TSワン娘が尻尾を振ってご主人様をお迎えする話 (銀鈴)
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TSワン娘が尻尾を振ってご主人様をお迎えする話
だが私は謝らない。
この世界には、獣人という種が存在している。
地球では空想の存在としてよく見る、獣耳と尻尾の生えているタイプ。全身が毛深い、二足歩行の獣のようなタイプ。そして、鱗を持つリザードマンのような種類も、獣人として分類されている。
そんな世界に、俺はいつのまにか存在していた。
しかも元々男であった筈の記憶を持ったまま、獣耳と尻尾の生えた少女の姿で。犬のようにピンとたった耳、フサフサとした尻尾、髪は肩口まであり、その全てが焦げ茶ではなく黒色だった。
「なんだよ、これ……」
そう呟いた声も、元の自分のものとは程遠い少女のものだ。自分が今いる場所も、元いた自室にあるパソコンの前ではなく、薄汚れた暗い道。液晶の向こうでしか見たことのない、スラム街のような場所だった。
気持ちが悪かった。吐き気がした。頭の中がぐちゃぐちゃで何も考えられなかった。記憶はあるのに名前が思い出せない。自分も親も友人も知人もなにもかも、顔すら黒く塗り潰されたようにして思い出す事が出来ない。それなのに自己の意識だけはしっかりと確立しており、今まで溜め込んでいた知識だけは滞りなく脳内で再生される。
気持ちが悪かった。小説でよく見た主人公たちは、どうしてこんな状況に堪えられたのだろうか。どうしてこんな状況で、自分の知識をひけらかすことが出来たのだろうか。
訳がわからない。頭がおかしいんじゃないか。それともこうなっている俺の頭がおかしいのか。わからないわからないわからないわからない、なにもかもがわからない尽くしで頭が狂いそうだった。
体感で身長が物差し2本分……60cmほど縮んでいる。手足の長さも、見える世界も、聞こえる音も何もかもが元の俺として根底にあるものと違っている。そのせいで、ロクに動くことすらままならなかった。
犬のようなピンと立つ、人としての物に追加されている獣の耳。自分の意思に反して勝手に動く尻尾。大きくは無いが確かな柔らかさをもつ胸。薄くなったと実感できてしまう皮膚に、足下の石畳から不安を煽る冷たさが染み込んでいく。
そうして、長時間こんな場所で蹲って震えていたからだろうか。気がつけば俺は、何か袋を被せられ縛り上げられ、気がつけば真っ暗になり、気を失っていた。
◇
「へへっ、初物だ。悪かねぇぜ」
「ですね、こちらでも確認が取れました。少々幼すぎますが、こういうのを好む好事家もいます。500でどうでしょう」
ぼんやりと意識が浮上していく中、聞こえたのはそんな話し声だった。
「おいおい、冗談言っちゃいけねぇ。この見た目で、初物で、黒の犬だ。きっと将来はえらい別嬪になるぜ? そんなんじゃ足んねぇなぁ」
「ふむ……ならば800でどうでしょう」
そんな話し声を聞いていれば、嫌でも金額の話をしているのだと分かった。恐らく、俺の値段でも決めているのだろう。状況証拠から考えるに、俺は攫われて売られたのだと思われる。
「3000」
「そんなに出せません。1000」
「2800」
「1500」
「2500」
「1800」
「2400」
「はぁ……仕方がありません。2350でどうでしょう」
「商談成立だな」
ぼんやりとして妙にはっきりしない意識のまま、そんな会話を聞き続けた。身体は上手く動かせない、なにか考えようとしてもボーッとしてしまう、それなのに情報だけは耳に入ってくる。微妙に息苦しく真っ暗な中でそんなことが続くのは、拷問に等しかった。
そんな状態がどれくらい続いたのだろうか? 微睡みに揺蕩うような時間は、唐突に終わりを告げた。
突然、視界が明るくなった。
突然の刺激に目を瞑り身体をよじり、暫くしてから見た光景は、自室のPC前でもスラム街のような場所でもなく、鉄格子だった。とはいえTHE・牢屋という場所ではなく、多少質の良い座敷牢とでも言うべき場所。
そこで俺は、スーツのような服を着た眼鏡の人物に見下ろされていた。見知らぬ場所、見知らぬ男、何もできない自分の身体。そんな状況では俺は、怯えて震えることしか出来なかった。
「貴女、名前はありますか?」
そんなこちらの心情を一切気にかけることなく、スーツ姿の男はこちらを見下ろしながら言葉を紡いだ。
名前。名前。名前名前名前名前。名前ってなんだ。俺の名前はなんだ。どんな呼び方をされていたんだ。ぐるぐるぐるぐる頭の中を疑問がループして、助けを求めるように視線を彷徨わせる。
けれどそれで目に入るのは、鉄格子とスーツの男のみ。答えなきゃ、殺されてしまうのではないか。そんな不安が新たに鎌首を擡げた。
「言葉は喋れますか?」
「しゃ、しゃべれ、ます」
「宜しい。では、もう一度聞きます。貴女の名前は?」
「ない、ないです。だから、だからお願いです、殺さないで下さい」
恥も外聞も投げ捨て、精一杯媚びた声で命乞いをする。嫌だ。死にたくない。こんなわけもわからないままわけもわからず殺されたくない。
「勿論です、売り手が商品を殺すなどあり得ません。ですが、名前がありませんか……それは不便ですね」
「えぅ、あ」
「では、貴女はこれからシェーナとでも名乗りなさい。良いですね?」
「はい、わか、わかりました」
恐怖で震える声をどうにか押さえつけつつ、出来る限り丁寧に返事をした。男によると、俺の今の名前はシェーナと言うことになったらしい。
シェーナ。シェーナ。シェーナ。俺の名前。自分の名前。ああ、自分の名前があると言うことはなんて素晴らしいのだろう。これで自分を見失わない。これで自分が自分であると言える。未だ思い通りに動いてくれない自分の身体を抱きしめるようにしつつ、気がつけば涙が溢れていた。
突然泣きだした俺に僅かに眉を顰めた男は、一度大きな咳払いをした。その音が妙に響き、ビクリとして身体を硬直させてしまう。そんな俺に、スーツの男は言葉を続けた。
「先ほどの話し方から察するに、貴女は敬語を使えますね?」
「す、少しだけ、ならば。あまり得意じゃない、ですけど、ダメなところがあれば、これから覚えます、から、」
そうだ、もし売られたのならば自分を売り込まねば。変に反抗して、打たれたりはしたくない。殺されたくない。性処理の道具にされるなんて以ての外だ!
「宜しい。では、他にできることはありますか?」
「け、計算。計算ができます。表も作れます! お金の取り引きだって、単位さえ覚えれば計算できます! でも、文字は、多分読めません」
数学は、自分でもかなり得意な教科だったらしい。四則演算は勿論のこと、確率や図形の大きさ、微分・積分だって少しだけは覚えている。
「なるほど。では9が9つあると?」
これなら、売りになるんじゃないか。自分が生き残る助けになるんじゃないか。そう思ってたところになげけられた質問は、そんなものだった。
「81です」
「12が12では?」
「144です」
「98が123では?」
いきなり飛んだ数に、一瞬だけ頭が白くなった。いやでも、まだこれは四則演算の範囲内だ。震える指で床をなぞり、頭の中で整理しつつ計算する。
「12,054、です」
「全問正解ですか。これは、思わぬ拾い物かもしれませんね」
そう言ってスーツの男は、パンパンと手を叩いた。それに合わせて、扉を開けてメイドの格好をした人物が入ってきた。
「この子を風呂に入れてきて下さい。それから、奴隷としての教育を始めます」
「承知しました」
そうして座敷牢の鍵が開けられ、俺はメイドの格好をした人に風呂に連れて行かれたのだった。
◇
洗われた。耳も身体も尻尾も胸も股も何もかもを、徹底的に洗われた。更に身体を清潔に保つ指導を徹底的にされた。何か1つでも失敗する度に打たれたのだから、嫌でも覚えると言うものだ。
そして、徹底的に知識を仕込まれた。
この世界の一般常識。
この世界の法律。
この世界における人間と獣人の関係。
この世界の貨幣制度。
文字、言語、単位、立ち居振る舞いetc……
その全てに合格を貰えた時には、既に数ヶ月が経過していた。
この世界における獣人は、大体が奴隷という立場になる。しかし奴隷とは言っても、よくある小説のようなものではなかった。
2種類のうち1つが、借金が返しきれなかったり、戸籍が存在しない、身売り等々でなる一時的な専業のワーカーの様なもの。所謂娼婦なども、こちらに分類される。故に当然、最低限の衣食住の提供が法によって定まっている。
次が、重犯罪を犯して奴隷となった者。こちらは、情け容赦なく使い潰される。
俺の場合は、前者に該当していた。ということになっている。人攫いに売られたが、そこそこ磨けば光るものがあったからだろう。
「ではシェーナ。貴女はこれから、とある貴族の家に住み込みで働いてもらうことになります。よろしいですね?」
「はい、謹んで拝命いたします」
そう返事をして、頭を下げる。死ぬ気の努力の結果、俺はどうにか質の良い奴隷として扱われる様になっていた。
けれど、たとえ何ヶ月経っても恐怖は抜けない。
自分の身体が変わったこと
自分の記憶だけがあること
自分の死が身近にあること
その他数えきれないほどの不安が溢れて、夜になると未だに身体が震える。見かけは大丈夫そうに見えても、俺の心はこの世界に来た当日から何1つ変わってなどいなかった。
しかしそれでも、この世界での立場は確立した。だからきっと、大丈夫。へいきへっちゃら、そう自分で自分を騙し続けてきた。
だからこそ、なのだろう。ファンタジー世界の貴族が、どれほど恐ろしいものなのかを忘れてしまっていたのは。
◇
「この会計は書き換えろと言っただろうが!」
殴られた。
「何度言えば分かるのだ、この奴隷が!」
殴られた。
「何なのだこの正確さは! これでは使えんではないか!」
蹴り飛ばされた。
「ええい、貴様がいるだけで不愉快だ!」
地下牢に閉じ込められ、食事が最低限度のものになった。
伽を断った。殴られた。
断った。蹴られた。
断った。鞭を打たれた。
気がつけばたったの2週間で、俺は身も心もボロボロになっていた。けれど、酷く暴力を振るうがその日だけは美味しいご飯が貰えるのだ。酷い時はそれを食べることは出来なかったが、それだけは少しだけ楽しみだった。それに、風呂に入ることも出来るのだ。
そんな生活が続くこと、大体1月ほど経った頃だった。
地下牢の壁に凭れ浅い眠りに浸っていると、地下牢に誰かが入ってくる音がした。足音の重さからして男。ああ、嫌だ。また伽をしろと言われるのだろうか? でも、そうだとしたら少しだけ、ご飯と風呂は楽しみかもしれない。けれど昨日今日と連続なんて珍しい。
そう思い目を開けると、目に入ったのは見慣れた貴族の男ではなかった。
現れたのは、灰色の短髪に同じ色の眼をした青年。腰には片手で持てるサイズの剣を佩き、左手にはバックラー。そして何らかの皮で作られた鎧を着ていた。
冒険者、確かそう呼ばれる職業があった筈だ。知識は財産だ、忘れるわけがない。
「何の用、ですか?」
乾ききった喉で、なんとかそんな言葉を紡いだ。昨日の夜から、水分すら取ってないのだ。これ以上酷使しないで欲しい。
「君が、シェーナでいいのかい?」
「はい、私がシェーナです」
この名前も、久し振りに呼ばれた気がする。あの貴族、俺のことを雌犬とかしか呼ばなかったからなぁ。
そんなことを思い、どうせどうにもならないと諦めていると、キィンという高い音がなった。唐突に訪れたそれに、反射的に人の耳を塞ぎ獣の耳をぺたんと倒し目を瞑る。
続いたガシャンという金属音にもう一度同じ行動を繰り返しつつ、震える身体を抑えつつ目を開けると、そこでは鉄格子が見事に切り崩されていた。そしてそれを乗り越えて、灰髪の冒険者がこちらへ歩いてくる。
「ひっ……」
その剣を剥き出しにしたままの姿に、思わず恐怖が呼び起こされ逃げようとしてしまう。けれどそれは、奴隷の身分を証明する首輪に繋がれた鎖、両手足の動きを制限する鎖がさせてくれなかった。ガチャリという金属音を響かせるだけで、俺には何もさせてくれない。
そのまま無言で灰髪の冒険者がこちらへ近づき、その刃を振り上げた。どうしてこんなことに、そう思いながら縮こまるが……次に響いたのはまたしても金属音。そして次に襲ってきたのは、刃の斬り裂く痛みではなく浮遊感だった。次いで、背中をさする優しい手の動きと人肌の暖かさ。
「大丈夫。僕は君を助けにきたんだ。君に酷いことをした貴族は、身分を剥奪されて重犯罪奴隷になった。君がアイツらに関わることは、もう2度とないよ」
「ほんとうに?」
嘘だろう。どうせ新手の、俺の心を折るための演技だ。金を払って雇った何かだろう。やることが派手だ、なんで俺みたいなロリにそこまでするのか全くわからない死んでしまえ。
心の中でマシンガンのように罵倒を続けるが、どうしてかあまりそういう気分にはなれなかった。
「嘘じゃないよ。だってアレの腕を叩き斬ったのは僕だから。君を売った商会から依頼されたんだ」
「……」
「気づいてあげられなくて、ごめんね」
そんな優しい言葉をかけ続けられて、気がつけば涙が溢れていた。年甲斐もなく声を上げてわんわん泣いて、そんな間この冒険者さんはずっと俺のことを抱きしめてくれていた。
「僕はね、この街で何でも屋みたいなことをしてるんだ」
そして、俺が落ち着いたのを見計らって自分のことを話し始めた。
自分が、お使いから危険な魔物の討伐まで引き受ける何でも屋さんをしていること。
自分はあまり算術が得意ではなく、お金をちょろまかされることも多いということ。
今はそれで色んな人に知ってもらえればいいけれど、いつかそれでは行き詰まるから困っているということ。
そこまで話されたら、俺に何をして欲しいのかということはわかる。
「私で良ければ、お手伝いしましょうか?」
商会から話を聞いているということは、俺がそこら辺の知識を叩き込まれたのを知っているのだろう。でも、そういうことなら信用できる。「可哀想だから助けた」より「打算があって助けた」の方が、圧倒的に信頼できる。
「勿論! 普段はされる側なんだけど……お願いしてもいいかな?」
「ええ、了解しました。ご主人様」
意識が遠くなっていくのを感じながら、最後の意地で俺はそう言葉を口にした。
◇
そこからの日々は、それまでと違って優しさと暖かさに満ち溢れたものだった。
寝る場所は、ちゃんとふかふかしたベッド。
質素だけど温かいご飯。
毎日は無理だけど、いつでも入れるお風呂。
暴力はなく、会計系列の仕事をしていられる。
だから、いつも家を空けているご主人様に変わって、ちょっとお返しとして家事を全部受け持っていたりもする。
偶にお昼寝をして、ご主人様が帰ってきたらお出迎えをするのだ。
そんな平和で、温かくて、幸せな日々。だけど、時たま思うのだ。俺は本当は必要とされていないんじゃないか。俺はただお情けで置いてもらっているだけなんじゃなのか。
自分は、幸せになっちゃいけないのではないのか。そんな恐怖が、時折俺を包み込むのだ。そういう時は、ご主人様にお願いする。
「私を、殴ってくれませんか?」
殴ったり蹴ったり、そんなことをされると、自分はまだ必要とされていると、俺はいつのまにか思うようになってしまっていた。歪みに歪んだ、自分でも気持ち悪いと思える感情だった。
最初はご主人様も渋っていたのだけれど、お願いするとやってくれた。貴族よりもずっと痛いそれと、わざと首輪から残してある鎖の一部が、今の俺とご主人様を繋ぐ拠り所のように思えていた。
そして、そう暴力を振るってもらった翌日ほど、凄く調子が良いのだ。
「さて、今日も一日がんばるぞー!」
鎖の破片を撫でながら、1人で気合いを入れる。今日は朝からご主人様が出かけてしまっているから、やることがたくさんだ。
先ずは家の掃除。毎日やっているから埃こそ少ないが、私は……じゃなかった。俺はこれでも綺麗好きなのだ。それに、ご主人様には綺麗なところで過ごして欲しい。
次に、昨日ご主人様が行った依頼とその代金の帳簿作り。頭に刻み込んだ適正価格と比較して、明らかに低額でご主人様をこき使う奴はギルドに報告する。ギルドというのは、冒険者を多数抱え込んだお役所のような場所。行為不正を証拠と共に突きつけると、よく動いてくれるのだ。
話が逸れてしまったけど、最後にご飯作り。晩御飯の仕込みをしながら、自分用のホットドックのような物を食べていく。それ1つで、この幼い身体のお腹はいっぱいになるのだ。
そして次にやることは、お昼寝だ。ご主人様からのお願いで、「誘ったのは僕だけど働きすぎないで」というものがあるのだ。だから夜だけじゃなく、お昼にもゆっくり睡眠をとる。場所は温かい縁側だったり、ご主人様のベッドだったり、大きめの机に突っ伏してだったりする。そのどこもが、ご主人様の匂いがして安心できるのだ。
・
・
・
僅かに日が傾き、風が少し肌寒くなってきた時間。玄関に向けて歩いてくる音に目を覚ました。重さ、音、間違いなくご主人様だ。
「あふ……」
んーっと伸びをして、まだ眠気の残る頭を振って眠気を飛ばす。そして目を擦って、いつのまにかゆらゆら揺れ始めた尻尾を伴い玄関へと走る。
そして、開けられたドアに向かって元気に言うのだ。
「お帰りなさい! ご主人!」
それが俺の……私の、幸せな今の日常だった。
シェーナ
元男のTS転生者。しかし知識以外地球での記憶はない。
散々な生活を送らされたため、痛みがないと必要とされてないと思うようになってしまった。
9歳くらいの、黒髪黒目のワン娘。「自分は幸せになっちゃいけない」と気持ちを抑えているが、助けてくれた今のご主人様のことが大好き。
灰髪の冒険者(ご主人)
身体能力は抜群な現地人。割とイケメン。15歳くらい。
何でも屋をやっている中、某貴族の暗い噂を聞き商会→ギルド→ギルドからお願いされた一般人と経由して依頼を受け突撃。隠し部屋からシェーナを見つけた。何でも屋は赤字経営だったので、そこそこ優秀だと聞いていたシェーナを保護。そこからはなんとか黒字経営に持ち直している。
シェーナと長く接するうちに実は結構意識し始めているが、商会から身請けしてから考えようとしている。
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TSワン娘が風邪を引いた話
続いたけど続かない
ご主人様に拾われてから数ヶ月。地球で言う秋口に当たる時期のことだった。
「っくしゅ!」
いつも通りお昼寝していた私は、自分のクシャミで目を覚ました。
「んん……ぅ?」
寝惚け眼を擦って外を見れば、既に時間は夕暮れ。つまり、ご主人様が帰ってくる時間だった。そのことを認識するなり、私の目はバッチリ覚めた。だって、大好きなご主人様が帰ってくるから。
そう思って、いつもみたいに立ち上がろうとした時のことだった。
「あ……ぇ?」
ぐらりと、視界が傾いた。何故か、真っ直ぐに立つことができない。ぐわんぐわんと、よくわからない感覚が頭の中をしっちゃかめっちゃかにしていく。そのまま立ち直ることもできず、どさりと私は床に倒れ込んだ。
「けほっ、けほっ」
頭がボーッとする。意識しないのに咳が出る。倒れ込んだ時に首輪から伸びる鎖を巻き込んだのか、右のこめかみからドロリと何かが流れる感じがした。
風邪かぁと、漸く答えに至りながら私は気を失った。
◇
「………ナ!」
だれかがわたしをよんでいる。
「…ェーナ!」
大切な人の声、忘れるはずもない声。頭がハッキリとしてくるにつれて、だんだんと言葉がわかってくる。
「シェーナ!」
「ごしゅ、じん?」
ボンヤリとした頭で、呂律の回らない舌で大切な人を呼ぶ。どうやら私は、ご主人様にお姫様抱っこされてるらしい。えへへ、あったかいしいい匂い……
「良かった……目が覚めた」
「ごしゅじんのまえぇすから」
がっちりとした腕に抱かれたまま、ご主人様の胸板に頬を擦り付ける。なんだか揺れてるけど、そう言えばなんだろう。
「目が覚めたばっかりで悪いけど、誰にやられた!? 凄い熱に汗、もしかして毒でも飲まされたんじゃ……」
「ううん、違いますよ。ごしゅじん」
ポーッと、珍しく焦るご主人様の顔を見ながら言う。
「風邪、引いちゃったみたいです」
「でも、頭から血が出てた!」
「それは……首輪の鎖、巻き込んじゃって」
チャリチャリと首輪を鳴らしながら言った。するとご主人様は足を止めて、ギュッと強く私を抱きしめてくれた。力が強くてちょっと苦しいけど、それが気持ちいい。
「ごしゅじん、私きっと汗臭いですから」
「よかった……本当に、本当に良かった……」
「ごしゅじん?」
ポタリポタリと、何かが肩に落ちてきた。
「僕のせいで、シェーナが狙われたんじゃないかって。ずっと、ここまで心配で……」
「ごしゅじん、こーきょーの場で、恥ずかしいです……」
熱のせいで思考が散漫としてるけど、周りを見ればこちらを見てヒソヒソと何かを言ってるのが多々見られる。私の評判なんてどうでも良いけど、ご主人様の評判が落ちるのは嫌だった。
「とりあえず、このまま薬屋まで行くからな」
「……はい」
抱き締められたままでも良かったんだけど、走りづらかったらしくお姫様抱っこに戻ってしまった。もうちょっと私が大きければ、ご主人様の首に手を回せたのかな……
◇
薬屋さんで獣人用の風邪薬を買って帰った後、時間も時間だったので夜ご飯ということになった。本当は私が作るつもりで準備して氷室で冷やしてた物を、なんとご主人様が料理してくれたのだ。
あんまり喉を通らなかったけど、それでも大切な人が作ってくれたご飯は美味しかった。
「ん、にがぁい」
元々は薬くらい飲めたはずなのに、この漢方薬みたいな薬はどうにもダメだった。飲んだけど、凄く苦くてべーっと舌を出してしまう。
「よく飲めたな。偉いぞ」
そう言って撫でてくれるご主人様の手は気持ちいい。自然と耳がへにゃっとなって、尻尾がユラユラと動いてしまう。
「本当に風邪だったし、早く寝た方が良いと思うけど……」
そこまで言って、ご主人様は言い淀んだ。その目線を追うと、それは私に……正確には、私の着てる汗に濡れた服に向けられていた。確かに、着替えないとダメかもしれない。汗臭いし。
でも、薬を飲みはしたけど頭は痛いしぐわんぐわんとしてて、実は座ってるだけで辛い。それに、私の中の何かが甘えるなら今しかないって言ってる。
だからこそ、私はご主人様に両手を伸ばした。
「着替え、手伝ってくれませんか?」
「僕、男だよ?」
「ご主人だけは、良いです」
好きな人だから、別に良い。それにご主人様なら、私に手を出さないって分かってるから任せられる。
「分かった。部屋から何か取ってくる。それでいい?」
「出来れば、汗拭くのも手伝って欲しいです。届かなくて」
攻めて行けと、自分の中の何かが吠えている。多分野生の本能みたいな何かなんだろうけど、それが本当に有り難かった。
「奴隷としては、失格だって分かってます。でも、お願い出来ません、か?」
「……背中だけ、だからね」
「ありがとうございます」
ジッと見つめ合うこと数秒、やれやれといった様子でご主人様が折れてくれた。それにホッとしつつ、重い身体を椅子の背もたれに預けた。
そして目を瞑って、浅い呼吸を繰り返す。ご主人様の手前、あんまり辛そうな顔はしたくなかったから頑張ってたけど、やっぱり限界が近い。世界がゆらゆらしている。
「取ってきたよー」
「はーい……」
生返事を返しつつ、上下一体になっている服を脱ぎ捨てた。そして肌着だけになって、ご主人様に背中を見せる。
まだかなと待っていると、少し躊躇いがちに肌着をめくって背中を拭いてくれた。
「んっ……」
自分以外に自分の背中を触られてるって、なんだか不思議な感じがして変な声が出てしまった。
「はい、前と下は自分でやってね。着替えは、ここに置いておくから」
返事をして、着替えとタオルを受け取った。同時にご主人が部屋から出て行く気配がして、どこか残念に思ってしまう。ちょっとムッとしながら体を拭いて、ちゃんと着替えてからご主人様を呼んだ。
「それじゃ、もう寝ようか」
コクリと頷きながら、私は手を引かれて歩いて行く。フラフラとした足取りで何も考えずに歩いて、辿り着いたのは私の部屋……じゃなくて、ご主人様の部屋だった。
「あの、ご主人……?」
「僕が小さな頃病気になった時、1人になると怖くて寂しかったから。余計なお世話だったかな?」
「いえ、嬉しいです……!」
一緒に寝れる。甘えられる。普段なら絶対に考え付かないことだったけど、熱で呆けた頭にはそれがとてつもない明暗に思えた。ちょっと汗の臭いがするけど、仕方がないと割り切ってご主人と一緒にベッドに入った。
「あぅ」
最近黒字になって来たばっかりの家だし、ベッドはそんなに広いわけじゃない。だから必然的に私は尻尾を前に待って来ないとだし、ご主人とすぐ隣に密着することになる。目と目が合う、息が触れ合うそんな距離で、ドキドキしない方が無理って話だ。
譲ってくれた枕からも、布団からも、隣からもご主人様の匂いがして風邪以外の理由で頭がぽわぽわしてくる。
「♪〜」
そうしてモジモジとしてると、ご主人がポンポンと私の背中を叩きながら、優しい感じの歌を歌ってくれた。
「僕のお母さんが、歌ってくれた子守唄なんだ」
そう優しく語りかけてくれるけど、もう私は半分くらい夢の世界へ旅立っていた。だから返事もできず、意識が落ちていくのに任せるしかできない。それでも、悲しそうだけど優しい表情のご主人様は見えた。
早く治して、助けてあげないと。
そんなことを考えつつ、普段感じることのない安心感に包まれて、私は夢の世界へと旅立っていった。
シェーナ
元男のTS転生者。しかし知識以外地球での記憶はない。
9歳くらいの、黒髪黒目のワン娘。
助けてくれたご主人にだけは心を開いている。今回は風邪を引いてるため、転生者ではなく年相応の子供としての側面と、野生の本能が強く表に出ている。
風邪は翌日治った。
灰髪の冒険者(ご主人)
身体能力は抜群な現地人。割とイケメン。15歳くらい。
結構意識している相手が、あまりにも無防備に、自分を頼ってくれているせいでかなり気まずかった。
それでも、病気の相手と耐えて子守唄まで歌ってくれた優しい人。
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