黒の銃弾と黒い死神 (夢幻読書)
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序章 黒い死神
第1話 日常の終わり、夢の始まり


 

 

 

 

 

 アナタにとって『日常』とは何ですか?

 

 腐臭が漂う路地裏から空を眺めながら、そんな言葉を思い出していた。学校の先生が道徳の時間に生徒達に投げた質問だ。

 

 ほとんどが平和の象徴とか、真の幸福だとか似たような内容ばかりだったけど、ボクだけは違った。

 

 『日常』とは死ぬまで終わらない無限ループだ。

 

 『日常』という言葉は本来、その人が繰り返す日々の生活を指すもので、個人によってその内容は大きく異なると言われている。であるならば、その人が何を『日常』と捉えているかによって普段どんな生活を送っているのか、どういう価値観を持っているかある程度推測できる。

 

「なあ、次はどうする?」

 

「うーん、腕と指はやったからぁ……脚はどうよ?」

 

 そして。

 

「お、いいね。どっちからやる?」

 

「んー、じゃ右足から」

 

 

 これがボクの『日常』だ。

 

 

「はーい、じゃあ右足逝きまーす!!」

 

「ぁ、ぅ……」

 

 愉しげに嗤いながら、男の足が躊躇なく踏み下ろされる。ボキィッ! と右足から嫌な音と言葉にならない激痛が走る。額からどっと汗が吹き出し、視界がチカチカと点滅する。ズボンの下では腕や指と同じように、右膝の周りが紫色に膨れ上がっていることだろう。

 

 泣き叫びはしなかった。痛みを絶叫で誤魔化す体力なんて、両手の五指をすべて折られた時点で使い果たした。

 

「ああ? 意識飛ばしてんじゃねーぞゴミ屑がッ!」

 

「かは……ッ!」

 

 男の爪先が鳩尾を捉え、肺の中の空気を無理矢理吐かされる。素人特有の力任せの蹴りだが、相手は仮にも大人だ。子ども、それも平均より痩せ気味なボクを蹴り飛ばすぐらい造作もない。

 サッカーボールの様にごろごろと転がるボクを見ながら、男達がげらげら笑う。

 

「畜生のぶんざいで俺たち善良な市民サマと同じ道歩いてんじゃねえよ」

 

「お前みたいな何の価値もないゴミは、こういう掃き溜めがお似合いなんだよ! ぎゃはは!!」

 

 侮蔑と嘲笑、ついでに唾を浴びせてから男共は路地裏から遠ざかっていった。

 

「……価値がない、か……」

 

 足音が完全に聞こえなくなったのを確認してから、ぼそりと呟く。

 

 無価値。今よりずっと幼い頃から言われ続けた言葉。ボクという存在を端的に示した表現。聞き飽きて聞き慣れたボクの代名詞。久しく自分の名前も呼ばれていない。

 

 

 ……あれ? ボクの名前って、なんだっけ?

 

 

 痛みに歯を食いしばりながら立ち上がり、折れた片足を引きずるように壁際まで移動する。

 薄汚れた壁に背をあずけ、一息吐こうとした瞬間、喉奥から何かがせり上がってきた。

 

「げほ、ごふ……ッ!? 」

 

 不意打ち気味にこみ上げた吐き気に対処できず、思わず地面にぶちまける。地面に咲いた真っ赤な花。それが自分の血だと気づくのにそう時間は掛からなかった。

 

 口の中が鉄臭くて気持ち悪い。立ちくらみにも似た眩暈に襲われ、受け身もとれずに倒れ込む。

 いつのまにか骨折の痛みは消え、呼吸も段々と落ち着いてきた。ただ、どうしてだろう。まるでピントの合わないカメラを覗いてるみたいに景色がぼやけてきた。

 

「……眠い」

 

 ほんの少しだけ休もう。

 瞼を閉じて浅く息を吐く。世界が闇に包まれ、意識が薄れていく。

 きっとこのまま意識を手放せば、もう二度と目覚めることはない。だけど恐怖も心残りもなかった。

 

 遊生夢死(ゆうせいむし)走尸行肉(そうしこうにく)。無価値な人間がこの世から居なくなるだけ。誰にも知られることなく。知られたとしても悲しむ人などいないが。これはそれだけの話だ。

 

 ───ああ、でも。

 

 ぼろぼろな腕で暗闇に手を伸ばす。この行動に意味なんてない。こんな感情に意味なんてない。だって、どうしようもないほど手遅れなんだから。それでも───

 

 もしも"次"があるのなら、ボクは……───

 

 

 

 

 

 

 この日、少年のありきたりな日常は終わりを迎えた。

 

 この日、"無価値な少年"は死んだ。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 ───2023年、日本。

 自衛隊は『ガストレア』と呼ばれる異形との戦争で、多大な犠牲を払いながらもなんとか侵攻を食い止めていた。

 

 『ガストレア』とは、ガストレアウイルスに感染し、遺伝子を書き換えられ怪物と化した生物の総称だ。奴らは突如として世界に現れ、瞬く間に人類を殲滅していった。赤く輝く目と動植物を巨大化したような醜悪な外見が特徴で、中には複数の生物を混ぜ合わせたキメラのようなガストレアも存在する。

 

「本部! 援軍はまだ到着しないのか!?」

 

『今そちらに向かっている! もう少しだけ踏ん張ってくれ!!』

 

「簡単に言ってくれる、ねッ!」

 

 喉元に喰らいつこうと飛び掛かってきた蜘蛛と犬を掛け合わせたようなガストレアの口に手榴弾を捻じ込み、そのまま蹴り飛ばす。蹴り飛ばした先に密集していたガストレア共々爆散し、肉片が飛び散る。

 

 戦闘が始まって数時間と経たないうちに、前線に駆り出された自衛隊は彼の部隊を残して全滅した。ガストレアの数はざっと見ただけでも数千体。絶望的な戦力差だった。

 

「隊長ッ! 設置完了です!!」

 

 部下の声を聞くと、彼は残っている手榴弾をガストレア達にばら撒いてから背後に走る。焼け石に水だが足止めぐらいにはなるだろう。爆風と異形の断末魔を背中で受けながら円状の塹壕に飛び込む。そこには彼の部下達が集まっていた。

 

「総員、目と耳を塞げッ!!」

 

 隊長が部下達に叫んだ瞬間、凄まじい爆発が塹壕を除いた周辺一帯を吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「や、やったか?」

 

 その言葉はこの場にいる誰しもが思っていたことだった。周囲は文字通り焦土と化し、黒煙が視界を完全に閉ざしている。

 大量のC4爆薬に物を言わせた物量作戦。戦死した仲間から拝借するのは良心が痛んだが、奴らを一網打尽にする策を他に思いつかなかった。

 

 先の爆発は凄まじい威力だった。殲滅が無理だったとしてもそれなりの数を減らせたはずだ。隊長はそう自分に言い聞かせるが、得体の知れない不安感は拭えなかった。

 

(どうか杞憂であってくれ……)

 

 焦げ臭い風が頬を撫で、土煙が薄れていく。そして───嫌な予感は的中した。

 

 大気を震わす咆哮が戦場に響き渡り、土煙が完全に晴れる。奴らは───ガストレアは健在だった。

 

「そんな、馬鹿な……」

 

 悪夢としか言いようのない光景に、部下が一人また一人と膝をつく。

 

 当然だ。弾薬は底をつき、爆発物は作戦で使ったC4が最後だった。残っている武器と言えば、この戦争において最も活躍の機会がないナイフと、己の肉体のみ。

 

 ある者は恐怖に震えた。

 ある者は悔しげに拳を握りしめた。

 ある者は絶望に濁った瞳でナイフを見つめた。

 

 そしてある者は、覚悟を決めて塹壕を出た。

 

「た、隊長? どこへ……?」

 

 部隊の中で最も若い男の声に、他の者たちも信じられないものを見るような目を隊長に向ける。いや、本当は分かっている。この状況で塹壕を出るという行為が一体何を意味するのかを。

 

「俺が可能な限り連中を引きつける。タイミングを見て、6時の方向に全力で走れ。そこが奴らの包囲網の中で最も手薄だ」

 

「そんな!? それじゃあ隊長は……」

 

「勘違いするな。心が折れた兵士など、戦場では足手纏いでしかない。未熟者と共倒れなど御免だ」

 

 言葉はどこまでも辛辣なのに、その声は慈しみに満ちていた。せめて自分の部下だけは守ってみせる。隊長は一度大きく息を吐いて、ガストレアの大群を鋭く睨む。

 

「お断りします」

 

「なに……?」

 

 まさか拒絶の意志を示すとは思っていなかった隊長は、部下達を振り返り呆気に取られる。

 恐怖が消えたわけではない。体は今も震えている。けれどもはや誰一人、その目は死んでいなかった。

 自分たちが今なおこうして生きているのは隊長のおかげだ。ならば、その恩を仇で返すなど出来る筈がない。

 

「……困った部下を持ったもんだな」

 

 隊長は目元を拭うと不敵に笑った。それにつられるように部下たちも笑った。先程までの暗い雰囲気はどこへやら。圧倒的な死を前にして、こんなにも穏やかな気持ちになれるなど思ってもみなかった。

 

「お前達と戦えたことを、誇りに思う」

 

 その言葉を合図に全員がナイフ抜き、構える。同時にガストレアが全方位から雪崩れ込んでくる。

 

「おおおぉぉおおッ!!!」

 

 ただでは死なない(無駄死になど御免だ)。一匹でも多く道連れにしてやる。男達は雄叫びを上げながら突貫した。そしてお互いが相手の間合いに入った瞬間。

 

 

 

 突如地面から飛び出した槍が、先陣を切っていたガストレア数十体を串刺しにした。

 

 

 

「なん、だ……これは……」

 

 それも全ての槍が正確にガストレアの心臓、もしくは脳を貫き絶命に至らしめている。異様な光景を前に数秒ほど思考が停止していると、その間に槍は霧散し、支えを失ったガストレア達の死体は地面に叩きつけられる。

 

「───遅れて申し訳ありません」

 

 死体に意識を集中していた彼らが顔を上げれば、眼帯のようなマスクを着けた男が黒い外套を(なび)かせ、白いフードを被った集団とともに悠然と歩いてくる。周囲にはまだ数千体のガストレアが跋扈しているというのに、まるで意に介さない堂々とした足取りだった。

 

(何者だ? 現れたタイミングからして、原理は分からないがガストレア達を串刺しにしたのは恐らくこの男の仕業だろう。……まさか援軍? いや待て、そもそも───)

 

 コイツらはどうやってここまで来た?

 

 視線は自然と謎の集団の背後に吸い寄せられる。そして、ぎょっとした。

 彼らが通ったであろう道には、夥しい数のガストレアがその骸を晒していたからだ。

 

「生存者の安全を最優先に陣形を組んでください」

 

「承知」

 

 男の指示に従って白フード達が、唖然としている自衛隊を囲むようにしてガストレアと対峙する。

 

「作戦はどうされますか?」

 

 直後、肉を突き破る音ともに男の腰から4本の触手が飛び出した。男の露出した左目が、赫く染まる。

 

「いつも通り───駆逐でお願いします」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生き残った自衛隊のメンバーは後に、そのときの出来事をこう語った。

 

 

 たった一人で、数千のガストレアを蹂躙するその姿はまるで───『黒い死神』のようだった、と。

 

 

 

 

 




 初めまして、夢幻読書と申します。まずはこれを読んでくださっているアナタへ心からの感謝を。未熟者ですが、これからも付き合っていただけると幸いです。



 ところで皆さんはどのカネキくんがお好きですか?

 ちなみに作者は闇カネキが好きです。



 評価・感想などお待ちしています。


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蛭子影胤テロ事件
第2話 穏やかで愛おしい日々


 本日2度目の投稿。ではどうぞ。


 

 

 

 

 

「10年前、人類はガストレアに敗北しました」

 

 西暦2031年。ガストレア戦争によって日本は東京、大阪、札幌、仙台、博多の5つのエリアに分断された。

 

「生き残った人々はモノリスという巨大な壁を建設し、その内側に逃げ込みました」

 

 ここは東京エリアの外周区、第39区。突き抜けるような蒼穹と爛々と輝く太陽の下、青年───金木(カネキ)(ケン)はガストレアが出現してからの10年間の流れを黒板にすらすらと書き記していく。

 

「そして、ガストレアへの対策として国は民間警備会社を設立しました。ここまでが前回の授業で話した内容だけど、みんな覚えてるかな?」

 

 振り向きながら尋ねると、返事はすぐに返ってきた。

 

「もちろん!」

 

「おぼえてるー!」

 

 そこには第39区で暮らす数十人にも及ぶ子供たち(マンホールチルドレン)がいた。人種に共通点は見当たらないが、その全員が女の子であった。

 

「よし! それじゃあ復習だ。10年前に東京エリアで起きたガストレア戦争の名前は───」

 

「はい! 第一次関東会戦です!」

 

「で・す・が、その数年後に再びガストレアに東京エリアを侵攻されかけたけど、快勝した会戦の名前は?」

 

「はいはい! 第二次関東会戦です!」

 

「恭子ちゃん正解!」

 

「あー!? 先生ずるーい!!」

 

「あはは、ごめんごめん。でもマリアちゃん、いつも言ってるけど話は最後まで聞かなきゃダメだよ?」

 

 真っ先に手を上げた生徒から非難されるが、子供らしいその反応はとても微笑ましく、カネキは自然と頬が緩んだ。

 

「それじゃあ次の問題に行こうか。人類はモノリスを建ててガストレアの侵略を防いだけれど、どうしてガストレアはモノリスに近づけないのかな?」

 

「えーと、モノリスがガストレアの嫌う金属でできてるから……?」

 

「正解。さっきの問題の補足にもなるけど、第二次関東会戦で快勝できたのはガストレアが嫌う金属───バラニウムの貢献が大きいね」

 

 バラニウムとは先程生徒が説明した通り、ガストレアの弱点となる金属だ。通常兵器でガストレアを攻撃しても、脳や心臓以外の箇所なら瞬く間に再生する。そのせいで当時の自衛隊は苦戦を余儀なくされた。

 

「それで最後の問題は『民警』についてなんだけど……」

 

 次に誰を当てようかとクラス全体を見回していると、教室の一番奥で自分を当てろと言わんばかりに手を上げている相棒を発見し、思わず苦笑いする。

 

「折角だから現役の民警である占部(うらべ)里津(りつ)さんに答えてもらおうかな」

 

 少しおどけた調子で紡がれたカネキの言葉に、クラス全員の視線が里津に集中する。しかし、それにたじろぐこと無く彼女は不敵に笑い、意気揚々と答える。

 

「民警とは『民間警備会社』の略で、ガストレア駆除を専門とした組織であり、"プロモーター"と"イニシエーター"の二人一組で現場に派遣される。アタシ達『呪われた子供たち』が民警になると"イニシエーター"と呼ばれ、民警になった人間を"プロモーター"と呼び、それぞれペアを組むんだ」

 

 そう言うと里津は誇らしげに胸を張り、どうだと言わんばかりの表情でカネキに視線を送る。いわゆるドヤ顔である。

 いや、民警やってるのにそれ知らなかったら色々まずいからね? とは思ったものの、それを口にするのはちょっと大人げない気がしたので笑って誤魔化す。

 

「あ、あはは……うん、正解だ。とりあえずここまでが前回の復習です。みんなちゃんと覚えてて偉かったよ。えー、それでは今日は約束通り体育の授業をしようと思います。天気も良いし、ドッジボールでもしよっか」

 

「「「「はーい!!!」」」」

 

 ドッジボールと口にした瞬間、子供たちはボールを持って教室(?)から飛び出した。

 

「あ、そうだ。()()は使っちゃ駄目だからねー!」

 

 彼女ら『呪われた子供たち』はただの人間ではない。妊娠中の母体がガストレアウイルスと接触することで、ガストレアの因子を宿して生まれた人間である。

 そしてウイルスが遺伝子に影響を与えることと、ガストレアが発生したのが10年前であるため、必然的に生まれてくる『子供たち』はその全員が10歳以下の女の子だ。

 

 彼女達はウイルスの恩恵(呪い)として超人的な治癒力や運動能力、感染したウイルスの種類によって固有の能力を持っている。

 例えば、ウサギの因子を持つイニシエーターは脚が早いといった具合だ。

 

 「?」

 

 ピロン、という電子音がポケットから響いた。誰からだろうと疑問に思い、メールを開くと差出人は友人のものだった。

 

「誰からだったの?」

 

「あれ? 里津ちゃんはみんなと遊ばないの?」

 

「その"みんな"にアンタを呼んでこいって頼まれてさ。で? 誰からだったのさ」

 

「将監さん。防衛省からの招集だって」

 

「はあ? 何であの脳筋から連絡が来るのさ。ふつう防衛省の方から電話かなんかが来るんじゃないの?」

 

「ああ、うん。それなんだけど、授業に集中し過ぎて気づかなかったみたい」

 

「えぇ……」

 

 里津は物凄く微妙な目でカネキを見ていた。

 

「ま、まあとにかく! 防衛省からの呼び出しだから行かなきゃね」

 

「……集合時間をとっくに過ぎてるとかないよね?」

 

「そこは大丈夫。でも余裕を持って到着したいから残念だけどドッジボールは無理だね」

 

 そう言って、二人はきらきらとした瞳でこちらを見る子供たちへ視線を向ける。

 

「先生ー! 里津ー! 早くドッジボールしよー!」

 

 笑顔で手を振る子供たちの姿にチクリと胸が痛むが、こればかりは仕方ない。

 

「みんなにはアタシから説明するから、カネキは長老の所に行きなよ」

 

「ごめん……」

 

「良いって。アンタ押しに弱いから、泣きつかれたら本気で防衛省行かなくなるでしょ」

 

「いやいや、流石にそこまでは」

 

 反論しようとした頃には既に里津は子供たちの元に走り出していた。それを見て無意識に溜息をつきながらコートを手に取る。10歳の女の子に気を遣われる24歳など、情けないにも程がある。

 

「おや? どうかしましたか、カネキ先生?」

 

 折りたたみ椅子に腰掛け、子供たちを喜色満面で眺めていた初老の男性がカネキに声をかける。彼こそが外周区の長老こと、松崎である。

 

「防衛省から招集がありました。なので、その……」

 

「ああ、そうでしたか。子供たちには私から言い聞かせておきます。ですから、そんな顔しないでください。あの子たちも分かってくれますから」

 

 

 

 

 

 結論から言えば、外周区の子供たちは快く二人を送り出した。松崎は温かい微笑みを浮かべ、子供たちは彼らが見えなくなるまで手を振り続けた。

 

 余談だが、授業を中断した対価として、1人2個ずつケーキを献上する事になったが、そんな事はどうでもよかった。

 快諾した時の幼女たちの笑顔は、それはもう凄まじかった。まさに地上に舞い降りた天使。あの笑顔を前にして抱きしめる以外の選択肢があるだろうか。例えロリコンと罵られようと金的を蹴り上げられようと、カネキはあの選択を後悔しない。

 

「じゃあもう一回蹴り飛ばしてやるよ」

 

「冗談です許してください本当すいませんでした」

 

 金的はマジで洒落にならない。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 ブラック・ブレット。それがこの世界の名前だ。

 

 ガストレアという怪物の退治を専門とする、対ガストレアのスペシャリスト、通称『民警』に所属する主人公と相棒の幼女の活躍を描いたライトノベル。僕がこの世界の人間───金木研という名前らしい───に憑依したのは原作開始の10年前、ちょうどガストレア戦争が始まったタイミング。人種も年齢も性別も関係なく、いっそ清々しいほど平等に人類が駆逐された時代。控えめに言って死と絶望のバーゲンセールだった。

 

 前世ではただの一般人だった僕には、この世界はあまりにも厳しすぎる。どうして神様はそんな難易度ルナティックな時期に憑依させたんですかねえ?(憤怒)

 

 全知全能なる神の嫌がらせはまだ続く。憑依した時期も酷かったが、僕の置かれていた状況はもっと酷かった。なにせ気がついた時には炎に包まれる街中で座り込んでいたのだから。それも血溜まりの上で。さらに腰からは血溜まりと同じように赤い触手を生やし、周囲には恐らく人であったモノからそうでない色々なモノまで転がっていた。

 第三者がこの惨状を見れば、僕が犯人だと勘違いされるのは確定的に明らか。弁護士だ、弁護士を呼んでくれ!

 

 カチャリ、と金属音を耳が捉えそちらに目を向ければ、銃器を構えた自衛隊に囲まれていた。とても友好的とは言えない雰囲気に気圧されていると、自衛隊の一部が僕に照準を合わせたままモーゼのように道を開け、そこから一人の老人が現れた。

 

 服の上からでも分かるほど鍛え抜かれた肉体。そしてその瞳には鋼の如き意志と、己から妻を奪ったガストレアに対する憎悪が炎のように燃え上がっている。老人───天童菊之丞を視界に収めた瞬間、僕の心は絶望の二文字で埋め尽くされた。

 

 天童菊之丞はガストレアを誰よりも強く憎んでいる。その憎悪はガストレアの因子を持つ『呪われた子供たち』にも当然向けられる。彼女たちを根絶やしにするためなら敬愛する主君(聖天子)を欺き、テロリスト(蛭子影胤)と手を組むことさえ厭わない。天童菊之丞とはそういう男だ。

 

 ではここで問題です。

 

 そんなガストレア絶対殺すマンと、ガストレアウイルスに感染し、腰から触手を生やすという明らかに化物に分類される者が対峙したらどうなるか。

 

 正解は、ガストレアを殲滅するための兵器として鍛える、でした。

 

 天童菊之丞の性格を知識から得ていたため、殺されると思ってぶるぶると震えていた僕はあれよあれよと言う間に最前線で戦っている特殊部隊にぶち込まれた。

 

 正直あの頃が一番キツかった。()()()との特訓は冗談抜きで死ぬかと思った。"命懸けの訓練"と言いつつ本気で命取りに来てたもの。殺しに来てたもの。鍛えるって名目で実は殺そうとしてるんじゃないかと何度疑ったことか。

 部隊()の人に「もしかして彼は僕の事が嫌いなんですか?」と泣きながら訊ねて爆笑されたのは良い思い出………では無いな、うん。

 

 あの人の常識外れな行動をみんなは『天然だから』の一言で済ませていたけれど、そんな理由で何度も三途の川を泳がされる僕の身にもなってほしい。

 

 けれど、彼のおかげでステージⅣのガストレア相手でも一人で屠れる程度には強くなれたのも紛れもない事実で、感謝はもちろん、尊敬もしてる。それに訓練の時以外は優しくて、まるでお父さんみたいだった。

 

 ガストレア戦争が終結したことで機械化特殊部隊(サイボーグ集団)と同様に僕が所属していた部隊も解体され、それをきっかけに僕は数年ほど世界を放浪した。

 そして、この世界が『子供たち』にとってどれほど過酷なものか痛感した。

 

 知識では知っていた。そう、()()()()()()()だった。

 

 彼女たちに人権などなく、『子供たち』と発覚すれば問答無用で殺される。まだ10歳にも満たない子どもが、情け容赦なく、まるで虫けらのように。

 ()()()()()()()()()()子もいたが、彼女たちは口を揃えて"殺してください"と懇願した。

 

 そんな彼女たちを放っておけなくて、僕は半ば無理矢理日本に連れてきた。今でこそ、もともと外周区にいた子供たちと一緒に無邪気に笑うようになったけれど、まだ時々悪夢を見るらしい。大人を見れば悲鳴を上げ、毎日悪夢に(うな)されてた当時と比べれば……マシ、だなんて口が裂けても言えないな。

 

 と、こんな感じでこの世界は幼女ほど死ぬ。それも味方の幼女ほど死ぬ。まあ、幼女以外(人間)もそれなりに死ぬんだけど、幼女の方が圧倒的に死亡率は高い。作者は幼女に恨みでもあるのだろうか?

 

 さて、そんな世界で二度目の人生を送っている僕だが、とりあえず"原作死亡キャラの救済"ってヤツを目指すことにした。伊熊将監、千寿夏世、布施翠、薙沢彰磨。彼らを救うには原作への介入は必至であり、しかし必要以上に干渉してはならない。僕が持っている知識はあくまで"僕が存在しない世界"の物語だ。ほんの僅かでも原作と違う展開になれば、僕の知識はただの妄想に成り下がる。それを回避するために細心の注意を払っていく必要があるんだけど……。

 

 

 

「お久しぶりです、カネキさん。私たちのこと、覚えていますか?」

 

 

 

 まるで、懐かしい友人と再会したかのような表情で目の前に立つ里見蓮太郎(主人公)天童木更(ヒロイン)を見て、僕は思った。

 

 

 

 

 ……どうしてこうなった?

 

 

 

 



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第3話 矛盾

 キャラ崩壊ではない……はず……。


 

 

 

 

 

 時を遡ること数時間前。

 

 防衛省に到着した僕と里津ちゃんは、受付嬢に案内された会議室の前に来ていた。防衛省に呼び出されたということは、遂に物語が動き出したのだろう。

 

 『蛭子影胤テロ事件』。

 自称世界を滅ぼす者、蛭子影胤は『七星の遺産(三輪車)』を触媒にかつて世界を滅ぼした11体のゾディアック(ステージⅤ)ガストレアの1体、『スコーピオン』を召喚する。主人公である里見蓮太郎を最初は圧倒していた影胤であったが、調子に乗っていたところを覚醒した蓮太郎にボコボコにされて敗北。頼みの綱であったスコーピオンも超大型兵器『天の梯子』によって呆気なく撃破され、事件は解決。東京エリアは平和を取り戻す。

 

 大凡の流れはこんな感じだ。

 けれど、その過程には多くの犠牲があった。影胤に返り討ちにされた者、報酬獲得の邪魔だからと味方に裏切られた者、友を守る為にたった一人で戦い続けた者。

 

 僕の行動の一つひとつが彼らの生死に直結する。失敗は許されない。その事実が心に重く伸し掛かる。

 

 自分なんかに本当に彼らを救えるのだろうか。そんな自問自答をこれまで何度も繰り返し、未だ答えは出ない。しかし、先延ばしにしてきた答えはすぐ目の前まで迫っている。

 

(……でも、やることは変わらない)

 

 指で軽く眼鏡を押して、顔を上げる。決して楽な道のりではない。過酷なのは重々承知。なら、ごちゃごちゃ考えたって仕方ない。

 

 扉に手を掛け、臆することなく部屋に足を踏み入れた。

 

 中を見渡すと既に多くの民警が揃っていた。高級なスーツに身を包んだ人間たちはそれぞれ指定の席に着いており、その背後にはバラニウム製の武器を持ったプロモーターとイニシエーターが控えている。

 

 その光景に思わず我が目を疑った。集合時間にはまだ余裕があるというのに、席の大部分が埋まっていたからではない。カウボーイの格好をした男や包帯で顔を覆っている者など、どこぞの仮装大賞の出演を狙っているとしか思えない人たちがいたからでもない。

 

 部屋の中央にある細長い机。正確にはその上で、どこかで見た覚えのある振り付けを大変ノリノリで、しかも音も無く踊っている仮面の男(変態)を視界に捉え、思わず絶句する。そして、キレのあるステップを踏みながら勢いよく振り向いた変態と、ばっちり目が合った。

 

「…………………………」

 

「…………………………」

 

 互いに無言。いたたまれない沈黙。この気持ちを表現するとしたら、そう。まるで自室でこっそり薄い本を読んでいた息子を見てしまった母親と、その母親の視線に気づいた息子みたいだ。

 

「カネキ? 大丈夫? なんか死んだ魚みたいな目になってるけど」

 

「……うん、大丈夫。座ろっか」

 

 怪訝そうにこちらを見上げる里津ちゃんの手を引いて逃げるように指定の席(末席の隣)へ向かう。僕は何も見ていない。

 

「よお、カネキ」

 

「こんにちは。カネキさん、里津さん」

 

 声を掛けられ振り返ると、そこには『三ヶ島ロイヤルガーダー』所属のプロモーター・伊熊将監と彼のイニシエーター・千寿夏世がいた。将監さんは軽く手を上げながら、夏世ちゃんは僅かに頬を緩めながら近づいて来た。

 

「あ、将監さん。連絡ありがとうございました。夏世ちゃんもこんにちは」

 

「おっす夏世ー。あと脳筋も」

 

「おい誰が脳筋だこのクソガキッ!」

 

「はッ、この場で脳筋と言ったらアンタ以外いるわけないでしょ。だってアンタ、ぶふっ、夏世から聞いたけど、の、脳味噌まで筋肉で出来てるらしいじゃんっ」

 

「夏世テメェ……!」

 

いふぁいれふひょうえんひゃん(痛いです将監さん)ふぃっふぁららいへくらひゃい(引っ張らないでください)

 

 将監さんが青筋を立てながら夏世ちゃんの頬を引っ張ると、まるで餅のようにびよーんと引き伸ばされる。それでも無表情を貫くあたり彼女らしいが、目尻には薄っすらと涙が浮かんでいる。それを見て、将監さんの顔面に華麗なドロップキックを決める里津ちゃん。

 

「将監! 女の子の顔になんて事するのさ!」

 

「激昂するとすぐ手を出す。やはり将監さんは脳筋ですね」

 

「ぬおぉぉ……! 顔、俺の顔が……ッ!」

 

 両手で顔を押さえながら地面に蹲る大人と、それを見下ろす幼女二人。将監さんが特殊な性癖に目覚めないことを切に願う。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「………………」

 

 その後、今晩4人で外食する約束を交わし、席に着いた僕は持参した本を開いていた。里津ちゃんは僕の膝の上でイヤホンをしながら音楽を聴いてる。確か『天誅ガールズ』の主題歌、だったかな。……あ、思い出した。さっきの変態の動きは天誅ガールズの曲の振り付けだ。

 

 ───え? じゃあ彼は天誅ガールズを見ているのか?

 

 ……ははは、まさか。確かに彼は蓮太郎に一目惚れしたり、蓮太郎に殴られて狂喜乱舞する変態だけど、決してアニメに熱中するようなキャラでは無かったはずだ。

 いや、もしかしたらそれ(アニメ好き)を示唆する描写が無かっただけで本当はそういうキャラだったのかもしれない。例えば、娘でありイニシエーターでもある蛭子小比奈が、実は天誅ガールズにハマっていて、それを偶々一緒に見ていた影胤ものめり込んでしまった、とか。

 

「……………………………………」

 

 現実逃避(読書)もそろそろ限界だ。本を読んでいても目がすべる。映像が頭で再生されない。眼球が文字を追っているだけで内容がちっとも頭に入ってこない。

 本を閉じ、観念して目線を上げる。

 

 視界一面に広がる白。それは机の上から僕を覗き込んでいる影胤の仮面だった。

 

 この男、最初に目が合ったときからずっと僕を観察している。鬱陶しいことこの上ないが今は放置するしかない。()()()()()()()()()()()()()()この状況で、行動を起こせば好奇の視線に晒されるのは確実。それに僕を観察しているのは何も彼だけじゃない。

 

「おい、さっき三ヶ島のところの民警と話してたあの男は……誰だ?」

 

「やけに親しげだったが、見ない顔だな。新人か?」

 

「民間警備会社『あんていく』……。知らんな」

 

 べ、別に気にしてないし。原作に介入しやすいから民警に成っただけだし。名前が売れてなくても、全然、これっぽっちも悔しくないし。

 

 気を落ち着かせるために部屋に用意されていた水に手を伸ばすと、向かい側の席から雑談が聞こえてきた。

 

「あ、そういえばこの前ある噂を耳にしたんですよ」

 

「噂?」

 

「はい。『黒い死神』の話はご存知ですね?」

 

「ああ、『新人類創造計画』と並ぶ都市伝説だろ。そんなもの子供でも知ってる」

 

 あ、この水おいしい。やっぱり国の行政機関が出す水は違うなぁ。

 

「ではこの噂はどうです? ガストレア戦争終結後にその存在が確認され、2年前に忽然と姿を消した『隻眼の王』。奴はその死神と同一人物なんじゃないかという噂なのですが」

 

 ブフォーー!! と思わず口に含んだ水を噴き出した。

 

「ぎゃあああ!? カネキ、アンタ何してんの!?」

 

「ご、ごめん!! 今拭くから!」

 

 周囲から不審の視線と嘲笑を送られるが、全て無視して里津ちゃんの体を拭いていく。幸いな事に彼女はそこまで濡れていなかった。そう、()()()

 

「あ」

 

 そう言えば僕の正面には彼が居たはず。恐る恐る顔を上げれば、先程と変わらぬ姿勢でこちらを覗き込む影胤。しかし、ご自慢の白い仮面はずぶ濡れで、ポタポタと水が滴っている。

 

「…………………………」

 

「…………………………」

 

 本日何度目かの沈黙。仮面の奥の瞳は、心なしか悲しそうだった。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「───絶望したまえ民警の諸君。滅亡の日は近い。行くよ小比奈」

 

「はい、パパ」

 

 窓を叩き割って飛び降りる二人を、俺たちはただ見送る事しか出来なかった。誰一人動けなかった。視線だけで殺されると思ったのは生まれて初めてだ。

 

 不意に誰かの手が肩に置かれビクリとする。振り返るとそこには厳しい表情をした木更さんの顔があった。

 

「里見くん、説明なさい。あの男とどこで出会ったの?」

 

「それは……」

 

 どこから説明する? どう説明する?

 俺が言い淀んでいると、三ヶ島が『新人類創造計画』の真偽を菊之丞(ジジィ)に詰問するも「答える必要はない」と一蹴され、再び重い沈黙が場を支配した。

 

 その直後、欠席した大瀬社長の秘書が会議室に飛び込んできた。

 

「社長が……自宅で殺された……! し、死体の首がッ、どこにもないんだァッ!!」

 

 全員の視線が影胤が置いていった箱に向けられる。俺は震える手で蓋を持ち上げようとして───

 

「───やめた方がいい」

 

 横合いから伸びた手にあっさりと止められた。反射的に手の主を見れば、黒髪の青年が氷のような冷たい瞳で、眼鏡越しに箱を睨んでいた。どうしてか、その横顔に妙な既視感を覚えた。

 

 この男……何処かで会ったような……。

 

()()()()()()()()()

 

 その言葉が何を意味するのか理解した瞬間、俺は男の手を乱暴に振りはらって、箱から目を背けた。男は、俺に蓋を開ける意思がないことを確認すると、静かにモニターを見上げた。

 

「聖天子様、既に犠牲者が出ています。ケースの中身を説明していただけませんか?」

 

『……いいでしょう。ケースの中に入っているのは七星の遺産。邪悪な人間が悪用すればモノリスの結界は破壊され、東京エリアに"大絶滅"を引き起こす封印指定物です』

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 イレギュラーがあったものの、それ以外は原作通りの展開だった。『天童民間警備会社』の二人が最後に会議室に到着し、将監さんと一触即発の空気になり、聖天子(国家元首)様の依頼に不信感を抱いた天童木更が辞退を申し込んだところに高笑いを上げながら影胤が介入。ええ、はい。笑いを堪えるのに必死で彼の話は半分も聞いてませんでした。

 

 とにかく。聖天子様からの依頼は、とあるガストレアが取り込んだ七星の遺産(ケース)をあの男よりも早く回収すること。失敗すれば東京が滅ぶ。最初からクライマックスである。

 この事件が彼女の隣に佇んでいた菊之丞さん(あの男)が原因だと思うと憂鬱で仕方ない。

 

「あの、すみません……お時間よろしいですか?」

 

 溜息をこぼしながら出口に足を向けると、背後から声をかけられた。

 

「あ、はい。大丈夫、です、よ……?」

 

 反射的に外向きの笑顔を貼りつけて振り返ると、そこには予想外の人物たちがいた。

 

「ほら、やっぱりだわ里見くん! 彼に間違いないわ!」

 

「落ち着けって木更さん。もしかしたら俺の勘違いかもしれないんだから……」

 

「わ、わかってるわよ!」

 

 一人は天童(てんどう)木更(きさら)。艶のある黒い髪を持つストレートヘアの巨乳美少女。そしてもう片方は、十分整った顔立ちをしているのに、その覇気のない瞳と無愛想な表情がすべてを台無しにしてるとしか思えない少年、里見(さとみ)蓮太郎(れんたろう)

 

「お久しぶりです、カネキさん。私たちのこと、覚えていますか?」

 

「…………………」

 

 爽やかな営業スマイルが徐々に引き攣った笑みへと変化する。なるほど、これがいわゆる悲劇的ビフォーアフターか……って違う! 落ち着け、一旦冷静になるんだ。深呼吸、そう深呼吸をするんだ。

 

 覚えてますか、って。え、なに、どういうこと? もしかして僕は彼らと会ったことがあるの?

 

「あ、あのー……カネキさん、で合っています、か?」

 

「へあ!? あ、はい。合ってます。合ってるんですけど……」

 

(どうする!? 彼らに「君たちの事なんて知らない」と正直に言うか? いやでも、二人揃って凄い不安そうな顔になってるし……け、けど僕には彼らと会った記憶なんてないし)

 

 どうしよう、そう視線に込めて里津ちゃんを見る。軽いパニックに陥りかけていた僕は、藁にもすがる思いで彼女に助けを求めた。

 

 ───頑張れ。

 

 親指をぐっと上げた相棒に涙が出そうになった。

 

「……もしかして覚えていませんか?」

 

「え、えーと、えーと……」

 

 覚悟を決めろ、金木研。僕は彼女たちと会ったことはない。なら、それを素直に伝えるんだ。悲しませちゃうかもしれないけれど、彼女たちを騙すよりはマシだろう。

 

「いや、申し訳ないけど君たちと面識は───」

 

 無い、そう口にしようとした瞬間。

 

 

 

 ズキリと、まるで眼球の奥を抉られ、脳を内側から掻き回されているような激痛が走った。

 

 

 

「───っ!?」

 

 頭痛を誤魔化すために手のひらに爪が食い込むほど握りしめ、顔にだけは出すまいと歯を食いしばる。

 その痛みは一秒ごとに強く、鋭さを増していく。とうとう視界まで霞みだした。

 

 頭が割れる、そう思った。

 

「───、カネキッ!」

 

 突然耳もとに響いた里津ちゃんの声を皮切りに、痛みが波のように引いていく。心配そうな顔でこちらを窺う彼女に「大丈夫」と手で制しながら、軽く頭を振り、ゆっくりと息を吐き出す。

 

 痛みは、消えていた。

 

 ……何の話をしてたんだっけ? ああ、そうだ。

 

()()()()()()。木更()()()に、蓮太郎()()。驚いたな……見違えたよ」

 

 懐かしいなぁ。道場に通ってた時は、いつも僕の後ろを二人でとことこ付いてきてたっけ。

 

「なんだよ、思い出したって……。やっぱ忘れてたんじゃねぇか」

 

「あらぁ? 里見くんったら拗ねてるのかしら」

 

「別に拗ねてねぇよ……」

 

「そりゃそうよね〜。あの頃の里見くん、彰磨くんと同じくらいカネキくんに懐いてたもんね〜」

 

「だからそんなんじゃねえって!」

 

 蓮太郎くん、顔が真っ赤だぞ。

 

「あははは……ごめん、ごめん。でも本当に見違えたよ。蓮太郎くんはハンサムになったし、木更ちゃんは美人になったし」

 

「うふふ、そう言ってくれると嬉しいわ。里見くんなんて滅多に褒めてくれないんだから」

 

「いや、木更さんが綺麗なのはいつもの事だし……」

 

 蓮太郎くんの独り言は木更ちゃんの耳には届かなかったようだ。……どうしてだろう。無性にブラックコーヒーが飲みたくなってきた。

 

「……ねえ、ちょっと」

 

 袖を引っ張られて首を巡らせれば、不満そうに頬を膨らませている相棒の姿が目に映った。

 

「いい加減その人たちの事をアタシに紹介してくれても良いんじゃない?」

 

 どうやら会話に混ざれず、一人だけ蚊帳の外だったのがお気に召さなかったらしい。

 

 簡単な自己紹介を済ませた後、午後から暇だと言う蓮太郎くんたちを夕食に誘った。

 店の名前を聞いて顔面蒼白になる二人だったが「民警になったお祝いと、今まで連絡すらしなかったお詫びだから遠慮しなくて良い」と伝えると、絶望していた顔が困惑した表情に。そして、僕の言葉がようやく理解できたのか、お互いに顔を合わせ一つ頷くと、周囲の目も気にせず歓声を上げながら泣き崩れた。どんだけ金に困ってたんだこの二人。

 

 

 

 

 この時の僕は、昔の知り合いと再会したことで色々と浮かれていたんだと思う。

 将監さんには"友人を連れて行く"とメールを送り、蓮太郎くんたちには"友人と店で落ち合う"としか言わなかった。

 

 彼らが防衛省で一悶着あったことなど、完全に忘れていた。

 

 

 

 




金木 研(カネキ ケン)
・24歳
・Blood type:AB
・Size:170cm/58kg
・Like:里津、39区の子供たち、知的な女性

占部 里津(ウラベ リツ)
・10歳
・Blood type:O
・Size:138cm/37kg
・Like:39区の子供たち、天誅ガールズ、肉料理(レア)
・Love:カネキ
・Hate:殺しを正当化するヤツ
・Gastrea model:シャーク


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第4話 仮面が剥がれる者、仮面を張り続ける者

 漫画版の将監さんってただのツンデレだと思う。


 

 

 

 

 

 『ペルソナ』という言葉がある。元々の意味は古典劇などで役者が用いていた『仮面』で、スイスの心理学者であるユングが提唱した概念である。ペルソナとは、簡単に言えば「人間には複数の仮面()があり、それを場面に合わせて使い分けている」というものだ。例えば親としての顔、教師としての顔、友人としての顔など、その人の地位や役割によって態度は変わる。

 

 全員がそうだとは言わない。仮面など着けず、自分らしく生きている人間だって世の中にはいるだろう。だが、そんな生き方が出来る人間はほんの一握りだ。

 もしも本音を言って相手に嫌われてしまったら? もしも本当の自分を否定されたら? そんなリスクを負ってまで仮面を外す必要があるのかという不安(感情のブレーキ)が、自分らしくありたいと願い、勇気を持って仮面を外そうとする人たちの手を止めさせる。

 

 では、その不安を乗り越えられない人たちは一生仮面を着け続けるのかと問われれば、答えは否だ。彼らが仮面を捨て去る方法は存在する。要はそのブレーキを取っ払えば良いのである。言うは易いが具体的にはどうするか? 簡単だ。

 

 

 

 

 

 酩酊(思考力を低下)させれば良い。

 

 

 

 

 

「だからさぁ、俺ぁ脳筋なんかじゃねえの分かるぅ?」

 

「いえ、将監さんが脳筋なのは否定しようのない事実です。一度ご自分の人生を子宮にいた頃まで振り返ってみてください」

 

 夏世から辛辣なツッコミを入れられるが、良い感じに酔っている将監の耳には届いていないらしい。

 

「どいつもこいつも人を見てくれで判断しやがって……。悪人面? 眼つきが悪い? 生まれつきなんだよ直しようがねぇんだよ俺にどうしろってんだよ!!?」

 

「その気持ちよく分かるぜ。俺もよく不幸面とか、目が死んでるとか色々言われるからな」

 

「やめろ、俺に同情するんじゃねぇ! お前みたいな幸薄そうなガキに同情されたら俺にまで不幸が感染(うつ)っちまうだろうが!!」

 

「テメェさっき人を見た目で判断するなって言ったばっかだろうがッ!」

 

「まあまあ。蓮太郎くん落ち着いて」

 

 ドリルのように高速で手のひらを返した将監に、二つ隣の席から全力で叫ぶ蓮太郎。そしてそれを、彼らに挟まれるような位置に陣取るカネキが困ったように笑いながら宥める。

 

「ええ!? お主らも天誅ガールズを見ておるのかぁ!?」

 

「む、その反応から察するにもしや延珠さんも?」

 

「え、マジ!? 延珠も天誅ガールズ見てんの!?」

 

「へ、へぇー……。天誅ガールズ……みんな天誅ガールズが好きなの?」

 

「「「もちろん(です)!!!」」」

 

 男性陣の向かい側では女性陣が(一名を除いて)共通の話題を発見したことでテンションが急上昇。普段は冷静で落ち着いた物腰の夏世ですら、今は年相応にはしゃいでいる。

 

 ここに至るまでの経緯を説明しよう。カネキと里津は蓮太郎たちと防衛省で一旦別れると、日が沈み始めるまで外周区で時間を潰し(約束通りケーキも献上した)、その後、蓮太郎と延珠、木更の順に自宅を訪問。食費を削ってまで見栄を張り(お嬢様学校に通い)続ける木更に、彼女以外の全員が呆れと憐憫の眼差しを向けつつ夜の街を移動すること数十分。目的のお店に入ると、8人用のボックス席で腕を組む将監と人形のように微動だにしない夏世を発見した。

 

 将監を視界に捉えた瞬間、ぎょっとした表情を浮かべる蓮太郎と木更に構わず、カネキは彼らの席に足を運んだ。

 

 まるで友人のようなやり取りを交わすカネキと将監に、蓮太郎たちは困惑した。そして、カネキが連れてきた蓮太郎たちに気づいた将監も困惑した。そこでようやく彼らが防衛省で揉めたことを思い出したカネキは両手で顔を覆った。

 

 料理が運ばれてくるまでの間、険悪とはいかないまでもそれなりに気まずい空気が場を支配した。だがそれも、5杯目のビールを呷った(酔っぱらった)将監によって呆気なく霧散したが。

 

「蓮太郎ぅ、ちゃんと飯食ってるかぁ? ほら俺のピザやるから、しっかり食わねえとでっかくなれねえぞぉ」

 

「ほっとけ! つかアンタ、(性格)変わり過ぎだろ」

 

 蓮太郎は酷く戸惑っていた。防衛省で会った時はチンピラみたいな雰囲気だったのに、今はまるで世話好きな近所のおじさんだ。

 

「口答えするんじゃねぇ! そんなモヤシみてえに細ぇ体で民警が務まると本気で思ってんのか!?」

 

 顔を赤くした酔っぱらいがいきなり何を言ってるんだという言葉を、蓮太郎はぎりぎり飲み込んだ。将監の目が場違いなほどに真剣だったからだ。

 

「だいたいよぉ、俺ぁガキが民警やってること自体が反対なんだよ」

 

「……随分と上から目線だな」

 

「あぁ? ったりめえだろが。大人がガキの心配して何が悪い」

 

 そう言って将監はもはや何杯目かも分からないビールを飲み干す。

 

「命張るのも、痛ぇ思いすんのも、全部俺ら大人に任せて……ガキは、ガキらしく……笑ってりゃ……」

 

 徐々に瞼が下りていき、テーブルに突っ伏すと将監はそのまま寝息を立て始めた。蓮太郎はその様子を複雑な思いで見つめる。

 

「驚いた? 彼、どちらかと言うとこっちが素なんだよ」

 

「は?」

 

 蓮太郎の内心を察したカネキが、穏やかに声をかける。彼自身も、伊熊将監の人柄を知ったときは非常に戸惑ったものだ。

 

「将監さんはああ見えて、本当は誰よりも争いごとが嫌いなんだ。そして何よりも、子どもが傷つくのを許せない。防衛省で君たちに突っかかったのは彼なりの気遣いだったんじゃないかな」

 

「気遣いって、アレのどこが……」

 

 すぐさま否定しようとした蓮太郎だったが、ふと防衛省で交わした将監との会話を思い出した。あの男はなぜか終始、自分たちを部屋から締め出そうとしていた。

 蓮太郎はその理由を、弱い者を見下して悦に浸るガキ大将のようだと推測していたが……。

 

「その顔は思い当たる節があるってところかな」

 

「……普通アレを一発で気遣いだと気づけるヤツなんていないと思うけどな」

 

「それはほら、将監さんってツンデレだから。酔わないと素直になれない人だから」

 

「知らねえよ。ていうか男のツンデレとか誰が得するんだよ」

 

「一部の層の人たちには需要があるんじゃないかな……っと、そろそろ出ようか」

 

 カネキが時計を確認すれば、すでに午後10時を回っていた。向かいの席を見れば、3人揃ってあくびをする幼女たち。子どもは寝る時間である。

 

 酔い潰れた将監をカネキが担ぎ、会計を済ませると全員で店を出た。

 

「将監さーん、起きてくださーい」

 

「駄目ね、完全に熟睡してるわ」

 

「カネキさん、将監さんは私が家まで運びますので問題ありません」

 

 将監を起こそうと顔をペチペチと叩くカネキに夏世が提案する。人間よりも身体能力が優れている呪われた子供たちなら、大人を背負って歩くことなど容易い。

 しかし、カネキはその意見をやんわりと退ける。

 

「いや、将監さんは僕が運ぶよ。子どもに大人を担がせるのは気が引けるからね。里津ちゃん、僕は夏世ちゃんたちの家に寄って行くけどどうする?」

 

「ふわぁー……行く……」

 

 里津は眠たげに目をこすりながらカネキのコートを掴む。

 

「カネキくん、今日はありがとう。ご馳走さまでした」

 

「気にしなくて良いのに。まあ、何か困ったことがあったらいつでも連絡して。それじゃ、おやすみ」

 

「ええ。おやすみなさい」

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 蓮太郎くんたちと別れ、将監さんの家に到着する頃には里津ちゃんの眠気が限界を迎えたこともあり、その日は急遽彼らの家に泊まることになった。

 夏世ちゃんがシャワーを浴びてる間に将監さんを自室のベッドに放り投げ、里津ちゃんを客間に用意された布団の上に寝かせた。むにゃむにゃと気持ち良さそうに眠る里津ちゃんの頭をそっと撫で、静かに立ち上がる。

 

 里津ちゃんを起こさないように足音を殺しながら部屋を出る。まだ浴室にいた夏世ちゃんには、扉越しに「風に当たってくる」と断りを入れてから家を後にした。

 

 

 

 

 

 向かった先は近くの公園。月が雲に遮られている影響で周囲は薄暗く、深夜だからか人気(ひとけ)もない。ここなら万が一のことがあっても対処できる。

 

「そろそろ出てきたらどうですか?」

 

「───ヒヒッ、やはりバレていたか」

 

 油断なく振り返ると、そこには燕尾服に白い仮面を着けた男と、黒いワンピースの少女が佇んでいた。

 

「こんばんは、カネキくん。また会えて嬉しいよ」

 

 

 

 




伊熊 将監(イクマ ショウゲン)
・31歳
・Blood type:AB
・Size:187cm/92kg
・Like:闘い、強さ
・Hobby:自己鍛錬、刺繍
・Hate:子どもを信じない親、権力、争い(無関係な人間も巻き込むから)
・最近:夏世に婚活を勧められる

千寿 夏世(センジュ カヨ)
・10歳
・Blood type:B
・Size:140cm/36kg
・Like:将棋、クロスワードパズル、水中、天誅ガールズ
・Hate:"家族"を侮辱する人
・Gastrea model:ドルフィン


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第5話 エゴ

 

 

 

 

 

「今宵はいい夜だ。そうは思わないかい?」

 

 薄暗い深夜の公園で、カネキは蛭子親子と対峙していた。

 

「用件は何ですか?」

 

「つれないねぇ。まあいいさ」

 

 カネキの単刀直入な物言いに、影胤は鷹揚に手を広げ、嗤う。

 

「では率直に言おう。君を勧誘しに来たんだ、カネキくん」

 

 雲の隙間から月が顔をのぞかせ、まるで舞台のスポットライトのように影胤を照らしだす。

 

「勧誘、ですか」

 

 防衛省で影胤に目をつけられた時点で、この男が自分に接触を図るのは時間の問題だと思っていたが、まさかその日のうちに再び現れるとは完全に予想外だった。

 

「そうだ。君は防衛省に集まった民警の中で、唯一私の存在に気づいていたね。どうしてバレたのか不思議でたまらなかったよ」

 

 影胤の言う通り、カネキは防衛省で彼の存在を認識していた。それも気配を完璧に断っていた影胤を、だ。ではなぜ、カネキは彼の存在を知覚できたのか?

 

 理由は二つある。

 

 まず一つ目。カネキがガストレア戦争で培い、世界を放浪する過程で磨いた気配感知が、影胤の気配遮断よりほんの僅かだが優れていたこと。

 

 当たり前だが、気配を消したところでその人物が目の前からいなくなるわけではない。気配を消した状態とは、例えるなら隠し絵だ。

 

 隠されている絵がどこにあるか知っていれば見つけ出すのは容易だが、そもそも"隠し絵"であると知らない者からすれば何の変哲もない一枚の絵だ。

 

 気配感知に優れる者は言い換えれば、この隠されている絵を見つける行為に長けているとも言える。

 

 そして二つ目の理由は、カネキが原作知識のおかげで、防衛省(一枚の絵の中)蛭子影胤(隠されている絵)がいると知っていたこと。もしも原作知識が無ければ、カネキはあの場で影胤を明確に認識することは不可能だっただろう。

 

「そこで調べさせてもらった。金木研、24歳。IP序列は12万2012位。両親は10年前に他界。天涯孤独の身となった君は、両親と生前からの友人であった天童菊之丞に養子として迎えられたらしいね。里見くんと同じように」

 

 自らの個人情報をつらつらと並べられているのに、カネキは表情一つ変えない。その程度の情報なら、この男が入手していても何ら不思議ではなかったからだ。

 

 故に。

 

 直後、影胤の口から飛び出した言葉によって、その余裕は一瞬で消え失せた。

 

「───ガストレア戦争時の偽名(コードネーム)は『ハイセ』」

 

「……っ」

 

 ここにきて初めてカネキの表情に変化が現れた。それは動揺だった。

 

 『ハイセ』とは、カネキがガストレア戦争に参加することになった際に、身元を特定されると不都合だからという理由で、国から契約書と一緒に渡された偽名だ。しかしそれは、カネキと同じ部隊にいた者や菊之丞など、ごく一部の人間にしか開示されていない情報だ。

 

 それを、どうしてお前が知っている。カネキの脳内はそんな疑問で一杯だった。

 

「おや? 君が当時使っていた名前を私が知っていることがそんなに意外だったかい"黒い死神"。おっと失礼。今は"隻眼の王"なんて呼ばれているんだったね」

 

 仮面に手を添えながら押し殺すように笑う影胤に、カネキはさっと血の気が引くのを感じた。

 

 奇しくも今の状況は、原作で影胤が蓮太郎を味方に引き込もうとしたときと酷似していた。唯一、影胤が蓮太郎の秘密を知らず、カネキの秘密は知っているという点を除けば。

 

「……なにが目的ですか?」

 

「ふむ、どうやら警戒させてしまったみたいだね」

 

「パパぁ、つまんない。あいつ弱そうだよ。斬っていい?」

 

「だから部屋で天誅ガールズを観てなさいとあれほど言っただろう、愚かな娘よ。我慢しなさい」

 

 誰だ? この男の背後にいるのは一体誰だ? カネキは瞬時に意識を切り替え、思考を巡らす。今回の事件に天童菊之丞が絡んでいて、影胤と手を組んでいることは知識を通して知っている。そして、菊之丞はカネキが『黒い死神』であることを知る数少ない人物の一人でもある。ならば彼がカネキの情報を影胤に流したと見るのが自然だろう。

 

 しかし、カネキは妙な違和感を覚えた。理屈としては正しいし、筋も通る。なのに、何かがしっくりこない。

 

 漠然とした違和感について、決して表面に出さないようにしながら思惟(しい)を続けていると、娘を宥めていた影胤が再び話しかけてきた。

 

「実を言うとねカネキくん、私は君のファンなのだよ」

 

「は?」

 

 聞き捨てならない台詞を聞いた気がした。誰が誰のなんだって?

 

「君の第一次関東会戦での活躍は耳にしていた。わずか14歳で戦場に立ち、機械のように淡々と冷酷に、ガストレアを情け容赦なく蹂躙していたそうじゃないか」

 

 ───あの『黒い死神』の正体が、まだ年端もいかない少年だったという事実には驚かされたがね。

 

 一歩。影胤が踏み出す。

 

「君と私は似ている。戦場でしか己の価値を見出せない。闘争こそが私たちの存在意義だ」

 

 囁くように、されどはっきりと影胤は言い放つ。

 

「だからガストレア戦争が終っても、君は世界中を飛び回っては人間同士のくだらない争いに介入していたんじゃないのかい? "隻眼(赤眼)の王"よ」

 

 ガストレア戦争が終結して以降、カネキは世界を巡って『呪われた子供たち』を保護する傍ら、様々な戦場に姿を現した。正体を隠すためにカネキが眼帯型のマスクをしていた事と、彼が『呪われた子供たち』を率いていたなどの目撃情報からつけられた渾名が『赤眼(隻眼)の王』だった。

 

「これは私からのほんの気持ちだ」

 

 どこから取り出したのか、影胤はいつの間にか手に持っていたアタッシュケースを地面に置くと、蓋を開けてカネキに中身を見せる。

 

 ケースの中には1億円分の札束が詰まっていた。

 

「もうじき東京エリアに世界を滅ぼす災厄が訪れる。モノリスは崩壊し、ガストレア戦争が再開されるだろう! 我々は必要とされるッ! さあ!! 私とともに来い、カネキケンッ!!!」

 

 それはもはや悲鳴に近い絶叫だった。世界を滅ぼしたい男の根底にあったものは()()()()()()()()()()という、どこまでも純粋で切実な願いだった。

 

 だが。

 

「お断りします」

 

 彼の願いのために犠牲になる人がどれだけいるだろう。

 

「貴方と僕は似ても似つかない」

 

 彼のエゴのために涙を流す人がどれだけいるだろう。

 

「僕は、貴方とは違う……!」

 

 目の前にいる男の一言一句が癪にさわる。自分でもよく分からない苛立ちに困惑しながら、感情のままに影胤を拒絶する。

 

「そんなはずはない!! ならば君は何のために戦う!? 何故戦う!?」

 

 まるで子どもの癇癪のように、血を吐くように叫ぶ影胤にカネキもまた、嘘偽りのない本音を漏らす。

 

「僕はただ……"価値"が欲しいだけだ」

 

 殺気立つ影胤と、待ってましたと言わんばかりに二本の小太刀を抜刀する小比奈。二人の一挙一動すら見逃すまいと、睨むように目を細め、カネキは親指で人差し指を押すようにして鳴らす。

 

 一触即発。

 

 しかし突然、影胤が殺気を霧散させ、カネキに背を向けて歩き出した。

 

「行くよ小比奈」

 

「え? パパ、殺らないの? 斬らないの?」

 

「残念ながら時間切れだ。ではねカネキくん。次に会うときは"赫子"を出してくれることを期待しているよ」

 

 待て、そう言って足を踏み出そうとした瞬間。前触れもなく、思わず目をつむってしまうほどの強烈な閃光に視界が蹂躙される。咄嗟に右腕で顔を覆う。

 

 光の正体は、朝日だった。

 

 天へと昇る日輪に向かって、忌々しげに舌打ちする。辺りを見回しても、気配を探っても。影胤と小比奈の姿は、どこにも見当たらなかった。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 勾田高校。この世界の主人公こと蓮太郎くんが在学する学校であり、僕の目と鼻の先にある建物の名前でもある。

 平日、それも昼間という時間帯だからか、校内からは活気に満ちた学生たちが奏でる喧騒が溢れてくる。

 

 結局あの後、将監さんの家に戻ると、玄関で仁王立ちした夏世ちゃんによって『随分と長い時間夜風に当たっていたみたいですね』という皮肉から始まるお説教(正座タイム)が敢行された。

 

 大人の特権『子どもは寝る時間だ』を発動した僕だったが、『モデル・ドルフィンである私は片目を閉じることで左右の脳を交互に眠らせることができます。つまり今の私は()()()()()()わけです。はい論破』と手も足も出ずに敗北した。悔しい。

 

 観念して公園で影胤さんたちに勧誘されたことを伝えたら、そのまま午前中を説教で潰された。解せない。

 

 途中で起きてきた里津ちゃんや将監さんも夏世ちゃんに加勢し、孤軍奮闘を強いられていた僕はパトロンから来た連絡を好機と捉え、昼食を作ってから伊熊家を飛び出した。眠い。

 

 「逃げんなよ?」と念押ししていた里津ちゃんたちの笑顔が怖かった。どうしよう、帰りたくない。ホームシックならぬホームショックである。

 

 ……こんなくだらないことを考えてしまうのは睡眠不足のせいか、それとも元からなのか……どっちでもいっか。

 

 あくびを噛み殺しながら校舎を見上げる。

 

「高校か……行ってみたかったな……」

 

 実を言うと僕は高校には行ったことがない。一度目の人生は13歳で幕を閉じたし、こっち(二度目の人生)ではガストレア戦争のせいで高校に通う余裕なんてなかった。

 

 受付の人に用件を伝えて玄関を通ると、黒いスーツに身を包んだ男が待ち構えていた。恐らく()()のボディガードだろう。

 

「お待ちしていました、カネキさん。どうぞこちらへ」

 

 どうやら彼が道案内をしてくれるらしい。廊下で雑談していた生徒たちから向けられる好奇の視線を、なるべく意識しないようにしながら彼に追随する。学校に部外者がいるのは珍しいから気になるのも仕方ないけど、もう少し遠慮してほしい。はっきり言って鬱陶しい。

 

 道中で教室にいた蓮太郎くんを発見したが……彼の学校生活にはどうしようもない不安を覚えた。強く生きてくれ。

 

 ボディガードは生徒会室の前まで来ると、僕に入室を促した。彼に礼を言って、ドアを4回ノックする。「どうぞ〜」と間延びした返答を受けてから扉を開けた。

 

「いらっしゃい、カネキさん。わざわざ来てくれておおきに」

 

 部屋に入ると、ウェーブの掛かった艶やかな黒髪の和服美人が出迎えてくれた。

 

「依頼したのは僕のほうですから、こちらから出向くのは当然です」

 

「もう、そんな畏まらんでええのに。ウチとカネキさんの仲やろ?」

 

 軽口を叩きながら和服姿の少女、司馬未織(しばみおり)は悪戯っぽい笑みを浮かべながらウィンクする。それに対して僕は小さく肩をすくめ、困ったように笑う。

 以前にも似たようなことを言われ、ちょっとした期待を込めてどういう仲なのか聞いたところ、「お得意様や」と即答されたのは記憶に新しい。彼女は原作と同様に蓮太郎くんにぞっこんのようだ。

 

「はい、ご注文の品」

 

 そう言って彼女は机の上に置かれていたアタッシュケースを手渡してきた。僕がここにきた用件とはつまり、コレを受け取ること。

 持ち手のスイッチを押すとアタッシュケースが床に落ち、真っ黒な長剣が現れた。

 

「修理は無事完了、ついでに改良もした。頑丈さと切れ味は以前の『ユキムラ』とは比べ物にならへん。()()()()()()()()()のコーティングもした。けど、調子に乗ってまた前みたいに無茶したらあかんで?」

 

「……善処します」

 

 笑顔なのに目が微塵も笑っていない未織ちゃんからそっと目を逸らす。

 

 彼女の言った"無茶"とは、仕事で未踏査領域(モノリスの外)に単独で長期滞在したときの話だろう。依頼人はとある研究機関、依頼内容は『ガストレアの討伐・200体』。

 昼夜問わず襲撃してくるガストレアを赫子(腰から生える触手みたいなアレ)とユキムラで駆逐し続けること4日目。

 

 瀕死のガストレアに()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 いや、あれは完全に予想外だった。バラニウム侵食液を使うガストレアなんて『アルデバラン』だけだと思ってたからね。咄嗟にユキムラで防いだら刀身が瞬く間に白化して、真ん中あたりからポッキリと折れるもんだから冗談抜きで思考が停止した。

 

 その経緯を未織ちゃんに報告すると、それはもう激怒した。鬼のような形相で怒鳴られた。慌てて、悪気はなかった、わざと折ったわけじゃないと釈明したら正座させられた。

 後で聞いた話だが、どうも未踏査領域に一週間近く滞在したことが問題らしいけど……駄目だ、どうして怒られたのかさっぱり分からない。

 

「ちなみにその対バラニウム侵食液のコーティングが施された武器って量産できる?」

 

「すぐには無理やな。5年もすれば分からんけど、今はソレ一本で精一杯や」

 

 未織ちゃんに背を向け、ユキムラをアタッシュケースに収納しながら問いかけると、返ってきたのは否定だった。

 

「……そっか」

 

 それを聞き届けた途端、安堵と高揚から思わず頬が吊り上がるのを自覚する。が、それを彼女に悟られると色々面倒なので、なるべく()()()()を意識した顔を作る。

 

 それとほぼ同時に、お昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。

 

「ほな、ウチ授業あるからそろそろ行くわ。あ、言い忘れとった」

 

 扉の前でくるりと振り返ると、未織ちゃんはにこりと笑った。

 

「これからも末長く、司馬重工をご贔屓にな〜」

 

 こちらに手を振りながら立ち去る彼女を見送ると、部屋には僕だけが残された。

 

「……これからも、か」

 

 窓から差し込む陽光に目を細める。

 

「生憎だけど、僕にはもう"先"なんてないんだよ」

 

 その呟きは、誰もいない部屋に木霊し、虚空に溶けて消えた。

 

 

 

 




>菊之丞との関係
蓮太郎たちと菊之丞の関係に比べれば良好。ガストレア戦争後に日本を飛び出し、2年前にふらりと帰国した際には3時間に渡って説教されたとか。

>弱そう
殺気や敵意、闘志すら感じない。序列も低い。ついでに見た目が弱そう。以上の点から小比奈はカネキを『格下』と判断した。

>1億円が詰まったアタッシュケース
ちゃっかり回収。他人の好意を無碍にしてはいけない。




ストックが底をついたので次回からは不定期になりますが、完結までの道筋はある程度見えているので失踪はしないと思います。問題は作者の執筆速度が亀の歩みのように鈍速だということですね。それでも読んでくださる方はこれからもどうぞよろしくお願いします。


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第6話 予定調和

 

 

 

 

 

 本日の天気は朝から夕方にかけての雨。その事実は、ただでさえ最悪な気分を味わっている蓮太郎の憂鬱さを増長させるのには十分だった。

 

 蓮太郎は雨が嫌いだった。嫌い、というよりは好きになれないと言った方が正しいかもしれない。雨を見ていると、どうしてか暗い気持ちになるのだ。

 

 ふと、『雨が降ると暗い気持ちになるのは、人の本能だ』という言葉を思い出した。人間のご先祖様が、まだ狩猟を生活の基盤としていた時代。雨の日は住居から動けず、矢を放っても碌に当たらず獲物にありつけなかったらしい。そんな苦い経験が、現代を生きる人々の本能にも刻まれているとか。

 

 ぱらぱらと雨が傘を叩く音を聞きながら、蓮太郎は周囲を見渡す。

 倒壊した建物、赤く錆びた車、抉られた道路、地面にこびりついた大量の血。これらはすべて10年前に起きたガストレア戦争の爪痕だ。

 

 モノリスが作る結界のおかげで、日本は文明レベルを2020年代前半まで回復させたが、それと比例するように『外周区』と呼ばれるモノリスと接している区域は過疎化の一途を辿った。

 

 どこのエリアでもそうだが、モノリスに近いということはそれだけガストレアが侵入してきた際に襲われる可能性が高いということだ。

 安心して明日を迎えられるエリア中心部と、常にガストレアの出現に怯えなければならない外周区。どちらを選ぶかなど迷う必要すらない。

 

 それらを横目に見ながら、蓮太郎はこんなところ(外周区)に足を運ぶことになった経緯を振り返る。

 

 相棒の延珠が家出した。しかもその原因は、蓮太郎との口喧嘩だとか、年頃の反抗期だとか、そんな生易しいものではない。

 

 延珠が通う小学校で、彼女が『呪われた子供たち』であるという情報がどこからか漏れたのだ。……いや、どこから漏れたかなんて分かりきっている。

 

 防衛省に招集された翌日、影胤が接触してきた。曰く、仲間になれと。

 その誘いを蹴ると、影胤は去り際に吐き捨てるように言った。

 

 ───明日学校に行ってみるといい。君もいい加減現実を見るんだ。

 

 延珠はなぜか自分が『呪われた子供たち』であることを否定しなかった。たった一言、"違う"と口にするだけで良かったはずなのに。

 

「……くそっ」

 

 苦虫を噛み潰したような表情のまま、蓮太郎は外周区のさらに奥へと進んでいく。蓮太郎が考えつく中で、家出した延珠が向かいそうな場所は全部で3つ。

 

 一つは木更の家。延珠は木更の豊か極まる胸部装甲に対して並々ならぬ敵意を抱いているが、木更本人のことはそれほど嫌悪していない。彼女の家に泊まることにそれほど抵抗はないはずだ。だが、延珠が木更の家に泊まっていないことはすでに確認している。

 

 次に延珠のクラスメイトの家だが……今回に限って言えば除外していいだろう。

 

 そして最後は、延珠の故郷であり、蓮太郎が現在訪れている39区(外周区)だ。

 実のところ、蓮太郎は延珠がここにいることをほぼ確信していた。だって、彼女には他に家と呼べるような場所など……どこにもないのだから。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「やあ、おはよう蓮太郎くん」

 

「なんでアンタがここに居るんだよ……」

 

 39区のとある下水道。初対面の相手をいきなり性犯罪者呼ばわりする少女に奥へと案内された蓮太郎は、なぜかエプロン姿で挨拶をしてきたカネキに困惑した。

 

「つーかなんだよ、その格好」

 

「うん? ああ、そういえば言ってなかったっけ。僕、たまにここで子供たちの先生をやったり、ご飯を作りにきてるんだ」

 

 そう言ってカネキは自然な動作で冷蔵庫から食材を取り出す。

 

 ……は? 冷蔵庫?

 

「いやいやいや待て待て待て」

 

「わっ、ちょっと。いきなりどうしたの」

 

「どうしたもこうしたもねぇよ! なんで下水道に冷蔵庫があるんだよ!」

 

 まるで存在しているのが当然みたいな空気のせいで気づくのが遅れたが、冷静に考えればこんな場所に冷蔵庫があるのはおかしい。

 

 よくよく周囲を見渡せば、異常はそこらかしこにあった。

 

 冷蔵庫の近くには流し台やクッキングヒーターなど、明らかに通常の下水道にはない設備、いわゆるキッチンが存在していた。さらに天井からは換気扇の代用として、吊り下げ型の空気清浄機がぶら下がっている。おまけに蛍光灯まで設置されているではないか。

 

「……なあ、二つほど聞いていいか?」

 

「いいよ。僕に答えられることなら、だけど」

 

「それじゃあ一つ目。流し台から出る水ってどこから汲んできてんの?」

 

「雨水を貯めて、それをろ過して使ってるんだよ。ちなみにその水は料理や飲み水としてだけじゃなくて、お手洗いとかお風呂とかにも使ってるね」

 

「なるほどな。なら二つ目の質問。電力はどうやってまかなってるんだ?」

 

「君も知ってると思うけど、外周区っていたるところに発電所があるでしょ? 地熱、風力、太陽光に原子力。まあいろんな所から少しずつ気づかれないように拝借してるんだ」

 

「それって犯罪なんじゃ……」

 

「蓮太郎くん、覚えておくといい。どれほど法を逸脱した行為でも、バレなきゃ犯罪じゃないんだよ」

 

「アンタ真顔でなに言ってんの?」

 

 蓮太郎は眉間を押さえながらため息を吐きだす。

 

「世の中は綺麗事だけじゃどうにもならないからね」

 

「…………」

 

 にこりと笑うカネキに思わず正論で返しそうになるも、それはギリギリで思い止まった。蓮太郎はバツが悪そうに視線を逸らす。

 カネキの言葉が、まるでナイフのように胸に突き刺さる。この感覚を蓮太郎は知っている。口調は穏やかで軽くおどけてもいるが、彼の言葉には蓮太郎では計り知れないほどの重みがあった。

 

 だからこそ、なんと言えばいいのか分からなくなり、それでも何か話そうと、蓮太郎が再びカネキの目を正面から見据えて、口を開こうとしたときだった。

 

「おやおや。マリアが『民警を騙る性犯罪者が来た』と言っていたからどんな人かと思いましたが、どうやらカネキさんの友人だったみたいですね」

 

 蓮太郎がカネキの背後に目を向けると、杖をついた初老の男性がこちらに歩いてきた。

 

「えっと、アンタは……?」

 

「おっと失礼、自己紹介がまだでしたね。私は松崎と言います。カネキさんがここに来る以前から子供たちの面倒を見ている者です」

 

 松崎は蓮太郎に手を差し出して柔和な笑みを浮かべた。それに慌てて蓮太郎は彼の手をとり、握手をすると民警の名刺を渡した。

 

「里見蓮太郎だ」

 

 名前を聞くと松崎は一瞬だけ目を丸くすると、すぐにまた微笑んだ。

 

「ああ、なるほど」

 

「な、なんだよ」

 

「いえね、カネキさんからあなたのことを少しだけ聞いていたんですよ。顔立ちは整ってるのに雰囲気や性格のせいで全然モテない残念な義弟(おとうと)がいると」

 

「うるせぇよほっとけ!! って、え? 義弟ってどういう意味だよ」

 

「それも言ってなかったね。僕、実は菊之丞さんの養子なんだ。つまり君とは義理の兄弟、木更ちゃんとは叔父と姪の関係になるわけだね」

 

「はあああぁぁぁっ!?」

 

 実際のところは言わなかったのではなく、影胤にそのことを指摘されるまで自分が蓮太郎の義理の兄で木更の叔父であるなどカケラも気づいていなかっただけなのだが、それは言わぬが花だろう。

 

「そんなことより蓮太郎くん。なにか用事があってここに来たんじゃないの?」

 

「え? あ、ああそうだ」

 

 蓮太郎は携帯に保存された延珠の画像を二人に見せる。

 

「カネキは前に一度会ってるよな。こいつは延珠、藍原延珠だ。ここに来てないか?」

 

 画像を確認した松崎はゆっくりと首を振った。

 

「残念ですが私は知りません。カネキさんはどうですか?」

 

 一瞬、ほんの一瞬だけカネキは自分の背後で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に視線を向けた。目を閉じて僅かに逡巡すると、カネキは顎を触りながら答えた。

 

「ごめん。僕も延珠ちゃんの姿は見てない」

 

「そうか……悪い、手間取らせたな」

 

 それだけ言うと、蓮太郎は二人に一礼して来た道を引き返そうとする。が、それを松崎が引き留めた。

 

 これからどこへ行くのか、相棒に逃げられたのなら新しいイニシエーターと組めばいいのではないか。そんな疑問を口にしたのだ。

 

 すると蓮太郎ははっきりと言った。イニシエーターだとかプロモーターだとか関係ない。自分は里見蓮太郎個人として藍原延珠を探しているのだと。

 

 少々感情的になってしまったことを謝罪して、今度こそ蓮太郎は去っていった。彼の姿が見えなくなるまで見送ると、カネキは振り返ることなく言葉を紡ぐ。

 

「さて、彼は君を見つけるまで39区を探し回るみたいだけど……追いかけなくていいのかい?」

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「蛭子影胤たちは現在『七星の遺産』を奪ってモノリスの外『未踏査領域』に逃走。ステージⅤを東京エリアに呼び寄せるための準備に入ってる。今、政府主導で大規模な追撃作戦が計画されているわ」

 

「俺が寝ている間にそんなことが……」

 

 蓮太郎くんが39区を訪れた翌日、彼は別の外周区で聖天子様からの依頼を遂行中に影胤と遭遇、交戦した。だが結果は惨敗。1日と3時間ほど生死を彷徨い、病室のベッドで目覚めたのがつい先ほど。東京エリアの現状を表すなら滅亡一歩手前。つまり原作通りの展開だ。

 

「なら……やつを、蛭子影胤を止めねえとッ」

 

「勝てるの? 君にできるの? 里見くん、死んじゃったら……おしまいなのよ……?」

 

「それでも……」

 

「里見くん!」

 

「死にに行くわけじゃねえ。かと言って勝つ保証もねえ。でもよ───」

 

 ベッドから起き上がり、病院服からいつもの制服に着替え終えると、蓮太郎くんは不敵に笑った。

 

「このままじゃ俺、格好悪いだろ?」

 

 木更ちゃんは顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。もう君たち付き合えよ。全力で祝うから。

 

「……この、お馬鹿ッ。はあ、いいわ、もう聞かない。私も少し気になることがあるから、そっちのことを色々と調べてみる。ところで……」

 

 ん? どうしてそんな憐れみの込もった目で僕を見るんだ?

 

「えっと、里津ちゃん? その、そろそろ許してあげたらどうかなあって……」

 

「ダメだね。今度ばかりは我慢ならないよ」

 

「里津の怒りはもっともだけど、病院でいい年した大人を猿轡(さるぐつわ)させて手足縛って椅子の代わりにするのはさすがにどうかと思うぞ」

 

 おお、やっとそこに触れてくれたか。良いぞ、そのまま説得してくれ! 足が痺れてもうほとんど感覚がないんだ!

 

「むう、確かに病院でやるのはまずかったね。でもこうなる原因を作ったのはコイツ自身だとアタシは思うんだけど」

 

「「「それは否定しない」」」

 

 延珠ちゃんまで!? これまでの僕の行動の一体どこに問題があったって言うんだ!?

 

「とか思ってるでしょ」

 

 なん……だと……? 位置の関係で僕には里津ちゃんの顔を窺うことはできないが、声音から察するにかなりご立腹な様子。後頭部に視線をびしびし感じる。

 冷や汗をかきながら自分の行動を振り返る。ケースを取り込んだガストレアが第32区にいるという情報を入手した僕と里津ちゃんは急いで現場に向かった。

 

 道中で影胤の通り魔被害に遭った民警の手当をしながら奴らを追うと、増水した川に落下していく蓮太郎くんの姿を見てしまった。

 

 僕が行動を起こさなくたって彼は助かると知っていたのに、気がつけば体が勝手に動いていた。激流の川に着水した蓮太郎くんを追って、躊躇なく飛び込んだ。

 

「お願いだから、無茶しないでよ……」

 

「……ごめん」

 

 今にも泣きだしそうな顔で猿轡と縄を解く彼女に、僕はただ謝ることしかできない。僕としては自分の命を粗末にしてるとか、無茶をしているつもりは全然ないんだけど、彼女が心配するのならもう少し控えよう。……どうして心配されてるのかはよく分からないけど。

 

 凝り固まった体をほぐすために両手を合わせて腕を上に伸ばし、背筋を反らす。すると、蓮太郎くんが指で頬をかきながら近づいてきた。

 

「どうかした?」

 

「いや、その、ありがとな。助けてくれて」

 

「妾からも礼を言うぞ!」

 

「カネキくん。ありがとう」

 

 ──────。

 

「……ああ、うん。気にしなくていいよ。お礼を言われるようなことは何もしてないから」

 

 そうだ。礼を言われるようなことは何もしていない。君がぼろぼろになって苦しんで、生死の境を彷徨うことになったのは、元を辿れば僕が()()()()()()()のが原因なのだから。恨まれこそすれ、感謝される筋合いなど何処にもない。

 

「それより木更ちゃん。さっき言ってた気になることって、影胤さんの情報が何者かによってマスコミにリークされそうになった件だよね」

 

「え? ええ。それがどうかしたの?」

 

「もし犯人が特定できたら、君なら間違いなく作戦本部に乗り込む。そして、蓮太郎くんや延珠ちゃんの安否をリアルタイムで確認できる本部に留まろうとするだろう」

 

 図星だったのか、木更ちゃんは大きく目を見開いた。これくらい知識がなくても簡単に予想できる。

 

「そこでもし君が、本部で政府の人間たちとの同席を許されたなら、頼みたいことがある」

 

 

 

 

 




>快適な下水道
最悪のケースを想定して39区以外にも同じような拠点が複数ある。

>家出した延珠の説得
失敗。まだ一回しか会ったことないからね、仕方ないね。


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第7話 分岐点

 ところで東京喰種:reのアニメってロゼ編までやるんだろうか。


 

 

 

 

 

「やっぱり未踏査領域ってガストレアがうじゃうじゃいるね。殺しても殺してもキリがない」

 

「動きが緩慢なヤツは放置でいい。急がないと間に合わなくなる……!」

 

 アタシとカネキは鬱蒼とした深い森を、襲いかかってくるガストレアを斬り伏せながら疾走していた。

 

 周囲への警戒を少しも緩めることなく、ちらりとカネキに視線を向ける。その横顔は、この男にしては珍しい焦燥に満ちていた。数分前に脳筋……もとい将監から、夏世とはぐれてしまったこと。無線機が故障したのか、まだ連絡が取れていないこと。そして、これから影胤に奇襲を仕掛けるという話を聞かされてからずっとこの調子だ。

 

「よっ、と! 将監なら大丈夫だと思うよ。影胤の危険性はこの前アンタがあいつの家できちんと説明してたし、仮に将監が馬鹿やったとしても合流した夏世が止めてくれるって」

 

 植物に擬態していたガストレアの胴体をバラニウム製の曲刀で捌きながら、どうにかカネキの不安を軽減しようと試みる。

 

「………そうかもしれない。でも、嫌な予感がするんだ」

 

 ケルベロスみたいに首を3つ生やした、体長4メートルを超える犬型ガストレアの頭を一太刀ですべて斬り落としながら、カネキはそう言った。

 

 勘と来たか。うーん、こいつの勘って結構当たるんだよなぁ。主に悪い方向に。

 どうしよう。なんかアタシまで不安になってきた。

 

「……! カネキ、止まって」

 

「どうかした?」

 

「複数の方角から血のにおいがする」

 

「位置と"濃さ"は?」

 

 すんすん、と遠くから漂ってくる微かな血臭を鼻腔から取り込みながら、アタシは時計回りに指差していく。

 

「一つは正面12時の方向。"濃さ"から判断して負傷者は数人。たぶん将監たちが戦ってる。二つ目は6時の方向。距離は4キロ、こっちは擦り傷だね。最後は10時の方向。距離は200メートル、軽傷者が一人」

 

 カネキは険しい表情で舌打ちすると、深くゆっくりと息を吐きだした。

 

「里津ちゃん、僕はこのまま将監さんのところへ行く。君はここから一番近くにいる軽傷者のもとへ向かってくれ。おそらく、その軽傷者は夏世ちゃんだ」

 

「根拠は?」

 

「将監さんが言ってた夏世ちゃんの逃走経路と、軽傷者の位置がほとんど合致してる。もしかしたら血のにおいに誘われたガストレアに囲まれているかもしれない」

 

 それは戦闘向きのイニシエーターじゃない夏世にとってはかなり危険な状況だ。だけどあの子なら、持ち前の頭脳を駆使した戦略でどうとでもなるのではないだろうか。

 

「嫌な予感がするんだ」

 

「また勘かよ……はいはい、わかったよ。夏世のことは任せて。無事だったらアタシらもそっちに行くから、将監はよろしく」

 

「うん……頼んだ」

 

 妙に切羽詰まった雰囲気のカネキに思うことがないわけじゃない。でも、それを尋ねるだけの時間はなさそうだ。アタシが向かう場所に夏世がいる保証はどこにもないけど、誰かが怪我を負っているのは確かだ。放置しても安全そうならカネキと合流する。そうじゃないなら、安全な場所まで護衛して、それから合流すればいい。

 

 軽く拳を合わせると、アタシたちは互いに背を向けて、再び走り出した。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 カネキが里津と別れ、海辺の市街地に向かい始めたのと時を同じくして、将監は付近の民警と結託して影胤と対峙していた。

 

「私の序列を知った上で、なお挑むのかね。愚かな」

 

「ああ。こちとら勝たなきゃ死んじまうからな。実力差なんか気にしてられねぇんだよ!!」

 

 大剣を振りかぶり、将監は影胤に飛びかかった。それを合図に、他の民警たちも将監に続いて攻撃を仕掛けた。

 

 

 

 

 

 伊熊将監は、不器用な男だった。

 

 幼いころから口下手で、自分が思っていることを素直に口にできず、照れ隠しで悪態をつけば自身の容姿もあいまって相手を泣かせるなど日常茶飯事。それを己の悪い癖だと自覚して直そうと努力したが、結局それは実らず、中学校や近所の親からは問題児の烙印を押された。

 

 高校に入学してからは人との関わりを避けた。最初から誰とも触れ合わなければ、傷つけることも、傷つけられることもないと、そう思ったから。

 

 だがほどなくして、将監は上級生の不良グループに目をつけられた。特に珍しい話ではない。もともと目元が鋭く、睨み顔がデフォルトの上、体格に恵まれていた将監は本人の意思とは関係なく周囲に威圧感を与えていた。それを血気盛んな若者が「調子に乗ってる」と判断するのはなんら不思議なことじゃない。

 

 その日から、上級生たちによる"教育的指導"が始まった。

 将監は抵抗しなかった。ここで反撃してしまえば、何のために今まで孤独に耐えてきたのか分からなくなる。だから、痛みも嘲笑もすべて飲みくだしながら学校に通い続けた。

 

 そして、事件は起こった。

 

 いつものように校舎裏に呼び出され、上級生たちに嬲られていたある日。校内でも正義感が強いことで有名な少女が、将監と上級生たちの噂を聞きつけて、将監を庇うようにして上級生たちの前に立ち塞がったのだ。それが彼らの嗜虐性を助長させるとも知らずに。

 

 少女はあろうことかたった一人でいじめを止めに来ていた。自分だけで何とかできると思っていたのか、それとも誰かを頼るという発想がなかったのか。真実はどうあれ、所詮は正義感が強いだけの普通の女の子。いかに成績が優れていようと、運動神経が抜群だろうと、数の暴力には勝てなかった。

 

『コイツどうする?』

 

『うーん……ここでやってることを教師にバラされても面倒だしな〜』

 

 グループのリーダー的な男が、少女の顔、胸、腰、脚の順に視線を這わせると、下卑た笑みを浮かべて舌なめずりした。

 

『余計なことを喋らないように()()しなきゃな』

 

 男の手が、涙で震える少女の制服に伸び、強引に破り棄てようとした瞬間。

 

 

 将監の中でナニカが切れた。

 

 

 少女の友人が先生を連れてやってきたときには、現場は血の海だった。

 虫の息で地面に転がる上級生たち、それを手負いの獣のような形相で見下ろす将監の拳からは血が滴り、少女は座り込んで彼を見上げていた。その光景を前にして、教師は無意識に呟いた。

 

 化け物、と。

 

 幸いにも死者は出なかったが、学校側は将監を退学処分にし、その後彼は少年院に入れられた。今回の騒動は明らかに上級生たちの自業自得であり、将監は正当防衛を行使しただけだった。助けられた少女もまたそう証言した。だが、上級生たちの親には都合の悪い事実を揉み消せるだけの力があった。

 両親は信じてくれなかった。学校には切り捨てられた。

 

 将監は暗い部屋の隅から、滲んだ絵のようにぼやけた月を見上げながら思った。

 

 

 ───ああ。俺には居場所なんて、最初からなかったんだ。

 

 

 両親からは家族の縁を切られ、頼れる知り合いも親しい友人もいなかった将監は、生きるために犯罪に手を染めた。何度も人を傷つけて、傷つけた人たちの数も分からなくなって……やっと、取り返しがつかない所まで来ていたことに気づいた。

 

 

「ちぃッ! やっぱ硬ぇなッ……!」

 

「無駄だ。君では私の『イマジナリー・ギミック』は破れない。君の剣は、私には届かない」

 

 

 ガストレア戦争の影響で民間警備会社が発足されると、将監は三ヶ島と名乗る男にスカウトされ、千寿夏世という少女と契約した。

 

 感情のない、機械のようなガキ。

 それが初めて夏世と会ったときに、将監が彼女に抱いた印象だった。もっとも、そんなイメージは夏世が発した第一声によって粉々に砕かれたが。

 

『酷い悪人ヅラですね。こんな犯罪者のお手本みたいな顔した人を見たのは生まれて初めてです』

 

 反射的に手を出してしまったが、直後反撃として夏世から放たれた言葉の暴力によって完膚なきまでに叩きのめされた。

 

 慌ただしい日々を駆け抜け、二人が出会ってから二度目の春を迎えたある日、夏世が学校に通いたいと言い出した。これに対し将監は「行きたいなら行けばいい」とあっさり入学を許可した。

 

 深い意図があったわけではない。将監は基本的に夏世の意思を尊重するようにしていた。人々から忌み嫌われている"呪われた子供たち"といえど、仕事では互いに背中と命を預けあう身。そのぐらいは相棒として当然の義務だと思っていたからだ。

 

 それがどれほど浅はかで、無責任な決断だったか知りもせずに。

 

 夏世が学校の生活に馴染み、親しい友人もでき、将監が夏世の父親だと周囲に認知され始めた頃、街中に一匹のガストレアが出現した。将監たちがその場に駆けつけたときには、一人の女の子がガストレアに襲われる寸前だった。

 

 その少女を視認した瞬間、夏世は即座に能力を解放してガストレアを駆逐した。どうやら少女は夏世と同じ学校に通っている同級生で、初めて出来た友達だったらしい。

 

 夏世は腰を抜かした少女に駆け寄り、もう大丈夫です、と未だに怯え続ける少女を安心させるように微笑みながら手を差し出した。

 

 友達を救えて良かった。心の底からそう思っていたからこそ、直後少女が発した言葉の意味を理解できなかった。

 

『ば、バケモノ……バケモノッ!!』

 

 少女は差し出された手をはらい、呆然とする夏世を突き飛ばして逃げていった。

 

 あの時ほど、将監は己の愚かさを呪ったことはない。ただの"呪われた子供たち"ならいざ知らず、民警として活動しているならばいつ学校の知り合いに戦っている姿を見られるか分からない。どうしてそんな簡単なことすら予測できなかったのか。

 

 夏世が"呪われた子供たち"と知られてしまった以上、もう学校には通えない。家路につき、これからどうしようかと将監が悩んでいると、夏世は言った。

 

『分かっていたことです。正体が知られれば、ああなることぐらい。でも、心配しないでください将監さん。私は平気です』

 

 夏世はこれまで一度も嘘をついたことがなかった。なら、彼女の言う通り、心配する必要はないのだろう。だから、それまで彼女の部屋から聞こえていた嗚咽も、赤く腫れた目元も、声が震えているのも、きっと全部気のせいなのだ。

 

 そうやって自分を納得させるしかなかった。

 

 その日以来、将監は夏世を道具として扱うようになった。夏世もまたそれを了承した。

 

 道具であれば心なんて必要としない。辛い思いをすることも、叶いっこない願いを抱くこともない。

 もうこれ以上、誰よりも優しい少女が傷つかなくてもいいように。

 

 それが、不器用な男が不器用なりに知恵を絞った、不器用な優しさだった。

 

 

「はあッ、はあッ……!」

 

「パパ、アイツしぶとい」

 

「ほう……随分と頑丈だね。さすがは1000番台、と言ったところかな?」

 

「うる、っせえッ……!」

 

 

 『人間』として生きることを諦めた二人は、がむしゃらに戦い続けた。逃げるように、現実から目をそらすように。『人間』として生きられない自分たちにはコレしかないのだと、そう言い聞かせるように。

 

 民警として着々と戦果を挙げ、序列が1000番台になり、いつの間にか『闘神』などと呼ばれるようになった頃だった。とある民警ペアと現場でよく遭遇するようになったのは。

 

 聞けば最近民警になったばかりの駆け出しらしい。

 プロモーターの方は市民を守ることを最優先する男で、ガストレアを仕留められず報酬が貰えなくても犠牲者がいなければいつもへらへらと笑っていた。それに対し男のイニシエーターが顔を真っ赤にして叱っていた。

 

 そのあまりに『人間』らしいやり取りは、将監の胸を酷くざわつかせた。自分たちが憧れ、求め、それでも諦める(捨てる)しかなかったものを何度も見せつけられた。苛立ちは彼らと顔を合わせるごとに増していき、ついに爆発した。

 

 八つ当たりだということは痛いほど理解していた。逆恨みもいいところだ。それでも……それでも、悔しくて羨ましくて、妬ましくて。

 

 結論から言えば、将監たちは手も足も出ずに敗北した。仰向けに倒れ、肩で息をする将監と夏世に対し、男は汗一つかいていなかった。

 

 男が一歩ずつ、将監たちに近づく。将監は覚悟した。理由はどうあれ、自分がやったことは決して許されるようなことではない。最悪、正当防衛と称して殺されても文句は言えない。民警とはそういう世界の生き物なのだ。だが───

 

 だが、夏世だけは何がなんでも守らなければ。将監は鉛のように重い体を引きずり、夏世の前に移動した。少しでも、彼女が逃げられる時間を稼ぐために。

 

 将監の眼前までやってきた男は、徐に手を伸ばした。背後から自身の名を叫ぶ声が聞こえ、ぎゅっと目を瞑った。

 しかし予想していたような痛みは訪れず、逆にとん、と軽い音とともに肩を叩かれ、反射的に顔を上げると、男は困ったように笑っていた。

 

『えーと、言いたいことは色々あるんですけど……とりあえず病院に行きましょうか』

 

 それからというもの、何故かその男は将監たちを食事に誘うようになった。男のイニシエーターも最初は難色を示していたが、いつの間にか夏世と仲良くなっていた。

 

 どうして自分たちを襲ったのかと男に問われ、少なくない罪悪感と後ろめたさを抱いていた将監はしぶしぶではあったが語りだした。

 

 かつて『人間』として生きようとしたこと。けれど結局、諦めるしかなかったこと。戦っている間だけが唯一、自分たちの存在を感じられたこと。民警でありながら自分たちが捨てたものを持っていた男たちに嫉妬したこと。

 

 男は将監が話し終えるまで、途中で口をはさむこともせず、黙って聞き続けた。

 

『俺は……俺たちは、どうすりゃよかったんだろうな』

 

 それは独り言で、別に答えを求めていたわけではなかった。ただ、思わず口から溢れてしまっただけ。

 

 なのに、男は目を閉じ、腕を組んで唸りはじめた。まるで自分のことのように悩んでいた男は、結論が出たのか、真剣な表情で将監と視線を合わせた。

 

『あなたの抱える苦しみは、僕には分かりません。でも、誰かのために怒ったり、泣いたり、優しくなれるのなら……あなた達は十分"人間"だと、僕は思います』

 

 平凡で、なんの捻りもないありきたりな言葉。もっと気の利いた台詞はなかったのか、それぐらい誰にだって言えるだろう、と将監は思った。

 

 けれど、そんな誰にでも言えそうな言葉さえかけてもらえなかった彼は、彼らは。

 

 それだけで、救われた気がした。

 

 

 

 

 

「ぐっ、ごふッ……!?」

 

「……正直驚いているよ。遊んでいたとはいえ、まさかここまで手間どるとはね」

 

 影胤の声には皮肉でも侮辱でもない、純粋な驚きが込められていた。だが、それに将監が反応を返すことはない。否、返すだけの余裕が今の将監にはなかった。

 

 地面に膝をつき、両肩を上下させ、荒い呼吸を繰り返しながら、将監は影胤たちに向けていた視線を自分の体に移す。

 

 右手と左足は砕かれ、背中と腹部からはそれぞれ一本ずつ小太刀の刀身が顔をのぞかせている。そんな満身創痍の身体を、本来は敵を切り裂くための大剣を地面に突き立て、それに寄りかかることでかろうじて支えている状態だ。

 

「それにしても意外だったよ。数によるごり押しで私の斥力フィールドを突破できないと判断するなり即座に撤退を決断。我々を挑発し、注意を引きながら他の民警を逃がす殿まで務めるとは。君はてっきり、弱者を排除する側だと思っていたんだがね」

 

「……どっかのお人好しに影響されてな……つか、その言い方から察するに、わかってた上で見逃したのか」

 

「寄ってくるハエは目障りだが、そうでないのならわざわざ労力を割く必要はないだろう?」

 

 影胤の足元には、将監の制止も聞かず、彼我の実力を推し量れなかった憐れな同業者が血の海に沈んでいた。

 

「存外楽しませてもらったよ、君との()()は。だが、さすがにもう飽きてしまった」

 

 影胤は事切れた民警から手榴弾を拝借すると、まるで飲み物を投げ渡すかのような気軽さで将監に(ほう)った。

 

「呪うなら自分の弱さを呪いたまえ」

 

 回避。

 無理だ。右脚が無傷とはいえ移動できる距離などたかが知れてる。

 

 大剣による防御。

 却下。影胤との交戦で刀身に亀裂が走っているこの武器では、手榴弾の威力を減衰しきれない。

 

 完全に詰んでいた。

 

(あー……、こりゃ死んだな)

 

 手榴弾が地面をバウンドし、身動きのとれない将監に迫る。

 死を目前にしているのに、心は不思議と穏やかだった。やれることはやった。後悔もない。あの騒がしい友人たちに会えなくなるのは少し寂しいが。

 

 

 ───将監さん。

 

 

 失血で朦朧とした意識の中、将監が最後に思い浮かべたのは、誰よりも大切な少女の姿だった。

 

 

 

 

「───………夏世……」

 

 

 

 

 直後、轟音とともに将監は爆発にのみ込まれた。将監が身につけていたであろうスカーフが、爆風によって黒煙を先導するように空へ舞い上がる。

 ほぼゼロ距離で炸裂した小型の爆弾は、如何なる人間であれ容易く死に至らしめる。もはや原形すら留めてはいまい。

 

「? 小比奈、どうかしたのかい?」

 

 だというのに、小比奈はいまだに警戒を解かず、黒煙を睨みつけていた。なぜなら───

 

「パパ、来たよ」

 

 なぜなら、小比奈の並外れた動体視力は確かに捉えていたからだ。爆発の直前、将監と手榴弾の間に黒い影が割り込んだ瞬間を。

 

 ひときわ強い風が吹き、黒煙が晴れる。するとそこには、先程までいなかった男が黒いコートを(なび)かせ、()()で立っていた。

 

「…………ったく、遅ぇんだよ」

 

 頼もしいのに、どこか悲しげな背中を視界に収めると、将監は今度こそ意識を手放した。

 

「ついに来たか、カネキくん。待ちわびたよ」

 

 喜びに満ちた声音で紡がれた言葉に、カネキは人差し指を親指で鳴らすことで応えた。

 

 

 

 

 




 感想を貰えると奇声を上げ、評価バーが赤くなると乱舞し、ランキングに載ると発狂したりしてます。

 それもこれも、読者の皆様のおかげです。ありがたくないかもしれませんが、私から皆様に心からの感謝を。


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第8話 思惑

 初戦闘回です。長く苦しい戦いでした。


 

 

 

 

 

 市街地にて蛭子親子と会敵した僕は、すぐさま戦闘を開始した───なんてことはなく、適当な建物の一つに身を隠し、気絶した将監さんの手当てをしていた。

 

(……よし、傷の縫合と止血完了)

 

 傷口を塞ぐための縫合糸と針、それから止血のための包帯と止血剤をウェストポーチにしまうと、僕は寝室だったと思われる二階の部屋で、安堵の息をこぼした。

 

 将監さんの体に突き刺さっていた小太刀は、致命傷をぎりぎり逸れていたため見た目ほど大したことはなかった。問題だったのはその出血の酷さで、まさに一刻を争う状態だった。

 

 だから、何やら長々と語りはじめた影胤さんを無視して、無防備だったその顔面に閃光発音筒(スタングレネード)を全力で投げつけた。

 

 開幕早々に、それも屋外でスタングレネードを使ってくるなど想定していなかったのか、蛭子親子の「え?」という間の抜けた声は、太陽の200倍以上の光を放つ強烈な閃光と、凄まじい爆発音に掻き消された。

 

 起爆する直前に、ご自慢の斥力フィールドを展開していたが問題ない。人体に少なくない影響をもたらす爆発音や衝撃はそれで防げるかもしれないが、光までは防げない。

 

 スタングレネード本来の用途は"建造物内や室内の制圧において、敵の注意を逸らす"ことであるが、だからと言って屋内でしか使えないというわけではない。確かに屋内と比べれば多少威力は落ちるが、それでも目くらましには十分だ。保険として発煙弾(スモークグレネード)も投げつけておいたし、まず追跡の心配はないだろう。

 

 懐から携帯を取りだし、着信履歴を確認する。未踏査領域に降りてから、まだ一度も連絡(合図)は来ていない。

 

「これは……きついな」

 

 合図がないということはつまり、もし影胤さんたちと再度遭遇した場合、僕は赫子を使わずにユキムラだけで彼らの相手をしなければいけないわけだ。

 

 ……無理ゲーすぎる。影胤さんの斥力フィールドは対戦車ライフルの弾丸を無効化し、工事用クレーンの鉄球すら物ともしないんだぞ。そんなのを相手に近接武器で挑むなんて自殺行為以外のなにものでもない。

 

「閃いた。合図があるまでここで大人しくしていればいいんだ」

 

 埃を被った椅子に座り、この部屋に引きこもることを決意する。急ぎの用事があるわけでもないのだ、問題ないだろう。え? 夏世ちゃん? 今ごろ里津ちゃんと合流してるから彼女の生存は確定だ。

 

「はあ……。将監さんと夏世ちゃん(原作死亡キャラ)の救済だけが目的だったはずなのに、どうしてこんな───」

 

「───見ぃつけたぁ」

 

 振り返っている余裕などなかった。咄嗟にユキムラを自分の首元に持っていけば、耳を(つんざ)くような金属音が部屋を蹂躙し、まるでトラックに激突されたかのような衝撃が全身を駆け抜けた。

 

「ぐぅッ……!?」

 

 窓を突き破り、仰け反った体勢のまま通りに弾き出される。

 

 空を泳ぐ術を持たない僕に、重力に逆らうなんて芸当が出来るはずもなく、ただ落下する以外に選択肢などない。だが、

 

「『エンドレス』───」

 

 落ちる直前。聞き覚えのある声を耳朶が捉え、戦慄が走る。反射的に下を見れば、腰を落として構える影胤さんの姿。右手に燐光が収束し、巨大な槍を形成していた。

 

「『スクリィィイム』ッ!!!」

 

 時の流れが何十倍にも圧縮され、世界が減速する。天へと昇る光の柱。緩やかに、最強の矛(里見蓮太郎)の一撃すら相殺する魔槍が眼前に迫る。

 

 理屈ではなく、本能で理解した。

 

 避けなきゃ死ぬ。避けなきゃ死ぬ。避けなきゃ死ぬ。避けなきゃ死ぬ避けなきゃ死ぬ避けなきゃ死ぬ避けなきゃ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死死死死死死!!!??

 

「お、おおぉぉおあぁぁあああああッ!!!」

 

 一瞬の先に訪れるであろう己の死に、恐怖が臨界点を突破する。遮二無二にユキムラを振るい、絶叫を上げながら槍の側面に叩きつけた。

 

 『攻撃の軌道を』逸らすためではなく、攻撃の軌道から『自分を』逸らすために。

 

 確かな手応えと同時に恐ろしい反発力が全身を襲う。たまらず吹き飛ばされ、上下の感覚が曖昧になるほど何度も視界が回転する。

 

「ごッ……!!?」

 

 三半規管が麻痺した状態で受け身など取れるはずもなく、僕の身体は背中から地面に激突した。

 

「……フィールドの特性を逆に利用することで、我が奥義から逃れたか」

 

 自身の掌を見つめながらそう呟くと、影胤さんはこちらを向いて笑い出した。

 

「……フフ、フハハハハハハッ!! おもしろいッ、やはり君はおもしろいぞカネキケン! 我が奥義を、それも足場のない空中で躱したのは君が初めてだ!!」

 

 僕が落下した窓から、蛭子小比奈が音もなく影胤さんの横に着地する。そして、ふと疑問に思った。

 

「……どうして僕の居場所がわかったんですか? 風の向き(匂い)や血痕には細心の注意を払っていたし、風向きで逆算したのなら他にも潜伏先の候補が腐るほどあったはずだ」

 

「うちの娘は勘が鋭くてね。煙幕が晴れると一直線に君が隠れていた建物に向かっていったよ」

 

 思わず言葉を失う。勘、勘だって? そんなふざけた理由で特定されたっていうのか。

 影胤さんはシルクハットの位置を直すと、ホルスターから二挺の銃剣を抜き放った。

 

「さあ、始めようか黒い死神。心行くまで、思う存分に殺し合おう!!」

 

 外套を脱ぎ捨てて、ユキムラを構える。深呼吸を一つして、影胤さんたちを見据える。

 

 合図は、まだない。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 数秒の睨み合いの末、先攻を制したのはカネキだった。

 

 影胤が瞬きをしたタイミングを狙って、5メートルの距離を常識を逸脱した速度で詰めると、己の得物を白貌の仮面に振り下ろした。

 

 もっとも、それで決着がつくと思うほどカネキは楽観的ではない。

 

「無駄だ」

 

 影胤が呟くと、瞬時に展開したドーム状のバリアによって、上方からの一撃は呆気なく弾かれる。

 

 だが、カネキの動きは止まらない。攻撃が弾かれる度に、弾かれた方向に身体を回転させることで手首への負担を軽減し、遠心力を上乗せした斬撃をあらゆる角度から舞うように叩き込んでいく。

 

(……23……31……39……57)

 

「無駄だということが分からないのかね。小比奈」

 

「はい、パパ」

 

 一向に攻撃の手を緩めないカネキに、業を煮やした影胤は()()()()()()()()()()。するとすかさず、小比奈はカネキへと踏み込み、懐へ飛び込みながら二刀の小太刀で斬りかかる。

 

 左右から挟み込むように振るわれた斬撃を、両足を限界まで開きながら、上体を斜めに反らすことで回避。そのあまりに人間離れした動きに、小比奈の目が驚愕に見開かれる。そして、無防備になった小比奈の鳩尾に、カネキは躊躇なく掌底を打ち込んだ。

 

「かはっ!?」

 

 カネキが放った掌底は、衝撃を余すことなく小比奈の全身に伝え、その小さな体を僅かな時間だが空中に固定させる。流れるような動作で体勢を立て直したカネキは、小比奈を影胤に向けて蹴り飛ばした。

 

「ぐっ、小比奈!」

 

(斥力フィールドの展開持続時間は不明。現時点で分かることは、フィールドが展開中は内側から攻撃することも、外に出ることも出来ないということだけか……ジリ貧だな)

 

 一見するとカネキが優勢に見えるこの状況だが、実際にはその逆。優勢なのは影胤たちの方であり、むしろカネキは追い詰められていた。

 

(イニシエーターは大したことないけど、あのバリアは厄介だな)

 

 実のところ、カネキにとって小比奈は初めから脅威ではなかった。政府の評価によれば、モデル・マンティスである彼女は「ある程度の刃渡りがある刀剣を持たせれば『接近戦では無敵』」とのことだが、どれだけ強かろうが()()()()()()()()()()()()()()()()()()というのがカネキの見解だった。

 

 脳裏によぎるのは、初めてあの人と手合わせしたときの記憶。初動が見えず、先を予測できない攻撃というのはそれだけで恐ろしい。それも相手が自分より遥か格上の存在なら尚更だ。彼との訓練の思い出はカネキの心に深く、トラウマレベルで刻み込まれている。

 

「殺し合いの最中に考え事とは、随分と余裕だね」

 

 いつの間にか接近していた影胤が銀色の銃剣(サイケデリック・ゴスペル)による刺突を繰り出し、それをユキムラで流せば、反対の手に持っていた黒色の銃口(スパンキング・ソドミー)が目の前に出現する。

 

 カネキが銃を払いのけるのと、影胤が引き金を引くのは同時だった。視界の端で銃口炎(マズルフラッシュ)が暗闇を照らし、弾丸が頬を掠める。

 

 左手はユキムラで逸らし、右手は今しがた弾いた。影胤の胴体はがら空きだった。即座に脇腹から肩に向けてユキムラを走らせる。

 

「君も学習しないな」

 

 だがまたしても、影胤のフィールドが斬撃を阻む。つまるところ、カネキが彼らに対して優勢になれない原因はここにある。

 

 近接戦闘がどれほど彼らを凌駕していても、決定打を持たないカネキに影胤たちを制することは出来ない。

 

(まだなのか、木更ちゃん……!)

 

 このままでは合図が届く前に体力が尽きる。やはりここは、離脱と奇襲を交互に繰り返して時間を───

 

「た、たすけて……」

 

 その声に、カネキはぞっとして振り返る。

 

 衣服を血と泥で汚した一人の少女が、力なく地べたを這い、泣きながらこちらに手を伸ばしていた。少女の位置は()()()()()()()()()()()()()()()()ではあったが、だからといって涙を流し、震える声で助けを乞う少女を無視することはカネキにはできなかった。

 

 そして、カネキが少女へと注意を向けた僅かな時間。その隙を見逃すほど、蛭子影胤は間抜けではなかった。彼は素早くカネキの側面に回り込むと、右手を前に掲げて指を弾いた。

 

「『マキシマム・ペイン』ッ!」

 

「!? しまっ───」

 

 己の失態を悟るも時すでに遅し。青白いフィールドは瞬く間に膨張すると、凄まじい勢いでカネキに殺到する。人間を容易く圧殺せしめる技が至近距離で発動した。回避も防御も、不可能。

 

「あがッ!?」

 

 横殴りの衝撃に、カネキはビルの壁に叩きつけられる。コンクリート製の壁に亀裂が走り、徐々に体が沈み込んでいく。

 だが突然、己の肉体を潰さんとしていた圧力が消失する。それはつまり、数多の人間を圧殺してきた『マキシマム・ペイン』の一撃を、カネキが耐え切ったことを示していた。

 

 ()()()()()()()()()

 

「連発ができないと言った覚えはないが?」

 

「───ッ!!!??」

 

 一度消えたはずの斥力フィールドが再び膨れ上がり、壁から崩れ落ちそうになったカネキに襲いかかる。

 

 夜の街を青白い光が照らす度、カネキの体は壁に深く埋まり、壁の亀裂が大きく広がっていく。それを何度も繰り返した。

 

 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。

 

 肉が潰れ、骨の砕ける音が聞こえた。

 

(……血……頭が割れて、はちみつみたいな味がする……)

 

 26度目の閃光。カネキの体はついに、分厚いコンクリートの壁をぶち破った。ぐちゃり、と果物が潰れたような音を立てて、カネキは埃だらけの床にその身を打ちつけた。

 

「まったく……()()も無粋な真似をしてくれる」

 

 かつかつ、とわざとらしく靴を鳴らしながら、影胤は独り言のように呟いた。

 カネキの傍まで来ると、影胤は苛立ちと失望の込もった瞳でカネキを見下ろす。

 

「何故だ。どうして赫子を使わなかった」

 

 返事はない。かろうじて呼吸音が聞こえることから、生きてはいるのだろう。意識があるのか定かではないが。

 

「かつて"もう一人の死神"と評され、第一次関東会戦の影の英雄と謳われていた『黒い死神』である君と、私は死力を尽くして闘い(殺し合い)たかった。だというのに、なんだこれは……!」

 

 影胤の声が、握りこんだ拳が震える。

 

「私は君の強さに憧れた! 人間よりも遥かに強大な存在であるガストレアを一方的に蹂躙する君の力にッ! だが君は、我々を相手にしていながら一度もそれ(赫子)を見せることはなかった。我々を侮った結果がこれだと言うのなら、私は君に失望を禁じ得ない。これほどまでの屈辱を、私は今まで味わったことがない」

 

 影胤の手に青白い光が収斂し、周囲の暗闇を払う。

 

「さらばだ、黒い死神。己の慢心をあの世で後悔するがいい」

 

 光の槍を影胤が放とうとした次の瞬間。ブルルル、と何かが振動する音を影胤の耳は捉えた。

 音の正体はすぐに分かった。カネキの懐から顔を覗かせる携帯に着信が入ったのだ。

 

 一体誰から? 自然と視線が携帯へと吸い寄せられ、カネキから意識を外した。

 

 それは、コンマ数秘にも満たない刹那の時間。本来ならとても隙とは呼べない僅かな空白だった。油断していたわけでも警戒を解いたわけでもなかった。相手がただの人間なら容易に対処できる。それだけの実力を影胤は持っていた。

 

 

 

 故に、この結末は必然だった。

 

 

 

「───パパァッ!!!」

 

 鬼気迫った形相で、小比奈が影胤を横から突き飛ばす。直後、風を切り裂く音と共に小比奈の右腕が切り飛ばされた。

 

「あ、ああああああぁぁぁああああッッ!!!??」

 

 切断面から血が噴き出し、それを残った左手で押さえながら小比奈は絶叫した。

 

「小比奈っ!」

 

 痛みに泣き叫ぶ我が子を見て、影胤は切断された右腕をすぐさま拾い上げて小比奈に駆け寄った。蛭子影胤は大量殺戮者だが、父親として娘を愛する一人の親でもある。

 例えその愛情がどれだけ歪んでいようとも、彼が娘を大切に思っていることに変わりはない。今の影胤の目には小比奈しか映っていなかった。

 

 だからこそ、先ほどまで文字通り"肉塊"も同然だった男が、何事もなかったかのように小比奈の背後に佇んでいたことに気づかなかった。

 

「……ごちゃごちゃ」

 

 男の腰から伸びる赤黒い4本の触手。それが一つにまとまり、巨大な鉤爪に変化する。遅れて影胤がはっと顔を上げた。赫々(かっかく)とした赤色の瞳と、仮面の奥の瞳が交錯する。

 

 

 

「───うるせえんだよ」

 

 

 

 横薙ぎに振るわれた巨大な鉤爪を視認するなり、影胤は冷静に『イマジナリー・ギミック』を展開した。自身の存在意義でもある機械化兵士としての能力、『最強の盾』とまで形容される斥力フィールドに防げないものは無い。破れるものなら破ってみせろ。

 

 フィールドと鉤爪が衝突。そして───()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 進路上にあった壁は貫通し、小さい建物はなぎ倒しながら文字通り市街地を横断する。距離にしておよそ60mの大移動の果てに、影胤たちはようやく停止した。

 

「がぁっ、ごぷッ……!?」

 

「パパァ!」

 

 仮面を外し、両手を地面について何度も血を吐く影胤。フィールドが殺しきれなかった衝撃はそのまま影胤へと伝達する。たった一撃でこれほどのダメージ。もしも『イマジナリー・ギミック』を展開するのが少しでも遅れていたら……。

 

 口元を拭い仮面をつけ直すと、影胤は己を心配そうな眼差しで覗き込む小比奈を見やる。正確には小比奈の右腕を。

 大丈夫、腕はきちんと繋がっている。傷跡もない。

 

 それを確認すると、影胤は立ち上がって自分が飛んできた方向、正面を睨む。

 

「……ついにその気になったか、黒い死神」

 

「…………」

 

 無言で、凄まじい殺気を叩きつけながらカネキが近づいてくる。小比奈は生まれて初めて恐怖を体験していた。叫び出しそうになる衝動を必死で抑え、無意識に退きそうになる足を無理矢理地面に縫いつける。決してあの男を視界から外してはいけない。次に目を離せば、今度は腕ではなく首が飛ぶ。そんな嫌な妄想が頭の中を埋め尽くした。

 

 足を止め、カネキはどこまでも暗く冷たい瞳で影胤を射抜いた。

 

 瞬間。カネキの姿が消えた。

 

「パパっ! 上だよ!!」

 

 影胤たちの真上に跳躍したカネキは空中で体を捻り、鉤爪状の赫子を鞭のようにしならせ、彼らに叩きつけようとしていた。

 

「『イマジナリー・ギミック』ッ!!!」

 

 赫子とフィールドが再び激突する。青白いドームが数センチ地面に沈み、影胤はまたもや膝をついた。屋根の上に軽やかに着地したカネキは、影胤を見下ろしながら言った。

 

「……さっき、僕と本気の殺し合いがしたいとかどうとか言ってましたけど」

 

 両肩で息をしながら影胤は顔を上げる。

 

「ゴミが粋がってんじゃねえよ」

 

「貴、様ぁッ……!!」

 

 影胤から向けられる(常人なら卒倒するような)殺気を涼しげに受け流しながら、カネキは森林地帯に視線を移した。人影が二つ、こちらに接近している。おそらく蓮太郎と延珠だろう。

 

(あとは主人公に任せて夏世ちゃんの所へ行こう)

 

 ここでの目的は達成した。

 

 くるりと影胤たちに背を向けると、カネキは将監を回収するために跳躍した。

 

 影胤は、機械化兵士になってから初めての敗北を前に、拳を地面に振り下ろした。

 

 

 

 

 




 好きな言葉を入れてください。

「◯◯◯◯◯◯」

「貴、様ぁッ……!!」


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第9話 宿痾

 長い(確信)

 今更ですが誤字報告してくださった方、ありがとうございます。


 

 

 

 

 

 僕が将監さんを担いで市街地から離脱した後の展開は……まあ、一言でいえば原作通りだった。蓮太郎くんの活躍により蛭子影胤は撃破、ステージⅤのガストレア『スコーピオン』は彼が放ったレールガン(現代版ロケットパンチ)によって討伐され、蛭子影胤テロ事件は終結した。

 

 これだけなら、敢えて言葉を濁すような言い方をせずに「原作通りの展開でした。以上」で終わるんだけど、この話には少し続きがある。

 

 『原作通り』とは言ったけど、すべてが原作と同一の展開だった訳じゃない。将監さんと夏世ちゃんはあの事件を生き延びたし、蓮太郎くんが影胤さんとの戦闘で瀕死の重傷を負うこともなかった。

 

 もしかしたら、物語が改変されないように謎の修正(運命)力が働いて将監さんたちを救えないんじゃないかとか、僕が余計なことをしたせいで原作以上に犠牲者が増えるんじゃないかとか、色々不安はあったけど、東京エリアは主人公に救われ、僕は目的達成の為の第一歩を踏み出した。

 

 誰にも迷惑は掛けていない。なのに、一体なにが気に食わないのか。

 

 バチンッ、と乾いた音が地下室に響く。痛みで熱を持った頬をさすりながら顔を戻すと、振り抜いた手を下ろした白衣の女性───室戸菫(先生)はその(よく見れば驚くほどの)美貌に怒気を滲ませながらこちらを睨んでいた。

 

「……未踏査領域に発つ直前に、私は君に言ったな。危険が迫ったらどんな状況だろうと躊躇わずに赫子を使えと。なのに、なぜ約束を破った?」

 

 ……あ。

 

「まさか忘れていた訳じゃないだろうな?」

 

「あ、あははは。僕が先生との約束を忘れる訳ないじゃないですかー……待ってくださいすいません謝ります嘘つきましたごめんなさいだからそのメスをおろして下さいお願いします!!」

 

 言うが早いか残像を生じさせるスピードで土下座の姿勢に移行し、床のタイルに額を叩きつける。白衣を着た女性が無表情でメスを片手に歩み寄ってくる姿は控えめに言ってホラーだ。不健康なほど青白い肌と、まるで幽鬼のように希薄な存在感がそれに拍車をかけている。

 

 これ逃げなきゃ解剖されるんじゃね? とは思っても、恐怖で足がガクガク震えてとても立てそうにない。先生の靴のつま先が目に映り、頭頂部に視線をびしびし感じる。

 

 その状態のまま5分が経過。

 

 ……静寂が痛い。これはひょっとして、靴を舐めろという無言の圧力だろうか。

 

「はあぁぁ……。ちゃんとした理由があるんだろうな?」

 

 え? と顔を上げると、先生は眉間に皺を寄せて深い溜息をついた。ドカッと椅子にもたれ掛かると、早く話せと言わんばかりに目元をつり上げていく。

 

「は、はい! えーと、まずですね、影胤さんには後援者がいました。そして彼は、ごく一部の人間にしか開示されていない僕の経歴(機密情報)を知っていた。恐らくその後援者から聞いたんでしょう。またそうなると、彼に協力していた人物はそれなりの権限を持っていると予想できます」

 

 そこで僕は、東京エリアの権力者たちが一堂に会するこの機会を利用し、もともと作戦本部に突撃するつもりだった木更ちゃんにお願いをしたのだ。

 

 もしも本部に残ることができたら僕に合図を送り、周囲の人間が赫子を見たときにどんな反応をするか観察するようにと。

 

 僕の正体を知らない人間が初めて赫子を目にすれば、普通は驚く。少なくとも、事情を説明されたときの木更ちゃんは2秒ほど思考停止させるぐらいには驚いてた。

 

 しかし知っていれば、その動揺は自然と小さくなる。

 

 つまり、作戦本部に集まった人たちの中で、赫子を使っている僕を見ても平然としていた人物こそが影胤さんのもう一人の後援者なのだ。ちなみに菊之丞さんと聖天子様(最高権力者)は除外する。

 

 まあ、すべては僕の勘に基づく仮定の話だけど。

 

「だから、木更ちゃんが本部に到着するまで赫子を使うわけにはいかなかったんです」

 

 とは言うものの、僕が今回やったことは公園で影胤さんと会話したことで、自身の内に生じた根拠のない不安を払拭するための自己満足にすぎない。だって、影胤さんの協力者が本部にいる保証など何処にもなかったのだから。

 

 ところが作戦はまさかの大成功。僕の赫子を見て会議室が騒然としている中、一人だけやけに冷静な人物がいたらしい。……もっとも、その人は翌日()()()()()()()()()()()()ようだが。まさに骨折り損(物理)である。

 

「なるほど。つまり君は、"かもしれない"などという曖昧な理由で私との約束を反故にしたと。そういことか?」

 

「あー……そう、ですね。そういう事になりますね、はい」

 

 ブチィッ! という音が聞こえた気がした。全身から冷や汗が滝のように流れ、床に小さな水たまりを形成していく。僕は今日死ぬ(解剖される)かもしれない。

 

「そ、そんなに怒ることないでしょう? 前回の診断では()()10年ぐらいは余裕があったと思うんですけど……」

 

「7年だこの大馬鹿者ッ! 君に残された時間はあと()()()7年しかないんだ!!」

 

 10年前のあの日。僕がこの身体に憑依する直前に、金木研()はガストレアウイルスに感染した。だけど、どういうわけか体内侵食率は50%で停止し、ガストレア化することはなかった。

 

 理屈があまりに難しく、いまいち内容を理解できなかった僕が簡単な説明を求めると、当時の彼女はガストレアへの憎悪と復讐に燃える瞳で、嗤いながら言った。

 

 曰く、『君はウイルスに"適合した"』のだと。

 

 言ってしまえば僕は、体内侵食率が上昇しない『呪われた子供たち』だ。彼女たちと違う点は性別と赫子の有無、そして両目ではなく左眼しか赫くならず、白目の部分が黒く染まるということだけ。

 

「自分を不死身だと勘違いしているようだから教えてやる。君は常人よりも死ににくいだけのただの人間だ。いいか? 以前にも説明したが、確かにガストレア細胞はテロメアすら修復する。故にガストレアは老化する(寿命で死ぬ)ことはない。だが履き違えるな。君や『呪われた子供たち』はガストレア未満の人間だ。奴らと違ってテロメアが再生することはない」

 

 要約すれば、僕の身体は怪我と再生を繰り返すほど老化が進行するという話だ。影胤さんとの戦いの時みたいな酷い怪我を負えばそれに比例して老化は加速し、寿命が縮む。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()。先生は7年しかないと言ったけど、正直7年も必要ない。僕が目的を果たすまでの間……あと数ヶ月だけ保ってくれればそれでいい。

 

「もっと自分の身体を大切しろ。これは医者としてではなく友人としての忠告だ」

 

「『この世には死んだ人間と、これから死ぬ人間しかいない』が座右の銘の人がなに言ってるんですか」

 

「茶化すな。君が死んだら、残された者たちはどうなるんだ」

 

 残された者たち……?

 

「もしかして里津ちゃんたちの事ですか? それなら心配いりませんよ。彼女たちのために今まで貯めていた資金があるんですけど、僕が死んだらそれが里津ちゃんたちの口座に送金されるように手配してあります。一生遊んで暮らせるとまでは言いませんが、万が一彼女たちが社会で働けなくても生活に困らない金額なので問題ないですよ」

 

「……本気で言っているのか?」

 

 問いの意味が分からず首をかしげると、先生の顔が一瞬悲痛に歪んだ気がして、思わず二度見する。だが、彼女の口元にはいつも通り人を小馬鹿にしたような笑みが浮かんでいるだけだった。おそらく見間違いだろう。第一、彼女がそんな顔を僕に向ける理由に心当たりがない。

 

「君は昔から変わらないな」

 

「ありがとう、ございます……?」

 

「皮肉だよ。君は蓮太郎くんと違って本当にからかい甲斐がないなぁ」

 

 これは喜んでいいのだろうか。いや、彼女に365日弄られ続けて社会的に抹殺されかけている蓮太郎くんの境遇を考慮すれば、むしろ喜ぶべきことだ。

 彼には悪いが『この世の不利益はすべて当人の能力不足』、呪うなら自分の弄られやすさを呪いなよ。

 

「そういえばそろそろ友人のお見舞いに行く時間じゃないのか?」

 

「……時計がないのにどうして時間が分かるんですか?」

 

「私は天才だぞ? そんな物なくても体内時計があれば秒刻みで時間を観測できる」

 

 どこかで聞いたことがあるような台詞だ……。

 改めて携帯で時間を確認すれば、なんと先生の言葉は真実だった。相変わらずこの人は凄い。いろんな意味で。

 

 床から立ち上がり、膝についた汚れを手で払う。ここもそのうち掃除しなくちゃな。

 

「それじゃあ、もう行きますね」

 

「───カネキくん」

 

 出口に向かって進めていた足を止めて振り返ると、先生がいつにもなく真剣な目で僕を見据えていた。

 

「自らの命を削ってまで君が求めるものは一体何だ? 何が君をそこまで突き動かす?」

 

 何を求める、か。そんなもの10年前から……いや、前世から変わっちゃいない。

 

「僕が求めるものは、誰もが当たり前のように持っていて、僕だけが持っていないもの」

 

 まるで何かの謎掛けみたいな言い回しに、先生は訝しむように眉をひそめた。そんな彼女に僕はニコッと微笑んだ。

 

 

 

「僕は───()()が欲しいんです」

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「…………暇だな」

 

 病室の白い天井をぼんやりと眺めながら、将監は心底退屈そうに呟いた。

 

「将監さんって5分に一回は暇って言わないと死ぬんですか? いい加減聞き飽きました。あ、リンゴが剥けましたよ」

 

 夏世は切り分けたリンゴを皿に乗せると、ベッドに体を沈める将監に差し出した。

 

「仕方ねえだろ、実際暇なんだから。っと、サンキュ」

 

 上体を起こした将監は反射的に右手で受け取ろうとして、小さく舌打ちする。

 

「……大丈夫ですか?」

 

「あぁ? ……まあ、そのうち慣れんだろ」

 

 そう言うと、将監は()()()()()()()()()()()()を引っ込め、左手で皿を受け取った。

 

「これからお前はどうするんだ?」

 

「どう、とは?」

 

「決まってんだろ。この身体じゃ、俺はもう戦えない。民警として死んだも同然だ。このままペアを組み続けた所で、お前にメリットなんか一つもねえぞ」

 

 影胤との戦闘で、将監は右手と左足を喪った。序列100番台を相手にして生き残れたこと自体が奇跡だが、これは前衛を務めるプロモーターにとって致命的だった。

 

 未踏査領域から帰還した翌日、将監は己の見舞いに訪れた三ヶ島に退職願を提出した。そして三ヶ島はそれを受理した。

 天童民間警備会社のような小さい会社ならばともかく、三ヶ島ロイヤルガーダーは民警の中でも最大手。負傷して、戦えなくなったお荷物の居場所など存在しない。

 

 会社は辞めたのに民警を辞めていないのは……ただの意地だった。

 

「そうですね……株でも始めようかと思っています」

 

「株だぁ?」

 

「はい。戦うことしか取り柄のない役立たずな将監さんに代わって、私が生計を立てて差し上げます。大丈夫です、IQ210もある私の頭脳にかかればお金なんて働かなくても懐に押し寄せてきますから」

 

「…………」

 

 話が見えない。つまりどういうことだ?

 

「将監さんが筋肉しか詰まっていない脳みそで何を考えているのかは知りませんが、私は貴方とのペアを解消するつもりはありません」

 

「……はぁ?」

 

「私は将監さん以外のプロモーターと組むつもりはない、そう言ったんです」

 

 夏世はベッドの脇にある椅子に腰かけ、開いた本から目を離すことなく告げる。

 

「……そのプロモーターがカネキだったら?」

 

「……………………………なぜそこでカネキさんの名前が出てくるんですか?」

 

「間が長えよ。あと顔赤えぞ……っておまッ、なに俺のリンゴに手ぇ出してんだ!」

 

「いつまで経ってもリンゴに手をつける気配がなかったのでいらないものと判断しました」

 

「ふっざけんなッ! ちょっ、左手掴むのは反則だろうが!! つーか俺病人だぞ───っていだだだだだ!!? あ"あ"!? 俺のリンゴぉぉぉおお!!!」

 

 顔を真っ赤にしてリンゴを咀嚼する幼女と、その幼女に左手を極められながら絶叫する強面の男性というのはなかなか混沌とした絵面だ。

 

 そして、そんな彼らのやり取りを入口から覗いていた人物が二人。

 

「なーんだ。将監のヤツ、思ってたよりも元気そうじゃん」

 

「元気なのはいい事だけど、そろそろ止めないと。病院で騒ぐのは他の患者さんに迷惑だからね」

 

 結局、騒ぎを聞きつけた看護師が一喝しに来るまで、病室から響く喧騒が止むことはなかった。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 穏やかな風が頬を撫でる。カネキはフェンス越しに街を見下ろしながら、将監からの返事を待った。

 

「……………」

 

 屋上に設置されたベンチに座って、将監は左手で器用に書類を(めく)っていく。そして最後の頁に辿り着くと、また最初のページから読み直す。彼はこれを何度も繰り返していた。

 

 その原因は書類の内容にあった。

 

『伊熊将監と千寿夏世ペアが【あんていく】の社員となった暁には、民間警備会社【あんていく】社長・金木研は、プロモーター・伊熊将監にバラニウムの義肢を提供することを約束する』

 

 要点をまとめるとこんな感じだ。

 

「……返事を出す前に一つだけ聞いていいか?」

 

「どうぞ」

 

「理由を教えてくれ」

 

 契約の内容は驚くほど将監にとって有利なものだった。相手がカネキでなかったら詐欺を疑い即座に破り棄てるレベルである。それほどまでに、この契約にはカネキが得をする要素が見当たらないのだ。

 

 別にカネキを疑っているわけではない。自分が『あんていく』の社員になれば、彼は本当に義肢の費用を全額負担してくれるだろう。

 

 だが、将監には不思議でしかなかった。彼と自分では、比べることすら烏滸がましいほどの絶対的な力の差がある。話によれば、自分が手も足も出なかったあの影胤を一方的に追い詰めたとか。

 

 そんな彼が、どうして自分にそこまでしてくれるのか。純粋に気になったのだ。

 

「なあ、どうして俺なんだ?」

 

 カネキは振り返ると、微笑みを携えて歌うように言葉を紡いだ。

 

「あなたが必要だからです」

 

「──────」

 

 どこまでも真っ直ぐな瞳が、将監を射抜く。虚飾も邪念も一切ない。それはカネキの、紛れもない本心だった。

 

「……くっ、ははは、ははははははっ!!」

 

 先ほどまで自分が抱いていた悩みがあまりに滑稽で、堪えようのない笑いが漏れる。

 

 男の笑い声が屋上にこだまする。やがて音は小さくなり、将監は涙を拭って大きく頷いた。

 

「いいぜ。今日から俺と夏世は『あんていく』の社員だ。よろしく頼むぜ、()()?」

 

「こちらこそ、よろしくお願いしますね、()()くん?」

 

 芝居がかった会話にどちらからともなく噴き出し、将監は腹を抱え、カネキは肩を揺らした。

 

 IP序列1584位・『闘神』伊熊将監とその相棒である千寿夏世が、民間警備会社『あんていく』の新たな仲間になった瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そう言えば、仮面野郎と戦ってるときに助けを求めてたっていうガキは結局どうなったんだ?」

 

「ああ、あの子ですか。おかしな話なんですけど、作戦の参加者リストにはその子と同じ顔のイニシエーターが()()()()()()()()()()()んですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 東京エリア第一区。普段は国家元首の執務をサポートするために、スタッフが慌ただしく行き来する聖居西塔の執務室だが、今は東京エリアの3代目統治者である聖天子と、彼女の首席補佐官たる天童菊之丞の姿しかない。

 

 聖天子は巨大な執務机にとある人物の資料を置くと、憂いを帯びた声音で呟いた。

 

「これが……彼の過去ですか」

 

 資料に添付されていた画像には黒髪の少年───10年前の金木研の顔が写っていた。

 頬は痩せこけ、目元には濃い隈が浮かび、生気の宿らない瞳は絶望に塗りつぶされたように暗い色をしていた。

 

「彼を保護したのは菊之丞さんでしたね。その、こんな事を尋ねるのは無神経だと百も承知ですが───」

 

「───なぜ、その場であやつを殺さなかったのか、ですかな?」

 

 菊之丞の言葉に、聖天子は意を決したように強く頷いた。

 

「理由はご存知かと思いますが、当時の私は今よりも苛烈でした。正直に申しますと、私はあやつだったからこそ踏み止まれたのです」

 

 言外にカネキではない別の誰かがあの場に居たのなら、間違いなく殺していたと菊之丞は語る。

 

「あやつの両親とは学生時代からの友人でして。彼らの親バカ加減と言ったらそれはもう……」

 

 震えそうになる声を何とか抑えて、菊之丞は続ける。

 

「あれはケンが、親の薦めで道場に通い始めてから1年後の事でした」

 

 目を閉じれば思い出す。血と臓物の海で、父と母だったモノをかき集めて泣き叫ぶ少年の姿を。あの日の慟哭が頭から離れない。あの日の光景が、今も瞼の裏に焼きついている。

 

 

 

 ───君の父上と母上は、亡くなられた。助けてあげられなくて……すまなかったっ……!

 

 

 

『あわ、あわわわ。えーっ、えーっ??!!』

 

『へへえ? へへへへ? なん、なんでえ……』

 

『どこなの!! じゃ!? ぼくは……ぼぼっぼ』

 

『ぼっ……ぼくは、ぼぼ………………だれ?』

 

 

 

 愛する者を目の前で惨殺された少年は、過去10年間の記憶と引き換えに崩壊寸前の精神をかろうじて維持した。

 だが、記憶を封印しても心までは騙せなかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()は、彼を戦場へと駆り立てた。それが、菫や菊之丞たちの見解だった。

 

「私にとってガストレアとは、最愛の妻を奪った畜生以下の虫けらでしかありません。奴等に感染した者も、また同様に」

 

 そこで聖天子は悲しそうに顔を伏せた。彼が言っている感染者とは、十中八九『呪われた子供たち』のことだ。菊之丞のようにガストレア大戦を経験した『奪われた世代』にとって、ガストレアと『呪われた子供たち』に大した違いなどない。

 

 菊之丞の言葉は、聖天子の理想(願い)である『呪われた子供たち』と『奪われた世代』の共生への道は、非常に険しいものだと痛感させるには十分すぎた。()()()()()()()()()()()()()()()

 

「自分の行いは正しいのだと、何も間違ってなどいないと信じていました。ですが、彼と出会ってから……それが分からなくなってしまったのです」

 

「そう……ですか」

 

 自嘲するように顔を歪める菊之丞に、聖天子はかける言葉が見つからなかった。

 

「彼のような存在は、他にも確認されているのですか?」

 

 話題を変える意味合いを含めるその問いかけに、菊之丞は聖天子の心遣いに感謝した。

 

「現在、国内で確認されているのはあやつ一人だけです。海外の目撃情報を合わせれば計8人の存在が確認されています。しかし、あまりこの数字は信用なさらない方が良いかと」

 

「? なぜですか?」

 

「"彼ら"は『呪われた子供たち』と違って力の解放や再生に伴う体内侵食率による制約がありません。……この意味がお分かりですね」

 

 菊之丞の言葉に、聖天子はぞっとした。

 

「『呪われた子供たち』以上に迫害を受ける"彼ら"は、そのほとんどが正体を隠して社会に紛れ込んでいるか、人里離れた場所で生活していると考えられています。もっとも、ガストレアウイルスに感染しながらガストレア化しない確率は0.016%ですので、そこまで重く受け止める必要はありません」

 

「どう、して……どうしてこれほど重要な情報を、国家元首である私に今まで黙っていたのですか……!」

 

「先代聖天子様との約束でございます。『金木研に関する情報は最重要機密とし、可能な限り秘匿し続けること。それが例え、国家元首であろうとも』と」

 

 そこでふと、聖天子は先ほどの"彼ら"の説明と、菊之丞が先代聖天子と交わした約定との間に違和感を覚えた。

 

「待ってください。菊之丞さんの説明では"彼ら"は体内侵食率が上昇しない『呪われた子供たち』の様なものだと認識していましたが、それだけの理由でなぜ最重要機密扱いになるのですか?」

 

 そう。"彼ら"の存在が、ただ体内侵食率が上昇しない『呪われた子供たち』であるというだけなら、ここまで厳重に情報を秘匿する必要性はどこにもない。

 

「ああ、私の説明不足でした。確かに"彼ら"は力の解放や再生によって体内侵食率が上昇することはありません。ですが、"彼ら"の特性にはその()があるのです」

 

 

 

『………………すみません。ステージⅣとの戦いで消耗したので、その補給を……』

 

 

 

 ……いやまさか、ありえない。体内侵食率が上昇しないという情報と、菊之丞が口にした『先』という言葉。この2つから、聡明な聖天子はどうして"彼ら"の情報が隠匿されたのか推測し、そして、最悪な結論を導き出した。

 

「ガストレアウイルスに感染し、"適合"した人間には赫子と呼ばれる捕食器官が発現します。また"彼ら"はガストレアを喰らい、ウイルスを摂取することでその力を増幅させることが可能だと判明しています。中には、体を鎧のように覆う赫子が生じる『赫者』と呼ばれる個体も存在するそうですが、当然リスクもあります。ウイルスを短期間で大量に摂取した結果、凍結していた体内侵食率が一気に上昇し、ガストレア化したケースが確認されているそうです」

 

 吐きたくなる衝動をかろうじて鎮め、聖天子は震える声で最後の質問を投げた。

 

「その"彼ら"には、なにか呼び名のようなものがあるのでしょうか……?」

 

 菊之丞はしばらく瞼を閉じると、やがてゆっくりと開けた。

 

「人の姿でありながら、人ならざるモノを喰らう存在。我々は"彼ら"を───」

 

 

 

 

 

 ───『喰種(グール)』と呼んでいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




金木 研(カネキ ケン)
・24歳
・Blood type:AB
・Size:170cm/58kg
・Like:『あんていく』のメンバー、39区の子供たち、知的な女性
・Hate:無価値な自分、蛭子影胤
・Rc type:鱗赫
 
 
 
 ここからは私が作中で詳しく描写しきれなかった情報の開示、と言うより作者の技量不足が招いた補足という名の蛇足です。

>偽カネキの寿命の解決策
一応ガストレアウイルスを大量に摂取すればテロメアも再生されます。ただし、過去にウイルスを大量摂取した『喰種』がガストレア化した事例があるので菫に止められています。

>事件の黒幕
なんとなく察している方もいるかもしれませんが、この作品における「蛭子影胤テロ事件」に菊之丞は一切関与していません。偽カネキの存在もあって、この世界の彼は原作とは違い『呪われた子供たち』に色々と複雑な感情を抱いています。結果として菊之丞は原作ほど『呪われた子供たち』を憎みきれず、影胤と共謀するには至りませんでした。
 
 
 
え? なら黒幕は誰なのか、だって? それは……おや、誰か来たようだ。


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聖天子狙撃事件
第10話 孤言


 

 

 

 

 

 僕には価値がない。

 

 価値の基準が何なのかは知らないけれど、100人中100人が「お前は無価値だ」と断ずるのなら、それは客観的で絶対的な、覆しようのない事実なのだろう。

 

 この世界で目覚めてからずっと考えていた。どうすれば、こんな僕に価値が生まれるのかを。

 

 ただ善行を積む(人を助ける)だけじゃ足りない。そんなものは最低条件だ。そもそも、(価値のない人間)僕以外(価値のある人間)とではスタートラインが全然違う。無価値な存在がその価値を証明するためには、誰にも出来ないような……僕にしか出来ないことを成さなければ意味がない。

 

 前世は誰の記憶にも残らないような終わり(無価値な少年)だった。だから今度は、どこにでもいる価値のある人間(平凡な存在)になって、そのあとに僕は……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ───かっこよく死にたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 勾田高校からそれほど遠く離れていない場所に位置するとある道場、その裏庭。

 

 柔らかな陽射しを全身に浴びながら、早朝の冷たく澄んだ空気で肺を満たすと、里見蓮太郎は静かに口を開いた。

 

「……心が折れそうだ」

 

「安心しろ蓮太郎……妾はとっくに折れてる」

 

 どこに安心できる要素があるんだと、いちいちツッコミを入れる気力もない。芝生の上に仰向けに倒れながら、蓮太郎と彼の相棒である藍原延珠はげっそりとした様子で呻いた。

 汗を吸って肌に張り付くシャツの感触が気持ち悪いが、額に浮かぶ汗を拭うことすら億劫で、まるで地面に縫いつけられたように体はピクリとも動かない。

 

「そう悲観することもないよ。訓練を始めてまだ二ヶ月だけど、僕を相手に5()()()保つようになったじゃないか。君たちは間違いなく、以前よりも強くなってるよ」

 

 そう言って金木研は、二人の顔に適度に絞った濡れタオルを投げた。ちなみに今のカネキの格好は、灰色の半袖のスポーツウェアに黒のハーフパンツである。

 

 蛭子影胤テロ事件を解決した功績を讃えられ、聖居で受勲式を終えた蓮太郎は、カネキに師事するために真っ直ぐ彼の自宅へと足を運んだ。何でも、菫からカネキと影胤の戦闘映像を見せられたことで、己の弱さを再認識させられたらしい。

 

『俺は、自分が何者なのか知りたい。IP序列の向上によって得られる"機密情報へのアクセス権"があれば、それが分かる筈なんだ。けどその為には、今のままじゃ駄目なんだ。俺は、もっと強くならなくちゃいけない。頼むカネキ! 俺を鍛えてくれ!!』

 

 玄関前で土下座(無自覚な脅迫)を敢行する蓮太郎の頼みを、カネキは二つ返事で了承した。口元を手で隠してひそひそ話をするご近所さんの視線が痛かったが、もともと今後のためにも蓮太郎は鍛えておいた方がいいと考えていたので、カネキにとっては渡りに船だった。

 

 特訓はカネキと蓮太郎の予定が合う日に、早朝と放課後から深夜にかけての二回、受勲式の翌日から始まった。ちなみに開始時間を早朝、終了時間を深夜にしたのは「蓮太郎くんって確か学校に行ってもほとんど寝てるだけだって未織ちゃんが言ってたな。なら問題ないだろう」という蓮太郎の学生としての生活を考慮した結果だった。

 

 そんなこんなで始まった蓮太郎の『秘密の特訓』。だがそれは、日も昇らない内から家を出た彼を不審に思った延珠が尾行したことで、始まる前に終わりを迎えた。『秘密の特訓』改め『ただの特訓』誕生の瞬間である。

 

 その際に蓮太郎と延珠の間で一悶着あったのはご愛嬌。

 とりあえず、バレてしまったものは仕方がないということで、延珠も特訓に参加することを余儀なくされた。

 

 己の強さに決して小さくない自信を持っていたが故に、どこか遊び感覚で余裕そうな延珠だったが、特訓の内容を聞くと途端に顔色を変えた。

 

 その内容とは、特訓の間はいかなる状況であろうとも能力を使用してはならないというもの。蓮太郎は『機械化兵士』としての能力を、延珠は『呪われた子供たち』としての能力を、だ。

 

 そして、その状態でカネキと手合わせするというものだった。

 

 この特訓の意図には、蓮太郎と延珠の基礎能力を向上させ、実戦でより高いパフォーマンスを可能にさせるという合理的な目的と、延珠の体内侵食率を必要最低限に抑えるという私情が潜んでいる。

 

 余談だが、カネキのイニシエーターである里津はもちろん、晴れて『あんていく』の社員となった夏世、外周区の『子供たち』にもレベルの差はあれ、同様のトレーニングを行っている。

 

 小休止を終え、訓練を再開した蓮太郎と延珠は、喊声を上げながらカネキに肉薄する。だが、

 

「甘い。追い込まれた途端に動きが単調になるのは君たちの悪い癖だ」

 

「ごはっ!?」

 

「ぶッ!?」

 

 二人の拳打と蹴撃が放たれるよりも速く、カネキの蹴りが延珠の脇腹を、裏拳が蓮太郎の顔面にめり込んだ。腹部を押さえて嘔吐する幼女と、血が噴き出す鼻を両手で覆いながら蹲る少年。何も知らない人間が見れば通報待ったなしの光景だ。

 

 そしてそれを、道場の縁側に座って見学していた天童木更は、青ざめた顔で呟いた。

 

「あ、相変わらず厳しい訓練ね……」

 

 だがそんな木更の意見を、彼女の左隣に座っていた占部里津が否定する。

 

「あんなのまだ序の口だよ。本番はアイツが赫子を使い始めてからだから。……言っとくけど、赫子を使った訓練はマジで地獄だよ」

 

 瞳からハイライトが消え、虚ろな表情になった里津に対し、木更は引き攣った笑みを浮かべた。

 

(あれ……もしかして私、地雷踏んだ?)

 

 意図せずしてトラウマを抉ってしまった事実に気づいた木更は、逃げるように自身の右側に座る千寿夏世に話題を振った。

 

「そ、そういえば、夏世ちゃんはお昼から特訓だったわよね」

 

「はい。私の相棒はまだ入院中ですので、里見さんたちと違いマンツーマンでトレーニングを行います。ふふふ、泣いてもいいですか?」

 

「え、あ、その、えーと……」

 

 実に爽やかな笑みを浮かべながら絶望を口にする夏世を見て、木更は目をあちこち泳がせしどろもどろになりながら、何か気の利いた台詞はないかと思考を巡らす。

 

「……あ」

 

 だが、ふと気づいてしまった。

 

 腎臓の持病のおか……持病のせいで、この場にいる人間の中で唯一カネキとの特訓を回避した自分が何を言ったところで、この子には響かないのでは?

 

 少なくとも、自分が彼女の立場ならカケラも響くとは思えない。

 

「…………………ごめんなさい」

 

 悔しそうに、己の無力さを嘆くように呟かれたその謝罪は、自身の不用意な発言に対するものなのか、一人だけ特訓を免れた事によって生じた罪悪感の発露なのか、はたまた両方か。真実は木更本人にしか分からない。

 

 重苦しい空気が漂う縁側で、三人は遠い目をしながら揃って溜息を零した。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 蓮太郎くんと延珠ちゃん、そして夏世ちゃんとの訓練を終えた僕は、正午から夕方にかけての訓練で疲労困憊だった夏世ちゃんを背負い、なぜか急に不機嫌になった里津ちゃんに困惑しながら帰宅した。気のせいか、背中が少しだけ熱かった。

 

 さりげなく夏世ちゃんをお持ち帰りしてる理由だけど、彼女は将監さんが入院している間だけ我が家に居候することになったのだ。もちろん将監さん(保護者)からの許可はもらっている。

 

 夕食の準備を済ませ、軽くシャワーを浴び、普段の戦闘用のコートではなくビジネスコートに身を包んで家を出た。当然、コートの色は黒だ。男の子ってヤツは、いくつになってもこういうものに憧れる生き物だから、仕方ないよね。

 

 出かける直前に「仕事?」と、玄関で尋ねてきた里津ちゃんの問いをやんわりと否定し、依頼人と顔合わせをしてくるだけだと伝えた。

 

 数秒ほど、僕の顔を凝視し続けた彼女はやがて「……本当みたいだね。よし、行っていいよ!」と、モデル・シャーク特有の鋭い歯を見せるように、ニカッと笑って送り出してくれた。……今の僕が、里津ちゃんの中で一体どういう評価なのか窺えるやり取りだった。

 

 そして現在。

 ガタンゴトン、という一定のリズムを刻みながら聖居へと走る列車の窓から、僕は眼鏡越しに夕焼けで赤く染まった街を眺めていた。

 

 『聖居』という二文字で大体察してくれたと思うけど、件の依頼人とは聖天子様のことだ。いや、正確には彼女は依頼人ではない。ないのだが、今回僕が受けた依頼を聖天子様が承認しなければ白紙に戻るので、依頼人という表現はあながち間違いではないと思う。

 

「どうしてこうなった……」

 

 事の発端は一週間前まで遡る。

 その日の訓練中にふと、延珠ちゃんが影胤さんの嫌がらせで小学校を退学させられたのを思い出した。

 

 そこで僕がさりげなく、蓮太郎くんに延珠ちゃんを第39区の青空教室に転入させてみては? と提案したところ、とりあえずは見学だけという事で『天童民間警備会社』と将監さんを除いた『あんていく』のメンバー全員で外周区に向かうことになった。

 

 子供たちの底なしの活発さに終始翻弄される蓮太郎くんと木更ちゃんを見ながら、「アルデバラン襲撃までやる事もないし、いっそ長期休暇でもとって蓮太郎くんたちの訓練と青空教室の授業以外は家でごろごろしてようかな〜」なんて考えていた矢先のことだった。あの男から連絡が来たのは。

 

 震える携帯の着信画面を確認して、心臓が止まるかと思った。なんと、連絡をしてきたのは菊之丞さんだったのだ。

 

 たまたま木更ちゃんが傍にいなかったから良かったものの、もしもあの時、彼女が近くに居たらどうなっていたことやら。

 

 話を戻そう。人には月に一回は近況(主に僕や蓮太郎くんたちの)を報告するように言うくせに、自分からは滅多に連絡を寄こさない菊之丞さんが電話をしてきたのには理由があった。

 

『ケン、お前に聖天子様の護衛を依頼したい』

 

 聖天子様の護衛。

 その言葉から僕が脳裏に思い浮かべたのは、『蛭子影胤テロ事件』に続く二つ目のイベント───『聖天子狙撃事件』である。

 

 『聖天子狙撃事件』とは、ざっくり説明すると聖天子様が暗殺者であるティナ・スプラウトに命を狙われ、それを蓮太郎くんが阻止するという話だ。

 

 ……告白すれば、僕はこのイベントに極力関わりたくなかった。

 

 忘れているかもしれないが、僕の目的はあくまで"原作死亡キャラの救済"だ。そこで、少し考えてみてほしい。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 答えは否である。この世界にしては珍しく、死亡者が出ないシナリオが『聖天子狙撃事件』だ。ならば、僕が物語に介入する必要性はどこにもない。更に言えば、蓮太郎くんは昨日原作通りに聖居で聖天子様から依頼の説明を受け、ついでに聖天子付護衛官たちと一悶着あったらしい。ますます僕が介入する余地がなくなった。

 

 そんなに嫌なら断ればいいのにと思うかもしれないが、悲しいことに僕は「No(ノー)」と言える日本人ではなかったのだ。……一応彼には命を拾われた恩があるので、仮に「No」と言える日本人だったとしても断れたか怪しいが。

 

 しかし、僕だって無抵抗で菊之丞さんの頼みを受け入れたわけではない。彼が僕に依頼するのを考え直すように、聖天子付護衛官の存在意義について言及したり、「そもそも僕に頼むくらいなら自分の部下である"彼"に頼んだ方が上手くいくのでは?」とあの人を引き合いに出したり、10年前に天童家で起きた野良ガストレア事件を掘り起こして「いつになったら木更ちゃんたちに真実を話すつもりですか?」などと話題を逸らそうとしたのだ。

 

 まあ、それらが悉く失敗に終わったから、僕はこうして電車の窓から夕日を眺めているんだけど。

 

 聖天子付護衛官については「実戦経験が皆無な点を除けば本当に優秀な人材なんだがな……」と愚痴を聞かされ、あの人に関しては自分の指示で世界中を飛び回っているから無理だと却下された。

 

 そして10年前の事件に至っては……相変わらずだった。あの日の真実を、木更ちゃんたちに伝えるつもりはないと、その一点張りだった。

 

「不器用な人だな……本当に」

 

 茜色の日差しに目を細めていると、ちょうど列車が聖居前に到着した。やりきれない気持ちを吐き出すように、溜息をつきながら列車を降りる。

 

 10年前、木更ちゃんのご両親は『天童の"闇"』を告発しようとしていた。彼らが一体どういった経緯でそんな結論に至ったのかは不明だが、『天童』を破滅させるその行為を同じ『天童』の人間が許すはずもなかった。

 

 彼女のご両親の計画を知った天童和光、天童日向(ひゅうが)、天童玄啄(げんたく)、天童凞敏(てるとし)、そして菊之丞さんは何とか二人を説得しようとした。だが、彼らは菊之丞さんたちの言葉に耳を貸さなかった。

 

 この世界において『天童』は、政財界に多数の重鎮を輩出している名家であり、当主である菊之丞さんは東京エリアの政治経済を真に支配していると言っても過言ではない。

 

 この意味が分かるだろうか。『天童』が終わるということはつまり、東京エリアの経済が、ひいては東京エリアそのものの崩壊と同義なのである。

 

 木更ちゃんには悪いが、彼女のご両親が為そうとしていたことは()()()()()()()()()()()。彼らがやろうしていたことは紛れもなく正義であり、人として正しい選択だったのだろう。けれど、その決断が東京エリアという全体にとって「善」であったかと聞かれれば、首を横に振らざるを得ない。……彼らが天童家に匹敵するほどの、あるいは凌駕するほどの権力を持った組織と結託していたなら話は別だが。

 

 もちろん、その事実に気づいていたのは菊之丞さんだけで、残りの4人は自分たちの不正が暴かられるという部分にしか目を向けていなかったみたいだけど。

 

 説得は不可能と判断した『天童』の4()()は策を巡らせ、木更ちゃんのご両親を謀殺するための計画を立てた。しかし、それがすぐに実行されることはなかった。当主である菊之丞さんが計画に賛同しなかったからだ。

 

 自分が彼らを説得する。私が許可するまで決して二人に手を出すな、と。

 

 天童家の人間にとって、天童菊之丞の意志は絶対である。だがほどなくして、何の前触れもなく計画は実行に移された。

 

 菊之丞さんは激怒して4人に詰め寄ったそうだ。なぜ、天童家の現当主である自分の意向を無視したのか。そして、どうしてよりにもよって、まだほんの子供である蓮太郎くんと木更ちゃんを巻き込んだのか、と。

 

 彼らはぽかんとした表情になって互いを見合うと、同時に口を開いたそうだ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 菊之丞さんによれば嘘をついている様子はなかったらしい。いくつか考えられた可能性の中で最も現実的なものは、菊之丞さんになりすました何者かが、木更ちゃんのご両親の抹殺を命じたというものだ。だが、そうなると動機が皆目見当もつかない。内部の人間には天童に逆らう者など存在しないし、外部の人間もまた然り。もっとも、前者は忠誠心によるもので、後者は報復を恐れてのものと意味合いが異なるのだが。

 

 結局、菊之丞さんを騙った何者かの正体はおろか足取り一つすら掴めず、木更ちゃんは菊之丞さんをご両親の仇と思い込み、現在の険悪な関係に至っている。

 

 この事実を知っているのは、菊之丞さんを除けば彼の話を信じた僕だけだ。ちなみに僕が菊之丞さんの話を信じたのは、彼が僕を騙すことで得られるメリットがなかった事と、蓮太郎くんの存在があったからだ。

 

 両親と死別した後に天童家に引き取られた蓮太郎くんは当時、仏師である菊之丞さんの唯一の弟子だった。菊之丞さんは身内である『天童』の人間よりも、血の繋がらない他人であるはずの蓮太郎くんを後継者として選んだのだ。

 

 そんな彼が、本当に蓮太郎くんを殺すような指示をするだろうか?

 

「おい君、そこで止まりなさい。ここは関係者以外立ち入り禁止だ」

 

 若い守衛に声をかけられて、初めて自分が聖居の門前まで来ていたことに気づいた。どうやら相当思考に没頭していたらしい。

 

「民間警備会社『あんていく』の金木研です。天童閣下からの依頼を受けて参りました」

 

 ニコッ、と微笑みながら民警ライセンスと菊之丞さんの名前を出すと、守衛は訝しみながら通信で確認を行う。直後、守衛はぎょっとした表情で謝罪し、慌てた様子で開門してくれた。

 

 それに苦笑いしながら、僕は案内役の守衛に続いて門をくぐった。

 

 願わくば、聖天子様が依頼を断ってくれますようにと、淡い期待を抱きながら。

 

 

 

 

 



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第11話 幸福のカタチ/蠢く赫

 

 

 

 

 

 あるところに一人の少年がいました。

 

 

 少年は、お父さんとお母さんの三人で暮らしていました。

 

 

 これといって裕福でもなく、だからといって貧乏でもない、どこにでもいる平凡な家族として、少年は生きていました。

 

 

 少年は、お父さんとお母さんが大好きでした。

 

 

 代わり映えしない毎日だったけれど、お父さんとお母さんが傍に居てくれるだけで、少年は幸せでした。

 

 

 少年は、幸せでした。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 その姿に、思わず見惚れてしまった。

 

 白い花々(ユリの花)が咲き誇る聖居の中庭。その花畑の中心に設置された噴水の縁に腰掛け、柔らかな笑みを湛えて水に手をひたす純白の少女。

 

 雪のように白い肌と髪、そしてウェディングドレスにも似た礼服。

 

 聖天子様だ。

 彼女が人間離れした美貌の持ち主であることは知っていたが、実物はモニターやテレビ越しに見るより遥かに神々しく、同時にひどく儚げだった。

 

「聖天子様、金木研をお連れしました」

 

 聖天子様が緩やかに顔を上げる。僕と目が合うと、彼女は噴水の縁から腰を上げ、そして微笑んだ。

 

 たったそれだけの事なのに、僕の心臓は自分でも驚くくらい大きく跳ねた。

 

「ごきげんよう、カネキさん」

 

 鈴の音のようなその声にはっとする。

 

「お初にお目にかかります、聖天子様」

 

 深々とお辞儀をしてから挨拶を返すと、彼女は不思議そうに目を丸くした。

 

「私の記憶では、以前防衛省でモニターを介してお会いしたはずですが……」

 

「確かに聖天子様の仰る通りです。ですが、私が貴女に()()お会いしたのはこれが初めてですので」

 

 年下の女の子に目を奪われていたという事実が無性に恥ずかしくて、それを誤魔化すために笑いながらおどけてみせる。

 すると何故か、先程まで聖母のごとき微笑みを浮かべていた聖天子様がその表情を曇らせた。

 

「そのせつは申し訳ありません。先の『蛭子影胤テロ事件』の解決における貴方の貢献を鑑みれば、序列を昇格させ、里見さんと同様に受勲式に招かれるべきだったのですが、その、カネキさんの立場は色々と特殊ですので……」

 

「へ? あ、いえ、別にそういうつもりで言ったんじゃないんです! 今のは、えーと、ちょっとした冗談のつもりだったていうか、聖天子様が気にするようなことじゃありませんから!」

 

 謝罪の言葉を口にする国家元首に、今度は違う意味で心臓が跳ね上がった。

 どうやら僕の下らない軽口を皮肉と受け取ったらしい。

 

 いやいや、国家元首に謁見して二言目から皮肉を飛ばすとか命知らずにも程があるだろ。

 あ、でもこの前、受勲式でつい聖天子様に掴みかかろうとしたとか蓮太郎くんが言ってたな。……よく生きて帰ってこれたな。

 

 というか『蛭子影胤テロ事件』の解決に貢献したとか言われたけど、僕がやった事といえば影胤さんをボコって、とどめを刺さずに放置して、そのまま戦線を離脱して……どう見ても敵前逃亡です。本当にありがとうございました。

 

 え? じゃあ今の僕って傍から見たら、テロリスト相手に逃げ出したくせに受勲式に呼ばれなかったことを逆恨みして、そのことを東京エリアの最高権力者に謝罪させてるように映ってるんじゃ……。

 

 ちらりと背後に佇む守衛さんを見遣れば、彼はとても素晴らしい笑顔で腰に掛けている拳銃を指でタップしていた。怖すぎる。

 

 身の安全のためにも、一刻もはやく聖天子様の謝罪を撤回させなくては。

 小刻みに震える体を無視して、しどろもどろになりながら必死に思考を回転させる。その時だった。

 

「ふふふ、冗談です。貴方がそのような人物でないことは、菊之丞さんから伺っていますから」

 

 口元を手で隠し、まるで悪戯が成功した子どものようにくすくすと笑う聖天子様。それを見て、先ほどの表情は演技だったと遅れて理解する。

 

「どうかしたのですか?」

 

「……いえ、別に」

 

 怪訝そうな顔をする聖天子様からそっと目をそらす。

 意趣返し、というよりただ冗談を冗談で返しただけなのだろう。それは目の前に佇むお姫様の純粋な瞳を見れば明らかだ。だから、反射的に喉から飛び出しそうになった「笑えないよ……」という一言(本音)を、僕は強引に飲み込むしかなかった。

 

「そう、ですか」

 

 聖天子様はいまいち納得がいかない様子だったが、僕に会話を続ける意志がないことを悟ると、それ以上深く追及することはなかった。さすがは国民から絶大な支持を得ている国家元首。どこぞの死体愛好家(ネクロファイル)とは大違いである。

 

 などと考えていると、中庭から聖居へと続く扉が重々しい音と共にひとりでに開いた。

 

「そろそろ日が沈みます。話の続きは中でしましょう」

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 窓の外から差し込む橙色の光が、執務室を暖かく満たす。現在この部屋にいるのは僕と聖天子様、そして彼女の秘書である加瀬清美の3人だけだ。

 

 執務室は大人が数十人は余裕で入りきれそうなほどに広く、天井は4メートルぐらいはあるだろうか。

 

「私の護衛任務、ですか」

 

 そう言って、ソファに腰を下ろした聖天子様は契約書を机の上に置いた。

 そして、一呼吸間を空けると、彼女は静かに口を開いた。

 

「初耳ですね」

 

「えぇ……」

 

 真顔で紡がれた言葉に困惑を隠せない。

 

「きくの……天童閣下から何も聞かされていないんですか?」

 

「はい。菊之丞さんから貴方が今日ここ(聖居)を訪れるという話は聞かされていたのですが、それ以上のことは何も」

 

「理由を聞こうとは思わなかったんですか?」

 

「当然尋ねました。しかし菊之丞さんは、『詳しいことは貴方(ケン)から直接聞くように』と」

 

 どうして本来依頼を受ける側の人間である僕が、依頼の説明をしなければならないのか。疑問は尽きない。

 依頼内容の説明ぐらいその場ですればよかったじゃないか。

 

 もちろん、彼が忙しいことは知ってる。今だって中国だかロシアだかにわざわざ足を運んで、東京エリアのために奔走しているらしいし。

 

 でもさぁ、一日のほとんどを聖天子様の傍に控えて過ごしてるんだから、背後からぼそっと『私が留守の間、"あんていく"に聖天子様の護衛を依頼しておきました』って耳打ちぐらいできると思うんだけど。

 

 ……待てよ。菊之丞さんが僕に電話(依頼)してきたのが一週間前。そして、確か彼が日本を発ったのも一週間前だったような……。

 

「……本当に忙しかったんだ」

 

「え? なにか言いましたか?」

 

「何でもありません。それよりも、()が天童閣下から受けた依頼の説明でしたね」

 

 聖天子様から直々に「口調は普段どおりで構わない」と言われ、それを素直に受け入れるのも逆に拒否するのもなんだか失礼な気がして、間をとって一人称だけ元に戻した僕は、とりあえず菊之丞さんからの依頼内容をざっくりと説明した。と言っても、別段難しい話じゃない。菊之丞さんが帰国するまでの間、僕が彼の代理として聖天子様の隣に立ち、その身を脅かすあらゆる危険から彼女を守る。言葉にすればそれだけだ。

 もっとも、この役割は聖天子様から直々に依頼された蓮太郎くんがすでに担っているのだけど。

 

 あれ? これってもしかしなくても普通に依頼を断ってくれるのでは?

 

「そう、だったのですか」

 

 淡い期待を胸に抱きながら、聖天子様の返答を待つ。すると、彼女は何か思案するように目を閉じた。

 しかしそれも数秒。考えがまとまったのか、再び目を開けた聖天子様はペンとり、そして───

 

「では、よろしくお願いします」

 

 あっさりと契約書にサインした。

 

「…………理由を伺っても?」

 

 契約書を受けとり、死んだ魚のような目で書類を見ながら、優雅に紅茶を飲む聖天子様に問いを投げる。

 

「理由と言われましても、護衛は多いに越したことはないと思うのですが。しかもその護衛の一人が、あの"黒い死神"なら尚のこと」

 

 それに、と。聖天子様は気まずそうに、僕から視線を逸らした。

 

「菊之丞さんの厚意を無碍にはできませんから」

 

「…………」

 

 そういえば、彼女は菊之丞さんに何の相談もせず独断で蓮太郎くんに護衛任務を依頼してたんだっけ。その事で菊之丞さんに対して後ろめたい気持ちが多少なりともあったんだろう。

 しかもその彼が、実は自分のために密かに(?)護衛を手配していたと知って余計に罪悪感が募ったのかもしれない。

 

 聖天子様の心情を慮れば、彼女が菊之丞さんの依頼を断るという可能性は最初からなかったのかもしれない。

 

 ということはつまり、菊之丞さんが僕に電話をかけたきた時点で、僕が物語に介入することは決定してたって事か。

 ……これからは菊之丞さんから来た連絡はすべて留守電にしようかな。割と本気で。

 

「それじゃあ僕はこれで」

 

 ちらりと窓に目を向ければ、そこに夕焼けの景色はすでになく、漆黒の闇しか広がっていなかった。

 依頼の確認、もとい説明も終わったし、あとは家に帰って里津ちゃんと情報共有するだけだ。

 

(それが済んだらさっさと寝よう……今日はもう、精神的に疲れた)

 

 と、コートの内側に契約書を仕舞いながら、椅子から腰を上げたその時だった。

 

「───お待ちください。聖天子様、彼も任務に加わるのであれば護衛官たちと顔合わせしておくべきかと」

 

「それもそうですね。ありがとうございます、清美さん」

 

 秘書の加瀬さんが聖天子様に余計なアドバイスをしているのを耳にして、ぎょっとした。

 

「入ってきてください」

 

 聖天子様が部屋の入口に声をかけると、計6名の聖天子付護衛官が軍靴を鳴らしながら執務室に入ってきた。全員が部屋に入室し、整列すると、彼らは一糸乱れぬ完璧なタイミングで足踏みをやめた。

 

「カネキさん、こちらが隊長の保脇さんです」

 

 聖天子様がソファから立ち上がり、やたらにこにこと()()()()()()を浮かべている男を手で示す。

 

「ご紹介にあずかりました、保脇卓人です。階級は三尉、護衛隊長をやらせていただいております。どうぞよろしく、カネキくん」

 

 穏やかな口調とは裏腹に、カケラも好意的ではない視線を向けながら右手を差し出してくる保脇さん。

 

 彼の顔と右手を何度か交互に見比べ、以前読んだ本に書かれていた『ダブルバインド』という単語を思い出しながら握手した。

 そしてその瞬間、手のひらにちくりと鋭い痛みが走った。

 

(毒針か……)

 

「おや、どうかしましたかカネキくん。顔色が優れないようですが」

 

 顔の向きや角度の都合上、聖天子様からはかろうじて表情が見えない位置にいる保脇さんは、それはもう凄まじい顔芸を披露していた。

 もしも今の彼の顔を文字にするなら「ざwまwぁw」という表現がしっくりくるような、そんな顔。咄嗟に脳内で1000引く7をしていなければ、立場も弁えずに殴りかかっていたかもしれない。

 

 それにしても毒か……さすがに種類までは分からないけれど、聖天子様の目と鼻の先で殺人を犯すとは考えられないから、目的は恥辱を受けさせることか? だとしたら、針に塗られていたのは排泄か嘔吐を促進させる類の薬ってところかな。

 

 ……ていうかこの人、一体いつまで顔芸を披露し続けるつもりなんだ? いい加減顔がうるさい。さっきは頭に血が上りかけてたけど、今はただただ鬱陶しい。どうにかしてあの顔を黙らせられないものか。

 

 そこまで思考して、ふと彼の人物像を思い出す。

 

 思い出す、と言っても僕が『保脇卓人』について保有している原作知識なんて、「何か知らないけど里見蓮太郎を目の敵にしてた男」「物語の終盤で主人公に手を撃ち抜かれて号泣してた人」程度のものしかないから、ほとんどが蓮太郎くんから聞いた情報だけど。

 

 蓮太郎くん曰く、保脇卓人はプライドが高く、蛇のように狡猾な男。あと聖天子様(の体)が大好きらしい。

 

 これらは本来なら何の役にも立たない情報だけど、今この場においてはその限りではない。

 

 前述したように、保脇さんはプライドが非常に高い。加えて聖天子様に気がある彼は、彼女の前では決して無様な姿は晒せないだろう。だから───

 

 僕はできるだけ爽やかさを意識しながら笑みを作り、彼と握手している手に力を込めた。

 

 保脇さんの手が潰れない、絶妙な力加減で。

 

「………ッ!?」

 

 予想外の反撃に驚愕する保脇さんだったが、彼はすぐに余裕を取り戻し、激痛に眉をしかめながら酷薄な笑みを浮かべた。

 毒の効果が現れるまでの辛抱、そう思っているのだろう。でもね、保脇さん。

 

喰種()に普通の毒は効かないんだよ)

 

 いつまで経っても体調が変化しない僕を見て、保脇さんの顔から徐々に余裕の色が消えていく。

 

「おや、どうかしましたか? 顔が真っ青ですよ、保脇さん」

 

「そ、そんなことはありませんよ。き、君の方こそ、やせ我慢してるんじゃありませんか?」

 

 額に青筋を立てながら、だらだらと冷や汗を流す保脇さん。頬がひどく引き攣っているものの、それでも笑顔を崩さないところは流石というべきか。聖天子様(好きな人)の手前、彼も必死なのだろう。

 

「そ、そろそろ握手を解いていただけませんか、カネキくん」

 

「おっと僕としたことが。すみません、つい緊張しちゃって」

 

 ぱっと手を離せば、保脇さんはさりげなく右手を庇いながら後退する。その瞳に憎悪を宿しながら。

 それに対し、僕は心の中で中指をかち上げながら勝ち誇った笑みを返す。先ほど保脇さんが浮かべていた「ざwまwぁw」という顔よりも草が一つ増えた「ざwwまwwぁww」という顔で。

 

 

 ……思えばコレがまずかったのかもしれない。

 

 

「顔合わせも済みましたし、今度こそ失礼しますね」

 

「待ってください」

 

 保脇さんたち護衛官の横を通り過ぎ、部屋から退室しようとした僕を聖天子様が呼び止める。

 彼女がなにを言おうとしているのかは僕には分からない。分からないが、何かとてつもなく嫌な予感がしたのは確かだった。

 

「保脇さん、カネキさんを聖居の外までお送りしてください」

 

「え"っ」

 

 因果応報。

 善い行いには善い結果が、悪い行いには悪い結果が伴うという言葉が、この日本には古くから存在する。

 

「み、道なら覚えてますからお構いなく」

 

「夜の聖居は迷いやすいものです。里見さんは昼でも迷っていたそうですし……ですが、聖居の構造を熟知している人間が一緒なら道に迷う心配も問題もありません。安心してください」

 

「いや、あの───」

 

「お任せください聖天子様! 私が責任を持って彼を外までお送りします! ……では行きましょうか、カ・ネ・キ・く・ん」

 

「ちょっ……!?」

 

 両腕を保脇さんと護衛官たちにがっちりと固定され、部屋の外へと連れ出される僕。聖天子様に助けを求めようと何とか振り返るが、無情にも扉が閉まった後だった。

 薄暗い廊下を、ニタニタと嗤う男共に囲まれた状態で歩きながら、思う。

 

 誰でもいい……誰でもいいから、僕をこの地獄から救い出してくれ!

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 2時間後。

 

「………………疲れた………」

 

 自分以外誰も乗っていない電車に揺られながら、僕は聖居での出来事を振り返って溜息をこぼす。

 

 あの後、保脇さん率いる護衛官たちに包囲されながら執務室を出た僕は、当然のことながら聖居の外には送ってもらえず、男子トイレへと連行された。

 

 そしてそこで、眉間に銃を突きつけられながら任務を辞退するように脅された挙句、保脇卓人という男がどれほど優秀な人間であるかを本人の口から延々と聞かされた。

 

 自身のことをあそこまで恥ずかしげもなく自画自賛できるのは素直にすごいと思った。僕には到底できそうにない。皮肉とかじゃなくて。

 

 もっとも、彼の話のほとんどを右から左に聞き流して「なるほど」「すごいですね」「悪いのは貴方じゃない」のスリーワードで適当に相槌を打ってただけだから保脇さんが具体的にどう素晴らしい人間なのかは知らないんだけど。

 

「それにしても『なす悪』って本当に会話が成立するんだな。しかもいつの間にか好感度まで上がってるし」

 

 思考放棄して壊れたレコードみたく同じ言葉を繰り返していただけのはずなのに、気がつけば護衛官全員とメルアドを交換し、近いうちに飲みに行く約束まで交わし、聖居の門前で別れる際には手を振って見送ってくれた。

 

 おかげで終電を逃しそうになって、駆け込み乗車したら車掌さんに怒られた。

 

「あ"ー……帰ったら絶対里津ちゃんたちに怒られるよなぁ」

 

 数刻後に訪れる己の未来を嘆きながら、携帯の連絡先に新たに追加されたアドレスを一つひとつ削除していく。どうせ僕から彼らに連絡を取ることはないのだから。

 

「そう言えば、結局『聖天子狙撃事件』の黒幕って誰なんだっけ?」

 

 護衛官たちの連絡先をすべて削除し終えた時、ふとそんな疑問が浮かび上がった。

 ああ、言い忘れていたけど僕は『聖天子狙撃事件』の内容に関してだけ詳しく覚えていない。だって自分がこの事件に関わるなんて夢にも思っていなかったからね!

 

「と言っても、この事件で死人が出るわけじゃないし、黒幕が分からなくても全然問題ないんだけど」

 

 伸びをひとつして、ぼんやりと車内の吊り革を眺めていると、それらが一斉に揺れ、電車がガタンという音を立てて突如減速した。

 やがて電車が止まり、車内アナウンスが流れる。

 

『停止信号です、しばらくお待ちください』

 

「ん?」

 

 変だな。()()()()()()()()()()()()()と思うんだけど……。

 

 不思議に思った僕は首をひねり、自分の記憶を掘り起こそうとして───やめた。現実として電車は止まっているのだから、僕が気づいていなかっただけで最初から信号はあったんだろう。

 

 そう結論づけた僕は何気なく、なんの意味もなく、ただなんとなく窓の外に視線を投げた。

 

 

 そして、驚愕に目を見開いた。

 

 

 視界に映るは、数えるのも馬鹿らしくなるほど建ち並ぶ夜のビル群の中でも、最も電車に近いビルの屋上。

 

 そこから一人の少女が、ビル風に吹かれる髪を押さえながら、三日月を背に悠然とこちらを見下ろしていた。

 

 緑を基調としたドレス、そしてプラチナブロンドの髪。

 

 顔の部分は影になっているため断定は出来ないが、それらの特徴と合致する人物を、僕は一人しか知らない。そして、無意識にその名を口にする。

 

「まさか、ティナ・スプラ───」

 

 だが、僕が脳裏に思い浮かべた人物の名前を言い終える直前。

 

 

 

 

 

 僕の乗っていた車両が、爆炎と咆哮を噴き上げながら吹き飛んだ。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 カネキが窓から見ていた建物とは正反対に位置する、建築途中の新ビル。そこから、線路の真ん中で一台だけ切り離され、炎上している車両を観察している人影が二つ。

 

「どう? 死んだ?」

 

「ううん。車両が爆発する一瞬前に窓から脱出したみたい」

 

 月が雲に隠れているせいで姿は見えないが、声の高さから判断しておそらく女性だろう。

 

「追える?」

 

「うーん、さっきまでは追えてたけど、急に匂いが消えちゃった。たぶん下水道(地下)に潜ったんだと思う」

 

「そっか」

 

 雲が流れ、月光が人影たちを照らし出す。

 

 一人は左眼のみ穴が空いている縦縞のマスクに、黒いフードという出で立ち。そしてもう片方は、右眼のみ穴が空いた横縞のマスクに白いフードを纏っていた。

 仮面も服の色も真逆の二人。そんな彼女たちの唯一の共通点が、それぞれの仮面に空けられた穴から覗く朱い瞳。

 

 『呪われた子供たち』のそれとは違う、赤よりも赫い紅。『喰種』の赫眼()

 

「それにしても……本当だと思う?」

 

「なにが?」

 

「今回のターゲットの正体があの"黒い死神"だって話」

 

「……さあ? 仮にそうだったとしても、私たちのやるべきことは変わらない。でしょ?」

 

 お金を貰えるなら、例え相手が善人だろうと悪人だろうと、国の重鎮だろうとホームレスだろうと、誰であろうと平等に殺す。それが自分たちの仕事だ。

 

「ほら、行くよシロ」

 

「あっ、置いてかないでよクロー!」

 

 再び雲が月を覆い尽くし、彼女たちは闇に溶けるように消えていった。

 

 

 

 

 




謎のドレス幼女「……爆発?」

空前絶後の堅物『どうかしたのか?』

ドレス幼女「いえ、狙撃地点の下見に来ていたのですが、どうやら近くの線路で事故が発生したようです」

堅物『……放っておけ、我々には関係のないことだ』


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第12話 泡沫の約束/欠けた歯車

 

 

 

 

 

 少年が四度目の誕生日を迎えたある日、少年の家に正義の味方がやってきました。

 

 

 正義の味方は、少年のお父さんをどこかへ連れて行こうとしました。

 

 

 少年は、お父さんを連れていかないで、と正義の味方に叫びました。

 

 

 すると正義の味方は少年に、こう言いました。

 

 

 罪には罰を。

 

 悪逆には制裁を。

 

 

 そうして正義の味方は、少年のお父さんを連れていってしまいました。

 

 

 少年のお父さんは、必ず帰ってくると、少年とお母さんに笑って約束しました。

 

 

 少年はお父さんとの約束を信じて待ち続けました。

 

 

 雨の日も、風の日も。

 

 嵐の日も、雷の日も。

 

 

 けれど、お父さんが帰ってくることは……ありませんでした。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 ティナ・スプラウト。

 

 かつて先生(室戸菫)と共に四賢人(よんけんじん)と謳われた世界最高の頭脳を持つ4人の天才たちの1人、エイン・ランドが生み出した『呪われた子供たち』と『機械化兵士』のハイブリッド。

 フクロウの因子による優れた視力と闇をも見通す目を持ち、脳に埋め込まれたニューロチップを介して『シェンフィールド』と呼ばれる小型偵察機や重機関銃を同時に操り、さらに1km以上先の目標を百発百中で撃ち抜くという神がかり的な(と言っても機械化兵士業界では割と一般的な)腕前を持つ美少女こそが、つい十数分前に僕を車両ごと爆殺しようとした犯人───と思われていた人物である。

 

 どうして過去形なのかというと、今しがた海外旅行時代からお世話になってる情報屋さんにティナ・スプラウトについて調べてもらったところ、彼女が犯人ではないと証明されてしまったからだ。

 なんでも、彼女の現在の標的は東京エリアの国家元首だけで、僕の名前は彼女の暗殺リストには載っていなかったらしい。

 

 通話を切る際に、「ぼくとしては、どこできみが彼女の名前を耳にしたのかって事の方が気になるけどね」と言われた時は心臓(ハート)鷲掴み(キャッチ)されたような感覚に襲われ己の迂闊さに頭を抱えたものの、どうにか誤魔化すことに成功。……けれど今思えば、明らかに僕の反応を楽しんでたな、あの人。

 

 相変わらず彼が提供してくれる情報の入手経路は不明だけど、その正確さは()()()()()知っているので今さら疑ったりはしないのだが、だからこそ、僕を殺そうとしたのは一体誰なのかという疑問が生まれる。

 

 いや、そもそも犯人がティナ・スプラウトであったとしても疑問は残る。仮にティナ・スプラウトが犯人だった場合、どうして彼女が僕を殺そうとしたのか……より正確な言い方をするなら、『誰』が彼女に僕を殺すように依頼したのか、という疑問だ。

 

 金木研として生きてきて10年が経つけど、誰かに殺したいほど憎まれるような事をした覚えはない。あ、いや。"黒い死神(ハイセ)"としてガストレア戦争で様々な作戦に参加したり、世界各地の紛争地域を回りながら『呪われた子供たち』を保護する過程でそれなりに多くの人達から恨みつらみを買ったけれど、少なくとも"金木研()"は誰にも恨まれるような行為はしていない。

 ということは必然的に、僕の暗殺を依頼した『誰か』は僕の経歴を知る人物に絞られる。

 

 だけど、別段驚くことじゃない。先の蛭子影胤テロ事件で、影胤さんの背後にいた人物は僕が黒い死神であると知っていたのだ。今さら僕を殺したがってる人間が僕の過去を把握していたところで何ら不思議じゃない。

 

 ……待てよ。そういえば影胤さんと二度目の接触を果たした時に、彼は「勧誘をしに来た」と言っていた。だとするなら、これは勧誘を断ったことに対する報復か? いやでも、それならどうしてわざわざ二ヶ月も期間を空けたんだ?

 

「うーん……分からない」

 

「いや、分かんねーのはお前のここまでの行動だよ」

 

 無意識に溢れてしまった独り言に、将監さんがすぐさま反応した。

 それに対し、僕は首をかしげる。

 

「え、僕のここまでの行動になにか問題がありました?」

 

「全部だよ……やっと慣れた病院のベッドで人が気持ちよく眠ってたら真夜中に突然電話で叩き起こされて、『僕に危険が迫っているので迎えに行きます』とか聞かされてみろよ、意味不明だろうがッ! しかも迎えに来るって言われてドアから入ってくると思ってたらなんで窓から侵入して来てんの!? 俺の部屋五階だぞ!? 心臓が止まるかと思ったわ!!」

 

「ちょっ、将監さん声が大きいですって……!」

 

 深夜の薄暗い病院の廊下に、僕の肩に担がれた将監さんの怒声がマスク越しに響き、僕は慌てて彼の口を塞いだ。廊下の前方と後方に視線を走らせ、周囲の病室の気配を探る。

 そうして数秒。付近に動く気配がないのを確認して、ほっと胸をなで下ろした。

 

「(将監さん、今何時だと思ってるんですか。他の患者さんは全員寝てるんですから、下手したら安眠妨害で訴えられますよ)」

 

「(よし、ならまずテメェから訴えてやる)」

 

 小声でそんなやり取りを交わしながら将監さんを担ぎ直し、再び歩を進める。ちなみに彼を担いでいるのはこの方が移動が早いからだ。

 

「それで、えーと何でしたっけ。ああ、僕がここに来た理由となぜ窓から病室に入って来たのか、でしたっけ?」

 

「おう」

 

「まず、僕が貴方を迎えに来た理由は何者かが僕を殺そうしたからです」

 

「……大丈夫なのか?」

 

「あ、はい。この通りピンピンしてますよ」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「…………ええ。そもそも襲撃者と直接顔を合わせた訳じゃないので」

 

 そう言って、僕は心の中で自嘲する。

 ははは、滑稽だ。一体どんな言葉を期待していたんだ、僕は。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 己を無価値だと自覚しているのに?

 どうやら僕は、ここ数年の穏やかな生活の影響でひどい思い違いをしていたらしい。

 与える事でしか価値を証明できない人間(無価値)に、そんな権利があるはずもないのに。いつの間にか、欲しがっていいって勘違いしてたみたいだ。

 

「カネキ?」

 

「っ、どうかしました?」

 

「そりゃこっちの台詞だよ。急に黙り込んで、お前こそどうした」

 

 どうやら、少々物思いに耽りすぎたみたいだ。

 

「すみません。少し考えごとをしていました。気にしないでください」

 

「? そうか。それで? お前が襲撃された事と、俺を迎えに来た理由がどう関係してくる?」

 

「簡単ですよ。もし僕が襲撃者なら、次に標的の関係者を狙うからです」

 

「なっ……!?」

 

 廊下の角を曲がり、夜勤中の看護師とばったり遭遇しないようエレベーターではなく階段を使って目的地に向かう。

 

「先に言っておきますけど、里津ちゃん達には既に連絡を入れてあります。盗聴の可能性を考慮して何処のアジトに向かうかは彼女たちの判断に任せましたが、今ごろ僕ら(保護者)が居ないのをいいことに、二人で仲良く天誅ガールズでも観ているかもしれませんね」

 

「いいや、それはねぇな。うちの夏世は真面目でいい子だから、夜更かしなんて健康に……ましてや美容に悪いことはぜってぇにしねぇよ」

 

「知ってますか将監さん。ガストレアウイルスは宿主の健康を害するあらゆる物を排除しようと働くから、"子供たち"はどれだけ人間にとって不健康な食生活や習慣を送っても、髪は潤いに満ちているし、お肌はいつだって艶々のたまご肌なんですよ」

 

「はっ! カネキ、お前はなんにも分かっちゃいねぇ。女って生き物はな、例えその行為に意味なんかなくても、科学的な根拠なんざどこにもなくても、惚れた男の為に自分を磨き続けるもんなんだよ」

 

「何の話をしているのかさっぱり分かりませんが、僕が今将監さんに言った事は全部夏世ちゃんから教えてもらったことですからね」

 

「……えっ?」

 

「しかもその時、あの子なにしてたと思います?」

 

「…………」

 

「里津ちゃんと一緒に夜中にベッドから抜け出して、暗い部屋で天誅ガールズをパソコンでこっそり観てたんですよ。僕がこの前、たまたま夜中に目が覚めて彼女たちが夜更かししている現場を目撃して、それを注意したらさっきの理論武装を展開してきた訳です。当然ですけど、パソコンは没収しました」

 

「…………ところで、俺は一体どこに運ばれてるんだ?」

 

「露骨に話題を逸らしにきましたね。まあいいですけど……今僕らが向かっているのは先生のラボ(霊安室)ですよ」

 

「は?」

 

 誰とも鉢合わせする事なく一階に到着し、人の気配がないのを確認してから再び廊下に出て北側に進む。

 

「いや、なんで? なんでよりにもよってあの変態女のところなんだよ。俺もアジトに連れてけばいいだけの話だろ?」

 

「可笑しなコトを言わないでください将監さん。患者を病院の外に連れ出せるわけ無いじゃないですか」

 

「待て、俺ってまだ患者扱いなのか? いや、そもそもなんで俺はまだ入院してんだ? 怪我はとっくに治ってるし、ぶっちゃけ後は義肢の調整だけなんだから家に帰らせて、くれて、も…………あ」

 

「将監さん?」

 

「……別に。なんでもねぇよ。はぁ……恋は盲目だか猛毒だか知らねぇが、流石に堪えるぜコレは」

 

 はぁぁ、と納得と憂いの込もった息を吐き出す将監さんに、僕はただ頭上に疑問符を浮かべる事しかできない。尋ねたところできっと素直に答えてはくれないだろうし。

 

「んで、どうして霊安室が安全なんだよ」

 

「昔からよく言うでしょ。"木を隠すなら森の中"って。相手もまさか死者を安置する場所に生者がいるなんて思わない筈です。どうですか? 完璧な作戦でしょう?」

 

「おう、確かに完璧だな。ちなみにだがカネキ、お前がさっき言ってた慣用句をそのままの意味で解釈すると、俺は死体になっちまう訳なんだがその事についてどう思う?」

 

「今の将監さんって死体と同じくらい役立たずだから意味合いとしては合ってると思うんです」

 

「おっと、心は硝子だぞ」

 

 無論冗談である。彼ならば右手と左足のハンデがあっても蓮太郎くんにだって負けないだろう。

 いや、以前までならそう断言できたけど今の蓮太郎くんが相手だとそうもいかないかもしれない。現在の彼は二ヶ月前とは比べ物にならないほど成長している。さらに義眼を解放すれば思考が加速し、()()()使()()()視野も広がるから……僅かに蓮太郎くんが有利、ってところかな。

 逆に言うと、ハンデがなければ蓮太郎くんはまだ伊熊将監には勝てない。経験の差もそうだが、将監さんは戦闘センスの塊だ。もしも蛭子影胤の能力がバリアなんていうとんでも(チート)能力でなければ、今ごろ病院送りにされていたのは彼の方だっただろう。

 

 軽口を叩き合いながら廊下を進んでいると、突き当たり───霊安室(地下)へと続く階段が見えてきた。明るい昼間ですら落とし穴と間違われるその入口は、深夜の雰囲気も相まってまさに奈落である。

 

「フィクションだとこういう穴からゾンビとか異形の怪物なんかが出てくるんですよね」

 

「世間から半ば忘れ去られた天才科学者の研究施設から生物兵器が脱走……テンプレだな」

 

「冗談っぽく言ってますけど、あの人なら本当にバイオなホラー映画さながらの大災害を起こせそうなんですよね」

 

「マジかよ……」

 

 脳裏に、自身の周りに夥しい数の魑魅魍魎を傅かせ、玉座に座りながら高笑いする先生の姿を思い浮かべる。

 うん。違和感がないな。

 

 地下への階段を下り、今ではすっかり見慣れてしまった番人(悪魔の絵)を押しのけるように扉を開く。すると、椅子に腰掛けた先生が大量のお菓子を貪りながら出迎えてくれた。

 

「やっと来たのか。遅かったねカネキくん、将監くん。あんまりにも遅いもんだから、少し先に始めさせてもらってるよ」

 

 そして、そんな彼女の対面に座っていたどこか見覚えのある女性が、先生の言葉に勢いよく振り返った。

 

「え? ええっ!? ど、どうして伊熊くんがここに居るの!?」

 

 

 

 

 



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第13話 おやすみ■■■/提供者

 

 

 

 

 

 お父さんが連れていかれたあの日から、少年の世界は一変しました。

 

 今まで親切で優しかった町の人々は少年たちに罵声を浴びせ、通りを歩けば当然のように暴力を振るわれるようになりました。

 

 中には暴力を振るうことに抵抗を抱く人もいたけれど、そういう人たちは少年を避けるか、自分が標的にされないように申し訳なさそうな顔をしながら殴るかの二種類しかいませんでした。

 

 家から学校に向かえば包帯で覆われ、帰る頃には全身に巻いた包帯から血が滲み出る。そんな毎日でした。

 

 そんな苦しみと痛みばかりの日々でしたが、少年は辛くはありませんでした。お父さんは遠くへ行っちゃったけど、お母さんは自分を絶対に置いていったりしない。

 

 そう、信じていたからです。

 

 ある日、いつものようにボロボロになった体を引きずるように家に帰った少年は、違和感を覚えました。

 

 泥棒を警戒して、家にいる時もいない時も鍵が掛けてあるはずの扉が開いていたのです。

 

 少年は、直感します。

 

 なにか、良くないことが起きたんだ。

 

 僅かな音すら聞き逃すまいと、少年は神経を研ぎ澄ませます。息を殺し、ドクンドクンとうるさい胸を押さえつけながらリビングへ向かいます。そして───

 

 それを見た少年は、その場に座り込みました。

 

 乱暴に服を破かれ、肌を大きく露出させたお母さんは、頭から赤いペンキでも被ったみたいに真っ赤に濡れていて。それで。

 

 お母さんは、()()()()()()()()()

 

 長い長い静寂を経て、ようやく現実を受け入れた少年は、笑いました。

 

 感情が決壊した少年は、それはもう大声で笑いました。

 

 笑って笑って、喉が裂けて口の中で血の味がするほど笑って。

 

 ───少年は、笑いながら自分の喉を掻き切りました。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「くはははははっ!!」

 

 地下室に先生の哄笑が響き渡る。

 彼女には事前に、将監さんを連れて霊安室に行く旨をメールで伝えてはいたものの、理由までは話していなかったので今しがたそれを説明したんだけど、その結果が……

 

「いーひひっ、ふふは、あはははは!!」

 

 これである。

 机をバンバンと手で叩き、笑いすぎて目から涙まで流している。

 

「あの、何がそんなに面白いんですか?」

 

 笑いすぎで酸欠になりかけている先生に、表面上はあくまで冷静に、けれど内心ではドン引きしながらそう尋ねれば、彼女はビーカーに入っていた残りのコーヒーを一気に飲み干し、机の上に置いた。

 

「これが笑わずにいられるか。襲撃者が何者かは知らんが、仕事にしろ私事にしろ、君を敵に回すとは運がないにも程がある。まあ、相手が君の正体を知らなければの話だがね。逆に知っていて襲ったのならただの命知らずな阿呆だとも言えるが。君はどう思う?」

 

「どう、って……僕には顔も合わせていない相手の幸運値を見抜く能力もなければ、襲撃者が第三者からの依頼を受けて僕を狙ったのか、それとも私怨による復讐なのかすらも判断できませんよ。……せめて風貌さえ分かれば()に特定してもらえるんですけど」

 

「彼、というのは顔無し(ノーフェイス)のことだな」

 

 いつの間にか下がっていた視線を持ち上げれば、先生がどこか警戒の色を宿した瞳でこちらを見据えていた。

 

「あまり奴を信用するなよ」

 

「え、どうしてですか?」

 

 僕の素の疑問に彼女は呆れたような視線を向けてきた。

 あれ? 何か可笑しなことを言ったかな。

 

「君の話によれば、奴が最初にコンタクトを取ってきたのはガストレア戦争が終結してから一年後……ちょうど君が"隻眼の王"と呼ばれ始めた時期だった。そうだな?」

 

「はい」

 

「そして、どういうわけか奴は()()()()()()()()()()()()()。この時点ですでに鼻が曲がりそうなほど胡散臭いが問題はそこじゃない」

 

「……なら、一体何が問題なんですか?」

 

 機密情報が外部に漏れているのは十分問題なのではと思ったけれど、話の腰を折るのも申し訳ないので敢えてそこには触れない。

 

「問題は大きく分けて二つある。まず一つ目だが、顔無しの素性に関する情報の一切が不明な点だ。君自身、奴と直接会った事はないんだろ? これはあくまで持論だが、自身の正体を隠しながら他人と接触を図ろうとする輩は総じて厄介事を抱えているものだ」

 

 確かに先生の言う通り、僕は顔無しさんと直接会ったことがない。一応声と口調が男性のモノだったから便宜上"彼"と呼んでいるものの、もしかしたら女性が機械で声を変えているだけかもしれない。

 先生が顔無しさんのことを徹底して"奴"と呼ぶのは下手な先入観を持って視野を狭めないようにする為だろう。もっとも、顔無しさんの正体に欠片も興味がない僕は深く考えもせず"奴"のことを"彼"と呼んでいるけど。

 

 そんな彼と、僕がどうやって交流を持ったのかといえば、当時僕が活動の拠点にしていた建物に差出人不明の封筒が届いたのだ。

 中に入っていたのは『電話をかける機能』以外のすべてを排除した携帯端末で、それも逆探知不可能という特別製だった。

 

 彼のおかげで、呪われた子供たちの保護がかなり捗ったっけ。なにせ電話一本で行方不明になった子供たちの居場所から彼女たちを専門に扱う『商人』、果てはその『消費者』である方々の個人情報まで分かるんだから。

 もしも彼の協力が無かったら、連中を()()のにもっと苦労しただろう。

 

「そして二つ目は、奴の行動原理が全く見えないことだ。奴が一体なにを目的として君に協力しているのか。それがはっきりしない以上、顔無しを不用意に信じるのは危険だ。何をきっかけに裏切るか分からないからな」

 

 先生の懸念はもっともだ。顔無しさんの協力内容が『小さな親切』ぐらいの規模だったなら問題なかったかもしれないが、彼が齎してくれる情報は国家機密からホームレスの前歴まで幅広く、当時の僕が求めていた情報の多くは正規の方法では入手出来ないモノばかりだった。

 そして、そんな情報を彼は無償で、何の見返りも求めずに提供してくれた。

 

 少なくとも、()()()()()()()()()()()。気味悪がるな、疑うなと言う方が無理な話だろう。

 しかしだからと言って、先生に彼の目的を伝えるのは憚られた。

 

 僕という人間がどんな結末を迎えるのかを見届けたい、なんて。

 

 そんなことを言えば、間違いなく先生はその日本一と評された頭脳をフル稼働させ、僕と彼の関係を断とうとするだろう。

 目的が不明瞭、つまり協力の動機が善意である可能性と悪意である可能性が半々の状態である今だからこそ『警戒』だけで済んでるけど、ストーキングという事実上の監視宣言があったなどと知られればどうなるか。

 

 室戸菫(四賢人)顔無し(正体不明)によるデジタル鬼ごっこというのは中々に心惹かれる内容だけど、彼らの決着を拝むより先に僕が社会的に抹殺されるのは目に見えているので、顔無しさんの目的は絶対に明かせない。

 

「む、コーヒーが切れてしまったか」

 

 空になったビーカーとコーヒーサーバーを見やると、先生は僕らから少し離れた、入口とは正反対の位置にある机に顔を向けた。

 つられて僕も顔を向ければ、そこには楽しそうに笑う女性と、その女性の話を欠伸をしながら聞いている将監さんの姿があった。

 

「おーい、楓くーん。コーヒーが切れたぞー」

 

「あ、はーい! 今行きまーす!」

 

 彼女は将監さんと二言三言を交わすと、その透明な器を真っ黒に染めたコーヒーサーバーを手にやって来た。

 

「……反射的に持ってきちゃいましたけど、コレってどう考えても私の仕事じゃないですよね?」

 

「何事も経験だよ楓くん。君が将来、上の立場の人間になった時に、使われる側の人間の気持ちが分からないような人でなしになってほしくないんだ。その為に私は敢えて心を鬼にして、嫌々ながら、全くもって不本意ではあるが、君にこうして雑用を押し付けているんだ」

 

「良心が痛むと言うのならせめてそれらしい顔を作ってから言ってください! いくら私でも、そんな嘲りを多分に含んだ表情じゃ何を言われたって騙されませんからね!」

 

 濡羽色のサイドテールを揺らしながらぷんすかと怒る女性は、口では文句を言いながら律儀にビーカーにコーヒーを注ぐ。きっと根が真面目なのだろう。

 

 女性の名前は志摩吹(しまぶき)(かえで)。ここ、勾田大学病院で働く勤続四ヶ月の新人看護師さんであり、以前僕が将監さんに契約書を渡しにいったあの日に、病室で騒いでいた僕らを一喝しに来た人でもある。なんとなく顔に見覚えがあったのはそのためだ。

 

 ちなみに自己紹介はすでに終えてある。そして、その自己紹介でとんでもない真実が明らかになった。

 

 なんと、学生時代に将監さんが上級生から助けたあの時の少女こそ、目の前にいる志摩吹さんだったのである。

 高校で起きた事件以来連絡する手段も機会もなかった二人は、志摩吹さんが偶然この病院に転勤し、将監さんが偶然この病院に入院したことで運命的な再会を果たしたのだ。

 

 これには流石の僕も顔がニヤけてしまった。なにせ、そんな恋愛小説やらエロゲーみたいなシチュエーションになった相手は紛う事なき美女。しかも年齢は将監さんと同じの筈なのに、どう見ても高校生ぐらいにしか見えないときた。

 さらに彼女と話してるときの将監さんの表情からして満更でもないご様子。もしも将監さんが彼女とお付き合いするような展開になれば、それはそれは微笑ましい光景が見られること間違いなしだ。

 

 同い年の女性と付き合ってるのに、周囲からあらぬ疑いをかけられあたふたする将監さん。見たくない? 僕は見たい。

 

「お話は終わったんですか?」

 

「ああ、一応な。すまないね、君を除け者にするような真似をしてしまって」

 

「いえ、伊熊く……伊熊さんから理由は聞いていますから。話せないのは一般人の私を巻き込まないため、ですもんね。……昔の私だったら、きっと後先なんて考えずに踏み込んでたんだろうなぁ」

 

 苦笑いを浮かべ、遠い過去に思いを馳せる志摩吹さん。そこに込められた感情は、昔の自分に戻りたいという懐旧の念ではなく、昔の自分を恥じる慚愧。

 

「困ってる誰かを助けたいって理想ばかりが先行して、周りのことがなんにも見えてなくて。それで、助けてあげたかった人に助けられて、迷惑かけて……なのに、その人に"ありがとう"すら言えなくて」

 

 今もまだ言えてないんですけどね、と彼女は力なく笑う。

 

「でも、それは"今"だけです。いつかちゃんと、あの時のお礼を言ってみせます」

 

 けれど、それはすぐに消え、再び彼女が浮かべたのは、決して揺らぐことのない想いが宿った力強い笑みだった。

 

「あ、言い忘れてましたけど、手が借りたい時や人手が必要なときは遠慮なく言ってくださいね。事情は理解しましたけど納得はしてないので」

 

 思わず先生と顔を見合わせて、互いに苦笑いする。どうやら人という生き物は、多少経験を積んでも根っこはそう簡単に変われないらしい。

 

「それに関しては安心してくれていい。今回みたいなケースは稀だからね。そう頻繁に君が除け者になることはないさ」

 

「ならいいんです。やっぱり仲間はずれにされるのは寂しいですし。ってあれ、どうして空のビーカーがもう一つ菫先生の所にあるんですか?」

 

 志摩吹さんの言葉に、三人の視線は先生の手元にある空のビーカーに集中する。その隣には、先程志摩吹さんにコーヒーを注がれたビーカーが鎮座している。

 

「これは……」

 

「いやぁ、ほら。今日はやけに喉が渇いてしまってね。彼の分もうっかり飲んでしまったんだよ」

 

「もうっ、うっかりで人様に出したコーヒーを飲まないでくださいよ菫先生。ほら、カネキくんもどうぞ。これでも私、コーヒーにはそこそこ自信あるんだから!」

 

「えと……すみません、僕は───」

 

「そうだな。君の分を勝手に飲んでおいてなんだが、彼女のコーヒーはそこらに売ってるインスタントにも引けをとらない。是非飲んでみたまえ」

 

「菫先生? それって褒めてます? それとも貶してます?」

 

 先生の意図が読めず呆然としていると、いつの間にか志摩吹さんがワクワクとした様子で僕がコーヒーに口をつけるのを待っている。……そうか。これが狙いか。

 

「それじゃあ、いただきます」

 

 淹れたてのコーヒーなので、舌を火傷しないように慎重に黒い液体を口に含み、風味を楽しむように二、三秒その状態をキープ。そしてゴクン、と喉を鳴らして嚥下する。

 

 ほっ、と一息ついて、瞼を閉じる。まるで、口の中に今も残っているコーヒーの香りを味わうように。

 

「ど、どうですか?」

 

 恐る恐ると言った様子で尋ねてくる彼女に、僕はニコッとした笑みを作り、無意識に顎に手を触れて答えた。

 

「すごく美味しかったです」

 

「やったー! 初めて褒められたー! 菫先生は本当のこと言ってるのか嘘ついてるのか分かんないから信用できないし、伊熊くんはコーヒー苦手だからそもそもコーヒーの良さが分からないしで、『もしかして私、自分で思ってるよりコーヒーを作るの、下手?』って落ち込みかけたけど、ありがとう!! 君のおかげで私は自分の腕に自信が持てたよ! ありがとう! そしてありがとう!!」

 

「あ、あははは……どういたしまして」

 

 テンションが上がりすぎてなにやらキラキラとした謎物質を振りまき始めた志摩吹さんから僅かに距離を取る。決して彼女の急に上昇したテンションにドン引きしたワケじゃない。これは、あれだ。彼女の発する得体の知れない熱気に気圧されただけだ。断じて引いているわけではない。

 

「……楓くん、そろそろ将監くんの所に行かなくていいのかい? 今にも寝落ちしそうだよ、彼」

 

「え? あー伊熊くん! 寝るならソファかベッドで寝ようか! 霊安室は設定温度が低いから毛布着ないと風邪引いちゃうから!」

 

 来たときと同様に、右のサイドテールを揺らしながら僕らの机から離れていく志摩吹さん。

 

「……悪りぃ、俺もう限界だわ。おやすみぃ」

 

「わっとと……もう、しょうがないんだから。菫先生、カネキくん、すぐに戻って来ますから」

 

「いや、今日はもう休んでいい。遅くまですまなかったね」

 

「……いいえ、これぐらい。ではお言葉に甘えますね。二人とも、お休みなさい」

 

「おやすみなさい。将監さん、志摩吹さん」

 

 眠そうに目を擦る将監さんの腰に手を回し、彼の左手を自分の肩に乗せるようにして体重を支え、二人は部屋を後にした。

 

「で? 実際の所どうだったんだい?」

 

 彼らが部屋を出てからしばらくして、先生は唐突に話を切り出した。

 

「どう、とは?」

 

「おいおい、いま此処には私と君しかいないんだ。お茶を濁らせる必要はない。()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「……いいえ全く。いつも通り、なんの味もしませんでしたよ。気分的にはお湯を飲んでるのと大して変わりません」

 

 すると先生は仕事用のデスクの上に置いてあったボードを取り、そこに何かを書き連ねていく。

 

 先生がわざわざ志摩吹さんを利用して僕にコーヒーを飲ませた理由はただ一つ。あんなやり方でもしなければ、僕が絶対にコーヒーを飲まないからだ。いや、飲まないのはコーヒーだけじゃない。と言うか、基本的に僕は水しか飲まない。最初から味覚がなかったならこうはならなかったかもしれない。しかし、残念ながら昔の僕にはちゃんと味覚があったのだ。

 だからこそ、本来なら『こういう味がする』はずのに『その味がしない』というイメージのズレが、どうしようもなく不快だった。僕が水しか飲みたくないのは、どうせ味がしないのなら元から味のしない飲み物の方が違和感が少なくて済むからだ。

 

「───先生」

 

「うん?」

 

「僕の()()は何らかの病気とか、急激な老化に付随するものではないんですよね……」

 

「……ああ。ガストレアウイルスに感染している以上、君は決して病に伏せることはないし、蛭子影胤との戦闘でただでさえ短い寿命が更に縮んだが、コレに関して言えば老化とは無関係だ」

 

「だったら、一体なにが原因なんですか?」

 

「原因不明、としか()()()()()()()()()()

 

「…………っ」

 

 どうやらこの件について、僕に詳細を話す気はないらしい。前に同じことを訊いたときも彼女は「精神的な要因」なんて、医学に詳しくない僕でも分かるような適当な嘘をついて誤魔化した。

 だったら、別にいいさ。自分の身体に何が起こっているのか、知りたくないと言えば嘘になるけど、どうしても知りたいかと問われれば僕は首を横に振る。所詮は僕の体だ。目的を達成するまで動くならなんだっていい。

 

 苛立ちを紛らわせるように深く息を吐き出す。

 戦闘に味覚は必要ないし、料理をするのだって最初のうちはレシピ通りに作って、徐々に調味料を調整して個々人とっての好みの味に近づければいい。味覚なんかなくても、料理は美味しく作れるのだ。

 

「……まあその話はもういいです。ところで、どうして志摩吹さんがここに居たんですか?」

 

 ときどき忘れそうになるけど、先生は人間嫌いだ。実際、彼女とまともに交流を続けているものは総じて()()()()()()()()()

 

 呪われた子供たちは言うまでもなく、肉体の一部を機械で代替している機械化兵士、そして喰種。例外と言えば木更ちゃんや■■くんと言った蓮太郎くんの身内くらいのもので……今僕は木更ちゃんの他に誰を思い浮かべた? まあいいか。とにかく、彼ら以外に先生と現在進行形で関係を持つ純粋な人間は存在しない。

 

 だから、これはただの好奇心。人間が嫌いで自分が嫌いな死体愛好家が、無駄なことを是としない先生がどうして志摩吹さんを此処に招き入れたのか。何となく気になったのだ。

 

「どうして、か」

 

 ボードを元の場所に戻すと、先生は近くの机に腰を下ろし、脚を組んで天井を見上げた。

 

「君は彼女を見て何も感じなかったかい?」

 

 天井を見上げる態勢はそのままに、視線だけをこちらに向ける先生。所謂シャフ度と言うヤツである。

 

「特には……」

 

「だろうな」

 

 まるで最初から僕の答えに期待などしていなかったかのようなバッサリとした反応に、柄にもなくむっとしてしまう。

 

「……だったら説明してくださいよ。僕にも分かりやすく。先生が彼女に感じた何かってやつを」

 

 語気が思っていたよりも強くなってしまったことに内心で驚きながら、僕は先生を正面から睨み返す。

 それ対し先生は不敵に笑い、告げた。

 

「私は彼女に宿る類稀な才能に気がついたのだよ」

 

 何を思ったのか突然机の上に登り、天井に設置されているチカチカと明滅を繰り返す蛍光灯をバックに、彼女は両手を広げた。

 

「彼女には───蓮太郎くん以上の弄られやすい才能が秘められていたんだッ!!」

 

「………………」

 

「君もさっきその目で見ていたはずだ。彼女の勢いあるあのリアクションを。あの全力のツッコミを」

 

「……………はぁ?」

 

「いやー彼女のような逸材を知ってしまったらもう蓮太郎くんでは満足できなくなってしまってねぇ。あ、楓くんとの出会いだが、先輩看護師たちの代わりにここの書類の山を整理しに来てたから、いつもみたいに招かねざる客を追い払うために私が所有する全知識を総動員して、そのメンタルを蓮太郎くんが毎度寄越すガストレアのようにズッタズタにして、夏場に一月以上放置された遺体並みにドロドロに腐敗させてやろうと思っていたんだが、これが思いの外面白い反応をするものだから楽しくなってしまってね。今ではすっかり地下室(此処)の常連だ。そう言えば、どうして楓くんの先輩たちは新人である彼女に自分たちの仕事を押し付けたんダロウナー? ナンデカナー? HA☆HA☆HA☆」

 

 それは恐らく、いや間違いなく先生の度重なる言葉の暴力によって心を折られたからだと思うんだけど……なんてことだ。やけに先生の言動に慣れてる節があると思ったら、慣れざるを得ない過酷な体験があったなんて……! 

 今度、彼女には何か差し入れを持ってこよう。主に心のケアに役立つような、そんな差し入れを。

 

「そ、それじゃあ僕は近くの拠点で仮眠をとってきますね。明日……じゃなくて今日は早いので」

 

 勾田大学病院から最も近くに位置する拠点を脳内のマップに思い描き、そこから移動時間と仕事の準備にかかる時間を計算する。そして、それらの所要時間と現在の時刻を照らし合わせたところ。

 

「睡眠可能時間は四時間くらいか」

 

 まあ二年前に比べればマシかな。

 志摩吹さんが入れてくれたコーヒーを一気に飲み干し、足早に地下室から立ち去ろうとする。

 

「───そうだ、忘れるところだった」

 

 その声に振り返ってみれば、指でコインを弾いたような音と共にナニカが飛来してきた。

 それを冷静に、右手を水平に振るうようにしてキャッチする。

 

「……何ですか、コレ」

 

 手のひらに収まる銀色の指輪を見て呟く。

 

「10年前、君が政府に保護された際に身につけていたものだ。……どうだ、何か思い出したか?」

 

「……いいえ、何も」

 

「ッ……そうか」

 

 先生の僅かに息を呑む音を聞きながら、自分と彼女の認識の齟齬を再確認する。

 目の前にいる日本最高の名医の診断によれば、僕は両親の死を目の当たりにしたショックに精神が耐えられず、その日以前の記憶を封印し、過去を忘れている状態らしい。

 

 けれど、それは酷い勘違いだ。

 思い出せないのではなく、知らない。忘れているのではなく、経験していない。

 憑依したばかりのときは驚愕、恐怖、絶望の負の連鎖感情に物の見事にハマってしまい、錯乱。その際に僕が意味不明な発言をした事も相まって勘違いを加速させてしまったんだろう。騙してしまったみたいで申し訳ないとは思うけれど、真実を告げれば心の病院に送られるか、最悪モルモットとして解剖台に乗せられる。個人的には後者の可能性が大だ。

 

 そんな事を考えながら手元の指輪を転がしていると、ふと指輪の内側に文字が刻まれているのに気づいた。

 

「………KISARA、RENTARO、KEN、SHOMA………?」

 

「先日、蓮太郎くんが顔を出したときに彼がソレと同じ指輪を首から提げているのを見て思い出したんだ」

 

 木更、蓮太郎、研、そしてSHOMA……というのはまず間違いなく薙沢彰磨を示しているんだろうけど、そうなると憑依する前の僕は彼と何かしらの関係を持っていたと考えるのが道理か。

 このまま原作通りに行けば確実に彼とエンカウトしてしまうワケだが……上手く誤魔化せるかな。いざという時は蓮太郎くんと木更ちゃんに任せよう。こう、10年ぶりの再会に距離感を測りかねてます、みたいな雰囲気を出しておけば大丈夫だろう。だぶん。めいびー。

 

 って、それは今は考えてもしょうがないか。

 

「先生、指輪を返してくれてありがとうございます。それじゃ、おやすみなさい」

 

 僕は指輪をポケットに仕舞うと、今度こそ地下室を後にした。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「彼は行った。もう出てきても問題ないよ───楓くん」

 

 慌ただしく部屋を飛び出したカネキを見送ると、菫は振り向くことなく声をかける。

 すると、霊安室の隣の部屋。普段菫が寝泊まりに使っている部屋から気まずそうな顔で楓が出てきた。

 

「すみません……盗み聞きすつもりはなかったんですけど」

 

「構わないさ。君にはこれから看護師という激務をこなしながら、私の為に死ぬ気で働いてもらうつもりだからね。好奇心からくる恥ずべき行為を、私は決して責めたりしないよ」

 

「うっ……本当にすみませんでした。以後気をつけます……。ていうか、菫先生。今の台詞は『私』の為じゃなくて『カネキくん』の為の間違いじゃないんですか?」

 

「いいや、これは『私』の為だ。数少ない友人を見殺しにしたくない、もう二度と大切な人たちを失いたくない私の、どこまでも自分勝手なワガママだよ。そのために私は、彼の意志を踏みにじるのだから」

 

 

 

 

 




志摩吹 楓(シマブキ カエデ)
・30歳(外見年齢は17歳)
・Blood type:A
・Size:160cm/45kg
・Like:笑顔、優しさ、不器用な人
・Hobby:菫の世話
・Hate:下心がまる見えの男性or下心しかない男性


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第14話 死听

 デスポンド=despond=落胆する

 

 

 

 

 早朝。

 地平線から徐々に顔を覗かせる太陽を背に、カネキは聖居を目指して薄明かりに照らされる街を歩いていた。

 その隣に、偶然にもカネキが向かったのと同じセーフハウス(拠点)に避難していた里津を伴って。

 

「聖天子様の護衛任務を正式に受けたその日に殺されかけた、ねぇ。……当然断りに行くんでしょ、依頼」

 

「まさか。今僕らが聖居に向かってるのは契約を反故にするためじゃなくて、護衛任務のブリーフィングに参加するためだよ」

 

「えっ、護衛の仕事続けるの?」

 

 道すがらカネキから、何者かに襲撃された話と菊之丞から依頼された任務の説明を受けていた里津は、予想外の返答に思わず瞠目する。

 護衛の役割とはすなわち、護衛の対象となる人物を暗殺や誘拐などと言った脅威から守護し、その人の身の安全を確保することである。なのに、その護衛自体が標的にされているのでは本末転倒だ。

 

 だからこそ里津は、この任務を辞退する旨を直接聖天子に報告し、それについて相棒として一緒に謝罪する為に聖居に向かっているのだと考えていた。

 

「もちろん。なんたって依頼主は政治家の最高権力者(菊之丞さん)で、護衛対象はあの聖天子様だ。報酬は前払いで4億、完遂すればその3倍。断るには少し勿体ない。別にお金には困ってないけど、あるに越したことはないからね」

 

「……前々から思ってたけど、アンタってたまに物凄く薄情になるよね」

 

「待って、今のは僕の言い方が悪かった、謝ります。だからそんな、まるでゴミでも見るような目を僕に向けないでください」

 

 さらりと人間性を疑う発言をしてのけた相棒に里津がジト目で睨めば、その視線によって自らの失態に気づいたカネキはすぐさま釈明を開始した。

 自分の死後、少しでも39区の子供たちに掛かる負担が少なくなるように、お金は稼げるだけ稼いでおきたいというのは確かに本音ではあるのだが、たったそれだけの理由でこの任務を引き受けた訳ではない。

 

 そもそもにおいて、原作知識を有しているカネキからしてみれば、元々聖天子とは放置しても勝手に助かる存在だった。なにせ彼女の命を狙うのはティナ・スプラウトただ一人。

 ガストレア大戦中、様々な戦場で出会った狙撃主体の機械化兵士たちの化け物染みた技量を知っているカネキからすれば、たかだか生まれて10年、それも狙撃と近接戦闘を同時に行えない兵士など脅威たり得ない。

 

 仮に、万が一にではあるが、なんらかの手違いで蓮太郎が戦線から離脱するような事態に陥ったとしても問題はないはずだった。

 

 少なくとも、自身が殺されかけるまではそう思っていた。

 

 今回の爆殺未遂事件は原作知識を持たない人間の視点で見れば『カネキ個人が何者かに命を狙われた』だけの話だが、当事者であるカネキにとっては違う。

 

 原作にはなかった、恐らく自分が物語に干渉してしまったが故に生まれた展開。

 車両ごと爆殺されかけたあの時、あの瞬間。カネキの中で『もしも』という名の、疑心と不安を()い交ぜにしたような感情が鎌首をもたげた。

 

 もしも、自分を狙った襲撃者の他にも、原作と違う展開が起きていたら?

 もしも、聖天子を暗殺しようとしている存在がティナ・スプラウト以外にもいたら?

 

 考え過ぎだと、楽観視することはできなかった。時々忘れそうになるが、この世界は物語(フィクション)などではなく正真正銘の現実(ノンフィクション)だ。

 原作では暗殺者はティナ・スプラウトだけだったが、だからと言ってこの世界でもそうだという保証はどこにもない。聖天子を殺そうとしている人間が他にいないなどと、誰が言い切れるというのか。

 

 はっきり言ってしまえば、これはただの憶測、妄想だ。しかし、一度芽生えてしまった懸念の種はなかなか振り払えず、時間の経過に伴ってすくすくと成長し、拠点を出発する頃にはカネキに聖天子の護衛を続行することを決意させた。

 

 とはいえ、そんな原作知識を前提にした推論(妄想)を口にしようものなら、今もなおゴミを見るような冷ややかな視線を自身に向ける相棒の顔が、「なに言ってんだコイツ?」的な痛々しさと憐れみの込もったモノにジョブチェンジするだけなので話せるはずもなく。

 

 カネキは考えた。どうすれば、殺し屋に狙われているという自身の現状を知る里津たちを納得させて、聖天子の護衛を続けられるのかを。

 

 ───そうだ、動機はお金が欲しいって事にしよう。あれ? 意外と完璧な作戦なのでは?

 

 しかし、この作戦には致命的な欠点があった。

 

「いくら謝ったって、アンタが聖天子様の命よりお金の方が大事だって言った事実は消せないよ」

 

「いや、あの、それは……そうなんだけど……」

 

 今しがた彼女にそれを指摘されるまでその事に思い至らなかったのだが、相棒である里津から自身へ向けられる評価が最低を突き破って最悪にまで落ちるのだ。

 

 翡翠色の双眸がスッと細められ、声が平坦になる。本来なら身長の問題でどうしても里津が見上げる形になるのだが、今回は何故か逆にカネキを見下ろしていた。

 理由は単純で、カネキが土下座していたからだ。

 

 まだ日が昇り始めて間もない時間帯とは言え、少数ではあるが人はいるのだ。今だって、早朝のランニングに勤しむ年の離れた兄妹が、「え、なにアレ……」「見るなマイスウィート、お前にはまだ早い」と小声で話しながら通り過ぎて行った。

 大人が公共の場で簡単に頭を下げるな? 知った事ではない。必要とあれば足を複雑骨折する事も腹に風穴を開けられる事も厭わないカネキではあるが、流石に家族も同然である存在にこれから先ずっと薄情者と思われ続けるのは御免である。そのような誤解は一刻も早く取り除かなくては。

 

「…………もういい」

 

 謝罪の最高位の姿勢を維持して全力で誠意を表明しながら、如何にして先の失言を撤回できるか思考していると、里津が唐突に溜息をついた。

 もしかして許されたのだろうかと顔を上げ、しかし即座にそれがとんでもない思い違いだったと悟る。何故ならカネキを見下ろす里津の表情には、苛立ちと落胆、そして悲哀の色が浮かんでいたからだ。

 

「今のやり取りで、アンタが何か隠してるって事はだいたい分かった。しかもそれは、相棒であるアタシにも話せないような事情だってことも」

 

「…………」

 

「一応言っとくけど、アタシは別にその事についてアンタを責めるつもりも問い詰める気もないよ」

 

 興味がないと言えば嘘になるが、本人が話したくないことを無理に聞き出そうとも思わない。誰にだって、他人に明かせない秘密の一つや二つくらいある。

 

 けれど。

 

「だったらせめて、"話せない"って……それくらい言って欲しかったけどね」

 

 それだけ言うと、里津は聖居を目指して歩き始めた。

 

「……いつから気づいてたの?」

 

 かつかつ、と浅緋色の髪を揺らしながら歩く里津の背に向かって、カネキがずっと引っかかっていた疑問を尋ねると、里津は呆れた表情を浮かべて振り返った。

 

「カネキが依頼を続ける理由を話した時からだよ」

 

 しかし里津の返答にカネキはただ首を傾げるばかりである。すると里津は重たい息を吐き、俯きながら片手で顔を覆った。

 

「あのさ、一回今までの自分の行動を思い出してみてよ。特に民警の活動とか」

 

「民警の活動?」

 

「そ。それで訊きたいんだけどさ、カネキってこれまで仕事で他人の命よりお金(報酬)を優先したことある?」

 

「…………あ」

 

 ここに来てようやく、自らの作戦が最初から穴だらけの代物だったと理解した。それもそうだ。二人のIP序列が一向に上がらない原因でもあるのだが、カネキがガストレアの討伐よりも市民の安全を優先し、毎度手柄を横取りされて報酬を貰えなくても意に介さないのは周知の事実。そんな人間が、ある日突然金の亡者になるのは突飛にすぎる。カネキが考えた完璧な動機は、端から破綻していたのだ。

 

「ていうかアンタ、いつまで座ってんの? ブリーフィングに遅れるよ」

 

「ああ、うん。今行くよ」

 

 口調はぶっきらぼうなのに、腰に手を当てて律儀に待ってくれている相棒の姿に苦笑しながら立ち上がる。

 隣に並び、二人は再び歩き出す。

 

「───里津ちゃん」

 

「うん?」

 

「さっきはごめん。次からは、ちゃんと"話せない"って正直に言うよ」

 

「……最初からそうしろっつーの、バーカ」

 

 僅かに頬を赤くする里津を横目に見ながら、カネキは彼女が先ほど口にしたある言葉を思い返していた。

 

(薄情、か。実際のところどうなんだろうな……)

 

 薄情。読んで字の如く情が薄い。

 里津がカネキの反応を見るために何気なく口にしたその言葉が、頭の中で消えることなく回旋し、自問する。

 

 ガストレア戦争の終結を契機に日本を飛び出し、世界を巡りながら己の目的の為に目の前で苦しんでいる人々を片っ端から救い続けた。その中には当然、世間からは化け物と蔑まれる『呪われた子供たち』も含まれている。

 

 が、問題の本質はそこではない。

 

 カネキは"価値のある人間になる"と言う、半ば強迫観念に近い衝動から無差別に人を助けている。たとえ相手が超がつくほどの極悪人であっても、ヒトであるならば「殺す」という選択を取ることは決してない。助けを求められれば、誰でも助けるのだ。それはつまり───

 

(……いいや。僕が"彼女たち"を助けたのは、確かに()()()()()って想いがあったからだけど、放っておけないって気持ちもあったからだ。将監さんに義肢を提供したのだって───)

 

 そこまで思考して。唐突に、何の脈絡もなく、脳裏に声が響いた。

 

 ───仮に伊熊将監が原作死亡キャラじゃなかったら、ここまで肩入れしただろうか? 「最期の仕事」を終えて、その後始末を彼に押し付けたいだけじゃないのか?

 

 ───"彼女たち"が放っておけなかったって、それは本当に当時から抱いていた感情なのか? 都合よく後付けしたモノではないのか?

 

 ───だとしたら、僕は……。

 

(……やめよう。どうせ僕がやる事は変わらないんだ。なら、こんな思考は無意味だ)

 

 里津に気取られぬように静かに息を吐き出し、強引に思考を打ち切る。

 その行為こそが、先の疑問の答えだと気づきもせずに。

 

 

 

 

 




サブタイ(14話以降)の本当の読み方は一行目に透明文字で書いてあります。

それにしてもこの主人公ほんと面倒くせぇな(白目)


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第15話 9+10

 く+じゅう=苦渋

 

 

 

 

 聖居にて、大阪エリアの国家元首・斉武宗玄大統領との非公式会談を含めた、聖天子様の今後のスケジュールと護衛官たちの配置、護送ルートの確認を終えた僕と里津ちゃんは、事前説明会(ブリーフィング)をハブられた蓮太郎くんたちと合流し、聖天子様と同じリムジンに乗り込んだ。

 ちなみに道中、保脇さんの策略によって「おめーの席ねぇから!」された蓮太郎くんとはきちんと情報共有を行った。流石に味方の動きを把握していないと、いざという時に連携が取れないしね。

 

 というか、仮にも蓮太郎くん達(天童民間警備会社)は聖天子様が直々に指名した護衛なのに、そんな村八分染みた真似をして大丈夫なのだろうか? いや、体裁としての話だけでなく合理的な意味で。

 

 僕はその道(護衛)専門家(スペシャリスト)ではないから断言はできないけど、護衛対象の最も近くにいる人間に自陣の情報を開示しないなんて正気の沙汰とは思えない。もしこんな事が戦場で起きたらその部隊は間違いなく全滅する。

 

 保脇さんが作成した計画書の内容から、聖天子付護衛官(エリート)って肩書きも伊達じゃないなって、少し見直しかけてたんだけど……あれはダメだな。仕事よりも私怨を優先して、冷静な判断力を失っている。聖天子様と同じ車に乗り込む蓮太郎くんを、某テレビ画面から這い出る幽霊のように血走った目で凝視し続ける彼の姿がそれを物語っていた。

 前に、菊之丞さんが『実戦経験が皆無な点を除けば優秀』と評していた理由が分かった気がする。

 

 一度、あの高すぎるプライドをへし折られれば多少はまともになると思うんだけど……彼、プライドと一緒に心も砕けそうなんだよなぁ。

 心を折らない程度にプライドを粉砕する、なんて器用な腕の持ち主じゃないと、彼を更生させるのは難しいだろう。

 

「ねえねえ延珠! 昨日の『天誅ガールズ』見た?」

 

「もちろん見たぞ! 仇敵『吉良』の罠によってピンチに追い込まれた天誅レッドたち。そしてそこへ颯爽と現れる天誅ブラック!」

 

「いいよねぇ、主人公の窮地に駆けつける助っ人。まさに"王道"って感じでさ!」

 

「しかも次回ようやく天誅ブラックが天誅レッドに肩入れしてる理由が明かされるのだろう!?」

 

「「ああッ、気になるっ!」」

 

 騒がしくも、不思議と不快には感じない声音に誘われるように、思考の海から意識を浮上させる。

 声のした方に視線を向ければ、瞳をきらきらと輝かせ、楽しげに語り合う里津ちゃんと延珠ちゃんの姿が目に入った。

 

「あれ? 延珠、もしかしてアンタが腕につけてるそのブレスレットって……」

 

「む? おお、よくぞ訊いてくれた! 里津の推察通り、『天誅ガールズ』が嵌めているブレスレットだ。ちなみに蓮太郎も嵌めているぞ。ペアルックだ!」

 

「なん……だと……」

 

 運転手と背中合わせにして座る里津ちゃんは信じられないと言った表情で蓮太郎くんを。そんな彼女の向かいの席に陣取っている延珠ちゃんは実に嬉しそうに自身の隣を見やる。

 

「ま、まあな……」

 

 つられて顔を正面に戻すと、蓮太郎くんは気まずそうに視線を逸らし、頬をかきながら答えた。僅かに赤面しているのは、男子高校生が魔法少女モノのおもちゃを身につけていることが恥ずかしかったのか、それとも"ペアルック"と言う部分に反応したのか。青いなぁ。

 

「……カネキ。この任務が終わったらアタシもお揃いのブレスレット買いたい」

 

「え、急にどうしたの?」

 

「べっ、別に理由なんてどうだっていいでしょ!?」

 

 里津ちゃんの意図が掴めずに首を傾げていると怒鳴られた。何故だ。

 

「うーん……別にいいよ」

 

「ほんと!?」

 

 別段断る理由もなかったので、彼女の要望をすんなりと了承すると、先程まで不機嫌そうに唇を尖らせていた里津ちゃんの顔がパァーッと輝く。

 でも、こういう仕事をやってるといつ壊れるか分からないから滅多に着けられないと思うけど……それは言わない方がいいかな。

 

「皆さんとても仲がいいんですね」

 

 すぐ近くからした声に首を巡らせると、僕と里津ちゃんの間に挟まれるように座る聖天子様が慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。

 

「……家族みたいなものですから」

 

「気苦労も絶えないけどな」

 

 再び『天誅ガールズ』について語り合い始めた里津ちゃんたちを眺めながらそう呟くと、苦笑いしながら蓮太郎くんも同意した。

 するとなぜか、聖天子様はその相貌を悲しそうに歪めた。

 

「一体いつになれば、全ての『奪われた世代』があなた方のように『呪われた子供たち』を受け入れることが出来るのでしょうか……」

 

「「…………」」

 

 その問いに対する解答を、僕たちは持ち合わせていない。彼女が投げかけている質問は喩えるなら、自分の愛する人や友人を殺された被害者の遺族に、加害者を許せと言っているようなものだ。もちろん彼女たち『呪われた子供たち』は加害者などではなく、松崎さんの言葉を借りるなら"胎内でウイルスに侵された被害者"だ。

 しかし、ガストレアに蹂躙された恐怖から、奴らと同じように赤く光る眼を見ると錯乱するガストレアショックを始めとしたPTSD等々、未だ癒えることのない戦争の傷を多く抱える『奪われた世代』からすれば、とても割り切れる話ではないだろう。

 

 あの蓮太郎くんだって、民警になって延珠ちゃんとペアを組むまでは菊之丞さんと同じくらい『呪われた子供たち』を憎悪していたんだ。いくら言葉で彼女たちに罪はないと説いた所で、誰も耳を貸しはしない。

 それを理解しているからこそ、この優しいお姫様は苦しんでいるんだろう。

 

「───命をかけてまっすぐ貫くんです」

 

 いきなり耳に飛び込んできたその言葉に、聖天子様は「え?」と声を漏らし、僕らは一斉に声のした方に顔を向けた。

 

「頭ごなしにNOがYESになったら〜♪」

 

「正義の旗をはためかせるわ〜♪」

 

 体を左右に揺らし、上機嫌に歌う里津ちゃんと延珠ちゃんの姿を捉え、思わず苦笑いしてしまう。

 あのフレーズは確か……『天誅ガールズ』のOPじゃない方の曲、だったか。どうやら、さっき聞こえてきた言葉はその歌詞の一部だったらしい。

 

 僕たちの視線に気づいた里津ちゃんが、そっと聖天子様の手を引く。

 

「聖天子様も一緒に歌おうよ」

 

「わ、私もですか?」

 

「うむ! 話は聞いていなかったからよく分からんが、落ち込んだ時は歌うのが一番だぞ!」

 

 困ったようにこちらを見る聖天子様に、僕はちらりと蓮太郎くんに視線を送り、互いの意思を確認すると僕らは無言で肩をすくめた。彼女たちの()()()に大人が水を差すのは無粋だろう。

 

「……分かりました。ですが、人前で歌ったことはないのであまり期待しないでくださいね?」

 

「妾知ってる。それ歌が上手い人の常套句だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 延珠ちゃんの予想通り、聖天子様は本当に歌が上手かった。まさに天使の歌声と呼ぶに相応しい声音だった。そして同時に、扇動の歌声でもあった。

 

 聖天子様の美声によって闘争心を刺激された幼女二人は、傍観者に徹していた保護者を審査員として巻き込みカラオケバトルを敢行。非公式会談の会場に到着するまで続いた。

 

「ところで、どうして聖天子様は『天誅ガールズ』の曲を知ってたんですか?」

 

「い、いけませんかっ!?」

 

 雪のように白く透き通った肌を赤く染め、恥ずかしさに潤んだ瞳で見上げる聖天子様の顔は、控えめに言って天使だった。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「───里見さんは斉武大統領と面識があるのですよね? 貴方から見て、斉武大統領はどのような人なのですか?」

 

 非公式会談の場所として指定された超高層建築ホテル。そこに設置されているエレベーターの中から、徐々に遠ざかっていく地上をぼんやりと眺めていると、聖天子様がそんな事を尋ねた。

 余談だが、今この空間に居るのは僕と蓮太郎くん、そして聖天子様の三人だけだ。彼女曰く、こういう真面目な場に子供は連れて行けないとのことだ。護衛とは一体……。

 

「アドルフ・ヒトラー」

 

「は?」

 

「だからアドルフ・ヒトラー」

 

 欠伸を一つし、蓮太郎くんの斉武大統領に対する評価を聞きながら、ユキムラを収納したアタッシュケースを持ち直す。

 

 斉武宗玄。大阪エリアの国家元首であり、ガストレア大戦によって衰退の一途を辿っていたエリアをたった一代で立て直した各エリアのトップと同様にとびきり有能で、そして危険な男。彼が大阪エリアの市民に暗殺されかけた回数は今年で17にも及び、その在り方はまさに独裁者のそれだと蓮太郎くんは言う。

 

「どのエリアの統治者も『我こそは日本の代表』とか寝言を真顔で言う連中だからな。中でも斉武は一番ヤバイ。気を付けろ」

 

 話は終わりだと言わんばかりに、蓮太郎くんは聖天子様から視線を外し最上階を睨みつける。

 

「わ、わかりました。ご忠告、ありがたく受け取っておきます」

 

 彼の忠告に若干気圧されながらも、聖天子様はしっかりと頷いた。それでもやはり不安そうだったので、彼女のそれを少しでも軽減できるように笑いかける。

 

「大丈夫ですよ。何が起きても、僕と蓮太郎くんが必ず守りますから。約束です」

 

 そう言って、僕は微かに震えている彼女の左手───より正確には、その小指に自分の小指を絡め、軽く上下に振る。いわゆる指切りだ。

 

「? どうしました?」

 

 なぜか僕が指切りを解いても、聖天子様はしばらく呆然と自身の小指を眺めていた。

 

「……小さい頃、よくお母様とこうやって指切りをしていました」

 

 聖天子様は懐かしそうに、どこか悲しそうに薄く微笑んだ。

 

「カネキさんって、お母さんみたいって周りの人から言われた経験ありませんか?」

 

「……そういや39区のガキ共ん中に、お前の事を"ママン"って呼んでるヤツいなかったか?」

 

「あ、あははは……僕ってそんなに男らしくないかなぁ?」

 

 だとしたら地味にショックだ。

 

「39区の子どもたち……?」

 

「聖天子様は知らないんだったか。こいつ、時々39区で暮らしてる『呪われた子供たち』の先生をしてるんだよ」

 

「カネキさんが、先生を?」

 

「意外ですか?」

 

 僕が先生をやってると聞いてキョトンとする聖天子様にそう尋ねると、彼女は静かに首を横に振った。

 

「いいえ、とても似合っていると思いますよ。あ、もしお邪魔でなければ、参考までに貴方が『子供たち』にどんな教鞭を執っているのか見学しに行ってもよろしいですか?」

 

「良いですよ。僕なんかが参考になるかは分かりませんが」

 

 聖天子様の申し出に、僕は二つ返事で了承した。

 

「ふふっ、楽しみにしています。あ、言い忘れるところでした。カネキさんは大丈夫そうですが、里見さん、貴方は少し短気な部分があるので自制するようにお願いします。間違っても斉武さんに殴りかかってエリア間の戦争を引き起こしたりしないように。それから『うっせぇな』とか『ざけんじゃねぇよ』みたいな汚い言葉も絶対に使ったりしてはいけませんよ」

 

「アンタは俺の母親か! んなこと言うわけねぇーだろ!」

 

 蓮太郎くんと聖天子様のやりとりに苦笑いしていると、上昇を続けていたエレベーターの勢いが徐々に減速し、やがて停止した。どうやら最上階に着いたらしい。

 

 扉が開き、こちらに背を向けながら佇む大阪の国家元首を見据えながら、僕たちは政治家の戦場へ足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「なぁ、そんなに落ち込むなよ」

 

 自身の横で、肩を寄せ合って眠る延珠と里津に毛布を掛けてやりながら、蓮太郎は正面に座る聖天子を見た。

 

「別に落ち込んでなど……いえ、そうですね。確かに少し、落ち込んでいます。こちらが誠意を持って話せば、どんな人でも理解してくれると信じていましたから、尚のことそう思うのかもしれません」

 

 帰りのリムジンの中は、行きの時とは対照的に重苦しい空気に包まれていた。

 

 その原因は十中八九、数分前に終了した会談によるものが大きいだろう。何せ、記念すべき第一回目の大阪エリア代表との非公式会談の成果と言えば、聖天子と斉武宗玄が決して交わることのない水と油の存在であると理解できたことぐらいなのだから。

 

「別にアンタが悪いわけじゃねぇ。斉武はあの菊之丞ですら手を焼く男だ。あいつの剣幕に呑まれなかっただけでも十分に立派だよ、アンタは」

 

 聖天子は一瞬だけ目を丸くし、やがて悪戯っぽく微笑んだ。

 

「意外と優しいんですね、里見さんは。それにしても今日は驚かされました。里見さんって政治家の卵だったり、仏様を彫っていたり、『新人類創造計画』の兵士だったり、複雑な経歴をお持ちのようで」

 

 蓮太郎は思わず舌打ちし、聖天子から視線を逸らす。

 

「どれも残らず俺の黒歴史だ、蒸し返すなよ。つーか、複雑な経歴って言ったら俺よりカネキの方がよっぽど複雑だと思うけどな」

 

 ちらりと、蓮太郎は聖天子の隣に座るカネキに目を向けた。

 

「カネキ、アンタ斉武とはどういう関係なんだ?」

 

 スッと目元を鋭くする蓮太郎に、カネキは困ったように眉を下げる。

 

「関係もなにも、斉武さんと会ったのは今日が初めてだよ」

 

「その割には随分な嫌われようだったな。こう言っちゃなんだが、斉武は初対面の相手を理由もなく邪険に扱うような奴じゃないぜ?」

 

 事の発端は数時間前。エレベーターの脇に控える筋骨隆々な護衛の横を通り抜け、数年ぶりの再会に、傍から見たら洒落にならない剣幕で軽口を交わす蓮太郎と斉武の会話が一段落ついた時だった。

 

『……貴様は?』

 

『お初にお目にかかります。天童閣下が不在の間、里見さんと共に彼の代理を務めさせていただきます、金木研です。以後お見知りおきを』

 

『その気色の悪いニヤニヤ笑いを今すぐやめろ。不愉快だ』

 

 真面目に自己紹介しただけなのにいきなり罵倒されたカネキはもちろん、それを隣で聞いていた聖天子と、斉武の人となりをそれなりに知っている蓮太郎も唯々困惑した。

 

「……本当に心当たりはねぇんだよな?」

 

「ないよ。もしかしたらアレじゃない? 単純に、僕の顔が気に入らなかったとか。昔将監さんに『へらへら笑ってるのが勘に触る』って斬り掛かられた事もあったし」

 

「それは……少し、分かるかもしれません」

 

「「……えっ?」」

 

 窓枠に肘を置いていた蓮太郎と、ムニムニと自分の顔を弄っていたカネキから間の抜けた声が漏れる。それはそうだろう。まさか冗談のつもりで口走った適当な推測を肯定されるとは思ってもみなかったし、しかもカネキからすればそれは、好みのタイプの女性に「貴方の顔ってムカつくんですよね」と言われたに等しい。

 

「あ、いえ! 決してカネキさんの顔が好みではないという話ではなく! その、貴方の笑顔にはどこか、違和感を覚えるのです」

 

「違和感、ですか?」

 

「…………」

 

 意味が分からない、とカネキは眉をひそめた。そして向かいの席にいる蓮太郎は、無言で聖天子の言葉を待っていた。

 

「はい。貴方の笑みは……何というかとても───()()()()()()()()()()()()()()

 

 最初は本当に些細な違和感だった。だがその違和感は、カネキが浮かべる笑みを見る度に積み重なり、そして今この瞬間それは確信へと変わった。

 

 ゴクリと、唾を嚥下する音すら聞こえるのではないかという程の静寂が、空間を支配する。

 

「───気のせいですよ」

 

 が、それも一瞬。耳が痛いほどの沈黙は、「ニコッ」と今まで通りの笑顔を浮かべるカネキによって破られた。

 

 それは嘘だと、思わず聖天子は叫びたくなった。

 

 ───だって貴方は、こんなにも泣きそうな顔で笑っているではないか。

 

 しかし、当の本人は怪訝そうに首を傾げるばかりだ。その態度に、聖天子はおろか蓮太郎も言葉を紡げなかった。

 理解してしまったのだ。この男は、本当に自覚していない。彼が浮かべているそれは、決して笑顔などではなく、ただ筋肉を動かしているだけに過ぎないということに。

 

「ところで聖天子様」

 

「!? は、はい。なんでしょう?」

 

 ビクッと肩を跳ね上がらせた聖天子に首を傾げながら、カネキはずっと疑問に思っていたことを訊いた。

 

「どうして蓮太郎くんを雇ったんですか? ああ、別に蓮太郎くんに不満がある訳じゃないよ。ほら、保脇さんみたいな専属の護衛がいるのに何でかなって。だからそんなに睨まないでよ」

 

「……確かに。それは俺も気になってた」

 

「保脇さんですか? 彼はその、目がギラギラとしていて、一緒に居て少し怖いです」

 

 聖天子は車内に設置された小型の冷蔵庫からジュースを取り出し、カネキと蓮太郎に勧める。

 

「カネキさん、里見さん。斉武大統領は外国との関係が噂されています」

 

 カネキたちのグラスが空になったことを確認して、聖天子は斉武がなぜ諸外国と手を結んだのか、その理由を推測していく。彼女の話は要約すれば、斉武は外国の力を借りて東京、札幌、仙台、博多エリアの武力統一を図り、世界中の何処よりも早く国力の回復させることが目的だと言う。

 

「流石は世界の頂点を目指す独裁者。手が込んでますね」

 

「ですが、日本の将来を見据えた彼の考えは間違ってはいません。戦後から今日に至るまで、各国は国力を回復させる為にモノリスの内側に閉じ込もってきましたが、これからは外に向かって領土を奪還していく時代になります。つまり───」

 

「───つまり、バラニウムを制した者が世界を制する。そういうことか?」

 

「その通りです。そして、バラニウム大国である日本は必然、世界各国から協力的なものから敵対的なものまで、様々な接触を受けることになるでしょう。里見さん、カネキさん。あなた方にはこれからも継続的に働いてもらいます。私のために、国家のために」

 

 蓮太郎は溜息を一つ吐くと、苛立ちの込もった目で聖天子を睨んだ。

 

「勝手な話だな。アンタは本当になんでも自分の都合で決めるんだな」

 

「蓮太郎くん……」

 

「勝手は承知しています」

 

 聖天子は暗い表情のまま自分の下腹辺りに両手を当て、悲痛な覚悟を語る。今の時代、彼女もいつ予期せぬ騒動に巻き込まれて斃れるか分からない。加えて既に子どもを産める年齢に達したということで、周囲からも早く世継ぎを残せと迫られていると。

 けれど、せっかく子どもを産むのなら愛情の元に産みたいと。

 

 蓮太郎は激昂した。

 戦えと。死ぬことばかり考えるくらいなら、()()()()()抗えと。

 

 聖天子は悲しそうに顔を歪めた。

 

 そしてカネキは、蓮太郎の言葉に表情を消した。

 

「貴方まで、菊之丞さんと同じことを仰るんですね」

 

 しかし、互いだけの世界に入り込んでしまった二人は、カネキの変化に気付くことはない。

 

 聖天子は言う。蓮太郎の視野は狭いと。

 そして彼女は語る。自らの覚悟を。

 

「私は侵略行為を絶対に行いませんし、暗殺や謀殺が降りかかろうとも決して膝を屈しません。復讐などもってのほかです。それら卑劣な行為は、血で血を洗う行為と全く等しいからです」

 

 そんなものは綺麗事だ。ありきたりな詭弁だ。そう切り捨てられればいいのに、蓮太郎にはどうしても出来なかった。この人はきっと、どんな悲劇に見舞われようと報復という手段だけは死んでも取らない。そう思わせられるほどに、彼女の目が本気だったから。

 

「どうしてそこまで……」

 

「里見さん、貴方もあの大戦を経験したならご存知のはずです。戦争で真っ先に犠牲になるのが一体誰なのか」

 

 蓮太郎はかつて見た地獄を思い出し、はっと息を呑んだ。

 

「……子どもや、老人」

 

「私は戦後の混乱期、お母様と東京エリアの各地を巡り愕然としました。劣悪な環境の中で、病気のせいで身動きも出来ず、息をするだけでも辛いはずなのに、それでも私が微笑みかけると彼らも懸命に微笑み返してくるのです。しかし彼らは、翌日には冷たくなってハエがたかっている……!」

 

 震えそうになる声を、聖天子は両手を祈るように組むことで抑える。

 

「あんな恐ろしい事はもう二度と起きてはなりません。私は必ず、平和を体現します。言葉ではなく、行動によって」

 

 彼女から視線を外し、蓮太郎はポツリと呟いた。

 

「……早死にするタイプの理想主義者だ」

 

「理想も語れない人間になりたくはないのです」

 

「ならもっと上手く立ち回れよ」

 

 蓮太郎は一度考えるように目を閉じ、やがて静かに目を開いた。彼の口元は、呆れたように笑っていた。

 

「馬鹿だな、アンタ……嫌いじゃねぇけど」

 

 その評価に、聖天子は照れるように頬を染める。

 

「あ、ありがとうございます」

 

「へいへい……ん?」

 

 と、そこで。ようやくは二人は、先程からまったく会話に参加していなかったカネキに関心を向けた。

 すると彼は無言で、微動だもせずに窓の外を見ていた。

 

「どうしたんだ、カネキ?」

 

「……蓮太郎くん、延珠ちゃんと里津ちゃんを今すぐ起こすんだ。聖天子様はこっちに」

 

「え? あ、はい」

 

「はぁ? 急にどうしたんだよ」

 

 助手席側に座っていた聖天子を運転席側に移動させるカネキに、蓮太郎も聖天子も戸惑うばかりだ。

 

「いいから早く───」

 

「───その必要はないよ。もう起きてる」

 

 弾かれたように里津たちが眠っていた場所を見れば、二人とも既に覚醒し、臨戦態勢に入っていた。

 

「延珠……?」

 

「蓮太郎……なんだろう、嫌な感じがする」

 

 まるで、いつ割れるか分からないほど膨れ上がった風船のように空気が張り詰め、全員が神経を尖らせる。

 

 カネキと蓮太郎はジッと窓ガラスの向こうのビル群を注視する。いつの間にか降っていた雨が窓を濡らし、そこから覗く景色をぐにゃりと歪ませる。

 

 交差点に差し掛かり、車が赤信号で停止する。襲撃するなら今が絶好の機会だ。

 蓮太郎は自身の警戒レベルを最大にまで上昇させる。

 

 ドクン、ドクン。心音がうるさいくらいに響く。

 

(早く……)

 

 信号はまだ変わらない。

 

(早く、早く……!)

 

 チカチカと、交差道路の歩行者信号が点滅する。

 

(早く早く早くッ!!)

 

 そして───

 

 

 

 

 何事もなく、信号は青に変わり車は発進した。

 

 リムジンが走り始めてから時間にしておよそ一分が経過し、蓮太郎がホッと息を吐き出した瞬間。窓の向こうにそびえ立つ無数のビルの一つ、その屋上で何かがチカッと光った。

 

「───伏せろぉッ!!」

 

 光の正体が、ティナ・スプラウトの狙撃による銃口炎(マズルフラッシュ)だと、知識を介して知っていたカネキが絶叫を上げながら聖天子に覆い被さり、蓮太郎は反射的に延珠と里津の頭を押さえつける。それと同時にガラスの砕ける音と女性の悲鳴のようにも聞こえる車のブレーキ音が、夜の街を切り裂くように鳴り響く。

 

 そこでようやく、リムジンに乗車している全員が認識する。自分たちは現在、街中で狙撃を受けているのだ、と。

 

 雨のせいで濡れた道路を走行中に急ブレーキを掛け、さらに運転手が咄嗟にハンドルを右に切った結果、リムジンはいとも容易く横滑り(スリップ)を起こし、カネキたちは遠心力によって左側のドアに叩きつけられる。

 

「ぐ、うぅっ……!?」

 

 だが車の勢いは止まらず、今もなお道路を横向きに滑走し続けている。

 しかも間の悪いことに、ちょうど道路の中央に白いフードを被った人物───体格からして恐らくは女───が雨の中傘も差さずに立っていた。

 

 このままでは激突する。そう判断したカネキが赫子を出してリムジンを緊急停車させようとしたその時───仮面の奥から覗く、()()()()()と目が合った。

 

 直後、リムジンは真ん中の部分から一刀両断された。

 

 前半分と後半分に分割されたリムジンは、まるで女を避けるように左右に分かれ、そして凄まじい破壊音と共に建物に衝突して停止した。往来していた多くの一般人が悲鳴を上げる。

 

 女がゆっくりと振り返る。

 

 そこには、地面に片膝をつきながらこちらを睨みつける蓮太郎と、そんな彼の傍に寄り添う延珠。気絶した運転手の首根っこを引っ掴んで鼻を鳴らす里津。そして、アタッシュケースを右手に持ちながら器用に聖天子を横抱きにするカネキの姿があった。

 

「怪我はありませんか?」

 

「は、はいっ。大丈夫です……」

 

 まるで童話に登場する王子様とそのお姫様のような構図に、場違いにも赤面しそうになる聖天子だが、先程から鋭い表情のまま正面に立つ女から片時も目を離さないカネキを視界に収めると、一瞬で気を引き締めた。

 

「立てますか?」

 

「いえ、わ、私、今ので腰が抜けてしまったみたいで……」

 

「なるほど、分かり───蓮太郎くんッ!」

 

「きゃっ!」

 

「うおっ!?」

 

 いきなり、カネキは抱えていた聖天子を蓮太郎に向かって投げつけた。かなり強い力で投げたのか、咄嗟に受け止めようとした蓮太郎は押し倒され後頭部を地面に強打する。

 突然の暴挙に抗議の声を上げようと顔を上げ、そして蓮太郎が見たものは───

 

 

 

 瞬時に起動したユキムラを背後に向かって逆袈裟に振り上げるカネキと、黒いナニカが激突した瞬間だった。

 

 

 

 まるで軽自動車同士が激突したかのような音と衝撃。驚くべきはその攻撃の正体が何の変哲もない()()()()()だったこと。

 

 刹那の硬直の後、吹き飛ばされたのはカネキだった。

 

「───へぇ、今のを止めるのか」

 

 カネキは敢えて衝撃を殺さず、逆に利用するように両手で地面を叩き、バク転するように起き上がる。

 

「シロ」

 

「分かってる」

 

「……!?」

 

 頭上から振り下ろされる二本の赫子。反射的にユキムラを(かざ)すようにして防いだが、それは悪手だったとすぐに悟る。

 

(重ッ───!!?)

 

 全身の骨が悲鳴を上げ、踏ん張った両脚から異音が響き、鼓膜を揺らす。少しでも気を抜けばそのまま潰される。それほどの重量。

 

「はい、隙あり」

 

「ごばッ……!!」

 

 がら空きになった胴体に容赦のない横薙ぎの一撃。背中からビルの壁に叩きつけられ、喉の奥からせり上がってきた血を吐き出す。

 

「か、げはっ……」

 

「カネキッ!!」

 

「カネキさん!」

 

 と、ここでようやく呆気に取られていた里津たちが再起動を果たし、カネキを救出せんと駆け出す。

 

 しかし、襲撃者たちはそれを是としない。

 

「……シロ、足止めは任せる。私はこいつを」

 

「任せて、クロ」

 

 そう言ってクロと呼ばれた黒いフードを被った女は、腰から伸ばした二本の赫子のうち一本をカネキに巻きつけ、もう一本をビルに突き刺すと、そのまま壁を垂直に駆け上がっていく。

 

「させるものかッ!!」

 

 『呪われた子供たち』特有の身体能力の高さとウサギの因子によって強化された脚力に物を言わせた速度をもってして、延珠はシロを無視して真っ直ぐカネキを追いかけようと跳躍する。だが。

 

「行かせない」

 

「マズイっ、下がれ延珠!」

 

「なッ……!?」

 

 それを妨害するように、シロの赫子が延珠の進行方向を正確に先読みして振るわれる。

 空中で身をひねり、己に迫る赫子を蹴りつけるようにして何とか後退する。

 

「くっ!? しまった!」

 

 そして、延珠がその健脚を止めてしまった隙に、クロとカネキは夜空の闇へと消えていった。

 苦虫を噛み潰したような表情になる蓮太郎だが、すぐにはっとして自身の横にいる少女を見やる。すると里津はこちらを小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

 

「安心しなよ。流石に任務を途中で放りだしてアイツを追い掛けるような真似はしないからさ。それに……」

 

 心配はある。だけどそれ以上に信頼もしている。あの男が、そう簡単に敗北することなどありえないと。

 腰に差してある二本の曲刀を抜き放ち、脱力したような独特の型で構え、力を解放する。

 

「どうせアンタを倒さないと、先には進めないんだろうしさァッ!!」

 

 赤と赫の瞳がぶつかり合う。それが戦いの合図だった。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 クロは赫子を器用に操り、拘束を振り(ほど)こうと(もが)くカネキをビルの側面に叩きつけ、壁を削りながら、まるで重力に逆らうかのように高層ビルの壁を垂直に疾走する。

 

「がっ……ぐあっ……!」

 

 飛びそうになる意識を歯を食いしばることで強引に繋ぎ止め、ユキムラで赫子を切り裂こうとした瞬間、気がつけば宙を舞っていた。

 

「なっ……!?」

 

 刹那の浮遊感。眼下に広がる東京エリアの街並みを捉え、自分がビルの屋上に投げ出されたことを理解する。

 直後、視界の端で何かが閃く。

 

「堕ちろ」

 

 ユキムラを盾にしてギリギリで攻撃を防御するも、踏ん張りの利かない空中では衝撃を殺すことが出来ず、カネキは砲弾のような速度でビルの屋上に激突する。

 

「ご、ばあッ……!」

 

 僅かな抵抗すら出来ずに、逆流した胃液ともども口から血を噴き出す。今もなお降り続ける雨ですら流せない量の血溜まりに、カネキは夜空を見上げるように沈んでいた。

 

 パシャッ、と少し離れたところにクロが軽やかに着地する。

 

「まだ起き上がるのか。しぶといね」

 

「…………」

 

 頭から、口から。いっそ全身から血を垂れ流しながら、それでもカネキはユキムラから手を離すことなく、ゆらりと、幽鬼のように立ち上がる。

 

「……君たちは、何者だ。目的はなんだ」

 

「そういえばまだ自己紹介をしてなかったな」

 

 クロは仮面を外し、その下にある素顔を晒した。彼女の瞳は、カネキと同様に左眼だけが赫かった。

 

「安久黒奈だ。お前の後輩(喰種)だよ。目的は……言わなくても分かるな?」

 

「そう、か………うん」

 

 バキッ、とカネキは親指で人差し指を鳴らす。腰から4本の赫子が飛び出し、左眼が赫く染まる。

 

「───邪魔だな」

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「シッ!!」

 

 静止状態から一気に最高速度まで加速した里津は側面に回り込み、フェイントを織り交ぜながら両手に持った曲刀をそれぞれ独立した生き物のように操り、一閃する。

 対するシロは冷静に、自身と左右から同時に振るわれる刃物との間に赫子を滑り込ませる。

 

 曲刀と赫子がぶつかり合い、火花が散る。

 呆気なく防がれた攻撃にしかし、里津はニヤリと笑う。

 

 そうだ、それでいい。もとより自分の役割は敵の動きを封じること───必殺の一撃を確実に叩き込むための布石に過ぎないのだから。

 

「───天童式戦闘術、一の型三番ッ!!」

 

 真横から聞こえたその声に、シロは弾かれたように顔を向ける。

 

「『轆轤鹿伏鬼(ろくろかぶと)』ォッ!!!」

 

 右腕のカートリッジを炸裂させ、爆炎を噴き上げながら神速の域に達した拳を躊躇なく放つ蓮太郎。

 自身の義肢専用にカスタマイズされたカートリッジはその性質上、補充が非常に利きづらいため本来であれば戦闘の終盤まで温存するのが望ましい。だが、相手がカネキと同じ喰種であるなら話は別だ。出し惜しみなどすれば瞬殺される。

 

 蓮太郎の奇襲に気づいたシロは仮面の奥で舌打ちし、里津を蹴り飛ばす。そのまま流れるように、自由になった赫子で風を引き裂きながら蓮太郎の拳を迎撃する。

 

 そして、超バラニウム(次世代合金)の拳と赫子が接触した瞬間、空気が爆発した。

 

 一拍遅れて発生する轟音と衝撃。激突の余波だけで周辺の窓ガラスは全て砕け散り、二人を起点に局所的に雨は止み、地面は放射状にひび割れていく。

 遠くで聞こえる悲鳴が大きくなった気がするが、今はそれに構ってる余裕はない。

 

「!」

 

 威力が拮抗している。その事実を認識した瞬間、蓮太郎は大きく踏み出し二発目のカートリッジを撃発させる。

 

「くッ……!」

 

「と、どけぇぇえええッ!!!」

 

 炸裂音と共に腕部から黄金色の空薬莢が排出され、再び右肘から炎がロケットのように噴出する。無理やり赫子を押し戻し、拳を鳩尾に捻じ込み、そのまま全力で殴り抜く。

 

 人体から決して鳴ってはいけない音を奏でながら、シロは仰向けに吹き飛んでいった。

 

 何度も道路の上をバウンドし、数十メートルほど地面を転がった後、シロはうつ伏せに倒れ動かなくなった。

 同時に、それまで二人の激突によって見えない障壁に阻まれているかのように空中に堰き止められていた雨が、再び蓮太郎に降り注ぐ。

 

「はぁッ、はぁッ……!」

 

 蓮太郎は息を荒げ、けれど拳は下ろさず、地に伏しピクリともしないシロを油断なく睨む。

 

「……どう見る?」

 

「手応えはあった。けどあいつ、インパクトの直前に自分から後ろに飛んで衝撃を流しやがった」

 

 隣に来た里津とそんなやり取りを交わしていると、蓮太郎の予想通り、シロは何事もなかったかのように起き上がった。

 腹部からバキバキィッ……! と破壊された肉と骨が再生する音を響かせながら。

 

「凄い威力だね。喰種じゃなきゃ死んでたよ、今のは」

 

 忌々しそうに、蓮太郎と里津は舌打ちする。

 

 そう簡単に倒せる相手とは思っていなかったが、流石に全くの無傷というのは応えるものがある。

 以前に一度、カネキから喰種の再生力について説明された際は何かの冗談だと思っていたが、まさか虚飾のカケラもない真実だったとは。

 

『僕ら喰種の再生力には個体差があるけど、大抵は内臓を潰された程度じゃ死なない。僕たちを殺すには首と胴体を切り離すか、再生が追いつかないほどのダメージを与えるしかない』

 

 雨粒以外の冷たい何かが蓮太郎たちの頬を伝う。

 出来ることなら傷が再生しきる前に追撃を仕掛けたかった。しかし、それはできなかった。

 

「来ないの? って訊くのは流石にイジワルだね」

 

 理由はシロが立っている場所。先の蓮太郎の一撃によって、彼女は狙撃から身を守る遮蔽物(ビル)の存在しない交差点の上に殴り飛ばされた。今追撃を仕掛けるという事はつまり、自分から狙撃の餌食になりに行くようなものだ。

 

「……お前たちの目的は何だ」

 

 だからこれはただの時間稼ぎ。恐らく、逃げ惑う市民や野次馬どもに足止めを受けて合流できない他の護衛官たちや、騒ぎを聞きつけた警察が到着すれば、遠距離攻撃が主体であるが故に居場所を特定されたくない狙撃手は撤退するだろう。そうなれば、多少は戦いやすくなる。

 

「私たちの目的は金木研の殺害。それとアナタたちの背後で震えてる国家元首を殺す手助け、かな」

 

 蓮太郎の意図に気づいていないのか、それとも気づいた上で問題ないと判断したのか、シロは蓮太郎たちの背後───ビルの陰から此方を見守っている聖天子と、彼女を守護するように立ちはだかる延珠を指差した。

 ちなみに延珠を聖天子の傍に置いたのは、三人の中で最も敏捷性の高い延珠に、狙撃手が撤退した瞬間に聖天子を抱えて離脱してもらう為だ。

 

「カネキの殺害と、聖天子様の暗殺の、手助け……?」

 

「そう。もともと私たちの標的は金木研ただ一人だった。だけど、面倒なことに金木研はそこの国家元首の護衛になった。そして偶然、ちょうど良く国家元首を暗殺しようとしてる同業者(殺し屋)の存在を知った。お互いの標的が一緒にいるなら、どちらかが先に依頼を達成するまで協力しようって話になったの」

 

 ちらりと、シロは交差点から見えるとあるビルの屋上を一瞥して、また蓮太郎たちに視線を戻す。

 

「信じてもらえないかもしれないけど、私たちは標的以外の人間は殺さない主義なんだ。今ごろクロが依頼を達成してるだろうし、その子を()()に連れてきてくれれば、私たちは消える。そっちだって、無意味に痛い思いはしたくないでしょ?」

 

 その声は真剣で、なぜか本当にこちらの身を案じているような口ぶりだった。

 

「……………」

 

 しばしの沈黙。そして───

 

「───馬っ鹿じゃないの?」

 

 里津はそれを、鼻で笑い飛ばした。

 

「アタシたちは護衛で、標的を守るのが仕事。そしてアンタらは殺し屋で、標的を殺すのが仕事なんでしょ。アンタが今言ったことは、アタシらがアンタに向かって『標的を殺すのはやめてください』って頼むのと同じことだって気づいてる?」

 

「……………」

 

「それに、アンタは一つ勘違いしてる」

 

「……勘違い?」

 

 不敵に笑う里津の言葉を引き継ぐように、蓮太郎が続ける。

 

「カネキは黒い死神だ。あいつがそう簡単にお前らなんかに負ける訳ねぇんだよ」

 

 闘志を漲らせ、再び己の得物を構える蓮太郎たちに対し、シロは少しだけ悲しそうに呟いた。

 

「……そっか。やっぱりあの男、本物の黒い死神だったんだ」

 

 その様子を訝しむように目を細める蓮太郎たちから視線を外し、シロはクロが駆け上がっていったビルを見上げる。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「あぁ? アンタなに言って───」

 

「里津! 避けろ!!」

 

「!?」

 

 蓮太郎の声にはっとして、咄嗟にその場から飛び退く。それと同時にヒュン、という音を耳朶が捉え、先程まで自分が立っていた場所に長剣が突き刺さる。

 

 新手か、と地面に深々と刀身を埋める長剣の持ち主を探そうとして───里津の目は、その長剣に釘付けになった。

 

「う、そ……」

 

 眼前に現れた長剣には見覚えがあった。何故ならそれは、自分の相棒がいつも愛用している武器なのだから。だがそんなものは些末なことだ。

 

 問題なのは、長剣の柄の部分。それは、ぼとり、という音と共に地面に落ちた。急激に乾いていく喉を無理やり動かし、かすれた声で呟く。

 

「カ、ネキ……?」

 

 里津の視線の先にあったのは、切断された相棒の右腕だった。

 

 

 

 

 




今さらながら歌詞使用の存在に気付いたのでコードを追加しました。


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第16話 縷渦

 カネキくん……ハードモード!


 るうず=lose=敗北

 

 

 

 

 喰種同士が会敵した場合、自身に勝機が有るか無いかを判断する方法は大きく分けて二つある。

 

 一つは赫子の相性。

 喰種には『赫包』と呼ばれる赫子を発生させ、ガストレアにとってのウイルス(のう)と同じようにウイルスを貯蔵する袋状の器官が存在する。そしてその位置によって、喰種の赫子はそれぞれ4つに分類される。

 

 肩まわりに赫包を持ち、羽や翼のように赫子を展開し、4種類の中で最も俊敏だが、持久力に乏しい『羽赫』。

 

 肩甲骨下付近に赫包を持ち、金属質で頑丈な赫子を形成し、耐久力に優れるが、その重量のせいでスピードで劣る『甲赫』。

 

 腰付近に赫包を持ち、鱗に覆われた触手のような赫子を生やし、赫子の中でもトップクラスの威力を誇るが、同時に他のどの赫子よりも脆さを有する『鱗赫』。

 

 尾てい骨辺りに赫包を持ち、尻尾のように伸びる赫子を発生させ、攻守・敏捷・間合い(レンジ)共にバランスに優れるが、強力な決め手を持たない『尾赫』。

 

 赫子の相性をまとめると、機動力はあるが攻撃の軽い『羽赫』は『甲赫』の頑丈さを崩せず、鈍足の『甲赫』では装甲ごと貫通させる威力を持つ『鱗赫』の的になり、赫子が脆い『鱗赫』は隙のない『尾赫』を攻めきれず、器用貧乏で決定打に欠ける『尾赫』は『羽赫』のスピードに翻弄される。

 ただしこれはあくまで相性であり、状況や実力次第で容易に覆すことが可能である。

 

 もう一つは赫子の質だ。

 喰種の強さは、彼らの武器である赫子にそのまま反映される。それは赫子の数であったり、形や大きさなど様々だが、相手と自分の赫子を見比べればある程度は彼我の実力を把握できる。

 

 さて、前置きはこのぐらいにしてそろそろ本題に入るとしよう。

 

 まずカネキとクロの赫子は双方ともに鱗赫。よって相性による有利不利は除外する。

 次に赫子の質だが、大きさも形もそこまで違いは見られない。ならば数ではどうだろう。カネキの赫子は全部で4本、対してクロの赫子はその半数である2本。

 

 であれば必然、勝機があるのはカネキの方だ。

 

 しかし……。

 

「ゴボァッ……!!」

 

「どうした。私が邪魔なんじゃなかったのか?」

 

 クロが振るう赫子に殴り飛ばされ、水飛沫を上げながら無様に屋上の縁を沿うように転がるカネキ。誰が見ても明らかなほど、クロがカネキを圧倒していた。

 

(駄目だッ、目で動きは追えているのに、身体の反応が遅い……!)

 

「そら、休んでる暇はないぞ」

 

「チィッ……!」

 

 まるで蛇のように襲い掛かる2本の赫子に、四肢を地に着けた状態のまま、カネキもまた自身の赫子を鞭のようにしならせ迎撃する。

 だが、互いの赫子が激突した瞬間、カネキの操る4本の赫子すべてが呆気なく霧散する。かろうじて威力が相殺されたおかげでクロの攻撃が届くことはなかったが、その様子にカネキは「またか」と苛立たしげに舌打ちしながら立ち上がる。

 

(力負け……いいや、違う。確かに鱗赫は他の赫子と比べて脆いけど、ただ赫子をぶつけ合っただけで崩壊するのはおかしい。たぶん、僕の赫子の強度が以前よりも落ちてる。加えて……)

 

 ちらりと、カネキは自身の体を一瞥する。まず外側だが、致命傷と思われるほどの大怪我は負っていないものの、彼の全身は打撲や裂傷で血まみれだ。内側に至っては、感触(痛覚)から判断して両脚の骨には(ひび)、肋骨は何本か逝っている。

 これらの傷を負ってからすでに三分が経過しているが、未だに折れた骨どころか頬の切り傷すら()()()()()()()

 

 つまるところ、今のカネキの肉体はおよそ喰種とは程遠い、ただの人間とほとんど変わらないくらいに弱体化していた。

 

「…………ああ。そう言うことか」

 

 クロのなにか納得したような呟きに、カネキは視線を僅かに上げる。

 

「お前、一体いつからまともに()()してないんだ?」

 

「………………」

 

「どうして分かった? って顔してるな。簡単だよ。今のお前とまったく同じ状態の喰種と会ったことがあるからさ」

 

 先程まで淡々とした様子だったクロの表情に変化が生まれる。

 

「こういう仕事をしていると、同族と遭遇するのも珍しくなくてな。でも、いざ戦闘になっても向こうの赫子は一回叩きつけただけで霧散。中には赫子すら出せないヤツも居たな」

 

 片側の頬を吊り上げ、口元に笑みを作る。

 

「そいつらがガストレアを長い間食べてないと知って、不思議で堪まらなかったよ。だって私たち喰種はガストレア(化け物)を食らう化け物だ。なのに、どうしてそうしないのかって。標的(喰種)の一人にそう尋ねたら、なんて返ってきたと思う?」

 

 それは冷笑だった。

 

「"人間として生きたいから"だとさ。嗤うしかないだろう。化け物が人間らしくって時点でそもそも無理な話なのに、しかもそんな喰種を殺すように依頼したのは、そいつの存在を疎ましく思った周囲の人間(ヒト)だったんだから。お前がガストレアを食わない理由も、どうせあの半端者どもと一緒なんだろう、金木研」

 

 口の中に溜まった血を吐き出し、カネキは視線を鋭くしながら返答する。

 

「……生憎だけど、僕が奴らを食ベないのはウイルスの過剰摂取でガストレア化しないためだ」

 

 この世界において、多くの人間にとって喰種とは数ある都市伝説の一つに過ぎない。だが、自国に喰種を『所有』している一部の者たちにとっては、喰種とは『呪われた子供たち』以上に強力な兵器であり、同時に稀少な研究対象でもあった。

 そして彼らは、各国でその存在を確認されたカネキを含む計8体の喰種を、機械化兵士たちと同様に戦場に投入。喰種を認知していた数ヶ国は独自のネットワークを形成し、喰種に関する互いの研究データを共有した。

 

 そのデータの中には、ガストレアとの戦闘中にウイルスを大量に取り込み、ガストレア化した喰種の情報も記録されていた。

 

 ガストレアへの憎悪に燃えていた当時の室戸菫は必要な犠牲と割り切っていたが、戦争が終結したことで正気に戻った彼女はカネキをガストレアにしない為に、彼が帰国してからはウイルスの一切の摂取を禁じた。

 頭を下げ、涙ながらに何度も謝罪する菫の姿を、今も鮮明に覚えている。

 

「まさかとは思うが、お前が言ってるのはドイツで暴走した『梟』のことか? アレは裏の人間が喰種の情報を占有するために流した作り話(カバーストーリー)だぞ」

 

「なんで、いや、は……?」

 

 一瞬、なぜ『梟』の情報を知っているのか反射的に尋ねようとして、直後に彼女が続けた言葉に思考が停止する。

 

 『梟』。それはドイツで発見された女性の喰種の通称であり、彼女が持つ赫子が羽毛のように見えたことからその名がつけられた。

 ただでさえ少ない喰種の中でも殊更に貴重な、身に纏うような赫子を有する赫者でもあり、仮に喰種に序列のようなものがあったなら間違いなくトップに君臨していたであろう存在。

 

 しかし彼女は、ガストレアウイルスの過剰摂取によって赫包の貯蔵容量を超えた結果、全身を赫子で包まれた巨大な四足歩行の怪獣のような姿に変貌し、暴走。周囲にいた存在すべてを敵味方の区別なく殺害、あるいは捕食し、ドイツ軍に甚大な被害をもたらした。そしてその後、日本から派遣されたとある人物によって『梟』は駆逐された。

 

 これらの情報が、嘘で塗り固められた虚妄であると、目の前の女はそう言ったのか?

 

「今ごろその『梟』とやらはどこかの組織に雇われて大暴れしてるか、研究材料にされてるかのどちらかだろうな」

 

「その情報が本当だっていう証拠はっ……」

 

「無いな。だが、この情報をくれた奴は()()()()()()()()()()()()()()()という気色悪い欠点を除けば完璧な情報屋だ。現に、奴の情報のおかげでお前たちを待ち伏せできた。信憑性は高いと思うが?」

 

 至って冷静に、理路整然と語るクロの言葉にカネキは押し黙る。そもそもの話、『梟』の記録の真偽は菫に頼んで彼の身体を……より正確には赫包を()()調べればあっさりと判明するモノだった。しかし、検査にはまる一週間の期間が必要であり、それはカネキに言わせれば時間の浪費以外の何物でもなかった。

 

 たかが一週間くらいと思うかもしれないが、少しでも早く蓮太郎に強くなってもらいたいカネキにとっては惜しすぎる時間だった。

 『蛭子影胤テロ事件』、そして現在進行中の『聖天子狙撃事件』に続く三つ目のイベントである『第三次関東会戦』。おそらくそれ以降も、蓮太郎には様々な脅威が降りかかるだろう。もし今の彼がその脅威と対面したとして、果たして大切な人たち全員を守りきれるのか?

 否、不可能だ。今の蓮太郎では確実に誰かを失う。そしてその都度、彼は己の無力を呪い、苦しみ、踠き、やがて磨耗する。カネキは蓮太郎に、そんな辛い思いをさせたくなかった。

 

 だからこそ彼は、今日(こんにち)に至るまで赫包の検査を後回しにし、ウイルスの摂取を一切してこなかったのだが、現状はそれが裏目に出ていた。

 

「さて、ここまでお前の質問に律儀に答えてやったんだ。今度は私の質問に答えてもらうぞ。殺す前に、これだけはどうしても確認しておきたいんだ」

 

「………何ですか?」

 

 ちらりと、左側の足元に広がる夜景(奈落)を一瞥し、冷や汗を流しながらいつ戦闘が再開しても動けるようにさりげなく身構える。当然、重心が移動したことで骨に罅の入った両脚に負荷が掛かり激痛が走る。ソレを、クロに気どられぬよう表情を殺しながら腹部の切り傷に指を強引にねじ込み、より鮮度の高い痛みで上書きする(誤魔化す)

 

「お前は本当に、あの黒い死神なのか?」

 

「なに………?」

 

 しかし、クロが投げかけたその疑問に、カネキは訝しげに眉をひそめた。なぜそんな情報を、このタイミングでわざわざ確認するのか、と。

 

「一応依頼人からはお前が黒い死神って情報は伝えられていたんだが、やっぱり不安でな。宝くじで10億円が当たっても現物を受けとるまで信じられないだろう? それと同じでさ、ぬか喜びとかしたくないんだ」

 

「……そんなことを知ってどう───」

 

 瞬間、眼前に迫る赫子。一つを首を逸らすことで避け、もう片方をユキムラで流せば、いつの間にか肉薄していたクロが全体重を乗せた頭突きを食らわす。

 

「づぁッ……!」

 

 視界が白く染まり、衝撃で一歩退がろうとするカネキの右足を踏み抜き、固定。胸ぐらを掴み、自身に引き寄せながら鳩尾に拳をめり込ませる。

 内臓が口から飛び出そうな感覚と共に、血と肺の中の空気を無理やり吐かされる。そして、前のめりに倒れそうになるカネキを、胸ぐらを掴んでいる手で引き寄せながら自身の体を反転させ、自分と位置を入れ替えるように背後の床に叩きつける。

 

「ごっ、か、はァッ……!!」

 

「無駄口を叩く必要はないんだよ。お前が口にしていい台詞は『はい』か『いいえ』、二つに一つだ。さっさと答えろ」

 

 ここまでクロは何度か口で挑発をしてきたが、それとは逆に攻撃の手は徹底的に感情を排他したように機械的で、理性的だった。

 だが、今しがた彼女がカネキに浴びせた攻撃は、明らかに感情的なモノだった。その変貌ぶりに、カネキは先の質問がクロにとってどれほど重要なものなのかを理解する。

 

「………ああ。黒い死神の正体は、僕だ」

 

「───────」

 

 嫌な沈黙だと、カネキは思った。まるで嵐の前の静けさ、あるいは噴火する直前の火山のような……。

 

「ふ───ふふっ、ひはは……」

 

 ぞわり、と全身の肌が粟立つのを感じた。

 

「あははははははははははははははッッ!!!」

 

 大きく肩を揺らし、振り続ける雨のことなど気にもとめず、夜空を見上げながらクロは哄笑する。

 

「あぁ、そうか……そうかッ……!」

 

 狂気に歪んだ笑みを浮かべながら、クロはその双眸に、憎悪と怒りをごちゃ混ぜにしたようなどす黒い感情を宿らせ、カネキを睥睨する。

 

「会えて嬉しいよ、黒い死神。じゃあ挨拶も済んだことだし死のうか。言っとくけど楽に死ねると思うなよ。全身の骨を一本残らずへし折って、末端の部位から肉すり潰して、最後にその頭蓋を噛み砕いてのうみそぐぢゃぐぢゃにしてぶちごろじえやるあらァッ!!」

 

 パキパキ、と薄氷が砕ける音が響く。それに合わせて、クロの身体に4本の腕が……いや、腕の形に変化した赫子が生え、顔には上半分を覆うような多眼の面が生成される。

 

「ギィィ……!」

 

「赫者……いや、全身を覆ってるわけじゃないから半赫者ってところか。まあ……」

 

 本能が警鐘を鳴らし、それに従って横に飛べば、先程まで自分が立っていた場所が轟音を上げて陥没する。

 爆心地には、「ニィ……」と歪な笑みを向けるクロの姿があった。

 

 ツゥー……、と攻撃を掠めた頬から血が流れる。

 

「どっちにしろ、今の僕(人間)には関係ない(致命の一撃)か」

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 赫者とは、言うなれば喰種の最終形態だ。夥しい量のガストレアウイルスを体内に取り込むことで、赫子が全身を包むように発達し、これによって攻撃力や耐久性、俊敏性などのあらゆる戦闘能力が爆発的に上昇する。

 それに対し半赫者は、全身ではなく体の一部までしか覆えない不完全な状態である。

 

 とはいえ、威力もスピードも通常時とは比べ物にならないという点は赫者と同じであり、どちらも脅威であることに変わりはない。むしろ半赫者は赫者より精神が不安定になりやすい面もあるため、周囲への被害を考えれば半赫者の方が危険度は高い。

 

「ガァぁねぇェギぃィィッッ!!!」

 

「っ……!」

 

「おまえが、オマエお前おマエおあえがッ!!」

 

 敵から殺意を向けられるのは慣れている。そもそも戦場で一々殺意に脚を震わせていては生き残れない。

 

 けれどこれは。

 

『返してよぉ……私の、お父さんとお母さんを返してよぉっ!』

 

『なんで、もっと早く助けに来てくれなかったんだ……?』

 

『感染、してる? え、いや待ってくれ、俺は人間だ! ガストレアじゃないっ!!』

 

 まるで。

 

『あんたの、せいだ』

 

『化け物!』

 

『人殺しが』

 

『お前が……ッ、お前が死ねばよかったんだ!!!』

 

『死ね死ね死ねっ、みんな死んじまえ!』

 

『ゆる、さない……! 絶対に、お前を見つけ出して、この手で殺してやるッ!』

 

 ずっと昔から、戦場で嫌というほど聞いてきた、被害者たちが理不尽に向ける悲鳴(殺意)に似ていて───

 

 バキッ、とカネキは慣れ親しんだ動作で指を鳴らす。意識を切り替え、溢れ出る怨嗟の声に蓋をする。

 

(今は、目の前の相手に集中しろ。余計なことは考えるな)

 

 脇道に逸れた思考を一旦リセットしつつ、半赫者となったクロから一定の距離を保ちながら、カネキは屋上を時計回りに疾走する。背後に回り込み、一気に距離を詰めようと足に力を入れようとした瞬間。

 

 クロの姿が視界から消えた。

 

「!?」

 

 死角から迫る攻撃を空気の揺れと雨粒の音で察知し、上半身を前に倒しながら右側にユキムラを薙ぐ。

 それと同時に頭上を二本の(赫子)が擦過し、硬質な金属音が屋上に響き渡る。

 

 カネキがカウンターとして放った一撃は、クロがユキムラの軌道上に滑り込ませていた3本の右腕に阻まれていた。

 

「ああああああああああッッ!!!」

 

「ふぅッ……!」

 

 右腕に浅く食い込むユキムラを払いのけ、咆哮を上げながら嵐のような猛攻を繰り出すクロに対し、カネキは時に躱し、時に流すことでそれらすべてを最小限の動きで、辛うじて回避していく。

 

 そう、()()()()()()()。半赫者になる前のクロには手も足も出ずに叩きのめされたはずなのに。

 理由は単純。それまでのクロは相手の動きを観察し、先読みやフェイントを織り交ぜた戦い方をしていたが、今の彼女は狂気に身を委ね、攻撃の流れ(文章の表現)が単調になっている。まるで、感情に任せておもちゃを壊す子どものように。

 だから避けられる。

 

 そして、一向に攻撃が当たらなければ必然、苛立ちは増して。

 

(大振りになる───!)

 

「ぜめぇぇえぇえええ!!!」

 

 クロは右腕を赫子で覆い、巨大なハンマーのような形状に変化させ、思いきり振りかぶる。

 それは、ここにきて彼女が見せた初めての隙だった。

 

(ここだッ……!)

 

 起死回生の一手へとつなげるため、カネキはクロの懐へ一気に踏み込む。同時に、ユキムラの刀身が閃く。

 狙うは面に存在する多眼すべて───ではなく、その左半分の多眼のみ。理由としては、視界を完全に絶ってしまえば混乱し、手当たり次第に暴れまわる可能性があり、行動の予測が難しくなるからだ。

 故に、敢えて半分だけ視界を残す。

 

「シッ───!」

 

 すれ違いざまに7つの眼を正確に斬り裂き、ついでに右腕も3本まとめて切り落とす。

 

「かぁ……!?」

 

 右足を軸に体を反転させ、振り向きながらユキムラを残った左腕に走らせ───

 

「ばかやろうう」

 

 直後、まるで砲弾でも発射されたような音と共に、ハンマー状に変化した赫子がカネキの胴体に突き刺さった。

 先程まで間違いなく背中を向けていたクロはしかし、確かにこちらに顔を向けていた。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 はっきりとした手応えを感じたクロは歓喜に口元を歪めた。彼女の体内から嫌な音が響くが、カケラも気にしていないようだった。

 

「ハァ……はぁ……やたったぞ。殺した、やっと……!」

 

「───誰を殺したって?」

 

「ッ!?」

 

 その声に、クロは思わず動揺した。不完全とはいえ仮にも赫者である自分の攻撃をまともに食らって、再生力もおおよそヒト並みにまで落ちているはずなのに、なぜ、と。

 

「なんで、生きて……」

 

 そこまで口にして、クロはようやく気づいた。自分が放った鈍器(赫子)とカネキの胴体との間に()()()()()()()が割り込んでいることに。

 

(コイツ、4本を一つに纏めることで赫子の脆さを補強したのか……!?)

 

 次の瞬間、カネキの赫子がクロの左腕に巻きついた。

 

「……あまり舐めるなよ、後輩」

 

「しまっ───」

 

 カネキの意図を理解した時にはすでに手遅れだった。腕に絡みついた赫子に数メートルの高さまで持ち上げられ、そのまま背負い投げされるように屋上に叩きつけられる。

 

「か、ふっ……!」

 

 ろくに受け身をとれなかったせいで、落下した際の衝撃が容赦なく内臓に浸透する。

 

「ヌゥ、ガアッ!!!」

 

 カネキが駆け出すと同時に、クロもふらつきながらも立ち上がり、何とか赫子で迎え討つ。だが、所詮は苦し紛れに放った直線上の攻撃。加えて今のクロが操る赫子はたった二本。躱すのは容易だった。

 

 屋上の床を蹴りつけ、すでに前傾姿勢の体をより前へ倒して加速する。赫子が虚しく宙を切り、クロの目が驚愕に見開かれる。

 

 一気に懐に踏み込んだカネキは、がら空きになったクロの胴体に目掛けてユキムラを振り抜いた。

 

(()った……!)

 

 肉が引き裂かれる音が響き、そこから鮮血が噴き出す。そして、

 

「───は?」

 

 カネキの右腕が、くるくると宙を舞った。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「ぐ、があああぁぁぁぁああ!!?」

 

 右腕が消失したことを知覚すると同時に、凄まじい痛み()が脳を焼いた。

 

(熱い熱い熱いっ、熱っ熱い熱い……!!!)

 

 傷口を左手で押さえ、歯を食いしばる。視界の端で、ユキムラと一緒に僕の右腕が地上に落下していくのが見えた。

 

 今の攻撃はクロが放ったモノじゃない。じゃあ一体誰が? 決まってる。

 

「ティナっ、スプラウトぉッ……!!」

 

 油断していた。クロとの戦闘に注意を向けすぎて、僕らが乗っていた車を狙撃した彼女の存在を、完全に意識の外に追いやってしまっていた。

 でもどうして? 彼女の暗殺リストに僕の名前はなかったはずなのに。

 

「……まさかあんな口約束(協力の申し出)を律儀に守るとはな。私としては、互いの標的に手を出さないための牽制のつもりだったんだが」

 

 背後から聞こえた呟きに振り返れば、眼前に迫る回し蹴り。とっさに左腕で防ぐも、クロの脚はそのまま腕にめり込み、僕を蹴り飛ばした。

 

 目が回るほど何度も地面を転がり、ちょうどうつ伏せの姿勢になった時にようやく停止する。頭がぐるぐるして、まるで地面が揺れてるみたいだ。

 こりっ、と口の中に固い感触がして、不思議に思って血と一緒に吐き出す。

 

「………歯……?」

 

 それは僕の奥歯だった。どうやらさっき蹴られたときに折れてしまったらしい。反射的にそれを拾おうとして、気づいた。

 

(……あぁ。感覚がないと思ったら、こっちも折れてたのか)

 

 あらぬ方向へ折れ曲がる左腕を見て、どこか他人事のようにそう思った。おそらく失血の影響だろう。ふわふわとして、意識が朦朧としてきた。

 

 バシャ、と耳元で水がはねる音。視線を上に向ければ、クロが僕を見下ろしていた。そして彼女は赫子で僕の首を掴むと、そのまま宙吊りにした。

 何をするんだろう、と疑問に思うのも束の間。答えはすぐにわかった。

 

 彼女は自分の左腕を、僕の()()()()()()()()()()

 

「が、がああああああああばばばばばばば!!?」

 

 体の内側を、内臓を、文字通りかき混ぜられる。口から溢れ出す血と絶叫とは裏腹に、痛みは不思議と感じなかった。

 

 ……いいや。たぶん逆だ。痛みを『感じない』んじゃなくて、痛みが限界を超えて脳が処理しきれなくて『感じられない』んだ。うん、それら頭が働かない感覚も、異な眠気も納でき

 

「まだ生きてるのか。腐っても喰種だな」

 

「……ぁ…………が……っ……」

 

「……そう言えばここは20階建てのビルだったな。いくら喰種でも、この高さから落ちれば死ぬだろ」

 

 ずるずると、どこかへと体を引きずられていく。なにを言っているのか、ほとんど分からなかったけど、これだけは理解できた。たぶん、僕は今から死ぬ。

 

 

 

 ………………………死ぬ?

 

 

 

 誰が?

 

 ───僕が。

 

 どこで?

 

 ───ここで。

 

 いつ?

 

 ───今。

 

 死ぬ?

 

 ───死ぬ。

 

 …………冗談じゃ、ない。こんなところで死ぬわけにはいかない。

 

 そんな身勝手は許されない。

 

 そんな無恥は許されない。

 

 そんな()()は許されない。

 

「い、ぁだ……まだ……死ねな、ぃ……」

 

「もう遅い」

 

 直後、僕はビルの屋上から投げ出された。重力に背中を引っ張られ、やがて頭が下を向く。

 見上げた(見下ろした)夜天は、一筋の光も見えない雨空だった。

 

「……人生終了、ご苦労さま」

 

 意識が暗闇に呑まれる直前、そんな吐き捨てるような声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 



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第17話 数える人

 これが今年最後の投稿です。なんとか間に合いました(白目)
 それでは皆さん、良いお年を。


 カウンター=反撃

 

 

 

 

 夜の病院というものは本来とても静かな場所なのだが、今はその静寂を蹴散らすように慌ただしい足音が響き、怒声が飛び交っていた。

 

 出血で全身を赤黒く染め、白目をむき、小刻みに何度も痙攣を繰り返すカネキを乗せたストレッチャーが、車輪の音と共に手術室の向こうに消えていく。

 

 薄暗い廊下には、ストレッチャーからこぼれ落ちた血痕がパンくずのように病院の入口から手術室まで続いていた。

 カチリ、カチリと。秒針が時を刻む虚しい音だけが空間に木霊する。

 

 クロによって屋上から投げ落とされたカネキは、思わず耳を塞ぎたくなるような凄惨な音を立てて蓮太郎たちのすぐ近くの地面に激突した。むせ返るほどの血臭は蓮太郎と里津の意識からシロの存在を完全に欠落させ、二人は致命的な隙を晒した。

 

 けれどシロは、血まみれのカネキを一瞥すると茫然自失とする蓮太郎たちを放置して踵を返した。

 目的を達成したと思ったのだろう。当然だ。地上二十階建ての高層ビル屋上からの自由落下、加えて血の海に沈む当人は呻き声すら上げず、微動だにしない。これで生きていると考える方が異常である。駆け寄った蓮太郎たちでさえ、カネキの生存は絶望的だと思っていた。

 

 彼の胸が呼吸に合わせて、わずかに上下していることに気づくまでは。

 

 そこから先はあっという間だった。午前中のリムジンの中でカネキに教えられた護送ルートから現在地を割り出し、そこから最も近い病院が室戸菫が根城にしている勾田大学病院であったことを思い出すと蓮太郎は即座に彼女に連絡。自分たちが到着し次第すぐに手術が可能なように手配させ、合流した保脇たちに聖天子の護衛を任せて病院に直行し、今に至るわけだが……。

 

(護衛対象を放置して壁役(護衛)の命を優先するなんて、民警として失格だな……)

 

 カネキを、大切な仲間を死なせたくないと、ただ必死だった。

 

 だがこうして、冷静に己の行動を振り返ると思わず呆れてしまう。なにせ自分たちは護衛の身でありながら、つい先ほどまで戦闘が起こっていた現場に本来であれば守るべき対象(聖天子)を置き去りにしてここにいるのだから。

 

 とはいえ、シロが撤退したあの場で蓮太郎たちに出来ることなどほとんどなく、遅れてやってきた護衛官たちが聖天子を建物の中へ誘導したことで手持ち無沙汰になっていたのも紛れもない事実。反省こそすれ、後悔はしていない。

 

 だが、保脇卓人をはじめとした聖天子付護衛官からしてみれば『任務を途中で投げ出すような輩は不要だ』と、前々から気に食わなかった蓮太郎たちを排除するための大義名分を与えられたようなものだ。しかも悔しいことにそれは正論であり、仮に保脇がそこを突いて自分たちを任務から締め出そうとしても反論できないだろう。

 

 だが意外にも、そんな職務放棄に等しい行為を実行しようとしていた蓮太郎たちに対し、保脇は何一つとして咎めなかった。むしろ彼は現場に到着した警察官の一人を説得し、移動手段としてパトカーまで確保してくれた。嫌味を言ってくるならば無視し、妨害行為をしようものなら冗談抜きで殴り倒す心算であった蓮太郎は、僅かに彼の評価を上方修正した。

 あれで顔面を蒼白にしたり、軽くパニックに陥っていなければさぞ様になっていたことだろう。

 

「……蓮太郎。カネキのやつ、大丈夫かな……」

 

 瀕死のカネキが手術室に運び込まれてから三時間。誰一人として言葉を発しなかった……否、発せなかった廊下で、最初に沈黙を破ったのは延珠だった。

 しかしその声は、その場にいる全員が判るほど不安に揺れていた。

 

 廊下に設置されているソファーに浅く腰掛け、ぼんやりと虚空を見つめていた蓮太郎はそんな彼女を安心させるように微笑み、手術室の扉を心配そうに見つめる延珠の頭にそっと手をおいた。

 

「心配すんな。先生はちょっと……いやかなり変わってるけど、昔は『神医』って呼ばれてたくらい凄い医者なんだ」

 

 先生とは無論、菫のことである。現在彼女は執刀医として、自身の『患者』であるカネキの治療に尽力している。

 

「でも……」

 

「大丈夫だって。先生が執刀した『患者』で死んだやつは一人もいない。俺が今、生きてここにいるのがその証拠だ。カネキは、絶対に助かる。だから……」

 

 蓮太郎はそこで延珠から視線を外し、向かいの壁際で膝を抱えて座り込む少女に声をかけた。

 

「そんなに自分を責めるな、里津」

 

 ビクリと、里津の肩が微かに震える。少しの間をおいて、里津は言葉を紡いだ。

 

「……覚悟は、してたつもりだった」

 

 ゆっくりと、かすれた声で。

 

「民警として戦う以上、いつ命を落としてもおかしくないって。戦場じゃあ常に冷静さを保てって。アイツに口うるさく、何度も言われ続けてきた」

 

 自分の口から発せられた音が震えないように、必死に、溢れそうになる感情を押し殺しながら。

 

「でも……ぼろぼろになったカネキを見たら、頭の中がぐちゃぐちゃになって……アタシ、相棒を助けることもっ、約束を守ることもできなかった……ッ!」

 

 膝に顔を埋めたまま呟く里津の頬に、再び涙が伝う。

 

 誰が見ても憔悴しきっているのは明らかな里津だが、これでもだいぶ落ち着いた方である。

 数時間前、瀕死のカネキを視界に収めた里津はほとんど錯乱に近い状態に陥っていた。パトカーで移動している間もずっと、カネキの残っている左手を握りながら泣き叫ぶように彼の名を呼び続けていた。

 もしもシロに自分たちを殺害する意志があったなら、彼女は真っ先に殺されていただろう。

 

 しかしそれは仕方のないことだろうと、蓮太郎は思った。確かに自分は、屋上から落下したカネキを見て数秒ほど思考が止まったがすぐに意識を切り替えることができた。だが仮に、あの時とまったく同じ状況で、瀕死の重傷を負っていたのが延珠だったら、果たして自分は冷静でいられただろうか?

 

 そして、それとほぼ同じことを延珠も考えていた。もし、死にかけていたのがカネキではなく蓮太郎だったら、と。

 

 里津の痛ましい姿は、民警の世界ではごくありふれた、単なる悲劇の象徴ではない。いつか起こり得るかもしれない、未来の自分たちの可能性の姿でもあると、蓮太郎と延珠は直感した。

 

 すると、いつの間にか座り込む里津の前に立っていた夏世が、静かに口を開いた。

 

「里津さん、己の不甲斐なさ、至らなさを嘆く気持ちはよく分かります。しかし嘆いているだけでは、現状は何一つ変わりません」

 

「夏世……」

 

 淡々と、出来の悪い生徒に問題点を一つひとつ指摘する教師のような言葉に里津は顔を上げ、わずかに目を見開いた。

 逆光と照明が暗いせいで目を凝らさなければ見えないが、夏世の頬には確かに涙の跡があった。そして何より、彼女の眼は燃えるように赤かった。

 

 呪われた子供たちや喰種は意図的に力を解放したときか、怒りや憎しみといった激しい感情に呼応して瞳が赤く染まる。

 

 カネキたちが死闘を繰り広げている間、夏世は入院()()()()()将監と談笑していた。何も知らず。その影で想い人が死にかけていたことに気づきもせずに。

 

 悔しくないはずが、なかった。

 

「立ってください、里津さん。敵の狙いがカネキさんなら、彼女たちと再び衝突することは避けられません。今あなたがやるべき事は、過去の行いを悔いて泣き言をこぼすことじゃない。立って、顔を上げて、いかにしてそのクソ野郎どもの横っ面をぶん殴るかだけ考えればいいんです。それがあなたの取り柄でしょう?」

 

 うじうじと悩んでいるのは似合いませんよ、と夏世は手を差し伸べる。里津はその手をしばらく茫然と見つめ、やがて袖で涙と鼻水をぬぐうと夏世の手を握って立ち上がった。

 

「あー……、その、ありがと……夏世」

 

「友達ですから。このくらい当然です」

 

 里津は気恥ずかしさから目をそらし、夏世は差しのべた手を振り払われなかったことに安堵の笑みをこぼした。

 

「にしても、まさか襲撃者の正体が喰種とはなぁ」

 

 最近、夏世の言葉遣いが少し自分に似てきつつある事実に親として嬉しいような悲しいような、そんな複雑な感慨を抱きながら将監は話題を変える意味合いを込めて、壁に寄りかかりながら呟いた。

 

「それも二人なんて……喰種って滅多にいないんじゃなかったの?」

 

 蓮太郎から連絡を受けて事務所から飛んできた木更が、顎に手をやりながら至極もっともな疑問を口にする。蛭子影胤テロ事件が解決した折に、カネキは将監や蓮太郎たちに自身が喰種であることを改めて打ち明けた。

 一応カネキが喰種という情報は国家機密扱いなのだが、本人は大して気に留めている様子はなかった。

 

 当然、それまで都市伝説と思われていた存在が実在すると知った彼らは様々な質問を投げつけた。

 

 なぜ片眼だけが赫く染まるのか。なぜ呪われた子供たちの瞳の色と微妙に異なるのか。その腰から生えた触手で一体どんなプレイをしているのか。喰種は他にもいるのか。体内侵食率はどうなっているのか、等々。……誰がどの質問をしたかはご想像にお任せしよう。

 

 まあそれはともかく。

 

「いいえ木更さん。あの時カネキさんは、『ウイルスに感染した人間が喰種になる確率は、ゴルフでホールインワンを出す確率とほとんど一緒』と言っただけです」

 

「お、お主の記憶力は相変わらず凄まじいな……」

 

 これだけ聞けば、木更が口にしたように喰種とはさぞや稀少な存在だと思われるかもしれない。が、実際はそうでもない。10年前、つまりガストレアがまだ存在していなかった頃の世界人口はおよそ80億人。そこからガストレア戦争によって世界人口は約8億人にまで激減させられた。

 だが、勘違いしてはならない。奴らはただ人を殺すだけではなく、ウイルスを送り込んで仲間にしながら人類の総数を減らしていったのだ。そして、ガストレアウイルスに感染して喰種になる確率は0.016パーセント。

 

「単純計算で128万人。現在の世界人口と照らし合わせると、およそ600人に一人が喰種ということになります」

 

 にも関わらず彼らの存在が輪郭の不鮮明な都市伝説という姿でしか世間に認知されていないのは、各国の上層部が彼らの情報を握り潰し、また喰種たちも自身の正体を隠して社会に紛れているからだ。

 

 なにせ人間の大半は、こと異端や異物と言った存在を極端に忌避し、そのくせソレが自分より社会的立場が低い弱者だと知れば嬉々として迫害しようとする生き物だ。そして喰種は、そのほとんどが成人であるためそう言った人間の負の側面を十分に理解している。

 故に彼らは、年齢も精神も幼い『呪われた子供たち』とは比べ物にならないほど慎重で用心深い。はっきり言って、ふつうに生活していれば喰種が正体を見破られることなど本人が自己申告でもしない限り不可能なのだ。

 

 それこそカネキのような、『ガストレアに街や村を襲われたが()()()()()()()()()()()』を一人ひとり丁寧にリストアップして、尻尾を出すまで監視したり、拉致して尋問でもしない限りは、だが。

 

「おや、なんだい。全員来ていたのか」

 

 その声に、廊下にいた全員の視線が手術室の扉付近に集中する。声の主は言うまでもなく菫である。

 菫は蓮太郎たち一人ひとり軽く挨拶をした後、最後に将監に声をかけた。

 

「やあ将監くん。義肢の調子はどうかな?」

 

「問題ねぇよ。……悪かったな、わがまま言って」

 

「構わんさ。私も自分の腕がなまっていないことを確認できたからね」

 

 左手で自身の()()に触れる将監に、菫は気にするなと肩をすくめた。

 

「菫! カネキは!?」

 

 不安そうに、油断すれば今にも泣いてしまいそうな顔でそう尋ねる里津に、菫は優しく微笑みながら言った。

 

「私を誰だと思ってるんだい? 安心したまえ、手術は無事終了した」

 

 菫の言葉を聞き届けた瞬間、里津は糸を切られた操り人形のように崩れ落ちそうになる。それを菫が優しく受け止める。

 

「おっと」

 

「里津!?」

 

「心配する必要はない。極度の緊張状態から解放されて、安心して寝てしまっただけさ」

 

 そう言って菫は、蓮太郎と延珠が譲ってくれたソファーに里津を寝かせると、空いたスペースに腰を下ろした。

 

「それにしても連絡を貰ったときは流石の私も驚いたよ。カネキくんが重傷を負ったというだけでも信じられないのに、ついでに傷口が再生しないときた。まあ、実際は生命を維持するのに最低限必要な臓器を集中的に治癒し、骨折や裂傷といった命に支障がない損傷を後回しにしていただけだったみたいだが。おかげで想定していたよりもずっと楽な手術になったよ」

 

『え………?』

 

 菫の口からさも当然のように吐き出された言葉に、彼女以外の全員が困惑した。

 

「……悪い先生。今の言い方だと、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()()ように聞こえたんだが」

 

「うん? ()()()()()()()()()()()()? 彼は自力で致命傷を完治させられないほど弱っていたみたいだったから、その手助けをしてあげただけさ」

 

 驚愕のあまり、菫以外のその場にいた全員が言葉を失う。開いた口が塞がらないとはまさにこの事だろう。ふつうの人間を相手にするのとは(わけ)が違う。

 菫の言ったことが真実ならば、彼女は再生が起きていない箇所をフォローするように立ち回りながら、一人でに再生する肉体の部位を見極め、その再生速度を完璧に予測しながら再生を阻害しないようにソレに合わせて手術をしていたことになる。まさに神業だ。

 

(とはいえ、もし蓮太郎くんの言葉通り彼の再生能力がまったく機能していなければ。あるいはカネキくんの到着があと一分でも遅れていたら、私にもどうすることも出来なかっただろうな……)

 

 不幸中の幸い、九死に一生。カネキがどうにか命を繋ぐことができたのは単純に運が良かったというのもあるが、彼自身が無意識にとった行動によるところが大きい。

 カネキは地面に激突する直前、赫子をクッションにして衝撃を分散させていたのだ。自身と地面との間に赫子を挟み込むという、とっさの機転がなければカネキは間違いなく即死だっただろう。

 

「あれ? みんな来てたんだね、こんばんは」

 

 と、そこで。菫の助手として手術のサポートをしていた楓が、数分前の彼女と似たようなことを口にしながら手術室から出てきた。

 太陽のように明るい笑顔を浮かべながら挨拶をする彼女に対し、蓮太郎たちもそれぞれ楓に挨拶を返していく。

 

 一息おいて、蓮太郎はメンバーを代表して菫に尋ねた。

 

「先生、帰る前に一度カネキの様子を見て行きたいんだけど───」

 

「駄目だ」

 

 一言。けれどその中に含まれる明確なまでの拒絶の意思に、蓮太郎たちは面食らう。

 

「駄目って……どうして?」

 

「今のカネキくんは非常に危険な状態にあるからだ。少なくとも()()()()()()()()()()()()()()し、麻酔で無理やり眠らせているから意識もない」

 

「な、何を言ってるんだ、先生?」

 

 見えない障壁に阻まれているかのように、菫の言葉が何一つとして脳に届かない。危険? 隔離? 手術は無事に終了したのではなかったのか?

 

「室戸医師、説明を要求します」

 

「もちろんだとも。君たちにはその権利がある。里津ちゃんには後日私から伝えよう」

 

 夏世の言葉に菫は組んでいた脚を一度組み替えると、真剣な表情で話し始めた。

 

「喰種は瀕死……正確に言えば極度の飢餓状態に陥ると、肉体の損傷や不調を治すために、或いは空腹を満たすエネルギーとするために本能がガストレアウイルスを求めて暴走する。具体的には、ウイルスを保菌しているガストレアや呪われた子供たち、人間が近くにいれば見境なく襲うようになる」

 

「なっ……!?」

 

 まるで鈍器で殴れたような衝撃が、蓮太郎の頭を駆け抜けた。それは他の面々も同じようで、全員が目を見開いて絶句していた。

 

「い、いいや、待ってくれ先生! 喰種がガストレアウイルスを摂取するためにウイルスを保有しているガストレアや呪われた子供たちを襲うのは……理屈としては理解できる。けど、なんで人間を襲う? だって人間の体内にはガストレアウイルスなんて存在しないはずだろ?」

 

 延珠たちの手前ということもあって、蓮太郎は慎重に言葉を選びながら率直な疑問を口にした。

 

「良い質問よ、里見くん。これには『呪われた子供たち』が生まれてくるプロセスが密接に関わってくるの」

 

「妾たちが?」

 

「生まれてくるプロセス?」

 

 応答したのは楓だった。彼女はコテンと首をかしげる延珠と夏世の背後に回って、二人をむぎゅっと抱きしめながら言葉を続ける。

 

「そう。ガストレアの血液に含まれるウイルスは、気化すると空気を通して人間の体内に入り込むの。それでウイルスに感染するってことはないんだけど、空気中に漂うウイルスが妊婦の口から侵入してその毒性が胎児に蓄積されて生まれてくるのが『呪われた子供たち』。ここまではいい?」

 

「はい」

 

「う、うむ……」

 

 難しい顔を作って唸る延珠に楓が苦笑いしていると、菫があっさりと結論を口にした。

 

「つまり人間もガストレアウイルスを体内に保有しているわけだ。だから近くにガストレアも呪われた子供たちもいない状況になると、喰種は人間にも襲いかかる。人間から摂取できるウイルスの量など雀の涙ほどしかないが、そんなことは理性を本能に塗りつぶされた状態の彼らには関係ないからな。もっとも、生物としては人間よりもはるかに優れる喰種が瀕死になることなど滅多にないし、そんな状況が起こりかねない戦場には我々とは比べ物にならない量のウイルスを持つガストレアがわんさかいるから、人間には見向きもしないがね」

 

 菫は早口にそう言うと、徐に立ち上がり蓮太郎たちに背を向ける。

 

「説明は以上だ。彼に会いたい気持ちはわかるが、今日はもう帰りなさい」

 

 それだけ言うと、菫はその場を後にした。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 ピッ……ピッ……と。一定の間隔をあけて繰り返される電子音に、カネキの意識が浮上する。

 

(……こ、こは………?)

 

 自分が置かれている状況を確認しようと目を開けようとするが、たったそれだけの動作があまりにも億劫だった。

 ほとんど痙攣に近い動きを何度か繰り返し、少しずつ、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。

 

 焦点が定まらず、不安定に歪んでいた景色が徐々に正常な姿を取り戻していく。己が見ているモノが、病院の天井であると脳が理解するのに10秒も掛かった。

 

「目が覚めたか」

 

 視線をわずかに左に動かせば、白衣のポケットに両手を突っ込んでこちらを見下ろす菫の姿があった。

 

「何があったか覚えているか?」

 

「…………はい」

 

 大阪エリアとの非公式会談の帰り道に狙撃されたカネキたちは、突如現れた二人の喰種と交戦した。そして死闘の末、カネキは敗北した。

 

「それは結構。ではなにか訊きたいことはあるかな?」

 

「僕は、どれくらい眠っていたんですか?」

 

「今日でちょうど一週間だ」

 

「一週間も………」

 

 菫の言葉がゆっくりと頭蓋に浸透し、脳の隅々まで行き渡った瞬間、カネキは疑問に思った。

 

 どうして自分は、()()()()()()()()()

 

「どうかしたか?」

 

「いえ、その……どうして僕は殺されずにこうして生きているのかな、と」

 

 クロとシロの目的は、本人たちが語った通りならカネキを殺害することである。そしてこの一週間、カネキは意識不明の状態にあった。殺さない理由が思い浮かばなかったのだ。

 

「ああ、簡単な話だよ。私が君の死亡診断書を偽造したからだ。蓮太郎くんたちから事情は聞いていたからね。実際、私以外の人間が君の治療に当たっていたらあの診断書が本物になっていただろうがな」

 

 手近な椅子をベッドに寄せ、それに腰を下ろしながら菫は言う。

 

「自分で言うのもアレですけど、確かあの時の僕って再生力が人並みの状態で内臓をかき混ぜられたりビルの屋上から落とされたりで、色々とかなり絶望的だっと思うんですけど……」

 

「これでも『神の如き医者(神医)』って肩書きを背負ってる身なんでね。死人以外ならどんな人間だろうと助けるよ、私は」

 

 『神医』。いつからか周囲が勝手に呼び始めた、多くの医者たちからの尊敬と賞賛が込められた自身の二つ名。勝手に呼ばれるようになったとは言ったが、菫はこの二つ名に誇りを持っているし、この名に誓って自らの戦場(手術室)では誰も死なせるつもりはない。

 

 だが、この世に絶対はない。それはいい意味でも、悪い意味でも。

 

 昨日まで笑顔で花を売っていた少女が、翌日には冷たくなってカラスに死肉を啄まれているかもしれない。

 

 生きるために奪い、盗み、殺す道しか選べなかった人殺しが改心し、数年後には誰かにとっての命の恩人になっているかもしれない。

 

 プロのパティシエに弟子入りし、夢を叶えるために頑張っていたあの子が、志半ばでその生を終えてしまうかもしれない。

 

 自らの意志で両眼を潰し、偽物の笑みを貼りつけて物乞いをしていた子どもが、ある日現れた顔も分からない何者かに拾われて、今は年相応の笑顔を浮かべているかもしれない。

 

 しかし結局のところ、それら偶然や運などと呼ばれるモノは所詮当人や周囲の人間が選んだ結果の積み重ねでしかない。地獄が日常の裏にではなく影に潜むこの世界において、悲劇を回避し、幸福を掴み取るための最善の方法は『選ぶ』ことだ。

 

「そう、ですか。あ、そういえば先生」

 

「うん?」

 

「僕を殺そうとしたクロって子が言っていたんですが、喰種はガストレアウイルスをいくら摂取してもガストレア化することはないそうですよ。それと『梟』の情報もデマらしいです」

 

「……情報の信憑性は?」

 

「かなり高いかと。……というか今思ったんですけど、僕が眠っている間に赫包を勝手に調べたりしなかったんですか? ちょうど一週間あったことですし」

 

「……君には科学者としての側面ばかり見せてきたからそう思われても仕方ないが、私は科学者である前に一人の医者なんだ。本人の了承もなく患者の体にメスを入れるような真似はできない」

 

 だから、菫は()()()

 

「……すみません、無神経な発言でした。ですがそういうことなので、とりあえずガストレアの遺体を用意して欲しいんですが」

 

「悪いがそれは許可できない。リスクが大きすぎる」

 

「ッ! この期に及んでまだそんなことを言ってるんですか……! いいですか? 今の僕じゃ、逆立ちしたって彼女たちには勝てない! 多少のリスクを負わなければ待っているのは死だけだ!! それがどうして───」

 

「だから、コレを代わりに」

 

 カネキを救うことを。

 

「……なんですか、コレ」

 

 菫が手渡してきたもの。それは真っ赤な薬液が入った一本の小型の注射器だった。

 

「ガストレアウイルスの原液だ」

 

「え、は? いや、でもさっき……」

 

「ソレは私が楓くんと共に君の膨大な過去の戦闘データから『君が』一度に摂取したガストレアウイルスの量を解析し、そこから『君が』絶対にガストレア化しない量を算出して作ったモノだ。ソレ一本だけなら、君は決してガストレア化することはない。量は少ないが、無いよりはマシだろう」

 

 カネキがその手に持っている注射器はいわば、菫の裏切りの証だ。彼女はカネキが死にたがっていることを知っているし、本人の前ではその考えを否定するような態度を滅多に見せないようにしていた。だからカネキはこれまで菫にだけは素で接していた。

 だが当の菫はカネキの自殺願望にはかけらも賛同していなかった。むしろどうしたら彼の歪な生き方(死ぬ為に生きている)を正すことができるかを考え続けていた。

 

 ところがその答えが出るよりも前に新たな問題に直面した。喰種としての驚異的な再生力を活かした無茶な戦い方をし続けた結果、彼の身体は急激な勢いで老化していたのだ。

 このままでは心を救う前に寿命が尽きてしまう。

 

 解決する手段はある。カネキにガストレアウイルスを摂取させればいいのだ。しかしその代償に、彼を決して死ねない化け物にしてしまう可能性を負うことにもなる。

 だから菫は、どうしたらウイルスをより安全にカネキに摂取させられるかを考えた。

 彼女がカネキに手渡したモノはまだ未完成で、せいぜい身体能力が並みの喰種になる程度だ。しかし完成した暁には、カネキの寿命は人並みにまで戻すことが可能となる。

 

「君は運がいい。もし楓くんの転勤があと一日でもズレていたら。あるいはそもそも楓くんがいなかったら、その注射器はそこに存在していなかっただろうからな」

 

「……素朴な疑問なんですが、一体どういう経緯でコレを作ろうと思ったんですか?」

 

 目を細め、声のトーンを一つ下げ、疑っていることを隠そうともしない態度でカネキは尋ねる。

 

「ガストレアウイルスの摂取を禁じたときから、いつかこうなると予測はしていたからな。私のわがままで君が目的を果たす前に斃れられてしまっては寝覚めが悪い。だがそれはそれ、これはこれだ。死んだら死んだで君のことは貴重な研究材料兼同居人として私の城に永遠に住まわせてあげよう。喜べ」

 

「………まあ、自分が死んだ後のことは正直興味ないので僕の遺体をどうしようと構いませんけど」

 

 それだけ言うとカネキは、本当に何の感情も浮かんでいない顔で手元の注射器に視線を戻した。その様子を見て、菫はどうにか誤魔化せたことに内心で安堵していた。カネキに自分の本当の目的を知られてしまえば、今日まで費やしてきた時間も、貴重な睡眠時間を削ってまで手伝ってくれた楓の努力も、すべてが水泡に帰してしまう。それだけは、何としても避けなくてはならなかったから。

 

「それじゃあ私は蓮太郎くんたちに連絡を入れたら地下に戻るとしよう。ああ、そうだカネキくん」

 

 部屋の扉を開け、出て行こうとしていた菫は急に足を止め、カネキに顔を向けることなく言った。

 

「里津ちゃんも蓮太郎くんも……みんなが君のことを心配していたよ」

 

 それだけ言うと、菫は今度こそ病室から去っていった。

 

「………嘘つきめ」

 

 そう呟いた彼の顔が歪んでいたのは、きっと、窓から差し込む朝日が眩しかったからだけではないだろう。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 先生が地下室に戻ってからほどなくして、僕の病室にみんなが来た。わざわざお見舞いに来てくれたのは素直に嬉しかったけど、その代わり色々と大変だった。

 

 里津ちゃんと夏世ちゃんは部屋に入ってくるなり泣きながら僕が寝てるベッドに飛び込んでくるし、それを見ていた延珠ちゃんが欲求不満を爆発させて蓮太郎くんに抱きつくし、そんな彼女を引き剥がそうと木更ちゃんが奮闘し、騒ぎを聞きつけて苦情を言いに来た患者さんが将監さんを見て腰を抜かすし、偶然その場を通りかかった看護師さんが通報しようとするのを志摩吹さんが必死に説得するという事態に発展するしで……まあ、うん……大変でした。

 

 とりあえず一言。

 

「延珠ちゃん、次からは自重しようね?」

 

「妾は悪くないぞ! 里津と夏世が見せつけてくるのが悪いのだ!」

 

「「別に見せつけてたわけじゃねぇよ(ありません)!!!」」

 

 華麗なる責任転嫁を発動する延珠ちゃんに対し、責任をなすりつけられた当の二人は顔を真っ赤にして全力で否定する。

 

「あと木更ちゃんもね」

 

「え、私!?」

 

「好きな人を独り占めされた気持ちになって対抗心を燃やしちゃうのは仕方ないけど、君は延珠ちゃんよりもお姉さんなんだからもう少し余裕を持った態度をとらないと。そうじゃないといつまでも振り回されるよ」

 

「ば!? す、すすす、好きな人!? わ、わた、わわ私は別に里見くんのことなんて好きでも何でもないわよ!? だって里見くんよ? お馬鹿で甲斐性なしで、最弱の里見くんよ!?」

 

「いや、うん……だからそういうところだよ」

 

 ちらりと彼女の背後を見れば、延珠ちゃんは満面の笑みでガッツポーズをとり、蓮太郎くんは死んだような目でどこか遠くを見つめていた。

 

 ふと、延珠ちゃんと目が合う。彼女はニシシと笑った。…………最近の幼女は(したた)かですね。

 

 そっと視線を正面に向ければそこにいたのは何と普段着のタンクトップを着た将監さん。繰り返そう。普段着姿の将監さんだ。

 

「将監さん、もしかして退院したんですか?」

 

「まあな。お前が目覚めないって言うんで、代理として俺と夏世が聖天子の護衛をするかもって話になったらようやく夏世が───」

 

「将ぉ監さぁん?」

 

「…………やっぱなんでもねぇ。カネキ、お前は何も聞かなかった。いいな?」

 

「アッ、ハイ」

 

 考えるよりも先に口が勝手に動いていた。将監さんが入院していた件に夏世ちゃんがどう関わってくるのか少し気になるけど、それは今度、彼と二人きりの時にでも訊こう。………なぜか背筋がぞわっとした。やっぱり訊くのはやめよう。

 

「それにしても凄まじい回復力ね。体力的にもあと三日は目覚めないと思っていたんだけど」

 

 そう言って機械の調整をしてくれているのはこの場の一番の苦労人、志摩吹さんである。勘違いしてはならないが、彼女は現在も看護師としてお仕事中である。

 

「鱗赫持ちの喰種は回復力だけが取り柄なんですよ」

 

 軽い冗談のつもりで口走った僕の言葉に、先程まであんなに和気あいあいとしていた空気が凍りついた。……ちょっと迂闊だったか。

 

「カネキ、その……腕は大丈夫なのか?」

 

 蓮太郎くんが気まずそうに尋ね、全員の視線が僕の右腕に集中する。

 それに対し、僕は苦笑いしながら自身の右腕を見る。まるで赫子を腕の形に変化させて移植したような、そんな右腕を。

 

「うん。痛覚も触覚もあるから、日常生活にも支障はないかな。でも外を出歩くときは、夏でも手ぶくろをしなくちゃいけなくなっちゃったね」

 

 右手を開いたり閉じたりしながら、場の空気を何とか軽くしようとおどけてみるも一向に重いままだ。自分で蒔いた種とはいえ、無性に溜息を吐きたくなる。

 うーん、なにかみんなの意識をそらすような話題はないものか……。あ、そうだ。

 

「蓮太郎くん、そういえば次の非公式会談の日程は?」

 

「……今日だ。今日の、午後8時から深夜」

 

 首をめぐらして壁にかかってる時計を見て現在の時刻を確認すれば、ちょうど午前8時を回ったところだった。

 

「今からきっかり12時間後か……いけるか?」

 

「いけるわけないでしょこのバカっ!」

 

「ごるぱ!?」

 

 左手であごに触れながらそんなことを言えば里津ちゃんに頭を叩かれた。いや、殴られたと言ったほうが正しいかもしれない。それくらい痛い。

 

「じょ、冗談だよ。先生にも今日は一日安静って言われてるから。すみません将監さん、夏世ちゃん。仕事を押しつけることになって……」

 

「気にすんなよ。こちとら今まで入院生活で退屈してたんだ。しかも『あんていく』の社員としての初仕事が国家元首の護衛なんて、血が騒ぐってもんよ」

 

「将監さんの言う通りです。護衛任務は私たちに任せて、今はゆっくり休んでください。任務が終わったら、全員でオセロ喰種打倒に向けての作戦会議です」

 

「お、オセロ喰種?」

 

 なんだそのシェイクスピアの四大悲劇の一つみたいな名前は。

 

「襲ってきた喰種の服装の色と、互いを『シロ』『クロ』って呼んでたから、かな?」

 

「疑問形で言われても困るよ……」

 

「いや、俺が連中の特徴を夏世に教えたらあいつがいきなり『じゃあもういっそのことオセロでいいんじゃないですかいいですねオセロと呼びましょう』って言い出したから断言できねぇんだよ」

 

 困ったように眉を八の字にする蓮太郎くんに僕はなにも言えなかった。まあその、なんていうか……うん、いいか。呼び方なんて大して重要じゃないし。

 

 それはそうと、僕には蓮太郎くんに何か言わなければならないことがあったはずだ。なんだっけ……確かみんながお見舞いに来るまでは頭の中にあったはずなんだけど。えーっと……そうだ思い出した。

 

「蓮太郎くん、狙撃手についてなにか分かった?」

 

「いや、まだ何も」

 

 みんなの意識が夏世ちゃんたちに向いている間に終わらせてしまおう。

 

「一応言っておくけど、もしも延珠ちゃんが何らかの事情で狙撃手に単騎で挑まざるを得ない状況に陥っても、絶対に一人で行かせたら駄目だ」

 

「……理由は?」

 

「聖天子様を抹殺しようとしてる狙撃手は凄腕だ。彼女はクロとの戦闘で常に動き続けてた僕の右腕を正確に撃ち抜いたんだ」

 

「冗談だろ。あの狙撃手ほんとに人間かよ……って、彼女?」

 

 おっと。無意識にティナ・スプラウトの性別が代名詞に表れてしまった。

 

「……違和感があるなら別に彼でもいいけど?」

 

「ああいや、なんか彼女の方がしっくりくるからそのままでいい」

 

 よし。なんとか誤魔化せたな。

 

「とにかく、延珠ちゃんには口うるさく言っておいて」

 

「あ、ああ。分かった」

 

 ふぅ。これで延珠ちゃんがティナ・スプラウトに拉致されるかもしれないという懸念が消えた。残る懸念事項はあと二つ。うち一つはオセロ喰種の打倒。これは夏世ちゃんたちが任務から帰ってきたらみんなで作戦を練る予定だから保留として、もう一つは……。

 

「? カネキ、お前の携帯鳴ってるぞ」

 

 タイミングがいいな。

 

 蓮太郎くんに一言礼を言って廊下に出る。扉を閉め、部屋二つ分の距離を置いてから電話にでる。

 

「もしもし?」

 

『やあカネキくん、久しぶりだね。元気?』

 

「……教えてほしいことがあります」

 

 僕は"彼"の親しげなあいさつには取り合わず、今一番知りたいことを尋ねる。本来僕たちはそういう関係だ。

 

「単刀直入に訊きます。安久黒奈……彼女はあなたの『お客さん』ですか?」

 

『うん、そうだよ』

 

 ノータイムで返ってきた答えに「やっぱりか」と舌打ちする。

 

『舌打ちされても困るよ。ぼくは情報屋だよ? "お客さん"に情報を求められればそれを提供するのがぼくの仕事なんだ。もっとも、ぼくは人の好き嫌いが激しいから気に入った子しか"お客さん"にはなれないけど』

 

「別にあなたを責めてるわけじゃありませんし、あなたの好みにも興味ありませんよ」

 

 僕が舌打ちしたのは単純に、一番当たってほしくない予想が当たってしまったからだ。彼は望めば基本的にどんな情報でも……それこそ核の発射コードといった国家の最高機密レベルのものから、道端に落ちていたガムを踏んだ人間の数といった心底くだらないレベルのものまで、文字通り何でも提供してくれる。

 

 ただ一つ、他の『お客さん』の情報という例外を除いては。

 

 以前顔無しさんに、なぜ『お客さん』の情報は提供しないのかと尋ねたことがある。その時の返答は至ってシンプルで、曰く「フェアじゃないから」らしい。

 

「あー、それじゃあ……安久黒奈に関する情報で、あなた以外の人間でも調べれば出てくるものを教えてください」

 

『うーん、そうだねぇ…………』

 

 とはいえ、その例外にも抜け道(例外)は存在する。

 

『彼女には安久奈白って名前の妹がいる』

 

「他には?」

 

 要するに、彼の言う『お客さんの情報』とは僕で例えると『金木研は黒い死神である』というような、普通の人間ではまず知りようもない情報のことだ。

 逆にいえば、仮に僕が求めているものが『お客さんの情報』だったとしても、顔無しさんが"時間さえかければ誰でも入手できる"と判断すればあっさりと教えてくれる。クロたちが同じ『お客さん』である僕を待ち伏せできていたのもそういう理屈だ。

 

『彼女たちは戦争孤児だったんだけど、10年前のある日にその孤児院が潰れてからの消息は不明だ』

 

「……そう、ですか。あ、それじゃあもう一つだけ」

 

『なんだい?』

 

「東京エリア限定で、範囲は都心から徒歩で一時間以内にあるアパート。そこに一週間前……いえ、二週間前から住み始めた二人組の女性のリストを全部ください」

 

 オセロ喰種の打倒はみんなが帰ってきてからと言ったな……あれは嘘だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、こんな時間からどこに行くつもりなわけ───カネキ?」

 

 時刻は午後7時半過ぎ。僕の目の前には、病院の玄関前で腕を組んで仁王立ちする里津ちゃんの姿が。わけがわからないよ。

 

 あれ? 里津ちゃんが自宅からお泊りセットを取ってくるって言って病室を飛び出してからまだ五分しか経ってないんだけど? 病院から家まで往復で15分くらいかかるはずなのに何でもう足下にトランクが置いてあるの?

 

「い、いや、違うよ? 別に僕は病院から逃げ出そうとしたとかそう言うんじゃなくて、ただ夜の散歩を……」

 

「ただ散歩するだけならどうしてわざわざアタシが()()()()()()()()()()()()()()()に出てきたの?」

 

「………………」

 

 ぐうの音も出ない。すべてお見通しだったってわけか。僕は観念したように重く息を吐き出し、近くのソファーに座った。

 

「降参だよ、僕の負けだ。里津ちゃんの予想通り、僕は病院から抜け出そうとしてた」

 

「………なんで?」

 

 荷物を片手に僕の傍まで来た里津ちゃんは、足下にトランクを置いて僕の隣に座った。

 

「…………クロたちを、倒すため」

 

「違うよ……アタシが訊いてるのは、なんで一人で行こうとしたのかってこと。今朝アンタの病室で話したじゃん、この任務が終わったらみんなで倒そうって。なのに、なんでまた、そうやって……!」

 

「だって、彼女たちの目的は僕一人だけだから。僕なんかのためにみんなに迷惑はかけられない」

 

 直後、視界がブレる。先程まで自分の膝や床だけを映していた僕の目が、鮮やかな翡翠色に染め上げられた。

 その涙で濡れた翡翠色の瞳と首筋の痛みから、胸ぐらを掴まれて無理やり顔を里津ちゃんに向けられたのだと、僕は遅れて理解した。

 

「ふざけんなっ!!」

 

 周囲の視線が自分たちに集まっているのが分かる。

 

「そうやっていつも一人で全部抱え込んで、ボロボロになってッ、なんの相談もされないアタシたちの気持ちを一度でも考えたことあんのかっ!!?」

 

 ぐずぐずと鼻を鳴らし、嗚咽を漏らしながら、それでも彼女は力強く僕を睨みつけた。

 

「頼ってよ……お願いだから、もっとアタシたちに迷惑かけてよぉ……」

 

「………………」

 

 泣かせてしまった。その事実に、どうしてかひどく胸が痛くて、苦しくなった。

 無意識に、彼女の背中に回そうとしていた自分の手に気づき、それを静かに下ろす。

 

「…………ごめん」

 

 すがりつくように泣く里津ちゃんを抱きしめることもせず、彼女が泣き止むまで、僕にはただ謝罪の言葉を繰り返すことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい、鼻かんで」

 

「……ぐすっ………うん……」

 

 涙でびしょびしょになった里津ちゃんの顔をトランクの中に入っていたティッシュで拭いていく。

 

「大丈夫?」

 

「……うん、大丈夫───じゃない! 危うく有耶無耶にされるところだった!」

 

「うわぁ!?」

 

 突然大声を出す里津ちゃんに思わず仰け反る。先ほどからずっと生暖かい視線に晒されているが、心なしか視線の量が増えている気がする。え、気のせい? そう……。

 

「アタシの全力の説得を受けても、まだ一人でアイツらのところに向かうつもり?」

 

「あ、さっきの説得だったんだ……」

 

 あれは説得というより今まで蓄積されてきた僕に対する不平不満が噴出しただけだと思うんだけど。……いや、それはそれで問題なんだけど。

 

「えーっと……確認なんだけど、里津ちゃんはシロって子と戦ったんだよね?」

 

「それが?」

 

「勝算はあるの?」

 

 僕が真剣な声で尋ねると彼女は目を閉じ、眉間にしわを寄せながら唸った。

 

「…………………………場所による」

 

 長い沈黙の末に絞り出した答えが答えだけに、僕は眉間を指で揉みながら嘆息した。

 

「それじゃあ前回と同じ場所で戦った時の勝率は?」

 

「かなり低い。でも()()()を使えば五分五分以上にまで持ち込める。それに……」

 

「それに?」

 

「あのシロってヤツは標的以外は殺さない主義だって言ってた。だからそこを徹底的に攻める」

 

「……うっかりで殺されるかもしれないよ?」

 

「向こうが主義を曲げる前に決着をつける」

 

 ぴしゃりと言い切った里津ちゃんに、僕はとうとう折れた。

 

「分かった。はあ……勝てないと判断したら即撤退だからね?」

 

「それはこっちの台詞」

 

「まったく……」

 

 実に嬉しそうな笑みを浮かべて生意気なことを口にする相棒に苦笑いする。

 

「さて、と。それじゃあ一回家に帰らないと」

 

「え、服や武器ならここにあるよ?」

 

 ソファーから腰を上げて玄関に足向ける僕に、里津ちゃんは訝しげにトランクを指差しながら言う。それに対し、僕は何でもないことのように告げる。

 

「生憎だけど、僕が今もっとも必要としているモノはそこにはないんだ」

 

 里津ちゃんは僕の言葉にポカンとして、考えるように顎に手を当てることしばらく。

 

「あ! もしかしてアレ?」

 

「うん、たぶん正解だ」

 

「でもなんで今さら? もう二年ぐらい使ってないでしょ?」

 

 二年……そうか。もうそんなに経つのか……。

 

「今回は相手が相手だからね。色々と派手にやるから、一般人に顔を見られるとマズイんだよ」

 

「ああ、なるほど」

 

 納得した様子の里津ちゃんを横目にトランクを持ち上げる。彼女が自分の隣に並ぶのを確認して、一緒に玄関をくぐる。

 

 懐から取り出した注射器が月光を反射してきらりと光る。僕はそれを躊躇なく自身の首に突き刺した。ウイルスを注射した箇所から血が沸騰しそうなほどの熱が全身に駆け巡っていく。四肢に活力が戻る。空になった注射器に映る僕の左眼は、血のように赫かった。

 

 さあ───反撃の時間だ。

 

 

 

 

 



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第18話 夜の海

 night(夜)+mare(海)=悪夢

 

 

 

 

 夢を見ている。

 今よりも、ずっと小さい頃の(記憶)を。

 

 芝が青々と生い茂る家の庭で、無邪気に笑いながら追いかけっこをしている二人の幼い女の子。短い手足を一生懸命に動かして庭を駆けまわっている白髪の少女は妹のナシロ。そしてそんな妹の背を追いかけている黒髪の少女は、他ならぬ(クロナ)だ。

 

 やっと追いついた小さい私がシロに抱きつき、勢いあまって二人で草の上に倒れこむ。大の字に寝転がったまま互いに顔を見合わせると、それがなぜだか可笑しくて、揃って噴き出した。

 

 そこへ、どこか怪我をしていないだろうかと心配そうな表情を浮かべる男の人と、ニコニコと柔らかな笑みを携えた女の人が現れた。私たちのパパとママだ。

 

 二人を視界に収めると、私とシロはパァっと顔を輝かせて両親の胸に飛び込んだ。

 

 四人の笑い声が、風に運ばれて周囲に木霊する。

 きっといつまでも、こんな幸福に満ちた日々が続いていくんだと、幼い私は無条件に信じていた。

 

 だがそんな幻想は、ガストレアが世界を蹂躙したあの日、呆気なく打ち砕かれた。

 

 前線で戦っていた自衛隊が押され始め、私たちが住んでいた地域もすぐに戦場になると予想され、内地への避難勧告が発令された。そして、私たちが防災グッズを詰め込んだバッグを手に、近所の人たちや護衛のために派遣された自衛隊と共に内地へ向かっていた道中。

 

 

 

 私たちはガストレアの襲撃を受けた。

 

 

 

 何の前触れも前兆もなく現れた化け物どもの存在と、平穏な日常の中では接することなどまずない『死』を前に人々はパニックに陥った。

 

 恐怖は悲鳴や怒声となって伝播し、結果として起こるのは災害をテーマにした映画なんかでよく見られる群集事故。体重の軽い子どもは突き飛ばされ、足の遅い老人は背中を押された拍子に転んでしまい、その上を何十人という避難者が容赦なく踏みつけていった。

 

 幸いにも私たちは集団から少し距離が開いていたおかげで被害に遭うことはなかったが、運が良かったのはそこまでだった。

 

 まず初めにパパが死んだ。

 

 ウイルスに感染してガストレア化した元人間(避難者)たちから私たちを逃がすための囮になって、奴らに殺された。

 シロと一緒にママに抱えられた私が最後に見たのは、巨大なカマキリみたいなガストレアにお腹を貫かれたパパの姿だった。

 

 次にママが死んだ。

 

 子ども二人を抱えた状態ではガストレアから逃げ切れないと判断したママは、私と妹を近くの民家のクローゼットに隠した直後に、大量の昆虫型ガストレアたちに食い殺された。

 私たちに出来たことは、互いに恐怖で震える体を抱き合って、扉越しに聞こえる咀嚼音とママの断末魔を黙殺し、溢れそうになる嗚咽と悲鳴を押し殺して息を潜めることだけだった。

 

 それから数時間後に、私たちはガストレアを殲滅しに来ていた自衛隊に保護され、そのまま内地まで護送された。不思議なことに、クローゼットの前で襲われたはずのママの遺体は……どこにも見当たらなかった。

 

 自衛隊の人は決して私たちと目を合わせようとはしなかった。しかし、部屋の床や壁だけでなく、天井すらも真っ赤に染めあげた出血量から生きてはいないということだけは理解した。

 

 内地に到着すると、私たちと同じように内地へ避難してきた人たちが列を作っていた。名前の確認をされ、私たちは一人用の仮設テントのみを渡された。おそらく、私が背負っていたバッグの中に飲料水や携帯食料が入っていることを考慮してのコトだったんだろう。

 

 それから仮説テントで幾度もの夜を越えて、水と食料が尽きかけたある日。私たちは、自分たちと同じように親を失くした大勢の子どもたちと一緒に児童養護施設に連れてこられた。

 

 当時の私は周りの子どもたちを見て……ほんの少しだけ、安堵していた。

 

 ガストレアの侵略によって帰る家をなくし、大好きだった両親も奪われた。

 でも私は、他の子たちと違って独りぼっちじゃなかったから。パパとママにもう会えないと思うと悲しくて、両親がいない未来を想像すると怖くて不安で涙が零れそうになったけど、私の隣にはシロ(家族)がいてくれたから。

 

 門の前で、微かに身体を震わせるシロの手を握りながら尋ねる。

 

「こわい?」

 

 シロはふるふると首を横に振り、私の手を握り返した。

 

「こわいけど、クロナと一緒だから」

 

 私たちはお互いの手を強く握り合い、笑って門をくぐった。

 

 そこが、これから始まる長い長い地獄の入口だったなんて、夢にも思わずに。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「あアああアああァあぁぁああアアァああああああアアアアアアアああああっっ!!!??」

 

 結論から言えば、クロたちが入れられた施設は児童養護施設などではなく、人為的に喰種を生み出すための研究施設だった。

 

 クロたちのようにガストレア戦争で家族を失った孤児という存在は、人間の喰種化という非常に成功率の低い実験のモルモットにするには都合がよかった。

 なにせ幾ら実験に失敗し、大量の被験体がガストレアになろうとも、当時の日本には代替品(戦争孤児)が掃いて捨てるほど溢れていたし、身寄りのない孤児が何人消えようと誰も気にしなかった。

 

「も、もう……やめて……お願い、しますっ……」

 

 そして、幸運(不幸)にもガストレアウイルスに適合し、喰種と化した子どもたちに待っていたのは児童養護施設の地下で昼夜問わず行われる拷問にも等しい実験の日々だった。

 

 爪を剥がされた。指を切られた。皮膚を溶かされた。歯を折られた。骨を砕かれた。舌を抜かれた。喉を潰された。眼球をくり抜かれた。手足を挽かれた。

 

 そしてそれらは妥協を知らない職人のような手際で、じっくり、丁寧に行われた。

 

 当然、実験にはバラニウム製の器具が用いられた。

 これにはガストレアと同様にウイルスによる再生を阻害する意図と、そもそも喰種は基本的にバラニウム製の武器以外では傷一つ付けられないからだ。

 

 しかし喰種たちの再生力はバラニウムの再生阻害を押し返し、時間の経過に伴って徐々に傷口を修復させていった。加えて、短期間で肉体の破壊と再生のサイクルを強引に引き起こされた結果、彼女たちの再生力は飛躍的に上昇し、裂傷や骨折の類は数秒、内臓の損傷であれば長くても数分で完治するようになった。

 

 故に、常人であればとうに死んでいるであろう傷をどれほど負おうと、彼女たちは死ぬことすら許されない。

 

 仮に、これが彼女たちから何らかの情報を入手するための拷問であったならまだ救いはあった。なにせ彼らの求めている情報さえ渡せば、それがたとえ『死』という形であっても終わりを迎えられるのだから。

 だが、彼女たちの拷問に終わりはない。これを地獄といわず何と言うのか。

 

 血で汚れた白衣を着た大人の一人が、無機質な瞳でクロを見下ろしていた。

 

 

 その手に電動ノコギリを持って。

 

 

 モーターが唸りを上げ、円形の刃が高速で回転する。

 

「ひっ!? や、やめてっ、それだけは! い、いやだっ、やめ───がっああああぁぁああああ!!!??」

 

 振り下ろされた凶器が容赦なくクロの身体を切り刻んでいく。少女の絶叫と機械の騒音が手術室に響き渡り、手術台の下には血溜まりが形成されていく。

 

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!

 

 涙が頬を伝い、口からは血がこぼれ、視界が明滅する。

 

 過ぎ去る気配のない激痛の嵐に、クロは喉の奥からせり上がってくる血に溺れながら絶叫し続けた。

 やがて喉が涸れ果てたのか、クロの声が掠れ、もはや聞こえるのは刃が回転する音と肉が裂ける音だけになった時だった。

 

 電動ノコギリを持った男が、スイッチを切った。

 するとそれまで男の作業を見守っていた他の大人たちは、臓物(はらわた)を晒しながら痙攣するクロを覗き込んだ。

 

「……ぃ……ぎ………」

 

「………損傷した内蔵の修復、および切断された四肢の再接着を確認しました。教授」

 

「素晴らしい! わずか四日でレベルⅢ相当の再生能力を獲得するとは! 残すは赫子の発現のみだが……ふむ。確か、黒い死神は初めから赫子を扱えていたんだったな?」

 

「はい。報告によれば、黒い死神はウイルスを注入された直後に赫子を発現させ、その場で感染源ガストレアを駆逐したそうです」

 

「やれやれ。喰種の再生能力を効率よく強化する方法が確立できたのはいいが、赫子の発動条件が分からなければ話にならない。まったく、天童菊之丞め。あの男さえいなければ、今ごろ黒い死神は()()の手中にあったというのに。余計な真似をしてくれたものだ」

 

 黒い死神。

 それは実験が始まってから大人たちが度々口にするようになった、とある喰種の通り名。

 

 クロにはその黒い死神がどういった存在なのか、詳しいことは分からなかった。なぜなら彼らが黒い死神の話題を出すのは、決まってクロが実験(拷問)によって精神を疲弊させ、意識が朦朧としているときだったからだ。

 気を失わないようにするだけでも精一杯なのに、ましてや大人たちの会話をすべて聞き取る余裕などなかった。

 

 だがそれでも、断片的に耳にした大人たちの会話からいくつか分かったこともあった。黒い死神のことだけでなく、自分たちのことも。

 

 一つ。黒い死神は歯をむき出しにしたようなマスクで顔を隠し、戦闘においては自身の負傷を顧みない。

 二つ。相手が数秒前まで人間(ヒト)だったとしても、ガストレアならば躊躇なく殺す。たとえそれが、遺族の目の前であっても。

 三つ。どうやら大人たちは、その黒い死神を喰種にしたガストレアの遺体から抽出、培養したウイルスと自分たちを使って、新たな黒い死神を作ろうとしているらしい。

 

(一体、いつまで続くんだろう……)

 

 クロの意識が薄れていく。徐々に闇の中へ沈んでいく感覚に身をあずけながら、絶望に淀んだ瞳で虚空を見つめていると、偶然こちらを見下ろす大人の一人と目が合った。

 

 目が合うと思っていなかったのか、わずかに見開かれる双眸。

 

 その反応にクロは思った。もしかしたらこの人は、他の人たちとは違うのかもしれない、と。

 少なくとも、自分を見下ろす彼女の瞳は、他の大人たちのように実験動物を見るような目ではなかった。

 

 だからだろうか。

 

「……ぁ………す……け…ぇ……」

 

「──────」

 

 かすれた声で、今にも消えそうな声で。クロが彼女に、助けを求めてしまったのは。

 

「む? どうかしたかね、橘くん」

 

「………いえ、別に」

 

 橘と呼ばれた女性は、教授の問いにそう短く返すと反射的にクロから目をそらした。

 すると教授は、手術台の上に拘束されているクロを決して見ようとしない橘と、そんな彼女に縋るような目を向けるクロを順に見た。

 

「………ああ、なるほど。君は()()に同情しているんだね」

 

「………………」

 

「まぁ気持ちは分からなくもない。なにせコレらの外見は人間と大差ないからね。でもね、コレは人じゃあない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。君が気に病む必要はどこにもない。これまで実験に利用してきた数多のガストレアと同様に、ね」

 

「私は………」

 

 教授の言葉に結局彼女はそれ以上なにも言えず、そこでクロの意識は完全に闇に溶けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クロたちはその日の実験が終わると、食事の代わりにウイルスを餓死しない程度に与えられてから個別の部屋に戻される。いや、部屋というよりは独房と呼んだ方が正しいかもしれない。部屋には窓はなく、あるのは古びたベッドと異臭が漂うトイレのみ。部屋と外をつなぐ唯一の扉はバラニウム製で、子どもの膂力ではとても壊せそうにない。

 

「967番、入れ」

 

「ぁ、ぐっ……!」

 

 乱暴に背中を押され、思わず床に倒れこむ。直後、ガシャンと音を立てて背後で扉が閉まった。

 

 今すぐ泥のように眠ってしまいたかったが、クロは薄汚れた床に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。そしてふらついた足どりで扉に向かい、碌に力も入らない両手で押した。

 

 が、当然扉が開くはずもなく、かくいうクロ自身も期待などしていなかった。ただ、無意識に体が動くほど何度も繰り返して習慣になってしまっていただけ。

 

 ぐったりと扉に背をあずけ、膝を抱える。

 

「………シロも、わたしと同じコトされてるのかな」

 

 今まで無意識に考えることを拒んでいた疑問が、ふと口から漏れた。

 クロの脳裏に浮かび上がるのは、大切な妹が自身と同じように全身を切り刻まれている光景。

 

 ()()()()()()()()()()()。クロは知っている。()()()()()()使()()()()()()()()()()()喰種が、どんな末路を迎えるのかを。

 

 嫌な汗がどっと噴き出し、体が震えた。

 

「なんでっ、なんでわたしたちがこんな目に……ッ」

 

 涙がこぼれた。それは理不尽への怒りからか、または無力な自分に対する悔しさからか、はたまた決して目覚めることのない悪夢への恐怖からか。

 

 いずれにせよ、一つ言えることは。

 

「あけろ……あけろ……っ!」

 

 服の袖で乱暴に涙を拭った彼女の瞳は、まだ絶望に屈してはいなかった。未来を諦めてはいなかった。

 

 ガンッ、ガンッ、と。扉に何度も拳を振り下ろすが、その勢いはあまりにも弱々しかった。いくら喰種の高い再生力のおかげで傷が完治するとはいえ、クロは一日近くも拷問されていたのだ。肉体的、精神的な疲労は計り知れない。

 

 脳と身体が休息を取れと、そんなことをして何になると訴えてくる。

 

 それを、知ったことじゃないと心が拒絶する。お前たちの意見に従ったところで、待っているのは拷問の日々だけじゃないか。たとえこの行為に意味なんかなくても、無駄な足掻きだったとしても。()()()()()()()()()()()()

 

 扉を叩く右手の皮が破れ、血が流れる。焼きつくような痛みが手から走るが、ちょうどいいと考えを改める。おかげで眠らずに済みそうだ。

 

「わたしは、諦めないッ。絶対に、ここを出てッ。シロと……ナシロと一緒に幸せになるんだ! パパと、ママの分まで……!」

 

 そんな彼女の思いを、神が汲み取ってくれたのか。血の滲む右手を振り上げて、再び振り下ろそうとした瞬間。

 

 

 

 扉が、開いた。

 

 

 

「あ───」

 

 当然ながら、扉を叩くために振り下ろされた拳はそのまま空を切り、バランスを崩したクロは床に思いきり顔面を打ちつけた。

 

「〜〜〜〜ッッ!!??」

 

 心の準備もなく、唐突に訪れた痛みにクロは悶絶した。両手で顔を押さえ、小さく床に蹲りながら彼女は思った。

 

(待って。扉が開いたということは、それはつまり───)

 

 扉の鍵を持つ人物。すなわち大人がいるということ。そしてそれは、再びあの手術室へ連れて行かれることを意味していた。

 

 ゾワリ、と全身の毛が粟立つ。蹲っている場合じゃない。早く逃げないと、またあそこへ連れて行かれる。

 

 クロはふらつく足にムチ打って廊下へ飛び出すと、扉を開けた人物になど目もくれずに手術室とは反対方向へと体を向けようとして───

 

「クロ!」

 

 横合いから誰かが抱きついてきた。その勢いはもはやタックルに近く、まともに食らったクロは今度は背中を床に強打した。目尻に涙を溜めながら、自身に覆い被さっている下手人に視線を向け───思考が停止した。

 

「ナ、シロ……?」

 

 そこにいたのは、名前と同じように白い髪を持った少女だった。顔や体は記憶の中よりも痩せこけているが、間違いなく彼女はクロナの妹のナシロだった。

 

「よかった……やっと、クロナにあえた……!」

 

「ナシロ、え、でもどうやって……」

 

 困惑、そして疑問。確かにクロもずっとシロに会いたいと思っていたが、今は再会を喜ぶ気持ちより懐疑の気持ちの方が大きかった。

 

 どうしてシロがここにいるのか、と。

 

 さらに、首の位置を少しずらしてシロが走ってきた廊下を見れば、自分と同じくらいの年齢の子どもが大勢いた。

 

 一体なにが起こっているのか。泣きつくシロを優しく引き剥がし、手を引っ張って起こしてもらうと、クロは子どもたちを見ながら尋ねた。

 

「……ねえ、シロ。シロはどうやってここに───」

 

「あー、感動の再会にあまり水を差したくはないんだけど、こっちも時間がないんだ」

 

 自身の背後から届いた声にクロは勢いよく振り向いた。そこにいたのは、柔和さなど微塵もない鋭い表情が特徴的な女性。

 だが、クロにとってそんな情報はどうでも良かった。彼女にとって重要だったのは、女性の声が数時間前に手術室で聞いたとある大人のモノと酷似していたこと。

 

「あなた、は……もしかして」

 

「そんな意外そうな顔しないでよ。助けを求めたのはあなたの方でしょう?」

 

 そう言って女性───橘は、自嘲するような笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 



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第19話 Mのアリス

 M+Alice=malice=悪意

 

 

 

 

 けたたましい警報音が、施設内に鳴り響く。

 

「扉が、開いてる……?」

 

「どうして……いや、そんなことよりっ」

 

「自由だ……ははッ、自由だ! 早くここから出よう!」

 

「帰れる……やっとっ、お家に帰れるんだ……!」

 

 開錠された独房の扉から次々と出てくる子どもたち。彼らの表情は初めこそ懐疑や戸惑いのモノだったけど、それは独房から解放されたという事実を認識すると同時に歓喜へと変わった。

 

「───ひっ、お、大人!?」

 

 けれどそれも一瞬で、独房の扉が開いていることに気づいて舞い上がっていた子どもたちは橘さんの姿を見てたちまち凍りついた。

 

「ご、ごめんなさいっ! 今すぐ部屋に戻るから痛いコトしないで!」

 

「お願いします! もう勝手に部屋から出たりしないからっ、いい子にするから!」

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!!」

 

「だ、大丈夫だから! 落ち着いて、この人は味方だから!」

 

「わたしたちを助けてくれたんだよ!」

 

 悲鳴を上げ、中にはその場に蹲って錯乱する子どもたちに、わたしとシロは慌てて駆け寄る。

 

「へ……?」

 

「ほ、ほんとうに?」

 

「うそじゃない……?」

 

 わたしとシロよりも一つか二つくらい年下だろうか。怯えた顔で尋ねる子どもたちの目をしっかりと見ながら、わたしは目の前に立つ、子どもたちの中でも一番不安そうな表情を浮かべる男の子の頭を優しく撫でる。

 

「嘘じゃない。あの人は他の大人たちとは違う。それよりも聞いて? この廊下の突き当たりを右に曲がって、奥に進めばそこに地上まで一気に続く階段があるの。体力に余裕があるなら走って!」

 

「あ、う、うん! ありがとうお姉ちゃん! それから、えと……ありがとう、ございます……」

 

「……私にお礼なんていいから、早く行きなさい」

 

 研究施設の地下三階の廊下。現在わたしとシロは、研究所に囚われていた他の子どもたちを橘さんと共に解放しながら、地上の出口へと向かっていた。正確には、橘さんがカードキーで独房を解錠し、彼女を警戒する子どもたちをわたしとシロが説得しながら、だけど。

 

 ちなみに途中までわたしたちと同様に橘さんに追従していた他の子どもたちは、出口が近くにあると分かると彼女に感謝を述べながらわたしたちを追い越していった。

 ……まあ扉を開けれる人間は橘さん一人しかいないし、そんな橘さんを警戒して独房から出られない子どものために「どうせ走る体力もないから、みんなは先に行って。わたしが説得するから」って名乗り出ちゃったのはわたしだから仕方ないんだけどさぁ。

 

 その、ちょっと期待してたんだよね。漫画やアニメでさ、主人公の男の子が「女の子を置いていくなんて出来ない!」みたいな展開をさ。いや、男子に非がないのはわかってるんだけど。なんていうか、モヤモヤする。こう、クリスマスプレゼントを運んできてくれるサンタさんの正体が実は自分の親でした、みたいな。夢を壊された気分だ。

 

 だんだんとモヤモヤがイライラに変わってきた。……ああ、もう! さっきは男子に非はないなんて言ったけど、走る体力もなくて歩くだけで精一杯の女の子を置いてくってどういうことなの!? この状況を作ったのはわたしだけど、別に怒ってもいいよね!?

 

 このっ、男子たちの意気地なし! ヘタレ! 弱虫! ヘナチョコ! わたしの夢を返して!

 

「ねえクロ……」

 

「ふぇ!? ど、どうしたの、シロ?」

 

 わたしが心の中で男子たちを罵倒していると、不安そうな面持ちで隣を歩くシロの姿があった。

 本当は他の子どもたちと先に進んで欲しかったんだけど、「もしまた同じコト言ったら、反対側も引っ叩くから!」と涙目で怒鳴るシロに説得を諦めた。うぅ……まだ左頬がジンジンするぅ……。

 

「こんなに警報が鳴ってるのに、なんで誰もシロたちを捕まえに来ないのかな……」

 

 言われてみればと、わたしはここまでの道程を振り返る。さっきからずっと鳴り続けている耳うるさい警報は、たぶんわたしたちの脱走が原因のはずだ。

 でもそれなら、どうしてわたしたちは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「理由は簡単よ。今の彼らにはこっちに人を回す余裕がないのよ」

 

「どういうことですか?」

 

 廊下の先を見据えながら、わたしたちに歩調を合わせてくれている橘さんが丁寧に説明する。

 

「この施設は孤児院に偽装した地上エリア、施設内の職員が生活するための生活エリア(地下一階)、ガストレアウイルスを研究するための研究エリア(地下二階)、ウイルスに適合した喰種を管理、調整するための実験エリア(地下三階)ガストレア(ウイルスに適合しなかった孤児)を使って組織が独自に開発した最新兵器の性能をテストするための開発エリア(地下四階)の5つのエリアで構成されているの。で、ここに来る前に研究用に飼育しているガストレアが入ってる檻をいくつか開けておいたの。今ごろ彼らはその対応に大忙しで、こっちには気づいていないんじゃないかしら」

 

 どうやら、ここまでの道中で彼女以外の大人と廊下ですれ違わなかったのは、橘さんが陽動として事前に研究用のガストレアを何体か解き放ってきたかららしい。

 

「もっとも、ここの警備スタッフは優秀だからあまり悠長にしている時間もないけどね」

 

 最後にそう付け加えると、再びわたしたちの間に沈黙が下りる。

 

「……あの、一つ訊いてもいいですか?」

 

「なに?」

 

 それがどうにも気まずくて、わたしは彼女に会ってからずっと訊きたかったコトを口にした。

 

「どうしてわたしたちを助けてくれたんですか?」

 

 他意はなかった。純粋に、ただ気になっていたことを尋ねただけ。

 シロと一緒に橘さんの横に並びながら、わたしは彼女の横顔を見上げる。同性として羨ましいほどに整った顔立ちなのに、まるで研ぎ澄まされた刀のように鋭いその美貌を。

 

 そして、わたしは見た。

 

 そんな彼女の表情が一瞬だけ、それでも確かに、苦悶に歪んだのを。

 わたしは橘さんの触れられたくない領域に、土足で踏み込んでしまったのだと遅れて理解した。

 

「…………娘がいたのよ。ちょうどあなたぐらいの年のね」

 

 それでも橘さんは少し間を空けて、溜息混じりに答えてくれた。『いた』という言い方から察するに、おそらく彼女の娘さんはもうこの世にはいないんだろう。

 そして、このタイミングでわざわざ亡くなった娘さんの話題を出すということはつまり……。

 

「もしかして、その……娘さんとわたしが似ていたから助けてくれたんですか?」

 

「いいえ、全然違うわよ?」

 

「「違うの!?」」

 

 まさかの否定に思わず歩みを止めて声を張り上げてしまった。今のはこう、そういう流れじゃないの!?

 しかもどうやら隣で話を聞いていたシロもわたしと同じことを考えていたようで、意図せず声が重なる。

 

 わたしたちが立ち止まったことに気づき、橘さんは少し呆れたような顔で振り返った。

 

「そもそもあなたとあの子はちっとも似ていないもの。髪型も瞳の色も違うし、一緒なところと言えば年齢ぐらいかしら。それにあなたより断然うちの子の方が可愛いわ」

 

「「ひどい!!」」

 

 双子だから容姿が似ているシロも、遠回しに可愛くないと言われたようなものだから頬を膨らませてムッとしている。たぶんわたしも同じ顔をしていると思う。

 パパとママはわたしたちが何をやってもかわいいと言ってくれてたから、容姿にはそこそこ自信があったのに……。もしかしてパパとママはわたしたちに嘘をついていたんだろうか?

 

「ふふっ、あなた達って本当にそっくりね」

 

 わたしたちの顔を見て、橘さんはくすくすと笑う。

 

「「笑わないで!!」」

 

「あら、ごめんなさい。でもね? 親はみんな自分の子どもが一番可愛いのよ。たとえ世界と天秤にかけることになって、どれだけ苦悩しようとも、最終的には我が子を選ぶのが親という生物(もの)なのよ」

 

「……でも、世の中には自分の子どもを平気で捨てる親もいるよ?」

 

 橘さんを見上げながら、シロが遠慮がちに尋ねた。

 

「それは親とは言わないわ。覚えておきなさい。親とは子どもを産んだ者のことではなく、子どもを愛し、育てた者のことを言うのよ。……そういう意味では、私も親とは呼べないわね」

 

 そう言って微笑む橘さんの顔は、どこか寂しそうだった。

 

「おっと、話が脱線しかけてるわね。クロナちゃん。私があなた達を助けたのはね、これじゃあ死んだあの子に顔向けできないと思ったからよ」

 

「子どもに酷いコトをするから?」

 

 知らず、言葉に棘が宿る。

 

 一応橘さんには助けてもらった恩があるけど、でもだからと言って、それで彼女が今日までわたしたちを『助けてくれなかった』という事実が無くなるわけじゃない。たった一度の善行でこれまでの非道を帳消しにしていいと思えるほど、わたしはお人好しじゃない。

 

 橘さんはわたしの言葉に対して、申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「………そう、ね。私がここで働くことになったきっかけは、娘の病気を治すためだった」

 

「病気?」

 

「ええ。あの子が患った病気は、まるで火で炙られているかのような激痛が末端から徐々に中心部へと侵攻して、やがて死に至る奇病でね。……あらゆる手を尽くしたわ。研究者仲間のツテを使って名医を紹介してもらい、さまざまな最先端医療を受けながら一向に快復しないあの子の傍らで治療法を究明しようともした。でも、結局治療法は見つからず、あの子は死んでしまった。……最期まで、体中を焼かれるような痛みに蝕まれながら」

 

「…………」

 

 それは、一体どれほどの苦しみだったのだろう。病に侵されていた娘さんは言うまでもなく……いや、軽々しく口になんて出来ないけれど。

 

「だけどあの子は、私の前ではいつも笑っていたの。そうして面会時間が終わって、私が病院から出たのを確認すると、いつも狂ったように叫んでいたらしいわ。殺してくれ、殺してくれ、って」

 

 痛みを取り除くことも、苦しみを和らげることも出来ず。ただひたすら、苦しみ悶える我が子をずっと近くで見続けた母親の苦悩と絶望は、どれほど深かったのだろうか。

 

「私は娘の墓の前で誓ったわ。いつか必ず、あなたを殺した病気の治療法を見つけて、あなたみたいに優しい子が苦しまなくていい世界にしてみせる、って」

 

 だから、ガストレアという存在が世に現れ、それを研究しているという『組織』が接触してきたときは渡りに船だと思ったと、橘さんは続ける。

 

「連中の目的は一言でいえば世界征服らしいけど、そんなコトどうでも良かった。私にとって重要だったのは、宿主の遺伝子情報を解析し、最適な状態に書き換えるガストレアウイルスの特性を研究するコトだった。このウイルスを医療に応用することができれば、それがどんな病であっても確実に治すことができる。人間の喰種化は、私が探し求めていた治療法そのものだった」

 

 だけど、と。橘さんは一度言葉を切った。目を閉じて、静かに息を吐き出す。少しして、彼女はゆっくりと瞼を持ち上げ、そして微笑んだ。

 

「きっとあの子が今の私を見たら、『自分がされて嫌なコトは人にしたらいけないんだよ!』って叱られるかもしれないわね。誰かを救うために別の誰かを犠牲にするなんて、本末転倒でしょ?」

 

 それはとても辛そうで、泣きたいのを必死に堪えているような笑顔だった。

 

 娘を殺した病の治療法を見つけるために、娘と同じ年齢の子どもの体を切り刻む。矛盾した動機と行為に、彼女はずっと苛まれてきたんだ。

 

「うっ……ひぐ……!」

 

「ぐすっ……う、ぅぅっ……!」

 

 気がつけば、わたしはシロと一緒に泣いていた。どんなに拭っても、涙が止まらない。

 そんなわたしたちに橘さんは困ったように、呆れたように微笑んだ。

 

「どうして貴女たちが泣くのよ」

 

「だって……だってぇ……!」

 

「わかんないよぉっ……!」

 

 本当に、どうしてわたしたちは泣いているんだろう。彼女の過去にどんな悲劇があったとしても、橘さんがわたしたちにやったことは決して許されることじゃない……はず、なのにっ……!

 

 そっと、橘さんの両手がわたしとシロにそれぞれ伸び、ぎゅっと抱きしめられる。

 

「優しいのね、貴女たち。……ありがとう」

 

 囁くように、独り言のように呟かれた最後の言葉。

 彼女が今どんな顔をしているのかは見えないけれど、きっとその顔は、彼女の体温や声と同じくらいあたたかいモノに違いない。

 

「さ、何度も言ってるけど今はあまり悠長にしてる時間はないわ。残る独房もあと僅かだし、早く彼らを解放してここから出ましょう」

 

「………うんっ」

 

 わたしたちを落ち着かせるようにポンポンと頭を撫で、橘さんはそう言った。

 ……少し名残惜しいけど、彼女の言う通り時間がないのも確かだ。いつまでもこうしてはいられない。

 

 袖で涙を拭って、わたしたちは橘さんから離れた。

 

 うぅ……今さらだけど、わたし相当恥ずかしいことしちゃったなぁ。ほとんど他人も同然の人の前で大声で泣いて、しかもそれをあやされて……。顔がすごく熱いし、恥ずかしくて目も合わせられない。

 

 ちらりと横を見れば、顔を真っ赤に染めたシロと目が合った。思わず吹き出して、つられるようにシロと橘さんも笑った。

 

 その直後だった。

 

 

 

 

 

「───なんでやなんでや、オオウ、なんでや」

 

 

 

 

 

 その場に突如として響いた軽薄な声に、橘さんの顔が凍りついた。

 

「研究用のガストレアが解き放たれて施設が混乱してるこんなときに、施設の職員が実験体なんて引き連れて……」

 

 カツ、カツ、と。わざとらしく靴底を鳴らす音が、ゆっくりと近づいてくる。

 

「なんでやねん」

 

 振り返ると、ぞっとするほど柔和な微笑みを浮かべた男がそこにいた。

 

 

 

 

 



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第20話 食後の茶菓

 デザート(desert)=報い

 

 

 

 

「ネ、スト……」

 

 驚愕に目を見開きながら、橘は目の前にいる、本来なら絶対にここにいるはずのない男の名前を口にする。

 

 対して、黒のロングコートに深紅の手袋とネクタイという出で立ちの美青年───ネストは僅かに瞠目し、しかしすぐに面白そうに目を細めた。

 

「あるえぇえ? 貴女と直接顔を合わせるのはこれが初めてのはずですが、どうしてぼくがネストだと?」

 

 無意識に、橘はクロたちを守るように一歩前に出た。二人はネストが放つ異様な雰囲気に怯え、小刻みに震えていた。

 あれほど鳴っていた警報は、もう止まっていた。

 

「私を組織に勧誘した電話の男と、貴方の声が同じだったからよ。……それにしても、あの時とは随分と雰囲気が違うのね」

 

 初めてネストと会話したときに抱いた彼への印象は『普通』だった。橘が組織に与することで得られるメリットとデメリット、それらを丁寧に、真摯に、理路整然と並べる。

 好感が持てるわけではなかったが、さりとて不快とも感じない。良くもないが悪くもない、まさに『普通』な人物だと思った。

 

 だが、目の前の男はあの時と声は同じなのに、それ以外のすべてが『異質』だった。

 

「アレはいわゆる仕事モードってやつです。ぼく、仕事とプライベートは区別(わけ)るタイプなので。あんな堅苦しいしゃべり方、仕事以外の場面でも続けるなんてとてもとても」

 

 ネストは肩をすくめ、やれやれと首を振る。

 

「まるでここには私用で来てるみたいな言い方ね」

 

 警戒を隠そうともしない橘の問いに、ネストは「にぱー☆」と笑う。

 

「もちろん仕事ですよー。というかこんな血なまぐさい場所に仕事以外の用事で来るわけないじゃないですか。ぼくグロいのとか超苦手なので」

 

「仕事、ね……確か貴方の役割は上からの指示を下の人間に通達し、裏切り者や任務に失敗した人間を処分することじゃなかったかしら。なのにどうしてここに……」

 

「あなた方の働きぶりをその目で確認してこいってクソ上司共……偉い方々がうるさくって、たまたま視察に来てたんですよー。まったく、ぼくは単なる連絡役だっていうのに、ホント上は人使いが荒いんだから」

 

 ぷんぷんと、擬音を口にしながら頬を膨らませるネスト。

 

「そ・ん・な・こ・と・よ・りぃ〜……ご自分が何をされておいでか、理解されてます?」

 

 だが、再び最初の時のような穏やかな笑みを浮かべる。

 この短時間でころころと表情を変えるその様は、クロとシロはおろか橘ですら不気味さを感じずにはいられなかった。

 

 人懐っこい笑顔を浮かべながら、ネストが一歩踏み出した。

 

「…………ひっ」

 

 たったそれだけで、幼い少女二人は声にならない悲鳴を上げた。もはやクロとシロの目には、ネストは得体の知れない化け物にしか映っていなかった。

 

 そして二歩目を踏み出そうと足を持ち上げた瞬間。

 

「───動かないで」

 

 毅然とした声で、橘は懐に隠していた拳銃を抜き放ち、片足立ちになっているネストに照準を合わせた。

 

 グロック26。

 オーストリアの銃器メーカー、グロック社が開発した自動拳銃であるグロック17。その直系のコンパクトモデルであるグロック19をさらに小型化した超コンパクトモデル。

 その軽さと高い携帯性から、橘はそれを護身用として常に持ち歩いていた。

 

「クロナちゃん、ナシロちゃん。この男は私が足止めするから、貴女たちは私のカードキーを使って残りの子どもたちを解放して脱出しなさい」

 

 言いながら、けれど決してネストから視線は外さず、橘はバトンを渡されるのを待つリレー選手のように自身の背後にカードキーを持っていく。

 

「え……そ、それじゃあ……っ」

 

「橘さんは……?」

 

 二人の問いに、橘はわずかに間を空けて答えた。

 

「……大丈夫よ。私もすぐに追いかけるから。だから、行きなさい」

 

「で、でも───」

 

「───行きなさいッ!!!」

 

 なおも食い下がろうとするクロに怒鳴るように声を荒げた。

 その剣幕におされクロは一瞬だけ怯み、思わず泣きそうになった。

 

 重なったのだ。自らの命を犠牲に、身を呈して自分たちを守ってくれた両親の姿と、目の前の彼女の背中が。

 が、なんとかそれを堪える。ここで泣いちゃダメだ。今はまだ、泣くときではない。

 

 クロはカードキーを奪うように受け取ると、シロの手を引いて奥へと走っていった。

 

「……あのぉー、ぼくは一体いつまでこの格好でいればいいんですかぁ?」

 

 そう言ってネストは、荒ぶる鷹のポーズを決めながらへらへら笑う。

 

「そうね……私が貴方から銃口を下ろすまで、でどう?」

 

「あはは───

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 パチン、とネストが指を鳴らした。

 

 直後、彼の背後の床が爆発した。否、床を破壊しながら何かが飛び出したのだ。

 ソレは粉塵を纏いながら床の上に着地すると、ネストの斜め前に立った。

 

 床から飛び出したという事実とソレの体に付着している大量の返り血から察するに、ソレは陽動のために地下四階で放ったガストレアを処理し、そのまま天井を突き破ってこの場所に来たのだろう。そんな怪物染みた所業を成した眼前の存在に、橘は我が目を疑った。

 

「なんなのよ、それは……」

 

 だが、突然の乱入者を観察すればするほど橘の眉間には皺が寄り、その眼に宿るものは今や驚愕ではなく、人を殺せるのではと思えるほどの険呑さ。

 

「……答えなさい」

 

 グロック26を握る両手が震えた。

 

「一体なんなの、その()()はッ!?」

 

「おぉ、一発でコレの正体を看破するなんて、さっすがは橘さん!」

 

 激昂する橘に、ネストは馬鹿にしたような拍手を送る。橘の声は怒りで震えていた。

 

「貴方たちは、生きている者だけでは飽き足らず、死んだ者すら弄ぶというのッ……!」

 

「うわぁ、まるでぼくたちは悪人で貴女は善人みたいな言い方ですね───超笑えます。今まで散々、娘の死を言い訳にして親を失くした少年少女たちの体を切り開いていた悪魔のセリフとは思えない」

 

「…………ッ!」

 

「まあでも良いと思いますよ、そういうの。どこまでも身勝手で、偽善的で、見るに堪えないほど醜悪で。笑いすぎてお腹が痛くなるほど滑稽ですが、実に人間らしくて素敵じゃないですか。好きですよ、貴女のような人間(道化)。観ていて飽きません」

 

 そこで一度、ネストは橘に向けていた視線を切り、自身の斜め前に陣取る『死体』を見やる。

 

「今回の視察、ここの職員の働きぶりを見るっていうのは実は建前みたいなものです。本命は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……ぅ………ぇ……」

 

「生きていたころの名残か、時々何かぶつぶつと呟きますが……まあこの様子を見る限り特に問題はなさそうですね。仮に問題が生じたとしても、今のコレの出力ならぼくでも十分対処できますし」

 

 そうしてネストは、『死体』に向けていた視線を未だにこちらに照準を合わせ続ける橘に向けた。当然、銃口は下ろされていないのでネストは今も荒ぶる鷹のポーズを維持している。

 しかしその顔は、勝ち誇り、明らかに橘を嘲笑していた。

 

「形勢逆転……デス!」

 

 パンッ! 銃声が、廊下に響き渡る。空薬莢が排出され、数回床を跳ねて、沈黙。

 弾丸はネストの頬をかすめ、浅く裂けた皮膚からは静かに血が流れた。

 

「……へ、ちょっ、エーッ!? 撃ちます? ふつう今の流れで撃ちますか!? ここは圧倒的な戦力差に絶望して、涙を流しながら"せめて命だけは〜"ってみっともなく土下座する場面でしょう!?」

 

 予想外の展開に慌て、動揺し、先ほどまで浮かべていた余裕の表情は見る影もない。

 対して橘の顔は、氷のようにどこまでも冷え切っていた。

 

「噂には聞いていたけど、まさかすでに完成していたとはね」

 

「え、うそ、無視? もしかして図星を突かれたから拗ねちゃったんですか? でもだからと言って無視はよくないと思いまーす! イジメはんたーい! いじめ、カッコ悪い!」

 

「ソレ、貴方の命令がなければ『作動』しないのでしょう? だったら形勢はなにも変わらない。あの子たちが逃げ延びるまで、その無様な姿を晒し続けなさい」

 

 ネストの聴くに値しない戯れ言を黙殺し、底冷えするような声で橘は命令する。だが───

 

「───分かってないなぁ」

 

 やはりネストは、嗤っていた。

 

「貴女、最初から負け(おわっ)てるんですよ?」

 

「……なんですって?」

 

「そもそもの話ぃ、組織に対する忠誠心を一切持たず、いつ裏切るかわからないような犬を放し飼いにすると本気で思ってたんですかぁ?」

 

 まるで辺り一帯の温度が急激に下がったかのような感覚が橘を襲う。

 ネストは満面の笑みを浮かべた。

 

「監視してたに決まってるじゃないですかぁ! もちろん貴女だけではありません。組織にいる、貴女のような人間ぜーいんですっ!」

 

 エヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘエヘ、エヘヘヘヘへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへ。

 

 楽しそうに、下らなさそうに。面白そうに、つまらなさそうに。ネストは笑う、哄笑う、嘲笑う、嗤う、凶笑う。

 

 もはや不気味と呼ぶにはあまりにも禍々しい、人間の悪意を煮詰めて凝縮したような邪悪な笑みだった。

 

「先陣きって地上に飛び出した実験体たちは今ごろドナドナされてると思いますよ?」

 

「……べらべらとよく舌が回るわね」

 

 しかし、そんなネストの勝利宣言に等しい言葉に対し、橘の動揺は小さかった。

 どうやら目の前の男は自身が監視されている可能性を考慮しなかったと思っているようだが、それはひどい勘違いだ。

 

 橘はとっくに監視に気づいていた。だから敢えて事前に計画を立てず、傍から見れば『あと先も考えず一時の感情に身を任せた愚かな行動』を選択した。そうすれば、組織の対処も多少は遅れると思ったから。

 

 無論、下準備は済ませてあった。施設の警備スタッフ全員とそれとなく会話をし、その人となりを把握し、ある日突然協力を要請しても受諾してくれる人材を選別した。

 そして今日、子どもたちを逃がす前にスタッフ数名を買収した。彼らは今回の騒動のあとは姿を消し、しばらく身を隠すだろう。誰も犠牲にはならない───はずだった。

 

「あ、言い忘れてましたが貴女が騒動を起こす直前に買収したスタッフは全員処理する予定なので安心してください」

 

「……ッ!?」

 

 見誤っていた。見くびっていた。想定が足りなかった。

 彼女の所属していた組織は、たった一人のちっぽけな人間が出し抜けるほど甘い相手ではなかった。

 

「……ハッタリね」

 

「ところがどっこい、ハッタリじゃありません。ですがまあ、考え方は人それぞれなのでそう思っていただいてもぼくは全然構いませんよ」

 

 お前の考えなど正直どうでもいいと、言外に告げているネストの態度に、橘は今すぐ回れ右してすでに地上に向かっているであろうクロたちを追いかけたい衝動に駆られた。

 だがそんなことをすれば、ほぼ確実に自身はこの場で絶命するであろうことは容易に想像できた。

 

 どうする……どうするっ……!

 

「いや〜、貴女も()()()()()()()()()。もしも計画を実行するのが明日だったら、または昨日だったら。もしかすれば貴女の勝ちだったかもしれませんねぇ」

 

 

 

 ───あなたが気に病むことじゃないわ。あの娘は……運がなかったのよ。

 

 

 

「……ふ、ざけるな……!」

 

 『運』。そのたった一文字を脳が認識した瞬間、悔しさと怒りが同時に込み上げてきた。

 娘の病気を治すため、娘を救うために奔走した橘の努力は報われることなく、当時12歳だった一人の少女は想像を絶する苦痛の果てにこの世を去った。

 

 お前が無能だったからと、努力が足りなかったからだと罵倒され、責められたほうが遥かにマシだった。

 

 だが現実は、周囲の人々は橘を慰めた。運がなかった、間が悪かったんだ、と。

 

 冗談じゃない。運などと、そんな不確かな要素のせいで娘が死んだなど、断じて認められない。認めない。認めてたまるものか。

 

 あの娘の死を、『仕方がなかった』で終わらせていいはずがない。

 

 そんなもはや、ある種の復讐に近い執念によってここまで歩いてきた。そしてまた再び、『運』が彼女の道程を阻む。

 

(また私は、見殺しにするのか……!)

 

 奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばった。

 

(それなら……そうなるくらいなら!)

 

 さまざまな葛藤の末に、橘はある決意を固めた。その時、ネストが静かに語りかけた。

 

「そこで一つ、提案があります」

 

「提案、ですって?」

 

「正確には『取引』と言ったほうがいいかもしれませんね。ちなみにこの取引は一回こっきりのものなので、慎重に考えたほうが賢明ですよ?」

 

「……言ってみなさい」

 

「今ここで、改めて組織に忠誠を誓っていただきたい。二度と我々に逆らわない、と。そうすれば、今回の一件は上には黙っていてあげましょう。ついでに昇進もさせてあげます。新参者とはいえ、いつまでも自分より頭の悪い人間の下で働きたくはないでしょう? 貴女をトップとした新しいチーム、それに研究施設も誂えましょう」

 

「拒否したら?」

 

「もちろんこの場で処分します」

 

 予想通りの返答に橘は思わず笑ってしまった。

 

「はっ、よくもまあそんな一方的な要求を『取引』だなんて言えたものね」

 

「これでもかなり譲歩しているんですよ? 貴女もご存知とは思いますが、我々の組織において裏切り者は基本的に極刑です。裏切りが発覚した時点で、即刻、その場で、問答無用に。にも関わらず、ぼくが貴女にこんな取引を持ちかけたのは貴女が非常に優秀な人材だからですよ。かの四賢人の一人、日本最高の頭脳と評された室戸菫の()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「───私の前であの女の名を口にしないで。非常に不愉快だわ」

 

 室戸菫。その名前がネストの口から出た途端、橘は不快そうに顔を歪めた。

 

「おやおやぁ? 学生時代、貴女は彼女にとって同性で唯一の友人であり、その仲もかなり良好だったと聞いていましたが、どうやら今はそうでもないご様子。何があったか、気になるなぁ」

 

 そしてそれを見て、まるで新しいオモチャを手に入れた子どものようにはしゃぐネスト。

 

「羨望ですか? 嫉妬ですか? 劣等感ですか? そりゃありますよねぇ。日本が誇る天才、室戸菫の次に優れた頭脳を持つと言ってもその間には絶対的な差が、決して埋められない圧倒的な開きがある。真の天才には所詮、秀才止まりの凡人では届かない。だから───」

 

()()

 

 しかし、そんなネストの煽りに揺さぶられることなく、橘は静かに、されど明確に否定した。

 しばし探るように、ネストは刀のように鋭い橘の眼を見る。橘もまた、感情も思考も読めないネストの目を睨み返す。

 

「ではどうしてそこまで室戸菫を敵視しているんです?」

 

「それを貴方に教える義理はないわ」

 

「つれないなぁ……ま、いいです。ぶっちゃけそれほど興味ないんで。んで、話を戻しますが……お返事、聞かせてもらえます?」

 

 にっこりと笑うネスト。橘は一度、目を閉じた。

 

 彼の話はその慇懃無礼な態度を除けば非常に魅力的なモノだった。自身の夢、ガストレアウイルスのメカニズムを解明し、医療に応用すること。

 ここの施設の教授は無能ではなかったが、自分に言わせれば非効率で無駄が多い。あれでは遅すぎる。

 

 だが、自分だけのチームと研究施設を手に入れることができたなら……。

 

「……決めたわ」

 

「それで?」

 

 橘はゆっくりと目を開けた。

 

「クソくらえよ」

 

「交渉決裂、ということですね。残念ですねぇ、いやーとても残念です」

 

 言葉とは裏腹に、ネストの口元は見る見るつり上がる。

 

「ですがまぁ、これも仕事なので。本当はこんな事したくありませんし、胸が張り裂けそうなほど苦しいですが、立場上戦いますねえぇぇぇえええ!!」

 

(来る……ッ!)

 

 橘はネストに照準を合わせたまま、しかしいつでも回避できるように両足に意識を集中させた。

 未だかつてない生命の危機を脳が直感したのか、橘の思考が平時とは比べ物にならない速度で回転する。

 

 橘は停滞する世界というものを生まれて初めて体感し、同時に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事実に焦燥しながら、目の前で微動だにしない『死体』について説明していたネストの言葉を思い出す。

 

『生きていたころの名残か、時々何かぶつぶつと呟きますが……まあこの様子を見る限り特に問題はなさそうですね。仮に問題が生じたとしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 彼は誇張でも虚勢でもなく、当然のように"対処できる"と言った。それはすなわち、コンクリート製の床を容易く粉砕するような怪物が目の前に二体いるということ。

 不安はある。自分の手に収まっているグロック26はガストレア戦争前から身に付けている代物のため、その銃弾はバラニウム製ではない。()()()()()()()()()()()()()()

 

 橘の勝利条件は二つ。ネストが『死体』に命令を飛ばす前に彼を無力化するか、逃走するか。

 だがどちらの条件も容易とは言い難い。相手は仮にも『死体』に対処できる人間。スポーツや武術に多少の心得はあっても殺し合いなど生まれてこのかた一度も経験したことがない橘には、目の前の男に対して自身が手に持つ拳銃がただの気休めにしか感じられなかった。

 

 ならば、と。

 

 一か八かの賭けになるが、現状打破するためにはもはやコレしかない。橘はポケットからある物を取り出そうとして───

 

「───と思いましたが、どうやらその必要はないみたいですね」

 

 先ほどからネストが一歩も動いていないことに気がついた。同時に、今しがたまで減速していた世界が本来の時間を取り戻す。

 

 橘は彼の発言の意図が理解できず、彼らへの警戒はそのままに反射的に尋ねた。

 

「どういう意味?」

 

「後ろ」

 

 そう言って橘の背後を指差し、酷薄な笑みを浮かべるネスト。

 

「…………はぁ」

 

 呆れた。いくら自分が素人だからと言って、そんな明からさまな手に引っかかると本気で思っているのだろうか。馬鹿にするにも限度がある。思わず溜息が漏れる。

 

「そんな子供騙しに、私───」

 

 

 

 

 

「───橘さん、逃げてぇぇええええっ!!!」

 

 

 

 

 

 まず、悲鳴が聞こえた。聞き覚えのある、つい数分前に話していた幼い少女の声だった。

 次に、何かが背中にぶつかる衝撃があった。それはなにかとても鋭利なモノで、焼けるような痛みを伴って肉を掻き分け、骨を裂き、腹部から顔を覗かせた。

 

 それの正体を、彼女は知っている。

 

「ま、さか……()()ッ───ごふっ……!」

 

 喉の奥からせり上がってくる何かをそのまま吐き出せば、それは温かくて真っ赤な命の証明だった。

 

「だ、れなの……ッ」

 

 激痛のあまり叫び出しそうになるのを必死に堪え、傷口から溢れ出る血など気にも留めず、橘は懸命に首を動かし、背後にいるであろう己を刺した犯人を見やった。そして───

 

 

 

 

 

 ───橘の呼吸が死んだ。

 

 

 

 

 

「……………………」

 

 そこにいたのは一人の少年だった。

 

 少年はクロたちと同じ病衣を着ていて、真っ白な髪をしていた。しかしそれはシロの髪色のような自然なものではなく、まるで色を無理矢理洗い落としたかのような印象を受ける。

 さらにその白い髪と同じくらい目を引くのは、そんな彼の髪色とは真逆に黒く変色した爪。

 

 そんな少年の瞳に宿る感情は絶望と苦悶、憤怒と憎悪、そして濁りきった殺意。少年は鬼のような形相で、涙を流しながら嗤っていた。

 

 橘はその少年のことを知っている。否、知っていなければならない。

 

 なぜなら彼は、他ならぬ彼女が『仕方がない』と見捨ててきた、数多の犠牲者の一人なのだから。

 

「まずは……一人……ッ!」

 

 棚上げにし続けてきた罪が、最悪の形で牙を剥いた。

 

 

 

 

 



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第21話 選手

 プレイヤー=prayer=願い

 

 

 

 

 不規則に明滅を繰り返す蛍光灯が弱々しく照らすとある独房。そこには一人の少年がいた。

 

 髪は白く、それとは対照的に黒く染まった爪を持つ少年は、ともすれば死体だと見間違われかねないほど生気の宿らない瞳で部屋の隅にもたれ掛かっていた。

 

 少年には、一体いつから自分がここにいるのかもはや把握できていない。この施設に入ってから最初の一週間くらいまでは日付を数えていたような気がするが、今となっては何故そんな無意味な行為にあれほど熱意を注いでいたのかも思い出せない。自分はどうして、あれほど必死になっていたんだっけ?

 

 徐に、少年は自分の手足に視線を落とした。まるでバラニウムのように黒い爪。視界の端で微かに揺れる白い髪。

 自分の髪や爪は、もともとこんな色だったっけ?

 

 少年はクロたちが施設に入るずっと以前からここで『管理』されており、そしてそんな彼の精神は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 彼はもう、昨日の出来事すら朧げにしか思い出せない。

 心が砕けた少年は今日も無慈悲に痛めつけられ、泣き叫び、その涙の意味すら忘却して眠りにつく───はずだった。

 

「………………?」

 

 鉄の扉越しでもはっきりと聞こえてくる警報音に、少年は訝しげに顔を上げた。

 なんの音だろうかと不思議に思っていると、続けてパタパタと軽い足音と幼い少年少女たちの声が扉の前を通り過ぎていく。

 

 独房の外で何が起きているのか気にはなったが、どうせ何をやったところで無意味だと、自分でもよく分からない諦観の念が押し寄せ、結局動くことはなかった。

 

 そうしてしばらくすると、警報も足音も声も聞こえなくなり、少年は再び鳴り止まない静寂に包まれた。

 

 ああ、なんだか眠たくなってきた。やけに体が重くて、立ち上がるのすら億劫だけど、今日なにかしたっけ?

 ……だめだ、思い出せない。思い出せないということはきっと、大したことじゃないんだろう。

 

 少年は欠伸を一つして、壁に背を預けたまま眠ろうと瞼を下ろし始めた。

 

 その時だった。

 

 ガシャン! という音と共に鉄の扉が開き、逆光を伴って誰かが入口から入ってきた。予想外の事態に少年の肩がびくりと震えた。

 

「はぁ……はぁ……っ! きみ、大丈夫!?」

 

「え……あ、えと、君こそ大丈夫?」

 

 突発的な強い光に目を焼かれたせいで顔はよく見えないが、声の調子から判断してとてもつらそうだと少年は思った。

 

「わたしの、ことはいいからッ、それよりきみのコト! 立てる!?」

 

 そう言って手を差し出す少女。ようやく光に目が慣れて、目の前の彼女の顔が見える。

 黒いショートボブの、整った顔立ちをした女の子だなと少年は思った。

 

「う、うん……でも何のために?」

 

「ここから出るために決まってるでしょう!? いいから早く!」

 

「ちょっ、ちょっと!」

 

 少女はいつまで経っても自分の手を取ろうとしない少年に痺れを切らし、強引に手を掴んで引っ張り起こした。

 そして少女は、少年の手を握ったまま外に飛び出した。

 

「シロ、そっちは!?」

 

「こっちはもう大丈夫! あとはその人だけだよ、クロ!」

 

 部屋の外に出ると、そこには目の前の少女と瓜二つの容姿をした、少年と同じ白髪の女の子がいた。なぜかは分からないが、ひどく焦っているようだった。

 

「早く行こう! 橘さんもあとで追いかけるって言ってたけど、わたし達が脱出しないといつまで経っても逃げられないよ!」

 

「そんなの分かってるよっ!」

 

「……ねえ。その橘って、だれ?」

 

 二人の会話から、髪が黒い方の名前がクロ、白い方がシロだというのは何となく理解していた。では、彼女たちが口にしている橘とは一体誰のことなのか、単純に気になった。

 

「わたし達を独房から逃がしてくれた恩人だよ。かなり遠いから見えづらいと思うけど、あそこに()()()()()()()()()()? 手前にいるのが橘さんで、奥にいる男の人を足止めしてくれてるの。だからわたしたちは、自分たちのためにも橘さんのためにも、急いでこの施設から脱出しないといけないの───ってうわあっ!? 床からなんかフード被った変なのが出てきた!?」

 

 少年は突然取り乱し始めたクロを不審に思いつつも、先ほど彼女が指差した先を見た。そう、見てしまったのだ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()姿()()

 

 少年の横で、クロが何かを叫んでいる。それは彼女の表情から少年に向けてのものだということは容易に想像できたが、肝心の少年の耳には全く届いていなかった。

 彼女らの存在は、もはや少年の中には入っていなかった。

 

 視線の先で『大人』たちが何か話し合っている。

 ───どうでもいい。

 

 手前にいる『大人』が奥にいる『大人』に向けて銃を撃った。

 ───どうでもいい。

 

 奥にいる『大人』が手前にいる『大人』のことを笑っていた。

 ───どうでもいい。

 

 どうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいいどうでもいい。

 

 そんな事はどうだっていい。重要なのは、自身が憎悪して止まない復讐の対象───どんな手を使ってでも殺すべき存在が目の前に二人いるということ。

 

 それだけで、いい。

 

 今まで溜め続け、蓋をし、封じ込め続けてきた負の感情が指向性を獲得して噴出し、爆発した瞬間。

 

 腰の部分から、まるで少年の憎悪に応えるかのように一本の触手が肉を突き破って飛び出した。

 

 そして少年は、そのまま前のめりに上体を倒し、全力で床を蹴って踏み砕きながら駆け出した。

 

「──────ッ!」

 

 誰かの叫び声が聞こえた気がしたが、少年にとってそれは足を止める理由になりはしなかった。

 

 殺すべき対象は二人。ならばどちらから殺す? 決まっている。確実に殺せる方から殺す。つまり───

 

 ───()()()()()()()()()()

 

 死ね。そう頭の中で念じれば、腰から生えた赤黒い触手はまるで命令を遂行するかのように手前にいる『大人』へと一直線に伸び、背中から腹部にかけて貫いた。

 

 『大人』の体から溢れる赤い液体。苦痛に呻く声。それらすべてが少年の空っぽになった心を満たしていった。

 

「まずは……一人……ッ!」

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 背中から腹部を貫通していた赫子が引き抜かれ、支えを失った橘の体は糸の切れた人形のように床に倒れ込む。

 

「だから言ったでしょう、"後ろ"って。ぼくの言葉を信じて素直に"過去(後ろ)"を振り返っていれば、こうなることぐらい簡単に予想できたでしょうに」

 

 水の入ったバケツに穴を開けたように、橘の傷口から血が溢れ、床に広がっていく。

 

「助けられた子どもたち全員が貴女に感謝の言葉をかけてくれると思いましたか? 温かい笑みを浮かべて、優しく抱きしめてくれると期待してましたか? ざぁんねぇんでぇしたぁ!! これが現実、そして現実は非情なーので〜す」

 

 ふぅ、やっと両足で立てますよ、と愚痴を溢しながら、ネストは橘の元へ歩み寄ろうとした。

 

「うーーん? 君、まぁだ居たんですかぁ?」

 

「………………」

 

 ネストの前に、白髪の少年が立ち塞がる。少年の顔は俯いているため前髪でよく見えないが、微かに口を動かしていることから何事か呟いているのだろう。だが、それはあまりにも小さい上にそもそもネストには聞く気がないため彼の耳には断片すら届いていない。

 

「生憎ですが、君に構っている暇はないんです。用がないなら───」

 

 その時、ネストはサッと上体を後ろに逸らした。眼前を通り過ぎる赫子に対し、それでもネストは微笑みを絶やさなかった。

 少年が顔を上げる。彼の右眼は、赫く染まっていた。

 

「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺」

 

「こわー」

 

 並の人間なら即座に失神するであろう殺気を受けながら、ネストはへらへらと笑っていた。

 

「完全に正気を失っちゃってるじゃないですか、コレ。なんでこんなのを処分せずに管理を継続しようと思っちゃったかなぁ、ここの責任者は」

 

「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇぇぇええええええ!!!!」

 

「あーもう、さっきからうるさいんですよチミィ。───と言うわけで、『L.D.O.(エル・ディー・オー)』。()()()()()()()()()()()()

 

「…………!」

 

「プギュ───ッ!!??」

 

 まるで食器についた汚れを洗い流すかのような気軽さで放たれた『命令』。そしてそれは、速やかに実行に移された。

 ここまで銅像のように不動を貫いていた『L.D.O.』と呼ばれた『死体』が高速で動いた。『死体』が行った動作は至ってシンプル。『死体』はネストに飛びかかろうとした少年の前に立ち塞がり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 衝撃で生まれたクレーター。無造作に叩きつけたブレードを持ち上げれば、水に濡れた雑巾を絞った時のように大量の血が滴る。

 

 少年だった『モノ』は、原形すら留めていなかった。

 

「さ〜て、ようやく邪魔者も消えたわけですし? ちゃちゃっと生死を確認して上に報告しますかねぇ?」

 

 目の前で文字通り地面の染みになった存在には一切目もくれず、ネストはスキップしながら橘の元へ向かった。が、そこには───

 

「はぁ〜〜……ちょっと、いい加減にしてくれません? こちとらとっとと仕事を終わらせて定時には帰りたいんです。なので───さっさとそこ、退いてくれません?」

 

 彼の目の前には、地に伏す橘を庇うように覆い被さるシロと、そんな二人を守ろうと両膝をがくがく震わせながら立ち塞がるクロの姿があった。

 

「退かない…………」

 

「そんな生まれたての子鹿みたいに震える体でなぁにが出来るって言うんですかぁ? さっき頭のネジがぶっ飛んだガキとぼくらの戦闘を見てたでしょう? 君たちもああなりたいんですか?」

 

 つい数秒前まで少年だった床の染みを指差し、冷笑するネストにクロは一歩後ずさり、シロは恐怖に泣いた。

 それでもクロは勇敢にもネストを睨み返し、シロは橘の傍を離れなかった。その反応に、ネストは呆れたように首を振った。

 

「理解できませんね。ぼくらと対峙すれば確実に死ぬと分かっていて、それを心の底から恐れているのに、どうしてそんな死に損ないのために命を張るんです?」

 

 その問いに、クロは震えながら答えた。

 

「理由なんて、わたしにもよく分かんないわよ……でも、例え次の瞬間あなたに殺されるとしても、わたしの死がなんの意味もないものだとしても……わたしは、わたしや妹を助けてくれた人を見殺しになんかしたくないッ!!」

 

 助けてもらった。だから助けたい。絶対的な死を前にして、クロとシロがそれでも逃げ出さなかったのは、そんな、人間として当たり前の理由からだった。

 さすがのネストもこの返答は想定外だったのか、虚をつかれたような顔をして固まった。そして、そんな絶好の機会を見逃さなかった人間が一人、この場にいた。

 

 

 

 

 

「───そう。なら……私も、もう少しだけ……足掻いてみようかしら」

 

 

 

 

 

 カチッ、と。何かのスイッチが押される音がした。それはクロの背後、正確にはシロが覆い被さっていた橘の元から聞こえた。

 

 直後、施設全体が大きく揺れた。

 

『…………!?』

 

 轟音と振動は下から、つまり地下四階から徐々に上へと駆け上がってくる。

 

 はっとして、ネストはクロの背後を、シロが覆い被さっている橘へと向けた。正確には、彼女がいつの間にかポケットから取り出し、左手に握っていた小さな装置を。

 

「ま、さか……起爆装置!?」

 

「…………ご名答……」

 

 出血の影響で顔色は最悪で声も弱々しかったが、それでも彼女は悪辣に笑っていた。

 

「正気ですか!? 下手をすれば施設に残っている人間が、貴女を含めた全員が生き埋めになるんですよ!? だいたい、爆弾なんていつの間に───」

 

 ネストの言葉を遮るように一際大きな爆発。廊下の天井が次々と崩れ、瓦礫の雨となってその場にいた全員に降り注ぐ。

 

「きゃああああああああああああ!!!」

 

「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬぅッ! こんなの絶対死んじゃうよぉぉぉおおお!!」

 

 クロとシロがパニックに陥り、それでも橘を置き去りにはできず、彼女にしがみつきながら絶叫したその時、特大の瓦礫が隕石のように天井から落下した。

 激突の衝撃で体重の軽いクロたちは宙に浮きかけるが、橘が最期の力を振り絞って二人を抱きしめて吹き飛ばされないように踏ん張る。

 

 そして衝撃が過ぎ去った後、拮抗する力が消失したことで文字通り死ぬ気で踏ん張っていた橘は、クロたちを抱きかかえたまま横向きに倒れた。

 

「かっ、けほ……二人とも、無事……?」

 

「はぁ、はぁ……な、なんとか……」

 

「い、生きてます……」

 

 分厚い粉塵に視界を塞がれ、数十センチ先にいる互いの姿しか見えないが、三人が三人とも、一先ず生き残れたことにほっと胸を撫で下ろした。

 しかしそれも一瞬。橘は即座に気を引き締め、首を巡らせて周囲を警戒する。

 

「……ネストは?」

 

「……分かりません。でも、無事ではないはずです。わたし達ですらああでしたから」

 

「そうですよぉ……あぁ、死ぬかと思ったぁ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「───いやぁ、ホントですよー」

 

 

 

 

 

 

 

 

「「「!?」」」

 

 じゃり、じゃり、と。視界がほとんど遮断されているこの状況で、確実に自分たちの方へと近づいてくる気配。

 

「まさか組織の監視を欺いて施設のあちこちに爆弾を設置するなんて。橘さん、貴女ホントにただの科学者なんですかぁ? 実は『我々』を潰すために送り込まれたどこぞの工作員でした、なんて言われても今なら全然驚きませんよ?」

 

 姿は見えない。だが、確かに奴は接近しつつある。つい数分前に、橘を守るためにあの男と対峙したときの恐怖が蘇り、クロとシロを襲う。

 今の二人の心境を一言で表すならば、絶望の二文字が相応しいだろう。

 

「……クロナちゃん、ナシロちゃん」

 

 その時、弱々しい小さな声で自分たちを呼ぶ声が聞こえた。

 反射的にそちらを向いて、二人は息を呑んだ。

 

「た、橘、さん……?」

 

「そ、それ……」

 

 二人は震える指で、彼女の背中を指差した。橘は億劫そうに自身の背中に視線をやった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……あぁ、これね。さっき天井が落ちてきたときに破片がたくさん飛んできてたのよ」

 

 何でもないことのように言ってるが、今の橘の状態ははっきり言って危険……いや、もはや手遅れな状態だった。

 

「そ、んな……」

 

「わたしたちを、庇って……?」

 

 クロたちは目の前が真っ暗になるような錯覚に襲われた。自分たちのせいで、橘はすでに瀕死だった体に鞭打ち、さらに深手を負ったのだ。

 自責の念が、二人の胸を容赦なく抉った。

 

「気に、することじゃないわ……どの道、あの子に後ろから刺された時点で、助からないのは……分かってたことだし……」

 

 その直後、橘は大きく咳き込み吐血した。

 

「橘さん!?」

 

「喋らないで、傷口が開いちゃう!」

 

「いいから、聞きなさいッ……」

 

「「……ッ!」」

 

 その声は小さく、相変わらず弱々しかったが、彼女の必死な形相に二人は押し黙った。

 

「この施設の地下四階には、用済みになったガストレアや、処分が決定した孤児を……廃棄する排出口が、あるの……地上は……おそらく封鎖されてるわ……でも、あそこなら……」

 

 徐々に、言葉の間隔が開いていく。温もりが薄れていく。彼女の体から、何かが離れていく。

 不意に、橘の手がクロとシロの頬に触れる。

 

「不思議ね……顔も声も、違うのに……貴女たちを、見ていると……どうしてか、あの娘を重ねてしまうの……ふふふ……なんで、かしら……ね」

 

「そ、れは……」

 

 彼女の独り言とも取れる疑問に、クロたちは言葉に詰まった。それは自分たちも同じだったからだ。

 人間の死者に対する後悔や執着といった『未練』が生み出す、今を生きる者に失った大切な誰かを重ねるという愚行。橘が助けを求めるクロの中にかつて救えなかった娘を見たように、クロたちもまた、亡き母の姿を彼女の中に見ていたのだ。

 

「……ねぇ。貴女、たちに……一つだけ、お願いが、あるの……」

 

「な、なに……っ?」

 

「シロたちっ、なんでもするよ……!」

 

 クロとシロは泣いていた。おそらくコレが、彼女が自分たちへ残す最期の言葉(遺言)だと、理解したから。

 

「身勝手な、ことなのは、分かってる……貴女、たちに……こんなこと、言える資格なんて……ないこともっ」

 

 橘の頬を涙が伝う。

 

「……だけど、どうか……お願い……私の、ことは……許さなくて……いい……一生、恨んでくれて、も……いい、から……」

 

「恨むわけないよぉっ!!」

 

「許すからぁ! わたしたちにしてきたことっ、全部許すからぁっ!!」

 

 限界だった。二人は橘の手をそれぞれ握り、しがみついた。

 

「…………どう、か…………生、きて……幸せ、に…………な………っ、て…………」

 

「待ってぇ! 約束するから! だからお願い、いかないでぇ!!」

 

「わたしたちをっ、シロたちを、パパとママみたいに置いていかないでよぉ!! 橘さん!!」

 

 二人の少女は何度も彼女の名を呼んだ。けれど、いくらその名を叫ぼうと、彼女が答えることはない。

 いくら体を揺すっても、彼女の安らかで、優しく、穏やかな寝顔が歪むことはもう二度と、ない。

 

「止めを刺しに来たつもりでしたが、どうやらその必要はないみたいですね」

 

 背後から投げられた声に、ビクリと肩が跳ねる。

 振り返ると、不気味に微笑むネストが佇んでいた。

 

 クロとシロは橘の亡骸を守るように立ち塞がり、瓦礫の破片を手にネストを睨みつけた。

 それを見て、ネストはケラケラ笑う。

 

「うっはぁ、めっちゃ敵意向けられてるー。ぼく、貴女たちに何かしましたっけ?」

 

「ふざけないで! 橘さんが死んだのはあなたの……お前のせいじゃないか!」

 

「───は? ちょっと意味不明なんですけど。どうしたらそういう結論になるんですか? 確かにぼくは彼女を殺そうとはしましたが、実際に彼女を後ろから刺し、殺したのは()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「「……!?」」

 

 それまでどんな状況だろうと決して絶やすことのなかった笑みを消し、能面のような無表情で淡々と、事実のみを口にするネストの言葉は、幼い少女たちの心を容赦なく抉った。

 

「さて、と。本来ならぼくの仕事は彼女が死んだ時点で終わりだったんですが……」

 

 ネストは大げさに崩壊した施設内を見渡した。

 

「これはよくない。非っ常ーによくない。施設の機能がほとんどダウンしてしまっている……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 まるで三日月のように、ネストの口元が裂ける。

 

「収容できないということは捕まえたところで意味が無いということになります。そして、捕まえる意味がないということはつまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ぞわり、と。全身の毛が粟立つ。歯の根が合わない。体の震えが止まらない。

 逃げたい、逃げなければならい。それなのに自分の足は、震えるばかりで決して動いてくれない。

 クロとシロの心は完全に恐怖に支配され、もはや自分の意思では瞬きさえ出来なくなっていた。

 

「貴女たちも憐れですねぇ。黒い死神なんて存在がガストレア戦争で活躍していなければ、今ごろ"普通の人間"として過ごせていたでしょうに」

 

 ネストはゆっくりとコートを脱ぎ、袖を捲った。

 

「では、さようなら」

 

「え───?」

 

 気がつけば、ネストがすぐ目の前にいた。

 

「ボールを相手のゴールにシュゥゥゥーッ!!」

 

 ゴグシャア!! という轟音が炸裂した。

 踏み込みの衝撃で床が陥没するほどの勢いで放たれた蹴りが、弧の軌跡を残してシロの横腹を捉えたのだ。

 蹴り飛ばされたシロはそのまま砲弾のような速度で廊下の壁に叩きつけられ、地面に落ちるとそれきり動かなくなった。

 

「……ッ!? ナシ───」

 

「超! エキサイティン!!」

 

 クロが妹の名前を呼び終えるより前に、ネストの拳が彼女の鳩尾に突き刺さり、その華奢な体軀を宙に浮かび上がらせる。ふざけた掛け声とは裏腹に殺人的な威力を誇る彼の拳打は、その凄まじい運動エネルギーを余すことなく伝達し、クロの体内を蹂躙し、暴れまわる。

 骨が折れ、内臓が破裂する音が耳朶を叩いた。

 

「ご、ばぁッ……!」

 

 明滅する視界。口内に広がる鉄の味。苦悶と共に吐き出された真っ赤な液体。それをネストはひょい、と横に回避する。

 全身の力が一気に抜け、意識が遠のいていく。

 

(ごめん、なさい……橘さん、約束……守れ、なか……っ、た……)

 

 その場に崩れ落ち、心の中で橘に謝罪しながら、クロの意識は闇に沈んだ。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「それにしても、羨ましいくらい満足そうな顔で死んでますね」

 

 脈を確認し、確かに絶命していると理解した上で念には念を入れて既に停止している心臓を完全に潰した後、ネストは血で汚れた手をハンカチで拭いながら橘の顔を見下ろして呟いた。

 

 それから、今も施設内に断続的に発生する揺れに嘆息する。

 

「やれやれ。優秀な研究員の喪失に、実験体の脱走、施設は半壊。これはどうやっても粛清は免れませんね。責任者と末端の人材の何人かは確実に消されるでしょうし、研究は他のところに回され、この施設もおそらく廃棄される。ま、責任者とその他数名を消すのはぼくの仕事なんですけどね、面倒なことに」

 

 両手の掌を上に向け、肩をすくめる。責任者の姿は(四階)で確認済み。他何人かは見せしめの意味合いが強いため正直に言って誰でもいいのだが、わざわざ取捨選択するのも面倒なので責任者の側にいる人間を適当に処理すればいいだろう。

 

 とは言え、わざわざ下に足を運ぶ必要はない。橘の意図にもよるが、仮に彼女がこの施設を破壊するつもりで爆弾を仕掛けたのなら、放置しても彼らは生き埋めになるだろう。

 逆に地下四階で放ったガストレアと同じように陽動が目的なら、施設は崩れず、彼らは生存本能から安全な地上を目指すはずだ。もしそうなったなら、施設の玄関からバッティングセンターのボールのように外に飛び出す彼らを一人ひとり殺していけばいい。

 

「であれば、取りあえずぼくも地上を目指しますか。あ、そう言えば確か二階は研究エリアでしたね。せっかくなので、余裕があったら寄って行きましょう。そうと決まれば善は急げ。『L.D.O.』、行きますよ。はー、忙しい忙しい!」

 

 そう言ってネストは、脱いだコートを着直し、『死体』と共にその場を後にした。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 埃っぽいにおいと、鉄っぽい味がする。砂でも入ったのか、口の中がジャリジャリとしていて気持ち悪い。

 

「───ッ、───!!」

 

 誰かが、泣きながら自分の体を揺すっている。待って、すぐ起きるから。だからあと少しだけ、この穏やかな微睡みの中にいさせて。

 ……だけど、なんだろう。何か大切なことを、忘れているような……

 

「クロナっ! クロナぁっ! 起きてッ、起きてったら!! お願いだから、目を開けてよぉ! お姉ちゃん!!」

 

「ナ、シロ……?」

 

 鉄のように重い瞼をゆっくりと押し上げると、そこには瞳を潤ませながら目を見開く妹の姿があった。

 

「よかったぁ……! もうぅ! どんなに揺すっても叩いても全然起きないから、本当に死んじゃったかと思ったんだよ!?」

 

「死ぬ、って……いや待って。そう言えばわたしはどうして、ここ、に───」

 

 その時、クロの瞳に橘の遺体が映った。一時的な記憶の混濁が解消されるには、それだけで十分だった。

 

「……そっか。わたしたち、あのネストって男に……」

 

「うん。多分あの人、動かなくなったわたしたちを見て死んだと勘違いしたんじゃないかな。実際、人間だったら死んでたと思うし……」

 

 クロは改めて自分のお腹に手を当てる。骨は折れてないし、内臓の痛みもない。あの男に与えられた必殺の一撃は、完全に治癒していた。

 

 これが、喰種の再生力。

 

 けれどクロもシロも、その事実を素直に喜ぶことができなかった。そもそも自分たちが喰種にされなければ、こんな目に遭わずに済んだのだから。複雑な感情が二人の胸中を覆い尽くした。

 

「……シロ、肩貸して」

 

「……うん」

 

 だけど今は、その感情は置いておく。そんなことを考えるよりも、先にやらなければいけないことがある。

 

 シロの肩に手を回し、支えてもらいながらクロは橘の元へと向かった。

 

「橘さん。わたしたちは、あなたのことを忘れません」

 

 涙は流さない。きっと彼女は、それを望まないから。

 

「"生きて幸せになる"って約束、シロたちが果たせるかどうかは……正直わかんないけど」

 

 だから、なんとかして笑ってみせる。笑って別れを告げる。きっと彼女は、それを望んでいたから。

 

「だけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 二人は橘の両側に回り、彼女の手を胸の上で組ませた。

 

「助けてくれて、ありがとうございました」

 

「さようなら。それから……おやすみなさい」

 

 クロとシロは一度頭を下げた。立ち上がり、もう少しだけ傍にいたい思いをどうにか押し殺して、二人は彼女に背を向けて歩き出した。

 

 命を賭して助けてくれた、恩人との約束を守るために。

 

 

 

 

 



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第22話 猫を蹴る

 お久しぶりです(震え)
 モチベが消失したり、そもそも執筆時間が取れなかったりで、気がつけば前回の投稿から3年も経ってました。でも原作の方は8年経ってるからセーフだよなぁ!?(暴論)

 待っていてくれた方はありがとうございます。また期間が空くことがあるかもしれませんが、失踪だけはしないのでこれからもよろしくお願いします。


 kick the cat=八つ当たり

 

 

 

 

 クロとシロが研究施設から抜け出したあの日から、二年。

 

 二人は現在、近所でも仲が睦まじいと評判のとある夫婦のもとで、温かく平穏な日々を送っていた。

 

 その夫婦は日々の生活にこれと言った不満はなかったが、唯一、子どもが出来にくい事だけが悩みだった。

 なかなか子どもに恵まれず、どこに行っても聞こえてくる親子の笑い声に、彼らはいつも……どこか寂しい思いをしていた。

 

 そんな彼らはある日、空腹に喘ぎ、道端で行き倒れていた少女たちを見つけたのだ。

 

 子どもを欲しがっていた夫婦と、親を亡くして行き場を失った子どもが出会った。

 

 いくつもの偶然が積み重なったそれは、彼らにとってもクロたちにとっても、奇跡と呼べるほどに幸運なことで───

 

 

 

 

 

「───このっ、暴れんな! 大人しくしろ!」

 

「痛い! 離して、離してよぉ!」

 

「くそっ、やめろッ! 妹に触るなッ!!」

 

 

 

 

 ───当然、そんな幸運を彼女たちは持ち合わせていなかった。

 

 

 

 

 

「ぐっ! ……っ()ぇなぁっ! 暴れんなって言ってんのが聞こえねぇのか!?」

 

「か、は……ッ!?」

 

「ナシロ!! こっの、くそ野郎ぉおおおおッ!」

 

「お前もさっきからぎゃあぎゃあ(うるせ)ぇんだよ!!」

 

「あがっ……!?」

 

「お、姉……ちゃん……」

 

 施設から逃げ延びた二人を待ち受けていたのは、柔らかな温もりや安心に満ちたものとは程遠い、冷たくて、惨めで、汚泥にまみれた日々だった。

 暖かく満ち足りた家庭しか知らない彼女たちに対して、世界は、人は……どこまでも残酷だった。

 

 親もおらず、血や泥で汚れたぼろぼろの衣服を身にまとう子どもに手を差し伸べる者など一人もいなかった。

 

 代わりに、空腹という魔の手が二人の肩を叩いた。

 

 このままでは餓死してしまうと直感したクロとシロは、何度も児童養護施設を訪ねようとしたが、その度に施設での記憶が蘇り、歯を食いしばりながら踵を返した。

 

 ならばと、ガストレア戦争で家を失った者たちの為に無償で食料を提供している『炊き出し』に参加すれば、列に並べず腹を空かせていた大人に食料を奪われる始末。

 再び列に並び、奪われ、また並び直しては奪われる。それを八回ほど繰り返すと、クロとシロは来たときよりも一層汚れた姿でその場を離れ、二度と『炊き出し』に参加することはなかった。

 

 ───ああ、パパの得意料理だった団子のお菓子と、ふわふわオムライス……また食べたいなぁ……。

 

 飲み水にはそこまで困らなかった。水飲み場が設置されている公園があちこちにあったからだ。けれど稀に、柄の悪そうな連中が飲み水を占有することもあった為、そんな時は背に腹はかえられぬと泥水や草の汁を啜った。

 

 ───ママがいつも作ってくれた温かいココアを、もう一回飲みたいなぁ……。

 

 常人であればたちまち猛烈な下痢や嘔吐に襲われ脱水症状に陥るところだが、生憎と彼女たちは常人どころかそもそも人ですらない。例えどれだけ腐った水を飲んだところで、胃を壊すことはない。

 最悪で最後の手段ではあるが、味や臭い、気分を度外視すれば喉の渇きに悩まされることはないという事実は、彼女たちにとっては唯一の救いだった。二人は初めて、喰種となった自身の体に心の底から感謝した。

 

 問題は食料だった。『炊き出し』に参加しない以上、食料を安定して調達する手段などそう多くはない。

 真っ先に思い浮かんだのは、『炊き出し』のときに自分たちから食料を何度も奪っていった大人たちの姿。しかし、奪われた側の人間として、弱者から一方的に搾取するあんな連中と同じ真似はしたくはなかった。

 

 ガストレア戦争以前に時折テレビで取り上げられていた『物乞い』というものも試してはみたが、投げられたのは好奇の視線と侮蔑の言葉だけだった。

 

 

 

「───う、おえぇぇぇえええッ!!?」

 

 

 

 だから、彼女たちはゴミを漁った。売れ残ってしまい廃棄が決まったスーパーやコンビニの弁当。飲食店が出す生ゴミ。

 容器にまとわりつく、鼻が曲がりそうな腐臭に胃を空にしたのは一度や二度ではない。

 

「……シロ、大丈夫?」

 

「はぁ、はぁっ…………ごめん、クロ。まだこの臭いに慣れなくて」

 

「謝ることないよ。無理しなくていいから、ゆっくり、少しずつ食べよ」

 

 それでも、この空腹を満たせるのならと、二人は耐え続けた。

 

 だが、ようやく臭いにも慣れ、食料問題の心配がなくなったのも束の間。今度はクロたちが寝床や食料調達に利用していた区域が別のホームレスの縄張りであったことが発覚。

 戦時中という状況も相まってホームレスたちも非常に神経質になっており、故意でないとは言え縄張りを侵されたことに激怒した彼らはクロたちを追いやった。

 

 追手を撒いた頃には日はすっかり暮れていた。

 ふと、夜空を見上げれば、冷たくて細かい何かが顔を叩いた。雨だった。

 

 ……最悪だ。ただでさえ少ない体力をひどく消耗してふらふらなのに、このままでは雨に体温を奪われて衰弱死してしまう。どうにか雨風をしのげる場所はないだろうかと、視線を正面に戻した時だった。

 

「………あ」

 

「ここ、は……」

 

 二人の目に飛び込んできたのは、もう何年も使われた形跡のない廃墟都市(ゴーストタウン)だった。どうやら逃げるのに夢中になり過ぎて、都心から離れた外周区と呼ばれる区域にまで来てしまっていたらしい。

 視線を少し遠くに向ければ、都心から見えていた時以上に巨大に映る何枚もの黒い石碑(モノリス)が、暗い空模様の中、冷たい雨に晒されながらそれでも毅然とした様相で立ち並んでいた。

 

 とても静かな場所だった。自分たち以外には誰もいない。()がいない。どんなに強く耳を塞いでも容易くすり抜けたあの怒号や悲鳴も、泣き声さえも、今は聞こえない。

 まるで、世界から自分たち以外の存在がすべて消え去ったかのような、そんな安らぎすら覚えた。

 

 適当な廃ビルに入ると、二人は虫食いだらけのカーテンを窓から引き千切って毛布の代わりにした。身を寄せ合い、寒さを凌いだ。

 しばらくすると、ようやく気を緩めることができた反動か、一気に眠気が押し寄せてきた。寝心地は最悪だったが、今まで常に気を張り続け心身共に疲労がピークに達していた二人は泥のように眠った。

 

 翌朝、起床したクロとシロは寝ぼけ(まなこ)で挨拶を交わし、その時初めて互いの片眼が赫く染まっていることに気づいた。

 一体いつから赫眼に(赤く)なっていたのか。昨日か、一昨日か、それとも先週からなのか。

 

 覚えていないが、とにかくこのままではマズイと二人は思った。

 

 ヒトは自分とは異なるモノを嫌い、分からないもの、理解できないものを恐怖し、排除しようとする。それは種を存続させるための、生物の本能と言ってもいい。

 

 ガストレア戦争が終結して間もないこの時代、モノリスの建設によってガストレアの侵攻はかろうじて防げた。だが、全く被害のなかった都心部付近の住民はともかく、直接ガストレアの脅威を目の当たりにした外郭に暮らしていた者の多くは奴らと同じ赤い眼を見るだけで混乱やパニック状態になる戦争後遺症───ガストレアショックに罹患し、症状が深刻な者の中には『赤』というただの色にさえ拒絶反応を示す者までいた。

 

 言うまでもないが、戦争というものは起こっている最中だけでなく、終わった後の方が悲惨で、そして陰惨である。

 

 戦時中、各国の政府は人類を脅かすガストレアがどういった存在なのか知らせるために、ガストレアウイルスを投与された実験用ラットが異形に変貌する過程の一部始終を市民に公開。その映像は世界中で、戦時中はもちろん戦後にも何度もテレビで取り上げられていた。

 

 人類に仇なすモノ達の脅威を人々に明確に認識させ、共有する。政府が下したその判断は正しい。

 

 ───だが。

 

 対岸の火事という(ことわざ)のように、所詮は画面越しに惨劇(向こう岸で起きている火事)を見ていただけの人間と、実際に惨劇を経験した(火事の現場にいた)人間とでは新たに発覚した脅威に対する認識が致命的に違う。

 さらに言えば、ガストレア戦争によって人々は衣食住を保証されない生活を余儀なくされ、日常的に多大なストレスに晒されていた。彼らの精神は既に限界だった。

 そんな状況で、新たに発覚したガストレアのあまりにも理不尽で不条理な情報。

 

 その映像は、多くの人間(被害者)たちを凶行に駆り立てた。

 

 喉を潤わすために立ち寄った川に浮かぶ、後に『呪われた子供たち』と呼ばれる赤い眼をした嬰児たちの水死体。ただ目が充血していただけなのに、ウイルスに感染していると言われリンチに遭い、息絶えた若者。真っ赤な夕焼けにガストレアの赤い瞳を幻視し、錯乱する人々。そんな彼らを鎮圧するために日夜出動する自衛隊と警察。

 

 人類にとって共通の敵であるガストレアがモノリスの外を我が物顔で跋扈している中、その内側で人間同士が殺し合いをしているというのは何とも皮肉な話だった。

 

 ガストレアという目に見える脅威と、ウイルスという目には見えない脅威。生き残った人々は前者には恐怖を、後者には異常なまでの警戒心を抱いたのだ。

 

 いつ誰が化け物になるか分からない、と。

 

 兄弟が、姉妹が。両親が、息子が、娘が。友人が、目の前を横切っていった赤の他人が、実はウイルスに感染しているかもしれない。目を逸らした一瞬のうちに、ガストレアになっているかもしれない。

 そこから妄想は波紋のように広がっていく。不安が次々と、際限もなく湧き上がる。

 

 一瞬後にならなかったら数分後は? 数分後にならなかったら数時間後は? 夜寝て、翌朝目が覚めたらあの人が、あいつが、あの子が、彼が、彼女が───化け物になっていたら?

 

 怪物になってからでは遅いのだ。やられる前にやらなくては。

 

 目に見えない脅威への警戒はやがて目に見える他者への猜疑心に変わり、人々から良識と理性を剥奪し、彼らを人でなしへと変貌させていった。

 

 人外との戦争という、SFやファンタジーの世界では定番な、だが決して現実では起こりえない事象によって民衆が冷静な思考や判断力と共に人間性を喪失した世界。人々が狂乱に耽る土壌は整っていた。加えて終戦間もないこともあって、人々は『呪われた子供たち』のような赤い瞳を持つ存在に耐性がない。

 そんな世界で、瞳孔が赤いだけに留まらず、本来なら白目であるはずの部分が黒く染まっている人間を見つけたら、彼らはどうするか。

 

 考えるまでもない。確実に殺される。

 

 冷や汗が頬を伝った。二人は布団がわりにしていたカーテンを千切りって頭に巻き、それを斜めにずらして赫眼を覆った。

 

 多少激しく動いても布がズレないことを確認すると、クロたちは目下最大の問題である食料調達に乗り出した。

 しかし、安定して食料を入手できるゴミ箱はもう使えない。故に別の地区に足を運び、ホームレスの縄張りになっていないゴミ箱を探した。

 

 

 

 そして、結論から言えば───二人はそれから5日間、空腹に喘ぎ続けた。

 

 

 

(…………痛い……苦しい……いたい……くるしい…………)

 

 痛み。

 ただただ持続的に、絶え間なく、止むことも引くこともない激痛。

 それは空腹を訴える胃袋がもたらす、圧倒的な飢餓感だった。

 

 どうして、こうなったんだろう。

 

 空腹に喘ぎながら、数え切れないほど繰り返した自問。それに対し「わからない」と、これまた数え切れないほど繰り返した自答。

 

 頭の中を、そんな無意味な自問自答が渦巻くようになったのはいつからだったか。

 

 あれは……そう。楽しげに笑う親子連れの姿を、街中で偶然見かけた時からだ。

 父親と母親と手を繋ぐ、双子の少女たち。その光景を目にして、どうしようもなく、思ってしまったのだ。

 

 どうして、あそこにいるのが自分たちじゃないんだろう。

 どうして、自分たちの隣には両親がいないんだろう。

 どうして、彼らは両親と手を繋げるんだろう。

 

 絶望が、虚無感が、泥のように全身にまとわりつく。

 息がつまりそうな閉塞感と、消えることのない胸の痛み。心が軋み、精神が悲鳴を上げる。

 

(……だめ、だ……このままじゃ……)

 

 何でもいいから理由が欲しかった。とにかく何かに縋りたかった。

 人は苦しみの渦中にいると、そこに意味を求めようとする。自分たちがこんなに辛い思いをするのには、きっと何かしら理由があるはずだ、と。

 あの地獄(施設)から命からがら逃げ延びた自分たちが、今こうして再び地獄(辛酸)を味わっているのには、何か然るべき理由があるはずなのだ。()()()()()()()()()()()()()

 

 もしもこの苦痛に何の意味もないのなら、私は……。

 

「…………………ぁ………………あ、ぁ……………」

 

 すぐ隣から聞こえてきた呻き声に、クロは虚ろになった目をゆっくりと右側に向けた。

 

 視線の先にあるのは、路地裏の壁を背に座り込みながら、()()()()()()()()から拝借した衣服に身を包み、ぐったりと自分に身を預ける、変わり果てた妹の姿。

 頬は以前よりもさらに痩せこけ、髪からは艶が完全に抜け落ち、肌はパサつき、唇はひび割れ、半開きになった口からこぼれた涎が糸を引いて地面に落ちた。おそらく、自分も似たような様相していることだろう。

 

 別にこの5日間、なにも飲まず食わずだったわけではない。水に関しては公園に行けば問題ないし、仮に柄の悪い連中に水飲み場を占拠されても、最悪草の汁を吸えばいい。

 

 そして食料においては、()()()()()()()()()()()多少は飢えを凌げると知った。

 

「…………?」

 

 ふと、左手にチクチクとした痛みを覚えた。釣られて、誘蛾灯に吸い寄せられる虫のように、ゆらりと眼球を自身の手に向けた。

 ほら、噂をすれば何とやら。食料が向こうからやってきた。

 

 クロは、投げ出した自分の左手に群がってきた黒い害虫(食料)たちをぱっと捕まえると、右手で一匹掴み上げ、そのまま口へと運んだ。

 

「むぐ、むぐ…………ん。ナシロ、起きて」

 

「……っ! お、お姉ちゃん……?」

 

「大丈夫? また(うな)されてたよ」

 

「ごめん、私……」

 

「別に、怒ってないよ。それよりほら、食べよ?」

 

「うん……ありがとう、クロナ」

 

 そう言って力なく笑うと、シロはクロから食料を数匹受け取り、躊躇なく口の中に入れた。

 

 口内で暴れるそれを、元が何だったか分からなくなるくらい咀嚼し、嚥下する。

 咀嚼して、嚥下して、また咀嚼して、また嚥下する。

 

 特に感慨は浮かばない。不快感はない。嫌悪感もない。

 以前までは触ることすら躊躇していたのに、今となっては口に入れることにも抵抗がなかった。

 だってコレは、ただの食料なのだから。

 

 

 

 それからさらに()()()()()()()()

 

 

 

 ───……お腹、減った。

 

 いつものように、路地裏で死体のフリをして食料がやってくるのを待っている時だった。そんな事を考えたのは。

 別段おかしなことじゃない。胃袋の中から食物がなくなれば、脳に信号が送られ、空腹を認識する。当たり前のことだ。

 

(…………あぁ)

 

 問題なのは。

 

(ほ ん と う に お い し そ う)

 

 食欲をそそる対象が、()であるという点。

 

「クロ、ナ……? どう、したの?」

 

「!?」

 

 その声に、クロはようやく自身が妹の喉に食らいつこうとしていたことを認識した。

 

「な、なんでもない……」

 

「……? そう……」

 

 慌ててシロから顔を背け、気づかれないように口の端からこぼれた涎を拭う。これで何度目だろう。ここしばらく、気を抜けば妹を喰らおうとしている自分がいる。

 確かにクロは、普段からシロにこっそりと自分より多めに食料を渡してあげているため、空腹感はシロよりもずっと大きい。だが、いくら何でも人を、ましてや実の妹を食べたい(美味しそう)と思うなんて異常だ。

 

 ……いや、大丈夫。これはきっと、空腹感が原因なんだ。だから、とりあえず胃になにか入れれば問題ない。シロには申し訳ないけど、今日はいつもより……ちょっとだけ、多くもらおう。

 

(大丈夫……大丈夫……私は、正気だ……)

 

 そう考えながら、再び死んだフリに戻ろうとした時だった。

 

「───き、君たち! しっかりするんだ!!」

 

 目の前にソレがやって来たのは。

 

「大丈夫だよ、すぐに君たちを病院に運んであげるから!」

 

 膝をつき、こちらを安心させるような笑みを浮かべる男。そんな彼を視界に捉え───クロは両親が死んでから、初めて笑った。

 

「……………………………………あはは」

 

 直後、クロは男に飛びかかり、そのまま馬乗りになって地面に押さえつけた。

 

「う、おッ……!?」

 

 男は最初、少女の突然の暴挙に困惑した。だが、徐々に状況を理解し始めたと同時に、仮にも成人している自分がまだ小学生ぐらいの子ども、それも女の子に押し倒されたという事実に驚愕し目を見開いた。

 

 そして男は、

 

「あぁ、私いま───とってもお腹が空いてるの」

 

 少女の言葉に、耳を疑った。

 そして、少女の焦点の定まっていない虚ろな瞳と、ポタポタと唾液を滴らせながら嗤う顔に、正気を疑った。

 

「な、なにを……君は一体、なにを言って───」

 

「もう無理だ、ゴキブリで飢えを凌ぐのにも限度がある! 限界だ、限界なんだよ!!」

 

 飢えを無くせと精神が悲鳴を上げる。

 

「もう誤魔化しきれない、頭がおかしくなりそうなんだ。妹なのに、たった一人の家族なのに! 食べたくて食べたくて仕方ない!!」

 

 自身の声帯から無意味に垂れ流される雑音の意味を理解できない。

 

「でも出来ない、わたしにはそんな事できない!」

 

 いいや、そんな事はどうだっていい。今はとにかく……

 

「だからお願い。ねぇ、お願いだからあなたを食べさせて、食べさせてください、食わせて、食わせろ、喰わせろよ、オマエを!! ワタシに!!!」

 

 目の前の『ご馳走』を平らげてしまおう。

 

「うあああああああああああああ!!!??」

 

 叫び、喉元に喰らいつこうとする少女の拘束から抜け出そうと男は滅茶苦茶に暴れようとした。だが、その痩せ細った体躯のどこにそんな膂力があるのか、拘束されている腕からはギリギリと悲鳴が上がり、男の必死の抵抗も身じろぎ程度の動きにしかならなかった。

 目を血走らせ迫る少女の形相に、男は自らの死を覚悟した───その時だった。

 

「───お姉ちゃんッ!!!」

 

 ピシリ、と。まるで金縛りにあったかのようにクロの身体が硬直した。

 大きく開いた口を首元まで持っていき、後はその口を思い切り閉じるだけ。たったそれだけで、この狂わんばかりの空腹から抜け出せる。飢えを満たすことが出来る。

 

 ……だと言うのに。

 

 クロは静かに男の上から降り、俯いたまま、呆然とこちらを見上げる男に告げた。

 

「…………行って。私の気が変わらないうちに、早く」

 

「はっ……ぃ、いや、しかし……」

 

「行けよ!!」

 

「ひぃッ!?」

 

 男はわずかに逡巡するも、クロが怒鳴るように叫ぶと男はなり振り構わずといった様子で大通りへと走り去っていった。

 

「……クロナ」

 

「……………あはは、あの男の顔見た?」

 

 クロは振り向かなかった。

 

「まるで化け物でも見るような怯えた顔。ちょっと揶揄ってやろうって思っただけなんだけどなぁ。もしかしたら私、将来すっごい女優さんとかに、なれる才能っ、ある、かもっ……」

 

「クロナ!」

 

 故にシロは、姉を後ろから包み込むように、強く抱きしめた。

 ポタポタと、何かがクロの頬を伝って、地面に落ちる。

 

「殺そうとした……人をっ……ガストレアや、あのネストって奴みたいに……わ、私はっ、私……!!」

 

「大丈夫、大丈夫だから……!」

 

 崩れ落ちるように、その場に膝をつき、声を殺して震える姉を。安心させるように、落ち着かせるように、どこにも行かないように。シロはただ、抱きしめ続けた。

 

 路地裏に響く嗚咽が、聞こえなくなるまで。

 

 

 

 それから程なくして、二人は盗みに手を染めた。

 

 

 

「こらぁぁああああ!!! 待ちやがれガキどもぉぉぉおお!!」

 

「誰が待つもんか! 寝言は寝て言え!!」

 

 提案したのは、クロとしては意外なことだがシロだった。なぜならシロは、良くも悪くも真面目で、優しすぎるからだ。法を犯すことはもちろん、誰かから物を奪うという行為を、こんな生活を送ってきたとはいえ許容できるとは到底思えなかったのだ。

 そしてだからこそ、彼女がそれらを容認した理由が自分にあると簡単に理解できてしまった。

 

 大好きな姉が、人を殺さなくていいように、と。

 

 実際にそう口にした訳ではなかったが、クロはその思いに気づいていた。

 

「盗んだ商品を返しやがれぇぇえええ!!」

 

「なんで今回は一品ずつしか盗ってないのにあの人あんなに怒ってるの!?」

 

「分かんないよ! できるだけ安い食べ物を選んだのに!!」

 

「高かろうが安かろうが盗んでる時点でアウトなんだよガキ共! 五十歩百歩って言葉を知らねぇのか!!」

 

「ヒィ!? は、初めて見たときから思ってたけど、あの人ヤクザが仏に見えるくらい顔が怖いんだけど、本当にお巡りさんなの!?」

 

「あんな顔の怖いお巡りさんいるわけないじゃん! きっとヤクザがお巡りさんのコスプレしてるんだよ!」

 

「誰がヤクザでコスプレイヤーだこの野郎! 俺はそこまで強面じゃねえし、本物の警察だっつーの!! 疑うならこのバッジを近くで見てみろ! いや、なんなら触らせてやるからそこで止まれ! 人は見かけによらねえってことを教えてやる!!」

 

「……いや顔怖いって自分で認めてるじゃん!」

 

「自分で認めちゃってるよ、顔怖いって!」

 

「……言われてみりゃそうだな!! って、んなこたぁどうでもいいんだよ! いいからとっとと盗んだ商品を返せ! 今ならこっちのお洒落なブレスレットも見せてやるぞ!」

 

「あのお巡りさん必死だねナシロ! 開き直った挙句に露骨に話題を逸らしてきたよ! て言うかどこの世界に手錠が見たくて逮捕される人がいるんだろうね!」

 

「ホントあのお巡りさん必死だねクロナ! しかも気づいてないのかもしれないけど、バッジと手錠を私たちに見せつけながら追いかけてるから、あのお巡りさんの走り方めちゃくちゃダサいよ!」

 

「喧嘩売ってんのかお前ら!? ええい覚悟しろよ、今日こそは捕まえて店の人に頭下げさてやるからなッ!!」

 

「ああもう!」

 

「しつこい!」

 

 とは言え、何度も盗みを繰り返せば店員に顔を覚えられるのは当然のことで、そうなってしまうとそもそも盗みを働く前に店を追い出されるか、通報されてお巡りと鬼ごっこする羽目になる。

 

 考えた結果、二人は盗む対象を『食料』そのものではなく、『食料を買うための金銭』に切り替えた。

 

 最初は分かりやすく、不用心にもズボンの後ろポケットに財布を入れている人を狙った。

 ある時は人混みに紛れ、またある時は正面から大胆に。

 

 当然、盗みに成功したこともあれば、失敗したこともある。運が良ければ反吐が出るような綺麗事を聞かされるだけで済むが、最悪、相手のストレス発散も込みで何時間も殴られ蹴られ続ける。何せ、相手には盗まれた財布を取り戻すという大義名分がある。誰も止めようとはしない。誰も助けてはくれない。

 

 だから、嫌でも手先は器用に。逃げ足は早くなった。

 

 そうして何度もスリを繰り返すうちに、財布をポケットに入れてる連中の所持金は大したことない事に気づいた二人は、標的を変えた。

 

 次に狙ったのは、ハンドバッグを片手にハイヒールをかつかつと鳴らして歩いてる、いかにも金を持っていそうな人。ポケットに財布を入れて街中を歩く連中よりも遭遇率は少なかったが、彼女らは予想通りかなりの大金をバッグに入れていた。

 その後も、リュックを背負った人、スーツを着た人、ラフな格好をした人と、様々な人たちから金銭を奪っていった。

 

 そうして彼女たちは、奪った金銭で清潔な衣服と、温かい食べ物を買った。

 

「お、美味しい……! ねえナシロ、このハンバーグ、すっごく美味しいよ! 食べる?」

 

「いいの!? じ、じゃあ一口ちょうだい! 私のもクロナにあげるから! こっちのスパゲッティもとっても美味しいんだよ!」

 

「ホント!? ありがとうシロ!」

 

「うん!」

 

 楽しかった。

 財布を盗られたことに気づいた彼らの慌てた表情は、怒りに歪む相貌は、最高に愉快なものだった。いい気味だと、ざまあ見ろと、そう思った。

 ガストレア戦争が終結してから、もうすぐ二年。東京エリアは着々と敗戦前の日本の風景を取り戻していった。

 

 だが……いや、だからこそ、体が震えるほどの怒りを覚えた。

 

 どうして、自分たちはこんな生活を送っているのに、お前たちは何食わぬ顔で普通の生活を謳歌しているのか、と。

 

『なあ、たしか物乞いって犯罪になるんじゃなかったっけ? てことは、もしここに警官が通り掛かったらあの子たち捕まるってこと? やばいな』

 

『家出……いや、ありゃ孤児か? おおかたガストレア戦争で親ぁ亡くしたんだろな。可哀想に』

 

『あーいうの見ると、自分がどれだけ恵まれてるかってのを痛感させられるよねー』

 

 

 

 どうして手を差し伸べてくれないの?

 

 

 

『ねえ見てあの子たち。服はボロボロで髪もボサボサ。しかもすっごく痩せてる。まるで野良犬みたいね』

 

『アレってもしかしてストリートチルドレンってやつ? へー、俺初めて見たよ。つか日本にストリートチルドレンなんていたんだな』

 

『ちょっと、アイツらさっきからずっと僕らのこと見てるんだけど。気味が悪いよ』

 

 

 

 どうしてそんな目で私たちを見るの?

 

 

 

『いやいや! どうして人様が汗水垂らして稼いだ金を、君らみたいな寄生虫にくれてやんないといけないわけ?』

 

『うわっ、ヒドイ臭い。ちゃんとお風呂入ってるの? って、入ってたらそんな汚い格好してないか!』

 

『分からないんだけど、君らって何のために生きてるの? 良かったら教えくれないかな?』

 

 

 

 どうして私たちを笑うの?

 

 

 

 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。

 

 どうして……誰も、助けてくれないの?

 

 生活に余裕ができたのなら、少しくらい、私たちにもその『当たり前』を分けてくれたっていいじゃないか。

 

 そんなにも、自分より卑しい人間を見るのが心地良いか。そんなにも他人の不幸が愉快か。そんなにも───自分は恵まれていると、底辺などではないと、優越感に浸りたいのか。

 

 だったら、もういい。誰も助けてくれないのなら、自分たちだけで生き抜いてやる。真っ当に生きることを当然とし、犯罪に手を染める者を見下すお前らから、一時(いっとき)でも平穏を奪ってやる。

 

 東京エリアのどこかの街中で、今日も大人の罵声が響き渡っていた。

 

 

 

 そんな生活を繰り返していたある日。

 

 彼女たちはいつものように街中を散策し、今日はいくら奪ってやろうかと、当然のような顔で平穏を享受している連中たちを物色していた時だった。

 明らかに堅気の人間ではなさそうな集団が、我が物顔で大通りを歩いているではないか。しかも普段自分たちを蔑むような目で見る大人たちは、ある者は怯えを孕んだ瞳を、またある者は媚びるような笑みを彼らに向けていた。

 

 そして、その光景を前にクロは、

 

 ───なんだ、それは。

 

 苛立ちを覚えた。

 

 ───なんなんだ、その目は。

 

 なぜ、どうして。

 あの男たちと自分たちの何が違う? どっちも『当たり前』を分けてもらえなかった者同士だろう。なのになぜ大人たちは、自分たちには罵声を浴びせるのに、彼らには何も言わないんだ? どうして自分たちは『見下ろされて』いるのに、彼らは『見上げられて』いるんだ?

 

 クロは一つ舌打ちし、大人たちから向けられる畏怖の視線にニヤニヤと悦に浸る彼らに目を細め、

 

「…………気に入らない」

 

 そう吐き捨てた。

 

 それから二人の標的は『どこにでもいるただの大人』から『彼ら』へと移った。

 ここ二年で培ったスリの技術で彼らから苦もなく財布を盗み、札束を抜き取って、空になった財布を顔面にお返ししてやった。

 

 当然、公衆の面前で恥をかかされた彼らは怒り心頭でクロたちを追うも、盗みのスキルと共に逃走スキルを磨いていた彼女たちには他の大人たちと同様に敵わなかった。

 

 

 

 少なくとも、今日この日までは。

 

 

 

「"暴れるな"ッ、"騒ぐな"! こんな簡単なことがッ、どうしてッ、出来ない!!」

 

「ぐっ、かはっ、うっ……!!」

 

 言葉に合わせて、男の蹴りが容赦なく腹に叩き込まれる。それと同じタイミングで、クロの体は僅かに跳ね、口からは苦悶が漏れる。それを見て、周囲にいた他の男たちは馬鹿にするように笑っていた。

 

「どうして俺たちが、何度もお前らからスリに遭ってんのに対策しなかったと思う?」

 

 そう言って、眼鏡をかけた男はドラム缶の一つに腰掛けながら煙草に火をつけた。

 

「お前らの逃げ足の速さは厄介だった。情けないことに、『走って追いかける』なんて正攻法じゃあとても追いつけないほどにな」

 

 日はすでに沈み、建設途中のビルのため光源はブルーシートの隙間から入り込む心細い月明かりと、男が咥える煙草の火だけだ。

 

「で、逆に考えた。追いつけないなら()()()()()()()()()()()()()、ってな。そのために敢えて『何度も金をスられてんのに懲りない間抜け』を演じてたってわけだ。そしたらお前らは味をしめ、特に深く考えもせず俺たちに手を出し続けた。少しずつ、俺たちの島に踏み込んでることに気づかずにな」

 

 眼鏡の男が腰を上げ、クロのすぐ近くまで来ると、それまで彼女を痛めつけていた男は渋々といった様子で、他の男たちと同様に距離を置いた。

 

 腹部を押さえ、むせ返りながら、クロはどうにか視線だけ自分の目の前に立つ男に向けた。

 

「ま、ガキ相手にここまですんのもどうかと思うが、こっちにもメンツってもんがあるんだわ。だから悪いんだけど」

 

 眼鏡の男はクロの前にしゃがみ込むと、人の良さそうな笑みを浮かべ、

 

「───ここで死んでくれや」

 

 なんて事ないように、悪びれもせず、そう告げた。それと同時に、それまで見ているだけで何もしなかった周りの男たちが距離を詰めてきた。

 

「は……ま、まって……」

 

 喉が急激に干上がり、涙を流しながら。

 無意味なのは分かっている。ただそれでも懇願せずにはいられなかった。

 

「も、もうお金を盗んだりしませんっ。だから、お願いします、殺さないでください……せめて、妹だけは……お願いします……!」

 

 まるで親に叱られて謝る子どものように。

 身じろぎするだけで痛む体をどうにか動かして、顔をくしゃくしゃにしながら額を地面に擦りつけた。

 

 その時だった。

 

「なーんてな!」

 

「…………へ?」

 

「冗談だよ冗談。さすがにガキ殺すなんて酷ぇ真似するわけねぇだろ」

 

 はっはっは、と笑う眼鏡の男にクロはポカンとする。

 痛みと疲労でロクに働かない頭ではあったが、それでも"とりあえず殺されはしない"ということだけは理解できた。恐怖の色しかなかった彼女の瞳が少しずつ希望の輝きを取り戻す。クロにとって男の言葉は、暗闇に差し込んだ唯一の光だった。

 

「じゃ、じゃあ……!」

 

「あぁ」

 

 ならば善は急げだ。男の気が変わらないうちに、今すぐにここを離れて───

 

 

 

 

 

「───()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 人間は、ここまで醜く笑うことができる生き物なんだと、クロはこの時初めて知った。

 

 男には最初からクロたちを助ける気なんてさらさらなかった。にも関わらず、わざわざクロに『助かるかもしれない』という希望を抱かせたのは、単純に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「あぁ……やっぱ人が絶望した瞬間の顔ってのは堪んねぇなぁ」

 

 かつてクロは、ネストという男の笑みを見て、笑っているのに笑っていないという矛盾……その得体の知れなさに恐怖した。

 対して眼前の男が浮かべる笑みは悪意に満ちていた。弱者を甚振り、辱め、嬲ることに心の底から喜びを見出している、そんな顔。

 ネストの笑顔を『不気味』と表現するなら、目の前の男が浮かべる笑みはただただ『醜悪』だった。

 

「……は、はは…………」

 

 救いのなさすぎる現実を前に、今度こそ完全に心が折れた。自分の意思とは関係なく、乾いた笑いが口から漏れ、涙が頬を伝う。

 

「つーことでお前ら、終わったらちゃんとドラム缶に詰めとけよー」

 

 その言葉を合図に、バットに鉄パイプ、ナイフやノコギリを持った男たちが下卑た笑みを浮かべてゆっくりと近づいてくる。クロの方にはもちろん、

 

「く、ろな……」

 

 うつ伏せに倒れながら、懸命にこちらに手を伸ばすシロの方にも。

 

 そしてその光景は、

 

「………………………な」

 

「あ?」

 

 少女の折れた心を、再び繋ぎ直すには十分だった。

 

「……私の妹に、近寄るなぁぁぁああああああ!!!」

 

 血を吐くような咆哮。それは彼女の中から恐怖を吹き飛ばし、代わりに理性を焼き尽くすほどの憤怒を宿らせる。

 ふらつく足で立ち上がり、倒れ込むようにして前方に猛進。眼前に立ち塞がる男に体当たりするように押し退け、シロの元に駆け出す。

 

 しかし。

 

「が───ッ!?」

 

 ゴンッ!! と。突如、世界が揺すぶられるような衝撃が頭の左側から右側へと駆け抜けた。バランスを崩し、無様に地面を転がる。

 

 鈍く鋭い痛みを主張する頭の左側に手を持っていけば、どろりとした感触。そのまま持ち上げていた腕を下げ、真っ赤に染まった己の手と、鉄パイプを持つ男を見て、クロはようやく自身が鈍器で殴られたのだと理解した。

 

 そして、気づいた。

 

 本来バラニウム製の武器以外では傷つけることのできないはずの自分(喰種)の身体が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 喰種の肉体は基本的にバラニウム金属で作られた物でないと傷一つ付けられない。ではなぜ、その辺の工事現場でよく見かける鉄パイプ如きで、クロに傷を負わせることができたのか?

 

 答えはそう難しくはない。

 もともと施設にいた時はウイルスを餓死しない程度しか与えられず、しかもそのほとんどがネストに負わされた怪我の再生に使われた。そして、施設を脱出してからの二年間、二人はただの一度もガストレアウイルスを摂取してこなかった。

 

 喰種がウイルスを摂取しないことで被るデメリットは再生力の著しい低下と赫子の脆弱化だけではない。

 肉体の強度が並の人間レベルにまで落ちるのだ。それこそ、本来なら銃弾や刃物も通さない頑強な身体が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「おい、今ので死んでねーよな? こういうのは『反応』があるからおもしれーのに」

 

「大丈夫だって。血は出てるが死んじゃいねーし意識も飛んでねぇ。こいつは楽しめそうだ」

 

「ひひっ、それによく見りゃ結構な上玉じゃねーか。これも日頃の行いってやつかねぇ」

 

「っざ、けるな───がッ……!」

 

「あ、悪りぃ。聞こえなかったわ」

 

 立ち上がろうとして、頭と腕を乱暴に地面に押さえつけられた。

 カチャカチャと、金属が擦れ合う音が聞こえた。

 

「いやっ! やめて、やめてよぉ!!」

 

 唯一自由の利く目を動かして、シロの方に視線を向けた。

 血が目に入ったのか、視界は真っ赤に染まっていた。そして、グロテスクなほどに赤い世界で、服を剥ぎ取られる妹を見て───

 

 

 

「───助けて、お姉ちゃんっ!!!」

 

 

 

 ───今まで決して手放すまいとしていた何かが、あっさりと両手からこぼれ落ちた。

 

 

 

 

 

 気がつくと、クロは床に座り込み、泣きじゃくるシロに抱きしめられていた。

 

 そうして、なぜか泣きながら「ごめんなさい」と何度も何度も謝罪する妹を不思議に思いながら、ぼんやりとした意識のまま虚空に視線を彷徨わせる。

 

 ふと視界に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その触手からはポタポタと雨漏りのように血が滴り落ち、床に真っ赤な血溜まりを形成していた。

 

「──────」

 

 耳鳴りが酷い。さっきまではっきりと聞こえていたシロの声が、徐々に遠ざかっていく。

 

 シュルリ、と片目を覆っていた布が(ほど)け、爛々と光る赫眼が顕になり、視界が広がる。

 

(…………あぁ)

 

 赫子に向けていた視線を周囲に配る。そこにあったのは、惨劇の跡だった。

 

 上半身と下半身が泣き別れした者。

 踏み潰されたトマトのように床の染みになった者。

 首を無くした者。

 腹に風穴を空けた者。

 体を左右に引き裂かれた者。

 

 赤いペンキをバケツごとぶちまけたように、鮮血を撒き散らしながら周囲に転がる死体を、クロは無感動に見下ろしていた。

 

(……そっか。私、人を殺したんだ)

 

 あれだけ殺人に忌避感を抱いていたというのに、実際に事が起きて浮かんだ感想はそれだけだった。

 

 嬉しくもないし、悲しくもない。

 楽しくもないし、罪悪感もない。

 

 なんの感情も浮かんでこない。ただ、何かが欠けてしまったような喪失感と虚無感だけが、クロの内側を覆い尽くした。

 

 ふと、死体の一つがこちらを見つめていることに気づいた。

 

 否、一つだけではない。原形を留めている死体はもちろん、眼窩からこぼれ落ちているものも含め、この空間に存在する全ての眼球が、自分を捉えている。

 

 そしてそのことを知覚した瞬間、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「───え?」

 

 息を吸う間もなく水飛沫(みずしぶき)を上げて沼に呑み込まれ、暗闇の底へどんどん沈んでいく。

 

 水が冷たくて痛い。息ができなくて苦しい。

 苦悶の声は泡となって口から零れ、どんなに手足を動かして(もが)いても、まるで背中を誰かに引っ張られているみたいに下へ下へと引き摺り込まれていく。

 いや、実際に誰かに引っ張られているのだ。

 

 背中を掴む手をどうにか振り(ほど)こうとがむしゃらに体を捻り、拘束から抜け出す。

 そして水中だからと咄嗟に閉じていた目を何とか開けて、沼の底を見ると───

 

 

 

 

 

 ───()()()殺した人たちの手が、無数に自分へと伸びていた。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「────っ!!」

 

 弾かれたようにソファーから跳ね起き、素早く周囲を確認する。

 正面はベランダに通じているテラス戸。左は布団が収納されている押し入れ。右は耳を澄まさなくても生活音が聞こえるほど薄い壁。背後は玄関や台所へと続く引き戸。

 潜伏先として数週間前に借りた、何の変哲もないアパートの一室だ。

 

 周辺の気配を探り、たっぷり5秒も時間をかけて警戒を解く。

 

 ツゥー……と汗が頬を伝う。

 脳裏に浮かぶのは、無数の亡者たちに黒い沼底に無理矢理引きずり込まれる夢。その前にも何か別の夢を見ていたような気がしたが、思い出そうとすると頭痛がして、やがてどんな内容だったか分からなくなった。

 

 最悪の目覚めだ。黒い死神を殺したあの日から、ずっと同じような夢を見ている。 

 分からない。どうしてだ。今までこんな事、一度もなかったのに……。

 

 額を流れる汗を拭い、びしょ濡れになった服を脱いで、白地のシャツの上に薄手の黒いパーカーを羽織る。ズボンも内側が蒸れていたので、丈の短い白のホットパンツに履きかえる。

 

「───ただいま。クロ、起きてる? 食材買ってきたよ」

 

 着替え終えると、ちょうど玄関の方からシロの声が聞こえた。

 どうやら私が惰眠を貪っていた間に、買い出しに行ってくれていたらしい。

 

「いま起きたトコだよ」

 

 ちゃぶ台の上に無造作に置かれた携帯を手に取り、時刻を確認する。……8時10分、か。それなりに寝てたみたいだな。

 

「依頼人から連絡はあった?」

 

 引き戸越しに投げかけられた問いに、携帯を操作して、着信履歴をチェックする。

 

「ううん、まだ何も」

 

 どうやら私が寝ている間に連絡があったという事はなさそうだ。

 

 携帯を懐に仕舞い、洗面台で顔を洗おうと引き戸を開けると、私が着てる服と配色が逆であることを除けば全く同じ格好をしたシロが、ビニール袋を片手に食材を冷蔵庫に移していた。材料から察するに……夕飯はオムライス、だろうか。まあ、空腹が満たせるなら何だっていい。どうせ味なんて分からないのだから。

 

「クロナ」

 

「ん?」

 

「大丈夫? 顔、真っ青だよ」

 

「───────」

 

 その言葉に、なぜか初めて人を殺した日の光景と、目覚める直前に見た奇妙な夢を思い出した。

 

「あぁ、えっと……少し変な夢を見ただけだよ」

 

「……そっか」

 

 少しの間を置いて相づちを打つと、シロは再び食材を冷蔵庫に入れ始めた。

 

 またあの癖だ。

 シロは隠し事をする時、一瞬黙ってから相づちを打つ。まるで、本当に言いたいことを一度飲み込んでるみたいに。

 そう言えば、シロがこんな風に自分の意見をあんまり言わなくなったのは、いつからだっけ。

 

 私はシロから視線を外して洗面台へ向かった。鏡に写った自分の顔は、シロの言う通り真っ青だった。

 

「……そう言えば、いつになったら依頼人から報酬をもらえるのかな。もう一週間も経ってるのに」

 

「確かにね。仮にも大阪の国家元首なんだから、報酬を渋るって事はないと思うけど……」

 

 水で濡れた顔をタオルで拭きながら、シロのもっともな疑問に同意しつつ居間に戻る。

 

 そう、本来なら私たちは今ごろ東京エリアを離れ、他所のエリアに移っているはずだった。

 

 殺し屋なんてモノを生業としている以上、仕事があった地域に留まり続けるのは下策。何がきっかけで足取りを掴まれるか分からないのだから、仕事を終えたらできるだけ早く他の都市へ移るのが定石だ。

 

 他所のエリアの移動法は───あの男の指図(アドバイス)に従うのは癪だが───飛行機や船では足が付きかねないため徒歩だ。一応『訳アリ』の人間を専門に"裏口"と"足"を提供してくれる連中もいるにはいるが、ただでさえ正規の空路や航路のコストは馬鹿にならないのに、奴らがふっかけてくる値段はその倍近く掛かる。はっきり言って論外だ。

 だからと言って、未踏査領域を徒歩で突っ切るなんて常識的に考えれば自殺行為以外の何物でもないが、そこは非常識の塊である喰種の面目躍如。何の問題もない。むしろ道中でガストレアウイルスも補充できるからメリットしかない。

 

 皮肉な話だが、正体が露見すれば『呪われた子供たち』と同様かそれ以下の目に遭ったり、研究素材(モルモット)として死ぬまで……いや、死んでも利用される私たち(喰種)にとっては、モノリスの内側(エリア内)ではなくモノリスの外側(未踏査領域)こそが安寧の地かもしれない。

 

 それはそれとして。未踏査領域を走破して他エリアのモノリスに到達したら、あとは罰ゲーム感覚でモノリスの周りを警備している自衛隊の連中をやり過ごして、さっさと内側に入ってしまえばいい。

 これで私たちの足取りは追えなくなる。まあ、キメラやドラゴンみたいな見た目の化け物が跋扈している危険地帯(ジャングル)を走って抜ける侵入者を想定しろって方が無理な話だとは思うけど。

 とはいえ、バラニウムの磁場の影響が最も小さいモノリスとモノリスの間の部分を精確に、素早く通り抜けないとその場から動けなくなるし、最悪そのまま死ぬから面倒なことに変わりはない。

 

「クロ、これからどうする?」

 

「どうするって、何を?」

 

「次はどこのエリアに行くかって話。私、博多エリアのラーメンが食べたいなー、なんて……」

 

「……じゃあ報酬を受け取ったらすぐ向かおうか」

 

 これから……これから、か。復讐を果たした今、私は何を目的に生きればいいんだろう。

 

 やりたいこと。

 ───分からない。

 

 やれること。

 ───わからない。

 

 やらなければならないこと。

 ───……なにも、わからない。

 

 ずるずる、と意識が暗闇に引きずり込まれていくような感覚。

 倦怠感が、息苦しさが、真綿で首を絞めるように思考と呼吸を侵していく。

 

(……ハッ。『人間の共通の敵は"退屈“である』、か)

 

 ある作品の、ある登場人物の台詞だ。作者の名前も、作品のタイトルも思い出せないが、曰く、それは風邪ようなもので、ちゃんと治療しなければ『生きるとは?』みたいな疑問に囚われてしまうらしい。

 

「……くだらない」

 

 思わず鼻で笑ってしまう。生きる目的? そんなものを必要とするのは、理由がなければ前に進むことのできない弱者だけだ。

 私は違う。私は奪う側で、奪われる側じゃない。私は弱くなんかない。私は、わたしは……。

 

「……ねぇクロナ」

 

「っ……! なに?」

 

 自分の名を呼ぶ妹の声に、いつの間にか下を向いていた顔をはっと上げる。シロの顔は私の方に向いておらず、けれどその声色はとても真剣で、思わず身構えた……が、続けられた言葉に、私はただ困惑した。

 

「私が買い物に行ってる間に一回出かけた?」

 

「? ううん、出てないけど」

 

 妙な事を言う。私は……自分で言うのもどうかと思うが、まだシロが家にいた時から買い出しに行って帰ってくるまでの間、ずっと寝ていた。

 というか、さっきからシロはどこを見て……

 

「───シロ。確認するけど、()()はシロが持って帰ってきた物じゃないよね?」

 

 シロの視線の先。そこにあったのは、下駄箱の上に何食わぬ顔で鎮座している、()()()()()()()()()()

 

 瞬時に意識を切り替え、警戒態勢に移行する。

 

 家主の片方が不在、片方が睡眠中に無断で設置された、白い紙で包装された箱。通販やデリバリーを頼んだ覚えもない。そもそも、いくら寝ていたからといって、シロ以外の人間が部屋に入ってくれば気配で気づく。という事は必然、下駄箱の上に箱を置いていった下手人は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……とりあえず、居間に持っていこう……慎重に」

 

「分かった」

 

 何が起きても対処できるように身構えつつ、周囲の気配を探る。

 ……大丈夫、動く気配はどこにもない。

 

「……軽いな」

 

 包装までされているのに、箱は空っぽなのではと思うくらいに軽かった。

 

 ちゃぶ台の上に静かに置き、向かい側に回ったシロと顔を見合わせ、短く頷く。

 

 赫子をナイフのような形状に変化させて分離し、箱を開けるために慎重に包みに切り込みを入れようとして───着信を知らせる電子音が鳴った。

 ただし音の発生源は私の携帯ではなく、あの男お手製の通信端末からだが。

 

『やあ、こんばんは』

 

「……………なんの用?」

 

 少しの葛藤を経て通話に出れば、予想通りの人物(顔無し)の声が聞こえ、眉間にシワが寄る。この男の声は、何度聞いても(かん)に触る。理由は自分でもよく分からないが、とにかく無性に苛々するのだ。

 

『今夜は月が綺麗だね』

 

「そうだな。死ね」

 

『ははは、これはいつにも増して手厳しい。もしかして悪いタイミングに電話しちゃったかな?』

 

 某文豪が言ったとされる、純文学的な表現を駆使した告白の言葉(冗談)を一切の間を置かずに叩き落とす。

 だと言うのに、特に気にした風もなく笑って流すその態度に、ますます苛立ちが募る。

 

「ご名答。切るぞ」

 

『せっかちだねぇ、せめて用件ぐらい聞こうよ』

 

「……チッ」

 

『え、いま舌打ちした?』

 

「気のせいだろ」

 

 ナイフ(赫子)をシロに渡して箱を開けるのを促しつつ、深呼吸して精神を落ち着かせる。今すぐ通話を切りたいところだが、この男が大した用もなく連絡を寄越すはずがない。

 

「それで?」

 

『うん、単刀直入に言うとね───君たちを狙ってる連中がいるから、早いとこ東京エリアから出た方がいい』

 

「なに……?」

 

『報酬も諦めた方がいいね。彼は君らに一銭も払う気は無いみたいだから』

 

「───クロっ、これ」

 

 理解が追いついていない頭をどうにか働かせて顔無しの言葉を咀嚼していると、シロが困惑したように箱の中を覗いていた。つられて箱の底を見ると、シンプルなメッセージカードが一枚だけ置かれていた。

 

『この前はありがとうございました。これはその時のお礼です』

 

 手に取ったメッセージカードの内容に、シロと揃って首をかしげる。

 

「お礼って……」

 

「一体なんの……? いや、そもそも───」

 

 誰からのお礼?

 そう口にしようとした直前、何かがテラス戸を突き破って部屋の中に投げ込まれた。

 

 眼前を横切っていく、野球ボールほどの大きさの黒い物体。それを視認した瞬間、私とシロは同時にベランダへと駆け出した。

 

 テラス戸に突貫し、ガラスが砕け散る音を聞きながら東京エリアの夜空に躍り出る。

 

 直後、部屋が爆発し、凄まじい音と衝撃が背後から襲い掛かってきた。

 

「くっ……!」

 

 爆風によって空中で態勢を崩し、アパートの二階から受け身もとれずに裏庭に叩きつけられる。

 だが、大したダメージにはならない。落下時の衝撃で一瞬息がつまるが、それだけだ。

 

 すぐさま起き上がり、アパートを見上げる。ガスに引火したのか、私たちがいた部屋から炎が上がり、そこを起点にしてアパート全体に火が燃え移っていった。

 

「っ! まずいよ、隣の部屋や下の階に住んでた人たちが!」

 

「……大丈夫だよ」

 

「なんで断言できるの!?」

 

 今にも炎に包まれたアパートに飛び込んでいきそうなシロに、私は言った。

 

「さっき気配を探ったとき、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。今あそこには、誰もいないんだ」

 

 自分の愚鈍さに歯噛みする。

 

 違和感はあった。最初に気配を探ったとき、真っ先に気づくべきだった。

 すでに日が沈んでいるとはいえ、()()()()()()()()()()()()()()()。動く気配が一つもなかったこと自体がおかしかったのだ。

 

「クソッ、落ちたときの衝撃で(いか)れたか」

 

 十中八九この襲撃は、直前まで顔無しが話していた『私たちを狙ってる連中』によるものだろう。

 故に、手っ取り早く詳しい情報を得ようと再びヤツに連絡を取ろうと端末を見るが、画面は蜘蛛の巣状に割れ、どのボタンを押そうとうんともすんとも言わない。

 

「まあいい。敵が誰だか知らないが……」

 

 必ず殺す。

 シロとの約束で、基本的に暗殺の標的以外の人間は殺さないようにと心掛けてはいるが、相手がシロに手を出した以上そんなもの知ったことか。

 

 人間だろうが。

 喰種だろうが。

 呪われた子供たちだろうが。

 

 確実に、息の根を止めてやる。

 

 ドス黒い衝動の赴くまま物言わぬ 端末(ガラクタ)を握り潰し、顔を上げる。

 

 先の爆発音を聞きつけたのだろう。燃え盛るアパートの向こう側からは野次馬の声が、遠くからは消防車のサイレンが聞こえる。

 

 だが、そんなことはどうでもいい。

 

 私はアパートに背を向け、100メートルほど先にある住宅、その屋根の上を睨む。

 

「……見つけたぞ」

 

 月明かりが雲に遮られているせいで顔はよく見えないが、ミリタリーポンチョと呼ばれる黒い外套を夜風に靡かせ、悠然とこちらを見下ろす男がいた。

 わざわざあんな目立つところに、しかもご丁寧に殺気まで飛ばして。よほど自己顕示欲が強いのか、それとも単なる挑発か。まあどちらでも構いはしないが。

 

 シロも男の存在に気づいたようで、いつでも動けるように程よく脱力した状態で身構える。当然、周囲への警戒はそのままに。

 

 そして、私たちが一歩前に踏み出した瞬間───雲が晴れた。

 

 

 

「──────」

 

 

 

 満月に照らされて、男の顔から影が払われる。

 

 日本人らしい黒い髪。

 歯を剥き出しにしたような口元と、右目を覆う眼帯を組み合わせたようなマスク。

 そして───血のように赤い妖光を放つ、左目の赫眼。

 

 その出で立ちは、紛れもなく。

 

 「黒い、死神……」

 

 生きていた。生き延びていた。

 そう認識した瞬間、思考が漂白され、感情に無風地帯が生まれる。けれどそれは僅かな時間。

 

 『なぜ生きている』だとか、『どうやって助かった』なんて疑問は湧かなかった。

 

 重要なのは、あの男が生きていたという事実のみ。

 

「………………殺す」

 

 自然と、そんな言葉が漏れた。

 

「………殺す」

 

 耳鳴りが激しくなり、左眼が熱を帯びる。

 許容できない。

 我慢ならない。

 あの男がこの世界に存在することを、一寸たりとも容認できない。

 

「殺す」

 

 激情などと言う生易しいものではない。一呼吸するたび、胸に渦巻く憎悪の感情は、先ほどまで何者かに抱いたものとは比べ物にならないほど肥大化し、真っ白になった思考を赤黒く染め上げていく。

 

「殺すッ!!」

 

 叫ぶと同時に、死神は私たちに背を向けて近くの民家の屋根から屋根へと跳び去っていった。

 

「逃すか! 追うよ、ナシロ!!」

 

「う、うん……!」

 

 地面を吹き飛ばす勢いで蹴りつけて近くの家の屋根に跳躍し、フードを目深に被りながら黒い死神と同じように住宅の屋根の上を跳んで追跡する。

 

「今度こそ、必ず殺してやる……!」

 

 ()()()()()()()

 私の意識は、完全に黒い死神にだけ向けられていた。襲撃者はヤツ一人だと視野を狭め、周囲への警戒はおろか妹のことすら気配を頼りにただ近くにいるという事実しか把握していなかった。

 

「クロ……」

 

 だから。

 

 

 

「ねえ、どうしてクロナは───笑ってるの?」

 

 

 

 独り言のように小さく呟かれた言葉は、私の耳には届かなかった。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「ほおほお……」

 

 騒ぎを聞きつけて集まった野次馬の中に、なぜか一人だけ炎上したアパートではなく、アパートの裏庭を覗いている女がいた。

 

「執筆の息抜きにと夜の散歩に繰り出してみれば、なかなか面白いことになってるじゃないか……と、ヤッベ。なんか気持ち悪くなってきた……」

 

 人混みに酔ったのか、女はよろよろとおぼつかない足取りで、炎上したアパートを観光名所気分で撮影している集団から抜け出す。

 女は「はー、どっこいせ」と優雅さや上品さとはかけ離れた、およそ淑女らしからぬ声と共にベンチに腰かけた。

 

 ふぅ、と息をつくと、女は満天の星空を見上げながら、口を裂くように笑んだ。

 

「青年が彼女らと()り合うのは完全に計算外だが……はてさて、どう転ぶかなぁ?」

 

 

 

 

 




安久 黒奈(ヤスヒサ クロナ)
・18歳
・Blood type:AB
・Size:160cm/48kg
・Like:両親、妹、黒、団子
・Hobby:将棋、チェス
・Respect:橘さん
・Rc type/Unique states:鱗赫/赫者(不完全)

安久 奈白(ヤスヒサ ナシロ)
・18歳
・Blood type:AB
・Size:160cm/48kg
・Like:両親、姉、白、オムライス
・Hobby:スポーツ、匂い当てゲーム
・Respect:橘さん
・Rc type:鱗赫

>未踏査領域は喰種にとって安寧の地
割とそうでもない。戦い慣れしていなければ普通に死ぬし、慣れていたとしても赫子を出せなければステージⅡやⅢのガストレアに捕食される。むしろ正体(ほぼ急所)さえ露見しなければ人間らしい生活を送れるあたり、エリア内の方がよほど安全。

>安久姉妹ハッピーエンドRTA
どこでもいいから児童養護施設に入る。彼女たちは幸せな人生を送りましたとさ。めでたしめでたし。


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第23話 桟橋は腐る

 桟橋+腐る=pier+rot =pierrot =道化

 

 

 

 

「───シロ」

 

「うん。()()()()()()、あのビルの中に続いてる。いるよ、クロ」

 

 場所は都心部に移り、逃げる死神を追いかけていた私たちは建設工事中のビルに辿り着いた。

 

 初めて人を殺した、あの時と同じ場所。

 

「…………チッ」

 

 ここに来る直前に見た夢の影響か、あの時の光景が脳裏にチラついた。衝動的に出た舌打ちが、人気(ひとけ)も車の影もない静かな夜の通りに嫌に響いた。

 

 私は睨みつけるように正面にあるビルを見上げる。まだ建設の途中だからか、床や天井といった足場はあるがどの階にも窓や壁といった外部からの侵入を阻むものはなく、鉄骨が剥き出しになったその状態は、まるで階層ごとに板を敷いた巨大なジャングルジムだ。

 加えて屋上には赤と白に交互に塗色されたタワークレーンが鎮座しており、すでに12階部分まで作られているこの建物がさらに高くなることを意味している。

 

「行くよ、シロ」

 

「……うん」

 

 隣から聞こえた、少し間を空けてからの相づち。シロが隠し事をするときの癖だ。

 けれど今回は、この子が何を言おうとしたのか手に取るように分かった。

 

 これは罠だ。

 

 一見すると奇襲に失敗したあの男を人気(ひとけ)のないビルに追い詰めた構図だが、実際はその逆。誘い込まれたのは私たちの方だ。

 

 最初はただ闇雲に逃げているだけだと思った。けれど、もしそうなら逃げ方に迷いが無さすぎるし、何より奴はアパートからこの場所まで真っ直ぐにやって来た。

 

 確実に何らかの策を講じている。

 シロはそれを口にすべきかどうかで悩んで、結果として言わなかった。今さらその程度のことで、私が止まらないと理解しているから。

 

「……あぁ、そうだ。ナシロに言っておかなきゃいけないことがあったんだ」

 

「なに?」

 

 何の脈略もなく私の口から紡がれた言葉。だけどシロが戸惑うことはなかった。

 

「────、─────」

 

「………え?」

 

 その後に続く言葉を聞くまでは。

 

「約束だよ、ナシロ」

 

 それだけ言って、私はシロが何かを口にする前に、作りかけのビルの中に足を踏み入れた。

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 暗闇に溶け込むように、カネキは黒い外套に身を包み、携帯を片手に街の夜景を眺めるように佇んでいた。

 しかしその顔は、歯を剥き出しにした口元と右眼を覆う眼帯を組み合わせたようなマスクのせいでほとんど窺えず、目元は髪に隠れ、どんな表情を浮かべているのかは分からない。

 

 ふと、カネキの持つ携帯が短く震え、ディスプレイにメッセージが表示される。それをさっと確認すると、カネキは短く何かを打ち込んで携帯を仕舞った。

 

「───追いかけっこはもう終わりか?」

 

 その声にゆっくりと振り返ると、10メートルほど離れた先に黒と白の少女が並ぶように立っていた。

 

「標的を二度も殺し損ねたのはお前が初めてだよ、金木研。だが、三度目はない。ここが終点だ」

 

 フードの奥の片眼にそれぞれ焔が灯り、二人の腰から赤黒い赫子が飛び出す。

 それに対し、カネキは一度目を閉じて、マスク越しに独り言のように言葉を紡ぐ。

 

「喰種であり、双子の殺し屋───安久黒奈、ならびに安久奈白」

 

 再び目を開けると、露出した左目は黒と白(人間)から赤と黒(喰種)に変化していた。

 しかし、血や熱を連想させる赤色の瞳とは対照的に、その目に宿るモノは氷のようにどこまでも冷たく、機械的で無感情だった。

 

「これより貴女たちを駆逐します」

 

「───ハッ。やれるものならやってみろ。口だけは達者な死に損ないが」

 

「口だけなのは君の方だろ───死ねよ」

 

 カネキの吐き捨てるような言葉を合図に、三人は同時に動き出した。カネキは右足を半歩引いて外套の内側に隠れていた左腕をクロたちに向けて突き出し、クロとシロは間合いを詰めるべく床を蹴った。

 

 が、しかし。

 

「───は?」

 

 カネキが突き出した左手に握られていたソレを、一瞬遅れて認識したクロたちは瞠目した。

 

短機関銃(サブマシンガン)だと!? 何でそんな物を……!)

 

 カネキの手に握られている武器の名はP90。クロはその全体的な形状からサブマシンガンと誤認したが、厳密にはアサルトライフルとサブマシンガンの中間に位置する、ベルギーのFNH社によって開発された個人防衛火器(PDW)であり、P90はその代名詞として知られる銃である。

 人同士の争いが頻発していたガストレア戦争以前の時代では、優秀な対テロ装備として知れ渡っており、現在でも建物などの閉鎖空間で活動する特殊部隊用の火器として使用されている。

 

 冷静に考えれば、()()()()()()()()()銃を所持していること自体は何も不自然ではない。戦場ではいかに一方的に敵を殲滅できるかが重要であり、相手の得物が届かない遠く離れた位置から攻撃できる『銃』という武器を用いることは、これ以上ないほど理に適っている。

 

 ただ、クロにしてもシロにしても、前回戦った相手の戦闘スタイルが徒手空拳に蹴り技主体、二刀流に触手(鱗赫)と長剣の同時併用と、揃いも揃って近接特化だったこと、何より『カネキは喰種なのだから、当然赫子を使う』という先入観から無意識のうちに『今回も近接戦闘だろう』と戦術の視野を狭め、相手が銃のような中距離武器を使ってくる可能性を除外してしまっていた。

 

 そして人は、想定外の事態に見舞われると、脳が情報を処理しきれず、一時的に思考は停止し、肉体は硬直する。

 

「くぅ……ッ!」

 

 そんな完全に虚を突かれた二人のもとへ、容赦なくバラニウム製の弾丸が殺到する。

 

 もしも、二人があらかじめ銃器の存在を想定出来ていれば回避できたかもしれない。しかし、現実に『もしも』や『たられば』は通用しない。

 

 既に重心を移動させ、前傾姿勢になりながら一歩目を踏み出した今の状態で無理に方向転換を行えば、容易にバランスを崩し致命的な隙を晒すことになる。

 回避は間に合わないと判断した二人は咄嗟にその場で急停止し、赫子で()胸部(心臓)といった急所を隠してやり過ごす。

 

 それでも、やはり赫子で防御していなかった腹部や四肢などには何発か被弾する。

 

 だが、それだけだ。

 

 腕が千切れようが腹に穴を開けられようが、喰種の治癒力なら致命傷でなければ瞬時に再生する。

 最初は想定外の事態にただ混乱していたクロだったが、状況を把握すればすぐさま冷静さを取り戻した。カネキがどういった思惑で銃を手にしているのかは不明だが、銃弾とて無限ではない。どんな武器でも、飛び道具であるならいつか必ず弾切れを起こす。

 

(あとは弾を撃ち尽くしたと同時に距離を詰めれば……!)

 

 接近戦に持ち込み、数の有利で押し切れる。

 そこまで思考した直後、銃弾の雨が止み、薬莢が床に落ちる音だけが虚しくフロアに響く。弾切れだ。

 

 動くなら今。

 

 視線だけで意思疎通を行い、クロとシロは視界を塞いでいた赫子を取り払い、側面から回り込んで挟み討ちにするために左右に分かれようとして───猛烈な悪寒が背筋を駆け抜けた。

 

 それは、膨大な戦闘経験から導き出される、決して無視できない危険信号(直観)

 

 確かに喰種の再生力があれば、いくら弾丸を食らったところで決定打にはなり得ない。精々が先の自分たちのようにその場に釘付けにし、ほんの僅かの間だけ視界を奪うのが精一杯だ。だがその程度のことを、あの黒い死神が理解していないとは思えない。

 

 ならば答えは明白。

 

(最初から足止めと目眩しが狙いか! まずい───)

 

 つまりは、次に打つ一手を確実なものにするための布石。クロがその結論に辿り着いたと同時。

 

 ───カラン。

 

 取り払った赫子の向こう側から、缶が床を跳ねるような音と共に、小さい円筒状の何かが二人の前に躍り出た。

 

(しまっ───!?)

 

 直後、二人の目と鼻の先で閃光発音筒(スタングレネード)が爆光と爆音を撒き散らし、視界と聴覚を蹂躙する。

 

「か、あ……ッ!」

 

 『蛭子影胤テロ事件』の折、負傷した将監を手当てするために、カネキが未踏査領域で蛭子親子と対峙した際に行ったのと同じ戦法。だが、あの時の目的が撤退だったのに対し、今回の目的は敵の駆逐である。

 

 故に、攻撃はまだ続く。

 

「がッ……!」

 

 カネキは一気に間合いを詰めると、左足を軸に素早く体を回転。遠心力を最大限に乗せた強烈な回し蹴りが、無防備に差し出されたシロの側頭部を捉えた。

 そのまま右脚を振り抜き、シロをフロアの中央まで蹴り飛ばすと、カネキは左手に握っていたP90をラケットのように振り抜き、思いきりクロの頭部を殴りつけた。

 

 激突した衝撃で砕けた銃の破片ともども床を転がるクロを横目に、ガラクタと化した銃の残骸を手放し、懐から小型のトランシーバーのような物を取り出すと、一切の躊躇なくスイッチを押した。

 

 刹那。

 チカッ、と光が瞬いたかと思うと、突如フロア中央が爆発し、黒煙の濁流が押し寄せて周囲を覆い尽くす。

 

 そして、爆発の発生源───先ほどまでシロがいた場所に彼女の姿はなく、代わりに奈落の底へと続いていそうなほど深く大きな穴があった。

 

 一瞬だけ、波のように揺らめく煙の僅かな隙間から見えたその光景を横目に確認すると、カネキは起爆装置を手放し懐から拳銃を取り出した。

 

 Five-seveN。

 P90用の補助兵器(サイドアーム)として生み出された自動式拳銃で、弾薬にはP()9()0()()()()5().()7()m()m()×()2()8()()()使()()()()()()。この弾丸のえげつない特徴は、構造と比重から人体などの軟体に着弾した場合、内部で弾頭が乱回転して運動エネルギーを対象内に放出し、()()()()()()()()()()()()()()()()()()という点にある。

 

 初手の銃撃で、クロは太腿と腹部に何発か被弾してる。喰種の再生力であれば瞬く間に傷口は塞がるが、弾丸は体内に残り続ける。

 今ごろ彼女はその場から動くことも出来ず、僅かに力を入れただけ(呼吸をするだけ)で体の内側から発生する激痛にただただ困惑していることだろう。

 

 黒煙で相変わらず視界は最悪だが、クロが転がっていった場所は記憶している。位置を把握しているなら、外す道理はない。

 

 カネキは先ほどクロが転がっていった方向へ銃口を向けると、無言で引き金に指をかけ───弾かれるようにその場から飛び退いた。

 

 瞬間、空気を裂くような音と共に、先程までカネキがいた場所に蜘蛛の脚のような形状をした赫子が二本突き刺さる。

 

 標的を仕留め損なった二本の赫子()は、ゆっくりと床から引き抜かれ───黒煙の向こうから四本の赫子が同時に飛び出した。

 

 上下左右から襲い掛かる攻撃を、しかしカネキは赫子と赫子の隙間に体を滑り込ませるように身を翻すことですべて回避する。

 

 そして、二度の奇襲を躱された六本の赫子は静かに黒煙の向こうへと戻っていく。

 

 直後、一際強いビル風がカネキのいるフロアに流れ込み、周囲に充満していた黒煙を外へと押し流す。

 だが、視界を遮っていた黒煙が晴れていくというのに、カネキの視線は依然として……否、先ほどよりもさらに鋭くなっていた。

 

 理由は、カネキの視線の先。

 

 風に流される黒煙をドレスのように身に纏いながら、()()()()()()を瞳に宿した蜘蛛が、其処にいた。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 分断された。

 

 場所は先ほどカネキと戦闘していた階より5つ下の6階フロア。シロは鬱陶しげにフードを取り払い、今しがた自分が落ちてきた天井に空いた穴を見上げながら、苦虫を噛み潰したようにその顔を歪めていた。

 

 良くない状況だ。

 幸いにも爆弾に使われた素材にバラニウムが含まれていなかったおかげで外傷こそ負わなかったが、爆風によって受けたダメージは確かに存在する。

 加えて、先ほどから再生したはずの被弾箇所から持続的に発せられる痛み。

 

 だが問題はそこではない。

 

 痛みの正体が体内に残存した弾丸であることを過去の経験から即座に看破したシロは、僅かな逡巡すらなく脚や胴体に自らの手を突き刺し、弾丸を抉り取る。当然、肉が裂け血が流れるが、摘出した弾丸をまとめて投げ捨てた頃には傷はすべて完治していた。

 恐らく、上に残っているクロも同じように弾丸を摘出していることだろう。

 

 ならば、何が問題なのかと言えば。

 

「───ッ!」

 

 暗闇に紛れ、背後から音もなく振るわれた曲刀。だがそれは、シロが瞬時に出した赫子によって容易く防がれる。

 鉄と赫子のぶつかり合いで発生した火花が、シロと下手人の姿を暗闇から一瞬だけ浮かび上がらせる。

 

「よぉ、オセロ女」

 

 下手人の格好は濃紺色(ネイビー)で統一されており、長袖のシャツとズボン、その上にフード付きのケープとスカートを纏っている。そして被っているフードの下にある素顔は、サメの顔を象った仮面で隠している。

 

 顔どころか素肌すら見せない徹底ぶりだが、シロには下手人の正体が誰かなど()()で分かっていた。

 

「……何しに来たの?」

 

「決まってんじゃん。ぶっ飛ばし(リベンジ)に来たんだよ」

 

 ギチギチ……! と、曲刀と赫子が鍔迫り合う音を響かせながら、里津は仮面の下で不敵に嗤った。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 標的に照準を合わせて、引き金を引く。

 

 かつてカネキが、自衛隊の部隊に所属させられて最初に教わったのは、赫子を自由に操れるようになるコツでも、剣や槍などといった近接武器を使った戦い方でもなく、射撃だった。それも一つの種類ではなく、あらゆる火器の扱い方を。

 

 当然と言えば当然である。あの頃のカネキには今ほど赫子を制御できず、また喰種に関する情報は皆無に等しく、判明していたのは凄まじい再生能力だけ。そもそもカネキが所属していた部隊は戦場の最前線。いつガストレアの襲撃があるか分からない状況では悠長に素人の……それも体が出来上がってない子どもに合った鍛錬を一からしている余裕などなかった。

 

 故に、その場において最も簡単な戦う術を、隊員たちはカネキに教えた。

 

 ここ何年も行っていなかった動作だが、頭にではなく身体に叩き込まれた技術はそうそう忘れはしない。

 

 標的に照準を合わせて、引き金を引く。

 

 それら一連の動作を、一秒にも満たない時間で完遂させる。

 片手撃ちだろうと問題ない。杞憂に終わったが、腕が再生しなかった(そういう)場合も想定して訓練させられたのだから。

 

 しかし。

 

「…………ッ!」

 

 当たらない。こちらが引き金を引くタイミングに合わせて照準から体を逸らしたり、躱しきれない弾丸は赫子で防がれている。挙句。

 

(……少し、傷を負いすぎたかな)

 

 カネキが着けているマスクにはところどころに傷ができ、外套に至ってはボロボロだ。そして、今もクロに向けている銃を持つ左手からは、腕を伝った血が滴っていた。

 

 だが、許容範囲だ。むしろ想定よりもちょっと多く傷を負っている方が()()()()()()()()()()()()()()

 それより厄介なのは、クロが半赫者になっても冷静さを保っていることだ。

 

 いくら菫が用意してくれたガストレアウイルスの原液のおかげで体力が回復したとはいえ、所詮は病み上がり。今のカネキでは、正攻法でクロを下すことは出来ない。

 

 だからこそカネキは、すでに再生している右腕を徹底して隠し、あえて銃器しか使わず、傷を意識的に再生させないことで『依然としてカネキは弱っており、失った右腕の再生どころか赫子すら碌に出せない状態にある』と誤認させた上で、クロを半赫者にして正常な判断力を奪い、馬鹿正直に突っ込んで来たところを意表を突いて仕留めるつもりだった。

 

 ところが、蓋を開けてみればどうだ。

 

(何だ? 僕が眠ってた一週間の間に、一体何があったんだ?)

 

 カツン、と。弾丸を撃ち尽くしたことで遊底(スライド)が後退したまま固定される。

 弾切れとなった計4丁目の拳銃(HK45)を投げ捨てるのと同時に襲いかかる赫子を躱しながら、カネキはクロの状態を観察する。

 

 顔の上半分を覆う多眼の面。両腕と両脚はまるでスーツのように赫子が包み込み、腰からは蜘蛛の脚のようにも見える、鱗に覆われた触手状の赫子が6本。

 

 身体的特徴はおよそ前回と同様。全身ではなく、身体の一部しか赫子で覆えていない不完全な赫者化だ。にも関わらず。

 

「いい加減、無駄に足掻くのはやめてさっさと殺されたらどうだ?」

 

 にも関わらず、今のクロには一週間前の戦闘の際に見せていた情緒の不安定さや、暴走の兆しもない。未だ彼女の双眸に狂気はない。

 

 最初から赫者化を制御できたのか、それともここに来てある程度コントロールできるようになったのか。あるいは、そもそも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(考えたところで仕方ないか)

 

 足を狙った横薙ぎの攻撃を後方に跳躍することで躱し、そのままクロの赫子の射程圏から離れる。すかさず3丁目のサブマシンガン(PP-2000)を取り出して、お返しとばかりに銃弾を撃ち込むが、引き戻した赫子ですべて防がれた。

 

(……埒が明かないな)

 

 マスクから唯一露出しているカネキの左眼が、鋭く細められる。

 

()()()()

 

 その為には、情報を引き出さなければ。

 

「一つ聞きたいんだけど」

 

 銃口をクロに向けたまま、カネキは質問する。

 

「君はどうして、そんなに僕を憎んでいるのかな?」

 

「……なんだと?」

 

「君は僕のことをかなり恨んでるみたいだけど、生憎、僕はこの前まで君の存在自体知らなかった。君と僕の、一体どこに接点があるんだ?」

 

 カネキの問いに、クロは苛立ちと嘲りが混ざり合った声で笑った。

 

「私とお前の接点、か……はははっ、お前は本当に何も知らないらしいな。いいだろう、教えてやる。私とナシロは、黒い死神(お前)を人工的に生み出すための実験台にされたのさ」

 

 それからクロは滔々と語った。自分たちが研究施設で受けた拷問に等しい実験の数々を。何とか施設を抜け出したが、その先で待ち受けていた惨めで理不尽な日々を。クロがカネキに抱いている、憎しみの源泉を。

 

「すべての元凶はお前だ、カネキケン」

 

 それをカネキは、最後まで黙って聞き続けた。

 

「お前が、お前さえいなければ、私は、私たちはっ……!」

 

 そして、クロの話を聞き終え、彼女たちの過去と境遇を知ったカネキは。

 

「くだらない」

 

 そのすべてを、たった一言で切り捨てた。

 

「…………は?」

 

「どんな事情があるのかと思って話を聞いてれば、要するに、ただの八つ当たりじゃないか。はっきり言って迷惑だよ、そういうの」

 

 呆気に取られるクロを置き去りにして、カネキは続ける。

 

「それから、施設を抜け出した後の(くだり)。まるで自分たちがこの世の誰よりも不幸だ、みたいな口振りだけど、君らと同じような境遇の人間はたくさんいるし、むしろ()()()()()()()()()()()()。ガストレアへの恐怖と憎悪が根強い今の時代、イニシエーター(呪われた子供たち)のほとんどが君たちと同じか、それ以上に酷い目に遭ってるよ」

 

 俯き気味になったことで前髪に隠れて表情が窺えないクロを見ながら、カネキは鼻で笑うように吐き捨てる。

 

「それで、どうするの? 君たちの依頼主は僕が生きていることは知らないはずだし、僕に向けていた憎しみも的外れな八つ当たりだって分かった。これ以上戦う理由も必要もないと思うんだけど」

 

「………………」

 

 カネキの言葉に対し、クロは数秒の沈黙の後、静かに顔を上げ。

 

「じゃあ……単純にぶっ殺す───ッ!!!」

 

 憤怒に歪んだ表情で、端的に殺意を告げた。

 

 第三者の無責任な詭弁ほど、当事者の神経を逆撫でするものはない。しかもそれを、元を辿れば自分たちが地獄を味わう原因となった人物に言われれば尚のこと。

 

 顔中に青筋を浮かばせ、激情のままに突貫してくるクロの姿を見ながら、カネキはボロボロのコートの内側に隠している、得物を握る右手に力を込めた。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 ───結論から言えば。

 

 カネキの作戦は、クロに見抜かれていた。

 

 鱗赫持ちの喰種の再生力は他の喰種とは一線を画す。長期間ガストレアウイルスを摂取していないことを考慮しても、時間さえ掛ければ千切れた腕の再生ぐらいなら十分可能だとクロは確信していた。

 それに前回、カネキがガストレアウイルスを摂取しない理由を見当違いだと否定したのはクロ自身である。ならば、既にウイルスを何らかの方法で補給していると見るのが妥当だろう。

 

 であるならば、なぜカネキは戦闘中に負った傷を再生せず、赫子も出さず、わざわざ片腕だけで銃器を扱うのか。

 

 決まっている。こちらに『依然としてカネキは弱っており、失った右腕の再生どころか赫子すら碌に出せない状態にある』と油断させたところを、その右手に隠し持っている武器で仕留める算段なんだろう。

 

 そして、肝心なカネキが隠し持っている武器の正体についても、クロは予想がついていた。

 恐らく、カネキが右手に持っているのは尾赫を加工した近接武器だ。コート内側に忍ばせられる大きさからして、ナイフか短剣の類だろう。

 

 根拠は二つ。

 一つは、尾赫が自分たち鱗赫にとって相性が悪く、赫子は相性が有利な喰種に対して強力な毒として作用する特性がある。つまり、鱗赫の強みである高い再生力が意味をなさなくなる。

 そしてもう一つは、ここまでの戦闘で、最初の奇襲以外は射撃に徹して、距離を詰められないように立ち回っていたこと。あれは間違いなく、こちらが『カネキは近接戦が出来ないほど弱体化しているから銃を使っている』という認識を利用した罠だ。銃を主な武器とする敵が接近戦を行えず、しかもその唯一の武器が使えない超近距離にまで入り込めれば、誰だって油断する。

 

 だからこそクロは、カネキの挑発に本気で激昂しながらも、逆にそれを利用することにした。

 狙うのは、考えなしに突っ込んで来た馬鹿を仕留めようと尾赫の武器を突き出す、その瞬間。勝利を確信し、気が緩んだ奴の息の根を止める。

 

 油断させていたはずの相手に、逆に油断させられていたと悟っときの死神の表情は、さぞ滑稽だろう。

 

 踏み込む。正面から猛進し、弾丸が放たれるのと同時に姿勢を低くする。

 頭上を通り過ぎるバラニウムの銃弾に髪が躍る。構わず加速する。

 

 弾丸が頬を裂く。切れた皮膚から血が溢れる。だが、その血が流れ出すよりも先に、クロは赫子でカネキの持つ銃を破壊する。

 それと同時に、カネキの腰から4本の赫子が現れ、クロに襲い掛かる。

 

 ───ほうら、やっぱり赫子も使えるじゃないか。

 

 クロは冷静に6本ある赫子のうち4本を使って、カネキの赫子を拘束する。そして、そのまま残り2本の赫子を勢い良く走らせ───外套を裂くように突き出された右腕を縛るように巻き付けた。

 

 ちらりと、視線を下に向けると、カネキの右手にはククリナイフのような物が握られていて、クロの腹部に突き刺さるはずだったソレは僅か数センチ手前で停止していた。

 

「惜しかったな」

 

 身動きを封じられ、隠していた奥の手も見破られたカネキの顔から目を逸らさず、クロは言った。残念ながら肝心の表情はマスクと前髪でほとんど見えないが、焦りと絶望でさぞ愉快な顔をしていることだろう。

 

 クロは嘲笑を浮かべながら、赫子を纏った右手をカネキの胸───心臓に向けて突き出した。

 

 数瞬後に訪れるのは肉を裂き、臓器を貫き、背中を突き破る手応え。一拍遅れて、ゴボッ、と逆流した血液がカネキの口から溢れ出る。

 腕を引き抜き、崩れ落ちるカネキを尻目に、べったりと血の付いた手のひらを見下ろす。

 

 そして、血に染まった手の向こう側に天井が見えて、ようやく()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……あ、れ………?」

 

 真っ先に浮かんだのは疑問。

 続いて湧いたのは困惑。

 

 何が起きたのか、なぜ自分が倒れているのか。現状に至る過程の一切が理解できない。

 

 反射的に周囲に視線を走らせながら上体を起こすと、少し離れた前方で佇むカネキの姿が目に留まる。正確には、奴の右手にある先端部分から()()()()()()ククリナイフに。

 

「───ぐっ、がっあああ……!!?」

 

 突如、思わず蹲るほどの激痛が腹部に走った。咄嗟に手を当てれば、ドロリと生暖かい感触。自分の血に染まった手を見た瞬間、クロは現実を正しく認識した。

 

(そうだ、()()()()()()()()()()()()()()()()……!)

 

 あの時、確かにクロは貫手を放った。だがそれが、カネキに届くことはなかった。

 なぜなら彼女の指先がカネキの胸に触れるよりも早く()()()()()()()、そのまま後ろに吹き飛ばされたからだ。

 

 油断があった。反撃の術はないという確信があった。それこそ、クロの認識と現実がズレて、自身の攻撃が成功したという幻覚を見てしまうほどに。

 

 口内に充満する鉄の臭いに不快感を募らせながら、クロはカネキの手にある武器を睨みつける。

 

(ナイフじゃ、ないッ……! アレは……まさか……!)

 

 歯を食いしばりながらクロが立てた推測を肯定するかのように、パキパキッ、という音を響かせながらククリナイフ(外装)にひびが入り、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そうしてすべての外装が剥がれ落ち、ハリボテの内側から一つの銃が現れる。

 

 トンプソン・コンテンダー。

 

 トンプソン/センター・アームズ製の単発式大型拳銃。社名と同じ名を冠するこの銃の最大の特徴は、銃身を取り換えることで拳銃でありながらライフル弾を撃てることにある。

 拳銃弾では歯が立たなかった赫子による防御も、仮に鎧のように体に纏わせていたとしても、ライフル弾でなら撃ち抜ける。

 

 さらに今回、カネキが選んだ銃弾はただのバラニウム弾ではない。

 

(っ! なんだ? 傷が、再生しない……!?)

 

 ───濃縮バラニウム弾。

 

 一見すると通常のバラニウム弾と変わらない外観をしているが、その内側には液状に溶かしたバラニウムが濃縮されている。

 濃縮バラニウム弾は着弾と同時に砕け、液状化したバラニウムが体内で広がり、対象を死に至らしめる。

 

 主に『再生レベル』の高いガストレアや()()()()()()()()使われ、通常のバラニウム製の武器では殺しきれない相手を殺すために生み出されたのが濃縮バラニウム弾である。

 

 再生レベルとは、ガストレアやイニシエーターの再生能力を5段階にレベル分けしたもので、通常のバラニウム製の武器で殺傷可能で、ほぼすべてのガストレアやイニシエーターが分類されるのがレベルⅠ。バラニウムの再生阻害を押し返すものの、首を切断されたり燃やされると絶命するのがレベルⅡ。欠損した部位を元通りに再生させ、切断されてもくっつければ何事もなく活動可能なのがレベルⅢ。内臓のほとんど損失しても再生し、肉片一つ残さず滅却しなければ死なないものをレベルⅣ。例えマグマの中に放り込んでも、環境さえ整えば分子レベルで再生し、現代科学では物理的に殺す手段がないものをレベルⅤとしている。

 

 そして、濃縮バラニウム弾は再生レベルⅢまでの再生を阻害する。

 

「治れッ、治れ治れ治れ治れ……!」

 

 いつまで経っても再生しない傷に動揺するクロとは対照的に、それまで浮かんでいた傷をすべて再生させながら、カネキは淀みない動作で濃縮バラニウム弾を再装填する。

 

 ───カシャン。

 装填を終えたコンテンダーの銃口が、こちらを向く。

 

 クロには濃縮バラニウム弾の知識はなく、なぜ傷が再生しないのか皆目見当もつかなかった。だが少なくとも、あの弾丸の前では喰種の再生力など意味をなさないことだけは理解できた。

 

 つまり、もしもう一度あの弾丸をまともに受けてしまったら。

 

 クロはこちらに向けられる銃口を見て、死神の鎌が自分の首に添えられている光景を幻視した。

 

「───ぁ、ああああああああ!!!!!??」

 

 直後、絶叫と共にクロの腰から飛び出した複数の赫子が、一帯を縦横無尽に駆け巡る。それは鉄骨を次々と両断し、あるいはへし折り、天井を引き裂いていった。

 

 結果、クロとカネキを巻き込むように上階が崩れ落ち、瓦礫の雨が二人に降り注ぐ。同時に、屋上に設置されていた工事用クレーンが、足場を失ったことで地上に向かって落下する。

 

 頭上から際限なく襲い掛かる大量の瓦礫を一本の赫子で防ぎながら、クロは獣のような咆哮を上げて残りの赫子をカネキに向けて放った。

 

 上から叩き潰すような振り下ろし。横から斬り裂くような薙ぎ払い。正面と斜め下から捻じ切るような刺突。

 

 姿が見えていたわけではなかった。確信があったわけでもない。ただの当てずっぽうで、カネキの姿を捉えたのは赫子を放った後だった。だが、そんなことは些細な問題だ。重要なのは、クロの殺意を乗せた赫子がすべて、正確に、カネキに向かって放たれたという事実のみ。

 

 勝利を確信し、死の恐怖から解放されたことで思わず笑みが浮かぶ。だが次の瞬間、その表情は驚愕に塗り潰されることになる。

 

 クロの視線の先にいたカネキは、降り注ぐ瓦礫など意に介さず、静かにコンテンダーを構えていた。その赫眼には、焦燥も恐怖もなく。

 

 引き金を引くのと同時に、クレーンが地面に激突する轟音が響いた。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 一体、どこで間違えたのだろう。

 

 なんの疑いも持たず、あの児童養護施設に入った時からだろうか。

 食うに困って、裕福な大人たちから盗みを働いた時からだろか。

 それとも、初めて人を殺した、あの時からだろうか。

 

 あまりに、心当たりが多すぎた。

 取り返しのつかないことばかりしてきた。

 間違いしかない人生だった。

 

 あの日殺した連中の仲間から、報復として毎日のように襲撃を受け、殺さず見逃しても一向に止まない襲撃に嫌気が差して、結局皆殺しにした。

 

 そうして、襲撃を仕掛けていた連中を3年かけてやっと壊滅させてからしばらくして、顔無しが接触してきた。理由は今も分からないが、初めて声を聞いた時から気に入らない奴だと思った。続いて理由も語らず、「困っていることがあれば、力になるよ」なんて、初対面の相手に対して不自然なほど親切な態度に、胡散臭い奴だなと思った。

 

 だけど、他に当てがある訳でもなかった私たちは、渋々顔無しを頼った。

 

 身寄りがなく、学もない自分たちでも、まともな生活を送れる金を、すぐに手に入れられる仕事はないのかと。

 

 奴はあるサイトのURLを送ってきた。それは一見すると気に入らない人間の悪口を匿名で書き込むだけのなんの変哲も無い掲示板(BBS)だったが、実際は掲示板に偽装された殺しを依頼するサイトだった。

 

 すでに殺人に対する忌避感がなくなっていた私に、躊躇はなかった。

 

 けれど、どうでもよかった。赤の他人をどれだけ殺そうが、どれほど恨まれようが、どんなに苦しい思いをしようが、妹を───ナシロを守れるのなら構わない。そう思っていた。本当に、思って()()んだ。

 

 いつからなのかは、もはや覚えていないけれど。だけど確かに、そんな理由(妹のため)だけじゃ立つことが出来なくなってしまって、気がつけばいつも、心の中に溜まり続けた淀みを、曖昧なままにしていた理不尽に対する憎悪を、怒りを、吐き出せる理由を探していた。

 

 そんな時だった。あの喰種に出会ったのは。

 

 そいつは標的だった。依頼人はそいつが喰種であることは知らなかったようだが、そこは大して重要じゃない。相手が何であれ、標的であるなら殺すだけだ。

 だがそいつは、喰種のくせに赫子も出せず、体は人間のように脆かった。ガストレアウイルスを摂取していなかったからだ。

 

 私は思わず尋ねた。なぜ、ウイルスを摂取しないのかと。

 

 そいつはこう答えた。

 

 "人間として生きるためだ"

 "私は人間だ。化け物なんかじゃない"

 "君は、人間として普通に生きたいと思ったことはないのか"

 

 と。

 

 気がつけば、私はそいつを原形が分からなくなるまで殴っていた。

 

 そして不意に、ネストの言葉を思い出したのだ。

 

『貴女たちも憐れですねぇ。黒い死神なんて存在がガストレア戦争で活躍していなければ、今ごろ"普通の人間"として過ごせていたでしょうに』

 

 その時、私の中に漠然と存在していた怒りに、()()指向性が生まれた。

 

 そうだ、黒い死神。お前のせいだ。お前がいたから、私とナシロは化け物にされて、体を切り刻まれ、ゴミを漁る生活を強いられた! 他人を信用できず、ネストに顔を知られてる以上同じ場所に留まることも出来ない! 全部お前のせいだ。お前さえ、お前さえいなければ、私は!

 

 ……………。

 

 思うに。幸福な人生とは、親に愛されることでも、裕福な家に生まれることでもない。

 

 無知であること。

 

 己のどうしようもない愚かさを、醜さを、滑稽さを、無様さを、誰に指摘されることもなく、ましてや()()()()()()()()()()()。葛藤し、苦悩することもない。それこそが真の幸福だと、私は思う。

 

 ───ああ、そうとも。

 

 ()()()()()()()

 コレがどれだけ理不尽で、身勝手な感情か。

 

 気づいていたさ。結局は私の弱さが原因なんだって。誰か()を守るために、なんて綺麗事じゃ自分を支えきれなくて。自分のために、誰かを憎悪しないと心が壊れそうで。

 

『要するに、ただの八つ当たりじゃないか』

 

 そうさ。お前の言う通り、これはただの八つ当たり。

 

 でも、でもさ。

 

 だとしたら。

 

 私は一体、誰を憎めば良かったんだろう……?

 

 誰を責めれば良かったんだろう……?

 

「…………幸福の自動的失敗、無形の落とし()

 

 積み重なった瓦礫に背を預けるように座ったまま、ふと脳裏に浮かんだ、懐かしい一節を独り言ちる。

 

 いつか読んだ文章を、なんとなく口に出して、思わず笑ってしまう。これほど自分にピッタリな言葉は、世界中どこを探しても見つからないだろう。

 

 体が重い。全身の至るところが傷だらけのぼろぼろだ。腹部の出血は止まったが未だに再生しないし、先ほど黒い死神の撃った弾には肩を抉られた。もしも、奴に振るった赫子が射線上になければ、腹にもう一つ穴が増えていたかもしれない。

 

 何となく、空を見上げる。

 

 天井がなくなったことで、真っ暗な夜空が目に映る。夜空に煌めく無数の星々は、都心の光にかき消されて、ほとんど見えなかった。

 

 一筋の光もない夜空をぼんやりと眺めていた目を閉じて、そのまま最後の一節を紡ぐ。

 

「私の可愛い欠落者。あなたの親は───」

 

「───あなたの親は、あなたを育てるのに失敗した」

 

 被せるように正面から聞こえた声に顔を上げる。どこまでも暗く、冷たい目が、私を見下ろしていた。

 

「ははは……お前もあの本を読んだ事があるのか。それも暗唱できるほど。お前も、相当な歪みを抱えてるってことか」

 

「…………」

 

 黒い死神は私の言葉には応えず、分離した赫子を手に持ち、こちらに向けた。

 

「ねぇ、教えてよ……」

 

 もはや立ち上がる力もなく、私は掠れた声で問いかける。

 

「教えてよ、黒い死神。私は……()()()は、どうすればよかったのかな……?」

 

 我ながらふざけた質問だと笑いが込み上げ、口元を歪める。どういうわけか、頬は引きつり、声は震え、視界は滲んでいた。

 

 そんなわたしの言葉に、黒い死神は無言で赫子()を構えた。

 

 どうやら、冥土の土産に教えるつもりもないらしい。もともと、そこまで期待していた訳でもない。思わず聞いてしまっただけ。ただの気の迷いだ。

 

(とはいえ、少しは足止めしたかったんだけどなぁ……)

 

 ナシロには事前に、『不利な状況になったら私がビルを壊すから、そのまますぐに逃げろ』と伝えてある。

 

 ビルは壊した。伝えた時は少し戸惑っていたけど、きっと今ごろ、私の言った通りに逃げてくれているだろう。あの子は私の言うことには、なぜか逆らわないから。

 

「……上手く逃げてね、ナシロ」

 

 最後まで、黒い死神は何も言わず、ただ機械的に、赫子をわたしに振り下ろして。

 

「……どういうつもりかな───里津ちゃん」

 

 わたしの眼前で、奴の相棒(イニシエーター)に阻まれていた。

 

 

 

 

 



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第24話 現実と意図

 現実+意図=real+intention=real intention=本音

 

 

 

 

 鋼を打つような音が幾度も響き、同じ数だけ火花が弾ける。

 

 薄暗いフロアで繰り広げられる攻防は、もはや常人の目では捉えられない速度に達していた。

 曲刀が迫れば赫子で受け、捌ききれないものは躱すシロ。赫子が振るわれれば、曲刀で軌道を逸らし、突かれれば最小限の動作で避ける里津。

 

 未だ互いに傷一つ負っていないが、膠着状態であることに変わりはない。そんな現状を打開するため、先に戦術を切り替えたのは里津だった。

 

 下から掬い上げるように振るわれたシロの赫子を、避けることも逸らすこともせず、曲刀を交差させて正面から受け止める。当然、そんな事をすれば体重の軽い里津の体は簡単に浮かび上がる。だが、それこそが里津の狙いだった。

 無理に踏ん張ることはせず、吹き飛ばされた勢いすら利用してそのまま距離を取る。すると徐々に里津の輪郭はぼやけ、やがて闇に溶けるように完全に姿を消した。

 

 だが。

 

「無駄だよ。姿が見えなくても、私には君の位置が手に取るように分かる───こんな風にね」

 

「───ッ!」

 

 そう言って、シロは首を少し反らして頭上を見る。そこには、天井を蹴って落下しながら、二振りの曲刀を今まさに自分に振り下ろそうとする里津の姿があった。

 

 気配を消した上で死角から奇襲したにも関わらず、呆気なく居場所を特定された事実に両目を見開く里津を他所に、シロは赫子をがら空きな脇腹に向けて振るった。

 それに対し里津は、シロに振り下ろそうとした曲刀の軌道を上体を捻ることで強引に変更し、赫子に叩きつけた。

 

 鋼同士が打ち合うような音と同時に、里津の体がバットに打たれたボールのように吹き飛ぶ。何度も床を転がり、どうにか立ち上がるも勢いは止まらず、両足で床を削るように踏ん張ることでようやく停止する。

 今のでフードは脱げ、仮面もどこかへ飛んで行ってしまい、里津の素顔が露になる。赫子の衝撃を受け流し切れなかったことで、微かに痺れる両手を片方ずつ軽く振りながら、視線を鋭くする里津の口の端からは血が溢れていた。

 

 そんな彼女を視界に収めながら、シロはある結論に至った。

 

 慣れている。戦闘に、ではない。彼女の攻撃は首や目、関節や臓器、その他動脈が通っている部位など、人体のあらゆる急所を狙っているにも関わらず、そこに()()()()()()()()()()()()()

 

 確かに、喰種であるシロには驚異的な再生能力があり、例え里津の攻撃が当たったとしても死ぬことはない。だがそれは喰種であればの話であって、人間であれば即死、良くても致命傷だ。

 仮に、民警としてガストレアを幾度となく倒してきたイニシエーターたちに「人と同じ姿をした存在を相手に、ガストレアと同じように武器を振るえるか」と問えば、そのほとんどが首を横に振るだろう。

 

 要するに、何が言いたいのかというと。

 

「君、人を殺したことあるでしょ。それもかなりの数」

 

「…………」

 

「私たちもかなり殺してきたけど、君と同じぐらいの歳の当時の私たちと今の君を比べたら、間違いなく君の方が殺してるね」

 

 シロは断言した。目の前の少女は、自分たちよりもずっと幼い頃から殺しに手を染めていると。それは存在そのものを忌避され、迫害の果てに殺されることもある『呪われた子供たち』という里津の立場であれば、決してあり得ない話ではない。

 

 しかし。

 

「それだけ場数を踏んでるなら、私と君の実力差も分かるでしょ。勝てないよ、今の君じゃ」

 

 経験も技術も、シロは里津よりも長い時間を掛けて積み重ねてきた。現状、里津の実力では自分には勝てないと、シロは驕りではなく客観的に判断した。

 

「もう止めない? 何度も言うけど、私たちの標的は金木研だけ。大人しくしてくれてたら、君には手は出さないから」

 

 故に、言葉を重ねる。この戦いに意味は無いと。邪魔をしなければ、命は助けると。

 

「……前から思ってたんだけどさ、アンタって結構お喋りだよね」

 

 それに対し、里津は億劫そうにシロを見やった。

 

「おかげでアンタがどういう奴かよーく分かったよ。アンタは、ただの半端者だ」

 

「…………」

 

「アンタがアタシの居場所を把握できてるのは()()()()からでしょ? 喰種には五感が特別優れてるのもいるってカネキから聞いてるよ。本当はアタシがこのビルにいるってことも気づいてたんじゃない? なのにどういう訳か、アンタはアタシの存在を姉に黙ってた。標的しか殺さない主義? 仕事の邪魔をしなければ命だけは助ける? 人殺しがなに善人ぶってんだよ。それともなに? もしかしてアンタ、『無関係な人間を殺さない私は善人』とか本気で思ってるわけ?」

 

 馬鹿にするように口の端を吊り上げながら、里津は続ける。

 

「中途半端なんだよ、全部。殺したいんなら殺して、殺したくないんなら殺さない。それだけでしょ。いちいち自分を正当化しないと人を殺せないなら、殺し屋なんか辞めたら? 簡単な話じゃん」

 

「……っ! な───」

 

 何も知らないくせに。そう口にしようと息を吸おうとした瞬間。

 

 漆黒の曲刀が、首の皮膚を裂きながら後方に走り抜けた。

 

「かっ───!?」

 

 逆流した血液が、口から勢いよく溢れ出す。慌てて血が噴き出る首に手を当てながら振り向く。

 曲刀の軌跡の先。そこに立つ、切っ先から血を滴らせる曲刀を肩に置く里津を見て、シロはようやく首を切られたことを理解した。

 

「こ、のッ、ガキ……ッ!」

 

「死ななくても、消耗はするんでしょ? ああ、言い忘れてたけど別にアタシは()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 確かに、単純な実力の話をすればシロの方が上だ。だが、この世界のありとあらゆる戦いが"単純な実力の話"だけで済むのなら、現実に格上殺し(ジャイアントキリング)なんて理不尽は発生しない。

 

 かつて里津は、現在も同じ屋根の下で暮らす格上の同居人を、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 どうすれば息の根を止められるのか、毎日毎日考え続け、そうして里津が導き出した結論は、意表を突くことだった。

 

 会話の途中で攻撃するなど当たり前。そして、どんな相手でも息を吸う瞬間だけは無防備になることに気づけば、それを利用して何度もその息の根を止めようとした。

 

 結局、それらがまともに通用したのは最初の一回だけだったが。

 

 だが今回、()()()を使うためにはその一回がどうしても必要だった。

 

 首の傷を再生させ、腰にある2本の赫子と、分離した一振りの剣型の赫子を構えるシロを尻目に、里津は刀身に付いた血を舐め、嗤う。

 

「さあ、第二ラウンドだよ」

 

 里津の目の周りに、滲むように花弁のような痣が浮かび上がった。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 基本的に、呪われた子供たちに毒物や薬品は効かない。体内のガストレアウイルスが、あらゆる異物から宿主を守ろうとするからだ。しかしこれは、あくまで人間に対して使う用量を想定しており、当然致死量の数倍以上を投与すれば、それが毒であれ薬であれ、ガストレアウイルスの恩恵を突破することは可能である。

 

 だが稀に、常人が摂取してもそこまで身体に影響のないものでも、呪われた子供たちが摂取すれば、一時的に肉体面、精神面のどちらか、あるいは双方ともに固有の変化を引き起こすことがある。

 

 代表的な例を一つ挙げれば、ガストレアウイルスはアルコールも分解するにも関わらず、熊の因子を持つ呪われた子供たちは蜂蜜を摂取すると、酩酊にも似た状態に陥るという。

 

 これを『回帰』と言う。

 

 また、もともと呪われた子供たちはモデルとなった生物の性質に多かれ少なかれ影響を受けているものだが、『回帰』の発現にはそれらの影響の大小は関係ない。その呪われた子供たちにとってトリガーとなる()()を摂取すれば、誰でも『回帰』することが可能なのである。

 

 そして。

 

「───キヒャハハハハハハッ!!!」

 

 占部里津。モデル・シャークのイニシエーターである彼女の『回帰』のトリガーは、他者の血液。ひとたび摂取すれば、目の周りに花弁状の痣が浮かび上がり、身体能力は飛躍的に上昇する。

 

 だが、彼女の『回帰』が齎す変化は肉体面だけではない。

 

「ほらほらほらァッ!! もっと血を見せなよォ! もっとその顔を歪ませなよォ! 苦悶して、泣き喚く声を聞かせなよォ!」

 

「ぐっ……!」

 

 凶暴性と残虐性の増幅。際限なく湧き上がる加虐的な衝動。そして、他者の()()()血液を見る度、これらの特性は長く強く持続する。『回帰』が終わるその瞬間まで。

 

 歯を剥き出しにして笑う。最高の気分だ。久しく味わっていなかったこの感覚。この解放感。

 

 人を痛めつけるのが好きだ。人の血を見るのが好きだ。人を屈服させるのが好きだ。人の無様に泣き叫ぶ声が好きだ。

 

 それも、少し前まで自分のことを見下していた相手であれば尚の事。

 

 興奮が抑えられない。全身が火照って、昂っているの感じる。目の前の獲物が血を流して倒れる姿を想像するだけで、ゾクゾクとした快感が背中を駆け抜け、下腹部が疼いて仕方ない。

 

 見たい。一刻も早く、目の前の女が床を這いつくばり、みっともなく命乞いをする様を。

 

「……調子に」

 

 それは、一種の焦燥感だった。理由はともかくとして、敵を早く仕留めなければならないという心理に変わりはない。苛烈さを増す攻撃に比例して反射速度も上昇し、里津は僅かな隙であろうと見逃さず反応した。

 

「乗るなッ……!」

 

 例えそれが、意図的な隙だったとしても。

 

 里津の猛攻の最中、シロは敢えて腹部の防御を少し上にズラした。あたかも上半身への攻撃に怯んだかのように。

 

 吸い寄せられる視線と曲刀。シロの表情と武器を持った手は、完全に視界の外だった。

 

「───ッづ、ああああああ!?」

 

 突如暗転する視界。それと同時に、眼球に熱湯を流し込まれたような激痛が里津を襲う。思わず武器を取り落とし、両手で目を覆った。どろり、と生暖かい感触が指先から伝わってくる。

 

 里津の両目を潰したシロは、手に持った刀型の赫子を振って血を払い落とす。

 

 最初はなるべく彼女の体内侵食率を上げないように制圧しようとしていたが、止めた。もはやそんな余裕はシロにはない。

 

 こちらに背を向けて呻く里津に向けて躊躇なく、腰から伸びる一対の赫子をそれぞれ突き、薙ぎ、両手で握った刀型の赫子を振り下ろした。

 突き出された赫子は左の肺を、横薙ぎの赫子は右足を、刀型の赫子は右肩から左脇腹を。目を潰された状態で、三方向から繰り出される同時攻撃。武器はなく、回避はおろか防御することすら叶わない。

 

 詰みだ。

 

 そう確信していたからこそ───突如振り向き、こちらに飛び掛かってきた里津に虚を突かれた。

 

 ロレンチーニ瓶という器官がある。サメの仲間はこの器官によって、生物が筋肉を動かす際に発する微弱な電流と、それに伴って発生する磁場を感知することが出来る。例え目が見えずとも、周囲の状況はもちろん、地球の磁場を感じ取って自分の現在位置を正確に把握することすら可能なのである。

 

 目を閉じているのにも関わらず、赫子の刺突と横薙ぎをまるで見えているかのように躱し、シロの手を掴んで刀型の赫子の軌道を逸らし、そのまま喉元に噛みつこうと口を開けた。

 

 人間の柔肌など容易く突き破れるであろう鋭く尖った歯が、シロの首に迫る。だが、この時のシロには余裕があった。

 

 確かに驚きはあった。視界を完全に奪われた状態で、なぜそこまで動けるのかという疑問もある。しかし、それだけだ。肝心の攻撃手段が噛みつきでは、何の意味もないのだ。

 

 喰種の肉体は赫子か、バラニウムを加工した武器でなければ傷つけられない。このまま里津の歯が自分の首に触れたところで、へし折れるのが関の山だ。

 

 だから。

 

 そう思っていたからこそ、里津の鋸歯のように鋭い歯が()()()()()()()()()()()ことを理解できなかった。

 

「…………え?」

 

 シロは知る由もないが、里津がカネキに本気の殺意を向けていた当時、カネキが武器になりそうなものを彼女の目の届く場所には置かないように徹底していたため、唯一の武器である自身の鋭い歯を使って、何度もカネキの喉元を噛み千切ろうとしていた。

 

 当然、最初は喰種の皮膚を突破できず、逆に里津の歯が折れた。だが、サメの因子を持つ里津の歯はすぐに生え変わり、その度にカネキに噛みついた。

 

 噛みついては折れ、生え変わり。折れては生え、折れては生え、折れては生え。

 生え変わる度、自らの歯がより強く鋭くなっていき───ある日、突き立てた歯がその皮膚を食い破った。

 

 その頃にはすでにカネキへの殺意は消えていたので大事には至らなかったが、それまで頻繁に行っていた噛みつきはもはや癖になっており、眠っていると無意識に近くにある物を噛んでしまうため、それまで同じ部屋で寝ていたのだがこれを機に一人部屋を宛てがわれる事態となってしまった。

 

 つまるところ、里津の歯がシロの肌を貫くのは、当然の話だったのだ。

 

 シロの首に食らいつきながら、ズキリと鋭く焼けるような痛みを訴える右脇腹に顔を顰める。どうやら肉を浅く削がれたようだ。避けたと思っていたが、ギリギリ触れられていたらしい。

 思わず噛む力を緩めそうになるが、先の目潰し(気付け)()()の醒めた頭が冷徹に指摘する。ここを逃せば終わりだと。

 

「ゔぅゥゥッ───!!!」

 

 顎が砕けんばかりに噛む力を更に強める。口内に流れ込む大量の血液に溺れかけるも、それと同時にブチブチィッ! と肉が千切れる感触。首から鮮血を噴き出しながら、二、三歩後ろによろめいて、片膝をつくシロ。

 その様子を見て、里津は口の中の血と肉を吐き捨てながら踏み込む。

 

 姿勢を低くし、地面すれすれまで下げた拳を、全身のバネを使って掬い上げるように鳩尾に打ち込んだ。

 

「ごッ……!?」

 

 僅かに浮かび上がった体が力なく落下する。そんなシロの顎に容赦なく、膝蹴りが炸裂する。

 仰向けに吹き飛び、背中を床に強打したことで一瞬呼吸が止まる。そこへいつの間に回収したのか、取り落とした曲刀を手に跳躍し、振りかぶりながら落下する里津の姿が目に飛び込む。

 

 凶刃が迫る。

 動かなければ、と思った。大量の出血と顎に受けた衝撃によって脳を揺らされたことで碌に力が入らなかったが、それでも転がってその場から移動するなり、赫子を出して盾にすることぐらいは出来た。

 

 けれど、結果として。

 

 シロは身じろぎ一つせず、凶刃を受け入れるように目を閉じた。

 

 振り下ろされる2本の曲刀。それは過つことなく、シロの首を切断し、心臓を穿った。

 

 ───里津がその手を止めていなければ。

 

「……なんで抵抗しないのさ」

 

「……そっちこそ、私を殺すんじゃなかったの?」

 

 シロの言葉に、里津は鼻を鳴らす。

 

「アタシは殺しに抵抗がないって言っただけだよ。嫌いな奴に悪口言うのと一緒。でもアタシが人を殺すと、カネキが悲しむからさ。言いつけ守って、アタシもアイツみたいに相手がどんなにクズでも『殺し』はしないようにしてんの」

 

 覆い被さっていたシロから離れ、背中を向ける里津。油断しているわけではない。そも、彼女にとって視界の有無など関係ない。これは里津なりの『本当に殺す気はない』という意思表示だ。

 

「で? アンタは何で死のうとした訳?」

 

 ゴシゴシと、血に染まった目元を少し乱暴に擦り、瞼を開ける。再生した目に異常が無いか確かめながら、里津は問いかける。目の周りの痣は、消えていた。

 

「何で、か……」

 

 ぼーっと天井に視線を向けながら、シロはぽつりと溢した。

 

「クロナが初めて人を殺したのはね、私が原因なの」

 

 今でも鮮明に思い出せる。恐怖に震え、泣いて助けを求めた自分。それに応えて、あの場にいた全員を惨殺した姉。

 

「アタシには、ロリコンの変態野郎共の自業自得にしか思えないけどね」

 

「そうだね。だけどそもそも、私が()()()()()()()()()()()()()()()()、アイツらに捕まることもなかったんだよ」

 

 あの時、クロは自分たちが彼らに泳がされれていることに薄々勘付いていた。無論根拠などなかったが、嫌な予感を無視できなかったクロはシロに言ったのだ。お金は十分稼げたし、憂さ晴らしも出来たから手を引こう、と。

 

 だが彼らを甘く見ていたシロはそれを気のせいだと、心配し過ぎだと笑って耳を貸さなかった。

 

 結果、姉は人を殺した。そしてその日から、シロはクロの言うことに逆らうことも、意見することもなくなった。

 本当は、殺し屋になることにも反対したかった。だが、殺し屋を勧めた顔無しの()()()は尤もであったし、他に当てがある訳でもなく、そもそも一体どの口でそんなことを言えるというのか。

 

 姉はどこまでも自分に優しかった。二人で殺し屋になったのに、クロは決してシロに殺しをさせなかった。シロが標的を殺そうとした時は、半殺しにしてでも止めたこともあった。

 

 ナシロは手を汚さなくていい。そう笑った姉の言葉に安堵する自分に気づいて死にたくなった。直接手を下した訳じゃないから自分は人殺しじゃない? そんな訳があるものか。人が死ぬと分かっていて、それを実行するのが姉だと理解した上で加担した時点で、この手はどうしようもなく血に染まっているというのに。どこまで自分本位なんだと、自分自身を八つ裂きしたくて仕方なかった。

 

「だけど、まあ、結局自分で死ぬ勇気もなくてさ。君の言う通り、本当に中途半端だよね」

 

 いつからか、シロの中には消極的な自殺願望が芽生えていた。無抵抗で殺されるつもりはないが、必死に足掻いてまで生きようとも思わない。不完全ながら赫者に至ったクロを見て、そんな姉に守られ続ける自分はただのお荷物でしかなく、いっそ消えた方がいいのではと思うようになっていた。

 

「……死ぬ死なないはアンタの勝手だよ。興味もないし、他人のアタシがどうこう言う義理もないしね」

 

 でも、と。言葉を続ける里津の背中に目を向ける。

 

「伝えたいことがあるんなら、言えるうちに伝えておくべきだと思う。アンタよりも先に、姉が死ぬ可能性だってゼロじゃないんだし。───言いたかったことを一生言えなくなるのは、あんまりいい気分じゃないよ」

 

 淡々とした声だった。なのに、ひどく耳に残った。

 姉が自分よりも先に死ぬかもしれない。そんなこと、考えたこともなかった。そんなこと、想像も出来なかったから。

 

 もし今のまま、言いたいことを、思っていることを伝えないまま、クロナが先に死んでしまったら、私は───。

 

「アンタは自分の姉に、なんて言いたいの?」

 

「……………い」

 

 とても、小さな声だった。しかしそれは、今まで封じていた本音の蓋が外れた証左であり。

 

「もうっ、人を殺さないでって言いたい……っ!」

 

 言葉と共に、涙が溢れる。流すまいと目を閉じても、涙を留めることは出来ず、腕で目元を隠した。

 

(何やってんだろうなぁ、アタシ)

 

 背後から聞こえる嗚咽を耳にしながら、里津はらしくないことをしているなと心の中で自問する。

 敵対関係の、それを抜きにしても赤の他人でしかないシロを相手に、何を説教染みたことを言っているのだろうか、と。

 

 いや、本当は分かっている。身近な人がいつまでも傍にいると無条件に信じているシロに、昔の自分を重ねたのだ。

 

 脳裏を過るのは、最近思い出せるようになった、顔も名前も思い出せない少女のこと。

 

 自分たちの境遇を正確に把握できていなかったが故に、愚かにもずっと一緒に明日を迎えられると思い込んでいた、あの頃の自分を見ているようで、つい苛ついて、口を出してしまったのだ。

 

「……あーもう! いつまでも泣いてないで、早いとこ───」

 

 カネキとクロを止めに行こう。そう口にしようとした瞬間、建物全体が大きく揺れた。

 

「「!?」」

 

 上の階から轟音が降り注ぎ、建物の外に目を向けると、最上階にあったクレーンが夥しい瓦礫と共に落下していくのが一瞬見えた。そしてその直後、鉄の塊が地面に叩きつけられる、凄まじい激突音が響いた。

 

 里津とシロは無言で顔を見合わせると、カネキたちがいる階に向かうために同時に走り出した。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「どういうつもりかな、里津ちゃん」

 

「それはこっちのセリフだよ、なにさらっと殺そうとしてんのさ……!」

 

 実質屋上と化した目的の階に到達した里津が真っ先に目にしたのは、分離した赫子を手にその場から動かないクロに歩み寄り、今まさに止めを刺そうとするカネキの姿だった。

 咄嗟に二人の間に割り込み、振り下ろされた赫子を曲刀で受け止めながら、里津はカネキを睨む。

 

 僅かな拮抗の後、里津は受け止めていた赫子を左側に流し、そのまま体も回転させ、カネキの側頭部を狙った右回し蹴りを繰り出す。それをカネキは首を逸らすことで危なげなく回避するが、さらに続けて放たれた後ろ回し蹴りを躱すのに後退を余儀なくされる。

 

 バックステップで距離を取り、武器を構えたまま射抜くような鋭い視線を向けるカネキに対し、里津も迎え撃つように武器を構え、負けじと睨み返す。そんな二人を困惑した様子で見上げていたクロの元に、僅かに遅れてシロが駆け寄る。

 

「クロナ!」

 

「ナ、シロ? どうして……逃げてって、言ったのに……」

 

「ごめん、約束破って……だけどもう、自分に嘘つくのは止めにしたんだ」

 

「何を、言って……」

 

「私はクロに、お姉ちゃんに殺し屋を辞めてほしい。虫の良い話だってことは分かってる。でも! これ以上、クロに人を殺してほしくない。私はクロと、普通の人みたいに普通に生きたい」

 

「シロ……でも、私は……」

 

「クロナは、どうしたい?」

 

 シロの静かな問いに、クロは僅かに沈黙し。

 

「……生きたいよ。普通に、私だって、生きたいよ……!」

 

 涙と共に本音を零した。

 

「本当は、あの喰種が羨ましかった……! あんな風に、私たちも、真っ当な生活を送れたらって……! 黒い死神のこともっ。喰種なのに……! 私たちと真逆な生き方をしてるアイツのことが、ずっと羨ましくてっ……!」

 

「うんっ、うん……!」

 

 瓦礫に寄りかかったまま涙を流すクロに胸を貸しながら、シロも泣いた。やっと本音で話せたことが嬉しかったから。ずっと聞こうとしなかった本音が辛かったから。

 

 そして。

 

「……で? コイツらにはもう戦う意志はないと思うんだけど、なんでまだ武器を下ろさないわけ?」

 

「戦う意志がないという理由だけで殺し屋を、それも喰種を野放しにはできない」

 

 クロたちの会話からおおよその事情を把握した上で、カネキは武器を下ろさなかった。

 それに里津は苛立ちを顕にする。

 

「へぇー……親に売られた呪われた子供たちを薬漬けにする連中や、そいつらから買い取った呪われた子供たちを甚振ったり犯すのが大好きなゴミクズ共は殺さない癖に、()()()()()()()()()()()のコイツらは殺すんだ」

 

「そうだ」

 

「ふざけんなッ!!!」

 

 カネキの肯定の言葉に、里津は全身の血が沸騰したと錯覚するほどの怒りを覚えた。

 

「納得できるわけねぇだろ! そんなの! だったらアタシはどうなんだよ、今まで散々人を殺してきたアタシは!!」

 

「っ! 君の時とは事情が違う!」

 

「違わない!」

 

「いいや違う! 確かに、彼女たちが初めて殺人を犯した時の状況や、その後しばらくの殺人の理由には同情の余地がある」

 

「だったら!」

 

「でも、彼女たちは殺し屋になって自分たちとは関係のない人間を手にかけた! この時点で、僕がこの子たちを見逃す理由は存在しない!」

 

「っ、だとしても! なんで殺す必要があるっていうのさ!? 人は絶対に殺さないのがアンタの方針でしょ!!」

 

「その通りだよ、里津ちゃん。僕は()()は殺さない。君がさっき言ったように、例え相手が死んで当然のような悪人だろうと、例えその人が法で裁けなくても、どれだけ憎くても、僕は殺さない」

 

 ヒトは殺さない。そう口にしながらも、だが現実として、カネキはクロたちを殺そうとしている。それの意味することが分からないほど、里津は愚鈍ではなかった。

 

「……じゃあ何か。アンタは喰種は人間じゃないから殺しても良いって言いたいのか」

 

 カチカチ、と。握り締めた曲刀が小刻みに震え始めた。なんだ、そのクソみたいな理屈は。

 

 それでは、まるで。

 

「……だったら、アタシたち呪われた子供たちはどうなんだよ。なんでアタシは殺さなかった癖に、喰種のこいつらは殺すんだよ」

 

 里津は敢えて、頭の中で思ったことをそのまま言葉にはせず、遠回しな言い方をした。カネキと自分との間にある認識の違いを明瞭にするために。

 

「君たちは、人間だ。喰種(僕たち)とは違う。それにイニシエーターには、IISOがある」

 

 イニシエーターを管理・制御する組織である国際イニシエーター監督機構───通称IISO。

 IISOには問題を起こしたイニシエーターを収容したり、ペアが見つからないイニシエーターを一時的に保護するための施設が存在する。故にIISOは、イニシエーターにとってある意味で刑務所のような存在でもあるのだ。またその特性から、イニシエーターを飼い主()に捨てられた動物に喩えてIISOを『保健所』と揶揄する者たちもいる。

 

 だが、喰種にはソレがない。この世界には、()()喰種を管理する組織が存在しない。そもそも、喰種そのものが都市伝説レベルの存在なのだ。イニシエーターのように、喰種にとってのIISOはこの世のどこにもない。

 

「仮に、彼女たちをここで見逃したとしよう。でもそれで、彼女たちが再び僕の命を狙わない保証がどこにある? 僕の命を狙うだけならまだいい。これまでみたいに、もう殺しに手を染めないとどうして断言できる? 彼女たちの殺人の証拠を集めて刑務所に入れるって手もあるけど、素手でコンクリートを砕ける喰種に刑務所の壁なんて紙切れ同然だ。唯一喰種を収容できそうなのは政府だけど、過去に受けた拷問染みた研究の日々が待っているかもしれないのに、彼女たちが大人しく従うと思う?」

 

「─────」

 

 思いつく限りの選択肢を一つひとつ、カネキは丁寧に潰していった。言外に、自分の考えは変わらないことを示すように。

 我慢の限界だった。ここまでのカネキの台詞、態度、その()()()()()()()()()()()()。言いたいことは山ほどあるが、その前にまず一発ぶん殴ってやる。激情と共に里津は一歩踏み出そうとして。

 

「……待って」

 

 背後から掛けられたクロの力ない声が、その足を止めさせた。

 

「少しだけ、私に話をさせて」

 

 ロレンチーニ器官(レーダー)でカネキの挙動を把握しながら、クロの方に視線を向ける。ややあって、里津は舌打ちして視線を正面に戻した。好きにしろ、と言うことらしい。

 

「黒い死神、お前が私たちを殺そうとするのは、私たちが喰種で人殺しだから、って認識で合ってるか?」

 

「……そうだ」

 

「なら、ナシロは見逃してくれないか? この子は今まで誰も殺してない。私が殺させなかった。私は一切抵抗する気はない。だからどうか、妹だけは見逃してくれないか」

 

 それは、少しでもシロの生存率を上げるための言葉だった。決して死にたい訳ではない。先ほどシロに告白したように、今のクロは叶うなら二人で一緒に生きていきたいと心から思っている。だが、自分が死ぬだけで妹の命が助かるのなら、クロは躊躇うことなく命を捨てられる。

 

 そしてクロの提案にその場にいた全員が様々な反応をしたが、一番分かりやすい反応をしたのはシロだった。

 姉の紡いだ言葉の意味をどうにか咀嚼し、それと同時に口を開くが、シロが何か言葉を発するよりも先に。

 

「───ダメだ」

 

 カネキはその提案を一蹴した。

 

「どうして……!」

 

「簡単な話だよ。君の妹は、目の前で姉を殺した存在に何の感慨も浮かばない人間なのか?」

 

「……!」

 

「君が妹の立場だったらどうする? 彼女を目の前で殺した僕を殺したいと、復讐したいと微塵も思わないって断言できる?」

 

 だから、どちらか片方を見逃すという選択肢は存在しない。

 バキッ、とカネキは親指で人差し指の骨を鳴らす。

 

「君たちは、ここで摘む」

 

 話は終わりだ。そう告げるようにカネキが武器を構え直すと、クロは瓦礫に寄り掛かりながら立ち上がり、シロはそんな彼女を庇うように赫子を生み出して前に出た。

 そして。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……面倒くせぇぇ……」

 

 里津は考えることを放棄した。

 

「なぁ、そんなにコイツらのこと殺したいの?」

 

 天を仰いで心底うんざりしたように息を吐き出した後、里津はカネキに顔を向けた。その顔を見た瞬間、カネキは猛烈に嫌な予感を覚えた。

 

「り、里津ちゃん?」

 

「だったらさぁ……」

 

 里津はクロたちの方を振り返ると、彼女たちにゆっくりと歩み寄った。そしてごく自然にクロの背後を取って、膝裏を蹴り床に跪かせその首に曲刀を押し当てると。

 

「アタシが殺してやるよ」

 

「「「…………え?」」」

 

 それはそれは、とても素晴らしい笑顔で、とんでもなく物騒なことを口にしたのだった。

 

 

 

 

 



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第25話 Cに傾く人

 C+傾く人=C+leaner=cleaner=掃除屋

 

 

 

 

 それまでクロたちを擁護する姿勢を見せていた里津が、突如笑顔で口にした殺害宣言。なぜその結論に至ったのか、一切が分からない論理の跳躍。当然、里津以外のその場にいる全員が混乱した。

 そしてその混乱から即座に回復し、それぞれ動こうとしていたカネキたちを牽制するために里津は告げた。

 

「全員、その場から動くなよ」

 

「…………っ」

 

 咄嗟に拘束を抜けようとしたクロの首に、皮膚が浅く切れる程度に曲刀を押し付けながら、里津はカネキとシロの間に移動する。彼女たちを線で結べば、ちょうど三角形になるような位置へ。

 

 何をする気なんだと、シロは目の前を通り過ぎる里津に視線で訴えた。けれどその視線に気付いていないのか、それとも敢えて無視したのか、里津が応えることはなかった。

 

 彼女が突然クロを殺すと言った時、シロは騙されたと思った。最初から自分たちを殺すつもりだったのかと。

 そうして感情のままに詰問しようとした言葉はしかし、それとほぼ同時に湧いた「もし本当に里津が自分たちを殺すつもりなら、何故わざわざそれを口にしたのか」という疑問に阻まれた。

 

 クロの背後を取ったあの時点で、里津に対して完全に警戒を解いていた二人を殺すことも出来たはず。

 そもそも最初から殺すつもりなら、なぜカネキからクロを庇ったり、シロに止めを刺さなかったのか。

 

 里津の思惑が分からない。だからシロは不用意に動けなかった。

 クロもまた、拘束されながら奇しくもシロと同じ思考過程を経たことで、目的が分からないが故に下手に身動きが取れなくなっていた。

 

 だが、移動を終えてカネキの方に顔を向ける里津を見て、シロはふと彼女の言葉を思い出した。

 

『でもアタシが人を殺すと、カネキが悲しむからさ。言いつけ守って、アタシもアイツみたいに相手がどんなにクズでも『殺し』はしないようにしてんの』

 

 まさか、と。シロは信じられない物を見るような目を里津に向けた。

 

 そしてただ一人、里津の意図を誰よりも早く察していたカネキは、苦虫を噛み潰したようにマスクの内側で顔を歪めていた。

 

「里津ちゃん、君は───」

 

「おっと、言葉は慎重に選びなよカネキ。でないと、いま必死に繋ぎ止めてるアタシの堪忍袋の緒が、こいつの首と一緒に切れることになるよ」

 

 里津の表情は、依然として笑顔である。なのに、彼女の声色と口にする内容からは怒り以外の感情が見えない。

 人間は怒りの感情を表現する際、顔を険しく歪ませたり泣いたりする者もいれば、逆に一切の感情を見せなくなったり、笑ったりする者もいる。里津は今、怒りの感情が振り切れて笑ってしまっているだけだった。

 

「ムカつくんだよ。なぁにが『君たちは人間だ。僕たちとは違う』だ。自分は人間じゃないみてぇな言い方しやがって。『僕を狙うだけならまだいい』? 良いわけないだろ……何にも良くないだろうが!」

 

 里津の顔から笑みが消え、声を荒げながらカネキを睨みつける。

 

「アタシたちを人間扱いするアンタが、自分を化け物扱いしてたら意味ないんだよ! アタシたちを大事に思ってるアンタが、自分を蔑ろにしてたら意味ないんだよ! なんでそれが分かんないのさ!」

 

「里津ちゃん……」

 

「何より一番気に食わないのは、アンタが()()()()()()()()()をあれこれ理屈つけてやろうとしてるってとこだよ!」

 

「………!」

 

 露出しているカネキの左目が一瞬見開かれる。そして、一度目を閉じて深く息を吐き出し、再び目を開くと鋭い視線で里津を射抜いた。

 

「彼女たちをここで殺せば、すべて丸く収まる。なのに、それをするなと、君は言うんだね。その結果、どんなに悪いことが起ころうと」

 

「やりたいことをしても、やりたくないことをしても最悪になるなら、せめて気分の良いことをした方がいいじゃん」

 

 無言の睨み合いが続き、不安定に積み重なった瓦礫が崩れる小さな物音だけが響く。

 

「……知り合いに、政府で働いている人がいる」

 

 そうして、先に折れたのはカネキだった。

 手に持っていた赫子が形を失い、張り詰めていた空気と共に霧散する。

 

「その人に頼めば、君たちを政府に引き渡した後に、また非道な実験の研究対象にされないように出来るかもしれない」

 

「それ、って……」

 

「でも、絶対にそうならないと確約はできない。それでも構わないなら、君たちを見逃す。これが、僕にできる最大限の譲歩だ」

 

「要するに、助けてやるってさ」

 

 そう言って里津は、クロの首に当てていた曲刀を鞘に納め、カネキの横に並んだ。

 

 そんな彼らを、クロはぽかんとした様子で見ていた。だって、クロには何がなんだかさっぱり分からなかったのだ。

 何せついさっきまで自分たちを守ろうとしていた人間(里津)には急に喉元に刃を突きつけられ、かと思えば何故かついさっきまで自分たちのことを殺す気満々だった人間(カネキ)は逆に助けるとか言い出した。

 

 まるで意味が分からない。なぜ自分が里津に殺されそうになったらカネキが殺すのを止めるのか。目まぐるしく変化する状況に、ぶっちゃけクロは混乱していた。

 

「本当に、助けてくれるの?」

 

 それでも、混沌とする思考とは裏腹に、どうしても確認しておきたいことだけは、自分でも驚くほど簡単に口に出せた。

 

「ああ、本と……」

 

「心配しなくていいよ。もし嘘だったら、何かする前にアタシがコイツのことぶん殴るから」

 

 自身の言葉に食い気味に被せてきた里津に、カネキは何とも言えない目を向けた。

 

「……里津ちゃん、彼女はいま僕に質問してたと思うんだけど」

 

「アンタ自分のついさっきまでの行動を振り返ってみなよ。なに言ったって信用される訳ないんだから、アタシが答えたって問題ないでしょ」

 

「いやそれは、そうなんだけど……でも里津ちゃんだってあの子に刀当ててよね」

 

「アレはあいつをカネキから守るためだからセーフ」

 

 悪びれることなく言い切る里津に「は?」と呆気に取られるクロの横で、シロは「やっぱりかぁ……」とげんなりした。

 

「え、やっぱりって、え? シロ、どういうこと?」

 

「えーっと、つまり、里津には初めから私たちを殺す気なんて無かったって話」

 

 そうして疲れたような溜息と共にシロから語られた里津の『方針』を聞いて、彼女の行動の意図を察したクロは引いた。

 

「殺させない為に自分が代わりに殺すと脅すってお前……」

 

 今さら自分たちに常識を説く資格がないことは重々承知しているが、それでもカネキに殺しをさせない為に真っ先に思いついた手段がコレなのは流石にどうかと思った。

 

「何? 文句があるならホントに殺したっていいんだけど?」

 

 吐き捨てるように言いながらクロを睨む里津の顔には、冗談ではなく本気で実行しそうな気配があった。

 

「里津、それだと本末転倒になるよ」

 

「……分かってるって。冗談だよ、冗談」

 

 ところがシロが苦笑い気味に声を掛けると、里津は不機嫌そうにしながらも纏っていた敵意をあっさりと霧散させた。

 

 妹との扱いが違いすぎでは? とクロは目元を引きつかせるが、冷静に考えれば自分は里津の仲間であるカネキを殺しかけた為、当たりが強いのも当然かと納得した。

 

「……警察か」

 

 ビルの外が微かに騒がしく、誘われるように縁に立って地上を覗くと、ビルを囲うようにまばらに配置されたパトカーの赤色回転警光灯(パトライト)が目に映る。

 どうやら先の戦闘音に何事かと集まってきた人々がビルの敷地に入らないように、道を封鎖しているらしい。

 

「まあ、あれだけ派手にやれば通報の一つぐらいされるだろうが……」

 

 とはいえ、今さっき通報されたにしては警察の対応が早すぎる。少なくとも戦闘が始まる前に通報を受けていなければ、あんな風にビルを隔離するように道を封鎖するなど不可能だ。

 

 であるなら、答えは簡単だ。

 

「僕が予め呼んでおいたんだ。君たちとの戦闘の最中に、銃声や爆発音を聞きつけた一般人がこのビルに近づかないようにね」

 

 背中越しに届いたカネキの言葉に、道理で対応が早い訳だ、と得心しながらクロは地上を見下ろす。すると現場を指揮してるであろう強面の男に、何となく目が留まった。

 

「げっ……」

 

 思わず呻くような声を上げたクロだったが、正直なぜそんな声を出したのか自分でもよく分からなかった。

 男の、そのヤクザよりも恐ろしそうな顔付きに見覚えがあるような気がしたが、どうにも思い出せない。

 

 ただ、なるべく関わりたくないと思った。根拠はないが、あの男に一度見つかれば地の果てまで追いかけられそうな、それをありえないと一蹴できない予感があったからだ。

 万が一姿を見られればその予感が現実のものになりかねないので、クロは逃げるようにカネキたちの元に戻った。

 

「ところで里津ちゃん、マスクはどうしたの?」

 

「あ、やば。戦闘中に外れてそれっきりだったの、すっかり忘れてた」

 

「それじゃあ、里津ちゃんがマスクを回収したらそのまま全員でビルを出よう」

 

「ビルを出て、その後は?」

 

 クロの質問に、カネキは彼女とその隣にいるシロの方に顔だけ向けて答える。

 

「とりあえず、政府に身柄を引き渡すまでの間、君たちの安全の確保と監視を兼ねて、二人には僕たちの家に来てもらう。徒歩での移動になるけど、大丈夫?」

 

「……ああ。走るだけなら、問題ない」

 

 クロは調子を確かめるように自身の体に目を向け、やがて顔を上げて再びカネキの方を見た。

 嘘ではない。濃縮バラニウム弾で撃ち抜かれた場所は激痛を発し続けているし、倦怠感で思考も鈍っているが、カネキたちに追随して走るぐらいは出来る。そう思ったからこその返答だった。

 

「クロ、無理しないで辛かったら言ってね。いざとなったら私が背負って走るから」

 

 だが、そんなクロの痩せ我慢を見過ごせない者がいた。

 シロの言葉に、クロは一瞬目を丸くした。今までであれば、自分が「大丈夫」「問題ない」と言えばシロがそれ以上踏み込んでくることはなかった。

 

 自分がカネキと戦っている間に、シロに何があったのかは分からないが、彼女は良い意味で変わった。本音を押し殺さず、思っていることを素直に言えるようになった。

 

 たったそれだけのことだが、クロはとても嬉しかった。

 顔無しから警告を受けた時は、こんなことになるなんて想像も───

 

『君たちを狙ってる連中がいるから、早いとこ東京エリアから出た方がいい』

 

 ふと、クロはここに来る直前に顔無しに言われたことを思い出した。

 

 あの情報屋は、確かに自分たちを狙っている人間がいると言った。その直後にカネキの襲撃に遭った為、てっきり顔無しの言った『連中』とはカネキと里津を指していると思っていたが、続けてこうも言っていなかっただろうか。

 

『報酬も諦めた方がいいね。彼は君らに一銭も払う気は無いみたいだから』

 

 そうだ。あれでは、まるで。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それが、彼女が自身の心臓を()()()()()()()()()()()()()()()()()で破壊される前に行った、最後の思考だった。

 

 胸に暗く赤い華を咲かせ、クロは膝から崩れ落ちた。

 

「クロナ……?」

 

 倒れ伏したクロを中心に、床が血に染まっていくのを見ながら、シロはただ呆然と立ち尽くしていた。

 それはカネキも同様であり、咄嗟に反応できたのは里津だけだった。

 

 濃厚な血臭を嗅いだことで、非戦闘状態にあった意識が塗り潰されるように一瞬で切り替わり、その場における最善で最適な行動を選択した。

 

 遅れて状況を理解し、シロに手を伸ばし駆け出そうとするカネキに里津が体当たりするようにして一緒に物陰に転がり込むのと、二発目の濃縮バラニウム弾がシロの背中を撃ち抜いたのは同時だった。

 

 血を流しながら横たわるクロに向かって手を伸ばしながら、シロの体が力なく、前のめりに倒れる。

 

 そして、伸ばされたシロの手が、投げ出されたクロの手に触れることはなく。

 

 姉妹の手が重なることは、なかった。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

「───こちら『ダークストーカー』。ネストへ、任務完了。目標(ターゲット)沈黙しました。次の指示を待ちます」

 

 カネキたちが居たビルから距離にして1200メートル離れたとある建物の屋上。そこに一人の青年が立っていた。

 紺色のTシャツの上に茶色のテーラードジャケットを着て、黒のズボンを穿いたその青年は、一見すればどこにでもいる普通の一般人にしか映らないだろう。

 

 その手に持つ、一挺の狙撃銃さえなければ。

 

 DSR-1。ドイツのAMP テクニカルサービスが開発したブルパップ方式のボルトアクション狙撃銃である。

 銃身先端には専用のサプレッサーを取り付けており、1000メートル以上も離れていれば発砲音はもちろん、銃口炎を視認することもできない。

 

『確実ですか?』

 

「心臓に一発ずつ、濃縮バラニウム弾を撃ち込みました。どんなに卓越した再生能力者でも、再生レベルはⅢが限界ですからね。即死かと」

 

 ただ、と。ヘッドセット越しに聞こえるネストの声に返答しながら、青年は先ほどまでスコープを通して見ていたビルの方に目を向ける。

 

「遺体は向こうに回収されてしまったので、確認のしようがありませんが」

 

『……まあ、いいんじゃないですか? 巳継くんの言う通り、濃縮バラニウム弾で心臓を破壊されたならまず生きてはいないでしょうし』

 

 ネストの言葉に、コードネーム『ダークストーカー』、本名を巳継悠河という青年は眉宇を動かす。

 

 任務中であるのにコードネームではなく、平然と本名を呼んでくることに、ではない。無論、急に馴れ馴れしく、しかも任務中に本名を呼ばれたことに初めは抗議したが、第三者が傍受している可能性が皆無な以上問題はないと言われてしまえば反論できず、やがて慣れた。

 

 悠河が気になったのはそこではなく。

 

「おや、妙に潔いですね。普段の貴方なら、重箱の隅をつつくように僕のミスを(あげつら)うところでしょうに」

 

『いやぁ実は最近働き詰めで。ほら、今回の任務ってそもそもボクが8年前に彼女たちを片付け損なった結果でもある訳じゃないですか。しかもあの時、()()()()()()()()()()()()()()()()って言う任務が彼女の凶行(自爆)のせいで失敗しちゃってますからねぇ。だから“上“からこれでもかと叱れてしまいまして。こちとら貴方たち“下“にあれこれ任務やそれに関する情報を割り振るのに忙しいってのに』

 

 ということなんで、どうぞご心配なく。

 

 アハハ、と形だけの笑い声が添えられた言葉に、「そうですか」と心の底からどうでも良さそうな声色で返答しつつ、そのまま悠河はもう一つ気になっていたことを質問した。

 

「本当に黒い死神を始末しなくて良かったんですか?」

 

『彼を殺すと、後見人である天童菊之丞に我々の存在を察知される危険がありますからね。現状で下手に金木研に手を出せば、あの男の牙が我々の首元に届きかねない。例え、金木研が無自覚に我々の協力者たちを潰していたとしても』

 

 ネストは言う。脅威なのは金木研ではなく、彼の背後にいる天童菊之丞であると。

 

『それに、仮に金木研が抹殺対象だったとして───貴方に殺せますか?』

 

 真剣な声で掛けられた問いに、悠河は数瞬目を瞑り。

 

「……黒い死神の戦闘能力が、事前に聞いていた情報通りなら難しいでしょう」

 

 ですが、と。閉じていた瞼を上げ、悠河は続ける。

 

「今の彼なら、自分でも殺せます」

 

 確信を持って紡がれた言葉。それに対して、ネストは。

 

『ですよねー。まあ現状の黒い死神なら()()"()()()()"()()()()()()"()()()()()()巳継くんは元より、他の“二枚羽根“構成員でも殺せるでしょうね』

 

「…………………」

 

 先の問いの時とは正反対に、あまりにも軽い調子で答えるものだから、死神との戦闘を真面目に()()した自分が酷く滑稽に思え、その元凶であるネストにイラッとした。

 以前はもっと事務的だったのに、ある時から急に変化したネストの態度。どこまでが本気で、どこまでがふざけているのかまるで分からないその口調には、根が真面目な悠河は時折こうして振り回されていた。

 

『そもそも彼、我々が手を出さなくても近いうちに勝手に死にそうですし』

 

「? それはどういう───」

 

『おっと、そう言えばまだ指示を出していませんでしたね。とりあえず、巳継くんはその場から離脱してください。追手があれば連絡を、なければそのまま任務終了です』

 

 お疲れ様でしたー。そう言ってネストは一方的に通信を切った。

 悠河はヘッドセットと繋がっている自身の携帯の画面を無言で眺め、やがて溜息をついてヘッドセットと共に懐に仕舞った。

 

 近くに転がっていた二つの薬莢を回収し、淀みない動作でDSR-1をギターケースに仕舞って肩に担いでしまえば、どこにでもいるギターを嗜む若者の出来上がりだ。

 

 このままセーフハウスまで戻れば、任務完了である。

 

 脳内で安全な離脱ルートを算出しながら、悠河は屋上の入口へと歩き出し。

 

「───”二枚羽根"の仕事も随分と板に付いてきたじゃないか、巳継くん」

 

 掛けられた声に、足を止めた。

 

「困りますね。任務中はコードネームで呼んでいただかないと───蛭子影胤」

 

「ヒヒヒ、これは失敬」

 

 人好きしそうな笑顔を浮かべて悠河が振り向いた先には、シルクハットと笑みを浮かべた白貌の仮面を被り、燕尾服を着た怪人が立っていた。

 

「『()()()()()()()()()()()()()()()。しかし、どうしてここに? あの事件で大立ち回りを演じた貴方は、療養も兼ねてしばらく”その姿"で現れない(休業する)と聞いていましたが」

 

「私も当初はそのつもりだったのだがね。里見くんたちのことを風の噂で聞いてしまって、居ても立っても居られなくなってしまったのだよ」

 

 シルクハットのつばを持ち、喉の奥を鳴らすように影胤は笑う。

 

「先程ちらりと里見くんの方も見てきたがね……全く、若者の成長とは恐ろしいものだ。研鑽を怠っていた当時の私では、もはや今の里見くんを圧倒することなど出来ないだろう」

 

 一体どれほど拷問まがいな訓練をしているのやら。

 

 感慨深けに、そう評価する影胤の様子に悠河は顔に出ないようにしながら、内心で驚愕していた。

 

 あのテロ事件で、影胤は自身の存在意義であり誇りでもある斥力フィールドを、対等に戦えると思っていたカネキには容易く捩じ伏せられ、格下だと断じていた蓮太郎にも破れた。

 挙句その内容は、カネキとの戦いは言うまでもなく、蓮太郎との戦闘ですらも接戦ではなく、向こうは余力を残していた。

 

 その屈辱は、それまで自身の機械化兵士としての能力に絶対的な自信を持っていた反動も相まって、影胤の精神を発狂寸前にまで追い込んだと聞く。

 

(そんな精神状態から、よくここまで持ち直したものだ。いや、むしろ……)

 

「ところで、ダークストーカー。私からも幾つか質問してもいいかね?」

 

「……出来るだけ手短にお願いします。まだ任務中なので」

 

 影胤の問いに僅かに逡巡した悠河だが、最終的に話を聞く姿勢を見せた。

 本来なら狙撃を行った場からは、弾道を逆算されて居場所を特定される可能性があるため一刻も早く離れるのがセオリーだが、生憎と今回は生存者はいても目撃者はいない。

 任務中ゆえ長居は出来ないが、質問の一つや二つ答えるくらいなら問題ないだろうと判断した。

 

「何、心配せずとも時間は取らせないとも。私が聞きたいのは、君から見たカネキくんに対する評価。それと、これは先ほど見ていて気になったことだが、なぜ先程の狙撃は頭や赫包ではなく胸を狙ったのか。この二つだ」

 

 腕を伸ばし、指を二本立てながら、影胤は尋ねる。

 悠河は一度、DSR-1を仕舞ったギターケースに目を向け、口を開いた。

 

「まず先に、胸を狙った理由から説明しましょうか。貴方の言う通り、喰種の殺害には脳の活動を停止させるか、赫包を破壊するのが定石ですが、今回は万全を期するために濃縮バラニウム弾を使用しました。ところが、弾丸が体内に留まるように調整したことで威力と耐久力が減衰し、喰種の強靭な頭蓋骨を貫通出来ない可能性が出てきてしまったんです。心臓を狙ったのは、彼女たちの息の根を確実に止めるためですよ」

 

 ビル風に優しく頬を撫でられながら、悠河は続ける。

 

「そして、金木研に対する評価ですが……正直、期待外れ、ですかね」

 

「ほう?」

 

「黒い死神の噂は僕も耳にしていました。ガストレア戦争に参加した人達から、機械化兵士を含めた教科書には決して載らない『抹消された歴史』を聞いた者たちなら全員が知っているでしょう。『黒い死神(ハイセ)』、そして彼が初期に配属された『零番隊』の存在を」

 

 溜息を一つして、悠河はカネキたちがいたビルの方向へ向けていた視線を影胤の方に戻す。その顔に微笑みを浮かべて。

 

「ですが実際に噂の当人を見て感じたのは、噂は所詮噂でしかないのかもしれない、と言うことです。はっきり言って、一体何をすれば()()()()()()()()()()()あの程度の男に負けるのか理解できませんね」

 

 直後、二人の間に決して穏やかではない空気が流れる。

 

 基本的に誰に対しても礼儀正しく、逆にその態度から周囲の反感を買うこともある悠河だが、その実故意に他人を見下したり、率先して喧嘩を売るような物言いをすることは少ない。彼にとって、そのような態度や行為を取るほど興味を惹く存在が周囲にいないからだ。

 

 だが、影胤は違う。忌憚の無い言い方をすれば、悠河は影胤のことが嫌いだった。それこそ、こうして笑顔で毒を吐く程度には彼のことが嫌いである。

 

「いやはや、これは手厳しい」

 

 そして影胤は、その理由を知っている。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()にそこまで言われるとは思わなかったよ」

 

 嘲笑うような声音で紡がれた言葉に、悠河は微笑みに殺意を滲ませる。

 

「……実を言うと、以前から貴方とは一度手合わせしたいと思っていたんです。教授の手術を受けた者同士、どちらの性能がより優れているのか興味があったので。ですが、その必要もなさそうですね。()()である里見蓮太郎に負けた時点で、()()()()()()を持つ僕に勝てる道理はありませんから」

 

 対する影胤も、仮面の奥から殺気を漏らす。

 

「……生憎と、私はまだ発展途上でね。()()のようにあれも欲しいこれも欲しいと、子どものように次から次へと兵装(おもちゃ)を強請る必要がないだけさ。ああ、せっかくの機会だ。君にその気があるのなら、少しだけ“遊び相手“になってあげても構わないよ」

 

 あははは。

 ヒヒヒ。

 

 二人は同時に笑い出し、即座に次の行動に移った。

 

 悠河は肩に担いでいたギターケースを床に置き、代わりに一挺の拳銃を取り出し影胤に銃口を向ける。

 

 ブローニング・ハイパワー。

 拳銃でありながら13発という装弾数の多さから『ハイパワー(高火力)』と名付けられた、FN社製のシングル・アクション自動拳銃である。

 

「教授の状況を知りながら、我が身可愛さに何もしなかった人間が随分と強気ですね」

 

 対する影胤もまた、ホルスターから愛銃であるソドミーとゴスペルを引き抜いて悠河に向ける。

 

「まるで私が彼に借りがあるかのような言い草だね」

 

「違うとでも? 肉体的か精神的かの違いはあれ、我々はどちらも教授の手で救われたことに変わりはないでしょう」

 

「相変わらず君の頭はグリューネワルト翁のことになると都合の良い解釈しか出来ないようになっているらしい。借りがある? 救われた? 勘違いも甚だしい。あれは脅迫だよ。私を含めた『新人類創造計画』の兵士は全員、己の命を対価に手術に同意している。だがね、生きるチャンスを与えられたと言えば聞こえはいいが、手術をしなければ確実に死ぬような状況で、自分の生殺与奪を握っている者に国への隷属という条件付きとはいえ生命を保証されれば、頷く以外に選択肢はない。『我々』だって? 何の対価も支払わずに機械化する君ら『新世界創造計画』のブリキ細工と同列に語らないでもらいたい。私に、彼に返す恩などない。わざわざ危険を冒してまで、あの男を助けてやる義理などない。私の人生は、私だけのものだ。君と違ってね」

 

「やはり、貴方とは相容れませんね」

 

「その点に関しては、全面的に同意しよう」

 

 悠河の両眼に幾何学模様が現れ、影胤も体内の斥力発生装置を起動する。

 

 二人の機械化兵士が、互いに相手の命を刈り取ろうと動き出そうとしたその時。

 

「パパ、延珠の方終わったよ。延珠、前より強くなってた!」

 

 入口の扉を勢い良く開けて、小比奈が屋上に現れた。

 反射的に影胤も悠河も動きを止め、揃って小比奈の方へ顔を向ける。小比奈もまた、二人の顔を順番に見つめる。

 

「あれ、悠河だ。久しぶり。ねえ、斬っていい?」

 

「こんばんは、小比奈さん。でもごめんね、僕はまだ仕事中でして。なので、戦うのは次の機会に」

 

「うぅ……悠河、前も同じこと言ってた。パパと仲悪いし、全然斬らせてくれないし、悠河嫌い!」

 

 小比奈の態度に困ったような笑みを浮かべながら、悠河がちらりと影胤の方を見ると、いつの間にか銃も斥力フィールドも収めていた。どうやら娘の登場に毒気を抜かれたらしい。それは悠河も同様であり、自身も銃を仕舞って義眼を通常状態に戻す。

 

 元々、悠河も影胤も本気で相手を殺す意志は無く、せいぜい瀕死に追い込む程度のつもりだった。理由は単純で、殺すことで発生するデメリットが大きいのだ。

 影胤の場合、悠河が所属している組織を敵に回すことになるし、逆に悠河の場合は、たまたま利害が一致したため雇用関係を構築しているに過ぎないが、それでも優秀な戦力と認識されている影胤を理由もなく消せば組織からの相応のペナルティは免れないだろう。

 

 彼らが影胤にどれほどの価値を見出しているかは、かつて世界に11体存在した、バラニウムの磁場の影響を一切受けないゾディアックガストレア(ステージⅤ)の1体である『スコーピオン』を確実に召喚できる『七星の遺産』の()()()依頼されていたにも関わらず失敗するという、組織の人間ならば粛清待ったなしの失態を犯しておきながら、平然と生きていることからも窺うことが出来る。

 

「では、そろそろ失礼させてもらうよ。思ったより時間を取らせてすまなかったね、巳継くん。行くよ、小比奈」

 

「はい、パパ」

 

 屋上の縁へと移動する影胤に、返事をしながら追いかける小比奈。

 しかし不意にその足を止め、小比奈は悠河の方へ振り向いた。それはもう、とびきり不満そうな顔で。

 

「悠河。次は絶対、斬るから」

 

 その言葉に、影胤はやれやれと言うようにシルクハットの位置を直し、悠河は仕方がないと言った様子で笑った。

 その笑みを見て小比奈はますます不満げな顔になったが、それ以上は何も言わず影胤と共に屋上から飛び降りた。

 

 二人が去るのを見届けてから、悠河は屋上の入口へ向かう。

 

「───すべては、『五翔会』のために」

 

 開け放たれた扉を後ろ手に閉めながら、悠河は屋上を後にする。

 

「…………なんてね」

 

 皮肉げに吊り上がった口から漏れた言葉は、誰に聞かれることなく、扉を閉める音に掻き消された。

 

 

 

 

 




>『七星の遺産』回収後に影胤がスコーピオンを呼び出した理由
影胤「勢いでやった。反省はしていない」
五翔会「ホンマこいつ」


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第26話 獲れ得ど

  とれえど=Trade=取引

 

 

 

 

 ある高級マンションの一室。そこに一人の男がいた。

 

 掻き上げた金髪に、顔に掛けた丸眼鏡の向こう側には、その内面の神経質さを表したかのような吊り目。黒地のシャツに白のスーツ、黄色のネクタイをした30代くらいの白人。

 ナプキンを胸に掛け、男は椅子に背筋を伸ばして座り、黙々と卓上に置かれたグラスにワインを注ぐと、用意されたステーキを切り分け始めた。

 

 男の名前はエイン・ランド。彼こそ、日本の室戸菫、オーストラリアのアーサー・ザナック、ドイツのアルブレヒト・グリューネワルトら3人と共に『四賢人』と称された、アメリカ最高の頭脳の持ち主である。

 同時に、己の都合のために親を持たない呪われた子供たちを集め、強制的に機械化手術を施し、その彼女たちを道具のように扱うという、医者としての最低限の誇りすら悪魔に売り渡した外道でもある。

 

 エインはステーキを切り終えると、切り分けたうちの一つをフォークに刺し、口に運ぶ。

 

「…………む?」

 

 が、それを口に入れる直前に、懐の携帯が震える。

 食事を邪魔された不快感から舌打ちを一つ漏らして、ナイフとフォークを置いた。

 

 ディスプレイを確認すると、目に映るのはNo caller ID(非通知)の表示。

 エインは眉間に皺を寄せて、通話に出た。

 

「誰だ」

 

『初めまして、エイン・ランド。僕はハイセと言います』

 

「……黒い死神か。どうやって私の番号を調べたのかは知らんが、これから金毛牛のフィレと、上質な1990年産の赤を味わうところでな。食事の邪魔をされるのは好かん。切るぞ」

 

『そうですか。取引をしようと思ったのですが、仕方ありませんね』

 

 エインは目を閉じ、グラスに入ったワインを口にしようとして。

 

『引き続き、北京での暮らしを楽しんでください。では』

 

「待てい!!!」

 

 突然エインは立ち上がり、口から唾を飛ばす勢いで叫びながら、ワインも卓上にあった料理も全部払い除けて床にぶちまけた。

 

「……貴様、()()()()()()()()()ことを知っているっ」

 

 エインが思わず取り乱した理由。それは、本来であれば誰も知らないはずの自分の現在地を、あまりにも容易く特定されたからだ。

 

『それは大した問題ではありません。重要なのは、僕は貴方がどこに隠れていようと見つけ出せると言うことです』

 

 苛立ちを多分に含んだ疑問の声をさらりと流され、会話の主導権を向こうに握られている現状に癇癪を起こしそうになるも、ナプキンをむしり取るように外し、深呼吸することでどうにか堪える。

 

「……取引と言ったな。何が望みだ」

 

『ティナ・スプラウト、および天童民間警備会社に手を出すな。当然、我々にも』

 

「断ればどうなる」

 

『貴方の居場所を世界中に拡散します。今回の聖天子狙撃事件を含めた貴方がこれまでに行った悪事の詳細と一緒に。ありとあらゆる場所から、貴方に恨みを持つ方々がやって来るでしょう』

 

「はっ、それがどうした? 有象無象がいくら群がったところで、私が作り出した"ハイブリッド"には手も足も出せまい」

 

 ハイブリッド。

 呪われた子供たちでありながら、機械化兵士としての能力も併せ持つ存在。

 

 手術の際にはバラニウム製の器具を用いて呪われた子供たちの驚異的な再生能力を封じるのだが、それによって治癒力は人間以下に落ちるため、成功率は人間に施す機械化手術よりも遥かに低い。

 しかし、いやだからこそと言うべきか、手術に成功した"ハイブリッド"の実力は並の機械化兵士やイニシエーターを大きく上回る。民警の序列は100番台で人間を辞めているレベルと言われているが、"ハイブリッド"の第一世代であるティナの序列は98位。そして、彼女の()()()の序列はそれ以上である。

 

 故に、エインは鼻で笑ったのだ。その程度、脅威でも何でもないと。誰にも自分を害することなど出来ないと。

 

『確かに、貴方の言う通りです。並の人間がどれほど集まったところで、序列20番台のイニシエーターすら保有する貴方には触れることすら出来ないでしょう』

 

 なんてことないように、自身が有する最高戦力(リタ・ソールズベリー)の情報を掴んでいることを仄めかされ再び苛立つも、全体的にエインの言っていることを肯定する発言に気分を良くする。

 

 が。

 

『では、その後は?』

 

「………は?」

 

 何を言っているんだ? とエインは一瞬ぽかんとした。

 

『貴方に復讐しに来る人間をすべて返り討ちにして、その後はどうするんですか? まさかそれで終わりだなんて思っていませんよね?』

 

 淡々と、感情が一切読み取れない声に、ぞくりと背筋に悪寒が走る。

 

『どれほどの被害が出るかは実際に起こっていないので何とも言えませんが、確実なのは貴方が抵抗すればするほど世間から見た貴方の脅威度は跳ね上がるということ。さらに複数の名義を使って複数のイニシエーターと契約し、しかも契約しているイニシエーターたち全員が単身で超高位序列者に至るほどの実力を持っていることが露呈すれば、もしかしたら"10番台"が派遣される事態になるかもしれませんね』

 

「……ふっ、ふざけるなァ! 貴様、そんなことをしてただで済むと思っているのか!! 今すぐ私の作品たち(ハイブリッド)に殺させてもいいんだぞ!!」

 

『そうなるか、ならないかは貴方の返答次第です。さあ、どうしますか?』

 

 エインは顔を真っ赤にしてパクパクと口を動かし、やがて俯きながら返答した。

 

『取引成立ですね。では、失礼します』

 

 プツンと通話が切れた瞬間、エインは頭を掻きむしりながら絶叫し、携帯を思いきり床に叩きつけた。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 ふう、と一息ついて、カネキは携帯を仕舞い、何の気なしに空を見上げる。

 

「……本日は晴天なり」

 

 どうしてか脳裏に浮かんだ、誰かがよく言っていた気がする言葉をそのまま口に出し、カネキは青空を視界から外して歩き出した。

 一週間分のインスタント食品を詰めた袋を左手に提げ、青信号になった横断歩道を渡る。

 

 昼間という時間帯も合わさって、どこに視線を向けても人の姿が目に映る。

 スーツを着た男性。ベビーカーを押す女性。学生服を着崩した若い男女。手を繋ぐ親子。杖をつく老爺と、それに寄り添う老婆。

 どれもこれも、ありきたりな日常の一コマ。誰もこの日常の裏で、東京エリアの国家元首の命を巡った攻防や、喰種同士の殺し合いがあったなど夢にも思わないだろう。

 

 安久姉妹との決着……あの後味の悪い幕切れから3日が過ぎた。そしてそれは、奇しくも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()でもあった。

 後で聞いた話だが、あの日別の場所でティナ・スプラウトの襲撃を受けていた蓮太郎たちは、護衛対象である聖天子を守り抜くだけに留まらず、何とそのままティナの撃破まで果たしたという。

 

 大阪の国家元首である斉武宗玄とのニ度目の非公式会談。その会談の場に赴いた際に再び襲撃を受けた蓮太郎たちは、一旦近くのビルの地下駐車場に避難した。

 そこで延珠が真っ先に、機動力の高い自分が単身でティナを倒すと突撃しようとしたが、病院でカネキにされた忠告を思い出した蓮太郎がそれを却下。自分も一緒に行くと機械化兵士の力を使う決意を固めるが、今度は夏世が二人を引き留めた。

 

 地下駐車場の入口周辺を監視するように浮遊する、球状の物体(シェンフィールド)に気づいたからだ。

 

『状況的に、あれはほぼ間違いなく敵の偵察用ドローンです。狙撃手の傍で操作しているのか、それとも違うところから行っているのかは分かりませんが、恐らくあれを使って我々の位置を捕捉しているんだと思います。私たちの行動は、相手に筒抜けになっていると考えるべきでしょう。加えて敵が何人いるのかも、依然不明のまま。無闇に突っ込むのは危険です』

 

『それじゃあどうする。こっちの動きが読まれてるんじゃ、ぐずぐずしてたらティナに逃げられる。アイツをここで逃すわけには……人を殺させるわけにはいかない、絶対に。今すぐ何か対策を立てないと』

 

『……一つ、私に考えがあります』

 

『考えって?』

 

『里見さん───鳥になってみる気はありませんか?』

 

 夏世の考えた作戦。それはティナがいるビルよりも高い別のビルから飛び移り、蓮太郎が奇襲を仕掛けるというものだった。

 仮に敵がティナ以外にもいた場合を想定して、夏世がバックパックから閃光手榴弾を蓮太郎に渡す。優先すべきは狙撃手であるティナのみ。彼女を撃破次第、即撤退するためである。

 

 囮役には聖天子や蓮太郎たちが乗っていたバンと、駐車場に置いてあった車から適当に選んだ軽自動車。そして延珠。

 夏世と将監は万が一に備え、聖天子の傍で待機。

 最後に作戦の要である蓮太郎は、軽自動車の運転席に出来るだけ姿勢を低くして乗り込んだ。

 

 作戦開始の号令と共に、一人でに走り出すよう細工したバンを地下駐車場から通りへ送り出し、まず狙撃の初弾を受けてもらう。その隙に蓮太郎の乗った車が通りに躍り出ることで、バンが囮であり、後続の車が聖天子を逃がすための本命であると思わせる。

 次弾を装填し、通りを50メートル進んだかどうかの距離で2射目が車を停止させたと同時に、今度は延珠が通りへ飛び出し、ビルの屋上へ駆け上がって一直線にティナの元へ向かわせることで、彼女の意識を延珠一人に集中させる。

 

 そして、夏世から電話で合図を受けた蓮太郎は、車から降りると即座に右脚のカートリッジを炸裂させ、延珠が跳んでいるビルの通りとは別の道を時速150キロ近い速度で疾走した。

 ティナに気づかれることなく目的のビルに辿り着いた蓮太郎は、エレベーターと階段を使って一気に屋上に上がると、これからやろうとする行為に恐怖と緊張で暴れ回る心臓をどうにか落ち着かせ、義眼を解放した。

 屋上に設置されている柵に向かって走り出し、それを踏み台にして飛び、同時に右脚のカートリッジを撃発。

 

 蓮太郎は鳥になった。

 眼下に広がる東京エリアの夜景。翼を羽ばたかせるように何度もカートリッジを撃発させ、彼は空を飛んだ。

 

 そして落ちた。

 重力に従って、弧を描くように落ちた。

 

 その時まさに、屋上で延珠と対峙していたティナの真上に。

 

 ティナが蓮太郎の存在を察知した時には既に遅く、カートリッジで再加速した蓮太郎の蹴りが、容赦なく彼女の顔面に突き刺さった。

 完全な不意打ちで受けたダメージは大きく、多少の抵抗はあったものの、蓮太郎たちは特に危なげなくティナを制圧した。

 

 これが、神算鬼謀の狙撃兵との決着。

 

 ちなみに人生史上最大の大ジャンプを成功させた蓮太郎は「もう二度と御免だ」とげんなりし、実は蓮太郎の到着があと少しでも遅れていたら、四方のビルに設置されていた遠隔操作が可能な重機関銃で蜂の巣にされていたと知った延珠は「もう二度と妾一人で倒すとか言わない」と真顔になったとか。

 

 とは言え、万事解決とまではいかなかった。

 

 聖天子暗殺の依頼人と思われる斉武は、動機はあっても証拠が一つもないためお咎め無し。実行犯であるティナが捕まると、聖天子側の情報管理の杜撰さをこれでもかと非難して会談を打ち切り、大阪エリアに帰って行った。

 後に非公式会談に関する情報を外部に漏らしていた内通者が、聖天子の側近の一人だったことが判明した際には、斉武からの叱責も合わさって聖天子は少なくないショックを受けたらしい。

 

 加えて、聖天子付護衛官。

 ティナ撃破後、彼女を連れて蓮太郎たちが地下駐車場へ戻ると、保脇を筆頭にした護衛官数名と将監が険悪な雰囲気で対峙していた。

 具体的には、聖天子の身の安全や、護衛官と民警の身分の違いを引き合いに出して罵倒する保脇に対し、決して大らかの気質の持ち主とは言えない将監が、青筋を顔のあちこちに浮かび上がらせながらも黙って耐えているというものだった。

 この時、疲労困憊だった聖天子は夏世と別の護衛官数名に連れられ、奥の方で休んでいたため、保脇の暴言を止めることは出来なかった。

 

 保脇は蓮太郎たちの存在に気づくと、開口一番に聖天子の傍を離れたことを非難し、彼に抱えられた意識の無いティナを見てなぜ殺していないのかと激昂したが、突然何か思いついたように薄ら笑いを浮かべた。

 

 直前に、将監という自分より体格の優れている相手に対し精神的優位に立てたことで、気を大きくしていたのだろう。加えて聖天子が近くにいないことも不味かった。

 何と保脇は、蓮太郎とティナは裏で通じており、今回の事件はすべて蓮太郎の自作自演であるとして、二人をこの場で射殺すると言い始めたのだ。

 

 曰く、狙撃犯であるティナを殺さなかったことがその証拠、と。

 

 宣言通りこちらに銃口を向ける保脇に対し、延珠は瞳を赤熱させ、将監もとうとう堪忍袋の緒が切れ掴み掛かろうとするが、それらを牽制するように放たれた「抵抗すれば貴様らだけでなく、貴様らの関係者も反逆罪で処刑だ」という言葉に、延珠たちの体が硬直する。

 保脇の言葉がはったりではなく本気だと直感し、全員が脳裏にこの場にはいない大切な者たちの姿を思い浮かべてしまったが故に。

 

 その隙を、保脇が見逃すはずもなく。

 悪辣に笑いながら、引き金に掛ける指に力を込めた。

 

 蓮太郎は咄嗟に横にいた延珠を抱き寄せ、保脇に背を向けながら腕に抱えたティナ諸共覆い被さるように地面に伏せた。

 数瞬後に訪れる激痛に耐えるため、蓮太郎は歯を食いしばった。そして。

 

『───一体、何をしているんですか?』

 

 冷静な……否、絶対零度とでも言うような声を発しながら、夏世が現れた。その顔は無表情ではあったが、普段のどこかぼんやりとしたものではなく、怒りの感情が振り切った者のみが見せる、そういう類のものだった。

 

 保脇の怒声は奥の方にいた夏世たちのところにも微かに聞こえていた。

 何があったのか確かめるため、夏世は聖天子と共に護衛官たちの制止を振り切り、来た道を戻った。そして道中、保脇が将監を侮辱していることに気づいた。

 

 この時点で夏世はかなり頭に来ていたが、同時にまだ冷静でもあった。

 仮にも相手は三尉。民警には『疑似階級』と呼ばれる自衛隊と同じ階級が適用されているが、あくまで疑似。命令権はあるが指揮権はなく、そもそも夏世たちの階級は三尉よりも下だ。命令することは愚か、むしろ命令されれば逆らえない立場にある。

 故に怒りに身を任せたりせず、落ち着いてその場を収めるよう努力するつもりだったのだが、友人である蓮太郎たちをあまりにも理不尽な理由で害そうとしているのを見て、この場を穏便に済ませようという考えは一瞬で吹き飛んだ。

 

 結論から言うと、夏世は保脇のメンタルを廃人一歩手前まで追い込んだ。それも言葉だけで。

 

 相手が逆上したり会話を拒絶したりしないよう絶妙に調整しながら、夏世は正論で保脇を殴り続けた。保脇はついに泣き始めたが、それでも夏世は殴るのを止めなかった。むしろ「何泣いてるんですか?」とさらに追い打ちを掛けた。

 そうして、あと一押しで精神が崩壊しそうなほど憔悴した保脇の肩に、夏世はぽん、と手を置いて。

 

『ですが、貴方は何も悪くありません』

 

 そう、優しく微笑んだ。

 

『確かに貴方の人生は間違いばかりでしたが、それは貴方が正しいと信じていたことが間違っていただけなんです。そして今、貴方には何が本当に正しいことなのか分からなくなってしまいました。さぞ不安でしょう。さぞ心細いでしょう。でも大丈夫───私が、貴方を"正しい"道へ導いてあげますから』

 

 保脇は号泣した。

 夏世は保脇には見えない角度で冷笑した。

 そして蓮太郎たちは、そんな二人のやり取りを見て引いた。

 ついでにカネキも、その話を初めて聞いた時は思わず引いた。

 

 こうして蓮太郎たちは、序列98位の殺し屋を相手にしながら、一人も犠牲者を出さずに暗殺を防いでみせた。そして、暗殺の任務を強制され、挙句その任務に失敗した途端すべての罪を背負わされ切り捨てられたティナは、『聖天子預かり』という異例の措置によって、現在聖居にて軟禁、事情聴取が行われているらしい。命を狙われた当人であり、また東京エリアの最高権力者でもある聖天子が味方についているなら、彼女の処遇は決して悪いものにはならないだろう。

 

「………?」

 

 不意に、右目から一筋の涙が流れる。

 気付かないうちに目に小さいゴミでも入ったのだろうか。手袋を着けた右手で目元を拭い、そこに視線を落とす。

 

「……………」

 

 右手に向けていた視線を前に戻すと、ちょうど目的地が見えてきた。

 

 勾田公立大学附属病院。

 カネキが今、左手に持っている食料の届け先である。

 

 だが、何もそれだけの為にここに訪れた訳でもない。

 

 受付を済ませ、ロビーで待つことしばらく。奥にある診察室から出てきた里津が、こちらに気づく。

 

「よっ、お待たせ」

 

 軽く手を挙げながら歩いて来る里津に、カネキも同じように手を挙げて応える。

 

「僕も今来たところ。それより、検査の結果はどうだった?」

 

 カネキの問いに、里津は肩をすくめる。

 

「前の時と一緒だったよ。体内侵食率も、奥の手を使ったからちょっとは上がってるかもって思ったけど、全然」

 

「そっか」

 

 ん、と検査結果が記載された診断書を差し出され、カネキはそれを受け取るとさっと目を通す。

 健康状態に関する項目はどれも正常値を示しており、里津の身体が如何に健康か物語っていた。

 

 やがてカネキの視線が、体内侵食率の項目に辿り着く。

 

「……うん。里津ちゃんの言う通り、前回と変わらず、だね」

 

 占部里津

 ・ガストレアウイルスによる体内侵食率29.8%

 ・担当医コメント───『回帰』による体内侵食率の上昇が懸念されましたが、『回帰』の使用が短時間だったこともあり、ウイルスの進行はほとんど見られません。引き続き、負傷や『回帰』の多用は避けてください。

 

 ほっ、と息が漏れる。

 耳元で響いていた鼓動の音が波のように引いていく。

 

 どうしても、里津の体内侵食率を確認する直前は、心臓が胸の内側で暴れ回り、診断書を持つ手は微かに震える。

 もう何度も繰り返してきた筈なのに、未だにこの感覚には慣れない。

 

「やあ、カネキくん。どうやら里津ちゃんから検査結果は聞いたみたいだね」

 

 声のした方に顔を向けると、里津の検査のために珍しく地下室から出てきていた菫が、白衣のポケットに両手を突っ込んで立っていた。

 

「はい。ちょうど今、診断書にも目を通していました」

 

「そうか。なら、一応私の口からも伝えておこう。カネキくん、里津ちゃんにも言ったんだが、これからも『回帰』の使用は可能な限り控えろ。()()()()()()()()

 

「……ええ、分かっています」

 

「はいはい」

 

 里津の『回帰』は身体能力を大幅に強化するが、その分肉体に掛かる負荷も尋常ではない。

 呪われた子供たちという器の上限を超えたその膂力は、里津自身の身体を破壊し、そして破壊された身体を呪われた子供たちの再生能力で治癒する。里津が『回帰』を発動している時、常にこのサイクルを繰り返しているため、必然的に体内侵食率は呪われた子供たちの力を行使する時以上の速さで進行する。

 

 それ故に、奥の手であり、諸刃の剣なのだ。

 

 だが、菫の言葉に真剣な面持ちで頷くカネキに対して、当事者である里津は聞き飽きたと言わんばかりの顔である。

 そんな里津に対し大人二人は渋面をするが、同じような内容を一年以上何度も言われ続けていることを考えれば、仕方のない反応かもしれない。

 

「あのさ、二人ともアタシのこと馬鹿にしてんの? 何で奥の手を使っちゃいけないかくらい、最初に説明された時にきちんと理解したよ」

 

「でもその後すぐに血が飲みたくなって、柄の悪い人たちにわざと絡みに行ったよね?」

 

「あー、そんなことも、あったっけ……?」

 

「カネキくん。この顔は本気で覚えてない顔だぞ」

 

「通報を受けて駆けつけた差別主義者の警官、説得するのかなり大変だったんだけどなぁ……あ、そういえば」

 

 一瞬遠い目になるカネキだったが、ふと思い出したように菫に持っていた袋を見せる。

 

「とりあえず、一週間分はあります」

 

「助かったよ。ここ暫く、君と蓮太郎くんはもちろん、楓くんも忙しかったから、誰にも買い出しを頼めなくてね。危うく飢え死にするところだったよ」

 

 なら飢え死にしそうになる前に自分で買ってくればいいのでは───なんて、カネキは思わなかった。

 菫は重度の引き篭もりである。里津や延珠の検診の時などの例外はあるが、それがなければ備蓄していた食料が尽きても地下室から出ようとはしない。理由は地上には大嫌いな人間が跋扈してるからとか、空気が汚れてるからとか色々言うが、実際はそんな他責的な理由ではない。

 

 ガストレアへの憎悪に狂っていた、蓮太郎に出会うまでの自身を人外とし、そんな存在は陽の光がある場所に居るべきじゃないと、光が届かない深淵に自分を閉じ込めたのだ。

 その覚悟は生半可なものではなく、過去に何度か本当に餓死しかけている。彼女は、決して自分自身のためには外に出ない。

 

「さて、では私は地下室に戻るとしよう。ここは外に比べれば幾分マシだが、それでもこのケバい女の香水とおっさんの体臭を混ぜたような臭いは私には耐えられそうにない」

 

 菫は袋を受け取ると、白衣を引きずりながらカネキたちに背を向けて歩き出す。しかしすぐにその足は止まり、徐にこちらを振り返った。

 

「彼女たちに、会っていくか?」

 

 無理強いはしないが、と菫は続ける。

 彼女たち、というのが誰を指しているのか、カネキたちは知っている。永遠に引き取り手の現れない、菫の新たな同居人となった、ある姉妹のことである。

 

 一度だけ、カネキと里津は顔を合わせ、再び菫の方を向いた。

 

 わざわざ口にするまでもなく。

 答えは、決まっていた。

 

 地下へと続く階段を降り、地下室の扉を開ける。

 

 部屋に入ると、目的の姉妹はすぐに見つかった。並ぶように安置された二人と対面すると、カネキはそっと手を合わせる。

 

 髪色以外、異なる点がほとんど見当たらないその顔立ちは、とても穏やかな表情をしている。ともすれば、今にも目を開けそうなほど、その顔は生気に満ちていて。

 

「───勝手に殺すな」

 

 突如、遺体を乗せる台車の上に横たわっていたクロの目が、ぱちり、と開く。

 その光景は、部屋の雰囲気と相まって、何も知らない人間がこの場にいれば悲鳴を上げて腰を抜かしたことだろう。

 

「ああ、良かった。てっきり先生に剥製にされたんだとばかり」

 

「おい、せめてもう少し冗談に聞こえることを言ってくれ」

 

 むくり、とクロが上体を起こすと、隣の台で寝ていたシロも起き上がる。

 

「実際に乗ってみて分かったけど、この台、寝心地が最悪だね」

 

「て言うか、何で死体のフリなんかしてんのさ」

 

「だって菫が『私が留守の間に誰か来たら、死体になってやり過ごせ』って言うから。それにまあ、私たちって()()()()()()()()()()()()()()

 

 クロたちが濃縮バラニウム弾と狙撃されたあの時。即死だと思ったカネキたちは、初め彼女たちを置いて立ち去ろうとした。

 が、その直後クロが吐血し、シロの方も僅かに息があることに気がついた。

 

 生きていたのだ。二人とも。

 それは、まさに奇跡としか言いようのない幸運が幾つも重なった結果だった。

 

 まず第一に、クロたちの再生レベルがⅣには程遠いものではあったが、Ⅲよりも僅かに高かったこと。その証拠に、クロがカネキに二発目の濃縮バラニウム弾を撃たれた直後にはすでに、()()()()()()()()()()()()。これは施設で人為的に再生レベルをⅢまで上げられた以降も、彼女たちが過酷な経験をしていたことに起因する。

 第二に、二人が鱗赫持ちだったこと。いつかカネキが病室で蓮太郎たちに語ったことだが、鱗赫持ちは喰種の中でも再生能力が優れている。もしクロたちが鱗赫持ちでなければ、生き残ることは出来なかった。

 第三に、撃たれたのが脳でも赫包でもなかったこと。仮に赫包を潰されてから心臓を、もしくは脳を破壊していれば、二人は間違いなく死んでいた。少なくとも、再生レベルがⅢとⅣの中間くらいでなければ、脳が破壊された時点で再生は行われず、確実に絶命する。

 

 もっとも、いくら僅かに息があったからと言って、再生能力を持つ瀕死の喰種を治療するノウハウを有する医者がいなければ何の意味もない幸運だったが。

 

「とは言え、いつどこでネストに見つかるか分からないし、多分見つかったら次は本当に消されるから一生外には出られないけど」

 

 クロとシロは、自分たちを死んだことにして殺し屋から逃れた。だが、向こうが一体どうやって自分たちを見つけ出したのかは、今も分からない。

 濃縮バラニウム弾を使ったことからクロたちが喰種だと知っていたのは間違いない。そしてそのことを知っているのはネストと、彼が所属している組織だけである。

 

 しかし、肝心のネストが何者なのか、彼が所属している組織が何なのかは依然不明のまま。顔無しにも頼んで調べてもらったが、収穫はゼロ。彼の情報網にすら引っ掛からないのなら、カネキたちに出来ることはない。

 そして組織の全容を把握できない以上、奴らの目と耳はどこにあってもおかしくはなく、不用意にこの地下室から出れば、クロたちは今度こそ殺されるだろう。

 

「でも、不満とかはないよ。外には出られないけど、ここにいる限りは安全ってことだから」

 

「今までは、ネストに見つからないようにいつも転々としてて、安心して眠れたことなんてなかったしね」

 

「アンタらマジ? アタシは一日中菫と一緒の生活より誰かに命狙われてる方が楽だと思うんだけど」

 

「里津ちゃん、それはさすがに言い過ぎ……いや、そうかも」

 

「そうかそうか。君たち、そんなに私に解剖されたいんだな?」

 

「「すみませんでした」」

 

 こうして新たに二人、地下で暮らす住人が増えた。

 其処は暗く、滅多に人も寄りつかない、死者を安置する奈落の底。

 

 ネストか、クロたちを狙撃した人間を見つけて情報を吐かせ、組織を潰さなければ彼女たちが永遠に陽の光を浴びることはない。

 だが不思議と、彼女たちの目に悲観の色はなかった。

 

 ならば、それでいいのかもしれない。

 

 雑談に興じ始めたクロや里津たちを見ながら、カネキは思う。

 図らずも、クロとシロの身の安全は保証された。これで心置きなく、自分のやるべきことに集中できる。

 

 聖天子狙撃事件の終結後に起こる、第三次関東会戦。ずっと待ち望んでいた終わりが、すぐそこまで迫っている。

 

 何をすべきかは分かっている。その為の準備もしてきた。あとはその日が訪れるのを待つだけだ。

 

 ただ、一つだけ、疑問があるとするならば。

 

 

 

 

 

 どうして自分は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 




 次回から第三次関東会戦編に突入します。

 ちなみに前話でカネキ君が里津の説得を無視して安久姉妹を殺すとルートが分岐します。


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第三次関東会戦
第27話 終着


 過去最低の文字数なので初投稿です。


 

 

 

 

 

 鼻をくすぐる瑞々しさを感じる甘い匂いと、頬を撫でる風に目が覚める。

 

 仰向けに寝転んでいた上体を起こす。

 

 周囲を見渡せば、辺り一面を覆う紫のヒアシンスの花畑が、どこまで続いている。

 空を見上げれば、白と黒の市松模様の天井が、どこまでも続いている。

 

 現実の世界ではまずあり得ない光景。しかし、普通なら混乱したり、戸惑ったり、取り乱してもおかしくないそれを目の当たりにしても、不思議と心は凪いでいた。いっそのこと、もう一度地面に横たわって眠ってしまおうかと思ってしまうほどに。

 

「……行かないと」

 

 だが突如として、体の奥底から湧き上がる得体の知れない焦燥感に突き動かされ、立ち上がると同時に足を踏み出す。

 

 前後の記憶は曖昧で、どこへ向かっているのか、どこへ向かいたいのかも分からない。

 何となくでどこかを目指そうとしても、どこまでも続く花畑は、どこまでも続く砂漠と同様に目印なんてない。

 

 だけど、とにかく進まないと。

 

 まるでチェス盤のように、黒と白の正方形が交互に組み合わされた模様の天井の下を、進み続ける。

 まるで海のように、地平線まで埋め尽くす紫の花畑の上を、進み続ける。

 

 早くしないと、みんなが。

 

 記憶は依然として欠落したままで、けれどみんなが危険な状況にあることだけは、漠然と把握し(おぼえ)ていた。

 

 だから進む。募り続ける焦燥感を振り払うように、ただ進み続ける。

 けれど、進んでも進んでも、焦りは薄まるどころかその存在感を増し続けるばかりだ。

 

 ふと、先ほどから、花畑をできるだけ見ないようにしていることに気づいた。そのことを自覚して、意識して花畑を視界に入れると、遠くに少女たちの笑い声が聞こえた。

 

 聞き覚えのある声だった。

 幸せになって欲しいと願った子たちの声だった。

 

 それを認識した瞬間、即座に花畑から目を逸らした。まるで誤って触れてしまった熱湯から慌てて手を引くように、顔に物が飛んできた時に咄嗟に目を瞑るように。二度と花畑を直視しないようにしながら、歩く足を速めた。

 

 どれだけ進んだのか、どのくらい時間が経ったのかも分からない。けれど、ようやく景色に変化が現れた。

 

 遠く、地平の果て。紫色の海の向こう側に、小さな『赤色』が見えた。その『赤色』は、進めば進むほど大きくなって、気がつけばすぐ目の前まで近づいていた。

 

 『赤色』の正体は、彼岸花だった。

 

 そしてその彼岸花は、椅子に座っている白髪の子供を中心にして、血溜まりのように咲いていた。

 

 少年はどうやら本を読んでいるようで、俯いてるせいで顔はよく見えない。

 

「君は……?」

 

 声を掛けると、少年は読んでいた本を静かに閉じて、顔を上げた。

 

 そうして、白髪の子供は、穏やかに微笑んだ。

 

 

 

 

 



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第28話 半端

 

 

 

 

 

 ───悲鳴が、聞こえる。

 

 泣き叫ぶ声が、嘆き悲しむ声が、慟哭の声が、聞こえる。

 

 ───怨嗟が、聞こえる。

 

 許さないと呻く声が、言葉にならない殺意の声が、嗚咽と共に吐き出される声が、聞こえる。

 

 ガストレアになった元人間や、変異の始まった人の命を、この手で奪う。

 

 迅速に、逡巡なく、機械のように。

 

 そういう風に振る舞ってきた。無感情に、冷酷に命を刈り取る死神として。

 

 どんなに心がぐちゃぐちゃになりそうでも、自責の念に駆られようとも。

 少しでも躊躇ってしまえば、取り返しのつかない事態になってしまうから。

 

 道徳や倫理は、人を怪物から守ってはくれない。

 良心の呵責を言い訳に武器を振るわなければ、より多くの被害が出る。

 

 だから、殺した。

 遺族の目の前だろうと、命乞いをされようと、周りの人間から殺意や敵意を向けられようと。

 

 どの道、ウイルスに感染した人間を治療する方法がない以上、殺す以外の選択肢など存在しない。どうあっても、彼らを救うことは出来ない。

 

 そうやって、彼らの命を奪う度に、自分に言い聞かせてきた。

 

 けれど彼らの声が、止むことはなかった。

 

 悲鳴が聞こえる。

 怨嗟が聞こえる。

 

 なぜ生きている。

 何のために生きている。

 どうして生きている。

 

 霧に包まれた橋の上を歩く。

 この手で殺した人たちの声が、霧の向こうから聞こえてくる。

 

 先の見えない道を、ただ歩き続ける。

 

 しかし不意に、踏み出した足の方から、ぱしゃりと音がした。まるで水たまりを踏んだように。

 

 思わず足元に視線を落とすと、いつの間にか暗い沼の上に立っていた。

 

 ───なぜ生きている。

 

 黒い泥のような手が、足に、腰に、顔に、全身に絡みつく。

 

 ───何のために生きている。

 

 ゆっくりと、暗い沼に引きずり込まれる。

 

 ───どうして生きている。

 

 沈む、沈む、沈む。

 深く、深く、深く。

 

 息ができない。

 黒い手を振り解けない。

 心臓が破裂しそうなほどに脈動する。

 

 やがて思考は分解され、肺の中の空気をすべて吐き切り、漠然と死を認識して。

 

 そこで意識は断絶した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蛇口のレバーを上げて水を出す。

 

 冷水を手で掬い、顔に掛ける。

 それを何度か繰り返すと、カネキは滴る水を拭うこともせず、洗面台の縁に両手を置いて俯いたまま、深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。

 

 やがて俯いていた頭を上げて、鏡に映る自分と相対する。

 

 寝不足のせいで目の下には隈が出来ており、その顔には一目で分かるほど疲労感が残っている。

 

 そんな鏡の中の自分をぼんやりと眺めていると、ツゥー……と、右目から黒いナニカが涙のように流れた。

 

 聖天子狙撃事件以降から流れるようになった、黒い涙。その間隔に規則性はなく、いつ流れるのかはカネキ自身にも分からない。

 

「……まだ、時間はある」

 

 黒い涙を落とすために再び顔を洗う。

 そうしてタオルで水気を拭き取ると、カネキは洗面所を後にした。

 

 ……最後まで、鏡に映る白い少年には気づかないまま。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 見渡す限りの藍色の世界。

 すべての生命の母である海の中を、水着姿で泳ぐ少女が二人。

 

 一人はモデル・シャークのイニシエーターである占部里津。そしてもう一人は、モデル・ドルフィンのイニシエーターである千寿夏世。

 

 水着を着て海中を泳いでいる、と聞けば遊んでいるように思われるかもしれないが、二人が着用しているのは『泳ぐ』という機能を極限まで追求した競泳型の水着であり、時折背後を確認しながら時速50kmに匹敵する速度で海中を泳ぐ二人の表情は緊張と疲労感に満ちている。まるで、何かに追われているように。

 

 やがて、それぞれロレンチーニ器官とエコーロケーションで進行方向に一隻の船があることに気づいた二人は、一度深く潜ると急速浮上し、そのまま一気に海面から飛び上がって船の上に身を投げるようにして乗り込んだ。

 里津も夏世も、立っていることすら儘ならないのか、空を仰ぐように座り込んだり、両膝と両手をついた姿勢で荒い呼吸を繰り返していた。

 

 だが、状況は逼迫している。本当は呼吸が落ち着くまで待って欲しいが、そんな悠長なことはしていられない。

 息も絶え絶えに、夏世は船に乗っていた先客に向けて言葉を絞り出す。

 

「はあ、はあ……将監さん……はあ……接敵まで、11秒、ですっ……はあ……準備を」

 

「おう」

 

 応答と同時に先客───伊熊将監は、右手に持っていたバスターソードを逆手に持つと、弓のように腕を引き絞り、左手を照準器のように前に出した。

 

 直後、バチチチ……! と義肢である将監の()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「狙いは、水平より少し上へ……もう少し……そこです」

 

 接敵まで、残り3秒。

 海面に巨大な影が現れ、船の揺れが激しくなる。

 

「来るよ……!」

 

 接敵まで、残り2秒。

 息が整った里津と夏世は、万一に備えていつでも将監を連れて逃げられるように身構える。

 

「─────」

 

 接敵まで、残り1秒。

 将監は、夏世が予測した場所以外に視線を向けることなく、ただその瞬間だけを待つ。

 

 接敵(カウントゼロ)

 瞬間、海面が爆発したかのように弾け、大量の水飛沫を伴って姿を現したのは、将監たちが乗っている船を彼らごと丸呑みに出来るほど巨大な、真鯛の頭部とウツボの胴体を組み合わせたようなガストレアだった。

 

「■■■■■───!!!」

 

 真鯛に発音器官の類などないはずだが、ガストレアは確かに咆哮を上げながら、目の前の獲物を捕食しようと迫る。

 

 だがそれは、あまりに緩慢に過ぎた。

 

「───らァッ!」

 

 夏世が予測していたガストレアの出現位置に事前に狙いを定めていた将監は、ガストレアが射線に入った瞬間に投擲動作に移行していた。

 

 彼の右手から、稲妻の如き速度でバスターソードが射出される。

 それはガストレアの口の中に吸い込まれ、そのまま頭蓋を貫通し、一拍遅れて鮮血が貫通したバスターソードを追い掛けるように噴き出す。

 

「………………」

 

 ガストレアは水飛沫を上げながら仰け反るように後ろに倒れ込み、海の中に姿を消す。

 そうして再び、海面に仰向けに浮かび上がったガストレアは、絶命していた。

 

 将監が青空に向けて帯電した右手を掲げると、それに呼応するように先程投擲したバスターソードが高速で飛来する。

 それは磁石に引き寄せられる鉄のように、柄の部分から将監の右手に収まると、そのまま背中に担がれた。

 

「ステージⅡの海棲ガストレアの討伐依頼、これで達成ですね」

 

 遠くで待機していた別の船に、夏世が大きく手を振って合図を送る。

 すると、その船で狙撃の姿勢を取っていたカネキが立ち上がり、他の船員たちに指示を飛ばしている様子が見えた。

 

 彼らは民警。プロモーターとイニシエーター、二人一組でガストレアに立ち向かう、人類最後の希望である。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 東京湾に建造されたモノリス群の間を抜け、日本海の沖合から東京エリアに帰って来たカネキは、一旦里津たちと別れ、一人で市街地を歩いていた。

 

 実は東京エリアに戻ってきた当初、時刻は昼時、しかも仕事終わりでお腹も空いていると言うこともあり、昼食をどこで摂るかという話になった。

 

 週末のお昼と言うこともあり、飲食店は混み合っているだろうからと外食は早々に除外。

 ならば出前か、適当に何か作ろうかと、とりあえず帰宅するという方向で意見がまとまりかけた時、そういえば、と夏世が思い出したように言ったのだ。

 今日は週末。ならば、松崎とカネキからの頼みで一月前から土日限定で外周区の青空教室で先生をすることになった蓮太郎たちが39区にいるはずである。

 

 せっかくだから、みんなで食べませんか。

 

 夏世のその提案に里津や将監が了承し、彼女の瞳がじっとカネキを捉える。

 それにカネキは、里津たちに倣うように「いいよ」と微笑みながら答えた。

 

 ()()()()()()()()()()()と、心の中で苛立ちながら。

 

 本音を言うと、今のカネキは以前のように外周区の子供たちと積極的に関わりたくなかった。

 だって彼女たちにはもう、蓮太郎や木更がいる。あの子たちに必要なのは先生として知識を教え、彼女たちのことを大事に思ってくれる存在であって、金木研という個人ではない。

 

 だからカネキは、蓮太郎たちに先生の役割を譲ってから子供たちから少しずつ距離を置いた。里津たちが外周区に行こうと言っても、何かしら理由をつけて徐々に行く頻度を減らしていった。

 

 所詮、自分は代替品。

 彼女たちもこんな何の価値もない人間よりも、蓮太郎たちのような、人を救い、守るために戦える……誰かのために理不尽に立ち向かえる人間が傍にいてくれた方が、ずっと嬉しいはずだ。

 

 それなのに。

 

(……本当、余計なことをしてくれた)

 

 夏世に対する苛立ちが、燻るように溢れてくる。ここ最近寝不足だがらか、些細なことで苛々し、おまけにそれがなかなか治まらない。

 

 そもそも何だ、あの目は。まるでこちらの一挙手一投足を見逃すまいと観察するような、何か危ういものを見るような、あの目。

 彼女がそんな目で自分を見る理由が皆目見当もつかない。考えれば考えるほど苛立ちが募っていく。

 

「……………はぁ」

 

 やがてカネキは目を閉じて溜息をつき、頭の中で渦巻いていた諸々を思考の隅へと追いやる。

 

 結局、考えても分からないこと、解決しないことは棚上げにする以外に出来ることはない。

 どうにもならないことをどうにかしようとするから苛立つのだ。

 

(アレに比べれば、ずっとマシではあるんだけど)

 

 脳裏に浮かんだのは、数週間前にカネキの身に起きた『どうにもならないこと』。

 

 それの兆候が出始めたのは聖天子狙撃事件が終結してから暫くが経った頃。

 まず、自身が有するこの世界で起こる出来事に関する知識、()()()()()()()()()()()()()

 そこから徐々に、時系列順に知識は薄れていき、今ではもう「そういう知識があった」ということ以外思い出せなくなってしまった。

 

 辛うじて知識が消え去る前に重要な事柄を優先して思い出せるだけメモに書き殴ったが、もはやメモに書いてあること以上のことは永遠に分からない。例え書き損じている事柄があったとしても、それを確かめる術もない。せめて人の生死に関わる情報だけは書き切ったと信じたいが。

 

 とまあ、そんな感じで。今のカネキはちょっとしたことで気が立つが、超弩級の『どうしようもないこと』を経験したことですぐ落ち着けるという、一周回って安定した精神状態をしていた。

 

 そんな風に、思考に意識を割きながら歩いていたカネキの足が、大通りに店を構えている花屋の前で止まる。

 

 その入口で、店を経営してる一組の夫婦と共に、花束を手に背を向けて去っていく客を見送る少女がいた。薄灰色の生地に白色の細い横縞が入ったシャツの上に、スクエアネックで孔雀青と白藍のチェック柄の半袖のチュニックを着て、白のロングスカートを穿いた藍色の髪の少女だ。

 客がある程度離れたところで、店に戻ろうと夫婦と少女が振り向き、カネキの存在に気づく。前髪は眉の上で、後髪は襟首あたりで切り揃えた藍色の髪を揺らしながら、眼鏡を掛けた少女の相貌が嬉しげに綻ぶ。

 

「先生!」

 

「こんにちは、モナちゃん。迎えに来たよ」

 

 何もカネキは、目的もなく街を散策していたわけではない。わざわざ里津たちと別れたのは、街で『職場体験』をしている外周区の子たちを迎えに行くためである。

 外周区に赴くことは無くなったものの、こういう送り迎えだけは、都合が合えば松崎の代わりにカネキが行っている。

 

「健一さん、奏子さん。いつもモナちゃんのこと、ありがとうございます」

 

「気にしなくていいんですよ。モナちゃんのおかげで、休日はお花がよく売れるんです」

 

「むしろお礼を言わなきゃいけないのは私たちの方ですよ」

 

 頭を下げるカネキに、伊和健一と、妻の奏子は朗らかに笑う。

 

 それに、良い人たちだ、とカネキは思った。

 

 『職場体験』は、力と感情をコントロールできる年長組の中でも、将来やりたい事がイメージ出来ている子たちを対象に行なっていて、体験先へはカネキが直接交渉に行き、相手側から許可を貰うことで成立する。

 この交渉の際、カネキは敢えて職場体験に来る子が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 学校を経由せず、個人で頼みに来てる時点で大抵の人間は何かあると怪しむし、そうなれば例え呪われた子供であると言う明確な証拠がなくても、彼女たちを差別的に扱う可能性がある。

 それならばいっそ、初めから呪われた子供たちだとしても受け入れてくれるところを探そうとカネキは考えた。そもそも、彼女たちを人として扱わない所などこっちから願い下げである。

 ただ残念なことに、この世界は呪われた子供たちへの差別は一般的なもので、そのせいで希望通りの職場体験に行ける外周区の子は少ない。

 

 だからこそ、カネキは目の前にいる、伊和夫婦を人として尊敬する。

 彼らだって、他の奪われた世代と同じ経験をしてきただろうに、ガストレアに対する憎悪や嫌悪を決して呪われた子供たちには向けず、きちんと一人の『人間』として接してくれる。

 

 聖天子の統治が続けば、彼らのような人がもっと増えるのだろうか。呪われた子供たちを差別しない人が、彼女たちの味方になってくれる人が。

 聖天子の語る、呪われた子供たちが差別されない世界が、やってくるのだろうか。彼女たちが、生きるために罪を犯す必要がなくなる世界が、理不尽に命を奪われることのない世界が。

 

 そうなったらいいなぁ、と、カネキは目の前の夫婦と少女を見ながら、心の底から思うのだ。

 

「それじゃあモナちゃん。いつもの渡すから、少し待ってて」

 

 そう言って奏子は店の中に一度戻ると、その手に紫色の花が咲いている鉢植えを持って現れた。

 

「この()のこと、よろしくお願いね」

 

「はい!」

 

 手渡された鉢植えを、宝物のように胸に抱くモナに、健一と奏子は嬉しそうに笑った。

 

 モナは職場体験が終わると、夫婦から必ず花の咲いた鉢植えを渡される。

 仕事を手伝ってくれたご褒美というか、店の売り上げに貢献してくれた報酬のようなものだ。週に一つずつだが、おかげで39区の居住地(下水道)は今や色とりどりの花で彩られている。

 

「何て名前の花なの?」

 

 花屋を後にし、職場体験に参加しているもう一人のもとに向かいながら、カネキが尋ねる。

 するとモナは、ばっ、と勢いよくカネキの方に顔を向け、目をキラキラさせながら興奮した様子で話し始めた。

 

「気になりますか? 気になりましたね! ではご説明しましょうこの花はヒアシンスと言いましてこれは紫ですけど他にも赤や白もあって色によって花言葉も違って日本では『悲しみ』『初恋のひたむきさ』ですが海外では『ごめんなさい』や『許してください』と言った謝罪の花言葉になるそうですそれから」

 

 モナは花が好きだ。育てるのは勿論のこと、花言葉に至っては日本のものだけでなく、他の国のものも知っているほど好きだし、何より、彼女に花のことについて聞こうものなら、いつの間にか呼吸を忘れるほどの勢いで熱く饒舌に語るくらいに好きだ。

 

 ちなみにこの時のモナのことを外周区の子どもたちは『オタクモード』と呼んでおり、普段はその面倒見の良さから年少組に姉のように慕われている彼女も、この状態の時ばかりは「や!」と言われ距離を置かれている。

 なので、彼女が満足するまで花の話を聞いてくれるカネキや松崎、むしろ率先して花の話題を振ってくれる伊和夫婦にはよく懐いている。

 

 やがて話題がヒアシンスからカネキの名前繋がりで金木犀の話に移り、花言葉やフランス語では何と言うのかなどを語り終えたところで、ピンクと白を基調とした可愛らしい外観のケーキ屋が見えてきた。

 

 ここが、モナ以外のもう一人がお世話になっている職場体験先である。

 

 清涼感のある音色のドアベルを鳴らして、カネキとモナは店内に入る。すると、受付の前に立つ見るからに筋骨隆々で、毛先が上にカールした口髭を蓄えたスキンヘッドの男に、黒いシュシュでツーサイドアップにした金髪のセミショートヘアの少女が、椅子に座りながら紙を見せていた。

 白いコックコートを着こなす男と、黄色のキャミソールにワンショルダーの白いTシャツ、デニムのホットパンツ姿の少女の構図は、一見すれば空いた時間に子どもの遊び相手をしている店員のそれだ。

 

「師匠、こんなのはどうっスか!?」

 

「…………(首を横に振る)」

 

「じゃあこっち!」

 

「…………(少し間を置いて、首を横に振る)」

 

「それなら、これは!?」

 

「…………(即座に首を横に振る)」

 

「即答!? なんでっスか!?」

 

 溌剌に言葉を発する少女と、それを寡黙……と言うか一切言葉を発さずに応える男。

 対照的であり、同時に異様とも言えるその光景にしかし、カネキとモナが戸惑うことはない。彼らにとって、そのやり取りは見慣れたものだからだ。故に、二人はただ不思議そうに小首を傾げる。

 

「何やってるんですか、アレ」

 

「さあ、何だろうね?」

 

 疑問に思いながら、とりあえず二人の元へ向かう。

 

「こんにちは、柿池さん」

 

「こんにちは!」

 

 スキンヘッドの男、もとい、この店の店長である柿池暁彦に声を掛ければ、彼は軽く手を上げて応える。

 

「先生、それにモナ! ちょうど良いところに!」

 

 対して金髪の少女は、カネキたちに気づくや先ほど柿池に見せていた紙を持って駆け寄って来た。

 

「はいはい、どうしたの奏音ちゃん?」

 

 カネキがそう尋ねれば、奏音は不満そうな顔で柿池を指差した。

 

「聞いてくれっスよー、師匠が新作のケーキを作るのに私のアイデアを使ってくれるって言うから、さっきから色々アイデア出してるのに、全っ然使ってくれないんス!」

 

 これがケーキのデザインっス、と渡された複数枚の紙を受け取り、モナと一緒に覗き込む。そして。

 

((うわぁ……))

 

 その絵心の無さに、二人は揃って口を噤んだ。

 直前の会話から辛うじてソレがケーキであろうことは察せられるのだが、渡された紙に描かれたソレは形状・色合いを含めとてもケーキには見えなかった。

 

 敢えて言葉にするなら、人の顔にぶつけたパイを極彩色に染め上げたとでも言えばいいのだろうか。紙に描かれたソレは、そういう形と色をしていた。

 

 あと何故か、ケーキのデザインは似通っているのに、枚数を重ねるごとにケーキから無駄に毒々しいオーラや、口から煙のようなものを吐き出して倒れる人っぽいものが紙芝居のように書き加えられていた。

 

(この、口から出てる煙みたいなものは一体……)

 

(……もしかして、魂じゃないですか?)

 

(なんでケーキの近くに魂が抜けた人たちが転がってるの……!?)

 

(分かんないですよ……! それにそれを言うならどうしてケーキからこんな禍々しいオーラが出てるんですか……!?)

 

 カネキとモナはそっと紙から目を上げて、柿池の方を見る。

 彼は困ったように目を閉じた。

 

 新作のケーキに奏音のアイデアを使うと言いながら、柿池が一向に首を縦に振らなかったのはまず間違いなくコレが理由だろう。

 

 カネキとモナはそっと紙から目を上げて、奏音の方を見る。

 彼女は自信満々な表情でこちらの反応を伺っていた。

 

 その自信は一体どこから来るのだろうと顔を引き攣らせながら、カネキとモナは順番に口を開いた。

 

「ね、ねぇモナちゃん、このケーキ? の周りに漂ってるものは何かな?」

 

「? 見ての通りっスよ、このケーキの美味しさが可視化されてるんス。普通にケーキ描いただけじゃ伝わらないと思って」

 

「じ、じゃあこっちの、ケーキの周りで倒れてるのは?」

 

「ああ、これっスか? このケーキのあまりの美味しさに、食べた人の魂が口から飛び出しちゃったんスよ」

 

 そうして「上手く描けてるでしょ?」と屈託なく笑う奏音を見ながら、どう答えるのが正解なのかとカネキがモナと共に苦悩していると。

 

「おー、これはなかなか独創的な絵だねぇ。昔取材に行った美術館にも、こんな感じの絵があったよ」

 

 隣からひょこっと、薄い緑の長髪の女が、カネキの手元を覗き込んでいた。

 

「─────」

 

 それに、カネキは顔から表情を消し去り、見開いた目で女を見た。

 

 いつから隣にいた? なぜ今まで気づかなかった?

 

 女の接近に気がつかなかったという事実に、まるで冷水を頭から浴びさせれたかのような感覚に襲われる。

 同時に、女の僅かな挙動も見逃してはならないと思った。

 

「……取材というと、記者の方ですか?」

 

「いやいや、私は作家だよ、青年」

 

 不審な動きを見せれば即座に奇襲できるよう、服の下で密かに赫子を形成する。

 一般人に喰種であることが露呈するリスクがあるが、それはこの際無視する。そんなことに意識を割いてどうこう出来る相手ではないと、嫌な確信があったからだ。

 

 カネキは、唐突に変化した自身の雰囲気に戸惑うモナたちを庇うように、女に向き直る。

 対して女は何をするでもなく、一見すると穏やかな、けれど何を考えているか分からない、妖しい微笑みを浮かべていた。

 

「初めてまして、金木研。少し話をしよう」

 

 

 

 




モナ・アーン
・10歳
・Blood type:A
・Size:140cm/38kg
・Gastrea model:イーグル
目が良すぎるため遠くのモノを見るのは問題ないが、近くのモノにピントを合わせづらく、子供たちの中で唯一メガネ(遠視用)を着用している。メガネがカネキとお揃いなのはモナの密かな自慢。

蜂ヶ崎 奏音(ハチガサキ カノン)
・10歳
・Blood type:B
・Size:138cm/35kg
・Gastrea model:ビー
快活で屈託のない笑顔が特徴で「〜っス」が口癖の少女。絵がド下手。「美味しそう」の感覚が人とはズレているが、料理やケーキはレシピ通りに作れる。

>花屋の夫婦
夫婦で花屋を営んでいる。モナのことを娘のように可愛がっており、将来的には自分たちの花屋を継いで欲しいと思っている。実子はガストレア戦争時に死亡している。

>ケーキ屋の店長
無口。人とのコミュニケーションは基本的にジェスチャーで済ませ、必要な時(主にジェスチャーだけでは伝わらない場合)にしか喋らない。


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第29話 密談

 

 

 

 

「───で、なんだって今日は強引にアイツを誘ったのさ」

 

 場所は変わって39区。職場体験に参加している子たちを迎えに行ったカネキと別れ、青空の下で授業をしていた蓮太郎たちと合流し、子どもたちとも協力して食事の準備を終えた里津がそう問い掛ける。

 対して、適当な瓦礫に腰を下ろす夏世は里津の方を見ることなく、少し離れたところで組み手をする蓮太郎と将監、それを囲んで応援する子どもたちを眺めていた。

 

「理由は知らないけど、アイツはここに来るのを避けてる。アタシが気づいてるんだから、夏世だって気づいてるんでしょ。なのに理由も訊かずに誘ってさ。らしくないね。それとも、アンタのことだから、ここに来ない理由を知った上で誘ったわけ?」

 

「……私、ポーカーフェイスには結構自信があったのですが、そんなに分かりやすかったですか?」

 

 里津の言葉に、夏世はむにむにと顔を触る。それは言外の肯定だった。

 

「表情っていうか、カネキも夏世も行動が露骨なんだよ。それに、ほら。友達でしょ、アタシたち」

 

 夏世は一度、里津の方に顔を向け、再び組み手をしている蓮太郎たちに視線を戻し、静かに口を開いた。

 

「カネキさん、近いうちに死ぬ気なんだと思います」

 

 頬を優しく撫でるような、緩やかな風が二人の間を抜ける。

 

 夏世はちらりと横目で、里津の反応を窺った。

 

 聖天子狙撃事件の折、安久姉妹の襲撃を受け、重傷を負ったカネキ。そんな彼を見て、敵が目の前にいるにも関わらず、戦意を喪失するほど取り乱した里津。

 そんな彼女が、カネキが死ぬかも知れないなどという話を聞かされて冷静さを保っていられるはずがない。

 

 そして。

 

「根拠は?」

 

 夏世の()()()()、里津は至って冷静に話の続きを促した。

 

 すっ、と夏世は人差し指を立てる。

 

「根拠の一つは、彼が里津さんの()()()()を無理やり克服させたことです」

 

 事の発端は今から一月ほど前。

 ある朝、里津が自室を出てリビングに行くと、そこには血を流して床に伏す夏世と将監の姿があった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()にトラウマを刺激された里津は、カネキがクロにビルから投げ落とされた時と同じ反応をした。

 いつの間にか背後に立っていた人物に銃口のようなものを後頭部に押し付けられても、抵抗らしい抵抗も出来なかった。

 

 火薬が炸裂する音が鼓膜を殴る。

 そして銃口から発射された弾丸が里津の頭蓋を貫通し、その脳髄をぶち撒ける───ことはなかった。発砲音はしたが、それだけだった。

 

『夏世ちゃん、将監さん。もう起きていいですよ』

 

 背後から聞こえてきた声に、うつ伏せに倒れていた二人が平然とした様子で起き上がる。

 見れば彼らに外傷はなく、服に付いているのは本物の血ではなくただの血糊だった。

 

『里津ちゃん』

 

 その呼びかけに、里津が力なく振り返ると、そこには冷たい表情で自身を見下ろすカネキの姿があった。

 

『これから不定期に、今日と同じことを繰り返す。君がトラウマを刺激されても今みたいに取り乱さず、冷静に対処できるようになるまで、ずっとね』

 

 そこから地獄の日々が始まった。

 それは、触れるだけでも痛む傷口に無理やり指を押し当てて痛みに慣れさせようとするようなもので、最悪(トラウマ)を悪化させかねない危険な行為だった。

 

「だけど、あれはアタシにとって必要なことだったから夏世はカネキに協力したんじゃないの?」

 

「はい。カネキさんが瀕死の重傷を負った時の状況を考えれば、万が一に備え、里津さんの戦場での生存率を上げるためにもトラウマの克服は急務でした。多少のリスクを負ってでも、やる価値はあったと思います。ですが……」

 

「ですが?」

 

「カネキさんらしくありません」

 

「………」

 

「確かに里津さんのトラウマの克服は急務でした。しかし、それでも今までのカネキさんなら、あんな風に人の傷口を抉るようなやり方はしなかったはずです。私には、彼が何かに急かされているような、焦っているように感じました」

 

 夏世は二本目の指を立てた。

 

「根拠の二つ目は、彼が39区(ここ)の子供たちから距離を置いたことです。それも里見さんたちがここに馴染んだのを見計らったようなタイミングで」

 

 まるで引き継ぎを終えたように。

 

 そう言って夏世は、続けて三本目の指を立てた。

 

「三つ目の根拠は、彼の目です」

 

「目?」

 

「はい。今のカネキさんの目は、いつ死んでもいいと思っている人間の目をしています」

 

「やけに具体的じゃん。なんで目を見ただけでそこまで分かるのさ」

 

「昔、全く同じ目をした人間を鏡で何度も見ましたので」

 

 それに、ふーん、と里津は適当な相槌を返す。

 

 里津は、夏世が自分やカネキと会うまでにどんな経験をしてきたのかを知らない。知る必要もなかったし、そもそも里津の知ってる千寿夏世は、初めて会ったあの日から今日までの彼女がすべてであり、あの日より過去には存在しない。

 夏世の過去にどれだけ辛い出来事があろうが、今自分の隣にいる彼女が苦しんでいないのなら、そんな終わったことに興味はない。今の千寿夏世は、自分はいつ死んでもいいなどと欠片も思っていないことを、里津はよく知っているのだから。

 

 それ故の無関心。

 そしてだからこそ夏世には、そんな彼女の無関心さが心地良かった。

 

「けど、根拠としてはどれも弱くない? アタシのトラウマに関しては、アイツが主義を曲げてでも早急に克服させる必要があると判断しただけかもしれない。クロシロ姉妹みたいなのがまたいつ現れるか分かんないし。39区(ここ)に来なくなったのも、他に理由があってたまたま蓮太郎たちが馴染んだタイミングと重なっただけかもしんない」

 

「そうですね。確かにこれだけではカネキさんが死のうとしている根拠としては弱いでしょう。しかしそれは、彼の自己評価が異常に低いという前提がなければの話です。信じられますか? あの子たちにあれだけ慕われているのに、自分のことを替えが効く部品か何かだと思ってるんですよ?」

 

「……は? マジで言ってんの、それ」

 

「蛭子影胤テロ事件が終結してすぐの定期検診の際に、彼が自分のことをどう思っているのかを室戸医師から聞かされました。加えて、カネキさんからなるべく目を離さないようにとも」

 

「その自己評価の低さは今も変わってないの?」

 

「残念ながら」

 

「……ふざけんなよ。アイツ、どこまで……!」

 

 思わず苛立ちが口から漏れ、里津は物に当たり散らしたくなる衝動を誤魔化すように乱暴に頭を掻く。

 

「だああああ、くそっ! 今の話聞いたら滅茶苦茶アイツのこと殴りたくなってきた!! ていうかさ、なんでその話をアタシにしてくんなかったわけ!?」

 

「……トラウマを克服する前の里津さんはそもそも私の話に耳を貸しそうになかったですし、仮に聞いてくれたとしても今みたいな勢いで突貫し、どこでその話を聞いたのかも含めて包み隠さず話しそうだったので」

 

「うぐっ……」

 

 じーっと半目でこちらを見ながら淡々と話す夏世に、里津は否定できず呻くことしか出来ない。

 それに、夏世は瞑目し嘆息する。

 

「そんなことより、私たちが今話し合うべき問題はどうやってカネキさんを死なせないようにするかで───」

 

 不意に、夏世の言葉が途切れる。その意図を里津はすぐに察した。背後に人の気配を感じたからだ。

 

「フ、何やらお困りのようだね」

 

 気さくで己への自信に溢れた声に二人が振り返ると、白地のシャツに、ズボン部分がホットパンツ状の紺色のオーバーオールを着た小柄な少女が、腕を軽く組んで立っていた。

 

 真っ赤な、鬼の顔のようにも見える猿の面を着けて。

 

「どうだろう。ここは一つ、かつて『魔猿』と呼ばれたこのぼくに頼ってみるというのは」

 

「…………」

 

 仮面を着けているため当然表情は見えないが、声色からほぼ間違いなくドヤ顔をしているであろう少女の元へ里津は無言で近寄ると、そのまま無造作に彼女が着けていた面を外した。

 

 そうして露になるのは、薄茶色のおかっぱと背丈相応に幼い顔。

 

「へ?」

 

 状況を把握しきれていない少女を無視し、里津はそのまま仮面を彼女の背後に向かってぶん投げた。

 

「あ……うわーん! ぼくのお面ー!」

 

 突然のことで一瞬思考停止した少女だが、仮面を外されたことを理解するや途端に顔を真っ赤にして涙目になり、投げられた面を拾いに走って行った。

 

「───(ひっで)ぇことするなぁ、偉大なる魔猿様のご厚意を無碍にするなんて」

 

「何が偉大だよ。全部あの子の妄想(せってい)でしょ」

 

 猿面の少女と入れ替わるように現れたのは、黒のタンクトップの上に白のタンクトップを重ね着し、深い赤色を基調としたチェック柄のミニスカートと黒のサイハイソックスを穿いた、褐色気味の肌と金髪のショートカットが眩しい少女だった。

 

「相談相手になろうとしてくれること自体はありがたいんですが、(まどか)さんは人の話を聞きませんからね。いい子なのは間違いありませんが」

 

「そんないい子を泣かせて、里津は心が痛まねぇの?」

 

「アンタどの口で言ってんの? どうせあの子がアタシたちのとこに来たのは、アンタが変な入れ知恵したからでしょ、華織(かおり)

 

 里津が胡乱な目を向ければ、華織と呼ばれた少女は軽薄な笑みを浮かべる。

 

「入れ知恵とは人聞き悪いなぁ。二人してなーんか内緒話してるみたいだっから、『あいつらなんか困ってるみてぇだから相談に乗ってやったら?』ってアドバイスしただけだぜ?」

 

「内緒話の意味知ってる? 人に聞かれたくない話をしてるところに人を寄越すとか、何? 嫌がらせ?」

 

「んっんー、正っ解♪」

 

 頬を吊り上げ舌を出し、他人を心底馬鹿にした表情を浮かべる華織。

 瞬間、戦闘が始まりそうなほど剣呑な雰囲気を纏う里津と華織。それに、夏世は額に手を当てて疲れたような溜息を吐いた。

 

 流れるように一触即発の空気になったが、この二人が()()()()のはいつものことである。

 タチが悪いことに、華織は友人同士が(じゃ)れ合うような軽いノリで里津を挑発するため、二人が顔を合わせるとほぼ必ず殺伐とした空気になる。

 余談だが、里津はもちろん、華織もお互いのことを友人などとは微塵も思っていない。

 

 幸いにも周囲に人は居ないため、いい感じにガス抜きさせてタイミングを見て止めに入ろうかと、夏世が傍観を決め込んだその時。

 

「ま、待って!」

 

 臨戦態勢に入った二人の間に割って入る声がした。

 

「あ?」

 

「んー?」

 

 片や不機嫌、片や不満そうに声がした方に顔を向ければ、前髪で左目を隠した紅梅色の髪の少女がいた。

 

 白地のタートルネックニットに黒と白の太い横縞の入ったカーディガンを羽織り、黒のジャンパースカート着たその少女は、左手を胸の前に当てて切羽詰まった表情を浮かべていた。

 

「円と華織が二人のところに来たのは、私が原因なの……!」

 

「どういうことですか、(しおり)さん」

 

 夏世の問い掛けに、栞と呼ばれた少女は申し訳なさそうに話し始めた。

 

「夏世ちゃんたちがみんなから離れた所で何か話してるのが見えたから、気になって。でも二人とも深刻そうで、とても聞きに行ける雰囲気じゃなくて、だから諦めようとしたんだけど……」

 

 そこで栞は、とても言いにくそうに華織の方をちらちらと見て。

 

「私が二人の様子が気になってることに気づいた華織ちゃんが、代わりに自分が聞きに行ってあげるって……」

 

 里津と夏世が同時に華織を見る。

 当の本人は、ひび割れて壊れそうな曲を口笛で綺麗に吹きながら三人から顔を逸らしていた。

 が、お面を回収して戻ってきた円が

「もー里津姉! お面放り投げるなんてヒドイじゃん───って、ぶはは! な、なにその顔ー!! あはは、お腹痛いー!!!」と笑い転げてるのを見るに、相当ふざけた顔をしていることだけは分かる。

 

 しかしその内心は。

 

(……おいおい、こいつはかーなり深刻みたいだなぁ)

 

 変顔で円を笑わせながら、気取られぬように里津たちの方を盗み見る。

 

 華織がやろうとしたことは、所謂『良い警官・悪い警官』だ。自分をこの場にいる全員にとっての共通の敵と認識させ、里津たちが話していた内容を栞に明かさせるつもりだった。

 

 だが、結果はどうだ。

 

(オレに話さないのは当然として、栞にも話さないってことは()()()()()()()ってことだ)

 

 ごめんなさいと頭を下げる栞に、気にしてないと言葉を掛け、けれども肝心の内容については語らない二人を見て、華織はそう結論づける。

 

 栞は口が堅い。他人に知られたくない秘密はもちろん、仮に里津たちが誰かしらにサプライズの類を計画していたとして、栞が偶然それを知ってしまったとしても、彼女は決して口外しない。当然、里津たちもそのことを把握している。にも関わらず、内容を共有しないということは。

 

(栞個人に知られたくない話か、もしくは39区(ここ)の存続に関わる話のどちらか、か)

 

 華織は思考を回す。

 

(栞にだけ知られたくない話だった場合、恐らく、というか確実に母親関連だよなぁ。会いたがってる……は、流石に無ぇか。産んだのが赤目だったから虐待して捨てたっつう、どこにでもいる()()()()らしいからな)

 

 むしろ呪われた子供たちを化け物としてではなく、人間として接する連中の方が異常だと華織は思っている。

 癇癪でも起こせば人間など容易くミンチに変えられる存在を、人として、ましてや庇護対象として扱うなど、イカれているのでなければ危機管理能力が欠落したただの阿呆である。

 

 もっとも、華織はそういう()()()()()()のことが嫌いではないのだが。

 

(でなきゃ、死んだか? いや、それならはっきりそう言うか。なら考えられるのは、やっぱり39区(ここ)そのものに関することか?)

 

 カネキや松崎の取り組みで、今の39区にはそれなりの人数の呪われた子供たちが生活している。もしここが無くなるようなことがあれば、それはただ住む場所を失うだけに(とど)まらない。

 

 華織の視線が、蓮太郎たちの組み手を楽しそうに、興奮気味に応援している子どもたちを映す。

 例えばあの子、それに向こう側にいる子や、あっちの子も。

 みんなと一緒に笑って、騒いで、今を心から楽しんでいるように見える彼女たち。けれど夜になると、布団にくるまって啜り泣いていることを華織は知っている。そして以前は、あんな風に感情を表現することすら出来なかったことも、知っている。

 

(……仮に、39区(ここ)が無くなるなんてことをガキ共が知ったら、また昔に逆戻りか、それか完全に潰れちまうかもなぁ)

 

 とは言え、だ。

 

(そもそもどうやったら39区(ここ)が無くなるなんて事態になるんだ?)

 

 華織は目を細め、思いつく限りのことを脳内に列挙していく。

 

(立ち退き? わざわざ外周区にまで出向いてするメリットがどこにある。なら赤目狩りか? 可能性はあるが、連中の情報があるんならこっちから先に仕掛けて潰すなり脅すなりすれば問題ないはずだ)

 

 が、どれも即座に反論が浮かぶほど根拠に乏しい。

 

(あと何かあるとすれば、そうだなぁ……東京エリアが滅びるとか?)

 

 なかなかに()()()シチュエーションだが、如何せん現実味がない。蛭子影胤テロ事件みたいなことが、数ヶ月に一度のペースで起こるはずもない。自分で考えておきながら、荒唐無稽すぎると思わず白けてしまう。

 

「華織姉、どうしたの?」

 

 円の声に視線を戻す。自身を見上げる小柄な少女の瞳に反射するのは、興醒めした己の顔。

 

「ハハァ、何でもねーよ」

 

 しかしすぐにその顔は、いつもの飄々としたものに戻る。

 

(まあ、何にせよだ)

 

 円を連れ立って、会話にひと段落ついた様子の里津たちの元へ歩を進める。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 ケーキ屋の店内から、モナはガラス越しにテラス席を見る。

 そこには、自分と奏音に店内から出ないようにとだけ告げて、謎の女と向かい合って座るカネキの姿があった。

 

「何の話してるんだろう……」

 

 思い返すのは、女に話しかけられてからのカネキの表情。あんなに怖い顔を見たのは、彼と出会ってから初めてだった。

 

「分かんないっスけど、穏やかじゃないのだけは確かっスね」

 

 モナと同じように、横目でテラス席を見ていた奏音は最悪の事態を想定しておく。

 

 コーヒーとケーキの準備をして、自身の横を通り過ぎようとした柿池と目が合う。柿池が店の奥に目配せをし、その意図を察した奏音が頷く。

 

 柿池が店を出るのを見送りながら、奏音は口を開いた。

 

「モナ、いざという時は『力』を使って全力疾走で裏口から逃げるっスよ」

 

「え?」

 

「多分っスけど、先生が私たちにここに残るように言ったのは、万が一あの女の人と戦うことになった時に私たちが巻き込まれないようにするためっス。だから、いつでも逃れるように心の準備だけはしておくっス」

 

「逃れるようにって……先生や、それに柿池さんを置いていくってこと!? できないよ!」

 

「冷静になるっス。先生がわざわざ私たちから離れたのは、もしもの時に私たちが近くにいると()()()()()()()()()

 

 邪魔になる。それがどういう意味なのか、モナにだって分かっている。それでも。

 

「……納得できないよ、そんなの」

 

「合理的に考えるっスよー。私たちは子どもなんだから、何よりもまず生き残ることを優先しなくちゃ」

 

 それが先生や長老たちの望みなんスから。

 

 奏音はそう言って笑った。それに、モナは何も言えなくなった。

 

 

 

 

 

◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 ケーキ屋のテラス席。そこでカネキと女は、向かい合うように座っていた。

 テーブルの上には、女が注文したケーキが一つと、淹れたてのコーヒーが一杯ずつ置かれている。

 

「口コミを見たことがあるから知ってはいたけど、本当に喋らないんだね、ここの店長は」

 

 終始無言で、手際良くケーキとコーヒーカップをテーブルに置くと、一礼し、そのまま店内に戻っていった柿池の姿を思い返しながら、女はコーヒーに口をつける。

 

「さて、まずは自己紹介といこうじゃないか」

 

 コーヒーカップを静かに下ろすと、女は薄く微笑みながらカネキの目を見つめる。

 

「私は高槻泉。作家だ」

 

 女───高槻の言葉に、カネキは僅かに瞠目する。

 

「……貴女が、高槻泉?」

 

「お? もしや私を知ってるのかい?」

 

「知ってるも何も……」

 

 高槻泉。その名を、カネキはよく知っている。

 

 処女作である『拝啓カフカ』は50万部の売り上げを誇るベストセラーで、新作が出る度にテレビやネットで取り上げられるほどの人気作家。同時に、その素顔は元より、本名・年齢・性別など一切の情報が不明という謎多き人物でもある。

 そして何より、カネキは『拝啓カフカ』を始めとした彼女が産み落としたすべての作品を愛読している。

 

「その反応から察するに、青年は私のファンだね? あ、サインとか要る?」

 

「……それで、その高槻先生が一体僕にどんな用が?」

 

 高槻泉の直筆のサイン。正直、欲しいかどうかと訊かれれば欲しい。だが今は、彼女の得体の知れなさへの警戒心がその欲求を握り潰していた。現にカネキは、高槻の一挙手一投足に目を光らせ、いつでも先手を打てるように赫子を服の内側に忍ばせたままだ。

 

「つれないなぁ、貰えるモンは貰える時に貰っといた方が得だぜ? ほい、スラスラ〜っと」

 

「勝手に手袋に書かないでください……」

 

 そんなカネキの警戒を他所に、高槻はテーブルに身を乗り出してカネキの右手を無造作に掴むと、手袋の甲にペンを走らせる。弱々しい抗議の声を上げたが、内心ちょっと嬉しかったのは秘密である。

 

 高槻はサインを終えると、ドカッと椅子に座り直した。

 

「ふい〜……ところで、君は自己紹介してくれないのか?」

 

「どうせ知っているんでしょう?」

 

「ああ。だが私は君の口から聞きたいんだよ、青年」

 

 外向きの笑顔を浮かべるカネキに対して、高槻は本心の読めない微笑みを向ける。

 

「金木研です。民警をやっています」

 

「それから?」

 

 彼女が何を促しているのか、何を言わせたいのか。カネキは即座に理解した。

 

「───僕は喰種です」

 

 カネキの表情に笑みはない。しかし、高槻は変わらず笑みを浮かべたままで。

 

「そして、『黒い死神』です」

 

 その言葉に、高槻は満足そうに目を細めた。

 

「奇遇だね。実は私も喰種なんだよ」

 

 動揺は無かった。高槻が接触してきた時点で、カネキは彼女が機械化兵士か喰種の可能性があると予測を立てていたからだ。

 

「そして」

 

 だが。

 

「───私が『梟』だ」

 

 続けられた言葉に、カネキの心臓が一際大きく跳ねた。

 

 ───まさかとは思うが、お前が言ってるのはドイツで暴走した『梟』のことか? アレは裏の人間が喰種の情報を占有するために流した作り話(カバーストーリー)だぞ。

 

 脳裏を過ぎるのは、初めてクロと対峙した日に、彼女から聞かされた言葉。

 

 ───今ごろその『梟』とやらはどこかの組織に雇われて大暴れしてるか、研究材料にされてるかのどちらかだろうな。

 

「そう殺気立つなよ青年。何度も言うが、私は君と話がしたいだけなんだ。だからそろそろ、()()()()()()()()()()()()()

 

「……………」

 

 暫しの逡巡の後、カネキは服の内側で赫子を霧散させると、眦を鋭くしたまま口を開いた。

 

「貴女と、一体何を話すって言うんですか」

 

「単刀直入に言おう。青年、君に手伝って欲しいことがあるんだ。もちろん、今すぐにという訳じゃない。少なくとも、君の考える『最期の仕事』が終わってからの話さ」

 

「……貴女に、僕がこれから何をするかなんて分かるんですか」

 

「分かってしまうんだよ、作家だからねぇ───と、言いたいところだが、情けないことに大筋しか分からない。君が何やらコソコソやってるのは知ってるが、それが君の目的とどう繋がっているのか、()()に至る過程は皆目見当もつかないよ」

 

「……………」

 

「君がその過程を教えてくれれば、それを手伝ってもいい。代わりに私の頼みも聞いてもらうがね」

 

「……貴女も言ってるじゃないですか。『()()の仕事』だって。僕はそこから先のことは考えてない。貴女の頼みを聞く時間なんて残されていません」

 

「それはどうだろうなぁ」

 

 高槻は愉快そうに、嘲るように微笑む。

 

「臆病で、優柔不断。他人のことを考えるフリをして、結局のところ自分のことしか考えていない。君みたいな目をした人間はね、大事なものを散々取りこぼした挙句に最後にはこう言うんだ。"なんでこんな事になってしまったんだ"ってね」

 

 ぐちゃり。ぐちゃり。

 

 高槻は、敢えて弄ぶようにフォークを雑に使ってケーキを小分けにしていく。皿の上に、形の崩れたケーキだったものの塊が、7つ出来上がる。

 

「何かを選んだような気になっているだけでその実、君は何も選んじゃいない。ただ状況に流されているだけだ。君は人を救うことに拘っているようだが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ケーキを完食すると、高槻はコーヒーを飲み干し、椅子から立ち上がる。

 

「近いうちに戦争が起きる。東京エリア全体を巻き込んだ、大きな戦争だ。犠牲は避けられない。『連中』と我々、どちらが勝とうが街は血に染まることになる。だが我々が勝たなければ、この世界は未来永劫、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 スッ、と高槻は自身の名刺をテーブルに出し、カネキの方に寄せる。

 

「ま、詳しく聞きたくなったら連絡するといい。───せいぜい後悔しないようにな、青年」

 

 渡された名刺に目を通し、カネキが再び顔を上げた頃には、すでに高槻の姿はどこにもなかった。

 

「……何を言われても、関係ない。僕にはどの道、()なんて無いんだから」

 

 そう自分に言い聞かせるように呟いて、カネキも席を立った。

 

 

 

 

 




麻山 円(マヤマ マドカ)
・8歳
・Blood type:A
・Size:126cm/21kg
・Gastrea model:モンキー
本名とは別に『魔猿』という通り名(自称)を持つ。年少組からは妙に人気があり、素の性格を知っている同年代や年長組からは微笑ましく見られている。心に重い病気を患っている。

那日 華織(ナビ カオリ)
・10歳
・Blood type:A
・Size:149cm/46kg
・Gastrea model:???
・Like:血と暴力
・Hobby:殺し合いと嫌がらせ
自らの欲求を満たすために東京エリアの治安の悪い地区を、内地や外周区を問わず転々としている。各地区でたまにぼろぼろの幼い呪われた子供たちを拾っては39区に預け、39区には彼女たちの様子を見るために時折訪れている。将監との相性は最悪。里津とは彼女が荒れていた時期からの顔見知り。
華織「すっかり丸くなっちゃってまあw」
里津「殺す」

皐月 栞(サツキ シオリ)
・10歳
・Blood type:A
・Size:136cm/29kg
・Gastrea model:ドラゴンフライ
前髪で隠した左目は因子の影響でトンボの複眼になっている。夢は小説家。誕生日にカネキから原稿用紙と万年筆をプレゼントされる。左眼を理由に親に虐待され捨てられた過去から前髪で片目を隠すようになった。カネキを含めた外周区の住民に彼女の左目に忌避感を抱いている者はいないが、当人は「みんな優しいから口にしないだけで、本当は心の中で気味悪がられてる」と、親しいからこそ信じられない状態に陥っていた。そんな中、延珠や木更たちとの顔合わせの際に「宝石みたいで綺麗」と言われたことで、(まだ左目を晒す勇気は持てないが)少しずつ自身の容姿へのコンプレックスを払拭しつつある。


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