩さない。

「さっきむっちゃん達来てたよ。凄いの持って来てくれたからさ、部屋行ってみなよ」

 そう言って翔一は手早くブラシから落としたしいたけの抜け毛をビニール袋に入れて、千歌の背中を押して部屋へと誘導していく。

 部屋に着くと、壁に千羽鶴が吊るされていた。色とりどりの鶴たちと一緒に束ねられた短冊には「目指せ‼ ラブライブ」とメッセージが綴られている。

「これ………」

「皆で折ったんだって。凄いよねえこんなに沢山。千羽越えてるんじゃないかな?」

 折られた鶴の1羽ごとに込められた生徒たちの願い。Aqoursがラブライブに優勝できますように。学校が存続しますように。皆から託された、活力を与えてくれた願いが、今はとても重くて苦しい。

「千歌ちゃん、どうしたの?」

 無言のままの千歌を不思議がってか、翔一が訊いてくる。「何でもない」と千歌は笑顔を作り、

「ありがとう」

 翔一は分かりやすいほどに眉を潜めながらも、それ以上追求することなく部屋から出て行く。ひとりになって、鞄を無造作に床に置くとベッドで体を丸める。

 説明会中止。

 それと同時に圧し掛かってきた事に、千歌の背中は押し潰されそうになる。

 わたしが、超能力者?

 そんな不思議な力、今まで使ったことなんてない。わたしは普通星に生まれた普通星人。特別な力なんて持たず、平凡に生きていくだけ、と信じて疑わなかった。

 でも、北條が言っていた。超能力者は無自覚に能力を使う、と。今まで千歌自身が気付いていなかっただけで、身の回りで何か起こっていたのか。

 千歌は思い出す。小学生の頃、近所に住んでいた老婆が亡くなった。病気で長く入院していたが、完治して退院した矢先での死だった。高齢だったから別の病を患っていたのかもしれない、と母は言っていた。

 もし老婆の死が、自分の力によるものだとしたら――

 荒唐無稽だが超能力だ。不可能なことも可能にしてしまう。千歌の知らないところで力が発現していたのなら、気付きようがない。

 だとしたら、離れた場所にいる人間を殺してしまう可能性だって否定できない。

 千歌は過去の記憶を手繰り寄せる。幼稚園の頃、東京にある父の家に行ったときの記憶。娘の訪問に父はとても喜んでくれて、玄関で迎えると小さな千歌を軽々と抱き上げてくれた。その日、千歌は父と指相撲をして遊んでいた。千歌が勝ったのだが、大人に敵うはずないから父は手加減してくれたのだろう。でも父は千歌よりも喜んでいて、大きな手で頭を撫でてくれた。

 ――強くなったなあ千歌――

 まだ残暑が厳しいのに、寒気で体が冷え込む。千歌は抱えた膝に顔を埋めて、纏わりついてくる恐怖に打ち震えた。

 

 

   2

 

 曜たちに告げられた翌朝に、緊急の全校集会が開かれた。生徒たちは何だろう、と口々に疑問を述べていたが、曜たちAqoursのメンバーは内容を知っている。それでも言わなかったのは、違うかも、という期待もあったのかもしれない。

 昨日のことは、ただの夢だったのかもしれない。

「諸般の事情により、説明会は中止。この浦の星女学院は正式に来年、統廃合となることが決まりました」

 理事長の鞠莉が告げて、現実だったことを認めざるを得なくなる。ざわつき始める生徒たちの反応は昨日の曜たちと同じ、困惑が大半を占めていた。

「準備を進めていた皆さん。大変申し訳ありませんが、説明会は取りやめになりますので、至急ポスターなどを撤去してください」

 ダイヤからの通達が、生徒たちの耳に届いているかは分からない。

「千歌ちゃん、本当に来てないんだね」

 自分のクラスの列を見渡して、曜は呟く。登校するときにメールが来たから知ってはいたが。同じく連絡を受け取っていた梨子は重々しそうに、

「それほどショックだったのよ。これから、て時だったんだから」

 説明会の中止で落ち込んでいる。この時の曜はそう思っていた。でも事実は、そんな曜たちの予想よりも複雑だったことを知るのはもう少し後になる。

 

 1日の始業時刻になってすぐに訪れた来客に、誠は戸惑いながら応対することになった。何故ならその来客は2学期が始まった学校に登校しているはずの千歌だったからだ。制服を着て学生鞄を提げていることから、家人には登校する素振りで反対方向にある沼津署まで足を運んできたのかもしれない。

 そんな千歌が訪ねてきた要件に、誠は驚かされる。

「自首したい? 一体何の話です?」

 ひどく沈んだ表情の千歌は、表情と同じく沈んだ口調で言う。

「わたし………。わたし、お父さんのこと本当はわたしが犯人なんじゃないか、て………」

「千歌さんが、高海伸幸氏を? 何言ってるんです?」

「北條さんも言ってたじゃないですか。無意識のうちに超能力を使っちゃう場合がある、て。だから……、もしかしたらわたしが………」

「北條さんの言ったことなら気にしないでください。少し思い込みが激しいところのある人で。すいません」

 思考が飛躍し過ぎな気もするが、北條もこんな少女を怖がらせるなんて。後で注意しておかなければ。

「でも、お父さんが超能力で殺されたなら、わたしの他に心当たりないですし………」

「それについても、北條さんが勝手に推測しているだけです。何の証拠もないんですから。考えすぎですよ」

 大体、事件当時に高海伸幸は家族と別居している。担当していた河野は念のため聴取して、千歌たち高海家のアリバイが判明している。身内による犯行は捜査の初期段階で外されているのだから。

 そもそも事件内容が不明瞭過ぎて、どんな推理も憶測の域を出ない。北條の超能力説も、誠のアンノウン説も。

 

 氷川さん、困ってたな。

 通勤ラッシュを過ぎた時間帯だから、沼津の街にそれほど人通りは多くない。梨子には連絡しておいたけど家族には何も言わずに家を出たから、今頃学校から連絡が来ているだろうか。帰ったら姉たちに叱られるだろう。

 暇を潰そうにもゲームセンターで遊ぶ気分にもなれず、行く当てもなく虚ろに歩く。

「千歌ちゃん」

 馴染みのある声。振り返ると、買い物袋を提げた翔一が駆け寄ってきた。

「こんなとこで何してるの? 学校は?」

「ごめん、ちょっと気分悪くて………」

 我ながら嘘が下手だ。体調不良ならそう言って家で休めばいいのに、わざわざ街を徘徊するなんて。

「どうかした?」

 翔一にも悟られるなんて、きっと今はとても分かりやすいほどに沈んだ顔をしているのかもしれない。

「ねえ、ちょっと付き合ってくれない?」

 翔一は戸惑いながらも「うん」と頷いてくれる。思えば一緒に暮らして2年、翔一はいつも優しくて怒った顔なんて見たことがない。それは彼が変身すると知っても、彼が記憶を取り戻していた間も変わらなかった。千歌と同じように「普通の人にはない」力を持っているのに。

 千歌にとってどんな姿でも、どんな名前でも翔一は翔一のままだった。それは千歌も同じになれるのだろうか。千歌の裡にある力が完全に目覚めても、千歌は高海千歌でいられるのだろうか。

 コンビニで買ってもらったかき氷を手に、千歌は翔一と市街を流れる狩野川の畔に腰掛けた。好きなミカンシロップのかき氷なのだが、食べる気になれない。

「ねえ翔一くん、ちょっと訊いてもいい?」

「何?」

「翔一くんから見て、わたしってどう? どんな人?」

「え?」

 眉を潜めながら、翔一は「うーん」と考え込む。

「急にそんなこと言われても……、何かよく分からないけど………」

「そうなんだ……。訳が分からないんだ、わたし………」

「そういう意味じゃなくて、誰かのことをこういう人だとか言っても、そんなの分かんないじゃない」

「そりゃそうだけど………。でも、わたしのお父さんは凄く分かりやすい人だったよ。優しくて正直な人だったから」

「そうなんだ」

 思えば、父は翔一に似ていた気がする。千歌や志満や美渡。娘たちをとても可愛がってくれて、千歌もその愛情を確かに感じ取っていた。翔一が高海家と同居するのをすぐに受け入れられたのは、翔一の人柄もあるが彼の笑顔に父の影を無意識に見出して、父を失ったことの虚しさを埋めようとしていたのかもしれない。もっとも、翔一は父親というより兄のような存在だけど。

「翔一くん、手見せて」

 千歌が言うと、翔一は戸惑いながらも手を差し出す。彼の掌に、千歌は自身の掌を合わせる。台所での水仕事のためか、翔一の手は少し乾燥肌気味だ。

「結構翔一くんも手大きいんだね。お父さんも大きかった。大きな手でわたしを抱き上げてくれたり、頭を撫でてくれたり。でも、翔一くんの言う通り人のことなんて分からないよね」

 いくら娘でも、千歌は父がどんな仕事をしていたのかよく知らない。大学で教鞭を取っていた、とは聞いていたが、職場で父がどんな顔をしていたのか、父の周りに誰がいたのかも知らない。

 他人のことが分からないのと同様に、時折自分のことも分からなくなることがある。自分は何が好きなのか。本当にそれが好きなのかすらも。

「いくら大好きでも、わたしだってお父さんに怒られたことだってあるし」

 それは千歌自身も気付いていなかったことなのかもしれない。気付かない振りをして目を背けていただけなのかもしれない。

「もしかしたらわたし、心の奥でお父さんを憎んでいたのかも」

「何よ急に。そんなこと、ないんじゃない?」

 翔一はこんな時でも優しくしてくれるけど、千歌はその優しさを素直に受け取ることができずにいた。わたしでもわたしのことが分からないのに、翔一くんに何が分かるの。そんな芽生えかけた苛立ちが、また恐怖を引き起こす。

 ぼごん、と川面が波立った。「ん?」と翔一がその一点へ目を向けた瞬間、川面から飛沫をあげて何かが飛び出してこちらへと向かってくる。かき氷をぶちまけながらも避けたから、直撃は免れた。

「何だ?」

 緊迫した表情で、翔一は川から飛んできたものを凝視する。それは自転車だった。ずっと長く川底に沈んでいたせいか、フレームの殆どが錆に覆われている。

 まただ、また力が――

 この力のせいで、千歌自身も認識できない力が父を殺してしまったのかもしれない。裡に隠されていた憎悪に呼応して力を振るってしまえば、これからも身近な誰かを傷付け殺してしまうかもしれない。

 翔一を。

 Aqoursの皆を。

 千歌はその場から逃げだした。「千歌ちゃん!」という翔一の声も無視し、あてもなく逃げ続ける。

 わたしはもう、皆とはいられない。翔一の守ってくれている「居場所」にわたしはいるべきじゃない。

 赤信号を無視して交差点を渡ろうとしたから、大型トラックの直進上に出てしまう。機転を利かせた運転手のお陰でトラックが避けてくれたから轢かれずには済んだが、驚いて転んだ拍子に足首を捻ったらしい。

 痛みを堪えて立ち上がろうとする。そんな千歌の傍で1台の車が停まる。

「大丈夫か?」

 車から出てきた男が訊いてきて、「はい」と千歌は応じる。不意に、千歌の眼前に男の手がかざされた。一体何なの、と思ったところで、視界が歪む。景色全ての形が認識できなくなり、街の喧騒も遠ざかっていき――

 千歌の意識はそこで途切れた。

 

 

   3

 

「ただいまあ」

 帰宅した翔一を迎えてくれたのは、志満と志満が応対していた馴染みの来客だった。

「氷川さん?」

「お邪魔します。ちょっと、千歌さんとお話したいことがありまして」

「え? 千歌ちゃんまだ帰って来てないんですか?」

 河畔ではぐれた後も探し回ってはみたが、見つからないからバスに乗って帰ったのだと思っていた。

「うちのほうにも学校から来てない、て連絡が来たの。そしたら氷川さんから警察署に来た、て聞いて」

 志満が眉根を潜める。

「妹は何をしに行ってたんですか?」

「え、ああ……、それは………」

 言葉を探しあぐねた既に、誠は「それよりも」と話題を変える。

「千歌さんは携帯電話を持っていますか? 連絡してみましょう」

 はぐらかされたが、志満は特に不満な顔は見せず固定電話の受話器を取る。翔一は誠と一緒に志満が耳に当てる受話器を注視していたが、いくら待っても応答は来なかった。

 

 目蓋を開くと、知らない天井が視界に映っている。

「目が覚めたか」

 その声を聞き、跳ねるように上体を起こす。ベッドに寝かされていた体に、乱暴されたような跡はない。それでも恐怖を拭う根拠にはならず、ベッドから降りようとするが足首に激痛が走った。

「捻挫だ。心配するな」

 見れば、足首には包帯が巻かれている。ベッドの傍で椅子に座るこの男は、どうやら邪な目的で攫ったわけではないらしい。視界に髪の毛が入り込んでくる。指で触れると、留めていたヘアピンがなくなっていた。

「あなた、誰なんですか?」

相良克彦(さがらかつひこ)だ」

 相良と名乗った男は不躾に応える。

「どうしてわたしを?」

 続きの質問に相良は答えようと口を開いたのだが、それは別の声によって遮られる。

「何度も言うけど私は反対だから」

 咄嗟に声の方向を向くと、部屋の隅で若い女性が小さく座っていた。あまりにも縮こまっているから気が付かなかった。女性は眼鏡越しの瞳にある嫌悪を隠そうともせず千歌へ向ける。

「どうしてこんな子を仲間にしなくちゃいけないの? 私たちとは何の関係もないじゃない。だいいち、木野さんの許可は取ったの?」

「木野さんとはもう1週間も連絡が取れない。それに、ある意味で俺たちと彼女は仲間だ」

 深く溜め息をつき、女性は部屋から出ていく。苛立ちが激しいのか、不必要なほどドアを閉める音を立てて。

 一体何の。そう訊きたくなったところで、相良はおもむろに立ち上がり包帯が巻かれた千歌の足首に手をかざす。気が付くと痛みが引いていた。患部に触れてみても、回してみてもまったく痛くない。

「お前にもあるはずだ。これと似たような力が」

 仲間、と相良は言っていた。だとしたら、女性のほうも同じ超能力を持っているということか。

「家に帰りたいか?」

 訊きながら相良に椅子に腰を落ち着け、

「しかしお前に、帰る場所があるかどうか」

「帰る……場所?」

「お前も俺たちも、普通の人間にはない力を持っている。思い出してみろ。そのせいで辛い想いをしたことがあるはずだ。だがその辛さは誰にも分かってもらえない。いや、誰かに相談することすらできないかもしれない」

 このとき千歌が思い出していたのは梨子だった。彼女が誠の事件捜査に協力していたとき、千歌が抱いたのは羨望だった。でも梨子も力に苦しめられたことがあるのかもしれない。

「でも、どうしてわたしをこんな所に連れてきたんですか?」

「それはいずれ分かることだ。俺たちはお前を傷付けようとは思ってない。俺たちにはできるだけ多くの仲間が必要なんだ。お互いに分かり合うために。自分の力の意味を知るために。そしてその仲間が揃ったとき、そこが俺たちの居るべき場所になる」

「わたしの……、場所?」

 

 

   4

 

 千歌が帰ってこない。

 その連絡を翔一から受けて、放課後になるとすぐにAqoursは捜索を開始した。簡単ながらチラシを作って、市内の掲示板に手分けして貼りながら探す。翔一が誠に捜査を依頼してくれたのだが、千歌の年齢から失踪して数時間程度では事件性は認められない、とのことで期待はできない。

「もう、心配かけて」

 愚痴りながら、果南はチラシを町内掲示板に画鋲で留める。チラシには千歌の顔写真と家を出たときの服装、見つけてくれたときの連絡先として十千万の住所と電話番号を記載している。

「すみません、こんなことぐらいしかできなくて」

 申し訳なさそうに頭を下げる誠に、翔一は「いえ、そんなことないです」とかぶりを振る。果南も同じように、

「そうですよ。助かってます」

 警察が捜索に動かないとはいえ、誠も協力してくれている。車を持っている彼なら、捜索範囲も広いからありがたい。それに、チラシ配りを助言してくれたのは誠だ。

「あ、もうチラシ少ないな。果南ちゃんは?」

 手持ちを数えながら、翔一が訊く。果南の分も残り数枚しかない。結構な範囲で配ってきたが、まだ範囲を広めたいところだ。

「では、僕がコピーしてきます」

 そう言って誠は果南からチラシを1枚受け取って、近くの路肩に停めておいたクラウンへ向かっていく。走り出した車を見送ると、「じゃあ次行こっか」と言う翔一に着いて彼のバイクへと向かう。

 ヘルメットを被ってリアシートに跨ろうとしたとき、下を向いた果南の視線が地面の1点で留まる。アスファルトの道路に落ちているのは緑色の、四つ葉のクローバーを模したヘアピンだった。

「どうしたの果南ちゃん?」

「これ、千歌のヘアピンだよ」

 拾い上げて匂いを嗅ぎ確信する。千歌の髪の香りだ。だとしたら、千歌がここにいたことは間違いない。他に手掛かりはないかと周囲を見渡す。近くに立っているマンションの駐車場。そこに停まっている黄色の乗用車へと目が向いた。見覚えのある車だ。近付いていくにつれて、記憶が蘇ってくる。できれば思い出したくはないが、涼を殺された――とその時は誤解していた――復讐に警官を殺そうとしたとき、果南を止めた男の車だ。派手な色だからよく覚えている。確か彼は相良克彦といったか。

 車に触れてみる。脳裏にほんの数秒だが、像が浮かんだ。相良が車から、眠っている千歌を抱えている。

「千歌!」

「どうしたの?」

「千歌はここにいる!」

「え?」

 駐車場に割り振られた番号は301。果南は駐車場のマンションへと走った。翔一は「え、果南ちゃん?」と戸惑いながらも着いてきてくれる。万が一のことがあれば、果南の力で助け出せる。あれから1度も力は使っていないから、思うようにいくかは分からないが。

 301号室の前に着くと、果南はドアを力いっぱい叩く。

「千歌! 千歌!」

 何度か叩いていると、がちゃ、とロックが開錠される音がする。前に来た時と同じように3回も。ゆっくりとドアが開かれ、その陰から千歌が顔を出した。すぐにドアの陰から抱き寄せ、隣にいる翔一に渡す。

「翔一さんお願い」

 「ああ、うん」と翔一は千歌と共にマンションの階段を駆け下りていく。果南も逃げるべきなのだろうが、どうしても相良に聞きたい。足を踏み入れた部屋は、前と同様に生活感がまるでない。テーブルとソファだけの殺風景なリビングで、相良はソファでくつろいでいた。眼鏡の女性が果南を見て別室へ逃げ込んだが、そんなことはどうでもいい。

「よう。無事に生きてたか」

 何の気なしに言ってのける相良に、果南は強気な姿勢で言う。

「何のつもりですか? どうして千歌を」

「彼女も俺たちと同じ超能力者、仲間だ」

「千歌が?」

 驚愕を隠し切れない。千歌もまた果南と同じだなんて。そこで思い出す。プラサヴェルデで鞠莉が突然吹っ飛んだことを。あれは千歌がやったのか。

「お前も俺たちの仲間にならないか? お前の力も強力だ」

「前は無暗やたらに使うな、て言ってたじゃないですか。アンノウンに嗅ぎつかれるから、て」

「アンノウン。あの化け物はそんな名前なのか」

 と相良は嘆息する。誠によると、あくまで便宜上として警察が呼んでいるから、本当の名前は分からないらしいが。

「奴らは俺たちの力を怖れている。つまり、俺たちの力は奴らに対抗できる、てことだ。きっと彼はそのために、俺の力を強めた」

「彼?」

「ああ。名前は聞かなかったが、俺は彼に頼まれてある男を蘇らせようとした。俺の力では駄目だったがな。そもそも殺した相手を蘇らせるなんて、はなからそんな気なかったが」

「殺した?」

「そいつは災いをもたらす、てのが俺たちのリーダーの判断だ。だから俺がこの手で殺した」

 果南は相良の瞳を見つめる。以前の相良は、どこか怯えているように感じられた。その怯えは今もあるのだが、同時に希望めいたものも感じられる。人を殺せるほどの力が、相良に希望を与えたのか。

 決意するように拳を握り、相良は言う。

「俺たちにはもっと強い力と、同じ力を持つ仲間が必要だ。(きた)るべき時のためにな」

 

 



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第4話

 

   1

 

「さて、迎えに行くか」

 嘆息し、相良はソファから立ち上がる。まったく急ぐ素振りの見えないその姿は、果南には同類ながら異様に映る。

「戻ってくると思う? 千歌は――」

「じきに分かるはずだ。彼女も、そしてお前も、本当の居場所はここしかない、てな」

 相良は果南を一瞥し、

「お前も忘れたままでいるのが1番だと思っていたが、結局どちらにしても同じだったか」

 前に会ったとき相良は言っていた。思い出したら地獄を見る、と。その地獄とは何なのか、果南は一体何を忘れてしまっているのか。

「お前も見るといい。彼女の力を」

 相良は玄関へ向かっていく。果南はその後を追った。

 

 ある程度マンションから距離を置いたところで、翔一と千歌はようやく足を止めた。全速力だったせいで、少し呼吸が粗くなる。バイクで逃げればよかったな、と冷静になった頭を掻いていると、千歌はおもむろに口を開く。

「ありがとう翔一くん。でも、わたし帰らないほうが良いのかも………」

「え、どういうこと?」

 千歌は答えてくれない。いつもは無邪気な顔はひどく沈んでいる。

「一体何がどうなってるわけ? 詳しく話してくれなきゃ。志満さんも美渡も、Aqoursの皆も心配してるし」

 翔一が促してようやく、千歌は重そうに口を開く。

「ねえ翔一くん、覚えてる? いつかわたしに言ってくれたよね。皆の居場所を守りたい、て」

「うん」

 覚えているも何も、それは翔一が常に思っていることだ。何故アギトの力が自分に宿っているのか。理由は分からなくても、この力を素性の分からない自分を受け入れてくれた人々のいる場所を守るために使いたい。

「最近思い始めたんだ。わたしの居場所ってどこだろう、て」

「何よそれ。千歌ちゃんには皆がいるじゃない。志満さんや美渡や、Aqoursの皆がさ」

「うん。でも違うのかな、て。ここにわたしが居て良いのかな、て………」

 当たり前じゃない、とは言えなかった。翔一もアギトの力に気付いた頃、今の千歌と同じ悩みを抱えていた。答えを見出させてくれたのも千歌だ。

「翔一くん、わたし探してみたいんだ。わたしの本当の場所」

 だから、千歌自身に気付いてもらわなければならない。千歌の居場所は、千歌の思っているよりもずっと近くにあることを。

 そのとき、悲鳴が轟いた。咄嗟に目を向けると、男が異形の手に頭を鷲掴みにされている。傍では、悲鳴をあげた少女が腰を抜かして動けずにいた。

「果南ちゃん!」

 駆け寄ろうとする千歌を引き留めているうちに、男は何度も腹を蹴られ無造作に投げ捨てられる。その髪を乱暴に掴んで持ち上げるアンノウンは、まるでカニのように人型の全身が甲羅に覆われている。

 翔一は駆け出し、アンノウンに突進を仕掛けた。不意打ちに男が異形の手から離れ、力なく地面に倒れる。

「逃げて!」

 アンノウンに組みつきながら叫ぶ。千歌と、ようやく立てた果南は痛みに喘ぐ男を支えながら起こしその場を離れていく。

 アンノウンの肘が翔一の腹をついた。ごほ、と咳き込みながらも体勢を立て直し、間合いを取ったところで裡に宿る力を呼び起こす。

「変身!」

 姿を変えた翔一の姿を認め、アンノウンは「アギトォ」と呻き右手の巨大なハサミを構える。向かってきたその動きはそれほど速くはなく、翔一は振るわれたハサミを避けつつその胸に拳を打つ。だが、胸を覆う甲羅は拳の衝撃を完全に跳ね返しアンノウンは不気味に笑う。殴ったこちらが痛むほどの硬さだ。

 跳躍し再び間合いを取って翔一はベルトからハルバードを抜き、鎧を超越精神の青(ストームフォーム)へ染め上げる。再び接近してきた敵のハサミを、リーチのあるハルバードで触れさせることなく弾く。よろけた敵の胴へ、何度もハルバードの刃を滑らせた。それでも、アンノウンの甲羅にダメージを与えるに至らない。傷すら付いていなかった。

 一瞬の焦り。そこを突かれ、アンノウンのハサミで顔面を殴られる。すぐさまハルバードを構え直し追撃は阻止するが、互いに武器を打ち合っていては泥沼で体力を削られる。

 翔一は念じた。そう遠くないところに停めておいたはず。

 呼応するように、それはすぐにやって来た。翔一の力を受け変化したバイク。そのカウルが、アンノウンの体に突進する。流石に猛スピードでの衝撃には耐えられないらしく、アンノウンの体は大きく宙を跳んだ。

 停まったバイクに跨り、ハルバードを抱えたまま発進させる。すぐさまマシンをスライダーボードへ変形させ、シートに両足を落ち着けると共に武器を構え更にスピードを上げていく。アンノウンが腕で防御の体勢を取った。耐え切るつもりでいるらしい。

 翔一はシートから跳躍した。スピードが上乗せされたハルバードの切っ先が、アンノウンの体を串刺しにする。着地すると、慣性によって吹っ飛んだ体は地上へ戻ることなく、宙で爆散した。

 

 

   2

 

 戦いの場から逃れた果南は、千歌と共に相良の肩を支え住宅街を拙い足取りで進んでいく。そうするうちに緊張が少しばかり治まったおかげか、救急車を呼ぼうと冷静な思考ができるようになりポケットからスマートフォンを出す。

「いい……」

 と相良は端末を持つ果南の手を制した。その手はとても弱々しくて、治療が必要なことは素人でも明白だ。額からは血を流して、今も絶えることなく鼻筋を伝って顎から滴り落ちている。

「連れて行ってほしいところがある。ここの近くだ」

 そんな悠長なこと言っている場合か。「でも――」と千歌は反論しようとするが、

「頼む」

 そう告げる相良の声は掠れていたが、表情はとても強かなものだった。血は流れ続け、地面に落ちた紅い雫は果南たちが辿ってきた道標のようになっている。もう目の焦点も定まっていない。この男の意識を繋ぎ止めているのは、最期が訪れる前に果たしたい望みだけ。

「――はい」

 その意志を果南は受け取る。「果南ちゃん⁉」と千歌が困惑の声を投げるが、「行こう」と果南は相良の肩を支え直す。

 道案内に従って訪れたのは朽ちた一軒家だった。家を囲む塀は各所に蜘蛛が巣を張っていて、住人が去ってから結構な時間が経っていると分かる。玄関に残っている汚れた表札には「相良」と刻印されていた。

 管理も杜撰なようで、玄関の鍵は開けられている。土足のまま足を踏み入れた果南は、支えとして壁に触れた瞬間この廃屋の在りし日の光景を視る。

 ――この家、花でいっぱいにしたいの――

 そんな明るい声がこだまする家の中は綺麗に整頓されている。ふたりで済むには広すぎるが、やがて家族が増えて狭く感じてしまうかもしれない。でも、そんな未来が楽しみでもある。新しい家族が駆け回るだろう広い庭は至る所に植木鉢が並べられていて、色も姿も様々な花が咲き誇り、風が花々の甘く爽やかな香りを窓の開け放たれたリビングに運んでくれる。

 ――ほら、これ買ってきたの――

 楽し気に花を眺める女性の隣で笑っているのは相良だ。ふたりの左手の薬指には、将来を誓い合った指輪が光っている。

 ――可愛いな、この花――

 女性がジョウロで水をかけた花は、花弁に乗った雫を日光に反射させ煌かせる。その煌きが庭に、この家中に満ちていた。

 でも煌きは、幸福は短すぎた。

 ――また引っ越す、てどういうこと? この間ここに越してきたばかりじゃない――

 女性が寄り添う相良の顔は、先ほど視た思い出とは様変わりしている。現在と同じように、怯えに満ち表情を強張らせている。

 ――ねえ、何があったの? 旅行から帰って来てから、あなた少しおかしいわよ――

 妻の問いかけに相良は答えない。口を更に結び、最も信じるべき相手から目を逸らす。

 ――どうして何も言ってくれないのよ。私たち夫婦じゃない?――

 悲しげなその問いかけにも、相良は答えなかった。

 何に追われているかも聞かされず、得体の知れない恐怖が募っていくだけの日々は妻を消耗させていった。その恐怖が、ふたりの誓い合った未来を閉ざした。

 ――もう、あなたには着いていけない――

 リビングに入ると、相良は果南と千歌の腕から離れた。千鳥足で歩きながらも床に転がっていた植木鉢を抱え、放置されていた椅子にどす、と座る。だらりと頭を垂れた相良は、リビングから見渡せる庭を虚ろな目で眺めた。急な転居だったからか、家具はそのまま残され蜘蛛の住処にされていた。雑草が伸び放題の庭に放置された鉢の花々は全て枯れ、茶色く果てた茎を力なく垂らしている。住人が去った家に住み着いたひぐらしが我が物顔でしきりに鳴いていた。

「結局、俺は俺の居場所を見つけることができなかった………」

 かつての居場所――居場所にならなかった家に帰宅を果たした男は告解する。額から流れる血は止まることなく、床に敷かれたカーペットに紅い染みを広げていく。

「俺の場所は、思い出の中にしかなかったんだ………」

 相良は抱える鉢へと視線を落とす。その鉢に植えられたものも枯れていて、かつてどんな花を咲かせていたのかもう分からない。

「お前たちに謝りたいことがある」

 相良は首をもたげ、最期に立ち会おうとしている果南と千歌を見上げる。まずは千歌へ、

「お前は超能力を使っていない。お前に力なんてない」

 今度は果南へ、

「お前も、人を殺していない」

 息を呑んだ。あの時憎悪のままに振るった力。それは果南のものではなかった、とこの男は告げている。

「全部俺がやったんだよ。俺が警官を殺して……、お前たちの友達を襲ったんだ………」

 果南は唖然とした。今まで自分は消えることのない罪を背負い、千歌は同じ運命を背負わされたと信じ込んでいたのに。その全てはこの男による誤解だった。初めから背負うものなんて何もなかった。

 ふう、と真実を告げた相良は深く嘆息する。

「どうして、そんなことを………?」

 果南は訊いた。息を引き取る前に、それだけは聞かなければならない。

「家族ごっこが、したかったのかもな………」

 その悲しい自嘲を聞いて、果南はこの男の全てを悟る。

 裡に目覚めた力。それは相良に追われることの恐怖をもたらし、最愛の人を奪った。閉ざされた未来に見切りをつけ、同じ力を持つ仲間を集い新しい居場所を求めたが、所詮そこは偽りでしかない。求めてやまないものは過去にしかなく、思い出に縋り付いても虚無が浮き彫りになるだけ。失った人は自分のもとには戻らず、彼女と似た笑顔を浮かべる「持たざる」少女も、代替にはなれない。

 懸命に未来を求めながらも、結局のところ過去にしか目を向けられなかった。その結末が失われた過去の遺物であるこの家で迎えるとは、悲しいが相良にとっては必然でもある。

「見つかるといいな……。お前たちの場所が………――」

 相良は祈ってくれているように思えた。それが自身にできる唯一の償いであるかのように。お前ら子供たちには未来があるんだ。輝きに満ちた未来がな。

 お前たちの行きつく先が輝いていることを祈っているよ――

 手から鉢が滑り落ちた。相良の頭が力なく垂れる。目の前でひとりの生命が消滅したことに恐怖はなく、かといって不必要な罪を転嫁させられた憎しみもない。果南の胸の裡を満たしたのは、ただ憐れな男が報われることなく死んだという、深い哀れみだった。千歌も同じなのか、自身を攫った相手の死に無言のまま鎮魂の涙を流している。

 相良の落とした鉢が光を放った。光は庭の鉢にも伝播している。仄かな、それでいて温かな光に包まれた茶色い茎が伸び、乾いた茶色が瑞々しい緑に変わっていく。茎の先で、色とりどりの蕾が膨らんでいき、花弁を開かせる。

 まるで水を撒いた後の露のように、花弁は光を煌かせていた。

 

 

   3

 

 後の処理を誠に任せ、学校を無断欠勤した千歌の1日はもうすぐ終わろうとしている。場合によっては家に帰れないことも覚悟していたから、いつものように踏むことのできた三津海水浴場の浜辺の感触に奇妙な感慨が沸いた。

 太陽が西の水平線に半分ほど沈んでいる。間もなく夜になるだろう。

「良かった、無事で………」

 しばらくぼう、と砂地に座っていると、後ろから梨子の声が聞こえた。Aqoursの皆が総出で街中を探し回ってくれたことは、果南から聞いている。

「梨子ちゃん、ごめんね。皆に迷惑かけちゃって………」

「ううん、良いのよ。大変だった、て氷川さんから聞いたわ。色んなこと、重なりすぎよね」

 梨子の優しさが、この時ばかりは辛く刺さる。少しくらい罵倒されていたほうが、まだ気が楽だった。罵倒されて恐怖するなり反発するなりしたほうが、この虚しさも紛れる。

「わたしね、廃校が決まったのは勿論残念だけど、ここまで頑張ってこれて良かった、て思ってる。東京とは違って、こんな小さな海辺の街のわたし達がここまでよくやってこれたな、て」

 慰めなのか、本心なのか。梨子の真意が分からない。千歌は浜辺に立つ梨子の背中に尋ねる。

「本気で言ってる?」

 梨子にも力はある。千歌にはない、「普通」じゃない力が。力のない自分よりも現実に抗う力があるはずなのに、今まで一緒に抗ってきたのに、こんなにも簡単に諦めることを正当化しようだなんて。

「それ本気で言ってるんだったら、わたし梨子ちゃんのこと軽蔑する」

 これまでの関係全てを壊しかねない言葉だが、これが千歌の本心だ。彼女が、彼女たちが千歌の居るべき場所じゃないのなら、離れることになっても構わない。

「がおー!」

 梨子が千歌に顔を近付けて大声をあげる。突然のことだったから、千歌は目を剥いた。

「ぴー! どかーん! 普通怪獣りこっぴーだぞー! くらえ、梨子ちゃんビーム!」

 そんな怪獣ごっこをひとり繰り広げた後、梨子は千歌に微笑を向ける。

「こんなんだっけ?」

 不思議と、千歌にも笑みが零れる。初めて会ったとき、それをやったのは千歌のほうだった。

「やっと笑った………」

 梨子は嘆息して海へと顔を向け、

「わたしだって、Aqoursのメンバーよ。皆とこれから一緒に歌おう、て。曲もいっぱい作ろう、て思ってた。良いなんて思う訳ない。これで良いなんて………」

「梨子ちゃん………」

 ああ、そうだ。そもそも梨子を誘ったのは千歌のほうだった。作曲ができるから、という腕を見込んでもあるが、彼女の裡にある輝きを確かに感じたからこそ一緒に輝きたい、と思った。それなのに自分から突き放すようなことを言うなんて、何て我儘なんだろう。

「どうすればいいか分からないの。どうすればいいか………」

 震える声で告げると、梨子はその場に座り込む。千歌は自身の視野の狭さを自嘲した。またひとりで全部抱え込もうとしてた。皆で一緒に歩いていこう。楽しさも悔しさも、皆で分かち合いながら。初めてゼロを突き付けられたあのとき、確かにそう決めたはずなのに。

 Aqoursの皆はいつだって千歌に寄り添ってくれていた。説明会中止を告げたときの鞠莉たち3年生も、思い返してみれば辛そうに震えそうな口を結んでいた。鞠莉は涙を堪えて千歌に「ごめんね」と謝った。

 誰ひとり、納得なんてしているはずがなかった。納得しようと何度も何度も自分に言い聞かせた。所詮一介の高校生にどうこうできる問題じゃなかった。むしろあそこまでよくやった。希望の光がほんの一瞬垣間見えただけでも大したものだ。そうやって嘘までつこうとしたけど、自分自身に嘘はつけない。Aqoursは皆が、自分の本当の願いに正直になって歩んできたのだから。

 地区予選のステージで歌ったとき、千歌は確かに輝きを視た。自分たちが、学校の皆が織り成す太陽よりも眩しい光。暗闇の中から射し込む光が、ほんの一瞬だが世界の全てを照らすほど大きく輝くのを視た。

 あと少し、あとちょっと。届きはしなかったけど、確かに輝きは存在した。できる、という希望があった。

 間もなく完全に沈もうとする夕陽に向かって、1羽のカモメが飛んでいく。それを見て、千歌は幼い頃に紙飛行機を飛ばした日を思い出す。曜と、他にもうひとり知らない少年と一緒だった。あの日、少年が千歌に何か言ってくれていたような気がする。

 彼が何て言ったのか、彼の顔も今となっては思い出せない。

 

 

   4

 

 目蓋を透過する朝の光を感じ、千歌は目を覚ます。数分もしないうちに身支度を整えて、家を飛び出した。

「おはよう! 行ってくる!」

 玄関先でしいたけに餌をやっていた翔一が「千歌ちゃん⁉」と驚いた声をあげる。いつも起こしてくれるから、驚くのも無理はない。まだ始発のバスも出ていない時間帯だが、構わず千歌は通学路を駆けていく。

 まだ朝陽も出ていない時間帯だ。空は青いけど暗く、内浦を囲む山々と北にそびえる富士山も霞がかっている。暗いトンネルを抜け、湾岸沿いの道を休まず走り続ける。丘を登り、無人のグラウンドに入るとその中心で千歌は叫ぶ。

「がおおおおおおおおおおおおおおおっ‼」

 普通でも、力がなくても構うものか。普通星に生まれた普通怪獣にしかなれないのなら、なってやる。普通怪獣になって現実を変えてやる。

「起こしてみせる。奇跡を絶対に!」

 まだ全部、終わったわけじゃない。まだ学校は存在している。何もしなければ、それこそ本当に可能性はゼロのままだ。本当に諦めるのは、全てやり切ってからでいい。

「それまで泣かない。泣くもんか」

 休みなく走り続けて叫んだせいか、額からの汗が頬を伝った。目に浮かぶものはまだ落ちていない。まだ流すには早い雫を乱暴に腕で拭うと、背後から声が聞こえた。

「やっぱり来た」

 振り返ると曜がいた。

「曜ちゃん、どうして………」

「分かんない。でも……、ほら」

 と敬礼しながら、曜が明後日の方向を向く。その視線を追うと、グラウンドの隅に設置されている鉄棒に、他のメンバー達が集まっていた。

「皆……」

 練習もミーティングも聞いていないのに。しかもまだこんな早朝に。

「気付いたら来てた」

 梨子が微笑しながら言う。千歌の目は鞠莉へと移った。前は諦めていたその目は、エネルギッシュな力を取り戻している。

「何かよく分かんないけどね」

 照れ笑いを浮かべる曜に、果南が「そう?」と、

「わたしは分かるよ。きっと――」

 その続きが委ねられたことを感じ取り、千歌は告げる。

「きっと、諦めたくないんだよ」

 千歌に他者の心を読む力なんてない。どこまでも普通な高校生に過ぎない。でも、それは理由になんてならない。皆もそれを知っている。Aqoursの皆の気持ちはひとつだ、て分かる。

「諦めたくないんだよ。鞠莉ちゃんが頑張ってたのは分かる。でも、わたしも皆も、まだ何もしてない」

 こんなところで物語を終わらせるのは早すぎる。こんなあっけないバッドエンドなんて認めない。

「無駄かもしれない。けど、最後まで頑張りたい。あがきたい。ほんの少し視えた輝きを探したい。見つけたい」

 「諦めが悪いからね。昔から千歌は」と果南が皮肉る。「それは果南さんも同じですわ」とダイヤがまた皮肉り、「お姉ちゃんも」と更にルビィにまで皮肉られる。そんなおかしな連鎖に笑う皆に、千歌はいま1度問う。

「皆はどう?」

 これからは、今までよりもより過酷な努力が必要になってくる。その努力も報われるかは分からない。もっと辛い現実を突きつけられるのかもしれない。

「チカっち、皆………」

 この現実に最も抗おうとしてくれた鞠莉が呟く。

「良いんじゃない? あがくだけあがきまくろうよ」

 果南がいつもの調子で告げる。相良の死を共に看取った果南も、居るべき場所を見つけたいに違いない。このAqoursこそが果南と、千歌の居場所だという確信を。

 「そうね」と応じたダイヤも、

「やるからには、奇跡を!」

 その言葉が、次々とメンバーの間を駆け抜けていく。

「奇跡を!」とルビィに。

「奇跡を!」と善子に。

「奇跡を!」と花丸に。

「奇跡を!」と果南に。

「奇跡を!」と梨子に。

「奇跡を!」と鞠莉に。

「奇跡を!」と曜に。

 朝陽が東の山陰から姿を現す。その世界を照らす光が海に青を、山に緑をもたらす。

「起こそう奇跡を! あがこう、精一杯! 全身全霊、最後の最後まで!」

 これが次への第1歩(ネクストステップ)。どんなに辛いことがあってもわたしは諦めない。一瞬だけ視えたあの光。あれをもう1度視るために。今度こそ手に入れるために――

「輝こう!」

 

 






次章 雨の音 / 現れた敵


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第15章 雨の音 / 現れた敵
第1話


 

   1

 

 まだ生徒たちが登校していない学校は静かだった。耳を澄ませばドアを隔てた理事長室での会話が聞こえてきそうだが、防音性が高いようで聞くことはできない。

「きっと、何とかなるよね?」

 理事長室前でただ顔を揃えて待っているだけの現状に耐えかね、千歌が皆に問う。最後まであがく。それで望みが叶うとは限らなくても。ついさっき決めたばかりなのに、興奮が冷めるとどうしても不安になってしまう。

「しかし、入学希望者が増えていないのは事実ですわ」

 ダイヤが冷静に言う。善子も同様に、

「生徒がいなくちゃ、学校は続けられないもんね」

 その生徒を増やすための施策は、2年前から既に試みられていたし、それが功を奏すことができなかったからこそ統廃合の話になった。学校の経営陣たちが立ち直そうとしたけどできなかった問題を、生徒のAqoursが解決できるのか。

 理事長室のドアが開いた。交渉の電話を終えた鞠莉に「どうだった?」と果南が訊く。鞠莉は申し訳なさそうに苦笑し、

「残念だけど、どんなに反対意見があっても生徒がいないんじゃ、て………」

 そう、現実問題として生徒がいなければ根本的な問題にはならない。

「やっぱり、そうよね………」

 予想はしていた返答に、梨子は落胆を漏らす。既に突きつけられていたことだが、2度目でもやはり辛いものは辛い。でも、それは少々早とちりだったらしい。

「だから言ったの。もし増えたら考えてくれるか、て」

 鞠莉の言葉に「え……」と果南が息を詰まらせる。

「何人いれば良いの、て。何人集めれば、学校続けてくれるか、て」

 「それで?」と待ちきれないのか曜が急かす。鞠莉は千歌たち全員を見据え、

「100人」

 「100人………」と千歌はその数字を反芻する。「ええ」と鞠莉は続ける。

「今年の終わりまでに少なくとも100人入学希望者が集まったら来年度も募集し、入学試験を行う、て」

 メンバーの中で声をあげたのはダイヤだった。決して喜びとは言えない。

「100人て……。今は10人しかいないのですよ」

 「それを年末までに100人……」と梨子も弱音を漏らす。今年は残り3ヶ月。その間に希望者をあと90人集めなければならない。

「でも、可能性は繋がった」

 確かに厳しい条件ではある。千歌だってそれは理解しているが、チャンスを掴んだのも事実。

「終わりじゃない。可能か不可能か、今はどうでもいい。だって、やるしかないんだから」

 これが、鞠莉が掴み取ってくれた最後のチャンス。Aqoursに残された奇跡への、1本だけの筋道。

「まあ、確かにそれもそうか」

 果南が溜め息交じりに言う。できるか否かを議論するより、「やる」ためにどう行動を起こすかを議論するほうがAqoursらしい。

「鞠莉ちゃん、ありがとう」

 まずはここまでのお膳立てをしてくれた理事長への感謝を述べ、

「可能性がある限り、信じよう。学校説明会もラブライブも頑張って、集めよう100人」

 自分たちに提示されたゼロ。

 ゼロから1へ。

 1から10へ。

 そして、10から100へ。

(とき)の流れが速まった。お前たちの隠された力が、覚醒する」

 不意に男の声が聞こえた。その言葉の意味を理解するよりも先に、千歌の視界が眩い光に覆われる。

 千歌だけでなく、その場にいたメンバー全員にも同じことが起こっていた。

 

 目が覚めたとき、はっきりと思い出すことのできる直前の記憶が脳裏をよぎり果南は跳ねるように頭を上げる。

 浦の星の廊下はどこへやら、そこは豪華なロビーだった。ロビーの柔らかい絨毯の上で、果南たちは9人とも眠っていた。

「ここ、どこ………?」

 ロビーを見渡していると、皆も次々と目を覚まし始める。自分たちのいる場所を見て、その反応は似たり寄ったりだ。唯一、未だ気持ちよさそうに寝ている千歌は梨子に肩を揺さぶられているが。

「千歌ちゃん起きて!」

「ん……、もう朝あ?」

「寝ぼけてる場合じゃないでしょ!」

 果南たちの目覚めを見計らったかのように、階段から靴音を鳴らして男がロビーへ降りてくる。

「悲しみはこれからも続く。それを終わらせるには、お前たちの力が必要だ」

 その声に果南は聞き覚えがある。闇から産まれてきた、影のような声を持つこの男によって、果南は力を与えられた。

「あなたは………?」

 皆を庇うようにして前に立ち、果南は男を睨みながら問う。

「沢木哲也。お前たちを、救う者だ」

 名乗られたところで、この男の得体が知れないことに変わりはない。この沢木と名乗る男もまた、果南と同じなのだろうか。そうとしか思えない。果南に力を与え、果南たちを学校からこの屋敷に連れてきたのだから、相当な力を持っているはず。

 警戒を露わにする果南に、沢木は笑みを零す。

「そう身構えなくてもいい。お前たちを傷付けはしない。お前たちは、(きた)るべき時のために必要だからな」

 沢木はそう言って降りてきた階段へ踵を返す。

「着いてこい。見せたいものがある」

 自然と、果南たちは沢木を追って階段を上り始める。何故足が彼のもとへ向くのか。これも彼の力によるものなのか。そもそも、この屋敷は一体どこにあるのか。様々な疑問が浮かんでは消えていく。階段を上り終えてすぐの部屋に通されると、そこは寝室のようだった。豪奢なベッドの脇には点滴のバーと心電図を刻む機器が置かれていて、機器に繋がれた人物は口元にシリコンの透明なマスクを当てられ無理矢理に酸素を肺へ送り込まれている。

「涼!」

 その顔を認めた瞬間、果南はベッドへと駆け寄っていた。

「果南ちゃん、知り合いなの?」

 訊きながら、千歌もベッドの脇に来て涼の寝顔を見つめる。

「この方が、果南さんの?」

 ダイヤの質問に、果南は無言で首肯する。遅れてやってきた1年生たちの中で、花丸が息を呑んだ。

「この人……!」

 「ずら丸知ってるの?」という善子の問いに、花丸は過呼吸気味でありながら声を絞り出す。

「この人、マルを助けてくれた人ずら………」

 「涼が?」と果南は言った。千歌が自衛隊に攫われた頃、行方不明になっていた花丸が若い男と一緒にいたという話は聞いている。名前を聞かなかったらしいから誰かは分からなかったが、まさかこんなところで涼との縁ができていたなんて。

「どうして、この人はこんなことに?」

 梨子が訊いた。沢木は淡々と答える。

「この男を怖れる者によって殺された。だが、この者のある部分によって、辛うじて命を繋ぎ止めている。長くはもたないだろう」

 涼と繋がれた機器は、一定のリズムで心電図を刻んでいる。でも、その脈を涼は自力で刻むことができない。ベッドで眠り続ける涼の目蓋は、このままでは開くことなく本当の終わりを迎えることになる。

「お前たちの力で、彼を蘇らせてほしい」

 我慢できなくなったのか、善子が噛みつくように言った。

「あなた誰なのよ。わたし達にそんなことできるはずないでしょ!」

「いや、お前たちは自分の力に気付いていないだけだ。中には気付き始めた者もいるはずだ」

 そう言って沢木は果南へ、次に梨子を一瞥する。その視線を向けられ、梨子は一瞬肩を震わせた。「お前たち」とはどういうことか。果南の他に、Aqoursの中で力を持つ人間がいるとでもいうのか。

「彼はギルス。アギトと同じ力を持つ者」

 「アギト……」と千歌がその言葉を反芻する。

「この人も、翔一くんと同じ、てことですか?」

「そうだ。お前たちもアギトのことは知っているはずだ。この世には、アギトなる者が必要なのだ。彼にはできなかったが、お前たち全員の力なら」

 そこで、果南は相良のことを思い出す。彼は人を殺したことを言っていた。殺した相手を頼まれて蘇らせようとしたことも。その全てが繋がる。彼の話していたのは涼と、沢木のことだったということを。

「手をかざせ」

 沢木が言う。果南としては勿論、涼を目覚めさせたい。だけどそれで何か起こってしまうのか、想像できることが怖ろしい。果南ひとりが危険に晒されるのなら構わない。でも皆は、Aqoursの皆まで巻き込んでしまうのは――

「やろう」

 そう強く告げてくれたのは千歌だった。その言葉にはメンバー達だけでなく、沢木も目を見開いている。千歌は涼の寝顔を見つめながら、

「この人、果南ちゃんの大切な人なんだよね。だったら助けなくちゃ」

 彼女にいち早く反応を示すのは花丸だった。

「今度は、マルが助ける番ずら」

 親友の情にあてられたのか、ルビィと善子もベッドの傍に立つ。梨子と曜も、ダイヤと鞠莉も、ベッドに眠る涼を囲むように立つ。

 その輪に加わろうとする千歌の腕を、沢木は掴んだ。

「お前にはできない」

 「え?」と返す千歌に、沢木はたたみ掛ける。

「お前に力はない」

 「さあ、こっちだ」と沢木は千歌の手を引いて部屋から出て行く。ドアを閉める前、沢木は果南たちの方を振り返った。

「力の使い方は、お前たち自身が知っているはずだ」

 バタン、と閉められたドアをしばらく見つめた後、曜が不安げに呟く。

「力の使い方、てどうすれば良いんだろう?」

 この中で、果南の他に自分の力に気付いた者はどれだけいるのか。気付いたとしても、自在に扱える域に達しているかどうか。かくいう果南も、昏睡状態にある人間の体をどう癒せばいいかなんて分からない。人を殺せるほどの力は、実は相良の力だったのだから。

「願うの」

 鞠莉が口を開く。

「この人が目を覚ますよう、願いを込めるの」

 言われた通り、果南は涼の顔へ手をかざす。他の皆も倣い、その掌からぼんやりと光が灯る。果南は祈る。涼の目が再び開かれることを。

 彼を生かしている力が、彼に未来を与えてくれることを。

 

 千歌が連れてこられたのは、果南たちの居る部屋から少し歩いた客間だった。開け放たれたバルコニーへの窓からは屋敷を囲む山々が一望できて、それを堪能するためか窓の前には丸テーブルが置かれている。

 家具のひとつひとつが豪華なのは千歌でも分かるのだが、一際目を引くのは壁に立て掛けられた絵画だ。

 それは油絵のようだった。2メートルほどの高さのあるキャンパスはまだ制作中らしく、下のほうは白紙になっている。作業のためかキャンパスの前にはパレットと筆が置かれた小さなテーブルがある。

「この絵、あなたが描いたんですか?」

「そうだ。お前に力はないが、他人事では済まない。お前もまた、この世界に生きる人間ならばな」

「どういう、ことですか………?」

「これは世界の始まりと現在、そして未来を描いたものだ」

 千歌は未完成の絵を見上げる。絵の上部には3対の翼を持った人のようなものが描かれている。まるで天使のよう。7人の天使たちに囲まれるように、一際大きな翼を持った人が佇んでいる。その下にも翼を持った人――いや人じゃない。体は人間だけど、頭は牛や象やカメといった動物で、翼も1対だけ。まるでアンノウンみたいだ。その更に下には多くの動物と人間が描かれている。どちらも翼はない。

 キャンパスの中部から、絵の様子は様変わりする。右に人間、左に天使たちと分かれ、武器を手に戦っている。人間たちの先頭に描かれているのは、人間とはかけ離れた緑色の生き物。戦いに倒れている者もいて、それは人間の側が圧倒的に多い。その狭間にいるように、中心ではひとりの天使が人間の女性に赤ん坊を授けている。

 また視線を下げていくと、天使のひとりが胸を剣で貫かれ堕ちていく。そのまた下には1隻の船に乗ったひと組の男女と、ふたりに抱かれた赤ん坊。

 そこから下は白紙だ。

「この絵は、まだ未来の部分が完成していない。アギトこそが、未来を左右する」

 沢木は何も描かれていない下部分から明後日の方向を見やる。

「………成功したようだな」

 再び、千歌の視界は光に覆われ、そして暗転する。

 

 

   2

 

 目が覚めたとき、最初は誰もが夢だと思った。夢というのは朧気なもので、いつしか夢を視た、という記憶すら喪失してしまう。奇妙な屋敷なんてなかった。沢木哲也なんて男はいなかった。未来が白紙の絵画なんてなかった。

 千歌たちAqoursはいつものように学校にいて、授業を受けて、練習して。いつもと同じ日のはずだったのだが、千歌はどうしても違和感を拭えないままだった。でも、違和感を忘れなかったのは千歌だけではなかったらしい。

「ねえチカっち、放課後時間ある?」

 そう誘ってきたのは鞠莉だった。他のメンバー達には適当に理由をつけて、校門前で待っていた家の送迎車に千歌を乗せて沼津市街へ向かった。目的地が近付いていくにつれて千歌はまさかという焦燥に駆られる。見覚えのある街並みは幼い頃から来慣れているのだから当然なのだが、そこにまつわる記憶はあまりにも鮮明で千歌の動悸を速めていく。

 予感は的中し、鞠莉が送迎車を止めさせたのはあのマンションだった。相良が、仲間を集めようとしていた拠点。彼が「居場所」にしようとしたところ。

「鞠莉ちゃん、どうして………」

「Sorry,詳しいことは後で必ず話すから」

 そう言われると、ここではそれ以上のことは訊けない。黙って着いていくと、鞠莉は相良たちの部屋の前で足を止めインターホンを鳴らす。ほどなくしてドアホンから警戒心を露にした声が来る。

『………はい』

「関谷さん。私、マリーよ」

 どたどた、という足音が奥から聞こえた後、幾重もの開錠音を経てドアが開けられる。

「あなた………。ねえ相良さん知らない? ずっと帰って来てないの」

「話すから、中に入れてもらえます?」

 関谷と呼ばれた女の質問をいなしながら、鞠莉は慣れたように部屋へ上がりこむ。殺風景なリビングに入ると、「相変わらずね」と溜め息を零した。

「鞠莉ちゃん、ここ来たことあるの?」

「ええ」

 鞠莉にしては短い返答だ。彼女は台所でポットにお湯を沸かし、棚からカップと紅茶のパックを出す。まるで自分の家のように。

「ねえ相良さんは? 相良さんはどうしたのよ?」

 関谷はしきりにまくし立てる。そのヒステリックさを半ば無視するように鞠莉は紅茶を淹れる。ダイニングテーブルについて紅茶をひと口啜ったところで、ようやく質問に答えた。

「死んだわ」

 「え………」と関谷は眼球が零れそうなほどに目を見開く。

「最期を看取ったのはこの子よ。そうよね、チカっち」

 と鞠莉が千歌を手で指し示すと、関谷はよろよろ、とまるでゾンビのように緩慢な歩みで千歌に寄ってくる。

「ねえ、本当なの?」

「は、はい……。アンノウンに襲われて………」

 千歌が途切れ途切れに告げると、関谷は崩れるように床に座り込む。

「相良さんの力でも、まだアンノウンに対抗できない、てことね」

 鞠莉はそう告げると紅茶を啜る。関谷は無言のまま立ち上がる。先まで浮かべていた恐怖の色は消えていて、その様子には鞠莉も眉を潜めている。

 関谷は別室へ早歩きで向かった。ドアを開け放ったまま、クローゼットから衣服を大振りの旅行鞄に詰めているのが見える。

「どこに行くの?」

 鞠莉が尋ねると、関谷は目も向けず衣服を乱雑に詰め込みながら、

「決まってるでしょ、逃げるのよ。相良さんが殺された以上、あなた達みたいなお子様と居てもしょうがないわ」

 膨らんだ鞄を重そうに抱えて、関谷は玄関へ急ぎ足で向かい部屋を出ていく。その手早さに何もせず見送ってしまった千歌に、鞠莉は溜め息交じりに告げる。

「No problem. きっとお友達のところに行くのよ。ほら、チカっちも座って。紅茶が冷めちゃうわ」

 「うん」と促されるままに千歌は椅子に腰かけて、まだ熱い紅茶を飲む。

「あんな人だけど悪く思わないで。誰かに頼ってないと生きていけない人なの」

「ねえ、鞠莉ちゃんはどうしてここを知ってるの?」

 先延ばしにされていたその質問がようやくできる。何となく予想はできていた答えを、鞠莉は告げる。

「わたしも、ここの仲間だから」

「仲間、て超能力者の?」

「うーん……。ちょっと違うけど、そんなものかな」

 どっちなのだろう。そんな千歌の表情を見てか、鞠莉は困ったように笑った。

「本当にごめんなさい。詳しくは言えないの。言ったら、何が起こるか分からないから………」

「鞠莉ちゃん………」

「ねえチカっち。ここでの事、皆には言わないでくれる? 特にダイヤと果南には」

「うん……。でも何でわたしに?」

「わたしは知ってしまったから、きっと逃げられない。でもチカっちや皆は知らないから逃げられるわ。だからせめて覚えていてほしいの。わたしの代わりに」

 その言葉の意味がよく理解できず千歌は首を傾げる。きっと、鞠莉が明かすことのできない「詳しい」ことを抜いた、せめてもの言葉だったのかもしれない。

 でも彼女の言葉が、千歌には遺言じみたものに聞こえてならなかった。

 

 

   3

 

 女子高生というものが多感だということくらい、誠も理解はしている。しかしその理解は漠然としたもので、一体彼女らが何にどう悩むのか、悩みの種はどこにあるのか、という具体的なものは何も知らない。そもそも性別が男の誠がいくら思考を巡らせたとしても正解に辿り着くわけがない。実際に女子高生の経験のある者に教えを請うのが1番だ。誠にとって最も身近な経験者といえば、陽光が一切射し込まないカーゴに1日中缶詰めになっても平気な上司。

「女子高生の心理について? 何よそれ?」

 プライベートな相談にも乗ってくれる小沢は頼りにはなるのだが、今更ながら果たして彼女の意見が参考になるのか不安になってくる。一般的な女子高生の年齢の頃、彼女は既にアメリカの大学を卒業している。もはや女子大生ですらなかったということだ。とはいえ自分から相談を持ってきた手前やめるわけにもいかず、誠は話を続ける。

「実は、知り合いの女の子が大きな悩みを抱えてるみたいで。その年頃の女の子って何を考えてるのかな、て………」

「あ、女のことなら僕に任せてくださいよ」

 と尾室が自信満々に、

「やっぱりほら、プリクラとか、カラオケとか――」

 「難しい年頃よね」と小沢が完全無視を決め込む。正直なところ誠も参考にはならない、と早々に見切りを付けていた。そんな娯楽で千歌の懊悩を消すことなんてできない。

「些細なことで落ち込んだり、どうでもいいことで有頂天になったり。私にも覚えがあるわ」

「小沢さんに、ですか………?」

 誠は上司の顔を覗き込む。この天才肌な彼女にそんな時期が。部屋に籠ってひたすらPCに向かって研究ばかりしているイメージしか浮かばない。

「何よそれ、当然でしょ」

 どうやら思考が表情に出てしまったらしい。

「それは、そうですが………」

「とにかく優しく接してあげないと。ガラス細工を扱うみたいにね。その歳に受けた傷は尾を引くものなんだから」

「ガラス細工ですか………」

 そう、と細心の注意を払って触れるべき、ということだろうか。分からない。女心とは全く分からない。

 






 天より落ちる炎が人と交わるとき
 焼かれた胎より邪悪なるものが産れる
 それは人ならざるもの
 忌むべきネフィリムなるもの
 その牙は聖なる翼をもぎ血を啜る。
 その声は天地に恐怖をもたらす

             巨人の書


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第2話

 前回のあとがき欄の文面はアギト世界(というより本作の世界観)に伝わる聖書の一部のようなもので、作品の裏設定としてネタが思い浮かび次第書いていこうと思います。



 

   1

 

 今日も今日とて快晴な練習日和。千歌にとっては皮肉なことに。屋上での練習はいつもなら気持ちよく感じられるのに、今は残暑も体に浮く汗も鬱陶しい。ようやく訪れた休憩時間になると、コンクリートの床に大の字になって深い溜め息をつく。

「ラブライブの予備予選がこんなに早くあるなんて………」

 学校説明会中止は撤回された。その説明会が身を結び今年中に入学希望者を100人集めれば統廃合も撤回。それを達成するために、目下のステージのためにパフォーマンスを仕上げればいい。

 即ち曲。そう、曲が必要だ。ラブライブの予選と学校説明会で披露する曲が。

「出場グループが多いですからね」

 ダイヤの言うように、ラブライブにエントリーするグループは多い。ただでさえ競争率が高い上に、運営委員会から発表された予備予選の日程が思いのほか間近だった。

「この地区の予備予選は来月始め。場所は特設ステージ」

 ルビィが確認するように告げると善子が「有象(うぞう)魑魅魍魎(ちみもうりょう)が集う宴!」と口走っている。何を言っているか分からないのは今に始まったことじゃないから無視しよう。

「でも、どうして早いと困るずら?」

 花丸が訊いた。「それはその………」と答えあぐねていると、梨子が代弁する。

「歌詞を作らなきゃいけないからでしょ」

 「なるほど」と鞠莉が納得する。そう、問題はそこにある。予備予選と説明会まであまり時間がない。それなのに千歌が担当する歌詞がまだ完成していない。そうなると梨子が作曲に取り掛かれない。つまり曲ができず日が経つにつれて練習も少なくなっていく。

 しかも予選用と説明会用と2曲分必要ときた。ラブライブで披露する曲は未発表のものと定められていて、間の悪いことに予備予選は説明会の後。説明会で発表してしまったらもう転用はできない。ならば説明会に既に発表した曲を、という意見も出たのだが、以前から説明会用の曲は漠然とだが考えていたこともあって、今更予選へ回したくはない。

 そういうわけで、結果的に同時期で2曲制作ということで話がまとまった。まとまってしまった。勢いに任せて了承してしまったのは千歌なのだが、ただでさえ特別良くもない頭を悩ませる羽目になる。披露するのは新曲、なんて制限を設けたラブライブの運営委員会を恨みたくなる。何も最初から制限があったわけじゃなく、設けられたのは第2回大会から、とダイヤが教えてくれた。確かμ’sが優勝した大会だ。初回大会の盛況ぶりからエントリー数が爆発的に増えたから、数を抑えるための措置だったらしい。

「わたしばかりズルい!」

 と千歌は脳に刺激でも与えられないかと頭を抱える。

「梨子ちゃんだって2曲作るの大変、て言ってたよ!」

 自分の作業が滞ると進まないという現状が尚更プレッシャーをかけてくる。

「それ言ったら曜ちゃんだって」

 という梨子からの指摘にぐうの音もあげられない。「9人分だからね」と本人は軽い苦笑で返してしまうのだが、実質的に2曲なわけだから制作数は18着になるわけで。

「厳しいよ、ラブライブ………」

 もはや弱音を隠す気力すらない。

「それを乗り越えた者だけが、頂からの景色を見ることができるのですわ」

 ダイヤの言うことも重々承知なのだが、だからといって作業スピードが上がるわけでもない。

 空を仰ぐ千歌に、梨子の影が覆いかぶさる。

「で、歌詞のほうは進んでいるの?」

 「わあっ」と驚きながら、バネのような勢いで上体を跳ね起こす。「そ、そりゃあ……、急がなきゃだから………」としどろもどろになっているところで、

「ここに歌詞ノートがあるずら」

「わあああああああっ‼」

 いつの間にか花丸とルビィに歌詞のキャンパスノートを覗き見られている。まあ、見られてもほぼ白紙のようなものだが、その白紙具合が恥ずかしい。

 とはいっても、千歌だって怠けていたわけじゃない。昨夜だって徹夜するくらいの意気込みで作業に取り組んでいた。結局睡魔には負けてしまったが、作業の痕跡にはページの隅にしっかりと残っている。

「凄いずら」

「そっくり」

 花丸とルビィはその痕跡を見つけたのか、ページを捲る毎に笑みを零す。「結構、力作でしょ?」と千歌も昨夜の成果を見返してみる。我ながら上手い、と自画自賛できる。

 ページの隅に書き留めておいたのは歌詞になる文字の羅列――ではなくデフォルメした梨子の似顔絵。完成しなかったら怒られるだろうな、と想像しながら描いたものだから、数ページにわたる殆どの顔が怒り顔になっている。

「昨日、夜の2時までかかって――」

 制作時の苦労を話そうと思ったところで、眼前に梨子の顔が迫ってくる。絵じゃなく本物が。

「千歌ちゃん………!」

 絵よりも遥かに迫力のある激昂寸前の顔で凄まれ、千歌は「……はい」と力なく観念する。

 そういうわけで、屋上での練習は早めに切り上げて場所は部室へ。まずは取り急ぎ歌詞制作に専念することになった。曲ができなければ、練習も基礎練習しかできなくなってしまう。本番が近付く今、基礎練習はウォーミングアップとして行い大部分を曲に焦点を当てた練習にしたい。

 かといって場所を変えたら解決できる問題ではなく、机でペンを持っても開いたノートは白紙のまま。隅にある梨子の似顔絵に睨まれ続ける。ついでに本物にも。

「でも、このまま千歌たちに全部任せっきり、ていうのもね」

 限界を迎えてノートに突っ伏したところで、果南が言った。それに食いついたように鞠莉が、

「じゃあ果南、久しぶりに作詞やってみる?」

「い、いやあわたしは……、ちょっと………」

「前は作ってたじゃない?」

「それ言ったら、鞠莉だって曲作りしてたでしょ」

 「じゃあ衣装は?」と梨子が訊いた。「まあわたくしと――」と答えたダイヤが無言でルビィへ視線を送る。得心したように曜が、

「ああ、だよね。ルビィちゃん裁縫得意だったもん」

 そういえば衣装作成をルビィに手伝ってもらっていた曜は、度々彼女の技術を絶賛していた。殆ど何も教えていないのに期待以上の仕上がりになった、と。成程、経験者だったことも頷ける。姉妹揃ってスクールアイドルフリークだから、元々ノウハウを熟知していたのかもしれない。

「得意、ていうか………」

 と謙遜しているが、「これも」と花丸が更にルビィの実績を見せてくれる。

「ルビィちゃんが作ってくれたずら」

 花丸の手に掲げられているのは、花とクマのキャラクターが刺繍されたバッグだ。100円ショップで買ったものに刺繍を施したのだろうが、既製品と遜色ない出来に「可愛い!」と千歌は率直な感想を述べる。

「刺繍もルビィちゃんが?」

 梨子が訊くと、ルビィは気恥ずかしさに顔をやや俯かせながら「うん」と応じる。

 おもむろに鞠莉が席を立った。

「じゃあ、二手に分かれてやってみない? 曜とチカっちと梨子が説明会用の曲の準備をして、他の6人がラブライブ用の曲を作る。そうすれば、皆の負担も減るよ」

 彼女の提案に意義を申し立てたのは、恐る恐る手をあげるルビィだった。

「でも、いきなりラブライブ用の曲とかなんて――」

 気持ちは理解できる。予選通過を賭けた曲を担当することはプレッシャーになるだろう。千歌はアイディアが浮かばずプレッシャーなんて感じる余裕すらなかったが。鞠莉はそんな意見も想定内だったのか、

「だから皆で協力してやるの。1度ステージに立っているんだし。チカっちたちより良い曲ができるかもよ」

 焚きつけられたのかダイヤも立ち上がり、

「かもではなく、作らなくてはいけませんわね。スクールアイドルの先輩として」

 「おお、言うねえ」と果南もやる気になったらしい。「それ良い!」と千歌も同意を示す。互いに競い合うことで曲の仕上がりも良くなるのなら、それに越したことは無い。何より千歌の負担が半減する。後者は流石に口には出さないが。

「じゃあどっちが良い曲作るか、競争だね」

 千歌が言うと、花丸が「ルビィちゃん」と不安げな親友に笑みを向ける。何も気負う必要がないことの安堵に、ルビィの表情から僅かばかりだが不安の色が薄らいだ。善子も自信ありげに「承知」と短く応じる。反対意見がないことを確認し、鞠莉は話を纏める。

「では、それぞれ曲を作るということで決まりね」

「よし、皆で頑張ろう!」

 

 

   2

 

「お邪魔します」

 玄関を上がる誠に、志満は「どうぞ」と居間へ通してくれる。

「千歌さんは、あれからどうですか?」

「全然変わりありません。今日も朝から部活に出掛けましたよ。元から元気だけが取り柄のような妹ですので」

 良かった、と誠は胸を撫でおろす。アンノウンに殺害された相良克彦の最期に遭遇したそうだから精神的なショックが心配だったが、あの少女は誠が思っているよりも強いらしい。

 控え目に笑うと、志満は改まって畳に三つ指を揃え深々と頭を下げる。

「先日は、千歌がご迷惑をお掛けしたようで、本当に申し訳ございません。この前の事といい、氷川さんには立て続けにお世話になってしまって――」

 旅館の仕事で謝罪する場も経験しているのか、その所作は淑やかなものだ。でも誠にとって女性に頭を下げさせるなんて失礼この上ないもので、慌てて「そんな、頭を上げてください」と促す。

「その先日のことなんですが、実は千歌さんが――」

 誠はあの日のことを打ち明けた。千歌が朝早く署まで自首しに来たこと。彼女の父を殺したのでは、という不安を。始めこそ志満はまた超能力か、とでも言いたげな表情をしていたのだが、次第に表情に陰りを帯びさせていった。

「そうですか。あの子がそんなことを………」

 志満は消え入るように言ってテーブルに視線を落とす。

「お恥ずかしい話、私も千歌のことは時々分からなくなってしまうことがあるんです。うちは父を早くに亡くして、母も東京に単身赴任ですから、長女として私が妹たちの親代わりにならないと、て思っていたんですけど………」

 突然の告白に誠はうろたえてしまう。事件捜査で被害者遺族の聴取を担当したときも、こんな感情の吐露を聞かされることは何度もあった。それなのに、ただ刑事として証言を集めることばかりに注力して、こういった他人の懊悩にどう言葉をかけてやれば良いものか戸惑うばかりだ。

「思えば父が亡くなってから、千歌はどこか遠慮しているような気がしていたんです。父にとても甘えていたのに、葬儀では涙1滴も流さなくて」

 所詮は他人の家庭事情。そう割り切れればどんなに楽なことか。でも何度もこの旅館の暖簾を潜り、彼女たちの生活ぶりを垣間見て、末妹のステージで邁進する姿を見てしまった。割り切るのに、誠はもう高海家に深く踏み込みすぎた。今更他人面して、この家族に漂う暗雲に目を逸らすことはできない。

 とは思っても、誠は精神科医やカウンセラーじゃない。ただ志満が吐き出す感情に、聞き耳を立てることしか対処方がない。

「いえ、本当に遠慮していたのは私のほうかもしれません。姉妹なのに、家族なのに変に気遣ったりなんかして。寂しい想いさせないように、て甘やかして。もっと叱るときはちゃんと叱るべきだったのでしょうか。どう思います氷川さん?」

 まさか僕に振るのか、と内心で誠は焦った。教育や子育てなんて、子供どころかまだ独身の自分に分かるはずがない。そもそも志満だって誠と歳はそう変わらないだろうに。

「それは、そう思いますが………」

 答えに迷っていると、じれったくなったのか志満の思考はどんどん加速していき、

「そうです。たまにはビシ、と手を上げるくらいのことはしないと」

「いえ、暴力はいけません。女性はガラス細工のように扱わないと」

 「私も女性です」と志満はむくれた。普段の淑やかな振る舞いとはまるで違うその少女じみた表情に思わず胸がどくん、と強く脈打ってしまう。

「ガラス細工ですか……、しかしおいくらのガラス細工なんでしょうか?」

「………は?」

「ガラス細工にも色々あります。値段によって扱い方も変わってくるでしょう?」

 何だこの質問は、と思ったが、とことん律儀なこの青年刑事は自身が購入を迷う値段を考えてしまう。

「それは……、5万円くらいですか?」

「あなたは千歌ちゃんに5万の価値しかないと言うんですか?」

 どうやら地雷を踏んだらしい。志満の初めて聞く荒げた口調に思わず尻込みしてしまう。

「ああ、いえ――」

「あの子の価値はお金になんて替えられません。当然でしょう」

 「はあ………」と応じながらも誠は首を傾げずにはいられなかった。

「いや、志満姉が言い出したんじゃない」

 そこで、お盆を手にした美渡が入ってきて誠の前にお茶を出してくれる。「すみません」と会釈しながら、内心でこの迷宮入り確実な会話を終わらせてくれたことに深く感謝した。志満は恥ずかしそうに頬を赤らめながら、また頭を下げる。

「すみません。興奮してしまって………」

「いえ、気にしないでください」

 そもそも、僕は何しに来たんだろう。この時点で誠は訪問の目的をすっかり忘れていた。

 

「じゃあ、わたし達は千歌ちゃん家で曲作ってるね」

 校門前でそう告げると、曜は千歌と梨子のもとへ向かい、3人で丘を下っていく。「頑張るずら」と花丸が手を振って見送ったところで果南が「さてと」と、

「わたし達はどこでやろうか?」

 ダイヤは顎に指を添え考える。こちらは6人と数が多いし、近場に大勢で行ける飲食店もない。

「ここら辺だと、やっぱり部室?」

 ルビィがそう提案する。それが最も無難なのだが、

「何か、代わり映えしないんじゃない?」

 善子の指摘通り、気分転換も兼ねているのだから普段使用している部室はなるべく避けたい。「そうですわね」とダイヤは同意し、

「千歌さん達と同じで、誰かの家にするとか」

 「鞠莉んとこは?」と果南が訊いた。鞠莉の家、つまりはホテルオハラ。幼い頃に果南と何度も訪ねて――というより忍び込んで――いたから、部屋の間取りや広さは把握している。

「確かに部屋は広いし、ここからそう遠くもないですし」

 3年生同士で話を進めていると、1年生たちの方で花丸がルビィに潜めた声で訊く。

「もしかして、鞠莉ちゃんの家って凄いお金持ち?」

「うん、そうみたい」

 声は小さいがダイヤの耳にはしっかりと届いた。恐らく果南と鞠莉にも聞こえている。更にそこへ善子も加わり、

「スクールカーストの頂点に立つ者のアジト………」

 一体何を想像しているのか、花丸と善子は揃ってこちらへ期待のこもった眼差しを向けている。妹だけは冷静でいてくれたことに安堵しながらも、正直ダイヤにはあまり良い予感がしない。

「わたしはNo problemだけど、3人はそれで良いの?」

 ホテル経営者を父に持つ影響からか、鞠莉は基本的に客人を拒まない。それをよく知っているからこそ、ダイヤはこの先に起こることが読めてしまう。1年生たちがすかさず挙手することも。

「賛成ずら!」

「右に同じ!」

「ヨハネの名に懸けて!」

 こんなにも熱望されたら鞠莉が黙っているはずがなく、

「OK, Let`s together!」

 

 

   3

 

「先に部屋行ってて」

 十千万に到着すると、千歌は曜と梨子にそれだけ言って裏手の畑へ向かった。いつもこの時間帯は、畑の世話をしているはず。予想通り、翔一はトマトの世話に勤しんでいた。赤く実ったトマトを嬉しそうに眺めるその横顔に「翔一くん」と声をかける。千歌の顔を認め、翔一は笑顔で迎えてくれた。

「あれ、今日は早いね。もう練習終わり?」

「うん。次の曲作らなきゃいけないから。曜ちゃんと梨子ちゃんも来てるよ」

「そっか、じゃあお茶持ってくよ。そうそう、今日トマトでプリン作ってさ。きっとふたりも気に入ると思うんだよね」

 軍手を脱いで中に入ろうとする翔一の服を掴む。目を点にして振り返る翔一に、千歌は何だか照れ臭くなって苦笑しながら言う。

「ちょっと、いいかな?」

「うん」

 千歌は縁側に腰掛けた。翔一もおもむろに隣に座る。どう切り出したものか、千歌が言葉を探しあぐねていると、

「答え、見つかった?」

 不意打ちが飛んできた。翔一の顔を見ると、穏やかな笑みを返してくれる。いつものほほん、としているのにこんな時は鋭いなんて。いや、翔一にも悟られてしまうほど自分は分かりやすいということか。

「ううん、まだ」

 そう千歌はかぶりを振る。相良の所にいた時に抱いた、自分の居場所という疑問。そんな疑問を抱くことがそもそもの誤解だった。千歌に超能力はない。これまでの居場所への思慕を捨てる必要なんてない。でも、あの沢木哲也という男との邂逅が、疑問を再浮上させていた。

 あの謎に満ちた男の言葉が真実なら、千歌以外のAqoursメンバーは全員、超能力を持っている。やっぱり自分の目に狂いはなかった。彼女たちは特別な、輝ける人たちだった、と誇らしく思う。でも、そんな特別な者が集まったグループに、ただの人間でしかない自分が居て良いのだろうか。

 悩みはしたし、これといった答えなんて無い。

「でも、何となく思うんだ。自分の場所を探してるのはわたしだけじゃない、て。翔一くんだってそうでしょ?」

「うん。もしかしたら曜ちゃんや梨子ちゃんも。他のAqoursの皆だって」

 力があるから居場所になるのか。力がないからそこに居られないのか。そんなものは関係ない。だって、皆のいるAqoursが千歌にとって特別だという想いに、変化はなかったのだから。

「居ていいのかな、じゃくて居たいんだ。この内浦に。浦の星に」

 「変かな?」と訊くと、翔一はかぶりを振る。

「全然。それで良いんじゃない? 自分の場所って、そういう居たい、て気持ちから見つかるんじゃないかな」

 裡の嫌な溜まりが、すう、と抜けていくように感じられた。心から出た笑顔を、翔一は受け止めてくれる。足が軽くなったように感じられて、はやる気持ちのままに階段を上っていった。

 

 淡島のホテルオハラは何度か訪ねたことはあったが、考えてみたらダイヤと果南は非常口か鞠莉が用意してくれた独自の潜入口ばかりを使っていて、改めてロビーという「正規」の入り方をした経験は殆どない。10年近くは見ていないロビーだが、うろ覚えの記憶とはあまり変化が無いように思える。初めてロビーに通された幼い頃に感じたこの空間の不気味さは、成長した今となっては呆れに変わっている。招待された側として失礼な感覚だとは思うのだが、やはりこのロビーは普通の宿に比べると異質に感じる。富裕層向けのリゾートホテルというのは抜きにして。

 仕立ての良いソファにサイドチェストで淡く光るランプ。照明を反射し更に空間を明るくする大理石の床。

 そして壁やそこかしこに飾られた絵画や彫刻といった芸術品の数々。

 そう、ダイヤが不気味に思ったのは芸術品のせいだ。まず目を引くのが2階へ続く階段の傍らに立つ鞠莉の等身大石造。柱に寄り添うように立っている小さな像は恐らく幼少期の鞠莉を象ったもの。そして絵画もほぼ全てが鞠莉と鞠莉によく似た婦人の油絵。このホテルの経営者にとって最も美しい妻子に溢れている。溺愛したくなるのも分かるのだが公私混同するのは如何なものか、と物申したくなる。哀しいかな、このインテリアを決めた人間が浦の星の全権限を握っている。

 だがそんな経営一族展覧会なロビーでも、1年生たちにとっては華やかなセレブ空間らしい。

「凄い、綺麗!」

「何か気持ちいずら!」

「心の闇が晴れていく………!」

 子供のようにはしゃぐ後輩たちに果南は「そんなに?」と戸惑いを漏らしている。

「初めて来た時はあなただって――」

 その時のことは今でもよく覚えている。初めて鞠莉がホテルに招いてくれた日、あまりの豪華絢爛さに幼い果南はバルコニーから一望できる内浦の景色に向かってこんな大声をあげた。

 ――わたし、ここに住む!――

「そうだっけ?」

 恥ずかしさからか、果南はそう言ってそっぽを向いてしまう。その日果南は夕方になっても帰りたくない、と駄々をこねて迎えに来てくれた父に叱られ涙目で帰宅したのだが、そこまでの暴露はしないほうが良いだろう。

「それよりも、ここに来たのは曲を作るためですわよ」

 いつまでもロビーから動こうとしないばかりか、善子に至ってはソファでくつろぎ始めている。1年生たちを引っ張るように鞠莉が居室としているスイートルームへ連れて行くのだが、いざ始めようとしたところでまた横槍が入る。

「お嬢様、ルームサービスをお持ちしました」

 ワゴンを押したホテルのボーイが部屋を訪ねてきて、ワゴンを受け取った鞠莉はソファにかけたダイヤたちのもとへ持ってくる。運ばれてきたルームサービスを見て、また1年生たちが興奮に満ちた眼差しを向けた。

「お待たせ、afternoon teaの時間よ」

 ワゴンで運ばれてきたのは4段のティースタンドだった。1段目の皿にはケーキとサンドイッチ。2段目の皿には紅茶のポットと人数分のカップ。3段目の皿にはフルーツ盛り合わせ。4段目の皿はクッキーとクラッカー。

「超、未来ずら……!」

 友人宅で出されるおやつにしては豪華な品々に後輩たちは釘付けになっている。

「好きなだけ食べてね」

 見た目も華やかなお菓子を食い入るように見つめ、まずはマカロンを手に取る。

「このマカロン、可愛い」

「ほっぺがとろけるずら」

 ルビィと花丸はその味にご満悦だが、善子は手にとったチョコレート色のマカロンをじ、と睨んだまま口にしようとしない。体重が気になるのだろうか。まあスクールアイドルとしては立派な心掛けだが。

「駄目よヨハネ! こんなものに心奪われたら浄化される。浄化されてしまう。堕天使の黒で塗り固められたプライドが――」

 何やら喚きながら葛藤している善子の口に、隙を見て花丸がレモン色のマカロンを放り込む。堕天使のプライドはどこへやら、善子は破顔してソファに倒れ込む。どうやら浄化されてしまったらしい。

「何なんですの?」

 よく分からない茶番が終わったところで、鞠莉が山盛りのマカロンが乗った皿を持って来て、

「ダイヤたちもどうぞ」

 のんびりお茶を啜っている場合じゃないことは理解している。だがダイヤもまだ高校生の少女で、目の前に甘いお菓子を差し出されて無視できるほど大人じゃない。しかもホテルオハラで提供されるお菓子。一級品なのは間違いない。

 ひとつだけなら、とダイヤは果南と共にマカロンを口に運んだ。甘いだけじゃない、素材の味まで奥深く生地の滑らかさが舌を喜ばせる。そうなると紅茶が欲しくなって、アールグレイの柑橘系の香りで口直しすると今度は抹茶味のロールケーキに手をつける。

 しばらくすると、今度はチョコレートでコーティングされたポップコーンが運ばれてきた。これを善子と花丸が見逃すはずもなく、

「このチョコ味がまた堪らないのよね」

「堪らないずらあ」

 と両手いっぱいになるまで掴んで頬張る。ホテルなだけあって映画配信サービスも充実していて、ルビィは数多いラインナップから吟味した映画を楽しんでいた。画面の中で長い髪の女性がラクダに乗った砂漠の民族と何やら取引をしている。タイトルは『ハーモニー』というらしい。

「ところで、わたくし達何しに来たんでしたっけ?」

 

 






 人は主の現身(うつしみ)である
 人は主の寵愛を受けるものである
 故にエルは人を殺してはならない
 マラークは人を殺してはならない
 そして人も人を殺してはならない

             創世記外典


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第3話

 大変お待たせしました。
 え、待ってない?

 ……………

 さあどうぞ!



 

   1

 

「やはり、鞠莉さんの家では全く作業になりませんわ。全く!」

 本来の目的を思い出したダイヤによって、場所はホテルオハラから黒澤邸へ移る。少し離れてはいるが、網元だった頃から守られてきた屋敷は6人の客人を迎える余裕は十分にある。

「ええ………」

 と不満の声を揃えるのは善子と花丸。豪勢な茶菓子を前に意地でも動こうとしなかったこのふたりを連れてくるのにどれだけ苦労したことか。最終的に黒澤家でも茶菓子を出す、と懐柔したのだが、まだ未練が大いにあるらしく、

「あっちがいいずら」

「もっとポップコーン食べたかったのに」

 口を尖らせる後輩たちに凄んだ顔を近付け、

「やりますわよ」

 流石に観念したようで、ふたりとも渋々ながら「………へい」と応じた。

「では、まず詩のコンセプトから」

 目的をはき違えないよう、今度はダイヤがしっかりと場を仕切ることにする。Aqoursにおける曲作りの順序は千歌が作った詩を基に梨子が作曲・編集。そこから曜が衣装とダンスステップを考案する。ダイヤたちが1年生の頃の旧Aqoursも同じ順序だったから、まずは詩から。具体的なフレーズが出なくとも、全員で意見を出し合っていけば自ずと曲の方向性も見えてくるという見立てだ。

「ラブライブの予備予選を突破するには――」

 「はい」と花丸が挙手する。この話し合いにおいて、ダイヤは花丸に密かに期待していた。読書家の彼女なら、何か印象的なフレーズを考え付いてくれるのでは、と。「ずはり――」と花丸は持参してきたスケッチブックに筆ペンで何やら書き始め、それを高々と皆に見せる。

「無、ずら!」

 スケッチブックには大きく「無」のひと文字だけ書かれている。逡巡を経て果南が「無?」と眉を潜める。正直なところ、ダイヤもどういう意味合いなのか分からない。まずは考案者の意見に耳を傾けてみよう。

「そうずら。即ち無というのは全てが無いのではなく、無という状態が有るということずら。それこそまさに無」

 理解の限界を迎え、ダイヤは「はあ?」と言ってしまう。「What?」と鞠莉にも理解不能らしい。口にこそ出さないがルビィも同じだろう。だがこの場で理解できたメンバーがひとり。

「何それ………、カッコいい!」

 「善子さん」と花丸はその唯一の理解者へ流し目で視線をくべる。

「その無が有るということこそ、わたし達が到達できる究極の境地ずら」

「ヨハネ……。無……、つまり漆黒の闇。そこから出ずる力」

「そうずら!」

 多分善子もこの「無」談義を理解してはいない。ただ一見理解し難い概念の響きに惹かれ同調しただけだ。

「凄いふたりとも!」

 と普段なら同調し合えないふたりの仲睦まじい姿にルビィが感嘆の声をあげる。もっとも、ふたりには難題に対する賞賛に聞こえているだろうが。

「それでラブライブに勝てるんですの?」

 テーマが無でも構わない。それが観客に伝わる曲になればの話だが。

「テーマが難しすぎるし」

「Of course! もっとhappyなのが良いよ」

 といったようにダイヤたち3年生としては反対。説明を聞いても何を伝えたいのか全く分からない。

「理解できないとは」

「不幸ずら」

 ぶつくさ言っているが無の概念については別の機会にふたりでじっくり論議してもらおう。花丸なら論文かエッセイにできそうな気がする。

「そういう鞠莉さんは何かアイディアはありますの?」

 もっとhappyな、と言っていたからには漠然としたイメージはあるのだろうか。イメージ程度で構わなかったのだが、ダイヤの予想よりも鞠莉の思考は進んでいたらしく、

「まっかせなサーイ! 前から温めていた、とびっきり斬新でhappyな曲がありマース!」

 と音楽再生アプリを起動させたスマートフォンを部屋にあった専用スピーカーに意気揚々と乗せる。

「皆に曲を聴いてもらうこの感覚……。2年ブゥリデスネー!」

 嘆息しつつも、実はダイヤも久しい鞠莉の作曲が楽しみでもある。以前は聴き手がダイヤと果南しかいなかったが、今は後輩に聞かせることが更に高揚感を煽るらしい。

「どんな曲?」

 その果南の質問を待ってました、とばかりに「聴いてみる?」ともったいぶりながら、場の皆が見守るなか鞠莉は端末の画面をタップする。

 

「ん?」

 不意に志満が、遥か彼方へと視線を向ける。しいたけの毛並みにブラシをかけていた翔一が「どうしたんです?」と尋ねるが、志満自身も分からずにいるのか首を傾げながら、

「何か聞こえたような………」

 

 ヘビィメタル調の楽曲が鼓膜を裂かんとばかりに大音量で流れ始める。エレキギターとドラムを力任せに打ち鳴らしたかのような旋律のなか、鞠莉は「Yeah!」と踊っている。

「何か良いね。体動かしたくなる、ていうか」

 果南がしみじみと言った。2年前もこうして鞠莉から聴かされるのはヘビィメタルやハードロックばかりだった、とダイヤも懐かしさに曲調とは裏腹に穏やかな気分になる。

「確かに、今までやってこなかったジャンルではありますわね」

 Aqoursのこれまでの曲はオーソドックスなアイドルソングを前面に押し出していたから、斬新ではある。旧Aqoursの頃もこんなハードな曲は結局のところ1度もステージで披露することはなかったわけだし、意外性を狙うのなら有りかもしれない。

「音楽に合わせて体を動かせば、happyになれマスネ」

「そうだね、ラブライブだもん。勢いつけていかなきゃ」

 なんて以前と変わらない会話をしていると、唐突に曲が止まる。見れば、1年生たちは床で見事にのびている。どうやら曲も花丸が爆音のなかやっと止めたらしい。

「ルビィ、こういうの苦手………」

「耳がキーンしてる………」

「単なる騒音ずら………」

 ああ、わたくしも初めて聴いたときはこんな感じでしたわね、とダイヤは苦笑した。

 

 

   2

 

 作業を始めてどれほど経っただろうか。翔一の淹れてくれたお茶を啜るとすっかり冷めている。未だに白紙のノートに視線を落とし、そのまま千歌はテーブルに突っ伏す。

「浮かびそうもない?」

 曜の声に「うーん……」と気の抜けた返事をして、

「輝き、てことがキーワードだとは思うんだけどね」

 「輝きねえ……」と梨子が嘆息気味に言う。今回だけでなく、これまでも曲には「輝き」もテーマのひとつとして組み込んではきたけど、それを前面に押し出すとなるとどうしたものか悩みどころだ。

「早くしないと果南ちゃんたちに先越されちゃうよね………」

 別に勝負しているわけではないのだが、どうせなら向こうよりも良い曲を、というモチベーションで作りたい。

 テーブルに置いたスマートフォンが着信音を鳴らした。画面を見るとメッセージが受信されていて、送信元の名前が表示されている。

「ルビィちゃん?」

 文面はとても簡潔に綴られている。

《すぐに来て!》

 ルビィたち1年生と3年生は黒澤邸で作業しているらしく、十千万からは徒歩で行ける距離ということもあり急行することにした。事情はまだ分からないが、急を要すということはルビィからのメールで漠然とだが察しはつく。

 もしかしたら本当に先を越されたのでは、と走って邸宅に向かい、家人への挨拶もそこそこに彼女たちのいる部屋へ上がり込む。

「まさか、もうできた⁉」

 そんな千歌の声は耳に入らないらしく、面々は議論を繰り広げている。

「それではラブライブは突破できません!」

 というダイヤに噛みつくのは善子だ。

「その曲だったら突破できるというの?」

 どうやら意見が二分しているらしい。3対3。それも1年生組と3年生組という具合に。

「花丸の作詞よりはましデース!」

 という鞠莉の意見に花丸は何か言いたげに口を開きかけるが、そこは思い留まったのか口を固く結ぶ。

「でも、あの曲はAqoursには合わないような………」

 恐る恐るルビィが言った。でも当然のごとく鞠莉は引く様子もなく、

「新たなchallengeこそ新たなfutureを切り開くのデース!」

 「更にそこにお琴を!」「そして無の境地ずら!」と各々の好み全開な提案が飛び交い始めたところで、ようやく千歌は事情を把握することができた。

 

 取り敢えず面々の中から千歌たちを呼んだルビィと、比較的冷静だったダイヤを玄関先まで引っ張り出して事情を聞いた。大体は分かっていたが、予想通りに1年生と3年生で意見が対立。互いに1歩も譲ることなく話は平行線。そのまま収拾がつかなくなったとのこと。

「やはり、一緒に曲を作るのは無理かもしれませんわね」

 諦め気味に言うダイヤに続いてルビィも、

「趣味が違いすぎて……」

 「そっか」と千歌は返した。元は自分が行き詰ったせいで起こした事と思うと、申し訳ない気になる。これからラブライブに向けてグループ内の結束をより高めていきたい、というときに。

「良いアイディアだと思ったんだけどな」

「もう少しちゃんと話し合ってみたら?」

 曜と梨子が口々に言う。「散々話し合いましたわ」と返すダイヤの声色は少し気疲れしたように聞こえる。

「ただ、思ったより好みがバラバラで」

 「バラバラか……」と千歌は反芻する。納得したように曜も、

「確かに3年生と1年生、全然タイプ違うもんね」

 大きく分ければ3年生の鞠莉と果南はアウトドア派。1年生の善子と花丸はインドア派といったところか。

「でも、それを言い訳にしていたらいつまでも纏まらないし」

 梨子の言う通り。趣味趣向の違いを言い訳にしていたらきりがない。

「確かに、その通りですわね」

 ダイヤもそのことは承知らしい。

「わたくし達は、徹底的にコミュニケーションが不足しているのかもしれません」

「前から1年生と3年生、あまり話してなかったもんね」

 曜の言葉にそうかな、と思ったがすぐにそうかも、と思い直す。考えてみれば1年生と3年生の意思疎通は2年生を介して行われていた。今回はその仲介人が不在になったことで双方にとっても互いを知ることのできる良い機会と思いこの振り分けになったわけなのだが、まさか裏目に出てしまうとは。今までステージで一緒に踊ってきたのだから根底の信頼関係は築けていると思ったが、どうやら見立てが甘かったらしい。

 ここで1度、千歌はそれぞれのタイプを洗い出す。

「善子ちゃんと花丸ちゃんは積極的に話すほうじゃないし。鞠莉ちゃんと果南ちゃんも、ああ見えて人見知りなところあるし」

 要は、互いに他人との距離感を計るのがあまり上手くない。それぞれ譲れないものがあって、それを譲れるほどの仲を構築できていない。もっと言えば、Aqoursというグループを介していなければ恐らく接点が無かった関係。

 どうしたものか。もはや曲どころじゃない。千歌が深い溜め息をついたところで、ダイヤは名案を思い付いたのか、

「となると――」

 

 

   3

 

 後は任せて。

 そう告げて千歌たちを返し、部屋へルビィと共に戻ったダイヤはそっぽを向いたまま沈黙していた面々に先ほど思いついた案を告げた。

「仲良くなる?」

 声を揃えて反芻する面々の反応は予想の範疇。

「そうですわ。まずはそこからです」

 「曲作りは信頼関係が大事だし」とルビィが補足してくれる。

「でも、どうすれば良いずら?」

 花丸が訊いた。仲良くなることに異論はないらしく、ひとまず安心する。交流拒否なんてところにまで亀裂が入ったら、ラブライブどころではなくなってしまう。

「任せて」

 そう拳を握るのは果南だ。

「小さい頃から知らない子と仲良くなるには、一緒に遊ぶこと!」

 

 場所は移り再び学校へ。体操着に着替えた6人はグラウンドへと踊り出し、ドッジボールを始めた。チームは単純に1年生と3年生とで分かれる。親睦を深めるのはスポーツで、というのが何とも果南らしい。

 果南の投げた剛速球は並んで立ちすくむ善子と花丸の脇を通り過ぎ、外野で待ち構えていた鞠莉の懐へ収まる。

「Nice ball!」

 とはいえこの親睦ドッジボールを楽しんでいるのは果南と鞠莉のみで、善子と花丸は戸惑いの顔を見合わせている。

「さあ、行くよー!」

 勝負事には真剣に取り組む質の鞠莉はそんな後輩たちに慈悲を与えるわけもなく、

「鞠莉shining――」

 とまるで男子小学生が考えそうな技名を口にしながらボールを構える。「ずら……」と左右どちらへ避けたものかあたふたする花丸の前に、善子が「任せて」と立ち塞がる。

「力を吸収するのが闇。光を消し、無力化して深淵の後方に引きずり込む。それこそ――」

「Tornado!」

哭慈空苑(こくじくうえん)!」

 大きく両腕を広げた善子は、見事に鞠莉の剛速球を受け止めてみせる。ただし顔面で。

 しかも善子の顔面で跳ねたボールは花丸の頭に直撃、更に跳ねて外野にいたルビィの頭も打って一網打尽に。早くも勝負は3年生チームの圧勝で終わった。

 

 また場所は移り図書室へ。インクと紙。時折かび臭いこの場所を指定したのは当然、ここを誰よりも知っているメンバーだ。

「やっぱりここが1番落ち着くずら」

 「そうだよね」と利用し慣れているルビィも笑顔で応じる。

「光で穢された心が、闇に浄化されていきます!」

 と口走る善子の顔を見て、花丸とルビィは「その顔」と笑ってしまう。先ほどのドッジボールで付けられたボールの痕が未だ残っている。

「何よ、聖痕よ、スティグマよ」

 という感じに1年生組はいつもの仲睦まじい姿を見せてくれるのだが、こちら3年生組はというと、

「退屈う………」

「そうだよ海行こう海い………」

 案の定、鞠莉と果南は入室10分ともたず音を上げる。ふたりも音楽雑誌と海の写真集を開いているのだが、全くページが進んでいない。元々活字をあまり好まないふたりだ。果南に至っては恐らく教科書もまともに読んだ試しがない。

「読書というのはひとりでも勿論楽しいずら。でも皆で読めば、本の感想が聞けて――」

 という花丸の読書流儀に水を差して悪いが、もはや寝息を立ててテーブルに突っ伏しているふたりの耳には入っていない。

「寝てるの?」

 その先輩ふたりの醜態に流石のルビィも眉を潜める。

「ふたりは長い話が苦手ですので………」

 鞠莉は理事長挨拶のスピーチも短すぎるからいつも文面はダイヤが考えていたし、果南は話の途中で立ったまま寝るという妙技を身に着ける始末。長いことダイヤも矯正させようと尽力してきたが、もう諦めている。

 

「というわけで何となく分かったのですが、このメンバー………」

 また場所は変わり、次の場所へのバスで。車中での各々の行動ひとつ取っても、その人間性が伺えるものだ。

 晴天の下で青々と波打つ海を眺める果南と鞠莉はこの通り。

「わあ、今日は絶好のダイビング日和だね」

「また一緒にtogetherしましょ!」

 対して花丸は読書に耽り、善子は何やらぶつぶつと呟いている。花丸の読んでいる本が少し気になり覗いてみたら、タイトルは『虐殺器官』と何とも花丸に似合わない物騒な本だった。

「アウトドアな3年生とインドアな1年生に分かれてる、て訳ですね」

 全く正反対な趣向だから、意見も正反対で真っ向から対立してしまうということ。

「どうすればいいの?」

 隣の席にいるルビィが訊いてくる。

「仕方ないですわね。こういう時は、互いの姿をさらけ出すしかありません

 という事でダイヤ達を乗せたバスは、伊豆長岡の温泉街へ向かう。海を観光地とした宿が多い伊豆半島の中で、内陸に位置する伊豆長岡は山の森林を売りとした温泉街として開発されている。夏の海水浴シーズンは賑やかな海沿いの宿、それ以外の季節では静かな山で、という観光サイクルを半島で機能させている。まだ海沿いに観光客が集中する季節からか、伊豆長岡は比較的客足もまばらだ。

 数多く乱立している宿の中で、ダイヤ達は日帰り温泉が利用できる宿に入った。

「即ち、裸の付き合いですわ」

 源泉かけ流しの露天風呂に浸かると、体の奥から疲れが流れ出ていくように思える。これまでラブライブやら廃校阻止やらで慌ただしかったから、こうして足を延ばせる広い風呂に浸かる時間がとても尊い。

「安直ずら………」

 そんな手厳しい花丸の声を「お黙りなさい」と撥ねつけ、

「古来日本には、共にお風呂に入ることでコミュニケーションを図り、物事を円滑に進める文化があったのですわ」

 江戸時代では各世帯に風呂なんて持てなかったということもあり、大衆浴場は庶民で賑わう憩いの場として親しまれていた。時代を経て現代になっても銭湯という娯楽場が存在しているということは、誇るべき日本の文化と言うべきではないだろうか。風呂で汗を流しながら他愛もない会話に華を咲かせ、風呂上がりに冷たい飲み物で火照った体を冷ます。近年は不特定多数が浸かる浴槽内の雑菌を嫌って銭湯に入りたがらない者が増えているらしいが、文化を親しめないとは何とも悲しい話だ。

「でもこんな時間からお風呂かあ」

 と入浴をただの汚れ落としと捉える果南が文句をたれる。ダイビング後にシャワーを浴びた日は風呂に入らず寝てしまう、と聞かされる度に入浴の重要さを説いたのだが、彼女には響かなかったらしい。何なら幼い頃の果南はこんな極論を垂れていたくらいだ。

 ――海に入って綺麗になったんだし、お風呂入らなくていいよね!――

 あの日のべたついた髪に海藻を巻き込んでいた果南の磯臭さは今でも忘れられない。

「堕天使が人前で素肌を晒すなんて有り得ないわ!」

 未だ脱衣場から出てこない善子がそう喚く。別に混浴じゃないし、お客だってダイヤ達以外いないのだから恥ずかしがることもないだろうに。そんな彼女に「善子ちゃん」と花丸が別の風呂を指さしながら、

「暗黒ミルク風呂というのがあるずら!」

 暗黒なのにミルクの湯船とは。

「白黒どっちやねん」

 思わず全員で関西弁ツッコミを入れてしまう。だがそんな矛盾した風呂に惹きつけられた善子は真っ先にその暗黒ミルク風呂に浸かり「くっく……」と笑う。

「体に……体に染みわたる………。このパトスが!」

「笑いながらお風呂入ってると不気味ずら」

「うっさい!」

 まあ何にしても善子も入ってくれて良かったとしよう。ここから談笑して親睦を深めたいところだったのだが、

「もう飽きたあ」

「そうだよ十分あったまったよお」

 と長時間じ、としていられない上級生ふたりが湯船から出ようとする。

「全く、少しは我慢なさい」

 まだ10分も浸かっていないというのに。そういえば、とダイヤは思い出す。幼い頃、鞠莉の招待でホテルオハラのプールで遊ばせてもらったとき、プールから上がった鞠莉はこう言ってのけた。

 ――プールで綺麗になったんだし、お風呂入らなくてもNo problemよね!――

 あの日のぱさぱさになった鞠莉の金髪を見た、彼女の母親の「Oh my God!」というヒステリックな叫びが今でも忘れられない。

 そこでいつの間にかルビィがいないことに気付き辺りを見回すと、

「ああ、ごくらくう………」

 暗黒ミルク風呂に浸かっている妹を見つけた。

 

 温泉街を歩きながら、鞠莉は先ほどの宿で買ったフルーツ牛乳で喉を鳴らす。

「っぷはあ!」

 隣を歩く果南もすぐに瓶を開けて、

「やっぱお風呂上りにはこれだよね」

 15分ほどで出たが、体が十分温まった。というよりまだ冷える季節でもない。

「結局、何だったんですの?」

 深い溜め息と共にダイヤが漏らした。ここを提案したのはダイヤだというのに。

 父親の視察で世界中様々なホテルへ赴いたが、こうした日本の温泉街は中々お目にかかれず新鮮な気分になる。土産物でも見ようかな、と店を視線で探している際中、スマートフォンが着信音を鳴らす。通話のようで、端末の液晶には関谷真澄のロゴが表示されている。温泉で温まった体が一気に凍り付くような錯覚を覚えながら、鞠莉は通話に応じる。

「もしもし?」

『あなた今どこにいるの?』

「あなたこそ、今どこに?」

『家にいるわよ。とにかく速く来て!』

 通話が切れた。遅れて皆の視線を一身に受けていることに気付く。「どうしたの?」と果南が訊いて、何の気なしにやれやれ、と軽く溜め息をつく素振りを見せながら、

「ちょっとtask(用事)ができちゃってね。Sorry」

 と手を振って駅の方向へと駆け出すのだが、後ろ手を果南に引かれ止められる。

「わたしも行く」

 その険しい表情で駄目だったか、と悟る。やはり果南に隠し事はできない。しかも鞠莉を見透かしてしまう者はもうひとり。

「わたくしも行きますわ」

「ちょ、ダイヤまで――」

「隠したいならしっかり隠しなさい。何も知らされない方も、辛いのですよ」

「でも――」

 「ルビィ」とダイヤは鞠莉の声も聞かず1年生たちの方を振り返り、

「申し訳ないのですが少し外しますわ。この辺りで時間を潰していてください」

 全く状況が呑み込めないながらも、姉の言いつけだからか「う、うん……」とルビィは応じる。

「何かあったずら?」

「ちょっと、何なのよ?」

 花丸と善子も疑問や文句を飛ばしてくるが、「ほんとにちょっとだから待ってて」と果南が言い捨てるようにして鞠莉の背中を押して駆け出す。

 これから何かが起こる。鞠莉にはそれが確信できる。それが単なる直感なのか、それとも裡に目覚めようとしている力の予兆なのか、鞠莉には区別のつけようがなかった。

 

 






 人の(おご)りにエルは怒った
 エルの傲りに人は怒った
 人は怒りの炎で翼を焼き
 エルは清浄なる水で総てを洗い流した

           プリミラ記


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第4話

   1

 

 バスと電車を乗り継いで、沼津市街まで行くのに結構な手間が生じる。家に電話を入れてハイヤーでも手配すれば良かった、と鞠莉はマンションの階段を上りながら思った。着いてきた果南が質問を投げてくる。

「どうして、鞠莉がここを知ってるの?」

「ちょっと知り合いが住んでいてね」

「まさか、あの人たち?」

 誰とは言わないが、何となく鞠莉には察しがついている。「Yes」と答えると、果南に肩を掴まれ無理矢理面と向かわされる。「ちょっと――」とダイヤが止めにかかるが、果南は構わず、

「じゃあここの人たちがアンノウンに狙われてる、て鞠莉は知ってたの? 知ってて今まで何も言わなかったの?」

 黙っていたこと。知らない振りを装い傍観を決め込んでいたことは、鞠莉にも自覚はある。隠し事はしない、と3人で決めておきながら、何食わぬ顔で裏切っていたのは鞠莉自身だ。でもそれを間違いだなんて思っていない。たとえそのせいで親友から罵倒されようが絶好されようが、二度とスクールアイドルができなくなろうが構わない。それでふたりを守れるのなら。

「おやめなさい!」

 とダイヤが声を張り上げながら果南を引き剥がす。

「大体のことは察しがつきますわ。これから会う方は、あかつき号の関係者なのでしょう」

 ダイヤの口から出たその船の名前が、鞠莉の背に悪寒を走らせる。

「ダイヤまさか……、思い出したの?」

 「いいえ」とダイヤはかぶりを振る。

「ただ、ずっと違和感はありましたの。家で2年前のフェリーボートのチケットを見つけたのに、覚えが全く無いんですもの」

 ダイヤは射貫くように鞠莉を見据え、

「恐らく、わたくし達はあかつき号に乗っていた。そしてどういう訳かわたくしと果南さんはその当時の記憶をなくし、鞠莉さんだけが覚えている。違いますか?」

 名推理ぶりに、サスペンスドラマの犯人役になった気分になる。ドラマならここで犯人自ら真相を明かす場面だが、生憎そういうわけにはいかない。ダイヤと果南の空白の記憶は、墓場まで持っていくと決めた。あの船に乗っていた他の乗員乗客たちも、鞠莉の決心を尊重してくれたのだから。

「ダイヤの言った通りよ」

 白状するとまた果南が詰め寄り、

「ねえ、あかつき号で何があったの? どうしてわたしとダイヤは覚えてないの?」

「ふたりにとっては、それが救いだから」

「どういうこと?」

「知らない方がいい」

「どうして?」

「知ったら、ずっと苦しむことになるもの! あんなの忘れていた方がずっと良いに決まってる!」

 気付けば目元が熱くなっていた。浮かべた涙を腕で強引に拭ったところで、通路に並んでいたドアのひとつが開けられる。

「何大声出してるのよ」

 ドアから顔を出した関谷が、苛立ちを露わにしながら言う。「Sorry」と謝罪しながら鞠莉は会話の中断に安堵し、彼女のもとへと歩く。

「何があったの?」

「純と高島さんが死んだわ」

 え、と息を呑む。ふたりともあかつき号に乗っていたメンバー。

「アンノウンに殺されたの?」

「分からないわ。ふたりの家に行ったら、もう死んでたのよ」

 関谷は頭を抱えて泣き始める。

「もう本当に終わりよ………。私たち全員殺されるんだわ。あなたも、そこのふたりも………」

 「落ち着いて」と関谷の肩を抱く。確かに自分たちはもう長くないのかもしれない。でも果南とダイヤだけは死なせない、と強く誓う。鞠莉たちにだって、アンノウンに殺される時を待つだけじゃない。彼なら、戦える力を持った彼なら――

 突然、関谷は首を押さえて悶え始めた。

「真澄?」

 うずくまった彼女の口から液体が吐き出される。吐瀉物と思ったが、コンクリートの床に撒き散らされたのは無色透明の水だった。同時に関谷の呻きは止み、鞠莉たちを仰ぎ見る彼女の口元がにやり、と歪む。

 それを見た瞬間、恐怖が鞠莉の爪先から頭まですっぽりと覆い被さってくるようだった。

「人でない者は滅べばいい」

 それは関谷の声ではなかった。その声を鞠莉は知っている。何度も記憶から追いやろうとしてもへばりついて離れなかった声。

 恐怖で硬直した鞠莉の首に、関谷の手がかけられる。

「鞠莉!」

 咄嗟に果南が体当たりをかまして、手に力を込める寸前だった関谷は突き飛ばされて尻もちをついた。

「こっち!」

 果南に手を引かれ階段を駆け下り、マンションを出る。走りながらダイヤも動揺を止められないらしく、

「彼女はどうしたんですの?」

「分からないわ」

 ただ、関谷が発した声。あれは紛れもなくあの声だった。

「とにかく逃げなきゃ!」

 果南の声で思考を中断し、闇雲に住宅街を全速力で走る。住宅街を抜け、狩野川の近くに立つショッピングモールの駐車場に出たところで人ならざる者がこちらへと歩いてくるのが見えた。

 シャチのような顔をした、人間とよく似た体躯の生命体。

 方向を変えようとしたところで、その先には冷たい笑みを浮かべている関谷が。

「やれ」

 恐ろしい声がそう告げる。アンノウンはまるで主の命を承ったかのように頷き、引き締まった脚で駆け出す。だが、その行く手は横から割り込んできたバイクによって阻まれた。

「翔一さん!」

 果南の呼ぶ声には応じず、シートから降りた翔一はヘルメットを無造作に脱いでアンノウンと対峙する。

 あの青年が何をきっかけに記憶を失ってしまったのか、鞠莉は知っている。彼の名前が津上翔一でないことも。

「変身!」

 アギトへと姿を変えた翔一に、アンノウンが向かっていく。突き出された拳を腕で防ごうとしたが、重すぎたのか衝撃を受け止め切れず体勢を崩される。更に鋭い拳の連打が顔や胴に浴びせられ、苦し紛れに放った蹴りも受け止められる。動きを封じられたばかりか、鳩尾に反撃の蹴りを入れられた翔一はごほ、と咳き込みながら倒れた。

 アンノウンは更に追い打ちをかけ、翔一の首を掴んで無理矢理立たせると、その金色の鎧に覆われた体を片手で放り投げる。宙へ放り出された翔一は駐車場に停めてあった車と衝突し、フロントガラスを盛大にぶちまけながらボンネットから地面へと滑り落ちた。

 ひとまずの障害を排除したアンノウンの目が、再び鞠莉たちへ向けられる。だが、その顔はすぐさま別の方を向いた。異形の視線の先。駐車場の中をひとりの青年がこちらへ歩いてくる。

 それはあの、夢のような奇妙な屋敷で眠っていた青年。鞠莉たちが失われかけていた命を繋ぎ止めようと、力を使った青年。その名前を、果南が息を詰まらせながら告げる。

「涼………」

 涼と呼ばれた青年は駆け出す。靴音をアスファルトに叩きつけるように、力強く。

「変身!」

 その体は異形の姿へと変わった。果南から聞いていた通りの、緑色の筋肉に覆われ真っ赤な目を見開いた姿へと。

「ウオオオアアアアアアアアアアッ‼」

 

 

   2

 

「今は火葬になったが、爺さんの時代は水葬だったらしい」

 それは幼い頃から何度も聞かされていた、涼の故郷の風習だった。死者は沖まで船で運ばれて、船乗りたちの手で海に沈められる。墓標は建てられない。漁師たちが漁の安全を祈願する、海岸にいつの時代に建てられたのかも分からない小さな祠が墓標代わりらしい。

 だから、涼の故郷の漁村にある墓地の墓石は比較的新しいものばかりだ。最も古いもので戦後間もない頃に建てられた墓で、彫られた字も塔婆も朽ちたものはひとつもない。

 それでも多くの村民には古くからの土着信仰が強く根付いていて、代々村で漁師の家系だった父も漁に出る前は必ず海岸の祠に手を合わせに行っていた。

 あの日、母の10回忌の法事の日も、父は涼を連れて祠へ参りに行った。親戚と寺の導師も呼んで経を上げたのだが、父にとって最も信じるべき神は潮風ですっかり腐食した祠に宿っているようだった。

 着慣れないスーツのネクタイを締め、涼に学生服を襟まで詰めるよう言った父は、祠に向かって長く合掌していた。

「何でこんなチャチなものに頭下げるんだよ?」

 形だけの合掌をすぐにやめた涼が面倒臭そうに言うと、父は苦笑しながら、

「罰当たりなことを言うな。ここに祀られているのは海に還ったご先祖様たちだ。俺もお前も、死んだらここに祀られる。勿論、母さんもな」

 寂しさと虚しさが涼の裡を満たした。死んだら他の死者とひと括りにされて、こんないつ壊れてもいいような祠に祀られるなんて。この漁村だって過疎化が進んで、いつ廃村になるかも分からない。誰もいなくなったらここに祀られた死者たちも、村と一緒に忘れ去られる。墓標が建てられなかった時代の先人たちは、この虚無をどうやって満たしていたのだろう。

「どうして、昔は死体を海に沈めていたか分かるか?」

「知らないよ、そんなの」

「命を海に還すためだ」

 「はあ?」と涼は生意気に返した。いつものことだから父はそんなこと意にも介さず、

「全ての命は海から貰った。だから命が終わったら、海に還さないといけない」

「迷信だよ、そんなの」

 唐突に、父に背中を叩かれた。日頃から漁で鍛えられた父の張り手は中々に強烈で、まだ中学時代の涼の体は成す術なくつんのめってしまった。

「何すんだよ」

「そうやっていつまでも突っぱねていると、死んだとき海から追い出されるぞ」

 からから、と笑う父が山中の駅で寂しく死ぬなんて、このとき誰が予想できただろう。馴染みのない土地で焼かれた父の魂は、愛し敬っていた海へ還ることができたのだろうか。

 なら俺は、と涼は思う。

 何も視えない暗闇に溶けようとしていた涼に一筋の光が射したのは、海に拒絶されたからか。それにしては、あの光はとても暖かく優しすぎる。

 死の海から引き揚げられる時、涼は確かに聞いていた。

 ――涼………――

 父と同じように海を愛する少女の声を。

 

 

   3

 

 跳躍の勢いを乗せた涼の拳が、アンノウンの胸に突き刺さる。多少怯みはしたが、向こうも負けじと鳩尾に蹴りと拳を浴びせる。涼は苦悶の声こそ漏らしたが、怯みはせずアンノウンに足払いを見舞い体勢を崩す。すぐさま起き上がろうとした敵の腹を蹴りつけ、それでも起き上がろうとした敵の肩を掴み投げ飛ばした。

 それでも涼の猛攻は止まらない。無理矢理立たせた敵に殴打を浴びせ、渾身の蹴りを入れて突き飛ばす。蹴られた腹を押さえつけながら、アンノウンはよろめきながらも人間を超越した脚力で駆け出す。涼はすぐには追わなかった。凄まじい速度の敵は、もう大型商店の陰に消えてしまっている。

 涼の傍に誰も乗っていないバイクが走ってくる。変身した涼と同じ緑色のボディをしたバイクで、そのエンジン音は獣の唸り声にも聞こえるから果たして機械なのか怪しいところだ。勝手知ったように涼はバイクのシートに跨り、アクセルを吹かしてアンノウンの後を追った。

「涼……」

 その姿をただ見ていることしかできなかった果南が駆け出そうとして、慌てて鞠莉とダイヤが止める。

「待って果南!」

「危ないですわ!」

 うう、という呻きが聞こえる。振り返ると、関谷が地面に突っ伏していた。苦悶に歪むその顔に先ほどの不気味さは感じない。紛れもなく関谷真澄の顔だった。

「真澄?」

 歩み寄ろうとする鞠莉に、関谷は叫ぶ。

「逃げて! 逃げなさい!」

 それは懸命に抗いながら、ようやく発することのできた言葉だったのかもしれない。関谷の顔から一切の表情が消え、すう、と立ち上がる彼女の背後で生じた蜃気楼のような揺らめきが徐々に何かを形作っていく。

 一見すれば人のような、でも姿がはっきりしていくにつれて人でないことが分かる。

「あれは………!」

 恐怖が鞠莉の胸をきつく締め付けた。あの姿は忘れようがない。あの場にいた者には、恐怖といえばあの存在が思い浮かぶほどに記憶にしつこく纏わりついているだろう。

 その姿は、すぐ揺らめきの中へと消えてしまう。ただ無表情の関谷がこちらへ歩いてくるだけ。でも、彼女からは確かに”あれ”と同じ恐怖が感じ取れる。

 鞠莉たちの前に、息を荒げた翔一が立った。翔一の姿を認めた関谷はす、と右手をこちらへとかざす。

「逃げて!」

 咄嗟に鞠莉は果南とダイヤを突き飛ばした。一瞬遅れて、凄まじい衝撃が襲ってくる。まるで竜巻を直接ぶつけられたみたいに。直撃寸前のところで翔一に抱き留められたが、流石の彼でも衝撃は受け止め切れず宙に投げ出される。数舜の浮遊感の後、がん、という鈍い音と共に跳ねそうになる体を、必死に翔一にしがみついて留めようとする。

 翔一の体がクッションになってくれたお陰で地面との衝突は避けられたらしく、打ち身以外に痛みは無い。でも鞠莉を庇った翔一のほうは痛みが凄まじいのか、起き上がるのにしばしの時間を要した。

「逃げて鞠莉ちゃん。早く逃げて」

 手を貸そうとする鞠莉を撥ねつけながら、翔一はあがった息遣いで言う。振り返ると、関谷は再び手をかざしている。

「逃げて!」

 と翔一が鞠莉を乱暴に突き飛ばした。次の瞬間、翔一が吹き飛ばされる。モールの壁に激突しクレーターを作った翔一の体は光を放ち、ほどなく収束すると人としての翔一に戻る。

 苦悶に顔を歪めていた翔一は関谷を、その背後に浮かぶものを視界に収め目を見開く。記憶を失っているのなら、あの時の恐怖も彼は忘れているはず。それなのに、翔一は関谷の背後に視線を釘付けたまま粗い呼吸を繰り返し、表情に怯えを満たしていく。

「翔一さん!」

「津上さん!」

 果南とダイヤが駆け寄り、翔一の体を起こす。「逃げなきゃ……」と翔一はか細く呟いた。

「あなた、思い出したの?」

 鞠莉の質問が耳に入らなかったのか、翔一はふたりの肩を借りながらショッピングモールの駐車場から離れていく。鞠莉にできることは、彼らと一緒にこの場から逃げることだけだった。

 

 アンノウンが目撃された場所が沼津署近くのショッピングモールとのことで、G3-Xを装着した誠は直接ガードチェイサーで現場へ向かった。

 小沢によるとアギトらしき生物と交戦中らしいが、現場に到着した誠が見たのはアギトではなかった。アンノウンと戦っていたのはG3システムを破壊した、あの緑色の生物。

 緑の生物は誠の存在に気付きはしたが、すぐに標的のアンノウンへ赤い両眼を向けて殴りかかる。再びあれと交戦することになったとしても、今度はやられない。あれとの戦闘データも組み込んだG3-Xは強度も上がっているのだから。

 反撃の拳を腹に受けた緑の生物が、モールの壁に追いやられ更に首に手をかけられる。誠がアンノウンに突進し引き剥がすが、すぐに振り払われ胸部装甲に思い拳を入れられる。火花を散らしながら身を投げ出された誠はすぐには起き上がらず、ホルスターから抜いたGM-01を発砲する。全弾命中するが、案の定ダメージを負わせるには至っていない。

 だがアンノウンにとっては都合の悪い状況らしく、銃弾の(あられ)を抜け出し街中の陰へと消えていく。緑の生物は雄叫びをあげながら追っていくが、通りに出たところでアンノウンはどこにも見当たらない。誠もG3-Xのセンサーで辺りを見渡すが、どこにもそれらしきものは探知できなかった。

 路上で佇んでいた緑の生物が、隆起した筋肉を委縮させる。黒と緑だった皮膚は肌色になり、額から生えた角は収縮しやがて消えていく。顔面の半分を占めるほどだった赤い目も、縮んで色も黒くなっていく。

「あれは、まさか………」

 マスクの奥で誠は息を呑んだ。あの姿は、まさに人間じゃないか。服を着ていて、髪が明るい茶色に染められている。知性どころか、ファッションを楽しむほど人間社会に溶け込んだ存在だ。

 青年のもとへ、緑色のバイクが走ってくる。シートに誰も乗っていないのに単独走行してきたことも驚きなのだが、もっと驚愕なのが緑色のボディが赤い市販のボディへと変わったことだ。さも当然のように、青年はバイクに跨りヘルメットを被る。

「待って。待ってください!」

 青年は誠の声に動きを止めて僅かにこちらへ振り向くのだが、すぐにバイクのエンジンをかけて走り去ってしまった。

 

 

   4

 

「本当にありがとう。皆は怪我とかなかった?」

 手ひどくやられた翔一を十千万に送り届けると、彼の帰宅を聞きつけた千歌たち2年生が玄関まで来てくれた。「うん」と果南はさも平気のように言いながら、

「でも、ごめんね。わたし達のせいで翔一さんが怪我しちゃったみたいで」

「ううん、本人も大したことない、て言ってるし。志満姉が止めたのに台所入っちゃって」

 その彼らしい光景はすぐ想像できて、場の全員で笑みを零す。

「で、曲はどう?」

 曜か訊いてきて、果南はまだ曲作りの際中だったことを思い出す。

「ダイヤさんの作戦、上手くいってる?」

 梨子の質問にダイヤは「まあ……」と歯切れ悪く、

「ぼちぼち、といったところですわね」

 「そう言う千歌たちは?」と果南は意地悪に訊いた。千歌の目が泳いでいるあたり、こちらも芳しくないらしい。

「お互い頑張りましょう。Greatな曲になるように」

 そう言って手を振って千歌たちに背を向ける鞠莉に倣い、果南とダイヤも「それじゃ」と十千万から出ていく。

 千歌たちに告げるべきか迷ったが、この大変な時期に悪戯に不安にさせたくない。それに、果南自身も色々なことが短期間で重なり過ぎた。

 あかつき号に自分も乗っていた。

 何故かその時の記憶がない。

 その記憶は鞠莉曰く、とても恐ろしいもの。

 それに涼。

 彼が蘇った。色々な事象のなかで、その事実がとりわけ大きく果南の裡を満たしている。

「良かったですわね」

 安堵が顔に出ていたのか、ダイヤが優しく言った。

「想い人が無事でいてくれて」

「………うん」

 

 オペレーションは常時モニタリングされているから、Gトレーラーにいた小沢と尾室も事の次第は既に知っている。カーゴに誠が帰還すると、当然のごとく先のオペレーションの話になった。

「以前G3システムとアギトを襲った謎の存在。やっぱり人間だったわけだ」

 G3-Xの記録映像を見ながら、小沢が得心したように告げる。映像の中にいる生物が人間になる瞬間。小沢は隅々まで確認しようと、何度も同じ箇所をリプレイする。

 あれが人間だとしたら、アギトも――

 思考に耽っていたところで、小沢に「どうした?」と促される。

「もしアギトも人間なら、一体どんな人物なのかと」

 あの黄金の姿の他に人間としての姿も持っているのなら、一体どんな顔をしているのだろう。どこに住んで、何を食べて、どんな言葉を発するのか、全く想像がつかない。

「そりゃ良い人に決まってますよ。何度もG3のこと助けてくれたし」

 と尾室が調子よく言う。「どうかしらね」と小沢はその日和ぶりを一蹴し、

「意外と想像もつかないような裏があるかもしれないし」

 その口ぶりはとても許容できるものではなく、「ちょっと待ってください」と誠は声を荒げて彼女に詰め寄る。

「僕は尾室さんの意見に賛成です。何度もアギトと一緒に戦ってるこの僕が言うんです。アギトが人間なら、きっと高潔な人間愛に溢れた人物に違いありません!」

「わ、分かったわよ………」

 因みにこの時、誠は熱くなりすぎて小沢の足を踏んでいたらしいのだが、全く気付いていなかった。

 

 





 人は主の慈悲により滅びを逃れる。
 正しき一対のみが方舟に乗ることを赦される。
 方舟に乗る者は笑たな始まりを託される。
 しかしその魂には悪しき光も託される。

              ノア記


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第5話

 

   1

 

 温泉街に戻る頃には、夕刻も近くなっている。まだ陽が出ている時間帯なのだが、空は厚く濃い灰色の雲が覆っていて地上に影が落とされる。

 色々と気になることは多いが、今は曲作りに励まなければ、とダイアは自身を律する。姉としてルビィに、先輩として後輩たちに不安な顔を見せてはいけない。

 駅の停留所でバスを降りると、ベンチで待ってくれていた後輩たちは「お帰り」と迎えてくれる。

「遅かったじゃない。せっかくお風呂入ったのに湯冷めしちゃったわよ」

 善子の文句を「マルはご満悦ずら」と宥める花丸はミカン味の棒アイスを食べている。きっと近くの売店で買ったものだろう。

「Sorry,色々と立て込んじゃってね。果南が海入りたいとか、ダイヤがお琴したいとか駄々こねるから」

 な、と鞠莉の出まかせに、果南と揃って抗議の目を向ける。でも実際に口には出さなかった。こういう時の鞠莉の口達者ぶりには、本当に助けられる。自分は今、不安な顔をしていないだろうか。ダイヤにとってそれが最も気掛かりだ。

 ぽつ、とアスファルトの1点を滴が叩く。それを皮切りに滴が止めどなく降ってきて、ざあ、という音が山中にこだましていく。

「どうしよう、傘持って来てない」

 とルビィが言う。天気予報では晴れとあったから、この場で傘を持っている者はいないだろう。

「どうするのよ、さっきのとこ戻る?」

 善子の提案に「それはちょっとなあ」と果南が難色を示す。ダイヤとしては先ほど散々走り回って汗をかいたからもう一度風呂に浸かりたいところだが、1日1度の入浴すら面倒臭がる果南にとっては既に済ませた事として処理されているらしい。

「結局何も進んでないかも」

 恐る恐るルビィが言った。誰も否定できないことがまた悲しい。親睦を深めるためのレクリエーションも、結局意味があったのかも怪しい。あっちを立てればこっちが立たず。より違いが明確になっただけに思えてしまう。

 当初の予定通り曲作りを進めることが先決だろう。でも温泉街に作業できるような場所なんてそうそう無いし、内浦までのバスは次発まで2時間も待たなければならない。

 皆で頭を悩ませているなかで、花丸が口を開く。

「近くに知り合いのお寺があるにはあるずらが………」

 その提案に、全員が乗った。いくら残暑のある季節でも、雨に打たれては体も冷えてしまう。

 

 目覚めたのは、見知らぬ屋敷のベッドだった。何故ここにいるのか、誰が自分をここまで連れてきたのか、涼には全く分からなかった。最後の記憶は腹を貫かれた痛みと、ようやく受難の日々が終わることへの安堵。

 そして光。

 温かな光に導かれるように目を開けた涼はすぐにベッドから起き上がり、自分の体の軽さに驚きつつも屋敷を彷徨った。屋敷の主人らしき人物はリビングで悠長に紅茶を飲んでいて、涼が質問を飛ばす前に告げた。

「行くといい。お前の行くべき場所へ」

 

 行くべき場所からの帰還を果たした涼を、男は紅茶でもてなす。

「何なんだ、あんたは?」

 最初の質問はこれだ。この屋敷に、この男以外の住人は見当たらない。涼をここに置いていたのは、対面のソファに腰掛けるこの男で間違いないだろう。

「お前を、蘇らせた者だ」

「何故?」

 眉を潜める涼に、男はシャツの胸ポケットから手帳を取り出す。いつも肌身離さず持っていたものが、今更になって手元にないことにようやく気付く。

「これはお前の父、葦原和雄(かずお)のものだな」

 男は手帳の名簿が綴られたページを開き、涼に見せる。

「残るあかつき号のメンバーは松浦果南、小原鞠莉、黒澤ダイヤ、関谷真澄、木野薫の5人だな」

「あんたあかつき号のこと知っているのか? 一体何があったんだあかつき号の中で」

 「落ち着け」と男は言うが、これが落ち着いていられるか。諦めかけていた真実に近付いているというのに。やはり父の死の原因はあの船にあったということか。

「関谷真澄から出てきたあの存在が、あかつき号を襲った。そして船に乗っていた者たちは背負わされたのだ」

「何を言ってるんだ?」

 一瞬だけだが、涼も関谷の体から出てきた存在を目撃している。これまで戦ってきた敵たちと似た、でもそれよりも大きな力を感じたほどだ。でも、あれが船を襲ったことが全てではない。男の口ぶりはそう言っているように聞こえる。

「あかつき号のメンバーは、ある運命を背負うことになっている。それはお前と同じ運命だ」

「俺と……同じ?」

「そうだ。彼らはいずれ、お前と同じになる」

 聞けば聞くほど意味が分からなくなる。果南も自分と同じ怪物になるというのか。

「あんた何なんだ? 俺を蘇らせたと言ってたが」

「松浦果南をはじめとする、Aqoursという少女たちの力を借りて、お前を復活させた」

 その言葉だけは、素直に信じることができる。暖かな光と共に、涼は確かに果南の声を聞いた。彼女が自分を助けてくれた。そう思うと少しばかり気分が落ち着いてくる。

「高海千歌に感謝するといい。彼女があの少女たちに力を使わせたのだからな」

 でも、まだ納得できないこともある。この男の手引きとしても、何故自分は蘇らなければならないのか。まだ俺は、終わることができないのか。

 全てを見透かしたかのように、男は言う。

「お前はまだ、死んではならない。ある存在と、戦わなければならないのだ」

「ある存在? 奴らのことか?」

 男は首肯する。

「彼らは、お前のような人間が増えるのを怖れている。お前のような、変身能力を得る可能性のある人間たちを抹殺しているのだ」

 先ほど告げたあかつき号のメンバーが背負う運命とは、そのことだろうか。だとしたら何故――

「何故俺が? 俺はあかつき号に乗っていないのに」

「力に目覚めるのは、あかつき号のメンバーだけではない。現にお前は、不完全ながらアギトと同じ存在として覚醒している。Aqoursの者たちも、いずれアギトになるだろう」

 その口から出た名前に、涼は息を呑む。

「俺が……アギトと同じ?」

 憎んでいた相手と自身が同じ存在だと告げられたことにショックはある。自身のみならず果南も、彼女の仲間たちも。だが、それが新しい疑問を生む。

「何故……、何故俺が?」

「それは、お前が自分で答えを見つけなければならないことだ」

 

 

   2

 

 雨のなか走っていくと、花丸の言った通り寺は駅からすぐ近くにあった。境内への門は閉じられていたが鍵はないらしく、花丸がゆっくり開けるとぎい、と軋みをあげる。

「入って良いずら」

 と花丸が言うが、正直足を踏み入れる勇気がない。せっかくの厚意に申し訳ないのだが。

「こ、ここですの?」

 「良いの?」と訊く鞠莉は、どこかこの状況を楽しんでいるように見える。まあ、さっきの騒動よりは幾分ましではあるのだが。

「さっき連絡したら、自由に使っていい、て」

 確かに花丸には電話で先方の許可を取ってくれた。ダイヤは門越しに境内とその周辺を見るのだが、住職の居住らしき建物が見当たらない。

「お寺の方は、どちらにいらっしゃるんですの?」

「ここに住んでるわけじゃないから」

 と花丸はいつ用意したのか懐中電灯で下から顔を照らし、

「いないずらあ」

 見事に恐怖心を煽られたのか、ダイヤの背中にしがみつくルビィが「ピギィッ」と小さく悲鳴をあげる。

「となると、ここで雨宿りしていくしかないですわね」

「雨も、まだまだ止みそうにないし」

 鞠莉も同意を示すと、今度は鞠莉の背中にしがみついている果南が小さな悲鳴をあげる。せっかく貸してくれるのだから住職に礼くらいは言いたかったのだが、それはまた後日するとしよう。

「暗黒の力を、リトルデーモンの力を感じ――」

 という善子の肩に花丸が手を添え、

「仏教ずら」

「知ってるわよ!」

 躊躇いつつも境内に上がり込むと、ひんやりとした空気に出迎えられる。すぐに花丸がマッチで燭台に挿されていた蝋燭に火を灯すが、朧気な光に照らされた仏像はより不気味さを増す。外の光も取り込みたいところだが、強くなってくる雨足に仕方なく扉を閉めるしかない。

「で、電気は?」

 善子が当然のように訊き、「ないずら」と即答される。「Really?」と鞠莉が上擦った声をあげた。天井を見上げると、確かにどこにも電灯らしきものが見当たらない。天井に描かれた龍が、ダイヤ達を見下ろしている。

 雨の音がより強くなっていくのが分かる。通り雨ならすぐに止むが、果たして通りで済むのだろうか。場所を借りている身で罰当たりだが、どうにも皆ここの居心地が悪そうに見える。特に未だダイヤの背から離れないルビィと、心なしか声が震えている果南が。

「どどどどうする? わわ、わたしは平気だけど………」

 みし、と何かが軋む音がした。恐らく気圧の変化で寺の木材が収縮なり膨張した音なのだろうが、神経が過敏になっている果南は近くの柱に抱きつく。既にお察しの通り、果南は幽霊や妖怪の類に弱い。幼い頃に千歌の父から古今東西の怪談話を聞かされてから苦手になったとか。

「他にすることもないし、曲作り?」

 鞠莉の言う通り、ただ雨が止むのを待っているのも時間が勿体ない。「でも――」とルビィが恐る恐る、

「また喧嘩になっちゃったりしない?」

 そうはならない、と言いたいところだがどうなることやら。

「きょ、曲が必要なのは確かなんだし、とにかくやれるだけやってみようよ」

 ようやく柱から腕を離した果南の言うこともごもっとも。「そうですわね」とダイヤが同意したと同時にまたどこかが軋み、驚いた果南は次にダイヤへ抱き着く。力が強いから少し苦しい。先ほどのアンノウンに比べれば大したことでもないだろうに。

「意外とぱあ、とできるかも」

 既に何度も同じ光景を目にしている鞠莉は完全にスルー。1年生たちも少し戸惑ってはいるものの、突かないのが情けか果南の様子には誰も触れない。

「歌詞は進んでるんですの?」

 ダイヤが訊いた。すると花丸が悪戯っぽい笑みを善子へ向けながら、

「善子ちゃんがちょっと書いてるの、この前見たずら」

「何勝手に見てんのよ!」

 と見られた本人がご立腹だが、果南とルビィが口々に「へえ、やるじゃん」「凄い!」と、更に鞠莉も「Great!」と称賛を送る。それに機嫌を良くしたのか、善子は「ふふふ」といつもの調子を取り戻し、

「よかろう、リトルデーモン達よ。だがお前たちに見つけられるかな。このヨハネ様のアークを!」

 見つけた。

 固めて置いてある皆の荷物の中から、表紙に「ヨハネの黙示録」と書かれた持ち主がすぐに分かるノートが。

「あったずら」

 皆で開いたページを見てみると、あっけなく発見された善子が「こらー!」と喚く。構わず読んでみた皆の反応はこの通り。

「こ、これは……」

「う、うらはなれ聖騎士……?」

 「裏離聖(りゅうせい)騎士団!」と善子が曲のタイトルを訂正するが、まず所見で読めるものじゃない。タイトルのみならず歌詞も、常用外の漢字ばかりが並べられている。こんなものがメロディに乗せて歌えるのか、果たして想像が全くつかない。

「この黒く塗り潰されているところは何ですの?」

「ブラックブランク!」

「読めませんわ」

 まさかこれも歌詞とは。

「お前にはそう視えているのだろうな。お前には!」

「誰にでも読めなきゃ意味ないずら」

 また軋む音が聞こえた。怯えながら果南が振り向くと、その先で暗闇から1匹の黒猫が出てくる。安堵の溜め息をつきながら、果南は「何だ、お前だったのか」と猫を抱きかかえた。

「それで、作曲のほうは?」

 ルビィが訊くと、鞠莉が「進んでるよ」と音楽プレーヤーを構え、

「チカっち達より元気な曲のほうが良いに決まってるわ」

 またヘビィメタルだろうか。そんな不安がルビィと花丸の顔から読み取れる。

「でも、あれは……」

「苦手ずら………」

 目の錯覚だろうか。ダイヤは目を擦りながらノートの紙面を注視する。

「そういえばこのブラックブランク? 動きますわ」

 黒く塗り潰された箇所がもぞもぞ、と蠢いているように見える。何なのかと顔を近付けると、ルビィが息を呑みながら、

「お、お姉ちゃん………。それ、虫……!」

 文字に伸ばした指が、ぶに、という柔らかいものに触れる。

「ピギャアアアアア‼」

 悲鳴で室内の空気が乱れたせいか、蝋燭の火が消えた。閉じられた境内が一瞬にして暗転し、元から怖がりな果南やルビィのみならず全員の悲鳴が響き渡る。それに上乗せするように雷鳴まで。

 唯一落ち着いていた花丸がすぐに火を点け直してくれて光が戻ったが、パニックが収まると同時に疲労感がど、と全身に押し寄せる。もはや議論を交わす気力も起きず、全員が畳に腰を落ち着かせた。

 色々と試したが、実になることはあったのだろうか。何だかやることなすこと全てが空回りしているような気がしてならない。

「全然噛み合わないずら」

「このままだと、曲なんてできっこないね」

 花丸と果南が弱音を漏らす。

「そんなに違うのかな? ルビィたち………」

 人それぞれ個性が違うのは当然のこと。メンバー各々の趣味趣向を否定するつもりはないし、尊重したいと思う。でも、こうして一緒に歌う曲を作ろうとして、こんなにも纏まらないことがあるとは。全員が一緒くたになって、同じ顔つきで同じ声で、同じ振り付けで踊るのならグループである意味がない気がする。同じ曲で同じ振り付けのなかでも、歌い方やステップの癖に各メンバーの個性が出るし、それを見比べるのもアイドルというコンテンツの楽しみ方でもある。全員の全てが同じならば、ひとりでステージに立つのと変わらない。

 皆でひとつに。でもそれぞれの魅力を出せる曲。2年生たちが、今までこんな難しい作業をしていたとは。先輩として偉そうな口を叩いてきたが、これからは千歌たちに敬意を以って接していこう。

 不意に、何か冷たいものが背中に落ちてきて、思わず「ピギャア!」と声をあげてしまう。続けてぽつ、ぽつ、と境内のあちこちで天井から大粒の滴が落ちてくる。

「雨漏りずら」

 花丸が言った。年季の入った寺だ。住職だって普段から住んでいるわけではないらしいから、建物の整備もあまり行き届いていないのかもしれない。「こっちにお皿あった」と果南が両手に小皿を持ってきて、雨の落ちる場所に置く。でも皿2枚で収まるほど、雨漏りは軽いものではないらしい。

「今度はこっち」

「鞠莉さん、こちらにお茶椀がありましたわ」

 境内からかき集めた皿や茶碗、桶や湯呑と使えそうな容器を総動員させて、ようやく全ての滴を受け止めることができた。

 ほ、とひと息ついたところで、ダイヤは漏れる雨音に聞き入る。ダイヤだけでなく、場にいる皆が、無言のままその音を聞いている。

 落ちる雨水を皿や茶碗が受け止める音。それはまるで琴楽器を叩いているようで、不思議と心地いい。焼き物、プラスチック、木。容器の素材によって音の高低が異なり、同じ素材であっても底の深さや大きさによっても音が微妙に変わってくる。

 どれひとつでも、同じ音はない。まるで自分たちみたい、とダイヤは思った。同じ滴を受け止めても、各々で違う音を出す。それぞれの音に良さがある。一見すればてんでばらばら。取りまとめの無い音の連なり。

 でも何故だろう。ばらばらなのに、落ちてくる雨のリズムも無作為なのに、調和が取れている。

 テンポも音色も大きさも。

 ひとつひとつ、全部違ってバラバラだけど。

 そのひとつひとつが重なって、調和して――

 ひとつの曲になっていく。

 そう、曲とは様々な音の連なり。互いに支え合い、高め合い、その調和のなかに歌い手の想いを込めていく。

 できる気がする。この雨が奏でる音から、自分たちだけの曲が。

 鞠莉が意気揚々と、明るい声を張り上げた。

「よーし、今夜はここで合宿ずらー!」

 

 

   3

 

 東にそびえる山々の陰から、朝陽が昇り内浦を照らし出す。藍色だった空は白み始め、やがて青く色付いていく。そんな世界が目覚める光景を、千歌は屋根の上で眺めていた。

「千歌ちゃーん」

 梨子の声がして視線を降ろすと、窓から泊まり込みで作業していたふたりが顔を出している。

「そんなところで何してるの?」

 曜が訊いてくる。「輝いてる」と千歌は答えた。

「何か、視えたんだ。今何を言いたいか、何を想っているのか。わたしがわたしに問いかけていた、答えが」

 昨日からずっと頭の中で繰り返し反芻していた問い。輝き、て何だろうという、スクールアイドルを始めてからずっと追いかけてきたもの。この答えが正解なんて分からない。そもそも、誰にも当てはまる正解なんて、どこにもない。

 答えはいつだって、千歌自身のなかにあった。

 色々な感情や想いを探り続け、まるで砂の中から見つけたひと粒の砂金のように、それは輝きを放っている。

 この輝く想いを、歌に乗せる。ステージの上で、精一杯歌い上げよう。

「千歌ー!」

 果南の声が聞こえて、千歌は振り返る。十千万の門のあたりで、3年生と1年生たちが晴れやかな顔で立っている。

「みんなー!」

 「曲はできた?」と曜が訊くと、果南が自身満々にノートを見せる。

「ばっちりですわ!」

 そう告げるダイヤの作戦が、きっと上手くいったのだろう。「じゃあ練習しなくちゃね」という梨子の声は、とても嬉しそうだ。「2曲分あるんだから、頑張らないと」と応える曜の声も。

 ようやく、また走り出せる。立ち止まってしまった分の遅れはすぐに取り戻せる、という確信がある。だって、こんなにも自分たちはひとつになっているのだから。

 朝陽に背を向け、千歌は1日の始まりを最高の気分で迎える。ラブライブと学校のために駆け出す始まりを。

 

 






次章 虹 / 呼び逢う魂


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第16章 虹 / 呼び逢う魂
第1話


 

   1

 

「えええええええええ⁉」

 スマートフォンで通話する鞠莉の甲高い声が、朝陽の下にこだまする。こんな朝早くに誰からだろう、と曜が疑問に思っていたところで、果南が「今度は何?」と訊く。

「良い知らせではなさそうですわね」

 沈んだ彼女の表情から察してか、ダイヤがやや諦め気味に促す。まさか今度こそ学校説明会中止、と身構えているなか、鞠莉は告げる。

「実は、学校説明会が1週間延期になる、て………」

 ひとまず中止にならなかったことは安堵すべきだが、喜んでいられるものでもない。鞠莉は更に続ける。

「雨の影響で道路の復旧に時間が掛かるので、1週間後にした方が良い、と」

「確かにその考えは分かるけど………」

 と梨子が理解したいのかそうでないのか煮え切らない想いを口に出す。

「でもよりによって………」

 曜は続きを口にするのに逡巡した。事情は理解できる。昨晩の雨は川の増水や土砂崩れ警報が出るほどで、道路が冠水した地区も出た、とネットニュースに掲載されていたほどだ。でも、いくら天災とはいえ間が悪すぎる。よりにもよってこんな時期に。

「どうしたの皆?」

 重苦しい雰囲気のなかで、屋根の縁まで歩いた千歌が能天気に言う。

「その分もっと良いパフォーマンスになるよう頑張ればいいじゃん」

 そんなリーダーの言葉を受けた面々を見ると、一様に皆が呆れを顔に出している。鞠莉だけは申し訳なさそうに、負う必要のない責任で表情を沈ませている。

「どうやら状況が分かってないようですわね」

 ダイヤが溜め息交じりに言った。曜の隣で梨子は額に手を当てている。千歌ちゃんのうっかりさに何とも思わなくなったのは長い付き合いのせいかな、と曜は苦笑する。

「問題です」

 と曜が教師気取りに言うと、千歌は疑問符を浮かべた顔を振り向かせる。

「ラブライブの予備予選が行われるのは?」

「学校説明会の次の日曜でしょ?」

 一応、日付は把握しているらしい。ここで気付いても良いのだが、未だ気付けない千歌を見かねてか梨子が「ですが――」と引き継ぐ。

「そんなとき、その説明会が1週延びる、という知らせが届きました。ラブライブ予備予選の開催日は変わりません。ふたつが開かれるのはさて、いつでしょう?」

 「そんなの簡単だよ」と千歌は得意げに腕を組む。一瞬遅れてその目が大きく見開かれたことから、ようやく事に気付いたらしい。

「ちょっと、うるさいわよ!」

「千歌ちゃん、朝ご飯できてるよ。皆の分もあるから一緒に――」

 と美渡と翔一、更にしいたけが出てきたのだが、驚きのあまり足を滑らせた千歌が屋根から落ちてしまう。幸いというべきか、落下地点にいた美渡としいたけがクッションになってくれたお陰で怪我はない。咄嗟に避けて無事だった翔一が「大丈夫?」と声をかけるが、千歌にはそれどころじゃなかった。

「同じ日曜だ!」

 

 清水町と富士市で発生した変死事件は誠も知っているが、捜査チームには加えられていない。それぞれの現場は距離があるものの死因が同じと断定され、殺人事件としたら同一人物による犯行と見られている。だが、不確定要素が多すぎてアンノウンによる犯行とも明確化できていないのが現状だ。だから捜査も不可能犯罪捜査本部ではなく、捜査一課で編成された小規模な操作本部に回されていた。

「北條さんが?」

 休憩所で缶コーヒーを飲んでひと息ついていた誠にその話を切り出した河野は「ああ」と頷き、

「熱心に調べていてな。被害者の高島雅英(たかしままさひで)橘純(たちばなじゅん)は同じアンノウンに殺された、て目星を付けてるらしい」

 差し出された捜査資料のファイルを開き、被害者たちのプロファイルを確認する。ふたりとも検死報告での死因は心臓麻痺になっている。これだけ見れば不幸な突然死としか言いようがなく、事件性は感じられない。それに、誠が不可能犯罪において着目している事項欄には、特記すべきものがなく白紙になっている。

「このふたりに血縁関係は?」

「無いな。全くの赤の他人だ。でもまあ、複数のアンノウンが活動してる、てことも考えられるしなあ」

 河野は缶コーヒーを啜り、

「でも北條は別の理由があるのかもしれない、て言ってるんだ。お前の言うアンノウンは超能力者とその親族を狙う、ていうのとは別の見方をあいつは探ってるみたいなんだ」

「それは、どういうことです?」

「さあな、俺にもよく分からん。あいつは今までの被害者の経歴を調べるみたいだ。何でもそれが、高海伸幸の事件に繋がるみたいでな」

 高海伸幸はアンノウンに殺されたという誠の推理を、北條は支持しているというのか。あの北條がそんな素直だとは思えない。誠の推理とは別の切り口があって、高海伸幸がアンノウン絡みの事件で死に至ったことを、北條は探して求めているのかもしれない。

 でも、と誠は思ってしまう。もし高海伸幸殺害の真相が分かったとしても、残された高海家の親族は報われるだろうか。悲しみを経ても穏やかな生活を取り戻していて、末妹の千歌は夢に向かって邁進している。そんな彼女たちに過去の悲しみをぶり返させてしまうことが、果たして正義と言えるのか。

 はあ、と深く溜め息をつき、誠はコーヒーを啜る。一体何を迷っているんだ。目の前に真相があるのなら、がむしゃらにでも食らいついていくのが刑事としてあるべき姿だろう。もし北條の捜査で犯人が人間と分かれば、逮捕して裁判にかけて断罪することができる。それが最善のはずだ。遺族にとっても。

 

 

   2

 

 キャベツの千切りで指を切ったことなんて、初めてかもしれない。ここ2年間より以前の記憶はないが、そんなことを思いながら翔一は血の滴る指を眺める。

「あら大変」

 しばらくぼう、としていると、翔一の血に気付いた志満が薬箱を持って来て指に絆創膏を貼ってくれた。

「珍しいわね翔一君」

 心配そうに顔を覗き込んでくる志満に「そうですか? こんな時もありますよ」といつもと同じか分からない笑顔ではぐらかす。

「今朝もお味噌汁の味が少し変だったし、具合でも悪いんじゃない?」

 そう、翔一は朝食でもミスをした。味噌汁の出汁を取り忘れるという、初歩的なミス。ただ味噌を溶かしただけで、全く深みのない味にAqoursの皆は顔をしかめていた。玉子焼きも塩と砂糖を間違えて、甘い玉子焼きが好きな美渡から塩辛い出来に文句を言われた。実を言うと翔一自身、指摘されるまで自分が何を作っていたのか全く覚えていない。キャベツの千切りをしていたことも、指を切って初めて気付いたほどに。

 原因は分かっている。昨日の「あれ」を見たせいだ。眼鏡をかけた女性の背後から出てきたアンノウン。あれを見て根拠のない恐怖で全身が凍り付くような寒気に襲われた。何故だろう。アギトとして戦っているときは、敵に対して恐怖なんて抱いたことはなかったのに。こうして戦いから離れていても、何故かあれのことが頭から離れない。

「翔一君?」

 志満から呼ばれ我に返る。またぼう、としていたみたいだ。

「何ですか?」

「千歌ちゃんがまたお弁当忘れちゃったみたいなんだけど、私が届けに行くわ。翔一君は休んでて」

「いや、大丈夫ですって。俺行きますよ」

「え、でも………」

「いいからいいから」

 と志満の手から千歌の弁当箱を取って足早に玄関で向かう。気のせいだ。あまりにも強そうだったから動揺しただけ。

 内浦湾沿いの県道をバイクで走る翔一は、ただ運転に集中した。雑念を振り切り、夕食の献立すら考えず、バイクのハンドルをきつく握りしめる。

 弁天社の脇道を通り過ぎようとしたとき、車道の真ん中に立つ人影に気付き翔一はバイクを停めた。向こうも翔一に気付いているはずなのだが、むしろ翔一だからこそだろうか、車道から退く気配もない。眼鏡のレンズ越しに見つめてくる双眸は一切の感情を想起させず、虚ろで冷たい眼差しを送っている。

 ただの人間。そのはずなのに、何でこんなにも息が粗くなっているのか分からない。どうしてこんなに体が震えて、背中に冷や汗が伝うのかが分からない。昨日と同じだ。全く同じ恐怖が裡を駆け回っている。

 やがて、女の背後で「それ」は姿を現す。昨日は蜃気楼のように朧気だったのに、今は明確にその姿を捉えることができる。

「誰なのあなたは………!」

 女の顔に人間味が戻った。苦しそうに顔をしかめ、

「あたしの体を返して……!」

 背後に浮かぶ「それ」は冷たい声で空気を震わせる。

「もう、お前に用はない」

 女は両手で顔を覆った。眼鏡が顔から落ち、頬も目蓋も関係なく掻きむしる。爪を立てたせいで血が滲むが、それでも構わず裡に抱えるものを引き剥がそうとばかりに掻き続ける。

 血に塗れた顔面を強張らせ、女は目を見張る。震える唇も爪で引っ掻いたせいで出血していた。

「そんな……あたしがふたりを………?」

 一体何の告解なのか、翔一には分からない。女は「ごめんなさい」とうわ言のように呟きながら、目尻から流れる涙を頬の血と混ぜ合わせる。何度目かの「ごめんなさい」を告げて、女の体が崩れるように倒れた。雨も降っていないのにその全身は濡れていて、その傍らに、影でしかなかった異形の存在がこつ、と足音を立てて降り立つ。

 それは骸になった女と同じく、全身を濡らし指先から水を絶えず滴らせている。背中から鳥に似た翼が生えているが、果たしてこんなに濡れて空へ羽ばたけるだろうか。大きく見開かれた両眼は微生物にまみれた水のように濁っていた。

 今まで出会ってきたアンノウンとは違う。まるで聖霊(エルロード)のようだ。神から海を自身の領として承ったかのような、まさに水のエルとも呼ぶべき存在。

 翔一はハンドルを切ってバイクをターンさせた。ホイールの摩擦音を響かせながら、アクセルをフルスロットルで捻りエンジンを高速駆動させる。

 逃げなきゃ。

 その本能に近いもので、翔一はバイクを走らせる。

 あれと戦ってはいけない。

 戦っても、絶対に勝つことはできない。

 

 部室のテーブルに広げられた伊豆半島の地図を、メンバー全員で食い入るように見つめる。果南の指が伊豆市のある1点を指し示し、

「ここが、ラブライブ予備予選が行われる会場」

 「山の中じゃない」と善子が不満げに言う。会場として使用されるのは、伊豆市の市営体育館。お世辞にも街中とはいえない、かなり辺鄙な地区。ステージ上のパフォーマンスはインターネット上でも中継されて、それにまだ予備予選だから会場へのアクセスはあまり重要視されない傾向にあるらしい。

「今回はここで特設ステージを作って行われることになったのですわ」

 先日の大雨は駿河湾沿岸部の局地的なもので、伊豆半島のほぼ中心に位置するこの地区への影響は無かったという。予備予選の日程変更がなかったのもそのためだろう。学校説明会の会場は勿論浦の星女学院。縮小された地図上のなかで、直線でもかなりの距離が見て取れる。しかも間には山々が連なっている山稜地帯。

「学校の方角までのバスとか電車は?」

 曜が訊いた。果南は苦い顔で「通ってないね」とかぶりを振る。

「じゃあそっちに向けて、電車を乗り継いで――」

 と梨子が代案を出してみるものの、生憎こんな地方では交通機関は充実しているとは言い難い。電車もバスも1時間に1本だけなんてものは珍しくもないから、地元民は必然的に車での移動が多くなる。当然、高校生のAqoursで運転免許を持っているメンバーなんていない。

「ごちゃごちゃごちゃしてきましたわ!」

 ダイヤが頭を抱えた。追い打ちをかけるように「到底、間に合いマセーン」と鞠莉が呟く。

「空でも飛ばなきゃ無理ずらね」

 花丸が叶いもしないことを言うのだが、それを聞いた善子は「フフフ」と不敵に笑い、

「ならば、この堕天使の翼で!」

 更に現実離れしたことだが善子に関してはいつもの事なので、

「おお、その手があった」

「堕天使ヨハネの翼で大空から会場入りずら」

 とルビィと花丸は突っ込むのも面倒臭いのか表面上の同意を示す。調子を狂わされた善子は慌てて、

「嘘よ嘘! 常識で考えなさい!」

 「そうずら?」「ふーん」と適当に受け流されたことが腹立たしいのか、ふたりの首に腕を回し絞め技をかける。

「あんた達わざとやってるでしょ!」

 もう何やってるんだか、と呆れると同時、千歌は閃く。

「そうだよ! 空だよ!」

 ヘリコプターを使えば一気に移動できる。空なら交通渋滞もない。ステージを歌ってすぐにプロペラを回すヘリへ飛び乗り、呆気に取られた人々へ颯爽と。

 ――じゃあ皆、次の会場が待っているので――

「恰好いい……」

「スーパースターですわ!」

 善子とダイヤはその光景を想像してか目を輝かせる。ヘリのローターが起こす強風のなかステージに降り立つ。まさに天から降りてきた堕天使。スーパースター。

 ヘリだって現実的じゃないが、心配はご無用。Aqoursにはその方面で強い味方がいる。

「というわけで、鞠莉ちゃん!」

「Oh! さすがチカっち。その手がありまシタ! すぐヘリを手配して――、と言えると思う?」

「駄目なの?」

「Off course! パパには自力で入学希望者を100人集めると言ったのよ。今更力貸してなんて言えマセーン!」

 そこで鞠莉は千歌の眼前まで迫らせていた顔を離し、

「とにかく! All or nothingだとお考えください!」

 「駄目か……」と肩を落とす。小原家の財力をかなり頼りにしていただけ尚更に。

「空が駄目なら海は?」

 とルビィが言う。「船ですわね」とダイヤが船舶を持っているメンバーへ期待の眼差しを向けるのだが、向けられたほうの果南はぴしゃりと、

「うちは駄目だよ。日曜仕事だし」

 ならば、と千歌は曜へと向き、

「じゃあ曜ちゃんは?」

「わたし?」

「そう! 曜ちゃんのお父さんの船で!」

 空路が駄目なら海路。海だって交通渋滞はないのだから余裕を持ち、かつ一気に会場へ行ける。会場までの航路、豪華客船の甲板でゆっくり水着でも着てクルージングを楽しむのも良し。想像してみよう。全速全身ヨーソロー! という曜の号令の下に航海へ乗り出し、パラセーリングで海風を楽しむ梨子の姿を。

 ――見て! 今わたし、水色の風になってるの! つかまえてね――

「てわたしのその恥ずかしい台詞は何⁉」

 と見事に本人から突っ込まれた。

「そもそも、パパの船そんなんじゃないし」

 聞けば、曜の父が船長を務めるのは小さなフェリーボートだとか。それに父の個人所有ではなく会社のものだから貸し出しはできないとのこと。

「これも駄目か………」

 空路も航路も駄目。そもそも考えてみたら、予備予選の会場は半島の内陸なのだから船なんて出せない。そうなると手段は陸路しかなくなる。

 「常識的に考えて――」とダイヤが真面目な考えを述べる。

「説明会とラブライブ予選。ふたつのステージを間に合わせる方法はひとつだけ。予備予選出場番号1番で歌った後、すぐであればバスがありますわ。それに乗れれば、ぎりぎりですが、説明会には間に合います」

 「本当?」と千歌が訊くとダイヤは首肯し、

「ただし、そのバスに乗れないと次は3時間後。つまり、予備予選で歌うのは1番でなければいけません」

 順番とはどうやって決めるのか。それを訊こうとしたとき、千歌のスマートフォンが着信音を鳴らす。「ちょっとごめん」と部室を出て端末の画面を見ると、志満からだった。

「もしもし志満姉?」

『千歌ちゃん、いま大丈夫?』

「うん、どうしたの?」

『翔一君のことなんだけど、何だか様子がおかしいの。千歌ちゃん何か知らない?』

 「ええ、翔一君が?」と千歌は口を半開きにしながら尋ねる。

「おかしい、てどんな?」

『さっき千歌ちゃんのお弁当届けに行ったんだけど、途中で引き返してきたみたいなの。何か落ち込んでるみたいで、何を訊いてもすみません、としか言わなくて………』

 確かに何かおかしい、と千歌も今朝から違和感を覚えていた。朝食の味噌汁は味が薄かったし、玉子焼きはいつも甘いのに今日のは塩辛かった。弁当も流石にこちらから届けを頼むのも悪いので今日の昼食は購買のパンで済ませたが、いつもなら忘れても翔一が届けに来てくれていたのに。

 何かあったとしたら、やはりアンノウン絡みか。それとも、1度思い出して忘れてしまった記憶がまた戻ったのか。とはいっても、翔一がそれくらいのことで落ち込むだろうか。あの記憶を取り戻しても変わらなかった翔一が。畑の野菜が全滅でもしない限り落ち込みそうにない翔一が。

「分かった、帰ったらわたしからも訊いてみるね」

 通話を切ると、背後から「チカっち」といつからそこにいたのか鞠莉から声をかけられる。

「翔一と、話をさせてもらってもいい?」

 

 

   3

 

 放課後練習の帰りに立ち寄った十千万に、翔一は姿を現さない。千歌曰く、いつも帰ったら真っ先に「お帰り」と出迎えてくれるらしいのだが。

「もしかしたら」

 と千歌は鞠莉を旅館の裏手へと案内してくれる。裏手にはたくさんの苗が植えられていて、青々としたなかでトマトやトウモロコシ、キュウリといった野菜が大きな実をつけている。翔一が育てたのだろうか。緑の茂るなか、翔一はトマトの実った苗の前で小さくうずくまっていた。まるで苗の中に隠れているみたい、と鞠莉は思った。

「翔一くん」

「翔一?」

 千歌と鞠莉が声をかけても、翔一は無反応のままこちらに背を向けている。

「やっぱりここにいたんだ。翔一くん、何かあると必ずここに来るよね」

 千歌の声はとても優しいものだったが、それでも翔一は無言を貫く。じれったくなり、鞠莉は唐突なのも構わず質問を向ける。

「ねえ翔一、真澄のこと知らない? 連絡が取れないの」

 そこで翔一はようやく「あの眼鏡を掛けた人?」と口を開いてくれた。「Yes」と答えると、翔一は背を向けたまま弱々しく言う。

「………多分、死んだと思う」

 全身が凍り付くような錯覚を覚える。同時に行き先のない悲しみと虚しさも込み上げてくる。正直、真澄のことはあまり好きになれなかった。いつも悲観してばかりで、その癖他人に依存してばかりで。あかつき号の仲間が次々に死んでいくと、その性分はどんどん加速していった。それでも鞠莉にとってはあの船での恐怖を共に乗り越えようとした仲間には違いないし、果南とダイヤへの沈黙も承諾してくれた。あれでも鞠莉たちを気に掛けてくれる大人だったのに。

「助けることは、できなかったの?」

 理不尽な質問を恐る恐る告げる。翔一は消え入りそうに、

「うん、俺逃げたから」

「翔一くんが逃げた?」

 千歌の口ぶりは信じられない、というようだった。鞠莉から見ても、翔一が敵から逃げるなんて考え難い。アギトとしての力を持った彼は怖いもの知らずに、どんな敵にも果敢に立ち向かう英雄的アイコンに映るだろう。でも鞠莉は理解できる。いくら記憶を失っていても、翔一の奥深くには真澄に潜んでいた「あれ」への恐怖が刻まれていることを。

「俺、あいつと前に会ったような気がするんだ」

 それが気のせいではないことを、鞠莉は知っている。翔一はあの存在と過去に遭遇した。できることなら、その恐怖すらも忘却してほしかった。そうすれば翔一はいつものように、アギトとして勇敢に戦い、あれを倒してくれたかもしれない。

 翔一は言う。とても弱々しく。

「俺はきっとあいつには勝てない。戦ったら俺は………。そう思ったら色々考えちゃってさ。何で俺がアギトなんだろう………」

 翔一の忘れているものを覚えている鞠莉にも、その問いは答えられるものじゃなかった。あの船にいた人々のなかで、どうして翔一「だけ」がより強い力を持ってしまったのか。

「あいつはきっとまた俺を狙ってくる。俺がアギトだから。何で俺アギトなのかな……。アギトを辞めることって、できないのかな………」

 それは無理よ、と鞠莉は裡で断言する。逃げられないのは翔一だけじゃなく鞠莉も同じ。あの船に乗っていた者は、背負わされた「アギト」という運命から逃れることはできない。

 たとえ背負わされた出来事を忘れてしまっても、運命はしつこく地の果てまでも追いかけてくるのだから。

 






 主は仰せられた
 それは始まりを終わらせるもの
 それは終わりを始めるもの
 それはアルファでありオメガである
 即ちそれはAGITΩである

             戦いの書


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第2話

 

 

 

 

   1

 

「――て訳なんだ」

 ドルフィンハウスに訪れた千歌はラウンジの椅子で俯きながら翔一の事を語った。隣の椅子につく鞠莉は無言のまま果南に目配せをしてきて、果たしてそれがテレパシーめいた力によるものかは分からないが、果南はすぐに「あの存在」と悟った。

「そっか………」

 それだけ返すと、話ついでに届けられた回覧板を店のカウンターに置いて、オレンジジュースを入れたグラスを手に戻る。「はい」とテーブルに置いても、千歌は好物のはずなのにジュースに手を付けようとしない。

「ねえ、ふたりとも何か知らないかな? 翔一くん、戦いに行くことはよくあるんだけど、でもいつもの翔一くんのままで帰って来て………。たまに落ち込んでるときもあったけど、あんなに怖がってるの初めて見たから、わたし何て言ってあげたら良かったのかな、て………」

 千歌が話している間、隣で鞠莉はスマートフォンをいじっていた。ちゃんと聞いてあげなよ、と注意しようとしたところで、果南のポケットの中でスマートフォンがバイブレーションを震わせる。ちらり、と画面を見るとメール着信で、発信元は目の前にいる鞠莉。俯いている千歌に悟られないようこっそりメールを開くと、短く1文だけが綴られている。

 ――あいつに真澄が殺されたみたい――

 息を呑みながら鞠莉に視線を向ける。鞠莉は何とも言えないように表情を曇らせている。同時にショックを和らげるための無意識的なものなのか、あの人真澄っていうんだ、なんて間の抜けたことを考えてしまう。

「チカっちは翔一のことが大好きなのね」

 こちらの不安を悟られないためか、鞠莉がからかうように言う。「うん、大好きだよ」と千歌は俯いたままだが答える。その即答ぶりに「え……?」と鞠莉は狼狽した。もっとも、ふたりの言う「大好き」は解釈が違うと果南にはすぐに分かったのだが。さしずめ鞠莉は恋愛感情のことを訊いたのだろうが、千歌が答えたのは親愛や家族愛のようなもの。父親を失った後になって高海家に迎えられた翔一は千歌にとって兄と同時に、父親代わりにもなっていたのかもしれない。

 何か思いついたのか、鞠莉が果南へ視線を送り、

「ねえ果南、彼に連絡できない?」

「彼?」

「わたし達を助けに来てくれた人よ。確か名前は――」

 

 久しぶりに戻ってきたアパートの部屋はすっかり埃を被っていた。あまり物は置いていないから、掃除に手が掛からなかっただけまだ良かったが。

 部屋に一通り掃除機をかけてからベッドに腰掛け水を飲んでいると、机に置いたスマートフォンが着信音を鳴らす。何かのセールスか、と思った。涼に連絡を寄越す友人も親族もいないのだから。

 何気なく画面を見ると、発信元の松浦果南という名前が表示されている。そういえば連絡先消してなかったな、と自身の粘着ぶりに呆れながら、着信音を鳴らし続ける端末に無視を決め込みベッドに戻る。何の用かは知らないが、彼女と接触するつもりはない。彼女を想うからこそ涼が付けたけじめとして。

 ようやく着信音が止んだ。早いところアドレスを消してしまおう、と端末に手を伸ばしたところで、留守電に切り替わったのか果南の声がスピーカーから聞こえてくる。彼女の声は聞き慣れた明るいものではなく、どこか他人行儀でたどたどしいものだった。

「涼、会ってほしい子がいるんだけど良いかな? 千歌っていう、わたしの友達なんだけど――」

 千歌。その名前を聞いて、涼はまだ留守電中の端末を手に取った。

 

 

   2

 

 淡島への連絡船乗り場までバイクを走らせると、埠頭で果南と、その友人らしき少女ふたりが待っていた。

「涼……」

 ヘルメットを脱ぐと、歩み寄ってきた果南をしばらくの間無言で視線を交わす。こうして彼女の顔をまじまじと近くで見つめるのはいつ振りだろうか。最後に言葉を交わしてからそう月日は経っていないはずだが、酷く懐かしく感じられる。

 果南は何か言いたげだったのだが、後ろにいる友人たちに笑顔を向ける。

「紹介するね、この人が葦原涼。涼、こっちが小原鞠莉」

 「Ciao」と金髪の日本人離れした顔立ちの少女が手を振る。以前、果南から話は聞いたことがある。確かホテルオハラの令嬢で、よく果南とダイヤという友人をからかっては面白がるとか。

「それで、こっちが電話で話した高海千歌」

 彼女が、と涼は千歌の顔を眺める。あの屋敷の主人が言っていた、自身を蘇らせるよう進言してくれた恩人。

 「こんにちは」と千歌は少し緊張した面持ちで軽く会釈した。どこかで見たような顔だ、と思ってすぐに当てはまる記憶を見つけ出す。そうだ、津上翔一という男の家で厄介になっていた時、抑えきれない力で危うく襲いかけた少女だ。あの時、彼女が涼の存在に気付かず本当に良かった。対面していたらこの再会はきっと警戒心を露にされる。

 「あの……」と千歌は涼を見上げながら恐る恐る、

「あなたも、変身するんですよね?」

 全身が硬直し、つい鋭く千歌を睨みつけてしまう。「あ、ごめんなさい。えっと……」と千歌は慌てて両手を振る。「いや……」と何とか応じながら、涼は果南へと向き、

「話したのか?」

「ううん。涼が眠っていたお屋敷の人からね。わたし達全員知っているけど、誰も涼のこと怖がったりしないよ」

 目の前で怖がっている千歌を見てそれが言えるのか、と突っ込みたい。でもそれは「そうそう」という鞠莉の声で阻止される。

「むしろあなたがいてくれてわたし達助かってるんだから、あんまり気にしないでくだサーイ」

 そう明るく言ってのける鞠莉は涼の顔をにやつきながら覗き込んでくる。

「………何だ?」

「果南てこういうwildな人がタイプなんだなあ、と思って」

「ちょ、鞠莉!」

 と耳まで赤くした果南が鞠莉を睨みつけるが、すぐにそっぽを向いて、

「とにかく、早く千歌の家行きなよ。ヘルメット持って来てるよね」

 「ああ」とリアシートに括りつけておいたヘルメットを外すと、ひったくるように奪った果南が千歌の頭に被せる。「ほら千歌乗って」と促されるまま、千歌はリアシートに腰を落ち着けた。涼もシートに跨り、エンジンをかけてアイドリングしながら千歌に尋ねる。

「家、どこだ?」

「あっちです。真っ直ぐ行けばすぐ着きますよ」

 千歌の指さす方角へとハンドルを切り、バイクを走らせる。後方から「Ciao!」という鞠莉の声が聞こえたが、すぐに小さくなっていった。

「それで、俺は何をすれば良いんだ?」

 呼ばれた用件を聞いていなかったことに今更になって気付き、尋ねる。

「翔一くんていう、わたしの家で暮らしている人がアンノウンに狙われているみたいで、葦原さんに守ってほしくて」

「アンノウン………。あの化け物はそんな名前なのか」

「警察の人はそう呼んでいるみたいですけど………」

 アンノウン。確か誰も知らない、とか正体不明、という意味だった気がする。成程、確かにあんな怪物は誰も知らなかっただろう。確かあの男は、アンノウン達はアギトになる可能性を持つ者を抹殺している、と言っていた。憎んでいた者と同じになるかもしれない人間を守るのは複雑だが、そんな涼の矮小な憎しみは関係ないことだ。それに、涼の力だってアギトと同じなのだから。

「あ、あそこです」

 千歌の言う通り、彼女の家にはすぐに着いた。厄介になっていたことがあるから、その旅館は朧気ながらも覚えている。

 涼が路肩にバイクを停めると同時、旅館の門から青年がレーサータイプのバイクを押して出てくるところだった。

「翔一くん!」

 リアシートから降りた千歌が、青年に駆け寄りその進路を阻む。

「千歌ちゃん………」

「何その荷物? どこに行くの?」

 青年のバイクには、旅行でも行けそうなほど大きく膨らんだバッグが括りつけられている。名前を聞いてまさか、と思ったが、その顔は紛れもなく行き倒れていた涼を介抱してくれた青年だった。

 あの時の笑顔の面影はまるでなく、強張らせた表情で逡巡を挟み翔一は答える。

「………きっとまたあいつは俺を狙ってくる。ここにいちゃ皆に迷惑が掛かるかもしれない」

 バイクに跨る翔一に、涼はヘルメット脱いだ顔を見せる。

「津上翔一だったな」

 涼の顔を見た翔一は驚きに目を見開き、

「葦原さん! どうして葦原さんが?」

 「わたしがお願いしたの」と千歌が答えた。

「翔一くんを守ってくれるように、て」

「葦原さんが、俺を?」

 翔一は怪訝な目で涼を見つめる。確かに、突然訪問してきて自分を守る、なんて言われれば戸惑うのも仕方ない。

「彼女には借りがある。借りは返さないとな」

 千歌だけじゃない。翔一にだってしばらくの間世話になった。あの時の恩返しに、この護衛は丁度いい。でも翔一はかぶりを振り、

「やめてくださいよ。葦原さんには関係ありませんから。大体無理ですよ俺を守るなんて」

 「失礼します」と翔一はヘルメットを被り、エンジンをかけるとアイドリングもせず逃げるようにバイクを走らせる。「翔一くん!」と千歌がその背中に叫ぶも、当然のごとく翔一はバイクを停めない。涼は急ぎバイクのハンドルを切り、翔一の後を追う。

 沼津市街方面への沿岸道を、涼は翔一に食らいつくように走っていく。翔一は走り屋気質ではないらしく、しっかり法定速度を守っているお陰で追跡は容易いものだった。

 水産試験場の脇を通り過ぎようとしたとき、建物の陰から飛び出してきた者の奇襲によって翔一はバイクから引きずり落とされる。運転手を失ったバイクは路面で車体を削られながら横転し、地面を転がった翔一は大した怪我はないのかすぐさま立ち上がり突如現れた襲撃者へ目を向ける。

 その襲撃者は先日涼が仕留めそこなった、千歌がアンノウンと呼んでいた怪物。バイクを急停止させた涼はすぐに翔一の救出へ踏み込もうとしたのだが、目の前の光景に逡巡した。

 いきなり現れた異形の存在に、翔一は怯えも逃げもしない。剣を手にしている襲撃者をき、と睨みながら間合いを保っている。どういうことだ。彼はアンノウンに怯えているんじゃなかったのか。

 その涼の疑問は、翔一自身によって晴らされる。

 翔一の腹に光が灯った。光は渦を巻き、やがてベルトのような形を作り彼の腰に巻き付く。

「変身!」

 翔一の力強い声に呼応したかのように、ベルトのバックルから放たれた光が視界を塗り潰した。すぐに光が晴れると、翔一のいた場所には金色の鎧を纏った戦士が立っている。果南を襲った、あの憎き戦士が。

「何……⁉」

 涼はその姿に、絶句しながらも目を逸らすことなく凝視する。

 アンノウンはアギトになろうとする者を狙っている。あのアンノウンが、翔一の裡にあるアギトの力を察知して襲い掛かってきたのは間違いない。でも、涼はひとつだけ勘違いをしていた。

 翔一は既にアギトとしての力を開花させていた。涼と同じく、アンノウンと戦えるほどにまで。

 アンノウンは手にした剣を振り回すが、バックステップを踏みながら間合いを保つ翔一に剣先が届くことはない。両者は1度動きを止め、ゆっくりとした歩幅で互いの攻撃を探り合っている。

 先に動いたのはアンノウン。剣を突き出すと同時、翔一は剣先を紙一重で避けつつ一気に距離を詰め、武器を握る敵の手首を足で払う。からん、と軽い音を立てて、剣がアンノウンの手から零れた。狼狽した様子の顔面に拳を打ち付け、下から渾身の拳を敵の顎に突き上げる。

 思い切り殴り飛ばされた敵は、怒りの呻き声を上げながらも果敢に立ち上がろうとする。だがその時には、翔一の額から伸びた角が開いていた。傍から見ている涼にも、その溢れ出す力は感じ取れた。足元に浮かぶ金色の紋章が、翔一の足へと収束していく。神秘のエネルギーを纏い、翔一は敵の胸へ渾身のキックを叩き込んだ。

 蹴り飛ばされたアンノウンの頭上に光輪が浮かぶ。身を悶えさせたアンノウンが助けを求めるかのように腕を伸ばした瞬間、その肉体が内部から爆散し木端微塵に吹き飛んでいく。

 涼は変身した翔一の姿をじ、と見続ける。ひとまずの戦いを終えた翔一もまた、大きく見開かれた赤い目を涼へ向ける。でもすぐに、赤い両眼は明後日の方向へと逸らされた。涼も自然と同じ方を向く。今まで感じた事のない、冷たい戦慄を覚えながら。

 ふたりの視線の先から、また異形の存在が歩いてくる。全身が濡れているのかてらついていて、顔面の大きなふたつの両眼は色こそ違うもののアギトと、そしてギルスに変身した涼によく似ている。アンノウンと似た気配だが、これまでのものとは感じる「圧」が桁違いだ。

 ぴちゃ、と水を滴らせながら、上位らしきアンノウンが歩いてくる。

「アギト……」

 大きく裂けた口から、とても冷たい声が発せられる。

「お前は1度死んだはずだ。この私の手で」

 喋った、と涼はアンノウンを凝視する。奴らは人間の言葉を理解できるのか。何て異様な光景だ。明らか人でないものが人の言葉を話すだなんて。

 ふと、翔一の体が小刻みに震えているように見える。その場が1歩も動けず、視線を敵に逸らすこともできず、また敵と分かっていても向かっていくこともできない。

 アンノウンの掌が、翔一に向けてかざされる。瞬間、その手から水流が勢いよく吹き出した。まるでクジラの潮吹きを至近距離で浴びたかのように、翔一の体は容易く吹き飛ばされる。地面を転がりながら光を放った体から、黄金の鎧が消えた。人間の姿に戻った翔一に、慈悲なんて与える余地なくアンノウンは手に持った長い錫杖を構えながら歩み寄ってくる。

 両者の間に、涼が割って入る。

「変身!」

 涼の裡にある力が、涼の体を不完全なアギト、ギルスに変貌させる。

「葦原さん……、何で葦原さんが………」

 後ろから翔一の震えた声が聞こえたが、今は応えている猶予はない。「ウオオオオアアアアアアッ」と咆哮しながらアンノウンへ跳びかかるが、爪が達する前に錫杖であっけなく叩き落とされてしまう。間髪入れず、クジラの尾びれのような形をした錫杖の先端を首にかけられる。その先端は鈍く光る刃になっていて、ほんのひと捻りでも涼の首なんて容易く切断できてしまいそうだ。そうはさせまい、と刃を掴んで抑え込んだが、敵も想定内らしく錫杖を振り涼の体を投げ飛ばす。

 げほ、と咳き込みながら涼は悟る。おそらく千歌が翔一を守ってほしい、と頼んだアンノウンは奴だ。それなりの場数は踏んできたというのに、涼が手も足も出ないほどの強さ。ここで戦っても、返り討ちに逢うのは目に見えている。

「着いてこい!」

 翔一にそれだけ告げると、涼はバイクへと走る。翔一もようやく起き上がり、倒れた自身のバイクを起こした。

 沿岸道を法定速度なんて無視して走っていく。ちらり、と後方を見やると翔一はしっかりと着いてきていた。アンノウンの気配は遠のいていく。どうやら追ってくるつもりはないらしい。いつでも殺せるという余裕なのだろうか。それとも、涼と翔一以外にも狙っている人間がいるのか。様々な憶測が脳裏に飛び交うが、まずはできるだけあの存在から離れることが先決だろう。

 敵の気配を完全に感じなくなったところで、涼は変身を解く。バイクも元の姿に戻り、エンジンからも獣の呻きが消えて機械的な駆動音になる。

 沼津港でバイクを停めると、それぞれの愛車から降りたふたりは少し距離を置いて視線を交わす。翔一からは戸惑いを感じ、涼の方からはあの時から沸々と滾らせていた憎しみの視線を送る。彼へ近付いていくにつれて感情が抑えきれなくなり、触れられる距離になると乱暴に胸倉を掴む。

「何故だ! 何故果南を襲った!」

「俺が果南ちゃんを?」

 翔一はしばらく目を泳がせていたが、すぐに得心がいったように涼の目をしっかりと見据える。

「そうか、葦原さんそれで俺のことを……」

「答えろ!」

「違いますよ! 俺が果南ちゃんを襲うはずないじゃないですか! 果南ちゃんはアンノウンに襲われたんです。何とか助けることはできましたけど、あと少しでも遅かったら――」

 翔一は悔しそうに口を結んだ。下手な嘘で取り繕うものなら問答無用で鉄拳を加えつもりで、場合によってはここで彼を手にかけることも考えていた。でも自然と涼の腕に込めていた力が抜けていき、胸倉から手を離す。

「信じて、くれますか………?」

「お前がアギトだとは思わなかったからな」

 介抱してくれた時の朗らかな姿が、実際に拳を交えたアギトに結びつかなかった。失礼ながら、翔一はとても戦えるような男に見えない。

「お前に人は襲えない。それは俺にだって分かる」

 むしろ、自分が守るべきだった果南を代わりに守ってくれたのだから感謝すべきだろう。それなのに今まであらぬ誤解で憎しみを募らせていたなんて、間抜けにも程がある。あの時の怒りが、そんな自分に向きそうだ。でも、と涼は今となっては不毛な別の可能性を考えてしまう。

 もしあの時の誤解がなければ、翔一を憎まなければ、果南との別離という選択を取らずに済んだのだろうか。彼女を守るため、彼女の傍にいることを赦されただろうか。いや、と思い直す。結局、自分が傍にいることで彼女にも危険が及ぶことに違いはない。どの道、離れるという選択は避けられないものだったのだろう。果南もまたアギトになる可能性があるとしても、それでも涼の守るべき存在ということに変わりはない。

「でも何で葦原さんが――」

 口を開いた翔一だったが、すぐに言葉を止めて頭を両手で抱える。

「おい津上!」

 呼びかけるも、翔一は苦しそうに顔を歪めるばかり。足元もおぼつかなくなり、崩れるように倒れた。

 

 

   3

 

 ――しばらくは会えそうにない。落ち着いたら連絡する。それまでの間、絶対に俺の部屋には来るな――

 そのメールが鞠莉のもとへ届いたのは今年の4月、アメリカから帰国してきたばかりの頃だった。何かあったのでは、と気掛かりだったのだが、あの船に乗っていた面々のなかでリーダー的存在だった彼の指示とあっては、従わなければならない。皆がパニックに陥る中で彼だけは冷静でいて、そして正しかった。だから彼が中心となって、絶望していた鞠莉たちを纏め上げるのは必然だったのかもしれない。

 それでも、鞠莉は何とかコンタクトを取ろうとした。メールや電話をしても返事が来ないから、他の仲間たちからも近況を聞こうとした。でも彼は他の仲間とも連絡を断っていて、探偵を雇ってはみたものの結局何の手掛かりもなく悪戯に時間ばかりが過ぎていった。まるで彼という存在は霞のように彼方へ吹き去ってしまったように思えた。

 もし彼が仲間たちの前に姿を現してくれたら、と思わずにはいられない。彼ならば、アンノウンに殺されていった仲間たちを助けることができたかもしれないのに。

 連絡船乗り場で果南と別れてから、鞠莉は市街から遠く離れた住宅街に来ていた。ずっと身辺調査を依頼していた探偵から、先日になってようやく彼の所在を知ることができたからだ。約1年前に、この住宅街のアパートメントに彼と同じ名前の人物が転居してきた記録がある。その転居者が、今年の4月頃から近所の誰からも目撃情報が無いという話も。

 探偵が探し出したアパートメントの1階で、所狭しと立ち並ぶドアをゆっくりと見ていく。住人がいる部屋にはドア脇のインターホンのすぐ上に簡素だが表札がつけられていて、鞠莉は並んでいるドアの中から「木野」の表札を見つける。

 やっと、という想いからか、心臓が強く脈打った。インターホンを押してしばらく待ってみるが、何の反応もない。「薫?」とインターホンのマイクに向かって呼びかけるが、ドアの挟んだ向こうからは沈黙だけが返される。

「薫?」

 今度はドアを叩いてみる。これも反応は無いのだが、ふと落とした視線の先にあるものに、鞠莉は目を剥く。ドアに備え付けられた郵便受けから、チラシや伝票といった郵便物がはみ出している。配達人が無理矢理突っ込んでいったせいか、その様相は中身が溢れかえったゴミ箱みたいだ。

 ドアノブに手を掛ける。何の抵抗もなく、ノブはすう、と動いた。引くとドアが開き、中の少しばかり埃っぽい空気が僅かに開いた隙間から吐き出される。鞠莉はそのままドアを一気に開け、中へ入る。

 まず他人の家に上がったら玄関で靴を脱ぐものだが、鞠莉は目の前に広がる光景に唖然として、靴を脱ぐのも忘れ恐る恐る玄関の段差を踏み越える。玄関に入ってすぐリビングなのだが、その床には割れたガラスや陶器の破片が散らばっている。無造作に転がったソファは鋭利なもので裂かれた傷があって、傷口からは綿が飛び出ていた。部屋の中央にある何かの枠らしきものは、恐らく床で破片が散乱したガラステーブルだろう。カーテンは引き裂かれて窓からの陽光が容赦なく部屋に注がれ、壁紙も刃物らしき物の傷が所々あって元の柄が分からない。

「何、これ………!」

 混乱しながらも、鞠莉の思考がアンノウンという結論に結びつくまでそう時間は掛からなかった。

 

 



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第3話

 

   1

 

 倒れた翔一をどこへ運ぼうかと考えたが、最も安全なのは涼の部屋しかない。彼も涼と同じく「人間ではない」存在で、病院になんて連れて行って体の異形さを知られたらどんな仕打ちを受けることになるか分からない。少なくとも、豪華な食事と寝床が保証された生活でないことは間違いない。

 部屋のベッドに寝かせた翔一は、ほどなくして目蓋を開く。以前涼が経験したものよりは幾分軽い症状らしく、汗こそかいているが多量というほどじゃない。

「気がついたか」

「………ここは?」

 「俺の家だ」と告げ、涼はベッドの傍まで引っ張ってきた椅子に腰かける。

「さっきも言ったが、俺は高海千歌に借りがある。そして彼女からお前を守るよう頼まれた。そういうことだ」

 もっとも、ただのお守り程度では済まなくなってしまったが。敵は思ったより強敵で、しかもお守りの相手はアギトときた。

「でもどうして千歌ちゃんが。千歌ちゃんは葦原さんが変身できる、てこと知ってるんですか?」

「ああ」

 翔一はすぐ起き上がろうとしたのだが、まだどこか痛むのか苦しそうに喘ぎながらベッドに横たえる。先ほどの戦いの痛みか、それとも翔一の力によるものか、医者ではない涼に判断はできない。そもそも、医者でも分からないだろう。

「無理をしない方がいい。俺たちの体は普通じゃないんだ」

 冷蔵庫で冷やしておいたミネラルウォーターのペットボトルを開けて翔一に差し出す。

「お前の体にも何かが起こってるのかもしれない」

 「そうですよね……」と翔一はペットボトルを受け取りながら、

「確かに……、普通じゃないですよね」

 以前とは立場が逆になったな、と涼は微かに笑みを零す。

「前は、俺の方が世話になったな」

 「え?」と翔一は不思議そうな顔をするのだが、数舜遅れて思い出したのか「ああ」と得心したように漏らす。人助けを忘れてしまうあたりが、まだろくに知り合っていないにも関わらずこの青年らしい、と思えてしまう。

「でも驚きました。葦原さんが変身できるなんて」

 それは俺も同じだ、という言葉を押し留め、涼は黙って翔一の話を聞き続ける。

「初めて会いました。俺と同じような人と。何かちょっと嬉しい、ていうか………」

 嬉しい、か。

 その言葉に素直に同調すべきか逡巡する。自身と同じ苦悩を分かち合える存在。それは自身を受け入れてくれる者と同じくらい求めてやまなかったものだ。でもいざ目の前に、自身と同じ力に苦しむ者を目の当たりにしてしまうと、どうにもやるせない気分になる。あの屋敷の主人の言葉が正しければ、この力を持つのは涼と翔一だけじゃない。今もどこかで、誰かが苦しんでいる可能性があるということだ。

 誰にも打ち明けることができず、人間でなくなっていく自分自身を拒絶し続ける。こんな想いをするのは俺ひとりで十分だ。そんな格好つけた悲劇の主人公気取りに甘んじていたものの、それは何も特別で崇高なものじゃない。この世界で、異形への苦しみはごくありきたりなものになりつつある。

 そうなると、アンノウンとは世界に蔓延する悲しみを消そうとしている、とも考えられる。力によって苦しめられるのなら、いっそのことその命を絶つことによって救ってやろう、という彼らなりの慈悲なのだろうか。

 そんなことを考えていたところで、インターホンが鳴った。続けてドアの奥から「翔一くん」という千歌の声が。涼はドアへと急ぎ、鍵を開けて千歌を中へ入れてやる。「奥にいる」と言うと、千歌は狭い部屋の中を駆け足で翔一の寝るベッドへと向かっていく。

「どうしたの翔一くん。怪我してるの?」

 「何でもないから」と翔一は重そうに体を起こす。

「ちょっと疲れてるだけだから。それより駄目だよ俺の傍にいちゃ。またきっとあいつが襲ってくるからさ」

 言い終わると同時に、翔一は苦悶に顔を歪めて頭を抱える。持っていたペットボトルを落としてしまい、床に水がどくどく、と飲み口から零れていく。額に玉汗を浮かべ、苦しみに散々唸った末に翔一の頭が力なく垂れ、眠りへと落ちていく。

「翔一くん!」

 千歌は何度も翔一の体を揺さぶりながら呼びかけるが、彼は目を覚まさない。

「彼の言う通りだ」

 そう告げると、千歌は涼へと視線を移す。

「君はここにいない方がいい。今度の敵は今までの奴らとは違う。正直言って、俺も彼を守り切れる自信がない」

 翔一が千歌のもとを離れようとしたのは、懸命な判断だったと思う。「アギト」の力を持つ自分たちはアンノウンの抹殺対象。傍にいる人々に危険が及ぶことは想像に難くない。

 それに、別離が翔一にとって酷な選択だったことは、同じ選択をした涼も理解できる。彼の意思をどうか尊重してほしい。全ては千歌を想う故のことなのだから。

 千歌は何も言い返してこない。無言のまま眠る翔一の顔を見つめている。

 

 

   2

 

 ホールには千歌たちAqoursと同年代、高校生の少女たちが集まり、それぞれ同じ制服を着た者同士で固まっている。前方のみが照明で照らされていて、この招集の趣旨を知らない者でもおのずと視線が証明の当てられたスクリーンへと向く。

 抽選、とスクリーンにはその2文字が大きく表示されている。

 そう、これはラブライブ予備予選の順番を決める抽選会。公平のため、順番はくじ引きで決められる。今までならどの順番を引こうが、他のグループよりも良いパフォーマンスで票を集めればいい、と構えていられたのだが、学校説明会と日程が被ってしまった今回ばかりはこの順番がAqoursにとっては重要になっている。恐らく、この場に集まったスクールアイドルの中でAqoursが最も順番にこだわっているかもしれない。

「誰が行く?」

 果南の言葉で、メンバーの間に緊張が走るのが分かった。先日のダイヤによれば、説明会に間に合わせるには1番手でなければならない。くじを引くのはひとり。普通ならグループのリーダーとして千歌が行くところだが、こんな責任重大な役目となると尻込みしてしまう。

「ここはやっぱりリーダーが………」

 早速、ルビィに白羽の矢を立てられる。やはり千歌が行くべきか。これまで願ってきたものとはかなりスケールが小さくなるが、今回ばかりは奇跡が起こってほしい。

 震える手をぎゅ、と握りしめたところで「千歌ちゃん」と、梨子がスマートフォンの画面を見せてくる。どうやらインターネットの占いサイトらしい。

「本日の獅子座、超凶」

「自信なくなってきた………」

 そもそも「超」凶とは。大凶の更に上ということか。そういえば今朝、朝食の鮭の骨が喉に刺さった。いつもなら占いなんて、と気にしないのに、まだ喉にある鮭の骨のせいで信憑性が上がってくる。

「じゃあ鞠莉かな?」

 と果南が振るのだが、「No」と鞠莉は慎重な姿勢で、

「ここはやはり、最初から参加していた――」

 そうなると3年生は候補から外される。ダイヤが「曜さん?」と振るが、当の本人は「わたし?」と意外そうに自身を指さす。

「それが良いずら。運も良さげずら」

「いやあ、でも本当に良いの?」

 と候補が決定しそうな流れになったところで、前方にいる司会者が揚々と抽選会の進行を始め、全員の関心がスクリーンへと向けられる。

「それでは、抽選会スタート!」

 いよいよ始まった会にホールが沸きたつ中で「待って」と善子が口を開く。

「Aqours最大のピンチは、堕天使界のレジェンドアイドル………。このヨハネが、行きまーす!」

「無いずら」

「ブッブー、ですわ」

 花丸とダイヤからの即却下とメンバー全員から向けられる冷ややかな視線に「どうしてよー!」と駄々をこねる。何故善子が駄目なのか、その理由を千歌が告げる。

「だってじゃんけんずっと負けてるし」

 最初こそヨハネチョキ――善子曰く堕天使最強の手らしい――での反則負けだったが、流石に本人も負け続けは嫌なのか普通の手でじゃんけんに参加していた。でもその戦績は見事全敗。もはや天文学的確率にまで及び、本当に堕天使なんじゃ、と思ったほど。

 ルビィと花丸が善子の肩にぽん、と手を乗せて、

「この前とか突然何もない所でつまずいて海落ちちゃうし」

「マルたちがいつもハッピーなのは善子ちゃんのお陰ずら」

 と同級生たちにまで立証された不幸体質を「善子いうなー!」と振り払い、

「普段は運を溜めてるのよ! 見てなさい、いざという時のわたしの力を!」

 尚更信用できない運だ。周囲の不幸まで引き受けたらもはや避雷針と言って良い。

「あなたがそこまで言うのなら」

 そう言ってダイヤは善子の前に立ち、拳を向ける。

「ここでわたくしとじゃんけんしましょう。これに勝てたら、よろしいですわよ。ちなみにわたくしの本日の運勢は超吉ですわ」

 「ダイヤさんも見てたんだ……」という梨子の呆れを咳払いで誤魔化し、

「とにかく、よろしくて?」

 それが運試しとしては最も手っ取り早い。善子は緊張した面持ちで拳を差し出す。

「じゃあ、行きますわよ」

 このようにして何故か抽選会の脇で始まった勝負は、「じゃーん」「けーん」の次の瞬間に雌雄が決する。

「ぽん!」

 その結果は――

「か、勝った………」

 ダイヤがグー。善子がパー。よって、善子の勝利。信じられないのか、善子は自分の出したパーを凝視している。たかがじゃんけんでこの驚きよう。

「すごい善子ちゃん!」

「善子ちゃんがパーで買ったずら」

 ルビィと花丸の感嘆でようやく我に返り、

「てかヨハネ! それとずら丸、あんた今何かしたわよね?」

「知らないずら」

 善子が手を出す寸前に、花丸が彼女の尻を軽く叩いたのは千歌も見ている。ただ驚いて咄嗟に手を変えただけなのかもしれないが、それでも勝てた。あの年中超凶の善子が、今日の運勢で超吉を出したダイヤに。

「これは、もしかしたらもしかするかも」

 曜が期待を込めた声色で言い、ダイヤは負けた拳を引っ込める。

「分かりましたわ。あなたの力信じましょう。さあ引いてらっしゃい。栄光の1番を!」

 そうしてメンバー達に見送られながら、善子は凱旋のつもりなのかいつもの堕天使ポーズで前方の抽選機へと向かっていく。抽選機は福引でお馴染みの6角型で、回して出口から出てきた玉に書かれた番号がグループに割り振られる。

 抽選機を前にして、善子は大勢の注目を集めるなか呪文のようなものを呟いている。

「堕天使ルシファー。そして数多のリトルデーモン達よ。ヨハネに福音を、全魔力をここに召喚せよ」

 皆口にこそ出さないが、あの子何言ってるんだろう、という声が聞こえてくる。あの明るく進行していた司会者でさえ口をうわあ、という形に開いているくらいだ。恥ずかしいけど、それでも今の善子はAqoursにとって救世主になるかもしれない。

「ヨハネ、堕天!」

 ようやく抽選機を回した。1番。1番しかない。抽選機の回転が徐々に緩くなっていって、ころん、という軽い音が微かに千歌の耳に届く。玉が出た。スクリーン上に乱立された番号が不規則に点滅を始め、やがてひとつの番号のみに強い光が灯る。

「24番!」

 司会者がその番号を読み上げた瞬間、膝から力が抜けた。

不死(24)……、フェニックス!」

 と語呂合わせしている善子に「喜んでる場合じゃないずら!」と花丸が容赦なく告げた。

 

 こちらの事情など構わず滞りなく終了した抽選会の帰り、沼津駅に隣接している商業ビル内のクレープ屋でひと息つくことにした。好物のオレンジジュースを飲んでも全く気分が落ち着かず、千歌は喚いてしまう。

「どうするの? 24番なんて中盤じゃん! ど真ん中じゃん!」

「仕方ない。堕天使の力がこの数字を引き寄せたのだから」

 なんて引いた本人は言い訳にもならないことを言っているが、それに突っ込んでくれるルビィはジュースのストローを吸い、花丸はクレープを食べている。

「申し訳ない!」

 ようやく洒落にならない事を悟った善子は深く頭を下げるが、そんな彼女を梨子が「善子ちゃんだけが悪いわけじゃないよ」と慰める。そもそも、善子以外のメンバーが行ったところで、ピンポイントに1番を引き当てるなんて無理な事だった。

「でもこうなった以上本気で考えないといけないね」

 腕組みする果南が、神妙そうに告げる。続けてダイヤが、

「説明会か、ラブライブなのか」

 全員が逡巡し、沈黙が漂う。千歌の静かな声は、誰もが黙っているなかで自身でも驚くほどよく聞こえた。

「どっちかを選べ、てこと?」

 説明会のために、ラブライブの出場を辞退するか。ラブライブのために、説明会でアピールする機会を放棄するか。

「そうするしかありません」

 そう答えるダイヤの声は至極冷静で、流石は生徒会長、なんて皮肉すら思い浮かぶ。学校運営に直接携わっている鞠莉も同じく冷静に、

「そうなったら説明会ね」

 「学校を見捨てるわけにはいかないもんね」と果南が同意を示した。

「それはそうだけど――」

 梨子は反論しようとするが、ふたりの言い分も理解できているらしく最後まで告げることができず口をつぐんでしまう。梨子の代わりとばかりにダイヤが強く言う。

「今必要なのは、入学希望者を集めること。効果的なのは、ラブライブではありませんか?」

 「たくさんの人に観てもらえるし」と言ったのは曜だった。

「注目されるし」

「それもそうずら」

 そう告げるのはルビィと花丸。

「じゃあどうすんのよ?」

 説明会かラブライブか。酷な2択の結論を、善子が促してくる。

「学校説明に出るべきだ、という人は?」

 果南の問いに、挙手するメンバーはいない。ならば必然的にラブライブとなるだろうが、一応の措置として果南はもうひとつの選択肢を問う。

「ラブライブに出るべきだ、と思う人」

 これもまた、挙手するメンバーがいない。こんな多数決にもならない様子に果南は溜め息をつき、

「どっちかだよ」

 「分かってるけど」「決められないずら」と鞠莉と花丸が弱く抗議する。

 現実問題、浦の星のアピールポイントはAqoursがほぼ全てを担っていると言って良い。他の部活は大会でとりわけ目立った功績もなく、進学でも有名大学への合格実績も乏しい。ダイヤも鞠莉も、説明会の進行はAqoursによる宣伝を前提として組み立てている。ラブライブを優先して説明会に広告塔のAqoursが不在だなんて、学校のイメージアップには繋がらない。

 かといって、それを今回のラブライブを諦める理由になんてしたくない。

「そうだよ」

 千歌は言う。こんなことが、問題の解決にならないと分かっていても。結論を先延ばしにしたところで、どうにもならないとしても。

「だって、どっちも大切だもん」

 今すぐになんて決められない。今すぐに、この学校の存続を左右しかねない問題に今すぐ結論を出してしまうなんて。どちらを優先すべきだなんて、優劣なんて付けようがなかった。ラブライブも学校も。

「どっちも……、とても………」

 

 

   3

 

 結局結論は出ず、店で現地解散になった。メンバーたちがそれぞれの帰路についていくのを見送り、同級生の3人組だけになったところで果南が深く溜め息をつく。

「もう、悩んでる暇なんてないのに」

 あくまで中立の立場で多数決を取り仕切っていたが、果南の中ではもう結論は出ているようだった。何事も秒ですぐ決めてしまう果南らしく、つい鞠莉はふ、と笑ってしまう。

「笑ってる場合じゃないよ。学校が続けば、千歌たちは来年もラブライブに出られるんだよ。何であんなに悩んでるんだか」

 「だからこそですわ、きっと」とダイヤも溜め息交じりに、

「千歌さん達はまだチャンスがあっても、わたくし達は来年で卒業。9人揃ってラブライブに出るのが、今回で最後のチャンスだから決めかねているのです」

 後輩からの配慮は嬉しいけど、それで千歌たちが余計な問題に頭を抱えるのは胸が痛む。それに後輩たちのためと、鞠莉もまた大人になり切れないのも事実だった。

「ダイヤは、ラブライブ出たくないの」

「出たいに決まってますわ」

 即答だった。とはいえ鞠莉も、先ほどは説明会優先の側ではあったが、ラブライブはやっぱり諦めきれない。ようやく戻ってきたこの宝物のような時間を、終わらせてしまうには早すぎる。

「パパに頼んでみるわ」

 「え?」とダイヤと果南は驚愕の声を揃えた。

「日程さえずらせば万事解決なわけだし。説明会を1日早めてSaturdayにするとか、できないか頼んでみるわ」

 「でも、いいの?」と果南が恐る恐る訊く。

「余計なprideで、棒に振りたくないもん」

 正直なところ、父が我儘を聞いてくれる保証はないのだが。これまで散々鞠莉の要求を呑んできたせいで、理事会からも反発の声が出始めているらしい。

「あ、わたしそろそろ帰らなくちゃ。お店手伝わないと」

 スマートフォンの時刻表示を見た果南が慌ただしく言う。「では」とダイヤも、

「わたくしも帰りますが、鞠莉さんは?」

「こっちで少し考えてみる。ひとりになったら、他にも良いideaが浮かぶかもしれないし」

 いつも通りお調子者らしく言ったつもりだったのだが、ダイヤは心配そうに鞠莉の顔を見つめ、

「あまり思いつめないように。わたくし達がいることを、どうか忘れないで」

 やっぱり、ダイヤにはお見通しだ。駅へ走る果南にも、きっと悟られているだろう。ふたりに隠し事はやっぱりできない。

「ダイヤ、早くしないと乗り遅れるよ!」

 「はいはい」とダイヤは果南のもとへ向かっていく。こちらに振り返り淑やかに手を振る彼女に、鞠莉も手を振り返す。

 ありがとうダイヤ。でも、皆がいてくれるからこそ巻き込みたくないの。大丈夫、Aqoursの皆の誰も、あいつには近付けさせない。

 たとえ、わたしの命に替えてでも。

 親友たちの姿が見えなくなると、鞠莉は市街から閑静な住宅街へと歩いて行く。なるべく人を巻き込みたくはなかった。そう、ふたりと一緒に帰路につかなかったのもこのため。恐らく鞠莉の裡にある力は強くなりつつある。自分を狙う、異形の存在を察知できるほどに。

 

 ぴり、と脊髄に電流が走ったかのような錯覚に陥る。無意識に顔を向けた方角、そこに連中が現れたのだろう。涼と同じように目を見開いた翔一も、ベッドから身を起こそうとする。でも数日経っても体調は落ち着かないらしく、すぐに胸を押さえて苦しんでしまう。

「今のお前には無理だ」

 そう言って、涼は翔一をベッドに寝かせる。翔一はすがるように涼を見上げるが、そんな体ではまともに戦えまい。変身できるかどうかも怪しい。

「俺が行く」

 ヘルメットとグローブを掴んで外に出るとき、「葦原さん――」と翔一の声が聞こえたが無視した。敵がいくら強敵だろうと、彼を守ると千歌から頼まれたのだから。少なくとも、翔一の回復を待つ間の時間稼ぎくらいはできる。

 バイクで沼津駅前の市街を突っ切り、住宅街に入ったところでアンノウンの存在はより強く感じられる。近くにいる、という確信を持ったとき、マンションの陰から金色の髪を振り乱しながら少女が全速力で駆けている。あの金髪は身間違えようもなく小原鞠莉だ。

 鞠莉を追うように、両手に鎌を携えたカマキリのようなアンノウンがその姿を現す。

「変身!」

 ギルスに変身した涼は、バイクのシートから跳躍しアンノウンへ跳びつく。突然の乱入者に驚いた鞠莉は尻もちをつき、変身した涼を凝視している。

「逃げろ!」

 そう吐き捨て、組みついたアンノウンを彼女から引き離していく。涼の腕を振り払ったアンノウンが鎌を一閃した。紙一重で避け、すぐ後ろにあったガードレールが紙のように切断される。腕を振り切った際に空いた腹に、涼は渾身の拳を叩き込んだ。こいつは手に負えない相手じゃない。

 止めを刺そうと駆け出したところで、涼の首に向かって何かが空気を裂いて迫ってくる。首筋に触れる直前に掴んだそれは、クジラの尾びれのような形をした刃だった。辛くも防いだが、構わず押され近くのコンクリート塀にぶつかり抑え込まれてしまう。強靭な筋肉がコンクリートを陥没させたのだが、刃を備えた錫杖の持ち手は更に力を込めて涼を塀の中へ沈めようとしてくる。

「ギルス」

 その冷たい声。ようやく視界に収めたそれは、翔一を追い詰めたあのクジラのようなアンノウンだった。

「お前もアギトと同じ者。存在してはならない者だ」

 アンノウンが錫杖を振り上げる。その剛腕さに持ち上げられた涼の手が、杖から離れた。宙を舞った僅かな浮遊感の後、別の家屋の塀に激突した涼の体はコンクリートを突き破り瓦礫の中に埋まった。

 

 



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第4話

 

   1

 

 手帳に書き留めておいた住所と建物名を、車を停めたアパートの名前と照らし合わせる。サンライズハイツ。ここで間違いなさそうだ。件の部屋番号のプレートがあるドアの前でインターホンを鳴らすと、中から「はい」と弱々しい返事が聞こえてくる。

「津上さん、氷川です」

 そう言ってしばらく待ってみるが、一向にドアは開けてもらえない。そういえば体調があまり優れない、と聞いた。ノブに手をかけると、鍵が掛けられていないらしくすんなりと開く。

「お邪魔します」

 中に入ると、翔一は奥のベッドで横になっていた。

「氷川さん、どうして?」

「千歌さんから頼まれまして」

「千歌ちゃんが?」

「ええ、君がアンノウンに狙われているので護衛をしてほしい、と頼まれまして」

 「いえ、結構ですから」と翔一は撥ねつけるように言う。こんな彼を見るのは初めてだ。

「下手をすると、氷川さんまで巻き添えになることになります」

 巻き添えもなにも、これまでアンノウンと戦ってきたのだから今更な心配だ。それに、たとえG3-Xの装着員にならなくても、誠は翔一の護衛を引き受けただろう。

「僕は警察官です。人の命を守るのが仕事です」

 そう告げる誠を、翔一はベッドからまじまじと見つめてくる。

「ひとつ、訊いてもいいですか?」

 ベッドの脇に無造作に置かれている椅子に腰かけ、「何でしょう?」と質問を促す。

「氷川さんは何故アンノウンと戦っているんですか?」

「命を守るのに理由なんかいりません。当然のことです」

 警察官であること以前に、この法治国家で生きる者であれば当然のことだ。命とは生きるためにある。生かすために戦う。理由を強いて挙げるとしたら、戦う術を与えらえた者として「生」を背負うことが、誠の使命だからだ。強くそう思うようになったのは、「死」を背負っていた者との戦いを経てからだが。

「強いんですね、氷川さんて」

 誠からしてみれば、翔一のほうが強く生きているじゃないか。野菜を作って料理を振る舞って、生きることは美味しい、と人生を無条件に素晴らしく思える彼が羨ましい。アンノウンに襲われたことがトラウマになっているのか、今の翔一はとても小さく視えてしまう。

「何馬鹿なこと言ってるんです。それよりどうですか。君の具合が悪いと聞いて、こんなものを持ってきましたが」

 来る途中、スーパーで買ってきたイチゴを袋から出して見せる。でも翔一は無言のままパック詰めされたイチゴをぼんやりと見つめている。

「嫌いですか?」

 子供の頃、風邪を引いて食欲がないときは母親がよくイチゴやリンゴといったフルーツを食べさせてくれた。フルーツは栄養満点で、少量でも食べれば元気になると母が得意げに言っていたから、誠にとって体調不良のときの栄養食はフルーツなのだが。

 でも杞憂だったらしく「いえ、いただきます」と翔一は答え、

「牛乳と砂糖をかけてもらえますか?」

 「はあ……」と応じながら、誠は主の顔を知らない部屋を見渡す。

「でも、良いんですか? お友達の家だそうですが、勝手に台所のものを使って」

「良いんじゃないですか? 少しくらい」

 まあ、翔一がそう言うなら。仕事で忙しく食事も外食が殆どだから、台所に立つなんていつ振りだろうか。そういえばこちらに転居するときに鍋やらフライパンやら調理道具を一式揃えておいたのだが、最後に使ったのはいつだったか思い出せない始末。

 少し不安はあったが、差し当たる問題はなかった。何せイチゴをパックからガラスの器に入れて牛乳と砂糖をかけるだけ。散々不器用と言われた誠でも、これくらいの調理はできる。翔一からすれば調理ですらないのかもしれないが。

「どうぞ」

 差し出した翔一は器に盛られたイチゴを見ると、不満そうに口を尖らせる。

「潰してくれないんですか? イチゴ」

 何て注文の多い人だ、と思ったが、病人相手だと割り切り、

「分かりました、潰しましょう」

 スプーンの腹でイチゴを潰そうとするのだが、

「結構硬いな………」

 なかなか赤い果肉は潰れない。もっと熟したものを買えば良かった、と思ったのだが、考えてみれば誠にイチゴの熟し具合なんて見たところで分からない。じれったくなり一気にスプーンに力を込めたら、するん、と滑った拍子にイチゴが器の縁から零れてしまう。

「貸してください。やっぱり自分でやりますから」

 と見かねた翔一が誠の手から器を奪い取る。スプーンの腹をイチゴに押し付けようとしたところで、器は翔一の手から滑り落ちて床に潰れかけたイチゴと砂糖の溶けた牛乳を撒き散らしてしまう。

「………珍しいですね。津上さんがこんな………」

「………そういう時もありますよ」

 それだけ言って、翔一はベッドで布団を被ってしまう。これは聞いていたより重症みたいだ、と誠は溜め息をつき、床に零れたイチゴを拾い集める。床を雑巾で拭き終えたところで、スマートフォンが鳴った。画面に表示された小沢の名前から、まさか、と思いながら通話に応じる。

「はい氷川ですが」

『一般市民からの通報よ。アンノウン出現』

「分かりました、すぐに行きます」

 通話を切ったところで、翔一が「アンノウンですか?」と訊いた。

「ええ、すみませんが現場に向かいます。戸締りはしておいてくださいね」

 早口で言って、翔一からの返事も待たず玄関を飛び出し、アパート前に停めた車を走らせる。

 

 

   2

 

 装備一式を身に纏い、ガードチェイサーのサイレンを鳴らしながら現場へ急行する。道行く車は警察車両に道を開け、時折無視して走行し続ける車もあるが小回りのきくバイクで容易にすり抜けていく。

 小沢によればアンノウンは目撃された富士見町から大岡へ移動したと見られている。マスク内ディスプレイが、衛星が観測したアンノウン特有の熱源をマップ上に表示する。何度もアンノウンとの交戦を経て、警察はアンノウンの体温が生物としては異常なほど低いことを発見した。小沢がG3を運用していた頃からのサーモグラフィ記録を洗い出してくれた際に気付いたことだ。

 熱源を追って変電所に辿り着く。無数の鉄塔とアース線が張り巡らされた施設の入口付近で、男女がカマキリのようなアンノウンから逃げている。男のほうは怪我をしたのか、女性に肩を借りていた。そのせいか足取りはかなり遅く、アンノウンとの距離は縮まっていく。

 男が女性を乱暴に払いのけた。女性が日本人離れした金髪だから無意識に目が向いて、G3-XのAIが反応して女性の顔に焦点を当ててズームする。

「小原さん⁉」

 その女性は、浦の星女学院の小原鞠莉だった。腕を跳ねのけられた鞠莉はそれでも再び肩を貸そうとするのだが、男は「逃げろ!」と怒鳴り声を散らす。

《推奨 一般市民の救出》

 AIに言われなくても分かっている。『GM-01アクティブ』と小沢からの発砲許可を得て、誠はガードチェイサーのハッチから銃を取り出す。

 精密な射撃で敵の背中に全弾命中させる。アンノウンはほんの少し前のめりになり、こちらに気付いて昆虫なのか哺乳類なのか分からない肉体を向ける。

 だがアンノウンはこちらには向かってこず、変電所に立ち並ぶ鉄塔の群れに身を隠す。すかさず後を追いGM-01を構えるが、銀色の鉄に満ちた施設に、緑色のカマキリ人間らしきものは見当たらない。ふと視線を向けると、鞠莉と男は拙い足取りで施設から離れていく。男のほう、どこかで見たような気がする。ディスプレイをズームさせようとした時、ぴちゃり、と水が滴るような音が聞こえた。

 目を向けると同時、胸部装甲が衝撃と共に火花を散らす。衝撃に体を持っていかれた際にGM-01を手から零してしまった。さっきまで誠が立っていた場所、そこにはもう1体のアンノウンが立っている。まるでクジラのような全身を濡らし、手には長い錫杖を持って。

《推奨 GX-05使用》

 AIの指示をモニタリングしている小沢も見てか、使用許可が下りる。

『GX-05アクティブ』

 誠はすぐさまガードチェイサーへ走り、ロックの外された武器にコードを入力する。

《解除シマス》

 バレルを展開し、アンノウンへ照準を合わせると同時にトリガーを引く。発射された弾丸は全弾がアンノウンに命中している。敵の体はハチの巣にされ、とても歩いていられる状態ではないはずだ。

 だが、そのアンノウンは悠然とこちらへの歩みを止めない。その体は文字通りハチの巣状態だ。隙間なく穴が空けられ、開いた穴からは透明な水が血のように流れている。

 弾丸が尽きた。攻撃が止むと、敵の体に空けた穴が塞がっていく。ものの数秒足らずで、元の端正な筋肉を纏った肉体が蘇った。

 弾倉を替えようとしたとき、アンノウンのかざした手から水流が放たれる。その圧力に誠の体が大きく投げ飛ばされ、金属音を打ち鳴らしながら地面に叩きつけられる。また武器を離してしまった。武器を失ってか、AIも戦闘は不利と判断したらしい。

《推奨 撤退》

 起き上がろうとした誠の胸を、アンノウンは容赦なく踏み付ける。その顔にある大きな両眼は、どこかアギトに似ていた。

「人間もこれほどの力を持ったか」

 慈悲なんて微塵も感じられない声で呟くと、アンノウンは錫杖の先に付いた刃を誠へ向ける。水に濡れた刃が鋭く光ったのだが、アンノウンは戸惑ったかのような吐息を漏らし武器を引く。

「お前はアギトではない。アギトになるべく人間でもない」

 一体、何を言っているんだ。疑問を投げたいが、痛みで声が出ない。アンノウンは誠の胸から足を退け、踵を返して去っていく。その背中に銃口を向けようにも、もはや誠のコンディションは戦闘を続行できる状態ではなかった。

 

 敵の気配が消えた。それは唐突に、一切の余波も残すことなく。鞠莉もそれを悟ったのか、足を止めて涼を道端にゆっくりと降ろす。固い塀だが、背中を預けられたことで幾分は楽になった。まだ体の節々が痛むが。

「何で逃げなかったんだ………」

 息も絶え絶えに涼は自身を置いて行かなかった少女に訊く。鞠莉は真剣な眼差しで涼を見つめながら「訊きたいことがあるから」と即答し、

「あなた、葦原和雄さんの息子さん?」

 どうして父の名を、と一瞬思ったがすぐに思い出す。鞠莉もあかつき号に乗っていた。なら父との面識があってもおかしいことじゃない。「ああ」と答えると、鞠莉は悲しそうな表情を俯かせ独りごちる。

「あの船にいなかったあなたにまで………」

 彼女は知っているのだろうか。事の全てを。

「あんたは知っているのか? あかつき号で何があったんだ?」

「………あいつが、あのアンノウンがあかつき号を襲ったの。そのせいでわたし達は………」

 鞠莉の声は震えていた。彼女の言葉が真実なら、あの水のアンノウンは間接的だが父の仇ということになる。恐怖を植え付けられ、逃れるために当てもなく彷徨い続け、最期はひとり寂しく死んでしまった父。あれのせいで俺たち親子は人生を狂わされたというのか。

 湧き上がる怒りのお陰だろうか。痛む脚に力が入り、よろけながらも立つことができる。歩き出す涼に鞠莉は尚も「ねえ」と、

「果南からあなたのこと聞いたわ。どうして今まで果南に会わなかったの?」

「果南を守るためだ」

 即答しながら、涼は歩みを止めない。千鳥足だからすぐ鞠莉に追いつかれてしまうが、それでも逃げるように歩き続ける。

「俺が傍にいると、果南も巻き添えになる。あいつが幸せに生きていくために、俺は消えなきゃならないんだ」

「それでも、果南はあなたに会いたがってた」

 鞠莉の口から発せられたことに、思わず足を止めてしまいそうになる。鞠莉の言葉は止まることなく、涼に突き刺さるように並べられていく。

「あなたにもう1度会いたいから、あなたを蘇らせるために力を使ったの。果南を守るために果南に会わないなんて、そんなのあなたの自己満足じゃない。あなたは果南から逃げているだけよ」

 高校生の子供にここまで言われるなんてな、と自分の情けなさに溜め息が出る。痛い所を突かれて激昂する気力もない。

 逃げたことは認める。俺の抱える運命に巻き込みたくないから、なんて言っておきながら、本当は彼女に醜く変貌する自身の姿を見られるのが怖いから。彼女を守り切れず、失ってしまうのが怖いから。俺にはもう果南しかいない。彼女の存在そのものが、俺の生きる理由だ。たとえ、それがほんの一時しのぎに過ぎないとしても。

「あんたは、俺に資格があると思うか? 果南の傍にいる資格が」

「それは………」

 鞠莉は答えあぐねる。結局のところ、これは涼と果南の問題だ。気遣いは嬉しいが、鞠莉が決めることじゃない。

 歩き続ける涼を、もう鞠莉は追ってこなかった。

 

 

   3

 

 あの星空の中から、ひとつでもアイディアになって降ってこないかな。

 夜空に煌々と散らばる星々を屋根の上からぼんやりと眺めながら、千歌はふとそう思ってしまう。勿論、そんなことあるはずがない。上を向いて口を開けて待っていても、天から与えてくれるほど世の中は都合よくできていない。

「千歌ちゃん」

 隣家のバルコニーから梨子の声が聞こえてくる。

「翔一さん、まだ帰ってきてないの?」

「うん、ちゃんとご飯食べてるかなあ?」

 隠しているつもりはなかったのだが、翔一の不在は早くも知られた。毎日野菜のお裾分けでご近所付き合いのあった翔一が、近ごろは姿を現さない。その違和感に梨子は気付いていて、訊かれたら正直に彼の不安を千歌は打ち明けていた。

「想像できないわ。あの翔一さんが落ち込むなんて」

「まあ、初めてじゃないんだけどね………」

 ここまで長引くことになるなんて、千歌にとっては予想外だった。家事の担い手がいなくなった高海家の家事は姉妹で分担してやり繰りしているけど、やっぱり翔一の作った食事が恋しい。

「わたし、何となくだけど翔一さんの気持ち分かる気がする」

 「え?」と声を漏らす千歌に、梨子は不安げな瞳を向けながら、

「わたしもね、正直怖いの。自分の力が」

 そう言って梨子は自分の手を見つめる。ピアノをやっていただけあって、細い指には傷ひとつない。

「ずっと自分のこと普通だと思っていたのに、あるはずのないものが視えたり、人を蘇らせるほどの力があるなんて。力を使っても信じられない。というか………、信じたくない、かな」

 お前に力はない。涼を蘇らせた屋敷の主人からそう告げられた千歌からすれば、梨子の力は羨ましい。Aqoursのなかで、千歌だけに力がない。千歌だけが、本当の意味で「普通」の人間。その羨望はずっと裡で燻り続けている。

 でも、持っている側の梨子はその力への恐怖を感じている。理解してあげたいのに、千歌では真に理解することができない。

「きっと他の皆や、翔一さんも同じなんだと思う。わたし達が蘇らせたあの人も。まるで、これまで自分だ、て信じてきたものが丸ごとひっくり返されたみたいで、自分が自分でなくなっちゃうみたいで………」

 語る梨子の手は、微かに震えている。震えを抑えようともう片方の手で包み込む彼女に、「梨子ちゃん………」と続きの言葉が見つからない。

「ごめんね」

 ぱ、と明るい表情に変わった。

「それよりも、今は他に考えなきゃいけないことあるでしょ?」

 そう、翔一や力のことは、正直なところ千歌の手には負えないし、涼や誠に任せるしかない。説明会かラブライブか。目下の問題は千歌たち自身で解決しなければならないし、しかも早いうちに案が必要になっている。

「ああ、何か良いアイディア出てこないかなあ」

 頭を掻きむしってぼやく。

「うるさいわよ」

 と梨子から注意され、「だって……」と子供のように講義してみるが梨子からは溜め息を返され、

「気持ちは分かるけど、いつまでも悩んでる時間は無いわ」

「だよね………。梨子ちゃんはどっちが良いと思う?」

 「そうね……」と梨子はしばし逡巡する。

「ラブライブに出て輝きたい。輝いてみたい、てスクールアイドル始めたけど………」

「それができたのも、学校があったから。浦の星があったから」

「そうよね………」

 スクールアイドルとは、名前の通り学校を背負うアイドル。全てのスクールアイドルは通う学校があってこそ生まれ、活動できる。浦の星女学院があったからこそ、Aqoursは生まれた。9人のメンバーが集まったのは、あの丘の上で内浦を見守るように建つ校舎があってのもの。

「あーあ、何で同じ日にあるんだろう。体がふたつあればなあ」

 屋根の縁から投げ出した手に、梨子が手を伸ばしてくる。

「やっぱり選べない?」

 「そりゃあ、ね」と答えながら手を伸ばす。あの時、梨子がスクールアイドルになる選択をしてくれた時みたいに届かない。無理に触れようと手を伸ばせば、千歌の体は屋根から真っ逆さま。

 無言のまま互いに手を伸ばしていたことが可笑しくなって、ふたり揃って笑みを零す。別に、直接触れ合わなくてもそれは大した問題でもない。いつだって繋がっているのだから。

「もうひとつだけ方法はあるけど――」

 「本当⁉」と身を乗り出そうとした拍子に、危うく落ちそうになって必死に縁の瓦にしがみつく。

「で、何なに?」

 体勢が落ち着いたところで改めて訊くと、額に冷や汗を浮かべながら梨子は呆れ気味に答える。

「つまりわたし達はひとりじゃない。9人いる、てこと」

「9人?」

 

 うっすらと浮かびつつある意識の中で、粗い息遣いが聞こえた。重い目蓋を開いてベッドから体を起こすと、椅子にもたれかかった涼が顔中に玉汗を浮かべて粗い呼吸を繰り返している。

「大丈夫ですか? やっぱりあいつに………」

 「大したことない」と涼は苦しそうに答えた。話すのも億劫そうだ。敵の気配はもう感じられないが、倒されたわけじゃないことは分かる。きっと、水のエルに手ひどくやられたんだな、と分かった。

 俺も一緒に戦えたら。そんなことを考えてみるも、果たして自分が力になれるだろうか。水のエルを前にして、恐怖でまともに戦えなかった自分が。一緒に行ったところで、涼の足手まといになるだけ。今度こそ水のエルに殺されてしまうかもしれない。最悪の場合は涼も。

 いや、本当に最悪な場合とは、千歌たちが犠牲になってしまうことだ。離れたからといって、それが本当に根本的な解決にならないことは分かっている。彼女たちにも魔の手が及んでしまう可能性もあるというのに、本当に傍にいるべき時にいられないなんて。

「葦原さん………」

 翔一は尋ねる。翔一と同じ力と苦悩を持つ、涼にしかできない質問を。

「俺たち、これからどうやって生きていけば良いんでしょう? 俺、今までずっとアンノウンと戦ってきたけど、何か自信なくしちゃって………」

 力があるのに戦えないなんて、そんな俺に何ができる。これからどうやって生きていけばいい。こっちの都合なんてお構いなしにアンノウンは人々を襲う。その度に翔一の裡に宿る「アギトの力」は戦いを強いる。

「大体アンノウンて、一体奴ら何なんですか?」

「奴らは、アギトになる人間を狙ってると言っている奴がいたが………」

「どういう事ですかそれ? 俺らみたいな人間がもっと増えていく、てことですか?」

 口調が荒くなっていく。

「分からない、俺にも」

 アンノウンはアギトになる人間を狙う。それが何を意味するのかは分からないが、翔一にはそれが事実と受け入れることができる。アンノウンが現れた時に走る戦慄。ぴり、と脳内を駆け回っていくような衝撃。時折はっきりと、それが誰かの「叫び」と認識できる瞬間があった。

 ああ、そういうことか。

 あの叫びは、いずれ翔一や涼と同じ存在になる者が発するSOSだったということ。アンノウンに対抗できるほどの力を備えた翔一は今まで、同胞たちの助けを求める声に導かれてアンノウンのもとへと向かっていた。

 だとしても、何故俺なのだろう、という疑問が裡に渦巻いていて、灰汁まみれの煮凝りのように固まり鎮座している。自分以外にもアギトになる人間がこれから増えていくのであれば、戦うのは自分じゃなくてもよかったはずなのに。戦いを経るごとに人間から離れていって、そのせいで怪物から狙われて。大切な人たちの居場所を守ることのできる、誇りとも思える力だったのに、今はとても煩わしい。

「お前の気持ちは分かる。俺も普通の人間でいたかった」

 力があるからといって、心まで強くなれるわけじゃない。涼だって、裡から目覚める力に戸惑い苦しみ続けたことは、聞かなくても分かる。涼はきっと、力に目覚めたせいで多くのものを失い続けた。もう戻らないものへの未練が、彼の哀しい瞳から窺える。

「でも俺は自分を哀れんだりはしたくない」

 それでも涼は、強く告げる。

「俺が今の俺である意味を見つけたい。いや、俺が俺である意味を必ず見つけなければならないんだ」

 何て強い人なんだろう、と思った。力に苦しめられても、涼は前へ進もうとしている。課せられた運命を拒絶せず、その「意味」を問い続け受け入れようとしている。

 俺に、こんな強さが持てるだろうか。ただ力に従って戦ってきて、勝てない敵が現れたら尻尾を巻いて逃げ出すような俺に。

 俺が俺である意味。十千万やAqoursの皆。記憶もなく、人でもない俺を受け入れてくれた人たちの居るべき場所を守る。それが揺るぎない戦う理由であって意味だった。

 その意味を、俺は自分から捨ててしまったんだ。

 

 



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第5話

 

   1

 

 梨子から提案されたことは、一夜明けたその日のうちに千歌の口から告げることにした。正直、これが正しいものなのかは分からないけど、もうアイディアが出次第に次々と提案していく。それほどにまで猶予はなくなっているのだから。

「ふたつに分ける?」

 放課後、部室でこの提案を聞かされたメンバーの中で、果南がそう反芻する。「うん」と千歌は頷き、

「5人と4人。ふた手に分かれて、ラブライブと説明会、両方で歌う。それしか無いんじゃないかな?」

 これが、現状での最善。ダンスや歌唱パートの調整はしなければならないが、どちらか片方の曲が未発表のまま終わってしまうよりは良い。

 メンバー達の表情は、あまり好意的とは言えない。一様に眉を潜め、本当にそれで良いのか、と言うように沈黙している。

「でも――」

 ようやくルビィが口を開くも、言い辛いのか口をつぐんでしまい、見かねた善子が引き継ぐ。

「それでAqoursと言えるの?」

 千歌自身もそれは同意見だ。2分割してステージに立ったとしても、果たしてそれは本当にAqoursのパフォーマンスと言えるだろうか。最高のパフォーマンスは、メンバーが半減しては不可能だろう。

「それに、5人で予選を突破できるか分からないデース」

 鞠莉からも痛い所を突かれる。これはあくまで、両方出るための妥協案でしかない。観客が「9人いるAqours」を応援してくれているのなら、メンバーが欠けてしまっては両方のステージで果たして支持を集められるだろうか。下手をすれば、両方出るために分けたことがかえって裏目に出るかもしれない。これは殆ど博打に近いもの。

「嫌なのは分かるけど、じゃあ他に方法ある?」

 梨子の問いに、代案を提示するメンバーはいなかった。分割は認められない。Aqoursとしての最高のパフォーマンスは、メンバーが全員揃っていなければ有り得ない。皆のグループへの情と互いの信頼がこのどっちつかずな状況を作り出してしまっていることに、千歌は息が詰まるような錯覚に陥っていた。

 

 他に代案がないのなら、メンバー分割ということで準備を進める。半ば強引に押し切る形で部室でのミーティングは終了。それぞれ煮え切らない想いを抱えて帰路につくメンバー達を見送り、千歌たち2年生も丘の下り道を歩くも重い足が進まず道端のガードレールに腰を預けていた。

 日が暮れかかり、地面に落ちた影が自分たちの背よりも長く伸びている。

「本当に良かったのかな?」

 ぼそ、と呟いた曜に、案を出した梨子が「良くはない」と答える。

「けど、最善の策を取るしかない。わたし達は、奇跡は起こせないもの。この前のラブライブの予選のときも、学校の統廃合のときも」

 奇跡は起こせない、か。千歌は裡で反芻する。毎日のように祈ってきた奇跡が、自分たちにはとうとう降って来てはくれなかった。だからこそ待つのは止めた。いつまでも待ち続けるのではなく、自分たちで行動を起こし望んだものを手にする。そうすれば何かしら残る。そう信じてきたのに。

 涼を蘇らせるなんて奇跡は起こせたのに、学校の存続やラブライブ優勝の奇跡は過程の段階で踏みにじられてしまう。

「だから、その中で1番良いと思える方法で精いっぱい頑張る」

 努めて明るい口調で梨子は言う。笑顔を浮かべてはいるが、本心での笑顔だろうか。それを問うのは野暮だし、本心でないことを看破したところで他に良い案もない。

「それがわたし達じゃないか、て思う」

 「そうだね」としか千歌には言えなかった。どの選択を取っても、全力で取り組むことに変わりはない。実を結ぶかは分からないが、何もしないよりはずっと良い。突きつけられた現実と提示された条件の中で、自分たちにできることをするしかない。そう自身を納得させなければ、今は前に進めないのだから。

 気分転換に夕陽でも眺めようかな、と振り向いたとき、「あ」と声をあげる。視界の中にあるのは、夕陽を燦々と浴びている、橙色の果実を実らせる樹々の森。森の中で荷台に大量の収穫物を積載したモノレール。

「ミカン?」

 視線を同じくした曜が言うと、梨子も感心しながら、

「もうこんなに実ってるんだ」

 そういえば、梨子は収穫期に入ったミカン畑を見るのは初めてか。

「そりゃあ、内浦のミカンは美味しくて有名だもんね」

 曜の言うように、内浦のミカンは特産品として全国各地へと出荷されている。気候が温暖な内浦だからこそ採れる作物で、この地方集落にとっては貴重な産業品だ。この辺りの住民で、親戚がミカン農家なんてことは珍しくない。十千万も昔から贔屓にしている農家からミカンを安値で卸してもらっていて、千歌は幼い頃からお腹が空けばミカンを食べて育ってきた。

 千歌にとっては珍しい光景でもない。毎年見ているものだし、何か感じるとしても季節の移り変わりといった程度のもの。

 でもこの時、千歌はこの光景はまさに奇跡と思えた。この内浦でなければ、決して起こらなかったもの。

「ミカン! ミカンだよ!」

 

 

   2

 

 一度アイディアが出ると、次から次へと浮かぶものだ。朝食の後片付けも落ち着いてから借りることのできた十千万の厨房は、楽しげな声が行き交っている。

「はい、一丁あがり。ヨーソロー!」

 と曜が敬礼しながら、湯気をくゆらせる出来立ての品を見せてくれる。

「え、曜ちゃんはや!」

 作り始めてまだ10分程度しか経っていないというのに、相変わらずの器用さが羨ましい。「簡単に作れちゃうから」と嫌味さがないことも。

「わたしも出来たわ」

 と梨子が満足そうに、完成した品を皿に乗せている。集まった3人の中で、後は千歌だけになった。お椀に落とした卵に混ざってしまった殻を慎重に取って、箸でかき混ぜていく。

「砂糖ってどれくらい入れたら良いのかな?」

 「大さじ1杯くらいで良いよ」という曜のアドバイスに倣い、砂糖を入れて溶け残りがないようかき混ぜる。

「千歌ちゃーん」

 厨房の入口からの声に振り返ると、ルビィが笑みを浮かべながら「お邪魔します」と入ってくる。続けて花丸と善子も。

「皆ごめんね。せっかく休みなのに」

 「良いずら」と花丸は笑顔で返してくれる。「リトルデーモンのためならば」と善子も不敵な笑みで応える。

 ダイヤと鞠莉が説明会の準備で、果南はふたりの手伝い。そのため今日の練習は休みになったのだが、その休日を利用して千歌は志満に頼んで十千万の厨房を借りることにした。

「これ、お姉ちゃん達から預かってきたんだ」

 と、ルビィは両手に抱えた風呂敷をテーブルに置く。解くと、黒く艶光りする重箱が出てきた。赤く描かれた梅の花が散りばめられた3段重ねの箱は、きっと漆塗りの一級品だろう。

「うわあ、凄いね」

 その美しさに全員で魅入った。「未来ずら」と花丸が感嘆の声をあげて、「いやこれは未来じゃないわよ」と善子が突っ込む。因みに漆塗りは日本の伝統工芸。

「お姉ちゃんが、いっぱい入るから持っていきなさい、て」

 これほどの銘品、決して安くはないだろう。もしかしたらオーダーメイド品かもしれない。こんな代物を持っているなんて、流石は網元の家柄。

「良いの? こんなの使っちゃって」

 何故か少し怯えた声色で善子が訊く。「自分の作ってきたものが恥ずかしいずら?」と花丸がいたずらに笑う。「んなわけないでしょ!」と喚くと、善子は鞄から出したタッパーの蓋を開いて中身を見せつけてくる。

「しっかりと渡しなさい。堕天使の慈悲を!」

 得意げなのだが、こんなの人に食べさせていいものか。まあせっかくの厚意だから渡しておくが。

「3年生の皆が作ってくれたのはもう詰めてあるんだ」

 そう言ってルビィは重箱の蓋を開ける。上段には隙間なく綺麗に料理が詰められていた。ひとつだけ何やら怪しいものもあるのだが。何となく予想はつくが、千歌は件のものを指さして「これ、誰の?」と尋ねる。

「これは、鞠莉ちゃんの………」

 とルビィから返され、「やっぱり」と全員で苦笑する。「あ、それで」とルビィは自分の品を出した。「マルはこれずら」と花丸も得意げに持参してきたものをテーブルに置く。どっちもふたりの個性が溢れている。

「皆、ありがとう」

 これならきっと、彼も元気を出してくれる。浅はかだと言われようが、これが千歌たちのできる精いっぱい。

「さ、後は千歌ちゃんの分だね」

 と曜に言われ、まだ自分の品ができていないことを思い出す。急いで作業に取り掛かろうとしたとき、

「千歌ちゃん、お客さんよ」

 厨房の外から志満の呼び声が聞こえた。

 

 旅館の若女将には千歌を呼んでもらうよう頼んだのだが、奥の方から涼を出迎えてくれたのは千歌と、彼女の友人たちだった。その友人の中から、思いがけない声があがってくる。

「ずら⁉」

 その訛りは聞き間違えようがない。驚愕の表情で涼を見つめる彼女に、涼も驚愕の表情を返す。

「マル……?」

 まさかこんな所で再会することになるなんて、全く予想していなかった。しばらく何て言葉をかけたらいいか分からず硬直していると、髪をシニヨンで纏めた少女がぽん、とマルの背中を押して涼の前に突き出してくる。

「助けてくれたんでしょ。ちゃんとお礼言いなさいよ」

 「あ、ずら……」とやや緊張した面持ちで涼を見上げてくる。

「あの……、あの時は助けてくれて、ありがとうございます」

 仰々しく頭を下げるその姿が、全部嘘にする、だなんて生意気なことを言っていたあの時とは別人みたいで笑ってしまう。

「そういえば、互いに名前も知らなかったな」

 そう言うと、頭を上げた彼女はまだ緊張が解けていないのか「あ、おら……、いえマルは――」としどろもどろに訛りを言い直し、

「国木田花丸です」

「葦原涼だ」

 「葦原、涼さん……」とマル、もとい花丸は名前を反芻すると、まるで宝物を貰った子供のように無垢が笑顔を広げた。

「やっと聞けたずら」

 そこで千歌が「葦原さん」と、

「わたし達からも、花丸ちゃんを助けてくれてありがとうございます」

 その場の全員から、一斉に頭を下げられる。その向けられる純粋な感謝に涼は戸惑った。思えば、今まで戦って誰かに感謝されたことなんて1度もなかった。だからこそ、ギルスとしての姿を知っても涼を見捨てずにいてくれた果南と、涼のために涙を流してくれた花丸のことは命を賭してでも守ろうと思えた。

「礼を言うのは俺の方だ。君たちのお陰で、俺はこうして生きてる」

 皮肉なものだ。守ると決めた少女たちに命を救われたなんて。蘇った時は、苦悩を終わらせてくれなかったことの戸惑いが大きかった。でも今目の前にいる恩人たちの眩しい笑顔を見ると、そんな自分がひどく矮小に思える。千歌や果南だけじゃない。彼女たちから貰った命は、彼女たちのために使おう。その恩に報いることが、涼にとってはこの力を与えられた意味なのかもしれない。

「あ、そうだ!」

 何かを思いついたのか、千歌は玄関でサンダルを履いて外へ飛び出す。

「葦原さん、こっち来てください」

 何だ、と思いながら、残された友人たちと千歌の後を追って旅館の裏手へと回る。開けた裏庭には青々とした苗が生い茂っていて、涼の背丈を越えそうなほどに伸びている。

「うわあ、もうこんなに育ったんだ」

「キュウリのお裾分けいっぱい貰ったけど、まだこんなにあるのね」

 ショートカットの少女と、髪を長く伸ばした少女が苗を見上げながら嬉しそうに言う。

「これが、津上の作った菜園か」

 苗には大振りのキュウリやナスやトマトが実っている。翔一の人柄を知れば知るほど、アギトであることが信じられない。こうして野菜を育む彼が、アンノウンが現れたら戦士へ変貌するだなんて。

「あれからどうですか? 翔一くん」

 千歌に訊かれ、涼はここを訪問した理由を思い出してズボンのポケットからメモ用紙を出して手渡す。

「これを君に渡してくれと」

 何枚も束ねられた紙を、千歌を囲むように友人たちも覗き込む。

「菜園の手入れの仕方が書いてあるらしい。よろしく頼むと言っていた」

 さっきまでの笑顔が、千歌の顔から消えていく。翔一が熱心に書き込んでいたメモの文字を追っていくその目に悲哀の色が浮かんでいく。

 ――もう、あの家には帰れないので――

 メモを涼に託したとき、翔一はそう言っていた。大切な人を自分の運命に巻き込みたくない。相手を想っての決断が痛いほど理解できるからこそ、涼はその頼みを請け負った。彼の決断は正しいと思っている。でも、そのせいでかえって悲しい顔をする彼女たちを見ると、その正しさが揺らいでしまう。

 引き戸が開いて、先ほどの若女将が顔を出す。

「あら、ここにいたのね。どうぞ上がってください。初めてです、翔一君のお友達が来てくれるなんて」

 若女将の隣に、そう歳の変わらなそうな女性が顔を出す。

「ほら千歌、上がってもらいな。外での翔一がどんなか色々と聞きたいし」

「美渡、皆のお茶淹れて」

「はーい」

 奥へと引っ込んでいくふたりの背中を、涼は見つめる。翔一の名を口に出したふたりは笑っていた。彼女たちは、彼がアギトだと知っているのだろうか。もし知ったらふたりの翔一への笑顔は消えてしまうのだろうか。

 いや違う、と涼は思える。千歌たちも翔一の別の姿を知っても、それもまた彼と受け入れている。

「贅沢だな、津上は」

 ふと零した涼の言葉に「え?」と千歌は首を傾げる。

「あいつは幸せだ。俺なんかよりずっと………」

 奥の方から声が聞こえる。

「ちょっと美渡、お茶葉入れ過ぎよ」

「え、翔一はいつもこんくらいじゃない?」

 俺と同じと思っていたのに、あいつは俺と違って全てを持っているじゃないか。あいつが津上翔一である意味を。戦うに、生きるに足る理由を。もし少しでも運命が違っていたら、俺も得られたのだろうか。そんな羨望を抱かずにいられない。

「こんなに温かい場所がある。心配してくれる人がいる」

 この日、涼は翔一に代わって別れを告げるつもりだった。直接言いに行くのは酷だろうから、せめて涼の口からでも、と。でもそれは間違いだ、と断言できる。同じ力を持つ者でも、涼と翔一は違う。決して同じ生き方を探す必要なんてない。翔一は既に、自分の「居場所」を持っているのだから。

「葦原さん」

 ふと花丸に呼ばれる。彼女は赤く実った大振りのトマトを「食べてみるずら」と指さす。言われるまま手に取ったトマトは掌に収まる大きさだが、ずっしりと重みを感じる。もいでかぶりつくと、裂けた皮から汁が溢れ出て涼の口を潤してくれる。ほんのりと酸っぱくて甘い。

「美味いな」

 自然と笑みが零れた。何かを食べて笑顔になるなんて、いつ振りだろう。

 

 

   3

 

 アパートに着くと、涼は千歌に部屋の鍵を手渡す。その意味がよく分からない千歌に、涼は穏やかに告げる。

「君の口から言ったほうが良い。それが津上のためだ」

 言葉に背を押され、千歌は「はい」と応じ風呂敷を抱え部屋へ向かう。鍵を開けて中へ入ると「葦原さん?」という翔一の声が聞こえた。

「翔一くん、入るね」

 と彼のいるベッドへ近付くと、拒むように翔一はベッドから身を起こし、

「千歌ちゃん? ほんとマズいって、俺の傍にいちゃ」

「分かってるけど、どうしてもこれ翔一くんに渡したくて」

 抱えた荷物をベッドの空きスペースに置いて風呂敷を解く。姿を現した重箱をまじまじと見つめながら、翔一は「何よ?」と尋ねる。びっくりするかな、とはやる気持ちで、千歌は重箱の蓋を開けた。3重の箱の詰められた料理の数々を、翔一は呆けた顔で見下ろしている。

「Aqoursの皆で、翔一くんに元気になってほしくて作ったんだよ」

 ひと品ずつ、誰からのものなのか指さしながら千歌は説明する。

「これは梨子ちゃん」

 彼女の好物でもあるたまごサンド。

「これは果南ちゃん」

 海で獲れたてのサザエのつぼ焼き。

「これはダイヤさん」

 香り高く仕上げたという手作りの抹茶プリン。

「これは曜ちゃん」

 海の家でも大好評だったヨキそば。

「これは善子ちゃん。食べるときは気を付けてね………」

 曰くタバスコ倍増しだという堕天使の泪。

「これは花丸ちゃん」

 吟味した末に選んだというのっぽパンはちみつミカン味。

「これは鞠莉ちゃん。味は美味しいと思う………」

 見た目はゲテモノだが食材は一流なシャイ煮。

「これはルビィちゃん」

 ダイヤに教わりながら作ったというスイートポテト。

「それで、これはわたしの」

 重箱とは別で包んでおいた弁当箱を、少し照れながら開ける。しらすご飯、トマトとしらすの炒め物、玉子焼き、キュウリの塩もみ、豚肉炒めレタス添え。いつも翔一が作ってくれる弁当の中で、千歌が好きな献立を詰め込んだ。

「翔一くんの菜園で採れた野菜で作ったんだ。葦原さん、菜園のトマトを食べて美味しい、て言ってたよ」

 翔一は無言のまま、弁当から千歌へと視線を移す。

「翔一くんは幸せだ、て。翔一くんには翔一くんの場所がある。だから俺なんかよりずっと良い、て」

 何か言いたげ、と翔一の視線から感じたが、彼はそれを口に出さず目を背ける。怯えている彼にとって、千歌の望みは単なる我儘なのかもしれない。守られている立場でありながら、翔一の辛いときに立ち上がれ、なんて都合が良すぎる。

「翔一くん」

 それでも千歌は言わなければならなかった。

「人の居場所を守るために戦ってきたのに、何で自分のためには戦えないの?」

 そこでようやく、翔一は口を開いた。まるで今まで考えもしなかった、とでも言うように。

「自分のため?」

「そうだよ、人のためならあんなに勇敢だったじゃん。なら自分のためにも勇気を出してよ。最初から怖がっていたら、勝てるものも勝てないよ。自分のためにも戦ってよ、翔一くん」

 そう、翔一は今まで誰かのために戦ってきた。千歌たちのため、アンノウンに襲われる見知らぬ誰かのために。そこに翔一自身の望みなんて、一切なかった。だからこれは誰のためでもない、翔一のための戦い。それに勝利するために、千歌たちは彼のために料理を作った。彼に理解してほしいから。

 わたし達はあなたに守られるためにいるんじゃない。あなたの肩を支えるために、あなたの背中を押すためにいることを、分かってほしい。

「よく分からないけど、それが人を守ることになるんじゃないの?」

 翔一は重箱に目を落とす。千歌がいくら声を大にして告げても、翔一はだんまりを決め込むだけだった。

 

 



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第6話

 

   1

 

 浦の星女学院学校説明会

 門に掛けられた看板には無骨な字でそう綴られている。隅に付け足したかのような「Aqours Live」というのは、本日の一大イベントという趣旨だろうか。

「よろしくお願いしまーす!」

 門を潜る学外の幼い学生たち――高校の説明会だから、当然中学生だろう――に、メガホン越しで生徒が大声で宣伝している。他の生徒たちはイベントを盛り上げるため、石鹸水にストローで空気を膨らませシャボン玉を校内にくべている。

「我が校のスクールアイドル、Aqoursのライブもありまーす!」

 スクールアイドルか。門の外から賑やかな学生たちをバイクに寄りかかって眺めながら、涼は独りごちる。涼を蘇らせたAqoursという少女たち。それは一体何ぞや、と思っていたが、千歌からアイドルと聞かされた時はとても驚いた。まさか果南がアイドルをしているとは。失礼ながら果南も花丸も、色気より食い気という少女だったから。

 自分がここにいるのは場違いだ、とは理解している。でも、見てみたい、と思った。ステージに立つ果南を。彼女がどんな顔で歌い踊るのかを。もしかしたら海に潜っている時とは違う顔を見せてくれるのかもしれない。

 自販機で買ったお茶を飲もうとペットボトルのキャップを開けようとしたとき、ぴり、とした戦慄が脳内に走る。こんな時にか、と苛立ちを覚えながらも、バイクのエンジンを駆動させ丘を下っていく。麓の沿岸道へ出ると、待ち構えていたかのようにカマキリに似た異形の存在が立ち往生している。バイクを停止させ、涼は異常に大きな複眼を見据えた。

 涼や翔一がこいつらの存在を感じ取れるように、こいつらもまた自分たちの存在が分かるのだろう。力に目覚めた者を叩く絶好の機会だ。今は姿が見えなくても、そのうち水のエルと呼ぶべきアンノウンも現れる。無謀な戦いであることは承知だ。

 それでも逃げるわけにはいかない。

 その場しのぎでも、翔一の代わりでも、守るべきものはある。

 翔一の居場所。Aqoursの居場所。あの温かい空間を穢すことは絶対にさせない。

 あんな居場所がまだあるという事実だけで、この世界に絶望するには早すぎる。

 来い。お前らの悪意は俺だけにぶつけろ。全部背負ってやるさ。

 裡から沸き上がってくる力に身を任せ、涼はアクセルをフルスロットルで捻り敵へ向かっていく。

「変身!」

 

 

   2

 

 いくら全国的なラブライブの会場といっても、所詮は地区の予選会場。市営の体育館に控え室になるような場所なんてなく、参加するスクールアイドル達はそれぞれの衣装に着替えると廊下で出番を今か今かと待っている。

 準備を終えたAqoursの面々も既に待機していたのだが、会場に割に参加者が多すぎて、廊下には収まり切らず階段の踊り場へと追いやられていた。状況把握のために施設内を動くにも人口密度が高いもので、メンバー全員では移動し辛い。ひとりステージの様子を見に行ってくれていた梨子が戻ってくると、予選の流れを教えてくれる。

「いま前半が終わった、て」

 「いよいよだね」と千歌はやや緊張気味に応じる。やはりステージ前のこの時間は、緊張や不安がない交ぜになってどんどん大きくなっていく。特に緊張しやすい性分のルビィは、怖いのか涙目になっている。

「大丈夫」

 そう声をかけたのは曜だった。

「花丸ちゃんも言ってたよ。練習通りにやれば問題ないずら、て」

 親友と同じ口調で言ったお陰か、幾分かルビィの緊張も解けたらしい。そう、何も怖がることなんてない。納得のいく出来に仕上がるまで練習したじゃないか。練習で出来たのだから、本番でもできるはず。ただステージに立つ勇気さえあればいい。

 曜は衣装の裾を摘まみながら言う。

「それに、今回のルビィちゃんが作った衣装すっごく可愛い」

 照れ臭そうにルビィは笑った。今回は2曲ということもあって、衣装作りも曜とルビィで分担している。曜は説明会の衣装で、この予備予選の衣装はルビィが担当した。意外なことに、こちらをやらせてほしい、と言ったのはルビィの方だった。

「お待たせいたしましたわ」

 着替えを済ませたダイヤが、千歌たちの前に姿を現す。

「ダイヤさん、綺麗」

 思わず千歌はそう告げている。他のスクールアイドル達も気合の入った衣装だが、その中でも衣装を身に纏ったダイヤは群を抜いて見惚れしてしまう。同じグループという贔屓目なしと言えるほどに。

「すっごく似合ってる」

 曜も立て続けに言うと、「そ、そうですか?」とダイヤは恥ずかしいのか目を逸らした。これまでのAqoursとは趣が異なる和装をモチーフにした衣装。着物の着付けや琴といった和の造詣が深いダイヤに、衣装は見事なほど馴染んでいる。

「ルビィ、ずっとずっと思ってたんだ。お姉ちゃん絶対似合うのに、て」

 スクールアイドルになることは、姉妹揃っての夢だった。ダイヤがかつて犯してしまった失敗からスクールアイドルから遠ざかってからも、ルビィはスクールアイドルへの熱を冷ますどころか強めていった。だからこそ、こうして姉妹でステージに立てることが嬉しいに違いない。自分がデザインした衣装を姉が着てくれることは、きっと涙するほど喜ばしいのだろう。これまで燻っていたのはきっと妹だけじゃなく、姉の方も同じこと。

 自分の願いを叶えてくれた妹を、ダイヤは優しく抱き留める。

「良い妹さんですね、ダイヤさん」

 梨子の言葉に「もちろん、自慢の妹ですわ」とダイヤは誇らし気に応じる。

「さあ、行きますわよ」

 普段の先輩としての顔で、ダイヤは告げる。予備予選も中盤。いよいよAqoursの出番だ。

 

「津上さん、お邪魔します」

 ビニール袋を提げて、誠はアパートの部屋に入る。今日もベッドで寝ていた翔一は重そうに体を起こし、

「氷川さん、何度もすみません」

「いえ、気にしないで下さい。今日はこれを持ってきました」

 ビニール袋から紙パックのいちご牛乳を出す。何だか負けた気分だが、こうして出来合いのものが売っているのだからわざわざいちごを潰す必要なんて無い。手巻き寿司だって食べたければスーパーの総菜を買えばいいだけの話。

 差し出されたいちご牛乳に翔一は弱く苦笑する。気のせいか、少し痩せたように見える。しっかりと食事は摂っているのだろうか。

「ありがとうございます。後で頂きますから、冷蔵庫に入れといてもらえますか」

「はあ………」

 言われた通り台所へ向かう。冷蔵庫の扉を開けると、中に大きな重箱と小ぶりな弁当箱が鎮座している。ひとり暮らし用の小さな冷蔵庫だから、スペースの大半を陣取っていた。

「津上さん、このお重は?」

「ああ、それ千歌ちゃんが持って来てくれたんです。Aqoursの皆で作ってくれたらしくて」

 勝手に開けるのも悪いな、と思いながらも誠は重箱と弁当を持ち出して、翔一のところへ運ぶ。

「食べないんですか?」

「ちょと、食欲なくて………」

 まあ確かに、ひとりで食べる分にしてはかなりの量ではある。

「せっかく作ってくれたんですから、少しは食べたらどうです? しっかり体力を付けないと」

「それは、分かってるんですけど………」

 見れば見るほど、翔一は顔色が優れない。あれほど朗らかだった笑顔が、今はどこかぎこちない。

「氷川さん」

 おもむろに、翔一は口を開く。

「氷川さんは、自分のために戦おう、て思ったことはありますか?」

「自分のため、ですか?」

 唐突に何の質問だろう、とは思ったが、誠は深く考えず答える。

「ずっと市民のために戦ってきましたが、1度だけ自分のために戦ったことがあります」

 それは、「死」を背負っていた者との決闘でのこと。G3-Xではなく、氷川誠という人間としての戦いだった。

「その時は、僕は生きるために戦っていました」

「生きる、ために……」

「ええ、生きていなければ、守ることはできません」

 こんなことを言うのは、何だかこそばゆい。結局誠の意思が彼に届くことはなかったが、それでも彼から受け取った「死」と「生」の両方を、背負うと誠は誓った。だからこそ、今もG3-Xとしてアンノウンと戦い続けている。

 翔一はただ虚空を見つめている。一体何を考えているのかは分からないが、誠の語った信念が翔一に何らかの影響があるのだろうか。

「すみません。少しひとりにしてもらえますか」

 そう言って翔一は布団を被ってしまう。「ええ」とだけ言って誠は部屋を出た。今の翔一には、考える時間がたっぷりある。無事に十千万へ帰れるよう、誠は早くアンノウンを倒さなければ。

 その機会は、思いのほか早く訪れた。着信音を鳴らすスマートフォンの画面に、小沢の名前が表示されている。

「はい氷川ですが」

 

 

   3

 

「エントリーナンバー24、Aqoursの皆さんでーす!」

 司会者の声の後、暗転していたステージにスポットライトが灯る。「みんなー!」「頑張ってー!」と観客席から志満と美渡の声援が聞こえる。拍手が起こるのだが、申し訳程度のまばらな拍手だ。会場の規模と観客の数のせいじゃない。市営体育館でも数百人を収容するくらいの規模はあるし、観客も満員になっている。

 無理もないかな、と覚悟はしていた。分担するという案に乗っ取り、ステージに立っているメンバーは千歌の他に曜と梨子、ダイヤとルビィの5人だけ。9人揃ってのパフォーマンスを期待してくれていた観客にとっては、物足りないのは仕方ない。

「勘違いしないように!」

 まばらな拍手が鳴りやんだ静寂に、ステージにいないはずのソプラノボイスが響く。振り返ると、舞台袖から曲の衣装を着た鞠莉が出てくる。続けて果南も。

「やっぱり、わたし達はひとつじゃなきゃね」

 更に善子が、

「ほらほら、始めるわよ」

 花丸も、

「ルビィちゃん、この衣装素敵ずら」

 千歌たちが呆けているうちに、4人は練習した通りの、それぞれの所定の位置につく。突っ立ったままの千歌に、果南が言う。

「さあ、やるよ」

 胸の裡が、まるで太陽に照らされたように温かくなる。溢れ出そうになる輝きのままに、千歌は「うん」と頷き位置につく。

 尺八によって奏でられる旋律から、曲が始まる。事前に舞台演出として指定しておいたオレンジ色の柔らかな照明が、篝火(かがりび)のようにメンバー達を照らしている。まるで祭事の演舞のように、不思議と厳かな舞台で歌い、踊る。

 ここまで披露されてきた曲に比べたら、Aqoursの舞台照明は物足りなく弱々しく感じてしまうかもしれない。小さな(ほむら)の中で歌う自分たちはどうだろうか。ひとつひとつの火はとても小さいけど、でもその熱は何よりも高く燃えている。

 暗くて先が視えなくても、光が目の前しか照らせなくても、それでも1歩ずつ確かに進んでいる。

 そんな小さく、熱い火が九重(ここのえ)にくべられたとき、自分たちは何よりも輝ける。更に先へと進んでいける。

 この大きな輝きは、宵闇を照らして明日へと繋げてくれる。

 曲が終わると、開幕の静寂が嘘のように盛大な拍手が沸き起こった。しばらくこの高揚と歓声に浸っていたいが、生憎その暇はない。

「さあ行くよ!」

 千歌に続いて「ここからが勝負よ!」「みんな、大丈夫?」と梨子と曜も急いで舞台から引っ込む。

「どういうことですの?」

 というダイヤの困惑が聞こえたが、有無を言わさず皆を着替えさせ会場から駆け出す。未だに状況が呑み込めずにいる面々を、梨子が「皆、急いでー!」と急かす。

「もしかして、説明会に間に合わせるつもり?」

 先行する千歌を追いながら、果南が上擦った声をあげた。

 千歌が思いついたのは、ミカン園を通過し直線で一気に会場から浦の星へ向かうこと。修善寺から内浦にかけては一面がミカン畑になっていて、所持しているのはクラスメイトのよしみの家。既に協力は取り次いである。

 ただ山の中を『ランボー』よろしく駆け回るだけと思ったら、それは間違いだ。広大な山岳地帯のなか、農家だって毎日登山して畑の世話をしているわけじゃない。

「お嬢ちゃんたち、乗ってくかい?」

 畑に辿り着いた千歌たちを、むつがそんな台詞で出迎える。映画だったらこういったシチュエーションの乗り物はハーレーダビッドソンのバイクと相場が決まっているものだが、山の中を抜けるのはバイクではなく、運搬用モノレール。よしみが慣れた手つきでエンジンを駆動させると、小さな車体が振動を始める。

「ふたりともありがとう!」

 千歌の隣で、梨子は得心したように腕を組み、

「そっか、これだったんだ」

 「ミカン農家じゃ、そんなに珍しくないよ」とよしみが言った。そう、広大なミカン畑には、収穫したミカンを運搬するためのモノレールが敷かれている。これなら直線距離で、かつ徒歩よりもずっと速く移動できる。

「さ、乗って」

 促されるままに、メンバー総出で運搬車に乗り込んでいく。

「本当に大丈夫なのこれ?」

 梨子が不安げに呟く。確かに9人を乗せるのに車体は小さいかもしれないが、何だかちょっとしたジェットコースターみたいで千歌は楽しくなっている。

「全速全身、ヨーソロー!」

 と曜が高々と告げると、運転席につく果南がレバーを引いて車体のブレーキを解除する。車体が動き出した。

 ただし、とても緩慢に。

 これは時速何キロほどの速度だろうか。いや、キロメートルの単位で計測できるだろうか。幼児が漕ぐ三輪車ほどの速度しか出ていない。正直なところ、普通に歩いたほうが早い。

「冗談は善子さんずら………」

「………ヨハネ」

 花丸と善子も、そんな勢いの抜けたやり取りをかます。

「て言われても仕方ないんだけどね………」

 罰が悪そうによしみが苦笑している。彼女たちの顔も、とっくに見えなくなるほど進むと思ったのだが、普通に会話できるほどの距離だ。そもそもの話、スピードを求めて設計された乗り物じゃないから、車同然の速度が出るわけないのだが。

 じれったくなった果南が力いっぱいレバーを引く。

「もっとスピード出ないの?」

 ばき、と音がした。え、と千歌の思考が一瞬だけ止まる。何の音、と訊こうとしたところで、果南が照れ笑いを浮かべた顔で振り返った。その手にレバーをしっかりと握ったまま。

「………取れちゃった」

 そのカミングアウトの瞬間、車体が一気に丘陵を下った。ブレーキを破壊されたものだから、減速なんてできず重力に従って速度を上げほぼジェットコースターになっていく。

 普段は物静かなミカン畑に、千歌たちの悲鳴がこだましていた。

 

 そ、と蓋を開けた重箱の中身を、翔一はひと品ずつ見渡していく。どれも作った者の個性がよく現れている。料理について、Aqoursのメンバー達とはよく意見交換していたことがある。

 梨子には良い玉子の見分け方を、果南には魚の口に指を入れて新鮮さを見極める技を教えた。曜は器用だから翔一のアドバイスですぐ腕を上げて、善子にはタコ焼きが型崩れしないよう生地の配分を教えた。鞠莉からは世界中の高級料理をたくさん聞かせてもらえて創作意欲を刺激してくれた。ルビィとはスイートポテトの水分をどうやって閉じ込めるか、花丸とは柔らかいパン生地について語り合ったこともある。

 そして千歌。

 彼女は毎日、翔一の作った料理を美味しい、と言いながら食べてくれていた。翔一が出て行った十千万で、千歌はちゃんと食事を摂っているだろうか。自分の食べたいものばかり食べて、栄養が偏り過ぎていないだろうか。

 先ほどから、ずっと頭の中で戦慄が駆け巡っている。アンノウンが現れたのだろう。涼も敵を察知し戦っているだろうか。誠も出動したのだろうか。そういえば、Aqoursもラブライブの予備予選が今日だった。確か学校説明会も今日だった気がするが、よく覚えていない。

 皆、それぞれの場所で頑張っている。

 俺だけ何もできていない。

 ただ敵に恐怖して、部屋に閉じこもって、心配しに来てくれた少女の声にも応えられない。

 ――人の居場所を守るために戦ってきたのに、何で自分のためには戦えないの?――

 千歌の言葉が脳裏によぎる。自分のために戦うなんて、今まで考えもしなかった。いや、考えるのが怖かった。自分のためだなんて、そもそも「自分」というものが翔一には分からない。過去もなく、ただ力があるというだけでアンノウンと戦ってきた翔一が、何の意味を持って自分のために戦えばいいのか。

 そう、今までは理由を「みんなの居場所」だなんて、外側へ求めていただけだ。立て続けに次々と言葉が脳裏をよぎる。自分と同じ戦う者たちの言葉の連なりが。

 ――俺は自分を哀れんだりはしたくない。俺が今の俺である意味を見つけたい――

 ――生きていなければ、守ることはできません――

 翔一は重箱にある玉子サンドを掴み口に運ぶ。具の玉子はしつこくならないようレモン汁が加えられていた。続けて箸を取ってサザエのつぼ焼きを食べる。貝類は時間が経つと固くなるから、食べやすいよう身を細かく切ってあった。ヨキそばのソースは少し焦がしてあって香ばしい。黒焦げのタコ焼きは何故か具がタバスコでむせ返りながら咀嚼し、口直しのシャイ煮は見た目とは裏腹にかなり美味だ。プリンは甘すぎなくて抹茶の香りがしっかりしていて、スイートポテトはしっとりとしていて舌触りが滑らか。のっぽパンは一気に口に詰め込んだせいで危うく喉に詰らせかける。

 重箱とは別になっている弁当は一気にかき込みながらも、その味に目を見開きながらしっかりと噛みしめる。この味は、自分の作る味によく似ている。あまり調味料を加えず素材を活かす味付けは、しっかりと彼女の舌に記憶されていたらしい。

「ご馳走様」

 空になった弁当箱に合掌すると、翔一はベッドから降りた。

 

 

   4

 

 校庭に設営されたステージには、生徒たちが膨らませたシャボン玉が漂っている。燦々とした陽光を受けてプリズムのように色が7つに分かれ、校内に無数の虹が乱反射している。

 その光に満ちたステージに辿り着いた千歌たちは、急ぎ身に纏った衣装でこの日の第2曲目を歌う。観客は、多くが学外からの中学生たち。自分たちよりも年下の、未来への夢や希望、または不安を裡に抱えながらこの丘の上に来てくれた人々。

 少女たちに千歌が贈る曲は、言うなればAqoursの原点回帰。自分たちの始まりを歌った曲。

 何かに夢中になりたい。無為に生き、何者にもなれない未来を変えたい。

 特別な理由なんてものは必要ない。ただ自分が望むから。誰かと一緒に頑張りたいから。昔からの夢だったから。そんなありきたりなもので十分な理由になる。

 でも、どこへ行けばいいのか、何をすればいいのか分からなくなってしまう時もある。分からなくてもいい。ただ自分の行きたい方向へ、ひたすらに進んでいけばいい。望みこそが、行き先を決めてくれる。

 そうやって夢中に走っているとき、ふと自身の胸に尋ねてみてほしい。

 君の心は輝いてるかい、と。

 答えが出たときに空を見上げてみてほしい。きっと、太陽が行く先を照らしてくれる。

 

 曲が終わると同時、ずっと留めてきた疲労が一気に押し寄せて汗が一気に体を伝う。考えてみれば当然だ。予備予選での出番を終えてすぐミカン畑まで走って、そして近場のミカン畑に着いたらすぐ学校まで走り続けていたのだから。夢中になりすぎて疲れなんて忘れていたかのよう。

 こうして無事に終わって、ステージから歓声を送ってくれる観客たちを見渡すと、今日までの諦めムードが全て質の悪い夢だったように思えてくる。いや、諦めムードは学校に着く直前まで続いてはいたけれど。

 山道を走りながら、何度も皆で口々に弱音を吐いた。間に合わない、あと少しなのに、ここまで来たのに、駄目なのかな。

 奇跡は起こるのかな。

 そう言いながらも、皆で走るのは絶対にやめなかったし、諦めなかった。

 千歌は思う。奇跡を最初から起こそうなんて人はいない。ただ一生懸命に夢中になって、何かを成し遂げようとする。何とかしよう、ともがき続けることが、奇跡をもたらしてくれる、と。

 だから絶対、自分たちに奇跡は起こる。空に虹が掛かるように。信じて突き進めば望みは神ではなく、自分たちで叶えることができる。

 所詮は子供の夢物語、なんて笑われるだろうか。でも現に今、千歌の目の前には奇跡が広がっている。ステージでの高揚と観客の溢れる笑顔が。

 学校か自分たちの夢か。どっちを取るかなんて選べない。欲張りでも、両方叶えたい。

 だから千歌は手を伸ばす。虹色のシャボン玉が昇っていく方へ、千歌たちを照らしてくれる太陽の、輝きの方角へと。

 

 内浦重須の麓にある町工場へ近付くにつれて、明らか作業とは思えない音が聞こえてくる。視線を上げると同時、工場の屋根からふたつの人影が落下していくのが見えた。普通の人間では運が良くても骨折は免れないのだが、異形のふたりは地面に激突しても構わず立ち上がり戦いを続けている。

 カマキリのようなアンノウンの蹴りを腹に受けて、緑の生物が咳き込みながら倒れる。すぐさま起き上がろうとしたところで鳩尾に蹴りを入れられ、更に胸を踏み付けられ起き上がれず地面に張り付けられてしまう。

 アンノウンが手に持った鎌を振り降ろそうとしたとき、ガードチェイサーから降りた誠は突進し胴に組みついた。その勢いを殺さないまま工場の社屋へと追いやり、壁を突き破って中に押し込む。衝撃で両者の体が離れたと同時、緑の生物がアンノウンに蹴りをかました。粉塵が舞う中ではアンノウンも視界不良らしく、成す術なくコンクリートの床を転がる。

 流石に2体1では不利と見たのか、アンノウンは工場の奥へと引っ込んでいく。この日は休業日らしく、作業員は誰もいない。照明もなく、外の光が遮断された薄暗い工場内の奥へと、誠と緑の生物は敵を追っていく。

 資材とフォークリフトの陰に、慎重に誠はG3-Xの索敵をかける。サーモグラフィや動体感知にも、敵は引っ掛からない。

 唐突に、緑の生物が呻き声をあげた。咄嗟に振り返ると、首にふた又の刃物を掛けられている。獲物を掴んでいるのは、先日誠を見逃したクジラのようなアンノウン。

 いつからここに。そう考える余裕もなく、誠はアンノウンへ駆け出した。だがアンノウンはまるで片手間のように、緑の生物を錫杖で壁へ押しやりながら誠に手をかざす。その瞬間、手から高圧の水流が噴射され誠の体を吹き飛ばした。更に転がった先には、待ち構えていたかのようにカマキリのアンノウンが。

 防御する暇なんてなく、胸部装甲を鎌で穿たれる。誠の横に、錫杖で突き飛ばされた緑の生物が転がってきた。

『胸部ユニットにダメージ。バッテリー残り60パーセント。これ以上の戦闘は危険です!』

『氷川君、離脱しなさい! 氷川君!』

 尾室と小沢の声が、薄れつつある誠の意識を引き戻そうと呼びかけている。ディスプレイもアラートと共に赤い光を点滅させていて、AIすらも誠に逃げろ、と警告している。でも駄目だ。体が動かない。

 密閉されたマスク内の酸素供給も効果はなく、誠は重い目蓋を閉じる。意識が飛ぶ寸前、誠の耳には足音が響いていた。アンノウンが止めを刺しに来るんだな、と奇妙なほど冷静に判断できたが、その予想は外れることになる。

 

 力の囁くままバイクを走らせ、酷く荒れた工場に侵入する。薄暗い中へ進んでいくと、バイクのヘッドライトが地面に伏すギルスとG3-Xを照らす。ギルスはこの場にやって来た翔一へ頭をもたげ、G3-Xのほうは気を失ったのか微動だにしていない。

 芦原さん、氷川さん。すみません、俺が不甲斐ないばかりに。

 裡で謝罪しながらヘルメットを脱ぎ、翔一はふたりの奥へと視線を巡らせる。薄暗いなかで、その気配と共に2体のアンノウンをしっかりと見据える。満たされた腹の底から、これまでにない程の力が奔流となって溢れ出そうとしている感覚がある。

 千歌ちゃん、皆。ありがとう。

 皆の居場所を、俺の居たいと願う場所を守るために戦う。

 その確かな「意味」を裡に抱きしめ、翔一は新たな変身を遂げる。

「変身!」

 

 






次章 ダイヤさんと呼ばないで / 4人目の男


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第17章 ダイヤさんと呼ばないで / 4人目の男
第1話


 

   1

 

 凄まじい熱気に当てられ、誠の意識が覚醒する。G3-Xのスーツ越しでも分かる熱は当然AIも感知していて、12時の方向に高温の熱源あり、というロゴをディスプレイに表示している。

 重い頭を持ち上げると、そこには火だるまになった人影がある。全身を焼くほどの炎に苦しみ悶えることなく、それは佇んでいる。やがて炎が消えると、そこにはまるで新生した不死鳥のような戦士が現れた。

 金色だった双角は赤い6本角に開き、目は温度を上げた火のように黄色い。角と同じく赤く灼けた鎧は、内部から燃えているのかひび割れ炎が漏れ出している。

「アギト……?」

 思わず誠はそう呟いている。アギトが戦法によって姿を変えることは知っていたが、あの姿はこれまでとは明らかに桁違いの力を感じる。その姿を簡潔に形容するなら、燃え盛る豪炎の戦士(バーニングフォーム)

 カマキリのアンノウンが、鎌を振り翳してアギトへ向かっていく。待ち構えるアギトの右手の表皮がひび割れ、マグマのように炎が燃え盛っている。燃える拳を握りしめ、アギトはアンノウンの胸を穿った。

 向かってきた方向へ跳ね返されたアンノウンの胸が、黒く焦げて小さなクレーターのように窪んでいる。たった1撃の拳。それはアンノウンの頭上に光輪を生じさせ、内部からの爆炎で身を焼いていく。

 アギトのベルトから武器が飛び出した。柄の両端から刃が付いた獲物を、アギトは掴み取る。振り翳した双刃刀(そうじんとう)を水のエルは錫杖で受け止めたが、圧倒的なパワーで押しやられ、体勢を崩されたところで腹に蹴りを喰らい突き飛ばされてしまう。

 「そうか」と呻きながら、水のエルはゆっくりと立ち上がる。

「アギトとは限りなく進化する力。それをあの方は恐れているのか」

 あの方、とは。アンノウンを統べる者が存在するというのか。

 水のエルは錫杖を構え直す。アギトも双刃刀を握りしめ、互いの武器を打ち付け合う。やはり、パワー勝負では今のアギトの方が上だ。武器を弾かれた水のエルに、アギトは炎を纏った双刃刀の刃を袈裟懸けに滑らせる。体を濡らしていた水分が蒸発し、その体からは水蒸気と炎が舞い上がる。

 水のエルの体が、その形を失った。宙に浮かぶ水の球は、まるで流星のように怪しげな光の尾を引いて彼方へと飛んでいく。アギトと立ち上がった緑の生物は視線で追うが、その姿は見えない。

 もはやこの場に用はない、とばかりに、アギトと緑の生物は陽光が射し込む外へ向かって歩き出す。

「待ってください。あなた達は一体――」

 呼び止めようとしたところで声が聞こえた。人の声。どこから聞こえているのか。あまりにもはっきりし過ぎていて場所も距離も判別ができない。まるで世界中にその呻き声が轟いているようだった。

 まるで苦しんでいるかのような呻きが、やがて叫びへと変わる。とても澄んだ声だ。一切の澱みがない美声が、汚らわしいものに浸蝕されたかのように怒りを孕んでいる。

「アああああギいいいいトおおおおおおおおおおおおおおおおっ‼」

 この声が、水のエルが言っていた「あの方」という存在なのか。この声にもっと近付けたら、アンノウンについて分かるのだろうか。それに、アギトなる存在にも。

 どれほどの間、その場に立っていただろう。声が消えても、ずっと耳の奥で反響を続けている。気付けばアギトも、緑の生物も姿を消していた。

 

 

   2

 

 説明会の撤収作業を終えてから涼のアパートに着く頃には、すっかり陽が暮れてしまった。今日の出来事は翔一にも聞いてほしい。1日に会場移動なんてことは、後にも先にもないだろう。この土産話で、翔一が以前の笑顔を取り戻してくれたらいいのだが。

 インターホンを押して「翔一くん」と呼びかける。

「翔一くん、いる?」

 そう待つことなくドアが開いて、涼が顔を出す。

「あの、翔一くんは………」

 「もういない」とだけ言って、涼は1枚のメモ用紙を差し出してくる。受け取った紙には、短い1文のみが綴られていた。

 色々とありがとうございました 翔一

 千歌を部屋へ招き入れると、涼はインスタントコーヒーを出してくれた。ずっと翔一が寝ていたベッドを見ると、布団が綺麗に畳まれている。何と言うか、翔一らしい去り方だな、と思った。

「あいつならもう大丈夫だ。今頃君の家に帰ってるだろ」

 なら真っ直ぐ家に帰れば翔一に会えたわけだが、どの道ここにはまた足を運ぶつもりだった。涼に翔一のことを頼んだのは、千歌自身なのだから。

「ありがとうございました。本当にお世話になっちゃって」

「大したことはしてないさ。俺だって、君たちには感謝してもしきれない。蘇ってから、変身の後遺症がなくなった」

「後遺症?」

「ああ。前はあの姿に変身する度に体がおかしくなったんだが、君たちの力が俺の体質を変えたのかもしれない」

 そう言われて、千歌は複雑な気分に囚われる。涼を蘇らせた皆の中に、千歌は含まれていない。千歌だけが、持たざる者なのだから。

 それに、変身に代償が伴うだなんて初めて聞いた。翔一はそんな素振りを全く見せなかった。翔一の変身するアギトと、涼の変身するギルス。あの屋敷の主人は、涼はアギトと同じ存在と言っていたが微妙に異なるのかもしれない。

「それから、ひとつ忠告してもいいか」

 真剣な眼差しを向ける涼に、千歌は緊張でぎこちなく頷く。

「もうこれ以上俺に関わらないほうが良い。君だけじゃなく果南や、鞠莉という子も。そこは君たちの居るべき場所じゃない」

 涼からすれば、純粋に千歌たちのことを考えての言葉なのかもしれない。でも、千歌に拒否することはどうにも躊躇してしまう。果南はもう1度、この青年に会うために力を使い蘇らせた。せっかくまた会えるというのに、彼は自分から離れようとしている。それが彼なりの優しさと思うと、悲しいものに思えて仕方ない。

 翔一だってアギトだけど、十千万という居場所に収まった。なら涼にも居場所があっていい。

「葦原さんはどうするつもりですか? これから」

「俺は今まで訳の分からない運命に弄ばれてきた。だがそんなことはもう御免だ。自分の手で、俺は自分の運命を切り開いていこうと思ってる」

 その言葉も、声も、眼差しも。全てに強い意志を感じた。無力な千歌に、彼に対してできる手助けなんて何もない。

 ただ、その行く先の幸運を祈ることしかできなかった。

 

 家に帰ると「お帰りー」という馴染み深い、でも懐かしい声に迎えられる。エプロン姿で食器を卓に運ぶ彼の姿と笑顔はいつもと同じもので、安堵に千歌も笑顔で「ただいま」と返す。

「お帰り千歌ちゃん」

「おかえりー」

 優しく迎えてくれる志満と、何故か疲れた様子の美渡もいる、いつもの高海家の日常が戻ってきたんだ、と実感が胸の裡を温めた。

「てか美渡姉どうしたの? やけに疲れてない?」

 訊くと美渡は首をこき、と鳴らし、

「翔一が帰って来たと思ったらいきなり大掃除するとか言い出してさあ」

 言われてみれば、家の中が綺麗になった気がする。翔一が出て行ってから一応家事は姉妹で分担していたものの、やはり彼ほど手際が良くないから掃除ひとつ取っても隅に埃が残ってしまうことがよくあった。でも今は隅々まで掃除が行き渡っている。棚の上に積もっていた埃が一掃されていた。

「ほらほら、働いた後のご飯は格別だよ」

 と上機嫌に翔一は食卓におかずの皿を置いた。今日の夕飯は肉じゃが。他にもキュウリの塩もみやトマトとレタスのサラダ、芋の煮っころがしと一汁三菜に卓が彩られている。

「そうね、綺麗になったお家で食べると美味しいわよね」

 と志満も上機嫌だ。

「うん、明日はもっと綺麗にしちゃいますよ」

 翔一が言うと、姉ふたりは「え?」と低い声を揃える。

「もう、これくらいで十分じゃない翔一君?」

 志満が恐る恐る訊くが、こうなった翔一は止まるはずもなく、

「何言ってんですか、まだまだですよ。隅から隅までピカピカにして、生まれ変わった気分で頑張りましょう!」

 「もう、何張り切ってんのよ翔一」と美渡が更に疲れたように言う。

「ピカピカにすると気持ちいいぞ美渡! さ、明日の元気のためにご飯食べよう!」

 食卓に全員がついたところで、皆で合掌する。

「いただきます」

 ひと口啜った味噌汁は、ほんのりと出汁が効いていて無意識に安堵の溜め息が出る。いつもの翔一の作る味だった。

 

 

   3

 

 日が経つにつれて、気温も下がってきた。流石に朝方は肌寒くて、梨子は寝起きの体にカーディガンを羽織りバルコニーの窓を開ける。秋に差し掛かろうとしている内浦の空気は冷たく、でも澄んでいる。

 隣人はまだ寝ているのかな、と思ったとき、

「おっはよー!」

 と静かな町に響かんとばかりの声が聞こえた。隣家の旅館の門で、既に制服に着替えていた彼女は動かずにはいられないのか足踏みしている。

「先行ってるねー!」

 こんな時間だと、バスも始発だ。きっと学校には1番乗りじゃないだろうか。

「皆も行ってきまーす!」

 玄関先にいる姉たちとしいたけにそれだけ言うと、千歌はバス停へと走っていく。呆然と姉たちが妹を見送っていると、玄関からエプロン姿の翔一が顔を出し、

「あれ、千歌ちゃんもう行っちゃった?」

 そういえば、いつも千歌を起こすのは翔一の役目だったとか。「ええ」と答えた志満は薄い雲が掛かった空を見上げる。

「今日は雨かしら………」

 本当にそうかも、と梨子も裡で同意する。更に翔一が笑顔で何の悪気もなく、

「もしかしたら槍でも降ったりして」

 

「お前はアギトではない。アギトになるべき人間でもない」

 つい今ほど誠が告げたことを、小沢は反芻しながら自販機の缶コーヒーを渡してくれる。

「そう言ったの?」

 「はあ」と応じると、ベンチに腰掛けながら尾室が「アンノウンがですか?」と訊いた。あのオペレーションはいつも通り小沢と尾室がモニタリングしていたが、これまでと同様アンノウンはカメラに映らず、その声をマイクが捉えることもできない。誠も記録音声を確認したのだが、聞こえたのは酷いノイズで声とは呼べなかった。

「僕に止めを刺そうと思えばできたのに、そう言い残して姿を消しました」

 アンノウンにとって誠は殺すほどの脅威でもない、ということか。でも、脅威でなくとも邪魔者になるのならアンノウンにとって殺すという選択肢もあったはずだ。それをしなかったとは、殺してはならない、ということなのだろうか。

「どういう事なんでしょう、一体」

 答えのない尾室の問いに、「そうね」と小沢はしばし目蓋を伏せ、

「単純に考えれば、やっぱりアギトの正体は人間、てことになるわね。そしてアンノウンはアギトになる人間を襲っている」

「アンノウンは超能力者を狙ってるんじゃないんですか?」

 尾室の問いに小沢はすぐに答えた。既に彼女の中では、ある程度にまで仮説が組み上がっているらしい。

「アギトになる人間がその前触れとして超能力を使えるようになる。そう解釈すれば辻褄が会うわ」

 超能力者が、アギトの前触れ。誠は裡で反芻する。それが真実だとしてもたらされる事を、尾室が先に述べた。

「でもアンノウンに襲われた人って結構な数ですよ。そんな沢山の人間がアギトになる、ていうんですか?」

 アギトはひとりだけじゃない。アンノウンと戦えるだけの存在が、次々と現れようとしている。アンノウンはその脅威が誕生するのを阻止しようとしているのだろうか。でも、何故人間からアギトなる存在が生まれるのか。

「そうね、ちょっと信じられないけど」

 話の飛躍に小沢も今のところそれ以上の進展は考えがつかないらしく、コーヒーを啜る。誠もようやくコーヒーを啜ったのだが、味がよく分からなかった。

「信じられないことが起こっているかもしれませんよ」

 革靴を鳴らしながら、休憩所へ来た北條が誠たちを見下ろしている。

「探しましたよ。こんな所にいたんですか」

 さも当然であるかのように、北條はベンチの空いたスペースに腰掛ける。共用だから別に悪いというわけではないのだが、正直なところ誠は彼を歓迎できない。小沢に至っては嫌悪剥き出しの視線を送り、尾室は雰囲気を察していないのか何の気なしにコーヒーを啜っている。

「いやあ、こんな時に職場を離れて談笑できる余裕は、皮肉でなく羨ましい限りです」

「あなた、何故そういつもひと言多いわけ? 用があるならさっさと言いなさい」

 小沢に促された北條はやれやれ、と分かりやすいほど嘆息し、

「実はアンノウン関連の事件について、面白い発見がありましてね」

 河野から高海伸幸の事件を洗っているとは聞いたが、何か進展があったのだろうか。被害者の死と、アンノウンの関係について。

「どういうことです?」

 誠が訊くと、北條はこちらへ視線を向け、

「そのことで氷川さん、是非あなたのお話が聞きたいのですが。できればふたりきりで」

 何故、ここではいけないのだろう。その疑問は小沢が告げる。

「男ふたりで何しよう、ていうの? 話があるならここでしなさい」

 「小沢さん」と北條は心底面倒くさそうに、

「氷川さんはおしめの取れない赤ん坊じゃないんだ。いい加減に保護者面はやめたらどうです?」

 「それ言えるかもしれないですね」と笑う尾室に、小沢は険のこもった視線を向ける。無言の圧力に尾室はすぐに失言を悟り、だんまりを決め込んだ。

 

 流石に出向して半年近く立てば、沼津署内の構図も把握できるようになった。いつの時間帯にどこの場所でなら、人目につかずに済むのか。それほど長く話すつもりはないからか会議室の使用申請は出さなかったらしく、北條は駐車場への勝手口まで誠を連れていき、足を止めた。確かにこの場所なら、早退する署員がいない限り誰も近寄っては来ない。

「北條さん、僕に聞きたい事とは?」

「あかつき号についてです」

 その質問は各所で何度もされたものだが、ようやく落ち着いてきた今となっては懐かしく思える。

「どうして今更そんなことを訊くんです?」

 それが率直な疑問だった。今まで何かにつけて「あかつき号の英雄」と皮肉を込めて誠に付け寄ってきたのは北條だったのに。

「北條さんは既にご存知のはずですが」

「いえ、是非もう一度あなたの口からお聞きしたいんです」

 そう告げる北條の声色には、これまでの皮肉の一切が排されている。

「あなたはたったひとりで荒れ狂う暴風雨のなか、あかつき号の人々を救出した。その時の状況を、できるだけ詳しく」

「それは、構いませんが………」

 とはいえ、誠もあの事件の報告書には見聞きしたこと全てを書いた。報告書の記載が全てなのだが、恐らくこれまで誠にあかつき号の話を持ち掛けてきた者たちの中で、北條を含めてまともに報告書に目を通した者は皆無に等しいだろう。静岡県警でも警視庁でも、超局所的な暴風雨の中にあったフェリーボートに誠が単身で救助に向かった、という認識でしかない。プラスアルファとして、海上保安庁の巡視船が私用のためあかつき号の救難信号を無視した、という上層部の汚点という面もあったが。

 あの日の不可思議さをまともに聞いてくれたのは小沢と尾室だけ。聴聞会で報告した際も、誠の証言は戯言として切り捨てられていた。

「そうですね、北條さんが知らない事がひとつだけあります」

 そう言うと、北條は僅かに目を見開く。どんなに荒唐無稽でも、彼は誠の話を一字一句聞き漏らさないつもりだ、と確信できる。

「あれは、普通の海難事故ではありませんでした。あの日パトロール中だった僕は、今までに見たことのない現象を目撃しました」

 気味悪さすら覚えるほどの晴天。海から空へ昇っているのか、空から海へ降りているのか分からない光の柱。既に2年が経ったが、あの日の光景は今でも目蓋の裏に貼り付いている。

「そして近くを通りかかった漁船に協力を頼み、現場に向かった僕は光の中で暴風雨に見舞われているあかつき号を発見したんです」

 「なるほど」と北條は嘆息する。

「一種の異常気象とも考えられますが。救出した人々に、何か変わったところはありませんでしたか?」

「いえ、皆ただ怯え切った様子で――」

「怯えていた? 何に対して?」

「それは……、あんな目に遭ったんです。当然だと思いますが」

 当時はただ必死だったが、誠も救助後に落ち着いてからは遅れた恐怖に苛まれた。よくあんな状況の船に行こうと思ったものだ、と。下手をすれば自分も荒波に攫われ死んでもおかしくはなかった。両親からも立派な行いだが無茶はするな、と叱責されたものだ。

 北條は沈黙する。頭の中で何かを組み立てているように見えた。乗員乗客たちの恐怖の根源。そこに何かの鍵があるというのか。そもそも、あの事件とアンノウンに、一体何の関係があるのだろうか。

 

 

   4

 

 涼の脳内に戦慄が走ったのは、スーパーでの買い出しの帰り道だった。いつものように、奴らは何の前触れもなく現れる。咄嗟にバイクを停めて空を見上げた。灰色の雲が掛かりつつある空を、鳥にしては大きすぎる黒い影が滑空している。

 どうやら涼を狙っているわけではないらしい。カラスのような翼を広げたアンノウンが、徐々に高度を下げていく。涼はバイクをターンさせ、その後を追った。アンノウンの進路、そこには通勤中なのかスーツ姿の女性が自身に迫る異形に気付かないまま歩いている。

 空気を斬る音に気付いた彼女が振り返ったときには、既に遅かった。眼前にまで迫っていたアンノウンは彼女の体を容易く突き飛ばし、そのまま地面に降り立つことなく高度を上げて空高く飛び去っていく。宙を舞って地面に伏した女性は、涼がバイクで近付いても何の反応も示さない。

「おい! しっかりしろ!」

 女性を抱き起こして強く呼びかけるが、その目蓋が開く気配はない。「おい!」と更に呼びかけたとき、横から手が伸びてきて女性の手首に指を当てた。

 視線を上げると、サングラスを掛けた壮年の男がいる。男は次に女性の口元へ耳を近付けた。その行動が脈と呼吸の確認と、涼は遅れて気付いた。

 男は涼へ顔を向け告げる。不気味なほど至極冷静に。

「まだ脈があります。手を貸してもらえませんか? 病院に運びたいんですが」

「あんたは――」

「あなたと同じ通りすがりの者ですよ」

 「さあ」と男は女性を抱きかかえ、自分のバイクのリアシートに乗せた。意識のない彼女に掴まることは不可能だから、積載用の紐を赤ん坊のおんぶ紐のように使って背中に女性を縛り付ける。

 女性に被せるヘルメットが無いから道中でパトロール中の警察に見つかりやしないか、と冷や汗ものだったが、幸いにも遭遇は免れ沼津市立病院まで運ぶことができた。免れた、というよりも、男は市内の道を熟知しているようで警察があまり通らないルートを選んでいたように思える。

 裏口のほうから病院に入り、男は廊下に設置されていたストレッチャーに女性を寝かせる。すぐ近くで仕事中だった看護師が驚きながら「あなた達は?」と寄ってくるが、男は臆することなく、

「身内の者です。早く検査をお願いします」

 緊急事態であることを察してくれたのか、看護師は追求を止めてストレッチャーを押すのを手伝ってくれる。

 女性が検査室へ運び込まれてから、30分も掛からなかったと思う。男が一体何者なのか、と考える間もなく、涼は医師から呼び出され診察室で説明を受けていた。そういえば、身内と名乗ってしまったがどう説明したら良いだろう。こんな事態のときに何故か下らない心配をしてしまう。

 中年の男性医師はPC画面にレントゲンとCT検査の画像を表示させ、

「あまり良い状態とは言えませんな。折れた肋骨が著しく内臓を破損しています。緊急手術(オペ)の必要があるでしょうが、生恋率は極めて低い。覚悟はしといて下さい」

 正直なところ、赤の他人だから悲観に暮れるほどの情は沸かない。だからといって臨終に立ち会うのも目覚めが悪いが、もはや涼にできることは何もない。そもそも、病院で運ぶのも涼は殆ど何もしなかった。ほぼ全て、この謎の男がしたことだ。

「どこへ行くんですか?」

 出口へ向かおうとする涼の背に、男が尋ねてくる。

「できるだけの事はした。もう俺たちの出番は無いだろう」

 振り返ると、男はサングラス越しに涼を見据えている。先ほどの対処から多少の医療行為はできるようだが、ここまで来たら専門的な知識と技術を持った医師に任せるべき。本当の身内にも連絡してくれるだろう。

 でも男は、まだお役御免、と引き下がるつもりはないようだった。

「乗り掛かった舟という事もありますよ」

 

 



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第2話

 

   1

 

「随分機嫌良いですわね」

 そう呟くダイヤの視線の先では、千歌が鼻歌を歌いながら雑巾で部室の窓ガラスを磨いている。聞くところによると今朝も早く登校して練習していたらしい。

「こんな時に………」

「もしかして忘れてるのかも」

 なんて善子と梨子が口々に言う。まさか昼休みにわざわざ部室に集まってただ掃除だなんて、流石に千歌もそこまでは能天気じゃないだろう、と思いたい。

「その可能性が高い気がする」

 呟いた曜が、恐る恐る「千歌ちゃん」と呼びかけ、

「今日、何の日か覚えてる?」

 そう訊くと、振り返った千歌はさも当然であるかのように、

「ラブライブの予備予選の結果が出る日でしょ?」

 百点満点の回答に、思わず全員で歓声を揃えた。「覚えていたずら」なんて花丸も言ってしまう。

「き、緊張しないの?」

 と訊くルビィのキーボードに這わせた指は微かに震えている。「ぜーんぜん」と千歌は即答した。

「だってあんなに上手くいって、あんなに素敵な歌を歌えたんだもん。絶対突破してる。昨日、聖良さんにも言われたんだよ。トップ通過、て」

 ああ、だから機嫌が良かったのですね、とダイヤは納得できる。あの聖良がそう評したのなら自信がつくのも分かる。でもどんな予想も覆されてしまうのがラブライブの醍醐味。油断は禁物だ。ほんの微かな油断やミスが、足元を掬われ一気に転落していく。

「いつの間にそんな仲良しさんに」

 少し羨ましそうにルビィが言ったところで、ぴこん、とノートPCが起動音を鳴らす。

「来た!」

 とルビィが受信アイコンを表示するメールアプリを開いた。メールの文面に添付されたURLのサイトにアクセスし、メンバー全員で画面を食い入るように見つめる。サイトはラブライブのホームページ、エントリーしたグループに割り当てられた予備予選結果発表のページだった。まだ結果は画面にはない。ページ中央にあるENTERボタンを押して、結果が出る仕様になっている。

「い、行きます!」

 ルビィは震える手でマウスを動かし、アイコンをボタンの上に乗せてクリックする。ページは一瞬で切り替わった。

 エントリーナンバー24 Aqours

 予選突破

 「おお!」と狭い部室に歓声が沸いた。「もしかしてこれ、トップ、てこと?」と梨子が興奮気味に言っている。順位は分からないが、そう思っても悪いことじゃない。

「やったずら!」

 と花丸が果南に抱き着いた。果南も満更でなさそうで、「うむ、よきにはからえ」と後輩の頭を撫でている。別のところでは善子と鞠莉がハイタッチしていて、ふたりで堕天使ポーズを決めている。

「ダイヤさんも」

 え、と振り返ると、千歌が挙手するように構えている。「は、はあ」と気のない返事をしながらダイヤも手を挙げると、千歌のほうから力強いハイタッチをしてくれた。

「そうそう」

 思い出したように千歌は言う。

「翔一くんが今度皆でうちに来て、て言ってたよ。この前のお弁当のお礼にご馳走作るから、て」

 どうやら千歌の上機嫌さは、ラブライブだけじゃないらしい。

「良かったですわね、津上さんが元気になって」

 ダイヤが言うと続けて善子も得意げに「堕天の力ね」と笑っている。あの堕天使の涙とかいう黒焦げタコ焼きを弁当に入れたらしいのだが、翔一は本当にあんなものを食べたのだろうか。だとしたらよく腹を下さなかったものだ。

「わたし達はただお弁当作っただけよ。どっちか、ていうと葦原さんのお陰じゃない?」

 梨子が言うと千歌は「うん」と笑みを返し、

「翔一くんも凄く嬉しそうだったんだよね。同じ変身できる人と会えた、て」

 「でもさ」と曜が切り出した。少し気難しそうな顔で、

「葦原さんも変身できる、てことは他にも同じような人がいるんじゃないかな?」

 考えてみれば、確かにその通りだ。変身できるのは翔一ひとりだけじゃなかった。涼もまたアギトと同じ力を持つ者、と屋敷の主人は言っていた。あの力がふたりだけが持つ特異性でないのなら、まだダイヤ達の知らないところで力に目覚めている人間がいる可能性がある、ということ。

「もしそうなら、翔一さんもっと喜びそうずら」

 花丸の言葉で、翔一の笑顔が容易に想像できてしまう。そんな想像が現実になってもおかしくないのが、あの青年の人徳といったところか。

「アギトの会とか作ったりして。皆で週に1度集まって、翔一くんの料理食べるとか」

 楽しそうに千歌は言うが、それはどうだろう、とダイヤは思った。あの金色の戦士が何人も集まるとは。サークル活動じゃあるまいし。

 でも、翔一なら本当に作ってしまいそう、とも思えた。

 

 男は手術室へ向かった。関係者以外立ち入り禁止と札のある扉を何の躊躇もなく開けると、中から執刀医らしき声が聞こえてくる。

「何だ君は? ここは関係者以外立ち入り禁止だが」

「実はお願いがありましてね。先ほど運ばれてきた女性の手術(オペ)、私にやらせてもらえませんか?」

 「何言ってるんだ君は?」と執刀医はせせら笑う。傍から聞いて涼も何を考えてるんだ、と思った。中を覗き込むと執刀医は既に手術着に着替えている。一切の細菌の侵入を阻む準備室に土足に踏み込んだ男はサングラスを掛けた表情を崩すことなく、

「失礼ですが、あなたにはあの手術(オペ)は無理です。あの手術(オペ)ができるのは日本で――。いや、恐らく世界で私だけだ」

 「出てってくれ」と執刀医は言うが、男は聞かず動こうとしない。「誰か、誰か来てくれ!」と大声をあげ始める執刀医に、

「失礼する」

 それだけ告げて男は腹に拳を沈めた。体をくの字に曲げた執刀医は力なく崩れ、倒れようとするその体を男は抱き留めてゆっくりと寝かせてやる。サングラスを外したその瞳は、自身のした事、これからしようとしている事に対して一切の後悔や躊躇など感じていないように見えるほど強く、視界の全てを捉えている。

 服を脱いだ男は素早く棚にある手術着に着替え始めた。

 

 札が点灯しているということは、手術が行われているということ。閉ざされた扉の前を、涼は離れることができなかった。アンノウンい襲われた女性も、一緒に病院に運んだ男も、どちらも面識のない他人なのに。もう涼の出る幕はない。そのはずなのに、男の方はこの事態を終わらせるどころか更に複雑化させている。

 本当に、奴が手術をしているのか。患者の状態にしても、彼は殆ど何も知らないはず。診察室で見せられたレントゲンとCT画像。あの男はそれだけで患者の状態を見極めたというのか。

 扉の前にいたまま、どれ程の時間が経っただろうか。そんなに長くはなかったと記憶している。手術室のプレートランプが消灯し、開かれた扉からは着替えを終えた男がサングラスを掛けながら出てくる。室内の騒ぎが涼の耳にも届いた。目を覚ましたらしい本来の執刀医が「オペは⁉」と喚いていて、まさか部外者が執刀していたなんてことを知らない看護師はやや興奮した声で「先生、無事成功しました」と告げる。

 丁度そのとき、内線電話で呼び出されたのか、先ほど診察室で涼たちに患者の状態を説明してくれた中年の医師がやってくる。その医師にも看護師は嬉しそうに、

「新任の先生ですかあの人? 凄い人ですね。今まであんな手術(オペ)見た事ありません」

 中を覗き込むと、執刀医と中年医師は手術台に寝かされた患者を見下ろしている。執刀医はかぶりを振りながら、

「信じられない。この短時間でこれだけの仕事をしたというのか。あの男は何者なんです?」

 中年医師のほうは何やら得心がいったのかひとり頷く。

「こんなことをできる人間は、ひとりしかいない。まさか、ここに居たとは」

「知ってるんですか、彼のこと?」

 執刀医に訊かれ、中年医師は口を結んだ。訳ありか、と察しながら涼は裏口へと走る。バイクを置いた場所まで行くと、男は鞄をリアシートに括りつけている所だった。

「驚いたな。あんた医者だったのか」

「少し心得があるだけですよ」

 あまり自分について語りたがらない性分らしく、男はグローブをはめた手でヘルメットを取る。

「名前は?」

 一応として尋ねたが、男はヘルメットを被ると「失礼します」とだけ言ってエンジンを始動させる。アイドリングもろくにせず、軽いオフロード車のボディをターンさせ去って行った。

 

 

   2

 

 予備予選を通過したら、次のステージは地区大会。放課後はそこで披露する曲についての打ち合わせ、ということで部室に集まったのだが、千歌は気まずそうに貯金箱をテーブルに置いて項垂れている。

「今度は何?」

 と梨子が訊いた。

「ほら、説明会とラブライブとふたつもあったでしょ? だからお金が――」

 「この前千円ずつ入れたのに」「もうなくなっちゃったの?」と果南とルビィがぼやく。

 いくら浦の星の広告塔とはいえ、スクールアイドル部を贔屓することはできない。生徒会でも厳重に審査して、他の部と大差ないよう部費を割り振った。それでもラブライブへの参加を考えると厳しい、ということで大会前にメンバーから各千円を徴収しやり繰りしよう、となったのだが。

 パンを食べていた花丸が言う。

「このままだと予算がなくなって、仮に決勝に進出してもボートで移動、なんて事態ずら」

「沈むわい!」

 善子との漫才は放っておくとして、まずは現状確認。「いくら残ってるの?」と梨子が貯金箱を手に取った。三津シーパラダイスのキャラクター、うちっちーを模した貯金箱の底から、軽い音を立てて硬貨が1枚だけ落ちる。

 金色の穴の空いた硬貨を拾い上げた鞠莉は物珍しそうに、

「Oh! 綺麗な5円デース!」

 買い物は基本クレジット決済の鞠莉にとって、5円玉はさぞ珍しいだろう。でも総額がその5円玉ひとつ、という事実に驚きのあまりルビィは「ごごご5円⁉」と呂律が回らない。

「ご縁がありますように」

「So happy!」

 なんて曜と鞠莉の能天気さに善子が「言ってる場合か!」と漫才じみたやり取りを繰り広げている。

 他愛もないやり取りだ。メンバー同士、学年の垣根を越えて遠慮なく物を言い合えるのは、見ていて微笑ましい。もっとも、ダイヤは笑えてはいなかったのだが。

「どうしたんです?」

 と千歌がダイヤの顔を覗き込んでくる。

「いえ。果南さんも鞠莉さんも、随分皆さんと打ち解けた、と思いまして」

 曲制作の際に講じた策が上手くいった証拠だ。自分が望んでいたことなのに、どうしても素直に喜べず、裡に何かが引っ掛かっている錯覚を覚える。

「果南ちゃんはどう思うずら?」

「そうだねえ」

 花丸の口から出た呼び名を、ダイヤは裡で反芻する。

 果南、ちゃん――

 

 次の曲へ取り掛かる前に、まずは活動費の確保。活動費が無ければ衣装も舞台演出の小道具も作れないし、ライブ会場が遠方だった場合の遠征もできない。最悪の場合、学校のステージにて制服で歌うなんてこともありうる。

 そういうわけで学校を出たダイヤ達は、メンバー総出で淡島へ赴いた。因みに千歌の案で。ここに費用の伝手でもあるのか、と期待してはみたのだが、訪れたのは連絡船乗り場からホテルオハラの中間にある祠。千歌は湧き水で唯一の活動費である5円玉を洗い熱心に両手を合わせる。

 銭洗弁天(ぜにあらいべんてん)というもので、弁財天を祀っているこの淡島の湧き水で硬貨を洗うと財に恵まれる、という風習だ。とどのつまりを、果南が呆れ気味に言う。

「いきなり神頼み?」

 「お願い聞いてくれるかな?」と気遣いある言葉を述べられるルビィは、我が妹ながら優しく育ってくれたものだ。手を擦り合わせて祈っている千歌が、参拝者というより物乞いに見えてしまう。

「何卒5円を5倍、10倍……、いや100倍に――」

「100倍は500円だよ」

 と曜がやんわり指摘すると、気付いた千歌は擦る手を止める。5円を活動費として膨らませるには、最低でも万倍は欲しい。

「というか、神頼みするくらいなら………」

 と梨子につられ、全員で財布が豊かなメンバーへ懇願の視線を向ける。

「鞠莉ちゃん!」

「小原家の力は借りられまセーン!」

 あっけなく撥ねつけられる。援助を受けられるのなら、もっと早い段階で可能だったはずだ。

「……ですよねー」

 千歌のとぼけた声に、皆で笑っている。傍から見ていたダイヤには、その談笑が自身には場違いに思えて輪に入るのを躊躇してしまう。

「鞠莉、ちゃん………」

 その呟きは誰の耳にも届いていない。このAqoursは紛れもなくダイヤの居るべき場所なのに、この疎外感は何なのだろうか。

 

「鞠莉ちゃん、またねー」

 手を振りながら連絡船に乗り込む千歌に「See you」と返す。

「果南ちゃん、明日本持ってくずら」

 そう告げて千歌に続く花丸に果南も「うむ」と返した。花丸の影響もあって、果南は読書を嗜むようになったらしい。あまり活字慣れしていないから、児童文学が多いらしいが。因みに鞠莉が冗談で勧めてみた『カラマーゾフの兄弟』は即返品された。理由は登場人物の名前が憶え辛いから。

「お姉ちゃんも早く!」

 ルビィに呼ばれても、ダイヤは聞こえていないらしく桟橋の柵にもたれかかっている。視線の先には淡島水族館で飼育されているイルカが水面に顔を出していた。もっとも、ダイヤはイルカなんて見ていないだろうが。

「Sorry,ルビィ。ちょっとダイヤ借りるね」

 と断りを入れて、果南とふたりダイヤのもとへ歩いていく。自分から話があると言っておきながら上の空とは、ダイヤらしくない。

「で、何のtalkですか?」

 率直に鞠莉が切り出すと、ダイヤは「え?」と分かりやすく狼狽えながら、

「いえ、大したことはないのですが、その………」

 何ともじれったいが、ここは急かさず待ってみる。何となく面白そうだから。

「ふたりとも、急に仲良くなりましたわね」

 表情に疑問符を浮かべながら果南と顔を見合わせ、再びダイヤへ向ける。

「仲良く?」

「わたしと、果南が?」

「違いますわ。1年生や2年生たちとです」

 夕焼けに染まり朱くなったダイヤの頬をじ、と見つめてみる。どうやら夕陽のせいではないらしい。

「もしかしてダイヤ、妬いてるの?」

 果南が悪戯っぽく訊くと、ビーチボールを擦り合わせたような音が聞こえた。イルカの鳴き声だ。イルカは知能が高いから、この会話を面白がっているようだった。ダイヤが睨むと、すぐさまイルカは海中へ逃げ込む。

「ま、まさか。生徒会長としてちゃんと規律を守らねば、皆に示しがつきませんわ」

 曲作りのときに仲良くなれ、なんて言っていたのはダイヤなのに。

「またそういう固いこと言う」

「Very hardね」

 ふたりで口を尖らせる。ダイヤは目を伏せながら「ただ」とか細く言い出し、中々続きを言わないものだから果南と声を揃えて「ただ?」と促す。

「ただ………」

 と口を開きかけたとき、またイルカが茶化しに来た。ダイヤは再び睨みで追い払い、

「何でもありませんわ。ただ、鞠莉さん達も上級生であることの自覚をなくさないように」

 そう堅苦しく告げて、ローファーを鳴らしながら連絡船へと歩き出す。どこまでも淑やかな友人の背中を見送っていると、隣で果南が「どう思う?」と耳元で訊いてくる。

Smellプンプン嫉妬fire(嫉妬の匂いがプンプンするわ)

 と冗談はこのくらいにしておいて、

「しばらくすれば尻尾見せるでしょ。ダイヤは自分のことになると、へっぽこピーだから」

「へっぽこピー?」

 昔のアニメでそんな台詞があった気がする。よく覚えていないが、ニュアンスとしては繊細になってしまうということ。

 でも、そんな彼女だからこそ自分たちが話を聞いてやらなければならない、という事も知っている。

「あ、そうそう」

 とこれからのスケジュールを思い出す。危うく忘れて帰宅してしまうところだった。

「これから涼と会いに行くんだけど、良い?」

「え、涼と?」

 その名前が出た瞬間、果南は表情に明らかな動揺を出す。一応友人の想い人と会うわけだから、断りは入れなければならない。

「別に良いよ。わざわざわたしに言う必要、ある?」

「だって、果南の彼氏なんだし」

 「ちょ――」と果南は耳まで朱くさせる。その反応が面白い反面、切なさを隠すため鞠莉は「大丈夫」と肩を叩いた。

「果南が心配するような事にはならないから」

「心配なんてしてないよ」

 想いは通じ合っているはずなのに、どうしてふたりとも別々の道を行こうとするのだろう。本当は道が交わることを望んでいるはず。それなのに涼は自身の力を、果南はAqoursを理由にして逃げている。

 何と言うか、似た者カップルだ。お互いに頑固で自分の意思を曲げようとしない。それが正しい、と自身の願いなんてそっちのけだ。でも、鞠莉としてもふたりが交わるのは、あまり歓迎できない。

 涼もまた、あかつき号に関係しているのだから。

 

 

   3

 

「この部屋はどうするつもりだ?」

 住人を喪ったマンションのリビングを見渡しながら、涼は尋ねる。もうこの部屋に住んでいた相良克彦と関谷真澄――今更になってようやく自身を殺そうとした者たちの名を知った――は死んだ。こうして落ち合う場所にしても、使い道なんてない。ソファに腰掛ける金髪の少女は物憂げに目蓋を伏せ、

「近いうちに引き払うわ。関谷さんが仕事辞めてからは、うちの名義で借りてた部屋だったもの」

「あんたの?」

「Yes. わたしがパパに頼んで、皆の住まいを援助していたの。皆、ひとつの場所に留まるのを怖がっていたから」

 「それより」と鞠莉は涼を見据える。

「何であなたはあかつき号にこだわるの? お父様が亡くなった理由がそんなに気になる?」

 確かに当初はそれを知るために事件を調べていた。でも、今の涼にとってそれは大きなものではなくなっている。所詮、父の死を調べることは一時しのぎでしかなかった、ということ。

「それもある。あかつき号には俺がどうやって生きるべきか、そのヒントが隠されている気がするんだ」

 ヒントが見つからなくても、船での出来事が明らかになってようやく、自分のために歩き出せるような気がする。そんな涼に鞠莉は申し訳なさそうに眉を潜め、

「でも、言えないの。言ってはいけないのよ。果南とダイヤには知ってほしくない。薫が良い、て言えば別だけど」

「薫?」

「木野薫。わたし達にとっては指導者よ。本人はそう呼ばれるの嫌がってるけどね」

「また木野か………」

 思えば相良も関谷も、何かにつけて「木野さんが」と言っていた。涼を殺そうとしたのも木野なる人物らしい。会ってもいないが、自分を殺そうと仕向けた人間に好印象は持てない。

「大体、あなたはもう凄い力持っているんだし、悩む必要なんて無いんじゃない?」

「力を持てば良い、というもんじゃない。目的がなければ意味がない」

 「そうかなあ?」と鞠莉は溜め息をついた。

「もしお前が力を持ったら、何をするつもりだ?」

「うーん、ステージで変身とか、凄いperformanceじゃない?」

 その回答に思わず笑ってしまう。見た目こそ大人びてはいるが、やはり中身は子供だ。力を持ってしまうことのリスクと、その先のことを知らなすぎる。でも、その無垢さが眩しく見えてしまう。

「でも、正しい力の使い方は薫が教えてくれるわ」

 「ほっ」と鞠莉はソファの反発を利用して勢いよく起き上がる。

「そうと決まれば、早速探しに行きましょ」

「木野をか? 近くにいるのか?」

「分からないから探しに行くのよ。Let`s together」

 やれやれ、と涼は気疲れしながらも立ち上がる。

 津上の次は子供のお守りか。

 

 



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第3話

 

   1

 

「薫?」

 ドアを前にして鞠莉がいくら名前を連呼しても、何の反応も帰ってこない。鍵は掛かっていないらしく、ノブを掴んだら簡単に回りドアは開け放たれる。随分と不用心なんだな、と思いながら、涼はバイクのシートに腰掛けながら部屋へ入る鞠莉を見送る。

 木野薫。その名前は父の遺した手帳にも住所と共に記されていた。わざわざ東京にまで出向いたのだが、その頃には既に彼は転居した後で、近隣住民にも話を聞いて回ったが手掛かりは掴めず仕舞いだった。まさか彼が沼津にいたとは。相良や関谷も接触していたらしいから、考えてみれば納得はできる。それに鞠莉も、随分と信頼しているようだが。

 鞠莉はあまり時間を要することなく、部屋から出てきた。「どうだった?」という涼の質問に、肩を落としながら無言で首を横に振る。

「前に来た時と一緒。荒らされたままね」

「荒らされた?」

 すぐさまアンノウン、という可能性が浮上してきた。他のあかつき号の乗員と同じく、木野薫もアギトの力に目覚め始めている可能性がある。それならアンノウンの標的だ。どこかに逃げているのか、それとも既にこの世にいないのか。

「最後に会ったのはいつだ?」

「2年前………」

「2年? そんなにか?」

「わたし、今年の春まで留学していたから。こっちに戻ってから何度も連絡はしたけど、返事こなくて………」

 事情があるなら仕方ないが、それでは行方を辿れない。関谷と相良が涼を殺そうとしたのは木野の指示らしいから、少なくともその頃にはまだ無事だったのかもしれない。

 でも、ここでいくら考えたところで無意味だろう。警察に行って捜索願を出す外ない。

「今日はもう遅い。家まで送ってやる」

 俯いたままの鞠莉にヘルメットを差し出す。ただでさえ夜も更けた時間帯に女子高生を連れ回しているなんて、それこそ警察に見つかったら誤解を招きそうだ。

 鞠莉がヘルメットを取ろうとしたとき、涼の脳裏に戦慄が走る。同時にこの世のものとは思えない吐息交じりの声が。

 咄嗟に涼はシートから降りた。鞠莉をバイクの後ろへと下がらせたとき、数メートルほど前に人型の異形が降り立つ。ピラニアのような牙を並べた口から吐息を漏らし、アンノウンはこちらへと向かってくる。

「変身!」

 剛腕を受け止めた腕が、ギルスの緑色に変化する。筋力が増した涼の体でもその衝撃は受け止め切れず、宙に投げ出された隣の工事現場の角材をばら撒きながら砂利の上に倒れる。

 アンノウンの、文字通り魚みたいな目が鞠莉に向けられた。標的に向かおうとするその体に掴みかかり、顔面に拳を突き出す。だがアンノウンの反応も早い。涼の首元を掴んできて、涼も相手の首を掴むことで互いの力が拮抗し押しも引きもしない。

 拮抗はすぐに終わる。アンノウンが涼の腹に重い拳を沈めた。ごふ、と咳き込んだ口元にも一撃を見舞われる。追撃の拳は寸でのところで掴み捻り上げるが、力は敵のほうが上らしく簡単に振り払われる。胸に渾身の拳を受け、涼の体は再び砂利の上に投げ出された。

 起き上がろうと地面についた手から、力が抜けていく。まるで全身の血液を抜かれたかのような脱力感と共に、涼の体は人間に戻っていく。変身に伴う苦痛がなくなったとはいえ、パワーアップしたわけではないらしい。

「涼!」

 鞠莉が駆け寄って肩を貸してくれるが「逃げろ」と振り払う。

「もう、何言ってるのよ!」

 と鞠莉は無理矢理にでも涼の方に細い腕を回した。邪魔者を排除できたアンノウンは、急ぐことなくゆっくりとこちらへと歩いてくる。もう1度変身しようと意識を集中させてみるが、裡から何も湧き上がってこない。

 その時、光が涼たちを照らした。向くと、それはバイクのヘッドライトだった。騒ぎを聞きつけた近隣住民か、と思った。バイク乗りは明らか人でないアンノウンを目にしても慌てる様子はなく、ヘルメットを脱いで素早くシートから降りる。

 現れたのは昼間の男だった。鳥のようなアンノウンに襲われた女性を病院まで運んで、しかも彼女の手術を自ら行った。

 彼を見た鞠莉の口から出たものが、涼を更に驚愕させる。

「薫⁉」

「何⁉ あいつが……」

 木野薫を認めたアンノウンが、微かに唸ったように聞こえた。木野は怯えた様子を微塵も出さず対峙する。

 彼の腹が光を放った。光は球形を成して、その両端からベルトのように腰に巻き付く。

 まさか――

 涼はただただ絶句した。これから起きようとしている事を瞬時に悟って、一瞬先にそれが現実になる。

「変身」

 その言葉が静かに告げられ、木野の体が光を放ち視界を塗り潰す。すぐに視界が回復すると、そこには人でもアンノウンでもない存在が周囲に残滓を散らしながら立っている。

 鎧のように隆起した、全身を包む筋肉。額から伸びた金色の角。顔面の半分以上を占める大きな赤い双眼。

 その姿は紛れもなくアギトだった。翔一が変身するのとは別の、言うなればもうひとりの(アナザー)アギト。

 その姿は完全にアンノウンにとっては標的で、最優先に始末する相手としてアナザーアギトに向かっていく。振るわれた拳をアナザーアギトは一切の無駄を排した動きで避け、敵の腹に重い拳を沈める。苦し紛れの反撃を避けつつ背中に肘を打ち付け、前のめりになったところを膝で胸を蹴り上げる。

 蹴り飛ばされても、アンノウンは何とか倒れることなく地面に立つことができていた。そんな往生際の悪い敵に、アナザーアギトは牙を剥いた。その足元に紋章が光を放ち、翔一と同じように渦を巻いて足に集束していく。

 跳躍したアナザーアギトは右脚を突き出した。力を集中させたキックがアンノウンの胸に命中し、その体を宙に舞い上がらせる。今度の攻撃はアンノウンも堪えたらしく、受け身も取れずに砂利の上を転がった。

 それでも敵は起き上がろうとする。だが頭上に光輪が浮かぶと苦しみだして、蹴られた胸を掻きむしりながら倒れると同時、その体は爆炎に呑まれて消滅した。

 勝利を飾った戦士は酔いしれる素振りを見せず、ただその場に佇んでいる。体が光を放ち、収束するとそこには人間に戻った木野薫がひとまずの戦いを終えた安堵なのか表情を和らげている。

「薫!」

 緊張が解けたのか、鞠莉が木野へ駆け寄っていく。

「薫、とうとうアギトになったのね!」

 「ああ」と応えながらも、木野の視線は涼に向けられている。こんな時でも、あなたは昼間の、なんて言っているかのような顔だ。

 パトカーのサイレンが聞こえてくる。先ほどの爆発で、近所の誰かが通報したのだろう。面倒事に巻き込まれるのは御免だから早いところ撤収したいが、涼は言わずにはいられなかった。

「まさか、あんたが木野だったとはな」

 その言葉に木野は無言で微笑を返す。

 

 

   2

 

 離島に建つホテルオハラのスイートルームは、白を基調とし一切の染みも許さないとばかりに掃除が行き届いている。それなりの宿泊費だから満室になることは稀なようで、木野にあてがうには十分に部屋は余っていたらしい。あまりにも綺麗すぎると微かな汚れを残すことも後ろめたく、どうにも涼はこういう高級な部屋は落ち着かない。とはいえ、場を自宅にしたとしてもリラックスはできそうにないが。何しろ、スイートルームに気負いせずソファでくつろぐこの男は、アギトなのだから。

「今までどこにいたの? 何度も連絡したのに」

 そう尋ねる鞠莉は、まるで久しぶりに主人と再会した子犬のように見えてしまう。

「済まなかった。とても皆に会える状況じゃなかったんだ。アギトになるために、私には私の試練があった」

 木野は右の上腕をさすりながら、

「肉体がアギトであることに適応するまで、一定の苦痛が伴うんだ」

 その苦痛を涼は想像できた。涼自身、肉体の変化で酷い副作用に長く苦しめられた。彼の部屋が荒らされていたというのは、アギトへの苦痛にのたうち回って自ら部屋を壊していたのかもしれない。あの裡から何かが産まれようとしているかのような感覚は今でも記憶に張り付いている。身の回りにあるもの手あたり次第に発散させなければ、膨れていく力に体が破裂してしまいそうだった。

 苦痛とは、大きな力を手にするための通過儀礼のようなものか。翔一も同じような苦痛を経てアギトになったのかもしれない。本人は記憶喪失でいつアギトになったのかも覚えていないらしいから、苦痛のことも忘れてしまっただろうが。鞠莉もいずれアギトになるのなら、彼女はその苦痛に耐えられるだろうか。この華奢な体で、あれほどの苦痛と力を受け止め切れるだろうか。

「ひとつだけ、訊かせてくれ」

 告げる涼を、木野は見上げる。

「あんたは何故アギトになったんだ? あかつき号で何があった?」

「それは言えません。言ってはいけない約束になってるんです」

 何故言えないのか。約束とは誰と交わした。恐怖する乗員たち総出で口を閉じ、船での出来事を忘れようとしているとでもいうのか。立て続けに出てくる涼の問いを抑え込むように、木野は続ける。

「それにあかつき号で何があったか、そんなことは大した問題じゃない。大切なのは、これから私たちが何をするかだ」

 はぐらかされた気がしてならないが、間違ってはいない。過去はもう過ぎてしまったこと。過去を経て形成された今と、これからをどう生きるかに重点を置くべきなのかもしれない。

「葦原さんでしたか。仲間から連絡を受けていましたが、驚きましたよ。あかつき号のメンバー以外にも、アギトと同じような力を持った者がいるとは。赦してください。一時はあなたのことを敵だと思っていましたが、私の勘違いだったようだ」

「ああ、お陰で随分ひどい目に遭ったが」

 文字通り死ぬほどの災難だった。でも無事に生きている今、木野に対する怒りや憎しみは沸かない。もう過ぎたことだし、今の彼は決して敵なわけじゃないから、その皮肉に留めておく。何より、鞠莉に血生臭い様相は見せたくない。

「薫、これからどうするの?」

 鞠莉の問いに、木野は「単純なことだよ」と優しく応える。

「恐らく敵は、アギトになる可能性のある人間を狙っている。ならば私は、私と同じ運命の人々を助けたい」

 最初こそ鞠莉のほうを向いて言っていたが、後半に差し掛かっていくうちにその顔は涼へと向けられる。その言葉に嘘偽りは感じられない。他にアギトになることでアンノウンに狙われ、また裡から目覚めようとしている力に苦しんでいる者の助けになりたい。既にアギトになった者として。そんな意思を、彼は力強い瞳で告げている。

 唐突に着信音が鳴った。木野らしく、ポケットから出したスマートフォンの通話に応じる。

「はい」

 電話口の声は、深夜という時間帯の中でそれほど大きくはなくとも涼の耳に届いた。

『木野先生ですか? こちらにいらっしゃると聞きました。手術をお願いしたいんですが』

「病院はどちらですか?」

『沼津総合病院です』

「分かりました。すぐに伺います」

 通話を終えると、木野はソファから腰を上げる。

「鞠莉、済まないが船を貸してほしい」

手術(オペ)なの?」

「ああ、緊急らしくてな」

 鞠莉は何か言いたげだったが、顔を俯かせ逡巡を経て「そう……」とだけ呟く。そんな彼女に溜め息をつきながらも、木野は微笑しながら言う。

「君の気持ちは嬉しいが、私を必要としてくれる人々がいる。私はその人たちのために戦いたい。それはドクターとしても、アギトとしても同じことだよ」

 木野が部屋から出て行くと、鞠莉はソファに深く腰掛けうなだれる。

「相変わらず続けているのね、闇医者」

 最後のひと言を、涼は尋ねる。

「闇医者? どういうことだ?」

「薫はね、医師免許を剥奪されているの」

 鞠莉は言うのも辛そうだったが、続けた。

「詳しいことは教えてくれなかったけど、薫は右腕を失ったの。今の腕は、亡くなった弟さんの腕よ。そのせいで、もう手術はできないと医師会から判断されたみたい」

「そんな理由で免許を取り上げられるのか?」

「それは不当よ。あくまで腕の移植は建前。薫は凄いDoctorだけど、医師会の上役にとっては自分の地位を横取りしかねない存在だったの。だから些細な医療ミスをわざと大袈裟にして、医師会は彼を追放したのよ。彼のお陰で沢山の患者が助かるのに、上役のエゴのせいで………」

 弟と腕を失って、上からはもう医者じゃない、と資格まで奪われた。更に苦痛に苛まれアギトという得体の知れない存在にまでなった。それでも彼は落ちぶれず、免許こそなくても医者としての矜持までは捨てず自分のできることを行っている。先ほどのように依頼を受けているということは、木野薫という闇医者は業界に知れ渡っているのだろう。無免許で手術をしても警察に追放されないのは、まだ医師たちの水面下で彼は必要とされているから。上役たちがいくら抑えつけようが、彼の技術はそれ以上、ということかもしれない。

 決して称賛はされないだろう。陽の当たらない過酷な道でも、彼は迷わず進んでいる。自らの運命と、そしてこれから現れるかもしれない同胞たちのために戦おうとしている。

「戦ってみるか。俺も彼と一緒に」

 自分を殺そうとした過去は、もう意味を持たなくなっている。彼と共に戦うことで、涼もまた自分の生きるべき道を見つけられそうな気がする。

「わたしも……」

 震えた声だが、鞠莉も振り絞るように告げる。

「わたしも、アギトになったら戦いたい。薫や、あなたと一緒に」

 とても頼もしいが、涼にとって彼女の決意は肯定できるものでもなかった。まだ子供の彼女に、自分たちの抱えるアギトの宿命は過酷すぎる。

 だからといって、鞠莉の勇気を頭ごなしに抑えつけることもできなかった。

 

 

   3

 

 Aqoursが練習場として借りているプラザヴェルデの屋上は、大小様々な樹や芝生が植えられた庭園になっている。一般に開放されていて、地上とはひと味変わった空中庭園が誰でも楽しめる。

 施設の一室を借りているAqoursの面々も、休日の練習で昼休憩を取る際はこの庭園をよく利用している。少しずつ気温も下がってきたこの時期、外は心地いい。

「バイト?」

 練習の合間、庭園のベンチで休憩を取っていた2年生たちの中で、千歌が不思議そうに言う。続けて梨子が「しょうがないわよ」と少し気疲れしたように言った。こんな気分の良い場所なのだから颯爽とマイナスイオンを浴びたいところだが、ダイヤは物陰に隠れて後輩たちの様子を窺っていた。何となく会話の内容は察しがついたが、タイミングを見計らって3人が同時に深く溜め息をついたところで意を決し近付いていく。

「あら、今度は何ですの?」

 わたくしは何も知りません、という体で訊く。芝居をするむず痒さが出ていたのか、少し体を揺らしていたダイヤが珍妙に映ったのか千歌が訊いてくる。

「お腹痛いんですか?」

「違いますわ!」

 と危うく普段の調子に戻ってしまいそうになったから「い、いえ」と繕い直す。

「何か見てらしたような………」

 「はい」と曜が手に持っている冊子を見せてくれる。タウン誌らしい。活動費確保のためだろう。

「内浦でバイト探してて。コンビニか新聞配達かなあ、て」

 やった、とダイヤは裡でガッツポーズする。会話に入る余地が出た。この好機を逃さず、僅かに空いたベンチのスペースに半ば強引に腰掛ける。

「なら、沼津のほうが良いかもしれませんわね」

 優しい笑顔、優しい笑顔、と自身に言い聞かせながら告げる。「沼津でかあ」と千歌は言い、「だったら色々あるよ」と曜は冊子のページを捲る。

 内浦だとあまり商店が無いから働き口も限られてしまうが、沼津市街ならそれなりに充実している。沼津駅前の商店街ならカフェや花屋もあるし、変わったところだと写真スタジオのモデルも募集していたはずだ。

 その充実ぶりに千歌は目を輝かせる。

「おお、何か楽しそう! バイトは沼津に決定!」

 と一切の迷いがない。良く言えば前向き。悪く言えば浅薄で世間知らずな物言いに、ダイヤは我慢できずベンチを降りて後輩たちの前に仁王立ちしてしまう。

「ブッブー、ですわ!」

 大声に3人は驚いてダイヤを注視する。

「安直すぎですわ。バイトはそう簡単ではありません。大抵週4日からのシフトですので9人揃って練習、ていうのも難しくなります。大体何でも簡単に決め過ぎてはいけません。ちゃんとなさい!」

 早口でまくし立てた後、沈黙の中で秋の風が過ぎ去っていく音が聞こえた。その風が頭を冷やしてくれたのか、ダイヤは自らの失態に気付く。

 しまった、つい――

「確かに、ダイヤさんの言う通りね」

 梨子が顎に指を添える。「流石ダイヤさん」と千歌に言われたあたり、嫌悪感まで抱かれてはいないらしい。「でもじゃあどうするの?」と曜が建設的な会話を切り出して、アドバイスを素直に聞き入れてくれる。

「何かあります、ダイヤさん?」

 と千歌に訊かれた。結局目論みは外れ、ダイヤ「さん」として後輩と話す羽目になった。

 

「アンノウンによる被害者の中にあかつき号に乗っていた人がいる、て? どういうこと?」

 Gトレーラーで報告すると、小沢は驚きを隠すことなく出す。

「先日北條さんにあかつき号のことを訊かれ、気になって調べてみたんです」

 今までの不可能犯罪の被害者とあかつき号の乗員乗客を照合してみたら、数人がヒットした。篠原佐恵子、相良克彦、関谷真澄、橘純、高島雅英。別件だが、翔一が重要参考人だった事件の三浦智子もあかつき号に乗っていた。船に乗っていた人間の約半数がアンノウンに殺されているなんて、偶然にしては出来過ぎている。

「間違いありません。今まで気がつかなかったのが迂闊でした」

「そんなことは無いわよ。あなたは暴風雨の中たったひとりで救助活動を行った。しかも会ったのはそのとき1度だけ。気付かなくても無理はないわ」

 確かにあの時は暴風雨で視界もままならない状況だったから、乗客たちの顔をひとりひとり確かめている余裕なんてなかった。それにもうひとつ、あかつき号の乗客リストをデータベースから引っ張り出して驚いたことがある。リストの中に松浦果南という名前があった。まさかと調べてみたら浦の星女学院の果南と同一人物で、更に小原鞠莉と黒澤ダイヤの名前も列挙されていた。同姓同名の別人なんかじゃない。鞠莉もダイヤも、スクールアイドルグループAqoursに所属しているメンバーたちだ。

 唐突に尾室が口を開く。

「でもアンノウンとあかつき号の人たちと、一体何の関係がある、ていうんです?」

「それをこれから調べてみようと思うんですが………」

 アンノウンは超能力を狙っている。超能力はアギトになる前触れ。アンノウンに殺されたあかつき号の乗客たちもまた超能力者――アギトになる可能性を持っていた者たちかもしれない。

 全ての仮説を統合しても、やはり疑問は残る。何故同じ船に乗っていた全員が、同じ力を持つようになるのか。彼らが同じ力を持つことが、あの日の現象へと繋がるのだろうか。

 分からない。ここで考えても、何も答えは浮かび上がってこない。

 






木野「肉体がアギトであることに適応するまで、一定の苦痛が伴う」
涼「ああ、俺も酷く苦しんだ」
翔一「俺も頭痛くなりましたよ。あれ辛いですよね家事できなくて」

木野&涼(え、それで済んだの………?)


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第4話

記念すべき100話!
だからといって特別編というわけではありません。通常通り本編です。
どうぞ!




 

   1

 

 沼津市街地のなかに整備された中央公園は、芝生広場や花壇といったごくありふれた公共施設だ。遊具は設置されていないから子供の遊び場としては少しばかり味気ないが、そのまっさらな空間と市街地という立地から使い勝手が良く、年間を通して大小様々なイベントに使用されている。

 秋のフリーマーケットは、市民にとってはお馴染みの恒例行事と言って良い。主婦は成長して子供が遊ばなくなった玩具を出品し、また他の店で掘り出し物の食器や部屋のインテリアになる小物はないか、と密かに目を光らせる。

「これならあまり時間も取られず、お金も集まりますわ」

 最も手軽で、かつ手っ取り早く資金を調達できる手段として、ダイヤはフリーマーケットへの出店を提案した。メンバー9人からそれぞれ家から不要になった物を集めてもらい捌き切れば、それなりの額にはなる。

「凄いお姉ちゃん」

 ルビィが自分のことのように誇らし気に言ってくれる。

「ダイヤさんはこんなことも思いつくずらね」

「流石ダイヤさん!」

 花丸と曜も持ち上げてくれ「そ、それほどでも……、ありますわ」と乗ってしまう。泣く泣く秘蔵のスクールアイドルのライブDVDをネットオークションに出品するという手もあったが、それは葛藤とルビィの制止で踏み留まった。あれは手放せない。入手困難でプレミア価格をルビィと小遣いを出し合ってようやく手に入れた代物だ。いずれダイヤが家督を継いだら正式に黒澤家の家宝にするつもりでいる。

「あなたにこの堕天使の羽を授けましょう」

 と善子が黒い羽を渡される。

「こ、光栄ですわ」

 いらないが、後輩からの厚意は無下にできない。それに、ようやく手応えを掴めた。これで打ち解けて信頼を得られれば――

 

 ――一緒に帰ろう、ダイヤちゃん――

 

 ――これ読むずら、ダイヤちゃん――

 

 ――はい、この前の写真だよ。ダイヤちゃん――

 

 想像するだけで自然と笑みが零れてくる。「だ、ダイヤ……?」と果南の声が聞こえないほどに。因みに後から果南から聞いたら、この時のダイヤはかなり不気味な笑みを浮かべていたとか。

「お待たせ!」

 そこへ、千歌の声が飛んできた。着替えてくるから、と遅れてきたのだが、それを視界に収めると先ほどまでの笑みが一気に消える。

「その恰好……」

 ルビィが辛うじて口を開くのだが、何とも言えない千歌の恰好に声を詰まらせる。

「美渡姉の会社で使わなくなったから、て。どう?」

 どう、と言われても。輪切りのミカンから顔と手足が出た着ぐるみに対してどうコメントしたら良いものか。

「使用目的が謎すぎますわ」

 何らかのイベントに使われていたのは違いないだろうが、新品と見紛うほどに汚れていないあたり、きっと不評ですぐに倉庫の奥に追いやられたのだろう。

「ミカンのお姉ちゃん」

 と、そこへ幼い声が聞こえてくる。気付けば、まだ小学校低学年ほどの少女が千歌を見上げている。呼ばれた千歌は少女と同じ目線まで身を屈ませ、

「お、ミカンだよ。冬にはミカン。行け、ビタミンCパワー!」

 そのフレーズはどこから来ているのか、少女も理解できないらしく少し戸惑いながらも、両手に抱えたペンギンのぬいぐるみを掲げる。

「これ、いくらですか?」

 「どうしようかなあ」と千歌は宙を仰ぐ。果南出品のぬいぐるみは状態も良いのでそれなりの価格設定なのだが、少女は所在なさげにポケットから硬貨を差し出す。

「でも、これしかないけど………」

 小さな掌に乗っているのは、金色に輝く穴の空いた5円玉。「えっと……」と千歌は言葉を探しあぐねている。ぬいぐるみが大層気に入ったのか、少女はすがるように千歌を見つめている。その無垢さに根負けし、千歌は5円を受け取った。少女は表情に笑顔を花開き、大事そうにぬいぐるみを抱えて「ありがとう!」と走り去って行く。

「まいどあり!」

 受け取った5円を握りながら、千歌はそう言って少女を見送る。これで活動資金は5円から10円。

「やった、倍だよ!」

「弁天様のお陰だね」

 なんて曜とルビィが呑気に言っている。確かに倍にはなっている。だが情に流されてばかりでは、商売は成り立たない。この後輩たちは、商売のことを何も分かっていない。

「何を言ってくれてるんですの? ちゃんとなさい。Aqoursの活動資金を集めるためにここに来てるのでしょう。まずは心を鬼にして、しっかり稼ぎませんと」

 「だってえ」と千歌は口を尖らせる。だってじゃありません、と言おうとしたところで、お客がやってくる。

「すみません、これ千円で良いかしら?」

 「見てなさい」とダイヤはお客の前に立つ。手本を見せるのに丁度いい。

「いらっしゃいませ。残念ですが原価的にそれ以下はブッブー、ですわ!」

 「で、でも……」と女性客はたじろぎながらアザラシのぬいぐるみを持っている。成人が両手に抱えるほどの大きさだから、いくら中古品とはいえ千円では妥協できない。

「はっきりと言っておきますが、新品ではございませんが未使用品。出品にあたってはひとつひとつ丁寧にクリーニングを施した自慢の1品。それをこのお値段、既に価格破壊となっておりますわ!」

 遠慮なく女性客に人差し指を向ける。言い終えると周囲に口を開く者はなく、秋の冷えた風が吹きすさぶ音が鮮明に聞こえる。しばしの沈黙の後、接客に慣れた果南がひと言。

「………お客さん指さしちゃ駄目だよ」

 

 夕方になって撤収作業もひと段落した頃、本日の売上を花丸がそろばんで清算する。彼女は電卓でもあまり馴染みが無いとか。

「アヒルボート決定ずら」

 溜め息と共に吐き出されたひと言で、この日の売上がどれ程のものだったかは想像がつくと思う。一応、売れるものは売れた。曜の制服コレクションの1部や、花丸の蔵書。他にもメンバー達の家から引っ張ってきたぬいぐるみ。それでも出品数からすれば微々たるもので、本日の売上から出品にあたってのクリーニングや整備費用、出店にあたっての会費を引いて純利益としては500円が良いところ。Aqoursの活動資金、当初の5円から100倍に。一応、淡島の弁財天は願いを叶えてくれたらしい。

「それにしても」

 と曜が目を向けるのは、公園の縁石でうなだれているダイヤ。続きを梨子が感心したように引き継ぐ。

「何者にも屈しない迫力だったわね」

 「流石ダイヤさん」という曜の言葉は皮肉なしだとは思うが、当の本人には痛いものだろう。ダイヤも乾いた笑い声を返すしかできずにいる。売上が散々な要因はダイヤの一切の妥協を許さない接客と商談のせいなのだが、流石にそのことをからかうほど果南も鬼じゃない。

「それに引き換え、鞠莉はそんなの持ってくるし」

 果南がちらり、と一瞥すると、丁度鞠莉が自身と同じ姿の像を軽トラックの荷台に積み込んでいるところだった。ホテルオハラのロビーに飾ってあったところを運び出した品で、見た目は石膏に見えるが中が空洞になっている分、鞠莉ひとりでも抱えられるほど軽い。

「これ売る気だったの?」

 トラックを出してくれた美渡が呆れ気味に言う。因みに値段は50万円。オーダーメイドでの発注額からすれば格安だろうが、富裕層の桁外れな金銭感覚での値段設定だ。鞠莉はマーケット中ずっと像を磨いていたのだが、趣味と値段のせいで客からは目を背けられた。もっとも、売れるとは鞠莉以外誰も思っていなかったのだが。

「それ言ったら、善子も売り上げnothingデース!」

 なんてレベルの低い反論をしてくる。「ヨハネよ」と弱く告げた善子の抱える段ボールから、大量の黒い羽が風に乗って宙を踊る。今日のために大量に仕入れてきたという在庫品が夕空に乱舞する光景を眺めながら、善子は「ふふふ」と悲し気に笑っている。

「まるで傷付いたわたしの心を癒してくれているかのよう。美しい………」

 なんてポエムは美渡に通じない。

「バカなこと言ってないで急いで拾いな!」

 という千歌の姉に従い、メンバー総出で辺りに散らばった羽の回収にかかる。まるでカラスが大乱闘した跡みたいだ。こんな迷惑行為が学校に報告されたら、次回のマーケットから浦の星は出入り禁止になってしまう。もっとも、次回まで学校が存続していればの話だけど。

「果南ちゃん」

 拾っている際中、千歌に呼ばれ振り返る。

「ダイヤさん、何かあった?」

 見れば、ダイヤは羽を回収せず縁石でうなだれたまま。

「どうして?」

「何となく………」

 そんな曖昧な答えを聞いて、ふと笑みが零れる。

「千歌はそういうところ、不思議と鼻が利くよね」

 一見何も考えていないようで、千歌は他人の変化に敏感だ。だから果南も妹のような幼馴染がリーダーであることに異論はないし、この鼻の良さがつい最近まで落ち込んでいた翔一に再起を促したのだと思える。本人はそのことに気付いていないみたいだが。

「それ褒めてる?」

「褒めてるよ、心配しないで。わたしと鞠莉が、ちゃんとやっておくから」

 千歌は納得がいかない、とばかりにむくれた顔をする。幼い頃からこの顔を見るとつい意地悪したくなるもので、敢えて何も言わない。

 「はあ」と軽トラの運転席で、美渡が頬杖をつきながら深い溜め息をついて、

「翔一が来たらもっと大変なことになってたよ。よかった食べ物のお店なくて」

 フリーマーケットは応募すれば誰でも出店できるが、衛生管理の規約として食品の出店は禁止されている。食べ物が出せるのなら、翔一は間違いなく出店していただろう。

「翔一さん、残念がってたんじゃない?」

 果南が訊くと、千歌は気まずそうに頬を掻きながら苦笑する。

「うん、新しいメニュー出せたのに、て言ってたよ」

 何となく察しはつくのだが、好奇心から「どんな?」と訊いてしまう。翔一の料理は当たり外れが激しい。本人は美味しいものを作ろうとしていて、食べてみると実際美味なのだが初見だと口にするのを躊躇してしまうものがとにかく多い。

 千歌と美渡は顔を見合わせ、一瞬の間を置いて声を揃えて告げる。

「煮干しのモンブラン」

 食品禁止で良かった、と心底思った。

 

「で、話って何です? 明日では駄目なのですか?」

 後輩たちの乗ったバスを見送ったダイヤが、果南と鞠莉に訊いてくる。あくまでも普段通りの佇まいな彼女の顔を鞠莉と揃って覗き込みながら、果南は確信と共に訊く。お堅い性分でも、彼女がこの3人でいる時間を疎むことは、大抵があまり顔を合わせたくない理由があるから。

「やっぱりダイヤ、何か隠してるでしょ?」

 更に鞠莉が畳みかける。

「下級生と仲良くなりたいなら、素直に言えばいいのに」

 「違いますわ。わたくしは別に………」とそっぽを向き、ダイヤは口元を指で撫でる。

「どう?」

Bluff(うっそ)デース」

 やっぱり予想は正解だったか。

「ダイヤは誤魔化すとき、必ずほくろのところを掻くんだよ」

 動揺を隠そうとしても、行動として無意識に出てしまうことはよくある。髪を触るとか、貧乏ゆすりをするとか。ダイヤの場合、口元のほくろに触れるという行為が果南たちにとって分かりやすいだけの話。

 ダイヤは苦笑しながら、ほくろに触れた指を止める。そんな彼女をふたりで取り囲み、

「もう逃げられないよ」

「さあ、話すがよい」

 ダイヤは咳ばらいする。

「いえ、わたくしは、ただ………」

 「ただ?」と声を揃えて先を促す。

「ただ………。笑いませんか?」

「笑う?」

「そんなことするわけアリマセーン!」

「でも………」

 「あーもう!」と盛大な溜め息をついた。こうなったダイヤは強情だと分かっているけど、じれったくて仕方ない。

「何年の付き合いだと思ってるの?」

 鞠莉も促し、ようやく観念したのかダイヤは固く閉ざしていた口を開く。

「じゃあ、言いますけど」

 周囲には誰もいないのに、ダイヤは顔を近付けて、声が漏れないよう口元を両手で覆いながら果南たちの耳元で囁く。

 笑わない、とは言った。でも駄目だった。鞠莉と揃って街中で、文字通り腹を抱え大口を開けて笑ってしまう。見事に約束を破られたダイヤは顔を真っ赤にして怒ったが、その顔が更に果南たちの笑いを誘った。

 

 

   2

 

 アンノウン出現時に迸る戦慄は、どんな時でもお構いなしに翔一を戦いへと向かわせる。この日も夕飯の仕込みをしていた際中、敵の気配を感じ取った翔一は夕陽に焼かれる街へとバイクを走らせた。

 静浦ダイビングセンター。そこへ近付くにつれて敵の気配が強くなっていく。ボート置き場でバイクを停めると、危険の接近を知らない若い女性が犬を散歩に連れている。そこへ、黒翼を大きく広げたカラスのようなアンノウンが、上空から降下してきた。翔一はバイクから降りて駆け出すが、生憎なことに距離がある。

 でも、女性は助かった。横から割って入ってきた人影に強引に伏せられ、紙一重のところでアンノウンの突進は避けられた。標的を仕留め損ねたアンノウンは、宙を旋回して再び突進してこようとする。

「逃げろ!」

 そう女性に告げたのは涼だった。女性は愛犬を抱え、佇む翔一には目もくれずに走り去っていく。邪魔をした者もまた標的と見たのか、アンノウンは涼へと向かっていく。

「変身!」

 ギルスに変身した涼の拳が、避け様にアンノウンの腹を突いた。咳き込みながら地面に叩きつけられたアンノウンは、翼を生やした腕で涼の攻撃を受け止める。女性のような細身の体躯だが、アンノウンはそれなりの力自慢らしく、涼の突き出した拳を受け止めたばかりか顔面に裏拳を見舞う。

 アンノウンが翼を広げた。飛翔し体当たりで涼を地面に伏せ、そのままの勢いを衰えさせることなく更に突進を仕掛ける。

 翔一は裡から(たぎ)る熱い奔流を解き放つ。

「変身!」

 燃え盛る業炎の戦士(バーニングフォーム)へと変身を遂げた翔一は駆け出す。地に降り立ったアンノウンの背中に拳を打ち、こちらに気付き振り返った腹に更にもう1撃を食らわせる。

 アンノウンが逃れようと飛び経った。すかさず翔一は敵の足首を掴み、地面に叩きつける。立ち上がろうとした敵に涼が襲い掛かった。敵に組みつき、腰を掴んで投げ飛ばす。

 起き上がった敵めがけて涼は跳躍した。踵から伸ばしたヒールクロウを振りかざし、肩口から深々と突き刺す。頭上に光輪を浮かべたアンノウンを無造作に蹴り飛ばすと、敵の体は宙に投げられながら爆発四散した。

 炎がアンノウンの肉片を燃やし尽くすと、ボート置き場はいつもの静寂を取り戻す。波の音と、時折道路を走る車の音。脅威を葬った涼は元の姿に戻り、翔一も光と共に変身を解く。

「やりましたね」

「ああ」

 短いやり取りだが、翔一は今までにない充実感を覚えていた。こうして同じ力を持った仲間と戦える。これ程に心強いことはない。

「この間お前に言ったっけな。俺は俺である意味を見つけたい、と」

 その言葉はしっかりと覚えている。俺は自分を哀れんだりはしたくない、とも涼は言っていた。望まない力に弄ばれても、それでも前へ進もうとあがき続けてきた涼の決意。それを瞳に込めながら、涼は強く言う。

「やってみるよ。俺は片っ端から奴らをぶっ潰す。俺の手で、人を助けるのも悪くない」

 翔一は満面の笑みを浮かべた。

「何か良い感じですね葦原さん。頼もしいなあ」

「お前どうでも良いが顔に粉が付いてるぞ」

 呆れ顔を浮かべながら涼は翔一の肩を叩く。頬を拭ってみると、指に片栗粉がこびり付いている。夕飯にキャベツの餡かけを作っていたから、その時に付いてしまったのだろう。

「ああ、すいません」

「相変わらず調子の狂う奴だ」

 自分のバイクへと歩く涼に、翔一は尋ねる。

「そうだ、葦原さんうちで晩ご飯食べていきませんか?」

 この時、翔一は気付いていなかった。

「遠慮しとく。また今度食わせてくれ」

 自分たちと同じようにこの場へ駆けつけていた、もうひとりのアギトの存在に。

 

 帰り道、翔一はバイクを走らせながら新作メニューの思案にふけっていた。涼に振る舞うための料理は何が良いだろう。彼の好物は何か、リクエストを聞いておきたい。氷川さんも誘おう、と思った。一緒に戦っているのだから、同じ釜の飯を食べたい。でも氷川さん不器用だからなあ、パスタとか上手く巻けなさそうだし。

 そうだ、鍋にしよう。そろそろ寒くなるし、温かい鍋を囲むのが1番良い。ふたりの好きな具を聞いておかないと。

 そんなことを考えていたとき、バイクが急に失速し始めた。アクセルを捻っても全く加速しない。速度は落ち続け、とうとう止まってしまう。メーターを見るにガス欠でもないしバッテリー上がりでもないようだが。

 バイクに乗っていながら、翔一は機械に関してはからっきしだ。整備は前の持ち主だった美渡に手伝ってもらっていたし、扱い方も料理のように呑み込めないからスマートフォンも持てない。

 仕方ない、家まで遠くないし押していこう。そう思っていたところで「翔一くーん!」という声が遠くからやってくる。千歌と曜と梨子だった。

「あれ、皆フリマはもう終わったの?」

 「うん」と千歌は息をあえがせながら答える。先に呼吸が整った曜が、

「千歌ちゃん()に行ったら、丁度翔一さんが出て行くの見たんですよ」

「え? やだなあ言ってくれれば良かったのに」

 「呼んでも無視したじゃないですか」と梨子が口を尖らせた。「ごめん」と翔一は笑いながら謝る。アンノウンの気配を感じると、他のことが視界にも耳にも入らなくなってしまう。

「またアンノウン?」

 千歌が不安げに翔一を見上げた。

「うん、まあそんなところかな」

 負けるつもりはなくても、いつも心配をかけてしまうのは申し訳なく思う。でも、だからこそ必ず勝って、この子たちに美味しいものを食べさせてあげよう、と帰ることができる。

 機械の異変に気付いたのは曜だった。

「バイク、どうしたんですか?」

「何か調子悪くなっちゃって。ここんとこ、ろくに手入れしてなかったから」

 人数が増えたとはいえ、機械音痴の男にバイクなんていじったことのない3人の少女。誰が見たところで不具合の原因なんて分かるはずもない。素人が悪戯に構ってもむしろ悪化してしまうものだ。諦めて押していくのが1番だろう。

 そこへ、1台のオフロードバイクが停まった。黒いバイクに乗っていた男がヘルメットのバイザーを上げ「故障ですか?」と訊いてくる。

「は、はあ……」

 返事をしながらも、翔一は誰だろう、と思っていた。会ったことのない男だ。

「少し見せてもらえますか?」

「はい……」

 ヘルメットを脱ぐと、男は翔一のバイクのセルスイッチを押す。キュルキュル、と間の抜けた音が鳴ると、男は自分のバイクに括りつけたバッグから工具袋を出した。

「え、もう分かったんですか?」

「ええ、恐らくプラグの不具合でしょう」

 そう言いながら男は専用レンチでエンジンプラグを抜く。先端が黒い煤に覆われ固まっていた。美渡からはエンジンの掛かりが悪くなったらすぐ交換するように、と言われたが、最後に交換したのはいつだっただろうか。

 男はブラシでプラグの煤を落とし、ライターで先端を炙る。ネジ部分に潤滑油(グリス)を塗って元の位置に戻した。

「これで大丈夫だと思いますよ」

 「はい」と返し、翔一はセルスイッチを押してみる。エンジンはすぐに駆動し、アクセルを捻るとスムーズに回転数を上げていく。

「本当だ、ありがとうございます」

 礼を言うと、男は穏やかな笑みを返してくれる。そのとき、曜と梨子がしゃっくりのような声をあげた。曜のほうは脚をもつれさせ、体が傾く。危うく転びそうになった彼女を、隣にいた千歌よりも素早く立ち回った男が肩を抱き留めた。

「大丈夫?」

「あ、はい。ありがとう、ございます………」

「貧血かもしれない。家でゆっくり、休むんだよ」

 そう告げると、男は自分のバイクに跨って走り去っていく。その姿が見えなくなったところで、翔一は名前を聞き忘れたことに気付いた。お礼に料理でもご馳走したかったのに。

「へえ、今時珍しく優しい人じゃない」

 復活したバイクのタンクを撫でていると、不意に曜と梨子がその場にしゃがみ込んだ。

「曜ちゃん? 梨子ちゃん?」

 千歌がふたりの前に屈む。翔一も「どうしたの?」と顔を覗き込んだ。ふたりとも顔色が青ざめている。まるで吹雪の中にいるみたいに、肩を小刻みに震わせている。

「あの人見たとき、寒気がして………」

 梨子が歯を鳴らしながら言う。曜の肩に触れてみると、とても冷たかった。震えで上手く回らない口で、曜は声を絞り出した。

「あの人……、怖い………」

 

 



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第5話

 

   1

 

 夜の帳が降りた沼津の街は静かなもので、秋の鈴虫の鳴き声以外は一切の音が響かない。誠が目を光らせるアパートからは時折住人が出入りする様子が見えるのだが、目的の人物とは思えない若者や老年者ばかりだ。

 木野薫の住所は、既に北條が調べ上げていた。以前は東京に住んでいたそうだが、1年前から既に市内のアパートに賃貸契約している。他のあかつき号の関係者たちと同じく、彼もまたこの街にいた。住所が分かれば接触は容易と思ったのだが、訪ねてみても不在。帰宅を待とうと朝からずっとアパートの前に車を停めて張り込んでみたのだが、木野薫らしき人物はいっこうに現れる気配がない。

 缶コーヒーでも買いに行こうか、と思ったとき、車のドアが控え目にノックされる。助手席の窓から、北條が顔を覗かせていた。

「北條さん?」

 ドアロックを解除すると、北條は「失礼しますよ」と助手席に乗り込む。

「木野薫を待っている、といったところですか。やっぱりあなたも、あかつき号とアンノウンの関係に気付いたようですね。ま、私があれだけのヒントを与えたんだ。当然といえば当然ですね」

 悔しいが正しい。北條からあかつき号のことを訊かれなければ気付けなかった。

「私も同じです。もう3日も見張っていますが、木野薫は現れません。人知れずアンノウンの被害に遭ったか、あるいはどこかに行方を眩ましたか。あかつき号の人々は、1部を除いて事故直後から転々と住居を変えているようですからね」

 北條の言う通り、あかつき号の乗員乗客たちはとにかく転居歴が目立った。多くの者が就いていた仕事を退職し、各地を転々としながら最終的にこの沼津で最期を迎えている。まるで悪魔の醸し出す甘い芳香に導かれ、罠の落とし穴に突き落とされたように。

 犠牲者の中で唯一、葦原和雄(あしはらかずお)だけは岩手県で最期を迎えた。あかつき号の直後に親族から捜索願が出され、今年に入って山中の無人駅で、死体で発見されたらしい。死因は飢餓状態による衰弱死だったから、岩手県警では事件性なしと処理されていた。彼も生き延びていたら、この沼津に辿り着いていて、いずれはアンノウンの手に掛かっていたのだろうか。

 それに、まだ発見されていない行方不明の乗客。彼も既にアンノウンによって殺されたか、それともまだ生きていて沼津にいるのか。

「北條さんは、アンノウンについてどう考えているんですか?」

 既に答えは出ているらしく、北條は明確に述べた。

「アンノウンは人間に近い生き物だと思っています。アンノウンが人間を怖れているのは間違いない」

 いつか警備部長も言っていた。確かアンノウンが妊娠している女性の身籠った胎児を狙っている、と誠が推理した事件。まだ産まれてもいない相手を排除しようとするその執念を、上役はまるで何かを怖れているよう、と述べていた。

「問題は、何故アンノウンが人間を怖れるか、だ」

「アギトになる人間を怖れていると、小沢さんは言っていましたが」

「ええ、あなたの報告書を読みましたよ。アギトと同じような存在が、人間であることを確認した、と。いずれにせよ小沢澄子の言う通りなら、アンノウンは益々人間に近い生物だと言える」

 一体どういうことだろう。北條は頭の中で、どんな仮説を組み立てたのか。

「と、言いますと?」

「アギトのような存在が増えたなら、我々にとっても脅威になる。違いますか?」

「それは、そうですが………」

 あのアギトが。誠を何度も助けてくれたあの戦士が、いつか人間に牙を剥く脅威になるなんて。北條の仮説を、誠は支持する気にはどうしてもならなかった。

 

 

   2

 

 待ち合わせ場所に着くなり、先に到着していた果南と鞠莉はダイヤの顔を見るなりにやついている。それが腹立たしく帰ってしまうか、とも思ったが、ひとまず話は聞こう、という生真面目さで感情を抑制する。とはいえ、笑顔で談笑する気にもなれず仏頂面を決め込んだが。

「それにしてもダイヤが………」

 震えるあまり口を動かせない果南の後を、鞠莉が引き継ぐ。

「ダイヤちゃん、て呼ばれたいなんて………」

 鞠莉も途中で声を震わせ口を結ぶ。ふたりとも震えているのは下がり始めた気温ではなく、懸命に堪えている笑いのせい。流石に悪いと思っているようだが、にやけ面のせいで気遣いというものが全く見えない。

「だから別に呼ばれたいわけではありません、とあれほど言ったでしょう。ただわたくしだけ違うのは――」

 「そんなのどうだっていいじゃん」と果南に遮られる。どうやら笑いの波は去ったらしい。

「よくありませんわ。こんな形でメンバー間に距離があるのは、今後のためにも良くなくなくないというか――」

「羨ましんだ」

 と鞠莉に悪戯っぽく言われる。その減らず口を1度閉ざそうと鞠莉の両頬をつねる。

「違いますわ!」

 回らない口で何やら言っているから開放してやるが、頬をさする顔は未だにやけたまま。

「それより、どうしてこんな所に呼び出したのですか?」

 遅れてようやく本題に入る。待ち合わせたここは十千万の目と鼻の先にある三津シーパラダイス。それにまだ開演前でお客もいない。果南が思い出したように、

「そっか、まだダイヤ聞いてないんだっけ」

 鞠莉が説明をしてくれる。

「曜からの連絡で、イベントあるから今日1日だけでもバイト手伝ってほしい、て話で」

「どこでですの?」

 「ここ」と果南が即答する。「ここ?」とダイヤは開園時間が迫った水族館を見上げる。気付けば、大勢の幼児たちが引率の保育士と共に入口前に集まっている。

「皆で1日一緒にアルバイトだからさ」

 と果南が言った。なるほど。確かに9人一緒ならば、1日だけのアルバイトでも給金は結構稼げる。

「距離縮めてダイヤちゃん、て呼ばれるchanceだよ」

 鞠莉の言葉で、ダイヤの脳内に花畑のような温かい光景が広がる。後輩たちが「ダイヤちゃん」と呼び自分に集まってくる光景が。

「べ、別にそんなの求めてるわけではありませんから」

 必死に(はや)る気持ちを出すまいと抑えていたつもりだったが、果南と鞠莉によると完全に顔がにやけていたという。

 

 

   3

 

 メンバーが全員揃うと、ダイヤ達は職員の案内でバックヤードへ入った。支給された制服に着替え、この日の業務の流れと稼働時間についての説明を一通り受けて、現場へと出る。この日は通常業務に加え幼稚園の集団来園ということもあり、ダイヤ達はそのための人員補充ということになっていた。

 巨大プールから盛大にジャンプするイルカに歓声をあげる園児たちの横で、マスコットキャラクターのうちっちーの着ぐるみを着た曜がメンバー達に仕事を振り分けている。流石にお客の前だから顔は出さない。

「随分曜さんは詳しいんですのね」

 手際の良さに舌を巻きながらダイヤは呟く。「前にバイトしたことがあるんだってさ」と果南が言った。それでこのバイトの伝手が回ってきたということか。曜のことだから、懇意にしているスタッフから連絡を貰ったのだろう。毎度のこと彼女のコミュニケーション能力の高さには感心させられる。

「さ、わたし達と一緒にいても距離は縮まらないよ」

 と果南は鞠莉と共にメンバー達のもとへ歩いて行く。

「ほら、早く来る」

 鞠莉に促され、ダイヤも重い脚で踏み出す。

「わ、分かりましたわ」

 1日だけの日雇いなわけだから、業務自体はそれほど難しいものじゃない。施設内の清掃やショー開催時の客誘導といった簡単な雑務が主だ。専門知識を持たないAqoursの面々が、動物の飼育舎業務に回されることはない。

 3人ずつ分かれての業務で、ダイヤが千歌、花丸のふたりと共に回されたのは食堂のスタッフだった。接客と調理と皿洗い。食堂といってもメニューは全て軽食で、調理工程も規定マニュアルがあるからそれに沿えば誰でもこなせる。

「きつねうどん、お待たせしました!」

 受け取りカウンターで、千歌が湯気をくぐらせるうどんの碗をトレーに乗せてお客に渡していく。家の旅館を手伝っているだけあって、接客は手慣れたものだ。

「うどん、もう1丁!」

 注文を受けて、調理担当の花丸は冷蔵庫から食材を出しながらぼやいている。

「マルは麺苦手ずら」

 「のんびりしている暇はありませんわよ」と皿洗い担当のダイヤがぴしゃり、と言う。

「はーい」

「ずらあ」

 と後輩たちは気の抜けた返事を返し業務に戻る。今は昼食時とあって食堂は忙しい。気を抜いては、と引き締めようとしたとき、ダイヤはそうでしたわ、と先ほど鞠莉から言われたことを思い出す。

 ――この前も言ったよ。ダイヤは堅過ぎ――

 続けて果南からのアドバイスも。

 ――まずは話しやすい話題を振って――

 話しやすく、と裡で反芻し「ち、千歌さん」と接客中の千歌に話しかける。

「きょ、今日は良い天気ですわね」

「は、はあ………」

「花丸さん。うどんお嫌い?」

 花丸からの返事はない。代わりに喉を痙攣させたかのような小さな悲鳴が聞こえる。引き続き皿洗いを続行していると、後ろのほうで客足が落ち着いたのか千歌の潜めた声が聞こえてくる。

「何? 何かあった? あったずら?」

「分からないずら。けど多分あれは………」

 時折笑顔で振り返ってはみたのだが、それは後輩たちにとっては別の意味で解釈されたらしい。

「すっごい怒ってる………!」

 

 昼食時を過ぎて、ひとまず落ち着くとダイヤは清掃へ回った。ショースタジアムの床をデッキブラシで擦りながら、深い溜め息をつく。

「あれが怒っているように見えるなんて………」

 居たたまれなくなって、ひとりだけ清掃に出て欲しい、と先輩スタッフから言われたとき真っ先に挙手してしまった。

「上手くいかないものですねえ………」

 悲しいかな、ひとりで作業している今のほうが気楽だ。本来ならばもっと話をして仲を深めるべきだというのに。

「ダイヤさん?」

「売店のほうはいいの、お姉ちゃん?」

 更に溜め息を吐いたところで、梨子とルビィがステージに入ってくる。

「ああ、お昼過ぎて少し人が減ったので、こちらの手伝いに来たのですわ」

 悟られないよう言ったところで、梨子が重そうに抱えるポリバケツに視線が向く。

「それは何ですの?」

「アシカちゃんのご飯です」

 ポリバケツには魚が溢れそうなほどに入っている。ルビィが首から下げた笛を見せながら、

「トレーナーさんに調教用の笛も借りたんだ」

「良かったですわね」

 飛沫のあがる音がして、振り向くと巨大プールから、餌の匂いを嗅ぎつけたのかアシカが陸地のステージに上がってくる。

「あら、アシカさん」

 アシカは迷わず梨子の持つポリバケツのほうを向き、低い鳴き声をあげる。

「ご飯が欲しい、て言っているのですわ」

 普段なら一定の距離を保ってしか見られない動物の迫力に、ルビィと梨子はたじろいでいる。

「でも、アシカさんて近くで見ると………」

「思ったよりも大きいのね」

 確かに、大型犬よりもひと回り以上は大きい。でもトレーナーが調教しているわけだし、人を襲うことはないだろうからダイヤに恐怖心はない。

 「それに――」と梨子は細めた目でアシカを凝視する。

「犬っぽい………」

 いや犬には見えませんが、と言おうとしたところで、アシカが少し大きな声で鳴いた。それが緊張状態にあったふたりのパニックを誘ってしまう。悲鳴をあげてふたりは逃げ出すのだが、梨子のポリバケツにある餌が欲しいアシカはヒレ状に発達した前肢を使って床を這っていく。梨子は階段で高所へと逃れたのだが、ルビィのほうはパニックのあまり階段が目に入らなかったのか高所へジャンプして逃れようとする。ぶら下がるルビィを梨子が引っ張り上げようとするのだが、中々引き上げられない上に騒ぐふたりにアシカも興奮しているのか吼え出した。

 ダイヤは視界の隅で、床に放置された笛を見つけた。ルビィが落としたものだろう。拾った笛を短く鳴らすと、アシカは体を静止させる。

「静かに! プールにお戻りなさい」

 再度笛を吹くと、アシカは刷り込まれた条件反射で指示通りプールで潜っていく。

「凄い……」

「流石お姉ちゃん………」

 安堵にひと息ついて、遅れて我に帰る。こんな振る舞いをしてしまってはまた堅いと思われて、余計に距離を取られてしまう。

 どうしてこうもやる事なす事が裏目で出てしまうのか。がっくり、といつも伸ばしている背筋を曲げて頭を垂れた。

 

 清掃を終えると、小休憩を与えられたダイヤは鞠莉と果南のもとへ脚を向かわせた。

「上手くいかない?」

 ホースでペンギンに水浴びをさせていた鞠莉が意外そうに言う。反対に果南はやっぱり、という口調で、

「まあ、そうなるとは思ったけどね」

「どうしてですの?」

「大体ダイヤは、自分から近付こうとしないからね」

 思い出したように鞠莉も、

「小学校の頃も、いつもわたし達とベッタリだったしね」

 「そ、そんなこと……」と否定したいが、言葉をつぐんでしまう。こんな小さな集落だから同級生たちは昔からの顔馴染みだが、果南と鞠莉の他に親しくしている友人は皆無。そもそも、ふたりは幼い頃から危なっかしい遊びばかり思いつくから、お目付け役としてダイヤが近くにいたのに。

 でも所詮、それは言い訳に過ぎない。ふたりの厚意に甘んじて、親友以外の人間と関わろうとしなかったから。分かってはいるのだが、人間そう簡単に変われたら苦労しない。

「自分から行かなきゃ始まらないよ」

「そう言われましても………、どうすれば?」

 やれやれ、とふたりは微笑する。鞠莉はウィンクして、

「簡単でしょ。まず――」

 

 

   4

 

 ショーの開幕までロビーで待つように言われても、体力が有り余る園児たちが我慢できるはずもない。男女問わず腕白盛りの相手を割り振られた曜は、我さきにと手を伸ばす園児たちへ「順番ね」と言いながら風船を配っていく。悪戯で着ぐるみの頭を取られてしまうというキャラクターとしての御法度を犯してしまったが、園児たちはさほど気にする様子もないから少し複雑だ。うちっちーに扮した曜よりも、家から引っ張り出してきた堕天使の翼を付けた善子のほうに興味が向いているからかもしれないが。

 善子のほうはフリーマーケットで大量に売れ残った堕天使の羽を配っている。あんなものでも子供の物欲は満たせているようなのだが、教育上の悪影響が無いものか、引率の保育士も複雑そうに苦笑している。

「曜……、――」

 不意に誰かに呼ばれたことに気付く。末尾のほうは園児たちの声に掻き消されて聞こえなかった。振り返るとダイヤが立っている。

「ダイヤさん何か言いました?」

「いえ、その………」

 と言い淀んでいる。ダイヤは千歌と花丸と一緒に食堂に配置されていたはずだが、もう昼食時も過ぎたから曜たちを手伝いに来てくれたのだろうか。

「ダイヤさんも配ります?」

 と紐を束にした風船を差し出す。手を差し伸べながら、ダイヤは消え入りそうなほど小さな声で言った。

「ありがとう。………曜“ちゃん”」

 ……………………ん?

 今なんて、と長い膠着の末にようやく曜の思考は疑問を浮かべる。うっかり手放してしまった風船が天井まで浮かんでいた。

「善子“ちゃん”も――」

 呼ばれた善子が園児たちへの笑顔を引きつらせたまま固まる。

「アルバイト一緒に頑張りましょう」

 笑顔でスキップしながら、ダイヤはロビーから出て行く。元の持ち場へ戻ったのだろうか。いや、今はそんなことはどうでもいい。ただでさえ着ぐるみで蒸し暑い曜の背中に、じっとりと冷や汗が伝っていく。

「………ヨハネよ」

「そこ⁉」

「違った?」

 少なくとも今の状況で気にするところはそこじゃない。善子は園児たちのもとを離れ、温もりを求めるように腕を抱きながら曜にすり寄ってくる。

「でも、今の背筋に冷たいものが走る違和感………」

「分かる」

「天界からの使者によってもうひとつの世界が現出したかのような」

「それは分からない」

 

 まるで台風のように巡り巡った違和感は、最初の場所へと戻ってくる。

「ダイヤさん、怒ってたずらね」

「だねえ」

 すっかり人気のなくなった食堂の厨房で、千歌は花丸と大量の皿洗いに勤しみながらぼやいていた。あの恐怖を覚えるほどの不自然な笑顔。怒り心頭になったときの志満にそっくりだ。幼い頃に美渡と鬼ごっこをしたとき、笑顔を貼り付けた志満の背後に般若がいる、と錯覚したものだ。

 業務用の食洗器を使っても追いつかない量だから収まらない分は手洗いに回しているが、シンクに溜まった食器は減る気配がない。というより、泡でどれだけの量があるのかも分からなくなっている。

「てか泡多くない?」

「早く綺麗になるよう洗剤全部入れたずら」

「賢い!」

「ずらあ」

 得意げに笑う花丸の手から、洗剤でぬかるんだ丼が滑った。宙に弧を描く丼を捕まえようと手を伸ばすが、丼は吸い込まれるように厨房に入ってきたダイヤの頭へすっぽりと収まる。

「ふたりとも、お気を付けなさい」

 ヘルメットのように丼を被ったダイヤは怒りなんて出さず、穏やかに言う。それが尚更千歌と花丸の恐怖を誘った。

「はーい………」

 

 ようやく半日分の仕事を終えて、果南たちは1時間の休憩を与えられた。他の面々と合流して食事でも摂ろう、と鞠莉と一緒にロビーへ入る。後輩たちは既に集まっていて声を掛けようとしたのだが、ルビィの発言で果南は咄嗟に鞠莉を強引に物陰へ引っ張った。

「お姉ちゃんが変?」

 それを聞いた鞠莉も事を察し、黙って聞き耳を立てている。果南が陰から顔を半分だけ出して覗き込むと、皆一様に渋い顔をしていた。

「何か凄い怒っていたような………」

「悩んでいたような………」

 花丸と梨子の口から告げられた事柄から、千歌が推測めいて言う。

「やっぱり何かあったんだよ」

 あちゃー、と果南は眉間を指で揉む。不器用だとは思っていたがここまでとは。

 「甘いわ」と善子が物憂げに、

「あれは闇に染まりし物の微笑み」

 隣で苦笑していた曜がフォローを入れた。

「かどうかは分からないけどね」

 面白いから手助けする振りして放置していたけど、ここまでこじれてしまとは思わなんだ。

「どうする?」

 果南が訊くと、鞠莉は溜め息交じりに答える。

「これ以上混乱させても、しょうがないんじゃない?」

 

 本人には悪いとは思ったが、果南と鞠莉は後輩たちを集めて全てを打ち明けた。果南たちにも頑なに口を開こうとしなかったのだから、後輩たちに知られるなんて屈辱だろう。でもこれ以上悪戯に混乱させてしまえば、ダイヤ自身が言っていたようにグループ内での仲間意識に関わる問題になりかねない。

「ダイヤ……ちゃん?」

 千歌の口から出たその呼び名はひどくたどたどしいものだった。無理もない。今までお堅い生徒会長のダイヤ「さん」本人が、友人のように親しみを込めて呼んでほしいだなんて。

「皆ともう少し距離を近付けたい、てことなんだと思うけど」

 果南がこの場にいない当人の望みを代弁してやると、思うところがあるのかルビィが「それで……」と納得したように言う。ルビィにも言っていなかっただろうが、妹として何となく察してはいたのかもしれない。

「じゃあ、あの笑顔は怒っているわけじゃなかったずら?」

 花丸が安堵に胸を撫でおろす。

「でも、可愛いところあるんですね、ダイヤさん」

「言ってくれれば良いのに」

 梨子と曜が口々に言って、「でしょ」と果南も同意する。言ったところで笑うほど、このメンバーは薄情じゃないのに。あ、でもわたし笑ったっけ、と思い出して少し罰が悪くなった。

「だから、小学校の頃からわたし達以外はなかなか気付かなくて」

 懐かしそうに鞠莉が言う。果南も過去を思い返してみる。

「真面目でちゃんとしてて、頭が良くてお嬢様で。頼り甲斐はあるけど、どこか雲の上の存在で」

 幼い頃からいつも同級生たち、時には先輩を差し置いて、代表として選ばれたのはダイヤだった。誰よりも熱心で万事に秀でていて、とても同じ子供とは思えない。同級生だけじゃなく教師からも頼られる、自分たちよりも遥か先を行く存在。

「皆そう思うからダイヤもそう振る舞わなきゃ、てどんどん距離を取っていって」

 そう言う鞠莉も同級生たちからすれば社長令嬢で雲の上の存在なのだが、彼女は逆に皆から慕われていた。同じお嬢様でも、鞠莉は他人との距離をどんどん詰めていくから。詰め過ぎて鬱陶しいと思うときもあるけど。

 いつからだっただろうか。同級生たちからの呼び名が「ダイヤちゃん」から「黒澤さん」に変わってしまったのは。

 でも、果南も鞠莉も知っている。ダイヤも地に足の着いた少女だということを。普段はお堅いことばかり言うけど、スクールアイドルの話になれば年相応に瞳を輝かせて饒舌になってしまう面を。

 他人からの親しみを求めていることも。

「本当は凄い寂しがり屋なのにね」

 

 



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第6話

   1

 

 静かに波音を立てる内浦湾から吹く潮風が、長く伸ばしたダイヤの髪を揺らす。ダイヤちゃん、と同年代の子から最後に呼ばれたのはいつだったか。遠くない記憶のはずなのに既に忘れかけている。もしダイヤ“ちゃん”としてやり直せるのなら、それはいつのタイミングだったのか。無駄と分かっても考えずにいられない。

 水族館から目と鼻の先にある三津海水浴場へ無意識に視線が向く。あの小さな浜辺で2年前に記憶を失った青年が発見された。地方集落において噂はすぐ広まるもので、ダイヤもそのニュースは知っていた。津上翔一と名乗るその青年の鷹揚さは、記憶を失ったことで得られたものなのだろうか。ダイヤも記憶を失いまっさらになったら、彼のように屈託なく笑えて他人に接することができるだろうか。

 馬鹿げた考えを振り払うように、ひとりかぶりを振る。羨望なんて翔一に失礼だ。彼にだって思うことはあるのに。大体、一時全てを思い出した頃もいつもの翔一だった、と千歌が言っていた。彼の人好しな性分は元からだったということ。同じ境遇に置かれたところで、ダイヤもきっと今のままだ。

 はあ、とついた溜め息すらも、潮風が彼方へと流してしまう。さざ波の音が賑やかな声色に掻き消された。

 振り返ると、屋外エリアのあちこちに園児たちが駆け回っている。「こら、待ちなさい!」と保育士が声を張り上げているが、はしゃいでいる園児たちの耳には届いていない。もうすぐショーの開幕時刻だから、観客席の近くで集まっていたのだろう。でも、水族館という楽しみが詰まった場所で園児たちの遊戯への欲求を抑えられるわけがない。待ちわびた園児たちは自分たちで遊びを見つけ、思い立ったら即行動してしまう。

「もうみんな、ちゃんとしてよ!」

 保育士の横で、ひとりだけ遊びに加わらず声を張っている園児がいた。保育士の声すらも届かないのだから、少女の言葉なんて誰も聞き入れていない。小さなプールで服が濡れるのも構わず飛沫を散らし、くつろいでいるアシカへ大声をかけて振り向く反応を楽しんでいる。

 騒ぎを聞きつけたAqoursの面々も園児たちを集合させようと声をかけるが、全くと言っていいほど効果はない。堕天使の羽を引っ張った園児を善子が「こら!」と叱るのだが、驚いた園児が泣き出して狼狽を誘う。「泣ーかした泣ーかした」とおちょくる花丸の横で、園児に釣られてかルビィまで泣いている。いやルビィ、あなたはもう高校生でしょう、と姉として呆れずにいられない。

 ダイヤは視線を少女へと戻した。園児たちを追ってか保育士は離れていて、完全にひとり取り残された彼女は目尻に浮かぶ涙を堪えながら声を絞り出している。

「ちゃんとしてよ………」

 まるで幼い頃の自分自身を見ているようだった。幼稚園の頃、課外に出掛けた際に騒ぐ他の園児たちをダイヤも叱り飛ばして大人しくさせた事がある。彼女も同じだ。他の園児から一目置かれて、手が掛からないから保育士からも頼られて。望まれるままに振る舞わなければならない、と自身に枷を掛けている。

 まだ幼い少女にとっては不要な我慢なのに。本当は、裡の底では皆と一緒に遊びたいはずなのに。

 急いでスタジアムのステージに上がると、ダイヤは笛を吹いた。館内に響いた音で一気に静寂が訪れ、園児たちも駆けていた足を止める。

「さあ皆、スタジアムに集まれ!」

 次の楽しいことを子供ならではの嗅覚で嗅ぎ取ったのか、園児たちはぞろぞろ、とスタジアムに集合してくる。

「園児の皆、走ったり大声を出すのは他の人に迷惑になるからブッブーですわ。皆、ちゃんとしましょうね」

 「はーい」と園児たちは素直に応えてくれる。その素直さへのご褒美として、ダイヤはステージで舞踊を披露する。幼い頃に習っていた日本舞踊がまさかこんなところで役に立つとは思わなかったが、ショーが始まる前の前座として丁度良いだろう。

 音楽も扇子も無いからどうにも味気ないが、園児たちはダイヤに視線を集めてくれる。その中で、半ば呆けた様子の少女にウィンクを飛ばす。

 

 ――せっかくの水族館です。あなたも楽しんで――

 

 メッセージが届いたのだろうか。少女も他の園児たちと同じように無垢な笑顔を広げた。

 

 

   2

 

 予想外のアクシデントはあったものの、1日の業務を終えたダイヤたちは無事日当を受け取ることができた。これで活動費は確保。明日から再び練習に専念できる、と気分が昂ぶる。でも労働の疲労は練習とはまた違ったもので、今日のところは家に帰ってゆっくり休みたい。

 閉館してお客がひとりもいなくなったロビーで、互いに労いながら談笑している輪からダイヤは悟られないようひとり外へ出て行く。既に陽は暮れかかった空は群青色に染まっていて、水族館から漏れた照明が地面にダイヤの影を濃く映している。

 今日1日、自分は一体何をしていたのだろう。

 目的は達成できたのに、虚しさだけが募る。後輩たちとの仲なんて深まらず、話しかけたところで振る舞いはいつものダイヤ“さん”のまま。意識を変えたところで、身の回りは何も変わっていないじゃないか。

「結局、わたくしはわたくしでしかないのですね………」

 何だか全て馬鹿馬鹿しく思えてきた。今更何も変えられる余地なんてない。これまでもそうだったように、自分は周りに厳しく口うるさい黒澤ダイヤとして過ごすしかない。

「それで良いと思います」

 その声に振り向くと、他のメンバー達も外に出ていた。先頭に立つ千歌は続ける。

「わたし、ダイヤさんはダイヤさんでいて欲しいと思います。確かに、果南ちゃんや鞠莉ちゃんと違って、ふざけたり冗談言ったりできないな、て思う事もあるけど」

 どうしてそんなことを、と思うと同時に悟る。果南と鞠莉が言ったのだろう。理解したところで怒る気にもなれないが。それどころか、後輩たちにさえ見透かされた自分が情けない。

「でも、ダイヤさんはいざとなったとき頼りになって、わたし達がだらけている時は叱ってくれる。ちゃんとしてるんです」

 ちゃんとしてる。その言葉が、あの少女の声と重なる。皆がちゃんとしていないから、自分がしっかりしなければ。そう自身に言い聞かせながら過ごしてきたこれまでを、そしてあの少女のこれからを、まるで肯定してくれたかのような錯覚を覚える。いや、錯覚じゃない。千歌は肯定してくれた。こんな、口うるさく距離を置かなければ他人を接することのできないダイヤを。

「だから皆安心できるし、そんなダイヤさんが大好きです」

 「ね?」と千歌が後ろにいる面々に訊くと、皆は優しい笑みを返した。

「だからこれからもずっと、ダイヤさんでいてください。よろしくお願いします」

 その気持ちは嬉しい。嘘偽りなく。でも、皆のほうへ顔を向けて答えることができなかった。今振り向けば、目尻に涙を溜めたみっともない姿を晒してしまう。その姿は千歌が求めてくれる自分じゃない。

 だから、涙が乾くまでしばしの時間を要してやっと振り向くことができた。

「わたくしはどっちでも良いのですわよ、別に」

 そう応えると、果南と鞠莉が笑い出した。また無意識に口元のほくろに触れていたことに気付き、急いで指を引っ込める。

「せーの」

 千歌の掛け声の後に、皆が口を揃えて呼んでくれる。いざ呼ばれると気恥ずかしいものだけど、やっぱり嬉しいものは隠せずダイヤは照れ笑いした。

「ダイヤ“ちゃん”!」

 

 

   3

 

「じゃあね」

「Ciao」

 淡島に上陸すると、果南と短い挨拶で別れ帰路につく。ちらり、と船着き場を一瞥すると普段は停まっていない小舟が目に付いた。それが薫に貸した船だと気付き、鞠莉は家路を急ぐ。

 真っ直ぐ薫に用意したスイートルームへと向かうと、ドアに薫が背を預け頭を垂れている。

「薫!」

 ドアがオートロックで、カードキーを持っていなかったから入れなかったのだろう。粗い呼吸を繰り返す彼の様子から、フロントへ鍵を受け取りに行く体力も残っていなかったらしい。

 鞠莉はポーチをまさぐって取り出したカードキーでドアを開けると、薫の肩を背負って部屋に入る。成人男性の体はとても重く、普段からトレーニングを積んでいる鞠莉でもベッドまで運ぶのに時間を要した。

 

 ――肉体がアギトであることに適応するまで、一定の苦痛が伴うんだ――

 

 薫はそう言っていた。その苦痛を経てアギトになったはずなのに、まだ終わらないのか。

雅人(まさと)……」

 ベッドで横たわる薫が呟く。「薫?」と呼びかけてみるが、呻き声しか返ってこない。額から伝った汗が目尻を経由して、まるで涙を流しているように見える。ひとまず汗を拭かなければ。湿った薫の服を脱がせた体は、余計な脂肪が付いていない戦士と呼ぶべき肉体で見ていて惚れ惚れしてしまう。

 タオルで彼の汗を拭いていると、右腕に目が付いた。上腕の途中で、ぐるりと1周するように縫合痕が刻まれている。跡といっても薄く浮き出ているだけで、遠目では分からないだろう。現代の医療技術は鞠莉が思っているよりも進んでいるらしい。他者の腕でも、彼自身の腕のように見せてしまうのだから。

 汗が伝う右腕に、鞠莉はそう、と触れてみる。その瞬間、頭に電流を流されたかのような衝撃が走り目眩がした。脳裏に映像のようなものが流れ始める。目を閉じて視界を遮断すると、その像は鮮明度を増していった。

 脳裏に浮かぶ像に映るのは、暗闇のなかに舞う粉雪。上下左右構わず拭き乱れ、手に持った懐中電灯で照らしても一寸先しか見えないほどに視界を覆い尽くしている。

 視界が激しく揺らいだ。地面を覆う雪の上で、防寒着に身を固めた若い男性が倒れる。起き上がる力もないのか、ぐったりと四肢を投げ出すその人物は頬を叩かれてもされるがまま。閉じ切っていない目蓋は震えていて、瞬く間に雪がまつ毛に積もっていく。

「雅人! しっかりしろ雅人!」

 それは薫の声だった。鞠莉は悟る。これは薫の記憶。薫の見たものを自分は見ている。視界だけじゃない。吹き荒れる吹雪の音も、風の冷たさも。

「兄さん………」

 か細い声を絞り出す唇は血色を失い青くなっていて、その青さも積もる雪によって白くなっていく。

「た、助けて………」

 その声が、吹雪によって吹き飛ばされるように消えていく。目蓋の震えが止まっても、薫は「雅人!」と懸命に呼び続ける。そんな薫自身の声も、次第に弱くなっていく。強烈な眠気が襲ってきた。ここで眠っては凍死してしまう。理解していても、生理現象に抗うことのできるほど、薫は強くはなかった。

「雅人………」

 声に出せなくても、薫は名前を呼び続ける。雅人の体に覆い被さり、その意識が途絶えようとする瞬間も。

 雅人、俺たちは子供の頃からずっと一緒だった。俺はいつだってお前を護り救ってきた。

 これからもそれは変わらない。

 お前が助けを求めれば、俺は必ず救ってやる。

 だから安心しろ雅人。

 お前には俺がいる。

 

 連絡船から降りてすぐ、できれば遭遇したくなかった相手と視線が合ってしまう。きっと家の船を手入れしていたのだろう。相手も反応に困っているようで、前のようにあからさまに拒絶してこそいないが、喜んでもなく気まずそうに視線を泳がせた後にようやく口を開く。

「今日はもう閉店だよ」

「別にダイビングしに来たわけじゃない」

 ぶっきらぼうに言って涼は目的地へと歩き出す。

「そっち、鞠莉の家だけど」

「ああ、ちょっと用があってな」

 小走りで隣に着いてくる果南を見下ろす。

「何でお前着いてくるんだ?」

「涼こそ鞠莉に何の用があるの?」

 何で少し怒り口調なんだ、と彼女の態度に苛立ってしまう。

「鞠莉に用があるんじゃない。鞠莉のホテルにいる木野に用があるんだ」

「鞠莉、て呼んでるんだ………」

「は?」

「別に」

 と口を尖らせてそっぽを向かれてしまう。だがすぐに果南は涼へ向き直り、

「木野、て誰?」

「あかつき号の乗客だ。お前知らないのか?」

「知らないよ。わたしあかつき号のことなんて覚えてないし、鞠莉にいくら訊いたって教えてくれないし………」

 確か友人の黒澤ダイヤも、あかつき号に乗っていたはず。彼女も船のことは覚えていないのだろうか。だとしたら何故、ふたりは忘れ鞠莉だけが覚えているのだろう。

「じゃあ、わたしもその木野さんに会いに行く」

 取って付けたような事を言いながら果南は歩調を速める。「ほら早く」と涼を促しながら、

「涼だってあかつき号のこと訊きたいんでしょ?」

 何故だろう。たった数ヶ月会っていなかっただけなのに、急に果南のことが分からなくなる。年下の少女に振り回される事にも慣れてしまい、溜め息をつきながら涼は果南の後を追っていく。

 

 次に浮かぶのは、青白い光。まるで太陽が至近距離にまで迫ってきたかのような明るさに、薫は目を閉じ、再びゆっくりと開けていく。2度目でようやく、それがいつも見慣れている光であることに気付く。同業の現場だからか、意識はまだ朧気でも置かれている状況はすぐに把握できた。

 助かった、のか。

 雅人は。雅人は無事なのか。

 重い頭を動かし、顔を横へと向ける。血色の失せた雅人の顔に白い布が被せられ、医師たちが手を合わせている。雅人を覆う布からは右腕だけがはみ出していた。

「弟のほうは助からなかった。兄のほうは右腕に重度の凍傷。弟の腕を移植する」

 浮かびかけた意識が、再び沈もうとしている。口に当てられたマスクから麻酔が投与されているのが分かった。

 何故こんなことに――

 目を閉じた薫の脳裏に浮かんだのは、問いと後悔だった。雪山に登ろう、だなんて俺が言わなければ、こんなことにはならなかったのに。いざ登る前に雅人と交わした会話がよぎる。

 

 ――もし危なくなっても、兄さんがいれば安心だね。ドクターなんだし――

 

 ――ああ、任せておけ――

 

 あんな大口を叩いておいて、自分だけのうのうと生き残った。懺悔の意識は麻酔で一旦遮られても、次に目覚めたときにまた浮上し裡に沈殿し続ける。

 血縁者ということもあって、雅人の右腕は免疫による拒絶反応もなく薫の体によく馴染んだ。リハビリを経てどんどん自分のものになっていく雅人の腕を見る度に、薫の裡にある懺悔は癌細胞のように裡の1点から全体へ転移・伝播していき蝕み続けた。

 自分の分も生きてもらえることを弟さんも望んでいますよ、と担当医師は言っていた。そんなものが詭弁だと薫は知っている。薫は今際に雅人が求めていた救いを聞いている。雅人が本当に求めていたのは救いだ。弟は生きることを望んでいた。俺が生きることじゃない。

 腕の縫合跡を完全に消すことも可能だが、薫はそれを拒否した。跡は罪の烙印として残しておかなければならない。俺の命は、雅人を犠牲にして成り立っているのだから。

 そんな意識だったからだろうか、復帰した職場で身に覚えのないミスを擦り付けられ、医師免許を剥奪されても抗議する気になんてならなかった。弟を救えなかった自分に、人の命を救うドクターなんて気取る資格なんて不要だった。

 でも俺はこれからも人を救い続ける。何十、何百という命を。世間からの称賛なんて要らない。ただひとりから赦しを与えられればそれでいい。

 雅人、赦してくれ。

 お前を救えなかった俺を赦してくれ。

 

 か、と見開かれた目に驚き、鞠莉は右腕に触れていた手を引っ込める。状態を起こした薫は鞠莉へと目を向け、

「鞠莉………」

「ごめんなさい薫。でも、覗くつもりじゃ………」

 薫は右腕をさする。そばに無造作に置いてある服を着ながら尋ねてくる。

「俺の記憶を視たのか?」

 鞠莉は無言で頷く。何故か、薫の顔を直視することができない。彼から感じるものが視線を背けてしまう。

「そうか、お前もアギトになるんだったな」

 不意に、鞠莉は首を掴まれた。喉元を握られたせいで呼吸ができず、声も出せない。見上げた薫の顔を見て、鞠莉は悲鳴も上げられず行き場を失った恐怖を飲み込む。

 眼球が零れそうなほどに目は見開かれ、剥き出した歯はまるで獣のように喉元を噛み千切ってしまいそう。

「アギトはこの世で俺だけでいい。お前の力では、雅人を助けることはできない」

 助ける、て。でも弟さんはもう――

 喉から出ない言葉が、薫に届くはずもない。いや、声が出たとしても今の彼にはどんな言葉も届かない。

 首に込められた力が緩くなった。開放かれた気管に空気をめいっぱい吸い込むと、唾液が入ったのか咳き込んでしまう。

「鞠莉⁉ 大丈夫? 鞠莉!」

 優しく肩を抱いて呼びかけてくれた親友の顔を見ると、安堵からか涙が零れる。

「果南………」

 視線を横へ流すと、壁際に倒れる薫と、彼を見下ろす涼が仁王立ちしている。きっと、異変に気付いた涼が薫を突き飛ばしたのだろう。

 薫は涼へ憎悪のこもった視線を向けながら、ゆっくりと立ち上がる。

「お前たちも、邪魔者のひとりだ。俺以外のアギトが存在する必要はない」

「あんた、何を言ってるんだ?」

 戸惑いながらも、涼は鞠莉と果南の前に立つ。果南に肩を借りて、鞠莉もようやく立つことができた。

「俺はもっと強くならなければならない。雅人を救うために、お前を倒し最強のアギトとなる」

 距離を詰めてくる薫に、涼が組みつきながら「逃げろ!」と声を飛ばす。部屋の中で暴れ回っているせいでスタンドライトや備品の数々がなぎ倒され、陶器やガラスの破片を床に撒き散らしている。「鞠莉、早く!」と果南に肩を借りて、突進したのか蝶番の外れたドアから部屋を出ていく。

 騒ぎを聞きつけた従業員たちが、急いでスイートルームのフロアへ向かっていく。途中何度か呼び止められたが果南が追い払ってくれて、ようやく外に出られた。

「果南! 鞠莉!」

 涼が走ってきた。結構手ひどくやられたみたいで、切れた唇から血が滲んでいる。でも鞠莉は安心できた。無事ということは、従業員たちが薫を取り押さえてくれたのだろう。

 そんな淡い希望はすぐに消えてしまう。

「すぐに船を出せ! 奴が来るぞ!」

 ホテルの入口から、誰かが来るのが見えた。暗闇のせいで顔は見えないが、禍々しい気配を鞠莉の裡で目覚めつつある力が感じ取る。

「走れ!」

 涼の声で我に返り、全速力で船着き場へ走った。小型ボートに鞠莉と涼が飛び乗ると、船のエンジンを果南が駆動させ岸に繋ぐ鎖を外す。

「果南、あなたも――」

「いいから! 涼、鞠莉をお願い」

 早口に言って、果南は桟橋から走り去っていった。

 ボートは瞬く間に岸から離れていく。小回りの利く小型だから連絡船よりも速く、1分程度の航行で本土の船着き場へ到着した。エンジンを止めないまま涼に手を引かれ、駐車場に停めてあった彼のバイクへと走る。

「待って、果南が――」

「奴が狙ってるのはお前だ!」

 有無を言わさずヘルメットを被せられる。ふたつも持って来ていないらしく、涼はノーヘルメットでシートに跨りエンジンを掛けた。

「乗れ!」

 逡巡なんてしている暇はなかった。リアシートに跨ってすぐ、涼はバイクを走らせる。夜の沿道をヘッドライトで照らしながら、どこへ行けば良いのかも分からずひたすらにスピードを上げていく。

 背に鳥肌が立つほどの冷たさを覚えた。振り向くと、恐怖が盛大なトルク音を鳴らして迫ってくる。涼も気付いたのか、更にスピードを上げた。こんな曲がりくねった沿道では危険な速度だが、追手も見事なライディングテクニックで食らいついてくる。

 追手の体が眩い光を放った。夜の街を照らす光はすぐに弱まり、収束させた追手の肉体をアギトへと変貌させる。光の恩恵か、バイクも姿を変えていた。駆動音がまるで獣の咆哮に聞こえる。早く鞠莉たちを喰らいたい、と狩りでもしているように。

 獣になったマシンを駆り、アナザーアギトは執拗に獲物を追い続ける。

 

 






次章 犬を拾う。 / 暗黒の戦士


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第18章 犬を拾う。 / 暗黒の戦士
第1話


 

   1

 

 沿岸道を駆け抜け、狩野川放水路のトンネルを抜けて獅子浜へと出る。変身の影響で性能が上がったのか追手のバイクは距離をすぐに詰めてきて、涼のバイクの隣につく。

 涼はハンドルを傾け離れようとしたのだが、変身した薫の足は逃すことなくバイクのタンクに蹴りを入れる。2輪だからバランスはすぐに崩れ、それでも涼は転倒すまいと懸命にハンドルを操り体勢を立て直そうとする。大幅に道から逸れたバイクは水産加工場の立ち並ぶ埠頭に侵入し、積み上げられたドラム缶に正面衝突して乗っていたふたりは揃ってシートから投げ出される。スピードが緩んでいたお陰か、あまり痛みはなく鞠莉はすぐに立ち上がることができた。バイクを起こそうにも、薫は自分のマシンをターンさせこちらへ疾走してくる。

「来い!」

 涼に手を引かれ、鞠莉は工場の敷地へと走る。でも今日の業務を終えた工場のシャッターは閉ざされていて、中へ逃れることはできない。追ってきた薫はこちらが袋小路に入ったと見たのか、マシンから降りてゆっくりとこちらへと歩み寄ってくる。大きな赤い双眼が、宵闇のなかで鞠莉と涼をしっかりと捉えていた。

 同じだ。赤い目も、金色の角も。何もかもが翔一の変身するアギトと同じはず。なのに何故、薫のアナザーアギトはこんなにも恐ろしくおぞましいのか。

「あんた、何のつもりだ! 悪い冗談てわけじゃなさそうだな」

「薫、どうしちゃったの? 薫!」

 涼と鞠莉がいくら呼びかけようと構わず、薫の歩みは止まらない。こんな恐怖しか感じられないなんて、アンノウンと変わらない。

「あんた、人間を護るために戦うんじゃなかったのか!」

 涼の言葉で薫はようやく歩みを止め、

「その通り。だが、アギトは俺ひとりでいい。俺は俺の手で人間を護る。俺のこの手で」

 薫は右の拳を握る。死んだ弟の手。自分が救えなかった者の手を。

「お前は邪魔だ」

 「逃げろ!」と涼に突き飛ばされる。人間を護る、と告げた薫の右手が涼の首にかけられ、先ほど鞠莉にしたように喉を潰しにかかる。でも、涼は鞠莉と違って反撃の余地があった。既に力に目覚めた彼は、潰れかけた喉から声を絞り出す。

「変身!」

 ギルスへと姿を変えた涼は、剛腕で首に掛けられた手を振り払う。だがすぐ腹に重い拳を打たれ、前のめりになったところで襟首を掴まれ投げ飛ばされる。シャッターを突き破った涼の体が工場の中へ放り込まれた。

「薫……」

 外に放置されていたドラム缶の陰に隠れながら、鞠莉は変貌した薫を凝視する。脳裏にはただ問いだけが渦巻いている。

 どうして、何で彼があんなことを。

 彼はいつだって正しく優しかった。だから他のあかつき号の面々も彼を指導者として信頼していたし、鞠莉も頼り甲斐のある兄のような存在として見ていたのに。

 鞠莉が海外留学を迷っていたとき、彼は言ってくれた。

 

 ――何があっても俺は鞠莉の味方だ。大丈夫、君の友達は俺が必ず護る――

 

 あの言葉は嘘だったの?

 いや違う、と気付いてしまう。彼はあの時と変わらず、人を護るという信念の下に戦っている。変わってしまったのは鞠莉のほうだ。彼の護るべき「人」ではなく、アギトという存在に。

「ウオオオオアアアアアアアアアアアッ‼」

 工場の奥から、涼の雄叫びが聞こえてくる。シャッターの穴から飛び出した涼は跳躍し、踵から生えたヒールクロウを振り翳す。鋭い刃が到達しようとしたとき、薫は脚を振り上げ、涼の降ろされた脚を受け止める。

 一瞬の硬直の後、涼の顔面に裏拳が打ち込まれた。

 

 今日も1日、木野薫はアパートに現れなかった。最悪の事態を想定して行方不明者捜索へ切り替えたほうが良いのかもしれない。

「そういえば北條さん、いかがですがその後?」

 車の助手席で共に張り込んでいた北條に尋ねる。

「確か、高海伸幸殺害事件を追っているとのことでしたが」

「ええ、私の推理が正しければ、高海伸幸氏は超能力によって殺害された。そしてあかつき号の人々も超能力と無関係ではないようだ。両者の間には何らかの因果関係がある。そう私は思っていますが」

 核心には近付いているが、あとひとつ足りない。両者の因果関係を決定づける何かが。そのひとつが見つかれば、全ては繋がるのだろうか。誠には分からない。高海伸幸が殺害されたのはあかつき号の1年前だ。一応調べ直してはみたのだが、高海伸幸とあかつき号の乗客たちとは何の接点もない。

 ふたつの事件がどう繋がるというのだろう。一介の大学教授の怪死からフェリーの海難事故へ。そして現在起こっているアンノウンによる事件へと繋げているものが、誠には全く見えてこない。

 通知音が鳴った。続けて車内電話が小沢の声を飛ばす。

『氷川君、一般市民からの通報よ。アギトと思われる者が江浦埠頭で交戦中』

「分かりました、現場で合流しましょう」

 北條は素早く車を降りた。彼も自分の車で現場へ向かうつもりだろう。パトランプを出し、サイレンを鳴らしながら誠は車を発進させる。

 夜の沼津市は車の通りなど殆どなく、何の妨害も受けずに現場の埠頭へ到着することができた。本来なら静まり返っているはずの工場から物音が聞こえる。機械の駆動音でないことはすぐに分かった。

 工場のコンクリート壁が突き破られ、粉塵に塗れた人影が転がり出てくる。それは緑色の生物だった。生物を追うようにして壁の穴から出てきた者の姿が、月明りに照らされて露になる。誠は車を停め、窓からその姿を捉えた。

 金色の角に赤い双眼。

「アギト……」

 アギトが牙を剥くと、足元に額の角と似た紋章が浮かび上がる。紋章の光を収束させた足で、アギトは緑の生物へ跳躍しキックを見舞った。もはや避ける体力もないほどに疲弊した様子の緑の生物は、真正面から胸にキックを受けて突き飛ばされる。

 地面を転がった生物の筋肉が萎縮し始めた。皮膚は肌色になり、以前も見た青年の姿へと戻っていく。蹴られた胸を抑えながら呻く青年のもとへ、1台のバイクが走ってきた。オフロードヘルメットで顔は見えないが、体躯から見たところ運転しているのは女性だろう。リアシートに青年を乗せると、運転手はアクセルを捻りバイクを走らせる。すぐに埠頭から走り去っていくのだが、運転手がふたり乗りに慣れていないのか少しばかりふらついていた。

 立ったままふたりを見送ったアギトの体が、宵闇の中で輝く太陽のような光を放ち、すぐに収束させる。人間の姿になったその顔。ちらつく残滓に照らされた男の顔を見て、誠は目を剥き車から飛び出す。

「待って! 待ってください!」

 大声で呼び止められた男は、訝し気に誠を見返す。近くで見て間違いない、と確信できる。

「あなたは、確かあかつき号の………」

 

 

   2

 

「翔一くん、お風呂空いたよ」

 縁側のガラス戸を開けて言うと、耕した畑に種を蒔きながら翔一は「ああ、うん」と千歌のほうへ振り向く。

「ごめんごめん。もうすぐ終わるからさ」

 トマトを収穫し終えるとすぐに苗を撤収させ、今日は1日中畑を耕していた、と志満から聞いている。それでいてしっかりと掃除もこなし、千歌たちの夕飯も作っているのだから恐れ入る。

「もう夜なんだし、明日やったら?」

「うん。そのつもりだったんだけど、思ったより畑耕すの早く終わってさ。どうせなら種蒔きまでやっちゃおう、て思って」

 サンダルを履いて畑に踏み入ると、土の柔らかさを足裏で感じ取れる。小さな種を数粒ずつ、一定の距離で蒔く翔一の隣にしゃがんで千歌は尋ねた。

「今度は何育てるの?」

「次はカブなんだ」

 翔一は嬉しそうに、スーパーで買ってきたのだろう種の袋を見せてくれる。

「俺の作るカブはそこらのとは違うからさ、楽しみにしててよ」

 指先に土を付けながら、翔一は本当に楽しそうだった。芽吹く前なのに、今から既にカブ料理を頭の中で構想しているのかもしれない。

「翔一くん新しい野菜作るときって、何か凄い嬉しそうだよね」

「そりゃあさ、良いと思わない? だんだん野菜が育つの、て。何て言うか世の中色々あるけど野菜は育つ、ていうか」

 自分の手で何かを作る。最初は小さな苗がどんどん逞しく育っていって実を付ける。曲作りと似てるな、と千歌は思った。ただの言葉でしかない詞がメロディに乗せて口ずさむと歌になる。千歌が作詞に励んでいるときも、今の翔一みたいな顔をしているのだろうか。

「何となく、分かる気がするな」

「だろ? 俺思うんだよね」

 翔一は他にも育てている野菜たちを見渡し、

「ここの野菜が育っているうちには世の中捨てたもんじゃない、て」

 枝豆に唐辛子。ピーマンにオクラ。それらを我が子みたいな慈しみを持った瞳で見つめながら、翔一は言う。

「だからさ、俺にもしものことがあっても、こいつらの面倒は見て欲しいんだ」

「もしも、て……。どういう意味?」

 まるで遺言めいた言い方に、千歌の不安が募る。普段アンノウンと戦っているだけに、縁起でもない。

「別に大した意味はないけど。もしもの話だって」

 そう言って翔一は種蒔きを再開する。畑と向き合う彼の背中を見つめながら、千歌は祈る。

 翔一くんの居場所はここだよ。

 だからここでずっと、わたしの家族でいて。

 もう、わたしを置いて行かないで。

 

「木野薫さん、ですよね。あかつき号で1度お会いしたことがある」

 喧騒の過ぎ去った埠頭で、月明りの下に誠は「アギト」と向き合う。アギトが人間だったことの立証にも驚きなのだが、それ以上にその正体が自分の知る人物だという事実によって上乗せされる。

 あかつき号の乗員乗客の顔ぶれは殆ど覚えていない。暴風雨のせいで視界は暗くひとりひとりの顔なんてはっきりと見えなかった。でも彼のことはよく覚えている。泣き叫ぶなり怯えるなり放心するなりする者たちの中で、唯一彼だけは冷静に誠の救助活動に協力してくれた。あかつき号の乗員乗客は誠ひとりで救助された、なんて触れ込みが出回っているが、彼の協力がなければ全員救出は叶わなかった。

「私が今ここでこうしていられるのも、あなたのお陰だ」

 ひと回りほど年齢が違うというのに、木野の口調は誠を小僧扱いしない敬意を感じられる。

「それは僕の台詞ですよ。何度アギトに――。いえ、あなたに助けてもらったことか」

「私があなたを?」

 木野は眉を潜めるも、得心したように微笑しながら「なるほど」と呟く。誠を助けるために戦ってきたわけじゃない、ということか。アンノウンと戦ってきた歴戦の彼にとっては、誠を助けることなんて片手間に過ぎなかったのだろう。

「でも、何故あなたはアギトになったんですか?」

「私にも詳しいことは分かりません。ただ、この世に神の意志というものがあるならば、私はそれによってアギトになった。そして神の意志があるならば、邪悪なる者の意志も存在する」

「邪悪なる者………。アンノウンの事ですか?」

 答えを聞く前に、着信音で遮られる。誠の端末じゃない。「失礼」と木野はスマートフォンをポケットから出して「はい」と応答する。

「……………分かりました、すぐに伺います」

 端末をポケットに仕舞うと、木野は誠へと向き直り、

「緊急の手術(オペ)が入りました。行かなければなりません」

「オペ? ドクターなんですか?」

 バイクへと歩く木野を追いかけながら尋ねる。

「ええ。人の命を脅かすのは、アンノウンだけではありませんよ。病気や事故と戦うのも、私の使命なんです」

 手にグローブをはめる目の前の男に、誠はただ感服するばかりだった。この人はアギトであろうがなかろうが関係なく、命を救っている。

「お会いできて良かった。アギトが人間ならどんな人だろう、とずっと思っていましたが、想像通りの、いや――想像以上の人だった」

 興奮するあまりに口を動かす誠を尻目に、木野はヘルメットを被りシートに跨っている。そうだ、危うく忘れるところだった。彼はこれから手術を、人の命を救わなければならない。

「行きましょう。病院まで僕に先導させてください」

 

 玄関から聞こえたインターホンの音に、鞠莉はびくり、と肩を震わせる。

「鞠莉? わたしだけど」

 続けてドア越しに聞こえる声に安堵すると、鞠莉はドアの鍵を開けて果南を迎え入れると同時に強く抱擁を交わす。

「果南、怪我してない?」

「全然、あの人すぐに鞠莉たち追いかけて行ったから」

 ぽんぽん、と背中を優しく叩かれる。体を離して向き合うと、果南は逃さないとばかりに鞠莉の目を見据える。

「ねえ、あの人は何なの? どうして鞠莉を」

「薫は………」

 言おうとして口をつぐむ。実は果南も、それにダイヤも薫に会ったことがある、と言うべきか迷う。ふたりがあの日のことを忘れていて本当に良かった、と思った。変貌ぶりを知れば、鞠莉と似たショックを受けることは違いない。

 それに今は、目下の問題もある。

「それよりも――」

 と果南を部屋の奥へ通した。ベッドの上で苦痛に悶え呻きながら横たわる青年を見て、果南は急ぎ駆け寄る。

「涼!」

 シャツを脱がせた涼の胸は、内出血を起こして赤黒く腫れている。先ほど市販の痛み止めを飲ませたのだが、効果は全く現れない。

「あの人にやられたの?」

「ええ………」

 鞠莉は洗面器の冷水に浸しておいたタオルを絞って、涼の患部に当てる。喉を潰しそうなほどに苦悶の声をあげ、涼は体を仰け反らせた。これで果たして効果があるのか分からない。

「病院に連れて行こうよ。そうすれば――」

「涼は人間とは違う体なのよ。普通のDoctorじゃ、手に負えないわ」

 果南の訴えに鞠莉はかぶりを振る。アギトの力で受けた傷だ。人間と同じ処置を施したところで、きっと効果はない。

 それに病院に連れて行って、涼が普通の人間ではないことが知られたらどうなる。細胞が変異して異形の姿になると知られた彼の受ける仕打ちは、想像もしたくない。

 でも、このままではいられないのも事実だった。彼を蘇らせたときのように力を行使するのも試みてはみたが、あの時どう力を使ったのかも思い出せずにいる。

「どうすれば……、どうすればいいの………?」

 分からない。自分に何ができるのか、何をすればいいのか。助けてくれると思っていた人間はもういない。アギトになった彼はもう、かつての彼ではなくなってしまった。

 

 

   3

 

 季節の変わり目というものは、どうにも天気が崩れやすい。陽が出れば暖かいが、今のように空が灰色の雲に覆われていては気温が一気に下がり冷えてくる。天から恵みとばかりにお節介なほどの雨が降り続け、その勢いは増し続けていた。

「また雨が強くなってきたね」

 滴が絶えず伝っている窓からの市街を眺めながら、ルビィが不安げに呟く。雨だろうとAqoursはプラザヴェルデの一室を借りて練習できるから関係ないのだが、低気圧の影響かどうにも気分も滅入る。気圧が体調にどう影響するのか善子はよく知らないが、取り敢えずそういうものだ、と自身を納得させる。

 何も突然の雨じゃない。天気予報でもしっかりと通知はされていたし、屋上が使えないと見込んで今日は沼津での練習に決めていた。

「今日は無理して続けないほうが良さそうですわね」

 ダイヤが言った。練習自体はできるのだけど、こうも屋内まで響くほどの雨では、交通機関も動いていないかもしれない。プラザヴェルデはホテルも併設されているけど、高校生にとって宿泊費とはひと月の小遣いに相当する。それに体調管理。こういった気候が不安定な時期こそ体調不良を起こしやすい。特に善子は毎年決まってインフルエンザに罹るのだから。去年は冬の始まりと終わりとで2度罹った。

「もうすぐ地区予選なのに」

 まだ練習したりないのか、千歌がそう零した。千歌なら風邪はひきそうにないわね、と密かに思っていると曜が、

「入学希望者も50人越えてきたんでしょ?」

 そんなに増えてたんだ、と少し驚いた。案外希望者100人というのも、達成できるのかもしれない。

「まあ気持ちは分かるけど安全第一。今日のところは終わりにしよう」

 コーチの果南に言われたら反対はできまい。果南が組んだ練習メニューはハードだけど、無理はしない、が鉄則。しっかりと余力を残した状態で明日の練習に臨めるように、と。

 「はい」と鞠莉から渡されたものを、果南は「何これ?」と戸惑いながら受け取る。これからの季節には必需品のカイロだった。

「待てばカイロ(海路)の日和あり、て言うしね」

 更に冷えるような駄洒落に、その場の全員から溜め息が出た。翔一の影響だろうか。

 早めに練習は切り上げたけど、横殴りの雨でバスは運転見合わせになっていたから、保護者からの迎えを待つことになった。

「果南ちゃんと梨子ちゃんはうちの車ね。曜ちゃんも乗ってかない?」

「良いの?」

 誘われた曜はお言葉に甘えて、翔一が出してくれた十千万の送迎バスに乗り込む。黒澤姉妹と花丸と鞠莉は、黒澤家の車で帰路へつく。はずだったのだが――

「あ、ごめん千歌。わたしと鞠莉用事あるから先帰ってて」

「え、大丈夫なの?」

 「No problem」と鞠莉が言って、ふたりは風で飛ばされまいと傘を両手で掴んで雨の街中へと歩いていく。こんな雨なのに行かなければならない用事とは、と気にはなるが、訊く前にふたりの姿はもう見えなくなっていた。

「あのふたり、最近よく一緒に居ますわね」

 とダイヤが言った。言われてみればそんな気もしなくもない。些細な疑いは「まあいいや」と千歌の能天気な声で中断される。

「善子ちゃんは?」

「嵐が堕天使の魂を揺さぶる。秘めた力がこの羽に宿る」

「ふざけてる場合じゃないよ」

 と口上を見事に受け流し、千歌も車に乗り込む。せっかく格好いい口上を先ほど思いついたというのに。

「拠点は至近距離にあります。いざとなれば瞬間で移動できます」

 黒澤家送迎車の後部窓が開いた。

「まあすぐそこだし」

 とルビィが何の心配もなさげに言う。座席に腰掛ける3人揃って「ごきげんよう」と言うと同時、車が走り出して声も過ぎ去っていく。続けて十千万のバスも走り出した。窓から千歌たちが手を振っていて、見送ってひとり残った善子は空を見上げる。

「胸騒ぎがするこの空。最終決戦的な何かが始まろうと――」

 突風が吹いた。まさか天気にまで邪魔をされるとは。突然のことだったから、手から傘を離してしまう。黒にフリルの付いたお気に入りで、そこらの店で売っているものじゃない。ネットショップで買ったからPCかスマートフォンがあればどこでも買えるが。

「待ちなさい! 待つのです!」

 開いた傘はよく転がるもので、手を伸ばして掴もうとすると逃げるように離れていく。

「何、その動き? まさか、何かがわたしを導いて………」

 そうこう言っているうちに、再び吹いた突風に舞う傘は縁石に引っ掛かってようやく止まった。ようやく大人しくなった傘が手元に戻る。

 ただ風で傘を飛ばされただけ。傍から見たらそれだけかもしれない。でもこの雨空に感じた予感は本物だった、と後になっても思う。

 これは運命(デスティニー)だった。最終決戦なんて壮大なものじゃない、傘によって導かれた、ほんのひと時のささやかなもの。

 

 江浦埠頭で目撃したことを報告すると、小沢は興奮したように食いついてきた。

「アギトが人間だった? 本当なの?」

「はい。済みません、言おうかどうしようか迷ったんですが、やはり小沢さんに隠し事はできません」

 アギトの正体は木野薫という名の医師。身元を知られたら、以前捕獲作戦なんて立案していた警察がどう動くか。その懸念で報告書にも伏せていたのだが、小沢なら人道に反したことはしない、と信用できる。

「会ったの? どんな人だった?」

「ええ、あれほど高潔で純粋な人間には会ったことがありません」

 会って話をして、思ったことをそのまま述べた。あのような人物こそ、まさに人間を護る守護者として相応しい。それなのに小沢は「ふーん」と微妙な反応を見せる。

「何か?」

「胡散臭いわね」

 と小沢は撥ねつけるように言う。

「大体、純粋な人間なんて言葉の矛盾よ。人間は不純だからこそ人間と言える。もし誰かが純粋に見えるなら、その人物は自分の影の部分を隠そうとしている可能性が高い」

 隠すだなんて、と誠は反発を覚えずにはいられない。電話を受けてすぐ患者の待つ病院に向かう彼に、一体何の裏があるというのか。ただ純粋に患者を救いたい。アンノウンという邪悪なる者から人間を護りたい。成し遂げられるだけの力と技量を持ち、それを実行できる。それを純粋と言わず何と言えるのか。

「私が出会った人間の中でもまずまず純粋と言えるのは、あなたと津上翔一ふたりだけだわ」

「ちょっと待ってください。よりにもよって、僕とあの津上翔一が似てる、て言うんですか?」

 翔一は毎日家事と畑仕事。自分は刑事として事件捜査とG3-Xとして出動。まるで正反対じゃないか。それに翔一は純粋じゃなくて度の過ぎた能天気と言うべきじゃないか。

「冗談じゃありません。小沢さんは人間観察が偏ってるんじゃありませんか? 小沢さんも木野さんに会えば、純粋さというものが分かるはずです」

 はやし立てると、小沢は目を逸らし逡巡を経て呟いた。

「あなた、最近結構逆らうわね………」

「………は?」

「まあ良いわ。実際に会ってみようじゃない。その木野なる人物にね」

 

 



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第2話

 

 

   1

 

「行ける、大丈夫」

 そう告げる曜の隣で、しいたけは静かに佇んでいる。

「絶対動かないから」

 と曜はしいたけを抑えていてくれる。ゆっくりと梨子は近付いて、長い毛で目元が覆われた大型犬の頭へと震える手を伸ばし――

「ワン!」

 と鳴かれ、詰めていた距離を悲鳴と共に再び開けてしまう。

「やっぱり無理!」

 そう簡単に触れられたら苦労しない。今までだって機会があれば犬に触れようと試みてはみたけど、全て失敗に終わった。やっぱり怖いものは怖い。過去に苦い思い出があるわけじゃないけど、あの口の中に鋭い牙が並んでいると思うと脚がすくんでしまう。

「騒がしいですわよ」

 千歌の部屋から窘めるダイヤに、曜が弁解をしてくれた。

「梨子ちゃんがしいたけと目が合って触れるかも、て」

 「本当?」と千歌が部屋から出てきた。嬉しそうに梨子の手を引いて「どうぞどうぞ」と再びしいたけの前へと促される。

 もう1度、しいたけの頭へ手を伸ばす。撫でられて嫌な飼い犬なんていない。大丈夫、と自身に言い聞かせながら毛に覆われた頭に触れようとしたとき、

「ワン!」

 やはり先ほどと同じように距離を取ってしまう。

「駄目! やっぱり無理!」

「しいたけ梨子ちゃんのこと大好きだと思うんだけどなあ」

「そんなことないでしょ!」

 言葉も話せない、こちらの言葉を理解しているかも分からない動物に大好き、なんて感情があるのだろうか。野生では獲物を狩るか自分が狩られるか、という殺伐とした環境をルーツとしているのに、どうしてその本能が消えていると言えるのだろう。

 「そんなことある」と千歌は即答する。

「犬は見ただけで敵と味方を見分ける不思議な力がある、て」

 なら今吼えられたのは敵とみなしての威嚇では。そう反論しようにも、曜が手を離したしいたけは梨子の方へは向かってこない。

「いい加減始めるよ」

 そこへ、果南の号令がかかった。そうだ、しいたけに触るために十千万に来たんじゃない。

 

 予備予選を通過したら、次は地区予選。それを突破できれば決勝。アキバドームのステージで歌えるのだが、肝心の地区予選に向けての曲がまだできていないのが現状だ。

「今日こそ決めないと。もう時間も無いんだよ」

 果南は皆へそう言うが、あまりの停滞ぶりに皆の顔にも少しばかり疲労の色が見える。「分かってるずら」とベッドに腰掛ける花丸は頬杖をついて口を尖らせている。

「でも、テーマって言われると………」

 ルビィが恐る恐る口を開いた。続きを姉としてダイヤが引き継ぐ。

「かといって、暗黒というのは有り得ませんけどね」

 「どうしてよ!」と善子が不満を出した。名案のつもりだったらしい。新曲を作る度に出てきた案なのだが、毎度のこと却下している。それでもめげないのが善子だ。

「堕天使といえば暗黒。Aqoursと共に歩んだ、堕天使ヨハネの軌跡を――」

「やっぱり輝きだよ!」

 と千歌が遮った。「聞きなさいよ!」と善子は噛みつくが、それは受け流すことにする。

「まあ、輝き、ていうのは千歌が始めたときからずっと追いかけてきてるものだしね」

 Aqoursの曲はそれぞれ特徴を持たせているが、大なり小なり必ず「輝き」というテーマを盛り込んでいる。一貫していると言えば良いことなのだが、反面それはマンネリとも言える。同じものだとどうしても似た曲調になってしまう。

 「ですが」とダイヤが今時珍しくなったふたつ折り携帯電話の画面を皆に見せてくれる。

「Aqoursの可能性を広げるためには、他にも模索が必要ですわ」

 画面に映るのは別のスクールアイドル。ふたり組の彼女たちを千歌は食い入るように見入っている。

「これってSaint_Snowさんなの?」

 今大会で競い合うグループとして、果南も彼女たちのことは意識している。今流れている曲は、彼女たちの予備予選で披露された曲だろう。以前観た曲とはまったく曲調が違う。歌い手であると同時に作り手。常に新しいものを、という挑戦の姿勢を見せつけられた気分になる。

 ダイヤは言う。

「ひとつに留まらない多くの魅力を持っていなければ、全国大会には進めませんわ」

 「そうだね」と曜が同意を口にする。

「次は、この前突破できなかった地区大会」

 そう、それが停滞の原因でもある。今度こそ、今度こそ、という意識が誰かが言わずともグループ全体へ広がり、慎重さに拍車を懸けている。

「何か新しい要素が欲しいよね」

 溜め息と共に呟く。メンバー一同が沈黙に伏していると、寝息が聞こえた。

「またこんな眼鏡で誤魔化して」

 呆れを口に出しながら、梨子が鞠莉の目元にある眼鏡を外す。レンズに目を描くという何とも雑な偽装で、それなのに眼鏡の下には目を描いたシールを張るという2重工作。

「待てば海路の日和ありだって」

 そう告げるルビィには、寝る前に断りを入れたのかもしれない。まあ、眠くなる気持ちは分かる。昨晩も果南とふたり、代わり代わりに涼の介抱をしていたのだから。果南もベッドに横になれば秒で寝てしまう。

「鞠莉ちゃん長い話苦手だから。ね、善子ちゃん」

 と千歌は隣にいるはずの善子に話を振るのだが、目を向けた先にいるのはいつの間に部屋に入ってきたしいたけだった。

「善子ちゃんがしいたけちゃんに!」

 なんて驚くルビィに「そんなわけないでしょ」と言いながら梨子も苦手な犬に恐怖の表情を浮かべている。そんなちょっとした騒ぎに目が覚めたのか、伸びをしながら鞠莉が「騒がしいデスネー」とぼやいた。

 「ん?」と花丸がポケットからスマートフォンを出した。真新しい最新機種で、夏休み中に行方不明になった事を機に買ってもらったらしい。

「善子ちゃん?」

 ようやく慣れ始めた指使いで画面を操作し、受信したメッセージを読み上げる。

「天界の勢力の波動を察知したため、現空間より離脱………?」

 「どういうこと?」と千歌が訊いた。暗号文か何かか。

「要するに帰る、てことずら」

 全くあの後輩は、と溜め息が止まらない。

「皆、お茶入ったよ」

 と、翔一がお盆を手に入ってくる。ちゃぶ台に人数分のお茶を並べる彼を見て、果南はふと思った。

 翔一さんなら、涼を助けてくれるかもしれない。

「ゆっくりしてってね」

「翔一さん」

 部屋を出て行く翔一を呼び止め、果南は尋ねる。

「実は、涼が――」

 

 注文したアイスコーヒーは、既に半分近くまで減っている。同席している小沢が痺れを切らしてビールを注文しようとしたのだが、アルコールを置いていない喫茶店だったからそれは阻止できた。事前に店のメニューを下見しておいて本当に良かった、と思った。

「何よ、来ないじゃない」

 少々苛立った様子の小沢から言われ、誠は腕時計を見る。既に約束の時刻から10分が経過しようとしていた。ドアに付けられた鈴の音が聞こえ振り返ると、学生らしき若い男性客だった。

「確かに、16時にここで会う約束をしたんですが」

「どうやら時間にルーズなタイプらしいわね」

「そんなことは無いと思います。もしかしたら緊急の用事が入ったのかもしれません。何しろ忙しい人なので」

 医師にアギトに、と二重生活を送る人物だ。こうして人と会うのも難しいほど多忙なのかもしれない。そう考えると悪いことをしてしまった。

 そんなことを思っていたところで、スマートフォンの着信音が鳴る。画面を見ると木野の名前が表示されていた。

「はい氷川です」

『どういうつもりですか? 君とふたりで会う約束だったはずですが』

「それは、すみません。でも小沢さんは私の上司で、信用できる人です」

『そういう問題ではありません。私は自分の身を守らねばならない。私がアギトだと知れば、警察は私を捕獲しようとするでしょう。私は研究材料になるつもりはありません』

 だからこそ小沢に会わせたい。彼女なら危害を加えはしない、と言いたいが、生憎警察としては以前に捕獲しようとした実例がある。そんな後ろめたさから、身の安全の保障ができないのは悲しいところだ。

「それは………」

『あなたは私の信用を取り戻さなければならない。そのためにあなたには、葦原涼という人間の居所を捜してほしいのですが』

「葦原涼?」

『私と戦っていた人物ですよ。彼はアギトと同じ力を持ちながら、邪悪な意思によって動いている。放っておくわけにはいきません』

 「ちょっと貸しなさい」と小沢に端末を奪われる。小沢は画面をタップし、スピーカーモードに切り替えた。

「近くにいるんでしょ? 姿を見せて。あなたの身の安全は保障するから」

『自分の身は、自分で守ります』

 それを最後に、通話は切られた。

 

 

   2

 

 

 結局のところミーティングは大した進展もなく解散になった。新曲のテーマ案は出てはいたのだが、それらを総括して曲にするとなると取りまとめのない、何を聴き手に伝えたいのか分からなくなってしまう。ひとまず整理しながら千歌は作詞ということで話はお開きになった。

 いつもより早く帰宅した梨子は、詞ができたらすぐ作曲に取り掛かれるよう、インスピレーションを得るために音楽雑誌を捲っていたところだった。

「今から届けに?」

「そうなの、善子ちゃんのお母さん忘れていっちゃって」

 と母はエプロンのポケットからスマートフォンを出す。聞いたところによると、昼間にふたりでお茶を楽しんでいたらしい。

「携帯はいざ、て時があるでしょ」

「まあ、良いけど」

 届け物のお使いくらいなら、何てことはない。市街までのバスは、まだ最終便まで数本ほど運行している。

 バスで駅前まで訪れると、梨子は記憶を頼りに狩野川沿いのマンションへ向かう。津島家のマンションは前に1度来たきりだったから、記憶も鮮明ではなくなっている。確か河川敷にお社があったな、と思い出し狩野川の遊歩道へ出る。記憶通り、柱と鳥居が朱色に塗られた小さな神社があった。確かこの神社と隣接するマンションだったはず。

 ふと、天井から垂れた鈴緒の近くに箱があることに気付く。長方形のライムグリーンという目に付きやすい色で、扉に小窓が付いていた。小窓を覗き込んでみると、中身が動いているのが分かる。

 突然、箱が激しく揺れ出した。同時にきゃんきゃん、と甲高い動物らしき鳴き声が。驚いたあまり後ずさる梨子の体が、背後から固められる。叫ぼうにも口元を手で覆われ、周囲に声が届かない。

「静かにしなさい」

 暴れていると、耳元で馴染みのある声がして動きを止める。背後を振り返ると、そこにはいかにもサングラスで目元を隠す不審者然とした人物がいた。悲しいかな、彼女ならそんな恰好も納得できてしまう。

「善子ちゃん?」

「ヨハネ」

 と訂正し、

「何で梨子がこんなところにいるの?」

「ちょっと、忘れ物を届けに………」

 と鞄から彼女の母親のスマートフォンを手渡す。

「そ、ありがと」

 と無骨に言うと、善子は神社に置いてあった箱を大事そうに抱え河川敷への階段まで運ぶ。扉を開けると、縦長の顔で全身が毛に覆われた生き物が出てきた。

 犬。

 理解できると同時、梨子は数メートルほど距離を取る。犬だ。梨子にとって恐怖の象徴とも言って良い犬。階段に腰掛けた善子は持参してきたビニール袋から皿を2枚出して、ひとつには犬用のミルクを注ぎもうひとつには犬用の缶詰を入れる。

「ほら、ご飯よ」

 目の前に置いてやると、犬は尻尾を振りながら缶詰の肉をがっつく。

「あら、可愛い」

 好きな人にとっては可愛い生き物なのだから、はっきりと怖い、とは言えない。距離を取っていたら説得力は無いだろうが。

「慌てて食べなくてもいいのよ」

 言葉が通じるかも分からない相手に優しく言うと、善子は視線を梨子へと流す。

「何?」

「見て分からない? 犬よ」

 猫でもなければウサギでもない犬だということは理解している。善子は早くも皿を空にした犬を抱きかかえる。犬は何故か梨子のほうを向いていた。動物の目というのは余計に恐怖を誘う。しいたけほど大きくはないが、やはり怖いものは怖く梨子は一定の距離を保ちながら後ずさる。

「可愛いね……。うん、可愛いよ………」

 善子は犬を降ろすと、梨子にむかって指をさし、

「行け!」

 ワン、と鳴くと、犬は真っ直ぐ梨子のほうへ走ってくる。当然、梨子は逃げる。テレビで警察犬が犯人へ跳びついて腕に噛みつく光景を見たことがある。警察犬ほど大きくはなくても同じ犬だ。あの口の中には鋭い牙がある、と想像するだけで寒気がする。

 大通りへ出ようとしたところで来た道を引き返し、善子の待つ階段を跳び下りた。犬は善子の腕へ戻り、逃げ切ることのできた梨子は乱れた呼吸を整える。

「何するの!」

 文句を飛ばすが、「本当に苦手なのね」と軽く返された。苦手を知っておきながら何て酷い後輩だろう。

 一応、事の顛末くらいは聞くことにした。聞いている間、犬は近付けないことを条件に。

 嵐の日に胸騒ぎがしてヨハネの錫杖に導かれるままに約束の地へと赴いた、とか脚色の過ぎた説明を咀嚼するとつまり、

「拾った?」

「違う、出会ったの。邂逅。運命(デスティニー)がふたりを引き合わせたの」

「そ、そう……。それで飼う事にしたのね」

 別にその事は構わない。梨子に実害がなければ。でも善子は表情を曇らせ沈黙する。

「違うの?」

「わたしの家、動物は禁止で」

「そ、そう………」

 何となく話が読めてしまう。

「お願いがあるんだけど」

「聞かない!」

「まだ何も言ってない」

「どう考えても無理でしょ………」

 絶対に可愛がれるわけないのに。そう言おうとしたが、開きかけた口は善子に抱きかかえられる犬の姿のせいで遮られる。

「ほんの少しの間だけで良いの。この子の生きていく場所は、わたしが見つけるから」

 にじり寄ってくる善子から再び距離を取る。

「そうだ、花丸ちゃんかルビィちゃんに頼んだら? ふたりなら――」

「駄目。ずら丸の家もルビィの家も許可取るの面倒みたいだし」

「鞠莉ちゃんは?」

「ホテルでしょ。果南のところもお店があるし、千歌のところもしいたけがいるし」

「じゃあ、曜ちゃんと………」

「………そんなに嫌なの?」

「嫌、ていうか――」

 続きを述べる機会は与えられず、善子は犬を降ろし「行け!」と指示する。また犬は梨子へ走ってくる。先程と同じ追いかけっこを繰り広げた後、善子は戻ってきた犬を大事そうに抱えながら言った。

「とにかくお願い。この子は堕天使ヨハネにとって、神々の黄昏(ラグナロク)に匹敵する重大議決事項なの」

 善子の腕の中にいる犬も、すがるような目を梨子へ向けている。何でその眼差しがまるで助けを求めているように見えたのか、梨子自身にも分からなかった。

 

 

   3

 

「葦原さん! 葦原さん!」

 何度も呼びかけるが、涼からは苦悶の呻き声しか返ってこない。体中から玉汗が流れていて、タオルを捲った胸は赤く腫れ皮膚が盛り上がっている。

 粗い呼吸が止んだ。口元に手をかざすとまだ呼気が感じ取れる。

「もう、昨日からこんな感じなの」

 鞠莉が消え入りそうな声で言った。ベッドの周囲にはコンビニで買ってきたのかスポーツドリンクのペットボトルが散乱している。これだけの汗の量だ。無理矢理にでも水分補給させなければ脱水症状で危なくなるところだ。

「どうしよう、翔一さん。わたし達の力じゃ、どうにもできなくて………」

 尋ねる果南は、今にも泣き出してしまいそうだった。

「前と同じように涼を助けようとしたんだけど、全然上手くいかない」

 意識の途切れた涼の顔を見つめる。また激痛で目を覚まして、苦しんで、また気を失っての繰り返し。放っておいたら間違いなく手遅れになるのは、素人の翔一でも理解できていた。

「このままじゃ不味いんじゃないかな。病院に連れて行かないと」

「でも涼は普通の体じゃないのよ。普通のDoctorで治せると思う?」

 悲痛な声で鞠莉が言った。正直なところ、翔一も医師に任せるべきかは分からない。何せ、翔一は記憶を失ってから病気や怪我をしたことがない。アンノウンに異物を体に埋め込まれたことはあるが、それは結局自力で解決してしまったのだから。

「このまま葦原さんを放っておくわけにはいかないしさ」

 決断の先に何が待ち受けるのか予想はできないが、現在での選択肢はひとつしかない。汗まみれの涼を背負って病院へ連れて行くと、既に夕刻で受付は終わっていたが急患として医師はすぐに涼を処置室へ回してくれた。大丈夫、と思いたい。見た目こそ涼は普通の人間なのだから。きっとここなら彼を助けてくれる。

「はい、ふたりも何か飲みなよ。葦原さん看てたから、ろくにご飯も食べれてないんじゃない?」

 待合室の長椅子で俯いたままの鞠莉と果南に、自販機で買ったオレンジジュースを手渡す。ふたりともいつもの元気が完全に失せていた。励ますときには何て言えば良いんだろう、と言葉を探しあぐねていると、「津上翔一さんですか?」と看護師から声を掛けられる。

「検査結果が出ました」

 その言葉に、ふたりは同時に顔を上げた。

「先生に話聞きに行ってくるよ。きっと大丈夫だからさ」

 そう言って看護師の誘導に従い、診察室へ通される。「失礼します」と入ると、レントゲンやCT画像を映すPCを前にふたりの医師が考え込むようにこめかみを指で揉んでいた。

「どうですか? 葦原さんの具合」

 医師のひとりは眉を潜めながらも説明してくれる。

「心臓から肺にかけて、著しい損傷が見られます。普通なら死んでいてもおかしくない状態だ」

 ということは、今の涼はギルスの力で辛うじて生きている状態になる。彼を苦しめてきた力が彼を救うなんて皮肉と捉えるべきか、単純に不幸中の幸いと捉えるべきかは迷いどころだ。

「君は………」

 もうひとりの医師らしき男が、そんな声を漏らす。らしき、と翔一が思ったのは、その男が白衣を着ていないからだった。

「あ、俺のバイクを直してくれた人。いやあ奇遇ですね。あなたが先生だったなんて」

 嬉しい再会だが、喜ぶのは後にしよう。

「お願いします。俺のバイクみたいに、葦原さんを治してください」

「葦原………」

 彼はPCの画面へ視線を戻す。画像と並んで表示されているウィンドウのカルテには、葦原涼と患者名が記載されている。翔一へと向き直った彼は、笑みと共に言った。

「任せてください。患者を救う事が、私の使命ですから」

 こんなにも医者の言葉が頼もしいと思ったのは初めてだった。

「はい、お願いします」

 その言葉の裏に、邪悪な意志が潜んでいるなんて一片の疑いも持つことなく。

 待合室に戻ると、翔一の姿を認めた鞠莉と果南が駆け寄ってくる。

「翔一」

「涼は大丈夫なの?」

 不安に沈んでいるふたりに、翔一は確信を持って「大丈夫」と頷く。

「きっと先生が治してくれるよ」

 瞬間、脳裏に戦慄が走る。断片的に視えるのは、迫ってくる異形の存在。

「ごめん、俺行かなくちゃ」

 それだけ言って翔一は外へ駆け出す。「翔一さん?」という果南の声に振り向くことなく。

 

 



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第3話

 

   1

 

 結局、連れて帰ってしまった。

 長方形の箱――ケージというものらしい――に押し込まれたままの犬は、外に出たがっているらしく前足で窓を叩いている。しー、と人差し指を口に添えるが、飼い主でもない梨子の言う事なんて聞いてくれるはずもない。

「ここまで運んできたけど、どうしよう………」

 犬は甲高く吼えている。こんなに鳴き声をあげて疲れないのだろうか。梨子だってライブで歌うと1曲でも疲れるのに。

「静かにして、まだお母さんにも言ってないんだから」

 飼ったことなんてないのだから、犬を泣き止ませる方法なんて分かるはずもない。お腹空いてるのかな、と思い善子から犬と共に押し付けられたビニール袋を探る。満腹になれば眠って静かになるかもしれない。善子が1番好きだ、と言っていた犬用ビスケットの袋を出す。それ、と言うように、犬は一際大きな声で吼える。

「ちょっと待って」

 とだけ言って梨子は食事の準備に取り掛かった。皿に骨の形をしたビスケットを適当な量だけ入れる。ケージごと犬を部屋の真ん中に置いて、その前に餌の皿を置いてやる。当然、そのままでは食べられない。ケージのドアノブにリードを括りつけると、

「わたしに近付いたら駄目だからね。ご飯食べるだけだからね」

 と念押しした上で部屋のドアまで下がり、伸ばしたリードを引いてドアを開けてやる。ようやく食事にありつけた犬はビスケットを数口ほど食べると、顔をあげて梨子のほうを向き小さく鳴き声をあげる。そのままこちらへ近付いてこようとしてきたので、梨子は咄嗟にドアを閉めた。何だか悪いことをしてしまった気分になってしまう。犬はただ梨子と遊びたがっていたかもしれないのに。そもそも、何で今日会ったばかりの梨子と遊びたい、なんて思うのだろう。

「敵と味方を見分ける、不思議な力か………」

 不意に、千歌の言っていた言葉を思い出す。一体何をもって、この子はわたしを味方と思えたのだろう。そんな疑問と共にそ、とドアを開ける。犬は食事を再開することなく、ドアから現れた梨子の姿を認めると尻尾を振り鳴いている。

 喜んでいるのかな。そう思ってみると、あまり恐怖はない。なるべく優しく、梨子は口に人差し指を添えた。

「し、よ」

 

 現場の工業区へ到着すると、警察がイグアナのような顔のアンノウンと銃撃戦を繰り広げているところだった。警察の銃弾を一方的に受けるままだが、アンノウンの纏う赤い鎧には傷ひとつも付いていない。

「変身!」

 光と共にアギトへ変身した翔一は、バイクの速度を上げアンノウンへと突っ込んでいく。肉迫してようやくアンノウンも警察もこちらの存在に気付いたようだが、もう遅い。気付いた次の瞬間に、バイクのカウルはアンノウンの体を突き飛ばしていた。

 バイクから降りた翔一を、アンノウンはぎょろりとした目で睨みながら立ち上がり向かってくる。人間の常識なんて優に超越した存在だ。バイクで轢いたところで倒せるとは思っていない。跳びついてきた敵の腹に拳を入れる。追撃の蹴りで突き飛ばしたところで、不意に背後から体を羽交い絞めにされた。新手か。振りほどこうとするが、逆に脇を固められ投げ飛ばされてしまう。

 地面に伏した翔一は素早く立ち上がりながら、並んで立つアンノウンの姿を認めた。見分けが殆どつかないほど似通った姿はまるで双子みたいだ。違いと言えば、後から現れた個体は青い鎧を纏っているだけ。

 深く息を吸い、翔一は燃え盛る業炎の戦士(バーニングフォーム)の力を解放する。体の底から炎を漏出させる翔一に向かってきたのは赤い鎧のほうだ。翔一の突き出した拳にごぽ、と奇声と共に血を吐き出す。無造作に脇へ捨てると同時、青い鎧が頭上の光輪から出した槍を突き出してきた。切っ先が顔面を突く寸前に掴み拮抗させる。だがそれは、パワーに比重を置いた翔一にとっては容易に振り払うことができた。

 ベルトから双刃刀を引っ張り出し、敵の武器に叩きつける。金属のぶつかり合う音と共に火花が散り、今度こそ叩き折ろうと振り上げたとき、助太刀に来た赤い鎧によって引き剥がされる。そのパワーも、今の翔一にとってはさほど脅威ではない。腹に拳を打ち、胴を肩口から双刃刀で斬り裂いた。

 赤い鎧を血で更に赤く染めたアンノウンが、爆散して消滅していく。残ったもうひとりの標的に目を向けると、分が悪いと判断したのか青い鎧は口から白い霧を吹き出した。まるでタコやイカが墨を吐くように辺りの視界が遮られ、風で流される頃には敵の姿が工場の陰へ消えていく。

 バイクに跨り、翔一はすぐに追跡を開始した。敵の気配は、まだ残り香のように残っている。パトカーのサイレンがけたたましく響いている。警察もアンノウンの追跡にあたっているらしい。巻き添えを食わせてしまうのも面倒だから、追跡の目印にされないよう翔一は力の波を引かせ元の姿に戻る。

 このとき、警察はアンノウンを追っている、と翔一は疑わなかった。まさかパトカーが脇道から飛び出して急停止し、進路を塞いでくるだなんて予想もできるはずがない。Uターンしようにも、後方からもパトカーが数台押し寄せて足止めを喰らう。そればかりか、降りた警官たちは皆一様に拳銃を翔一に向けている。

「アギト、あなたの身柄を拘束します」

 車のドアを盾にするようにして、北條が銃口を向けながら言った。

「あれ、北條さん。何かあったんですか?」

 ヘルメットを脱いで尋ねると、北條は僅かに目を見開いた。

「あなたは……、津上翔一………!」

「やだなあ北條さん怖い顔して。やめて下さいよ銃なんか向けて」

 いつもの調子を崩さない翔一に対し、北條も拳銃の構えを崩さない。

「我々はアギトを追跡していました。そしてこの道は1本道だ。つまり、あなたがアギトである可能性は高いということになる」

「あぎと? 何ですかそれ? 俺夕食の買い物に行かなくちゃいけないんで――」

「動くな!」

 ヘルメットを被ろうとしたところで、銃を向けている警官のひとりから怒声が向けられる。そこで翔一は、自分を取り囲む警官たちの顔をひとりずつ見回していく。

 拳銃を手にする彼らの顔にあるのは、恐怖と疑念だ。アギトという未知との遭遇。本当にアギトなのか、と。

 銃を懐に収めた北條が近付いてくる。

「津上さん。あなたがアギトでないならば、それを証明するために我々に協力してもらえませんか? 任意同行してもらいたいのですが」

「まあ、それは良いですけど………」

 

 

   2

 

 ぼこん、と吐いた息が、泡になって上へと昇っていく。一切の光が射し込まないこの海の底で、上へ上へと昇り続ける自分の息は、永遠に水面に届かないままなのでは、という錯覚にとらわれる。眠ろう、と涼は抱えた膝に顔を埋める。この静かな暗闇の中なら、ずっと穏やかに眠っていられそうだ。

 

 ――ごめんなさい――

 

 水の中なのに鮮明なその声に、涼は目を開く。何も視えないはずの海の底に、涼と同じように膝を抱えている者がいた。緑色の筋肉に、額から伸びる双角。赤いふたつの目。もうひとりの自分とも言うべきその姿と対峙して、涼はただ醜いな、と思った。

 目の前に座っているギルスの体が、眩い光を放つ。まるで翔一や木野が変身するときと同じような光。何故俺には、あんな光がないのか。そんなことを思っていると光は晴れて、そこにはギルスの醜さとは真逆な、幼い少年が座っていた。一切の染みがない顔は悲しさを貼り付けていて、ごめんなさい、と再び幼な声で懺悔する。

 

 ――君を苦しめたくなかった――

 

 無垢なその声は、涼の中に沸々と怒りを込み上げさせる。立ち上がると、涼は少年の胸倉を掴む。

「何故だ。何故俺にこんな力を」

 大人に詰め寄られても、少年は微塵も怯える様子を見せず、ただ悲しげな目で涼を見返す。

 

 ――君を助けたかった。でも、そのために僕が目覚めるには早すぎたんだ――

 

 弁明なんて聞きたくない。過ぎたことは仕方のないことだ。涼が知りたいのは意味。この力を持つことの意味だ。

「何故俺なんだ。何故俺が………」

 少年は告げる。悲しい目のまま無情に。

 

 ――意味なんてない――

 

 唖然とし、胸倉から手が離れる。

 

 ――意味なんて無いんだ。ただ偶々、君の中に僕が宿った。それだけの話なんだ――

 

 何らかの、神の意志なんてものは介在しない。貧乏くじを引かされただけの話。「ふざけるな!」と怒鳴った。その偶然のせいで俺がどれだけのものを失ったと思ってる。散々失って、これからも失い続けて、それを偶然で済まされてたまるか。

 殴りかかろうと拳を振り上げたとき、涼の体は勢いよく上昇を始めた。まるで釣り糸で引っ張り上げられているみたいだ。少年の姿がどんどん小さくなっていく。彼の姿が完全に見えなくなるその寸前に、声はしっかりと届いていた。

 

 ――僕は君を助けたい。それだけは、分かってほしい――

 

 目を開く前に涼が捉えたのは、騒がしい物音だった。がしゃん、と乾いた金属らしきものがぶつかる音がする。同時に呻き声も。

「雅人……、雅人か!」

 目を開くと、視界いっぱいに白んだ光が広がる。その眩しさにようやく慣れ、自身に落ちる光が無数の電球によって織り成された照明だと分かる。

「何故だ、何故邪魔をする………、雅人!」

 重い頭を動かし、声の方向を向く。緑色の手術着を着た医師が、右腕を掴んで苦しそうにもがいている。床にのたうち回っているせいで、周囲の器具が床にばら撒かれている。

 マスクで口元を覆っているが、その目元は身間違えようがない。

 木野薫。

 そう認識すると、朧気だった意識がはっきりとする。同時に、彼が自分にしようとしていた恐ろしい行為も。

 口元の酸素マスクと、腕の点滴の注射針を乱暴にはぎ取って、手術台から降りる。手術室から出る涼を、木野は追ってはこなかった。準備室で脱がされていた服を見つけて着ると、外を目指して走ろうとする。

 胸がひどく痛み、しばし床に伏せて悶絶した。そうだ、俺は奴の蹴りを喰らったんだった。遅れて思い出し、ゆっくりと立ち上がる。肺もやられているのか、呼吸する度に患部が痛んだ。

「大丈夫ですか?」

「どけ!」

 玉汗を浮かべてのそのそ歩く涼に看護師が手を差し伸べてくれたが、乱暴に振り払って歩き続ける。階段を降りている途中、脚の力が抜けて崩れるように転がり落ちる。患部を打ったせいで激痛が走り、粗い呼吸を繰り返し飛びそうな意識を保とうとする。

「涼!」

 階段を駆け下りて来たのは、果南と鞠莉だった。

「どうしたの涼? 何があったの?」

 鞠莉が肩に腕を回してくれるが、「もういい」と乱暴に振り払い手すりに掴まって立ち上がる。

「もう沢山だ!」

 そう、もう沢山だ。何もかも。誰かの手にかかって引導を渡されるくらいなら、ひとりでどこか誰もいない場所で果てさせてほしい。

 涼の願いとは裏腹に、果南は寄ってくる。

「涼!」

「来るな!」

 怒鳴ったせいで、尚更怪我が痛んだ。「もう!」と果南は涼の右腕を肩に回す。左腕も鞠莉に支えられ、振り払おうにもそれほどの力さえ涼にはない。

「ほんと意地っ張りなんだから」

stubborn(強情)も大概にしなさい」

 少女ふたりに支えられ、涼はもたれる脚で進み続ける。歩きながら、視界がぼやけてきた。意識も混濁してきて、果たしてこれが夢なのか現実なのか曖昧で、やがて疑問すらも消えていく。

 体が揺れる感覚と痛みだけが残っていたが、目を閉じるとそれも全て消え失せていった。

 

 

   3

 

 署に戻ってから、通常業務と会議に忙殺されるあまり、午前のカフェでの出来事について話し合う頃には陽が暮れていた。

「葦原涼はアギトの力を持ちながら邪悪な存在だって?」

「はい」

「それで、どうするつもりなの?」

 小沢の問いに、げんなりしながら誠は応える。

「探してみるつもりです。それで木野さんが赦してくれるなら」

「赦すも何もあなたは何も悪いことはしてないじゃないの」

 ぴしゃり、と小沢は言う。

「大体葦原涼なる人物が邪悪なる者だ、てそれも怪しいもんだわ」

 それが嘘だとして、何故木野がそんな嘘をつく必要があるというのか。あれ程の純粋な人間が、誰かを陥れ利用するとは到底思えない。

 反論しようとしたところで、誠のスマートフォンが鳴った。画面には木野の名前が表示されている。すぐに通話に応じた。

「木野さん? 氷川ですが」

『その後、何か分かりましたか? 葦原涼について』

「いえ、まだ何も……。すみません」

 「貸しなさい」と小沢に端末を奪われる。

「あなた何か勘違いしてるんじゃないの? 警察はあなたのために働く組織じゃないのよ。もしもし、聞いてる?」

 通話が切られたらしく、小沢は端末の画面を忌々しそうに一瞥すると誠に返す。

「何よこれ、失礼な奴ね」

「失礼なのは小沢さんじゃないですか。何もあんな言い方しなくても………」

「あなた、本当に最近逆らうわね」

 説教でもされるのでは、と身構えたが「まあいいわ」と小沢自身が回避する。

「とにかく、私が思うに木野薫はアギトではないわね」

「アギトではない? 何故そんな風に思うんです?」

「今までアギトは私達に何も求めてはこなかった。もしアギトが警察を利用したいのなら、もっと前に接近してきたんじゃないかしら?」

「でも、僕はこの目で見たんですよ。木野さんがアギトであるのは間違いありません」

「そうね。でも、もしアギトがひとりではないとしたら」

 思いもよらない仮説に、誠は震える喉元で反芻する。

「アギトが、ひとりではない……?」

「その可能性は十分あると思うけど」

 アギトがふたり。これまで誠が目撃してきたアギトは、木野とは別人かもしれない。確かに辻褄は合うのかもしれないが、あまり現実味があるとも思えなかった。

 アギトそのものが、不可解極まりない存在なのだから。

 

 また警察署の取調室かな、と思っていたのが、翔一が北條に連れてこられたのは沼津市内の総合病院。それも精神科だった。もう診察時間を終えた病院は静かなもので、精神科の診察室は病院というより応接間のようで調度品らしいソファは署で取り調べを受けたときの硬い椅子よりは快適だった。

 聴取は北條と、病院の医師同席で行われた。何でお医者さんが一緒なんだろう、と疑問には思ったが、警察には警察の事情があるのかもしれない、と深くは考えなかった。ただアギトであることを否定すればいい。隠し通せば家に帰してくれるだろう。

「あなたはアギトだ。正直に言ってください。けして悪いようにはしませんから」

「だから違いますって」

 北條からこの質問をされるのも何度目だろうか。流石に疲れてきた。

「何故アギトであることを隠すんですか?」

 と中年の男性医師が訊いてきた。「それは――」と口を開いたあたりで、咄嗟につぐむ。

「おっと危ない危ない。引っ掛かりませんよ。そんな質問に答えたらアギト、てことになるじゃないですか」

 我ながらファインプレー。そう得意げに思っていたのだが、

「ということはアギトなんですね? 今答えようとしていたではありませんか」

「え、そうなりますか?」

 北條からそう言われ、翔一は考える。質問に正直に答えてしまえばアギトということになって。でも今答えなかったけど答えようとした時点でアギトと白状したことになって――

「ややこしいなあ」

 考えすぎて知恵熱が出てしまいそうだ。面倒臭くなって頭を掻きむしり、翔一は観念する。

「分かりました、もういいです。正直に言います。ちょっと耳を貸してください」

 手招きすると、北條と医師は顔を近付けてくれる。これまで隠してきた――別にそのつもりはなく成り行きでそうなってしまったのだが――事実の告白を、翔一は小声で意を決して明かす。

「実は俺、アギトなんです」

 ああ言ってしまった。案外あっさりと言えるもんだな、と思うとつい笑ってしまう。帰ったら志満と美渡にも言うべきだろうか。そうなると梨子の母とか近所の支度している人々にも言ったほうが良いかな、と思った。

 

 秋の澄んだ空気が、宵闇に月明りを落としている。肌寒さに身震いしながら、果南は錆びた鉄柵を越えて誰もいない工場へ入る。幼い頃に鞠莉やダイヤと侵入してかくれんぼをしていた場所が、こんなことに役立つなんて思ってもみなかった。

 かつて休憩室として使われていた部屋は畳が腐っているけど、仮眠用なのか毛布が放置されていたのは助かった。病院に比べたらひどく劣悪な環境だが。せめて家で寝かせてあげられれば良いのだが、なるべく突き止められそうな場所は避けたい、と鞠莉と話し合った末に、この廃墟に落ち着かせることになった。

「どう?」

 汚れた毛布の上に横たわる涼を見ながら、彼の傍にいてくれた鞠莉に尋ねる。鞠莉は首を横に振り、

「変わらないわ」

 深く溜め息をつきながら、果南も鞠莉の隣に座る。コンビニで買ってきたタオルの包装を解くと、涼の体に浮かぶ汗を拭いてやる。患部の痣は、以前よりも範囲を広げていた。病院で処置を受ける寸前に、手術室から逃げたのだろう。

「何でこんなことに………」

 果南の誰に向けてなのかも分からない問いに答えたのは、唇を噛んでいた鞠莉だった。

「薫よ。さっき涼が言ってたの。彼の手術(オペ)をしようとしたみたい」

「薫、て――」

「あの時、わたしと涼を襲った人」

 果南は思い出した。ホテルオハラで鞠莉たちを追っていた、血走った目をした男を。

「あの人、お医者さんだったの?」

「ええ。きっと病院が何も知らずに呼んだのよ」

「何で……、何でその人が涼を襲うの?」

「アギトだからよ」

 聞けば聞くほど分からない。鞠莉は泣きそうな顔をしながらも、懸命に言葉を絞り出す。

「薫は、自分以外のアギトの存在が赦せない。涼とわたしと、きっと果南も狙われる」

「自分以外、て……、その人もアギトなの?」

 鞠莉は首肯する。翔一と涼以外にも、アギトの力を持つ者が存在する。その事実を知り、更に疑問が沸いてきた。

「でもどうして、だからって何で鞠莉やわたしまで?」

「わたし達も、いずれアギトになるから」

 開いた口が塞がらなかった。息をするのも忘れ、気が付けば自分の掌を見つめている。鞠莉は辛そうにしながらも、続けた。

「わたし達の力は、アギトになる前兆なの。わたし達だけじゃないわ。ダイヤも、Aqoursの皆も、アギトの力が目覚めようとしているのよ」

 以前から戸惑っていた、不思議な力。手を使うことなく物を動かし、視えるはずのないものが視える。その力の行きつく果てが、今目の前で苦しんでいる涼と同じ境地なのか。想像するだけで、背中に悪寒が走った。涼のように苦しむ。こんな苦しみに、自分は耐えられるのか。

 びくん、と涼の体が仰け反った。突然のことに鞠莉と揃って短い悲鳴をあげる。涼は重そうな目蓋を持ち上げ、途切れ途切れに掠れた声を絞り出す。

「逃げろ……、奴が……奴が来る………」

 

 



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第4話

 

   1

 

 闇夜の中で、ガードチェイサーの鳴らすサイレンがやまびこのように反響している。住宅街の外れにある廃工場でアンノウン出現、と通報を受けて出動しているが、バイクを駆る誠の裡にあるのは違和感だった。

 何故、閉鎖された工場にアンノウンが。目撃されたのはアンノウンのみで、アギトはいないようだが。まさかアンノウンが廃工場を巣にしているとでもいうのか。

 現場に到着すると同時、G3-Xの暗視センサーが長物を携えた人影を捉え、AIが結論を導き出す。

《目標 アンノウン》

 すかさずGM-01を発砲する。狼狽えながらも弾丸を耐えたアンノウンの関心がこちらへ向くと、誠はガードチェイサーのハッチから次の武装を引っ張り出し、右腕に装着する。

 GS-03デストロイヤー。折り畳まれていた刀身が展開し、内蔵されたモーターによって超振動する刀身が高周波を響かせる。理論上は鉄板を紙同然に切り裂けるが、アンノウンにどこまで通用するか。

 間合いを詰め、アンノウン目掛けて刃を振る。受け止めた敵の槍に触れると火花を散らすが、折るには至らず鍔迫り合いに持ち込まれる。やはり一筋縄ではいかないか。力で押し込もうとしたところで、腹に蹴りを受けて後退させられる。振り下ろされた槍を受け止めようと翳すが、叩き込まれたところが腕との連結部だったことが致命的だった。連結用のハンガーが破壊され、剣が腕から滑り落ちる。更に胸部装甲を突かれ、防いではみたが衝撃までは抑えられず地面に倒される。止めのひと突きを喰らう寸前に、左の二の腕に携行されたナイフを抜いて槍を弾く。

 GK-06ユニコーン。GS-03を小型化させた武装だが、刃の強度は遜色ない分取り回しが良い。生じた僅かな隙に、GM-01の弾丸を至近距離で敵の腹に撃ち込んだ。致命傷を与えるには至らないが、敵との間合いを広げるには十分な隙を作ってくれた。立ち上がりガードチェイサーへ戻ると、リアシートのハンガーロックを解除しGX-05を取り出す。

《解除シマス》

 パスコードロックを解除し、バレルを展開させた最大火力の武装を抱える。銃口を敵へ向けたとき、AIが警告してきた。

《攻撃中止 接近する生体反応あり》

 一瞬遅れて、誠のアンノウンの間にバイクが割って入ってきた。ヘルメットを脱いで露になったその顔を、G3-Xのセンサーはしっかりと捉えている。

「木野さん!」

 木野は誠には目もくれず、アンノウンを見据えている。

「変身」

 夜の闇を一瞬だけ照らす光で、木野は姿を変えた。誠は駆け寄り、改めて至近距離でその姿を凝視する。

「アギト……!」

 その姿は間違いなくアギトだ。これまで自分が見てきた、黄金の角と赤い目を持つ戦士。

「邪魔だ」

 顔面に裏拳を喰らった。不意打ちだったから対処できず地面に倒れる。

「奴は俺が倒す。俺のこの手で」

 拳を握り直し、アギトはゆっくりとアンノウンへと歩き出す。新たな敵、それもアギトの出現に唸り声をあげながら、アンノウンは槍を振り上げる。それよりも速く、アギトの拳はアンノウンの腹を打った。苦し紛れに振られたアンノウンの槍が、アギトの脇腹に打ち付けられる。それを意に介すことのないアギトは槍を脇で固め敵の動きを封じる。

 そこからは一方的な殴打だった。顔面に腹に胸。肉と肉が打たれる音が響く中で、誠はその戦いを見ながら違和感を膨らませていく。

 あんな戦い方を、アギトはしていただろうか。あんな、己の中にある鬱憤を晴らすかのような。

「違う……」

 マスクの中で誠は呟く。姿は確かに同じだ。それでも確信できる。

「あれはアギトではない」

 もうひとりの(アナザー)アギトの蹴りが、アンノウンの体を宙に飛ばす。分が悪いとみたのか、アンノウンは起き上がると逃げ出していく。その姿が廃屋の陰に消えても追うことなく、光を散らし木野薫の姿に戻る。

 誠はマスクを外し、バイクへと歩く木野の前に回り込む。

「待って。待ってください」

 露になった誠の顔を、木野は無表情に見つめている。

「あなたは、一体………」

 いや、そう問うのは不適切だ。何者か、と訊かれて返ってくる答えは、アギトと分かり切っている。

「あなたはアギトではない。少なくとも、僕の知っているアギトではない!」

 半ば怒りを込めて、誠は言い放つ。この怒りが自分勝手なのは承知の上だ。偶々同じ姿だったのを、自分の知る存在と重ね合わせ勘違いをしていただけ。

「それがどうかしましたか」

 逆上することなく静かに木野は言う。どうでもいいことだ、とばかりにバイクに跨る彼に誠は問い続ける。

「何故あなたがアギトに? どうしてあなたはアギトになったんですか!」

 ヘルメットを被る木野は至極冷静なままだ。まるで誠の質問の全てに意味がない、とでも言うように。

「これだけは言っておきましょう。いずれ私は、あなたが知るただひとりのアギトになる」

 どういうことだ。続きの問いは赦されず、木野はバイクを走らせ廃工場を去って行く。

 がしゃん、と後方から物音がした。振り向くと、人影がふたつ宵闇のなかを駆けていく。マスクを外した肉眼だから姿がはっきりしない。プリーツスカートが舞うように見えたが女子高生だろうか。アンノウンの標的になった人物かもしれないが、こんな時間に何故、こんな場所にいたのだろう。

 

「え、翔一くんまた捕まったの⁉」

 夕飯に部屋から降りてきた千歌が長姉から告げられたのは、翔一の不在だった。しかも先ほど警察から連絡が来たらしく、志満も不安げな顔で説明する。

「捕まったんじゃなくて、任意同行よ。何の事件かは教えてくれなかったけど、詳しく話を聞きたいからしばらく預けてほしい、て」

 食卓に皿を並べながら、美渡が溜め息と共に言う。

「あいつ今度は何したのよ………」

 「だから逮捕じゃないのよ」と訂正しつつ、志満の顔にも疲労の色が見えていた。

「大丈夫だとは思うけど、今度はいつ帰ってこられるのかしら」

 

 

   2

 

「うん、前より大分よくなったよ」

 ダンスの通し練習で、いつものようにコーチする果南は満足そうにメンバーの配置を眺めている。まだ曲はできていないけど、これまでの曲で通し練習をしてみて上手くいっているのだから、十分上出来と見ていいだろう。

「ではもう1度、と言いたいところですが――」

 とダイヤが空を見上げる。釣られて善子たちも、茜色に焼け始めた空を見上げた。

「陽が短くなってるからねえ」

 曜が呟く。

 黄昏時、逢魔が時。様々な呼び名を持つ夕焼けはどうしてこんなにも切ない気分にしてくれるのだろう。なんてセンチメンタルな気分になれるほど、善子はまだ人生経験を積んでいない。率直な今の想いとは、今日の晩御飯何かなあ、という他愛もないものだった。

「怪我するといけないしね。後は沼津で練習する時にしよ」

 鞠莉がそう言うと、「じゃあ終わり?」と梨子が嬉しそうに訊いた。「うん、どうしたの?」と千歌が返すと、「え、いや……ちょっと………」としどろもどろになる。

「わたし、今日は先帰るね」

 そそくさと屋上から出て行く梨子を、「え、また?」と千歌は見送る。

「何かあったずら?」

「そういえばここの所、練習終わるとすぐ帰っちゃうよね」

 花丸とルビィの会話に、他の皆も頷き同意を示している。おおよそだが、善子には理由が分かっている。

「じゃあ、わたしと鞠莉も用事あるから帰るね」

 今度は果南が言った。「Ciao」と手を振る鞠莉と一緒に屋上から急ぎ足で出て行く。

「あのふたりも、最近すぐ帰るわよね」

 善子は何ともなしに言う。元からあのふたりは行動を共にすることが多かったけど、ここ最近は特に距離が近い気がする。

「お姉ちゃん、何か聞いてない?」

 同級生なら何か分かるのでは、とルビィは訊いたのだろうが、ダイヤは「いいえ」とかぶりを振る。

「悪いことに首を突っ込んでいなければ良いのですが」

 彼女の予感が的中していただなんて、この時は誰も思っていなかっただろう。特に能天気なことを言っていた千歌は。

「またまたあ、心配し過ぎですよ」

 

 寄り道して家に着く頃には、もう陽は暮れている。テーブルの上に置いてあるケージの中で、犬は梨子の姿を認めると嬉しそうに鳴いた。

「たっだいまあ!」

 出来ることならケージの外に出してやりたいが、まだそこまでする勇気が出ない。せめてものお詫びとして寄り道をしてきたのだが。それにしても沼津は本当に店が少ない。ペット用品を買い求めるにもペットショップがないからホームセンターにまで行かなくてはならないなんて。

「良い子にしてた? 今日はお土産があるのよ」

 袋から芋虫のようなキャラクターのぬいぐるみを出す。

「面白そうでしょ?」

 ケージの扉を僅かに開けて、隙間から中に入れてやる。遊び道具を与えられた犬はぬいぐるみを噛んだ。まるでガムみたいだ。かじるだけでこんなに喜ぶなんて、と思うと自然と笑みが零れる。

「どう、面白い?」

 そこで、ドアがノックされる。「はい」と返事をすると、「梨子、お友達よ」と母が入ってきた。母の1歩後ろに、その「お友達」は立っている。

「善子ちゃん」

 梨子が呼ぶと「ヨハネ」と控え目に抗議してくる。他所の家でもそのスタンスは崩さないらしい。「あら」と母の視線がケージへ向いた。

「まだそのワンちゃんいたの?」

「ああ、うん。何かもう少しだけ、て言われちゃって」

「そう………」

 部屋どころかケージからも出してやれなかったから、母にとっては居るも居ないも同然だったらしい。

「でも梨子ちゃん。犬凄い苦手だから」

 とそれまで大人しくしていた善子が部屋に上がり込むと、ケージを我が物のように持ち上げる。驚いたのか、中の犬が短く鳴き声をあげた。

「やっぱりわたしの家で預かろうかな、て」

 善子からケージを取り返し、

「あら、善子ちゃんの家はマンションだから駄目、て聞いたけど」

 また善子に奪われる。

「少しなら大丈夫よ」

 再び取り返す。

「駄目、て言うからわたしが預かったのよ。さあご飯にしましょうねノクターン」

 再び奪われる。

「ノクターン?」

 そんなケージの取り合いを呆れ顔で見ていた母はひと言だけ。

「まあどうぞ、ごゆっくり」

 それだけ言ってドアを閉めた。余所行きの態度を崩し、善子は噛みつくように言ってくる。

「ちょっと、ノクターンて何よ?」

「この子の名前」

「はあ?」

 また取り返す。窓から覗くと、犬ことノクターンは気分を悪くした様子もなく梨子を見返している。

「いつまでもワンちゃんじゃ可哀想でしょ?」

「この子はわたしが出会ったのよ。名前だってライラプス、て立派なのがあるんだから」

「ラブライブ?」

「ライラプス!」

 とまたケージが奪われた。

「大体何よ、犬苦手だったんじゃないの?」

「苦手だけど仕方ないでしょ。面倒見てほしい、て言ったのは善子ちゃんよ」

「ヨハネ!」

 またドアがノックされた。部屋の外までやり取りが聞こえていたのか、母が恐る恐る、と顔だけドアから覗かせる。

「ふたりとも、ちょっといい?」

 「ええ?」と揃って険のこもった声を返す。そこには敢えて触れず、母は手に持った紙を見せてくれた。

「沼津のほうで、貰ってきたんだけど………」

 それは迷子犬の捜索チラシだった。沼津駅近くで飼い主とはぐれたようで、名前は「あんこ」というらしい。

 掲載されている写真の中にいるのは、顔立ちや毛並みからして紛れもなく、今ケージの中にいるノクターン、またはライラプスだった。

 

「もう1度、お尋ねします」

 疲労の色が伺える声色で、男性医師はもう何度目かも分からない同じ質問をしてくる。

「あなたはいつ、どこで、どうしてアギトになったのか?」

「だから分からないんです。気がついたら何となく」

 津上翔一として生きてきて、初めてアギトに変身した時のことは思い出せる。何故かアンノウンの存在を感じ取ることができて、現場へ向かうと自然と体がアギトの姿に変わって、超人的な力で戦うことができた。

 それ以前となると、翔一にも分からない。もしかした津上翔一として生きる前にもアギトとして戦っていたのかもしれないが、その頃の記憶はごっそりと抜け落ちているのだから。覚えていないことは答えようがない。

 埒が明かないと見たのか、医師は質問を変えた。

「では、アギトとしてのあなたの日々の活動内容を教えてください」

「そうですねえ。まあ、大体菜園で野菜を育ててます。キュウリとかトマトとか――」

「いやそういう事じゃなくて」

 深く溜め息をつくと、医師は北條に「ちょっと良いですか?」とソファから立って部屋の壁際へと促す。ふたりで何やら耳打ちしている際中、翔一は菜園以外の日々の活動内容について考えていた。菜園が求められていた答えと違うのなら、後は家事だろうか。それとも新作料理の考案とか。この前千歌にリクエストされて作ったミカンのデニッシュ食パンは好評だった。試しに一緒に作ってみたゴーヤデニッシュは苦いと不評だったが。

 因みに後から知った事だが、この時北條たちは翔一がアギトであることは嘘かもしれない、と話していたらしい。ただふざけているとしか思えない、とも言っていたとか。

「津上さん」

 話を終えた北條が呼んでくる。

「あなたが本当にアギトなら――」

「はい、アギトです」

「我々としては、あなたがアギトになったきっかけを突き止めなければなりません。そこで、あなたに逆光催眠をかけたいのですが」

「逆光催眠?」

 

 

   3

 

 ノクターンかライラプスか。どちらの名前にするか争われていた「あんこ」の処遇は、早いうちに梨子と両親とで話し合われた。とはいっても既に結論は決まっていたから、ここで特筆すべきことは何も無い。飼い主がいるのなら返すべき。その父の言葉に母も同意見で、梨子も異論はなかった。

 それからは潤滑だった。母がチラシに載っていた連絡先に電話をかけて、飼い主に引き取りに来てくれるよう約束を取り付けてくれた。淡々と進められる別れの準備を、梨子はただぼんやりと何もせず過ごしていた。

 返すのに異論がなかったのは本当だ。ずっと飼うつもりはなかった。あのまま梨子が預かっていても、あんこのためにはならなかっただろう。排泄の後始末は匂いがあるから何とかこなしていたが、1日中ケージに閉じ込めて散歩に連れて行ってあげられなかった。犬にとって散歩は運動の他にストレス解消のために必要、と千歌に教えてもらったことがある。あんな監禁同然の飼い方、愛犬家からすれば動物虐待もいいところだ。

 何より、梨子自身が犬を大切にできる、という確証がない。ずっと抱いていた犬という生き物への恐怖は和らぎ、玩具を買い与えたことから情が芽生えていたのかもしれない。でも、それは本当に情と呼べるものだったのだろうか。ノクターンなんて名付けた犬へ向けた感情を愛情と呼ぶには、1度もあの小さな体を撫でもしなかった梨子の態度は淡泊すぎた。

 

 引き取りに来てくれた飼い主は、壮年の婦人とその娘だった。見たところ小学校に上がったばかりの娘に、ケージから解放されたあんこは跳びついていった。

「あんこ、良かったね」

 顔を舌で舐められながら、娘はあんこを大事そうに抱きしめている。

 わたしの時よりも、嬉しそう。

 嫉妬に似たような感情を覚えたが、すぐに当然と思い直す。世話だってこの子がずっとしていたんだから。わたしはただ数日預かっていただけ。

「良かったですね」

 再会を喜ぶ親子には、それしか言えなかった。一応あんこの発見者として隣には善子がついているのだが、顔に苦笑を貼り付けたままひと言も発せずにいる。

「本当にありがとうございました。あんこもお礼を言いなさい」

 母親に促されて、娘はあんこを抱きかかえて梨子の前まで連れてきてくれる。

「ありがとう」

 そう無垢な笑顔で告げる娘の腕の中で、あんこは梨子を見上げていた。撫でようと掌を近付ける。思えば、面倒を見ていた間、一度も触れたことがなかった。せめて別れの時くらいは、と思ったのだが、やはり犬への恐怖は多少薄れても消えたわけじゃない。なかなか触れられずに手を静止させていると、ちろ、と温かいあんこの舌が梨子の掌を舐めた。

「それじゃ、失礼します」

「ばいばーい!」

 親子はあんこを連れて車に乗り込んでいく。すぐに車が走り出して去って行くと、これまで黙っていた善子が泣き出して「ライラプスう」と自分の付けた名前を呼んでいる。

 梨子は自分の掌を見つめていた。あんこが舐めた掌。

 あの子、自分からわたしに触れてきた。

 わたしは1度も、あの子に触れようとしなかったのに。

 

 

   4

 

 部室のホワイトボードを眺めて、果南はその乱雑さに思わず笑ってしまう。ミーティングで書き込まれた、新曲のテーマの数々。各々の新曲に込めたい想いが、メンバーと同じ数だけ綴られている。

 まるで冷蔵庫の扉に貼られたメモ書きみたい、と思った。忘れないよう走り書きされ、思い出す頃には何のことか自身でも容量を得ないほどの雑多さ。何てまとまりのないグループだろう。よく予備予選を突破できたものだ。でも取りまとめのない分、様々な色のペンで書かれた言葉の連なりは、書いたメンバーの顔が見えてくる。

 これを書いた、Aqoursの皆。それぞれの顔を思い浮かべた後に脳裏をよぎったのは、鞠莉の言葉だった。

 

 ――わたし達も、いずれアギトになる――

 

 その果てにある未来は未知数だ。裡で醸造された力が異形の姿として発現するのに、どれだけの時間を要するのかを知らない。力が目覚めた末に辿る道を知らない。

 涼のように、苦痛にのたうち回ることになるのか。

 木野のように、邪悪な意志のままに力を振るう怪物になるのか。

「あれ?」

 呆けた顔で入ってきたのは千歌だった。

「皆屋上だよ。どうしたの?」

「うん。どんな曲が良いのかな、て」

 千歌は冷蔵庫の扉状態になったホワイトボードを見て苦笑し、

「だよね。果南ちゃんはアイディアある?」

 果南は千歌の顔を見つめた。そういえば涼を蘇らせたとき、千歌だけが力を使わなかった。相良が息を引き取る前に、千歌には力がない、と言っていた。

 きっと千歌だけは、アギトの運命から外れている。この子だけは、普通の人間としての人生を送ることができる。

「ううん。ただわたしは、後悔しないようにするだけ。これが最後のラブライブだしね」

 悟られないよう果南は言う。これも本心なところが辛い。

「最後……」

 と千歌は反芻した。

「ダイヤと鞠莉と3人でここで曲作って、その想いが繋がって、偶然が重なってここまで来たんだもん。やりきった、て思いたい」

 やりきれば、これから待ち受ける運命が過酷でも、受け入れることができるかな。わたしは受け入れられても、他の皆は受け入れられるかな。

 その時、せめて千歌だけは、幸せであってくれるかな。

「千歌ちゃん大変!」

 部室まで走ってきた曜がまくし立てる。

「梨子ちゃんと善子ちゃんが………」

「どうかした?」

 果南が訊くと、曜もどう説明したら良いか悩みどころらしく、こめかみに指を添えながら答える。

「………情緒不安定?」

 取り敢えず様子を見に行こう、と曜の案内でグラウンドまで急いだ。他のメンバー達も集合していて、皆が向ける視線の先で梨子と善子が木の枝でグラウンドの土に何か描いている。

 目を凝らして見ると、ふたりが描いているのは犬だった。善子の描く犬は描き手のセンスか羽が加えられていて、梨子の方は――文章では形容しがたい出来と書けばお察し頂けるだろう。

「取ってこい」

 とふたり揃って枝を投げるのだが、2本の枝は地面を転がるだけで取ってくる生き物なんてどこにもいない。虚しさに耐えられなくなったのか、ふたりともその場で膝を抱える。

 不気味なのは、ここまでのふたりの動作が寸分違わず同じだったということだ。

「シンクロ?」

 最も分かりやすい例えを鞠莉が呟く。

「でもどうしてふたりが?」

 ルビィが誰ともなしに尋ねると、花丸がピースサインを目元に添えるポーズをする。

「まさか、悪霊に憑りつかれたずら?」

「何かちょっと善子ちゃんぽいね、花丸ちゃん」

「ずらん」

 あれも力の反動なのかな、と一瞬身震いしたが、すぐに違うだろうな、と思えた。

 

 



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第5話

 やはり善子ちゃんは書いていて楽しいキャラクターです。ここ最近Aqoursメンバーもシリアスな事案に巻き込まれてばかりなので良い清涼剤になりました。

 果南ちゃん、鞠莉ちゃん、ごめんなさい。
 私の腕では『アギト』と絡ませるとどうしてもシャイニーな展開から離れてしまいました………。




 

   1

 

 いつまでも寂しがっている訳にはいかない。ラブライブの地区予選も近付いているわけだし、練習に専念しよう。体を思い切り動かせば、この喉元に異物がつっかえたような気分も紛れるに違いない。

 と思っていたのだが、そう上手く紛れるものでもなかった。梨子も善子も練習に全く身が入らなくて、果南から早退するよう言われる始末だ。バス停で次の便を待っている間、頭の中に浮かぶのはどうしてもノクターン、もといあんこの事ばかり。

「飼い主のもとに戻ったのは良かったんだけど………」

 それが本来あるべき姿のはず。あの子の居るべき場所は梨子のもとでも善子のもとでもない。これが最善、と何度自身に言い聞かせたことだろう。

「やっぱりこんなの間違ってる」

 唐突に善子が言った。

「よく考えてみれば、あの人が飼い主だ、て証拠は無いはずよ。仮に飼っていたとしても、本当に飼っていたのがライラプスだとは限らない。そっくりな違う犬だったという可能性も――」

「そんな無茶苦茶な」

 あの時まっすぐ飼い主の少女に跳びついていったじゃない。人なら誰にでも尻尾を振るほど警戒心のない犬でもあるまいし。

「取り戻しに行くわよ」

「はい?」

「言ったでしょ。あの子とわたしは上級契約の関係。運命(デスティニー)で結ばれているの」

「無茶よ。迷惑でしょそんなことしたら」

「だったらいい。わたしひとりで行くから」

 はあ、と深く溜め息をつく。本当に連れて帰ってきたら誘拐になる。そうなればラブライブだって出場停止処分になりかねないのに。

 

「何で着いてきてるのよ?」

 沼津の住宅街でバスを降りたところで、低い声で善子が囁く。ご丁寧に鞄から引っ張り出した黒いパーカーまで着込んでいて、本当に誘拐犯に見えてきた。

「だって、一応わたしにも責任はあるし」

 それに誘拐しそうになったら止めないと。本音は裡に留めておく。

 住宅街をしばらく歩いて、善子は件の家を前にして脚を止める。

「流石、何か邪悪な気配に満ち溢れている家ね」

「そう? 普通の家にしか見えないけど」

 こんな失礼な発言、住人に訊かれていないことを祈るしかない。ふたりとも浦の星の制服を着ているから、問題を起こせば1発で学校に連絡が行くというのに。どこまでこの後輩は向こう見ずに行動してしまうのか。

 外でも堕天使を崩さない善子は家の前で手をかざし、

「感じる。ライラプスの気配が、あの壁の向こうから………」

 決めているところ悪いが、言わなければなるまい。

「善子ちゃん」

「ヨハネ!」

「この住所だとその家じゃなくて、そっちじゃない?」

 と隣家を指さす。捜索チラシにある住所の番地と一致するのは、恐らく梨子の指した家のほうだろう。

「やっぱりこっちよ」

「確かに、感じる………」

「さっき同じこと言ってなかった?」

「うるさいわね! 呼び寄せる」

 と家のドアに向かって手をかざし、「こーい、こーい」と手をこまねき始める。

「リトルデーモン、ライラプス。主のもとに………」

 普通にインターホン押せばいいんじゃ。そう思ったが、訪ねたところで何と言ったらいいものか。あの子はあんこじゃなくてライラプスなので返してください、なんて要求を聞き入れてはくれないだろう。

「あら」

 不意に横からそんな声が聞こえてきた。

「この間はどうも」

 びくん、とふたり揃って肩を震わせながら向くと、飼い主の婦人だった。

「え、あの、その………」

 見事に奇行を目撃されてしまった羞恥と、目的の不明瞭さから固まってしまう。

「し、失礼しました!」

 深く一礼し、家の前から逃げ出してしまう。何やってるんだろう、わたし。あの犬と会ったところで、何をしたいんだろう。別れ際に何でわたしの手を舐めたの、と訊きたいのだろうか。犬に訊いたところでまともな答えが返ってくるとは思えないけど。

 婦人が家に入るのを見計らって、梨子と善子は家の真向かいにあるコインパーキングに身を隠した。善子曰くプランB――たった今考えた――に移行。散歩で家から出たところで接触を図る。

「出てこないわねえ」

 しばらく待ってはみたが、音沙汰はない。晴れていた空の雲行きも怪しくなってきた。

「やはり何者かに妨害されているようね」

 単に飼い主に警戒されているだけな気もするが。家の前で奇行を働く高校生がいたら、外出も控えるだろう。

「こうなったら………」

「こうなったら?」

「出てくるまで待つ」

 と善子はしゃがんだ。

「本気? 日が暮れるわよ」

「嫌なら帰りなさいよ。前にも言ったけど、あの子はわたしにとって特別なの」

「でも――」

 スマートフォンが鳴った。ポケットから出すと母から『何時頃帰ってくるの?』とメッセージが届いている。しばし逡巡を挟み、『もうすぐ帰る』と返信を送る。梨子がいくら説得を試みたところで、善子は梃子でも動かないだろう。

「もう、わたし帰るわね」

「そう、じゃあね」

 どうせすぐ諦める。そう思いバス停まで歩いた頃には、気温が一気に下がったらしく肌寒くなっていた。ぽたり、と頬に冷たい雫が落ちる。通り雨とは天気予報であったから、折り畳み傘は持って来ていた。善子はちゃんと持っているだろうか。持っていなければすぐ帰りそうだが、あそこまで強情になった彼女が雨ごときであのコインパーキングから動くかどうか。

 考えているうちに、バスが来た。

 

 

   2

 

 雨音がアスファルトを叩きつける。パーキングの精算機のところは簡素ながら屋根が備え付けられていて、何とか雨をしのぐことはできた。

 そういえば、と善子は思い出す。初めてライラプスと出会ったときも、今よりは激しい暴風雨の中だった。成程、ふたりが出会うためには雨という条件が必要だったか。ならば必ずライラプスは現れる。

 流石に寒くなってくる。もっと厚手の上着を持ってくればよかった。腕をさすって温めていたとき、パーキングに先ほど帰ったはずの人物が傘を手に戻ってくる。

「梨子……」

「風邪引くわよ。あとこれ」

 と梨子はコンビニのビニール袋を差し出してきた。「いらない」とそっぽを向いたが、構わず梨子は袋からおにぎりを差し出す。一瞥すると、腹の虫が鳴った。時計は見ていないけど、そろそろ夕飯時かもしれない。

「………ありがとう」

 人間の体とはつくづく不便だ。お腹は空くし、疲れるし、眠くなるし。そんなことを思いながら、素直に受け取ったおにぎりを食べる。何だか張り込みをしている刑事になった気分だ。氷川はこんな退屈で味気のない仕事をしているのか、と妙な感慨を覚える。

「どうして戻ってきたの?」

「考えてみたら、帰っちゃったら本当に出てきたときに会えないな、て」

「わたしが先に出会ったんだからね」

「それは分かってるけど」

 そこからは、ふたりとも黙っておにぎりを咀嚼する。食べている間も善子の視線はライラプスがいるはずの家に向いていて、出てくる時を待ち続ける。わたし達が出会った日と同じ雨よ。あなたもリトルデーモンなら何か感じるものがあるでしょライラプス。

「どうして運命なの?」

「何が?」

「犬」

運命(デスティニー)運命(デスティニー)よ」

「そうかもしれないけど………」

 しつこい梨子には、誤魔化せそうにない。

「堕天使、ていると思う?」

「え?」

「わたしさ、小さい頃からすっごい運が悪かったの。外に出ればいつも雨に降られるし、転ぶし。何しても自分だけ上手くいかないし」

 まあ、どれも他人に話せば笑える程度の不幸さだけど。善子のまだ短い人生で特に大きな絶望は無いけれど、同時に大きな喜びも無い。比率としては積み重なった不幸のほうに比重が傾いていて、ある種の呪いでは、と幼い頃は真剣に、それこそ人生を懸ける想いで悩んでいた。

「それで思ったの。きっとわたしが特別だから、視えない力が働いているんだ、て」

 悩み抜いた末に出した結論が、自分は人間じゃなくて堕天使、という妄想。天界で神に愛されるあまり、他の天使たちの嫉妬を買って人間界に堕とされた。だから何をするにも自分を妬む存在からの妨害を受けてしまう。

「それで、堕天使?」

「勿論、堕天使なんているはずない、て。それはもう何となく感じている。クラスじゃ言わないようにしているし」

 それが子供の苦し紛れの妄想だとは、とっくに理解している。自分は堕天使でも何でもなく、ただの人間。特別なものなんて何もない。

 そう思うようにしていた。

「でもさ、本当にそういうの全くないのかな、て。運命とか、視えない力とか。アンノウンとかアギトとかは確かにあるのに、わたしには無いのかな、て」

 不思議なものを目の当たりにして、善子の中で芽生えたのは空虚だった。本当にあったのなら、どうしてわたしじゃ駄目だったのだろう、と。どうして呑気に日々を過ごしている翔一が、アギトとして選ばれたのだろう、と。彼の居場所は、わたしでも良かったのに。少しでも、その特別を分けてほしかった。

「そんな時、出会ったの。何か視えない力で引き寄せられるようだった。これは絶対、偶然じゃなくて何かに導かれてるんだ、て。そう思った」

 偶然だ、と笑いたければ笑えばいい。でもあの時、ライラプスを見つけた時に善子は確かに感じることができていたのだから。ほんのささやかな特別を。

「不思議な力が働いたんだ、て」

 パーキングの自販機で飲み物を買うと、空から茜色の光が降りてくる。雲間から西に傾き始めた太陽が、本日の黄昏時を告げる。

「雨、やんだね」

 そう呟く梨子に「はい、ライラプス」と飲み物を渡す。缶のラベルを見て、「ノクターン!」と少し苛立ったように訂正してきた。おや、おしるこは嫌いだっただろうか。

「やんだねえ」

 という幼い声と共に、家の門が開けられる。リードに繋がれた犬を連れた少女が門から出てこようとしたとき、家の中から「もえちゃん、ちょっと」と婦人の声が飛んでくる。

「あんこ、ちょっと待っててね」

 少女はリードを門の取っ手に括りつけ、家の中へ戻っていく。飼い主を今か今かと待ちわびる犬は、善子たちには気付かず背を向けている。今すぐにでも連れて帰りたいが、まずは確かめなければならない。

 気付いて、という念を込めた缶を、犬のほうへ向ける。

 その飼い主もあんこという名も、人間界での仮のもの。

 あなたの本当の名はリトルデーモン、ライラプス。

 上級契約のもと、本来の主たるヨハネの下へ戻りなさい。

 犬の顔がくるり、とこちらへ向いた。「見た」と梨子が驚きを口に出す。善子のほうはやっぱりね、という確信だった。上級契約はまだ生きていた。

「わたしよ、分かる?」

 ライラプスはこちらを見つめている。尻尾が揺れているのが見えた。さあおいでライラプス、と声をかけようとしたとき、

「あんこ」

 と呼ばれると、すぐさま本来の飼い主へと顔を向ける。尻尾は善子に向いたときよりも激しく振っていた。

「ごめんね。雨あがったばっかりだから、まだお散歩ダメだって。お家へ戻ろうね」

 家の中に入っていくふたりを、善子は乾いた笑い声で見送ることしかできなかった。ずっと一緒に暮らしていた飼い主と、しばらく預かっていただけの善子。どっちの元へ行くかなんて、最初から分かり切っていたことだ。

 何にせよ、答えは出た。あの犬はライラプスというリトルデーモンではなく、あんこという犬として生きる道を選んだ。というより、最初からあの犬はあんこのままで、善子との上級契約なんて無かった。

「やっぱり偶然だったようね。この堕天使ヨハネに気付かないなんて」

 もう残り香も消えかかっているケージに視線を落としながら、強がりを言い放つ。胸の裡にあるガス溜まりのような感覚は消えたけれど、空っぽになったらそれはそれで虚しい。

「でも、見てくれた」

 梨子が言った。その声も、穏やかな表情からも、皮肉や嘲笑なんてものは全く感じない。

「視えない力はあると思う。善子ちゃんの中だけじゃなくて、どんな人にも」

 仮に目覚めたとしても、その力は善子だけの特別じゃない。それは少し複雑な気分だが。

「………そうかな?」

「うん。だから信じている限り、きっとその力は働いていると思うよ」

 梨子も似たような力を感じたことがあるのかな。そう思うと、少しだけ自分の妄想にも意味ができた気がした。アンノウンとアギト。それ以外にもきっと世の中は不思議に溢れていて、善子の中にも未知のものが宿っている。きっと梨子にも。

「流石わたしのリトルデーモン。ヨハネの名において、上級リトルデーモンに認定してあげる」

 いつものように呆れられるか無視されるか、と思っていたのだが、この時の梨子はどこまでも優しかった。

「ありがと、ヨハネちゃん」

「善子! ………あれ?」

 

 

   3

 

 地方集落は街灯こそ少ないけれど、そのお陰か月光がよく映える。雲間から覗く月が内浦湾を照らし、きらきらとささやかな光をもたらしてくれる。空気が澄んできた分、これから日を経ていくにつれてより光も映えるだろう。

「偶然が重なってここまで来た、か」

 果南の言葉を、千歌はひとり呟く。スクールアイドルをやりたい、と思った矢先に梨子が内浦にやって来て、曜も交え3人でAqoursが始まって。1年生が加わってメンバーが増えて。続けて加わった3年生たちも、実は同じグループ名のスクールアイドルで。本当に偶然て不思議だな、と思った。偶然なんて言葉で片付かないくらいに。

 無意識に目が向くのは、三津海水浴場の波打ち際の1点。あそこで倒れていた青年を千歌と曜が見つけたのも、偶然と言っていい。もしかしたら別の人物が見つけて、青年はその人の家で世話になっていたのかもしれない。

 彼と出会って、全てが幸せだったわけじゃない。アンノウンとかアギトとか、怖いことも沢山あった。それでもやっぱり、千歌は彼と出会えて良かった、と思える。

「早く帰ってこないかなあ、翔一くん」

 独りごちりながら家の塀を潜る。いつもなら玄関前にいるしいたけが出迎えてくれるのだが、そのしいたけを前に梨子が手をかざしているのを見て、千歌は足を止めた。梨子の手が頭に触れようとしたとき、しいたけが後ろ足で首を掻くものだから驚いた梨子は手を引っ込めてしまう。

「梨子ちゃん、どうしたの?」

 声をかけると「千歌ちゃん」と梨子は再びしいたけに向き直る。

「試してみようかな、て。これも出会いだから」

「え?」

「わたしね、もしかしてこの世界に偶然なんて無いのかも、て思ったの」

「偶然は、無い?」

「色んな人が色んな想いを抱いて、その想いが視えない力になって引き寄せられて、運命のように出会う」

 梨子はポケットから骨の形を模したビスケットを出した。

「全てに意味がある」

 それは梨子や、皆の裡にある力なのかもしれない。それが引き寄せ合って、Aqoursになったのかもしれない。そうなると、翔一がここに来るのも必然だったのかな。ふとそんな想いにとらわれる。

「視えないだけで、きっと――」

 ビスケットを乗せた掌を、しいたけの口元に持っていく。しいたけはがっつくことなく、梨子の手にあるお菓子を食べた。犬にも警戒心はある。たとえ食べ物で釣っても、信頼できない人間に触れることはない。前からそうだったように、しいたけは梨子を拒んだりしない。

 梨子はそ、と掌をしいたけの頭に乗せた。優しく毛を撫でる彼女の手を、しいたけは受け入れる。運命は何も過酷なものをもたらすだけじゃない。失うだけじゃなくて、得るものだってある。

「そう思えば、素敵じゃない」

 

 

   4

 

 以前来た時と変わらず、廃工場は人気が全くない。一応調べてはみたのだが、ここは10年以上前に廃業した鉄工所だ。訪れるとしたら住所を失ったホームレスか、それとも家に帰りたくない非行少年か。

 何にしても、ここをねぐらにしている人物を標的にアンノウンが現れたのなら放っておくわけにはいかない。前は取り逃がしてしまったから、再び現れる可能性は十分にある。

 車のヘッドライトは赤茶色に錆びた建物の壁や不法投棄されたゴミの山ばかりを照らしているが、光に照らされたなかでふたりの人影がよぎった。すぐに車を停めて、暗がりの中で影のある点へ懐中電灯の光を向ける。

「待ちなさい!」

 光を向けられ、眩しさに目を細めるのは少女たちだった。それも見知った顔の。

「松浦さんに、小原さん?」

 目が慣れたのか、それとも声で気付いたのか、「氷川さん?」と果南が恐る恐る、といった様子で返す。

「こんなところで何を――」

 彼女らのもとへ歩いていく途中、鞠莉が目を見開いて誠を凝視する。いや、彼女が見ていたのは誠ではなかった。

「後ろ!」

 咄嗟に振り向くと、暗闇の中から異形の存在が現れる。懐から拳銃を出したが、それよりも速くアンノウンの腕が誠を突き飛ばす。地面を転がった拍子に拳銃と懐中電灯を取りこぼしてしまった。雲間から月光が落ちる。照らされたアンノウンの姿は、以前取り逃がした個体で間違いないだろう。

「逃げてください!」

 誠が声を飛ばすと、立ちすくんでいたふたりは工場の中へ走っていく。誠の目に、壊れたシャッターの傍に鎮座しているオフロードバイクが映った。駆け寄って目を凝らすと、不用心なことにキーが挿さったままだ。だがこの不用心さに助けられた。

 シートに跨ってエンジンを駆動させると、アクセルを捻りアンノウンへ向かっていく。致命傷までには至らないが、その体を突き飛ばすくらいの効果はあった。

 バイクから降りた誠は、果南と鞠莉のもとへ向かいながらスマートフォンを通話モードにして耳に押し当てる。応答はすぐに来た。

『氷川君?』

「小沢さん、アンノウン出現!」

『分かったわ』

 至極冷静な声で通話が切れる。走りながら振り返ると、アンノウンは先ほどバイクに轢かれたことなど無かったかのように悠然とこちらへ歩いてくる。

「松浦さん! 小原さん!」

 「こっちよ!」と返事はすぐに来た。声の方向へ走ると、果南と鞠莉はドラム缶の陰に隠れていた。

「逃げなさい、早く」

 そこで、甲高いバイクの音が近付いてきた。アンノウンと誠たちの間に割って入ってきたその姿は、月光だけでも十分に認識できるシルエットをしている。

「薫……!」

 鞠莉が震える声で呟く。バイクから降りたアナザーアギトは、その赤い目を敵であるはずのアンノウンではなく誠たちへ向けている。

「見つけたぞ。今度は逃がさん。お前たちも、葦原涼もな」

 「逃げろ!」と工場の奥から声が聞こえた。夜目がきくのか、アナザーアギトは声の方を向きふん、と鼻を鳴らす。

「逃げるんだ!」

 その声の主が、葦原涼か。木野が邪悪な存在と語っていた、アギトと同じ力を持つ者。

「こんな所に隠れていたのか」

 声のほうへ歩き出すアナザーアギトを、アンノウンが阻む。ひとまずの邪魔を排除するべく、アナザーアギトは顔面に拳を埋めた。それに紛れ、誠は声の方へ走る。先程回収した懐中電灯の光をあちこちへ向け、ようやく彼の姿を照らし出すことができた。涼は胸を押さえつけながら、玉汗の浮かぶ顔を苦しそうに歪めている。

「こっちへ」

 「よせ」と涼は拒んできたが、殆ど体に力が入らないのか誠の手を振り切れずにいた。構わず肩を支えて起こし、果南と鞠莉の手も借りながら車へと連れていく。

 ガラスが割れる音がした。振り向けば、敵を排除したのかアナザーアギトが赤い両眼をこちらに向けている。

「終わりだ」

 

 長い夢を、視させられていたような気がする。

 翔一の記憶はただ裡の奥底に眠っているだけで、失われたわけじゃない。逆行催眠とは催眠状態にした上で、眠っている記憶を呼び覚ますイメージ、とセラピーの前に説明された。

 でも後からいくら思い出そうとしても、その時翔一は果たして過去の記憶を蘇らせていたのかは判然としない。北條によると効果はあったらしいのだが、翔一にはいまいち実感が湧かなかった。

 浮上させられた記憶は大半が深く沈んでいき、まどろみのなかにあった翔一が視ていた夢はほんのひと時のものだけだった。

 

 ――こっちに来て。こっちこっち。こっちに来て――

 

 海岸で自分を呼ぶ女性。千歌が教えてくれた。彼女は姉だと。実感が湧かない。本当に彼女が、血を分けた肉親だなんて。記憶が無いせいか、愛しさなんてものは感じられなかった。

「津上君」

 別の女性の声が聞こえる。意識は現実へと引き戻され、姉のいる海岸は遥か遠くへと過ぎ去っていく。

「津上君」

 再び呼ばれ、目蓋を開く。ソファで眠っていたらしい。随分と長く眠り続けていたらしく、体の節々が凝り固まっていた。何でも逆行催眠は数日にも及んでいたらしい。

「あれ、小沢さん。何でここに?」

 自分を呼んでいた女性を見上げながら翔一は尋ねる。翔一の質問には答えてくれず、小沢は逆に質問を向ける。

「あなた、アギトなの?」

「はい、実は」

 面と向かって明かしてみると照れるもので、翔一は笑ってしまう。釣られたのか小沢も笑っていて、

「そう。良かった、あなたがアギトで」

 小沢はすぐにまなじりを吊り上げた。

「起きてすぐで悪いのだけど、助けてくれるかしら、氷川君を?」

「はい、慣れてますから」

 またアンノウンに苦戦しているのだろう。即答したことに小沢は満足そうに笑み、

「本物ね、やっぱり。行くわよ」

 小沢について部屋を出てすぐ、北條が腕を組んで待ち構えていた。

「待ってください。どこに行くつもりです?」

「あなたと話している暇は無いわ」

 それだけ言って小沢は北條の股間を膝蹴りする。声にならないほどの悲鳴をあげながら、北條はその場でうずくまってしまう。痛いよねえ、と同情はするが、緊急事態だから特に何も言わず翔一は早足で小沢の後を追った。

 

 






次章 Aqours WAVE / ギルス咆哮


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第19章 Aqours WAVE / ギルス咆哮
第1話


 

   1

 

 暗闇の中から、それは光を身に纏うようにして現れた。残滓を散らしながら駆けてきたそれは、アナザーアギトに組み付き進路を阻む。だが乱入者の腕を振りほどき、アナザーアギトは顔面に肘鉄を食らわせた。

 突き飛ばされ地面を転がる乱入者の姿が、涼を車へ押し込もうとしていた誠の視界に入り込む。

「アギト!」

 起き上がったアギトが、間合いを置いてアナザーアギトと対峙する。傍から見てそれは異様な状況だった。全く同じ姿をした者同士が、同じ視界の中で同時に存在している。まるでドッペルゲンガーだ。遭遇してしまえば、どちらかは死ななければならない。

「丁度いい。お前もこの手で倒さねばならぬ相手。今この場でけりを付けるか」

 低く唸るように告げ、アナザーアギトはアギトへ肉迫する。鋭い拳の殴打を、アギトは反撃せずひたすら防戦を貫く。だが相手のパワーが凄まじいらしく、アギトの防御態勢はあっけなく崩されてしまう。

 アギトの体が宙へ投げ出され、誠たちのほうへ迫ってきた。車へ乗りかかっていた涼の体を引き戻し、接触寸前のところで逃れる。倒れたアギトの首に手が掛けられ無理矢理に立たされる。喉元を掴まれ、車のボンネットに押し付けられた戦士に、涼は苦し紛れに声を飛ばす。

「戦え! 奴の姿に惑わされるな!」

 アギトの視線が、一瞬だけこちらへと向けられる。一瞬のみの隙を突かれ、アナザーアギトの拳が腹に食い込んだ。ごふ、と咳き込みながらも、アギトはアナザーアギトの鳩尾に蹴りを入れて引き剥がす。

「氷川君!」

 その声に振り返ると、ヘッドライトを灯した車の前に小沢が立っていた。

「こっちよ、急いで」

 それだけ言って小沢は運転席に乗り込む。果南と鞠莉の手を借りて涼を後部座席へ押し込み、ドアを閉めると間髪入れず小沢はアクセルを踏み込んで車を発進させる。

 狭い山道から、伊豆市への境に敷かれた県道に出る。小沢がヘッドライトをハイビームに切り替えたところで、進路上で何者かが立ち往生しているのが見えた。すぐに急ブレーキが掛けられ、慣性とタイヤのスリップで洗濯機のような遠心力が車内に回っていく。助手席の誠はシートベルトのお陰で振り回されずに済んだが、後部席にいる3人はそんな余裕はなかったのか一気に座席の端へと押し込まれる。特に涼は打ち所が悪かったらしく、苦しそうに呻き声をあげた。

 誠は窓から道路上にいる人影を注視する。ライトの光線からは外れているが、月明かりだけでその不可思議なシルエットは十分に判別できた。

「止まれ!」

 車から飛び出すと同時、拳銃を構えながら怒声を飛ばす。誠の声など耳に入らないのか、そもそも耳がないのか、その人影は悠然と歩いてくる。トリガーを引くが、撃ち出された弾丸は敵に命中すらしない。GM-01でも牽制にしかならない相手だ。対人用の拳銃なんて足止めにもならない。

「逃げて!」

 後方に向けて叫ぶと、後部ドアが開いて転がるように果南が出てきた。続けて出てきた鞠莉とふたりで涼を引っ張り出して、両脇から肩を支えて県道を拙い足取りで歩き出す。

 直後、誠の胸倉が掴まれた。いつの間にか距離を詰めていたアンノウンの吐息を感じ取れる。ゴミ捨て場に放置された生魚のような臭気に思わず息を止めると同時、胸倉を掴まれ無造作に道路脇に投げられる。

 サイレンの音が聞こえた。頭を上げると、道路の彼方からパトランプを光らせながらトレーラーが近付いてくる。

「氷川君、行くわよ」

 起こしてくれた小沢の指示に「はい」と頷き、彼女と共にトレーラーへ走っていく。痛みは打ち身程度だ。オペレーションに支障はない。停車したトレーラーに乗り込むと、カーゴで尾室が既にオペレーションの準備をしてくれていた。装備一式を纏ってガードチェイサーがトレーラーから吐き出されるのに3人も掛からなかった。出動前に放たれていたドローンは既にアンノウンの姿を捉えていて、観測地点をG3-Xの視界ディスプレイに送信してくれる。AIが周辺の地形から割り出したルートに従って、マシンを山中へと向かわせた。

 現場に到着するとアンノウンは既に標的へ残り数メートルまで迫っていて、標的になった3人は脚をもつれさせドミノ倒しのように転んでしまう。アンノウンが一気に距離を詰めようとした寸前で、ガードチェイサーから降りた誠は間に滑り込むことができた。

「逃げなさい!」

 3人に告げると、アンノウンの腹に蹴りを入れて距離を取らせる。アンノウンは頭上の光輪から槍を引っ張り出し、すかさず誠はGM-01を抜き敵の手に発砲する。ダメージこそ負わせることはできなかったが、命中させた手から武器を取りこぼさせることはできた。武器を失った敵の下顎を拳で打ち上げる。流石のアンノウンもこれは堪えたらしく、宙に投げ出され茂みに倒れる。

 すぐさまガードチェイサーへ戻り武装ハッチを開ける。GA-04 アンタレス。本来なら災害救助用のユニットを右腕に装着し、起き上がった敵に向けると同時に錨の付いたワイヤーを射出する。コンピュータ制御された鋼鉄製ワイヤーは敵に巻き付いて、その身動きを封じる。これで逃げられはしない。外した武装をマシンのハンドルに固定させた。

《解除シマス》

 ロックを外したGX-05の銃口を向け、動かない的になった敵に銃弾の礫を浴びせていく。弾倉が空になる寸前のところで、体の肉を削ぎ落されたアンノウンはとうとう力尽き、爆散した。

 硝煙がたちこめる山中を、サーモグラフィに切り替えたセンサーで見渡す。だがどこも真っ暗で、先までいた3人の生体反応はどこにも見当たらなかった。

 

「お前は――」

 翔一の言葉を遮るように、アナザーアギトの拳が胸を穿つ。気道に詰まった空気を咳込んで吐き出しながら、翔一は問いをやめない。

「何なんだ!」

 答えは返らず、アナザーアギトの蹴りが眼前に迫る。頭を下げて避けつつ、反撃の回し蹴りを見舞うも腕で防御されてしまう。

 まるで鏡の自分と戦っているみたいだ。似ている。初めてギルスに変身した涼と戦ったときも感じていたが、このアナザーアギトは涼よりも更に強く自分との類似を感じずにいられない。

 いや違う。似ているどころか、全く自分と同じ。同じアギトの力だ。

 翔一は唾を飲み込む。自身を包み込み、鎧となった力。その矛先が自身に向けられている。心底ぞ、とした。涼以外でのアギトの力を持つ者との邂逅を想像したことはあっても、拳を交えることなんて考えたこともなかった。

 こいつは何者だ。何故俺と戦う。何故俺を倒そうとする。

 問いはいくらでも出てくるが、そんな猶予はない。涼に言われたように戦うしかない。こいつの姿に惑わされて、理由も分からないままここで倒れるわけにはいかない。

 胸目掛けて蹴りを放った。予想していた通り、アナザーアギトは腕で防御する。反動を利用して後方へ跳び間合いを取ると、翔一は深呼吸した。力の流れを読み取ったのか、アナザーアギトもすう、と息を吐く。

 翔一の角が開き、アナザーアギトも牙を剥く。ふたりの足元に似た紋章が浮かび、それが足に集束していく。こんな力の扱い方までそっくり同じだ。間合いを保ちながら、出方を探りつつ深く腰を落とす。

 跳躍はほぼ同時だった。寸分の狂いもなく、同じタイミングで右脚を突き出す。互いの足が触れ合った瞬間に強烈な火花が散り、自分の放った力がそのまま跳ね返ってきた。工場内に放置されたドラム缶や資材をなぎ倒しながら、翔一は地面を転がる。右脚から頭頂部まで、1本の芯で貫かれたような痛みが走った。あまりの激痛に意識が飛びそうになり、感覚を失った右脚が吹き飛ばされたのでは、という錯覚に陥る。まだ辛うじて機能している視界で、右脚はしっかりと体にくっ付いていて安堵した。

 向こうはどうなった。確認しようにも、痛みのせいで体が動かない。こうして変身を保っていられるのも幸いと言っていいほどだ。

 呻き声が聞こえた。向こうも意識は保っているが、翔一と同じように反動のダメージはあったらしい。

「雅人、雅人か……!」

 雅人? 何を言っているんだ?

「何故だ……、何故邪魔をする雅人。雅人おおおおおおおおっ‼」

 苦悶の叫びが工場内にこだましている。先程までの強靭さの一切が払われた声も遠くなっていく。駄目だ。ここで意識が飛べば今度こそやられる。自身の意識を沈ませないよう奮闘するのに気を取られ、アナザーアギトに変身する者の謎の叫びはもはや耳に入らなくなる。

 ようやく痛みが引いて起き上がれるようになった頃になると、アナザーアギトの姿は消えていた。

 

 

   2

 

 3年生たちを除き部室に集まっていた面々で、ウェブサイトのページを開いたままのノートPCを凝視する。何の操作もせず沈黙する画面を見る中で、口を開くメンバーは誰もいなかった。いつもなら軽口が飛び交う部室に漂う緊張感のなか、千歌は額に冷や汗を浮かべる。

 ウェブページに変化があった。

「来ました」

 震える声でルビィが言う。画面にはLove Live!とロゴが浮かび、次の瞬間には巨大なドーム状の建物が映し出される。

「見た事あるずら」

 と花丸が声をあげる。「ここは――」と善子も息を呑みながら、

「前回ラグナロクが行われた約束の場所」

 どういう事かと疑問に思った人のためなのか、梨子が通訳してくれた。

「わたし達が突破できなかった地区大会」

 そう。前回Aqoursが出場し、そこで終わってしまった会場。同じ会場で、今回も地区大会が行われる。

「リベンジだね」

 曜から向けられたその言葉に、千歌は強い頷きを返す。

「うん」

 今度こそ突破してみせる。そして見つけてみせる。

 わたし達の輝きを。

 

 そろそろ地区予選の会場が発表された頃かしらね。

 気を紛らわせようとしての反応なのか、鞠莉はふとそんな疑問を浮かべる。どこになったか、なんて後で千歌たちから聞けばいいし、正直なところ会場なんてどこでもいい。皆で歌えれば、どこでも。

 これからの動向次第では、歌う機会すらも失われてしまうのだから。

「57人⁉」

 鞠莉が告げた事実に、ダイヤは驚愕のあまり立ち上がる。その勢いのせいでパイプ椅子が倒れたのだが、彼女はそれを直そうともしない。こんな反応、生徒会室にこの3人しかいなければ隠していただろう。

 「そう」と応じ、鞠莉は説明を続ける。

「今日現在、入学希望者は57人」

 理事会からメールで送られてきた報告書をスマートフォンに表示させて提示すると、ダイヤの表情は絶望の色をより濃くする。

「そんな………、この1ヶ月で10人も増えていないというのですか?」

 悲しいことにそれが現実だ。理事会だって虚偽申告なんて真似はしないだろう。ラブライブ予備予選は無事突破できたし、学校説明会でのライブも成功させた。来てくれた中学生たちが贈ってくれた歓声と拍手は本物だったに違いない。

 それでも、この1ヶ月の間に浦の星への入学意欲を刺激できたのは、10人にも満たなかった。確かにAqoursはできるだけの努力をしてきた。だが予備予選は所詮本大会に参加するグループ選定の振るい落とし。説明会のライブは余興。それだけの結果で、こんな交通の便も悪い地方の高校にわざわざ通いたい、と思うだろうか。

 答えはNo、と数字が示している。

「鞠莉のお父さんに言われた期限まであと1ヶ月もないよね?」

 果南に訊かれ、鞠莉は頭の中で簡単に計算する。期限は来月。それまでに入学希望者を100人にまで増やさなければならない。残り43人。しかも期限の日は、まるで狙ったかのように酷な日付。

「ラブライブ地区予選大会が行われる日の夜。そこまでに100人を突破しなければ、今度こそ後はnothingです」

「つまり次の地区予選が――」

 続きを言うのも躊躇い、果南は口ごもる。気持ちは理解できるが、逃げるわけにはいかない。自分は理事長。浦の星を背負う立場。向き合わなければ、と奮い立たせ、鞠莉は続きを引き継ぐ。

「Yes, Last chance」

 ようやく椅子を直したダイヤが、苦虫を噛み潰したように告げる。

「そこに賭けるしか、ないという事ですわね」

 これが最後。今度こそ、本当の最後になる。今まで楽しみだったライブの日。それが今はとても憂鬱になる。多くの歓声と熱気に包まれる日が、判決の日だなんて。

「それはそうと」

 とダイヤが切り出し、思わず「ん?」と鞠莉は呆けた声をあげてしまう。これでこの場の話は終わりのはずなのだが。

「おふたりとも、何か隠していますわね?」

 鋭い視線が、鞠莉と果南へ突き立てられる。

「何のこと?」

 とぼける事は手慣れている。適当にはぐらかせば、ダイヤだって疲れてしまうだろう、と高を括っていた。

「そうだよ、今更隠し事なんてするわけないじゃん」

 と果南も笑うが、明らかに声が乾いている。お願いだから余計なこと言わないで、と祈っていると、ダイヤは更に畳みかけ、

「おふたりが誤魔化すとき、鞠莉さんは耳を、果南さんは髪を触るのですわ」

 指摘されて鞠莉は自分の右手が耳に触れていることに気付く。果南もポニーテールにした髪を手櫛で梳いていて、咄嗟に手を引っ込めたがもはや手遅れになっていた。

 まさかこんな仕返しをされるなんて。

「さあ、観念なさい」

 とダイヤは得意げな顔をする。果南と視線を交わすと、無言でお手上げのジェスチャーをされた。やっぱり、この面子で隠し事はできない。できることなら、もっと他愛もない隠し事が良かったのだけれど。

 

 

   3

 

 トングでひっくり返されたカルビは香ばしい焼き色を付け、表面に浮いた脂をてらつかせている。網の上にはすっかり焼けている肉も何枚かあるのだが、誠はどうしても箸を動かす気分にはなれなかった。

「どうした氷川君、食べないの?」

 先ほどウェイターに追加の皿を注文したばかりの小沢が訊いてくる。

「すみません、食欲がなくて」

「分かるわ、木野薫のことね」

 そう告げると小沢は箸を止める。

「尊敬していた人物に裏切られた。それで元気がない、てところかしら」

 やはり小沢は的確に図星を突いてくる。だがそれを肯定するのも躊躇ってしまう。裏切られたなんて、ただ誠が勝手に木野を素晴らしい人間と思っていただけだ。それが勘違いだった事実を突き付けられて裏切られたなんて、子供じゃあるまいし。

「元気出しましょうよ」

 隣で肉を咀嚼しながら、行儀悪く尾室が言う。

「何があったのか知りませんけど、人生色々あるんですから」

「ほら、あなたは黙って食べてなさい」

 と小沢は網から焼けた肉を適当に見繕って尾室の取り皿に乗せていく。それを喜んで食べる尾室はまるで犬みたいだ。

「気持ちは分かるけど、ものは考えようじゃないかしら? 私たちの知るアギトが木野薫じゃなくて良かったじゃないの。本当のアギトは素晴らしい人間よ」

 まるで友人を語るようなその口ぶりに、誠は違和感を覚える。

「どうしてそんなことが言えるんですか?」

「それは………」

 と珍しく彼女が口ごもったので、誠は更に問う。

「小沢さん、もしかして知ってるんですか? アギトの正体を」

「氷川君、あなた津上翔一のことをどう思う?」

 唐突にそんな質問を返され、少しばかり苛立ちが募る。

「どうして津上さんが出てくるんです? 今はアギトの話をしてるんです。知ってるなら教えてください。一体どこの誰なんです?」

「言い辛いわね、何となく………」

「何故です? 素晴らしい人間なんじゃないんですか?」

「ええ、素晴らしい人間。そしてあなたがよく知っている人間。あなたにとってはとても意外な人間よ」

 

 何度も教えてください、とねだったのだが、とうとう小沢の口からアギトの正体が出てくることはなかった。焼肉屋から出た誠は署へは戻らず北條へ連絡を取り、彼が昼食を摂っているというフランチレストランへ向かった。

「私がアギト?」

 スーツに染みついた焼肉の脂とニンニクの匂いに顔をしかめながらも、北條は律儀に誠の質問に答えてくれる。

「ええ、僕の知っている意外な人物とは北條さんかと」

 考えてみれば北條の今までの行動の理由がアギトとするならば、辻褄が会う気がする。

 G3ユニットの解散を企てたのは警察に自分の正体を知られたくないから。アギト捕獲作戦なんてものを立案したのは自分がアギトであることを隠すためのカモフラージュ。あかつき号事件を捜査しているのも、自分の力のルーツがあの船にあると考えてのこと。

 そんな誠の推理を一蹴するように北條はふ、と微笑し、ナイフとフォークを置く。

「違いますよ、残念ながらね。しかし、意外な人物であることに間違いは無いが………」

「ということは、北條さんも知ってるんですか、アギトのこと? どうして北條さんが?」

 北條は1度誠に視線を合わせるが、すぐに逸らし溜め息をつく。何で小沢といい北條といい、知っていながら口を閉ざすのか。誠が知ってはまずい事情があるのか。それとも警察上層部は既にアギトの正体を掴んでいて、それは一部の人間にしか知らされていない秘匿事項だとでも。

「お願いします、教えてください」

「氷川さん、あなたは津上翔一の事をどう思います?」

 またか、とうんざりする。

「どうして津上さんが出てくるんです? 今はアギトの話をしているんです」

 北條は先ほどよりも深い溜め息をついた。

「言い辛いですね、何となく………」

 やはり言えない事情があるらしい。誠は知人の中からアギトとして「意外」な人物の人相を思い浮かべていく。北條の次に候補に挙がったのは河野だった。確かに警察関係者なら、上層部が隠したがるのも理解できる。もし外部に知られてしまっては、対アンノウンの貴重な戦力を研究目的で奪われてしまいかねない。だとしたらやはり河野が――

 と思ったのだが、どうしてもあのラーメン愛好家の河野の体に、強靭な戦士の力が宿っているとは思えなかった。

 

 

   4

 

 沼津港の魚市場や物産エリアはまだ賑わっているが、内港を挟んだ貨物倉庫は既に今日の業務を終えて静まり返っている。建ち並ぶ倉庫のひとつはホテルオハラが買い取ったものなのだが、既に使用されなくなって久しく施錠されたドアも錆びついている。軽く角材で小突いただけで南京錠が外れたほどだ。

 ある意味で秘密基地になった倉庫の重い扉を開け、鞠莉はどうぞ、とダイヤを招き入れる。躊躇うダイヤは後ろにいる果南に促され恐る恐る歩み入るのだが、中から聞こえてくる呻き声に悲鳴を押し殺し、足を止めた。鎖で繋がれた猛獣でも想像したのだろうか。

 「大丈夫」とダイヤを誘導し、倉庫内で分けられた区画のひとつに入る。鞠莉たちがいない間、他の倉庫の従業員に発見されないか気掛かりだったが、何とか今日のところはやり過ごすことができたらしい。とはいえ、峠を越えただけで次がいつ来るのか分からず予断を許さないのは変わりない。

 コンクリートで固められた壁に背を預ける彼の姿を認め、ダイヤは息を呑んだ。

「これは……、これはどういう事ですの?」

 どこから説明したものか。ここまで至るのにかなりの段階を踏んでいるのだが、時間を惜しんでもいられない。それにここへダイヤを連れてきた時点で言わなければならないのだから、鞠莉は全てを説明することにした。木野薫という、鞠莉たちとあかつき号に乗っていた人物。彼のアギトへの覚醒。そして彼の狂行と、涼の今の容態。

「そんなことが………」

 今まで隠してきたというのに、ダイヤは怒る素振りなんて見せず涼の額に浮かぶ汗をハンカチで拭き取る。シャツを捲って患部を確認すると、痣は鳩尾にまで範囲を広げていた。もはや呻く力もないのか、涼は粗い呼吸を繰り返すばかりで今にも閉じそうな眼は虚空を見つめている。

 こつ、とコンクリートを叩く音が聞こえた。反射的に振り返ると、区画の入口に男が立っている。倉庫の関係者か、と身構えていると、男はこつ、と革靴の音を鳴らしながらゆっくりとこちらへ近付いてくる。そのシルエットに鞠莉は違和感を覚えた。倉庫の関係者にしては、男の背広姿は作業に不向きだ。今にも途切れてしまいそうな電球の光に照らされて、その容貌が明らかになる。

「あなたは、あの時の………」

 あの日の記憶は夢のように現実味が無いが、しっかりと覚えてはいる。勿論、あの屋敷で鞠莉たちを迎え入れたこの男の顔も。

「あなたは誰なの?」

 果南が訊いた。男は鞠莉たちをひとりずつ見据え答える。

「かつて、アギトを葬った者。これから、アギトを救う者。神を、裏切った者だ」

 男は腰を降ろし、涼をじ、と見つめる。涼のほうは目の前に誰がいることを認識できていないようだった。きっと、もう鞠莉たちのことも視えていないのかもしれない。

「彼を助けたいか?」

 強く鞠莉は頷く。「でも」と果南は今にも泣き出しそうに、

「前みたいに力が使えない………」

 「いや」と男はかぶりを振る。

「お前たちは無意識に力を使っている。そうでなければ、彼はとうに力尽きていただろう」

 まさかの事に鞠莉は自分の掌を眺める。それでも所詮はその場しのぎの延命でしかない。こうして涼の苦しみをただ延ばしているだけに過ぎない。

「でも、わたし達だけの力じゃ………」

 最後に残された手段は、また皆の力を借りて涼を癒すこと。でもそれだと、薫の標的を悪戯に増やしてしまう。鞠莉たちの殆どが、いずれアギトになるなんて知られたら。想像するだけで背中に冷や汗が伝った。

「お前たちは、お前たちが思っている以上にアギトへ近付きつつある」

 「そして彼も」とその目が涼へ向けられ、

「不完全に目覚めた力を、完全なものにしようとしている。今の苦しみは、そのためのものだ。かつては滅びるしかなかった存在が、ようやくその運命を越えようとしているのだ」

 彼が何を言っているのか、鞠莉には分からない。かつて滅びるしかなかった存在。以前も涼のような、ギルスなる存在がいたのか。

 そもそも、アギトは以前からこの世界に存在していたというのか。

「彼の苦しみを消そうなどと考えるな。ただ信じろ、彼の力を。彼なら運命を越えられる、と」

 男は強く告げる。鞠莉は涼の姿を見つめた。不完全な力に弄ばれ苦しめられた涼。もはや痛みに苦しむ力すら残されていないのに、運命とはまだ彼に終わりの時を赦してはくれない。この苦しみを乗り越えた先で、彼はまた戦うのだろうか。

「わたしは信じる」

 果南が涼の手を握った。

「せっかくまた会えたのに、こんなの寂しすぎるよ」

 彼女の手が、朧気ながら光を放っているように見える。鞠莉は思う。わたし達も同じ運命にあるのなら、乗り越えられるだろうか。この男の言うように自分たちがアギトとして目覚める日が近いのなら、その先には何があるのだろう。

 果南の手にダイヤが自分の掌を重ね、力を上乗せする。涼を助けたい。その想いは本物だ。だけど、涼の姿は鞠莉たちの未来でもある。玉汗で全身を濡らす彼の姿が、鞠莉の不安を掻き立てている。

「あなたは何で、わたし達を助けるの?」

 未来を視る前に、鞠莉は訊かなければならない、と思った。この預言者のような男が、何の目的でアギトを救おうとしているのか。

「何でアギトなんてものが産まれるの?」

「アギトの種は、人間という種の中に遥か古代において既に蒔かれていたのだ。たったひとつの目的のために」

「ひとつの、目的……?」

 反芻すると、男は強く頷く。逡巡を経て、その「目的」とやらを告げた。

「人間の可能性を否定する者と戦うためにだ」

 






「雅人おおおおおおっ‼」

雅人「お呼び、て解釈で、良いのかな?(ニタァ)」
猫舌「お前じゃねえ座ってろ(フーフー)」


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第2話

 

   1

 

「Oh, good!」

 手拍子に合わせ、曲の最初から最後まで通しで踊ると、鞠莉は感嘆の声をあげた。でもまだ満足はいっていないらしく、

「ここの腕の角度を合わせたいね。花丸はもうちょい上げて」

 指示通り花丸が肘を僅かに上げ、「そうそう」という鞠莉の声に合わせて止める。

「この角度を忘れないで」

 中々ハードな練習で、皆の顔に披露が浮かんでいる。それでも文句ひとつ言わずに食いついてくれたのは、全員が地区予選の持つ意味を理解しているということ。

「じゃあinterval後、各個人で練習ね」

 そう告げられると、メンバーが一様に溜め込んだ疲労感を吐き出す。それぞれ鞄のもとで腰を落ち着かせ、疲れたと呟きながら水分補給している。窓を見やると、既に陽が暮れて市街のネオンが灯っている。プラザヴェルデは深夜まで練習できるけど、頃合いを見計らって今日の練習は切り上げた方が良いかもしれない。

 トイレに行こうと廊下へ出掛けたところで、曜の大きな声が果南の耳に入った。

「あ、全国大会進出が有力視されてるグループだって」

 閉めかけたドアの間から覗くと、後輩たちがぞろぞろ、と曜のもとへ集まって彼女のスマートフォン画面に見入っている。

「何々、そんなのあるの?」

 四つん這いのまま近付きながら、千歌が訊いた。

「ラブライブ人気あるから、そういうの予想する人多いみたい」

 きっと熱心なスクールアイドルファンが開設したブログを見つけたのだろう。高校野球やインターハイでも強豪校の中から優勝候補を予想するのは、以前からインターネット上に存在していた。ジャンルの普及で、そこにスクールアイドルも加わったということ。

 「どんなグループがいるの?」と梨子に訊かれ、曜は画面をスクロールする。

「えっと、前年度全国大会に出たグループは勿論で………」

 ページを変えたのか、集まった全員で「あ」と口を開ける。

「前回地区大会をトップで通過し、決勝では8位入賞したSaint_Snow。姉、聖良は今年3年生。ラストチャンスに優勝を目指す」

 「ふたりとも気合入ってるだろうなあ」と千歌が言った。最後のチャンスなのは果南も同じだ。鞠莉とダイヤも。千歌たちだって、浦の星のスクールアイドルとして歌えるのは、今回で最後になってしまうかもしれない。

「あとは……、Aqours⁉」

 他の候補の中から見つけたのか、曜が上擦った声をあげた。「本当?」と訊く善子たちの方へ画面を向けると、皆嬉しそうに破顔している。

「Hey、何て書いてあるの?」

 少し離れたところで水を飲んでいた鞠莉が訊く。曜は画面に視線を戻し、文面を読み上げる。

「前回は地区大会で涙を呑んだAqoursだが、今大会予備予選の内容は全国大会出場者に引けを取らない見事なパフォーマンスだった。今後の成長に期待したい」

 何だか上から目線で書かれているのが鼻に付くが、悪い気はせず果南は密かに頬を綻ばせる。ファンからも期待されている。その期待に応えられれば、もっと浦の星に来たい、と思わせられるだろうか。

「フフ、このヨハネの堕天使としての闇能力を持ってすれば、その程度造作もないことです!」

 なんて善子がいつもの口上を述べている。いつもなら全員スルーしているところだが、

「そう、造作もないことです!」

 と、同調する者が現れた。それも、最も意外なことに梨子が。ご丁寧に善子と同じく中指と小指だけを立てた手を突き出すポーズまで。しかも無意識でやってしまったらしく、一瞬の間を置いて梨子は顔を耳まで紅潮させる。

「流石、我と契約を結んだだけの事はあるぞ、リトルデーモン・リリーよ」

「無礼な、我はそのような契約交わしておらぬわ!」

 とまあ見事にネイティブな堕天使語――自分でも何言ってるか分からないが――で会話を繰り広げている。その光景を呆然と見ていた面々は声を潜める。

「どうしたの?」

「リリー?」

「これが堕天ずら」

うゆ(うん)

 「違う! これは違くて――」と涙目で弁明しようとするのだが、そんな梨子もといリリーに善子が更に畳みかける。

「ウェルカムトゥヘルゾーン」

「待てい!」

 まあ何にしても仲の良いことで。敢えて梨子が堕天使にほだされた原因は追究しないほうが情けというものだろう。

 運営委員会からの通知が届いていたのか、ルビィが自身のスマートフォン画面を皆に見せる。

「今回の地区大会は、会場とネットの投票で決勝進出者を決める、て」

 それはつまり、結果がその場で出るということ。

「良かったじゃん。結果出るまで何日も待つより」

 千歌の言葉を跳ねのけるように、ダイヤが口を開く。

「そんな簡単な話ではありませんわ」

 続けて鞠莉も、

「会場には出場するグループの学校の生徒が応援に来ているのよ」

 厳しい言葉で悟ったのか、後輩たちの顔に不安が浮かんだ。震える声でルビィが言う。

「ネット投票もあるとはいえ、生徒数が多いほうが有利………」

 言うなれば身内票だ。正当な評価じゃない、と口では言えるが、誰だって自分の身内を応援したい。浦の星だって生徒はいるが、果たしてそれがどれ程Aqoursの得票数になるかはたかが知れている。

 酷な事実を、ダイヤが告げた。

「そう、生徒数で言うと、浦の星が不利ですわ」

 

 

   2

 

「すみません夜分にお邪魔しちゃって」

 誠が十千万を訪ねてきたのは、千歌が夕食を終えてそろそろお風呂に入ろうかな、と思っていた頃だった。

「いえ、氷川さんならいつでも大歓迎です」

 美渡を追い払った居間へ通したところで、丁度翔一が「いらっしゃい」とお茶を持って来てくれる。

「で、今日は一体何の用です? 志満さんなら自治会の集まりで出掛けてますけど」

「いえ、今日はおふたりに用があって来たんです」

 「わたし達に?」と千歌は首を傾げる。翔一ならともかく、何で自分にまで。出されたお茶に手を付けることなく、誠は本題を切り出す。

「実は、アギトのことで」

「あれ、もしかしてバレました?」

 なんて口を滑らせる翔一を肘で小突くが、「は? 何のことです?」と幸いにも誠には悟られずに済んだ。

「何でもないです。それで、アギトがどうしたんですか?」

 と何とか千歌が取り繕うと、誠は続けた。

「君たちも、アギトに助けられたことがありましたね。我々は、アギトが人間であるという確証を掴んでいるんです。そこでお尋ねしたいんですが、どんな人物だと思いますか、アギトのこと」

 誠の真剣な眼差しから逃れるように、翔一は乾いた笑いを零すと千歌に耳打ちしてくる。

「何て言ったら良いんだろう?」

「分からない、て誤魔化したらいいじゃん」

「いや、でも俺アギトだ、てバレちゃってるし………」

 「え⁉」と思わず大声をあげてしまった。続けて何日も警察にいたのはそういう事だったのか、と納得できる。眉を潜める誠にふたり揃って笑顔で誤魔化しつつ、顔を背けて再び声を潜める。

「バレたって、警察の人に?」

「うん、北條さんと小沢さんにバレちゃってさ」

「それって大変なことじゃん。何で言ってくれなかったの?」

「すぐ帰ってこれたし、別に大したことじゃないかな、て」

「だから大変なことだよ。でも何で氷川さん知らないんだろ?」

「言い辛いんじゃないかな? 俺アギト、て柄じゃないし」

「まあ、それは確かにそうだけど」

「え………」

 ひとまずここは何としても乗り切らないと。千歌の口からも言い辛い。何故かは判然としないが、何となく。

 向き直った千歌は逆に尋ねた。

「氷川さんはどう思います? アギトのこと」

 「それは………」と俯き言葉を探っている彼に、自然と前のめりになっていく。顔を上げた彼が不自然な咳払いをして、いつの間にかふたり揃って必要以上に顔を近付けていたことに気付き引っ込めた。

「今まで何度もアンノウンを倒し、人々を護ってきたんです。きっと、強くて頼もしい人物に違いありません」

 「そんな」と言いながら、翔一は満更でもなさそうに笑っている。

「いやあ、照れるなあ。どうもどうも」

「照れる? 何故君が照れるんですか?」

 笑って誤魔化す翔一を千歌はじ、と眺める。

 強くて頼もしい。

 翔一が。

 いつも家事と畑仕事に精を出す翔一が。

 寒い親父ギャクばかり飛ばす翔一が。

 強くて頼もしい?

「ちょっとイメージが違うような………」

 眉を潜めながらひとり呟く。誠の弁は止まらない。

「勿論、強くて頼もしいだけじゃありません。優しい心の持ち主でしょう」

 まあ優しいのは事実だけど。でもアギトを語る誠はまるで陶酔しているかのようで、照れていた翔一は流石に顔を強張らせていく。

 これは何となくどころじゃなく、絶対に言えない。誠の中のアギトのイメージが崩れてしまう。彼にとってのアギトとは、完全無欠の聖人君子なのだろうか。

「もう良いですよ氷川さん、何か背中がこしょばゆくって………」

 き、と誠は翔一を睨み、

「だから何故君がそうなるんです? 津上さんはアギトの正体を知ってるんですか?」

「知ってるというか、何というか………」

「どういう意味です?」

 ふたりの熱気が上昇していくのを感じるのだが、大人ふたりの宥め方なんて千歌は心得ていない。こんな時に志満がいてくれたら、と長姉の早い帰宅をただ祈るしかない。

「君にアギトの何が分かるんですか? 僕はこれまで何度もアギトに助けられたんです。きっと高潔で純粋な人物に決まってます」

「いや、氷川さんはアギトのこと何も分かっちゃいないですよ」

 その言葉が地雷だったらしく、とうとう誠は沸点を迎えた。

「だからどういう意味かと聞いてるんです!」

「ああもう氷川さんはアギトを美化し過ぎですって! 普通の奴ですよ普通の!」

「そんなことありません! アギトは――」

 そこで、襖が開いた。にこやかな笑顔を浮かべた長姉が立っている。

「志満姉」

 と千歌は安堵と共に力の抜けた声を発した。志満は顔面に貼りついた笑顔を崩すことなく、いつもの穏やかな声で言う。

「他のお客様の迷惑ですよ、ふたりとも」

 頭が冷えたのか、誠は眉間に手を当ててから「済みませんでした」と頭を下げる。「ああいえ、俺の方こそ」と翔一も頭を下げる。何だか親に叱られた子供みたい、と思わず笑ってしまいそうになった。

「今日は、本当に済みませんでした」

 玄関でそう頭を下げて出て行く誠を見送ると、志満に訊かれた。

「あんな氷川さん初めて見たわね。何のお話してたの?」

「………アギト、かな」

「あぎと?」

 

 

   3

 

 船着き場のラウンジに吹く夜風が、テーブルに置いたノートのページを捲ろうとしている。開かないように表紙を手で押さえながら、果南は事を頭の中で整理する。

 集めなければならない希望者は残り43人。

 期限は地区予選の日の深夜0時まで。

 最後のチャンスは地区予選の票集め。

 確認すればするほど途方もない。本当に叶えられるだろうか。弱音を吹き飛ばすほどの自信はどこにもない。一縷の望みはこのノートの中にあるけれど、開く勇気がない。果南はこれまで、ダンスパフォーマンスのアイディアは常にノートに綴ってきた。でも今ここにあるノートは現在使っているものとは違う。自室の棚に放置したまま、忘れようとしていたものだ。このまま忘れたままでいれば良かったのに、どうして今更になって思い出してしまったのか。

「やっぱりそれしか無いかもね」

 と、こんな時間に呼び出してきた当人がダイヤと共に歩いてくる。

「懐かしい。まだ持ってたんだ、それ」

 隠すように、果南はノートを胸に抱いた。このノートは、まだ3人だった頃のAqoursで使っていたもの。昔の思い出が詰まった品なのだが、ページを捲っても思い出してしまうのは後悔だ。それなのに捨てずに持ち続けていたのは、まだ未練があるのか。

「まさか、やるなんて言うんじゃないよね?」

「まさか、やらない、て言うんじゃないよね?」

 当たり前だよ、と言いたいが、やはり未練があるのか口に出せない。それを良いことに鞠莉は続ける。

「状況は分かっているでしょ? それに賭けるしかない」

「でも――」

「わたし、あの頃の気持ちと変わってないよ」

「鞠莉………」

 こちらを見据える鞠莉の目が、恐ろしいとすら感じてしまう。このノートの中身に綴られたもののせいで、最も被害を受けたのは鞠莉なのに。

 静かに構えていたダイヤが口を開いた。

「今回はわたくしも鞠莉さんに賛成ですわ。学校の存続のために、やれることは全てやる。それが生徒会長としての義務だと思っていますので。それにこれが、ラストチャンスですわ」

 ラストチャンス。折角の機会。これを逃せば次は無い。あの頃だって、そう言って強行して失敗に終わった。同じ轍は踏まない。それは果南がスクールアイドル復帰のときに決めた。練習のコーチを務めたのだって、千歌たちが無茶をしないようにするため。

「でも、できることじゃない。これはできないこと」

 「そんなことはない」と鞠莉は言う。

「あの時ももう少しだった。もう少しで――」

「でもできなかった。それどころか、鞠莉の足まで………」

「あの怪我はわたしがいけなかったの。果南に追いつきたい、て頑張り過ぎたせいで」

 そう、このノートは、3人が離れてしまった原因。果南の出したアイディアのせいで鞠莉は怪我をして、結果として3人だった頃のAqoursは解散した。実力以上のパフォーマンスがどれほど危険なのか、3人とも嫌というほど理解しているのに。

「それに今は9人。わたくし達だけではありませんわ」

 ダイヤもそう言ってくる。今まで鞠莉のストッパーだったダイヤまで。彼女にそこまで言わせるという事は、それほど切迫しているということ。それは分かっている。

「駄目……、駄目だよ。届かないものに手を伸ばそうとして、そのせいで誰かを傷付けて、それを千歌たちに押し付けるなんて………」

 鞠莉はやけになっているだけだ。アギトなんていう得体の知れないものになろうとしていて、その先にある未来が視えなくて。

 もう人間として生きていけないのかもしれない。木野のように、涼のようになってしまうのかもしれない。しまいにはアンノウンか、もしくは裡にある力に殺されてしまうかもしれない。

 残された時間を全力で駆けたい。その気持ちは、同じ運命を抱えた果南も理解できる。きっとダイヤも、運命を受け入れて鞠莉に同意したのだろう。

 でも、そんな哀しい決断を千歌たちに託したくない。千歌以外の、自分たちと同じ運命の後輩たちにだって、不明瞭な未来を示したくない。知らないのなら、最期まで人間として過ごさせてやるのが情けというものだ。

 ああ、鞠莉はこんな気持ちをずっと抱えていたんだ、と今更になって気付く。果南とダイヤをあかつき号から遠ざけようとしたのも、思い出させまい、と隠しているのも理解できてしまう。同時に強い罪悪感が襲ってくる。鞠莉ひとりにこんな気持ちを抱えさせて安穏と過ごしてきたなんて。

「こんなの!」

 ノートを海に放り投げた。直後、果南の横を鞠莉が駆け抜けて、柵を飛び越えて海へ落ちようとするノートへ手を伸ばす。一瞬遅れて、鞠莉は盛大な飛沫を上げて海面に着水した。まだ泡が弾けている真っ暗な水面から、また飛沫が上がる。浮かんできた鞠莉の掲げる右手には、海水に濡れたノートがしっかりとあった。

 ダイヤの手を借りて桟橋に上がった鞠莉は、水を吸って重くなった服を雑巾のように絞る。

「否定しないで、あの頃のことを。わたしにとっては、とても大切な思い出」

 ノートを握る鞠莉の碧眼を見て、果南は自分の勘違いに気付く。鞠莉の目にはまだ光があった。もう残された時間が少ないとか、未来がないとか、そんな絶望は全く感じられない。

「だからこそ、やり遂げたい。わたし達の夢見たAqoursを完成させたい」

 濡れてページがふやけたノートを鞠莉は差し出す。このノートの中にあるのは過去じゃなく未来よ、とばかりに。

 彼女は諦めていない。

 学校も。

 自分の未来も。

 震える手でノートを手に取ると、鞠莉は満足そうに笑った。

「やっと、向き合うようになったわね。じゃあわたしも、向き合わなくちゃ」

 その言葉の意図が分からず、果南は眉を潜める。鞠莉はポケットからスマートフォンを出すのだが、水没したせいで故障に気付きダイヤから端末を借りた。

「Maryだけど今から会える? 淡島にいるから」

 通話はすぐに終わり、端末をダイヤに返す。「誰が来るの?」と果南が訊いても、鞠莉は「来てからのお楽しみ」とはぐらかした。

 その人物は、そう待たずに小型ボートで島の船着き場へやってきた。宵闇に溶けそうな黒装束に、夜だというのに黒いサングラス。その姿を認め、果南はダイヤの肩を掴んで後方へと下がる。

「果南さん?」

「あの人が木野薫」

 それだけ耳打ちすると、ダイヤの顔からさ、と血の気が引いた。鞠莉だけは堂々と、船から島に上がる木野を出迎えている。

「Ciao、薫」

 サングラスを外した木野は全身を濡らす鞠莉へ訝し気な視線を送っていたが、敢えてそこには触れなかった。

「どういうつもりだ? 俺はお前の命を狙っている。忘れたのか」

「ぶっちゃけtalk、しなきゃいけないと思って。ずっと鬼ごっこだったから」

 正気か、という木野の疑念が果南にも伝わってくる。この直感も、アギトの力の予兆だろうか。

「わたしはもう逃げない、て決めたの。薫からも、アギトからも」

「考えてみろ。アギトの力はお前には重すぎる。そこにいるふたりにもな。お前たちに、この力の苦痛に耐えられるか? 俺がお前たちを狙うのは、お前たちを苦しみから救うためでもある」

 何て勝手な理屈だ。恐怖の中で、果南は怒りを燃やす。いつか苦しみに苛まれて果てることになっても、誰かに決められるなんて御免だ。ましてや救いだなんて理由を付けられて。

 はあ、と鞠莉は深く溜め息をつく。

「あなたはアギトになってから変わったわ。前のあなたは優しくて強い人だったはずよ。それなのにどうして………」

「アギトの力は凄まじいものだ。それによって俺は、本当の自分に目覚めたんだ」

「違うわ、本当の薫は――」

「黙れ。何も知らない子供に何が分かる」

 木野はサングラスをかけ、

「お前を殺すのは、もう少しだけ待ってやる。お前もアギトになれば分かるはずだ。本来の自分というものがな」

 エンジンが駆動すると、木野を乗せたボートは桟橋から離れていく。宵闇のなかですぐにその姿は溶けていき、エンジンの音だけがさざ波のなかに響いていた。ひとまずの嵐が去ると、果南は膝の力を抜く。「果南さん」とダイヤに肩を借りて起こしてもらうと、ひどく汗をかいていることに気付いた。

「鞠莉、呼ぶなら言ってよ。本当に死ぬかと思ったじゃん」

 「Sorry」と軽口を返す鞠莉に続けて文句を言おうとしたが、それは彼女の震える脚を見て喉元に押し留めた。震えは、濡れたせいじゃないだろう。

「わたくし達は、いつまでわたくし達でいられるのでしょう?」

 ぼそり、とダイヤが呟いた。自分たちの中に眠るアギトの力。それが目を開き発現したとき、今度こそ木野は襲ってくる。あるいは木野のように「本来の自分」を見つける。そこから先は何があるのだろう。あの男の言うように、人間の可能性を否定する存在やらと戦わなければならないのだろうか。

「考えても仕方ないわ」

 先のことは分からなくても、鞠莉には目先のやるべき事が分かっているようだった。

「涼の様子、見に行きましょ」

 

 



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第3話

 

   1

 

 コンクリート製の倉庫は夜風に吹かれたせいか、中はすっかり冷え込んでいる。海水を被ったからシャワーを浴びてきたのだが、移動中にすっかり鞠莉の体は湯冷めしてしまった。

 匿っていた区画に入ると、彼は鞠莉たちが被せた毛布をどかしているところだった。

「涼!」

 真っ先に駆け寄ったのは果南で、自力で重そうな体を起こす彼を支える。「目覚めたのね」「良かった、本当に」と鞠莉とダイヤが呼びかけるも、涼は不思議そうに自分のいる倉庫内を見渡す。まだ額に汗を浮かべているが、その目にはしっかりと生気が感じられる。良かった、と安堵に浮かびかけた涙を指で掬った。

「ここは?」

 まだ苦しそうな声で涼は訊く。「それよりも」と冷静なダイヤが問いを遮る。

「葦原さんを安全な場所に連れて行きましょう」

 「そうね」と鞠莉も頷く。峠を越した今、涼をここに置いておくのは危険だ。

「でも、どこに?」

 果南が訊くと、ダイヤは迷わず即答する。

「ひとまずわたくしの家に。鞠莉さんと果南さんの家では気付かれるでしょうから」

 議論の余地もなく、その提案に鞠莉と果南も同意した。3人で涼の体を支えて、倉庫の出口まで連れて行く。涼は拙いながらも立てるまで回復しているようで、ここに匿う時よりは楽に移動することができた。出口までの道中はそう長くはなかったが、鞠莉の脳裏に渦巻く問いは永遠に続くようだった。

 あの時に現れた男は、涼が力を完全なものにしようとしている、と言っていた。

 力のお陰で涼は峠を越すことができたが、果たしてそれは彼にとっては幸福なのだろうか。益々人から遠ざかって、それでも彼は「自分」という意識を保ち続けられるのだろうか。

 鞠莉にとって最も不安なのは、アギトの力がもたらす末路。人でなくなった者は、意識まで人から遠ざかってしまうのか。もし怪物になってしまうのなら、アギトがこの世界に生きる意義はどこにあるのだろう。

 謎の男が語っていた、アギトのもたらす「可能性」とは――

 思考を吹き飛ばすように、一陣の海風が吹く。考えているうちに外へ出たらしい。瞬間、果南かダイヤか、あるいはふたりともなのかは定かじゃないけど、息を呑む声が聞こえ、鞠莉は俯かせていた視線を上げる。

 夜の埠頭に気休め程度に設置された街灯の光の下。そこで、彼はやれやれ、とばかりに嘆息しサングラスを外す。

「馬鹿な奴らだ。わざわざ俺を、ここまで案内してくれるとはな」

 「木野……!」と涼は目を剥く。薫はゆったりとした足取りで鞠莉たちへと歩く。その腰にベルトに似た器官を出現させながら。

「今度は逃がさん。お前を倒し、津上を倒し、俺は最強唯一のアギトになる」

 光を放ち、薫はアナザーアギトに変身する。その変貌を見届けるよりも速く、鞠莉たちは涼を支えながら脚を速める。振り返れば、焦る様子もなしに歩くアナザーアギトの赤い目が、しっかりとこちらへと向けられている。まるで獲物を狙う獣。標的を定めたアンノウン。

 薫はアンノウンと同じになってしまった。

 その力を他のアギトを葬るために扱う存在へと。

「果南さん、津上さんを!」

 ダイヤが指示を飛ばし、即座に果南がスマートフォンを耳に当てた。相手はすぐに出てくれたらしく、早口でまくし立てる。

「千歌? 翔一さんに代わって!」

 

 

   2

 

 今すぐ沼津港に来て。

 そろそろ寝ようと思っていたときの連絡だったが、翔一は電話口で果南から事情を聞かずにすぐバイクを走らせた。アンノウンなら気配が分かるはずだが、今は全く感じられない。

 だとしたら、あのアギトが――

 アクセルを捻ると共に、自身の中にある「アギト」を表層化させていく。

「変し――」

「津上さん」

 その声に一旦力を引っ込め、ミラーを見やる。映っているのは、白バイに青い鎧を纏った警察官。

 G3-X装備で現れた誠は翔一の横に付き、

「どこに行くんです?」

「え、あ……、ちょっと買い物に」

 言ってすぐしまった、と思った。こんな深夜に空いているスーパーが沼津にあるものか。だが出動するほどの緊急事態からか、誠を騙す事はできたらしい。

「スピードの出し過ぎです。気を付けてください」

「あ、はい」

 アクセルを緩めると、誠の白バイはサイレンを鳴らし港の方向へと走り去っていく。その姿がようやく見えなくなったところで、翔一は再びアクセルを捻った。それでは気を取り直して、

「変身!」

 

 近隣住民よりアンノウンらしき生物の目撃あり。

 その通報を受け沼津港まで出動してきたのだが、港の倉庫区画で誠が目にしたのはアンノウンではなかった。

《認定 アギト》

 AIの目にもそう映っているらしい。まさか、と標的にされた者たちへ目を向けると、暗視センサーははっきりと視界ディスプレイに顔をズームする。

 鞠莉と果南と、確か黒澤ダイヤ。彼女たちに支えられているのは葦原涼。そうなればあのアギトは、木野薫と見て良いだろう。

 彼女たちは埠頭の先端にまで追いやられていて、既に海以外に退路を断たれた状態にいた。アナザーアギトは獲物が網にかかったとみているのか、悠然と歩き獲物との距離を詰めている。

 涼の肩から離れた鞠莉が、既に数メートルまで迫るアナザーアギトに掴みかかった。華奢な彼女の力で、異形の存在に敵うはずもない。胸倉を掴まれ、無造作に投げ捨てられてしまう。「鞠莉!」と果南とダイヤは地面を転がる友人へ目を向けているが、すぐにアナザーアギトへ険しい視線を向けた。助けに行きたいが、涼を見捨てられずにいる。

 もう誠に迷いはなかった。木野薫がアギトであることは認める。でも、彼は今まで誠と共に戦ってきたアギトじゃない。同じ力を持ちながら、その力を邪悪な意志で振るう怪物だ。

 GM-01を手に駆け出す。背中に数発銃弾を撃ち込んだが、強靭な筋肉に全て弾かれてしまう。あちらが振り返ったところで拳を振るうが、あっけなくいなされ腹に肘打ちを叩き込まれる。

「逃げて!」

 すぐ近くにいる彼らに叫ぶと、腹に抱えた敵の腕を掴み埠頭の中腹へ追いやっていく。距離はそう大して離すことはできず、誠の体はアナザーアギトの剛腕でいとも簡単に振り払われた。咄嗟にGM-01を向けたが右手ごと掴み捻り上げられ、胸に膝蹴りを喰らい装甲が火花を散らした。続けざまに殴り飛ばされ、ほんの数舜の浮遊感を経て倉庫の壁に激突する。コンクリートの瓦礫を撒き散らしながら起き上がろうとしたところで、AIがマスクの中でアラートを鳴らした。

《GM-01 ロスト》

 咄嗟に顔を上げて目に入ったのは、アナザーアギトが持つ武器の銃口。装備の中でも威力は低い方だが、いくらG3-Xでも装甲が脆弱な部位を狙われたら無事では済まない。

 その時、バイクのエンジン音が埠頭に響いた。アナザーアギトの興味は音のほうに逸れ、目を向ける。視線を追うと、その先にはバイクに乗ったもうひとりのアギトがいた。いや、誠からすれば、あれこそが真のアギトと言うべきか。

「現れたか」

 呟くと、アナザーアギトはGM-01の銃口をアギトへ向けトリガーを引く。アギトのバイクはGM-01の弾丸を弾くほどの強度があるようで、乗り手は直撃を避けようとカウルに頭を沈める。

『GM-01、トリガーカット』

 スピーカーから小沢の声が聞こえる。運用にあたって、武装が敵の手に渡った際の対策も講じられている。管理官である小沢の指示で発砲が禁じられれば、遠隔操作でGM-01の引き金はロックされる。

『カットできません!』

 尾室の情けない声が聞こえた。『何ですって?』という小沢の驚愕も。アナザーアギトは依然としてGM-01を発砲し続けている。引き金のロックよりもアナザーアギトの握力が上回っているということか。

 バイクから跳び降りたアギトは、鎧を超越精神の青(ストームフォーム)に染め上げる。ベルトから両刃のハルバードを引っ張り出し、迫ってくる弾丸を払い落としながら間合いを詰めていく。

 武器の射程範囲に入り、アギトはハルバードを構え直す。切っ先を突き出そうとしたとき、アナザーアギトはGM-01の銃口を逸らした。その行動の意味を理解してか、アギトは動きを静止させる。GM-01の銃口の先。そこにいるのは、倉庫の壁に背を預けたまま動けずにいる涼と、彼の意識を保たせようと呼びかける果南とダイヤだった。

「動くな。少しでも抵抗すれば、奴らの命はない」

「薫、駄目!」

 そう叫んだのは鞠莉だった。戦いの渦中へと駆け寄ろうとする彼女へと、アナザーアギトは銃口を移す。

「お前もすぐに後を追わせてやる」

 アギトが武器を引くと、間髪入れずにアナザーアギトは裏拳を顔面に見舞った。重心を崩されよろけるアギトに、更に鳩尾へ蹴りを入れる。加勢しようと誠は駆け出すが、すかさずアナザーアギトの発砲したGM-01の弾丸によって胸部装甲が穿たれる。アナザーアギトは誠にはそれ以上の攻撃はせず、すぐにアギトへと向き直った。あくまで彼にとって敵はアギトで、ただの人間でしかない誠は脅威にはならないらしい。

 ろくに反撃できないアギトはされるがまま殴打を喰らい蹴り飛ばされてしまう。地面を転がるその体が光を放ち、収束すると人間の姿になる。

 初めて見るはずの、アギトの正体。だがその顔を見て誠は絶句のあまり、今がオペレーション中だということを忘れるほどだった。何故なら痛みに悶絶しているその顔は、

「津上さん⁉」

 それは紛れもなく津上翔一だった。十千万を訪ねると朗らかな笑顔で出迎えお茶を出してくれた、エプロンを着慣れた青年。

 起き上がろうとした翔一の胸を、アナザーアギトは踏み付ける。

「そんな……、何で………何で津上さんが………」

 目の前で翔一が銃口を突き付けられているというのに、誠は動かず脳裏で疑問を渦巻かせているばかりだった。

「最後だ」

 アナザーアギトがGM-01の引き金に指をかける。誠の目の前で、正しさの象徴とも言える力が越えてはならない一線を越えようとしている。

 不意に、咆哮が港に響き渡る。

 それは産声とも呼ぶべき声だったのかもしれない。この場にいるもうひとり、「アギト」に近い存在でありながら別物になってしまった者の。

 

 深いまどろみの中で、涼は海面を目指して泳いでいる。確かに光は視えるのだが、それは遠くいくら水を掻いても届く気配がない。それでも確かに光はある。現に視えているのだから。懸命に手を伸ばし、水の抵抗を掻い潜りながら上へ上へと昇ろうとする。

 激しい水流が、押し潰すように涼を下へと押し戻した。砂地に伏せられ、また浮かぼうと立ち上がったところで声をかけられる。

 

 ――今の君じゃ無理だよ――

 

 あの子供だった。

「それは俺が決めることだ」

 

 ――どうして、抗おうとするの?――

 

 無垢な声で訊かれ、涼は子供の前に立つ。

「お前は言ったな。意味なんて無い、と」

 少年は無言で頷く。不幸が幸福を得るための試練だなんて、誰が言い出したことなのだろう。不幸に遭ったところで、幸福になれる保証なんてどこにもないのに。

 そんなものは、惨めさに耐えられなかった先人たちが、神なんて無責任なものに縋り付いたまやかしでしかない。何か絶対的な力が、必ず救いをもたらしてくれる。そう思い込むことで、無意味さの空虚から逃れようとしただけだ。

 この力が何らかの意志で与えられたものだとしても、本質は何の意味も持たない。

「それでも俺は意味を探す。俺が俺であるためにな」

 所詮はまやかしでも、現実逃れでも言えばいい。意味なく生きることに耐えられないのが弱さなら、それも受け入れるさ。元々俺は弱かったからな。意地っ張りで弱虫だ。

 

 ――なら、僕も連れて行ってほしい。それで君が意味を見つけられることができるなら――

 

 少年の姿がギルスへと変わっていく。アギトと同じ力のはずが、翔一のような光を持たない醜悪な生き物。ただ生きて死ぬだけなのは御免だ、と抗ってきたが、皮肉にもこいつは俺を助けたかったなんてな。

 ギルスのほうから涼へは近付こうとはしない。向こうはとうに受け入れる準備が整っている。

 

 ――涼、海を受け入れろ。そうすれば海もお前を受け入れてくれる――

 

 父の言葉を思い出す。ああ、受け入れてやるさ。こいつだって、俺の1部だからな。

 涼はゆっくりとギルスへ近付く。涼が手を伸ばすと、ギルスのほうも手を伸ばす。指先同士が触れ合うとギルスの体が泡立ち、無数の気泡になって崩れていく。気泡は全て涼へ向かって漂い、鼻と口から体の中へと入っていく。まるで肺に空気をたっぷりと入れたように、体が浮いた。見上げれば海面から射し込む光が、次第に大きくなっていく。

 光が全てを塗り潰し、まるで吸い込むように涼の体を引き寄せていく。

 

 か、と目を見開き、涼はゆっくりと立ち上がった。先程まで鞠莉たちの支えなしに立つことなんてできなかったのに、その脚は力強く涼の体を支えている。やった、と鞠莉は歓喜に裡を満たしながら涼へ駆け寄ろうとしたが、彼から滲み出る違和感に脚を止める。傍にいる果南とダイヤはそれを間近でひしひしと感じ取れるらしく、困惑を顔に貼りつけながら涼を見上げている。

「ううおおおおオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 大口を開けて咆哮しながら、涼はその肉体をギルスへと変貌させていく。緑色の筋肉を隆起させ、額から角を伸ばし目は赤く充血させる。それでも裡から止めどなく溢れるものを発散させるように、彼の咆哮は止まらない。

 胸の中央が、まるで瞳を開くように割れた。皮膚を裂いて、中から黄色い玉がぎょろり、と輝きを放つ。踵の膨らみが伸びて鋭い尖刀になり、手首にある突起も鋭い刃になった。変化はそれだけに収まらない。肘や肩の関節からも、皮膚を突き破って血に塗れた刃が伸びた。動かなくても周囲を切り裂きそうなその姿に、果南とダイヤは腰を抜かし動けずにいる。

黙示録の獣(The Beast)………」

 震える唇で鞠莉は呟いた。地獄から這い出て、地上を蹂躙すると伝えられている怪物。古代人たちが怖れた終末をもたらすようなあの姿が、運命を超越した(エクシード)ギルスというのだろうか。

 涼の変貌に、薫は驚愕のあまり翔一を踏んでいた脚をどかした。銃口から逃れた翔一も、叫び続ける涼に目を剥いている。

 ひとしきり叫んだ涼は傍にいる果南とダイヤには目もくれず、近くに停めてあった車の窓に手を突っ込んだ。ガラス片を散らしながらフレームを掴み、片手で車体を動かす。あまりの怪力にサイドブレーキが破壊されたようで、制御を失った車は真っ直ぐ薫に向かって走り出す。

 薫は逃げようとはせず、誠から奪った拳銃を向け発砲した。ボンネットに無数の穴が空き、散った火花がエンジンに循環していたガソリンに引火して爆発を起こし夜の闇を照らす。自ら起こして爆発で浮いた車体は轟音を上げて地面に衝突し、今度はタンク内の燃料を得て更に大きな爆発が起こる。周囲に吹く熱風と炎の眩しさに、鞠莉は一瞬だけ目を逸らす。

 再び目を向けると、薫の背後に涼は立っていた。薫はすぐに気付いて銃を構えるも、涼の足は銃口が向くよりも速く薫の手から銃を蹴り払う。薫は腹に膝蹴りを受け、その体を僅かに浮かせた。その一瞬で、涼の蹴りが腹に沈み突き飛ばされる。あまりの重さに、地面に伏した薫はごほ、と咳き込んだ。

 涼の背中から、太いムカデのような触手が伸びた。起き上がった薫の体に絡まり、動きを完全に封じてしまう。

「葦原さん!」

 駆け出した翔一が、腹に渦巻く光を出現させる。再びアギトへ変身しようとする彼に、涼は僅かに顔を向け、

「手を出すな!」

 言葉が発せられたことに、翔一は驚愕に足を止める。力を納めてか、腹の光も消滅した。

「こいつとのケリは、俺が付ける!」

 涼は薫との距離を詰めていく。拘束から逃れようと薫はもがくが、動けば動くほど触手は彼の体をきつく締め上げていく。自分を殺そうとした男。その因果に報いようと、涼は手首から伸びた尖刀を突き付けようとする。その切っ先が薫に触れようとした寸前で、鞠莉は叫んだ。

「やめて!」

 ぴた、と涼の動きが止まる。

「涼、殺さないで!」

 涼の赤く染まった両眼が、鞠莉へと向けられる。その姿はやはり恐ろしく、体の震えが止まらなかった。でも彼は黙示録の獣なんかじゃない。いくら姿が変わっても、中身は葦原涼のままだ。

 怪物でも、アギトでもない。全く新しい生命体になった涼は手を引っ込め、薫を締め上げていた触手も緩め背中に収める。

 だからといって全てを赦せるほどの聖人君子でもない涼は、せめてもの応酬とばかりに重い蹴りを入れた。防御の姿勢を取れなかった薫の体は宙を浮き、背後に広がる海に飛沫をあげて落ちていく。

 肩で息をする涼の筋肉が、縮むように細身になっていく。緑色だった体は以前と同じ人間としての姿を取り戻す。しばしの逡巡を挟んで、涼は薫の後を追うように整ったフォームで海へと飛び込んだ。

 

 

   3

 

 誠がひとり呆然としている間に、騒動は収束していたらしい。気付いた頃には木野薫も葦原涼たちも、そして翔一も姿を消していて、ひとり取り残された誠は現場に放置されていたGM-01を回収しGトレーラーに帰還した。

 戻って何の気なしに「お疲れ様」と労いの言葉をかけてくれる上司と顔を合わせると、怒りが突沸してくる。誠はマスクを脱ぎ捨て、

「どういう事なんですか小沢さん!」

「な、何よ……」

「何で言ってくれなかったんです津上さんがアギトだって! どうして‼」

「そんなこと言っても――」

 「やめてください氷川さん!」と尾室が割って入り、

「殴るなら、僕を殴ってください!」

 ならお望み通りに、と鋼の拳を握りしめる。岩も打ち砕くほどの強度なのだから、人間の頭なんてシュークリームのように潰せる。啖呵を切っておきながら怖気づいた尾室は「う、嘘です。すいません」と薄笑いしながら小沢を盾にするように突き出す。「ちょ、ちょっとあんた――」と小沢は文句を言おうとしたが、誠が「小沢さん」と再び詰め寄ったことで遮られる。

「落ち着きなさいよ。大体、津上翔一がアギトだから、て私のせいじゃないんだから」

「それは、そうですが………」

 正論を並べられると、急速に頭が冷えていく。確かにこればかりは小沢に非は無い。それでも、と誠は未だに納得できずにいた。今まで誠の窮地に颯爽と現れ助けてくれたアギトが、戦いとは無縁そうな津上翔一と同一人物だなんて。混乱が収まらない脳裏には、馬鹿げた予想、もとい妄想ばかりが膨らんでいく。

 そもそも、あの時誠が見た青年は本当に翔一だっただろうか。他人の空似というのも有り得る。いや、翔一が本当にアギトだったとしても、彼は言うなれば3人目のアギトで今まで目撃した第1の個体とは別人かもしれない。

 

「はい。出場グループの中では、生徒数が1番少ない」

 『確かに不利ですね』と、電話の奥で聖良は嘆息気味に、

『圧倒的なパフォーマンスを見せて、生徒数のハンデを逆転するしかない』

「ですよね………」

 Aqoursならきっとできます、と言わないのが聖良らしい。こうして相談する間柄ではあるけど、友人以前に自分たちはラブライブで競う仲。今回がラストチャンスの聖良にとってはAqoursが潰れてくれたら競争相手が減って好都合なはずだが、律儀に千歌の相談に乗ってくれるのは感謝しかない。

 もしかしたら、小細工なしにSaint_Snowが勝つ、という自信の下なのかもしれないが。

「でも圧倒的、て………」

 言葉を詰まらせていたところで、バイクの音が聞こえた。障子を開けて廊下の窓から見下ろすと、翔一が帰ってきたところだった。果南から連絡を受けてすぐに飛ぶように出て行ったが、またアンノウンが出たのだろうか。

 考えているうちに聖良の声が聞こえ、千歌は耳元に意識を戻す。

『それは、上手さだけではないと思います。むしろ今の出場者の多くは、先輩たちに引けを取らない歌とダンスのレベルにある』

 そういえば、以前にもダイヤが言っていた。スクールアイドルの人気はラブライブが始まってから爆発的に高まった。それに伴いスクールアイドルの数も膨らみ続け、業界全体のレベルを向上させている。

『ですが、肩を並べたとは誰も思っていません。ラブライブが始まって、その人気を形作った先駆者たちの輝き。決して、手の届かない光』

 スクールアイドルというコンテンツを普及させ、ひとつの時代の始まりになった先駆者たち。実力が彼女たちに届いたとしても、それでもまた同じ境地には至れない。

 あの人たちの輝きが、時代を創った。その時代の中にいる千歌では、創造主を越えることはできないのだろうか。

「手の届かない光………」

 

 






今回の車炎上シーンは原作の中で最も好きな戦闘シーンです。
爆発大好きっ子です。爆発はCGより火薬派です。


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第4話

 

   1

 

 ホテルオハラのスイートルームに運ばれた木野は、ベッドに寝かせしばらくすると目を覚ました。手ひどく痛めつけてやったつもりだったのだが、回復の早さはアギトの力の恩恵というべきか。

 重そうに目蓋を開けた木野はベッドの傍らに立つ鞠莉、果南、ダイヤ。そして最後に涼の姿を認め、半開きだった目を剥いて体を起こす。打撲の痛みがまだ響くようで、苦しそうに腹を押さえつけながら声を絞り出した。

「何故だ、何故俺を助けた?」

「分からない、俺にも。だが、1度はあんたと共に戦おうと決心した。あんたは、俺の心に火を灯した人間だ」

 ふん、と木野は嘲笑する。

「甘いな。俺はお前の命を狙ったんだぞ」

「裏切られる事には慣れてる」

 その返しは予想外だったのか、木野は無言のまま涼を見上げている。確かにあの時、涼は怒りのあまり本気で木野を殺すつもりだった。でも、過ぎてしまったことを悔いても何も変わらないことは、涼自身が身を以って知っている。

 止めてくれた鞠莉には、本当に感謝している。まだ幼い彼女たちに、血生臭い様なんて見せたくない。お前たちの待ち受ける未来が、俺と木野のような残酷なものだなんて。

 それに、木野が出会ったばかりの頃に語っていたこと。涼の戦い生きる指針となった彼の意志に、嘘偽りはなかったはず。木野が本当に裏切ったのは、涼でも鞠莉でもない。

「だが、あんたは自分で自分を裏切った」

「黙れ、お前に……お前に何が分かる………!」

 声を荒げたせいで傷に響いたのか、木野は痛みに呻いた。

「ああ、分からないさ。人の心なんてな」

 彼が何故、自分以外のアギトの存在が赦せないかなど、涼の知ったことじゃない。知ったところで、彼の心に救済を与えることなんてできない。いくらアギトだからといって、本質的には人間だった頃と変わりないのだから。

「これからあんたがどう生きていこうが、あんたの自由だ。覚えているか? 前に俺に言ったっけな。敵はアギトになるかもしれない人間を狙っている。なら、俺たちと同じ運命にいる人たちを助けたい、と」

 そう語っていた木野薫は死んだのかもしれない。涼の目の前にいるのは、理想を捨て欲望に歪めた、アギトの力を持つだけの人間なのかもしれない。死んで結構。これ以上危害を加えられるのは御免だ。また命を狙うというのなら相手をしてやる。ただし今度は容赦しない。また鞠莉たちを襲うというのなら、迷うことなく葬る。ただ、この男の全ては死なせない。

「あんたの意志は、俺が継ぐ」

 告げる涼から、木野は目を逸らす。自分の右手、死んだ弟から移植された掌を見つめながら、うわ言のように呟いていた。

「俺は……俺はもっと強くなりたかっただけだ。もっと……、もっと………」

 

 

   2

 

「翔一君のことどう思う、て?」

 朝食の席で、志満が当人からの質問を反芻する。あまりにも突拍子がないからか、志満は思わず笑いながら、

「どうしたの急に?」

 翔一は皆の席に湯呑のお茶を並べながら、

「何か俺、頼りないかな、て」

 「うん、かなりね」と味噌汁を啜った美渡が言ってのける。あまりのデリカシーの無さに千歌は細めた目で次姉を一瞥するも相手にはせず、

「そんなことないって。翔一くんやるときはやるし。ねえ志満姉?」

 まあ、その「やる」時のアギトの姿を姉たちは知らないのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだが。高海家の家事を一身に請け負っているとはいえ、定職に就かない翔一は世間一般から見たらあまりイメージが良くないのは千歌にも否定できない。一応、怪物から人々を護っているのだけれど。

 箸を置いた志満は「うーん」としばし考え、

「そうね。私の中の翔一君のイメージはマメ、てことかしらね」

 「マメ?」と翔一は食卓に並ぶ煮豆の小鉢に視線を落とし、

「お豆さんですか?」

「そうじゃないわ。炊事、洗濯、掃除。何でもござれでしょ。これはもう立派な取り柄よ。きっと、良いお嫁さんになるわ」

 お嫁さん、て。頼り甲斐から更にイメージがかけ離れた気がする。面白がる美渡に至っては翔一を肘で小突きながら、

「良い相手に貰ってくれるといいね翔一」

 調子の良い翔一は「お嫁さんですか」と笑うのだが、すぐに深い溜め息と共に頭を垂れた。

 志満姉と美渡姉こそ早く相手見つけないと行き遅れちゃうよ。

 そんな姉たちへの皮肉が出かけたが、後が怖いので喉元に押し留めた。

 

「昨日は済みませんでした。つい取り乱してしまって………」

 冷静になってみれば、上司に向かって何て態度を取ってしまったのか。せめてものお詫びとして昼食にラーメンを奢ることにしたものの、謝罪にしては安い気もする。

「良いのよ気にしなくて。隠してた私も悪かったんだし」

 小沢はそう言って麺を啜る。誠もレンゲでスープをひと口啜った。この屋台に来るのも久しぶりというほどでもないが、色々と立て込んでいたからか舌に馴染んだ味が懐かしく感じる。沈んだ気分への皮肉とばかりに美味だ。食欲はあまり沸かないが。

 尾室が呑気に口を開く。

「でも驚きましたね。津上翔一、て確か前にG3-Xを装着した人ですよね。アギトである上にG3-Xまで装着して、何かズルい、ていうか羨ましい、ていうか」

「あんたは黙って食べてなさい。ほら、これあげるから」

 と小沢は尾室の丼にナルトを入れる。誠は箸で麺をつまむが、啜る気にもなれずスープに浸す。

「でもまさか津上さんがアギトだったなんて。未だに信じられません」

「まあ、そうでしょうね」

「僕が想像していた人物とあまりにもかけ離れていたので。もちろん津上さんは悪い人ではないですが、何て言うか少しお調子者でいい加減な感じがして………」

「そんな事ないわよ。ああいうタイプだから理解するのは難しいかもしれないけど、器の大きな人間だわ」

「そうでしょうか………。いずれにせよ、僕には分からないんです。これから津上さんと、どう接していけばいいのか」

 少なくとも、これまでのようにはいかないだろうな、と思った。ひとまず、今まで助けてくれたお礼は言わなければならない。

「どうしました? また何かあったんですか?」

 店主が会話に入ってくる。「ちょっとね」と小沢が言葉を濁すと、店主は「どれどれ」と誠の丼を覗き込む。

「何よ、またナルト占い?」

「ええ。私に言わせりゃね、ナルトは曼荼羅(まんだら)と同じなんです。渦巻きの中にその人の運勢が織り込まれてる」

 店主は誠のナルトを凝視すると、

「あ、こりゃ駄目だ。あんた尊敬してる人に裏切られる。間違いなし」

 「やっぱり……」と誠は頭を垂れた。「そんな事ないわよ」と小沢は誠を肘で小突きながら、

「こんな占い信じてどうすんのよ」

「いや、ここの占いは当たるような気が………」

 流石の小沢もかける言葉が見つからないのか、「あんたも何か言いなさい」と尾室に振るが、まともに聞いていなかった彼に上手い事が言えるわけもない。

「ほら、あんたが食べなさい」

 と誠のナルトを尾室の丼に移すのだが、かといって占いの結果が尾室に転嫁されたとも思えない。このナルトが誠に割り当てられた時点で運勢は決まってしまっているのだから。

 麺はすっかり伸びていて、食べる気になれなかった。

 

 

   3

 

 聖良と話したことで、千歌の中に沸いた疑問がある。その疑問はスクールアイドルを始めてからずっと抱えてきたものだけれど、いつか分かる、いつか分かる、と先延ばしにしてきた。

 その「いつか」は、先延ばしにしたままでは永遠に来ない気がする。今向き合わなければ、答えは出ない。だから、皆にも問いを向けることにした。

「Aqoursらしさ?」

 屋上で練習前のストレッチをしているメンバーの中で、善子が千歌の問いを反芻する。千歌は頷き、

「わたし達の道を歩く、てどういうことだろう。わたし達の輝き、て何だろう。それを見つけることが大切なんだ、てラブライブに出て分かったのに、それが何なのかまだ言葉にできない。まだ形になってない」

 わたし達はまだ、自分たちの何を観客に届けられるのかを知らない。応援してくれる人たちが、わたし達の何から輝きを感じてくれているのかを、わたし達自身がまだ分かっていない。

「だから形にしたい。形に………」

 答えられるメンバーは誰もいない。皆が俯き、懸命に答えをこの場で探している。すぐに答えが出るものじゃないことは理解している。前からずっと探し続けてきたし、今だって答えを見つけるために曲を作って、練習している。

 肌寒い沈黙を破ったのはダイヤだった。ただし、答えではない。

「このタイミングでこんな話が千歌さんから出るなんて運命ですわ。あれ、話しますわね」

 「え……、でもあれは――」と果南が逡巡する。ダイヤ達は知っているのだろうか。輝きとは何か。そこに至るまでの標を。

「それ何の話?」

「2年前、わたくし達3人がラブライブ決勝に進むために作ったフォーメーションがありますの」

 「そんなのがあったんだ」と千歌は身を乗り出す。

「凄い、教えて!」

 その秘蔵とも言えるフォーメーションを今回の曲に組み込めば、多くの観客の票を集められるかもしれない。入学希望者を増やせるかもしれない。鼻息を荒げる千歌から逃れるように果南は顔を逸らし、

「でも、それをやろうとして鞠莉は脚を傷めた。それに、皆の負担も大きいの。今そこまでしてやる意味があるの?」

「何で?」

 千歌は果南の手を取った。驚いて目を丸くする果南に更に訊く。

「果南ちゃん、今しなくていつするの? 最初に約束したよね? 精一杯あがこうよ。ラブライブはすぐそこなんだよ。今こそあがいて、やれることは全部やりたいんだよ」

 それが答えに辿り着くのかは分からないけど、やらなければ辿り着かないことだけは分かる。全力を出し切る。その時その時の全力を出し切って、次に繋げたい。

「でも、これはセンターを務める人の負担が大きいの。あの時はわたしだったけど、千歌にそれができるの?」

「大丈夫。やるよ、わたし」

 振り解かれそうになった手を強く握り、千歌は告げる。

「決まりですわね。あのノートを渡しましょう、果南さん」

 ダイヤに言われ、果南は視線を泳がせる。果南でも躊躇するということは、よほど難しいパフォーマンスだと理解できる。でも千歌にとって、そんなことは些末でしかない。

 できない理由を探すんじゃない。できる理由を探す。まずはそこから。

「今のAqoursをbreakthroughするためには、必ず越えなくちゃならないwallがありマース」

「今がその時かもしれませんわね」

 千歌は皆の顔を見渡す。誰も無言のまま。でも誰の顔にも、反対の意は見えない。どんなに壁が高くたって、皆で乗り越えてみせる。皆でなら乗り越えられる。

 果南が深く溜め息を吐いた。

「言っとくけど、危ないと判断したら、わたしはラブライブを棄権してでも千歌を止めるからね」

 屋上の隅に固めて置いてある鞄のもとへ行くと、1冊のノートを手に戻って千歌に差し出す。水に濡れたのか、ノートはひどく皺だらけで表紙のインクが滲んでいる。

 無理はしない。その約束は守る。でも、絶対に成功させてみせる。

 裡で自身に言い聞かせながら、千歌はノートを受け取った。

 

 

   4

 

 どすん、と天井から音が響いた。振動で湯呑の中でお茶が波紋を広げている。

「さっきから何かしらね」

 テレビを観てくつろいでいる志満が、眉根を動かさずに言う。「さ、さあ」と応じながら、翔一はお茶請けに用意した皿をそう、とテーブルに置く。菜園で採れたカブの酢漬けの感想を聞きたいのだが、とても聞けそうな状況じゃないことは分かる。

 またどすん、と天井が軋みをあげた。場所からして千歌の部屋だろう。「ちーかー」と美渡の声まで聞こえてくる。恐る恐る志満を見やると、テレビを観ながらお茶を啜っている。

「さあて、俺菜園の様子見に――」

 言いかけたところで、上から聞こえたふたり分の悲鳴で遮られた。

「ちいいいかああああああああっ‼」

「ごめん! 美渡姉ごめん、て!」

「おんどりゃああああああああっ‼」

 どかどか、と盛大な足音を立てて、階段から千歌が駆け降りてくる。それも何故か練習着姿で。続けて降りてきた美渡はぬいぐるみやらお菓子の空き箱やらを投げつけ、疲れたのか足を止めたのだがまだ怒りは収まらないらしい。

「どうすんのよ襖!」

「美渡落ち着けって」

 肩で息をする美渡をなだめようとしたところで鶴の一声が、

「お客様の迷惑よ美渡」

 その志満の声はとても穏やかなものなのだが、察したのか美渡は「はーい」と上ずった声で応じた。

「ほら美渡、襖なら俺が直すからさ」

 飛び火は勘弁だから、美渡の背を押して階段へと誘導していく。階段を上がっている途中で、美渡は青ざめた顔を翔一に向けた。

「怒ってる?」

「かなり」

 

 誰もいない夜の砂浜で、千歌はひとり練習に励んでいる。ノートは今日渡したばかりだから、すぐに成功するはずもなく失敗して砂地に腰を強打する。しばらく痛みに悶絶していたが、すぐに起き上がりまた挑戦し、やはり失敗して同じ箇所をぶつけてしまう。

 あの子のことだから死に物狂いで練習するだろうな。そんな果南の予想は見事的中した。それが良いのか悪いのかは分からないが。

 考案した果南が今すぐにでも彼女のもとへ駆けつけコーチしてやるのが最善なのかもしれないが、敢えてそれはしない。方法は全てノートに書いてあるし、どこかで千歌が諦めてくれれば、と淡い期待を抱かずにいられない。

 一緒に淡島から出てきた鞠莉が訊いてくる。

「心配?」

「やっぱり、こうなっちゃうんだな、て」

「あれ、やりたかったね。わたし達で」

「それなら、何で千歌たちにやらせるの? まるで押し付けるみたいに」

「チカっちならできる、て信じてるから。今のAqoursなら、必ず成功する。果南だって信じてるんでしょ?」

 その問いに答えることはできなかった。正直、果南でも自分の気持ちが分からない。果たしてフォーメーションを完成させたいのか、それとも諦めたいのか。千歌でも駄目なら、自分たちには無理な話だった、と踏ん切りはつくだろうか。それとも成功の可能性をずるずると後になっても引きずってしまうのか。

 分からなくて、怖かった。自分の迷いが、千歌を壊してしまいそうで。

「ねえ果南、こう考えたことない? 今のわたし達なら、アギトの力があるんだからできるんじゃないか、て」

 そんなことを訊かれ、果南は応えに窮した。自分の中に眠るアギトの力が、どんな難しいパフォーマンスを可能にするほどの身体能力をもたらすかなんて、考えもしなかった。変身した翔一や涼や木野のように、目に見えて体が強くなった感覚なんて無いのだから。

 それに、アギトの力が決して好都合じゃないことは、嫌というほどに見たばかりだ。

「確かにアギトは重すぎるかもしれないけど、わたし達も涼みたいに運命を乗り越えられたら――」

「もしそうだとしても、千歌は………」

 アギトの力が呪いじゃなく福音になれるのなら、果南だってその未来に行ってみたい。でも千歌はどうだ。千歌だけは、Aqoursの中でアギトという可能性が最初から奪われている。

 鞠莉は言う。全ての希望を託すように。

「チカっちは証明したいのよ。アギトじゃなくてもできる、て」

 

 この日も北條は、行きつけのフレンチレストランで夕食を摂っていた。昼食のラーメンは殆ど喉を通らなかったから空腹のはずなのだが、沼津随一のシェフが腕を振るった料理の匂いが鼻孔をくすぐっても、誠の食欲は沸かない。

 この時の北條は珍しく気遣ってくれて、誠の分のコースもオーダーしてくれた。ウェイターの運んできた料理に手を付けず事の顛末を話すと、北條は深く嘆息した。

「そうですか。遂にあなたも、アギトの正体を知りましたか」

「ええ………」

「私も最初は驚きましたよ。まさかあの津上翔一が………」

「そうですよね、全くです。まさかあの津上さんが………」

「で、何です? 相談事とは」

 「え?」と誠は間の抜けた声を上げながら項垂れていた頭を上げる。そうだ、愚痴を零しに来たんじゃなかった。

「ええ。何故、津上さんがアギトなのかと。アギトとは、一体何なのかと」

 翔一には失礼だが、世の中にはもっとアギトとなるに相応しい人間がいるはずだ。勿論、翔一だってこれまでアンノウンと戦い続けてきたのだから、その功績は認めるべきではある。

 でもやはり納得はできない。何らかの意思によるものなら、何故翔一にアギトという役目が与えられたのか。

「それは、私にも分かりません。恐らく、津上翔一自身も分かっていない」

 だとしたら翔一は、自分の力のルーツも知らないまま今まで戦ってきたことになる。でもあの性格だ。深く考えたことがあるとは思えない。

「だが、その謎も近い将来解かれることになるでしょう。この私の手でね」

 得意げに微笑すると、北條は誠を見据え、

「氷川さん。別にアギトが津上翔一でも良いではありませんか。彼は悪い人間ではありません。第一今は、個人的感情を云々している場合ではない。津上翔一以外のアギトが存在する以上、人間という種そのものにとてつもない大異変が起こっているのかもしれない」

 彼の言葉に、誠は背中に冷や汗を浮かべた。木野薫という第2のアギトによって、アギトが決して唯一無二の存在でないことが証明された。つまり、アギトはこれからも現れるかもしれないということ。いや、既に世界のどこかで第3、第4のアギトがいるのかもしれない。人類という種の中から。

「人間に、異変が……?」

「その可能性があるということですよ。それに私に言わせれば、あなたもまたアギトだ」

「僕が………、アギト?」

「ええ。G3-Xを装着したときのあなたは、アギトに匹敵する力を持っているはずだ。同じアギトとして、あなたと津上翔一。ふたりで力を合わせてアンノウンと戦っていくべきだと思いますが」

「僕がアギト………」

 反芻すると、気のせいか裡から熱いものが沸いて出てくるような感覚を覚える。G3-Xのスペックはあくまで小沢の設計したものだが、装着員である誠自身もまた、アンノウンと戦うアギトに匹敵する存在。

 決して追いかける側じゃない。僕は、アギトと肩を並べることができる。

「そんな風に考えた事ありませんでした。ありがとうございます。何か、ちょっと吹っ切れた気がします」

 いくらアギトでも、翔一も警察が護るべき市民であることに変わりはない。今まで通りで接すれば良いじゃないか。むしろ、関係は既に築けているのだから協力して戦っていくのも難しいことじゃない。そう思うと体が軽くなって、空腹を感じられる。

「物事は大きな目で見なければいけない、ということですよ。それから、小沢さんに会ったら伝えてください。あなたに蹴られた箇所が未だに痛む、とね」

 微笑すると、北條はワイングラスの水を飲む。「はあ……」と応じながら、誠も釣られて水を飲んだ。蹴った、て。あの上司はまた何があってそんな事をしでかしたのか。

 それにしても、北條が蹴られた箇所とはどこなのか。訊いたところで、北條が言う訳ないことは分かり切っているが。

 






 今更ですが高海姉妹の年齢設定について。

 志満姉は(忘れているかもしれませんが)本作では小沢さんと大学の同期という設定なので小沢さんに合わせて25歳。

 美渡姉は翔一君と同い年で21歳というイメージです。因みに本作で翔一君のバイクは美渡姉が短大時代に乗り回していたものを譲ってもらった、という設定です。なので美渡姉はバイクの免許持ってます。


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第5話

今回は氷川誠といえば、高海千歌といえば、な場面を盛り込んだら長くなりました(土下座)

分割すべきとは思ったのですが、分けたら中途半端になってしまうので止む無く一気に公開することになりました。




 

   1

 

「行きまーす!」

 手を挙げて張り上げた声が、体育館の広い空間に反響していく。

「千歌ー!」

「頑張ってー!」

 練習所を貸してくれたバレー部員たちの声援に駆け足で応じ、皆の想いを背負って見事に成功――

 と行きたいところだったのだが、無様にも千歌の体はうつ伏せに倒れる。こうなる事を見越して床には体操用のマットを敷いていたから痛みはない。

「大丈夫?」

 バレー部のエリアの方からそんな声が飛んできて、「だ、大丈夫」と弱く応じながら体を起こす。打ち身はないけれど、慣れない動きを繰り返してきたせいか肘や膝の関節が軋んだ。心配してくれた翔一が生姜で作ったお手製の湿布を貼ってくれたのだが、効いているのだろうか。

「もう1回」

 最初の位置に戻ろうとしたところで「少し休もう」と梨子が止めてくる。

「5日もこんな調子じゃ、体壊しちゃうよ」

「ううん、まだ大丈夫。もうちょっとで掴めそうで」

 試しに肩を回してみる。多少の鈍痛はあるけど、大したものじゃない。大丈夫、まだ動ける。

 曜が諭すように、

「地区大会まで、あと2週間なんだよ。ここで無理して怪我したら………」

「うん、分かってる。でもやってみたいんだ」

 千歌は自分の立っている場所――体育館のステージの感触を靴底で確かめる。曜と梨子と3人で、Aqoursとして初めて歌い踊ったステージ。

「わたしね、1番最初にここで歌ったときに思ったの。皆がいなければ何もできなかった、て」

 危うく絶望の底に叩き込まれそうになった初めてのステージ。誰からの応援も貰えなかった東京でのイベント。決して平坦じゃなかった道を駆け抜けてこられたのは、千歌と一緒になってくれた皆がいたから。この9人だけじゃない。

「ラブライブ地区大会の時も、この前の予備予選の時も、皆が一緒だったから頑張れた。学校の皆にも、街の人たちにも助けてもらって」

 そう、これまでの頑張りの中にいたのはAqoursだけじゃない。応援してくれた学校の生徒。見守ってくれた街の大人たち。脅威から守ってくれていた誠や涼に翔一。

「だから、ひとつくらい恩返ししたい。怪我しないよう注意するから、もう少しやらせて」

 

 結局、学校での練習で千歌は成功までには至らなかった。それでも彼女は諦めず、帰宅後も夕焼けの三津海水浴場での練習に励んでいる。浜辺は足場こそ悪いけど、砂が良いクッションになってくれるから千歌の体を優しく受け止めてくる。

 一体、あの子の何があそこまでさせるんだろう。あんなに小さな体で、わたし達みたいな力もないのに。

 打った尻をさする彼女を、果南は曜と梨子と共にただ見ていた。

「大丈夫?」

 曜が声を飛ばすと「平気だよー」と返ってくる。このやり取りも何度目だろう。様子を見に来るたびに千歌の体には湿布や絆創膏が増えているのに、のに本人は何でもないような顔をしている。痛いのは、傍から見て明らかなのに。

「気持ちは分かるんだけど、やっぱり心配」

 梨子が呟いた。「だよね」と曜も同意する。

「じゃあ、ふたりで止めたら? わたしが言うより、ふたりが言ったほうが千歌は聞くと思うよ」

 試しに果南が言ってみると、ふたりは揃って口をつぐむ。車の音が聞こえてちらり、と振り返ると、十千万の駐車場に黒のクラウンが入っていくのが見えた。停まった車からすっかり顔馴染みの青年刑事が出てきて、ネクタイを締め直しながら玄関へぎこちない足取りで歩いていく。

 何だろう、とは思ったが疑問は保留にして、

「嫌なの?」

 逡巡を挟んで答えたのは梨子だった。

「言ったじゃない。気持ちは分かる、て」

 「うん……」と曜も頷く。友達なら、本当に千歌を想うのなら止めるのが最善。だけど、こればかりは千歌だけでなく自分たちAqoursの問題。千歌を止めるという事は、Aqoursの次の進歩を止めてしまう事と同じになってしまう。

 もうただの友達じゃない。運命共同体の仲間ということ。それが果たして、今は良い事なのかは、千歌次第になってしまうのだが。

「千歌ちゃん、普通怪獣だったんです」

 唐突に梨子から告げられ、「怪獣?」と反芻する。そういえば、幼い頃に千歌と怪獣ごっこをして遊んだことがあった。手加減できなかった果南が千歌を泣かせてしまって、お仕置きに千歌の父から怖い怪談話を嫌というほど聞かせられたものだった。

「普通怪獣ちかちー。何でも普通で、いつもキラキラ輝いてる光を、遠くから眺めてて。本当は凄い力があるのに」

 その「普通」であることが、千歌を奮い立たせるのだろうか。何となく彼女が「輝き」にこだわる理由が分かった気がする。輝きを見る側ではなく、輝きを放つ側になりたい。憧れた人たちのように。

「自分は普通だ、ていつも1歩引いて」

 曜が苦笑と共に漏らした。言われてみれば確かに、幼い頃から千歌はふと引っ込み思案な面を垣間見せていた気がする。曜と一緒に通っていた水泳教室もすぐに辞めて、果南がダイビングスクールに誘っても断られたことがある。

 ――わたし、果南ちゃんみたいに上手くできないから――

 苦笑と共に、千歌はそう言っていた。普通な自分が何をしたところで何もならない。そんなコンプレックスを越えて熱中できるスクールアイドルという場を見つけることができたのは、果南としても嬉しくはある。

「だから、自分の力で何とかしたい、て思ってる。ただ見てるんじゃなくて、自分の手で」

 梨子は言った。浜辺に腰を打った千歌は、海に沈もうとしている太陽に手を伸ばしている。輝きを掴もうとしているように。何度すり抜けられようが、絶対に手にしてみせる、と。

 できることなら、果南だって千歌の意志を尊重してあげたい。でも、こればかりは目を瞑っていられない。身の丈以上のものを求めた末路を知っている以上は。

 普通で結構じゃないか。普通でなくなることで、失ってしまうものも存在する。無理なんてしなくていい。あの子はあの子のままでいたら良い。アギトの力なんて持たない、普通の人間として。

 果南は立ち上がる彼女に歩み寄った。

「千歌」

 

 

   2

 

「いやあ嬉しいな氷川さんが来てくれるなんて。何か俺ちょっと嫌われちゃったかな、て思ってたから」

 朗らかに笑いながら、翔一はお茶を持って来てくれる。

「あれ、こっち座ってください」

 促され、誠は「は、はい」と座布団の上に正座する。

「す、すみません。アギト、であるあなたにお茶を淹れさせてしまって………」

 今まで通り接していけば良い。そう思い訪問したのだが、やはり本人を前にするとどうしても緊張で声が上擦ってしまう。思えば今まで、アギトに対して何て失礼な態度を取ってしまったのか。

「いつもの事じゃないですか」

 そんなアギトである翔一はいつも通り笑いながらお茶を啜る。いつまでも自分のお茶に手を付けない誠は「どうぞ」と促され、せっかくの厚意を無下にするわけには、と湯呑を手に取ろうとする。だが震える手で取った湯呑はすぐに滑り落ち、注がれていたお茶をテーブルにぶちまけてしまう。

「あ、熱い!」

 翔一は手際よく布巾でテーブルに広がるお茶を拭き取りながら、

「大丈夫ですか? 氷川さんちょっと固くないですか? よしましょうよお見合いじゃないんですから」

 この青年は何でいつもの調子を崩さずにいられるのだろう。この大らかさがアギトたる所以なのだろうか。

「ええ、実は今日はお礼が言いたくて伺ったんですが……。今まで何度も助けてもらって――」

「いやいやお互い様ですよ。俺だって氷川さんに助けてもらったことあったし」

「で、でも大変ですよね。アギト、であることは……ある意味で、悲劇的なことです………。そんな訳の分からない運命に翻弄されてしまって………」

「いやあ普通ですけど」

「さ、参考までに……色々と教えてください。例えば、あなたは……どんな理想を持って生きてるんですか?」

 「理想、ですか……」と翔一はしばし悩むように逡巡した後に、

「快食快便です!」

 一瞬どういう意味だ、と思った。遅れてよく食べよく出す、ということに気付く。

「それは……大事なことだとは思いますが………」

 まあ翔一らしいと言えば翔一らしい。ただ、誠は翔一らしさを知るために来たんじゃない。翔一からアギトらしさを見出すために来た。彼がアギトである理由を知るまでは、おめおめと帰るわけにはいかない。

「では、アギト、としての日々の活動を教えてください」

「日々の活動ですか………」

 再び悩むように逡巡して、翔一は何か思いついたのか、

「そうだ」

「何です?」

 鼻息を荒げる誠に「ちょっと待っててください」と言って、翔一は台所へと引っ込んでいく。何を見せてくれるんだろ、と少し楽しみにしていると、そう時間も掛からずに翔一はお盆を手に戻ってきた。

「お待ちどうさま」

 とテーブルに置かれた深皿に山盛りになった中身を、誠は凝視する。

「………栗?」

「今日朝一で茹でたんです。秋と言えばやっぱこれでしょ。ほら、ふたつに切ってますから、スプーンで掬うと食べやすいですよ」

 翔一は上機嫌に栗を食べ始める。これが、アギトとしての日々の活動。朝一で栗を茹でて、来客の誠に振る舞うことが。

 分からない。話せば話すほど翔一のことが分からない。何でこんな青年にアギトの力が宿ったのか、誠は何も言えないまま首を傾げる。

 いや、簡単に決めつけてはいけない。高海家の家事請負とアギトの二重生活を送るために、何かしらの努力はしているはずだ。そうでなければアンノウンと戦えるはずがない。

「で、では……何か特別な、訓練とかはしていますか?」

「いやあ、俺どうもそういうの苦手なんです。訓練なんてやめてくんれん(・・・・)、なんて」

 と自分の駄洒落で笑いだす翔一に、次第に誠にも苛立ちが募ってくる。

「もしかして、からかってるんですか?」

「そんなまさか。あれ、それよか氷川さん食べないんですか? 美味しいですよ栗」

 と翔一は2個目の栗を食べ始める。何だか緊張していた自分が馬鹿らしくなってきた。これまで抱いてきたアギトの強く逞しい、というイメージは、所詮はただの夢想だったのだろうか。翔一がアギトであることは認めざるを得ないが、こうして話しても翔一はこれまでと変わらない、お調子者でいい加減なところがある記憶喪失の青年。

 深く溜め息をつき、栗をひとつ取ってスプーンで実を掬おうとする。

「あ」

 だが栗の実というのは意外と固いもので、力を込めようとしたら手から滑り落ちてしまう。気を取り直して栗を拾うも、今度は力を抜きすぎてスプーンが手から零れる。3度目の正直といくか、と慎重に力を込める。これは上手くいきそうだったのだが、掬った勢いで栗の実はスプーンの腹から飛んでしまう。

「ああ氷川さんボロボロ零れてるじゃないですか」

 見れば、テーブルはすっかり誠の零した栗の実が散らばっている。見かねたのか翔一は自分の栗とスプーンを置き、

「俺が取りますから――」

「余計なお節介はやめてください。第一、何ですか栗なんて! こんなものは皮ごと食べれば良い話だ!」

 と深皿の栗を手に収まるだけ掴み一気に口へ放り込む。皮付きの栗なんて堅くてとても食べられたものじゃないが、誠は無理矢理に顎を動かし噛み砕いた。

「そんな氷川さん………」

 言いかけた翔一を、栗を噛みながら睨みつける。流石の翔一も何も言えなくなったのか、黙ってもそもそ、と栗を食べた。

 栗の皮というのは食べると酷く渋いもので、実の甘味なんて全て掻き消されてしまう。そろそろ飲み込もうとしたとき、鉄臭さが咥内に広がると共に痛みが走った。噛み切って鋭利になった皮で切ったらしい。「いだっ」と吐き出しそうになった口を手で押さえると、翔一の呆れた声色が。

「だから言ったじゃないですかもう。ほら口開けて見せてくださ――」

 唐突に口を止めた翔一を見上げる。さっきまでのお調子者な表情は消え、翔一は宙を見ている。

うふぁいふぁん(津上さん)?」

 回らない舌で呼びかけるも翔一は応じず、エプロンを脱ぎ捨て外へ駆け出していく。その直後、誠の胸ポケットのスマートフォンが着信音を鳴らした。

 

 

   3

 

 現場の狩野川遊歩道へ近付くにつれて、市街にも関わらず銃声が聞こえた。非日常的な破裂音に慄いてか、夕暮れの買い物時なのに通行人は全くいない。この現場にいるのは非日常的なアンノウンと、通報を受け先着していた警官たちだけだった。

 警官たちは絶えず銃を発砲しているが、アンノウンは鉛玉なんて意に介さない。ゆったりとした足取りでひとりの男性警官の頬を払い、床に伏せると拳銃を奪い取って驚異的な握力で握り潰す。手の中で弾薬が暴発したのだが、その程度の火力でアンノウンの手を焦がすことなんてできない。

 武器を失った警官へにじり寄るアンノウンに、誠は背後から組み付いて羽交い絞めにする。

「逃げて! 逃げてください!」

 ここまで持ち堪えてくれたことに感謝しつつ、露払いの声を飛ばしていく。G3-Xの火力で巻き添えを食わせるわけにはいかない。警官たちが現場から退避する頃合いを見計らって、誠はアンノウンを蹴飛ばし距離を取る。地面に倒れたアンノウンは、まるでジャッカルの皮を被ったような顔をしていた。ガードチェイサーへ走りリアハッチを解除、GX-05を取ろうとしたところで、背後からアンノウンに組み付かれてしまう。

「変身!」

 その声が聞こえ目を向けると、翔一が眩い光と共に姿を変えた。その姿はまさに、今まで誠の窮地を救ってきたアギトだった。

 翔一はアンノウンの鳩尾を蹴り上げ、肩を掴み誠から引き剥がす。更に拳を突き出すが、アンノウンは人間大の肉体にそぐわない俊敏さで跳躍し逃れる。誠はすかさずGX-05にパスコードを入力した。

《バンゴウガチガイマス》

「…………え?」

 一瞬だけ思考が停止した。打ち間違えただろうか。確か1から3で3桁の番号だったはず。

「氷川さん慌てないで!」

 翔一の声を無視し、何となく脳裏に浮かんだ別の番号を入力してみるが、

《バンゴウガチガイマス》

 苛立って思わずブラウン管テレビよろしく叩いてしまうが、それでロックが解除できるほど脆弱な代物でもない。不味い、確か3回打ち間違えると使用権限が消失してしまう。

 不意に、横から翔一に武器を掴まれる。

「俺に貸してください分かりますから!」

「余計なお節介はやめてください!」

「いいから貸してくださいよもう!」

「いいですよもう!」

 振り払い深呼吸すると、脳裏にはっきりと番号が浮かぶ。そうだ、確か132だった。オペレーション中にこんなやり取りで冷静になるなんて。

《解除シマス》

 何だか腑に落ちないが、ロックが外れたから良しとしよう。

 こちらが油断しているとみたのか、宙からアンノウンが跳び出してきた。すかさず翔一が対処し、蹴りと拳の応酬をしている間に誠はGX-05のバレルを展開し銃口を向ける。気付いてか、アンノウンが背を向けて走り出した。翔一から離れたタイミングを見計らいトリガーを引く。だがアンノウンは弾丸の発射速度よりも速いようで、銃弾の礫はアンノウンの1歩後のアスファルトを穿っていくばかり。

 すぐ市街に消えてしまっては、闇雲に発砲するわけにいかず誠は武器を降ろす。こうなるとお手上げで次の出現を待つしかない。

 と、翔一がアギトの顔で告げた。

「氷川さん、俺に考えがあります。一緒に戦いましょう」

 

 アギトの力というのは、どうやらアンノウンを察知できるらしい。Gトレーラーのカーゴで小沢と尾室が街中に飛ばしたドローンの映像に目を光らせる間に、翔一は迷うことなくバイクを走らせ、誠はその後についた。

 このアンノウン察知能力について誠は後から詳しく訊こうとしたのだが、翔一からの回答は「何となく分かる」だった。因みにアギトに変身するときの感覚も何となく。

 誠たちは沼津駅の北口から伸びるリコー通りを抜け、バイパス通りに入ったところで道路上を走るアンノウンを見つけた。敵の姿を認めると、翔一がバイクのシートから跳躍する。乗り手が離れたバイクは車体を前後にスライドさせ、スライダーボードのように変形し滑空する。翔一は車体に足をつき、

「氷川さん!」

「はい!」

 誠はガードチェイサーを停車させ、GX-05を抱えボードのリアシートに飛び乗った。その間にアンノウンとの距離はかなり離されたのだが、この形態はバイクの時よりも速度が増しているようで、翔一と誠のふたりを乗せた状態でジェット機のようなスピードで宙を滑っていく。この力についても後で訊いたのだが、回答はお察しの通り「何となく」だった。

 アンノウンにはすぐに追い付いた。真横につくと向こうはこちらに気付いたようで、驚愕らしき声をあげている。

 もう遅い。既に王手だ。

 GX-05のトリガーを引いた。同じスピード上にいるアンノウンの肉体を弾丸の嵐が抉り取り、道路上で爆炎を上げさせた。

 

 

   4

 

 屋台でふたり並んでラーメンを食べるなんて、何だか変な気分だ。今までのお礼も兼ねて誘った屋台だが、さっきの緊張がどうしてもぶり返してしまう。でも隣でラーメンを啜って頬を綻ばせる翔一を見ていると、何だか自分がどうにも小さな人間に思えた。

 何も変わらないな、僕がただ畏まっているだけで。

「よく来るんですかここ? 美味しいですね」

「ええ。そんなことより、さっきはありがとうございました。結局、また君に助けられてしまった」

「何言ってるんですか。いつもの事じゃないですか」

 いつもの事、か。

 本来なら僕のほうがあの力を持っていなければならないのに。神というのはとにかく不平等らしい。

「あれ、何か不味いこと言いました?」

「あ、いえ別に」

 はぐらかし麺を箸で取ろうとしたところで、ふと誠の視点がナルトに留まる。ちらり、と覗き込むと、翔一はまだナルトに手を付けていなかった。

「それより、どうですか津上さん。ナルト占い」

「ナルト占い?」

 そこで、新聞を読んでいた店主が出番を察し、「どれどれ」と翔一の丼を覗き込んで、

「あ、こりゃ駄目だ。あんたちょっとお調子者でいい加減なところがある」

 「やっぱり」と誠は頭を垂れた。全部的中だ。尊敬していた相手に裏切られるのも、尊敬していた相手がお調子者でいい加減なところがあるのも。

「何落ち込んでるんですか氷川さん。また一緒に戦いましょうよ。ね、ね!」

 その当人は誠の肩をぽんぽん、と叩いてくれるのだが、全く慰めにはならなかった。

 

 砂浜を駆け、その勢いのままに両手を砂地につく。上下逆に持っていかれた体がぐるりと1回転し、腰を曲げしっかりと両足をつき――

 とはいかず、千歌の足が着くより先に尻を砂地に強打する。「いったあ……」と患部をさすりながら、彼女は再度挑戦し、また同じ失敗を繰り返す。その様子を、曜は海岸の石段に腰掛け眺めていた。

 最初の頃よりは上手くできている。着実に成功には近付いているし、あともう少し、といったところ。

 不意に、ふたり分の足音が聞こえた。振り向くと、梨子と翔一がこちらへ歩いてくる。

「翔一さんから聞いて」

 石段に腰掛けながら梨子は言った。

「寒いからさ、風邪引いちゃうよ」

 と翔一は曜の背中に半纏(はんてん)をかけてくれた。

「梨子ちゃんに頼むと、止められちゃいそうだから、て」

 できることなら曜も止めたかったけど、千歌の意志は無下にできなかった。

「ごめん。俺も梨子ちゃんには言わないで、て言われてたんだけど、やっぱ心配でさ」

 罰が悪そうに翔一は言った。「ううん」と梨子はかぶりを振り、

「でも、こんな夜中まで」

「あんなこと言われたら………」

 夕方、練習に励む千歌に果南は言っていた。

 ――千歌、約束して。明日の朝までできなかったら諦める、て。よくやったよ千歌。もう限界でしょ――

 冷たく告げられたその言葉に、千歌は反論せず口を結びながら拳を握りしめていた。あの時から、こうなることは何となく曜は予想できていた。反論するくらいなら千歌は練習する、と。でも、果南の言い分も理解できる。

「2年前、自分が挑戦してたから尚更分かっちゃうのかな。難しさが」

 だから、曜はあの場に割って入ることができなかった。どちらも間違っていない。成功させたい千歌も、無理をさせたくない果南も。

「俺さ――」

 翔一が口を開いた。

「千歌ちゃんのこと羨ましいな、て思ってたんだよね」

 「え?」と曜は梨子と揃って声をあげた。傍から見れば、アギトの力を持つ翔一の方が凄いのに。

「何ていうか、ああやって辛くても頑張れるのが。俺、練習とか訓練とか辛い想いしてまで何かしたい、なんて思ったことなかったからさ。訓練なんてやめてくんれん(・・・・)、なんて」

 と笑い出す。まさかその寒い駄洒落を他所でも言ってはいないだろうか。でも釣られて笑いながら、梨子が言った。

「ちゃんと見てるんですね、千歌ちゃんのこと」

「まあ、俺があの子のご飯作ってるからね」

 得意げな顔をする翔一に、曜も尋ねる。

「戦うことが辛い、て思ったことなかったんですか?」

 「うーん」と翔一は眉を潜めるが、すぐにいつもの朗らかな表情に戻り、

「あったにはあったけど、すぐに無くなったかな。戦って戻ってこられたら、千歌ちゃんや曜ちゃんや、梨子ちゃん達がいるし」

 何の気なしに言ってのけるが、その顔が曜には眩しく見える。それが翔一さんの強さなんだな、と思った。自分の守るものために、迷いなく戦いへと走っていけることが。

 「うあっ」と千歌の声が聞こえ、彼女へと視線を戻す。また失敗したらしい。

「あと少しなんだけどな」

 「うん」と梨子も頷いた。

「あと少し………」

 

 果南から受け取ったノートは一字一句記憶するほどにまで読み込んだ。体をどう動かせばいいのか、イメージはしっかりとできている。

 それなのに、体が思うように動いてくれない。動きは分かっているはずなのに、何度やってもできない。

 砂の上に大の字になって、千歌は生き場のない感情を拳に込めて砂に叩きつける。

「どこが駄目なんだろ、わたし………」

 そもそも果南ほどの身体能力が無いから。でも、その程度の差は練習量でカバーできる。思い当たる壁があるとすれば、裡にある力。

 認めたくない。皆にある力が自分には無いから。それが絶対的な壁になっているだなんて。

「千歌ちゃん」

 不意にかけられたふたりの声と共に、投げ出された千歌の手が優しく包まれる。

 右手を梨子に。

「力を抜いて、練習通りに」

 左手を曜に。

「できるよ、絶対できる」

 ふたりに支えられながら立ち上がる。

「頑張って」

「見てるから」

 石段のほうに誰かいることに気付く。目を向けると、翔一がいた。「大丈夫」と笑顔で言ってくれる。

「うん」

 そうだよね。できるよね。

「千歌ちゃーん! ファイトー!」

 いくつもの声が重なって呼ばれる。振り返ると、海岸に1年生の3人が来ていた。

「頑張るずらー!」

 花丸の声に、千歌は無言で頷きしっかりと両足を踏みしめる。皆からの視線を背で受けながら駆け出す。

 いける。

 砂に手を着いたとき、直感的な期待が膨らんだ。この勢いのまま、と体を動かそうとする。ふわ、という浮遊感の後、もう慣れてしまった衝撃と痛みが背中に走る。

「できるパターンだろこれ!」

 荒くなった口で喚いてから、虚しさで起き上がる気力が抜けていくように感じられる。

「何でだろ……。何でできないんだろ………。梨子ちゃんも曜ちゃんも、皆こんなに応援してくれてるのに………」

 こんなに痛いのに、辛いのに、苦しいのに。

 わたしには、無理な事なの?

 こんなどこまでも普通で、才能ある人間を羨むだけの、何の取り柄もない自分には。

「嫌だ、嫌だよ! わたし、まだ何もしてないのに。何もできてないのに………」

 わたしには何もない。梨子みたいなピアノの才能も。曜みたいな器用さも。他の皆が持っている、誇れるものなんて何も。空っぽなただの人間なんてことは千歌自身が1番よく知っている。

 だからって何も生み出せず、誰からも応援されず、輝けないまま終わってしまうなんて嫌だ。

 せっかく見つけた、輝けるかもしれない居場所なのに。

「ぴー! どっかーん!」

「ずびびびびー!」

「はああああっ!」

 なんて奇声が聞こえてきて、霞んだ目元を拭う。何やらごっこ遊びをするように、曜と梨子と翔一の3人が騒ぎ立てている。

「普通怪獣ヨーソローだぞー!」

「おっと好きにはさせぬ! りこっぴーもいるぞー!」

「なら俺は、普通怪獣しょうイッチーだぞー!」

 いや翔一くんはアギトじゃん、と裡で突っ込みながら立ち上がる。

「まだ自分は普通だ、て思ってる?」

 曜に訊かれ、答えに迷った。普通なのは事実。でも、それを認めてしまうのは怖い。これだけ頑張っても、普通なままなんて悔しい。

「普通怪獣ちかちーで、リーダーなのに皆に助けられて。ここまで来たのに、自分は何もできてない、て。違う?」

 梨子からも訊かれる。スクールアイドル始めよう、なんて皆を巻き込んで、言い出しっぺなのにリーダーらしい事なんてしていない。

 わたしはただ、皆の持っている輝きのおこぼれを貰おうとしていただけ。

「だって、そうでしょ?」

 消え入りそうな声で答える。すると短く笑った曜が、

「千歌ちゃん、今こうしていられるのは、誰のおかげ?」

「それは、学校の皆でしょ? 街の人たちに、曜ちゃん、梨子ちゃん、翔一くん、それに――」

「1番大切な人を忘れてませんか?」

「………何?」

 その質問は、本当に分からなかった。1番大切な人とは。メンバーの皆も、学校の皆も、街の人々も。誰が1番なんて決められない。

 ヒントを与えるように、梨子が訊いてくる。

「今のAqoursができたのは、誰のおかげ? 最初にやろう、て言ったのは誰?」

「それは………」

 わたしの力なんかじゃ――

 そう言おうとしたところで、曜が言葉を被せる。

「千歌ちゃんがいたから、わたしはスクールアイドルを始めた」

 続けて梨子も、

「わたしもそう。皆だってそう」

「他の誰でも、今のAqoursは作れなかった。千歌ちゃんがいたから、今があるんだよ。そのことは、忘れないで」

「自分のことを普通だ、て思っている人が、諦めずに挑み続ける。それができる、て凄いことよ。凄い勇気が必要だと思う」

「そんな千歌ちゃんだから、皆頑張ろう、て思える。Aqoursをやってみよう、て思えたんだよ」

「恩返しなんて思わないで。皆わくわくしてるんだよ。千歌ちゃんと一緒に、自分たちの輝きを見つけられるのを」

 皆は、千歌の前でまるで道を開けるようにして、二手に分かれて立った。これがあなたの作ったグループ。その先にある道は、更に続いている、と示すように。

「千歌ちゃん」

 千歌の傍に立った翔一が、優しく言ってくる。

「前に俺に言ってくれたじゃない。自分のために勇気を出して、てさ」

 それは、翔一がしばらく涼の家に居た時、皆で作った料理を届けに行った時の言葉だった。

「千歌ちゃんも、皆のために頑張れるなら、自分のためにも頑張れば良いんだよ。俺も見たいんだよね、千歌ちゃんの輝きをさ」

「わたしの、ため?」

 以前に言ったことを返されるだなんて、不思議な気分だった。あの時の翔一も、今の千歌と同じだったのかもしれない。自分がいないと、しっかりしないと、と背負い込んで。

 それは無用な荷物だった。翔一には千歌が、Aqoursの皆がいる。戦いから戻ってくる翔一を待つために、迎えるために。

 同じだ。千歌にも翔一が居てくれる。目を向ければ、いつだってAqoursの皆が一緒にいる。皆だって千歌と同じように、肘や膝に湿布を貼りながら、一緒に輝きへと走ってくれる。

「新たなAqoursのwaveだね」

 鞠莉の声だった。ダイヤと果南と、3人で海岸に入ってきて、離れた先に立つ。

「千歌、時間だよ。準備は良い?」

 問いを向ける果南の顔も、転んだのか汚れがこびり付いている。彼女の顔を見ると笑みが零れた。諦めろ、なんて言っておきながら、果南も信じてくれていたじゃないか。

 体の奥底から熱が込み上げてくる。体の節々は痛いけど、今度こそ、という確信がある。

 わたしのために――

 空っぽな裡を、どこからかやってきた熱で満たし、千歌は駆け出した。

 

 

   5

 

 スポットライトが、ステージ上のAqoursに降ろされる。始まりから全力疾走のごとくアップテンポなリズムで、皆でステップを踏んだ。

 最初からクライマックスな勢いの曲で観客も度肝を抜かれたらしく、所々でサイリウムが乱れている。

 まだまだ、これからだよ。

 歌いながら、果南は期待をステップに込める。サビに入ろうとするパートで、波のようにメンバーが並び順々に身を伏せる。ひとり立った千歌はステージを駆け、そして床に手を着いた。

 これが起爆剤。

 側方倒立回転(ロンダート)から、その勢いのままにバク転で宙を1回転し、乱れのない着地を決める。

 観客席から大歓声が飛び交い、負けじとAqoursも歌声を響かせる。

 2年前に求めていた歓声に、果南は目に浮かぶ涙を払いながら踊る。できっこない、と諦めていたもの。でも諦めの悪いリーダーのお陰で、ようやく完成した。

 曲が終わっても、歓声はいつまでも止む気配がない。アンコールをお望みだろうか。生憎、これが現在の全力だから、これ以上のものは見せられない。でも、この地区予選を突破できたのなら、更に上を披露できるかもしれない。

 いや、絶対にできる。できる、と信じれば。諦めさえしなければ。

「今日ここで、この9人で歌えたことが本当に嬉しいよ」

 千歌の声が、歓声の中でもはっきりと聞くことができる。

「わたし達だけの輝き。それが何なのか、どんな形をしているのか。わたし達9人が視たこと。心を動かされたこと。目指したいこと。その素直な気持ちに、輝きはきっとある」

 そうだね、と果南は思った。自分たちの力は、アギトの賜物なんかじゃない。アギトの力がなくても、彼女には自分たちに無いものを持っている。

 千歌ならきっと、わたし達と一緒に輝きへと辿り着ける。できる、て証明してみせたのだから。

「皆、信じてくれてありがとう」

 それはわたしの台詞だよ。

 わたし達をステージに立たせてくれたのも、パフォーマンスを完成させてくれたのも、全部千歌だったんだから。

 ありがとう、千歌。

 






次章 残された時間 / あかつき号


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第20章 残された時間 / あかつき号
第1話


 

   1

 

 観客席は満員にも関わらず、会場は静寂に包まれている。ドームの中央に集められた参加グループは皆緊張に満ちた眼差しをステージに備え付けられた大型モニターに向けていて、Aqoursの面々もその例に漏れない。

 大丈夫、あのパフォーマンスを成功させたんだもん。

 そう自身に言い聞かせながらも、千歌は祈らずにいられない。どのグループもレベルの高い歌とダンスだった。本当にこれが地区予選なの、と疑うほどに。

 女性司会者の意気揚々とした声が、静寂を破った。

「それでは皆さん! ラブライブ、ファイナリストの発表です!」

 モニターの液晶が移り変わった。「Love Live!」のロゴが消え、出場グループの名前が羅列される。

 地区予選から決勝へ進むのは上位3グループ。「お願い!」と曜が両手を組んだ。千歌も瞬きせず、背中に冷や汗を感じながらモニターを注視する。

 全力を出し切った。ここで落とされても後悔はない。

 そんな悠長に思えるわけがない。ここまで進んだのだから、決勝に進みたい。自分たちAqoursというグループを通じて、多くの人に浦の星女学院という学校を知ってほしい。

 そして、学校を統廃合から救いたい。

「上位3組はこのグループです!」

 モニターにみっつの名前が浮かんだ。同時に、千歌たちのいる位置にスポットライトが当てられる。上位3組の名前の横にはそれぞれ、順位として色違いの王冠が並べられている。下は銅色、真ん中は銀色、そして上は金色。

 黄金に輝く王冠の横に、Aqoursの名前があった。

 会場の空気が観客たちの歓声に震えているが、千歌の耳には入っていなかった。千歌の意識は全て視覚へと集中し、全神経を以って捉えていたのは、モニターにあるAqoursのロゴだけだった。

「千歌ちゃん!」

 曜に抱き着かれ、ようやく五感が等分に割り振られていく。

「やった……、やったの………?」

 夢なのかな、と思ってしまう。この歓声も、会場も、全てが海原の向こうに揺らめく蜃気楼なのでは、という錯覚に陥りそうになる。

「夢じゃないよね……。は、てならないよね………」

 「ならないわ」と梨子が即答する。これは蜃気楼なんかじゃない。ふとした衝撃で消えたりなんかしない。

「本当? だって決勝だよ、ドームだよ。本当だったら奇跡じゃん」

 そう、これが現実なら、千歌たちはアキバドームで歌うことができる。世界で最も輝きに満ちた場所、と憧れた会場で。そんな奇跡、求めてやまなかったものが本当に迫っているだなんて。

「奇跡よ。奇跡を起こしたの、わたし達」

 涙声になりながら、梨子はこれが現実であることを繰り返す。見渡せば、皆は歓喜に涙を浮かべている。でも、千歌は溢れそうな涙を堪えた。まだ早い。だって、次があるんだから。この想いを吐き出すのは、全てが終わってからでいい。

「よーし、いっくよー!」

 次への道を示すように、曜が「全速全身――」とコールを取る。その続きを、千歌たちは声を揃え告げる。

「ヨーソロー!」

 

 買い物袋を手に「ただいま」と玄関に入ると、どたどた、と足音を立てて志満がやってきた。

「翔一君、千歌ちゃん達予選通ったわよ!」

 「本当ですか!」と翔一は破顔した。志満がスマートフォンの画面を見せてきて、「決勝進出」という文字の下にAqoursの名前がある。

「やりましたね! よーし今夜はご馳走作らないと」

 買ってきたもので食材は足りるだろうか。何ならまたスーパーに行って買い足しておかないと。

「あ、忘れるところだったわ」

 台所へ行こうとする翔一を、志満は呼び止める。

「さっき刑事さんが来てたの。確か北條さん、ていう」

「北條さんが?」

 また俺のこと捕まえる気かな、と面倒に思いながら尋ねる。

「俺に何の用だったんです?」

「見せたいものがあったみたい」

「見せたいもの? 何ですか?」

 すると志満は眉を潜め、

「手紙みたいだったけど。宛先が翔一君の名前でね、差出人が雪菜(ゆきな)、て人みたい。翔一君、聞き覚えない?」

「ゆきな……」

 何度もその名前を反芻してみるが、全く覚えがない。記憶を失う前のことは当然、津上翔一として暮らしてきたこの2年間の記憶にも。

 志満は言う。

「ほら、翔一君が海岸で倒れてたときに持ってた封筒、中身が無かったでしょ? あれと関係があるんじゃない?」

 そういえば、と思い出す。千歌と曜に発見されたときの翔一の所持品は、宛先が津上翔一名義の封筒1通だけだった。過去の名残としては不明瞭過ぎるが、名無しの記憶喪失者として発見された青年には封筒の宛名を戸籍名として与えられた。自分が何と呼ばれていたかも思い出せないが、何となく響きは気に入っていたから自分の名前として名乗ることに抵抗はなかった。

「でも不思議じゃないですか? もしそうだとして、何で北條さんがその手紙持ってるんですか?」

「そうよね。捜査の都合があるから、て教えてもらえなかったけど………」

 まあ、手紙の出所は追々聞くとして、

「それで何て書いてあったんですか、手紙?」

「それが、見たことのない文字で全然分からなかったの。英語でもなさそうだったし」

 と志満は文字の形を思い出そうとしているのか、眉を潜めながら宙を見つめる。今度北條に会ったら訊いてみよう、と翔一は大して気にも留めず台所へ向かった。

 手紙から過去が分かったとしても、何かが劇的に変わるわけでもなさそうだし。

 

 

   2

 

 茜に染まろうとしている空にそびえ立つ銀色の鉄塔は、そこだけ切り取ってみたら東京のスカイツリーと見間違えてしまいそうだった。視線を降ろせばそこは名古屋の久屋(ひさや)大通公園で、ビルが立ち並ぶ市街と隔てるように植えられた樹々はまるでオアシスのよう。もっとも、この広範囲なオアシスの下には地下街が広がっているが。

「緊張で何も喉が通らなかったずら」

「あんたはずっと食べてたでしょ!」

 ステージを終えてリラックスできるようになったのか、花丸がのっぽパンを頬張り善子が突っ込みを入れる、という馴染み深い様子が見られる。

「それにしても、アキバドームか」

 感慨深そうに果南が言った。「どんな場所なんだろうね」と千歌は応じる。求めていたものがあるかもしれない場所。世界で最も輝いていると信じるステージで歌う。確かな現実のはずが、未だ浮足立って夢心地な気分に囚われてしまう。

「良い曲を作りたい」

「ダンスも、もっともっと元気にしよう」

 梨子と曜は待ちきれないのか、もう新曲について考えているらしい。そうだ、と千歌は遅れて思い出す。自分だって作詞担当なのだから、決勝に向けての歌詞を作らないと。

「見て、凄い視聴回数」

 そう言って、ルビィが広場に設置された大型モニターを指さす。皆で視線を向けると、先ほどのステージの映像が流されていた。ラブライブ決勝に進む東海地区代表グループの紹介らしい。サイトの動画配信ページをそのまま中継しているらしく、動画のすぐ下にある視聴回数もそのまま流されている。まだ配信されて間もないはずだが、既に視聴回数は5万に近付こうとしていて、カウントは留まらずに増え続ける。

「本当、こんなにたくさんの人が……」

 単純に考えれば、テレビやPCや携帯電話といった映像機器の5万台近くで、千歌たちAqoursが映し出されているということ。世界中で、今この瞬間に。

「生徒数の差を考えれば当然ですわ。これだけの人が見て、わたくし達を応援してくれた」

 ダイヤがどこか安堵したように言う。票の獲得が不利だったはずのグループが決勝進出を勝ち取った。その奇跡的ストーリーに観客たちが沸き立ち、これだけの盛り上がりを生んだということ。

「じゃあ、入学希望者も――」

 期待を込めた視線を鞠莉へ送る。期限は今日の0時まで。この結果が起爆剤となって、入学希望者を爆発的に増やすことができたら。

 皆からの視線を一身に受ける鞠莉は、無言のままスマートフォンを胸に抱く。良い結果なら勿体ぶらずに言うはず。冗談好きな鞠莉でも、そこまで悪趣味な冗談は吐かない。

「どうしたのよ?」

「嘘?」

「まさか……」

 彼女の沈黙が嫌な予感を漂わせ、口々に不安が出てくる。ようやく沈黙を破った鞠莉の声も、どこか細く弱々しい。

「携帯、フリーズしてるだけだよね? 昨日だって何人か増えてたし、まったく変わってないなんて………」

 つまり、現状は確認不可能。

「鞠莉ちゃんのお父さんに言われてる期限て今夜だよね?」

 ルビィが訊いた。「大丈夫。まだ時間はありますわ」とダイヤが安心させるよう、優しい声色で答えた。ダイヤは続けて鞠莉に尋ねる。

「学校に行けば正確な数が分かりますわよね」

「うん………」

 不安は理解できるけど、次第にこんな感情が煩わしくなっていく。やれる、と信じて今日に臨んだのに、土壇場で怖気づいたら何も起こらない。

 皆の間に漂う湿っぽさを吹き飛ばさんとばかりに、千歌は声高に告げた。

「よし、帰ろう!」

 

 沼津駅に到着した千歌たちは解散せず、そのままバスで浦の星女学院へ直行した。学校へ到着する頃には既に陽は暮れていて、休日だから教員たちもいない。理事長室で鞠莉がPCを立ち上げたとき、千歌がふと壁の時計を見やると時刻は丁度8時を回ったところだった。

「分かってない………」

 キーを叩く手を止めた鞠莉は落胆気味に呟く。千歌のほうから画面は見えないが、今朝の時点で希望者が80人だったことは覚えている。

 残り時間は4時間。

 残り人数は20人。

「そんな………」

 曜が呟いた。あれだけの努力をして、何も変わっていないなんて。

「まさか、天界の邪魔が――」

 この期に及んでも普段の調子を崩さない善子の精神は逞しいのだが、今はふざけていられる余裕もなく、誰も反応できなかった。

「Aqoursの再生数は?」

 鞠莉が訊くとルビィはスマートフォンを操作し、

「ずっと増え続けてる」

 注目が落ち着いたわけじゃない。依然としてAqoursの存在は世間に広まり続けている。あと少し、と千歌の裡で焦りが生じていく。Aqoursを通じて、浦の星に興味を持ってもらえたら。

「パパに電話してくる」

 そう言って鞠莉はスマートフォンを手に理事長室から出て行く。ダイヤも一緒に交渉するのか、鞠莉の後に着いて行った。交渉は長引いているのか、中々戻ってこないから千歌たちも立ちっぱなしに疲れてきた。各々が壁や机に背を預け、時計の針が時間を刻む毎に焦燥も募っていく。でもそれを吐き出したところで状況が好転するわけないことは誰もが分かっているし、苛立ちを表に出すことは誰もない。

 今は待つしかない。事の次第を見守ること以外に出来ることはないのだから。

「遅いね、鞠莉ちゃん」

 曜がそう言ったのは、時計の針が9時を刻んだ頃だった。

「向こうは早朝だからね。なかなか電話が繋がらないのかもしれないし」

 眉ひとつ動かさず、果南は淡々と言う。そこで、ドアが開いた。

「watingだったね」

 ダイヤと共に入ってきてそう言った鞠莉は、どこか安堵に似た表情を浮かべた。もしかして、という期待を抑えつけながら千歌は訊く。

「お父さんと話せた?」

「うん、話した。決勝に進んで再生数がすごいことになってる、て」

 「それで?」とじれったくなったのか、梨子が結果を促す。その問いに鞠莉は顔を俯かせ、代わりとしてダイヤが答えた。

「何とか明日の朝まで延ばしてもらいましたわ。ただ、日本時間で朝の5時。そこまでに100人に達しなければ、募集ページは停止する、と」

 とどのつまりを果南が告げる。

「最後通告、てことね」

 もしかしたらラブライブの結果を見て統廃合撤回、なんて期待はしてみたが、そんな甘くはない、とこれまで何度も苦味を味わってきた。だから、突き付けられた条件に千歌はさほど落胆はしていない。

「でも、あと3時間だったのが8時間に延びた」

 猶予が増えただけでも十分。「ふわあっ」とPCとにらめっこしていたルビィが立ち上がり、

「いま、ひとり増えた!」

 見せられた画面の出願状況の数字は86を刻んでいる。

「やっぱり、わたし達を観た人が興味持ってくれたのよ」

 その梨子の声が、活力を取り戻したように聞こえる。

「このまま増えてくれれば――」

 曜が言いかけた時、既に千歌は駆け出していた。

「ちょ、どこ行くのよ?」

 善子からの問いかけに、千歌はドアノブに掛けた手を止めて「駅前」と即答する。

「浦の星お願いします、て皆にお願いして、それから、それから………」

 「今からじゃ無理よ」と梨子に一蹴される。それでも、言葉ひとつで裡から溢れる衝動は治まらない。

「じゃあ、今からライブやろう。それをネットで――」

 「準備してる間に朝になっちゃうよ」と今度は果南に返される。「そうだ――」と次の案を出そうとしたところで曜に抱き着かれ、唐突な事に訳が分からず開いた口を閉じることもできなくなる。

 曜は言う。

「落ち着いて。大丈夫、大丈夫だよ」

 「でも」と体を離そうとするが、曜は逃がしてはくれなかった。

「何もしないなんて………」

 このまま約束の時刻まで、何もせずこの部屋で待っているなんて嫌だ。まだ猶予があるのなら、その間に出来ることがあるなら全部やりたい。あと8時間で全てが決まってしまう。

「信じるしかないよ、今日のわたし達を」

 果南の言葉で、千歌の体から力が抜けていく。今日のライブを成功させた、今日に至るまでに努力を重ねてきた自分を信じる。それは簡単なようで難しい。ずっと普通だった千歌にとって「自分」はある意味で最も信用できない。でも、一緒にやってきた「皆」なら、無条件に信じることができた。

 わたしひとりじゃ駄目だった。

 皆だからやってこれた。

「そうだよね。あれだけの人に観てもらえたんだもん。大丈夫だよね」

 千歌の緊張が解けるのを感じ取ってくれたのか、曜は体を離した。

「さあ、そうとなったら皆さん帰宅してください」

 ダイヤはそう言ってくれたが、メンバー達は賛同しかねた。

「帰るずらか?」

「何かひとりでいるとイライラしそう」

 花丸と善子が口々に言う。

「落ち着かないよね、気になって」

 曜も告げると、分かっていたかのように果南が「だって」と微笑した。

「仕方ないですわね」

 普段なら断固として認めなさそうだが、この時ばかりダイヤは諦めが早かった。いや、ダイヤもこうなることは予想済みだったのかもしれない。

「じゃあ、いても良いの?」

 千歌が訊いた。

「皆さんの家の許可と理事長の許可があれば」

 決定権を転嫁された鞠莉はすぐに、

「もちろん、皆で見守ろう」

 翔一くんに悪いことしちゃったかな、と千歌は思った。学校に寄る際に家に連絡を入れたとき、志満から翔一がご馳走作る、と張り切っていたことを聞いている。その料理は明日まで待ってもらおう。吉報を土産に、翔一にも喜んでもらいたい。翔一だって、ずっとAqoursのいるこの学校という居場所を護ってくれていたのだから。

 ルビィがまた感嘆の声をあげた。

「またひとり増えた!」

 

 

   3

 

 何かしなきゃ、何かしたい、という衝動は何度も千歌の裡で沸いてきて、それを抑えつけながら待つ時間は永遠のように長く感じられた。時刻が1時を過ぎても眠気は訪れず、ただ皆で寄り添い合って理事長室で静かに待ち続ける。気分転換にゲームでも持って来れば良かった、と善子がぼやいていたが、果たしてそれで気分が紛れるかどうかも怪しい。

「あれっきり、全然増えない………」

 ずっとPCの番をしてくれていたルビィが疲れたように呟く。世間ではとうに眠りに就いている時間帯だ。鞠莉の父が融通してくれた期限の引き延ばしが、あまり意味を成さないように思えてきてしまう。

「やっぱりパソコンがおかしいんじゃないの!」

 と善子がPCをひったくり揺さぶりをかける。

「Stop,壊れていないわ」

 穏やかに窘める鞠莉の顔色にも疲労が窺えた。「これが現実なのですわ」と告げるダイヤの顔にも。

「これだけの人が、浦の星の名前を知っても」

 果南も、

「たとえ街が綺麗で人が優しくても、わざわざここまで通おうと思わない」

 その現実を変えようと、今までやってきたんじゃないの。

 そう問いかけたところで無意味なのは理解している。3人だって奇跡を起こそうと奮闘してきた。これが現実、と自身に言い聞かせたところで、それに納得していないからこそ今もここにいると分かってしまう。

 ぐるる、と控え目な呻きが隣から聞こえた。腹の虫が鳴ったらしい。千歌の隣にいる梨子が、誤魔化すように言った。

「そういえば、お昼食べたあと何も食べてないわね」

 

 夜食の買い出しは1年生の善子たちが買って出た。一応後輩なのもあるが、何より外を歩いたら気分も紛れるかもしれない。

 十千万に行けば翔一が何か作ってくれるんじゃないか、と思っていたのだが、翔一は毎日夜9時に寝て朝6時に起きるのだとか。

「爺さんか!」

 千歌からその事を聞いた際、善子はそう突っ込まずにいられなかった。そういうわけで最寄りのコンビニ――徒歩で片道30分は掛かるが――まで行くことにした。

 コンビニで販売が始まったばかりのおでんを適当に見繕った帰り道はとても静かだった。黄昏時が過ぎれば眠り沈黙する、本当に何もない地方集落だ。遊びたい盛りの少女たちが好んで来るような街じゃない。

「まったく、世話が焼けるったらありゃしない。わたしはリトルデーモンのことで手一杯なのに」

 その皮肉が一緒にやってきた者たちか、それとも自身へ向けてなのかは善子にも区別がつかない。本当に、わたしは何をしているんだろう。堕天使ヨハネはこんな田舎に納まる存在じゃないのに。

「仕方ないずら。今のAqoursを作ったのは千歌ちゃん達2年生の3人」

「その前のAqoursを作ったのは、お姉ちゃん達3年生の3人だもん」

「責任、感じているずらよ」

 花丸とルビィから告げられた、Aqoursの簡潔な軌跡。善子たち1年生は結成に関与していない。千歌から一緒に輝こう、と手を引かれグループに加わっただけ。

 善子たちは引っ張ってこられただけかもしれない。でも、スクールアイドルをやると、着いていくという決断は自分たちの意思でしたことだ。

「そんなもん、感じなくてもいいのに」

 学校を護りたい、という想いは善子だって同じなのに。あの学校は堕天使ヨハネでも善子を受け入れてくれた居場所なのだから。

「少なくともわたしは感謝しか――」

 と言いかけたところで、善子は後ろを歩くふたりへと振り向く。いつもなら茶化すはずの花丸とルビィが、この時は優しい笑みを善子へと向けていた。

「リトルデーモンを増やしに、Aqoursに入っただけなんだし!」

 直視するのも恥ずかしくなって顔を背ける。

「だからマルたちが面倒見るずら。それが仲間ずら」

「だね。何か良いな、そういうの。支え合ってる気がする」

「そうずらね」

 仲間、か。

 裡でその単語を反芻する。発言する度に茶化されるか無視されるか、と扱いはひどく杜撰だけど、不思議と悪い気はしない。リトルデーモンとは違うけれど、仲間という響のほうが、どこか心地良い。

「良いこと言ったご褒美に餅巾着あげる」

 とヨハネからの恵みを与えることにしたのだが、花丸は不満そうに、

「できたら黒はんぺんが良いずら」

「それは駄目」

「ルビィは玉子!」

「それも駄目!」

 

 軽食を済ませた後は、特に何もすることなく、ただ全員でPCを眺めていた。数字が増える度に全員で歓喜し、また無言に近い状態でPCを凝視し続ける。ラブライブ決勝進出という事実が浦の星へ興味を向ける効力はようやく発揮されてきたらしく、希望者は94人にまで昇っていた。

 あと6人。

 あと6人さえ集まれば、この学校は存続する。

「時間は?」

 思い出したように梨子が声をあげた。時計を見ると、時刻は4時10分を過ぎたあたり。

「1時間もない」

 果南は全てが決するまでの猶予を淡々と述べる。焦ってもしょうがない。何をしても、何もしなくても時間は過ぎていく。

 それでも――

「お願い!」

 千歌はPCを手に取って「お願いお願い」と連呼し続ける。この声がネット回線に乗らなくても、誰かの意識に声を届ける力を持たなくても、言わずにはいられなかった。

「増えて……!」

 当然、何の変化もない。この世界は千歌が期待しているほどドラマチックじゃない。ふと、視界の隅で曜が壁に背を預け、目を閉じていることに気付く。

「流石の曜ちゃんも睡魔には勝てないか」

 「寝てないよ」と返し、曜はゆっくりと立ち上がる。

「でも、待ってるのちょっと疲れてきた」

 ずっと部屋に閉じこもっているのも体に毒。そういうわけで、外の空気を吸いに千歌は外に出た。既に空は白み始めていて、山の陰から太陽が顔を覗かせている。

 プールサイドに曜、果南と一緒に入ると、千歌は朝陽に両手を合わせる。

「あと6人、お願い!」

 「お願いします」と隣で曜も手を合わせる。今までも沢山お参りをしてきたな、と思い返す。淡島神社に、秋葉原の神田明神。約束の時が近づいて最後に祈るのが太陽だなんて。父が生前に言っていた。まだ神道という宗教が日本に生まれる前、人々は太陽に祈っていた、という説があるらしい。

「おーい‼」

 唐突に、果南が山に向かって大声をあげた。

「浦の星は良い学校だぞー‼」

 声が内浦を囲む山々に反響し、やまびこになって返ってくる。

「おーい! 絶対後悔させないぞー‼」

 釣られて曜も大声を出した。千歌も同じく。ライブであれだけ声を出したのに、日々のボイストレーニングの賜物か声はしっかりと張れる。

「皆良い子ばっかだぞー‼」

 近所迷惑だ、て叱られないかな、と心配になるけど、もう後の祭りだ。苦情が来たら3人仲良く叱られよう。

「わたしが保証するー‼」

 とプールサイドに来ていた梨子も加わった。叱られる仲間がひとり増えた。

「保証されちった」

 言うと梨子は得意げに、

「わたしの保証は間違いないわよ」

 何だかおかしくなって、4人揃って笑ってしまう。少しだけ肩の力が抜けた気がした。

「千歌ちゃーん!」

 そこへ、ルビィの声が飛んでくる。理事長室の窓から「来て!」と告げる彼女は何やら神妙な表情で、千歌たちは急いで理事長室へ戻った。

 真っ先にPCの前に立って画面を見ると、希望者は97人にまで迫っている。

「あと3人!」

 「でも、時間はもう――」とダイヤが弱く言う。残り時間は10分。

「お願い!」

 画面に向かって祈る。全員が無言だった。ただ静かに、事の成り行きを見守っている。

 数字が増えた。

「98!」

 「時計は?」と果南が言った。あと数分も無いだろう。「大丈夫」と千歌は即答し、

「大丈夫、絶対届く………!」

 心臓が激しく脈打っている。時計の秒針のように、刻一刻と。

 あと2人で全てが報われる。

 これまでの悔しさも。

 流した涙も。

 全部。

 全部――

 サイトのページが切り替わった。

 希望者を示す数値がフォントに覆われ、無意識に千歌の唇は表示されたフォントをなぞる。

「募集終了………?」

 全てが停止したかのような錯覚に陥る。何もかもが静止し、停滞し、無音の中へ沈んでいく。

 時を動かすように、ダイヤが告げた。とても冷たく。

「時間切れですわ」

「そんな……、大丈夫だよ。あと1日あれば、ううん、半日でいい。1時間でもいい。それで絶対――」

「それが約束ですから」

 諦めきれないのは千歌だけじゃなかった。

「でもそれだけだったら……」

「そうだよ、ずっとじゃなくて良いんだよ。あと1日だけ……」

 梨子と曜が抗議を並べ立てる。そう、あと2人でいい。ほんの僅かでも時間をくれたら、絶対に2人分の募集が来る。そうすれば100人なのに。

 それでも、ダイヤは折れてくれなかった。

「何度も掛け合いましたわ。ひと晩中、何度も何度も………」

 彼女の声が次第に震えていくのが分かって、八つ当たりする気すらも起きない。

「ですが、もう既に2度も期限を引き延ばしてもらっているのです」

 続けての鞠莉の声も覇気が失せていた。

「いくらパパでも、全てを自分ひとりの権限で決めることはできない。もう、限界だって」

 ダイヤの胸に顔を埋めていたルビィが、涙声で懸命に抗議する。

「でも、1日なら……」

 「この前だってそれで――」と善子も言うのだが、鞠莉は苦しそうに遮った。

「今頃もう、統合の手続きに入ってる」

 それではまるで、最初から千歌たちに何の期待もしていなかったみたいじゃないか。子供の我儘を聞いて、夢を視させてやっただけ有り難く思え、と言うのか。

「じゃあ……」

 花丸が詰まらせた言葉の続きを梨子が引き継ぐ。

「本当に駄目、てこと?」

 猶予まで目標を果たせなかった。

 夢を視るのはもう終わり。

 突き付けられても、実感なんて湧かない。こんな、募集終了なんて味気ないフォントで全てが終わるだなんて。

「駄目だよ。だって、わたし達まだ足掻いてない。精一杯足掻こう、て約束したじゃん。やれることを全部やろう、て言ったじゃん」

 「全部やったよ」という果南の声が、まるで労われているように聞こえる。嫌だ、まだ終わっていないのに、と抗っても、目蓋のない千歌の耳には容赦なく彼女の言葉が入ってくる。

「そして、決勝に進んだ。わたし達は、やれることはやった」

 その結果がこれなのか。怒りに任せ両の拳を振り上げる。皆の息を呑む音が聞こえた。

 振り降ろした拳はPCを叩く寸前で止まり、ゆっくりと机に落ちる。

「じゃあ何で、学校がなくなっちゃうの? 学校を護れないの? そんなの……、そんなの………」

 誰も応えてはくれない。理由は千歌だって分かっている。依然から統廃合の話はあった。生徒が少な過ぎて学校運営が難しくなった。いくらAqoursが結果を残したとしても、それで生徒を集められないのであれば、学校を存続させることはできない。子供の感情で、決定を覆せるほど簡単な問題じゃなかった。

 ただ、それだけの話。

「もう1度だけパパに連絡してみる」

 そう言って鞠莉は理事長室から出ようとしたけど、すぐに「おやめなさい」とダイヤに止められる。

「これ以上言ったら、鞠莉が理事長を辞めるように言われる。受け入れるしかない」

 淡々とした果南の声は遠くなっていったが、最後だけは明確に聞き取ることができた。

 提示された結果だけが、突き刺さるように。

「学校は、なくなる」

 

 



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第2話

   1

 

 決定事項は、週が明けた全校集会の場で理事長から生徒全員に通達された。

「浦の星女学院は、次年度より沼津の高校と統合することになります。皆さんは、来年の春よりそちらの高校の生徒として明るく元気な高校生活を送ってもらいたいと思います」

 壇上でいつも賑やかな鞠莉だが、この日ばかりは淡々とした口調だった。失礼ながら、初めて彼女が理事長らしい、と思った。休日の間に保護者を通じて伝わっていたのか、生徒たちの間にどよめきは起こらなかった。皆揃って行儀よく、静かに話を聞いていた。

 列の中から、曜は何人か挟んで前に並んでいる千歌を見やる。彼女がどんな顔をしているのか曜からは見えないし、想像もつかなかった。

 

「千歌ちゃん」

 席で窓からの景色を眺める彼女に呼びかける。曜の声が届かないのか反応がなく、再び「千歌ちゃん」と呼んでようやく気付いてくれた。

「次、移動教室だよ」

「ああ、そっか」

 そう応える千歌は、いつもと同じ顔をしている。明るくて、元気な。

「千歌」

 そこに、同級生たちが千歌の席へ集まってくる。いつも協力してくれた、よしみ、いつき、むつの3人。

「いよいよ決勝だね、ラブライブ」

 いつきが言うとむつも、

「このまま優勝までぶっちぎっちゃってよ」

 よしみも続けて、

「また良い曲聴かせてね」

 3人も心遣いはありがたい。でも、出来ることなら構わないであげてほしかった。今の千歌にとって、他人からの善意は痛みにしかならない。

「アキバドームだもんね。思いっきり動き回らないと。皆に見えるように」

「あたし達も声が届くように、大声出して――」

 最後まで聞かず、千歌は立ち上がる。椅子が結構な音を立てたものだから、3人は肩を一瞬だけ震わせてしまった。

「そうだよね。優勝目指して頑張る」

 意気揚々と千歌は言った。それが表面上の言葉なのか、それとも本心なのか、曜にも分からなかった。

 

 声をかけられたら、千歌は普段通り明るく振る舞っている。傍から見れば変わりないかもしれないけど、梨子は彼女の変化に気付いていた。曜も同じで、千歌に向ける言葉を選んでいる、と分かってしまう。

 受け止め切れない。

 一緒にやってきたのだから、ほんの微かな変化でも分かる。他愛もない会話をしている時、千歌がふと見せる虚しそうな、空っぽな顔に。

「今は前を向こう」

 手洗いに行く、と教室を出た千歌を追いかけ、何の前触れもなく言う。

「ラブライブはまだ終わってないんだから」

 辛いのは分かるけど、それは皆だって同じ。そう言おうとしたところで、

「分かってる」

 冷たく言い放たれて、何も言えなくなった梨子は足を止める。つかつかと歩き続ける千歌の背中を、ただ見送るしかなかった。

 

 行く末が決まったとはいえ、日常にこれといった変化はない。学校で授業を受けて、放課後は練習。プラザヴェルデの屋上に集合すると、前に立った3年生たちが述べる。

「学校が統合になったのは残念ですが、ラブライブは待ってくれませんわ」

「昨日までのことは忘れ、今日から気持ちを新たに決勝目指して頑張ろう」

 ダイヤと果南がそう述べると、善子が立ち上がって、

「勿論よ。5万5千のリトルデーモンが待っている魔窟だもの」

 そういえば、アキバドームの収容人数はそれくらいだったっけ、とぼんやり思い出す。想像もつかない数字だ。それだけの人数が1箇所に集まるだなんて。

「皆善子ちゃんの滑り芸を待ってるずら」

「ヨハネ!」

 「そ、それに!」とルビィが挙手する。

「お姉ちゃん達は、3年生はこれが最後のラブライブだから。だから、だから………、絶対に優勝したい!」

 ルビィの言う通り、どの道3年生にとって最後の機会であることに変わりはない。統廃合になろうがなるまいが、それだけは最初から決まっていたこと。

「Yes! じゃあ優勝だね」

 と張り切る鞠莉に、果南が「そんな簡単なことじゃないけどね」と冷やかしを入れる。そんなこと言いながら、果南だって負けるつもりはないだろうに。

「でも、そのつもりで行かないと」

 そう言って、梨子が笑みを向けた。そうだよね、と千歌は裡で零す。昼間にだってラブライブはまだ終わってない、と言われた。何も変わらない。本当の終わりは、まだ先なのだから。

「うん、優勝しよう」

 「じゃあ皆upして」と鞠莉が指示を飛ばす。「ライブ後だから念入りにね」と果南が付け足すと、皆で「おー!」と元気よく返事してストレッチに取り掛かる。

 そうだよね、今はラブライブに集中してよっと。

 ここまで来たんだし、せっかくだから優勝したいよね。

 凝り固まった筋肉を解しながら、千歌は毎日のように繰り返されてきた光景をぼんやりと眺める。

 今年の春から始まって、メンバーもどんどん増えていって。学校がなくなるかも、なんて聞いて憧れのグループと同じ偉業を成し遂げよう、なんて意気込んで。悔しさを味わって、たくさん泣いて、それでもやっぱり輝きたくて。

 わたし達の願いをたくさんの人たちが応援してくれて、そんな皆がいるこの街と学校が大好きで、だからこそ護りたくて――

「千歌ちゃん?」

 曜に呼ばれ、ストレッチの手を止める。気付くと全員が止めていた。皆で千歌に、重苦しそうな顔を向けている。

「どうしたの? 皆?」

 ふ、と果南が優しく微笑して、

「今日は、やめておこうか」

「え、何で? 平気だよ」

 「ごめんね」と告げる鞠莉の声も優しい。何でそんなに優しいのか、全く分からない。

「無理にでも前を向いたほうが良いと思ったけど、やっぱり気持ちが追いつかないよね」

 どういうこと、と思ったところで、ふと自分の頬に暖かいものが伝っていることに気付く。乱暴に服の袖で拭い、

「そんなことないよ。ほら、ルビィちゃんも言ってたじゃん。鞠莉ちゃん達最後のライブなんだよ。それに、それに――」

「千歌だけじゃない」

 果南はそう言って、千歌の手を取った。

「皆そうなの」

 ダイヤも目を伏せながら、

「ここにいる全員、そう簡単に割り切れると思っているんですの?」

 割り切るも何も、ラブライブは待ってくれない。優勝を目指すのなら練習あるのみ。そう言いたいのに、言葉が出ない。

「やっぱり、わたしはちゃんと考えたほうが良いと思う。本当にこのままラブライブの決勝に出るのか、それとも――」

 出る、と皆で声をあげてくれることを願った。そうじゃないと、今までの奮闘が本当に無駄になる。ここまで来たのに、今更になって自分たちで足蹴にしてしまうなんて。

 皆は無言だった。出たい、優勝したい、と声を上げるメンバーは、誰もいない。

「そうですわね」

 ダイヤがそう言ったところで、「待ってよ」と千歌は止める。

「そんなの出るに決まってるよ。決勝だよ。ダイヤさん達の――」

「本当にそう思ってる?」

 鞠莉に遮られ、言葉を詰まらせる。ここですぐ反論できない自分自身が分からない。今の自分が何を望みに頑張れるのか、何を求めているのか。

「自分の心に訊いてみて。チカっちだけじゃない。ここにいる皆」

 

 

   2

 

 たとえ地方でも、港町というものはどこも栄えているものだな、と思える。水門びゅうおのすぐ傍で営業している飲食店併設の魚市場は今朝水揚げされたばかりの新鮮な魚を求め混雑していて、道路には駐車場の空きを待って車が渋滞している。

 沼津港には何度か訪れたことはあったが、それは夜間だったりG3-Xオペレーションだったりで人気なんて無かった。だから平時での賑わいというものは誠にとっては戸惑ってしまうもので、売店でソフトクリームを購入するだけでも結構な待ち時間を要した。

「そうですか。では津上さんも何故アギトになったか分からないんですか」

「はい、すみません」

 びゅうおの展望デッキで翔一とそんな会話をしながら駿河湾を眺めてみる。どこかにあの日のような光の柱はないか、と探してみるが、そんなものはどこにも見当たらない。時折船が見えたが、小さな遊覧船で大型のフェリーボートなんて無かった。

「いえ、こちらこそ済みません。突然お呼び出しして」

 海から隣へと視線を転じると、翔一は食いしん坊なわんぱく小僧よろしく両手にソフトクリームを持っている。右手にバニラ味、左手にチョコレート味、と。因みに誠はバニラ味ひとつだけ。

「でも津上さんがアギトだと知ってから、まだ十分にお話ができていないような気がするんです」

 翔一は両手のソフトクリームを交互に舐め、

「別にそんなお話することなんかありませんて。見たまんまですよ、見たまんま」

 そんな回答だと思った。誠も釣られるようにソフトクリームを舐める。港の潮の香りを嗅いだからか、知った味よりも甘く感じる。

 「あ、そうだ」と翔一は思い出したように、

「葦原さんも何故変身するようになったか分からない、て言ってました。ある日突然なっちゃった、て」

 葦原涼か――。

 肩が強張る感覚を覚えながら、誠は溶け始めたソフトクリームを舐めながら海へ視線を戻す。確か彼もまた、アギトの力を持つ者だった。彼の変身した姿は、どうしても翔一の変身するアギトとは似つかない。同じ力から生まれる別の存在、とでもいうのか。いずれにせよ、本人も力の出自が分からないのなら推測したところでどうしようもないが。

「そうそう、俺の方こそ氷川さんに訊きたいことがあるんですけど」

「何でしょう?」

「ほら、前にアギトみたいな奴が、俺や氷川さんや葦原さんを襲ってたじゃないですか。あれって………」

「木野薫」

 溜め息と共にその名前を吐き出し、ソフトクリームをひと舐めする。

「彼もまた、アギトですよ」

「ですよね。でも何で氷川さん達のこと襲ったんです? そのうえ俺にまで」

 苛立ちを食欲にぶつけているのか、翔一はしきりにソフトクリームを舐める。既に両手とも半分近くは減っていた。

「同じアギト繋がりなのに」

「ええ、僕の方が訊きたいくらいですよ」

 誠も苛立ってきて、翔一と同じようにソフトクリームへ向けた。

「人間を愛する立派な人だと思っていたのですが、一体何を考えているのか………」

「会わせてもらえませんか? その木野、て人に」

「会いたい気持ちは僕も同じですが、どこにいるのか………」

「そうか………」

 住所は知っているが、あのアパートに戻っているとも考えにくい。そういえば、北條がとうとう家宅捜索に踏み切った、と河野から聞いている。木野もあかつき号の乗客だが、果たして彼の部屋から何か手掛かりになる物が見つかるかどうかは微妙なところだ。

「もしかしたら、葦原さんに訊けば分かるかもしれませんよ」

「葦原涼ですか………」

 無意識にまた肩回りが強張ってしまう。G3システムを修理不能まで破壊された日の記憶は、まだ鮮明に残っている。彼の尖刀が少しでもずれていたら、G3のマスクどころか誠の顔面まで抉られたことだろう。

「君は親しいんですか、彼と?」

「まあ、最近良い感じ、ていうか」

「木野薫もそうですが、葦原涼も分かりません。彼は君にも襲い掛かったことがあったはずだ」

「まあ、色々誤解があったみたいで」

 そう言うと、翔一はまるで遠い過去を懐かしむように笑った。まだあの頃から3ヶ月も経っていないというのに。

「でも、大丈夫ですよ。根は良い人ですから」

 そう言って翔一は階段へと歩き出す。だがすぐに「あ」と誠へ振り返り、

「でも葦原さんのこと誰にも言わないでくださいよ。特に北條さんには。また捕獲作戦とかやられちゃ、あれですから」

「分かりました」

 返事をしてすぐ、誠は違和感に気付く。捕獲作戦の現場に翔一はいなかったはずなのに、何故翔一が知っているのだろう。あの後に2度目の捕獲作戦なんて、あっただろうか。

 

 練習が無くなると手持ち無沙汰になって、どう暇を潰そうか悩みどころだ。Aqoursに入る前はどう過ごしていたか思い出そうとしても、曖昧ではっきりしない。確かあの頃は理事長の業務で忙しかった記憶があるが、もう統廃合が決まった今となってはやる事がない。

 深く溜め息をつきながら紅茶セットを乗せたワゴンを引いていると、ドアを挟んだ向こうから声が聞こえた。

「はい、分かりました。城南医大病院ですね。すぐに伺います」

 すぐにドアが開けられた。薫は通路上にいる鞠莉をまるでいない者のように素通りしていく。

「薫!」

 ワゴンを置いて、鞠莉は薫を追いかけた。

「まさか手術(オペ)に行くつもり?」

 追いついた薫は顔をしかめながら胸のあたりを手で押さえている。涼に手ひどくやられた傷もようやく癒えてきて、先日鞠莉が部屋まで運んだ食事にようやく手を付けてくれたばかりなのに。

「無理よ、その体じゃ」

 「どけ」と肩を掴む手は無造作に払いのけられる。

「お前には分かるまい。俺にとって全ての患者は雅人なんだ。俺は雅人を助けなければならない」

 苦し気に言うと、薫は重そうに足を引きずりながら客室から出て行った。

 

「木野薫に会いたい?」

 突然訪問してきた要件を、涼は眉根を寄せながら反芻する。「はい、是非」と翔一は物怖じすることなく言ってのける。依然に拳を交えたことは、いくら翔一でも忘れたわけじゃないだろうに。

「何故? 何のために?」

「そりゃあ同じアギトなのに何故俺らを襲ったのかな、て」

 そこで、翔一と一緒に訪ねてきた青年が割って入ってくる。

「あなたも、僕と津上さんに襲い掛かったことがありましたね」

 そう言われて、あの顔面抉った青いやつか、と思い出す。木野に追いかけ回されたときに庇ってもらったことも。

 「改めて紹介します」と翔一は青年を手で示し、

「こちら警視庁の氷川誠さん。もう知ってると思いますけど」

 紹介されると、誠は律儀に会釈する。何で警視庁の刑事が静岡県に、と疑問は沸いたが、今それはどうでもいい。

「木野薫か……。これは俺の勘だが、奴は過去に生きている。依然俺もそうだった」

「過去に? どういう意味です? 彼の過去に何があった、ていうんですか?」

 刑事らしく、誠は詮索してくる。

「俺も詳しくは分からないが………」

 鞠莉から彼の右腕について聞いたことはあったが、いくら刑事とはいえ誠に話して良いものか。この男もアンノウンと戦っているようだが、アギトでない彼がこの件に関わるのは良くない気がする。

「あんた、この前は世話になったが、あんまり俺たちのことを詮索してほしくない。あんたは普通の人間だ。俺たちとは違う」

 アンノウンのことは、俺たちに任せておけばいい。それがこの男のためでもある。

 はっきりと告げてやったのだが、この緊迫を北風のように吹き飛ばしてしまうのが翔一だ。

「やだなあ葦原さん、そんなとんがることないじゃないですか。とにかく木野さんに会いに行きましょうよ。俺、アギトの会とか作るの夢なんです。俺と葦原さんと、木野さん? あ、氷川さんも入れてあげて良いですよ。補欠ですけど」

 ははは、と声をあげて笑う翔一の隣で、誠はがらんどうに「補欠……?」と呟いている。俺は何を見せられているんだ、と思いながら、

「相変わらず能天気な奴だ。木野薫は俺たちの命を狙ったんだぞ。そんな甘くはない」

「それはそうかもしれませんけど………」

「………補欠」

 お前は呆けてないでこいつを止めろ。

 

 

   3

 

 あまり玄関口で騒がれるのも迷惑だから、仕方なく涼は翔一、誠と共にホテルオハラへ向かった。まだ療養中なら滞在しているかもしれない。

「Welcome! 皆ゆっくりしていってね」

 3人で押しかけても鞠莉は快く歓迎してくれて、涼たちにお茶と豪勢なお菓子を出してくれた。

「今日は練習ないのか?」

 紅茶にレモンを入れながら涼が尋ねると、鞠莉は気まずそうに顔を逸らし、

「うん、ちょっとね………」

「何かあったのか?」

 鞠莉は何度も涼と宙に視線を交差させていたが、それでも逡巡を経て言ってくれる。

「学校の統廃合が決まっちゃってね。それで皆、しばらく気持ちを整理させることにしているの」

 「統廃合?」と誠が反芻する。鞠莉は丁寧に説明をしてくれた。

「Yes, Aqoursが入学希望者を増やせれば存続、て条件だったんだけど、まあ駄目になっちゃって」

 ちろ、と鞠莉は舌を出した。そのおどけた仕草が、涼には虚しく思えて仕方ない。ショートケーキを食べていた翔一は「そっか……」と得心がいったように、

「やっぱそれで千歌ちゃん元気ないんだ」

「チカっち、やっぱり落ち込んでる?」

 鞠莉が訊くと翔一はフォークを持った手を止めて、

「うん、この前のライブの日にご馳走作ったんだけど、あまり食べてくれなくてさ。元気そうではあるんだけど………」

 まあ、学校のために頑張ってきた努力が報われなかったのなら仕方のないことだ。鞠莉だって来年には卒業するにしても、居場所がなくなることは辛いだろう。

「何か好物を作ってあげてはどうです?」

 誠が訊くと翔一は「それが――」と、

「俺もそう思って昨日ミカン買ってきたんですけど、全然食べてくれないんですよ。あの子風邪引いて食欲なくてもミカンだけは食べられるんです。今年のお正月なんて、家にあったミカン全部食べちゃったから鏡餅に飾るのがなくなっちゃって」

 当時を思い出してか、翔一は大笑いした。千歌のミカン好きも凄まじいが、それを暴露する翔一に涼は呆れながら言う。

「お前少しはデリカシー持ったほうが良いぞ」

 そんなんだから余計な反感を買って殴られるんだ。殴ったのは俺だが。

 「それよりも」と涼は本題に入る。危うく目的を忘れるところだった。

「木野に会いたい」

「薫に?」

「ああ、どこにいる?」

 鞠莉は答えてはくれず顔を俯かせる。

「心配するな。奴を傷付けよう、てわけじゃない。少し話がしたいだけだ」

 努めて優しく言うと、鞠莉は口を開く。

手術(オペ)がある、て。城南医大病院に行ったわ」

 「手術(オペ)、て――」とケーキを平らげた翔一は感心したように、

「へえお医者さんなんだ。凄いなあ。でもお医者さんなら人を助けるのが仕事じゃない? そんな人が何で俺らを襲ったりしたのかな?」

「やはり彼の過去と何か関係が」

 誠の推測は、ここにいる全員の共通認識だ。やはり、木野の右腕にまつわる過去が、彼に歪んだ意志を芽生えさせてしまったのかもしれない。

 ずっと顔を俯かせたままの鞠莉は、膝の上に組んだ指をせわしなく動かしている。落ち着かないときの癖なのだろうか、試し半分に「どうした?」と訊いてみる。

 しばし逡巡し、鞠莉は顔を上げた。

「わたし、前に薫の記憶を視たことがあるの」

「どういうことだ?」

「薫は、弟さんと雪山で遭難したの。薫は助かったけど、弟さんは亡くなって………」

「それで、弟の右腕が奴に移植された、てわけか」

 鞠莉は首肯し、

「薫、言ってたの。全ての患者は雅人だ、て。きっと雅人、ていうのは弟さんのことなんだと思う」

 それだけ聞ければ、大体の察しはつく。後は本人に直接確かめるだけ。

「そっか………。確か城南医大病院だよね。じゃあ行きましょう」

 そう言って翔一は紅茶を飲み干してソファから立ち上がる。

「鞠莉ちゃん、ご馳走さま」

「ご馳走さまでした」

 誠も礼をして、翔一の後に着いて部屋から出て行く。

「急に来て悪かったな」

 そう言って涼も出て行こうとしたのだが、「ねえ涼」と呼ばれ足を止める。涼を見る鞠莉の目は、どこかすがるように映った。

「涼はまだ知りたい? あかつき号のこと」

「知れるものならな」

 煮え切らない答えで悪いとは思うが、これが今の本心だ。もうあかつき号の真相を追う事は、涼にとって殆ど意味を持たなくなっている。木野の意志を継ぐと決めたあの日から。

「俺はいいが、果南とダイヤは知りたいと思う」

 「でも――」と鞠莉は言いかけるが、すぐに口をつぐんでしまう。それを良いことに、涼は続ける。

「お前がそうやって悩んでいるのは見てられないからな」

 鞠莉は何も言わない。そんな彼女に背を向け、今度こそ涼は部屋を出た。

 

 



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第3話

 

   1

 

 城南医大病院の手術室は、まだ執刀中のようでプレートランプが赤く点灯している。部屋の前に備え付けられた長椅子には患者の親族なのか母子が涙ながらに抱き合っていた。

 木野薫は腕のある名医らしいのだが、手術がいつ終了するかは予想できず誠たちはただ待つことしかできなかった。

 長く沈黙していた涼が口を開く。

「恐らく木野薫は、奴の助けを必要とする人たちを弟に重ね合わせているんだろう。患者に限らず、アンノウンに襲われる人々もな。奴は過去を償おうとしているんだ」

 それが、過去に生きていることの意味か、と誠は嘆息する。

「過去を償うためには、自分の手で人々を救わなければならない。俺たちは邪魔者、てわけだ」

 理由が悲しい過去によるものだとしても、人を救う事は称賛すべきではある。でも、木野は自らの使命感に囚われている。

 全てを救う英雄は自分ひとりでいい。そんな独りよがりな正義で、彼は翔一と涼を襲った。世界で唯一無二のアギトになるために。

 手術室のランプが消えた。鉄製の扉が開かれ、手術着の執刀医が口元のマスクを外し容貌が露になる。その顔を認めたとき、「木野さん」と誠は彼へと歩み寄り礼をする。木野は怪訝な目で誠を睨み、次に翔一と涼へその視線を移す。

「あれ、やだなあ。まさかあなたが木野さんだったなんて。津上翔一です。覚えてますよね?」

 どうやら以前にも会ったことがあるらしく、翔一は人好しな挨拶をする。

「何の真似だ?」

 木野から返ってきたのは、冷たい声での問いだった。

「あんたと少しばかり話がしたい。津上の奴がそう言うもんでな」

 この前まで殺し合う仲だった涼と木野の間には、到底立ち入ることのできない緊張が漂っている。

「話すことは何も無い。失礼する」

 それだけ吐き捨て、木野は廊下を早足気味に歩いて行く。

「ちょっと待ってください」

 後を追う翔一に誠も着いて行こうとしたのだが、すぐ涼に止められ、

「ふたりにしてみよう。あの男を救えるとすれば津上だけだ。そんな気がする」

 

 広い海を見渡せば、ひとりの人間の悩みなんてちっぽけに感じられる。

 そう言ったのは誰なのだろう。親しんだ海原を眺めても、曜の懊悩は一向に晴れる気配がない。傍から見ればちっぽけかもしれないけれど、曜の、Aqoursの抱える空虚を、海は埋めてはくれない。

「綺麗ね」

 曜の隣でジュースを飲みながら梨子が呟いて、「そうだね」と曜はがらんどうに応じる。ヘリコプターが着陸できそうなほどに広いコンビニの駐車場でのくつろぎ。こんな田舎で洒落たカフェなんて滅多に無いから、必然と地元の学生がお茶をする場は駐車場になってしまう。ある意味でラウンジカフェだ。テーブルも椅子もないから立つしかないけれど。

 「浦の星、てね――」と曜は語る。この胸の裡にあるものが何なのか判然としないまま。

「結構歴史があって、内浦の女の人は皆あそこの出身なんだって。お母さんやお婆ちゃん世代も通ってたみたい」

「愛されていたのね、地元の人たちに」

「うん」

 内浦地区の集落で唯一の高校だったから、地元民は自然と高校は浦の星という認識だった。でも年代を経るごとに創立・統合と学校と生徒は沼津市街に集中するようになり、周辺集落の学校は次々と吸収されている。浦の星女学院の統廃合とは、いたずらに増えてしまった学校施設の整理に過ぎない。

「前にダイヤさんが教えてくれたんだけど――」

 今度は梨子が語った。

「廃校を止めるために結成されたスクールアイドルって、そんな珍しくないみたいなの。前からそういったグループは多かったけど、廃校が撤回された例は殆どなかった、て」

「そんなこと知ってるなんて、流石ダイヤさんだね」

「そうね」

 先輩のフリークぶりに弱く笑い、ジュースをひと口すする。

「やっぱり、仕方ないのかな。学校が無くなるの、て」

「事情があるのは分かるけど………」

 所詮Aqoursのしてきたことは、先人と同じ偉業を成し遂げようとしてできなかった、その他大勢のグループと一括りにされてしまうのだろうか。

 奇跡は奇跡でしかない。望んで努力して、手を伸ばしたところで届くものじゃない。

 そう割り切れるものなら、どれほど楽だっただろう。本気で目指したものがもう届かないと突き付けられたとき、どうやって立ち上がれば良いのか。

「梨子ちゃんは、出たい?」

 曜が訊くと、梨子は沈黙してしまう。代わりとして「曜ちゃんは?」と訊かれ、同じように曜も俯き沈黙する。

「今は分からないかな」

「わたしも………」

「やっぱり、千歌ちゃんがいないと」

「そうね、千歌ちゃんだからだもんね」

 千歌は、皆がいたからやってこられた、と言ってくれた。それは曜も同じだ。千歌がいたから、千歌と一緒だからこそだった。千歌の想いを置き去りにしたまま、決勝には臨めない。

 零れそうな溜め息をジュースと一緒に呑み込んでいると、曜たちの近くにクラウンが停まった。他にスペースはいくらでもあるのに、と思いながら何の気なしに眺めていると、運転席から出てきた若い男性が曜たちへ近付いてくる。

「渡辺曜さんと、桜内梨子さんですか?」

 鋭い声色で訊かれ、少し慄きながらも「はい、そうですけど」と応える。男は高価そうなスーツの胸ポケットから手帳を取り出し、

「警視庁の北條です」

 開いた手帳には確かに警察のエンブレムがあしらわれている。警視庁ということは、誠の同僚だろうか。

 北條は鋭い眼差しを曜たちに向けながら、

「いきなりで申し訳ありませんが、署まで同行して頂けますか。おふたりに協力して頂きたい事があるのですが」

 

 

   2

 

 エレベーターの閉鎖的な空間は奇妙なもので、何度乗っても慣れない。こんな小さな箱が何人もの人間を乗せて上下するなんて、現代人として生きていてもあまり現実味がない。

「何か意味もなく緊張しません? エレベーターでふたりきり、て」

 扉の近くに立っている木野の背中に言ってみるが、反応はない。

「あ、そうそう。俺実はアギトの会作ろう、て思ってるんですけど、木野さんも入りませんか? 皆で力を合わせてアンノウンと戦って、週に1度俺の手料理を食べるんです」

 これから寒くなるし、皆で集まって食べるなら鍋かなあ、と考える。豪勢にすき焼きなんて良いかもしれない。

 木野の顔が、僅かにこちらへ向いた。サングラスをかけているから、表情が分かり辛い。

「駄目、ですか?」

「相変わらずの性格だな、記憶喪失になっても」

「何ですかそれ? どういう意味です?」

 目的の階に着いたエレベーターの扉が開く。足早に歩きだす木野を追いながら、

「もしかして木野さん、昔の俺のこと知ってるとか。まさか、そんなことありませんよね?」

 木野は黙ったまま出口へと向かっていく。話題を変えよう、と思った。今は自分の過去は重要じゃない。

「聞きましたよ。木野さん雪山で遭難した、て」

 そう切り出すと、木野の顔が微かに翔一へと振り向く。でも何も言わず、駐車場に出て真っ直ぐとバイクへと向かっていく。

「もの凄く寒いんでしょうねそういうの。俺菜園の野菜を育ててるんですけど、トマトもキュウリも太陽をいっぱい浴びないと駄目なんです。人間も同じじゃないんですか。温かい場所に戻りましょうよ」

 無視を決め込む木野はバイクに跨りヘルメットを被る。

「木野さん、未だに冬山にいるんじゃないですか?」

 そう訊くと、グローブをはめていた木野の手が止まった。ゆっくりとサングラス越しの視線を翔一に向けてくる。

「貴様に何が分かる」

 吐き捨て、木野はバイクのエンジンを駆動させて走り去っていく。翔一はすぐ隣に停めておいた自分のバイクに乗って、急ぎヘルメットを被った。

 

 どうしてエレベーターでふたりきりになると意味もなく緊張するのだろう。気を紛らわそうと壁に貼ってある献血ポスターに目をやるが、全く字が頭に入らず視線を右往左往させる。

「何だ、緊張してるのか?」

 何の感情もない声で、扉の近くにいる涼に訊かれる。「いや、別に……」と返しながらネクタイを締め直した。

「心配するな。殴ったりはしない」

 やはりあの時の乱戦を覚えているのか。まあ、翔一から聞く限り理由なしに暴力を振るう人間ではないようだが。

「僕は、あなたの事をまるで知らない。良かったら、教えてくれませんか。あなたはどんな人間なんです?」

 涼の顔が、微かに誠へ向けられる。

「いつどこで、何をどうして変身できるようになったんですか? あなたの力の源は何なんです?」

「何故そんなことを訊く?」

「それは警察官として当然――」

 言いかけたところで、誠は言葉を閉ざす。それは本心じゃなくて建前だ。

「いえ、多分……」

「多分、何だ?」

 今度は、涼は真っ直ぐに誠へ顔を向けた。彼の鋭い顔つきに、誠は告げる。

「僕も、アギトになりたいのかもしれません………」

 手に入るものなら、僕もその力が欲しい。もっと多くの市民を、アンノウンから護るために。

 涼は眉間に深くしわを寄せたのだが、何も言わず誠に背を向ける。エレベーターが目的の階に着くと足早に出口に向かい、その間にひと言も発することがない。

「津上さんは記憶喪失で聞きようがありませんが、あなたなら変身のきっかけが分かるはずだ。思い出してください。いえ、一緒に思い出しましょう」

「もういい、お前に話すことは何もない」

 吐き捨て、駐車場に出た涼はバイクへと真っ直ぐ向かっていく。

「お願いします。真実が分かれば、アンノウンと戦うための役に立つはずです。そうですね、まずは葦原さんの少年時代から始めましょうか」

 無視を決め込み、涼はバイクに跨る。ヘルメットを取ろうとした彼の手を押さえつけ、

「お願いしますよ、葦原さん!」

 直後、鉄拳が誠の頬を打った。突然のことに地面を転がる誠を涼は見下ろしながら、

「もういい、と言ったはずだ」

 ヘルメットを被り、バイクのエンジンを駆動させて去って行く。急ぎ立ち上がって、誠は車へと走った。

 

 沼津バイパスを走りながら、翔一は木野の横にバイクを並走させて大声で呼びかける。

「木野さん、そりゃ俺には木野さんの気持ちなんて分かりません。でも、過去にこだわって生きていてもしょうがないじゃないですか」

「良い気なもんだな。教えてやろう。記憶喪失になる前はな、お前も過去にこだわっていたんだ」

「何ですって?」

 その時だった。バイクのミラーに人魂のような光が映ったのは。その青い光の球は翔一のすぐ脇を追い越し、数十メートルほどの距離を取った先で止まる。

 翔一と木野はほぼ同時にバイクを停車させた。光は収束し、球は薄い膜を破ったかのようにして周辺に水を撒き散しながら弾ける。まるで卵が孵化したみたいだ。産まれたそれは人の姿をしているようで、人ではない。全身を水に濡らしたその異形は、産まれながらに身の丈程ある錫杖を携え翔一たちを見据えている。

「あいつは……!」

 翔一はその姿を知っている。業炎の力で焼き尽くしたはずの、水のエル。

 

「待ってください葦原さん。まだ話は終わってません」

 車内の拡声器を通した声で告げると、涼のバイクは更にスピードを上げて引き離そうとする。誠もアクセルペダルを踏み込み、距離を詰めようとスピードを上げる。

 ここまで来ると意地だ。1度殴られたくらいで引き下がれるか。

 どうしても知りたいんだ、アギトの秘密を。

 涼のバイクが急停車した。慌てて誠もブレーキペダルを踏み、甲高い摩擦音を立てながら車を停める。小回りのきくバイクはUターンし、反対方向へと走っていく。

「葦原さん!」

 窓から顔を出して叫んだが、当然無視された。同時にインカムから受信音が響き、車内通信機を受信モードに切り替える。すぐに小沢の声が飛んできた。

『氷川君、アンノウン出現。G3-X出動よ』

 

 

   3

 

 曜と梨子が通されたのは、沼津署の会議室だった。ふたりを通すには広すぎる部屋で、ドアから少し離れたところの長机に促される。警察官たちの身に纏う制服を眺めるほどの心的余裕なんてなく、曜は緊張しながらも梨子と並んでパイプ椅子に腰を落ち着けた。

「是非あなた達に、見てもらいたいものがあるのです。できれば津上さんにも来て頂きたかったのですが」

 言いながら、北條は曜たちの前に透明なビニールに入れられた紙を置く。捜査上の証拠品を汚さないためだろう。紙は1度濡れたのか染みが付いていたが、曜の意識は汚れじゃなく、書かれた文面に向いていた。

「これって………」

 梨子も同じなのか、困惑の目を紙に落としている。手紙のようだが、書かれている文字が読めない。インクの滲みもなくはっきりと残されているのだが、明らかに書かれているのは日本語ではなかった。かといってアルファベットらしき記号もない。全く見たことのない、字なのか絵なのかも区別がつかない記号の羅列。

「何ですか、これ?」

 曜が訊くと、北條は「分かりません」と、

「ここに書かれている雪菜なる人物が、津上翔一さんに宛てて出したものと思われます」

 文面の1番下だけが日本語で書かれている。

 

 よろしくお願いします。津上翔一様。

            雪菜

 

「手紙?」

 文面をよく見ようとビニール越しに触れる。その瞬間、曜の脳裏に何かが浮かび上がった。反射的に手を引っ込める。

「曜ちゃん?」

 梨子も触れようとしたのだが、それは寸前で彼女の手を掴み阻止した。

「駄目、触ったら………」

 浮かび上がったものは、脳裏から完全に消えている。あれは何なのか。思い出すだけでも恐怖が込み上げる。

 双子のように瓜二つな、ふたりの幼い少年が向かい合っていた。異なるのは身に纏った服だけ。白と黒という、対称的な。

「渡辺さん。桜内さん」

 見上げると、北條は得心したような表情を浮かべている。

「報告書によると、あなた達は以前アンノウンに襲われたことがあったはずだ。もしかしたらあなた達は、特殊能力の持ち主なのではありませんか?」

 思考が凍り付く。背中に不快な汗が浮かぶのが分かった。梨子も同じなのか沈黙している。

「信じて下さい、秘密は守ります。それにご存知かもしれませんが、津上さんがアギトだとうことも、私は知っているんです」

 俯かせていた視線を上げて、北條へ向ける。「そうだったんですか?」と梨子が訊くと北條は首肯し、

「あなた達には、普通の人間には視えないものが視える。違いますか?」

 翔一がアギトと知っておきながら何もしないという事は、北條を信じても良いのかもしれない。曜は梨子と顔を見合わせる。互いに無言だが、梨子の目にも意を決したものを感じ、ふたり揃い首肯する。

「教えてください、何が視えるのか」

 北條はビニールから手紙を出した。丸裸になった紙に、梨子と重ねた手を乗せる。

 不安は脳裏に渦巻いていたが、曜は思考を全て停止させる。まっさらになった曜の脳裏を器とするように、情報という水が注がれていく。

 

 高圧の水流でバイクごと吹き飛ばされた翔一と木野は、バイパス沿いに討ち捨てられていた廃工場へと駆け込んだ。結構な距離を取ったはずなのだが、風化した屋根を突き破ってきた水のエルはさも当然のように再び翔一たちの前に現れる。

 奥の壁のほうから、甲高いバイクのエンジン音が聞こえた。音は近付き、脆くなった壁を突き破って赤いオフロードバイクが走ってくる。バイクはスピードを緩めることなく水のエルへ向かう。当の水のエルは防御の体勢を取ろうともせずバイクを一瞥し、再び翔一たちの方を向いた。バイクが肉迫した瞬間、その体は床から見えない土台で突き上げられように浮かび、空間をバイクは虚しく通り過ぎていく。

 翔一たちの目の前でバイクを停めると、涼はヘルメットを脱ぎ捨て床に戻った水のエルを睨む。

「存在してはならない者ども。今ここで滅ぶがいい」

 水のエルにとって、翔一たちを一網打尽にできる絶好の機会というわけか。

「変身!」

 最初に向かっていったのは涼だった。駆け出したその姿をギルスへと変えていく。

「変身」

 翔一の隣で、木野がアナザーアギトへと姿を変える。

「変身!」

 翔一も光を纏い、アギトに変身した。

 殴りかかった拳よりも速く、水のエルの錫杖が涼の顔面を突く。宙を舞い突き返された涼のもとへ走り、翔一はじ、と向こうの出方を窺った。

 丁度その時、サイレンの音が聞こえてくる。ちらりと視線を転じると、ガードチェイサーに乗ったG3-Xが到着していた。

 水のエルが翔一たちへ掌をかざす。また水流か、と防御姿勢を取ったが、掌から強烈な衝撃はやってこない。ぼんやりと足元が光った。何だ、と思った瞬間、コンクリートの床が赤熱し始める。

「危ない!」

 咄嗟に脇へ飛んだ一瞬後、さっきまでいた床が弾け飛ぶ。直撃こそ免れたが、至近距離からの爆風で体が持ち上げられ、散った瓦礫が礫となって翔一の体に撃ち込まれる。

 金属の靴音を鳴らしながら、GX-05を抱えた誠が爆炎の散る構内へ入り込んでくる。誠はバルカン砲の銃口にグレネードを装着し、水のエルに向けて腰だめに発射させた。緩やかな放物線を描くグレネードは水のエルへと向かっていくのだが、まるで蜘蛛の巣に引っ掛けられたように目の前で静止する。水のエルが手をかざすと、グレネードはぐるん、と向きを変えて加速する。

 その先にいたのは涼だった。不意打ちに対処できず、グレネードが胸に接触した瞬間に炸裂し吹き飛ばされる。

 油断を突き、木野が飛び蹴りを繰り出した。突き出した右足が触れようとした瞬間、水のエルの目の前で空間が渦巻き、木野の体は自ら飛び込んだ渦の中へと消えていく。

 一瞬の間を開けて、木野が全く同じキック姿勢のまま空間の渦から飛び出してきた。その足が向けられたのは、翔一。

 気付いたとき、翔一はキックの直撃を喰らい突き飛ばされていた。工場に散らばっていた資材を薙ぎ倒しながら床を転がる。キックを受けた胸が酷く痛み、体から力が抜けていく。視界が一瞬だけ光に塗り潰され、晴れると変身が解けていた。

 視界が霞んでいく。胸の痛みが全身へと伝播し感覚が失われていく。

 駄目だ、ここで倒れたら。

 俺は行かなくちゃならないんだ。

 あの船に――

 

「どうしたんですの、急に呼び出して」

 少し疲れたようにダイヤは言った。果南も紅茶に手をつけることなく、

「期限の引き延ばしなら、わたしは反対だよ。もう決まったことなんだし」

 「違うわ」と鞠莉は即答した。そんなことしても手遅れだ。手続きは既に済ませているし、後は統合先の高校と諸々の調整をするだけにまで話は進んでいる。

 前振りなんてまどろっこしいものは省き、鞠莉は尋ねる。

「ふたりは知りたい? あかつき号のこと」

 ダイヤと果南は、ほぼ同時と言っていいタイミングで息を呑んだ。半開きにした口からすぐに言葉が出ることはなく、見開いた目を揃って鞠莉に向けている。

「知りたい?」

 重ねて尋ねると、膠着が解けたように果南が先に答える。

「わたしは、知りたい」

 ダイヤも「わたくしも」と続く。

 やっぱり、と鞠莉は思った。予想していたからこそ、言って良いものか迷ってしまう。言えば、ふたりに後悔させてしまうのでは。不要な恐怖に怯えさせるだけになってしまうのでは、と。

「知らないほうが良かった、て思うかもしれないよ」

 「構いません」とダイヤが即答した。その迷いの無さに、隣で果南も驚いている。紅茶をひと啜りしたダイヤは告げる。

「ずっと抱え込んだままの鞠莉さんを見ているほうが、よほど辛いですわ」

 「そうだよ」と果南も、

「鞠莉はひとりで抱え過ぎ。わたし達がいるのに、全部ひとりで」

 面と向かって告げられて鞠莉の裡に生じたのは、どうしようもないほどの愛しさだった。自分が沈黙を貫いておけば、全ては丸く収まる。そう思っていたけど、何て独りよがりだったのだろう。

 涼の言った通りだ。同時に自嘲してしまう。自分よりも、涼の方がふたりを理解しているなんて。

「Sorry, もう隠し事はしない、て約束したのにね」

 弱く謝罪すると、果南はいたずらっぽく笑った。

「本当、趣味の悪いジョークだよね」

「大概にして頂かないと、本当にブッブー、ですわ」

 自然と鞠莉の口端からも笑みが零れた。3人では到底乗り越えられない、と思っていた。でも今なら信じられる。

 わたし達なら大丈夫、と無条件に。

 深呼吸し、鞠莉は記憶の紐を解きにかかる。

 

 



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第4話

   1

 

 旅は1通の手紙から始まった。

 学生だった姉の学術文献をそろそろ処分しようと本棚の整理をしていたとき、本と本の間に挟まっていた封筒を見つけた。それは姉の死から1年が経ち、ようやくひとりでの生活に慣れ始めた頃だった。

 封が開けられた中身は、飾り気のない無地の便箋。紙面には見たことのない文字らしき記号がびっしりと綴られていて、読めたのは最後の「よろしくお願いします」という一文と、宛先と差出人である姉の名前だけ。

 宛先の人物は、津上翔一というらしい。

 

「へえ、そりゃあ災難だったねえ」

 観光案内所の受付で、職員の中年女性はそう言いながら笑い飛ばした。

 津上翔一を訪ねての旅は、序盤にしてトラブルに見舞われることになった。東海道新幹線で東京を経ったのだが、何でも線路上にタヌキが侵入したとかで静岡駅で足止め。まだ捕獲されていないらしく、運行再開の目処は立っていないらしい。

「急ぎじゃないんですけど、バスとかありませんか?」

「そうだねえ、どこまで行くんだっけ?」

「香川県まで」

 「香川ねえ」と独りごちりながら、職員はPCのキーを叩く。「あ」と大仰に声をあげて、

「清水港からフェリーが出てるんだけど、これなら行けるんじゃない?」

 地図で航行ルートの説明をしてくれた。目的地の港の辺りなら、新幹線の運休区間から外れている。

「清水港までならバスで多分1時間で行けるよ」

「本当ですか? ありがとうございます」

 「良いってことよ」と職員はまた笑った。

 安堵しながら駅でバスに乗って清水港まで向かったのだが、到着してチケット売り場に行くと出航まで残り3分ときた。出航時刻くらい訊いとけばよかった、と詰めの甘さを痛感しながら連絡通路を疾走した時は、既に出航アナウンスが流れていた。

『お客様にご乗船の最終案内をいたします。13時丁度発の、あかつき号御前崎(おまえざき)行きは間もなく出航いたします』

 船に飛び乗りてすぐ、甲板の柵に身を預けてひと息ついた。

「何とか間に合った………」

 別に急ぎでもなかったのだが、フェリーなんてバスや電車と違って頻繁に行き来するものじゃない。出来ることなら今日のうちに神戸には到着しておきたかった。

 船体がゆっくりと、港の埠頭から離れていく。それなりに大きな船だから揺れも殆ど感じることはなく、自分が移動しているという感覚がひどく稀薄だった。まるで景色が勝手に過ぎていくように見えてしまう。

 遠くを見ると蒼みかかった名峰がそびえ立っている。この国で最も高い山が。

 ――ねえ見て、富士山よ――

 不意に、姉の声が聞こえた気がした。きっと姉さんなら子供みたいにはしゃぐだろうな、と思いながら歩き出したとき、

「あっ」

 他の乗客と肩をぶつけてしまった。咄嗟に「すいません」と謝ると、

「Oh, Are you injured?」

 聞き取れない言語が返ってくる。相手が白くつばの広い帽子をくい、と上げると、潮風になびく金色の髪と透き通るような白い肌が現れる。

「あ、えっと………」

 多分英語だと思うのだがさっぱりだ。ソーリーとサンキューくらいしか言えない。相手の少女は立て続けに英語で何か言ってくるのだが、全く意味が分からずただ困惑する。

「もう、鞠莉」

「お困りではないですか」

 一緒にいたふたりの少女が溜め息と共に言った。こちらは日本人らしい。長い髪をポニーテールに纏めたほうの少女が頭を下げながら、

「すみません。この子日本語喋れるんです」

「え?」

 前髪を切り揃えたほうの少女も深く礼をしながら「申し訳ございません」と謝罪する。見たところ高校生くらいだが、しっかりした子だな、と感心する。

「ほら、鞠莉さんも」

 友人に促され、金髪の少女はちろ、と舌を出して、

「Sorry, ちょっと面白かったからつい」

 今度は容姿に反して流暢な日本語が飛び出してきたから、尚更に困惑した。

「ああ、いや……。俺のほうこそぶつかっちゃって………」

「問題nothingデース」

 これはこれで分かり辛い口調だな、と思いながら苦笑を返す。

「お嬢さん達」

 そこへ、中年男性が歩いてくる。まさに精悍、という言葉が似合うような大らかな印象を抱いた。

「せっかくの船旅で浮かれるのは良いが、他のお客に迷惑は掛けないようにな」

 流石に金髪の少女もおふざけを控え、罰が悪そうに笑い「すみません」と今度はしっかりとした日本語で謝る。

「ほら、行くよ」

 ポニーテールの少女が言い、幼い3人は甲板の反対側へ違う景色を見に行く。

「子供はあれくらい元気なくらいが丁度いいな」

 そう言って男性は白い歯を見せて笑った。

 

「もう、誰彼構わずからかうのはおやめなさい」

 こうなるとダイヤの説教が長引くことは、何度も体験済みだ。

「わたくし達は学校の名を背負うスクールアイドルなのですから、他の生徒よりも一層の節度を持ち――」

「雪像を持つ?」

「せ・つ・ど!」

 とヒートアップしたダイヤを「まあまあ」と果南がなだめる。

「相手の人も良い人そうだったし」

「そうそう、わたしだってjokeを言う相手くらい選びマース」

 「それで良いのですか?」とダイヤは腑に落ちないようだったが、ひとまず頭は冷えたらしい。

 「それで」と鞠莉は柵に背を預け、

「夏祭りのライブ、当然出るよね?」

 切り出すと、ふたりは分かりやすいほどに顔を俯かせた。「もう」と呆れを露骨に出す。

「まだ東京でのこと引きずってるの? なら尚更出ようよ。stageの失敗はstageでしか取り戻せないのよ? 絶好のchanceじゃない」

 ステージ上の圧力に押し潰されてたことなんて、今更責めるつもりもない。鞠莉にだって気持ちは分かる。ダンスの練習中に鞠莉が足を傷めたせいで、振り付けを変えなければならなかったのだから。妥協したパフォーマンスで出演することで、余計にプレッシャーも大きくなったのだろう。

 この時ふたりが抱えていた秘密を知らなかった鞠莉は、お構いなしに続けた。

「ほら、足だってもう治ってるし。今度こそ成功させよう」

 そう言って足首を回してみる。軽い捻挫だったからすぐに完治した。もう依然のように踊れる。むしろ、更に動けるような気すらしていた。

 「でもさ」と果南が、

「鞠莉、留学の話はどうするの? 先生から勧められたんでしょ?」

「そんなの断ったわよ」

 さらり、と即答する。「ですが」と今度はダイヤが、

「勧められた学校は名門なのでしょう? そこなら鞠莉さんの将来も――」

「そんなの知らないわ。留学なんていつでもできるけど、School Idolは今しかできないのよ」

 教師といい両親といい、何でいつも鞠莉の気持ちを置き去りにして勝手に決めようとするのか。

 鞠莉が今居るべきなのは浦の星女学院。

 果南とダイヤのいるあの学校でなければ、意味が無いというのに。

 

 

   2

 

 聞こえてくるのは、かりかり、と何かを擦るような音。追いかけるように像が浮かんできて、音の正体が紙に滑らせるペンだと分かる。書いているのは、触れている手紙と同じ謎の記号の羅列。

「女の人が、見えます。これを書いた人です」

 見たままのことを、曜は告げる。若い女性が細い手で、迷うことなく記号を書いている。

「でも、自分の意思で書いてるんじゃありません」

 今度は梨子が言った。そう、女性は紙面を見ていない。目は閉じられていて、時折開いた瞳は虚空を見つめている。彼女の右手が勝手に動いているみたい。

「何かの力で、書かされているような感じがします」

 まさに、何かに憑りつかれたように。この文字を母語とする者か、あるいは別の存在か。

「それで、手紙の内容は」

 北條に促され、曜は梨子と重ねた手を手紙の始まりへと振れ、ゆっくりと横へなぞっていく。

 聞こえてくるのは、日本語ではない言語。英語、というわけでもなさそうだ。女とも男とも分からない声でなぞる文面を読み上げられても、内容は理解できない。

 言葉が糸のように編み込まれていく。編み込まれた音は像となり、曜の脳裏にスライドショーのように連続していき、速度が増して光景へと移り変わっていく。

 視えるのは、対峙するふたりの少年。

「ふたつの力が、戦っています。とても強い力。光と、闇の力。光は闇を憎んで、闇は光を憎んでいます」

 北條の声は、少しばかり興奮しているように聞こえた。

「その戦いは、いつどこで起こったんです?」

 梨子が答える。

「ずっと……、ずっと昔のことです。わたし達が生きている、この世界ではないと思います」

 互いの力をぶつけ合っていた少年たちが、一瞬で青年へと成長を遂げる。成長した姿も全く同じだ。鏡移しのように。どこまでも広がる草原で、周囲の草を薙ぎ、土を捲らせながら、ふたりは全くの無傷で汚れすら付かず力をぶつけ合っている。

 ふたりのいる空の色は、夜と昼に分かれていた。決して同時に在ることのできない昼夜が、同時に存在している。

 闇の放つ石礫もかまいたちも、光の放つ炎によって一瞬にして燃やし尽くされる。強烈な水を放つも、それすら光の炎は蒸発させていく。

 闇は表情を憎しみで満たし、際限なく水柱を飛ばした。光が炎の壁で対処したその隙に、闇は鋭利に尖らせた石を、水に紛れさせ飛ばす。

 水と止めた瞬間、炎の壁も消える。その一瞬、まだちらつく炎にあてられて赤熱した石の矢が、光の腹を貫いた。

 う、と光が苦悶した瞬間、彼のいた昼の陣営が夜に浸蝕されていく。夜は瞬く間にふたりのいる世界を満たし、完全な帳を降ろす。

 闇はほくそ笑んだ。

 貫かれた腹を押さえていた光は、侵された夜空を仰ぐ。開けられた腹の穴から光輝く1条の線が解きほぐされた糸のように分かれながら螺旋を描き高く昇っていく。

 分かれた線は夜空で絡み合い、もつれ合い、再びひとつになろうと球を形作り、弾けた。

 

 ――貴様、何をした!――

 

 闇が叫んだ。光は告げる。

 

 ――もう遅い。お前の子供である人間たちに、私の力を分け与えた――

 

 光は夜空を仰いだ。完全だったはずの夜空には、弾けた塵が燐光となって冷たい宙の中を疾駆していく。まるでタンポポの種のように、吹きすさぶ風のまま尾を引いた流星群となって地上へと落ちていく。

 

 ――いつか、遥か未来。人間たちのなかに私の力が覚醒する。その時、人はお前のものではなくなるだろう――

 

 光は草原に倒れた。闇の絶叫が世界に響く。

 散りばめられた星々への慟哭を聞きながら、光は自らの終わりを悟りながら瞳に自身の残滓である星を映していた。

 闇を払うには、まだ弱い無数の輝き。

 だがきっと、未来では――

 

 

   3

 

 それほど多くない乗客たちはデッキで景色を楽しんでいるようで、ロビーには他に誰もいない。

「葦原さん、ですか。ありがとうございました。何か助けてもらっちゃって」

「なあに、女の子はあれくらいお転婆なくらいが可愛げがある」

 そう言うと葦原は少し気恥ずかしそうに顔をしかめ、

「うちの息子なんか、元気が過ぎて可愛げなんかありゃしない」

「やんちゃなんですか息子さん?」

「まあ、昔の話だがね。水泳を始めてから、少しはまともになったようだが」

 でも元気ならそれで良いじゃない、と思いながら笑った。何だかんだで、葦原も息子のことは満更でもなさそうに見える。

「すいませーん」

 そこに、ロビーに若い女性客ふたりが入って来て、

「写真撮ってもらえますか?」

 「はい、良いですよ」と即答し、ふたりと一緒にデッキへ出る。富士山を背景に寄り添うふたりに、預かったスマートフォンをかざしながら、

「はい笑ってくださーい。はいチーズ、と………、あれ?」

 撮影ボタンをタップしようとしたところで、ピントがずれたのかふたりの姿がぼやけてしまう。あまり機械の扱いに慣れていないから、旅行に行くと撮影係は決まって姉の役目だった。

 もたついていると、すぐ隣でぱしゃ、とシャッター音が鳴る。スマホの画面の中に1眼レフカメラを抱えた壮年の男性客が入り込んできて、「あ、ちょっと」というこちらの制止も聞かずふたりに話しかける。

「後で連絡先教えてくれる? 写真送るから。こう見えてもね、昔カメラマン志望だったんだ。良いの撮れてると思うよ」

「本当ですか? 凄い」

 まあふたりも喜んでるし、俺が撮るより良いかな。何だか悔しい気もするが、そう自身に言い聞かせスマートフォンを返す。

「良かったら君もどう? 中々良いモデルだよ」

 「え、そうかなあ」と照れ隠しに頭を掻く。お世辞でも悪い気はしない。お言葉に甘えて、ふたりと同じように富士山をバックに撮ってもらった。

「ちょっと、純!」

 そんな抗議の声が聞こえてきて振り向くと、別の女性客ふたりがこちらへ近付いてきた。ふたりとも若くて、ひとりが眼鏡を掛けた友人らしき女性の手を強引に取りながら、

「あの、私たちも良いですか?」

 快く男は了承し、ふたりもやはり富士山を背景に撮影した。眼鏡の女性のほうは終止不服そうで、取り終えるとそそくさと離れていってしまったが。

「すみません、ちょっと人見知りな子で」

 そう言って残された女性のほうは男と連絡先を交換して、友人を追いかけていった。名前は橘純、というらしい。

 皆でロビーに戻ると、互いに自己紹介をした。カメラマンの男は相良克彦。最初に撮影したふたり組は篠原佐恵子と三浦智子、と。

「相良さんはやっぱりお仕事ですか?」

 訊くと相良は「いや」と、

「女房の代わりかな」

 「どういう意味ですか?」と三浦が重ねて訊く。

「うちのは体が弱くて、思うように旅行もできなくてね。女房が行きたいところに俺が行って、写真を撮ってきてる。まあ自分で言うのも何だけど愛妻家なもんで」

 「良い話じゃないですか」と言うと、相良は満更でもなさそうに笑った。

「本当、いつかふたりで一緒に行けると良いですね」

 篠原が言った。「うん、まあね」と相良は応じる。やっぱり旅行は誰かと一緒に行くのが楽しいよな、と思うと寂しさが裡に生じたが、それはここで言うと皆の気分を害してしまうだろう。

 それでもやはり、姉さんもいたらな、と考えてしまう。

 「でもあれじゃない?」と三浦が言った。

「佐恵子が会社を辞めたら、私たちふたりの旅行はこれが最後になるかもしれないわね」

 「え、辞めるの会社?」と相良が訊くと篠原は手を振りながら、

「まだ決めたわけじゃないんですけど。実は、ちょっと友達に一緒にお店をやらないか、て誘われてるんです」

 いつかは自分のレストランを持ちたいな、なんて漠然と考えていたから、店と聞いて興味を引かれた。

「どんなお店ですか?」

「ちょっとした輸入雑貨の店なんですけど」

 「よしたほうが良い、て」と三浦が被せるように、

「脱サラなんて上手くいくはずないんだから」

「うん、かもしれないけど………」

 そこで、「はい、どうぞ」と葦原が人数分の紙コップを乗せたお盆を手にやってきた。「ありがとうございます」と礼を言ってひと口飲むと、ほのかにレモンの香りがした。レモン水か、レストランを持ったらお冷に良いかもしれない。

 部屋に乗客が入ってくる。先程の3人組の少女たちだった。こちらに気付くと近付いてきて、

「さっきはsorryだったね。お詫びにサービスするから、機会があればうちのホテルにどうぞ」

 確か鞠莉、と呼ばれていたか。

「ホテル?」

「わたしの家、淡島でホテル経営してるの。果南の家はダイビングショップよ」

 果南と呼ばれたポニーテールの少女は恥ずかしそうに頬を掻きながら、

「まあ、うちはそんな大したサービスはできませんけど」

 「ですが」と前髪を揃えた少女が言った。

「田舎ですが良い土地ですわ。是非いらしてください」

 「へえ、ホテルかあ」と相良は零し、

「いつか女房と一緒に行くから、その時もサービスしてくれる?」

「ええ、いつだってwelcomeよ。沼津、ていう街にあるから」

 その土地に聞き覚えがあるのか「沼津か」と葦原が、

「奇遇だなあ。うちの息子も沼津に住んでるんだよ」

 「そうだったんですか」と驚きの声をあげる。人の縁というのは不思議なものだ。何か良いな、と思える。こうやって何気ない会話で他人との繋がりが広がっていくのは。レストランを持てたら、こんな風に年齢も男女も問わず談笑できる場にしたい。美味しい料理を出して、お客たちが笑顔でいられるような。

 そこに、食べてほしかった姉がいなくても。

「おおそうだ、良いものがある」

 そう言って葦原はバッグを開けて、中からミカンを出す。

「良かったらどうです?」

 掌に納まる果実を見て、果南が吹き出した。「あ、すいません」とすぐに謝るのだが笑みを残したまま、

「幼馴染の子がいつも回覧板と一緒にミカンたくさん持ってくるので、つい」

「確か沼津はミカンが有名だったね。息子が言ってたよ」

 朗らかに笑う葦原も大量に持ち込んでいたのか、全員に1個ずつミカンを配っていく。

 沼津か、とまだ訪れたことのない土地に想いを馳せる。近いうちに行ってみようかな。この旅の帰りにでも寄っていくと良いかもしれない。

 悲鳴が聞こえたのは、丁度皮を剥いたミカンを口にしようとした時だった。

 階段の踊り場で倒れているのを見つけた、と証言したのは、橘純とその友人、眼鏡を掛けた関谷真澄のふたりだった。現場には乗客全員が集められて、床に仰向けに倒れたまま微動だにしない青年と対面することになった。

 美青年、という言葉では足りない程に、瞳を閉じたその顔は整っている。服装は上下白の無地という何とも味気ない出で立ちなのだが、いくら派手に見繕っても青年の顔の美しさに全てが霞んでしまいそうに思えた。

 まるで、白亜という言葉から産まれたみたいだ。

「死んでいます」

 白い青年の首筋に指を当てた男性客が溜め息と共に告げる。木野薫と名乗った彼は白い青年の処置を自ら買って出た。もっとも、死んでしまってはもう手の施しようがないのだが。

「見たところどこも外傷は無いようだが。誰か知り合いの方は?」

 訊かれ、互いに探るような視線を送り合う。「妙ですなあ」と恰幅のある男性が、バインダーを手に呟く。声に聞き覚えがある。出航の時に船内アナウンスで挨拶を述べていた、確か船長の高島と名乗っていた。

 「どうしました?」と葦原が訊くと、緊急事態でも落ち着きを崩さず高島は告げる。

「乗船名簿と人数が一致しないんですよ。この人はどこにも記載されていないんです」

 じゃあ何でここに。

 疑問が沸いたと同時、声が聞こえた。濾過を重ねた水のように透き通った美声が。

 

 ――私は、君を助けるためにここへ来ました――

 

 閉ざされていた白い青年の目が開かれ、こちらを向いた気がした。この場にいるのは自分と彼のふたりだけ。そんな錯覚に陥る。三浦が言葉を発してくれなかったら、そんな幻影が長く続いていたかもしれない。

「こっそり船に乗り込んだんじゃないですか? それで殺人事件に巻き込まれた」

「それって、犯人はこの中にいる、てことですか?」

 橘が喚きたてる。緊張が伝播したのか、関谷もヒステリックに喚く。

「冗談じゃないわ。殺人犯なんかと一緒にいられるもんですか」

 「今すぐ降ろしてよ!」と騒ぎかけた関谷の肩を抱いて「落ち着いてください」と宥める。「そうです」と木野も同意を示し、

「犯人がこの場にいないとしても、まだ船の中にいるかもしれない。後は高島さんに任せましょう。決してパニックになってはならない」

 

 



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第5話

 

   1

 

 死体を見ては旅行気分もなくなり、乗客たちはロビーに集まっていた。自分の落ち着きように、少しばかり驚いている。というのも、あの青年はとても死んだように見えなかった。現場に血は流れていなかったし、何より彼の美しさが、死という冷たさとは程遠く思えた。

 乗客の中で最も若い3人組を見やると、互いに身を寄せ合ってソファに腰掛けている。暑い季節なのに、小刻みに肩が震えているのが分かった。まだ年端もいかない彼女たちにとっては、刺激が強すぎただろう。

「大丈夫か?」

 3人に声をかけた木野はポケットから錠剤のケースを取り出して、「酔い止めの薬だ」と鞠莉に手渡す。

「死体を見たショックで船酔いを起こしているかもしれない。気休めにしかならないが、飲んでおきなさい」

 そう告げる木野は、全く重苦しそうな素振りを見せない。

「木野さん、でしたっけ? 凄いですね。あんな事があっても、冷静でいられるなんて」

 そう言うと、木野は苦笑とも自嘲とも取れる表情を浮かべ、

「これでも医者でしてね。仕事柄、人の死に立ち会うことが多い。とはいえ、慣れるものではありませんが」

 木野はまるで独り言のように語った。ロビーにいる全員が、その言葉へ耳を傾けている。

「さっきの青年のように、若くして死んでしまう人も珍しくない。殆どの人が、後悔しながら死んでいくんです」

 そこで木野は鞠莉たちへ視線を落とし、

「君たちは、やりたい事があるみたいだな」

 え、という形に口を開いて、鞠莉たちは3人とも木野を見上げた。「済まない、盗み聞きするつもりはなかったんだが」と断りを入れ、

「人は、後悔しないよう生きるべきだ。自分の想いのままに。自分の人生を狭くするのは他人じゃない。本当は、自分自身なんだよ」

 それは若い鞠莉たちへ向けられた言葉だったのかもしれない。だけど、この場にいる全員に向けて告げられたように思えた。輸入雑貨の店を始めるか迷っていた篠原にも。この船にいない全ての人々にも。

 そして、後悔しながら死んでいった死者たちにも。

 

 

   2

 

 木野から貰った薬のお陰か、気分も大分楽になった気がする。風に当たりたくなってデッキに出ると、あの青年がいた。

 確か名前は、沢木哲也。

 気の良さそうな彼でも流石に事件現場に出くわしては思う所があるのか、柵に身をもたげて海原を眺めている。

「沢木さん」

 声をかけると、哲也はこちらを向いて「ああ、皆」と朗らかに笑う。どこか寂しそうに見えるのは、鞠莉の気のせいだろうか。

「どうかしたのですか?」

 ダイヤが訊くと、哲也は「いや、別に……」とはぐらかす。きっと、木野の言葉だろうな、と鞠莉には分かった。鞠莉の中でも、先の言葉が何度も繰り返し再生されている。

「さっきの話、本当よね」

「自分の人生を狭くするのは自分自身、て話?」

「Yes. わたし達、School Idolしてるの」

「スクール、アイドル……?」

 あまり聞き慣れていないらしく、哲也はぎこちなく反芻する。「そうですわ」と鼻息を荒げ出したのはダイヤだった。

「かつてμ’sとA-RISEによってそのジャンルを世に知らしめた――」

 「はいはいストップ」と果南が止めてくれる。ダイヤは不服そうだったが、今ばかりは我慢してほしい。哲也だって困った顔をしているし。

「この前に東京のイベントでライブすることになったんだけど………」

「だけど?」

 「わたしが歌えなかったんです」と果南が代弁してくれた。

「会場の空気にプレッシャー感じちゃって」

 あの時感じたステージの悔しさは、今も鞠莉の中で燻っている。これを消すには、もっと高い水準の歌とダンスを披露するしかない。あの日の観客のどよめきを、今度は歓声に変えるために。

「これがわたくし達の限界なのかもしれない、と続けてよいものか迷っていましたが………」

 そんな弱気になってどうするの、と言おうとしたのだが、それよりも先にダイヤは続けた。

「それこそ、自分で自分の人生を狭めていたのかもしれませんわね」

 え、と開けた口を開きっぱなしにしてしまう。「うん、そうだよね」と果南も。

「失敗したままで、終わりたくないし」

「じゃあ………」

 はやる気持ちのままに、頬が綻んでいく。そんな鞠莉にふたりは優しく微笑んだ。

「夏祭りのライブ、出よう」

「今度こそ、あのパフォーマンスを成功させて、ですわ」

 裡から熱いものが込み上げてくる。今にも踊りたくなってしまって、その衝動を懸命に抑えながら、鞠莉は「うん」と頷いた。

「良いんじゃないかな。人生やっぱチャレンジだよ」

 哲也も優しく言ってくれる。

「沢木さんも観に来て。excellentなステージにしてみせるから」

「うん」

 皆で笑ったあと、果南とダイヤはふと表情を消した。無言のまま視線を交わすと、果南が鞠莉へと向いて、

「鞠莉、実はね――」

「さっきはすいませんでした」

 そう告げながら、木野が鞠莉たちのもとへ歩いてくる。

「偉そうなことを言ってしまって」

 「とんでもない、良い話でしたよ」と哲也が応じる。タイミングを逃してしまった果南は口を閉じたが、後で訊くとしよう。木野とも、もっと話をしたい。彼は鞠莉を正しい方向へ導いてくれそうな気がする。

「俺、ちょっと考えちゃって」

 そう言うと、哲也は海原へ視線を戻した。その横顔は先ほどと同じ、ふとした際に見せる寂しそうな顔だった。

「実は、俺の姉さんも死んじゃったんです。警察は自殺だ、て言ってましたけど、俺は信じていなくて。きっと姉さん、もっともっと生きたかったんだろうな、て」

 意外な面だった。陽だまりのように笑う哲也が、そんな想いを抱えていたなんて。家族の突然すぎる死。彼の寂しさの顔は、それを根拠としていたのか。

「そうだ、ちょっと見てもらいたいものがあるんですけど、良いですか?」

 「何でしょう?」と木野は哲也と向かい合う。哲也はズボンの尻ポケットから封筒を出して、その中身を広げる。

「姉さんが書いたものなんですけど、お医者さんなら外国の言葉とか色々ご存知ですよね」

 受け取った便箋を見て、木野は目を細める。

「こんな言語は見たことがありませんが」

 鞠莉も横から覗き込む。日本語の他に英語とイタリア語なら読めるが、綴られた文面の文字はアルファベットではなかった。

 突如、船が大きく揺れた。何の前触れもなく。

 突然のことにその場にいた全員が尻もちをつく。快晴だった空が、瞬く間に灰色の雲に覆われていく。遠くで雷が、まるで獣のように唸っているのが聞こえた。

「戻りましょう」

 木野に言われ、未だ揺れるデッキの上で足をもつれさせながら進んでいく。

 

 先ほどまでの晴天は消え失せ、激しい雷雨の音が耳をつく。波も相当荒れているのか、歩くだけでもひと苦労だった。太陽が厚い雲に覆われ、一気に夜へ転じた変化に船員たちもまごついているらしく、船内の照明は点かないままでいる。

 ロビーに戻ると、乗客たちは困惑と恐怖に顔を強張らせていた。外を見やると、激しい波で打ち上げられた海水が柵を越えて窓を雨水と共に濡らしている。そこかしこで稲妻が迸り、一瞬だけ空を照らすもすぐに薄闇のなかへ消えてしまう。

 悲鳴が耳朶に響いた。篠原と三浦の声。咄嗟に目を向けると、ソファの一画がぼんやりと光を放ち、その中で先ほど死体で発見されたはずの白い青年が佇んでいる。

「皆さん!」

 高島の声が聞こえたが、彼もこの光景に息を呑んでいる。

 白い青年はゆっくりと、その美しい顔をこちらへと向ける。

 

 ――もうすぐ、君の命を狙う者がやってきます――

 

 その声が発せられた瞬間、他の音が消えた。雷雨の音も、波の音も全て。時が静止したかのような静寂の中で、白い青年の声はするり、と耳孔へ入り込んでくる。

 

 ――その前に私の最後の力で、あなたの中の私の力を、覚醒させます――

 

 彼の口から出た「あなた」が、何故か自分を指しているように感じ、無意識に彼のもとへと歩いていた。白い青年は微笑み、身に纏う朧気な光を強めていく。

 光は際限なく強まり、白い青年どころかロビー、視界の全てを覆い尽くしていく。何かが体に注がれるような感覚がした。痛みも、違和感もない。

 全てを照らす光のなかで、白い青年の双眸だけがはっきりと見える。その瞳が崩れた。光が徐々に弱まっていき、そこにいた白い青年の体が、光の粒子を散らしながら崩壊していく。彼を構成していた粒子も、空気に触れた火の粉のように跡形もなく消えていった。

 ロビーにいる全員が、青年のいた1点を見つめている。彼は一体何だったのだろう。そんな疑問に思考を馳せる余裕もなく、事態は第2派へ突入する。

 再び光が、ロビーの中心に降りてきた。

 最初は隕石かと思った。光の尾を引いた球体が船体を更に揺らし、その場にいた全員が足をもつれさせて転んだ。急激に萎んでいく球体から出てきたのは、人型の影。

「何よ、何なのよこれ!」

 関谷が叫んだ。それしか言いようがない。白い青年は人の形をしていたのに、それは人のようで、明らかに人でない存在だった。クジラが人型に進化し地上へ進出してきたかのような化け物、怪人というべきか。

 頭蓋から飛び出そうなほどに大きな双眸が、こちらへ向く。直感で悟った。白い青年が言っていた、命を狙いに来る者はこいつだ、と。

 腰を抜かしながらも何とか立ち上がり、外へと繋がるドアへ走った。直後、背中に衝撃が走る。まるで巨大なハンマーで押されたかのような力で、ドアを破り外へ放り出される。絶え間なく降り注ぐ雨と高波で、瞬く間に全身が濡れた。

「人でない者に、未来は無い」

 頬まで裂けた口から、人間の言葉が発せられる。その異様さに更に恐怖が煽られ、抜かした腰に力が入らない。

 怪人は手にした錫杖の先端を向けた。二又に分かれた矛先が迫り、咄嗟に顔を逸らす。切っ先は壁に突き刺さり、一切の抵抗もなく紙のように裂いてしまう。

 間髪入れず、抜いた錫杖の尾で頬を突かれた。口端を噛んでしまったらしく、咥内に鉄臭さが広がる。更に背中を叩かれ、床にねじ伏せられたところで人間に似た足で鳩尾を蹴り上げられる。

 床を転がりながら、体の節々に走る痛みと恐怖に震えた。怪人はゆっくりと近付いてくる。その姿をしっかりと捉えながら、すくんだ足は動いてくれない。

 やられる。

 このままじゃ、死ぬ。

 怪人が動きを止めた。まるで驚いているようなその素振りに戸惑い、次に自身に起きた変化に気付く。腹の辺りが光っていた。光は渦を巻いていて、次に自分のいる床に紋章のようなものが光を放ちながら浮かび上がる。

 脚の震えが止まった。起き上がると、床の紋章は渦を巻いて両足に集束していく。腹の光は強まっていき、まるで第2の心臓のように脈打っている。

 これは――

 冷えていた体が、裡の底から沸いた何かによって温められていくのを感じた。これは、白い青年から感じたものと同じ暖かさ。

 腹から放たれた光が、視界を塗り潰した。

 

「変わった………」

 他の乗客たちと共に窓から事を見ていた鞠莉は、無意識にそう呟いていた。沢木哲也だったはずの青年は、怪人と同じ人でない存在に変貌を遂げている。

 金色の鎧に、額から生えた金色の双角。零れそうなほどに大きな赤い双眸。

 あれは、戦士と呼ぶべきだろうか。戦士自身も、自分の変化に戸惑っているようだった。変わってしまった顔に触れて、触れているその手も変わっている。

 その姿に、怪人は肩を怒らせ錫杖を首元へ向けた。刃が首に触れる寸前で、戦士は柄を掴み切断を免れる。すぐさま武器ごと振り回され、振り解き拳を振るうが簡単に防がれる。

 戦士は、その姿でどう力を振るえばいいのか分からずにいるようだった。錫杖の柄で背中を叩きつけられ、床に組み伏せられたところで胸を踏まれ固定される。すぐに拳で足を払い、振り降ろされた錫杖を足で蹴飛ばす。

 怪人の手から武器が零れた。丸腰になった敵の腹に、戦士は拳を沈める。怪人もその力は堪えたようで、一瞬だけ身を悶えさせる。でも一瞬だけだ。沈められた拳を掴み捻り上げ、反撃の拳で戦士の顔面を打ち、続けざまに胸に蹴りを入れる。

 宙へ放られた戦士の体は柵を越え、デッキの陰に消えていく。「ああっ」と鞠莉は短い悲鳴をあげていた。怪人の存在など意識の隅に追いやり、「おい」という高島の制止もきかず破られたドアへ走りデッキに出る。

 怪人はどこにもいなかった。まるで最初からいなかったように。

「おーい!」

 高島が荒れる海面に声を飛ばす。他の乗客たちも全員出てきていた。鞠莉も海原の中から彼を探そうとするが、船体を叩く波飛沫が鞠莉たちの顔を洗うばかりで全てを揉み消している。この荒れようでは、助かる可能性は絶望的と言っても良かった。

「せめてもの情けだ」

 不意に、その声が聞こえた。「鞠莉!」と果南に手を引かれ、「危ない!」とダイヤとふたりで抱きつかれる。

 瞬間、ふたりは崩れるように倒れた。

「果南! ダイヤ!」

 体を揺さぶりながら呼びかけるが、全く反応がない。また悲鳴が上がった。皆は柵から後ずさり、豪雨を降らす空を見上げている。その視線を追うと、そこには怪人が浮かんでいた。

 雷鳴と雨音がかき乱れているにも関わらず、怪人の声はしっかりと聞こえた。まるで脳に直接語り掛けられているように。

「お前たちもまた、悪しき光を浴びた。

 あの男同様、やがて人ではなくなる。

 だが、それまでは生きられるだろう。

 覚醒の前兆が訪れるまでは。

 ただし、この事は誰にも言ってはならない。決して。

 忘れるな。

 お前たちの時間は長くはない。

 お前たちに未来は無いのだ」

 その予言。いや、予告と言うべきか。その場にいた、「悪しき光」を浴びた全員を恐怖と絶望へと叩き落とす。

 あの光は、鞠莉たちを人でないものに変える。存在することが赦されないものに。哲也のような異形に。この世界から排除されるべき命。

 長く続くはずだった鞠莉の未来は閉ざされた。鞠莉だけでなく、果南とダイヤまで、残された時間をいつ終わるかも分からず怯えたまま過ごす。

 こんな不条理、あっていいはずがない。

 望んでもいない烙印を植え付けられ、運命によって縛り付けられるなんて。

 金切り声が、雷雨の音を掻き消さんとばかりに轟く。同じく未来を奪われた者たちの慟哭。もはや人として生きることが叶わなくなった者たちの叫びが。

 約束の地を求めても、導いてくれる神はいない。いや、神に憎悪された棄民。

 鞠莉も、船を覆う絶望に呑まれていく。突きつけられた世界という恐怖に、泣くことしかできない。

 もはやどんな感情を抱いても結末は決まっている。

 慈悲を求めようにも、怪人の姿はもうなかった。

 

 

   3

 

 裡に欠けていた部分が、すっぽりと収まっていく。欠けていたものがあまりにも多すぎて、どれがいつの記憶か混濁してしまう。でも、それはすぐに整理されていった。散らかっていた部屋が掃除されていくように。全てがあるべき場所へと分けられていって、かつての自分という意識を再編成していく。

 蘇った全ての事柄が、かつて最も古かった記憶へと繋がる。靴が濡れるのも構わず浜から引き揚げてくれた千歌の声へと。

「そうだ、俺は………」

 呟きながら、沢木哲也として生を受け、津上翔一として生きてきた男は軋む体を起こす。

 ああ、今度こそ全て思い出した。俺が何であいつを怖れたのか。俺が何でアギトになったのか。

 俺は、あかつき号の中であいつに――

 三浦、篠原、相良、関谷。

 記憶を失っていた間に何も感じられない再会を果たし、未来を永遠に閉ざされた死者たちの顔が脳裏によぎる。

 篠原さん、輸入雑貨の店を始められたら行きたかった。

 相良さん、奥さんと一緒に旅行へ行ってほしかった。

 いつか俺が店を持てたら、皆に料理を食べに来て欲しかった。

 外から叫び声と倒された資材の金属音が聞こえてくる。歯を噛んで、翔一は外へと向かった。

 放置された資材置き場で、戦士たちは力なく倒れている。止めを刺そうと余裕な佇まいで歩く水のエルの背中へ、翔一は怒号を飛ばした。

「待て!」

 足を止めた水のエルが、ゆっくりとこちらを振り返る。

 まだ失われていない未来は残っている。

 鞠莉、果南、ダイヤ、木野。そして自分も。

 これ以上、お前の思い通りにはさせない。

 お前のもたらした悲しみは、ここで終わらせる。

「誰も……、誰も人の未来を奪うことはできない!」

 溢れ出す闘争が、翔一の腹にベルトを呼び起こす。

「変身!」

 力の奔流を炎として噴き出し、燃え盛る豪炎の戦士(バーニングフォーム)へ姿を変える。あの日の因果を断ち切るために、翔一は船の怪人へと駆け出した。

 

 



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第6話

 

   1

 

 船から救助された後のことは、あまり覚えていない。鞠莉が気付いた頃になると事は過ぎたものとして処理され、鞠莉は果南、ダイヤと共に沼津の家に帰宅することができた。

 果南とダイヤは船での出来事を忘れていた。あまりの恐怖に事故前後の記憶を失ってしまうことは珍しくはない、と薫が言っていた。忘れたままでいたほうがふたりのため。1度だけ乗客たちで集まったとき、薫から沈黙するよう言い聞かせられ、他の乗客たちからも同意された。

 でもふたりの記憶喪失は、鞠莉からこれからのAqoursについての活力を奪うことになる。あの船で誓った再起。ふたりの記憶からはそれすらも抜け落ちてしまって、3人でのAqoursは終わってしまった。

 鞠莉は声高に言いたかった。あの船で、もう1度ステージに立つことを決めた、と。でも同時にそれはあの日の恐怖も思い出してしまう。自分たちに未来がない、なんて恐怖に怯えさせてしまう。

 わたし達はじきに人ならざる者になる。

 植え付けられた力が目覚めるとき、あいつは天誅を下しにやって来る。

 かつてのAqours解散劇には果南とダイヤの嘘が絡んでいたのだが、嘘を付いていたのは鞠莉も同じだ。互いに互いを想い合う故の嘘があった。

 留学を決めた本当の理由は、逃げたかったからかもしれない。自分の抱える運命から。ふたりに沈黙しなければならない罪の意識から。それでもやはり恐怖はどこまでも着いてきたし、学校を統廃合から救いたい、という想いにも嘘はつけなかった。

 いよいよ浦の星の統廃合が本格的に進みだした頃に、鞠莉の裡にある力も覚醒を始めた。

 だから鞠莉は、運命に向き合うことを決めた。

 わたしはどうなってもいい。でも、ふたりだけは救ってみせる。

 悪い予感は的中してしまい、沼津への帰還とほぼ同時のタイミングで、アンノウンと呼ばれる者たちが現れ始めた。

 同時に、奴らと戦う者も。

 

 すっかり長話をしてしまったから、話し終えると口が乾いていた。カップに並々と注がれた紅茶を全て飲み干し、深い溜め息をつく。ふたりも紅茶にはひと口も手をつけていなかったと思う。

「………不思議なものですわね」

 口を開いたダイヤが発したのは、そのひと言だった。「うん」と応じた果南が、続きを引き継ぐ。

「わたし達が、前に翔一さんに会ってたなんてね。それに、涼のお父さんとも」

 ダイヤは苦笑し、

「翔一さんは、記憶をなくす前からああだったんですのね」

 「それに――」と言葉を詰まらせた果南の顔を見ると、目尻に滴が浮かんでいる。堪えながら、彼女は震える声を絞り出す。

「わたし達、また始めようとしてたんだ」

 愛おし気に告げられたその言葉に、鞠莉も涙を溢れさせる。

 こんな想いは赦されない。ふたりからの罵倒を受ける義務があるし、本来ならAqoursに入る資格もなかった。ふたりのため、というお題目を盾に、ただ自分勝手にやりたいことばかりやってきたというのに。

 でも、これが鞠莉の親友たちだ。鞠莉の罪を優しく受け止めてくれて、一緒になって抱えてくれる。

「ごめんなさい………」

 鞠莉は深く懺悔した。もはや全ては過ぎてしまったこと。泣いて謝っても、帰ってくるものは何も無いと分かっていても。

「ふたりを巻き込んで……、学校も救えなくて………」

 一体何のために帰ってきたんだろう。父に無理を言って理事長にまでしてもらって、乗客たちを集めて来るべき時に備えておいて、何もできなかった。いくらアギトに近付いても、所詮は無力な傍観者でしかなかったじゃないか。

 皆に居てもらっても、奇跡なんて起こせやしない。

「ありがとう、鞠莉」

「鞠莉さんは、十分すぎるほど尽くしてくれましたわ」

 左右から、ふたりに抱きしめられる。そういえば、あの日もこうしてふたりに抱きしめられた。きっと、そのお陰で鞠莉だけは記憶を失わなかったに違いない。

「鞠莉はさ、いつもひとりで抱え込み過ぎなんだよ」

「そうですわ。わたくし達がいるのに、全部ひとりで」

 ふたりも泣いていた。それは絶望と恐怖の涙なんかじゃない。ふたりが覚えていてくれたら、こんな胸を掻きむしられる想いはしなかっただろうか。そんなことを考えずにいられない。

 嫌だ、という想いが鞠莉の裡で芽生えた。これ以上、何かに怯えたまま生きていくのはたくさんだ。

 提示された運命に抗う術は、確かにあるはず。その希望として、脳裏に翔一の顔が浮かんだ。

 津上翔一として生きている彼と対面したとき、鞠莉の裡にあったのは恐怖だった。あの日のことを思い出さないか。そのせいでふたりに危険が及ばないか、と。

 でも、今なら彼を信じることができる。

 記憶を失っても鞠莉たちの元へ来てくれた彼なら、きっと未来を解き放ってくれる、と。

 

 

   2

 

 突き出した拳は容易くいなされ、そればかりか錫杖で鳩尾を叩かれ「うっ」と呻く。沈められた武器を持ち上げられて地面に伏したところで、眼前に先端に備えられた刃が迫った。咄嗟に柄を掴んで防ぐが、水のエルの力がじりじりと押してきている。

「まだ生きていたか。消え失せろ」

 力が緩んだ。瞬時に錫杖を蹴り上げ立ち上がると、誠が背後から水のエルに組み付いている。水のエルはすぐに拘束を解き、誠の胸部装甲を刃で突いた。武装もなく身ひとつで立ち向かう誠に加勢しようと肉迫したが、それを赦さない水のエルは柄の尾で翔一の顔面を殴りつける。

 二又に分かれた錫杖の刃が、誠の首元を挟み込む。G3-Xの強度で何とか守られてはいるが、大きく振り上げられた武器ごと誠の体が持ち上げられて投げ飛ばされる。3階の高さほど飛んだ誠は、衝突した足場の鉄パイプを破壊しながら落下していき、顔面から地面に衝突した。

「氷川さん!」

 緩慢に起き上がった誠のマスクが割れている。忌々し気にその姿を一瞥する水のエルに、翔一は突進をかました。怒りのためか、全身が燃えるように熱い。その熱を右の拳一点に集中させ、敵の構える錫杖を手刀で叩き折る。

 狼狽えた水のエルに、未だ燃え上がる渾身の拳を叩き込み突き飛ばす。

 雲間から太陽が顔を出した。この世界を照らす大きな光。それを全身に浴びた翔一は、更に進化を遂げる。

 体の熱が強くなっていく。内部からの熱にあてられてか赤い鎧が茶色く干からびて、陶器のような亀裂を走らせていく。固い音を立てて、割れた鎧が零れ落ちた。まるで蛹から羽化した成虫になったかのような陶酔と光が、翔一を包み込む。

 これは、未来を切り開くための力。

 光輝への目覚め(シャイニングフォーム)

 進化した翔一の姿に目を見張る水のエルは、自身へと向けられた咆哮へと咄嗟に顔を向ける。エクシードギルスへ姿を変えた涼が、鋭く伸びたヒールクロウを肩に突き刺していた。

 蹴り飛ばされた水のエルに間髪入れず、牙を剥いた木野のキックが胸を穿つ。

 翔一の前に、銀色の炎が燃え上がる。炎は揺らめきながら形を変え、アギトの角を模した紋章を形作っていく。

 跳躍し、翔一は右脚を突き出した。足先が触れた瞬間、収束した炎を纏ったキックを水のエルに叩き込む。

 命中した敵の胸にはまだ銀色の炎がちらつき、体を湿らす水分を蒸発させていく。頭上に光輪を浮かべる水のエルが断末魔の叫びをあげた瞬間、その体は爆炎をあげて飛散していった。

 

 

   3

 

 千歌の同級生たちが訪ねてきたのは、夕飯の準備をしている夕方だった。今日はいっぱい食べてくれるかな、と思いながら煮物を炊いていた頃で、志満は出掛けて美渡もまだ帰ってきていなかったから翔一が対応した。

「いま千歌ちゃん呼んでくるからさ」

 と千歌がいるだろう波辺へ行こうとしたのだが、「あ、いや」とむつに止められた。

「千歌には話しづらくて」

「翔一さん、聞いてもらえますか?」

 いつきとよしみからもそう言われ、戸惑いながらも翔一は3人を居間に通してお茶とお茶請けにカブ――菜園で収穫したての自信作――の浅漬けを出した。

「わたし達、千歌たちに何をしてあげられたのかな、て思って………」

 むつが切り出すと、いつきとよしみからも次々と懊悩が吐き出されていく。

「千歌たちに全部任せっきりだったのに………」

「落ち込んでる、て分かるんですけど、何て言ってあげられたらいいのか分からなくて………」

 気持ちが理解できるこそ、翔一はすぐに応えてやることができなかった。しばし沈黙の後、むつが訊いてくる。

「千歌、家ではどうですか?」

「いつも通りだよ。ご飯はあんまり食べてくれないけど」

 落ち込んでいることは、デリカシーがない、と言われる翔一でも分かる。いつも通り笑顔で接してくれるし、翔一の作った料理も美味しい、と言いながら食べてくれる。でもふとしたときに見せる、何の色も浮かべていない表情。前に東京のイベントから帰ってきた日以来の虚無の表情だった。

「でもさ、むっちゃん達だって頑張ってくれたじゃない。ライブの準備とか色々手伝ってくれたしさ」

 「でも――」とよしみが言いかけたが、寸でのところで押し留めた。それでも奇跡は起こらなかった。その事実を自分たちの口から告げる資格はない。Aqoursに背負わせてばかりだった自分たちに。その想いを飲み込むように、3人は揃って唇を結んでいる。

 いい友達を持ったんだな、千歌ちゃん。

 3人の懊悩は理解できるが、翔一は温もりを感じている。

 この子たちだから、あの子は頑張れたんだ。

 それに俺も。あの子やこの子たちがいるこの街だから、この「居場所」だから、護りたいと思ったんだ。

 堪えながらいつきが言う。

「あんなに頑張ったのに、学校も、何も残らないなんて寂しすぎる………」

「何も残らないなんてこと、ないんじゃない?」

 言うと、3人は同じ糸で釣られたように翔一を見上げる。

「学校は残せなくても、千歌ちゃん達の頑張りは残るんじゃないかな?」

 それが千歌たち自身や、学校や街の皆の中の記憶だなんて気休めじゃないことは分かっている。生憎ながら、それ以外の残し方は翔一には思いつかない。

 翔一だって千歌たちに何かをしてやれた訳じゃない。ただ彼女の食事を作ってきただけ。アンノウンという脅威から護ってきただけだ。

 その果てが統廃合だなんて結末は確かに寂しい。でも、何も形にできない、とはなるだろうか。翔一も過去を全て失ったけれど、翔一の中になった料理という、かつて培ったものはしっかりと残されていた。姉に食べてほしい。姉を喜ばせたい。その想いは忘れてしまったが、そんな翔一の過去の残滓で作った料理を、千歌は喜んで食べてくれた。

「俺には何もできないけど、3人や、学校の皆にしかできないことがきっとあるはずだよ。こんな所で終わらせたくないじゃない」

 

 

   4

 

 1週間のうちに、それぞれで答えを出す。集まったら、話し合って「みんな」の答えを出す。

 約束の朝、訪れた屋上は随分と久しぶりに感じられる。秋に入ってから練習は殆どがプラザヴェルデでやっていたし、その練習もこの1週間は無かったのだから。夏場はとても熱かった屋上のコンクリートが、この時期はとても冷たい。

「おはよう」

 階段を上り切ったところで、曜に声をかけられる。「おはよう」と千歌も返し、皮肉なほどに晴れた青空の下に集まった皆の顔を見渡す。

「やっぱり、皆ここに来たね」

 梨子が得心したように言う。集まるとは決めていても、集合場所は決めていない。部室か、プラザヴェルデか。でも不思議と、屋上だな、と千歌は思っていた。Aqoursを始めたばかりの頃、どこの練習場も埋まっていて、辛うじて割り当てられたのがこの屋上。

「結局、皆同じ気持ち、てことでしょ」

 そう言う鞠莉は、どこか軽くなった面持ちだった。理事長として尽力してくれた彼女も、ようやく業務が落ち着いて少しは休養できたのかもしれない。

「出た方がいい、ていうのは分かる」

 梨子の言う通り、出るべきなのかもしれない。全スクールアイドルの悲願とも言える会場の切符を手にしたのだから。

「でも、学校は救えなかった」

 ルビィの告げる事実が、手にした切符を受け取るかを惑わせた。

「なのに、決勝に出て歌って――」

 花丸が言い淀んで、善子が引き継ぐ。

「たとえそれで優勝したって………」

 「確かにそうですわね」とダイヤが頷いた。

「でも、千歌たちは学校を救うために、スクールアイドルを始めたわけじゃない」

 果南が言った。そう、最初は統廃合阻止なんてお題目に過ぎなかった。むしろ千歌は、憧れのグループと同じ道を進んでいる、と歓喜したくらい。あの頃の自分に教えてやりたい。自分がどんな道を進もうとしているのか。どんな未来が待っているのか。

「輝きを探すため」

 曜が、当初から貫き続けてきた想いを口にする。そこに込められたものを鞠莉が言う。

「皆それぞれ、自分たちだけの輝きを見つけるため。でも――」

「見つからない」

 遮るように千歌は言い放つ。

「だってこれで優勝しても、学校はなくなっちゃうんだよ。奇跡を起こして、学校を救って。だから輝けたんだ。輝きを見つけられたんだ」

 全てが灰塵(かいじん)に帰した。ここで練習したときの、わくわくとした想いも。前の予備予選で確かに視たはずの、輝きの片鱗も。この前の予選突破を受けた時の、きらきらとした希望も。

 あれだけ足掻いても、現実を変えることができなかった。今更足掻いて何が残る。

「学校が救えなかったのに、輝きが見つかるなんて思えない」

 もう何事も意味をなさない。優勝したところで、討ち捨てられる校舎を見れば救えなかった事実に胸を締め付けられていく。

「わたしね、今はラブライブなんてどうでもよくなってる。わたし達の輝きなんてどうでもいい」

 輝いたところで、ただ1瞬で消える。それだけだ。全て無になって、その虚無すらも受け入れられず、あの頃に抱いていた夢の残骸のみが千歌の裡にぐるぐると不快に渦巻いている。

「学校を救いたい! 皆と一緒に頑張ってきたここを………」

 感情を吐き出しても涙は出なかった。奇跡を起こすまでは泣かない。あの時の誓いを守ってきた間に枯れ果てたらしい。

 奇跡なんて起きないんだ。

 何も残らないんだ。

 全部、全部――

「じゃあ救ってよ!」

 その声が聞こえ、は、と千歌は顔を上げた。屋上の縁に立って中庭を見下ろすと、そこには全校生徒が集まっている。その中で、よしみが声を張り上げる。

「だったら救って! ラブライブに出て、優勝して!」

 他の皆も千歌の周りに集まって、中庭の生徒たちを見下ろす。誰も知らなかったらしい。いつもそうだった。皆は頼まれなくても、Aqoursのために何かできないか、何かしたい、と声を上げてくれた。

「できるならそうしたい。皆ともっともっと足掻いて、そして――」

 もう無意味なのに。もうどうにもできないのに、未だに願わずにいられない。決して叶わない願いを口にするとき、千歌の声はすっかり弱くなっていた。

「学校を存続させられたら………」

 ごめん、という無意味な懺悔ばかりが募る。これだけの人たちの、ここにいない人たちの想いまで背負ってきたのに。皆の想いを何ひとつ成し遂げられなかった。

 分不相応な夢を追いかけて、

 そのために皆を巻き込んで、

 期待させるだけさせておいて、

 何も残せなかった。

「それだけが学校を救う、てこと?」

 よしみの問いが、校舎の壁に反響する。何度もその問いを脳裏で繰り返していると、むつが言った。

「わたし達、皆に聞いたよ。千歌たちにどうしてほしいか。どうなったら嬉しいか」

 いつきが続ける。

「皆一緒だった。ラブライブで優勝してほしい。千歌たちのためだけじゃない。わたし達のために。学校のために」

 それがどうして学校を救うことになるのか。

 その答えを、よしみが告げてくれる。

「学校の名前を、残してきてほしい」

 「学校の………」とダイヤが呟いた。校舎が残らないのなら、せめて名前を。

「千歌たちしかいないの! 千歌たちにしかできないの!」

「浦の星女学院スクールアイドル、Aqours。その名前をラブライブの歴史に、あの舞台に永遠に残してほしい!」

「Aqoursと共に、浦の星女学院の名前を!」

 ラブライブは、言い換えれば全国高校スクールアイドル選手権。出場グループの所属として、学校名は必ず付いてくる。

 この土地に学校を残せないのなら、もっと大きな舞台の記録に名前を刻み付けてほしい。

 わたし達がいたことを。

 千歌たちが足掻いた証を。

 ここにいる皆で紡いだ物語を、ラブライブ優勝グループ、Aqoursのいた学校として。

「だから、輝いて!」

 皆の想いが、全員分の声になって千歌たちに向けられる。「優勝して、学校の名前を……」と鞠莉が呟いている。「ラブライブに……」と果南の声が、強さを帯びているように感じられる。

「千歌ちゃん」

 と曜に呼ばれ、次いで梨子と揃えた声で問われる。

「や・め・る?」

 「やめるわけないじゃん」と千歌は即答し、

「決まってんじゃん決まってんじゃん!」

 裡から沸いた衝動を発散するために足をばたつかせ、千歌は宣言する。

「優勝する! ぶっちぎりで優勝する! 相手なんか関係ない。アキバドームも決勝も関係ない。優勝する。優勝して、この学校の名前を、一生消えない思い出を作ろう!」

 これが、千歌たちにできる最後の足掻き。どうせなら学校の理事会に後悔させてやろう、とすら思った。こんな良い学校なら統廃合なんてしなければよかった、と。

 見せつけてやるんだ、世界中に。

 わたし達がいた証を、わたし達の輝きを。

 「Oh!」といつもの賑やかさを戻した鞠莉が揚々と、

「allowでもshotgunでも持ってこい、て感じね」

 「でも」と果南が彼女の肩を抱き、

「見てるだけで何か熱くなってくる」

 「ですわね」とダイヤが皮肉っぽく笑った。本当は、皮肉なんて感じていない癖に。

「全リトルデーモンよ、決戦の時が来ました。ヨハネと一緒に堕天するわよ」

 善子もいつもの調子を取り戻したらしい。やっぱり、湿っぽいのはAqoursに似合わない。いつだって熱く、前に進まないと。

 1週間も立ち止まっていた遅れを取り戻すために、曜が意気揚々と声をあげた。

「ああ、じっとしてられない。皆走りに行こう!」

 笑みを伝播させて、皆は階段へと向かって走り出す。いきなりの練習に怖気づいた花丸の手を果南が引いていく。

「ほら行くよ」

「マルもずらか⁉」

 後に続く梨子の声は、既に新曲の歌詞を考え始めた千歌の耳には届いていなかった。

「遂に普通じゃない、本当の怪獣になっちゃうのかも、千歌ちゃんは」

 さあ、こうしちゃいられない。ラブライブに向けて、もう1度走り出そう。

 ひとり残された千歌は、皆に続くために足を踏み出す。その時、何かが顔の横を通り過ぎていく。目で追うと、それは1枚の羽だった。鳥なんて飛んでいただろうか。

 羽は空へと飛んでいき、やがて太陽へ向かってその光に飛び込んでいく。あれは何だろう。そんな疑問が沸くも、それは保留にしておく。

 きっと分かる日が来る。輝きを見つけることができた瞬間に、またあの羽が視られるような気がした。

 

 






次章 HAKODATE / 動き出す闇


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第21章 HAKODATE / 動き出す闇
第1話


 

   1

 

 曜と梨子が十千万に寄ったのは、いつも通りプラザヴェルデでの練習帰りだった。大事な話がある、とふたりは言っていた。千歌は決勝での曲についてかと思っていたのだが、違うらしい。

「すいません、急に」

 玄関で靴を揃えながら、曜は謝罪を入れる。翔一は嫌な顔ひとつせず、

「良いって良いって。丁度晩ご飯の支度してたところだからさ、ふたりも食べてってよ」

 「ああ、いえお構いなく」と梨子は遠慮するのだが翔一はよほどの自信作なのか、

「大丈夫だって、家には連絡しておくからさ。それよりふたりとも、今日は曲作り?」

「ううん、翔一くんに話があるんだって」

 千歌が答えた。「俺に?」と翔一はとぼけた自分の顔を指さす。「はい」と梨子が応じ、

「わたし達、この前北條さんと会ったんです」

「北條さんと? 何でよ?」

「翔一さんが雪菜、て人に宛てた手紙のことで」

 手紙と聞いて、千歌の脳裏にあの封筒が浮かんだ。記憶を失った彼が持っていた唯一のもの。「それって……」と翔一は明後日のほうを向いた。

「俺の姉さんが出した手紙……」

 「翔一さんの、お姉さん?」と曜が途切れ途切れに聞いた。まさか、と千歌は息を呑んだ。それを知っているということはつまり――

「津上翔一、て俺の姉さんの恋人だった人の名前でさ」

 さら、と言ってのける。姉の恋人に会いに行く途中で記憶を失った。その話を聞いたのは、一時的ではあったけど彼の記憶が戻っていた頃のこと。

 あの封筒の宛名は翔一の本当の名前じゃなかった。なら、今こうして千歌たちの前にいるこの青年は。

「じゃあ、翔一くんは?」

 千歌が訊くと、また翔一はさらりと名乗る。

「俺の名前は沢木哲也(さわきてつや)

 沢木哲也。どうしても違和感が拭えない本名を名乗ると、翔一は照れ臭そうに笑った。

「よろしくね」

 そのあまりにも味気ない事実に、千歌はただ口を開いたまま何も言えなくなる。曜と梨子も黙ったままだった。以前記憶を取り戻した時にも彼はいつも通りだったけど、今回もまたいつも通りすぎる。記憶喪失の間は過去に興味なんて無さげだったけど、取り戻してもさほど興味が無いように見えてしまう。

「今の、本当?」

 振り向くと、居間から顔を出した志満が目を見開いていた。

 夕飯は後回しにして、自室にいた美渡も呼び急遽家族会議が開かれた。千歌たち高海家の問題だから、と曜と梨子は帰ろうとしたのだが、千歌と翔一が引き留めた。ふたりだって、翔一と無関係なわけじゃないのだから知るべき。翔一のほうは、ふたりに夕飯を食べて欲しい、という理由だったが。

「沢木哲也………」

 本人から明かされたその名前を、志満は反芻する。「はい」と翔一は笑顔で応じた。

「それが翔一君の本当の名前なの?」

「だから翔一じゃないです、て」

 と本人は訂正する。何だか善子ちゃんみたい、と千歌は思わず笑ってしまった。

「じゃあまた思い出したんだ、昔のこと」

 美渡が言うと、翔一は「うん、お陰さまで」と応じると、美渡は更に茶化しにかかる。

「結構カッコいい名前じゃん、翔一」

「だから翔一じゃない、て」

 「翔一君」ともはや訂正の利かなくなった名前で志満は呼び、

「思い出したこと全部話してくれる? あなたはどこで何をしていたのか、何故記憶喪失になったのか」

 そうなると話が長くなるからか、「それは、追々……」とはぐらかし。

「それより、これからの事なんですけど」

「これから?」

「俺、いつまでもここにお世話になってるわけにはいかないんじゃないかな、て。こういう場合、記憶を取り戻したら昔の生活に戻るのが筋なんじゃないかな、て」

「それは、そうかもしれないわね」

 やっぱり、そうなるよね、と千歌は思った。翔一がこれからの事を考え始めたということは、姉の死についてはもう踏ん切りがついたのだろうか。以前記憶を取り戻した時に、姉の恋人には無事に会えたのだろうか。

「帰るところあるの翔一くん?」

 千歌が訊くと、翔一は「それは、無いけど……」と弱々しく言った。

「俺、両親も子供の頃死んじゃってるし」

 意地悪なこと訊いちゃたな、と内省した。前に天涯孤独だと聞いているのに。両親を失った後に育ててくれた姉も亡く、翔一を沢木哲也として迎え入れてくれる肉親はいない。

「翔一君」

 志満は優しく微笑み、

「前にも言ったと思うけど、私たちは翔一君のことを家族同然と思っているわ。記憶を取り戻しても翔一君は翔一君じゃない」

「いえ、だから翔一じゃなくて――」

「翔一君さえ良ければいつまでもうちに居てくれて構わないのよ、翔一君」

 そう、志満の言う通り今更になって翔一を他人として見ることなんてできない。本名が沢木哲也でも、千歌たちにとって彼は津上翔一だ。何も変わる事なんて無い。翔一が記憶の有り無しに関わらず何も変わらないように。

「本当、ですか……?」

 不安げな表情を浮かべる翔一に、黙って話を聞いていた曜が口を開く。

「もうここが地元だって良いじゃないですか」

 梨子も微笑を浮かべながら、

「ここが翔一さんの居場所なんですから」

 「そうそう」と美渡が翔一の肩を叩きながら、

「遠慮しないでよ翔一。大体翔一が居なくなったら、誰がご飯作るわけ? 掃除や洗濯だってさ」

 随分とまあ不純な引き留め方なのだが、翔一にとっては大満足だったらしい。沈んでいた彼の顔が普段通りの、揚々とした表情に戻っていく。

「そっかあ。よーし、美味しい料理を作るぞー!」

 大声で笑い、翔一は夕飯の支度に台所へと入っていった。

 

 

   2

 

「そっか、翔一さん思い出したんだ」

 千歌の話を聞いて、最初にそう漏らしたのは果南だった。

「それじゃあ、これからは哲也さん、と呼ぶべきなのでしょうか?」

 ダイヤの疑問に千歌は「うーん」としばし考え、

「今まで通りで良いんじゃないかな? 思い出してもいつもの翔一くんなんだし」

「まあ、本人がそれで良いのなら………」

 律儀なダイヤらしく腑に落ちないようだが、それ以上は言わなかった。性格は以前と変わらないのに名前だけ違うというのも、何だか違和感があって落ち着かない。

「何だかこっちの調子が狂いマースね」

 ずっと座りっぱなしで肩が凝ったのか、鞠莉が伸びをしながらごちる。確かに違和感はあるけれど、それも短いうちに消えていくだろう。

 「でも」とルビィが言った。

「良かったね、これからも一緒に暮らせるようになって」

 「うん」と千歌は満面の笑みで応えた。喜んでいるのは千歌だけじゃなく、花丸も。

「調理師学校に通ってたなら、美味しいものたくさん作ってくれるずらね」

 「あんたそこしか興味ないわけ?」という善子の皮肉に、皆で笑った。

 これで、この話は終わりなのかな。

 窓からの景色を眺めながら、曜はふと思う。翔一の記憶が戻って、でも何も変わることなく十千万で暮らし続ける。これで良いのかもしれないが、まだ全てが片付いたわけじゃないことを、曜は知っている。

「あの手紙のこと、考えてる?」

 隣に座る梨子に訊かれ、曜は顔を向ける。

「うん、まあそれもそうなんだけど。梨子ちゃん覚えてる? 前にわたしが、翔一さんの記憶が視えた、て」

「あ、うん……。確か千歌ちゃんのお父さんが………」

 あの時、脳裏に走った像はまだしっかりと曜の記憶に刻まれている。力なく倒れた千歌の父が、翔一の記憶の中にいたことを。

「翔一さん、あの事も思い出したのかな?」

 彼が千歌の父殺害の犯人じゃないことは信じられる。でも、全くの無関係でもない。もし覚えていてくれたら、事件の真相を知ることができるのかもしれない。

「帰ったら、ゆっくり聞いてみよ。大丈夫よ、翔一さんが犯人なんて有り得ないもの。あの翔一さんよ」

「うん、あの翔一さんだもんね」

 そう控え目に笑うと、曜は窓へ視線を戻す。目的の陸地が見えてきた。

 

 空港からはすぐにバスで移動したものだから、駅に降りてようやく自分たちが日本最北の地に来たという実感が沸いた。

「いやー、はるばる来たね函館!」

 四角い箱に円柱が飛び出した駅の前に着いて、千歌は帽子を脱いだ。お気に入りのミカン色の帽子らしいのだが、目と口元だけに穴が開いた目出し帽だ。よく強盗か特撮に出てくる戦闘員が被るような。どこで売っていたのだろうか。

 懐から封筒を出して、果南がしみじみと言う。

「まさか地区大会のゲストに招待されるなんてね」

 それは浦の星に届いた、ラブライブ運営委員会からの封書だった。決勝大会進出を祝う文言と、次に開催される北海道地区大会の特別観覧チケット。決勝に進んだグループへ贈られる特典のようなものらしい。知らせを受け、冬休みの練習プログラムを組んでいたAqoursはすぐに予定を変更し向かうことになった。北海道は誰も行ったことのない土地だし、何よりあのグループがいるから。

 「うう、寒い……」と曜が腕を抱いた。「曜ちゃん、もうちょっと厚着したほうが良いわよ」という梨子も、少し寒さに震えていた。沼津は比較的温暖だから、こうしてちらつく雪も珍しい。降ってもすぐ溶けてしまうから、雪を被った土地というのは異国めいた雰囲気を感じられた。

 「さあ行くわよ!」と善子がプログラムシートを掲げ、

「レッツ、ニューワール――」

 と駆け出そうとしたのだが、履いていたローファーが路面を覆う雪に滑って盛大な尻もちをつく。

「雪道でそんな靴履いてちゃ駄目だよ」

 今更ながらの忠告をルビィが言った。もっとも、出発前からローファーはやめとくように言ったのに聞かなかったのは善子だが。

「その通りデース!」

「そんな時こそこれ!」

 と鞠莉とダイヤが足を上げた。この日のために新調した、靴裏にスパイクの付いたスノーブーツ。流石の姉も初めての土地に舞い上がっているらしく、いつもなら窘める鞠莉と一緒に近くにある除雪で集められた雪の山に登り始める。

「これでこのような雪山でもご覧の通り――」

 ずぼ、とふたりの体が雪山に沈んだ。まだ柔らかいらしく、ふたりがもがけばもがくほど底なし沼みたいに沈んでいく。「お姉ちゃん!」とルビィが救出しに登ろうとしたところで、

「お待たせずらあ」

 ダルマが歩いてきた。

「やっと温かくなったずらあ」

 いや、ダルマじゃない。恐る恐るルビィが呼ぶ。

「は、花丸ちゃん?」

 先程厚着してくる、と駅構内に残った花丸であることに間違いはなさそうだ。

「マルはマルマル、と丸くなったずらあ」

 どれ程着込んだのか、重量も増しているらしく歩く度にざくざく、と足元の雪が音を立てている。自重に耐え切れなかったのか、足をもつれさせた花丸がたたらを踏みながらルビィたちの方へ寄ってくる。

「ちょ、ちょっと!」

 という善子の声も虚しく、ルビィの傍にいた善子と曜を巻き込んで花丸は転んだ。

「ずらあ」

 「ちょ、重い!」と善子が喚いている。花丸も重ね着しすぎたせいか身動きもとれず、千歌と果南と梨子の助けを借りてようやく抜け出すことができた。

 鞠莉とダイヤも雪山から引っ張り出して、満足に歩けない花丸を手助けしながら次の目的地へ向かう。駅前で浮かれていたせいか、開場まであまり時間もなくなってしまった。

 観光都市として発展しているだけあって、交通機関の利便性も高い。そう時間を取られることなく、ルビィたちは会場へ着くことができた。大小の円が繋がったような形状の函館アリーナの前には、応援用の旗を広げる者や、建物を背景に記念写真を撮る者と既に多くの観客が集まっている。

 エントランスに入ると大型液晶が備え付けられていて、本日の大会の出場グループが羅列されている。入れ替わりに、出場するグループのメンバーと紹介文がピックアップされて表示された。

「あ、Saint_Snowさんだ」

 画面に大きく写真付きで紹介された表示を見ながら、千歌が声をあげる。「流石、優勝候補だね」と梨子が応じる。メンバーがふたりだけということもあって、他のグループよりも一際目を引く。姉妹ふたりが織り成す抜群のコンビネーションに期待、と紹介文には綴られていた。

 「ふん」と善子が鼻を鳴らし、

「ならこの目で、この地の覇者となるか確かめてやろうじゃない」

 どの口が、と皆で呆れに溜め息をついていると、「あの」という声を向けられた。振り向くと、3人組の少女たちがルビィ達、即ちAqoursのもとへ歩いてくる。

「Aqoursの皆さん、ですよね?」

 「え?」と千歌が呆けた声で応じると、「えっと、あの……」とせわしなく手元を動かしながら意を決したように、

「一緒に写真撮ってもらっていいですか?」

 ん、誰と?

 掲げられたポラロイドカメラを見ながら、ルビィはそんな間の抜けたことを思ってしまう。でもそれは他のメンバーも同じようで、ようやく口を開いた梨子でさえこれだ。

「ちょ、ちょっと皆落ち着こう!」

 「梨子ちゃんも落ち着いて」と千歌が言って、ようやく理解が追いついた。皆集まってシャッターを切り、カメラから吐き出された写真を少女たちは感激しながら眺めている。

「ありがとうございます。応援してます、頑張ってください」

 深々と礼をして去って行く3人に「ありがとう、頑張るよ!」と千歌が言うと、3人は1度立ち止まって手を振ってくれた。彼女たちも、自分たちの学校のグループを応援しに来てくれたのかもしれない。言うなればライバルのはずのAqoursも応援してくれる。矛盾しているように見えるけど、ラブライブとは矛盾すらも越えてしまうほどの熱気を生み出すということ。

「決勝に進む、て凄いことなんだね」

 ひとり呟いたルビィは、姉の顔をちらり、と見た。姉と一緒に決勝へ進む。一緒にAqoursとして活動を始めてから視てきた夢だけど、今は何故か手放しに喜べない。その理由は、程なくして理解してしまう事になる。

 受付で楽屋の場所を訊くと、係員は快く教えてくれた。本来なら学校関係者しか立ち入りは許可していないのだが、Aqoursはゲストとして招待したから特例、ということで。

 普段は更衣室として使われる楽屋のドアを静かに開けながら「失礼しまーす」と千歌は少し緊張した声色で入る。本番前の緊張はよく知っているし、あまり刺激してしまうのは良くない。

「Saint_Snowのふたりは――」

 「はい」と溌剌とした声が返ってくる。千歌に続いてルビィ達が入ると、化粧台で既に着替えを済ませた聖良が緊張など感じさせない堂々とした表情で迎えてくれる。

「お久しぶりです」

 そう挨拶する聖良はとても柔らかだった。楽屋というのは特に緊張に満ちた空間なのだが、彼女だけはその雰囲気から外れている。

「ごめんなさい、本番前に」

 梨子の断りにも「いいえ」と余裕に返し、

「今日は楽しんでってくださいね。皆さんと決勝で戦うのは、まだ先ですから」

「はい、そのつもりです」

 真正面からの勝利宣言に、千歌も臆すことなく応じる。ふたりの何事も恐れない強さが、ルビィにはとても眩しく見える。いつも姉の背中に隠れてきた自分は、いつまでこうしていられるのか。

「何? もう決勝に進んだ気でいるの?」

 と善子が皮肉を漏らす。隣にいる花丸も、

「もの凄い自身ずら。と、もの凄い差し入れずら」

 彼女の場合は積み上げられたお菓子のほうに興味が向いていたみたいだが。そんなふたりを見ていると少しばかり緊張がなくなったルビィも口を開く。

「おふたりとも、前回も地区大会は圧倒的な差で勝ち上がってこられたし」

 夏季の地区予選をSaint_Snowはトップで通過し、決勝大会も8位という成績を残している。今回も北海道地区では当然の如く通過するとされ、全国的にも優勝候補グループの1画として名を連ねている。

 もっとも、Aqoursだって注目グループとされているが。

「もしかして、また見せつけようとしてるんじゃないの? 自分たちの実力を」

 果南が強気に言う。「いえ、他意はありません」と聖良は苦笑し、

「それにもう、皆さんも何をしても動揺したりしない」

 「どういう意味ですの?」とダイヤまで強気になっている。

「Aqoursは各段にレベルアップしました。今は紛れもない優勝候補ですから」

「優勝候補………」

 千歌は、まるで実感が沸かないかのように反芻する。ルビィも、正直なところ有力グループの一員という実感があまり沸いていない。千歌というリーダーに、姉に手を引かれ着いてきただけ。もしSaint_SnowのようにAqoursもダイヤとルビィの姉妹ふたりだけだったら、ここまで来られなかった。ダイヤの実力は贔屓目なしに素晴らしいが、その分ルビィの未熟さで足を引っ張ってしまう。

 だから、鹿角姉妹は本当に凄い、と思える。ふたりでお互いを高め合って、更に歌もダンスも向上させ限界というものを感じられない。

 聖良は立ち上がり、千歌たちを真っ直ぐに見据える。

「あの時は失礼なことを言いました。お詫びします」

 深く頭を下げる聖良を千歌は止めようと手を伸ばしたのだが、聖良からも手を差し伸べられ戸惑い静止する。頭を上げ、聖良は宣言する。

「次に会う決勝は、Aqoursと一緒にラブライブの歴史に残る大会にしましょう」

 口を開けたまま目の前の手を眺める彼女に、「千歌ちゃん」と曜が声をかける。続けて鞠莉も声を潜め、

「ここは受けて立つところデース」

「そうそう」

 「うん」と頷き、千歌はコートの裾で拭った手を差し出して、聖良と握手を交わす。共に全力を尽くしましょう。もっとも、勝つのはわたし達ですけど。そんな応酬が、言葉に出なくても伝わってくる。不穏なものは一切なかった。正々堂々と、どれだけ観客を沸き上がらせるか。どちらがより輝けるか。

「理亜」

 聖良はここまでひと言も発さない妹へ振り向き、

「理亜も挨拶なさい」

 姉に呼ばれても、理亜は全く反応を示さない。イメージトレーニングかイヤホンを耳に付けたまま、きゅ、と両手の拳を握りしめている。

「理亜」

 再度呼びかける聖良を「ああ、良いんです」と千歌が止めた。

「本番前ですから」

 理亜は瞑想するように、目を閉じたまま出番を待ち続けている。でも、ルビィは見逃していなかった。

 握った理亜の拳が震えていたのを。

 

 話がある、と翔一から呼び出されたのは、沼津の仲見世通りにある喫茶店だった。署から車で来たというのに、酷く疲れて額に浮かんだ汗を袖で拭う。本格的に寒い季節に突入したから、変わり目に風邪でも引いただろうか。熱は無いから出勤したのだが、体がとてもだるい。

「ああ氷川さん、こっちこっち」

 翔一が挙手して呼ぶボックス席には、涼と木野も腰掛けている。ウェイターにホットコーヒーを注文してから誠も席に腰掛けると、「一体何の用だ?」と木野は不遜に問いかける。

「アギトの会なんてふざけた集まりなら帰るぞ」

「違いますよ。まあそれも近いうちに、て考えてますけど」

 僕は補欠ですけどね、なんて皮肉が出かけたが、今は喋る気力すらない。

「なら、何の用なんだ?」

 今度は涼が尋ねた。翔一はいつになく真面目な顔つきになって、

「はい、実は――」

 からん、と乾いた音が鳴った。何だろう、と思いながら手元を見ると、テーブルに伸ばした手の先で水のグラスが転がっている。ああ、僕が零したのか。

「ああもう氷川さん零しちゃってるじゃないですか」

 そんな翔一の声が遠くなっていく。視界がぐらぐら、と気持ち悪く歪んでいき、やがて暗転する。

「氷川さん!」

 意識が沈む前に誠が感じていたのは、指先に感じた水の冷たさだった。

 

 



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第2話

   1

 

「凄い声援だ! お客さんもいっぱい」

 いち観客としてショーを楽しむ千歌の声は、耳を澄まさなければ観客の熱気溢れる声援に掻き消されてしまいそうだった。

 メインアリーナの観客席は薄明りでよく見えないが、ひしめき合うように光るサイリウムで満席だと分かる。空いているのは、Aqoursにゲスト用として割り当てられた2階席の1画のみだった。ステージに近い席だから、ステージのみならず観客席の様子も見渡せる。

「観客席から見ることで、ステージ上の自分たちがどう見えているか、どうすれば楽しんでもらえるかも、勉強になるはずですわ」

 ダイヤが言うと、千歌は「だよね」と一層熱心にステージと観客席を見渡す。流石お姉ちゃん、と思いながらルビィも会場を見渡した。この北海道への旅は、観客としての視点を知る絶好の機会として決められたものでもある。

 そろそろ大会も中盤に差し掛かる頃だ。彼女たちの出番は近いはず。

「Saint_Snowさんは?」

 ルビィが訊いた。「確か次のはずだけど……」と梨子がプログラムシートを確認したところで、次の曲が流れる。スポットライトの光も変わって、会場の雰囲気が早変わりする。

「あ、始まるずら」

 花丸がそう言ってすぐ、会場に一際大きな歓声が響き渡る。役者の姉妹は既にステージで、背中合わせに立っていた。

 鞠莉が拳を上げ興奮を声に出す。

「It`s Showtime!」

 いよいよ始まるんだ、とルビィは固唾を飲む。彼女たちは言うなれば、この地区大会のメイン。

 テンポの上がっていくリズムに乗って、Saint_Snowのふたりは踊り出す。

 

 誠を沼津病院まで運んだ後、医師から容態を聞いて診察室を出たところで、制服を着た男女ふたりがつかつか、と靴音を立てながら涼たちのもとへ歩いてきた。制服の方にあしらわれたエンブレムからすると警察らしい。

「津上君」

 女性警官に呼ばれ、「あ、小沢さん」と翔一がその姿を認める。

「どうなの、氷川君の具合は?」

「はい、命に別状はないみたいですけど。ただ頭を強く打っちゃって、詳しく検査したほうが良い、て」

 この間の水のエルとの戦いだろうな、と何となく予想はついた。高所から落下して、マスクが割れるほどに強く顔面を打っていたのだから。警察が作ったG3-Xとやらも、岩のように固いわけでもないらしい。

「そう。悪いわね、色々と面倒かけちゃって」

「いえ、そんなこと」

 小沢の目が涼へと向いた。

「こちらは?」

「あ、紹介します。葦原涼さん。何て言うか、只者じゃない、ていうか」

「ええ、聞いてるわ氷川君から」

 ということは、この小沢という警官も涼の正体を知っているということか。正直、良い印象は持てない。警察には手ひどくやられたことがある。無言のまま視線を交わしていると、翔一が沈黙を破る。

「こちらが、氷川さんの上司にあたる小沢澄子さん」

 「よろしく」と小沢はそっけなく言う。まあ、愛想よく挨拶されたところで涼も応えるつもりはないが。

 これまで黙っていた涼は、ようやく口を開いた。

「確かG3-Xだったか。あれがどれ程のものかは知らないが、もうこれ以上俺たちの戦いに関わらないほうがいい。所詮ただの人間の力ではどうにもならない。多分な」

「確かあなたもアギトと同じ力を持っているんだったわね。あなたの力がどれ程のものか知らないけど、人間を侮らないほうがいいわ。結局、最後に勝つのはただの人間なんだから。多分ね」

 随分と強気な女だ、と思った。よほどG3-X、もとい誠に想い入れが強いらしい。

「そうなると良いがな」

 鼻で笑い、涼は歩き出す。忠告はした。それでも首を突っ込むというのなら好きにすればいい。取り返しのつかないことになっても知った事じゃないからな。

「じゃあ氷川さんのこと、あとはよろしくお願いします」

 そう小沢に言ってから、翔一が追いかけてくる。待合室には木野が待っていた。サングラスで目元を隠した彼は、感情も隠すように何も込めない声で尋ねる。

「彼の具合は?」

「大丈夫みたいです」

 翔一が答えると、木野は何も言わなかった。救急車が来るまでの間に誠を診ていた彼なら、容態がどれ程のものか大体は分かっていたのかもしれない。

 出口へ向かおうとする彼を「待ってください木野さん」と翔一は呼び止め、

「実は俺、ちょっと訊きたいことがあるんです。ほら、あかつき号のことです」

 その名前を聞いた瞬間、涼は呼吸すらも忘れ翔一の顔を凝視した。木野も驚いている、と分かるほどに息を呑んでいる。

「俺がアンノウンに襲われて海に落ちて、あれから何があったのか」

「お前、思い出したのか? 過去のことを………」

「はい」

 

 

   2

 

「びっくりしたね」

「まさか、あんな事になるなんて………」

 放心した意識を取り戻そうとするように、曜と梨子が口々に言う。全てのグループが出番を終え、エントランスの液晶には決勝進出の上位3組の名前が表示されている。その中に、あの姉妹の名前はない。大方、予想はついてしまっていたのだが。

「これがラブライブなんだね」

 曜の言葉に鞠莉が首肯し、

「1度ミスをすると、立ち直るのは本当に難しい」

 「1歩間違えればわたし達も、てこと?」と訊く善子に「そういう事ずら」と答えた花丸もどこか震えているように見える。決して他人事じゃない。何が起こるのが分からないのがラブライブ。無名グループが上位に昇ることもあれば、優勝候補と目されたグループが下位に転落することもある。そういった予想できない展開があるからこそ観客は盛り上がるのだが、ステージに立つ側としては恐怖で足がすくんでしまう。

「でもこれで、もう決勝に進めないんだよね。Saint_Snowのふたり」

 結果の全てを告げた千歌の言葉に、ルビィは思わず足を止めてしまった。一応挨拶に楽屋へと向かっているが、何と声をかけたら良いか分からない。辛い現実はAqoursも散々味わってはいるが、だからといって他人に現実の乗り越え方を教授できるほど、悟りを開いているわけでもない。

 最後尾にいたルビィに気付くことなく先を行くメンバー達を追いかけた。楽屋に着くと千歌がドアをノックする。「はい、どうぞ」とドアの奥から来た返事は、聖良の声でも理亜の声でもない。

「失礼します」

 恐る恐るドアを開けた千歌は、部屋に1歩入ったところで足を止めた。戸惑う彼女に、楽屋にいた別グループの少女たちが告げる。

「Saint_Snowのふたり、先に帰られたみたいです。この後、本戦進出グループの壮行会あるんですけど………」

「控え室で待ってる、て聖良さん達言ってくれたのに………」

 覗き込むと、出番前に姉妹のいた化粧台のあたりは、綺麗に片付けられていた。衣装を詰めていた大きなバッグも、応援してくれた人々からの差し入れも。

 少女たちは言う。

「今日は、いつもの感じじゃなかったから。ずっと、理亜ちゃん黙ったままだったし」

「あんなふたり、今まで見たことない」

 先ほどのステージでの光景は、まだルビィの目蓋の裏に貼りついている。

 尻もちをつく聖良と、ステージの床に倒れる理亜。

 歓声の一切が消え失せ、沈黙する観客席。

 会場の様子などお構いなしに流れ続ける曲。

「あれじゃ動揺して、歌えるわけないよ」

「それにちょっと、喧嘩してたみたい………」

 ほんの些細な、接触による転倒だった。でも立ち位置とは、たった1㎝のズレでもダンスの見栄えに綻びを生じさせてしまう。あの姉妹のような失敗は、その最悪のケース。ふたりは何とか持ち直してパフォーマンスを続行したのだが、彼女たちの裡は観ているルビィにも分かってしまうほどに、散々なものだった。歌もダンスも均整がなく、取り留めのないバラバラなもの。コンビネーションなんて欠片もなかった。

 壮行会にはAqoursも誘われたのだが、丁重に断り手配されたホテルに向かうことにした。正直、あの会場にいる意味はもうないような気がした。

 夕方の函館を走る路面電車はルビィたちしか乗客がいなかったが、誰も談笑する気にもなれず、誰もが顔を俯かせている。

「まだ気になる?」

 様子を察した果南が訊いた。「うん」と千歌が頷き、隣に座る梨子が呟く。

「ふたりでずっとやってきたんだもんね」

 確か聖良のほうは3年生だったはず。今季の大会が最後だから、今まで以上に練習を重ねてきたことは想像に難くない。

「それが最後の大会でミスして、喧嘩まで………」

 曜が言った。夏季で逃した優勝という結果を今度こそ、というふたりの努力が、あんな形で潰えてしまうのはあまりにも寂しすぎる。

「やっぱり、会いに行かないほうが良いのかな?」

 千歌の問いに、善子がはっきりとした口調で「そうね、気まずいだけかも」と応じる。

「わたし達が気に病んでも仕方のない事デース」

 鞠莉の言う通りだ。「そうかもね」と果南も同意している。Aqoursだって、決勝に行けるからといって気を抜いてはいけない。優勝すると決めた。優勝して、浦の星の名前をラブライブの歴史に残すと。敗退してしまった者に情けをかける余裕なんて無い。

「あのふたりなら大丈夫だよ」

「仲の良い姉妹だしね」

 曜と梨子が口々に言った。「じゃあ」と鞠莉が明るく、

「この後はホテルにcheck inして、明日は函館観光ね。晴れるみたいだし」

 ルビィはちらり、とダイヤを見やった。函館の景色を眺めていた姉はこちらの視線に気付くのだが、ルビィは咄嗟に目を背けてしまう。

「では、この地のリトルデーモンを探しに――」

「それは無いずら」

「待てーい!」

 善子と花丸のやり取りは耳に入らなかった。ルビィの脳裏にあったのは、出番を待っていた理亜の震える拳。あの震えが寒さのせいでないことは気付いていた。ただの緊張でないことも。直接話したことはないけど、理亜は姉とのSaint_Snowというグループに自信を持っている。

 姉とふたりなら大丈夫。不安なんてない。姉という存在がもたらしてくれる安堵は、ルビィにも理解できた。

 あがり症のルビィが今までステージに立てたのは、ダイヤがいてくれたから。

 お姉ちゃんが居てくれる。守ってくれる。産まれた頃からずっと一緒に居てくれた存在が、これからも傍に居てくれる。幼い頃は無条件に信じられたその錯覚も、少しばかり成長した今は薄れつつある。

 Saint_Snowの終わりが、ルビィに決定的な現実を突き付けた。

 ルビィの夢の終わりも近付いていることに。

 

 

   3

 

 できるだけ静かな場所で話したい、ということで、翔一たちは沼津港に移った。あまり人が多い所で話せるようなことじゃない。それに、あかつき号と聞いた涼は翔一に掴みかかる勢いで質問を飛ばしてきたから。

「じゃあ、お前もあかつき号に乗っていたのか?」

「はい」

「一体何があったんだあかつき号で。頼む、教えてくれ」

 教えたいのは山々だが、翔一もあの船での全てを知っているわけじゃない。

「それは、俺も木野さんに訊きたいんですけど」

 自分のバイクに寄りかかっていた木野は、翔一たちを見ることなく告げる。

「思い出したのなら、それが全てだ。お前が変身し海に消えた後、アンノウンもまた姿を消した。俺たちに起こったことは決して口外してはならない、と言い残してな」

 木野は、どこか肩の荷が降りたかのように語り続ける。でもその顔は未だに重々しく、とてもあの日の呪縛から解き放たれたようには見えない。

「あの時、謎の人物がお前にアギトとしての力を与えたんだ。あの光の余波を浴び、俺たちもまたアギトとしての宿命を背負わされたんだ」

「覚えてます。でも、何者だったんですか? 俺たちをアギトにした人、て」

 あの白い青年。彼は全てを見通しているようだった。彼が消えた後、水のエルが襲いに来ることも。こうして今、アンノウン達がアギトになろうとする人々を襲い始めることも。

 最後の力、と彼は言っていた。となると、彼はもう世界のどこにもいないのだろうか。自身の消えた後のために、翔一たちをアギトにしたのだろうか。人の未来を脅かすアンノウンと戦う尖兵とするために。

「分からない。分かりたくもない」

 うんざりしたように、木野は言う。

「それを知ったら、人間である意味を見失うような、そんな気がする」

 そんな怯えのような言葉を吐く木野は初めて見るものだった。俺たちはアギトという「力」を植え付けられた。そこに「知恵」まで授かったら、今度こそ人でなくなってしまう、と。

「お前は俺が過去に生きている、と言ったな。その通りだ。だからこそ俺は生きていられる」

 未来ではなく、過去こそが生きる糧。記憶を失っている間も、取り戻した今も未来へ進もうとする翔一を、木野は諭す。お前のような生き方ばかりが全てじゃない、と言うように。失った過去を取り戻そうともがくのも、人生の形のひとつだ。それが決して何も得られない、愚かな行為と分かっていてもな。

「俺だけじゃない。あの1件以来、あかつき号のメンバーは皆、以前の自分ではいられなくなった。皆あの事件を忘れようとして、人生を変えた。だが、鞠莉だけは違った」

 そう言うと、木野は遠くを見やる。

「あの子は事件のことを忘れた果南とダイヤを守ろうとした。親友たちが未来へ進めるようにな。彼女は強い子だ。俺なんかよりも、ずっと」

 だからか、と翔一は今までの鞠莉に得心した。以前会った翔一をついさっき知り合ったばかりのように振る舞っていたのは、果南とダイヤに船での恐怖を思い出させないために。翔一が何も思い出さないまま、あの日から続く嵐が過ぎ去るのを、彼女はひとり怯えながら耐え続けていた。

「でも俺たちはあいつをやっつけることができたじゃないですか。もしかしたらあいつがアンノウンのボスだったのかもしれませんよ。なら、もう全て終わった、てことないですか?」

 もう嵐は去った。鞠莉も怯える必要はない。木野だって、そろそろ未来へ踏み出しても良いじゃないか。

「………だと良いがな」

 釈然としない返しをして、木野はバイクに跨る。終わったように思えないのは、あまりにも日常の変化が乏しすぎるからだろうか。それとも、木野の裡にあるアギトの力がそう告げているのか。

 正直、全てが終わったと思えないのは、翔一も同じだった。水のエルが全ての元凶だったとして、あの海の怪人を倒してこれから目覚めようとするアギト達の未来は護られたのか。

 変わらないのならそれでも良い。アンノウンによるアギト狩りがまだ続くとしても、翔一は戦い続けるだけだ。本来の翔一を代わらず受け入れてくれたあの家族と、この街を守り続けるために。

 

 バイクで去って行く木野を見送った後、涼は翔一からあかつき号のことを全て聞いた。船での他の乗客たちの事と、彼がアギトになった経緯を。

 沢木哲也という本名が父の手帳になかったのは、彼が行方不明になっていたからだろう。あの名簿は船の仲間と連絡を取り合うために書き残されたものだったのだろう。いつか脅威が訪れたとき、皆で抗うために。

「そうか。そんなことがあったのか、あかつき号で」

「はい。でもびっくりしました。俺があかつき号で会った葦原さんが、葦原さんのお父さんだったなんて」

「全くな………」

 妙な偶然もあったものだ。いつも笑っていたあの父なら、翔一ともすぐに打ち解けたと容易に想像できる。

「良い感じの人だったなあ。お元気ですか?」

 言うべきか迷ったが、別に隠すようなことでもない。

「死んだよ。あかつき号の事件からすぐ行方不明になってな。最後は衰弱死だったらしい」

 抗うために準備をしておきながらも、結局は何もかも足りなかったのだろう。力に目覚めかけても、涼や翔一のように姿を変えるほどに醸造させなければ、所詮はあかつき号の人々もか弱い人間に過ぎなかった。アギトの力を植え付けられたからといって、山中で霞を食べて生きていける仙人なわけじゃない。この体でも腹は減るし怪我はするし、死にもする。

 「そうですか……」と翔一は沈んだ声で応えた。

「ようやく分かった。木野が言ってたように、父もあかつき号のことから逃げようとしていたんだ。弱い人間だと責めるのは簡単だが、俺にはできない。背負いきれない現実というのもある。今の俺には、それが分かる」

 今なら、何故父が海ではなく山の中で最期を迎えたのか理解できる。父は海をまるで親のように敬い愛していたが、その海に恐怖を植え付けられた。海に現れた魔物から遠ざかろうとして、山へ籠り死んでいったのだろう。

 海を受け入れろ。そう息子に教授しておきながら、父は最期に海を拒絶してしまった。

 故郷の海岸にある祠を思い出す。祖父の代まで水葬にされた死者たちを祀る、村の漁師たちが安全を祈願する小さな祠。

 海から授かった命は、終わったら海に還さなければならない。なら、生きている間に別のものに変えられた命はどうなるのだろう。アギトの因子を植え付けられた父を、海は受け入れてくれただろうか。それに涼自身も。全てが終わった時、人でもアギトでもないギルスは還る場所があるのか。せめて、海が寛容であることを祈るばかりだ。

 全てを知っても、案外何の変化もないものだ。父が死ぬ原因を知れば少しは気も晴れるのでは、と期待はしていたのだが、これまでの苦労も無駄とばかりに何も晴れはしなかった。知らないうちに父の仇を討っていたにも関わらず、達成感なんて無い。

 それに、これからどう生きていくべきなのかも依然として分からないまま。

「それで、お前はどうなんだ?」

「何がですか?」

「記憶を取り戻して何か変わったか?」

 翔一はしばし明後日のほうを向いたが、すぐに首を傾げた。

「いやあ、別に」

 本人から明かされるまで気付かなかったほどだ。以前の翔一も今のままだった、とすんなりと受け入れることができる。

 何も変わらない。そんな翔一の在り方が真理なのかもしれない。いくら過去から引っ張られる枷を外したところで、1歩を踏み出したわけじゃない。踏み出すのは結局のところ自分次第なのだから。

「そうか。そこがお前の良い所だ」

 だからこそ、彼は船での因果に勝利できたのかもしれない。船に現れたという白い青年も、翔一のある種の強さとも取れる面を見出したからこそ、彼をアギトにしたと思える。この男なら運命を乗り越えられる、と。

「あ、そういえば」

「どうした?」

「よく考えると、俺あかつき号から落っこちて2週間くらい海の中にいたことになります。アギトになってなかったら完璧に死んでましたね、きっと。アギトになって、ラッキーでした」

 あっけらかんと言う翔一の能天気さは、果たして強さと言っていいものだろうか。やっぱりこいつはよく分からないな、と思いながら、涼は呆れ半分に言った。

「ものは考えようだな」

 自分のバイクに向かうが、そんな涼を翔一は呼び止めた。

「あ、葦原さん今日はうちでご飯食べてってください。菜園のカブがたくさん採れたんですよ」

「ああ、そうだな。頂くよ」

 

 



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第3話

 

   1

 

 天気予報の通り、函館の街は晴天だった。港から1直線に延びる坂道を上ると、冬の澄んだ空気のお陰か対岸にそびえる山岳がよく見える。

「何か落ち着くね、ここ」

 千歌が言った。文化財の多い観光地だから賑わっているのだが、言われてみれば不思議と異国感がない。

「内浦と同じ空気を感じる」

 そう果南が言い、鼻で冷たい空気を吸い込んでいる。後ろを振り向くと函館山がそびえ立っていて、その麓には学校が建っている。函館聖泉女子高等学院という、Saint_Snowのふたりが所属している学校だった。この辺りでは、結構な歴史のあるお嬢様学校らしい。

 「そっか」と千歌は納得したように、

「海が目の前にあって、潮の香りがする街で、坂の上にある学校で」

 丘の上で、街を見下ろすように建つ校舎。生徒が帰った後も、皆の住む街を見守り続ける。浦の星も同じように、生徒を長く見守り続けていた。その役目も終わると思うと、やはり寂しくなる。

「繋がってないようで、どこかで繋がっているものね、皆」

 感慨深げに梨子が言った。ここまで共通点があると、この街にも翔一のように記憶喪失の青年が暮らしているのでは、なんて想像してしまう。彼もまたアギトで、アンノウンから人々を護るために戦っているような。

「お待たせずらあ」

 という声が、ざくざく、という足音と共に近付いてくる。その姿を見て、既視感を覚えながら「ビギィ!」とルビィは悲鳴をあげた。

「何でまた着てくんのよ!」

 と善子が昨日と同じくダルマのように着膨れした花丸に文句を飛ばす。冷え性なのは知っていたけどここまでとは。こちらへ辿り着いた花丸はまたもや足をもつれさせ、ルビィと善子と曜を巻き込んで転んでしまう。

「学習能力ゼロですわ」

 呆れを告げながらもダイヤが手伝ってもらい、ルビィたちは救出された。

 街を適当にぶらついているうちに雪がちらついてきた。風はないけれど、空からゆらゆらと舞う小さな氷の粒子が空気を冷やしていく。

「うう寒い」

 肩を震わせながら千歌がぼやいた。「tee timeにでもしますか」という鞠莉の提案に「賛成!」と意気揚々と応じ、歩きながら喫茶店を探す。

「もう駄目ずら、限界ずら………」

 これだけ来てもまだ寒がりな花丸が、体温を保とうと自分の肩を抱いている。それらしき店を見つけたのか、先頭を歩く千歌は足を止めた。店先にある張り紙に書かれたメニューを見て首を傾げる。

「くじら汁?」

 古風なお店だな、というのが第一印象だった。木造の民家らしき外装はあまり派手さがなくて、注視しなければ素通りしてしまいそう。不思議と親近感が沸くのは、黒澤家の屋敷と赴が似ているからだろうか。

「すいませーん」

 引き戸を開けながら千歌が呼びかけるが、返事はない。「すいませーん」と再度呼びかけても同じだった。

「商い中、てありマース」

 鞠莉の言う通り、引き戸には商い中の札が掛けられている。他の店にしたほうが、という雰囲気になったが、冷たい風に凍える花丸がすがるように、

「取り敢えず中に入れてほしいずら………」

 「仕方ないね」と千歌は嘆息し、「じゃあ、失礼しまーす」と一応断りを入れて上がり込む。「やっと助かるずら……」と花丸も震えながら入った。やはり民家を改装したのか、店という割に玄関は手狭で、9人分のスノーブーツを綺麗に揃えても窮屈になる。

「ずら丸は服脱いでから入りなさいよ」

 「ほら、手伝ってあげる」と果南と善子のふたり掛かりで、花丸のコートを脱がしている。下にも相当着込んだらしく、突っ張ったコートのボタンを外すのにもひと苦労していた。

 ルビィも席に着こうとしたのだが、皆の声に混ざって別の音が一瞬だけ聞こえた。廊下の奥からした気がする。年季の入り変色した柱に、経年変化で黄ばんだ白壁の廊下は床板も歩く度に軋みをあげている。

 近付くにつれて、それが鳴き声だと分かる。僅かにドアの開いた部屋があって、覗き込むとベッドで誰かが突っ伏して枕に顔を埋めている。

 ドアに手を掛けたら軋みが上がった。気付いた部屋の住人が、咄嗟にこちらへと振り向く。

 涙で目を腫らしたその住人は、鹿角理亜だった。

 

 

   2

 

 白に桜色に緑といった団子が、お椀の中で炊かれた小豆と一緒に甘い香りをくゆらせている。この店で長く親しまれてきたメニューを「綺麗」と梨子はスマートフォンで撮影している。彼女の隣で千歌も「凄い美味しそう」と瞳を輝かせた。

「とても温まりますよ。是非召し上がり下さい」

 全員分のぜんざいを配膳してくれた聖良が、愛想よく言ってくれる。自身に満ちた、丁寧ながらどこか挑戦的な姿勢しか知らないものだから、こうした穏やかな表情や口調は新鮮に見える。店の接客では後者の振る舞いなのだろうが、全てが終わってある意味で肩の荷が降りたから、と想像してしまうのは邪だろうか。

「雰囲気のある、良いお店ですね」

 梨子の言うように、店内はお世辞にも広いとは言えないけど、家にいるような落ち着いた内装だった。古き良き、というべきか、年季の入った調度品も整備が行き届いていて清潔感もある。

「その制服も可愛いし」

 やはり曜が食いついたのはそこだった。着物にフリルエプロンと、大正浪漫の女学生のよう。

「この美味しさ……、天界からの貢ぎ物」

 そんな事を言っている善子の横で、早くもぜんざいを平らげた花丸が「おかわりずら」と器を差し出す。何だか他所で見られるのは恥ずかしい普段の風景なのだが、聖良は優しく微笑し、

「学校に寄られるかも、とは聞いてましたが、でもびっくりしました」

 「ああ、はい」と千歌は少し気まずそうに応じる。

「せっかくなのであちこち見て回ってたら、偶然というか………」

 出来ることなら避けたい偶然ではあったけど。しかも最悪と言っていいタイミングで。先程の鉢合わせで、ルビィは咄嗟に逃げるように席へ戻って来てしまった。理亜もしばらくすると戻ってはきたのだが、聖良とは対照的に憮然とした表情のまま腕を組んでいる。

「街並みも素敵ですね。落ち着いてて、ロマンチックで」

 梨子が窓を見やりながら言うと、聖良は「ありがとうございます」とまた笑った。

「わたしも理亜もここが大好きで、大人になったらふたりでこの店を継いで暮らしていきたいね、て」

 とても素敵だろうな、とルビィは思った。姉妹ふたり、いつまでも一緒にいられて。

「残念でしたわね。昨日は」

 ダイヤがはっきりと告げる。こうして会った以上、触れないわけにもいかないが、誰も切り出す勇気がなかった。やはり姉は凄い。言うべき事をはっきりと言えて。とてもルビィと血を分けた姉妹とは思えないほどに。

「いえ、でも――」

「食べたらさっさと出ていって」

 聖良が口を開きかけたとき、理亜がそう吐き捨てる。「理亜、何て言い方を」と聖良が窘めるのだが、理亜はその言葉も無視しルビィに顔を近付け、耳元で低く囁く。

「さっきのこと言ったら、ただじゃおかないから」

 「理亜」という聖良をまた無視して厨房へ引っ込んでいく。

「ごめんなさい。まだちょっと昨日のこと引っ掛かってるみたいで………」

 無理もない。ステージでの無様な姿に、更に泣いているところまで見られたのは、彼女にとって屈辱極まりないだろう。

「会場でもちょっと喧嘩してたらしいじゃ――」

 と余計なことを言う善子の口に、花丸がスプーンを突っ込んで黙らせた。

「良いんですよ、ラブライブですからね」

 聖良は淡々としていた。聖良だって、最後なのだから意気込みは強かったはずなのに。彼女は泣かなかったのだろうか。妹との最後のステージが、あんな幕引きになっても。

「ああいう事もあります。わたしは後悔してません。だから理亜も、きっと次は――」

 「嫌!」と理亜は厨房から出てきて、一応客前にも関わらずまくし立てる。

「何度言っても同じ。わたしは続けない。スクールアイドルは、Saint_Snowはもう終わり」

「本当に良いの? あなたはまだ1年生。来年だってチャンスは――」

「いい。だからもう関係ないから。ラブライブも、スクールアイドルも」

 本当に、それで良いの?

 疑問と共に顔を上げるが、口に出す勇気はない。理亜が再び厨房へ引っ込むと聖良は苦笑し、

「お恥ずかしいところを見せてしまいましたね。ごゆっくり」

 

 とても長居する気分にはなれず、ぜんざいを食べてすぐに店を出た。港には沼津と同じく飲食店が多く建ち並んでいて、せっかく函館に来たのだから、とご当地バーガーとして有名なラッキーピエロに入った。ぜんざいを食べてまだ間もないからとても食欲なんて無く、ジュースを飲んでシートに項垂れるだけ。

 もっとも、花丸だけは別だったが。

「未来ずらあ」

 彼女の前に運ばれてきたのはこの店で最も人気で、そして最も大きいと名高いTHE フトッチョバーガー。バンズの間に挟まれているのは上からレタス、目玉焼き、トマト、パティ、コロッケ、またパティ。あまりの高さに支えるための棒が刺さっている。

「あんた、ひとりでこれ食べる気?」

「ずらあ」

 と善子の心配などよそに大口を開けて頬張る。美味しそうに食べるものだから「ひと口、ひと口だけ」と善子がねだるが「駄目ずら」と断られる。

「何もやめちゃうことないのに」

 ぼそ、と千歌が呟いた。でも、彼女が続けることに意味を見出せないことも理解できる。それはルビィだけじゃなく曜も。

「でも理亜ちゃん、続けるにしても来年はひとりになっちゃうんでしょ」

「新メンバーを集めてrestart(再出発)

 と鞠莉が言うのだが、「て、簡単には考えられないでしょ」と果南からぴしゃり、と撥ねつけられる。

「わたくし達も、そうでしたものね」

 苦い過去を回顧するようにダイヤが言った。

「結局ステージのミスって、ステージで取り返すしかないんだよね」

 果南が溜め息と共に言うが、あのふたりにはそのステージがもうない。

「でも、すぐに切り替えられるほど人の心は簡単ではない、てことですわ」

 ダイヤの言葉が、裡に深く刺さってくる。すれ違いから2年もの空白があった姉だからこそ言えるものだった。

「自信、なくしちゃったのかな?」

 曜の予想は一理あるかもしれない。でも、それが正解とはルビィには思えない。何となく、という曖昧な感情のままにルビィはか細く告げる。

「違うと思う。聖良さんがいなくなっちゃうから」

 続けるにしても、同じメンバーじゃなければ意味がない。ずっと聖良とふたりでやってきたからこそのSaint_Snow。いわば姉妹の聖域と呼ぶべきグループを、他人に侵されたくない。

 勝とうが負けようが、これが最後。どの道、もう姉妹でのスクールアイドルは終わる。あの時の理亜の震えは、決定された運命と呼ぶべき未来への恐怖だったのかもしれない。

「お姉ちゃんと一緒に、続けられないのが嫌なんだと思う。お姉ちゃんがいないなら、もう続けたくない、て………」

 ふと、ルビィは自分の失言に気付く。同じテーブルにつく善子と花丸は食事の手を止めてルビィを見つめている。

「あんた……」

「凄いずら」

 「そうよね。寂しいよね」と梨子の納得に、何とか取り繕おうと立ち上がり、

「う、ううん、違うの。ルビィはただ理亜ちゃんが泣いて――」

 墓穴を掘ってしまった。言うな、と本人から釘を刺されていたのに。これ以上の弁明を思いつかず、気付けば癇癪を起こした子供のように店を飛び出してしまった。

 赤レンガの倉庫が建ち並ぶところまで走ったところで、急に虚しくなって足を止めベンチに腰掛けた。かつて倉庫だった建物は、現代ではその色味の趣から街のシンボル的建造物として外装はそのままに、でも内部は飲食店や物産展として改装されている。中に入る気にもなれず、ただ目の前に広がる函館湾の海をがらんどうに眺めた。内浦の海とは、少しばかり違う潮の香りがする。

「綺麗ですわね」

 背後から、ダイヤの優しい声が聞こえる。空と同じ灰色だけど、雪化粧の街には美しく映えている。

「理亜さんに何か言われたんですの?」

 店を飛び出したことを咎めることなく、ダイヤはルビィの肩にコートを掛けてくれた。そういえば着の身着のまま出てしまったことを今更ながらに気付く。

「ううん、ただ……。きっと、そうなんじゃないか、て。ルビィもそうだから………」

「ルビィ………」

 同じ妹という立場だから、理亜の気持ちが理解できる。同時に、彼女と同じものを抱えてしまう。

「お姉ちゃん」

 姉の顔を見られないまま、ルビィは訊く。

「お姉ちゃんも決勝が終わったら――」

「それは仕方ありませんわ」

 そう応えるダイヤの声は、懊悩なんて感じさせないほど溌剌としている。

「でも、あんなにスクールアイドルに憧れていたのに、あんなに目指していたのに、もう終わっちゃうなんて………」

 頬を伝う涙が、冬の風で急速に冷やされていく。姉妹で憧れていたスクールアイドルという夢。長く追いかけてきた夢は、1年にも満たない期間で終わってしまう。

「わたくしは十分、満足していますわ。果南さんと鞠莉さん。2年生や1年生の皆さん。そして何よりルビィと一緒にスクールアイドルをやることができた」

 そんな言葉、聞きたくない。本当に全てが終わってしまいそうで。言い切る前に、ルビィは消えてしまいそうな姉の背中に抱き着いた。それでもダイヤの言葉は止まらない。

「それでラブライブの決勝です。アキバドームです。夢のようですわ」

「でもルビィは、お姉ちゃんともっと歌いたい………」

 嗚咽交じりに願う。まだダイヤと歌い続けたい。まだダイヤに着てほしい衣装がたくさんある。

「お姉ちゃんの背中を見て、お姉ちゃんの息を感じて、お姉ちゃんと一緒に汗をかいて………」

 産まれたときから、ダイヤはいつもルビィの傍にいてくれた。ルビィにスクールアイドルというものを教えてくれて、一緒に憧れて、今は一緒にステージに立ってくれている。

 ひどく図々しいと分かっていても、姉の背中にすがらずにいられなかった。

「ルビィを置いていかないで………」

 ルビィがいくらダイヤの背中を追いかけても、ダイヤは常に歳の差の2年先を往く。たったの2年かもしれない。でも、それはルビィにとっては長い時間。決して埋まらない差。決して追いつくことはできない。姉妹とはそういうもの。姉との距離が縮まることはない。

 ダイヤは向き合うと、すすり泣くルビィの頭を優しく撫でてくれた。

「大きくなりましたわね」

 予想外の言葉に、姉の顔を見上げる。

「それに、一段と美人になりましたわ」

「そんなこと――」

「終わったらどうするつもりですの?」

 訊かれ、ようやくダイヤの胸から離れる。姉の温もりから離れると、急速に体が冷えていくのが分かった。終わったら、この冷たさが続いてく。

「分かんない。でも、学校なくなっちゃうし、お姉ちゃん達もいなくなっちゃうし」

「そうですわね」

 それだけ言って、ダイヤは往くべき先を教えてはくれなかった。

「お姉ちゃんは?」

 試しに訊いてみると、ダイヤは少し困ったように明後日のほうを向く。

「そうね、分からないですわ。その時になってみないと。今はラブライブの決勝のことしか考えないようにしていますし」

「うん……」

「ただ――」

 

 

   3

 

「どんな感じなの、お姉ちゃんて?」

 ホテルの部屋で土産の整理をしながら、曜は千歌に尋ねる。千歌だって姉がふたりもいる「妹」だから、ルビィのように何か思う所があるかもしれない、という好奇心だった。

 ベッドでくつろぐ千歌は「うーん、どうだろう」と少し迷ったように、

「うちはあんな感じだから、あんまり気にすることないけど。でも、やっぱり気になるかな」

 「ふーん」と気の抜けた返しをすると、千歌は「ほら」と思い出したように、

「最初に学校でライブやったときさ、美渡姉雨のなか来てくれたでしょ」

 その時の事は、曜もしっかりと覚えている。観客が殆どいない体育館で歌って、停電まで起こって心が折れそうになったとき、街の観客たちを引き連れて現れたのは美渡と志満と、そして翔一だった。

「何かその瞬間、泣きそうになったもん。ああ美渡姉だ、て」

 いつも美渡とは口喧嘩ばかりしている印象だけれど、奥底で想い合っている。何かあれば助けに来てくれる。

「良いなあ。わたしそういうのよく分からないけど」

 「わたしもよく分からないよ」と千歌は言った。

「だって、あまりにも自然だもん。産まれたときからずっといるんだよ。お姉ちゃん、て」

 ひとりっ子の曜には、姉妹や兄弟の絆めいたものは理解できない。でも、無条件に頼れる存在が居てくれることの心強さは羨ましい、と思う。

「翔一くんはどうなんだろ?」

 何の気なしに千歌の口から出た名前に、曜は一瞬だけ肩を震わせる。動揺を悟られまいと取り繕いながら、

「そういえば、翔一さんもお姉さんいたんだよね?」

「うん。ずっとお姉さんと一緒に暮らしてたんだって。翔一くんが調理師学校行くときも応援してくれてたみたい」

「仲、良かったんだ」

 両親がいなくても、彼が満たされていたことが容易に想像できる。きっと今と同じように、お姉さんといつも笑顔を浮かべたまま生活していたんだろうな、と。

「ねえ千歌ちゃん」

「ん?」

「帰ったら、翔一さんに訊きたいことがあるんだ。できれば梨子ちゃんも一緒が良いんだけど」

「うん、多分良いと思うけど」

 彼が全てを思い出したのなら、どうしても確かめなければならない。本当に彼が、千歌の父を殺していない、とはっきりさせるために。

 それに、ずっと音沙汰のなかった事件の重要な手掛かりになりそうな気がした。証拠もなく、時効を待つだけになりつつある捜査が動けば、真相が近いうちに分かるかもしれない。

 

 



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第4話

ペース配分ミスったので今回は短めです。


   1

 

「あれ、ルビィは?」

 風呂上がりに洗面所から出てきたところで、善子は彼女がいないことに気付く。

「ちょっと行きたいところがある、て外に行ったずら」

「そう」

 見知らぬ土地でひとり出歩くなんて、と少し心配になる。ただでさえ誘拐しやすそうなほど幼く見えるというのに。まあ彼女も高校生なわけだし大丈夫、と思いたい。

 花丸のほうは心配など感じさせず、ラッキーピエロでテイクアウトしたTHE フトッチョバーガーを頬張っている。

「そのハンバーガー、ルビィに買ってきてあげたやつでしょ?」

「いらない、て」

 だからといって自分が食べるのもどうかと思うが。にしてもこの胃拡張娘は一体今日だけでどれだけ食べたことか。函館タワーではソフトクリームを食べ、鹿角姉妹の店ではぜんざいを2杯食べ、ラッキーピエロでは特大バーガー、さっき夕食も済ませたばかりだというのに。

フラグ(伏線)立ちまくりね」

「どういう意味ずら?」

「幸せな奴め」

 この後どんな展開が待ち受けているとも知らずに。

 不敵に笑いながら、善子もテイクアウトしてきたハンバーガーの包み紙を開いた。

 

 夜になると、函館の街はより一層冷え込む。というよりも凍てつくようだった。気温がマイナスにまで下がる地方の風は、吹くだけでも露になった顔の皮膚が痛い。

 クリスマスが近いからか、街路樹には落ちた葉の代わりとしてイルミネーションが光っている。雪化粧の夜の街を美しく照らすその姿は見惚れてしまいそうだが、ルビィの意識はそこに向けられてはいなかった。

 赤レンガ倉庫でのダイヤからの言葉が、今でも裡で反芻されている。

 

――ただ、あなたがわたくしにスクールアイドルになりたい、と言ってきた時。あの時、凄く嬉しかったのです。わたくしの知らないところで、ルビィはこんなにもひとりで一生懸命考えて、自分の足で答えに辿り着いたんだ、て――

 

 初めて聞いた姉の想い。本当にダイヤの言うように、自分は大きくなれたのだろうか。姉のように美人になれたのだろうか。

 自信はない。でも、姉が言うのならそうなのかもしれない。姉はいつも凛々しく美しく、ルビィの憧れだった。そんな大きな存在から認めてもらったことは、素直に嬉しい。

 なら理亜は、と思う。聖良が、これから自分がいなくなっても続けることを望んでくれたということは、理亜も姉から認められている、ということではないだろうか。ルビィから見て、理亜だって実力者のスクールアイドルであることは確かだ。数多くのグループを観てきたのだから、自分の観察眼だけには確信が持てる。

 理亜には続けて欲しい。まだ1年生の彼女が更に歌とダンスを高めたら、きっと凄いスクールアイドルになる。もしかしたら聖良を越えることだってできるかもしれない。彼女がどんな「輝き」に至るのか、ルビィも視てみたい。ライバルとか関係なく、スクールアイドルに熱中する者として。

 茶房菊泉(きくいずみ)は本日の営業を終え、店仕舞いをしている頃だった。喫茶店の他に酒店としても営業しているらしく、彼女は玄関へ大量の酒瓶を詰めたケースを運んでいた。

「あの」

 声をかけると、彼女はまなじりの吊り上がった目でルビィへと振り向く。険のこもった眼差しは他人の介在を許すまいと、明らかに拒絶の意が見て取れる。

「あなた……」

「ルビィ、黒澤ルビィです。お話が、お話があるの。少しだけ」

 

 

   2

 

 全ては終わったのか。

 あかつき号の元凶を討ってまだ日が経っていないからか、不安めいたものが涼の裡でずっと残っている。そのため父の墓参りに帰郷する気も起こらず、この日はただひたすらにバイクで市内を走り回っていた。

 三津シーパラダイスに行って、港の新開水族館でシーラカンスの標本を見て、鮮魚市場を料理もしないのに見て回った。

 2年以上も暮らしておきながら、街のことを何も知らなかったな、と気付く。決して華やかとは言えない片田舎と言っても仕方のない街だが、素朴で不思議と温かい。この街があの少女たちを育てたのか、と不思議な感慨が沸いた。

 まるでパトロールだ。どこかにアンノウンの陰はないか、アギトの力を感じる人間はいないか。探し回ってはみたが、そんなものはどこにもない。狩人たちの眼差しも、同胞の気配も。でもこの街、ひいては世界のなかで自分と同じ力を秘めた人間がいることは確かだ。何もあかつき号に乗っていた父たちが、特別にアギトにされたわけじゃない。あの船での出来事は、いわば縮図だ。いつかの、人類にアギトの種が植えられた時代の。

 夕飯は港に構えた海鮮網焼きの店で摂ることにした。何となく、故郷と似た味のものが食べたくなったからだ。生のシラスと桜エビの乗った海鮮丼に、豪華に伊勢エビの網焼きを頼んだ。白米が見えず丼からはみ出しそうな具と網の上で殻を焦がしながら香ばしく焼き上がったエビは、父を思い出させる。

 父は料理があまり得意ではなかった。魚を捌く程度ならできたのだが、他はからっきし。食卓に並ぶ魚介は殆どが網で塩焼きにしたものばかりで、時折獲ってきた魚を刺身にしたが切り方が不揃いな上に身が分厚い。身の硬い魚は噛み切れず親子で奮闘したものだ。魚で出汁を取るなんて、そんな高度な技術は当然持っていない。

 ――母さんは料理上手だったんだがなあ。少しは教わるんだった――

 父の口からそんな言葉を何度聞いたことだろう。母の記憶は朧気ながら残っているのだが、手料理にまつわる記憶は父の豪快な漁師飯によって見事に塗り潰されている。

 海鮮丼をかき込みながら、涼はふ、と微笑を零した。断然、父の作ったものよりも美味い。

 追加で注文した生ガキにレモンを絞って食べて、涼は店を出た。

 帰路につこうとバイクに跨ったとき、あの戦慄が走った。

 驚きはなく、むしろやはりな、と思った。水のエルを倒して全て終わりじゃなかった。まだアンノウンは潜んでいる。この世界のアギトを滅ぼすために。

 

 

   3

 

 本当に少しだけ。その条件を提示した上で、理亜はルビィに付き合ってくれた。家には聖良がいるだろうから、街を歩きながら話をする。

 と言いたいところだが、中々ルビィから切り出すことができず、赤レンガ倉庫までは全くの無言だった。考えてみれば、ルビィは理亜に親近感を覚えながら会話をしたことがない。人前に立つことはスクールアイドル活動のお陰で怖くはなくなったけど、重度の人見知りはそのまま。

「ねえ、どこまで行くの? 話、て何?」

 沈黙に耐えかねたのか、ルビィの数歩後ろを歩く理亜のほうから切り出してくる。

「まだ仕事あるから、手短に済ませてほしいんだけど」

 険のある声に怖気づいてしまう。足を止めて深呼吸し、ルビィはようやく口を開く。

「あの、ルビィにも理亜ちゃ――理亜さんと同じでお姉ちゃんがいて――」

「黒澤ダイヤ」

「知ってるの?」

「一応調べたから。Aqoursの事はね」

 無感情に告げた理亜は続ける。

「でもわたしの姉様のほうが上。美人だし歌もダンスも一級品だし」

 むう、とルビィは唇を結んだ。確かに聖良は美人で、凄いスクールアイドルであることは認める。

「ルビィのお姉ちゃんも、負けてないと思うけど………」

 危うくむきになるところだった。ほぼ初対面のようなものなのに。でも理亜のほうは気遣いなんてまるでなく、

「バク転できないでしょ?」

「日本舞踊だったら、人に教えられるくらいだし、お琴もできるし」

「スクールアイドルに関係ない」

 ここまで姉を否定するような事を言われては、黙っているわけにもいかなかった。

「そんな事ないもん。必要な基礎は同じだ、て果南ちゃんも言ってたもん」

「でも、わたしの姉様のほうが上」

 まだ他にも、姉の自慢は挙げればきりがないほど沢山ある。ダイヤは茶道もできるし、華道だってできる。何よりスクールアイドルの造詣は、クイズ大会でも開けば優勝間違いないほど。

 でも、自分の姉のほうが、と断言できる理亜を見ると、競う気は失せた。何だかんだで、ルビィと理亜は似ている。

「やっぱり、聖良さんのこと大好きなんだね」

 「あ、当たり前でしょ」と強気な理亜は、照れ臭いのか頬を朱く染めている。

「あんたの方こそ何? 普段気弱そうな癖に」

「だって大好きだもん。お姉ちゃんのこと」

 少しだけ、理亜の眼差しが柔らかくなった気がした。互いに尊敬できる姉がいる。世界中の誰よりも凄くて、大好きと言える。他が正反対でも、それだけで確かな繋がりを感じられた。

「それでね、ルビィお姉ちゃんと話して分かったの。嬉しいんだ、て」

「何が?」

「お姉ちゃんがいなくても、別々でも、頑張ってお姉ちゃんの力なしで、ルビィが何かできたら嬉しいんだ、て」

 正直、姉の庇護を受けられないことに不安はある。姉ほど優れていない自分が、自分の力でどこまでやれるのか。それでもダイヤは、ルビィを認めてくれていた。スクールアイドルをやりたい、と1歩を踏み出せた、あの時から。

「きっと、聖良さんもそうなんじゃないかな?」

「そんなの分かってる」

 理亜の顔が曇った。鼻を朱くして、今にも泣き出しそう。

「だから、頑張ってきた。姉様がいなくてもひとりでできる、て。安心して、て。なのに………」

 理亜の目尻から涙が零れた。辛いことを思い出させてしまって、申し訳ないとは思う。

「最後の大会だったのに………」

 せっかく姉と立てた舞台が、今までの努力があんな思い出で終わってしまうのは辛すぎる。ならば――

「じゃあ、最後にしなければ良いんじゃないかな?」

 「え?」と呆けた顔をされる。構わず、ルビィは理亜の手を引いて目的地へと駆け出す。スクールアイドルの舞台がラブライブだけなんて、そんな決まりはどこにもない。ステージが無いのなら作ればいい。最後が辛いのなら、嬉しさと楽しさに満ち溢れたステージで上塗りすればいいだけの話。

 その目的地。倉庫群のある港の桟橋に設置されたクリスマスツリーの前で、ルビィと理亜は足を止めた。シーズン期間中だけ高く屹立するモミの木には、オーナメントとイルミネーションが色とりどりに飾られている。

 もうすぐクリスマスが訪れる。ホテルで聖夜イベントのチラシを見た時、これだ、と思った。

「歌いませんか? 一緒に曲を」

 大会じゃないから、勝ち負けなんて意識せず。ただ楽しむことを目的として。

 親愛なる姉たちへの、クリスマスプレゼントとして。

「お姉ちゃんに贈る曲を作って、この光の中でもう1度」

 

 

   4

 

 急ぎバイクのエンジンをかけ、力の告げる場所へと駆けていく。気配は港から北上した方角からだった。海岸沿いを走り、浜の手前に樹々が植えられた片浜公園に敵はいる。

 小さな森のなかで、先着していた木野がアナザーアギトに変身しフクロウのような顔をしたアンノウンと対峙していた。拳を構えた木野は、別の気配を感じ取ったのか後方を振り返る。その視線を追うと、森の陰から人影が出てくる。

 それは紛れもなく人間の姿をしていたが、すぐに涼は違うと悟った。何しろ見覚えがある。あの恐ろしいほどに整った容貌は、1度見たら忘れることはできない。

 木野も相手がただの人間でないことを悟ってか、牙を剥いて足元に紋章を出現させた。黒い青年はその場から逃げようとせず、ゆっくりと木野へ手をかざす。

 紋章が爆ぜた。地面から燃え上がる炎にいぶされた木野は咄嗟に抜け出し、火傷の痛みに悶えている。

 それを待っていたかのように、黒い青年は木野へ向かって掌を向けた。掌から風が槍のように鋭く伸びて、木野の腹にあるベルトを貫く。倒れた木野の腹から光の球が飛び出した。その瞬間、木野の体は閃光を放ち元の姿へ戻っていく。

 光の球は、吸い込まれるように黒い青年の腹へ収まった。美しいその唇が、甘美な声で告げる。

「貰いましたよ、アギトの力を」

 そこでようやく、涼は動くことができた。まるで止まっていた時間が動き出したように。地面にうずくまる木野のもとへ走り、

「おい、しっかりしろ!」

 息をあえがせる木野に触れて、違和感に気付く。彼から力を感じない。振り向くと、黒い青年は無表情のまま涼へ眼差しを向けている。あの光は、アギトの力そのもの。となれば、あの青年は力を喰ったのか。

「よせ」

 立ち上がろうとした涼の腕を木野は掴み、

「奴とは、戦ってはならない………」

 ああ、分かっているさ。でも人間の姿をしていても、奴が俺たちにとっての敵だとも分かってしまう。

 木野の手をそ、と退けて、涼は黒い青年と対峙する。黒い青年の目からは敵意など感じなかった。それどころか、慈しみすら感じられる。

「そう、以前君を助けたことがありますね。君はその力のせいで苦しんだ。だが、もう終わりです。君の力を、私にください」

 ああ、覚えてるさ。あの頃の俺だったら、喜んでくれてやっただろうな。

 でも今の俺は違う。この力を怖れたりはしない。俺が俺であるために。

「変身!」

 ギルスに変身した涼に、黒い青年は先ほどとは打って変わった憎しみに満ちた眼差しを向ける。まさに汚物を見るような眼だ。

 目の前にいるのは、無防備な美しい人間の形をしている。だが涼の裡では、こいつは敵だ、と告げているように恐怖が膨れ上がっていた。

 拳を突き出した。確かに間合いには入っているはずなのだが、拳が虚しく宙を切る。目の前にいたはずの姿はなく、辺りを見回すと後ろ手に回られている。咄嗟に後ろへ蹴りを入れるが、それも宙を蹴るばかりで手応えがない。

 勢いのあまりつんのめると、また後ろから気配がした。「ウオオオッ」と吼えながら拳を振るったとき、黒い青年は手をかざす。瞬間、とてつもない力で突き飛ばされる。まるで見えない巨人の手が、張り手でも繰り出したように。

 すぐさま立ち上がり、涼は跳躍した。尖刀を伸ばした踵を、黒い青年の脳天へと振り降ろす。あの時のように受けるつもりか、黒い青年は微動だにしていない。その美しい顔に尖刀が触れようとした瞬間、堅い感触が踵から全身へ伝播する。

 気付けば弾き飛ばされていた。自分が叩き込もうとした力がそのまま返され、痺れに似た感覚が全身に走っていく。地面に伏した涼を、黒い青年はただ無表情に見下ろしている。

 その顔が苦悶に歪んだ。黒い青年は胸を押さえつけ、立つのもままならないのか近くの樹に手をつく。

「今だ、逃げろ!」

 木野の声が飛んできた。「逃げろお!」と大声をあげた木野は、傷に響いたのか腹を押さえて苦しく咳き込んでいる。

 変身を解いた涼は木野のもとへ走り、肩を貸して傍に停めたバイクのリアシートに乗せた。すぐにエンジンを掛け、跨ると同時にアクセルをフルスロットルで捻り急発進させる。

 スピードを上げていきながら、涼はミラーを一瞥した。黒い青年は追ってこない。いつの間にか姿を消していたアンノウンも。

 あの青年は、人の姿をしたアンノウンなのか。いや、あれからアンノウンの気配は感じられなかった。

 別のもの。もしくはアンノウン以上に強大なものだった。対峙しただけで足がすくみそうな、絶対的な恐怖と呼ぶべき――

 

 






次章 Awaken the power / 父と姉と…


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第22章 Awaken the power / 父と姉と…
第1話


 

   1

 

「ライブ?」

「ここで?」

 ルビィが告げたことに、花丸と善子は予想通りの反応を見せる。あまりにも唐突なのは仕方ない。提案されたのが沼津へ帰る日の朝で、客室でくつろぎ土産物屋で買ってきた焼き鳥に舌鼓を打っているときに。

「理亜ちゃんと一緒にライブをやって、見せたいの。聖良ちゃんとお姉ちゃんに」

 「できるの?」と善子が訊いた。「分からないけど……」と答えるしかない。曲も衣装もないし、ステージだって目星はついているけど使えるかも不明瞭なまま。

「でも、もしできたら理亜ちゃん元気になってくれるかな、て………」

「準備とかは?」

「それは………」

 全くできていない。思いついたのは昨日だから、なんて言ったら反対されるかも。

「面白そうずら」

 2本目の焼き鳥を食べようとしていた花丸が口を開いた。「そうそ――え?」と同意しかけていた善子も食事の手を止めてしまう。

「マルも強力するずら」

「本当? じゃあこの後理亜ちゃんと会うことになってるんだけど、一緒に来てくれる?」

 「うん」と花丸は頷いてくれる。反対されたらルビィと理亜だけで、と考えていたから、一緒にやってくれる人の存在がこれほど頼もしいと思ったことはない。

「善子ちゃんも勿論行くずらね?」

 と振られた善子は、まさか本当にやる気とは思っていなかったのか「わ、わたし?」と上ずった声で応じる。でもすぐに「くっくっく……」と堕天使モードに切り替わった。

「そんな時間、あるわけなかろう。リトルデーモンたちを探すという崇高な目的があるのに。ただどうしてもと――」

 ああこれは大丈夫だ、ということで、待ち合わせの時刻も近いから口上を無視して花丸と一緒に客室を出た。

「待ってよー! てかヨハネー!」

 と善子が出てきたのは、ルビィたちがエレベーターに乗ろうとしたときの事だった。

 

 待ち合わせたラッキーピエロに理亜は来てくれたのだが、いつにも増して不機嫌そうにジュースのストローを吹いてぼこぼこ、という音で牽制してくる。

「ふたりも来るなんて聞いてない」

「ああでも、花丸ちゃんも善――」

 言いかけたところで本人からの視線を感じたので「ヨハネちゃんも」と訂正した上で、

「とても頼りになるから」

「関係ない。わたし、元々皆でわいわいとか好きじゃないし」

 失礼ながら、集団行動に向いているタイプじゃないことは何となく察してはいた。それでもスクールアイドルとして活動してきた者同士として打ち解けられないか、と淡い期待があったのだが、理亜のとっつきにくさの前に消えてしまいそうになる。

 そこで、花丸が口を開いた。

「それを言ったら、マルもそうずら。善子ちゃんに至っては、更に孤独ずら」

 「ヨハネ」と訂正しつつ善子は文句を飛ばす。

「何さら、と酷いこと言ってるのよ」

 でも理亜は別のところが気になったようで、

「ずら?」

 と反芻され、花丸は咄嗟に口を手で覆う。

「これは、おらの口癖というか………」

「おら?」

「違うずら……、マル………」

 と訛りが恥ずかしくなったのか黙りこくってしまう花丸に善子が助け舟を出してくれる。

「ずら丸はこれが口癖なの。だからルビィといつも図書室に籠ってたんだから」

 仕返しのつもりなのか、善子も恥ずかしいことを暴露してくれる。もっとも、あの頃の図書室で完結してしまう日常も、すっかり過去のものになっていったが。

「そうなの?」

 理亜は意外そうに言った。「ずら」と花丸はまだ恥ずかしそうに、

「今年の春までは、ずっとそんな感じだったけど………」

 理亜も少し恥ずかし気に顔を俯かせ、

「わたしも、学校では結構そうだから………」

 考えてみれば、互いにステージでの姿しか知らない。ステージでは歌って踊れるスクールアイドルだけど、普段はあまり人と話さないし、皆とわいわいするタイプじゃない。こうして互いのことをさらけ出せると、漂っていた緊張が少しずつほぐれていくような気がする。

「善子ちゃんに至っては、図書室どころか学校にも来なか――」

「いちいち言わんでもええわい! てかヨハネ!」

「ごめんね善子ちゃん」

「だからヨハネよ!」

 なんていつものやり取りをしていると、理亜がふ、と一瞬だけ微笑を零してくれた。

 親睦が深まった――のかは分からないが――ところで、曲についての打ち合わせを始める。理亜がひと晩でやれるだけやってくれた歌詞を渡してくれた。携帯電話のメモ機能に綴られた詞を、注文したラキポテ――フライドポテトにミートソースをかけたオリジナルメニュー――をつまみながら目を通す。

「わたしは負けない。何があっても。愛する人とあの頂に立って、必ず勝利の雄叫びをあげようぞ………」

 ルビィたちは3人揃って開いた口が塞がらなかった。何と言うか、独特というか――

「だから言ったでしょ。詞も曲も殆ど姉様が作ってる、て」

 噛みつくように理亜が言った。「まだ何も言ってないけど」とルビィは苦笑を返す。理亜がここまで姉を慕う理由がよく分かった。

「しっかし、捻りも何もないわよね。直接的すぎる、ていうか」

 ラキポテを食べながら善子が皮肉を言うのだが、「何? 文句あるの?」と理亜に凄まれて黙った。善子だって作詞させたら堕天使丸出しで読めない文言がたくさんあるのだから、人のことは言えない。

「でも、歌いたいイメージはこれで分かったずら」

 花丸が前向きに言う。何も理亜ひとりに曲作りを押し付けるつもりなんて無い。詞を作ってきてもらったのも、彼女がどんな曲にしたいか、という方向性を得るため。生き字引な花丸が一緒に考えてくれれば、きっと良い詞になるに違いない。

「ルビィも手伝うから、一緒に作ってみよう」

「あなた達、ラブライブの決勝があるんでしょ? 歌作ってる暇なんてあるの?」

「それは………」

 本当なら早く沼津に戻って練習しなければならないのだけど。言い淀んでいると、花丸が代弁してくれる。

「ルビィちゃんは、どうしても理亜ちゃんの手伝いをしたいずら」

 そう、今更隠して取り繕っても仕方ない。だからルビィも、想いをそのままにして告げる。

「理亜ちゃんや、お姉ちゃんと話してて思ったの。ルビィたちだけでもできる、てところを見せなくちゃいけないんじゃないかな、て。安心して、卒業できるんじゃないかな、て」

 自分のことを認めてくれた姉に見せたい。自分の力を。もう姉の後ろに隠れなくても進んでいける、と。

「げ、リリーだ!」

 スマートフォンを見た善子が焦ったように声をあげた。

「どこにいるの。もう帰る準備しなきゃ駄目よ、て」

「もうそんな時間?」

 「どうするの?」と理亜が訊いた。花丸は焦ることなく、

「今は冬休みずら」

 

 

   2

 

 事の段取りを決めてから、ルビィたちは函館駅へ急いだ。既にホテルをチェックアウトして待ってくれていた皆にここに残りたい、と説明すると、当然のごとく驚かれた。

「そうずら。理亜ちゃんが大変悲しんでいて、もう少し励ましたいずら」

 上手い理由を考えてくれた花丸に続いて善子も、

「そうそう、塞ぎ込んじゃってどうしようもなくてさ」

うゆ(うん)

 「泊まる場所は?」と梨子が訊いた。この遠征費は委員会持ちだったから、これからの滞在はルビィたちの実費になる。でもそれに関しては心配ご無用。

「幸い、理亜ちゃんの部屋に余裕があるからそこで」

 と花丸が答える。嫌がられると思ったのだが、思いのほか理亜が了承してくれた。一緒に作業するのならうちに来ればいいし、両親にも話はつけてくれる、と。

 「何か面白そう」と曜が言った。

「そうですわね。この際わたくし達も――」

 と同行に話が進みかけたところを「ああでも」とルビィが待ったをかける。

「そんなに広くないというか何と言うか――」

「そうずら。それに理亜ちゃん色々ナイーブになってるずら」

 「そ、そう」と勢いよくまくし立てられ、ダイヤも何も言えなくなる。何だか騙しているみたいで心苦しいが、しばしの辛抱ということで。

「ごめんね、お姉ちゃん。2、3日で必ず戻るから」

「別に、わたくしは構いませんけど………」

 ダイヤとしばらく離れるのは、ルビィとしても寂しい。でも、その先のことを想像すると楽しみでもある。

「良いんじゃないの。1年生同士で、色々と話したい事もあるだろうし」

 そう告げる千歌は、何か知っているように見えたけど、それ以上は何も言ってはこなかった。どこまで知っているのか気にはなったけど、それをここで訊いたら台無しになってしまう。だからルビィも何も言わず、駅に入っていく千歌を見送った。

 

 離陸時の揺れが収まり、気流に乗った飛行機の姿勢が安定する。シートベルトを外すよう呼びかけながら、乗務員が乗客たちの中で体調不良を起こした者はいないかと見て回っている。

 練習を一時中断しても、この旅行は有意義だった、と思える。知らない土地でも自分たちと同じスクールアイドルが頑張っている光景を見られて、力を貰えた気分になる。このはやる気持ちのまま沼津に戻ったら即練習、と言いたいところなのだが、ダイヤはとてもそんな気分にはなれなかった。

「ルビィ……」

 スマートフォンの中で笑う最愛の妹を見ながら、ダイヤは溜め息をつく。心配だ。慣れない土地で事件に巻き込まれやしないか。

「何か気に入らないことでもしたんじゃないの?」

 なんて事を言う隣の果南に「そんなこと!」と思わず大声をあげてしまった。「お客様?」と様子を見に来た乗務員に、果南が慌てて「ああ大丈夫です」と断りを入れる。

「でもあの様子、明らかに何か隠してる感じだったけど」

 それはダイヤも感じていた。理亜を励ますため、という建前のもとで、何かしようとしているのは。

「メンバーと別れてSaint_Snowの家に……。もしかして………」

 鞠莉の予想が、ダイヤの脳裏で簡単に本人たちの姿で映し出される。

 

 ――お姉ちゃん、実はルビィ――

 ――Aqoursを堕天して――

 ――今日から――

 ――Saint Aqours Snowになります!――

 

「ブッブー、ですわ‼」

 と思わず大声を出してしまい、再び乗務員が「お客様」とやってくる。「落ち着いて」「It's joke」と果南と鞠莉からも宥められ少しは頭が冷えたのだが、先ほどよりも不安は増した。

 まさかルビィが。いくら浦の星がなくなるとしても、北海道にまで移り住んで理亜と新グループ結成だなんて。いや、でもあの妹はダイヤが思っているよりも行動力があって、でもラブライブの決勝を放り出してまでなんて――

「そうじゃないと思うよ」

 後ろの席から、そんな千歌の声が聞こえる。

「多分あれは――」

 「あれは?」とダイヤはシートから身を乗り出してその先を促す。知っている素振りな千歌はしばし逡巡して、

「いーわない」

 と悪戯っぽくはぐらした。何なら多少強引な手を使ってでも吐かせてやろうか、とも思った。善子から教わった堕天使奥義堕天龍鳳凰縛で。

「もう少ししたら分かると思うよ」

「そんなあ………」

 

「ここが理亜ちゃんの部屋?」

 招かれた理亜の自室は、ルビィたちのためか綺麗に掃除されている。ベッドは皺ひとつなく、物も整頓されていた。理亜は不服そうに腕を組んで、

「好きに使って良いけど、勝手にあちこち――」

 言っているそばから、花丸が棚に飾られていたスノードームを手に取って、

「綺麗ずら」

「勝手に触らないで」

 と理亜にひったくられる。スノードームは表面に埃ひとつなくて、中身が澱みなく輝いている。

「雪の結晶?」

 善子がその中身を眺めながら呟く。その中身は、まさに雪の結晶だった。わずかな光でもきらきらと輝いている。理亜は大事そうにスノードームの表面を布で磨きながら、

「そう。昔、姉様と雪の日に一緒に探したの。ふたりでスクールアイドルになる、て決めたあの瞬間から、雪の結晶をSaint_Snowのシンボルにしよう、て」

 スノードームを置いた横には、姉妹ふたりが写った写真が飾られている。衣装から、きっと夏の東京で開かれたスクールアイドルワールドの日に撮ったものだろう。

「それなのに……。最後のラブライブだったのに………」

 まだあの日の後悔が強く残っているのか、スノードームを眺める理亜の目は切なげだった。幼い姉妹が視た、雪の結晶の放つ光。掌に落ちたそれはすぐに溶けてしまうけど、一瞬のうちに放つ光はとても儚く、そして美しい。Saint_Snow(聖なる雪結晶)という名前に込められた「輝き」こそが、姉妹の目指してきたもの。

「綺麗だね」

 似たものを追い求めていたことが嬉しく、自然と言葉が出た。理亜は得意げに「当たり前でしょ」と。

「姉様が見つけてきたんだから。ほら、あなたの姉より上でしょ」

「そんなことないもん。お姉ちゃんはルビィに似合う服、すぐ見つけてくれるもん」

「そんなの姉様だったらもっと可愛いの見つけてくれる」

「そんなの――」

 顔が触れそうなほどいがみ合っていたことに気付く。花丸と善子は意外そうに、

「こんな強気なルビィちゃん――」

「初めて見た」

 咄嗟に顔を理亜から背け、「そ、それは――」と弁解しようとするが、上手い言い方が見つからない。理亜は強気な姿勢を崩すことなく、

「本当、姉のことになるとすぐムキになるんだから」

「それは、お互い様だよ………」

「そうかも」

 そんな素直な返しに驚いて、理亜のほうへ視線を戻す。理亜は笑っていた。同じ姉を慕う者同士として。姉に贈り物をしたい、という想いへの同調として。

 そこで、部屋のドアがノックされた。開くと聖良が顔を覗かせて、

「皆さん、本当に戻らなくて平気なんですか?」

 聖良も、ラブライブ決勝を控えていることを心配しての事だろう。あらかじめ用意していた言い訳を花丸が告げてくれる。

「他のメンバーに頼まれて、どうしてもこっちでやっておかなきゃいけない事があるずら」

「そうですか」

 未だ腑に落ちない様子の聖良の前に善子が立って、

「こちらこそ、急に押しかけてしまってすみません」

 ん?

 この人、誰?

「いえいえ、うちは全然平気なんですけど。では、ご飯ができたら呼びますね」

「お構いなく」

 聖良がドアを閉めると善子は溜め息交じりに、

「何とか誤魔化せたわね」

 花丸もルビィと同じだったようで、「善子ちゃんが………」と声を震わせている。

「ちゃんと会話してる………」

 ルビィが言うと善子は「ヨハネ!」と訂正しつつ迫ってきて、

「あんた達に任せておけないから仕方なくよ。仕方なく!」

 普通に会話できるのはあくまで建前らしく、善子はいつもの堕天使ポーズを決める。

「堕天使はちゃんと世に溶け込める術を知ってるのだ」

 何にせよ、外ではしっかりしているのなら大丈夫そうだ。花丸が感心したように言う。

「皆意外な一面があるずら」

「隠し持っている魔導力と言ってもらいたい」

「相変わらずずら」

 善子は意外としっかりしていて、花丸は読書家で生き字引。ふたりだけじゃない。Aqoursの皆も、接すればそれぞれ意外な面が見えてくる。

「でも、そうかも」

 「え?」と眉を潜める理亜に、ルビィは言う。

「ルビィ、最近思うの。お姉ちゃんや上級生から見れば頼りないように見えるかもしれないけど、隠された力がたくさんあるかもしれない、て」

 きっとそれは、ルビィ自身にも宿っているのかもしれない。ダイヤも知らず、ルビィもまだ気付いていないだけで、大きな力が。

「じゃあ、決まりずら」

 花丸が意気揚々と言った。「何が?」とルビィが訊くと得意げに応える。

「歌のテーマずら」

 

 

   3

 

 飛行機と電車を乗り継いだ長い帰路の末にようやく踏んだ故郷の地だけど、曜は真っ先に千歌と梨子と一緒に十千万へ向かった。出迎えてくれた翔一はいつものように台所で料理をしていて、その顔に陰なんて全く感じさせない。

「皆お帰り。どうだった函館? 美味しいものいっぱいあった?」

 「うん」と千歌は満面の笑みで応じ、

「お土産いっぱい買ってきたよ」

「良いなあ。あ、そうそう。もうすぐクリスマスじゃない。今度のケーキは白菜で作ろうと思うんだけど、どうかな?」

 「白菜、ですか」と梨子が苦笑した。記憶が戻っても、相変わらず発想が突拍子もない。「そんなことより」と曜はケーキの話題をひとまず置いて、

「翔一さんに訊きたいことがあるんですけど」

「何?」

 翔一には料理を中断してもらい、千歌にはアルバムを取りに行ってもらった。テーブルの上で開いたアルバムの中は、高海家の記録が現像され並べられている。よその家のアルバムを捲るという行為に向けられる奇異の視線を感じながらも、曜は目的の人物を探す。なるべく最期の時期に近い写真がいい。当時に最も近い容姿の頃の。

 ようやく見つけたのは、千歌と曜が中学生の頃のもの。釣竿を手にした千歌が、父と笑顔で並んでいる写真だった。これを撮った日のことは曜も覚えている。千歌の父が東京から帰ってきたお盆の頃で、曜と果南も一緒に海釣りへ連れて行ってもらった日だった。

 曜は写真を指さし、

「この人、見覚えないですか?」

 翔一は写真に写る千歌の父をじ、と眺める。

「この人………」

 「わたしのお父さんだよ」と千歌が教える。千歌も不思議そうな顔をしていた。曜の気付きは、まだ千歌に教えていない。

 翔一の目が、わずかに見開かれた。それを見逃さなかった曜は畳みかけるように、

「もしかして、どこかで会ったことありますか? 千歌ちゃんのお父さんと」

 翔一は逡巡を挟んで首肯する。「でも」と千歌が口を開いた。

「何で翔一くんとお父さんが?」

「会った、ていうか………」

 翔一は重苦しそうに写真に目を落とし、

「俺、この人が倒れてるところに偶然通りかかって………」

「お父さんが倒れてた、て………。もしかしてお父さんが死んだ日のこと?」

 千歌は席を立つと、棚の奥から新聞紙を出して戻ってきた。テーブルに広げた新聞は3年前の、高海伸幸殺害事件を大見出し記事で報じたもの。他殺体という事実が大きく取り上げられ、十千万にも連日記者が取材に訪ねていたことは曜も覚えている。

「まさか千歌ちゃんのお父さんだったなんて………」

 翔一は新聞記事を手に取ると、日付を見てか「この日……」と呟く。「何?」と千歌に促され、翔一は重々しく続きを言った。

「この日は俺が姉さんと会った最後の日でもあるんだ」

 

 3年前の5月10日。

 それは死体になった姉と対面する前日、姉と最後に言葉を交わした日だった。後に待ち受ける運命を悟ってか、姉は残される弟に遺言めいた言葉を残した。

 なんて事実はない。

 その日はいつもと同じ朝だった。朝食を食べながら、姉が夕飯は餃子が食べたい、と言った。その日の姉はアルバイトが久々の休みだったから、大学のゼミが終わったら一緒に食材の買い物に行く約束をした。

「姉さん、じゃあゼミが終わったら電話して」

 アパートを出て行く姉にそう言うと、姉は笑顔で頷き手を振ってくれた。自分たち姉弟にとってはいつもの風景だ。その日常の中にあったあの笑顔が、最後の「生きた」姉だった。

 専門学校での講義を終える頃には姉のゼミも終わると聞いていたのだが、電話は来なかった。姉さんもおっちょこちょいだからな、とさほど気にはしなかった。朝の時点で待ち合わせの場所は決めていたから。待っていればいずれ落ち合えるだろう、と。

 待ち合わせ場所に向かう途中、線路の高架下の路地で、中年の男性が倒れているのを見つけた。その路地はいわゆるシャッター商店街というべき場所で、常に電車の走行音が響いていたから近道程度にしか利用されていない通路だった。

「やめてくれ……。もう、やめてくれ………」

 コンクリートの壁にもたれながら、男性はうわ言のようにそう繰り返していた。いくら声をあげたところで、電車の音で掻き消され誰にも気付かれなかったのだろう。

「どうかしましたか? 大丈夫ですか?」

 駆け寄って呼びかけたのだが、男性は聴覚も視覚もろくに機能していないようだった。焦点の定まらない目を泳がせ、その口からごぼ、と血泡を吹いた。もはや肺も潰れたのか、ひゅー、という吐息を最後に男性は首を垂れて震える目蓋を閉じた。

 警察と救急車を呼ぶべきだったのだが、その場から離れてしまった。姉との待ち合わせ場所はすぐ近くだったから、もしかしたら姉にも何かあったんじゃないか、と。

 路地から出ると、そこはいつもの東京の風景が広がっていた。お勤め人や学生たちが行き交い、ぞろぞろと脇目もふらず、立ち止まらず。その中に姉はいなかった。待ち合わせ場所とその周辺も走り回ったが、見つけることは叶わなかった。

 現場に戻ると、別の人が通報したのか警察が来ていて、男性の亡骸にはシートが被せられていた。恐ろしくなって、現場から逃げるように去って家に帰った。

 そして翌日、姉が自殺したと連絡が来た。

 

 



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第2話

 

   1

 

 帰宅した鞠莉を出迎えてくれたのは涼だった。旅行の荷物を解く暇も与えてくれず、薫にあてた部屋まで腕を引かれる。道中で説明されたのは、薫が大変、ということだけ。

「どういうこと? 何があったの?」

「俺も詳しくは分からない。奴もさっき目を覚ましたところだ」

 スイートルームに入ると、薫はベッドで力なく項垂れていた。腹を押さえつけ、苦しそうに呻いている。

「薫、何があったの?」

 「鞠莉……」と薫は鞠莉を認める。1日ほど眠っていたそうだが、あまり体力の回復は見られない。

「奪われた。アギトの力を………」

 「え?」「何?」と目を見開く鞠莉たちに、薫は息をあえがせながら続ける。

「俺はもう、変身することができない。戦うな奴とは。あの男とだけは………」

「あんた、知っているのか奴のこと」

「前に1度会ったことがある。だが、奴が何なのかは分からない。分かるのは、奴には勝てないということだけだ」

 あの男、と薫は言った。ふたりが遭遇したのはアンノウンじゃなく、人間の姿をしていたということか。それも、アンノウンよりも強大な力を持った。

 涼は踵を返し、ドアへと向かおうとする。

「涼、どこに行くの?」

「津上のところだ。奴にも知らせておいたほうが良いだろう」

 涼は脚を止めると、薫へと視線を向ける。

「気付いているか? あんたは俺を助けようとした。変わったな、あんたも」

 それだけ言って、涼は部屋を出ていった。

 

「ごめん。俺、千歌ちゃんのお父さんを助けることができなくて………」

 全てを語り終えると、翔一はそう告げて締め括った。真実を知って曜の中で芽生えたのは安堵だった。翔一は犯人じゃなかった。信じてはいたけど、ようやく確信を得ることができた。

「別に、翔一くんが謝ることないよ。翔一くんのせいじゃないもん」

 千歌もそう言った。曜の安堵のために、ふたりには辛いことを思い出させてしまった。ふたりとも、ほぼ同じ日に家族を失っている。翔一に至っては、唯一の肉親だったというのに。

「でも一体誰が千歌ちゃんのお父さんを」

 そう、翔一が当時のことを思い出したからといっても、重要な部分が抜けたままになっている。翔一が遭遇したのは千歌の父が犯人に襲われた後のことで、誰が手を掛けたのか分からないまま。

「日政大学……」

 新聞記事を手に取った翔一が呟いた。「お父さんが務めてた大学だよ」と千歌が言った。

「どうかしたんですか?」

 ずっと黙っているから梨子が尋ねると、翔一は「同じなんだ」と、

「俺の姉さんが通ってた大学と」

 千歌はアルバムを捲った。ページの最後あたりまでいったところで、家庭で撮ったものとは毛色の異なる写真が並んでいる。

「確か、お父さんがゼミの旅行とかで撮ったものなんだけど」

 写っているのは曜たちよりも少し年上な、丁度翔一と同年代くらいの若者たち。旅先ではしゃぐ彼らに混ざって、千歌の父も落ち着いた佇まいながらも楽しそうな笑顔を浮かべている。

「これ」

 曜が指さしたのは、ゼミ生たちの集合写真。千歌の父の隣で笑っている女性だった。「この人……」と梨子も息を呑む。手紙に触れた時に視えた、謎の文字を書いていた女性。つまりはこの人が雪菜(ゆきな)で――

「翔一さんのお姉さんじゃないですか?」

 曜の指さす女性を注視し、翔一は「うん、姉さんだ」と頷く。千歌は嘆息しながら、

「何か不思議。お父さんと翔一くんのお姉さんが知り合いだったなんて」

 何の反応も示さず、翔一はずっと写真を眺めている。それがとても気味悪く感じられて、恐る恐る曜は「翔一さん?」と呼びかける。翔一は言った。

「そういえば前に北條さん言ってなかった? 千歌ちゃんのお父さんの事件、犯人は超能力者だ、て」

 「うん」と千歌は頷く。警察の捜査は、曜が思っていたよりも進んでいたらしい。もっとも、超能力なんてものを警察が認めたことが意外だが。やはり、アンノウンやアギトという不可思議な存在が現れたからだろうか。超能力も、決して有り得ないものじゃない、と。

「俺、行ってくる。北條さんに会いに」

 そう言ってエプロンを脱ぐ翔一に、「待って、わたしも行く」と千歌も続いた。勿論、曜と梨子も。

 

 

   2

 

 バイクで十千万まで行くと、丁度美渡が犬の散歩に出ようとしている時だった。

「あれ、葦原さん?」

「津上はいますか?」

「さっき出掛けたみたいですけど」

「どこに行ったか聞いてますか?」

「さあ、あいつたまに突然いなくなっちゃんですよね」

「そうですか………」

「あ、良かったらうちで待っていきます? 丁度千歌が北海道から帰ってきたから、折角ですしお土産でも――」

「いえ、大丈夫です。突然すいませんでした」

 そう言って、エンジンを掛けたままのバイクをターンさせて来た道を戻った。アンノウンの気配は感じられない。ならば何処に行ったのか。

 

「高海伸幸殺害事件の犯人は超能力かもしれない。ええ、確かにそう言いました」

 通された署の会議室で、北條は無表情のままに告げる。心臓の脈が強くなるのを感じながら、翔一は訊いた。

「でもどうしてです? 何故そんな事を」

「遺体の状況からして高海氏は、サイコキネシスによって殺害された可能性があるからです。それに、高海氏は超能力を研究していた節がある」

 「超能力の、研究……?」と梨子が怯えた声で言った。千歌も「そんなこと、父からは……」と言葉を詰まらせている。北條はそんなふたりを気遣う素振りも見せず、

「あくまで私の予想です。ですが、確かな根拠はあります」

 この会話を予測していたのか、北條は来たときに持ってきたコンテナボックスを翔一たちに見せてくれた。その中のひとつ、ビニールに入れられた手紙を翔一は手に取った。この奇妙な文字の羅列は間違いない。あかつき号で失われたと思っていたのに。

「これは………」

「どうです、見覚えはありませんか?」

「これ……。北條さん、どうしてこれを北條さんが?」

「それは言えません。渡辺さんと桜内さんの協力のお陰で分かったのですが、それは雪菜なる人物が自動筆記で書いた物のようだ。つまり、雪菜なる人間も超能力者だった可能性がある。高海事件の犯人と動揺にね」

 「そして」と北條はコンテナボックスから残りの物品ふたつを取り出す。黒いゴムボールとUSBメモリを。

「これは高海氏が住んでいた東京の家で発見されたものです。切断することなくテニスボールの裏と表が逆転している。普通では有り得ないことだ」

 翔一はUSBメモリを手に取る。千歌の父が行っていた超能力の研究が、こんなちっぽけな媒体の中に収まってしまうものなのか。機械に疎い翔一には、いまいち実感が沸かない。

「そのUSBには映像ファイルが入っていましたが、何も映っていません。が、ごく小さな何者かの声が入っていた。聞いてみますか?」

 正直、中身を知るのは怖かった。以前、一時的に記憶を取り戻したとき、姉の恋人から聞いた話が脳裏によぎる。姉も超能力者だった。姉と同じ力が、千歌の父を殺めたなんて。

 でも知らなければならない。高海伸幸の死の真相だけでなく、姉の自殺した本当の理由にも繋がるかもしれない。何故姉が、自身に宿る力に絶望し自殺という選択に至ったのか。

「お願いします」

 北條はこれも予測していたらしく、背広のポケットからボイスレコーダーを出す。

「これは映像の中の声を増幅したものです」

 再生ボタンを押すと、ノイズに混ざって声が流れる。

『……こっちに、来て………こっちに来て………こっちに…………』

 それは聞き間違えのないほどに親しんだ声だった。同時に、3年前にぷつりと途絶えてしまった人の。

「姉さん……」

 何で、そんなに苦しそうなんだ。一体何があって。強く脈打つ心臓が今にも破裂しそうだった。家ではあんなに笑顔だった姉が、実は力に苦しめられていたなんて。話で聞くのと、実際の声を聞くのとでは、捉え方が大きく違ってくる。

「っ!」

 隣で曜が不意に立ち上がった。「曜ちゃん?」と千歌が不思議そうに彼女を見上げている。その手にはUSBメモリが握られていた。北條はやや興奮したように「どうしました」と、

「何か、視えたのですか?」

 「視えた?」と訊く翔一に北條は目を剥きながら早口で言う。

「君は知らないのですか? 渡辺さんと桜内さんには普通の人には視えないものを視る力、透視能力があるということを」

「曜ちゃんと、梨子ちゃんが?」

 千歌も初めて知ったらしく目を見開いていて、言葉も出ないようだった。曜はまだ手を震わせている。被せるように、梨子もUSBメモリに触れた。ふたりも怖いのか、無言のままでいる。

「言ってください。何が視えるのか」

 北條に促され、曜と梨子は目を閉じる。きいん、と高周波の音が、翔一の脳裏にも流れてくるようだった。何だこれは、と戸惑っていると、呻き声が聞こえる。姉の声だ。こっちに来て、と言っている。

 音に続いて、モザイクがかったイメージが流れ込んできた。これは、曜と梨子を通じているのか。モザイクは次第に晴れていく。脳裏に明瞭に浮かんだのは、薄暗い部屋だった。置かれた長机の上にはテニスボールがある。細い手が触れた瞬間、テニスボールは黒く染まった。いや、表裏が逆転し、裏地のゴムが表に現れた。触れた手はボールを払いのけ、机に長い髪を振り乱しながら女性が突っ伏している。

 姉さん!

 僅かなライトの光が、その顔を映し出した。苦悶に顔を歪めた姉は息をあえがせながら、壁に背を預けて床に崩れ落ちる。それでも苦しみは和らぐことはなく、頭を両手で押さえつけている。姉の腹が光を放った。光は強まっていき、姉の体どころか像の全てを塗り潰すほどに眩く――

「まさか……、そんな………」

 頭の中で、パズルが組み上がっていくようだった。千歌の父と姉が所属していた大学。ふたりが携わっていた研究。その力の正体。

「そんなこと………!」

 気付けば翔一は駆け出していた。「津上さん!」という北條の制止もきかず。

「翔一くん!」

 会議室から飛び出した翔一を千歌は追いかけてきた。それも無視して、翔一は署内を走り外に出てバイクへ向かう。

「どうしたの? 翔一くん!」

 もはや視界に千歌の存在なんて映っていなかった。エンジンを掛けて走り出す自分を「翔一くん!」と呼ぶ千歌の声すらも届かず、往くべき場所へと向かった。

 

 飛び出していったふたりを追う事はせず、開いたままの扉を閉めた北條は曜たちに向き直る。

「教えてください。何が視えたのです?」

 イメージの残滓は、まだ曜の脳裏にしっかりと残っている。苦しみに喘いでいる翔一の姉が放った光。光が晴れた瞬間に現れた、金色の角に赤い目を持った存在を口に出す。

「アギト……」

 「アギト?」と北條は反芻する。「はい」と曜と同じものを視ていた梨子が頷き、

「変身しました。女の人が、アギトに………」

 翔一が変身した姿に比べたら華奢な体躯で、一瞬で元の姿に戻ったが間違いない。あの姿はアギトだった。翔一もメモリの中身が視えたのだろうか。姉もまたアギトと知って、彼は何をしに行ったのか。

 曜は彼の心意を理解していたのかもしれない。ただ、想像できる事の恐ろしさに蓋をしていたのかもしれない。

 でも、北條にその蓋を取り払われる。

「やはり犯人はアギトでしたか。そうではないかと思っていたのですが」

 「どういう事ですか?」と曜は訊いた。聞けば後戻りできない、と理解しながらも。いや、ここに来た時点で逃げられない領域にまで踏み込んでいたのだろう。

「恐らく高海氏はサイコキネシスで殺害された。アギトになる前の人は、とてつもない超能力を発揮する。その力が、高海氏の命を奪ったのです」

 当たってしまった。予想が最悪な方向に。

 北條は強く告げる。

「これが、どういう事か分かりますか? アギトは必ずしも、我々の味方ではないという事ですよ。人間にとってアギトは、アンノウン以上の脅威になるかもしれません」

 翔一が偶々そうだっただけで、全てのアギトが人間の守護者になれる訳じゃない。北條の語る脅威とは、アンノウンという恐怖が去った後を見据えた、次の恐怖だ。今この瞬間、世界のどこかで新しいアギトが現れているのかもしれない。強すぎる力は善とは限らず悪にも転じ、人間に牙を剥いてしまう。

 そうなれば、力を持たない人間に立ち向かう術はない、と。

 

 

   3

 

 どこだ津上は。

 バイクであちこちを回る毎に、焦燥が募ってくるばかりだ。市内のスーパーにも、港の魚市場もくまなく探したがどこにもいない。まさか隣町のスーパーにまで行ったのか。特売セールのためにわざわざ遠出するような男だから十分にあり得る。

 狩野川沿いの県道に入ったところで、視界の上で何かが迫ってくる。鳥か、と思った瞬間に戦慄が走った。咄嗟に身を屈めると、すぐ真上を影が掠めていく。バイクを停めて後方を見やると、人型の異形が翼を畳み降り立った。昨日木野と戦っていた、フクロウのようなアンノウンだった。

「変身!」

 ギルスに変身した涼に、フクロウは翼を広げ滑空してくる。跳躍し、その背中を蹴落とした。地面に伏した敵の鳩尾にすかさず蹴りを入れ、転がったところで更に胸を蹴飛ばす。

 こんなところで相手をしている暇はない。翔一を探す、という目的のため、涼はフクロウに反撃を許さない勢いで攻撃を加えていった。襟首を掴んで起き上がらせ、顔面を殴打していく。血反吐を吐いた敵の腹を蹴飛ばし、間合いを広げた。このまま止めを刺そうと足に力を込めた時、視界にそれは入り込んだ。

 黒衣に身を包んだ、黒い青年。

 最悪のタイミングに涼は舌を打つ。黒い青年の掌から、光り輝く球が現れた。初めは野球ボール程度の大きさだった球は膨らんでいき、掌に収まり切らなくなったところで宙に放たれる。

 人間ひとりが収まりそうなほどに巨大化した球の外殻が割れた。まるで卵から孵ったように、中からハヤブサのような翼を持ったアンノウンが現れる。

 産まれたばかりのアンノウンは、既に自分の使命を知っているのか迷うことなく涼へ迫ってくる。指先から伸びる鉤爪が涼の脇腹を掠めた。振り上げられた拳をいなしたところで、待ちわびたのかフクロウに突進をかまされ突き飛ばされる。

 これは分が悪い。間髪入れず襲い掛かってくる2体のアンノウンの攻撃をかわしながら、辛くも拳や蹴りを入れていく。だがどれも手応えが浅い。涼が攻撃しようものなら、片方が組みついて邪魔してくる。

 アンノウン達が同時に離れた。開けた視界の中心で、黒い青年が手をかざしている。咄嗟に横へ飛ぶと、すぐ横を視えない波動が吹き抜けた。直後に足元が爆ぜる。爆風に煽られながらも跳躍しバイクへ飛び乗った。触れた瞬間に変化したバイクのアクセルを吹かし、急ぎこの場から逃れようとする。

 飛ぶための翼を持つアンノウン達は速かった。すぐにフクロウが涼に追いついてきて、蹴りで追い払うもすかさずハヤブサのほうが横からバイクのボディに突進する。

 立て直しはきかず、マシンごと突き飛ばされた涼の体は真っ逆さまに、道路の横を流れる狩野川へ落ちた。

 

 屋敷へ行くと、沢木哲也は拒むことなく翔一を入れてくれた。客間へ通してくれてお茶を淹れようとしてくれたのだが、翔一はその厚意を断りいつまでも冷めない興奮のまま、怒気を含んだ声で尋ねる。

「あなたは……、あなたは知ってたんですか? 姉さんが、姉さんがアギトだった、てことを」

「俺の知っていることは、全て君に話したはずだ」

 沢木は落ち着いた姿勢を崩さず、それが翔一の神経を逆撫でする。

「嘘だ。まだ何か隠してるんじゃないですか? 姉さんはアギトになった。そして千歌ちゃんのお父さんを……高海伸幸さんを………」

「高海? 誰のことだ?」

「とぼけないでください! じゃあこれは何なんですか!」

 と翔一はポケットから出した写真を突き付ける。高海伸幸のゼミ生たちの集合写真。その中には目の前にいる沢木哲也、本物の津上翔一の姿も写っている。写真の中にいる自身を見ても、沢木は眉ひとつ動かさない。もはやこの中にいるのは、今の自分とは別人とでもいう態度で。

「前に言ってましたよね。大学の先生のところで姉さんと知り合った、て。あれは高海さんのことだったんだ。あなたと高海さんは姉さんの超能力を研究していた。でも姉さんはアギトになって、高海さんの命を奪ったんだ………」

「違う!」

 沢木は叫んだ。翔一の肩を掴んで、これまでと打って変わって荒げた声で言う。

「雪菜が、君の姉さんが人を殺すはずがない。高海先生は……俺が、俺がやったんだ、この手で!」

「嘘だ。あなたがどうやってやった、て言うんです。あなたにも超能力がある、て言うんですか? もしそうなら証拠を見せてください!」

「落ち着け!」

 沢木の目は、何かにすがっているように見えた。愛した人が誰かを傷付け殺めるはずなんてない。そんなもの、かつてこの男が言っていた勝手なイメージじゃないか。沢木がそう思っていただけで、それが姉の全てじゃなかった、というだけの話だ。

 この期に及んで、この男が一体何を護ろうとしているのか分からなかった。隠し護り通したところで、もう手遅れじゃないか。

「信じるんだ俺を……。信じてくれ!」

 沢木の眼差しで理解できる。最悪の予想は真実だった。

 今更になって何を信じればいい。陽だまりのような笑顔で育ててくれた母であり姉だった人が実は超能力者で、その正体は自分と同じ力だった。その力が殺人なんて最悪の行為に使われた。

 しかもその矛先が、護るべき千歌の父親だったなんて。

「………もういいです」

 肩に掛けられた沢木の手を払い、弱く呟く。何もかもどうでもいい。悔いたところでもう過ぎてしまった。戻るものなんて何もないのだから。

 懺悔するべき千歌の父も、償うべき姉もいない。向ける先のない感情は残された翔一の裡に渦巻いて、ただ肥大していくだけだった。

 






 『アギト』サイドが重すぎる………。

 今回は『サンシャイン』サイドが黒澤姉妹のエピソードなので『アギト』サイドの沢木姉弟のエピソードに通じるものがあるかと思ったのですが、いやベクトルが違いすぎる。

 何ていうか、色々な姉妹や姉弟の形があるんですね………。


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第3話

 

   1

 

 沼津署へ行った日の夕刻、曜たちは千歌抜きで弁天島神社に集まっていた。土地を見守ってきた神の前で告解でもするような気分にとらわれるけど、辛い現実を前にしては、神なんてものが酷く矮小な存在に思えてしまう。それとも、この現実も神の意志なのだろうか。

「じゃあ、千歌ちゃんはまだ知らないんだ」

 翔一の問いに、曜と梨子は揃って頷いた。あのUSBメモリの中身が何だったのか、沼津署からの帰路で千歌に訊かれたが真実は伝えずにいる。何も視えなかった。声しか聞こえなかった、と。

「翔一さん、違いますよね?」

 訊くというより、願いだった。勘違いであってほしい、と。梨子も「翔一さんのお姉さんが、まさか」と引きつった笑みを無理矢理作りながら訊く。

 でも、翔一はうん、とは言ってくれなかった。俯いたままかぶりを振って、

「俺の姉さん以外に、超能力者だった人がいたなんて聞かなかった。間違いないよ」

 提示された現実を飲み込むように、翔一は告げる。

「犯人は姉さんだったんだ」

 絶望なんて沸かなかった。淡い期待を抱いたところで、今までだってことごとく踏み潰されてきたのだから。それぞれの身内がゼミの教授と学生という間柄から、事件の被害者と加害者に変わっただけの話。

「これから、どうするんですか?」

 曜は訊いた。こればかりは、当事者が自ら決めなければならない気がした。他人でしかない曜と梨子が、ふたりには変わらないでいてほしい、なんて無責任に頼むことはできない。入り込む余地なんてないのだから。

「千歌ちゃんは知るべきだよ。お父さんのこと、大好きだったみたいだし」

 その選択は、部外者の曜たちは受け入れるしかない。全てを知った千歌が取るだろう選択も。

 「でも」と梨子が言った。

「せめて、もう少しだけ待ってください。ラブライブの決勝が終わるまで。今知っちゃったら、決勝どころじゃなくなると思うから………」

 問題の先送りにしかならないことは理解している。でも、それしか今は出来ることがなかった。

「ふたりはそれで大丈夫?」

 翔一は訊く。こんな時でも、彼は他人への優しさを忘れない。曜は梨子と顔を見合わせた。言葉はなくても、何となく互いの事が分かる。当事者じゃない故の余裕なのか、はっきりしないまま曜は答える。

「わたし達は大丈夫です。翔一さんこそ……」

「俺も大丈夫。きっと、1番辛くなるのは千歌ちゃんだから」

 とても重い足取りで、翔一は階段へと歩き出す。家に帰って千歌と顔を合わせても、翔一はいつもと変わらない笑顔で接しなければならない。今の生活の終わりを感じ取りながら。

 彼の姿が見えなくなると同時に、目から涙が溢れてきた。

「曜ちゃん?」

 梨子がハンカチを渡してくれる。いくら目元を拭っても、涙は止まってくれない。

「わたし、大変なことしちゃった……。翔一さんじゃない、て信じたかっただけなのに、こんな事になるなんて………」

 全部、曜の裡に留めておけばよかった。頭の隅にでも追いやって、時の流れに任せて忘れてしまえばよかった。そうすれば、こんな真実を知らずに済んだのに。何も知らないまま、翔一は十千万で千歌と暮らし続けることができるのに。

 嗚咽でしゃくり上げる曜を、梨子は優しく抱きしめてくれた。彼女の体温が心地よくて、でも痛みにもなる。こんな温もり、感じる資格なんてないのに。

「曜ちゃんのせいじゃないわ」

「でも――」

「誰も悪くないのよ。ただ偶然がいくつも重なっちゃっただけで」

 鼻をすする音が聞こえて、曜は梨子の顔を眺める。彼女も目に涙を浮かべていた。

「だから、千歌ちゃんには秘密にしよう。わたし達でさえ、こんなに辛いんだから」

 知らせるのは、ラブライブが終わってから。どのタイミングで明かしたとしても、最悪であることに変わりはない。たとえ優勝できたとしても、望みがあるようには思えなかった。

 輝きを見つけられたとしても、千歌はそれが霞んでしまう悲しみを知ることになる。

 

 

   2

 

 ランニングを始めてまだそう時間は経っていないのだが、立ち寄った売店で休憩を取ることになった。理由はというと、練習に身が入らないメンバーを考慮して。

 気が弛んでいる、と真っ先に叱責しそうなダイヤが該当者だった。

「まだ帰ってこないの?」

 鞠莉が訊くと、ダイヤはスマートフォンの画面を見てがっくりと頭を垂れる。

「さっき連絡がありまして。もうしばらく、と………」

 いつもの元気な自分を演じるという奇妙な気分になりながら、曜はお調子者を装う。

「まさか、本当に新たにグループを結成して………」

 ダイヤは更に深く頭を垂れた。いつも凛と背筋を伸ばした彼女の曲がった背中は、そう拝めるものじゃない。

「思いつきそうなのはあの堕天使ね」

 目を細める梨子に「目がマジだけど……」と果南がやんわり指摘する。梨子もいつもの自分というものを演じているのだろうか。決勝に向けて突き進む、Aqoursのメンバーという自分自身を。

 せめて、他の皆には言うべきだろうか。そんな危うい誘惑が浮上してくる。千歌の父は翔一の姉に殺された。つい零してしまいそうな緩みを律するために、何も知らない風を装うのは重すぎる。

「大丈夫」

 商店から、購入したミカンを手に千歌が出てきた。

「大丈夫だよ」

「千歌ちゃん、この前何か知ってる感じだったけど」

 そう言いながら、曜は震えを抑えるのに必死だった。千歌は妙に鋭いところがある。リーダーとしてメンバーを見てくれている。だから、近いうちに勘付かれるのでは、と。

「何か聞いてるの?」

 果南が訊くと「聞いたわけじゃないよ」と千歌は答え、

「ただ、自分たちだけで何かやろうとしてるんじゃないかな?」

 そう穏やかに笑った。彼女の笑顔が消えてしまうことを想像するだけで、曜の裡での罪悪が膨らんでいった。

 

 時間の経過も忘れて、ルビィはノートにペンを走らせる。

「これでこう。どう?」

 思いついたフレーズを書き入れ、「こうして」と理亜が付け足す。

「だったら……」

 テーマが決まると、歌詞は面白いほどに次々と浮かんできた。姉に伝えたい言葉。自分たちの想い。言の葉を花丸の助言で詞に適したフレーズに修正し、並び替え、曲として組み立てていく。善子もアイディアを出してくれたが、堕天使全開だったから殆ど却下した。

「最後は――」

 末尾のフレーズを書き入れ、ルビィは出来上がった詞を眺める。初めて創りあげた、自分たちが創った、と胸を張って言えるもの。

「できた……!」

「うん、凄く良い」

 と理亜も満足そうに頷く。昂った気分のままにふたり揃って両腕を掲げ、

「やったー!」

 「うるさい!」と善子の声が飛んできた。寝言らしく、ベッドで花丸と並んで寝息を立てている。もう夜も更けたらしい。

「あ、そういえばタイトル決めてない」

 理亜が気付いた。そういえばすっかり忘れていた。でも、ルビィの中でタイトルはすぐに思いついた。曲のテーマと、歌詞に込めた想いから、自ずと出てくる。この曲がどんな歌かを表す言葉が。

「じゃあ――」

 ルビィは詞にタイトルを付け足す。

 Awaken the power(目覚めろ、その魂)と。

 

 

   3

 

 詞と曲、そして衣装が滞りなく完成し、残ったのはひとつになった。このひとつが最も重要になる。

 つまりは、歌を披露するステージ。ルビィが目星を付けていたのはクリスマスイベントの出演なのだが、アマチュア枠はエントリー数に限りがある。観光地の一大イベントだから、自治体の審査を受けなければならない。

 審査といっても厳しいものでもなく、希望者全てが簡単な面接を受け応募動機とパフォーマンスの内容を述べるというもの。イベントに出る基準を満たしているか、その場で合否判定を下される。理亜は去年のイベントで聖良とSaint_Snowとしての出演経験があるから心強いのだが、本人はそうでもない様子だった。面接官からの質問に全て答えたのは聖良のほうで、自分はただ横についていただけ、というのは本人の談。

 選考会場は、国の文化財にも指定されている旧函館区公会堂だった。大きな洋館の中は、踏み入れた自身をまるで上流階級の令嬢になった気分にさせてくれる。なんてことはなく、内装を楽しむ余裕は無かった。面接が行われるホールの前で設えたパイプ椅子で、緊張の震えが止まらない。

「ルビィ、知らない人と話すの苦手………」

 弱音を抑えることができなかった。ステージに立つときは千歌たち上級生がいてくれて、皆の後ろに付いていれば良い身分に甘えてばかりだったから。

 隣の理亜はというと、いつもステージで見せていた堂々とした佇まいはどこへやら、ルビィと同じように肩を震わせている。

「わたしだって………」

 「そろそろずら」と花丸が心配げに告げた。震えを抑えようと拳を握るけど、まったく効果はない。

「姉様がいないのが、こんなにも不安だなんて………」

 ふわり、とルビィの冷えた拳に掌が重なった。見上げると善子が伸ばした手だった。隣を見やると、理亜の拳にも花丸の手が重ねられている。とても温かい。

「でもさ、自分たちで全部やらなきゃ」

「全て意味がなくなるずら」

 何だかライブの本番前みたい、と自然に笑みが零れた。決まって不安になるルビィに、花丸や善子が肩を抱いてくれたり、堕天使口上を喚いたりして緊張を解いてくれていた。

「ありがとう」

 危うく忘れてしまうところだった。姉がいなくたって、善子や花丸、そして理亜が傍にいてくれるじゃないか。ひとりじゃできなくても、この4人ならできる、必ず。

「次の方どうぞ」

 扉の奥から面接官の声が届く。震えが止まった足で立ち、並んで思い扉を開き、中へ入る。

 行こう、わたし達だけで。

 以前は社交界の場として使われていただろうホールには、9人のスーツを着込んだ面接官たちが厳かな目をルビィ達に向けている。果たしてこのイベントに相応しいかを見定める視線を前にして、先ほど治まったはずの震えが再発する。

「は、初めまして………」

 理亜も同じらしく、声が震えている。これじゃ駄目だ、とルビィも口を開くのだが、

「る、ルビィ達は――あ、いやルビィじゃなくて、あの………」

 自己紹介の文言は、事前にしっかりと考え暗器してきた。一字一句暗唱できるほど面接に備えてきたのに、緊張で脳裏が白紙になってしまう。

 自分たちの力でやり遂げる。そう決めたはずなのに、どうしようもなくなると姉に縋らずにいられなくなってしまう。

 ――お姉ちゃん………――

 裡で呟くと、白紙だった脳裏に昔の記憶が浮かんでくる。確か、まだ幼稚園の頃の記憶。春のよく晴れた日で、姉妹でかけっこをしていた。

 当時小学校に上がったダイヤは、当然ルビィよりも背が高く足も速かった。もっとお姉ちゃんのところへ、と速めようとした足をもつれさせ、ルビィは転んでしまった。擦り剥いた膝が痛くて大声で泣いた。思えば、あの頃から泣いてばかりだった。何かと辛い事があれば泣いて、お姉ちゃん、と姉に助けを求めていた。

 ――ルビィは泣き虫さんですわね――

 あの時、妹の泣き顔などすっかり見慣れたものだったダイヤは、またか、とばかりに優しく笑った。

 ――ルビィは強い子でしょ。ほら、勇気をお出しなさい――

 そう言って、ダイヤはしゃくりあげるルビィの額にキスをしてくれた。幼いルビィにとって、そのキスは魔法だった。弱虫なルビィに、姉から力を分け与えてくれるもの。

 そっか、とルビィは気付く。あの頃だけじゃない。いつだってダイヤはルビィに勇気を与えてくれたじゃないか。ルビィは強い子、と認めてくれていた。昔から、ずっと。

 ――大きくなりましたわね――

 赤レンガ倉庫の前で言ってくれた言葉が、温かく反芻される。あの時、ダイヤはルビィの往くべき先を提示したりはしなかった。突き放されたんじゃない。信じてくれていたんだ、と気付く。妹は自分の足で往ける、とルビィの裡にある力を見出してくれていた。

 きゅ、と拳を握り、俯きかけていた顔を上げ、しっかりと面接官たちを見据える。

「わたし達は、スクールアイドルをやっています。今回はこのクリスマスイベントで、遠くで暮らす別々のグループのふたりで手を取り合い、新たな歌を歌おうと思っています」

 隣の理亜も思考が安定したようで、用意した弁をすらすらと述べる。

「大切な人に贈る歌を」

 ダイヤだったら、こういった場で堂々とできただろうな、と思った。まだ姉には及ばないけど、他人とこうして話せたことで、姉から貰った勇気を大きく成長させることができたのだろうか。

 まだ自信は持てないけれど、裡で抱きしめた姉から貰った勇気は信じられる。

 そんなルビィを窓の外から覗いていた花丸と善子が感動して泣いていたそうなのだが、それはまた別の話。

 

 旧函館区公会堂から少し歩いたところにある公園は、足を休めるルビィ達以外は誰もいなかった。昼食時だから、子供たちも家に帰ったらしい。降り積もった雪は遊んでいた小さな足跡を明確に残していて、広場の中心には大きく丸まった雪だるまが鎮座していた。

「ふたりとも、選考会は頑張ったずらね」

 と花丸が労ってくれる。

「貴様にリトルデーモン10号の称号を授けよう」

 もう善子の言動に慣れたのか、訳の分からない10号になった理亜は「ありがと」とがらんどうに応じた。

「でも、本当に大丈夫かな? あんなこと言っちゃって」

 ルビィが漏らす不安を「仕方ないでしょ」と理亜が撥ねつける。

「絶対満員になる、て言わなきゃ合格できそうになかったし」

 まあ、場の勢いに任せて便乗したルビィも人のことは言えないけど。

 「しょうがないわね」と善子が溜め息と共に、

「いざとなったらリトルデーモンを召喚――」

「どこにいるずら?」

 と買ってきた肉まんを食べながら言う花丸に「うるさい!」とすかさず噛みつく。

「てかずら丸てばまた?」

「美味しいずら」

 函館に滞在して数日経つけど、流石は観光都市なだけあって名産の食べ物が多い。それらを制覇するつもりなのか、花丸は外出すれば必ず何かしらを胃袋に詰めていた。せっかく来たのだから、とルビィも一緒に買い食いしたけど。

「フラグが完全に立ってるわね」

 と善子は不敵に笑む。「善子ちゃん」と花丸が呼びかけるが、善子は気付かず続ける。

「言っとくけど、スクールアイドルに体重管理は大切だから。泣き言いっても――」

「善子ちゃん」

「うるさい! てかヨハネ!」

 ようやく気付いた。確かに体重管理は大切だ。だからルビィもカロリー計算はそれなりに考えながら食べていたし、現に体形に変化はない。花丸も量こそルビィの倍近くは食べたが、あまり体形に出ない体質らしい。

 元々細身だったこともあってか、変化が分かりやすい善子に花丸は告げる。

「既にフラグは立っていたずらよ」

「むしろ、見てて気付いたんだけど………」

 と理亜が前よりも膨らんだ善子の頬を指でつつく。善子もよく買い食いしていたのだが、自分より多く食べる花丸を見て安心していたのだろう。

「何でえええええええええ‼」

 なんて善子の叫びが、晴れた空にこだまする。これは本番までダイエットさせなくてはなるまい。じゃないと衣装が入らない。

 心底呆れた顔をした花丸は、口の中の肉まんを飲み込むとルビィに訊いた。

「そういえば、鞠莉ちゃんたちに連絡はしたずら?」

「うん、さっきメール来たよ。そういう事なら、是非協力させて、て」

 

 

   4

 

 函館の地元ラジオへの出演依頼はすぐに届いた。市をあげての一大イベントに、敗退したとはいえラブライブ優勝候補と目されたSaint_Snow、決勝大会へ出場するAqoursのメンバーが出るという話題性から食いついたらしい。ラジオでの出演だから人前に出ることはないが、声だけでも多くの人々に聞かれること、しかも生放送という撮り直し不可ということが、ルビィ達の緊張を掻き立てた。

「さあ今日は、クリスマスフェスティバル出演者の、えっと………」

 いざ収録が始まったところで、マイクを前にした司会者が言い淀んだ。どう紹介したら良いか悩みどころらしい。ひとりずつ紹介する、というのも少しまどろっこしい。

「Saint Aqours Snowです」

 と理亜が咄嗟に名乗った。「が、お越しくださいました」と司会者は進行を続ける。まさかグループ名がこんな形で決まってしまうとは。

「ド直球な名前ずらね」

 マイクから口を離した花丸が囁く。「北の大地、結界と共に亡者の蘇りし――」なんて善子の口上を無視し、「ちゃんと告知するずら」と耳打ちされ、ルビィは深呼吸し目の前のマイクへ口を近付ける。

「クリスマスイブにライブを行います」

 ひと言だけだけど、噛まずに言うことができた。次は花丸の番。ただ花丸もこういった場は緊張してしまうようで、

「よろしくず――じゃなくて、よろしくお願いするず――じゃなくて、お願いしますずら!」

 収録時間は短かったけど、終わってから一気に疲労が押し寄せてきた。特に花丸は方言が出てしまったことが未だに悔やまれるらしく、収録ブースから出ると肩を落として深く溜め息をついた。

「失敗したずら………」

「大丈夫だよ花丸ちゃん」

 ロビーに出たところで、出入口の自動ドア前でふたりの少女が立っていた。こちらに向けられた視線から、明らかにルビィたちを待っていた、と分かる。ふたりが着ている制服は理亜と同じデザインで、知り合いらしく理亜は目を丸くして立ち止まる。

「あのふたりは?」

 ルビィが訊くと、理亜は弱く「クラスメイト」とだけ答え、ルビィの背中に隠れる。

「どうして隠れるの?」

「だって、殆ど話したことないし………」

 ならどうして、彼女たちはここへ来たのだろう。疑問に思いながら彼女たちをちらりと見やるが、あまり和やかな顔をしていない。どこか緊迫に似たものを感じてしまう。

 背中にいる理亜は、まるで自分自身のように感じた。何かに遭遇するとすぐ姉の後ろに隠れて、事が過ぎるのを待つ。姉ならこうするだろうな、と思いながら、ルビィは理亜のクラスメイト達にはっきりとした口調で告げる。

「Saint_Snowのライブです。理亜ちゃん出ます」

 「なっ」と後ろで理亜が小さく声をあげた。クラスメイト達の表情が少しだけ柔らかくなり、

「理亜ちゃん、わたし達も行って良いの?」

 そう訊かれ、おずおずとルビィの背から出た理亜は「え……、うん」と拙く答え、

「それと今更だけど、ラブライブ予選は……、ごめんなさい………」

 「良いんだよ」と優しく言いながら、ふたりは理亜へ歩み寄る。

「わたし達の方こそ、嫌われてるのかな、て。会場にも行けずに、ごめん」

「理亜ちゃんや聖良先輩が、皆のために頑張ってたのは知ってるよ」

「Saint_Snowは学校の、わたし達の誇りだよ」

「クリスマスフェスティバルには出るんでしょ? 皆も来たい、て。良い?」

 向けられた言葉の数々に、理亜は驚いたような顔をした。まともに会話したことのない人物から向けられる好意に、どう応じたらいいのか分からないように困惑気味ながら「うん」と答え、その目に涙が浮かぶ。

 張り詰めていた糸が緩んだように、理亜は涙を止めずに流し続ける。そんな彼女を「泣かないで理亜ちゃん」とクラスメイト達はハンカチを差し出してくれた。

 ルビィと理亜はとても似ている立場だけど、ひとつだけ違っていたことがある。姉がいなくても、一緒に居てくれる存在。ルビィにとってそれは花丸と善子だけど、理亜にはそれがなかった。聖良とふたりだけのSaint_Snowにこだわるあまり、クラスメイト達との交流も上手くいっていなかったのかもしれない。

 ルビィ達が沼津に帰れば、理亜は孤独に戻ってしまう。でも、そんな心配は無用だった。理亜にだって、こうして歩み寄ってくれる存在がいる。根はルビィと同じ怖がりだけど、世界は思っているよりも怖いものじゃない。辛い現実こそあっても、どこかに温もりが確かにあって、そこが居場所になる。

 そんな温もりを太陽のように熱くさせられるのが、スクールアイドルの輝きなのかもしれない。

 泣きじゃくる理亜を見て、ルビィも貰い泣きしていた。嬉しいはずなのに、この涙の理由はよく分からなかった。明日には、鞠莉の手配でダイヤが来てくれる。

 お姉ちゃんに早く会いたい、と思った。寂しさじゃない。こうして自分たちだけで切磋琢磨して、成し遂げた姿を見てもらいたい。

 再会した時、自分の姿はダイヤにどう映るのだろう。少しは成長できたのか、それとも変わっていないのか。ちょっとだけ怖いけど、それ以上に楽しみだった。

 

 



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第4話

 

   1

 

 迎えに行ってあげてほしい、と鞠莉から伝えられ、ダイヤはふたつ返事で妹の待つ函館へ飛んだ。仕方ない、と皆の前では溜め息をついてこそいたけど、妹の顔見たさにはやる気分でいたのは内緒だ。

 夕暮れの函館空港から出ると、ダイヤは携帯電話のメール画面を開く。ルビィから届いた、待ち合わせ場所を綴った文面。指定通り函館山のロープウェイに乗ると、そこには意外な同乗者がいた。

「聖良さん?」

 「あら、どうしてここに?」と聖良も驚いた顔をする。何だか妙なものだ。いつもは理亜とふたりでいる印象の彼女が、たったひとりでこんな空飛ぶ箱に乗っているなんて。もしかしたら、向こうもダイヤに似たような違和感を覚えているのかもしれないが。

「いえ、ちょっとここに来るように言われまして」

「え? 実はわたしもです」

 どうやら、お互い似たような事情だったらしい。聖良も理亜から函館山に来るように言われたのだとか。一体何なんでしょうね、なんてふたり揃って首を傾げながら、妹たちの待つ山頂へ目を向けた。既に陽は暮れて、空は茜の残滓を微かに残すだけになっている。冬になると日没までの時間はほんの僅かなもので、ロープウェイが山頂に到着する頃にはすっかり夜の帳が降りていた。

 山頂の展望台へ聖良と一緒に行くと、そこにはルビィと理亜が並んで、ダイヤ達を待ってくれていた。気のせいだろうか、妹の顔つきが、少しばかり変わったように思える。理亜の方はより顕著だった。以前菊泉で見たときは棘のある顔だったのに、今はまるで、憑き物が落ちたように穏やかだ。

 妹たちはそれぞれの姉に葉書を手渡す。受け取ったそれはクリスマスカードだった。サンタクロースやオーナメントのイラストで縁どられた中央には「ダイヤお姉ちゃん」とだけ綴られている。聖良の方には「聖良姉様」と。

「これは?」

 ダイヤが訊くと、理亜とルビィが交互に答える。

「クリスマス」

「プレゼントです」

 妹たちは更に続ける。

「クリスマスイブに、ルビィと理亜ちゃんでライブをやるの」

「姉様に教わったこと全部使って、わたし達だけで作ったステージで」

「自分たちの力で、どこまでできるか――」

「見て欲しい」

 ダイヤは妹の顔を見つめる。あんなに小さくて、いつもお姉ちゃん、と泣いてばかりいたのに。ちょっと離れている間に、本当に大きくなったものだ。逞しく、そして美しくなってくれたルビィにかける言葉はそう簡単には見つからない。

「あのー」

 と聞き慣れた声が聞こえ、階段を上った先のデッキへと視線を移す。そこには他のAqoursの皆がいた。

「わたしのリトルデーモン達も観たい、て」

 なんて言う善子に「誰がリトルデーモンよ」と梨子が突っ込みを入れている。通りで、と全てに納得がいく。やけに新幹線と航空券の手配が早いと思った。

「千歌ちゃん、みんな!」

 ルビィが呼ぶと、恐らくダイヤとは別便で来たのだろう千歌は笑顔で応じる。「来てたの?」と理亜も嬉しそうにしていた。千歌は四角い箱を掲げ、

「翔一くんがSaint_Snowさんに、て。特性の白菜とグレープフルーツケーキ」

 また何と奇天烈なものを、と苦笑してしまう。「白菜と……」「グレープフルーツ?」と聖良と理亜も首を傾げている。まあ翔一特性なら、味の保証はできるだろう。

「鞠莉ちゃんが飛行機代出してくれるから、皆でトゥギャザーだって」

 と曜が敬礼すると「あったり前デース!」と当人が、

「こんなevent見過ごすわけないよ」

「流石太っ腹」

 と果南が言ったら、「太いのは善子ちゃんずら」と花丸が悪戯に笑う。「うにゃー!」と善子が猫なんだか分からない声を上げ、皆の笑いを誘った。

「姉様」

「お姉ちゃん」

 呼ばれ、妹たちに視線を戻す。ふたりは声を揃えて問いかけた。

「わたし達の作るライブ、観てくれますか?」

 言葉よりも、身体が先んじていた。愛しい妹を強く抱きしめる。妹の強さは、姉である自分が最も分かっていると思っていた。でもそれは驕りだったと分かる。この子は自分が思っているよりも遥かに強かった。もう誰かの後ろに隠れることなく、自分の足で歩いて行ける。往く先がどんなに遠く険しくても、きっと。

 「もちろん」と理亜を抱きしめる聖良に続いて、ダイヤも誇らしい妹に告げる。

「喜んで」

 体を離すと、曜の楽しそうな声が聞こえた。

「どんなライブになるのかな?」

 「楽しみね」と梨子も笑う。この楽しさと笑顔は、ルビィ達が作ったもの。遠く離れた土地で、他のグループと手を取り合った新しいステージ。想像するだけで、ダイヤの胸も高まる。

「それじゃ、わたし達も次のサプライズの準備に取り掛かりますか」

 千歌が言うと、他の皆が一様に頷く。

「きっと凄いライブになるよ。この景色に負けないくらい」

 そう告げる千歌の視線を追うと、そこには函館の夜景が広がっている。店のネオンや、住宅から漏れる照明。冬の澄んだ空気が、街に溢れる光をより映えさせてくれる。街そのものがクリスマスのイルミネーションのようだった。これがSaint_Snowを育んだ街の煌き、と思うと感慨深い気分にとらわれる。

 煌く街を背景に、理亜とルビィは言った。

「今のわたし達の、精一杯の輝きを――」

「見てください!」

 

 

   2

 

 思い出して啜ったお茶はすっかり冷めていた。茶葉の量もお湯の温度も適当に淹れてしまったから、ひどく不味い。今は何時だろう。そろそろ夕飯の支度をしたいところだけど、重い腰は上がらない。こんな状態で作ったケーキを函館へ経った千歌に持たせたが、果たして美味しく作れただろうか。

 ケーキを受け取ったとき、千歌は太陽のような笑顔を見せてくれた。翔一の護りたいと願う笑顔。あの顔が翔一のせいで冷たく歪んでいくのが怖ろしく、現実から目を背けたくなる。

 頭を空っぽにしようと思考を止めてみるのだが、空虚になった脳裏には容赦なく姉の姿が浮かび上がる。こっちに来て、と縋りながら、光を放ち自身と同じ姿に変貌する姉。そんな事はない、と翔一も信じたい。あの優しかった姉が、殺人なんて所業を犯してしまうなんて。現に姉の仕業だなんて証拠はない。でも、姉以外に容疑のある人物がいないのも事実だった。沢木は姉以外の超能力者の存在を語らなかった。超能力、それもアギトになるほどの力を持っていたのは姉ひとりだけ。

 考えれば考えるほど、朧気だった真相は明確になっていく。やはり姉しかいない。自身の力が人を殺めてしまうほどの、怪物じみたおぞましい力と知って、姉は自ら命を絶ってしまった。

「ただいまー」

 と声が聞こえた。視線を僅かに転じると、鞄を抱えた女将だった。旅行鞄はそれほど大きくはないのだが、小柄な彼女が持つと対比で大きく見えてしまう。そういえば、クリスマスには帰ってくる、と連絡があった気がする。

「あら、翔一君だけ?」

 「はい……」と翔一はか細く応じ、

「千歌ちゃんは北海道に行って、志満さんと美渡は晩ご飯までには帰る、て………」

「あら、そうなの? もう、せっかく帰ってきたのに冷たい子たちねえ」

「はい………」

 こんな事にならなければ、女将の帰宅を笑顔で迎えられたのに。そんな弱々しさに違和感を抱いたのか、女将は翔一の顔を覗き込んでくる。

「どうしたの翔一君? 暗い顔して」

 翔一は女将の顔を見やり、すぐに視線を逸らした。考えてみればすぐに思い至ることだ。高海伸幸氏は千歌だけでなく志満と美渡の父親で、女将の夫でもある。この家族には知る権利がある。まずは女将に全てを打ち明けよう。

「女将さん……。俺、やっぱりここにはいられません………」

 「何を言ってるの」と女将は翔一の傍に腰を降ろし、

「志満から聞いたわ。記憶を取り戻しても翔一君は翔一君じゃない。それとも何? 昔の恋人が現れて、一緒に暮らすことになったとか」

 女将は楽しそうに笑う。彼女の笑顔は、千歌によく似ている。それが尚更に、翔一の胸を締め付ける。

 そう、志満も美渡も、そして千歌も、記憶を取り戻した翔一を受け入れてくれた。翔一を家族と言ってくれた。こんな温かい家族と離れるのはとても寂しい。でも、それは赦されないことだ。この温かい家族と翔一――いや沢木哲也は、歪な縁で結ばれていることを知ってしまったのだから。

「いえ、そんなんじゃないです。千歌ちゃん達のお父さん、女将さんの旦那さんのことで………」

 そう言うと、女将の表情から感情の色がさ、と消えた。こんな顔をされることは分かっていた。更に続ければ、憎悪の目を向けられるかもしれない。それでも告げなければならない。

「実は、俺の姉さんが犯人だったかもしれないんです………。だから、もうここには居られません」

 女将が今どんな表情をしているのか、怖くて見ることができない。

「俺、昔のことなんて思い出さなければよかった。まさかこんなことになるなんて……。ずっと……、ずっと記憶喪失のままでいればよかった………」

 無責任な発言だとは自覚している。でも吐き出さずにいられなかった。記憶がないまま、津上翔一のままでいれば、ここの家族としてずっと温もりに包まれていたのに。この温もりを、家族の居場所を護るために戦い続けることができたのに。

「………翔一君の、お姉さんの名前は?」

 感情が乗らない声色で女将は訊いた。

「沢木雪菜、ていいました………」

「沢木……雪菜………」

 途切れ途切れに、女将は夫を奪った人物の名前を反芻する。だが、その声色に憎悪は感じられなかった。どこか戸惑っているような、初めて知るはずが彼女の反応に違和感を抱き、翔一は女将の顔を見つめる。

「知ってるんですか女将さん? 姉さんのこと」

 今度は女将が視線を逸らした。右往左往と泳ぐその視線をじ、と眺め続けながら、「女将さん」と翔一は更に問う。

「確かに、翔一君の言う通りね」

 そう言って女将は立ち上がった。

「人には思い出したくないこと、忘れてしまいたい記憶というものがあるわ。でもそれは無理な話ね。忘れようとすればするほど、そういう記憶は何度も何度も蘇ってくる………」

 振り返った女将は、翔一にとても悲しげな視線を向けた。悲しみだけじゃない。どこか、懺悔のようなものを含んでいるようにも見えた。翔一は大いに戸惑った。憎まれても仕方のないはずが、何でこんな目を向けられるのか。

「彼女が、翔一君のお姉さんだったなんて………」

「どういうことです? 何を知ってるんですか女将さん?」

 沈んでいた気分が、疑問によってふれ上がり翔一を立ち上がらせる。小柄な女将は翔一を見上げながら言った。決して目を逸らさずに。

「翔一君。ここに居られないのは……、娘たちの母親でいられないのは私のほうなの」

「女将さん? 何でそんな………」

「娘たちの父親を、伸幸さんを死なせたのは………、この私なの」

 一体何を言っているのか、全く理解できなかった。沢木といい女将といい、何故誰もが翔一を混乱させるのか。

「何馬鹿なこと言ってるんです。女将さんにそんなことできるはずないじゃないですか。ふざけないでください」

「私は――」

 女将が言いかけたとき、翔一の脳裏に冷たい戦慄が走った。

 

 

   3

 

 ステージになった八幡坂の下は、時折響く車以外は一切の静寂に包まれている。この日のための特設ステージだけど、特に凝った舞台装置はない。装飾は街路樹のイルミネーションで、観客席は歩道。この街そのままが舞台。

「緊張してる?」

 背中合わせに立つ理亜に尋ねると、「ううん」と返ってくる。

「ルビィも、不思議と落ち着いてる」

 本番前は緊張するものだけど、今はとてもリラックスした気分だった。沢山の人が見てる、という認識はあるけど、どこか宙に浮いたようで現実味が沸かない。

「お姉ちゃんが近くにいるからかな」

「それも勿論あるけど、それだけじゃない」

 そう言って、理亜は手を握ってくる。

「あなたがいたから、ここまで来れた」

「理亜ちゃん………」

 理亜から告げられた不器用な感謝に応え、ルビィも手を握り返す。いつか姉に、成長した自分を見て欲しい、と思っていた。きっかけを与えてくれたのは理亜だ。短い間だったけど、全力で切磋琢磨した全てをここで出し切ろう。スクールアイドルは、いつだって最高のパフォーマンスを披露するもの。

 それぞれの姉から与えられ、裡で育んできたものを見せよう。

 そして届けよう、大切な人に。

 曲のイントロが流れると同時に、雪がちらついてきた。掲げたルビィの掌に落ちた氷の粒は、すぐに体温で溶けてしまう。溶ける寸前、照明を反射し爛々と光る結晶を、ルビィは確かに視ることができた。

 これが、理亜が聖良と共に追い求めてきた輝き。ふたりの始まりで、どこへ往くべきか迷ったときでも、常に提示されてきた標。

 ルビィ達が作った衣装を着たメンバー達が、ステージになった道路に躍り出る。ルビィの見立て通り、ダイヤの衣装はよく似合っていた。聖良も、理亜がこだわり抜いた衣装を着こなし、完璧と言っていいステップを踏んでいる。

 姉たちの出演を明かしたのは本番直前だったのだが、ふたりなら歌もダンスも完璧にこなせると確信していた。沼津にいる間、果南に練習用と称してこの曲のステップを練習メニューに組み込んでもらうよう頼んでおいたから。聖良のほうにも、ルビィ達にダンスを指導してほしい、とステップを覚えてもらっていた。今までの事が全てこの瞬間のための伏線だった、と知った姉たちの驚きようは、思わず理亜とハイタッチしたほど。

 歌いながら、踊りながら、ルビィは確かに感じ取っていた。ダイヤの背中と熱。その存在の全て。ダイヤだけじゃない。理亜や聖良、他のAqoursの皆を。

 Saint Aqours Snowとしてステージにいる11人分の裡に宿るものが、この街に満ちていくのが分かる。各々が裡で温めて育んできたものが、弾け飛んでいくようだった。これはこの瞬間の、この11人でなければ放てないもの。まさに雪の結晶のような、刹那的な輝き。

 きっとこの世界には、もっと沢山の輝きがある。ここに来てくれた観客たちの裡にも眠っている。それはふとした瞬間、ほんの些細なきっかけで目覚めるのだろう。

 踊りながら、理亜と目が合った。互いに笑い合い、この瞬間に灯った熱を抱きしめる。

 スクールアイドルをやって、お姉ちゃんが居てくれてよかった。

 この曲を作って、理亜ちゃんが居てくれてよかった。

 

 イベントが盛況で終わった道中で、ダイヤの裡にはまだステージでの熱が残っていた。またこの面々で歌えたら、なんて欲が出てしまう。いつになるか分からないけど、また歌いたいと思う。その時は自分も曲作りに携わって、皆で手作りのライブをしたい。

「姉様。わたし、Saint_Snowはやっぱり続けない」

 一緒に帰路についていた理亜が、唐突にそう告げた。「え?」と口を開けたままの聖良に背を向けたまま、理亜は掌で降ってきた雪の粒を受け止める。

「これは姉様との思い出だから。世界にひとつしかない、雪の結晶だから」

 それはつまり、Saint_Snowはここで終わるということ。地区予選敗退で、リベンジもしないまま。たとえ惨めな結果でも、姉妹の聖域であることに変わりはない。ならば、聖域のまま終わりにしよう、と。

「だから新しいグループで、違う雪の結晶を見つけて、姉様にも皆にも喜んでもらえるスクールアイドルグループを作る」

 そう言って姉を振り返る理亜は笑っていたけど、目尻に涙を溜めていた。彼女もまた、自分の足で進み始めるのだろう。姉との思い出を裡に抱きしめながら、これまでとは全く違う場所へと。

「見てて」

 家路に駆け出す理亜を、聖良は追おうとはしなかった。ふう、と白い息を出しながら浮かべた笑みは、安堵したかのように穏やかでいる。

「理亜は、昔から恥ずかしがり屋で、誰とも中々話せなかったんですよ」

 そう呟く聖良に、ダイヤは微笑を漏らした。何故ならルビィと全く同じだったから。極度の人見知りで中々友達ができなくて、遊び相手がダイヤしかいなかった。でも、ルビィは幼い頃のままじゃない。理亜だってそうだ。ふたりとも、自分たち姉のいないところで目を見張るほどの速さで成長を遂げていく。

「ふたりとも、もうすっかり大人ですわね」

「はい」

 と応じる聖良は、どこか寂し気だった。その寂しさも、ダイヤは共感できる。これから離れる時間が長くなればなるほど、かつてのよく知る妹じゃなくなっていくだろう。どこかでダイヤの知らない力を身に着け、もしかしたら先を往かれるのかもしれない。

 でも、それでいい。姉なんて矮小な存在で彼女たちを縛ってはいけない。もう、妹なんて呼べるほど小さな人間じゃないのだから。

「祝福しましょう。ふたりの新しい羽ばたきに」

 

 

   4

 

 ようやく傷が癒えて、十千万へバイクを走らせる涼の前に、アンノウン達は見計らったかのように現れた。

「変身!」

 狩野川沿いに広がる田園に、アンノウン達は図々しく降り立つ。稲刈りを終え水も引かれた田に涼も飛び込んで、フクロウの顔面に拳を沈める。すかさずハヤブサへ攻撃しようとしたところで、しゅ、と空気を裂くような音と共に胸に痛みが走った。見下ろした胸には1条の線が引かれ、そこから鮮血が垂れている。不敵な笑い声のような声を漏らすハヤブサの手には、血に濡れた鉤爪が伸びている。

 咄嗟に涼はハヤブサの顔面に肘打ちを見舞った。こんなところで戯れに付き合っている暇はない。たたらを踏む敵に踏み込もうとしたとき、フクロウが跳びついてきた。腹に蹴りを入れて間合いを保ち、体勢を持ち直したハヤブサの拳をいなし反撃の拳を突く。

 涼の視界に人影が入り込んだ。田園を挟んだ砂利道に誰かが立っている。その姿を捉えたと同時、アンノウン達が涼から離れた。

 刹那、腹が貫かれる。奇妙なことに、腹に穴は開いていなかった。目を向けると、砂利道に立っているのは、こんな田舎の田園風景には似合わない、不気味なほど美しい黒い青年。

 涼は自分の身に何が起こったのかを悟った。抗おうにも、身体の力が抜けて仰向けに倒れる。腹のベルトから、光の球が浮かび上がる。それと同時に変身が解けた。光の球は少年の姿を形作り、涼の体にしがみつこうとする。だが、磁石に引っ張られるように少年は涼から離れ、光の球に戻り真っ直ぐと宙を駆け黒い青年の腹に収まる。

 力を喰らった青年は、木野の時と同じように苦悶の声をあげた。

「葦原さん! 大丈夫ですか!」

 その声と共に、翔一が涼のもとへ走ってくる。来るな、と叫びたいが声が出ない。腹の痛みが凄まじく、身動きすらも辛かった。

 翔一は敵の存在に気付いたらしく、対岸へ目を向ける。

「あの人は………」

 結構な距離があるにも関わらず、黒い青年の声はしっかりと涼の耳にも届いていた。

「貰いますよ。君の、アギトの力を」

 何とか体を持ち上げ、肩を貸そうとする翔一を突き放しながら声を絞り出す。

「逃げろ……、逃げるんだ!」

 困惑の表情を浮かべる翔一に、身を潜めていたフクロウが飛び掛かる。フクロウは先ほどまで戦っていた涼には目もくれなかった。もうギルスじゃ、脅威じゃなくなったということか。

 組みついたフクロウの腹に蹴りを入れた翔一は腹にベルトを出現させる。

「変身!」

 駄目だ津上、逃げろ。奴のいないところまで。声にならない叫びは、アギトに変身した翔一に届かない。続けて現れたハヤブサの胸に裏拳を見舞い、田の泥に沈める。

 フクロウの振り翳す拳を避けつつ、翔一は身を屈め敵の足を払った。宙を回る敵の腹に拳を突き上げ、更に背中に踵を落とし地面に叩きつける。

 ごほ、と咳き込みながら立ち上がろうとする敵の顔面に、翔一は渾身の拳を打ち付けた。あまりの強さにフクロウの頭が千切れ、ごろんとサッカーボールのように泥の上を転がる。断末魔の叫びをあげる間も与えられることなく、離れた頭と胴体は同時に爆発し消滅した。

 ちらちらと揺らめく残火の中に佇んだまま、翔一は自らの立つ道の進路上へ目を向ける。その先には、対岸にいたはずの黒い青年がいた。黒い青年は忌々しい存在へ険しい視線を向けている。いくら憎しみを抱いても、どこまでも整った容貌は醜く歪むことはない。

 翔一なら勝てるかもしれない。涼のなかで、そんな淡い期待が生じた。アンノウンを一撃の拳で葬るほどに力を高めた翔一なら、もしや――

 角を開いた翔一は、足元に紋章を出現させる。深く腰を落とし、渾身のキックを浴びせる敵を見据えている。黒い青年は1歩も動かず、完全に丸腰だった。翔一の浮かべる紋章が渦を巻き、右脚に集束していき――

 瞬間、紋章が炎に変わり翔一の体に噛みついた。

 

 






次章 シャイニーを探して / 戦士その絆


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第23章 シャイニーを探して / 戦士その絆
第1話


 

   1

 

 涼は痛む体を持ち上げ、炎に向かって駆け出した。炎の中で焼かれるままでいる翔一の肩を掴み、共に火柱から抜け出し地面を転がる。ほんの一瞬だけだが、飛び込んだ炎に撫でられた服が焦げて煙をくゆらせた。露出していた手も軽いが赤く火傷していて、髪も少し焼けたらしくその臭気にむせ返る。

「葦原さん!」

 変身していた翔一は多少の痛みで済んだらしく、涼へ手を伸ばそうとしている。

「逃げろ!」

 撥ねつけるように叫ぶと同時、黒い青年が手をかざした。気付いた翔一が咄嗟に避け、その脇を蜃気楼のように揺らめく波動が掠める。すぐさま立ち上がる翔一だったが、急速に滑空してきたハヤブサに足を払われた。不意打ちが堪えたらしく、宙を1回転し倒れた翔一の姿が戻ってしまう。

「津上!」

 と翔一の体を起こす。「逃げるんだ」と肩を貸すと呻き声が聞こえた。視線を転じると、黒い青年が前と同じように腹を抱えて苦悶に顔を歪めている。

「飲み込んでやる……、貴様の力など………!」

 木野の時もそうだったが、どうやら彼にとってアギトの力は毒のようなものらしい。

「逃げるんだ、早く!」

 この好機は逃せない。翔一を抱え、足を引き摺りながらバイクのもとへ行きその場を後にする。

 黒い青年は追ってこなかった。今は涼から奪った力に苦しんでいるが、しばらくすれば再び現れる。最後のアギトである翔一の前に。

 バイクを猛スピードで駆り、内浦湾の沿道に出る。敵から離れて緊張が解けたせいか、貫かれた腹に激痛が走った。何とかバイクを路肩に停めると、糸が切れたように身体の力が抜けていく。前なら多少の痛みくらいはすぐに治まったのに。普通の人間とはこうも脆いものなのか。

「葦原さん?」

 遅れてバイクを停めた翔一が、涼へ駆け寄ってくる。

「しっかりしてください。葦原さん、どうしたんですか?」

 返事もできず息をあえがせているところで、通りかかったセダンが涼たちの傍で停まった。開けたフロントガラスから覗かせた男の顔に、涼は息を呑む。

「あなたは……」

 翔一は知っているのか、男と視線を交わしたまま無言のままでいる。

「乗れ」

 男はそれだけ言った。翔一は逡巡したが、素直に涼をバイクのシートから降ろし後部座席へと座らせる。

 男が車を発進させてしばらくすると、シートに預けた身体が少しだけ楽になった。

「あんたは………」

 涼が絶え絶えの息で質問を飛ばすと、ハンドルを握る男は振り向くことなく答える。

「沢木哲也だ」

 その名前に涼は違和感を覚えた。何故ならその名前は、翔一の本名なのだから。ただの同姓同名とは思えない。本当の沢木哲也であるはずの翔一は、気まずそうに顔を俯かせた。

 

 沢木の屋敷に到着すると、翔一はソファに涼を寝かせた。声を出すのも辛そうだが、涼は懸命に絞り出す。

「やられた……、奴に力を抜き取られた………。俺はもう、変身することができない………」

「そんな、どういうことです? 何なんですかあの人?」

 ソファに腰掛けていた沢木が、その答えを告げる。

「あれは、人ではない。力そのものだ」

「人じゃない? 前に、俺をアギトにした人にそっくりでしたけど………」

 そっくりどころか、全く同じ顔だ。同一人物じゃないのか、と思ったほどに。

「そう、全く同じものだ。だが、正反対のものだとも言える。光と、闇のように」

 沢木の言葉の意味は、全く理解できない。同じだけど正反対なんて矛盾している。翔一の疑問を汲み取ったのか、沢木は嘆息し壁際へ目を向けた。視線を追うと、壁に床から天井まで届くほどの大きな絵画が飾られている。

 奇妙な絵だった。上には3対の翼を持った者とその周囲にも翼を持った天使のようなものが描かれている。下へと目を降ろすと人と天使たちが武器を手に戦っていて、更にその下には何も描かれず白紙になっている。

「長い話になる」

 

 まだ人間という種どころか生命が生まれるよりも、その遥か昔。まだ世界が世界という形を成さなかった時代があった。全てに満たされていたが、同時に取り留めもなく何も成さない混沌の中で、彼は闇という概念として現れた。

 彼はまず、混沌を整理することから始めた。最初に創ったのは光。そこから昼と夜、天と地、陸と海というように、この世界を成した。次に創ったのは生命だ。自らの傍に使徒――お前たちがアンノウンと呼ぶ者たち――を創り、使徒に似せて動物を創り、そして自らに似せて人間を創った。つまり彼はこの世界と我々人類の創造主。太古に神と定義された存在だ。

 彼は自身の現身である人間を、創造物のなかで最も愛した。彼の寵愛を受けた人間たちはアダムとイブを始めとして産まれ増え、地に満ちていった。だが、やがて人間たちは驕り鷹ぶり、動物たちを家畜として飼いならし、戯れに虐げ殺すようになった。この在り様に使徒たちは怒った。人間が彼の現身ならば、動物は使徒たちの現身。自分たちを元に創られた命を殺さないよう警告したが、人間たちは聞く耳を持たなかった。

 そこから、使徒と人間の戦いが始まった。いや、戦いなんてものじゃない。使徒たちによる虐殺だった。いくら彼に似せて創られたとはいえ、所詮は形だけ。彼の傍付きとして創られた使徒に人間は成す術もなかった。

 だが、蹂躙されていく人間に救いの手が差し伸べられた。その手は彼じゃない。彼に最初の使徒として創られながら、彼と同じ存在となった光だった。光は人間に力を与えた。力を授かり全く新しい生命として生まれた人間はアギトと名付けられ、使徒と戦う尖兵になった。

 戦いが長引くにつれて、人間の中でアギトは決して多くはなかったが、その数は増えていった。力の進化は枝分かれのように分岐し、中にはギルスという別種まで生まれるほどに。

 これまで静観していた彼は、この裏切りに怒り狂った。自分の創った人間を勝手に作り替えた光を自らの手で粛清した。だが光は、最期に直接アギトの種を人間たちに撒いた。全ての人間がアギトになれば、いずれ使徒は滅ぼされ彼も牙を向けられる。そのことを怖れた使徒たちは地上を洗い流すことで生命を滅ぼし、全てやり直すことを決めた。

 だが、彼は愛した人間たちをそう簡単に捨てることはできなかった。人間と動物たちのつがいをひと組だけ、方舟に乗せて生き延びさせた。今度こそ、正しい命だけが満ちるように。

 だがこの慈悲が、皮肉にも彼を苦しめることになる。

 滅ぼしたはずの光が最期の力で時を越え、遥か未来の船――つまりあかつき号に現れた。その時のことはお前も知っている通りだ。光はお前の中に眠るアギトの力を目覚めさせ、今度こそ滅びた。

 水の使徒を通じこのことを知った使徒たちは、生き残らせた人間も滅ぼすべきと沸き立った。だがそんな傍付きたちを彼は鎮めた。そもそも使徒と人間の戦いは、彼の制止に背いた使徒たちが起こしたものだったからな。目を閉じるだけで全てを滅ぼすことなど容易い彼に、制裁を怖れた使徒たちは矛を引くしかなかった。

 戦いと粛清で深く悲しんだ彼は、再び人間が地に満ちた未来を待つことにした。自分の愛した人間なら、正しく生きていけるはずだ、と。だが、憎きアギトの力がまだ人間たちの中に残っている限り、悲しみは繰り返される。だから彼は、再びアギトが生まれ始めたら、アギトだけを滅ぼすよう使徒たちに命じた。

 彼も未来の人間を愛せるか見定めるため、自らの器となる卵を残し長い眠りについた。

 

 語り終えた沢木は、少し疲れたように深く溜め息をついた。世界の成り立ちとアギト誕生の神話。恐らくそれは事実だったのだろう。1度リセットされた後に繁栄した人類が国や民族、宗教とそれぞれのコミュニティを形成すると共に、創世神話もまた分岐と脚色を繰り返し語り継がれてきた。

 でも全ての伝承や神話の原典を聞いても、翔一のなかに感慨なんて湧かなかった。自分の存在しなかった大昔のことなんて、想像しても確かめようがない。湧いたのは、ただひとつの疑問。

「何故、何故あなたはそんなことを知ってるんです?」

「彼は俺を選んだ。人間の側から、アギトを滅ぼす者として。そして俺に全てを教えた」

 沢木はソファから立ち上がり、より近くで絵画を眺める。この絵は沢木が描いたものだろうか。神から聞かされた神話を元に。

「だが俺は彼を裏切り、アギトを護る側についた」

 翔一は思い出す。バイクが変形する力を得たときに聴こえた声。あれは沢木の声だった。沢木は出会う前から翔一を、アギトを助けるために知らないところで動いてきたのだろう。

 全てはアンノウンと、アギトの存在を否定する神と戦わせるために。

「俺の……、俺の姉さんがアギトだったからですか?」

 沢木はき、とまなじりを吊り上げる。

「まだそんなことを言っているのか。雪菜は無関係だ」

「嘘だ! 姉さんはアギトだった。そして、アギトの力が千歌ちゃんのお父さんを――」

「違う、雪菜はただの被害者だ!」

 もはやこの男の語ることが、全て誇大妄想にしか思えなくなってくる。神に存在を否定された姉が、悪魔じゃないと信じ込むために。神を倒し、彼女を新しい神話の祖として祀り上げるために。

 でもいくら後付けで神聖さを纏わせたところで、何も変わるものなんてない。正しい力を語られても、アギトになった姉が千歌の父を殺してしまったことは事実のままなのだから。

「もし姉さんが犯人なら、アギトの力なんて………俺はいらない!」

 吐き捨てて翔一は部屋を出て行く。「津上!」と呼ぶ涼の声を無視して。

 

 屋敷を出たところでバイクを置いてきたことに気が付いたが、そう気にも留めることなく歩いて帰路についた。涼のバイクも、後でレッカーを手配して沢木邸に運んでもらおう。

 そう考えた後は、思考を止めたままひたすらに歩いた。何も考えたくなかった。山を下って冷たい潮風が吹く沿道を行き、十千万に着く頃になると深夜の内浦は静寂に包まれていた。腕時計も携帯電話も持っていないから何時か分からないけど、もう住民たちは誰もが眠っているだろう。

 家にすぐ入らず、翔一は三津海水浴場の砂浜で海を眺めた。足を止めると、否応なく思考が再開される。思い出すのは、警察署で視たUSBメモリのイメージ。薄暗い部屋のなかで、アギトに変貌する姉の姿。

「姉さん……」

 呟いた呼び名に返事はない。ただ波の音が静かに繰り返されるだけだった。呼ばれて弟へと振り向く姉は、いつも笑顔だった。作った料理をいつも美味しい、と食べてくれた。

 ――姉さん!――

 ――何、哲也?――

 愛しかった思い出の全てが、どす黒いグロテスクなもやに覆われていくようだった。

 ――こっちに来て――

 あのイメージの中で、姉はひたすらにそう言っていた。一緒に海に行ったときとは違う、とても苦しそうな声。

 ああ、と翔一の唇から震える吐息が漏れた。

 姉さんは助けを求めていたんだ。

 自分の中で膨れ上がる力を怖れて。力に意識を塗り潰されて、自分が自分でなくなってしまう事に震えていた。

 遅すぎる懺悔の想いが胸の裡に流れ込んでくる。

 ごめん、姉さん。

 俺、何も気付けなくて。

 姉さんを止めることができなくて。

 そこで、翔一は気付いてしまう。今まで幸福を抱きしめてきた高海家での生活。ずっと記憶喪失のままでいい、なんて日和見だった日々。その全てが、実は残酷な因果の結果だったことを。

 全部、全部俺たち姉弟のせいじゃないか。

 姉さんがアギトになったから、千歌ちゃんのお父さんは命を奪われた。

 俺が姉さんの自殺に納得できなくて、あかつき号に乗ったせいで木野さんや船の皆もアギトにされた。

 アギトの力を植え付けられたせいで皆はアンノウンに殺されて、葦原さんのお父さんも亡くなって――

「姉さん………」

 その呼び名にどんな感情を込めて良いのか、分からなくなった。育ててくれた唯一の家族なのか、大切な人の家族を奪った悪鬼なのか。

 ただ、懺悔のみが裡に渦巻くばかりだった。

 ごめん。

 皆、ごめん――

 

 

   2

 

 職場復帰できた誠の快気祝いに小沢と尾室が連れてきてくれたのは、やはり焼肉だった。昼食時でユニットメンバー3人でのささやかなものだったが、それでもこうして労ってくれるのは誠にとって有難い。

「退院おめでとう、氷川君」

「おめでとうございます」

 ウーロン茶で乾杯すると、早速尾室が運ばれてきた肉を熱した網に並べていく。しばらく病院食だったから、脂がじゅう、と音を立てる食事に食欲をそそられる。

「すみません、ご心配をおかけしました」

 怪我で病院送りなんて沼津に来てからは日常茶飯事のようなものだったが、今回は頭を打ったということもあって検査入院が長引いてしまった。年越し前に退院できてよかったですね、と看護師は言ってくれたのだが、生憎実家に帰省する予定もないから寮でひとり年越しを迎えることになる。

「でも良かったですね、本当何ともなくて」

「そうね。まあ丁度いい休養になった、てところかしら」

 小沢の言う通りゆっくり休むことはできたが、心的にはアンノウンの事で気が気でなかったから落ち着かない入院生活だった。知らせを受けた両親が病院まで駆けつけてきて、こんな危ない仕事は辞めろ、だなんて泣きつかれる始末だ。心配をかけて申し訳ないとは思っているが、ここで逃げ出すわけにもいかない。不可能犯罪がいつ終わるのか分からないし、それに高海伸幸の事件もある。

「ほら、どんどん食べなさい」

 最大火力で焼かれた肉はもう焼けていて、我先に「いただきます」と尾室が箸を伸ばす。その箸を小沢は跳ねのけて、摘まんだカルビを誠の取り皿に乗せてくれた。

「すみません、いただきます」

 と肉をタレに付けて口へ運ぶ。ニンニクと醤油の味に浸された肉を噛みしめているうちに、小沢はどんどん食べ頃な肉を見繕って誠の皿に上げてくれた。

「そうですよ氷川さん、どんどん食べなきゃ」

 と尾室も誠の皿に肉を乗せて、自分の分にと取った肉を頬張る。冷めないうちに、と取り皿で山盛りになった肉を取ろうとしたとき、誠は違和感を覚えた。

 視界が霞みがかっていて、どれが肉なのか分からない。目を擦って視線を上げると小沢と尾室の顔もぼやけていて、煙かと思い店内を見渡してみるのだが同じだった。

「氷川君、どうした?」

 呼ばれて目を転じると、ぼやけた視界が明瞭になっていき小沢の顔が認識できる。

「いえ、何でもありません」

 と応じ皿の肉を取る。今度はしっかりと肉も見えた。

「美味いっすね。もっと食べてください氷川さん」

 なんて言いながら、尾室が摘まんだタン塩を自分の口に放っている様子もはっきりと見える。

 まだ疲れが取れていないのだろうか。そう思いながら食べるカルビも、味がよく分からなくなっていた。

 

 

   3

 

 寒い時期の夜空に散りばめられた星々を見て、脳裏に浮かぶのは幼い日の思い出だった。あまり良い思い出ではないけれど、何故か星を見るとよぎってしまう。

 あの日、鞠莉は果南とダイヤの3人で葛城山へ向かった。親には何も言わずに家を出たから、すぐにホテルの従業員たちが駆けつけてきて、捕まるものかと急ぎロープウェイに飛び乗った。お嬢様、と昇っていく鞠莉を呼ぶ声に、ダイヤが不安がっていたのをよく覚えている。

「どうするんですの? 大事になっていますわよ」

 「諦める?」といつも強気だった果南も、あの時ばかりは弱気だった。「いや」と鞠莉は即答し、

「流れ星にお祈りできなかったら、きっとダメになっちゃう」

 テレビで流れ星が観られる、と天気予報のキャスターが言っていて、父に流れ星にお祈りすればどんな願いも叶えてくれる、と聞いた。だから鞠莉は、果南とダイヤに観測を提案した。どうしても叶えたい願いがあったから。

 富士山や伊豆半島の山々が見渡せる葛城山の山頂は、パノラマパークとして整備されている。ロープウェイを降りてデッキに躍り出た空中公園に広がる空は、灰色の雲に覆われていた。

 もっと星がよく見える場所。あの雲を越えられるほど高いところを探して、鞠莉たちは木の骨組みで建てられた展望デッキへと走った。

 山の最も高い場所へ登っても、雲を越えることなんてできない。依然として空は灰色で、雲が押し潰してきそうな恐怖すら覚えた。

「そんなあ」

 とダイヤが肩を落とした。でも果南は背負ってきた小さなリュックを開け、

「これで確かめなきゃ、まだ分かんないよ」

 と丸い厚紙を手渡した。点と点が線で結ばれた星座の早見盤だった。鞠莉は両手で早見盤を掲げ、まだ星を見るには明るい空に照らし合わせる。

 ぼつ、と早見盤に滴が落ちた。「雨……」と果南が呟くと同時、灰色の雲が雨を降らせる。傘なんて持って来ていないから、鞠莉たちは濡れるままだった。

「そんな。これじゃお祈りできませんわ。これじゃ………」

 神様から質の悪い悪戯をされたような気分だった。お前の願いなど知った事か、と。

「来たのに……、せっかく来たのに………」

 もうじき、従業員たちも山頂にやって来るだろう。家に帰れば両親から酷く叱られる。でも、そんなことはどうでも良かった。願いを叶えるために、祈ることすらできない雨に泣くことしかできなかった。

「泣かないで」

 とペンを手にした果南が、早見盤に落書きを始めた。

「ほら」

 果南が早見盤に描き加えたのは、厚紙の大半を占めるほどに大きなひとつの流れ星だった。

「これで大丈夫!」

 星がないなら、自分で作っちゃえばいいんだよ。そう果南は得意げに言っていた。結局あの後も雨は止まず、早見盤に描いた流れ星に3人で祈った。すぐに従業員たちが山頂に来て、それぞれの家に連れ戻された。

 あの日の早見盤は、今も鞠莉の机の引き出しにしまってある。あの日の祈りを忘れないように。

 だから今でも鞠莉は祈り続けている。現実を知らない子供の儚い夢だと分かっていても。

 ずっと一緒にいられますように、と。

 

 鞠莉の追憶は、翔一の訪問によって打ち切られた。

 部屋に行くと、薫はベッドで横たわったまま虚ろに天井を見上げていた。アギトの力を失ってから、ずっとこんな様子だった。傷は癒えたようだが、部屋から出ようとしない。鞠莉が運んだ食事を食べてはくれるのだが、それ以外は何もせず虚空を見つめているだけで日々を過ごしている。

「薫、翔一が話がある、て」

 鞠莉がそう言うと、「ああ」とだけ応じた薫は重そうに身体を持ち上げソファへ移動した。

 部屋に招いた翔一も似たような顔をしていた。いつもの笑顔はどこへやら、重苦しそうな顔を俯かせたまま、鞠莉の促すままソファに腰を落ち着ける。

「アギトの力についてか。何故そんなことを俺に訊く?」

 紅茶を啜り、薫はそう訊き返す。

「俺、今までずっとアギトとして戦ってきました。けど、分からなくなったんです。アギトって何なのかな、て」

 その疑問を彼が抱くこと自体が、鞠莉には意外に感じられた。自分には人を護る力がある。人を護るために戦うことができる。それだけで十分、とこれまで翔一は戦ってきた。記憶を取り戻しても以前と変わらないと思っていたが、心境に変化があったということか。

「もしかしたら、アギトが千歌ちゃんのお父さんを――いえ、俺の姉さんもアギトのせいで命を落としたかもしれないんです」

 「どういうこと?」と鞠莉は訊いた。千歌の父が3年前に殺人事件で亡くなったことは果南から話には聞いていた。まだ犯人が逮捕されていないことも。

「まだ千歌ちゃんは知らないんだけど――」

 と前置きし、翔一は話してくれた。千歌の父が行っていた研究と、その研究に協力していた翔一の姉のことを。

 千歌と翔一の間に結ばれていた縁に、鞠莉はただ唖然とするしかなかった。翔一は無関係、と簡単に言う事はできる。でも当人にとって、身内の過ちを他人事と割り切れないのも現実だった。千歌の父を死に追いやったのは姉の持つアギトの力。千歌から父を奪った者と同じ力で彼女を護っていた事実が、彼にとって矮小な償いになってしまったのだろう。

 だから翔一は疑問を抱いてしまった。

 アギトの力を持つことの意味を。

 翔一は薫を見据え、

「木野さん、前に葦原さんや俺を襲ったことがありましたよね。あれってやっぱり、アギトの力のせいだったんじゃないですか? アギトの力に操られて、それで………」

 アギトの力は人を惑わし、狂わせるものなのか。それは力を育て、顕現させた者にしか分からない。鞠莉の裡にあるアギトはまだ育ってはいない。変身するほどの力になれば、自分もまた狂ってしまうのだろうか。燻っていた黒い感情のまま力を暴発させた、かつての薫のように。

 分からない。いくら考えたとしても仮説でしかない。全ての答えは、あかつき号に現れた白い青年のみぞ知ること。

 薫はしばらく逡巡し、ようやく無表情だった口元に微笑を浮かべた。その微笑に翔一は少し苛立ったように、

「何が可笑しいんですか? お願いします。何とか言ってください」

 薫の笑みが、自嘲のものだと鞠莉には分かった。次に彼が告げるだろう言葉も。

「俺にお前を助けることはできない」

 予想通りに呟き、薫は自分の右手を眺める。弟から与えられた、自身の無力の象徴を。

「俺は本当に助けなければならなかった者を前にして、何もできなかった人間だ。そんな俺に何ができる」

 もう俺はアギトじゃない。弟を助けられなかった、ただの弱い人間だ。そう自身を嘲笑う薫に、翔一は何も言えずにいた。強くなりたかった、とかつて薫は言っていた。全ての患者を、弟を救えるほどに強く。その力への渇望から、最強唯一のアギトとして存在しようとした。

 そのアギトは、もう薫の裡にはない。彼は空っぽになった。アギトという芯も、力を求める意味すらも失って。

 翔一が出て行った後も、薫はずっと右手を眺め続けていた。アギトでなくなった今、自分を自分たらしめているのは弟への懺悔だけ。そんな哀しい感情に縋ろうとしている姿がとても小さく映り、鞠莉は強い声で告げる。

「薫、いつまで昔のことに拘ってるの? 薫はdoctorとして沢山の人を助けてきたじゃない。あなたはアギトじゃなくても凄い人じゃない」

 医師としての資格を剥奪されても、薫は圧力に屈しなかった。決して陽の当たる場所に戻れないと知りつつも、助けを求める患者たちに手を差し伸べ、メスを取り救ってきた。

 根底にあるのは弟に対する贖罪だったのかもしれない。でも鞠莉にとって人を救おうとする薫の背中は大きくて、目指すべき指針だった。鞠莉にとって木野薫とは英雄そのものだった。

「わたし、ずっと薫に憧れてた。前にも言ったけど、わたしずっとパパの会社を継ぐように言われて。でも、あまり頭は良くないし………」

 父の仕事を継ぐことへの重圧は、果南とダイヤにすらも打ち明けたことはなかった。スクールアイドルを始めたことも、重圧を忘れるための逃避という不純なものだったかもしれない。その想いを初めて薫に打ち明けたとき、彼は鞠莉の弱さを受け止めてくれた。自分の役目から逃げることなく向き合い続ける彼は、逃げ出したかった鞠莉を笑いなんてしなかった。お前は自分が思っているよりも強い、と勇気を授けてくれた。こんな大人になりたい、と強く思った。

「わたし、薫みたいになりたかった。薫のように強くて、薫のように優しく………」

 薫は鞠莉を見上げる。かつての強さも優しさもなくなったと思われた瞳に何かが宿ることを願ったが、彼は何も言わずに再び視線を落とした。

 

 



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第2話

 

   1

 

 十千万での元旦は華やかに彩られた。玄関には大きな門松を飾り、居間には立派な鏡餅。そして女将と3姉妹は振袖でおめかし。女将はこの日のために翔一の着物も用意してくれていて、あまり慣れない恰好は馬子にも衣裳なのだが女将と志満は似合っている、と褒めてくれた。

「じゃーん、明けましておめでとうございます」

 年末から仕込みをしていたおせち料理を囲む食卓にやって来た千歌は、「お年玉」と書かれた半紙を手にしている。朝から熱心に書初めをしていたらしい。墨汁で書かれた「お年玉」はかなりの達筆だった。何でも小学校の頃、冬休みの課題に出された書道で毎年表彰されていたらしい。

「はい、おめでとう」

「あけおめー」

「おめでとう」

 女将と美渡と志満は新年の挨拶を返すと食事に戻る。皆のお茶を淹れながら、翔一も「おめでとう」といつもの調子で返した。

「それより、お正月ですよね? お正月、ですよね?」

 と千歌は家族ひとりひとりに渾身の書初めを見せて回る。毎年のことに志満はぐい呑みで清酒を嗜み、美渡は翔一手製のかまぼこを食べている。翔一もふたりからは相手にするな、と言われていたから、苦笑しながらしいたけの顔に付いた墨を拭き取ってやる。書初めのときに巻き添えを食ったのだろう。

「お正月、ですよね?」

 残る母に縋るのだが、女将は「こら、はしたない」と穏やかに末娘を窘める。「ごほん」と千歌はわざとらしく咳払いし、

「今年で高校3年になるわたしが言うのも何ですが、一応学生の間は頂けるという話が一般的と聞いたこともありますし、ちょっと懐も寂しいというか――」

 高校生にとって、年に1回のお年玉は貴重な収入源だろう。千歌の場合はスクールアイドル活動のために小遣いが圧迫されているわけだし、翔一としても恵んであげたいのは山々だ。

 赦されるのなら、いくらだって積んでもいい。

「ああ、分かってるわよ」

 そう女将が言うと、千歌は「やったー!」と万歳した。女将は帳簿の受付へ行き、両手に抱えてきたものを「はい、どうぞ」と千歌に手渡す。

「これかしら? お年玉」

 細めた目で、千歌は両手にある「お年玉」のダルマを睨む。確かに玉の形をしている。

「もう、そういうのいいから!」

 そういえば、去年も似たような手口ではぐらかされていた記憶がある。確かお汁粉用にこしらえた白玉団子だったか。

 やけ食いのようにお雑煮をかき込むと、千歌はダルマを撫でながらぶつくさ呟き始める。

「あんた、まだ貰うつもりでいたの?」

 美渡が呆れたように言った。

「梨子ちゃん、もういらない、てご両親に言ったらしいわよ」

 志満が言うと、千歌は「うえっ」と声を詰まらせる。しっかりした子だなあ、なんて思っていると、だて巻きを摘まんだ美渡が悪戯っぽく、

「じゃあ、千歌も貰えないよねえ」

「他所は他所、うちはうちでしょ。いつもお母さんも志満姉たちも言ってるし、お父さんですら言ってたじゃん」

 ぴた、と翔一の箸が止まった。本来ならこの場には伸幸氏がいて、翔一はいないはずだった。一見すれば幸福な温かい家庭だけど、その裏には悲しみと残酷な真実が潜んでいる。その一端を、翔一は担いでしまっている。

「千歌ちゃーん!」

 玄関から曜の声が聞こえた。「ああ来ちゃった」と千歌はしいたけの頭にダルマを乗せ、

「いい? 諦めたわけじゃないからね。一旦保留、てだけだからね」

 そんな捨て台詞のようなものを残して玄関へ向かっていく。

「何で強気なんだか………」

 溜め息と共に呟く美渡に「まあいいじゃない」と言って、翔一は雑煮の餅を食べる。

「お正月から忙しそうね」

 そう漏らす女将に「練習みたい。ラブライブの」と志満が言った。女将は感慨深げに、

「良いよね、諦めずに続ける、て」

 「俺たちも応援しましょう」と笑顔で言いながら、翔一は何とか裡に溜まった悪玉を飲み込もうとする。でも、それはいくら餅を飲み込んでも奥へ引っ込んではくれなかった。

 ここは、俺の居るべき場所じゃない。

 俺に千歌ちゃんの夢を応援する資格なんてないんだから。

 

 ふああ、と大口を開ける善子を、花丸が「大きな欠伸ずら」とからかっている。

「うるさいわね。昨日はリトルデーモンの集い、正月生放送があったの」

 要は年越しと共に動画配信をしていたらしい。堕天使がハッピーニューイヤーなんて新年を祝うのも何だか変な話だけど。

「寒いねえ」

 と千歌は身震いする。いくら気候が比較的温暖な内浦でも、冬は雪こそ降っていないが流石に冷える。

「ダイヤさん達まだかな?」

 と曜も腕をさすりながら、校門前から伸びる道路の先を見やる。

「Oh, U-turnしてきたみたいデース」

 鞠莉の見る方向に倣うと、黒塗りの車が千歌たちの前に停まった。開いた助手席の窓から、ルビィが「お待たせ」と顔を覗かせる。後部座席からダイヤと、続けて来客が降りてくる。

「明けましておめでとうございます」

 とはるばる遠路から訪ねてくれたその来客――聖良と理亜を見て善子が「うわ、本当に来た」と驚きの声を上げる。癇に障ったのか、「悪い?」と理亜がじろりと睨み、

「ていうかその恰好――」

 流石に聖良も困惑の表情で千歌たちを見ている。新年なのだから、身だしなみはしっかりと。振袖姿のメンバー全員が集まり、「では皆さん!」と千歌の声に続いて、皆で挨拶を交わす。

「明けましておめでとうございます!」

 ささやかな新年会は挨拶だけに留めて、急ぎ練習着に着替えてグラウンドに出る。動けば身体も温まるから、と防寒性皆無な練習着だから、吹いてくる冷風に皆して震えた。

 寒い、と繰り返す千歌たちを、ジャージに着替えた理亜は腕を組み、

「あんた達やる気あんの?」

「一応、お正月、ていうことで――」

 という千歌の呑気さに理亜は堪忍袋の緒が切れたらしく、

「だから、て晴れ着で練習できるかい!」

 怒号が山々に反響して返ってくる。年下ながら強烈な気迫に圧倒され怖気づいてしまう。一方で聖良のほうは、丘の上にある学校から臨める内浦の景色を見渡している。

「良い学校ですね。わたし達と同じ、丘の上なんですね」

 函館で千歌たちが感じた空気を、聖良も感じてくれているようだった。

「うん、海も見えるし」

 函館ほど華やかな街ではないけど、慎ましやかで温かい土地と自負している。遊びたい盛りの子供には物足りないけど、生まれ育ったこの街も学校にも、愛着はたっぷりとある。

「でも、なくなっちゃうんだけどね」

 曜がさらりと言ってのけた言葉に、鹿角姉妹は揃って「え?」と口を開けた。そんな姉妹に鞠莉は簡単に説明をする。

「今年の春、統廃合になるの。だからここは3月で、the end」

 そこに至るまでに沢山の奮闘があったのだけれど、他人に説明するとなると簡単に済まされてしまう。要するに千歌たちの、Aqoursの物語とは学校の統廃合を撤回させようとしたけどできなかった、というだけで完結してしまう。とてもあっけないものだ。あと数ヶ月で迎える結末を前に、いつも通りでいる千歌たちに鹿角姉妹は歩み寄ってきて、

「そうなの?」

「でも、ラブライブで頑張って生徒が集まれば………」

 やっぱり、考えることは同じなんだな、と思った。

「ですよね。わたし達もずっとそう思ってきたんですけど」

 その想いのままに奮闘しても、結局何も覆すことはできなかった。今更いくら足掻こうが泣き喚こうが、この学校がなくなることは決まっている。こんなハッピーエンドにならない物語、誰がすき好んで見てくれるのだろう。後になって思い出したとしても、辛くなるだけかもしれない。

「そうだったんですか………」

 聖良はか細く呟く。「あ、でもね」と千歌は続ける。

「学校の皆が言ってくれたんだ。ラブライブで優勝して、この学校の名前を残してほしい、て」

 それでも千歌たちは、最後の悪足掻きをすることに決めた。自分たちの想いの全てを決勝のドームでぶつけ、そこに至る物語を浦の星女学院の名前として、ラブライブの歴史に刻む。

「浦の星女学院のスクールアイドルが、ラブライブで優勝した、て。そんな学校がここにあったんだ、て」

 果南の言葉に、皆で微笑を零す。この内浦で確かに存在した学校。そこに居たAqoursという者たちの軌跡を、微かな言葉でも残したいから。本当にそれが救いなのか、まだ千歌には分からない。全ては終わってからじゃないと分からない。

 学校を救えるのか。

 輝きを見つけられるのか。

「最高の仲間じゃないですか。素敵です」

 聖良は言ってくれた。そう、最高の仲間だ。だから生徒たち皆の想いを背負うことに、今はもう重圧なんて感じない。皆が託してくれた想いが、千歌の力になってくれる。

 理亜のほうは何も言わなかったが、1年生たちの前に立って鼻を鳴らし、ひと言を投じる。

「じゃあ遠慮しないよ」

 函館での練習がハードだったのか、3人は一斉に怖気づく。

「ラブライブで優勝するために、妥協しないで徹底的に特訓してあげる」

 善子を始めとして、1年生たちは恐る恐る聞いた。

「マジ?」

「マジ」

「マジずら?」

「マジずら」

「マジですか?」

「だからマジだって」

 他愛もない問答を見守っていた3年生のなかで、鞠莉はどこかへと歩き出す。「どうしたんですの?」とダイヤが訊くと、鞠莉は胸に手を当てて、自身の鼓動を確かめるように応じる。

「こうして時って進んでいくんだね」

 

 

   2

 

 目撃者によると、被害者は路上で急に苦しみ出したらしい。立つのも辛そうで、介抱しようと声をかけた途端、被害者の顔から色彩がなくなり、透明な水風船のように弾けた。

「人体が水になる。間違いなくアンノウンの仕業ですね」

 濡れた衣類を見下ろし、北條はそう結論付ける。まだ鑑識が検証中だが、現場から被害者のものらしき体組織は発見されていない。爪から髪の毛1本まで、被害者の身体は水に変換されたことになる。

 アンノウンが犯人なら、衣類から身分証も出てきて身元はすぐに特定される。狙われる可能性のある親族に護衛を付ける、と捜査方針は固まるだろう。

「またお前の出番だな」

 共に現場へ来ていた河野が言う。

「G3-Xと、それからアギトか」

 もう自分にできることはないな、とばかりに溜め息をつきながら、河野は首を揉む。悲しいかな、後の警察にできることはアンノウン出現に伴いG3-X出動。そしてアギトによる討伐しかない。新年早々、おちおち休んでもいられなくなった。もっとも、休養は病院で十分すぎるほど摂れたが。

「それはどうですかね。果たしていつまでアギトに頼って良いものか」

 と北條が言う。「どういう意味ですか?」と誠は訊いた。どうせまたG3ユニットの不甲斐なさでも垂れるつもりか。でも、この時の北條は違った。

「アギトもまた、いつ我々に牙を向くか分からない、ということです」

「何を言うんです? アギトに限ってそんな」

「だが、もし高海伸幸事件の犯人がアギトだったらどうです?」

 その言葉に反応したのは、3年前から事件を担当していた河野だった。

「アギトが犯人? お前そりゃないだろう」

 依然、北條は誠に推理を明かしてくれた。アンノウンとあかつき号、そして高海伸幸氏の事件には何らかの因果関係がある。その繋がりとして彼はアギトを見出したのか。でも何を根拠に。アギト――つまり翔一が現れたのは、アンノウンの出現と同時期のはず。

 北條はほくそ笑み、

「勿論、津上翔一という意味ではありませんよ。彼の前に出現していたアギトが犯人なら………」

「そんな馬鹿なこと。北條さん、一体何を証拠に――」

 問いを重ねようとしたところで、北條の顔が霞んだ。視線を転じても、辺りの光景がぼやけていく。

「どうかしましたか?」

 呼ばれて視線を戻すと、視界が戻る。

「いえ、別に………」

 そうはぐらかしながら、誠は目蓋を揉む。やはりまだ疲れているのか。

 

 Saint_Snowがコーチを務める練習は、メンバー全員を披露へと落とし込んだ。とはいってもふたりの特別メニューというわけでなく、普段通りのウォーミングアップでいきなり息があがってしまったのだが。平然としていたのは果南ひとりだけ。

 学校周辺の沿道を1周しへたり込む千歌たちに、聖良は溜め息交じりに言う。

「お正月ですからね、皆さん」

 「どういうことですの?」とダイヤが訊いた。

「随分身体がなまっている、てことよ」

 と理亜が遠慮なく言ってのける。ふたりだって千歌たちと同じ距離を走ってきたはずなのに、呼吸がまったく乱れていない。流石、優勝候補と目されただけのことはある。

「身体を1度起こさないと駄目ですね」

 聖良は学校まで続く坂道を見上げ、

「校門まで坂道ダッシュして校舎を3周してきてくれますか」

 涼しい顔をした果南を除く全員で「ええ⁉」と抗議の声をあげる。そんな千歌たちに理亜は意地悪な笑みを浮かべ、

「さっき言ったよ。遠慮しない、て」

 深い溜め息をついていると、沿道にバイクの走行音が響いた。聞き覚えのある音に耳を傍立てていると、VTR1000Fが千歌たちの前で停まる。

「千歌ちゃん、タオル忘れてたよ」

 ヘルメットを脱いだ翔一が、リュックから綺麗に畳んだタオルを出した。「ありがとう翔一くん」と受け取り、じっとりと額に浮かんだ汗を拭う。

「翔一……」

 聖良が呟くと、翔一は姉妹に気付いたらしく人好しな笑顔を向ける。

「ああもしかして、Saint_Snowさん?」

「はい、鹿角聖良といいます。こっちは妹の理亜です」

 紹介された理亜は、初対面の翔一に少し緊張した面持ちで無言のまま会釈する。

「千歌ちゃんから話聞いてるよ。凄いスクールアイドルだ、て」

「こちらも千歌さんからお話は聞いています。クリスマスケーキ、ありがとうございました。凄く美味しかったです」

 聖良が言うと翔一は「本当?」と更に気を良くしてリュックからタッパーを取り出し、

「良かったあ。あとこれ、皆に差し入れ持ってきたんだけど、聖良ちゃんと理亜ちゃんも食べてよ」

 いつも千歌に持たせてくれるミカンのはちみつ漬けを、聖良は「ありがとうございます」と受け取る。

「あと練習終わったらうちに寄ってってよ。菜園の大根が良い感じに育ってさ。お土産に――」

 「もういいから」と千歌は翔一の背を押してバイクへと追いやっていく。何だか親戚のおじさんを見られているみたいで少し恥ずかしい。

「じゃあ皆、頑張って」

 と翔一はバイクで来た道を去って行った。一応、後で鹿角姉妹は家に招待しておこう。大根を持って帰ってくれるかは別として。

「温かい人ですね、津上さん」

 翔一の去った方角を眺めながら、聖良は呟く。

「1度会ってみたいと思っていたんです。見守ってくれる人がいる、て素敵ですね」

 照れ臭いながらも、千歌は「はい」と笑顔を返した。翔一もまた、この内浦で千歌たちを見守ってくれている人々のひとり。輝きを見つけることができたのなら、彼には必ず見てほしい。それだけが護られてきたことの、唯一の恩返しだから。

「さて、それでは練習再開です」

 と聖良は手を叩いた。何とか有耶無耶にできないか、と期待したのだが、そうもいかないらしい。それぞれぼやきながら、千歌たちは重い脚を動かし坂道を全速力で登っていく。

 

 

   3

 

 もう1歩も歩けない。というか歩きたくない。

 坂道ダッシュに校舎3周を走り切った足は、もう棒のようにぶら下がっている。体力作りには今までも励んできたけど、数日の休養を取っただけでこんなにも身体が重くなるとは。

「こんな調子で決勝なんて、本当に大丈夫なのかな………?」

 息をあえがせながら梨子が言った。そんな弱音に聖良は「いけると思いますよ」と告げる。

「ステージ、て不思議とメンバーの気持ちがお客さんに伝わるものだと思うんです。今の皆さんの気持ちが自然に伝われば、きっと素晴らしいステージになると思います」

 今の想いを、そのままに歌えば。

 聖良から言ってもらえると、いけるような気がした。この熱を保持したまま決勝へ臨めば、きっと優勝できる。

「はい」

 千歌は強く応じる。きっと輝きも見つけることができる。今までの軌跡を、積み重ねてきたものを全力で出し切れば。

「鞠莉ちゃんは?」

 とルビィが言った。そういえば、姿が見えない。「ああ」と思い出したようにダイヤが、

「何かご両親からお電話だったみたいですが」

 「もしかして統廃合中止ずら?」と花丸が期待気味に言う。善子が「ほっほっほ」と指で髭を形作り、

「この学校を続けることにしたぞよ」

「何勝手にキャラ作ってるずら」

 なんて噂をすれば、「皆」と鞠莉が戻ってくる。

「お話は済みましたの?」

 ダイヤが訊くと、「Yes」と応じた鞠莉は連絡の次第を話してくれた。その内容が規格外なもので、全員で目を丸くする。

「理事?」

 ダイヤが反芻すると、「Of course」と鞠莉は応じ、

「統合先の学校の理事に就任してほしい、て。ほら、浦の星から生徒もたくさん行くことになるし。わたしがいたほうが、皆も安心できるだろうから、て」

 いまいち内容が咀嚼できないのか、「理事、て?」と眉を潜める理亜にルビィが簡単に説明をする。

「鞠莉ちゃん、浦の星の理事長さんでもあるの」

「ええ⁉」

 まあ、驚くのも無理はない。千歌だって初めて知った時は同じ反応だった。

「じゃあ、春からも鞠莉ちゃん一緒に学校に?」

 期待を込めて千歌は訊いた。

「Aqoursも続けられる?」

 「いや、それ留年したみたいだし」と曜に言われ千歌は口をつぐむ。

「大丈夫、断ったから」

 鞠莉はさらりと言った。「え?」と皆の声が揃う。

「理事にはならないよ。わたしね、この学校を卒業したらパパの勧めるイタリアの大学に通うの」

 また海外なんて、大忙しだな。なんて呑気に思ったところで、千歌は気付く。

「だから、あと3ヶ月。ここに居られるのも」

 ラブライブが終われば、3年生は浦の星女学院最後の卒業生になる。千歌たちと一緒に、統合先の学校に行くこともなく。

 

 夕方まで練習に打ち込むと、千歌たちは鹿角姉妹を沼津駅まで送った。途中で寄った十千万で翔一に渡された大根を、聖良は嫌な顔せず受け取ってくれた。

「もう少しゆっくりしていけば良いのに」

 練習を見に来てくれたのに、何のもてなしも出来なかったことが名残惜しい。とはいえ、あまり遊べる場所はないのだけれど。

「ちょっと、他にも寄る予定があるので」

「予定?」

 そこでルビィが挙手し、

「ルビィ知ってるよ。ふたりで遊園地行くんだ、て」

 「言わなくていい!」と顔を紅潮させながら理亜が噛みつく。はあ、と嘆息し理亜は千歌に折り畳んだ紙を手渡す。

「これ、姉様とふたりで考えた練習メニュー」

 「ありがとう」と言いながら紙を開くと、全員で中身を覗き込む。「うわ、こんなに……」とそのハードさに善子が漏らした。文句にも理亜は構わず、

「ラブライブで優勝するんでしょ? そのくらいやらなきゃ」

 何となく、千歌はこのメニューはSaint_Snowが決勝に進んだ時のために用意したものじゃないか、と思った。ふたりのラブライブはもう終わったけど、まだ続いているAqoursに託してくれた気がした。

「ただの思い出作りじゃないはずですよ」

 聖良の言う通り、思い出なんかで終わらせるためにやっているんじゃない。理亜もそれを知っているからこそ、自分たちの想いを託してくれている。

「必ず優勝して。信じてる」

 また背負う想いが増えたな。受け取った紙を握りしめ、千歌は強く頷く。

「うん」

 そこで気分が高まったのかルビィも拳を握り、

「頑張ルビィ!」

 と意気込んでみせたのだが、初めて見たのか理亜は「何それ?」と冷たい視線を送る。補足として花丸が言った。

「ルビィちゃんの必殺技ずら」

 技だったんだ。

 

 鹿角姉妹を見送ったあと、メンバー達もこの日は現地解散することになった。千歌は曜と梨子と、特に行き先も決めないまま一緒に散歩し、島郷(とうごう)海水浴場で足を落ち着けることにした。

 夕陽が山陰に沈もうとしている。メンバー全員がいつまでも一緒にいられたら、と願っても、日は沈んで昇って、毎日は過ぎていく。何気ない日々のサイクルも残り3ヶ月で終わろうとしている。

「イタリアかあ」

 まだ行ったことのない地に想いを馳せてみるけど、想像なんてできなかった。何せ千歌は生まれた時から内浦に居たし、離れるなんて考えたこともなかったから。

「そうね。きっとそうなるのかもな、てどこかでは思ってたけど」

 梨子が感じ取っていた別れの予感に、千歌も気付かなかったわけじゃない。

「実際、本当になるとね」

 曜が寂しげに呟いた。ラブライブを理由に有耶無耶にしてきたけど、いざ別れを予告されると否応なく寂しさが込み上げる。

「あと3ヶ月もないんだよね」

 また明日、と皆で別れられるのも、残り僅か。またすぐ会える。明日会ったら何を話そう。何をしよう。最初から気付いていたはずだ。この奮闘は期限付きなんだ、と。

「ラブライブが終わったら、すぐ卒業式で」

 曜に続いて梨子も、

「鞠莉ちゃんだけじゃないわ。ダイヤさんも果南ちゃんも………」

 ダイヤも果南も、それぞれ進路を考えていただろう。

「春になったら、もう皆と一緒に学校帰ったり、バス停で皆とバイバイしたりもなくなって、制服も……、教室も………」

 この冬が過ぎたら、また春が来る。去年の、スクールアイドルを始めようと沸き立っていた頃とは、全く違う春が。次の春を迎えるのは浦の星とは別の学校。制服も変わって、顔を合わせるメンバーの中に3人はいない。

 千歌は流れ着いた枝を拾って、砂浜に文字を書いた。3人だけだった頃、砂浜に書き残されていたAqoursの文字。実はダイヤが名残惜しさに残していたものを意図せず受け取る形になった、自分たちの名前。

「Aqoursはどうなるの?」

 梨子が訊いた。

「3年生、卒業したら………」

 曜がその後を促してくる。考えなければいけないことは、分かっている。この9人以外に有り得ない、と終わらせるのか、それとも続けていくのか。

「分かんない。本当に考えてない」

 それが正直なところだった。

「何かね、ラブライブが終わるまでは、決勝で結果が出るまでは、そこから先の事は考えちゃいけない気がするんだ」

 ただの現実逃避なのかもしれないけど、それが最善と思っている。今までラブライブをゴールと決めてきたけど、ゴールに辿り着いた後も千歌の高校生活はまだ残っている。その先に何を目指すべきなのか、まだ考えることはできない。まず目の前に迫ったゴールには到達していないのだから。

「皆のため?」

 梨子が訊いた。それもあるのだけれど、やっぱり根底にあるのは千歌自身の願いからだった。

「全身全霊、全ての想いをかけて、ラブライブ決勝に出て優勝して、ずっと探していた輝きを見つけて――」

 到達した場所で求めていたものを見つけられたとき、初めて次へと進むことができる気がする。

「それが、学校の皆と卒業する鞠莉ちゃん、果南ちゃん、ダイヤさんに対する礼儀だと思う」

 ゴールはもう目前。だから今は、一切の雑念を捨てて向かっていこう。

 不意に、梨子に両頬を手で包まれる。「な、何?」と回らない舌で訊くと、梨子は穏やかに笑いながら言った。

「賛成」

 「ちょっとお」と文句でも言おうとしたところで、

「大賛成!」

 と曜に抱き着かれた。千歌は撥ねつけることなく、ふたりの背に腕を回す。別れが来るのは仕方のないことだ。だからこそ、会えるうちにこうして互いの温もりを確かめ合っておきたい。互いの熱を感じたまま、決勝へ行きたい。

 そのために、どうしても千歌は確かめておかなければならなかった。

「ふたりとも、わたしに何か隠してるよね?」

 そう告げると、梨子と曜は咄嗟に千歌から離れた。向けられた視線はまるで恐ろしいものでも見ているようで、やっぱり、という確信と共に別れとは別の寂しさが裡によぎる。

「ふたりだけじゃなくて、翔一くんも。ずっと様子が変だったんだもん」

 ふたりや翔一が、挙動不審だったわけじゃない。3人ともいつも通りで、ぎこちなさなんて感じなかった。でも、千歌は無根拠ながらに普段との「ずれ」を感じていた。

「お願い、全部話して」

 ふたりは逡巡し、互いに顔を見合わせる。無言のまま梨子は首を横に振り、曜は唇を噛む。梨子のほうが口を開きかけたのだが、曜はそれを制止し、千歌を悲しげな目で見据えた。

「千歌ちゃん、実はね――」

 

 



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第3話

 

   1

 

「ただいまあ」

 買い物から帰ってきた翔一を「おかえり」と迎えてくれたのは女将ひとりだけだった。そういえば、志満も美渡も帰りが遅くなる、と言っていた。友人たちとの新年会に行くとか。

「千歌ちゃん、まだ帰って来てないんですか?」

「部屋にいるけど………」

 そう告げる女将の声は、どこか沈んでいるように聞こえた。「そうそう」と女将は思い出したように、

「さっき梨子ちゃんが、翔一君に用があるみたいだったけど」

 ぞわり、と背筋に悪寒が走った。「そう、ですか」と途切れ途切れに応じる。

「すみません、ちょっと梨子ちゃん家に行ってきます」

 買い物袋を置いて隣の桜内家に行くと、梨子の母が出てきた。

「あら翔一君、明けましておめでとう」

「おめでとうございます。あの、梨子ちゃんいますか?」

「ええ………」

 少し戸惑った様子だったが、桜内夫人は家の奥へ引っ込んでいき、そう待たず入れ替わりに梨子が玄関先へ来てくれた。

「翔一さん………」

 梨子は両目を赤く腫らしていた。泣いていたらしい。もう、翔一には何があったのか分かってしまった。

「もしかして――」

 続きを訊くのが怖ろしく言葉を詰まらせたが、察したのか梨子はこくり、と頷く。

「全部、言いました………」

 この感覚をどう形容したらいいのか、翔一には分からなかった。知られたことの絶望なのか、もう隠す必要のない安堵なのか。

「ごめんなさい、わたし………」

「梨子ちゃんが謝ることないよ。どの道言わなきゃいけなかったんだからさ」

 梨子だって、言いたくて言ったわけじゃない事は分かる。きっと千歌は、翔一たちの後ろめたさを察していたのだろう。周りによく目を向けられる子だから、僅かな変化も敏感に感じていたのかもしれない。隠し通すことが最初から無理だった話だ。

「俺の方こそ、ごめん。俺から言わなきゃいけなかったのに、梨子ちゃんと、それに曜ちゃんにも辛いことさせて………」

 踵を返して、短い帰路を歩き出す。「翔一さん」と呼ぶ梨子へ振り向くことができなかった。もう俺は、今までの翔一じゃない。この子たちに顔向けなんてできない。

「ごめん、俺夕飯の支度あるからさ」

 そう言って早足で十千万へ戻った。

 

 まだ小学校に入る前の幼い千歌を、父は満面の笑みで膝の上に乗せている。別の写真では小学校高学年に成長した千歌が、また父の膝の上でピースサインしている。

 最後に父と撮った写真の中で、千歌は中学の制服を着ている。父が東京から帰ってきた正月に、十千万の玄関先で撮った家族写真。誰もが笑顔だった。父も母も、志満も美渡も千歌も、しいたけも。

 この写真を撮ってから半年近く経って、父は死んだ。何も千歌たち家族に告げることなく、唐突に。何の前触れもなく警察から電話が来て、父が死んだ、恐らくは何者かに殺された、とだけ聞かされた。十千万を訪ねた河野から説明された父の死に様に家族の誰もが納得できていなかったが、でも河野を責める気力も父を失った空虚で塗り潰されていた。

 遺体に外傷は無いが、何故か内臓が酷く破壊されている。体内から毒物は検出されず、つまるところどうやって絶命したのかは分からない。

 ようやく対面を許された父は、河野の言った通り綺麗な死に顔をしていた。傷なんてどこにも見当たらず。もう動くことのない父の手を握った感触は、今でも忘れることはできない。千歌の頭を撫でてくれた大きな手は固くなっていた。その変わりように、二度と目を覚まさない父に縋り付いて泣いた。

 お父さん、お父さん。

 何度読んでも父は返事をしてくれなかった。千歌、と優しく呼んでくれた声は、もう戻ってこない。

 何気なく捲ったアルバムのページには、父がいなくなった後の家族写真が加えられている。まるで父と入れ替わるように、青年は高海家にやってきた。記憶喪失で、過去と名前を失った青年。写真の中で、千歌の隣にいる彼もまた父と同じように満面の笑みを浮かべている。

 ――千歌ちゃんのお父さんを殺した犯人、翔一さんのお姉さんじゃないか、て――

 島郷海水場で曜から告げられた真相が、耳の奥で反響している。

 ――翔一さんのお姉さんもアギトで、その力で千歌ちゃんのお父さんを――

 アギトの力を持った姉弟。弟の力は千歌をアンノウンから護り、片や姉の力は千歌から父を奪った。

 ずっと行方知れずだった犯人を、どう憎めばいいのか分からなかった。誰が父を殺したのか、誰を恨めばいいのか。そんな行き場のない悲しみの先を見つけたのに、千歌の裡に憎悪は見つからない。矛先を見つけたところで、その相手も既にこの世にはいない。何も言わず去ってしまった。彼女もまた唐突に、弟を残したまま。

「千歌ちゃん」

 その声が聞こえ、咄嗟に千歌はアルバムを閉じた。

 

「ちょっといい?」

 今まで平気で中へ入った部屋なのに、今は踏み込むことができない。翔一は恐れていた。障子を開けたとき、中にいる千歌がどんな顔をしているのか見ることができない。

「あのさ、俺………ごめん」

 そんな陳腐な言葉しか見つけることができない。ごめんで済むのなら警察はいらない。今更謝ったところで溜飲が下がることはない。それでも翔一は謝罪を告げなければならなかった。もう詫びることのできない姉の代わりに。身内として、代わりに千歌からの憎しみを受け止めるために。

 突然、障子が勢いよく開いた。コートを掴んだ千歌は廊下を素早く駆けていき、階段を降りて玄関へと出て行く。

「千歌ちゃん!」

 呼びながら追いかけても、千歌は振り向いてはくれない。コートを着ながらも速度を落とすことなく、千歌は夜の沿道を走っていく。全てが数秒のうちの出来事で、彼女の顔は一瞬も見ることができなかった。

 翔一は十千万の門から数歩進んだところで足を止めた。追いついたところで、一体何を言えばいいのだろう。合わせる顔なんて、最初からないのに。

「私のせいなの」

 千歌の姿が宵闇に消えていったとき、出てきた女将がそう言った。

「私のせいで、伸幸さんは………」

 そういえば、と翔一は今更ながら思い出す。女将は姉について知っているようだった。あの黒い青年が現れたことで有耶無耶になってしまったが。

 居間に戻ると、女将はアルバムから1枚の写真を引っ張り出した。十千万の玄関先で撮られた、高海伸幸氏と学生たちの集合写真。他の学生に混ざって笑顔を浮かべている姉を女将は指さし、

「翔一君のお姉さんて、この人?」

 正解だった。翔一は睨むような視線を女将に送り、

「じゃあ女将さん知ってたんですか? 姉さんのこと」

「ええ。あの人がうちにゼミの学生さん達を連れてきたときに、紹介してくれたことがあったの。その前から何度も話には聞いていたけどね。沢木雪菜さん、ていう教え子を支えに、超能力の実験をしている、て」

 女将は今まで見たことのない険しい顔をする。写真の中とはいえ、とても亡き夫に向けるような顔ではなかった。

「その度に私は反対したわ。超能力なんてものが本当にあるなんて信じられなかったから。でもあの人は夢中だった。実際、素人の私でも分かるほど、あの人の実験は成果を挙げていた。でもだからこそ、私はますます強く反対したわ」

 悔やむように、女将は唇を結ぶ。だがすぐにまた口を開き、

「実験に没頭するあまり、あの人は人間が踏み込んではいけない領域に入り込んでいる気がして。あの最後の日、あの人は言っていたわ。自分の手で超人を作ってみせる、て。でもその直後に………」

 悲しみとも怒りとも言えない表情で肩を震わせると、女将は翔一から顔を逸らす。

「私があの人を止めていたら、あんな事には………」

「でも、それは女将さんのせいじゃありませんよ」

 そう、女将が自身を責めるなんてお門違いだ。彼女だって夫を殺された被害者。責められるべきは姉で、彼女亡き今はその責は弟の翔一が背負うべきなのだから。

「あの人が死んだことは、当然の報いだと思ってる。あの人の研究に振り回されたせいで、雪菜さんは………。でも、あの人は娘たちにとって、最期まで良い父親であってほしかった。だからあの日、あの人に会ったことは誰にも言えなかった」

 超能力、即ちアギトという超人の覚醒。人によっては荒唐無稽な、狂気とも言える研究だったかもしれない。でも女将は妻として、母親として、娘たちに「優しいお父さん」という偶像を刷り込むことを選択した。そのために真実を隠したことの罪を、彼女は背負い続けてきた。

 更に女将の告げた真実に、翔一は息を呑んだ。

「あの日、あの人は曜ちゃんにも超能力があることを教えてくれた」

「じゃあ知ってたんですか? 女将さんも曜ちゃんのこと」

「ええ、曜ちゃんだけじゃないわ。あの人と一緒に研究していた、桜内さんの娘さんにも力がある、て」

「桜内さんて……、まさか梨子ちゃん………?」

「私があの人が超能力の実験で命を落としたことを言っても、誰にも信じてもらえないわ。でも、誰かにあの人の研究資料を見つけられたら、また実験が始まってしまうかもしれない。そうなったら曜ちゃんや、梨子ちゃんが巻き込まれてしまう」

 梨子が内浦に越してきたのは、父の仕事の都合と聞いたことがある。その真相が、超能力を持った梨子を研究から遠ざけるためだったとは。

「だから私は、あの人の研究を消して、あの日聞いた全てを忘れようとした」

 ようやく、女将が何故東京へ単身赴任していたのかを悟った。娘たちに夫の本当の姿を隠すために。未来ある子供たちが悪魔の研究に利用されないために。二度と姉のような運命の犠牲者を出さないために、彼女はたったひとりで奔走し、夫の過ちを消そうとしていた。

「ごめんなさい翔一君」

 嗚咽を堪えながら、女将はか細い声を絞り出す。

「私が弱かったばかりに……、雪菜さんを助けられなくて………」

 目の前の小さく、でも大きな母としての女将を責めることなんてできなかった。

「女将さんが気に病むことなんて全然ありませんよ」

 女将はただ、母親としての務めを果たそうとしただけだ。娘たちのささやかな日常を壊すまいと。その願いに罪はない。命を落とした伸幸氏だって、研究者として眼前に提示された可能性を呼び覚まそうとしただけ。

 そもそも伸幸氏が超能力の研究に没頭していたのは、姉というサンプルに出会ってしまったからじゃないか。可能性なんて悪魔の色香に誘われて、彼は破滅に追い込まれてしまった。

「悪いのは……、悪いのは………!」

 諸悪の根源はアギトなんだ。こんな力が世界に存在するせいで、悲しみばかりが渦巻いて――

「翔一君?」

 零れそうな嗚咽を飲み込んで、翔一はすう、と深く息を吐く。

「俺、千歌ちゃんに会ってきます。何を言ったらいいのか分からないけど、とにかく会わなくちゃ」

 

 

   2

 

 ゆっくりとソファから身体を起こした涼は、ハンガーに掛けられたジャケットを羽織った。ポケットから出したスマートフォンに表示された日付を見ると、もう元旦になっている。何とも味気ない年越しを過ごしたものだ。この屋敷は世間の喧騒から隔離されているかのように、独自の時間が流れているように感じてしまう。

「どこに行く」

 ロビーに出ると、階段の上から沢木が声を掛けてきた。数日世話になり、いや以前死にかけた際にも世話になり恩は感じているのだが、この男に対する疑念は深まるばかりだった。翔一の本名を名乗り、アギトを護る者を自称するこの男が何者なのか、この数日間で何度も問い詰めたがとうとう口を割ることはなかった。翔一の姉のことも。

「津上のところに。今の奴には、助けが必要だ」

 詳しいことは知らないが、翔一は姉のことでアギトとしての意義を見失っている。彼に戦いを促すことは酷だが、もう悠長に構えてはいられない。アギトの力が人を殺めたことが事実でも、そのアギトの力が、唯一戦える翔一だけが頼りだ。

 玄関へ歩き出す涼を、「待て」と沢木は止める。何だ、と鬱陶しさを覚えながら振り向くと、沢木は言った。

「彼を、頼む」

 その言葉を意外に感じ、涼は面食らってしまった。彼もまた、何の目的があるのかは知らないがアギトの存在を必要としている。

 言われなくてもそのつもりだ。津上のことは必ず助ける。もう俺に力がなくても。

 

 こんこん、とノックする音が聞こえ、寝支度を始めていた鞠莉は部屋のドアを開けた。

「薫?」

「お前、津上翔一の居所を知ってるか?」

 唐突に薫は訊いてきた。「ええ」と応じながら訊き返す。

「でも、どうするつもりなの?」

 薫はすぐに答えず、明後日のほうを眺めながらがらんどうに呟く。

「分からない、俺にも」

 薫の中に沸いた意志。本人にその正体が分からなくても、鞠莉は知っている。きゅ、と唇を結ぶと、鞠莉はかつての姿に戻りつつある薫に告げた。

「ちょっと待ってて。すぐ着替えるから」

 

 バイクで内浦湾の沿道を走っていた翔一は、獅子浜の埠頭で夜の静けさと暗闇に溶け込んでしまいそうな人影を見つけバイクを停めた。

 前に千歌から教えてくれたことがある。幼い頃は埠頭で父と海釣りに出掛けた、と。父が釣った魚を家に持ち帰って、母が捌いて塩焼きや唐揚げにしたものがとても美味しかった。そんな思い出話に触発されて翔一も釣りに行ってみたが、数時間粘ってもボウズだった。市場で買った魚を持ち帰ったとき、千歌に酷く肩を落とされたことを覚えている。

 思えば、千歌はよく翔一に甘えてくれた気がする。今日はあれが食べたいこれが食べたい。テストで良い点数を取ったら頭を撫でて、とねだられたこともある。

 千歌は翔一に父性を求めていたのだろうか。父に代わって、自分の頭を撫でてくれる大きな手を。父を喪った空虚を、突然やってきた記憶喪失の、実は父を殺した人間の弟で埋めようとしていたのだろうか。

「千歌ちゃん」

 数メートルほどの距離を置いて呼びかける。ゆっくりと振り向いた千歌の顔を、雲間から覗く月光が照らし出す。

「翔一くん」

 そう呼ぶ千歌は無表情だった。いつも表情豊かで、何かあるとコロコロ変わる彼女の顔が、今は冬の空気で凍り付いたように冷めきっている。

 互いに無言だった。視線を交わすこともできず、逡巡の中で波の音だけが聞こえる。

「千歌ちゃん、俺………」

 会わなければ。そんな使命感のまま衝動的に追いかけてきたものの、言葉が見つからない。そもそも、何を言うべきか、何を言いたいのか整理もつかないままだった。千歌に何を望んでいるかすらも分からない。

「俺――」

 と歩み寄ろうとしたとき、

「近寄らないで!」

 その言葉が、翔一の耳をついた。足が固まったように動かなくなり、埠頭から走り去っていく千歌の背中を見送ることしかできない。

 俺は一体何を期待していたんだろう。ただ自嘲だけが裡に湧き上がる。真相を知った千歌が、変わらず笑顔を向けてくれるだなんて夢想していたのだろうか。依然アギトと知られたときのように、翔一くんは翔一くん、と受け入れてくれるとでも思っていたのだろうか。

 とんだ勘違いだ。今まで千歌を護り、頭を撫でてきたこの手は逃れようのない罪に塗れている。父を奪った者と同じ力を持った手で、まるで泥を拭うように彼女へ差し伸べるなんてどうしてできるのか。

 不意にばさ、という音が風を切った。咄嗟に振り返ると、人型の翼を持った異形が翔一の顔面を手で覆う。闇雲に振るった拳が、どうやら敵の顔面を打ったらしく視界が開けた。たたらを踏んだハヤブサが、忌々し気に翔一を睨んでいる。

「変身!」

 アギトに変身した翔一に、ハヤブサは翼をはためかせ滑空してくる。身を翻して突進を避けると共に、背中に手刀を叩き込んで地面に落とした。起き上がったと同時に顔面に拳を見舞い、更に鳩尾に蹴りを入れていく。反撃の余地など与えず、ただ相手のがら空きになった箇所に的確に攻撃を加えていく。

 苦し紛れに振るわれた拳を屈んで避け、腹に拳を沈めた。そのまま突き上げるように振り上げ、敵の身体を宙に放る。

 力なく倒れる敵へ肉迫しようと拳を握ったとき、さっきの千歌の声が耳朶に反響する。

 ――近寄らないで!――

 思わず足を止めた。握った拳が、力むあまり震えている。翔一は開いた拳、異形に変貌した自身の手を見つめた。

 俺はこの手で、一体何をしてきたんだ。皆の居場所を護りたい。そんな大義名分を掲げて、正義のヒーローにでもなったつもりか。アンノウンが翔一を襲ってきたのも、翔一がアギトだから。この世界にはびこる、人ならざる存在だから。存在を否定されて、ただその事に駄々っ子のように反抗してきただけじゃないか。

 アンノウンが跳びかかってくる。されるがまま腹に蹴りを食らい地面を転がる。振り下ろされた拳を受け止め、でも反撃する気にもなれずただ防戦一方になっていく。

 サイレンの音が近付いてきた。翔一とアンノウンの間にガードチェイサーが割って入り、素早く降りたG3-Xがアンノウンに組み付く。

「津上さん!」

 誠の声だった。どうやら怪我から復帰できたらしい。

「どうしたんです津上さん! 戦ってください!」

 そんな誠の願いが、どこか遠くからの声に感じられる。ただ呆然と純粋な人間とアンノウンの戦いを眺めている翔一の視界に、人影が歩み寄ってくる。

 埠頭でアギトである翔一を見据えるのは、黒い青年だった。前に遭遇したときのような、彼に対する恐怖や敵対心は翔一の裡に沸いてこない。それどころか安堵すら生じていた。この安堵も、彼がこの世界を始めた神と呼ぶべき存在と知った故だろうか。

 黒い青年は言う。

「貰いますよ。アギトの力を」

 沢木が言っていた。太古に起こった人間と使徒との戦いは、驕り鷹ぶった人間への粛清だった。使徒たちの警告に耳を貸さなかった人間に身の程を知らしめるために、使徒たちは人間に痛みを与えた。

 それで人間が過ちを認めれば良かった。それなのに、光が人間にアギトなんて対抗する術を与えてしまったせいで、事は現代まで延々と長引いてしまった。

 これは原罪だ。人類が抱え続けてきた、アギトという異形が一掃されてようやく償われる罪。

 そう、人は人のままでいい。地に足を着けて、無力を受け入れたありのままの姿でいればいい。何処か遠くへ飛べるかもしれないと驕りを助長させる「力」なんて、持ってはいけない。

 俺が力を失えば、もうアンノウンと戦う術はない。アンノウンも、俺を襲う理由もない。

 力が目覚めた人々は抵抗すらできずアンノウンに殺されていくだろう。やがて人間たちは自分たちの手の届かない存在を知り、未来を握られていることを悟るだろう。

 どれほどの時間が掛かるかは分からないが、いずれこの世界からアギトはいなくなり無力な人間だけが残る。

 その世界の風景が、今と変化のある風景になるとは思えなかった。アギトという存在が生まれたばかりの今、まだ何も始まってはいない。予測不可能な因子が消えれば、今の延長になるだけで何が変わるわけでもないからだ。

 でもそれこそが、神に約束された楽園のあるべき風景なのかもしれない。

 誰も力に苦しむことはない。

 誰も力に傷付けられることもない。

 ただそう在るようにして、絶対的な庇護のまま永遠に続いていくだけ。

 

 それで、いい。

 

「よせ、津上!」

 遠くから涼の声が聞こえたが、もう翔一には関係のないことだった。今この瞬間、何処かで誰かが裡の力を顕現させていようと。力に目覚めた者がアンノウンに襲われていても。襲われた者の家族が不可思議な死に悲しんでいても。

 黒い青年から放たれた波動を、翔一はただ受け入れる。

 

 



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第4話

 

   1

 

 「ううっ」という呻き声が聞こえ、誠はアンノウンの拳を交わしながら視線を転じる。地面に倒れたアギトの姿が翔一に戻り、その腹から光る球のようなものが浮かび上がっていた。

 光の球は吸い込まれるように宙を滑り、その先で立っている黒衣の青年の腹に収まる。

「あれは……!」

 青年の顔に誠は息を呑んだ。彼は確か、三浦智子殺害事件の犯人として逮捕された。精神病院に措置入院しているはずが、どうしてこんな所に。

 それに、今の光景は一体――

 腹を抑える翔一の呻き声で、思考は中断される。

「津上さん!」

 翔一を映す視界がぼやけた。一瞬、センサーの不具合かと思った。胸部装甲に衝撃が走る。アンノウンの爪でやられたらしい。目の前の敵へ目を向けるが、視界は霞かかったまま。敵がどこにいるのか分からないまま、闇雲に振るった拳が空を切る。直後、右肩を殴られた衝撃が走り身を狼狽えさせた。すぐさま右へ蹴りを入れるのだが、それも虚しく空振り反撃を許してしまう。

 どういうことだ。センサーの不具合ならモニタリングしている小沢も確認できるはず。何故指示を飛ばしてくれないのか。

 いや、そもそもセンサーの不具合で霞がかるなんておかしい。普通なら暗転かノイズが走るはずだ。マスク内に損傷のアラートが響いている。ということは、G3-Xのシステムは問題なく機能している。

 まさか、僕の目か。

 目が視えていないのか。

 成す術なく胸を穿たれ、地面を転がる。何度か瞬きを繰り返していると、視界の霞が少しだけ晴れ、一瞬だが迫ってくるアンノウンの姿が映し出される。

 視えた!

 すかさずGM-01を抜き発砲する。引き金に指をかけた時にはまた霞で視界が覆われたが、破砕音から命中したと分かった。ばさ、と翼を広げるような音が聞こえた。構えるが何も起こらず、無音が漂う。

「津上!」

「翔一!」

 そんな声が聞こえると同時、視界が回復していく。目を向けると、翔一のもとに涼と木野と鞠莉が駆け寄っていた。

「しっかりしろ!」

「津上!」

 涼と木野が呼びかけても、翔一は粗い呼吸を繰り返しているだけ。一体あの青年に何をされたのか。翔一の体から出てきたあの光は何なのか。

 埠頭を見渡しても、黒い青年の姿は既にない。困惑と恐怖ばかりが裡で渦巻いている誠の耳に、小沢からの指示が来た。

『氷川君、アンノウンは逃走したわ。帰還して』

 

 埠頭の空き倉庫を拝借して、しばしの休息を経た翔一は痛みが治まったらしく、呼吸が安定した。椅子代わりに腰掛けたコンテナボックスで彼は俯いたまま、涼と薫、それに鞠莉からの視線を一身に集めている。

 薫が教えてくれた。あの黒い青年によって、薫と涼は力を奪われたと。翔一にも同じことが起こってしまったと。

「津上、何故だ?」

 涼が怒気を含んだ声で訊く。

「何故自分からアギトを捨てた?」

 翔一は長い逡巡を挟み、か細い声で答えた。

「あれは……、あれは人間が持っちゃいけない力なんです」

 「ちょっと待ってください」という声が割り込んでくる。G3-Xとしての戦闘を終え、背広姿で戻ってきた誠が倉庫に入ってくる。

「どういうことですか。アギトを捨てた、て?」

 鞠莉たちへ険しい視線を巡らせると、誠は翔一の前に屈み彼の顔を覗き込む。

「一体何があったんです?」

「俺、今までアギトの力で人を護ることができる、て思ってました。でも違ったんです。アギトは人を不幸にします。そんな力を持ってたって、仕方ないじゃないですか」

 そう語る翔一を、誠は信じられない、と言うような目で見つめていた。

「何を言ってるんです………? 現にあなたは、今まで多くの人々を助けてきたじゃありませんか」

「氷川さんには分かりませんよ。アギトじゃない氷川さんには」

「それは………」

 突き放すようなその物言いに、誠は何も言えずにいる。誠だけじゃない。翔一と同じ力を持っていた薫も涼も、ただ無言のまま彼を見下ろしている。

 力を持った者の苦悩は、当人でなければ分からない。力で苦しめられた涼、力で狂ってしまった薫、力の目覚めに恐怖した鞠莉でなければ。

「もういいじゃありませんか。俺たちはアギトじゃなくなったんです。ただの人間として、皆勝手に生きていけばいいんです。もう関係ないですよ俺たち」

 そう言って、翔一は重そうな身体を起こして倉庫から出て行く。誰も後を追うことはできなかった。

 

 部屋に戻ってから、千歌は何もする気が起きなかった。走って温まった身体は冬の空気ですぐに冷え込んで、布団に潜ろうにも眠気も来ない。

 頭の中がぐるぐるとかき回されているようだった。思考が全くまとまらない。どうしてあの時、翔一を拒んでしまったのか、千歌自身にも判然としなかった。

 彼が父を殺した者の身内だったからなのか。それとも父を殺したのと同じ力を持っているからなのか。

 これは恐怖なのか、それとも憎悪なのか、分からない。

「千歌ちゃん」

 襖を隔てて、翔一の声が聞こえた。今の翔一に、恐怖は感じない。全くの無感覚だ。一切の感情が冷え込んで凍り付いたように。

 翔一は部屋に入ろうとせず、襖越しに続ける。

「千歌ちゃん。俺、もうアギトじゃないから。アギトの力を、捨てたからさ」

 「どういうこと?」と思わず訊いていた。言葉の意味が分からない。

「人間は、人間のままでいれば良いもんね」

 翔一はそれだけ答え、

「だから、ごめん………。姉さんのこと、これで赦してもらおうなんて思ってないけど………、ごめん」

 足音が、部屋から遠ざかっていく。詳しく訊こうにも、その気力すら千歌にはなかった。

 

 

   2

 

「では、どこにも異常はないと?」

 北條の問いに、医師は「ええ」とカルテを見ながら答える。

「先日入院していた際の検査結果も確認してみたのですが、脳にも視神経にも異常はありません」

 北條はその説明に納得がいかないような表情をしているが、この診察は北條ではなく誠のものだ。朝出勤したら北條に掴まって強引に病院へと連れてこられ、また精密検査を受けることになってしまった。何でも北條は、先日のオペレーションを現場で見ていたらしい。つまり、彼はあの時誠に起こった異常を目の当たりにしていたということ。

 身体に異常がないことは、誠自身が最もよく知っている。入院中も検査は受けていたし、どこにも異常は無いから退院の許可が下りて現場復帰した。

 「もしかしたら……」と医師はカルテから目を離し、

「ストレス性の神経異常の可能性もあります」

 「ストレス?」と誠が反芻すると、医師は「ええ」と応じ、

「過度なストレスによって、正常なはずの器官が突如不調を起こすことがあります。例えば難聴や味覚障害、顔面の神経が麻痺するといった症状もあります」

「彼の場合、視覚に症状が現れたということですか?」

 北條の質問に医師は言葉を探るように、

「一概にそう、とは言えませんが可能性はあります。精神科のほうで、カウンセリングの手配をすることができますが――」

 「いえ、結構です」と誠は椅子を立った。少し前ならばその提案を受け入れただろうが、今は悠長に構えていられる状況じゃない。

「ありがとうございました」

 医師に頭を下げて、診察室を出た。遅れて出てきた北條に言う。

「だから言ったじゃないですか。大したことない、て」

「果たしてそうでしょうか。アンノウンと戦うに際しては、たとえ一時的にせよ目が視えなくなれば命取りになりかねない。私としては、当分の間G3-Xの装着はやめるべきだと思いますが」

 それが正しい判断だろう。悔しいが、北條の言っていることは常に正しい。それは認めざるを得ないが、この時ばかりは受け入れることはできない。

「それは……、それはできません」

「しかし、氷川さん――」

「北條さんはご存知ですか? 津上さんは今、アギトとして戦えなくなってるんです」

「津上翔一が? どういうことです?」

「詳しいことは分かりません。彼に何があったのか………」

 何故翔一が自らアギトを捨ててしまったのかは分からない。彼に言われたように、アギトでない誠に彼の苦悩は理解できないだろう。木野も涼も、謎の人物からアギトの力を奪われた、と言っていた。だとしたら、今戦うことができるのは誠ひとりだ。アギトでない、ただの人間でしかない誠だけが。

「でも僕がG3-Xとして命懸けで戦っていれば、きっとアギトは帰ってきてくれる。理屈じゃなく、僕はそう信じてるんです」

 颯爽と現場に現れアンノウンと戦っているアギトの背中を見て、誠は常に思っていた。自分も強くなりたい、と。多くの人々を救えるように。特別な力が有ろうが無かろうが関係なく、食らいつくように出動してきた。

 同じ戦う者ならば、と誠には直感で理解できる。かつての彼のように自分が戦い続ければ、翔一は必ず戦士としての意志を取り戻してくれる、と。こんなこと、北條に言ったら嘲笑を買うだろうか。

「お願いします。僕の目のことは誰にも言わないでください」

 北條は笑わなかった。いつものように険しい眼差しで誠を見据え、逡巡の後に溜め息をつく。

「知りませんよ。どうなっても」

 

 これからについて話し合おう。その鞠莉の呼びかけに応じて涼はホテルオハラまで来てくれたのだが、彼はソファに腰掛けたままひと言も発することなく俯いている。薫も、ただぼんやりと窓辺で内浦湾を眺めたままだった。

 話し合いどころか沈黙するふたりに耐えかねて、鞠莉が切り出す。

「これからどうするの? 今のままじゃどうしようもないじゃない」

 こんな年下の少女に好き放題言われても、ふたりは何も返してこない。これからの戦いを、G3-Xである誠ひとりで乗り切れるとは思えない。都合よく鞠莉がアギトに変身できるようになったからといって、碌に戦えもしないままあの黒い青年に力を奪われるのも目に見えている。

 対抗する術はもうない。これからアギトの種を持つ者が狩られていく様を怯えながら見ていくしかないのか。

「そう、今の我々はただの人間だ」

 ようやく薫が口を開いた。でも彼が告げたのは、

「どうすることもできない。津上が言うように、それぞれ自由に生きていけばいい。鞠莉、お前たちを護れる者は誰もいない。せめて、アンノウンに勘付かれないよう力を抑えることだ」

 ソファに腰掛けた薫は深く溜め息をつく。アギトでなくなった今、かつての同胞たちを救う力も道理もない。ある意味で、このふたりは過酷な運命から解放されたと言っていい。薫は力なんてなくても医師として生き続ければいいし、涼は力に苦しめられることなく人間として平穏な人生を歩んでいける。

 それなのに、どうしても素直に喜ぶことができない。自分を護ってくれる存在がいなくなったからだろうか。今度こそ自分と、他に力を持ったメンバー達の未来が閉ざされてしまうからなのか。身勝手な不安に駆られる自分が嫌になる。こんなとき、自分も変身するほど力を高められたらよかったのに。

「我々を繋ぐものは、もう何もない」

 薫は告げた。一見すれば何の接点もなかったこの面々がこうして一堂に会するのは、アギトという繋がりがあったから。それぞれが抱えていたものがなくなった以上、もう運命が交わることはない。鞠莉たちや誰かがアンノウンに狙われようが、ふたりにとっては他人事。過去に垣間見た世界の裏側での出来事でしかない。

「できないな俺には」

 そう言って、涼はソファから立ち上がる。

「ようやく見つけた絆だ。津上を放っておくことは俺にはできない」

 コートを掴んで部屋を出て行く涼を、薫は細めた目で見送っていた。まるで眩しいものでも見ているようだった。ようやく過酷な運命から解放されたのに、目を背けることなく向き合おうとする彼の背中を。

「奴は、どうしてあんなに………」

 当人に届かない問いに、鞠莉は代わりに応える。

「それが、薫から継いだ意志だからよ」

 薫の目が、鞠莉へと向いた。鞠莉は続ける。

「前に涼が言っていたじゃない。あなたは彼の心に火を点けたの。アギトとか関係なく人を救おうとする薫のように、涼も戦うことを決めたの」

「そんな意志はもう無意味だ。俺たちにできることは何もない」

「それでも涼は翔一を助けるわ。何もできなくても、前の薫みたいに」

「前の、俺のように………?」

 がらんどうに呟いた薫は、自分の右手に目をやった。今更何を言ったところで、薫はかつての彼に戻ってはくれないのかもしれない。でも、彼の意志を継いだのは涼だけじゃない。鞠莉だって薫の背中を見て、追いかけてきたひとりなのだから。

 

 

   3

 

 練習着に着替えて、千歌は居間へと降りた。今日の練習は休みだけど、走れば気晴らしになるかもしれない。効果はあまり望めないけど。居間には母ひとりだけだった。しいたけと一緒に正月特番を見ている。姉たちは、また新年会だろうか。台所をちらりと覗くと、そこは静まり返っている。菜園かな、と思いながら、千歌はそれとなく母に訊いてみた。

「翔一くんは?」

「ああ、ちょっと出てくる、て」

「………そう」

 正直、安堵した。昨日から翔一とは顔を合わせていない。今朝の朝食も、食卓に出る気になれず部屋で布団を被っていたら、いつの間にか部屋の前にお盆に乗った食事が置かれていた。白米に味噌汁に、焼き鮭と漬物。間違いなく翔一の作った味だけど、いつものように美味しく感じられなかった。

「千歌、ちょっといい?」

 母はそう言うと、新年で賑やかなテレビを消した。「うん」と戸惑いながら、テーブルを挟んで対面に正座する。

「大体の話は、翔一君から聞いて知ってるわ。残酷な話だと思う。私も辛いわ」

 辛いなんて言葉を告げながら、母はなぜか微笑んでいた。どうしてそんな顔ができるんだろう、と疑問しか沸かない。

「でも、今の千歌を見たら、お父さんはどう思う?」

「お父さんが?」

 そんなの、分かるはずもない。死人に口なんて無いのだから。母は遠くを見やるように、

「千歌の、千歌たち姉妹の名前はお父さんが付けたのよ。何で志満や美渡や千歌、て名前なのか、知ってる?」

 千歌は無言でかぶりを振った。考えてみれば、今まで名前の由来なんて聞いたことなかったし、知ろうともしなかった気がする。

「千歌たちの名前はね、この内浦に伝わる伝説の女神様から付けられたの。大昔に集落が深刻な不作で皆が飢えていたときに、その女神様は天から降りてきた。彼女の胸は志に満ちていて、海と山を美しい佇まいで渡り、千の歌を口ずさむと稲が芽吹き沢山の人々を救った、と言い伝えられているの。お父さんは千歌たちの名前に、人々を救える人間になってほしい、て願いを込めていたのよ」

 太古の昔に、この内浦を救った女神。千歌はその偉業の、千の歌を授けられた。不思議な因果だ。父に授けられた名前の通りに、スクールアイドルとして歌うことになるなんて。

「人々を、救う……? そんなの無理だよ………」

 目尻が熱くなっていく。こんな素敵な名前を付けてくれた父に、申し訳なさしか沸かなかった。自分の歌が誰かを救うなんて、できっこない。こんな普通怪獣の、ただの人間でしかない自分に、翔一を救うことなんてできない。

「わたしなんかに……、わたしなんかに………」

 涙が溢れるのを止められない。理解はしていた。辛いのは翔一も同じだ、と。今まで千歌を護るために振るってきた拳が人を殺める力にもなってしまった事実に、最も心を痛めているのは彼自身だ。翔一は千歌から恨まれ、罰せられることを望んでいるのかもしれない。でも、憎悪なんて向けられるはずないじゃないか。父のいなくなった空虚を埋めてくれたのは、翔一だったのだから。

 嫌なことがあっても、翔一が家で「お帰り」と迎えてくれると自然と笑顔になった。彼の作る料理を食べると元気が沸いた。昼休みに翔一が持たせてくれた弁当を食べるのが楽しみだった。もはや兄も同然の彼を、憎むには一緒にいる時間が長過ぎた。

「わたし、どうして良いか分からない」

 自分なんかに、翔一の傷を癒すことはできない。ならばどうすれば良いのだろう。考えるよりも早く、千歌は無意識に玄関へ向かっていた。「千歌?」という母の声に一旦足を止め、

「翔一くんに会ってくる。何て言ったら良いのか分からないけど、とにかく会わなくちゃ」

 

 せっかくの休みにも関わらず、鞠莉の呼びかけに皆は松月に集まってくれた。

「千歌ちゃんは?」

 全員が席についた頃になって、曜が唯一この場にいないメンバーを口にする。

「呼ばなかったわ。チカっちには辛い話だから」

 「どういうこと?」と果南が首を傾げる。誰もが似たような反応だが、曜と梨子のふたりは青ざめた顔を俯かせている。もしや、と鞠莉は思ったのだが、敢えて触れることはせず告げる。

「翔一がアギトの力を奪われたわ」

 「え?」と皆が揃って口を開いた。「それはどういう……」とダイヤは声を詰まらせている。

「正直、何が起こったのかはわたしにもよく分からない。ただ、翔一はもう変身できない、てこと。自分からアギトの力を捨てたのよ」

 あの黒い青年が何者なのかは分からない。分かるのは、彼もアンノウンと同じようにアギトを敵視しているということ。そしてアンノウンよりも強力な存在ということだけ。

「でもどうして自分から?」

「そうずら。翔一さんが?」

 ルビィと花丸も、ただ純粋な疑問をぶつけてくる。理由は何となく分かる。でも、それを明かすのが正しいかも不明瞭だ。

「わたしのせい………」

 答えあぐねていると、曜が震える声を絞り出す。隣に座っている梨子が曜の肩を抱きながら「曜ちゃんのせいじゃないわ」と穏やかに声をかけている。

「ふたりは知っていたの?」

 鞠莉が訊くと、嗚咽を押し殺すのに必死な曜に変わって梨子が首肯を返す。

「ねえ、一体何のことなの?」

 蚊帳の外に追いやられていた面々の中から、善子が苛立った様子で訊いてくる。逡巡するが、沈黙するわけにもいかない。鞠莉たちに立ち入る事ではないのかもしれないけど、知ってしまった以上は目を背けてはいられない。

 それに、涼も言っていたように、鞠莉にとってもAqoursはようやく見つけた絆だ。千歌も、翔一も、どちらも放っておくことはできない。

「実は――」

 鞠莉の告げた真相に、皆は唖然としていた。

「まさか、翔一さんのお姉様が………」

 ようやく声を出せたダイヤですら、平静を保てずにいる。

「千歌のお父さんがね………」

 果南も信じられない、という口調で呟く。千歌の父とも面識があったらしいから、思う所があるのかもしれない。

「でも、それって翔一は何も悪くないじゃない」

 善子が言った。その鋭い言葉に、皆が口をつぐむ。善子の言う通り、この件に明確な加害者も被害者も存在しない。千歌の父が翔一の姉を単なる実験サンプルとして見ていたのか、翔一の姉が千歌の父を憎んでいたのかは分からない。もしかしたら千歌の父は純粋にアギトという存在に人類の希望を見出していたのかもしれないし、翔一の姉も力を抑えられずに犯してしまった悲劇なのかもしれない。当事者たちが既にいない今、ふたりの胸中は闇の中。

 確かなことは、犯人の親族だからといって翔一に罪を被せるいわれはないという事だ。同じ力を持っていたからといって、彼は何の関係もない。

「人の心は、そう簡単に割り切れるものじゃないずら」

 花丸の言う事も正しくはある。鞠莉たち他人からすれば翔一は悪くない、と簡単に言える。でもそれは本当に無関係だから。親族同士という入り組んだ者同士に行き交う感情は、到底理解できるものじゃない。

「ええ、どちらも辛いのは同じことですわ。この痛みは、おふたりにしか分からないことです」

 ダイヤが嘆息気味に言う。千歌の行き場のない悲しみの受け皿になることを、翔一は選んでしまった。もう償うことのできない姉の代わりに、せめてもの贖罪がアギトの放棄だったのかもしれない。

 アンノウンにアギト狩りを進めてもらうために。人を不幸にする力をこの世から根絶やしにしてもらうために。

「千歌ちゃん?」

 不意に、曜が呟いた。彼女の視線を追って窓を見やると、練習着を着た千歌が沿道を走っていく。数舜だけ見えた彼女の顔からは、涙の滴が後方へと流れていった。

「千歌ちゃん………」

 曜と梨子が、勢いよく椅子から立って店を飛び出していく。鞠莉もすぐに後を追うのだが、店から出たところで1台のワゴンが目の前で停まった。ナンバーを見なくても、それが小原家の送迎車とすぐに分かった。運転席から降りてきたのは家お抱えの運転手ではなく、

「薫?」

「乗れ。お前たちが集まっていたら、アンノウンの良い餌だ」

 



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第5話

 

   1

 

 焦る気持ちで、涼は自然とアクセルグリップを更に捻る。猛スピードに過ぎ行く景色の中で翔一のVTR1000Fを探すが、どこに行っても見つからない。市街を一通り回ったところで、もしかしたら買い物を済ませて帰路についたのでは、と内浦方面へと進路を変えた。

 バイクを駆りながら、涼は周囲へ視線を向けるのをやめない。

 津上、お前をひとりにはさせない。

 俺はお前に憧れていたんだ。力を怖れず誰かのために戦おうとするお前のようになりたかった。お前のような生き方を、俺もしてみたいと思ったんだ。

 絶対に見つけてやる。目を覚ましそうになかったら、1発殴るかもしれないがな。

 淡島への船着き場を過ぎたところで、道路のすぐ横に広がる森のなかで何かが佇んでいるのが見えた。急ブレーキで停まり注視すると、髪がヤマアラシのように逆立てたその生命体は、甲高い摩擦音を立てた涼になど目もくれず獣の目を光らせている。視線を追うと、その眼光は歩道を走る少女たちに向いていた。

「おい!」

 不意に怒声が耳をつき、涼は後方を見やった。舗装された道路には不釣り合いな大型のジープから、息を荒立てた男が降りて涼へと近付いてくる。

「止まってんじゃねえよ、危ねえだろ!」

 丁度よかった、と思いながら涼もバイクから降りて男へ駆け寄る。

「車を貸してくれ、頼む」

「はあ? ふざけ――」

 緊急事態で説明するのも面倒臭いから、文句を言いかけた男の顔面に拳を入れて黙らせた。鼻血を垂らしながらうずくまる男に「済まない」と詫びを入れ、エンジンがかかったままのジープに乗り込んだ。

 

「千歌ちゃん!」

 後方から梨子の声が聞こえ、千歌は足を止めた。すぐに梨子と、それに曜も追いついてきて、足を止めると3人揃って息をあえがせる。

「千歌ちゃん、どこ行くの?」

 すぐに呼吸を整えた曜が訊いてきた。「翔一くんに会いに」と千歌は即答し、

「わたし、翔一くんとちゃんと話さなくちゃ。わたしじゃ翔一くんを助けられないかもしれないけど、それでも――」

 甲高い摩擦音が聞こえた。道路上でターンしたジープが路面に黒いタイヤ痕を描き、千歌たちの前で停まる。助手席のドアが開けられ、中から涼が声を飛ばしてきた。

「乗れ! 早く!」

 何が起こっているのが分からずまごついていると、降りた涼が後部座席に曜と梨子を、助手席に千歌を押し込んで車を走らせる。進路上に人型の影が降りてきた。それがアンノウンと分かったと同時、涼はスピードを緩めることなく怪物を撥ね飛ばして進み続ける。

 伊豆の国方面の県道に入ったところで、千歌はミラーで後方から追手が来ないか見張りながら涼に尋ねた。

「どこに行くんですか?」

「奴から逃げられるとこまでだ。俺は今戦えない。力を奪われたからな」

「奪われた、て……、翔一くんみたいに?」

「ああ」

 県道から逸れ、狭い砂利道へ入りひどく揺れた。小さな町工場の社屋がいくつか並んだ場所に出たところで行き止まりになる。まだ正月休みだからか、閑散としていて人の気配はしない。

 すぐ出られるように車のフロントを道路側に向け、涼は車を停めた。緊張の糸が切れたのか、深く息を吐きながらシートにもたれかかる。

「知ってるか? アンノウンはアギトになるかもしれない人間を襲っている」

 涼の言葉の意味が理解できず、千歌は「え?」と呆けた声を漏らす。「どういう事ですか?」と梨子が訊くと、涼は後部座席にいるふたりへと顔を向け、

「分かるだろ。君たちもアギトになるかもしれない、てことだ。君たちだけじゃない。他のAqoursの皆もだ」

 告げられた言葉に驚愕しながら、千歌はふたりを凝視する。

「そんな……。皆が、アギトに………」

 言われてみれば、納得できる部分がいくつもある。曜も梨子も、警察署でUSBメモリからイメージを読み取るなんて力を持っていた。他の皆も、似たような力を持っているということだろうか。

 Aqoursの皆だけじゃない。アンノウンの犠牲者たちは、皆がアギトになるかもしれなかった人々ということになる。こんな身近に、しかも沢山の人々に翔一や涼と同じ力があったなんて。

 曜が震える声で訊いた。

「わたし達の力って、アギトになる前触れなんですか?」

「確かなことは分からない。その可能性がある、てことだ」

 背中に悪寒が走った。つまりこの世界で、アギトとは決して珍しい存在じゃない。千歌にとってのAqoursの皆のように、隣人がいつ力に目覚めても、不思議なことではなくなっていく。

 涼は言った。

「怖いか? それが普通だ。津上が言ってた。奴の姉さんと君の父親との間に何かがあったようだが、きっと奴の姉さんも怖かったんだろう。今の君たちと同じようにな」

 近しい人間が、または自分自身が人でない存在になるかもしれない。力のせいで意図せず誰かを傷付けてしまうかもしれない。翔一の姉もそうだったのだろうか。父を殺した力で、愛する弟も手に掛けてしまうかもしれない。裡で育まれた怪物が完全に目覚める前に、彼女は死を選んだのだろうか。

 なら翔一はどうなんだろう。真相を知った彼も、同じ恐怖を抱いたのか。姉と同じ力に蝕まれて怪物になる自分自身を怖れたのだろうか。

 そんなことない、と断言したくても、千歌には分からない。千歌にはアギトになる可能性すらないのだから。持たざる人間が、知ったような口で皆や翔一が力なんかに負けない、なんてどうして言える。

 かさ、と草が揺れる音がした。過剰なほど肩を震わせながら視線を森へ転じると、薄暗い中でこちらを見ている鋭い眼光が。

「逃げるぞ!」

 エンジンを掛けてすぐに涼は車を走らせた。急発進するものだから慣性で身体がシートに貼り付けられる。後ろを見ると、人と獣が混ざった怪物が駆け足で追ってきていた。

 曜と梨子という、未来のアギトを狩るために。

 

 

   2

 

 翔一が空飛ぶ巨大な鳥を見かけたのは、富士市の激安スーパーで買い物をした帰りだった。バイパス通りを走っているとき、その生命体は内浦方面へと飛んでいった。

 どうして気配が、と思ってすぐに思い出す。そうだ、俺はアギトじゃなくなったんだ。アンノウンの気配なんて感じようがない。

 もうアギトじゃない。戦わなくていい。関係ないはずなのに、翔一は無意識にアクセルを捻りスピードを上げていた。

 

 山中の道を、涼は恐らく直感を頼りに走っていたことだろう。普通に暮らしていたら殆ど使わない道ばかりだから、自分が今どこを走っているのかも分からない。舗装どころか草木を踏み倒した獣道まで走ったせいで、車の窓ガラスは傷だらけになっている。

 舗装道路に戻り山を下ると、開けた海の見える場所に出た。そこが通学路の沿道とすぐに分かり、見知った場所だからか少し安堵してしまう。出頭に通りかかった車と出くわし、涼は急ブレーキを掛けて止めた。前につんのめりながら同じように急停止した相手の車のフロントガラスを見ると、助手席で鞠莉が見開いた目を千歌たちの車へ向けている。

「木野?」

 相手の運転席を見た涼がそう漏らしたと同時、車の天井が轟音と共にひしゃげた。何かが落ちてきたのか。腰を抜かしていると、相手の運転席から出てきた男がドアを開けて千歌を引っ張り出す。「薫!」と助手席から出てきた鞠莉を、涼が木野と呼んだ男は「来るな!」と怒声で制した。

 涼に引っ張り出された曜と梨子を、続々と車から出てきた他のAqoursメンバー達が抱き留めるように寄せていく。

 車から離れたところで、千歌は車の天井に立つアンノウンの姿を見た。軽い身のこなしで車から飛び降りたアンノウンが、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。その歪んだ口元が、まるで笑っているように見えた。

 涼は果敢にアンノウンへ跳びかかったのだが、ただの人間になった彼はいとも簡単に投げ飛ばされてしまう。

 ひゅう、と空気を裂くような音が聞こえたと同時、木野が「危ない!」と千歌たちの前で仁王立ちする。直後、彼の胸に鳥のような姿をしたアンノウンが突進をかました。「ううっ」と呻き声を漏らしながら、木野は後ろにいた1年生たちを巻き込みながら倒れる。「薫!」と鞠莉が真っ先に木野へと駆け寄り、肩を貸して起こそうとする。他のメンバー達も彼の介抱を手伝おうと集まり、それを見計らったかのようにヤマアラシのアンノウンが更に口元を歪めた。

「皆!」

 千歌が駆け出そうとしたとき、1台のバイクがアンノウンの前に割って入った。同時にアンノウンの頭から何かが飛んだのが見えた。それがバイクに乗っている青年の胸に刺さるのも。

「翔一くん!」

 駆け寄る千歌の手は払いのけられ、涼へと押しやられる。

「津上!」

「葦原さん、皆を早く! お願いします!」

 胸を抑える翔一が、何かしらの傷を負っているのは明白だった。「嫌だ、翔一くん!」と彼のもとへ行こうとするが、涼が肩を離してくれない。アギトでなくなった翔一がアンノウンに敵うはずがない。ここで別れたら二度と会えない気がして、彼から離れたくなかった。

「早く!」

 翔一の怒号に、まごついていた涼が意を決したように「こっちだ」と強引に千歌の身体を鞠莉たちが乗っていた車へ押し込む。

「皆も乗れ!」

 曜と梨子と、1年生の3人を乗せたところで、涼はまだ木野の傍にいる3年生たちに「早く!」と声を飛ばす。

「行って涼! わたし達なら大丈夫だから!」

 と鞠莉が返した。涼は逡巡したが、人数の多さを優先したようで運転席に乗り込み車を発進させる。

「翔一くん!」

 後部の窓に張り付きながら、千歌は小さくなっていく翔一たちを見ている事しかできなかった。その姿がどんどん小さくなっていく。

 今にも消えてしまいそうなほどに小さな翔一は、力なく倒れた。

 

 目の前で地面に突っ伏した翔一を見下ろし、アンノウンはふん、と笑った。その鋭く吊り上がった目を鞠莉たちへと向ける。首を大きくもたげる仕草をしたとき、来る、と鞠莉は恐怖で固まった。

 瞬間、アンノウンの身体が吹き飛んだ。立ち上がろうとしたところで、奥の茂みに生えていた樹の幹が折れてアンノウンへと傾く。寸でのところで避けたが、アンノウンは道路に倒れた樹と鞠莉たちを一瞥し、涼たちの乗った車を追うように道路を猛スピードで去って行った。

 遅れて、すぐ隣で粗い呼吸が聞こえる。見ると果南が、手をかざしながら緊張と興奮からか過呼吸でも起こしそうなほどに息をあえがせている。

「果南………」

「わたしにだって、これくらいなら………」

 怖いはずなのに、強がりな彼女らしく無理矢理に笑顔を鞠莉に見せる。

「それより翔一さんが」

 翔一はぐったりとうつ伏せのまま、まったく動く気配がない。背中が上下しているから、辛うじてまだ呼吸している様子ではあった。

「木野さん、いけませんわ!」

 ダイヤの声に振り向くと、鳥のようなアンノウンに突進された胸を押さえつけながら、薫が重そうな足取りで近付いてくる。

「津上!」

 呼びかけながら翔一をゆっくりと仰向けにし、頭からヘルメットを外す。ジャンパーの前を開けてシャツを捲ると、胸の中心のあたりに小さな赤い腫れがある。一見すれば虫刺されに見えるが、恐らくアンノウンから飛ばされた針が胸の奥深くまで食い込んでいるのだろう。

 患部を確認すると、薫は懐から長方形のケースを取り出す。開けた中身はメスや鉗子(かんし)といった手術器具だった。こうなることを予想していた、なんて都合の良いことではないだろう。いつでも不測の事態に対処できるよう普段から持ち歩いていたに違いない。

「薫?」

「ただの傷ではない。アンノウンの攻撃によって受けた傷だ。何が起こるか分からない。今この場で、打ち込まれた針を摘出する」

 「そんな、麻酔も無しにですか?」とダイヤが言った。「そうだ」と応じながら、薫は手際よくガーゼに小瓶の消毒液を染み込ませて翔一の患部を拭う。消毒液で濡らしたメスを握り、「抑えろ」と鞠莉たちに指示を出した。素直に従い果南が両足を、ダイヤが右腕を、鞠莉が左腕を掴み体重をかける。

 「ううっ」と呻く薫は額に玉汗を浮かべていた。薫だって治療が必要なはず。だが彼はしっかりとメスを握りしめ、乱れのない手つきで患部の皮膚に刃を当てる。麻酔なしの緊急手術で、当然訪れる痛みに翔一はもがこうとする。成人男性の力は予想以上に強いもので、普段から練習している鞠莉でも気を緩めれば放してしまいそうなほどだった。

 目の前で人体が切られているという光景に果南とダイヤは目を背け手足を抑えつけるのに必死だったが、鞠莉だけは薫の執刀する手術を見続けた。メスを濡らす血。鉗子によって広げられた傷口。露になった脂肪や筋肉の断面。あまりにも生々しい人体というものに吐き気を催し、目眩までしてくる。

 患者の意識が飛ばないよう、薫は翔一に呼びかける。

「津上、俺はアギトであることに呑み込まれてしまった人間だ」

 鞠莉は決して目を逸らさなかった。見届けなければならない、と思った。この男が人を救う姿を。

「だがそれはアギトのせいではない。俺という人間が弱かったからだ」

 弟を救えなかった兄としてではなく。

 最強唯一になろうとしたアギトとしてでもなく。

 ただの、

 目の前の命と真摯に向き合おうとする、ただひとりの医者として。

「俺は、自分の弱さと戦う。お前も負けるな!」

 広げた傷口に潜り込ませたピンセットが、肉の中にある異物を掴む。それを引き抜く瞬間、神経を刺激された痛みで翔一は絶叫した。彼の身体が痙攣を起こしているのが、抑える鞠莉の手に伝わってくる。すぐに痙攣は治まり、翔一の叫びも止む。薫の手にあるピンセットに、10センチほどの血濡れた黒い針が挟まれていた。

「大丈夫だ津上。心臓や肺にまでは達していない………」

 顎から汗を滴らせながら、薫は摘出した異物をピンセットごと無造作に投げ捨てた。

「傷を縫合する。最後まで気を抜くな」

 ケースから糸を出す木野の指示に、鞠莉たちは「はい」と応じた。

 

 長井崎の沿道を走りながらバックミラーを見やると、ヤマアラシに加えてハヤブサまで追ってくるのが見えた。丘へ伸びる脇道を見つけ、樹々に紛れるように入り稜線を登っていく。

 道路脇に一定間隔で規則的に植えられた樹々を見て、涼はここが浦の星女学院へと続く丘道であることに気付いた。すぐに校舎が見えてきて、それをバックに鳥の怪物がこちらへ正面から飛んでくる。

「掴まれ!」

 と同乗者たちに叫びながらハンドルを切る。大きく蛇行した車体がバランスを失い、道路から外れてしまい学校のグラウンドへ入り込む。何度かバウンドしながらも体勢を持ち直したのだが、待ち構えていたのかすぐ先に佇んでいたヤマアラシの頭から何かが飛んでくる。命中したフロントガラスが亀裂で覆われたせいで視界が塞がれた。続けてぱあん、と何かが破裂したような音と共に、車高が一気に下がったかのような感覚に陥る。ハンドル操作がままならず、タイヤがパンクした、と分かった。針でも打ち込まれたのか。

 もはや使い物にならない車を停めて、皆に「出ろ!」と声を飛ばす。涼自身も急ぎ降りると、勝ち誇ったとばかりに口元を歪めているヤマアラシが、ゆっくりとした足取りでこちらへと歩いてくる。

 涼は千歌たちの前に立つ。万事休すか。でも、ここで自分だけ尻尾を巻いて逃げるわけにもいかない。翔一から彼女たちを託された。せめて彼女たちが逃げ切るまでの足止めをしなければ。

 身ひとつでアンノウンへ向かおうとしたとき、パトカーのサイレンが聞こえた。

 いや、グラウンドに入ってきたのはパトカーじゃなく白バイだった。青い鎧のG3-Xの駆るバイクは涼たちのもとへ走って来て、その勢いのままヤマアラシを撥ね飛ばした。

 

 ガードチェイサーから降りた誠は、グラウンドを転がりはするもののすぐに立ち上がったヤマアラシを一瞥する。やはりこの程度では健在か。不意に後方からばさ、と翼を広げるような音が聞こえた。視線を転じるとハヤブサがすぐそこまで迫っていて、咄嗟に身を屈めた誠は上空を通過しようとするその腹に拳を沈める。

 体勢を崩して地面に落ちた敵へ、ロックを解除したGX-05の銃口を向けた。照準のポインタが敵に重なり引き金に指をかけたとき、それは再び訪れる。

 視界にかかる霞。瞬く間に全てがすりガラス越しのように曇り、映る影がアンノウンなのか涼たちなのか判別すらつかなくなる。

『氷川君、どうした?』

 違和感を悟ったのか、小沢の声がスピーカーから飛んでくる。答える間もなく、右肩に衝撃が走った。続けて胸部装甲にも。もはやこれでは丸腰も同然で、どこから敵が攻撃を仕掛けてくるのかまったく視えない。

 手からGX-05が弾かれ、更に胸を突かれた。

『何があったの? 氷川君!』

 小沢の声にも焦りが生じ始めている。

『北條さん⁉』

 と尾室の上ずった声が聞こえた。『失礼しますよ』と遠い声に続いて『ちょっとあなた!』と小沢が抗議している。それを無視した北條の声が、マスクの中に響いた。

『氷川さん、敵は右斜め。避けて!』

 咄嗟に身を屈めると、すぐ真上で何かが空を切る音が聞こえた。だがすぐ腹に圧力がかかる。踏み付けられているのか。続けて右の脇腹に蹴られたような衝撃がやってきて、地面を転がされる。

『左前方にGX-05があります』

 言われた通り、左へと手を這わせる。指先が固い何かに触れた。何度も扱ってきた武器だ。見なくても形状はしっかりと頭に入っている。グリップを掴み構えたところで、北條の次の指示が。

『左上後ろ』

 身を翻し銃口を向け、

『今です!』

 トリガーを引いた。銃なんて手応えは感じない。しっかりと命中しているのか視ることはできないが、すぐに断末魔と爆発音が聞こえた。トリガーから指を離してすぐ、

『左です、避けて!』

 安堵のあまり、気を緩めてしまったらしい。反応が遅れ顔面に強烈な痛みが来た。視界が曇ったせいか三半規管も狂っているらしく、ぼんやりとしていて足がふらつく。間髪入れず胸を殴られ、数舜の浮遊感の後に地面に激突した。

 しっかりとGX-05を掴んだままでいるが、果たして役に立つかどうか。今の誠には、相手取っている敵がハヤブサかヤマアラシのどちらかのかも分からない。

 視覚に頼れない分、鋭敏になった聴覚が近付いてくるバイクと車の音を聴き取る。

 ああ、来てくれた、と誠は確信した。

 誠が背中を追い続けてきた、アギトの駆るマシンの音だ。

 

 グラウンドに入ってきた銀色のバイクは、真っ直ぐヤマアラシへと向かい撥ね飛ばした。

「翔一くん!」

 ヘルメットを脱いでシートから降りた彼に、千歌は駆け寄っていく。翔一に続いてやって来た屋根のひしゃげた車からは3年生と木野が降りてくる。「お姉ちゃん!」とルビィがダイヤと抱き合って無事を確かめ合い、他の皆も互いを庇うようにグラウンドの一画に固まる。

 千歌の視線は、翔一の胸に向いていた。血が滲んでいる。翔一はしっかりと脚に力を込めて立っているのだが、額には汗が浮かんでいた。

「残念です」

 不意にその声が聞こえ、全員が息を呑んだ。見ると、いつからそこにいたのか、グラウンドに黒衣の奇妙なほど容姿の整った青年が立っている。その傍らで、ヤマアラシは(かしず)くように身を屈めていた。まるで王と家臣だ。

 現実味のない美貌の青年の出現に、涼と木野と翔一は千歌たちの前に立ち塞がる。

「あなた達の命を、奪わねばならない」

 青年は武器らしきものを何も持っていないのだが、千歌たちなんて簡単に殺すことができる、と直感で悟ることができた。きっと翔一たちからアギトの力を奪ったのは彼だ。

 ここにいる全員に、戦う力はない。G3-Xとして駆けつけてくれた誠も満身創痍で立つこともできずにいる。

 このとき千歌が抱いていたのは恐怖ではなく、気付きだった。

 何のために翔一に会おうとしたのか、彼に何を伝えたかったのか。その想いがようやく分かった。

「翔一くん戦って!」

 想いを乗せた言葉を、千歌は願いとして告げる。

「もう1度、アギトとして戦って!」

 翔一がアギトになっても、憎くも怖くもない。翔一は翔一のままだ。今までもこれからも。誰かのために勇敢に戦ってきたこの青年が、力に呑み込まれなんかしない。

 他の皆だって同じだ。いずれアギトになっても、何も変わるものなんてない。千歌の大切な、一緒に輝きを求めてきた仲間。今更怖れるものなんてない。人間の、アギトの希望として、翔一自身の輝きを取り戻してほしい。

 わたし達に勇気を与えてくれた力を手放さないで。

 翔一の目が、険しく吊り上がった。それは何度も見てきた、戦いへ向かおうとする時の目だった。

「うおおおおおおおおおおおおおおっ‼」

 雄叫びをあげながら、翔一は駆け出した。丸腰のまま佇んでいる黒い青年へ拳を振り上げるが、寸前で視えない何かに弾かれ無様に尻もちをつく。

 黒い青年は言う。

「無駄なことを。人間の力では、私には触れることすらできません」

 銃声と共に、青年へ銃弾の礫が飛んだ。誠が撃つガトリング砲だった。でも青年の目の前に生じる視えない壁に弾かれて、周囲に弾丸が散らばっていく。

 立ち上がった翔一は、礫の飛ぶ黒い青年のもとへ再び走っていく。彼が肉迫しようとした瞬間、弾丸が止んだ。振り上げた翔一の拳は障壁に阻まれることなく、黒い青年の頬を打った。

 倒れた黒い青年は、赤く腫れた左頬の痛みなんて意に介していないらしく、自身を殴った翔一へ目を見開く。痛みよりも、殴られた事実に驚愕しているようだった。

「馬鹿な……。人間が、この私を………」

 それはまるで、溺愛していた飼い犬から噛まれた飼い主のようにも見えた。絶対に逆らうはずのない者から与えられた痛みに、黒い青年の美しかったはずの顔が酷く歪んでいる。

 急に、黒い青年は悶え始めた。腹から3つの光る球が飛び出して、それらは白装束の幼い少年の姿に変わっていく。少年たちは一目散に駆け出して、親を見つけた迷子のように翔一と涼と木野へ抱き着いた。

 その姿が、再び光の球に変わっていく。球体は3人の腹で渦を巻き始め、その腰にベルトを形作り巻き付く。ベルトが唸るような音を鳴らし、それは次第に大きくなっていく。

 初めは目を剥いていた3人だったが、意を決した眼差しを黒い青年へ向けながら、戦いに赴くその言葉を告げる。

 木野は静かに。

 涼は雄々しく。

 翔一は力強く。

「変身!」

 3人の体が、眩い光と共に姿を変えた。

 木野はアナザーアギトに。

 涼はギルスに。

 そして翔一は、アギトに。

 失われたはずの3人の戦士が戻ってきたことに、黒い青年は驚愕を表情に貼り付けている。主君を護ろうと目の前に立ち塞がるヤマアラシへ、牙を向いた木野が跳躍しキックを打ち込んだ。

 右足を振り上げた涼が、敵の肩にヒールクロウを叩き込む。

 角を開いた翔一の、光を纏ったキックがヤマアラシの胸を蹴飛ばした。

 吹き飛んだヤマアラシの頭上に光輪が浮かぶ。穿たれた胸をかきむしりながらヤマアラシが縋るように天へ手を伸ばしたとき、その身体が爆散する。

 グラウンドに散らばった肉体はすぐに燃え尽きて、炎も間もなく煙をくゆらせるのみとなって消えていく。

 すぐ傍にいたはずの黒い青年の姿も、煙のように跡形もなくなっていた。

 

 

   3

 

「本当、無茶なことするわね」

 紅茶を出しながら呆れ顔で言う鞠莉に、「済まない」と涼は頭を下げた。

 アンノウンから逃げるために強奪した車の持ち主は当然警察に通報した。アンノウン出現に際した人身保護と誠が証言してくれたお陰で逮捕はされなかったが、相手を殴り車も損傷させたことは流石に不味かったらしい。後日警察署への出頭と、相手から治療費や廃車になった車の弁償代として結構な額が請求されるとのことだ。

 そこで支払いに応じるほどの財産がない涼に変わって弁護士の手配と支払いの肩代わりをしてくれたのが、鞠莉が口利きしてくれた小原家だった。とはいえ小原家も慈善家というわけではなく、借金としてこれから分割で返済していくことになったのだが。

「パパに言って全額立て替えてもらうこともできたのに」

「自分のやったことだ。けじめはつけるさ」

 若くして借金に苦しむ羽目になったわけだが、そう悲壮感はなく涼は紅茶を味わう。

「正直者は馬鹿を見るぞ」

 なんて木野がらしくない軽口を叩き、涼は皮肉を返した。

「元々あんたみたいに賢くないんでな」

 ふふ、と木野は控え目だが笑った。室内にも関わらずサングラスをかけているが、奥の目が笑っている、と何となく分かった。

 「ふたりとも、聞いてくれる?」と紅茶を啜った鞠莉が切り出した。「どうした?」と涼が促すと鞠莉ひと呼吸置いて、

「わたし、卒業したらイタリアの大学に行くの。そこも卒業したら、パパの会社を手伝っていずれ継ぐことになると思う」

 そういえば、跡取り娘だと果南が言ってたな、と思い出す。鞠莉が浦の星の理事長に就任していたのも、経営を学ばせるという親の意向だったらしい。ある意味で決められた人生だが、鞠莉の目は輝いていた。

「それでね、会社を継いだら新しい事業を始めようと思うの。具体的に何をするかはまだ考えてないんだけど、でも今日の薫の手術(オペ)を見て、薫みたいなdoctorがもっと沢山の人を助けられるようsupportしたいな、て」

 彼女の語る未来に、自然と涼の顔も綻んだ。何もアギトであることだけが、人を救う道じゃない。たとえ力がなくても、前線で人を救う者を助けることも、とても崇高な行いだ。千歌だってあの小さな身体から発した大声で翔一を救い、力を取り戻させたのだから。

「そうか、お前ならできる」

 木野が微笑と共に言うと、鞠莉は満面の笑みで頷いた。

「楽しみにしててね。bigなことしてみせるから」

 ビッグが過ぎて奇天烈なものにならなければいいがな。そんな皮肉を押し留めるように、涼は紅茶を飲み込む。

「鞠莉、紅茶を頼む」

 そう言って、木野は空になったカップを差し出す。「ええ」と快く応じた鞠莉はカップを受け取って、ポットを置いたワゴンへ歩いていく。こうして鞠莉にお茶を淹れさせられるのも、今のうちかもしれない。彼女ならいずれ、木野に医師としての資格を取り戻させることもやってのけそうだ。

 俺もこれからの事を考えないといけないな。そんなことを思いながら、涼はふと木野へ目を向ける。疲れたようにソファに身を沈めた木野は頭を垂れていた。

「どうした?」

 返事はなく、眠ってしまったのか微動だにしない。

「木野?」

 肩を揺すっても反応はなく、力の抜けた頭が抵抗もなく揺らいでいる。その口の端から赤い血が垂れた。

「おい、木野!」

 語気を強めて激しく揺さぶると、顔からサングラスが落ちた。ずっと隠れていた目は閉じられていて、それは眠っているように穏やかだった。

「薫?」

 涼の声を聞きつけてか、鞠莉がやって来た。眠り続ける木野を見つめる鞠莉は泣くこともせず、それどころか優しい微笑を浮かべ、

「眠らせてあげて」

 鞠莉は木野の右手を両手で優しく包み込んだ。ずっと過去に生き、後悔にまみれてきた彼の人生全てを労わるように。

「薫は山を降りたのよ。弟さんと一緒に」

 

 






さらば、仮面ライダーアナザーアギト、木野薫………

木野さんの生き様について皆様はどう感じたでしょうか?
私の感じたことは、本作の中で書いてきたつもりなのでここでは省略させて頂きます。


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第6話

 

   1

 

 アンノウンの犠牲者として警察に処理された薫の亡骸は、遠縁の親戚に引き取られることになった。両親は既に亡くなっていて、親戚関係も殆どなかったらしい。

 多くの人が後悔しながら死んでいく。あかつき号で、薫はそう言っていた。そんな死を見つめ続けてきた彼自身の最期が後悔を抱いたままだったかは、本人のみぞ知る。でも鞠莉は信じたい。穏やかな顔で逝った彼に、後悔なんて無かった、と。最期の瞬間、彼は過去のしがらみから解き放たれ、死を安らかに受け入れ旅立っていった、と。

 

 正月は何かと忙しい時期というが、年明けから僅か2日のうちに1年分の労力を使った気分だった。ようやく落ち着けるようになった鞠莉を、ダイヤと果南は気晴らしに連れ出してくれた。とはいえ、行き先は家のすぐ近くにある、淡島の東西を結ぶトンネルなのだが。

 淡島全域が観光スポットとして開発されているから、こうしたトンネル1本でも装飾に抜かりはない。青や緑といったイルミネーションが照明代わりに灯されていて、ほんの一時でも観光客の目を楽しませるよう工夫がなされている。

「ここのトンネル、久しブリデスネー」

 2年前と全く変わっていない。内部に閉ざされた湿った空気も、所々にある星形の電球も。

「落ち着くからね」

「ですわね」

 ふたりの口調はいつもと変わらなかった。変に気遣われるよりも、普段通りのほうが心地いい。それに、ふたりが慰めるために呼び出したわけじゃないことも分かる。

「で、何の用? もしかしてイタリア行くな、とか言い出すんじゃないよね?」

 「1年前だったら、言ってたかもだけどね」と果南は言った。

「じゃあ、何の相談もなく決めたから怒ってる?」

 「それも違いますわ」とダイヤが答える。

「話しとこうと思って」

 果南の言葉に首を傾げると先にダイヤが、

「実はわたくしも、東京の大学に推薦が決まりましたの」

 次に果南が、

「わたしは海外でダイビングのインストラクターの資格ちゃんと取りたいんだ」

 卒業後の進路を3人で語り合ったことはこれが初めてだった。ラブライブが終わるまでは他の話題は出さない。それが一種の暗黙の了解のようになっていて、敢えて触れずにいた。

「じゃあ――」

 ふたりもしっかりと進路は考えているだろう、と思っていたのだが、予想外のものに鞠莉は声を詰まらせる。3月で、鞠莉は沼津を去る。鞠莉だけでなく、ふたりも。

「卒業したら、3人ばらばら」

 果南は言って、ダイヤと一緒に切なそうに顔を俯かせる。

「ここには誰も残らず、簡単には会えなくなりますわね」

「一応言っておこうと思って」

 こうして3人で顔を合わせられるのも、本当に残り3ヶ月というわけだ。1年の頃に全てを明かしていればもっと長く一緒に居られたのに、と後悔してしまいそうになるが、取り戻せたのだから良しとしよう。

「そう」

 それだけ鞠莉は応えた。果南は半ば呆れたように、

「お互い相談もしないで、3人とも自分で決めてたなんて」

「あんなに喧嘩したのに相変わらずですわね、お互い」

 なんてダイヤの皮肉に思わず笑ってしまう。同じ過ちは繰り返さないように、と肝に銘じていたのに、まったく成長していない。

 「だね」と果南は笑い、大きく両腕を広げる。

「ハグ、しよ」

 初めて会ったときも、想いをぶつけ合ったときも、こうして果南は抱擁を求めていた。互いの存在を、身体の温もりを確かめ合うために。

 鞠莉はダイヤと共に果南の腕へ寄り添い、3人で互いの背中に腕を回す。とても温かかった。離れ離れになっても、再会したときはこの抱擁を交わすんだろうな、と思った。

 たとえ皆がアギトになったとしても、この温もりが変わることはない。

 あの船で授かった光は、きっと鞠莉たちの未来を切り開いてくれるはず。

 

「そういえば鞠莉、よく抜け出してたっけ」

 ホテルオハラの庭園に戻ると、建物の外観を見上げながら果南が思い出したように言った。もう深夜だから、宿泊客たちも多くが部屋の照明を消して眠りに就いている。

「それならあなた達も同罪です」

 抜け出していた、というよりも、どちらかといえば果南とダイヤが連れ出した、というべきだろう。勝手にホテルの敷地に忍び込んで、懐中電灯でモールス信号を出してきて。

「鞠莉さんが黙って出てくるからですわ」

 というダイヤに言葉に「だって」と、

「言ったら絶対Noて言われるに決まってるからね」

「お陰で、あれから凄く厳しくなりましたもの」

 ベランダから出られないよう1階に当てがわれていた自室が2階になって。それでもカーテンをロープ代わりに降りたから今度は3階になって。今度は梯子を調達して脱出したから最上階のスイートルーム。痺れを切らした母がバルコニーに出られないよう窓を固定してしまおう、と言い出す始末だった。鞠莉が引き払ったら客室として使用するつもりだった父が流石に止めたけど。

「今考えると、親御さんの苦労が分かりますわ」

「だって、ふたりと遊んじゃ駄目なんて言うんだもん」

 部屋から抜け出して3人で遊び帰宅したら、決まって両親からの説教が待っていた。ふたりも親から散々叱られていたらしい。

「しまいには勘当だっけ」

 と果南が笑った。もっとも、勘当を言い渡されたのは鞠莉ではなかったのだが。当時を思い出しながら、鞠莉は同じ言葉を口ずさむ。

「果南とダイヤと遊んじゃ駄目だ、て言うなら、パパもママも勘当します!」

「小学生の子供が、親に勘当を言い渡すなんて聞いたことありませんわ」

 なんてダイヤも笑う。覚えたばかりの言葉を意味も分からず使った、幼い頃の微笑ましい思い出だ。

「それを教えてくれたのはダイヤだよ」

 懲りずに何度も抜け出したら勘当されますわ、と言っていたのはダイヤだ。意味を尋ねてみたら親子の縁を切ること、と律儀に教えてくれた。両親に勘当を告げたらどこでそんな言葉を、と唖然としていたことを思い出す。

「そうでしたっけ?」

「子供だったよね」

 そう、まだ3人とも子供だった。現実の厳しさも待ち受ける運命も知らず、無条件に世界は美しい、と信じられるほどに。無知ゆえに視えたまやかしの風景だったのかもしれない。

「でも、楽しかった。everyday、何か新しいことが起きていた」

 あの頃に抱いていた思慕やこの内浦湾の美しさは、鞠莉にとっては今でも本物と断言できる。

 いつもふたりが来ていた庭園の桟橋を眺めながら、鞠莉は言う。

「1度しか言わないから、よく聞いて。わたしは果南とダイヤに会って、色んなことを教わったよ。世界が広いこと。友達といると、時間が経つのも忘れるほど楽しいこと。喧嘩の仕方に、仲直りの仕方。ふたりが外に連れ出してくれなかったら、わたしはまだひとつも知らないままだった。ずっとあの部屋から出てこられなかった」

 外の国から海を隔てた内浦という土地。それまで暮らしていた国とは人の言葉も文化も違っていて、そこには鞠莉の知らない事に溢れていた。ふたりと買い食いした駄菓子はホテルのシェフが作るケーキよりも美味しく、熱い夏に呑むラムネは紅茶よりも刺激的だった。

 ふたりが教えてくれた。あの部屋から出れば、自分の足で踏み出せば、世界は無限に広がっていくんだ、と。

「あの日から、3人いれば何でもできる、て。今の気持ちがあれば大丈夫だ、て」

 胸の奥にある熱と高鳴る鼓動のままに、自分の行きたい場所へ行ける。この3人なら、どんな困難でも成し遂げられる。幼い頃から抱き続けたこの確信は、未だ消えてはいない。

「そう思えた。Thank you(ありがとう)

 分かれの日が来る前に、この言葉は伝えておかなければならない。どこへ行っても、どんなに離れていてもわたし達は親友。会えたら、またハグをしよう。3人で、好きな所へ行こう。

 ぽつ、と鞠莉の頬に冷たい雫が落ちた。「雨、ですわ」と雲のかかった夜空を見上げダイヤが呟く。流れ星を観ようとしたあの日も雨だったな、と思い出した。

「また? まったくダイヤは」

「待ってわたくし? 雨女は鞠莉さんでしょ?」

「Why? 果南だよ」

「訴えるよ」

 軽口を叩き合っていると、さっきまでの雰囲気も壊れいつもの3人に戻ってしまう。やっぱり、自分たちはこれが丁度いいのかもしれない。今更感謝と別れを告げるなんてらしくない。いつもようにまた明日、と別れて、次に会ったら何をして遊ぼうか考えながら床に就くのが最も心地いい。

「もしかしたら、神様が願いを叶えさせたくないのかもしれませんわね」

「3人でずっと一緒にいられますように?」

 あの日を思い出してか、ダイヤと果南が小雨を降らす空を見ながら言う。鞠莉はあの黒い青年を思い浮かべた。翔一たちからアギトの力を奪い、アンノウンが傅く彼こそが神と呼ぶべきもので、この世界の天候すらも操ってしまうのだろうか。だとしたらこの雨は仕返しのつもりか。殴られたからといって、神様なのに何て幼稚な仕返しだろう。

「そんな心の狭い神様は勘当デース」

 なんておどけて、3人で大口を開けて笑った。自分たちを嫌う神に祈る気にはなれない。

「これで、終わりでいいの?」

 と果南が訊いた。

「このままあの時と同じで、流れ星にお祈りできなくていいの?」

「果南………」

「わたしは嫌だな。3人いれば何でもできる、て思ってたんでしょ。だったらやってみなきゃ」

「でも………」

「それに、今はもう3人じゃない。探しに行こうよ。わたし達だけの星を」

 神がもたらしてくれるのを待つんじゃなくて、自分たちの手で。

 あの頃の確信を胸に、どこまでも高い場所へ。

「わたし達だけの、星………」

 

 

   2

 

 台所を覗くと、いつもの見慣れた背中があった。エプロンを着て、慣れた手つきで洗った食器の水気をナプキンで拭き取っている。

「翔一くん」

 その名前を呼ぶと、青年は手を止めて千歌へと振り返り「ん?」ととぼけた笑顔を向けてくる。未だに信じられなかった。喧嘩なんて無縁そうなこの青年が、怪物と戦う戦士になるなんて。

 でも、何度だって見てきた。この人が姿を変えて、千歌たちの居場所を護り続けてきた姿を。こうして皆の食事を作って一緒に食べるささやかな日常のために、彼は戦ってこられた。たとえ怖くても、傷を負っても。

「もう大丈夫なの? お腹の怪我」

 「ああ大丈夫大丈夫」と翔一は腹をぽん、と叩き、

「病院に糸抜いてもらいに行ったらお医者さんびっくりしててさ。殆ど痕残ってなくて凄い、て」

「え、もう傷治ってたの?」

「うん。それもお医者さんにて驚かれたんだよね。アギトになると怪我も早く治るのかな」

 何とも呑気な言い方だ。たった1日で手術の傷が治ったら戸惑ってもいいくらいなのに。

「そっか、良かった」

 木野が亡くなったと聞いて、正直なところ千歌はどう思えばいいのか分からなかった。最後に会った昨日に名前を知った程度の間柄だけど、彼が翔一を手術してくれたとも聞いている。

 やはり、感謝というべきだろうか。木野のお陰で翔一はこうして、また十千万でいつものように過ごしているのだから。こうして言いたいことも言えず分かれてしまったら、きっと千歌は自分を赦せなかった。

「色々、ごめんね」

「何言ってんの。それは俺の台詞だって」

「ううん、わたしがごめんだよ」

「俺がごめんだって」

「ううん。今日はわたしがやるから」

 とまだ濡れている皿を取ろうとしたのだが翔一はそれを制止させ、

「いや千歌ちゃんはそんなことしなくていいからさ」

「いいって、わたしがやるよ」

「はいはい、ごめんちゃいごめんちゃい」

「ごめんちゃい?」

 下らない謝り合いに、ふたり揃って笑った。父を喪った寂しさは消えないけど、今は翔一がいる。それで十分だ。兄のようで、たまに弟のようなこの青年が、今の家族として一緒に居てくれれば。

 「あ、そうそう」と翔一は思い出したようにエプロンのポケットに手を入れ、

「これ、千歌ちゃんに」

 差し出されたのは「おとしだま」と書かれたポチ袋。端に母、志満、美渡、翔一プラスしいたけより、とある。

「おおおおおおお年玉あ!」

 と歓喜のあまり、受け取った袋を勝ち誇ったように高く掲げた。「どれどれ?」とさっそく開けて中身を確認してみると、お札ではなく代わりに「玄関の玉へGo!」と書かれた紙が。

「お年玉あ!」

 と真っ直ぐ玄関へ走った。玉、玉、と口走りながら玄関で丸いものを探す。

 ダルマ、は違う。

 恵比須様の像、もマルっぽいが違う。

 ランプ、違う。

 ん、ランプ?

 素通りしようとした球形の前に、千歌は足を止めた。インテリアとして置かれたランプ。電球に被せられ光を透過する丸い和紙に文字が書かれていた。

 ラブライブ! 全面協力!

 母、志満、美渡、翔一、+しいたけより

「皆………」

 確かに、これは立派なお年玉と言うべきかもしれない。あまり口を出さない姉たちも、1年の大半を東京で過ごしている母も、そして翔一もしいたけも、皆が千歌を応援してくれている。

「ありがとう」

 「千歌!」と表から果南の声が聞こえた。表に出ると傘を差した彼女は、

「ちょっと出掛けない?」

「出掛ける、て雨だよ」

 何気なく空模様を見ようと視線を転じた時、千歌は玄関前にメンバー全員が集まっていることに気が付いた。

「どうしたの?」

 「皆集まれ、て」と応じる曜も、何のことか分からずにいるらしく眉を潜めている。

「まったく迷惑な話よ。今夜も放送がある、ていうのに」

 と文句を垂れる善子に反して、「でも、何か楽しい」とルビィはご満悦でいる。

「どこに行くつもり?」

 千歌が訊くと、答えるようにヘッドライトを瞬かせながらマイクロバスが玄関前に停車した。急ブレーキだったから、停まった車体が慣性で揺れている。しかも車体もピンク塗装と何とも派手にカスタマイズされていた。

 そのバスに皆は困惑しているのだが、果南は何の気なしに、

「取り敢えず夜のドライブ。さあさあ、皆乗った乗った」

 促されるまま、不安で腰が引けながらも皆で乗り込んでいく。先日車でアンノウンから逃げ回っていたものだから、尚更に怖い。

「くっくっく。ここから始まるのね。デスドライブが――」

「何言ってるずら!」

「え、縁起でもない………」

 1年生たちに続いて乗るダイヤが窮屈そうに、

「ちょっと詰めてください」

 上着を取りに家に戻っていた千歌が最後だった。皆が何とか開けてくれた座席のスペースに腰を落ち着けると、

Too, late(遅かったね)

 というネイティブな英語が聞こえた運転席へ目を向けると、金色の髪を揺らしながら振り向いた運転手が皆へウィンクし、

「準備、All right?」

 「鞠莉ちゃん⁉」と上ずった声があがった。ダイヤは知っていたのか驚かず、助手席に座っている果南も、

「海外だと必要だからね。誕生日迎えたときに取ったんだって。因みにわたしも免許取ったよ。バイクだけど」

 と得意げに免許証を指先でちらつかせた。

「涼とtouring行きたいのよね」

 鞠莉のからかいに果南は「そんなんじゃないよ」と言っているが頬が赤らんでいるのを千歌は見逃さなかった。

「結局どこへ行くの?」

 シートベルトを締めながら訊いた。

「勿論、星を探しにね」

 また突拍子もないことに、「ええ⁉」と車内で声があがる。

「Let’s go!」

 と勢いよく発車した。ただしバックで。慌てて止まるものだから車内が物凄く揺れて、しかもギアを入れ直して再び発車したのだがいきなりエンストしてまた止まる。涼の運転のほうが遥かに安全だった。

「だ、大丈夫?」

 車酔いを起こしながら千歌が訊くと、鞠莉は「お、All right」と応じながらエンジンを掛け直し、今度こそ発車した。

 

「それにしても、まさか鞠莉の運転する車の助手席に座る日が来るなんてね」

 沿道を伊豆方面へ走っているなかで、果南が言った。「それはわたしの台詞」と応じ、

「まさか果南乗せて走る日が来るなんて」

「まあ、ダイヤが運転しているよりは安心か」

 なんて果南が言うと、後部座席から険の籠った当人の声が。

「その台詞、そっくりそのままお返ししますわ」

 車内が笑いで沸きながら、鞠莉は目的地へと愛車を走らせていく。雨は止む気配がなく、フロントガラスに打ち付ける雨粒をワイパーで払いのけ続ける。

「見て、船の光かな」

 曜が言った。ちらりと見ると、海に数点の光が星のように瞬いていた。「綺麗ね」と梨子が呟いている。

「何か、わくわくするね」

 と千歌が楽しそうに言った。「うん」と梨子が応じ、

「考えてみたら、こんな風に何も決めないで9人で遊びに行くなんて、初めてかも」

 車なんて大人の証明書みたいなものを運転しているけど、幼い頃に戻ったような気分でいられた。取り敢えず集まろう。何をするかは、集まってから決めて。皆で遊びを考える時間だって楽しくて、決めあぐねているうちに時間が早く過ぎてしまう。

 無計画に時間を浪費できるのは、きっとこれが最後。

「だから皆で来たかった」

 続きを果南が告げる。

「本当は、3人だけの予定だったんだけど」

 幼い日の忘れ物を取りに。3人だけで終わらせるつもりだったけど、星の輝きを見つけるのなら、連れて行かなければならないメンバーがもっといる。出した結論を、ダイヤが告げる。

「9人が良い、て」

 土肥峠への道へ入り、斜面に舗装された道路を登っていく。スピードを落とすまいとアクセルを踏み込んで、勢いを落とすことなく。このまま進み続けたら、どこへでも行ける確信があった。幼い頃に抱いた、皆といれば何でもできる、という無根拠なものが。何なら空さえも飛んで、雨を降らす雲を越え星の海原へと漕ぎ出してしまえそうなほどに。

 おとぎ話の中で、星空とは神の居る領域だったとされている。とある国の話では、死者たちの逝く場所とも。魂の輝きが星になって、夜空を照らし地上に残してきた人々を見守ってくれる、と絵本で呼んだ気がする。

 鞠莉はふと空を見上げた。あの雲の向こうに広がる星々に、薫はいるだろうか。

 彼の人生は、光とは程遠いものだったのかもしれない。弟を救えなかったばかりか、右腕を与えられて自分ひとりだけが生き残ってしまった。その手では人を救えまい、と医者としての資格を奪われ、更にあかつき号で神から憎まれる光を授けられた。

 求めた力を得たとしても、それは彼にとっては遅すぎた。いくら非合法に執るメスで多くを救っても、雪山で凍てついてしまった心が溶けることはない。後悔に蝕まれた心が授かった力を歪めてしまい、自分と同じ存在が赦せなくなった。

 過去に生きていることが無意味だ、と聡明な彼なら理解していたはず。でも、失うものが大きすぎた彼が生きるには、過去という理由が必要だった。虚しさを覚えながらも、それが弱さと知っても、それで多くの人々を救い、赦されるのなら。

 未来が視えず、英雄になれないまま死んでいった男。見方によってはそう捉えられるかもしれない。でも最後の手術で、彼は自身の「本当の弱さ」と戦い、勝利することができた。

 彼の生き様が、子供だった鞠莉を未来へと送り出してくれた。自分と同じ生き方をさせまいと。想いのまま、後悔しないように。

 これからの未来、鞠莉を導いてくれる木野薫はもういない。

 もっと多くのことを教えてほしかった。

 鞠莉の師と呼ぶべき人。

 彼に授けられた意志は、この胸に留めて未来へと連れていく。

 彼のように強く、優しく生きていくと誓う。

 だから、どうか見守っていてほしい。

 遠くから輝く光の中で。

 

 

   3

 

 山肌に突き出した西伊豆スカイラインの駐車場に着いても、雨はまだ止まずにいる。どうやら、本当に自分たちは神から嫌われているらしい。

「何をお祈りするつもりだった?」

 持ってきた星座の早見盤を見ていると、果南がそう訊いてきた。意地悪な質問だ。自分が落書きした流れ星なのに。

「決まってるよ」

「ずっと一緒にいられますように?」

 更にダイヤが意地悪なことを言う。

「これから離れ離れになるのに?」

 それは避けようのない未来だ。すぐ先にその日は来てしまう。願いなんて無意味だ、とばかりに。

「だからだよ。だからお祈りしておくの。いつか必ず、また一緒になれるように、て」

 その時はまた、こんな風に皆でドライブに出掛けられるように。また皆で歌って、踊れるように。またスクールアイドルができるように。

「でも、無理なのかな………」

 そんな願いが、虚しい夢想なことは理解している。また会えるのは数年後か、もしくは数十年後か。その時、自分たちは変わらずにいられるだろうか。皆で、抱擁を交わせるだろうか。

「なれるよ」

 そう断言したのは千歌だった。

「絶対一緒になれる、て信じてる。鞠莉ちゃん、それ良い?」

 早見盤を手渡すと、千歌はドアを開けて飛び出す。雨に濡れるのも構わず、早見盤を雲で覆われた空へかざした。

「この雨だって全部流れ落ちたら、必ず星が視えるよ。だから晴れるまで、もっと――もっと遊ぼう」

 何の根拠もないのに。幼い頃の自分たちが重なった彼女の姿に、鞠莉は微笑を零した。本当に自分たちは成長していない。あの頃のままできる、と思い込んで突き進もうとする。

 でも、できた。根拠があるとしたら、この9人だったから。

 誰が言うともなく、皆でバスを降りて千歌と一緒に早見盤に手を添える。

「晴れなかったら、神様も勘当デース」

 本当に勘当してやろう、と思った。邪魔をするなら、自分たちで乗り越えてみせる。何せ皆の裡には力があるのだから。闇を照らすほどにまで大きくなる、光の蕾が。その光を持たない千歌の裡にも、きっとある。アギトとかじゃなくて、彼女にしかない光が。

 鞠莉は空を見上げた。この場所から、何かが空へと届いたような気がした。九重に束ねられた奔流が、雲を貫いて拡散させていくような連なり。解きほぐされた雲が薄くなっていき、雨が止む。

 風に流されていく雲の切れ間から、散りばめられた無数の星粒が現れた。大気を透過して届く星々の光に、皆で感嘆の声をあげる。

「凄い、本当に晴れた……」

 空に見惚れながら曜が呟く。「あ」と梨子が空の1点を指さす。一条の光が尾を引いて、夜空を駆けていった。

「堕天使?」

「流れ星ずら」

 なんて善子と花丸が漫才していると、「あ、また」とルビィが別方向を指さす。

「リトルデーモンの涙……」

「流れ星ずら」

 ほんの一瞬だけ空に走る光。それに向かって、鞠莉は手を合わせて祈る。

 ずっと一緒にいられますように。

 いつか必ず、皆で一緒になれますように。

 わたし達だけの輝きが、見つかりますように。

 

 






次章 浦の星女学院 / 星の支配者


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第24章 浦の星女学院 / 星の支配者
第1話


 この雨だって絶対やむよ。そしたら青空になる。
 今だってこの雨を降らせてる雲の向こうには、どこまでも青空が広がってるんだ。

――仮面ライダークウガ 五代(ごだい)雄介(ゆうすけ)




 

   1

 

『どうかね、氷川主任。その後、目の具合は』

 この聴聞会も久しぶりな気がする、と思いながら、誠は画面の中にいる警備部長の質問に答える。

「はい、別に異常ありません。僕としては既に完治したと思っています」

 あの戦い以降、目の不調は起こっていない。以前と同じように、どの景色もクリアに視えていた。誠に起こっていた異常を知った小沢から強引に病院に連れられ診察を受けたが、やはり異常はなし。原因としては、以前に診察を受けた際と同様に極度の緊張とストレスと結論付けられた。

 その診断結果に当初は眉を潜めていたが、今となっては納得できるかもしれない。あの日から、緊張やストレスとは無縁の日々が流れているのだから。

『そう焦ることはない。ゆっくり養生することだ。もしかしたら、もうG3-Xの出番は無いかもしれないがな。君たちも、これ以上長く沼津にいる必要もないだろう』

 その補佐官の言葉に誠は眉を潜める。誠だけでなく、一緒に出席している小沢と尾室も。

「どういう事です?」

 小沢が訊くと、警備部長は何やら憑き物が落ちたような軽い声色で応じる。

『最後のアンノウンを撃破してから約1ヶ月。この間、新たなアンノウン出現の報告もなかった』

 そう、この1ヶ月の間にアンノウンと思わしき事件は1度も起きていない。何の前触れもなく立て続けに発生していた不可能犯罪は、まるで一時の悪夢のように止んだ。

 インターネット上でもこれまで沼津市内で起こった不可思議な事件について様々な憶測と警察への不信が飛び交っていたそうだが、今となってはそれもすっかり鳴りを潜めているらしい。元々カメラで捉えることのできないアンノウンの存在は世論に触れるための証拠に乏しく、ただの殺人事件を面白おかしく脚色し都市伝説に仕立て上げたネットユーザーたちの悪ふざけ、なんて結論で落ち着く始末だ。

『我々としては、アンノウン絶滅の可能性を考慮してもいいのでは、と思ってるんだが』

「そんな、何の証拠もないじゃありませんか」

 と小沢の申し立てには誠も同意だ。アンノウンが消えるとしたら殺す対象、即ちアギトの可能性を持った超能力者たちを根絶やしにしてからのはず。アンノウンから保護した人々はまだ生きているし、それにアギトの力を顕現させた者たちも健在だ。この世界にまだアギトはいる。それをアンノウンが見過ごすだろうか。

 直感だが、あの黒い青年が消えた事と関係があるのでは、と誠は考えていた。彼の消息も掴めないままだ。入院していた精神病院でもひと言も言葉を発さず素性も分からず仕舞いだったから、医師や看護師たちからも名無しの権兵衛扱いだったらしい。

 とはいえ、平穏が続いているのも事実。アンノウンがアギト根絶を諦めた、と解釈できなくもない。何となく、誠には警備部長たちの考えが読めてきた。きっと小沢も気付いているだろう。

「まさか、このままG3ユニットを解散するおつもりですか?」

 『落ち着きたまえ』と警備部長は小沢を窘め、

『ただ、可能性の話をしているだけだ。勿論、G3ユニットを解散するつもりはない。ただ――』

「ただ? 何です?」

『G3ユニットの今後のあり方について検討したいと思っている。ついては、G3ユニットは一時活動停止。結論が出るまで、各自本庁に戻って新しい部署で働いてもらいたい』

 

 

   2

 

 バイクを走らせていると、冷たい戦慄がいつよぎるのか気が気でない時がある。特にあの日からしばらくの間。再びアンノウンが出やしないかと常に涼は神経を張り詰めさせていたが、次第にそれも薄れつつある。

 全てが穏やかだった。アンノウンも自分の身体に起こった異変も、何もかもが嘘だったのでは、と錯覚してしまうほどに。

 市街から外れた馴染みの町工場にバイクを潜り込ませると、奥から油まみれの作業着を着た店主が「おお、またお前か」と朗らかに出迎えてくれる。

「何だか調子悪そうだな。今度はどうした?」

 かなりのベテランな風格を漂わせる店主は、エンジンの音だけで不調を見破ってしまう。

「エンジン音にノイズが入るんだ。スロットルの具合もちょっと固い」

「そろそろ買い換えたらどうだ? お前なら安くしとくぞ」

「気に入ってるんだ、こいつが」

 もうメーカーも製造を止めた車種だし、パーツを交換したとしてもまた別の箇所が不調を起こすかもしれない。でも涼にとってこのXR250は初めて買った愛車で、ギルスに変身した涼の相棒として一緒に困難な時期を駆け抜けてくれた。出来ることなら、もっと長く頑張ってもらいたい。

 せっかくの提案を反故にしてしまったが、店主は気を悪くした様子はなく、

「じゃあ待ってろ、すぐ見てやる」

「よろしく。コーヒー貰うよ」

「ああ、勝手にやってくれ」

 すぐに店主はバイクのエンジンをかけて、音の調子を確認しはじめる。涼は事務所――といっても休憩所のような狭い座敷――に上がり込んで、棚に並んでいるカップを取ってちゃぶ台に置かれたポットのコーヒーを注いだ。熱いから少しずつ啜ると、冬の風にずっと当てられていたからコーヒーの暖かさが腹の奥へと伝っていく。

 ぼんやりとコーヒーをちびちびやりながら、涼はこれからについて思いを巡らせた。妙なものだ、と思いながら。去年の春頃からは、目先の困難をどう対処するかで精いっぱいだったのに。

 もうアンノウンによるアギト狩りが起こらないのなら、沼津に留まっている理由もない。かといって、故郷に戻る気にもなれなかった。雪解けの季節になったら帰省して父に墓前で全て片付いたと報告するつもりだが、実家は叔父に頼んで処分してもらったから帰る場所もない。どこに行って何をすれば良いのか、完全に迷子だ。ただひたすらに生きていくことばかり考えていたせいで、何のために生きていくのかさっぱり分からない。

 俺に居場所はあるのか。漠然とした不安だが、こんな悩みが贅沢に思えて不謹慎にも微笑んでしまう。まさか、将来なんて人間らしい悩みを抱えることになるなんて。

 考えているうちに、もう1杯飲んでしまった。おかわりを貰おうとポットを手に取ったとき、事務所のドアが開く。

「終わったぞ。ちょっと見てくれ」

 流石は仕事が早い。来た時点で不調を見破っていたから、店主はどこを直せばいいかすぐ分かったことだろう。愛車のエンジンを駆動させると、混じりっ気のないクリアな音を奏でた。アクセルのスロットルも滑らかに捻ることができる。

「オイルが真っ黒だったから替えといた。お前メンテさぼってたろ」

「ああ、済まないな」

 代金を払おうと財布をポケットから出すと、いつも鷹揚な店主は珍しく難しそうな顔で切り出す。

「なあ涼、お前仕事はしてるか?」

「いや、してないが」

「そうか………」

「どうしたんだ急に?」

 すると店主は気まずそうに眉間に皺を寄せ、

「いや、お前さんが良かったらなんだが、俺の弟の店で働いてもらえないかと思ってな」

「俺が? おやっさんの弟の?」

「ああ、東京で俺と同じように店をやってるんだが、去年に腰を悪くしてな。ひとりでやってるもんだから、人手が欲しいらしい。引越しが面倒だとは思うが、手伝ってみないか?」

「良いのか、俺なんか紹介して? おやっさんは俺のこと何も知らないだろ」

「なあに、バイクを見れば持ち主のことは大体分かるさ」

 そう言って店主はバイクを見て笑い、

「お前さんは荒っぽい割には情が厚い。俺と同じで、古いタイプの人間だ」

「おやっさんと同じか………」

 俺はまだ若いのにな。皮肉を押し留めながら、涼は微笑んだ。時代遅れなんて笑われるかもしれないが、この店主と同じと評されるのは悪い気はしない。

「どうだ、やってくれるか?」

 

 沼津港の鮮魚市は今日も盛況だった。多くの人々が並べられた新鮮な魚に目を光らせている。磯の香りと共に「安いよ安いよ!」と大声がひしめき合っていた。どの魚も水揚げされたばかりで活きが良さそうだが、翔一は道中で既に今晩の献立を決めている。

「おじさん、才巻エビを12尾ください」

「あいよ!」

 他にも良いものがあれば買っておこう、と物色しているところ、すぐ隣でその声は翔一の耳に入ってきた。

「豆腐にしめじ、才巻エビか………」

 豆腐としめじはスーパーで買った翔一の袋の中身だ。見れば隣で中年男性が思案するように髭の剃られた顎を手で撫でながら「なるほど」と呟き、翔一の顔を見て大声で笑う。

「久しぶりだな!」

 知り合いのようだが、今ひとつ呑み込めない翔一は「あのー」と困惑を漏らす。そんな翔一に男性は構わず、

「お前の買い物から見て今日のメニューは、焼き豆腐のエビ餡かけ、だな」

 とまた大声で笑いだす。「ははは!」と大口を開けるその顔が、翔一がまだ沢木哲也だった頃の記憶と合致する。懐かしさに自然と笑顔を浮かべながら、翔一はその名前を呼んだ。

「倉本先生!」

 目の前の男性が調理師学校時代の恩師と気付いてから、どれほど笑っていただろうか。少なくとも顔が疲れるまで、ふたり揃って笑い飛ばしていた気がする。

 落ち着いてから、市場の近くにある喫茶店に入った。旅行で沼津に来たという倉本は「俺の店だ」とタブレット端末で、レストランのホームページと店の内装写真を見せてくれた。洋風の瀟洒なビストロといった店の様子に翔一は目を輝かせながら、

「へえ凄いなあ。本当にこれ先生のお店なんですか?」

「ああ、俺の汗と涙の結晶、てやつだ。少し狭いが、アットホームな店だと自負している」

 そう語る倉本はとても誇らしげだった。料理に携わる者ならば、多くの者が自分の店を持つことを夢見るだろう。倉本も調理師学校に勤める前は海外のレストランで修行していた時期があったらしく、その頃から温め続けた夢なのかもしれない。

「じゃあ、もう調理師学校のほうは?」

「辞めたよ。今はこの店で手一杯でな。学校で教えてる時間はない」

 倉本は翔一の肩を叩き、

「それにしても久しぶりだな。急に学校に来なくなったんで、心配していたんだがな」

「すいません、色々ありまして。でも嬉しいです、俺のこと覚えていてくれて」

「そりゃあお前ほど真面目な生徒はいなかったからな。まあ少々、発想が奇抜すぎるところはあったが。実習であんこのスパゲッティなんて作ったのはお前だけだ」

「おお、そんなこともありましたね!」

 そういえば実習でそのスパゲッティを作ったとき、倉本はしばし目を見開いたまま固まっていた。ひと口食べて逡巡してから「美味い」と呟いたことも。

 またふたりでひとしきり笑うと、倉本は先ほどとは打って変わって落ち着いた口調で訊いてきた。

「で、今何してる? 働いてるのか?」

 「え、まあ……」と翔一は逡巡しつつも応えた。この手の質問にはいつも弱い。

「主婦、ていうか無職、ていうか………」

 もう記憶喪失でもないのだから仕事に就いて自立すべきなのだが、つい高海家の厚意に甘んじてしまっている。他に帰る場所もないしこれまで通り高海家で専業主婦として暮らしていけばいい、と日和見で考えていたのだが、やはり世間体を考えれば翔一の年齢で無職というのは印象が良くないかもしれない。

 でも倉本は軽蔑するような素振りを見せず、

「なら、話が早い。どうだ、うちの店手伝ってみないか?」

「先生の店を?」

「ああ。お前に才能があるのは間違いない。まあ俺も助かるし、お前のためにもなると思うんだ」

 面と向かって才能がある、と言われこそばゆくなる。

「ありがとうございます。俺のことなんかそんな風に言ってくれて」

 調理師学校に通っていた頃は自分のレストランを持ちたいと思っていたし、修行のために腕の良いシェフのいる店で働きたいと考えていた。倉本の腕が確かなことは、調理師学校にたくさん学んだことからよく知っている。尊敬できる人物のいる店で働けることはとても有難い。何より、太鼓判を捺してくれたことに応えたい。

「でも、少し考えさせてもらっていいですか?」

 倉本に恩はあるが、彼以上に恩を受けている人たちがいる。まず、その家族に相談しておきたい。

 深堀りはせず、倉本は翔一の肩を叩きながら言ってくれた。

「ああ、そりゃ構わないが」

 

 

   3

 

 翔一から話を切り出されたのは、夕飯後に家族みんなでお茶を飲んでいたときだった。

「昔の先生に?」

 母が反芻すると、翔一は「はい」と応じ、

「調理師学校に通っていた頃にお世話になった先生なんですけど、東京で一緒に働かないか、て言ってくれてるんです。できれば、住み込みで。俺、やってみようと思ってるんですけど」

 お茶請けのたくあんを頬張っていた美渡がとどのつまりを言う。

「それって、翔一うちから出てく、てこと?」

 対して志満のほうはどこか安堵したように、

「そう。記憶を取り戻して、翔一君も新しい人生を歩み始める、てことね」

 急な話だけど、母も嫌な顔ひとつしていなかった。その話を切り出した本人はというと、申し訳なさそうに顔を俯かせている。

「すいません、今までお世話になった上に勝手言って」

 翔一のことだから、突然のことに後ろめたさを感じているのだろう。色々と準備を進めていた際中だったから。

「せっかく養子に入ろう、てときだったのに」

 と半ば文句のように不貞腐れる美渡を「こら」と母が穏やかに窘め、

「お世話になったのは私たちの方よ。翔一君には翔一君の人生があるんだから」

 「そうね」と志満も同意を示し、

「いつまでも翔一君に甘えるべきじゃないわ」

 ひと月から、家族の間で翔一を正式に高海家へ養子として迎える話が出ていた。記憶を取り戻した彼の戸籍は元の沢木哲也に戻さなければならないが、今は天涯孤独。これからも高海家で暮らしていくのであれば、翔一を正式な形で家族にしよう、と。翔一が本当の意味で兄になることは千歌としても喜ばしいし、大いに賛成していた。

 これから家族として一緒に過ごしていけると思った矢先で東京とは。突然で、しかも遠い話だ。

 寂しい。でも、ここで留まらせるのは翔一のためじゃない。

「良かったじゃん翔一くん」

 千歌が言うと、翔一は意外そうに千歌を見つめてくる。

「やりたいことがあるなら、どんどんやった方が良いよ。家のことなら心配ないから。菜園だって、翔一くんの代わりにわたしが面倒見るよ」

 翔一だって、千歌のスクールアイドル活動を応援してくれて、アンノウンからAqoursを護ってくれていた。そんな翔一が自分の進みたい道を見出したのだから、寂しいけどそれ以上に嬉しい。一時は思い出した過去のせいで苦しんだけど、今は過去が彼を未来へと進ませてくれる。

「千歌ちゃん………」

 翔一は千歌を見て、次に姉たちや母へと視線を転じる。誰も引き留めはしない。皆が翔一の前途を応援しているし、背中を押している。今の家族である千歌たちに、翔一は満面の笑みで言った。

「ありがとう」

 

 涼が夕飯のレトルトカレーを食べてひと息ついていた頃に、翔一はアパートを訪ねてきた。

「すいません、突然お邪魔しちゃって」

 手土産に渡されたタッパーの中身は、焼き豆腐のエビ餡かけだった。容器を冷蔵庫に入れて翔一を居間に招いたところで尋ねる。

「それで、何の用だ? まさか本気でアギトの会を作ろうなんて言うんじゃないだろうな?」

「いえ、実は俺今度東京のレストランで住み込みで働くことになったんで、一応言っとこうかな、て」

「そうか、偶然だな」

「え、じゃあ葦原さんも?」

 「ああ」と応じながら涼は翔一の椅子を探すが、客用のものなんて部屋に置いていないからベッドへ促す。涼も1脚しかない椅子に腰かけ、

「俺も東京で働くことになった。まあ、俺の場合そんな大袈裟なものじゃないが」

 バイク屋の店主からの誘いに、涼はその場で応じることにした。いつまでも父の遺産を食い潰すわけにはいかないし、鞠莉への借金もある。

「このところアンノウンも出てこないし、良い感じですよね。ずっとこのままなら良いんですけど」

「そうだな」

 この日々が続くことを心底願いたい。涼に続いて翔一まで沼津を去ってしまったら、もうAqoursを護れないのだから。

「俺、時々木野さんのこと思い出すんです」

 翔一は言う。

「木野さん前にこんなこと言ってました。自分の人生を狭くするのは自分自身だ、て」

 あいつらしい言葉だな、と思えた。思えば涼も、自分のことで精一杯なあまり視野が狭い日々を送っていたかもしれない。こうして新しい道に踏み出すことで、涼自身の人生も少しは広くなっただろうか。

「本当にそうですよね。だから俺、何かうおおおおっ、て感じで頑張ろう、て」

「ああ、きっとあの男も喜ぶだろう」

 俺も一生懸命に生きてみるか。そう前向きに考えることができる。翔一のように明るく、木野のように強くなれるかは分からないが、自分のペースで行けるところまで。前途多難な涼の人生はまだ続いていく。ゆっくりと、自分の「居場所」を探していこう。

「あ、そうそう」

 と翔一はポケットから長方形の紙を取り出して、

「ラブライブ決勝のチケット、俺当選したんです。葦原さんも取りましたか?」

 「ああ」と涼も、机に置いたチケットを見せる。

「人気なんだな、ラブライブって」

「千歌ちゃん達の晴れ舞台ですからね。一緒に応援行きましょうよ。きっと皆、輝いてますよ」

「ああ」

 思えば、Aqoursのステージを見たことは今まで1度もなかった。アイドルは興味なかったが、彼女たちのステージを見たらこれまでの戦いにも意味があったと思える気がする。

 涼も視てみたい。あの少女たちの輝きというものを。

 

 

   4

 

 東京へ引き上げるのはG3ユニットだけでなく、沼津市警に出向している警視庁捜査一課の面々全員だった。不可能犯罪捜査本部も一時活動停止となっているが、このままアンノウンが現れなければそのまま解散になるだろう、というのは河野の弁だ。

 沼津に出向して1年近く。常連になっていた屋台のラーメンを河野と一緒に食べに行き、小沢や尾室とも行きつけの焼肉屋にも足を運んだ。北條は、東京の高級フレンチを食べに行ける、と帰庁を喜んでいたが。

 晴れて元の居場所に戻るわけだが、短期間でもここで過ごしてきた時間というものがある。出会った人々に、何も言わず去ることもできない。

「済みません、急にお邪魔してしまって」

「いえ、ゆっくりしていって下さい」

 志満に通された居間で腰を落ち着けると、彼女が出してくれたお茶をゆっくり味わいながら啜る。その味がいつも出されるものと違うことに気付き、誠は尋ねた。

「津上さんは、不在ですか?」

「ええ、色々と買うものがあって、出掛けてるんです。翔一君、来週から東京のレストランで働くことになって」

「そうでしたか、お忙しいところを済みません」

「氷川さんならいつでも大歓迎ですよ」

 志満はそう言って笑ってくれた。

「実は、僕も本庁に戻ることになりまして、今日はそのご挨拶に」

 「ええ、そうなんですか?」と志満は驚いたように目を丸くする。

「じゃあ、もしかしたら東京でも翔一君に会うかもしれませんね」

「そうですね」

 この人とこうして顔を会わせられるのも今日で最後か。決して遊びに何度も訪ねてきたわけじゃないが、この土地で結んできた縁が解けると思うと少しばかり寂しくなる。この旅館でこの家族に触れると、自然と肩も軽くなっていたのだから。

「志満さんとご家族には、何度もお世話になりました。ありがとうございます」

 頭を下げると志満は「いえ」と手を振りながら、

「私たちこそ氷川さんにはとてもお世話になって、本当にありがとうございました」

 互いに頭を下げ合っていると、何だか可笑しくなって微笑を交わした。

「僕は何もしていません。お父さんのことも――」

 最後まで言い切れず、口をつぐんでしまう。高海伸幸事件の真相は北條と、沼津署に出頭してきた被害者の妻である高海夫人から聞いている。通りで3年間河野が捜査しても容疑者が見つからないわけだ。犯人は人間を超えたアギトで、既に自ら命を絶っているのだから。

 しかもその犯人が、翔一の姉だったなんて。

 翔一が記憶を取り戻していたことも驚いたが、それ以上に誠は残酷な高海家との縁に閉口するしかなかった。自分はあくまで刑事で、カウンセラーじゃない。事件の真相を暴いて、そのせいで被害者遺族に精神的負担を与えてしまっても、何もできることはない。果たして自分の職務に意義があるのか、つくづく疑問を抱かずにいられなかった。

 かくして高海伸幸殺害事件は犯人の自殺という形で終結。被害者の研究資料を抹消していた高海夫人は証拠隠蔽の罪での逮捕が問われたが、消していた情報が証拠といえるものではないと判断された。

「全部、母から聞きました」

 志満は自分の湯呑に視線を落としながら、

「正直、まだ信じられないですし、受け入れるのに時間が掛かるかもしれません」

 毅然とした若女将だが、志満だってまだ年若い女性だ。親族の死に何も感じないはずは無いし、脆い面だってあるだろう。でも彼女は、客人である誠にそういった部分は見せず、笑顔を崩さなかった。

「それでも、私たち家族にとって優しい父だったことに変わりはありません。それに翔一君も、うちの家族ですから」

 そう語る志満の笑顔は、一切の曇りを感じさせない。彼女にとっては、それが揺るがない事実なのだろう。この家族に深く入れ込んでいた誠は安堵で思わず溜め息をついた。時間を要するかもしれないが、この家族なら事件を乗り越えていけると信じられる。

「氷川さん、本当にお世話になりました。お休みが取れたら、またいつでもいらして下さい。温泉もお料理も、氷川さんには最高のものを用意しますので」

 そういえば、ここの温泉に入る機会は結局なかったな、と思い出す。仕事が落ち着いたら、と先延ばしにし続けていたせいか。本庁に戻っても仕事漬けになりそうだが、非番の日が取れたら必ずまた来よう。

「はい、是非」

 

 



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第2話

 人を守るためにライダーになったんだから、ライダーを守ったっていい。

――仮面ライダー龍騎(りゅうき) 城戸(きど)真司(しんじ)




   1

 

 寒さのピークが過ぎて、徐々にだが空気も温かみを帯びつつある。まだ校庭に並ぶ桜木の枝は丸裸だけど、ひと月かふた月すれば蕾を付けて開花を迎えるだろう。満開になった時が、生徒たちが学校を去るまでに間に合えばいいのだけど。

 まだ内浦が凍えるほど寒い時期に、翔一は東京へ経った。十千万で過ごした最後の日にはAqoursメンバー全員を呼んで盛大なパーティを催して彼の門出を祝った。主役なのに、料理は全て翔一が作っていた。出来ることなら涼や誠も呼びたかったのだけど、その時には既にふたりも東京へ経った後だった。

 アンノウンが現れなくなって、戦士として戦ってきた3人は沼津から去って行った。それぞれが新しい、自分の人生を生きるために。それに伴って千歌たちの日々に変化があったかというと、実のところ特に変わりはない。Aqoursはラブライブ決勝に向けて練習の毎日。高海家では単身赴任を終えた母が翔一に代わって家事をしてくれている。何も不自由なことはない。家に帰っても翔一の「おかえり」が聞こえなくても、思ったよりも寂しくはなかった。

 会いたくなったら、会いに行けばいいじゃない。

 旅立つ日、翔一は笑顔でそう言っていたのだから。

 

「そうそう、そっち気を付けて」

 曜の指示に従い、柱を一寸も動かさないよう両腕で抱える。「千歌ちゃんも大丈夫?」と反対側を抱える梨子に「うん」と返しながら、括りつけておいた縄を固く縛り付けた。

「こっちはOK、固定して」

 梨子のほうも縛り終えたらしく、ゴーサインを受け取った曜は縄が伸びる杭を木槌で力いっぱい叩いて土に埋めていく。縄に弛みがないか確認すると、曜は額に浮かぶ汗を袖で拭った。

「できた!」

 校門にそびえ立ったアーチを見上げ、3人揃って嘆息した。ペンキの塗りむらが目立った手作り感満載の門だけど、悪くない出来だと思う。

「立派ね」

 梨子の呟きに「うん」と同意し、

「これまでの感謝を込めて、盛大に盛り上がろうよ」

 アーチに書かれた手書きの「閉校祭」という文字。学校が終わる前の最後の祭りだが、悲壮なんて感じさせない催しにするため、曜が意気込みを声に出した。

「ヨーソロー!」

 

 もう長いこと作業しているせいか、部室には奇妙な匂いが充満している。換気のために窓を開けているのだが、当日になって苦情が来やしないか心配でならない。

「遂にfinish!」

 寸胴鍋の中身を長尺お玉でかき回しながら、鞠莉は調味料を投入していく。瓶の中身全てだ。充満する匂いが更に怪しくなっていくのだが、一体何を入れたのか。

「ここに新たに誕生したのデース。シャイ煮premiumが!」

 当の本人はその出来栄えにご満悦らしい。見かけは夏に海の家で作ったものの売れなかったゲテモノのごった煮と似たようなものだ。当時と比べて具材が増えたから無秩序具合が倍増している。

「部室で料理するのはやめて頂けません?」

 その忠告はもっと早い段階ですべきだったのだが、ダイヤが生徒会役員の生徒から報告を受け訪れたときには、既にこの状況が出来上がってしまっていた。

「だって、皆がまた食べてみたい、て言うから」

 当の本人は全く悪びれる様子もないから困ったものだ。調理するなら家庭科室とまず思うものだが、生憎他の学級が使用権を取ったから部室しか場所がなかったのだろう。

「普通の学校の理事長はそもそも学園祭でお店を開いたりしませんわ」

 何より悩みどころなのが、これでも浦の星の理事長であること。「No,No,Noダイヤ」と鞠莉はお玉を振り、

「学園祭ではなく閉校祭。最後のお祭りなんだから、理事長だって何かやりたいよ」

 幼い頃はまだ引っ込み思案な面もあったのに。このバイタリティを引き出したのが幼き日の自分と思うと深い溜め息が出てしまう。

「でも本当に良いんですの? 3学期のこんな大変な時期に」

 「当然」と鞠莉は即答する。

「だって、学校の皆が言ってくれたんだよ。閉校祭をやりたい、て」

 この閉校祭は、かねてから予定されていたものではなかった。3学期が始まってすぐ、理事長室へよしみ、いつき、むつの3人が要望書を手に提案してきたもの。卒業式は真面目に行うべきだけど、最後に卒業生や近隣住民も手放しで楽しめるイベントとして、閉校祭という名の学園祭を催したい、と。

 その要望に、鞠莉はその場で承認印を捺した。

「本当、この学校って良い生徒ばっかりだよね」

 生徒会に何の相談もなく即決したことについて小言が出そうになったが、それは野暮だから留めておく。話を聞いたら、ダイヤも賛成しただろうから。

「鞠莉ちゃーん!」

 元気な千歌の声と共に、2年生たちが部室に入ってくる。

「アーチ、設置完了であります」

 敬礼しながら曜が報告すると鞠莉は「ご苦労!」と応じ、

「じゃあ、それぞれ自分の部署に戻って準備進めて」

「全体的にかなり遅れてますわ。このままでは、夜までに終わりませんわよ」

 一応としてダイヤが忠告すると、千歌たちは「わっかりましたー!」と走り去って行く。せわしない、と呆れそうになるが、この落ち着きのない日々も残りひと月と思えば愛おしくなる。

「楽しそうですわね」

「チカっち達も嬉しんだよ。学校の皆が、この機会を作ってくれたことが」

 学校が無くなるとしても、最後だけは楽しい思い出を。未練なくこの学び舎から経てるように。生徒みんなで一丸となれるこの学校最後の卒業生になれることは、ダイヤも喜ばしい。

「分かりましたわ」

 なら、この機会に自分も存分に楽しませてもらおう。残りの高校生活も短いのだから、その間に出来ることは全てやりたい。

「この学校でやりたかったことを、皆思いっきり、このお祭りで発散させる。でしたわよね」

「Yes」

「そういうことであれば、わたくしも生徒会長という立場を忘れて、思いきりやらせて頂きますわ」

 

 同級生たちはそれぞれ部活や委員会での出し物があるから、クラスでの準備は最終的に花丸と善子だけになってしまった。人手がふたりだけというのに、善子のこだわりの強さで進捗は順調とは言えない。

「とても間に合わないじゃない」

 床にチョークで魔法陣を描きながら善子が文句を垂れている。内装にあれこれ注文を付けるから遅れているというのに。

「ルビィはどうしたの?」

「ルビィちゃんは人気があるから引っ張りだこずら。ここは人気のない者が頑張るずらよ」

「どういう意味――」

 言いかけて、善子は視線を廊下へと移した。釣られて花丸も見ると、教室の前を2体の着ぐるみが横切っていく。

「今の何?」

「どっかで見たことあるずらね」

 

 梨子とふたりで教室に戻ると、飾り付けは順調に進んでいるようだった。

「随分できてきたわね」

 学校周辺のミカン畑をイメージした壁紙を見て、梨子が頬を綻ばせる。手伝えることはないか、と戻ってきたが、残りの作業も少ないかもしれない。

「あ、お帰りなさい」

 そう千歌たちに声をかけたのは、テーブルで裁縫に勤しんでいるルビィだった。腕を見込まれて駆り出されたのだろう。

「ルビィちゃんもお手伝いしてくれてたんだ」

 言いながら彼女の成果物を視てみると、それもほぼ完成に近付いている。

「こういう衣装も作ってみたかったから」

 とルビィは衣装を広げて見せてくれる。函館の菊泉から着想を得たのだろう和装エプロンは、手作りとは思えないほど出来栄えがいい。

「可愛い!」

 期待以上の出来だった。テーブルの隅には既に完成品が何着も積み重なっている。Aqoursの衣装作りで手慣れているルビィにとって、これくらいの作業は簡単すぎるのかもしれない。

「流石ルビィちゃん」

 梨子がそう言ったところで、千歌たちは教室の前を横切る生き物たちに気付いた。目で追うと、三津シーパラダイスから借りてきたのか2体のうちっちーが廊下を走り去って行く。

「曜ちゃん、だよね?」

 戻る途中で別の準備があるから、と別れたのだが、あの着ぐるみで何の催しをするのだろうか。残る疑問を、梨子が口にする。

「あと1体は誰?」

 気になって仕方ないから3人で追いかけるが、うちっちー達はあの巨躯からは考えられないほど軽やかに廊下を駆け、階段もペースを落とさないまま降りていく。

「曜ちゃーん?」

 呼びかけてみても、返事はない。1階にまで降りたところで、完全に見失ってしまった。

「あれ、どこ行ったんだろ?」

 周辺を見渡しても、それらしき影は見当たらない。

「確かこっちに来たはずだけど」

 梨子も辺りに視線をくべている所で、「消えたずら?」と花丸の上ずった声が飛んできた。同じくうちっちーを追ってきたのか、善子とふたりで千歌たちのもとへ駆け寄ってくる。

 その時、布が擦れるような音が聞こえ、咄嗟に千歌は振り向いた。一瞬だが、白い布地が廊下の曲がり角に消えていくのが視えた。

「こ、今度は?」

 震える声を絞る善子とは対照的に花丸はさらりと、

「お化けずらか?」

 そんな事を言うものだから、梨子たちが怖がって千歌にしがみ付いてくる。宥めながら白布が消えた方向へ行くと、倉庫の引き戸が僅かに開いていた。真っ先に中へ入ると、長いこと使われていないのか埃が舞い上がる。初めて部室に入った日のことを思い出した。

「本当にここに入ったの?」

 千歌の背中にしがみ付いたままの梨子が恐る恐るといった声色で訊いてくる。「うん、多分」と応じながら奥へ入るにつれて、窓もないから昼間にも関わらず暗くて広さが掴み辛い。

「何なの、ここ?」

 梨子と同じように怖がっている梨子に、容赦なく花丸が茶々を入れた。

「堕天使が怖いずらか?」

「ま、まさか。むしろこの闇の波動が心地いい今日このごろ――」

 と強がってみせたところで、奥からがた、と何かがぶつかる音がした。反射的に「ひゃあっ」と奇声に似た悲鳴をあげた善子ルビィと一緒に倉庫を出て戸を閉めてしまう。

「わたしはここで結界を張って皆を守っています」

「ヘタレ堕天使」

「ヘタレ言うな!」

 何だか皆の恐怖が伝染してきた気がする。少しばかり寒気がしたところで、梨子が震えた手を千歌の肩に添えてきた。

「千歌ちゃん……」

「ん?」

「どうしよう………」

「何?」

 梨子の視線を追うと、部屋の隅で白布を被った何かがもぞもぞ動いている。

「でもやっぱりこれ、ただのシーツよね?」

 縋るように梨子は訊くのだが、動いている時点で「ただ」のシーツではないだろう。すきま風で揺れているにしても不自然だ。

「確かめてみるね」

 「気を付けてね」という梨子の声を背にして、千歌は布に手をかける。

「とりゃああああああああああっ!」

 雄叫びと共に引き剥がしたシーツの中にいた者の姿に、拍子抜けして千歌はしばし硬直してしまった。梨子と花丸も同じように、無言のまま。「大丈夫⁉」と入ってきた善子とルビィもシーツにくるまっていた者を目撃する。

 その正体は――

「なあんだ、しいたけちゃんか」

 一気に疲れたような声で、梨子が溜め息と共に漏らした。安堵して、そして遅れて気付く。

 何故ここにしいたけが?

 その疑問へと思考が移ったところで、

「ピギャアアアアアアアアアアアアア‼」

「んにゃあああああああああああああ‼」

 というルビィと善子の悲鳴が耳をついた。いつの間にか背後に2体のうちっちーがいたのだが、うちっちー達も悲鳴に驚いて尻もちをついている。

 しかも悲鳴で興奮したのか、しいたけが「ワン!」と吼えて倉庫から飛び出していた。

「待てしいたけ!」

 追いかけると廊下から生徒たちの悲鳴が響き渡っている。しかもしいたけはまたシーツを頭から被っていて何も視えずパニックになっているようだった。暴走犬になったしいたけは1階の廊下を駆けまわった末に勝手口から外に出て校門へ向かう。前なんてろくに視えていないから、アーチを固定していた縄に足を引っかけて盛大に地面を転げまわった。

 縄の接触でバランスを崩したアーチがぐらつき、土ぼこりを巻き上げながら倒れる。

 あまりの状況の目まぐるしさに、もはや千歌は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。

 

 

   2

 

 不可能犯罪が止まったから本庁に戻ったというのに、捜査一課に配属された誠に割り振られた事件――と捉えていいものか――はまたしても不可思議なものだった。沼津でこの手の事件を担当していたのだから、と適性を認められての配属かもしれないが、喜んでいいのか悩みどころだ。

 コンビニ弁当にカップ麺に宅配ピザの空き容器が、部屋中に散らかっている。まだ放置されてそう日も経っていないゴミの中心で、その男性の死体は自らの出したゴミに埋もれるようにして、まだスープが残ったラーメン容器に顔を突っ込んでいた。

 同居人の証言によると、朝早くから大量に食料を買い込んでそれらを食べ始めた。まるで何かに憑りつかれたように。同居人は仕事のため外出し、帰宅してきたらこのような状況になっていたという。つまりこの仏は、絶命するまで買ってきた食料を食べ続けていたことになる。

「自殺にも色々あるが、こんなのは初めてだ」

 仏を見下ろしながら、河野が溜め息交じりに呟く。事件性も考慮し毒物がないか検死に回す予定だが、自殺とみてあながち間違いは無いかもしれない。死因も、食べ物を詰め込み過ぎたことによる窒息だろう。大食い大会で参加者がパンを喉に詰らせ死亡する事故が極稀に起こってしまうものだ。

 でもこの男性はフードファイターじゃないし、同居人によると大食漢というわけでもなかったらしい。ましてや意図して許容量を超えた食事をするなんて、正気の沙汰じゃない。

「どうした、何か気になることでもあるのか?」

 誠の裡を察してか、河野が訊く。

「まさか、これもアンノウンの仕業だとでも言いたいのか?」

「いえ、ただ随分と奇妙な死に方だ、と思いまして」

 死体の状況が奇妙だから、とアンノウンに結び付けてしまうのも短絡的だとは思うが、どうにもただの自殺とは思えない。違法薬物の摂取で極度の興奮状態での行為ならまだ説明はつくが、部屋からそれらしきものが見つからない以上は何とも言えない。

「全くな、訳が分からんよ」

 深く嘆息して河野は言った。

 

「器物破損、被害甚大。アーチの修復だけで10人がかりで4時間のロス」

 もう空が茜色になる頃、作業を終えた千歌と梨子と花丸は生徒会室で罰が悪そうに佇んでいた。

「何か、美渡姉散歩してたらリードを放しちゃったらしくて………」

 しいたけは美渡に連絡して連れ帰ってもらった。教員と生徒たちに謝罪して回った彼女も手伝うと申し出てくれたのだが、それは流石にダイヤが丁重に断った。

 しいたけは賢いから自分で家に帰るらしいのだが、もしかしたら楽し気な学校の雰囲気が醸し出す匂いに釣られてきたのかもしれない。でもそれとこれとは話が別。

「言い訳は結構です」

 ダイヤはぴしゃりと撥ねつけ、

「とにかくこの遅れをどうするか。閉校祭は明日なんですのよ」

「頑張ります………」

「それで済む話ですの? もう下校時間まで僅かしかありませんわ」

 「そろそろ終バスの時間ずら」と花丸が呟いた。曜や善子のように沼津市街から通っている生徒は帰さなければならない。そうなれば人手は更に減る。

「間に合うかな?」

 千歌の問いには、梨子の「だよね」という弱い声しか返ってこない。そこで、ただ傍観していた鞠莉が口を開いた。

「OK、そういう事であれば、小原家が責任を持って送るわ、全員」

 その提案に「本当ずら?」と花丸が目を丸くする。

「準備で学校に残る生徒全員。勿論、ちゃんと家には連絡するようにね」

 そう鞠莉が続けると、沈んでいた千歌たちの表情が明らんだ。

「ありがとう、皆に伝えてくる」

 とまた落ち着きなく、千歌たちは生徒会室を出て行く。さらりと安請け合いしてしまった鞠莉に、ダイヤは訊く。

「本気ですの?」

「最後なんだもん、許してよ」

 何かにつけて理由は「最後だから」だ。もっとも、我儘を突き通したいのは鞠莉だけじゃないのだが。

「誰も許さないなんて言ってませんわ。最初からそのつもりでしたから」

 元々ダイヤが提案するつもりでいたのに。美味しいところを持っていかれてしまった。鞠莉は意外そうにダイヤを見つめ、すぐに悪戯っぽく笑ってみせた。

 

 

   3

 

 残るのは希望者だけと生徒たちに伝えたのだが、結局は全校生徒が居残りで作業することになった。帰りが遅くなったわけだけど、こういったアクシデントも醍醐味のようなものと文句も言わず生徒たちは作業している。

 皆、この準備の時間すらも楽しんでいるのだろう。一緒に何かを作っていくこの時間をもっと続けたい、終わらせたくない、と。

 作業も残り僅か。明日に向けて精を付けるため、教室でしばし休憩ということで夕食を摂ることになった。

「はい、お待たせ! 翔一くん直伝ミカン鍋!」

 土鍋の中で煮込まれた具は白菜に豆腐にエノキ、そこにミカンを丸ごと投入したもの。翔一が高海家を経つ前に残していったレシピのひとつだ。

「美渡姉がお詫びに、て」

 具材は全て、先ほど改めて謝罪に来た美渡が持ってきてくれた。しめにうどんも用意してある。一見すれば奇天烈な鍋に苦笑しながら梨子が言う。

「翔一さん、東京でもおかしなもの作ってないといいけど………」

 「連絡はしてるずら?」と鍋を食べながら花丸が訊いた。

「うん、たまにね。毎日忙しいけど楽しい、て」

 週に1度来る程度だが、翔一からは家で作った創作料理の写真が送られてくる。この前も店で覚えたというラザニアの写真が送られてきて、深夜に空腹を誘われた。

「元気にしてるのね」

 穏やかに微笑んだ梨子は、うちっちーの頭を脱いだ果南へと目を移し、

「それで結局、その恰好は一体――」

「ああ、閉校祭は曜とふたりで教室に海を再現してみよう、てこの恰好にしてみたんだけど」

 「てことは――」と花丸は善子の隣で佇んでいるもう1体のうちっちーへ目を向ける。

「これは曜?」

 善子が呼びかけるも、これといった反応がない。愛くるしい姿も不動だと不気味だ。因みに果南のうちっちーは現役を退いた初代の着ぐるみで、曜のは現職の2代目らしい。曜が三津シーパラダイスでアルバイトしていたよしみで借りることができたのだろう。

「何か喋りなさいよ!」

 と善子が強く言っても反応がない。着たまま眠っているのだろうか。

「人騒がせずら」

 とスープを飲み干した花丸は「おかわりずら」と空になった器を差し出す。

「もう本番まではそれを着て外に出ないでくださいね」

 梨子の小言を果南は「はいはい」と適当にあしらい、千歌のよそった鍋の器を手に取って食事を始める。

「だから喋りなさいよ!」

 じれったくなったのか、善子がうちっちーの頭に手をかけた。ごと、と頭が落ちた着ぐるみの中には、誰も入ってなく胴体部分もバランスを崩して床に倒れる。

「首が取れたずら」

 花丸がさらりと言うと、善子は「んにゃあああああ!」と悲鳴をあげた。

 



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第3話

 俺には夢はない。
 でもな、夢を守ることはできる。

――仮面ライダーファイズ 乾巧(いぬいたくみ)




 

   1

 

 校門前は既に飾り付けが終わったらしく、曜以外はまったくの無人で静かなものだった。もう全体としても作業は終わっている頃だろう。

 アーチを固定する杭を見ると、やはり少し打ちが浅い。立て直した時から気になっていた。持ってきた木槌で力いっぱい叩いて、更に深く打ち込んでいく。

「これでよし」

 独りごちりながらふう、とひと息つく。これならまたしいたけが突進しても倒れることはないだろう。戻ろうと踵を返したとき、ふと視線が校門の傍に放置された段ボール箱に留まった。誰かが片付け忘れたものだろう。

 何でもないただの段ボールは、もう1年が経とうとしているあの日を思い出させた。桜が咲く中、声を張り上げていた親友の姿を。箱に乗ってみると、視点が上乗せされ景色がよく視える。こんな景色を見てたんだ、と感慨を抱きしめながら、誰もいない校庭で声を張り上げる。

「スクールアイドル部でーす! よろしくお願いしまーす! あなたも、あなたも、スクールアイドルやってみませんか?」

 新入生たちは、誰も見向きしていなかった。曜もチラシ配りを手伝って、受け取ってはくれたけど興味を持ってくれた手応えは全くと言って良いほどなかった。正直、曜もスクールアイドルに興味はなくて、当時は水泳部に専念していくものだと思っていた。

「はい!」

 予想外の返事に驚きながら向くと、そこには曜が再現していた当人が立っている。

「スクールアイドルやります!」

 恥ずかしいところ見られちゃったな、と思いながら段ボールから降りる。

「何か静かだね。学校はあんなに賑やかなのに」

 まるであの頃のわたし達みたい、と思った。ふたりだけで始めたスクールアイドル。自分たちだけ盛り上がって、周りからは少し冷めた目で見られていて。

 どこの教室もまだ照明が点いていて、窓から生徒たちの笑顔が覗き見える。どこの教室も楽しそうだった。

「うん、何か良いよね、そういうの」

 千歌は言った。

「外は普通なのに、学校の中は皆の夢で、明日に向いてわくわくしてて。時が過ぎるのも忘れていて。好きだな、そういうの」

 楽しさの渦中にいたいけど、こうして1歩引いて眺めてみるのも、案外良いものと思える。校舎には胸を躍らせるような、きらきらとした煌きが満ちている。

「ずっとこのままだったら良いのにね。明日も、明後日もずうっと。そしたら、そしたら………」

 千歌の語る望みは、現実を意識させてしまう。ずっとなんてものは、呆気なく砕ける夢想だ。学校はなくなる。どれだけ今が賑やかでも、桜が咲く頃になると一切の静寂に包まれることになる。この校門も、生徒を迎えて見送る役目を終える。

 寂しさを少しでも紛らわせようと催される閉校祭なのだが、やはり裡の奥底にあるものは誤魔化しようがない。この学校への情が強くなるほど、痛みも増していく。

「わたしね、千歌ちゃんに憧れてたんだ」

 何の脈絡もなく、曜はその告白をする。ずっと抱いていた羨望だった。スクールアイドルを熱く語って、求めるものに向かって全速全身で突き進もうとする親友に、曜は確かな力を感じていた。曜や、他のメンバー達が持つアギトとは別の、千歌にしかない力。

「千歌ちゃんの視ているものが視たいんだ、て。ずっと同じ景色を視ていたいんだ、て。このまま、皆でお婆ちゃんになるまでやろっか」

 いくらもがいても、時は進んでいく。なら、止めようなんて考えはやめよう。時の流れを怖れず、むしろ楽しんで日々を過ごしていけばいい。時間に身を任せているからこそ、どこまでも行くことができるのだから。

「うん」

 頷いた千歌も、告白をしてくれた。

「わたしもね、ずっと曜ちゃんが羨ましかったんだ。何でも上手くできちゃうし、アギトなんて凄い力持ってるんだもん」

 思わず苦笑してしまう。互いに無いものねだりをしていたということか。

「わたしも、視てみたいんだ。曜ちゃんや皆みたいな、凄い力がある人と同じ景色。そこにわたしも一緒に行けるかな、て」

 そこに行くとしたら、きっと先頭を往くのは千歌と断言できる。力を持った曜たちは皆、千歌の背中に着いてきたのだから。

 千歌は曜の両手を取る。

「わたし、曜ちゃんのこと怖くないよ。アギトになっても、曜ちゃんは絶対に曜ちゃんのままだもん」

 温かさが裡に満ちていくようだった。やっぱり、千歌は曜よりもずっと強い。この親友だからこそ、一緒にスクールアイドルをやってこられた、と確信できる。

「うん」

 曜自身も、自分の抱える力を怖れたりはしない。どんなに姿が変わろうとも、親友や学校が大好きなこの気持ちがあれば、渡辺曜のままでいられる。

 

 

   2

 

「おやっさん、掃除終わったよ」

 事務所に入りそう言うと、PCとにらめっこしていた店主は「おお」と老眼鏡を外し壁の時計へと目を向ける。

「もうこんな時間か。今日はもう上がっていいぞ、お疲れさん」

「ああ、また明日」

「おう、気をつけてな」

 東京での勤め先として働き始めたバイク屋は、紹介してくれた沼津の方と大差ない小さな町工場だった。主な商売としては故障したバイクの修理と、下取りに出された廃車をまた走れるよう整備し売りに出す。

 涼はまだ新入りだから店主の指導を受けながら整備作業をしているが、いずれひとりで仕事ができるようになれば腰を痛めた店主は顧客管理の事務仕事に専念するつもりでいるらしい。店主も店主でPCの扱い方に慣れず四苦八苦しているようだが。

 それにしても、この店を紹介してくれた沼津のほうの店主も人が悪い。弟とは聞いていたが、まさか双子とは。顔が全く同じだから初めて顔を会わせたときはしばらく呆けてしまった。

 バイクで帰路につきながら、夕飯をどうしようか、とぼんやり考えた。コンビニ弁当もそろそろ飽きてきたし、適当にどこかで外食でもしようか。

 飲食店が多く建ち並ぶレストラン街に入ったところで、涼はふと気付いた。確かこの辺りに、翔一が働いている店があったはず。食べに来て下さい、なんてメッセージに店の外観写真も添えられていたから、そのレストランはすぐに見つけることができた。写真で見るよりも瀟洒な店だったから、懐事情を考えると入店はもっと余裕を持ってからにしたい。

 店の傍でバイクを停めると、磨かれた窓ガラスから店内の様子が垣間見える。お客のグラスにワインを注ぐウェイターの笑顔が眩しく、それは紛れもなく翔一だった。ひと目見ただけで、不思議と安堵してしまう。

 十千万という温かい居場所を離れるなんて勿体ないと思ったが、翔一にそんな心配は無用だったのかもしれない。どこへ行っても、翔一は翔一のままでいられるのだから。

 頑張れ、津上。

 裡で激励を飛ばし、涼はバイクを発進させる。翔一は自分の人生を生きている。なら、自分も一生懸命生きよう。自分の足で、自分の行きたいところへ。

 結局のところ、夕飯は立ち寄ったコンビニの、食べ飽きた唐揚げ弁当になった。味にこだわるほどの贅沢はまだできないが、腹が満たされるだけでも十分だ。

「っ!」

 久しい戦慄が、涼の脳裏によぎる。まだ終わっていなかったか、と裡で愚痴りながら帰路とは反対方向へバイクをUターンさせた。単なる気のせいでないことは確からしい。近付いている、という感覚があるのだから。

 不意に、仕事帰りなのかスーツを着た中年の男が「わあああ!」と喚きながら道路を横切っていく。後を追うように飛ぶ一条の光が、矢のように男の背中に刺さった。「うっ」という呻き声をあげた男の顔が、水に浸した紙のように透けていく。顔が完全に宵闇と同化して見えなくなると同時、まだ残っていた服が衣擦れの音を出しながら地面に崩れ落ちた。

 咄嗟に涼は光が飛んだ方向を見やる。そこには鳥人と呼ぶべき異形が弓を構えていた。背中から翼を生やし、猛禽類のような目を光らせている。

「変身!」

 ギルスに変身し、涼はアンノウンへと跳びかかる。突き出した拳は弓で受け止められ、追撃の蹴りを入れようとしたがそれも跳躍で避けられる。人間離れした脚力で、アンノウンはマンションの屋上へと逃れた。

 涼も跳躍し、屋上へ着地を決める。直後、強烈な突風が屋上を吹き抜け、危うく縁から落ちてしまいそうになる。風に乗るように、アンノウンが組みついてきた。すかさず肘打ちで突き放し、蹴りを入れるも足を掴まれて投げられてしまう。

 仰向けに倒れた首に手がかけられた。引き剥がそうとしても、首に込められた力は緩む気配がない。油断していたわけじゃないが、こいつは並の敵とは違う。あの水のエルと近いものを感じられた。

 あれが水を司る者だとしたら、こいつは風を司るエルというべきか。

 裡の力を更に顕現させ、涼は全身から尖刀を伸ばした。エクシードギルスへと変わり、手首から伸びる刃を振る。でも、手応えは感じられなかった。容易に避けられたばかりか、反撃の拳を数発腹に食らってしまう。

 跳躍して踵を振り上げた瞬間、また突風が吹いて涼の身体を屋上の外縁へと追いやった。宙では自由がきかず、成す術もないまま真っ逆さまに落ちていく。

 いざ地面に衝突しようとしたとき、寸でのところで身体は止まった。反動で僅かに浮かび、そのままぶらぶらと宙に揺れる。背中から伸ばした触手が、どうやらマンションの柵に無事引っ掛かってくれたらしい。

 仕留めたと思ったのか、風のエルは追ってはこなかった。もしかしたら、また来ても返り討ちにできる、という確信があったのか。

 

 

   3

 

 交通機動隊、即ち白バイ隊のフロアの休憩室を尋ねると、その懐かしい顔は浮かない表情でパンを齧っていた。

「尾室さん」

 誠が声をかけると、尾室は驚いたのかむせ返りながら振り向く。

「あ、氷川さん」

「ここにいると聞いたもので」

 喉に詰りかけたパンを缶コーヒーで流すと、尾室は苦笑気味に言った。

「何か、随分と久しぶりな気がしますね」

 かつての同僚と顔を会わせると、自然と安堵できる。上からは新しい部署で、と通達を受けたが、誠は捜査一課で尾室は交通機動隊と、古巣に戻った形になる。

「調子はどうです?」

 誠が訊くと尾室は少しばかり肩を落とし、

「ええ、ぼちぼちやってます。ちょっと退屈ですけどね。街中走って職質ばかりで。元居た部署ですけど、何か張り合いがない、ていうか………」

「そうですか……」

「あ、氷川さんの方はどうですか?」

「妙な事件を担当することになりまして。上からはアンノウンの事件に比べたら余裕だなんて変な期待をかけられてますが、面倒事を押し付けられた気がして」

「そりゃ期待もされますよ。何たってG3-X装着員なんですから」

 ふたり揃って笑うが、どこか乾いたものだった。しばし沈黙し、この場にいない上司の名を尾室が呟く。

「小沢さんはどうしてるんでしょうね。氷川さんの方に、連絡とか来てますか?」

「ええ、毎日会議ばかりみたいです。北條さんの愚痴ばかり聞かされましたよ」

 小沢だけは未だG3ユニットからの異動がない。今後のユニット活動の方針について、日々上層部と会議という名の舌戦を繰り広げているらしい。ユニット解散を掲げる上層部と、継続を掲げる小沢という構図で。

 アンノウンは本当に滅びたのか、という論点から滅びたとしても次に現れるかもしれない未知の敵に備えるべき、というのが小沢の主張なのだが、まだ存在しない敵に準備が必要か、と眉を潜める上層部に歯噛みしているらしい。

 そこで第3の意見を投じたのが北條だったらしい。アギトをどう捉えるべきか。このままアギトを放置して良いものか、と。

 彼の意見も全否定できるものではない。恐らく高海伸幸事件の犯人がアギトという事実からの危惧だろう。もっとも、小沢はバカ男の戯言なんて一蹴していたが。ともあれ、まだユニットの今後について結論は出そうにない。このまま現職の部署に居続けるのも、いよいよ現実味を帯びてきた。

「また皆で働けるといいですね」

 何気なしに誠が呟くと、尾室が鼻声で「氷川さん」と呼んでくる。向くと、何故か目を赤く腫らしていた。

「どうしたんですか?」

「僕……、嬉しいです!」

 と尾室は端を切ったように泣き出す。何ともまあ、男泣きと言うには程遠い情けない涙と嗚咽だった。もっとも、これが彼らしいのだけど。

「氷川さんに、そんな風に言ってもらえて………」

「泣かないでください」

 とハンカチを手渡す。

「また焼肉食べに行きましょう。次は僕がご馳走します」

「はい……、ありがとうございます」

 尾室はそう言いながら、誠のハンカチで涙だけでなく鼻水まで拭った。

 

 

   4

 

 そろそろ帰ろうと思った矢先に通報を受けて向かった現場は、またしても自殺だった。1日のうちに2度も自殺現場を捜査することになるとは。しかも、また不可思議なものを。

 現場となった駅の出入口には、夜にも関わらず立ち入り禁止のテープ前で野次馬が集まっている。多くの者が仕事帰りのようで、帰路を妨害されたことに苛立っているように見えた。見知らぬ者の死より自分の都合。これでも警察が護る市民なのだからやるせない気分になる。

「全く信じられんよ」

 現場に先着していた河野が、シートを被せられた死体を前にして嘆息する。

「目撃者の証言によると突然走り出して、自分から壁に激突したらしい」

 考えられる死因としては、頭を強く打ったことで脳内出血を起こした、といったところか。自殺者の女性がぶつかったとされるコンクリートの壁面には、まだ新しい血痕が残っている。彼女もまた、自分から危険行為に走り命を落とした。

 何とも異様だ。自殺は大抵、跳び下りや首吊り、また薬物摂取という自力では脱出できない状況に追い込んで行われるのが大半だ。昼間の青年といいこの女性といい、途中で恐怖を覚えて踏み留まるのは容易だったはず。死に対しての執着が狂的と言わざるを得ない。

「一体どうなってるんだ。動機のない奇妙な自殺が、都内だけでも30件を超えている。しかもここ3週間でだ」

 そう、何より奇妙なのが、自殺件数が昼間とこれの2件だけじゃないということ。お陰で捜査一課の刑事たちは毎日ほぼ全員出払っている。更に今のところ、自殺者たちの自宅から遺書らしきものは発見されていない。中には友人に恋人の自慢をしていた途中、いきなり舌を噛み切って死亡した者も報告されている。

 これだけの数が自ら命を絶っているのに、動機が見つからずにいる。

「河野さん、ちょっとこれを見てください」

 と誠は開いた手帳のページを見せた。庁舎で自殺者たちのプロファイルを整理していた際に気付いた事がある。

「何だいこりゃ?」

 書き留めてあるのは、自殺者たちの名前と生年月日。

「自殺者たちの名前と生年月日なんですが、奇妙だと思いませんか?」

「何が言いたい?」

「全てが、10月23日から11月22日の間に集中してます。つまり、自殺した全員がさそり座の生まれなんです」

「しかしお前、どういう事なんだ一体?」

「分かりません、まだ」

 法則を見つけたからといって、それが何に結びつくのかは見出せていない。またアンノウンの仕業だとしたら、何故今になって超能力者ではなくさそり座の人間へと標的を変えたのか。

 人を自殺へと導く力がある敵だとしたら、それはアンノウン以上の脅威と言えるだろう。

「でも何か、途方もない事が起こっている気がします。人類全体に、我々ではどうする事もできない何かが」

 信じたくはないが、もはや神の所業としか思えない。

 

 

   4

 

 まだ新入りの翔一に割り当てられた仕事は、食材の下処理にホールとなっている。普段から料理をしているからといって、お客から代金を取れるほどの腕ではないから調理はまださせてもらえない。

 でも倉本は、営業後に厨房を貸して料理の試作に付き合ってくれていた。実際に作ってみなければ修行の意味がない。それが倉本の方針だった。調理師学校の頃も、授業は座学よりも実習に重点を置いていた彼らしい。

「先生、お願いします」

 出来上がった品を盛りつけた皿を差し出す。

「ここではシェフと呼べ、て言ってるだろ」

 そう言いながら満更でもなさそうに、倉本は出来栄えを確認するようにアジのムニエルのオリーブソースがけを注視する。フォークでアジの身をほぐし口に運ぶと、慎重に噛みながら舌に転がしてようやく飲み込む。

「うん、悪くないな。素材の味もしっかり活きてる」

「ありがとうございます!」

 「ただし」と倉本はオリーブソースを舐めて、

「もう少しソースの味を濃くした方がいいな。素材の味を信用するのも良いが、魚の癖が苦手なお客もいる」

「はい」

 急ぎメモにペンを走らせる。そんな翔一を見て倉本は笑みを浮かべ、

「そう焦ることもない。腕は確かなんだ。お前に調理を任せられるのも、そう遠くはないぞ」

 そう言われると、自信も沸いてくる。確かに焦っていたのかもしれない。早く一人前になって、千歌たちをご馳走でもてなしたい、と。

「なに、ひとつずつやっていけばいいさ。それに、お前は放っておいたらすぐ奇抜なものを作りそうだからな」

 そう言って倉本は大声で笑った。

 片付けを終えて帰路についた頃には、既に深夜になっていた。東京でも夜になれば車も少なくなる。今度の休日は何を作ろうか頭の中でレシピを組み立てていたとき、戦慄が思考を中断させる。

 久々な気もするが、それは紛れもなく敵の出現だと分かった。力の導くままにバイクを走らせ、街中に開かれた広場に入ったところで空間の異様さに気付き停まる。

 空気が異様に熱く感じられた。まるで真夏だ。ヘルメットを脱いでシートから降りると、広場の隅で衣服が放置されている。ここの暑さに耐えかねた誰かが脱ぎ捨てたものだろうか。だとしても、何故こんなにも砂に塗れているのか。

「アギト……」

 地の底から這い出たような重い声が耳朶を打ち、咄嗟に振り向く。視線の先に立っているのは、ライオンのような鬣を振り乱した人型の生命体。

「変身!」

 アギトに変身した翔一は、逡巡もなくアンノウンへ拳を突き出した。拳が胸を打つ寸前、アンノウンは手で受け止めて捻り上げる。めきめき、と強靭になったはずの筋肉と骨が軋みをあげたところで、翔一の体は投げ飛ばされた。

 アンノウンの右手から砂が零れている。翳した右手から砂が撒かれた。ただの砂じゃないと直感で悟り避けると、傍に停まっていた車にかかり窓ガラスが破裂したように砕け散る。

 こいつ、強い。

 翔一は敵の力を察した。恐らくこれでも手加減している方だろう。あの水のエルに匹敵する強さかもしれない。こいつは土や砂を司る、地のエルというべき存在だ。

 裡から灼熱を解放し、燃え盛る豪炎の戦士(バーニングフォーム)へと姿を変える。再び撒かれた砂を手から発した熱で溶かしつつ、地のエルへ肉迫していく。

 炎を帯びた渾身の拳を突き出したが、またしても掌に納められた。熱で焼こうと更に炎を燃え盛らせるが、敵は意に介していない。

 空いていた地のエルの左拳が、翔一の胸を打った。圧倒的なパワーに身体が吹き飛び、地面に倒れると同時に力が抜けて変身が解ける。打ち所が悪かったのか、視界が霞んだ。意識を飛ばすまいと粗い呼吸を繰り返していく内に、景色が明瞭になっていく。広場にあるのは窓が割れた車と、エンジンを掛けたままの自分のバイクだけ。

 ひゅう、と広場に冷たい風が吹いた。あれほど熱かった空気が、一気に冷やされていった。

 



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第4話

 俺は運命と戦う。
 そして勝ってみせる。

――仮面ライダーブレイド 剣崎(けんざき)一真(かずま)




 

   1

 

 閉校祭は開場から一般客で賑わっていた。生徒たちの親族や周辺の住民、中には遠くに住んでいるという卒業生まで、最後の機会としてかつての学び舎に訪れている。

 そんな来客たちへのもてなしとして千歌のクラスが催したのはメイド喫茶だった。ただメイド服で接客するというのもありきたりだから、と着物をモチーフにした和装メイドという設定になっている。

「行ってらっしゃいませ、お嬢様」

 店として開けた教室を出て行く女性客を、梨子とふたりで見送る。メイド喫茶はお客にとっては店じゃなく家という設定だから、来店時には「いらっしゃいませ」ではなく「お帰りなさいませ」、「またお越しくださいまで」ではなく「行ってらっしゃいませ」と挨拶が決まっている。因みにお客も「お客様」ではなく男性客なら「ご主人様」、女性客なら「お嬢様」と呼ぶことになっている。

「梨子ちゃん似合うよね、自分でリクエストしたの?」

「ええ、ちょっと憧れてて。千歌ちゃんも可愛くて似合ってる」

「そう? ありがと」

 ステージ衣装に比べたら少し控え目だけど、和装を着るのはとても楽しい。ステージと同じで、普段とは違う自分になった気がする。

 「そういえば」といつきが薄い本を手にやって来る。

「梨子ちゃんの服。これ、凄く参考になったよ」

 そう言って見せてくれた本の表紙には、和装のモデルが壁に手をついた写真が掲載されている。タイトルは「壁クイ 大正ロマン編」というらしい。

「偶々よ! 家に偶々あっただけなのよ!」

 と梨子は何故か早口でまくし立てる。資料として持ってきた日も同じ事を言っていた。表紙が可愛いから買っただけで内容に興味はない、とも。

「千歌! 梨子!」

 そこへむつに呼ばれる。会話が一度打ち切られたことに、何故か梨子は安堵の溜め息を漏らした。

「そろそろ交代の時間だよね。少し校内見てきなよ」

「本当?」

 壁の時計を見やると、もうシフトが終わる頃だった。

「梨子ちゃんも一緒に行こっか」

「ごめんなさい。わたし、ちょっと用事があるの」

 何の用事なのかは教えてくれず釈然としなかったが、仕方ない、とひとまず納得して制服に着替えた。

 廊下を何気なしに歩いていると別のクラスでショーが行われていて、曜の声をしたうちっちーが観客の園児たちに呼びかけている。

「みんなー、浦の星アクアリウムにようこそ! 元気かな?」

 「元気!」と園児たちが大声で応じると、セットの岩礁に隠れていたもう1体のうちっちーが果南の声と共に出てくる。

「ここは広くて深ーい、内浦の海」

 魚や海藻の壁紙を張った教室全体を水槽に見立てて、内浦湾に生息している海洋生物の解説をするショーらしい。

 ベランダに出て中庭を見ると、タコ焼きや焼きそばの出店が多く並んでいて、たくさんのお客が買った食べ物を手に行き交っている。翔一がまだ内浦にいたら、きっと店を出したがったかも、と思うと笑みが浮かんだ。菜園の野菜を使った誰も思いつかないような料理を作ろうとして、それを皆で止めて。

「では、次の問題ですわ!」

 とダイヤの声が近くの教室から聞こえてくる。

「次の問題は、得点が2倍になります。皆、正解目指して頑張ルビィ!」

 少し緊張気味なルビィの声まで。覗いてみると、黒板に大きく「Love Live!!クイズ」と書かれ、その前に並べられた3つの机にそれぞれ生徒たちが真剣な表情でボタンに手を添えている。

 場を取り仕切っているのは、派手なスーツを着た黒澤姉妹。台本もなしに、ダイヤが問題文をすらすらと述べてみせる。

「では問題。第2回ラブライブに出場、決勝まで進んだ福岡のふたり組スクールアイドルといえば?」

 3人がほぼ同時にボタンを押して応える。

「明太フォー」

「ハカッタナ」

「天神ツー」

 即答できるあたり、恐らく彼女たちも熱心なスクールアイドルファンなのかもしれない。しかしダイヤは肩をわなわなと震わせて、

「ブッブッブー、ですわ! 正解はドリーム!」

 ダイヤの被っていた帽子から丸印の札が立った。観覧していたお客たちの歓声にダイヤは得意げに、

「まだまだラブライブマニアには遠いですわよ」

「さすがお姉ちゃん」

 普段厳格なダイヤが本当に楽しそうで、本当にスクールアイドルが好きなんだな、と頬を綻ばせる。

 不意に背中をつつかれて振り返ると、暗い表情をした花丸がいた。

「占いに興味はないずらか?」

「花丸、ちゃん?」

「占いに興味はないずら?」

 泣きそうな顔の花丸に着いて1年生の教室に入ると、四方の壁全面に黒いカーテンが降ろされている。教室の中央には黒いローブを着た善子が座っていて、目の前の水晶玉に手をかざしていた。カーテンが光を遮断しているから教室は暗くて、善子の水晶玉に仕込まれた電球のみが唯一の照明になっている。

「くっくっく………。ようこそ迷えるリトルデーモンよ」

 とお客である千歌を、善子は不敵な笑みで迎える。

「こんなのやってたんだ」

 善子の趣味全開な催しで、床にはチョークで大きな魔法陣が描かれていた。

「どんな悩みもズキュ、と解決してあげましょう」

 善子はしばし水晶玉を睨み、

「分かりました、恋の悩みですね」

「いえ全然」

 そもそも恋愛経験すらない。

「どっちかといえば、人が来なくて悩んでたのはこっちずら」

 後ろで控えていた花丸が告げる。「で、では」と善子は改めて、

「最近太ってきて、体重が気になる――」

「いえさっぱり」

 むしろ翔一の料理が食べられなくて食があまり進まないくらい。

「それは善子ちゃんずら」

「ずら丸は黙ってなさい! てかヨハネ!」

「素直に何を占ってほしいか、訊いたほうが良いずら」

「うるさい! 訊かなくても脳内に響く堕天の囁きが教えてくれるのです! いいわ、とにかく占ってあげましょう」

 善子の裡にあるアギトの力は、まだ他人の心に入り込むほど目覚めてはいないらしい。そもそも、アギトがどんな力なのかも分からないけど。翔一のように強くなるのか、曜や梨子みたいに物の過去を視る力なのか。

「ミュージック!」

 善子が両手を上げてそう告げると、教室にオルガンの音色が響き渡った。「本格的」と感心しながら教室を見渡す。どこにスピーカーがあるんだろう、と探していたら、教室の隅にオルガンが置いてあって、奏者はぶつくさ言いながら鍵盤を叩いている。

「だから何でわたしが………」

「梨子ちゃん?」

 その奏者は梨子だった。用事とはこの事だったのか。花丸は悪戯っぽく、

「梨子ちゃんが勝手に手伝ってくれる、て。流石リトルデーモンリリーずら」

「花丸ちゃんだって、1度くらい善子ちゃんの望みを叶えてあげたい、て」

「マルは、偶々………」

 普段は辟易してばかりだけど、この日だけは本人のやりたいように。なら千歌も善子の望みを叶えるために手伝おう。

「じゃあ、Aqoursを占ってください。この先、どんな未来が待ってるか」

 その注文に善子は逡巡したが、堕天使モードがすっかり消えた穏やかな笑みと共に答える。

「それなら占うまでもありません。リトルデーモンが囁いています。Aqoursの未来を」

 確かに、占う必要なんてなかったかもしれない。千歌には、この学校にいる皆には未来が視えているだろう。今までずっと目指してきたのだから。今更になって、他の未来なんて有り得ない。

 占いの館を後にしたところで、少し小腹が減った。何か食べようかな、と中庭に出ると、鞠莉が呼び込みをしている。

「さあ、理事長のシャイ煮premiumはhere(ここ)だよ!」

 海の家では売れなかったシャイ煮だけど、この日は好調らしく店の前には行列ができている。見た目は悪くても味は確かだから、買い求める生徒たちを見て一般客も警戒心が薄れたのかもしれない。

 他の店も生徒たちが呼び込みに勤しんでいて、保護者たちによる出店もある。その中で、生徒たちよりも年上の、でも保護者にしては若い顔を見つけた。

「志満姉、美渡姉」

 呼ぶと、こちらに気付いた長姉が「千歌ちゃん」と微笑んだ。

「来てたんだ」

 言いながら近づくと、美渡が「食べる?」と底の浅いトレーを差し出してくれる。

「ああ、焼きミカンだ。貰う貰う」

 と皮に焦げ目の付いたミカンを取る。

「この時期美味しいよね」

 そのまま食べるものだけど、ミカンは焼くことで甘味が増す。昔はストーブで餅と一緒にミカンも焼いていたらしい。

「本当ミカン好きよね、千歌ちゃんは」

 志満の言葉に「うん、大好き」と即答し、

「食べるといつも思うんだよね。ここに産まれて良かった、て」

 たまに、ふと思うことがある。もし産まれた土地が内浦でなく、リンゴの採れる土地だったらリンゴを好んでいたのだろうか。メロンの採れる土地ならメロンを食べていただろうか、と。

 想像してはみても、あまり実感が沸かない。リンゴもメロンも好きだけど、食べるとき包丁で皮を剥かないといけないし、1個が大きすぎる。その点ミカンはお手軽だ。手で簡単に皮が剥けるし、1個も大きくないから食べやすい。

 結局、どこで産まれてもわたしはミカンばかり食べてるかも。温かく甘い実をひと切れ口に放りながらそう思った。

 ふふ、と美渡が笑いながら、

「翔一もミカン食べながらおんなじこと言ってたよ。ここに来て幸せだな、て」

 翔一くんなら言いそう、と笑ってしまう。志満はかつて自分も通っていた校舎を見上げ、

「それにしても変わってないわね、ここ」

「うん、匂いもあの頃のまま」

 「匂い?」と千歌は訊いた。「うん」と志満は頷き、

「千歌ちゃんは毎日来てるから気付かないかもしれないけど、あるのよ。ここだけの懐かしい匂いが」

 姉たちも浦の星の卒業生だ。統廃合が決まってふたりは何も言わなかったけど、思う事がないわけでも無いらしい。たった3年間でも、日々の全てが詰まっていた居場所だったのだから。

 ふたりもここが大好きだったんだな。そう思うと裡から温かいものが沸いてくる。千歌もいつか、再びここを訪れたときに匂いを感じ取るがことができるだろうか。その時にもう生徒がいなくても。

「おーい、千歌ー!」

 大声で呼ばれたほうを向くと、屋上からよしみが手を振っていた。

「ちょっとこっちまで来て!」

 お呼びみたいだ。「じゃあね」と姉たちに告げて、屋上へ大声で応じる。

「よしみちゃーん! なーにー?」

「ちょっとね!」

「何?」

 「じゃーん!」というよしみの声を合図のようにして、屋上から無数の風船で織られたハートが浮かび上がった。その巨大さに中庭にいる人々のみならず、教室からも皆がベランダに出てきて歓声をあげている。

 「イエーイ!」とむつといつきも屋上の陰から出てきて、風船のハートを示す。風船の曲線に沿って、これもまたバルーン文字で「浦女ありがとう」と綴られていた。

 こんなに皆から愛される学校なのに、本当に無くなっちゃうんだな。そう思うと、不意に寂しさが込み上げてくる。今日は楽しもう。そう何度も自身に言い聞かせてきたけど、裡の奥底にあるものは消しようがない。

「どうだ! サプライズでしょ!」

 「うん、嬉しいよ!」と思慕を抱きながらよしみ答える。思えば3人も、Aqoursのために色々としてくれた。千歌たちと一緒に廃校阻止を掲げてくれて、折れてしまいそうになった時は奮い立たせてくれて。

「まだまだこんなもんじゃないよ!」

 いつきが得意げに告げると、結ばれていた風船が解けた。まるでタンポポの種が舞うみたいに、ほろほろと崩れて大空へと舞っていく。

 わたし達もいずれ、あんな風にばらばらになるのかな。今は互いに寄り添っていても、いつか必ず、別れる日が来る。

 夢見た未来は視えているけど、その更に先はまだ分からない。確実に訪れるその時に、どんな想いがこの裡に生じるのか。

 せめて、笑っていられるといいな。

 

 

   2

 

 男性は車の中で倒れているところを発見された。発見者の証言によると、首に手を掛けたまま目を見開いていたという。

「また自殺ですか」

 半ば確信に近い誠の予想を、河野は「多分な」と肯定する。

「だとすると今度は、自分で自分の首を絞めて死んだことになる。全くどうなってるんだか」

 男性は自殺にあたって道具は何も使っていない。何の準備もせず、ビルの駐車場でひとり自分の手だけで命を絶った。今のところ自殺者たちの中で薬物使用の痕跡が見つかった者はいないが、やはり正気の沙汰とは思い難い。何かに操られたようにすら思える。

 河野は手帳をめくり、

「男は11月2日生まれ」

「やはりさそり座ですね」

「全く訳が分からんよ。一体何が起こってるんだ。何故さそり座の人間ばかりが、何の理由もなく自殺せにゃならんのだ」

 現場に赴く前、今までの自殺者の資料を見て誠には気付いたことがあった。

「河野さん。ドッペルゲンガーというのをご存知ですか?」

「何だそりゃ?」

「もうひとりの自分を目撃する不思議な現象をそう言うらしいんですが」

「もうひとりの自分?」

「昔から多くの報告例があるにも関わらず、この現象の原因は解明されていません。ただ、ドッペルゲンガーを経験した者は、死に至るケースが多いと聞いたことがあります」

 言うなればただ会話の種の都市伝説やオカルトの類だが、現代では重度の精神病患者や薬物中毒者の視る幻覚症状という説が有力視されている。だがこれが、本当に不可思議現象だとしたらどうか。

「お前何が言いたいんだ?」

「一連の自殺者のなかに、もうひとりの自分を視たと漏らした人が何人もいるんです。これが何を意味するのか分かりませんが、もしかしたら、理由のない自殺を未然に防ぐためのヒントになるかもしれないと………」

 こういった推理をしてしまうのも、やはり不可能犯罪ばかりを捜査してきてせいだろうか。でも実際、この世界にはアンノウンやアギトという人智を越えた存在がいるのも事実だ。ドッペルゲンガーを引き起こし、人を自殺へと誘う力を持った者がいてもおかしな話じゃない。

 誠のスマートフォンが着信音を鳴らした。「済みません」と河野に断りを入れて画面を見ると、懐かしい響きのする小沢澄子の名前が表示されている。

「はい」

『氷川君、ちょっと頼みがあるんだけど』

「何でしょうか?」

『今日の会議、あなたにも出てもらいたいのよ』

 

 霞が関の本庁に戻ると、会議室には出席する面々が勢揃いしていた。警備部長に補佐官、北條と小沢と尾室の5人が席に着いている。

「急に呼び出して、済まなかったね」

 明らか形だけの警備部長の労いの声に「済みません」と応じ、急ぎ空いている小沢の隣に座る。思えば、警備部長とこうして顔を会わせるのは初めてな気がする。沼津にいた頃はテレビ通話を介してばかりだったから、対面すると声がよく通った。

「それでは、始めましょう。既に何度も議論されている事ですが、氷川主任を交えて、改めてG3ユニットの活動方針を決めさせて頂きたい」

 どうやらこの会議を取り仕切るのは北條らしい。

「いいですか、既に1ヶ月以上、アンノウン出現の報告は入っていない。これが何を意味するか、お分かりでしょうか?」

 北條の言葉は、特に誠に向けてのものに聞こえてきた。何度も繰り返されであろう議題に補佐官は疲れたように、

「我々としてはアンノウン絶滅も考慮しているところなんだが」

 「いえ」と北條はかぶりを振り、

「問題はもう少し複雑です。アンノウンはこれまで、アギトになる可能性がある者たちを襲ってきた。そのアンノウンが滅んだとするなら、今度はアギトが野放しになる。アギトの数が増えていくかもしれない、という事です」

 小沢が苛立ちを隠さずに訊いた。

「ちょっと、何が言いたいのよ。はっきり言いなさい。はっきり」

「人類にとって、アギトはアンノウン以上の脅威になるだろう、という事です。もしかしたら世界で、アギトとアギトならざる者、真っ二つに割れる可能性も否定できない。我々一般人は、アギトによって支配されるかもしれません」

 小沢が戯言と一蹴したくなるのも理解できた。あまりにも現実味がない。

「そんな……。僕の知る限り、アギトが人間と敵対するとは思えません」

 誠が口を挟んだ。少なくとも、翔一や涼は自らの力を笠に人間を支配しようなんて考えるはずがない。小沢も便乗し、

「私も氷川主任の意見に賛成です。北條主任の説は根拠のない妄想の域を出ていません。実際、今までアギトは我々の側に立ち、共にアンノウンと戦ってきたのですから」

 小沢の言葉に北條は涼しい顔を崩すことなく応じてみせる。

「アギトがアンノウンと戦ってきたのは、自分たちの仲間を護るために過ぎなかったのではないですか? アギトが危険分子なら、或いはアンノウンはそれを排除してくれる有難い存在だと言えるかもしれない」

 そんな極論は聞き捨てならない。「そんな――」と誠が反論しようとしたところで、小沢が声を被せてくる。

「何言ってんのあんた。アンノウンを賛美するつもり? 元々アホ男だと思っていたけど私が間違っていたわ。あんたはドアホよ」

 「落ち着きたまえ、小沢管理官」と警備部長が低い声で告げる。

「そもそもこれまでの会議は、アンノウン、アギト問題から我が国を救うためのものだ。そのためには冷静な意見交換が望ましい。まあ、北條主任の説が飛躍し過ぎている点は、私も認めるがね」

 上司の言葉に、流石の北條も僅かだが眉を潜めた。北條の目論見も分からないが、ユニット活動の総指揮を執る警備部長がどう考えているのかも分からない。この幹部は一体どちらの考えに傾いているのか。

 はっきりと立場を述べないまま、警備部長は告げる。

「だが、アギトが危険分子である可能性も、否定はできない」

 

 

   3

 

 楽しい時間というのは、いつもあ、という間で。

 そこにいる誰もが、この時間がずっと続けばいいのに、て思ってるのに。

 でも、やっぱり終わりは来て。

 時が戻らないこと、もう1度時間を繰り返せないことが、とても寂しく思えるけど。

 同時に、やっぱりどうなるか分からない明日の方がちょっぴり楽しみでもあって。

 ああ、これが時が進んでいく、てことなんだな、て実感できる。

 そして気付く。きっと2度と同じ時はないから、この時が楽しい、て思えるのかな。今こうしていることが、たった1度きり、て分かっているから全力になれる。

 いつか終わりが来ることを、皆が知っているから。終わりが来てもまた、明日が来ることを知っているから

 未来に向けて、歩き出さなきゃいけないから、皆笑うのだろう。

 

 夕暮れと共に、閉校祭は閉場になった。一般客が帰り、この日のうちの片付けをする。また明日も、いつもの学校に戻すために。準備には時間が掛かったけど、組み上げたものを解体するのは、とても早く進んだように思えてしまう。それもまた、片付ける時間も楽しかったからだろうか。

 空の茜が藍色に浸蝕されかけた頃には全てが片付いていた。今日のために頑張ってくれた互いを労うため、グラウンドで全校生徒が集い簡単ながら後夜祭が執り行われた。

 ただ集まって、キャンプファイヤーを囲むだけ。組み上げられた丸太に焚かれた火はすぐに燃え上がり、火力を増す毎に火の粉を噴いていく。

 篝火を焚く風習について、幼い頃に父から聞いたことがあった。古来、人は火を神から与えられた奇跡と考えた。獣や魔を祓い、太陽が沈んだ夜にも光をもたらしてくれるもの。人間にしか生み出すことができないこの光は、人が神から愛された印でもある、と。

 だから人々は火に祈った。与えられたこの奇跡の光を、神との対話の電話口として。

 父は神話や伝説の研究者だったけど、あまり信心深いとは言えず、むしろそういった儀式的なものには消極的だった。一応お盆には墓を参って正月には初詣に神社へ行ったけど、それは父にとっては親戚への挨拶回り以外に意味を持たないように見えていた。多くの神々について知っていたから、そのために本当に信じるべき神を見出せずにいたのかもしれない。

 ――本当に信じるべきものは、意外と近くにあるんだよ。お父さんにとって、千歌がそうだ――

 幼い頃のある日、外国の神々の話をしてくれた後、父はそう言っていた。その言葉の意味は当時理解できなかったけど、今なら分かる気がする。

 キャンプファイヤーを囲んで、皆で思い思いに談笑して、時に歌って踊った後、理事長として鞠莉が口上を述べる。

「これで浦の星女学院、閉校祭を終わります。今日集まった人を見て、わたしは改めて思いました。この学校がどれだけ愛されていたか。どれだけこの街にとって、皆にとって、大切なものだったか」

 言葉を紡いでいく毎に、鞠莉の言葉が途切れ途切れで声もか細くなっていく。

「だからこの閉校祭は、わたしにとって何よりも幸せで……、わたしにとって何よりも温かくて………」

 この楽しい時間を締め括ろうとする鞠莉の言葉は、深く頭を下げた謝罪だった。

「ごめんなさい……、ごめんなさい………」

 嗚咽を交えながら、鞠莉は何度もその言葉を繰り返す。

「もう少し頑張れれば……、もう少し………」

 こんな弱々しい鞠莉を見るのは胸が痛かった。謝罪なんて要らないのに、彼女はどこまでも理事長として、学校を守る立場として振る舞おうとしている。こんな日くらい、最後まで楽しんでいいのに。そのための閉校祭だったのに。

 謝らなければならないのは、千歌も同じ。この学校を救う、なんて夢を視させ、散らせた責任は元はといえば言い出した自分にある。

 鞠莉のもとへ行こうとしたとき、後ろからむつの声が手拍子と共に聞こえた。

「アークーア! アークーア! アークーア!」

 むつに釣られてか、周りの生徒たちも同じように手拍子しながら「アークーア!」と繰り返す。その波は全生徒へと伝播していき、外苑から見守っていた保護者たちもAqoursコールに加わっていく。

 誰も、鞠莉やAqoursを責めるような眼差しなんて向けていなかった。温かく、労わりに満ちている。わたし達の代わりに頑張ってくれてありがとう。一緒に頑張れて嬉しかったよ。だから決勝も頑張って。

 わたし達の想いを、この学校の名前をステージに刻み込んできて。

 そう言われているように感じられた。これがわたし達の居場所なんだ、と思えた。

「皆、ありがとう!」

 鞠莉が大声で告げる。そう、最も言ってほしかったのはその言葉。共に走ってきた皆への感謝が、求めてやまなかったもの。

「じゃあlastに、皆で一緒に歌おう。最っ高に明るく、最っ高に楽しく、最っ高に声を出して!」

 キャンプファイヤーの積み木が崩れた。もう炎も小さくなっていて、もう長く燃えはしないだろう。後夜祭を締め括る歌は、制作はしたけど、どのステージでも歌う機会のなかった曲。

 『勇気はどこに? 君の胸に!』

 諦めかけた時にこの歌を口ずさんで、その度に奮い立たせてきた。絶対に諦めるもんか、と。最後まで足掻いてみせる、と。

 何度だって立ち上がって、前に進めばきっと今日とは違う明日が来ることを願って。

 何を信じたら良いのか分からない時もあったけど、今なら分かる。自分たちの裡にある想い。それを信じて走ればいい。

 この学校での明日は、いずれ来なくなる。でも自分たちの明日は続いていく。そこに向かっていくしかない。浦の星で培ってきたものを裡に仕舞って。

 歌いながら千歌は祈る。

 この皆の歌声が、これからも裡に響き続けますように、と。

 ここで皆で紡いだ物語が、これからも生き続けますように、と。

 

 






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第25章 光の海 / 今、戦う時
第1話


 生きてく、てことはさ、無くすことばっかりじゃないぜ。

――仮面ライダー響鬼(ひびき) ヒビキ




   1

 

 夕食後のお茶を楽しむ習慣は、翔一がいなくなった後も続いていた。いつも彼が淹れていたから、今となっては姉妹でのローテーションになっている。

「千歌、このお茶味おかしくない?」

 湯呑を啜った美渡の文句に「ええ?」と顔をしかめながら、千歌も自分で淹れたお茶をひと口啜ってみる。不味くはないのだが、少しばかり渋い。

「ちゃんと教わったのになあ」

 お湯の温度も茶葉の蒸らす時間も翔一と同じはずなのに、どうしても彼と同じ味が出せない。閉校祭の前日に作ったミカン鍋も、味は良かったのだが翔一が作ってくれたものとは程遠い。

「何だか私たちがホームシックみたいね」

 志満が呟いたのはまさにその通りで、居間にいる全員で笑ってしまった。家から出て行ったのは翔一の方なのに、おかしな話だ。

「今頃、翔一君どうしてるかしら」

 母が遠くを見ながら呟いた。「元気にしてるよ、翔一くんだもん」と千歌が即答すると、志満も同じように「そうね、翔一君だもの」と応じる。どこへ行っても周囲に笑顔を振り撒いている彼の姿が目に浮かぶ。

 「そうだ」と美渡が、

「大会の日にさ、翔一の働いてる店行かない?」

 「いえ」と母はかぶりを振る。

「翔一君が自立しようとしてるんだから、私たちも翔一君離れしないと」

 母の言う事は、千歌も賛成だった。今すぐにでも会いに行きたいけど、まだ早い気がする。会えたとき、翔一に一緒に暮らしていた時のままの千歌でいたくはなかった。決勝は応援に行く、と約束してくれた彼には、ステージで輝いた千歌を、Aqoursを見て欲しい。

「わたし、菜園の手入れしてくる」

 湯呑を置いて、裏口へと向かう。耕したばかりの畑は、種を撒いた大根がようやく芽を出した頃だった。ジョウロに水を注いで、優しく芽にかけて潤していく。

 翔一からは多くのものを教わった。お茶の淹れ方や料理に掃除と。彼が最も熱心に教えてくれたのは、菜園の手入れだった。畑を耕すときは、土を優しくマッサージするように。農薬は使わず、肥料も無添加のものでなるべく自然そのままの姿で育てるように、と。

 1番大事なことは愛情を持って育てること、と翔一は教えてくれた。今ならその言葉が理解できる。土からぴょこ、と顔を出した芽が、まるで我が子のように愛おしく感じられる。育てているのは大根だけだけど、これから季節が巡る毎に色々な野菜を植えてみよう。ちゃんと翔一がここにいた、という標として。彼がいつでも来られる場所として、残すために。

 もうすぐ決勝の日。当日は怖くもあるけど、楽しみでもある。あのアキバドームのステージで、自分たちはどんな輝きを放てるのか。

 輝きを視たとき、翔一はどんな顔をしてくれるのか。

 夜空に浮かぶ月を見上げながら思った。

 早く翔一くんに会いたいな――

 

 客足のピークが過ぎて、ようやく休憩に入ることができた。休憩室でコーヒーを飲んでくつろいでいたところに、遅れて休憩を貰えた同僚が部屋に入ってくる。

「津上さん、お疲れ様です」

「ああ可奈(かな)さん、お疲れ様です。今日もお客さん沢山でしたね」

 「本当、忙しかったですよね」と笑い、可奈は持ってきたトレーに乗る皿を翔一の前に置いてくれる。

「賄いです。食べてください」

「ありがとうございます」

 皿で湯気をくゆらせているのはリゾットだった。具はポルチーニ茸とチーズのシンプルなもので、「いただきます」とふたり揃って手を合わせ食べ始める。

 出来たてで熱い米を舌で転がしながら、染み込んだ出汁とキノコの香りを堪能する。柔らかい舌触りに、ブラックペッパーが良い刺激をくれる。

「どうですか? 今日は私が当番だったんです」

「美味しいです。良い感じですよ。俺も負けられないな」

 素直な感想を述べると、可奈は嬉しそうに笑った。歳の近い彼女とは店で働き始めた頃から自然と話をするようになった。料理人だった父に憧れてこの業界に入ったという彼女も熱心で、互いに料理研究を語り合う仲になっている。

「津上さんの方が凄いですよ。私なんてもう抜かれそうで」

「いやいや、可奈さんの方が凄いですよ。流石先輩だなあ、ていつも驚いてます」

 互いに褒め合っていると、何だか背中がむずがゆい。こうした競い合う仲も良いな、と思った。調理師学校時代は、周りなんて目もくれず自分のやりたいように料理をしていたから。

「これ千歌ちゃんにも食べさせてあげたいなあ。今度レシピ教えてください」

「千歌ちゃん、て?」

「こっち来る前にお世話になってた家の娘さんなんです」

 何故か可奈は身を乗り出し気味に訊いてきた。

「もしかして恋人ですか?」

 翔一から女性関係の話が出た事に興味津々らしい。「いえいえ」と翔一は手を振りながら、

「妹みたいなもんです。スクールアイドル、てのやってて、今度こっちで決勝大会があるんですよ」

「それってもしかして、ラブライブですか?」

「可奈さんも知ってるんですか?」

「凄く有名ですよ」

 人気がある、とは千歌から何度も聞かされてきたけど、こんな身近な人も知ってるコンテンツとは。何気なしに決勝大会のチケット抽選に申し込んで当選できたが、それが幸運だったと今更ながらに実感する。

 可奈は得心がいったように、

「だから大会の日にお休み入れてたんですね。何て言うか意外だったんです。津上さんアイドルに興味あったんだ、て」

「他のグループとか、あんまり知らないですけど」

 突然家を離れることになって高海家の面々に申し訳ないと思っていたが、最も気掛かりなのは千歌の事だった。毎日しっかり食事は摂っているか、栄養が偏っていないか。メッセージのやり取りで元気とは言っていたが、やはり離れると心配になってしまう。

 だから、決勝の日が待ち遠しい。ずっと追いかけてきたステージで、彼女が立っているのを早く見たい。彼女の頑張りが、どんな形になるのか。

 早く千歌ちゃんに会いたいな、と翔一は思った。

 

 仕事が終わると、翔一はバイクで帰路についた。レストランで働く毎日は楽しいけど、不満があるとすれば仕事が終わる時間ではスーパーが閉店している事くらいか。24時間営業している店もあるけれど、深夜だと売れ残った傷み初めの食材ばかりが陳列されているからあまり好ましくない。

 大会当日に、Aqoursの皆に差し入れでも作ろうかな、と考えていたとき、脳裏に戦慄が走る。帰路の道から逸れて、翔一は敵の気配へとバイクを走らせた。

 また地のエルか。あの敵が現れてからテレビでニュースを見るようにはしているが、アンノウンらしき事件は起こっていない。連日報道を賑わせているのは、都内で自殺者が続出しているということ。何故かさそり座のン元ばかりが自殺していることが注目されているが、これもアンノウン絡みなのだろうか。

 考えても仕方ない。翔一にできることは、敵が現れたら戦うだけ。沼津にいようと、東京にいようと変わりはない。

「変身!」

 敵の気配に近付いたところで、翔一はアギトに変身した。宵闇のなか、路地の先で街灯に照らされた朧気な影が視える。明らか人じゃない。バイクの駆動を速めたところで、銃声が耳をついた。同時に進路上の石畳が捲れ上がり、咄嗟にバイクを停める。

 地のエルが去って行った方向から、こちらへと違う影が歩いてくる。アンノウンじゃない。鋼鉄のような音を打ち鳴らしながら近付いてくるのは、青い鎧のG3-Xだった。

「氷川さん?」

 確か、誠も都内に戻ったと聞いた。さっきの攻撃はG3-Xによるものなのか。いくら不器用な誠でも、照準を誤って翔一に向けるなんてことはしないだろう。

 G3-Xはオレンジ色の目を翔一に向ける。ある程度にまで距離を近付けたところで足を止め、抱えていたガトリングの銃口を向けてきた。

「何ですか氷川さん、悪い冗談はやめてください」

「冗談ではありませんよ、津上さん」

 その声は誠のものではなかった。誠よりも冷たく、淡々としたもの。

「アンノウンは無事逃走したようですね」

 呟くと、G3-Xは武器を折り畳んで地面に置き、両の側頭部に手を掛けてマスクを脱ぐ。街灯に照らされ露になったその顔は――

「北條さん?」

 見知った顔に敵意らしきものは感じず、翔一も変身を解いた。

「何ですか一体。何の真似です? アンノウンが無事逃走した、て」

「ええ。その言葉通りですよ」

 北條は一片も硬い表情を崩すことなく告げる。

「G3ユニットの活動内容が少々変わりましてね。これからは、アンノウンを保護する事が我々の仕事です」

 言っている事の意味が分からなかった。バイクから降りて、詰め寄りながら矢継ぎ早に尋ねる。

「何馬鹿なこと言ってるんです? 何だってアンノウンを守らなきゃならないんですか?」

「詳しい事はまだ言えません。だが、我々普通の人間には、アンノウンの存在が必要なのかもしれない。そういう見方もあるという事ですよ」

「そんな、滅茶苦茶じゃないですか」

 ますます訳が分からない。アギトになる可能性を持った者に限られるとはいえ、人間を殺すアンノウンを守るなんて暴挙を警察は許したというのか。こんな事を、一緒に戦ってきた彼らが黙っているわけがない。

「氷川さんは……、小沢さんはどうしたんですか?」

 翔一が尋ねても、北條は不敵な笑みを返すだけだった。

 

 

   2

 

 朝に出勤した誠は就業開始時刻と同時にG3ユニット会議への出席を命じられた。突然どうして、と疑問は沸いたが、それは共に会議室へ向かった小沢からの話で得心せざるを得なかった。

 昨夜、1ヶ月以上もの間姿を見せなかったアンノウンが出現。それに対して警察が取った対処。説明してくれた小沢は怒り心頭で、鼻息を荒げながら会議室に入ると既に着席していた警備部長に詰め寄った。

「北條透と尾室隆弘がG3ユニットとして出動。アギトの動きを妨害したというのは本当ですか?」

 あまりにも無礼な態度に警備部長は咎めることなく「その通りだ」と応じ、

「何か問題があるのかね?」

 「それは――」と小沢が言いかけたとき、誠が声を被せた。

「自分も全く理解できません。何故アンノウンを庇うような真似を――」

 言い切る前に、会議室の扉がノックされる。会議の始まる時刻と同時に「失礼します」と入って来たのは、ユニットの制服を身に纏った北條と尾室だった。小沢と揃ってふたりと睨みつける。北條はかねてからこうする予感はしていたが、まさか尾室までオペレーターとして出動していたとは。またユニットで働ければ、と語り合ったが、こんな形になるなんて。

 でも、誠は尾室を非難する気になれなかった。部屋に入ってからというもの、尾室は沈んだ顔を俯かせてばかりで誠たちの方を向こうとしない。対称的に北條は、誠と小沢を認めると不敵に笑っている。

「分からないのかね?」

 警備部長は言う。

「この世界がアギトと、アギトならざる者に分かれたらどうなるか。それこそ聖書の中のハルマゲドンを招きかねない」

 新約聖書の最後に記された最終戦争。かつてない戦いが起こり、世界が終わるとされる。まさか現代に現れたアギトが、世界を滅ぼすほどの混沌をもたらすとでも言うのか。

「そんな馬鹿な」

 アギトだって人間だ。彼らにだって意思があり他者への優しさがあることを、一緒に戦ってきた誠は知っている。いくらその力が未知数だからといって、彼らが人間の脅威だなんて何を根拠に言えるのか。

「美辞麗句はよそう。アギトはアンノウン以上に危険な存在と言える。我々が今、アギトを狩るような真似はできない。ならばアンノウンに任せればいい。我々も手を汚さずに済む」

 何て極論、いや暴論だ。当然のごとく小沢は噛みつく。

「そんな! それでは我々G3ユニットが今までやってきたことは?」

「過去の事はどうでもいい」

 警備部長は撥ねつけるように告げ、

「問題はこれからの事だ。小沢澄子管理官、氷川誠主任。両名には新しいポストを用意した」

 「新しいポスト?」と小沢は眉を潜める。少なくとも、G3ユニットではなさそうだ。そこで静観していた補佐官が口を開く。

「氷川主任は元々静岡県警の人間だ。しばらく故郷に戻った事で、恋しくなった頃ではないかね?」

 あくまで穏やかな口調だったが、誠は開いた口が塞がらなかった。

「静岡県警に帰れ、と………?」

 G3装着員として地方警察から異動してきた誠がユニットから外されれば、もう本庁にいる意味はない。つまり、体の良い左遷。

 警備部長は淡々と、

「小沢管理官については、君のためにG3ユニットの兵器開発部を新しく設立する」

「私はアンノウンを守るための武器を作るつもりはありません」

 小沢は即答する。今までも似たような事に何度も見舞われたが、今度こそ覆ることはないな、と悟るほかなかった。市民を護るために在ったはずのユニットが、市民を見殺しにするユニットへと歪められていく。

 誠は口出しができないよう遠方へ飛ばされ、小沢は上層部の目の届く場所で飼い殺しにされる。

 ハルマゲドンを招きかねない、と警備部長は言っていた。今の警察がやろうとしていることは、そんな神聖さを帯びたものなんかじゃない。

 これはアギトという人種に対するホロコーストだ。

 

 

   3

 

 朝の教室は、千歌以外には誰もいない。この日は土曜日で休みだから、待っていても生徒たちは登校してはこない。

 無理を言って開けてもらった教室で、千歌は1枚の紙を眺めていた。すっかりくたびれた、東京スクールアイドルワールドの結果表。Aqoursとして初めて経験した大きな挫折。

 順位に沿って羅列された名簿の中でAqoursは最後に記載されている。同じ行に記録された得票数は、あの日と同じゼロのまま。

 ここまで来たんだな、と感慨を抱きしめる。1度はゼロに落とされて、そこからまた初めるために這い上がろうともがいてきた。

 ゼロから1へ。

 1から10へ。

 10から100へ。

 この学校の入学希望者を100人に到達させることは叶わなかったけど、自分たちは確実にあの頃からずっと進んでいるはず。この票が100になったかは、明日になれば分かる。

「忘れ物ない?」

 その声と共に曜が教室に入ってきた。「大丈夫」と応えた千歌は一緒にAqoursを始めてくれた親友であり、仲間を見上げる。曜は結果表を一瞬だけ見やるが、敢えて触れなかった。

「素敵な閉校祭だったね」

「うん。だから、出来ることは全部やって挑まなきゃね」

 アキバドームへは、生徒たちも総出で応援に来てくれるらしい。生徒だけじゃなく、保護者たちも。何でも母が十千万の送迎バスを特別に貸し出して会場に向かうらしい。

「そうだね」

 梨子の声だった。

「この時のために、すっごく練習したんだもん」

 そう、全ては明日のため。背中を押してくれる人たちがいる、護ってくれる人たちがいる、と実感できたから、想いを受け取ったから、練習に励むことができた。

「確かに、毎日朝早くから夜遅く、暗くなっても――」

「頑張ルビィしたから」

 告げて入ってくるのは黒澤姉妹。あまり無理をしないように、と注意はしていたけど、中々ハードな練習量だったと思う。

「それでも、皆1度もサボらなかった」

 そう言うのは、練習メニューを考案していた果南。彼女の基準に合わせた練習があまりにも重度だったから、皆で説得して緩くしたのは良い思い出。

「弱音は言ったけどね」

 悪戯っぽく鞠莉が言う。いくら緩めたとはいえ決して楽ではなかったから、毎回誰かが必ず音を上げたものだ。それでも誰も怠けることなく続けてきたのは、この面々だったからだろう。

「とにかく朝は眠かったずら」

 毎朝目を擦りながら登校していた花丸が善子と共に入る。

「ね、善子ちゃん」

「ヨハネ。流石我がリトルデーモン達。褒めて遣わす」

 そういえば千歌も、殆ど毎朝翔一に起こしてもらっていた。寝ぼけたまま彼の作った朝食を食べて、タオルや着替えや弁当を詰めた鞄を受け取って登校していた。彼が家を出て行った後は、なるべく自力で起きられるよう努力したつもりだ。それでも何度か遅刻はしたけど。

 全員が集まったところで、ゆっくりと見て回るように無人の校内を歩き、外へ出た。校門の前で足を止めて、校舎を見上げる。

 集合場所を学校とすることに、誰も異議はなかった。この学校のスクールアイドルなのだから、出発点はここにしたい、と。自分たちを見守ってくれた居場所に、挨拶をしておきたい。良い知らせを手土産に戻ってきます、と誓って。

「行ってきます!」

 全員でそう告げると、今度こそ振り返ることなく歩き出す。

 やれることは、全てやった。足掻けるだけ足掻いた。

 残るは全て、ステージで散らそう。

 

 



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第2話

 お婆ちゃんが言っていた。
 子供の願い事は未来の現実。
 それを夢と(わら)う大人は、もはや人間ではない。

――仮面ライダーカブト 天道(てんどう)総司(そうじ)




 

   1

 

 電車と新幹線は運休も遅延もなく、東京駅には滞りなく到着することができた。

「これからどうする?」

 と曜が皆に訊く。「本番は明日だしね」と果南が迷いながら呟いた。大事を取って前日に現地入りすることにしたのだが、宿へのチェックイン時間にはまだ余裕がある。どうせなら観光したい、と欲が働くが、出来ることなら明日に備えて体力は温存しておきたい。

「リリーはブクロに行きたいのよね?」

 善子が言うと「ど、どこそれ、て?」と梨子が何故か動揺している。「ブクロ?」と鞠莉が訊くと善子は何の気なしに、

「ブクロというのは――」

 説明が中断された。何故かというと梨子が背後から善子を関節技で拘束したから。

「サイレントチェリーブロッサムナイトメア………!」

 と技名をぼやく梨子に「どんどん善子ちゃん化しているずら……」と花丸が呆れの視線を送る。

 特に寄りたいところが無いのなら、行っておきたい場所が千歌にはあった。

「じゃあ取り敢えず、挨拶に行こうか」

 

 向かったのは神田明神だった。ラブライブに出るのなら、スクールアイドルの聖地であるこの神社に願掛けをするのが伝統のようなものになっている。皆で一気に男坂の急な階段を駆け上がり、朱色の社殿を拝む。

「急な階段だったずら」

「でも、前来たときに比べたら楽じゃなかった?」

「そういえば」

 花丸とルビィの会話を聞いて確かに、と思った。思いの外、息があがっていない。何なら今ここで踊れそうなほどに。

「成長、て気付かない間にするもんだよ」

 と果南が言った。あの頃に比べたら、自分たちは成長しているのだろう。少なくとも階段を難なく駆け上がれるくらいには。明日に向けての良いウォーミングアップになった気がする。

「よし、じゃあお祈りしようか」

 そう告げた千歌から順に、皆で賽銭箱に小銭を投げ入れて手を合わせる。明日に向けての願い、というよりは決意表明みたいなもの。神頼みはしない。鞠莉曰く願いを叶えてくれない神様は勘当だから。

「会場の全員に、想いが届きますように」

 これは曜の決意。

「全力を出し切れますように」

 これは梨子の決意。

「緊張しませんように」

 これはルビィの決意。

「ずら、て言いませんように」

 これは花丸の決意。

(すべ)てのリトルデーモンに(よろこ)びを」

 これは善子の決意。

「浦の星の皆の想いを」

 これはダイヤの決意。

「届けられるような歌が歌えますように」

 これは果南の決意。

「明日のstageが、最高のものになりますように」

 これは鞠莉の決意。

「ラブライブで、優勝できますように」

 そしてこれは、千歌の決意だ。

 気の済むまで長く手を合わせたら、「ずらあ」という花丸の歓声が聞こえた。ルビィと絵馬を見ていたらしい。近付いて「何?」と訊いてみると、ルビィが「これ」と掛けられた絵馬のひとつを指さした。

 Aqoursが優勝しますように 浦の星女学院有志

 絵馬にはそう書かれている。

「これって………」

 「見て、こっちも」と曜が別の絵馬を指さす。その絵馬にもAqoursの優勝祈願が綴られていた。同じく浦の星女学院有志によって。

「皆来てくれてたのね」

 梨子が感慨深そうに嘆息する。探してみれば、浦の星の生徒によるAqoursの優勝祈願がいくつもあった。絵馬には掛けられた月も書かれているのだが、どれも時期にばらつきがある。多くが昨年の11月から今年の1月あたりだ。

「こんなに、何回も」

 旅行に来たついでだったのかもしれないし、このためにわざわざ神田明神まで足を運んでくれていたのかもしれない。確かなことは、皆がAqoursの事を想っていてくれていた。自分たちに託してくれた。この絵馬に記された浦の星女学院という名前が、いつまでも残ることを。

「わたし達にはひと言も言わないで………」

 梨子の言うように、お参りに言って来た、なんて1度も聞いていなかった。もしかしたらサプライズのつもりだったのだろうか。きっとAqoursの皆も神社に行くから驚かせよう、と。

「やっぱり、この学校の生徒は皆coolデース」

 鞠莉が言った。本当、わたし達は素敵な学校や人々に囲まれていたんだな。

 ふと目に留まった絵馬を眺めると、それも「ラブライブ優勝」と書かれている。ただ、追記された名前はアプリコット。つまりはスクールアイドル。

「千歌ちゃん、これって………」

 曜に呼ばれ、彼女の眺める絵馬を見てみる。そこにも、別のスクールアイドルの名前で優勝祈願が綴られている。

「こっちにもあるよ」

 果南の視線の先にも、また別のスクールアイドルの願いが。

「こんなにもスクールアイドルが、ここで祈願していったんだ………」

 ルビィが恐る恐る言った。「沢山あるずら」と花丸が言うように、掛けられた絵馬の殆どが各スクールアイドル達の、たった1組しか得られない優勝への願いで埋め尽くされている。こんなに多いのも、大会前という盛り上がり故だろう。

「わたし達だけじゃない。皆勝ちたくて、ここに集まってる」

 そう呟くと、少しだけ恐怖に似たものが込み上げた。考えてみれば当然だ。ラブライブに出るのはAqoursだけじゃない。全国数千ものスクールアイドル達の中で、決勝に進んだほんの僅かなグループの掲げた悲願だ。文字だけだと簡潔だが、そこに秘められた想いは想像しがたいほど膨大で、それぞれにここに至るまでの物語がある。

 輝きを求める願いや物語は、決してAqoursだけのものじゃない。スクールアイドルの数だけ物語がある。こうしてここに語ることができるのは、語り部がいるから。見てもらえるのも、偶々目に入ったから。Aqoursの物語とは、そんな膨大な中で切り取られた1片でしかない。人々に全てを知ってもらう事なんて不可能だ。だからこそ、皆は物語のほんのひと欠片だけでも残そうとする。自分たちや、学校の名前を記すことで。

 誰かの目に留まりますように、と。

 長く語られますように、と。

「お久しぶりです」

 不意にその声が聞こえた。向くと、そこには鹿角姉妹がいる。

「聖良さん」

 「遂に、ここまで来ましたね」と言いながら、聖良たちはこちらへと歩み寄る。

「びびってたら負けちゃうわよ」

 理亜が意地悪に言う。「分かってるわよ!」と善子が即答した。あくまで強気な彼女に対して、花丸はどこか不安げに、

「アキバドームは、今までの会場とは違うずら」

「どんな所か、想像できない………」

 ルビィが言った。彼女の言う通り、千歌にもドームの光景がどんなものか何度も想像してはみたけど、イメージが未だに定まらずにいる。今までの会場よりも広く観客が多いだけだろうか。そこに立った時の重圧は、どんなものなのか。結局のところ、実際に立ってみなければ分からない、というのが結論だ。

「わたしも、あのステージで歌えたことが今でも信じられない」

 まるで遠い過去のように理亜は言った。そういえば、Saint_Snowは前大会で決勝まで勝ち進んでいる。つまり、ふたりはあのドームの光景を知っている。聖良もまるで夢を視ていたかのよう、といった声音で語る。

「自分の視界、全てがきらきら光る。まるで、雲の上を漂っているようだった………」

 「雲の上……」と千歌は反芻する。もっと詳しく聞きたいけど、それは意味を持たないだろう。聖良自身も、実のところあまり覚えていないのかもしれない。思い出深くても、実際にステージに立っているのはパフォーマンスの数分間のみ。その間の夢心地な、まさに雲の上の場をいくら聞いたところで、実感なんて沸きようがない。

 それに聖良と理亜が感じたものは、Saint_Snowとして駆けてきたからこそだ。千歌たちはAqours。歩んできた別の物語を見聞きしたところで、どうして自分の事のように感じ取れるのか。

 きっと自分たちが明日視るものは、Saint_Snowとはよく似たものでも、全く違うもの。自分たちにしか、Aqoursにしか視られないものだ。

 「だから」と理亜はルビィにずい、と顔を近付け、

「下手なパフォーマンスしたら許さないからね」

「当たり前だよ、頑張ルビィするよ」

 この時のルビィは強気だった。本当に大きくなったなあ、と思う。初めて会ったときは千歌にも怯えるほどだったのに。

 心配なんて杞憂と分かったのか、理亜は笑みを零す。

「また一緒に歌おうね」

うゆ(うん)

 また合同ライブする日も近いかな。そう思うと明日の、その先も少しばかり楽しみになる。離れていてもまた明日、と言えれば、未来もあまり怖くはない。

 聖良は妹たちを微笑ましく眺めながら言った。

「素敵な笑顔ですね」

「はい」

「初めて会ったとき、何て弱々しいんだろう、て思ってました」

 わたしはふたりを見て何て凄い人たちだろう、て思ってました、と千歌は微笑んだ。初めての東京のステージを前にして慄く千歌にとって、Saint_Snowとは世界の広さを象徴するかのようなグループだった。

「でも、今の皆さんを見て思います。何て頼もしいんだろう、て」

 それは聖良が本当の意味で、Aqoursを認めた言葉だった。努力を積み重ね、挫折を経ても立ち上がり最高のステージに立つスクールアイドルとして。同じステージを目指してきた者同士としての、最大の賛辞だった。

 だからこそ、聖良は訊くのだろう。

「勝ちたいですか?」

 その質問に千歌は揺れた。聖良は続ける。

「千歌さんがいつか、わたしに訊きましたよね。ラブライブ、勝ちたいですか?」

 それは、かつて千歌が向けた問いだった。勝ちたくなければ何故ラブライブに出る、と返されたのも覚えている。スクールアイドルならば愚問かもしれない。ここまで駆け上がって来ておいて、今更思い出作りに、なんて言ったら鹿角姉妹のみならず全てのスクールアイドルの怒りを買いそうだ。

 答えあぐねる千歌に、聖良は更に質問を重ねる。

「それと、誰のためのラブライブですか?」

 

 

   2

 

 ランチタイムもピークを過ぎて、厨房もようやく落ち着いてきた。遅れた昼食に来店してくれたお客たちを長く待たせることもなさそうだ。

「ありがとうございました」

 笑顔でお客を見送り、テーブルを片付けようとしたときにその声は聞こえた。

「理亜、これ凄く美味しいですよ」

「ちょ、姉様……」

 小さなテーブル席にいる、高校生らしき制服を着た少女たちだった。年上らしき方の少女がラザニアを相手に食べさせようとフォークを差し出している。相手の方は恥ずかしいのか顔が朱い。

 テーブルに近付いてみると、ふたりも翔一に気付いたのかこちらを向いた。

「聖良ちゃんに理亜ちゃん」

 「津上さん?」と聖良が目を丸くした。

「もしかして、明日のラブライブのために来たの?」

「ええ。決勝ですから、Aqoursの皆さんの応援に」

「そっかあ。でもまさかこんな所で会うなんて奇遇だよね」

 「ていうか」と理亜が細めた目を向ける。

「何であなたはここに?」

「ああ、先月からこのお店で働き始めたんだよね。どうようちの料理」

「美味しいです、とても」

「だろ? そこらの店とは違うんだ。何てったって素材に拘ってるからね」

 そこでぽん、と後ろから肩を叩かれる。振り向くといつも厨房にいる倉本がいて、翔一は罰が悪くなって苦笑を返した。

「何だ自分の店みたいに。まだお前はホールだろ」

「ああ、すいません先生」

「ここではシェフだ」

 ミネラルウォーターの瓶を持った倉本は「お冷を」と聖良の空になったグラスに水を注いだ。

「長話も程ほどにな」

 そう忠告し、倉本は厨房へ戻っていく。恥ずかしいところを見られてしまい、照れ隠しに翔一は頬をかいた。聖良は優しく微笑し、注がれた水を飲んで深く嘆息する。

「姉様、大丈夫?」

 と理亜が心配そうに聖良の顔を覗き込む。「ええ」と聖良は少しか細い声で応じ、

「ごめんなさい。長旅で少し疲れているみたいです」

 確かに、見ると心なしか顔色があまり良くない。

「少し、外の空気を吸ってきますね」

 そう言って聖良は席を立った。慌てて理亜も立ち上がり、

「ならわたしも――」

「理亜はここにいて下さい。すぐ戻りますから」

 どこか拒絶しているようにも聞こえる言葉に、理亜は戸惑ったままゆっくりと椅子に腰を戻す。

「姉様、何か最近変………」

 ぼそり、と理亜は呟いた。「俺、行ってくるよ」と翔一は告げた。

「先生すいません、俺ちょっと」

「え、おい」

 厨房にいる倉本に断りを入れて、既に店を出た聖良を追いかける。店のすぐ傍には広範囲の公園が広がっていて、春になると植えられた桜が満開になる。花見シーズンになると店も花見用にとテイクアウトのサービスを行う予定だ。来月はもっと忙しくなるぞ、と倉本に釘を刺された。翔一にとっては、シーズン中は調理補助として厨房に立たせてもらえるから楽しみなのだが。

 まだ枝が裸の並木道に、聖良は重そうな足取りで歩いていた。

「聖良ちゃん」

 声をかけると、聖良は「津上さん……」と足を止める。

「理亜ちゃんが心配してたからさ」

「すみません、お仕事中なのに」

「大丈夫だいじょうぶ。聖良ちゃんはうちのお客さんだからさ」

 そう言うと、聖良は嘆息しながらも笑ってくれた。並んでゆっくりと並木道を歩く。吹く風が梅の香りを運んでいた。これから暖かくなるな、とまだ蕾の小さな桜の樹を見上げていると、聖良の方から話を持ち掛けてくれる。

「さっき、Aqoursの皆さんに会って来ました」

「本当? もうこっちに着いてたんだ」

「津上さんは、会いに行かないんですか?」

「会いたいけど、俺も明日は応援に行くからさ。どうせなら、ステージにいる皆を先に観たいかな、て」

「きっと、素晴らしいステージになりますよ。さっき千歌さんと話して、そう思いました」

 「そっか」と応じながら、翔一は安堵していた。俺がいなくなった後も変わらず頑張ってたんだな、と。

「聖良ちゃんが言うなら間違いなしだね」

「買い被り過ぎですよ。わたしなんて地区予選で負けて、あと少しで卒業して、そうしたらわたしの夢も終わりですから」

「終わり、て?」

「Saint_Snowはもう終わりにする、て理亜が言ったんです。わたしは続けて欲しかったんですけど、あの子が譲らなくて」

 気を持ち直すように、聖良は俯かせた顔を上げた。

「でも、理亜は新しいグループを作る、て張り切ってますから心配はしてません。あの子なら、わたしよりもっと凄いスクールアイドルになれる、て信じてますから。わたしはもう引退ですから、すぐに追い抜かれますね」

「聖良ちゃんは、もう歌わないの?」

「ええ。もうわたしは、来月にはスクールアイドルじゃなくなるんですよ。終わった身なんです」

「そんなことないよ。聖良ちゃんが理亜ちゃんと頑張ってこられたのは、歌とダンスが大好きだからじゃない。大好きなままならここで終わりになんかしないで、また続けてみようよ。きっと理亜ちゃんだって、それを望んでるはずだよ」

 スクールアイドルじゃなくなるから、て辞めるだなんて寂しすぎる。まだ翔一よりも若い聖良がまるで諦めみたいな事を言っていることは、どうしても見過ごせなかった。

 聖良は翔一をまじまじと見上げ、

「やっぱり、津上さんは温かい人ですね。津上さんみたいな人に見守られて、千歌さんが羨ましいです」

「え、そうかなあ?」

 年下におだてられて、満更でもなしにだらしなく笑ってしまう。こんなんだから、千歌から「翔一くん」呼びされてしまうのだろう。

「正直、悔いが無いわけじゃないんです。あの子がわたしのためにライブをしてくれた時、また一緒に歌いたいな、て思って。でも、もう良いんです。優勝はできなかったけどアキバドームのステージには立てましたし、何より理亜と一緒にスクールアイドルができただけで、わたしは満足です」

 「諦めるのはまだ早い、て」と翔一は聖良の肩に手を添えた。

「まだやりたい事があるなら、満足いくまでやった方がいいよ。そうだ、明日一緒に応援に行こうよ。千歌ちゃん達のステージを観て、聖良ちゃんの心にまだ歌が大好き、て気持ちがあれば、きっと続けたくなるからさ」

 余計なお世話かもしれないけど、これが最善と思った。千歌が凄い、と言ったスクールアイドルなのだから、これからも彼女たちと一緒に頑張ってもらいたい。時間が過ぎたからといって、夢を諦める理由になんてならないのだから。

「ありがとうございます」

 聖良はそう言って笑った。その笑顔は今にも消えてしまうそうなほどに儚く見えた。

 

 

   3

 

 聞いた店名を見つけたとき、丁度彼はふたり組の女性客を見送っているところだった。

「じゃあ、また明日!」

 そう言って手を振る彼の傍に車を停めて、すっかり懐かしさを覚える名前を呼ぶ。

「津上さん」

 誠に気付くと、振り向いた彼はどこか安堵したかのように嘆息した。誠と同じように懐かしさを覚えていてくれたら、とても嬉しいことだ。

「氷川さん」

「すいません、突然お邪魔しちゃって。今はこちらで働いていると志満さんから聞いたもので」

「ええ、いつまでもお世話になってるわけにもいかないかな、て。まあ、結構楽しくやってます」

 沼津にいた時はいつもエプロン姿だったのに、今の翔一は真っ白なコック服を着こなしている。でも、彼の向ける笑顔は全く変わっていない。その事に心底安堵する。

「楽しいですか。津上さんらしいですね」

 皮肉に聞こえてしまうかもしれないが、最上の褒め言葉として向けたものだ。思えば彼との関係は奇妙なものだったな、と不思議な感慨を覚える。捜査協力に訪ねた家の住人だったのが、知らずのうちに共に戦う仲間だった。出来ることならこれからも共に戦っていければ、と思っていたが、それはもう叶わない夢だ。翔一は戦い続けても、誠は前線から引く。G3ユニットにしがみつこうとすれば、それは翔一を討つという事になるのだから。

「僕たちの間も色々ありましたが、いつまでも津上さんは津上さんのままでいて欲しい。今ではそう思ってます」

「何ですか氷川さん。何か、しんみりしてません?」

 そりゃあ、しんみりもする。仕事の引継ぎも済んで、部屋の荷物も全て静岡の実家に送った。明日の新幹線で経たなければならない。

「ええ。実は静岡県警に帰ることになりまして」

「帰る、てどういう事です? G3-Xはどうするんですか?」

 「それは――」と言い淀んでしまう。せめて翔一には伝えたい、と会いに来たのだが、言う事が怖かった。警察がアギトを絶滅させようとしている、なんて知って翔一はどんな反応をするか。生きることは美味しい、とかつて言ってのけた彼が、これから対アギトへと動く世界で人生を無条件に素晴らしい、と笑っていけるだろうか。

「津上さん、詳しい事は言えませんが、これからはアギトとして生きていくのが辛い時代になるかもしれませんよ」

「アギトが辛い? どうしてです?」

「世の中には、アギトを怖れる人もいる、という事ですよ。いや、むしろそういう人間の方が多いかもしれない」

 「まさかそんな」と翔一は笑ってのけたけど、すぐ真顔に戻る。G3-Xとして出動した北條に妨害されたことを思い出しているのだろうか。

「とにかく、色々とお世話になりました。君には何度お礼を言っても言い足りないくらいだ」

「何を言ってるんです。同じアギトの会のメンバーじゃないですか」

「補欠ですけどね、僕は」

「この際、正会員にしてあげます」

 正会員になったところで、僕はもう東京にいなくなるんですよ。そんな皮肉が沸いたけど、喉元に留めた。翔一も、分かった上で言ってくれている。

 これからの警察は、もう誠にはどうしようもない。アギトへの恐れは世間へ広がり、アンノウンによるものだったアギト根絶は人間によるものへと移っていく。

 そんな時代が来ても、せめて翔一や涼、それに力を持ったAqoursの皆には逃げ延びてほしい。力を持たない人間を憎まないで欲しい、と都合よく願うばかりだった。

 

 



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第3話

 弱かったり運が悪かったり何も知らないとしても、それは何もやらない事の言い訳にならない。
 僕の知ってる桜井さんが言ってた。

――仮面ライダー電王(でんおう) 野上(のがみ)良太郎(りょうたろう)




 

   1

 

 庁舎に戻って小沢と共に挨拶周りをしていた時に、沼津署の頃と同じ間の悪さで会いたくもない人物に遭遇してしまう。顔を会わせるのも今日で最後、と思っても、やはり北條透という人間に対する憎悪じみた感情は隠せない。

 今までも散々ユニット活動を妨害されてきたが、それでも彼の根底には同じ刑事としての矜持があるものと思っていた。それなのに裏切られたような気分だ。

 誠は何とか怒りを押し留めていたのだが、小沢はやはり彼の顔を見ては我慢ならなかったらしく、

「やってくれたわね、あなた。アンノウンを守るためにG3ユニットを乗っ取るなんて」

「それは違いますよ、小沢さん。これは私個人の意思ではない。私は人類全体の意思を代表しているだけです」

 世論の代弁者を気取るつもりか。アギトが言葉を持たない獣とは違うことは、北條だって知っているはず。自身がアギトと理解していない市民が犠牲になることを何故理解しようとしないのか。

「アギトの存在は世界を混乱に陥れる。これは間違いのないところだ」

 「違うわ」と小沢は断言する。

「アギトを怖れているのはあなた自身よ。あなたには無い力を持ったアギトを、あなた自身が怖れているのよ」

 北條の瞳が揺らぎを見せた。その揺らぎに誠は違和感を覚える。真に自分の意見が正しい、と信じるのなら、何故北條に限ってそんな反応をするのか。北條は小沢から視線を逸らし、

「いけませんか? 私はごくまともな人間です。私がアギトを怖れるなら、殆どの人がアギトを怖れるに決まっている」

「いいえ、私は人間を信じている。アギトは人間の可能性そのものよ。アギトを否定するなら、人間に未来は無いわ」

 人間の可能性そのもの、と誠は裡で反芻する。翔一のような金色の輝きを放つあの姿が、人間の往きつく果てなのだろうか。まだ人間に進化の余地があるのだとしたら、アギトとはその象徴になるのか。

「人間は、あなたが言うほど賢くはない。アギトの存在は、多分人類にとっては早すぎるのです。私は正しい。正しいのです」

 正しい、という北條の言葉が、とても彼の本心には聞こえなかった。きっと北條は、根底ではアギトの存在を認めている。同時に、出現することで新しい時代へ変遷していく混乱を招くことも危惧している。ならば、アンノウンを保護したところでアギトの出現に歯止めをかける事ができないのも理解しているはずだ。

 小沢の言う通り、アギトを否定するのは人間の可能性を否定するのと同義だ。変わることを怖れて、自分で自分の可能性を潰す生命に先の未来などない。

 

 

   2

 

 手配した宿は、以前宿泊した日と同じ旅館にした。もっと会場に近いホテルは多くあったけど、十千万と同じ和室のあるこの宿のほうが千歌にとっては落ち着く。

「おお! このお饅頭は――」

 客室に置いてあった茶菓子をひとつ摘まんで花丸が興奮している。前に何箱も買っていた東京名物と感動の再会を果たしたのだが、それをつゆ知らずひょい、と隣に座っていた鞠莉に食べられてしまう。

 前も似たような光景を見た気がする。

「何かまた、修学旅行みたいで楽しいね」

 同じことを思っていたのか、曜がそう言った。

「くっくっく……、これこそ運命(デスティニー)!」

 これもまたあの日と同じで、善子がテーブルの上で堕天使ポーズを決めている。

「はしたないですわよ!」

 あの日は梨子だったが、今日はダイヤが窘める役目だった。渋々と善子はテーブルから降りて、大人しく正座する。

「確か、前にここでライブに参加したときも、こんな感じだったよね」

 懐かしさを抱きしめるように梨子が言った。あの日は本当に修学旅行気分だったと思う。初めてのイベントが楽しみで、でも失敗できない、て怖くもあって。どこか現実味がなくて浮足立っていた。

「うん。注目されて、いけるんじゃないか、て思って。でも実際は………」

 ゼロを突き付けられたあの日の落胆は、今でも鮮明に思い出せる。自分たちは憧れのグループと同じ道は辿れない、と初めて突き付けられた現実。

「何今から弱気になってんの?」

 善子が呆れたように言った。彼女のように気持ちを切り替えられたら、どんなに良いことだろう。

「練習する?」

 曜の提案に、誰も賛成の意を示さず沈黙する。「大丈夫」と鞠莉がその沈黙を破った。続けてダイヤと果南も、

「信じましょう。今までやってきたことを」

「少なくとも、わたしはどこにも負けない、て思ってるよ」

 練習はもう、十分すぎるほどやってきた。9人中9人全員が納得のいくまで、これ以上のものはない、と思えるまで何度も。

 そうしてきた根底を、千歌は口にする。

「わたし達、ラブライブに優勝して、浦の星の名を残して………それで良いんだよね」

 ここに来て、疑問になってしまう。本当にこれが、わたし達にできる最善なのか。学校が存在したという証を刻むことが、最後に残った唯一の選択肢で、学校を救うことになるのか。

「それで………」

 聖良から向けられた問いが、脳裏に繰り返される。誰のためのラブライブなのか。

 応援してくれた学校の皆のため。

 見守ってくれていた街の皆のため。

 Aqoursを護ってくれた皆のため。

 再び沈黙が漂う。皆も迷っているのだろうか。自分たちが、本当は何のためにここまで頑張ってきたのか。何を理由にしてきたのか。

 不意に曜が立ち上がった。押入れの襖を開ける彼女に「曜ちゃん?」と呼びかけたところで、千歌の顔面に柔らかい枕が投げつけられる。痛くはないけど、不意打ちだったから思わず仰け反ってしまった。

「何してるの⁉」

 と梨子が言った直後、果南と鞠莉の顔面にも枕が投げられる。「どうだ!」と得意げに笑う曜だったが、反撃に鞠莉の投げた枕を顔面に受けて倒れてしまう。

「良いデスねえ。イタリアに行ったらこんなことできなくなるからね」

 そう言って、鞠莉は追撃の枕を今度はルビィへ投げつける。寸でのところで妹を庇ったダイヤが枕を受け止め、

「うちの妹に何をしてくれてますの。それに明日はラブライブの決勝――」

 言い切る前に、ダイヤの横顔に枕が直撃した。果南が投げたものだ。

「ダイヤもしばらくの間に随分体がなまったんじゃないの?」

 果南からの挑発を真に受けて「あーなーたーたーちいいいい!」とダイヤの怒りが声になって増していく。

「わたくしを本気にさせましたわね!」

「そうこなくっちゃ!」

「Shiny!」

 瞬く間に3年生たちの枕投げ合戦が始まった。上級生たちの変貌ぶりに1年生たちが部屋の隅に避難して抱き合っている。

「一体、どうしたのこの3人は………?」

 善子の疑問に、怯えながらルビィが答えてくれる。

「昔、誰が1番枕投げが強いか喧嘩になってそれ以来――」

「子供ね……」

「善子ちゃんに言われたくないずら」

 「ヨハ――」と訂正しようとした善子の顔面に流れ弾が飛んでくる。

「やったわねえ!」

 と自身も童心に帰った善子も合戦に加わった。部屋中を飛び交う枕を俯瞰して見ると、まだまだ皆子供なんだな、と笑ってしまう。旅館から苦情が来たらどうしよう、と心配になったが、この際どうにでもなれ、と思った。

「千歌ちゃん、元気出た?」

 枕の間を縫ってきた曜が訊いてくる。

「本番前なのにこんなことしてる、て良いと思わない? いつものわたし達、ぽくって」

 飛んできた枕を受け止めて、投げ返してやる。受け止めた鞠莉にすかさず反撃され、千歌もまた合戦に加わっていく。

 もう、不安なんて消えていた。純粋にいまこの瞬間が、楽しくてたまらなかった。

 

 枕投げが終息――というより一時休戦して、千歌たち2年生は旅館の近くにある公園で熱くなった体を夜の空気で冷やしていた。

「えらい目に遭った……」

 なんて開戦させた当人に「曜ちゃんが悪いんだよ」と言ってやる。ひゅう、と冷たい風が吹いた。それを目いっぱい吸いながら、曜が言う。

「春とはいえ、まだまだ冷えるね」

 夜は寒いけど、昼間はもう春と言っても差し支えないほど暖かい。季節は巡っていく。何をしても、何もしなくても。

 樹に背を預けている梨子を見やると、物憂げに目蓋を垂れている。

「行きたかった?」

「え?」

「音ノ木坂」

 千歌に続いて曜も「そうなの?」と訊くと、梨子は「ちょっぴりね」と微笑する。

「今だから確かめたいことや、気持ちもあるんだけどね」

 どうせなら音ノ木坂に行こうか、と新幹線で話していたのだが、梨子は大丈夫、と断っていた。もう未練はない、と思っていたけど、やっぱり梨子にとってはあの学校はかつての居場所だったということ。

「じゃあ明日、やっぱり寄っていこ」

「ううん、いいの。本番でしょ」

 と梨子は即答する。「でも、梨子ちゃんは――」と曜が言いかける。ここで説得しようとしても、梨子は首を縦に振ることはないだろうな、と千歌は悟っていた。だから別の提案をする。

「じゃあ明日は会場集合にして、皆自由行動にしない? 皆それぞれ自由。行きたい所に行く」

 集合時刻は午後だし、宿をチェックアウトした後もまだ時間に余裕がある。「それ、良いと思う」と曜は言ってくれた。反対に「でも……」と梨子は不安げな顔をする。

「本番前、ひとりになって自分を見つめ直す。わたしも、そうしたいの」

 千歌にも、確かめたい気持ちがある。

 そこでようやく、梨子は頷いた。

「うん、分かった」

 

 

   3

 

 いつものように6時に起床した翔一は、身支度をすると教えられたホテルへとバイクを走らせた。大会が始まるまで十分すぎるほど時間があるけど、ラブライブ決勝となれば会場入口は混雑するだろうから早めに、ということで。

 ビル群の一画にあるホテルのエントランスで待ち合わせなのだが、鹿角姉妹はどこにもいなかった。もしかして寝坊してたりして、と千歌を毎朝起こしていた内浦での日々を思い出しながら、スマートフォンで電話を掛けてみる。すぐに応答があったが、返ってきたのは聖良ではなく理亜の声だった。

『津上さん? すぐに来て! 姉様が……姉様が――』

「え、どうしたの? 部屋はどこ?」

『姉様――』

 理亜も酷く動転しているのが声色からすぐ理解できた。聞き出せた番号の部屋へと走り、ノックするとすぐにドアは開き理亜が顔を出した。

「理亜ちゃん、聖良ちゃんは?」

「こっち」

 促されて、ベッドがふたつ設置されただけの簡素な部屋に入る。片方のベッドの上で、聖良は腹を手で押さえつけながら息をあえがせていた。制服を着ているあたり、いつでも出てこられるようにはしていたのだろう。

「聖良ちゃん! どうしたの?」

 食中毒でも起こしたのか、と思った。聖良は話すことも辛いのか、粗い呼吸を繰り返すばかり。腹を押さえていた聖良の指間から光が漏れた。同時に、彼女から胎動に似た呻きを感じ取る。

 この光――

 まさか、と思い翔一は苦悶する聖良の顔を凝視する。彼女の両眼が赤く充血し、額から金色の角が伸びていく。

「せ、聖良ちゃん……!」

 額の角が引っ込んだ。目も元の色に戻って、腹の光も徐々に弱まって消えていく。驚愕のあまり、翔一は聖良から離れていた。

 聖良の中にある胎動が消えた。僅かに持ち上げていた頭を力なく垂れ、聖良は瞳を閉じる。「聖良ちゃん!」と肩を揺さぶるが、反応がなかった。

「姉様は? 姉様はどうなったの?」

 理亜に激しく揺さぶられるが、どう答えたら良いのか分からない。吐息を感じられるから、生きてはいるようだが。でも果たして、彼女がこの力に耐えられるかどうか。

 まさか、聖良がアギトだったなんて。

 

 

   3

 

 在籍していた頃、担任だった教員は梨子の訪問を歓迎してくれて、音楽室の鍵を貸してくれた。殆どピアノ漬けの毎日だった梨子にとって、正直なところ音ノ木坂学院での思い出は音楽室にしかない。それも、ただ鍵盤と向き合っていただけの。

 鍵盤の蓋を開いてみると、当時と同じように埃ひとつない。ひとつ指で弾いてみると、澄んだ音色が響く。調律も定期的に行われているらしい。

 ほぼ自分の物のように、毎日弾いていたピアノ。周囲からの期待に応えようとして、でも思うようにいかない鬱憤を晴らすよう乱暴に弾いたこともあった。椅子に座って、鍵盤に向かい合う。あの頃のような懊悩はなかった。

 優しく指を添えて、梨子は曲を奏でる。沼津で過ごした時間の中で作った『想いよひとつになれ』を。すらすら、とメロディーを軽やかに紡いでくことができた。これは他の誰でもない、わたしだけが作った音の連なり。わたしが、Aqoursだという根拠。

 ピアノを弾きながら、梨子は音ノ木坂を去ったことを追憶した。転居の真相は、父から聞いている。千歌の父、高海伸幸と梨子の父は超能力の研究仲間だった。幼い頃から梨子の力の片鱗に気付いていた父は、あの事件を契機として梨子を東京から遠ざけるため、千歌の母の手引きで沼津への転居を決めた。

 つまり、千歌の父が命を落とさなければ、梨子が千歌や、Aqoursの皆と出会うことはなかったということ。事件が起こらなければ翔一は今でも姉と一緒に暮らせていた。千歌も父を喪った悲しみを背負うこともなかった。そして梨子も、ずっと音ノ木坂でピアノと向き合う日々を過ごしていた。

 全てはアギトという因果によってもたらされたものなのかもしれない。全てを話してくれた後、父は赦してほしい、と謝罪した。でも梨子は、父を恨むつもりなんてない。悲しい事件の結果ではあるけど、その分得られたものもたくさんあったのだから。

 少しでも運命が違っていたら、きっとあの出会いや、この音は生まれなかった。きらきらと光る海のある街でなければ、あの輝きを求めてやまない人と出会うことはなく、梨子の本当の望みに気付くこともなかったのだから。

 他の皆はどうしているかな、とふと思う。何となく予想はついた。きっとそれぞれ、思い思いの場所で、昨夜の答えを探しているのだろう。

 

 大都会でも、花丸の落ち着ける場所はやはり本が多く並んでいるところだった。適当に入った本屋で陳列の豊富さに感嘆して、手頃な文庫本を取って備えられたソファでページを捲る。

 いくら文章を目で追っても、あまり内容が頭に入ってこなかった。本番前の緊張じゃなく、昨夜の千歌の問いが、未だに脳裏にある。

「花丸ちゃんは、勝ちたい? ラブライブ、勝ちたい?」

 昨夜、千歌はそう訊いてきた。思えば、あんな問いを真正面から向けられたのは初めてだった。当然、勝ちたい。けど、千歌の欲しい答えはそのひと言じゃない、と分かった。

「マルはずっと、ルビィちゃんとふたりで図書室で本を読んでるだけで幸せだったけど、千歌ちゃん達のお陰で外の世界に出られて、皆と一緒なら色んなことができる、て知ることができた」

 本来なら、花丸の物語は図書室で完結してしまう狭い世界だった。花丸の他にいる登場人物はルビィだけ。その親友も、憧れのスクールアイドルになれば花丸の物語から退場するはずだった。納得していたけれど、花丸も心のどこかでは願っていた。読んできた物語と同じような世界があるのなら、行ってみたいな、と。

 所詮はフィクションだ。まやかしだ。仮にそんなものが存在したとしても、ただ物語を消費していくだけの花丸が紡げるものなんて何もない。そんな諦観から引っ張り上げてくれたのは、千歌だった。

「だから、勝ちたいずら。それが今、1番楽しいずら」

 飛び込んだ世界はとても厳しかったけど、知らない事ばかりで楽しい日々だった。誰かと一緒に何かをやり遂げることの素晴らしさは、他人の物語を読むだけでは決して知ることはできなかった。

「千歌ちゃん、マルをスクールアイドルに誘ってくれて、ありがとう」

 だから、花丸はラブライブに勝ちたい。この物語を、ハッピーエンドで締め括りたい。

 

 秋葉原にあるスクールアイドルショップは、ラブライブ決勝前ということもあって盛況している。普段なら子供のようにはしゃいで掘り出し物を探すはずだけど、ルビィは陳列された商品をぼんやりと眺めながら、千歌からの「勝ちたい?」という問いを思い出していた。

「ルビィは、ひとりじゃ何もできなかったのに、スクールアイドルになれてる。それだけでも嬉しい」

 ずっと憧れていた衣装を着て、ステージで歌える。それも一緒に憧れていた姉と一緒に。それだけでルビィの願いは叶っていた。

「勿論、お姉ちゃんたちの最後の大会だし、勝ちたい、て思ってるけど」

 姉と最後に、最高のステージにしたいと思っている。でも今は、姉だけじゃない。ルビィを憧れの世界に連れて行ってくれた人々と一緒に、同じステージに立てることが誇らしい。

 憧れていた世界は想像よりも、ずっときらきらしていた。次はどんな曲になるんだろう、次はどんな衣装を作ろう、と毎日が楽しみだった。怖い事もあったけど、やっぱりスクールアイドルは楽しい。一緒に頑張れる人がいて、競い合える人もいる。

「今は、大好きな皆と歌えることが、1番嬉しい」

 

 ぼんやりと橋の欄干にもたれながら、善子は東京の街を眺めていた。騒がしい街ね、と嘆息する。これだけ人が多いと、自分と同じ自称堕天使も結構いるのだろうか。もしかして、リトルデーモンも沢山いるかも。

「え、あんた馬鹿なの? そんなの勝ちたいに決まってるでしょ」

 千歌からの問いに、善子は思わずそう返していた。今更になって、あのリーダーは何を迷っているのだろう。大体、この世界に誘ったのは彼女だというのに。

「世界中のリトルデーモン達に、わたしの力を知らしめるためによ。ラブライブで勝利を手にするには、我が力は不可欠」

 そう言ったけど、もう少し素直になっても良かったかな、と思った。千歌には、感謝しかない。ずっと白い目で見られ、自分でもおかしい、と気付き始めていた感性を、彼女は肯定してくれた。

 善子ちゃんは善子ちゃんのまま変わればいい。あの時千歌からの言葉で、どれだけ救われたことだろう。

「ま、仕方ない。もう少しAqoursとして堕天してやってもいいぞ」

 Aqoursのひとりでいる間は、この堕天使ヨハネは続ける。抑えつけようとしていた自分を、存分に大声で叫ぶことができる、唯一と言っていい居場所なのだから。

 

「勝ちたいか、て?」

 千歌から向けられた問い。勝つ、という言葉の持つ重みを、鞠莉は常々から感じていた。

「理事長としてのわたしは全校生徒のために、勝たなければならないと思ってるよ。あんなにも愛されてる学校のためにも」

 学校を存続させる務めを果たすことはできなかった。だから、最後に残された優勝という道以外に、皆への恩に報いる方法は見つからない。決勝に出れただけで満足、で終わらせてはならない、といつも思っていた。

「でも、少しだけ我儘を言うと、わたしはAqoursとして勝ちたい」

 鞠莉にとって、Aqoursは学校存続のためのグループであること以上に、沼津で過ごした宝物だった。果南とダイヤと一緒に始めて、1度は離れてしまって、それでも再び一緒になれた。今度は千歌たち6人も加わった。

 千歌ならやってくれるんじゃないか。初めて彼女を見た時の直感は、やはり信じてよかったと思う。こんな小さな、自分たちのような力もないのに、一生懸命に突き進もうとして。

 力があるとか無いとか、関係ない。この子だからやってこられたんだ、と確信できる。

「9人でこんな事できるなんて、なかなか無いよ」

 だから鞠莉は、理事長としてではなく、浦の星女学院スクールアイドルとしてステージに立ちたい。一緒にいた親友のために、再びステージに戻してくれた後輩たちのために。

 歌声を、とうとう聴いてもらう事が叶わなかった、薫のもとへと届かせるために。

 回想から意識を戻し、鞠莉は眼前に広がる都心を眺める。今なら、この世界の全てが輝いているように視えた。

 

 本番を前に、ダイヤは儀礼として改めて神田明神で手を合わせていた。昨日にお参りを済ませたが、千歌の問いで気付かされたことで、改めてもう1度、と思った。

「勿論、勝ちたいですわ」

 それがダイヤの答え。スクールアイドルであるならば、勝利を求めるのは当然のこと。

「浦の星全校生徒の想いを背負ってきましたから、勝ってみせますわ」

 スクールアイドルとは、学校に所属するアイドル。自分の学び舎にいる人々の想いを全て受け止めステージに立つ。辛さなんておくびにも出さず、笑顔を会場に振り撒くその姿にダイヤは幼い頃から憧れてきた。

「それと、Aqoursの黒澤ダイヤとして、誠心誠意歌いたい」

 今はもう、憧れた地に立つ側だ。かつて自身の目を輝かせてくれた笑顔と歌を、今度は自分が振り撒く番。

 あの勧誘をしていた日に千歌を見つけたとき、何て無知なんだろう、と憤っていた。まさか憧れのグループの名前を間違えるだなんて。同時に、分不相応な憧れを抱く彼女を不憫にも思っていた。まるで、以前の自分を視ているようで。

 でも、千歌は自分たちとは違った。挫折を味わっても這い上がった。自分にない力を、彼女は持っていたのだから。

「どこであろうと、心を込めて歌を届けるのがスクールアイドルとしての、わたくしの誇りですわ」

 



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第4話

 僕は生きてみたいんだ。
 人間とかファンガイアとかじゃなくて、僕は僕として。

――仮面ライダーキバ (くれない)(わたる)




 

   1

 

 どこの土地でも、やはり果南が落ち着ける場所は海だった。吸い込んだ潮の香りはどこか都会の喧騒を含んでいて、内浦とはまた違う。海外に渡ったら、そこの海もまた違う香りがするのだろうか。

 靴を脱いで、海水に足を浸す。まだこの季節の水温は冷たい。

「急にどうしたの?」

 昨晩、千歌からの問いは意外だったけど、同時にあの子らしいな、と思った。幼い頃から、平気な顔して土壇場になると一気に不安になるような子だったから。

「わたしはせっかくここまで来たんだし、勝ちたいかな。でもそれ以上に楽しみたい。鞠莉やダイヤとの最後のステージを楽しみたい」

 あの頃に夢見て、自分から離れた。本当に、些細なボタンの掛け違いだったせいだ。それぞれ隠していたことがあって、突き放して。

 それでも強引が過ぎる仲間たちのお陰で、こうして諦めていた場に立とうとしている。

「本当は清々してるんだけどね。やっとこれで終わりだ、て」

 せわしない1年だった。スクールアイドルだけでなく、裡の力のせいで怖い目にも散々遭って。色々な感情に振り回されてきたけど、この日に至るまでには必要なものだった、と思えるのは終わりが近いからだろうか。

 いずれアギトになるかもしれない。彼らと同じ苦悩に苛まれるかもしれない。でも、果南に怖れはない。アギトになっても、懸命に生きる人を見てきたから。自身の未来にも、可能性があるという希望が視えたから。

 だからこそ勝ちたい。今を、もっともっと楽しみたいから。

 そのためにも、この喉元につっかえたような気持ちを終わらせなければならない。先へ進むために。いい加減、この気持ちにも踏ん切りをつけないと。

「どうしたんだ? こんな所で」

 後ろから聞こえてきたその声は、前よりも大分気力に満ちたように思える。決めたのに、いざ声を聞いて、振り向いて顔を見たら果南の想いは波のように揺れ動いた。

 

 待ち合わせの場所が海とメールで来たとき、ここでもか、と思うと同時に彼女らしい、と笑みが浮かんだ。住む世界が違っていたら、彼女は人魚として生きていたのではないか、と思ったほど。

 本番まで残り数時間もないのに、涼へと振り向いた彼女の顔から緊張は感じられなかった。むしろ、これからが楽しみ、とでも言いたげだ。

「こっちで暮らし始めた、てわたしには何にも言ってくれなかったよね」

 その意地悪な質問に涼は強がりを返す。

「言う必要あるのか? 別に俺たちはそんなんじゃないだろ」

 あくまで涼と果南はダイビングショップの親しい客と娘という間柄だった。それが偶々、アギトという同じ因果で少しばかり強固になっただけ。自然とそういった想いは芽生えていたのだろうが、どちらからも明確に告げることはなかった。ただ同じ恐怖を体験しつり橋効果で錯覚しただけ。

 だから、何もかもが落ち着き始めた今はもう赤の他人。そうけじめを付けるつもりで、都内への転居は告げないままだった。

 果南は微笑み、

「確かに、そうかもね。わたしも卒業したら海外行く、て涼に言ってなかったし」

「おあいこだな」

「そうだね」

 何となくだが、涼も察してはいた。果南は、ひとつの居場所に留まっているような少女じゃない。常に動いていなければ気が済まない彼女が、他の海へ行きたい、と願うのは当然の事と思った。

「涼は、夢とかある?」

「無いな。夢なんか無くても生きていける」

 そう答えてすぐ、それが自らへの欺瞞と気付いた。

「いや、普通に生きていくのが俺の夢だ。例えば、花は夢を持ってると思うか? それでも花は咲く。花は枯れる。そういう風に、生きていければ良いと思う」

 花は、自身が何のために産まれたかなんて考えはしない。ただ種から目を出し、土に根を張り、太陽の光を燦々と浴びて咲く。そしてすぐに枯れて種を撒く。ただ生きて死んでいくだけだ。でも、その姿が涼にとっては羨ましい。産まれた命のまま、迷うことなく懸命に生きていけることが。それこそが生命のあるべき姿じゃないか。

 この人間でなくなった命を受け入れ日々を穏やかに過ごせていけるのなら、それだけで涼の人生は幸せだ。

「叶うと良いね、その夢」

 見方によっては虚しい涼の願いを、果南は嘲笑いなんてしなかった。

「わたし、ずっと涼のこと待ってたんだと思う。いつか、迎えに来てくれるんじゃないかな、て」

 ああ、俺もすぐに迎えに行きたかったさ、と涼は果南からの恨み節ともとれる言葉を受け止める。

「でも全然来てくれなかったよね。それどころか勝手にいなくなっちゃうし」

「それは………」

 何を言っても言い訳がましくなってしまう。自分から突き放しておきながら植え付けられた力はふたりを引き合わせてしまったし、切れない繋がりに涼がどこかで安堵していたのも事実だったのだから。

「お前を巻き込みたくなかった。アギトとかアンノウンなんて知らないままでいるのが、1番良いと思ってた」

「やっと素直になったね。でも、もう遅いよ」

 そう言って、果南は悪戯っぽく笑った。

「わたしも待ちくたびれちゃったから。じ、としてるのは性に合わないし」

 その言葉の意味することを、涼は理解する。

「確かにな」

 果南は、先に進むと決めたということだ。彼女の往きたいところへ。そこに涼は一緒に往くことはできない。

「ぼう、としてたら、どんどん先に往っちゃうからね。涼の視えないところまで」

 子供だと思っていたのに、彼女を見ていると自身の矮小さを思い知らされる。本当に俺は未練たらしい男だな、と自嘲が沸いた。

 俺と違って、果南はどこへでも往けるんだ。自分の想いのまま、俺には視えないものがある。俺はもう、果南にとっては重荷でしかないんだな。

 寂しくはある。もう自分たちの道が交わることはない。でも、それで良い。離れることになっても願いは変わらない。

 果南が希望を抱いて生きていけるのなら、それは十分に涼の生きる理由なのだから。

「じゃあね」

「ああ」

 その素っ気ない言葉の応酬は、涼が果南のダイビングショップに通っていた頃によく交わしていた別れの挨拶だった。また来てね、ああまた来るよ、という意味合いを含んでいたあの頃とは違う。

 さようなら、を込めた言葉はこの時も変わらず、ふたりを離した。

 

 

   2

 

 あの日と同じ賑わいの秋葉原に行ってみると、やっぱり千歌はいた。人々が止まることなく行き交う街の中で、彼女はビル群とそれらに囲まれたような内浦よりも狭まった空を見上げている。

「ほい」

 駅の入口付近で配られていたチラシを差し出すと、千歌はようやく曜の存在に気付いた。

「曜ちゃん」

「千歌ちゃん、どうしてここに?」

「何となく、見ておきたくて」

 もう1年経つのか。そう思うと、街の様子に変化がなくても感慨深く思える。

「千歌ちゃんも?」

 「え、じゃあ――」と千歌は意外そうに曜を見つめた。やっぱり考えること一緒なんだな、と思いながら、曜は懐かしさと共に告げる。

「うん。だって、始まりはここだったから」

 千歌にとって、この街が始まりの場所だった。千歌がスクールアイドルとの出会いを果たして、自分も同じ輝きを、と願ったからこそ、Aqoursの物語が生まれた。

 強いビル風が吹いて、曜の手からチラシを離した。駅の吹き抜け口へと飛んでいくチラシを見て、曜は千歌と揃って笑みを交わす。同じだ、あの時と。一緒にチラシを追いかけて、途中で見失ってしまう。けど、往くべき場所は分かっていた。脇目も振らず走り、高架橋を登って曜たちはそこへ辿り着く。

 UTX学院ビルに設置された、街頭モニター。

 あの日は憧れのグループの映像が流れていた画面は、今は「Love Live!」のロゴが表示されている。

 始まりの場所に戻った千歌は呟く。

「見つかるかな。わたしがあの時見つけたいと思った輝き」

「きっと見つかるよ、もうすぐ。あと少しで、必ず」

 もうあの時の、ただ憧れを追い求めていた千歌ちゃんじゃないんだから。憧れのグループじゃない、Aqoursとしてここに戻ってきたんだから。

「勝ちたい?」

「ん?」

「ラブライブ、勝ちたい?」

 その問いに曜は逡巡する。始めたとき、曜に千歌ほどの、輝きへの憧れはなかったかもしれない。ただメンバー集めに苦心していた千歌への情けで付き合っていただけかもしれない。

 始まりはどうであれ、今の想いは明確だった。嘘偽りなんてない。

「勿論」

 答え、曜は千歌の背に頭をもたれかける。

「やっと一緒にできたことだもん」

 ずっと抱いていた願いがようやく叶うのだから。千歌と一緒に何かやりたい。親友と同じ場所へ往って、同じ景色を視たい。

「だから良いんだよ、いつもの千歌ちゃんで」

 終わってしまうのは寂しいけど、結末に向かって駆け抜けてきた。その先で、また道は別れるのかもしれない。何が起こるのか分からなくても、それは怖れるものじゃない。

 きっとわたし達は、望んだものを手に入れることができる。

「未来のことで臆病にならなくて、良いんだよ」

 背中から離れ、潤みかけた目元を拭い告げる。

「ひとりじゃないよ、千歌ちゃんは」

「ありがとう」

 今は、9人一緒。怖さも寂しさも、皆で抱きしめられる。心にぽっかりと穴が開けば埋めてくれる。

 曜たちのもとへ、同じ想いを抱く仲間のひとりが近付いてくる。

「あ、梨子ちゃん」

 晴れ晴れとした顔で来る梨子に曜は尋ねる。

「ピアノ、弾けた?」

「勿論」

 なら、答えは出たんだな、と嘆息する。確かめたい気持ちを、彼女はかつての母校で実感できたのだろう。そんな梨子に、千歌は訊く。

「梨子ちゃんは、ラブライブ勝ちたい?」

 「うん」と梨子は即答し、

「わたし、自分が選んだ道が間違ってなかった、て心の底から思えた。辛くて、ピアノから逃げたわたしを救ってくれた。千歌ちゃん達との出会いこそが、奇跡だったんだ、て」

 梨子の言葉が嗚咽を交じり始める。鼻を啜りながらも、梨子は続ける。自分の想いを、今ある感情のままに。

「だから勝ちたい。ラブライブで勝ちたい。この道で良かったんだ、て証明したい。今を精一杯全力で、心から――」

 梨子の腕が、千歌と曜の肩へ回ってくる。梨子の決意が耳元で告げられる。

「スクールアイドルをやりたい!」

 3人でしばし固く抱き合って、離れても手を取り合った。初めてのライブも、この3人だった。まるで遠い過去みたいだ。

「千歌ちゃんは、勝ちたい?」

 自分たちへ向けられていた問いを、今度は千歌へと戻す。千歌はすぐには応えず、ポケットから出した折り畳んだ紙を広げる。

「その紙……」

 昨日の出発前も見ていた、東京スクールアイドルワールドの結果表だった。自分たちに告げられたゼロ。誰からの応援も得られず、誰も感動させられず、誰も輝けなかった。そこまでの努力も奮闘も憧れも、全てが無駄という烙印を押された。

 でも、そのゼロこそがAqoursの本当の始まりだった。そう肯定するように、千歌は語る。

「ゼロを1にして、1歩1歩進んできて、そのままで良いんだよね。普通で、怪獣で、今があるんだよね」

 そうだよ千歌ちゃん、と曜は目の前の普通怪獣の全てを肯定する。

 わたし達と同じ力なんて無くったっていい。

 千歌ちゃんは普通怪獣ちかちーだったからこそ、ここまで来られたんだから。

 普通だから、輝きへ突き進んでこられたんだから。

「わたしも全力で勝ちたい! 勝って、輝きを見つけてみせる!」

 一条の風が吹いた。風が千歌の手から紙を離し、遠くへと運んでいく。千歌は追おうとはしなかった。小さくなり、やがて見えなくなっていく紙をただ眺めて呟く。

「ありがとう、ばいばい」

 今の自分たちに、ゼロはない。応援してくれる人が、想いを託してくれる人が沢山いる。「もう大丈夫」と曜は安堵した。千歌の目に映っているのは前だけ。「行こっか、千歌ちゃん」と梨子が促すと、千歌は満面の笑みで応えた。

「うん!」

 

 

   3

 

 しばらく海岸でひとり呆けた後に、涼はバイクで会場へと向かった。ラブライブは人気らしいから、早く会場に入らなければ渋滞が起こってしまうらしい。

 そういえば、会場のバイク置き場はどこだろう。そんな事を考えていたところで、脳裏に忌々しい戦慄が走る。こんな大事な日に、何てタイミングだ。

 バイクを停め、涼は橋上でこちらを見据える風のエルを睨み返す。またお前か。アギトを掃除するつもりだろうが、好きにはさせない。皮肉なものだな。倒すべき敵としてお前らがいることが、俺が俺であることを認識させてくれる。

「変身!」

 涼はギルスに変身し、風のエルへと雄叫びをあげながら突っ込んでいく。体に次々と拳を浴びせていくが、風のエルは全く意に介さない。

 突き出した涼の手首を掴み、腹を膝蹴りされ咳き込んだ。涼しい顔をする敵の顔面を蹴飛ばそうと脚を振り上げるが、その寸前に強烈な風を浴びて倒される。

 風のエルは頭上の光輪から弓を引っ張り出した。矢は無いが、弓に付いた刃が怪しく光っている。突き出された刃を咄嗟に避けたが、首筋に滑り込み筋線維を僅かに裂かれ血が滴り落ちる。

 こんなところで、と首に食い込んだ矢を掴み立ち上がろうとしたが、再び突風が吹き涼の体は橋から投げ出され、成す術なく川へと落ちていく。

 

 東京駅の改札は、いつにも増して人でごった返しているように感じられた。改札に向かう者よりも、改札から出てくる者のほうが圧倒的に多い。それに、皆何故かペンライトを手にしている。

 駅舎の壁に掛けられた看板を見て誠は得心する。そういえば、今日はラブライブの決勝大会の日だった。アキバドームが会場らしいから、全国から観客が駆けつけてきたのだろう。ということは、Aqoursの面々もこちらに来ているのだろうか。どの道仕事で応援には行けなかったが、こうなるのならせめて「頑張って」のひと言くらいは伝えたかった。

 改札の前で足を止めて、同伴してくれた今は元となってしまった上司と向き合う。

「小沢さん。本当に色々と……お世話になりました」

 もっと伝えるべきことは沢山あるはずなのに、そんな陳腐な言葉しか思いつかない。本当に僕は不器用なんだな、と思った。

「何言ってるの、それはこっちの台詞よ。でも寂しいものね。本来なら英雄であるはずのあなたの見送りが、私ひとりなんて」

「いえ、十分ですよ。小沢さんが来てくれれば」

 G3ユニットがアンノウン保護へと転換した今となっては、これまでアンノウンと戦ってきた誠は愚かな道化でしかない。アンノウンを人類の希望を知らず敵として葬ってきた、時代に翻弄された男。後世ではそう記録されているかもしれない。

「忘れないわ、あなたの事。私にとって、あなたはいつまでも最高の英雄よ」

 晴れやかに告げられた賛辞に、目頭が熱くなった。自分には勿体ない言葉だ。装着員としての誠を支えてくれたのは、いつだって小沢だった。英雄氷川誠を作ったのは、紛れもなく小沢澄子だ。

 この人と一緒に戦ったことは、この先もずっと誠の人生で最大の誇りだ。

「ありがとうございます」

「元気でね」

 名残惜しいが、もう新幹線の発車時刻が迫っている。

「じゃあ――」

 そう言って、誠は改札へと歩き出す。悔いは、沢山ある。自殺者は増加の一途を辿っているし、これからアギトの力を持つ人々は警察の庇護も受けられず滅ぼされる。でも、誠にはもう関われるものじゃない。故郷の田舎で、世界に起こっている事を知りながら歯噛みしつつ、それでいて力を持たない自身に安堵して過ごしていく。

 改札に切符を挿入し、誠はゲートを潜った。

 

 

   4

 

 ベッドで2時間ほど眠っていた聖良は、ゆっくりと目蓋を開いた。

「あ、目覚めた?」

 脇で看ていた翔一を認めると、聖良は眠気眼のまま「津上さん……」と呟き、頭をもたげてホテルの客室を見渡す。

「理亜は……」

「薬局に行ったよ。薬とか、色々買いに」

「そうですか………」

 力の覚醒に伴う発作なら、すぐに治まるだろう。今は聖良の身体が慣れていないだけで、次第に落ち着いてくるはずだ。

「すみません。紅茶を買ってきてもらえますか? ロビーの自販機で売ってたレモンティーが美味しくて」

 風邪引いたときの千歌ちゃんもこんな感じだったな、と懐かしく思いながら、翔一は「はいはい」と部屋から出ていく。

 エレベーターでロビーに降りて、指定通りに自販機で暖かいペットボトルのレモンティーを買った。ついでに自分用にともう1本。戻りのエレベーターの中でひと口飲んでみたが、本当に美味しかった。これは体調が優れないときでも元気が出る。

 部屋の階に出ると、廊下にまで「姉様!」と先に戻っていたらしい理亜の声が聞こえてくる。走って部屋まで戻ると、翔一に気付いた理亜が鬼気迫った顔で詰め寄ってくる。

「あなたどこ行ってたのよ?」

「え、どうしたの?」

「姉様がいないの! 電話しても繋がらない!」

「え?」

 奥にある聖良の寝ていたベッドはもぬけの殻になっている。律儀な彼女らしく、布団は畳まれシーツの皺も綺麗に伸ばしてあった。

「わたし、探してくる」

 薬局の袋を放り理亜は部屋から出ていった。翔一も部屋を出て、理亜が駆けていったエレベーターとは反対方向へと向かう。外の非常階段へと繋がるドアを開けると、強いビル風が一気に吹き込んでくる。

 非常階段のどこかにいないか、と視線を右往左往させる。ホテルの別棟へと目を向けて、下から見上げていくと、屋上に人影がぽつり、と立っているのが見えた。

「聖良ちゃん……!」

 その姿を認めてすぐ、翔一は階段を駆け上がった。途中で見つけた別棟への連絡通路を抜けて、階段を1段飛ばしでペースを上げていく。屋上の柵は関係者以外立入禁止の札が立てられていたが、鍵もない骨組みだけの扉は開け放たれている。

 躊躇いなく屋上へ踏み込むと、聖良は縁に立って街を見下ろしていた。

「聖良ちゃん」

 翔一に気付いた聖良が振り返る。「津上さん」と呼ぶその顔はとても穏やかだったが、目の奥にとてつもない悲しみが感じ取れる。

「理亜とAqoursの皆さんに伝えておいてもらえますか。ごめんなさい、て」

「何言ってんの。何だってそんなこと………」

「津上さんも見ましたよね、わたしの体。何が起こってるのか分からないけど、これだけは分かるんです。もう、今までのわたしじゃいられないんだな、て」

「落ち着いて、何でもないから。聖良ちゃんは聖良ちゃんのままだよ。絶対」

 語り掛けながら、翔一はゆっくりと聖良へ歩み寄る。戸惑うのも無理はない。翔一だって最初の頃は自分が自分でなくなるようで怖かった。だから聖良の気持ちはよく分かる。

 何であの時気付いてやれなかったんだ、と自分の鈍感さを悔いた。昨日聖良が語っていた弱音は、裡で胎動するアギトへの恐怖故だった。人でなくなった自分がこれからどう生きていけばいいのか、彼女はその答えを求めていたというのに。

 作っていた聖良の笑顔が、堪え切れずに絶望の色を浮かべていく。

「何で、わたしが……わたしが――」

 また発作が起こったのか、聖良は息をあえがせながら腹を抑えた。立っているのもやっとだったらしく、もつれさせた足を外苑から踏み外す。

「聖良ちゃん‼」

 足元から滑る聖良へ、翔一は駆け出した。伸ばした手は地上へ落ちようとする彼女の手を掴み、反動で肩が外れそうになったが何とか堪え手に力を込めて握りしめる。

「聖良ちゃん……!」

 翔一ひとりの片手で、重力に上乗せされた聖良の身体を引き上げるのは困難を極めた。外苑の塀を掴むもう片方の手を手放してしまえば、翔一も一緒に地上へと引きずり込まれてしまう。

 片腕で宙吊りになっている聖良は、翔一の手を握り返してはくれなかった。彼女は縋るように翔一を見上げながら、がらんどうに言う。

「お願いです……放して………」

「何を言ってるんだ、聖良ちゃん………」

 絶対に放さない。まだ未来のある彼女を、ここで終わらせるわけには――

 その時、聖良の顔が歪んだ。髪も服も、姿形が変わって、翔一が手を掴んでいるはずの人物は聖良ではなくなった。

 姉さん――!

 翔一を見上げているのは姉だった。髪形も服も、最期に会ったあの日と同じ。まるで現世に残された姉の怨念が聖良に憑りついているようだった。

 ――放して、お願い――

 姉の声が聞こえる。そうか、と翔一の裡にあの頃の虚無が蘇った。姉はこうして最期を迎えた。自分の力の膨大さに怯えて、更なる悲劇をもたらす前に自ら終わらせようと。

 駄目だ、と翔一は姉の手をきつく握りしめる。

 姉さんは、間違っていたんだ。アギトだから、て自分を追い込んで自殺するなんて。

 ――放して――

 もう全て去った事だ。今更何をしようが、姉は戻っては来ない。それでも翔一は、幻影になった姉に告げた。同じアギトの力を抱え、それでも生きると決めた自身の出した答えを。

 姉さん。俺はアギトになっても、楽しいことがいっぱいあった。

 アギトになったって、人は人のままで生きていけるんだ。

 ――違うわ。人はいずれ、アギトを憎むようになる。アギトを怖れるようになる。アギトはきっと、人の手で滅ぼされる――

 そんな――

 翔一の脳裏に、誠の言葉が蘇った。

 世の中には、アギトを怖れる人たちもいるという事ですよ。いや、むしろそういう人間のほうが多いかもしれない。

 それが真理なのだろうか。神に忌み嫌われた命は、人間にも憎まれるのか。翔一だって、自分の都合の良いことばかりに目を向けてきたわけじゃない。自分の力で苦しむアギトも、アギトによって悲しみをもたらされた人々も否応なく見させられた。

 ――人間に、憎まれるのは嫌。だから、放して――

 そんなことが――

 今はまだ人間を護るために振るう拳も、いつかは恐れられ、憎まれる。いくら護られても、人間はかつて傷付けられた痛みは忘れない。

 この世界に、俺たちの居場所なんて無いのか。

 ――お願い、放して――

 手に汗が滲んで、少しずつ姉の手が滑っていく。手首から掌へ、掌から指先へと。いくら力を込めても滑り落ちようとする姉の手に、どこからかもうひとつの手が伸びてその手首を掴んだ。

 視線を転じると、すぐ隣にいたのは沢木哲也だった。

「あなたは――」

「放すな! お前の手は、人を護るための手だ!」

 視線を戻すと、そこにいたのは聖良だった。翔一は聖良の手を掴み直し、沢木とふたり掛かりで引っ張り上げる。聖良の身体が屋上へ戻ると、3人で一斉に緊張が解けてか息を荒げた。しばらくそこにいたが、落ち着くと階段を降りてホテルの近くにある公園のベンチで聖良を休ませる。

 翔一の買ったレモンティーを受け取っても、聖良は飲もうとせずペットボトルに視線を落としたままだった。

「以前、君と同じような境遇の女性がいた」

 沢木の口から出たその女性が姉だと、翔一はすぐに気付く。だから口を挟むことはせず、沢木の語りに聖良と共に耳を傾けた。

「彼女は死を選び、俺は彼女を救う事ができなかった。だが所詮人は、自分で自分を救わねばならない。君が君でいられるか、君でなくなるか。それを決めるのも自分自身だ」

 そう、アギトだからといって、全てが変わるわけじゃない。変わらないこともある。翔一がそうだったように。翔一は聖良の前に屈み、告げる。

「聖良ちゃん。俺、思うんだ。聖良ちゃんの歌やダンスを見て幸せになれる人がいっぱいいる、て。だから、また歌おうよ。理亜ちゃんや、Aqoursの皆と一緒にさ」

 翔一には、そんな言葉を並べることしかできない。結局のところ、聖良を救えるのは彼女自身でしかない。人を殺めてしまった姉は自身を救えなかったけど、聖良はまだ救えるはず。でも、彼女はまだ答えを出せずにいた。

「わたしは、分からないんです。どうすれば良いのか、本当に………」

 彼女はまだ気付いていないだけだ。自分が自分でいられる根拠。それは拍子抜けするほど近くにあるということを。

「姉様!」

 その根拠となる少女が、公園へ入ってくる。先程翔一が連絡してから、ずっと走ってきたのだろう。理亜は勢いを落とさないまま聖良へ抱き着き、

「姉様、良かった………」

 理亜には、聖良が身投げしようとしたことを伏せている。聖良への配慮というのもあるが、何より彼女に知ってほしかった。何も知らなくても、彼女が生きることを望む人が、確かにいるということを。

 聖良の目に涙が浮かんだ。翔一は安堵の溜め息を漏らす。聖良はようやく気付くことができた。自分の裡に変わらないものを。妹への愛しさがあれば、自身が鹿角聖良でいられるという確証を。

「理亜………、ごめんなさい」

 固く抱き合う姉妹を見て、翔一は少しばかり羨ましいな、と思った。後悔なんて無意味だが、あの日に姉を見つけてこうして抱きしめてあげたら、運命はどこかで変わっていただろうか、と。

 でも、今は今のままで良いじゃないか。こうして姉と同じ結末を辿ろうとしていた人を救えたのだから。聖良はこれからもアギトの力で苦しむかもしれないけど、それ以上にきっと輝かしい未来がある。千歌たちと同じように、輝きたい、という意志さえあれば。

 脳裏に戦慄が走ると同時、その声は地の底から響くように翔一の耳朶を打った。

「塵に還るがいい。塵から産まれし者ども」

 地のエルの掌から砂が零れる。砂の熱が周囲の空気に陽炎を漂わせた。

「ふたりをお願いします」

 翔一が言うと、沢木は頷き鹿角姉妹を連れてその場から走り出す。逃げようとする3人へ目を向ける地のエルの前に翔一は対峙し、裡の力を呼び起こす。

「変身!」

 湧き出す光を浴びて、翔一は変身する。聖良が怖れた力の顕現、アギトの姿へと。

「津上さん⁉」

 足を止めて振り返った聖良が理亜と共に、翔一の姿に目を剥いた。

「聖良ちゃん、生きて。俺も生きる」

「津上さん……」

 俺は生きる、人間として。

 そして戦う、アギトとして。

 この世界が在る限り。

 目の前に倒す敵がいる限り。

「俺のために

 アギトのために

 人間のために!」

 







【挿絵表示】


――目覚めろ、その(サンシャイン)――


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第5話

 通りすがりの仮面ライダーだ。
 覚えておけ。

――仮面ライダーディケイド 門矢(かどや)(つかさ)




 

   1

 

「絵馬に何て書いてきたの?」

 果南が訊くと、つい先ほどまで神田明神にいたダイヤは素っ気なく答える。

「それは内緒ですわ。でも、わたくしが書いたことは現実になるんですわよ」

 訊いておきながら、果南には分かり切っている。きっとラブライブ優勝、とでも書いたんだろう。

 「そういえば」と鞠莉が、

「わたしが転校する、て話が出た時も書いてたでしょ。ずっと一緒、て」

 「ほらご覧なさい」と当人は得意げだった。確かに願いは叶った。さっき願ったことも叶うだろう。でも、願いは永遠には続かないことも分かっている。

「そうかな。もうすぐバラバラになっちゃうのに………」

 果南もかつては願っていた。涼と一緒になれますように、と。現実が赦してくれなくても、願わずにはいられない。叶わない願いなんて虚しいだけ、と知っているはずなのに。

「一緒だよ」

 懊悩を吹き飛ばすように鞠莉は言う。

「だって、この空は繋がってるよ。どんなに遠くてもずっと、いつでも」

 見上げてみれば、たとえ離れていても大切な人は同じ空の下に居る。

「姿は視えなくても」

 とダイヤが付け足した。締めの部分を横取りした悪戯に、3人で吹き出す。

 空が繋がってるなら、海も繋がってるよね。潮の香りが違っていても、どこも同じ海なんだから。

 1番乗り、とばかりに鞠莉は走り出した。

「さあ、行きましょう!」

 

 花丸が会場までの道を歩いていると、彼女はどこぞの待ち人気取りで腕を組み電柱に背を預けていた。

「善子ちゃん?」

 「ヨハネ!」と訂正しつつ、いきなり乱されたペースを取り戻そうといつものポーズを決める。

「ちょっと話したいことがあるのよ。ルビィもよ」

 「ピギッ」と別の電柱から声が聞こえ、ルビィが顔を出した。ツインテールに結んだ髪がはみ出ていたから、全く隠れていなかったのだが。

「何ずら?」

「決まっています、契約です。ライブが終わり、学校が統廃合になっても、ヨハネとの契約――」

「心配しなくても、マルと善子ちゃんとルビィちゃんの契約は絶対ずら」

 何も今日で全てが終わるわけじゃない。花丸たちの日々は明日も続いていく。ただ居場所が変わるだけの話。

「新しい場所になっても」

 ルビィもそう言って微笑む。善子のことだから、新しい学校でも堕天使全開で行くのだろう。ならお目付け役として、花丸とルビィがいないと。

「ふん、何よ。人の台詞勝手に――」

 なんて善子が言っているが、ここで立ち話していたら遅れてしまうから、ルビィとふたりで善子を置いて駆け出す。

「ありがとう」

「感謝すルビィ」

 「もう!」と文句を垂れながら、善子も追いつこうと走り出した。格好つけさせはしない。まだ終わってはいないし、これからが本番なのだから。

 

 会場への道を走りながら、千歌の胸は際限なく高鳴っていた。この先にあるものが、どれくらい大きいのか全く想像がつかない。

 目指すべきアキバドーム。全国有数の規模を誇る、ラブライブ決勝の場。そこへ至るまで、どれくらい自分たちは走ってきたのだろう。どこまで来たのだろう。どこまで続くのだろう。

 分からないけど、あの時と今思っていること全てがあって、ここへ辿り着けたと確信できる。

 雲の上だって、空を飛んでいるみたいだって、思いきり楽しもう。弾けよう。そして、優勝しよう。

 わたし達の輝きと証を見つけに。

 ゼロから1へ。

 1から、その先へ――

 Aqours、サンシャイン!

 

 

   2

 

「すみません、通してください」

「え、お客様?」

 困惑していく駅員を無視し、誠は潜ったばかりの改札を引き返す。出口へと歩いてく彼女へと走り、「小沢さん!」と大声で呼び止める。

 振り向いた小沢は、ついさっき改札を通ったはずの誠を見て目を丸くしていた。

「氷川君、あなた………」

「小沢さん、やっぱり僕にはできません」

 誠は思い出した。警察官になったばかりの頃の自分が、どんな夢を抱いていたのか。

 巡査としての制服がまだぎこちなかった頃、誠は街を、国を、市民を護るために人生を捧げることを決めた。刑事になっても、力に弄ばれながらも懸命に生きようとする人々を見てきた。いくらアギトだから、と市民を見殺しにするなんて、自分にはできない。あの頃の自分に嘘をつきたくない。

 一介の警察官だからとか、元G3-X装着員だからとか関係ない。

 これは僕だけの意志だ。僕の意志で、市民を護りたい。

「このまま帰るなんて、僕には」

 

 地のエルが投げた砂塵が、翔一の足元で爆ぜる。目くらましに狼狽している内に後ろから首を掴まれ、すぐ傍にあるビルのコンクリート壁に打ち付けられる。翔一の石頭はコンクリートを砕き、その衝撃で意識が飛びかけた。力が抜けたところを見計らってか、地のエルはまるでゴミのように翔一を投げ飛ばす。

 立ち上がった翔一は全身を炎で包み、燃え盛る豪炎の戦士(バーニングフォーム)へと姿を変える。掌を燃え滾らせ、地のエルへ渾身のパンチを放った。胸に炎の打撃を受けた地のエルがたたらを踏む。翔一はこの勢いのまま、追撃に次々と拳を叩き込んでいく。

 更に拳を突き出そうとしたとき、目の前で熱砂が火花を散らし目が眩んだ。直後に胸を蹴飛ばされ、無様に地面を転がっていく。

 日陰から出た翔一の身体は、降り注ぐ日光を浴びて光輝への目覚め(シャイニングフォーム)の鎧をさらけ出す。白金の光を放つ翔一に、地のエルは狼狽した。

 ベルトから2振りの刀を引っ張り出す。素早く肉迫し、地のエルの胸を右の刀で上段から袈裟懸けに切り裂く。更に左の刀で下段から一閃。

 傷口から熱砂を血のように零した地のエルは、身を悶えさせながら全身を砂城のように崩していく。だが崩れた身体は壊れることなく、宙に渦を巻いて光の球を成した。かつて水のエルと戦ったときと同じだ。まだこいつは滅びてはいない。

 予想通り、地のエルだった球体は光の尾を引いて彼方へと飛んでいく。思念で呼び寄せたバイクに飛び乗り、翔一は昼の空を駆ける流星を追いかけた。

 

 深いまどろみの中で、涼は呼吸することすらも放棄して流れに身を委ねていた。この冷たさ。無限の奈落へと沈んでいく感覚は初めてじゃないから、恐怖はあまりない。

 むしろ、このたゆたう感覚が落ち着く。自分は海の一部で、ただ何もせず流れに身を任せていくうちに海に溶けて全体の中へ還っていくかのよう。

 海は、こんな俺でも受け入れてくれるのか。

 その絶対的な安寧には既視感があった。子供の頃に溺れたときとは決定的に違う、そう遠くない記憶だ。そう、同じ安寧をかつて体験したことがある。その時は、水面から微かな太陽の光が海に射し込んできたこと。そして、涼の隣には年下のインストラクターがいたことだ。

 そうだった。あの頃は毎週果南の店に行って、こうして海の中でぼう、としていたな。しばらく行っていなかったから忘れていた。あんな日常がずっと続くと思っていたのに、こんな事になるなんて誰が予想できるのか。

 傍にいてくれると思っていた彼女は、もう先に往ってしまった。それでいいさ、果南。お前は往け。俺の往けないところまで、真っ直ぐ。

 ――ぼう、としてたら、どんどん先に往っちゃうからね――

 彼女から告げられた言葉が、波間を縫って反響している。

 果南、お前は――

 別れと思っていた言葉の連なり。それが、涼の間の抜けた勘違いだったことに気付く。

 お前は、先で待っていてくれるんだな。

 お前の往く場所に、俺も往けると信じてくれたのか。

 まどろみの中に、水面から光が射してくる。とても高いところだ。果たして自分に辿り着けるだろうか。怖いが、それ以上に希望がある。

 水を掻いて、上へと昇っていく。いつか見た空へ向かって咲く花のように、光を目指し進んでいく。光が大きくなり、涼を深淵から照らし出した。

 目を開くと、そこはどこかの海岸だった。遠くで船の汽笛が聞こえてくる。海水を滴らせながら起き上がると、海岸に愛車が停まっているのを見つけた。来てくれたのか、と忠犬を撫でるようにカウルに手を添える。

 脳裏の疼きは、敵の出現を知らせている。涼はヘルメットを被り、愛車に跨った。

 俺も往く。果南と同じ光に向かって。

 いつまでも待たせるわけにはいかないからな。

 

 

   2

 

 アギトは現在奥多摩へ向かって移動中らしい。ドローン空撮による追跡でルートを先回りした誠たちがGとレーラーを見つけることは、そう難しいことでもなかった。市街を大型トレーラーがサイレンを鳴らして走るのだから、当然のごとく目立つ。

 本庁から持ち出した白バイで随伴する車と共にトレーラーへ真正面へと向かい、通せんぼのようにバイクを停車させる。急いで停車したGトレーラーのフロントガラスの奥で、運転手が困惑の表情を浮かべているのが見えた。

 シートから降りて、トレーラーの車内カメラに映る位置へと移動し声を掛ける。

「本部からの緊急命令です。ハッチを開けてください」

 交通機動隊の制服にサングラスを掛けただけの安い変装で、北條を騙せるだろうか。そんな危惧があったが、杞憂だったらしくすぐにカーゴのハッチが開け放たれる。もしかしたら、尾室が制止を振り切ってシステム操作してくれたのかもしれない。

 ハッチが閉められる前に、随伴する車から降りた小沢と一緒に中へと踏み込む。「あなた達は――」と北條は声を上げた。ここまで来たら、もう変装する意味もない。小沢に至っては素顔のままだ。ヘルメットとサングラスを脱いで、誠は北條を睨む。

「小沢さん、氷川さん」

 北條とは対照的に、尾室は嬉しそうな顔を誠たちに向けた。元部下に一瞥すらせず小沢は北條へ拳銃を向け、

「たった今から、G3ユニットの指揮は私が執ります。良いわね」

 弾は入っていない、と高を括っているのか、北條はこの期に及んでも涼しい顔を崩さない。

「何を考えているんです。こんな事をして、ただで済むと思っているのですか?」

「どうかしら。ま、なるようになるわよ」

 きっと懲戒で済むことじゃないことは重々承知だ。だからといって、自分の身可愛さに目の前の事件から逃げられるほど、誠も小沢も出来た人間じゃない。

 何て愚かな人たちだ。そんな北條の内心が聞こえてきそうだったが、彼の反応は予想外のものだった。

「きっと、来ると思っていましたよ」

 そう告げる北條の顔はとても晴れやかだった。

『G3ユニット、応答願います』

 スピーカーから通信部の声が飛んでくる。急に停止したから不審に思ったのだろう。

『G3ユニット、どうかしましたか? 応答願います。G3ユニット、応答願いま――』

 無言のまま北條は通信のスイッチを切った。そのままひと言も告げることなく、誠たちを一瞥してハッチから出ていく。

「す、すいません小沢さん、氷川さん」

 ひとまず去った嵐に安堵したのか、尾室が口を開いた。

「僕、僕ずっと悩んでたんです。本当にこれで良いのかな、て」

 拳銃を降ろした小沢はかつてのように柔らかな笑みを浮かべる。

「分かった分かった。もういいから早く席に着きなさい」

「は、はい!」

 言われた通り、尾室は席に戻りヘッドセットを頭に付けてPCのキーを叩く。G3-Xの装着員リストに、誠の名前とIDを付け加えてくれていた。

 かつて在った、G3ユニットの景色。懐かしさに感慨を覚える間もなく、小沢からの指示が飛んでくる。

「氷川君、行くわよ。G3-X出動!」

「はい!」

 急ぎ、誠は前室で衣服を全て脱ぎ去り、インナースーツで首から下を覆う。カーゴの棚に並べられた装甲を次々と装着していき、残ったマスクを小沢によって顔面に当てられる。

《認証 氷川誠警部補》

 マスクのディスプレイにロゴが表示されると、後頭部がカバーで覆われた。最後の仕上げとして、オートフィット機能で装甲ユニットが誠の体形に合わせて引き絞られる。

 ガードチェイサーに跨りエンジンを駆動させると、ハンガーごと車体がスロープへと後退する。

「2123、G3-Xシステム戦闘オペレーション開始」

 小沢が告げ、尾室がオペレートする。

「ガードチェイサー、離脱します」

 ハンガーのロックが外され、ガードチェイサーがカーゴから吐き出される。路面で車体バランスを落ち着かせながらアクセルを捻り、マスクのディスプレイに表示されたルートの方向へとマシンを走らせた。

 

 

   3

 

 奥多摩の山中へとバイクを走らせ、翔一は力の導くままにそこへ向かう。地のエルに加え、更に強大な力を感じた。

 山林の中の、誰の手も入っていないにも関わらず開けた場所がある。そこに、地のエルはいた。バイクを停めた翔一が視た光景は、まるでシャワーのように光の粒子を浴びて、崩れかけていた砂の肉体が形を留めていくものだった。

「あいつは……!」

 地のエルに光を浴びせたのは、黒い青年だった。彼はまるで水中にいるかのように瞳を閉じて宙をたゆたっている。その姿はまるで神へ捧げられる生贄のよう。いや、黒い青年自身が神か。神が自身を捧げ、一体何をしようというのか。

 疑問を振り捨て、翔一はベルトから刀を抜く。目的なんてどうでもいい。ここで倒すだけだ。

 二刀を構え、翔一は地のエルに斬りかかった。確かな手応えだが、地のエルは全く意に介した素振りを見せない。追撃の刃を一閃するが、それは敵が光輪から抜いた剣によって阻まれ、振り払われる。

 地のエルが振り降ろしてくる剣を左の刀で受け止めたが、あまりの力に刀ごと腕を持っていかれそうになった。見れば、受け止めた刀が中腹から折れている。使い物にならなくなった剣を投げつけながらバックステップを踏んで間合いを取ったところで、樹の陰からもう1体の敵が現れる。

「ここは聖地。悪しき者は踏み入ってはならない」

 風のエルは告げる。にじり寄ってくる地のエルが横薙ぎに振るう剣を刀で受け止めたが、それも容易く折られてしまった。再び間合いを取ろうとした先では風のエルが待ち受けていて、翔一の顔面を殴り、首を掴むとまるでパスでもするように地のエルへと放る。

 首筋目掛けて迫ってきた剣は手甲で防ぐことができたが強靭な力で亀裂が入り、血が滴り落ちる。一度離れた剣はすぐに胸の鎧を切りつける。1度目は耐えたが、2度目の斬撃で割れた鎧からも鮮血が垂れた。

 風のエルが手をかざす。強烈な突風が駆け抜けた。翔一の体はいとも容易く吹き飛ばされ、地面に落ちると同時に変身が解ける。

 力が長く続かない。痛みで意識が朦朧とし、全ての音が遠ざかろうとしているなかで地のエルの冷たい声が聞こえる。

「塵に還る時だ」

 刹那、凄まじい銃声が耳をついた。意識が僅かに押し戻され、硝煙の臭いを嗅ぎ取る。

「津上さん、しっかりしてください!」

 その声を聞き、翔一は重い目蓋を開いた。G3-Xのオレンジ色の両眼が目の前にある。北條ではない。この青く、そして勇敢で真っ直ぐな声は聞き間違えようがない。

「その声、氷川さん………」

 

 翔一の瞳に力が戻っていくのを感じる。いくらアギトの力を持たない誠でも、彼の裡から沸き出ようとしている気迫は感じ取ることができた。

「はい、また戦いましょう。一緒に」

 

 ――無駄なことを――

 

 その冷たく、同時に甘美でもある声は空気を媒介とせず、直接誠に語り掛けるように頭蓋に響いた。

 

 ――貴方はただの人間だ。人の力では、何もすることは出来ません――

 

 辺りに視線を巡らせ、宙に浮いたまま眠るようにしている黒い青年で留まる。

 

 ――人間の運命は、全て私の手の中にあります――

 

「何?」

 

 ――もうすぐ、人類は全て自らの手で命を絶つことになるでしょう――

 

「お前が? まさか、自殺者たちはお前のせいで………」

 黒い青年は答えない。代わりとして、配下であるアンノウン達へ告げる。

 

 ――やれ――

 

 主の命を承った2体のアンノウンが向かってくる。突き出される拳を避けつつも、掠めただけでG3-Xの装甲が火花を散らす。アギトを退けるほどの力だ。AIと誠の経験値を総動員してどこまで立ち回れるか。

 左腕に携行したGK-06を抜き、納められていたナイフの刃を伸長させる。風のエルに何度も刃を振るうが、敵に触れることなく避けられてしまう。背後から地のエルの剣を受け、バッテリーユニットが損傷を受けた。微々なロスだ。まだ戦える。

 風のエルに組み付かれたところを、地のエルの剣が迫ってくる。GK-06で防ごうとしたが刃を折られた。咄嗟に蹴りを入れて突き放し、しつこい風のエルを投げ飛ばして拘束を解く。

 アンノウンたちは当惑している様子だった。形勢は決して誠には傾いていない。にも関わらず、自分たちと対等に渡り合う人間に大きな目を剥いている。地のエルは戸惑いを口にする。

「お前はアギトではない。何故これ程の力を……、何者なんだお前は?」

 向けられた問いは愚問と言ってもいい。何故これほどの力を持つことができたか。一体僕が何者なのか。

 その身を以って教えてやる。僕は氷川誠。警視庁の刑事で、G3-Xの装着員だ。アギトの力なんて持たないくせに立ち向かい、お前たちが格下と蔑む――

「ただの、人間だ!」

 間合いを詰めようとしたとき、誠の身体に視えない波動が襲い掛かった。装甲が火花を散らし、翔一のすぐ傍へ吹き飛ばされる。マスク内ではアラートが鳴り響き、AIが撤退を推奨している。

 バイクの音が近付いてきた。そのオフロードバイクは誠たちへにじり寄ってくるアンノウン達の前に割って入り、運転手はヘルメットを脱ぐとこちらへ声を飛ばした。

「しっかりしろ、津上、氷川!」

 

 シートから降りると、涼はアンノウン達と対峙する。

「お前は……」

 風のエルが言葉を詰まらせた。何故生きているのか、とでも言いたげだな。

 その答えは、俺が葦原涼だからだ。俺がギルスだからだ。

 来るなら来い。たとえお前たちが地の果てまで追いかけてこようが、俺は逃げも隠れもしない。お前たちの戯れに付き合ってやるさ。ただし覚悟はしておけ。お前らが俺にどんな過酷な運命を敷こうが、俺は負けない。勝って、生きて、俺が生きるべき「居場所」を見つけるその時まで――

「俺は、不死身だ!」

 過酷な運命から逃れるのではなく、勝つために。明日を手にするための力として、涼は裡からの疼きに身を委ねる。

「変身!」

 全身から尖刀を伸ばし、エクシードギルスへと姿を変えた。

 

 全身の鎧から煙を上げながらも、誠は足を踏ん張り立ち上がる。翔一も軋む身体を持ち上げ、戦いを静観している黒い青年へと目を向けた。

 そうか、全てはお前の手の中か。確かにお前なら、人間なんてものは手の中に収まってしまうほどちっぽけなものかもしれない。

 でも人の想いは、輝きは、お前の掌なんかでは抱えきれないほど大きく膨らんでいく。お前にそれを受け止めることができるか。簡単にねじ伏せることができるか。そんなことはさせない。

 人の――あの子たちの太陽よりも大きな輝きは、絶対に消させはしない。

「人の運命がお前の手の中にあるなら、俺が……俺が奪い返す!」

 翔一はベルトを出現させた。体の奥底から、さっき消えようとしていた力が止めどなく溢れようとしている。雲間から太陽が顔を出し、陽光を受けたベルトが強いうねりを発している。力が臨界へと達したとき、翔一は吼えた。

「変身!」

 白金の光が視界を覆い尽くし、翔一は光輝への目覚め(シャイニングフォーム)のアギトに変身した。

 溢れる力のままに、翔一は誠、涼と共に敵へと向かっていく。地のエルに組み付き、振るわれた剣を避けつつ腹に拳を突き入れる。先程は平然としていた地のエルが、ごほ、と咳き込みながら翔一を睨んだ。間合いを保ちながら出方を窺う。先手を打ったのは地のエルの方だったが、剣を構える手を蹴り上げ武器を払い落とす。身を翻し繰り出した回し蹴りは相手の顔面を打ち、たたらを踏ませた。

 

 組み付いてきた涼を樹へ叩きつけた風のエルに、誠は拳を振るう。いとも容易く受け止められたところで、雄叫びをあげた涼の尖刀が風のエルの翼を切り裂いた。

 誠は急ぎGX-05を拾い上げ、銃口にグレネードを装着し照準を合わせる。誠の構えを見た涼が、風のエルから離れた。同時にトリガーを引き、グレネードを発射する。寸分違わず命中した砲弾が炸裂し、風のエルの胸を穿った。

「ウオオアアアアアアアアアアッ‼」

 吼えた涼が、跳躍し両足のヒールクロウを風のエルの肩口に突き刺す。凄まじい切れ味を持った尖刀は肩から敵の両腕を切り落とした。鮮血を散らしながら呻く風のエルの身体が、体内からの爆風で吹き飛んでいく。

 風に運ばれていく爆炎に安堵してすぐ、翔一の加勢に向かおうと目を向ける。でも、それは必要なさそうだった。既にあちらも終わろうとしている。

 翔一の拳を浴びた地のエルが、山林の丘陵を転げ落ちていく。深く腰を落とした翔一の前に、白金の炎がアギトの紋章を象って燃え上がっている。それもふたつ。

 跳躍した翔一の突き出した右足が、ふたつの紋章を潜ると共に炎を纏っていく。そのキックを受けて吹き飛ばされた風のエルの身体は、地面に到達する前に爆散し、塵に還っていった。

 残る敵はひとり。人の姿をした、黒い青年のみ。

 配下を失った黒い青年は狼狽えることなく、宙に浮き続けている。その肉体が高度を上げ始めた。誠も涼も、そして翔一も、その様子をただ見上げている。

 黒い青年の身体が光を纏った。周囲に光が糸のように織られ、まるで繭のように彼の身体を包み込みながら更に高度を上げていく。まるで小さな太陽のようだ。まさか、自らを地上にぶつけるつもりか。

 誠の背に悪寒が走る。そんなもの、一体どうやって対抗すればいい。G3-Xの装備で、隕石を破壊するほどのものなんて無いのに。自衛隊に応援を要請するにも、どれほど時間が掛かるか。

「何をするつもりだ、津上!」

 涼が言った。誠が地上に視線を戻すと、翔一は深く腰を落としている。その足元にはアギトの紋章が浮かんでいて、渦を巻き翔一の両足に集束していく。光は足元に留まらず、翔一の全身を白金の光が包み込んでいた。

 まさか――

 そのまさかだった。翔一は高く跳躍し、天に向かって右足を突き出した。

「はああああああああああああっ‼」

 光の尾を引き、流星のように高く跳んでいく翔一の雄叫びが遠くなっていく。どれ程の高度へ至ったのか、彼の姿が小さくなってやがて見えなくなる。その数舜後、地鳴りのような轟音が響いた。

 次に耳朶を打ったのは、叫び。あの黒い青年の声だろうか。無数にも重なった悲鳴はまるで地獄の悪魔たちが一斉にあげているようにも聞こえるし、天界の天使たちの嘆きにも聞こえてくる。

「一体……一体何が起こってるんだ」

 誠はただ、その疑問を口走ることしかできない。あの渦中に飛び込んでいった翔一は。あの中で何が繰り広げられているのか。

 小太陽の輝きが際限なく増していく。臨界に達し、膨圧に耐え切れなくなったガスやエネルギーが全方向へ放射され、轟音と共に散った。

「津上いいいいい‼」

「津上さあああん‼」

 誠たちの叫びは、虚しく空へ撹拌していく。空に舞う爆炎の中に、翔一は見当たらない。いや、あれを爆発と呼ぶべきかすら迷った。散りゆく小太陽の破片は、まるでガラス片のようにちらつき本物の太陽が注ぐ日光をプリズムのように分けて虹を幾重にも織り込んでいく。

 まるでオーロラだ。ひらり、と翼のようにはためいた虹の束が爆炎に触れると、空の炎は瞬時に消滅していく。

 この現象をどう捉えたら良いのだろう。世界の終わりなのか。それとも、福音なのか。

 



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第6話

 さあ、お前の罪を数えろ。

――仮面ライダー(ダブル) (ひだり)翔太郎(しょうたろう) / フィリップ




   1

 

 そこでは、光と闇が互いに浸蝕し合い、そして反発し合っている。まるで水と油のように、弾き合い決して溶け合うことはない。天も地もない混沌の中で、翔一は纏わりつこうとする闇を払い続ける。

 

 ――アギトの力を、ここまで高めましたか――

 

 闇の中から、姿の視えない黒い青年の声が響く。

 

 ――ならば、あなたも視るといいでしょう。この世界の全てを――

 

 暖気と寒気が同時に押し寄せてくるようだった。反発し合っていた光と闇は依然として交わることはなく、放射状の線を引き渦巻いて、タペストリーのような像を織り込んで自身の体感を失った翔一の眼前に広がっていく。この世界が辿ってきた人々の想念全てが全体として1個体でしかない翔一の裡へと流れ込み、刹那ごとの感情が繰り返し芽生えては消滅していく。

 光――闇――アギト――アンノウン――拡大する街――生まれ死んでいく人々――黒い雨――爆弾を落とす飛行機――蔓延する病――魔女狩りの火炙り――神の十字軍――沈む大陸――割れる海――塩に変えられた町――倒壊するバベル――磔にされた神の子――ベツレヘムの星――

 小分けにされた時間が早回しで脳裏を駆け巡り、情報の奔流が流れては漏れ出していく。その中で、翔一はどの時間でも明滅する人々の裡にある光を視る。瞬きをする間に消える光はまた現れては消えてを繰り返し、その中で人々は俯瞰する者にとってはひどく退屈で長い時間をかけて歩き続けていく。果てしない絶望と希望が繰り返されながらも、人は生きていく。神と崇める創造主を畏れながら。

 何もかもが洗い流された荒野で、ひとりの男が空に掛かる虹に祈りを捧げている。世界を覆う海の中で、ぽつんと浮かぶ方舟が長い航海へ乗り出す。

 闇と光の軍勢――使徒と人が戦っている。人の中で光を纏い変身したアギト達が使徒の軍勢へと疾駆していく。

 それらの往き付く先は、一切に満たされながら何の形も成さない混沌。ただ全てが在るだけで、全てが無意味なヘドロのような吹き溜まり。全ての始まりのはずだったが更に先へと続き、翔一は潜り続ける。

 混沌の奥深くで広がるのは、翔一が生きる今の世界と変わらない景色だった。拡大する街に増え続ける人々。その中で、死者たちが灰色の生命体へと新生を果たす。その異形は命が短く青い炎に包まれ死んでいく。

 少しでも種としての命を伸ばそうと人々を灰に変えていく彼らに立ち向かう者がいた。

 それと戦うのは、身体に赤いラインを走らせ黄色い目を光らせた、アギトとはまた違う超合金の戦士。

 

 ――この世界が生まれる前に在った、小さな地球(ほし)の話です――

 

 小さな地球(ほし)の物語は、加筆と修正を幾度となく繰り返された末に白紙へと戻される。機械仕掛けの神の手によって。灰色の生命を洗い流し、悲劇の根源を消すことで。世界を救ったひとりの戦士が救われる、新しい物語を紡ぐために。

 

 ――私は、かつての悲劇を繰り返さないための、調停者として生まれました――

 

 この世界は、かつての世界を護った戦士が夢見たもの。ただの人として生きたかった。たとえ弱くても、俺が俺、という確信を持ったまま日々を過ごしたかっただけ。

 その願いを叶えてやるために混沌へ還された中で生まれた存在は、旧い世界で散っていった夢の残骸の寄せ集めでしかない。もう同じ悲劇は繰り返さない。人は人のまま、弱いままでいればいい。身の丈に合わない夢想や光など不要だ。ただ私の庇護の下で、慎ましやで健やかに生きられる楽園が保証される。

 でも、新しい世界の人は、旧い世界の人と同じだった。いくら血が流れても学ばず――学ぼうともせず、自分の視たいだけを視て、偽物の翼を作り太陽を目指しても翼をもがれ地に落とされる愚行を繰り返し続けた。

 

 ――所詮、人は人のままです。哀れで、醜く、それでも愛おしい――

 

 そう語る黒い青年はとても寂しげだった。いくら愚かでも、それでも彼にとって人とは自らの創造物。創り出すのに最新の注意と、そして寵愛を捧げてきた。だから赦せなかった。自身の子供である人を別物にしてしまう、アギトという存在が。

 だが真に罪深かったのは、自身が愛してやまなかった人そのものだった。子供の拳を頬に受けたとき、彼は悟った。水の使徒からの忠告は真実だったのだ、と。人はもはや、自身の愛した人ではない。逆らう悪しき獣(ネフィリム)にまで堕ちてしまった。

 

 ――それでもあなたは、人が生きるに値すると言えますか。私と同じ境地に至るあなたなら、人を滅ぼすことも容易い――

 

 翔一は頷く。迷いなんてなかった。最初から今に至るまで、俺はこの世界――皆の居場所を護るために戦ってきた。今更人間の歪さを知ったところで、変わるものなんて何もない。

 黒い青年の溜め息が聞こえた気がした。その気配が遠ざかっていく。壮大な記憶の奔流から抜け出した翔一は、神を追って日光が降り注ぐ空を駆けていった。

 

 

   2

 

 その屋敷、駿河湾を望める窓際のテラスで、沢木は紅茶を飲んでいた。空いたテーブルに青年が音もなく現れる。沢木は驚かず、自分の仕える主と、彼を追ってきた翔一の来訪を快く迎える。

「あなたに与えた命も、残り少なくなりました」

 主の宣告に沢木は恐れる表情など見せず紅茶を啜る。翔一には分かる。アギトの力によるものなのか、それとも沢木の主より与えられた力なのか、どちらにしても彼の思惟が流れ込んできた。彼の想いと、ここに至るまでの全てが。

 

 沢木哲也――本物の津上翔一が2度目の生を受けたとき、最初に抱いたのは深い絶望だった。

 1度は救おうと愛する人の手を掴んだのに、離してしまった所業に耐え切れずに後を追った。彼女の生が赦されない世界で生きる意味を失い逃げたというのに、この絶望が終わらないことに慟哭した。

 新しい命はこの世界で最初のアギト――沢木雪菜を葬った報酬だったが、沢木にとってそれは罪であり呪いでしかなかった。主から世界の成り立ちとアギトの全てを知っても、彼の中で人を越えたことの自負なんて芽生えず、ただの人間としての矮小な感情のみが残った。

 だから沢木は、2度目の命も人間としての意志の下に捧げることを決めた。雪菜の否定された生命を、今度は肯定してやるために。同じ力を抱えた者たちに更なる力を与え、使徒ひいては神を打倒するために。

 そのために最初に行ったことは、津上翔一であることを捨てることだった。雪菜を見捨ててしまった罪に耐え切れず壊れかけた意識を繋ぎ止めるためには、自身にかつての俺じゃない、という虚構を刷り込む必要があったからだ。

 記憶を失った雪菜の弟が自身の名を名乗っていることを知った沢木は、悲しくほくそ笑んで彼の名前を頂戴することにした。彼女の愛した弟の名を奪う。それは自身を欺くには悲しすぎる虚構だった。彼女が慈しみを込めて呼んでいた哲也という人物が自分と、どこかで思い込みたかったのだろうか。それは沢木自身にも分からなかった。

 

「怖くはない」

 そう、沢木のなかに恐怖はない。彼は与えられた仮初の命をアギトのために生きることを選んだ。力を持つ者たちを助け、使徒と主を打倒するために動いてきた。

 既に目的は達成された。もう彼らは彼ら自身の足で歩いていける。いずれは背から翼をはためかせ、どこまでも高く飛ぶことができる。イカロスのようにもがれることはない。ここにやってきた青年は、その境地に至ったのだから。

 沢木は翔一を眺める。アギトとしての力を極限まで高め、際限なく更なる高みへと至る無限の輝きを背負った男。彼女の弟、という程度の感情しか抱いていなかったこの青年が、アギトという存在全ての希望になった。

 その根底にあったのは、姉である雪菜が与えた深い愛情だった。彼女の想いは消え去ってはいなかった。この青年の裡に植え付けられた種は根を張り、人を世界という物語に縛り付けていた神から解放させた。

 沢木は思う。俺の手がなくても、彼なら同じ結末を導き出せたのではないか、と。所詮俺はイエスのような預言者ではなく、ただの後悔に塗れた人間でしかなかった。

 そんな自分に残された役目は去ること。もはや神の僕として生きる理由はない。

「私は人間の側から、アギトを滅ぼすための使徒としてあなたを復活させた。だが、その必要は無かったようです」

 そう言うと、黒い青年は窓から広がる海を眺めた。自分が創造した世界であり、最高傑作として書き連ねてきた物語。そこは自分の思うがままだった。産み出した使徒も、人間も全て。完璧なまま、永劫に続いてくかと思われた世界に歪が生じたのは人間から産まれたアギトという異物のせいと、そう思っていた。アギトによって、主である彼の描いてきた物語は修正不可能なまでに破綻したと思った。

 でも、人間はやはり自身の遺伝子を継いでいた。異物を嫌う性質は人間も同じで、自分たちの物語に紛れ込んだ存在をまるで病原菌のように排除しようとしている。人が人でなくなること。それは、人自身も恐れていた。

「人間は、いずれアギトを滅ぼします」

 その悲し気に告げられた言葉で、翔一は神の愛とやらを理解する。いくらアギトになろうとも、元は主が創り愛した人間であることに変わりはない。力に目覚めかけた者を手に掛けた時、痛みを感じた彼はまだ子への愛を捨て切れなかったことを自覚した。だから掃除を使徒たちに任せ、親から見捨てられた子供たちの叫びから耳を塞いでいた。

 人が人を殺してはならない。アギトもまた人である。そういくら叫んだところで、知恵の実を与えられた人の欲望や悪意は際限なく膨らんでいく。愛した子供同士の殺し合う姿なんて見たくもなかった。それでも知恵を得た子供たちは自身で物語を描こうとする。それは親がかつて祈ったものとはかけ離れた、荒涼とした悲劇でしかない。

 もはや止めることはできない。当初から大きく外れた物語は、暴走した登場人物たちによって穢され、犯され、罪に罪を重ねた破滅へと向かっていく。

「いや」

 汚泥の溜まり場となっていく世界を見つめる主を、沢木は強く否定する。

「あなたは人間を創りながら、人間のことを何も知らない」

 人間はあなたが思っているほど賢くはないが、あなたが思っているほど愚かでもない。

 そう言うと沢木は窓の外、広がる海の更なる先へと目をやった。そこは自分が存在しない世界。望み夢見た世界を、残されたアギトと人が築くことができるのか、見届けることはできない。そのことに憂いはある。人は自らを縛り付けて、また同じ過ちを繰り返し続けるのかもしれない。

 だが、希望は確かにある。揺るぎない愛が、ここにはあるのだから。

「人は、アギトを受け入れるだろう。人間の無限の可能性として」

 それは賭けも同然だった。これから生まれ続けるアギトと人が、どう歩んでいくのか。

 ふと翔一の目に、壁に掛けられた絵画が入った。かつて見た、この世界の成り立ちと使徒と人の戦いを描いた絵。白紙だった下部分が今は描き足され、完成をみている。その描き加えられた部分は、人々が歩いている姿だった。人だけじゃない、その中には金色の角と赤い目を持った異形も描かれ、人と肩を並べている。

「では、見守ってみましょう。あなたの言葉が正しいかどうか、人間とは何なのか。もう1度、この目で」

 それは、この物語の執筆を放棄する言葉だった。修正も、白紙に戻すこともしない。続きは、登場人物たちに委ねる。子供たちが自らの物語を、どう書き連ねていくのか。どんな結末を迎えるのかを。

 沢木は穏やかに、そして晴れやかに笑う。続きを見ることができなくても、彼はその結末が決して悪いものではない、と確信できる。人の裡に、無限の可能性という光がある限り。

「ああ、きっと俺が、勝つさ」

 臣下だった男から勝利宣言をされたにも関わらず、黒い青年は笑っていた。その姿が薄れ、この場から一切の気配を残さず消滅していく。どこへ往ったのか、その気配を辿ることはもう翔一にもできなかった。

 神としてこの世界の維持を務めなければならなかった彼も、自ら書いた世界に押し潰されかけていたのかもしれない。それは作者としての孤独と言っていい。決して登場人物に交わることはなく、ただ淡々と書いて、果てに全て白紙に戻さなければならなかった受難からようやく解放されたのだろう。

「この家は――」

 翔一へ目を向けた沢木が、穏やかに言う。

「雪菜と暮らすための家だった」

 だとすれば、さっきまで主が腰掛けていたこの椅子にいるべき本来の人物は、姉だったということか。ここでふたり並んで、紅茶を飲みながら海を眺めて暮らす。海が好きだった姉は、そんな日々を夢見ていたのだろうか。そしていつか自分も、たまにこの家を訪ねて料理を振る舞う。そんな可能性が、かつてはあった。

「彼女は最期に、お前の名を呼んでいたよ」

 沢木の記憶が、翔一の意識に流れ込んでくる。ビルの屋上から身を投げ、腕1本で宙吊りになった彼女の口から出たのは弟の名前と、そして懺悔だった。

 

 ――ごめんね、哲也――

 

 その懺悔が何に対してだったのか、翔一には分かる。いつか沢木と義兄弟としての対面を果たしたとき、ふたりに料理を振る舞うという約束。それを破ってしまったことを、姉は最期まで悔いていた。

 怪物になることを怖れた彼女は、最期まで沢木雪菜として――人間として果てた。

「神が去り、世界はゼロに戻る」

 世界は混沌というゼロから始まった。そこから神という1が生まれ、10になり、100になった。沢木の目指した神の打倒とは、それまで膨れ上がってきたものを、全てゼロに戻すことだった。神の存在する1では意味がない。それでは同じ10と100が繰り返されてしまうからだ。ゼロからやり直し、以前とは異なる1へと進むことで、真に新しい物語が紡がれる。

 その事実を人々は知る由もない。そもそも今まで人類は自分たちが被造物であり、神の庇護という牢獄に囚われていたことにすら気付いていなかったのだから。これからもこれまで通りに、どこまでも緩やかに何も気付かないまま生き続けていくだろう。

 だが、この青年には伝えなければならない。戦いの果てに掴み取ったものと、その意味を。

「これからお前たちが生きていくのは、お前たちだけの新しい未来だ。もう、縛り付けるものは去った。これからは自分の足で、自分の往きたい居場所を探していける」

 語る沢木の声が、弱々しく擦れていく。翔一が違和感に気付いたとき、沢木の身体はバランスを失い椅子から崩れ落ちる。翔一は急ぎ沢木の身体を抱き起こし、壁に背を預けてやる。これで少しは楽になるだろう、と思ってすぐ、それが無意味な気遣いだと悟った。

 使徒として与えられた生命が、とうとう尽きようとしている。沢木の胸に脈打つ鼓動が弱まっているのを、感じ取ることができた。この男はじきに死ぬ。この家――雪菜と一緒に暮らすことを夢見た屋敷で。

 自身の裡に抱くべき感情が見つからないことに、翔一は戸惑った。この男の死にどんな想いを抱けばいいのか、全く分からない。思えばこの男と翔一は、一時的に記憶を取り戻していたあの日まで、1度も会うことがなかった。アギトなんて存在がなければ家族になっていたかもしれないが、それはもう失われた未来でしかない。

 だが沢木のほうは、翔一に確かな感謝と、そして労いがあった。雪菜の弟であること以上にこの青年は、彼女が得ることのできなかった救いを手にし、更に他者にまで救いの光をもたらした。

 沢木は苦しい呼吸を繰り返しながら、それでも口を止めることはしない。この青年はアギトの宿命を超越し、世界を神から解放した。それによってもたらされるものを伝えるまで、まだ逝くには早すぎる。

「お前なら……、どこまでも往ける。誰も視たことのない………いつかアギトの往きつく可能性の果て――虹の彼方へ」

 俺は新しい生命を与えられながら、過去にしか生きられなかった。でもお前は未来へと往けるんだ。どこまでも高く、どこまでも遠くへ。その未来を俺の名前で生きるのなら、喜んで譲るさ。気に入らなければ捨ててもらっても構わない。神の使徒になった日から、俺はもう何者でもなかったのだから。

 沢木の粗い呼吸が、次第に弱まっていく。目も虚ろで、失いかけた意識に焦点も合わせられずにいた。

 せめて最期に、と沢木は目の前にいる翔一を見つめる。思えばこの青年とは、ひどく遠回りした奇妙な縁で結ばれていた。自分の名を奪った男。自分が名を奪った男。雪菜と同じ目をした、運命が違っていたら自分の義弟になっていたかもしれない男。

 所詮俺のしてきたことは、卑しい人間の悪あがきだったかもしれない。何も変わらないのかもしれない。でも、最期くらいは夢を見たっていいじゃないか。愛する人の命が肯定されたという夢を見ても。

 彼女が愛を注いだこの青年が、受け取った愛を無限の輝きとしてこの世界に広げてくれるという夢を見ても。

「雪菜……君はそこに――」

 穏やかに微笑しながら、沢木の目蓋が落ちた。目尻から一筋の涙が零れていく。アギトのために、人のために神を裏切った男の死を、翔一は見届ける。

 窓から射し込んでくる日差しが眩しく、翔一は目を細めた。ゆっくりと開いていくと、広がる景色はどこも光に満ちている。空も雲も、樹も花も虫も、家も草も海も。全てが微弱ながらも、光を放っている。ひとつひとつは弱くても、幾重にも連なる光が虹になって世界中へと伸びていく。

 この光に、翔一はどこか親しみを覚えていた。そう、いつも菜園で育てていた野菜たち。土から出た芽と力強く伸びる茎に瑞々しく実った姿から感じていたものだ。今はそれを、はっきりと視ることができる。

 とりわけ強いのは、人々の放つ光。一瞬のうちに消えて再び現れる輝きと時の連鎖が絡み合い虹を道標として彼方へと向かっていく。その先までを視ることは叶わない。たった1世紀にも満たない生命の人間では至ることのできない境地だが、俺なら往ける、という確信がある。

 そうなれば、この人間という肉体は不要になるだろう。全体へと溶けさせた者のみが昇華できる最果てへ往くため、翔一は身体を光の中へ解けさせ翼となって屋敷のバルコニーから飛び経つ。

 雲の上を飛びながら、虹を縫いながら響く歌の方角へと進んでいく。今この瞬間で最も輝いている居場所。九重の声と光が飛び交い、どこまでも響いていく。

 それは「今」という、刹那よりも短い瞬間を切り抜きながら駆け抜けてきた歌だった。瞬きをすれば過ぎていく日々。その時その時の抱いた想いを拾い上げ、紡がれてきた曲。

 彼女たちの光を目の当たりにした人々の輝きさえも視える。サイリウムを振る鹿角姉妹に、近くで見守ってきた親たち。志満と美渡も幼い頃に戻ったように、浦の星の生徒たちと一緒に笑顔でサイリウムを振り続けている。街頭の大型モニターに映し出された彼女たちの輝きに待ち行く人々も足を止める。

 ずっと立ち止まったままでいることが(ほま)れとされた世界でも、彼女たちは進み続けた。自分たちが抑圧された存在とか、神へと反骨とか、関係ない。自分の心の赴くままに、自ら道を探してきた。かつて垣間見たものを得るために。そのために「今」という囲いから出る事になるけど、怖れなんて抱かない。いつだって漕ぎ出したその先には、輝きがあると彼女たちは知っている。

 そう、輝きは一瞬で終わるものじゃない。その時毎に異なる輝きが放たれ、その残滓を受け取った者たちによって再び世界を照らしてくれる。そうやって人々は歩いてきた。時に立ち止まり、引き戻されても、それでも、と足掻きながら。輝きたい、という裡に灯る熱を抱きしめ、長い長い旅路へと駆け出していく。太陽目指して茎を伸ばす植物のように。光差す水面を目指す魚の群れのようでもある。

 その往き付く先――無限の可能性がもたらす虹の彼方への道を人は既に見出している。人という存在がこの世界に産声をあげたときから――いや、旧い世界に存在していた時から既に旅は始まっている。過去も未来も、そして今も、全ての時間が輝きに満ち溢れている。

 光の中に溶けつつある翔一からアギトの輝きが世界へと伝播し、全体からもたらされる温かい灯が翔一の中へと注がれていく。無数の溢れ出さんとばかりの胎動が響く、原始の海のような温もりを泳ぎ、飛びながら翔一は世界という魂の場へと身を躍らせていく。

 

 

   3

 

 全てが夢のように恍惚で、一瞬だったように思える。身体は踊っていても意識はどこか遠くへと跳んでいったかのように曖昧で、上手く歌えたかな、ちゃんと踊れたかな、という微かな不安が終わった後になって押し寄せてくる。

 ステージの床を踏んでいるはずの足裏の感覚すらも朧げで、千歌は拳をぎゅ、と握り絞める。熱と手の感触を確かめ、顎を伝う汗を拭いステージに備え付けられたモニターを見上げる。リアルタイムで集められた投票。その結果として『WINNER』とあるロゴの下に、新しく名前が表示される。

 Aqours

 水であり私たち、という意味の込められたグループ名が表示された瞬間、観客席から沸いた歓声が広いドームの空気を震わせ更に熱を上げていく。

 ああ、やっと――

 この時の想いをどう言い表したら良いのか、後になっても分からなかった。色々な感情が沸き上がってない交ぜになり、整理をするのはとても難しい。ただはっきりしたことは、終わったんだな、というどこか安堵にも似た感情だった。今までの挫折も絶望も恐怖も、全てが報われたのかもしれない。無駄じゃなかったんだ。

 会場に紙吹雪が降り注いだ。照明の光を乱反射させるその模様は雪のようでもあって、この空間をきらきらとした浮足立った場へと変え、更に観客たちを沸かせる。

「千歌ちゃん」

 不意に届いた声に、千歌は背後へと振り向く。紙吹雪の舞うステージに立っているのは、翔一だった。千歌たちのような煌びやかな衣装なんて着ず、いつもの野暮ったいジャンパーの姿で。

「翔一くん……何で?」

「せめて、千歌ちゃん達のステージは見ておかなきゃ、と思ってさ」

 疲れなのか困惑なのか、おぼつかない足取りで彼のもとへと歩く。その身体に触れようとしたとき、千歌の指先は何も掴むことなくはっきりと姿のある翔一の身体をすり抜けてしまう。彼の身体を潜った瞬間、心地良い温かさを感じた。思いもよらないことにつんのめった千歌は、いつもの笑顔を浮かべる翔一を見つめ、そして悟る。彼に何があって、どうしてステージにいるのかは分からないが、これだけは明確に理解できた。

 翔一くんは往っちゃうんだ。

 そこは翔一にしか往けない場所。千歌や、皆では到底辿り着けない居場所へと、翔一は向かおうとしている。

 翔一はステージで物思いに耽っている皆を見渡した。他の皆は翔一の存在に気付いていないようだった。実際、彼はこの場に居るのか、それすら曖昧になっているのかもしれない。

「俺、皆の輝きが視えるんだ。千歌ちゃんだけじゃない、この世界にいる人たち皆の、きらきらとした輝きがさ」

 翔一の顔には悲壮も寂しさも、一切の暗い影がない。いつもの翔一だ。これから自分が往く領域に、全く不安を感じていない。それ以上の溢れんばかりの希望が、彼の胸を満たしているようだった。

 それはいわば、どこまでも広がる群青の大海原や、緑と花の香る大草原を始めて見た幼子のような、純粋無垢な高揚。

 千歌が初めてスクールアイドルを視たときと同じ想いが、彼の背を押している。

「だから視てみたいんだよね。この光がどこに向かってるのか。その先に何があるんだろう、て」

 彼はただ、未来を見つめている。そんな彼に千歌は、喪失の予感にさっきまでの熱を急速に冷やしながら口を開く。

「嫌だよ、翔一くん。もうどこにも行かないでよ。わたしを置いて行かないで」

 図々しい我儘な言葉に、翔一は苦笑する。どうしても叶えてやれない願いに、何と言ってやればいいのか困り果てる親のようだった。

 でもその苦笑はすぐに屈託のない柔らかな笑顔に戻る。ふ、と千歌の頭に翔一の手が触れる。千歌からは触れられない温かい手で、翔一は千歌の頭を優しく撫でてくれた。

「大丈夫、千歌ちゃんにはAqoursの皆がいるじゃない。千歌ちゃんだって、とてもきらきらしてるんだから」

 その手はとても大きかった。まるで父のよう――いや、父そのものと言えるほどに。

 千歌は幼いうちに父を喪った。まだ父からの愛情を求めてやまない頃に失くしたものは永遠に戻らないと諦めていた。たとえ翔一が父のように振る舞っても決して代わりは務まらないことも理解していたし、同時に虚しくも思っていた。

 翔一はそんな千歌の傍にいて、時にはアギトとしてアンノウンと戦ってきた。人間の手ではどうしようもない障害を排除して道を空け、千歌たちを未来へと解き放つために。それは父親にしかできない役割だ。真に子を想えなければ成し得ない責務を果たしてくれたのは、海からやって来たこの青年だった。

 どうして翔一と離れることを怖れていたのか、今はその理由が分かる。彼から父としての存在を無意識に感じ取っていた千歌にとって、彼との別れとは父を2度喪う事と同義だったからだ。

 それでも彼が往かなければならないことも、同時に理解してしまった。翔一の根底にある、空よりも大きく海よりも深い愛を。どんなに過酷な宿命を理不尽に背負わされようが、それを自らの意志として選択し果たすことができることを。

 翔一にとって命とは、人間とは、世界とは、ただ在るだけで価値のあるもの。護るに値するものだ。

 止められない。翔一の大きすぎる愛の前で、ただの人間でしかない千歌では彼をこの世界に留めるための鎖にはなれない。

「もう、往かなくちゃ」

 

【挿絵表示】

 

 優しく、そして切ない言葉と共に、翔一の唇から光の粒子が漏れた。彼の身体が光の粒となって、空間に解けていく。紙吹雪と共に風に運ばれた残滓を目で追いかけ、千歌は観客席へと振り向いた。

 そこに広がっているのは、まるで宇宙に散りばめられた星々のようなサイリウムの光。

 観客たちが振る光は、まるで人々が裡に抱えるものの象徴のように見えた。翔一の視ることのできる「世界」と、このサイリウムが煌めくドームの光景はどれほど似ているのだろう。

 

 




 混沌の光より生れし子、裡なる炎を極めて闇を討ちし時、揺るぎなき愛を人の子に与え光輝の彼方へと旅立たん。

             アギトの書


次章 私たちの輝き / AGITΩ


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第26章 私たちの輝き / AGITΩ
第1話


 手を伸ばせるのに伸ばさなかったら、死ぬほど後悔する。
 それが嫌だから手を伸ばすんだ。

――仮面ライダーオーズ 火野(ひの)英司(えいじ)




 

   1

 

 始まりは、見慣れた海だった。

 

 家のすぐ目の前にある三津海水浴場から広がる駿河湾の海。浜辺から見える、1年の大半は頭に雪を被った富士山。幼い頃から毎日見てきた風景は、彼が打ち上げられていたあの日から何も変わりない。

 この浜辺から、わたし達と彼らの物語は始まった。結ばれていた歪な縁も知らずにわたし達は一緒に家族として暮らして、わたしはスクールアイドルに出会い、彼はアギトになってアンノウンとの戦いへと駆り立てられた。

 始まりも途中も、わたしの傍には海があった。だとしたら、終わりの時も海があるのは必然なのかもしれない。

 とはいっても、終わったはずなのにわたしはその実感が湧かないまましばらくの間を、ぼう、と過ごしていた。決勝から1、2日くらいの浦の星はお祭り騒ぎだったけど、すぐにそれは収まっていつもの授業を受け、新しい学校への編入準備をしながら閉校を待つだけの日々を送った。変わった事といえば、練習がなくなったことかな。もうする必要もないから。

 わたし達のステージと同じ頃に彼らの最後の戦いがあった事を知るのは、もっと後になる。あの戦いで世界は変わったのかもしれないけど、読んでの通り1ヶ月が経とうとしてもわたしはその変化を感じ取れない、物語が動き出す前の味気ない日常を送っていた。

 何にも夢中になれず、

 何にも全力になれず、

 脇目も振らずに走れず、

 何をしたら良いのかも分からないまま、ただ燻っている。

 世の中でわたし達――Aqoursを取り巻く環境は変わったのかもしれない。ラブライブのホームページには優勝グループとしてAqoursの映像が流れていたし、視聴回数もうなぎ上りを続けていた。映像を見たわたしは、画面の中で歌っている自分がどこか他人のように思えていたけど。

 聖良さんの言う通りだったね。未だに自分が、あのステージにいたことが信じられない。視界の全てがきらきら光っていて、本当に雲の上を漂っているみたいだった。

 わたし達は全力で走ってきて、そして目指した場所へと辿り着いた。気持ちの整理はつかなくても、終わらせなきゃ。わたし達の物語を終わらせられるのは、わたし達だけだから。

 だからわたしはあの日、いつもの浜辺で浦の星での最後の日を思い出しながら、終幕の作業のようにひたすらに問い続けていた。

 あのドームで、あのステージで、わたし達は一体何を視たんだろう。何を手にしたんだろう。全てが終わっても、わたしにはまだ分からなかった。

 皆はもう、答えを見つけていたのかな。

 

 

   2

 

「今日の制服、なんか新品みたい」

 初めて浦の星の門を潜った日のことを思い出しながら、千歌は2年間着続けていた制服を手に取った。

 「糊ばっちり効かせたからね」と志満が広げてくれた上着に袖を通す。

「ありがとう」

 この日のためにクリーニングに出してくれたのだろう。

「首、ちゃんとボタン閉める」

 いつものように着ようとしていたところを、母が第1ボタンを無理矢理閉めにかかる。少しきつくなってきたから、思わず「うっ……苦しいよお」と呻き声をあげてしまった。

 何か七五三みたい。姉たちと母に着替えを手伝ってもらいながら、ふと思った。普段から着方が雑だから、というのが本人たちの弁だが、そんなにいつも着崩していただろうか。釈然としない。

「あら?」

 リボンを締めながら、母がふと声を漏らした。続いて美渡も、

「千歌、少し見ない間に――」

「え?」

 物珍しそうに千歌を足元から頭まで見回してから、美渡は悪戯っぽく笑う。

「太った?」

「もう、余計なこと言わなくていい!」

 確かにここしばらく運動してなかったから太ったかもしれないけどさ。不貞腐れながら部屋から出たところで「ワン」という、しいたけとは違う鳴き声が聞こえた。

 向けば、隣り合ったベランダに出ていた梨子が子犬を抱いている。

「梨子ちゃん、その子………」

 驚いていると、梨子は腕の中にいるパグ犬の頭を撫でながら「おはよう」と、

「新しい家族のプレリュードよ。よろしくね」

「ええ……」

「苦手だったんだけど、飼ってみたら可愛くて仕方ないの」

 そう言うと梨子は愛おしそうにプレリュードの顔に頬をすり寄せる。「ワン」と会話に加わるように、しいたけが鳴き声をあげた。

「あ、しいたけ」

 庭先に出たしいたけの傍には、親によく似た2匹の子犬が尻尾を振っている。

「しいたけちゃんも家族が増えて嬉しそうね」

「東京から帰ってきたらいきなり産まれてるし、びっくりしたよ」

 少し前にブリーダーが飼っている同じ種の雄犬と会わせたら相性が良かったらしく、気が付いたら懐妊していた。閉校祭の時に大暴れしたのも、身重で気性が少し荒くなっていたからかもしれない。晴れて母親となったしいたけを見て、梨子が呟く。

「ていうか、女の子だったのね」

 知らなかったんだ、と今更ながらに気付いた。

 

 学校に植えられた桜の樹は、この日に合わせたかのように満開の花を咲かせていた。風が吹けば桜色の花弁と、芽吹いた春の香りを運んでいる。

「おはヨーソロー!」

 校門の前で溌剌とした曜に、梨子と揃って「ヨーソロー!」と返す。

「気合入ってるね」

「そりゃ最後だもん。ルビィちゃん達も、もう来てるよ」

 1本の桜木の下に、ルビィと花丸はいた。でもふたりとも千歌たちには気付かず、集まった他の1年生たちと一緒に樹上を見上げている。

「いつまでそこにいるずら?」

「式が始まっちゃうよ」

 ふたりが呼びかけている樹上から声が降りてくる。

「良いから先行って――」

 最後まで言い切る前に、その制服を着た人影は花弁を散らしながら落ちてきた。結構な高さから落ちたにも関わらず、着地してすぐに「見るなああああ!」と喚きながら校舎へと走っていく。

 ああ、善子ちゃんだな、と気付いた。1年前に同じ光景を見た気がする。

「どうしたんだろう?」

 去って行く善子の背を見送りながら、ルビィが呟いた。

 

 記念すべき日なのに騒がしい後輩たちを見ながら、ダイヤは笑みを零す。はしたないけれど、あの騒がしさが自分たちらしい。

「どう、緊張してる?」

 果南の茶化しに「まさか」と鞠莉は応じる。言うなれば今日は、鞠莉の理事長としての最後の日でもある。最後なのは鞠莉だけじゃない。ダイヤと果南は卒業生として、後輩たちも浦の星の生徒最後の日として今日を迎えた。

 記念すべき、と言うべきかは悩ましいが、ひとつの節目に浦の星最後の卒業生として、この3人で名を連ねられることがとても嬉しい。

「むしろ誇らしいですわ、この場に立ち会えることが」

 

 トイレの鏡で髪形の出来栄えを見る善子は涙を浮かべていた。個室ですすり泣いているところをルビィと花丸が説得してどうにか引っ張り出すことができたのだが、この調子では式に出る気を起こしてくれそうにない。

「随分思い切った失敗したずらねえ」

 流石の花丸もからかう気になれないらしい。それほどに善子の髪型が酷いという事ではあるのだけれど。

 いつもは片方だけのシニヨンが今日は両側に。それなら良い。問題なのは、何を思ったのかヘアワックスを使ったらしく髪に不規則な癖が付いてあらゆる方向へはね上がっている。

「最後だから気合入れてセットしたら、いつの間にかこんなになっちゃって………」

 無謀な冒険しなくて良かった、とルビィは内心で安堵していた。姉の晴れ舞台だから、とルビィも髪形を普段とは変えようとしたのだが、ダイヤのいつもと同じにした方が良い、という助言に従って普段通りにセットした。

 だからといって、自分の避けられた失敗を犯した善子を見捨てるほど、ルビィ達も鬼じゃない。せっかく最後の日なんだから、皆で過ごしたい。

「大丈夫」

「マルたちに任せるずら」

 すると花丸は手動式のバリカンを手に取った。電動式が主流の現代では、もっぱら動物の毛玉を刈るのに使う道具だ。

「マルがマルっと整えてあげるずら」

 「がしがし」とバリカンを構える花丸を鏡越しに見た善子は顔を青ざめ、

「そう、それなら心配ない――て、言うわけないでしょうが!」

 

 部室には、空になった棚に真っ白なホワイトボード、申し訳程度のパイプ椅子1脚しか残っていない。初めて入ったときは埃塗れだったのに、今は塵ひとつ落ちていない。スクールアイドル部のみならず、どこの部室も似たような景色だ。年度の大会が終わった部から順々に部室の片付けを言い渡されて、皆で散らかった備品や私物の片付けに四苦八苦しながら、時に談笑しながら、時に寂しさを飲み込みながら撤去作業を進めていった。

「ここ、こんなに広かったんだ」

 部屋の真ん中でパイプ椅子に腰かけながら、千歌は慣れ親しんだ部屋の空気を吸い込む。

「色んなもの持ち込んでたから」

 と梨子が言った。作詞とかダンスとかの教本に、今までの練習ノート。ライブで使う小道具や過去のスクールアイドルのDVD――主に黒澤姉妹の私物――が、所狭しと押し込んでいた。

「ちゃんと整理整頓してれば、ここでもっと練習できてたかもね」

 曜の言う通り、面倒臭がらず日頃から片付けていれば、練習場を探すのに苦心することもなかっただろうに。

「そうかも」

 がら、と体育館側の戸が開いた。入ってきた果南は空っぽになった部室を物憂げな目で見回し、最後に何も書かれていないホワイトボードに向き合う。少し前までメンバーそれぞれの意気込みで埋め尽くされていた白板は、新品同様に全て消されている。

「全部、なくなっちゃったね」

 曜が寂しげに言った。果南にとっては、千歌たちよりも前にこの部室を使っていた。千歌たちが使い始めた頃には僅かだけど果南たちの残した詞という痕跡があったけど、今はもうない。これからは、誰も使うことがないから。残してもしょうがない、と。

「そんなことないよ」

 果南は言った。

「ずっと残っていく。これからも」

 ホワイトボードに向き合う彼女の顔は千歌からは見えなかったけど、その声は何の悲壮も帯びてはいなかった。

 全部なくなったわけじゃない。ここにはもう何も残らないけど、自分たちは残すことができた。あのステージに。ラブライブの歴史に。

 Aqoursというグループを。

 Aqoursがいた浦の星女学院の名前を。

 果南は千歌へと振り向き、

「ほら、しんみりした顔しないの。翔一さんが見たらがっかりしちゃうよ」

 そう言って頬を両手で包まれて、無理矢理に笑顔を作らされる。

 翔一がステージに現れたことは、あの後すぐ皆に伝えた。最初は眉を潜められたけど、そう時間を要すことなく信じてもらえた。皆も感じていたらしい。光になった彼の身体から放たれた、心地良い温かさを。

「不思議よね」

 梨子が呟く。

「何ていうか、温かい場所に居るとひょっこり翔一さんがいそうな気がするの」

 そう、翔一はそこに居るだけで、自宅のような居心地の良さを出してくれていた。その心地良さが、彼が去ってからより頻繁に感じるようになった気がする。彼はもう、この世界のどこにもいないはずなのに。

「新作メニューの料理持って来てね」

 曜が付け足すと、皆で一斉に吹き出した。彼なら本当にやりかねない。でも、もう彼が食べる必要のない所へ往ったことを、曜も理解しているはず。

「もしかしたら、翔一さんも見てくれてるかもよ」

 ようやく頬から手を離してくれた果南に、半ば皮肉を交えながら千歌は言った。

「翔一くんはきっと、わたし達のことなんてちっちゃすぎて見えないよ」

 

 すっかり片付けられた理事長室で、鞠莉はスピーチの原稿に目を通している。鞠莉に文面を考えさせたら絶対にとんでもない内容になってしまうだろうから、ダイヤ監修の下で式典に相応しい文面に仕上げておいた。後は彼女が壇上で文面通りに述べてくれるのを祈るばかりだ。

「鞠莉さん」

「どうしたの、ダイヤ?」

「言っておきますけど、おふざけはNGですわよ。最後くらいは真面目に」

「勿論、そのつもりデース」

 悲しいことに、この理事長の口調は説得力というものがない。閉校祭で好きなだけ楽しませたのだから、この日くらいはしっかりしてもらわなければ。卒業式だけでなく閉校式も兼ねているのだから、来賓や父兄たちを失望させないように。ああ、こんな学校なら統廃合も納得、なんて思われては自分たちの果たした実績も台無しだ。

「1番真面目に、1番わたし達らしく」

 後半が気になる言い回しだ。

「本当です……の――?」

 ダイヤは声を詰まらせた。鞠莉の背にある窓ガラス。そこにピンク色のペンキを「頑張ルビィ」と声に出しながら走らせているのは、他でもない妹のルビィなのだから。

「てへぺろ」

 舌を出すあたり、鞠莉は企んでいたに違いない。盛大に落書きされた窓を開けると、中庭はどこから調達してきたのか色とりどりのペンキによる落書きの場になっていた。曜は壁に大きな制服を描いてご満悦そうに笑っている。

「究極奥義。堕天使として全ての魔力で真の姿になりました!」

 そう両手を掲げる善子の背にある壁には大きな魔法陣。

「いつもの髪形に戻っただけずら」

 花丸のお陰でどうやらその問題は解決できたらしい。他の生徒たちも、中庭で壁だろうがガラスだろうがお構いなく文字やイラストを描き連ねていく。

「これは、何ですの………?」

 その疑問に答えたのは、ペンキを滴らせた刷毛を持つ千歌だった。

「ダイヤちゃん、寄せ書きなんだって。最後に皆で、て」

「寄せ書き?」

 「Yes!」と鞠莉が応じ、

「中庭を開放して、皆で寄せ書きデース」

 教室の黒板で満足はできなかったのだろうか。そう思っていたところで、ルビィから刷毛を差し出される。

「さ、お姉ちゃんも」

 深い溜め息が出た。最後だというのに、どうにも締まりがない。でも、不思議と笑みが零れてしまう。場の雰囲気に口を出す気にもなれず、ダイヤも全校生徒による落書き大会に加わった。

 Aqoursの9人で壁に大きく描いたのは、それぞれ思い思いの色を1筋ずつ並べていった、9色の虹だった。それぞれ個性が違って、取り纏めのない。それでもひとつに束ねてみると、思いのほか美しいと思える。

 描いているうちに飛び散ったペンキを顔や制服に付けた面々を見て、ダイヤは呆れを零す。

「これから式だというのに、こんなに汚れてしまってどうするんですの?」

 同じように呆れながらも、果南が言った。

「でも、昔からこんな感じじゃん、わたし達もこの学校も」

 確かに、何かにつけて大騒ぎしてばかりいた気がする。決勝前夜に宿で枕投げをするグループを輩出した学校だ。こんな風に心の赴くまま楽しんで汚れてしまうのが、自分たちのあるべき姿なのかもしれない。

「何かこうやって見ると、色んなことがあったな、て思い出すよね」

 感慨を抱きしめる曜に続いて梨子も、

「練習したり、皆でふざけたり。ちょっぴり怖い目にも遭ったけど」

 本当に、この1年は色々とありすぎて目が回りそうだった。鞠莉が海外から戻ってきたと思ったらスクールアイドルに復帰して、統廃合阻止のためラブライブ優勝を目指し、更にはアンノウンにアギトにあかつき号。濃い、なんて言葉では足りないくらい。

 でも、いざ過ぎてみたらあ、という間だった。アンノウンの恐怖も「ちょっぴり」で済ませられるくらいに。

 かさ、と芝生に何かが落ちる音がした。見れば、ルビィの足元に刷毛が落ちている。それを手にしていたルビィはというと両手で顔を覆い、肩を震わせていた。そんなダイヤの妹を、花丸が肩を抱いて「駄目だよ」と囁く。

「ルビィちゃん。最後まで泣かない、て皆で約束したんだから」

 「うん……」とルビィは鼻声で応える。最後まで笑顔で。それがこの日に向けた、メンバー達の間で交わした約束だった。門出なのだから、明るい思い出にしよう、と。

「だね、明るく1番の笑顔で」

 千歌は言った。彼女は本当に心から笑えているのか、ダイヤはそのことが心配だった。自分たちの暮らすこの世界で何が起こっていたのか理解できないまま、翔一と別れることになってしまって。

 本当に、アギトというのは不条理だ。望まなくても勝手に裡に芽生えて、人から離れた存在に変えて、そして別の次元へと引き込んでしまう。

 力を持った自分たちもまた、彼と同じ場へ往くことになるのだろうか。問いたところで、ダイヤの裡にあるアギトは答えてはくれない。

 

 

   3

 

 全校生徒、教員、来賓、父兄が揃った体育館で開会した卒業式は、厳かなのかそうでないのか微妙な有様だった。生徒たちは行儀よく椅子に腰かけているのだが、その姿がペンキ塗れだ。それは壇上に立つ、理事長である鞠莉も同じ。

「続きまして、卒業証書授与。代表、松浦果南」

 そんなペンキ塗れのひとりである果南は「はい」と声を張り、壇上へ登る。

「何か変だね。鞠莉から貰うなんて」

 すっかり慣れてしまったが、改めて考えると生徒が理事長だなんて非常識な話だ。

「一生の宝物だよ。大切にね」

 マイクに拾われないよう囁いた後、体育館に響き渡るよう鞠莉は短い祝辞を述べる。

「卒業、おめでとう」

 それは鞠莉もでしょ、という皮肉を喉元に留め、果南は会場の拍手に迎えられながら自席へと戻る。次は、生徒会長からの挨拶。普通ならば2学期のうちに次期生徒会へ引き継がれ任期を終えるはずなのだが、もう来期のない浦の星ではこの式まで、ダイヤが生徒会長のままだった。

「今日この日、浦の星女学院はその長い歴史に幕を閉じることになりました。でもわたくし達の心に、この学校の景色はずっと残っていきます。それを胸に新たな道へ歩めることを、浦の星女学院の生徒であったことを、誇りに思います。皆さんもどうか、そのことを忘れないで下さい」

 一生忘れられないよ、ここでの事は。この学校で過ごした3年間よりも濃い時間は、この先の人生でもう訪れないんじゃないかな、とさえ思える。色んな感情に振り回されて、この場に居ることさえ奇跡じゃないか。

 ダイヤは深く一礼し、宣言する。

「只今をもって、浦の星女学院を閉校します」

 傍に控えていた鞠莉が、奥に置かれていた旗を広げて声を張り上げる。

「わたし達はやったんだ!」

 赤い生地に施された、『Love Live! VICTORY』の刺繍。これが、Aqoursの走ってきた道の果てで掴んだもの。ゼロから1へ。1からその先へ、と声をあげ続けて、手にした輝きの勲章。

 ラブライブの優勝旗だった。

 

 



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第2話

 別れは心の骨折だ。
 今は痛いが、治ればもっと強くなる。

――仮面ライダーフォーゼ 如月(きさらぎ)弦太朗(げんたろう)




 

   1

 

 式を終えても、生徒たちは帰る気配が無かった。放っておいたら、明日も明後日も残っていそう。まるで籠城だ。そうしたら学校存続というお達しが来るかも。そんな幼稚で下らない妄想が現実になれば良い、と何度思ったことだろう。

 普通の卒業式ならば、学校を去る卒業生が在校生との別れを惜しむものだ。でも今日の浦の星は違う。卒業式も兼ねた閉校式。卒業生も在校生も関係なく、今日この学校から去る。皆に平等に与えられた最後のひと時だ。こんな時くらい、思い思いに過ごしたって良いだろう。

 このひと時で、ちゃんと終わらせないと。これはAqoursの9人だけじゃなく、皆で決めたことだ。

 

 

   2

 

「すごーい!」

 教室に入ってすぐ目に入った黒板に、千歌は感嘆の声を漏らした。色とりどりのチョークで描かれているのは、ステージ衣装でポーズを決めるAqoursの9人。

「綺麗……」

「ほんとだ……」

 梨子と曜も、声を詰まらせながらも呟く。本当に綺麗に描かれている。今日だけしか残らないのが勿体ないくらいに。

「でしょ?

「皆で思い出しながら描いたんだよ」

「あの時、わたし達から見えてた千歌たち」

 むつといつきとよしみが、得意げに言った。

「輝いてたなあ」

「本当、目開けていられないくらい」

 他のクラスメイト達も口々にそう言ってくれる。そんなことない、と謙遜する気持ちは、千歌の裡にはなかった。何故なら――

「わたし達にも、視えてたよ。輝いてる皆が」

 あの日、あの場所、あの瞬間。全てが輝いていた。ステージも観客席も関係なく。眩しすぎて思わず目を閉じてしまいそうなほどで、まさに雲の上の、全く違う世界に入り込んだかのように思えた。

「会場いっぱいに広がる、皆の光が」

 あの瞬間、アキバドームはこの世界で最も輝きに満ちていた。その輝きが、翔一を導いてくれたに違いない。そして彼には、あの輝きが会場を越えて世界へと広がっていくように視えたのかもしれない。

「じゃあ、全部輝いてたんだ」

 むつの言葉に千歌は「うん、そうだよ」と強く頷き、

「全部輝いてた」

 あそこに満ちていた光は、あの場限りで消えてしまう篝火も同然だったのだろうか。それとも、更に先へと飛んでいくのだろうか。後者が真理なのだとしたら、一体どこへ。翔一が飛び経っていったのは、きっとその答えのある境地なのかもしれない。アギトという輝きと、この世界への愛を携えた彼のみが往ける無限の輝きの果て――

 クラスの全員が談笑交じりに教室を出ていく。誰がとも言わず、最後に出た千歌が戸に手をかける。

「じゃあ閉じるよ」

 クラスメイト達に見守られながら、千歌は毎日通っていた教室の戸をそう、と閉じた。窓越しに見える教室の中には、もう誰もいない。机も教卓も片付けられた殺風景な空間の中で、黒板に描かれたAqoursのイラストだけが彩りを残していた。

 

「これで終わりずら」

 本を隙間なく詰め込んだ最後のダンボールを閉じて、花丸はひと息つく。図書室の片付けについては業者の手配も可能だったのだが、図書委員である花丸は自ら名乗り出た。短い期間だったけど、自分の居場所だった図書室。最後は感謝の念も込めて、1冊ずつ箱詰めをしてやりたかった。

「全部なくなっちゃったね」

 作業を手伝ってくれたルビィが、寂しげに片付いた部屋を眺めながら告げる。書棚に詰められていた本は、この日に向けて数日かけて少しずつ箱詰めしてきた。もう1冊も残っていない。空っぽになった書棚のみが、この部屋が図書室だったことを示している。

「捨てられたわけじゃないずら。鳥みたいに飛び経っていったずら」

「ぱたぱた、て?」

「新しい場所で、また沢山の人に読んでもらって、とても良いことだ、て思えるずら」

 片付けられた蔵書は他の学校や幼稚園や図書館と、それぞれ置いてもらえる場所へ引き取ってもらう事になっている。とある場所で読まれていた物語が別の場所へと移り読み継がれる。それは花丸にとっても嬉しいこと。もっと多くの人に読んでもらいたい物語が、この図書室には沢山詰まっていたのだから。

「ルビィたちも、新しい学校に行くんだよね」

「………ちょっと怖いずら」

 本たちと同じように、花丸たちの物語も浦の星から移る。どんな同級生たちがいるのか、浦の星から移ってきた自分たちが馴染めるのか。未知というものは常に恐怖が大なり小なりつき纏ってくる。

「ルビィだって。でも花丸ちゃん達とスクールアイドルやってこれたんだもん。大丈夫かな」

 すっかり逞しくなったな、とまるで保護者のような感慨に耽る。1年前だったら、慰めや励ましの言葉をかけてやるのは花丸のほうだったのに。

「堕天!」

 なんて声と共に、善子が入ってくる。

「ほら、行くわよリトルデーモン達!」

 善子の堕天使設定は、新しい学校でも続けていくつもりなのかな。そんなことを思っていると、何だか自分たちの不安がとても小さく思えてしまう。どこへ行っても自分たちは自分たち。

 ならば翔一は、とふと考えてしまう。花丸たちが到底届かない領域へと飛び経った翔一は、彼のままでいるのだろうか。それとも、アギトをも超えた全く新種の存在へと変わってしまったのだろうか。人がその存在を定義するときは、一体何を根拠とすれば良いのだろう。自分という存在を自覚できる花丸自身でさえも、この確信の根拠はひどく曖昧なものだった。

 図書室から出るとき、戸にはルビィと一緒に手をかけた。それは大事な儀式のような気がして、それに加わろうとしない善子に花丸は声をかける。

「一緒に閉めよ」

「嫌よ」

 いつも変な魔法陣を描いたり呪文を呟いたりするくせに、この時の善子は強情に儀式を突っぱねる。

「一緒に閉めるずら」

「嫌だってば」

「一緒に閉めるずら!」

 思わず荒げてしまった声に、隣にいたルビィがびくり、と肩を震わせた。

「お願いだから……」

 か細い声で言うと、逡巡の後に「分かったわよ」と善子は渋々といった様子で応じ戸に手を掛ける。「ごめんね」と花丸が謝罪すると、「良いわよ別に」と善子はそっぽを向いた。

 改めて、3人で手を掛けた戸の、その奥にある1年にも満たない日々への思慕へ告げる。

「今まで、マル達を護ってくれて、ありがとう」

 ゆっくりと戸が閉まり切ると同時に、善子とルビィも呟いた。

「ありがとね」

「ばいばい」

 

 音楽室の机や小さな楽器類といった備品は既に撤去されていたけど、グランドピアノだけはそのまま残されていた。運び出すには大きすぎるから、後日専門業者が手配されるらしい。それが良い、と梨子は思った。ここのピアノも手入れが行き届いていて、奏者の思うままの音を奏でてくれる。

 鍵盤で指を躍らせながら、梨子はこのピアノの行く先に想いを馳せた。他の施設に寄付されるそうだが、何処なのかは知らない。でも、また誰かが弾いてくれる。そう思えるだけで十分だった。贅沢を言えば、定期的に調律をしてほしい。これがいつでも、どこでも最高の音を奏でられるように。

「良い音だね」

 傍で聴いてくれていた曜が言った。

「ここのピアノ、とても良い音がするの」

「広くて音が響くからかな?」

「そうかも」

 楽器の音の質は、楽器自身だけじゃなく設置場所の広さや室温といった様々な要因にも左右される。コンサートホールは楽器が最高のポテンシャルを発揮できるよう設計されるが、学校の音楽室はそこまで徹底はされていない。今日このピアノがとても良い音を奏でられるのは、学校の立地や天候が好条件に運んでくれたからだろう。

 最後に弾いた鍵盤の音が、開け放たれた窓から外へと飛び経つように感じられた。発せられた音がシャボン玉のように宙を漂い、やがて弾け残滓を散らしながらどこまでも高く舞い上がっていくよう。幼い頃に視えていた音の放つ光。この世界の海や山が奏でる音が、今の梨子でも確かに聴き取ることができる。

「綺麗だよね、この景色」

 窓辺で呟く曜の隣に立って、梨子も内浦の景色を眺める。

「最初転校してきたとき思ったな。東京じゃ絶対見ることができない景色だ、て」

 正直、田舎だな、とは思った。海と山ばかりで、バスも電車の本数もあまりない地方集落。でも、今となってはこの何もない景色が愛おしい。東京と比べたらものは少ないけど、その分本当に大切なものを、ここで見つけることができた。わたしの居場所は、ここじゃなければいけなかったんだ、と確信できる。

「わたしね、ずっと言っておきたいことがあったんだ」

 窓の縁に腰を預け、曜が切り出す。

「実は、梨子ちゃんのことが――」

 険しい顔で梨子を見上げながら大きく口を開け、

「だーい好き!」

 次に向けられたのは、満面の笑顔。その不意打ちに戸惑いながら、梨子も応じる。

「わたしも」

 わたしも、大好き。

 この街も、学校も。街の人々も、学校の生徒たちも。

 Aqoursも、わたし達を護ってくれた人たちも全て。

「皆と一緒に過ごせて、本当に楽しかった」

 音楽室を出るとき、曜はそう言った。

「うん、楽しかった」

 この想いが本当だから、この戸を閉めるのは名残惜しい。でも、その時が訪れることは前から知っていたし、覚悟もしていた。だから梨子は、思慕と寂しさの両方を抱きしめながら、ゆっくりと戸を閉めた。

 

 備品があらかた片付いた理事長室は、もう主を必要としていない。式典で理事長として最後の職務を果たした鞠莉は、もう着くことのないデスクをただ呆然と眺めていた。このまっさらになってしまった理事長室が、自分の職務の成果だ。こんなに分かりやすい事も、そうないだろう。

 本当、何のために戻ってきたんだか。全てが決してしまったあの日から何度も反芻される問いが、未だに燻っている。父に散々我儘を言って理事長の座に就いて、期限を延ばしてもらって、結果はこの有様。経営者としての鞠莉の初仕事は、見事に失敗に終わってしまった。経営者といっても父の代行で、お飾りも同然だったけど。

「いつまで見てるつもり?」

 後方で開けられたドアのほうから、果南の声が飛んでくる。「分かってる」と応じながら、鞠莉は目元の涙を乱暴に袖で拭う。

「鞠莉さん」

 ダイヤに呼ばれ振り向くと、鞠莉は驚きのあまり目を丸くした。ダイヤが両手で大事そうに掲げる賞状。進呈される者の名前として記載されているのは――

「あなたへの卒業証書ですわ」

「わたしの………?」

 ダイヤは持っている賞状の右端から手を離す。彼女の隣に立った果南が開いた右端を手に取ると、ダイヤは文面を読み上げた。

「卒業証書、感謝状、小原鞠莉殿。右の者は生徒でありながら、本校のために理事長として――」

 続きを果南が引き継ぐ。

「尽力してきた事をここに証明し、感謝と共に表彰します。浦の星女学院全校生徒一同。代表、松浦果南」

「黒澤ダイヤ」

 ふたりから差し出された賞状を、ただぼんやりと見下ろす。これを受け取る資格があるのか逡巡してしまう。

「果南、ダイヤ……」

 「受け取って」とダイヤに促されるままに伸ばした手を、宙で泳がせる。これを受け取るという事はつまり、本当に終わるということ。この3人が、離れ離れになってしまうということだ。

「大丈夫」

 と果南は言う。

「空はちゃんと繋がってる。どんなに離れて、視えなくなっても」

 それは、決勝の日に鞠莉が告げた言葉だった。いつだって、皆は同じ空の下にいる。

「いつかまた一緒になれる」

 ダイヤの告げた願いもまた、鞠莉の言い出したこと。流れ星に捧げた祈り。同じ空の下、同じ世界にいる限り、きっとまた一緒に居られますように。

 受け取った卒業証書兼感謝状の両端を、鞠莉はきつく握り締めた。強く握ったせいで皺ができて、零れた涙が滲んだけど、そんな事は気にもならなかった。

「ありがとう………」

 思えば、いつも泣いてばかりだった気がする。どうしようもない現実をどう変えるか考えもせず、ただ突き付けられた事実に対して自身の感情を吐き出すしかなかった。本当、お子様なままだ。全部背負うつもりが果南やダイヤ、他の皆にも背負わせておいて、何もしてやれなかった。

 ふたりが傍にいなくて、大丈夫かな。そんな不安に襲われるけど、いつまでも子供じゃ駄目なんだ、と強く思った。そんな情けない姿、鞠莉を未来へ送り出してくれた薫が望むはずがないのだから。強く生きる。優しく生きる。だからせめて、今だけは最後の涙を流させてほしい。

 ひとしきり泣いた後、鞠莉は理事長室を後にした。奮闘してきた場に、「さようなら」とひと言だけを残して。

 

 

   3

 

 それぞれの場所で、それぞれの想いを馳せていた千歌たちが最後に自然と集まったのは部室だった。体育館に隣接した、9人で使うには少し狭い部室。

 全員集まったからといって、互いに言葉を交わす、なんてことはしなかった。裡に抱える想いは溢れ出しそうなほどにあるけど、それを表す言葉はどれも曖昧で、的確なものが見当たらない。ひと言では収まりきらない。この手狭な部室には、それだけの思い出が、物語が詰まっていた。

 ここがあったから、皆で頑張ってこられた。

 ここがあったから、前を向けた。

 毎日の練習も。

 楽しい衣装作りも。

 腰が痛くても。

 難しいダンスも。

 不安や緊張も、全部受け止めてくれた。

 帰ってこられる場が、ここにあったから。

 ひとり、またひとりと部室から出ていく。「じゃあ、待ってるね」と曜が告げたのを最後に、部室に残ったのは千歌ひとりになった。自分の輝きを追い求めた居場所。馳せる想いは沢山あるけど、生憎もう時間がない。そう長く留まることなく、千歌も部室から出た。

 入口の真上に立てられた、スクールアイドル部の札。「部」が「倍」に間違っていて、バツ印で訂正したのがそのままになっている。そのうち書き直したものに替えないと、と思っていたけど、結局放置したままだった。

「ありがとう」

 もう過ぎた日々にそう告げて、深く礼をする。ひょい、と枠から部の札を抜いた。せめてこれひとつくらいは、日々の思い出の品として持ち帰っても良いだろう。

 

 夕刻になり式典はとうに終わったにも関わらず、校門の前には全校生徒と父兄たちが集まっていた。帰宅したのは来賓くらいじゃないだろうか。

 見上げる校舎はいつもと同じ佇まいで、夕陽を背に濃い影を落としている。朝登校するときにいつも見上げていた校舎だけど、こうして出るときに振り返ることなんてしなかった。下校するときに想う事といえば疲れた、お腹空いた、くらいしかなかったから。

 校舎の外縁に植えられた樹々から舞う桜の花弁が、どこか物悲しい。とても綺麗な光景なのに、もう来期からは誰も見られないなんて。

 もう誰も校舎に残っていない。生徒も、教員も。そろそろ門を閉めないと。その役目を与えられたのは、千歌たちAqoursだった。1年生と3年生たちが、錆ついた門扉の右半分を引っ張り出す。

「千歌」

 果南に優しく促される。残りは千歌が。その大役を、朝に自分で言ったように笑顔でこなすべきだ。それなのに、当の千歌自身は嗚咽を抑えつけるのに必死だった。肩も震えていただろう。後ろで控えていた曜が「千歌ちゃん……」と心配そうに呼んでいたから。

 何気ない風を装って、千歌は門の左半分に手を掛けて、力いっぱいレールに沿って滑らせる。とても重かった。学校自身が閉じないで、と抗っていると思えるほどに。

 いよいよ左右の扉が触れよとしたところで、ふ、と力が抜けて止めてしまった。皆で約束したじゃないか。

「浦の星の思い出は、笑顔の思い出にするんだ………」

 その約束を律儀に守れるほど、皆は強かではなかった。1年生も3年生も、互いに身を寄せ合って泣いていたのだから。この現実に向き合うのに、千歌たちはまだ幼な過ぎて、弱すぎる。

「泣くもんか……。泣いてたまるか………」

 この校舎にある思い出は、楽しい事ばかりが詰まっている。毎日がとても楽しくて、そんな日々が続いて受け継がれていくことを願っていた。この今の想いは、込み上げてくる涙は祈り駆けてきた結果でしかない。

 ここは、翔一が護ってくれた居場所。

 千歌たちが護れなかった居場所でもある。

「千歌ちゃん」

 左扉に、梨子と曜が手をかける。

「一緒に」

「閉じよ」

 3人がかりで力を込めた扉が再び動き出す。鈍い耳障りな金属の軋む音を立てて、左右の扉が隙間なく合わさり、閉ざされた。

 



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第3話

 魔法があるから絶望しないんじゃない。
 絶望しなかったから、魔法を手に入れることができたんだ。

――仮面ライダーウィザード 操真(そうま)晴人(はると)



 

   1

 

「無許可での拳銃の所持。捜査車と機動車の無断使用。Gトレーラーの占拠に、無断でのG3-Xシステムのオペレーション行使」

 会議室のほぼ中央で立たされている誠と小沢の罪状が、出席者全員に聞こえるようはっきりとした声色で告げられていく。いつもの聴聞会なら誠たちに説教を垂れるお偉方は警備部長とその補佐官2名だけなのだが、査問会と称される今回は総務部長に警察庁からの監察官も数名、更には総監と警視庁の上層部がほぼ勢揃いしている。還暦間近な面々が眉間に深く皺を寄せて若輩2名を睨みつける様相というものは、傍から見たら組織による弱い者いじめにも見えなくない。

 でも誠はこの時、上層部と対峙しながらも緊張なんてしなかった。こうなることを分かった上であのような行動をしていたわけだし、それ以上に、会議室に向かう道中で小沢からの言葉にずっと疑問符を脳裏に浮かべていたからだ。

 ――あなたは何を訊かれても「はい」と答えなさい。それ以外に余計な事は何も喋らないこと。いいわね――

 ふと総監に目を向ける。言うなればこの国の警察のトップに立つ人物は、小沢へ向ける視線に一切の怒りを感じさせなかった。むしろ、どこか懺悔や謝罪を含んでいるような、何とも言えなさそうに深く嘆息し腕を組んでいる。G4事件の折に期待をかけたふたりの若手刑事がこんな事態を引き起こしたのだから、失望くらいはあるのかもしれない。

 警備部長が皮肉たっぷりに問う。

「君たちなら、自分たちのした事の重大さを理解しているだろう。一応、理由を訊かせてもらえるかね」

 間髪入れずに小沢が答えた。もしかしたら、誠に「余計なこと」を言わせまいとしたのかもしれない。

「管理官としての立場、プロジェクト創設から携わってきた身として、G3ユニットの暴走を見過ごすことができませんでした」

 「暴走?」と補佐官が眉根を潜める。「はい」と小沢は続けた。

「本来ならばアンノウンという脅威から市民を護るための装備であるはずのG3-Xが、アンノウン防衛のために運用された。これは明らかに警察としての職務を放棄した方針であり、アギトを無根拠に脅威とみなした末の暴走と捉えても過言ではありません。もはや議場での対話では解決不可能であり、ユニット活動訂正を強行すべきと判断しました」

 小沢の弁は澱みがなかった。まるであらかじめ原稿でも用意していたのでは、と思えるほどに。

「以上が理由です」

 明確で理路整然とはしているが、反省の意が全く見えない。この頭のきれる小娘を何と言いくるめるべきか。上層部の面々の渋い顔からはそんな意図が透けて見える。

「私の独断のために、氷川主任を騙し加担させる形となったことは申し訳なく思っています」

 更に重ねられた小沢の発言に、お偉方は目を剥いた。どうやら報告書になかったらしい。もっとも、誠自身も動揺を隠せなかったのだが。

「どういう事かね?」

 監察官のひとりが訊く。当然のように、これも小沢が答えた。

「ユニットを占拠するのに私ひとりでの決行は不可能と考え、氷川主任に虚偽の説明をし協力を要請しました」

 「虚偽の説明とは?」と掘り下げられ、小沢はこれもまたすらすらと述べていく。

「上がアンノウン討伐のため出動を要請したにも関わらず、北條主任はアギト討伐のためにGトレーラーを出動させた。北條主任を阻止するため、Gトレーラーを追跡しユニットを奪還、アンノウン討伐へ向かうよう警備部長から指示を受けた、と」

 ここで見事に北條を悪役に仕立て上げるとは、何とも小沢らしい嘘だ。彼女の饒舌さに口を半開きにしているところで、警備部長から「氷川主任」と呼ばれる。

「それは本当かね?」

 どうして小沢がイエスマンであるよう言い聞かせていたのか理解しつつ、誠は首肯する。

「………はい」

 深く溜め息をつき、警備部長は冷たく告げる。

「小沢管理官。君は多少強引なところがあっても、最低限の良識は持っているものと思っていたよ」

「私も、警察組織というものは市民のためにあるものと思っていました」

 皮肉を返しつつ、小沢は続ける。

「私のした事が規約違反であることは承知していますが、結果として氷川主任をG3-Xとして出動させ、アギトと共闘させたことでアンノウンを撃破し、謎の天体現象を阻止したことも事実かと」

 「それは結果論でしかない!」と補佐官が怒号を飛ばした。これまで溜め込んできたものがとうとう臨界に達したのだろう。「まあ落ち着いて」と宥めつつ、監察官が告げた。

「先のオペレーションの結果の是非はともかく、小沢管理官の行為が複数の規約を違反している事は事実だ。今話し合うべきはその処遇をどうするかでしょう」

 ここで、誠は小沢の本当の意図を悟る。自身にとって不利でしかない説明に、誠のイエスマン。そのつまりを、小沢は迷いなく告げた。

「責任は取るつもりです。もはや警察に、私の存在は不利益しかもたらさないでしょう」

 これにはお偉方の間にもどよめきが起こり、その中で警備部長が宥めるように、

「その考えは飛躍し過ぎた。我々は何も、君を解雇や更迭しようとは――」

「ならば自主的に、今月付けで退職させて頂きます。今までお世話になりました」

 はっきりと告げる小沢に、誰も引き留めの言葉を告げられず、口をまごつかせている。まさか、本人自らの口から退職なんて言葉が出るだなんて予想していなかったのだろう。ただ総監だけは、どこか安堵したように表情を緩めている。

 小沢の才能は誰が見ても認めざるを得ない。それはレベルが高すぎると言えるほどに。そんな彼女の扱いに凡人揃いの上層部は手を焼いていただろうが、彼女の才能に依存していたこともまた事実だった。小沢澄子がいなければG3プロジェクトは発足しなかったし、G3-Xを完成させなければアンノウンへの対抗手段もないままだった。ユニット活動の方針をアギト殲滅に捻じ曲げた後の装備開発も、彼女頼りだったのだろう。

 起こした事は重大ではあるものの、警察は小沢澄子を手放そうとしない。彼女自身もそれを自覚していたからこそ、誠が言い出したとはいえ一連の行動を起こしたものと思っていた。

 誠も上層部と同じく動揺していた。どうして彼女が自分から。いくら警察組織に失望したからといって、今の立場を捨てるなんて。

「ひとつだけ、私の希望を聞いていただければと」

 誠の動揺など知らず、小沢は続ける。

「氷川主任は私の虚偽の説明を信じ実行していただけです。彼には寛容な措置をお願いします」

 そう言って彼女は上層部に深々と頭を下げた。

「確かに、氷川主任は小沢管理官の行いに巻き込まれた、とも取れる」

 そこで、これまで静観を決め込んでいた総監が口を開いた。頭を上げた小沢が見つめる彼の顔は、あくまで厳かであることを崩さない。その目が誠をじ、と捉える。

「彼の処遇については検討しよう。結果論ではあるが、今の我々にできない事を、彼はやってくれたのだからな」

 

 

   2

 

 査問会から解放され、会議室から出てすぐに誠は小沢を問い詰めた。

「小沢さん、何であんな事を? 何も小沢さんが辞めることないじゃないですか」

 「良いのよ」と小沢はつかつか、と廊下を歩きながら、

「警察の窮屈さにうんざりしてたところだし、良い機会だわ。それよりあなたは自分の心配をしなさい。ああは言ったけど、一応何かしらの処分がないと上も示しがつかないんだから」

「あの日、言い出したのは僕の方なんです。責任なら僕が取るべきです」

 「ほら余計なこと大声で喋らない」と撥ねつけるように小沢は言い、

「良いのよ。私よりあなたみたいな人間が警察に居た方が絶対良いんだから」

「そんな事――」

 はあ、と大きく溜め息をつき小沢は足を止める。釣られて立ち止まった誠を彼女は真っ直ぐに見上げ、

「あなた、自分で自分が誰なのか分かっていないようね。あなたは氷川誠よ。決して逃げた事のない男よ。警察が正しく在るために必要なのは、私じゃなくてあなたなの。それを自覚しなさい」

 彼女はいつも、こうして真っ直ぐな言葉を何も包み隠さず告げてくれる。あの別れと思っていた日も、最高の英雄と言ってくれた。小沢の目が節穴とは思っていないが、一体何を根拠に彼女にそう言わせるのか、誠には分からない。自分の事なのに分からないなんて、本当に僕は不器用なのかもしれない。

 ふ、と笑みを零すと、小沢は再び歩き出す。

「それに、私なら大丈夫よ。次の仕事の伝手はあるしね」

 「え?」と間の抜けた声を発しながら彼女を追いかける。

「実は、前から海外の大学から教授として勤めてほしい、て話が来てたのよ。G3プロジェクトもあったから保留にしたままだったけど、この機会だし誘いに乗る事にしたわ」

 なら、本当に僕の心配なんて無用だったということか。彼女にとって全ては採算済みで、あの査問会も消化試合みたいなものだったのだろう。考えてみれば警察が手放すまいとするほどの人材だ。他にも彼女の技術を欲しがる場があっても何らおかしいことはない。

 脚から力が抜けていくような錯覚にとらわれた。心配して損したというか何というか。

「近いうち、先方に挨拶に行く必要があるわね」

「はあ……」

「氷川君。あなたしばらくは自宅待機でしょうし、せっかくだから付き合いなさい」

「え、僕も海外にですか?」

「旅行だと思えば良いじゃない。どうせこの1年ろくに休みなんて取っていなかったんだから。それに、私が上司として指示できるのはこれが最後よ」

 まあ、確かにしばらくは手持ち無沙汰になるわけだが。待機期間に旅行は如何なものか、と生真面目に悩んでいたところで、廊下の対面から馴染みのベテラン刑事が近付いてきた。

「おう、ふたりとも話は済んだのか?」

 「ええ」と小沢が晴れやかに答えると、河野は「そうか」と朗らかに笑い、

「まあ話は後でゆっくり聞かせてもらうさ。氷川、お前に面会だとよ」

「僕にですか?」

 

 

   3

 

 通された小会議室らしき部屋に通されてどれくらい経っただろうか。会議中だけど構わない、と了承したのは涼自身だったが、これだけ時間が掛かるとなると日を改めたら良かったかもしれない。

 長机に頬杖をついて溜め息をついたとき、部屋の扉がノックされる。「はい」と応じると、生真面目そうな青年刑事が入って来て涼を見ると目を丸くする。

「葦原さん」

「ああ」

 共に戦いを生き抜いた戦友と呼ぶべきなのかもしれないが、いざ面と向かってみると涼はこの刑事にどう接するべきなのか計りかねていた。所詮ただの人間。そう見くびっていたが、彼がいなかったら先の戦いで勝利はできなかった。

 考えてみれば互いのプライベートもろくに知らない仲なのだが、誠はしばしの沈黙の後に、ふ、と緊張の糸が切れたような微笑を零した。それを見て、涼も不必要に身構えていた自身が馬鹿馬鹿しく思えて、微笑を返した。

 誠の淹れてくれたお茶を啜りながら、涼は単刀直入に尋ねた。

「津上は?」

「依然、行方不明です」

 自分の湯呑に視線を落としながら、誠は弱々しく答えた。あの戦いで、光球へと飛び込んでいった翔一が戻ってくることはなかった。広がろうとする爆炎を包み込んで消滅させたオーロラのような幾重もの光の束はしばし巨大な翼のように空をはためいていたが、そう長く続くことなく消滅した。全てが消えた空は青く雲が流れていくいつもの光景で、そこには何も残らなかった。

 あの黒い青年も、翔一も。

 ひょっこり何事もなかったかのように帰ってくるのでは。そんな淡い期待を捨てきれず、何度か彼の働くレストランを覗いてみたのだが、翔一の顔を見ることはなかった。あの日から1ヶ月近くが経とうとして、その期待も薄れつつある。

「どこに往ってしまったんでしょうね、津上さんは」

 最適解のない問いを、誠はする。期待なんてしておきながら、涼はあのオーロラを見た時から既に察しはついていたのかもしれなかった。ただ、認められなかっただけで。

「何となくだが、津上はもう戻ってこない気がする。感じたんだ。奴の力が、虹になって世界中に広がっていくような」

 この直感は、彼と同じ力を持つ涼だからこそ持てるのだろうか。何にしても、涼は虹がオーロラとなり、オーロラが翼になる光景を目の当たりにしながら不可思議なものを耳にしていた。

 それは歌だった。九重の歌声が、まるで虹に乗って世界中へ響いていくような感覚にとらわれていた。誰の声なのかはすぐに分かった。きっと、翔一は去る前に彼女たちのもとへ寄ったのだろう、と。

「何なんだろうな、アギトの力、て」

 あまり味の良くないお茶を啜り、涼は独りごちる。結局のところ、自身に宿る力が一体何の意味を持っているのか、未だに分からずにいる。

 答えを求めていたわけではないのだが、誠はそれらしきものを提示してくれた。

「小沢さんが言っていました。アギトは人間の可能性そのもの、て」

「可能性、か………」

 どこか希望めいたものを孕んだその言葉を反芻する。アギトは人間の可能性で、アンノウンはその可能性を否定するもの。だとしたら、もうアンノウンが現れなくなったこれからは、世界中でアギトという可能性が芽吹いていくのだろうか。

 俺の力も、そうなのか。涼は裡に尋ねる。アギトではなくギルスとしての力を確立させたが、それも枝分かれした可能性の一端と言えるのだろうか。

 それにしても可能性とは。まさに翔一の在り方を表すのに最も相応しいじゃないか。いつも前を向き、未来へと生きていた彼らしい。

「なら津上は、その可能性の先に往ったのかもしれないな」

 きっとそれは、死とはまた別の次元なのだろう。死は誰もが等しく往く境地だが、翔一は違う。生も死も、過去も未来も超越した地平へと旅立ったのかもしれない。

「葦原さんも、いつか往けるのかもしれませんね」

「俺は往けないさ。こっちで追いかけるのに精いっぱいだからな」

「何か、目標でもあるんですか?」

「そんな大層なもんでもないさ」

 同じ力だからといって、涼も同じ境地に往くことは叶わないだろう。世界はこんなにも綺麗なのに。いつか、翔一がそんな事を言っていた気がする。俺には一生かかってもあんな言葉は吐けないな。

 あの時に聴こえた歌。あそこへ届くのに、涼はまだ地から足を離せずにいる。まだ先は遠そうだ。そのために何をすれば良いのか、何処へ行けば良いのかも分からないまま。

「アギトだろうが人間だろうが、俺たちは目先の事を視ながら生きていくしかない」

 結局のところは、それしかない。あの戦いで、翔一が新しい地平へ往ったことでこの世界は変わったのかもしれない。でも、それを認識できる者がこの世界にどれ程いるのだろう。戦いの当事者だった涼でさえ、世界の変化とやらに気付けずにいるというのに。

「そうですね。葦原さんは、これからどうするんです?」

「別に、前と変わらないさ。普通に仕事して暮らしていくだけだ」

 そう、涼の日常に何ら変わることなんてない。同じバイク屋で働いて、ただ何となく日々の移ろいを視ながら生きていくだけ。

 「でも」と涼は続けた。あの戦いの後の世界とやらを、視てみたいという欲求がある。

「しばらく、旅行にでも出ようと思う。ここ1年くらいバタバタし過ぎていたからな」

「そうですか。確かに忙しすぎましたね、僕たちは」

 そう言うと、互いに顔を見合わせて笑みを零した。誠も誠なりに、アンノウンとの戦いで色々とあった事は十分に察しがつく。

「それじゃ、邪魔して済まなかった」

 お茶を飲み干して、涼は椅子から立った。同じように立った誠は真っ直ぐに涼を見据え、

「葦原さんにも、お世話になりました」

「それはお互い様だ。俺もあんたには世話になったからな」

「機会があれば、またいつか。もうアンノウンが現れないのが1番ですが、同じアギトの会のメンバーとして」

「あんた、補欠じゃなかったのか?」

 涼が皮肉を言ってやると、誠は少しばかり得意げに、でも寂しげに応えた。

「津上さんから、正会員にしてもらえました」

 



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第4話

 今の自分が許せないなら、新しい自分に変わればいい。

――仮面ライダー鎧武(がいむ) 葛葉(かずらば)紘汰(こうた)




 

   1

 

 学校で家を出るとき、学校から家に帰るとき、視界に入って当然だった三津海水浴場の砂浜にわたしは腰掛けて、代わり映えのない海の景色を眺め続けていた。

 ずっと同じ景色だったこの浜辺には、沢山の思い出がある。幼い頃に曜ちゃんや果南ちゃんと遊んだ思い出。夏に海の家でお父さんにかき氷を買ってもらった思い出。そして、物語が始まったあの日の思い出も。

 いつもの砂浜に打ち揚げられていた、名前すら忘れてしまった記憶喪失の青年。彼の素性を知らないままだったら、わたしは彼をどこか別の世界からやって来た使者と思い込んでいたかもしれない。それ程に彼はどこか浮世離れしていたから。

 彼が倒れていた場所に、今は旗が立ててある。わたし達がアキバドームで勝ち取ったラブライブの優勝旗が、潮風を浴びて大きくはためいている。

「どうしてあそこなの?」

 後ろからそう訊いてきたのは、お母さんだった。

「皆から、よく見えるところが良かったから。いつ来ても、いつ戻っても、出迎えてくれるようにね」

 こうした記念品はちゃんとした場所に飾っておくべきだけど、飾る学校はもうない。次の学校に正式に編入するまでの間という期限付きで、優勝旗はわたしの家で預かることになっていた。こんなぞんざいな扱いしちゃって、皆に怒られちゃうかな。でも、押入れの奥底で眠らせておくよりも、もっと沢山の人の目に届くところに置いておきたかった。

 言ってみれば、目印だった。内浦のどこからでも見られるこの浜辺の旗を見つけられれば、わたし達のした事の結果がすぐに分かる。勝った、て実感できる。それにもしかしたら、彼からも視えるかもしれない。

「おーい千歌ー、来たよー!」

 家の方から美渡姉の声が届いてくる。続けて志満姉の声も。

「新しい学校の制服!」

 「はーい!」と返事をして、わたしは立ち上がる。ちゃんとサイズが合っているか、試着しないと。でも、わたしは立ったまま優勝旗から目を離すことができなくて、動く気になれなかった。

「春だねえ」

 なんてお母さんが言う。確かにすっかり春だ。風も温かくなってきている。少し走っただけでも汗が出そう。丁度1年前も、こんな温かさだったな。大声でスクールアイドルやりませんか、なんて新入生たちに言い続けて、誰から見向きもされなくても諦めなんて選択肢はなかった。同じ春なのに、あの頃みたいな希望や期待は、今のわたしにはない。もうすぐ新しい学校での生活が始まるのに、実感がまるで沸かなかった。

 全部、終わったんだ。やるだけの事はやって、望んだものは、ほんの一部ではあるけど叶えることはできたんだ。あの優勝旗を持ち帰ることができただけでも、十分満足なはず。

 なのに何で、わたしの裡は晴れないんだろう。この虚しさは一体、何なんだろう。

「ねえ、覚えてる?」

 そんなお母さんの声と共に、わたしのすぐ横を紙飛行機が駆けていく。紙飛行機はそう長くは飛ばなくて、緩やかに下降していくと砂の上にかさ、と軽い音を立てて落ちた。

「昔の千歌は、上手くいかないことがあると人の目を気にして、本当は悔しいのに誤魔化して、諦めたふりをしてた」

 全部を見透かされていて、わたしは思わず浮かべた照れ笑いを隠した。しばらく離れて暮らしていたけど、やっぱりお母さんには全部お見通しだったんだ。

 小さい頃に通っていた水泳教室は、曜ちゃんはすぐ上達していったのに、わたしは中々上手く泳げなくてすぐに辞めた。小学校の頃に所属していた地域のソフトボールクラブも、6年生最後の大会でレギュラーになれなくて、チームも負けちゃって中学でも続ける気になれずに辞めた。他にも、諦めていったことは沢山ある。卓球も鉄棒も習字も、どれも中途半端なまま、挫折を味わう前にわたしは全部投げ出していった。

「紙飛行機の時だってそう」

 紙飛行機を拾い上げて、無造作に放る。上向きだった紙飛行機は急降下して、また砂の上に落ちる。我ながら下手だな。それもそうか。これだって途中で投げ出していった、努力とも言えないわたしのしてきた事の残骸のようなものなんだから。

 投げ出していったのは、挫折を味わうのが怖かったから。本気になって、必死にがむしゃらにやってきて、それで何の結果も出せず、何も残せなくなることへの躊躇だった。だからわたしは、自分を普通星に生まれた普通人間、果てには普通怪獣だから、なんて自分に言い聞かせてきた。

 悔しさはないけど楽しみもない。そんな日常を選んだのはわたし自身なのに、心のどこかでは窮屈に思っていて、でも無駄に培ってきた臆病さから何をするにも尻込みしていた。

 そんなわたしが、この1年間本気でやってきた事は何を残したんだろう。

「ねえ」

「何?」

「わたし、見つけたんだよね? わたし達だけの輝き。あそこにあったんだよね?」

 ずっと探し続けていた光。憧れていたグループでも、他の誰のものでもない、わたし達9人だけが放てる光。わたし達だからこそ往ける輝きの境地。

 あのステージから見た景色は、確かに全てが輝いていた。観客席も、ステージ上も、何もかもが。あそこに満ちていた光を放ったのがわたし達なら、一体わたし達の何があれだけの光をもたらしてくれたんだろう。わたし以外の、皆の裡に灯る力だろうか。それとも別の、もっと奥底にある何かだったのだろうか。

 分からない、わたしにはまだ。自分自身で分からないのだから、誰かに決めてもらうしかないじゃないか。

「本当にそう思ってる?」

 でもお母さんは、答えを提示してはくれなかった。

「相変わらずバカ千歌だね」

 意地悪な美渡姉の声が、さっきよりも近付いている。振り返ると、お姉ちゃん達としいたけ親子は、海岸の石段の辺りまで来ていた。

「何度でも飛ばせば良いのよ、千歌ちゃん」

 志満姉が言う。何度でも。上手くいくまで何度でもやればいい。それはこの1年、ずっとわたしの裡にあった、でも今となってはすっかり冷めてしまった熱。

「本気でぶつかって感じた気持ちの先に、答えはあったはずだよ」

 お母さんは言った。わたしの1年間の全てを、肯定してくれるように。

「諦めなかった千歌には、きっと何かが待ってるよ」

 スクールアイドル。わたしが諦めなかった、唯一のこと。あの秋葉原で出会った日に、わたしの裡に灯った輝きへの願い。

 わたしは再び紙飛行機を拾って、力いっぱい投げた。やっぱり、すぐに落ちてしまう。波打ち際にさえ届かない。小さい頃も、こんな風に飛ばしたな。あの時は曜ちゃんも一緒だった。何気ない記憶の一片のはずなのに、今でも覚えているのは、そこに曜ちゃん以外にもうひとりいたから。

 初めて会った、少しだけ年上の男の子だった。多分、観光に来ていたんだと思う。あの子に会ったのは、あの日が最初で最後だったから。どこの誰だったんだろう。思い出す度にそんな疑問が沸くけど、些細なことにそう長く想いを馳せることなんてしなかった。

 薄れつつあった、些細と思っていた記憶。それを今、わたしは鮮明に思い出す。そうだ、あの日も何度やっても、わたしは紙飛行機を上手く飛ばせなかった。力いっぱい投げても、紙飛行機はすぐに急降下して砂浜に落ちていく。そこで浜辺を訪れていた彼は、わたしと曜ちゃんに遠くまで飛ばせる形の折り方を教えてくれた。彼はすぐ一緒に来ていた家族に呼ばれて戻っていった。きっと、お姉さんだったと思う。お母さんにしては若すぎた。

 お姉さんのもとへ走っていく彼は、去り際に言ってくれた。

 今、わたしは懲りずに紙飛行機を空高く投げる。不安定に翼を漂わせる紙飛行機の機首が下を向こうとしたとき、わたしは叫んだ。

「行け!」

 同時に後方から吹いた一陣の風と共に、彼の言葉がわたしの頬を撫でていく。

 

 ――飛べるよ。今は飛べなくても、きっといつか飛べるようになるからさ――

 

 風に翼を乗せた紙飛行機が、再び上を向いた。

「飛べえええええ‼」

 気流に乗って、両の翼をまるで鳥のようにはためかせた紙飛行機が、風の吹くまま空高く駆けていく。太陽に向かって、海を越えて行こうと、どこまでも遠くどこまでも高いところへ。

 わたしは紙飛行機を追いかけて駆け出した。内浦湾を挟んだ長井崎の岬、もう行くことのないはずの通学路を。

「行ってらっしゃい」

 お母さんの声を背に、わたしは紙飛行機を見逃すまいと空を見上げながら走り続ける。すぐにトンネルを挟んだからペースを上げて、抜けるとすぐにまた空を見て紙飛行機を探す。空の1点で小さく駆けている紙飛行機は、真っ直ぐわたしの目指すところと同じ方向へ機首を向けていた。

 海沿いの通学路を走りながら、空っぽだったわたしの裡に愛しさが込み上げてくるのを感じていた。あの時の少年に、わたしは数年越しの報告をする。

 わたし、飛べたよ。「いつか」は今だったんだよ。

 ――翔一くん

 声変わりする前の甲高い声。少年期特有の丸い顔立ち。でもひとつだけ、目を細めて歯を見せる笑顔だけは、成長しても変わらなかった。青年になって、いつも見せてくれた笑顔が、あの幼い日の瞬間と重なった。

 わたしと彼の物語は、彼が海岸で倒れていた3年前からだと思っていた。でも違ったんだね。あなたはあの日も、わたしを見守っていてくれたんだね。

 翔一くん、とわたしは裡で呼び続ける。本当の名前が沢木哲也だろうが関係ない。たった3年間でも家族だった。

 わたしのお兄ちゃんで、お父さんでもあった人。

 

 

   2

 

 長井崎の丘道を駆け上っている途中で、紙飛行機が校舎の陰に消えていくのが見えた。まだ閉校式からそう日は経っていないからか、植えられた桜は花弁を散らし続けている。でも、昼間なのに校舎は寂しい静寂に包まれていて、ただそこに鎮座するのみの建造物に成り果てている。

 校門の前で立ち止まって息を整えながら、門が微かに開いていることに気付いた。おかしいな。あの日、確かにしっかりと閉じたはずなのに。業者の人が備品を運び出す時に閉め忘れたのかな。理由は何にしても、開いている校門は何だか迎えてくれているような気がして、わたしは無人の校舎へと忍び込んだ。

「失礼しまーす。2年A組、高海千歌でーす」

 重い正面玄関の戸を開けながら、恐る恐る断りを入れる。上履きは最後の日に持ち帰っちゃったし、来客用のスリッパさえも撤去されているから、靴を脱いだわたしは靴下のまま校舎をまるで未練たらたらな幽霊みたいに彷徨う。

 何も貼られていない掲示板は、日焼けしたせいで掲示物の痕が残っている。1階は1年生、2階は2年生、3階は3年生と進学と共に階が上がっていく。わたし達の居た年度の時点で使われなくなった教室がいくつもあったけど、もう全部の机と椅子が撤去された今だとどこが最後まで使われた教室なのか見分けもつかなくなっている。

 それでも、毎日通っていたわたしには、校舎の中なんて庭みたいに鮮明に覚えている。

 

 ――ごめんなさい――

 

 梨子ちゃんを勧誘して断れた廊下。

 

 ――くんくん、制服う!――

 

 降ってきた衣装を掴もうと曜ちゃんが飛び出したベランダ。

 

 ――離して! 離せ、て言ってるの!――

 ――良い、と言うまで離さない!――

 ――ふたりともおやめなさい! 皆見てますわよ!――

 

 果南ちゃんと鞠莉ちゃんが取っ組み合いをして、それをダイヤちゃんが止めようとしていた3年生の教室。

 

 ――ルビィ、スクールアイドルがやりたい! 花丸ちゃんと!――

 ――……マルに、できるかな?――

 

 ルビィちゃんと花丸ちゃんがAqoursに入る決心をしてくれた図書室。

 

 ――変なこと言うわよ。時々、儀式とかするかも。リトルデーモンになれ、て言うかも――

 

 そういえば善子ちゃん、入学してすぐに学校来られなくなっちゃったんだっけ。

 閉校祭のとき、志満姉が言ってたな。ここだけの匂いがある、て。うん、今なら分かる気がする。生徒がいなくても、机もなくなっても、わたし達が居た頃の匂いが確かに残っている。

 屋上に出ると、日光を浴びた床の暖かさが靴下越しに足裏で感じ取れる。そういえば、夏場の練習で休憩中に手を着いたとき、熱すぎて火傷したな。

 誰もいなくても、ここにもあの頃の残り香がある。皆で流した汗臭さに、練習終わりはお互い悶絶してたな。

 匂いもあれば、そう遠くない過去も鮮明に思い出せる。今ここで、皆があの頃と変わらず練習している風景が視えてくる。果南ちゃんの手拍子に合わせてステップを踏んでいる皆の様子が。

 

 ――ワン、トゥー、スリー、フォー、ワン、トゥー、スリー、フォー。今のところの移動は、もう少し早く――

 ――はい――

 ――善子ちゃんは――

 ――ヨハネ!――

 ――更に気持ち急いで――

 ――承知、空間移動使います――

 

 でもその姿も声も、わたしの未練が見せる幻。近付けば蜃気楼みたいに跡形もなく消えて、その場にはここまで辿り着いたわたしの紙飛行機のみが落ちている。紙飛行機を拾おうと手を伸ばしたとき、コンクリートの床に滴が落ちて、わたしは自分が泣いていることに気付いた。

 紙飛行機を胸に抱いて、わたしは空を見上げて込み上げる涙を必死に抑えようとする。

「わたしは嘘つきだ。泣かない、て決めたよね、千歌」

 この学校での思い出は笑顔で締め括る。楽しいことばかりだった。最後まで楽しかった。門を閉めたとき、わたしは歯を食いしばって耐えることができた。

 でも、今この瞬間は無理だった。抑えきれない涙が溢れて頬を伝い続けていく。膝から崩れるように、わたしはべそをかいた子供みたいにうずくまった。

「どうして、思い出しちゃうの……? どうして聞こえてくるの………? どうして……、どうして――」

 楽しかったことに嘘偽りはない。だからこその涙だった。明日もある、と信じ繋げるために駆け抜けた記憶。昨日は未来と思っていた日々が今は過去になって吹きすさんでいく。

 不意に、遠くから声が響く。立ち上がって無人のはずの校舎を見下ろすと、中庭の通路の陰に人影が消えていくのが見えた。

 方向から、きっと行き先は体育館だ。あれもまた、わたしの未練が視せる幻なのかもしれない。全部まやかしで、手を伸ばしたら消えてしまうのかもしれない。それでもわたしは、そこへ向かわずにはいられなかった。

 それが無意味だと嘲笑われても。だって、ここに在ったもの全部が、わたしにとっては特別だったのだから。

 普通なわたしの日常に、突然舞い降りた奇跡。

 何かに夢中になりたくて、

 何かに全力になりたくて、

 脇目もふらずに走りたくて、

 でも何をやっていいか分からなくて、燻っていたわたしの全てを吹き飛ばし、舞い降りた。

 それは、その輝きは――

 飛び込んだ体育館。窓から射し込む陽光が木目張りの床を照らして、斜めに下る柱のような陽光の中で光る塵がどこか水族館の水槽にいる小魚の群れのように漂っている。

 誰もいない。そう、閉じられたこの学校には、誰もいないはずだった。

 そのはずなのに、目の前に広がっている光景は、わたしを笑顔で迎え入れてくれた、浦の星の制服を着た生徒たちだった。

「千歌」

 とわたしを呼ぶむっちゃんの声と姿が、はっきりと視える。「遅いじゃん」というよしみちゃんに、「また遅刻だよ」といういつきちゃんの声も。楽しそうな、他の生徒たちの笑い声も全部。

「皆……、でもどうして?」

 混乱してばかりなわたしは、その問いを向けるのに精いっぱいだった。

「じゃーん!」

 と皆がわたしの前に道を空けて、その先にある幕が下りたステージを手で指し示す。

 ステージの幕が上がる。そこに並んでいたのは、皆だった。その姿を認めても未だに事が呑み込めないわたしに「夢じゃないよ」と曜ちゃんが言ってくれる。

「千歌と皆で歌いたい、て」

 果南ちゃんが言った。

「最後に」

 と鞠莉ちゃんが付け加える。

「この場所で」

 ダイヤちゃんが優しく言う。

「約束の地で」

 そんな約束、と善子ちゃんに言おうとしたところで花丸ちゃんが、

「待ってたずら」

 皆はわたしが来る、て分かっていたのかな。

「千歌ちゃん」

 ルビィちゃんが呼びかける。そうだ、皆はわたしには無い、アギトとしての力があるんだ。それが皆を導いて、わたしを呼んでくれたんだ。あの紙飛行機を通じて。

「歌おう」

 梨子ちゃんが言うと、皆がわたしへ手を差し伸べてくれる。

「一緒に!」

 そこに、わたしみたいな普通怪獣が入り込む余地なんて無いのかもしれない。わたしが居なくても、他の8人であのステージに往けたのかもしれない。でも、皆はわたしも一緒に、と言ってくれた。今こうして、わたしを迎え入れてくれた。

「うん!」

 さっきとは別の熱を裡に抱きしめて、わたしは皆のもとへと駆け出す。

 わたし達は歌い、踊った。音響も何も無い。観客は生徒たちのこぢんまりとした、でも楽しさとこれまでの想い全てが詰まったステージで。決勝で披露する候補のひとつだった、『WONDERFUL STORIES』を。振り付けも歌詞も全部、わたしはしっかりと覚えている。意識なんてしなくても、詞を口ずさめば体が勝手に動き出すほどに。

 わたし達9人の紡いでいくメロディーに乗って、色々なことが思い出されていく。閉校式の日みたいな、寂しさなんて感情は伴わない。この時のわたしを満たしていたのは、歌になって溢れ出すほどの思慕だった。

 曜ちゃんと梨子ちゃんと3人で初めて歌ったライブ。1年生が加わった屋上でのPV撮影。東京のイベントで突き付けられた重圧と得票数ゼロという結果。3年生が戻ってきた夏祭りイベントでの花火大会。突破できなかった前大会の地区予選。

 次の1歩を踏み出すと決めた大会の予備予選に、並行して達成した説明会でのライブ。限界突破を決めた地区予選。函館でのSaint_Snowとの合同ライブ。そして決勝大会。

 駆け抜けた記憶は、決して楽しいことばかりじゃなかった。悔しいことも悲しいこともいっぱいあったし、結果として浦の星は無くなってしまった。でも今はその全てがきらきらとしていて、愛おしい。

 分かった。

 わたしが探していた輝き。わたし達の輝き。

 足掻いて足掻いて足掻きまくって、やっと分かった。

 最初からあったんだ。初めて視たあの時から。わたしがスクールアイドルを知った秋葉原で視た、あの瞬間から。

 何もかも、1歩1歩、わたし達の過ごした時間の全てが――

 それが輝きだったんだ。

 探していたわたし達の、輝きだったんだ。

 これが、わたしの答え。本気で気持ちをぶつけながら、走り続けてきたわたしの辿り着いた答えだ。

 最初から持っていた、わたし達の裡に眠っていた力。それを解き放とうと、羽ばたこうと踏み出した瞬間から、もう奇跡は起こっていたんだ。

 この気付きに至るまで、長い長い物語を積み重ねてきた。答えはそこに在ったのに、随分と遠回りをしてきた気がする。でも、わたし達はようやく見つけることができたんだ。

 こんなところで、終わらせたくなんかない。やっと見つけたものを、この瞬間だけ灯すなんてわたしは嫌だ。これからもずっとこの熱を、輝きを抱き続けたい。

 そのためには、わたし達9人だけじゃ足りないんだ。わたし達の傍に居てくれた、もうひとりの大きな輝きを取り戻したい。彼ともっと響き合って、その熱を抱き合いたい。

 だからわたしは、この想いを高らかに告げる。

 

「もう1度、翔一くんに会いに行こう!」

 

 






次章 最終章 Over the Rainbow


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最終章 Over the Rainbow
第1話


 本当に悪いのは人間の悪意だった。だからこいつみたいに酷い人間は絶対にいなくならない。
 でも俺は絶望しない。そう決めた。

――仮面ライダードライブ (とまり)進ノ介(しんのすけ)




 

   1

 

 この長い物語も、いよいよ終わりに近付こうとしている。

 わたしがこの物語で纏めているのは、全てが目まぐるしく過ぎていった1年間を主にしている。でも時折、あの1年の間に起こった出来事だけを語るべきなのか、迷ってしまう。あの頃にわたし達が感じていたこと、わたし達の決断や見出した答え。それら全てを統括するには、更に過去を掘り下げて追憶してみる必要も感じた。何もわたし達は、行き当たりばったりで走ってきたわけじゃないのだから。

 まだ幼かったわたし達の見出した事の根拠には、きっと過去に端を発している。あの1年間よりも更に幼かった頃に感じていた、まだ言い表す言葉を知らなかった感覚というものを。

 わたしがここで思い出したのは、全ての始まりと思っていた記憶喪失の青年との出会い。場所はそのまま同じ三津海水浴場で、更に過去へと遡る。

 まだ少年だった彼が去った後、教わった通りに折った紙飛行機を曜ちゃんが力いっぱい投げると、それは最高記録を大幅に更新してみせた。

「すごーい、あんな遠くまで飛んだー!」

「次は千歌ちゃんが飛ばす番だよ」

「よーし、わたしだって」

 「それ!」と全力で投げた紙飛行機はさっきよりも飛距離を伸ばしたけど、期待していたよりは少し短かった。

「ああ、もう少し飛ぶと思ったんだけどなあ」

「千歌ちゃんもう1回、もう1回だよ」

「うん!」

 自分の番を譲ってくれた曜ちゃんに甘えて、わたしは再び紙飛行機を空高く投げた。

「えい!」

 今度はもっと遠くまで行った気がする。下降していった紙飛行機は緩やかに高度を落として、浜辺にいた誰かの足元で着陸した。

 わたし達と同じくらいの歳の、初めて会う女の子だった。真っ白なワンピースと帽子がよく似合う内浦みたいな田舎には似合わない――そう、都会的な子だった。

 女の子は足元の紙飛行機から、それを追いかけてきたわたし達のほうを向いて、

「これ、あなたの?」

 恰好に違わず、とても綺麗な声をしていたのをよく覚えている。

「うん、そうだよ」

 わたしが答えると、女の子は紙飛行機を拾い上げて、わたしに差し出した。

「もっと遠くまで飛ばせる?」

 浮かべた笑顔も慎ましやかで、わたしよりも大人びているみたいで少しどき、とした。そんな彼女に、曜ちゃんは両腕を大きく広げて宣言してみせた。

「飛ばせるよ、もっと。虹を越えるくらい!」

 あの子は後になって言っていたっけ。

 偶然なんて無い。色んな人が色んな想いを抱いて、その想いが視えない力になって引き寄せられて、運命のように出会う。全てに意味がある、て。

 うん、確かにそうなのかもしれない。わたし達は、あの頃から既にお互いの裡にあるものを響かせ合っていたのかな。その共鳴が巡りに巡って数年越しに、わたし達を引き会わせてくれたのかも。

 そう考えたら、わたしはあの幼い日のささやかな出会いが、この物語の本当の始まりだったように思える。

 

 まるで幸せの青い鳥のように、全てを運んでくれた紙飛行機。わたしがそれに導かれるまま訪れた浦の星で皆が集まっていたのは、「これから」の話をするためだった。

 卒業する3年生と新しい学校に行くわたし達。

 Aqoursの未来の話を。

 わたしはここまで色々な人たちの話を綴ってきた。

 輝きを、始まりを求めて走り続けてきたわたしの願い。わたしと一緒にゼロから始めて、何とか1にしようともがいて、更に10へ100へ進もうと足掻いてきたAqours。

 突然現れた怪物と戦ってきた戦士たち。既に戦士だった人。戦士になろうとした人。戦士になってしまった人。

 激動の日々を乗り越えて、ふう、と息を吐くと全てが終わったように錯覚してしまう。

 でも、まだ終わらない。彼らが護った世界が在る限り、わたし達の夢に終わりなんて有り得ない。

 

 最後にするのは、そんなわたし達が未来へと駆け出す話。

 そのための、決して欠けてはならない光を取り戻す話をしたい。

 

 

   2

 

 沼津駅の構内へと消えていく3年生たちの背中を見送った千歌は、深く嘆息した。かねてから計画していた、3人での卒業旅行。羽を伸ばして、行き先は海外とだけ聞いている。

「行っちゃったね」

 曜の声を背中に受け、千歌は振り返りながら告げる。

「わたし達も戻って練習しよっか」

 その言葉は自然と出すことができた。「そうね」と梨子も当然のように同意してくれる。

「6人で新しい学校に行っても、Aqoursは続けていく」

 続ける。それが、浦の星で最後に集まった日に話し合ったAqoursの未来。9人それぞれの声を聞いて、汲み取って、尊重して、導き出した。

「そうだね、それが皆の答えなんだもん」

 と街路樹の陰からルビィが顔を出した。続けて花丸も。

「やる気が出てきたずら」

 「ぎらん!」と決め台詞のつもりだろうか、善子が堕天使ポーズを決めるとふたりは眉を潜める。

「相変わらず空気読めないずらね」

「やかましいわ!」

 相変わらずなやり取りを笑っていたルビィだったけど、何に気付いてか「あ!」と声をあげた。「どうしたの?」と花丸が訊く。

「練習、どこでするの?」

 ルビィの問いに「どこ、ていつもの――」と千歌は答えようとしたのだが、問いの真意に気付き言葉を詰まらせた。

「あ、そっか。学校は使えないんだ」

 「駅前の練習スペースは?」と梨子が代案を出してくれる。

「あそこはラブライブが終わるまで、て約束で」

 と曜に却下されてしまう。

「え、じゃあどうするずら?」

 花丸が訊くと、「鞠莉にでも聞いてみる? どこか当てはないか、て」と善子が腕を組みながら提案した。確かに鞠莉なら良い場所を紹介してくれるかもしれない。ホテルオハラのホールを貸してくれる、とか。きっと力になってくれるかもしれないけど――

「自分たちで探そう」

 それが千歌の答えだった。

「何かね、頼ってたら駄目な気がする。この6人でスタートなんだもん。この6人で何とかしなきゃ」

 「でしょ?」と千歌が笑ってみせると、皆も微笑を返してくれる。

「閃いた!」

 と挙手する曜に「はい、曜ちゃん!」と促す。

「新しい学校行ってみる、てのはどうかな? わたし達が春から行く」

 その思いもよらない提案に、全員が閉口する。続けて出たのは、「うーん」という呻き。

「新しい……学校………」

 そう呟く善子の声は、少しばかり震えているようにも聞こえた。

 

 編入先の学校については、既に千歌たちのもとにも通知が届いている。当然、学校の住所も。沼津駅からバスで南下して大体20分ほど。内浦から通うことを考えると、中々の時間を要することになる。

「結構遠いねえ」

 バスの中で千歌はぼやいた。浦の星を受験したのも、単純に家から最も近い学校だったからなのに。

「生徒数考えると、かなり大きい学校っぽいけど」

 と梨子が呟く。考えてみれば、統廃合が決定した後もラブライブの事ばかりで、それが終わっても抜け殻みたいに過ごしてきたから、編入先について何も知らないままだった。皆の反応を見るに、千歌と同じだったみたいだけど。

「あれ、こっちに学校なんてあったかな?」

 スマートフォンの画面を見ながら、曜が眉を潜めた。

 ぼう、と見慣れた街の景色を眺めているうちに、バスが目的の停留所に到着した。バス停は校舎のすぐ目の前にあって、降りた千歌たちは春からの新しい学び舎と対面を果たす。

「………え?」

 校門の前に立った千歌は、そんな間の抜けた声しか出せなかった。かなり大きい学校。梨子はそう言っていたのだが、千歌たちの前に建つ校舎は視界に収まってしまうほど慎ましやかな木造建築物。屋根は所々の塗装が剥げ落ち錆が点在していて、外壁には手入れが行き届いていないのか景観なのか不揃いな緑植物のカーテンが伸びている。窓ガラスなんてひび割れている箇所をテープで応急処置したままの始末。最近になって手放した、東京に放置したままだった父の家も荒れていたが、ここはそこよりも酷い。はっきり言って廃墟だ。

「が、学校ずら……?」

 と花丸が幽霊屋敷でも見ているかのように声を絞り出す。確かに学校らしき建物ではある。でも見たところ築半世紀は経っているのではないか。それに本当に校舎として使えるのか。校庭――らしき広場――に植えられているのは松の木ばかりで、桜なんて1本もなく花弁が舞う様子もない。

「曜、間違ったんじゃないの?」

 善子が指摘すると、曜は「ええ?」とスマートフォンの画面を凝視し、

「でも学校から送られてきたメールだよ。浦の星の生徒は入学式の日はここに集合すること――」

 文面を読み上げる曜の声を、「ああああああああ‼」というルビィの悲鳴が遮る。彼女が顔を近付けていたのは、苔むしている門柱にはめられた、これもまた年季の入った木製の表札だった。大きく書かれた編入先である「静真(しずま)高等学校」の文字。

「見て!」

 ルビィが指さすその隅に、新しく書き加えられたと思わしき白い文字があった。

 浦の星女学院 分校

 

 

   3

 

「何それ!」

 そう千歌が文句を飛ばしたのは、沼津駅前の仲見世通りにあるカフェのテーブル席。他のお客さんに迷惑よ、と注意するべきだろうけど、梨子もこの措置に納得できなかった。

 梨子たちよりもこの事情に詳しいかも、という事で連絡したら駆けつけてくれたのは、よしみ、いつき、むつの3人組。

「でも、浦の星と一緒になるのは嫌だ、て声が1部であるらしくて」

 と罰が悪そうにむつが説明してくれる。続けてよしみが、

「しばらく分校で様子を見ましょう、て事になったんだ、て」

 その分校措置のための校舎について話してくれたのはいつきだった。

「それで、浦の星の生徒用に今は使っていない小学校を借りたらしくて。教室も今のところひとつだけ」

 今は使っていない校舎なんて、そんなものつまりは廃校になった校舎ということだ。

「統廃合になって、廃校になった学校に移ったんじゃ意味ないずら」

 花丸が愚痴を零す。これじゃ隔離じゃないか。実質在校生の校舎が移り変わっただけ。

「それに3年生卒業しても、ルビィ達全員ひとつの教室に入ったら――」

 とルビィが吐露する。確か編入する在校生の人数は30数人。ひとつの教室に収まり切らなくはないけど、それでもかなり窮屈になりそう。しかも1、2年生をひとつの教室に押し込む。間違いなく生徒側も教員側もパンクする。

「何それ、授業できないじゃん」

 なんて言う千歌の声は上機嫌だった。「スクールアイドル活動もね」と梨子が指摘してやると、「あ」と間の抜けた声を漏らす。

「でも、どうして一緒にしたくない、なんて声が?」

 そもそもの話を梨子が訊こうとしたところで、注文したホットドッグを食べようとした花丸が遮る。

「そういえば、曜ちゃんはどうしたずら?」

 店内を見渡してみる。9人全員が収まる席が無いから分散して座っているけど、どこにも曜の姿がない。

「あれ、確かに」

 と千歌もここで気付いたらしい。確か曜はカウンター席に座っていて、途中で電話が来たとかで席を外して店の外へ――

「………嘘⁉」

 と善子が窓ガラスに顔を近付けた。続けてルビィとホットドッグを咀嚼する花丸も。

「何?」

 と千歌がガラスへ振り返ると同時、1年生たちは外の景色を塞ぐように両手をばたばたとせわしなく動かしながら喚く。

「な、な、な、何でもないずら」

「リトルデーモンが、少しだけざわついているだけよ」

「ピギィ」

 あ、何かあったんだ、と悟った。3人の口調があべこべになっている。因みに最初の訛り口調はルビィ、次の堕天使口調は花丸、最後の悲鳴は善子という順番になっていた。

 口調までシャッフルしてしまうほど動揺している3人に梨子は細めた目で詰め寄る。

「何を隠してるの?」

 続けて千歌も。

「そうだよ、何を見たの?」

 そこで1年生たちは少しだけ落ち着きを取り戻したのか、それぞれの口調に戻る。

「何でもない、何でもないの!」

「見ない方がいい!」

「その通りずら!」

 口をきつく結んだ3人を、千歌と一緒に睨みつけらながら梨子は更に訊く。

「どうして?」

 返ってくるのは沈黙。痺れを切らした千歌は店を飛び出した。

「もしかして、どっかで可愛い制服見つけちゃったとか?」

 それなら納得。「ちょっと!」と3人の制止する声を無視して梨子も後を追いかけると、店を出てすぐのところで千歌は走る体勢のまま映像がフリーズしたみたいに硬直していた。彼女の視線を追ってみると、すぐ目の前にあるのは自転車走行禁止の看板――

 じゃなくて、その更に奥へと視線を進ませたところで、商店街の通路の真ん中に曜はいた。誰かと話している。相手は曜よりもひと回りくらい背が高くて、線の細い少年だった。目深に被った帽子から覗く目元のくっきりとした顔立ちで、中性的な雰囲気を漂わせている。談笑している曜は笑顔なのだが、それが梨子たちAqoursといる時の笑顔とはまた異なるように視えるのは気のせいだろうか。

 何と言うか、まるで深い間柄の人物にしか向けないような。

 ようやく動いた千歌は、梨子の頬をつねってきた。

ゆえ()?」

 回らない舌で言いながら、梨子も千歌の頬をつねってみる。

ゆえだよえ(夢だよね)ゆえ()ゆえ()

 同じように回らない舌で返され、互いに口元を歪めながら苦笑を交わす。

ふぉ、ふぉっかあ(そ、そっかあ)ゆえか(夢か)

だよええ(だよねえ)

 そこで善子が割って入り、

現実(リアル)こそ正義」

 と梨子と千歌の顔を掴んで無理矢理に曜へと向けさせる。「はい」と同時に応じながら、互いの頬から手を離し善子が正義と主張する現実へと目を向ける。

「もしかして、曜ちゃんの弟ずら?」

 声を潜めながら、花丸が訊いてくる。曜と最も付き合いの長い千歌は腕を組みながら、

「確かいなかったような気がするんだけどなあ」

 「じゃあ、やっぱり……」と梨子は声を詰まらせる。

「曜の……、ビッグデーモン⁉」

 興奮した善子が声をあげてしまう。「ああ、こっち向く!」と千歌は善子の口を押さえながら近くの自転車禁止の看板の陰に押し込んだ。梨子もすぐ傍を散歩していた大型犬の後ろに、花丸とルビィは電柱の陰に隠れる。

 こちらを振り向く曜に、梨子たちは息を潜めて沈黙する。耐えかねたのか、善子が「に、にゃあ」と猫の声真似で誤魔化しにかかる。そんな古典的な方法で、と呆れてしまう。近くに犬がいるのだからそこは「ワン」と言ってほしかった。

「何で隠れるずら?」

 花丸の素朴な疑問に「だってえ」と千歌は苦し紛れに応じる。確かにこれでは覗きみたいで後ろめたい。

 沈黙がどれ程続いただろうか。犬の飼い主の婦人へ「静かに」と口元に人差し指を当てるジェスチャーを向ける。

「あ、いない!」

 とルビィが声をあげると、全員こぞって陰から顔を出した。最早そちらのスイッチが入ってしまったのか、千歌は「追えええ!」と駆け出す。梨子は犬の飼い主に「済みませんでした」と頭を下げ、曜の追跡へと加わった。

「頑張ってー」

 店からむつ達の乾いた声援が届いた。代金は後でしっかり返しておかないと。

 曜たちはすぐ見つけることができて、ふたりとは一定の距離を保ちながら物陰から物陰へ、と尾行していく。

「ちょっと、押さないでよ」

 電柱に隠れていた1年生たちの中で、善子が文句を飛ばしている。すぐさま「しい」「聞こえるずら」とルビィと花丸が注意するも、それも聞こえてしまったのか曜は再びこちらへと振り向く。間一髪で身を隠し、また善子が「みゃーお」と下手な猫の声真似で誤魔化す。

 しばらく立ち止まっていたが、曜たちは再び歩き出した。そう、と足音を立てないよう後を着けて、頃合いをみてそれぞれ電柱や商店の陰に身を隠す。

 どこかで曜も尾行に勘付いていたらしく、今度は素早く体ごと振り向いた。その時にはもう梨子たちは隠れていたから大丈夫だというのに、善子がまた「みゃお」と鳴く。因みに彼女は何の動物がモチーフなのか分からないマスコットキャラクターの陰に隠れていた。一体どこから持ってきたのか。

「なあんだ、猫ちゃんか」

 まさかこれで誤魔化せていたとは。再び歩き出した曜に安堵したのか、善子は安堵の溜め息をつきながらマスコットの陰から出てしまう。

「危ない危ない。危うく見つかるところだっ――」

 とマスコットを持ち上げた彼女の前に、曜は既にいた。今度はしっかりと対面で向き合って。

「善子ちゃん」

 とあくまで笑みを浮かべる曜に、善子は咄嗟にマスコットで顔を隠す。

「お掛けになった電話はお客様のご都合によりお繋ぎできません」

「いや、そうじゃなくて」

 流石にもう万事休すだ。善子を犠牲にして逃げてしまおうか、とすら考えていたとき、少年が声を掛けてきた。

「どうかしたの、曜ちゃん?」

 初めて聞いたその声はまだ声変わりを迎えていないのか少年にしては少し、いやかなり高いものだった。

「ああ、ごめんね(つき)ちゃん」

 曜が何気なく呼んだその名前を反芻しながら、梨子たちも物陰から顔を出す。

「月、ちゃん?」

 「ええ、千歌ちゃん?」と曜は少し驚いた様子だったがすぐ得心がいったようで、

「ああそうか、紹介したことなかったっけ。わたしの従姉妹(いとこ)の月ちゃん」

 その件の人物は、微笑すると被っていた帽子を脱いだ。はらり、と広がる肩まで伸びた髪は中で纏めていたらしい。

「月です。よろしく」

 そう溌剌と敬礼してみせる顔は、どことなく曜と似ている。体形を隠すほど大きめのジャンパーを着ていたから気付かなかったが、露になった容貌は間違えようがない。

「もしかして――」

「女の子?」

 花丸とルビィがその結論を導きだすと、一気に脚から力が抜けた。「なあんだ」と全員で地面に座り込んでしまうほどに。

 

「じゃあ、あの学校の生徒なの?」

 改めて紹介された月から聞いた事実を、千歌が反芻する。「うん」と月は応じ、

「入学前、曜ちゃんも一緒に通わない、て誘ったんだけど、曜ちゃんは千歌ちゃんと一緒に学校が良い、て」

 「そ、そうだったっけ?」とそっぽを向く曜に「照れることないじゃない」と言ったところで、月は梨子のほうを向く。

「あ、君が梨子ちゃんだね」

「は、はい」

 急に呼ばれたから驚いた。

「いつも曜ちゃんが言ってるよ。尊敬してる、て」

 「ああ、そんな」と反応に困っていると、今度は曜から「照れることないじゃない」と仕返しをされた。月は他の面々にも順に視線を送り、

「千歌ちゃん、ルビィちゃん、花丸ちゃん、善子ちゃん。曜ちゃん本当にAqoursのことが好きみたいで、会う度に皆のこと話してるんだよ」

 また照れ臭くなったのか、髪を指先でいじり始めた曜に月は顔を近付ける。

「いつも思うんだ。もうAqoursは曜ちゃんの1部なんだなあ、て」

「何かそう言われると、本当恥ずかしいよ………」

 その反応が面白かったのか、月は快活に笑ってみせる。初めて見たときは少年と勘違いしていたが、口を開くと雰囲気と違わない少年みたいな溌剌さだ。何でもこの口調は上に兄、下に弟と男兄弟に囲まれた家庭故に染みついたものらしい。

「流石曜ちゃんの従姉妹ずらね。裏表がないというか」

 と花丸が隣にいる善子に悪戯っぽい視線を送る。「何でわたしのこと見るのよ!」と噛みつかれたが、それを無視するのはいつもの光景。そんなふたりを面白そうに見ていた月に、ルビィが質問を向けた。

「それと、分校のこと………」

 そう、静真高校の生徒なら、月もその事情は少なからず知っているはず。予想していたのか「ああ」と嘆息する彼女に「そうそう」と梨子も問いを重ねる。

「どうしてそんな事に?」

 言い辛いのかしばし逡巡したが、それでも月は答えてくれた。

「うちの学校、昔から部活動が活発でね。いくつかの部活は全国大会に出るほどで」

 そこで月は言い淀んだが、「それで?」と千歌に促され再び重そうに口を開く。

「浦の星の生徒が入ってくると部がだらけた空気になったり、対立が起こるんじゃないか、て1部の父兄が言っているらしくて」

 それでは、浦の星の生徒は異物扱い、ということか。だから統合しても分校なんて措置に。

「そんな」

「何でそういう話になるのよ?」

 ルビィが落胆を、善子が不満を向ける。「だよね」とふたりから向けられる感情を月は受け止める。

「僕たち生徒も先生たちも心配ない、て説得したんだけど、部活が駄目になったらどうなるんだ、とか責任取れるのか、とか」

 元は別々の学校だから、て対立するほど浦の星の生徒は子供じゃないし、部活動だって盛んではなかったけど皆だって遊び気分でやっていたわけじゃないだろう。いざ静真高校の出場歴に泥を塗ることになって、責任が取れるかは話が別だけど。

「そんなこと言い始めたら、何もできないと思うけど」

 どうして大人というものは、重い腰を上げようとしないのだろう。そんな事を思っていたところで、曜が口を開いた。

「それでね、どうしたらいいか、て相談してたんだ」

 「全面戦争?」なんて呟く善子に「そんな訳ないでしょ」とやんわりと突っ込みを入れる。

 曜は言った。

「その人たちが気にしてるのは、浦の星の生徒が部活でもちゃんと真面目にやっていけるか、てところなんだと思う」

 続きを月が引き継いだ。

「だから、実績のある部活もあるよ、て証明できれば良いんだよ」

 言葉にすれば簡単だけど、浦の星にはそれが難しい事情があった。それもまた統廃合の一因にもなっていたわけで。

「部活……」

「証明する、て言っても……」

 ルビィと花丸が不安を口にする。千歌も物憂げに目を伏せ、

「そんな部活………」

 浦の星は部活動の実績が皆無に等しい。あまりに生徒数が少なくて、大会の出場人数に満たなくてエントリーすら危ぶまれるほどだった。でも、千歌は重要なことに気付いていない。そのヒントを梨子は与えた。

「あるでしょ」

 曜も気付いているらしく、更にヒントを出す。

「全国大会で優勝した部活がひとつだけ」

 優勝したのは統廃合が決定した後だったけど、大会の歴史に刻まれたのは間違いなく浦の星女学院の名前。

 は、としたように千歌は顔を上げる。

「わたし達、スクールアイドル部が新しい学校の他の部活にも負けないくらい、真面目に本気で活動していて人を感動させてるんだ、て分かってもらえれば良いんじゃない?」

 そう、わたし達だって本気でぶつかってきた。結果だって残っている。梨子たちの中には、培ってきたものが確かにあるはず。

「それ……、それ良い!」

 活力を取り戻した千歌に「でしょ」と曜は鷹揚に応じる。

「ライブでもやるつもり?」

 と善子が訊いた。方法としては、それが1番かもしれない。「それも良いけど」と月が切り出した。

「実は来週、丁度いいイベントがあるんだ」

 

 

   4

 

「み、未来ずらあ!」

 浦の星女学院とは比較にならないほど大きく整備の行き届いた静真高校の校舎を見上げ、花丸は感嘆の声をあげた。花丸ほどではないにしろ、千歌自身もかなり驚いている。こんな都会みたいな大きな学校が、まさか同じ沼津市内にあったなんて。学校というより、まるで巨大なホール施設みたいだ。

「い、行くの本当に……?」

 あまりの校舎の大きさにルビィが尻込みしている。こういう場で最も緊張しないはずの善子に至っては、何故か塀に身を隠して喚いている。

「あれは、能力者! 我が前世を知る者………!」

 「前世?」と反芻する梨子に花丸が、

「中学時代の同級生ずら」

 あまりの所在なさに善子は踵を返して校門から離れようとしたのだが、その襟首を梨子が掴んで引き留める。

「学校と皆のためよ」

 そんなやり取りに気付いてか、広い校庭にいる静真高校の生徒たち、教員や父兄が一斉に校門前にいる千歌たちへと視線を注いだ。目を引くのも仕方ない。青いブレザーの制服の学校で、千歌たちは浦の星のセーラー服で訪ねてきたのだから。

 向けられた視線の大半が好奇で、拒絶が垣間見えないのは幸いだろうか。よく分からないまま、千歌は口をきつく結び敷居をまたぎ静真高校の敷地へ足を踏み入れる。

 

 新年度の部活動報告会は講堂で開催された。席や照明や音響といった舞台に必要なものが完備されていて、入ったときはまるで映画館みたい、という印象を抱いた。

「緊張する………」

「こんな大きい所だったずらね」

 舞台袖から講堂の様子を伺いながら、ルビィと花丸が声を震わせた。今は弓道部の報告。昨年の大会実績と、新年度の目標を述べている際中だ。

「何言ってるのよ。ラブライブ決勝の会場の方が何百倍も大きか――」

 肝が据わっている善子も、流石にこの会場の雰囲気に圧されているらしい。何百何千という観客の前で歌ってきたけど、この「会場」は今までのどれとも毛色が全く異なる。スクールアイドルのライブ会場としては、あまりにも厳格だ。

「あの時は皆いたし………」

 そう、何よりも大きかったのは9人だった事。決勝で胸を張ってステージで躍り出ることができたのは。9人いれば、怖いものなんて何もなかった。

「いるよ、今も」

 そう千歌は言ってみせる。この6人でも、十分「みんな」だ。

「これで全員?」

 善子が何かを探すように周囲を見渡す。善子にルビィに花丸。梨子に曜に千歌。全員だ。誰も欠けていない。「思ったより6人て――」という花丸の続きを、ルビィが口にする。

「少ないのかも」

 不思議だな、と思った。この6人で活動していた時期だってあるのに。初めてAqoursとして歌ったときは3人だった。メンバーが何人だろうとAqoursは続けてほしい。それが3年生たちの願いで、しっかりと千歌たちは答えとして受け止めたはずなのに。

「曜ちゃん達の番だよ。特別に少しだけ時間貰えたから」

 そこへ、月がそう言いながら来てくれた。生徒会長として、彼女が交渉してくれたらしい。

「頑張って」

 色眼鏡で見られるかもしれないけど、月のように応援してくれる人も絶対にいてくれる。静真高校の中でも、スクールアイドルのファンがいて、Aqoursを知ってくれている生徒がいるかもしれない。

「うん。浦の星の皆のために」

 まさか、ラブライブが終わった後も生徒たちの想いを背負うことになるなんて思わなかった。でも貧乏くじを引かされた、とは思わない。いつだって自分たちは応援してくれる人々、見守ってくれる人々の想いを背負ってきた。ラブライブをひとつの区切りにしたって、背負うものは変わらない。

「そうね」

「大丈夫、できるよ」

 梨子と曜が言う。千歌たちの気力に当てられてか、1年生たちもかつてと同じように瞳に光を灯らせる。

「ゼロから1へ。1からその先へ」

 円陣を組んで、中心で皆の人差し指を当てる。大声は出せないから、いつものコールも控え目に行った。

「Aqours、サンシャイン」

 弓道部の報告が終わり、千歌たちはステージへ出た。ラブライブとは真逆の落ち着いたアナウンスが、会場に流れる。

『それでは、これよりこの春から本校と統合になる、浦の星女学院スクールアイドル部、Aqoursによるライブを行いたいと思います』

 紹介を受け全員で礼をすると、大勢いる観客席から返ってきたのは控え目な拍手だった。歓声なんてない。でも、気圧されるわけにはいかない。

 始まりだ。

 これがわたし達の、新しいAqoursの第1歩。

 この6人で踏み出す。

 6人で――

 それぞれ所定の位置について、曲が流れるのを待つ。心配することなんてない。ダンスも歌唱パートも、9人から6人で行えるよう調整しておいた。練習は場所も時間もなかったから満足にできなかったけど、しっかりと体に染みついているはず。

 それなのに、何故6人のステージはこうも広く寂しいものに思えるのだろう。

 曲が始まった。不安も迷いも振り切るように、千歌はステップを踏み出す。

 

 報告会の後、帰路についた千歌たちは仲見世通りの和菓子屋に立ち寄って、店先にあるベンチで小休憩も兼ねた反省会を行った。ステージを振り返ったところで、全員の口から出たのは盛大な溜め息だったが。

「失敗しちゃったね……」

 沈んだ声でルビィが呟いた。

「まさか、あんな初歩的なミスするなんて」

 梨子も頭が重いのか、すっかり項垂れている。いつも溌剌とした曜ですら、背中が曲がってしまっている。

「気が緩んでた、て訳じゃないと思うけど………」

 花丸は店で買った今川焼を口に運ぼうとしたが、寸でのところで止めて再び溜め息と共に零す。

「何か、落ち着かないずら。6人だと」

 気が緩んでいた訳じゃないし、会場に気圧されていた訳でもない。無意識に9人でやっていた頃と同じ感覚で動いてしまった故のミス。いくら自身を慰めたところで虚しいだけだった。やっぱり、場所を見つけて練習くらいはしておくべきだった。

 ちゃんと6人で。

 9人じゃなく、6人。

「………お姉ちゃん」

 消え入りそうな声で呟いたルビィの声を聞いて、千歌は何と言葉をかければ良いのか分からなかった。縋りたいのは、千歌も同じだったから。

「あ、いたいた。千歌ー!」

 むつの声が聞こえた。向くとよしみ、いつきと一緒に駆け寄ってくる。

「むっちゃん?」

 3人も報告会に来てくれていたらしく、ステージの直後は千歌たちを労ってくれた。気遣ってなのか、静真高校との話し合いを任せたままだった。

「どうだった?」

 曜が訊くと、3人は申し訳なさそうに表情に陰りを帯びる。それでも伝えるべき事をむつは言ってくれた。

「うん。やっぱり、今のまましばらく分校の形にしたい、て」

 「だよね……」と千歌は言うしかなかった。スクールアイドルの全国大会はあんなものか、という父兄の声が想像できる。3人はラブライブがどれ程の規模のものか説明してくれたのかもしれないが、当の優勝者である千歌たちが醜態を晒してしまった以上、いくら弁明したところで父兄の考えは変わらないだろう。

「ごめんなさい。わたし達がちゃんとやっていれば………」

 そう、まずは梨子のように謝罪が先だった。浦の星の皆のために、なんて言っておきながら、むしろイメージダウンを助長させてしまった。

「ううん。千歌たちが悪いんじゃない」

 といつきが言ってくれた。よしみも悪い顔ひとつせず、

「むしろ悪いのはわたし達。廃校の時も今回も、全部を千歌たちに頼りっきりで」

 そんな事ない、と言おうとしたところで、遮るようにむつが言った。

「実際、千歌たち以上に誇れるような部活してきたところもないし」

 浦の星の事情を鑑みれば仕方のない事だった。

「それは、人数が少なくて皆兼部してたからだよ。水泳部だってそうだし」

 曜の言うように、浦の星では兼部なんて珍しいことじゃなかった。部員数が少なすぎて大会に出場できないから、と助っ人として籍だけ入れておく、という形の生徒も大勢いた。当然、人数合わせなのだから練習もろくにできず大会で結果なんて残せるはずもない。曜も、元は水泳部だったのにAqoursの活動を優先してくれていたのだから。

「でも、だからこそわたし達がちゃんとやらなきゃいけなかったんだよね」

 事情を並べたところで、そんなものは所詮言い訳だ。どこの部も「全力」になれない環境にあった浦の星で、千歌たちAqoursが一縷の望みだったのだから。

 むつは微笑を零すと、何も言わず和菓子屋の店内に入っていく。すぐに出てきた彼女は、抱えた紙袋を「はい」と千歌に差し出した。「ありがとう」と受け取った紙袋は重みがあって温かい。

 むつは言った。

「浦の星の皆、分かってるから」

 よしみも。

「古い校舎も悪くない、て」

 そしていつきも。

「むしろ、わたし達っぽくてちょっと良いかな、なんて」

 明るく言ってのける3人だけど、その笑顔が千歌にとっては辛かった。ごめん、なんて言葉が軽々しく思えて、簡単に口にはできない。俯かせた視線は無意識にお菓子の紙袋を覗いていた。中身は6枚の今川焼だった。

 

 

   5

 

「6人か……」

 夜も更けてきた頃、旅館の窓辺にもたれかかりながら、千歌はそう零していた。自室で彼女の物憂げな顔を見ていた梨子はベランダに出る。

「何か、久しぶりだね。こうやって話すの」

 梨子が言っても、千歌は重そうな頭を上げようとしない。

「まだ気にしてるの?」

「そういう訳じゃないけど」

 気にしてるんだ、と彼女の抱えているものが自分の事のように分かってしまう。

「スクールアイドル、て他の部活に比べて誤解されやすいと思うの。ステージ上ではいつも笑顔だから真剣さが足りないように見えるし、楽しそうにしてるから遊んでいるようにしか見えない時もあるし」

 プレリュードがベランダに出てきて、梨子の足にすり寄ってきた。起こしてしまったらしい。

「そうかな?」

「でも実際は、歌いながらダンスして、辛そうだったり不安そうに見えたら、見ている人も楽しめない。絶対そういうところは見せないようにしないといけないし」

 愛犬を抱き上げながら梨子は言った。

「諦めず伝えていくしかないと思う。浦の星の生徒だって、真剣に頑張ってきたんだ、て。スクールアイドルだって、新しい学校の部活に負けないくらい、真面目に努力してるんだ、て」

 結局のところ、梨子たちにできる事といえば、それしかない。真剣さを伝えること。今日の報告会では失敗してしまったけど、地道にやっていくしかない。

「それは、思ってるんだけど」

 そう寂しげに言うと、千歌は海岸へと目を向けた。

「海、見に行かない?」

 もうすっかり春とはいっても、夜はまだ冷える。寝間着のままだと肌寒いから、梨子は薄手のカーディガンを羽織って三津海水浴場の潮風を浴びた。こんな季節の海に、1年前のわたしは飛び込んだんだ、と思うと恥ずかしさが蘇ってくる。

「6人で続ける、てどういう事なのかな、て」

 そう言うと、千歌は砂浜に寝そべって星の散りばめられた夜空を見上げる。

「鞠莉ちゃん達に6人でも続けて、て言われた時はその通りだな、て」

 「よーし!」と千歌は体を起こして両腕を振り上げる。

「――て気合入ってたんだけど、6人になったら何か急に不安になった」

 それは1年生たちも感じていた不安だった。3人だけじゃない。後輩の手前として口に出さなかったけど、梨子もそうだ。きっと曜だって。

「きっと、あのステージに立った瞬間、気付いたんだ」

 立ち上がった千歌は夜の色に染まる波間を眺め、

「ああ、もう鞠莉ちゃんもダイヤちゃんも果南ちゃんもいないんだ、て」

 それに、翔一くんも。

 その名前を噛み殺しているように思えた。アンノウンが現れなくなって、誠は東京に戻った。涼も東京に移った、と果南から聞いている。そして翔一は、もうこの海や空の広がる世界のどこにも居ない。彼は彼の往くべき「居場所」へ往ってしまった。

 梨子たちを引っ張ってくれた背中、護ってくれた背中はもうない。

「新しいAqours、て何だろう。3人がいないAqours、て………」

 千歌は問い続ける。大きかった背中がなくなってしまった今、梨子たちの前に広がるのはどこまでも広がる平原のようなものだ。舗装された道なんてなくて、どこへ往けば良いのかも分からず、踏み出した先が果たして正しいのか迷ってしまう。

「どうする、これから?」

 梨子は訊いた。今の千歌には酷かもしれないけど、決めなければならないことだ。

「このままだと浦の星が、スクールアイドルが誤解されたままになっちゃうかも」

 それこそ、一緒にやってきた3年生も誤解されてしまう。あの3人が居てこその優勝だったのに、その駆け抜けた自分たちの軌跡がただの「お遊び」で済まされてしまうなんて、梨子は嫌だ。

 「でも」と煮え切らない千歌に、梨子は更に言う。

「失敗は、自分たちで取り戻すしかないんじゃない?」

 今日の失敗は、自分たち6人での失敗。それを取り戻せるのは3年生じゃなくて、今の6人でなければ成せないこと。

「まだ、間に合うと思う」

「間に合うかな?」

「うん。今度こそちゃんとできる、てところを反対してる人にも見てもらう」

 千歌は微笑を零し、

「ライブ?」

「わたし達の答えは、前に進みながらじゃないと見つからないと思う。不安でもやろうよ、ラブライブ」

 思い返してみれば、往くべき目印がないなんて、9人の頃も同じだったじゃないか。どこへ進めば良いのか、進んだ先が正しいのかも分からない。ただ目の前の事を、自分たちができる事を手探りで一所懸命やっていく。それがAqoursの走ってきた道だった。

 ようやく、千歌はいつもの笑顔を見せてくれた。

「何か梨子ちゃんぽくない」

「1年一緒にいたから、誰かさんの色に染まっちゃったのかな」

「誰の?」

 察しの悪いその誰かさんの鼻を、梨子は摘まんでやる。不意打ちに鼻声で喚くその豊かな表情は、1年前と良い意味で変わっていない。

「千歌ちゃんぽいね」

 手を離すと、「もう」と千歌は不貞腐れながら鼻をさする。あの頃とは色々と変わったけど、まだ変わっていないものもある。これから変わるかもしれないし、このままなのかもしれない。

「わたし達、きっとまだまだなんだな、て思う」

 梨子がそう言うと、千歌は「優勝したんだよ」と応じる。確かに優勝はした。全国で1番のスクールアイドルと認めてもらえた。

「でも、まだまだダメダメよ」

「そっか、ダメダメか」

 と応酬をすると、何だか可笑しくなってふたり揃って笑った。

「嬉しそうね」

「梨子ちゃんこそ」

「うん、何かそっちの方が、わたし達らしいかも」

「まだまだ、てやらなきゃならない事たくさんある、て事だもんね」

 まだゴールじゃない。自分たちにはやるべき事、克服すべき事があるし、これからも更にそれは増えていく。その終わりの視えないことが、今は何故か心地良い。

「走ろうか」

 梨子は言った。「うん!」と頷いた千歌と一緒に、夜の砂浜をふたりで駆け出す。

 

 

   6

 

 島郷海水浴場の砂浜が、踏み込む足を取り込もうと沈んでいく。コンクリートのように弾いてくれなくて、足に普段よりも力を入れなければろくに走ってなんかいられない。久々の本格的なランニングということもあって身体も鈍っているみたいだ。まだ始めて間もないのに、もう疲れがき始めている。

「眩しいずらあ」

 照りつける陽光にそう弱音を吐きながらも、花丸はしっかりと着いてきていた。

「あともういち往復いくよ!」

 先頭を走る曜が、後方にいる千歌たちに呼びかける。「ええ」とぼやきながら、崩れた姿勢で千歌たちは追いかけるのがやっとだった。

 これでもまだウォーミングアップ。ランニングの後は、ストレッチで硬くなった筋肉をほぐしていく。鉛みたいに重くなった身体は、伸ばすと少しぎこちなくなっていた。

「それで、練習場所はどうなったの?」

 善子の質問に、千歌はまだ粗い呼吸のまま答える。

「色々探したんだけど、見つからなくて」

「しばらくは、ここでやるしかないわ」

 梨子が続くと、善子は「ここ?」と訝し気な顔をする。浦の星は閉鎖されているし、あの分校の校舎もまだ使えない。プラザヴェルデも有料なら以前の練習場を借りられるけど、生憎千歌たちの財布事情を考えると厳しい。

 十分な広さがあって無料で使える場として唯一あったのが、この島郷海水浴場だった。

「何か、最初の頃に戻ったみたいだね」

 曜が言った。「最初?」「ずら?」とルビィと花丸が尋ねてくる。そうだ、と千歌は思い出す。ふたりが入った頃に丁度部室と練習場所が与えられたんだった。

「練習場所も決まってなくて、部室もなくて、グループの名前どうしよう」

 すっかり懐かしい気分になりながら、千歌はかつても使わせてもらった海岸を見渡しながら後を引き継ぐ。

「なんて、曜ちゃんと梨子ちゃんと話してた頃、ここで練習してたんだよ」

 思えば当時は何も知らなくて、決まっていなかった。やる気ばかりが先行して、曲もダンスも出来たというのに肝心なものがまだ千歌たちには無かった。

「そして出会ったのよね、Aqoursと」

 梨子が言った。千歌たちが砂浜に綴っていた候補の中に紛れていた「Aqours」の文字。実はあの場にいたダイヤが残してくれていなかったら、全く別のグループ名になっていたかもしれない。千歌発案の浦の星スクールガールズ、曜発案の制服少女隊、もしくは梨子発案のスリーマーメイドのいずれかに。

 どれの名前を取っても、今の自分たちにはしっくりこない。やっぱり、わたし達はAqoursだ。これまでも、これからも。

「お久しぶりでーす!」

 その声が聞こえて、石段のほうへ目を向ける。Aqoursと競い合った姉妹。妹の名前を、ルビィは「理亜ちゃん」と嬉しそうに呼ぶ。

「Saint_Snowさんずら!」

 と花丸も驚きながらふたりを歓迎した。「どうしてふたりが?」と訊く曜に、千歌は事の成り行きを説明する。

「メールしたら東京に来てる、て言うから、ちょっと練習見てもらおうかと思って」

 「まったく」と理亜は不機嫌そうに腕を組み、

「せっかく姉様の卒業旅行中だったのに。いつもいつも呼び出さないで」

 と言いながら石段を下ってくる理亜に「ごめんね」と詫びを入れる。本当に、わざわざよく来てくれたものだ。東京に比べたら何もない沼津まで。それでも聖良は笑いながら、

「平気ですよ。理亜も凄く行きたがってましたから」

 「姉様!」と抗議する理亜に、全員で「へえ」と細めた目を向ける。睨まれたが、咄嗟に目を逸らしはぐらかした。

「じゃあ早速ですけれど、見てもらえますか? 今のわたし達のパフォーマンスを」

 梨子の頼みに「はい」と聖良は快く頷いてくれる。

 波の音交じりにスマートフォンで曲を流し、通しで披露する。瞬きもせず真剣に梨子たちの動きと歌声に目と耳を澄ませてくれていた聖良は、1曲を終えたところで「なるほど」と呟いた。「どうですか?」と恐る恐る千歌が訊く。石段に理亜と共に腰かけていた聖良は立ち上がり、

「はっきり言いますよ。そのためにわたし達を呼んだんでしょうし」

 聖良は忖度なんてしない。それを分かっていたからこそ、彼女に今の自分たちを見て欲しかった。どんな評価を下されようが、受け入れるつもり。

「そうですね。ラブライブ優勝の時のパフォーマンスを100とすると、今の皆さんは30――いや20くらいと言って良いと思います」

 淡々と告げられた評価に「そんなに⁉」「半分の、半分てこと?」と善子とルビィが落胆を漏らす。それでも聖良の評論は止まらず、

「それだけ、3年生3人の存在は大きかった。松浦果南のリズム感とダンス。小原鞠莉の歌唱力。黒澤ダイヤの華やかさと存在感。それはAqoursの持つ明るさや元気さ、そのものでしたから。それがなくなって、不安で心が乱れてる気がします」

 後ろで控えていた理亜も、聖良よりも辛辣に告げる。

「何か、ふわふわして定まってない、て感じ」

 散々な物言いに善子は苛立ったようなのだが、何も言わず不貞腐れながら砂浜に座り込む。

「見事に、言い当てられてしまったみたいね」

 梨子の言う通りだ。やっぱり、聖良の目は確かだった。千歌たち自身も勘付いていたこと。それでも前へ前へ、と駆け出したは良いけど、やっぱり頼っていた3人がいなくなってしまったことで失速は否定できない。

 3人のいないAqoursがどう在るべきなのか、未だ見出せていない。わたし達、またゼロに戻っちゃったんだな、と千歌は肩を落とした。

「でも、どうしたら――」

 ルビィの弱音は、理亜の逆鱗に触れてしまったらしい。

「そんなの、人に訊いたって分かるわけないじゃない!」

 その気迫に千歌たちは勿論のこと、聖良すらも圧されている。

「全部、自分でやらなきゃ。姉様たちはもう、いないの!」

 耐えられなくなったのか、理亜は海岸を駆け出した。裡に溜め込んでいたものを発散させるように。運動靴じゃないのに、彼女の走りはとても早く砂浜を疾駆していく。その姿だけでも、彼女はあれからも練習を重ねていたことが理解できた。

「すいません」

 と聖良は妹の非礼を詫びる。

「理亜ちゃん、新しいスクールアイドル始めたんですか?」

 ルビィが訊いた。函館でAqoursとの合同ライブを経て、Saint_Snowは終わりにする。理亜はそう決断して、聖良は寂しげだったけど妹の意思を尊重していた。そんな彼女は少しばかり気まずそうに、

「そのつもりはあるみたいですけど、なかなか………。新しく一緒に始めよう、て何人かは集まったみたいですが、あんまり上手くいってないようで………」

 「あの性格だもんね」とさっきの仕返しのつもりか、善子が皮肉を漏らす。すぐ花丸に茶化されたが。

「人のこと言えるずらか?」

「うっさいわい!」

 性格もあるだろうけど、理亜はレベルが高すぎるのだろう。技術だけでなく、スクールアイドルそのものに対する熱意も。前大会では優勝候補と目されていたし、その更に前の大会では決勝にまで進んでいる。一緒に活動するのに、周囲からは畏れ多い存在として見られてしまうのかもしれない。

 千歌たちは小さくなっていく理亜の背中を見送るしかできなかったのだが、ただひとり、ルビィだけは彼女を追って走り出した。

 

 僅かな期間とはいえ、ブランクがあるルビィが理亜に追いつくのは、彼女がペースを落とすのを待つしかなかった。疲れたのか、それとも後方からの気配を感じ取ってなのか、理亜は徐々にスピードを落として足を止める。

 ようやく追いついて息を切らすルビィを、理亜はしばし睨みつけていたが背を向けられてしまう。

「ごめんね」

 ようやく整った呼吸で、ルビィは言った。

「理亜ちゃんはひとりで頑張っているのに………」

 考えてみれば、ルビィはかなり恵まれている。千歌たちという先輩がいるし、花丸と善子という友達がいる。対して理亜はひとりだ。聖良が卒業して、Saint_Snowという聖域を自分で終わらせて。甘えている、と見られても反論はできない。

「ラブライブは、遊びじゃない………!」

 返ってきたのは、もう理亜の口癖のような言葉だった。ずっと姉と追いかけてきた夢。これからはひとりで追っていかなければならない恐怖からなのか、声が震えているように聞こえた。

 

 理亜とルビィのもとへ歩いていたところで、聖良は「そういえば」と思い出したように訊いてきた。

「津上さんはお元気ですか?」

 唐突に出てきたその名前に、千歌は「え?」と面食らってしまう。聖良は穏やかに笑い、

「助けて頂いたお礼を言いたくて何度か連絡したんですけど、どうしてか繋がらなくて」

 「助けた、て?」と曜が訊くと、聖良は自身の掌へと視線を落とす。

「わたしには不思議な力があるみたいなんです。津上さんと同じアギト、ていう」

 その告白に、場にいた全員が「ええ⁉」と驚愕の声をあげた。

「聖良さんも?」

 梨子が口走った最後の部分が気になったのか、聖良は「も、て事は、まさか」と千歌たちを見開いた目で見つめる。皆が首肯し、花丸は「3年生の3人もそうずら」と付け加える。

「黄昏に集いしアギト……」

 なんて善子が恥ずかしい事を言っている横で、千歌は所在なく頬を掻いた。

「わたしだけ、普通ですけど」

 聖良はしばし逡巡していたけど、頬を緩ませ「そうだったんですか」と呟いた。

「わたしはこの力に気付いてから、これからどうすれば良いのか分からなくて、不安で取り返しのつかないことをしかけて」

 翔一や涼や他の皆の例に漏れず、聖良にもその苦悩があったらしい。自分は人でなくなってしまうのか。どうやって生きていけば良いのか。他にもアギトの力を持つ人々が現れたら、そんな苦悩もいずれは世の中から薄れていくのだろうか。力を持たない千歌には無縁な悩みだけど、考えずにはいられない。

 聖良は晴れやかな表情を浮かべる。

「そんなわたしに、津上さんは生きて、て言ってくれたんです」

 生きて、か――

 翔一らしい優しさと強さを携えたその言葉が、千歌は自分のことのように誇らしかった。どこへ行っても、翔一くんは翔一くんだったんだな、と。翔一がアギトと知っているのなら、彼は聖良の前で変身しアンノウンと戦ったのだろう。いくら姿が変わっても、大切なものは変わらない。自身の在り方でそれを証明し、彼は聖良の心を救った。

「それで、津上さんは?」

 改めて向けられた問いに、千歌のみならず皆が逡巡した。どう言えばいいのか、探り探りながらも、千歌は答える。

「翔一くんは、遠いところに往っちゃいました。凄く遠いところ。きっと今のわたし達じゃ、届かないくらい」

 ひどく曖昧だけど、聖良は「そうですか……」とひとまず納得はしてくれたらしい。同じ力があるのなら、彼女も何か感じるものがあるのだろうか。翔一がこの世界に見出してくれた「輝き」を。

 ルビィ達のもとへ辿り着いたとほぼ同時、ばりばり、と空気を裂くような音が空に響いた。

「な、何?」

 と目を細めながら、千歌は空の1点で飛ぶ飛行物を捉える。それはヘリコプターだった。

「これ、前も確か似たような………」

 曜がその既視感を口にする。あの時と同じだ。全容がはっきり見えるほどの低空飛行で、真っ直ぐこちらへ近付いてくる。ヘリは千歌たちもとへ下降してきて、回転翼の起こす突風で海岸の砂を舞い上がらせた。

「ま、ま、ま………」

 突風のせいで上手く口が回らない。でも恐らく鹿角姉妹を覗く全員が、そのヘリの持ち主をすぐに理解したことだろう。ピンクの派手なカラーリングも当時のままだ。本人曰くピンクではなくマゼンタらしいのだが、そんな事はどうでもいい。

「鞠莉ちゃんだ!」

 自分で発した名前すらもローター音でかき消されていく。ヘリの扉が開いた。シートに腰掛けるのはサングラスを掛けたブロンドの少女――

「ずら⁉」

 その違和感を花丸は叫ぶ。

「鞠莉ちゃんじゃ、ない……?」

 近くにいなければ、曜の声も聞こえなかっただろう。鞠莉と同じ色の髪は彼女よりも長いし、何よりも明らかにそれなりの歳を重ねているのが砂塵を撒き散らす視界の中でも見て取れた。

 ヘリのローター音をするりと抜けるような声で、その女性はネイティブな英語交じりの口調で告げた。

「My daughterがいつもお世話になっておりマース!」

 サングラスを外して露になった瞳は、彼女のdaughter()とよく似ていた。

「小原鞠莉の母、Marie’s Motherデース!」

 

 



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第2話

 俺は思いの力を信じる。
 愛の力こそ、人間の無限の可能性そのものだ。

――仮面ライダーゴースト 天空寺(てんくうじ)タケル




 

   1

 

 小原家の自家用ヘリで千歌たちが招待されたのは、ホテルオハラの小劇場だった。富裕層向けのリゾートホテルなだけあって、楽団の生演奏を聴きながらディナーを楽しませる空間の印象は豪奢のひと言に尽きる。

 柔らかいカーペット張りの床に1列に並べられた椅子に促された千歌たちに、Marie’s Motherはステージに設置されたグランドピアノで曲を披露してくれた。滑らかな指使いで奏でられる音色に素直に感激しながら、でも未だ拭えない困惑も交えながら、千歌と、不測の客人だった鹿角姉妹は劇場の隅でただ曲に聴き入っている。

 一体自分たちは何を見せられているのか。それにヘリでこの婦人から聞かされた事実の意味は。

 鞠莉たちと連絡が取れない。

 その話を詳しく聞きたいところだけど、娘そっくりなこの突拍子もない演出を今はただ受け止めるしかない。

 ようやく曲が終わった。椅子から立ったMarie’s Motherは改めて千歌たちへと向き、

「皆さんの事はMarieからよく聞かされてました。学校の事、本当にありがとうございマース」

 深く頭を下げられ、千歌たちも釣られて会釈を返す。花丸が声を潜め、隣のルビィに訊いた。

「ルビィちゃんは?」

「ルビィは、せっかくの卒業旅行だし連絡しないようにしてたから」

 Marie’s Motherは少しばかり険のこもった声色で、

「あのハグゥとデスワの3人、一切連絡が取れなくなってしまったのデース!」

 舞台役者さながらの大仰な身振りに確かな鞠莉の遺伝子を感じる。

「ハグゥとデスワ、て?」

 と曜が謎の呼び名を反芻する。

「間違いなく果南ちゃんとダイヤちゃんね」

 恐らく全員が抱いた予想を梨子が告げる。どうやら、この婦人は娘の親友をあまり快く思っていないらしい。

「あなた達なら、きっとMarieを見つけられるはず!」

 からん、と千歌の足元に小さい何かが軽い音を立てて落ちてきた。丸い金色のそれはコインのようで、皮切りに天井に空けられた穴から大量のコインが降ってくる。千歌たちの腰のあたりまで埋め尽くしたところで、ようやくコインの雨は止んだ。天井の穴は、本来なら紙吹雪を散らすための舞台装置だろう。「あたっ」と運悪く頭にコインが直撃した善子の隣で、梨子が黄金に輝くコインの山を見渡しながら尋ねる。

「ま、まさか、3人を見つけたらこのお金を……?」

 コインの柄からして日本硬貨ではなさそうだ。円に換算したらいくらになるのだろう。そんな現金なことを考えていたところで、コインを1枚手に取った花丸が表面の塗装を指で擦る。塗装は簡単に捲れて、露になった黒い表面に鼻をひくつかせると口に運んでひと言。

「これチョコずら」

 「はい」とMarie’s Motherは満足げに頷き、

「渡航費用は出す、という意味のperformanceデース」

 全身に脱力感を覚えながら「ですよねえ」と千歌は呆れ半分に応じた。流石はあの鞠莉の母なだけある。

「しかし本当に見つけてくれたら、それ相応のお礼はいたしますので、是非」

 とMarie’s Motherはコートのポケットから金封を取り出す。

「ふ、任せて」

 と善子はコイン型チョコレートの山から立ち上がり、

「この堕天使ヨハネのヨハネアイにかかれば、3人を見つけることなど、造作もないこと!」

 「お金に目が眩んだずらか?」とチョコを食べながら花丸が皮肉を飛ばす。

「何言ってんの。次のライブの資金に決まってるでしょ!」

 と反論したところで、「あああ、ライブ!」とルビィが声をあげた。

「そうだよルビィ達、ライブがあるんだよ!」

 そうだった。準備期間も余裕があるとは言えない。

「でも行方不明なんだよね。心配は心配かも」

 と曜が言った。時間は無いけど、そっちの方も気掛かりではある。

「どうする?」

 梨子も重ねて訊いてきた。行方不明なら現地の警察に任せるのが最善かもしれないけど、この引っ掛かりを抱えたままライブの準備に集中できるかどうか。3人がかつてあかつき号で事件に巻き込まれたことを鑑みると、ここでじ、としているのも歯がゆい。

「行ってきた方が良いと思います」

 そう言ったのは、ずっと静観を決め込んでいた聖良だった。

「先ほど、皆さんの練習を見て思ったんです。理由はどうあれ、1度卒業する3人と話をした方が良い、て」

 「でも……」とまだ決めあぐねる千歌に、聖良は更に告げる。

「自分たちで、新しい1歩を踏み出すために今までの事をきちんと振り返る事は、悪い事ではないと思いますよ」

 新しい1歩を踏み出すために、か。

 裡でその言葉を反芻する。次へ進むために、今は過去のメンバーになってしまった3人の想いに、もう1度触れてみるべきだろうか。

 少しだけ、怖かった。3人とまた会う事で、今抱えている不安や裡にぽっかりと空いた穴が、尚更に広がってしまいそうで。

「千歌ちゃん」

 梨子の声に、千歌は俯いていた顔を上げる。

「聖良さんの言う通りだと思う」

 続けて曜も、

「ライブの練習はどこだってできるし、これまでだってやってこれたじゃん。大丈夫、できるよ」

 そうだった、と思い出す。無謀でも自分たちはやってきた。できない理由を探すんじゃなくて、できるための方法を探して。

 うん、できるよね。絶対。

「分かった、行こっか!」

 決意を固めて、コインの山から抜け出す。「Oh!」とMarie’s Motherはステージから降りて千歌に抱き着く。

「Verry verry thank youデース!」

「で、鞠莉ちゃん達3人はどこに卒業旅行に行ったんですか?」

 千歌の質問をMarie’s Motherが答える前に善子がまくし立てる。

「北の試練の地? 南の秘境?」

 修行に行ったんじゃないんだから、と言いたくなったがそれは無視して、恐らく行き先を知っているルビィが「それが……」と言いかける。「それが?」と花丸が先を促すと、ここぞとばかりにMarie’s Motherは再びステージに登った。

「3人が旅しているのは、わたし達小原家の先祖が暮らした地」

 確か鞠莉は父が日本人で、母がアメリカ人だったと聞いている。Marie’s Motherの家系は数世代ほど前に大西洋を渡ってアメリカ大陸の地を踏んだという話も。

「それって……」

「もしかして――」

 曜と千歌が予想を口にしたところで、劇場の照明が暗転した。すぐにステージのスポットライトが明転して、いつの間に降ろされていた巨大な地図を照らし出した。

「ここデース!」

 Marie’s Motherが両腕を広げて示す地図は、地中海の辺りを拡大したもの。海に突き出したブーツのような形の国は目立つよう赤く着色されていて、国名が記されていた。

 伊太利亜、と。

 

 

   2

 

 イタリア北東部で本土から切り離されて形勢された島々は、数にして数百もあるという。それらの島をひとつの自治体に纏め上げた区画は今ではイタリアという国のひと区画として組み込まれているけど、中世の頃では共和国として独立していて他国との貿易によって当時最大の商業都市として栄えた歴史を持つ。

 栄華を誇った時代から数世紀が過ぎても、街の華やかさは健在で「水の都」や「アドリア海の真珠」という呼び名で観光業が盛んに行われている。

 大陸本土から結ばれたコスティトゥツィオーネ橋を鉄道で渡った千歌たちは、ヴェネチアの玄関口であるサンタ・ルチーア駅に到着した。

「ヨハネ、彼の地に堕天!」

 異国でも自身のペースを崩さず、むしろヨーロッパという堕天使の「本場」という事もあってか助長された善子の口上で、周囲にいた白鳩が驚いて一斉に飛び経った。

 白亜の鳥たちが教会のドームを背景に蒼穹へ飛んでいく様は、このヴェネチアでは何気ない風景でも千歌にとってはさながら映画のワンシーンのようで気分が高揚する。

 「着いた!」と曜は長旅で凝り固まった体を動かし、そのすぐ傍では花丸とルビィが駅前広場で売っていたアイスクリーム――この国ではジェラートと呼ばれている――に舌鼓を打っている。

「ピスタチオ、ボーノずら!」

 と覚えたてのイタリア語で満足げな花丸に「はやっ」と呆れた顔を善子は向ける。

「チョコもあるずら」

「善子ちゃんも食べる?」

 ふたりから差し出されたジェラートに善子は手を伸ばしかけたのだが、

「当たり前――でも前にこのパターンで酷い目に遭った記憶が………」

 「でも食べる!」と誘惑に負けた善子はチョコレート味のジェラートを口に運び頬を綻ばせた。

「それで連絡は?」

 梨子が訊くと、ストリベリー味のジェラートを食べようとしたルビィは視線を落とし、

「お姉ちゃんからは何も」

 身内のルビィにすら来ないとは、余程の非常事態なのだろうか。千歌も一応、連絡はしてみたのだが、

「果南ちゃん鞠莉ちゃんからも無いまま。最初にこっちに来るよ、て送ったときに届いたのはこれだけ」

 スマートフォンで果南から返信されてきた写真を表示する。水路のようだけど、土地勘なんて無いのだからどこだかさっぱりだ。場所を教えてほしかったけど、メールに文面はなく届いたのはこの写真だけ。

「この写真の場所に、取り敢えず行くしかないよね」

 と曜は言うのだが、看板とか目印になるような物も写っていないからどこなのやら。

「ここ、すぐ近くだよ」

 そう言ったのは、この捜索に同行してくれた月だった。「分かるの?」と千歌が訊くと「うん」と曜が自分の事のように、

「月ちゃん、小さい頃イタリアに住んでたから詳しいんだよ」

 知り合ってまだ間もないのに千歌たちの問題に巻き込む形となってしまったが、当の本人は「ガイド役だね」と得意げに、

「分からない事があったら何でも訊いてよ」

 これ程頼もしいガイドはいない。ここまでの入国手続きや店での注文など、日本語が通じない場面で既に何度も月には助けてもらった。幼い頃とはいえ、住んでいた土地の言語はまだ健在らしい。

「さあ、レッツヨーソロー!」

 と敬礼しながら先陣を切る月に、曜は悔しそうに良いながら後を追いかけた。

「こら、それわたしの台詞!」

 月の後に着きながら歩くヴェネチアの街は、水の都という呼び名に相応しくどこの通路を歩いても傍らには水が流れている。

「凄いね、どこに行っても河がある」

 水面を注視しながら千歌が言うと、月は本物のガイドさながらに説明してくれる。

「街中水路が張り巡らされているからね。逆に車は通れないんだ」

 「そうなんですね」と梨子は嘆息した。随所に小舟が留められていて、時折観光客を乗せた船が水路を通っていく。この街では水路が道路で、交通手段は船というわけだ。

「ここだよ」

 水路に渡された石橋の上で月がそう言って足を止めると同時、「ピギィ!」とルビィの悲鳴が聞こえた。危うくはぐれかけるところだったのか、千歌たちのもとへ猛ダッシュしてきて「花丸ちゃーん!」と親友に抱き着く。抱き着かれた花丸は特に驚くことなく、「おお、よしよし」と優しくルビィの頭を撫でてあげた。後で訊いたら、土産物屋のショーガラスに並んでいた仮面が怖かったらしい。ヴェネチアでは年に1度カーニバルが催されて、人々は豪奢な衣装と仮面を付けて踊るという。

 橋の上で、千歌はスマートフォンに送られてきた写真を表示して目の前の景色にかざしてみる。

「本当だ」

 見事に一致した。「確かにここね」と梨子も写真と景色を見比べる。指定された場所に着いたは良いものの、当の3人はどこにも見当たらない。

 ジリリリ、とベルのような音が鳴った。まるで日本のひと昔前のダイヤル式黒電話に似た音だ。音のほうに向くと橋を渡った先に広場があって、その中央に植えられた樹の下に公衆電話が設置されている。

「電話、鳴ってるね」

 と曜が恐る恐る言った。公衆電話は受信できるものなのか。こちらではそういう仕様なのかもしれないけど、近くにいる現地人らしき人も眉を潜めていることから常識ではならいらしい。

 怪しさ満載な音に動けずにいる千歌たちの中から、月が電話へと駆け寄って受話器を取る。千歌たちが追いつく頃、ほんの数秒ほどだったのだが、月は受話器を戻した。

「月ちゃん?」

 千歌が呼びかけると、月は「ボーヴォロ………」と呟くとこちらへ振り向き、

「コンタリーニ・デル・ボーヴォロだ、て」

 月曰く、電話の相手はそれだけ言って通話を切ったという。月以外の人間が取っていたら間違いなく何の事か分からなかった。本当に、月が居てくれて良かった。

 目的地までの経路を月は熟知していて、地図なしで入り組んだヴェネチアの路地を進んでいく。縦横に水路が張り巡らされた市街みはまるで迷路だ。そんな街並みもあって、何だか宝探しでもしているみたい。

「ったく、どう考えても怪しいじゃない」

 そう愚痴を零したのは善子だった。

「もしかして元老院………」

「良いから行くずら」

 確かに怪しいのだけど、異国の雰囲気に高揚する気分はどうしてもこの旅が3人の捜索という目的を忘れさせてしまう。

「こっち?」

 千歌が訊くと、月もこの辺りの記憶は曖昧なのか多分と周囲を見渡しながら答える。丁度その時に建物の陰から出て、陽光の眩しさに千歌は目を細めた。

 目が慣れてくると視界に入り込んだのは、建物に据え付けられた円柱の塔。

「何これ!」

 塔の外周には無数の白亜の柱が並んでいて、層の間に敷き詰められた赤レンガをアーチで支えている。斜めに並ぶアーチは真っ直ぐに伸びる塔に対してアンバランスなもので、他の景色まで斜めに傾いてしまうような錯覚を起こす。

「凄い!」

「中世にタイムスリップしたみたい」

 曜と梨子が感嘆の声をあげる。建物の様式が他と異なるのが素人目でも分かるほどで、この塔が建てられた当時に居るみたいに思える。白亜の柱は長い年月で汚れているけど、その年季の入り方も風情がある。

「この建物の上にいるはずだけど」

 月が言った。という事は、ここがコンタリーニ・デル・ボーヴォロなのか。

 塔の最上階から、誰かがこちらへ手を振っているのが見えた。

「あ、お姉ちゃん!」

 ルビィがそう呼ぶ。塔の中で、彼女の隣にはしっかりとふたりもいた。

「鞠莉ちゃん、果南ちゃん!」

 その姿を認めると、千歌たちは真っ直ぐ塔に入った。塔そのものが螺旋階段になっていて、ぐるぐると回るように石の階段を駆け上がっていく。螺旋階段だから分かり辛いが、この塔の高さは日本の建築からすると7もしくは8階層になるらしい。そんな建物を休みなく一気に上ったものだから、最上階に辿り着く頃には流石に息が粗くなった。

「お姉ちゃん!」

 いの1番に最上階に着いたルビィは、待ってくれていた3人へと走り姉の胸に飛び込む。

「よくここまで来ましたわね、こんな遠くまで」

 妹を抱き留めたダイヤは、優しく言いながら「だって、だって……」と嗚咽を漏らすルビィの頭を撫でた。

「良かった、3人一緒だったんだね」

 ひとまず無事で良かった。千歌が言うと鞠莉は「Of course! ずっと一緒だよ」と応えた。見たところ、完全に旅行の際中、といった様子だ。事件に巻き込まれたようには見えない。

「どうして行方不明に?」

 ルビィが訊くと、3年生たちは一斉に眉を潜めて反芻した。

「行方不明?」

 何だか色々と食い違いがある気がする。頭を抱える鞠莉を見て、千歌はそう思った。

「やっぱり、そういう事になってるのね!」

 盛大な溜め息と共に鞠莉は言った。

「鞠莉のお母さんは、千歌たちに何て言ってたの?」

 果南からの質問に「特には」と梨子が答える。千歌も続けて、

「ただ、行方不明になって心配だから、て」

 そこでダイヤはここで初対面の人物がいることに気付き、

「で、そちらの方は?」

 3人に月は特に臆した様子もなく、

「初めまして、渡辺月といいます。曜ちゃんの従姉妹です。よろしく」

 敬礼する彼女を、「Oh, Verry pretty!」と口にする鞠莉は気に入ったらしい。この他人との距離を簡単に縮めてしまうのは、流石は曜の従姉妹といったところか。

 そこに、遅れて到着した花丸が膝を笑わせながらやって来た。

「ここの階段、目が回るずら………」

 床に倒れ込んだ彼女を、善子は「ご苦労」と彼女なりに労わる。ひとまず花丸にはそのまま休んでもらうとして、

「でも、千歌たちが何も知らされてない、て事は――」

 果南が言うと、続いてダイヤは忌々し気に声を絞り出す。

「だしに使われた、て事ですわね」

 「だし?」と千歌が訊くと、鞠莉がまなじりを吊り上げて答えた。

「チカっち達が来る、て分かればわたし達が必ずコンタクトを取る」

 「それでおびき出して」と付け加えた果南は少し疲れているようにも見えた。

「捕まえよう、て魂胆ですわ!」

 そう言ってダイヤがポケットから取り出したのは1枚のチラシだった。「MISSING!!」と書かれた下のは涙を浮かべた鞠莉の似顔絵と、その下には悪そうな顔をした果南とダイヤが描かれている。

「じゃあ行方不明、て嘘だったんですか?」

 と梨子が訊いた。つまり千歌たちは、Marie’s Motherの思惑にまんまと乗せられていたわけだ。そもそもの話、どうしてこんな大掛かりな逃走劇が繰り広げられる事になったのか。それを訊こうとしたところで、最上階に他の観光客が来たようだった。千歌たち――というより鞠莉たち3人に視線を注いでいて、手にはチラシが握られている。どうやら、あの手配書はヴェネチア中に広がっているらしい。

「ここはあまりlong stay(長居)は無理デスネ」

 鞠莉が呟くと同時、曜がくんくん、と鼻を鳴らした。既視感と嫌な予感がする。しかも今回曜のみならず、月までくんくん、と鼻を鳴らしている。

「曜、飛べ!」

 と鞠莉が外へ放ったのは、ボーダー模様のポロシャツ。ヴェネチアのゴンドラ乗りの――

「せいふくうっ!」

 と飛び出した曜と月の身体を、「駄目え‼」と全員がかりで掴んで何とか落下を防いだ。

「流石、曜ちゃんの従姉妹………」

 手に冷や汗を滲ませながら千歌は呟いた。血は争えない、とはこの事を言うのか。

「ごめんなさーい!」

 というダイヤの声が下の方から聞こえた。階段を駆け下りた3人が、塔から抜け出していくのが見えた。

「詳しい話はnothingデース!」

 その鞠莉の声を最後に、3人の姿が路地の陰に消えていく。

「もしかして、鞠莉ちゃん達お母さんから逃げてるずら?」

 まだ起き上がれずにいる花丸がその予想を口にする。何とか曜と月を引き揚げ、急ぎ呼吸を整える。

「すぐに追いかけよう」

 そう言った千歌だけど、梨子は冷静に、

「無理よ。どこに向かったのか分からないし」

「でも……」

 まだそう遠くには行っていないはずだけど、ここは慣れない異国の地。土地勘のある月がいるとはいえ、闇雲に追いかけるのが無謀であることは自明だった。

「これは……?」

 と呟く曜の手に、1枚のカードがある。制服のポケットに入っていたらしい。もしかして手掛かりが、と期待して覗き込んでみたけど、書いてあるのはアルファベットの羅列。いや日本語書いてよ、と英語の成績が赤点ギリギリだった千歌は悪態を喉元に押し留めた。

「ヨハネが守護する地を見下ろす時、妖精の導きが行く先を示すであろう」

 そう翻訳してくれたのは月だった。因みに書かれていたのは英語じゃなくてイタリア語だったらしい。「ヨハネ?」と反応したのは、堕天使ヨハネを自称する津島善子。

「違うよ、ヨハネが守護聖人の地、て事だと思う」

 月には場所の目星が付いているのだろうか。「そんな場所が」と善子は嬉しそうに顔をにやつかせた。そんな彼女に月は面白そうに笑いながら、

「あるよ。守護聖人ジョバンニ、ヨハネの地」

 ジョバンニにしろヨハネにしろ、次の目的地は決まったようだ。

 

 入り組んだヴェネチアの市街には、そこかしこに鞠莉捜索のチラシが貼られている。せっかくの水の都の景観が台無しだ。もっとこの街を楽しみたかったけど、これ以上長居はできないからサンタ・ルチーア駅目掛けて駆けていく。千歌たちなら、仕込んでおいたメッセージに気付いてくれるはず。

「本気でこのまま逃げるつもりですの?」

 走りながらダイヤが訊いてきた。どこか楽しそうなのは気のせいではないだろう。「嫌なの?」と果南が訊くと「嫌とは言ってませんわ」と答えてみせたのだから。

 果南も走りながら笑っていた。

「わたしは好きだよ。小さい頃、鞠莉を連れ出して遊んだ時みたいで」

 その懐かしさは鞠莉も同じだった。自室のバルコニーから抜け出して、ホテルの従業員たちに見つかって3人で逃走劇を繰り広げたあの頃に戻ったみたい。成長した分、今度の舞台は海外とスケールを広げて。

「すっかり、お嬢様じゃなくなっちゃいましたけどね、鞠莉さん」

 ダイヤはそう皮肉る。あの部屋から連れ出したのはふたりなのに。でも、お陰で鞠莉の世界は広がった。やっぱりこの3人は楽しい、と思慕を抱きしめる。ふたりと一緒なら、どこへでも行ける、という確信がある。

 ふと、鞠莉は思う。今の自分は逃げているのか。それとも、まだ何かを求めて追いかけているのか。ぐるぐると同じところをずっと回ってばかりで、実はどこにも向かっていないんじゃないか、と。

 でも、それも悪くない。どこへでも走って行ってしまおう。この3人一緒なら、どこだろうと怖くない。鳥篭に押し込められるよりは退屈しないし、何よりも楽しいのだから。

「Let's go!」

 

 

   3

 

 北東部のヴェネト州から中部のトスカーナ州まで鉄道を乗り継ぎ、目的地に辿り着いた頃には陽も傾いていた。

「到着う……」

 流石に疲れて、鞠莉はソファに腰を沈める。きっと母の追手がそこかしこにある事が予想できたから路線の経路を迂回した。タクシーも抑えられているかもしれないから、この邸宅までもレンタカーを借りる羽目になってしまった。本当に、運転免許を取って良かったと思う。

「凄いところですわね」

 やっと一息つける邸宅のリビングを見渡し、ダイヤは言った。

「こちらも小原家の別荘なのですか?」

 「これだから金持ちは」と果南がいつもの皮肉を漏らす。確かにふたりからすれば、少々広すぎるかもしれない。床や壁に大理石をふんだんに使っているから。勿論家財類は全てオーダーメイド。

「Yes――と言いたいところですが、実はこちらの知り合いにちょっとだけ貸してもらったの」

 そう遠くないところに小原家所有の本来の別荘がある。母はきっと鞠莉たちがそこへ逃げたと踏んで、今頃無人の邸宅を訪ねて唇を噛んでいるところだろう。

「わざと千歌さん達に会い、居場所を教えてから撒いたわけですわね」

「Yes, そしたら向こうは逃げられたと勘違いして、別の街にある小原家の別荘を探し始める」

 小原家の別荘は世界各地にある。イタリア国内だけでも10戸以上はあるはずだから、そう簡単に見つかることもないだろう。まさか娘が知人の伝手を頼んだ、と考え付くまい。

「時間が稼げるわけね」

 いたずらに成功した子供みたいな口調で果南が言った。

 「千歌さん達はどうするんですの?」とダイヤが訊いてくる。

「多分メッセージをちゃんと理解してくれれば、気付いてくれると思うんだけど」

「でも鞠莉のお母さんに言われたから、て本当に来るとはね」

 伸びをしながら、果南が言う。千歌たちをだしに使うことは予想しなかったわけではないけど、当人たちが本当にここまで来た事には驚いていた。母の行方不明なんて狂言で振り回してしまって、申し訳なく思う。

「わたし達の事なんて放っといて、新しいAqoursを始めなさい、て言ったのに」

 浦の星はなくなってしまう。それはどうしようもない。だからこそAqoursは続けて欲しい。ラブライブ優勝を果たした浦の星女学院スクールアイドルとして終わらせるのではなく、統合先の別の学校で別のメンバーになっても。それは結成当初の、鞠莉たちのいた9人のグループとは別物になってしまうかもしれない。でもそれで構わない。自分たちが奮闘した軌跡の1片でも、Aqoursという名前に刻み後の代にも歌い継いでもらいたい。

 それが鞠莉たちの、去る者たちからの願い。

「恐らく言われたからではありませんわ」

 ダイヤは言った。

「多分、何か話したいことがあるのだと思います」

 そのために、わざわざこんな遠くまで。話したいことなんて、既に全部話したはずなのに。

「あら、もう来てたの」

 そこで、リビングの扉が開けられた。長身のスーツを着た青年を伴って入ってきたのは、この邸宅の本来の持ち主――鞠莉の知人の女性だった。

 

 この邸宅に来るまでの道中で小沢から知人が来ることになった、とは聞いていたが、リビングでくつろぐその知人たちを認め誠は目を丸くした。

「皆さん……」

 相手側もブロンドの少女を覗くふたりが、誠と似たような目をこちらに返している。

「氷川さん……?」

 と果南が声を絞り出す。まさかこんな異国の地で再会することになるなんて、誰が予想できるだろう。

「と、そちらの方は……?」

 ダイヤが言葉を詰まらせると、鞠莉はソファから勢いよく起き上がり誠たちの前へと移る。小沢は困惑する少女たちにいつもの強気な声音を崩さない。

「こうしてちゃんと話すのは初めてだったわね、小沢澄子よ。氷川君の元上司、てところかしら」

 そう自己紹介すると、ダイヤはしっかりと背筋を伸ばし、果南は少しぎこちなく礼をする。

「でも、何でふたりが?」

 と果南が訊いた。「さっき言った、この家を貸してくれた知り合いなの」と鞠莉が答えてくれる。ふたりは「ええ?」と驚くが、正直なところ平静を装っていながら誠も驚いていた。小沢と小原家に繋がりがあったなんて初耳だ。

 小沢は初めて訪れるはずの室内を我が物顔で歩きながら、

「この春からこっちの大学に勤める事になってね。そこの学長と小原さんのお父様が知り合いで、その縁で別荘のひとつを譲ってくれたのよ」

 学長との挨拶で長話したせいか、疲れたと散々ぼやいていた小沢はどか、とソファに腰を落ち着ける。果南が傍に来て、

「もしかして氷川さんもですか?」

「いえ、僕はただの付き添いです。まだまだ警察官ですよ」

 そう答えておきながら、誠の処遇はまだ審議中だ。待機中だから、と半ば無理矢理イタリアまで連れてきて貰っている身。

 「それにしても」と小沢は豪奢なリビングを見渡し、

「小さなアパートで良い、て言ったのに、あなたのお父様も極端なものね。こんなお屋敷ひとりで暮らすには広すぎるわ」

 譲ってくれた家の令嬢に向けるには不遜な言葉を小沢は言い放つ。でも鞠莉は気を悪くした様子もなく笑いながら、

「パパにとって、あなたはこれくらいの家に見合った人、て事デース。professor(教授)

 「professorね……」と小沢は溜め息をつき、

「啖呵切って警察辞めたけど、どうにも教授、て柄じゃないのよね。慣れるまで時間が掛かりそうだわ」

 「啖呵とは」とダイヤは少し緊張気味に尋ねる。

「何かあったんですの?」

「ええ、まあ色々とね。私に警察は合わなかった、てだけよ」

 半ばはぐらかすように小沢は答えた。本来なら懲戒解雇どころか告訴されてもおかしくない事を起こしたのに、実質お咎めなしで済まされたのはひとえに彼女の才能を上層部が惜しんでの事だろう。問題を内輪で処理したかった、という邪な思惑もあったのかもしれないが。気遣ってか、3人はそれ以上掘り下げるような事は聞かなかった。

「ほら何突っ立ってんのよ。あなた達も座りなさい。お互い長旅で疲れてるでしょ」

 すっかりこの家の主人になった小沢は、ひとりでは大きすぎるソファに誠たちを促す。丸テーブルを囲み、棚から引っ張り出したティーセットで紅茶を飲む。ビールのように1杯をすぐに飲み干した小沢が切り出した。

「それで、あなた達はいつまでここに滞在する予定? 小原さんから事情は聞いてるけど、生憎私も今回は下見に来ただけだから、あまり長くは匿えないわよ」

「早ければ今日か明日にはチカっち達もここに来るはずだから、合流したらわたし達もおいとまします」

 「千歌さん達もこちらに?」と誠は訊いた。果南は苦笑しながら、

「わたし達が行方不明、て聞いて飛んできちゃったみたいで」

 それで遠路はるばる来るとは、彼女たちの行動力には驚かされる。ダイヤも溜め息をつきながら満更でもなさそうに、

「やらなければならない事、沢山あるはずですのに」

 やらなければならない事。そう裡で反芻し、誠は浦の星が統廃合になった事を思い出した。この時期、彼女たちは新しい学校への編入準備で多忙だろう。

「そうそう。翔一の事だってあるのに」

 何気なく鞠莉の放ったそのひと言に、誠は思わず口に含んだ紅茶を吹き出しそうになった。何とか飲み込んで、高価そうなカーペットを汚さずに済む。

「皆さんは、津上さんの居場所を知っているんですか?」

 訊いてみるが、「いえ、まったく」とダイヤに即答される。でも何故だろう。3人の顔からは全く悲哀の色が見えない。

「でも千歌は、翔一さんを連れ戻すつもりみたいですよ」

 果南の言葉を、誠は驚愕と共に反芻した。

「津上さんを、連れ戻す?」

 

 



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第3話

 患者の運命は、俺が変える。

――仮面ライダーエグゼイド 宝生(ほうじょう)永夢(えむ)




 

   1

 

 重いスーツケースを持ち上げて駅のホームに降りると、千歌は「ふう」とヴェネチアからの長い道程に溜め息をつく。

「フィレンツェ到着う……」

 移動に結構な時間が掛かったものだから、空も朱色を帯びてきている。「どうする?」という曜の問いに、車内販売で購入したお菓子を完食していた花丸は「とにかく何か食べるずら」と提案した。まだ食べるの、とルビィは親友の食欲に驚くけど、3年生たちを追いかけるため昼食も満足に摂れなかったから空腹は否めない。他の皆も同じようで、「賛成!」と声を揃えた。

 フィレンツェで食べるならここ、と月が案内してくれたのは、中央広場にあるメルカート・チェントラーレという名の大型ショッピングモールだった。この施設ひとつにイタリア中の食文化が凝縮されていて、メニューの豊富さからどれを食べようか迷ってしまう。

「モルトボーノずら!」

 月お勧めの名物料理パニーノ・ランプレドット・ペルファボーレ——牛のモツ煮込みをパンで挟んだハンバーガーのようなもの――にかぶりつき、花丸は満面の笑みを浮かべた。隣に座る梨子が「どういう意味?」と訊くと「とっても美味しい、て事ずら」と応えてまたかぶりつく。

「メッセージを見てここまで来てみたものの………」

「鞠莉ちゃん達どこにいるのかな?」

 千歌と曜はそう言って、広いフードコートを見渡す。流石は観光名所なだけあって様々な人種が行き交って食事を楽しんでいるけど、3人らしき一行は見当たらない。ヨハネの守護する地、とメッセージにあった土地は月曰くこのフィレンツェで合っているそうなのだが。

「待っていれば向こうから接触して……来るのかしら?」

 梨子の言う通り、期待はあまりできなさそう。何の事情から分からないけど、Marie’s Motherの追跡から逃走中の3人が自分から動くなんてリスクは犯さないだろう。

「携帯は?」

 曜に訊かれ、ルビィはスマートフォンのメール着信を表示させる。新しい着信は来ていない。電話のほうも履歴はなし。「何も……」とルビィは沈んだ声で応じ、

「多分、携帯だと鞠莉ちゃんのお母さんに分かっちゃうようになっているんだと思う」

 「そっかあ」と千歌は椅子に項垂れる。お姉ちゃん、とルビィは裡で姉を呼ぶ。せっかく会えたのにすぐ行ってしまった。姉妹なのだから、せめてルビィには何か伝えてほしかった。

「はいお待たせ!」

 と料理の注文に行っていた月が、ルビィ達のテーブルに厚みのある大振りのステーキの皿を置いた。

「わ、何これ?」

「でかっ!」

 と千歌と曜はその肉の巨大さに目を剥く。

「ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ。ここの名物だよ」

 月はルビィに無言のままウィンクをする。大丈夫、と言われたような気がして、少しだけルビィの寂しさも紛れることができた。

「頂くずら!」

 と真っ先にフォークを手に取った花丸は「善子ちゃんも――」と近くの席にいるだろう善子を呼ぶが、当の本人は近くのどこの席にも座っていない。

「あれ、善子ちゃん? 善子ちゃーん。ヨーハーネーちゃーん!」

 花丸がヨハネの名前で呼んでみても反応はない。「消えた?」と千歌が呟くと、梨子は呆れた表情で、

「あの堕天使。今度は自分が行方不明になってどうするの」

 施設が広いからはぐれてしまったのだろうか。というよりいつからいなくなったのか。

「心当たりは?」

 月が訊いた。「あるとすれば」と曜が唸る。心当たりも何も、善子もイタリアは初めてのはずだから勝手にどこかへ行きそうにはないのだが。

「………ヨハネ」

 ここまでの記憶を辿ってみて、ルビィは思い出した。電車の中、善子が憑かれたようにガイドブックを見ていた事を。

「善子ちゃん、ヨハネ、てずっと呟いてた」

 食事を早々に済ませ――というよりは料理の大半を花丸に食べてもらって――ルビィ達は中央広場から出発した。

「ったく、いつもいつも」

 花の都と名高い街並みを楽しむ余裕もなく走りながら、梨子は愚痴を零した。善子が向かったと予想される場所はフィレンツェ市街でも指折りの名所らしく、建物の周囲に他の観光客たちが集まっている。外壁にも彫像が立ち並んでいて、まさに荘厳という言葉が相応しい。

「うわあ、でっかあ!」

 その箱型の巨大建造物を見上げ、千歌は声をあげた。あまりにも高いものだから、ずっと見上げたままだと首が疲れてしまいそう。「何これ、凄い!」と曜もすっかり善子捜索を忘れて建物に見入っている。

「ドゥオモ」

 月が言うと、梨子が「どうも?」ととぼけた返しをしてしまう。後で訊いたら、ドゥオモとは大聖堂の意味。月は笑いながら、

「この街で1番有名な建物だよ」

 箱型の建物の奥をよく見ると、空高くドームが屹立している。見るだけでも目が輝くフィレンツェの街で、このサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂はまさに街のシンボルと言っても過言じゃない。

「凄いわね。こんな大きいものが街中にあるなんて」

 この辺り一帯は歴史地区として登録されているはずだから、この大聖堂も建てられた当時のままの姿を保たれているのだろう。当時の街中の人々が、ここに集まって神に祈りを捧げていた。ルビィが産まれるよりもずっと過去の光景を想像していたところで、梨子が険のこもった声で言った。

「――てそれより、あの堕天使は?」

 どこへ行っても目立ちそうなのだが、生憎それらしき人物は見当たらない。

「いないね」

 徒労に終わってしまった事に疲れながらルビィが言った。

「探し人ですか?」

 そこへ、背後から声をかけられる。イタリアなのに日本語で話しかけられたことに何の違和感も覚えることなく、「はい、そうなんです」と千歌は疲れた首筋を揉みながら答える。

「ルビィ達と同じ年頃で」

「身長も同じくらいで」

「いつも騒がしくて」

 ルビィと曜と梨子も、探し人の特徴を順に述べていく。

「自称堕天使の痛い女の子ずら」

 と花丸が最大の特徴を言ったところで、ルビィ達はその親切な人物へと振り向いた。

「なるほど、それはとても崇高なお方………」

 大聖堂の前に建っている小さな礼拝堂を背に立つその姿を目にして、ルビィ達は「わあっ!」と一斉にたじろいでしまう。

「善子ちゃん!」

 間違いなく善子だった。何故か背中に白い翼を、頭のシニヨンにはいつもの黒じゃなくて翼と同じ白い羽を挿している。

「何してるずら?」

 花丸がおずおずと訊いた。「善子ではありません、ヨハネです」と返される。いつもは噛みつくようなのに、今は何故か余裕が窺える。高貴、というには少しずれたような振る舞いだが。

「本当に心配したんだから」

 と言いながら梨子は善子のどこの歌劇団か分からない出で立ちを足元から見上げ、

「で、その恰好は何? 捕まるわよ」

「落ち着きなさい、凡人リリーよ」

「もの凄く落ち着いてる。て、リリー禁止、て言ったわよね」

 凡人、という言い方にルビィは違和感を覚えた。いつもならリトルデーモンなのに。それに堕天使なら翼は黒いはずでは。

 善子は言う。

「わたしは今、堕天使ヨハネではありません。守護聖人ヨハネのこの地で、天使の洗礼を授かったのです!」

 突き出された彼女のスマートフォンには写真が表示されている。いつものピースサインで目を囲った自撮りの背景にあるのは、すぐ後ろにあるサン・ジョバンニ洗礼堂の天井画だという。ジョバンニとはヨハネのイタリア語発音。確かにここはヨハネの名を持つ聖人ゆかりの地だった。

「色んな子がいるんだねAqours、て」

 月が面白そうに言った。退屈はしないけど、流石にここまで振り回されるのは勘弁してほしいところだ。「心配して損した」と梨子が肩を落としている。何にしても、無事だったことは喜ぶべきだろう。

「さあ皆さん、この天使ヨハネの導きによって、あの天上界を目指しましょう」

 と善子が指さしたのは、大聖堂のドーム。「天上界?」と反芻する曜に「クーポラだよ。ドゥオモの天蓋」と月が言った。

「丁度本日最後のお導きが空いておりました」

 と善子は懐から紙の束を取り出し、

「はい、おひとり15ユーロお納めください」

 「お金取るの?」「それ単なるチケットじゃん」と梨子と千歌が突っ込みを入れる。払えば導かれるとは、随分と安上がりな神様もいたものだ。

「全然天使じゃないずら」

 と花丸がその慈悲の無さに呆れ果てる。現世で徳を積めば天国や極楽浄土に逝ける、なんて話は聞いたことがあるけど、その徳とはまさか金銭では、なんてあまり熱心でもない信仰心が完全に失せそう。でもやっぱりドームには登ってみたいから、ルビィ達はチケット代を立て替えてくれた善子にしっかりと15ユーロを渡して大聖堂に入った。

 大聖堂内部には至る所に絵画や彫像といった芸術作品に溢れている。月によると、様々な芸術家たちが聖書の場面を切り取ってこれらの作品を作り上げたらしい。祈りを捧げる教会というよりも美術館みたいだ。ドームの真下から見上げた天井には『最後の審判』が描かれていて、ずっと見ていたら本当に天へ昇ってしまいそうな錯覚にとらわれる。

 屋内の鑑賞を楽しんだ後、ルビィ達はドームの頂にある展望台に登る。

「赤い屋根ばっかり」

 一望できるフィレンツェの街を見渡して、曜が感嘆の声をあげた。

「日本だとあまり見ないわよね。こんなに統一された街並み、て」

 梨子が言う。あまりの高さに少し慄きながら、ルビィも眼下の街を見下ろしてみる。本当に、どこの家屋も赤褐色の屋根だった。民家も店も関係なく。

「何百年も前からずっと同じなんだよ」

 と月が説明してくれた。中世にルネサンス文化が花開いた都。芸術が盛んだった当時のまま、街全体が保全されているらしい。何気なく見下ろした家も、かつては工房やアトリエだったのかもしれない。

「ここの階段、急すぎるずら………」

 展望台に据え付けられたベンチに深く腰掛けた花丸は、まだ街の景色を眺める余裕がないらしい。

「昔の建物だから、エレベーターとかないもんね」

 とルビィは言った。あの急な階段を上り切っただけでも十分凄い事だ。途中で息を切らして休憩していた観光客と何度も遭遇したのだから。

「満ちている。ヨハネの精霊たちが囁く、祝福と福音の空気が」

 善子がそんな事を言っていた時、きら、と光がルビィの目に入り咄嗟に目を瞑った。再び目を開く。西陽を直視したと思っていたが、どうやら違うらしい。

「あれは……妖精の瞬き!」

 善子にも同じものが視えていたらしい。「何?」と呟く千歌にも。ルビィの目を射貫くような赤い光は、フィレンツェ郊外の丘の方角で瞬いていた。一定間隔で点滅していると思ったが、よく見るとリズムが不規則であることに気付く。

「合図、してるみたいだけど」

「そういえば妖精の導き、て………」

 曜と月はそう言って、鞠莉が制服に仕込んでいたメッセージカードを眺めている。

 ヨハネが守護する地を見下ろす時、妖精の導きが行く先を示すであろう。

 ルビィは思い出す。以前ダイヤから教えてもらったことがある。幼い頃に果南と一緒に鞠莉を連れ出す際、鞠莉の部屋から見えるよう懐中電灯をトン・ツーのリズムで点滅させていた、と。モールス信号という、昔使われていた通信技術らしい。

「あの光は、お姉ちゃん!」

 

 

   2

 

 光の瞬いていた、と大雑把な目印だったが、タクシーを手配した千歌たちは難なく目的地に到着することができた。何せ郊外の森林地帯は富裕層たちの別荘地区で、広大な土地に建つ邸宅は所狭しとは並ばず森を挟む余裕があるのだから。光のあった場所を目指すと、その辺り一帯を所有する邸宅は1戸に限られる。

 そのとても立派な屋敷の前に到着する頃になると、既に陽は暮れていた。入口にある門の前に立ったところで、インターホンらしきものが見当たらないから仕方なく千歌は大声を張り上げる。

「こんばんはー!」

 彼女の声が辺り一帯に反響していく。すぐに玄関の両扉が開いて、長身の人影が門へと駆け寄ってきた。

「皆さん、よくここまで」

 丁寧な口調で門を開けるその人物を、庭に立てられたランプが照らし出す。

「氷川さん⁉」

 使用人かと思ったらまさかの知人に、千歌は驚愕の声を漏らす。「何で氷川さんが?」「氷川さんも鞠莉ちゃん達を?」と曜や梨子からも質問の雨がやまない。

「そう、あなたも妖精に導かれたのですね」

 善子の言葉には「は?」と眉を潜められたが、そこは花丸が「相手にしなくて良いずら」とフォローしておいた。

「取り敢えず中に入ってください。3人が待っていますよ」

 そう言って、誠は門を開けて千歌たちを迎えてくれる。

 

 千歌たちを邸宅に入れると、誠は3年生と小沢の待つリビングへと案内した。ここで残りの面々と初対面である小沢は誠の元上司として、千歌たちの方からは渡辺月という曜の従姉妹から互いに自己紹介を交わした。

 小沢はひとりで住むには広すぎる、なんて文句を言っていたが、少女たちにとってこの邸宅の豪奢さはおとぎ話から出てきた光景のように映っているらしく目を輝かせている。

「今度は着けられなかった?」

 ソファでお茶を飲んでいた果南が訊くと「大丈夫」と曜が敬礼で応えた。

「何度も道を変えたりして、ここまで来たから」

 慣れない土地で疲れているだろう彼女たちのために、誠はテーブルにティーカップを並べる。流石は上流階級の邸宅。大勢の客人をもてなすための道具が一式揃えられていて、この広間とも呼ぶべきリビングに10人以上が集まってもまだ余裕がある。

 「お姉ちゃん!」とルビィがダイヤの胸に飛び込んだ。妹を大事そうに抱きしめ、ダイヤは千歌たちに訊く。

「それにしても、本当にこんなところまで来るなんて」

「ママからは何か連絡あったの?」

 鞠莉の質問に千歌は「ううん、特には」とかぶりを振る。

「一体何があったの、お母さん?」

 梨子の質問に鞠莉は「うん、ちょっと」とはぐらかそうとする。

「ここまで来たんだよ、教えてよ鞠莉ちゃん」

 千歌が急かした。ろくに事情も聞かされないまま来てくれたのだから、打ち明けるべきだとは思う。もっとも、鞠莉の気持ちも理解できてしまうのだが。

「確かに千歌さん達が可哀想ですわ。このまま隠しておくのは」

 とダイヤが言った。「でも……」と鞠莉はそれでも口をつぐもうとする。痺れを切らしたのか、紅茶をひと口のんで果南がさらり、と言ってのけた。

「実はね、鞠莉が結婚するの」

 その告白に場の全員が沈黙する。しばし逡巡した後、千歌が口を開いた。

「誰かと戦うの?」

 「それ決闘」と果南が突っ込みを入れる。次に曜が、

「綺麗好き?」

 「潔癖ですわ」とダイヤが突っ込む。

「面白い話?」

 ルビィには「傑作ね」と小沢が。

「マルはそのラストが気になるずら」

 花丸には「結末です」と誠が。

「ぐぬぬぬ……」

 とどこへやら手をかざす梨子に善子が「結界かしら」と便乗する。

「だから結婚だ、て」

 果南が再び告げると、おとぼけ合戦は終了し「ええええ⁉」と千歌たちは大声をあげる。

「結婚?」

「いつの間に?」

「誰と誰と誰と誰と?」

 曜と花丸と梨子に詰め寄られた鞠莉は「Wait」と宥め、

「しないよ。果南、ふざけないで」

 抗議を向けられた果南は至極冷静に応じる。

「でも実際このままだったら、そうなっちゃうでしょ」

「だから、そうならないようにしてるんでしょ」

 千歌たちを待つ間に誠と小沢も聞いたが、彼女たち程でないにしろ驚いた。千歌はまだ状況が咀嚼しきれていないのか頭を抱え、

「もう分かんないよ、どういう事?」

 「つまり」とダイヤが答える。

「縁談の話がある、という事ですわ」

「しかも相手は1度も会った事もないような人」

 鞠莉は深い溜め息と共に言った。断固拒否したから相手の事についてはろくに聞かなかったそうだが、何でも小原家と交流のあるスマートブレイン社の若社長だとか。

「どうして?」

 ルビィの率直な質問に、果南は溜め込んだ苛立ちをぶつけるようにカップをソーサーに乱暴に置き答える。

「鞠莉の自由を奪いたいから」

 そのあまりにも理不尽な理由での縁談だからこそ、誠も小沢も大人として「親の言う事は聞け」なんて屋敷から追い出せなかった。これでは、人間という種の可能性を潰そうとしたアンノウンとやっている事が一緒じゃないか。

 ダイヤが重苦しそうに言う。

「鞠莉さんのお母様は、昔からわたくし達の事を良く思っていないのですわ」

 続けて果南が、

「それまで素直に言う事を聞いていた鞠莉が、わたし達と知り合ってからどんどん勝手に行動するようになって」

「高校も勝手に浦の星に戻って、理事長に就任して」

 ダイヤが告げた事に、誠は内心で驚いていた。鞠莉が浦の星の理事長という話はでたらめな噂だと思っていたから。そんな誠の驚愕など知らず、ダイヤは続ける。

「スクールアイドルに対しても、良い印象は無かったのかも」

 「だから、て……」と千歌は言葉を詰まらせた。誠も親の気持ちは理解できなくはない。鞠莉たちにはあかつき号事件に巻き込まれた過去があるから、尚更に娘の前途が気に掛かるのだろう。困難から護るための善意なのかもしれないが、護るのと籠の中に束縛するのは違う。

「じゃあ、もしかして卒業旅行も?」

 曜は早くも察しがついたらしい。「そ」と鞠莉は応じ、

「ママに分かってもらおうと思って書き置きしてきたの。わたしはもうあの時のわたしじゃない、て。自由にさせてくれなきゃ戻らない、て」

 「計画的犯行じゃない」と、ここまで来させられた苦労を思ってか梨子が溜め息交じりに言った。そう、要は壮大な家出というわけだ。

「まさかここまで必死に追いかけてくるとは思わなかったけど」

 そう言って果南は伸びをした。どちらの事情も分かるだけに、誠はどっちの味方をしてやればいいのやら。親子の相反する強引さはどっちもどっち、と言うべきか。

「私から見れば、どっちもどっちね。あなたもお母様も」

 誠が喉元に押し留めていたものを、小沢が逡巡もなく言ってしまう。

「お母様はあなたの意思を、あなたはお母様の言いつけを無視し続けた。これはお互いの言い分に耳を貸そうとしなかったツケよ」

 容赦のない言いようだが正論だ。似た者親子の、1歩も譲らない強情さが招いた騒動なのだから。

「わたしは、ママに自分の人生を狭めてほしくないだけ。これ以上わたしを縛り付けるなら、勘当されたって構わない」

 と意地なのか鞠莉は反論する。だが小沢に反論なんて無謀なもので、

「ならお母様にそう伝えて本当に勘当してもらう? ご実家からの援助もなくなって、路頭に放り出される覚悟はあるの? 言っておくけど、あなたのようなお子様が自力で生きていけるほど世の中は甘くないわ」

 ああ、と誠は頭を抱えた。少女相手にここまで畳みかける事もないだろうに。本当にこの元上司は手加減というものを知らない。

「まあ、あなたの家の問題だから私は口出しできないけど、よく考える事ね。本当にやるべき事は何か」

 そう言って小沢はソファにふんぞり返る。見事に論破された鞠莉は勿論、他の誰も小沢に何も言えずにいる。物申したところで、1言えば10倍にして返されるのは目に見えているのだから。

「すみません、あれでも小原さんの事を気に掛けているんです」

 と誠は小声で鞠莉に囁く。フォローになっていれば良いのだが。口を結んだ鞠莉は小沢を睨んだが、すぐにそっぽを向いてしまった。

「争いごとは止めましょう。皆、心穏やかに」

 なんて声がバルコニーから聞こえたから出てみたら、善子が柵の上に立って夜空を仰いでいた。

「何やってるずら?」

「津島さん、危ないですよ」

 花丸と誠の忠告も聞かず、善子は説教じみた事を言い続ける。

「それがこの、天使ヨハネの願――」

 言いかけたところで、善子は足を踏み外してバルコニーから落ちた。「いいいいっ!」という彼女の悲鳴と共にがさがさ、と葉や枝が擦れる音がする。その音で事に気付いた中にいる面々が出てきて、全員でバルコニーの縁へと駆け寄った。

「善子ちゃん!」

「大丈夫?」

 花丸とルビィの呼びかけに、すぐ傍に植えられた樹の中でもぞもぞ、と何かが動いた。目を凝らして見ると、枝葉に運良く受け止められた善子だった。「良かったあ」と千歌が安堵の溜め息を漏らす。

「本当堕天使ね」

 梨子の言葉に、枝の中から善子はまくし立てる。

「何上手いこと言ってんのよ! てか助けなさいよおおおおお!」

 「やっと元に戻ったずら」と花丸が言うと全員で吹き出した。誠が救出に向かったところ、善子にこれといった外傷は無かった。服も少し汚れたが、破れた箇所はない。

「堕天使降臨!」

 少なくとも、戻った広間でこんな口上を述べるくらいには健在だ。運が良いのか悪いのか。

「ていうか、元がこれ、ていうのがそもそも問題なんだけど………」

 と溜め息をつく梨子に善子は人差し指を向ける。まだ服にこびり付いた木の葉が一挙一動する度に床に落ちた。

「お黙りなさい、リトルデーモンリリーよ!」

「リリー禁止!」

 ひとまず善子の無事が確認できたところで、果南が切り出した。

「小沢さんの言う通り、これからどうするか。千歌たちも巻き込んじゃったんだから、ちゃんと考えないと」

 「ですわね」とダイヤが同意を示す。「そうだわ」と声をあげた鞠莉が、不意に誠へと視線を向けた。

「氷川さん、ママの前でわたしの恋人の振りしてくれない?」

 突拍子もない提案に全員が「ええ?」と眉を潜める。当然、誠もだ。

「え、僕がですか?」

 「そうそう」と鞠莉は名案とばかりに誠と腕を組んできて、

「アンノウンから助けてもらった時にお互い好きになった、ていう設定で」

「それは不味いです。小原さんはまだ高校生で――」

「もう卒業したわよ。それに果南だって涼とずっと前から付き合ってたんだから」

「葦原さんと? そうだったんですか?」

 と転嫁された果南は「いや、まだ付き合ってませんから」と慌てて両手を振る。「まだ?」と鞠莉が反芻すると墓穴を掘ったことに気付いたのか、果南は顔を耳まで朱くして黙りこくってしまった。

「とにかくお願い。もう相手がいれば結婚なんてなくなるし、せめてママの前だけでも」

 そんな事をしたら誠の立場が危ういじゃないか。嘘にしても警察官が未成年の少女に手を出した、なんて噂が本庁に広まってしまったら、と思うと冷や汗が背中を伝う。

 そこへ、小沢が口を挟んだ。

「小原さん、からかうもんじゃないわよ。氷川君は恋愛経験ないんだから」

 「小沢さん!」と誠は抗議する。だが小沢は涼しい顔のまま、

「あら、あるの?」

「それは………、ありませんが」

 学生の頃はテニス、警察に入ってからは仕事に打ち込んできたから恋愛なんてしている暇がなかった。我ながら何て寂しい青春だろう。腕を離してくれた鞠莉から背中を優しく叩かれた。何だか酷く惨めな気分だ。

 ばん、と乱暴な音と共に広間の扉が開けられた。誠たちが一斉に視線を向けた先にいるのは、鞠莉とよく似たブロンドの婦人。

「ま、ママ……!」

 と鞠莉が声を絞り出す。不敵に微笑んだMarie’s Motherは唯一平静を保ったままでいる小沢へと向き、

「Thank you, Ms.小沢」

 「小沢さん?」と誠は彼女に目を向けた。小沢は短く溜め息をつき、

「ごめんなさい。あなたのご両親はパトロンだから、いつまで隠すわけにもいかなくてね。でも逃げても解決はしないわ。そうでしょ」

 Marie’s Motherはまなじりを吊り上げて娘のもとへ歩いていく。

「こんな所で隠れているとは、またハグゥの入れ知恵デスカ?」

「違うわ」

 とうとう腹を決めたのか、鞠莉は母を向き合う。

「わたしが考えたの。ママがしつこいから」

「しつこくしてこなかったから、こうなったのデス。小学校の頃、家から抜け出した時も。学校を救うために、こっちの高校をほったらかして、浦の星に戻った時も。パパに言われてぐ、と堪えてきマシタ。しかし、その結果がこれデス」

「これ、て………」

「分からないのデスカ? 何ひとつ良い事は無かったではないデスカ。学校は廃校になり、鞠莉は海外での卒業の資格を貰えなかったのデスヨ」

「待って、でもSchool Idolは全うした。皆と一緒にラブライブは優勝したわ」

 「それが?」とMarie’s Motherは撥ねつけるように返す。

「一体、School Idolとかいうのをやって、何の得があったのデス?」

 反論がないのを良い事に、Marie’s Motherは吐き捨てた。

「下らない」

 その言葉に、誠は無意識に眉間に皺を寄せていた。娘の努力を下らない、なんて母親の言う事か。娘のみならず、この場にいる彼女の友人たちをも侮辱する言葉に憤っていたのは誠だけじゃない。誠が微々ながらも頑張りを見てきた千歌はき、とまなじりを吊り上げていたのだから。

 Marie’s Motherへ足を踏み出そうとする千歌だったが、寸でのところでダイヤが腕を伸ばし制止する。冷静だったが、ダイヤもMarie’s Motherへ険しい視線を向けているのは変わらない。

「こういう人なのデス」

 鞠莉は諦めのように零した。彼女の隣に果南が立ち、

「だから、わたし達が鞠莉を外の世界に連れ出した」

 「Shut up!」とMarie’s Motherは一蹴し、

「とにかく、鞠莉の行動は私が――」

 娘の手を掴み無理矢理にでも引こうとしたのだが、「下らなくなんかない!」と鞠莉は抗う。鞠莉の手を果南とダイヤが掴み、Marie’s Motherのもとへ行かせまいと留まらせた。

「School Idolは、下らなくなんかない!」

 鞠莉は繰り返す。Marie’s Motherは手の力を緩めたが、それでもまだ娘の手を離そうとしない。

「もしSchool Idolが下らなくなんかない、て、凄く素晴らしいものだ、て証明できたら、わたしの好きにさせてくれる?」

 鞠莉たちの周囲に、千歌たちも集まっていく。一緒にスクールアイドルを、Aqoursとして共に努力してきた者として。

「ママの前で、School Idolが人を感動させる事ができる、て証明できたら、わたしの今までを認めてくれる?」

 「縁談なんかやめて」と果南も強気に告げる。続いてダイヤも。

「わたくし達と自由に、会う事を認めて頂けますか?」

 Aqours全員から注がれる視線と、Marie’s Motherは臆すことなく対峙し続ける。所詮は子供。烏合の衆と見ているのか。

「良いでショウ」

 ようやく、鞠莉の手が離された。「ママ?」と呼ぶ娘に、Marie’s Motherは厳しい口調を崩さない。

「ただし、駄目だったら私の言う事を聞いてもらいマース」

 つかつか、とブーツを鳴らして広間から出ていく彼女を、誠は小沢と共に礼をして見送る。

 ひとまず嵐は去った、という事だろうか。ほ、と胸を撫でおろす少女たち、その中の千歌のもとへ行き誠は尋ねる。

「千歌さん。津上さんを連れ戻す、と伺ったのですが」

 「え、ああ」と思い出したように宙を眺める千歌に、立て続けに質問を連ねていく。

「どうやって連れ戻すんです? 彼がどこにいるのか、知っているんですか?」

「実は……?」

「実は?」

 苦し紛れにはにかみながら、千歌は答えた。

「まだ、考えてなくて」

 

 

   3

 

 イタリアまで来たにも関わらず、小沢に付き合っての夕食は現地のレストランではなく、彼女にあてがわれた邸宅で摂る事になった。ピザやパスタといった洒落たものを好まない彼女が当然のように選んだ献立は、日本にいた時と同じ焼肉。

 じゅう、とホットプレートの上で焼かれた肉が、脂を跳ねさせている。ビール瓶片手にトングで肉を次々と並べていく彼女に、高価そうな家財に匂いが移ることなんて気にならないらしい。

「こっちのビールはいまいちね。日本から取り寄せようかしら」

 わざわざグラスに注がず現地銘柄のペローニをラッパ飲みした小沢はそう零した。「はあ……」とがらんどうに応じながら、誠は行儀よくグラスに注いだアイスティーを飲む。

「何、まださっきの事引きずってるの? まあ具体性もなく突っ走っちゃうのは、あれくらいの歳頃ならよくある事よ。大目に見てあげなさい」

 千歌のおとぼけに肩を落としたのもある。

「それもあるんですが………」

ローマに向かうと彼女たちが出ていった屋敷の広間は酷く寂しいものに感じた。近いうちに、小沢がここにひとり暮らすことになるなんて想像もつかない。

「少し、不安になってしまって………」

「不安? 何も心配する事なんてないわよ。私が口添えしておいたんだから、氷川君が警察をクビになる事は無いわ」

「いえ、そうではなく……、小沢さん無しで、G3ユニットはこれからどうなるのか、と」

 「そうね……」と小沢は肉をひっくり返し、

「まずユニットは解散になるでしょうね。今度こそ間違いなく」

 やはりそうか、と誠は深い溜め息をついた。そもそも結成当初から色々と問題が指摘されていた部署だ。本当に運用するに足るのか、予算を多く割り振り過ぎなのでは、とか。アンノウン出現で有耶無耶になっていたところだが、誠たちが起こした行動で今度こそ止めという事。

「まあでも、ユニットの名前が変わるだけよ。今後アンノウンがまた現れる可能性もあるわけだし、全部まっさらにするほど上もどアホじゃないと思うわ」

「どういう事です?」

「正式に退職するまでの間に、新しいユニットのコンセプトを残しておくつもりよ。私も無責任に辞めるつもりはないわ。それに私以上に優れたシステムを、警察が作れるとも思えないしね」

「新しいユニット? どんな?」

 無意識に身を乗り出した誠を「落ち着きなさい」と宥めながら、小沢は焼けた肉を誠の皿に移していく。口を潤すためにビールをあおり、

「今までG3、G3-Xと単身でのオペレーションを前提としてきたけど、根本から変える必要があるわ。いくらシステムが完璧でも結局は装着員次第よ。結局、G3-Xも氷川君だから扱えたようなものだし」

 言われてみれば、G3-Xは誠の戦闘オペレーションを元にG3から発展させた。普遍性はある程度持たせているのだが、それでも誠専用機という見方はあながち間違ってはいないのかもしれない。

「G3よりもレベルを更に落とした部隊ユニットとして構想するわ。1個人の戦力よりもチームでの連携を重視する。名前はそうね、G5てところかしら」

 まだ試作段階だったG3に、実戦配備型として発展させたG3-X。システム上は完璧だったが装着員を殺してしまう欠陥を抱えたG4。難産だったGの系譜も、第5世代でようやく安定する事ができるのか。小沢の腕なら心配はいらない。誠がそのユニットに携わる事がなくなったとしても未練はない。

 ただ、やはりそれでも気に掛かる。ユニットそのものに、小沢の存在は大きすぎたからだ。

「でも、小沢さん以外にそのユニットを扱えるとは………」

「大丈夫よ、後釜はちゃんと考えているわ」

「誰を?」

「尾室君よ」

「尾室さんですか?」

 まさかの人選に誠は目を剥いた。「ええ」と頷いた小沢は微笑しながら、

「彼は私やあなたという人間に挟まれながら、必死に食らいついてきたのよ。その根性は確かだわ。尾室君ならきっと、上手くやってくれるはずよ」

 あの尾室がリーダー。いつも小沢に叱咤されている姿しか思い浮かばないけど、彼もまたユニットメンバーとして一緒に戦ってきた。その点で信頼はしている。本人がこの場にいたら、嬉しさのあまり号泣してしまうんじゃないだろうか。

「世界を変えるのはひと握りの天才かもしれない。でもその世界を生きて時代を作っていくのは、その他大勢の凡人よ。まさに尾室君みたいな人間がね」

 そう言うと小沢は肉を頬張り、ビールで流し込む。

「また北條透に乗っ取られないか、それだけが心配だけどね」

 その言葉に誠はつい吹き出してしまった。

「そうですね」

 

 フィレンツェから鉄道で1時間半ばをかけて渡ったのは、この国の首都であるローマ。紀元前から続く長い歴史を持つ街を巡るのに朝早くから丸1日を費やしたが、月曰くまだ行っていない名所も多いらしい。流石は芸術と宗教の中枢と評される都市。街そのものが美術館だ。

 既に夜もすっかり更けているが、国内どころかヨーロッパ圏でも有数の観光都市なだけあって人々は眠りに就く気配がない。

「ボンジョルノ!」

 レストランで料理を楽しみながら、月が持つハンディカムのレンズに向かって曜がレポーターさながらに挨拶をする。

「こんばんは、はボナ・セーラだよ」

 と月が訂正した。改めて料理をリポートする曜たちと別のテーブルでは、花丸が脂とソースの滴るステーキ肉を口に運んでいる。

「オッティモずら!」

 何となくだが美味しい、という意味だろう。同じテーブルに座る善子は机上に積み上がった皿の山と、それを作り上げた花丸を凝視する。

「一体どうなってるの。これだけ食べてるのに全然変化がない。人なのか?」

 しかもまだ余裕が窺える。腹の奥にブラックホールでも抱えているんじゃ、なんて妄想が膨らむ。

「このラザニアも美味しいずらよ」

 と花丸から差し出されたフォークにあるチーズと具材の層が今にも零れそうだ。促されるまま口に入れたラザニアは、思わず感想を率直に出してしまうほどの味だった。

「うまっ!」

 既に自分の分の料理は食べてしまったけどもうひと品注文しようか、なんて考えてしまう。

「それで決まりましたの?」

 ダイヤがおもむろに訊くと、ペスカトーレを食べていた千歌が「何だっけ?」とすっとぼける。「歌う場所ですわ!」とダイヤは危機感のなさに声を荒げた。

「楽しかったよね。トレビの泉とか、真実の口」

 と曜がこの日に回った名所を告げる。「本当」と1日中ご機嫌だった鞠莉が、

「皆で一緒だとverry exciting!」

 「何言ってるんですの!」とダイヤはどこまでも日和見な雰囲気を一喝する。

「あなたが言い出したのでしょう。こっちでライブをやってお母様にスクールアイドルの素晴らしさを見せる、と」

 「分かってる分かってる、て」と面倒臭そうに手を振る鞠莉に、ダイヤはより眉根を寄せた。

 Marie’s Motherにスクールアイドルの魅力を伝える方法。最も相応しいのはライブ、と話し合いに時間を掛けることなく満場一致で決定した。そうなると歌う場所はどうするか。フィレンツェの街も良いが、どうせならこの国で最も華やかな街をステージにしたい、という鞠莉の提案でローマにまで渡ってきた。街の名所を巡っていたのも、観光ではなく本来の目的はステージ探し。

「実際どこも綺麗だし、人も集まってるし。ステージとして歌えば、結構盛り上がってくれそうだけど」

 という果南に「そうね」と梨子が同意する。

「泉も綺麗だったし、階段も素敵だし」

 流石は世界有数の観光都市なだけあって、どこの遺跡や広場もステージとして映える。どこも申し分ないのだが、いまひとつここ、と言える場所が無いのも現状。

「全部使っちゃいたいくらいだよね」

 千歌が言った。「流石に全部というのは――」とダイヤが漏らす。本当にやってしまいそうなところが、このグループの恐ろしいところでもある。

 まさか、またこの9人でライブの打ち合わせをするなんて、と善子は不思議な感慨を覚える。ラブライブを経て、もうこの9人は揃わない、と思っていたのに。

 やっぱり、3年生がいると何でもできてしまう安心感がある。6人でいる時よりも倍以上に。悔しいけど、聖良の評価は間違っていなかった。3年生たちの持つ力が、Aqoursを牽引してきたと言っていい。

「コロッセオとかは?」

 と曜が提案してみる。確かにローマといえば、な場所だ。「ビデオカメラは僕に任せといて」と月がハンディカムを構える。

「お、良いじゃん!」

「そうね、人もいっぱい集まりそうだし」

 千歌と鞠莉が同意を示す。いつもと同じ光景だ。主に考えるのは3年生と2年生で、善子たち1年生はそれに着いていくだけ。元々スクールアイドルに興味のなかった自分たちが、口を出すべきじゃないのかもしれない。先輩たちの言う事に素直に従っていれば良いのかもしれない。

「なら決まりかな」

 果南がそう纏めようとしたとき、善子は対面にいる花丸と視線を交わす。無言のまま頷くと花丸はフォークを置き、

「ちょっと、聞いてほしい事があるずら」

「わたし達1年生でも話し合ってみたんだけど」

 善子がそう続くと、ルビィが立ち上がった。

「今回のライブの場所は、ルビィ達に決めさせてほしい」

 「え……」とダイヤは呆けた目で妹を見上げている。

「これまでのルビィ達は、千歌ちゃん達やお姉ちゃん達に頼ってばっかりだったから。だから、このライブは任せてほしいの」

 

「お腹が、危機的満腹………」

 腹を苦しそうに押さえながら善子が呻いている。あの後もうひと品追加注文していたが、結果として胃に詰め込み過ぎたせいで歩くこともままならなくなったらしい。

「ステージまでに何とかしておきなさいよ」

 と心配する梨子とは逆に、いつのも事のように花丸は善子の肩を支え「お休みずら」とホテルへと入っていく。

「何でわたしばっかりこうなるのよ!」

 という善子の文句が聞こえた。苦笑しながら千歌と曜もホテルへと入ろうとしたとき、

「何かごめんね」

 と背後から果南に声をかけられ足を止める。果南は鞠莉へ呆れの視線を向けながら、

「鞠莉が急にあんな事言い出すからだよ」

「つい、sell wordにbuy wordで」

 「売り言葉に買い言葉?」と推測する曜に「多分」と千歌は答える。

「もし抵抗があるようだったら、わたし達3人だけで何とかする、て方法もあるから、千歌たちは――」

 「ううん、いいの」と果南の言葉を遮る。曜も同じく笑みを零しながら、

「むしろわたし達も嬉しい、ていうか」

 「そうなの?」と意外そうに鞠莉は訊く。彼女なりに、自分のお家事情に巻き込んだ責任を感じているのかもしれない。

「うん。実はね、こっちに来たのも鞠莉ちゃんのお母さんに言われたからじゃなくて」

 そう告げる千歌の後を、曜が引き継ぐ。

「実際、わたし達も含めてルビィちゃん達も不安だったんだと思うし」

 首を傾げるふたりを見て、長い話になりそうだから、とホテルのロビーに入った。備え付けられたソファに腰かけ、千歌は抱えていた懊悩を打ち明ける。

「皆、ちょっと悩んでいたんだよね。新しいAqours、て何だろう、て」

 「新しいAqoursか」と果南は宙を眺めた。こんな事を、ふたりに相談することが正しいのかも分からない。何せ、その「新しいAqours」とは果南と鞠莉、ダイヤのいない形なのだから。

「自分たちで見つけないといけないのは分かってるんだけど、中々………」

「そしたら聖良さんが、1度会って話してきた方が良いんじゃないか、て」

 曜の言葉に、鞠莉は「そうだったんだ」と応じる。続けて欲しい、という3年生の意思は尊重したい。でも続ける事で、千歌たち残った者たちの不甲斐なさでAqoursが、スクールアイドルが誤解されてしまう事が悔しい。

 ステージで笑顔を振り撒く姿は、傍から見たら真剣さが足りず遊んでいるように誤解されやすい。梨子が以前そう言っていた。Marie’s Motherの言い放った「下らない」は、その誤解の最たる例じゃないか。

「果南ちゃんは、どう思う?」

 千歌の問いに、果南が答えるのにそう時間は掛からなかった。

「千歌の言う通りだと思うよ」

「え?」

「千歌たちが見つけるしかない」

 「そうだね」と鞠莉も頷き、

「わたし達の意見が入ったら意味ないもん」

 当然とも言える回答だけど、いざ突き付けられると溜め息が出てしまう。「だよね」と肩を落とす千歌の胸に、果南は「でも」と指さした。

「でも、気持ちはずっとここにあるよ。鞠莉の気持ち、ダイヤの気持ち。わたしの気持ちも変わらず、ずっと」

「ずっと………」

「そう、ずっと」

 でもそれは、3人には力があるからじゃないか。3人だけじゃない。他の皆にも、千歌にはない、彼と同じ輝きの果てへと昇華する力が――

「わたし達には力があるから、とか考えてる?」

 思考でも読んだのか、果南の優しい言葉が千歌の懊悩を遮る。

「そんなの関係ない、て千歌は証明してみせたでしょ。ラブライブ決勝のステージで、わたし達の気持ちは千歌と一緒だった。違う?」

 無言で千歌は首を横に振った。あのドームで、自分たちはひとつだった。曖昧で夢心地な瞬間だったけど、それだけは確信できる。

 あの感覚は、あの心地良さは、ステージでの一瞬だけで終わらないのだろうか。果南の言うように、ずっと裡に残滓として光り続けている。そう思うと、不思議と笑みが零れた。

「さ、明日も早いから、もう寝るよ」

 鞠莉がそう言ってソファから立ち上がる。「うん、じゃあお休み」と果南は鞠莉の背を追って外へと歩いて行く。ふたりの背中が通路の陰に消えてすぐ、鞠莉の白い手がひょっこりと出てきて千歌たちへバイバイ、と振られた。「よ、と」と千歌もソファから勢いよく立ち上がる。

「千歌ちゃん」

 と呼びかける曜の両手を掴んで、上下に激しく振りながら千歌は今の裡にある想いをそのまま告げる。

「何か、ちょっとだけ視えた。視えた気がする」

 ひどく曖昧な予感だけど、それで良いんだ、と思えた。自分たちはずっと、この曖昧だけど胸が高鳴る予感のままに走ってきたのだから。だから今のこの想いも、きっと千歌たちを良い方向へと導いてくれる確信がある。

 そんな千歌の断言に、曜は皮肉のない笑みを返してくれた。これが千歌、というよりはAqoursらしい。この曖昧さに実体を持たせるためにも、良いライブにしよう。

 大丈夫。いつも通りに、楽しみながら歌って踊ればいい。

 

 

   4

 

 千歌からのメールで指定された場所と時間に、誠は小沢と共に向かった。

 昼過ぎのローマは晴天も手伝ってか観光客で賑わっている。メールにあった中心街の階段は、名所に溢れたローマ市内でも特に有名な場所のひとつ。トリニタ・ディ・モンティ教会の前に伸びるその階段自体は中世時代に造られたもので芸術品としての価値もあるのだが、その価値を高めたのは半世紀以上も昔に上映された『ローマの休日』のロケ地として使用された事。この映画で世界的女優へと飛躍したヘプバーンが踏んだ地として、ローマに来たからには訪れるべき名所になっている。

 誠は映画なんて殆ど観ないけど、有名女優のヘプバーンと舞台になったこのスペイン広場くらいは知っている。つまりは誠でも知っているほど、この広場は有名だという事だ。因みにローマにあるのに何故「スペイン」広場なのかというと、すぐ近くにスペイン大使館があるから。

 階段の目の前には小舟が浮いているかのような彫刻が施されたバルカッチャの噴水があって、その前に立った月がハンディカムを構えている。

「月さん」

 声を掛けると、月は一旦ハンディカムから目を離し誠たちへ屈託のない笑顔を向けてくれる。先日挨拶したときも思ったことだが、確かに曜との血縁を感じさせる溌剌さだ。

「あ、氷川さんに小沢さん。丁度始まるところですよ」

 となると、このスペイン広場がライブのステージという事になる。Aqoursの面々はもう広場にいるのだろうか。辺りを見渡してみるけど、世界中から観光客が訪れるローマの地に彼女たちの姿は埋もれていて見つける事ができない。

 街頭スピーカーからだろうか、アップテンポな曲が流れ出す。突然の曲に広場の皆が困惑の表情を浮かべている中、どこからともなく9人の少女たちが階段を駆け上り、踊り場で歌い始める。

 流石は観光地といったところか、誰も彼女たちの歌を妨害しようとはしない。むしろこれを粋なパフォーマンスと受け入れ、存分に踊れるよう脇に逸れていく。

 ひとりの女性がすぐ傍に立っている事に気付き、誠はちらりと視線をくべる。そこにいたのはMarie’s Motherだった。彼女が娘たちへ向ける視線は他の観光客とは違う、まるで審査するかのような険しいものだった。

 彼女からの視線に気付いていないのか、Aqoursは堂々とした歌声とダンスを披露している。曲はいかにもAqoursというグループらしい、明るく底のないパワーに満ち溢れたものだ。まるでこの異国の地に至るまでの過程、その根底にあったものを歌い上げているように聴こえてくる。

 今はちっぽけな子供と自覚していながらも、それを理由にして前進する事を諦めない。ひとりの力が小さくても、皆と一緒に居る事で大きな力や光が生み出せることを、彼女たちは知っている。そうして辿り着いた「今」という瞬間が、未来への過程でしかない事も。

 勿体ないな、と誠は隣の婦人に哀れみにも似た感情を抱き始めていた。このステージを素直に楽しめないなんて。無骨で不器用な誠も、アイドルなんて興味なさげな小沢も、日本語の歌詞が理解できないだろう観光客たちでさえ、自然と頬を緩ませているというのに。

 ふと周囲に目を向けてみると、観衆がいつの間にか増えている。スマートフォンのカメラを向けている人もいて、中には吊られてダンスのステップを踏む人もいる。

「伝わってくるものね。ただ見ているだけで」

 小沢が呟いた。いくらスクールアイドルについて知らなくても、歌詞の意味が理解できなくても、直感で裡に響いてくるものがある。彼女たちが歌声や、ステップに乗せている想いが、誠たちの目と耳朶から中へと潜り込んでいくようだった。だとすれば、今この瞬間に誠の裡にある童心に還ったかのような高揚は、ソロパートを歌い上げる鞠莉の想いそのものだろうか。

 曲がフィナーレを迎えて、Aqoursがポーズを決めた。曲が止むと観衆たちが一斉に拍手と、指笛で突如現れたスクールアイドル達に賛辞を贈っている。強い風に吹かれ、階段に植えられた花の飛ばす花弁が紙吹雪のように舞台を彩る。花々も彼女らのステージを楽しんでいるように。

 「綺麗ね」と嘆息する小沢に誠は「ええ」と返す。それ以外に言葉が見つからなかった。どのメロディが、どのステップが良いのかなんて音楽に疎い誠には分からない。ただ何となく、でも確かに「良い」曲だということは理解できる。ほんの数分で、異国の人間をこんなにも虜にしてしまうのだから。彼女たちだけじゃなく、彼女たちを取り巻く人々も、何て温かい空間だろうか。

「津上翔一も、こんな世界だから戦えたのかもしれないわね」

 階段で笑い合う彼女らのもとへ歩いて行くMarie’s Motherの背を見送りながら、誠はふと思い出したことを告げる。

「小沢さん、前にアギトは人間の可能性そのもの、と言っていましたね」

 「ええ」と応じる小沢に更に尋ねる。屋敷で彼女たちと会ってから、ずっと裡で燻っているものを。

「正直、千歌さんの願いが正しいのか、僕には分からないんです。勿論、僕も津上さんには帰って来てほしい。ですが、彼が僕たち人間にはとても辿り着くことのできない存在に進化したのなら、その進化を止めてしまっていいものなのか」

 かつて涼も言っていた。翔一は可能性の先に往ったのかもしれない。人の目指してきた最果てへと翔一が至ったのならば、そのまま前進させる事が人類のためになるのではないか。いち個人のエゴで、彼を矮小な人間の領域に戻していいものか、ずっと答えが出ないまま。

 小沢はしばし逡巡したが、聡明な彼女らしく淡々と、でもはっきりと答える。

「そうね、確かにあなたの言う通りだわ。でもね、種の中で優れた個体が生まれたとしても、それが果たして種全体の進化を促すとは限らない。アギトとして進化できたのは津上君だったからかもしれないし、彼の他に進化を遂げる個体は現れないかもしれない」

 そんなの身も蓋もないじゃないか、と思った。たとえアギトになっても翔一と同じ境地に至れないなんて。

 小沢は嘆息し、

「私としては、高海千歌に賛成ね。彼女がどうやって彼を連れ戻すのかは、分からないけど」

「本当に、それが正しいんでしょうか?」

「正しいかどうかは微妙なところね。私の立場で言うと、科学や技術というものは万人が同じ水準で扱えるようにしなければ意味がないわ。それは力も同じこと。強力な力をひとりで独占してしまえば、そこで消えてしまうだけよ」

 確かに、エンジニア然とした小沢らしい意見だ。でも彼女でさえ、千歌の願いの成否に明確な答えを提示する事ができていない。小沢はあくまで、自身の科学者としての信念に基づいた事を言っているだけでしかない。

 小沢は微笑を零すと、不意に誠の腕を小突いてくる。

「何うじうじ悩んでるのよ。前も言ったじゃない。正しいか間違ってるかなんてどうでもいいの。男はね、気に食うか食わないかで判断すればそれで良いの」

 それこそ本当に身も蓋もない。さっきよりも彼女らしい意見に、誠は「そうですね」と返した。

 

 観衆たちの拍手喝采を浴びながら、鞠莉は満たされた気分のまま深呼吸する。久々のライブだから、少し汗をかいた。でもこの体の熱さが心地良い。

「お姉ちゃん」

 また一緒にライブができた喜びに表情を満たしながら、ルビィが姉を呼んだ。ダイヤはルビィを労うように告げる。

「もう、ルビィは何でもできるのですわ。何でも」

 本当に、あの小さかったルビィが成長したものだ。いつもダイヤにくっついている印象しかなかったのに。「うん!」と頷くルビィは、もうダイヤに抱き着こうとはしない。もうこの子も、自分の足で歩けるんだな、と鞠莉は感慨を覚える。

「どうしてスペイン広場にしたの?」

 曜の質問に「それは——」と善子が得意げに腕を組むが、回答は花丸に奪われる。

「何となく、沼津の海岸にある石階段に似てたからずら」

 何て安直な。でも、その1年生たちが決めてくれたお陰か、この階段でブランクを感じない歌を披露できたと思える。どこかで鞠莉も、故郷と同じ心地良さを見出していたのかもしれない。

「鞠莉」

 その低い声で呼ばれ、鞠莉は表情を強張らせる。

「ママ………」

 鞠莉たちのもとへ歩いてきた母の姿を認め、皆の笑みが消えた。観客たちの拍手も収まりつつあって、ライブの気分が急速に冷めていくのを感じる。

 でも、まだ冷え切ってはいない。ドームから少し時間が経ったけど、またこうして皆で歌えた鞠莉には熱が残っている。

 母へ歩み寄り、鞠莉は告げる。一切の拒絶も嫌悪もなく、ただ自分の意思のままに。

「わたしがここまで皆と歩んできたことは、全てもうわたしの一部なの。わたし自身なの。ママやパパがわたしを育ててくれたように、Aqoursの皆がわたしを育てたの。何ひとつ、手放す事なんてできない。それが今のわたしなの」

 だから、どうか認めてほしい。鞠莉と一緒に歩んできたAqoursを、この9人を巡り合わせてくれたスクールアイドルを、下らないなんて言葉で片付けないでほしい。

 逡巡の後、母は結んでいた口元に微笑を浮かべた。そのまま何も言うことなく、階段の頂上にある教会へと歩いて行く。

「どうなったの?」

 曜が訊いた。「さあ」と鞠莉は肩をすくめる。言葉はなくても、親子だからこそ通じ合うものがある。何せ、鞠莉が金色の髪と強情さを受け継いでしまった母だ。我が親ながら呆れてしまう。少しくらい素直になれば良いのに。

 ひら、と先ほどたくさん舞い上がっていた花弁の1枚が降りてきた。そう、と優しく、両手で瑞々しいピンクを色付かせた花弁を受け止める。

「でも、分かってくれたんだと思う」

 

 






 大変お待たせしました。体調不良がぶり返し長く書けない状態になっていましたが、やっと少しずつ再開できるようになってきました。
 あと少し、頑張ります。


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第4話

 「ラブ&ピース」がこの現実でどれだけ弱く脆い言葉かなんて分かってる。
 それでも謳うんだ。

――仮面ライダービルド 桐生(きりゅう)戦兎(せんと)




 

   1

 

「ヨハネ、帰還!」

 数日振りに戻ってきた沼津駅前で、善子は両腕を広げ高々と告げる。だがイタリアから飛行機と新幹線と長距離移動に疲れた千歌たちは彼女に付き合う気になれず、適当にスーツケースを引いて適当な相槌を打ちながら駅前のターミナル広場から歩き出す。

「ちょっと待ちなさいよ!」

 なんて文句を言いながら追ってきた善子と一緒に、千歌たちは現地解散せず同じバスに乗ってとある場所へと向かった。

 そこは、来月から通う事になる分校舎。何度見ても、思わず溜め息が出てしまうほど古い。校門を潜って近付けば近付くほど、その年季の入り様が際立つ。

「誰もいないずら」

 廃墟じみた敷地を見渡して、花丸が呟いた。

「むっちゃん達ここだ、て言ってたんだけど」

 イタリアで飛行機に乗る前に連絡を交わした際、集合場所に指定されたのがこの旧校舎だったのだが。

「お帰りー!」

 という声に、千歌たちは2階部分を見上げる。建付けが悪そうな窓を開けて、むつ達3人組が千歌たちを出迎えてくれた。

 校舎の開放は既に済ませてくれていたらしい。前時代を思わせる校舎の床板は歩く度に軋みをあげ、窓から入り込む日差しに溜め込まれた埃が舞う様子がまざまざと映し出される。昼間にも関わらずお化け屋敷にでも入った気分だ。ここに移る事になると、最初にやる事は生徒全員での掃除になりそうだ。スクールアイドル部の部室を与えられた頃を思い出し、くすりと千歌は笑ってしまう。

「ごめんね。ライブの手伝いお願いしちゃって」

 「全然大丈夫」とよしみは言い、

「メール貰った時点で皆に連絡したら――」

 その続きをむつが引き継ぎ、

「すぐに協力してくれる、て」

 「へっへー」といつきは得意げに笑い、

「実はステージのイメージも出来ちゃってるんだ」

 「本当?」と梨子が嬉しそうに訊いた。「見て驚けよ」とむつは黒板に掛かっていたカーテンを勢いよく引き剥がす。

「じゃーん!」

 という3人の声と共に現れたのは、黒板いっぱいに色とりどりのチョークで描かれたステージのイメージ図だった。バルーンを使った演出に、背景に富士山。とりわけ目を引くのはステージに大きく掛かる9色の虹と、その中央に据えられたAqoursのロゴ。

 「どう?」といういつきの問いに、善子が「凄い!」と上ずった声で返す。

「でも、こんな立派なステージ……」

 嬉しそうに、でも少しばかり心配そうな梨子の呟きを曜が引き継ぐ。

「とてもじゃないけど間に合わないんじゃ――」

 やる気は勿論あるけれど、千歌が最も懸念しているのは時間があまり無いことだった。3人も手伝ってくれる事を見越しても、この黒板に描かれたイメージ通りのステージを完成させられるかどうか。

「わたしも言ったんだけどさ」

 とむつは何故か楽しそうに言う。続いてよしみが、

「何か皆に話したら、絶対Aqoursに相応しい凄いステージにする、て。浦の星だってちゃんと出来るとこ証明してやる、て」

「でもライブの音響のスタッフとか、人手不足ではあるんだけどね」

 といつきが付け加える。全て揃っているわけではないにしても、十分心強かった。今の3人の言葉だけでも、父兄を納得させられるんじゃないか、と思えるほどに。

「こんにちは」

 と教室に所在なさげに入ってきたのは、静真高校の制服を着た3人の生徒たちだった。「初めまして」と頭を下げる彼女らに、千歌たちも会釈を返す。一体どうして、と小首を傾げていると、月が彼女らの傍に立つ。

「僕のところに相談しに来てくれたんだ。まだ一部の保護者の反対もあるけど協力したい、て。でも、まだ少人数だけど」

 「さすが生徒会長!」と曜がお礼とばかりに言った。

「ありがとう」

 と千歌も月と、静真高校の3人にお礼を告げる。まともに話した事もないのに、こうして千歌たちと繋がりを求めてくれる人がいる。もし保護者への訴えが届かなくても、この事実だけで十分とさえ思える。

 「ああああ!」と不意に生徒のひとりが、善子を見て大声をあげた。当の本人は咄嗟に顔を背けている。

「もしかして、ヨハネちゃん?」

「ち、違います!」

 否定したが、「わたし、中学一緒だった」と生徒のひとりが歩み寄ってくる。

「いつもネットで見てるよ」

 日焼けしていない善子の白い顔が真っ赤に染まっていく。

「ヨハネ降臨」

 と3人が揃って堕天使ヨハネのピースサインで目を挟むポーズをしてみると、茹でダコみたいな顔になった善子は耐えられなくなったのか教室を飛び出した。その行く手は近くのドアから出てきた梨子に阻まれる。

「せっかく応援してくれてるのに逃げちゃ、駄目でしょ」

 笑顔なのが逆に怖い。「うっさい!」と善子は抵抗するのだが、更なる花丸という刺客がもうひとり。

「一緒に写真撮りませんか? ヨハネちゃんと」

「な、な、な、何言って——」

 「本当?」「撮る撮る」と生徒たちが嬉しそうにポケットからスマートフォンを出していく。

「待てーい!」

 往生際の悪い善子はそれでも逃走を試みるのだが、後方には中学の同級生たち、前方には梨子と花丸に挟まれている。

「逃がさないわよ」

「頑張るずら」

 と意地悪な笑みを浮かべるふたりに、堕天使ヨハネは涙目になっていた。

「ひ、酷い……。リトルデーモンの叛逆………」

 ようやく観念した善子は静真の生徒たちとヨハネポーズで記念撮影に応じたのだが、更にその後もひとりずつとのツーショットにまで——提案したのは梨子と花丸——応じる羽目になった。

「ありがと」

「大切にするね」

 撮影会はほんの数分だったのだが、すっかり魔力もとい生気を吸い取られたのか善子は「なんくるないさー……」と何故か沖縄弁で応じた。

「写真送るから、ID教えて」

 生徒のひとりがそう言ってスマートフォンを差し出してくる。慌てて善子も上着のポケットから端末を出して、機器同士を近付け無線通信する。ぴこん、と通信完了を知らせる電子音が鳴った。

「ありがとう、よろしくね」

 と差し出された手に、善子は逡巡したが満更でもなさそうに笑みを浮かべ握手を交わした。

「よーし、やるぞ!」

 ステージの姿を想像しながら千歌は意気込む。「でも」とそこへ花丸が口を挟んだ。

「向こうで歌ったときと違って、鞠莉ちゃん達はいないずら………」

 そう、今度こそ千歌たちだけの6人で歌うステージだ。不安が無いと言えば、嘘になる。正直怖くもあった。

「できる」

 と一蹴してみせたのはルビィだった。

「できるよ」

 更に強く、その言葉を繰り返す。不安だった皆の表情が晴れていく。スペイン広場で歌った後、ダイヤは言っていた。ルビィはもう何でもできる、と。確かに歌ったのは9人だけど、あのステージの演出を考えたのはルビィ達1年生だった。

 果南も千歌たちが見つけるしかない、と言っていた。あの言葉は突き放したんじゃなくて、信じていたからこそのものだった、と今更ながらに気付く。

 千歌たちなら見つけられる、と。

「わたしもできる」

「千歌ちゃんも?」

「うん」

 ラブライブ優勝も、輝きを見つけられたのも、9人だったからできた事。なら6人ではできないだろうか。

 そんな事はない、と証明してみせる。自分たちの手で。あの熱を抱いた1年前から少しだけ大きくなれた、この小さな体で。

「僕たちも頑張らないとね」

 月がそう呟いていたのを曜は聞いていたそうだが、ただ目の前の事だけを視ていた千歌には分からなかった。

 

 ホテルオハラのスイートルームから望む内浦の水平線に、夕陽が沈もうとしているところだった。空と海原は太陽から遠ざかっていくにつれて藍色へと暗くなっていく。しばらく離れていたせいか、幼い頃から見慣れていた景色が今はとても愛おしく見える。故郷を経ったら、次に見られるのはいつになるやら。

 千歌たちとは少し遅れて内浦に帰郷した果南たちは、鞠莉の勧めもありホテルオハラに滞在する事にしていた。果南もダイヤも、荷物は転居先に送ってしまったから実家に居ても私物がなく暇を持て余してしまう。

 何より、次はいつ集まれるか分からないのだから、今のうちに3人で過ごしていたい。

「それにしても、新しい学校がそんな事になっているとはね」

 バルコニーの柵に身を預けた鞠莉が呟く。

「ちゃんと話して下されば良かったのに」

 とダイヤも溜め息をついた。

「事情を知ったら助けようとしたかもね」

 果南がそう言うと、ダイヤは「それは――」と言葉を詰まらせてしまう。イタリア旅行――というより逃避行――に興じていなかったら、きっと鞠莉は介入しようとしただろう。統合先として手配したにも関わらず分校だなんて、もう離任したとはいえ理事長の彼女が知らぬ振りをするはずがない。

「自分たちで何とかしなきゃ、だもんね」

 分かってるよね、という意を言外に果南は繰り返す。あの夜、ホテルのロビーで本人たちに言った手前、自分たちが出る幕じゃない。

 新しいAqoursも、新しい学校も、千歌たちの問題だ。冷たいけど、してやれる事は何もない。

 それでも何か言いたげに口元を曲げる鞠莉に、「どうしたんですの?」とダイヤが促す。

「詰まんない! 何にもできないなんて」

 とまあ、鞠莉の口から出たのは責任感なんてものとは程遠い幼稚な理由だった。要は、自分たちだけ蚊帳の外なのが気に入らないだけだ。鞠莉のこういった面は全く成長する気配がない。後輩たちは少し見ない間に色々と悩んで乗り越えようとしている時に。

「仕方ないでしょう。わたくし達は卒業したのですから」

 ダイヤの言う通り、自分たちは卒業し内浦から去る身。妹同然に思っていた彼女から告げられた事を思い出し、果南は微笑を零しながら言った。

「千歌からも、このライブに関しては見ていて欲しい、て言われたし」

 千歌も他の皆も、果南たちに一切の助けは求めてはこなかった。普通と自虐しておきながら、彼女が1度言ったら決して曲げない事は知っている。

「分かってるわよ」

 深く嘆息しながら、それでも納得いかない、というように眉根を寄せながら鞠莉は応じた。ここはひとつ大人になって、温かく見守るべきだろう。かつて千歌の傍にいた彼がそうしていたように。

 不意に着信音が鳴った。音源は鞠莉のスマートフォンで、端末を取り出した彼女は画面を眺めながら口を開く。

「これ、て………」

 画面にある着信元の名前を覗き込み、果南たちは一様に首を傾げた。

 

 梨子が静かに障子を開けた部屋で、千歌はちゃぶ台でノートにペンを走らせていた。紙面と触れそうなほどに顔を近付けたその姿はまさに夢中そのもので、安堵からか梨子は頬を緩ませる。

 やっぱり、こうして何かに没頭している千歌が最も彼女らしい。脇目も振らず、ただ目標に向かって真っ直ぐ走っていくのが。

「調子良いみたいね」

 そう声を掛けると、顔を上げた千歌は「あ、ごめん」と梨子に気付く。「ううん」と梨子がかぶりを振ると、千歌は微笑し再びノートにペンを走らせる。作業の手を止めないまま、千歌は言う。

「何かね、分かってきた気がするんだ。これからのスタートが何なのか」

「6人のAqours、てこと?」

「うん。スタート、てゼロなんだよ、てずっと思ってた。ゼロから何かを始めるから始まりなんだ、て」

 自分たちが始まりとしてきた時は、ゼロを突き付けられた時だった。東京のイベントで得票数がゼロだった時。学校の入学希望者がゼロだった時。無という数値を突き付けられながらも、それを始まりとする事でAqoursは走ってきたはずだった。

「違うの?」

「うん、違うよ」

 答えて、千歌は顔を上げる。真正面に見据える彼女の表情はとても晴れやかで、一切の澱みが感じられなかった。

「だってゼロ、て今までやってきた事がなくなっちゃう、て事でしょ。そんな事ないもん。今までやってきた事は、全部残ってる。何ひとつ、消えたりしない」

 今までやってきた事、と梨子はこの内浦に来てから浦の星で、Aqoursで過ごしてきた日々を追憶する。

 奇跡を起こせると信じて。そのために何度も挫折して、泣いて、それでも這い上がって。その果てに、輝きという奇跡は確かにあった。

 振り出しに戻った今を、千歌はゼロとは捉えなかった。アンノウンと、アギトという恐怖を経て今がある。今となっては夢と錯覚してしまうほどに全てが引いていったあの日々は、まだ自分たちの裡に残留している。

「そう考えたら、何かできる気がした」

 戻ったように見えても、決してゼロじゃない。ドームで歌った日からも、確かに自分たちは前に進み続けている。何気ない日々を糧にして。培ってきた想いを抱きながら。

「歌詞、楽しみだな」

「良い曲付けてよ」

「もちろん。一応これでも、毎日音楽の勉強してたのよ」

 スクールアイドルで忙しい日々だったけど、梨子だってピアノの練習を怠った事はない。何せAqoursの作曲担当だ。研鑽は積まなければならない。こうして詞を熟考している千歌を見ている度に思っている。

「向こうでも時間のある時、曲を聴きに行ったりして」

「そうだったんだ」

 流石はルネサンス文化の華開いた国。イタリアはそこかしこの劇場でコンサートが催されていて、梨子は飛び込みで鑑賞しに回っていた。

「わたし達だけじゃないよ。ルビィちゃんと花丸ちゃんは衣装の参考に生地屋さん覗いてたし。曜ちゃんと善子ちゃんは新しいステップを作ろう、て頑張ってたし」

 皆それぞれ、自分に出来ることをやっている。出来なければ、出来るまでやろうとしている。皆もどこかで気付いていたのかもしれない。ラブライブでの優勝が、まだ終わりではない事を。終わらせたくない、という願望の方が正しいのかもしれないが。

 「そっか……」と千歌は感慨深げに呟く。

「凄いな、Aqours。そんな凄い人たちのグループなら、きっと届くよね。翔一くんのところにも」

 またそうやって他人事みたいに。この少女だってAqoursで、梨子たちの先頭を歩いてきた人間なのに。

 翔一に会いに行く。千歌からその願いを聞いたとき、梨子がまず思ったのは無理のひと言だった。一体彼がどこへ往ってしまったのかも分からないのに。

 でも千歌は、無根拠に願っていたわけじゃなかった。千歌以外の面々が持つアギトの種とも言うべき力。それが道標になるはず、と千歌は言っていた。梨子たちの裡にある光が、翔一のもとへ導いてくれる、とも。

 何て皮肉な話だろう。力のある梨子たちでなく、ただの人間である千歌がその可能性に気付いてしまうなんて。でもだからこそ、梨子たちは千歌の背中へ着いていこう、と思えた。アギトとは違う、それでもアギトに届くほどの力を持った千歌だからこそ。

「良いなあ、そんなグループのリーダーで」

 と梨子が皮肉っぽく言うと、「良いでしょ」と千歌は返した。可笑しくなってふたりで笑っていると、廊下から志満の声が届いてくる。

「千歌ちゃーん」

 夜だからか、声は控え目だ。「何?」と千歌が部屋から顔を出すと、階段の陰から志満と不機嫌そうな美渡が顔を覗かせている。

「果南ちゃんから電話」

 美渡から言われ、千歌は眉根を寄せながら自身のスマートフォンの画面を見た。

「うわ、電池切れてる」

 

 

   2

 

 理亜がAqoursに入る。

 松月で3年生たちからその事を告げられ、集められたルビィ達は「ええええええ⁉」と驚愕の声を揃えた。

「転校してくる、てこと?」

 千歌の問いに、鞠莉は「Yes」とあまり気乗りしない様子で応える。隣で同じように眉を潜めながら果南が言った。

「春に手続きすれば丁度皆と一緒に新しい学校に通うことになるから、馴染みやすいだろうし、て」

 何があってその決断に至ったのかは、ルビィには分からない。でも、それが理亜の望みとしてはあまりにも違和感に満ちているような気がした。

「理亜ちゃんがそうしたい、て言ってるの?」

 ルビィが訊くと鞠莉は「いいえ」とかぶりを振り、

「まだ話してないみたい」

「ただ、聖良としてはそれが1番良いんじゃないか、て」

 と果南が補足する。聖良の発案、と分かると合点がいった。鞠莉は続ける。

「同じ卒業生としてどう思うか、てわたしのところに連絡が来て」

 取り敢えずの意見として、ダイヤが告げた。

「わたくし達で聖良さんと話しても良かったのですけど、やはり千歌さん達の気持ちも大切かと思いまして」

 つまりこの問題も、決断するのはルビィたち6人に委ねるという事だ。函館にも確かに理亜の居場所はあったはずなのに、どうして今になって沼津に移ろうとするのか。それなりの理由があっての事なのだろうが、相談してきた聖良自身も最善なのか分からずにいるのかもしれない。

「理亜ちゃんが――」

「Aqoursに入る」

 曜と梨子が改めて反芻する。

「ちょっと想像しただけでも………」

 と善子が重苦しそうに口を開いた。短い期間だけど一緒に練習した事もあったから、その延長と考えれば想像はできなくもない。恐らく、いや間違いなく理亜を加えた練習は厳しくなる。手足がぼろ雑巾のようになるまで追い込まれ、彼女に着いてこられなければ叱責を浴びるだろう。

 スクールアイドルは遊びじゃないのよ善子、とでも言うように。

「善子じゃなくて、ヨーハーネー!」

 なんてひとり芝居にかまけているヨハネもとい善子に「何想像してるずら」と花丸がやんわりと突っ込みを入れる。

 ルビィは思い出した。前に鹿角姉妹がこっちに来てくれた日、聖良が妹の近況を苦そうに語っていた事を。あの時点で、理亜はかなり追い込まれていたのかもしれない。

「どう思う?」

 曜が振ると、千歌は「そりゃあ、全然嫌じゃないよ」と返した。

「前に皆で話したようにAqoursは何人、て決まってるわけじゃないし」

 その言葉に同意するように梨子も、

「それに、理亜ちゃんも同じラブライブで頑張った仲間だし」

「良いんじゃない? 面倒臭そうだけど」

 函館にいた頃に絞られたのを根に持っているのか、素っ気ないながらも同意する善子に、花丸は皮肉を漏らした。

「善子ちゃんより教えてもらう事たくさんありそうずら」

 理亜がAqoursに入る。それ自体に異論が無いのはルビィも同じだ。彼女は今の、3年生が抜けるAqoursに必要なものを持っている。実力も熱意も。個人としてのレベルは、ルビィ達の誰よりも頭ひとつ抜けている。彼女が入ることでAqours全体のレベル向上も見込めるし、次のラブライブ優勝も現実になるかもしれない。

 それに、理亜が現状に苦しんでいるのなら、友達として助けてあげたい。彼女の居場所を作ってあげたい。

「うん、ただ――」

 「駄目だよ」とルビィは千歌の言葉を遮る。彼女が告げようとした事が、ルビィには分かる。

「理亜ちゃん、そんなこと絶対に望んでないと思う。Aqoursに入っても、今の悩みは解決しないと思う」

 ルビィ達が理亜の居場所を作ってあげたとしても、そこに彼女の気持ちはない。たとえ最善だとしても、自分の気持ちをそっちのけで事を進められて、あの理亜が喜ぶはずがない。

「どうしてそう思うの?」

 鞠莉が訊いてくる。

「だって理亜ちゃんはSaint_Snowを終わりにして、新しいグループを始めるんだよ。お姉ちゃんと続けたSaint_Snowを大切にしたいから、新しいグループ始めるんだよ」

 姉とのグループは、誰にも踏み込めない聖域。だからこそ、違う形で始めることを理亜は選んだ。再び冬が巡ってきたとき、新しい雪の結晶として輝くために。

 その輝きを自らの力で放つために。

「それってAqoursに入る、てことじゃないと思う」

 ルビィは断言する。Aqoursは、理亜の居るべき場所じゃない。彼女自身が作らなければ、前へ進まなければ意味がない。

「ルビィ、向こうでお姉ちゃんと一緒に歌って分かったんだ。お姉ちゃん達は居なくなるんじゃない、て。同じステージに立っていなくても一緒に居るんだ、て」

 「一緒に?」と反芻する千歌にルビィは頷き、

「理亜ちゃんは、そのことに気付いていないだけなんだと思う。いなくなってしまった聖良さんの分をどうにかしなきゃ、て。Saint_Snowと同じものをどうしても作らなきゃ、て。お姉ちゃんと果たせなかったラブライブ優勝を絶対果たさなきゃ、聖良さんに申し訳ない、て」

 ルビィと理亜は立場がとても似ている。どちらも去る姉の背中を見送らなければならない。一気に遠ざかってしまう姉の背を、自分の足で追いかけなければならない。

 ひとつだけ違うのは、一緒に同じところへ向かってくれる存在の有無。ルビィには千歌たちがいる。でも、理亜には誰もいない。たったひとりで目標だった姉を追いかけて、ひとりだからこそ尚更に自身を追い込んでしまう。

 傍に姉が居る事にも気付くことなく、裡に響く姉の歌声に耳を塞いで。

「多分、理亜さんの気持ちはルビィが1番分かっていると思いますわ。姉が卒業した、妹の立場として」

 そう言って、ダイヤは優しく微笑んだ。

「ルビィちゃんの言う通りずら」

「同意」

 花丸と善子が告げる。ふたりも函館でのひと時で、理亜がどれだけ聖良を敬愛しているか、どれだけSaint_Snowを大切にしていたか知っている。

「だとしたらどうすれば………」

 と梨子が吐露した。千歌には方法が既に視えているらしく、おもむろに椅子から立ち上がった彼女は告げる。

「そうだよ。教えてあげるのが1番だと思う」

 「そう」と果南は頷き、

「一緒に居る、て。ずっと傍に居るよ、て」

 鞠莉も同意するように、

「理亜ちゃんの1番大きなdreamをひとつ叶えて」

 理亜の最も大きな夢。

 彼女の、姉との、Saint_Snowが追いかけてきた夢。

 それに気付いた梨子が「夢……!」と呟き、

「そっか、夢か!」と曜も声をあげる。

「全員、同じ意見みたいですわね」

 そう告げるダイヤはとても嬉しそうだった。これからやろうとしている事が、楽しみで仕方ない、というように。

「理亜ちゃんの叶えたくて、どうしても叶えられなかった夢を」

 ルビィは声を大にして言う。理亜がもう終わった、と思っていた夢の続き。その言葉をダイヤが引き継いでくれた。

「そうですわね、叶えてあげましょう。皆で」

 夢の続きがどんな形になるか、ルビィには既に情景が視えている。きっと皆も同じはず。スクールアイドルならば、やるべき事はひとつだから。

「聖良さんにもすぐに伝えなきゃ」

 千歌が満面の笑みでそう言うと、果南は「じゃあ」とスマートフォンを取り出した。

「協力してくれる人が必要だね」

 

 

   3

 

 もう3月だというのに、駅から踏み出した函館の空気は真冬のように冷たかった。路面も薄いが凍結していて、スパイクなんて付いていない革靴だと気を付けなければ滑ってしまう。コートも東京ではバイクに乗っても温かったものを着てきたのに、雪国の寒さの前では体の芯まで冷気の侵入を許してしまう。

 バイクで来なくて正解だった、と涼は震えながら思った。北海道は1度ロングツーリングに行きたいと思っていたけど、それは夏にでも改めて来るとしよう。

 果南から届いたメールには、件の店までのルートが事細かく記載されている。スマートフォンに表示されている地図を見ながら、涼は寒さから逃れたく目的地まで急ぎ足で、時折凍結した路面に滑りそうになりながら向かった。

 店の近郊まで路面電車が通っているのは幸いだった。車窓から函館の本州とは少しばかり趣の違った街並みを眺めていると、こういった電車での旅も悪くない、と思える。バイクだとよそ見が命取りだから、景色をのんびり見ている余裕はない。スピードに狂ったバイク乗りなら尚更だ。

 函館山の麓に広がっている市街は、学校が近くにあるからか店舗が多い。観光客向けに瀟洒に構える店の中で、茶房菊泉は年季を感じさせる民家のような店構えだった。店先に立てられたメニューには白玉ぜんざいとかの甘味が多いが、くじら汁なんて郷土料理もある。

 せっかくだし何か頼もうか、なんて考えていると、玄関の引き戸が開けられた。

「すみません、今日はもう――」

 和装にフリルエプロンを付けた店員らしき少女が言葉を詰まらせ、涼の顔を凝視してくる。

「もしかして、葦原涼さんですか?」

 「ああ」と応じながら涼は質問を返す。

「あんたが鹿角聖良か?」

「はい、初めまして」

 そう言って深く頭を下げると、聖良は閉めようとしていた店内へと涼を促してくれる。

「どうぞ、上がってください」

 「邪魔するよ」と礼を言いながら涼は店に上がり込む。もう本日の営業を終えたから、店内にお客は涼以外誰もいない。店の外観は古く感じたが、内装はよく手入れされていて清潔に保たれている。「どうぞ」と聖良はストーブが近くにあるカウンター席に案内してくれた。両手をストーブの前にかざすと、かじかんだ手が急速に温められていく。凍った血液が指先まで通っていくように感じられた。

「葦原さんのことは、果南さんから聞いています」

 カウンターの奥で何か作業をしながら聖良が言った。一体果南は今日この少女に何と話したのか。少し気にはなったのだが、敢えて触れずに涼も似たような事を返す。

「俺もあんたの事は果南から聞いた。妹とスクールアイドルやってるんだ、てな」

「わたしはもう卒業したので、スクールアイドルも引退ですけど」

 聖良が苦笑したところで、今まで嗅いだことのない独特の匂いが漂ってくる。

「どうぞ」

 と聖良が涼の前に出してくれたのは汁物のお椀だった。遅れてお茶の湯呑も添えてくれる。

「ここの郷土料理のくじら汁です。とても温まりますよ」

「ああ、頂くよ」

 両手を合わせ、箸を取ってお椀を口元へと持っていく。醤油で味付けされた汁は具の味とクジラの脂が溶け出し喉を通っていく。ひと切れ口に運んだクジラの身は独特の匂いと肉とは少し違う食感だった。好みは別れるかもしれないけど、漁村の生まれだからか涼はあまり嫌悪なく食べられる。

「美味いな」

 頬を綻ばせながら言うと、聖良は「ありがとうございます」とはにかんだ。物を食べて気分が安らぐのは、翔一に料理を振る舞われて以来かもしれない。彼がこのくじら汁に舌鼓を打ったら、自分の創作料理に取り入れそうだな、と思った。

「本当に、遠くからありがとうございます」

 改めて、聖良は深々と頭を下げて涼の旅疲れを労ってくれる。

「別に構わないさ。忙しいわけでもないしな」

「果南さんからのお願いだからですか?」

 なんてからかうような笑みを向ける聖良から逃れるように、涼は店内を見渡す。

「あんたの妹は?」

 理亜という彼女の妹へのサプライズと聞いていたから、踏み込んだ話をする前にその辺りの事を確認しておきたかった。聖良は少しばかり寂し気に目を伏せ、

「理亜は葦原さんと入れ違いに走り込みへ行ったところです。お店が終わるとすぐ練習に行くんです」

「そうか、一生懸命なんだな」

「ええ、昔から頑張り屋な妹でしたから」

 「失礼」と聖良は奥へと引っ込んでいく。すぐに戻って来て、涼に1枚の紙を見せてくれる。

「理亜が作ったチラシです。毎朝、校門で配っているみたいで」

 いっしょにスクールアイドルはじめませんか

 めざせラブライブ‼

 チラシにはその文字が雪だるまのイラスト付きで書かれている。

「少し前まで一緒にやってくれる人もいたみたいなんですけど………」

 詰まらせた聖良の言葉の続きが何となく想像できてしまい、涼は口に出した。

「今はひとりなのか?」

「はい。頑張り屋ですけど、頑張り過ぎてしまうところがあって、周りも着いていけなくなったのだと思います」

 涼はただ聖良の言葉に、お茶を片手に耳を立てていた。この手の懊悩は、変に気遣いの言葉をかけてやるよりは吐き出させてやるに限る。

「理亜がわたしとの夢を大切にしてくれるのは、勿論嬉しいです。でもわたしの、Saint_Snowのせいであの子が苦しんでいると思うと………」

 聖良は俯いたまま唇を結んだ。よく見ると小刻みに震えている。さっきから妹のことばかり語っているが、聖良だって苦しんでいるじゃないか。ラブライブ優勝という夢を果たせず、スクールアイドルも卒業してしまう彼女だって、叶えられない夢に何度泣いてきたのだろう。

 理亜の夢を叶えさせる。Aqoursの皆からはそう聞いていたが、これは理亜だけじゃない。聖良の、Saint_Snowの夢だ。

「だから俺がこっちに来たんだ。あんた達の夢を見せてもらいに」

 涼の言葉に、聖良は目元を袖で拭うと目元の腫れた顔を上げる。

「そうですね。Aqoursの皆さんから連絡をもらったとき、正直迷っていたんです。わたしに、まだその資格があるのか、て」

 聖良は感慨深げに、想いを馳せるように遠くを眺める。

「その時、津上さんが言ってくれたことを思い出したんです」

「津上が?」

「はい。大好きなままならここで終わりになんかしないで、て。この先どうなるかは分からないけど、津上さんが言ってくれたように生きてみよう、て思えたんです」

 まさか聖良の口から翔一の名前が出たことに少し驚きながら、涼はお茶を啜る。彼の事だ。飾り気のない、でも嘘偽りのない言葉で聖良の裡を癒したのだろう。かつて荒み切っていた涼に生きる意味を見出させてくれたように。

 本人は自覚なんてしていないだろうが、翔一は多くの人間を救ってきた。アンノウンからも、アギトの運命からも。彼を思い出す事は何度もあるが、思い出す度に思うのは不思議な青年だった、という事だった。

 記憶喪失なのにいつも笑顔で。アギトなんて理不尽な宿命を背負わされたのに能天気で。記憶を取り戻しても前と変わらなくて。

 でも、そんな彼の生き方が涼には眩しい。同じ力を持っていて、同じ苦悩を共にしてきたはずなのに、涼と翔一は対極だ。

 俺もいつか、あいつみたいに生きられるかな――

 ふとそんな夢じみた想いにとらわれていたところ、聖良の声で現実に引き戻される。

「葦原さん、今日の宿は決まっていますか?」

「ああ、ホテルを予約してるが」

「じゃあ、お話はそっちでしましょう。ここだと理亜がいますから」

 

 

   4

 

 函館の早朝は零下にまで気温が下がるという。雪が降っていないにも関わらず路面は水分が凍結し、吐く息は瞬く間に凝縮され白い水蒸気になる。

 大音量のアラームで無理矢理起床した涼だったが、ホテルから出た瞬間に襲ってくる函館の寒気によって一気に体が起こされる。聖良は朝に強い質なのか、遅刻することなくホテルまで涼を迎えに来てくれた。

 まだ陽が昇らないこの時間帯から理亜は起床し、朝の走り込みに行くという。聖良は妹のランニングコースを知っているようで、迷うことなく朝の街を歩く彼女に涼は着いていく。

「前は、わたしも理亜と一緒に走っていたんですよ」

 聖良はそう言っていた。もう走っていないのは、彼女がスクールアイドルを引退したからだろう。

「うわあああああああああっ‼」

 まだ幼い叫び声が、夜明け前の街に響く。「理亜……」と聖良は悲しそうに呟いた。俺も前は、あんな風に叫びながら戦っていたな、と涼は思い出す。叫べば、裡に溜まったものが全て吐き出せると思っていた。どんな方法でもいい。忌々しいもの全てを身体の中から追い出したかった。でも何も出て行ってはくれない。ギルスの力は涼の裡に今でも居座り続けている。

 もっとも、1度は宿命から開放されたにも関わらず取り戻したのは、涼の意思だったが。

 貴族の屋敷みたいな旧函館区公会堂の前で聖良は足を止めた。この館の前で決行するという。ここは理亜のコース上で、彼女の言う通り髪をツインテールに纏めた少女がとぼとぼ、と力の抜けた足取りで歩いてくる。粗い呼吸で白い息を吐き出す理亜の目元は赤く腫れていた。涙をせき止めようと乱暴に拭ったのだろう。

 彼女は毎朝、姉と一緒だったコースを走りながら泣いていたのだろうか。終わってしまった夢を悔いて、次の1歩を踏み出せない現実に燻って。

「葦原さん」

 と目配せする聖良に「ああ」と頷き、涼は持ってきた3脚を手に所定の位置へと向かう。

 近付いてくる足音に気付いた理亜は、まだ涙の浮かぶ目を突然現れた姉へと向ける。

「姉様……。その恰好、どうして?」

 そう訊くのも無理はない。何せ聖良の恰好は、もう卒業した学校の制服なのだから。聖良は妹の質問には答えず、代わりに3脚を立て終えた涼へ「お願いします」と告げる。そこで理亜はようやく涼に気付いたらしく、「え?」と呆けた声を漏らした。

「葦原涼だ。あんた達を手伝うよう頼まれてな」

 そんな雑すぎる挨拶と説明で片付けつつ、涼はスマートフォンのカメラに鹿角姉妹を収める。すぐに端末からは陽気な声が。

『それでは、これよりラブライブ決勝、延長戦を行います!』

 テレビ電話でそう高らかに告げるのは、曜の従姉妹だという渡辺月。困惑のあまり、理亜はすっかり涙が引っ込んだようだった。そんな彼女に、涼は通話先で何が行われているか、端末の画面を見せてやる。

『決勝に残ったふた組を紹介しましょう! 浦の星から現れた超新星。初の決勝進出ながら、実力はトップクラス。スクールアイドルAqours!』

 画面の中で、「おー!」とAqoursの9人が窮屈そうにカメラに収まろうと顔を寄せ合っている。お陰で殆ど見切れている状態だから、思わず笑みを零してしまった。

『そしてもうひと組は、北の大地が生んだスーパースター、Saint_Snow』

 こちらは向こうのように大声をあげたりはしない。聖良は静かに、妹を見据えながら告げる。

「今からわたし達だけの、ラブライブの決勝を行います」

「え?」

 まだ戸惑っている理亜に、聖良は両手に抱えたものを差し出す。

「もし決勝の舞台に立てたら、この衣装とダンスと曲だ、て決めてましたね」

 とてもゆっくりとした動作で、理亜は姉から衣装を受け取る。着る機会が失われたと思っていたもの、夢の残骸とも言えるそれを、理亜は胸に抱きしめる。

「姉様……」

「もしAqoursと競うことになったら、決勝のステージに立つことができてたら、あなたに伝えようと思っていた」

 そう語る聖良の表情は、とても晴れやかだった。優勝できなかった事を悔いていたのは理亜だけじゃない。聖良にとっても、妹と歌える最後のステージだった。大会に出るには優勝するつもりで臨んでいたし、決勝で最高の歌を観客へ届けるための曲と衣装も前から準備していた。

 妹と歌えず、妹に伝える想いも宙に浮いたまま。

 そんな聖良と理亜の姉妹を救うためにAqoursの皆が考えたのが、この延長戦だった。競い合った者同士、大会のために研鑽してきたパフォーマンスを披露するためのステージ。

 Saint_Snowが決勝でAqoursと競っていたら。そんな「もしも」を彼女たちは自分の手で作り上げることにした。

 本当に、とんでもない行動力を持った少女たちだ。若さ故のパワーというべきか。それなら涼もそれほど年齢は違わないはずなのに、一体彼女たちのどこから力が湧き出るのだろう。

 チャンスは再び訪れた。その事をようやく理解した理亜は再び目に涙を浮かべ聖良の胸に顔を埋める。

「姉様……」

 擦れ声の妹を、「泣いてる場合じゃないですよ」を言いつつ聖良は抱きしめる。

『一緒に進もう、理亜ちゃん』

 スマートフォンからルビィの声が聞こえ、涼は理亜の耳元へ端末を持っていく。

『甘えてちゃダメだよ。理亜ちゃんや花丸ちゃん、善子ちゃんと出会えたからルビィも頑張ってこれたんだよ。ラブライブは、遊びじゃない!』

 最後のひと言に、鹿角姉妹は面食らったように目を剥いた。何でも理亜の口癖だったらしい。

「歌いましょう」

 姉の言葉に、理亜は涙を拭い力強く頷く。

「うん」

「ふたりで、このステージで。Aqoursと全力で」

 すぐに涼は準備に取り掛かった。ふたりが衣装に着替えている間、スマートフォンを3脚に設置し光量やフォーカス(焦点)を調整する。高性能とはいえ所詮はスマートフォンのカメラだ。本物の大会で使われる代物と比べたら劣ってしまうだろうが、それはご愛敬というもの。

 それに、これは観客のために行うライブじゃない。Aqoursによる、Saint_Snowのふたりのためのライブ。

 衣装に着替えてきたふたりが、所定の位置に立つ。スマートフォンと持ってきたスピーカーの接続を確認し、涼は曲の再生ボタンをタップする。

 東の方角から空が白み始めていくが、辺りはまだ暗い。満足な照明がない中で、朧げな光景はなかなかに良い演出じゃないだろうか、と思った。エレキギターの激しいイントロが、まさに眠りから否応なく目覚めさせるように響く。

 ハードなロック調な挑戦的で、攻撃的な旋律だ。まるで厳しい現実に抗おうとするような。でも姉妹が歌い上げる詞は、拍子抜けしてしまうほど明るく前向きなものだった。

 まさに応援歌と呼ぶべき曲だ。常に前を向いて、進み続ける人の背を押してくれる曲。聴き手や歌い手を問わず、耳孔に響かせる人すべてに贈られるもの。姉妹は決勝でこの曲を歌うことで、前に進もうとしたのだろう。

 力強く歌い上げるふたりは笑顔だった。こんな激しい曲とダンスをしながら、姉妹は心の底から楽しそうにしている。

 初めて観るスクールアイドルのパフォーマンスに、涼は圧倒されていた。気を抜けば機器異常のチェックを忘れてしまいそうなほどに。自分もこの空間を楽しみたい。観客として、もっとふたりの歌を聴きダンスを観ていたい。ふたりが最高のパフォーマンスができるよう声援を送りたい。

 足腰が立たなくなるまで。

 喉が枯れるまで、ずっと。

 惜しいことに、その時間は瞬きすれば終わってしまうほどに短かった。踊り切ったふたりの表情も晴れやかと同時に寂しげでもある。

「今のこの瞬間は、決して消えません」

 歌の詞にも込められたその言葉を告げながら、聖良は妹の手を握る。

「Saint_Snowは、わたしと理亜のこの想いはずっと残っていく。ずっと理亜の心の中に残っている。どんなに変わっても、それは変わらず残っている」

 ステージにいなくても、裡ではいつまでも一緒に居る。一緒にステージで歌い、踊っている。どれだけ時間が経とうが、ふたりの裡で響かせ合った歌が消えることはない。

「だから、追いかける必要なんてない」

 それが、聖良の伝えたかった言葉。わたしの背中なんて追わなくていい。あなたはあなたの、あなただけしか得ることのできない「輝き」を追えばいい。自分と一緒では見つけることのできない、理亜だからこそ見つけることのできる輝きが必ずある。

 もうわたしに、Saint_Snowに縛られることは無いんですよ、理亜。

 遅くなってごめんなさい、と聖良は詫びているようだった。この曲を一緒に歌わなければ、この言葉は何の意味も持たない薄っぺらいものになってしまうところだった。でも今の、やり切ることができたあなたなら理解してくれるはず。

 これから歌っていくステージが、あなたの本当のステージ。そこであなた自身の輝きを放てることを、わたしも応援しています。

「姉様」

 想いを受け取った理亜が、愛しそうに姉に抱きつく。強く妹を抱きしめる聖良の目尻から涙が零れた。

 Saint_Snowは、これで本当に終わる。

 そして始まるのだろう。姉妹それぞれが駆けていく、新しいステージへの物語が。

 春一番だろうか、暖かい風が吹きすさぶ。風に運ばれてきた1枚の羽が、鹿角姉妹の傍を通り過ぎていく。妙な羽だ。朧気な光を帯びていて、小さな篝火のように空高く舞い上がっていく。

 羽は東の空へ飛んでいった。もうすぐ太陽が昇る方角へと。まるで光の中へ還元されていくようだった。また視られるだろうか。そんな期待が涼の胸の中に湧く。

 いつか俺にも夢ができたら、夢が叶ったら、あの羽は来てくれるのかな。

『あーあ』

 不意に、スマートフォンから鞠莉の声が響く。

『やっぱり楽しいな、School Idol』

『ですが今度こそ、これが最後ですわよ』

 と言いながら、ダイヤの声も楽しそうだった。そうか、と思い出しながら、涼は端末を3脚から外して鹿角姉妹のもとへと急ぐ。途中で果南の声が聞こえた。

『だから、最後に伝えよう。わたし達の想いを』

 果南たち3年生も、これが最後のライブになる。思わぬ形で訪れたこの延長戦で、彼女たちも9人で歌う最後の曲に、想い残したこと全てを乗せるつもりだ。

「次、Aqoursの番だぞ」

 姉妹にスマートフォンの画面を見せ、3人で身を寄せ合って小さな画面の中にいる9人の姿をじ、と見守る。

 沼津のほうはこちらより日の出が早いようで、ステージの背景にそびえ立つ山から今にも太陽が昇ってきそうだった。

 円陣を組むAqoursの中から、涼は果南の姿を見つけ出す。スクールアイドルとしての衣装を纏う彼女は、涼が知る彼女とは別の姿だった。大人ぶった振る舞いでありながら笑顔は少女らしさが残る面は知っていたが、いま画面の中にいる彼女はとても無垢に見える。アギトやあかつき号というしがらみから解き放たれているように。

 果南だけじゃない。千歌も、曜も、梨子も、ルビィも、花丸も、善子も、ダイヤも、鞠莉も。彼女たちは「いま」という時間を視ている。過去への後悔も、未来への不安もなく。自分たちの取り巻くもの全てを肯定するように一切の皮肉もなく笑っている。

 そんな彼女たちが歌う曲は、とても晴れやかで明るいメロディだった。音がひとつひとつ輝いているかのような。

 明るい曲調の中で、過去を惜しむ寂しげな詞が紡がれている。でも笑顔で、前を向き続ける力強さへと続いていく。この連なる詞が彼女たちの道だったのか、と涼は不思議な感慨に熱くなる胸の鼓動を実感する。

 涼と彼女たちを繋いだのは、裡に宿ったアギトの力。彼女たちの抱える宿命にばかり目を向けていて、その輝きというものには殆ど関心がなかった。ライブをまともに観たのも今日が初めてだ。

 彼女たちの想いが伝播でもしたのか、思わず笑みが零れた。護るべき存在として視ていたけど、彼女たちがここまで走ってきたのは彼女たち自身の力じゃないか。誰かが道を作ってやったわけじゃない。アンノウンだろうが神だろうが、往く手を阻むのにAqoursという少女たちは眩しすぎる。邪魔する余地も、護る必要もなかった。

 背景の山から太陽が顔を出した。この演出を狙ってこの時間に決行したのだろうか。計算にしろ偶然にしろ、彼女たちの歌声は夜明けを告げるのに相応しいほどに燦々としている。陽光が空に広がる光景は、世界が彼女たちの歌声で目覚めたように視えた。

 曲が終わった。ポーズを決める彼女たちに、鹿角姉妹は強い拍手を贈っている。

『凄い……』

 と画面から月の声が漏れた。

『スクールアイドル、て本当に凄い! このラブライブを僕たちしか観てないなんて、そんなの勿体ないよ!』

 興奮した月が端末を操作している音が聞こえたが、涼たちにその様子を窺うことはできない。何にしても、月の気持ちはとても理解できた。彼女の言う通り、このライブが無観客だなんて勿体ない。大会の優勝グループとそのライバルが競い合ったライブだ。友人と観に行って、この興奮を存分に語り明かさなければ気が済まない。生憎、涼の友人らしい友人はもうこの世界にはいないが。

『千歌ちゃん?』

 と梨子の声が聞こえた。月が向けるカメラの先で、千歌は東に昇る太陽を見上げている。

『分かった。わたし達の新しいAqoursが』

 千歌はそう言っていた。新しいAqoursとは。気にはなったが、答えは近いうちに視られそうだ。きっと彼女たちも、次の1歩を踏み出そうとしているのだろう。その目指すべき先を、ようやく見出したということだ。

「葦原さん」

 と聖良に呼ばれる。目を向けると理亜に警戒されているのか、聖良の後ろに隠れられてしまった。聖良はそんな妹に苦笑しながら、

「本当に、来てくれてありがとうございました」

 深々と頭を下げる聖良に、理亜も倣い遅れてお辞儀をする。

「別に良いさ。凄いんだな、スクールアイドル、て」

 そう言うと、頭を上げた姉妹は目を丸くして、でもすぐに笑みを浮かべた。

「果南さんは幸せですね。葦原さんみたいな優しい人が居てくれて」

「あいつ、俺のこと何て説明してたんだ?」

「果南さんがずっと待っている人、て」

 あいつは、と涼は深い溜め息をつく。羞恥は無かったのだろうか。いやないだろうな、とすぐ思い直す。初対面の時も目の前でウェットスーツを脱いで水着姿になるような少女だった。

「つまりは、そういうことですよね?」

 なんて聖良は小悪魔じみた笑みで涼を見上げている。この少女も果南と似たもので、大人ぶってこそいるが根はまだ子供らしさが残っているらしい。

 「姉様、どういう?」とこの手の会話にはまだ初心なのか、理亜が姉に尋ねた。

「恋人、ということですよ」

 「ええ⁉」と理亜は真っ赤な顔で涼を見つめた。茹でダコみたいだな、と初対面で失礼ながら思ってしまった。いや、函館なら茹でガニと例えるべきか。

 妹の反応に笑うと、聖良は「でも」と涼に向き直り、

「今更ですけど本当に良かったんですか、わたし達のところで。向こうなら、果南さんの傍にいられたのに」

 そんな素朴な質問をするあたり、聖良は色恋沙汰が未経験なのだろう。ふたりの間にしか分からないことがある。その辺りは経験者として、涼は答えた。

「良いさ。いつか追いついてみせるからな、あいつの所まで」

 

 






 長かったこの作品も、次で最終回です。


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最終話

 時計の針はさ、未来にしか進まない。
 ぐる、と一周して元に戻ったように見えても、未来に進んでるんだ。

――仮面ライダージオウ 常磐(ときわ)ソウゴ




 

   1

 

 ライブまであと11日。

 件の浦の星分校舎を目の当たりにして、鞠莉たち3人は面食らった。千歌から古い校舎とは聞いていたが、まさかお化け屋敷と見間違うほどのものとは。

 この措置が鞠莉の耳に届かなかったのは、卒業と同時に理事長は退任するから、という事で蚊帳に追いやられたからだろう。学校を存続させられなかった代わりとして編入の手続きは抜かりなく通したつもりだったのだが、スクールアイドル活動にかまけていたからか詰めが甘かった。

 後悔しても遅いのだが、鞠莉たちは様子を見に行かずにはいられなかった。残った生徒たちは恨んでいないから、と。

 でも浦の星の生徒たちは本当に良い生徒たちばかりで、そう広くない校庭で皆は楽しそうにステージ作りに勤しんでいた。閉校祭準備の日を思い出す。これから起こる事が楽しみで早く明日が来ないか、でもこの楽しい時間がずっと続いて欲しい、と矛盾を抱えてしまう。

 木枠のキャンパスに曜たちがペンキで巨大な絵を描いている。まるで昔ながらの銭湯絵みたい。

 その後ろではステージの土台が組み立てられていて、花丸が金槌を手に釘を打っている。すぐ横では飾り様のバルーンを膨らませているのだが、ガスを入れ過ぎて破裂した。その大きな音に傍にいた花丸含め数人がひっくり返り、心配した他の生徒たちが現場へと集まっていく。幸いにも怪我人はいなかったのか、すぐ生徒たちは作業に戻った。

 隅の方では千歌と梨子がPCに繋いだイヤホンを片方ずつ分け合っている。編曲作業だろうか、ふたり楽しそうに談笑し、時折目を閉じて音に聴き入っている。

 校舎の窓からルビィと善子が顔を出している。すぐにふたりは寸胴鍋とガスコンロを校庭に運びだしてきて、発泡スチロールの器に煮込んだ鍋の中身をよそっていく。湯気を立ち昇らせるその差し入れに眉を潜める生徒たちに、善子が得意げな顔で巻物を開いて見せた。

 あの巻物を鞠莉は知っている。何せ鞠莉自身が善子とルビィに渡したのだから。Mary直伝のシャイ煮のレシピを。海の家、閉校祭と研究に研究を重ね、更に食材の質を上げておいた。因みに味見はしていない。勢いで作ったのだから当然だ。でも美味なのは保証できる。どんな料理でもカレー味にしてしまえば美味しくなる、とかつて翔一が言っていたアドバイスに従って高級カレールーを投入しておいた。

 皆の反応は予想通り。ゲテモノな見た目に慄くけど、ひと口食べれば笑顔が広がっていく。ものの数秒で皆が夢中で丸ごと入れた伊勢エビや和牛ステーキを頬張っている。

 あの中に、わたしも少し前まで居たんだ。

 残った者たちを校門の陰から覗きながら、鞠莉は思う。先月までは鞠莉や、ダイヤと果南も高校生だった。卒業証書を受け取ったあの日を境に、もう皆とお揃いのジャージや制服を着て何かをする日は来ないのだろう。スクールアイドルは延長できたけど、それは先日の1度だけの、特別なライブ。

 理事長も兼任した高校生活に未練はない。また果南とダイヤと再びスクールアイドルのステージに立つことができたし、ラブライブで優勝までした。多忙だったし恐ろしい経験を何度もしてきたが、それ以上に楽しかった。

 また、あの中に戻りたいな。長く眺めていると、そんな欲が湧いてしまう。きっと、これから先も同じ望郷の想いが込み上げてくるのだろう。それは愛しい思い出だからこそ起こる、幸福の証明でもある。

 さあ、行こう。ふたりのもとへ急ぎ、鞠莉は校舎から離れていく。去る者たちにも、やれる事はある。果南から厚い紙の束を分けてもらい、市街へ向けて歩き出した。

 

 

   2

 

 見上げると、9色の虹が大きく掛かっている。本物に比べたら小さくて低い。けど、はっきりと色が視える。千歌たち、Aqoursの放ってきた光の色が。

「よく考えてみたらさ、Aqoursのステージを自分たちで1から作るの、これが初めてかも」

 曜の言葉に「そうね」と梨子が応じた。言われてみれば、曲やダンスや衣装は自分たちでやってきたけど、ステージまで自作するのは今回が初めてかもしれない。何から何までが手作りのライブ。

「新しいスタートに相応しい、てことだね」

 そのスタートは、もう明日に控えている。千歌たちの次への1歩と同時に、静真高校での説明会のリベンジでもある。父兄に、街の人々に、スクールアイドルが何なのかを知ってもらうための。

「これ入れたらあと少しだよ!」

 とむつが大声で言いながらロゴの形をしたバルーンを抱えている。「むっちゃん達も楽しそうだね!」と千歌が言うと、いつきが満面の笑みで応えてくれる。

「うん、皆で作るなんて、閉校祭以来だし」

「浦女の底力の見せ所だよ!」

 なんてよしみが頼もしくガッツポーズしてみせる。

「このステージで歌うんだね」

 完成間近になったステージを見渡し、曜が感慨深げに呟く。「楽しみね」と梨子も頷いた。

「緊張――しないずら」

 と強張っていた花丸の表情が一気に緩む。「ホントだ、何で?」と善子も。

「きっと、ちょっぴり大きくなったのかも」

 ルビィがその答えを導き出した。「マルたちが?」と訊く花丸に、ルビィは自信たっぷりに「うん!」と頷く。確かに不思議な気分だ。今まではライブが近くなれば不安なり緊張なり、何かしらの感情が湧いていた。でも今はとても落ち着いている。至ってフラットだ。

 ルビィの言う通り、千歌は成長できたのだろうか。輝きたい、と空に手をかざしていた1年前よりも。答えは明日になれば分かるだろう。

「千歌たちは先帰ってなよ」

 むつの言葉に、千歌たちは揃って首を傾げる。

「後はわたし達がやっておくから」

「しっかり休んで、良いパフォーマンス見せてね」

 いつきとよしみが続く。「でも――」と曜が食い下がったが、いつきは「大丈夫」と。

「わたし達の他にもたくさんいるから、ね」

 ぞろぞろ、と後方から幾重もの足音が聞こえ、千歌たちは振り返った。校門から入ってくるのは、静真高校の制服を着た生徒たち。その先頭には月が立っていた。

「いよいよだね」

 月の言葉を受け、善子が「くっ」と身構える。

「やはり聖戦は避けられないのか……!」

「落ち着くずら」

 普段通り聖戦のことは無視して、曜が尋ねる。

「月ちゃん、どうしたの?」

「あのライブ動画を観て集まってくれたんだよ。僕たちも何かできないかな、て」

 月の後ろには、善子の中学時代の同級生だった生徒たちもいる。彼女たちも率先して協力を呼び掛けてくれたのだろか。厚意は嬉しいけど、素直に受け取るにはまだ腑に落ちない部分がある。

「だけど、反対されてたんじゃ……」

 千歌が恐る恐る訊くと、月は「気付いたんだ」と答える。

「僕たちは何のために部活をやってるのか。父兄の人たちも」

「何のため?」

「楽しむこと。皆は、本気でスクールアイドルをやって心から楽しんでた。僕たちも本気にならなくちゃ駄目なんだ。そのことをAqoursが、Saint_Snowが気付かせてくれたんだよ。ありがとう」

 そう語る月の瞳は潤んでいるように見えた。自分たちのライブが月に気付きを与えた。彼女の目に、千歌たちは間違いなく楽しそうに映っていた。

「そうそう、わたし達も呼びかけたんだよ」

「だから遠慮なし」

「皆にも手伝わせて」

 彼女と同じように、AqoursとSaint_Snowというスクールアイドルを目の当たりにした生徒たちが力になってくれる。この現実で千歌は確信する。

 気のせいじゃ、なかったんだ。

 わたし達は、本当に輝いていたんだ。

「どうかな?」

 月の問いに「そうだなあ」と曜が勿体ぶってみせる。皆の視線を一身に受けた千歌は、リーダーとして当然の決定を下した。

「じゃあ、甘えちゃおうか」

 浦の星、静真を問わず伝播していく笑顔の波を見て、千歌は思う。

 こうやって繋がって、広がっていくんだな。

 夢や、輝きや、ときめきというものが。

 

「どうする? 少しだけでも練習していく?」

 家路の道を歩きながら、梨子がふと言った。陽が傾き始めているが、軽く走り込みをする程度の余裕はある。急に時間が空いてしまったから、このまま帰っても手持ち無沙汰になるかもしれない。

「それも良いけど――」

「悩みどころよね」

 と曜と善子が言う。「そういえば」と花丸が切り出した。

「鞠莉ちゃん達はいつまでこっちに居られるずら?」

 それは千歌も気にはなっていたことだ。でも本人たちには訊いていない。他の皆も同じらしく、黙りこくって沈黙が漂っていく。気にはなっていたけど、訊けなかった。その日が近付いていくにつれて、またラブライブ決勝前のような寂しさが込み上げてきそうだから。だからライブの準備や練習を適当に理由を付けて、3人とはSaint_Snowとのライブ以来会っていない。

「千歌たちのスタートを見届けたら、そのまま向かうよ」

 その馴染みある声に前方を向くと、果南が立っていた。果南だけじゃなく、ダイヤと鞠莉もいる。

「それぞれの場所に」

「Ciao」

 3人は普段通りだった。辛気臭さなんて微塵もない。

「やっぱりそうなのね」

 と梨子が得心したように言った。つまり明日ということだ。唐突すぎるからか、予想していた寂しさは沸かなかった。これは、後になってからじわじわと来るものなのだろうか。

「じゃあその前に、最後に皆で行かない?」

 新しい遊びでも思いついたかのような口調で鞠莉は言った。

「浦の星」

 

 

   3

 

 市街を抜けたバスは、沿岸道へ出てそのまま道なりに進んでいく。内浦の細く曲がりくねった道路を過ぎ、長井崎へのトンネルを抜けたところで、果南が何の気なしに言った。

「そういえば、バス停なくなっちゃんだね」

「学校なくなったら、使う人いないものね」

 当然のように梨子が言った。停留所の地名は浦の星女学院前。その名の通り、学校の通学用に設けられた停留所だった。学校が閉校すればもうお役御免。撤去されるのは当然の事。

 浦の星前で降りると、バス停の看板に廃止の張り紙があった。近いうちに廃止されるそうだから、ここで降車するのは千歌たちが最後の乗客かもしれない。停留所の傍にある生徒たち御用達の自販機も、設置した会社によって撤去されるだろう。

 もう、ここには誰も来ないのだから。

「何か懐かしい気持ち」

 丘道を登りながら曜が言った。

「まだ卒業式から少ししか経ってないのに」

 そう言いながら、梨子も懐かしむように丘の空気を目いっぱい吸い込んでいる。

「毎日通っていた道ですから」

 ダイヤが目を向けているのは、まだ実りがなくただの森に見えてしまうミカン畑に、所々で塗装が剥げ落ちたガードレール。静かで忘れ去られてしまいそうな地方集落の風景だ。

「少し来ないだけで懐かしくなっちゃうのかも」

 毎日見ていた風景を見渡しながら、果南が呟く。続いていた日常が終わった途端に尊く見えるなんて現金なものだ。でも千歌も果南を笑えない。千歌だって、学校や内浦という居場所への思慕が湧いたのも、統廃合の話が出たのがきっかけだったじゃないか。

 失ってしまう前に気付けたことは、慰めになったのだろうか。それが幸か不幸かを知るには、この先もっと時間を掛けなければ分からないかもしれない。

 グラウンドを前にして、千歌たちは足を止める。野球部が練習のために引いていた白線はすっかり消えかかっていた。大勢の生徒たちが踏みしめていた足跡も、風に吹かれて見えなくなっている。1画だけ、不自然な窪みがあった。焦げたように黒ずんでいるその部分は戦いの跡だ。翔一たちが1度手放した力を取り戻し、アンノウンを倒した爆心地。爪痕のようなその場所が風化するのは、もう少しだけ時間が掛かりそう。

「本当、色んなことがありましたわね」

 ダイヤが言った。色々とあり過ぎて、全部を詳細には思い出しきれないほどに。

「毎日賑やかだったなあ」

 そんな鞠莉の言葉に「賑やかというよりうるさい、かもだけど」と善子が皮肉を飛ばし、更に花丸が皮肉を上乗せする。

「善子ちゃんは人のこと言えないずら」

「何よ、ずら丸たちだって相当うるさかったでしょ!」

 どっちもどっちだ。というより、ここにいる皆が大人しくなんてしていなかったのではないだろうか。必ず誰かが事を起こして、他の皆が巻き込まれる。そんな日々をルビィが総括した。

「でも、楽しかった」

 そう、そんな賑やかでうるさくもあった日々が楽しく、過ぎた今となっては愛おしい。退屈な授業でどう居眠りをしないか奮闘して、昼食は弁当のおかずが何か楽しみで、待ち遠しかった放課後は着替えて練習場に向かう。大まかにはそんなルーティンが決まっていたけど、その中で毎日何かしらの変化があった。

 昨日できなかったことが今日はできて、明日は何をしようか想いを巡らせる。ここにはそんな想いの全てがあった。

 校門の前に着くと、植えられた桜の樹の花弁はまだ十分に残っていた。校舎の建立と共に植えられたここの樹々は、毎年卒業生を見送り新入生を迎え入れてきた。その役目を理解できずにいるのか、それとも抗っているのか、樹はまだ花弁を散らし続けている。

 樹々と同じように、校舎も卒業式の日から何も変わらず佇んでいる。あの日と全く同じで、夕陽を背に濃い影を落とす姿は時が止まってしまったかのよう。

「何でここに来たの?」

 千歌はそう訊いたが、果南は「さあ」とはぐらかし、

「呼ばれたのかな、学校に」

「でも、ちゃんとあってほ、としたずら」

 花丸の言葉に、全員で笑ってしまう。あって当然。学校や、過ごした日々が全部幻だったなんて、そんな結末があるはずない。

「あ」

 と声をあげた曜の視線を追って、校門の端へと目を向ける。

「開いてる」

 と曜の言った通り、門扉が僅かだが開いたままになっていた。また皆で集まったあの日に閉め忘れてしまったのかもしれない。

 千歌は門へと歩き、錆ついた扉に手をかける。触れた鉄はひんやりと冷たかった。このまま開け放てば、また校舎に入れるだろう。そうしたら、また生徒たちが待っていて皆で再び歌えるかもしれない。

「大丈夫」

 後ろにいる皆と、自身に向けて千歌は呟く。愛しい思い出に浸って泣く必要なんかない。

「なくならないよ。浦の星も、この校舎も、グランドも、図書室も、屋上も、部室も」

 残された校舎がどうなるのかは未定らしい。取り壊されるのか、違う施設に改装されるのか。何の目処も立っていない以上、しばらくはこのまま放置され朽ちていくだろう。どちらにしても、かつての面影は消えていく。

「海も、砂浜も、バス停も、太陽も、船も、空も、山も、街も」

 消えてしまうものはあるけれど、ずっと変わらず残り続けるものも、確かにある。どれだけ時間が経っても、居る人々が変わっていっても、彼が愛したこの世界は回り続けていく。

 世界は過酷で恐ろしい。

 でも、在るだけで美しい。

「Aqoursも」

 卒業式の日と同じように、自らの手で門扉を閉めた千歌は皆へ「帰ろう」と振り返る。ここはもう自分たちの居場所じゃない。だからといって、ここを忘れるつもりもない。

 千歌は胸に手を当てる。

「全部、全部、全部ここにある。ここに残っている。ゼロには、絶対ならないんだよ。わたし達の中に残って、ずっと傍に居る。ずっと一緒に歩いて行く。全部わたし達の一部なんだよ」

 いずれこの校舎がなくなっても、内浦からミカン畑がなくなっても、人々がいなくなっても、山も海もなくなっても、絶対に消えることはない。消さない、と誓ったのだから。ラブライブの歴史に名前を刻んだのだから。

 ずっと残っていく。浦の星女学院も、Aqoursも。青空に太陽が輝いている限り。

 千歌たちは学校を後にして――ううん、もう他人事のように語るのはやめにしよう。

 これはわたし達の物語だ。わたし自身の言葉で語らないと。

 わたし達は学校を後にして、振り返ることなく来た道を走っていった。あの場所で芽生え育んできた想いを裡に抱えながら。

 いつも始まりはゼロだった。

 始まって、1歩1歩前へ進んで積み上げて――

 でも気付くとゼロに戻っていて――

 それでも、ひとつひとつ積み上げてきた――

 何とかなる、て。きっと何とかなる、て信じて――

 それでも現実は厳しくて――

 1番叶えたい夢は叶えられず――

 またゼロに戻ったような気もしたけれど――

 わたし達の中にはいろんな宝物が生まれていて――

 それは、絶対消えないものだから。

 全速力で走ったわたし達は、三津海水浴場の砂浜で脚を休ませた。わたし達の物語で常にあった波間の飛沫。絶えず聴いていた潮騒に、海原から運ばれてきた香り。果ての視えない水平線。

 その風景は始まりの――始まるよりずっと前の幼い頃から変わらない。ちっぽけだったわたし達を引き合わせてくれたのは、この海だった。

 うん、そうだったね。皆、ずっと前にここに居たんだよね。

 飛べる、て教えてくれた彼を、またわたしのもとへ連れてきてくれた。

 あの白いワンピースの子に海の音を聴かせてくれた。

 あの幼い日に力いっぱい飛ばした紙飛行機は、空に溶けて青い翼をはためかす小鳥のように視えた。

 青い鳥があの虹を越えて飛べたんだから、わたし達にだってきっとできるよ。

 わたし達があの頃に感じていた予感は本物だったんだ。きっと産まれた時からずっと持っていて、失くしてなんてなかった。

 これから、どんなに長い時間が経っても、何があっても絶対に消えない。わたし達が持っている、無限の可能性はいつだって輝いている。

 それはこの物語を読んでくれているあなたの裡にも、きっと。

 

 

   4

 

 街の人々は、こぞって沼津駅の方向を目指しているようだった。休日ということもあってか、老若男女問わず足を急がせている。地元民ばかりでなく、周辺地区や遠方からも来ているんじゃないだろうか、と思えた。

「やっぱり電車で来た方が良かったのかしらね」

 まだそんなに歩いていないというのに、小沢は早くも疲れたように漏らした。きっと満員だろうから、という事で車での移動にしたのだが、それはそれで駐車場探しに苦労して会場からどんどん遠ざかってしまった。

「だから言ったじゃないですか。スクールアイドル舐めちゃ駄目だ、て。前日入りは常識ですよ」

 なんて尾室がサイリウムの本数を数えながら小言を向けている。結構な本数だが、まさか全部持つつもりじゃないだろうか。

「あんたそんなに持ってきてどうするつもりよ?」

「どう、てふたりの分も持って来てあげたんじゃないですか」

「いらないわよ。そんなもん振り回す歳でもないでしょ」

「歳なんて関係ありませんよスクールアイドルなんですから」

「理屈が分かんないわよ」

 なんて応酬を繰り広げているふたりを横に、誠は暖かい風の吹く沼津の空気に穏やかな気分になれた。滞在していた期間が長かったせいか、まるで故郷に帰ってきたように安心できる。

 3年生が卒業し、6人になった新生Aqoursとしてライブをする。千歌からその連絡を受けて、まだ暇を持て余していた誠はふたつ返事で行くことにした。もうすぐ日本を経つ小沢と、G5プロジェクトを控えた尾室も一緒に。

 前方からこちらに近付いてくる人物に気付き、誠たちは揃って足を止めた。馴染みの瀟洒なスーツは、沼津の素朴な街並みでは酷く目立つ格好だ。

「北條君」

 小沢が少し驚いたようにその前を呼ぶと、北條は不気味にも視える笑みを浮かべ、

「お久しぶりです、皆さん」

 「何であなたがここにいるのよ?」と小沢が訊いた。まさか北條もAqoursのライブを、と一瞬思ったのだが、どうにもイメージが沸かない。当然本人の答えは違い、

「ええ、少々小沢さんが恋しくなりましてね――というのは勿論冗談です。こっちのフレンチの味が忘れられなくなりましてね。わざわざ出向いたら偶然にも、というわけです」

 北條の冗談なんて小沢は歯牙にもかけず、いつものように憮然と言い放つ。

「さっさと消えなさい。あなたの顔を見たら警察辞めた意味が無いわ」

「相変わらず口の悪い人だ。それにしても聞きましたよ。今度は海外の大学で教授をされるとか。どこへ行ってもお山の大将がお好きなようですね」

「何だったらあなたも私の授業を受けたらどう? 少しは賢くなるかもしれないわよ」

「いえ、結構です。必要な知識は全てこの頭に入っていますので」

 と自身の頭を指さす北條に小沢は「そうね」と同意を示す。

「嫌味を言う知識だけは詰まってそうね。目いっぱい」

「ま、それはお互い様、ではないですか」

「はいはい、じゃあね」

 心底面倒くさそうに吐き捨ててから歩き出す小沢を尾室と一緒に慌てて追いかける。ちらり、と一瞬だけ振り返ると、北條の口元が笑みを浮かべていた。いつもの皮肉めいたものじゃなく、初めて見る晴れやかな笑顔だった。

「喧嘩仲間、てやつですね」

 と尾室が笑いながら言うも「どこがよ」と小沢に撥ねつけられる。

「そうだ氷川さん」

 後方から呼び止められ、再び足を止める。「まだ何かあるの?」という小沢の険のこもった声音は意に介さず、北條は言った。

「来月から捜査一課に戻るそうですね。また一緒に働けることができて、嬉しいですよ」

 「え?」と呆けた声をあげてしまう誠に北條は肩をすくめ、

「おや、まだ通達が届いていませんでしたか。私としたことが迂闊でした。今のは聞かなかった事にしてください」

 「はあ……」とがらんどうな受け答えしかできずにいる誠に背を向けて、北條も歩き出す。

「やりましたね氷川さん、復帰ですよ!」

 はしゃぐ尾室の言葉で、ようやく意味が理解できた。小沢も嬉しそうに笑い、

「おめでとう氷川君。お祝いに焼肉行くわよ。久々にいつもの店ね」

 「良いですね」と尾室が言った。会場への足を速めるふたり見て、誠は思う。きっと焼肉を食べている間、会話の内容はユニット時代と何も変わらないだろうな。小沢が浴びるようにビールを飲んで、尾室は我先に、と肉を取って。これが3人での最後の食事、だなんて意識は微塵もなく。

 でも、それで良いんだ。このふたりと一緒に戦えたことは、誠の生涯できっと替え難い誇りになる。離れていても、どんなに時間が経っても、また会えたら自然と焼肉屋へ行くことになる。

 だから今は、この瞬間を最大限に楽しもう。ライブの後も焼肉。その後も、宿を取っておいた十千万で夜が明けるまで語り明かすのも良い。

 輝き始めた「明日」への期待を膨らませながら、誠も賑やかな街の中心へと急いだ。

 

「Aqoursのライブ会場はこちらでーす!」

 メガホンを片手に呼びかけている少女たちの誘導に従い、人々は駅前に特設されたステージへと歩いてく。地域の催し物程度にしか思っていなかったが、観客の密度は涼の予想を遥かに超える混雑ぶりだった。食べ物の屋台まで出店されていて、まるで縁日みたいだ。

 涼はまだ無人のステージを見上げる。無数のバルーンに囲まれる中で大きな虹が掛かり、そこには水色で「Aqours」というロゴが入っている。ステージの傍にあるテントでは制服姿の少女たちが機材の調整を行い、観客たちにライブ中での注意事項を呼びかけている。スタッフらしき者は全員が少女だった。教員や父兄らしき人々はいるのだが、手伝う様子はなくただ見守っている。

 このライブは、全てが彼女たちの手作りだ。曲もステージも。それはまるで、これまでの軌跡を辿ってきたAqoursそのものを象徴しているようだった。彼女たちの歌を1度しか聴いていない涼に、少女たちの奮闘は想像するしかない。

 でも、この会場の賑わいでほんの僅かではあるけど理解はできる。彼女たちがどれだけ人々に愛されているのか。

 足元で何かが擦れる感触を覚え、視線を降ろす。1匹の子犬が涼の足にもたれかかっている。ひょい、と持ち上げられるほどに子犬は軽かった。丸々とした体を覆う毛がとても柔らかい。産まれて間もないらしく、真新しい首輪にはシイタケのストラップが付けられている。

「あ、こんな所にいた!」

 とこちらに駆け寄ってくるのは美渡だった。

「あれ、葦原さん?」

 涼に気付いて目を丸くする彼女に後れて、子犬を抱いた志満がやって来る。

「あら、葦原さんも来ていたんですか?」

 「どうも」と高海姉妹に会釈しつつ、自分の手の中にいる子犬と志満の腕の中にいる子犬を見比べる。志満が抱いている子犬もしいたけのストラップが付いた首輪を巻いている。犬の人相なんて分からないが、姉妹犬とみて間違いはないだろう。

「あれ、この子が人に懐くなんて珍しい」

 美渡が言うと志満も子犬に顔を寄せ、

「本当、とっても人見知りなのに」

 「ほらおいで」と美渡が涼の手から子犬を受け取ろうとしたのだが、子犬は涼の袖に爪を立て抵抗している。「あ、おい」と涼は子犬の手を簡単に引き剥がせるのだが、何度離しても子犬は懲りることなく袖を掴んでくる。

「きっと葦原さんの事が大好きなんですね、その子」

 その声は美渡でも志満のものでもなかった。辺りを見回してもそれらしき人物が見当たらず、不意に腰をぽんぽん、と触れられ視線を降ろすと千歌によく似た小柄な少女がしいたけを傍に連れて涼を見上げている。

 千歌に妹なんていたか――

「そういえば、葦原さんは母に会うの初めてでしたね」

「母⁉」

 志満の言葉に思わず大声をあげてしまったが、少女——ではなく3姉妹の母は涼に末娘よりも幼く見える口元に笑みを浮かべる。

「初めまして、3姉妹の母です」

 驚愕のあまり、ぎこちない会釈を返すのがやっとだった。姉妹の母ということは十千万の女将か。失礼ながら志満が女将とばかり思っていた。涼のような反応は珍しくもないのか女将は満更でもなさそうに笑い、

「葦原さん、よろしければその子と暮らしてもらえませんか?」

 「良い、しいたけ?」と女将は子犬の母親に尋ねると、しいたけは「ワン」とだけ吼えた。すると女将は涼へ視線を戻し、

「お願いします、ですって」

 本当にそう言ったのだろうか。涼は自分の手から離れようとしない子犬と視線を交わす。産まれたばかりの淀みない瞳はねだるように涼の手を舐めた。

「行くか、一緒に?」

 くうん、と子犬は応えた。涼は笑みを零し、しいたけの目線にまでしゃがんで語り掛ける。

「立派に育てるよ」

 子犬をしいたけの前に持っていくと、親子は別れの挨拶なのかしばし鼻先を擦り合わせていた。志満の抱く姉妹にも、同じように挨拶をさせてやる。

「名前は何て言うんですか?」

 涼が訊くと女将は思い出したように、

「そういえば、まだ決めてなかったわね」

 「確かに」と美渡が笑い、志満が言った。

「葦原さんが付けてあげてください」

 これには涼も困ってしまった。雌のようだが女の子らしい名前がなかなか思いつかない。どうしたものか悩み果てているうちに、マイクで拡張されたルビィの声がステージから響いた。

「皆さん、こんにちは」

 駅前にいる観客や、屋台の店主たちまでがステージに注目する。ルビィは着替えた衣装を隠すためか長いベンチコートで足元まで隠している。

「ルビィ達は浦の星――あ、元浦の星女学院スクールアイドルAqoursです。これから、この南口特設ステージにてライブを行います。今のルビィ達、新生Aqoursを是非見てください。よろしくお願いします」

 堂々と述べて、ルビィは舞台袖に引っ込んでいく。

「それじゃ葦原さん、失礼します。良ければまたうちの旅館に来て下さい」

 しっかりと実家の宣伝をした志満たちと別れ、涼は名前のない子犬をジャケットの中に入れて顔だけを出してやる。

「あれ、涼?」

 不意に背後から呼ばれて振り返ると、果南がいた。傍には鞠莉とダイヤも。

「Ciao、涼」

「ご機嫌よう」

 「ああ」と適当に返すと、果南は涼の胸元にいる小さな生き物の姿に苦笑する。

「その子、しいたけの子だよね?」

「ああ、何だか懐かれたみたいでな」

 そう言って頭を指先で撫でてやると、子犬は気持ち良さそうに目を細める。こうして見ると可愛いものだな、と愛着が湧き始めてきた。

「お名前は何て言うんですの?」

 ダイヤに訊かれ、涼は頭を掻きながら言葉を濁す。

「それが、まだ無いらしい」

「Oh, 吾輩は犬である、てやつね」

 そうはやし立てる鞠莉に「それ猫ね」とやんわり果南が修正する。

「果南が付けてやってくれないか?」

 「わたし?」と果南は逡巡しながら、子犬の顔をじ、と見つめて呟く。

「………わかめ」

「は?」

「うん、この子の名前はわかめ」

「お前、もっとマシなやつ無いのか?」

「じゃあ涼がもっと良いの付けてあげたら?」

 そう言われたらぐうの音も出なくなり、そんな涼を見て果南は勝ち誇ったように得意げな顔をしてみせる。

「じゃあ決定ね、わかめちゃん」

 と果南は子犬――もといわかめの頭を撫でてやる。志満曰く人見知りらしいのだが、わかめは涼が撫でてやった時と同じように果南の手を受け入れている。

「お前たちは、いつまでここに居るんだ?」

「このライブを観たら、もう行くよ」

「そうか」

 次に戻ってくるのはいつになるのだろう。いつになったら会えるのか、それは敢えて訊かなかった。

「涼もぐずぐずしてちゃ駄目だよ」

「遅くなっても、果南は待っていてくれるんだろ」

「どうかな」

 その日を待つんじゃない。会いたくなったら、会えるようになったら会いに行けばいい。それなりに時間は掛かってしまうかもしれないが、お互いに老けているかもしれないが、それでもいつか必ず。

「そろそろ始まりますわ」

「新しいstartだね」

 ダイヤと鞠莉に倣い、果南もステージを見上げる。少し前までは自分たちが立っていたステージ。3人の顔には色んな感情が窺えて、どの色が強いのか決めかねているようだった。後輩たちのこれからを激励するような、もうあそこに立てない事への名残惜しさか。

 ステージから降りた彼女たちも、それぞれの明日へと向かい歩き始めていく。涼も、同行してくれるパートナーができた。胸に抱く小さい命を育むことを、今の生きる理由にしても良い。

 でも、彼はどうだろうか。この世界とは別の次元へと旅立ってしまった彼に、未来という概念は持ち合わせているのだろうか。

 彼と同じ境地へ往くことは、神話の時代から望まれていたアギトという生命体の悲願なのかもしれない。そこへ往くことでようやく、涼たちのような力を持つものは肉体という檻から解き放たれ生命体の完成を視るのかもしれない。

 だが、そのステージへ至った彼は津上翔一と呼ぶべきに値するのだろうか。アギトという強大な力を顕現させ、世界中の光を取り込み、プリズムで分けたように虹をはためかせた力の依代というべきではないだろうか。

 光に充てられ続け、雲よりも遥か上空の彼方を泳ぐ翔一はどんな夢を視る。永遠よりも長い時間を、彼はただ夢だけを視させられ、個としての意識を薄れさせ、やがては輝きという名の可能性を振り撒くための航海へと乗り出していく。

 そんなの、俺は受け入れない。

 涼は蒼穹へ目を据えた。卑しい人間の反感というのなら嗤えばいい。ただ俺は、俺の在りたいように在るだけだ。彼女たちも同じで、自分の心に従ってきただけ。その果てが延々と種蒔きをするだけのシステムになるなんてご免だ。

 だから戻ってこい、津上――

 

 

   5

 

 控え室にルビィちゃんが戻ってきたところで、わたしは「さあ」と皆に呼びかける。

「精いっぱい歌おう!」

 わたしの後に、曜ちゃんと梨子ちゃんが続く。

「皆のために」

「想いを込めて」

 更にルビィちゃんと花丸ちゃんと善子ちゃんが、

「響かせよう」

「この歌を」

「わたし達の始まりの歌を」

 わたし達は円陣を組んで、その中央に手を重ねていく。いつも本番前にやっていたコール。それぞれの番号を告げていく。

 わたしが「1!」と、

 曜ちゃんが「2!」と、

 梨子ちゃんが「3!」と、

 花丸ちゃんが「4!」と、

 ルビィちゃんが「5!」と、

 善子ちゃんが「6!」と。

 ここに居るのは、ステージに立つのはこの6人。メンバーは全員が揃っている。でもわたしには確かに聞こえた。6から続く番号が。

 ダイヤちゃんの「7!」という声。

 果南ちゃんの「8!」という声。

 鞠莉ちゃんの「9!」という声。

「聞こえた?」

 そう訊くと、皆は笑みを浮かべながら頷いた。気持ちがひとつになった確信を得て、わたし達は人差し指を中心に集める。ずっとゼロの形だったけど、もうゼロじゃない。1になったんだ。その1から、わたし達はまた始める。そして続けていく。

「1からその先へ、

 皆と共にその先の未来へ。

 Aqours――」

 内側から燃えていくような熱量と共に、わたし達は開幕の鐘を告げる。

「サンシャイン!」

 舞台に躍り出たわたしは、たくさんのお客さん達が集まってくれた駅前の広場を見渡す。密集している群衆から少し距離を置いた外縁に、3人の姿を見つけた。他にも知った顔ぶれが揃っている。

 氷川さんに、小沢さんに、確か尾室さん。葦原さんも。鞠莉ちゃんのお母さんまで居たのはちょっと驚いた。

 俄然張り切って、ずっとわたし達を温かく見守ってくれた人々へ歌い上げる。今のわたし達の想いを。

 そして、これからの希望を。

 それが輝きだ、て分かったからかな。ここまでの思い出のひとつひとつが、宝石みたいにきらきら光っている。

 楽しかったこと、嬉しかったこと、辛かったこと、怖かったこと。その全てが大事な宝物。

 宝物だった居場所や大切な人と離れていても、ずっと心の中には残っている。引き出しを開けるように思い出せば、いつだってあの頃の光景が広がっている。

 その居場所で一緒に居た人と会いたくなったら、名前を呼べば良いんだ。そうすればきっと聞こえてくる。皆と一緒に口ずさんだ歌の一音一音が、踊るようにわたし達の周りで跳ねていく。

 絶対に忘れないよ。わたし達が一緒に育んできた想いや、輝きはひとつも漏らさず。夢があれば、心の奥底にある願いに正直になれば、きっとなれるんだ。

 なりたい自分に。

 普通なわたしができたんだもん。わたし達の歌を聴いて、この物語を読んでくれたあなたにだってできるよ。

 走り出してみて、上手くはいかないのかもしれない。泣いちゃうだろうし、躓いちゃうこともあると思う。でもね、それでも振り出しや、ゼロにはならないんだよ。

 ちゃんと前に進んでる。明日は今日よりも、夢へと確実に近付いているよ。

 気付けば、3人の姿が見えなくなっていた。どこに居るのか、探す必要なんてないことは分かっている。3人はもう行っちゃったんだ。それぞれの次の居場所へ。それぞれの未来へ。

 でもそれは、もう心配いらない、てことなんだよね。わたし達6人でも、十分ステージで輝けるんだよね。

 うん、分かってる。こうなることは分かっていたよ。いつまでも一緒には居られない。別れの日は必ず来る。

 でも、やっぱり寂しい気持ちは消えないよ。皆一緒だったから、わたしは前に進むことができたんだ。皆が居てくれたら、怖いものなんて何もなかった。わたしの涙を皆が受け止めてくれたから、何度でも立ち上がることができた。

 だからせめて、気持ちだけは離れないで。何があっても、ずっと繋がっていて。

 そばに居て――

 

 ――ちゃんと居るよ――

 

 不意にその声が、わたしの胸の奥から全身に響いてくる。

 

 ――いつでもお傍に居ますわ――

 

 ――Don’t worry――

 

 ああ、幻なんかじゃない。夢でもない。わたしひとりだけじゃない。

 曜ちゃんも、梨子ちゃんも、花丸ちゃんも、ルビィちゃんも、善子ちゃんも。皆の心にしっかりと響いている。皆の声が共鳴して、口ずさむ歌声で震える空気が光を帯びていくのを感じられる。

 視えるよ、果南ちゃん。

 聴こえるよ、鞠莉ちゃん。

 感じるよ、ダイヤちゃん。

 皆のダンスが――

 皆の歌が――

 皆の熱が――

 それぞれが違うものを持っていて、でもそんな取り纏めのないものが集まることで、大きなひとつの光になった。

 ずっと、ずっと考えてきた。

 どうすれば、まだちっぽけなわたし達が彼と同じ輝きへと往けるのか。どうしたらまた彼と会えるのか、色んな方法を探ってみた。

 答えはすぐに出た。あの光に満ちていたドームと同じように、全力で歌って踊れば良いんだ。わたし達の放つ光。ひとりひとりが持つものは弱いのかもしれないけど、皆が一緒なら絶対にどこまでも高く届くはず。

 あの瞬間だけのものじゃない、絶対に消えない輝き。空っぽだと思っていたわたしの中には、皆と紡いできた物語が詰まっている。ああ、わたしにもあったんだ。皆が持つアギトとは違う、でも負けないくらいの輝きが。

 皆の灯す光が、わたしの中に入り込んでくるのを感じ取れる。異なる色の光が溶け合い互いの境界を失くすことで、わたしを器として生まれ変わっていく。

 溶け合っていくけれど、完全にひとつにはなっていない。皆の抱える想いは近いけれど、微妙に違っていて反発し合ってもいる。注がれていく想いは星の数ほどたくさんあるけれど、会いたいと願う人は同じ顔を浮かべている。

 視える翔一くん?

 これだけの人たちが、あなたと響き合いたい、て願ってる。戦いに行くあなたの背中を見てきたわたしの想いを、何が何でも伝えたい。

 あなたから受け取った愛と勇気を抱きしめて、わたしはもう1度、あなたに会いに往く。

 

 ――変身!――

 

 叫んだ瞬間、身体がふわり、と軽くなった。足踏みしているはずの地の感覚がなくなって、引かれるように“わたし”という意識が高く昇っていく。一緒に着いてきてくれた8人分の光がヴェールのように覆い被さって、魂と呼ぶべきわたしの姿を変えていく。

 背中から2枚の翼がばさ、と虹色の光を振り撒きながら大きくはためいた。一気にわたしの感覚はステージから離れると雲を越え、富士山を越え、空を越えていく。真っ暗な宇宙すらも瞬く間に過ぎ去ったわたしは更に前進し続ける。

 最後に頭を撫でてくれた、大きな手の温もり。飛行機雲みたいに残る彼の温かな光を手掛かりに、わたしはその名前を声高に呼びながら虹の彼方を駆け抜けていった。

 

 ――翔一くん――

 

 

 もはや懐かしい響きの名で呼ばれたことに気付き、「それ」は歩みを止めた。何てことのない些細な予感。絶えず流れ込んでくる声の中から、偶々かつて肉体を伴っていた名の音に聞こえただけだ。

 自身が津上翔一という個体として存在していたことを、「それ」は未だに記憶している。だが肉体を捨てアギトとしての完成形へと至った今、かつての旧い名とそれに伴う懐かしさなど無意味に等しい。それでも「それ」が翼を休めたのは、自身と同じ光の眩さを知覚したからだった。

 近付いてきた者の歩みは「それ」からしてみれば酷く緩慢だった。無視して前進を続けていたら距離が開くばかりで、永遠に追いつかれることは無かっただろう。

 ようやく視えものは「それ」が予想していたよりも遥かに未熟で、その動きが赤子のように緩慢なのも納得できた。せわしなく翼をはためかすその姿からは確かに自身と同じアギトの光を感じるのだが、数が多くひとつひとつの光が篝火のように頼りない。

 極めつけはその中心に座しているもの。8色の光を纏いながら「それ」の名を呼ぶ幼子からはアギトを感じられない。にも関わらずそこからも確かな光が視えて、9色の虹を煌かせながら追ってくる。

 「それ」はしばし揺らぎを覚えた。それが戸惑いという不要になって久しい感情であることに気付きながら、迫りくるアギトの正体の確信へと至る。

 9色から放たれる抑揚をつけた声の連なりが歌というものと遅れて気付く。そうだ。かつて地上で聴いていたAqoursという少女たちの歌。彼女たちの声を帯びるアギトの光の中心にいるのは、9人の中で唯一力を持たないはずの者。ただ不憫な肉体に縛られ続け、いつか朽ち果てるだけの人間だった。そこが8つの光の受け皿となって、ひとつのアギトとして顕現している。

「翔一くん!」

 高海千歌という人間を依代としたアギト・Aqoursが「それ」の名を呼ぶ。予想外のことに驚愕こそしたが、存外の喜びが粟立った。ほの一瞬で消えゆく光でしかなかった彼女がここまで至る術を手に入れた。

 さあ一緒に往こう。無限に輝く光を抱き虹の彼方へと。

 「それ」は歓迎の抱擁を交わし溶け合うことを促すが、アギト・Aqoursの中に在る魂はどれひとつとして全の中へ加わろうとはしない。

「駄目なんだよ、翔一くん」

 溶融を拒む千歌の意思が声となって「それ」に流れ込んでくる。

「まだここに来ちゃ駄目なんだよ。わたし達、まだゼロから1にしか進んでない。一気にこんな100とか、もっと先に駆け上がっちゃうのは早すぎるよ」

 何故それを良しとしないのか、「それ」は肉体という檻に囚われままの未練にただ閉口する。やはり、千歌はただの人間でしかないのか。全ての光を知覚し可能性の果てへ至った自身に、また肉体に戻れというのか。

 あんな脆く狭く窮屈な肉体にいては、砂粒ほどにまでこの意識は収縮されてしまう。旧き神の支配から脱却した生命体が、ようやく小さな地球(ほし)から羽ばたく自由を手にしたというのに。

 無限の可能性というものを証明し、それに相応しい形に至ることがアギトの、ひいては人間の悲願だったではないか。なのに何故、地上にまた足を付けなければならない。

「わたし達ね、叶えたい未来はあったけど、未来は視えなかった。ただそうなるかも、ていう可能性だけだったんだよ」

 そう、だからこそ不確かな可能性の結果を視るために「それ」は永遠ともいうべき航海へ乗り出した。人の脆い肉体では一瞬の光を連続させるだけで、悪戯に可能性という夢を視るだけで儚い命を終わらせてしまう。

 可能性の最果てへと至る標がこの境地だ。後に続く同胞たちの道筋に光を照らさなければ迷ってしまうじゃないか。

「良いんだよ、それで」

 と千歌は回り道を肯定する。

「わたし達は結果を望んでいたんじゃない。たった一瞬でも輝きが視えたらそれで進めたんだ。迷うこともあったけど、立ち止まらなかった。そしたら、今はちゃんと視える。新しい輝きや、往くべき場所が」

 アギト・Aqoursの腕が「それ」を抱く。どくん、と鼓動が伝わってくる。「それ」にとって鼓動とは肉体と共に捨てた器官の不要なリズムでしかない。それはアギト・Aqoursも同じはず。肉体から解き放たれてもなお、彼女たちの想いは脈を打ち続け体温を生じさせている。脈打つ必要なんてないのに。ここに満ちた光が常に温めてくれるのに。

 彼女から注がれる虹色の音が、肉声となって空気なき領域を震わせる。

 

 ――津上!――

 

 ――津上さん!――

 

 それはかつて共に戦っていた者たちの声だ。アギトの力をギルスとして顕現させた者。力を持たず這いながら追随してきた者。飛ぶための翼を持たず、重力の重さに喘ぐ声。息苦しさに吐き気を催しながら、呼吸し己の熱を燃やしながら吼えてきた者たちの声が、「それ」が捨てたはずの津上翔一だった頃の意思を呼び覚ます。

 ちっぽけな人間の器に収まる彼らがこちらを仰ぐのが視える。まだ地上にいる彼らにこの領域を認識することは不可能だろう。ギルスである彼でさえ、生涯をかけてもここを知覚するのは無謀といえる。

 有限の鼓動を刻む者たちの発する熱。「それ」の昔日に想いを馳せる彼らも、アギト・Aqoursもその熱を手放そうとはしない。かつて自身にも熱が存在し、その熱こそがこの領域に至らせた事実を「それ」は自覚した。

 熱を捨てることは間違いではないが、同時に正解でもない。熱を保持したまま往けるのなら、その可能性の果てを夢見るのもアギトの悲願と言えよう。

 だが、そうしたらまた振り出しだ。再びこの境地に戻ってくることは叶わないかもしれない。有り得たはずの可能性を自ら閉じるのは、旧き神と同じ過ちではないのか。だが、不自由さを享受する彼女はそれを理解した上で微笑む。

「可能性が無限なら、きっとまた辿り着けるよ。今度はアギトも人も一緒に」

 そうかもしれない、と「それ」はアギト・Aqoursの提示する可能性に頷く。全能な神と定義できる自身の予想を超えた術で、彼女はやって来た。時に予想外の、まさに奇跡と呼ぶべき現象を人間の身でありながら起こした彼女たちなら、別の可能性を形にできるだろう。

 ただ前のみを向いていた「それ」が、翼を得てから初めて故郷の小さな地球(ほし)へと振り向いた。凍てついた宇宙に浮かぶ惑星に満ちる星屑のような輝きは、戻れば認識する術を失うだろう。でも確かに存在している。目に見えなくても、耳で聴こえなくても。

 全ての(とき)を見渡し、全ての光を繋ぐ知覚と視野を放棄する。「それ」の内側からどくん、と産声のような脈が打ち始めた。鼓動が熱を生じさせ、全の光に溶け込んでいた「それ」が光輝に目覚めし(シャイニングフォーム)アギトの姿を構築していく。

 鎧が剥がれ落ち、羽化するように新生した津上翔一としての肉体に収まる意識が鼓動する心臓と同期し、目の前に居るアギトの光を纏った少女の姿を認める。

「千歌ちゃん」

 形を成した唇でその名を呼び、翔一は千歌の柔らかで熱い身体を抱き留めた。彼女を包み込む色がひとつ、またひとつと羽を零すように離れていき、翼を溶かしたふたつの熱を持った器が連続する刹那の中へと引かれていく。

「千歌ちゃん。少し、大きくなった?」

「うん。少しだけ、ね」

 無限の可能性を想起させる光の群れから、たくさんの人々の声が明瞭になっていく。その人たちの熱を感じるため、響き合うため、アギトの青年と人間の少女は在るべき居場所へと降りていった。

 

 ここに、幾重にも交わった物語が幕を閉じる。

 これは、運命に挑んだ者の物語。

 運命に抗った者の物語。

 運命を乗り越えた者の物語。

 

 つまりは、輝きの物語だ。

 

 





 光を授かりし人の子、紡がれし調(しらべ)によりアギトが座する光の最果てへと導かれん。
 愛と祈りを以てアギトを地へと降ろし、肩を並べし時こそ新たな世への扉が開かん。

   人の書


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親愛なる皆へ

 ライダーは、いつも君たちのそばにいる。
 何があっても君たちと一緒だ。
 生きて、生きて、生きぬけ。
 ライダーは、君たちとともにいる。

――仮面ライダー1号 本郷猛




 

 あの頃皆に起きていたこと、感じていたこと、思い出せる全てのことを教えてほしい。

 

 わたしが皆にそう連絡したとき、とても驚かせちゃったし困らせちゃったと思う。わたしはあの頃のことは今でも思い出せるけど、皆はどうなのか気になったんだ。あの日々を皆が何を思って過ごしてきたのか。まだあの日々が、皆の中で輝いているのか。

 皆から返事を貰ってとても嬉しかったけど、正直言うとちょっぴり腰が引けたんだよね。これだけたくさんの人が集まると、同じ時間を過ごしても見方や感じ方はこんなに違ってくるんだね。しかもわたしが知らないこといっぱいあったんだもん。びっくりしちゃった。

 皆から貰ったあの1年間の記憶を纏めるのは、とても大変な作業だった。わたしに文才は無いし、花丸ちゃんに書いてもらったらもっと良くなったかもしれない。でもね、これはわたしがやらなきゃ、て思ったんだ。わたしの物語に皆を巻き込んじゃったんだし、翔一くん達の戦いを傍で見ていたのもわたしだから、これくらいの事はしなきゃ、てね。

 あの頃に感じていた期待とか、願いとか、絶望とか、皆が教えてくれた想いの全部を拾い集めて綴ったのが、この本だよ。わたし達と、わたし達のために戦ってくれた人たちの想いはこの物語としてたっぷり詰め込んでおいたから。結構長くなっちゃったけど、それは勘弁してね。

 あれから時間が経って、ふと思っちゃうことがあるんだ。わたし達のしてきた事は何だったんだろう、て。浦の星は無くなっちゃったし、輝きを視たからといってわたしの人生でこれといった劇的なことは今に至るまでは何も起こっていない。

 でも、意味は確かにあったんだよ。Saint_Snowとラブライブの延長戦をして、理亜ちゃんは新しい仲間と新しいグループを作ることができた。新しいAqoursを父兄の人たちが観てくれたから、分校がなくなって静真高校と正式統合になった。

 わたし達が居なくなった後も、Aqoursは続いている。新しいスクールアイドルグループもどんどんできて、皆一生懸命にわたし達のように輝きを探し続けている。

 その子たちを見かけることがあって気付いたんだ。わたし達もあの頃は、こんな風にきらきらしてたんだ、て。わたしが見つけた輝きは、幻なんかじゃなかったんだ。誰もが皆、心の中に光を宿している。その事に気付けて初めて、自分の輝きにも気付けるんだよ。

 そう思ったら何かじ、としていられなくなった。わたし達の起こした奇跡をラブライブ優勝、ていう形で残すだけじゃ物足りなくなったんだ。あの頃の全てを何らかの形にしたくなったのが、この本を書くきっかけ。当然、全部が楽しかったわけじゃなかったよね。辛かったことや怖かったことが毎日のように起こっていたし、それを思い出すだけで今でも手が震える。

 皆も胸の奥にしまっておきたいこともあったはずなのに、全部教えてくれてありがとう。それと辛いことをさせちゃって、本当にごめん。

 全部を打ち明けてくれたからこそ、この本にした意味は確かにあると思う。最後に全員で浦の星に行ったとき、わたし言ったよね。なくならない、て。全部わたし達の一部だ、て。わたし達や他の生徒の皆の胸の奥にしまっておくだけじゃ、いずれはわたし達と一緒に消えてしまうかもしれない。

 だからこうして残しておきたかったんだ。もう校舎もなくなった今だからこそ。わたし達があの学校で過ごした時間を物語として綴ることで、確かな形でずっと残すことができる。どんなに時間が経っても、ここにある言葉を読めばあの頃の事がそのまま残ってる。

 せっかく書いたけど、わたし達からすれば過去の思い出話だし、他人に読んでもらっても何か感じてくれる自信はあまりない。ラブライブ優勝グループの自伝、て宣伝すれば手に取ってくれる人はいるかもしれないし、わたし達の後輩が教科書みたいに読んでくれるかも。でもきっと、わたし達の視た輝きを本当の意味で理解できる人はいないんじゃないかな。

 わたし達の輝きは、わたし達でなければ決して辿り着けないものだった。誰が欠けても、逆に誰かが加わっても同じ光は視えないよ。それはSaint_Snowも同じだよね。理亜ちゃんのグループで視た輝きは、聖良さんと一緒の時とは違ったものだったんだから。後輩には申し訳ないけど、教科書にはなれそうにないかな。その子たちも、その子たちじゃないと駄目な輝きがあるはずだから。

 でも、伝えたいことはあるんだ。アギトとかただの人間とか関係なく、皆の心の奥底には力があるんだ、て。何でそう断言できるのか、答えはひと言じゃ纏められないから物語の中に書いておいたよ。ただ正解を出すだけじゃ詰まらないじゃん。時間があったら、皆にも答えを探してほしいな。見つかったとしても、これからの人生の指標になるような、そんな大それたものでもないけどね。

 この本を読んでくれた人に、わたし達のようになってほしい、なんて願わない。ただ知ってほしいだけなんだ。わたし達のやってきた事の結果に至るまで、たくさんの物語が折り重なってきたことを。

 そうだ、この物語を書きながらふと思ったことがあるんだよね。

 もしわたし達が翔一くん達と出会ってなかったら、どうなっていたのかな、て。彼が流れ着いたのが内浦じゃなくて別の海岸だったら、わたし達と彼らの物語に何かしらの変化はあったのかな。考えてもしょうがないことだけど、つい止まらなくなっちゃった。

 結構長く考えたんだけど、多分あまり変わらなかったんじゃないかな。きっと翔一くんはどこの家に居ても翔一くんだっただろうし、氷川さんはどんな事件でも真面目に捜査するだろうし、葦原さんはどんな事があっても絶対に挫けないよ。それにわたし達も、9人一緒ならどんな事でも乗り越えられる。そうだよね。

 翔一くんとの物語が交わらなければ、わたしはお父さんを喪わなかったかもしれない。果南ちゃんも、葦原さんを好きになっていなかったらもっと穏やかに過ごせたかも。鞠莉ちゃんも、木野さんの過去を背負わずにいたかもね。

 アギトと無関係なら。書きながらそう考えたことは何度もあった。

 でもやっぱり、わたしは翔一くんと出会って良かった、て言える。翔一くんと一緒に過ごしていく日々のなかで、わたしは何が人の居場所を決めるのか分かった気がする。食べ物が美味しいとか、景色が綺麗とか、人が素敵とか、それだけで良いんだよ。その人が居るべき場所で、食べて生きていくことの意味を翔一くんは教えてくれた。

 生きる、ていうのは命を育むこと。戦うのは、育む命に宿る光を護ること。命はいつか必ず終わってしまうけど、全部がゼロには絶対ならないよ。次の世代とか、やってきた事とか、その全部が生きた証としてずっと残っていく。誰かに想いを伝えることができれば、人伝いにどこまでもその人の物語は広がっていく。

 だからわたしは、この不思議な縁で紡がれた思い出を何ひとつ忘れないよ。彼らと交わった日々があるから、「いま」のわたし達がある。護ってくれた人達との記憶も、わたしにとっては輝きに間違いない。

 そういえば、物語を半分くらい語った辺りでわたしは訊いたよね。君の心は輝いているかい、て。答えは――訊くまでもないかな。少なくとも返事をくれた皆は、あの頃に確かな輝きを感じたはずだよね。

 わたし達は輝ける。今日も、明日も、明後日も。物語はその先もずっと続いていく。わたし達の中にはいつだって、あの頃と同じ輝きが灯っている。

 あのライブの日からわたしがどう過ごしてきたかは、敢えてここには書かないでおくね。これはわたしだけの物語じゃなくてAqoursと、翔一くんと氷川さんと葦原さん皆の物語だから。

 お互いどうしているか気になったら、また皆で会おう。それぞれの歩んできた事とか、聞いたら驚くような事、たくさんあると思うんだ。わたしはね、驚かせる自信あるよ。何かは会ってからのお楽しみ。

 内浦に新しいレストランができたから、そこに集まろう。わたし、そのお店には結構顔が効くから。どんなお店かはね、見ればすぐに分かるよ。きっと気に入ると思うんだ。そこのシェフが作った料理を食べながら皆で語り明かそうよ。

 これまでと、今と、これからの物語を。

 

 

   浦の星女学院スクールアイドル Aqours

   リーダー 高海千歌

 






『ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト』 ―完―


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あとがき

 まずは叫ばせてください。

 終わったああああああああああアアアアアアアアアアアアッ‼

 いや本当、マジでこの作品は大変でした。
 はいすみません。ここから真面目な文面になります。




 

 皆さんこんにちは、hirotaniです。

 

 多くの人々の支えと、読者様から応援を頂いたおかげで、約2年と8ヶ月を経てこの『ラブライブ!サンシャイン‼︎ feat.仮面ライダーアギト』が完結となりました。

 『ラブライブ! feat.仮面ライダー555』に続く『ラブライブ!』と『仮面ライダー』のクロスオーバー第2弾となった本作ですが、執筆は困難を極めるものでした。

 

 執筆の経緯としては、『サンシャイン』2期のアニメが放送されていた時期から二次創作を書きたいと考えており、クロスするライダーが『アギト』になるのも早い段階から決めていました。最初は前作『feat.555』同様に『サンシャイン』をアニメ準拠、『アギト』を後日談として構想したのですが、『アギト』が完璧な結末だったため続編を作る余地がなく難航しました。それでもプロットを組むことはできたのですが、とても『アギト』と銘打つには程遠い内容で読者様に受け入れてもらえそうなものではありませんでした。そもそも前作と同じ形を繰り返してしまうのも面白くないと感じ、両方の原作準拠という形に落ち着きました。

 

 オリジナル要素はクロスオーバー化に伴う矛盾を補完するために留め、『アギト』と『サンシャイン』のストーリーやキャラクターを損なうことなくひとつの物語としてまとめるという、整理すべき物事が多すぎる作業でした。原作通りに描けばいい、と軽く考えていましたが、それは私の文章力次第では読者様に原作に対する誤解を生みかねないことであり、原作の宣伝ところかイメージダウンを起こしかねない危ういことだった、と今更ながらに思います。

 

 何故これほど大変だったかというと、それは『サンシャイン』と『アギト』が、キャラクターひとりひとりの物語をしっかりと描写していたからです。Aqoursのメンバー達、仮面ライダー達それぞれに人生があり、信念があり、迷いがある。彼女らと彼らの心を隙間なく描写しなければならない、と強く思っていました。映像から読み取れるキャラクターの動きや表情、台詞から内面を想像し、限りなく「本物」に近付け文章に起こすことが本作で最も重視したものです。クロスオーバーでありながら、いわば2作品のノベライズという形を目指しました。

 

 正直なところ、書いておきながら「何が面白いんだろう」という疑問が常にありました。原作で物足りなく感じた部分を解消するのが二次創作なら、原作準拠という本作は原作の物足りなさをそのまま媒体移しにしているようなものです。クロスオーバーすることでどんなストーリーになるのか、キャラクターはどう改変されるのか、という醍醐味もなく読者様の予想通りの展開が続き、予想通りの結末を迎える。そんな何もかもが予想できてしまう作品を世に出す価値があるものか、という葛藤がありました。そんな本作はある意味で挑戦的だったと思います。

 

 それでも本作をこのような形にした理由は、『サンシャイン』と『アギト』を小説という媒体にすることに可能性を感じたからです。先程も述べたように本作は両作のノベライズであることに拘りました。映像として出された原作に深みを見出し、それを文章に起こすことで読者様に新しい発見のできる『サンシャイン』と『アギト』をお届けできるのではないか、と思いました。沼津という世界の片隅で起こった戦いが人類の未来を左右するほどにスケールが膨れ上がり、その戦いを目の当たりにしながら青春を駆け抜ける少女たちが自分たち、ひいては人間の持つ力の根源とは何か、という問いに向き合っていく。アギトとは、人間とは何か。このテーマを打ち出すには、異形の出現を描いた『アギト』と青春を描いた『サンシャイン』を組み合わせ互いに補完させなければ実現できなかったことでしょう。

 

 本作はクロスオーバーという性質上、Aqoursメンバーに『アギト』の超能力者という設定を組み込みましたが、高海千歌だけは終始「ただの人間」として描くことに重点を置きました。正直なところ千歌に超能力設定を付与すれば書くのが楽になる場面が多々あったのですが、『サンシャイン』の「輝き」というテーマを打ち出すためにどうしても許容できないことでした。『サンシャイン』とは普通の少女がスクールアイドルという特別な存在を目指す物語であり、Aqoursメンバー全員に超能力設定を持たせることで、彼女たちが輝けた理由が「アギトだから」と片付けたくはなかったのです。

 

 原作遵守を一貫してきましたが、『アギト』サイドの終盤はほぼ私のオリジナル展開とさせて頂きました。特に沢木哲也の最期はどうしても入れたかった一幕です。彼の行動原理が雪菜の救済であり、そのためにアギトという種の生命を肯定するのであれば、翔一に自由であることを告げ、アギトの可能性として虹の彼方への旅立ちを後押しすることは必然と考えました。

 

 最終章のラストですが最初の頃から決めていた展開でした。というより、本作はあのエンディングを実現させるために書いたといっても過言ではありません。メンバー達が去り行く主人公を連れ戻すという構図は実は『feat.555』でやりたかったものなのですが、やむなく断念しました。なので本作は前作のリベンジと、人間もまたアギトと同じ境地へ往けるという意味合いも込め、千歌のアギトへの変身を盛り込んだ形となりました。原作準拠を謳いながら最後は書き手の色を出す結果となりましたが、私が『サンシャイン』と『アギト』で感じ取ったもの、また『feat.555』で提示されたテーマのアンサーを描き切れたので悔いはありません。

 

 最後にはなりますが、幼い頃に憧れたヒーロー達、大人になって荒みかけた私の心を躍らせてくれたAqoursの物語をこの場で書かせて頂いたことを、大変嬉しく思います。『ラブライブ! サンシャイン‼』と『仮面ライダーアギト』の制作に携わっていただいた皆様と、本作を見届けていただきました読者の皆様、また私の辛い時に支えてくれた家族と友人達に、深く感謝御礼を申し上げます。

 

 ありがとうございました。

 

 本作を読んでキャラクター達のように強く逞しく生きて、などと上から目線で皆様に求めることは何もございません。青春て良いな、ヒーローって良いな、と思って頂ければ私が本作を書いた意味があるのだと思います。ただ叶うのなら、この長いマラソンのような物語を見事に完走いただけた皆様には、Aqoursのメンバーとライダー達に「頑張ったね」と優しく微笑んでいただければ幸いです。

 

 本作があなたに原作を手に取るきっかけとなり、また輝きをもたらす作品でありますように。

 

 

   2020年12月7日 hirotani

 



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異説 シャゼリア☆キッス 24.7
第1話 Ready to Go, Count ZERO! シャゼリア☆キッス‼


 

   1

 

「こちら桜、敵は撤退したわ」

 虚空に告げた声はすぐに溶けていくが、彼女たちにしか聞こえない周波の返事が脳裏に響いてくる。

『こちらブルー、皆はもう基地に帰ってきてるよ』

「了解、わたし達もすぐ戻るわ」

『こちらレッド、迎えは必要ですか?』

「大丈夫、みかんもそんなに疲れてないみたいだから」

 ちらりと流される視線に、わたしはいつものようにおどけた笑みで応えてみる。彼女は苦笑し、「それじゃ」とチャンネルを切った。

「本当に大丈夫?」

 と彼女はわたしの顔を覗き込んでくる。「ぜーんぜん」とわたしはとぼけて、凸凹な地面を拙い足取りで歩き出す。

「うわっ」

 地面に横たわっていた「それ」に躓いて転びそうになったけど、すぐそばにいた彼女に支えられ事なきを得た。

「気を付けて、疲れてるんだから」

「うん、ありがとう」

 がらんどうに応えながら、わたしは足を取られた「それ」を見下ろす。機械じみた装甲に覆われた、肘から先だけになった誰かの右腕を。一見すればロボットに見えるし、そうであってほしい。でも切断面から滴るのは潤滑オイルなんかじゃなくて、真っ赤な紛れもない人間の血。随分と乱暴に千切られたみたいで、白い骨が突き出している。

 近くに持ち主がいるかもしれない、と不謹慎にも思ってしまったわたしは辺りを見渡してみるけど、それは無駄な行為でしかなかった。視界を広げてみればわたし達の周りには、ばらばらになった機械や肉片が散らばっているのだから。腕、足、頭と細かくなったものもあれば、上半身や下半身が丸々残っているものもある。五体満足なものは見当たらない。手足が1本だけ欠損したものが、最も状態が良いんじゃないだろうか。

 ちゃんと弔ってあげたい。そんな慈悲を持ったところで、わたしにはここにある数多の死者たちを連れて帰ることさえできない。できたとしても、粗末に焼かれてその辺りの山にでも埋められるのは目に見えている。これから帰る先にとって、この機械仕掛けの装甲を纏った人々は憎むべき敵でしかないからだ。

「ねえ梨子ちゃん」

 センチメンタルな気分に囚われたわたしはうっかり普段の呼び名を言ってしまう。でも当人は特に咎めることなく「何?」と返した。

「わたし達のしてきた事って——」

 途中まで言いかけたところで質問が無駄だった事に気付き、わたしはかぶりを振った。

「ううん、何でもない」

 「千歌ちゃん………」と梨子ちゃんもいつものように呼んだけど、それ以上は何も言わずわたしの肩に手を添えて、

「帰ろう、皆待ってるわ」

「うん………」

 鼻いっぱいに息を吸い込むと、早くも()えた臭気が辺りに漂い始めている。海が近くにあるはずだけど、潮風はこの臭いを洗い流してはくれない。ついさっきまで爆音やら銃声やらで鼓膜が破れそうだった耳を澄ますと、遠くから波の音が聞こえてくる。

 故郷と同じ音に少しだけ気分の安らぎを覚えると、わたしは死体を踏むのも仕方なしに足を急がせる。

 

 

   2

 

――人は、アギトを受け入れるだろう。人間の無限の可能性として――

 

 可能性を信じた神の使徒は、かつて主に宣言した。

 その宣言を受けた神はわたし達人類にしばしの猶予を与え、使徒はその命を光の中へと溶かしていった。人間は手を取り合える、という希望を抱きながら。

 結果として、使徒の祈りが実ることはなかった。それは滑稽なほどあっけなく。希望なんてものは掌に収まるほどちっぽけなもので、簡単に握り潰されてしまうほど脆く儚い。

 アンノウン

 正体不明という名で呼ばれていたその怪物が人類を脅かしていたのは、もう過去の話になりつつある。人間では決して有り得ない超常的な力で人々を殺めてきた怪物たちは、数年前の戦いを最後に人類の前から姿を消した。

 どこから生まれどこへ還るのかも分からずじまいだった怪物たちの目的は何だったのか。あくまで予想でしかないが、否定する者もいない今は確定事項としてわたし達は認識している。

 その活動目的とは、人類から産まれる新しい生命体アギトと、アギトに覚醒する可能性を持った人間を根絶やしにすること。僅かでも力を顕現させた者は赤子だろうが老人だろうが抹殺される。未来に災厄となりえる因子を消し去るために。

 アギトになる可能性を持った人間は、俗にいう超能力を得る。その力を極限まで高めると、人ならざる黄金の角と赤い目を持つ異形への変身を遂げる。

 つまり、アンノウンたちが殺めてきたのは一見すれば無力な人間なのだけど、その裡にはアギトという可能性を持っていた人たち。

 いくら力を持っているとしても、多くがその力を思うように扱えるわけじゃない。異形になったことに戸惑うし、中には人間でなくなった事に絶望してしまう人もいる。アンノウンの存在はある人にとっては悪魔だけど、ある人にとっては運命から解放してくれる天使でもある。

 世間の大半に気付かれることなく繰り広げられた怪物との戦いは、異形になっても絶望しなかったアギトと人間によって終止符を打たれた。その戦いからアンノウンは現れなくなったけど、戦いそのものは終わる事を知らず際限なく血だまりの波を広げ続けている。

 アンノウンという狩る存在がいなくなったことで、世界中でアギトの力を顕現させる人は増えていった。それはもの凄いスピードで、各国政府の対応が追い付かなくなるほどに。

 まず、その経緯について詳しく説明しようと思う。

 最初、確認されたその力はアギトという神話由来の物々しさなんかなくて、昔からあるオカルト話の超能力が実証された程度の認識だった。力のスケール自体、手を使わずに紙切れを浮かせるくらいの、何の役に立つのか分からない程度の力だった。

 でも超能力が実在するという事実が社会に認められてから、世界各地で自ら名乗り出たり、または他人からの告発によって能力を持つ人たちが超能力者と確認されていった。まだ平和に報道がされていた頃、ピークで超能力者は世界人口の1割にも上ったらしい。

 世界中の人々が人類の新しい可能性に歓喜したのは、最初のうちだった。自分達にはまだ無限の可能性が秘められている。超能力について解明できれば、これまで人類が抱えていたエネルギーやら食料やらの難しい問題が一気に解決できるのでは、と。かねてから存在を確認していた日本警察の公表で、超能力者=アギトという認識が世間に広まったのもその頃だ。

 世界中を沸かせた歓喜を冷めさせたのは、ほんの些細な事件だった。とある国で銀行強盗事件が起きて、現場の銀行は行員とお客の全員が、まるで巨人に捻り潰されたかのような凄惨さで殺害された。機動隊によって射殺された実行犯は、たったひとりのアギトの力を顕現させた少年だった。

 この事件は世界中でセンセーショナルに報道され、人々の恐怖を煽ることになる。増え続けるアギトたちの能力は簡単な念力だとか千里眼だとか、最も関心を集めたものでも数秒先の未来を予知する程度の人畜無害な能力ばかりだった。これからアギトの力は進化を遂げていくにしても、それには長い時間を要する。アギトたちの進化に伴い人類も社会設備を順に整えていこう、と考えられていた矢先の出来事だった。

 アギトの存在は、まだ人類には早すぎた。とある政治家だか専門家が、そう述べていた気がする。

 かつて人類を護るために振るわれた力が恐怖の対象になるのに、そう時間は掛からなかった。アンノウンに次ぐ脅威はアギト。裡に植え付けられた人々の恐怖はアギトへの差別意識へと変わり、中にはアギトを対象としたテロ行為まで世界各地で頻発した。かねてから紛争の絶えなかった某国では、アギトと認定された人々を広場に並べ端から順番に頭を撃ち抜き、死体を焼きながら神の御言葉を唱える虐殺が横行したらしい。

 この暴力に、アギトたちも虐げられてばかりではなかった。元が人間を超越した存在なのだ。対抗するかのように強力な能力を得た個体が現れ、やがて異形への変身能力を備えた者までが続々と現れた。当然、その力は自分達を虐げる者たちへの報復に行使された。

 こうなってしまうと、暴力の応酬は際限がない。各地でのアギトによる抵抗がいかに恐ろしいかを報道するのにメディアは躍起になり、力を持たざる人々の反アギトという機運は青天井に昇っていく。

 とうとう政府も重い腰を上げざるを得なくなり、アギトを敵性生物と断定し討伐する法案が各国で次々と可決されていった。アンノウンとの戦いから数年が経ち、警察や軍隊は公然とアギトへ銃を向け発砲している。相手が抵抗しようが無抵抗だろうが、変身できようができなかろうが関係なく。日本でも、かつてアギトと共にアンノウンと戦っていたG3システムを雛型にしたG3-Mildが配備され対処にあたっている。

 もはや、人類にとってアギトは悪魔でしかない。かつて使徒が夢見た生命体の持つ無限の可能性を、人類は自ら根絶やしにすることを選択した。強力な力は混沌をもたらす。力を持たざる者こそ平和であり、清浄とばかりに。

 でも、本当に恐ろしいのはアギトの力だろうか。わたしはこれを読むあなたに問いたい。わたしにとって、人間もアギトも同じだ。どちらも同じくらい弱く、恐ろしい生き物。身近な例を述べよう。とある政治家がいて、その人は反アギトの政策を掲げていた。でもその政治家に能力が顕現しアギト認定されると、すぐさま市中引き回された末に神の子のごとく磔にされたところを腹に槍をひと突きされ、全身の血が流れ切るまで放置された。

 どうだろう。この話を聞いても、人間がか弱く清浄と断言できるだろうか。

 いや、無為な論述はよそう。わたしはここに事実を綴るだけだ。わたしを取り巻く世界と、その世界でわたしが何を感じていたのかを。この手記を読んで今の世界をどう捉えるかは、読み手のあなたに委ねる事にする。

 

 

   3

 

 ぴちゃぴちゃ、という音が、ブーツの底に纏わりつくように鳴っている。まるで何かの舌に舐められているみたいで気持ち悪い。

 わたしは海辺の街で生まれ育ったけど、この水音ばかりはどうしても好きになれない。もう使われなくなった地下水路だけど、たったの数年では水は絶えることなく溜まっていくばかりだ。何より嫌なのは、陽の光もないところで腐った水の悪臭。戦場に漂う饐えた臭いを煮詰めたみたいで、通る度に吐きそうになるのだ。

「あと少しよ」

 梨子ちゃんの言葉を受けたわたしは気力を取り戻し、首に巻いたバンダナを口元に押し上げて歩くペースを速める。灯りも何も無い暗闇の中、梨子ちゃんの背中をただ追いかけていく。梨子ちゃんは唐突に足を止めて、右耳に手を添えた。きっと、テレパシーで「門番さん」に到着したことを伝えているんだ。

 わたし達の通信手段はもっぱらテレパシーだ。アギトに覚醒した人たちの間では結構初歩的な能力で、会得にはそれほど苦労しない。携帯電話とかだと敵に電波を傍受される危険性があるけど、テレパシーは電波なのか解明されていないからこちらを使うようにしている。携帯電話はわざと敵に傍受させる陽動作戦に使用されるのみだ。

 右手のコンクリート壁が崩れ出した。立体パズルみたいにブロックが壁から零れ落ちて、わたし達ふたりが潜れるくらいの空間が開かれる。出来上がったトンネルを進んでどれくらい経っただろう。少なくとも、戦闘後の身体であまり疲労を感じないから長距離ではなさそうだ。出口から僅かだけど光が漏れていて、わたし達はその光に向かって自然と足を速めていく。

「お帰り」

 出口に立つ恰幅のいいおじさんが、わたし達を出迎えてくれる。この人が門番さん。強力な念力の使い手で、大きな岩も軽々と持ち上げてしまう。その腕を買われて、コンクリート壁の破壊と修復を手掛ける門番の役目を務めてもらっている。

 わたし達が穴を潜ると、門番さんは早速壁の修復に取り掛かった。ブロックに分解された瓦礫が瞬く間に元の位置に戻って、境目も接合されていく。壁を壊す程度なら誰でもできるけど、元通りに戻すにはかなり精密な能力が必要とされる。壊すのは割と誰でもできるものだけど、直すとなると門番さんにしかできない技術だ。真新しく仕上げては駄目。元通り、少し汚れて経年劣化の質感を出さないといけない。それはとても神経を擦り減らす作業だそうだ。

 気を散らしてしまうのも悪いから、わたしと梨子ちゃんは光が漏れ出している奥へと進んでいく。

 かつてはショッピングモールとして使用されていたこの地下が、わたし達の帰る拠点。わたし達以外にも多くの人々がここを街や家として暮らし、慎ましやかな生活を営んでいる。ここ以外にも人々が潜っている地下集落(コロニー)は珍しくない。というより、わたし達のようなはぐれ者扱いされた人たちは大抵が地下に潜って、互いに不足した物資を補い合っている。もっとも、他所へ物資の交易に行くにも命懸けになってしまうのだけど。外では四六時中G3-Mildが警備の目を真っ赤に光らせているから。いくら力があるからといっても、流石にミサイルや爆弾を立て続けに浴びせられたらひとたまりもない。ここにいる人たちは普通の人より多少は頑丈だけど、それだけだ。銃で頭や心臓を撃ち抜かれれば当然死んでしまう。

 わたし達の前を、子供たちが元気に笑いながら横切っていく。とても微笑ましい光景なんだけど、ぼろきれのような服にやせっぽちの身体を見るとやるせない気分になる。本当ならこんな息苦しいコンクリートに囲まれた地下じゃなくて、外の高原で思いきり遊ばせてあげたい。でも、それを実行してしまったら人間たちは容赦なくあの子たちを射殺してしまうだろう。あれくらいの子供、まだ能力の片鱗すら見せていないのに。

「あ、来た!」

 広場に着くと、曜ちゃんの声が飛んできた。わたしと梨子ちゃんを囲むように皆が歩いてくる。当然だけど、皆の顔にも煤や疲労の色が張り付いていた。それもそうだよね。満足に戦えなかったわたしでさえ今にも倒れそうなんだから。皆も休みたいはずなのに、わたし達を待ってくれて。

「お帰りなさい」

 そう労ってくれるダイヤちゃんの綺麗な黒髪は乱れ切っている。といっても、髪が乱れているのは皆同じなんだけど。

「怪我はない?」

 と果南ちゃんに訊かれ、わたしと梨子ちゃんは所々破れた服を見下ろす。別に痛いところはない。

「大丈夫、だと思う」

 なんて煮え切らない返事をわたしがすると、皆はくす、と笑みを零した。張り詰めていた気分が緩まると、思い出したように空腹を覚える。

「お腹空いたあ」

 そうごちると、皆は一様に気まずそうに顔を伏せた。「ああ、うん」と曜ちゃんは歯切れが悪そうに、

「ふたりの分も用意して待ってたんだけど………」

 勢いよく、仕切られていた一画のカーテンが開け放たれた。中から出てきたのは、わたし達の中では比較的状態の良いコートを着た長身の青年。

「スープのおかわり、貰えるかな?」

 冷たい声で言い放ち、彼は近くに居たルビィちゃんに空になったお皿を差し出す。「ピギッ」と小さく悲鳴をあげたルビィちゃんを庇うように花丸ちゃんが肩を抱く。

「あんた、それ千歌たちにとっておいた分じゃない」

 そう臆すことなく噛みつく善子ちゃんに続いて果南ちゃんも、

草加(くさか)さん。あなたの食事、わたし達の何日分か分かってるんですか?」

 草加さんは、まさに刃みたいに鋭く冷たい視線を果南ちゃんに向ける。

「俺は君たちの何人分も働いているんだ。食事くらい良いだろ」

 と果南ちゃんの腕にお皿を押し付け、わたし達ひとりひとりへ舐め回すような視線を向ける。

「シャゼリアキッス、ねえ」

 その名前を呟くと、草加さんは「ふっ」と鼻で笑う。

「アイドル気分も大概にしておいたほうがいい。戦場に居るのは観客ではなく敵だ。俺たちも、君らのアイドルごっこに付き合っている暇はない」

 容赦のない言葉に怒りを露わにしたのは、草加さんの胸倉に掴みかかった鞠莉ちゃんだった。

「ごっこ、ですって……!」

「事実だろう。戦場でこれまで、君らの歌を聴いてくれた奴がいたかな? それとも歌う事で、津上翔一が戻ってくるとでも?」

 怒りで震えていた鞠莉ちゃんの手が、徐々にその力を緩めていく。まるでゴミでも払うように鞠莉ちゃんの煤で汚れた手を退けて、草加さんは乱れたコートの襟を正す。

「奴の事は諦めたほうがいい。所詮奴は俺たちを見捨てひとり逃げた男だ」

「違うよ!」

 とわたしは声を荒げた。何も知らない人に、彼の事を好き勝手に言われるのは我慢ならなかった。

「翔一くんは逃げたんじゃ――」

「逃げたんじゃないなら、何なんだ?」

 草加さんの投げた問いに、わたしは口をつぐんでしまう。いくら真実を並べたところで、現にわたし達のもとに彼がいない事実は変わりない。逃げた。それが皆の認識であり、真実なんだ。

 ふう、と草加さんは深く溜め息をつき、

「ま、今更戻ってきたところで戦えるとは思えないけど。津上翔一も、葦原涼も必要ない!」

 地下にいる皆に宣言するかのように、草加さんは声を張り上げる。にやり、と粘っこい笑みを浮かべ、囁くようにわたしの耳元で告げた。

「救世主は、この俺だ」

 耐え切れなくなって、わたしはその場から逃げるように駆け出した。「千歌ちゃん!」と呼ぶ梨子ちゃんの声も無視して、ひたすらにコンクリートの冷えた通路を走っていく。

 ようやく足を止めたのは、月光が射し込む壊れた天窓のある区画だった。外との連絡区画で人間に見つかりやすいから、不用意に近付くことは禁止されている。

 耳を澄まし風で揺れる草の音しかしないことを確認する。外も地下も、今は無人らしい。わたしは月光の下に立ち、割れた天窓の奥に広がる四角く切り取られた夜空を見上げる。今日はよく晴れていて、星がよく見える。いつか、皆で一緒に星を見に行った日の事を思い出した。

 夜空を駆ける流星群に、わたしは輝きが見つかることを願った。わたし達の、輝きを求める日々がこれからも続いていくことを信じて。

 あの頃にあったものは、ことごとくわたし達のもとから離れていった。ラブライブなんて当然戦禍の中で潰れてしまったし、浦の星もなくなってしまった。人間たちの社会では、まだスクールアイドルは残っているのだろうか。

 今のわたしのもとに残っているのは、シャゼリア・キッスと名乗るAqoursの皆。それだけでわたしにとっては大きな支えだけど、ふとした時にどうしようもない寂しさが胸を締め付ける。菜園で土に触れて、いつも食事を作ってくれた彼はいない。あの大きな背中が消えてしまってもう2年が経とうとしているけど、裡にぽっかりと空いた穴のような空虚は埋まる気配がない。

 彼は今、どこで何をしているのだろう。ちゃんとご飯は食べているのかな。あの笑顔は失われていないのかな。

 会いたいよ、翔一くん――

 






 次回予告(千葉さんボイス)

 アギトと人が戦う混沌に満ちた世界ッ!
 その世界で彼女たちは何故、戦う決意をしたのかア!

 次回 シャゼリア☆キッス 24.7
 いま語ろう! 燦々と輝くその軌跡‼


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第2話 いま語ろう! 燦々と輝くその軌跡‼

   1

 

「皆、今日はうちでご飯食べてってよ」

 あの日、翔一くんはいつもの笑顔でそう言っていた。

 全てが一変してしまったあの日の光景は、今でも夢に現れるほど鮮烈にわたしの裡に植え付けられている。

 その日、ラブライブの優勝旗を手にドームを経ったわたし達Aqoursは、最後の戦いから戻ってきた翔一くん、氷川さん、葦原さんと一緒に内浦へ帰った。

 殆ど実家みたいなものなんだからゆっくりしていれば良いのに、沼津駅に到着すると翔一くんはそのまま夕飯の買い物に行こうとしていた。何だか一緒に住んでいた頃に戻ったみたいで、久々の彼の手料理をわたし達は楽しみしていた。俄然として翔一くんが張り切っていたのをよく覚えている。

 街の中では賑やかな方だけど、東京に比べたら静かな夕方の沼津駅前のたった1日だけしか離れていなかったのに、大舞台の後の故郷は不思議と懐かしく感じられて、微かに潮気を含んだ空気が心地よかった。

 そんな時だ。心地良い談笑の声に、喚き散らすようなサイレンの音が割り込んできたのは。

 何だろう、と皆で一斉に目を向けると、赤いランプを光らせたパトカーと無数の白バイが駅前のバスターミナルに入って来ていた。怖い、というよりは何で、という困惑ばかりがわたしの裡には渦巻いていて、物騒に銃を構える白バイから降りたG3に似た戦士――後にG3-MildというG3の量産型と知る――をただじ、と見ていることしかできなかった。

「何なんですかこれは? 一体どういう事ですか?」

 わたし達を庇うように立った氷川さんが、怒気を含みながら警官たちに訊いた。すぐに答える人は誰もいなくて、返答代わりなのかこちらへがしゃがしゃ、と金属の鎧を打ち鳴らしながらひとりの戦士が歩み寄ってきた。その姿を見て氷川さんは目を剥いていた。何故ならその戦士は、さっき氷川さんが身に纏ってアンノウンと戦っていたG3-Xだったのだから。

 わたし達とはある程度の距離を置いて足を止めたG3-Xは、顔の両側に手を当てた。かち、とスイッチを押すような音を経て、マスクが外されて素顔が露になる。

「北條さん?」

 と似合わない緊張感を纏わせながら訊いたのは翔一くんだった。

「何ですか? 悪い冗談はやめて下さいよ」

 「冗談ではありませんよ」と北條さんは憮然とした表情を崩さないまま告げる。

「つい先刻、アギト対策措置法が可決されました。それに伴い津上翔一、及び葦原涼2名の身柄を拘束します」

「そんな、何で………」

 氷川さんはすっかり混乱しているみたいで、がらんどうに固くなった唇を動かしている。北條さんの雄弁さは止まることがなく、

「氷川さん、あなたも先ほどの戦闘にいたのなら分かるはずです。アギトの力は進化を続ける。もはや抑えが効かなくなるのも時間の問題なんですよ」

 そうだ、とわたしは思い出していた。翔一くん達はついさっき、わたし達がドームで歌っていたのと同じ頃に戦っていた。

 アンノウンと、アンノウンを統べる神と呼ぶべき黒い青年と。

 3人はアンノウンと黒い青年を打ち倒し、この世界を護り抜いてくれた。アギトと人間の未来は開かれたはずだった。

「対処できるうちに、アギトを滅ぼすつもりですか?」

 氷川さんが乾いた唇で訊いた。世界を護った英雄とも呼ぶべき翔一くん達を待ち受ける、恐ろしい運命を。

「アギトは脅威と認定されましたが、敵性認定はまだされていません。その身体構造、進化のメカニズムを解明し、抑制させる術を見出す方針となっています」

 なら、翔一くんと葦原さんは拘束されても、そう酷い仕打ちを受けることはないのでは。そんな期待じみた想いが沸き上がるけど、北條さんの言葉が単なるまやかしでしかない疑念の方が大きかった。ただ病院に連れて行って検査を受けさせるだけなら、こんな街中で今にも銃撃戦を始めそうな状況を作る必要なんてない。

「そんな事をしなくても、一緒に生きていくことはできないんですか?」

 そう訊いたのは翔一くんだった。いつも朗らかな彼の表情は、この時ばかりは悲しげだった。自分の持つ力――皆の居場所を護るために振るってきた力――が、新しい戦いの火種とみなされている事に。北條さんはそんな翔一くんの悲しみを真正面から受け止めるように、はっきりとした声音で返す。

「そうしたいのは山々ですが、他の人々があなたと同じ生き方ができるわけではない」

 ぴく、と葦原さんの肩が一瞬だけ痙攣したように震えたのを、わたしは見逃さなかった。きっとそれは違う、て否定したかったんだと思う。でも、北條さんの言葉が間違っていない事も確かだと、葦原さんもわたし達は知ってしまっている。

 葦原さんはギルスとして覚醒した力のせいで、孤独と絶望の最中にいた。

 木野さんはアギトへの覚醒を切っ掛けとして、裡に秘めてきた使命感を歪め暴走させてしまった。

 翔一くんのお姉さんはアギトの力に振り回された挙句、越えてはいけない一線を越えてしまい自ら命を絶つ末路を辿った。

 ここにいる皆が理解している。アギトの力が祝福か呪いになるかは、力を宿した当人次第でしかない事を。

「分かりました」

 翔一くんの答えを聞いたわたしは、口を半開きにして彼の顔を見上げた。わたしの視線に気付いていない翔一くんは続ける。

「ただ、連れて行くのは俺だけにしてください。またアンノウンが出たら、葦原さんに戦ってもらわないと」

 「私たちがいるじゃないですか」と肩をすくめる北條さんに翔一くんは悪意なく朗らかに笑い、

「あまり頼りないですからね」

 その言葉にさっきまでG3-Xとして戦っていた氷川さんは何も言わず、わたしと同じように困惑の目を翔一くんに向け続けている。

 翔一くんはわたしへと視線を流した。

「ごめん千歌ちゃん。今日は帰れなさそう」

 そう困ったように翔一くんは笑った。帰れないのが今日だけで済まない事を覚悟した顔だ、とわたしは悟ってしまった。ここで彼を行かせてしまったら、二度と帰って来てくれないという確信めいたものがあった。

 嫌だ。

 行かないで。

 わたしを置いて行かないで。

 言葉が次々と浮かんでくるのに、それを声に出すことができない。足は震えて動かず、喉元が硬直して佇むことしかできない。

 こんな時に行動を起こせるのは臆病で普通怪獣なわたしじゃなくて、荒事には慣れっこな人だ。今回の場合、それは葦原さんだった。

「変身!」

 吼えながら、葦原さんは地面を蹴って北條さんへと向かっていく。直後、1発の銃声が鳴り響くと共に葦原さんの身体がくの字に折れ曲がって倒れた。北條さんのすぐ近くにいたG3-Mildの構える銃口から硝煙が立ち昇っているのが見えた。

「葦原さん!」

 翔一くんの声を制止するように、葦原さんはむくり、と上体を起こした。その不死身ぶりに北條さんは目を剥き、G3-Mildたちは恐怖か困惑か狼狽えている。ゆっくりと立ち上がる葦原さんの身体は緑色の筋肉に覆われていき、頭に双角が伸びた。その足元にからん、と軽い音を立てて先端の潰れた鉛玉が落ちた。

「うおおおおオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアッ‼」

 獣みたいな雄叫びをあげて、ギルスに変身した葦原さんは北條さんの胸に拳を叩き込んだ。胸の装甲を抉られた北條さんを庇うように、我に返ったのか周囲にいたG3-Mildたちが一斉に葦原さんへ銃弾を浴びせていく。でも、無数の弾丸が葦原さんに命中する事はなかった。背中から伸びた触手が彼の周囲を飛び交い、向かってくる弾丸を全て弾いてしまったからだ。

「逃げろ津上!」

 「葦原さん……」と歯噛みする翔一くんに「逃げろおっ」と叫びながら葦原さんは全身から尖刀を生やしG3-Mildの鎧を切り裂いていく。せっかくのチャンスを作ってくれた彼の姿に、足の震えから解放されたわたしは翔一くんの手を引いた。

「早く、翔一くん!」

「千歌ちゃ!?」

 他の皆も手伝ってくれて、わたし達は翔一くんを連れて沼津駅前から離れる事ができた。G3-Mildたちは葦原さんが止めてくれたお陰で追ってくることはなかった。

 港まで逃れて足を止めたところで、わたしは氷川さんがいない事に気付いた。でも彼の不在は些末と思えるほど余裕が無いのが現状だった。港の市場は普段なら賑わっているはずなのに、駅前の騒ぎのせいか人気が殆どなかったのを覚えている。果南ちゃんは葦原さんを案じてか泣き出してしまいそうで、鞠莉ちゃんとダイヤさんに肩を抱かれていた。

「これからどうするずら?」

 切り出したのは花丸ちゃんだった。少なくとも家には帰れないだろうな、とぼんやりとだけど思っていた。

「皆はもう帰りなよ。俺なら大丈夫だからさ」

 この時ばかりは、翔一くんの能天気さに苛立ったものだった。

「嫌だよ、翔一くんも一緒じゃなきゃ嫌だ!」

 とわたしは駄々っ子のように翔一くんの腕にしがみ付いて離さなかった。翔一くんは振り解くこともなく、困ったようにわたしを無言のまま見つめ返していた。縋るように皆を見渡すと、皆も困ったような表情を浮かべながらもわたしと同じように翔一くんの身体にしがみ付いた。

 

 十千万にはその日のうちに警察がやって来て、志満姉がいくら翔一くんの不在を伝えても北條さんは信じてくれず一緒に来た刑事さん達に旅館をくまなく調べるよう指示を出した。知らない人たちに強引に上がり込まれて自室に断りもなく入られるのはとても怖かったし心地は悪かった。

 でも、北條さん達は翔一くんを見つけることはできなかった。そりゃそうだ。本当に十千万のどこにもいなかったのだから。

「北條さんは、アギトを信じないんですか?」

 帰り際の彼に、わたしは訊いた。北條さんはいつもの憮然とした表情を崩さず、雄弁と告げていた。

「これは私個人の意思ではない。私は人類全体の意思を代表しているだけです。アギトの存在は世界を混乱に陥れる。これは間違いのないところだ」

「本当にそうですか? わたしは、翔一くんや葦原さんなら力を正しい事に使える、て信じています」

「先ほども言いましたが、全ての人間が彼らのように生きられるわけじゃない」

 「なら――」と熱くなるわたしの言葉を、北條さんは流暢な言葉の連なりで遮ってしまった。

「アギトになっても心が人間のままなら、力を悪用する者は必ず現れる。人間とは、あなたが思っているほど清浄な生き物ではない。よく覚えておく事です」

 それは、これからを生きるわたしへの激励のつもりだったのだろうか。それとも、これ以上自分たちの邪魔をしないように、という警告だったのだろうか。今になっても、あの時の北條さんの言葉の意味は分からずにいる。

「悪意を持った人間が力を付けてしまえば、人類は内側から滅んでいくことになる」

 そう言い残し、北條さんは刑事さん達を引き連れて十千万を後にした。聞いたところだろ、隣家である梨子ちゃんの家や、他のAqoursメンバーの家全てを捜査して回っていたらしい。でも、どこの家にも翔一くんはいなかった。それも当然の事だ。絶対に見つからない自信の下で、彼をあの場所に匿っていたのだから。

 

 

   2

 

 一夜が明けた朝、わたしは早いうちに秘密の場所へと向かった。同じ時間に家を出ていた梨子ちゃんと家の前に会って、バス停には鞠莉ちゃんと果南ちゃんが同じバスの便を待っていた。バスが来ると既に曜ちゃんと善子ちゃん、花丸ちゃんとルビィちゃんとダイヤちゃんが乗っていた。

 わたし達が向かった先は、わたし達がよく知っているところ。わたし達が出入りしても何も不思議じゃないところ。わたし達が護ろうとして、結局は護れなかった居場所。

 そう、浦の星女学院。そこに翔一くんを匿った。幸いにも空き教室はたくさんあったから、有効活用した形になる。

 でも翔一くんが寝泊まりしていたのは空き教室じゃなく、用務員さんが使う狭い休憩室だった。確かに、板張りの床よりは休憩室の畳のほうが快適だよね。翔一くんひとりで使う分なら広々と使えたのかもしれないけど、生憎ながらそこまでの都合は着かなかった。

「涼!」

 と名前を呼びながら、畳で横たわりながら呻き声をあげる葦原さんに果南ちゃんが駆けつけた。あの騒動から逃げ延びることができた葦原さんもわたし達と合流してここに匿っているわけだけど、手酷くやられたみたいだ。いくらアギトやギルスでも、銃撃されれば怪我もするし当たり所が悪ければ死んでしまう。

 果南ちゃんの姿を認めた葦原さんは歯を食いしばりながら起き上がり「大丈夫だ」と言ってみせるけど、きっとこの場にいる誰もが大丈夫だなんて思ってない。呼吸は粗くて額からは玉汗が滴っている。

「ほら葦原さん寝てないと」

 と翔一くんが葦原さんの身体をゆっくりと畳に寝かせる。溜め息をつきながらわたし達に少し気の抜けた笑みを向けて、

「しばらく休めば大丈夫だと思う。昨日は凄く血だらけだったけど、もう傷は塞がってるからさ」

 「たったひと晩で?」と梨子ちゃんが驚愕した。昨日、狩野川に流されていた葦原さんを引っ張り上げたときは酷いもので、皆で背負って歩く毎に血の滴が絶えず地面に垂れていたほどだった。全身が血を被ったみたいに真っ赤だったから、どこが患部なのかすら分からなかったほどだ。

 ひと晩で傷が治癒してしまうその異常なほど早い回復力は、ギルス故の恩恵なのかもしれない。その分、なかなか終わらない苦痛に葦原さんは悶える羽目になってしまっているわけだから、手放しに喜べないことが難しいところだ。

 何とか峠を越える事ができた安堵にわたしは微笑しつつ、鞄を開けて中身を広げた。

「ほら、家から着替えとか食べ物とかいっぱい持って来たんだよ」

 皆も次々と鞄の中身を出していった。取り敢えずしばらくはここに隠れられるよう食糧を持って来たのだけど、ペットボトルの水や缶詰といった非常食を翔一くんは物悲しそうに見下ろしていたのが印象的だった。

「次は、調味料とか持って来てもらっていいかな? あと菜園の野菜も。ここなら家庭科室とか使えるだろうし――」

「もう、こんな時に何言ってるのよ」

 いつもの楽天的な調子も、善子ちゃんの皮肉に遮られてしまう。この時ばかりは翔一くんの普段通りさに呆れ、

「そうだよ、落ち着くまでここで大人しくしてて」

 翔一くんからしたら味気ないものかもしれないけど、こういう時のための非常食なんだから。北條さん達も久しぶりにアンノウンが現れたから少し過敏になっているだけ。法律が可決されたとかどうとか言っていたけど、きっとしばらくすれば翔一くんが好きなだけ料理ができる日常が戻ってくる。

 そんな事を本気で信じていたわたしも翔一くんと同じくらい、いや彼以上に日和見だったと後になって思い知らされた。

「美味しいか味見してみるずら――」

 と花丸ちゃんが缶詰めのひとつに手を伸ばしかけたとき、部屋の窓ガラスが甲高い音を立てて割れた。飛び散る破片にわたし達は咄嗟に腕で顔を覆ったと同時、からん、という軽い音は缶詰めが倒れた音と思った。わたしの視界の端にあった筒状のものは缶詰めじゃなかった。缶詰めなら、煙なんて吹き出さないから。

「皆逃げて!」

「逃げろ!」

 翔一くんと葦原さんが立て続けに言う間に、用務員室は煙に覆われ視界が遮られていた。わたし達は手探りに出口へと駆け込んで、煙に咳き込みながら廊下に出ると同時にわたしの身体は何かに持ち上げられた。

 咄嗟のことに何が何だか分からないまま、ただ堅いものに身体を包まれる感触とがしゃがしゃ、と金属を打ち鳴らす音が耳朶を叩くのを感じ取っていた。

 外に出たらしく、太陽の光を感じつつ馴染み深いグラウンドの土が視界に入った。ようやく地面に降ろしてもらって多少の自由がきくようになると、わたしは絶句して足も口も動かすことができなかった。

 以前はソフトボール部が練習に励んでいたグラウンドには、G3-Mildたちが展開していて校舎に向けてライフル銃を構えていた。強張った首を動かすと、外に連れ出されたのはわたしだけじゃないらしく他のメンバー皆が同じように土の上に突っ立ったままでいた。ルビィちゃんに至っては腰を抜かしていたし、梨子ちゃんは過呼吸を起こしたみたいにひゅうひゅう、という不自然な呼吸を繰り返していた。

「千歌さん、怪我はありませんか?」

 その声に咄嗟に振り返ると、その先にはオレンジ色の目をしたG3-Mild――いや、より堅牢な鎧を纏ったG3-Xが立っていた。多分だけど、わたしを連れ出した人だ。マスクを外すと、険しい表情をした青年刑事の顔が現れた。

「氷川さん……」

 彼の存在に安堵すれば良いのか分からないまま、わたしはただ無言のまま氷川さんと視線を交わしていた。そこへ、別の冷たい声が飛んでくる。

「やはり、ここに隠れていましたか」

 向くと、G3-Mildの中では目立つ瀟洒な背広姿の北條さんが立っていた。

「失礼ながら、後を付けさせてもらいましたよ」

 そう言って北條さんが右手を挙げると、G3-Mildたちが一斉にライフルを構えた。銃口の先にあるのは学校。ぞわ、という恐れがわたしの全身を撫でて肌が粟立っていった。

「何を――」

 とわたしはかすれ声で訊いた。縋るように氷川さんの顔に視線を向けても、彼は眉間に皺を寄せて顔を逸らしてしまう。ふう、という北條さんの嘆息が聞こえた。

「昨日の1件から、葦原涼と津上翔一の処遇は捕獲から殺害へと変更されました」

 その冷たい宣告に、時間が止まったかのような錯覚にとらわれた。意識を元の時間に戻してくれたのは、鞠莉ちゃんの悲痛なまでに引きつった声だった。

「そんな……、ふたりは今まであなた達と一緒に戦ってきたじゃない!」

「それはアンノウンという共通の敵がいたからです」

 北條さんは撥ねつけるように言う。

「我々警察は市民を、アギトは同胞を護るという目的が一致していたに過ぎない。その均衡が崩れれば、アギトは次なる脅威になる。無力な人間に成す術はないのです」

 雄弁に語る北條さんにダイヤちゃんが静かな怒気を含んだ声で告げる。

「翔一さんや葦原さんが、人を襲うとでも?」

 そんな事は有り得ない、というのはわたし達の共通認識だった。曜ちゃんが言った。

「そうです。翔一さんはわたし達の居場所を護る、て言ってくれたんです。葦原さんだって、その気持ちで戦ってきてくれたはずです」

「それは、あなた達が同胞だからではないですか?」

 挑発するかのような問いに「どういう事ずら?」と震えるルビィちゃんの肩を抱きながら花丸ちゃんが訊いた。

「皆さんは過去にアンノウンに狙われた経験がある。つまり、あなた達もアギトになる可能性があるという事だ。ふたりはあなた達の中にある力を無意識に感じ取り同じアギトとして護ろうとしていた、とも考えられる」

 そんなの、ただのこじつけじゃないか。北條さんの仮説が正しかったら、翔一くんがわたしを護るはずがないのだ。

 だってわたしは――

「あなた達もただで帰すわけにはいかなくなりました。アギトの力のメカニズムと制御する術を解明するため、我々のもとに来てもらいますよ」

 その言葉で、わたしは翔一くん達に向けられた銃口の意味を悟った。既にアギトとして覚醒したふたりより、あくまでまだ人間でしかない皆の方が弱く、警察としても抑えやすい。もはや制御のきかない異形になったふたりを、危険を冒してまで捕らえる必要がなくなった。そうなれば、始末してしまったほうが手っ取り早く事態を収拾できる。

「主任!」

 そう北條さんを呼んだG3-Mildのひとりが、校舎を指さした。北條さんと、吊られてわたし達も視線を流すと、ゆっくりとした足取りでこちらへと歩いてくるふたり青年がいた。

「それ以上近付けば撃ちます」

 北條さんが告げると、葦原さんの肩を支えていた翔一くんは素直に足を止めた。

「北條さん、皆を離してください。俺たちがそっちに行きますから」

 「駄目!」とわたしは訴えを叫んだ。「千歌さん――」と氷川さんが止めに入ろうとしたけど、構わずに喚き続けた。

「翔一くん来ちゃ駄目! 殺されちゃうよ!」

 流石にお人好しな翔一くんでも、これが罠であることに気付いているはず。仮に戦ったとしても、重傷の葦原さんを抱えて10人は越えているだろうG3-Mildたちを相手に勝てるかどうか。

 大勢から銃口を向けられているにも関わらず、翔一くんは笑っていた。いつもの屈託のない笑顔とは違う。不安なわたしを何とか慰めようとするかのような、不器用で少しばかりぎこちない笑顔だった。

「大丈夫」

 そう言って、翔一くんは葦原さんの肩を支えて歩き始めた。北條さんはきっと、この時を待っていたのだろう。制止や警告も聞かないふたりに、堂々と撃てる機会を。

「撃て!」

 北條さんが声を張り上げた。G3-Mildたちの構えるライフルに据え付けられた砲身からグレネードが射出され、宙に放物線を描きふたりへと向かっていく。数舜の後、暴発した花火みたいな轟音が幾重にも響いて、離れていたわたしの骨の芯まで震わせた。

 おびただしい数のグレネードは着弾と同時に辺りに粉塵を撒き散らして、翔一くんと葦原さんの姿を完全に覆い隠してしまった。流れ弾が校舎にも及んだらしい。鉄筋コンクリート製の校舎はグレネード程度では倒れなかったけど、そこに建っているのはもうわたし達の通っていた浦の星とはかけ離れた姿だった。前にテレビで見た事のある、紛争地帯の崩れかけた建物。傷付けられても懸命に倒れまいと踏ん張っているようで、無意識にわたしの頬を涙が伝った。

 突如、粉塵の中から細長くしなるものが伸びてきて、凄まじいスピードでわたしの隣を横切った。涙も拭かずにわたしが目で追うと、伸びてきた触手は北條さんの身体に巻き付いて拘束していた。

「ウオオオオオアオアアアアアアアアッ‼」

 咆哮をわたし達の耳朶に轟かせながら、触手に引っ張られるように緑色の戦士が一気にこちらへと肉迫した。全身から尖刀を生やしたギルスが、身動きの取れない北條さんの眼前に手首の刃を突き立てる。次の瞬間には無惨な血飛沫が飛び散る様を想像したわたしはぎゅ、と目を閉じた。

 でも一瞬の後も、数秒の後にも飛沫が散る音も悲鳴も聞こえず、目を開くと葦原さんはまだ北條さんの眼前に刃を突き付けたまま動きを静止させていた。丸腰の相手に引導を渡そうとしない緑色の異形に回りのG3-Mildたちはどう対処すれば良いのか考えあぐねているようで誰も見動きせず、生殺与奪を握られている北條さんも目の前の刃を瞬きせず睨んでいた。

 ずっと続いてしまいそうな逡巡の後、葦原さんは腕を降ろし、丸太みたいに隆起した脚で北條さんのお腹に蹴りを入れた。ごぱあ、と奇声にも似た悲鳴をあげ、北條さんの身体は遠くへと飛ばされていった。

「撃てえっ!」

 誰かが叫ぶと、G3-Mildたちが葦原さんへ一斉にライフルを発砲していく。「やめて下さい!」と氷川さんが言ったが、誰も聞かず容赦なく引き金を引いていく。絶え間ない発砲音に思わず耳と目を塞いでしまった。また誰かに抱えられる感覚がして、目を開くとわたしは氷川さんの腕の中にいた。

「皆さんもこっちへ、早く!」

 そうだ、皆は。気になって氷川さんの腕から顔を出そうとしたけど、「危ない!」とグローブに覆われた手で引っ込められた。

 ようやく降ろしてもらえると、銃撃戦——殆ど一方的に葦原さんが撃たれているだけだが――から少し離れたグラウンドの一画にわたし達は集まっていた。幸いというべきかメンバー全員がいて、遠くで繰り広げされている銃殺刑を皆で眺めることしかできなかった。

 けど、葦原さんはまだ息絶えてはいなかった。それどころか、負傷すらも覗えない。際限なく発砲される弾丸は、葦原さんの前で鞭のようにしなる触手が全部叩き落としてしまっていた。ひたすら弾を浪費していくG3-Mildたちに、葦原さんは刃を振るい銃や剣を次々と斬っていく。でも、G3-Mildたちの身体を傷付けるような事はしなかった。拳や蹴りで鎧を穿つ程のダメージは与えていたけど、決して血を流させはしなかった。葦原さんなら、その気になればあの場にいる全員を血に沈めることができたはずなのに。

「…………翔一くん」

 ふと、わたしはその名前を呼んだ。そうだ、翔一くんは。粉塵の晴れた着弾地点に目をやると、そこには誰もなく抉られた窪みがあるだけだった。

「翔一くん……!」

 わたしは何度も名前を呼びながら足を踏み出そうとしたけど、「千歌ちゃん!」「駄目よ!」と曜ちゃんと梨子ちゃんに両脇から止められた。

 ぱあん、と何かが弾けるような音と同時に悲鳴が聞こえた。見れば、葦原さん膝をついていた。足元にはコップをひっくり返したような量の鮮血が零れ続けている。

「撃ち方始め!」

 という指示が飛んで、ねじ伏せられていたG3-Mildたちが武器を構え直す。でも、1発も撃たれることはなかった。銃撃の輪の中に、猛スピードで1台のバイクが光の尾を引きながら割って入ったからだ。

 金色の輝きを放つそれは、アギトに変身した翔一くんだった。翔一くんは赤と黄金に彩られたバイクをターンさせ、辺りに粉塵と光の粒子を振り撒いてG3-Mildたちを蹴散らす。生じた僅かな隙で葦原さんの襟首を掴み、わたし達のもとへと放り投げた。

 一瞬。ほんの一瞬だったけど、翔一くんの赤くなった目がわたしを捉えた気がした。何か言おうとしたのかもしれないけど、状況がそれを赦してはくれず、翔一くんはバイクのアクセルを吹かしグランドを疾走し始めた。

 G3-Mildたちはそれぞれのバイクに跨って、丘を下り始めた翔一くんを追跡していく。全員が行ったわけではなく、ふたりだけ残ったG3-Mildが止めを刺すつもりなのかチェーンソーみたいな剣を構えて葦原さんに近付いてくる。もはや変身も解けてしまった葦原さんの前に、果南ちゃんと鞠莉ちゃんが立ち塞がった。丸腰の人間相手にG3-Mildたちは困り果ててしまったようで足を止めた。

「氷川さん、何やってるんですか。早く目標に止めを」

 片割れに言われ、氷川さんが逡巡した。G3-Xのマスクを持つ手が小刻みに震えているのが分かる。

「氷川さんは、こんな事に賛成したんですか?」

 わたしが訊いても、氷川さんは答えてはくれなかった。ただ手を小刻みに震わせて、唇を固く結んで、ただそこに立っているだけ。

「もういい、やるぞ」

 そんな木偶の坊ぶりに痺れを切らしたのか、G3-Mildたちが再び歩き始める。その時、グラウンドの隅で停まっていたトラックが走り出してこっちへと向かってきた。スピードを上げていくトラックは、その勢いのまま味方であるはずのG3-Mildふたりを撥ね飛ばし、わたし達の目の前で停車する。

「乗って!」

 とカーゴの扉から出てきたのは若い女性だった。「小沢さん⁉」と氷川さんが女性を呼ぶけど、女性は「早く乗りなさい!」と繰り返す。目まぐるしい状況に思考が追いつかないわたし達だったけど、何とか彼女の指示だけは理解できて急ぎカーゴに駆け込んだ。氷川さんも葦原さんを背負い中に入れてくれて、全員を収容したトラックはタイヤの甲高い音を立てながら再び走り出した。

 

 





 次回予告

 突如として日常を奪われたAqours!
 だが泣かないッ! 希望が在る限りは泣かないイイ‼

 次回 シャゼリア☆キッス 24.7
 悲劇開幕! 戦士は己が愛を貫く‼


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第3話 悲劇開幕! 戦士は己が愛を貫く‼  

   1

 

 氷川さんの上司だという彼女がこのGトレーラーに乗せてくれたわけだけど、わたしはこの時点ではまだふたりを信用してはいなかった。これだって罠で、これから向かっているのはどこかの研究施設かもしれないのだから。でも、わたし達ではどうしようもない。これから何が起こったとしても、事実として受け入れ震えたり泣いたりするしかない。

 正直、この時のわたしは酷く疲れていた。目の前の事象に困惑し憤る気すら起こらないほどに。

「神経断裂弾が使われたようね」

 葦原さんのお腹の傷を看て、小沢さんはすぐにそう結論を出した。氷川さんは目を剥いて、

「神経断裂弾、て………。あれの使用は承認されなかったはずじゃ――」

「あのドアホの事だから、無断で投入したに決まってるわ」

 苛つきを隠さずに言いながら、小沢さんは医療キットで葦原さんの傷の手当てをしてくれた。弾、ていうから弾丸なのだろうけど、銃創とは思えないほど葦原さんの傷は範囲が広い。まるで傷口に埋め込まれた爆弾が炸裂したみたいに。皮膚の下に詰め込まれている人体組織は生々しさが零れだしていて、自分の身体にも同じものが詰まっていると理解していても目を背けたくなる光景だった。消毒液が染みるのか苦痛に呻き声をあげる葦原さんを見ると、尚更に直視なんてできるものじゃない。

「涼は、大丈夫なんですか?」

 果南ちゃんが訊いた。縋るような響きにわたしも希望がありますように、と祈ったけど、小沢さんは厳しい現実をそのまま言ってのけた。

「素人の私から見ても酷いわね。多分内臓まで達してるわ。ここにあるものじゃ、満足な治療はできないわね」

「じゃあ病院に――」

 ルビィちゃんが提案するけど、「それも無理ね」と小沢さんに撥ね退けられる。

「病院になんて運んだらすぐ警察にバレてそのまま研究所行きよ。下手すれば治療もせず見殺しにして解剖なんて事も有り得るわ。今の警察はもうそういう事もしかねないわよ」

 「じゃあ、どうすれば――」と訊いたのは善子ちゃんだった。この時ばかり小沢さんは逡巡し、力の抜けた声で答えた。

「彼の回復力に任せるしかないわ。普通の人間ならまず助からないけど、アギトと同じ力を持つ彼なら」

 酷く曖昧でいい加減な物言いだけど、誰も文句なんて言えなかった。前にやってみたように皆の力を結集させればまた彼を救えるかもしれないけど、それだって賭けに近いものだ。だって現にこの時、果南ちゃんが葦原さんのお腹にかざした手が朧げな光を放っていたけど、とりわけ変化は見られない。

 結局、治療らしい治療はできず、葦原さんの傷口は消毒して包帯を巻くことしかできなかった。後は本当に、葦原さん自身の力に期待するしかない。

「ごめんなさい。あのドアホを止める事ができなくて」

 小沢さんが弱い声で言った。怒るべきなのかな。わたしには分からなかった。

「どうして、あんな事を?」

 そう困惑しながら訊いたのは曜ちゃんだった。小沢さんは深く溜め息をついて、

「北條透は前からアギトの危険性を主張していたわ。アンノウンが滅びたら次はアギトが脅威になる、てね」

 「そんな………」と梨子ちゃんが声を詰まらせていたけど、小沢さんは続けた。

「勿論、私たちはそれを否定し続けたし、上も真に受けるほど間抜けとは思っていなかったのだけど………」

 そこで小沢さんは一旦言葉を止めて、躊躇するように顔を俯かせた。

「上はどうやら間抜けだったようね。わたし達も、さっきのオペレーションの直後に通達を受けたのよ。法案が可決されて国がアギトを敵とみなした、て」

 という事は、小沢さんや氷川さんの知らないところで、警察と政府は粛々と準備を進めていたんだ。この世界から、アギトという種を滅ぼすための準備を。

「あら、そういえば尾室君は?」

 思い出したように言う小沢さんに氷川さんは呆れながら、

「さっき小沢さんが轢いたじゃないですか」

「ああ、あれ尾室君だったの」

 と一蹴してしまう彼女にどう反応したら良いのか分からず、わたしはただこの不思議な女性の顔をただ眺めていた。

「これから、どこへ向かうのですか?」

 ダイヤちゃんの問いに小沢さんは「そうね」と溜め息をついた。

「どこへ行ったところで、Gトレーラーじゃ居場所が特定される。適当なところであなた達を降ろすわ」

「降ろす、てそれからはどうするんです?」

 そう訊いたのは氷川さんだった。既に結論は出ていたようで、小沢さんはわたし達をしっかり見据えて答えた。

「その先まで私たちが手助けできる事は無いわ。無責任だけど、何とか生きて」

 それはわたし達にはとても残酷な宣告だったけど、憤りを露にしたのはわたし達じゃなくて氷川さんだった。

「そんな、彼女たちを見捨てるんですか? これから全国にG3-Mildが展開されるのに、どうやって逃げ切るんですか?」

「彼女たちは只の人間じゃないわ。アギトよ」

「アギトだから、て――」

「事実として私たちにこれ以上してあげられる事は何もないわ。このまま一緒に居たところで、補給なしにG3-Xを運用することもできない」

 理路整然であり、至極真っ当な小沢さんの言葉に、青い鎧で全身を固めた氷川さんは何も言う事ができる拳を軋む音がするほど強く握り締めた。

「良いんです」

 不思議と自然にその言葉が、わたしの口からこぼれ出た。誰かから言わされたわけでも、妥協したわけでもない。本心だ。

「わたし達なら大丈夫です。9人いれば、何だってできます」

 「でしょ?」となるべく悲壮感を抑えながら皆のほうへ目を向けたけど、同意の表情を誰も浮かべてはいなかった。もう、気合とか精神論でどうにかできる境界がとうに過ぎたことを、皆は理解していた。

 トレーラーが走っている間、わたし達は中で休ませてもらった。ベッドなんてあるはずもない、金属の冷たく硬い床だったけど、泥のように眠ることができた。眠れたことは幸いだったかもしれない。一時でも、あの現実から逃れることができる時間が欲しかった。できる事なら夢を視ておきたかった。どんなに長く眠ったとしても、目が覚めてしまえばそれはほんの一瞬の出来事に置き換わってしまう。

 トレーラーは沼津を出て、静岡県を出て、初めて見る海の広がる場所で停まった。見た感じとしては、内浦と似た過疎化が進み人は殆ど見当たらない漁村といった場所。一瞬戻ってきたのかな、と思ったけど、外に出た瞬間に鼻腔に滑り込んだ潮の香りは内浦とは違うものだった。

「ごめんなさい、本当に。こういうのも無理な話だけど、どうか信じて。あなた達に生きて欲しい、て願う人間もいることを」

 降りたわたし達に、小沢さんは所在なさげにそう言っていた。最初は少し怖く感じたけど、この言葉を向けてくれたことで優しいところもあるんだな、と思えた。出来ることなら、こんな形で出会いたくはなかった。

「氷川君、あなたから言う事はない?」

 小沢さんに促されても、氷川さんは口を固く結んだままでいた。わたし達の方を向こうともせず、重い沈黙の中で葦原さんの粗い呼吸が鮮明さを浮かび上げた。

 小沢さんは言った。

「自分に何かを言う資格なんて無い、て思ってる?」

 図星だったみたい。氷川さんは僅かに目を見開き小沢さんへと口を開きかけるけど、すぐにまた黙ってしまった。

「資格が有るか無いか、なんて関係ないわ。こうして彼女たちと話せるのは多分これが最後よ。言いたい事があればはっきりと言っておきなさい」

 そう再度促す小沢さんは、まるでお母さんみたいだった。氷川さんはしばらく黙った後に、ようやくわたし達の方へ顔を向けてくれた。その双眸には、今にも零れそうな涙が溜まっていたをよく覚えている。

「生きてください。たとえどんなに辛くても、苦しくても」

 氷川さんにとっては、せめてもの誠意だったんだと思う。ずっとわたし達を護るために戦ってきたのが一転して、今度はわたし達を捕まえなければならない現実と理想の板挟みになってしまった葛藤の末に。素直にはい、て答えたら良いのか分からなかった。だって、次に会ったとき氷川さんはわたし達を今度こそ襲いに来るかもしれない。ここで別れてしまったら、本当に敵同士になってしまう恐怖がここにきて腹の奥からせり上がってきた。

「はい、頑張ります」

 吐き気に似た恐怖を飲み込んで、わたしはいつもの明るい高海千歌として、そう答えた。

 

 ふたりが乗ったトレーラーを見送ったわたし達がまず探し始めたのは、その日の寝床だった。降りた時にはもう夕刻で、まだ疲れが取れないからゆっくり休める場所が欲しかった。何より、葦原さんを休ませないといけない。

 適当に民宿でも探そうか考えたけど、重傷の葦原さんを見て怪しまれるのが目に見えた。着の身着のままの高校生9人が重症人を背負っているなんて、すぐ通報されてわたし達を血眼になって探しているG3-Mildたちが出動するだろう。

 幸いというべきか複雑だけど、贅沢を垂れなければ雨風を凌げる場所はすぐに見つかった。海岸のすぐ近くに建てられた、地元漁師たちの道具小屋。内浦にもこの手の小屋はあったから、見つけるのは容易だった。去年にAqoursで手伝った海の家みたいな、年季の入った小さな小屋だった。ドアには錆びついた南京錠が掛けられていたから、果南ちゃんの念力で壊して中に入った。

 他人のものを勝手に壊して無遠慮に上がり込むのは気が引けたけど、なりふり構ってはいられない。

 この時、わたしはもう決心――というよりも諦めがついていた。もう元には戻れないんだ。多分わたし達は内浦に、浦の星に戻ることは叶わないだろう。

 中は海水の匂いが染みついた網やロープが乱雑に置かれていて、それらを退かして何とか全員が座れるくらいのスペースを作った。漁師も休憩に使っていたのか敷布団が置いてあったから、それを敷いて葦原さんを寝かせた。

「ありがとう。大分楽になった………」

 擦れ声ではあったけど、仰向けになった葦原さんはそう言った。お腹に巻かれた包帯から血が滲み始めていた。果南ちゃんは必死に葦原さんのお腹を手で押さえた。力で何とか傷を癒そうとしたみたいだけど、それでも止めることはできず白い包帯には赤い染みが範囲を広げていった。

 アギトだから、もしかしたら。そんな期待はもうできなかった。アギトだって元は人間。本質としては多少強くなっただけで、不死身なわけじゃない。

「どうして、誰も殺さなかったの?」

 慰め程度の治療を続けながら、果南ちゃんは訊いた。そうだ、確かにあの時の葦原さんは北條さんやG3-Mildたちを誰も殺してはいなかった。変身した彼なら、あの場を血染めにすることなんて容易いはず。手心なんて加えなければ、こんな怪我をすることもなかったのに。

 わたし達の疑問に、葦原さんは息も絶え絶えだったけど答えてくれた。

「殺せば、奴らの思う壺だ………。アギトが化け物とみなされて、皆が殺されてしまうかもしれない………」

 わたし達を撃たせる口実を与えないため。その想いやりで殺意を抑え込んだ葦原さんを、警察は危険生物とみなした。その事実が悔しくて、わたしは思わず泣いてしまった。勿論、彼を想う果南ちゃんも。

 「泣くな」と葦原さんは言った。

「奴らを恨まなくていい。少なくとも俺は恨んでいない。君たちが生きていてさえくれれば、それで――」

「ふざけないで!」

 大声でそう遮ったのは、既に頬を濡らした鞠莉ちゃんだった。果南ちゃんの治療に加わり、手から朧げな光を傷口に当てながら口走った。

「あなたも薫も勝手すぎる。自分だけ犠牲にさせてたまるもんですか!」

 「そうずら」と花丸ちゃんも加わり、

「絶対に助けるずら! 死なせないずら!」

 「そうです」「諦めないで」とルビィちゃんに善子ちゃんも、葦原さんの傷を治そうと手から光を放つ。

「ありがとう」

 呟いた葦原さんの目から、大粒の滴が零れた。その表情はとても穏やかで、苦痛を感じているのか疑ってしまうほどだった。

 多分、本当に苦痛はなかったんだと思う。苦痛を感じられないくらい、葦原さんの身体から生命は流れていた。彼の裡にあったのは、ひとりぼっちじゃない事への安堵。力のせいで孤独に過ごしてきた彼は、この瞬間を最大の幸福として享受することができた。わたし達で良かったのかな、なんて思うのは無粋だろう。本人が望んだことなのなら、ただ何も思わず叶えてあげることが情けだ。

 次には曜ちゃんと梨子ちゃんとダイヤちゃんも加わり、皆で葦原さんの治療に努めた。わたしだけは、ただ葦原さんの額に浮いた汗をハンカチで拭ってあげることしかできなかった。

「波の音が同じだ」

 耳元でなければ聞き逃してしまいそうなほど小さく、葦原さんは囁いた。わたし達がいたのは海岸の漁師小屋だったことを思い出すと、耳を澄まさなくても波の音がよく聞こえた。砂浜に押し寄せ、また引いていく飛沫の音色が一定間隔で繰り返されていく。

 うん、確かに同じだった。朝目覚めたときと夜眠るとき、1日の始まりと終わりにいつも聞いていた内浦の音だ。葦原さんも海のある漁村で生まれ育ったらしい。

 葦原さんの目蓋が重そうに伏せられていく。「涼?」と果南ちゃんが呼びかけると、葦原さんは穏やかに微笑んで、

「少し、眠るよ――」

 目蓋が閉じられ、すう、と呼吸が寝息へと変わった。いつも険しい顔ばかりな印象だったけど、彼の寝顔はとても柔らかい。果南ちゃんがこの人を好きになった理由が分かった気がした。

 葦原さんはそのまま、再び目を覚ますことはなかった。

 わたし達はずっと傍にいて傷を癒し続けたけど、彼の鼓動と呼吸がいつ終わってしまったのか、その瞬間を誰も目撃してはいなかった。気がついたら呼吸が止まっていることに気付き、次いで鼓動も止まっていたことに気付いた。

 彼の最期が安らかで、果南ちゃんに看取ってもらえたのは幸いだっただろうか。苦しまずに逝けたことに安堵しつつも、わたし達は自分たちの無力さに打ちひしがれた。特に果南ちゃんは。最愛の人に去られた彼女の悲しみは、到底わたしに推し量ることなんてできない。

「涼を海に還してあげたい」

 亡骸に縋り付いて泣き明かした後、果南ちゃんは枯れた声でそう言った。何でも葦原さんの故郷で、昔は水葬の風習があったらしい。生命は海から生まれてくるから、生命を終えたら身体を海に還さなければならない、と。

 他の皆はそれに同意した。わたしも異議はなかった。火で焼いたり土に埋めたりするより、大好きだった海で朽ちていくのが葦原さんの望みである事が確信できた。海はきっと、人やアギト関係なく受け入れてくれる。アギトだって、この世界の海から生まれた生命のひとつのはずだ。

 その日の夜に、わたし達は海岸に並べられていたボートをひとつ拝借して海に出た。流石に全員は乗られないから、果南ちゃん、鞠莉ちゃん、花丸ちゃん、そしてわたしの4人で葦原さんを弔うことにした。

 ボートで沖まで着くと、すっかり冷たくなった葦原さんの身体を4人がかりで持ち上げゆっくりと海面に沈めた。もう呼吸しない亡骸は抵抗もなく真っ暗な海底へと落ちて、わたし達はしばらくの間ずっと彼を沈めた1点を無言のまま見つめ続けた。海中で実は生きていた葦原さんが、息苦しくなって浮かんでくるんじゃないか、て期待もあったのだと思う。でも、そんなのは慰めにすらならないまやかしだ。もう彼の身体が息を吹き返すことはない。海の底で他の生き物たちの糧になり、そう時間を掛けず肉体は朽ちていくだろう。

 現実をようやく受け入れたわたし達が海岸へ戻る頃には、東の空が白み始めていた。

 

 葦原さんを喪った後のわたし達はすぐに小屋を後にした。元々長居するつもりもなかった。長くひとつの場所に留まっていたら、警察の捜査が及んでしまう。

 わたし達が降ろされたのは沼津から列島の反対側に位置する日本海の沿岸部で、土地勘もなかったからひたすらに海沿いに北上する事にした。海が近くにあると安心した。潜れば魚がいるから、食べ物には困らない。

 釣りや(もり)とかの道具は使わず、漁は超能力で行った。海中にいる魚の位置を探り当て、振動を与えることで魚を痙攣させると海面に浮きあがってくる。わたしにはよく分からないやり方だけど、皆もよく分からず感覚でやっているようだった。超能力は便利だけど、取り扱い説明書なんて無いからどんな能力が使えるのか、どこが限界なのかは各々が自身で見極めていくしかない。

 魚だけ食べるのもすぐに限界が来たから、やむなく立ち寄った畑の野菜を盗むなんて事もした。最初は抵抗があったけど、空腹に負けて何度も繰り返していくうちに罪悪感なんてものは消えてしまった。食べないと死んでしまう。そう正当化しながら往く先々で後ろめたい感情を常に抱えながら移動している間にも、わたし達は情報収集を欠かさなかった。

 スマホで見るネットニュース、コンビニで売っている新聞。食堂で流れているテレビのニュース番組。至る所で世間の情勢は垂れ流しも同然に溢れている。

 逃げ続けた3ヶ月の間に、世界は本格的にアギトの排除にあたっていた。各報道機関は世界中でアギトの力を持つ人々の起こした事件を流し、人々は自分達と同じ姿をした彼らを化け物と口々に囁き始めた。

 まだG3-Mildは日本にしか配備されていないみたいだけど、近いうちに量産体制が整備され世界各国の軍や警察に採用予定らしい。

 これはハルマゲドンだ。立ち寄った小さな商店のテレビで、何かの専門家の老人が言っていた。聖書にある、世界の終末に起こるとされる最終戦争。

「この程度で世紀末だなんて大袈裟な」

 商店のお婆さんはそう笑い飛ばしていた。

 そっか、世界はもうすぐ終わるんだ、とわたしはぼんやりとした頭で呑気な言葉しか沸かなかった。ひたすら逃げ隠れる日々に疲れてしまっていたのかもしれない。終わるのなら、どんな形でも構わなかった。たとえ世界が終わろうとも。

 でも世界は、そう簡単には終わってくれるものでもなかった。元から人間を超えたアギトは警察相手に奮闘し続けていて、警察もどんどん増えていくアギト相手に対処が追いついていなかった。まだ破滅には至っていなくても、あれから数ヶ月で世界は確実に混沌へまっしぐらと向かっていった。

 そんな世の中に対して無関心ではなかったのだけど、逃亡中のわたし達に外へ目を向ける余裕なんてなく、ただその日をどう生き抜くかで精いっぱいだった。我ながらよく生き延びたと思う。食べ物や必要なお金は盗んで手に入れ、寝床は空き家や公共施設に侵入して確保し、稀に暴漢に襲われれば超能力で撃退。多分、犯していない犯罪は殺人くらいだと思う。

 それでもわたしが諦めることなく逃げ続けたのは、皆が一緒に居てくれたこと、それと翔一くんの存在だった。アンノウンからこの世界を護り抜いた翔一くんなら、この混沌を治めることができるかもしれない。そんなまやかしでも信じなければ、到底あの日々は乗り越えられなかっただろう。

 

 





 次回予告

 涼が倒れ、悲しみを背負いながらもAqoursは歩き続ける!
 絶望などではない! 受け止めた愛に生きるためエエ‼

 次回 シャゼリア☆キッス 24.7
 戦え! 振るう拳は愛のために‼


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第4話 戦え! 振るう拳は愛のために‼  

 

   1

 

 わたし達の逃亡生活が終わったのは、南へと下る途中の山村だった。そこは農業と林業で生計を立てるごく普通の田舎だったのだけど、村人からアギトが発生した事でG3-Mild部隊と戦闘になり、その戦火で壊滅状態になった廃村だった。村人たちは全員が麓の仮設住宅へと半ば強引に避難させられたという噂を聞いたわたし達は、その村をしばしの拠点にしよう、とそこへ訪れた。

 まだ住民が去ってひと月程度しか経っていない村は、正直なところ人がいなくても違和感がないほどに活気の痕跡が見られなかった。民家と畑ばかりの、街の喧騒から切り離されたかのような集落。実際わたし達が辿り着くまで結構な時間を要したわけだから、何もないのも納得だ。

 とはいえ、何もなくても生きていくのに必要なものは一通り揃っていた。蔵にはその家で育てている米や野菜が蓄えられていたし、山奥でもまだ電気や水道は通っていた。村に着いて誰もいないのを確認できたわたし達が最初にした事は、お邪魔した家でお風呂に入る事だった。今までは雨の日に身体を濡らしたりタオルで拭いたりする程度だったから、これは皆で手放しに喜んだ。お湯に浸かるだけでも涙が出たり、身体の表面に溜まった垢で真っ黒になった湯船に笑ったりと色々な感情に振り回された。

 その日の夕食も温かった。9人で鍋を囲んで、蔵にあったお米や野菜で雑炊を作り食べて、その美味しさに皆で感激しあっという間に鍋の中身を平らげてしまった。久々のまともな食事だった。多分、満腹という感覚を久しぶりに覚えたかもしれない。

「これから、どうすれば良いのかな?」

 満腹で眠くなり始めたとき、曜ちゃんの言葉でわたしの眠気はどこかへと消し飛んだ。それは他の皆も同じ。やっと訪れた穏やかな時間に頬を綻ばせた各々の表情を険しくした。考える余裕が無かったのは事実だけど、目を背けてきたわけじゃない。皆、どこかで向き合わなければならない問題であることは理解していた。

「ずっとここで暮らしていくというのは、現実的とは言えませんわね」

 ダイヤちゃんが言った。村にはまだ十分すぎるほどの食べ物があったけど、それもいつまで保つかは分からない。それに、ここだって安全とは言えないのだ。

「目立たずにいれば、警察も目を向けないんじゃない?」

 善子ちゃんの言葉に「うゆ」とルビィちゃんは同意を示し、

「ずっと逃げるより、ここで隠れていたほうが――」

「でもそれじゃ――」

 花丸ちゃんが何か言いたげに視線を泳がせて、鞠莉ちゃんがその後を引き継ぐように言った。

「多分見つかってしまうわ」

 楽観視しながらも、皆どこかで抱いていた不安を鞠莉ちゃんは現実として告げた。

「わたし達と同じように、この村の噂を聞きつけたアギト達が逃げてくるかもしれない。そうやって人が増えたら目撃されるだろうし、そうなればすぐに警察が来て全員殺される」

 鞠莉ちゃんの言う通りだった。誰も反論なんてできない。今もこの村へ逃れようとしているアギト達がいるかもしれない。同胞なのだから追い出したりはしないけど、その人達が警察の追跡を撒けているかは分からない。

「ずっと逃げるしか、ないのかな………」

 沈んだ声音で呟いたのは梨子ちゃんだった。こうして普通にご飯を食べるのもままならない生活を、一生続けていくことになるのだろうか。いつ向けられるか分からない銃口に怯えて、安心して夜を眠れないまま。

「ねえ、海外に逃げるのはどう?」

 善子ちゃんが閃いた、という顔でそんなことを言い出した。

「鞠莉の家に連絡すれば、ヘリくらい用意して――」

「無理ですわ」

 ダイヤちゃんにぴしゃり、と撥ねつけられた。

「いま空路は完全にストップしているのですよ。すぐ自衛隊に発見されて落とされますわ」

「じゃあ船は――」

「船も同じです」

 日本から出ることは叶わないらしい。小さな島国の中での逃亡生活がどれほどもつか。

 ふう、と果南ちゃんは溜め息をつき、

「今日は皆疲れてるし、休もう。しばらくここに居る間、それぞれ考えておいて。これからどうするべきか」

 ひとまずの提案に、わたしは無言で頷いた。他の皆も異論を挟むことなく同意して、その日の夜は眠りに就いた。屋根のある場所で眠ったのはいつ振りだっただろう。布団が人数分足りなかったから畳の上で横になったけど、十分に快適で泥のように熟睡できたことを覚えている。

 夢を視ていた。いつか、翔一くんが菜園のトマトを使った料理を食べさせてくれた日の記憶。忘れかけていた味と日々が遠く感じられて、酷く虚しくなった。もうあの日々には戻れないのだろうか。志満姉も美渡姉も、お母さんもしいたけも、そして翔一くんもいない。

 

 

   2

 

 これからどうすればいいのか。

 その答えをわたし達が出す前に、出さなければならない状況へと現実は押し上げてきた。無理矢理に。わたし達の意志なんて関係なく。

 久々に目覚めの良い朝を迎えられたわたし達は村の散策をしていた。集落がどこまで続いているのか、周辺に何があるのかを確かめる必要があったからだ。でも見たところ村は山間のすり鉢状になった土地に民家が集まっていて、周辺には山くらいしかなかった。

 お腹が空いてお昼ご飯の準備をしていたときだった。周囲の見回りに行っていた1年生の3人が戻って来て、

「警察が、G3がすぐ近くに――」

 泣きそうな顔でルビィちゃんが喚いていた。「数は?」と鞠莉ちゃんが訊くと「4人ずら」と花丸ちゃんが答えた。

「これから増えるかも」

 善子ちゃんが言った。確かに、偵察で4人という数なら、わたし達を見つけたら応援を呼んで更に数が増えるだろう。そうなれば周辺を包囲され、わたし達は袋のネズミだ。

「すぐに出ましょう」

 ダイヤちゃんの指示に従って、わたし達はすぐに村を出ることにした。さようなら、美味しいお米と野菜。家を出るとき、わたしはまだ大量の備蓄が残っている蔵を一瞥した。

 ルビィちゃん達がG3-Mildを目撃したのは麓へと下る北の道だったから、その反対の南方面へとわたし達は進んだ。山の中は道路の整備なんてされていなくて、急こう配や柔らかすぎる腐葉土に足を取られて進むのに苦労した。獣道を歩くのはすっかり慣れたものだったけど、やはり余計な体力は使ってしまう。しかも後方には敵がいつ追ってくるのか分からない。

 敵。そう、かつてわたし達を護るために戦ったG3-Xと似た姿の彼らは敵なんだ。裡にそのような認識が生じていることにわたしは戸惑いを覚えた。あの中に氷川さんがいるとは限らないけど、彼の銃口がわたし達に向けられることがとても恐ろしく、寂しかった。

 突如、わたし達の目の前が爆ぜた。

 土が撒き散らされて、足場を崩されたわたし達は丘陵を転げ落ちていった。ほんの数秒ほどだったけど、転がっている間に岩や木にぶつかったせいで体の節々が酷く痛んだ。起き上がろうとしたわたし達の周りには待ち構えていたかのように4人のG3-Mildたちが銃を構えていて、恐らく本部に通信を送っていた。

「α-ワン、目標を確認。どうしますか?」

 すぐに返答が来たのか「了解」と応え銃を構え直した。発砲許可が下りた、ということだろう。

「あなた達は、人を殺すことに何とも思わないんですか?」

 オレンジ色の目を見据えて、わたしは訊いた。どうしても気になったのだ。本当に世の中の人々が、アギトを敵と思っているのか。

「答える義務はない」

 逡巡を挟まずの回答だった。G3-Mildが銃の引き金に指をかけたとき、その銃が破砕音と共に砕けた。暴発にグローブを吹き飛ばされたG3-Mildの手から血が滴り落ちたけど、「構わん撃て!」と仲間たちに指示を飛ばした。

 でも、他のG3-Mildたちも狼狽えて一向に発砲する気配がなかった。複数のオレンジ色に光る目は、わたし達の足元に光る金色の模様を捉えていたからだ。この光をわたしは知っている。わたしにはない、裡に宿る力を顕現させたもの。

 光る紋章は渦を巻き、わたし以外の8人の足に集束していく。皆の身体から放たれる光は際限なく強まり、腰に出現したベルトが唸りをあげるように胎動する。

 全てを塗り潰すほどの光に、視界が遮られた。一瞬で晴れた光の残滓がちらつく中、そこには8人のアギトが立っていた。金色の角を額から生やし、目を真っ赤に染めているけど、翔一くんや葦原さんのように異形の姿とは違う。皆それぞれの面影をしっかりと残していた。まるで人からアギトへと進化する途中のように見えた。

 まず攻撃を仕掛けたのは果南ちゃんだった。先程銃を暴発させたG3-Mildへ突っ込んでいき、その腹に拳を沈めた。ごふ、と咳に似た声をあげたG3-Mildは体をくの字に曲げ、その背中から光の刃が鮮血と共に突き出した。

 別のG3-Mildが至近距離からグレネードランチャーを発砲し、標的にされた曜ちゃんは拳を突き出し弾いてみせた。宙を泳いだグレネードはG3-Mildのもとへ戻り、炸裂し装甲に裂傷を負った。それでも2発目を放とうと銃を構えたのだけど、すぐさま鞠莉ちゃんとダイヤちゃんのキックを受けて沈黙させられた。

 1年生たちのもとへ2人のG3-Mildが応戦したけど、ひとりは花丸ちゃんの拳でマスクを割られ、もうひとりはルビィちゃんの蹴りで背中のユニットを破壊された。善子ちゃんが両手から出現させた光の剣が止めになって、ふたりの鎧は肩から胸にかけて切り裂かれて血に染まり、そのまま力尽きて倒れた。

 呆然とただ見ていただけのわたしの傍で、金属の軋む音が聞こえ視線を降ろした。鞠莉ちゃんとダイヤちゃんに蹴飛ばされたG3-Mildが、落ちていた銃を拾おうと手を伸ばしていた。故障したらしいマスクは脱ぎ捨て、男の人の顔が露になっていた。額から流れた血が眉間を伝っていて、わたしを見るその目は人間に向けるものじゃなかった。わたしは咄嗟に男の人が取ろうとしていた銃をひったくって、グリップを握り絞めて銃口を男の人の顔へと向けた。

 相手の顔が恐怖に歪んだ。G3-Mildの部隊に入るため過酷な訓練をしてきた事が予想できた彼は、わたしみたいな非力な高校生相手に恐怖しているのが分かった。引き金に指をかける。ほんの少し指に力を込めただけで、この人を殺せてしまう。そう考えたら手が震えだして、抑え込むようにわたしは更にグリップを握る力を強く込めた。

 皆はアギトに変身して戦った。なら、わたしだって――

 引き金の指に力を込めようとしたとき、男の人の顔が一瞬にして消滅した。上から頭をまるでカボチャみたいに潰してしまったのは、梨子ちゃんの足だった。

「千歌ちゃん、大丈夫?」

 梨子ちゃんはそう呼びかけたみたいだけど、わたしの耳には入っていなかった。ただ銃を握りしめたまま、頭を失って動かなくなった男の人の骸をぼう、と見つめているだけだった。

「千歌ちゃん!」

 肩を揺さぶられ、ようやく我に返った。梨子ちゃんは銃を握るわたしの手に自分の手を重ねていた。

「もう大丈夫だよ。大丈夫だから」

 その言葉を聞いて、手から力が抜けた。梨子ちゃんはわたしの指をゆっくりとグリップから引き剥がしてくれた。

「わたし、わたし何も………」

「いいから」

 と梨子ちゃんはわたしを抱きしめてくれた。とても温かかった。その体温を感じられて、無意識に流れていた涙が頬を伝っていった。

「千歌ちゃんはわたし達が護るから。だからそんなもの持たないで」

 密着する梨子ちゃんの身体が震えていることに気付いた。ああ、梨子ちゃんも怖いんだ。強まった自分の力の結果が、自分達を中心に広がっている血の海なんて。翔一くんと葦原さんも、それに木野さんも同じ恐怖だったのかな。強くなる毎にどんどん人から遠ざかっていって。その力で近くにいる人を傷付けてしまうんじゃないか、て。どこかで枷が外れてしまうんじゃないか、て。そんな皆に、ただの人間でしかないわたしに何ができるんだろう。

 かさ、と落ち葉を踏む音が聞こえ、わたしの背に戦慄が走った。咄嗟に梨子ちゃんはわたしを背に回し、他の皆も音の方角へ真っ赤に染まった目を向けた。足音はどんどん近くなっていき、森の樹々の間からひとりの影が現れた。木の葉の陽光を浴びて露になったのはたったひとりの青年で、わたし達の姿を認めてひと言を発した。

「安心しろ。俺は君たちの仲間だ」

 証明するように、その青年はアギトに変身した。

 

 

   3

 

「死にたくなければ一緒に来るんだ」

 草加雅人(くさかまさと)と名乗ったその青年は、麓に止めてあったバンにわたし達を乗せてくれた。山道を走りながら、冷静を取り戻すにつれてわたし達は草加さんに次々と質問をした。

「どこに向かってるんですか?」

 と訊いたのは曜ちゃんだ。「安全な場所だ」とだけ草加さんが答えると、今度は梨子ちゃんが、

「草加さんはどうしてあそこに?」

「俺の仲間が、あそこからアギトの力を感じ取ったんだ。俺たちは力を感じた場所から同じアギトに覚醒した人々を保護している。今向かっているのは、その拠点だ」

 バックミラー越しに草加さんと一瞬だけ視線を交わしたわたしは思わず身震いしてしまった。何でだろう。この時ばかりは直感が冴えていたような、草加さんから発せられる何かは、わたしにも感じ取れたらしい。

「麓でG3-Mildの部隊がいるのを見て手遅れかと思ったが、土壇場で君たちが変身能力を得て良かった。まあ、大体のアギトがそういった危機的状況で変身できるようになるらしいけどね」

 草加さんの言葉に、皆は喜べば良いのか迷っているようで一様に苦笑を浮かべていた。まだ困惑していたんだと思う。前から力がある事は示唆されていたけど、さっき変身して半信半疑だったものがようやく確信へと変わったのだから。

 「君は――」と草加さんとまた鏡越しに視線が合い、「は、はい」と思わず上擦った声で応えてしまった。そんなわたしに草加さんは苦笑し、

「まだ変身はできないようだが、焦ることはない。覚醒には個人差がある」

「はあ……」

 ひとまずこの人にはまだ知られていない事に安堵し、わたしは旨を撫で下ろした。緊張していると思ったのか、草加さんは少し嫌味っぽく笑い語り出す。

「それにしても、君たちもよく生きていたね。今やもう、アギトというだけで危険な状況なのに」

 「どういう事?」と鞠莉ちゃんが訊いた。考えてみれば、ここしばらくは検問を怖れて人里を避けながら移動していたのだ。山道を渡り歩いていたからコンビニすらなく、世間の動向からは完全に隔離されていたことになる。

「アギトに覚醒した人の脳波は、普通の人間とは少し異なるらしい。その計測器が普及してからは、検問で毎日のようにアギト認定された人々がどこかへと連れて行かれるんだ」

 「どこか、て?」と果南ちゃんが恐る恐る訊いた。曖昧にぼかした時点で嫌な予感はしていたのだけど、草加さんもかぶりを振った。

「分からない。連れて行かれた仲間は大勢いるが、まだ居場所は掴めていないんだ。アギトの弱点を探るための研究所か、それとも処刑場か………。連行された仲間たちはひとりも救出できていないのが現状てところかな」

 草加さんはダッシュボードからタブレットPCを出すと、後ろ手にわたし達へと差し出した。「ニュースを見るといい」と言われ、促されるまま受け取ったわたしは画面をタップしニューストピックスを開いた。政府、新聞社、テレビ局。どの報道機関も報じているのはアギト関連一色だった。どこの街で何人の人がアギト認定されたとか、逃亡していたアギトを捕縛したとか。草加さんは言った。

「都市部は酷いものだ。市民が知人や隣人をアギトと告発するのは日常茶飯事だ。アギトと疑った人を集団で袋叩きにするなんて事件もある」

 ニュースと草加さんの話を聞けば聞くほど、わたしの中で現実味が薄れていった。歴史の授業でたまに先生が話す民族紛争の話じゃないか。いつも退屈で眠気を堪えていた話が、いま自分の生きる時代と国で起こっているなんて誰が想像できるんだろう。

「信じられないかな? これが現実だ。これまでの平和な世の中じゃない」

 そう語る草加さんの声には凄みが溢れていて、わたし達は全員押し黙ってしまった。節々に垣間見える黒いものから、彼もまたアギトである故に辛い想いをしてきたのかもしれない。

 ぐん、と慣性で前のめりになった。ブレーキが掛かったからだ。前方に目をやるとパトカーが見える。その後ろにはひと回り大きな輸送車も。

「検問だ」

 草加さんが呟いた。

「君たちは大人しくしていろ」

 警察官の掲げる誘導灯に従い、草加さんは車を止めた。運転席の窓を開けると警官は軽くわたし達の方も一瞥して、

「検問だ。そのままで頼む」

 と草加さんに向けて拳銃に似た機械を向けた。あれが、アギトと人間を判別するための計測器だろうか。思ったよりも小さいんだな、と思っていると、機械が耳障りなアラート音を鳴らし始めた。一瞬にして警官と、パトカーの周りに居た人たちも顔を曇らせ始める。

「アギト確認! ステータスβへ移行! 繰り返す!」

 警官たちがせわしなく動き回っていた。輸送車の中からライフルを構えた機動隊とG3-Mildがふたり出てきて、わたし達の乗るバンへと銃口を向けた。車内で皆と抱き合いながら恐怖に固まっていたわたしがふとミラー越しに草加さんを見ると、彼は薄っすらと笑みを浮かべていた。頼もしさ、というよりも恐ろしさを感じさせる微笑を。

 草加さんはゆっくりとドアを開けて車から出た。それに気付いた警官たちは銃を向けて「動くな!」と叫んだけど、草加さんは構わず歩き出した。

「変身」

 彼の呟きに隊長らしき人が目を剥き「撃て!」と指示を飛ばした。同時、草加さんの身体が光を放ち、アギトに変身した。黒紫の鎧を身に纏った草加さんはベルトから引き抜いた剣を逆手に構え、銃声が聞こえると同時に獲物を一閃した。弾丸だろうか、彼の足元に粒のようなものが落ちたのが見えた。

 すぐさま後ろで控えていたG3-Mildたちが出てきたけど、草加さんはひとりの腹に拳を沈めて突き飛ばし、更にもう片方の胴に剣を一閃し、堅牢な鎧に覆われた身体を上半身と下半身に分けてしまった。飛び散る鮮血に思わずわたしは顔を背け、目を瞑った。

「応援要請を――」

 警官の声が悲鳴に掻き消された。続く発砲音も、何かが弾けるような音も、その全てから逃れたくわたしはずっと耳を手で覆っていた。視覚のほうは完全に遮断できても、聴覚のほうは手の隙間から容赦なくわたしの耳朶に断末魔が入り込んできていた。すぐ近くで命が果てる音を確かに聴き取りながら、でも何もせずただ震えているだけだった。

 全てが終わるのに、そう時間は掛からなかったと思う。次第に騒音は小さくなっていって、無音になったと同時に草加さんが運転席に戻っていた。そこでようやくわたしは目を開き、過ぎ去った惨事の跡を車窓越しに眺めた。まだ流れたばかりの、鮮やかな紅が道路上に広がっていた。血濡れに照りついた手足がまるで乱暴に遊ばれた玩具のように転がっていて、腹から引きずり出された腸が数メートルほど伸びていた。

 草加さんが車を走らせたとき、過ぎていく死体たちの中で右半分を潰された頭の左目がわたしを睨んだような気がした。勿論、そんな事はない。彼は頭を半分なくした時点で、自分が死んだことにも気付かずに事切れたはずだ。その瞬間の、草加さんに立ち向かおうとした果敢な眼差しが死によって固定され、偶然わたしと目が合っただけに過ぎない。

 でも、わたしは意識なき死体から責められているような気分に囚われてしまった。俺たちは必死に戦っているのにお前は見ているだけか、と。いや、見てすらもいなかった。わたしが目を背けた現実の中で彼らは死んだのだ。

 胃の奥から酸っぱいものが込み上げてきて、たまらずわたしは窓を開けてえずいた。でも朝から何も食べていなかった胃から戻ってくるものなんてなくて、唾液が口の端から糸を引いて後ろへと飛んでいくだけだった。

「千歌ちゃん、大丈夫?」

 と曜ちゃんが背中をさすってくれたけど、何をしても決して慰めにはならない事をわたしは悟った。脳裏に張り付いたあの眼差しは一生消えることはないし、しばらくは夢に出てくるかもしれない。それが償いになるのなら享受する。赦されるのなら、だけど。

「俺が怖いか?」

 ハンドルを握りながら、草加さんにそう訊かれた。答えあぐねているわたし達を振り返らず、運転に徹しながら彼は続けた。

「君たちだって殺しただろう。綺麗事で生きていけるほど今の世界は甘くない」

 






 次回予告

 アギトの自由のために戦う事を選んだ千歌たち!
 終わらない苦難の先に待ち受けるは希望か、それとも絶望かああ‼

 次回 シャゼリア☆キッス 24.7
 目覚めろ、その魂! 3+3+3は9千兆パワー‼


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第5話 目覚めろ、その魂! 3+3+3は9千兆パワー‼

 お待たせしました。しばらく風邪でダウンしてました。
 一応検査受けて陰性でした。めっちゃ安心しました。




 

   1

 

 銃声に悲鳴、そして血。

 わたし達が通り過ぎた後には必ずと言っていいほど血だまりができて、それらが醸し出す死の臭気がわたし達には染みついている。歴戦となると臭いはより強くなっていくのだけど、決してそれは不快なものではないみたいだ。その発する臭気は猛々しくもあり、爽やかでもあり、甘くもある。

 なぜそう感じられるのだろう。まだ臭いを身体に染み込ませていないわたしの疑問に、花丸ちゃんが言っていた。

「死というのは、常に傍にいる身近なものずら。きっとマル達は無意識に死というものを感じていたずらね」

 流石は実家がお寺なだけある。死を身近にしていた居場所で過ごしていたからこその感性かもしれない。

 なぜこんな事を考えていたのかというと、理由が欲しかったと自分では思っている。

 草加さんに連れられ故郷を追われたアギト達のコロニーに迎えられたわたし達は、保護と引き換えに協力を求められた。世界中に展開しているコロニーの目的とは、アギトを迫害から解放すること。それは即ちアギトを敵視する人間と戦うことだった。コロニーの住人達はアギト認定された人たちだけど、変身能力を得るほどにまで覚醒した人は極稀らしい。だからわたし達Aqoursは貴重な戦力になる。

 拒否権なんてなかった。アギトになった皆はコロニーの、ひいては種の悲願に同調するしかなかった。分かり合う事、共に生きる事。その選択肢は一線を越えてしまった皆の中にはとうに消えてしまったのかもしれない。

 迎えられたコロニーにはスクールアイドルを知る人たちも多くて、ラブライブで優勝を果たしたAqoursは住人たちから好意的に受け入れられたと思う。時には歌を披露したり、子供達にダンスを教えたりもした。その間だけ、コロニーの外で起こっている惨状を忘れることができた。

 Aqoursのお姉ちゃん。

 Aqoursのお嬢ちゃん。

 Aqoursちゃん。

 コロニーの皆が呼ぶわたし達の名は様々だ。親しみを込めて呼んでくれるそのグループ名、浦の星の皆の想いと共にラブライブの歴史に刻んだその名を、わたし達は戦場に持ち込みたくはなかった。だから、アギトとして戦場に立つわたし達は別の名前を名乗ることにした。

 新しいグループ名はシャゼリア☆キッス。

 名前の由来は至って単純なもので、前に沼津でのイベントで各地域にメンバーを分散してライブをした時のユニット名を繋げたものだ。

 わたしと曜ちゃんとルビィちゃんでCYaRon!(シャロン)

 果南ちゃんとダイヤちゃんと花丸ちゃんでAZALEA(アゼリア)

 鞠莉ちゃんと善子ちゃんと梨子ちゃんでGuilty Kiss(ギルティキス)

 名前を名乗ることでヒーローを気取ろうとしていたのかもしれない。でも戦いに、殺し合いにヒロイックめいた勇ましさなんて無かったことを思い知るのは瞬きするほど一瞬だった。それでも皆はアギトの自由のために、という題目を掲げ戦場へ向かっていった。

 本当は怖いはずなのに、逃げ出したいはずなのに、どうして皆は進んで戦いへと赴いていったのか。死の臭気というものはどこか芳香にも似ていて、皆はまるで花の蜜を嗅ぎ取った蜂みたいに戦場へと惹きこまれていったんじゃないだろうか、と。

 まともに戦っていなかったわたしが言う資格はないのだけど、何食わぬ顔で戦場へ行き帰る皆を見て、わたしはどこかで怖れを抱いていた。

 

 こちら側の戦闘員が放ったRPG7が、敵陣の一画を吹き飛ばす。開戦の狼煙とばかりに、ぞろぞろと箱型の建物から軍隊アリのような乱れの無い隊列を組んだG3-Mildたちが飛び出してくる。

 建物を囲む森林の陰から姿を現した戦闘員たちはそれぞれの獲物を構え、弾丸に弾丸で応えていく。彼らはまだ変身はできなくても、戦うに十分な超能力を備えた精鋭たちだ。

「じゃあ、いくわよ」

 善子ちゃんの低い声に皆は無言で頷く。善子ちゃん、梨子ちゃん、鞠莉ちゃんの3人は深く息を吸い込み、歌い上げる。3人の声が波のようにうねりながら辺り一帯へと広がっていく。G3-Mildたちは戦場に似合わない歌声に戸惑い一瞬だけ動きを止めるけど、すぐに目の前に迫る駆逐対象へと意識を戻し引き金に指をかけていく。

 戦場に流れる歌なんて、誰も聴いてはくれない。でも、耳には目蓋がない。空気が伝達する3人の歌声は確かに兵士たちの耳に届き、マスクの収音センサーに響いたはず。

 まず、G3-Mildたちは手から銃器を取りこぼし、次に膝を折った。しばらくはしゃがんだ姿勢のまま持ち堪えていたのだけど、それも束の間。ほどなくして身を伏せて、痙攣したかのように身体を小刻みに震わせていく。

 これが、3人の歌。歌に特殊な波動を乗せて拡散し、機械の機能障害を起こす。敵味方の機器問わずに働きかけてしまうけど、アギト側の通信はテレパシーで行っているから機械は殆ど使われない。機械仕掛けのG3-Mild相手だから有効活用できる。

 完全に無防備になったG3-Mildたちに、同胞たちは容赦がない。戦車の装甲すら貫くほどのライフルで、身動きの取れない敵の頭を吹き飛ばしていく。各所でまるでスイカが破裂したかのような光景が繰り広げられていくなか、わたし達は敢えて目を逸らし本来の目的である建物に目を据える。

「変身」

 皆が一斉に呟いた瞬間、アギトの光を身に纏った姿へと変わった。初めて変身した時と変わらず、額から角こそ生えているけど顔はまだ皆のまま。草加さん曰く、まだアギトとしての覚醒が不完全なのだとか。それなら葦原さんと同じギルスになるんじゃないか、と思ったけど、進化は人それぞれに異なるから分からないらしい。葦原さんも翔一くんも、どうして自分にアギトの力が宿ったかなんて最初から知っているわけじゃなかった。ただ宿った、変身できるようになった。その事実だけを、あのふたりは受け入れるしかなかったのだ。

 阻む者たちが頭を爆ぜていくなか、わたし達はセキュリティが完全に潰された入口から堂々と中へ入った。既に先陣を切った同胞たちが中で待機していたであろうG3-Mildたちと戦いを繰り広げていて、奇襲には成功したけど中まで歌は届かなかったようで、結構な数のG3-Mildたちが応戦していた。

 戦況はとてもこちらが有利とは言えない。こっちもそれなりの人数を投入したけど、警察のほうも結構な数のG3-Mildを配備していたらしく拮抗している。ひとりひとりの戦力となれば敵のほうに分がある。わたし達のほうでアギトとして変身できるのは僅かで、後は補助的に超能力を扱えるくらいだ。わたしのように、携行している武器だけが頼りの人もいる。

「危ない!」

 ダイヤちゃんに咄嗟に突き飛ばされ、さっきまでわたしがいた場所でグレネードが炸裂して粉塵を撒き散らす。すぐさまダイヤちゃんが目で弾道を辿り、手をかざすとその先でランチャーを構えていたG3-Mildの鎧の継目から炎が噴き出した。文字通り火だるまになった彼は絶叫をあげていたけれど、声帯も焼けたのか声も出せないままその場でのたうち回り、ほどなくして動かなくなりされるがまま体内からの炎に焼かれていった。

 仲間の凄惨な最期に、他のG3-Mildたちは優先順位をわたし達へと定めたらしい。他の戦闘員たちを適当にあしらい、わたし達の周りへと集まってくる。その一画を黄色い光が一閃した。ざ、と3人のG3-Mildが身体を横に両断され、ずるりと上半身を地面に落としていく。わたし達の前に立った、黄色い光を放つ剣を構えたアギトが草加さんの声で告げた。

「行け、ここは俺がやっておく」

 草加さんの剣捌きには迷いがない。ショットガン程度では傷ひとつ付かないG3-Mildの鎧を剣で両断し、そのスーツの中に詰まった血と臓物を弾けさせていく。こんな光景は慣れたつもりだったけど、胃の奥から酸っぱいものが込み上げたわたしは思わず目を背けてしまった。

「千歌ちゃん?」

 ルビィちゃんが肩を貸してくれたけど、敵が近付いてきたのかすぐさま接近してきたG3-Mildへと向かっていく。分厚い金属の胸板に小さな拳を当てて、それでも意に介さないG3-Mildに拘束の拳と蹴りを浴びせていく。力が足りないのなら手数で。どうしても筋力に難があったルビィちゃんの編み出した戦い方で、G3-Mildの装甲が剥がされていく。ルビィちゃんの渾身の拳がG3-Mildの腹に食い込み、そのまま骨が砕ける音と共に背中を突き破った。

 あのルビィちゃんが、躊躇うことなく人を殺めている。引き抜いた右腕が真っ赤に染まっていても恐れることなく、淡々と自身の力を自覚して他の敵へと意識を移している。ルビィちゃんだけじゃない。曜ちゃんは敵の武器を暴発させて自爆させているし、善子ちゃんは背中から出した黒い翼で毒を含んだ鱗粉を撒き散らしている。空気中に飛散した毒で弱った敵を、梨子ちゃんが手から伸ばした光の手刀で切り裂いていく。

 花丸ちゃんの口ずさんだ歌が、敵に搭載された機器系統を狂わせて次々と爆発を連鎖させていく。果南ちゃんの剛腕を前に金属製のマスクなんて役に立たず潰されていき、鞠莉ちゃんの指から放たれた弾丸のような光の球が敵の胸にぽっかりと風穴を開けてしまう。

 これを野蛮だ、と思えるのは、わたしだけまだ敵の命を奪った事がないから言えること。戦うと言って戦場に立ちながら未だに腰に据えた銃でひとりも仕留められない偽善者の戯言でしかない。

 これが本来の戦いなんだ。善悪とか、正義なんてものを容易く超越したもの。ただ生きるか死ぬかしかない。純粋な生への執着のみが渦巻き絶えず死の臭気が醸し出される。

 気付けばわたしは走っていた。建物の奥へ、次々と倒れるG3-Mildの死体を跨ぎながら。裡で叫びながら。

 正義なんて嘘だ。そんなものは命の重圧に耐え切れなかった者の逃避か、事実を知らない善人気取りの創り出した紛い物だ。戦わなければ死ぬ。生物として当然の恐れが、人を戦士にする。いや、戦士なんて言葉も紛い物。血生臭い獣という事実を覆い隠す虚言だ。

 目尻に浮かびかけたものを乱暴に拭い、今自分がいる場所を確認するために足を止めた。まだG3-Mildは出入口に展開しているらしく、不気味なほど静かだった。作戦前に頭に叩き込んでおいた建物の間取り――事前に超能力で内部をスキャンしたもの――を思い出す。記憶が正しければ、丁度下の階に通路があるはず。ベストから出したC4爆薬を床に置いて、通路の角で身を屈めると耳に栓を詰めて起爆スイッチを押した。

 栓をしても耳鳴りがするほどの爆音に顔をしかめながら身を起こす。撒き散らされた粉塵に口を押さえて確認すると、爆薬はしっかりと役目を果たしてくれたようだった。床に空いた穴から鉄筋が少し飛び出しているけど問題なく潜れそうだ。顔だけ穴から出して誰もいない事を確認できると、わたしは穴から地下へと降り立った。普通に階段から降りることができたら良いのだけど、自動筆記で書き起こされた間取り図の中で地下に通じる階段は存在しなかった。エレベーターなら行けるのかもしれないが、そんなものは自分から敵の罠にはまりにいくようなもの。

 という訳で作戦通りの段取りで目標地点に辿り着けそうなのだけど、問題なのはそこに何があるのかまだ分からない、という事だ。この施設を見つけた能力者はどれだけ千里眼を酷使しても、この先にある空間だけは視る事ができなかったらしい。警察が開発した対アギト兵器が保管されているのでは、という懸念からこの破壊作戦が発案されたのだが、まさか目標へ辿り着いたのが最も無力なわたしひとりとは皮肉なものだ。

 通路を歩き出そうとしたとき、久しい声がわたしの耳に届いた。

「千歌さん」

 振り返ると、そこには数年前にAqours――もといシャゼリア☆キッスを助けてくれた青年刑事がG3-Xの鎧を身に纏い立っていた。小脇に抱えたマスクが何とも所在なさげだ。

「やはりあなた達も来ていましたか。聞いていますよ、あなた達の活躍は」

 そう告げる氷川さんはとても悲しそうだった。分かっている。氷川さんや小沢さんは、こんな再会をするために助けてくれたわけじゃない。でもあの日に氷川さんが言ってくれたように、どんな形でも生きるためにはこうするしかなかった。

「投降してください、千歌さん」

 すがるような声で氷川さんは言った。

「悪いようにはしないと約束します。あなた達とは戦いたくない」

「………わたし達じゃなかったら、戦えるんですか?」

 情けない彼の物言いに耐えられなくなったわたしの声が険を帯びる。

「わたしはもう、氷川さんと戦う覚悟はできています」

 そう告げてわたしは腰のホルスターから抜いた拳銃を構える。

「どんな形でも生きるために」

 その言葉に氷川さんは息を呑んだ。今にも泣きそうに、声をわなわな、と震わせる。

「違う……、僕はこんな事のためにああ言ったんじゃ………」

 どこまでも優しい人だ。その優しさはアンノウンと戦うのにとても頼もしい武器だったのかもしれないけど、人の形をした存在を相手にするには枷にしかならない。

 氷川さんはまだ夢見ているのだろうか。アギトと人が共に生きていくことを。これだけの戦いの末に、ふたつの種が手を取り合い肩を並べて歩いて行けるだなんて、そんなものは儚い夢想に過ぎない。分かり合うのに、わたし達は互いを傷付け殺し過ぎた。表面上赦したとしても、必ず双方に消えない傷と憎しみを持ち続ける人が存在する。傷を癒すには、もうどちらかが滅びるしかないのだ。

 銃口を向けるわたしはどんな顔をしていたのだろう。氷川さんはもう、かつてとは違う視線をわたしに向けていた。無力な高校生の女の子じゃなく、人でない何か。倒すべき敵と対峙してしまった絶望の色を帯び、その顔をG3-Xのマスクで覆い隠す。

「この先に行っても、あなたにとっては絶望しかありません」

「絶望なんて、とっくにしてます」

 そんなもの今更だ。もう、何を希望とするべきかも分からないのだから。歩き出す氷川さんに、わたしは銃のトリガーを引く。当然のごとく、弾丸はG3-Xの青い装甲に火花を散らすだけで容易に弾かれてしまう。G3-Mildでさえ対人兵器が殆ど役に立たないのだ。まだ余裕のあるC4爆薬なら多少のダメージを負わせられるか。

 ベストのポケットをまさぐった時、氷川さんは重厚な鎧に不相応な速さで接近してきた。不意打ちにわたしは対処できず足を払われ、崩された体勢のままに床に押し付けられ、重さに身動きが取れなくなる。氷川さんは太腿のホルスターにあった銃を取って銃口をわたしの額に向けた。直後、赤い光が目を突き視界が潰される。レーザーポインターの光と気付きながら目を瞬き、戻っていく視界の中で氷川さんの途切れ途切れの声が耳朶に入り込む。

「千歌さん……君は………」

 咄嗟にわたしは氷川さんの顔面に銃を発砲した。弾丸のフラッシュに狼狽えた隙に拘束から抜け出せたけど、生憎ながらG3-Xのマスクにも傷ひとつ付けるには至っていない。それでも氷川さんは頭を抱えながら「そんな……」とがらんどうに繰り返している。

 どうやら彼の銃には、アギト判別のための測定器が搭載されていたみたいだ。という事は、彼はわたしの真実を知ってしまったということ。

「何故、何故君は………」

「アギトじゃないから、て味方しちゃいけないんですか?」

 わたしの問いに、氷川さんは答えなかった。答えられなかった、と言うべきかもしれないが。

「アギトになっても心は人間のままだ、て氷川さんも知ってるじゃないですか! 皆も必死に生きてるんです。望んでアギトになったわけじゃないのに、化け物だなんて決めつけられて理不尽に殺されて!」

 無駄なのに、叫ばずにいられなかった。どんなに声高に叫んだところで、世界は少数の声なんて簡単に握り潰す。滅ぼすのではなく対話を図るべきだ。力を制御する術を見出すべきだ。そう謳う派閥も人間側とアギト側双方に存在していたけれど、内側から瓦解させられた。所詮は安全圏にいる者の理想論、前線を知らない者の楽観論だ、と。

 この時わたしの叫びは、氷川さんではなく別の人に届いていた。わたしが先ほど開けた天井の穴から、淡々とした声が響く。

「確かに、アギトの精神は人間のまま。それは我々も認めているところです」

 遅れて、穴から鋼鉄の鎧を纏った人影が飛び降りた。重量のあまり着地した床が足の形に陥没したけど、当人はよろめくことなく立っている。

 現れたその黒いG3をわたしは知っている。かつて自衛隊が運用して、わたしを繋げた悪魔のシステムを。

「北條さん、それは――」

 氷川さんの困惑に、黒いG3はわたしも知っている冷たい声で応える。

「安心してください。G3-Xと同じように、AIのレベルを落とし調整されたG4ですよ」

 そう言ってマスクを外せば、数年前と変わらない冷たい眼差しの刑事が顔を露にする。

「お久しぶりです、高海千歌さん。こんな再会になるとは残念です」

 心にもないことを。苛立ったわたしと北條さんの間に、氷川さんは割って入る。

「待ってください北條さん、彼女は――」

「彼女がアギトでないことは関係ありません。アギトの側として我々に銃を向けたのです」

 そう言い放った北條さんはマスクを付け直す。わたしは肩に掛けたグレネードランチャーを構えた。これならば有効打を与えられるかもしれない。

「訊いても、良いですか?」

「何でしょう?」

「さっき言ってましたよね。アギトの精神は人間のまま、て。それを知っているならどうして?」

「人間のままだからこそ、危険なのです」

 言葉通りに受け取るには、わたしにはまだ分からない事が多すぎた。北條さんは続ける。

「精神が不完全で未熟な人間が強大な力を持つようになる。それは幼い子供が核のボタンを持つのと同じなのですよ」

「だから、滅ぼすんですか?」

「その通りです。現にアギトの存在が今の世界に起こる混乱を招いたのです。我々の弾圧行為も認めざるを得ませんが、それもアギトなる存在がいなければ起こらなかったこと」

 「そうですか」とわたしはため息交じりに応えた。ここで討論する気はない。最初から分かり合うことなんて無理だったのだ。北條さんひとり説得できたところで無駄。彼の言葉は、いうなれば世界の人々の大多数の意見なのだから。

 アギトは人の形をした化け物。野放しにしけおけば人はいずれアギトに滅ぼされる。そんな恐怖を凶器とした世界では、アギトに情を持つ氷川さんやわたしのような人間のほうが異端だ。

「北條さん!」

 叫んだ氷川さんが、折り畳まれていたランチャーのバレルを展開した。北條さんは溜め息をつき、

「まさか裏切るつもりですか?」

「違います。彼女は人間です。僕は人間を護るために戦います!」

 氷川さんが北條さんに組み付いた。邪魔な虫を払わんばかりに北條さんが背中に肘打ちを見舞うけど、氷川さんの身体はしつこく離れようとはしない。青と黒の鎧をぶつけ合うふたりの仲間割れを好機として、わたしは通路を駆けていく。

 通路の奥には銀色の鉄製扉があって、小さなセキュリティパネルが設置されている。パスワードなんて分からないから、わたしはC4爆薬を扉に貼り付け急ぎ離れ起爆させた。戦車すら破壊させる威力だけど、扉は大きくひしゃげただけで持ち堪えてみせた。でも無駄な抵抗でしかなく、わたしは追撃のグレネードランチャーを構える。

「駄目です千歌さん!」

 後ろから氷川さんの声が聞こえたけど無視して、ランチャーのトリガーを引いた。目標へ衝突と同時にグレネードが炸裂して、歪んだ扉を吹き飛ばす。粉塵で視えない奥の空間へ、わたしは躊躇することなく飛び込んでいった。

 

 






 次回予告

 迷いを振り切ったかG3-X!
 生を背負った男の魂が、鋼鉄を砕くうう‼

 次回 シャゼリア☆キッス 24.7
 何者なんだお前は! ただの人間だ‼


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第6話 何者なんだお前は! ただの人間だ‼

 

   1

 

 土煙を超えた先には、殺風景な景色が広がっている。

 床も壁も天井も白一色に塗装されているから、奥に鎮座する違う色のそれはとてもよく目立っている。

 何て寂しい場所なんだろう、とまず思った。ドーム球場くらいの広さがあるのに、この地下空間に置かれているのは奥のそれひとつだけだった。他には何もない。まるで、観客が誰もいないステージでひとり立たされているかのよう。

 わたしはゆっくりと、銃を握り絞めながら奥にある赤褐色のそれへと近付いていく。大きさは、わたしの身長の倍くらいはあるだろうか。まるで大きな蜜の塊みたいだ。上から垂らされた粘り気のある液体が、マヨネーズみたいにとぐろを巻いた状態で固まっている。

 目を凝らすと、半透明の塊が何かを閉じ込めているのが見えた。それは人のようにも見えるけど、人じゃないことはすぐに分かった。頭から、もはや見慣れた人を超えた者の角が生えている。

「千歌さん!」

 後方からの声に咄嗟に振り返ると、胸の装甲が抉れて配線を剥き出しにした氷川さんが肩を上下させながらこちらへと歩いてくる。

退()いて下さい。ここは――」

 言葉を最後まで待たず、氷川さんは膝を折った。背中からワイヤーのようなものが伸びていて、辿るとその線は更に背後にまで近付いていた北條さんの握る銃口へと辿り着く。

 きっとテーザー銃だろう。G3-Xのスーツでも防げない電流だから、生身のわたしが撃たれたどうなるか。

「残念ですよ、あなたがここまで愚かとはね」

 溜め息交じりに北條さんは告げた。テーザー銃を無造作に放り、氷川さんから奪ったのだろうランチャーを構える。

「既に気付いているのでしょうが、それはアギトです。硬化樹脂で固めてありますが、まだ生体反応がある。生きているんですよ、そんな状態になってもね」

 わたしは再び、半透明の樹脂に閉じ込められたアギトに視線を戻した。変身したまま元の姿に戻ることもないまま、彼――もしくは彼女――は一切の反応を示さない。このアギトは眠っているのだろうか。それとも意識があって、見つめるわたしのことが見えているのだろうか。

「その個体を捕獲するのに我々は膨大な戦力を費やしました。対人兵器では歯が立たず、対戦車ライフルの弾でさえダメージが見込めない。最終的には神経ガス弾やパトリオットミサイルの弾頭を使用してようやく大人しくなった」

 北條さんは言う。恐れを含み、それに棘を上乗せして。

「化け物ですよ、まさに。それだけの戦力を投じて我々はアギト1体を捕獲するので精一杯だった」

 「しかも」と続ける北條さんの声は、苦虫を噛み潰したかのように怒りを露にする。

「その個体は我々に対して1度も反撃をしてこなかった。反撃すれば、我々など容易に返り討ちにできると情けを掛けられていたのです。そのアギトは、それ程の力を持っている」

 ランチャーの銃口を丸腰になったアギトへ向け、北條さんは言い放った。

「アギト達と共に居るのなら、あなたも知っているはずです。アギトの力は際限がない。いち個体が人類や世界を滅ぼすほどの力を得る可能性があるということですよ」

 北條さんの言葉には、誇張じみた余裕が一切感じられない。彼は本心から言っている。本心から、アギトによって世界が滅ぼされることを信じて疑わない。

 ああ、とわたしは悲しい真実を悟ってしまった。アギトは人間を、人間はアギトを。互いが互いを滅ぼすものと怖れ合っている。

 この人間対アギトの戦いは、力ある者への羨望も、力なき者への侮蔑も存在しない。ましてや正義など何処へやら。

 生きるため。そう、互いに生きるために滅ぼし合うのだ。自分の命が惜しいから。生きて欲しい大切な人がいるから。そのための犠牲を相手に強いているに過ぎない。突き詰めれば野生動物の生存競争と同じ。

 分かり合う道なんて、最初から無かったんだ。生きる事だけは、誰にも侵すことのできない権利なのだから。生きようとする意志だけは、誰にも止めることはできない。

「違う………!」

 絞り出された声に振り返ると、配線をだらり、と垂らしながら氷川さんが立ち上がった。

「彼は、津上さんはそんな事のために力を使うような人じゃなかった」

 拳銃を北條さんへ向けながら、氷川さんはわたしの前へと移動する。北條さんはアギトへ向けていた銃口を氷川さんへ移し、

「氷川さん、これは最後通告です。今すぐ銃を降ろせば、これまでの命令違反も全て不問にしてあげます」

「僕も市民のためと何度も納得しようとしてきました。でもこんな事は間違っています。彼や彼女のように、日々を懸命に生きようとする人を撃つなんて僕ではできない!」

「情にほだされましたか。あの個体の事は、あなたには黙っておくべきでしたね」

 北條さんの言葉の意味が何なのか分からないわたしに、氷川さんは背を向けつつ囁いた。

「千歌さん、あのアギトを連れて逃げてください。あれは――」

 北條さんがガトリングの引き金に指を掛けた。気付いた氷川さんは真正面から飛び込みながら叫ぶ。

「あれは津上さんなんです!」

 絶え間ない機関銃の炸裂音が響き渡ったけど、わたしの意識にそんなものは届かず、直前の氷川さんの言葉だけが反響していた。力が抜けそうな脚を懸命に踏ん張り、虚ろな視線をゆっくりと樹脂の中で佇み続けているアギトへと向ける。

「………翔一くん?」

 その名を呼んでも、一切の反応は返ってこない。固められた樹脂に阻まれて声が中まで届かないのか、それとも聞こえているけど動けないだけなのか。

「翔一くん」

 もう一度呼びながら、わたしは彼を閉じ込める樹脂に縋りつく。樹脂はまるで石みたいに固く冷たい。

 北條さんが言っていた、警察に全く反撃しなかったというのも頷ける。人を護るために戦ってきた彼の事だから、手を掛けることなんて出来なかったのだろう。その優しさが自分の事のように誇らしくて、同時に悲しい。こんな再会を果たすくらいなら抗ってほしかった。たとえ護るべき者たちを殺めることになったとしても。

 わたし達が手を血で汚している間も、彼の手は常に人やアギト関係なく、誰かを護るためで在り続けていた。それなのに今のわたしの手はすっかり銃のグリップや爆弾を掴むのに馴染み過ぎていて、いざ翔一くんに触れられたとしてもどうやって抱きしめたら良いのか分からない。

 背後から破砕音が聞こえ咄嗟に振り返る。氷川さんが後ろへ大きく突き飛ばされた。拳を受けたマスクの右半分に痛々しい亀裂が入っていて、そこから潤滑オイルが血のように滴り落ちている。

『しっかりしなさい氷川君!』

 どこかのスピーカーからだろうか。不意に、地下空間にはっきりとした女性の声が響いた。一度しか言葉を交わしたことはないけど、この毅然とした声は強く印象に残っている。

「小沢さん⁉」

 氷川さんの困惑に続き、北條さんも「まさか……」と息を呑んでいる。

『現時刻をもって、私と氷川主任はG3ユニットの職務を放棄。G3-X及び施設のアクセス権限を占拠します』

 一連の報告を終えると、小沢さんの声は少し優しくなった。

『氷川君、もうこんなドアホ警察に付き合う必要はないわ。G3-Xは、あなた自身の正しいと思う事に使いなさ――』

 何の前触れもなく轟く銃声が、小沢さんの声を遮った。ここでの発砲はない。管制室での事を悟った氷川さんが「小沢さん‼」と叫ぶも、冷たい沈黙だけが返ってくる。

 氷川さんは半分が潰れたマスクを外した。涙で赤く腫らした目を、自身とよく似た姿をした黒いG4の鎧へと向ける。

「うああああああああああああっ‼」

 渾身の拳が、北條さんの顔面を突いた。たたらを踏んだ彼へと、氷川さんは休むことなく拳を何度も打ち付けていく。金属同士がぶつかり合って火花が散り、露になった氷川さんの顔と髪を焦がしていくけど、それでも彼は拳を止めなかった。

 反撃の膝が、氷川さんの腹を蹴り上げる。一瞬浮いたその背中に肘を打ち付け、背負っていたユニットをひしゃげさせた。それでも氷川さんは意に介すことなく、G4のマスクから伸びるアンテナを無造作に掴み自分の膝へと顔面を強かに打ち付ける。

 いくら堅牢な装甲とはいえ脳に響いたのか、北條さんは膝を折った。潰された青い両目はもはや何も見えまい。氷川さんの両手を覆うグローブも、散々殴ったせいか砕けていて防具としては使い物にならなくなっている。

 北條さんはままならない視界でも太腿に留めた拳銃を抜いたのだが、咄嗟に氷川さんに顔面を掴まれ床に頭を叩きつけられる。びくん、と身体を痙攣させる北條さんに、氷川さんは拾い上げたランチャーのトリガーを引き、もはや死に掛けの虫みたいな鋼鉄の鎧に弾丸を雨あられの如く撃ち込んでいく。絶え間ない鉛の雨に北條さんの身体は反動で小刻みに震え、鋼鉄の鎧はひしゃげ、潰れ、裂かれていく。

 もはや亀裂から飛沫を散らすものがオイルなのか血なのかも判別できないくらい濁り切っていて、氷川さんが全ての弾丸を撃ち尽くした頃、わたし達の目の前に横たわっていたのは肉と金属の混ざったミンチ状のものだった。硝煙と焦げ臭さが死臭を覆い隠してくれたのは、まだ幸いだっただろうか。

 氷川さんはしばらくの間トリガーに指をかけたまま固まっていたけど、長時間のフルオート射撃で手が麻痺したのか無造作にランチャーを落とした。

「これからどうするんですか?」

 わたしの質問に氷川さんはかぶりを振り、

「分かりません。でも、自分が正しいと思う事をしようと思います」

 氷川さんの正しさとは、とふと思う。それはわたしのように、人間でありながらアギトの側で戦うということなのか。それとも警察から離れ、氷川さんなりの正義で人間を護る戦いか。

 それか、翔一くんのように全てを護ろうというのか。

 きっと、氷川さん自身もまだ明確な答えを出しあぐねている。こんな世界じゃ、何が正しく間違っているかなんて答えを神が提示してくれることはない。自分たちで見つけていくにしても、万人が納得できる正義なんてあるのだろうか。

 正解なんてない。誰が導き出した答えはどれも正しく、同時に間違ってもいる。どこまでも曖昧なのだ、この世界は。その曖昧さが人間とアギトの境界を引いてしまうなんて皮肉なものだ。

 でも少なくとも、ここでやるべき事は既に氷川さんの中では明確なようだった。

「まずは津上さんをここから出しましょう」

 わたしは頷いた。そうだ、まずは翔一くんを助け出さないと。彼がいれば大丈夫、と無根拠に信じる事ができる。彼なら、この世界に絶対唯一の正しさというものをもたらしてくれるのかもしれない。

 ひとまず銃で樹脂を大まかに削ってしまおう。そう思いホルスターから拳銃を抜きながら嫌に静かな氷川さんのほうを振り返る。

 振り返った先に、氷川さんの顔はなかった。

 そこには支える力を失った青い鎧が、糸の切れた人形みたいにふらふら、と揺らめいているだけだった。すぐに鎧はがしゃん、と金属音を打ち鳴らしながら倒れて、首が繋がっていた断面からは真っ赤な血だまりを広げていく。探していた氷川さんの顔はすぐ近くに転がっていて、その表情は何が起こったのか分からず困惑していたまま固まっていた。

 死体となった鎧の傍らに立つアギトは振り切った剣を降ろし、光と共に変身を解く。

「無事か?」

 草加さんの問いに、わたしは無反応のまま虚ろな目を向けることしかできなかった。

「千歌ちゃーん!」

 その声と共に、皆が駆け寄ってきた。曜ちゃんと梨子ちゃんに抱き着かれ、脚に力が抜けていたわたしはそのまま床に倒れ込んでしまう。

「良かった、無事でよかった」

「うん、本当によかった」

 涙で顔を濡らしながらふたりが言う。他の皆もわたしを囲み、ダイヤちゃんと果南ちゃんと善子ちゃんは安堵の溜め息を、鞠莉ちゃんとルビィちゃんと花丸ちゃんは目に涙を溜めている。皆、顔が煤や血で汚れていた。だからだろうか、すぐ近くに氷川さんだった骸と北條さんだった肉片が転がっていても気にならないのは。

 抱きしめられたふたりの体温がとても温かかったけれど、それはわたしにとって何の慰めにもなれなかった。

 

 

   2

 

 翔一くんを収容していた施設の制圧は、多少の死傷者こそ出てしまったが大方成功と見て良いだろう、というのがコロニー上層部の見解だった。ただ施設の制圧はできたものの、当初の作戦からは収穫のほどは微妙、といったところだった。

 施設に収容されているものの調査。それの危険性が認められれば破壊というのが作戦だった。だから収容されていたものがアギト達にとって吉と出るか凶と出るか、それはコロニーに持ち帰り協議しなければ分からない。

「これがアンノウンを滅ぼした最強のアギトだというのか」

 樹脂に閉じ込められた翔一くんを見上げながら、コロニー議会の葛木(かつらぎ)代表は恐れと共に呟いた。アギト出現以前は某県の知事を務めていたというこの老齢に差し掛かった男性にコロニーの最終決定権を委ねているわけで、前職で培ったリーダーシップでわたし達を率いてきた彼も翔一くんをどう扱うべきか迷っている様子だった。

「本当に、これが翔一なの?」

 鞠莉ちゃんに訊かれ、わたしは自身なさげだけど「うん」と頷いた。樹脂越しでは、彼の温もりを確かめることができないから断言はできない。

「テレパシーで話すことはできる?」

 果南ちゃんの提案に、最も波形を飛ばすのが得意な善子ちゃんが打って出た。樹脂に触れて、何やら儀式めいた呪文をぶつぶつ、と唱えている。

「それ必要ずらか?」

「普通にやって大丈夫だよ」

 花丸ちゃんとルビィちゃんに茶化され、「うっさいわい!」と毒づきながらも今度は黙って意識を集中させている。でも結果は「駄目ね」だった。

「うんともすんとも言わないわ。本当に生きているのか怪しいもの――」

 最後の方は、梨子ちゃんに口を塞がれた。わたしを気遣ってのことなのだろうけど、正直なところ心臓が動いていても、こんな状態で生きている、と言えるのかは微妙なところだ。

「きっと、またお話できますわ」

 とダイヤちゃんが言ってくれた。「そうだよ」と曜ちゃんも同意を示し、

「ここから出してあげたら、きっと前と同じ翔一さんに会えるよ」

「そしたら、また変な料理作られちゃうかも」

 梨子ちゃんの言葉に皆が笑い出す。ただでさえ食糧は少ないのに、新作料理で消費されたらたまったものじゃない。

 ただ、葛木代表と草加さんは、険しい表情で翔一くんを見上げていた。草加さんは言う。

「まさか本当にいたとはな。アンノウンを率いた神とやらを倒し、今の世界をもたらした元凶が」

 その言葉に、皆の顔から笑みが消えた。「ちょっと」と果南ちゃんが食ってかかるのだけど、草加さんの弁は止まらない。

「アンノウンを滅ぼしさえしなければ、アギトは怪物から人間を護る存在として受け入れられたかもしれない。余計なことをしてくれたものだ」

 「余計なこと、て」と梨子ちゃんが言う。

「翔一さんがどんな想いで戦ってきたのか、あなたは分かってるんですか?」

「知った事か。逆に奴は、自分の戦いが後の時代に何をもたらしていたのか、分かっていたのかな? アンノウンが消えれば、人間が次の標的をアギトへ変える事くらい想像できなかったのかな?」

 その言葉に反論できる面々は、ここにはいなかった。結果論でしかないけど、翔一くん達の戦いが今の世界をもたらしてしまった事は事実なのだから。

 人間とアギトが殺し合うなんて、彼は考えもしなかっただろう。彼は信じていたはず。人間とアギトは共に歩いて行ける、て。わたしと翔一くんが一緒に食卓を囲んでいたように。

 そんな翔一くんは何を思いながら、警察の攻撃をされるがまま受け続けたのだろうか。何を思いながら、こうして閉じ込められる日々を過ごしてきたのか。

「そんな仮定の話をしたところでどうにもならん」

 葛木代表が言うと、草加さんは素直に口を閉じる。コロニーを統べる存在として葛木代表は、どうしても持て余してしまう翔一くんを一瞥して告げた。

「まずは目下、このアギトの処遇についてだ。是非とも我々と共に戦って欲しいが、交渉しようにも目覚めてくれなければならない」

 「その前に代表」と草加さんが切り出した。

「片付けるべき問題があります」

「何だ?」

 にやり、と草加さんが口端を歪めた。今度は何を言い出すかと思ったけど、草加さんはおもむろにわたしの腕を掴み捻り上げる。「痛いっ」というわたしや「ちょ、何を!」というダイヤちゃんの声も無視して、冷たく言い放つ。

「何故、ここに人間がいるのかな?」

 瞬間、わたしの背筋を冷たい戦慄が駆け抜けた。

「おかしいと思っていたんだよ。君からはアギトの力を感じない。微塵もね」

 わたしは沈黙するしかなかった。草加さんの憎悪に満ちた眼差しは皆のほうへ移り、

「君たちは知っていたのかな?」

 駄目、とわたしは視線で皆に訴えた。いつかこうなることは予想に難くなかったし、その時のことを話し合ったことはなかっけど皆はどこかで分かっていたはずだ。ここは、わたしひとりに全てを被せるべきだ、と。

「ええ、知っていました」

 でも梨子ちゃんは、そうはしてくれなかった。

「千歌ちゃんはシャゼリア☆キッスの大切な仲間です。アギトとか人間とか関係ありません」

 はっきりと言う梨子ちゃんに続き曜ちゃんも、

「現に、今まで千歌ちゃんはわたし達と一緒に戦ってきたじゃないですか。力がないから、て爪弾きにする理由なんて――」

 ばちん、という耳障りな音と共に、曜ちゃんは倒れた。頬を朱く腫らした彼女を他の皆ですぐさま支える。平手を振り切った草加さんは蔑みを隠すことなく告げる。

「アイドルの真似事やヒーローごっこも大概にしろ。俺たちの戦いは人間を滅ぼさない限りは終わらないんだ」

 「来い」と草加さんは無造作にわたしの腕を引いて歩き始める。元より抵抗するつもりもなかったわたしは素直に彼と歩幅を合わせる。振り向いた先には皆が一様に悲し気な目をわたしに向けていて、わたしはそんな皆に「ごめんね」とだけ唇を動かし精一杯の懺悔をする。

 皆の更に奥にいる翔一くんは、依然として沈黙を続けていた。

 

 






 次回予告

 神話の時代より受け継がれし因果が終わる!
 運命に翻弄された少女たちと戦士の放つ最後の一撃が天を貫くうううううっ‼

 次回 シャゼリア☆キッス 24.7最終回
 さらばアギト! 君はもう、あの輝きをみたか‼


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最終話 さらばアギト! 君はもう、あの輝きをみたか‼ 

 

   1

 

 乱暴に掘られたコンクリートの壁に預けた背中が痛み始め、わたしは大きく伸びをする。床に横になろうにも、床も壁と似たようなもので凸凹だ。放浪生活の間に固い岩場での野宿も慣れていたけど、流石に何も敷いていないコンクリートで寝ようものなら起きた時はまともに動けないだろう。

 天井はない。外へ繋がる唯一の天窓――といっても何も被ってはいないけど――見えるのはこの牢屋を作った部屋の天井で、素材はここの床や壁と同じだけど平坦になめされたコンクリート。

 ただ床に超能力で穴を掘っただけの粗末な牢屋だけど、深さは目測で5メートルは越えている。壁は乱暴に掘られたから凸凹と評したけど、手や足を掛けられそうな突起は目ざとく削り取られているからクライミングで登るのも不可能。アギトに覚醒した人なら空でも飛んで簡単に脱出できるだろう。作りは粗末でも、ただの人間はこんな場所からも脱出できないのだ。

 この穴に放り込まれてどれくらい時間が経ったのだろう。屋内だから日射しもなく時間の感覚がない。食事としてレーションを投げ込まれたのは2回だから、まだ半日程度なのだろうか。

 流石に空腹になってきたから、すぐに手を付けなかったレーションの袋を開けた。ブロック形をしたビスケットの原料は、確か大豆だっただろうか。作戦行動で数日間行軍した際にはお世話になったけど、保存性と栄養価を優先させた結果として犠牲になった味はできれば避けたい。

 ひと口齧った味はやはりというべきか、段ボールを食べたみたいだ。皆と一緒の時はこの不味さに愚痴を零し合っていられたけど、ひとりでの食事がこんなに虚しいとは。ビスケット生地だから、食べると口の中が乾く。投げた人の顔は見えなかったけど、気を利かせて水のペットボトルもセットで投げてほしかった。

 ――ほら千歌ちゃん、あんまりがっつかなくて大丈夫だよ――

 不意に、懐かしい翔一くんの声が脳裏によぎった。まだ平和だった頃、練習後に食べる晩ご飯が美味しくてお茶碗をかき込んでいたら、翔一くんにそんな事を言われた。こんな追憶は久しぶりだ。内浦を飛び出してからひもじい食事ばかりだったから、できるだけ思い出さないようにしてきたのに。

 すぐ近くに翔一くんがいるのに、わたしの今の食事は味気ないレーションだけ。何もかもが変わっちゃったんだな、と思うと涙が溢れそうになってきて、目元を乱暴に拭う。

「千歌ちゃん!」

 上から声が降りてくる。見上げると、曜ちゃんが顔を覗かせていた。

「曜ちゃん?」

「そのままじ、としてて」

 え、と口を半開きにした次の瞬間、身体が引っ張られるように上昇した。数メートルの高さを一気に上り、地上の床を拙い足取りで踏むと穴を囲むように皆が立っていた。

 「何で……?」と訊くわたしに梨子ちゃんが「助けに来たに決まってるでしょ」と返した。

「さっき千歌の処遇が決まって――」

 そう切り出す果南ちゃんは一度口を険しく結んだけど、意を決したように開いて続きを告げた。

「処刑することになった、て」

 ショックだったけど、それを噛みしめる間もなく鞠莉ちゃんが続ける。

「だから皆で決めたの。チカっちを連れて逃げよう、て」

「逃げる、て皆も?」

 わたしの問いにダイヤちゃんは「当然ですわ」と即答する。わたしはかぶりを振りながら、

「駄目だよ。皆まで逃げる必要ないじゃん」

 「あーもう何言ってんのよ!」と善子ちゃんに肩を掴まれる。

「これは皆で決めたことなの! 天界条例に乗っ取ったものなのよ!」

 後半は意味が分からなかったけど、何となく言いたいことは分かった。

「最初に逃げよう、て言ったのは善子ちゃんずら」

「千歌ちゃんも一緒じゃないと駄目なの」

 花丸ちゃんとルビィちゃんが言う。「でも、そしたら皆まで――」と声を震わせるわたしを梨子ちゃんが抱きしめた。

「シャゼリア☆キッスは――Aqoursは千歌ちゃんが集めた9人なんだもん。千歌ちゃんがいないと、わたし達が戦う意味なんて無いわ」

「チカっちを殺しちゃうような人たちは、もうお仲間じゃありマセーン!」

 おどけてみせる鞠莉ちゃんに苦笑しつつ、果南ちゃんが言った。

「一緒にここから出よう、千歌。またあちこち行って、いつもお腹空かせるような生活に逆戻りしちゃうけどね」

 どうやらわたしは泣いていたらしい。頬に暖かいものが伝っていて、それに気付いて拭っても拭っても止まる気配がない。梨子ちゃんが手拭いで拭いてくれたけど、それでも止まるのにもうしばらく掛かった。

「ねえ、ひとつだけお願いしても良いかな?」

「翔一さんも一緒に、ですわね?」

 わたしの我儘を見透かしていたダイヤちゃんが得意げに言った。

 

 既に時刻は日付が変わる頃になっていた。敵襲に備えてコロニーは常時警備が配置されているけど、深夜帯はそう多くない。その隙を突いて、皆は牢屋の見張りを無力化させてわたしを助け出してくれたらしい。

 翔一くんの居場所はダンスホールから移されていないらしい。ショッピングモールだった頃に使われていたのと同じ名で呼んでいるけど、今となっては大勢でのブリーフィングに使われる集会場だ。正面入口は警備員がいるだろうから、裏の職員用通路を通って侵入した。

 かつてはイベントに使われていた名残からか、壁や柱には瀟洒なレリーフや柄の入った壁紙が貼られている。今はもう整備なんてろくにされていないから汚れたり塗装が剥がれたりしている。わたし達も元はスクールアイドルなのだからこの場でライブを、と思った時期もあったけど、まだライブを楽しむほど人々の心に余裕はなかったからとうとう1度も開催できなかった。

 こんな寂れた場所の隅に、翔一くんは打ち捨てられたかのように鎮座していた。浜辺で彼を見つけた日を思い出す。家の目の前にある三津海水浴場でぽつん、と青年が横たわっていた。他には何もない。そこが世界の全てのような、どこか神秘性すら感じられたものだ。世界にはあの海岸しかなく、青年はそんな小さな世界に迷い込んだ別の世界の住人。

 当然、そんな事はなかった。青年はわたしと同じ世界で沢木哲也という名前で産まれ、紆余曲折あって津上翔一という名前で生きることになったに過ぎない。

「来ると思っていたよ」

 その冷たい声は決して大きくはなかったけど、音の反響も考慮されたホールの設計かよく聞こえた。翔一くんを覆う樹脂の陰から草加さんが出てくる。

「で、ここに何の用かな?」

 「どいて下さい」とわたしは毅然と言った。

「翔一くんも一緒に行きます」

 ふん、と草加さんは鼻を鳴らし、

「好きにすれば良いさ。戦えないアギトなんてお荷物だからね」

 予想外の返答にわたし達は拍子抜けした。でも草加さんは腰に出現させたベルトから剣を引き抜いて逆手に構える。皆も咄嗟に腰にベルトを出現させるけど、草加さんの剣はわたし達ではなく、すぐ背後にいる翔一くんに突き立てられた。

 剣は翔一くんの腹、丁度ベルトのバックル部分に刺さっている。アギトの中で最もエネルギーが集中する部位を貫いたからか、耳を突くほどの高周波が拡散し、振動が翔一くんを閉じ込めていた樹脂を砕き散らす。

 ようやく解放された翔一くんは膝を折り、変身が解けることもなく黄金の鎧が色彩を失っていく。草加さんが無造作に剣を抜いた。石のような灰色に脱色された身体は貫かれた腹の辺りだけが光を放っていて、その光を草加さんは掴み取る。

 最後の力を失ったかのように、翔一くんは倒れた。草加さんは哄笑する。耳の奥をまさぐるような、耳障りな笑い声に思わずわたしは顔をしかめた。

「遂に……遂に手に入れた! 最強のアギトの力を!」

 草加さんは掌に収まる光の球――翔一くんのアギトの力を口へと運び、一気に飲み込む。彼の腹に光るベルトがその輝きを一層増して、彼の身体をアギトへと変える。

「千歌ちゃん下がって!」

 梨子ちゃんに手を引かれ、強引に皆の後ろへと移動させられる。

「変身!」

 皆はアギトに変身した。一斉に向かう8人を、草加さんは余裕げに迎え討とうと剣を構える。ダイヤちゃんの発火能力で全身から炎が噴き出したが、意に介さないばかりかすぐに鎮火されてしまう。果南ちゃんの鉄拳が突き出されるも、彼の身体は臆すことなく立ち続けている。追撃に鞠莉ちゃんの蹴りが顔面に跳んだけど、それでも重心を崩さないまま草加さんは剣を一閃した。肉迫していたふたりは寸でのところで避けたけど、剣尖が生じさせる風圧が刃になって十分な距離を取っていたルビィちゃんの肩に創傷を与える。

 善子ちゃんの喉から放たれた声が槍になって飛んでいくが、いとも簡単に剣で斬り落とされる。花丸ちゃんが周囲の瓦礫を念力で集めて、高速で射出した。撒き散らされた粉塵が草加さんの姿を隠し、更に梨子ちゃんと曜ちゃんも天井を崩して叩き落とす。

 過剰なほどの攻撃だけど、安心はせずどう出るか皆で土煙が晴れるのを待つ。

「後ろだ」

 背後からの声に咄嗟に振り向いたと同時、剣先がルビィちゃんの胸を貫いた。無造作に抜かれると彼女の身体が崩れ落ち、「ルビィ!」とダイヤちゃんが妹に駆け寄って身体を抱き起こす。

「まだ力が溢れてくるぞ」

 酔いしれるように草加さんは言った。「どうして……」とルビィちゃんの傷口を手で圧迫しながら、ダイヤちゃんは問う。

「どうしてこんな事を……。ただ力のままに壊すのが、あなたの望みなのですか?」

「当然だ。お前たちこそ、何故そんな人間を護ろうとする? お前たちも力のない連中から追いやられたんだろう」

 裡に滾る憎悪に応えるように、草加さんの筋肉が隆起していく。

「何が化け物だ。何が悪魔だ。俺たちだって、望んでこんな力を手に入れたわけじゃない。変われない、変わろうともしない人間どもの身勝手さに踊らされた。奴らは自分達と異なる者を害虫扱いするだけ。そんな生き物は滅びてしまえばいい」

 隆起する筋肉が、草加さんの鎧を内側から砕いた。身体の変化は止まることを知らず、全身を覆う筋線維がホールの天井に届くほどにまで膨れ上がる。巨人の頭は体躯の割には極端なほど小さく、遠目からだと首無しに見えてしまう。

 何よりもわたし達を震え上がらせるのは、全身から放たれる瘴気だ。元は翔一くんの中にあった力とは思えないほど禍々しい。まるで草加さんの裡に渦巻く黒い感情に染まってしまったかのように、それは翔一くんのアギトが持っていた神秘性とはかけ離れていた。

 アギト――いや、怪物の腹がうねり、こねられた粘土のようにねじられ無数の触手を織り成す。まるでタコやイカの足のような触手は巨体に見合わない速さで伸びて、槍のような鋭い先端で皆の胸を貫いた。

 一斉に皆の胸に空いた穴と、口から鮮血が零れていく。「皆!」と叫ぶわたしのもとにも触手は伸びてきたけど、それは何故かわたしを貫きはせず粘液で照りつく表面をうねらせている。

 巨人の首に乗っかっている顔が口元を歪めて笑っていた。

「千歌、よく見ておけ。俺がこの世界の人間を殺していく様をな。お前は何もできないまま人間が滅んでいくのを見るんだ。そして、生き残った最後のひとりとして絶望しきったお前をこの俺が殺してやる」

 怪物は笑い続ける。世界中にこの声が響いていくような錯覚を覚え、わたしは膝を着いた。このまま舌を噛み千切ってしまいたい。わたしの意図を悟ってか、細い触手が開きかけたわたしの口に突っ込んで中を塞いだ。太い方の触手が身体に巻き付いてわたしを持ち上げる。

 何もできない。皆が戦って倒れているのに、わたしは喋ることも動くこともできない。

 少し顧みれば、わたしの人生はいつだってそうだった。

 どんな困難でもきっと何とかなる、なんて根拠のない期待をして。自分に力がないから、別の誰かに頼りっぱなしで。

 そうやって他人頼りなのに気付かず努力していると勘違いして、何の結果も伴わなかったのを意地悪な神様に責任を擦り付けてきた。

 それは、高校生の頃に散々突き付けられてきたはずなのに。

 口から触手が離れた。もはや思考もろくにできないわたしは、誰にも届かない裡からの、ごくありきたりな欲動を絞り出した。

「………助けて」

 視界の隅で朧げな光が灯った。ひとつ、ふたつと光は増えていき、それぞれが強まっていく。その光は、もう動かない皆の身体から放たれていた。

 ――翔一さん。千歌ちゃんを……、千歌ちゃんを助けて――

 梨子ちゃんの声が聞こえた気がした。皆の身体が光の粒になっていく。崩れた砂糖菓子みたいになった骸が天の川みたいに宙を舞って、8人分の色の違う川が折り重なって虹のオーロラが闇を照らす。その虹の流れ着く先は、灰色になった翔一くんの身体だった。光を取り込む翔一くんも光を灯し、徐々に色を取り戻していく。でもそれは、元の黄金じゃなかった。桜色に、グリーンに、ブルーに、ホワイトに、レッドに、イエローに、ヴァイオレットに、ピンクにと色が重なり合っていく。

 異なる色同士は決して反発し合うことはなく、完璧な調和を果たしている。流れ込む全てを受け入れた器となって、そのアギトは立ち上がる。

 完全調和の虹(レインボーフォーム)を発現させたアギトが手をかざすと、その掌から虹色の光が刃となってわたしを掴んでいた触手を切断する。触手がクッションになったお陰で落下しても痛みはなかったが、急速に溶けていく組織が気色悪かった。

「貴様ああ!」

 怪物は咆哮した。生やした触手全てを束ねてアギトへと伸ばすが、寸前で半透明の障壁が現れて阻止される。その障壁もまた虹を帯びていて、まるで石鹸水の膜のように様々な色がたゆたっている。

 拮抗していた触手の全てが弾けた。粘液を撒き散らしながら飛散し、ダルマのようになった怪物は新たな組織を生産しようと肉体をうねらせる。

 アギトは深く腰を落とした。その身体は輝きをより増して、目の前に額から伸びる角に似た紋章を浮かび上がらせる。

「この、死にぞこないがあああああああっ‼」

 怪物の中から、肉を突き破って草加さんの変身したアギトが飛び出してきた。虹色のアギトは跳躍し、紋章に触れた右足が炎を纏う。草加さんもキックを繰り出し、両者の右足が宙でぶつかり合う。

 力の拮抗はすぐに崩れた。槍のように鋭く放たれた虹色のキックが草加さんの身体を貫き、更にその背後に佇む怪物の肉体を穿つ。

 草加さんの身体の内側から光が漏れていく。注ぎ込まれた力が禍々しいものを崩壊させ、崩れていく身体が光の粒子になって本来あるべきだったアギトの虹色へと組み込まれていく。

 光が広がっていく。どこまでも、止めどなく。世界を浄化していくような暖かな光が視界を塗り潰すけど、恐怖はない。ゆりかごに抱きかかえられているかのような心地良さが眠気を誘い、わたしの意識を薄れさせていく。

 

 

   2

 

 夢を視ていた。

 とても優しい夢だ。人間とアギトの戦いなんて起こらず、わたしは内浦で新しくできたレストランで働いている。わたしとシェフふたりだけで切り盛りしている小さなお店だけど、地域の人たちの憩いの場として、時には観光に来たお客さんからは穴場として愛されている。料理もさながら、ホールにも頻繁に顔を出すシェフの人柄があってこそだろう。

 そのシェフは、翔一くんだった。以前とまるで変わらない笑顔を周囲に振り撒いて、作る料理は時に独創的でお客さんを驚かせる。

 連絡船で淡島まで遊びに行くと、船着き場からすぐのダイビングショップで果南ちゃんと葦原さんが出迎えてくれる。わたしと翔一くんが新作料理の試作を手土産に持っていって、果南ちゃん達の方はお返しとして干物を渡してくる。

 十千万に帰ると、休暇にくつろぎに来てくれた氷川さんと他愛もない話に華を咲かせている。やがて夜も更けていって、翌日になると朝早くから翔一くんはお店に向かう。わたしは朝市で食材を買ってからお店に行って、開店前にふたりでおしゃべりしながら料理の仕込みをしていく。予約の時間になるとひとり、またひとりとAqoursの皆がお店にやって来る。皆すっかり大人になっているけど中身は高校生の頃のままで、変わっているようで変わっていない、なんて皆で談笑しつつ翔一くんの振る舞う料理に舌鼓を打ち語り合う。

 昔の思い出話。

 最近あった出来事。

 そして、未来の希望。

 何て優しくて残酷な夢だろう。こんな未来が、わたし達に訪れる可能性があったのだろうか。あるとしたのなら、それはどこが分岐点だったのだろう。何をどうしたら、この優しい未来へと往けたのだろう。

 何もかも過ぎてしまった。全部が遅すぎた。今わたしに残されているのは、頬に感じる彼の温もりしかない。

 目が覚めると、懐かしいバイクの駆動音と振動を感じ取った。意識はなくとも、前に居る彼の腰にわたしの腕はしっかりと回っていたらしい。ヘルメットを被っていなかったけど、恐怖はなかった。視界いっぱいにある大きな背中に身を委ねる。数年前と何も変わらない。服越しに伝わる体温も匂いも。

 このままふたりでどこかへ行ってしまいたい。できれば静かな場所がいい。誰もいなくて、誰も傷付くことのない場所へ。ただ傍に、この温もりがあればそれでいい。

 どれほどの距離を走ったのかは分からないけど、翔一くんはバイクを停めた。ひどく疲れたせいか身体が鉛のように重かったわたしはシートから降りることもできず、彼に抱きかかえてもらわなければならなかった。重い目蓋を持ち上げると、周囲には壊れた街の風景が広がっている。戦闘に巻き込まれてしまった廃墟だろう。もしくは、わたし達のコロニーが破壊してしまった街なのかもしれないが。

 翔一くんはわたしを近くの崩れかけた壁に背を預けさせた。わたしは怖くなった。彼の手を掴もうにも、腕が上がらない。声も出せない。全身の力が、全て心臓を動かすことだけに費やされているみたい。

 わたしの頭に、翔一くんの大きな手が優しく乗せられる。

「千歌ちゃん、生きて」

 そう告げる翔一くんの顔も声も、あの頃のままだった。嫌だ、という叫びをわたしの喉は絞り出せず、ただ裡の中に閉じ込められていく。

 もうどこにも行かないで。

 わたしを置いて行かないでよ。

 翔一くんは微笑むと、バイクに跨ってエンジンを吹かし始める。

「止まれ! 動くな‼」

 どこからか、怒号が響いた。翔一くんは眩い光と共にアギトへ変身すると、バイクを猛スピードで発進させる。フルオートの銃声が轟くけど弾丸は超常の戦士へ届くことはなく、光の尾を残しその影は小さくなりやがて見えなくなる。

 ふたりの野戦服を着た男性が、わたしの前に腰を降ろした。ひとりがピストル型の機器を額に当てて、ぴぴ、と電子音が鳴ると画面を一瞥し耳元のインカムに呼びかける。

「こちらブラボー3、要救助者を発見。アギト因子は検出されず」

 もうひとりの男性が「大丈夫ですか? もう安心ですよ」と呼びかけてくるが、わたしは返事をすることも頷くこともできなかった。報告はまだ続いていた。

「要救助者は若い女性1名。意識が混濁している。至急医療班を寄越してくれ。また発見地点にてアギトを発見したが逃走。追跡は不可能と判断。繰り返す――」

 わたしの視界に、1枚のピンク色の影がよぎった。眼球だけを動かして視線で追いかけると、それは桜の花弁だった。見れば、視界のあちこちで花弁が舞っている。季節は春だったんだ。ずっと戦いばかりで、季節の移り変わりなんて意識したことなかった。

 ああ、何て皮肉なんだろう。失って、手遅れになって初めて気付いてしまうなんて。

 スクールアイドルを始めたあの頃、わたしの裡は未来への期待に満ちていて、足掻きながらも前進する道程が、過ごした時間の全てが光を纏っていた。

 そうだ、それが輝きだったんだ。

 探していたわたしの、わたし達の輝きだったんだ――

 

 

   3

 

 全てを喪失して、ひとり世界に投げ出されてから10年が経過した。この10年の間にそれなりに世界は変わっていったから、この手記が終わりに近付いてきたところで簡単ながら経緯を綴ろうと思う。

 まず人間とアギトとの戦いだが、結果として人間側の勝利に終わった。わたし達がシャゼリア☆キッスとして活動していた頃には既に多くのコロニーが制圧されていて、殲滅も時間の問題だったという。

 G3-Mildの配備が世界中に普及したところで、人間側の進撃が始まりアギト達はことごとく蹂躙されていった。メディアは連日どこのコロニーが壊滅させられ、何人のアギトが「処分」されたかを報道するのに躍起になり、民衆はその度に安堵または歓喜した。

 やがて、程なくしてアギト達の暮らす全てのコロニーが壊滅し、そこの住人達は裁判に掛けられることなく殺されていった。報道したどのメディアは殺害という単語を使わず「処分」と表記していた。まるで、悪い病気に罹った家畜みたいな印象を受けた。まだ隠れているアギトもいるかもしれない、と疑心暗鬼な人々が魔女狩りのように執念深くアギトを見つけ出して殺していったのだが、その件数も年々減少しここ2年間は1度もそういった事件は起こっていない。因みにアギトの疑いをかけられ惨殺された一家が実は人間だったという事件も起こったのだが、それもアギトなる存在が生まれてしまった故の悲劇として世間は片付けてしまった。

 世界のアギトを一掃しても、人々の恐怖は晴れることはなかった。何せ、アギトとは人間が進化したとされる存在なのだ。人類という種が存在する限り、またアギトという種が蘇る可能性がある。それを防ぐための研究は急ピッチで進められた。各国の政府は国家予算をアギト対策へと優先的に割り振り、その成果を出した。

 政府の公表した情報によると、アギトに覚醒する人間は遺伝子の染色体に軽度の異常があるらしい。障害や疾患と呼ぶほどでもない、ごく微小な異常らしいのだが、調査した「検体」の全てにそれが発見されたという。

 その発見を経て政府は、妊娠した女性に対し胎児の遺伝子検査を義務化した。遺伝子の異常――アギト遺伝子と名付けられたものが確認された場合は可能ならば中絶。不可能ならば出産と同時に「処分」するという旨の法案が国会議員の殆どの賛成票を得て可決された。それは日本だけでなく国際連合に加盟している全ての国家が同じ法を作り、間もなく施行されていった。

 せっかく身籠った我が子をアギトとして処分を迫られた母親たちは気の毒としか言いようがない。でも、怪物を世に解き放ってしまうことへの恐怖が、彼女たちに「処分」という方法を納得させた。子に悲惨な人生を送らせたくない彼女たちにとっては、その選択が子にしてあげられる唯一の愛情だったのかもしれない。

 アギトという存在が産まれる可能性を絶ってからようやく、人間はかつての平穏を取り戻しつつあった。まだ政治的な混乱や経済的な打撃を受けている国は多いし、日本も長く恐慌状態が続いている。問題は依然として山積みだ。でもそれはお偉い方に頑張ってもらうしかない。ただの人間ひとりが変えられるほど世界が単純でないことは、散々思い知らされているから。

 わたしはというと、保護された人間の集落でしばらく過ごして、情勢が落ち着いてから故郷の内浦に戻ることができた。内浦もアギトとの戦闘に巻き込まれ破壊されていた。避難所として浦の星が使用されたのだけど、暴徒化したアギト達によって校舎が破壊され、避難していた住民たちは犠牲になった。犠牲者の中にはお母さんと志満姉と美渡姉もいて、生き残った人たちから遅れた訃報を聞いたわたしはその場で泣き崩れた。戦闘ではわたしの家族だけでなく、他の皆の家族も犠牲になっていた。確か鞠莉ちゃんと善子ちゃんの家族は無事だったみたいだけど、逃げるように遠くの地に移ったから連絡は取れていない。もし会えて、家族がまだ娘の帰りを待ちわびているのなら真実を伝えておきたい。それが、生き残ったわたしの責任だから。

 でもひとつだけ、嬉しい出来事があった。内浦に戻ったわたしのもとへ、スラム化した集落で飼われていた子犬が駆け寄ってきた。その子は混迷の時期を生き抜いた、しいたけの孫犬だった。既に亡くなっていたしいたけとその子供に託されたような気がしてならず、わたしは孫犬を「しめじ」と名付け引き取ることを決めた。

 今、わたしは十千万の跡地に小さな家を建ててしめじとふたりで暮らしている。ようやく復興を始めた内浦はかつてのように学校や水族館もない寂れた港町になったけど、海も空も太陽も変わらずある。漁船が海でたくさんの魚を獲って来て、山ではまたミカンの木が植えられ実りの季節を迎えるのもそう遠くはないはずだ。

 平穏な日々が続いているけど、時折奇妙なニュースが世間を騒がせていた。それはアギトとみられる高エネルギーが観測されるけど、何も起こることなくすぐに消滅するという。場所は散発的で発生時期も規則性がないという事が、余計に民衆の不安を煽っていた。

 アギトはまだ滅んではいない。またかつてのような混沌が繰り返されるのだろうか。一時的に不安感情が沸騰し、しばらくすれば落ち着きを見せて、やがて忘れた頃にまた正体不明のアギトは現れる。そして民衆はまた不安に踊らされる。そんな事が繰り返されていくうち、他の大多数と共にわたしも最初は怖がっていたのだが、やがてそのアギトが何者であるか大体の見当がつき始めていた。忘れた頃に、存在を示すように現れる理由も。

 その夜、わたしは家のテラスで食後のお茶を飲んでいた。内浦湾が一望できるテラスは新しい家でもお気に入りのスポットで、そこで星空を見るのが日課になっていた。いくら街の風景が変わっても、この星空は何百年、何千年、何億年が経っても変わらず存在し続ける。そう思うと少しだけ気持ちが安らぐのだ。

 いつものように見上げているその日の夜空は雲一つなかった。煌めく星々の合間を、黄金の光が尾を引きながら駆け抜けていくのが見えた。彗星かと思ったけど、彗星のような冷たさを感じさせない、暖かな光だった。やがて黄金に随伴するように、色の異なる無数の光が同じように尾を引いて現れた。

 サクラピンク

 エメラルドグリーン

 レッド

 ライトブルー

 ホワイト

 イエロー

 ヴァイオレット

 ピンク

 8色の光が黄金と溶け合い、オーロラのような虹色の燐光を振り撒いた。初めて見る現象に恐怖したのか、足元で震えるしめじの頭をわたしはそ、と撫でてあげた。

 あれは恐れるものじゃない。きっとメッセージなのだ。あの光の中で、確かに皆は存在している。もはやわたしの手が届かない領域へ至った皆が「元気だよ」と伝えに来たのだ、と確信できた。根拠はというと、確かに聞こえたからだ。あの虹のオーロラから、あの頃と変わらない、懐かしい皆と愛しい彼の笑い声が。

 何となく、わたしはもうあの光を見ることはできないんだな、と悟った。この世界にはもうアギトの居場所がない。遥かな次元へ飛び経つ翼を得た皆は、途方もない旅に出るのだろう。

 オーロラを撒くひとつの虹色になった光は、遠くの夜空に溶けようとしている。わたしは微笑を浮かべた顔を涙で濡らしながら、愛する人々の放つ光を手向(たむ)けの言葉と共に見送った。

「あなたも、生きて」

 

 

 

『シャゼリア☆キッス 24.7』 ―完―

 






 あとがき

 こんにちは、hirotaniです。
 突然の異説の開始に驚かれた方も多いかと思います。エイプリルフールネタとしてシャゼリア☆キッスを題材とした短編として以前から構想していたのですが、まさか1ヵ月も要するとは自分でも予想していませんでした。

 サブタイトルのハイテンションに反して中身がかなりハードでシリアスにしましたが、これは最初ギャグに全振りするつもりが挫折してシリアスへ転向した名残でございます。
 シリアス路線でいくにあたって元ネタとしたのは、『アギト』の後期OPである『仮面ライダーAGITO 24.7 version』です。OPの映像で演出されていた3人のライダー達の描写を元に構想しました。ギルスの運命に敗北し力尽きる涼、G3ユニットのバッジを捨て小沢さんに銃を向ける誠、そして真魚のもとから去る翔一。バイクの疾走シーンではアギトと別の道を行くG3-X、アギトと道が交わるギルス、しかし最後に走っているのはアギトひとりだけ。この映像は単なる演出ではなく物語がバッドエンドを迎えたライダー達の末路を示唆するもの、という話を聞き、その考察を今回シャゼリア☆キッスとクロスオーバーさせる運びとなりました。

 バッドエンド=人間対アギトという構成はすぐに決まったのですが、いざ書いてみたら『劇場版555』とモロ被りしてしまいました。別のシナリオも考えつかなそうなので、もう開き直ってゲストキャラとして草加雅人を登場させる事にしました。彼は書いていて結構楽しいキャラクターでした。公式が気に入るのも納得です(笑)。

 急ピッチで書いた短編なので色々と粗もありキャラクターの設定も少し無理がありますが、これはエイプリルフールネタなのであまり気にしないでください。『アギト』はハッピーエンドです。いっそのこと最後は千歌ちゃんの夢オチで終わらす案もあったくらいです。流石にそれはムードぶち壊しなのでやめました(笑)。

 さて、これからの予定ですがこの異説をもって『feat.アギト』は本当の完結となります。次回作の構想のためしばらく作品の投稿が止まりますが、何とか年内には発表したいと思いますのでお待ち頂ければ幸いです。因みに次回作は『ラブライブ!』でも『仮面ライダー』でもありません。正直ネタ切れです。


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