阿知賀暮らし ~強がり少女と深切少年~ (えればす)
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一話 別れと出会い

 

 まだ少しはだ寒さを感じる、三月二十三日。

 

 父さんが、死んだ。

 

「十七時十五分、死亡を確認させていただきました。力及ばず、申し訳ありませんでした」

 

 さっきまで父さんの顔をのぞきこんでいた先生が、悲しそうにそう言った。

 そして、こちらに小さく頭を下げると、かんごしの人たちと一緒に、静かに病室を出ていく。

 部屋の中には、おれと母さん、ベッドに横たわり眠る父さんだけが残された。

 おれはまだ先生の言ったことがよくわからず、父さんの顔を見ようとベッドに近づく。

 まどから入ってくる夕日に照らされている父さんの顔は、なぜだか幸せそうに見えた。それこそ、ただ眠っているだけで、今にも起き上がってくれるんじゃないかと思うくらいに。

 

 

 一番古い思い出をふり返ってみると、そこにあるのは病院のベッドの上で笑っている父さんのすがただった。

 

 小学生のおれは、いつからか覚えていないくらいずっと入院していた父さんに、少しだけ不満を持っていた。友達がしてもらっていたようにキャッチボールだってやってみたかったし、いっしょにテレビゲームでも遊びたかった。

 でも、それらを口にしたことはなかった。

 なぜなら、そんなことはたいした問題じゃなかったからだ。

 ふだんの生活に関していえば、それ以外に特に不満は持っていなかったし、なによりその気持ち以上に、ただただ早く病気を治してほしかった。

 おれと母さんがお見まいにくるたびに、体を無理矢理起こしてこちらを出むかえてくれた父さん。見ているだけでとても辛そうな治りょうのなかでも、変わらずに明るい笑顔をおれたちに向けていてくれた父さん。

 そんな父さんを見ていて、ずっとそう願っていた。

 

 

 だから、今目の前にいる動かない父さんを見て、自分の気持ちがどこに向かって進もうとしているのか、わからなかった。

 あんなにがんばっていた父さんが死んでしまってくやしいのか。それとも、何も父親らしいことをしてもらえないまま死んでいった父さんに、おこっているのか。ただただ、悲しいのか。

 そんなごちゃまぜになった気持ちをいだきながらも、父さんが死んでしまったことにまだ実感が持てていなかった心は、まるでどこにおりればいいのかわからなくなってしまったタンポポのわた毛のように、フワフワとちゅうに浮かんでいた。

 

 それが何なのかわからないまま、ベッドに向けていた顔を上げ、となりで静かに泣いている母さんを見上げる。

 いつも明るく元気な母さん。そんな母さんのいつもからは想ぞうできないそのすがたに、九才の自分も何かを受けとった。

 子供ながらに美人だと感じていたその顔はくしゃくしゃにつぶれ、目からは大つぶの涙があふれだし、口からは小さく、「どうして」という言葉がこぼれている。

 今にもくずれ落ちてしまいそうなほど体は小さくふるえ、こしの近くまであるきれいな黒くて長い髪も、それに合わせてゆらゆらとゆれている。

 

 母さんが自分の様子を見ているおれに気づいた。

 心配をかけるわけにはいかないと思ったのだろうか。

 いたそうなほど固くにぎっていたこぶしがゆっくりと開き、おれの頭をやさしくなでてくれる。そのまま静かにしゃがみ目線を合わせた母さんは、そっと体をだきしめてくれた。

 でも、その体はさっき見えた通り小きざみにふるえていて、だきしめ返すだけでこわれてしまいそうなくらい、弱々しく感じた。

 そんないつもとちがう母さんにどうしてあげたらいいのかわからず、行き場のなくなった顔をちょうど正面にあったまどの外に向ける。

 

 一階の病室のまどからは、赤くそまったサクラの枝が、風を受けてゆらゆら揺れている。その中を、小さくうすいピンク色の花びらが、ひらひらと泳いでいる。

 ふいに、その散っていく桜と父さんの死が重なり、急に心がざわざわした。

 おさえきれなくなった気持ちが、目からポトリとこぼれ落ちてくる。

 

 

 ああ、そうか……。

 もう、父さんには一生会えないんだ……。

 

 とつぜん、そうわかった。

 その時、父さんが言っていたある言葉を思い出した。

 

 

「なあ、良太。母さんには内緒で、お前に言っておきたいことがあるんだ」

 いつもとは違う、ちょっと怖い顔を俺に向ける父さん。

「ど、どうしたの? 急に」

 その父さんの顔にびっくりして、少し慌てて聞き返す。

「いいから、聞いてくれ」

 父さんが静かに言った。

「もし……。もし、俺がいなくなったら……。母さんのこと頼んだぞ」

 

 

 なんでだろう。

 その言葉が、自分の体全体にズシリと重くのしかかる。

 自分でもどうしたらいいのかわからない感情が、心の内から次々にあふれ出てくる。

 おれは急に怖くなり、だきしめ続けてくれていた母さんの体をギュッとだき返し、静かに泣いた。

 

 その時、自分が少しだけ大人になったような……。もう子供のままではいられないような。そんな気持ちになった。

 

 

 

 父さんが死んでから、一ヶ月。

 身内だけの、といっても、父さんのじいちゃんとばあちゃんは、俺が生まれてすぐに死んでしまったらしくて、俺と母さん、母さんのばあちゃんだけが参加した小さなお葬式も終わり、慌ただしさも一段落着いたころ。

 俺はただただ心配でしょうがなかった。

 お葬式の時には気付かなかったが、今の母さんは、誰の目から見ても無理をしているのが明らかだったからだ。

 ぎこちない笑顔を作り、小学校へ行く俺を見送ってくれる母さんの顔は、とてもじゃないが見ていられなかった。

 

 そんな生活を続けていたなかで、父さんとの約束を何度も思い返し、自分のない頭を振り絞って考えた。

 今の俺に出来ることはなんだろう。

 考え抜いた結果、少しでも母さんの力になろうと、今自分にできる最良の選択であろう、家の手伝いを最優先に行動しよう決めた。

 それ自体は、今までも多少はやっていたが、その考え方の変化を機に本格的に取りくみはじめた。

 友達からの遊びの誘いも全て断り、料理や洗濯、掃除なんかの家事全般の手伝いを中心に、自分に出来ることは何でもする。

 俺が母さんの支えにならなきゃ、という必死な思いと、ただただ母さんに元気になってほしい。その一心で、がむしゃらに家事に打ち込んだ。

 

 特別器用ではなかったが、それでも気持ちが勝ったのだろう。一週間でなんとかある程度のことはできるようになっていた。

 人並みに家事の才能があったのかどうかはわからないけれど、作業自体を苦痛に思わなかったことだけが、不幸中の幸いだった。

 

 

 

 そんな生活が三週間ほど続いた。

 しかし、小さな努力も虚しく、日に日に元気を失っていく母さんを俺はただ見ていることしかできなかった。

 そんな母さんの様子に周りも心配してくれたのだろう。

 勤めていたパート先から一週間の休みを貰ったそうだ。

 

 その日も、普段通りに夕食の買い物を済ませて学校から帰ってきた俺は、「ただいま」と家の玄関の扉を開く。

 普段の母さんは、パートで帰りが遅くなることが多く、夕食の準備はいまや大切な仕事の一つになっていた。

 靴を脱ぎ、リビングへと続く廊下を歩く。扉を開くと、「おかえり」と小さく笑いながら母さんが出迎えてくれた。

 あらためて、「ただいま」と明るく笑いながら言葉を返し、そのまま冷蔵庫へと向かう。スーパーの買物袋の中身をなおしながら、横目でチラッと母さんの様子をうかがう。

 こちらに気づいた母さんが、今にも泣き出してしまいそうなくらい弱々しい笑顔を向けてくれた。

 

 その背中に見える窓からは、一面血に染まったかのように不気味な夕焼けが、まるでこれからの自分たちの未来を暗示しているかのように、鈍く輝いていた。

 俺は、その光景に身震いする。

 

 ああ……。また暗く恐ろしい夜がやってくる。

 

 

 時間は、そろそろ夜の十時を回ろうとしていた。

 俺は、さっきの夕焼けが頭にちらつき、眠ることができないでいた。明日は土曜日で、学校が休みなことだけが幸いだ。

 母さんは、疲れてしまっているのだろう。

 俺のひざを枕にして、布団もかぶらないまま静かに寝息を立てて眠っていた。

 風邪をひいてしまってはいけないと、母さんの頭をひざから落とさないよう注意しながら、近くにあったブランケットに手を伸ばし、それをそっと体にかける。

 小さくため息をつき、眠る母さんをじっと見つめる。

 このまま母さんも目を覚まさなかったらどうしよう。

 浮かんできた恐ろしい不安を振り払うように、頭を左右に大きく振る。

 その考えから目を背けるように、すっかり生活感が薄らいでしまっている部屋を見渡した。

 そこには、いつもよりも寂しさを感じる空間だけが、静かに広がっていた。

 目線を左に動かすと、小さな仏壇をとらえる。その隣にあるサイドテーブルには、以前父さんの病室で撮った家族の写真が飾られている。

 瞳に写る父さんと母さんと俺は、楽しそうに笑っていた。

 

 俺はゆっくりと目を閉じ、過去の優しい記憶の世界に思いを馳せる。

 

 

 少しだけ個性的な味と見た目をしている手料理。何度言ってもシワを適当にしか伸ばさず、それが残ったまま干されていた洗濯物。「どうせアイロンかけるしこれでいいのよ」と笑いながら話し、あまり細かい事は気にしない大雑把な性格。なのに、他人に不快感を全く感じさせない不思議な愛嬌を持っている人。

 そんな母さんに、照れ隠しでぶつくさ文句を言いながらも、内心喜んで家事を手伝う俺。

 ……そうそう。そんな性格なのに、何故か掃除だけはびっくりするくらい丁寧だったっけ。

 理由を聞いたら、「昔付き合ってたころ、お父さんに褒めてもらったことがあって、それが嬉しかったからかなあ」なんて笑顔で言ってたなあ。

 

 病室の中で、母さんがいかに素晴らしい女性かを熱く語っていた父さん。こちらが聞いてもいない二人の出会いまで、熱心に喋ってたっけなあ……。

 そんな話に耳を傾けながら、ちょっと嬉しくなって笑う俺。

 隣では、母さんが顔を真っ赤に染めながらも、同じように嬉しそうに笑っている。

 

 

 少し前には当たり前にあったそんな光景が、なにもかも懐かしく感じられた。

 なにより、いつもそこにあった明るく輝いていた母さんの優しい笑い声が、あの日からパタリと途絶えてしまっている。

 俺は、自分自身の無力さに打ちひしがれた。

 

 

 

 そんな状態の娘と孫を見ていられなかったのだろう。

 ちょくちょく俺たちの様子を気にしてくれていたばあちゃんが、一緒に暮らそうって言ってくれたのは、俺にとっても、もちろん母さんにとっても、本当に良かったと思うんだ。

 ばあちゃんは、自分がやっている喫茶店を臨時休業して俺たちの住むアパートに来てくれて、引っ越しの準備や、小学校の転校の手続きなんかをテキパキと片付けてくれた。

 俺は、ばあちゃんが来てくれたことに心から安堵しつつ、その準備を一緒になって手伝った。

 その忙しさだけが、自分の中にある不安を一時、忘れさせてくれていた。

 

 

 

 引っ越しを一週間後に控えた夜。

 眠っていた俺は、突然の尿意に目を覚ました。起き抜けの習慣からか、枕元にある目覚まし時計に目をやると、時計の針が十二時を回ろうとしているところだった。

 寝起きのぼんやりとした視界に多少ふらつきながらも布団から体を起こし、トイレに向かおうと自分の部屋の扉を開く。

 廊下は当然薄暗い……かとおもったが、リビングの方からうっすらと光が漏れているのが見えた。

 こんな時間に妙だな。まあ、トイレに行ったあと見に行くか。

 少し不思議に思いながらも、そちらとは反対側にあるトイレに向かい歩みを進めようと、一歩を廊下に踏み出す。

 すると、そのリビングの方から、小さく話す声が聞こえてきた。

 明かりのこともあり気になったので、音をたてないように静かに方向転換し、ゆっくりとした動きでリビングのほうへ向かう。

 近づくにつれて、微かにしか聞こえなかった声が、はっきりと聞き取れるようになってきた。

 そのまま歩き、リビングへと続く扉に手をかける。

 

「だからね、あんたがいつまでも落ち込んでたら、良太もどうしていいのか分からないままよ。それなのに、あんなに一生懸命頑張ってるじゃない。それを見て、何も感じない亜希じゃないでしょう?」

 

 優しく諭すようなばあちゃんの声が聞こえた。

 この会話は、俺が聞いてしまってもいいのか……?

 そう思い、かけた手を一瞬躊躇したが、意を決してそのままゆっくりとドアノブを回し、リビングへの扉を開く。

 部屋には、母さんと、それを優しく抱きしめていたばあちゃんがいた。

 母さんはこちらに背を向けていたので、その表情まではわからなかったが、口からこぼれる嗚咽が聞こえ、おそらく泣いているのだろう、ということだけはわかった。

 先に俺を見つけたばあちゃんは、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの優しい表情に戻った。そして、ゆっくりと母さんから離れ、その肩を小さくトントンと叩き、俺の方を指差す。

 それに気づいた母さんが、下を向けていた視線を動かし、そのままこちらに顔を向ける。俺を見つけた母さんは、同じように一瞬驚いた顔をしたが、すぐに涙を拭うと、優しく声をかけてくれた。

 拭った涙は止まることなく、その綺麗な顔を濡らしつづけている。

 

「ご、ごめんね。起こしちゃった?」

「け、喧嘩してるの?」

 泣いていた母さんを見て、恐る恐るそう尋ね返す。

「大丈夫よ」

 ばあちゃんが、包み込むような微笑みで言葉を返してくれた。

「今ね、良太のお母さん。少しだけ子供に戻っていたのよ」

「子供に?」

「そう。だから、明日からはきっと、良太の知っているいつものお母さんに戻っているはずよ」

 

 一瞬の沈黙を挟み、母さんが話しはじめた。

 

「良太、今まで本当に……。本当にごめんね」

 母さんが、拭うことをやめた涙をこぼしながら、震える声でそう謝る。

「母さん、明日からはもう、大丈夫だからね」

 

 そう言って小さく微笑み、ゆっくりと近づいてきた母さんは、俺の体を優しく抱きしめてくれた。

 驚きに目を瞬かせながら、今の母さんの顔を、頭の中で瞬間的に何度も思い返す。

 その微笑みは確かに、懐かしい母さんの、あのひだまりのような笑顔そのものだった。俺が今一番欲しかった……。ただただ取り戻したかったもの。

 急に体から力が抜ける。

 トイレのことはすでに頭になかった。ようやくいつもの母さんが戻ってきてくれたと、心の底から安堵した。

 そして、夜中だということも構わずに、大声で泣いた。

 

 

 翌日。

 昨日のことがまだ信じられないでいた俺は、起きた時の母さんの笑顔を見て、あらためて、夢じゃなかったんだと再確認する事ができた。

 母さんは、何か吹っ切れたようなすっきりとした表情をしていた。その顔は、ほんの少しずつだけど、いつもの元気を取り戻し始めているように見えた。

 きっとばあちゃんのおかげだ。

 そのことに心から感謝した。そして、早く母さんに頼ってもらえるような一人前の男になろう。

 心の中で一人、そう誓った。

 

 ズキッ……。

 

 その時、一瞬胸の痛みを感じた。俺はそれに疑問を抱きながらも深くは考えず、その痛みをそっと、心の奥底に沈めた。

 

 

 

 そろそろ本格的な梅雨が始まってきた六月二十四日。

 今日は引っ越しの当日だ。幸いにも、目の前には雲一つない青空が広がっている。絶好の引っ越し日和だ。

 クラスメイトとのお別れは、前々日に済ませていた。みんな気のいい奴ばかりで、別れの寂しさが、少しだけ心に残っていた。

 隣では、母さんが同じように空を見上げながらポツリとこぼす。

 

「いい職場に恵まれたなあ」

 

 きっと母さんのほうの別れも清々しいものだったのだろう、と想像する。

 そんな母さんに声をかける。

 

「次の仕事場もきっと良いところだよ」

「そうね。向こうに仕事があってホッとしたわ」

 母さんがニコッと笑って言葉を返してくれる。

「いい縁があって良かったね」

「全くね」

 

 そう言って腕を組みながら、うんうん、と頷く母さん。そんな母さんを見て、相変わらず子供っぽいなあ、と心の中で思った、引っ越し前のひとときだった。

 少し日付を戻し、話は二日前に遡る。

 

 

 学校でのお別れ会を終えて帰宅した俺は、リビングで雑誌のようなものを見比べている母さんを見つけた。

 隣では、ばあちゃんが難しい顔で携帯電話とにらめっこしているのが見える。

 母さんはこっちに気づいたのか、「あ、おかえりー」と笑いながらひらひらと手を振り、出迎えてくれた。

 

「何してるの?」

 気になったので尋ねてみる。

「あ、これ? 仕事探ししてたんだよー」

「仕事探し?」

「そうそう。そろそろ向こうでの勤め先を探しとかないとって思ってね。まあおばあちゃんには、もう少し時間を置いたらどう? って言われたんだけど、いつまでも甘えてるわけにはいかないからね」

 そう言って可愛らしくウインクすると、また雑誌に目を落とす。

 最後の言葉に少し心配になったが、せっかくのやる気を削ぐのも悪いかなと思い直し、紅茶でもいれてやるか、と台所へ向かう。

 ばあちゃんの分と合わせて二人分のティーカップを用意し、そこに紅茶のティーバッグを入れる。

 電気ケトルに水道水を流し入れ、所定の場所へセットする。コポコポと小気味いい音が、辺りに響きはじめた。

 そんな準備をしていると、部屋中に、妙に耳心地のよいメロディーが鳴り響く。

 それに反応し、横目でちらっと音の出所を見る。

 母さんは、相変わらず真剣な眼差しで雑誌を眺めている。どうやら音の正体は、ばあちゃんが握っていた携帯電話だったらしい。

 画面に映る相手の名前を確認しているようで、それを見て嬉しそうに表情を変える。

 

「もしもし。ええ、いつもお世話になってるわね……。いえいえ、こちらこそ。おかげさまでもうすぐ再開できそうだから、その時はまたよろしくね」

 

 会話から察するに、相手はお店の常連さんのようだ。

 

「まあ、本当に? ありがとうございます……。ええ、ええ。亜希にもそう伝えるわ」

 そう言って、お辞儀をしながら受け答えをするばあちゃん。

 電話を終え、喜んだ表情で話し始める。

 

「亜希。あんたの幼なじみの露子ちゃんからだったわ」

「露子!? 本当に? そういえばしばらく会ってなかったなあ」

「その露子ちゃんがね、今ちょうど人を探してたらしくて……」

 

 自分なりに聞こえてくる会話を整理すると、母さんの幼なじみがやっている旅館の人手が足りていないらしく、いつでも歓迎するとのこと。

 そんな考察をしながらいれ終わった紅茶を、母さんたちのところへ持っていく。

 母さんは角砂糖一つ、ばあちゃんは甘めが好きなので角砂糖を三つ入れるのを忘れずに。

 二人は、「ありがとね」と言って、それを受けとってくれる。

 紅茶をすすりながら、願ったり叶ったりといった顔の母さんは、その提案を二つ返事で了承していた。

 

 

 それが二日前のこと。

 そういえば、四歳くらいの時だったのかなあ。母さんと一緒にばあちゃんの家にいった時に、一度その幼なじみの女の人に会ったことがあったっけ。

 母さんとタイプは違うけど、負けず劣らず美人な人だったような覚えがある。

 確か去年の三月くらいに、女の子が生まれたんだ、って、母さんがはしゃぎながら言ってたっけ。

 あれももう、一年以上前のことになるんだなあ……。

 そういえば、あそこはこれで二人姉妹になったのかな? どっちとも会ったことはないけど……。

 母さんもお世話になることだし、向こうでの生活が落ち着いたら、一度挨拶にいったほうがいいかもしれないなあ。

 

 あれ? そういえば、あの時はなんで母さん、実家に帰ったんだっけ。

 頭の中には、何故か母さんの泣いている顔が浮かんで、そして消えていった。

 

 そんなことを考えながら、家財道具などの大きな荷物を積んだ引っ越し業者のトラックを見送る。

 無事に見届けた母さんと俺は、ばあちゃんが運転席に座るワンボックスの車へと乗り込んだ。そのままばあちゃんの運転で、阿知賀の家へと向かう。

 

 

 その車中。 運転をするばあちゃんを助手席から横目に見ながら、何気ない会話をしていた俺たち。

 後部座席では、きっと前日の準備の疲れが出たのだろう。母さんがスヤスヤと寝息を立てていた。

 転校先の小学校の事や、阿知賀という場所について、当たり障りのない会話を繰り返していくばあちゃんと俺。そんな会話のなかで、ばあちゃんが一言、ポツリとこぼした。

 

「お母さんにとって、弘樹さん。良太のお父さんは、あんたと同じくらい、何にも変えがたい存在だったから……ね。だから、勘弁してあげてね」

 

 ばあちゃんのこの言葉が、心に残った。

 

 

 阿知賀に着いたころには、すでに日が傾きはじめていた。

 母さんとばあちゃんは、近くのスーパーに夜ご飯の買い物に出かけている。

 一人留守番の俺は、荷物を少し整理したあとにある部屋へと向かう。じいちゃんに挨拶するためだ。

 タタミがしかれた質素な和室。目の前にいるじいちゃんに挨拶をする。

 

「じいちゃん、久しぶりだね。といっても、あんまり覚えてなくて申し訳ないんだけど」

 

 無言のまま、壁に掛けられた写真の中でにこやかに笑うじいちゃん。

 

「これから、お世話になります」

 

 静かに一礼し写真と反対にある仏壇に向き直ると、香炉に線香を一本たてる。少し前にも嗅いだことのある、その独特の香りが鼻をつく。

 ……胸が締め付けられるような切ない匂いだ。

 それに火を付けることはせずに、側にあったりん棒に手を伸ばす。

 りんの淵を軽く二回叩く。チーン、チーンと乾いた音が、空間に広がって、消えていく。

 静かに両手を合わせた俺は、心の中で念じる。

 

 母さんとばあちゃんを見守っていてください。それと、そっちに行った父さんと仲良くしてあげてね。

 

 

 

 まだ梅雨の蒸し暑さが体に纏わり付いてくる七月一日。

 転校先は、吉野山小学校という、町の中心から少しはずれた山あいに建つ、二階建ての小さな学校だった。

 そんな小学校の二階にある、四年一組と札が掲げられた教室の中で、俺は少し緊張しながら挨拶をする。

 

「はじめまして。常盤良太といいます。広島から引っ越してきました。よろしくおねがいします」

 

 少し引きつっている気がする笑顔をごまかすように、軽くお辞儀をして自己紹介をする。

 顔を上げ教室を見渡す。人数を目で数えてみたが、生徒の数は十五人と少ない。

 しかも見た感じ、女子生徒が圧倒的に多く、男子生徒は四人しかいない。

 そういえば、ここにくるまでの廊下でも見たけれど、クラスも学年ごとに一つずつしかなくて驚いた。

 前の学校は、一学年、六クラスあったからなあ。

 阿知賀が田舎ということもあり、転校生も滅多に来ないのだろうか。

 教室の中の生徒たちは、物珍しげな目でこちらを眺めながら、それでもパチパチと、大きな拍手で迎えてくれた。 

 しかし、女の子という生き物はどうにも内緒話が好きみたいだ。多くの女子生徒は、隣の子と何やらヒソヒソ話したりしながら、こちらの様子をうかがっているのがわかった。

 まあ、あまり気にしてもしょうがない。転校生っていうのは、嫌でも注目を浴びるからな、と自分を納得させる。

 

 その後、先生から席を案内されて、ゆっくりとそこへ歩いていく。

 教室の一番後ろ。廊下とは反対にある窓側の席。

 歩きながら、窓の外にチラッと目をやる。

 そこから見えたのは、広いグラウンドと手作り感が満載のちょっとした遊具。その向こうには、太陽の光を反射した大きな河をはさんで雄大にそびえ立つ山々が、綺麗な緑色に一面を染めている。

 そんな景色を横目に見つつ席につくと、早速隣に座っていた女の子が話しかけてきた。

 

「え……っと。わ、私、赤土晴絵っていうんだ。よろしくね」

 

 声に若干の緊張を含んだ様子でこちらに声をかけてきてくれた女の子。

 

 少し黒みがかった赤い髪色、全体的に見ればショートだが、一際目に付く特徴的なウェーブがかかった立体的な髪と、少し幼さを感じるぱっつん前髪。

 吸い込まれてしまいそうな程綺麗な深紅の瞳と、美少女といっても差し支えないその可愛らしい顔立ち。

 ボーダーのTシャツにハーフパンツというシンプルな服装ながら、不思議とそれがよく似合っていた。

 

 気のせいだろうか。

 こちらに向けるその表情は、心なしか嬉しそうに見える。

 

 俺は、そんな女の子に少し照れながら、「こちらこそ」と言葉を返す。

 そのあとは、頬杖をつきながら静かに先生の話に耳を傾ける。少しだけ憂鬱な心から目をそらすように、窓から外を眺めた。

 見上げれば、そんな気持ちとは真逆の突き抜けるような青い空。空中には、ふわふわのわた雲たちがのんびりと気持ちよさそうにただよっている。

 それを見て、少しだけ心がなぐさめられたような気がした。

 

 

 



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二話 優しい時間

 

 

 

 朝のホームルームも終わり、先生が一時間目の授業の開始時刻を告げて、教室から出ていく。

 授業が始まるまで二十分と、少し長めの休憩時間がとられていた。

 先生が出て行ったその直後。

 俺は、クラス中から怒涛の質問責めにあった。

 前の学校のことや、住んでいた町の様子。好きな物や嫌いな物など。その中でも特に大きな学校の話は珍しかったのか、みんな目を丸くしながら聞きいってくれていた。

 一時間目の授業まで残り十分と迫ったころ。

 ようやくみんな満足してくれたのか、各々の席へと戻っていく。

 なんとか全ての質問に答え終わった俺は、気付かれないように小さくため息をつく。

 

「いやいや、大人気ですなー」

 

 突然、後ろから聞こえた声。

 驚いて振り向くと、立っている赤土さんともう一人。薄いピンク色の長い髪を一つ結びにしたこれまた可愛らしい女の子が、こっちをニヤニヤしながら見ていた。

 水玉のシャツにスカートという、シンプルだがその装いがよく似合っている女の子。

 声をかけてきたのは、どうやらその水玉シャツの女の子のようだ。

 

「えーと……。君は?」

「あ、ごめんごめん。自己紹介が遅れたねー。私は新子望。この子の友達よ」

 そう言って、赤土さんの肩にポン、と両手を乗せる。

「しかし……。ふむふむ……」

 そうつぶやきながら、指をあご先にあてがい、俺の顔をまじまじと覗き込む新子さん。

「えーと……。俺の顔に何かついてますか?」

「いやいやー。中々にカッコイイ顔してるねー、と思って」

「あ、ありがとうございます」

 その言葉に少し照れる。新子さんは、そのまま話を続けた。

「しっかし、君! 常盤君だっけ?」

 新子さんが、さっきとはうってかわって、少し呆れたような顔をする。

「同級生に対して敬語とは、ちょっと堅すぎじゃない? しかも、さん付けとは」

「なーんか、壁を感じちゃうなー」

 手を口に当てクスクス笑いながら、赤土さんもそれにのっかる。

 

 敬語はともかく、まさかさん付けにまで突っ込まれるとは。

 というか、自分たちが君付けしていることに関しては、問題ないのだろうか……。

 

「えーと……。じゃあ、どうすれば?」

 そんな疑問を抱えつつ、いきなりのことに少し困惑しながら言葉を返す。

「まっ、郷に入っては郷に従えってことでね。今から常盤君には、クラスのみんなの名前は呼び捨てで呼んでもらいまーす!」

 新子さんが、高らかに宣言する。途端にクラス中から賛成の声が上がる。

「そのかわり、私たちも常盤君のことは、良太って呼ばせてもらうね!」

 赤土さんが笑いながら話す。

「……断る事は」

「できませーん!」

 クラス中の声が揃った。

 呆気に取られ、反応が遅れる。

 

 少し……。いや、大分びっくりしているが。

 これが、田舎の距離感っていうやつなのかな。

 

 

 

 でも……。正直嬉しいな。

 

 

 

 クラスになじめるかなあ、とか、無視されたらどうしようかなあとか、考えなかったわけじゃないし。

 ただえさえ、こちらに来てからは調子が良くなかった上に、自分でも情けなるくらい気持ちがふわふわしていた。

 だから、なるべく無難な対応をしないと。そう思っていた。

 

 クラスのみんなは、そんな俺の不安を一気にぶち壊してくれた。

 

「……わかった! それじゃあ俺も、遠慮せずにいくからな!」

 嬉しさを隠しきれなままに、そう宣言する。

「ふふふ。どんと来いよ!」

 晴絵が笑いながら、自分の胸をトンッと叩く。

 

「あらためて、よろしくね! 良太!」

 

 梅雨の蒸し暑さを吹き飛ばすような清々しい風が、心の中を吹き抜けた。

 

 

 時間は過ぎ、お昼がやってきた。

 この学校は前と違って弁当制なので、自分で用意してきたものをかばんから取りだし、机の上に置く。

 今日のおかずは、定番のだし巻き卵にタコウインナー。オクラとモロヘイヤのおひたしに、プチトマトが二つ。メインは鶏むね肉の照りマヨ焼き。

 だし巻き卵とおひたしは、朝食の残りを少しもらってきたものだ。

 しかし、我ながら上手くなったもんだ、と感心する。

 この一週間で、俺の料理の腕は劇的に上昇していた。

 なぜなら、母さんとは違い料理上手なばあちゃんが、教えてくれるようになったからだ。

 その教えは厳しいながらもすごく丁寧でわかりやすく、指導してくれる人がいるだけでこんなにも変わるもんなんだなあ、とびっくりした。

 さすが、お店を一人で切り盛りしているだけのことはある。

 ……本当に、何故母さんは料理下手になってしまったんだろう。

 それはひとまず置いておき。

 そのついでかどうかはわからないが、他の人に対する礼儀も叩き込まれている真っ最中だ。

 ばあちゃんの職業的には、当たり前のことなのかもしれないけど。

 

「お客さん相手に商売なんてやってるもんだから、どうしても口が出てしまうのよ。ごめんなさいね」

 

 そう笑いながら話してたなあ。

 そんなことを考えながら、いそいそと弁当の包みを開こうとする。

 

「あ、良太。一緒に食べよ?」

 準備に気づいたのか、隣に座る晴絵がそう言ってくれる。

「そうだなー。じゃあせっかくだし、そのお誘い受けようかな」

「はいはーい。私も当然一緒だよー」

 

 片手に椅子を持ちながら合流した望も、持っていた自分の弁当を俺たちの机に置く。

 本心をいえば他の男子と一緒に食べたかったところだが、どうやらみんなそれぞれモテるらしく、この時間だけは教室内で食べるグループが決まっているようだった。こればっかりは仕方がないかな。

 そんなわけで、なんだかんだ仲良くなっていたこの二人と食べることになったのだが。

 

「麻雀?」

 卵焼きを口に運んでいた手を止めて、出てきた意外な話題に少し驚く。

「そう! 私と望ね、麻雀やってるの!」

 その部分を強調するように繰り返し、晴絵が言う。

「結構面白いよー……、って、何その顔?」

「いや、何か意外だなーと思って。麻雀って、確か部屋の中で頭使ってやるもんだろ? 二人とも、どっちかっていうと外で元気に遊び回るタイプに見えてたから」

「ちょっとちょっと! 今何気に失礼な発言してるよー」

 笑いながらすかさず望がツッコむ。

「ごめんごめん」

 

 自分で言っておきながら、軽い冗談が思わず口をついて出てしまったことに驚いた。

 そんなことが出来たのも、この二人の壁のなさのおかげだろう。

 

「オホン。そ、それでね……、よければ良太も一緒にやらないかなー、なんて思ったり……」

「最初に晴絵を誘ったあと、クラスのみんなにも同じように声をかけたんだけど、見事に撃沈しちゃってねー」

 

 一つ咳ばらいをした後、少し照れたような顔で晴絵がポツリとこぼす。望は、たはは、と苦笑いしてほっぺたをかいていた。

 そういえば、今世の中では麻雀が世界的な人気を誇っているって、何かのニュースでやってるのを見たことがあったっけ。今度大きな大会が開かれる、なんてことも言っていたような気がする。

 しかし、麻雀か……。

 少し頭を悩ませたが、特に断る理由もなかった俺は、その提案を受けることにした。

 

「ルールとかよくわかんないけど、俺でよかったらやるよ」

「ほんとに!」

 

 食い気味に声を重ねた二人は、キラキラした笑顔を見せながら机をガタッと勢いよく揺らし立ち上がる。そして、そのままぐっと顔と体をこっちに寄せてくる。

 その圧に少し驚き、のけ反りながら、「お、おう」と言葉を返す。

 

「ありがとう! 良太!」

「いやー、嬉しいよ!」

 そう話す二人の顔は、心から喜んでいるように見受けられる。

「早速だけど、今日の放課後時間ある?」

「そうそう! 紹介したい人がいてさ!」

 二人が少し早口でまくしたてる。

「紹介したい人?」

「そ。私と望の先生!」

 

 

 そんなわけで、放課後。

 少し古びた真っ黒いランドセルを背負った俺は、晴絵と望に連れられてその場所へと向かっていた。二人に案内されながら行く道は、俺が今日学校へ登校してきた時に歩いてきた道だった。

 今朝と同じように、辺りには蝉の鳴き声が激しく響いている。

 まだ蒸し暑さは感じるが、空を見上げれば今日は朝から変わらずのいい天気だ。もうすぐ夏らしいカラッとした暑さに変わっていくのかな。

 目線を歩く先に移すと、なんだか見覚えのある赤い鳥居が小さく見えている。

 そんな道中。

 二人とのんびり歩きながら、会話に花を咲かせていた。

 

「へえー。じゃあ、来月にその全国大会があるのか」

「そそ。晴絵はこの辺りじゃ敵無しで、文句なしの優勝だったからねえ」

 得意げな顔で、望が自慢する。

 望の話によると、晴絵はまだ四年生ながら、麻雀の地区大会に優勝したらしい。当然、出場者の中には上級生もいたそうが、それも関係なく圧勝だったそうだ。その結果、来月に東京である全国大会に出場するとのこと。

 

「すごいな! 晴絵!」

「そそそ、そんなことないよ! 望と調べた事前の情報収集が上手くはまっただけだって」

 

 ぶんぶんと手を顔の前で振り、真っ赤になって答える晴絵。いや、でも四年生で全国大会なんて本当にすごい。

 そんな話をしながら歩いていると。

 

「あっ! 良太、ここだよ!」

 

 晴絵が立ち止まりこちらに向き直ると、バシッと指を指す。

 その指先にある建物へと目を向ける。……あれ?

 二人に案内された俺は、見覚えのある旅館の目の前に立っていた。

 

「えーと、ここは?」

「あ、びっくりした? 何を隠そう、この旅館の女将さんが、私たちの先生なんだよ!」

 晴絵が、してやったりといった顔で胸を張り、自慢げにそう続ける。

「な、なるほど……」

 思わず口をぽかんと開けて驚く。

「まあ、先生って言っても、私たちまだ半年くらいしか教わってないんだけどね」

 俺の反応が面白かったのか、クスクスと笑いながら望が情報を補完してくれる。

 

 しかし、奇妙な偶然もあるもんだなあ、と驚いた。

 時間は少し遡り、三日前。

 

 

 新しい学校への登校を控えていた俺は、ほんの少しずつではあるが、阿知賀での生活に慣れはじめていた。そんな平日の昼過ぎのこと。

 

 お昼を食べ終わったあと、喫茶店の二階にあるリビングで、ちゃぶ台にほおづえをつきながらボケーッとテレビを眺めていた。

 こっちに来てから店が開いている間は、邪魔にならないようにこうやって日がな一日中二階で過ごしている。やらなければいけないこともあるはずなのだが、まだあまり外出するという気分にはなれていなかった。

 こっちに来てから、少し体が重い。

 ニュースでは、日本の男女の割合が四対六になっただの、もうすぐ麻雀の大きな大会が開かれるなど、様々な情報が流れていく。

 そんなところに、ばあちゃんが一階のお店から声をかけてきた。

 

「良太。悪いんだけど、届け物頼まれてくれないかしらー? 場所はここから遠くないから」

「……んー。わかったー」

 

 そう頼まれた俺は少し悩んだが、特にやることもないし近所の散策もついでにできていいかなと思い、それを引き受けることにした。のそのそと一階へ下りて行き、階段から直接つながっている調理場兼カウンターへ向かう。

 店内には、階上にも微かに聞こえていた心が穏やかになるようなボサノヴァの曲が、静かに流れている。息を吸い込むと、漂うコーヒーのほろ苦い香りが体の中を駆け巡った。

 カウンターでお客さんと談笑していたばあちゃんが、手に小さな箱を持っている。どうやらそれが届け物のようで、声をかけたあと内容を確認する。

 中には、可愛らしいイチゴのショートケーキが五つ入っている。

 店で出しているものよりも、少しだけ小さいように思えた。

 肝心の届け先を尋ねると、母さんが働いている旅館の女将さんへだった。

 いつか挨拶にいかないととは思っていたから、これはいい機会だ。

 

「ごめんね。なまものだから早く届けないといけなかったんだけど、なかなか時間が作れなくて」

 

 申し訳なさそうな顔で、ばあちゃんが謝る。

 お店を見渡すと、なるほど。平日の昼過ぎだというのに、二十席ほどある店内はそのほとんどがお客さんで埋まっていた。このお店は近所の常連さんが多いらしく、特に平日の午後は主婦のみなさんの井戸端会議の場として人気のようだ。

 俺たちのせいで一ヶ月くらい店を閉めていたにもかかわらず、この盛況っぷりだ。本当に愛されている店なのだと実感する。

 シーリングファンライトが優雅に回る落ち着いた雰囲気の漂う店内は、確かに、いつまでも離れがたい空気を醸し出していた。

 

 喫茶四暗。それがこの店の名前だ。

 最初に聞いたときは、変な名前だなあと思った。名付け親はばあちゃんだそうだ。なんでも、麻雀の好きな役? から名前をもらったらしい。

 元々はじいちゃんと二人でやっていた店だったらしいけど、じいちゃんが死んでからは、ばあちゃんが一人で切り盛りしている。このお店を始めてから、もう二十年は経つそうだ。

 こっちに来てすぐの時に、こんなに忙しくて一人で大丈夫なのかと尋ねてみたけど、「一日のお客さんの数はだいたい決まっているから、一人でも回していけるのよ」ってにこやかに話してたっけなあ。

 

「気にしなくていいよー。俺もちょうどヒマしてたから」

 そう言って、ばあちゃんから荷物を受けとる。

「あら、おつかい? 偉いわねえ」

「あんなに小さかった子が、すっかり成長しちゃって」

「ふふふ。気をつけていってらっしゃい」

「はーい。いってきます」

 

 昔の俺のことを覚えてくれている常連のおばさまたちのそんな声を後ろに聞きながら、店の扉を開き外へと出ようとする。扉の上につけられたベルの音が、軽やかな音色を奏でた。大好きな音だ。

 

「あ、ちょっと待って良太。ほらこれ」

 

 見送りにきてくれたばあちゃんが、後ろから声をかけてくる。その手には、少し大きめの傘が握られていた。

 

「雨降りそうだから、一応ね」

「ありがとう」

 お礼を言ってそれを受けとる。

「じゃあ、気をつけてね」

「いってきまーす」

 

 扉を閉め、空を見上げてみる。確かに、全体が重苦しい灰色に包まれていて、今にも一雨来そうだ。

 さすがばあちゃん、気が利くなあ。

 そんなことを思いながら、チラリと目線を店に戻す。

 店の窓越しに、ばあちゃんがこちらに向かって手を振っているのが見えた。

 俺もそれに答え、手を振り返す。

 しっかり届けないといけないな、と腑抜けている心に気合いを入れ直した。のだが……。

 

「あっづーい……」

 

 外は、今日の天候のせいもあるのだろう。梅雨特有のじめじめとした蒸し暑さが広がり、歩く度にそれが体全体に纏わり付いて来るのを感じた。

 若干気が滅入りながらも、受けとったケーキを崩さないように気をつけて歩きながら、目的の場所へと向かう。

 自宅前の道を、駅とは逆方向に五分ほど歩くと、大きな赤い鳥居が見えてくる。その少し手前に目的の建物があった。

 着いた先は、ちょっと古い感じのする建物。

 そんな印象はあるが、それが逆に独特の雰囲気を醸しだし、その歴史の重みを感じさせる。

 看板には達筆な字で、松実館、と書いてあるのがわかった。

 

「えーと。確か受付の人に言えば伝わるようになってるんだっけ」

 

 一度来たことがあるらしいとはいえ、それはまだ四歳だったころの話だ。その当時の記憶はほとんどない。

 少し緊張しながら、恐る恐る入口から中へと入る。

 クーラーが効いているのだろう。広めのロビーの中は、歩いて火照った体に心地良い空間が広がっていた。その清涼感に人心地ついたあと、キョロキョロと辺りを見回し目的の場所を探す。

 その空間内には、売店や、くつろぐためのものなのか大きなソファーなどが見て取れる。

 ロビー内には、薄紫色の着物を着た二人の女の人以外はとくに誰もいないみたいだ。

 どうやら、その女性二人がいる場所が受付のようだ。少しホッとして、そちらに歩みを進める。

 そして、カウンターに立っている、綺麗な着物を着たお姉さんたちに話しかけた。

 

「こんにちは。織部美智の使いで来たのですが」

 緊張からか、少し上擦った声でばあちゃんの名前を出す。

「はい、こんにちは。って、ああ! もしかして君が良太くん?」

「はい、そうです」

「お母さんから話は聞いてたけど……やーん、可愛いわねー」

 受付のお姉さんは、隣のお姉さんと一緒にきゃっきゃと騒いでいる。

「あ、ありがとうございます」

 少し照れながら言葉を返す。

「今お母さん休憩中だけど、呼んでこようか?」

 気を使ってくれたのか、お姉さんが尋ねる。

「大丈夫です。これを届けにきただけなんで」

 そう言って、手に持った箱を見せる。

「うん。わかったわ。おつかいの件については、女将さんから話は聞いてるから。女将さん、今は母屋のほうにいてね。良太くんが来たら案内するよう言われてたの」

「そうだったんですね。では、案内お願いします」

 ぺこりと頭を下げる。

「ふふふ。じゃあ、ついてきてね」

 

 そう言うと、カウンターから出てきたお姉さんは、前に立ってゆっくりとした歩調で歩き出す。

 それに遅れないようにと、いつもよりも歩く歩幅を少しだけ大きくして、後ろからついていく。

 どうやら一旦外に出て、旅館の裏手にある別の建物へと向かうようだ。

 その道中。

 

「実はね、良太くんのお母さんは、私とさっきの子の高校の先輩なの」

「そ、そうだったんですか!」

 驚いて思わず大きな声が出た。

「そうなのよー。当時は本当にお世話になってねー。だから、一緒に働けるのが嬉しいの」

 そう話しながらウインクするお姉さん。

 なんだか母さんが褒められたようで、嬉しいな。

 

 そんな他愛のない会話を楽しんでいたら、すぐ目の前に立派な一軒家が見えてきた。

 年季の入った重厚感を感じる木造の二階建ての建物。

 お姉さんから聞いた話だと、この建物はここの旅館のご主人が自宅兼事務所として利用していて、結構従業員の人の出入りも結構あるそうだ。慣れた手つきで引き戸をガラガラと開けて、こちらにこいこいっと手招きするお姉さん。

 

「ここからは靴を脱いで上がってね。あ、傘はそこね」

 

 そう言って、流れるような動作でお姉さんが近くの棚からスリッパを取りだし、それを床に置いてくれる。

 それにお礼を伝え、靴を脱いで脇に揃えたあと傘立てに傘をたてかける。

 その後も、母さんとの思い出話に相づちを打ちつつ、歩を進めた。

 当然、といえば言いすぎかもしれないが、やっぱり高校時代から掃除以外の家事についてはからっきしだったようだ。

 そんな話に花が咲いていると。

 

「さあ。着いたわよ」

 

 廊下を進んでいたお姉さんがクルッとこちらに向き直り、素敵な笑顔を向けてくれる。

 どうやら目的の場所に到着したようだ。

 

「案内してくださって、ありがとうございました」

 大きく頭を下げてお礼を言う。

「いいのよ、これくらい。それじゃあ、私は受付に戻るわね」

 

 笑顔でそう言って、お姉さんはひらひらと手を振り来た道をもどっていった。こちらも小さく手を振り返す。

 お姉さんを見送った後、少し緊張しながら目の前の扉をノックする。

 

「はーい。どうぞー」

 なんだかおっとりとした印象の声が、中から聞こえてきた。

「失礼します」

 

 静かに扉を開く。

 おそらくリビングだろうか。中に入ると、大きなテレビと綺麗な花模様の青い絨毯が目に飛び込んできた。

 その部屋の中には、小学生の自分でも思わず目を奪われてしまいそうなほどスラリとした綺麗な女性と、可愛らしい小さな女の子が二人いた。

 片方の女の子はまだ赤ちゃんで、その女性の腕の中に抱かれ眠っている。

 もう一人の子は、俺から隠れるようにその人の背中に張り付き、こちらの様子をうかがっている。驚くことに、もうすぐ夏だというのに、首にピンクのマフラーを巻き、同じ色の可愛らしいセーターを着ている。

 その中央でこちらに微笑んでいる女性。髪を三つ編みに結び右肩から垂らし、紺色のカーディガンとロングスカート、白いブラウスに身を包んだその人。松実露子さんが、今回の目的の人物だった。母さんの幼なじみで、親友。

 

「こんにちは。ご無沙汰してました」

「こんにちは。ずいぶん大きくなったわねえ。五年……いえ、もう六年近く会ってなかったもんねえ」

 感慨深そうに露子さんがつぶやく。

「わざわざありがとうね。いつもはお店に取りに行くんだけど、今日は朝から忙しくてちょっと手が離せなかったものだから。あ、そこ座ってね」

 両手に抱いていた赤ちゃんに目を落とす露子さん。

 露子さんに促され、絨毯に置かれていた座布団の上に腰を落とす。

「いえ、これくらい。母もお世話になっていますから。……あ、それじゃあ、これ」

 

 手に持っていた目的の物を、絨毯の上に乗っていた小さな机の上に置く。

 机の上には、小さなコップやお皿、赤ちゃん用のおしゃぶりや白い封筒が置かれている。

 

「ありがとう。お代はそこの封筒にちょうど入ってるから。美智さんのケーキ、宥が好きなのよ。もちろん私もだけど」

 露子さんがクスクス笑いながら、背中に張り付いていた女の子の頭を撫でる。

「ほら、宥。お兄ちゃんにお礼は?」

 

 後ろに隠れていた女の子が、恥ずかしそうにしながらおぼつかない足取りでよちよちと出てきた。

 

「ありがとお、ごじゃます」

 

 たどたどしいながらも、可愛くお辞儀をしながら、宥と呼ばれた女の子がお礼を言ってくれる。

 愛らしいそんな姿に思わず顔が緩む。

 

「いいえ。どういたしまして」

 目を合わせて言葉を返す。

「可愛いですね」

「あらー。可愛いだって、宥。良かったわねー」

 そう言いながら、その子のほっぺたをつんつんとつつく露子さん。

「あ、あううー」

 両手をほっぺたに当て、顔を真っ赤にしながら照れている宥ちゃん。可愛い。

 

 そんな宥ちゃんに癒されつつ、寝ている赤ちゃんを起こしてはいけないと、その場をあとにしようとする。

 

「それじゃあ、俺はこの辺で失礼します」

「あらそう? せっかくだし、もう少しゆっくりしていけばいいのに」

 露子さんが残念そうにつぶやく。

「あはは。でも、せっかく気持ち良さそうに寝ている赤ちゃんを起こしちゃったら悪いかな、と思って」

 そう言って、抱かれているその子を見やる。

 

 立ち上がろうと、床に手をつき体を持ち上げる。

 すると、宥ちゃんがトコトコ近づいてきて、小さな手でズボンを二回、優しく引っ張ってきた。

 

「どうしたの?」

 立ち上がりかけた体を戻し、座り直して目を合わせる。

「けーち、いっちょにたべよ?」

 そう言って、今度は人差し指をそっと握ってくる宥ちゃん。

「あらあら。懐かれちゃったわね、良太くん」

 クスクス笑いながら話す露子さん。

「あはは」

 

 それにつられてか。はたまた、この可愛らしい女の子の行動に心が温められたせいか。思わず笑みがこぼれる。

 

「こんな可愛い子のお誘いを断るなんて、男が廃るわよ?」

「……そうですね」

 こちらを真っ直ぐ見据えていた宥ちゃんの頭を、優しく撫でる。

「それじゃあ、一緒に食べようか?」

「やったー」

 その言葉を聞いた宥ちゃんの顔がパアッと明るくなり、両手を上に突き上げて喜びを表現してくれた。

 

 そのあと、宥ちゃん主催の可愛いお茶会にお呼ばれした俺は、時間が経つのも忘れてのんびりと過ごさせてもらった。もちろん、ばあちゃんに連絡を入れるのは忘れなかったが。

 結局、話を聞いた仕事終わりの母さんが迎えに来てくれるまで、宥ちゃんとおままごとや積み木など、様々な遊びを一緒に楽しん。

 そうそう。なんで宥ちゃんがこんな服装をしているかも、露子さんが話してくれた。

 なんでも極度の寒がりさんで、あれくらいの厚着をしていないと普段の生活に支障が出てしまうそうだ。

 宥ちゃんからは、妹である玄ちゃんの話を何度も聞いた。とても可愛いみたいで、その事を一生懸命に話す宥ちゃんの顔は眩しいくらいに輝いていた。

 

 

 空が徐々に影を落とし、辺りを暗闇が包み込み始めた頃。

 家へ帰る俺と母さんを、露子さんたちが家族総出でお見送りしてくれた。

 玄ちゃんは、この旅館の主人である露子さんの旦那さんの腕に抱かれている。

 露子さんと手をつないでいた宥ちゃんは、家に帰る俺を寂しそうな顔で見つめてくれていた。

 そんな宥ちゃんの気持ちを表したかのように、屋根に雨粒の当たる音が聞こえ始める。

 

「また来るから、ね?」

 そう言いながら、宥ちゃんの頭をそっと撫でる。

「んー。やくそく」

 にっこり笑いながら、小さな小指をさしだしてくる宥ちゃん。

 

 その小指に自分の小指を絡めて、約束をする。

 

「ゆーびきーいげーんまーん。うしょついたらはーいせんぼんのーます。ゆびきった」

 

 まだ言葉を上手く発音出来ていない部分もあるが、一生懸命約束の文言を口にする宥ちゃん。

 帰り際にもそんな温かな癒しをくれる宥ちゃんにお礼を言いつつ、また来ることをしっかりと約束した。

 

 

 その帰り道。

 しとしとと雨が降る中、すっかり暗くなった道を相合い傘で帰る母さんと俺。

 道中、母さんに今日の出来事を話しながら、家路を急ぐ。

 母さんは、それをニコニコしながら聞いてくれていた。

 

 久しぶりに楽しい時間を過ごせた。妹がいたらあんな感じなんだろうか。

 

 

 そんなことがあった三日前。

 それを思い出し少しぼーっとしていると、晴絵が心配そうな顔でこちらを覗きこんでいたのに気づく。

 

「えっと……。急に黙っちゃったけど、どうしたの?」

「え……。あ、ああ、いや。この場所ちょっと前に来たことがあってさ。びっくりしちゃって」

 慌てて取り繕う。

「あ、そうなんだ!」

 晴絵が少し驚いたような顔で納得の声を上げる。

「そうなんだよ。しかも、俺の母さん、ここで働いてるんだ」

「はえー。意外な偶然!」

 先程までクスクス笑っていた望が、驚きの声をあげる。

「そうなんだ。じゃあ良太のお母さんにあったら挨拶しないと」

 晴絵がなんだか緊張しているような顔でつぶやいた。

 

 その表情が少し気になったが、それよりももっと気になる発言を晴絵がしていたような……。

 ……女将さんが先生ということは。

 

 俺の頭の中の疑問の答え合わせができたのは、それから十分後のことだった。

 

 

 



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三話 気づいたこと

 

 

 

 以前来たときと同じように、ロビーへと続く扉を、今回は三人で通り抜ける。

 前回よりもひんやりと感じる空気が、体を包み込んでくれる。

 ロビー内には、この前と違って、ちらほらと宿泊客らしき人影が見えた。

 売店で土産物を眺めたり、ロビーのソファーでくつろいだりと、思い思いの過ごし方を楽しんでいるように見受けられる。

 そんな人たちを横目に見ながら、受付のほうへと視線を向ける。そこには、三日前に来たときと同じように、薄紫色の着物を着た二人の女性が立っていた。その内の片方の女性は、いつもの見慣れた顔だった。

 こちらに気づいたのか、あっと驚いた顔をしている。相方の女性になにやら一声かけた様子のあと、カウンターから出てきて駆け寄って来る。

 

「良太じゃない! どうしたの急に? しかも、可愛い子を二人も連れて」

「えーと……。まあ、いろいろ事情があって」

 少し照れが出て、若干しどろもどろになる。

「もしかして、この人が良太のお母さん?」

「めっちゃ美人だねー」

 晴絵が頭にハテナマークを浮かべたように尋ねる傍らで、望は、はーっと驚いたように目を丸くして声を上げる。

「こんにちは、二人とも。良太の母親の亜希です。よろしくね」

 そう言って、いつものようにウインクする母さん。

「はじめまして。良太と同じクラスの赤土晴絵です」

「同じく! 新子望です!」

「ふふふ。露子たちから二人のことは聞いてるわよ」

「そうでしたか。それで先生に会いに来たんですが、着いたときにはいつもここから電話をかけてもらっていまして」

 晴絵が淡々と説明する。

 

 ……うん? なんだか若干違和感が。

 

「なるほどね。ちょーっと待っててね」 

 そう言うと、早速カウンターの中に戻り電話をかけはじめる母さん。

「もしもし、ロビーの常盤ですが……。あら、露子じゃない。ちょうどよかったわ!」

 テキパキと今の状況を電話越しに説明する母さん。

「はーい、わかったわ」

 そう言って電話を終えると、こっちへ向かってヒョイヒョイと手招きする。

 三人でそこへ向かうと、母さんがグッと親指を立てる。

「これでオッケーよ! 場所はいつもの所って言ってたから、わかるかしら?」

「はい、大丈夫です。ありがとうございました」

 お辞儀をして、また淡々とした様子で答える晴絵。

 

 違和感の正体になんとなく気づきはじめたが、まだ確証はない。

 意見を求めようと望のほうへ目を向けると、やれやれ、といった様子で首を横に振っていた。

 何か事情は知っていそうな雰囲気だ。

 気にはなったが、晴絵は既に歩きはじめていた。

 少し慌てたが、そのまま後ろをついていく形で、三人一緒に目的地へと歩みを進める。

 何故だろうか。晴絵の歩く後ろ姿は、何となくぎこちなく見える。

 ちらっと受付を振り返ると、母さんが着物の袖を抑えながら笑顔で手を振っていた。

 俺と望はそれに答えるように手を振り返しながら、露子さんが待つ場所へと向かった。

 

 

「露子さーん。こんにちは」

 最初に部屋へ入った望が挨拶をする。

「こんにちは」

「こんにちは、露子さん。この前はありがとうございました」

 それに続くように、晴絵と俺も挨拶をする。

 

 薄々気づいてはいたけど、やっぱり二人の麻雀の先生は露子さんだったんだな。

 

「あらあら、こんにちは。望ちゃんと晴絵ちゃんは二週間ぶりくらいかしら? 良太くんは、三日ぶりね。この前は宥と遊んでくれてありがとうね」

 おっとりとした声で、露子さんが返事を返してくれる。

 

 部屋の中には、前回来た時と同じように、露子さんと宥ちゃん、玄ちゃんがいた。

 違ったのはその室内の種類で、前回の落ち着いた感じの洋室ではなく、綺麗なタタミがはってあるシンプルな和室だった。二人はその上に敷かれた布団の上でブランケットに包まれ、小さく寝息を立てている。仲良く手を繋いで寝ている姿が可愛らしい。

 少し目線を動かしてみると、部屋の中に物が少ないせいか、自然とそれが目にとまる。端のほうに置いてある四角い緑色の台だ。何に使うんだろうか。

 

「ととと。タイミング悪いときに来ちゃいましたかね」

 寝ている二人を見てそう思ったのか、望が申し訳なさそうな顔をして言う。

「いいのいいの。どうせそろそろ起こさなきゃいけない時間だから」

 優しい表情で露子さんが言葉を返す。

「そうそう、聞いたわよ。晴絵ちゃん、この前の地区大会で優勝したんだってね。おめでとう」

「さすが、お耳が早い。これもひとえに先生の指導のおかげですよ」

 顔はにこやかだが、淡々とした口調で晴絵が答える。

「そんな。私はたいしたことしてないわ。全部晴絵ちゃんの実力よ」

「実力……ですか。単純に運がよかっただけですよ。あと、しいて言うなら……相手が弱い」

「あら」

 その言葉に、露子さんも少し驚いた表情を見せる。

 

 さっきから、晴絵の言葉の節々に妙な棘のようなものを感じる。

 気になった俺は、自分の考えを望に耳打ちで伝える。

 

「なあ。晴絵の様子、おかしくないか?」

「あー……。良太もさすがに気づくよね」

 望が耳打ちで言葉を返してくれる。

「あの子ね。初対面の人や自分よりも歳が上の人相手だと、緊張のせいか、何かあんな感じで変にツッパッた態度になっちゃうのよね」

「そうなのか? にしても変わりすぎな気がするが」

「あれでも、先生が麻雀を教えてくれてからはだいぶマシにはなったんだけどね。初めて会ったときはもっとツンツンしてたなあ」

 そう話す望の顔はにこやかだ。

 

「そうか……」

 

 大した理由はないのかもしれないが、そのことについては今はくわしく聞かないでおく。別の新たな疑問が湧いてきたからだ。それを望にぶつけてみた。

 

「なあ。さっき初対面の人に対してもって言ったけどさ。俺の時はあんなに極端じゃなかったぞ? ちょっと緊張はしてたみたいだけど」

「ああ、そのこと。それなんだけどさ……」

 ニヤリと笑った望がそう言いかけたところで。

 

「ちょっと、二人とも。私に隠れて内緒話?」

 

 そう言いながら、プクッとほっぺたを膨らませている晴絵が、望の言葉を遮る形で会話に割って入ってきた。

 いつの間にか露子さんとの話は終わっていたようだ。

 そのムスッとした表情からは、さっきまでの違和感は感じられない。

 

「わ、悪い悪い。別にたいした話じゃないって」

「そ、そうそう」

 体の前で大きく手を振り、慌てて取り繕う望と俺。

「ホントにー?」

 怪しい、といった顔でこちらを覗き込む晴絵。

「あ、あれだよ。これから麻雀するんだろ? 俺みたいな素人が、地区大会で優勝した晴絵の相手になるかどうかって、心配になってたんだよ」

「ふーん……。ま、いいけど」

 納得できていない顔だったが、しぶしぶといった様子で晴絵が引き下がってくれた。

 

「あら? そういえば、何で良太くんと二人が一緒にいるのかしら?」

 今更な気もするが、当然の反応をする露子さん。

 もしかすると、意外に抜けている所があるのかもしれないな、この人。

 

「実はですね……」

 

 手短に、今までのあらましを伝える。二人との出会いや、ここに来ることになった経緯を。それを静かに、時に嬉しそうに聞いてくれる露子さん。話を全て聞き終わってくれたところで、喜んだように声を上げる。

 

「まあ! それは嬉しいわね。今まで私たち三人しかいなかったから、ちゃんとした麻雀打てていなかったのよ」

 ポンっと両手を叩き、笑顔でそう話す露子さん。

「晴絵ちゃんも全国大会に出ることだし、このタイミングで四人打ちが出来るのは良いことだわ」

「ただ、俺がちゃんとその相手になるのか心配なんですが」

 頭を掻きながら、情けない返事をする。

「大丈夫だって! 麻雀は実力も必要だけど、運の要素も強いから。それに、私はこうして四人打ちできるだけで嬉しいし」

 そう言って、晴絵が背中をポンっと叩き励ましてくれる。

「そうそう。初めてなんだしトバされてなんぼよ!」

 グッと拳を握り、望が力強くうなずく。

「そうね。とりあえず基本的なルールと役を教えてっと。あとは実戦で学んでいきましょう」

 予想外にスパルタなことを言う露子さん。

「お、お手柔らかにお願いしますよ?」

「ふふふ、わかってるわ。それじゃあ、とりあえず準備しましょうか」

 

 そう言って立ち上がった露子さんが、端にあった緑色の台へと歩みを進める。

 なるほど。麻雀はあの台を使ってやるんだな。

 

「ほら! 良太も立った立った!」

 晴絵がグイッと腕を引っ張る。

「雀卓結構重いからね。頼りにしてるよ男の子!」

「お、おう……」

 

 予想していたよりも軽かった雀卓の準備も終わり、それぞれが四方の座布団の位置につく。

 あらためてその台を眺めると、中央に赤と白、二色のサイコロが入っているのが、透明なケース越しに確認できる。

 その周囲には、東西南北と書かれたプレートが貼ってある。

 俺は、その表示されたプレートの西の位置に座った。

 正面には露子さん。左に晴絵、右は望といった配置だ。

 

「それじゃあ良太くん。基本的なことから説明していくわね。二人もせっかくだし復習だと思って聞いていってね」

「はーい」

「はい」

 

 軽く返事をする二人。

 俺もしっかり聞いておかないとな。

 

 その後は、基本的なルールや牌の組み合わせからなる役の話など、露子さんの麻雀講座が続いた。

 実物の牌を使ってくれたというのもあるが、それを考慮しても、露子さんの説明はとてもわかりやすかった。

 

「……さて。一通り説明は終わったかしらねー」

 ニッコリと笑い露子さんがつぶやく。

「では、早速実戦に移りましょう」

「うー。久しぶりにこの卓で打つなー」

「ネット麻雀も面白いんだけど、やっぱり実物で打つのとは違うもんねー」

 ワクワクした様子の望と晴絵。

「あの……。さっきも言ったけど、お手柔らかにお願いしますよ?」

「大丈夫大丈夫。やってくうちに慣れてくるよ!」

 根拠のないなぐさめをくれる晴絵。

「あっと。その前に、二人を起こしても良いかしら? 麻雀やり始めると、結構大きな音が出ちゃうから」

 露子さんが宥ちゃんと玄ちゃんを見やる。

「はい。全然大丈夫ですよ。な?」

 そう言って他の二人に目線を送る。二人は、同意の意思をうなずいて示してくれた。

「ありがとうね」

 そう言うと、露子さんが寝ている二人の体をゆっくりと揺らす。

「ほらほら。二人ともそろそろ起きて」

「うにゅー」

「ふああ」

 

 可愛らしい声が室内に響く。

 

 少しずつ意識が覚醒してきたのか、宥ちゃんが俺たちに気づいたようだ。

 

「あー。おにーちゃ、おねーちゃ」

 まだまだ眠そうな顔でそう話す宥ちゃん。でも、寝起きはだいぶ良いみたいだ。

「おはよう、宥ちゃん」

「やあやあ、おチビちゃん。おはよう」

「宥ちゃん、おはよう」

 思い思いの言葉をかける。

 

 宥ちゃんは、小さくあくびをして眠そうな目を擦ると、ゆっくりと立ち上がった。

 

「おにーちゃん。またきてくれた」

 そう言って、トコトコと駆け寄って来てくれる。

「ちょ……。私らのことは無視ですかい」

 苦笑しながらも、楽しそうに話す望。

「へえー。仲良いんだね」

 優しい表情で、晴絵もつぶやく。

「なんだか懐かれちゃったみたいで」

「おにーちゃん。おねーちゃん。いっちょにあそぼ?」

 ズボンに掴まって、そう上目がちにお願いしてくる宥ちゃん。

 むむっ。そのお願いは聞いてあげたいが、今から麻雀打つことになってるしなあ。

 

 どう答えたものかと悩んでいると、玄ちゃんを抱っこしてあやしていた露子さんが、話しはじめた。

 

「そうねえ。それじゃあせっかくの機会だし、宥も一緒に麻雀で遊ばせてみましょうか……。って、それじゃあ晴絵ちゃんに悪いかしら」

「私は構いませんよ。今日は初めて麻雀を打つ良太もいるし、ちょうど良いんじゃないですか?」

「晴絵が大丈夫なら、私も全然オッケーです!」

 晴絵と望が露子さんに伝える。

「二人とも、ありがとうね」

「わーい」

 恐らくよくわかってはいないのだろうが、一緒に遊んでもらえると思ったのだろう。宥ちゃんが、喜びの声を上げる。

「さてと。私は玄を抱っこしながら打つわね。宥には、最初のほうは見ていてもらいましょう」

 露子さんの腕の中では、玄ちゃんがおしゃぶりをくわえながら、手をパタパタさせている。

「わかりました」

 晴絵が了承する。

「わたち、ここがいい」

 そう言うと、側にいた宥ちゃんは露子さんの隣に歩いていき、そこへ座る。

「おやおや? フラれましたな」

「う、うるさいぞ……」

 望がからかうような視線をとばしてくるが、そんなものは受け流し、露子さんの説明を聞く。

「さてと。じゃあせっかくだから、牌山の準備は良太くんにしてもらおうかしら」

「はい。でも何をすれば?」

「簡単よ。ここのスイッチを押してみて」

 

 言われた通り、露子さんが指差した場所を押してみる。

 すると、ガシャン、という音と共に台の一部が開き、そこから何かがせり上がってきた。

 

「お、おおー!」

 宥ちゃんと俺の驚く声が重なる。

「おおっ、二人とも良い反応だね!」

「いやー。私も最初見たときはあんな感じだったなー」

 晴絵がニコニコ笑いながら嬉しそうに言う傍ら、腕を組みながらうんうんと首を縦にふり、感想をもらす望。

「ふふふ。それじゃあ、最初だし私がみんなに牌を配っていくわね」

「ルールはどうしますか?」

 晴絵が尋ねる。

「そうねえ。とりあえず東風戦で、持ち点は二万五千点持ちの三万点返し。喰いあり後付けありで、ウマはなしトビ終了もなし。これくらいでとりあえずやってみましょう。本当はもっと細かく決めるべきなんだけど、これ以上は良太くん混乱しちゃうだろうから」

 

 おっしゃる通り、理解できない謎の呪文を口にする露子さん。

 まあ、とりあえず聞き流そう。

 

 説明し終わった露子さんは、 さっきとは別のボタンを押す。すると、中央にあった二つのサイコロがカラコロと回り出した。

 さっきと同じように驚きの声をもらす宥ちゃんと俺。

 

「ふふふ。それじゃあ配るわね」

 

 露子さんは、慣れた手つきで牌山から二つずつ牌を掴み、俺たちの前に置いていってくれる。

 晴絵と望も、同じように慣れた手つきで、それを綺麗に並べていく。

 ひとまず俺も、さっきの露子さんの説明通りに並べよう。まずは同じグループの牌に分けて、その後連続で続く数字に合わせて牌を並べ替えていこう。漢字一文字が書いてある牌は一番右に置いてっと。

 手牌を順番に揃えるのに一生懸命になっていたのか。

 ようやく並べ終わり周りを見ると、他の三人はこっちに注目していた。

 みんなに牌を配っていたはずの露子さんも、いつの間にか綺麗に手牌を並べ終わっている。

 

 何故だろうか。

 その三人は、こちらに優しい笑顔を向けてくれていた。

 

「それじゃあみんな。今日も楽しんでやりましょうね」

 

 露子さんが一言そう発する。瞬間、場の空気が何となくピンと張りつめた気がした。

 その空間に一瞬緊張はしたが、未知のゲームに対する楽しみが自分の中で上回る。

 よしっ。頑張るぞ!

 

 

 時間はそろそろ五時を回ろうかというところ。

 あのあと、東風戦を何度か戦ってみた。当然かもしれないが、結果は惨敗だった。

 ほとんど上がれないわアホみたいに振り込むわで、持ち点をマイナスにしなかった事だけがせめてもの救いだ。

 

「さ、さすがに少しへこんだ……」

 そう言い残し、座布団に座っていた体が、ガクッと力無く倒れる。

「あらあら。でも最初はそんなものよ」

「頑張れー、負けーんなー」

「良太、大丈夫?」

 

 それぞれの励まし方で、慰めてくれる三人。

 それに空返事で答える。

 対戦の間おとなしく座っていた宥ちゃんは、こちらに駆け寄ってきて、頭を優しく撫でてくれた。

 

「よちよち。げんちになってね」

 癒される。

「宥ちゃんはいい子だねー」

「ほんとほんと。可愛いよねー」

 女子二人は、そんな宥ちゃんを見てきゃあきゃあ騒いでいる。

「でもさ、宥ちゃんも玄ちゃんもそうだけど、望のとこの憧ちゃんもほんと可愛いよね」

「そうなんだよねー。この前もさ、家に帰ったら昼寝してたんだけど、その寝顔がまた可愛くて」

 顔のにやけがとまらない様子の二人。

「へえー。望、妹がいたんだ」

 寝転んだままそう尋ねる。

「そうなのよ。五月に生まれたばっかりなんだけどね。今度家に来たら紹介するよ!」

「おおっ! 楽しみにしてる」

 

 そんな会話のおかげか。さっきまでの落ち込み具合からもだいぶ回復できた気がする。

 まあ、口ではへこんだとは言いながらも、内心ではなんだかんだ麻雀を楽しんでいた。

 タンヤオドラ、という二千点の小さな役ではあったが、それを初めて和了れたときは、ちょっとした感動を覚えた。

 そんなことを考えていると。

 

「うー。わたちもあれ、やりたい」

 宥ちゃんが、雀卓を指差して、せがむように服を引っ張ってくる。

「わかったわかった。それじゃあ、今度は宥ちゃんも一緒にな」

「でも、誰が抜けようか?」

 望が少し考え込む。

「おにーちゃん。いっちょがいい」

 そう言って、俺の服をギューっと掴む宥ちゃん。

「うふふ。それじゃあ良太くんには、宥と一緒に打ってもらおうかしらね」

「でも俺、一人でもまだまともに打てないんですが」

「いいのいいの。この子、いつもはもっと引っ込み思案なんだけど、良太くんには本当に懐いてくれてるみたいだから。きっと楽しんで出来ると思うわ」

 心配ない、といったような顔で宥ちゃんと俺を見つめる露子さん。

「ほらほら。露子さんもこう言ってるし」

 晴絵がポンポンと背中を叩いてくる。

「そうだな……。よし、それじゃあ俺と一緒にみんなを倒そう!」

「わーい」

「ふっふっふ。良太めー。調子に乗ってるな?」

「さっきの結果は忘れちゃったのかなー?」

 晴絵と望が不敵に笑う。

「ふっ、問題ない。今の俺には勝利の女神がついている!」

 そう言って、右手でグッとガッツポーズをして、余った左手で宥ちゃんの頭を優しく撫でる。

「いざ、尋常に勝負!」

 

 こうして、第二ラウンドが始まった。

 

 今回も、さっきまでと同じルールでの対局だった。

 唯一違ったのは、あぐらをかいた俺の足の上にちょこんと座っている宥ちゃんの存在だけだ。

 宥ちゃんは、恐らくルールはわかっていないのだろうけれど、ニコニコ笑いながら楽しそうに牌を触っている。

 そんな宥ちゃんと一緒に打つこと二十分。

 違和感に気づいたのは、東三局に入ってからだった。

 

 さっきから、手牌がおかしい。この対局も三局目に入っているのだが、何故か配牌の時点で手牌のほとんどが、萬子や字牌の中などで構成されている。

 それが一度であれば別にたいしたことではないのだが、もう三回連続で続いている。

 しかも、自摸る牌もやたらと萬子が多い。たまに引く牌も、赤ドラや六筒、七筒など、一部に赤い色の付いた牌ばかりだ。もちろん、それ以外の牌も引いてはくるのだが、明らかに確率がかたよっている。

 そんな疑問を頭に浮かべたまま東四局も終了し、その回の対局が終わる。

 その直後、立ち上がった晴絵が考えるようなポーズであごに指を当てながら、露子さんに顔を向けて口を開いた。

 

「ちょっと、いいですか?」

「どうしたのかしら?」

「いえ……。さっきの対局。全ての局での全員の捨て牌が気になりまして」

「もしかして、良太以外の捨て牌に、萬子が少なかったってこと?」

 望も晴絵と同じようなポーズで、疑問を口にする。

「やっぱり望も気づいてたんだね。さすが!」

「うん。萬子も少なかったんだけど、私、一回も中や赤ドラ引いてないんだよねー。まあ、確率でいえばありえないこともないんだろうけど」

 不思議そうな顔で望が続ける。

「でもさ、良太の捨て牌は妙に萬子が多かったり、手出しで筒子や索子の赤ドラを切っていた気がする」

「そうなんだよね。しかも、赤ドラは毎局良太の手牌からこぼれていたの。それに、良太の和了って二回あったけど、そのどっちもが萬子と中の混一色だったんだよね。しかも、門前で自摸和了」

 晴絵が冷静に分析結果を話す。

 

「実はなんだけどさ……」

 

 そう言って宥ちゃんを脇に降ろした俺は、二人に目線を合わせようと立ち上がり、自身が対局中に感じていた疑問をぶつけてみた。

 その話を真剣な顔で聞いてくれる二人。露子さんは、あいかわらずニコニコした顔でこちらに微笑みかけてくれている。その間、何度か足元の宥ちゃん目を向けると、不思議そうな顔でこちらを見つめていた。

 

「なるほど、ね」

 俺の話を聞いた晴絵が、妙に納得したような表情でうなずく。

「望。この前一緒に、全国大会の出場者の牌譜の情報収集したでしょ?」

「うん。それがどうかした?」

「その中で何人か、何となく引っ掛かる打ち方をしていた人がいたんだ。でさ、さっきの良太の話と今の対局の場の状況を照らし合わせると、今回もそれに似た違和感を感じたんだよ」

「ふむふむ」

「もしかすると、良太もそういう人たちと同じような能力、っていうのかな。そういうのを持っているのかもしれない」

 分析結果を冷静に話してくれる晴絵。

「でもさ。最初のほうの対局ではこんなに極端じゃなかったぞ?」

 俺も、その意見に対して思ったことを口にしてみる。

「うーん。確かにそうだよね。さっきと違うところがあるとすれば……」

 そう言って、俺の足元にいる宥ちゃんに目を向ける晴絵。

「もしかして、宥ちゃんが原因か?」

「その可能性は高い、よね?」

「ふむふむ」

 

 三人ともが一斉に宥ちゃんのほうを向く。

 恥ずかしかったのだろうか。それに気づいた宥ちゃんは、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。

 

「露子さんは、どう思います?」

「ふふふ。どうやら宥には、晴絵ちゃんの言う通り、何か特別な力があるみたいね」

 いたずらっぽく笑う露子さん。そして、雀卓の河の中から一つの牌を掴む。

「宥。これを見てどう思う?」

 そう言って、露子さんはうつむいている宥ちゃんに、手に取った一萬の牌を見せる。

「んーとね……。あっちゃかーい」

 少し考えた様子だったが、すぐにニコッと笑って宥ちゃんが答える。

「……なるほどね」

 少しうつむいていた晴絵が、納得したようにうなずく。

「何がなるほどなんだ?」

「どうやら宥ちゃんには、この子が温かいと感じる牌が、集中的に手牌に集まってくる力があるみたい。主に、牌に赤色が含まれているものがそれかな」

 今までの状況から推理したのだろう。晴絵がわかりやすく説明してくれる。

「なるほどねー。だから、良太の手牌にやたらと萬子なんかの赤い牌が集まってたんだね」

 納得、といった顔で望がうなずく。

「そ、それって相当すごいんじゃ?」

「うん、すごいよ。この能力があれば、他家の和了をだいぶ制限できる上に手牌も読みやすくなるし、自分の和了の形もはっきりとわかりやすくなる」

「おおー」

 晴絵の分析力に、素直に感心のため息がもれる。

「まあその分。それが他の対戦相手にばれちゃうと、思考が読まれやすくなっちゃうっていう弱点もありそうだけど。でも、それを逆手にとって筒子や索子待ちで和了る、なんてこともできるかも、ね」

 ニコッと笑って、晴絵が締めくくる。

「はあー……。なんか、晴絵って本当に凄いな」

 あらためて、そんな当たり前な感想が口から出てくる。

「ちちちち、違うって! 私が凄いんじゃなくて露子さんの気づきとか望が手伝ってくれた牌譜整理とかのおかげだし私はそこから考えられた事をただ話しただけだし」

 真っ赤になった晴絵が、腕を顔の前でブンブンと振りながら、ものすごい勢いでまくし立てる。

「そうか? バラバラだった情報を、パズルのピースを組み合わせるみたいに一つの形にできるって、ものすごいことだと思うぞ?」

「あ、あううー……」

「はーい、ストップストップ。晴絵頭から湯気出ちゃってるから」

 望があきれたような顔をして、間に入ってくる。

 

 その二人の向こうに見えた露子さんは、そんな俺たちの様子を楽しそうな顔で見ていた。

 

 

 



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四話 新しい友達と新しい日常

 

 

 

 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。時刻は六時を回ったところだ。

 窓の外に見える空も、ほんの少しずつではあるが、徐々に赤みを帯びてきている。

 

「さあさあ、三人とも。今日のところはそれくらいにしましょうか」

 露子さんの一声で、全員がそちらを向く。こちらに微笑みかけた露子さんが、壁にかけられた時計を指差して言葉を続ける。

「もういい時間だし、続きはまた今度にしましょう」

「……そうですねー。って、いつのまにかもうこんな時間になってたの!?」

 望が驚いた声を上げる。

「……ホ、ホントだ! 今日はあっという間だったねー」

 先ほどまでの赤い顔を残しつつも、望と同じような表情で驚く晴絵。

「夏だから、俺も時間の感覚がちょっと麻痺してました」

「そうね。あんまり遅くなっちゃうと親御さんも心配するだろうから、今日はこれでおしまいね」

「ええー……」

 おしまいという言葉に反応したのだろうか。宥ちゃんが残念そうにため息をもらす。

 

「はいはい。また遊びに来てあげるからねー」

「宥ちゃん、またねー」

「うー」

 

 望と晴絵が、慣れた手つきで宥ちゃんの頭を交互に撫でる。宥ちゃんは、そんな二人を受け入れつつも、余り納得がいっていないような顔をしていた。

 

「それでは、今日もありがとうございました」

「ありがとうございました!」

 晴絵と望が露子さんに向き直り、ペコリとお辞儀をする。

「俺も。麻雀のこと色々教えてくださってありがとうございました」

 二人に習うように、合わせてお辞儀をする。

「いいのよ。今は私も仕事を押さえている時期だから、普段よりある程度時間が取れるの。だから、またいつでも来てね。宥も楽しみにしてるだろうから」

 顔を上げると、ニッコリ笑っている露子さんが見えた。

「おにーちゃん。おねーちゃん。ばいばい」

 宥ちゃんが、寂しそうな顔で手を振ってくれた。

「はーい。またね」

「また来るね! さよなら」

「またな。宥ちゃん」

 

 玄関まで送ってくれた三人に手を振り返しながら、露子さんたちの家を後にする。

 玄ちゃんを抱っこした露子さんが、ニコニコしながら手を振ってくれている。宥ちゃんは、最後まで名残惜しそうな表情で、同じように手を振ってくれていた。俺たちも、そんな三人が見えなくなるまで手を振り返し続けた。

 

 三人に見送られたあと、松実館の入口へと続く路地を抜け、建物の角から道路に出ると、目の眩む西日が視界に飛び込んで来た。

 眩しさから逃れようと、目の前を手で覆い隠しながら、前を行く二人に声をかける。

 

「二人とも。今日は誘ってくれてありがとう」

 

 松実館の前で、二人にそうお礼を伝えた。

 前を進んで談笑していた二人は、歩いていた足を止めてこちらに振り向き、話しかけてくれる。

 

「いやいや。お礼を言うのはこっちだって!」

「そうそう! こちらこそありがとうね。良太!」

 

 逆光のせいで二人の表情ははっきりとは見えなかったが、声のトーンから嬉しさが伝わってきた。

 

「あ、そうだ! せっかくだし連絡先交換しとこうよ!」

「そ、そうだね。せっかく……と、友達になれたんだし」

 望がそう提案し、晴絵も言葉につまりながらそれに同意する。

 

 友達か……。

 晴絵のその言葉に、嬉しさを感じる。

 こっちに来て初めて出来た、二人の友達。

 

「いいよー。ちょっと待ってくれよ」

 

 二人の提案には喜んで賛成するが、あいにく携帯電話はランドセルの中だ。

 二人に待ってもらうように言い、背負っていたランドセルを地面に降ろし、しゃがんで中身をガサゴソと漁る。ポケットに入れたまま持ち歩かないのは、以前の母さんの失敗から学んだ結果だ。まあ、携帯をズボンに入れ忘れたまま洗濯してしまうのは、うちの母親くらいだろうけど……。

 ようやくランドセルから探し当てた、少し古い型のスマートフォンを取り出す。小学一年生のころからの付き合いだが、まだまだ最新機種には負けていない、はずだ。

 二人に目を向けると、既にそれぞれのスマートフォンを手に持って待っていてくれた。望は、意外と女の子らしいピンクのスマートフォン。晴絵は、好きな色なのかな? 俺と一緒の緑色のスマートフォンを使っているようだ。

 

「おっ、晴絵のスマホ、一緒の色だな」

「……そそそ、そうだね! 私、この色好きなんだ!」

「おんなじおんなじ。俺もこの色好きなんだー」

 

 何故か全力で照れている様子の晴絵だが、おそらく色が被ってしまったことが恥ずかしいのだろう。気にしなくてもいいとは思うのだが……。なんだか少し申し訳ない気持ちになった。

 

「ほいほーい。じゃあ早速交換しとこうよ!」

「おっと、そうだな。とりあえずこのアプリでいいかな?」

 

 望が近寄ってきて、画面を覗き込む。俺は、おそらく最近の小学生なら知っているであろうアプリを起動して、望に見せる。簡単なメッセージ機能しかないが、その分お手軽に使える人気のアプリだ。今は、前の学校の友達との連絡手段に使っているが、重宝している。

 

「あ、そのアプリ。私と晴絵も入れてるよ! 便利だよねー」

「気軽にメッセージ送れるからいいよな」

「たださあ、このアプリ電話は出来ないじゃん? だから、番号は別で交換しとこうよ」

「そういえばそうか。じゃあ、番号は赤外線でいいか?」

「オッケー」

 

 望と手早く連絡先を交換していく。一通り終わったところで、晴絵のほうへ向き直る。晴絵は、何だか緊張しているような面持ちで、こちらに向かって歩いてきた。

 

「よ、よろしくお願いします!!!」

「……え……っと。こ、こちらこそよろしくお願いします」

 

 いきなりの大きな挨拶にびっくりして少し戸惑う。隣では、望が腹を抱えて大爆笑している。晴絵は、下を向いたまま携帯を突き出し、直立している。……どうすればいいんだろうか。

 とりあえず、このまま二人で固まっていてもらちがあかない。直立したままの晴絵に一声かけ、携帯を受けとる許可をもらう。それに無言でうなずく晴絵。

 いきなりの言動には驚いたが、そのまま連絡先を交換していく。幸い、画面は赤外線のアプリを開いてくれていたので、番号は問題なく交換できた。メッセージアプリのほうは、使い方がわかっているので、そちらも難無く交換できる。

 携帯を操作しながら、晴絵のほうをちらちらと見る。その作業の間は顔を上げることはなく、ずっと下を向いたままだった。

 

「えっと……。終わったぞ」

 

 そう言って、晴絵から受け取っていた携帯をその手に戻す。顔をあげた晴絵は、真っ赤な状態のままそれを受け取ってくれた。

 その直後の、画面を見た晴絵の表情に驚いた。その顔が、とても喜んでいるように見えたからだ。

 その瞬間の晴絵の顔は、思わず見とれてしまうくらいに、綺麗だった。夕日と見間違うほどにキラキラと輝いていた深紅の瞳は、心なしか、少し潤んでいるように見えた。

 

 こうして番号交換を終えた俺たちは、それぞれの家路につく。二人の家はどうやら逆方向らしい。

 松実館の前で別れを告げて、二人の後ろ姿を見送る。太陽に向かって歩いていく二人の影が、徐々に長く伸びていく。それに少しだけ寂しさを感じながら、近くのスーパーへ行くため、方向転換する。

 今日もばあちゃんと一緒に作る夕ご飯の準備が待っている。夕飯の買い物は、俺の役目だ。今日は何を作ろうかな。

 そんなことを思いながらの帰り道。今日の楽しかった一日を思い返し、思わず笑みがこぼれた。

 

 

 その日の晩ご飯の時間。

 いつものように、リビングで三人仲良くちゃぶ台につく。

 今日のメニューは、オニオンスープとオムライス。

 机の上にある半熟ふわとろのタンポポオムライスは、ばあちゃんの店の人気メニューの一つだ。

 特に、もはや芸術と言っても過言ではないプレーンオムレツは、半熟のプルプルとした柔らかさを残しつつもしっかりとその形を保っており、まさに職人技と呼べるものだった。

 以前食べさせてもらったそのオムレツの記憶を、口の中で思い出す。

 舌に乗せた途端にふわっととろけてなくなってしまうのに、濃厚な卵の柔らかな甘みとバターの芳醇な香りが一瞬で口内を満たしていった。それが過ぎると、牛乳のコクのある優しい甘みと、マヨネーズの口慣れた甘酸っぱさがほんのりと残る。まさに、至福の一品と呼ぶに相応しいと思う。

 あとで聞いた話だが、隠し味にみりんとほんの少しのハチミツを入れることが、ばあちゃんのこだわりだそうだ。

 こっちに来てから初めて教えてもらった料理。

 俺もそれを実際に何度か作ってはいるが、当然ながら、まだまだばあちゃんの足元には及ばない。とはいえ、今夜の出来はそれほど悪くはないかな、と思う。

 いただきますの挨拶を全員でしたあと、目の前の自分で作ったオムレツに、ナイフで十字の切り込みを入れて開いていく。

 母さんは、俺が作った分を食べたかったらしく、隣でお小言をつぶやいている。自分で作ったものは、とりあえず一番最初に味見してみたい人間なので、そこはいかに母さんといえども譲れなかった。「ゴメンね」と謝りつつ、ナイフを動かす。

 オムレツは、ばあちゃんのそれには及ばないが、それでもしっかりと卵の半熟部分を残したまま、形も崩れることなく綺麗に切り開くことが出来た。そのまま、下のチキンライスに覆いかぶせるように、開いたオムレツを重ねていく。成長を実感し、心の中で一人ガッツポーズをする。

 ばあちゃんがそれを見て、「上手く出来てるわよ」と褒めてくれた。嬉しいな。

 切り開いた流れで、仕上げのケチャップをかけようと手に取ったが、母さんがやりたいと言って聞かないので、それは任せることにした。

 母さんは俺からケチャップを受けとると、躊躇なくオムレツにハートを描いていく。そして、そのハートの中に、これまた躊躇なくカタカナでラブの文字を入れる。こういうことにも、少しずつではあるが恥ずかしさを覚えてきている今日この頃。叶うならば、ちょっとだけ遠慮してほしいのだが、それを言うと間違いなく泣いてしまう人なので、心の中で思うだけにする。

 母さんの顔を見ると、鼻を膨らませながら、やり遂げた、といった満足そうな表情をしていた。

 ……まあ、いいか。

 

 ご飯を食べながら、転校初日とは思えないくらいの充実した時間を過ごせたことを、二人に話す。

 クラスのみんなのことや、二人の麻雀仲間のこと。そして、露子さんの家での出来事。二人は、そんな俺の話を、笑顔でただ黙って聞いてくれた。

 話すのに夢中になっていた俺は、ふと見つめたばあちゃんの顔の変化に気づいた。ばあちゃんの目には、うっすらと涙が溜まっていた。

 ……何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。

 口から淀みなく出ていた言葉が止まる。

 すると突然、隣で座っていた母さんが近づいてきて、俺をギューっと抱きしめてくれた。その力は余りにも強くて、ちょっと痛いくらいだ。

 「急にどうしたの」と尋ねる。

 母さんは、「なんでもない」と言いながら、更に強く抱きしめてくる。

 不思議に思ったが、何故だか嫌ではない自分がいた。

 俺は、そんな母さんのなすがままになっていた。

 ばあちゃんは、そんな俺たちを見て笑いながらも、目から光るものをこぼしていた。

 

 

 母さんのハグから解放された俺は、そのあと夜ご飯の片付けを手伝った。洗い物をするばあちゃんの横で、濡れた食器類を慣れた手つきで拭いて、棚になおしていく。隣のばあちゃんはなんだかご機嫌そうで、鼻歌交じりに食器洗いに勤しんでいた。

 

 お風呂にも入り終わったので、そろそろ寝ようとリビングへ向かう。二人に寝る前の挨拶をするためだ。

 ばあちゃんの家は、リビング、キッチン、水回りを除くと二部屋なので、必然的に母さんと同じ部屋で寝ることになる。案の定、来た当初から母さんは大喜びだった。

 俺も、最初のころは母さんのことが心配だったから、一緒の部屋なのはちょっと嬉しかったかな。まあ、今は以前の母さんに戻りつつあるので、その心配も少しずつ薄れてきてはいるが。

 そんなことを考えながら、目の前の扉を開く。リビングで仲良くテレビを見ていた二人におやすみを言ってから、部屋へと向かう。

 母さんと使わせてもらっている部屋に入り、押し入れの中にある布団の準備をする。いつものように二人分の布団を敷き終わった俺は、さっさと布団にもぐる。

 今日は色々あって疲れたし、明日の朝も早い。とっとと寝てしまおう。

 そう思ったのだが、充電器に挿していたスマートフォンが振動する音が部屋に響く。

 眠ろうとしていた寸前だったので若干面倒に感じたが、横になっていた体を布団から起こし、部屋の机の上に置いてある携帯電話へと向かう。

 電源ボタンを押して画面を表示させると、メッセージが二件きていた。一件は、どうやらお風呂に入っている間に届いていたようだ。

 早速アプリを起動して、内容をあらためる。送り主は、今日連絡先を交換したばかりの晴絵と望だった。

 望からは、簡単な挨拶と、一言が。晴絵からも同じような一言が送られていた。ただ、晴絵の文には、交換した時の態度についての謝罪の一文もあった。

 

 どもども! これからも麻雀仲間としてよろしくね! まあ、良太もこんな可愛い子二人と友達になれて嬉しいんじゃないの? なんてね。

 

 連絡先交換したときは、なんか変な感じになっちゃってゴメンね! えっと、これからもよろしくお願いします!

 

 望からのメッセージは、らしい文だなあと思う。晴絵からのメッセージにはクスリと笑みがこぼれ、文字からも少しだけ緊張が伝わってくるなあ、と感じた。

 さっきまでの面倒だった気分は消え失せ、そんなメッセージに嬉しくなりながら、早速二人への返信を考える。望には、あえて同意の文でも送ってみるかな。そっちのほうがなんか面白そうだ。晴絵には、フォローを入れておこう。明らかに動揺していたしなあ。……まあ、可愛い反応だったよなあ、と思うけども。

 そんなことを考えながらメッセージを作成する。よし。こんな感じでいいかな。

 

 そうだな! 二人とも可愛いからちょっとドキドキしてるよ。こちらこそ、これからもよろしくな!

 

 気にしなくていいよ! なんか緊張させちゃったみたいでゴメンな! こちらこそ、これからもよろしく!

 

 こんな感じでいいかな。送信っと。さて、それじゃあそろそろ寝るとしよう。

 俺は、今日の楽しかった出来事を思い出しながら、布団にあらためて潜り込み、眠りについた。

 

 

 

 その日の夜、夢を見た。何故か妙に意識がはっきりしている気がするが、見えている人物の姿が、写真で見た小さいころの自分にそっくりなことから、これが夢なんだと判断出来た。

 

 誰かから貰ったのだろう。小さな手のひらに乗せた五百円玉を見つめながら歩いているようだ。その道は何となく見覚えがあったので、どこに向かっているのかすぐにわかった。どうやら、ばあちゃんの店の近くの和菓子屋さんへ行くようだ。

 日暮れが近いのか、赤く染まりはじめた空が辺りを包んでいる。

 何やら心踊らせた様子で、慣れたようにスイスイ歩いて行く小さな俺。どうやら、前方に目的の場所を見つけたらしい。

 その時、店から小さな俺と同じくらいの子供が出てきた。可愛らしい白い大きめの帽子を目深に被り、急いでいるのか妙に早足だ。腰までかかる赤く長い髪とスカートを履いていることから、女の子なのだろうということがわかる。両手には、そのお店の紙袋を抱えていた。

 瞬間、足がもつれてその子が転んでしまう。幸い、抱えた荷物がクッションとなり、その子と地面との間に挟まれる。だが、中身は……。

 何が起きたのかわからない様子だったその子は、自分の下敷きになってつぶれてしまっている紙袋に気づいたようだ。途端に、辺りに小さな泣き声が響き渡る。

 小さな俺は、少し迷った様子だったが、どうやら意を決して目の前のその子に話しかけてみるようだ。

 声をかけたその子は気づいた様子だったが、なぜだか急に下を向いてしまった。その口からは、小さく嗚咽がこぼれている。

 小さな俺も、それ以上はどうすればいいのかわからない様子で、立ち尽くしてしまっている。下を向いたまま泣きつづける少女。

 二人の間には、何ともいえない気まずい空気が流れ始めていた。

 女の子の泣き声に気づいたのだろう。見覚えのあるお姉さんが、店の中から出てきてくれた。

 小さな俺は見知った顔に少し安心した様子で、お姉さんに近づく。そして、自分が今見た光景をお姉さんに伝えて、なんとかならないかとお願いしている。

 話を聞いたお姉さんは、ニコッと笑い女の子へ近づくと、「交換してあげるから一緒に中へ行こう」と言葉をかける。

 女の子は、その言葉で泣き止んだのか黙ってうなずいて、お姉さんと一緒に店の中へ入っていった。そのお姉さんは店に入る直前、小さな俺に向き直り、こっちへきて、というように手招きする。

 立ち尽くしていたいた小さな俺だが、それを見て一緒に中へと入っていった。

 

 お姉さんの話によると、女の子がつぶしてしまった和菓子の一つが、その子が買ったもので最後だったらしい。今新しく作っている最中だそうで、次が出来るまで二十分ほどの時間がかかるようだ。

 女の子と、帰るタイミングを無くしてしまったらしい男の子は、お店の中の椅子に、微妙な距離を空けて腰掛けている。

 相変わらずうつむいたままのその女の子に、元気になってもらいたかったのだろう。握っていた五百円を使い、大好きなうぐいす餅を三つ買って、隣の女の子に一声かけて渡そうとしている。

 その声に反応してそっちを向きかけた女の子は、何故か慌てて体を戻し、背中を向ける。

 その瞬間、可愛らしいお腹の音が、店の中に響く。音の発信源は、その女の子のようだ。

 お腹の音を聞かれてしまったことが恥ずかしかったのだろう。体をぷるぷる奮わせ、さらに身を小さくして、うつむいてしまっている。

 小さな俺はそんな女の子へにっこり笑い、「どーぞ」と声をかけもう一度うぐいす餅を渡そうとする。女の子は、帽子で顔を隠したまま小さな俺に向き直り、ちらっとうぐいす餅を確認したあと、それを黙って受け取ってくれた。

 小さな俺は、うぐいす餅を食べながら、自分の両親のことや幼稚園での出来事、うぐいす餅の良いところなんかを話し始めている。

 女の子は、うつむいて両手でモソモソとうぐいす餅を食べながら、そんな話を黙って聞いていた。

 

 時折来るお客さんにも気付かない様子で、そんな他愛のない独り言を続けている男の子と、相変わらず黙ったままの帽子の女の子。

 そんな二人を眺めていたら、いつのまにか時間が経っていたのだろう。

 お姉さんがカウンターの中から出てきて、女の子に紙袋を渡してあげている。「気をつけて持って帰ってね」という一言に、女の子は黙ってうなずいた。

 その直後、消え入りそうな微かな声で、「ありがとうございました」と言ったのは聞き逃さなかった。

 小さな俺は、そんな様子をニコニコ眺めている。

 お姉さんにお礼を言ったあと、二人で店を出ていく。女の子は、小さな俺の後ろを静かについていく。

 

 店の玄関先で向き合っている二人。女の子は、まだ恥ずかしいのか、いまだに下を向いたままだ。

 結局、最後まで帽子に隠れて、はっきりと顔は見せてくれなかったその少女。腰の辺りまである綺麗な長い髪が、夕日に染まって更に赤く輝いて見える。

 そんな女の子に、「気をつけて帰ってね」と声をかけ、その子の手を握り、余っていたうぐいす餅をそっと手渡す小さな俺。女の子は少し驚いた様子だったが、そのまま受け取ってくれていた。

 そして、「ばいばい」と言って手を振り、そのまま立ち去っていく小さな俺。

 

 

 

 そこで目が覚めた。

 妙にすっきりした体をゆっくり起こし、枕元に置いた目覚まし時計を見る。時刻は、朝の五時半になろうかというところだった。隣では、母さんが大きないびきをかいている。いつもの見慣れた光景である。

 途端に、さっきまで鮮明に覚えていたはずの夢の記憶が、どんどん薄れていく。

 

 あれは、俺が小さかった時の記憶なんだろうか……。

 とはいえ、その辺の記憶は幼かったこともあってか、曖昧だしなあ。あの女の子は、そういえば同い年くらいだったのかなあ。

 

 なんとか記憶を絞りだそうとするものの、夢の欠片は散りじりになり、記憶の闇に消えていってしまった。

 ……まあ、いつまでもこんな事をしていても仕方がないか。タイミング良くいつもの時間に起きれたし、さっさと起きて弁当の準備でもしよう!

 そう気合いを入れて、目覚まし時計のタイマーを解除する。そして、母さんを起こさないように静かに布団をたたみ、押入れになおす。

 そのままゆっくりと部屋の扉を開けて、リビングに連なるキッチンを目指し歩みを進めた。

 

 相変わらず、いつ起きているのかな。

 そこには、いつものようにばあちゃんが立っていて、朝食の準備と、喫茶店で出すであろう料理の仕込みをしていた。慣れ親しんだハヤシライスの甘くて良い香りが、リビング中に広がっている。今日の日替わりランチのメニューなのかな。

 そんなばあちゃんに、「おはよう」と声をかける。ばあちゃんは、特に驚くこともなく、いつものように朝の挨拶を返してくれる。

 

 ここに来た当初は、俺の早起きや料理をすることに関して心配な様子を見せていたばあちゃん。しかし、自分で望んでやっているということを一生懸命伝えたところ、その意思を汲んでくれた。

 今では家事の役割分担もしっかり出来ていて、朝食はばあちゃんが。弁当は、朝食の一部とあとは自分で。夕食は出来るだけ二人で作るように、と三人で話し合って決めた。

 洗濯はもちろん、ばあちゃんと俺が交代でやる。そんな中、掃除だけは母さんの役目になっている。どうやら、完璧に見えるばあちゃんでも、掃除の腕では母さんには敵わないようだ。

 理由を聞いてみたところ、小さいころに俺のおじいちゃんに褒めてもらったことがきっかけで、妙に力を入れるようになったらしく、それが途切れることなく今日までずっと続いているようだ。

 もっとすごい内容を期待していた俺は、あまりにも単純過ぎるその理由に、自分の母親ながらもつい、可愛らしいなあ、と思ってしまった。不器用というか、純粋というか。

 父さんも、そんな真っすぐな母さんを見て、好きになったのかもしれないなあ、なんて。

 しかし、ここに来て早々、母さんとばあちゃんには無理を言ってしまったかもしれないな。でも、それを受け入れてくれた二人には本当に感謝している。

 

 そんなことを考えていると、いつものようにばあちゃんが話しかけてくれる。

 

「今日の朝ごはんは、きんぴらごぼうと塩サバ焼きよ。付け合わせの大根おろしは、良太にお願いしてもいいかしら?」

「やった、サバ大好きなんだ。大根のほうは任せて」

 

 ばあちゃんの隣に立った俺はまず手を洗い、手際よくおろし金を準備し冷蔵庫の中から大根を取り出す。包丁を手に取り、まな板の上で大根を半分に切る。そして、皮の部分に包丁の刃を当てながら、大根をクルクルと回して皮を剥いていく。そうして、皮を剥き終わった大根をおろし金にセットしてすりおろしながら、ばあちゃんに話しかける。

 

「今日の弁当のおかず、豚肉の生姜焼きにしようと思うんだ。昨日買い物に行ったとき、ちょうどタイムサービスで安くなってたから、思わず買っちゃった」

「あら、いいわね。きんぴらも良く合うから、持っていきなさいな」

「ありがとう、そうさせてもらうよ。あ、そうだ。ついでに、余った大根と冷蔵庫にあったきゅうりとにんじん。それと、そこのツナ缶も使わせてもらってもいいかな?」

「はいはい。好きなもの使っていいからね」

 

 会話を続けながらも、手は休ませずに動かす。

 カウンターの上にあったツナ缶が目に入り、そんな提案をしてみる。ばあちゃんは、いつものように快く了承してくれた。

 大根おろしの準備は終わったので、次は弁当のおかずになる予定の、豚肉の生姜焼きから作っていこうかな。それとも、大根ときゅうりとにんじん、ツナ缶を使って、先にサラダを作っちゃおうか。

 そんな会話を楽しみながら、料理を続けていくばあちゃんと俺。

 すると、リビングの扉がガチャリと開く音がする。少しの間手を休め、音のしたほうを見やる。その扉からは、眠そうな目を擦りながら、寝癖だらけの頭の母さんが入ってくる。

 

「おふぁよー」

 

 大きなあくびを隠すことなく、ノソノソとリビングの座椅子に座る母さん。そのまま流れるようにちゃぶ台の上にあったテレビのリモコンを手に取り、スイッチを入れる。テレビには見慣れた朝の情報番組が流れ始め、アナウンサーがちょうど六時になったことを告げた。

 いつもの美人な母さんが、台無しになっている瞬間だ。

 

「母さん。おはよう」

「おはよう。相変わらずだらしないわねえ」

「えー? だってさー……」

 

 そんな母さんに朝の挨拶を返すばあちゃんと俺。母さんは口を尖らせながら、小さな子供のような小言を言う。

 これが、これから恒例になっていくであろう、俺たちの朝の光景だ。

 

 

「じゃあ、いってきます!」

「母さん。いってくるねー」

「二人とも、気をつけていってらっしゃいね」

 

 ばあちゃんに見送られて、家を出発する母さんと俺。昨日からではあるが、これもまた、この先の日常の一部になっていくんだろうな。

 

 

「じゃあ、良太。気をつけてね」

「母さんも。仕事無理しないようにね」

「あ、待って良太! んー」

「……はいはい。もう行くからね」

 

 母さんとの別れ際。父さんが生きていた時から恒例にされていた、いってらっしゃいのキスをしようとしてくるこの人。以前は家の中だったからまだいいけど、昨日からは、松美館の前で実行しようとしてくるから驚きだ。もう少し、周りの目を気にしてほしいんだけど。

 それを顔を逸らしてかわしながら、学校に続く道へ体を向けて歩き始める。振り返ると、残念そうな顔をしながらも、手を振ってくれている母さんの姿が見えた。それに俺も手を振り返し、あらためて学校への道を歩く。

 

 もうすぐ一学期も終わり、夏休みがやってくる。

 まだまだ、阿知賀での生活は始まったばかりだ。

 

 

 



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