異世界から戻った俺は銀髪巫女になっていた (瀬戸こうへい)
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第一章 日常への帰還
◇俺が彼女になった訳


 俺の名前は如月幾人、ごく普通の男子高校生……だった。

 過去形なのは、事情がある。

 それは、入学して間もない高校一年生の春に行われた修学旅行で起こった事故がきっかけだった。

 夜行のフェリーでひとり展望デッキに出て夜風に当たっていた俺は、うっかり柵を乗り越えて海に落ちてしまう。

 夜の海はただひたすらに暗く冷たくて――迫りくる死に対して抗うすべもなく俺は気を失った。

 

 俺が意識を取り戻したのは見知らぬ神殿で。

 

「勇者様、わたし達をお救いください」

 

 状況がまるで分らない俺に声を掛けてきたのは、ゲームに出てくる司祭のような白い衣装を纏った少女だった。

 透き通るような銀髪で幻想的な雰囲気を持つその少女は、おもむろに両膝をつき俺の前にかしずいた。

 

「わたしはアリシア、精霊神ミンスティア様にお仕えする巫女でございます」

 

 その少女――アリシア曰く、溺れて生死の境をさまよっていた俺は、彼女によって異世界に召喚されたらしい。そして、俺が召喚されたこの世界は魔王によって人類滅亡の危機に晒されているとのことだった。

 

 アリシアは俺に魔王の討伐を依頼してきた。報酬は元の世界に帰還させてもらうこと。

 召喚されていなければ溺れ死ぬ以外に選択肢の無かった俺はこの取引を受け入れることにした。

 この世界の人類が持っていない力を俺はもっていた。

 

 ――そして、アリシアと共に旅に出て一年程が経った。

 

 さまざまな苦難の旅を乗り越えて魔王城に辿り着いた俺達は、激戦の末ついに魔王を打ち倒したのだった。

 だが、魔王の最期の反撃によって、俺の腹には馬鹿でかい穴が開いてしまう――相討ちだった。

 

 泣きながら回復魔法を掛けようとするアリシアを俺は止めた。

 回復魔法は万能ではない。

 俺がもう手遅れなのは明らかだった。

 

 無念に思う気持ちはある。

 家族や友人達を置き去りにしてしまう。

 せめて、一言謝りたかった。

 それから――

 

「ごめんなさい、イクトさん。わたしが、わたしのせいで……」

 

 俺の手を両手で掴み抱きながら、目から涙をあふれさせている少女に、謝る必要なんてないんだと伝えたかった。

 だけど、口から出てくるのは乾いた空気だけで、意味のある言葉にならない。

 

「イクトさんはわたしとの約束を守ってくれました……だから、今度はわたしの番です」

 

 暗転していく視界の中に、見たこともない呪文を詠唱するアリシアの姿があった。

 

「必ずあなたを元の世界に帰します。そのためならわたしは……」

 

 アリシアの顔が手の届く距離にある。

 彼女の顔が迫ってきて視界が彼女で一杯になり、柔らかな感触が、唇に、触れた。

 

『……ああ、やっぱりこの娘はかわいいなぁ』

 

 それが、この世界で俺が最期に思ったこと。

 

   ※ ※ ※

 

『――――イ――さ――イク――さん――イクトさん!』

 

 声がする。ここ一年ですっかり耳に馴染んだ声。

 朝が弱い俺は、魔王を倒すための旅の中、度々アリシアにこんなふうに起こされていた。

 自分の名前を呼ぶ彼女の声が心地よくて、わざと微睡(まどろ)んでいるときがあることをアリシアが知ったら怒るだろうか?

 

『イクトさん、起きてください!』

 

「わかったよ、アリシア……」

 

 応えた自分の声に違和感を覚える。

 身体を動かすと節々が痛んだ。

 

 ここ一年で、大分野宿にもなれたつもりだったけど、昨晩はへんな所で寝たんだっけ?

 

 昨日のことを思い出そうと記憶を探る。

 

 ――そして次の瞬間、俺は全てを思い出した。

 

「魔王は!?」

 

 慌てて飛び起きた俺は、周囲を確認する。

 俺が居る場所は砂浜のようで、目の前には海が広がっていた。周りには魔王どころか人や魔物の姿も一切ない。

 

『イクトさん、よかった……』

 

 ()()()でアリシアの声がした。

 慌てて周囲を見回すがやはり誰も居ない。

 

「アリシア……?」

 

 再び違和感。

 俺の声はこんなに高かったか?

 それに……

 

 顔を下げて自分の手を見る。

 それは、一年間剣を握り続けたことで節だらけになった俺の手ではなくて、華奢で白い小さな手。

 頭に纏わりつく重さを感じて手をやると、あるはずのない大量の髪が手に触れた。

 繊細な手触りのそれをひと摘みして、俺は目の前にかざす。

 

 透き通るような銀色の髪の毛。

 それは、まるで彼女のような――

 

『落ち着いて聞いてください。イクトさんの魂はわたしの体の中にあります』

 

「ええと……? アリシア何を言って……」

 

 口から出た声音は俺のものではなく。

 

『他に手段がありませんでした。イクトさんを救うには、世界転移の際に発じる歪を利用して、魂をわたしの体に移すしか……』

 

 あまりにも衝撃的な事実を告げられて、俺はただ呆然とアリシアの言葉を聞くしかできなかった。

 

『……ごめんなさい』

 

 アリシアの謝罪の言葉で、俺はようやく我を取り戻す。

 

「こっちこそごめん……びっくりしすぎて、ぼーっとしてた」

 

 兎にも角にもお礼を言わないと。

 

「ありがとうアリシア。死にかけていた俺を助けてくれて」

 

『すみません。こんな方法でしかイクトさんを助けることができませんでした……』

 

「謝らないでアリシア……ええと、ちなみに元に戻る方法は?」

 

『ありません。イクトさんの元の体は既に生命活動を停止していました。たとえ傷を塞ぐことができたとしても、魂をその体に戻す方法もありません……それに、イクトさんの体が残された魔王城は、世界を隔ててしまいました』

 

「それって――」

 

 俺は改めて周囲を見回した。

 

 人や魔物の気配は無い。

 海に見えるのは釣船に内航船。背後には護岸コンクリート。浜辺には見慣れたスナック菓子の空袋やビニール袋などのゴミが打ち上げられている。

 どうみても、ここは日本の浜辺だった。

 それに俺はこの場所に見覚えがある。

 自宅から歩いて一時間程の距離にある海水浴場だ。

 まだ少し風が冷たい……異世界と時間の流れが一緒なら、経過したのは大体1年で季節は春頃のはずだ。

 

「俺は帰ってきたのか……」

 

 生きて日本に帰る。

 それは、この1年間がひたすら求めつづけてきた願いだった。それがいつの間にか果たされていたと知って、なんとも拍子抜けした気分になってしまう。

 そもそも、魔王との決戦が終わった実感もまだないのだ。

 

『ごめんなさい。イクトさんとの約束をこんな風にしか果たせなくて……』

 

「だから、謝らないでってば……それより、アリシアは元に戻れるの?」

 

『……少し強引に魂を移しました。だから、この体からわたしの魂だけ取り出すのは不可能です』

 

「そんな!? それじゃあアリシアは一生こんな状態ってこと? なんでそんなこと……」

 

『イクトさんを無事に日本に帰すことは、わたしの誓いです。イクトさんは魔王を打ち倒すというわたしとの誓いを果たしてくれました。だからわたしも誓いを果たしたのです』

 

「だからって……」

 

 アリシアは異世界の神に仕える巫女として、生まれて16年間ずっと神殿で育てられてきた。

 異世界から来た勇者と共に旅に立ち魔王を打ち倒すという使命を与えられて、それを果たすために幼い頃から修行に明け暮れる日々を過ごしてきたというアリシア。

 戦いが終わって使命がなくなったら、やってみたいこともあると言っていた。それなのに……

 

『わたしのことはいいんです。それよりも、これからどうするか決めませんか? わたしにイクトさんの世界のことを教えて下さい』

 

 いまだに納得はできていないが、アリシアの言うことはもっともだった。彼女とはもっと落ち着いてから、ゆっくり話せばいいだろう。

 

「……とりあえず、俺の家に行こう。ここから一時間くらい歩いたところにあるから」

 

『わかりました!』

 

 この姿で家族に俺が幾人だと信じてもらえるか不安はある。

 俺はクラスでも一番身長が高い男子高校生だった。それが、今は小学生と言われても通じるような小柄な銀髪の少女であるアリシアの姿になっているのだ。

 アリシアは異世界で俺と同じ生年月日に生まれたらしいのだが、とうてい同い年には見えないほどに幼い。「巫女のわたしは神様との契約で体の成長が止まっているのです」と本人は言っていたが、本当かどうかはわからない。

 

「……まあ、なんとかなるか」

 

 家族として積み上げてきた年月は伊達じゃない。

 俺しか知らない家族との思い出なんていくらでもある。他の人にどう説明をするのかとか、戸籍をどうするのかとか、一瞬頭の中に思い浮かんだが、とりあえずは考えないことにした。

 

「みんな元気にしてるかな……?」

 

 まずは、家族に会いたい。

 俺は脳裏に両親と妹の顔を想い浮かべる。

 

 そして、俺は帰るべき我が家へ向けて歩き始めた。

 ――約一年にも渡る異世界への旅を終えて。

 

 

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◇はじめての…

 車通りが多く歩行者の少ない郊外の幹線道路を、俺は自宅に向けて歩く。

 アリシアの着ていたワンピースタイプの法衣は下半身がスースーしてとても心もとない。

 

 初めて車を目撃したアリシアは、魔獣かなにかと勘違いして警戒していたが、こちらで普通に使われる馬車のような乗り物だと説明すると感心した声を漏らしていた。

 

 それにしても、茂みから突然魔獣に襲われたりとか、物陰から野盗に狙われたりとか警戒しなくてすむのはとても気が楽だった。異世界を経験して実感する、治安の良い日本の素晴らしさ。

 

『……ところでイクトさん』

 

『どうした、アリシア?』

 

 俺は道中、声に出さずに頭の中でアリシアに話しかける方法を習得していた。

 アリシアにこの世界のことを説明しながら歩いていたら、すれ違う人にすごく奇異な視線で見られたのがきっかけで、なんとかならないか試行錯誤した結果である。

 独り言を呟きながら歩く危ない人扱いされて通報されるところだった。

 

 ――ただでさえ非常に目立ってしまっているのに。

 

『その……さっきから道行く人が皆イクトさんを見ているようなのですが……』

 

『こっちではアリシアの髪色は珍しいし、巫女の法衣も珍しいからね』

 

 アリシアから指摘されるまでもなく気づいていた問題だ。

 まあ、こればかりはいかんともしがたい。

 

「……視線が痛い」

 

 道行く人はほとんど全員が足を止めて俺を見る。

 なにせ、今の俺はどうみても日本人には見えない銀髪ロリ美少女。しかも、格好は装飾が入った白い法衣に身長ほどある世界樹の杖だ。気合いの入りまくったゲームキャラのコスプレにしか見えないだろう。

 

 そんな俺が、地方都市の郊外に突然に現れたのだ。何かのイベントか映画の撮影か訝しげに思わない方が不思議なくらいだ。

 何人か興味本位で話しかけてくる人はいたが、黙って首をかしげて日本語が通じない風を装うと諦めてくれたので実害はない。

 

 後は通報されないことを祈るばかりである。俺は身分を証明できるものなんて何も持っていないのだ。

 

『あの……イクトさん……』

 

 だが、そんなことよりも、差し迫った問題がひとつあった。

 感覚を共有しているらしいアリシアが戸惑いがちに声を掛けてくる。

 

『……ああ、わかってる』

 

 ――おしっこがしたい。

 

 ただそれだけのことなのだが、今の俺にとっては高すぎるハードルを乗り越える必要があった。

 

 身体が伝えてくる感覚には、もうあまり余裕がない。

 俺は覚悟を決めて道の向こうに見えるコンビニの入り口のドアをくぐった。

 

「いらっしゃいま……」

 

 店員が入店した俺にマニュアル通りに挨拶しようとして言葉を失っていた。

 ……というか店全体が凍りついているような気がする。

 俺はいたたまれない気持ちになりながら、すました顔でまっすぐにトイレに向かった。

 

「……ふぅ」

 

 思わずため息が出る。

 個室に入り周囲の視線から解放されて、俺はようやく一息つくことができた。

 ほっと、身体を弛緩させた瞬間――最大級の波が下腹部に押し寄せてきた。俺は身体を引き攣らせる。

 

「ひ、ひゃぁ!!?」

 

『だ……だめぇ……』

 

 身体の奥から漏れ出ようとするそれを、慌てて両手で下腹部を押さえて留める。

 手放した世界樹の杖が個室の床に倒れて軽い音を立てた。

 そのまま涙目になりながら歯を食いしばって耐える。

 力を入れる場所が違っていて、いつもと勝手が違う感覚に戸惑いを禁じ得ない。

 ……先走りが数滴溢れて、下着が生温かく濡れていくのがわかる。だけど、なんとか本流の決壊は抑えることができた。

 

『イクトさんっ……早くっ!』

 

 もはや猶予がないのは明白だった。

 

 ――だけど、どうすればいいんだ!?

 

『アリシア、代わってしてもらうのはやっぱりダメなのか……?』

 

『無理です、その体はイクトさんの物なんです。わたしは意識を共有しているだけで、体を動かすことはできません!』

 

『そんな……でも、アリシアはそれでいいの?』

 

『いいも悪いもないです! 今はもうイクトさんの体なんですから……それよりも早くっ!?』

 

 もう、悠長に話し合っている余裕は無い。

 

『アリシアごめんっ……!』

 

 俺は覚悟を決めて法衣を捲り上げた。

 法衣の下は白のニーソックスにガーターベルト、そして、股間の部分が少し染みになってしまっている白い紐のパンツ。アリシアの白い肌と合わせて全部まっしろといった印象で、正直、年齢=彼女居ない歴の俺には刺激の強すぎる眺めだった。

 

『これ、どうすれば脱げるんだ!?』

 

『下着の両サイドの紐を引いてくださいっ!』

 

『わ、わかった!』

 

 アリシアの助言にしたがって、俺は腰を手でまさぐって紐の結び目を探す。それはすぐに見つかって、俺はなんとか左右の紐をほどいて下着を外すことができた。

 一瞬真っ白や肌の色が目にはいるが、それどころでは無い。

 俺は法衣を捲り上げて便器に腰を下ろした。

 

 身体に入っていた力を抜くだけで、溜まっていたものが排出されていくのが解る。水音が個室に響いて、俺は開放感と安堵で身体を弛緩させ、大きく息を吐いた。

 

 俺の手には先程解いた紐のパンツが握られている。その股間にあたる部分は楕円形に染みが出来てしまっていて、見てはいけないものを見てしまったかのような、何とも言えない背徳感が込み上げてくる。

 

 これからどうなっちゃうんだろう、俺……

 

 おしっこが終わって、トイレから出るのもまた一苦労だった。

 筒が無い分、体から排出された液体で太ももまで濡れてしまっていた。

 女性は用を足した後は拭いて綺麗にしなければいけないというのは知っていたが、実際に自分がそこに触れるというのはとても恐れ多い行為だった。

 

『……そ、その、奇麗にしてもらっていいですか?』

 

 なんとか冷静に振る舞おうとしているアリシアに促されて、俺はトイレットペーパーを重ねて手に取ってそこに触れた。

 

「――ひゃぃ!」

 

 電気が流れたかのような感覚に思わず変な声が出た。

 俺はひたすら意識しないように、汚れた箇所を拭き取ることに専念する。

 

 ようやく一息ついたのも束の間、次は少し濡れてしまったアリシアのパンツを乾かさなければいけなかった。アリシアのそこに直接触れていた部分を拭き上げるという行為はとても背徳的で、俺はただ無心でトイレットペーパーを動かすのだった。

 

 それが終わっても、今度はほどいたパンツの紐を上手く結び直すことができなくて四苦八苦させられた。

 

 ――何とか全てを終えて個室から出た俺は、精神的に消耗しきってしまっていた。

 

 洗面台で手を洗って、俺はそのまま逃げるようにコンビニから出て行く。

 個人的にはトイレだけ利用して何も買わずに出て行くというのは多少気が引ける行為なのだが、なにせ今の俺は無一文なのでどうしようもない。

 

「あ、ありがとござっしたー」

 

 店員の声を背に受けてコンビニから退店する。

 日差しが眩しく感じる……気を取り直して家路を急ごう。

 

 ……早く人の視線がないところに行きたい。

 

 

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帰宅

 我が家は市街地から少し離れた住宅街にある分譲地に建つ築10年の一戸建てだ。俺が小学一年生の頃新築された我が家にテンションがあがりまくりだったのを今も懐かしく思い出せる。

 間取りは4LDKで、一階はリビングと客間、二階は両親の部屋と妹の部屋、そして俺の部屋となっている。

 この家に住んでいるのは父親の幾男、母親の優希子、ひとつ下の妹の優奈、それから俺の四人だった。俺は異世界に行ってしまっていたので、現状は三人暮らしのはずだ。

 もっとも、父親は仕事で海外を飛び回っていて家に居ないことの方が多かったが。

 

 一年ぶりに見る我が家は、ほとんど俺の記憶のままだった。

 目につく違いとしてはブロック塀に貼られた色褪せた探し人の張り紙があった。張り紙には俺の名前と写真に特徴、それから母さんの携帯番号が記載されている。これだけでも随分と家族に心配を掛けさせたことがわかって胸が痛んだ。

 そしてもう一つ変わっていたのがこのインターホンで、モニター付きの物になっていた。俺はインターホンの呼び出しボタンを押す。

 ……誰か居るといいんだけど。

 

「……はい、どなたですか?」

 

 応対に出たのは妹の優奈だった。

 その声は随分訝しげだった。

 俺の今の姿なら致し方ない。居留守されなかっただけましだと思うべきだろう。

 

「私はあなたのお兄さんの行方を知っています。お話しさせてもらえませんか?」

 

「……宗教なら間に合ってます」

 

 案の定警戒されまくりだった。不幸のあった家に宗教の勧誘が来るという話は聞いたことがある。こういう話も多いんだろう。

 ……仕方ない、奥の手を使おう。 

 

「あなたのお兄さんから面白い話を聞いたのですが……小学六年生の夏の夜、突然の雷で眠れないあなたはお兄さんの部屋を訪れました。そして鳴り響く雷でトイレに行くことができなかったあなたは……」

 

 俺しか知らない妹最大の黒歴史を語ると、インターホンの向こうで声が震える気配がした。

 

「ちょ!? ちょっと待ってなさい!」

 

 どたばたという音が家の中から聞こえてきて勢い良く玄関ドアが開いた。中から出てきたのは俺の通っていた高校の制服を着た優奈だった。

 

「……とりあえず、中に入って」

 

 通されたのは一階のリビング。玄関の靴を見るに両親は不在のようだ。見知らぬ人を家族のいない家にあげるなんて無用心だぞ妹よ、と思ったけれど、今の俺の姿なら警戒が弛んでしまうのも仕方ないか。

 

『ここがイクトさんのお家なんですね』

 

 アリシアの声が久しぶりに聞こえてくる。ちなみに、先ほどのトイレの後からお互い気まずくて無言だった。

 

 それにしても懐かしい……

 居間の配置は去年俺が出て行った頃とほとんど変わっていない……俺の視界が低くなったことが、一番感じる違和感と言ってもいいくらいに。

 

『ああ。そして目の前のが妹の優奈』

 

 俺が最後にあったときは中学三年生でやや幼い印象のあった優奈はすっかり垢抜けた女子高生になっていてた。

 肩までの黒髪だった髪型は、腰のあたりまで伸びて少し明るめの茶色になっていた。

 女子の平均くらいだった身長も10cm近く伸びていて、制服のスカートから伸びる足はすらっと長くしなやかだった。

 体の成長に合わせて出るところも出ているようで、我が妹ながらスタイルが良い。

 

『この人がユウナさんですか。彼女はわたしより年下なんですよね……』

 

 対して一歳年上であるはずの(アリシア)は小学生でも通じるような完全な幼児体型なので、思うところがあるのだろう。

 

『……アリシアもそのうち大きくなるさ』

 

『イクトさん。言っておきますけど、全くもって他人事じゃないですからね?』

 

 俺は優奈に促されてダイニングテーブルに座る。座面が高くてジャンプしないと座れなかった。足が床に全くつかなくてぶらぶらしてしまうのが落ち着かない。

 

 優奈はダイニングテーブルを挟んで俺の向かいに座って、コスプレめいた格好をした俺の姿を胡散臭そうに観察していた。

 

「……それで、あなたは何を知っているのかしら」

 

「まだ小学生だったんだし、雷が怖くてお漏らしちゃったのは気にしなくていいと思うよ?」

 

「なんでそのことを……!? お兄ちゃん、誰にも話さないって約束してくれてたのに……!」

 

 ……すごい表情をしているぞ、妹よ。

 

「誰かに話したらお兄ちゃんを殺してあたしも自殺するからって言ってたの、お兄ちゃんは忘れちゃったのかなぁ……ねぇ? 君、お兄ちゃんが何処にいるか知ってるって言ったよね……」

 

 そろそろ誤解を解かないとまずそうだ。

 というか、君は兄の行方を聞いて何をする気ですかね!?

 

「誤解があるようだけど、君のお兄さんは秘密を漏らしたりなんてしてないよ」

 

「……え? だったらなんで……?」

 

「だって、俺が幾人だし」

 

俺の言葉に優奈が固まる。

 

「……いやいやいや、おかしいでしょそれは。君のどこをどうみたらお兄ちゃんになるのよ。きょうび、オレオレ詐欺でももっとましな嘘をつくわよ」

 

 まあそうなるよな。

 逆の立場なら俺も同じように思うだろう。

 

「だったら、お前の兄しか知らないことを聞いてみるといいさ。それなら、信じられるだろ?」

 

「……わかった。お兄ちゃんの好きな食べ物は?」

 

「ハンバーグ」

 

「じゃあ……」

 

 それから矢継ぎ早に質問が飛び出てきて、俺はそれに答えていく。中には俺が知るはずもない引っ掛け問題も混ぜられていて、我が妹の執拗さに嘆息した。妹のスリーサイズなんて知らんよ、俺は。

 

「……中学の卒業旅行は誰と何処に行った?」

 

「蒼太と翡翠とお前の四人で蒼太達の親戚がやっている温泉旅館に一泊二日。本当は俺達三人で行く計画だったのに、仲間はずれはズルいってお前が泣き喚くから仕方なく四人で行くことになったんだよな……お前は卒業と関係ないのに」

 

「……泣き喚いてなんかないもん」

 

「まあ、いいけどな。みんなで行けたのは楽しかったし。あれ以降みんなで一緒に何かしたりする機会なんてなかったからなぁ……」

 

 そして、高校に入ってすぐにあった修学旅行で、俺は異世界に召喚されてしまった。

 

「本当にお兄ちゃん……なの?」

 

「ああ」

 

「一年も何をしていたの? 父さんも、母さんも、あたしも、みんな、とっても心配したんだよ。それに、なんでそんな姿になっちゃってるの……?」

 

「話すと長くなる。それに普通じゃ信じられない話になると思うけどいいか?」

 

「うん……全部聞かせて」

 

 それから、俺は修学旅行でフェリーから落ちた後のことを説明した。

 異世界のこと、そして俺とアリシアのこと。

 

「そっか……じゃあ、やっぱり本当にお兄ちゃんなんだ……」

 

「……信じてくれるのか?」

 

「目の前に実物がいる以上信じざるを得ないってところかなぁ……話し方や何かするときの癖とか完全にお兄ちゃんだし」

 

 冷静に振り返ると我ながら荒唐無稽な話だと思う。

 ……優奈をファンタジーや転生物の漫画やアニメに染めておいて良かった。

 

「何はともあれ……おかえりなさい、お兄ちゃん」

 

 いつの間にか優奈の目には涙が浮かんでいた。

 その視線にいつも兄である俺に向けられていた親しみを感じられて、俺はやっと自分の家に帰ってきたという実感を得ることができた。

 

「……おう、ただいま優奈」



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◇妹と俺(アリシア)

「お兄ちゃんはアリシアさんって人と体を共有しているんだよね」

 

「そうだけど、どうした?」

 

「今さらだけどちゃんと挨拶しておこうと思っただけ……あたしはお兄ちゃんの妹の優奈です。アリシアさん、お兄ちゃんを助けてくれてありがとうございました」

 

『アリシアです。イクトさんには大変お世話になりました。こちらこそよろしくお願いいたします』

 

 そう言ったアリシアの声は、当たり前だが優奈には聞こえない。

 だから俺は、椅子から降りて優奈に向き直り、出来るだけアリシアの口調を真似て彼女が言った台詞をそのまま口にした。

 さらに調子に乗っていつも彼女がしていたように法衣の裾を摘まんで軽く一礼してみる。

 思いのほか上手にできた気がする……体が仕草を覚えてるからだろうか?

 

「えっ、今のって……アリシアさん?」

 

「いや、アリシアの声は俺にしか聞こえないみたいだから、言ってたことを代わりに発言してみた」

 

「えっ……天使?」

 

 妹がバグった。

 

「やだ、どうしよう……よく見たらお兄ちゃん、めちゃくちゃかわいい!」

 

 そう言ってひとり身悶える優奈。

 ……そういえばこいつ、かわいいものに目がなかったっけ。

 

「ねぇ、アリシアさん!」

 

『は、はい、なんでしょう?』

 

「ちょっとだけ、ぎゅってしてもいいですか?」

 

「却下だ」

 

「お兄ちゃんには聞いてない。アリシアさんはなんて言ってるの?」

 

『わ、わたしはべつに……』

 

「困ります、だと。少し自重しろ」

 

「そんなぁ……」

 

 大袈裟に落ち込む優奈。

 

「……じゃあ、お兄ちゃんになら抱きついていい?」

 

「変わってないだろ、それ」

 

「違うもん、ただの兄妹間のスキンシップだもん。お兄ちゃんは冷たいね……一年間ずっと寂しい思いをしてきた妹が、兄を慕ってふれあいを求めているというのに無下にするなんて……」

 

 そこをつかれると弱い。

 

『アリシアいいかな……?』

 

『は、はいっ、わたしは大丈夫です』

 

「……わかったよ。好きにしていい」

 

「ホント! やったぁ、お兄ちゃん大好き!」

 

 椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった優奈はそのままの勢いで俺に抱きついてくる。

 

「や、柔らかい……それに、すべすべぇ……」

 

『……なんかごめんな』

 

 優奈にされるがままにもみくちゃにされながら俺は現実逃避気味にアリシアに謝る。

 

『いえ、こういう風な反応をされるのは初めてなので、とても新鮮に思います……それに、嬉しいんです。ユウナさんがわたしのことを受け入れてくれて』

 

『……アリシアはいい子だからな。俺の両親もすぐに気に入るさ』

 

 優奈が満足して(アリシア)を手放すまで、10分以上掛かった。

 

   ※ ※ ※

 

「それで、この後はどうする? お父さんとお母さんに知らせて帰ってきてもらう?」

 

「母さんには仕事が終わって帰ってきてからゆっくり話したいな……この姿だし、中途半端に知らせて混乱させたくない。父さんもどうせ海外だろ? なら、まずは母さんに相談してからかな」

 

「そう、だね。あたしもそれがいいと思う」

 

「それに、いろいろ疲れたからちょっと休みたい。服も着替えたいし」

 

「それじゃあ、お風呂にする?」

 

 お風呂は異世界で恋しかったもののトップ3に入る。異世界でゆっくりお湯に浸かったのは、炎竜の谷にあった天然の硫黄泉で入ったっきりくらいで、まともなお風呂は随分とご無沙汰だった。

 

「ああ、お風呂か。いいねぇ……」

 

 だから自然とそう言葉が出た。

 

「それじゃあお湯入れてくるね……あと、準備もしないと」

 

 何故か張り切って風呂の準備をしようとする妹に、俺は今さらになって今の体でお風呂に入るという意味に気がついて悶絶していた。

 

『お家にお風呂があるなんてすごいですね。楽しみです♪』

 

 と、ご機嫌上々なアリシアに今さら前言を撤回するのは気が引ける。

 それに、遅かれ早かれ避けられないことである以上どこかで覚悟を決める必要があるのだ。

 ……たけど、その前にアリシアに確かめておきたい。

 

『アリシアは俺に裸を見られるの嫌じゃないの?』

 

 少しだけ間があってアリシアは反応する。

 

『イクトさんが自分の姿を見ることに好き嫌いもないです。そりゃ、元々はわたしの体ですから、全く恥ずかしくないと言えば嘘になりますけど……』

 

 うーん、俺の体かぁ……

 いまだに実感は湧かないけれど、いつまでもそう言ってられないのは理解できる。

 

『それに、見られるのがイクトさんだから大丈夫なんです。わたし、そもそもイクトさんになら、わたしの体だった頃でも、その……嫌じゃなかった、です、し……』

 

 アリシアの言葉に俺は頭に血がのぼるのを感じた。

 ……多分今の(アリシア)は頬が真っ赤になっているのだろう。

 

 彼女の気遣いもあって俺はようやく、お風呂に入る覚悟が決まった。

 

 

 

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◇産まれたままの姿で

 お風呂の前に俺は着替えを取りに二階の自分の部屋に行くことにした。

 階段を上がって廊下の突き当りにあるドアを開ける。

 一年前、修学旅行に出かける前から全く変わらない光景がそこにはあった。

 

 この空間にいると、この一年間が全部夢だったんじゃないかと錯覚してしまいそうで――目眩がした。

 

『ここがイクトさんのお部屋ですか。綺麗にされているのですね』

 

 アリシアの、のんびりとした声で俺は現実に引き戻される。

 ……この一年は夢なんかじゃない。

 

「旅行に出る前に片付けたからな。それに、優奈や母さんが時々掃除してくれているみたいだし」

 

 そう言いながら、俺はベッドに倒れこんだ。

 程よいスプリングの弾力が体を受け止めてくれる。

 異世界のベッドはスプリングが無くて、同じようにベッドに倒れこんで体を痛めたのを思い出す。

 

『ふぁ、なんですかこのベッド、すごく柔らかいです! ……ふかふかです!』

 

 布団はひなたの匂いがして、時々干してくれていたことがわかる。

 一年近く行方不明だった息子の布団を干しているとき母さんは、どんなことを思っていたのだろう……ふと、そんなことを考えてしまって、目元がうるっときてしまった。

 ……親孝行しよう。

 

 そのままベッドでごろごろしてると、優奈がお風呂のお湯が入ったことを告げに来た。

 

 俺は箪笥から着替えを取り出した。ある程度サイズに融通がきくであろうTシャツとジャージ、それから下着はボクサーブリーフを出してみた。ゴムが結構しっかりしてるので、なんとかなるだろう……多分。

 

 階段を降りて洗面所に向かう。

 洗面所のドアを開けると直ぐにアリシアから驚きの声がする。

 

『すごく大きい姿見(すがたみ)! それに綺麗!』

 

 うちの洗面所は壁の一面が鏡台になっている。洗面所の圧迫感が減るうえに、二人並んで使っても余裕があるサイズで我が家の自慢のスペースだ。

 朝、鏡の前で女性陣がにらめっこしていても、朝の支度ができる重宝している造りだった。

 アリシアも気に入ったらしい。そういえば、異世界で見た鏡は大分質の悪いものだった気がする。あまり身だしなみに気を使うこともなかったので、気にはしていなかったが。

 

 着替えを置いて、改めて鏡に写る自分(アリシア)の姿をまじまじと見る。

 子供料金で疑われることのないであろうその姿。

 だからこそ、これから彼女を脱がせて全裸にするという自分の行為に戸惑いと背徳感を覚えざるを得ない。

 自分の体と言われて一時は納得したものの、こうやっていざ脱ぐとなると決意が揺らぐ。

 

『……脱がないんですか?』

 

 そんな躊躇いに気がついたのか、急かすようにアリシアが言う。

 

『……脱ぐよ』

 

 俺は鏡台に背を向けて服を脱ぎ始める。

 まずは法衣から片方ずつ袖を抜いて、裾をまくりあげて頭から抜き取る。

 それから、法衣の下に着ていたスリップを肩から落とした。

 残ったのはブラジャーというかやわらかな素材の胸当てで、意を決してそれも脱ぎ去った。

 つんとした乳首に布が擦れてその存在を意識させられる。……その桜色が視界に入るたびに心の中がざわめく感覚がする。

 上半身裸になったので、次は下半身だ。

 とりあえず、苦労して止めた紐パンの紐を解いて落とすーーどうしても目にはいるそこはふっくらとした筋があるだけで、まだ毛は生えていなかった。

 それから、ガーターベルトに悪戦苦闘していたら、見かねたアリシアが外しかたを教えてくれて、なんとか外すことができた。

 全裸になった俺は、なるべく鏡が視界に入らないようにしながら浴室に向かおうとする。

 

『イクトさんちょっと待ってもらえますか?』

 

 だが、アリシアに呼び止められてしまう。

 

『……どうした?』

 

『姿見に向き合って立ってください』

 

『でも、そんなことしたらアリシアの裸をーー』

 

『見てください』

 

『……へ?』

 

『さっきから、目を逸らしてばかりじゃないですか。イクトさんは今の自分の姿をちゃんと見るべきなんです』

 

『……わかったよ』

 

 観念して鏡に向き合って立つ。

 

 鏡の先には生まれたままの姿で恥ずかしそうに立つ(アリシア)がいた。

 腰まである銀の髪、透き通るような肌、ダークブラウンの愛らしい瞳、ぷっくりとした小さな唇、ほのかな胸の膨らみの先っぽでつつしまやかに存在を主張する桜色のぽっち、なだらかなお腹のラインの先に隠すものもなく割れ目だけがある股間、健康的なふともも。

 家族以外で産まれて初めてじっくりと見る女性のありのままの姿はとても綺麗で、俺は思わず見入ってしまう。

 

『……えっちな気持ちになっちゃいますか?』

 

 アリシアの声に俺の邪な気持ちを見透かされた気がして動揺してしまう。

 

『そ、そんなこと……』

 

『いいんですよ、イクトさんは男の人だったんですから。男の人はそうなるのが普通だって聞いてます。こう見えても成人しているんですよ、わたし』

 

 異世界では男女共に15で成人を迎える。そして、結婚したら早々に子供を作ることが求められるのだから、アリシアがそういう知識を持っていることに不思議はないとわかってはいる。

 けれど、普段のやや幼い言動との違和感はどうしても覚えてどぎまぎする。

 

『……それに、こんな体でも、イクトさんがそういう気持ちになってくれるのは嬉しい……かも……』

 

 最後の方に聞き取れないような小声でそんなことを付け加えるのはずるい。

 

『アリシアの体は綺麗だよ。その……すごく、魅力的だ……』

 

 それは偽らざる俺の気持ち。

 俺は決してロリコンではない……たまたま好きになった相手が外見的に少し幼いだけなのだ。

 そもそも、何度でも言うがアリシアは俺と同じ日の生まれだ。

 

『この体はイクトさんのものです。好きに見たり触ったりしていいんです。だから、無理にそういった欲求を隠そうとしないでください』

 

 そんなアリシアの言葉に俺は躊躇いつつも頷いた。

 そして、左手で自分の胸に触れてみる。

 余り大きくはないけれど、ふんわりと柔らかい存在感を手の内に感じる。指を動かしてみるとふにふにとした癖になりそうな感触がかえってくる。

 

『……んっ……』

 

 アリシアの吐息のような零れた声に、俺は慌てて手を離す。

 鏡を見るとほんのりと頬を朱く染めたアリシアがそこに居て。

 ……気のせいか、さっきよりも桜色の先端が固くなってるような気がした。

 

 

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お風呂と着替え

「ふぃぃぃ……」

 

 俺は浴槽の中で脱力していた。

 いろいろ刺激的すぎてぐちゃぐちゃになった頭の中がゆっくりほぐれていくようで――

 

『お風呂気持ちいいですねぇ……』

 

 アリシアもそれは同じようだった。

 力の抜けた声が脳内に響く。

 

 脱衣場でのやり取りの後、体を洗うのもまた一苦労だった。

 まず、髪が長すぎてうまく洗えなかった。普通にしてたらなかなか泡立たず、リンスインシャンプー(父、幾人用)を大量に使ってしまった。

 それから、肌が敏感すぎて今まで使っていた垢擦りタオルを使おうとしたら痛くて肌が赤くなってしまった。

 かといって、手にボディーソープをつけて洗おうとすれば、アリシアがくすぐったがって声を出して変な気持ちになったりとすったもんだした。

 どうやら、同じ刺激でもアリシアは自分で何処を触るのかが分からない分、他人に触られるのに近い感覚になるらしい。

 

「お兄ちゃん、アリシアさん、湯加減はどう?」

 

 優奈の声が洗面所から聞こえる。わざわざ聞きにきてくれたのか?

 

「おー気持ちいいぞー」

 

『気持ちいいですー』

 

 湯船に漂う髪がくらげのようだな、なんて思いながら優奈に返事する。

 

「それは良かった……それじゃあ、着替えここ置いとくから」

 

「わかった。ありがとー」

 

『ありがとーございますー』

 

 そう言い残して洗面所から優奈の気配が消える。

 よく気がつく妹だな、わざわざ着替えを持ってくるなんて。

 

 ん……着替え?

 

『どんな服なんでしょー楽しみですー』

 

「――しまった!? 謀られた!」

 

 俺は慌てて立ち上がっると、洗面所に飛び出す。

 水を吸い込んだ髪が重く身体に張り付くが、気にしてはいられない。

 

『ど、どうしたんですか! 野盗の襲撃ですか!?』

 

 洗面所には既に優奈の姿は無くて、畳まれた衣類が残されていた。

 

「……やられた」

 

 さっきまで着ていた法衣や、俺が準備していた着替えは優奈によって持ち去られていた。

 バスタオルで体をざっと拭いてから、置かれた着替えを手に取って見てみる。

 

 一番上に置いてあったのは、ピンク色のワンピースで、襟口や袖回り、そして胸元に白のフリルの装飾が施されている女の子らしい服だった。

 

『!? ……か、可愛い!』

 

 次に手にとったのは、黄色いパステルカラーのリボン付きキャミソールに揃いのショートパンツ。これは、さっきの服の下に着る用か。

 

『これも、凄く可愛いです!』

 

 それから、白のスリップに白地にピンクの横縞が入った女性用のパンツって……おいぃぃっ!?

 

「いったい、優奈のやつはなに考えてやがりますかね!?」

 

「何考えてるって言いたいのは、あたしの方よ。アリシアさんになんて物を着せようとしてたわけ、お兄ちゃんは?」

 

 意外に近くから返事があった。優奈は洗面所の前で様子を窺っていたらしい。

 

「アリシアじゃなくて、中身俺だから!? 服を貸してくれるのはありがたいけど、下着はダメだろ、下着は……」

 

「大丈夫。買ってはみたんだけどサイズを間違えて買っちゃったやつで、あたしには小さくて……あんまり履いてないやつだから」

 

 ……それでも、何回か履いてるのか。

 妹が着用したパンツを履く兄、人として余裕でアウトだろう。

 

「……俺のパンツだけでも返してもらえないか?」

 

「ダメ! こんなのを履いてるっていうのはあたしが嫌なの。下着は女の子にとって大事なものなのよ! ねぇ、アリシアさんもそう思うでしょ?」

 

『イクトさん、わたしも女性用のほうが落ち着きます……ダメですか?』

 

「……はぁ、わかったよ。降参、俺の負けだ」

 

 二対一になった時点で俺に勝ち目はない。

 

「着方が分からなかったら手伝うけど?」

 

「要らん! 誰が頼むか!」

 

 ……これ以上兄の尊厳を犯されてたまるか。

 

 しっかりと、バスタオルで体を拭いて(髪にやたらと時間が掛かった)から、俺は無心になって妹の服を身につけていく。

 

『この下着伸び縮みする素材で履きやすくて良いですね!』

 

 アリシアの言う通り、正直さっきまで履いていた紐パンよりも包まれる安心感があって履き心地は良い……だけど、コメントはしたくない。

 

『この服もかわいい……!』

 

 全般的にテンション高めのアリシアを置いておいて、俺は黙々と残りの服を着た。

 

 着替えが終わって俺は鏡に自分の姿を映す。

 鏡の前にはすっかり乙女ちっくな恰好になった(アリシア)が居た。

 正直かなり似合ってると思う。アリシアがこれを着ていたら素直に称賛してただろう。

 

 ……まあ、この恰好なら外に出てもそれほど悪目立ちはしないだろうし、そこは正直ありがたい。

 

 鏡とにらめっこを終えて、俺は脱衣所のドアを開ける。そこにはスマホを構えた妹が居た。

 

「ちょっ……!? 勝手に写真撮るなよ!」

 

「いいじゃない、すごく似合ってるし。その服買ったはいいけどちょっと可愛すぎてあたしには似合わなくて、そのまま着れなくなってたの。従妹にでもあげるかなーと思って、取っておいてよかった」

 

「……ネットには載せるなよ?」

 

「そんなのわかってるわよ。……けど、お兄ちゃんの写真結構出回ってるみたいよ? 地方都市に謎の外国人コスプレ幼女が出没したーって。つぶやきアプリのまとめを見たら、詳細は不明って終わってたけど」

 

 マジで。

 確かに家まで歩いてくる間、写メも結構撮られてた気もするなぁ…… 

 それにしても、もうまとめができるほどだなんて。

 まあ、個人情報につながるものが無ければただのコスプレ写真だから問題はないだろう。忘れよう。

 

「……ところで、お兄ちゃん」

 

 優奈がにやりと笑った。すごく嫌な予感がする。

 

「あたしのパンツを履いた気分は如何かしら?」

 

「なっ……」

 

 この妹、なんてことを聞いてくれますか!?

 俺が妹のパンツを履いて喜ぶような変態とでも思っているのか。

 

 そう文句を言おうと妹を見るが――妹の目は全く笑ってなかった。

 

「――お兄ちゃん例のこと誰かに話したら、お兄ちゃんが妹のパンツを履いて喜ぶ変態だって噂が世間に広まるから。だから……わかってるよね?」

 

 ……こいつ、自爆覚悟で兄の弱味を握りに来やがった!?

 

 俺は妹の必死さにドン引きしながら、黙って首を縦に振るしかなかった。

 



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お風呂上がりにまったりと

 お風呂から出た俺は、冷蔵庫に入っていたコーラとコップを持ってリビングのソファーに腰を下ろした。

 ペットボトルからコップに中身を注ぎ、グラスに口をつける。

 

「んー、お風呂上りに冷えたコーラは最高だなぁ……」

 

『なんですか、これ!? 口の中が弾けて――でも、冷たくて美味しい!』

 

「これはコーラっていうんだ。炭酸が口の中でしゅわしゅわーって美味しいだろ?」

 

 思えば随分と喉が渇いていたらしい。身体がもっと水分を欲している。

 俺は調子に乗っていつものように呷り飲もうとした。

 けれど、アリシアの小さな口では以前のように受け止められなくて、思わず咳き込んでしまった。

 

「……何やってるのよ、お兄ちゃんは」

 

 二階から降りてきた優奈が俺の様子を見て呆れたように言う。

 

「コーラなんて久しぶりだったからつい……」

 

「……もう、服汚さないでよ? それに、お兄ちゃんはもう女の子なんだからさ、ちゃんとお淑やかにしないとだめなんだからね」

 

 その優奈の物言いに俺は少しおかしくなる。

 

「母さんからお淑やかにしなさいって、あれほど言われてた優奈がそんなふうに言うなんて」

 

「……もう、一年前とは違うもん」

 

 膨れる優奈に懐かしさがこみあげてくる。

 ……帰ってきたんだなぁ。

 

「それで、ママが帰ってくるまで、まだ時間あるけどどうする? あたしは夕飯の買い出しに行ってくるけど」

 

「んー、どうしようかなぁ……眠るには中途半端だし……」

 

「アニメでも見る? ここ一年で放送されたお兄ちゃんが好きそうなやつは録画してるから」

 

「マジか……!」

 

 未視聴のアニメの山があるなんて幸せすぎる。

 

「ふふーん、あたしを褒め称えてもいいのよ?」

 

「神様、仏様、優奈様々!」

 

「感謝してるならアリシアさんの口調でお姉ちゃんって呼んで」

 

「ありがとう、お姉ちゃん大好き!」

 

「ふぁぁぁ、かわいいっ……」

 

 悶絶する優奈。今の俺の喜びからしたら、これくらいの媚びはどうってことないぜ。

 

 優奈はテレビの下のガラス棚からDVDケースを取り出して俺に目の前に置いた。

 俺はケースから取り出してファイル式の中身を一枚一枚捲っていく。

 

「……うぉぉぉ、これは!」

 

 各ページ二枚ずつタイトルが記入されたDVDが納められている。最初の方は数話だけ見て続きを視られなくなっていたタイトルが、途中からは知らないタイトルや知っている漫画や小説のタイトルがいろいろ出てきてわくわくが止まらない。

 

「これもアニメ化されてたんだ……んーどれから視ようかな」

 

『イクトさん、アニメってなんですか? それに、この銀色のモノはいったい何なのでしょう』

 

「んー、言葉で説明するより見た方が早いかな? ……そうだ、これにしよう!」

 

 そして、俺は気になるDVDを見つけた。

 俺が好きだったネット小説のタイトルが書いてある。

 

「どれどれ、お姉ちゃんがDVDを入れてきてあげよう」

 

 優奈が立ち上がってテレビ台のプレイヤーにDVDを差し込んだ。読み込みの画面の後、物語が再生される。

 

 広大な自然、モンスターと魔法、ステータスバー、この作品はいわゆる仮想のVRMMOを題材にした作品だった。

 次々に移り変わる美麗な画像と迫力のある音にアリシアは興奮しっぱなしで、次々に疑問をぶつけてきて、俺はその都度解説をする。

 作品をゆっくりと見ることはできなかったけど、これはこれで楽しい。

 アリシアは巫女の使命のため、同年代の友達と遊ぶことが少なく、もっぱら本の中の物語に思いを馳せて余暇をすごすことが多かったらしい。

 だから、目の前で色とりどりに展開するアニメーションに心を鷲掴みされてしまったのだろう。

 

 作中の主人公は元々男だったが、何故だか女の子になってしまう。主人公は心に傷を負っていてVRMMOの世界で友人達と交流していく中で少しずつその傷を癒していく。そして、主人公は親友の幼馴染みの男に恋心を抱く――そんな話だった。

 

『この主人公とイクトさんの状況ってちょっと似てますね』

 

 それは俺も思ってた。この作品を視てみようって思った理由でもある。この話を読んだときはファンタジーとして楽しんだけれど、まさか似たようなことが自分の身に降りかかってこようとは想像もしなかった。

 

『……いつかはイクトさんも男性に恋したりするんでしょうか?』

 

『はぁ!? なんでそうなるのさ! 俺は男だよ』

 

『でも、今は女の子ですよ? 中には同性を好きになる方もいるとは思いますが、子供を作ることを考えると男性と結ばれるのが妥当なのではないでしょうか』

 

 男と結ばれる……一瞬(アリシア)が、知らない誰かに抱かれる想像をしてしまい、思考を拒絶する。

 ――俺は寝取られなんて属性は無い。

 

『勘弁してくれよ……』

 

 それは心からの台詞だった。

 



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母親

 気がつくと俺はソファーに横たわっていた。

 アリシアとアニメを見ている間に、俺はいつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 俺の体には記憶にないブランケットが掛けられていた。

 

 ……優奈が掛けてくれたのかな。

 

 キッチンから人の気配がする。

 リズミカルな包丁の音、それは生まれてから15年聞き続けた馴染みの深い音だった。

 懐かしさが込み上げてきて、俺はソファーから立ち上がって振り返る。

 

 ――母さん

 

 キッチンカウンター越しにその姿を確認する。

 いつも俺たち兄妹を見守ってくれていた、自慢の母親。

 

「あら、起きたの幾人? ……体は大丈夫?」

 

 何と声を掛けるのが良いか言葉が出てこなかった俺に、母さんは当たり前のように話しかけてくる。

 

「えっと、母さん……その……なんで……?」

 

 俺が幾人だとわかったのだろう?

 

「優奈に聞いたの。最初は半信半疑だったけど、あなたの寝顔を見たらすぐに判ったわ」

 

「……全然共通点なさそうに思えるんだけど」

 

「そんなことないわよ。小さい頃は幾人だって可愛かったんだから。私は産まれてからずっとあなたのことを見てきたのよ?」

 

「そうなんだ……」

 

 ともあれ、母さんと信じてもらうためのやり取りをしないで良いのは正直助かった。

 手間や時間以外にも、家族に他人を見るような視線で見られるのはかなりしんどい。

 

「おかえりなさい、幾人……帰ってきてくれてありがとう」

 

 母さんはそう言って目元を手で拭う。

 

「ただいま、母さん」

 

「今日は幾人の好きなハンバーグ作るから。楽しみにしててね」

 

 それは朗報だ、素直に嬉しい。

 

『イクトさん、わたしお母さまに挨拶してもいいですか?』

 

「えっと、アリシアが、母さんに挨拶したいんだって……いい?」

 

「わかったわ。……私は幾人の母の優希子です。アリシアちゃんのことは優奈から聞いてるわ……うちの息子を連れて帰ってくれて本当にありがとう」

 

「お母さま初めまして、わたしはアリシアです。イクトさんには大変お世話になりました。わたし達の世界を救ってもらうために、お母さまには大変ご心配をお掛けしたと思います……申し訳ありません」

 

 頭の中に聞こえてくるアリシアの言葉をトレースして母さんに伝える。

 背筋を伸ばして、アリシアの動作を思い出しながら。最後にお詫びと共に頭を下げる。

 

「アリシアさん、頭を上げてください。幾人が溺れ死ぬところを救っていただいたと聞いています。こうして息子が無事帰ってこられたのは貴方のお陰です。本当に、ありがとう」

 

 母さんはアリシアに深々と頭を下げた。

 

「それにしても、優奈の言う通りアリシアちゃんって凄くかわいくて良い娘ね……息子がお嫁さんを連れてくるってこんな感じなのかしら」

 

『ふぇっ!?』

 

「突然何を言い出すんだよ……」

 

「だって、アリシアちゃんは今は幾人でもあるんでしょ? だったら、娘のようなものじゃない」

 

 母さんはキッチンから出て俺に近づいてくる。そして、そのまま(アリシア)を抱きしめた。

 アリシアになった俺は母さんより頭一つ分身長が低くて、抱きしめられると胸元に包み込まれてしまう。母さんにこんな風に抱きしめられたのは小学生の頃以来だ。

 

「お母さま……ありがとう……」

 

 頭の中で聞こえてきたアリシアの言葉をそのまま母さんに伝えた。

 ありがとうに俺の気持ちも加えながら。

 

   ※ ※ ※

 

「「「いただきます」」」

 

 家族の声がリビングに響いた。

 それぞれの食卓には、ご飯が盛られた茶碗、味噌汁の入った椀、それからハンバーグに野菜のサラダがのった丸皿が置かれている。

 それは、異世界で夢にまで見た我が家のご飯だった。

 まずはハンバーグを箸でひとかけら、口に放る。

 

『はぅ……美味しいです……』

 

 次にご飯をひと口、箸で口に運ぶ。

 

『これが幾人さんの話していたお米なんですね……ほんのり甘くておいしいですね』

 

 続けて汁椀を持って味噌汁を啜る。

 

『このスープは独特の風味が特徴的……でも、とても優しい味です』

 

 俺は無言で味わっていた。

 

 かつては日常的に口にしていた味。ありふれたメニュー。

 去年までの俺は、母親にご飯を作ってもらえることを当たり前と考えていた。

 だけど、それがどれだけありがたいことだったのか、俺は異世界で嫌と言うほど実感させられた。

 

『これは……ご飯と一緒に味わうとどれもさらに美味しいですっ!?』

 

 苦しい旅の途中、硬い干し肉を噛んで飢えを凌ぎながら、いつかもう一度我が家のご飯を食べるんだってそう思って日々を乗り越えてきたんだ。

 

『サラダもかかってる酸っぱいソースが食べやすくて美味しいですね!』

 

 だから、俺は再び味わうことのできたこの食事(しあわせ)を、噛み締めながらいただいていた。

 

『はぅ……どれも美味しい……しあわせです……』

 

 茶碗に残った最後の一粒を口の中に入れ、俺は静かに箸を置いた。

 両手を合わせて、俺の食事の様子を気に掛けてくれている母さんにまっすぐ向き直った。

 

「ごちそうさまでした……母さん、すごく美味しかったよ」

 

 それは、俺が産まれ育った16年の中で、一番心を込めて言ったごちそうさまだった。

 



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魔法とチート

 食後はリビングのソファーでくつろぎながら優奈と雑談となった。

 母さんは食器を洗っている。食器くらい俺が洗うと言ったのだけど、いいからゆっくりしてなさいと断られた。

 

「ところで、お兄ちゃんは異世界で魔王を倒したって聞いたけど、どんなふうに戦ったの?」

 

「いわゆるチート能力だったな。あっちの世界には魔法があって、人は全員魔力を持っているんだ」

 

「魔法かぁ、いいなぁ……それで、お兄ちゃんは魔力が天元突破してたりとかするの?」

 

「いや、俺というかこの世界の人は全く魔力が無いみたいで」

 

「……なんだ、それじゃあ全くダメじゃない」

 

「それが、そうでもないんだ。どれだけ才能があっても、人の持つ魔力では魔獣や魔族には全く通用しない」

 

「でも、それなら、どうやって戦ってたの?」

 

「あの世界には精霊神がいて、その祝福を得ることで人は自分の限界を遥かに超えた魔力を扱えるようになるんだ。そして、異世界人は産まれたときに魔力の属性が決まっていて、その属性と同じ精霊神からしか祝福が受けられない」

 

「わかった! つまり固有の属性や魔力の無いお兄ちゃんはどの精霊神とも契約ができるって訳だね!」

 

「その通り。水の精霊神ミンスティアに仕える巫女アリシアに召喚された俺は、冒険を経て他の精霊神の祝福を授かり、ついに魔王を打ち倒しましたとさ」

 

「なるほどねぇ……テンプレだけど、祝福が増えて段々強くなる展開ってのは燃えるねぇ」

 

「当事者としては最初から強かった方が嬉しかったけどな……」

 

 精霊神ってば揃いも揃って極端な環境のところに居るんだわ。

 活火山の溶岩溢れる洞窟とか、砂漠のど真ん中とか、一年中雪が溶けず吹雪が吹き荒れる峡谷とか。挙句の果てに、世界樹を登った先にある天空の城とか、魔王城直下の地下迷宮の先にある神殿とか、少しは訪れる人のことを考えてほしい。

 もう二度と同じことはやりたくない。

 

「それで、そのチートは今も使えるの?」

 

 優奈はワクワクしているようだ。残念ながら、その期待には応えられない。

 

「世界転移したことで俺もアリシアも精霊神の祝福は切れたんだ……だから、今の俺は残念ながらただの人だよ」

 

 精霊に祝福されているかどうかは当事者なら確実にわかる。感覚は説明し辛いが、精霊との繋がっていることがわかるのだ。

 だから、この世界に戻って来たときに祝福が切れているのはすぐにわかった。

 

「なるほど……でも、今のお兄ちゃんってアリシアさんの体なんだよね。だったら普通の魔法は使えたりしないの?」

 

「んーどうだろ? アリシアはどう思う?」

 

『魔力は魂ではなく器に由来すると言われてます。大昔の大魔法使いが自らの魂を移すために素質のある魔術師を素材として求めたという逸話もありますし……まあ、野望は未然に潰えたみたいなので真偽は不明ですが』

 

「つまり、わからないってことだな……まあ、物は試しでやってみるか。何か今の俺に使えそうな魔法で良さそうなのはあるかな?」

 

『それじゃあ、修復(リペア)を髪に掛けてもらってもいいですか? 魔王との決戦に備えて少しでも魔力を節約しないといけなかったので、修復(リペア)を使えなくて髪の毛が少し傷んでしまっていて……』

 

 修復(リペア)は、俺が水の精霊神の祝福を得た後に最初に習った魔法で、簡単な切り傷や傷みを文字どおり修復する効果がある。

 水浴びも儘ならないような旅の最中で、よくあんなに綺麗な髪を維持できるなぁと思ってたんだが、そんな方法だったのか。

 

 俺は両手で髪を手に取り前方に回す。

 

「アリシアさんの髪って銀の糸みたいで本当に綺麗……けど、ちょっと傷んでるところがあるね。お兄ちゃん、まめにケアしないとダメよ?」

 

 確かによく見ると少し傷んでるのがわかる。

 ……あ、枝毛発見。

 

 魔法が使えなかったら、この長い髪の手入れを自分でしないといけないのか……どうか、魔法が使えますように。

 

 俺は両手で髪を支えた状態のまま、手に魔力を流して魔法式を構築する。

 体から魔力が引き出されるのがわかる――今までは外付け魔力タンクである精霊から魔力を引き出していたので、これは初めての感覚だ。

 

「……修復(リペア)

 

 手先が僅かに輝いて、髪の毛に移っていく。

 

「何これ……すごい……」

 

 輝いた毛先から傷みや枝毛が消えていった。

 どうやら成功したみたいだ。

 

 ほぅ……と、溜め息をつく。

 

 そして、顔をあげると、すごい顔で俺を見ている女性二人がいた。

 

「お兄ちゃん、今の何!?」

 

 優奈が詰め寄るように俺に迫る。

 

「……何って、修復(リペア)の魔法だけど」

 

「髪が輝いてる……手触りもすべすべだし……何これズルい!? あたしが毎日髪の毛をケアするのにどれだけ手間暇掛けてると思ってるのさ!」

 

 人の髪触りながら、理不尽にキレる優奈。

 ……こら、どさくさに紛れて匂いを嗅ぐんじゃない。

 

「この魔法お前にも掛けられるんだけど?」

 

 優奈がピタっと止まる。

 

「……お兄ちゃん、魔法って素敵ね」

 

「ズルいって思ってるなら要らないよね」

 

「お願いお兄ちゃん……あたしが悪かったから、あたしにもその魔法使ってぇ……」

 

 ……このくらいにしておいてやるか。

 こいつにはDVDの恩があるしな。

 

「……幾人。その魔法ってもしかして肌荒れにも使えたりするのかしら?」

 

「多分、大丈夫だと思うよ」

 

 お母様、いつの間に後ろに立っていたのですか。というか、笑顔が怖いです。

 

「それ、私にもお願いしていいかしら」

 

 そんな無言でプレッシャーを掛けなくても、こんなのが親孝行になるならいくらでもしますから。

 

 女性の美容に懸ける執念の一端を目の当たりにした気がした。

 女って怖いなぁ……

 

 ちなみに、優奈の髪に修復(リペア)を掛けたところ、脱色していた色も元の黒髪に戻ってしまい、少し落ち込んでいた。

 次に髪を染めている母さんに掛けたときは問題なかったので、「私も染めるっ!」と、すぐに元気を取り戻していたが。



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一日の終わりに

「ところで、お兄ちゃん。魔法の中にテレパシーみたいなのは無いの?」

 

 不意に優奈が俺にそんなことを聞いてきた。

 

「ん? あるよ」

 

 基本魔法に念話は存在している。

 今俺がアリシアと脳内で会話しているのも念話の応用魔法である。

 

「それじゃあ、その魔法でアリシアさんとお話しすることってできないかな?」

 

「そりゃ、それができたら便利そうだけど……」

 

『ダメです。今のわたしは体も魔力も動かすことができませんから』

 

「無理みたいだ。今のアリシアは魔法を使うことはできないみたいなんだ」

 

「……お兄ちゃんが魔法を使って、アリシアさんとのテレパシーを私に中継することはできない?」

 

『どうだろう、アリシア?』

 

『確かに……その方法ならできるかもしれません』

 

「……ちょっと、やってみる」

 

 念話の術式をちょっといじって送り先を追加した。

 それから、念話の相手を個別に指定できるようにすれば……

 

『あ~、聞こえますか~』

 

「おお!? 頭の中に声が聞こえてきた! お兄ちゃんと一緒の声だけど、この可愛さはアリシアさんね!」

 

『そんな、可愛いだなんて……』

 

『頭の中で話すようにすれば念話で会話もできるよ』

 

『あーてすてす……あら、これは便利ね』

 

「俺が念話を起動してるときに限るけどね。このくらいの魔法なら大した負担はないから、常時起動しておくのも大丈夫だね」

 

『ユウナさんのお蔭でお話しできるようになりました! 嬉しいです!』

 

『あたしもアリシアさんとお話しできて嬉しい!』

 

「俺がラインを切り替えれば任意の相手と一対一で話すこともできるよ。ラインは一本しか作れないから誰かと個別に念話しているときに他の人と話したりはできないけど、全員の間でラインを作ることはできるよ」

 

「二人で話しているときにお兄ちゃんに話の内容って筒抜けにならないの?」

 

「内容は解らないようにしといたよ。俺に聞かれたくない相談事とかもあるだろうし」

 

「お兄ちゃんを信じるよ……? 盗み聞きなんてしようものならお兄ちゃんのことを心底軽蔑するから」

 

「おうよ、信じてくれ」

 

「それじゃあ、しばらくアリシアさんとお話ししてもいい?」

 

「わかったよ」

 

 それから、しばらく二人で話しているようだった。

 

「お兄ちゃん、わたしとアリシアさんとママの3人にライン切り替えてもらえる?」

 

「できるけど、俺は仲間外れかよ……」

 

「お兄ちゃんの体のことで確認しておかないといけないことがあるの。だから、お願い」

 

「わかったよ」

 

『イクトさん、ごめんなさい』

 

「いいってば、俺はアニメの続きでも見てるから」

 

「……さみしいなら、あたしが後ろから抱き締めてあげようか?」

 

 それはお前がただアリシアを抱きしめたいだけだろう。

 

「要らんわ」

 

 そういって俺はDVDのリモコンを手に取った。

 ……さて、寝落ちしたのは何話だったか。

 

   ※ ※ ※

 

 しばらくして話は終わり、俺は歯磨きをして、二階の自室に引き揚げた。

 まだ、日も変わっていないくらいの時間だが、異世界では日が暮れたらアリシアと交互に休む生活習慣が身についていたので既に大分眠い。

 俺は電気を点けるのも億劫で、そのままベッドにダイブする。

 

 うつ伏せの状態のまま、慌ただしかった今日一日を振り返る。

 

 魔王との決戦が相討ちに終わって異世界から帰還したと思ったら、俺はアリシアの体になってて、なんとか自宅に帰ってきて家族と再会。それから、お風呂でアリシアの裸を見て……

 

「どう考えても、イベント盛りすぎだろ……」

 

 改めて今日起こった出来事の多さに嘆息する。どっと疲労が襲ってきた。

 

「ふぁ……さすがに疲れた」

 

 俺がやってきた眠気に任せて瞼を閉じようとしたとき、頭の中に声がした。

 

『イクトさん、今日はお疲れ様でした』

 

 今日一日ですっかり馴染んだアリシアの声だ。

 

「ん、アリシア……」

 

『眠いのにごめんなさい。どうしても、今日のうちにお礼を言っておきたくて……ありがとうございました』

 

「ぜんぜん大丈夫。アリシアもお疲れ様……どうだった、俺の家族は。賑やかだったろう?」

 

『はい、とても暖かくて素敵な人達でした。皆さん親切で……イクトさんのことをとても大切に思ってるのがわかりました』

 

 アリシアは子供の頃から親元から離されて、巫女として育てられてきた。だから、わたしは本物家族というのがよくわからないんです、と笑いながら言っていたことを思い出した。

 

「……母さんも言ってたけど、アリシアはもう俺の家族みたいなものなんだからな。ほら、なんてったって、アリシアと俺は死ぬまで一緒なんだし……だから、なんでも遠慮なく頼ってほしい。みんなアリシアのことを大切に思ってるんだ」

 

『……そうですね。皆さんがわたしのことを受け入れてくれたこと、すごく嬉しかったです……絶対に忘れません』

 

 アリシアは使命を終えて、何もかも失って日本に来た。だから、俺の家族が彼女の居場所になれたらと思うんだ。

 

「……それじゃあ、そろそろ寝るよ」

 

『イクトさん、おやすみなさい』

 

「……ああ、おやすみ……アリシア」

 

 そう言い残して瞼をとじる。

 明日になれば海外勤めの父さんが帰ってくるはずだ。

 その前にみんなで買い物にも行くみたいだし、明日も忙しくなりそうだった。

 



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二日目の朝

「いい加減、おーきーろー」

 

 俺の体が揺れている。

 

「アリシアあともう少し……」

 

 だけど揺らす勢いは収まる様子はなくてむしろ強さを増していく。

 

「お兄ちゃん。あたしはアリシアじゃないわよー、いい加減起きなさいー」

 

 違和感を覚えた俺は目を開く。

 妹の優奈の顔が目の前にあって――どうやら俺は優奈に抱きかかえられるようにして体を揺さぶられているようだった。

 密着した肌から伝わる優奈の柔らかさと、今まで優奈から感じたことの無いような、ふわっとした甘い匂いに鼻孔をくすぐられて。

 

 ――俺は慌ててベッドから飛び起きた。

 

「あ、起きた……おはようお兄ちゃん」

 

「……なっ、なっ、何してるんだよ!?」

 

 少し涙目になりながら妹に抗議する。いくら仲が良い兄妹といっても兄のベッドに潜り込むのはやりすぎだ。反応しそうなモノはもう無くなっていたのは不幸中の幸いだった。万が一妹に反応してしまっていたら自己嫌悪どころの話じゃない。

 

「だって、お兄ちゃんったら全く起きないんだもん。起きないならお布団入るよーって言っても返事なかったし」

 

「だからって、抱きつくのはまずいだろ!? 兄妹(きょうだい)なんだぞ!」

 

「今のお兄ちゃんとあたしは姉妹(しまい)だからこのくらい問題ないよ。それより起きたならさっさと朝ご飯食べちゃってよ、ママが片付けられないって言ってたよ。それから、アリシアにも挨拶したいから念話をよろしくね!」

 

「……へいへい」

 

 俺は念話を発動させてベッドから降りる。

 

『おはよう、アリシア』

 

 早速優菜がアリシアに挨拶をしていた。

 

『おはようございます、ユウナさん』

 

『……名前』

 

『ごめんなさい……ユウナ』

 

『うん、それでいいわ』

 

 いつの間にかアリシアと優奈が仲良くなってる?

 

 昨日ふたりで話してたからだろうか。

 アリシアが優奈と仲良くなるのは素直に嬉しかった。

 

「お兄ちゃんなに見てるの? 早くリビングに行きなさいってば!」

 

 照れ隠しに声を荒げた優奈から逃げ出すように俺は部屋を飛び出した。

 

 ……このツンデレめ。

 

 階段を下りてリビングに入ると優奈の言う通り、テーブルの上には俺の食事だけが残っていた。時刻は9時40分、昨日の疲れからか随分寝過ごしてしまったようだ。

 

「おはよう母さん……ごめんよ、寝過ごした」

 

 台所に立つ母さんに朝の挨拶をする。

 母さんは流し台での作業の手を止めないで返事を返してくる。

 

「おはよう、幾人、アリシア。二人共よく寝れた?」

 

『はい、おかげさまでゆっくり休めました』

 

「俺もぐっすりだったよ」

 

「それは良かった。それじゃあ、ちゃっちゃとご飯食べちゃって……食べたらお買い物に行くんだから」

 

 そういえば、昨日そういう話になったんだっけ。

 以前買い物につき合わされたときに、延々と引きずり回されて荷物持ちをさせられたことを思い出して俺は顔をしかめた。

 この体で荷物持ちをさせられることはないだろうけど、買い物の目的を考えると正直めんどくさくてげんなりとした気持ちになる。

 

「そんな顔しないの、ほとんどあなたのための買い物なのよ?」

 

 アリシアの体になった俺は以前の服が全く合わなかった。優奈のお下がりがいくつかあるものの普段着まわすには圧倒的に数が足りない。それに、下着はちゃんと自分用のものを用意したい……この際女性用のものになるのはもう諦めた。

 だから、買い物に行くのは仕方ないとは言え、着せ替え人形にされることを考えると気が重くなる。

 

「別にいいよ嫌なら無理に行かなくても。あたしとママでお兄ちゃんに似合う可愛い服を買い揃えてあげるから」

 

 う……それはそれでなんだか嫌な予感しかしない。この二人に任せると女の子女の子したかわいいデザインのものしか私服が無くなる可能性がある。せめて普段着くらいはジーンズにTシャツとか楽な格好をしたい。

 

「……わかった、俺も行くよ」

 

 俺は自分の心の平穏を守るために戦場に赴く決意をした。

 

「だったら、早くご飯を食べて着替えてらっしゃい」

 

「気替えは用意して部屋に置いてあるから!」

 

『ユウナが用意してくれた服楽しみですね! イクトさん!』

 

 テンションの上がるアリシアとは裏腹に、俺はユウナの選んだ服に不安しか無かった。

 

 ご飯に味噌汁ベーコンエッグといった、シンプルだけど満足度の高い朝食を終えて自分の部屋に戻った俺は、並べられた着替えを見て戦慄する。

 

『とっても可愛いですねイクトさん!』

 

『お、おう』

 

 用意されていたのはピンクのジャケット、白のブラウス、赤とブラウンのチェックのミニスカート、黒のオーバーニーソックス、白のキャミソール。

 それから、ピンク地にファンシーな柄とワンポイントのリボンが付いた揃いのハーフトップとショーツは新品だった。

 どうやら、昨日の夕飯の買い出しの際に優奈が購入してくれたようだ。妹の下着を身に着けるのはダメージが大きかっただけに、そこは助かった。

 

『……どうしたんですか? 早く着替えないとみんな待ってますよ』

 

『……そうだな』

 

 なんとか着ないですむ方法を考えたが、何も思いつかなくて俺は諦めて着替えることにした。

 ブラウスのボタンが左右逆で手間取ったりしながらなんとか着替えることができた。

 用意された服に着替え終わって、最初に感じたのがミニスカートの心許なさだった。露になったふとももあたりがスースーしてまるで下に何も履いてないようにも感じる。それに、注意していないとすぐにパンツが見えそうで不安になる。

 

 着替え終わってリビングに戻ると、女性ふたりからの歓声が俺を迎えた。

 

「あらあら、素敵ねぇ」

 

「お兄ちゃんすごく似合ってる……さすがあたし!」

 

 二人の声に困惑しながらリビングに置いてある姿見の前に立つ。

 俺の部屋には鏡がないため、自分が今どんな格好になっているか確認できなかったからだ。

 

 鏡にはふんわりとした暖色系の服装にプラチナブロンドが印象的なかわいい女の子が立っていた。

 ミニスカートとオーバーニーソックスの間にできた絶対領域が眩しい。

 こんな娘が街中を歩いていたら間違いなく目で追ってしまうだろう。

 不安げな仕草がまた庇護欲を掻き立てる……って、ここまで考えて、目の前に映っているのが自分自身であることに気づいて溜息をつく。

 

 ……俺はアホか。

 

 鏡の中の俺は呆れた表情で自身にツッコミを入れている。

 こんな表情も様になっているのが、ずるいなと思った。

 



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お買い物(その1)

 買い物は郊外にあるショッピングモールに行くことになった。

 一箇所で全てが揃うのが便利だから、我が家の買い物はもっぱらここを利用することが多い。

 母が運転するワゴンタイプの軽自動車に乗って30分程の距離となる。

 

『わぁ……これが、車なんですね!』

 

 初めて車に乗ることになったアリシアは終始テンションが高かった。

 

『すごい……速いです! それに揺れも無くて静かで快適! 素晴らしいです! あっ、あれは何ですか!?』

 

 道中目に入るものいろんなものに興味を持つアリシアはまるで小学生のようで微笑ましい。

 普段は優奈が助手席で俺が後部座席に座るのだけど、うきうきした様子を隠せないアリシアの雰囲気で自然に後部座席に座った優奈は気遣いのできる妹だと思う。

 ……そして、何も考えずいつもどおり後ろに乗ろうとして。優奈に冷ややかな視線で助手席を指さされた俺はダメな兄だとも思う。

 

「私達、お店では幾人のことをアリシアと呼ぶわね」

 

 車の中で運転席の母さんはそう宣言した。

 ただでさえ目立つ容姿の俺が「お兄ちゃん」とか「幾人」とか呼ばれても悪目立ちするだけだろうから仕方ないと思う。

 

『……こ、これがしょっぴんぐもーる。この辺り一帯が市場なのですか……王国の中央市場でもこれほどの規模はありませんよ。すごい……!』

 

 俺達には見慣れたショッピングモールもアリシアには随分と衝撃的だったようだ。

 屋外の駐車場に車を止めた俺達は歩いて店内に向かう。

 

 買い物の目的はさておき、ショッピングモール自体は好きだ。

 おもちゃ売場や本屋等心躍る場所は多いし日本の飲食店で食べるご飯も久しぶりだったからだ。

 自然をはやる気持ちに足早になるが、いきなり優奈から駄目だしが出た。

 

「ちょっと、アリシア。そんなに大股で歩かない……パンツ見えてるよ」

 

 優奈の指摘に慌てて俺はミニスカートの後ろを押さえて立ち止まる。

 今の俺が履いているのは下着がぎりぎり隠れるくらいの丈しかないミニスカートだった。今までの歩き方だとアリシアのパンツを曝しながら歩くことになってしまうらしい。

 

「太ももの間に物を挟んでいると想定して歩くの。そうすれば自然に女性らしい歩き方が身につくわ」

 

 母さんの助言にしたがって歩いてみる。

 ……なんだかとても歩き辛い。

 

「……はぁ、なんでこんな思いまでしてミニスカートなんて履くんだろ」

 

 思わず溜息とともに愚痴が出てしまう。

 

「そりゃ、かわいいからに決まってるじゃん」

 

 と、優奈。母さんがそれに補足する。

 

「もちろんそれはあるけれど、見られていることを意識するっていうのも大切なことね。アリシアみたいにかわいいと、自然に他人の視線を集めるの。だからそれを意識しておかないとみっともない姿を晒すことになるわ」

 

 確かに母さんの言うことはわかる気がする。

 この体になってから、どこに行っても周りに見られるようになっていた。基本、誰にも気にされることが無かった男の頃とはまるで違っていた。

 

「ミニスカートを履いてると油断できないでしょ? だから、その緊張感で自然と女の子らしい所作が身につくようになるわ」

 

 別に俺は女の子らしい所作なんて身につけたいわけじゃないのだけど……心の中でズボンの購入を決意しながら歩く。

 

「……大丈夫、パンチラしてない?」

 

 俺は気になって優奈に問いかける。

 アリシアのパンツを見知らぬ野郎に見られてしまうのは嫌だ。それに、アリシアが平気でパンチラするような娘って思われるのも申し訳ない。

 

「大丈夫よ、油断しなければそうそう見えたりはしないから……頑張ってねアリシア」

 

 幾人の頃には感じなかった周りの視線が痛い。注目されるのはこの外見だからで、パンチラしているからではないと思いたい。

 

「それじゃあ、まずは下着から買いに行きましょうか」

 

「え……」

 

 俺がまず連れてこられたのは下着売場だった。下着の専門店ではなくて、ショッピングモールに入っているスーパーの衣料品売場のところだ。

 目の前にはスクール用の淡い色合いの女性下着がずらりと並んでいる。

 高校生男子には正直目の毒な光景で、俺はそれらを直視することができなかった。

 

「……何恥ずかしがってるのよ」

 

 優奈がからかうような口調で話しかけてくる。

 

「そんなこと言われても……」

 

 俺は堂々と飾られた下着を恐る恐る見る。それらはシンプルだけどワンポイントや柄が可愛らしさを主張していて、女の子の秘密を覗き見ているような罪悪感を覚えてしまう。

 

『これ全部下着なんですか……本当にこの国には驚かされるばかりです……』

 

 色とりどりの下着にアリシアは驚きを隠せないようだった。

 

「それじゃあ、まずは店員さんにサイズ測ってもらおうか」

 

 そう言って優奈が店員さんを呼んだ。若いお姉さんだった。

 

「ちょっ……」

 

 俺は言われるままに試着室に移動した。試着室でお姉さんと二人きりにされて俺は混乱する。

 

「お嬢さん……日本語で良かったかしら?」

 

「日本語だいじょぶです!」

 

 ちょっと噛んだ。

 

「ブラを買うのは初めてかな?」

 

「は、はいっ!」

 

 そんな俺の様子を見てお姉さんはクスリと笑った。

 

「大丈夫、そんなに緊張しなくていいのよ。お姉さんに任せて」

 

 俺が緊張しているのは別の理由だった。綺麗なお姉さんと狭い空間で密着して二人きりだなんてどうしても緊張してしまう。香水だろうか……なんだかすごくいい匂いがするし。

 

「それじゃあ、脱いで?」

 

「は、はいっ……!」

 

 落ち着け変な意味は無いんだ。

 俺はピンクのジャケットを脱いでハンガーに掛ける。それから、ブラウスのボタンに手を掛けようとして……女物は勝手が違ってて上手く外れない。

 

「ブラウスの上からで大丈夫よ」

 

 そう言われて俺は慌てて手を止めた。

 

「それじゃあ測るわね」

 

 メジャーを持ったお姉さんが覆いかぶさるようにして俺の背中に手を回してきた。俺は体を硬直させて待つ。香水の他にお姉さんの髪からシャンプーの匂いがして頭がくらくらする。

 されるがままに何回か測られたけど数字は頭に入ってこなくて……カーテンから顔を覗かせていた優奈が聞いてくれていたから多分大丈夫だろう。

 

『……もう、イクトさん。鼻のばしすぎです』

 

 教えられたサイズはアルファベットの最初のレターがふたつ。

 とても、慎ましいサイズだった。

 ……将来性に期待だね、うん。

 ちなみに優奈のサイズを聞いてみたら4つ目のレターだそうで……立派になったんだな、妹よ。

 

 それから実際に物を選んでいくのだけれど、基本的には優奈と母さんに丸投げだ。二人に選んで貰った物を、俺は試着室で試着していく……が、しょっぱなから躓いた。

 

 ブラジャーの着け方がわからない。

 

 どうしようとまごまごしていたら、優奈が試着室に入ってきて手取り胸取り着け方を教えてくれた。優奈は茶化したりせず真面目に教えてくれるのだけど、俺は動揺しまくりで、兄としての尊厳はがりがりと削られていった。

 

 着替えが終わって鏡に映った自分の姿を見るとシンプルだけど控えめにレースで装飾された白のブラジャーを付けた清楚なアリシアの姿がそこにあって、少しだけ大人びて見えてドキッとする。

 今は足元においてあるセットのショーツを合わせたなら、もっとその印象は強くなるだろう。

 

『……これが、この世界の下着なんですね。綺麗……』

 

「ちょうど良さそうね! このサイズでいくつか持ってくるね」

 

 その後、優奈と母さんが持ってきてくれたものを試着して結局上下セットで3セットを買い物カゴに入れた。

 それから、普段使い用として、ハーフトップやスポーツブラを数枚、三枚組で売られているショーツを3セットほど、それから、キャミソールや靴下なども合わせてここで購入した。

 

 一から揃えるので仕方ないとはいえ、随分量が多くなってしまった。レジに表示される金額を見て申し訳ない気持ちになる。

 

 次は洋服だった。優奈のお下がりが何着かあるようなので、個人的にはズボンとTシャツがいくつかあればいいくらいに思っていたのだが、優奈と母さんは全く違う考えだったようだ。

 

 その結果、何時間も俺たちは専門店街のお店をはしごすることとなり、散々着せ替え人形にさせられた。

 アリシアは嬉しそうだったが、俺は早く終わってほしいという気持ちで一杯だった。いくつか購入していたみたいだが、俺はただ出された物を着るだけの思考放棄をしていたのでよくはわからない。

 値札についていた金額を考えると正直恐ろしくなる。

 

 なんとか普段着用のTシャツとズボンを購入してもらうことができたのは嬉しかった……二人には相当渋られたが。

 

 最後に靴屋でスニーカーやローファー、それからミュールっていうサンダルを買って、ようやく買い物は一段落ついたのだった。

 

 ……疲れた。

 



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お買い物(その2)

「腹減った……」

 

 長かった試練のような買物が終わり、全員で一旦荷物を車に置いてから、食事のためにショッピングモールに戻る。

 時刻は既に午後一時を回っていた。

 朝食が遅かった俺ですらこれだけ空腹なのに、うちの女性陣は本当にタフだ。

 

「お昼は何を食べる?」

 

「ハンバーガー!」

 

 俺は某有名ハンバーガーチェーンの名前を口にする。

 

「えー、そんなのどこでも食べられるでしょ。それに、昨日はハンバーグだったじゃない……」

 

 優奈は不満そうに言った。

 

「ハンバーグとハンバーガーは別物だよ。それに異世界にはハンバーガー屋なんて無かったんだぜ」

 

 ジャンクフードを丸一年お預けをくらった男子高校生の気持ちなんて優奈にはわかるもんか!

 異世界の料理は全体的に味付けが簡素だった。美味しいものも多かったけど、ジャンクな味が不意に恋しくなったものだ。

 俺はハンバーガーが食べたい!

 

「……それじゃあ、フードコートに行きましょうか」

 

 母さんの提案に俺達は同意する。こういうときは、それぞれが好きな物を食べられるフードコートは便利だ。

 

 休日のフードコートはかなり賑わっていて、俺たちは母さんに席を確保してもらってバラバラにお店に向かうことにした。

 

『フードコートってところはお祭りの屋台みたいでわくわくしますね! それに、どれも美味しそう……これはどんな料理なのですか?』

 

『これはね……』

 

 アリシアの質問に答えながら俺はフードコートを一巡りする。今日のメニューはハンバーガーに決めているけれど、次に来たときはアリシアの食べたいものにしよう。

 俺は母さんからをもらった野口さんを握りしめ、意気揚々とハンバーガーショップに向かう。

 

 ……だが、少し浮かれすぎていたらしい。

 

 楽しみのあまり周りが見えていなかった俺は、進路が交錯していた誰かとぶつかってしまった。

 

「……わ、悪いっ」

 

 そう言ってぶつかった先を見上げると、相手は明らかに柄の悪い三人組の男達だった。

 

「ってぇなぁ……」

 

「何? この娘外人さん? 髪真っ白で超かわいいんだけど」

 

「……パネぇわ」

 

「そうだ。なぁ、俺たちと一緒にカラオケでも行かねぇ? おごるからさァ……」

 

 ……どうしよう。

 めんどくさいのに絡まれてしまった。

 

『イクトさん、どうやら相手は戦闘訓練も受けてないただのチンピラのようです。氷の槍(アイスランス)を使えば一瞬で制圧できると思いますが……』

 

 異世界の感覚で、敵の排除を提案をしてくるアリシア。

 

『そんなことをしたら相手が死んじゃうよ。絡まれたくらいで人を殺してたら、この国では大変なことになるから』

 

 それに、こんな大勢のいるところで、魔法なんて使ったら大変な騒ぎになるだろう。

 

『大丈夫です! 氷の槍(アイスランス)は損傷箇所を瞬時に凍結させますから、失血死とかさせませんよ』

 

 ……聞かなかったことにしよう。

 

 このくらいの相手なら今の俺でもどうにでもなるのだが、こんなところで目立ちたくない。できれば、騒動に気づいた誰かが警備員を呼んでくれるのを待ちたいところだ。

 

「……すみません、私は家族と来ていますから」

 

「友達と遊ぶことにしたって言えばいいじゃん! 家まで送ってくから。それに、俺今さっき君にぶつかったところが痛いんだけど……もしかしたら、折れてるかも」

 

 骨折してたらそんな余裕綽々でいられるかよ。

 あーもう、めんどくさい。お腹も空いたし、もうこの場で叩きのめしてやろうかな……

 そんな風に心の中で切れ掛けていたら、ようやく救いの声が掛けられた。

 

「おい、お前ら……小さい子に何みっともないことしてんだ」

 

 聞き覚えのある声に、振り返って声の主を確認した俺は衝撃を受ける。

 

「蒼汰……?」

 

 俺の保育園の頃からの腐れ縁である双子の兄の方、神代(かみしろ)蒼汰(そうた)――修学旅行先のフェリーで別れてから一年ぶりの再会だった。

 

「……ん? お前、俺のこと知ってるのか? まぁいいか。というわけでこいつは俺の連れだからお前らは帰れや」

 

「おまっ……ふざけンなよ!?」

 

「ちょ、やばいって。蒼汰っていったらヒラコーの暴れ狼じゃん」

 

「ヒラコーの暴れ狼――不良グループを一人で壊滅させたっていう、あの!?」

 

「やべぇ、マジパネぇよ」

 

 蒼汰、お前なんて二つ名で呼ばれてるんだよ。お前、去年まではただの柄の悪い普通の学生だったはずだろ……それに不良グループを壊滅させたってどういうことだよ。

 

「……ちっ、行くぞお前ら」

 

 チンピラ3人組は舌打ちをして、ぞろぞろと立ち去った。

 ……やれやれ。

 

「ありがとう、ございました」

 

 俺は蒼汰に礼を言う。

 

「気にすんな。それにしても俺の名前をどうして……どこかで会ったことあるか? いや、無いな。こんな特徴的な娘を忘れるなんてありえない」

 

「その、ゆ……姉が、話をしてくれたことがあって」

 

「……どうせ、碌な噂じゃないんだろな。悪いことを言わねーから、俺みたいな奴とはかかわらない方が良いぜ」

 

 ……お前、そんな悪ぶったキャラだったか? 中二病はもうとっくに一緒に卒業したと思ってたんだけどな。

 

「蒼汰……さんは、良い人だって聞いてるから。大丈夫……です」

 

 ボロが出ないように話そうとすると、言葉がいろいろと怪しくなってしまう。とはいえ、こんなショッピングモールでゆっくりと俺の身の上を話すわけにはいかない。

 

「それじゃあ、家族が待ってるからハンバーガー買ってきます……ありがとう」

 

 俺は小走りでハンバーガーショップに向かう。

 ……大分時間を取られてしまった。家族もそろそろ心配してるかもしれない。

 どうやら蒼汰の目的地も一緒のお店だったようで、俺の後ろに蒼汰は並んだ。

 順番が来て、俺は随分と高くなってしまったカウンター越しにお姉さんに注文する。

 

「テリヤキバーガーのLセットでポテトとコーラ! あと、単品でハンバーガーのピクルス抜きを二つお願いします!」

 

 それは、かつての俺がいつも頼んでいた定番メニューだった。

 

「幾人……?」

 

 名前が呼ばれて……恐る恐る振り返った先には、困惑した表情の蒼汰が俺を見ていた。



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お買い物(その3)

「ど、どうかしましたか……?」

 

 俺の名前を呟いた蒼汰に俺は声を掛ける。

 

「……いや、俺の親友がいつも君と同じ注文をしてたのを思い出しちゃってさ」

 

「そ、そうですか……」

 

 よかった、バレたわけじゃなかったみたいだ。流石にハンバーガーの注文の仕方だけで俺が幾人だってバレるはずもないか。

 

「どんな、お友達なんですか?」

 

 それは俺にとって軽い質問だった。いつか正体を明かした後でからかうネタになるかな、くらいの。

 俺は思い違いをしていた。

 

「幼馴染で親友……だった。俺はあの日までそう思ってた。けど、俺はあいつの悩みに最後まで気づいてやれなくて……糞、何が親友だ」

 

 だから、顔を歪めて心底悔しそうに言葉をこぼす蒼汰の姿に俺は言葉を失った。

 

「……へ?」

 

 ……いやいや、何でそうなるの?

 おかしいでしょ。俺、別に悩みは無かったよ!?

 たしかに、どうやったら女の子にモテるだろうとか男子高校生にありがちな悩みはあったけど、そんなことはお前とさんざん語り合ってたじゃないか。

 

「いきなりこんなこと言われても困るよな……すまなかった」

 

 そう言うと、蒼汰は列から外れていく。

 

 おい、ハンバーガー頼まなくていいのかよ……

 

 俺は蒼汰の背中に手を伸ばしかけて、そのまま手を宙にさまよわせて下ろす。

 

『イクトさん……』

 

 俺は徹底的に思い違いをしていた。

 蒼汰にとって俺は1年前にフェリーから落ちて行方不明――常識で考えたら既に亡くなっている相手だったのだ。

 

 注文した商品を受け取った俺は、テンションが上がらないまま座席に戻る。

 座席では既に優奈が一人座っていてラーメンを食べていた。

 

「遅かったね……何かあった? 大丈夫?」

 

 優奈は俺の様子に気づいて、心配してくれた。

 俺は念話に切り替えて応える。

 

『……蒼汰に会った』

 

蒼兄(そうにい)に……』

 

『なあ、優奈。俺って世間的には死んでるって思われていたんだな』

 

『……そうだね』

 

 考えれば当たり前のことだった。フェリーから落ちて1年以上行方不明で生きてると思う方が不思議だ。

 

『あいつは俺の死で何かを後悔してるようだった。去年の事故は俺のただの不注意だったのに……優奈は何か知ってるか?』

 

『蒼兄が悔やんでるとなるとあれかな。去年、お兄ちゃんが居なくなって二ヶ月くらい過ぎたころ、学校でとある噂が出回ったの。お兄ちゃんはクラスメイトの女子が好きで修学旅行の最中に告白したけど玉砕して、それを苦に身投げしたっていう……』

 

『んな、アホな。何でそんな根も葉もない噂が……』

 

『告白された女子が名乗り出たの。私がもしあの時に告白を受けていたらって……懺悔しながら』

 

 全く身に覚えのない話だった。

 

『その子は大分参ってたみたいで、蒼兄はその子を随分と心配してたみたい。今ではその子は蒼兄と半ば公認カップルみたいになってるわ……今にして思えば、その子が蒼兄と仲良くなるための策略だったのかなぁ、とも思うけどよくはわからないわ』

 

『なるほど……』

 

 それならさっきの態度にも納得がいった。

 ちなみに、俺が告白したというクラスメイトの名前を優奈に聞いたけど全く心当たりが無かった。入学して2ヵ月での修学旅行だったのだ。まだ、クラスメイト全員の顔と名前も一致していなかった。

 

 ……とりあえず、この件については保留することにした。

 

 俺を利用する行為の是非はさておき、それで彼らが上手く行っているなら俺自身は気にしない。

 しなくていい蒼汰の後悔も、支えてくれる相手がいるならそれほど心配するものではないのかもしれない。

 

『……お兄ちゃんのお人好し』

 

 そのことを伝えると優奈はそう返してきた。

 

『……しかし、お前はその噂を信じてなかったのか?』

 

『うん、だって、その娘、お兄ちゃんの好みとは全然違ってるんだもん。翡翠姉(ひすいねえ)も信じてなかったみたいだよ』

 

『なるほど……って、俺の好みって何だよ?』

 

『少し小柄で一所懸命な女の子でしょ、お兄ちゃんが好きなのって……違う?』

 

『……違わない』

 

 なんでそんなことバレてるんだ? 妹怖い。

 

『アリシアはお兄ちゃんの好みにドンピシャだったみたいね』

 

『……っ!』

 

 そんなことは言わんでいいっ!

 

「と、とりあえず、ご飯にしようぜ。温かいうちに食べないと……」

 

 考え事をしたのでさらにお腹が空いた。

 ちょうど、母さんもうどんの器を持って戻ってきた。

 

「おまたせ……あら、先に食べてなかったの?」

 

「いや、ちょっといろいろあって……」

 

「まあ、いいわ。いただきましょう」

 

「「「いただきます」」」

 

 さあ、気を取り直して……まずはテリヤキバーガーからだ。

 

『これは……甘辛のソースが濃厚で力強い味わいです。細長い揚げ物も塩っ辛くて後を引く味ですね。どちらも味が濃いから、コーラの爽快さが際立って癖になる味です!』

 

 アリシアにもジャンクフードの良さを分かってもらえたようで何より。たまに無性に食べたくなるんだよねぇ、この味。

 さあ、残りも一気に食べちまうか。

 

 ……と意気込んだのも束の間、テリヤキバーガーを1個食べた辺りでお腹が満たされる感覚があり、次のハンバーガーを半分くらい食べたところで気持ち悪くなってきた。

 

『うぷっ……ちょっと、もう辛いです……』

 

 アリシアの言うとおり俺のお腹はもう限界のようだった。ハンバーガーが一個半、それからポテトとコーラも半分くらいが残ってしまっていた。

 

『お兄ちゃん、何でそんなに頼んだのよ……』

 

 麺を啜りながら優奈。食事中でも気にせず会話できる念話はこういうとき便利だ。

 

『だって、以前はこれくらい余裕で食べてたから……』

 

『もう、幾人はもう女の子なんだから……以前と同じ量を食べられるわけないでしょ』

 

 母さんと優奈は呆れた顔をしている。

 

『あたしとママで手伝うから、残ったのは持って帰ろうか』

 

『……すまない、助かる』

 

 前と同じだけ食べることができない。

 そんなことで変わってしまった自分を実感してしまい、俺は少しため息をついた。



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お買い物(その4)

 ご飯が終わって、俺達は別行動をすることになった。

 母さんと優奈は晩ご飯の材料を買いに行くので、俺はその間に本屋に行っていいと言われたのだ。

 母さんから渡されたのは大盤振る舞いの諭吉さん。

 もらえなかった今年の誕生日プレゼントを兼ねているとのことだ。

 

『本! 本! 本ですよ! 本がこんなに一杯……! 素敵……素敵です!』

 

 本屋に来たアリシアのテンションはマックスを軽く振り切っていた。かくいう俺も久し振りの書店に心が躍るのを隠せない。

 

「本気出して行くよ……」

 

 俺は買い物カゴを手に取り身体能力向上(インクリスフィジカル)(小)の魔法を使う。

 

 まずは購読している漫画や小説の新刊チェックからだ。

 ここ一年間で発売された物を見つけしだいカゴに入れていく。

 

「これとこれと……お、狩人✕狩人の新刊が出てる! それに亡国の守護者も!?」

 

『どの本もカラフルで装丁が綺麗です! それにこの絵と文章で表現された物語。こんなものがあるなんて……しかも、こんなに沢山!』

 

 一年ぶりの本屋は宝の山だった。

 購読している本以外にも目を引く作品が次々に見つかり目移りしてしまう。

 

「昨日のアニメ化された小説コミカライズもされてたんだ。これは買いだな!」

 

 次々に放り込まれる本でカゴは重さを増していく。

 だけど、魔法で筋力を強化してある俺にはこれくらいどうということはないぜ!

 

「う……本棚の上の方に届かない」

 

 アリシアの身体になって身長が頭ひとつ分以上も縮んでしまった弊害が出ていた。以前なら簡単に届いていた本棚の上段に手が届かない。

 

「いったい、どうすれば……あっ」

 

 小さい脚立が本棚の脇においてあることに気づいた。これを使えば良いのか。

 俺は脚立を本棚の前に動かして登る。

 

 ……ええと、これは何巻まで持ってたんだっけ?

 

 脚立の上で悩んでると、妙に周囲がざわついているような気がして振り返ってみる。

 どうやら皆が俺を見ていたようで、けれど、俺が振り返ると視線を逸らしていた。

 その視線の先は……

 

「あぁぁぁ!?」

 

 俺は慌てて脚立から飛び降りてスカートを押さえる。

 今の格好がミニスカートだってことをすっかり忘れていた。

 

 ……うう、アリシアのパンツを晒してしまった。

 

『……ごめん、アリシア』

 

 アリシアに申し訳ない。俺は意気消沈してしまう。

 

『わたしでも同じことをしたと思います……見られたものは仕方ないですよ。これから、気をつけましょう!』

 

『……うん』

 

 でも、それなら、上段にある本はどうしよう。

 

 俺が考えていると、不意に声が掛かる。

 

「お客様、何かお取りしましょうか?」

 

 声の主は書店の制服を着た店員さんだった。高校生くらいの女性のアルバイトのようで、スラッと背が高い。背中まである黒髪のポニーテールが印象的だ。

 

「えっと……それじゃあ、そこの本を取ってもらえますか」

 

「『恋は光る』ですね? 何巻をご所望ですか?」

 

「それが……何巻まで買ったか覚えてなくて。ここ一年くらいで出た分なんですけど……」

 

「それだと13巻、12巻、後は11巻がぎりぎりってところですね」

 

 書店員さんは少し背伸びをして該当のコミックスを取り出す。

 

「うーん、表紙を見てもわからないな……」

 

「それじゃあシュリンクを外しますね」

 

「え……いいんてすか?」

 

「全然、構いませんよ」

 

 書店員さんは慣れた手つきでビニールを外すと、中身を俺に差し出してくれた。俺はそれをパラパラと捲る。

 

「この話読んだ記憶があります。ごめんなさい、この巻はもう持ってるみたいです」

 

「いえいえ、大丈夫ですよー。次の巻も一応確認しときますか?」

 

「この巻の引きに覚えがあるので大丈夫です。主人公がヒロインから誰を選ぶのか、延々と禅問答をしていたのが印象的でしたから」

 

「続きの話もどきどきしますよー。お客様が羨ましいです、私も展開を忘れてもう一度読むことができたらって思います」

 

「その気持ちわかります」

 

『わたしもわかります!』

 

 と、俺の脳内で同意するアリシア。

 

「それでは、困ったことがありましたら、またお声がけくださいね」

 

『「ありがとうございました!」』

 

「いえいえ」

 

 俺達は書店員さんに頭を下げて別れる。

 

 ……さて、そろそろ軍資金も心許なくなってきたし頃合いかな。

 

 それに、随分と注目を集めてしまっている気がする。

 日本人離れした銀髪の少女が買い物カゴ一杯の漫画や小説を片手に軽々持って、ブツブツと独り言を言いながら店内を縦横無尽に闊歩していたのだ。おまけにパンチラ。

 客観的に見て少し……普通じゃない光景に見えなくも無い。

 これ以上目立つのもどうかと思うし、そろそろ会計にして母さん達と合流しようかな。

 

 だけど、その前にひとつだけ。

 

『アリシアは何か欲しい本とかある?』

 

『……わたしですか?』

 

『せっかくだし、何かプレゼントしたいと思うんだ。どんな本が読みたい?』

 

『わたしはどんな本も好きですけど……しいて言うなら、この国の歴史書とか地図とか読んでみたいです』

 

『うーん、そのあたりはわざわざ買わなくても家にある教科書でなんとかなるかな……他には?』

 

『……それでしたら、旅の途中でイクトさんが話してくれたアリスという女の子が出てくるお話を読んでみたいです』

 

『わかった。不思議の国のアリスだね』

 

『そう、それです。不思議なお話だったから印象的で……イクトさんはもう持っていますか?』

 

『昔は持ってたけど、今は何処にいったのかわからないな……うん、じゃあそれをプレゼントにするよ』

 

 俺は文庫本コーナーで目的の本を探した。翻訳版と原文があって試しに見てみたらアリシアはどちらも読めるようだった。魔法による言語理解すごいな。

 どちらでも良いとのことだったので翻訳版を買うことにした。俺が英語を読めないからだ。

 

 カゴに本を載せてレジに並ぶ。

 

『ありがとうございます、イクトさん!』

 

 喜ぶアリシアに少しだけ後ろめたい気分になる。

 親のお金でプレゼントを買うっていうのはちょっと情けなく思うからだ。

 

 そのうちバイトでもして、自分のお金でアリシアにちゃんとしたプレゼントを買いたいな……今の俺が果たしてバイトをできるようになるのかどうかはわからないけど。

 

 レジの人に本当に持てるのか心配されながら受け取った大きい紙袋2つを両手で下げて、俺は上機嫌で母さんと優奈の待つ駐車場へと向かった。

 

 帰りの車の中で我慢できずに今日買った漫画を一冊取り出して読んでいたら車酔いして気分が悪くなった。

 

 以前の俺ならこれくらい平気だったんだけどなぁ……

 



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父親

 自宅に帰ってきた俺は、購入してきた服から楽そうな黒のスパッツと黄色のワンピースに着替える。それから、車酔いを覚ますためにベッドにダイブしてしばらく横になっていた。

 

 ひと眠りして目覚めたらリビングに降りる。リビングでは母さんが晩御飯の準備をしていて優奈は自分の部屋のようだ。

 特に声を掛けることもなく、俺はリビングのソファーに座ってさっき買った不思議の国のアリスの文庫を開く。

 

 喋る白うさぎを追いかけて不思議の国に迷い込んだアリスは身体が大きくなったり、小さくなったりしながら、へんてこな世界を冒険して、最後は夢から覚めて現実に帰る――不思議の国のアリスはそんなお話だった。

 

『不思議なお話ですね……』

 

 不思議の国のアリスの独特な世界観や登場人物たちは強く印象に残っている。今でもあらすじを諳んじることができるくらい、子供の頃に何度も繰り返し読んだ作品だった。

 

「荒唐無稽で理不尽な登場人物が多いけど、何だか楽しくて、けど、読み終えるとどこか寂しくなるような、不思議な魅力がアリスにはあると思うんだ」

 

『……わかる気がします。わたしはこのお話は今日初めて読みましたけど、挿絵も相まってこの不思議な世界にすごく惹き込まれましたから』

 

 昨日も思ったけれど、やっぱり見たり読んだりした作品の感想を、すぐに話し合えるのはいいなぁ……

 優奈も興味を持ったものには一緒に付き合ってはくれるけど、結構気まぐれだし。

 

 そんなことを考えてると玄関の方で物音がした。

 俺はもしかしてと、立ち上がり玄関に向かう。そこには居たのは予想通りの人物だった。

 長身でガタイの良い体に少しくたびれたスーツ姿、その姿は俺の記憶にあるものと相違ない――俺の父親である如月幾男だ。

 

「父さん!」

 

 俺は父さんに駆け寄る。

 俺の姿を見た父さんは一瞬ぎょっとして、

 

「……もしかして幾人か?」

 

 と俺に問う。

 

「そうだよ、お帰りなさい父さん」

 

「ただいま――お前も良く帰ってきたな。しかし、母さんから話は聞いていたが、お前、随分と小さくなったなぁ……」

 

 そう言って父さんは腰をかがめて、俺の頭をやや乱暴に撫でまわす。

 まるでちいさな子供扱いだ。

 

 ……本当は父さんよりも身長が高くなってたはずなんだけどなぁ

 

 俺が父さんの身長を超えたのは高校に入ってすぐのことで、その頃父さんは海外で長期出張に出ていた。

 だから、次会ったときにはそのことを報告しようと密かに楽しみにしていたのだけど、その機会は訪れることなく、俺は小さな女の子の体になってしまった。

 

「あなた、お帰りなさい」

 

「パパお帰り!」

 

 玄関に母さんと優奈がやってきた。

 

「おう、ただいま。二人共変わりなく……優奈は大分育ったか?」

 

「えへへ、そうでしょ!」

 

 両腕を腰に当てて、胸を張って答える優奈。育った成果が強調されている。

 

「……父さん、それセクハラだから。優奈も応えないの」

 

「これくらい軽い親子のスキンシップじゃないか」

 

「あたしもこれくらい別に気にしないけど……」

 

 俺はため息をついた。俺は間違ってない……と思う。

 

『イクトさん、わたしも挨拶していいですか』

 

 アリシアが俺に訪ねる。

 

『了解』

 

 俺は念話の送り先に父さんを加えた。

 

『はじめまして、お父様』

 

 念話でアリシアが挨拶をする。

 俺は意識をアリシアの動作のイメージに合わせるようにして動き、父さんに向き直る。

 

『わたしはアリシアと申します。ご子息であるイクトさんには大変お世話になりました。わたくし達の都合でイクトさんのご家族には大変ご心配とご迷惑をお掛けしました。申し訳ありませんでした』

 

 (アリシア)は、丁寧に頭を下げる。

 

「こちらこそ粗忽者のうちの息子を助けていただき感謝してもしきれません。私は幾人の父親の如月幾男です。息子共々末永くお付き合いをよろしくお願いします」

 

 あまり家族の前で見せない真摯な態度で父さんはそう言うと、頭を下げた。

 

『こちらこそ、よろしくお願いします』

 

「……とまあ、固い挨拶はこれくらいにして。アリシアちゃんでいいかな?」

 

『あ、はいっ!』

 

「これまでの経緯は母さんに聞いてる。幾人のためにいろいろありがとうな、よろしく」

 

 と、父さんは普段通りの顔に戻って(アリシア)に手を差し出す。

 若干戸惑いながらその手をにぎる(アリシア)。その手はゴツゴツとして大きい――父さんの手だ。

 

「それじゃあ、玄関で立ち話もなんだしリビングに移動しましょうか。紅茶入れますね」

 

 母さんに言われて俺たちはリビングに移動する。

 父さんは一度部屋に戻って荷物を片付けてくるとのことだったので、俺と優奈はダイニングテーブルに腰を下ろして待つ。

 母さんは、その間に全員分の紅茶を用意してくれていた。

 

 父さんがやってきて、家族が揃うと挨拶もなくお茶会がはじまる。

 テーブル中央に纏めて置かれた個包装されたチョコレートに手を伸ばして口に放る。懐かしい甘さに舌を打ってるとアリシアの声が聴こえてくる。

 

『何ですかこれ、甘くて美味しいです! 口の中で甘いのがとろけていって、幸せ……』

 

『これはチョコレートっていうお菓子よ。気に入った?』

 

『はいっ! 甘いのは大好きです!』

 

 アリシアの味覚に引き摺られているのか、以前より甘い物が美味しく感じる気がする。

 俺はもう一個チョコレートの包みを手に取った。

 

 そんな会話している様子を父さんがじっと見ている。

 

『あー、あー。てす、てす……ふむ、どうやらできたみたいだな』

 

 父さんはどうやら念話に興味があるらしい。

 

『これが念話というやつか。話には聞いていたが、実に興味深い。幾人、これの有効範囲はどれくらいなんだ?』

 

『普通だと半径5mくらいかなぁ……ただ、見えている相手に思考を飛ばすのだったら20mくらいまでは届かすことができるよ』

 

『ふむ、指向性を持たせることも可能か……ますます興味深いな』

 

『こうやって紅茶を飲んでいてもお話しできるのが便利だよ!』

 

『ああ、そうだな』

 

『……優奈、食事中のお話はほどほどにね。あまり行儀良くはないわよ』

 

『……はぁい』

 

 優奈は肩をすくめる。

 しばらくはそんな感じで雑談をして過ごした。

 

「……さてと。それじゃあ、今後の話をしようか」

 

 紅茶を飲んでお茶会が一息ついた頃、父さんは俺に向き直って口を開いた。

 

「幾人、お前の選択肢はふたつある――如月幾人として生きるか、それとも全く別人として生きるか、だ」

 



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幾人のこれから

 父さんは俺には選択肢が二つあると言った。俺が如月幾人として生きるか、全く別人として生きるか。

 

「その選択肢なら、幾人として生きたいと思うけど……」

 

 だけど、俺の父親は理由も無くこんな聞き方はしてこない。幾人として生きる以外の選択肢があるということはそうするメリットがあるはずなのだ。もしくは……

 

「俺が幾人として生きるには、どんなデメリットがあるの?」

 

 父さんは俺の問いに満足したようで話を続ける。

 

「お前が幾人として生きるためには異世界と魔法のことを公表して周知させる必要がある。何故だかわかるか?」

 

「俺が幾人だって主張しても誰も信じてもらえないからだろう? 身内ならともかく、今の俺が幾人である客観的な証拠なんてまるでないもんな」

 

「そうだ。常識を覆す存在である異世界と魔法を証明することができれば、お前は幾人としての権利を取り戻すことができるかもしれない」

 

「広めるんだったら、あたし動画サイトやSNSで拡散するよ!」

 

「――だが、その場合、お前は日常を失うことになる」

 

「……有名人になっちゃうってこと? 嘘、身内から芸能人が出ちゃうとか!?」

 

「有名にはなるだろうな。何せ魔法の存在は人類の根本をひっくり返す可能性のある概念だ。もし、魔法の解析に成功したなら、間違いなく人類史にお前の名前は残るだろう」

 

「……つまり?」

 

「体の良いモルモットだな。生活と収入は保障されるだろうが、実際の立場は実験動物と大差ない。世間から完全に隔離され実験される日々が待っているだろう」

 

 想像していたものと全く異なる答えで優奈は顔を蒼くしていた。

 まあそうだろうな、と俺は現実を受け入れる。

 

「そんな、酷い……」

 

「そうせざるを得ない。万が一施設を出られたとしても、お前は世界中からその身体を狙われることになるだろう。それだけの価値が魔法にはあるからな」

 

 まあ、何とも。

 

「……あまり楽しくなさそうな未来予想図だな」

 

「付け加えるなら、地球人は魔力が無いということだが、異世界人との間に生まれた子供はどうかと考える奴は出てくるだろう……その結果がどうなるかは想像に任せる」

 

「……つまり、俺が幾人として生きることは諦めた方が無難ということかな」

 

「お前が人類の進化のために自らを犠牲にしても構わないという心境にまで至っていたなら、一考くらいはしたかもしれないが」

 

「じゃあ、残りの選択肢について聞いていい?」

 

「お前は全くの他人として生きることになる……そうだな。外国で家族ぐるみで親しくしていた家族がいて、両親が亡くなり遺児である娘を引き取ったとかそういう風になるか。それで日本に戸籍を用意する」

 

「そんなことできるの?」

 

「父さんは一応海外でそれなりのコネを作ってきたからな。日本政府が調べてもボロが出ない正式な経歴を用意してやる……細かい調整は俺に任せておけ」

 

 ……何というか。自分の父親ながら無茶をする。

 

「すまないが、書類上は義理の親子になる――本当は俺とだけでも血がつながった関係にできなくはないのだが……」

 

 父さんが海外で誰かに産ませた子供を引き取るという形だろう。そうすれは、父さんの子供にはなるが、海外で浮気をして子供を作ってしまったという不名誉な事実がつくようになる。

 父さんは年頃の子供を持つ親としてはどうかと思うほどに母さんとラブラブなのだ。

 

「有りもしない家庭内不和を他人に勘ぐりされるくらいなら、義理の親子で充分だよ」

 

「たとえ、表向きが変わったとしても、お前が俺達の実の子供であることは変わらない……それだけは覚えておいてほしい」

 

「ああ、わかってる……ありがとう父さん」

 

「日本に戻ってきたら学校に通ってその間に自分の道を見つけるといい」

 

 もう一度、学校に通えるのか……半分諦めていただけに正直嬉しい。

 

「大筋はこんなところだ。幾人、お前はどう思う?」

 

「これだけ考えてもらっておいて是非もないさ。俺は父さんの方針に従うよ」

 

「……他に意見がある人は?」

 

「パパ、お兄ちゃんはどこの学校に通うことになるの?」

 

「平山高校が第一候補だな。少しの間でも幾人が通っていた学校だし、優奈も居るからフォローも利く。もし入学が決まったら、優奈と一緒のクラスにしてもらえるように働きかけようと思う」

 

「同じクラス!? 俺は二年生になるんじゃ……」

 

「どうせ戸籍は新しく作ることになるんだ。だったら、実際の年齢に拘る必要はないだろう。それに、お前は2年生になって1年間の勉強の遅れを取り戻せるのか?」

 

 俺は言葉に詰まる。高校1年間の授業をすっ飛ばして二年生から始めるのは中々に大変なことのように思えた。

 それに、高校二年生の二学期といえば、もう大学受験も視野に入れないといけない時期だ。

 

「ちなみに、次点の候補は中学三年生からやり直すという選択肢だ」

 

「そ、それは、ちょっと……」

 

 正直勘弁してほしい。精神年齢16歳の俺が今更中学校に通うのは辛すぎる。そりゃ外見的には中学一年生でも十分通じると思うけど……

 

「お兄ちゃんと一緒のクラスかぁ……ふふ、いろいろ楽しそう!」

 

 優奈はやけにご機嫌のようだった。

 

「……わかった。優奈と平山高校(ヒラコー)に行くことにするよ」

 

 平山高校に再入学して一年をやり直す。現実的に考えてそれが一番に思えた。妹と一緒のクラスというのも、兄としての心情的なことはともかく、体の事情を知る相手がいるという点で心強い。

 

「それじゃあ、誕生日は一年遅らせた2月10日で問題ないな」

 

 ……問題ありまくりだ。

 

「異議あり。それじゃあ、俺より優奈が先に生まれたことになる……誕生日を2ケ月遅らせるとかじゃだめかな?」

 

 俺の誕生日は2月10日、優奈の誕生日は翌年の2月8日で、兄妹の誕生日は一年も開いていない。だから、丸一年誕生日がずれると生まれが前後してしまう。兄としてそれだけは避けたい。

 

 そんな俺の希望に対して母さんは一刀両断で却下だった。

 

「2月10日は私が貴方を産んだ大切な日よ、そして、あなたの名前に由来する日でもあるの。だから誕生日は変えてほしくないわ」

 

 母さんにそう言われるとぐぅの音もでない。

 ただでさえ親不孝なことをしている自覚がある。

 

「往生際が悪いよお兄ちゃん。観念してあたしの妹になるといいよ!」

 

 もはや、妹の下剋上を阻止することは不可能のようだった。

 

「……わかったよ」

 

 俺は力無く項垂れた。

 

「大丈夫、お姉ちゃんに任せなさいって! 悪いようにはしないから」

 

 公の設定で俺の姉になることが決定した優奈は、自分の胸を叩いてアピールした。

 

「それじゃあ、次は名前を決めよう。養子になるから苗字はそのまま如月の姓を名乗るようになる。だが、名前は新しく考えなくてはいけない」

 

「ねぇ、パパ。アリシアのままじゃ駄目なの?」

 

「アリシアは幾人の中に居るのに、幾人のことをアリシアと呼んだら紛らわしいことになるだろう?」

 

「そっかぁ……うーん、外国人っぽい名前がいいんだよね?」

 

「改名したことにしても良いから、別に日本名でも大丈夫だが……今の幾人の姿だとあまり日本人っぽい名前でも違和感があるな」

 

「となると、外国人でも日本人でも通じるような名前がいいのかな? マリアとかセナとか」

 

「それが良いかもしれないわね。どんな名前があるかしら?」

 

 それから、家族でいろいろな案を出し合う。

 ちなみにイクトの響きを残す試みはすぐに諦めた。イクとかイクティアとかイクナトスとか候補が出たが、どれも微妙に思えたからだ。

 それに、俺が幾人であることは余人に周知するようなことでもない。魔法さえばれなければ大事にはならないだろうが、無理にリスクを冒す必要もなかった。

 

 うーん……難しいな。

 

 家族で候補を挙げていくが、どれもピンと来るものがない。

 名前決めは一旦保留しておこうかという空気になりかけた頃、

 

「アリシアは何か意見は無い?」

 

 と優奈がアリシアに話を振った。

 

『わたしは、あまりこちらの名前のことはわかりませんから……』

 

「大丈夫、とりあえず案を出してくれるだけでも助かるからさ。響きとかはこっちで判断するし」

 

 俺がそう補足すると、アリシアはやがておずおずと答えた。

 

『アリスというのはどうでしょう……?』

 

「それいいねっ!」

 

 アリシアの提案に真っ先に反応したのは優奈だった。続いて他の家族も賛同する。

 

「そうね、アリスなら日本人でもいる名前だし、街中で呼んでも違和感は無いと思うわ」

 

「……ふむ、不思議の国のアリスか。異世界に行って体が変化してしまうという体験をした幾人の名前としてはエスプリが利いてて良い名前じゃないかな」

 

「アリシアの名前の響きが残ってるのも良いよね!」

 

 と優奈。そう言われると確かにそうだ。

 

『あ、いえ、別にそういう意図は……』

 

 アリシアは慌てて否定するが、俺としてはアリシアの響きが残る名前っていうのは嬉しく思える。

 

「アリス……」

 

 俺は口に出してつぶやいてみる。……なんだかしっくりくるような気がした。

 

「よし、決めた! アリスにするよ」

 

 俺は宣言する。

 『如月アリス』、それが俺の新しい名前となった。

 名前を漢字にするかは迷ったが、どの字でも少し仰々しくなるような気がして、カタカナにすることで落ち着いた。

 



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これからのこと

「あちらの準備が整うまで1ヶ月くらいかかるだろう。それからこちらで編入の手続をするから、幾人は二学期から通学するようになると思う」

 

 今は6月だから2ヶ月くらい余裕があるのか。何をしよう? アニメや漫画を見る他に何処か小旅行とか行けたりするかな……可能なら修学旅行のリベンジとかしてみたい。

 

「やらないといけないことは多いぞ。まずは、転入試験の準備だな」

 

 俺の中でのウキウキは一瞬で霧散した。

 

「……転入……試験……?」

 

「当たり前だろ? 高校には試験を受けなくては入れない」

 

 想像もしていなかった。昨年高校受験が終わって肩の荷が降りたばかりだってたのに、もう一度だなんて……

 

「後は高校の一学期分の範囲の勉強だな。入学したはいいが勉強についていけなければ話にならないからな」

 

 ……それだけでも結構大変ですよね?

 

「後は言葉遣いと仕草を直さないと。いつまでも男の子のままじゃみっともないわ」

 

 と、母さん。

 

「……直さないとダメ……かな? ほら、ボーイッシュな娘とかいるし」

 

「男性的な女性と、所作がガサツなのとは別物です。完璧な女性になれとは言いませんが、世間に出る以上、女性としてみっともないような真似は私が許しません」

 

「ふふふ、お兄ちゃん頑張って!」

 

「他人事じゃないですよ優奈? あなたも年頃の女性なのに行動が大雑把なことが多いのが目につきます。この際ですから、幾人と一緒に直しなさい」

 

「うげ……地雷踏んじゃった……」

 

 巻き添えを食らって注意される優奈。

 ……ふん、他人の不幸を笑うからだ。

 

「と言っても、女性らしくと言っても俺は一体どうしたら……」

 

「まずは、一人称は俺ではなく私にする。それから、乱暴な言葉遣いをやめること、これだけでも大分違うと思うわ。後は優奈の話すのを見倣って徐々に身につけるようにするといいわ」

 

「う……それってもしかして家でも?」

 

「もちろんです。あなたは外出して他人と話す機会なんて多くないのだから、家族で慣らしていくしかないでしょう?」

 

「……わかった、気をつけるよ」

 

「合わせてあなたの呼び方も今後はアリスで徹底するようにします。こちらも慣れておいた方が良いですから。みんなもそれでいいわね」

 

 かくして、16年間付き合ってきた幾人という名前と、呆気なく別れを告げることになった。

 

「……がんばろうね、アリス!」

 

 何から何まで前途多難。ようやく定まった日常に向けての方針だけど、その前にこなさないといけない課題の多さに俺は思わず溜息をついてしまう。

 

 ……え? 一人称が私じゃないって? ……心の中で思うくらいは勘弁してほしい。

 

 それから夕食まで俺は優奈と転入試験の対策をした。

 ホームページで調べたところ、転入試験の実施は7月29日、試験教科は国語、英語、数学、それから面接があるらしい。

 転入資格について父さんに聞いたら、それは心配しなくて良いとのことだった。日本人の血を四分の一引くクォーターである設定上の俺は現地の日本人学校に通っていて、高校の一学期までの単位はあちらで取得していることになるらしい。

 試験内容はほぼ高校受験と同じ、つまり中学生の頃勉強した範囲となる。

 一年間も勉強から離れていた俺は大分頭から抜けていて、先日まで受験生であった優奈の助けがあるのは正直頼もしかった。……何気に優秀なのだ、この妹。

 

「……優奈ってここまで勉強できるのに、どうしてヒラコーに行くことにしたの?」

 

 優奈の頭ならもっと上のレベルの学校を目指せたはずだ。

 

「家から近いし、お兄ちゃんも行ってた学校だったから。それに、ほら、当時あんまり受験勉強に集中って気になれなくて……」

 

 優奈は顔を逸らして言いづらそうにする。

 それで気がついた……俺のせいだ。

 

「ごめんね、私のせいだよね……受験で一番大事な時期に居なくなってしまったから……」

 

 申し訳なくなって俯いていると、頭に何か柔らかい感触が――優奈の手が俺の頭の上に乗っていた。

 顔をあげるとにっこり笑った優奈が俺を見ていた。

 

「ほんと、気にしないで。平山高校(ヒラコー)選んだのはあたしなんだから。ここの制服かわいいしクラスもいい人が多いから、全く後悔なんてしてないもん!」

 

 ……そうか、学校を楽しめているなら良かった。

 

「それに、平山高校(ヒラコー)に行ってたからこうやって、アリスのお手伝いもできて一緒に学校生活がおくれるんだから。それって本当に嬉しいんだ、あたし」

 

 そんなことを言いながら優奈は俺の頭を撫でる。

 感情が昂ぶって頬が熱を持つのを感じる……あぶない、優奈が妹じゃなかったら惚れてしまうところだった。

 

「……ありがとう、優奈」

 



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アリスのお勉強

 勉強を進めていく中で分かったのはアリシアの規格外の優秀さだった。

 全く知識の無い状態から、しばらく俺と優奈の会話を聞いて、幾つか質問をするだけで、文字式を含む計算問題とか、方程式を理解できるようになるなんて、いったいどんな頭の構造をしているのか。

 

「アリシア、あなたすごいわね……」

 

『そんなことないです、ユウナの教え方が上手なだけですよ』

 

「謙遜も過ぎると嫌味になるよ……一年でいろいろと忘れてしまってる。私、大丈夫なのかな……」

 

 俺の方は散々たる状態だった。一年全く勉強せず体を鍛えてた間に、方程式は異世界の彼方に吹き飛んでしまっていた。

 

「……今からアリスに教えなおすよりも、アリシアに最初から教えた方が早いかもしれないね」

 

 俺も薄々そんな気もしてたよ!?

 ……でも、

 

「それは、不正になっちゃうじゃないか……」

 

 アリシアに助けられて試験を受けるのはルール違反だろう。

 

『試練はちゃんと受けないと本人のためにならないのですよ?』

 

「……まあ、そうね。これから高校の範囲も勉強するのに中学の範囲が頭に入ってないと話にならないもの」

 

「……今日の勉強はこれくらいにしておきましょうか。明日から本格的にやっていくからね」

 

「……ありがとう……優奈……」

 

 なんだかんだで俺のために手間を尽くしてくれる優奈には感謝している。

 

「それじゃあ、次は身だしなみね! お湯入れといたから一緒にお風呂入るわよ。いろいろ教えてあげるから」

 

 ……は?

 

「……いや、いや、それはありえないでしょ。私と優奈が一緒にお風呂だなんて、いくらなんでも……」

 

「あのねぇ、アリス。あなたはもう女の子なんだから、女の裸にいちいち動揺するのはおかしいの。だから、まずはお姉ちゃんの私で慣れなさい」

 

「……いや……でもさ……」

 

「それに、どうせ男の頃のように大雑把に体洗ってるんでしょ? 昨日だってアリスってばカラスの行水だったじゃない」

 

「そ、それは……」

 

『幾人さん、ユウナの言う通りだと思いますよ……あきらめましょう?』

 

 ……やばい。このふたり確実に組んでやがる。昨晩何を打ち合わせやがりましたかね。

 俺はつい先日までやりたい盛りの男子高校生だったんだぞ。いくら妹だからといって女子高生の裸を意識するななんて難易度ベリーハードすぎんぞ!? そんなにすぐに割り切るだなんて無理だから!

 

 抵抗虚しく、俺は着替えを持って洗面所にいた。

 普通より広めに作られた洗面所だが、二人で着替える場所としてはやや狭い。俺は優奈を気にしながらゆっくりと服を脱いでいくが、優奈は堂々とした脱ぎっぷりで、早々に下着姿になった。

 優奈の下着は薄桃色でツヤツヤした素材の上下揃いで、刺繍の施された大人っぽいものだ。今日俺が買った綿の女児下着とは明らかに一線を画していた。

 優奈はそのまま流れるようにブラを外し、片膝を曲げてショーツを脱ぎ去った。

 そのまま脱いだ物を洗濯機に投げ入れて、洗面所の鏡に向き合うと、鏡越しに様子を盗み見ていた俺と視線が合う。

 

「どーよ、この私のプロポーションは! ……成長したでしょ?」

 

 優奈は俺の視線に気づいても恥じらうことなく、逆に見せびらかすように手を腰に当てて胸を張る。

 

『ユウナきれいです……』

 

 俺は黙って頷いてアリシアに同意する。

 正直なところ目が釘付けになっていた。

 堂々と晒された優奈の肢体は健康的な色気に満ちていて、俺の部屋の本棚の奥に隠された雑誌のヌードグラビアなんかよりもよっぽど綺麗だった。

 張られた胸の膨らみはなだらかに美しいカーブを描いており、その尖端にはツンと膨らんだぽっちりが存在を主張している。そこから腰にかけてのラインも芸術的な曲線で構成されている。股間にかけて生え揃った茂みは整えられていて、すっかり大人の女性といった印象だ。

 さらに、昨日修復した髪はカラスの濡羽色で、清楚系美少女っぷりを際立たせている。

 これが妹じゃなければ、俺のような童貞には刺激が強すぎて卒倒してたかもしれない。

 

「アリスも早く脱いでよね?」

 

 ぼうっと見ていた俺に優奈が急かす。

 

「いや、見られてると脱ぎにくいというか……優奈は先に入らないの?」

 

「だって、アリスの脱ぐところ見たいし……」

 

「……!? なっ、なっ……!?」

 

「アリスも私の脱ぐところじーっと見てたじゃない。お互い様でしょ?」

 

 そう言われるとぐぅの音も出ない。あれだけ見ておいて自分だけ見るなと言うのは通じないだろう。

 

 優奈の視線を感じながら一枚一枚脱いでいく。

 ニーソとスカートは既に脱いでいたので、ブラウスの右前のボタンを苦戦しながら外して、脱ぐ。

 それから、肩からキャミソールの紐を抜いて落とした。

 ハーフトップとショーツ姿になった俺は自分の姿を鏡に映してみた。

 かわいいと思えた上下揃いの下着も、先程の優奈と比べたらいかにもお子様といった風体だ。

 バンザイをしてハーフトップを脱ぐと優奈とは比較すべくもない慎ましやかな膨らみが顕になる。

 なるべく優奈の視線を意識しないように最後の下着を脱ぎ取った。

 再び鏡に向かい合う。

 なだらかな胸、緩急の少ない腰のライン、そして毛の一本もうかがうことのできない股間。とても、優奈より年上の体だとは思えない。同い年という設定上の年齢にすら見えるのかすら疑わしい。

 

 ……そんな自分の姿に思わず溜息が出てしまうのだった。

 



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洗い場にて

 俺は優奈に背中を押されるようにして浴室に入った。それから、導かれるままにシャワーの前の椅子に座る。

 

「それじゃあ、髪の洗い方からね。まずは、髪を濡らす前に櫛で梳かすの」

 

 優奈はそう言って俺の髪に櫛を当てる。髪に触れられる感触が気持ち良い。途中で櫛を渡されたので、自分でも梳いてみるとさらさらと白銀の髪が流れていった。

 

「それから、お湯でしっかりと30秒くらい流してね」

 

 優奈はシャワーからお湯を出して温度を確認した後、俺の髪に当てた。

 心地よい温もりが広がる。優奈は髪を指で漉かしながらお湯を髪に浸透させていく。

 

「次はシャンプーを手で泡立てて、頭皮を指の腹でやさしく、マッサージするように馴染ませていって……あ、そんなの使っちゃダメよ? こっちを使って」

 

 今まで俺と父さんが使っていたリンスインシャンプーはそんなの扱いされた。優奈に言われたシャンプーを手に取り泡立たせて頭につけていく。優奈の髪と一緒の良い香りが漂ってくる。

 

「その後は、毛先にも泡を行き渡らせて優しく洗い上げるの」

 

 髪に泡立たせたシャンプーを行き渡らせる。長い髪はそれだけでかなりの手間だ。

 

「終わったらシャワーで綺麗に洗い流してね」

 

 再びシャワーを髪にあててシャンプーを洗い流していく。

 

「シャンプーが終わったら次はコンディショナーを毛先から半分くらいまでつけて――そうそう毛穴には、つかないように。それが済んだらシャワーで流して髪はおしまい」

 

 俺は優奈に言われるままにやり終える。

 

修復(リペア)があるし、ここまでしなくてもいいんじゃないかな……」

 

「結果として傷んでしまうものは仕方ないけど、最初から傷めても構わないだなんて、女の子が髪をそんな扱いしちゃダメよ!」

 

「……はぁい」

 

 言いたいことは分かる気がする……ただ、ちょっぴり面倒くさいと思ってしまうのだ。

 

「次は体ね。今まではどうやって洗ってたの?」

 

「そこの垢すりタオルにボディソープつけてごしごしーっと」

 

「何やってるの! そんなことしたら肌が痛んじゃうでしょ!?」

 

「うん、肌が赤くなってひりひりしちゃって……だから、昨日は手で洗ったんだ」

 

「……手で洗うってのは良いと思うわ。アリスは肌が敏感みたいだし。そういえば、アリシアはどうやってたの?」

 

『わたしは水で流すくらいでした、肌や髪が痛んだら修復(リペア)してましたので……』

 

「全く、あなた達はもう……あたしが見本見せるから一緒にやって覚えてね」

 

「わかった」『わかりました』

 

「まず、体を洗う前にシャワーで体をしっかり洗い流す。といっても、普通は髪を洗うときに一緒に体も流すから気にしなくていいわ。……本当は髪を先に洗ってから体を洗わないといけないんだけどね」

 

 そう言いながら、優奈はシャワーで自分の体を流す。一般家庭である我が家の浴室にはシャワーはひとつしかない。優奈と一緒にシャワーは使うのは無理だった。ついでに洗い場も2人で使う分にはやや狭く頻繁に肌が触れ合ってしまっている。

 

「次はボディソープを少し手にとって泡立たせてから体を洗っていくの。汗のかきやすいところとか、汚れやすいところとかは念入りに、でも擦ったりはしないで優しくね」

 

 そう言って優奈は泡立たせたボディソープを自分の体に塗り広げていく。

 優奈の手が彼女自身の肌を這いまわる様子はとても艶めかしくて、なんだかいけないものを見ているような気分になる。

 

 そんな気持ちに当てられてしまいそうだった俺は、自分がすべきことを思い出して、同じようにボディソープを手で泡立たせて自分の体に塗り広げていく。

 

 首筋、肩、腕、脇、……胸……、お腹、お臍、腰、……足のつけ根……、ふともも、ふくらはぎ、足元。

 

 ……目の前の優奈の動きに合わせるように自分も無心に手を這わせていく。

 

『……んっ……』

 

 くすぐったいのか、時折アリシアの吐息が溢れているが意識しないことにした。

 お風呂にまだ浸かってもいないのに、体がのぼせたように熱くなっている気がする。

 

 ……少しシャワーに当たり過ぎたのかもしれない。

 

 一通り洗い終えて一息ついていると、俺の様子を見ていた優奈から指摘が入る。

 

「……アリス、お股の間はちゃんと洗った?」

 

「……そ、それは……その……」

 

 ツッコミをうけて俺は頭が真っ白になる。体を洗うときに優奈がソコを洗っていたのはわかった。だけど、そのことに気づいた俺は慌てて優奈から視線を逸らしたので、それ以上は見ていない。

 

 だから、そこをどうやって洗ったらいいのかなんて分からなくて……表面をこわごわと撫でるくらいしかしていない。

 

「恥ずかしい気持ちはわかるけど、ここは汚れやすいところなんだから、しっかり洗わないと……」

 

「……で、でも……私……そんなこと……」

 

「ちゃんと洗わないと(にお)っちゃうよ?」

 

「……それは、嫌だ。でも、俺は触ったことなんてトイレのときくらいで……本当にどうしたらいいか、わからなくて……」

 

 俺は思わず涙目になってしまう。

 変に触って傷つけてしまったらどうしよう? 処女膜とか破れたりするんじゃないか。

 けど、俺のせいでアリシアのそこが臭ってしまうのは嫌だ。

 

「はぁ……アリスが嫌じゃなかったら今日だけ私が洗ってあげてもいいけど……どうする?」

 

「……お願い」

 

 自分が触るのを回避できるならと、そのときは藁をもつかむ思いで言った。

 だけど、冷静になって思い返すととんでもないことをお願いしてしまってたね。

 

 ……その後のことは正直思い出したくない。

 

 ボディソープを泡立たせた指の感触を甘く見ていたよ、俺は。

 優奈は俺の様子に気づかないふりをしてくれてたのはありがたかったかな、うん……

 



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二日目の夜

 洗い場で開けてはいけない扉を開きかけた俺は、その後、優奈と二人で浴槽に入っていた。

 うちのお風呂は二人で入るには狭いので、俺は優奈の膝の間に割り込むようにして入っている。格好は所謂体育座りで顔の下半分までお湯に浸かった状態だ。

 ちなみに髪は二人共タオルで包んで湯船に浸からないようにしているので、昨日のように貞子のようになってはいない。

 

『……ねぇ、アリシア……記憶を消す魔法って、ある?』

 

『記憶操作、確か闇魔法にそんなのがあったと思います……ですが、闇魔法の適性が無いイクトさんが使うのは難しいと思います。魂を魔力に変換して注ぎ込めばあるいは……』

 

『魂か……』

 

「というか、あなた達何を物騒な話をしてるの……さっきのが恥ずかしかったのはわかるけど、そんなことで魂を代償にしようとするんじゃないわよ……いい加減立ち直りなさい」

 

 浴槽に体を横たわらせて、開けっぴろげにして寛いでいる優奈が呆れた口調で言う。

 

 さっきの痴態を思い出して、いたたまれない気持ちで一杯になって、俺は両手で抱えた膝をより強く抱きしめた。

 

「だいたい、あたし達は家族なんだから、お互いの恥ずかしいところなんていくらでも知ってるでしょ。それがひとつ増えたところで、大したことなんてないわよ」

 

 後ろから手が伸びてきて優奈に抱きかかえられて、俺は思わず体を竦める。

 

「ひゃぅ……!?」

 

 柔らかさに体が包まれる。特に後頭部にあたるふたつの膨らみの存在感は格別で、押し潰される感触が肌にダイレクトに伝わってくる。

 

「アリスはずっと男の子だったんだから、女の子のことでわからないことや失敗してしまうこととか一杯出てくると思う。だけど、アリスが女の子になったばかりなのを知ってるのは家族だけだから。親には話しづらいこともあるだろうから、あたしには遠慮しないで話してほしいんだ」

 

「……優奈」

 

「どんな相談だっていいよ。恋愛相談とかも大丈夫だから! ……相手が女の子でも男の子でも、うん……あ、でも、変な男に引っかからないように気をつけて。男はね、狼なんだよ? 体目当てで言い寄ってくるような奴がほとんどなんだから」

 

「……いや、私はついこないだまで男だったから、男がどういう視線で女の子を見てるのか優奈よりは判ってると思うからね……?」

 

 男の大半は彼女になってほしいと声をかけるのだろうから、体だけが目的ってのは逆に少ないんじゃないかなぁ……けど、男子高校生が付き合ってしたいことで一番はセックスだろうから、体目当てであながち間違っていないのは悲しいな……

 

「今まではお兄ちゃんがあたしのことを守ってくれてたからね。これからは、あたしがお姉ちゃんなんだから、アリスのことはあたしが守るよ」

 

 優奈に抱きしめられる力が強くなる。

 

「……だから、もう居なくなったりなんてしないでね」

 

 震えるような声で優奈は言った。

 背中の彼女がどんな表情をしているのかわからない。

 

 ……思い返せば優奈はお兄ちゃんっ子だった気がする。

 この一年で俺は彼女にどれだけ辛い思いをさせてしまっていたのだろう?

 優奈が過剰にお姉ちゃんぶって俺に構いたがるのもその反動なのかもしれない。

 だとすれば俺は……

 

 俺は体の力を抜いて背中の優奈に体を預けてもたれかかる。

 

「……分かった。約束するよ……お姉ちゃん」

 

 素直に優奈の厚意を受け入れて、俺は妹になることにした。

 (イクト)として(ユウナ)を守る必要が出るときまで、しばらくお兄ちゃんは休業しよう。

 

   ※ ※ ※

 

 その後、優奈が髪を洗ってから二人でお風呂から出る前に洗顔をした。お風呂上がりに髪を乾かすのが大変と言う優奈に対して、アリシアが教えてくれた乾燥(ドライ)で瞬時に余分な水分を飛ばしたらまたズルいと言われた。「優奈は使わない?」と聞いたら、「勿論使うわよ」との返答も前と一緒だった。

 

 お風呂から出ると夕飯の準備が出来上がっていた。ホットプレートを使った焼き肉パーティーだ。

 ちょっと奮発をした和牛の肉を買ったようで、柔らかく肉汁もたっぷりなお肉は最高だった。焼き肉のタレのかかったお肉をご飯と一緒に食べたときに特にアリシアは感動していたみたいで、念話で延々と聞こえる感嘆の声に対して、家族みんなが温かい視線で見守っていた。

 

   ※ ※ ※

 

 ご飯も終わって、俺は自分の部屋に戻ってベッドに体を横たえる。昨日に引き続いて色々なことがあった。異世界から戻ってまだ二日目だというのが信じられないほどだ。

 俺は念話を切ってアリシアと二人で話をする。

 

『アリシア……話をしていいか?』

 

『勿論ですけど……口調がイクトさんに戻ってますよ?』

 

『二人の間で話をするときくらい勘弁してくれよ。アリシアと二人のときくらいアリスじゃなくて幾人でいたいんだ、俺は』

 

『わかりました。それで何か用事ですか?』

 

『用事ってほどじゃないんだけど……いろいろと相談せずに決めちゃったことも多かったからさ。アリシアはそれで良かったのかなぁって思って』

 

『もうこの体はイクトさんのものなんですから、わたしのことを気にする必要なんて無いって、何度も言ってるじゃないですか……』

 

『でもなぁ……』

 

『そんなことよりも、明日から勉強を頑張らないと。いろいろ覚えないといけないこと多いんですよね?』

 

『うう、憂鬱だ。がんばって受験勉強してやっと受かったのに、もう一度やり直しだなんて』

 

『わたしも一緒にやりますから、試験に受かるように頑張りましょう!』

 

『……がんばるよ』

 

 まあ、魔王を倒すよりかは気楽にこなせるはずだ。仕損じても命を失うこともない。

 平穏無事な学校生活に思いを馳せているうちに、俺はやがてやってきた心地よい眠気に身を任せた。



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葬儀(その1)

 日本に戻って半月ほど経ったある日、俺は葬儀に参列していた。

 他でもない俺自身の葬式である。

 とはいえ、行方不明となっている如月幾人が法律上死亡扱いされるには後六年待たないといけないようで、この葬儀は世間に対して我が家は幾人を死亡したものとして扱うと宣言する、区切りのために行うセレモニーとなる。

 フェリーから転落して丸一年以上経っているのだ、とっくに亡くなっていると考えるのが普通だろう。だが、俺の家族は僅かな生存の可能性に縋って葬式はあげないままにしてあった。そして、(アリス)が現れたことでその可能性も消えた。

 

 葬儀は自宅で行い、基本的に身内だけを呼ぶひっそりとしたものになった。

 片付けられたリビングには花で飾られた祭壇が据えられていて、その中心には去年高校の入学式に撮った物を加工した俺の写真が飾られている。

 写真の中の俺は生真面目そうな仏頂面をしていて、こんな風に飾られることを不服に思っているようにも見えた。

 

「この度はご愁傷様です」

 

 見覚えがあるが名前を思い出せない親戚のおばさんが俺に話しかけてくる。

 

「……恐れ入ります」

 

「貴女が手紙に書いてあったアリスさんね。幾男さんから聞いているわ」

 

 今回の葬式に際して親戚縁者に送った手紙には、幾人が亡くなったことと、海外で身寄りを亡くした知人の娘であるアリスを我が家で引き取る旨の報告が書いてある。

 今回の葬式の目的の一つとして、アリスを親戚たちにお披露目することがあった。

 

「初めまして、如月アリスと申します。この度は義父様と義母様に如月家の養女としてお迎えいただきました。どうぞお見知り置きくださいませ」

 

「あらまあ、日本語が上手ねぇ……それにお人形さんみたいに綺麗。あなたもいろいろと大変だったんですってね……」

 

「はい……ですが、義父様にお情けを頂きまして、ここに居場所を頂くこととなりました。私は幸せ者です」

 

「小さいのにしっかりとした娘さんね……こうやって、幾人さんのことを受け入れることができるようになったのは、あなたのお陰なのかもしれないわね」

 

 事実その通りではあるのだが、おばさんが考えていることとは内容は異なっているだろう。

 俺は曖昧に微笑んで回答を濁した。

 

「おばさん、お久しぶりです」

 

 廊下から顔を出した優奈がおばさんに挨拶をする。

 

「あら、優奈ちゃん。お久しぶりー随分と女らしくなって」

 

「ありがとうございます。おばさんも相変わらず綺麗で、憧れます」

 

 優奈は自然に俺の側に近寄ってきて、俺の手を取って繋ぐ。

 

「あらあら、こんなおばちゃんをおだてちゃって……それにしてもそうやって並んでると本当の姉妹のようね」

 

「あたしアリスのこと本当の妹のように思っているんです! ……初めて逢ったときから他人のような気がしなくて」

 

「お姉ちゃん……」

 

 ここぞとばかりに仲の良さをアピールする優奈。

 幾人が亡くなりアリスを引き取ったことで、家庭内がぎくしゃくしているなんて噂が親戚に広まらないようにすることは重要なことだった。

 俺と優奈はお揃いの格好で揃えている。黒い半袖のプリンセスラインのワンピースにくるぶし丈の白の靴下。俺たちが姉妹であることを強調して印象付けることが狙いで、どうやらそれは成功しているようだ。

 ……同じデザインの服装なのに優奈は清楚なお嬢様に見えて、俺は背伸びして大人ぶってる子供にしか見えなかったのは少し悲しい。

 ちなみに俺が帰宅した日以降、優奈は髪を髪を染め直すことは無く黒髪のままにしている。俺と並んだときに黒と白で映えることが気にいったらしい。

 

 そのうちに母さんがやってきておばさんと話しだしたので、俺たちはリビングから出た。廊下に居た俺が見たのは意外な人物だった。

 

「佐伯先生……」

 

 それは去年俺のクラスの担任をしていた佐伯先生だった。今年は優奈のクラス担任になっているという話を聞いている。

 三十くらいの若い独身の男子教師で、頼れる兄のような印象を受ける快活な先生だった。だけど今日の先生の様子は普段の様子から想像できないような意気消沈とした姿だった。

 

「……? 俺のことを知ってるのかい」

 

「そ、その……お姉ちゃんに聞いて……」

 

 優奈が俺の後ろから顔を出して挨拶をする。

 

「こんにちは、先生。彼女はあたしの妹なんです」

 

「おう、如月か……すまない、お前の兄を死なせてしまったのは担任の俺の監督不行届だ」

 

「先生、この件は何度も話したじゃないですか。修学旅行の事故は兄自身の不注意によるもので、先生に責任は無いって……」

 

 熱心で真面目だった先生は、修学旅行中に起こった事故に責任を感じて何度もうちに謝りに来てくれたらしい。今回の事故は全くもって(イクト)の不注意だというのに、全くもって申し訳ない限りだ。

 

「本当に先生は気にしないでください。彼は自分の意思で展望デッキに行き不注意で足を踏み外したんです。先生が謝る必要なんてありません……ごめんなさい」

 

 不自然な行為だったとわかっているけれど、それでも俺は先生に謝らずには居られなかった。

 先生は、俺の軽はずみな行動で多大な迷惑を掛けてしまった一人だからだ。

 

 今まで見たことも無く血のつながりがあるように思えない妹にいきなり謝られた先生は何を思っただろう。

 どう返したらいいのか困っているの様子がひしひしと伝わってくる。

 

「この娘はアリスっていってあたしの義理の妹になったんです。二学期からうちの学校に転入したいと考えているので、そのときは妹のこともよろしくお願いしますね」

 

 見かねた優奈が助け舟を出してくれた。

 

「……そ、そうか……そうなったら、何でも頼ってくれて構わないからな」

 

 先生は首元に手を当てながら多少バツの悪そうにそう言うと、俺達とすれ違ってリビングに入っていった。

 冷ややかな視線で優奈が俺に肘打ちをしてくる。何やってんの、という無言の抗議が聞こえてくる。

 

「私のしたことでいろんな人に迷惑かけちゃってるんだね……」

 

「そんなの当たり前でしょ……しっかりと反省なさいよね」

 

 ……先生、本当にごめんなさい。



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葬儀(その2)

 参列者が座布団を並べて整然と座っている中、住職が上げるお経の音が居間に響いている。

 まだ若いのにとか、高校入ってすぐなのにとか、幾人を惜しむ声や啜り泣くような音がして、俺は何とも言えない気持ちになる。

 

『俺はここにいるんだけどな……』

 

 俺は心のなかで愚痴のような気持ちを零す。

 普通葬儀にあるはずの棺はここには無い。

 俺の肉体は異世界の魔王城で土手っ腹に大穴が空いた状態で朽ちているはずだ。

 そして、心はアリスとしてここに居る。

 

『イクトさん……大丈夫ですか?』

 

『んー正直ちょっと堪えてる。憐れまれるのもしんどいし、皆を騙している罪悪感もあるから……』

 

『イクトさんとして生きていくことができない以上、必要なことなんでしょうけど……自分自身の葬儀に参加するのって複雑な心境ですよね……』

 

『それが全部自分の不始末でやらかした結果だと思うと余計に、ね』

 

『あまりそういうふうに卑下しないでください。自分勝手な言い分だとは思いますけど、事故があったから、わたしはイクトさんに出会うことができました。イクトさんが水に囚われて意識を手放した状態だったから、わたしの祈り(転移魔法)がイクトさんに届いたんです』

 

 ……そうだったのか。

 

『イクトさんによってわたし達の世界は救われました。そのことは忘れないでください……その、イクトさんやご家族の皆様にとっては迷惑なことだったと思いますけれど』

 

『……そっか。そう考えると俺の失敗も結果オーライだったのかもな』

 

 それで、アリシアと出会えたというのなら。

 ここ一年間ずっと隣にいて俺を支え続けてくれた少女。異世界でいろいろ辛かったこともあったけど、今になってふと思い出すのは彼女との思い出ばかりだ。

 日本に帰ってきてからも寂しさや心細さをほとんど感じなかったのは彼女が居てくれたからだ。

 

 そう考えると随分と気持ちが楽になってきた。

 迷惑を掛けたという罪悪感は消えないし消してはいけないことだけれど……だけど、もし俺が過去に戻ることができたとしても俺は同じ選択を繰り返すと言い切れる。

 

 相変わらず続くお経をBGMにそんなことを考えていると、焼香の香炉が回ってきた。

 俺はそれを受け取って、自分の前に置く。

 部屋に立ち込めている特徴的な香の臭いが一段と濃く漂う。

 作法は他の人がしているのを見て憶えた。

 

 俺は身を正し、両手を合わせて祈り頭を下げる。

 

 16年間共に生きてきた自分(イクト)

 今までありがとう――そして、さようなら

 

 俺は右手の手前3本の指で抹香をつまむと、顔の高さまで掲げて祈り、指をこすって香炉に落とした。

 香ははらはらと香炉に落ちていく。

 

 ぽたぽたと水滴が落ちる。視界がぼんやりと霞がかったようになっていた。

 悲しいことなんて何もない。だけど、何故だか涙が止まらなかった。

 

   ※ ※ ※

 

 式が終わり住職が帰ると、祭壇は居間に移されて、リビングには長机が置かれて折り詰めの料理が並べられた。

 故人の思い出を話して送り出すための食事会が始まる。田舎の家にとって冠婚葬祭は、普段遠方に住んでいる親戚縁者が集まって近況を報告しあう貴重な機会でもあった。

 

 今回は年若い幾人(おれ)が亡くなったということで、全体的にしんみりとした雰囲気となっている。

 新しく家族の一員となった俺は、もてなす側として優奈と一緒にビールを運んだりお酌をしたり親戚の人達と話をしたりしていたのだが、ある程度落ち着いた頃を見計らって、俺達は客間に休憩がてら移動することにした。

 

 客間には先客が一人居た。

 葬式の間は数は多くないとは言え近所の人が来て線香を上げていくので、人がいること自体は意外なことではない。

 

 その人物は俺達がよく見知った相手だった。

 ウェーブの掛かった髪をポニーテールにして平山高校(うち)の制服を着た大人びた印象のある少女。神代(かみしろ)翡翠(ひすい)、蒼汰の双子の妹で、俺とは同級生になる。近所の神社に住んでいて、俺達は家族ぐるみの付き合いをしていた。小中高と一緒の学校で俺達兄妹4人で子供の頃からよく一緒に行動を共にしてきた仲だった。

 そんな彼女は、俺の写真が飾られた祭壇の前でボロボロと涙をこぼしていた。

 

「……幾人ぉ……なんで……ひっく、うぐ……」

 

 正座をして固く握りしめられた両手の甲に、こぼれ落ちるままに流れる雫。そんな彼女の様子に、俺は言葉を失ってしまう。

 

翡翠姉(ひすいねえ)……」

 

 優奈が声を声を掛けたことでこちらに気づいたらしく、翡翠は顔を上げてこちらを向く。

 

「……優奈ちゃん」

 

 視線の先に優奈を見つけた翡翠は少しだけ表情を柔らかくするが、隣に居る俺の姿を目に止めた瞬間表情がこわばった。

 

「……嘘」

 

 見知らぬ相手が出てきて驚いたのだろう。翡翠は目を見開いて俺の姿を見て固まっている。大人びて見られることの多い翡翠だったが、その実は結構人見知りが激しい。

 

「初めまして翡翠さん……私は如月アリスと申します」

 

「翡翠姉、この娘はパパが外国でお世話になった人の娘さんで、訳あって私の妹としてうちで引き取ることになったの」

 

「……あなた……誰……?」

 

 ……? 俺の名前が聞こえなかったのかな。

 

「如月アリス、優奈お姉ちゃんの妹になります。よろしくお願いします、翡翠さん」

 

「……なんで、そんな……」

 

 翡翠は口元を押さえて立ち上がり、まるで幽霊でも見るような表情で俺を見ている。顔は青ざめてふらふらと足元は覚束ない。

 

「――大丈夫か、翡翠?」

 

「……っ……!!」

 

 翡翠は小さく悲鳴のような声をあげると、入り口の俺達に当たりながら脇を駆け抜けて、玄関に向けて走り去っていった。

 

「翡翠……いったい、どうしたんだろ……?」

 

「翡翠姉はお兄ちゃんが居なくなってすごく落ち込んでいたからね……だから、葬式になって感情が爆発しちゃったんじゃないかな……?」

 

「……そうか」

 

 事が落ち着いて、いつか彼女にも本当のことが話せるといいのだけど……。

 彼女の表情を思い出して、俺は苦い気持ちを噛み締めた。



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葬儀(その3)

 翡翠が立ち去って、無人の客間に残された俺達はやや気まずい雰囲気だった。

 幸いその空気は長く続くことはなく、次に訪れた弔問客によって払拭された。

 

「優奈さんお久しぶりです」

 

 弔問客は蒼汰と翡翠の父親である神代(かみしろ)光博(みつひろ)。それから、その息子で翡翠の双子の兄である神代蒼汰の2人だった。

 

「本日は兄のためにありがとうございます」

 

「幾人さんの事は本当に残念でした……そちらの方は?」

 

 日本人離れした銀髪で、優奈と全く一緒の服装をしている俺はただの弔問客には見えないだろう。光博おじさんが疑問に思っても不思議じゃない。

 

「私は如月アリスと申します。訳あってこの度、幾男お義父様(とうさま)の養子となることになりました。今後お見知り置きくださいませ」

 

「アリスさんですね。私は神代光博、近所の神社で宮司をしております。こちらは私の息子で――」

 

「蒼汰さんとは先日お会いしましたよね……私のこと覚えていらっしゃいますか?」

 

「……ああ、そんなに目立つ容姿を忘れるわけねぇよ。そういえば俺のこと姉に聞いたとか言ってたっけか。まさか優奈のことだったとはな……」

 

「蒼兄も久しぶり。お兄ちゃんのために来てくれてありがとう」

 

 その言葉に蒼汰の顔が引き攣る。ここに来た目的を思い出したらしい。

 二人は無言で祭壇の前に並んで座ると一礼し、線香を一本ずつ手に取り燭台の蝋燭で火をつけ香鉢に刺した。

 俺の写真を見つめた後で目を閉じて両手を合わせて黙祷する。

 神職が仏になった俺に祈りを捧げてるのは少し不思議な感じがする。

 

「幾人……すまねぇ……」

 

 苦渋に歪んだ蒼汰から零れた台詞を、俺は見逃すことはできなかった。

 

「蒼汰さん……義兄(あに)は自らの不注意で亡くなりました……貴方が責任を感じる必要はありません」

 

 勝手に責任を感じられても困る。俺の死は完全に自業自得なのだ。

 突然俺から発せられた言葉に蒼汰は呆気にとられていたが、やがて反論してくる。

 

「あいつは悩んでたんだ。誰にも言うことができずに思いつめてあんなことを……俺が相談に乗ってやれていたなら!」

 

「何も変わりませんよ。義兄の死にあなたができたことなんて無いんです」

 

 俺は蒼汰の悔恨の台詞を言下に否定する。

 

「……お前、俺を馬鹿にしてるのか?」

 

「貴方こそ、義兄を馬鹿にしているんじゃないですか? あなたの友人の幾人は女に振られたくらいで、軽々しく命を投げ出すような考え無しの男だとでも?」

 

「……っ、お前に何が判る!?」

 

「あなたよりは解るつもりでいます。……大体、好きな人ができたら幾人があなたに一番に相談しないわけが無いでしょうに。そんなことも分からないんですか貴方は!」

 

「俺だってそう思ってたさ! だけど幾人は急に居なくなって、あいつが悩んでたって聞いて俺はっ!?」

 

「ふたりともいい加減にしてください」

 

 ヒートアップしていた俺達の言い争いは、光輝おじさんの一言で遮られた。普通の声の大きさで発せられた言葉だったが、言葉に込められた気迫は十分で、俺達は思わず押し黙ってしまう。

 

「ここは死者を祀る場所です……言葉を荒らげるような場所ではありません」

 

 光博おじさんは笑顔のまま、俺達にそう告げる。

 

「……おじさん、すみません」

 

 俺は騒いだことについておじさんに謝る。

 ……蒼汰に対して謝るつもりは無い。

 

「……優奈、すまなかった」

 

 蒼汰は優奈に対して謝った。あちらも俺に謝るつもりは無いようだ。

 

「それでは、用件も終わったことだし帰りましょう。お父さんとお母さんによろしくお伝えください」

 

「……はい。ありがとうございます」

 

 二人が立ち去って無人になった居間で、再び優奈から肘打ちをされる。

 

「やりすぎよ」

 

「……ごめん」

 

「まあ、気持ちはわからなくもないけどね」

 

 優奈は肩をすくめた。

 

   ※ ※ ※

 

 夜が更けて、参列者は三々五々と居なくなり、俺の葬儀は終了した。

 俺は自室に戻り、ベッドに入ってからアリシアに話しかける。就寝前のアリシアとの語らいは日課となっていて、このとりとめない時間は俺にとって大切な時間だった。

 

『アリシアは二人のことどう思う?』

 

『二人というと……ソウタさんとヒスイさんですか? 二人共イクトさんのことを大切に思っているように感じました。だからこそ、人一倍イクトさんの死にショックを受けてたのだと思います』

 

『……だよなぁ』

 

『お二人にイクトさんのことを話さないのですか?』

 

『……話したいとは思ってるんだけど正直迷ってる。蒼汰に話すなら蒼汰の彼女の嘘を暴くことになって、あいつの交際関係を壊しかねない。翡翠は……』

 

『イクトさんはヒスイさんのこと好きだったのですか?』

 

『……わからない。幼馴染としては勿論大切だったし家族を除けば誰よりも親しい異性だったことは間違いない。だけど、それが恋愛感情だったかどうかはよくわからなかったんだ』

 

『ヒスイさんは多分イクトのこと異性として好きだったんだと思いますよ』

 

『それは薄々俺もわかってたんだ。だけど、当時の俺は心地良い幼馴染の関係が壊れるのが怖くて気づかないふりをしてた。もし、それに自覚してしまったら変わらずにはいられなくなるから……』

 

『だから、正体を明かさないんですか?』

 

『だって、もう彼女が慕ってくれた幾人はいないんだぜ。だったら、今の俺が名乗り出たとして、それは、彼女に辛い思いをさせるだけじゃないのかなって……』

 

『……わたしなら、それでも生きているなら教えてほしいって思いますけど』

 

『……そうだな。翡翠に彼氏ができてほとぼりが冷めた頃に名乗り出ようと思う』

 

『なるべく早くそうしてあげてください……彼女はきっと待ってますから』

 

『それじゃあ、今日はそろそろ寝るね。おやすみ、アリシア』

 

『おやすみなさい、イクトさん』

 

 俺は目を閉じて自分の葬儀のあった一日を終える。

 

 今日をもって如月幾人という存在は名実共に居なくなり、俺は如月アリスとして生きることになる。

 どう考えても前途多難な道のりだけれど、アリシアと二人でならどんな試練でも乗り越えていける――そう思った。

 



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第二章 アリスとしての日常
純白の妖精


 俺は自室の姿見で、通学前の身だしなみの確認をしていた。

 今の俺の格好は紺色のブレザーにシックな赤系のチェック柄のスカートといった平山高校指定の制服で、俺にとっては馴染みのある服装だった。

 

「しかし、まさか()がこの制服を着ることになろうとはなぁ……」

 

 馴染みがあると言っても見る方で、着る方では決してなかった。以前の俺は男子として平山高校に通っていたのだ。

 3ヶ月ほど前に自分の身体を失った俺は、性別も名前も違う全くの別人である如月アリスとして平山高校に編入することになる。

 

『やっばり、サイズが大きいですね……』

 

 アリシアのため息が脳内に聞こえてくる。

 新品の制服は規定の一番小さいサイズだったが、それでもなお俺には大きかった。腕を真っ直ぐ下ろすと袖に手が隠れてしまって、なんともみっともない。

 そのうち大きくなるわよ、と母さんには言われたけれど、このまま成長しなかったら、ずっとこのままなのだろうかと少し憂鬱になる。

 そんな風に鏡とにらめっこしていると階下から俺を呼ぶ声がした。

 

「アリス、いつまで支度してるの! そろそろ、行かないと遅刻するわよー!」

 

「今行くー!」

 

 俺は返事をして机の上の鞄を手に取り自室を後にする。

 

 準備万端で俺を待っていた優奈は俺と同じ制服姿だけど、出るところは出ていて括れるところは括れていて、同じ制服なのにこんなに差が出るのかと現実を突き付けられて悲しくなる。

 

「人の顔見るなり溜息ついたりなんかして、どうしたの」

 

「いや、私の制服姿を優奈と比べてしまってさ……」

 

「……似合ってると思うよ? ちょっとぶかぶかなのが萌えポイントだね!」

 

「そんなポイントは要らないよ。私は格好良く着こなしたいの!」

 

「はいはい、アリスの言いたい事はわかったから……そろそろ出ないと遅刻しちゃうわよ?」

 

 優奈はぞんざいにそう言うと、俺に背を向け玄関に向かった。

 俺はやや不服に思いながら優奈の後を追う。

 スマホを取り出して時間を確認すると、確かに歩いて通学するには、そろそろ家を出ていないと危うい時間だった。

 

 玄関で靴を履いている優奈の横で、俺はスカートの裾に気を使いながら腰を下ろして自分の靴を履く。

 

「……アリス、あなた本当にそれを履いてくの?」

 

 背中から見送りに出てきた母さんの心配そうな声がする。

 

「もちろん!」

 

 それはこの日の為に購入したとっておきのローファーで、ヒールが4.5cmもある優れ物だ。先週買い物に行ったときに見つけて一目惚れして買ってもらった物だった。

 母さんや優奈は毎日履く物だから実用的な方が良いって言っていたけど、背が高く見られるってのも充分な実用性だと思う。

 

 俺は靴を履くと優奈と二人で母さんに向き直る。

 

「「いってきます!」」

 

「いってらっしゃい」

 

 俺達は自宅の玄関から外に出る。9月に入ったとはいえ、日射しはまだまだ厳しい。

 日焼け止めクリームは塗っているもののこんな日が続くようなら日傘も検討した方が良いかもしれないな……なにせ今の俺の肌は少し日に焼けただけでも肌が赤くなってひりひりするのだ。

 まあ、それくらいなら修復(リペア)で治癒できるからそれほど問題は無いのだけれど。

 それにしてもこうやって通学路を歩くと改めて視界の低さを実感する。なにせ、靴で上げ底してもなお、頭ひとつ分は縮んでいるのだ。

 一年ぶりの通学路は殆ど変わってなかったけれど、俺自身はすっかり変わってしまっていた。

 

『今日はまた一段と注目されてる気がします……何ででしょう?』

 

 通勤通学の人が増えてきた頃、アリシアがそう疑問を口にする。

 目立つ容姿の俺は今までも外出先で散々と視線を集めてきたが、今日はまた一段と注目をされていた。

 

『通勤通学っていうのは日常の光景だから、見慣れた制服を着た、見慣れない俺の姿に違和感を覚える人が多いんじゃないか?』

 

『なるほど……』

 

『まあ、すぐに慣れると思うよ。すぐに俺達の存在も日常になると思うから』

 

 通学にあたって髪の毛を染めたりウィッグをつけたりして目立たないようにするというのは考えた。実際黒髪のウィッグを着けてみたら、随分と周囲に馴染むような外見になることはできた。

 でも、結局地毛のまま登校することにしたのは、アリシアの綺麗な髪を隠したくないって俺が思ったからで、これは誰にも言っていないことだ。

 だから、その代償として多少目立つのは受けいれるつもりでいた。

 

 学校が近づくに連れて同じ制服の生徒が増えてくるが、誰もがやや早足で急いでいる様子だった。スマホを取り出してみると少しぎりぎりの時間だ。

 

「アリス、少し走るわよ」

 

 俺は優奈の言葉に頷いて返事をする。

 それを聞いてまず優奈が駆け出して、俺は後に続いた。

 

 校門には挨拶当番兼遅刻者締め出し役の教師がいて時計を確認していた。時間が来ると校門が閉められて、間に合わなかった者は遅刻者として記録されてしまうのだ。

 ただし閉められるのはチャイムが完全に鳴り終えてからなので、今の状態ならほぼ安全圏と言って良い。

 

「「おはようございます!」」

 

 教師に声を掛けながら、俺達は校門を駆け抜けて、速度を緩める。

 そのときだった。

 慣れないヒールの高い靴を履いていた俺は、安心感による油断もあり足をもつらせてしまう。

 

「ひゃぅ……っ!?」

 

 俺はとっさに受け身を取る。手をハの字にして、肘が地面に付くと同時に床を叩いて衝撃を分散させて受けた。

 

「アリス! 大丈夫!?」

 

 優奈の心配する声が前からする。

 

「大丈夫……怪我は無いよ。ごめん、ちょっとどじった」

 

 うつ伏せのまま顔を上げて優奈に無事を伝える。身体に大した傷は無く、行動に支障はなさそうだ。

 

「ってアリス! ……あなた、格好!」

 

 言われて、恐る恐る振り返ってみる。

 刻限間近の校門には大勢の生徒がいて、皆固まったかのように一点を凝視していた。

 その先にはさっきの転倒で捲れ上がった俺のスカートが……

 

「ひゃぁーーーーっ!?」

 

 俺は飛び跳ねるようにスカートの後ろを押さえて立ち上がり、その場から言葉通り逃げ出した。

 

 ――後日、影で『純白の妖精』なる二つ名が自分についていると知ったとき、俺は泣きそうになった。

 

 それって絶対髪の色が由来じゃないだろー!?

 



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自己紹介

 俺のアリスとしての学園生活の第一歩は文字通り躓いてしまった。

 

「帰りたい……」

 

 今俺は廊下で担任の佐伯先生に呼ばれるのを待っている、いわゆる出番待ちの状態だ。

 転校初日は職員室に登校して、担任と一緒に教室の前まで来てから、ホームルームのときに呼ばれて教室に入る段取りとなっているらしい。

 父さんの工作の結果なのかはわからないけど、無事俺は優奈と同じクラスになった。

 教室内はざわめいている。転校生が来るという話は既に広がっているのだろう……願わくば今朝のことが広がっていませんように。

 

「それじゃあ、如月妹入ってこい」

 

 教室から俺の事を呼ぶ佐伯先生の声がして俺は教室に入る。

 ドアを開けると一瞬の沈黙の後、教室は爆発したような喧騒に包まれた。

 聞き取れた内容は、外人さんだとか、銀髪だとか、髪の毛が綺麗とか、小さいとか、かわいいとか、合法ロリだとか、一部微妙なものもあるが基本的に褒められているようでくすぐったい。

 教室は男女問わずで大盛り上がりをしている。

 

「お前ら静まれー! 気持ちは解るが如月妹がひいてるぞー!」

 

 佐伯先生がそう諌めると生徒たちの騒ぎはようやく収まりをみせて、俺は教室の中に踏み入れた。クラス中の視線が俺の一挙一動に注目しているのがわかる。

 

 転校初日にこれ以上失敗したくない。

 緊張するなぁ……

 

 真っ直ぐ歩いて教壇に登り、クラスメイトに背を向けて黒板に向かいチョークを手に取った。手を伸ばして黒板の上の方に書こうとしたが、真ん中くらいまでしか届かない。

 背伸びしているかわいい、なんてひそひそ声が聞こえてくる。

 縦書きは諦めて、黒板の中ほどに横書きで『如月アリス』と書き記した。

 

 振り返って教卓の後ろに立つと胸元まで隠れてしまったのて、横に立ち直す。両手をスカートの前に揃えて、クラスメイトに向き直り背筋を伸ばした。

 右手の奥、教室の端に小さく手を振る優奈の姿が目に入って少し安心した。

 深々と礼をしてから、挨拶の言葉を口にする。

 

「この度転入することになりました如月アリスと申します。皆さんのクラスメイトとして一緒に勉強をさせて頂くことになりました。同じクラスの優奈とは義理の姉妹になります。日本には3ヶ月前にやって来たばかりで不慣れなことも多いですが、よろしくお願いします」

 

 一気に挨拶を終えて深々と礼をすると、怒涛のような歓声が上がった。

 こちらこそよろしくだとか、かわいいだとか、抱きしめたいとか、結婚してくれとか。

 さっきも思ったが随分ノリの良いクラスのようだ……個人的にこういう雰囲気は嫌いじゃない。

 

「質問、質問!」

 

 男子の一人がこちらにアピールをしている。奥に座った佐伯先生の様子を窺ってみると、別段何も言わない風だったので、どうやらこのまま質問タイムにしてしまっても良いらしい。

 

「そちらの方どうそ」

 

「彼氏はいますか!」

 

 ありがちな質問だ。

 

「いませんし、作るつもりもありません」

 

 ばっさりとした返答に男子生徒は落胆したようだが、気にしない。下手に気を持たれても困るし。

 続けて手が上がるので、順番に指していく。

 

「外国の方なんですか?」

 

 と、女子生徒。

 

「はい、東欧の小さな国で生まれました。日本人の血が四分の一入っているクォーターになります」

 

「日本語が上手ですがどこで?」

 

 と、男子生徒。

 

「現地の日本人学校で学びました」

 

「はいっ! 如月さんと義理の姉妹ってどういうことですか?」

 

 と、女子生徒。この質問は、ややプライベートなことだから全体での質問のときには来ないかとも思ってたが渡りに船だ。

 

「半年前に私の両親が事故で亡くなって天涯孤独の身になって困っていたところ、以前より家族ぐるみで親しくしていただいてた優奈のお父様が私のことを養女として引き取ってくださいまして、私は優奈と姉妹になったんです……申し訳ありませんが、両親のことを思い出すので、生まれた国のことはなるべく触れないで頂けると助かります」

 

 なるべく暗くならないように、あっさりと設定の身の上を話す。

 くだんの国には単身赴任中の父さんを訪ねて何度か行ったことがあるくらいで、詳しく聞かれると設定にボロが出る危険が大きかった。そのため、生まれの国のことを触れられないようにこんな話をすることにしたのだ。

 

 効果は抜群で、盛り上がりを見せていた教室は水を打ったかのようにしんとしてしまった。ドン引きである。

 中でも質問した女生徒の落ち込みっぷりは深刻で、見ていて非常に申し訳なく思う。なにせ、今俺が言ったことは全部嘘八百なのだ。

 

「ご、ごめんなさい、ボク知らなくて……」

 

「気にしないでください、私は今新しい家族と幸せに暮らしています。念願だった日本の学校にも通えるようになりました。みなさんも気兼ねなく接してもらえたらありがたいです」

 

 手を胸元に当てるジェスチャーをして、少し大げさに話す。そして、おどけるようにガッツポーズなんてしてみせた。

 再びクラスがどっと沸く。

 感動したとか、なんて健気なのとか、俺のことお兄ちゃんと呼んでとか、私もお姉ちゃんにとか、多少やり過ぎた感もあるけど、気まずい雰囲気を変えることができてよかった。

 

 そんなふうに一息ついたとき、丁度ホームルームの終了を告げるチャイムが鳴った。

 

「それじゃあ、みんな如月妹のことよろしく頼むな。席は取り敢えず如月姉の横に用意したから、そちらを使うように」

 

 こっちこっちと優奈が俺に手を振っている……そんなにしなくても解るってば。

 

 こうして、俺の二度目の高校生活はスタートしたのだった。



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クラスメイト

「如月さん、さっきはほんとごめんね……」

 

 ホームルームが終わって直ぐ、私の机の前にしゃがみ込んで顔をちょこんと机の上に出して話しかけてきたのは、さっき俺と優奈との関係を聞いた女生徒だった。小柄でショートカットの見るからに活動的な少女だったが、今は全身でしょんぼりとしていた。

 

「純は悪気はないんだけどいつも一言多いんだから……反省なさい」

 

 純と呼ばれた少女の隣に立つ長身のポニーテールの娘はあきれた顔で言う。その一言で少女はさらに小さくなってしまう。

 

「その、本当に気にしないで……遅かれ早かれ話さないといけないことだったと思うし……」

 

 あんまりへこまれると、嘘をついてるこちらが罪悪感で辛い。

 それにしても、この娘は素直でいい娘みたいだし仲良くなりたいな。

 

「そんなことより……その、私と友達になってもらえませんか?」

 

 だから、話題を変えがてらそう聞いてみる。

 少女は一瞬きょとんとした後、花が咲いたような笑顔になって応える。

 

「……! うん、お安い御用だよ! ボクは海江田純(かいえだじゅん)、純って呼んで!」

 

「純だね。私のこともアリスって呼んでほしい」

 

「わかったよアリス!」

 

「良かったわね、純。……その、如月さん。私もあなたと友達になりたいのだけどいい? きっとあなたとは話が合うと思うの」

 

「こちらこそ是非! ……って、私どこかで会ったことありました?」

 

 なんだか俺のことを知っているような口ぶりだけど……同年代の女性にアリスの知り合いなんて記憶に無い。

 

「3ヶ月くらい前にショッピングモールの書店で少しだけお話ししたんだけど憶えてるかな?」

 

「あー! あのときの書店員さん!」

 

 思い出した! 本棚の高いところの本が取れなくて困っていたところを助けてくれた書店員さんだ。

 

「憶えてくれてたみたいで嬉しいわ。私は安藤文佳(あんどうふみか)、私も名前で呼んでもいい?」

 

「勿論!」

 

「よろしくねアリス……私も名前で呼んでね」

 

 そう言って文佳は手を差し出してきた。

 

「わかった、文佳。こちらこそよろしく」

 

 俺はそれを握る。男とは違う柔らかく小さな女性の手の感触だ。

 ……もっとも、今は俺の方がさらに小さい手になってしまっているのだけれど。

 

「ふたりとも抜け駆けずるい!」

 

「はいはーい! 私もアリスちゃんと友達になりたーい!」

 

 これまで様子を見守っていたらしいクラスの女子がわっと俺の机を取り囲む。

 

「よ、よろしく……」

 

 ……というか、みんな距離が近いっ!

 

 女生徒がひしめく空間はなんだかいい匂いがしてクラクラする。

 次々に名乗るクラスメイト達と俺は挨拶を交わしていく。

 

 そのうち挨拶のときに俺を抱きしめてきた女子が居て、それを見た他の女子が「ズルい私も抱きしめたい」って抱きつきたがって、俺はひっちゃかめっちゃかになる。

 さいきんのこうこうせいははついくがよいね。

 ……いろいろ柔らかいものがあれやこれやにあたって大変だった。

 

「はいはい、みんなー! うちのアリスと仲良くしてくれるのは嬉しいけど、そのくらいしといてあげて。この娘あんまり同世代の友達付き合いに免疫が無くて、慣れないことで目を回してるみたいだから」

 

「あ、ごめん……」

 

 優奈の声でようやく俺は解放された。

 

『イクトさん、良かったですね。いろいろ良くしていただけたみたいで』

 

 頭のなかにアリシアの抑揚のない平坦な声が聞こえてきて俺は顔色を失う。

 

『ち、違うんだ、アリシア! これはただのスキンシップ! ……そ、そうスキンシップだから、やましい気持ちなんて無いから!?』

 

『別に私は気にしてませんから』

 

『いや、絶対気にしてるよね!?』

 

『その体はイクトさんの体ですから、お好きにしていただいて構いませんよ? 大きな胸の柔らかさを堪能して思わず頬肉がだらしなく緩んだりなんかしても、それはイクトさんの自由ですから』

 

「……アリス本当に大丈夫?」

 

 急に青ざめてしまった俺を心配してクラスメイトが声を掛けてくれるのだが、俺は上の空でアリシアに脳内で弁明をしていた。そんな俺の様子を見て過度なスキンシップを控えるようになってくれたのは、俺の心の平穏のためには良かったことだと思う。

 ……正直、惜しかったとか思っていない……思ってないんだからね!

 

 アリシアの機嫌が直ったのは、その後に行われた始業式が終わる頃だった。

 放課後に図書室でアリシアが希望する本を読むということと、彼女が食べたことのないスイーツを食べることを約束することで、なんとか機嫌を直してくれたのだった。

 



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図書室

 始業式が終わると再度のホームルームがあり、それで今日の行事は終了して放課後となる。

 俺は今、アリシアとの約束を果たすために図書室に来ていた。

 

『これが学校の図書室! 本が……本が一杯です……!』

 

 図書室に来てからのアリシアはずっと上機嫌で、俺は胸をなでおろした。

 この調子だと今後も度々利用させてもらうことになりそうだ。

 困ったときの図書室頼りというやつだな……頼りにしてるぜ、図書室(あいぼう)

 

 俺の隣には今日友達になった書店員のお姉さんこと文佳が一緒だった。俺が放課後図書室に行くと言ったら、目を輝かせて私が案内すると立候補してくれたのだ。

 なお、一緒に来ていた優奈は、図書室に着いて早々に別れて雑誌コーナーでファッション誌を読んでいる。

 今日一緒に友達になった純も来たがっていたが、部活があるから行けないと残念がっていた。

 

「それで、アリスはどんな本を探しているの?」

 

「特に考えているわけじゃないんだけど……」

 

 そもそも本を探しているのはアリシアであって俺ではない。俺は漫画やラノベはそこそこ読むけれど、そこまで読書家というほどではない。

 幾人のときは入学して2ヶ月も経っていなかったとはいえ入学の際のオリエンテーション以来図書室には来たことが無かった。

 

『アリシアはどんな本が読みたい?』

 

『まずは、どんな本があるのかここを一巡りしてみたいです』

 

「とりあえず、一通り図書室を見てみようと思うよ」

 

「それがいいわね。じゃあそこの案内図を参考にすると良いわ」

 

 文佳が指を指してくれた先にはどこにどのジャンルの蔵書があるのかの配置図と、その分類方法が表示された案内図があった。

 俺はその正面に移動して案内の全体を確認する。それは、どこの図書室にでもあるような見慣れたものだったがアリシアの目には新鮮だったようだ。

 

『なんて素晴らしいのでしょう! このように大量の本が厳密にジャンル分けされて整然と分類されているなんて……』

 

 ほぅ、と溜息の声が上がる。

 

「……すごい?」

 

 案内図の前で佇む俺に文佳は解説する。

 

「これは日本十進分類法といって日本全国の図書館で採用されている分類方法ね。そこに目が行くなんて、やっぱりアリスは私の見込んだ通り素質があるわね」

 

 何の素質なんだろう? 俺は曖昧に微笑んで返しておいた。

 

「ここの蔵書数はなかなかのものよ。司書の先生がしっかりしているから、蔵書の管理も行き届いているわ……素敵でしょう?」

 

『はいっ、とってもとっても素敵だと思います! わたしここに住みたいです!』

 

「……そうだね」

 

 俺は心のなかのアリシアのテンションに苦笑しながら、文佳に無難に返事しておく。

 

『住んでいいんですか!?』

 

『いや、住まないから』

 

「それじゃあ、好きに見てくるといいわ。私は新刊か貸出カウンターに居るから、借りたい本が決まったら声を掛けて。一度に借りられるのは3冊までね」

 

 そう言って文佳は新刊コーナーに歩いていった。

 図書室で一緒に行動しようとしないのはさすが本好きといったところだろうか。本を選ぶときは誰にも邪魔されずじっくり選びたいもんな。

 ……単に自分が読みたい本を探したいだけかもしれないけど。

 

『……それじゃあ、どうしようか。見てみたいジャンルとかある?』

 

『まずは、一通りタイトルに目を通したいです』

 

 そうして俺は図書室を歩いて回る。アリシアはどの本も手にとって読みたいといった感じでうずうずしていたが、まずはタイトルを憶えることに集中しているみたいで、我慢しているのがありありと感じ取れる。

 なお、タイトルを憶えるというのはアリシアにとっては完全に記憶するという意味だ。

 彼女の記憶力は尋常ではなく、必要であれば本を流し読みするだけで全ての内容を記憶できた。転入試験に関係ない日本史や世界史や理科の教科書を読んだときは、俺がパラパラと教科書を捲って内容を記憶してもらい、後で思い出しながら読んでもらうことで勉強時間を取られずにアリシアの読書欲に応えていたりもした。

 

 30分くらい掛けて一通り図書室を巡った後、彼女が指定した3冊を取りに行く。

 

 1冊目は蒸気機関についての解説本。写真やイラストが多めで初歩的な内容の本のようだった。

 2冊目は法律や政治について書かれた本で、政治体制の概要と法制度の確立に至るまで人類が辿ってきた歴史が解説されている……とのことなんだけど、文章びっしりの本で頭に内容が入ってこない。

 3冊目に選んだのは俺がアリシアと初めて一緒に見たアニメの原作書籍化本の1巻だった。

 ……高校の図書室ってラノベも置いてるんだね。ちょっとエッチな描写とか挿絵とかあったりするけど大丈夫なのかな? と思ったりもしたが、よく考えたら普通の小説でも結構濡れ場とかあったりするから多分気にしすぎなのだろう。

 

 アリシアが選んだ3冊の本を持って俺は入り口に戻る。

 文佳は入り口の貸出カウンターのところにいて、図書委員の女生徒と雑談をしているみたいだった。感じからして常連なのだろう。俺に気づいた文佳は小さく手を振った。

 

「アリス、どうだった?」

 

『とっても、とっても充実したひとときでした!』

 

「……うん、まあ、楽しかったよ」

 

「選んだ本と学生証を受付に渡してね」

 

 そこまで言われて気づいた。

 そういえば貸出に学生証が必要になるんだった。

 

「……あ、どうしよう。学生証まだできていなかった」

 

「ごめんなさい、学生証のバーコードを読み取らないと貸出はできないわ」

 

 係の生徒はそう言って申し訳無さそうな顔をする。

 

「迂闊だったわ……どうしよう、私の学生証使うのは規則違反だし」

 

 規則なら仕方ないな。

 こうなったら図書室で全部記憶するしか無いか……?

 

「その本、あたしが借りるから」

 

 そう言って学生証がカウンターに置かれる。

 

「姉のあたしが借りて家にあるのを妹が読む分は違反じゃないでしょ?」

 

『ユウナ……!』

 

 俺のピンチに颯爽と現れたのは優奈だった。

 おねえちゃんかっこいい。

 

「どうせ、あたしは本なんて借りることないと思うし!」

 

 そんなこと自信を持って言い切るなよ。

 おねえちゃん台無し……

 

 そんなすったもんだがあったが、なんとか無事本を借りることができた。

 アリシアは上機嫌で、念話で優奈に何度も礼を言っていた。

 

「文佳もありがとう。付きあってもらって……私が選んでるあいだ退屈だったんじゃない?」

 

「私は暇があったら図書室に居たい人だから全然平気よ……学生証のこと気が付かずにごめんなさいね」

 

「気にしないで。優奈が居てくれたから問題無かったし」

 

「ふっふーん。ちなみにあたしは退屈だったんだ! この後はご飯食べてスイーツ探求ツアーをするんでしょ? 早く行こうよー。文佳っちも一緒に行くー?」

 

「私、お邪魔じゃないかしら……」

 

「全然ウェルカムだよっ!」

 

「だったら、ご一緒させてもらうわ。純の部活もそろそろ終わると思うから誘ってもいい?」

 

「勿論!」

 

 文佳が携帯のメッセージアプリでやり取りすると純の都合も問題無いようで、俺達4人は放課後の街に遊びに行くことになったのだった。

 



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お昼ご飯は居酒屋で

 純と合流した俺達四人は、駅前に向かって歩いていた。

 

「何か食べたい物の希望はある?」

 

 俺はみんなに問いかける。

 

「ボクはお腹に溜まるものがいいな」

 

 と、運動部っぽい要望を言う純。

 

「あたしは何でも良いよ」

 

「私も……特に希望は無いわ」

 

 そう言う優奈と文佳。

 

「それじゃあ、私の行きたいお店でもいい?」

 

「……アリス、ちなみに何を食べに行こうとしてるのか教えてもらってもいい?」

 

「鶏皮丼っていう焼鳥の皮のタレ焼きと目玉焼きをご飯にのせたどんぶりがお勧めのお店だけど、どうかな?」

 

 それは居酒屋の大将がお昼にやっているお店で、幾人だったときに蒼汰と見つけて以来ちょくちょく利用していたところだった。

 

『アリス、あなたねぇ……男だったときと同じ感覚で提案するんじゃないわよ』

 

 念話で優奈からつっこみが入る。

 ふむ……言われてみると女子高生が連れ立って行くには不釣り合いな気もしてきた。

 

「……やっぱりファミレスにしとこうか?」

 

 無難中の無難である代案をあげてみる。

 

「鶏皮丼美味しそう……ボクはそれがいい!」

 

 と、純。彼女は丼物が似合いそうだ。

 

「私も興味があるわ。アリスのお勧めのお店に行ってみたい」

 

 と、文佳からも意外な返事だった。

 

「……仕方ないわねぇ、あたしもそこでいいわ」

 

 優奈は溜息をついてから諦めたような表情で答える。

 

 駅前から徒歩三分、大通りから一本入った裏通りにそのお店はある。

 典型的な居酒屋で少し雑然としている外観は、鉄板焼鳥と書かれた看板に、名物鶏皮丼と書かれた張り紙、それから、ランチありますと書かれた三角看板が出ていた。藍色の暖簾が風にたなびいている。

 

「アリスのお勧めのお店ってここ……?」

 

 気のせいか二人くらいドン引きしてるように見える。残り一人は目をらんらんとさせて期待しているみたいだったが。

 

『アリスの馬鹿、何考えてるの!? どうみても、女子高生が行くお店じゃないでしょ、ここ!』

 

 念話で優奈が全力で俺につっこみを入れる。

 

「や、やっぱり、ファミレスにしとこうか……ねっ?」

 

 優奈は文佳の表情を窺いながら提案する。

 文佳は私の顔をちらりと見て、ぐっと手を握って言う。

 

「わ、私は大丈夫……ここにしましょう!」

 

「ボクはここがいい!」

 

 二人が良いと言ってしまうと優奈は断る理由も乏しく、結局多数決で決まってしまうのだった。

 ……なんかごめん。

 

 俺が先頭に立ってガラガラ音を立てる横引きのガラス戸をあけて暖簾をくぐる。

 

「らっしゃいませー!」

 

 一年以上経っても変わらない大将の声がする。

 

「すみません、四人ですがいいですか?」

 

「奥の座敷にどうぞー!」

 

 連れ立って店の奥に入る俺達。カウンターとテーブル席に一組ずつ他にお客さんがいて少し訝しむ表情をしていたが、堂々としていたら、どうということは無い。

 

 奥側に設置された小上がりに靴を揃えて脱いで上がる。他の三人も俺と同じようにして座敷に上がる。

 

 大将がおしぼりを持ってきてくれた。

 

「嬢ちゃん達みたいな娘達がうちの店に来てくれるなんて珍しいねぇ、注文はどうするかい?」

 

「ボク鶏皮丼! 大盛で!」

 

 抜け目なくランチメニューをチェックしていた純が応える。

 まあ、メニューは事前に説明してたし大丈夫か。

 

「私は鶏皮丼の小で」

 

 以前は大盛りを頼んでいたが、流石にこの身体にも大分慣れてきたので分量は弁える。

 

「鶏皮丼、普通サイズでお願いします」

 

「私も普通で!」

 

 オーダーが終わって主人がカウンターで調理を始める。

 

「焼鳥なのに鉄板で焼くんだ……初めて見た」

 

 優奈が調理の様子を興味深そうに見て呟いた。

 

「大将の田舎の流儀みたい。炭火焼とはまた違う味わいで私は好きなんだ。以前、日替りで焼鳥定食を食べたこともあるけど、あれも絶品だったなぁ……」

 

「ところで、アリスはどうやってこの店を知ったの? ……まさかあなた一人で来たりなんてしないでしょ?」

 

 文佳の疑問に思わず言葉に詰まる。

 優奈が「どうすんのよ、知らないわよ」って、言いたげな視線でこちらを見ている。

 

「……そ、その……友達と一緒に来たことがあって」

 

 俺はしどろもどろななりながら答える。

 

「もしかして、その友達って男……かな?」

 

 友人二人の視線が、獲物を見つけた肉食動物のようになっている。

 

「そ、そうだけど……ただの友達、だから……」

 

「なるほど、なるほどー」

 

 ……あ、駄目だ。これ、絶対勘違いしてるやつだ。

 

『どうしよう、優奈?』

 

『勘違いさせといたら? どうせ蒼兄と来たんでしょ。別に本人に面識があるわけじゃないんだし放っといても実害ないじゃない。それに、今何を言っても照れ隠しにしか聞こえないから』

 

『それも、そうか……』

 

「で、アリスは本当はその友達のことどう思ってる訳?」

 

「どうって言われても、まだ、私はほとんど話したことも無いし……」

 

 根掘り葉掘り聞かれる前にほとんど面識の無いことにしてしまう。嘘はついていない、アリスとして蒼汰と話したのは葬式のときの一度こっきりだった。

 

「ほうほう……じゃあ、これからってことなんだね!」

 

「これは、とても興味深い話を聞けたわね」

 

 純も文佳も面白そうにしてるし、もう!

 

「もういいじゃない。ほら、鶏皮丼も来たみたいし、この話はおしまい!」

 

 強引に話を打ち切ると大将が鶏皮丼をテーブルに運んでくる。

 焼き鳥のタレの香ばしい匂いが実に食欲を唆る。

 

 皆で「いただきます」と挨拶をして、食事を開始する。

 焼き鳥のタレのみのシンプルな味付けだが、これがまた旨いのだ。

 

「……美味しいわ」

 

「ご飯とよく合ってていいね!」

 

「ほひいい(おいしい)!」

 

『さすがイクトさんのおすすめです! ほっぺたが落ちそうなくらい美味しいです』

 

 皆気に入ってくれたようで、ひたすら木匙を動かす音が聞こえてくる。

 皆が食事を終えて、腹ごなしに水を飲んで休憩をしていたとき、お店に新しい客が入ってきた。

 

「らっしゃっせー」

 

 大将の声に入り口を見ると入ってきたのは、平山高校(うち)の制服を着た男子生徒のようだった。

 彼はカウンター席に腰を下ろして鶏皮丼大盛りを注文した後、こちらの方を何気に見回して固まっていた。

 

「げ……」

 

 俺も同時に相手が誰か気がついて固まってしまう。

 

「白いのと優奈……か? お前らがなんでこんなとこに……」

 

 そこに居たのは、俺の幼なじみで親友の蒼汰で――噂をすればなんとやらというやつだった。

 アリスとしては初対面である葬式のときに言い争って別れたっきりで良い印象は無い。

 

 ……だからって、白いのって何さ。

 

「アリス」

 

「……へ?」

 

「私の名前。ちゃんと呼んで、蒼汰」

 

「え、ああ、すまん……アリス、だったか……」

 

「それでいいよ。私達がここに居るのはたまたまだから……それに、もう、食べ終わって出るところだったから安心して」

 

「お、おう……」

 

「それから、今日から私は蒼汰の後輩になったから……よろしくお願いしますね、先輩」

 

「……お前、高校生だったのか」

 

「どうせ、高校生には見えないでしょうけど」

 

「気を悪くしたのならすまん」

 

「いいよ、これから成長期だし蒼汰より大きくなる予定だから」

 

「それは、無理じゃないか?」

 

 苦笑気味に蒼汰が応える。

 これでも、以前は蒼汰より身長は高かったんだけどなぁ……

 

「それじゃあ、私達行くから……みんな、もう大丈夫?」

 

 俺は後ろを振り返って確認すると3人が頷いた。

 

「それじゃあ大将、お会計お願いしまーす」

 

「あいよ」

 

 会計を終わらせてお店を出る。

 さて、次はスイーツ巡りだ。

 

 



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スイートトーク

 居酒屋から出てきた俺達は駅前の商店街に向かう。

 少し歩いたところで友人二人からさっきのことについての追及を受けることになった。

 

「……で、さっきのかっこいい男の人は誰なのかな?」

 

「う……」

 

 やっぱり突っ込まれるよな。

 ……どうしよう、上手くごまかせないだろうか。

 さっきはどうせ面識なんて無いからと思って強く否定しなかったのが仇になった。

 でも、男友達ってだけで蒼汰に繋がるわけじゃないから大丈夫かな。

 

「ピンと来ちゃった! 今のがアリスの気になっている人なんでしょ?」

 

 思った側からバレてるー!?

 

「そ、そんなコトないよ……?」

 

「嘘ね」

 

 文佳がばっさりと切り捨てる。

 

「な、なんで……?」

 

「なんでってさっきの光景みたら誰だってそう思うわよ」

 

「名前を呼んでって言ったときのアリスのちょっと拗ねたような上目遣いの表情、あれは反則だったね! 可愛すぎでしょ!」

 

 幼馴染の蒼汰にぞんざいに扱われたのが嫌でムッとしたのは事実だけど、なんでそうなる。

 

「彼に子供に見られてると知ったときのもどかしげな表情も良かったわね。自分をちゃんと見てもらいたいっていう気持ちがひしひしと伝わってきたわ……」

 

 だから、なんでそうなるんだ。あの時は自分が男だったときの身長を懐かしんでいただけなのに。

 

 なんとかこの流れを変えられないか……そうだ!

 

「そ、そういえば、蒼汰は優奈の幼馴染になるんだよ!」

 

「そうなの!? まさか、姉妹と彼との間で禁断の三角関係が……」

 

「ないない、蒼兄とは確かに幼馴染だけど、そんな関係ありえないよ……それに、あたしはアリスのこと応援してるしね!」

 

 キャーっとまた盛り上がる二人。優奈のだめ押しで決定的になった状況に俺は茫然とする。優奈は二人に蒼汰のことを話しながら、俺を横目で見て念話で告げる。

 

『あたしをダシにしようだなんて百年早いよ』

 

 かくして、友人達の中でアリスは蒼汰に一途な想いを寄せる健気な少女ということになったようだ。

 ……クラスの男に迫られたときに断る、いい口実ができたと思うようにしておこう。

 

 その後は、アリシアと約束したスイーツ巡りである。ただ、俺以外の3人にとっては、その行程にウィンドウショッピングは当然の如く含まれているようだった。

 以前の俺ならげんなりしてただろうけど、最近は俺も自分を着飾ることに慣れてきて、どう組み合わせたらかわいいかとか考えながら服を見るのは、苦にならなくなってきていた。アリシアと相談しながら部屋を飾る小物を買ったりするのも楽しかった。

 そして、スイーツのお店。アリシアが図書室に置いてあったタウン誌で調べたベルギーワッフルのお店に決めてある。

 

「……良い雰囲気のお店ね」

 

 文佳は店に入ると明らかにほっとした様子だった。……それほど、居酒屋がトラウマになってたのだろうか?

 

 みんなでメニューを見てワイワイしながら注文を選ぶ。

 それから、さっきみた服や小物のことを話しているうちに甘い匂いを伴って注文の品がやってきた。

 

『はぅ……甘いです……暖かいワッフルにたっぷりと甘いメイプルシロッブやチョコレート。イチゴや冷たいアイスクリームも楽しめてまるで甘味の宝石箱みたいです……』

 

 アリシアもご満悦で何よりだ。俺も美味しくいただいている。ご飯はあんなに入らないのにデザートならたらふく食べられるこの体はどうなっているのかと思わなくもないが、別腹というやつなのだろう。

 

「今日は来てよかったわ。アリスのこと色々知ることができたし」

 

 上品にナイフとフォークでワッフルを口に運びながら文佳。

 

「意外性の塊だよね、アリスってば」

 

 ワッフルを大雑把に切って頬張るようにして食べる純。

 

「……そうかなぁ? 私って変?」

 

「外国に居たからかしらね? 随分と感性が違っているところがあって楽しいわ。最初はお嬢様なのかなって思ってたんだけど全然違ってた。借りた本も面白かったし、意外な店を知ってるし、乙女な一面もあるし、一日だけでいろんな発見ができてとても興味深いわ。これからも仲良くしたいわね」

 

「こちらこそ、よろしくお願いするよ」

 

「それに優奈とも一緒に遊ぶことができて良かったわ」

 

「……ふぇ、あたし?」

 

「入学してからしばらく優奈って、なんだか他人を拒絶するような雰囲気があって、誰とも親しくしようとしなかったじゃない?」

 

「あはは……そうだっけ……?」

 

文佳の言う優奈は俺の知る彼女のイメージと一致しない。俺の知る優奈は今も昔も人なつっこいお調子者だったはずだ。

 

「6月に髪を黒く染め直してからは、険が取れたように明るくなってびっくりしたわ。面倒見もよくなって、まるで別人かと思ったわよ」

 

 6月と言えば俺が異世界から帰ってきたときだ。俺が行方不明になっていたときの優奈は他人を拒絶してた……のか?

 

「6月にこの娘がうちに来てあたしはお姉ちゃんになったからさ。しっかりしないとって思ったんだ」

 

「優奈と仲良くしたいってずっと思ってたけど、優奈ってば、放課後は誰の誘いも断って、真っ直ぐ家に帰っちゃうし……」

 

「優奈、毎日私に勉強教えてくれてたから……」

 

俺が転入試験の勉強を始めたからだ。優奈は俺に勉強を教えるためにまっすぐ家に帰ってきてくれていた。

 

「あたしがやりたくてしたことよ……アリスが気にすることはないわ」

 

「優奈って本当に良いお姉ちゃんなんだね!」

 

「私の自慢のお姉ちゃんだからね」

 

 優奈は無言でワッフルを口に運んでいる。

 どうやら照れているらしい。

 

「じゃあ、アリスが学校に来るようになった今は、優奈とも一緒に遊べるようになるのかな?」

 

「そうだね、これからはみんなとも遊べるようになると思うよ。改めてよろしくね、ふたりとも」

 

「こちらこそ、よろしくお願いするわ」

 

「よろしく~!」

 

『わたしも、よろしくお願いします。皆さんとお話しすることはないとは思いますけれど……』

 

 聞こえてくるアリシアの声は少しだけ寂しそうに響いて、

 

「わたしも、よろしくお願いします」

 

 だから、二人分の気持ちを込めて、挨拶だけでも伝わったらって思ったんだ。

 



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Wizard's Soil (turn 01)

 翌日の放課後、俺は一人で旧校舎の廊下を歩いていた。

 

「この先で良いんだよね」

 

 俺は手にしたプリントで教室の位置を確認する。

 

 俺がここに来たのは理由がある。

 部活動紹介のプリントを半分冷やかしで見ていたら、昨年は無かった同好会があって、それに興味を引かれたからだ。

 その名は『Wizard's Soil同好会』というものだ。

 Wizard's Soil(通称ウィソ)とは世界中でプレイされている有名なトレーディングカードゲームで俺達は中学生の頃にはまっていた。受験で一旦中断していたが、高校生になったらまたやりたいという話を蒼汰としていた。幾人として入学したとき、高校の部活動にウィソ部が無いかと思い探したが、見つけられなくて少し残念に思っていたことがある。

 だから、いつの間にかできていた同好会に興味を持ち、その会室があるという旧校舎に足を踏み入れたのだった。

 今日は優奈とは別行動だ。優奈はウィソに興味を持たなかったし、今になって男子が遊ぶようなカードをやりたがってると言ったら呆れられるに違いないからだ。

 それに、

 

「……優奈も少しは妹離れしないとね」

 

 俺がアリスになってからの優奈は、俺を守ろうといろいろ手を尽くしてくれた。だけど、アリスの中身は兄だった俺だ。自分のことは自分でできるので、無理に付き添ってもらったりしてもらわなくても大丈夫だ。

 その教室は旧校舎の中でも奥まったところにあった。歴史を感じる引戸には黒マジックで『Wizard's Soil同好会』と書かれた画用紙が貼られている。

 

「こんにちはー」

 

 挨拶をしながらドアを開ける。中は六畳ほどの板間になっていて、中では一組の男女がゲームをプレイしていた。

 

 俺の存在に気がついた二人はゲームの手を止めてこちらに顔を向ける。

 

「……お前、俺のストーカーだったりしないよな?」

 

 開口一番、嫌そうにそう言ったのは蒼汰だった。

 

「藪から棒に失礼な、なんで私がそんなことをしないといけないのさ」

 

「普通の女子が来るような場所じゃないからな、ここは」

 

 何気に対戦相手の女生徒に失礼だよね、その台詞。

 

「それで、俺に何か用か?」

 

「別に蒼汰に用事は無いけど、ウィソしてるんでしょ? 見てもいい?」

 

「お前……ウィソするのか?」

 

「昔やってたんだ。それで、同好会があるって聞いたから気になって来てみたの」

 

「お前って本当に変わってんなぁ……」

 

「“お前”はやめてってば……アリスだって言ってるでしょ」

 

「へいへい、わかったよアリス」

 

「あの……蒼汰さん、こちらの方は?」

 

 蒼汰とゲームをプレイしていた女生徒が怪訝そうに問いかけている。華やかな飾りの付いた巻きツインテールに目鼻立ちがくっきりとした顔でお嬢様といった表現がびったりと当てはまるような容姿をしている。

 それに、スタイルも抜群で起伏が激しく、特にブレザーとワイシャツの下で自己主張の激しい胸部は思わず視線を奪われてしまう。胸元には二年生であることを示す赤いリボンがついていた。

 

『なんですか、これ……チートじゃないですか。スタイルチートですよ、こんなの!?』

 

 と、アリシアが訳のわからないことを呟いてた。アリシアは随分言動がアニメに毒されてきた気がする。

 とりあえず、挨拶しないと失礼だよな。

 

「一年の如月アリスです。蒼汰……先輩とはうちの姉が幼馴染みで、仲良くしていただいてます」

 

「わたくしは橋本涼花(はしもとりょうか)と申しますの。蒼汰さんとふたりでウィソ同好会をやっていますわ。お見知りおきくださいませ」

 

 ……コメントに困る。外見は特徴的だったが、中身も負けず劣らずのようだ。

 

「それで、俺がこの同好会の会長をやっている蒼汰だ。と言っても、会員は今のところ二人しか居ないけどな。それじゃあゲームを再開すっか」

 

「は、はいっ!」

 

 二人の視線がゲームの盤面と手札に戻る。

 俺はテーブルの横に立ってプレイを観戦する。

 生物(クリーチャー)とライフで有利なのは橋本さんの方だった。現在は橋本さんのターンでこの攻撃が決まれば橋本さんの勝ちが決まるみたいだ。

 

「今度こそわたくしの勝ちでしてよ。私は『飢えた狼』と『筋肉熊』で攻撃しますわ!」

 

「攻撃前に『意気消沈』をプレイ、その2体は消耗してこのターン攻撃できなくなり、俺はカードを一枚引く」

 

「くっ……ターンエンドですわ!」

 

「それじゃあ俺のターン、カードを引いて……ターンエンド」

 

「わたくしのターン! ドロー、復活した2体の生物で攻撃!」

 

「呪文をプレイ『狩人の罠』、攻撃クリーチャー2体を破壊する」

 

「くっ……では戦闘後に『(いにしえ)のワーム』を召喚しますわ」

 

「『召喚の否定』で打ち消し」

 

「……ターンエンドですわ」

 

 橋本さんはちょっと涙目になってる……えぐい。ライフでは圧倒的に橋本さんが有利だが、手札枚数は蒼汰が多く、場の生物も居なくなってしまった。

 

「俺のターン、ドロー。守護天使を召喚してターンエンド」

 

「わたくしのターン、ドロー……引きましたわ! 我が召喚に応え、とこしえより来たれ破壊の王『真紅の(ヴァーミリオン)古代龍(エンシェントドラゴン)アルゲランテ』!!!」

 

『このゲームなんだかかっこいいですね!』

 

 ……いや、多分こういう遊び方をするゲームではないぞ、アリシア。

 

「じゃあ、俺のターン、ドロー。『隷属魔法』をプレイ、アルゲランテのコントロールを貰うな」

 

「ああああ、わたくしのアルゲランテ……」

 

 橋本さんはすっかり涙目である。なんだか気の毒になってきた。

 

「それじゃあ、守護天使で攻撃」

 

 守護天使は攻撃で与えたダメージだけ主のライフを回復させる能力持ちだ。この攻撃で蒼汰のライフが回復してしまい蒼汰のライフは安全圏へと離脱してしまった。

 

「わたくしのターン、ドロー! ……『刃のワイバーン』を召喚しますの」

 

「『存在の否定』で打ち消し」

 

 蒼汰は時間稼ぎすら赦さずに橋本さんの抵抗を封殺する。

 

「……ターンエンドですわ」

 

 次のターン、守護天使と彼女から寝返ったアルゲランテによって彼女のライフは無くなってしまった。



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Wizard's Soil (turn 02)

※カードゲーム回です。読み飛ばしても物語の理解に支障はありません。


 ゲームが終わって橋本さんと俺が固まっている中、蒼汰は黙々とデッキのシャッフルをしていた。

 

「橋本さんってウィソ始めてどれくらいになるんですか?」

 

 すっかりしょんぼりとしてしまった橋本さんに俺は話しかける。

 

「……半年くらいですわ」

 

「蒼汰! なんで初心者をコントロールデッキでふるぼっこしてんのさ!?」

 

 コントロールデッキは相手のやりたいことを妨害することに特化したデッキで、一般的に初心者相手に使うのは推奨されていない。

 やりたいことをひたすら妨害された初心者はフラストレーションが溜まり、そのゲーム自体をつまらなく思ってしまうからだ。

 

「涼花にウィソ強くなりたいってお願いされたから、強くなれるように真剣に相手しているだけなんだが……」

 

「だからって、初心者にそんな本気(ガチ)デッキ使うのはあり得ないでしょ……ちゃんと段階を踏んで経験させないと強くなる前に折れちゃうよ?」

 

「俺、コントロールしか使いたくないし……」

 

 そうだった。こいつは根っからのコントロール馬鹿だった。

 

「ちゃんと手加減もしているぞ。レアは3枚、アンコモンは9枚、残りはコモンという縛りでデッキを作っているからな」

 

「なんで、そんなに中途半端な縛りなんだよ」

 

「これ以上縛ると勝てるデッキに仕上がりそうになかったからな」

 

「いや、縛れよ。なんで、練習用のデッキで相手に完勝しようと思ってるんだよ!?」

 

「勝てないデッキはデッキじゃないというか……」

 

 だめだ、こいつデッキ構築の才能はあっても、人にものを教える才能は皆無だ。

 

「そんなことより、アリスはそこそこやれるんだろ? 俺と一戦やろうぜ」

 

「悪いけど、私はデッキを持ってきていないから戦えないよ」

 

「そうか……」

 

 少し残念そうにする蒼汰。

 

「あの……良かったらわたくしのデッキを貸しましょうか?」

 

 そんな蒼汰の様子を見て、橋本さんがそう申し出てくれた。

 久しぶりにウィソをやっているのを見て自分もプレイしてみたいと思っていたので正直ありがたい。

 

「それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。デッキ見せてもらっても構いませんか?」

 

「はい、こちらですわ」

 

 彼女から、デッキを受け取る。

 扇状にカードの束をバラけさせて親指でカードを送りながら入っているカードを確認する。

 彼女のデッキは緑と赤の生物(クリーチャー)主体のデッキで、森に生息する地上生物と山に住む飛行龍種でほとんどが占められている素直な構成だ。

 ……正直、蒼汰とのデッキ相性は厳しそうだ。

 

「別にデッキを組み直して頂いても構いませんわよ、カードはこちらにございます」

 

 そう言って彼女が手渡してくれたのは二冊のバインダーで、それぞれ赤と緑のカードが整理されて収まっていた。

 

「これは……すごいですね」

 

「執事が用意してくれましたの」

 

 こともなげに出てくる執事、俺はその優秀さに舌を巻く。バインダーには全てのカードがコンプリートされていて、一枚数千円するであろうカードも当然のように4枚ずつ揃っていた。4枚なのはデッキに入れられる同名のカードの上限が4枚だったからだ。

 ともあれ、現役を離れていたここ2年くらいで出たカードは知らない効果ばかりで、俺は一枚一枚胸を躍らせながらカードテキストを確認し、入れ換える候補に目星をつけていく。

 

 一通りカードを見終わった後で、俺はデッキをテーブルにカードの種類と詠唱コスト毎に並べて、橋本さんに意図を説明しながらカードを入れ替えていく。

 結果いろんなカードを試してみたくなって、最終的にデッキの三分の一くらい入れ替えてしまった。

 その後、デッキのカードを保護するためのスリーブを二人で入れ替える。彼女が使っているのは、ド派手な真紅の薔薇スリーブだった。……特注だったりしないよな。

 

「おまたせー」

 

 俺達のデッキの情報がネタバレしないように一人でデッキを回していた蒼汰に、完成したデッキを持って話しかける。

 そのまま俺は蒼汰とテーブルに向き合って座り、デッキのシャッフルを開始する。

 だが、手が小さくなっていてなかなか上手くいかず、カードを何度もぼろぼろとこぼしてしまう。

 

「……本当に大丈夫なのか? ここまで期待させといてがっかりさせんなよ?」

 

 蒼汰が2つのダイスを取り出して振る。先手後手決めのダイスロールだ。

 出た数字は7。

 

「久し振りだったから、シャッフルの感覚が思い出せていないだけだよ。ご期待には添えると思うよ」

 

 ダイスをつまんで軽く転がす。出た数字は11。

 

「先手は私が貰うね」

 

 悪戦苦闘しながらシャッフルを終えたデッキを、俺はテーブルの中央に差し出すと、蒼汰も同じように彼のデッキを差し出して中央に置く。

 その後お互いのデッキを手にとって軽くシャッフルして返し、自分のデッキからカードを7枚引く。

 

 ――決闘(デュエル)スタートだ!

 

 さあ、約二年ぶりのウィソだ。

 俺は手札に来たカードを確認してゲーム開始を宣言する。

 

「私のターン、『飛びかかる豹』を召喚してターン終了」

 

「ほう、速攻デッキにしてきたのか……ターンエンドだ」

 

 蒼汰は俺がデッキを調整した意図を正確に読み取る。

 ウィソはターンが経過するにつれて使えるマナが増えてコストの重いカードを使えるようになる。

 コントロールデッキは序盤を凌いで後半にコストの重い強力なカードをプレイして勝つデッキだ。ならば、こちらは相手が手札を有効に使えない序盤に速攻を仕掛けて相手のライフを削り切るのが常道だ。

 

「『飛びかかる豹』で攻撃! 2点与えてライフ18。『筋肉熊』を召喚してターン終了

 

「ドローしてターンエンド」

 

 蒼汰は淡々とマナの源である土壌(ソイル)を伸ばしていく。

 

「クリーチャー2体で攻撃!」

 

「『正義の勅令』をプレイ、対戦相手は攻撃クリーチャー1体を選んで生贄にする」

 

「私は『飛びかかる豹』を生贄にするよ。2点入って蒼汰のライフ16点だね。戦闘後、追加の『筋肉熊』を召喚して終了」

 

「ドローしてターンエンド」

 

「『筋肉熊』2体で攻撃。4点入って残り12点。『飢えた狼』を召喚……何も無いなら終了」

 

 ……ふむ、何も動かなかった? ということは返しにアレが来るのか?

 

「俺のターンだな、『聖戦(ジハード)』をプレイ。場に出ているクリーチャーは全て破壊される」

 

 うわ、こいつレアカードの全体除去呪文を入れてやがる。

 初心者を相手するデッキにそんなもの突っ込むなよ……ドヤ顔なのがなんかムカつくし。

 ……しかし、カード1枚で3枚の生物を除去されたのは痛いな。

 だが、まあ想定内ではある。蒼汰は聖戦(ジハード)をプレイするためマナを使いきっている、次のターンの妨害は無い。

 

「5マナを払って『旋風のワイバーン』をプレイするよ。速攻持ちのワイバーンは出たターンにアタックできる!」

 

「……残りライフは9だ。俺のターン、『聖戦(ジハード)』をプレイしてエンド」

 

 2枚目かよっ!?

 だけど、ワイバーン単体に対して隙の大きい全体除去を使ってくるのは本意ではないはずだ。

 続けて攻めよう。

 

「私のターン、『筋肉熊』と『飢えた狼』を召喚するよ」

 

「俺のターン、『聖戦(ジハード)』をプレイ」

 

「って、入ってるレア3枚全部『聖戦(ジハード)』かよっ!? どんだけだよ!?」

 

「……負け惜しみか?」

 

 ちげーよ。

 さすがの本気(ガチ)構築っぷりに俺はドン引きだ。ずっとこんなデッキを相手にしなければいけなかった橋本さん可哀想すぎる。なんとかしてこのコントロール馬鹿の鼻っ柱を折りたい。

 だが、今のでこちらの手札は1枚になってしまった。対する相手は3枚と状況はかなり厳しい。だけど、追加で引かれていなければ今のでクリーチャー除去カードが尽きた可能性は高い。ここから追加で叩き込むことができれば……

 

「『刃のワイバーン』を召喚」

 

「『存在の否定』で打ち消しだ」

 

 マナに余裕が出てきて『聖戦(ジハード)』をプレイした後でも打ち消し呪文(カウンター)を構えられていた。うーん……まずいな。

 

「俺のターン、ドローしてターンエンドだ」

 

 ドローゴー、自分のターンに動かず相手のターンに動くコントロールデッキの典型的なプレイスタイルはそのように呼ばれることがある。

 

「私のターンドロー……ターン終了」

 

 引いたカードは単体では使い所の無いカードで、いよいよ攻め手が止まってしまう。

 

「俺のターン、ドローしてターンエンドだ」

 

 一見均衡しているように見える。だが、こちらのデッキのカードは軽く効果の低いカードばかりで、蒼汰のデッキは重いカードを使っていく構成になっている。このままではジリ貧になるのは確実だった。

 

「私のターン、ドロー……これは!」

 

 引き当てたのは橋本さんの魂のカード『真紅の(ヴァーミリオン)古代竜(エンシェントドラゴン)アルゲランテ』。コストが重いから抜こうかとも思ったのだけど、抜こうとしたときの橋本さんの何とも言えない表情を見てそのままにしたカードだった。

 丁度マナを使いきってプレイすることはできる。だが、マナを温存して構えている相手にプレイして通るかどうかは怪しい。

 けれど、どちらにしてもこのままではジリ貧なので、プレイしない選択肢は無い。

 覚悟を決めよう、俺はこのカードと心中することにした。

 

「『アルゲランテ』をプレイ……通るか!?」

 

『……幾人さん口上忘れてますよ』

 

「……通すぜ」

 

 何とか通ったか。けれど、除去される可能性はあるし最悪はさっきみたいに――

 

「俺のターン、『隷属魔法』をプレイ。『アルゲランテ』のコントロールを貰う」

 

 ――コントロールを奪われる。

 

「どうやら、このゲーム貰ったみたいだな。ターンエンドだ」

 

「……まだ、勝負は終わっちゃいないよ」

 

 俺はデッキを右手の甲で軽くノックする。

 ……特に意味は無い、ただの願掛けである。

 俺はそのまま指をまっすぐ伸ばしてデッキのトップに置き、勢い良くカードをドローする。

 

 ……引いたカードは脳内でイメージした通りのカードで。

 俺は計算にミスが無いか改めて場を確認する。場には蒼汰が奪った『アルゲランテ』のみ。蒼汰のマナは『隷属魔法』で消耗しており、打ち消し呪文は構えられていない。ライフは9。

 

「『惑乱の言葉』をプレイするよ」

 

「そのカードは……!」

 

 『惑乱の言葉』は対戦相手のコントロールするクリーチャー1体のコントロールを1ターンだけ得る。

 永続的にコントロールを得る『隷属魔法』と違い一時的にしかコントロールを奪えないが、その代わりにコントロールを奪ったクリーチャーはそのターンに攻撃可能となる。

 

「『アルゲランテ』でアタック!」

 

「くっ……残りライフ3だ……ターンエンドか?」

 

「いいや、ゲームエンドだ。俺は『稲妻の槍』をプレイ。好きな対象に3点のダメージを与える。対象は蒼汰(プレイヤー)だ!」

 

 そして、蒼汰のライフは0となりゲームは俺の勝利で終わった。



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決闘の後に

「……ふぅ」

 

 一戦終えて俺は一息つく。

 

「すごい! すごいですわ! 素晴らしいですわ!」

 

 すっかり興奮した様子の橋本さんが俺に飛び付いてきた。

 俺の頭はその豊満な胸に抱え込まれてしまいその柔らかさとボリュームに圧倒されつつ香水のいい匂いがしてクラクラと振り回される度にゆさゆさと揺れるものが息苦しくて……って、息ができな……。

 

「橋本さん……く、苦しい……」

 

「あら、ごめんあそばせ」

 

 俺の様子に気づいた橋本さんは、ぱっと頭を離す。

 あの胸……いろんな意味で殺人的だ。危うく天国に連れていかれるところだった。あの柔らかさ……。

 

 余韻に浸ってるとふいにアリシアの声がした。

 

『……幾人さん、後でお話いいですか?』

 

 ……い、今のは不可抗力だと思うのですが、アリシアさん?

 と世の理不尽を呪う俺に、冷静さを取り戻した橋本さんが声を掛けてくる。

 

「取り乱してしまい申し訳ございません、今まで蒼汰さんの土壌(ソイル)が手札に来なかったときくらいしか勝ったことがなかったもので、つい……」

 

 プレイしてたときも思ったけど、初心者相手にほんとなにやってるんだ蒼汰は……。橋本さんも良くそんな状況でウィソを続けようと思ったな。

 

「……あの、如月さんそのウィソの腕を見込んでお願いがあるのですが……」

 

 橋本さんは真剣な表情で俺に向き直る。

 

「わたくしにウィソを教えては頂けませんでしょうか」

 

 そういえば、蒼汰とやっていた理由も強くなりたいだっけ。

 何故かは知らないけど、そのひたむきな姿勢には応えたくなる。 蒼汰自身もあれであいつなりに真剣に橋本さんに向き合った結果なのだろう。

 

「執事に相談して家庭教師の講師扱いで時給を出すこともできます。カードも準備させていたただきますわ」

 

「……いいですよ、そんなの。私で良ければ教えますから、そのかわり私と友達になってもらえませんか?」

 

「……ええ! よろしくお願いしますわ、如月さん」

 

「アリスでいいですよ、私も涼花先輩って呼びますから……後、敬語崩してもいいですか?」

 

「構いませんわよアリスさん! ……わたくしは誰に対してもこの口調ですからお気にならさず」

 

 涼花先輩と友達になったところで、蒼汰が声を掛けてくる。

 

「……俺だって先輩なんだけどな。この扱いの差はなんなのさ」

 

「初心者をコントロールデッキでふるぼっこするような蒼汰に敬意は表せないかなぁ……」

 

「う……まあいいさ。それよりアリス、お前なかなかやるじゃないか」

 

「……ご期待には応えられたみたいだね」

 

「期待以上だったよ……もしかして、アリスって幾人にウィソ習ってたのか?」

 

「……え、えっと……どうしてそう思うの?」

 

「プレイするときの感じとかプレイスタイルとかそっくりだったからな。それにここ一番ってときにデッキトップをノックする願掛けとか幾人の生き写しかと思ったぞ」

 

 本人だからね。と言うわけにもいかず、

 

「蒼汰の言う通り、幾人義兄(にい)さんは私のウィソの師匠だよ」

 

 アリスに変な設定が追加されることになった。

 

「アリスさん、あなたは如月幾人さんの御家族だったのですか……?」

 

 そう言った涼花先輩は何故か顔が青ざめているような気がした。

 涼花先輩は幾人のこと知ってるのだろうか? 同級生だったから知っててもおかしくはないのだろうけど。

 少なくとも俺は涼花先輩――頭の中では涼花でいいか元同級生だし――のことを知らない。

 

「はい。義理の妹になります」

 

「……そうですか。すみません……わたくしは……」

 

 そう言ったっきり、涼花は顔を伏せて黙り込んでしまう。

 どうしたものかと思っていると蒼汰がフォローしてきた。

 

「アリス、明日の放課後こいつにウィソ教えてやってくれないか。涼花、話はそのときに、な」

 

「私は大丈夫だよ」

 

「わたくしも大丈夫です……蒼汰さん、ありがとうございます……」

 

 そんなこんながあって、今日は解散となった。

 

 家に帰ってから優奈に今日あったことを話すと、「アリス……あなた、なにやってるの」と、案の定呆れられた。

 それから、アリシアは夕食の席で俺が涼花の胸に挟まれてだらしない顔をしていたと母さんと優奈の前でさらっと暴露し、俺はいたたまれない気持ちになった。

 ……明日は昼休みに図書室に行こうかな、なんとなく。

 



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橋本涼花(その1)

 翌日、登校した俺の机に純と文佳がやってきた。

 

「アリス、落ち着いて聞いて欲しいのだけど……」

 

 重々しく話を始める文佳。二人共真剣だけれどいったい何だろう……?

 

「この前の神代蒼汰先輩なんだけど、どうやら付き合っている人が居るらしいの」

 

 ……ああ、そのことか。

 以前優奈からそういった話を聞いたことがあるな。

 確か俺に告白されたと言って気を惹いただとかだっけ。

 

「……知ってるよ?」

 

 二人は私の態度に衝撃を受けたみたいだった。

 

「この娘ったら、なんて健気なのかしら。想い人が他の人のことを好きでも構わず想い続けてるだなんて……」

 

「ボクはアリスのこと応援するからね!」

 

「だから、私は蒼汰のこと別になんとも思ってないって……」

 

 そんなことを話してると横に座っている優奈が話に加わってくる。

 

「でも、昨日会いに行ったんでしょ? どうだった?」

 

「蒼汰と会ったのはたまたまで……」

 

「蒼兄じゃなくて、相手の方、橋本先輩だっけ」

 

 ……ん? 涼花?

 

「呆れた。まさか気がついて無かったの? 前にショッピングモールで話したじゃない。蒼兄と半ば公認カップルになってるって噂の橋本涼花って人のこと」

 

「……あー」

 

 そういうことか。頭の中でパズルのピースが繋がった。

 俺に告白されたという女生徒、蒼汰と二人しかいない同好会、昨日俺が幾人の関係者だと知った時の態度、それから今日の放課後したいという話。

 

「……まさか、本当に気づいていなかった訳? 昨日二人の愛の巣とか言われてる同好会室にまで乗り込んだんでしょ?」

 

 優奈の言葉に「アリスってば積極的」とか「見かけによらず、ぐいぐい行く男らしいところも素敵だわ」とか何か勘違いした感想を漏らしている友人二人がいるが気にしない。

 

「今日の放課後、二人で話をするようになってる。そうか、涼花先輩が……」

 

 だけど、涼花はそんな風に狡猾な娘には見えなかったんだけどな。

 俺の目が節穴っていうことだろうか。

 ……まあいいか。本人に聞くのが一番早い。

 

「……大丈夫? あたしもついて行こうか?」

 

「気持ちは嬉しいけど、これは私と彼女の問題だから。もし、ついてきたりしたら、本気で怒るからね……そこの二人も」

 

 俺がそう釘を刺すと、三人は「はぁい」と了承の意を告げた。

 

   ※ ※ ※

 

 放課後、俺は『Wizard's Soil同好会』のある旧校舎を訪れていた。橋本涼花、彼女との約束を果たす為である。

 会室の入り口のドアをノックすると、「よろしくてよ」と返事がある。

 

「お邪魔します」

 

 と、一言告げて俺はその部屋に立ち入った。

 

 室内入るととたんに紅茶の香りが漂ってきた。

 室内には紅茶の入ったティーカップを手にしたお嬢様が静かに佇んでいる。昨日蒼汰とゲームした学習机には白いテーブルクロスが掛けられていて、その上にはティーセットが一式置かれていた。

 彼女が紅茶を傾ける姿はとても様になっていた。

 

「アリスさん、どうぞそちらに」

 

 けれど、こうした準備を一人でしている様子を想像するとなんだか微笑ましく思う。良くみると脇のテーブルに電気ケトルが置いてある。

 

「……なにか可笑しくて?」

 

 いけない、つい顔に出てたみたいだ。

 俺は涼花の正面の席についた。

 

「本日はお越しいただきありがとうございますわ」

 

 主自らティーポットを手に取りお茶を注いでティーカップを俺の正面に置く。

 

「ありがとう」

 

 俺は礼を言ってから、カップを手に取り口につける。

 まだ熱かったので唇を湿らせるだけ、心地よい薫りが鼻腔をくすぐった。

 

「ウィソの話をする前に、わたくしは貴女に謝らなくてはならないことがありますの」

 

 彼女はそう切り出した。

 

「貴女はわたくしと如月幾人さんに関する噂のことはご存知ですか?」

 

「……うん、知ってるよ」

 

 幾人が彼女に告白をして振られたのが原因で自殺したという噂。

 それについての謝罪ということは、彼女が告白を断ったことで幾人が死ぬことになった、とでも謝罪を受けることになるのだろうか。

 ……そんな謝罪を俺はどんな顔で受けたらいいんだろう?

 

 その謝罪を受けてしまったら俺は涼花のことをもう友達として見られなくなるだろう。

 残念なような悲しいような気持ちが込み上げてくる。

 どうやら、俺はどこか変に抜けたところのあるこのお嬢様を存外気に入っていたみたいだ。

 

「幾人さんがわたくしに告白したと言う噂……これは、わたくしがついてしまった嘘が原因なのです……」

 

 ん……?

 

 涼花は俺に偽りの謝罪をするのでは無く、嘘をついていたことについて謝罪した。

 



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橋本涼花(その2)

「噂が広まった経緯をお話しても構いませんでしょうか? わたくしの身の上の話になりますが……」

 

 問いかける涼花に、俺は黙って頷く。

 

「昨年までわたくしは海外で暮らしておりました。高校に進学するにあたって祖父が理事長をしている平山高校に入学することになり、わたくしは単身日本に参りましたの」

 

涼花は理事長の孫娘だったのか。……二人きりの同好会なのに会室があるのを不思議に思っていたのだけれど納得した。

 

「当時わたくしはこの言葉遣いもあり周囲と浮いてしまい、自分に自信が持てなくなっておりました。長い髪で顔を隠し、伊達眼鏡で視界を狭め、胸が目立たないように背中を丸めて日々を過ごしていたのですわ」

 

 ……そう言われて脳裏に思い浮かぶ姿があった。

 涼花が話した特徴の目立たない女生徒、幾人のときのクラスメイトにそんな娘が居た気がする。

 彼女が涼花だったのか……今の容貌からは全く面影がない。思い出せなかったとしても仕方ない。

 

「そんなわたくしでも一学期が終わるくらいには、少しはクラスの方とお話ができるようになりました。そんなある日のこと、皆さんは殿方に告白された経験を話し合っていました。わたくしにはそのような経験は無いでしょうと言われたとき、わたくしはそのようなことはございませんと、思わず口から出任せを言ってしまったのです」

 

 涼花は肩を落として苦々しげに言う。そのときのことを悔いている表情だった。

 

「皆はわたくしの言葉を疑いまして、ではどなたがという話となり、わたくしは返答に窮してしまいました。そして、わたくしが苦し紛れに口にしたのが、当時行方不明になっていたクラスメイトである如月幾人さんの名前でした……」

 

 行方不明の幾人の名前を出しておけば真実の程はわからない。万が一帰って来たとしても、戯れに話したことなんて覚えている人なんていないだろう。そう、彼女が考えたとしても不思議ではない。

 

「噂が大きくなったのは、どなたかが言い出した憶測がきっかけでした。如月さんはわたくしに告白を断られたが為に身投げをしたのではないか、と。その憶測は瞬く間に広がっていき、人の間を巡るうちに憶測は確信へと変わっていき、噂話はまことしやかに語られるようになっていきました……」

 

 涼花は一息ついて締めの言葉をいう。

 

「こちらが噂の真相になります。お義兄様(にいさま)に不名誉な噂を流してしまい大変申し訳ございませんでした……」

 

 彼女は頭を下げて謝罪をする。

 

「噂のことは気にしてないから大丈夫だよ。多分幾人義兄(にい)さんも気にしないと思う。私が太鼓判を押すよ」

 

「……そうですか。そう言っていただけるとありがたく思います」

 

「だけど、このことを蒼汰にも話してあげてもらえないかな。あいつ、幾人義兄(にい)さんが自分に話すことの出来ない悩みを抱えて苦しんでいたんじゃないかって、ずっと気に病んでいるみたいでさ」

 

「そんな、蒼汰さんはそんなそぶり、わたくしの前では一度も……」

 

「涼花先輩には心配をかけたく無かったんじゃないか? 私は蒼汰から直接聞いたから」

 

「知らなかった、わたくしのせいで、蒼汰さんにそんな思いをさせていただなんて……」

 

 涼花はすっかり取り乱した様子で、顔面蒼白になっていた。

 口元を手で押さえ、よろめくようにして椅子から立ち上がる。

 その拍子にテーブルの上のティーカップに引っかかり、ティーカップが床に落ちて悲鳴のような音を立てて割れる。

 涼花はその惨状に構うことなく、教室を飛び出していった。

 

「涼花!」

 

 俺は慌てて後を追った。

 涼花は、階段を屋上に向けて上がっていったようだ。

 階段を駆け上がると屋上に続くドアが開け放たれていた。

 

「ちぃ……馬鹿なこと考えるんじゃねーぞ!?」

 

 俺は彼女の後を追って屋上に飛び出した。

 屋上はだだっぴろいコンクリートの陸屋根で、周囲は二メートルくらいのフェンスで囲まれていて、幸い簡単に乗り越えることはできなさそうだ。

 涼花は直ぐに見つかった。彼女は正面のフェンスに右手で掴み、入り口から背中を向けて、行き場を見失った迷い子のように佇んでいた。

 

「涼花、先輩……」

 

 俺は息を切らしながら彼女の名前を呼んだ。



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橋本涼花(その3)

「……ごめんなさい、アリスさん。わたくし取り乱してしまいまして」

 

 ……良かった。涼花は話の出来る状態のようだ。

 

 俺はそのまま涼花の言葉を待つ。

 午前中晴れていた空はどんよりと曇りはじめており、いつ雨が降り始めてもおかしくない様子だった。

 コンクリートの放射熱で屋上は蒸し暑く、汗が染みだしてくる。下着が湿り肌に張り付く嫌な感触がする。

 

「……蒼汰さんと初めて出会ったのは、噂によってわたくしが精神的に追い詰められていたときのことでした」

 

 涼花は俺に背中を向けたまま、ぽつりぽつりと話し出す。

 

「噂が広がってわたくしの日常は暗澹(あんたん)としたものに変わりました。わたくしのせいで如月さんは亡くなった、如月さんがかわいそう……そのような声が周囲で(ささや)かれるようになり、わたくしには誰も近づかなくなりました。それから、わたくしは他人の視線に今まで以上に怯えるようになり、誰かが話をしていると自分を糾弾している風に見えてきて、日々心を(やつ)れさせていきました……」

 

 もしかしたら、最初から悪意があって作られた状況なのかもしれない。元々周囲から浮いていた彼女は迫害されやすい状況にあっただろうことは想像に難くない。

 

「そんなとき、わたくしの前に現れたのが蒼汰さんでした。彼は如月さんの噂を聞いて、真実を教えて欲しいとわたくしに尋ねられました」

 

 突然修学旅行のフェリーから居なくなった幼馴染、その事故に何かしら理由があったとしたら……もし、俺が蒼汰と逆の立場なら同じ事をしていただろう。

 

「その頃のわたくしは、他人から責め続けられたこともあり、本当に自分が原因で如月さんを死なせてしまったと思うようになってしまっておりました。ですからわたくしは蒼汰さんに対してひたすら謝罪をすることしかできませんでした」

 

 ……あいつ図体でかいし目つきも悪いから、初対面の人には怖い人と良く勘違いされる。只でさえ人が苦手だったという涼花が蒼汰に迫られたのだから、随分と恐ろしかったに違いない。

 

「そんなわたくしに蒼汰さんはやさしく諭すように話をして下さいました。告白を拒絶したことが原因で如月さんが行方不明になったのだとしても、それは如月さん自身の責任で、わたくしが気に病むことはない。だから、そんなに泣かないで欲しい、と。泣きじゃくるわたくしに、何度も、何度も、言い聞かせてくださいましたの……」

 

 それが、彼女にとって大切な言葉なのだろうことは、彼女が一言一言(いつく)しむように言われた台詞を紡いでいく様子からも窺い知る事ができた。

 

「それだけじゃありませんわ。わたくしの父に恨みをもつ方が、不良グループに依頼してわたくしを誘拐しようとした事件がありました。そのとき偶然居合わせた蒼汰さんによって、わたくしは悪漢から守られましたの」

 

 不良グループを壊滅させたっていう話はここからか。

 しかし、こう聞くとギャルゲーの主人公みたいだな、蒼汰。

 

「今のわたくしのこの姿だってそうですわ。蒼汰さんがわたくしは顔を出して毅然(きぜん)としている方が良いと言っていただけましたから、わたくしは髪をふたつに分けて上げて、伊達眼鏡を外し、胸を張って登校するようにしましたの。そうしたら周りがわたくしを見る目も変わって、わたくしは自分に自信が持てるようになりましたの」

 

「私も今の涼花先輩は素敵だと思うよ」

 

 これは素直に蒼汰ぐっじょぶだと思う。今の涼花は生き生きしていて見ていて楽しいのだ。

 

「ありがとう存じます。アリスさんも、とても素敵でしてよ。とにかく、それ以外にも蒼汰さんには数えられないほどの恩がございます。……ですが、わたくしは恩を仇で返すような事をしてしまいました」

 

 涼花はこちらに向き直る。

 だけど、その視線は俺を見てはいなかった。

 視線を追うように俺が振り向くと、屋上に出るドアのところにいつの間にか蒼汰が立っていた。

 

「……蒼汰」

 

「……よぉ」

 

 首の後ろに手をあてた蒼汰が、居心地の悪そうな表情で挨拶をする。

 

「如月幾人さんがわたくしに告白したという事実はございません。それは、わたくしがついた嘘です」

 

「……そうか、幾人は悩んだり苦しんでたりしてはいなかったんだな」

 

 涼花が告げた事実に蒼汰は驚いた様子はなく、ただ納得している様子だった。

 

「わたくしの嘘で蒼汰さんに辛い思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした」

 

「俺は嘘をつかれたなんて思ってないよ。だから、涼花は気にしないでいい」

 

「でも! 蒼汰さんはその事で思い悩んでいたと聞いています。それはわたくしの嘘のせいですわ!」

 

「違うよ。本当は俺だってわかってたはずなんだ……幾人の死に理由なんてない、ただの事故なんだって。だけど、俺はそれを認める事ができなくて、何か理由があったはずだって、何か出来たはずなんだって……そう思いたくて俺は涼花の話を受け入れていたんだ。現に同じ話を聞いた翡翠も優奈も涼花の言うことを信じたりしなかった」

 

 ……そう言われてみればそうだったな。

 

「幾人の葬式のとき、アリスに言われて俺はそのことに気付かされた。今まで俺が幾人のことを思ってした謝罪や後悔はただの現実逃避の自己満足でしかなかったんだって……」

 

「蒼汰……」

 

 感情的になって怒らせてしまったと思っていたが、気持ちはちゃんと蒼汰に通じていたと思うと少し胸が熱く感じる。

 

「でもこれでようやく割り切ることか出来そうだ。そう考えると俺は涼花のことを利用していたことになるのかもしれないな……すまなかった」

 

「!! そんなこと、ないですわ! 謝られることなんてなんにも!」

 

「だったら、俺も謝られることはないよ。感謝の気持ちがあるなら何かしらお礼を貰おうかな……そうだな、おっぱい揉ませて貰うとか」

 

 ……な、何を言い出すんだこいつ?

 

「……蒼汰さんがお望みなら、わたくしは構いませんわ」

 

 涼花は蒼汰の台詞に顔を赤らめて視線をそらしながら答える。

 

「……あれ? そこは「何を言ってるの、最低!」とか言って断られる流れじゃ……」

 

 お前フラグ管理がばがばだろ。涼花は端から見ても好感度マックスだからな!?

 

「わたくし蒼汰さんが望むならどのようなことでも応える覚悟はしてましてよ? それだけの恩を蒼汰さんには受けたと思っておりますわ」

 

 そう言い切る涼花に逆にどぎまぎしてしまう俺と蒼汰。

 

「……アリス、俺はどうすればいいんだ、これ?」

 

「……せっかくだし揉ませてもらったらいいんじゃないかな。私、先に部室に帰ってるから」

 

「ちょ、ちょっと!? こんな雰囲気で俺を残していかないでくれよ!」

 

 こんな雰囲気にした元凶が何を言う。

 

 ……けど、正直言うと俺も揉んでみたいな。

 自分のは触ったことはあるけれど、その……大きさが、な?

 

『……イクトさん、今、何か大変失礼なことを考えていませんでしたか?』

 

 何でもないです、ごめんなさい。

 



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プールの授業(その1)

 その日は朝からどこか調子が悪かった。

 目覚ましが鳴っても起きられず、部屋に様子を見に来た優奈とアリシアの二人の大合唱で強制的に起こされた。

 昨日読んでいたネット小説の続きが気になって少しだけ夜更かしをしてしまったのが原因だと思うのだけど、それにしても眠い。

 なんだか少し頭も痛い気がする。

 ……疲れが溜まっているのかな? なんだかんだで学校生活は刺激が多い。

 

 手早く朝食を取り、洗面所で朝の準備を終らせる。

 大分、身だしなみの手際が良くなってきたと思う……俺も女子としての暮らしに大分慣れたかな。

 

 そんなことを考えてると洗面所に優奈が顔を出した。

 

「アリス、今日の体育の準備はしてる?」

 

「え? ……体操服は用意してるけど?」

 

「やっぱりわかってなかった。今日の体育はプールだよ? うちの学校は9月一杯はプールの授業があるって言ったじゃない」

 

「そうかプールか……って、プール!?」

 

「前から話してたでしょうに……ちゃんと学校指定のは買ってあるんでしょ?」

 

「う、うん……一応」

 

 学校用品を揃えるときに水着一式も合わせて購入してある。だけど、スクール水着を着る自分の姿を考えるのが嫌で、買ったっきりタンスの奥に仕舞いこんでいた。

 

「水着と水泳帽子とアンダーショーツはセットで買ってたよね。……はい、これバスタオルとフェイスタオル、これを一緒に水泳バッグに入れてね」

 

 優奈から押し付けられた2枚のタオルを受け取る。

 

「本当は事前に着る練習をした方が良かったんだけど、もう、そんな時間はないわね……ほら、早くしないと遅刻するよ!」

 

 俺は慌てて自分の部屋に戻ると、まずは急いで制服に着替える。

 それから、タンスの奥に入っていた新品の水泳セットをバッグに詰め込んでいく。

 姿見の前に立ち、リボンの歪みやスカートの裾を整えたりしてると、いよいよ危うい時間になっていた。

 

「アリス! もう走らないと間に合わないわよ!」

 

 俺は慌てて階段を駆け下りて玄関に向かう。かかとの低いローファーを履いて優奈と二人玄関を飛び出す。

 

「「いってきます!」」

 

 うー、なんでこんな日に限って寝坊しちゃうんだろ。アリシアも優奈も、もっと早く起こしてくれてたら良かったのに!

 

   ※ ※ ※

 

 プールの授業はお昼休みの前の四時間目で、それは俺にとって不幸中の幸いだった。

 水着は着るときよりも脱ぐ方が大変みたいで、それを次の授業の時間を気にせずに着替えることが出来るからだ。

 

 しかし、女子の中に混じって水着に着替えるのか……。

 

 アリシアの体になって女性の体に対する知識や経験は随分と増えた。

 だけど、俺が今まで見たことのある女性の裸は俺自身と優奈――家族のものだけだ。

 日常に接しているクラスメイトの女子の裸というのは意味合いが随分と異なる。

 

 俺は午前の授業を悶々として過ごすことになった。

 ホームルームや休み時間にクラスの女子から話しかけられても、この後一緒に着替えるのかと思うと、普段通り接することが出来ず、ぎくしゃくしてしまう。

 唯一事情がわかっている優奈は、「仕方ないわねぇ」という顔をしながら俺のフォローをしてくれていた。

 朝から続く頭の痛みに加えてお腹まで痛み出してきたような気がして、気分が重くなる。

 

 三時間目の授業中、俺は我慢できなくなり念話を使って優奈に話しかけた。

 

『……ねえ、優奈どうしよう?』

 

『どうしようと言われても……普通にすればいいんじゃない?』

 

『普通に出来ないから相談してるんじゃないか。優奈だって男子に着替え見られるのは嫌だろ?」

 

『そりゃ嫌だけど、あなたは如月アリスであって正真正銘の女の子なんだから問題ないでしょ』

 

『だけど、中身は男子高校生なんだし、なんだかクラスメイトを騙してるみたいで……』

 

『そんなの騙してるに決まってるじゃない。いまさら何言ってるの。……だから、最後まで責任もって騙しきりなさい。そうすれば誰も傷ついたりしないんだから』

 

『騙してる……そうだよな。そんなのは当たり前だったな』

 

『……別にそんなに重く考える必要は無いと思うわよ。堂々と裸を見られてラッキーくらいでいいんじゃない?』

 

『そ、それは、さすがに……』

 

『いずれにしろ、同性の裸を見る機会なんてこれから嫌というほどあるんだから。物珍しく思えるのなんて最初のうちだけよ』

 

『そう……なのかな……?』

 

『そんなものよ』

 

 当たり前のように言う優奈のおかげで気持ちは少し楽になった。

 そうこうしているうちに三時間目の授業は終わりを告げ、俺はプールの横にある禁断聖域の女子更衣室に足を踏み入れることになるのだった。

 



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プールの授業(その2)

「ほら行くわよ」

 

 俺は、優奈に引きずられるようにして女子更衣室へとやってきた。室内からは女生徒のはしゃいだ声が聞こえて来ていて、すでに引き返したくなっていた。

 逡巡する俺を気にすることなく優奈はドアを開けて俺の手を引いて進んでいく。

 

「……お、お邪魔します」

 

 俺も優奈の後に続いて女子更衣室へと立ち入った。

 更衣室の中の作りは簡素なものだった。作り付けてあるものはロッカーと数人並びで使える洗面台くらいで、他は長椅子くらいしか置いていない。日当たりの悪いジメジメとした部屋だった。

 そして、そのやや狭い空間は女生徒でごった返していて、女子の甘いような匂いでむせかえるような状態になっていた。

 

 更衣室には裸の子は居なかった。それは良く考えたら当たり前のことだった。男子の着替えでさえ全裸になるのは極少数のお調子者くらいだったのだ。

 着替え終わって水着姿の子、制服をはだけさせている子、巻きタオルに包まってもぞもぞと着替えてる子、下半身はスカートで上半身はブラジャーだけの状態で友達と会話している子……はだけた制服から覗く下着や肌色に、グッとくるものを感じたりはするけれど、これくらいの刺激ならなんとか乗り切れそうだ。

 

『……ほら、いつまでも見てないで、早く着替えちゃいなさい』

 

 優奈が念話で俺の着替えを促す。見れば優奈は既に制服のボタンを外していて水着を手に持っていた。

 慌てて俺も水泳バッグから水着を引っ張りだして、目の前に掲げてみる。それは一般的なワンピースタイプのスクール水着だった。

 

 ……これ、どうやって着ればいいんだ?

 

 まず、足を通さないといけないのはわかる。だけど足を通すにはパンツを脱がないといけない訳で、上の紐を通すことを考えると全裸にならないとダメなのか?

 でも、誰も裸になってる人なんて居ない。

 

 ……あ、とりあえず下半身だけ脱げば良いのか。そうすれば、シャツで隠れるから問題無いな。

 

 俺はブレザーとスカートを順番に脱いで、それぞれロッカーに畳んで入れる。そして、股間が見えないように片手でブラウスを押さえながら、もう一方の手でショーツを下ろしていく。その後、膝下まで降りた下着を片足づつ抜き取っていく。

 

 ……これでよし。

 

 なんだか周囲の視線が自分に集まってる気がする。

 畳もうと思って下着を手に持った状態で視線に気づき、俺はぎょっとして固まる。

 

 ……な、なんだろう? 俺は様子を伺うように小首を傾げた。

 

 ……ざわっ!

 

 周囲の空気が波立ったような気がして、俺は体をびくつかせた。

 

 耳をすませてみると小声で、「……何かいけないものに目覚めそう」「は、犯罪的だわ……」とか言った声が聞こえてくる。

 

「……アリス、あなたやけに扇情的な格好をしているのね」

 

 そう話しかけて来たのは文佳だった。

 彼女は既に水着に着替え終わっていた。トレードマークのポニーテールは水泳帽に仕舞われていて、随分と受ける印象が違う。自他共に認める本の虫というのにそのスレンダーな肉体はまるで水泳選手のように引き締まっていて格好いい。

 

「私はただ普通に着替えてるだけだと思うけど……?」

 

「水着を履くときは、普通はスカートは穿いたまま下着を脱いで履くものよ?」

 

 えっ、そうなの……?

 

「わ、私は制服が人より大きいからね! ブラウスだけでも平気なんだよ」

 

「……前は隠せてたみたいけど、可愛いおしりがちらちらと見えてたわね」

 

「なっ……!? な、なんで、そんなに見てるんだよぉ……」

 

「だって、あなた目立つもの……みんな見てたわよ?」

 

 俺は涙目で周囲を見回す。周りの女子たちは不自然に視線を逸らして、いそいそと自分の着替えを進めはじめた。

 

『あなたが見られてどうすんのよ……』

 

 手をとめずに着替えながら様子を見ていた優奈が、呆れたように俺に念話を送ってきた。

 

 ……あー、もうっ!

 優奈だって教えてくれてもいいじゃないかっ!



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プールの授業(その3)

 文佳が立ち去ってから、俺は着替えを再開する。

 とにかく何もはいてない下半身が心もとないので、さっさとアンダーショーツを着けてしまいたい。

 俺は脱いだショーツをロッカーの中のスカートの下に差し入れてから、バッグからシンプルなベージュ色のアンダーショーツを取り出す。

 どうしても前屈みになるときにお尻が見えてしまうようで、何とかならないか試行錯誤をしてみたが、諦めてさっさとはいてしまうことにした。

 前だけは隠しながら片足づつショーツを足に通して引き上げる。

 周囲の視線を感じるが、とにかく下着さえはいてしまえばこっちのものだ。

 

 ……トイレに行きたくなってきたので、早く着替えてしまおう。

 

 その後、水着に両足を通して腰まで上げたところで再び考える……上はどうすればいいんだろう。

 周りを見廻すとブラを外してキャミソールの脇から器用にひもを通していたり、巻きタオルを使っていたり、諦めて脱いでからさっさと着替えてたりと、人それぞれのようだった。

 潔く脱いでた娘の胸はこっそり堪能させてもらった。見られまくったおかげで罪悪感はもう無くなっていた。

 

 巻きタオルいいなぁ……次のプールまでに買って貰おう。

 けど、たちまち今日のところはどうするか。

 

 ……正面突破しか無いか。

 

 俺自身そんなに器用な方じゃない。変に手間取って時間を取られるよりも、早く着替えて被害を最小限に抑える方が良いだろう。

 俺はブラウスのボタンを上から順に外していく。

 周りの視線は気にならないことにする。……明らかに着替え終わってる人が、何人か俺の周りに居る気がするんだけど気のせいだと信じたい。

 ブラウスを脱いで椅子に置いて、キャミソールの紐を肩から片方づつ落として足元に落とすと、周囲がざわめく感じがする。

 

 そういえば、今日着けて来たのはハーフトップ、いわゆるお子様ブラだった。周りはみんなちゃんと大人のブラなのに、一人だけこんなのを着けているというのは恥ずかしい気がする。

 プールのこと前もって知ってたら、ちゃんとしたブラ着けてきたのに……

 

 俺は顔が赤くなるのを感じながら、早く脱がなきゃとバンザイして一気にハーフトップを脱ぎ去った。

 脱いだものを椅子に置いて一息つく。

 

 ……これで、お子様ブラを見られることは無くなったから一安心。

 

 けれど、周囲のざわめきはむしろ大きくなったみたいで、なんでだろうと疑問に思い首を傾げる。

 

「アリス、胸! 胸っ!」

 

「!?」

 

 優奈の声に俺は慌てて両腕で抱きかかえるように胸を抑える。

 

 こっちの方が見られちゃダメだったよ!?

 

 俺がそのままの姿勢で固まっていると、いつの間にか着替え終えた優奈が、バスタオルを俺の前に広げて立っていた。

 

「……ゆうなぁ」

 

「……何情けない声だしてんのよ。ほら、隠してあげるから、さっさと着ちゃいなさい」

 

 俺は水着を引き上げて肩紐を左右順番に肩に通していく。

 手で位置と形を整えて……多分これで大丈夫だ。

 

 着替えが終わると、俺は力が抜けてペタンと椅子に腰を下ろす。

 

「……大丈夫?」

 

「あ、うん……ありがとう。もう、大丈夫。なんだか気が抜けちゃって……」

 

「水泳帽、あたしが着けてあげるね」

 

 俺は頷いて優奈の好意に甘えることにした。

 水泳帽を被せられて、前髪と耳の前の髪を中に入れていく。優奈の手が顔に当たって、くすぐったくて目を細める。

 優奈は残った後ろの髪を持って、水泳帽の中に入れていく。

 

 気がついたら生徒も疎らになってきていて、そろそろ授業が始まりそうな時間だった。

 

「はい出来上がり、それじゃあいこっか」

 

 優奈の手によってすっかり俺の髪は水泳帽の中に納まっていた。

 

「あ、うん。ちょっと待って、トイレ行ってくるから」

 

 俺はそう言い残すと、更衣室の横にある女子トイレに駆け込んだ。

 

「……え、ちょっと、アリス!?」

 

 優奈は何かを言いかけるが、あまり余裕がないので聞き流す。

 女子トイレは無人だった。

 俺は個室の中に入ってから――ふと気がついた。

 

「……これ、どうやってすればいいんだ?」

 

 水着のお腹の辺りをペタペタと触ってみるが、それらしきものは無さそうだった。思いもよらぬ事態に俺が動揺しているとトイレの外から優奈の声がした。

 

「アリスの馬鹿! 水着全部脱がないとトイレできないわよ!?」

 

「え……?」

 

 絶望的な事実を告げられて俺は固まってしまう。

 自分の着ている紺色の水着を見下ろす。

 

 ……これを、全部脱がないとダメなの?

 さっきあれだけ苦労して着たのに……脱いで、また着るの?

 

 その困難さに俺は顔が真っ青になる。込み上げてくる尿意は、そんな悠長さを許容してくれるとは思えない。

 

「何で着替える前にトイレに行っとかなかったの!?」

 

「だって……私、そんなこと知らなくて……」

 

 肩紐に手を掛けて下ろそうとするけれど、おしっこを我慢しながらなのと、動揺で上手く下ろせない。

 

『……仕方ないから、もう、水着を着たまましちゃいなさい』

 

 誰にも聞かれないように、念話に切り替えて優奈は言った。

 

『そ、そんなこと……』

 

 できない。この年でお漏らしするなんて……

 

『水着だし、後でシャワーで流しちゃえば誰もわかりゃしないわよ。ほら、もうチャイム鳴っちゃうよ、早くっ!』

 

『でも、だって……』

 

『我慢できないんでしょ? 更衣室にはもう私達しか居ないから』

 

『うう……』

 

『ほら、アリス……大丈夫だから、ね?』

 

 限界間近で深く考えられない頭に、優奈の優しく促す声が俺の理性を溶かす。

 

 もう……だめ……

 

 俺はへたり込むように便座に座り込む。抗っていた理性が緩んで、堤防が決壊した。

 

「んっ……!」

 

 湧き出した暖かさはじんわりと股下に広がっていって布地の隙間から溢れ出て滴り落ちた。その一部はおしりや太ももを濡らして汚していくのを肌で感じる。

 

「ふ……あぁ……」

 

 授業開始を告げるチャイムが鳴っている。俺は開放感を伴う虚脱感に身を任せながら、呆然とその音を聞いていた。

 

『アリス……終わった?』

 

 滴り落ちる水滴の量が少なくなった頃、優奈が念話で話しかけてくる。

 

 全部、聞かれてた……!?

 

 俺は頭の中が沸騰してしまったかのように思えて、くらくらと倒れそうになる。

 

『……大丈夫、誰もいないから鍵を開けて』

 

 判断力の低下した俺は優奈の言うがままに立ち上がって個室の鍵を開けた。

 開いたドアからフェイスタオルを手にした優奈が入ってきて、俺の体の汚れた部分をテキパキと拭き取っていく。

 

「……タオル汚れちゃう」

 

「いいから、あたしに任せときなさい。ほら、このタオルを腰に巻いてシャワー浴びておいで」

 

「でも、後始末しないと……」

 

 振り返って見ると、太ももを滴ったおしっこがはねて便座や周りを汚している。

 

「あたしがやっておくから」

 

「でも……そんな……」

 

 自分の汚した物を他人に掃除してもらうなんて……

 

「あたし達が居ないことに気づいた誰かが、様子を見に来る前に片付けないといけないから。ほら、早く行って」

 

 優奈の言う通りなので俺はタオルを腰に巻いてシャワールームに向かった。そのまま頭からシャワーを掛けて洗い流す。冷たい水がほてった肌を強制的に冷やして体を清めてくれる。少しの間そうしていると、後始末を終えた優奈がやって来て、隣でシャワーを軽く浴びて体を水に濡らした。

 

「うわぁー冷たいね!」

 

「……ごめん」

 

 俺は優奈に謝罪する。

 

「ん……いいのよ。あたしはアリスのお姉ちゃんなんだし! だから、気にしないの……それより、大丈夫? プール休む?」

 

「もう、大丈夫……行く」

 

 俺はシャワーの水栓を回して止めた。

 

「それじゃ、いこっか!」

 

 優奈は俺の手を引いて、プールに向かって歩き出した。

 

「ありがと、お姉ちゃん……」

 

 ……体が心に影響してきているのだろうか。

 いつの間にか、俺はすっかり優奈の妹になってしまっていた。



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プールの授業(その4)

 水中の世界は静かで周囲の喧騒とは無縁で、とても落ち着く空間だった。

 水中(アクア)呼吸(ブリーズ)を発動させた俺は水中で地上と変わらず呼吸をすることが出来る。

 

『やっぱり、水の中って気持ちいいですねぇ……』

 

 アリシアはしみじみと言う。その様子に以前アリシアから聞いたことを思い出す。

 

『そういえば、アリシアは水底の祭殿に毎日通ってたんだっけ』

 

『そうですよ。私は水の巫女ですから、日課として湖の祭殿でミンスティア様に祈りを捧げていたのです』

 

『そっか……だったら、夏の間に泳ぎに行っておけば良かったか?』

 

 今年の夏はいろいろと忙しくて泳ぎに行く機会は取れなかった。俺自身が水着姿になるのを嫌がったというのもある。

 こんなにアリシアが喜ぶんだったら、多少無理してでも行っておくべきだったかな。

 

『大丈夫ですよ。毎日のお祈りはお風呂で済ませてますし、わたし自身は毎日お風呂に入れる事で満足してますから』

 

 ……それでいいのか、水の巫女。

 

『……来年は行こうかね、海』

 

『そうですねぇ……行ってみたいです』

 

『約束だな……っと、そろそろ水面に出ないと……』

 

 気が付けば水に潜っでからずいぶん経つ。溺れていると心配されるかもしれない。

 俺はプールの底を蹴って水面に顔を出した。

 

「うわっ、びっくりした!? アリスってば神出鬼没だね」

 

 突然水中から現れた俺に驚く純と文佳。

 

「それにしても、随分長く潜ってたわね……ちょっと心配したわよ?」

 

「私、潜水にはちょっと自信あるんだ!」

 

 一日くらいは余裕で潜っていられる、とは流石に教えられないけれど。

 

 今は授業で25mを何本か泳ぎ終わった後の自由時間だ。各人授業終了のチャイムが鳴るまで、思い思いにプールで遊んでいる。

 授業前にあったあれやこれやは、授業でひたすら身体を動かしす事で、記憶の片隅に置き去りにする事に成功していた。

 

「いやーねー、男子ってば。どいつもこいつも視線がやらしいんだから」

 

 中央のラインで男女は隔てられてはいるが、男子達の視線や話題はラインを越えた水着姿の女子に注がれている。

 元男子の俺からすると、気持ちは大いに解るというのが本音だったりするので、純の愚痴には苦笑いで返しておいた。

 

 特に純にひときわ熱い視線が注がれているのには理由がある。童顔で小柄の純の胸部には、その体格に反した立派な大きさの膨らみが存在を主張していた。アンバランスなその肉体はぶっちゃけエロい。

 

「んー、何だかアリスの視線も嫌らしいぞぉ?」

 

「そ、そんなこと……」

 

 図星をつかれた俺はどきっとしてしまう。

 純はそんな俺の様子ににんまり笑うと、

 

「そんなアリスはこうだーーっ!」

 

 と、俺に後ろから覆い被さり、脇の下から両腕を潜らせて俺の両胸をがっつり掴む。

 

「ひゃっ……!」

 

「ふむふむ、これはなかなか……」

 

 純はその状態でわきわきと手を動かす。

 

「……ちょ……純……やめっ……!」

 

 俺は身体をくねらせて、できた隙間に体を滑らせて水中に逃げ込む。幸い、引っかかりの少ない体付きなので、スルリと逃げ出すことが出来た。(つら)い。

 

 玩ばれた胸を腕で抱きながら、俺はプールの底を漂う。

 

 ……この屈辱晴らさでおくべきか。

 

『……なぁ、アリシア』

 

 触っていいのは、触られる覚悟のある奴だけだ。

 

『わかってますよ、イクトさん……やりかえしましょう!』

 

 流石に潜った修羅場の数が違う、アリシアとは以心伝心だ。

 

『ふふ、あの無駄に育った乳を衆目の前で揉みしだいてやるのです……!』

 

 ……アリシアさん、ちょっとこわいです。

 

 俺は水中で動き回って機会を伺う。最初は俺の姿を目で追っていた純もやがて姿を見失ったらしく、きょろきょろと辺りを見回している。

 俺は純の後背をキープして徐々に静かに距離を詰めていく。気分は某鮫の映画だ。脇が疎かになったその瞬間に、俺は両手を伸ばして脇の下から潜らせた。

 

「隙ありーー!」

 

 後ろから純に飛びついた俺はその双球を鷲掴みにした。

 ふにゃん、とでも聞こえてきそうな感触と共に俺の指がやわらかさに埋まる。到底手の内に収まりきらない膨らみから、弾力が伝わってくる。

 

「ちょ……やっ……くすぐったいっ……!」

 

 俺は夢中になって揉みしだく

 ふにふに、ふにふに。

 

「やぁっ……ボクが悪かった! ごめんってば。だから、ストップ!」

 

 痴態を晒す俺達の姿は、周囲からの注目を集めまくっていた。特に男子からの視線が熱い。窮屈そうに前屈みになっている男達の事情は俺には良く判る。

 

 ……このくらいで勘弁してやるか。

 

「……それじゃあ、私はこの辺で」

 

 俺は水中に潜って、視線から離脱した。

 

「ぼ、ボクを一人にしていくなぁ!?」

 

 ふふん、自業自得だよ。

 

 純から離れた俺は、プールの底に腰を降ろしてひと心地つく。

 

『水着越しなのに、あんなに柔らかいんですね』

 

 アリシアが俺に話しかけてくる。

 

『ああ……俺もびっくりした』

 

 水中で手を動かしてみて、先程までの感触を思い出す。

 その後、ふと、両手を自分の胸にやり、ふにふにと動かしてみる。返ってくるのはあまりにも控えめな感触でしかなく。

 

『全然違いますね……』

 

『うん……』

 

 俺達は二人して溜息をつく。

 こぼれた水泡が、ぶくぶくと水面に上って消えた。

 



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◇夜

 プールの後の着替えは大きな問題もなく終わった。

 人が多いうちに上さえ着替えておいて、後はスカートを履いてしまえば、その後は視線が気になることもなかった。

 優奈のタオルは濡れてしまったので、俺のタオルを渡して自分はトイレの個室で魔法を使って乾かした。

 

 午後の授業はプールの疲れがもろに出て、ほとんど寝て過ごした。放課後になっても疲れは抜けず、俺は同好会を休む旨のメッセージを同好会のグループに送ってまっすぐ家に帰った。

 

 自分の部屋に戻ると、俺は制服を脱いでハンガーに掛けて、下着姿のままでベッドに潜り込んだ。正直、寝間着を着るのすら億劫だった。

 軽い頭痛に倦怠感、そして睡魔が襲ってきて、俺は抗うことなく身を任せる。

 

   ※ ※ ※

 

 ……夢を見た。

 

 夢の中の俺はイクトのままで、アリシアが転校してくるところからそれは始まる。

 教室に入って来たアリシアは、イクトの姿を見つけるやいなや抱きついて喜びを表す。そんなハプニングにクラス全体が騒然とする。

 その後、自己紹介をするアリシア。話の途中でアリシアはイクトを見て顔を赤らめたり微笑んだりで、その度にクラスが盛り上がりをみせる。

 そんなアリシアに翡翠が突っかかり、蒼汰がからかい、何故か同じクラスの優奈が苦笑したりして、とても賑やかな……あり得たかもしれない光景がそこにはあった。

 

   ※ ※ ※

 

 ……寝起きは最悪だった。

 

 体のだるさは相変わらずで、何故かは知らないが心が酷く波立っていた。理解できない感情が込み上げてきて心が付いてこない。

 俺は体を起こす。周囲はもう暗くなっていて、今が何時なのかわからない。俺は手探りで枕元のスマホを手に取り画面を表示させる。

 

「もう、12時回ってるや……」

 

 画面には時間の他に優奈からのメッセージが通知されていた。

 

『なんだか、しんどそうだったから起こさないでおくね。お腹空いたならご飯は冷蔵庫に入ってるから食べて。おやすみ』

 

 2時間くらい前にそんな内容のメッセージが入っていた。俺は『ありがと、おやすみ』とだけ返事を打っておいた。

 

 食事を意識したからか、お腹が音をたてて鳴る。

 食欲はあるようだ。

 

『……お腹空きましたねぇ』

 

 アリシアの声が頭の中に聞こえてきた。

 のんびりとした口調はいつものアリシアで、何だか少し安心した。

 

『ご飯食べようか』

 

 俺は寝間着を着てから、音を立てないように気をつけつつ一階のリビングに降りる。リビングは既に照明が落とされていて、俺は最小限の電気だけ点けた。

 冷蔵庫の中に用意されていたのはご飯と豚シャブで、さっぱりとしていて美味しく食べられた。

 

『何だか体が重いけど、風邪でも引いたかな?』

 

 食器を洗いながら俺は脳内でアリシアに話しかける。

 

『そうかもしれませんね、今朝くらいからなんだか調子が良くないですし』

 

『やっぱり、アリシアも体はしんどく感じてるの?』

 

『そうですね……イクトさんと同じふうに感じてるはずです。まあ、私は意識同調を切れば、これを感じなくすることはできますけれど』

 

『そんなことできたんだ』

 

 ……なんかずるい。

 

『同調を切ってしまうと五感全部が感じられなくなってしまいますので、あまり切ることはありませんけどね』

 

『そっか……』

 

 気持ち悪いのだけ切るとか、そんな都合良くはいかないらしい。

 

『まあ、こんな日はお風呂に入って、さっさと寝てしまうに限るな』

 

 台所で追い焚きのスイッチを操作してお湯の温度を上げる。

 その後、俺は一旦部屋に戻り、着替えを用意してから浴室に向かった。

 

 その違和感に気付いたのは、お風呂で体を洗っているときのことだった。

 

 ……いつもよりも肌が敏感になっている気がする。

 

 泡立たせた石鹸をつけた手で自分の体に触れると、くすぐったくてむずむずした気持ちになる。我慢して洗い進めるけれど、俺よりもくすぐったく感じるアリシアは堪えるのが大変なようだ。

 

『ん……ふぁ……』

 

 悩ましい吐息混じりの声が頭の中に聞こえてきて、何とも言えないもやもやが込み上げてくる。

 そのもやもやをなるべく意識しないように、いつもより手早く体を洗い終えたら、髪を纏めてタオルでくるんで湯船に入り、浴槽に体を預ける。

 

 心地の良い暖かさが体を包み込んで染み入ってくる。

 それで、ようやく落ち着いた気分になれて、俺は安堵の溜息をついた。

 

 しばらくまったりと湯船を堪能してから、俺はふとした疑問をアリシアに投げかけてみる。

 

『ねえ、アリシア……今日の俺ってなんだか変じゃないかな?』

 

『体の調子は悪いですね……』

 

 うんざりしたように言うアリシア。お風呂に入って少しはましになっているが体調は相変わらず良くは無い。

 

『そうじゃなくて、感情の面で。なんだか不安定っていうか、振れ幅が大きくて制御できてないような、そんな気がする。アリシアから見てどうだった?』

 

『言われてみればそう思わなくも無いですけれど……その、いろいろありましたし仕方ないのでは……?』

 

 昼間の事を思い浮かべたのだろう。話しづらそうにしながら、アリシアはそう言った。

 俺は昼間の痴態を思い出していたたまれない気持ちになり、俺は水面に顔を埋もらせる。

 

『た、体調がよくないと気持ちは落ち込みやすくなりますし! 仕方ないですよ!』

 

 アリシアのフォローが優しくて辛い。

 なにせアリシアには何もかもばれているのだ。

 ……俺が粗相(そそう)をしてしまった時、背徳感と開放感の中で少しだけいけない気持ちになってしまい、僅かに体が反応しちゃっていたこととかも。

 俺はその事実にいまさら気がついて、恥ずかしさで頭が赤く染まるのを感じた。

 

 お風呂からあがった後、俺は歯磨きやら洗顔やら寝る前の準備を終えて部屋に戻った。

 

 こんな日はさっさと寝るに限る。

 俺はまっすぐベッドに入ると電気を消して目を閉じた。

 

 だが、お風呂で長湯したからか、体が熱っぽく眠りにつくことが出来ない。

 それに、目を閉じると刺激的だった昼間のあれやこれやの光景が頭の中をぐるぐるしてしまう。

 脳裏によぎる女子のはだけた制服に下着。それから、純の胸の感触……

 

 ……眠れない。

 

 いろいろ思い出しているうちにすっかり体が反応して火照ってしまっていた。

 このままではまずいと思い、なんとか別のことを考えて体の熱を冷まそうとするが、寝返りをうった際に服越しに固くなっている胸の先端部が腕に擦れて、そこから伝わる甘い刺激に体が反応してしまう。

 

「んっ……!」

 

 お腹の下あたりに熱が(こも)って(うごめ)いていて、お風呂上がりに穿き替えたばかりのショーツの股布の部分がわずかに湿り気を帯びてきている。

 俺は無意識に太ももを擦り合わせて刺激を求めるように動かしていた。

 

『ひゃ……!?』

 

 脳内に響くアリシアの声に俺は冷水を浴びせられたかのように我に返る。

 俺はアリシアの体でなんてことを――

 

『イクトさん……その……』

 

 俺の体の状況は当然アリシアにも筒抜けな訳で、言い繕うことは難しそうだった。

 

『ご、ごめん……俺……』

 

『あ、その……謝らなくて大丈夫です。その、こちらこそごめんなさい』

 

『……どうしてアリシアが謝るの?』

 

『わたしがずっと一緒だったから……その、イクトさんはずっとそういうこと出来なかったんですよね。わたし今まで気がつかなくて……』

 

『そ、それは……』

 

『だ、大丈夫です! 今日から夜の間は精神同調を切るようにしますから……その間は遠慮なくイクトさんの好きなようにしていただいて構いませんので!』

 

『好きなようにって言うけど、アリシアは、その……どんなことをするのか知ってて言ってるの?』

 

『それくらい知ってます! ……わ、わたしだって成人した女性なんですから、我慢出来ないときに自分で慰めることくらいします』

 

『そ、そうなんだ……』

 

 う……やばい。その告白は反則だ。

 つまりは、俺との旅の間もしてたということか、そうなのか。

 

『と、とにかく、そういうことなので遠慮せずなさって下さい! わたしだって、こんなもやもやしたままでいるのは嫌ですから』

 

『わ、わかった……』

 

 何故か押し切られるようにして、俺はアリシアの体で自慰行為をする事になった。

 

『……だけど、ひとつだけお願いしたいことがあるんですがいいですか?』

 

   ※ ※ ※

 

 俺は、電気をつけて部屋の鍵を閉める。

 それから、ティッシュと替えのショーツを枕元に準備して、姿見をベッドの脇に移動してベッドの上が映るように設置した。

 準備を終えたら、ベッドに腰を下ろす。

 

 姿見に映ったのは、これから起こることに期待して頬を上気させている少女の姿だった。

 外見の幼さと裏腹に全身から発せられる発情した雌の雰囲気はアンバランスで、正直とてもエロい。

 すでにその体の奥は深い熱を帯びていて、まだ触っても居ないのに下着がしっとりと濡れてしまっているのがわかる。

 

『イクトさん、わたしの我侭(わがまま)を聞いてくれてありがとうございます』

 

 アリシアのお願いごと。それは、『最初の一回だけでいいのでわたしの体を見て、わたしのことだけを考えながらして貰えませんか?』というものだった。

 『純さんのように胸が無いですし、文佳さんのようにスタイルもよくありませんけど……』と申し訳なさそうに言うアリシアだったが、俺にとっては願ったり叶ったりの申し出だ。

 鏡にアリシアの姿を映しながら俺はアリシアの体を弄れるのだ。鏡に映るのが自分と思うとちょっとどうかと思うところもあるが、そのくらいで男子高校生の性欲は止まらない。

 

『……それじゃあ、精神同調を切りますね。イクトさんおやすみなさい』

 

『おやすみ、アリシア』

 

 俺は姿見に向かって挨拶をした。

 そしてアリシアの声が聞こえなくなる。

 

『……アリシア?』

 

 返事は無い。

 俺は、もう我慢できなかった。

 

 

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女になるということ(その1)

 翌日、俺が目覚めたのは激しくノックされるドアの音によってだった。

 

「アリス! アリスっ! 遅刻するわよ!?」

 

 その言葉で意識が覚醒した俺は、自分の格好や部屋の惨状に気がついて狼狽する。今の俺は一糸まとわぬ全裸で、着ていた衣服は周囲に散乱していた。室内には甘ったるいような匂いが残っていて、昨晩の行為の残滓が感じられる。

 

「私、起きたから!」

 

 俺が応えるとノックの音が止む。

 

「もう、なんで鍵なんてかけてんの」

 

「ごめん、優奈! すぐ下りるから待ってて!」

 

「……わかったわ。急いでね」

 

 優奈はそう言うとドアから離れたようで、その後に階段を降りていく音が聞こえて来た。優奈には訝しげに思われただろうけど、今のこの部屋に優奈を入れる訳にはいかない。

 

 取り敢えずこの惨状をどうにかしないと。

 昨日は未知の快楽に没頭した結果、何度目かの絶頂の末に力尽きてそのまま寝てしまったようだ。

 取り敢えず枕元に用意していた新しいショーツを履いて、脱ぎ捨てられていた寝間着を着けていった。

 その後窓を全開にして空気を入れ替える。爽やかな朝の空気が鼻孔をくすぐる。

 その後、ぐちゃぐちゃになったベッドを整えていく。

 

「……どうしよう、シミになってる」

 

 昨晩の行為の結果シーツには何箇所かシミが出来てしまっていた。けれど、登校時間が迫っている今出来ることは殆どない。母さんが気がつかない事を祈って掛布団を掛けておくことにする。

 

 ……今度からバスタオルを敷いてするようにしよう。

 

 掛布団を整えていたときに丸まったショーツを発見した。摘んでみると、それは湿ってしまっていて重みがある。その生々しさに昨夜の快楽を思い出してしまい、思わず下腹部がきゅんとしてしまう。

 俺は少しだけ確かめてみたくなり、手をそこに触れようとして――

 

『……あーイクトさん』

 

「ひゃいっ!?」

 

 頭の中に聞こえて来た声に、俺は悲鳴をあげて飛び上がる。

 

『いろいろ言いたいことはありますけれど……取り敢えず早くしないと遅刻しますよ?』

 

『う、うん!』

 

 俺は手にした下着を手近にあったコンビニのビニール袋に入れて机の引き出しの奥にしまう。もう今朝の洗濯機は回ってしまってるはずだ。今晩のお風呂のときにでも、洗って洗濯機に入れておくとしよう。

 

 それから、ご飯を食べて、洗面所で準備して、部屋で着替えて、玄関に駆け下りる。

 

「……もう、アリスのせいで今日も走らないと間に合わないじゃない」

 

 そう文句をいいながらも、待っててくれる優奈は何だかんだで優しいと思う。

 

「ごめん優奈。私夜ふかししちゃったから……」

 

 靴を履きながら俺は優奈に謝罪する。

 

「変な時間に寝るからよ……体は大丈夫なの?」

 

「うん……ちょっと眠いけど……」

 

 寝不足に加えて、あれやそれやが原因と思われる体のだるさはある。

 

「自業自得ね。じゃあ、ちょっと走るわよ」

 

「わかった」

 

 正直走るのは少し辛いけど、優奈の言う通り完全に自業自得だし仕方ない、頑張ろう。

 

「ちょっと待って」

 

 俺は玄関を出る前に身体能力向上(インクリスフィジカル)(小)を自分と優奈に掛ける。

 

「これで少しは楽に走れるから」

 

  ※ ※ ※

 

 登校は無事間に合った。魔法のお陰でそこまで身体に負担を感じることもなく走る事ができた。

 走り始めに加減の分からない優奈が、ちょっとだけ人類の限界を超えた速度で走ったりとか、すったもんだはあったけど大したことではないだろう。

 授業は穏やかにすぎていって、穏やか過ぎて眠気が襲ってくる。特に三時間目の古文の授業は強敵で、つらつらと読み上げられる古い詩を聞いていると目蓋が重みを増してきて……段々と……

 

『イクトさん、ダメですよ眠っちゃ……授業中ですよ』

 

『ん……アリシアが代わりに聞いといて』

 

『無理ですってば。わたしの意識はイクトさんの意識が眠りについたら一緒に眠ってしまうんですから……』

 

『……もうだめ』

 

『イクトさん、イクトさん! ……もう、先生に怒られても知りませんからね』

 

 アリシアの声を心地よく耳にしながら、俺は意識を手放した。

 

   ※ ※ ※

 

 ――再び夢をみた。

 

 イクトの部屋。アリシアとイクトがベッドに並んで座っていて、何かぎくしゃくと会話をしている。お互いが意識しているのがまるわかりで、何とも見ていて気恥ずかしい状態だった。

 やがて、イクトが意を決して何かを言ったみたいで、アリシアは一瞬固まる。そして顔を真っ赤にして、イクトに黙って頷いた。

 イクトはアリシアに口づけをする。そのままイクトはアリシアを腰掛けたベッドに押し倒して……

 

   ※ ※ ※

 

「……ぎ……さらぎ……如月アリス!」

 

 自分の名前を呼ぶ声に俺は現実に引き戻される。

 横の席の優奈が俺の事を揺すっている。

 

 ……やばっ

 

「は、はいっ!」

 

 俺は慌てて立ち上がって応える。

 

「転校そうそう居眠りだなんていい度胸しているな……って、お前、それ!?」

 

 教師の言葉で教室がざわめき出す。

 

 どうしたんだろう?

 

 下半身にひんやりとしたものを感じて、俺は慌てて左手でお尻を押さえる――手に触れたスカートは湿っていて。

 

 ……も、漏らした!?

 

 慌てて俺は座っていた椅子を見ると、座席の部分が赤く染まっていて、まるでスプラッター映画さながらの様相を呈していた。

 想像もしなかった光景に俺は呆然と立ち尽くすことしかできない。

 

 何かが太ももの内側から垂れてくる感触がして俺は視線を下げる。

 スカートの中から伸びた自分の足に朱い筋が一本延びていた。

 



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女になるということ(その2)

 女性には生理があり、毎月出血を伴う腹痛がある。

 保健体育や身近な異性からの知識で、そんなことは俺も知っていた。だから、俺の体がその状態になっていることは直ぐに検討がついた。

 けれど、突然訪れたそれに、どう対処すればいいかはさっぱり思い浮かばなかった。

 

 授業は中断し、立ち上がった俺は血を垂れ流したままで、クラス中の注目を集めて固まっている。そして、俺の席は血で汚れている。

 さらに、お腹が重苦しくて、針で刺されたかのような痛みが断続的にやってきている。

 

 いっそ、倒れて意識を失ってしまっていれば楽だったのかもしれない。だけど、1年間の異世界生活の中で俺は血や痛みに耐性が出来ていた。

 

「アリス大丈夫?」

 

 教室の沈黙を破ったのは優奈だった。気がついたら側に立っていて心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。

 

「……結構辛い」

 

 体調は最悪と言っていいくらいだ。

 

「アリス今日しんどそうだったものね」

 

「急に来たの? 大丈夫?」

 

 いつのまにやら純と文佳、そして他にも親しくしてくれているクラスの女子達が俺を取り囲んでいた。俺を男子の視線から隠してくれているらしい、ありがたい。

 

「保健室に行こうか……歩ける?」

 

「あ、うん……多分大丈夫だと思うけど、これ……」

 

 俺は太ももに垂れてきている血の筋を見る。

 優奈はタオル地のハンカチを取り出して俺に差し出た。

 

「これで拭いて」

 

「でも、汚れちゃう……」

 

「そんなの構わないから……それとも私が拭いたげようか?」

 

 こんな所で百合姉妹なんて披露したくない。俺は優奈から素直にハンカチを受け取ることにした。

 太ももに垂れた血を拭う。スカートの中も拭いてしまいたいけれど、注目を浴びている状態でそれをするのはあまりにもはしたないように思えた。

 とりあえず、スカートの裾から手が届く範囲で我慢しよう。

 

「先生、アリスは体調不良のようですので、保健室に連れて行きます」

 

「あ、ああ……お大事にな」

 

 壮年の古文の男性教師は優奈がそう言うと、ほっとしたように息をはいて保健室行きを了承した。

 

「付き添いは、誰かお願い出来る? あたしはここを片付けをしないといけないから」

 

「優奈が付き添いなよ、掃除はボク達でやっとくからさ」

 

 純がそう申し出る。

 

「けど……」

 

「純の言う通りよ。片付けは私達で終らせておくからアリスと一緒にいてあげて?」

 

 文佳が純に同意した。他の女の子も同じように優奈をうながして、俺と一緒に送り出そうとしてくれている。すでに、先生に許可を貰って雑巾とバケツを取りに行った娘もいるようだった。

 

「わかったわ……みんな、ありがとうね」

 

「……みなさん、ごめんなさい。ありがとう」

 

 汚いものを処理させてしまうことに非常に申し訳ない気持ちになりながら、俺は皆に謝罪と礼を言う。

 

「気にしないの。困ったときはお互いさまなんだから、ね?」

 

「先生も授業を中断してしまい申し訳ありませんでした……失礼します」

 

 俺は優奈に手を引かれるようにして教室を出る。

 垂れてこないように内股でひょこひょこ歩きになってしまって情けない。

 

 教室から出た俺達がまず向かったのは、教室のすぐ隣にある女子トイレだった。

 まずは、この酷い有様をなんとかしたかった。

 

「あたし着替えを取ってくるから、その間に綺麗にしておいてね」

 

 トイレの中で優奈と別れて俺は個室に入った。

 

『ごめんなさい、イクトさん』

 

 個室の中でアリシアが俺に謝罪してきた。

 俺は、スカートを脱いで落とす。

 真っ赤に染まった下半身が目に入って思わず息を飲む。

 

『……どうして謝るの? アリシアはこうなるってわかってた?』

 

 迷ったがショーツも脱いでしまうことにした。

 血塗れのものを履いているのは気持ち悪いし、衛生的にも良く無い。

 替えが無かったらそのときに考えよう。

 

『わたしも経験が無かったことなので思い至りませんでした……ですが、ミンスティア様の御加護が切れて、わたしに掛かっていた老化減退の恩恵もなくなっていました。いつかはこの日が来とわかっていたのですから、わたしがもっと気をつけておくべきでした……』

 

 俺は、ショーツを脱いで便器に腰を落とす。

 ポタポタと血が白い便器に落ちて濃い朱の花を咲かせていく。

 ちょっとグロいな……

 

『あれ? それって本当の話だったんだ。てっきり成長が遅いことに対する言い訳だと……』

 

『へぇ……イクトさんはそんな風に思ってたんですか』

 

 やばい、失言だ。

 

『とにかく、知らなかったものは仕方ないさ……それより、これって落ちるのかなぁ』

 

 脱いだスカートを掲げて見ると、お尻の部分が赤く汚れてしまっていた。

 

浄化(ピュリファイ)で汚れは落とせますけど、白以外の服だと色も纏めて落としてしまうんですよね……』

 

 アリシアの法衣が基本白一色だった理由が思いがけず判明する。

 汚れが落ちることを祈りながらスカートを畳んでおいて、脱いだショーツをその間に挟み込んで隠して、トイレのタンクの上に置いた。

 

『ですが、大丈夫ですか? その……こういったものを他の人に、特に男性の前で晒してしまったのは、抵抗のあることだと思いますけれど……』

 

 下半身裸になった俺は、トイレットペーパーで汚れを拭きとっていく。

 個室内には酸っぱい臭いが漂っている。

 

『俺はそこまで気にしていないかな……多分そんなに実害は出ないと思うよ。ただでさえ、男子には触れづらい話題だし』

 

 うっかりからかおう物なら、クラスの女子から総スカンされる危険性もある。

 男子の間でこっそりとエロネタとして話されるのはあると思うけど、まあ、これは仕方ない……アリシアには申し訳ないけれども。

 

『それよりも、この痛みが毎月来るって思うとそっちの方が憂鬱だよ』

 

 気持ちが落ち着くと、その分お腹の痛みが改めて意識されて辛い。

 

『……そうですね。わたしも存在は知っていましたけど、実際経験してみると思った以上にしんどいものですね』

 

 俺達は二人して溜息をついた。

 

 一通り清め終えた頃に優奈が帰ってきてドアがノックされる。

 

「アリス、着替え持ってきたよ。鍵を開けて」

 

 今下半身裸なんだけれどな……とも思ったが、今更優奈相手に気にしても仕方ないか。

 俺は個室の鍵を開ける。

 

「アリス、体の具合はどう?」

 

 心配そうな顔で覗きこんできた優奈は手に紙袋を持っていた。

 

「体操服持ってきたわ。後は保健室で替えのショーツ借りてきたからこれ使って……あと、これナプキン、使い方はわかる?」

 

「……そんなのわかる男子高生は居ないと思う」

 

「わからない女子高生も居ないと思うけどね……それじゃあ、教えてあげるから中に入るわね」

 

 優奈が個室に入ってきて後ろ手に鍵を閉める。

 それから、トイレに座って新品のショーツを膝まで履いた状態で、優奈のナプキンの使い方講座が始まった。

 

 ……これって、誰かに見られたらすごく恥ずかしい状況だよね。

 

 けれど、優奈は俺のことを心配して真面目に教えてくれているので、変なことは頭の外に退けて話に集中する。

 

 女子がポーチを持ってトイレに行くことがある理由がわかった。

 ……てっきり化粧道具とかが入っているものとばかり思ってたよ。

 



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女になるということ(その3)

 ナプキンのつけ方を教えて貰った俺は体操着に着替えてトイレから出た。

 ショーツにつけたナプキンはごわごわしていて股間の部分に違和感がある。

 優奈の話だと二時間おきくらいで交換しないといけないようだ。最初の三日くらいは量が多いので、それこそ休み時間毎にトイレで状況を確認した方がいいらしい。

 ……話を聞くだけでげんなりした。

 

 俺は優奈に連れられて保健室に入る。

 女性の保健医の先生への事情の説明は優奈がほとんどしてくれた。

 優奈は先生に初潮を迎えたことも話してしまっていて、この歳で初めてという事を変に思われないか心配だったが、そういう娘もときどき居るという話を先生から聞いて少し安心した。

 

 ちなみに今俺が履いているショーツはここで借りたものらしい。借りたものはそのまま返さずに、新しい物を後日学校に収める仕組みになっているようだ。

 

 俺は保健室のベッドで横になることになった。寝不足も体調不良の理由のひとつだったので正直ありがたい。

 保健室の飾り気もなく真っ白なベッドに体を横たえると、安心感で眠気が直ぐにやってきた。

 優奈がベッドの周りのカーテンを引いた。周りの景色が白く隠される。

 

「ゆっくり寝てなさいね。お昼にまた様子見にくるから」

 

 そう言う優奈は紙袋を持っていた。中には汚れた衣類が入っていて、スカートは優奈が後で洗ってクリーニングに出してくれるらしい。本当に優奈には頭が上がらない。

 

「ん……おやすみ……優奈、いろいろありがとう」

 

 俺がお礼を言うと、優奈は俺の額をなでて「よしよし」としてくれる。

 扱いが子供っぽいと不服に思わなくもなかったが、俺は黙って目を閉じて身を任せた。

 髪を梳く指の感触が心地よくて、頬が自然とへにゃっとするのがわかる。

 

『これ、気持ちいいですね……すごく、安心します……』

 

 そんなアリシアの声を遠くで聞きながら、俺は意識を手放した。

 

   ※ ※ ※

 

 お昼休み、様子を見に来てくれた優奈と純と文佳の4人で保健室を出た俺達は、お昼の前にトイレに立ち寄った。

 汚れや匂いに辟易としながら、使用済みナプキンを丸めて、新しいナプキンの包装紙で包んで、トイレの隅にあるエチケットボックスに捨てる。

 それから、ショーツに新しいナプキンをつけた。血を吸ったナプキンは重たくて不快感があったので、新しいナプキンに交換するだけで気持ちが軽くなった気がする。

 

「大丈夫だった?」

 

「うん、なんとか……」

 

 石鹸で手を洗いながら俺は応える。

 相変わらずお腹は重たくて痛みは続いていた。

 これが毎月あると考えると気が遠くなる。

 単純に女の体最高って考えていた昨晩の自分を全力で殴り飛ばしたい気分だ。

 

 お昼はみんなと中庭で食べることになった。

 優奈が買ってくれた物はホットココアとくるみパンで、食欲が減退している俺でも美味しく全部食べられた。

 

「生理中は食べ物にも気を配った方が良いわ。カフェインや乳製品、体を冷やす物、砂糖や脂肪が多いものは控えた方がいいわね」

 

 とアドバイスしてくれたのは文佳。

 

「ボクはそんなの気にしたことないよ。只でさえ気分が憂鬱になるんだからケーキとか美味しいものを食べたのでいいじゃん」

 

 と純は言う。

 優奈は、気にはするけど美味しいものが食べたいときは食べるという折衷タイプのようで。

 生理に対する接し方は本当に人それぞれみたいだ。

 

「ボクも初めては小学校の授業中に来てさー。クラスのバカ男子がからかってきたもんだから蹴り飛ばしてやったのよ」

 

 と、純は笑いながら言う。他にも初めて生理が来たときのこととか失敗談とかをみんなで話しながら昼休みを過ごした。

 初潮を迎えた俺の事を気遣ってくれてのことだろう、ありがたいことだ。

 

 午後の授業も休んで保健室で寝ていることにした。

 体調は相変わらずだったし、何より今授業を受けるなら体操着で受けないといけなくて、今日の今日でその格好は悪目立ちしすぎると思ったからだ。

 

 そのままベッドの上で寝て過ごし、放課後迎えに来た優奈と一緒に家路につく。

 途中、クリーニング屋に寄って水洗いしたスカートをクリーニングに出したり、洋品店で返却用の下着と生理用のサニタリーショーツを何枚か購入したりした。

 サニタリーショーツは防水性で汚れが落ちやすい素材で出来ている下着で、ナプキンがフィットする形状になっている物らしい。実用品だけど、かわいいデザインの物をみつけられて、少し気分が良かった。

 

 用事を済ませて帰宅すると意外な人物が俺達を出迎えた。

 如月幾男、俺達の父親だ。

 

「アリス、優奈、おかえり」

 

「パパただいまー」

 

「ただいま、父さん。お帰りなさい。日本に帰ってたんだね」

 

「おう仕事の都合で急にな……アリス制服はどうしたんだ?」

 

「あ……ええと……」

 

「いじめか? もしそうなら父さんに相談してくれよ。そんなやつが居たら、いじめたことを一生後悔したくなるような目に合わせて、アリスに土下座で泣いて謝りに来させるくらいの事くらいなら、父さんにだって出来るんだからな?」

 

 何このモンスターペアレント、怖い。

 そんな台詞を笑顔で言わないでいただきたい。

 

「いじめとかじゃないよ。今日学校で初潮が来ちゃって制服のスカートが汚れちゃっただけだよ」

 

 俺は一瞬言いよどんでしまったが、父さんに生理のことを話すのにそんなに抵抗は無い。なにせ、中身は息子だから。

 

「お、おう……そうか……」

 

 逆に父さんの方が戸惑ってしまっているみたいだ。

 ……気持ちは解る。

 

「それじゃあ、私はお腹痛いから、部屋で休んでるね」

 

「そうか……気をつけてな」

 

 それを言うならお大事にじゃないだろうか?

 普段動揺する姿をほとんど見たことのない父さんの珍しい姿に少し笑みをこぼしつつ、俺達は手洗いうがいをする為に廊下の奥の洗面所に向かった。

 

 ……後で部屋に戻る前にトイレにいって買い置きのナプキンの種類の確認と交換をしておかないと。

 どうやら、ナプキンにも種類がいろいろあるらしい。

 

 ……女の子って大変なんだなぁ

 



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女になるということ(その4)

 その日の晩ご飯、一番乗りでリビングに降りてきた俺は、食卓に並んでいる物の中に一際目を引くものがあるのを発見した。

 

「あの、母さん……これって……」

 

 引きつった顔で俺は台所で洗い物をしている母さんに尋ねる。

 

「お赤飯よ。初潮がきたなら家族でお祝いするのは当たり前じゃない」

 

 そういえば、優奈のときも赤飯を食べた記憶がうっすらとある気がする。

 当時の俺はまだ小学生で意味もわからなかったから、赤飯なんて珍しいくらいにしか思っていなかったけど……優奈がやたら恥ずかしがっていたという印象が残っている。

 

「……お祝いっていうけど、初潮ってめでたいことなの?」

 

 俺にとっては煩わしいものでしかないように思える。

 

「それはそうよ。生理が来たということは子供を授かれるようになったということだもの。めでたいことだわ」

 

「う、うーん……私は子供を産む気なんて全く無いんだけど」

 

 子供を産むなんて想像出来ない。何よりも男に抱かれると考えるだけで気持ち悪い。

 いちゃいちゃするなら女の子としたい……これってレズになるのかな?

 

「今はそれでいいわよ。アリスの年齢で子供を産むことなんて考えられなくて当然よ。だけど、将来男の人を好きになってその人の子供を産みたいって思う日がアリスにも来るかもしれないわよ」

 

 それは何気ない一言だったが、胸にチクリと来るものがあった。

 俺はアリシアの体になった事で食べ物や服の好みが大なり小なり変化している。だから、この先心が体に馴染むことで。母さんの言うように男のことを好きになって子供を産みたいと思うようになるかもしれないと言われれば不安になる。

 

 今は否定出来る。だけど5年後、10年後も同じように否定する俺でいられるかどうかはわからない。

 

 知らないうちに体の内側から作り変えられているような、ぞわぞわした感覚がする。体の中でなにかが蠢いているような錯覚がして気持ちが悪くなる。

 俺が俺で無くなってしまう、そんな恐怖が込み上げて来て思わず叫び出しそうになる。

 

「……大丈夫? 顔色悪いわよ」

 

 俺を心配して母さんが声を掛けてくる。

 

「……ちょっと気持ちが悪いみたいで……みんなが来るまで座って休んでるね」

 

「あ、うん。まだ初日だからね。貧血に気をつけるのよ」

 

 母さんは俺の体調不良を生理の症状によるものと思って疑っていないようだった。

 

 その後のことはあまりよく憶えていない。

 頭がぐるぐるして気持ちが悪く食欲もなかった。だけど、お祝いをしてくれるという母さんの気持ちを無下にしたくなくて、少しだけでもと頑張ってご飯を食べた。

 

 ――その後、吐き気が抑えられずに全部戻した。

 

   ※ ※ ※

 

『イクトさん、今日も精神同調を切るようにしますね』

 

 ぐったりとベッドで横になっている俺に、アリシアはそう宣言する。

 

『ああ、今日は大丈夫だよ? ……さすがにこの状況でしたいとは思わないし』

 

『同調を切る日と切らない日を作ると……イクトさんがいつしたのか意識しちゃいますので、その……』

 

 アリシアは言い辛そうに俺に告げる。それもそうか。他人のソロ活動の状況なんて把握したく無いよな。

 それに、こんな最悪な体調のときにまで無理に同調する必要はないと思うし……

 そんな風に思っているとアリシアの心配そうな声が聞こえてきた。

 

『イクトさんが今不安に思っている事、一度ご家族に相談してみては如何ですか?』

 

『な、なんで……?』

 

『わかりますよ、それくらい。単純に生理だけが原因で、こんなに体が辛くなるなんて思いませんから……イクトさんは辛いんですよね、心が』

 

 だけど、認めることは出来ない。俺の悩みは女性になったことに起因するもので、アリシアがそのことを知ってしまえば責任を感じてしまうだろう。

 下を向いて押し黙っているとアリシアが溜息をつくのがわかった。

 

『イクトさんの意地っ張り。今ほどわたしの体がないことを惜しんだ事はないです。体があればあなたを抱きしめることが出来たのに……』

 

 アリシアは少し拗ねたような口調で言う。

 

『わたしはもう同調を切りますね。わたしが居ない方が話しやすいこともあると思いますし。……それで、明日には笑顔でおはようって言えるようになってると嬉しいです』

 

『……ごめん。おやすみアリシア』

 

『おやすみなさい、イクトさん』

 



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女になるということ(その5)

 アリシアとの精神同調が切れた後、俺は一階に降りて客間の和室の襖戸をノックする。

 

「父さん、今大丈夫?」

 

「……アリスか。おう、入っていいぞ」

 

 襖戸を横に引いて部屋に入る。

 8帖の和室には小さめのちゃぶ台が中央に設置されており、そこに置かれたノートパソコンに向かって父さんは座っていた。

 部屋に入って、まず感じたのは香の匂いだった。

 

「……線香を上げているの?」

 

 そこにある仏壇は俺――如月幾人のもので、当然その中身はがらんどうだ。

 

「ん? ああ、これか。適度に香を焚いておかないと不自然に思われるからな」

 

「そうなんだ。てっきり、男としての俺を弔っているのかと思ったよ……初潮も来て俺はすっかり女になっちまったから」

 

 溜息と共に吐き出す。

 

「珍しいな、お前が体の事で愚痴を溢すなんて……その、いいのか?」

 

「ああ、アリシアは今精神同調を切って先に休んでいるから。それで、ちょっと相談があるんだけどいいかな?」

 

「ああ、いいぜ……ちょっとまってな」

 

 そう言うと父さんはノートパソコンを閉じて、席を立って部屋を出る。何かを取りに行ったようで、リビングから物音がしている。

 戻って来た父さんがお盆に乗っけて持ってきたのはビールとおつまみの晩酌セットだった。

 

「待たせたな。まあ、形だけでも付き合え」

 

 そう言って俺に手渡してきたのは、缶ビール風のノンアルコール飲料だった。

 

「苦いのは好きじゃないんだけど……」

 

 俺が幾人だった頃、何度か好奇心でビール風飲料を飲んだことはあるけれど、正直美味しいとは思えなかった。

 ……まあ、飲めなくもないけど。

 俺はプシュッと音を立ててプルタブを開ける。

 

「乾杯」

 

 父さんと手に持った缶を合わせると、ドゥムと鈍い音がした。ちなみに父さんが持っているのは正真正銘の缶ビールだ。

 俺はそのまま手に持った缶に口づける。

 

「に、苦っ……」

 

 口の中のものを飲み込んだ俺は、そのえぐさに思わず顔をしかめた。幾人の体だった頃よりも苦味の感じ方がキツい。

 一方父さんは缶を煽り飲むと、満足気に一気に息を吐く。

 

「かぁぁぁっ、この一杯が最高だねぇ!」

 

「……なんで、こんな苦いものを美味しいと思えるのかなぁ」

 

 ……アリシアならいったいどんな反応するのだろうか?

 渋い顔をしたアリシアの顔を想像して少し頬が緩む。

 

 俺はおつまみの小袋の中からナッツの詰め合わせを取り出して摘まむ。

 塩分で口の中が辛くなったところにビールを流し込んで潤すのはすっきりとして気持ち良かったけど、やっぱり後に残る苦味は慣れない。

 

 そんな俺の様子を父さんはビール片手に楽しそうに見ていた。

 

「……仕方ないだろ、この体は幾人のときよりも苦いのが苦手みたいなんだから。それより父さん、相談なんだけどいい?」

 

「おうよ」

 

 なんだか恥ずかしくなってしまい、俺はごまかすように本題に入る。

 

「不安なんだ……俺はずっと男で、アリシアの体になっても俺は俺のままだってそう思ってた」

 

 俺は缶を持った自分の手に視線を落としながら話をする。缶が大きく見える程に小さくて華奢な今の俺の手。

 

「だけど、いつの間にか幾人のときと感じ方や好みが違ってきてて、そのうち俺が俺でなくなるんじゃないかってそう思ったら怖くなって……」

 

 父さんはビールを一煽りして、少しだけ考えてから口を開いた。

 

「去年の男子高校生だったお前と、異世界から帰ってくる直前のお前は随分と変わっちまったんじゃないか?」

 

「そうだね……大分変わったと思う」

 

 1年間の過酷な体験は俺の性格に大分影響を与えていた。

 

「それじゃあ、どっちのお前もお前自身だと思うか?」

 

 父さんは不思議な事を聞く。

 

「どちらも俺自身で間違いないよ。俺が変わった経緯は俺自身が憶えてるから」

 

「それなら、そういうことじゃないか?」

 

「……え?」

 

「お前がどれだけ変わっても、お前がお前自身であることに変わりは無いってことだよ」

 

「……だけど、俺は今の俺は体の内側から変わってきてるんだ。知らないうちに心が体に作り変えられていて、俺は男の事を好むようになるかもしれない」

 

「そんなのは男だった頃だってあったろう? 思春期が来て精子が作られるようになると、体の欲求に合わせて心が女を求めるようになる。男だって股間に支配されてるんだ。それが子宮に変わっただけで体に支配されているのには変わりはないさ」

 

「……父さんは男に抱かれるかもしれないってのは平気なの? 俺は男に抱かれて子供を産むことになるかもしれないんだよ」

 

「男だったお前がそいつを不安に思う気持ちはわかる。だけど、それを選択するのは将来のお前自身だ。それに、女が全員男を好きになる訳じゃないさ。別にお前が今まで通り女を好きになっても構わないだろ?」

 

「……でも、それだと父さんも母さんも孫の顔が見られないよ」

 

「親ってのは子供の幸せが一番なんだよ。親は子供を育てる喜びを知ってるから、それを勧めたくなるし、孫を見たいってのもある。だけど、それもお前が幸せになってこそだ。お前の人生だ、お前のしたいようにするといい」

 

「幸せ……か」

 

 俺は俺のしたいようにすればいい。

 父さんのその言葉に、乗っていた心の重石が外れたような気がした。

 

「……で、正直どうなんだ女の体ってのは? もう、堪能したのか?」

 

 急に態度を変えて父さんはそんな事を聞く。

 セクハラ親父か。

 

「……良かったよ」

 

 ぽつりと俺はつぶやくように返す。

 

「そうか、そうか。好きな娘の体を自分で好きなように出来るってのも中々得難い経験だよなぁ……」

 

 そういえば、元々息子に対する父親としてはこんな感じだった。

 異世界から戻って以降はアリシアが居たから遠慮していたらしい。

 

「今の俺は女湯も入り放題だぜ。羨ましいだろ?」

 

「そいつはいいな……そういえば、今家族で温泉行くと俺ひとりが男湯なのか」

 

「家族風呂でよければ一緒に入っていいよ。まあ、優奈は嫌がるだろうけど……」

 

「マジか。じゃあ、今度家族で温泉旅行にでも行くか」

 

「久しぶりに背中を流してあげるよ」

 

「そいつは楽しみだ」

 

 それからしばらく沈黙が訪れる。お互いが無言でビールを飲んで、つまみを口にする。

 気まずさはない、家族だからだ。

 

「いつか、その苦いビールも美味しく思えるようになるかもしれない。そんな風に人は変わっていくものさ」

 

 と、不意に父さんは言う。

 俺は缶に入ったビール風飲料を一口飲んでみて――やっぱり苦いだけのように思えた。これを美味しく思う日なんて来るのだろうか?

 

「何であれ、俺にとってお前は俺の息子っていう事実は変わらないからな……体が女になった今でも、な」

 

 父さんがビールを大きく傾けて最後まで飲みほすと、空き缶をちゃぶ台に置いて真剣な表情で言った。

 

「だから憶えておいてくれ。俺は本物の酒を息子と飲むのが夢なんだ……お前が酒を飲めるようになったら俺と付き合ってくれよ。これは男と男の約束だからな」

 

 父さんは握った右手を俺に向けて付き出した。

 

「ああ、約束するよ」

 

 俺は右手をこつんと打ち付けた。

 

「父さん……ありがとう」

 

 これから先どうなるかなんてわからない。

 だけど……男であれ、女であれ、俺は俺だ。父さんと母さんの子供で、優奈の兄妹で、幾人であり、アリスでもある。

 自分自身はこれまでの人生で積み重ねてきた中にある。

 だからもう……大丈夫。



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第三章 幼馴染の少女
文化祭に向けて


 10月に入り中間テストが終わると、学校はにわかに騒がしくなっていた。月の最終週の土日には、2日間連続で文化祭が予定されており、それに向けて生徒全体が盛り上がっていたからだ。

 

 俺達のクラスは出し物として定番のメイド喫茶をやるようで、クラスの担当者は衣装やら、飲み物やら、付け合わせやら、積極的に準備をしていた。俺や優奈は二日間それぞれ2時間づつの店番の割当はあるが、その分事前準備は免除されていて気楽なものだ。

 

 ただ、その分部活動の方で出し物を予定している。

 俺が参加している『Wizard's Soil同好会』は先月から『Wizard's Soil部』として活動していた。

 俺が優奈に同好会へ加入すると伝えると、優奈も一緒に入ると言って聞かなかったのだ。

 そしてもうひとり、蒼汰の妹である翡翠も何故か同好会に参加して、同好会は部活動の要件である5名の部員数を満たして正式に部活動として学校に認められたのだった。

 活動日は週三日で参加自由のゆるい部活だ。ちなみに、優奈と翡翠も兄の影響でウィソをプレイしていたことがあるので、名前だけの部員という訳ではない。

 

「文化祭ではウィソ部として、トーナメントを開催したいと思う!」

 

 ある日の部活動の最中、蒼汰はそう宣言した。

 

「うん、いいんじゃないかな? ……ターンエンド」

 

 涼花と練習用のデッキで対戦をしていた俺はそう答えた。

 

「わたくしもいいと思いますわ……アタックですの」

 

「あー、ここではアタックはこうした方がいいと思うよ。このカードを持たれてると、一方的に損してしまうから」

 

 俺はアタックしている涼花のクリーチャーを入れ換えながらプレイングの改善箇所を伝える。

 

「……なるほど、勉強になりますわ」

 

 頷く涼花。彼女は物憶えがよく基本的な戦術はほとんど身につけていた。後は細かいやり取りを憶えたら、トーナメントでもそこそこのところまで行けると思う。

 

「……お前ら、もうすこし真剣に考えてくれよ。他人事じゃないんだからな」

 

「と言っても、あたしトーナメントになんて出たこと無いから、どうしたらいいのかわからないんだけど……」

 

 空いてるテーブルで紅茶片手に勉強をしていた優奈が、顔を上げて蒼汰に答える。

 

「私も、そもそもカードゲームにあまり興味ないから……」

 

 困った、という風に小首を傾げたのは翡翠だった。

 

「お前ら、何しに部活に来てるんだよ……」

 

 蒼汰は溜息をついた。

 

 実際、俺に付き合って入部した優奈はさておき、翡翠が何でこの部活に入ったのかは謎だった。

 人数が足りないときに誘えばゲーム自体はプレイするものの、翡翠から積極的にプレイしているところは見たことがない。

 

 最初、会室で翡翠と再会したときは、どんな態度をとったらいいか分からなかった。なにせ、翡翠に会うのは幾人の葬式で逃げるように立ち去られて以来の事だったからだ。

 だけど、心配をよそに「ごめんなさい、あのときは動揺してて、みっともないところを見せてしまって……」と出会い頭に翡翠は謝り、それからは、普通に会話をするようになった。

 俺が敬語を使うのを嫌がられて、蒼汰や涼花と同じようにタメ口で話をするようになったが、それ以外は今日まで差し障りのないやりとりばかりで、正直なところ拍子抜けした。

 

 それはさておき、大会は参加経験がある俺と蒼汰が中心に運営することが決まった。

 

「大会の賞品に何か目玉が欲しいな。取り敢えず俺はこのホログラム・レアカード達を賞品として提供しようと思う」

 

 そういって蒼汰が取り出したのは、なかなかの値段がついている箔押しのレアカード達だった。

 

「パックでしたら、何箱か提供できると思いますわ」

 

 と涼花。彼女の家には執事によって用意された未開封のパックの箱が常に常備されているらしい。

 

「それは助かるぜ! 他にも何かないかな……そうだ! せっかく女子が多い部なんだし、文化祭でのデート権とかどうだろう?」

 

「私は嫌」「同じく」「わたくしは蒼汰さんがどうしても、というなら従いますが……」

 

 蒼汰の提案に対し、女性陣の反応は散々だった。

 

「……アリス、任せた!」

 

 その態度を受けて、半分投げやりになりながら俺に振る蒼汰。

 

「私は別にいいけど……私なんかとデートして嬉しいものかな?」

 

 一部マニアックな趣味の人はいるとは思うけど、需要は低いんじゃないか、そんなふうに思う。

 だけど、いくら需要が高そうだからといって、うちの部の他の女子に見知らぬ相手と無理矢理デートさせるというのは忍びないので、俺が引き受けることにした。

 

 各人が提供した賞品は上位から順番に選んでいくみたいなので、俺とのデート権が最後まで残ったらどうしようと、そのときは軽く考えてた。



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文化祭初日(メイド喫茶)

 文化祭当日がやってきた。

 2日ある文化祭両日の午前中はクラスの手伝いでメイド喫茶のウェイトレスをすることになっている。

 

 クラスメイトが相当張り切ったらしく、飾り付けられた教室は、普段とは印象ががらりと変わっていた。

 教室の無骨な部分は、どこからか大量に持ってきたえんじ色のカーテンで極力隠されていて、並べてテーブルにしてある学習机も揃いのシックな柄のテーブルクロスを掛けられている。

 椅子がそのままだったりと、一部手がつけられていないところなどがあったりするのもご愛嬌で、むしろ文化祭の手作り感が出ていて俺は嫌いじゃない雰囲気だ。

 

 ウエイトレスの服装は各人の種類こそバラバラなものの本格的なメイド服で、聞くところによるとクラスの誰かのツテで借りる事が出来たもののようだった。

 ちなみに俺用に用意されていたのはミニスカメイド服だった。交換してもらおうとしたが、他に俺が着られるサイズの服は用意されて無くて逃げ場は無かった。

 

「……でも、今日の私には抜かりはないんだよ」

 

 こんなこともあろうかと、用意しておいたものがある。

 それは、主にテニスウェアの下に履く重ね履き用の下着で、いわゆるアンダースコートと呼ばれる物だった。

 パールホワイトでかわいいデザイン。スカートの下がもこもこするのは嫌だったので、レースは腰のラインに控えめについているだけの物を選んだ。

 

 期待している男子諸君には悪いけど、今日の私はパンチラのサービスをすることは一切無いからね、ふふん。

 

   ※ ※ ※

 

「おかえりなさいませ、ご主人様」

 

 テーブルを片付けた後、新しいご主人様を席に案内する。

 朝から客はひっきりなしで、接客に慣れていない俺なんかはてんやわんやだった。

 一応基本的な接客のやり方と挨拶の仕方等は事前に放課後のクラスで簡単な研修を受けてはいたが、いきなりここまで賑わいを見せるのは想定外だった。

 アルバイト経験者のクラスメイトを中心に、本来は裏方に徹する予定だった男子もテーブルの片付けや会計等に応援に出てなんとか回せていた。

 

「ご主人様、ご注文は何に致しましょうか」

 

 こういうのは照れたら負けだ。

 接客用の笑顔でちゃきちゃき応対する。

 

「12番テーブル3名様、コーラ1、コーヒー1、アイスティー1でーす!」

 

「8番テーブル2名様ご会計でーす!」

 

「「いってらっしゃいませ、ご主人様」」

 

「3番テーブル2名様おかえりなさいましたー」

 

「「おかえりなさいませ、ご主人様」」

 

「コーヒーにミルクが無いんですけど」

 

「申し訳ございません、直ぐにお持ちします」

 

「き、君を注文したいんだな」

 

「申し訳ありません、当店のメイドは規則により特定のご主人様にお仕えすることは出来ないのです」

 

「あ、お客様。当店のメイドは恥ずかしがり屋なので写真撮影はご遠慮下さいませ~」

 

 ……なにこれ、忙しい。

 

 用意されたメニューが「メイド手作りクッキー(ご主人様のことを思って精魂込めて作りました)とドリンクのセット」のみで

注文はドリンクの種類だけ確認するだけでいいからなんとか回っているけど、メニューが複数あったら間違いなく破綻していた。

 

 それにしても、なんだか学校外から来ている男性客がやたらと多いように思える。

 黒っぽい服装で、リュックを持った人が多く、どこか見覚えがあるような特徴のような気がしたが、のんびりと考える余裕は無かった。

 

「あ、あの……午後のトーナメントで勝ったらあなたとデート出来る権利を貰えるって本当ですか」

 

 注文を受けるの際にご主人様からそう聞かれて、そんな話もあったな、と思いだした。

 

「はい。午後のウィソのトーナメントの賞品のネタ枠として、私とデートする権利があるのは了承しております」

 

 そう返答すると周囲がざわめくのを感じた。それでようやく思い至る。

 

 ……この人達ウィソプレイヤーだ!

 

「俺頑張ります!」

 

「他にも豪華賞品一杯みたいですから、頑張って下さいねー」

 

 わざわざ校外から参加しに来てくれる人が居るんだなーと思いながら、ふと今まで来たご主人様を振り返ってみる。

 

 ……あれ? なんだかウィソプレイヤーっぽい人多くない?

 

 そんなことを考えてるとロングスカートのクラシックメイドスタイルにメガネを掛けた文佳が俺に近づいてきて小声で話しかてきた。

 

「……アリス、あなたさっきからときどきパンチラしてるわよ? すごく見られてるから」

 

 あんまり見えないようにと気を使ってはいるけれど、ここまで忙しく動きまわってるとやっぱり時々見えてしまうことはあるらしい。

 

 だけど、それはパンチラでは無いのですよ、文佳さん!

 

「大丈夫だよ、これアンダースコートなの。見えても平気なやつだから!」

 

 俺は得意気に言ったが、文佳は怪訝そうな顔をするばかりだった。

 

「……そう。あなたがそれでいいならいいけど」

 

 そんな俺達の話を聞いていたらしい純が注文の乗ったトレイを片手に近づいてきて一言。

 

「見てる分には普通にパンツにしか見えないんだけど……?」

 

「……え?」

 

 俺はばっとスカートの後ろを抑える。

 

「ちなみに、かわいいの履いてるなーとは思ってた」

 

 それだけ言うと純はご主人様のところに向かった。

 

「……え? ……え?」

 

 俺は困惑する。回りに普通にパンチラしてるって思われてる……?

 俺の『パンチラしたと思った? 残念アンスコでしたー作戦』は、根本が間違っていたらしい。

 ……まだ、当番の時間は1時間もあるのに、これからどうしよう。

 

「大丈夫よ。パンツじゃないから恥ずかしくないんでしょ? いいじゃない減るものじゃないんだし」

 

 そう言って俺の肩にぽんっと手を置く文佳。

 

 減るよ! 減るからね!?

 俺の精神的なヒットポイントみたいなものが、それはもうガリガリと削れていくから!

 

「ほら、ご主人様が呼んでいるわよ? 行きましょう」

 

「ちょ、ちょっと待って……文佳ぁ……!」

 

 一度視線が気になるととても冷静ではいられなかった。

 気のせいか教室に居る人のうちかなりの割合の人が俺を見ている気がする。

 そして、特にスカートの裾に向けられる視線はなんだか舐めるようなねっとりとしたものを感じて気持ち悪い。

 先程まで頼もしいと感じていたアンダースコートも今では心許なく感じる。

 

 事あるごとにスカートの裾を抑えて、態度もおどおどとしてしまい、接客に集中出来ない有様で、何度かミスをやらかしてしまった。

 

「別にアンスコくらい見られてもいいじゃないの。恥ずかしがると注目を集めて余計目立つだけなのに……」

 

 優奈は呆れてそんな風に言うけれど、パンツと思って見られるのはやっぱり恥ずかしいから無理!

 



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文化祭初日(大会その1)

『終わり次第急いで来てくれ』

 

 という蒼汰のメッセージがスマホに入っているのに気がついたのは接客当番が終わった後の事だった。

 俺と優奈は制服に着替えて、ウィソ大会の会場として予定されている旧校舎の一室に向かった。その教室は普段手芸部が使っている部室で、今回トーナメントを開く際に広い教室が必要になった為に使わせてもらう手筈となっていた。

 我がウィソ部は旧校舎にある文化系マイナー部との関係は基本的に良好だ。

 なんでも、エアコンの無かった旧校舎の教室に理事長の孫である涼花が交渉してエアコンを備え付けさせた事が大いに感謝されているらしい。

 

 学園祭は外部の人間の出入りが許可されている。その為、学生じゃない人も校内では多く見かけるのだが、旧校舎のその光景は明らかに異常だった。

 

「……なによ、これ」

 

 廊下にはウィソプレイヤーと思わしき人物がたむろしており、その密度は会場に近づくにつれ増していった。

 ちなみにほぼ全員が男性だった。

 

 俺が周囲からやたらと注目されてると感じるのは気のせいではないだろう。

 

 ……デート権の相手が俺ってことが一般の人達に知られている?

 

 脳裏によぎるのは先程メイド喫茶で男性に問われたことだった。

 蒼汰を問いつめなければ。

 

 俺達は会場の教室に入る。

 普通よりやや大きめの教室は人で溢れていて、凄まじい熱気に包まれていた。

 エアコンはついてはいるだろうがす明らかに容量が足りてない。俺は帰りたくなる衝動を抑えて中に踏み入る。

 教卓にあたる部分にテーブルで受付と作業スペースが作られていて、蒼汰と涼花、そして知らない人が何人かその内側に居た。

 

「……蒼汰、これはいったい……?」

 

 取り敢えず俺達は作業スペースの中に入って受付をしている蒼汰に話しかける。

 

「やっと来たか……見ての通りの惨状だ。頼む、交代して貰えないか」

 

「いいけど、後で事情を聞かせてよね」

 

「わかった。俺は今から追加で会場として使わせて貰える教室が無いか聞いてくる。受付の方法は安藤さんに聞いてくれ」

 

 知らない名前を聞いて首を傾げると、背後に立っていた執事服の人が物影から現れて優雅に一礼した。

 

「はじめまして如月様、私は橋本家の執事で安藤鈴音と申します。涼花お嬢様にお仕えしております、今後お見知り置き下さいませ」

 

「は、はい。如月アリスです。よろしくお願いします」

 

 安藤さんと名乗った執事はまだ若い女性で、とてもキリッとした男装の麗人だった。

 うだるような暑さの室内できっちりと着こなして涼しげな態度でいられるのはすごいと思う。

 

「今回参加費は徴収しておりませんので、受付はこちらの名簿に名前を記入いただいたので構いません。ですから、受付の仕事はプレイヤーの皆様の問い合わせにお答えすることが主になります」

 

「わかりました……ちなみに、今参加受付しているのは何名になってるんでしょう?」

 

「現在94名のプレイヤーが参加登録されていますね」

 

「きゅ、きゅうじゅうよにん……? どうしてそんなことに……」

 

 この地方で開かれる下手な選手権よりも多い。しかも名簿を見ているとその中にプロツアーの中継でしか見たことの無い殿堂プロやらトッププロやらの名前が混じっている、なにこれ恐い。

 

「神代様が参加者を募集しようとSNSで告知されたのですが、高校の文化祭という珍しさとデート権や私の用意した賞品が噂を呼び、思ったよりも反響を呼んだみたいでして……」

 

 該当の告知文は確かに見た。結構告知文が引用されてるなーとは思ってたけど、こんな事態になっていたとは……。

 しかし、安藤さんが用意したという賞品は本当に豪華になっているから参加者が多いのも納得出来る。

 

「しかし、どうしてデート権の相手が私ってばれてるんだろう? 告知文には部員としか書かれてなかったと思うんだけど……」

 

「今は削除されていますが、神代様のSNSでの過去の発言に何枚か部活動の際の画像が添付されておりまして、その写真が掲示板に転載されて、如月様がデート権の相手であると特定されたようです」

 

 うへ……蒼汰の野郎、なんてことしてくれやがる。後で絶対に埋め合わせをしてもらおう。

 

「すみません、受付はどうすればいいのですか?」

 

 受付に来た男の人が声を掛けてきた。

 

「はい、こちらにお名前をご記入いただければ結構ですよー」

 

「そちらの賞品リストに出ているデート権の相手ってあなたですか? 内容はどんなものになるのでしょうか?」

 

「明日2時間ほど一緒に学園祭見て回るくらいです。……大したことのないネタ枠の賞品なので、あまり期待しないで下さいね」

 

「すごく可愛いですね! 服装の指定は出来ますか? さっきのメイド服とか……」

 

「ごめんなさい、制服で勘弁して下さい」

 

「連絡先は教えて貰えますか?」

 

「賞品としては考えてないです。デート次第で連絡先の交換はするかもしれませんのでよろしくお願いします」

 

「他に何か特典はありませんか! 祝福のキスとか! お願いします!」

 

 ……うーん。キスかぁ。

 某有名アイドルも料理対決で勝った人の頬にしてた気がするから、それくらいはありかなぁ……

 

 質問に答えながら思ったのだけど、ネタにしてもこの賞品何が嬉しいのかわからないな。

 他の賞品が豪華な分、随分見劣りする気がする。このままだと、最後まで残り続ける残念な結果になりかねない。

 

 冷静に考えたら別に残っても問題ないし、期待に応える義務なんて無い。だけど、文化祭という非日常で、教室に溢れかえる人の熱気に俺はのぼせてしまっていたのだと思う。

 

「……それじゃあ、ほっぺたにならいいです」

 

 俺がそう応えると、会場が一瞬固まって、その後爆発するような歓声が広がった。

 

「うおおおおおおお!?」

 

「ま、マジっすかぁ!?」

 

 それは、直ぐに教室全体に広がっていって、思ったより大きい反応に俺は戸惑う。

 

「あなたねぇ、そんな事を安請け合いするんじゃないわよ……もう、知らないわよ」

 

 ……最近優奈がため息ついてばかりな気がするけど、気のせいかな?



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文化祭初日(大会その2)

 ……なんであんな事を言ってしまったんだろう。

 

 女子トイレの個室の中で文字通り頭を冷やした俺は今更自分の言動を後悔していた。

 野郎の頬にキスする俺の姿を想像して、気持ち悪さが込み上げてくる。

 俺は両手で顔を隠して、上半身を前に倒して突っ伏せた。

 

『イクトさん……』

 

『アリシアごめん、俺どうかしてたよ……』

 

『いえ、わたしはいいんですけど、イクトさんは大丈夫ですか?』

 

『恥ずかしくて穴があったら入りたいよ。ちやほやされて舞い上がっちゃって……』

 

 今までそういった経験なんてなかったから、つい調子に乗ってしまった感は否めない。自己嫌悪で気分が沈む。

 

『ですけど、大事(だいじ)になる前にその事に気づけてよかったかもしれませんよ?』

 

 と、アリシアは俺をフォローする。

 

 確かにこのままだったら、将来合コン等で褒められてほいほいとお持ち帰りされたなんてことも考えられる。

 そう考えたなら、被害が頬へのキスで抑えられたのは不幸中の幸いとも言える……かもしれない。

 今回の事は自分への戒めということで割り切る事にしよう。

 

『……うん、そうだね。次から気をつけることにするよ!』

 

『それがいいですよ!』

 

 俺が個室から出ると、優奈が手洗い場で俺を待っていた。

 

「……お姉ちゃん、どうしたの?」

 

「アリス、あなた自分のデッキ持って来てるんでしょ? それを私に貸しなさい。あたしも大会に参加することにしたから」

 

 優奈はぶっきらぼうにそう言った。

 優奈の意図は明白だ。彼女が優勝すれば俺の失言の意味はなくなる。俺と蒼汰は数少ない経験者の主催者側のスタッフなので、プレイヤーとして参加する事は出来ない。だから、かわりに出場してくれるということだろう。

 

「ありがとう、お姉ちゃん」

 

「勝てるかどうかなんてわからないからね? あんまり期待しないでよ」

 

 ここ最近優奈は学校や家で俺に付き合って対戦相手をしてくれている。優奈はゲームにおける基本的なやり取りは出来ていて、戦術的な駆け引きのセンスもあるので俺がやり込められる事も多い。上位入賞の可能性もゼロでは無いと思う。

 だけど、それよりも重視してほしいことがある。

 

「今回のは私の責任だから、お姉ちゃんは気にせずゲームを楽しんでね? お姉ちゃんにとって初めての大会なんだし!」

 

「……ほんと、相変わらずカードゲーム馬鹿なのね」

 

   ※ ※ ※

 

 結局合計118名で大会は始まった。負けたら即終了の勝ち抜き戦で7回戦。

 外部開放の終わる5時までに終わらなかったら残っているプレイヤーで近所のカードゲームショップに移動して続きを行うことになる。

 これは、想定していたよりも人数が多くなり、大会時間が長くなりそうな為に取られた念のための措置で、これはショップのオーナーが提案してくれた。

 この人はショップをバイトに任せてネットで話題になっている文化祭のトーナメントを見学に来たらしいのだが、人の多さに困惑している俺達を見かねてトーナメント進行の手伝いを申し出てくれたのだった。

 ショップに通っていた以前の俺や蒼汰とは顔見知りで、主の使いでショップに行く執事の安藤さんとも面識があるようだった。

 オーナーさんは急遽追加で手配した方の教室側の仕切りをやってくれていて、大会が進んで敗北して手が空いたプレイヤーに対して未開封パックを使った8人トーナメントを随時開催してくれる手筈になっていた。

 さらに、未経験者の学生に対して初心者向け講習会も開催してくれるようで、正直頭が上がらない。そのあたりの配慮は本来ウィソ部の方でしておくべきことだったと思う。

 

「プレイヤーを増やすのはうちの利益になる事だから、気にしないでいいよ。むしろ宣伝する絶好の機会を貰えてありがたいよ」

 

 そう言ってくれるオーナーさんは少し恰幅の良いナイスガイだ。

 

「本日はたくさんのご来場ありがとうございます。本日の大会を主催させて頂いております、平山高校ウィソ部副部長をしております如月アリスと申します」

 

 前説は2つの教室で俺と蒼汰がそれぞれでおこなった。話す内容や注意事項は事前に安藤さんが蒼汰やオーナーさんに確認を取り一枚紙に纏めてくれていた。橋本家執事有能すぎる。

 

 さっきと同じような事を聞かれたりしたが、開き直ってキスの事にも触れて盛り上げておいた。祭りは楽しむものだからね!

 

 前説が終わり、俺はスマホを取り出して時刻を確認する。ゲーム開始前の僅かな静寂の時間。気持ちの良い緊張感が場を支配する。

 そして、事前に打ち合せた時間が表示されたのを確認して俺は宣言する。

 

「それでは、第一回戦制限時間40分、開始してください!」

 

 会場の各所から、よろしくお願いしますという挨拶が響き渡った。



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文化祭初日(大会その3)

 トーナメントは順調に進んだ。

 優奈は3回戦で殿堂プロプレイヤーの中州(なかす)選手と当たって敗北していた。報告する優奈はとても悔しがっていたが、とても白熱した試合だったらしくその表情はどこか満足そうにも見えた。

 その後、優奈は初心者講習会に来た女子をフォローする係を率先してやってくれていた。

 

 なお、優奈を打ち破った中州選手は次の試合でマナの根源たる土壌を引けない、いわゆる土壌(ソイル)事故(スクリュー)を起こして負けていた。

 

 4回戦が終わると勝ち残りのトップ8が決まる。賞品は8種類用意されているのでここから上は何らかの賞品が約束された事になる。

 意外だったのはその中に見知った顔があったことだった。

 

「……どうして翡翠が?」

 

 翡翠は最近部活でもプレイする姿を頻繁に見るようになっていた。だからと言ってトーナメント上位入賞出来る程の腕は無かったはずだ。

 

「翡翠のやつ、この大会が決まってから妙にやる気を出してさ……家でも起きてる間ずっと調整に付き合わされてたんだよ」

 

 蒼汰が溜息をつきながらそう言った。デュエル馬鹿の蒼汰を疲れされるって、どれだけやりこんでるんだ……

 

「それだけじゃないぜ……あいつ、俺がギブアップした後もデッキを並べて一人で対戦してるんだぜ……」

 

 ……なにそれ、すごい。

 俺ですらそこまで入れ込んで調整したことは無いのに、何が翡翠をそこまでさせるのだろう?

 

 俺は翡翠の試合を観戦する。

 彼女は初めての大会とは思えない程堂々とした態度で、相手の攻めを巧みに受け流して、攻勢の限界点を見極めて逆襲するという絶妙なプレイングで対戦相手を下していた。

 

 ゲームが終わった後、静かにひとり佇んでいる翡翠に話し掛ける。

 

「翡翠、すごいね! いつの間にそんなに上手になってたのさ。私びっくりしたよ」

 

「私、いっぱい練習したの」

 

 そう言って翡翠は俺に微笑みかける。心の奥まで見透かすような瞳に見つめられて俺はドキッとする。

 

「もう少しだから……私頑張るから、待っててね」

 

 翡翠の手が伸びてきて、俺の前髪に触れる。

 そのまま頭をやさしく撫でてくる感触に、俺はされるがままに立ち尽くす。指の感触がくすぐったくて気持ち良くて目を細める。

 最後に俺の唇に翡翠の人差し指がそっと触れて手が離れた。

 

「ええと……翡翠?」

 

 戸惑う俺に、翡翠は微笑みで返す。

 

「勝利のおまじない……なんて」

 

 彼女は人差し指を自分の口元に当てて小首を傾げた。

 ウェーブの掛かったポニーテールが揺れる。

 

 俺が呆気に取られていると、蒼汰が翡翠を呼ぶ声が聞こえてきた。どうやら次の試合が始まるようだった。

 

「それじゃあ、行ってくるね」

 

 頭の中にもやもやとするものを感じながら、俺は次の翡翠の試合――準決勝戦を見守る。翡翠のプレイングは相変わらず迷いのない切れのあるものだった。受け身の対戦相手に執拗に攻勢を続け、勝利をもぎ取る。

 

「すげーな彼女」

 

「こんなプレイヤーが居たなんて知らなかったよ。応援したいな、美人だし」

 

「クールなのが良いよね。俺も対戦してもらいたいぜ、いろいろと……」

 

 翡翠はその容姿も相まって人を惹きつけているみたいだ。周囲のプレイヤーは彼女のことを語り合っている。そんな中でも我関せずを貫いている彼女は堂々としたものだ。

 

「だけど、流石に決勝は無理じゃないか? 相手はあの田辺(たなべ)プロだろ?」

 

「けど、デッキ相性だとワンチャンあるんじゃね?」

 

「それでも、田辺プロが相手じゃあなぁ……」

 

「俺は応援するぜ!」

 

 ……そう。決勝戦の翡翠の対戦相手は現役トッププロで、存在が禁止されると冗談で言われる程に勝ちを重ねるプレイヤー田辺プロだった。

 

 ウィソにはそれぞれデッキ相性というものがあり、同じプレイヤーが扱ったら勝率が三割から七割くらいまで相性差が出てくるものだ。

 その中で適切なデッキ選択とプレイングで、八割以上の勝率を叩き出すのがトッププロである。

 準決勝も危なげないプレイングで対戦相手に勝利していた。

 

 テーブルが4つくっつけられて、教室の中央に決勝戦のテーブルが作られる。残りのテーブルや椅子は片付けられて決勝の舞台が整う。既に初心者講習会等の他のイベントは終了して、会場に残っているのは決勝戦の観戦者のみとなっている。

 

「皆様ありがとうございます。本日の大会も後一戦を残すのみとなりました。決勝戦は我がウィソ部部員で私の不肖の妹である神代翡翠、それから現役トッププロの田辺さんとの二人での対戦となります」

 

 デッキをシャッフルしながら蒼汰の開始の合図を待つ二人。プレイヤーの緊張感が伝わってきて、ギャラリーも息を呑む。

 

「それでは、時間無制限、決勝戦開始して下さい!」

 

 蒼汰が宣言すると、互いに挨拶を交わしてゲームが始まる。

 

 第一ゲームは壮絶と言っていい展開だった。盤面の有利不利が何度も入れ替わり互いに手札を削っていく。

 手札が無くなったらデッキの上から引いてくるカードの叩きつけあいとなり、引きが強かった翡翠が第一ゲームを取った。

 

「後一ゲーム取れば女の子の優勝だ!」

 

「これは、もしかするかも! プロに素人の女の子が勝つのか!?」

 

 会場がざわめく。

 大会はゲームを二本先取した方が勝ちとなる。ゲーム間にはサイドボードと呼ばれる控えのカードとデッキのカードを入れ替えることが出来る。

 

 二ゲーム目は序盤から翡翠が攻め立てる展開だった。田辺プロは最低限の対応のみで積極的に動いて来ない。勝ちきれるか、と思ったところで全体除去が飛んできて盤面のクリーチャーが居なくなる。

 

 そこからは田辺プロが緩やかにゲームの主導権を握っていった。彼のデッキはゲームが長引く事を見越して、コストの軽いカードの枚数は最低限に抑えられて、カードのコストが重く効果が大きいカードがかわりに追加されていたのだ。

 結果、第二ゲームは田辺プロが一本取り返した。

 

 お互いサイドボードを見直して思考する。次は泣いても笑っても最終ゲームである。

 

 ウィソはときに漫画もかくやのドラマティックな勝利を演出する事がある。だが、逆に呆気なく決着がついてしまうことも多い。

 

 ドラマと理不尽な現実、どちらが待ち受けているかはわからない。だけど、プレイヤーが選んだ一枚の選択が全てを覆す事もある。そんな魅力に囚われたのがウィソプレイヤーであり、会場のプレイヤーは固唾を呑んで現在進行中の物語を固唾を呑んで見守っていた。

 

 第三ゲーム、今度はお互い静かな立ち上がりとなる。お互いが長期戦で戦う腹づもりのようで、マナの源である土壌(ソイル)だけが伸びていく。

 

 最初に仕掛けたのは翡翠で、それを受けて田辺プロも応戦する。ひとつの判断ミスが致命傷になるような綱渡りの駆け引きが繰り返される。

 

 そして、先に判断を誤ってしまったのは翡翠だった。

 

 通常だと見過ごされるような小さな隙だった。だが、そこを的確に付け入るのがプロだった。その一手から、田辺プロが徐々に翡翠を追い詰めていく。

 

 このままだとジリ貧になると考えたのであろう翡翠は賭けに出る。手札や場の生物を削って相手のライフを20点削りきる作戦に出たのだ。

 

 先細りになりながらも田辺プロのライフを削り、プレイヤーにダメージを当てられる呪文を引ければ勝てるという所まで翡翠は押し込んだ。

 

 だが、押し並ぶ田辺プロの軍勢を前に翡翠に残されたのは1ターンのみ。次に引くカードで、そのカードを引き込めなければ敗北が決定してしまう。だが、引き込めれば翡翠の勝ちだ。

 

 祈るように、静かに目を閉じて深呼吸をして、翡翠は静かにカードを引いた。

 

 



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文化祭初日(大会その4)

 運命を決めるカードを引いた翡翠は静かにカードを確認して目を瞑る。固唾を飲む観戦者達。

 

 翡翠は暫し考えてターン終了を告げた。

 

 返す田辺プロのターン。カードを引いた田辺プロは考えを巡らして、翡翠が引いたカードが何かを考え、リスクの計算を行う。

 やがて配下の軍勢全部で攻撃することを告げた。

 

「負け……ました……」

 

 カードを取り落とす翡翠。それはマナを出す以外に何の効果も及ぼさない土壌で、翡翠は勝ちに至るカードを引けていなかった。

 それでも、田辺プロが何かを警戒して全軍突撃を躊躇ったらもう1ターン猶予が出来る可能性も残っていた為、最後まで精一杯のブラフを張っていたのだ。

 ……だが、それが通じるような相手ではなかった。

 

 翡翠の頬に一筋涙が流れ落ちる。

 

「……ありがとうございました」

 

 翡翠は、なんとかそれだけ言うと、顔を抑えて立ち上がり会場から逃げ出すように飛び出した。

 

 残された者達が呆気に取られていると、

 

「アリス、追いかけて!」

 

 と、優奈の声がして、俺は言われるがままに会場を飛び出して翡翠を追った。

 奥に続く廊下に翡翠のポニーテールが消えていくのが見えた。

 多分向かったのはウィソ部の部室だろう。

 俺は後を追う。

 

 ドアが開っぱなしの部室の中には、学習机に突っ伏した翡翠が嗚咽をもらしていた。ウェーブの掛かった黒髪のポニーテールが机から垂れ下がっている。

 

「……翡翠?」

 

 俺は声を掛けて部室に入る。

 優奈に言われて追いかけてきたものの俺は何を言えばいいのどろう……?

 

「うぐっ……ひっく……うう……負けちゃったよぉ……」

 

 翡翠は子供のように泣きじゃくっていた。

 そんな姿は昔を思い出される。小さい頃翡翠はよくこんな風に泣いていた記憶がある。

 

「仕方ないさ、相手はプロなんだから」

 

 俺は翡翠の頭に手を置いて撫でる。昔、翡翠をよくこんな風に頭を撫でて慰めていた事を思い出して懐かしさが込み上げてくる。

 いつ頃からだったろうか、俺がこんな風に翡翠を慰めることが無くなったのは……

 頭を撫でているうちに少し落ち着いて来たらしい。翡翠は拗ねたような口調で愚痴を溢す。

 

「あなたとデート出来ると思って頑張ったのに……私負けちゃった」

 

 翡翠はうっかり失言した俺がデートで嫌な思いをしないようにって頑張ってくれていたのか……

 申し訳ないような、ありがたいような気持ちで胸がいっぱいになる。

 

「ありがとね、翡翠……デートだけど、もしよかったら今度一緒にどこか行かない?」

 

 そんな翡翠に報いたくて俺はそんな提案をしていた。

 伏せった翡翠がぴくりと動く。

 

「……二人で?」

 

「翡翠が二人がいいなら、それでいいよ」

 

「……場所は?」

 

「何処でもいいよ。翡翠の行きたい所に付き合うからさ」

 

 商店街でも図書館でも動物園でも構わない。

 

「……本当!?」

 

 翡翠はガバッと体を起こして俺に確認してくる。……涙で顔に髪が張り付いていて若干恐い。

 

「あ、ああ……二言は無いさ」

 

 俺がそういうと翡翠はにっこりと笑った。

 ……何故か俺はその表情に嫌な予感がして、だけど、そんなはずはないと自分に言い聞かせる。

 

「そ、それよりも表彰式行かなきゃ! みんな待ってると思うよ!」

 

 そろそろ外部開放の時間が終わる。急いで表彰式をしないとそれまでに大会が終わらない危険性がある。

 

「そうね」

 

 翡翠はハンカチを取り出して涙を拭いて、乱れてしまった髪を整えると俺に向き直って微笑んだ。

 すっきりとしたいい笑顔だった。

 

 ……うん。もう、大丈夫みたいだ。

 



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文化祭初日(祝福のキス)

 俺達が部室から会場に戻るとみんな待っていてくれた。

 翡翠が謝罪すると、悔しかったんだなとか、惜しかったとか、試合感動したとか、いろんな反応で肯定的に迎えられた。

 収拾がつかなくなりそうだったので、蒼汰が仕切って表彰式の開始を宣言する。

 

「本日は平山高校ウィソ部主催トーナメントにお越し下さりありがとうございました! 大会全試合無事終了しました。時間もありませんので早速表彰を始めたいと思います」

 

 少し時間を置いて、ざわつきが収まるのを待ってから、蒼汰は続ける。

 

「栄あるトーナメント優勝者は田辺プロ!」

 

 名前が呼ばれて会場は歓声と拍手に包まれる。

 

「ネットで賞品を見て勝ちたいと思ってたので嬉しいです」

 

 明日は田辺プロとデートすることになるのかな?

 ウィソプレイヤーにとっては憧れのトッププロプレイヤーだし嫌じゃない、かな。むしろ、役得だと思えなくもない。デートの最中にウィソの対戦をして貰えたりしないかな?

 ……頬へのキスも、全く知らない相手よりかは抵抗は無い。田辺プロは紳士的で有名だし。

 

「それでは賞品は何を選ばれますか?」

 

「あすにゃんのフィギュアをお願いします」

 

 迷いなく田辺プロが指定した物、それは一昔前に流行った学園アニメの登場人物あすにゃんのフィギュアだった。蒼汰が昔買って箱のまま部屋に飾っていた物を賞品として提供したもので、限定生産品として一部プレミアが付いている物だとか言ってた気がする。

 そういえば、田辺プロはあすにゃんの熱烈なファンであると公言していた。

 

 ……なんで俺は自分が賞品として選ばれる前提で考えていたんだろう?

 

 自意識過剰にも程がある。

 田辺プロが賞品を受け取っている間、俺は拍手をしながらひとり心の中で悶絶していた。

 

「では次、準優勝は我がウィソ部部員である神代翡翠!」

 

 歓声と拍手が送られる仲、翡翠は嬉しそうに蒼汰の横に移動する。

 彼女はいつになく喜んでいるようだった。翡翠は感情を表に出す事が少ない為、他の人には少し気分が良いくらいの状態に見えるだろうけど、これは彼女にとって最高にハイなテンションだった。長年の付き合いである俺にはそれがわかる。

 そんな翡翠は、普段とのギャップもあってすごくかわいらしい。

 

「ありがとうございます!」

 

 翡翠は小さく手を降って歓声に応えている。

 

「それじゃあ賞品は何にする?」

 

「アリスとのデート権を!」

 

 翡翠は間髪入れず答える。

 

「了解、アリス来てくれ」

 

 俺はほっと胸を撫で下ろしながら表彰台に向かう。

 翡翠に促されて手を繋いで立つ。

 

「賞品進呈ー! という訳で、明日2時間くらい適当にデートしてくるといいんじゃないか? 以上」

 

「おめでとう、翡翠!」

 

「ありがとう」

 

 惜しみない拍手が翡翠に贈られる。横に並んだ俺までなんだか誇らしく思えてくる。

 俺たちを見守る空気が、微笑ましい物を見守る風になっているのが判る。

 

「……祝福のキスは?」

 

 そんな中、翡翠は俺に聞いてきた。

 

「え、するの……?」

 

 女の子同士だからノーカンだと思ってた。

 

「うん、して欲しいな」

 

 男にすると思えば万倍マシだし、約束なんだから、しない訳にはいかないけど、急には心の準備がちょっと……

 

「私があなたにするのでもいいよ?」

 

「じゃ、じゃあそれで……」

 

 するよりかはされる方が抵抗は少ないかな。――そのときの俺はそう甘く考えていた。

 

「じゃあ、わたくし写真撮りますわね」

 

「……こんな写真撮るの?」

 

「部活の活動記録で使いますの。女の子同士だから微笑ましい絵になると思いますわ」

 

 涼花がデジカメを構えて立つ。そう言えば田辺プロの表彰のときも涼花が撮影してたな。執事の安藤さんにしてもらいそうなイメージだけど、相変わらず不思議なお嬢様だった。

 

「それではいつでもやっちゃって下さいませ? 短すぎると写真が撮り辛いので少し長めにお願いしますわ」

 

 デジカメを構えて涼花は言う。

 どうでもいいから早く終わらせて欲しい。

 

「それじゃあ、いくね?」

 

 俺の左手側にいる翡翠は、屈んで左手を伸ばしてきて、俺の右の顎から頬を包むように手のひらを添えてくる。もう片方の手は俺の側頭部に当られた。

 しっかり頭を固定された感じだ。

 

 翡翠の顔が近づいてきて、俺のほっぺたに柔らかな感触が押し付けられる。

 息遣いを感じる距離に翡翠の顔があり、触れた指や押し付けられた唇からは翡翠の体温が俺に伝わって来る。

 

 ……って、いくら何でも長すぎじゃないかな?

 

 そう思ったとき、頬に触れた何かの感触に、思わず声をあげてしまう。

 

「――ひゃいっ!?」

 

 押し付けられた翡翠の唇の間から、湿った柔らかいモノが伸びてきてチロチロと頬をくすぐってくる。

 

「ちょ、あっ……だ、だめぇ、翡翠っ……!?」

 

 く、くすぐったいっ!

 

 尖らされた翡翠の舌先が唇の間を左右に行き交って俺の頬を這って行く。肌にあたる吐息は熱くて、そこから逃げようにも両手でがっちりと頭を固定されていて叶わない。

 

 みんな見てるのに……

 

『……ん……ふぁ……』

 

 アリシアの我慢出来なくなって漏れる声が頭の中に聞こえてくる。

 俺はそれにつられて変な声が溢れないよう目を閉じ手で口元を押さえてぐっと堪える。

 翡翠の舌が蠢いて、そこが湿っていくのが判る。体が痙攣するように震える。

 

 どのくらいの時間が経ったのか、ようやく翡翠の顔が俺から離れた。

 翡翠の少し開いた唇から覗く赤く生々しい舌先から、俺の頬の間に一筋唾液が糸を引くのが見える。

 

「……御馳走様でした」

 

 翡翠は俺の耳元でそう言うと、何事も無かったかのように佇まいを直す。だが俺は腰砕けになっていて、しっかりと立つ事が出来なかった。翡翠がそんな俺を支える。

 

「ちょっ、翡翠……私、平気だから!」

 

「いいから、大丈夫よ」

 

 抵抗する力も弱く、俺は翡翠に肩を支えられて教室の隅に戻った。微笑ましい雰囲気は霧散して、今や周りを取り囲んでいた男達は非常に居心地の悪そうにしていた。やや前屈みになっている人が多いのは気のせいじゃないと思う。

 

「……この写真、活動記録には使えませんわね」

 

 顔を赤くした涼花は手にしたカメラに目を落として言った。

 



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文化祭初日の夜に

 その後ハイテンションで無理やり空気を変えた蒼汰の頑張りによって、表彰式はなんとか滞りなく終わった。そして、丁度迎えた外部開放時間の終了と共に、残っていたプレイヤー達は校外へ立ち去った。

 

 だが、主催である俺達はこれから後片付けをしなければならない。

 片付けに際して、教室を借りていた手芸部や演劇部のメンバーも何人か手伝いをしてくれた。弱小文化部は困ったときは助け合いだから! と嫌な顔ひとつせずに手伝ってくれるのは頭が上がらない。

 ……さっきの表彰式を目撃した人が居るみたいで、俺や翡翠の姿を横目で見てきゃーきゃーと言われてるようだけど、気にしたら負けだ。

 

 翡翠はそんな様子に対してもどこ吹く風で平然と片付けをしている。俺が見ている事に気づくと、見返して微笑んできたりして、俺は慌てて顔を逸らすのだった。

 

 翡翠はいったい何を考えているのだろう……?

 

 俺の記憶にある一年前までの彼女からは、こんな行動をとるなんて想像も出来なかった。

 それとも、俺が知らないだけで、以前から彼女はその気があったのだろうか? ……流石に幼馴染の性癖なんて、蒼汰以外は知らないから自信は無い。

 だけど、なんとなくそれは違う気がした。自惚れでは無いけれど、以前の彼女はそれとない好意を俺に向けてくれていたと思うからだ。

 

 このもやもやは片付けが終わって下校してからも続いて、ご飯を食べてお風呂に入っても晴れることは無くて。俺は寝る前にアリシアに聞いて見ることにした。

 

『ねぇ、アリシア……翡翠はなんであんなことをしたのかな?』

 

『好意の表れだとは思うのですが……それが、どういった意味を持つのかは、わたしにはわかりません』

 

『……だよなぁ』

 

『ただ、気のせいかもしれませんが、彼女は何かに怒ってるようにも思えるんです』

 

『うん? ……ますますわからないな』

 

『……もしかしたら……いえ、憶測はやめておきます』

 

 アリシアにしては珍しい歯切れが悪い物言いだった。

 

『まあ、明日のデートのときにそれとなく聞けばいいか……それにしてもあのキスはやばかったなぁ』

 

 表彰式でのキスを思い出してしまい頬が赤くなる。

 

『あ、あれですね……わたしも、キスを甘く見ていました』

 

『頬だったのに……あんなに、その……気持ちいいなんて』

 

 俺は手を頬にあてる。

 生暖かくて柔らかい舌が頬を舐めまわる感触を生々しく思い出してしまい、頬が熱くなる。

 

『唇にされるともっと気持ちいいのかな……?』

 

 俺は自分の唇をなぞるように触れる。

 頬だけでもやばかったのに、粘膜同士が触れあったらどれだけの気持ちよさなのだろうか。

 それに、もし翡翠のあの舌で、今若干切なくなってしまっている部分を舐められたとしたら……

 

『……あ……』

 

 体の変化に気づいたアリシアが言葉を漏らす。

 

『そ、その……意識同調切りますね……』

 

『ええと、その……助かる』

 

 なんだか気まずい。

 今に至ってもまだ、性的な行為に対する照れはお互い大きかった。

 

 生理の期間を除いて、就寝前に俺はほぼ毎日のように自慰行為に浸っている。その事にはアリシアも気がついてはいるのだろうけど、暗黙の了解でお互いそのことに触れないようにしていた。

 

『それじゃあ……おやすみなさい。イクトさん』

 

『ああ、おやすみ。アリシア』

 

 アリシアの挨拶は、何故かいつもと違って寂しそうに聞こえた気がした。

 だけど、もう体が熱くなってしまっていた俺は、そっちに意識がいってしまっていて、その違和感は直ぐに頭から消えてしまった。



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文化祭二日目(メイド喫茶再び)

 日が変わり学園祭の2日目が始まる。まずは昨日と同じくクラスのメイド喫茶の手伝いが2時間ある。女子の更衣スペースとなっているカーテンで隔離された教室の一角で、俺はパンチラ対策をどうするか思案していた。

 俺の手には昨日履いたアンダースコートがある。昨日の今日では他に案も思いつかず、とりあえず持ってきたものだ。体操着のショートパンツを履こうにも、ミニスカの裾からがっつり見えてしまうのはどうにも不格好すぎる。

 

「アリス、どうしたの? それ、昨日チラチラしてたかわいいのだよね」

 

 純が興味津々といった風に話しかけてきた。俺はなんだか恥ずかしくなって、手に持ったアンスコを胸元に握りこんで隠しながら応える。

 

「ええと……今日もこれ履こうかどうか迷ってて……」

 

 うーん、でもやっぱりパンツそのものを見られるよりは、アンスコの方がダメージ少ないかな、やっぱり……。

 うう、スカートの長さが膝丈まである純が羨ましい。

 

「そうだ、アリスの為にボク良いものを持って来たんだ!」

 

 純はナップサックからビニール袋に入った物を取り出して俺に手渡してくれた。

 受けとったビニール袋の中身を確認すると、濃い紺色の下着のような物が入っていた。

 

「……これって?」

 

「中学のとき陸上部で使ってたブルマだよ。ボクにはもう小さくて履けなくなっちゃったから、あげるね」

 

 ……同級生女子の使用したブルマ。下着に近い形状の物だけになんだかいいのかな、という気持ちになってしまう。勿論、洗濯はしてはあるのだろうけど。

 

「これならミニスカの下に着れるしパンツには見えないと思うけど、どうかな? ……ボクのお古で嫌だったらごめん!」

 

 俺は一瞬湧いた(よこしま)な思いを誤魔化すように、大きく首を振った。

 

「ううん、全然嫌じゃない! ありがとう、純」

 

 俺は早速受け取ったブルマを履いてみた。ぴっちりとした履き心地で、アンスコよりもしっかりとした作りはとても心強く思える。

 

「ど、どうかな?」

 

 俺はミニスカートの裾を少し持ち上げブルマを晒した状態で、純に感想を聞いてみる。

 

「う、うん、凄くいい……じゃなくて、これならパンツには見えないから大丈夫だと思うよ?」

 

「そっか。じゃあこれでいくね! ありがとう、純!」

 

「どういたしましてだよ」

 

   ※ ※ ※

 

 メイド喫茶2日目は、相変わらず忙しかった。だけど、純の用意してくれたブルマのおかげてスカートの裾を気にせずに存分に動きまわって接客することが出来た。

 相変わらず視線は感じるけど、見られちゃダメな部分はブルマでガードされているから問題無し!

 

「あ、蒼汰!」

 

 新しくお店に入ってきたお客さん(ごしゅじんさま)を見て、俺は思わず素の声をあげてしまう。

 入ってきたのは、居心地が悪そうに手で首の後ろを押さえている蒼汰だった。

 

「よ、よう……」

 

「おかえりなさいませ、ご主人様! ……珍しいね、蒼汰がこんなところに来るなんて」

 

「他の二人がお前や優奈を見てみたいって聞かなくてな……」

 

 蒼汰の後ろには父親の光博おじさんと妹の翡翠がいて、「こんにちは、アリスちゃん」「……こんにちわ」と、それぞれ挨拶してくれた。

 

「翡翠こんにちは……光博おじさんもご無沙汰しております。後で優奈にも挨拶させますね」

 

 俺は席に案内しながら俺は二人に挨拶を返す。

 

「それにしても賑わってるな。結構並んだぞ」

 

「ほんと、朝からお客さんがひっきりなしで大変だよ……」

 

「きっとあなたの魅力のおかげね……蒼汰なんて、待ってる間じーっとあなたのスカートの裾を見てたのよ、いやらしい」

 

「ちょ、ちょっと待て! 俺は危なっかしいと思って見ていただけで、やましい気持ちはないからな!? それにブルマだったから!」

 

「……ええと、蒼汰。……その、私がブルマ履いてるの知ってるんだね」

 

 俺は片手でスカートの裾を抑えながら、もう一方の手で口元を隠し困った顔でそう言ってみる。

 別段ブルマを見られてもどうということは無いのだけれど、つい蒼汰をからかってみたくなったのだ。

 

「ち、違う……見えてしまっただけで、見ようとした訳じゃ……!」

 

 俺の演技は効果覿面のようで、蒼汰の狼狽っぷりは見ていて気の毒になる程だった。

 妹である翡翠が蒼汰を見る視線は氷点下を割って絶対零度に届きそうだ……少しやり過ぎたかもしれない。

 

「スカート捲れたら目がいっちゃうのは男の(サガ)だもんね。私は気にしてないから大丈夫だよ」

 

 と、フォローしておいた。だけど、蒼汰は微妙そうな表情のままで、あまり効果は無かったようだった。……何故だろう?

 

「そうだ、アリスちゃん。今度の正月にうちの神社でお姉さんと一緒に巫女のバイトをしてみませんか?」

 

 話の流れを変えようとしたのか、光博おじさんがそんな話を持ちかけて来た。

 毎年光博おじさんの家の神社では、年末年始に何人か巫女のバイトを雇っている。娘の翡翠だけでは巫女の人手が到底足りないからだ。女性限定だったので、これまではバイトしていたのは優奈くらいだった。と言っても今まで優奈は中学生だったので、日中の短い時間に翡翠と一緒にお手伝いしていたくらいだったが。

 

「ええと、私黒髪じゃないんですが、いいんでしょうか?」

 

「全然大丈夫です。最近はそこまで厳密にしていると人が来ませんから」

 

 うーん巫女のバイトかぁ……正直ちょっと心を惹かれるものはある。光博おじさんの助けにもなるし、やってみたいかも。

 だけど、とりあえず優奈と相談してからかな。

 

「それじゃあ、お姉ちゃんと相談して返事しますね」

 

「前向きに検討していただけると助かります……すみません、忙しい中引き止めてしまって」

 

「いえいえ、大丈夫ですから!」

 

 元より給金の発生するアルバイトではない、学生のお祭りなのだ。友人知人が来店した際には他の人がフォローするのが暗黙の了解となっている。また、昨日の反省もあり、急遽スタッフの人数も増員されている。

 とはいえ、あんまり油を売りすぎるのも良くはない。本来の役割をこなすとしよう。

 

「それではご主人様方、ドリンクの注文お伺いしてもよろしいですか?」

 



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文化祭二日目(翡翠とデート)

 メイド喫茶はその後も特に問題もなく終わった。来ると思っていなかった両親がやってきて、少し恥ずかしい思いをしたくらいだ。「アリスよ、健康的な不健全が素晴らしいな」と父さんが感想を漏らしていた。良くはわからないが、多分碌な意味ではないのだろう。母さんに頬をつねられてたし。

 

 まあ、それはいいとして――とうとう、このときが来てしまった。

 ウィソ大会の賞品についての義務を履行する……つまりは翡翠とのデートだ。

 

 昨日は結局そのまま体の内の熱に身を任せてしまい、現状ノープランのままだった。

 とはいえ、なんだかんだで翡翠だから大丈夫だろうと、楽観しているところもある。なにせ、彼女とは幼い頃からの付き合いなのだ。

 一応、今朝着替えるときに下着は上下揃いで白いレース付きのお洒落な物にしてはいる。

 何もするつもりも無いし、されるつもりも無いけれど。『かわいい下着にするんですね』と、アリシアには突っ込まれたりしたけれど。

 あくまで念の為だ。

 

 メイド喫茶の担当時間が終わった俺は、メイド服から制服に着替える。

 少し迷ったがブルマは履いたままにしておいた。蒸れてしまうから脱いでしまおうと思ったのだけど、翡翠と会うのに気持ちでもガードを強化した方が良いかなという思いが勝った。

 ……それに、昨日のような事をされて下着が少しくらい湿ったとしても誤魔化せるから。

 

 着替え終わって、翡翠に連絡をしようとスマホを見てみるとメッセージが届いていた。「今あなたの側に居るわ」って怖いよ!?

 顔をあげると、教室から出てすぐのところにちいさく手を振る翡翠の姿があった。

 

「お疲れ様」

 

「翡翠……待っててくれたんだね」

 

「ええ、私とても楽しみにしてたから」

 

「それはとても光栄だよ……それで、翡翠は何処か行きたいところはある?」

 

「特に考えてない。あなたに任せてもいい……?」

 

 翡翠は基本的に受け身なところは変わってないようだ。俺と蒼汰がすることを決めて、優奈と翡翠が後をくっついてくるというのが以前の俺達の日常だった。

 昨日の行動の理由はまだわからないけれど、以前とかわらない翡翠を発見できて少しホッとした。

 

「了解。じゃあ、とりあえず学園祭の出し物を見ながら出店巡りでもしようか」

 

「わかったわ」

 

 俺達はプログラムを取り出して適当に目についた出し物目指して歩きだした。途中目についた物にふらふらと立ち寄る。

 狙いをつけてもコルクがまともに飛ばない射的で、残念賞のペロペロキャンデーを二人でくわえながら文句を言う。

 焼きおにぎりの屋台の香ばしい醤油の焼ける匂いに釣られて買い食い。

 ひとつだけ辛子が入ったロシアンたこ焼きは、辛子入りに当たった翡翠が平然と食べていた。額に汗が浮いて頬が引き攣っていたけれど。

 限定ジャンケン大会に参加。あっという間に星が無くなって別室送りになった俺を、星を大量にゲットした翡翠が助けてくれてゲームクリア。

 クレープの屋台では別々の物を注文してお互い相手の物を味見する。

 他にも美術部や手芸部の展示物を冷やかしたり、コンピューター部の作成した脱出ゲームをプレイしたり。

 

 あれだけ翡翠を警戒していた事が馬鹿みたいな程に、俺は彼女との時間を楽しんでいた。

 気がついたら規定の二時間なんてあっという間に過ぎ去っていて、賞品関係なしに俺は翡翠とのデートを続けていたのだった。

 

「んー、遊んだー」

 

 ウィソ部の部室で二人でくつろぐ。旧校舎は昨日の大会を例外として基本的に外の人が来ることもなく休憩するにはもってこいの場所だった。

 涼花のティーセットを使って翡翠が紅茶を入れてくれた。なお、使用許可はちゃんと本人から貰っている。彼女達もいつの間にか仲良くなっていた。

 

「こうしていると、まるで昔に戻ったみたいね」

 

「そうだね……」

 

 子供の頃、翡翠とは蒼汰の次に一緒にいる事が多かった。中学に入ると、男女ペアでいると周りにからかわれたりしたこともあり、二人で遊ぶ機会は殆どなくなっていた。

 

「ねぇ、中学二年生のときの夏祭りのこと覚えてる?」

 

「あー、二人でひよこに夢中になってたら、うっかりみんなとはぐれちゃったんだっけ」

 

「……そうだよ。みんなとはぐれて焦った私は転げて足も挫いちゃって。せっかく着た浴衣も汚れちゃって、情けなくて、心細くて、思わず泣いちゃって……」

 

「たしか、その後()がおぶって歩いたんだっけ」

 

『イクトさん!』

 

 誰かと話しているときにアリシアがこんな風に割り込んでくるのは珍しいな。……どうしたんだろう?

 

「そう、あなたは『俺がいるから大丈夫だ』って私を励ましてくれて、私をおぶって歩いてくれた」

 

 何か違和感がある。

 

『彼女はアリスじゃなくて、イクトさんに――』

 

「あのとき、あなたの背中で私はあなたへの想いに気づいたの」

 

 自然に会話していた俺と翡翠との思い出。だけど、それは俺が幾人のときのもので、アリスとしては知り得ないもので。

 

「私はあなたが好きよ、幾人……ずっと、ずっと好きだった」

 

 そう言った彼女はまっすぐ俺を見て微笑んだ。

 その瞳からは涙が溢れて零れ落ちていた。

 



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文化祭二日目(翡翠の告白)

「私はあなたが好きよ、幾人……ずっと、ずっと好きだった」

 

 翡翠は、俺が幾人であるということを前提に、俺の事を好きだと言った。

 控えめに言ってとても危機的な状況だ。

 自然な流れで翡翠との会話に乗ってしまった結果、もう言い逃れの出来ない状況に追い込まれていた。

 

「翡翠はどうして私が幾人だって思ったの……?」

 

 俺は苦し紛れに思いついた疑問を口にする。

 

「私は巫女の血を濃く受け継いでいるみたいで、生まれつき人の魂が見えるの。父さんに聞いたら亡くなった母さんもそうだったみたい」

 

「……それじゃあ、最初に出会ったときから?」

 

「ええ、そうよ……引きずっていた気持ちに決別するつもりで行った幾人の葬式で、あなたに出会ったときは本当に驚いたわ。一人の体にふたつの魂なんて妊婦さん以外で初めてだったし、そのうちひとつは他でもない幾人のものだったから」

 

 アリスとして翡翠と初めて会ったときに逃げ去られた理由が解った。葬式に行って本人が挨拶して来たら驚くどころの話じゃないな。

 

「魂がとても似通っている他人じゃないかって自分の目を疑ったこともあった。でも、今日のデートで確信を持つことが出来たの。私があそこまで自然でいられる相手はあなたしか居ないから……」

 

 今日の翡翠はあまりにも自然過ぎた。今になって思えば、それは翡翠が俺のことを幾人だと知っていたからこその態度だったのだろう。人見知りをする彼女がそんな風に接していた時点で、俺はもっと警戒すべきだったのかもしれない。

 

『……どうしたものかね』

 

 と、アリシアに助言を求めてみる。

 

『……と言われましても、今更どうしようもないと思いますよ。下手な嘘を考えるくらいなら全部話してしまった方がいいんじゃないですか?』

 

『……まあ、それもそうだな』

 

 今更どうしようもないのはその通りで、何より翡翠の告白を誤魔化して有耶無耶にするようなことはしたくなかった。

 

「私からも聞いていい? 正直、何から聞けば判らないくらい聞きたいことはいろいろあるんだけど……」

 

「わかった、全部話すよ……信じて貰えるかは判らないけど」

 

『イクトさん、念話を翡翠さんと繋いでいただけますか?』

 

『わかった』

 

 俺はアリシアとの念話が繋がるように指定を変更する。

 

『……聞こえますか?』

 

「え……幾人? ……違う?」

 

 俺と同じ声で脳内に話しかけられた翡翠は混乱しているようだ。

 

『イクトさんの体にいるもう一つの魂の主でアリシアと申します。今わたしはヒスイさんの頭の中に直接話しかけています』

 

「腹話術……じゃないわよね?」

 

『流石に腹話術で頭の中に直接話しかける事はできないと思うよ』

 

「……幾人も直接頭の中に話しかけれるんだ」

 

『翡翠も出来るよ、俺がサポートすればだけど。頭の中で話しかける感覚でやってみて? これからの話はあまり他人に聞かれたく無いからこっちで会話して貰えると助かる』

 

「やってみる」

 

 翡翠は難しい顔をして目をつむって念じるような仕草をした。

 

『あー、テスト、聞こえますかー? ……これでいいのかしら』

 

『うん、大丈夫。聞こえてるよ』

 

『それじゃあ、現在にまでの経緯を、わたしから翡翠さんに説明させていただきますね』

 

『細かい部分は俺も補足するよ』

 

 それから、順を追って俺とアリシアのことを説明していった。

 異世界に召喚されアリシアと出会い、一年間の冒険の末魔王を打ち倒し相討ちになったこと。日本への転移とアリシアの体になったわけ。そして、アリスとして生きることになった経緯。

 一通り何もかも包み隠さずに話をした。

 

『……本当に信じがたい話ね』

 

『自分でもそう思うよ。それでも、翡翠は信じてくれる?』

 

『信じるわ……だけど、少し確認させて欲しい事があるの。彼女と二人だけで話せる事は出来るかしら?』

 

『それは、出来るけど……アリシアはいい?』

 

『……はい、お願いします』

 

『じゃあ、俺はそこでスマホでも見てるね。俺に見られてると話し辛いだろうし』

 

『幾人、ごめんね』

 

『母さんや優奈で慣れてるから大丈夫』

 

 週に何回か俺の家族はアリシアと二人で話をしている。

 その間俺は勉強したりゲームしたりスマホを見たりして時間を潰つのが常だった。

 

『それじゃあ、切り替えるね』

 

 俺は、念話を翡翠とアリシアの二人のチャンネルに切り替える。これで俺にはもう何も聞こえてこなくなる。

 

 俺は少し離れた机に移動して、スマホを取り出して視線を落とす。

 だけど、俺の意識はスマホの画面には無く、これからのことを考えていた。

 

   ※ ※ ※

 

『……おまたせしました。お話終わりました』

 

 気がつくと何分か経過していて。

 アリシアの声で俺は現実に引き戻された。

 

『ヒスイさんがイクトさんにお話があるそうです』

 

『わかった』

 

 俺はスマホをしまうと、元の場所に戻って椅子に座り、翡翠の正面に向き直る。

 

『……事情は全部聞いたわ。あなたがアリスでその体から戻れないことも全部。それを踏まえてもう一度言うわ』

 

 翡翠の顔は決意に満ちていて、とても凛として美しいと思ってしまう。

 

『私はあなたが好き。私の恋人になって欲しい』

 

 予想してたとおり、俺の性別が変わっても翡翠の告白は変わらないようだ。

 だったら、俺も翡翠にまっすぐに向き合って答えないといけないだろう。

 

『その……翡翠の気持ちはありがたいけど……その気持ちには応えることは出来ない』

 

『理由を聞かせて貰ってもいいかしら? 性別が原因とは言わないわよね?』

 

 俺の拒絶の返事に対しても、翡翠の反応は冷静だった。

 

『俺は男に興味なんて無いよ……そうじゃなくて、その……大切な人が出来たんだ』

 

 さっき考えている間に覚悟はしたつもりだったけど、いざ口に出すを恥ずかしい。

 

『ずっと一緒に居たいって思うくらいに……それは思わぬ形で叶っちゃったけど』

 

 触れ合うことが出来ないことだけ少し残念ではあるけれど、ずっと一緒にいられて嬉しいという気持ちの方が強い。

 

『……イクトさん』

 

『だから、翡翠とは付き合うことは出来ない。俺が好きなのはアリシアだから』

 

 お互いの気持ちに気付きながら曖昧に濁してきた言葉。

 いままで照れくさくて口に出さなかった気持ちを、俺ははっきりと翡翠に告げた。

 



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文化祭二日目(祭りの後)

『……そう。それなら仕方ないわね』

 

 覚悟を決めて想いを告げた俺に対して、翡翠の反応はあまりにもあっさりしたものだった。

 

『……えっと』

 

 想定外の反応に、逆に俺は困惑してしまう。

 

『振った方がなんて顔してるのよ。さっきアリシアと話したときに何となく予想出来てたから、心の準備が出来てただけよ……ショックを受けてない訳じゃないんだから』

 

『ご、ごめん……』

 

 気まずい沈黙。

 この状況になるのを恐れていたから、翡翠に自分の正体を明かさなかったと言っても過言ではない。

 これで翡翠との関係が壊れてしまったらと思うと怖くて、でも、どうしていいのかわからない。俺は彼女の好意を拒絶してしまった側だから。

 

『まあいいわ……それよりもひとつ大事なことを聞き忘れていたから教えて欲しいの』

 

『……な、何かな?』

 

 会話が続くことにほっとしながら、俺は翡翠に質問の内容を聞いた。それが、どんな地雷であるかも知らずに。

 

『どうして、幾人が生きてる事を私に教えてくれなかったの?』

 

 その問いに俺は言葉を失う。

 それは、翡翠と正面から向かい合うことから逃げた俺の罪。

 翡翠は笑顔のままだったが、これは間違いなく本気で怒っているときの反応だ。

 

『私がどれだけ幾人の事を心配したかわかる? そりゃ誰にでも話を出来ないって事情は聞いたけど、私達兄妹にくらい話してくれても良かったよね?』

 

 翡翠が身を乗り出してきて俺に迫る。俺はたじろぐばかりだ。

 

『それは……その……体がこんな風になっちゃったし……』

 

『だから何? どんな体になっても幾人は幾人でしょ。あなたと私達って、そんなことで、どうにかなってしまう関係だとでも思っていた訳?』

 

『それは……その……』

 

 俺は自分の卑怯さを突き付けられて何も言うことが出来ない。

 

『幾人はズルいよ……』

 

 翡翠が握った手を俺の胸元にぶつけた。

 

『あなたが死んだって思って、毎日辛くって、苦しくって、もうぐちゃぐちゃになってしまいそうだったのに……幾人のバカ、酷いよ……』

 

 翡翠はそのまま両手で交互に俺を何度か力なく小突く。俺はされるがままに受け止める。物理的な痛みは無い。けれど、込められた感情がすごく痛い。

 翡翠の伏せた顔からぽたりぽたりと水滴が落ちて床に跡をつける。

 

『……ごめん、翡翠』

 

『簡単に許してなんてあげないんだから……』

 

『俺はどうすれば翡翠に償いをすることが出来るのかな』

 

『……思い出が欲しい』

 

『……え?』

 

『昨日の約束はまだ有効よね。何処にでもデートに付き合ってくれるっていうやつ』

 

『え、ええと……今日デート出来たからもうその話は無しになったんじゃ……?』

 

『それとこれとは話が別よ。その権利を使って二人で旅行に行きたい。あなたが、アリシアの事が好きなのは判ってる。だから……あなたとの思い出を頂戴』

 

 俺と一緒に旅行した思い出が欲しいということか。それくらいの希望なら応えてしまっても問題無いだろう。

 それで俺のした事が許されるなら、むしろありがたい。

 

『うん、わかったよ。それで翡翠の気が済むなら……』

 

 正直、今日みたいな楽しい時間を二人で過ごせるなら歓迎だ。告白がダメになってもこうして友達を続けられるのは嬉しく思う。除け者にするみたいで優奈や蒼汰にはちょっと悪い気がするけれど。

 

『約束、だからね』

 

『う、うん……』

 

 翡翠の気合の篭った念押しに、俺は少したじろぎながら返事をした。

 

   ※ ※ ※

 

『翡翠姉にばれたって!? ……あー、やっぱり気づいてたかぁ』

 

 文化祭を終えて優奈と二人で帰宅する途中、俺は今日あったことを優奈に報告した。

 

『……優奈は知っていたの?』

 

『知らなかったけど、翡翠姉は私にも探りを入れて来てたから……』

 

 俺が行方不明になってから落ち込んでいた優奈が急に元気になった事も、翡翠が俺が幾人である事を証明する裏付けになったようだった。

 

『それで、どんな事があったか教えて?』

 

 俺は優奈に今日あった事を順を追って話していった。

 翡翠の告白を断ったことを話したときは、俺の頭に手を置いて「そっか……大変だったね」と労ってくれた。

 アリシアへの告白に対しては「アリシア、良かったね」と少し泣きそうになってた。

 その後の翡翠の糾弾に対しては「……後で私も翡翠姉に謝っとくよ」と言う。

 そして、許してくれる条件として受けた旅行と思い出の話をすると何故か顔色を変えた。

 

『アリス……あなた、意味をわかって、その提案を受け入れたの?』

 

『? なんでそんなに怒って……あ、そうか。悪いけど翡翠との約束だから優奈とは一緒に行けないよ?』

 

『そんなこと望んでないわよ、バカ! ……もういい、アリシアと二人で話させて』

 

『……なんだよ、いったい』

 

 その後、優奈はアリシアと何か話しながら顔色をくるくる変えて百面相をしていた。

 合間に俺に向けられる視線は何故かとても冷たいように思えた。

 

 ……なんなんだよ、ほんと。

 

   ※ ※ ※

 

 家に帰っても優奈は不機嫌なままで、アリシアに聞いても何を話したのか教えてくれず、俺は悶々としたままて過ごした。

 

 そんな状態のまま、一日が終わって、自分の部屋に寝り後は寝るだけとなった。

 この後アリシアと話をして、寝る前に精神同調を切ってごにょごにょするのがいつもの流れだった。

 

『イクトさん……今日はありがとうございます。二人きりのときにしたかったので返事が遅くなりました』

 

 アリシアは改まって俺にそう告げた。

 

『お、おう……』

 

 昼間の俺のした告白が思い出されて気恥ずかしい。

 

『わたしもイクトさんのこと大好きです……ずっと、一緒に居たいって思います』

 

『俺もだよ。アリシアの事が好きだ』

 

 声に出すと自分の気持ちが実感できて暖かい気持ちになる。同時に昼間の翡翠の事を思い出して胸がチクリと痛んだ。

 

『……だけど、もし、他に好きな人ができたら遠慮しないで下さい。わたしでは幾人さんと共に歩むことは出来ませんから』

 

『そんなこと言うなよ。例え並んで歩けなくてもアリシアとはずっと一緒だろ?』

 

 俺は胸元に手を置いてアリシアに語りかける。

 

『……わたしは幾人さんに幸せになって欲しいんです』

 

『アリシアと生きることが俺の幸せなんだよ。だから、そんな心配なんてしなくていい』

 

 お互いがお互いのことを好きと言っているのに、なんでこんな辛い気持ちにならないといけないんだろう?

 

『……幾人さんお願いがあります』

 

 何かを決意したような口調でアリシアは俺に語りかけてくる。

 

『今晩は精神同調を切らなくてもいいですか』

 

『……それって?』

 

 俺は唾を飲んだ。

 

『わたしと繋がったままして欲しいんです。イクトさんと一緒がいいです……』

 

 アリシアの告白に節操なく体が反応してしまう。

 

『あっ……』

 

 俺の昂りはそのままアリシアに伝わって、そのアリシアの反応でまた体が昂ぶってしまう。

 ……これは、やばいかもしれない。

 

『……いいの?』

 

『……はい。イクトさんに気持ちよくして欲しいんです』

 

 まだ触れてもいないそこは既に熱を帯びてしまっている。未知への期待に頭が一杯になって、感じていた不安や焦燥は頭の中から消えてしまう。

 

『イクトさん……大好きです』

 



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番外編 うちのクラスの妖精さん

 僕の名前は山崎(やまさき)春乃(はるの)

 平山高校一年の男子生徒で写真部に所属している。

 あだ名はマツリ、理由はお察しください。

 パンよりもご飯派だし、名字に濁点もないんだけどなぁ……

 

 夏休みが終わり、文化祭で写真部員として展示する写真のテーマをそろそろ決めないとまずい時期が来ていた。だけど、僕は撮りたい物が見つけられないでいた。

 僕が彼女と出会ったのはそんなときのことだった。

 二学期の始業式の日。何十日ぶりかで変わらない、いつもの通学光景がまた始まるだけと思っていた。

 校門を抜けながらそんなことを考えていた僕の隣を、一陣の白い風が走り抜けていった。

 

「女の子……?」

 

 背の低い僕と比べても二回りほど小柄な少女、風にたなびく銀色の髪は幻想的で僕の視線を捉えて離さない。

 その女の子は、僕を追い抜いて校門を走り抜けて――思いっきりすっ転んだ。

 前のめりに転んだ女の子は四つん這いに臥せっていた。スカートが捲れ上がっていて、隠されるべき中身が惜しげもなく晒されている。

 それは、純白のフリルがついたパンツで、一瞬すれ違ったときにうけた幼い印象と比べて随分と大人びた感じのそれはとてもアンバランスで倒錯的な魅力が――

 

「ひゃぁーーーーっ!?」

 

 衝撃的の光景に混乱した僕の思考は悲鳴によって中断された。

 スカートを押さえて飛び上がった女の子は、銀色の髪を揺らしながら逃げるように走り去っていった。

 

「……純白の……妖精?」

 

 思わず零れた僕のつぶやきを誰かが聞いていたのか、しばらくしてこの呼び方が校内に拡がっていたときにはびっくりした。

 

 ……如月さん、ごめんなさい。

 

 彼女の名前は如月アリスといって、なんと僕のクラスの転校生だった。

 両親が亡くなって外国から日本にやってきたという彼女は、全く違和感なく日本語で挨拶をしていた。

 静かにしているときの神秘的な雰囲気とは裏腹に、話をしているときの彼女は気さくで表情がころころと変わるので見ていて楽しい。

 

 気がつくと自然と視線が如月さんを目で追っていることが多くなっていた。そして、彼女の写真を撮りたいという熱が自分の中で我慢できないほどに高まっていった。

 だけど、勝手に撮ったらそれは盗撮になってしまう。僕は悩みに悩んだ末、如月さんに直接お願いしてみることにした。

 

「如月さん、あなたの写真を撮らせてください!」

 

 放課後の教室で帰り支度をしている如月さんに僕はそう話しかけた。如月さんは普段あまり会話の無いクラスメイトである僕のいきなりの申し出に戸惑っている様子だった。

 

「山崎くん、うちのアリスに何の用?」

 

 隣の席の如月さんのお姉さんが僕と如月さんとの間に入って話し掛けてくる。如月さんに下心を持って近づく男子は彼女によってすべて阻まれていて、鉄壁の如月姉と影で呼ばれていたりする。

 

「そ、その……僕は写真部なんだけど、文化祭に展示する作品の題材として妹さんの写真を撮らせてもらえないかと思って……」

 

「写真ってどんなふうに撮るの?」

 

 妹の方の如月さんは写真に興味を持ってくれているようで、そんなふうに答えが返ってきた。

 

「僕は如月さんの日常の自然な表情を撮りたいんだ。だから、如月さんにカメラを向けるのを許可してもらえたら、それだけでいいんだけど……」

 

「アリスのパンチラが目的じゃないよね?」

 

 姉の如月さんが訝しげな表情で俺に問う。

 

「ちっ、違うよ! 撮った写真は全部チェックしてもらうようにして問題無いのだけ残すようにするから。やましい気持ちなんて無い、神に誓うよ!」

 

 僕はそう否定する。やましい気持ちで如月さんにカメラを向けようだなんて決して思っていない。

 

「……どうするアリス?」

 

「やめときなよ。変な写真撮られちゃうかもよ。そもそも、アリスはそういうところ割と無防備だし……」

 

 俺は首から下げた愛用のカメラを強く握る。

 一般的な女子が写真部に対して持っているイメージはあまり良くないことが多い。

 

 言うんじゃなかったかな……

 

 周りの女子にいろいろ言われて、僕は挫けそうになっていた。

 だけど如月さんの返事は意外なもので、僕を含めたみんなを驚かせた。

 

「まず、写真は校内のみで校外は無し。後、他の人に渡したりネットに載せたりもダメ。それから、撮った写真のデータは私にコピーを頂戴。その三つが条件だけどどうかな?」

 

「僕はそれで問題無いけど……いいの?」

 

「私は自分の写真を一枚も持っていないから。日常の姿を残してくれるのなら、私もありがたいかなって」

 

 亡くなった両親のことを思い出すので、故郷のことは話題にしたくないと如月さんは言っていた。写真も日本に来るときに持ってこなかったのだろう。

 

「……アリス! いっぱい写真撮ろうね。一緒に思い出作ろう!」

 

 如月さんのその言葉に感極まった女生徒が彼女に抱きついた。その様子を見たもう一人の女生徒も同じように反対側から抱きついて、如月さんは真っ赤になって固まってしまっている。

 

「そうだ山崎くん、早速だけど、この状態で写真を撮ってもらってもいいかな?」

 

 女生徒が僕にそう言う。如月さん自身も照れてはいるけど、嫌というわけじゃなさそうだ。

 

「わかったよ!」

 

 僕は首から下げていたカメラを構えて何枚か写真を撮る。

 

 ……うん、如月さんは恥ずかしがってる姿もいいな。

 

   ※ ※ ※

 

「よーマツリ。今日も愛しの妖精さんのストーカーか?」

 

 ある日の放課後、雑に話し掛けてきたのは隣のクラスにいる中学からの友人の音成(おとなり)十蔵(じゅうぞう)だ。趣味、性格、身長と全く僕と違うけど、昔から何となく馬が合ってよくつるむ悪友だった。

 

「あ、うん。今日は部活に行くみたいだから同行させてもらう予定だよ」

 

 いちいち愛しのとかストーカーとかに反応してたらきりが無いのでスルーして話を続ける。

 

「しかし、お前も難儀な相手を選ぶなぁ……確か妖精さんって部活の先輩のことが好きなんだろ?」

 

「だから、そんなんじゃないってば……僕は彼女が綺麗だって思ったから写真を撮りたいのであって、そこに恋愛感情は無いから」

 

「まあいいけどな。俺はもっとボン、キュ、ボンなねーちゃんの方が好みだな。ほら、このパイオツとかぐっと来るだろぃ? お前もこういうの撮るといいんじゃね」

 

 十蔵は手に持った雑誌を俺の前でぶらぶらさせる。肉感的な下着姿の美女の写真が載っていて、僕は思わず赤面する。

 

「んー、なかなかいい趣味をしてるね」

 

「如月さん!?」

 

 気がついたら横から如月さんが顔を覗かせていて、しげしげとグラビアを眺めていた。

 

「山崎くんとそのお友達。教室でエロ本見るなら女子に見つからないように気をつけたほうがいいと思うな。私だから良かったけど……」

 

 良くない。僕が普段からこういう本を好んで読んでると思われるのは心外だ。

 

「ち、違うんだ! これは僕のじゃないから!」

 

「あ、マツリずりぃ。おめえだけ逃げる気か」

 

「逃げるも何も僕は巻き込まれただけだろ!?」

 

「今までさんざん貸してやったエロ本の恩も忘れたのか!」

 

「き、如月さんの前でそんな事言うなよ!」

 

 僕達は不毛な言い争いを繰り広げていた。

 如月さんに軽蔑されたらどうしてくれる!

 

「ぷっ……あははは!」

 

 如月さんは笑っていた。その表情には軽蔑とか嫌悪とかそんな感情はなさそうで、むしろ、何だか嬉しそうなくらいの声色だった。

 

「いいって、いいって、私は全然気にしないから。男だもん仕方ないよ」

 

 如月さんは心底楽しそうにそう言う。

 そんな如月さんの様子に流石の十蔵も困惑しているみたいで指で頬を掻いていた。

 

「それじゃあ、私は部活行ってるから。写真撮りに来るならいつでもどうぞ」

 

 そう言い残して如月さんは立ち去った。

 

「あれが噂の妖精さんか……彼女、なんか凄いな」

 

 十蔵の言葉に僕は頷いて同意するしかなかった。

 

   ※ ※ ※

 

 休み時間や放課後に如月さんの写真を撮っているうちに、最初は訝しげにしていたクラスメイトも、だんだん当たり前のものとして受け入れてくれるようになっていった。

 最近は如月さんと女生徒を一緒に撮る依頼を受けることも増えている。

 ちなみに、男子生徒の場合は如月のお姉さんによって、一律にすげなく断られていた。

 

 そんなある日の授業中、衝撃的な事件が起こった。

 如月さんに初潮が来たらしく、彼女の席の周辺が血塗れになってしまったのだ。

 少女と女との境で戸惑う如月さんの表情と太ももを滴る赤い一筋は衝撃的で、僕の心に深く刻まれてしまった。

 流石に写真を撮るような真似はできなかったけど、もしあの表情を撮れていたらコンクールのグランプリも取れたのじゃないだろうか?

 

 そんなことがあって、彼女の表情や仕草の中に時々大人びた色気が混ざるようになってきた。そして、それを見た僕の中に、もやもやとしたものが溜まるようになっていた。

 高校生男子として、その処理方法は心得ていたけれど、処理するたびに今度は罪悪感が積もっていった。純粋な如月さんを穢してしまってるような気がして。

 そして最近はクラスを問わず男子から、如月さんの写真を売ってくれないかと言われることも増えた気がする。如月さんとの約束があったから一切断わっていたけれど。

 

 そんなある日の放課後。いつものように撮った写真を如月さんにチェックしてもらってるときのことだった。

 僕はカメラを渡した後で、致命的なミスに気がついた。

 お昼休みに撮った写真。中庭の木陰でに静かに佇む如月さんの写真。木漏れ日の下の彼女はとても幻想的で、とある問題さえ無ければ文化祭にはこの写真で決定しても良いくらいの出来だった。

 その問題というのは如月さんのスカートの中、具体的には薄桃色のパンツが写ってしまっていた。

 その事に気づいたのは写真を見返していたときで、本来ならその時点で削除するべきものだった。

 だけど、消すには惜しすぎる出来だったので消すのを保留にしてしまい、そのまま忘れてしまっていたのだ。

 

 案の定如月さんはその写真に気づいたみたいで、写真を見ている手をとめて画面をみたまま固まっていた。

 

「……これ、私のパンツ写ってるよね」

 

 如月さんが僕のことを睨むような視線で見上げてくる。

 

「ご、ごめん! わざとじゃなかったんだ。撮ってからそれに気づいたんだけど、写真の出来が良かったから消すのに躊躇しちゃって……本当ごめん。消してくれていいから」

 

 僕は言い訳せずにひたすら謝った。

 如月さんはじーっと写真を見て、何かを考え込んでいる様子だった。

 

 ……怒らせてしまっただろうか?

 

 その様子に僕が不安に思っていると、不意に顔を上げてじっと僕の目を見てきた。

 

「……これ、誰にも見せないって約束できる?」

 

「え? ……ああ、もちろんだよ!」

 

「じゃあいいや。特別許してあげる……私もいい写真だと思うから」

 

「ほ、本当!?」

 

「特別なんだからね? これが許されたからって他にパンチラ撮ったり、この写真を他の誰かに見せたりしたら絶交だから!」

 

「わかった、約束するよ!」

 

「いつものようにデータは後で頂戴。それじゃあね」

 

 そう言って如月さんは立ち去った。

 僕の手元には如月さんのパンチラ写真が入ったカメラが残された。

 

 ……もし、彼女がこの写真を使って僕がすることを知ったらどれだけ軽蔑されるだろうか。

 最近は罪悪感すら快楽のスパイスになってるような気がして、自分が卑しい人間に思えて仕方なかった。

 

   ※ ※ ※

 

 文化祭の日、俺はクラスのメイド喫茶の撮影係に任命されていた。如月さんは超ミニのメイド服で、少しかがんだだけでスカートの中が見える際どいものだった。

 

「これ、アンスコだから大丈夫だよ!」

 

 そう言って自分のスカートを自分で捲って見せる如月さんに、僕は思わず直立できない事態になってしまったのは仕方ないと思う。真珠色のフリルがついたかわいいそれは、どう見てもパンツにしか見えなかった。

 喫茶開始からしばらくして、どう見られているのか気がついたのか、やたらと恥ずかしそうにしてたのも、なかなかクルものがあった。

 ちなみに、その日のアンスコが見えていた写真は如月さんの手によって全部削除された。やっぱりダメだったらしい。

 なお、翌日履いてきたブルマは如月さん的にはセーフだったみたいで、スカートの裾から見えている写真でも削除されなかった。

 後日、クラス写真の注文を取ったとき、スカートからブルマがちら見えしている写真は一番人気で、如月さんはその写真に書かれた購入希望者の名前を見て苦笑していた。名前を書いた男子は女子からは冷ややかな視線を受けていて、ある意味勇者だと思う。なお、名前を書くのが嫌で、直接僕に焼き増しを依頼されることも多かったが、そちらはこれまで通り断っていた。

 

 写真部の展示物としての僕の作品は、図書館で静かに読書している如月さんの写真だった。本を捲る雰囲気が神秘的な一枚で、先日の木漏れ日の下での写真と比べても遜色のない出来の写真だ。他の写真部員からの評判も良かった。

 如月さんも妹の方の神代先輩と一緒に見に来てくれて、大判写しになった僕の作品に驚いたり照れたりしていた。

 

   ※ ※ ※

 

 文化祭が終わって数日経ったある日、僕は如月さんを放課後の校舎裏に呼び出した。

 普段はチェックの厳しい如月のお姉さんは何かを察してくれたのか、呼び出しを止められることは無く、僕は如月さんと二人で話をすることができた。

 

「如月さんのおかげで文化祭でいい写真が撮れたよ、ありがとう」

 

 まず、如月さんにお礼を言う。

 

「こっちこそありがとう。いっぱい写真を撮ってくれて嬉しかったよ」

 

「後、如月さんのおかげでクラスのみんなと親しくなれたし」

 

 如月さんの写真を撮るようになってからクラスメイトと話する機会が増えた。

 

「私は何もしてないから山崎くんの人柄だと思うよ? ……でも、きっかけになれたのなら良かった」

 

 そう言って如月さんは微笑む。

 

 その笑顔に、僕はいつの間にか魅せられていた。

 いや、思えば最初からだったのかもしれない。十蔵にはそうじゃないと言ったけど、多分、一目惚れだったんじゃないかと思う。

 だから、もう一度僕は勇気を出して言うことにした。

 

「如月さん、僕は君のことが好きだ。お付き合いしてもらえませんか?」

 

 僕の告白に、如月さんは戸惑って視線を中に泳がして顔を伏せる。

 ……ああ、やっぱりか。

 

「……ごめん。私好きな人がいるんだ」

 

 知っていた。写真を撮っていたからわかる。お兄さんの神代先輩と一緒に居るときの如月さんの表情は、明らかに他の人と居るときのものとは違っていた。

 

「……神代先輩ですよね」

 

 僕の言葉に如月さんは目を逸らして、少し迷った後に言う。

 

「……う、うん。まあ、そう……かな?」

 

「ありがとう……これからも友達で居てもらえるかな?」

 

「それは、こちらからお願いしたいところだけど……山崎くんはそれでいいの?」

 

「うん」

 

「それじゃあこれからもよろしくね……ごめんなさい、ありがとう」

 

 そう言うと一礼して如月さんは走り去った。

 残された僕はその場で立ち尽くす。

 この結果は最初から解ってたことだった。

 だけど、自分の中にあふれてくる気持ちを留めておくことができなかった。

 

 どうしても、君が好きだと伝えたかった。

 

「……いよぉ、マツリ」

 

 ……何分くらい経ったのだろう?

 気がついたら目の前に十蔵がいた。

 ずっと、俯いていたから気が付かなかった。

 十蔵は、おもむろに肩から腕を回してくる。

 

「……カラオケでも行くか?」

 

「……行く」

 

 丁度、大声を出して発散したい気分だった。

 

 十蔵とは、なんだかんだで気が合う腐れ縁だ。

 多分それはこれからも続いていくのだろう、そんな気がした。

 



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神代翡翠(温泉デートの始まり)

「一泊二日の温泉旅行!?」

 

 ある日の放課後、家にやってきた翡翠がデートの予定決まったからと伝えてきたのは、そんな突拍子もない話だった。

 以前、中学の卒業旅行で行った翡翠の親戚が経営する温泉旅館にもう一度、今度は二人で行くというのだ。

 都合の良い日を全部教えてほしいと言われて全部教えたのだけれど、一泊二日の予定を組まれるとは想定外だった。

 

「流石に女の子とふたりきりで宿泊旅行なんて無理だよ……」

 

 いくら幼馴染とはいえ翡翠と二人だけで宿泊旅行というのはいろいろと無茶がある。

 

「あら? でも今は女の子同士じゃない」

 

「それはそうだけど、うちの両親はそうは思わないんじゃないかな……」

 

 翡翠の父親は女の子同士ということで許可してくれるかもしれないが、うちの両親は俺が男だったことを知っているのだ。年頃の娘さんと二人で旅行して何かあったらと考えるのが普通だろう。

 

「大丈夫よ。先日来たときにおばさんの許可はもう貰ってるわ。優奈にも一応貰ってある」

 

「そ、そうなんだ……」

 

 って、うちの親は普通じゃなかった!?

 ……俺の考え過ぎなのか? いや、確かに女同士だから間違いは起こりようも無いのだけれど。

 それより、いつの間にそんな根回しをしてたんだ翡翠は?

 

「で、でも……やっぱり無理だよ。泊まりがけで旅行に行くにはお金が足りないんだ」

 

 俺はバイトもしていないので、収入は親から貰ってる小遣いだけだ。今使える金額は泊まりがけの旅行代金に足りるとは思えなかった。

 

「心配ないわ。旅行したいのは私の我儘だから、費用は全部私に出させて」

 

「そういうわけにはいかないよ。デートに付き合うのは私の約束だし。それに私は元男だから。女の子にデート代を払ってもらうっていうのは情けなさすぎるよ」

 

 俺がどう答えるかは予想済みだったようで、既に翡翠はそれに対する解答も用意していた。

 

「そう言うと思っていたわ。だから、おばさんに許可を貰ったときにアリスの貯蓄口座の使用許可も貰っているわ」

 

 お年玉などの臨時収入を貯めておく俺名義の口座がある。その口座のお金は普段は使うことが許されておらず、使うには母さんの許可が必要だった。翡翠は既にその了承を取っているらしい。根回しの良さに呆れるくらいだ。

 

「……それで、他に問題は無いかしら?」

 

「……う、うん」

 

「それじゃあ、これで話を進めるわね。楽しみにしてるわ」

 

 ほんとに、問題なかったのだろうか……

 

 俺は何だか取り返しの付かないことを了承してしまったような気がした。ただのデートのはずなんだけど……

 

   ※ ※ ※

 

 そして、旅行当日。俺は駅前で翡翠を待っていた。

 隣には何故か優奈が一緒だ。見送りをすると言って聞かなかったのだ。

 優奈は文化祭のときに悪くしていた機嫌は直ったものの、今でも複雑そうな表情で俺を見ている事があった。どうしたのか聞くけれど、理由は教えてくれなかった。

 

 翡翠に何か思うところがあるのだろうか? だけど部活でもそんな様子は見られなかったし……

 

 そんなことを考えてると、優奈は意を決したように向き直って俺に告げる。

 

「言いたいことはいろいろあるけど、アリシアと翡翠姉、それからアリスが決めることだからあたしは何も言わないわ」

 

 やっぱり何があるかは教えてはくれないようだったが、優奈の中では何か吹っ切れた様子だった。

 

「あたしはアリスのお姉ちゃんだから、どんな選択をしてもアリスの味方だから覚えておいて」

 

「……わかった。ありがとう」

 

 理由はわからないけど、優奈は真剣な様子だったので素直に感謝の気持ちを伝える。

 

「アリシアも……あたしはあなたのことをもうひとりの妹だって思ってるから。だから、何かあったら相談してね」

 

『ユウナ……ありがとうございます』

 

 それだけ言うと優奈はすっきりした表情で俺達を見た。

 

「……ちょうど、来たみたいね」

 

 言われた方向を見ると翡翠がちょうど俺達のところにやってくるところだった。

 格好はスタイリッシュなパンツ姿で、ウェーブのあるポニーテールと相まって何というか格好いい感じだ。

 

「おはよう、アリス。それから優奈?」

 

「おはよう、翡翠姉。あたしは見送りだから気にしないで」

 

「そう、びっくりしたわ。中学の卒業旅行のことを思い出しちゃった」

 

「あたしが悪かったから、あのときのことはもう言わないでよ……」

 

 過去優奈は俺達の卒業旅行に無理矢理付いてきた前科がある。翡翠はそのときのことを言っていた。

 

「それじゃあ、あたしはもう行くから。()()()をよろしくね?」

 

「……ええ。わかったわ」

 

 二人は笑顔で挨拶を交わすと、優奈はその場を立ち去った。

 家の方向じゃないので、ついでに街中をぶらついていくつもりだろうか。

 

 優奈を見送って振り返る翡翠。ポニーテールが軌跡を描いてたなびいた。

 

「それじゃあ、アリス。デートを始めましょう」



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神代翡翠(駅の構内で)

『イクトさん、わたし今日は精神同調切りますね』

 

 デート開始早々、アリシアがそんなことを言い出した。

 

『どうしてそんな事を言うのさ?』

 

『今日はイクトさんと翡翠さんとのデートですから、わたしがお邪魔するのは良くないと思うんです』

 

 アリシアと念話で話していた為、沈黙していた俺を訝しんだ翡翠が話し掛けてくる。

 

「……どうしたの? アリス」

 

「その……アリシアがデートだから、精神同調を切るって言っててさ……」

 

「アリス、今日は私とデートのはずよね?」

 

「う……そうだけど……やっぱり、ダメかな?」

 

『そんなの、ダメに決まってるじゃないですか。イクトさんはもう女性なんですから、少しは女心をわかりましょうよ……』

 

『ぐぅ……』

 

 それでも、俺はアリシアと温泉街に行ってみたかったんだ。彼女が新しい体験をして無邪気にはしゃぐ様子が好きだから。

 

「……別にいいわよ、アリシアも一緒で」

 

 翡翠の返事は意外にも了承を告げるものだった。

 

「え……いいの?」

 

「私だけ除け者にされるのは嫌だから、アリシアの声は私にも聞こえるようにしておいてね……後、ひとつ貸しにしとくから」

 

「ありがとう、翡翠」

 

 翡翠に貸しを作るのは少しだけ怖い気もしたが、取り敢えずはアリシアと一緒に温泉旅行を楽しめる事を喜ぶとしよう。早速俺は念話のリンクを翡翠と繋ぐ。

 

『え、ええと、いいんですかね……あの、お久しぶりです。ヒスイさん』

 

『こんにちはアリシア、文化祭以来ね。いいのよ、気にしなくて。悪いのはこの唐変木だから』

 

『なんだか、すみません……ほんと、イクトさんはもう……』

 

 割りと酷い言われようだけど、それで二人が意気投合してくれるならいいかな……

 

「それじゃあ、行きましょう。電車に乗り遅れてしまうわ」

 

 温泉街行きは一本電車を逃すと次は一時間後にしか来ない。少し待ち合わせ時間には余裕を持たせていたけど、さっきのやりとりで大分時間を取られてしまった。

 俺達は駅に向かって早足で歩きだした。

 

 駅についてから、アリシアのテンションはだだ上がりだった。

 

『イクトさん、鉄道ですよ、鉄道! 工業革命における物流の要となった鉄の道! すごい、線路が延々と続いてます! この先は見知らぬ土地に続いてるのですね……!』

 

『……アリシアってこんな娘だったの?』

 

『アリシアは好奇心旺盛だから……近代史で学んだ鉄道を実際に目の当たりにして、ちょっと興奮しているみたい』

 

『それに電車もアニメで見たのと一緒です! 無骨な四角いシルエットをした銀の車……あぁ、素敵です、素晴らしいです……ミンスティア様に感謝の祈りを!』

 

 そんなアリシアの様子を見て、翡翠はくすりと笑った。

 

『なるほどね、あなたや優奈が気にかける理由がわかった気がするわ……』

 

 電車に乗ってもアリシアの興奮は冷めやまぬ様子だった。

 そういう態度を一切出さずに身を引こうとしていたと思うと、逆に少し寂しさを感じてしまう。

 

『車とはまた違うこの車窓の光景、そしてこの揺れはレールの継ぎ目によるものなんですよね! 独特なリズムが心地よいですねぇ……!』

 

 電車が動き出してしばらくはそんな感じだった。

 ややあって、アリシアは少し冷静になったらしく、静かに見守っている俺達に気がついたようだった。

 そして、羞恥と戸惑いの混ざった声が聞こえてくる。

 

『ご……ごめんなさい。わたし一人で興奮しちゃって……えっと、やっぱり、今からでも同調切りましょうかね?』

 

『気にしなくていいわ。微笑ましいものをみれたから。アリシア、あなた可愛いのね』

 

『ふぇ……!? な、何を言うんですか、もう……からかわないで下さいよ』

 

『アリシアは可愛いぞ』

 

『なんですか、なんなんですか!? もう、二人ともいじわるです』

 

 アリシアのふくれっ面が視えたような気がした。

 俺と翡翠は互いの顔を見合わせて笑った。

 そんなやりとりの間にすっかり緊張の解れた俺達は、三人でお互いの事やこれから行く温泉の事などの雑談して過ごした。

 電車が目的地につくまでの一時間半ほどの時間は、あっという間だった。

 

  ※ ※ ※

 

『暖かいですねぇ。これはなかなかどうして気持ちいいです……』

 

 温泉街について、まず最初にしたことは駅の構内にある無料の足湯を利用することだった。

 俺はミュールを脱いで、ワンピースの裾を少しだけたくし上げて足を湯に浸ける。足首から先が暖かいお湯に包まれてとても心地よい。

 足湯に浸かっていると足だけじゃなくて身体全体がぽかぽかしてきて、とてもふにゃっとゆるむ。

 温泉に浸かるのとはまた違った趣があって俺は好きだ。

 

 翡翠も隣に並んで足湯に浸ってる。

 

 ……ちょっと近いかも?

 

 いや、足湯は公共の場所だから詰めて座るのはわかるけど、だからと言って拳一つ分も離れていないのはちょっと近すぎる気がする……腕と腕は触れ合っちゃってるし、香水をつけているのか何だか判らないけど、翡翠からいい匂いがしてきて落ち着かない。

 

「足だけなんてって、今まで足湯を使った事は無かったけど、思ったよりいいものね、これ」

 

 俺の耳元で翡翠がそう囁くように言う。くすぐったくて変な顔になったかもしれない。

 何だか周りの人に見られているような気がするのは、気のせいだろうか? 正面の大学生っぽい男の人の一団とか特に注目されてるような……

 

『「ひゃぅ!?」』

 

 俺とアリシアは同時に小さく悲鳴を上げる。

 翡翠が突然に足を絡めて来たのだ。

 

「んっ……!」

 

 彼女は足の指先で俺の足の裏をくすぐってきたり、指の付け根を親指で一本一本確認するように這わせてきたりと、足で俺にいたずらしてくる。

 微妙な刺激がとてももどかしい。

 

『翡翠、ちょっと……ダメだって……』

 

 このままだと何だかおかしな雰囲気になりそうで、俺は翡翠から逃げ出すように足湯から足を引き上げた。ここは公共の場所なのだ。

 幸い翡翠はそれ以上ちょっかいを掛けてくることは無く、目を細めて艶やかに微笑むと、すらっとした足を足湯から上げた。

 

 俺はフェイスタオルを取り出して、濡れてしまった足を拭きながら、今回の旅行の先行きに一抹の不安を覚えた。

 

 ……大丈夫なのかな、俺?



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神代翡翠(温泉街を散策)

 翡翠とのデートは初っ端は微妙な雰囲気になったものの、その後は拍子抜けするほど平和な時間を過ごせた。

 

 俺達は駅から続いている商店街を行き当たりばったりに巡っていく。

 

 お土産屋さんでいろいろ試食をしてみて、三人で相談して一番気に入ったものを今日旅館で食べる用にひとつだけ購入した。

 

 商店街を時折駆けていく人力車が気になったが、料金が少々高校生には厳しかったので乗るのは断念した。アリシアが、これは私の世界にもありますと妙に得意げだったのがおかしかった。

 

 某キャラクターグッズが売っているお店で、有名な傘をさして化け猫のバスを待っている森の精霊のイラストやぬいぐるみを見て『日本にも精霊獣は居るんですねぇ』と、感想を漏らすアリシア。いや、居ないからね? ……多分。

 

 特産品のソフトクリームをふたつ買って半分こにして食べた。ひとつは柑橘系で普通に美味しかったけど、もうひとつの色物系は微妙な味で、三人でちょっぴり顔をしかめながら食べた。

 

 濡れおかきというものを生まれて初めて食べてみた。小上がりで出されたお茶と一緒に食べたのだけど、かき餅みたいな感じだった。美味しかったけど俺はさくさくしたおかきの方が好みかな……? アリシアと翡翠はとても気に入ったようだ。

 

 そんな風に過ごしているうちに、商店街も出口に差し掛かり、俺達は出口近くの雑貨屋でなんとはなしに売り物を見て回る。

 この時間が終わってしまうのを惜しむように少し時間をかけながら。

 

「ねぇ、今日の記念に揃いのアクセを買うなんてどうかしら」

 

 アクセサリーを見ていた翡翠が、そう提案してきた。

 

「うん、いいと思う」

 

 俺は同意した。

 とても良い記念になると思ったから。

 

『綺麗なブレスレットですね!』

 

 それは樹脂製のブレスレットだった。半透明にさまざまな色があるそれはグラデーションを描いてずらりと並べられていて、とてもカラフルだ。

 

「私の色はアリスが選んでくれるかしら?」

 

「わかった……うーん、これとかどうかな?」

 

 俺が手に取ったのは緑色のブレスレット。安直だけど翡翠と言えば緑というイメージが強い。

 

「私はそれにするわ……アリスは二月産まれだから、誕生石のアメジストのイメージでこれなんてどうかしら?」

 

 翡翠が手に取ったのは紫色のブレスレットだ。

 

「うん、いいと思う。じゃあ、後はアリシアのだね」

 

『……え? わたしもいいんですか。これって、お二人のデートの記念なんじゃ……』

 

『今更遠慮はいらないわよ。今日は三人のデートってことで私も納得してるから。さあ、アリシアも選びましょう?』

 

『あ、ありがとうございます……ええと、わたしもイクトさんに選んで貰ってもいいですか?』

 

『わかった……そうだなぁ、アリシアと言えばこの色かな』

 

 俺が手に取ったのは水色のブレスレット。水の巫女であるアリシアに俺が抱くイメージは、透き通るような薄い水の色。

 

『それでお願いします……すごく嬉しい。お二人共ありがとうございます!』

 

 ここは少し見栄を張って俺が全員分の代金を出した。元々アリシアの分は俺が出すことになるし、翡翠だけ自分で出させるのもなんか違う気がしたからだ。

 

「ありがとう、アリス」

 

『イクトさん、ありがとうございました』

 

 精算を終わらせて店を出た俺達は早速ブレスレットを付けてみる。

 装飾品としてはぶかぶかだったけど、記念品としての意味合いが強いので問題無い。

 翡翠の腕には緑のブレスレット、そして俺の腕には水色と紫のブレスレットが重なっている。

 その様子を見ていた翡翠が、ブレスレットのついた腕を触れ合わせるように手をとって、指を絡めてきた。

 

「ちょ……翡翠!?」

 

「……だって、私だけ除け者なのは寂しいじゃない」

 

 そう言って、拗ねる翡翠は少し子供っぽくて昔を思い出した……腕に感じる膨らみの柔らかさや香水の匂いは完全に大人のものだったけれど。

 

『……ヒスイさん、胸があたってイクトさんがニヤニヤしてますよ』

 

『……ちょ、アリシア!?』

 

『別にこれくらいいいわよ。女同士なんだもの』

 

『わたしは良くはないですけど……ブレスレットが嬉しかったので我慢します。元々デートを邪魔している負い目もありますし』

 

『ふふっ、ありがとうアリシア』

 

『えーと、俺の意見は……』

 

『……何か問題があるのかしら?』

 

 ……ないです、はい。

 

 結局、旅館につくまで翡翠は手を離してくれず、俺達は周囲の視線を集めまくっていた。浴衣や時代風のコスプレをしている訳でもないのに写真撮影をお願いされたくらいだ……断ったけど。

 ウェーブがかった黒髪ポニーテールのすらっとした美人の翡翠と銀髪洋ロリの自分が手を繋いで歩いている姿は周りにはどんなふうに見えたのだろう?

 ……外国人の子供を手をひいて観光案内してあげている女学生と言ったところか?

 自分で想像しておきながら悲しくなってきた、やめよう。



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神代翡翠(温泉旅館)

 商店街を通り過ぎて旅館やホテルが集中してる区画をしばらく歩いていくと、翡翠の親戚がやっている温泉旅館に到着した。

 

「さすがにそろそろ手を離して貰ってもいい?」

 

 手を繋いだままで、翡翠の親戚に挨拶はしたくない。

 

「……名残惜しいけど、仕方ないわね」

 

 翡翠は俺の手を離す。

 俺達は趣のある温泉旅館の入口の自動ドアをくぐった。

 

「いらっしゃいませ……あらー、翡翠ちゃんじゃないの! お久しぶりー」

 

 ロビーで俺達を迎えてくれたのはこの旅館の女将、翡翠の親戚の叔母さんだった。翡翠の亡くなった母親の妹さんで、翡翠が歳をとったらこんな風になるんだろうと思わせる和服美人だ。

 

「お久しぶりです、叔母さん」

 

「しばらく見ないうちに随分と女らしくなって、姉さんの若い頃にそっくりよ。翡翠ちゃんがこんなに大きくなるなんて、私も歳を取るわけだわ」

 

「そんなことないですよ、叔母さんは相変わらずとっても綺麗で憧れます」

 

「あらあら、こんなおばちゃんをおだてても何も出てこないわよ。ところで、そちらがお連れさん?」

 

「はじめまして、私は如月アリスと申します。よろしくお願いします」

 

「アリスは学校の友達で帰国子女なんです」

 

「随分と日本語が上手なこと。それにしても安心したわ。翡翠ちゃんが二人でうちに泊まりたいって相談があったものだから、てっきり男の子と二人で来るのかと思って心配してたの」

 

「そんなことしませんよぉ」

 

「この前来たときに一緒にいた男の子、翡翠ちゃんはてっきりあの子のことが好きなんだと思ってたんだけど、勘違いだったかしら?」

 

 ……勘違いじゃないてす。

 

「そうだったんですけど……ついこの前に振られちゃいました」

 

 翡翠はそうペロッと舌を出して言う。

 

「あら、ごめんなさい。今日は傷心旅行だったのね……全くこんないい娘振るなんて見る目の無い男ねぇ」

 

「本当ですよね。ねぇ、アリスもそう思うでしょ?」

 

「……ええと、うん、そうね……」

 

 振った当人である俺に同意を求めないで頂きたい。

 ……気まずいにも程がある。

 

「翡翠ちゃんの為に特別いい部屋を用意してあるから、今日はゆっくり癒やしていくといいわ。料理も頑張っちゃうから」

 

「秋のいい時期に無理を利いていただいてありがとうございます。これ、父からです」

 

 翡翠は手土産を女将さんに渡す。

 

「ご丁寧にありがとう……それじゃあ、お部屋に案内するわね」

 

 女将さんに連れられて旅館の廊下を歩く。案内された部屋に入った途端、俺は感嘆の言葉を漏らす。

 

「うわぁ……」

 

 入ってすぐの所で履物を脱いで障子を開けると、正面に中庭が一望できる八畳間の和室がある。中庭には本格的な岩造りの露天風呂が中央に備え付けられていて、並々とお湯を溢れさせている。

 思わず目を奪われる光景だった。

 

『……すごいです』

 

「うちの旅館の自慢の部屋よ。ここまで立派な内風呂はこの界隈でもなかなか無いわよ」

 

「素敵! 叔母さんありがとう!」

 

 部屋を見た翡翠は彼女にしては珍しいくらいにテンションが高い。無理もない、かくいう俺自身もここまでの部屋だとは思っていなかった。前回泊まったときは雑魚寝の四人部屋で、お風呂は共同の大浴場を使った記憶がある。

 

「気に入って貰えたようでよかったわ……ご飯は七時に持って来ますから、それまでゆっくりくつろいでいって下さいね。それでは失礼します」

 

 女将さんは綺麗な動作で流れるように一礼して退室する。慌てて俺達も姿勢を正して礼を返す。

 跪いた女将さんが内扉の襖戸を閉めた。それから、少しの間があって、部屋の入口の鉄のドアが閉まる音がした。

 

 俺は荷物を下ろして、和室の中央のテーブルの周囲に置かれた座布団に座る。眼前には湯気をたてた内風呂が広がっていた。

 

「それにしても、本当にすごいね」

 

『綺麗ですね……自然との調和を考えて作られた配置、ここから見るとまるで絵画のようです』

 

 背後に見える山々は紅葉(こうよう)に染まっていて、ここが山の中に作られた観光地だと実感させられる。

 

「それじゃあ早速露天風呂にしましょうか。アリスが先でいいわよ」

 

「翡翠、ありがとう!」

 

 俺はバッグからお風呂道具一式を取り出して脱衣所に向かった。普段よりも急いで服を脱いで脱衣籠に服を放り込んむと、髪をバスタオルで巻いてから浴場に向かう。

 

 脱衣所から続いている洗い場で、まずは簡単に体だけ洗ってしまう。どうせ何回かお風呂に入る事になると思うので他は後回しだ。

 洗い終わったら待望の温泉に向かった。何も身に着けていない肌にひんやりと冷たい秋の風が吹きつけてくる。俺は体をふるわせると、天然の岩で作られた浴槽に足をそろりと差し入れた。

 温泉のお湯は少し熱めでピリピリする。しばらくすると温度に慣れてきたので、俺は少しづつ体をお湯に沈めていった。

 全身をお湯につかった俺は、お湯の中で段になっている岩肌に腰掛ける。

 そのまま浴槽の縁の岩を枕にして頭を預け、手足を伸ばして体をお湯の中で弛緩させた。

 

「ふぃぃ、極楽だあぁ……」

 

『これは……なかなか気持ちの良いものですねぇ』

 

 上を向いた俺の眼前に広がるのは青空で、俺は心の底から開放感を感じていた。

 耳に入る音は温泉に注がれるお湯の音と風で葉がそよぐ音くらいでとても静かだ。先程までの商店街の喧騒とのギャップに、騙されているような非現実的な気分になる。

 

「湯加減はどうかしら?」

 

 脱衣所のドアが開く音がして翡翠の声がした。

 様子でも見に来てくれたのかな?

 そう思って視線を入口の方に向けて……俺は慌てて視線を逸らした。

 

「翡翠!? なんで何も着てないのさ!」

 

 ちらり見た翡翠は全裸で、暴力的な肌色が一瞬視界に入り脳内に焼き付いて離れない。

 

「私も温泉に入るからに決まってるじゃない」

 

 さも当然のように翡翠は言う。

 

「でも、さっき、私が先に入っていいって言ったよね!?」

 

 洗い場でお湯を出す音がする。体を洗っているようだ。

 

「うん、だから私は後から入って来たわよ」

 

 どうやら、翡翠は最初っから一緒に入るつもりだったようだ。

 

「ダメだよ……だって、私と翡翠なんだよ?」

 

「昔は一緒にお風呂入ってたじゃない」

 

 そんなの年齢が一桁の頃の話じゃないか……

 

「それに、今は女同士でしょ? 私は見られても気にならないわ」

 

「そこまで言うなら、いいけど……」

 

 プールのときも肌は見たけど全裸を見ることはなかった。だから、性を意識するようになって以来、家族以外の女性の裸を見るのははじめてだった。

 しかも、相手は幼い頃から知っている翡翠で。

 

 ……まだ温泉に入って間もないというのに、のぼせてしまいそうだった。



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神代翡翠(内湯)

 洗い場に背を向けた状態で俺は浴槽に浸かっていた。背後の洗い場からは翡翠が体を洗っている物音が聞こえている。

 

 ……俺はどうするべきなのだろうか。

 

 早々にお風呂を出る?

 当面の危機は脱することができるけど、それは明確に翡翠を拒絶してしまう事になる。そうなれば、旅行は台無しになってしまい思い出が欲しいと言った翡翠の願いを無碍(むげ)にすることになるんじゃないだろうか。

 

 だったら、このまま一緒に温泉に入るのか?

 翡翠に恋人としての関係求められたなら俺は応えることは出来ない。だけど、一緒にお風呂というのは微妙なところだ。

 異性の友人であったなら明らかにアウトなケースだが、同性の友人であったなら一緒にお風呂くらいは普通のことだろう。

 俺が今後翡翠と築いていきたい関係は同性の友人としてのものなので、それならば、通常のスキンシップの範囲であるとも言えるのかもしれない。

 

 だけど、それは本当に許される事なのだろうか?

 現に翡翠の裸を見る事に期待している自分がいるのは否定出来ない。そんな俺が翡翠の体を見るのは裏切り行為のように思えてならない。

 

「どうしたの? 難しい顔して」

 

 傍らからした声に俺は顔を上げて応える。

 

「このまま翡翠とお風呂一緒に入っちゃってもいいのかなって……」

 

 振り向いた先には髪をタオルで巻いた翡翠がいて……

 

「うわぁぁぁ、ひ、翡翠……!?」

 

 俺は慌てて翡翠に背を向けて飛び退く。

 見てしまった。見事な曲線を描いている翡翠の胸のふくらみ、そして先端部の桃色の突起部も。

 

 でかい。

 大きさは明らかに優奈より上だった。それがすべてじゃないけれど、サイズはそれだけで分かりやすいインパクトがある。

 そんなこと考えてる場合じゃないって、わかっちゃいるけど、脳裏に焼き付いた肌色と桃色が頭から離れない!

 

「……別に逃げなくてもいいじゃない」

 

 背後から何かが覆いかぶさる気配がして、両肩越しに白くて長い腕が伸びてきて俺を拘束する。

 そのまま俺は後方に引き寄せられた。小柄な俺の体は翡翠の力でも簡単に動かされてしまう。

 

「ひゃぁ!?」『……んっ!』

 

 体勢を崩した俺は思わず悲鳴をあげる。

 後ろに倒れ込んだ俺の頭は、柔らかいふたつの膨らみに受け止められた。左右の膨らみに後頭部が埋もれるように沈んで、反動でぽよんと押し返される。

 気がついたら、俺は完全に翡翠の膝の上で抱きかかえられる格好になっていた。後頭部は翡翠の胸の谷間に収まっている。

 

「ちょ、翡翠!? 何を……!」

 

 俺は慌てて体をくねらせて逃げようとするが、後ろから翡翠に両腕でがっちりと拘束されていて逃げだす事はできない。動く度に後頭部を包み込む翡翠の胸がふにふにと形を変えて、柔らかさを伝えてきてやばい。

 

「ただの女同士のスキンシップじゃない、大げさね」

 

「ただのってレベルを超えてる気がするんだけど!?」

 

「だって、優奈ちゃんとも時々こうやって一緒に入ってるんでしょ?」

 

 優奈はいったい何を翡翠に話してるんだ。

 ……というか、家のお風呂で後ろ抱っこになるのはスペース的な理由で仕方なくだと思う。

 そもそも、優奈にはここまで体を預けたりはしていない。

 

「アリスはとても抱き心地がいいって自慢されたから、羨ましいって思ってたの……確かにこれは癖になりそうね」

 

 優奈は何を自慢してるの!? それに、癖になるって……確かに最近は当たり前のように優奈の膝の間に収まってた気がするけど……え? ええ!?

 

「優奈ちゃんと入ってるなら、私とも入ってくれていいでしょ? こんなの、女同士なら当たり前のスキンシップよ」

 

「わ、わかったよ……」

 

 女子は男子と比べてスキンシップを好むという話を聞いたことがある。だから、ひざ抱っこでお風呂に入るのも案外普通のことなのかもしれない。

 それにしても、さっきから耳元で囁くのはやめて欲しい。なんだかくすぐったくて、ぞわぞわしてしまうのだ。

 

 俺が受け入れたことで、肩の後ろから回されていた翡翠の腕の拘束が外された。

 

「逃げたりしないから、上半身だけ起こさせて……」

 

 懇願するように俺は翡翠に言う。このままでいると俺の理性がやばい。これは男をダメにする柔らかさだ。このままだと何か間違いを起こしてしまうかもしれない。後、黙っているアリシアが怖い。

 

「……仕方ないわね」

 

 翡翠は俺の提案を受け入れてくれた。俺は体を起こして桃源郷から離脱する。

 柔らかさの暴力から開放されて、ようやく俺はほっと一息つくことができた。

 

「……大丈夫、重くない?」

 

 下に敷いてしまっている翡翠が気になって俺は翡翠に声をかけた。

 

「全然平気よ。アリスは軽いもの……ほんと、無駄なお肉が全くついていないのね。少し憎らしいくらい」

 

「ひゃっ!?」『ひゃぃ!?』

 

 突然翡翠の両手がお腹に触れてきて、俺は思わず悲鳴をあげる。

 同時に今まで沈黙していたアリシアの悲鳴も聞こえてきた。

 

「あら……アリシア?」

 

 翡翠はそのまま俺のお腹を撫で回してくる。

 

『ちょ……ヒスイさん!? 待って……それ、くすぐったいですからっ!』

 

「ちょ……翡翠っ……やめっ……!」

 

「感覚共有してるのって、なんだか不思議ね……」

 

 翡翠は両手の指をわきわきさせてお腹をくすぐってくる。こそばゆいような焦れったいような刺激に俺は体を強張らせる。

 

『ふぁっ……んっ……くぅ』

 

 頭に響くアリシアの悩ましい声が俺の思考を溶かしていく。

 翡翠の右手の人差し指がヘソの穴をなぞるように動いて、同時に左手の指が恥骨の辺りを探るように蠢いている。

 

「だめぇ……翡翠っ……!?」

 

 危機感を覚えて俺は静止の声を上げる。()()は絶対にスキンシップの範囲じゃないのは俺でも分かる。

 

「……あら、やっぱり生えて無いのね」

 

 翡翠はそれを確認して満足したのか、それ以上その部分に手を進ませる事はなく、手を離したので俺はほっと一息ついた。

 

 だけど、安心したのも束の間、翡翠の左手が今度は太ももに置かれた。

 

「ここもすべすべね……羨ましいわ」

 

 指先で内太ももに触れるか触れないかくらいのタッチで撫でてくる。肌の表面がぞわぞわするような感触に体を震わせる。

 翡翠の右手の指は俺を拘束がてらおなかのヘソ周りを弄んでいて、俺達は翡翠の指の動きに翻弄されるがままに声をあげさせられた。

 

 しばらくして翡翠の手が動きを止める頃には、俺の息は絶え絶えで、頭の中はぐちゃぐちゃに掻き乱されてしまった。

 温泉に浸かっていることもあり、すっかりのぼせてしまった肌は上気して桜色に染まってしまっている。

 

   ※ ※ ※

 

『ヒスイさん、どうしてこんなことを……?』

 

 俺が息を整えている間に、息の乱れることのないアリシアが、翡翠に問いかける。

 

「アリシアが余裕綽々だったのが、ちょっとイラッとしたから……かな?」

 

 翡翠から帰ってきたのは棘のある言葉だった。彼女がストレートにこういう台詞を使うのは珍しい。

 

「アリシアはどうしてさっきの間ずっと黙っていたの? ずっと、私達のこと見ていたんでしょう?」

 

『イクトさんとヒスイさんのお話でしたから、私が口を挟むべきじゃないと思ったからです』

 

 念話はグループで繋いでいる間は参加者同士が個別に話す事は出来ない。だから、今アリシアが話せばそれは翡翠にも聞こえることになる。

 

「私の考えは前に伝えたよね。あなたはそれでいいの?」

 

 前……文化祭のときに翡翠とアリシアの二人で話したときのことだろうか?

 翡翠の問いに、アリシアは返答をしかねている様子だった。

 その態度は、翡翠の癪に障ったようで苛立った表情を見せる。 それは、幾人として見たことの無い翡翠の表情で、俺は困惑する。

 

「……なによそれ、正妻の余裕ってやつ?」

 

『そういうのじゃ無いです……』

 

 ……何でこんなことになっているのだろう? さっぱり訳がわからない。

 

『イクトさんのことは、イクトさん自身が決めるべきです』

 

「あなた自身の考えはどうなのよ? あなたは幾人が誰を選んでも平気だって言うつもりなの!?」

 

『……っ!』

 

 アリシアの感情が高まっているのがわかる。だけど、それ以上言葉は紡がれることはなく、アリシアはそのまま押し殺すように口を閉ざした。

 

「……わかったわ。あなたは私と同じ土俵にあがるつもりも無いってこと」

 

 俺の体がひょいっと持ち上げられて、翡翠の上から退かされる。

 翡翠はそのままお湯からあがると、温泉から出て部屋に戻っていった。

 

 ……え? これは俺にどうしろと……?

 



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神代翡翠(アリシアの気持ち)

 岩の浴槽に腰掛けて足だけ温泉に浸けながら、俺はのぼせた頭を冷やすことにする。

 冷たい風が心地よい。

 俺はさっきの事を考える。

 

 話の展開に良くわからない部分はあったけど、俺を巡って翡翠とアリシアが揉めたという認識で間違いないだろう。

 

 アリシアのことが好きだけど、幼馴染である翡翠とも仲良くしたいっていうのは間違っているのだろうか……

 同性になった今なら気楽に付き合えるようになるのかと思ったら、そうはならないのだから、世の中はままならない。

 

『……アリシア、大丈夫?』

 

『……ごめんなさい、イクトさん。わたしの態度で翡翠さんの機嫌を損ねてしまったようです』

 

『俺に謝る事なんてないよ。それにしても、翡翠はなんであそこまで怒ったんだろう……?』

 

 翡翠があそこまで直接的に攻撃的な言葉をぶつけてくるのは珍しいことだ。

 

『ヒスイさんの気持ちわかる気がします……わたしはイクトさんに甘えて我儘ばかり言ってますから』

 

『そんなこと無いと思うぞ。むしろ俺がアリシアに助けられてばかりじゃないか……俺から翡翠に何か言っておこうか?』

 

『イクトさんは何もしないで下さい。彼女はイクトさんが居る場にも関わらずわたしに直接語りかけてくれました。だから、答えはわたしが伝えないといけないんです』

 

『わかった。けど、困ったら頼ってくれよ。俺はアリシアの、こ、恋人なんだから……』

 

『はい。ありがとうございます、イクトさん』

 

 少し体が冷えてしまったので俺はもう一回湯船に入り直した。それから髪を洗ってお風呂を出る。

 

 ゆっくり時間を掛けた為、脱衣所に翡翠の姿は無かった。俺は体を拭き上げて下着を身につける。

 脱衣所の籠に備え付けの浴衣が用意されているのを見つけて、俺はそれを着てみることにした。だけど、羽織ってみただけで明らかにぶかぶかで、とてもじゃないけど着られるものじゃない。

 諦めて隣の子供用の浴衣を手にとってみる。きんぎょのイラストが並んだそれは、これぞお子様向けといった感じのかわいいデザインの浴衣だった。

 少し悩んで俺は子供向けの浴衣に袖を通した。やっぱり温泉では浴衣で過ごしたい。それに、部屋から出ないから誰に見られる訳でもないし。

 

 着替え終わって部屋に戻ると、奥の部屋に翡翠が涼し気な表情で座っていた。こちらに気づくと微笑んで立ち上がる。

 浴衣姿の彼女は髪を降ろしていていることも兼ね合って、なんとも言えない色気がある。

 

「浴衣似合ってるわよアリス、可愛いわ」

 

「これしかサイズが合わなかったから、仕方なく着てるだけだから……正直、浴衣にはあまり触れないでいてくれると助かる」

 

「あら、そうなのね、ごめんなさい」

 

『ヒスイさん』

 

『どうしたのアリシア?』

 

 アリシアの声をきっかけに、俺に向けられている翡翠の目が突然細められた。見ている先は変わらないのに、俺を見るときと全く異なる冷たい視線を向けられて、背筋が凍る思いがする。

 

『ヒスイさんの、さっきのご質問にお答えします』

 

『聞かせて貰えるかしら』

 

『わたしはイクトさんが好きです。イクトさんもわたしの事を好きだと言ってくれています。ですが、わたしの()(よう)は普通の人とは異なります』

 

 アリシアは言葉を続ける。

 

『ヒスイさんはさっき私が同じ土俵に立っていないと仰りました。正しくその通りだと思います。私はイクトさんと共に歩む事が出来ません。キスすることも抱きしめることも叶わないのですから』

 

 淡々と語られるアリシアの言葉は、様々な感情が入り混じっていた。俺がアリシアの体になってから、一度も俺に見せた事のなかった彼女の後ろ暗い感情も見え隠れしている。

 

『わたしは、イクトさんに幸せになって欲しいと思います。いつかイクトさんが共に歩む方を見つけられたときに、わたしの存在が重荷になりたくはありません。もし、イクトさんがわたし以外の方を好きになったなら、わたしは素直に身をひくつもりでいます』

 

 そのアリシアの返答は俺にとっても衝撃的な内容だった。肉体的な接触は叶わないが、二人の間にはこの一年で培った絆がある。だから、この普通じゃない恋愛でも上手くいくと俺は思ってた。だけど、アリシアはそう思ってはいなかったという事になる。

 

「アリシア、あなたは本当にそれでいいの?」

 

『わたしはそれがあるべき姿だと思ってます。と言っても、わたしはイクトさんの気持ちに甘えてばかりなので、偉そうなことは言えませんけど……』

 

「あなたはどこまで……まあいいわ。アリシアがそういうつもりなら、私は好きにさせて貰うことにするから」

 

 翡翠は俺を見て微笑んだ。その視線に何故だかゾクっとするものを感じて背中を緊張させる。

 

「そろそろ夕飯の時間ね。みんなでご飯を楽しみましょう?」

 

 



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神代翡翠(夜の始まり)

 内線で夕食の準備が出来たとの知らせが入った。数分後、部屋のドアがノックされて、叔母さんともう一人女性の中居さんが料理を持って俺達の部屋に入って来る。

 

 部屋の中央のテーブルに手際よく次々と料理が並べられていく。晩秋の山の幸をふんだんに使った懐石料理だ。

 

 メインディッシュは地元和牛のステーキ。

 見るからに霜降りが鮮やかな状態のものが三切、付け合せの野菜と一緒になってミニ鉄板に載っている。

 仲居さんが鉄板の下の固形燃料に火を着けると直ぐに肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきて食欲を刺激する。

 最後に今日の料理の献立表の紙を渡されて、簡単な料理の説明を受けた。

 

「お食事が終わりましたら、インターホンで伝えて下さいね。片付けて、お布団を敷きますから。うちの料理長自慢の料理だから、楽しんでいってね。それじゃあ、ごゆっくり」

 

 叔母さんたちが部屋から出て行ってから、3人でいただきますをして食事を開始する。

 

『自然の素材をなるだけ活かしながら、必要最小限手が加えられて調理されています。これが、職人の技なのですね……和食奥深いです』

 

 出された料理はどれも美味しかった。元々俺は好き嫌いは少ない方だったが、アリスになって薄めの味を好むようになっていて、丁度良い塩梅だった。野菜がメインだけど、ステーキとか天ぷらとかで油っ気もある程度あり、バランスが良い献立だった。

 最初並べられたときはこんな量を食べられるのか疑問だったけれど、気がついたら完食していた。一品一品の量が少なめだったのも良かったのかもしれない。

 

   ※ ※ ※

 

 部屋と内湯の間にある縁側に、小さいテーブルと揃いの椅子が置いてある。そのひとつに俺は腰掛けて考え事をしていた。

 

 アリシアは俺に好きな人が出来たら身を引くと言う。

 誰よりも近くに居るのに触れ合うことの出来ない関係というのに先行きが不安になってしまっているのだと思う。

 言葉で否定することは簡単だけど、それでアリシアが安心出来るかというと難しい。普段の言動でアリシアの信用を得ることしかないだろう。

 

『アリシア、俺頑張るから』

 

『え? あ、はい。ええと……?』

 

 俺は一方的に宣言する。アリシアは良く解ってない様子だった。

 

「お客様お待たせしました」

 

 部屋の中から声が掛かる。今まで部屋の中では仲居さん達が食事の片付けと布団敷きをしてくれていた。

 

 縁側と部屋の間の襖を開けて俺は部屋に戻る。先ほどまでの料理やテーブルは片付けられていて、綺麗な布団が二組間を開けて並んで敷かれていた。

 俺は立ち去る仲居さん達に礼を言って、気配が無くなる頃合い待つ。

 

「とーう!」

 

 入り口のドアの閉まる音を聞いた瞬間全身で布団にダイブした。

 心地よいふかふかの感触と清潔なシーツの匂いが俺を包み込む。

 

「布団は幸せだぁ……」

 

「……アリス、あなた何やってるのよ」

 

 俺が布団で丸まって左右にゴロゴロとしていると脱衣所から翡翠が出てきたようで、俺を呆れた視線で見下ろしていた。

 彼女はご飯が終わって温泉に入り直していたのだった。

 トレードマークのポニーテールは今は降ろされていて、いつもと違う雰囲気に一瞬ドキッとしてしまい――

 

「ゴロゴロ虫ごっこ?」

 

 と何とも言えない微妙な返答を返してしまった。

 

「……何よ、その適当なネーミング。あーもう、変な風に暴れるから浴衣がぐちゃぐちゃじゃない。ほら、立って?」

 

「じ、自分で直せるから」

 

「こんなことで照れるところじゃないでしょ。ほら、早く」

 

 諦めて素直に翡翠の前に立つ。翡翠は手馴れた様子で、俺の乱れた浴衣の形を整えていく。あっという間にきっちりした状態に復活した。

 

「おー、ありがとー翡翠」

 

「どういたしまして」

 

「といっても、後はもう寝るだけなんだけどね」

 

 と、俺は布団に腰を降ろして足を投げ出した。

 

「アリスはもう温泉に入らないんだ?」

 

 俺の横に並ぶようにして翡翠が座って聞く。……距離が近い気がする。

 

「早朝から朝に掛けて後一、二回は入りたいかなぁ……出来るなら大浴場の方も行ってみたいし」

 

「今からは行かないの?」

 

「人が多い時間には行くのはまだ抵抗があるよ。何せ、まともに女の人の裸を見たのも、家族以外だと今日の翡翠が初めてだったくらいだし」

 

 その事を聞いた翡翠が表情をかえて、ニヤリといった風に微笑んだ。

 

「そう、私が初めてだったのね……どうだった? 私の体は」

 

 誰かに聞かれたら勘違いされそうな聞き方はやめて欲しいなぁ。

 

「ど、どうって言われても、まともに見たのは翡翠が温泉に入ってきたときの一瞬くらいだったし……よくは見てないよ」

 

 胸が凄かった。

 

「あら、そうなの? ……じゃあ、今からもっと見てみる? アリスが望むなら、いいわよ?」

 

 翡翠が浴衣の合わさった部分を指で弛めて、谷間をちら見せしてくる。

 

「だ、だめだよ! 俺と翡翠は恋人じゃないんだから、そういうのは無し!」

 

「あら、それは残念」

 

 いきなり、アリシアの信頼を裏切る事態になるところだった。

 危ない危ない、と、一息ついていたら、いきなり視界が反転してひっくり返る。

 気がついたら、俺は翡翠に押し倒されていた。

 

「……でもね、アリス。思い出を貰う約束は果たして貰うわよ?」

 



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神代翡翠(夜の帳)

 俺は翡翠に押し倒されていた。俺の下半身の上に翡翠が馬乗りになり、布団に手をついた翡翠の両腕の間に俺の顔が挟みこまれて、布団に抑え込まれている。

 壁ドンならぬ、布団ドンとでも言うのだろうか?

 

「ええと、翡翠? ……冗談、だよね?」

 

「冗談だと思う?」

 

「翡翠が無理矢理こんなことするとは思いたくない」

 

「無理矢理なんてしないわよ。了承はこれから取るもの」

 

 翡翠は右手で俺の左頬を撫でながら応えた。

 そんな無茶苦茶な……

 

「もう一度聞くけど、アリスは私のものになる気は無い?」

 

 翡翠が俺の銀色の髪を手で梳きながら問う。

 

「その気はないよ。私が好きなのはアリシアだから」

 

「……私をあなたのものにしてくれても良いのだけれど?」

 

「それもないから」

 

 俺の否定の言葉をきっかけにして、翡翠の指が首筋から胸元に浴衣の中に越境してくる。少し冷たい感触に体を震わせる。

 

「仕方ないわね……だったら、予定通り一晩の思い出だけで我慢することにするわ」

 

 翡翠の頭が近づいてきたかと思うと、俺のうなじに口づけてきた。そのまま舌を這わせてきて、俺は体を強張らせる。目の前にある翡翠の頭から、シャンプーのいい匂いが鼻腔をくすぐる。

 

「なんだか、話の流れがおかしくない?」

 

 体をよじらせて翡翠の攻めから逃げようとするが、下半身を完全に固定されているせいで逃げられない。翡翠の唇が啄むようにうなじに何度も重ねられて、その度にちゅっぱっという水音が聞こえてきて。

 ……くすぐったさに変な声が出そうになる。

 

「おかしくなんかないわよ。アリスが生きていたことを黙っていた事を許す代わりに思い出を貰う約束だったでしょ? 男女の間で一晩の思い出と言えばそういうことじゃない」

 

 ……そ、そうなの?

 

「……あきれた。もしかして、そんなことも理解せずにきたの?」

 

「そ、それは……その……」

 

「でも、もう遅いわ」

 

 翡翠の手が太腿を撫であげてきて体がぞわっと反応して震える。

 さっき翡翠に整えて貰った浴衣の下半身は、既に翡翠の手によって無残にはだけられて今は腰帯の周りに布が纏わりついてるだけの状態になっている。

 

「ちょ……ちょっと、翡翠!?」

 

 翡翠が俺の浴衣の腰帯に手を触れたかと思うと一瞬で結びが解けてはらりと布団に落ちた。さっき整えたときに何か細工をしたのだろうか?

 翡翠の手によって浴衣は俺の上半身からも滑り落ちて、翡翠の前の俺は下着姿――就寝用の履きやすい白地チェックの綿の女児ショーツと、スリップのみの上半身――になってしまう。

 

「ひどいよアリス、私信じてたのに……アリスは私の心を弄ぶつもりなの?」

 

 翡翠の手が腰に触れて円を描くようにお腹を撫で回す。

 

「客観的に見て弄ばれているのは私の方だと思うんだけど……」

 

「私は正当な権利を履行しているだけよ。約束を反古にしようとしているのはアリスの方じゃない」

 

 翡翠の指が責めるように俺のヘソをいじくる。未知の感覚に思わず翡翠の手首を掴んで抵抗する。

 

「……私、アリスのことを信じていいの?」

 

 翡翠が体全体で覆い被さってきて、俺の鎖骨を口に含んで舐め回す。空いた左手で今度は俺の太腿の内側を撫でて来る。ぞわっとする感覚に俺は身を固くして耐える。

 

「それは、こっちの台詞なんだけど……」

 

 翡翠の行動に俺は抵抗するが、今の俺は体格も力も翡翠に劣るので上手く抗えていない。魔法を使えばなんとでもなるけれど、翡翠に強引すぎる手段はあまり使いたくなかった。

 

「アリスの思い出だけ貰えたらそれ以上は望まないから。明日からは普通の女友達になるって誓うわ」

 

 翡翠は今のところ俺の肝心なところには触れていない。彼女なりの配慮なのか、ただ焦らしているだけなのかはわからないけれど、俺の同意を得るまでは、これ以上先に進もうとはしないようだ。

 

「これは私達が幼馴染に戻る為に必要な儀式なの。だから、お願いアリス……」

 

 俺は返答することが出来なかった。俺は既に翡翠の仕掛けた網の中に居てただ受け入れる以外に選択肢は無い。

 だけど、ここで受け入れてしまったなら、アリシアに対する申し訳が立たない。

 俺は黙ったまま、翡翠によって執拗に与えられる中途半端な快楽に歯を食いしばって耐えていた。

 

「……やっぱりあの娘なのね」

 

 俺に対して縋るような様子から、刺々しい口調に翡翠の雰囲気が変わる。

 

「アリシアの許可さえあればいいのよね。ねえ、アリシア……聞いてるんでしょ?」

 

『……ヒスイさん、わたしはイクトさんに何かを許可する立場にはありません』

 

「つまり、アリスが私と一晩過ごす事を認めるってことでいいのね?」

 

『なんで、そうなるんですか……わたしはイクトさんの判断に従うって言ってるんです』

 

「自分は関係ないっていうスタンスは卑怯よ。もし、本当にアリス自身に委ねるっていうのなら、精神同調を切って完全にアリスひとりの判断に任せなさい!」

 

『……わ、わたしにもイクトさんがどんな選択をするのか見届ける権利はあると思います。もし、イクトさんが選択したなら、わたしは同調を切るつもりです』

 

「だったら、ちゃんと当事者として向き合いなさいって言ってるの! あなたは、私とアリスが何をしても平気なの? どうなのよ!?」

 

『そ、それは……』

 

「もし、アリスが何をしても構わないって言うなら、私はあなたからアリスのことを奪うわ。何をしてでも」

 

 暫し沈黙。

 だけど、その間も翡翠の手はいやらしく蠢いていて俺は気が気じゃない。

 

『……い、いやです』

 

 やがて、頑なだったアリシアの口から、否定の言葉がこぼれた。

 

『そんなの嫌です。嫌に決まってるじゃないですか!』

 

 心の関を乗り越えたアリシアの感情は留まることをしらず、次から次へと言葉が飛び出てくる。

 

『ヒスイさんは何なんですか! イクトさんはわたしの事が好きって言ってるのにデートに誘ったり誘惑したりして。少しの間くらいそっとしておいてくれてもいいじゃないですか!?』

 

「私は不戦敗は嫌だもの」

 

『イクトさんもイクトさんです! わたしのことを好きって言っておきながら、ヒスイさんに迫られて鼻の下伸ばしたり、胸をじーーっと見てたり、今だっていろいろ期待してるんじゃないですか!』

 

「ご、ごめん……」

 

『大体ずっと想ってたってヒスイさんは言いますけど、想ってた長さならわたしも負けてません! わたしはお告げを聞いてから、いつか召喚する勇者様に仕えると言い聞かされてきました。わたしの勇者様はどんな人だろうって、ずっと想いを募らせてきたんです。想いの長さでヒスイさんに負けたりはししません!』

 

 感情を爆発されるアリシア。

 何故か翡翠は不敵に微笑んでいた。

 ああ、できるなら俺が精神同調を切りたい……

 

『イクトさんはわたしのことを好きと言ってくれています。だからヒスイさん、イクトさんを誘惑するのはやめて下さい!』

 

「断るわ」

 

 翡翠は良い笑顔で言い切った。

 

『はぁ!? な、なんで断るんですか! 何がしたいんですか、ヒスイさんはっ!』

 

「だって、私は今日アリスと思い出を作る為にここに居るもの。あなたまで私の意図に気づいてなかったとは言わないわよね? 正直なところ、あなたの意志は関係ないの」

 

『でも、だったらどうして……』

 

「そうね……私は性的趣向はノーマルだと思ってたの。幾人が、アリスになったときもあくまで私が好きなのは幾人だから普通なんだってそう思ってた。だけど、さっきお風呂であなたたちに悪戯してたときに気づいたの。女の子同士もアリだなって……」

 

『ちょっ!? な、何ですか、それ……!? ダメです、わたしは完全にノーマルですから、ヒスイさんの趣味に巻き込まないで下さい!』

 

「あなた達二人一緒に愛してあげる。これならアリスもアリシアも浮気にならないし、オールオッケーじゃないかしら?」

 

『いいこと思いついたみたいに言わないで下さい! オッケーじゃないですから!? イクトさんも黙ってないで何か言って下さい!』

 

「わ、私は……」

 

 翡翠の指がさわさわと触れるか触れないかくらいのくすぐったく甘い感触を与えてくる。

 

「ねぇ……いいわよね? 今晩は私があなた達をきもちよくしてあげる」

 

「ひ、ひゃい!?」

 

 みっ――みみ、耳ぃ!?

 

 翡翠の舌が耳の穴に侵入して、ちろちろと蠢いていて。

 まるで、頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回されているかのようで。

 

「だ、だめ――っ!」

 

 もう限界だ。

 魔法を使って翡翠を引き剥がそうとして。

 翡翠を見た瞬間に体が固まった。

 

 ――涙

 

 ぽたりと雫が落ちてきて、俺の頬を濡らす。

 下ろした髪で翡翠の表情は見えない。

 両頬には涙の筋。

 

「今日だけでいいから……私を拒絶しないで、お願い……」

 

 そこに居たのは俺のせいで傷ついた一人の女の子で。

 思わず俺は手を伸ばしかけて止める。

 彼女を選ばなかった俺にできることなんてなくて。

 だから、せめて――

 

「ごめん、アリシア……」

 

 俺は体から力を抜いた。

 これが正しい選択なのかどうか、わからないけど……

 

『……いえ、いいです。イクトさんが決めたなら、わたしは――』

 

「……いいの?」

 

 俺の手に手を重ね合わせてギュと握りしめながら、恐る恐るといった様子で翡翠は問う。

 

「あ、ああ……」

 

 若干の不安を感じながらも、俺は翡翠にこたえた。

 俺からは何もしない。

 けど、翡翠のしたいことを今晩だけは受け入れよう。

 

「ふふっ……ありがとうアリス」

 

 目元を拭って、翡翠は俺を強く抱き締めてきた。

 鼻と鼻がくっつきそうなほどに顔を近づけてきて、思わず顔を背けようとしたけど、頬が翡翠の手で固定されていて顔を動かせない。

 翡翠が髪をかきあげた拍子に表情が見えて。

 ぞくりと背筋が寒くなる。

 それはニヤリと笑った捕食者の顔で。

 涙の筋はもう見えなかった。

 

「ちょ!? 泣いていたんじゃ――!?」

 

「泣いていたわよ……? だってここで中途半端に終わったら悲しいもの」

 

「だっ――!?」

 

 騙された!?

 

『ず、ずるいです、ヒスイさん!』

 

「アリシアはアリスの判断に従う。今更前言の撤回はしないわよね?」

 

『そ、それは、言いましたけど……!?』

 

「安心して。バージンまで奪ったりはしないわ。唇もアリシアに残しておいてあげる」

 

 慌てふためく俺とアリシアを意に介さず、翡翠は俺の口に伸ばした指を押しあてて宣言する。

 

「だけど、それ以外は全部貰うから」

 

 翡翠は舌なめずりをした。

 

『ちょ、ちょっとまって下さい。せ、せめて、わたしは同調を切りますから――あぁぁ!?』

 

「今からずっとスイッチを入れたままにしてあげる……一人だけオフになんてさせてあげない」

 

「ちょっ!? や、やぁ……だっ、だめぇ!」

 

『あ、あぁぁぁ……!』

 

 俺は勘違いしていた。

 俺がいなくなったことで翡翠は傷ついただけじゃない、それ以上の強さを身につけていたんだ。

 

 俺はそのことを心と体に刻み込まれた。

 快楽か苦痛かわからなくなるほど強い刺激で気を失うまで。



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神代翡翠(一夜が明けて)

 泥のように深い眠りから俺が目覚めたときには、もうすっかり日が登っていた。昨晩の記憶は途切れ途切れで最後はどうなったか全く記憶に無い。

 文字通りぐちゃぐちゃになっていた布団は俺が寝ている一組だけ残されて残りは片付けられていた。

 俺が寝ている布団を捲ってみると、清潔なシーツがでてきて、昨晩の痕跡はみられない。

 一瞬、昨日の事なんてなかったのではないかと期待したが、一糸纏わぬ自分の体に染み付いた甘ったるい臭いの残滓や不快な体のベタつきが、昨日のことが自分の夢や妄想じゃなかった事を嫌というほど思い知らしめていた。

 

「おはよう、アリス、アリシア」

 

 脱衣所のドアが空いて、すでに身支度が整えられた翡翠が俺達に声を掛けてきた。

 パンツルックにポニーテールというスタイルは昨日と一緒だったけど、今日はややラフでボーイッシュなイメージの格好で纏めていた。

 

「どうしたの? もしかして、私に見惚れていたのかしら?」

 

 少し格好いいかもと思ってしまっていた俺は、バツが悪くなって顔を逸らす。

 

「朝風呂気持ち良かったわよ、あなた達も入ってきたら?」

 

 自分が何もつけていない事を思い出した俺は、慌てて掛け布団で自分の胸元を隠す。

 その状態のまま衣服を探し求めるが近くには見当たらない。

 キョロキョロ探してると少し離れた場所に鞄を発見した。

 翡翠はそんな俺の様子を面白そうに見ている。俺は布団にくるまった状態で、芋虫のように、鞄に向けて移動する。

 

「今更恥ずかしがらなくてもいいのに」

 

「気持ちの問題だから! ほっといて」

 

 昨日あんな風におねだりしておいて、と翡翠に言外に言われたような気がして顔が羞恥に赤くなる。

 

『そうですよ、こっち見ないで下さいよ。翡翠さんのけだもの!』

 

 アリシアからも援護射撃が飛ぶ。昨日の事があってアリシアも遠慮無い。手早く念話のリンクを作成したので、文句はちゃんと翡翠に届いている。

 

「はいはい、私は少し散歩してくるから、お風呂でゆっくりしてくるといいわ」

 

 そう言って翡翠は部屋を出ていった。正直助かる。昨日の今日でどんな顔をして翡翠と話せばいいのか解らなかったのだ。

 

 一応布団にくるまった状態のままで、かばんを開けて着替えを探す。

 かばんには昨晩着ていたスリップが畳んで入っていた。翡翠が片付けてくれたのだろう。

 

「あれ? ……スリップだけ?」

 

 一緒に履いていたショーツが見当たらない。まあ、どうせ履ける状態ではなかったので、とりあえず、気にしないことにして着替えを準備した。

 その後、布団から脱皮した俺は、着替え一式を持って脱衣所に向かった。

 脱衣所で姿見の前に立ち、改めて今の自分の姿を確認する。腰まである銀の髪に白い肌。小振りな胸の頂きには桜色のぽっちがツンと存在を主張している。

 

『痕になっちゃってますね……』

 

 アリシアの指摘の通り俺の白い肌には昨晩翡翠の行為によってつけられたと思われる痕が数多く残ってしまっていた。

 

「肌が白い分目立っちゃうね、どうしよう……」

 

『こんなの、治癒魔法で消しちゃえばいいんですよ』

 

「そっか。そうだね、そうしよう」

 

 治癒魔法を使うと、体に刻まれた翡翠の痕跡は綺麗に消え去った。これで安心。

 

『さあ、温泉に入ってすっきりしちゃいましょう!』

 

 朝の温泉はまた格別だった。洗い場でさっぱり汚れを流して、心地の良い山の朝の澄んだ空気の中温泉に浸る贅沢なひととき。

 

「最高だー」『最高ですねー』

 

 思わずだらしなく声が零れてしまうくらいには最高だった。俺は両腕を肩の後ろに投げ出して温泉の岩に乗っける。

 

「お二人さん、気持ち良さそうねー」

 

 お風呂から見える部屋の縁側に翡翠が立っていた。いつの間にか部屋に戻っていたらしい。

 

『翡翠さんは、何しに戻って来たんですかー? まだまだ散歩していて良かったんですよー?』

 

 アリシアがゆるゆるボイスで毒を吐く。翡翠は意に介さずに微笑んで応える。

 

「ふふっ、アリシアには随分と嫌われちゃったみたいね。お詫びに賄賂を持って来たのだけれど機嫌直して貰えるかしら?」

 

 そう言って翡翠は縁側とのガラス戸を開けて温泉のある中庭に出てくると、後ろ手に持った何かを眼前に差し出した。

 

「はい、差し入れ」

 

 それは、レトロな瓶入りのコーラだった。表面に浮いている水滴は見るからにキンキンに冷えている様子だった。

 

『「ふぁぁ……コーラだぁ……!」』

 

 俺とアリシアの言葉が被った。

 思えば昨晩から水分補給をしていない。あれだけ体から水分を失わせるような事をしていたのだ。俺の体は水分を欲してた。

 俺は手を伸ばして翡翠から瓶を受け取った。

 本能の赴くがまま注ぎ口に口付けると、ガラス瓶を煽り傾けて口内に濃色の泡立つ液体を流し込む。

 口内を蹂躙する液体は勢いのままに喉に達し、俺は瀑布のような勢いのそれを、喉を鳴らして嚥下(えんげ)していく。

 温泉で(ほて)ったお腹の中にに入ってくるのがわかり、身体が冷却される心地よい感覚に身体を震わせた。

 飲み干せず溢れてしまったほとばしりが、唇の端からはしたなく一筋零れた。

 

「くぅぅ……生き返ったぁぁ!」

 

 勢いのままに中身を飲み干した俺は、空にした瓶を見せつけるように翡翠に突きつけた。

 

「喜んでもらえたようで良かったわ」

 

 コーラの瓶を受け取った翡翠は、微笑んで言った。

 

「大満足だよ、ありがとう翡翠!」

 

『美味しかった、です……ありがとうございました』

 

「部屋に朝食の準備して貰ったから、お風呂から出たら朝ご飯にしましょう」

 

『あさごはん……!』

 

 ご飯と聞いて空腹であることを意識させられた俺のお腹が『くぅぅ』と音を鳴らして、本能のままに欲求を伝えて来た。

 

「慌てなくてもいいわよって言うつもりだったのだけど、あなた達がもう我慢できなさそうね……」

 

「温泉は冷めないけど、ご飯は冷めちゃうからね! すぐ行くよ!」

 

 一旦お湯に入り直して身体を暖めた後、お風呂を飛び出して脱衣所に向かう。

 朝ご飯が終わっ後でもう一度お風呂に入ろうと思ったので、お風呂あがりは割と適当に拭いて着替えを済ませる。

 

「随分早かったのね」

 

 と、出てきた俺の姿を見た翡翠はややあきれ顔だった。

 仕方無いよね、お腹空いてたんだもん。

 

 朝食は典型的な和食の朝ご飯といった感じで、炊きたての白米を主役に、ご飯と一緒に食べると美味しいおかずのオールスター選手といった風だった。

 案の定ご飯が良く進んで、俺はこの体になってから珍しくご飯をおかわりした。

 

「ええと、翡翠。昨日私が履いていたショーツ見なかった?」

 

 食後、翡翠の入れてくれたお茶を飲んでいた俺は、さっき気になったことを翡翠に聞いてみた。

 三枚セットの普段履きだから物自体はどうでもいいけれど、うっかり宿に忘れてたりしたのが見つかったりしたら恥ずかしい。

 

「ああ、あれなら記念に私が貰ったわよ?」

 

「……そっかぁ」

 

 見つからないと思ってたら翡翠が持ってたのか。

 行方が判明して良かった。

 俺は安心してお茶を啜る。

 

『いやいや、おかしいですよね!? イクトさんはスルーしてるんですか。これって窃盗ですよね!」

 

「人聞き悪いわね、ちゃんと昨日アリスに確認はとってるわよ」

 

『イクトさん自身が覚えてないような状態の了解なんて無効です! わたしは翡翠さんにあんな状態の下着を持たれてるなんて絶対に嫌です、返して下さい!』

 

「と言っても、私はアリスに貰ったんだもの。あなたはアリスの決定には従うんでしょ?」

 

『昨日の夜考えを変えられる事がありましたもので! 嫌なことはちゃんと言うようにすることにしたんです! イクトさんも何か言って下さいよ!』

 

「別に私は気にしないけど……」

 

 元男として翡翠の気持ちはなんとなく理解出来る。

 それに、今後あのショーツを見る度に昨日の事を思い出してしまいそうで、そういう意味でもいっそ手元にない方が心の平穏に良いと思う。

 

『あんな物を記念にするなんて信じられません。翡翠さんは変態です!』

 

「ああ、変態と罵られるのも悪く無いわね……」

 

 頬を赤らめてうっとりする翡翠。彼女は何か別の扉を開いてしまったようだった。

 

「お礼と言ってはなんだけど、アリスにはこれをあげるわ」

 

 翡翠は茶色い無地の小さな紙袋を俺に渡して来た。小物が入ってるような乾いた軽い音がする。

 

「昨日使った()()()()よ。いらなかったら捨てて」

 

 それで、何が入っているかわかった。同時にアリシアも思い至ったらしく狼狽した声が頭に響く。

 

『ちょっ、なんて物を渡すんですか!? いりませんよ、こんなもの!? ……って、何でいそいそとしまってるんですかっ、イクトさん!』

 

 俺はありがたく頂戴する事にした。アリシアの抗議は聞こえない事にする。

 

「アリシアには昨日あなたが一押ししてたお土産5個入り一箱でどうかしら?」

 

 翡翠の提案で、頭の中の喧騒が一旦ストップする。

 

『そ、そんな物で誤魔化そうだなんて虫が良すぎると思います』

 

「何だか新刊チェックしたくなってきたかも。帰りに駅前の本屋に寄って帰ろうかな?」

 

『……』

 

「アリシアが欲しい本、何でも1冊買っていい」

 

『……わたしは納得した訳じゃありませんからね』

 

 これを意訳すると見逃してくれるという意味だ。

 

「それじゃあ、話もついたみたいだし、最後にみんなで大浴場に行ってみない?」

 

「いいと思う。大きいお風呂入りたい」

 

『いいんじゃないですか。大浴場なら流石に翡翠さんも変なことはしないでしょうし』

 

 他のお客さんがいるかもしれないけど、あれだけ翡翠の肌に溺れた後だと、裸の女性が居たとしても、平常心でいられる自信がある。

 

 そんなこんなで、俺達は最後まで温泉を堪能して、刺激的だった温泉旅行を終えた。



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第四章 ホーリーナイト
兄妹(冬の訪れ)


 ある日の放課後、俺はウィソ部の部室にやって来ていた。

 だが、部室にいたのは翡翠だけで、俺の目当ての相手は居なかった。

 

「こんにちは、アリス、アリシア」

 

 ノートを開いて宿題をしていたらしい翡翠が、俺に気づいて顔を上げて挨拶をする。

 俺達は二人で挨拶を返した。

 

「今日も蒼汰は多分こないと思うわよ」

 

「やっぱりそうかぁ」

 

 翡翠と学習机を挟んだ向かいに腰を降ろした俺は、ふぅと溜息ついた。

 

「あいつ、いったいどうしたんだよ……」

 

 温泉旅行からの帰りの道中、俺は蒼汰に自分の正体とこれまでの経緯を明かす事を翡翠とアリシアに告げた。

 蒼汰と涼花の間の誤解も無くなった今、俺の正体を蒼汰に隠す理由は無くなっていたからだ。

 

「もし、黙っていた事を理由に蒼汰がアリスにエッチな事を要求をしてきたら私に言ってね。懲らしめてやるから」

 

 それに対して翡翠は真剣な顔で俺に助言してきた……そんな事を考えるのは翡翠だけだと思う。

 大体アイツは見た目は怖いが、中身は俺以上にへたれなのだ。そうでなければ、あいつの事を慕っているのが見え見えな、巨乳美人の涼花に未だ手出ししてないなんてあり得ない。

 その日の夜、早速俺はスマホで蒼汰にメッセージを送った。

 

『明日の放課後二人で大事な話をしたいんだけど時間大丈夫かな?』

 

『すまん。明日は予定がある……しばらく用事が立て込んでいて、時間取れなさそうなんだ。悪いけど、落ち着くまで待ってもらえないか?』

 

『わかった』

 

 その後、ウィソ部のグループに、しばらく部活に出られなくなった旨のメッセージが入っていた。

 そのときは特に気にしなかった。翌週には期末テストが控えていたこともあり、その関係で忙しいのだろうと思っていた。

 だけど、テストが終わり十二月になった今でも蒼汰は部活に出て来ていない。

 

「もしかして、私避けられてるのかなぁ……?」

 

 再び放課後の部室に居た翡翠と話をする。

 早く俺が幾人である事を明かしてしまって、昔みたいに気軽に付き合いたいのに、それが叶わない現状にやきもきしていた。

 

 ……なんであいつが俺を避けるのか理由が分からない。

 

「蒼汰はあなたが愛の告白をしようと思ってるみたいよ?」

 

「……へ?」

 

 何それ、訳が分からない。なんで俺が……?

 

「あなたと涼花と蒼汰の三角関係は校内ではそこそこ有名よ。蒼汰を取り合って部活では水面下で戦いを繰り広げているらしいわね」

 

「なんでそんな……」

 

『イクトさんはクラスでソウタさんの事を好きって事にして男子避けにしてるんですから噂だって広がりますよ』

 

 ……あ、そうだった。

 

「……アリス、あなたそんな事してたの?」

 

「ち、違うよ! しようと思ってした訳じゃなくて、蒼汰と話してるところをクラスの女子に見られて勘違いされちゃったから、仕方なくそうなっているというか……」

 

「まあそれはいいわ……実は問題はそれだけじゃないの」

 

「……ん?」

 

「以前涼花が不良グループに攫われかけた騒動があった事は知ってるかしら?」

 

「涼花に聞いた。それをきっかけに蒼汰が不良グループを壊滅させてヒラコーの暴れ狼って呼ばれるようになったとか……」

 

「その不良グループ、リーダーは補導されたんだけど、幹部の何人かは証拠不十分で解放されたみたいの。そのメンバーが蒼汰に復讐を計画しているって噂があるみたいで、蒼汰からは私も気をつけるようにって言われてるわ」

 

 翡翠は学用カバンを掲げて、ついている防犯ブザーを見せてきた。

 

「……つまり、蒼汰は私に近づかないようにして巻き込まれないようにしてるってこと?」

 

「そうだと思うわ。だから、待って欲しいっていう返事なんじゃないかしら。……あなたの告白に真面目に解答するつもりはあるみたいよ?」

 

「告白前提みたいに言うのはやめて……正直、嫌すぎる」

 

 俺はホモじゃない。

 蒼汰とはまた一緒にいたいって思うけど、それは男同士の友人としてだ。他の人に俺の事を話す訳にはいかないからこんな関係を望めるのは蒼汰だけだっていうのに。

 

「それにしても、水くさい話だなぁ……荒事ならいくらでも付き合うのにさ」

 

「そういえば、あなた達って異世界で命のやり取りを繰り広げてきたのよね……」

 

『はい。祝福は望めませんから魔法の威力はかなり制限されますけど、それでも戦闘訓練されてないただの人相手なら決して負けませんよ』

 

「その外見だもの。戦う姿なんて想像も出来ないし、関わらせたくない蒼汰の気持ちは当たり前だと思うわ」

 

 まあ、そりゃそうか。

 事情を知らない相手には俺は無力な少女にしか見えないだろう。

 

「もし、翡翠や蒼汰に何かあったら、いの一番に知らせて欲しい。すぐに駆け付けるから」

 

 俺は胸を張って握り拳で自分の胸元を叩いて言う。

 

「ふふっ……頼もしいわね、ありがとう」

 

 俺は真剣に言ってるつもりなのに、何故か翡翠は笑いながら返してきた。俺は不満に思い唇を尖らせる。

 男なんだから、こういうときは素直に頼られたいって思う。

 

「ごめんなさいね、アリスがあまりにも可愛いものだから……大丈夫、ちゃんと頼りにしてるわよ。幾人はいつだって私のピンチに助けに来てくれたもの……私信じてるから」

 

 不意に俺の目を真っ直ぐ見て、そんなふうに言うのだから翡翠はずるいと思う。俺は翡翠の目から視線を逸して指で頬をかいて気を落ち着かせる。

 

『私もイクトさんをサポートしますから……頼って下さいね、ヒスイさん』

 

「アリシアも、ありがとうね」

 

 アリシアの言葉で硬直が解けた俺は小さく息を吐いた。

 

「ところで、翡翠はクリスマスパーティは行くの?」

 

 この学校では毎年12月24日に生徒会主催で学校の体育館でクリスマスパーティが開かれるらしい。特にクリスマス予定の無かった俺は優奈と一緒に参加することにしていた。

 

「私の家は神道だもの、クリスマスには縁が無いわよ。そういえば、今年のパーティはコスプレ推奨って書いてたけど何か着ていくつもりなの?」

 

「私はアリシアの法衣を借りるつもり」

 

『一応由緒あるミンスティアの巫女の法衣なんですけどね……この国だとコスプレにしか見えないかもしれませんけど』

 

「そうだ、翡翠も巫女服で一緒に参加すればいいんじゃないかな!」

 

「私の巫女服もコスプレじゃないんだけど……まあ、いいわ。バイトの勧誘と神社の宣伝がてらってことにしたら、父さんも許してくれそうね。考えてみるわ」

 

「……え? いいの?」

 

「あなた達と一緒に過ごせるイベントなんて貴重だもの、なるべくなら参加したいと思うわ」

 

 もう一年が終わる。来年はもう蒼汰と翡翠は受験生だ。進路をどうするかは聞いていないが、いずれにしても一緒に学生として過ごせる時間はもう長くない。

 

「……ちなみに、私はパーティの後も予定は空いてるけど?」

 

 翡翠が艶っぽく微笑んで言う。温泉旅行の記憶がフラッシュバックして、頭に血が登ってしまう。

 

『残念ですが、そっちはもう予約が入ってますから結構です!』

 

 漫画やテレビ等からの知識でクリスマスは恋人と過ごすものという事を知ったアリシアは、クリスマスの夜は二人で居る事を望んだ。勿論、俺に断る理由なんて無かった。

 アリシアと同調して夜を過ごす日は週に一回あるか無いかくらいの頻度だし、まだまだアリシアと一緒にしてみたい事もいろいろある。

 ……だけど、翡翠との記憶はそれ以上に鮮烈的で、目を瞑るとまだ翡翠の肌の感触や匂いを思い出せるくらいだった。

 

「あら、残念。気が変わったらいつでも声を掛けてね」

 

 翡翠が少し舌を出して人差し指で舌をなぞる。見え透いた挑発だが、悲しい事に俺の体はその仕草に反応してしまう。

 

『変わりませんから! 恋人達の夜を邪魔しようとしないで下さい!』

 

 アリシアは語気を強めて言う。

 

「ごめん、翡翠。クリスマスはそういう予定だから……」

 

「気にしなくていいわ。大丈夫よアリシア、私から手を出したりなんてしないから……約束だもの」

 

 翡翠はにっこり微笑んで、手を振って部室から立ち去る。

 部室には俺達がひとり残されて立ち尽くしていた。

 

 アリシアは無言だった。

 そして、俺はそんなアリシアに何を言えば良いのかわからなかった。

 



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兄妹(アリシアの戸惑い)

 俺は学校から帰宅すると、そのままリビングのソファーにうつ伏せに倒れ込んだ。

 あれからアリシアとは一言も話をしていない。

 

 玄関ドアの開く音がして、優奈のただいまの挨拶と物音が聞こえてきた。

 リビングのドアが開いて優奈が近付いてくる気配がする。

 

「アリス……寝てるの? 寝るなら制服着替えてからにしなさい。皺になるわよ」

 

「……大丈夫だから放っといて」

 

「そんな水揚げされたマグロみたいな状態で、大丈夫って言われても説得力無いわよ……いったいどうしたの?」

 

 コの字型に配置されたリビングのソファーの上辺に優奈が座る気配がする。ちなみに俺は中棒に頭を上辺側に向けて突っ伏している。

 

「確か部活に行くって言ってたわね……蒼兄に合って話が拗れたとか」

 

「蒼汰には今日も会えなかったよ」

 

「……じゃあ、翡翠姉と何かあったの?」

 

「……」

 

「図星……みたいね。どうせ翡翠姉に誘惑されたアリスが動揺してアリシアを怒らせたとかその辺でしょ?」

 

 優奈は鋭く核心を言い当てて来る。

 

「な……なんで、そんな事わかるんだ!?」

 

「わかるわよ、そんなの……ねぇアリシア聞いてる? よかったら、私に話してみて。アリスに聞かれたくないなら、直通念話でもいいから」

 

『ユウナ……』

 

「大丈夫? ……ふたりで話しする?」

 

『いえ、このままでいいです。イクトさん、体を起こして貰ってもいいですか』

 

 俺はアリシアの要望に応えて体を起こし、ユウナに向き合うようにして座り直す。アリシアは俺に礼を言ってから話し出す。

 

『今日の放課後のことでした。部室でヒスイさんと会いまして、クリスマスパーティの話になり、みんなで一緒に行くことになりました』

 

「翡翠姉、クリスマスパーティ来るんだね……」

 

『それから、その後の予定も開いてるとヒスイさんから間接的にお誘いがあったのですが、その日の夜はふたりで過ごすと約束していたのでイクトさんはお断りされました』

 

「……それだけ? 聞く限りだと特に問題は無いように思えるんどけど……」

 

『それは、その……わたしたちは体を共有してるのでわかってしまうんです。ヒスイさんに誘われてイクトさんの体がどんな反応したのか、とか……』

 

 アリシアの濁した言葉で優奈は事情を察したらしく、俺に対する視線が大変冷ややかなものになる。

 

「アリス、あなたねぇ……」

 

 優奈は心底呆れた口調で俺を非難する。

 

「うう、面目ない……」

 

 俺は返す言葉もない。

 温泉旅行で翡翠に誘惑されてからの俺はダメダメだ。アリシアに好きって告白しておきながらのこの体たらく、我ながら情けない。

 

「アリスが悪いのはわかった。アリシアが怒るのも無理ないよ」

 

『……違うんです!』

 

 アリシアが優奈の言葉を否定する。

 ……何が違うんだろう? 悪いのは俺のはずだ。 

 

『その事でわたしはイクトさんを責めるつもりはありませんでした。わたしがショックを受けたのはもっと別の――わたし自身のことなんです』

 

「……アリシア自身のこと?」

 

『ヒスイさんに誘われて、イクトさんは反応してしまいました。だけど、それはわたしも一緒だったんです……』

 

 罪を懺悔するような口調でアリシアは告白する。

 

『あの晩わたしは我を無くす程、快楽に溺れてしまいました。それからというもの、もう一度彼女に快楽を与えられたならと考えてしまう自分が居るのです……』

 

 あの日、翡翠によって与えられるもどかしい快楽の連続に俺は陥落してしまった。

 だけど、翡翠は俺だけの同意では満足せず、アリシアからおねだりの台詞を引き出すまで、その後も散々焦らし続けたのだ。

 

『わたしはイクトさんに身も心も捧げる事を誓ったというのに、イクトさん以外の人に体を触れられる事を期待してしまっているのです。そんな自分に気がついてしまって、わたしは怖くなってしまって……』

 

 翡翠の責めに屈してなすがままに俺が声をあげていたときも、必死で耐えようとしていたアリシア。

 俺の声に反応して俺の名前を呼びながら縋るように謝罪の声をあげていたアリシア。

 そして、翡翠の行為を拒み続けていたアリシアが、積み重なる快楽に段々と狂わされて堕ちていく様子に、俺は同じ快楽を受けながら倒錯的な背徳感に満たされていった。

 

「大丈夫だよ、アリシア……私も一緒だから……」

 

 という俺の言葉で、アリシアの最後の心の堤防が決壊して、その後はひたすら二人で翡翠に溺れたのだった。

 

『……イクトさんは、こんなわたしの事を軽蔑してしまいましたか?』

 

 アリシアは不安を隠せない口調で俺にそんな事を聞いてくる。

 

「そんな訳ないじゃないか! そもそも、原因を作ったのは全部俺だから」

 

『ですが、わたしはイクトさん以外の方から与えられる快楽にこの身を委ねてしまいました』

 

「委ねさせたのは俺だから……嫌な思いをさせてしまったのなら本当にごめん」

 

『嫌……では無かったです。ですが、わたしはそんな自分自身に混乱してて……』

 

「ちょっとごめん、いい? ……アリシアはアリス以外の人からって事を重視しているみたいだけど、二人はずっと一緒なんだから浮気とはまた違うんじゃないかな?」

 

 優奈がアリシアに諭すように言う。

 

『そう、なのでしょうか……?』

 

「アリシアはアリスと一緒だったから、翡翠姉に何をされても受け入れることが出来たんだと思う。だから、アリシアはアリスを裏切ったんじゃないかとか、そういう心配はしなくていいと思うよ」

 

 優奈の言葉に続いて俺は補足をする。

 

「そもそも私は浮気されたとか一切思って無いから。アリシアも一緒だって思ったからあれだけ私も、その……気持よくなったと思うし。それに、もしアリシアがああいうのが嫌っていうのなら二度としないって誓うよ」

 

『あ、いえ……ええと……イクトさんが嫌じゃなければ、わたしは嫌じゃないというか……正直、わたし自身も良くわからないのです』

 

 アリシアは自分自身の中に生じた感情を扱いかねて戸惑っている様子だった。

 

「そんなに気になるなら、翡翠姉に言ってみてもう一度だけ試してみればいいんじゃない? 多分喜んで付き合ってくれると思うわよ」

 

 優奈はそんな提案をする。

 

『……でも、それは怖いです。もし、もう一度ヒスイさんにお願いしてやっぱり違うってなったときに、ヒスイさんだともう歯止めがきかなくなりそうで……』

 

 一度きりという建前があるから、翡翠は俺への正面からのアプローチを控えている部分がある。

 それを開放してしまったら、どういう結果になるのかは確かに想像出来ない。

 

『……ですから、ユウナにお願いするのは、ダメですか……?』

 

 その、アリシアの発したお願いは、俺達の想像できる限界を遥かに超えていた。

 



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兄妹(三人の気持ち)

「……どうしてこうなった」

 

 俺は両手を浴室の壁に付いて、シャワーを後頭部から浴びながら、俺は思わずそんな言葉を口にする。

 

『やっぱり、嫌だったですか? わたしの我儘ですから、無理そうなら今からやめても……』

 

 俺の様子に不安そうにしたアリシアが、そう提案してくる。

 

「嫌じゃないんだ。でも、正直まだ混乱してて……」

 

『……そうですか。では、ユウナも待ってるでしょうから、手早く洗ってしまいましょうか?』

 

「……そうだね」

 

 俺はシャンプーを手に取りながら、どうしてこんな状況になったのか振り返っていた。

 ……何が悪かったのだろう?

 

   ※ ※ ※

 

「アリシア、それは……」

 

 アリシアの予想外の提案に俺は反応に困っていた。良い悪いでもなく単純に困惑していた。

 

『……ダメですか?』

 

「だって、私と優奈は兄妹だから……」

 

『兄妹だと何か問題があるのですか? 私の居た神殿には兄妹がいっぱい居ましたけど、その中で思い合って結ばれるケースは普通にありましたよ?』

 

 神殿は孤児院を兼ねていた為、アリシアの言う兄妹は本当の意味の兄妹ではない。神殿で世の中から隔離されて育てられたアリシアは、肉親間での禁忌の常識が抜け落ちているようだ。

 

「ええと、アリシア。血の繋がりがある兄妹は話が違うの」

 

 優奈が説明しづらそうに言う。

 

『なんで、血の繋がりがあると駄目なんですか?』

 

 アリシアは単純に疑問のようで俺に理由を聞いてくる。

 

「そ、そりゃ近親姦だと障害を持った子供が生まれやすくなるし……」

 

『イクトさんは今は女性ですから、ユウナとの間は子供は出来ませんよ?』

 

「血の繋がりがある相手と、そういった関係を持つのは問題が……」

 

『イクトさんは今はわたしの体ですから、ユウナとは血の繋がりは無いので問題は無いのでは?』

 

「そう言われたら、そうなんだけど……」

 

 でも、俺は優奈のお兄ちゃんだったんだ。

 

『イクトさんはユウナとするのは嫌ですか?』

 

「嫌というか今まで考えもしなかったというのが正直な気持ちだよ」

 

『イクトさんが嫌ならわたしは無理強いするつもりはありません』

 

「嫌、ってことは無いし、他ならぬアリシアの望みなら叶えたいって思うけど……というか、そもそも私より優奈の意思を確認したほうがいいんじゃ……」

 

『……どうしてですか?』

 

「どうしてって……私の意思を確認するなら、優奈の意思も当然確認するべきなんじゃないかって思っただけなんだけど……」

 

「わ、私は――」

 

『だって、ユウナがイクトさんを拒否する訳ないじゃないですか』

 

 何かを言おうとした優奈を遮って、アリシアはさも当然という風に答えた。

 瞬間、みるみるうちに優奈の顔が真っ赤に染まっていく。

 

「わ、わっ……私は……!」

 

 両手を突き出して宙に彷徨わせる優奈。

 見るからに酷く狼狽してしまっている。

 

「大丈夫だから落ち着いて優奈。ほら、吸ってー吐いてー」

 

 二人で深呼吸を行って、優奈の気持ちを落ち着けさせる。

 深呼吸を何度かするうちに気持ちが落ち着いてきたようで、少しずつ冷静さを取り戻していた。

 

「ごめんなさい、もう大丈夫だから……」

 

「その、やっぱり嫌だったんだろ? アリシアの願いと言っても私とそういう事するなんて……」

 

「嫌じゃない!」

 

 声の大きさにまずびっくりして、遅れてその言葉の内容に重ねて驚いた。

 

「……嫌じゃないの。アリシアの言う通りよ。アリスとそういう事するって思ったら自分でもびっくりする程すんなり受け入れられたの。不思議なくらいに嫌悪感とか無くて、それで逆に動揺してしまって……だけど、アリシアは何でそんな風に思ったの?」

 

『イクトさんに向けられる視線を、イクトさんを通じて、ずっと見ていましたから。ユウナ自身は自覚していなかったみたいですけど、わたしは気づいてました』

 

「う……私って、そうなの?」

 

 優奈自身も気づいていなかった自分自身の事を言われて目を白黒させている。

 

「私は気付かなかったけど……」

 

 正直なところアリシアのこの見立ては怪しいと思う。家族を知らないアリシアは、肉親への情愛との区別がついていないのじゃないかと思う。

 俺と優奈は、家族としての愛情は自信を持ってあると言える。

 

「でも、アリシアはそれでいいの? そうなると、わたしがアリスの肌に触れることになるんだよ」

 

『それを確かめる為にするんですよね? それに、ユウナはイクトさんだけじゃなくて、わたしの事もちゃんと見てくれるの知ってますから……その、ユウナにならいいです』

 

「……どうしよう、今すごくきゅんと来た。翡翠姉もこんな気持ちだったのかしら。女の子同士って今まで想像出来なかったけど、今ちょっとわかった気がする」

 

『ありがとうございます、ユウナ。わたし、ユウナのこと大好きです』

 

「私もアリシアの事が好き。家族として好きって気持ちが強いと思うけど、アリシアが望むなら、その……えっちな事はできると思う」

 

 優奈は顔を真っ赤にしてそんな事を言う。我が妹ながら、いじらしい姿だった。

 

『さて、ユウナは了承して貰えました。それで、イクトさんは如何でしょうか?』

 

「……優奈がいいなら、私は嫌じゃない」

 

『それじゃあ、イクトさんも了承ってことですね! ありがとうございます』

 

 俺は改めて優奈を見た。そこにいるのはいつもの優奈で、これから彼女を抱くなんていう実感は、全然湧かなかった。

 熱でもあるかのようにぼーっと視線を宙に彷徨わせてた優奈は、俺の視線に気づくとはっとして、恥ずかしそうに視線を反らした。両手は膝の上でぎゅっと握られている。

 

「……先にシャワー浴びてアリスの部屋で待ってて。私もシャワー浴びて行くから」

 

「お、おう……」

 

 言われるがままに、俺はシャワーの準備をする為に立ち上がって自分の部屋に向かった。

 

 ―ーそして、現在に至る。

 

 何が悪いって訳じゃ無いと思う。

 俺とアリシアと優奈、互いが互いを大切に想っていて、俺達はアリシアの悩みを解決したいと望んでいるだけだった。

 だけど、それでどうして俺が優奈とエッチする事になっているのか、理屈はわかるけど理解は今でも出来そうになかった。

 



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兄妹(優奈)

 俺はシャワーで体を洗い終えた後、脱衣所で体を拭いて着替えを身に着けていく。

 お風呂上がりにどんな格好をするのかは迷った。バスタオル一枚だけ身に着けるなんてことも考えたが、そんな格好をする事に現実味を感じられなくて、結局普段通りの部屋着を準備してきた。

 だけど、下着だけはピンクで上下揃いのレースのついた、いわゆる勝負下着を選んだ。

 

「勝負って言っても、別に男に見せる為ってだけじゃないの。試験とかで気合を入れたかったり、着替えや旅行で下着を見られる場面がある場合にも着るものなのよ」

 

 そういう話をしながら、優奈が選んでくれたものだ。

 その下着を本来の用途で優奈相手に着る事になるなんて、全く想像もしなかった。

 キャミソールを着て、その上からワンピースを頭から被って完成となる。

 この体になって最初の頃はズボンをはいていないと落ち着かなかったが、今ではすっかり慣れたものだ。

 姿見に向き直ってみる。そこにはこの家で日常をすごす、普段通りの俺の姿があった。

 だけど、現実の俺はこれから妹を抱く非日常の世界に居る。

 

 リビングに居た優奈にシャワーから出たと声を掛けてから、自分の部屋に戻る。優奈とのやり取りはどうしてもぎこちないものになった。

 

 自分の部屋に戻った俺は何とも言えない時間を過ごす。

 ベッドのシーツの上にいつものようにバスタオルを敷くくらいで、それ以外に準備する物も思いつかない。

 ベッド下の引き出しには翡翠から貰ったおもちゃが隠してあるが、優奈相手に使う事は無いだろう。

 ベッドに腰を下ろして、時間を潰そうとスマホを手に取るが、ネット巡回しても文字が頭に入ってこない。ゲームをする気にもなれず、俺はそのままスマホをベッドサイドに置いた。

 枕を取って両腕で抱きしめながら物思いにふける。

 

「俺は優奈を抱けるのか……?」

 

 俺は頭の中に思い浮かんた疑問をそのまま口にした。

 アリスの口調に変換することもしていない。

 

『……イクトさんはやっぱり嫌なのですか?』

 

 溢れた言葉を聞いたアリシアが俺に再度問いかけて来る。アリシアに不安に思わせてしまったか。

 

「そうじゃなくて……俺は今まで優奈に性的な感情を抱いた事がないんだ。それは、アリシアも知っていると思う」

 

『そう言われたら、そうかもしれませんね』

 

 俺は今まで妹に欲情したことはない。

 体を洗って貰ったときは流石に反応したけれど、それは肉体的な官能で、精神的な(たかぶ)りを覚える快楽とはまた違うものだ。

 優奈のお下がりのショーツをはいたときですら、感じたのは居心地の悪さだけだった。これが他の女の子の物だったら、多分直ぐに汚すようなことになっていたと思う。

 

「俺が優奈としても、そういう気持ちにならずに失敗するかもしれない。だから、もしそうなったとしても俺自身の問題だからアリシアは落ち込まないで欲しい」

 

 大事なのはあくまでアリシアの不安を解消することだ。

 だけど、優奈が相手に失敗すると、逆効果になってしまう可能性もある。

 表面的に行為を成立させるだけなら、喘ぎ声でも出して感じているふりをしていればいいのかもしれないけれど、そんな事をしてもアリシア相手には全く誤魔化しにならない。

 

『わかりました……けど、わたしは心配無いと思いますよ』

 

「そうかな……」

 

『だって、ユウナはかわいいですから。イクトさんも知ってるはずです』

 

 確かに客観的に見ても、優奈は黒髪ロングの正統派美少女だと思う。だけど、今問題になっているのはそういう事じゃない。優奈は俺の妹なんだ。

 

 アリシアとそんな話をしているうちに時間は過ぎていて。

 ついに、俺の部屋のドアがノックされた。

 

 少し緊張した声でどうぞと俺が声を掛けると、ドアが開いて優奈が部屋に入ってきた。

 その姿を見て俺は息を呑む。

 優奈は体にバスタオルを巻いた状態で、他に何も身に着けていなかった。

 両手は胸元を隠すように重ねられて、着替えを抱えている。

 優奈の肌は見慣れている。一緒にお風呂に入ったのも数えられない程で、全裸でさえ何度となく見ているのだ。

 だけど、目の前で恥じらっている少女は、いままで俺が見てきた優奈とは印象がまるで異なっていた。

 首筋から鎖骨を通じて肩に至る素肌。不安げに腕で隠された胸元。くびれた腰からヒップに至る曲線美はバスタオルでも隠しきれていない。そこからすらっと延びた足は不安げに内股で擦り合わされていて、何とも言えない気持ちが込み上げて来る。

 

「……あんまり、見ないで」

 

 優奈は、顔を背けて俺の不躾な視線を咎めた。

 その顔は赤みを帯びていて、瞳は潤んでいる。

 (アリス)の前で今まで見せていた、姉としての優奈の面影はすっかり無くなっている。

 そこにいたのは、これから起こる事に不安と期待が入り混じった感情を抱いているひとりの女の子だった。

 

 ――どくん、と俺の心臓が跳ねる音がした。

 

 ……なんだこれ?

 

 俺は、込み上げて来る感情に戸惑いを隠せない。

 

『――だから、大丈夫っていったでしょう?』

 

 アリシアの声が悪魔の囁きのように俺の頭の中に響いた。

 



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兄妹(本当の気持ち)

「……横に座るね」

 

 着替えを部屋の隅に置いた優奈は、ベッドに座った俺の隣に並ぶようにして腰を下ろした。

 握りこぶしひとつ分も空いていないくらい密着しているのは、これからすることを考えたら当然とも言えるが、俺の内心は平静では居られなかった。

 優奈が身じろぎする度に剥き出しになった腕や肩があたる。優奈との肌の接触なんて数え切れないほど経験していることなのに、胸の鼓動が抑えられない。

 優奈からふんわり柔らかい柑橘系の香りがほのかにする。

 

「……優奈、香水つけてる?」

 

「うん……アリスは嫌だった?」

 

「そんなことない。いい匂いで、その……」

 

『イクトさん、どきどきしちゃってますね。ユウナ、すごく色っぽいです』

 

「「……っ!」」

 

 アリシアの開けっぴろげな感想に、俺と優奈は揃って顔を赤くして黙り込んでしまう。

 だが、気まずい沈黙は、その後に続けられたアリシアの言葉で直ぐに破られた。

 

『それじゃあ、最初はキスからしましょうか』

 

 アリシアは事も無げに言った。

 

「ちょ、ちょっとまってアリシア! 優奈のファーストキスを俺が奪ってしまうのはまずい! それに俺だって――」

 

『イクトさんと一緒だから、身体を重ねるのは浮気じゃないって話ですよね。だったら、キスだけダメっていうのはおかしくありませんか?』

 

「そ、それはそうかもしれないけど……」

 

 あの翡翠ですらキスは遠慮したのだ。女の子にとってキスが特別っていうのは、俺でも何となくわかる。

 ……それに、俺だって初めてだし。いや、男のファーストキスなんてどうでもいいんだけど。

 

「いいよ、キスくらい。それに、あたしのファーストキスは小さい頃にお兄ちゃんにあげちゃってるから、いまさらだよ?」

 

「そ、そうだったっけ……」

 

「やっぱり覚えてないかぁ……まあいいわ、さっさとしちゃいましょ?」

 

 そう言って優奈は俺にむけて少し俯き気味に唇を突き出して、目を閉じた。

 口と口を重ねる。言葉にすると、ただそれだけの行為なのにいざというとなかなか踏ん切りがつかない。幼い頃はノーカンとしても、自分の意思でキスをするのなんて初めてだった。

 

『イクトさん、ユウナに口付けを……』

 

 じれったくなったのか、アリシアが囁くように俺を促してくる。俺は考えることを止めて、顔を優奈に近づけていく。

 眼前に目を閉じて待っている優奈の顔が迫り、俺も瞳を閉じた。

 ふんわりと柔らかい感触が唇に触れる。

 

「ん……」

 

 柔らかい箇所が重なって、温もりが伝わってくる。

 俺は鼻息が優奈に掛からないように、呼吸を浅くする。

 

『はぅ……』

 

 上気した吐息のような声をアリシアはこぼした。

 

『イクトさん……舌をユウナの口に入れて下さい』

 

 アリシアの指示に、優奈が一瞬ぴくりと緊張したのが触れた唇から伝わってきた。だけど、優奈からの反論や抗議はこなくて……それどころか、行為を促すように唇が少しだけ開いた。

 

 既に梯子は外されている。

 いくばくかの逡巡の後、覚悟を決めて俺はキスを深くした。

 

 口をうっすら開いておずおずと舌を伸ばしていく。

 舌先が優奈の唇に触れて、優奈がぴくりと震えた。舌を唇の形を確認するように這わせてから、開かれた隙間から優奈の口内にゆっくり侵入させていった。

 

 柔らかく湿ったものが触れる、優奈の舌だ。

 俺は挨拶をするように舌先で突っついた。

 ざらりとした感触がして、敏感な粘膜同士が触れ合う。

 電流が走ったかのような快楽に脳が震えた。

 その感覚を確かめるように、舌を優奈の口内で動かした。

 その度に快感が引き出されて、俺は夢中になって優奈の口内を(むさぼ)る。

 やがて、優奈が俺の舌に合わせるようにおっかなびっくりで舌を動かし出す。

 粘膜が触れ合い、お互いの唾液が混ざり合う。全身の感覚が舌先に集中したかと思えるくらいに没頭していた。

 俺達は舌を絡め合って、お互いの快感を引き出していく。

 

『ふぁ……イクトさん……もっと、もっと欲しいです』

 

 アリシアの睦言を聞きながら、行為は加速していった。

 手で優奈の頬を支えて顔を固定して、舌を奥へと侵入させる。意思をもった生物のように舌が絡み合い、はしたない水音を響かせる。

 

『はぁ……キス、気持ちいいです。イクトさん……』

 

 目を閉じてアリシアの声を聞きながらキスしつづけていると、一瞬、アリシア相手にキスをしているような錯覚に陥る。

 求めても叶わないものを求めるように、俺はさらに夢中になって行為に没頭していった。

 俺とアリシアと優奈が、混ざりあって溶けていく。そんな感覚に身を委ねた。

 

 ――どれだけの時間が経ったのだろうか。

 俺は呼吸が苦しくなっても行為を続け、優奈も俺が求める限り応えてくれた。

 唇が離れたとき、唾液が唇の間に一瞬糸を引く。

 ぼんやりとした視界のなかに、とろんとした表情の優奈がいた。二人の唾液で口の周りがべとべとになっている。

 お互い息も絶え絶えになって、はぁはぁと肩で息をしていた。

 

『……とても、素敵でした』

 

 うっとりとしたアリシアの声が脳内に響いた。

 

「……キスってすごいんだな。俺、こんなに気持ちいいものだなんて知らなかった」

 

『わたしも知りませんでした……いっぱい、濡れちゃいましたね』

 

 俺の体の状態はアリシアに筒抜けだ。

 だけど、その状況を優奈に聞こえるように言うのはやめてほしい。

 俺は思わず優奈の様子を気にするが、彼女はさっきの言葉も耳に入らなかったようで、黙ったまま俯いていた。

 

「……どうした、優奈?」

 

「ご、ごめん……大丈夫だから。ちょっとぼーっとしちゃってて……」 

 

 無理もない、優奈もキスの経験なんて無かっただろうし初っ端から刺激的すぎる行為だっただろう。

 

「そう言えば、今日のアリスって口調が昔のままなんだね」

 

「あ、そうだね……さっき考え事をしてからなんだか戻っちゃってて……気になるなら戻すけど、どうする?」

 

 アリスの口調はすっかり体に馴染んでいて、普段は幾人だったときの口調は無意識レベルでしか出てこない。

 今口調が戻ってるのは妹を強く意識したからだろうか? だけど、戻そうと思えば問題なく戻せるはずだ。

 

「べ、別にそのままで大丈夫だけど……」

 

 優奈は何故か視線を背けながら、そう言った。

 

『ユウナもイクトさんの呼び方をお兄ちゃんって戻してもいいんですよ?』

 

「な、なっ……なんで!?」

 

『だって、ユウナはイクトさんの事大好きじゃないですか。わたしやアリスに対する好きとは別の気持ちですよね?』

 

 ……それって、優奈がブラコンってことだろうか。

 

「ち、ちが……そんなことない! 私の好きは家族としての好きなの。私はあなた達のお姉ちゃんだもの」

 

『それはイクトさんがアリスになってからの話ですよね? ……別に隠さなくてもいいと思いますよ、わたしは』

 

「で、でも、そんなの普通じゃないもの。兄妹でなんて周りから白い目で見られるし、パパもママもきっと悲しむ」

 

『ほんとにそうですか? 今のイクトさんとユウナは血の繋がりはありません。それに、女同士って時点で普通では無いと思いますよ。だから、もういいんじゃないですか? ユウナのその気持ちを開放してあげても』

 

「でも、お兄ちゃんに拒絶されたら、私……」

 

『イクトさんはユウナのことを妹としてしか見ていませんでしたけど、わたしの我儘に応じてこんなことまでしてくれています。そんなイクトさんが、ユウナのこと拒否する訳無いじゃないですか』

 

「そんな、どうしよう。私……」

 

 優奈が俺の事を好きだった、今の話はそういうことなのだろうか。

 もし、俺が幾人のままだったなら、それは決して受け入れてはならない想いだったと思う。

 だけど、アリスになった今なら、その好意を受け入れてしまってもいいのかもしれない。女同士なら致命的なことにはなり得ないから。

 

 ……まあ、妹にあれこれしようとしている時点で今更ではあるけど。

 

 そもそも、俺はアリシアの事が好きなのに、他の人とどうこうするのはいいのかと言った根本的問題があるが……まあこれも今更だな。行為はアリシア自身が望んでいる事だし。

 

「優奈の事を拒絶なんてしないさ。俺が好きなのはアリシアだからその気持ちに応えることは出来ないけど、俺にとって優奈は大事な家族だし、特別な女の子だから」

 

「お、お兄ちゃん……」

 

『よかったですね、ユウナ』

 

「ずっと隠さなきゃって思ってきたの、あたしは妹だからお兄ちゃんを好きになっちゃダメって……でも、もういいんだよね。この気持ち伝えてしまっても」

 

 ユウナは胸元で手をぎゅっと握る。

 

「あたしはお兄ちゃんが好き。妹じゃなく、ひとりの女の子として」

 

 その瞳には涙が溢れていた。兄を好きになったことで優奈がどれだけ悩んだのか俺にはわからない。だけど、辛い事が多かったのじゃないかって事は想像できる。

 

「お兄ちゃんにはアリシアがいるって、わかってる。だから、あたしも翡翠姉と一緒でいい。思い出だけでいいから……」

 

 俺の後ろをいつも付いてきて生意気を言っていた妹の優奈。

 アリスになってからは姉として俺を支えてくれた優奈。

 そして、幾人だった頃の俺に兄妹として以上の感情を抱えていたと告白する優奈。

 

 どの優奈も大切で愛おしく思う。それはやっぱり家族としてのものに近いけど、今だけでも、ひとりの女の子として優奈を見ることにしよう。

 

「……だからね、お兄ちゃん。あたしのこと抱いて下さい」

 

 泣き笑いのような表情で、優奈はそう告げる。

 そのとき、俺は本当の意味で妹を抱く覚悟を決めた。

 



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番外編 如月優奈

 幼い頃、あたしはお兄ちゃんと結婚するって思ってた。

 誰よりもお兄ちゃんが大好きだったし、お兄ちゃんもあたしの事が好きって知っていたから。

 

「優奈は本当にお兄ちゃんのことが大好きなのねぇ」

 

「あたしは大きくなったら、お兄ちゃんと結婚するの!」

 

 そう家族の前で宣言したときも、パパもママも微笑ましいものとしてしか受け取らなかった。

 けど、大きくなるにつれて、妹が兄と結婚なんて出来ないってことをあたしは知った。だから、それからはあたしは普通の妹としてお兄ちゃんと接するようになっていった。

 

 ……そんな関係がずっと続くって思っていた。

 

 忘れもしない、それはあたしが中学二年生のときの事だった。

 その日は日曜日で家族はみんな外出していて、あたしは漫画を借りようとお兄ちゃんの部屋に立ち入った。

 本棚で漫画を物色していると、端の方に不自然に出っ張った並びがあるのに気がついて、不思議に思ってなんとなく手にとってみた。

 本はただの参考書で、その奥に別の本が並べられているみたいだった。あたしは好奇心でその本を取り出してみると、胸の大きい女の子が裸で扇情的な表情をしている表紙が目に入って来た。それは大人向けのエッチな漫画だった。

 

 あたしはどきどきしながらお兄ちゃんのベッドに座ってページを捲る。

 それはいわゆる妹物の漫画だった。

 後で確認したら、並んでいるエッチな本の中で妹物はこの本だけで、この本もタイトルは特に妹と関係無かったので、お兄ちゃんはそれと知らずに買ったみたいだった。

 だけど、そのときのあたしはそんな事全くわからなくて。

 

 その漫画のヒロインは兄の部屋でひとりえっちをして、兄に見つかり、そのまま兄とセックスに及んでしまう。そして、兄妹という関係に苦悩を感じながら二人で堕ちていくという内容だった。

 

 生まれて初めて読んだエッチな漫画の内容と、これをお兄ちゃんが持っていたという事実に、あたしはパニックになり、頭がくらくらしてしまう。

 

 そして、あたしはゴミ箱が気になってしまう。

 漫画の中のヒロインは、兄が自慰のときに使ったティッシュの匂いを嗅ぎながらひとりえっちをしていた。

 今日は日曜日だからママはゴミを回収していなくて、ゴミ箱の中のゴミはそのままになっている。

 あたしは恐る恐るゴミ箱に手を延ばす……自分でも何をしているのかわからないままに。

 そこには、漫画と同じ、重ねて丸められたティッシュが入っていて……あたしはそれをふたつ指で摘んで目の前に掲げた。

 鼻に近づけるとツンとした(にお)いがしてあたしは顔をしかめる。

 

 変な臭い……

 

 だけど、これが精子の臭いだったんだ。

 いつの日からか、お兄ちゃんの部屋に漂うようになっていた不思議な臭いの原因がそのとき判明した。

 

 生臭くて、決していい臭いではない。

 だけど、気がつくとあたしは何度もその臭いを嗅いでいた。まるで、漫画のヒロインがそうしていたように。

 ティッシュはまだ湿っていて、その結果として指や鼻に液体が付着して汚れてしまう。だけど、(きたな)いというより、お兄ちゃんに(よご)されているという思いが(まさ)って嫌悪感は無かった。

 ティッシュの内側にどろりとしたヨーグルトのような固まりがあり、指でそれをすくい取る。

 指先に吸い付く濁った固まり。人差し指についたそれを親指で触って感触を確かめる。粘り気のあるリンスのような感触で、指を離すと、それはぬちゃっと糸を引いた。

 

 ……あたしは何をしているのだろう?

 

 あたしとお兄ちゃんは仲の良い普通の兄妹だ。

 だけど、もしお兄ちゃんがこの漫画のように迫ってきたとしたら、あたしはどうするのだろうか。

 お兄ちゃんにあたしとエッチしたいって言われたら……

 

 あたしは身体に熱を感じて、ぼぅっとした心地になっていた。

 特にお腹の下が熱くなっていて、まるでおしっこを漏らしたかのようにショーツがぐしょぐしょになって染みができているのがわかる。

 

「あたし、濡れちゃってる……」

 

 雑誌や友達との話から、その手の知識はあった。

 だけど、正直なところ今までピンと来ていなかった。好きな男の子なんて居なかったし、誰かに抱かれるっていうのもいまいち想像できなかった。

 何回か自分のを触ってみた事はあるけど、全然気持ちよくならなくて止めてしまった。

 

 だけど、今のあたしは自分でもわかるくらいにえっちな気分になってしまっている。兄の部屋で兄に抱かれる妄想を(いだ)きながら。

 

 そして、あたしはそのまま感情に身を任せて自分で自分を慰めた。

 いつお兄ちゃんが帰ってくるかもわからないこの部屋で。

 

 おにいちゃんの部屋でこんな事をするなんてダメ、お兄ちゃんが帰ってきたらどうするの? ってあたしの中の天使が言う。

 

 帰ってきたら好都合じゃない。漫画のように、興奮したお兄ちゃんに襲われちゃうかもよ? って、あたしの中の悪魔は(ささや)く。

 

 ……もし、本当にそうなったら、あたし達はどうなってしまうのだろう?

 

 お兄ちゃんのおちんちんを入れられて、欲望の赴くままに精子を中に出されて、あたしは妊娠してしまうかな?

 そうしたら、もうあたし達は普通の兄妹には戻れない。家族は崩壊して、あたし達は世間に居場所が無くなってしまい、みんな不幸になってしまうだろう。

 そんなのは嫌だ。そんな事になったら絶対にダメだ。でも……

 

 ……それは、どれだけ気持ちいい事なのだろう?

 

 妄想しながら自分で触るだけでこんなにも気持ちいいのだ。お兄ちゃんの手やおちんちんでここをぐちゃぐちゃにされたなら、あたしはどうなってしまうのだろうか?

 

 あたしは左手でお兄ちゃんの欲望が吐き出されたティッシュを手に取ると、口元に押し付けた。

 くらくらするような強い雄の臭いがあたしの思考を溶かす。

 

「ああ……おにいちゃんの精子、すごくえっちな臭い……」

 

 もっと汚れたい。

 あたしは本能のままにティッシュを口に咥える。

 浅ましい音をたててティッシュに吸われたお兄ちゃんの精子を絞るように吸う。

 口の中に変な広がって思わず顔をしかめた。

 吐き気を催すようなべとべとした生臭い味はやたら舌に絡んできて不快さを倍増させる。

 だけど、その不快さすらも頭は快感に変換してしまうようで、あたしは涙目になりながら夢中になってそれを求めた。

 

 ――そして、お兄ちゃんの事を考えながら、あたしは初めて性的な絶頂を迎えたのだった。

 

 快楽の波が徐々に引いていって冷静さを取り戻すと共に身体にどっと疲労が押し寄せてきた。

 

 ……ダメだ。

 

 このまま疲労に身を任せていたら寝てしまう。

 こんな姿をお兄ちゃんに見られたら絶体絶命だ。

 漫画では興奮して襲ってきたが、実際のお兄ちゃんはあたしを異性として見ていない。あたしの事を兄に欲情する変態と拒絶されて、兄妹の関係すら失ってしまうかもしれない。

 

 ……お兄ちゃんがこんなあたしを見たら軽蔑する。

 

 そう考えたら怖くなってしまった。

 あたしは慌てて自分が残した痕跡を消していく。

 

 それから数日間、怯えながらお兄ちゃんの様子を見ていたけど、あたしがした事にお兄ちゃんが気付くことは無かった。

 

 それからも、あたしは普段通りに生活していた。

 時折お兄ちゃんのゴミ箱の中の物を拝借して、自分の部屋でひとりエッチするようになったけど……

 それでも、自分の中に芽生えた感情を誰にも悟られる事の無いように、普通の妹の皮を被っていた。

 

 翌年、あたしが中学三年生のときに、お兄ちゃんは修学旅行先で行方不明になってしまった。

 

 行方不明になっていたお兄ちゃんが女の子になって帰ってきたのは更に翌年のことだった。

 

   ※ ※ ※

 

 お兄ちゃんが修学旅行中に行方不明になって一年程過ぎたある日のこと。

 お兄ちゃんは、アリシアという女の子の身体になって、ひょっこり家に帰ってきた。

 異世界で死にそうだったところを、アリシアの魔法で身体を譲って貰って助かったらしい。そして、身体にはアリシア自身の魂も残っていて、感覚を共有しているという話だ。

 何もかも信じられない出来事だけど、これがお兄ちゃんに起きた現実だった。

 それから、いろいろあって、お兄ちゃんはあたしの義理の妹のアリスとして、家族の一員になった。

 アリスになったお兄ちゃんは、ちょっと尋常じゃないほどかわいい。それなのに、今まで男の子だったアリスはいろいろ危なっかしい事ばかりで、見ていてハラハラさせられる。

 だから、あたしはアリスのお姉ちゃんになってアリスを守ろうって心に誓ったのだった。

 行き場の無くなったお兄ちゃんへの想いは、そのまま想い出に変わっていく。それは仕方ないことだったし、あたしはそれでいいと思っていた。

 だけど、アリスが翡翠姉の手に掛かってエッチしちゃった事でおかしなことになる。

 精神的に不安定になってしまったアリシアの悩みを解消する為、何故かあたしはアリスとエッチをする事になってしまった。

 そのとき、あたしの気持ちに気づいていたアリシアに促されて、あたしは秘めていたお兄ちゃんへの想いを告白することになる。

 お兄ちゃんは、あたしを拒絶せずに受け入れてくれた。

 

 ――そして、今に至る。

 

「……だからね、お兄ちゃん。あたしのこと抱いて下さい」

 

 あたしは自分の兄にこれ以上ない程に背徳的なお願い事を言った。自分で言ってゾクゾクするくらいに。

 

 あたしはこれから、お兄ちゃんとエッチする。

 と言っても、お兄ちゃんはアリスになっちゃっているから、おちんちんは無くて、だから、あたしの処女(はじめて)を捧げる事は出来ないけど。

 逆にそれで良かったのだと思う。もし、本当に全部お兄ちゃんにあげちゃっていたら、多分、もう戻れないところまで行ってしまう。

 そうしたら、パパもママも悲しむし、世間から後ろ指を指されながら、生きていかなければいけなくなる。

 多分、お兄ちゃんがあたしを受け入れてくれたのも、女同士なら致命的なことにはならないからという打算があるのだろう。

 

 ……そして、それはあたしも一緒だった。

 

 お兄ちゃんの顔が迫ってきて、唇に柔らかい感触がする。さっきしたディープキスとは違い、触れるだけの開始を告げる口付け。

 それから、あたしの身体を包んでいるバスタオルに手を掛けて……って、お兄ちゃん緊張でがちがちになってる。

 あたしの裸なんてお風呂で飽きるほど見てるはずなのに……それでも、ちゃんとあたしのことを意識してくれてるっていうのは嬉しかった。

 たどたどしく、バスタオルの前が開かれると、生まれたままのあたしがお兄ちゃんの目の前に晒される。

 

『ユウナ、綺麗です……イクトさんも何か言って下さい』

 

「あ、ああ……綺麗だよ、優奈」

 

 アリシアに促されてそんなことを言うお兄ちゃんは、ちょっと情けない。

 仕方ないことだけど、お兄ちゃんの身体にはアリシアも一緒だから、なんだか保護者同伴でするみたいで、ちょっと居心地が悪い。

 

「お兄ちゃんも脱いで。あたしだけ裸なのは嫌」

 

「わかった」

 

「あ、やっぱりあたしが脱がせたい……今日くらいいいでしょ?」

 

 普段お風呂のときあたしがアリスを脱がせようとすると嫌がって自分で脱いでしまうのだ。

 だけど、今日はあたしが脱がせたい!

 

「……仕方ないな」

 

 苦笑混じりにお兄ちゃんは言う。あたしは喜び勇んでお兄ちゃんの後ろに回り服を脱がせていく。

 

「お兄ちゃん、ばんざいしてー?」

 

 ワンピースを裾からたくし上げて、掲げさせた両腕から抜き取る。なすがままお兄ちゃんはキャミソール姿になった。それはまるで着せ替え人形遊びしてるみたいで心が踊る。

 お兄ちゃんの小さい両肩に手を置いて、指を這わせてキャミの肩紐に通して落とした。キャミソールがばさりと音を立てて落ちた。

 その下から現れたのは、見憶えのあるピンクのレース入りのブラ。思わず肩越しに覗き込んで確認する。

 

「お兄ちゃん、勝負下着つけてくれてるんだ。それ、あたしが選んであげたやつだよね?」

 

 あたしがそう指摘すると、それまでされるがままに着せ替えされていたお兄ちゃんは、慌てて前屈みになり、両腕を胸の前で交差させブラを隠す。

 

「こっ、これは……その……」

 

「嬉しい、お兄ちゃんもちゃんと意識してくれてたんだね。お兄ちゃんったらいつもの部屋着だったから、意識してるのあたしだけかと思ってた」

 

「……そりゃ、意識もするさ。だって優奈みたいなかわいい娘とこういう事するんだから」

 

 あたしは嬉しくなって思わず顔がにやけるのを止められない。

 

「えへへ、嬉しいな。お兄ちゃんがあたしの事を女の子として見てくれるだなんて……大好き」

 

「お、俺も……好きだぞ、優奈」

 

 お互いの好きには少しずれがあるけれど、これ以上はあたしも望まない。

 

「の、残りは自分で脱ぐから……!」

 

 自分の言葉が恥ずかしくなったのか、お兄ちゃんによって、あたしはベッドに押し倒されてしまった。

 あたしはおとなしくそのままベッドに横たわってお兄ちゃんの準備を待つ。気分は完全にまな板の上の鯉だ。

 

「……おまたせ」

 

 一糸纏わぬお兄ちゃんが、遠慮がちにあたしに覆さって来た。圧迫感は無い。お兄ちゃんの体はアリシアのもので、本来のお兄ちゃんは元より、あたしよりも大分小柄だった。

 お兄ちゃんの肌は透き通るように白くて、銀の髪と相まって芸術品のような趣がある。少女らしい小ぶりな胸も、小さい桜色の胸の先端も背徳的に美しかった。

 

 ――そして、あたしはお兄ちゃんとアリシアによって気持ちよくさせられて、初めて自分以外の手によってイかされた。

 

   ※ ※ ※

 

 ふわふわとした、どこか宙に浮いているような心地だった。

 欠けていた物が満たされたような、そんな幸せな感覚に全身が包まれている。

 乱れた呼吸も徐々に治まり、それに伴って理性も戻ってくる。

 

「……優奈、大丈夫か?」

 

 ぼやけた視界に映るお兄ちゃんは、心配そうにあたしを見下ろしていた。

 行為が終わって、ベッドで力尽きていたあたしの様子を心配してくれているようだ。

 

「大丈夫……ありがとう、お兄ちゃん」

 

 心配してくれた事にお礼を言ったつもりだったが、お兄ちゃんは行為に対してのお礼と勘違いしたみたいで顔を朱く染めてしどろもどろになる。

 

「……そ、その……すごく、可愛かった。俺も優奈をめちゃくちゃにしたいって感情が抑えられなくなっちゃって……その、やりすぎたんじゃないか心配で……」

 

 そんなお兄ちゃんの様子にあたしは嬉しくなる。

 

「あたしに興奮してくれたんだね。嬉しいよ、お兄ちゃん」

 

 ……この様子なら、お兄ちゃんが男だったときでも、本気出していたら落とせたかもしれない。

 あたしを女として意識させておいてから、二人で旅行して一晩だけでいいからって結ばれて、そのままずるずると――って、これは、翡翠姉の手口だった。

 

 ……でも、お兄ちゃんは情で落とせたとしても、問題はその後だね。

 

 あたしの想いは大切な家族をみんな不幸にしてしまう。

 その点、結ばれても何も問題の無い翡翠姉の立場をどれだけ羨ましいと思った事か。

 

「後悔してるのか? なんだか、辛そうだけど……」

 

 お兄ちゃんは、そんな見当違いの事を言う。

 

「後悔なんてあるはずないよ。嬉しいんだよ、あたし……」

 

 たとえ、それがおままごとのような代償行為だったとしても。

 

『イクトさん、こういうときは黙って抱きしめるんですよ』

 

「え……おう……」

 

 アリシアはいちいち気がきいていて優しい。

 あたしが身体を起こすと、お兄ちゃんはおずおずと両手をあたしに回そうとしてきた。

 ()()が愛おしくなって、あたしは胸元に導いて抱きしめる。

 小柄な少女の身体はあたしの腕にすっぽり収まってしまう。腕があたしの背中に回されるが、それは抱きしめ返すというよりは、しがみついていると言った方が正しい表現となってしまっている。

 

「ええと、これだと抱きしめられているような……それに胸が……」

 

 お兄ちゃんの頭は胸で挟み込むようにして受け止めている。胸元にかかる吐息がくすぐったい。

 

『イクトさんにはがっかりです。鼻の下伸ばしていていいですから、しばらく黙っていて下さい』

 

 あたしはあんまりなアリシアの物言いに少し苦笑しながら、その好意に従ってそのままお兄ちゃんを抱きしめる。

 アリシアは本当に気が利く良い子だ。

 

『わたしはイクトさんのおまけみたいなものとお考え下さい。ミグラトールの鳥とでも思って貰えれば……』

 

 最初に会った日にアリシアはそう言った。

 だけど、日々一緒に過ごしているうちに、あたしはアリシアの事をちょっと天然の入った出来の良い妹のように思うようになっていた。

 だから、何とか彼女の力になりたいと思う。

 魂を別の身体に移す事が出来れば、お兄ちゃんもアリシアも幸せになれる筈だ。

 だけど、魔法の存在を世間に知られる訳にもいかず、取れる手段は限られていた。ネットで調べてみても出てくるのはオカルトじみた胡散臭いホームページばかりで、試しに幾つか問い合わせてみても、碌な返事は帰ってこなかった。

 翡翠姉も神社関係をあたってくれているようだが、こちらも今のところ情報は無いらしい。

 両親も口には出さないけど、いろいろと手を尽くしてくれているようだ。

 

 ……だけど、取り敢えず。

 今はアリシアの不安を取り除いてあげることが先決だ。

 

「……さて、それじゃあ次はあなた達の番ね」

 

 抱きしめた小さい身体が強張る。

 

「そ、そういえば、そういう話だっけ……」

 

『……ユウナ、お願いします』

 

 そもそも、二人を一緒に気持ち良くしてあげるというのが本来の目的だった。

 翡翠姉によって強引に快感を与えられたアリシアは、お兄ちゃん以外の人に身を委ねた自分に罪の意識を感じているようだ。

 悪いのは全部お兄ちゃんだと思う。

 大体、翡翠姉との事だって、蜘蛛の巣を張って準備万端で待ち構えている所に、無警戒に飛び込んでいったのはお兄ちゃんだ。こんなの好きにしていいと言ってるようなものだ。

 

 ……まあ、そうなった経緯はさておき、お兄ちゃんも一緒なんだから、アリシアもお兄ちゃんと気持ち良くなったのでいいと思う。

 それを確かめる為に、あたしはこれから()()とエッチするのだ。

 

「かわいい妹達の為だから。お姉ちゃんが一肌脱いじゃうね」

 

 あたしはアリスとアリシアの二人の妹にそう宣言する。

 

 ……もっとも、あたしはさっき脱がされて全裸になっているから、もう何も脱ぐものなんて無いのだけれど。

 

 さあ、今度はあたしが二人を気持ちよくしてあげる番だ。

 



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放課後の異邦人

 優奈とのあれやこれやがあって、俺達兄妹の関係はどうなってしまうのかと思い悩んでいた俺だったが、蓋を開けてみると拍子抜けするほどに変化はなくて、以前と変わらない日々を続けていた。

 優奈の俺に対する接し方は姉の態度のままで、アリシアも示し合わせたかのように普段通りで、誰もあの日の事を口にすることは無かった。

 

 そのまま数日経ったある日の放課後。俺はアリシアに念話で先日の事を聞いてみることにした。図書室の窓際のテーブルに座って、アリシアが読みたがった動物図鑑をパラパラと捲りながら。

 

『ねぇ、アリシア……その、この前の事なんだけど……』

 

『……何でしょう?』

 

『あの日の事は夢じゃないよね?』

 

『どうして、そんなことを思ったのですか?』

 

『だって、アリシアも優奈もあんな事があったのに全然変わらないから……』

 

『……イクトさんはユウナとの関係を変えたかったんですか?』

 

『そういう訳じゃないけど……』

 

『それでしたら、あの日のことは夢の中の出来事ということでいいのではないでしょうか。わたし達はそれで納得してますから』

 

『……なんで、そんな風に割り切れるのさ』

 

『それは、わたし達が女だから……ですかね?』

 

 俺も大分女としての行動が板についてきたと思っていたけど、根本の考え方は男のままということだろうか?

 俺には到底、同じ様に考えることはできそうになかった。

 

『もし、イクトさんがまた夢を見たくなったなら相談すればいいと思いますよ。ユウナはきっと協力してくれますから』

 

 事も無げにそんなことを言うアリシアに俺は何とも言えない気持ちになる。

 

『……アリシアはそれでいいの?』

 

『はい。わたしはこうしてイクトさんと一緒の時間を過ごせるだけで満足なんです』

 

 アリシアの言葉には達観した雰囲気があって――俺はすこし寂しくなる。こういうときに抱きしめることもできない自分の無力さを痛感させられた。

 

『イクトさん……何だか様子がおかしいです』

 

 気まずい雰囲気はアリシアの注意喚起の言葉で払拭された。

 顔を上げてみると、確かに空気が妙にざわついていた。

 

「……図書室の外に何かある?」

 

 生徒の視線の先を追うと、そこには四、五人くらいの男子生徒の集団が校舎裏に向かっていた。その剣呑な雰囲気は遠くからでも伝わってきて、図書室の生徒も緊張しているようだった。

 そして、俺はその中に見知った顔があるのを発見する。

 

「……あいつ!」

 

 俺は席を立つと、図書室の外に向かった。建物の外に出た俺は、上履きのままで中庭に踏み込み、男達が消えていった校舎裏に向けて駆け出した。

 

 校舎裏では蒼汰と男達が向かい合って対峙していた。

 

「蒼汰!」

 

 俺はいつでも加勢出来るように蒼汰に駆け寄った。

 蒼汰の横に並ぶと、足を肩幅に開いて構えて相手を見据える。

 うちの制服を着た男子生徒が四人。そのうち三人は制服を着崩していて見るからに不良っぽい。一人だけ几帳面に整えた制服を着ている男が居てやや違和感を思えた。

 そして、もう一人決定的に場違いな人物が一人いた。

 金髪碧眼で彫りの深い西洋人めいた顔立ち。

 黒の革ジャンに黒のスキニージーンズで、鎖やら指輪をじゃらじゃらと身につけている男は、明らかに学校関係者ではなかった。街中で遭遇したらなるべく視線を合わせたくないような手合いだ。

 校門はカメラで監視されているはずなのに、こんな怪しい輩がどうやって校内に立ち入ったのだろう?

 

「……大丈夫、蒼汰?」

 

 ある程度の戦力把握が出来たところで、俺は蒼汰に声を掛ける。俺が来たからには、この程度の人数差は苦にもならないだろう。

 

「お前、なにしてるんだよ!」

 

 それに対する蒼汰の反応は、想定外の俺に対する叱責だった。

 

「そりゃ、蒼汰を助けに来たに決まってるじゃないか」

 

 俺の言葉に周囲の不良達がドッと笑い出す。言われた蒼汰自身は頭を抱えていた。

 ……うん、まあこんな見た目だから仕方ないよね。

 

「おいおい、ヒラコーの暴れ狼ってのは、こんなちいさな女の子に助けを求めるのか?」

 

「こいつは傑作だ! お嬢ちゃん、俺達は大人のお話してるから、おとなしくお家に帰っておままごとでもしてな」

 

 侮られるのは気分の良いものではない。

 

「悪いけど私は本気だから。蒼汰に手を出す気なら容赦しない」

 

 俺は可能な限りドスの効いた声で男達を睨みつける。けれど効果の程は微妙なようだった。

 

 ……いっそ手出ししてくれないかな、もう。

 

 そうしたら、正当防衛でぼこぼこにできるのに。

 そんなことを考えていると、真ん中に立っている黒ずくめの外国人()が口を開いた。

 

「勇敢な女、そう警戒しなくとも良い。(われ)は今ここでその男をどうこうするつもりは無い」

 

 意外にその男の口から出てきたのは流暢な日本語だった。

 だが、芝居掛かったような口調は特徴的で、外見とも相まって異様な存在感がある。

 

「……だったら、何で蒼汰をこんなところに連れてきたのさ」

 

 この男の言葉を信じられる要素は全くないが、この男が何を目的に蒼汰に近づいたのか一応の理由を知りたかった。

 

「今日はただの顔見せだ。それから、提案したいことがある」

 

 その男はあくまで尊大な態度で名乗りを告げる。

 

「我の名はエイモック・ハルトール。今はチームウロボロスの盟主を務めている。そして、我はこの国の王となる定めを持つ者だ」

 

 ……何それ、怖い。



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ウロボロスの盟主

「我の名はエイモック・ハルトール。今はチームウロボロスの盟主を務めている。そして、我はこの国の王となる定めを持つ者だ」

 

 その男の言葉に俺達はどういう反応をすれば良いのか分からず固まってしまう。

 

「エイモックさんはすごい人なんだ。俺達のチームウロボロスで世界を取るって言うのはフカシじゃねぇ。お前ら馬鹿にしてんじゃねぇぞ!?」

 

 この国の次は世界か……なんだか、壮大な話になってきたな。

 

「蒼汰、この人と面識は……?」

 

「いや、無い。ウロボロスは俺が潰した不良グループの名前だが……こんな奴は居なかったはずだ」

 

 もし会っていたら忘れるような相手とは思えないので、初対面なのは間違いはないだろう。だったら、この男は最近不良グループのリーダーになったということだろうか。

 不敵に笑う厨二病患者(エイモック)は、手を広げてこちらに突き出しながらおもむろに口を開く。

 

「カミシロソウタと言ったか……お主、我の部下として仕えるつもりはないか?」

 

「エイモックさん、なんでこんな奴を!」

 

(われ)が覇道を征くに優秀な人材は幾らいても足りぬ。先代の仇ということでわだかまりがある者もいるだろうが、我らが見据えるは遥か高みぞ。故に、彼奴(きゃつ)が、我と志を共にするというのであれば、同志として迎え入れようぞ」

 

「俺が間違ってた……エイモックさんが見ている世界は俺達なんかと大きさが違う。俺達はエイモックさんの判断に従います!」

 

 俺達を蚊帳の外にして三文芝居が繰り広げられている。

 俺と蒼汰は顔を見合わせた。蒼汰は何とも言えない表情をしている。多分俺も同じような表情になっているだろう。

 

「……それで、カミシロソウタ。返答は?」

 

「お断りだ。俺は妄言に付き合う気はねぇ」

 

 いい加減付き合いきれないといった様子で、蒼汰は三文役者(エイモック)の提案を一蹴する。

 

「……! 神代、てめぇ!?」

 

 取り巻きがざわめく。

 言われた当人は冷静のようだった。

 

「ふむ……小人に我の理想を理解させるには、まずは、(おの)が矮小さを自覚させねばならぬか……」

 

「てめぇ、エイモックさんになんてこと言いやがる!」

 

「構わぬ――では、カミシロよ。我との果し合い受けてもらおうか」

 

「……果し合いだと?」

 

「クリスマスイブの日に我らウロボロスが主催の集会を行う。その場で先代を倒したお主を打ち倒し、我の権威を確たるものとする礎とさせて貰う……安心するがいい、命は保証してやろう」

 

「断る。そんなのに参加する気は無い」

 

「我の誘いを断ると……?」

 

「そもそも、俺はお前らに付き纏われて迷惑させられてるんだ。お前らに協力してやる義理はない」

 

「なるほど、メリットか……だが、デメリットについて考えは至らなかったのか? 我に従わぬ場合、お主の生活が脅かされるとしたら」

 

「……脅しか」

 

「お主だけではない。お主の大切な者が犠牲になるかもしれないぞ。我の部下には、そこの女のような未成熟な女を(かしず)かせることを何よりも好む者もおるのだ」

 

 感情の篭もらないライトブルーの瞳で一瞥された俺は寒気を覚えた。人に向けられたものとは思えない、まるで取るに足らない羽虫を見るような視線だった。

 

「俺のダチに手を出したら絶対に許さねぇぞ」

 

 蒼汰は怒りを籠めた冷ややかな口調で言った。

 

「結果の如何(いかん)を問わず果し合いに応じたらお前とその周囲には一切手を出さない事を我が名において誓おう。それが我の提案するメリットだ」

 

 こんな男との約束なんて信用するに(あたい)しない。そんな奴の言葉にしたがってやつらの集会にのこのこ出るなんて馬鹿げている。

 

「私はお前らの思い通りなんかならない! 蒼汰、そいつらの言うことに耳を貸す必要なんてないよ!」

 

 だが、今の俺が何と言っても蒼汰には届かない。

 蒼汰にとって今の俺は、かつて肩を並べていた如月幾人ではなく、同じ部活の後輩で女子である如月アリス――彼が護るべきと考える対象だった。

 

「……わかった、俺が行く。だから、俺以外のやつに手出しをするな」

 

「蒼汰!」

 

「皆の者聞いての通りだ。カミシロソウタは今度の集会にて我が打倒する獲物を決定した。我の獲物に手出しは赦さぬと全員に通達しろ」

 

「さすが、エイモックさん!」

 

 男達が歓声をあげる。

 それに対して俺は苦々しい気持ちでいっぱいだった。蒼汰の力になりたいと思ってやってきたのに、逆に蒼汰の足枷となってしまった。

 

「私も一緒に行く!」

 

 だから、俺は衝動的にそんなことを言っていた。

 

「ちょ……馬鹿!? 何言ってるんだ!」

 

「……ほう」

 

 それに対して卑劣な交渉者(エイモック)は、面白いおもちゃを見つけたかのように口角を上げる。

 

「我はカミシロとの約束は違えるつもりは無いが、集会の中で盛り上がった者達の行動を諌めることはしない。それでも構わぬなら好きにするが良い」

 

 不良グループの集会に女の身で乗り込む。

 普通ならありえない無謀な行為だと思う。

 不良共に乱暴される自分の姿を想像してしまい、一瞬身がすくんだ。

 だけど、引くわけにはいかない。

 

「……ああ、わかった」

 

「アリス!」

 

 俺には戦う力があるから。

 蒼汰を独りで行かせるなんて事はできない。

 下卑た声をあげる不良たちを睨みつけた。

 

「では、我の用件は済んだ。立ち去るとしよう」

 

 そう言うと、エイモックは学校と道路の境にある塀に向けて歩き出す。塀は二メートル程の高さがあり、人が出入りできるような造りではない。

 不思議に思って見ていると、エイモックはおもむろにジャンプして、塀の上に飛び乗った。

 

「なっ……!?」

 

 信じがたい光景に俺達は思わず目を剥いた。

 不良達の歓声があがる。

 

「カミシロよ、せいぜい(たの)しませてくれよ」

 

 そう言い残して、エイモックは塀の外側に姿を消した。

 



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神代蒼汰(決闘)

「アリス、お前どういうつもりだよ!」

 

 不良グループが立ち去った後、開口一番蒼汰は俺を怒鳴りつけてくる。

 

「ごめん、蒼汰……」

 

 俺は蒼汰の枷となってしまったことを素直に詫びた。

 俺が居たせいでエイモックの脅迫に具体性を持たせてしまい、相手のペースになってしまった。

 俺という明確な対象が居なければ、不良グループの集会に出ないように蒼汰は交渉が出来たかもしれないのだ。

 

「わかったら、おかしなことは考えないでクリスマスイブは安全な所に隠れてろ……いいな?」

 

「よくない。蒼汰を独りで行かせる訳にはいかない」

 

「ダメだ……お前の為だけで言ってる訳じゃない。お前が居れば、俺の弱みになる。だから、俺を困らせないでくれ」

 

 蒼汰の言いたいことはわかる。普通の感覚なら俺の行動は迷惑この上ないだろうと思う。小柄な少女でしかない俺は足手まといにしかならないと考えても仕方ないだろう。

 

「だったら、弱みにならないってわかればいいんだよね?」

 

 だけど、俺は戦える。

 一番の親友である蒼汰がピンチのときは助けたい。

 隣で共に戦う存在で居たいと思うのだ。

 その為にも、蒼汰に戦えることを証明しなければならない。

 

「ねぇ、蒼汰……私と決闘してよ」

 

 だから、俺は蒼汰にそう持ちかけた。

 

「……ウィソで負けても俺はお前を連れて行くつもりは無いぞ」

 

「カードゲームじゃないよ!?」

 

 何ナチュラルに決闘をデュエルって変換してるんだ。

 このデュエル脳め……!

 

「だったら、何だって言うんだ? まさか俺と殴り合いでもするっていうのか?」

 

「そのまさかだよ。私の実力がわかれば蒼汰も安心できるでしょ?」

 

「実力って……お前、喧嘩なんてした事あるのか?」

 

「それなりにね」

 

 俺は胸を張って腰に手をあてて答える。

 喧嘩どころではない。異世界で命を賭けた戦いの日々を過ごしてきた俺の経験は蒼汰とは比べ物にならない。

 アリシアの体になったことで、体格の違いによるリーチの減少は厳しいけれど、魔法による身体能力向上はそれを補って余りある程だ。

 せいぜい、蒼汰を驚かせてやるとしよう。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 訝しげにしている蒼汰を俺は促す。

 

「……何処に行こうってんだ?」

 

「決まってる。決闘と言えば蒼汰の家じゃない」

 

   ※ ※ ※

 

 俺たちは連れ立って神社の境内にある蒼汰の家にやって来た。蒼汰の家は神社の本殿の横にあり社務所を兼ねている。そして、その裏庭は一般の参拝者が来ることも無く、人目も無い。

 

 小さい頃から俺達はよくここで強くなる為の修行をしていた。

 きっかけは妹達をいじめっ子から護る為だったと思う。それが、いつしか強くなる事自体に夢中になって、二人で競い合うようにして鍛えていた。

 

 空手の段位を持っている光博おじさんに空手の基本を教わり、俺の親父のなんでもありの格闘術を組み合わせたものが俺達の基本スタイルになっている

 何度も転がったこの庭の土の味は今も鮮明に思い出せる。

 その懐かしさに俺は思わず目を細めた。

 

「……ここの場所のことも幾人に聞いてたのか?」

 

 蒼汰は困惑した口調で聞いてきた。初めてここに来る筈の俺が、勝手知ったる他人の家のように振る舞っているのだから疑問にも思うだろう。

 

「そういう訳じゃないんだけど……ねぇ、それにも関わる事なんだけど、この前言ってた告白したい事、今から話してもいい?」

 

 いい加減、自分が幾人であることを話してしまいたい。そうすれば、蒼汰の説得も大分楽になるはずだ。

 

「いや、メッセージで伝えた通り、今はごたごたしてて心の整理が出来ないから……」

 

 顔を赤らめて視線をそらしながらそんな事を言う。

 やめろ、気持ち悪い。変な勘違いしてんじゃねーよ。

 

「ち、違う!? 蒼汰が思っているような事じゃ無いからな!」

 

「わかってる。このごたごたが終わったら俺もちゃんと結論出すから待っていて欲しい」

 

 ……駄目だこいつ。俺が照れ隠しに誤魔化していると思ってやがる。ああもう、面倒くさい。

 

「もういい……この決闘で勝ったら話を聞いて貰うから」

 

 俺は蒼汰に向き直って構えながら言う。

 身体能力向上(インクリスフィジカル)(小)を発動させた。

 この勘違い野郎を、ぶちのめして思い知らせてやる。

 

「……俺が勝ったら?」

 

 蒼汰は聞いてくる。()()の決闘はこんな風にそれぞれが勝ったときの報酬を要求しあうのが常だった。

 

「好きにしていい。蒼汰の言うこと何でも聞いてあげるよ」

 

 俺は言い放つ。

 お互い特に相手に望むことが無い場合、お願いする権利をツケにするのはいつもの話だった。勝負が続く中でお願い権を相殺することも多かった。

 

「お、おう……」

 

 だけど、蒼汰は何故か動揺しているようだ。

 

「それじゃあ、行くよ!」

 

 理由は分からないが動揺している今がチャンス。

 

 出鼻を挫いて畳み掛ける!

 

 俺は魔法で強化された肉体で一気に踏み込み、裏拳の奇襲を鳩尾に見舞う。

 

「!!!?」

 

 常人ではあり得ない俺の速度には、人の反射神経で反応するのは不可能――のはずだった。

 

「!!? ……受け止められた!?」

 

 繰り出した俺の一撃は蒼汰の腕によって阻まれていた。

 



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神代蒼汰(真剣勝負)

「!?」

 

 普通では捉えられないはずの奇襲、だが、蒼汰はそれを受け止めていた。

 想定外の事態に俺は目を剥く。

 蒼汰も俺の速さは想定外だったらしく、同様に目を剥いていた。

 

 女子相手と思っているからか、蒼汰はまだ腰が引けていて、一歩下がって距離を取ろうとしていた。俺はそうはさせじと大きく踏み込んで、左ストレートをボディに見舞う。

 

「ぐっ……!」

 

 目で捉えることも難しいくらいの速さの撃ち込み。だが、蒼汰は驚異的な反応速度で体を反らして、攻撃は当たりはしたものの有効打にはならない。

 踏み抜いた俺の無防備な背中に蒼汰の肘が襲ってくる気配を感じて、俺は地面すれすれにまで体を小さくして攻撃をかわす。そのままバックステップして間合いを取り体勢を立て直した。

 

 一瞬の攻防を終えて、蒼汰の表情は一気に真剣な物になっていた。

 

「……完全に奇襲だったはずなのに、凌がれるなんてね」

 

「さっきのを防げたのは正直偶然さ。しかし、お前のその動き半端ねぇな……」

 

 敏捷性は筋肉によって裏付けされる。

 だから、ゲーム等でよくある小柄な人物の方が素早いという印象は、現実には当て嵌まらない。大柄な人物の鍛えられた多量の筋肉によって紡がれた素早さに小柄な人物は敵わない、これが常識だ。

 だが、魔法によって身体能力を強化した俺はその常識を覆している。今の俺はヘビー級のプロボクサーにも匹敵するほどのスピードで攻撃する事が可能だった。

 

「これで、本気で戦う気になって貰えた?」

 

「女子と思って油断してると痛い目に会いそうだ。手加減出来そうにないから……痕が残っても悪く思うなよ」

 

「かまわないよ。全力で来て」

 

 俺は手のひらを上にして真っ直ぐ腕を伸ばし、指をくいくいと曲げ伸ばしさせて蒼汰を挑発する。

 

「っしゃあぁぁ!」

 

 気合い一閃、雄叫びと共に蒼汰から右のローキックが繰り出された。俺はそれを踏み込んで躱す。

 踏み込んだ先には蒼汰の無防備な横腹が晒されていて、俺は右フックを打ち込む。

 

「くっ……!」

 

 続けざまに繰り出される蒼汰の蹴りを、体を沈ませて躱して、蒼汰の太股に回し蹴りを見舞う。

 俺の蹴りを受けた蒼汰は吹き飛んで横転し、土の上を転がった。

 追撃はしない。

 いくら俺の筋力が強化されていても、蒼汰を吹き飛ばす程の威力は無い。つまり、蒼汰は自分から吹き飛んで蹴りの威力を殺し、かつ間合いを取ったのだ。

 迂闊に追撃をすれば、虎視眈々と待ち構えた蒼汰によって手痛い反撃を受けるに違いない。

 

「本当に早いな……それに、攻撃も重い」

 

 制服についた土を払いながら、蒼汰はゆっくりと立ち上がる。

 

「身近にこんな強者(つわもの)がいたとはな……動きを目で追う事も出来やしない……これは、困った。今の俺では勝てるかどうか」

 

 口から(こぼ)れるボヤキとは裏腹に、蒼汰の表情は笑っていて、その瞳には闘争心に(あふ)れていた。

 

「……ギブアップする?」

 

「冗談、ここからが本番じゃないか」

 

 再びお互い構えて向かい合った。

 今度は俺から仕掛ける。

 フェイントを入れつつ間合いを詰めると牽制のジャブが蒼汰から見舞われる。俺はそのジャブを見切って裏拳で払い退けて懐に入り込む。

 拳を撃ち込む前に蒼汰の強引なショルダータックルを受けてバランスを崩した俺は、飛んできた拳を腕で受け流しながら、一か八かで蒼汰の脇腹目掛けて右足でハイキックを繰り出す。

 大振りの攻撃は、てっきり受けられると思っていたが、蒼汰は何故だかぎょっとした表情で体を硬直させており、脇腹に綺麗に蹴りが入った。

 

「ぐっ……!」

 

 苦痛に顔を歪める蒼汰。俺はそのままジャブで追撃するが、それは両腕でガッチリと防がれる。

 

「ちょっ……ちょっと、タンマ!」

 

 蒼汰は手の平を突き出して中断を要求して来た。

 

「……なんだよ?」

 

 真剣勝負に水を差された俺は不機嫌に応じる。

 

「その……スカートで動くと中が見えるから、その……」

 

 蒼汰は顔をそらしながらそんな事を言う。

 せっかくの張り詰めた空気が台無しだ。

 

「……だから何? パンツが気になって勝負に集中出来なかったとでも言い訳する気なの?」

 

「そんなつもりは無いが……お前、恥ずかしく無いのか?」

 

「蒼汰相手になんとも思わないよ」

 

「なんだよそれ……」

 

 他人にパンツを見られるのは恥ずかしいって思うけど、蒼汰に見られてもどうってことは無い。

 なにせ、蒼汰とは、女子に言うのも憚られるような馬鹿な事を一緒にいろいろしてきた仲だし、以前は裸の付き合いも数え切れない程だった。

 それよりも、そんな事で真剣勝負を中断させた事が許せない。

 

「パンツが気になるのなら後でいくらでも見せてあげるからさ……今は決闘に集中してよ」

 

「……マジか」

 

 蒼汰がごくりと唾を飲んだ。

 それから、血走った眼で体を舐めるように見てきて、流石の俺も若干どん引く。

 

 ……まあ、決闘の後になるから、中身が俺ってことをバラしてからの事になるんだけどね!

 

 中身が俺と判れば、流石にがっかりして萎えてしまうだろう。

 そう考えると少しだけ申し訳ない気持ちになりつつも、見事なまでの食いつきっぷりに、もう少しからかってみたくなった。

 

「私に勝ったときのお願い事、ちょっとくらいならえっちな事でもいいよ?」

 

 恥ずかしそうにもじもじと手で口元を隠す仕草をしながら、自分に出来る限りのあざとい口調で、さらに蒼汰を挑発してみる。思い返してみると、お願い事聞く権利を持ち出したときに動揺したのもエロい事を考えたからだろう、多分。

 

「……マジか!?」

 

 興奮した蒼汰はさっきから語彙が残念な事になっている。

 しかし、自分が女の子にこんな事言われたら堪らないだろうなぁ。学校で日常を共にする女友達から、不意に性を感じる瞬間ってなかなかにエロいと思う。

 

 ……少しだけ蒼汰が羨ましい。

 

『イクトさん、そんな約束をして大丈夫なんですか……?』

 

 心配したアリシアがやや呆れた口調で声を掛けてきた。

 

『大丈夫、大丈夫。負けなければ良いだけだから』

 

『でも、ソウタさんの戦闘能力は普通の人間にしてはかなりのものだと思うのですが……』

 

『それでも、魔法を使えば負ける事は無いよ』

 

『それはそうだと思いますけど……』

 

 心配性のアリシアにそう答えると、俺は改めて蒼汰に向き直る。

 

「アリス、全力で勝ちに行かせて貰うぞ」

 

 そう言い放った蒼汰は、触れば切れる抜き身のような真剣な表情だった。ピリピリとしたプレッシャーは、異世界で何度も経験した命を賭けた戦いのときに匹敵するような気もする。

 

「ちょっと、薬が効きすぎたかもしれないな……」

 

 ぶっちゃけ、ここまで本気(マジ)になった蒼汰を相手にした経験は俺も一度も無い。

 

 ……童貞のエロパワー恐るべし。

 

『……イクトさん、本当に大丈夫ですか?』

 

『だ、大丈夫だよ……』

 

 多分。



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神代蒼汰(攻防)

「言っとくけど、あくまでちょっとえっちなお願いだからね。あんまり変なお願いは容赦なく却下するから」

 

 やる気満々な蒼汰に俺は一応釘を刺す。

 

「わかってる……そのくらいの方が俺も気兼ねしなくていい」

 

 そこまで言って蒼汰は溜息をつく。

 

「何でもしてもいいよって迫ってくる相手からの誘惑を我慢するのに最近少し疲れててな……」

 

 涼花のことか。

 そういえば、俺も何度か相談を受けた事がある。

 

「涼花は蒼汰の事が好きなんだから、別に我慢しなくてもいいんじゃない? それとも、蒼汰は涼花の事を好きじゃないの?」

 

「……正直、嫌いじゃない」

 

「だったら、何で……?」

 

「涼花の周辺がな……すでに彼女の両親との対面は済んでいて、娘の恩人という事で涼花の両親に気に入られちまってな。万が一手を出そうものなら、翌日には婿入りの話を纏められて跡取りにされそうな勢いなんだ……」

 

「うわあ……」

 

 思わず声が出た。

 流石は本物のお嬢様、付き合うには相応の覚悟が必要ということか。

 

「それなのに涼花はやたらと積極的で……体の接触も増えてて、いい匂いがするわ、柔らかいわで正直きつい」

 

 生殺しにも程があるな、それは。

 蒼汰が喜んで手を出したくなるような色仕掛けの方法を涼花に幾つか伝授しておいたけど、今の話を聞くと逆に蒼汰を苦しめただけかもしれない。

 

「蒼汰、大変なんだね……」

 

 巨乳美人お嬢様に慕われて色仕掛けまでされるなんて羨ましい奴。そこまでされて手を出さない蒼汰はなんてヘタレ、とか思っててゴメン。

 手を出したら一生が決まってしまうような状況は流石に俺も迷う。

 

「……それに、他にも考えないといけない事もあるしな」

 

 人差し指で鼻の頭を掻きながらちらりとこちらを見てそんな事を言う蒼汰。

 

 ……もしかして、俺の事じゃないだろうな。俺は関係ないからな!?

 

「すまないな、お前にこんな話をしちゃって……アリス相手だとなんだか気安く話せるから、つい色々話しちまった」

 

 ……微妙な気遣いはやめて。

 確かに俺が蒼汰を好きな女の子だったら、他の女の話をされたら傷つくかもしれないけど、俺はそんな事は無いから!

 

「……もういいから、決闘を再開しよう?」

 

 俺はげんなりして答える。きっとこの態度も勘違いされるに違いない。

 ……早く正体を話して勘違いを解きたい。

 その為には、さっさと決闘に勝ってしまおう。

 俺は身体能力向上(インクリス・フィジカル)(小)を唱え直す。

 

「そうだな……やろうか」

 

 俺達は再度構えて向かい合った。

 言葉で語らう時間は終わり、拳で語らう時間が始まる。

 

 小刻みなステップで間合いを詰めて、攻撃の射程圏内に蒼汰を捉えようと試みる。

 だが、蒼汰は俺が間合いに入ろうとする前に、牽制のジャブやローキックで的確に潰してくる。

 リーチの差を活かしたアウトレンジだ。これを続けられたら、俺の攻撃は届かず蒼汰の攻撃を受けるばかりの一方的な戦いになる。

 だが、俺の動きはそう簡単に捕らえられるような速さではない。牽制を繰り返す中で生じた隙を狙って体を懐に滑らせる。

 

「くはっ……!」

 

 飛び込んだ先には、まるでそこに来るのがわかっていたかのように蒼汰の拳が待ち構えていて、俺の勢いを加えたカウンターの一撃が鳩尾にクリーンヒットした。

 横隔膜が一瞬止まり息が出来なくなって喘ぐ。

 俺はよろよろと後ずさり膝をついた。

 

「……ギブアップしないか? 女の子を殴るのはやっぱり気がひける」

 

「ふざけないで。全力で来てって言ったでしょ……こんなのどうってことないから」

 

 俺はどうってこと無いという風を装いながら立ち上がる。だが、足元がおぼつかず、虚勢を張っているのはバレバレだろう。

 

「それにしても、私の動きを捉えられるだなんて……」

 

「正直、俺もまだ動きは見えてない。だけど、来る場所がわかっていたら攻撃を当てる事はできるからな」

 

「故意に隙を作って私の動きを誘導したってこと……」

 

「ご名答……さて、ギブアップしないなら、そろそろ再開するぜ?」

 

「いいから、かかってきなよ。私はいつでも平気だから」

 

「……そういう強がりなところ、幾人にそっくりだな」

 

 本人だからね、とはまだ言えない。

 蒼汰にはちゃんと告白して、いろいろと謝らないといけないから。

 だから、この勝負には負けられない。

 

「……来ないならこっちからいくよ」

 

 そう言い放って俺は再び攻撃を仕掛ける。

 威勢よく啖呵を切ったものの、状況は先程よりも悪化していた。蒼汰がアウトレンジの牽制を繰り返してくるのは一緒だったが、隙を見つけても、さっきの誘導が頭をよぎって踏み込むのを躊躇してしまう。

 その結果、間合いを詰めることが出来ず、攻撃が当たらない。

 

 だったら、強引にブラフじゃない隙を作り出すだけだ。

 俺は一旦距離を取って魔法を詠唱する。

 

飛水礫(ウォーター・スプレッド)!」

 



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神代蒼汰(決着)

 俺はこの世界に戻ってから初めて、目に見える形で身体強化以外の魔法を戦闘に使う。

 蒼汰に自分の正体を話すのだから事前に魔法を見せておいても支障は無いと判断しての行動だ。

 

飛水礫(ウォータースプレッド)!」

 

 俺の詠唱に応えて野球ボールくらいの水の(つぶて)が六つ空中に出現した。

 

「ここからが本番だよ、蒼汰!」

 

 俺はそれらを蒼汰の顔面目掛けて放つ。

 普通なら卑怯と言われるかもしれない手段だが、俺達の決闘は顔面への打撃と金的以外はなんでもありだ。魔法も禁じ手ではない。

 

「うわっ! ……な、なんだ!?」

 

 蒼汰の顔面で続けざまに礫が弾ける。ただの水なのでダメージは皆無だが、踏み込むきっかけには充分以上だ。

 

 怯んでいる蒼汰に接近した俺は、鳩尾に左右のワンツーを撃ち込んだ後、背中に回し蹴りを見舞う。打撃はすべて綺麗にヒットして蒼汰の体が揺らいだ。

 続けざまにストレートを打ち込もうと右手を振りかぶったとき、警告を告げるアリシアの声が頭の中に響いた。

 

『イクトさん、ダメです!』

 

 反射的にバックステップする。さっきまで体のあった空間を蒼汰の鋭い拳の一撃が振り抜かれていた。

 今の瞬間に立て直して反撃してくるなんて……まったく油断も隙も無い奴だ。

 

「いったいどんなトリックだ……水風船? いや、宙に浮いていたように見えたが……」

 

「今のは、私の魔法だよ」

 

「魔法? ……それじゃあ、お前は魔法少女だとでもいうのか? だったら、是非変身してみせてくれよ」

 

 蒼汰は俺にからかわれたと思ったようで、やや不機嫌にそう応える。まあ無理もない。

 

「うーん、変身は出来ないんだけどね……」

 

 せっかくだから、見せつけてやるとするか。

 

『アリシア、今使える、派手な魔法って何がある?』

 

『水場も無い現状では、派手な魔法はちょっと厳しいですね……戦闘に使えて明らかに魔法と判るものでしたら氷の剣(アイスソード)なんて如何でしょうか?』

 

『それはいいな。リーチ不足も補えそうだし、流石はアリシア!』

 

 異世界での戦闘でも彼女の助言には何度も命を助けられた。やっぱり、アリシアは俺の一番のパートナーだ。

 

「ふふっ……蒼汰のご希望通り本物の魔法を見せてあげるよ」

 

 俺はブレザーのポケットからティッシュを取り出して中身のみを右手に握り込む。

 それからその手を蒼汰に向けて突き出して、魔法を唱える。

 

「白き刃よ、紡ぎ織り成し我が手に来たれ、氷の剣(アイスソード)!」

 

 青白く光る水の粒子が周囲を舞い、右手に集まっていく。魔力で精製された水は握り締めたティッシュの繊維を溶り込んで氷結し、手首から棒状に伸びていく。

 シンプルな形状の直剣として一メートル程の長さで形を整えた。

 

「なっ、なんだそりゃ!?」

 

「氷の剣だよ、すごいでしょ」

 

 俺は剣を軽く振って感触を確認する。

 軽すぎず、重すぎず、しっくりくる重さで、この体でも扱いに支障は無さそうだ。

 

「いくよ、蒼汰!」

 

「ちょ……っ!?」

 

 俺は一気に間合いを詰め、横薙に斬りかかる。

 初撃は躱されたが、返しに斬り上げた一撃が蒼汰の脇腹を打ち据えた。

 

「ぐっ……痛え!?」

 

 蒼汰は打たれた場所を押さえて後ずさる。

 

「強化してある氷だからね、木刀よりも全然硬いよ?」

 

 パルプを混ぜた水を凍らせたものはパイクリートと呼ばれ、普通の氷より溶けにくく高い強度を持つ特性がある。

 ポケットティッシュではパルプの量が不足しているが、そこは魔力でカバーしてある。

 

「上等……!」

 

 体勢を整えた蒼汰が殴り掛かってくる。俺は氷の剣で攻撃を()なす。

 

「さっきまでと立場が逆だね、蒼汰!」

 

 剣の長さでリーチ差は逆転している。無理に攻める必要が無くなったのは大きい。それに、俺は異世界では剣を用いて戦っていた事もあり、こっちの方が体に馴染んでいて戦いやすかった。

 

「武器を持ったくらいで勝ったつもりになってんじゃねぇぞ!」

 

 蒼汰の動きもまた凄まじいものがある。常人離れした速度で打ち込む俺の剣をぎりぎりのところで躱していた。

 それでも間髪いれず攻撃を続けていると、徐々に有効打が増えてくる。

 

「そこぉ!」

 

 ついに蒼汰を捉えた俺は、氷の剣を袈裟がけに打ち込む。

 

「貰った!」

 

 確かな手応えを感じて、俺は蒼汰と視線を合わせる。

 

 ――だが、蒼汰は痛みに顔を歪めつつも不敵に笑っていた。

 

「流石に、打ち込んだ瞬間は動けないだろ!」

 

 気がついたら眼前に蒼汰の体が迫り、一瞬遅れて衝撃が体を襲う。蒼汰のショルダータックルを受けて俺は突き飛ばされていた。

 

 蒼汰はそのまま俺を押し倒してマウントを取ろうとしているようだった。宙を舞う俺の視界は、のしかかって来ようとする蒼汰を視界に捉えている。

 

 ……させるかよ!

 

 俺は体を捻って左手を地面につき、天地逆転した状態で体を垂直に突き上げる。

 身体強化された俺の体は大きく跳ね上がった。制服のスカートが花開くように舞い、俺の視界から蒼汰の姿を隠す。だけど、もう真っ直ぐ伸ばした両足は突っ込んでくる蒼汰を捉えているので問題は無い。

 両膝でがっちり蒼汰の頭を挟み込むと、体全体で蒼汰を巻き込んで投げ飛ばす。所謂、フランケンシュタイナーだ。

 蒼汰の体は綺麗に一回転して地面に叩きつけられた。

 

「……かはっ!」

 

 蒼汰の口から肺の空気が漏れる。

 受け身も取れなかったようで、すぐには動けない様子だ。

 両膝で蒼汰の頭を挟み込んで馬乗りになった姿勢のままで、俺は手に持った白い剣を蒼汰の眼前に突きつけた。

 

「私の勝ち、だね」

 

「……ああ、俺の負けだ」

 

 蒼汰は俺の姿を見上げて言う。そして、何かに気づいたかのように慌てて顔を逸した。

 

「ここまで苦戦するとは思わなかったから、びっくりしたよ」

 

 ただの人間相手に魔法を全力で使って対抗する羽目になるとは思わなかった。

 俺は魔力を開放して氷の剣を霧散させる。ポケットティッシュの成れの果ての白いパルプの粉末が雪のように空に舞って消えた。

 

「びっくりさせられたのはこっちの方だよ。今のは本当に魔法……なのか? アリス、お前はいったい……」

 

「幾人」

 

「……え?」

 

「私……いや、俺は幾人なんだ。蒼汰、今まで黙ってて悪かった」

 

 俺は蒼汰に告白する。

 

 ……俺が勝ったのだから、もういいよな?



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神代蒼汰(告白)

「……お前が幾人? なんじゃそりゃ。冗談にしちゃたちが悪いぜ?」

 

 俺の告白に対して蒼汰の反応は微妙だった。

 

 ……まあ、そうなるよな。

 こんな突拍子もない話が、そう簡単に受け入れられるとは俺も思っていない。

 

「長い話になるから、続きは蒼汰の部屋でしようか」

 

 俺は蒼汰の返事を待たずに蒼汰の家の縁側で靴を脱いで家に入る。勝手知ったる他人の家というやつだ。

 

「ちょ……お前……!?」

 

 俺は記憶にあるままの廊下を曲がり、その先にある蒼汰の部屋の襖を開けた。

 

「……変わらないなぁ」

 

 畳の部屋に置いてあるベッドと勉強机、それから本棚と箪笥。壁にグラビアアイドルの水着のポスターが貼ってあるのが目新しいくらいで、蒼汰の部屋は俺の記憶のままの風景だった。

 

「お前、他人《ひと》の家にかってに入るなよ……」

 

 俺が部屋をしげしけと眺めていると、俺に追いついた蒼汰がそう文句をつけてきた。

 

「今まで蒼汰の部屋に入るのに許可を取ったことなんて一度も無いけど?」

 

「そもそも、アリスは俺の部屋に入ったことなんて無いだろ……?」

 

 部屋の主の言葉を聞き流しながら、俺は蒼汰の部屋に入って、ベッドにストンと腰を下ろした。

 続けて入ってきた蒼汰は勉強机の椅子に座る。これが、俺達の定位置だった。

 

「懐かしいな……俺が幾人だったときから殆ど変わってない」

 

 以前は気にならなかった男の匂いみたいなのが少し鼻につく。だけど、すぐに気にならなくなって、むしろ懐かしいような、安心する匂いに思えた。

 

「またそれか。口調を変えてからかうのはよせよ。口にしていい冗談と、そうで無い冗談があるぞ……いい加減にしないと怒るからな」

 

 蒼汰の口調は真剣だった。亡くなった幾人《おれ》のことをからかわれたと思い怒ってくれているのだ。

 

「怒ってくれてありがとな……でも、ごめん。俺はそんな蒼汰をずっと騙してた」

 

 俺は胸の奥に溜まっていたものを吐き出すように告白を続ける。

 

「最初は蒼汰と涼花の関係を壊したく無いって言い訳をしてたけど、やっぱり怖かったんだと思う。蒼汰は俺の一番の親友だったから。姿形も性別すら変わっちまった今の俺を拒絶されたらどうしようって……」

 

 そうやって、アリスとして蒼汰と接しているうちに、嘘が積み重なっていって余計に話しづらくなっていた。もし、翡翠に見抜かれていなかったら、こんなふうに正体を明かす勇気が出たかどうかもわからない。

 今だって正直言うと怖い。

 

「……お前、本気で言ってるのか?」

 

 流石に俺の口調がからかっているようには聞こえなかったのか、蒼汰が俺の言葉を問いただす。

 

『イクトさん、よろしければわたしが蒼汰さんに事情を説明しましょうか?』

 

 そこにアリシアが助け舟を出してくれた。

 俺は好意に甘えて、アリシアに経緯の説明をお願いする事にした。念話を蒼汰と繋ぐ。

 

『はじめまして、わたしはアリシアと申します』

 

 蒼汰はアリシアの念話に最初は驚いたものの、その後は終始冷静にアリシアの話を聞いていた。

 

「幾人は異世界に行って勇者として魔王と戦って相打ちしたが、アリシアって娘の体に魂を移してこの世界に戻って来たって……そんな話を信じろってのか?」

 

 突拍子もない話に蒼汰は当惑しているようだ。

 

「俺の事情はアリシアが伝えた通りだ。嘘は言ってない」

 

「正直信じ難い。だから、確認の為に幾人しか知らないはずの事を幾つか聞いてもいいか?」

 

「構わないぜ。何から答えればいい? 蒼汰が初めて裏山で拾ったエロ本のタイトル? 蒼汰が一番好きな女の子のパンツの色? それとも、本棚のどこにエロ本を隠しているかとか……?」

 

 俺はそう言って本棚の一番上の棚に視線をやる。

 前と変わっていなければ本棚の最上段奥に入っている箱入りの百科事典セット。本来の中身はダンボールにしまわれていて、中身は蒼汰秘蔵のお宝に変わっているはずだ。

 

「おーけー、わかった。お前は幾人本人だって信じることにする……だから、大丈夫だ」

 

 蒼汰はこめかみを押さえながら応えた。

 

「それに、お前が幾人っていうなら、ときどき感じていた違和感に説明がつく……もしかして、翡翠はお前の事を知っていたのか?」

 

「……ああ」

 

「……だからか。優奈や翡翠が幾人の死に対して割りと直ぐに立ち直っていたのは……ってことは、幼馴染四人の中で知らなかったのは俺だけって事か」

 

「ち、違うんだ! 蒼汰にだけ仲間外れにした訳じゃ無くて……本当は、家族以外に話すつもりは無かったんだけど、翡翠には正体を見抜かれちゃって……」

 

「……お前がそんなに薄情だとは思わなかったぜ。俺達は家族みたいなもんだろう? 俺達がお前の不利益になる事を誰かに話すとでも思ったのかよ」

 

「そういう訳じゃないけど……」

 

 話さなかった理由はいろいろある。

 涼花のこと、翡翠の俺に対する気持ちのこと。

 それに、正体を話した結果、今まで通り付き合えずにぎくしゃくするくらいなら、いっそアリスとして新しい関係を築いた方が良いんじゃないかって思ったりもした。

 だけど、それらは全部俺の事情であって、蒼汰達の感情を考慮していない身勝手なものだ。

 

「俺達がお前の死にどれだけ心を痛めたかわかるか?」

 

 俺の葬儀のときの二人の姿が思い出されて、胸が締め付けられる思いがこみあげてくる。

 

「お前が男のままだったら殴ってたところだぜ」

 

「……それくらいの覚悟はしてる。殴ってくれて構わない」

 

「今のお前を殴るのはちょっと、な」

 

 以前と全く同じ関係ではいられないとは思ってはいたけれど、さっそくそれを突き付けられた格好だ。女性に手を上げる事を躊躇する蒼汰の気持ちもわかるだけに、寂しいと思う。

 

「……まあ、いいさ。ともかく無事帰って来てくれたならそれで」

 

「……俺を許してくれるのか?」

 

「許すも許さないも無い。さっきから言ってるだろう? 俺達はそんなことでどうこうなるような関係じゃないって」

 

「……蒼汰」

 

 心がじーんと熱くなる。

 蒼汰はやっぱり一番の親友だ。

 

「やっぱり、何かお詫びとして俺にできる事は無いか? なんでもするから」

 

「お前な、その体でなんでもするなんて気軽に言うなよ。俺だからいいけど、エロ漫画みたいな事されても知らないぞ……?」

 

「こんなこと、蒼汰にくらいしか言わねーよ……それに、エロい事も少しくらいならいい。胸を触るとか……」

 

「そ、そんな事しねーよ……大体、その体はアリシアさんのだろ? 勝手に触らせちゃいかんだろ」

 

「そ、そうだな。すまん……」

 

 そう言われたらそうか。この体に馴染み過ぎていて、アリシアの体という意識が最近希薄になっていた。

 

「アリシアもごめん……」

 

『わたしは気にしなくて大丈夫ですよ? いつも言ってるように、その体はもうイクトさんのものなんですから。もし、蒼汰さんと結ばれて子を成したいと思うのなら、それでもわたしは別に構いませんけど……?』

 

「いや、俺が構うから……それは本気で無いから勘弁して」

 

 俺はホモじゃない。

 蒼汰に少しくらいならエロい事をされても構わないって思っているのは、俺達がそれをどれだけ欲していたか、身にしみてわかっているからで、持たざる者に対しての施しのようなものだ。

 蒼汰の気を引きたいとかそういうのは断じてない。

 

「俺も無理だからな。いくら可愛くても中身が幾人じゃなぁ……」

 

 ……だけど、そうまで言い切られると、ちょっとなんだか面白くない。

 

「さっきは俺のパンツにあれだけ食いついてきた癖に……」

 

「そ、それは、お前の正体が幾人って知らなかったからだろ!?」

 

「じゃあ、中身が俺だってわかったら、もう俺のパンツには興味無いってことか?」

 

「ぐっ、それは……」

 

 わかってる。中身とかそういうのは別として、女の子のパンツはとりあえず見たいって思うのは悲しい男の性《サガ》だ。

 

「さっきも言ったけど、素直に見たいって言うのなら見せてやってもいいんだぜ……?」

 

 蒼汰がゴクリと唾を飲むのがわかる。

 女子のスカートの中には男の夢が詰まっている。そんな事を蒼汰と語り合っていたのを思い出す。

 しかも、制服。

 俺達にとって日常生活で最も馴染みがある服装だけに、エロに転じたときの破壊力は絶大だ。中身が元男の親友なのが微妙だとは思うが、視覚的なエロには抗い難い魅力があるはずだ。

 

「……み、見たいです」

 

 ……何故に敬語。

 



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神代蒼汰(道程)

「み、見たいです……」

 

 ……勝った。

 

 蒼汰から懇願の言葉を引き出した俺は上機嫌で勝ち誇っていた。

 ベッドに座っている俺の体を蒼汰がちらちらと見ている。本人はなるべく見ていない風を装っているつもりなのだろうけど、見られてる側からするとバレバレだ。

 

 これだから童貞くんは……

 

 そんな上から目線の感想を抱いて密かに優越感に浸る。

 今の俺は蒼汰と比べて女性経験は豊富だ。だから、同じような状況でも、冷静で居られる自信がある。

 童貞の蒼汰とは違う。

 

 ……あれ?

 

 俺はそのとき、ふと違和感を覚えた。

 

 よく考えたら俺って今も童貞のままなんじゃ……

 

 女性経験はあってもそれは全部この体になってからの事なので、挿入経験は無い。

 しかも、今の俺はもう挿入するべき相棒(パートナー)を失っている。つまり、童貞を喪失する機会は、もう一生訪れることは無いという事だ。

 そんな事実にいまさら気がついて呆然とする。

 

「大丈夫か? いきなり顔を青くして」

 

「蒼汰。俺、一生童貞のままだ……」

 

「いったい何を言いだすかと思ったら……お前、異世界では何にも無かったのか?」

 

「実はそういう機会は何度かあったけど、俺はアリシア一筋だったから断腸の思いで全部断ってたんだ……」

 

「そうか。それはご愁傷様だな」

 

「あぁ、俺のマイサン……」

 

 俺は思わずスカートの股間部分を押さえる。だけど、そこには当然何も無い、ぺったんこだ。

 

「そのかわり処女になれたじゃないか! ……ほら、童貞より、処女の方がずっと価値は高いぞ」

 

「……全然嬉しくねー」

 

 蒼汰のフォローしているのか止めを刺してるのかわからない言葉で俺は一層テンションが下がる。

 

「それにしても、なんでいまさら……落ち込むにしても遅くねーか?」

 

「……それは、いままで童貞を意識する事って無かったから」

 

「人の顔を見て童貞って連想しないで貰えますかね!?」

 

「蒼汰は、童貞じゃねーの?」

 

「……いや、童貞だけど」

 

「やっぱりそうなんじゃん。そんながっついて人の体見てたらバレバレだし」

 

「くっ……そう言うお前だって童貞なんじゃないか」

 

「俺は女性経験はあるからな。お前とはちげーよ」

 

「そ、それって女の子同士ってやつか!? すげぇな、お前……」

 

 蒼汰が目を見開いて俺を見る。

 俺と女の子の絡みを妄想しているな、確実に。

 

「それで、相手は誰なんだ? 俺が知ってる娘なのか?」

 

 蒼汰の質問に俺は固まってしまう。

 

「……す、すまないが黙秘で頼む」

 

 俺はしどろもどろになって答える。

 ひとりは俺の妹。そして、もうひとりはお前の妹なんだ……って、言えるか、こんな事!?

 翡翠のことはいつか話さないといけないかもだけど、今はまだ早い。

 

「女の子同士ってのがバレたら周りに変に注目されちまうもんな……すまない、忘れてくれ」

 

 俺が言い澱んだのを見て、蒼汰は勘違いしてくれたようだ。

 

「そうして貰えると助かる……」

 

 俺はほっと一息つく。

 

「それより、その……」

 

「ああ、そうだ。パンツだったな。俺のがそんなに見たいのか、しょうがねーなー蒼汰は」

 

 だが、ここにきて俺はふと気づく。

 

 見せるってどうやって……?

 

 今までパンチラを見られる事はあっても、自ら見せた事なんて無かった。

 

「……ええと、どうすればいいんだ?」

 

 思わず蒼汰に尋ねる。

 

「自分でスカートを(たく)し上げて見せて貰えないか?」

 

 蒼汰の要求は、なかなかにマニアックなものだった。

 女の子が自分のスカートを捲ってパンツを見せる、それ自体はすごく憧れる良いシチュエーションだと思う。

 でも、それは俺が見る側としてのものであって、見せる側というのは考えた事も無かった。

 だけど、蒼汰にスカートを(めく)られるのはもっと抵抗があるし、代案も思いつかない。他に選択肢は無さそうだ。

 

「わ、わかった……」

 

 俺はベッドから降りて傍らに立つ。

 椅子に座った蒼汰との距離は一メートルくらい。座ってる蒼汰と視線の高さがほぼ一緒だ。

 

「お前、縮んだなぁ……」

 

 感慨深げに蒼汰は言う。

 

「もう、身体測定で競う事も出来なくなっちまったな」

 

 以前の俺達は身体測定の都度どっちの身長が高いか競い合っていたのだ。最後に測ったときは、俺の方が蒼汰よりも数ミリ高かったのを憶えている。

 だけど、アリスとなった今の俺は頭一つ分よりもっと低くなった。測るまでも無く俺の負けなのは明白だ。

 そんなことでも少し寂しく思う。

 

「……それじゃあ、いくよ?」

 

 覚悟を決めて、俺は蒼汰に開始を告げた。

 



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◇神代蒼汰(男の浪漫)

「それじゃあ、いくよ?」

 

 覚悟を決めて俺はそう宣言した。

 血走った目をした蒼汰がコクリと大きく頷く。

 俺は赤いチェックが入ったプリーツスカートの裾を両手で握り込んだ。そして、その状態のままで固まってしまう。焦らしてやろうとかそんな意図はなくて、単純に動けないでいた。

 下半身に注がれる蒼汰の視線が強すぎて俺は顔を背ける。体はすっかり強張って、いつの間にか緊張で震えていた。

 

 ……なんでこんなことしてるんだろう?

 

 俺は、後悔していた。

 親友にパンツ見られるくらいどうということはない――と気軽に考えていたのだけど、自分から見せるというのは思いの外恥ずかしかった。

 だけど、今更やめるのも蒼汰に悪い気がする。そもそも、パンツ見せてやると言いだしたのは自分からだ。

 これくらい何でもないって風にこなさなければ、蒼汰との関係が微妙な雰囲気になるかもしれない。せっかく事情を話して以前のように親友として接することができるようになったのにそんなのは嫌だ。

 

「あんまり……見るなよな……」

 

 少しづつ両手に持ったスカートをたくし上げていく。太ももが冷たい外気に晒されて心許なさがさらに増す。

 視線を逸らしていても、刺さるような蒼汰の視線が俺の下半身に注がれているのがわかる。

 

「おおぉ……」

 

 蒼汰からこぼれた歓声で、ショーツが(あらわ)になったのがわかり、思わず動きが止まった。

 今日俺が履いているのは、薄いピンクに赤のストライプが入ったしまパンである。

 布地が小さくてキュッとした形状のかわいくて履き心地も良いお気に入りのショーツだった。

 

 だから、見られても恥ずかしい物じゃない……はず。

 

 俺は心の中で気合を入れて、スカートの裾を腰の辺りまで持ち上げた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「うぅ……」

 

 視線が熱い。

 顔をそらしていても蒼汰の視線がソコに注がれているのを感じる。内股になって足をすり合わせてみても、正面から晒している部分は隠せない。

 

「パンチラが至高でパンモロは風情がないって思ってたけど、こうやって見せて貰うっていうのもすげぇいいな……」

 

 見せているのが自分じゃなければ、同意していたんだけど……

 

「こんなにじっくりパンツを見るのは生まれて初めてだぜ」

 

「……翡翠のは?」

 

「あいつは家でもやたらガード堅いからな。洗濯は絶対俺や父さんと一緒にしないし、最近はなんだか俺を見る視線が冷たくて……そもそも妹のパンツなんて見ても嬉しくねーよ」

 

 優奈は家ではゆるゆるで割とパンチラしてたから同じ妹でも違うんだなぁ……まぁ、確かに興奮するとかはなかったけど。

 

「しかし、それだったら俺のだって見ても嬉しくないんじゃないか……?」

 

「うーん、妹のとはやっぱり違うだろ……上手く説明はできないけど」

 

 そんなものかね。

 でも、そうなると、蒼汰は今俺のショーツを見てちんこを大きくしているのだろうか……?

 俺は蒼汰の様子をチラ見してみる。座っているからはっきりとはわからないが、ズボンの股間部分はテントを張っているように見えた。

 

「お前今勃ってるのか……?」

 

 聞いてみた。

 

「わ、悪いかよ」

 

 ……勃ってるんだ。

 

「あ……いや……悪くはない……けど……」

 

 中身はともかく外見は美少女なのだから、そうなってしまうのは仕方ないのかもしれない。

 そのことに嫌悪感は無いけど、ちょっと複雑な気分だ。

 

「このパンツって自分で買ったのか?」

 

「うん。これは自分で選んだやつだけど……」

 

 なんでそんな事を聞くんだろう?

 

「……女の子が自分の下着を選んでる姿ってなんか興奮するよな」

 

「うわぁ……」

 

 思わず声が出てしまった。その思考はちょっとキモい。

 ……けど、少しだけ気持ちがわかってしまう自分が嫌だ。

 

「お前、俺以外の女子にそんな事言ったらドン引きされるからな」

 

「お前以外に言わねーよこんな事。しかし、お前下着売り場で買い物出来るのか……すげぇな」

 

「今の俺は女なんだぞ。そんなの当然だろ?」

 

 男を寄せ付けないパステルカラーの空間にももう慣れた。

 普段着ている制服は代わり映えしないので、その日の気分で下着を選ぶのは毎日のちょっとした楽しみになっている。

 

「……しかし、白じゃないのな」

 

 蒼汰は少し残念そうに言う。

 こいつは、女の子の下着は白がいいという意見を持っていた。

 

 清らかな肢体を純白の清廉な布地で覆われているのが素晴らしいという考えで、以前は俺も共感していた時期があったけれど、今になって思うと、とても童貞臭い主張だった。

 

「白は汚れが目立つから、普段履きにするのはちょっとね……」

 

 女の子の下着は汚れやすいのだ。

 

「よ、汚れ……」

 

 蒼汰が唾を飲む。

 女子高生の体から分泌されるあれやこれやを妄想する気持ちはわからないでも無いが……

 

「ええと、中身は俺だからな?」

 

 お前が妄想している相手はお前の親友の幾人だ。

 

「……それを思い出させるなよ」

 

 蒼汰は嫌そうに言う。

 

「いや、それは忘れたらダメだろ……」

 

 俺は溜息をついた。

 

「……そろそろ、おしまいでいいか?」

 

 俺がそう言うと蒼汰は慌てた様子で俺を止める。

 

「ちょ、ちょっとまって! もう少し近くで見せて貰っていいか? 頼む!」

 

 俺の返事を待たずに蒼汰が動く気配がする。どうやら、椅子から降りて、俺の前に座り込んだようだ。

 

「ちょっ、おまっ……!? ぜ、絶対触るなよ! 触ったら殺すから!」

 

 蒼汰の返事は無い。

 ちゃんと聞いてんだろうな? ……がっつきすぎだ、馬鹿。

 

「パンツについてるリボンって、なんかいいよな……」

 

 気持ちはわかる。ショーツに付いているワンポイントのリボンは控え目にお洒落を主張していて俺も好きだ。履くときに前後がわかりやすいのも機能的で良いと思う。

 

 でも、そんなことより……!

 

「ち、近い……近いってば、蒼汰!?」

 

 下手すると息が掛かりそうなくらいの距離に蒼汰の頭がある。持ち上げたスカートに隠れて蒼汰の表情は見えない。

 触られたりはしていないから、俺の言う事を守ってくれてはいるのだろう。だけど、今にも触れられるかもしれないって意識すると、とても落ち着かない。

 

 うぅ……食い入るように見られてる……

 

 触れられても居ないのに、視線を受けた体は電流が走ったかのように小刻みに震えた。

 体の内側が疼いて、ショーツの股布の内側がじんわりと湿る感触がして――俺は一気に青ざめる。

 

 やばい。

 

 自分からパンツを見せて感じているなんて、ただの変態だ。俺は、蒼汰が求めるから仕方なく見せてあげてるだけで、それに悦びを覚えるような性癖がある訳じゃない。

 

「もう、おしまい! 蒼汰、いい加減に離れてぇっ……くぅ……!」

 

 もし、今の状態を蒼汰に気づかれて、変な勘違いをされたりなんかしたら最悪だ。俺は慌てて蒼汰を引き剥がそうとする。

 

 そんなときだった、彼女は現れたのは。

 

「蒼汰! 縁側に靴があったけど、もしかしてアリスが来てるの!? ……!」

 

 突然、部屋の入り口の襖が、勢い良く音を立てて開かれた。

 そこに立っていたのは翡翠で、ベッドの横に立つ俺とはちょうど真正面に相対する形となる。

 

「よ、よぅ……翡翠」

 

 俺は翡翠に挨拶をする。スカートを自ら捲ってショーツを晒した格好のままで。

 

「こんにちは、アリス。今日はお洒落なショーツなのね、とても素敵よ……だけど、見せる相手は選んだ方が良いわね」

 

 頬を染め熱のこもった口調で俺の事を賞賛する翡翠。だが、視線の先がそちらに移った途端に、彼女の言葉の温度は氷点下を越えて冷ややかなものになる。

 汚物を見るかのようなその視線の先には、俺の下半身に張り付いたままの蒼汰の姿があった。あまりの自体に蒼汰は固まってしまっている。

 

「ち、違うんだ翡翠、これは……」

 

 俺は思わず言い訳する。スカートの裾を手放すと、パサッとスカートの端が蒼汰の顔に被さった。

 

「わかってるわ。悪いのはそこのゴミよね? どうしよう、まだ、粗大ゴミの日には早いのだけど……バラバラにしたら燃えるゴミで回収してくれるかしら」

 

 洒落にならない事を翡翠は言う。

 

 ……冗談、だよな?

 

 そう思った次の瞬間、翡翠は俺と蒼汰の間に割って入ると、蒼汰の顔を乱暴に掴んでスカートの中から引きずり出した。

 

「ちょ……誤解だ、翡翠! これはお互い合意の上でのことで……!」

 

「誤解かどうかは私が決めるから。状況証拠であなたは既に有罪、情状酌量の余地は無いわね。すでに、私の中の陪審員は全会一致で死刑判決を下しているわ」

 

 翡翠が掴んでいる蒼汰の頭がキリキリと締められているのがわかる。

 

「は、話を聞けよ! ……っていうか、いてぇ!? マジいてぇから!?」

 

「ちょっと、私はこのゴミを始末してくるから……戻ってきたら今度は私と続きをしましょう?」

 

 とびっきりの笑顔でそう言い残した翡翠は、頭を掴んだ蒼汰を引きずるようにして部屋から出ていった。

 

 ……こええ。

 

 ひとり蒼汰の部屋に取り残された俺は、力が抜けて蒼汰のベッドにストンと腰を下ろした。

 

『……危なかったですね』

 

 いたずらっぽくアリシアが話しかけてくる。

 自分から下着を見せるというアブノーマルな状況に体が反応してしまい、危うく蒼汰にシミを見られるところだった。

 アリシアにはそんな俺の状態も全部ばれている。

 

『……もう、二度と自分から見せるなんてするもんか』

 

 求められているからって、気軽に与えてはダメだ。

 野鳥に求められるままに餌をあげた結果、糞害で迷惑する人もいるのだ。

 ……ちょっと違うかな? まあいいや。

 とにかく、俺は反省した。

 

『……これからどうします?』

 

『蒼汰には悪いけど、翡翠が戻ってくる前に帰ろうか』

 

 今ので翡翠のスイッチが入ってしまったかもしれない。

 翡翠に捕まる前に撤退した方が安全だろう。

 

『それがいいかもしれませんね』

 

 俺は足音を立てずに忍び足で蒼汰の家からお(いとま)した。途中怒号や悲鳴のようなものが聞こえたような気がした。

 気のせいだ。空耳だよな、うん。

 



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放課後の呼び出し

 クリスマスイブ。

 その日は終業式があり、生徒会主催のクリスマスパーティがあり、そして、不良グループの集会とやらに蒼汰が呼び出されている日でもある。

 

 その前日の放課後、ラブレターで呼び出しを受けた俺は学校の屋上にやって来ていた。

 

 最近は告白されることも増えていたから、対応に割りと慣れてきてはいたのだけど、今日の呼び出しはそれらとはまた異なった趣《おもむき》だった。

 

 屋上に出た俺を片手に余る人数の男達が取り囲んでいて、さらに入り口を封鎖するように二人が物陰から現れたのだ。

 待ち構えていた男のうち何人かは見覚えがある。先日エイモックという男と一緒にいた不良グループの男達だ。

 

「ようこそ、如月さん」

 

 俺に話しかけてきたのは、不良グループの中で唯一優等生っぽい見た目をした男だった。

 圧倒的優位な立場を踏まえての物言いにはイラッとさせられる。

 

「手紙には告白したいと書いてたのだけど……これだけの人数に見守られていないと告白できないのは、いくらなんでも臆病すぎやしないかな?」

 

 俺の台詞に男は一瞬鼻白んだ後、すぐににやにや笑いを復活させる。俺の虚勢とでも思ったのだろう。

 

「その手紙は方便でね、告白するつもりはないんだ。今日は僕達と一緒に来てくれないか」

 

「……どうして? 集会とやらは明日なんでしょ」

 

「明日の集会を成功させる為にはゲストが重要でね。すっぽかされると痛いから、そう出来ないようにしておきたいんだ」

 

「なるほど。貴方達のような人間なら、他人を信じられないっていうのも仕方ないのだろうね」

 

「ふふ……その強気な物言いがいつまで続くかな? そうだ、明日は折角のクリスマスイブなのだから、僕達と夜通しで楽しもうよ。そして、その様子を撮影して神代に送りつけてやるんだ。最高に素敵なクリスマスプレゼントだと思わないか!」

 

「……この下衆野郎」

 

 俺を取り巻いている男達が下卑た視線で俺を見る。蒼汰からの視線は微笑ましく思えた俺だったが、こいつらの視線はただひたすらに不快だった。

 

「……これはエイモックってやつの指示なの? 確かあなた達は蒼汰を仲間にしようと考えてたんじゃなかったっけ」

 

 俺達に手を出したら蒼汰が仲間になる可能性は万が一も無くなる。奴がそんな指示を出すようには思えなかった。

 

「僕は神代に復讐をしたいんだよ……仲間だなんて冗談じゃない」

 

この男は蒼汰に個人的な怨みがあるようだ。蒼汰に潰されたという不良グループの前のメンバーなのだろうか。

 

「自分が原因で大切に想っている女がぼろぼろにされたのを知ったとき、神代はどんな顔をするんだろうなぁ……想像するだけで心が踊るよ!」

 

「なんとも下卑《げひ》た発想だね」

 

「お褒めに預かり光栄さ。それで、どうする? 大人しく僕達と一緒に来てくれるならそれでいいけど、そうでないときはこれに入って貰うことになる」

 

 男が視線を向けた先には業者っぽい作業服を着た男達が居て、縄と人が一人入りそうな細長いダンボールが用意してある。さらに、いつの間にか男達の何人かの手にはスタンガンが握られていた。

 どうやら、周到に誘拐する準備を整えているようだ。

 

「どちらもお断りだ」

 

「だけど、そう言う訳にもいかないんでね。それじゃあ、無理矢理来てもらうとしよう。恨むなら神代を恨む事だな」

 

 男が片手を軽く挙げて、俺に向けて振り下ろして周りの男達に合図する。

 それと同時に俺は身体能力向上(小)の詠唱を終えた。

 

『イクトさん、敵勢力は前方に六、後方に二、それから物陰に一の九人です。魔法の使用制限はどうしますか?』

 

『いざとなれば全力、それまでは認識しづらい物のみで』

 

『了解、バックアップします』

 

 飛びかかって来た男達の一人にこちらからも踏み込んで、すれ違いざまに男の股間にストレートの一撃を叩き込んだ。

その男はスローモーションのように崩れ落ちると、股間を抑えてひくひくと白目を剥いて横倒しに転がる。

 

 うわっ……痛そう。

 

 その男の様子に、今は無き股間が縮み上がる気がした。

 だが、こんな幼気《いたいけ》な女子に手を出そうとする非道な野郎に掛ける情けも余裕も今の俺には無い。

 

「この糞餓鬼!」

 

 四方から俺を捉えようと腕が伸びてくる。俺はそれらを躱し、あるいは掌底で払う。

 がに股になっている男の股の間に隙間を見つけて、スライディングの要領で体を滑らせた。

 くぐり抜けた先で、片手を付いて床を蹴り上げ、体全体を扇のように回転させて無防備な男の背中を浴びせ蹴る。男は前方に居た数人を巻き込んで倒れた。

 俺は蹴りの反動を利用して着地する。

 

『イクトさん、四時方向に敵です!』

 

 アリシアの警告に体が動き、右後方から迫るスタンガンを持った男の手首を、振り返りざまに手刀で払った。

 そのままの勢いで、勢い余った相手の顔面に回し蹴りを叩き込む。

 鼻がへしゃげる感触が脛《すね》にして、男は前のめった姿勢のまま崩れ落ちた。

 

 続けざまに俺の後ろに居たもう一人の懐に踏み込んで、真正面に迫る股間を蹴り上げ、意識を刈り取った。

 

「後六人だね……まだ続ける?」

 

 見ると先程巻き込まれて倒れていた男達が立ち上がっていた。

 彼等には先程までの嘲るような雰囲気は無く、得体の知れない物に遭遇した恐怖がありありと瞳に出ていた。

 ただ狩られるだけの犠牲者と思っていた小さな女生徒が、逆に牙を向いてきて、短時間で三人の仲間が戦闘不能になったのだ。彼等の理解の範疇を超えた出来事だろう。

 

「何してるんだよお前ら。相手は小さな女が一人だぞ!? 全員でやってしまえ! 捉えたらボーナスを出してやる!」

 

 優等生風の男に言われて、男達は気勢を回復させる。

 さっきから口だけで直接手を出してこない優等生風の男を除いても五人、まだまだ自分達が圧倒的に優位であると思い直したのだろう。

 

「……懲りないやつらだね」

 

 俺はスタンガンの使い方を確認しながら呟く。先程の男が落としたのを拾った物だ。

 シンプルな作りで親指の所のスイッチを押すとバチバチと電流が走る。

 

「それじゃあ、これを試させて貰おうかな」

 

 その俺の言葉を切欠にして、男達が俺に襲いかかって来た。

 

 結果として、スピードに勝り攻撃力に劣る俺にとってスタンガンはとても相性の良い武器だった。

 無理に急所を狙わなくても、体に押し当ててスイッチを数秒間押すだけで人が倒れる。リーチが短いのが若干しんどいが、有象無象相手になら問題にはならなかった。

 

 そして数分後、屋上に立っているのは俺と優等生風の男の二人だけになった。周囲には男達が気絶するかのたうち回っている。

 阿鼻叫喚の地獄絵図と言って良いだろう。

 

「二人っきりになったね」

 

 俺はその男に微笑んで言う。

 自分で言うのもなんだが、最高に素敵な笑顔だと思う。

 

「ひっ、ひぃ……!?」

 

 それなのに、笑顔を向けられたその男は恐怖で顔を歪めて後ずさった。

 俺はゆっくりと歩いて距離を詰めていく。

 後ろに下がっていた男はバランスを崩し尻餅をついた。

 

「な、なんなんだ!? なんなんだよオマエ……!?」

 

「私は如月アリスよ、知ってるんでしょ? ……そういえば貴方の名前はまだ聞いてなかったね」

 

 俺はその男に一瞬で近づくと、胸ポケットに入っている生徒手帳を奪い取った。

 その場で開いて中を確認する。

 

「ちょ……お前っ……!」

 

「……二年七組の鳳滝二郎ね、憶えたわ」

 

 俺は生徒手帳を投げつけて返す。

 

「それじゃあ、こんな事をしてくれた鳳先輩には、どんなお返しをすれば良いかな? 二度とこんな馬鹿な事を思いつかないようにしないといけないんだけど……」

 

「ひ、ひぃ……!?」

 

『イクトさん、禍根を断つ事はしないのですか?』

 

『この国では犯罪者相手でも殺してしまうと罪に問われるから。殺してしまうのは無しだね』

 

 野盗に襲われたら禍根を残さずに全滅させるのが異世界でのセオリーだった。だけど、日本で同じようにする訳にはいかない。

 

「も、もうこんな事はしない。だから、助けてくれ……!」

 

『イクトさん、エイモックという人との事を聞いて貰ってもいいですか?』

 

「エイモックって何者? 貴方とどういう関係なの。話して貰えるかな?」

 

「わ、わかった……」

 

 卑屈に微笑んだ鳳はやたら饒舌に語りだした。身内の情報を敵に漏らすといった意識は無いようだ。

 

「あいつは半年くらい前にコスプレのような服を着て繁華街を歩いていたんだ。当時リーダーが補導されて気が立っていた僕達はやつに絡んで、逆に不思議な力でボコボコにされた」

 

「……不思議な力?」

 

「普通では考えられないような身体能力に加えて、目に見えない黒い影のような刃物が襲って来て服や肌を切り裂かれた。やつは魔法と言っていたが、あながち嘘じゃ無いのかもしれないと思ってる」

 

「魔法……」

 

「やつの力とカリスマ性を利用出来ると思った僕は、僕達のグループの新しいリーダーになってくれないかとその場で交渉した。やつとの付き合いはそれからだ」

 

 半年前、コスプレ、魔法……やけにひっかかる単語が多い。

 

「やつの力とカリスマ性で僕達のグループは周囲のグループを取り込みどんどん大きくなっていった。明日の集会では地域のグループをすべて取り纏めたセレモニーになる予定なんだ」

 

 ……なるほど。大体聞きたいことは聞けた感じだ。

 

「だけど、神代の野郎を仲間になんて冗談じゃねぇ……! あいつのせいでアニキは院に行くはめになったんだ。だから……!」

 

「こうして、私を襲った訳ね」

 

 この行動はグループというよりこの男の私怨ということなんだろう。

 だが、こいつらの都合なんて知った事じゃない。それらが俺達に害をもたらすなら、容赦するつもりはない。

 たまたま狙われたのが俺だったから何とかなったものの、もし他の仲間が狙われていたなら取り返しのつかない事になっていた可能性は高い。

 

「……狙ったのは私だけなの?」

 

「俺は他には指示はしていない。エイモック自身が動いているかもしれないが、俺は知らない! もう、グループ本体は完全にやつの意思で動いてるんだ」

 

「……ちぃ」

 

 さっさとけりをつけて安否の確認を取った方が良さそうだ。

 

「二度と私達を襲う気にならないように体に刻みつけてあげる」

 

 俺はへたり込んで座っている鳳に手に持ったスタンガンを掲げてスイッチを押し、バチバチと放電する様を見せつける。

 

「ひ、ひぃ!? 勘弁してくれ……二度とお前達には手を出さないから!」

 

 鳳は恐怖に顔を歪めて言った。

 

「でも残念。貴方達は口約束なんて信じられないんでしょ? だったら私もその流儀に倣うことにするよ」

 

 俺は鳳にのしかかり、スタンガンを近づけていく。

 

「次にもし私達に危害を与えようとしたら、ここ潰すから……」

 

 男の股間にスタンガンをあてて俺は言った。

 

「や、やめてくれ! か、金か!? 欲しいならいくらでも出す! だから、それはやめてくれ!?」

 

「だーめ」

 

 俺はにっこり微笑むと、スタンガンのスイッチを入れた。

 悲鳴と共に鳳の体が跳ねて倒れる。どうやら意識が飛んだらしい。

 ズボンの股間部分が色濃くなって内側から液体が溢れ出てくる。ツンとアンモニアの匂いがする。

 

 俺はスタンガンを放り捨てて、友人達の無事を確認する為にスマホを取り出した。

 電話を掛ける前に思いついて白目を剥いている鳳の姿をカメラで撮影する。スマホに写真が残るのは嫌だったが、復讐を考えられないようにする為の保険は必要だ。

 

 俺は仲間達の無事を祈りつつ、まずは優奈にコールを掛けながら屋上を後にした。

 



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クリスマスイブ

 放課後に呼び出しされて襲撃された後、俺は部活動メンバー全員に連絡を取って安否を確認した。

 

 幸い狙われたのは俺だけだったみたいで、優奈、翡翠、蒼汰、涼花の全員何事も無いようだった。涼花を除いたメンバーは全員学校に残っていたので部室に一度集合してからそれぞれの家に帰る事にする。

 

 なお、涼花は知人のところに来ているとの事だったので、帰りには気をつけてと言ったところ、どうやら今日はその知人の家に泊まるとのことで安心して電話を切った。

 

 優奈と翡翠は随分俺の事を心配していたようで、部室に入るやいなや質問攻めにあった。

 

 彼女達からは警察に届けた方が良いと言う話も出たが、それはやめておいた。俺にとってこの程度の荒事よりも、警察や教師とやりとりの方がよっぽど気が重かったからだ。あれだけこてんぱんにしておけば、そうそうリベンジしようとも思わないだろう。

 

 それに、鳳の口から出た魔法という言葉が気になっていた。

 もし、エイモックが異世界から来た人間だとしたら、異世界の関係者としてエイモックがこの国で何をしようとしているのか確認しておきたい。

 

 また、異世界との行き来の手段があるのかどうかも気になるところだ。あちらに気軽に行けるようならアリシアの里帰りも出来るかもしれない。

 

 そして、翌日のクリスマスイブを迎える。

 

 今日は午前中終業式があるだけで、午後からは半休でそのまま冬休みになる。夕方には生徒会主催のクリスマスパーティがあり、それに参加する生徒も多い。

 

 冬休み前の最後のホームルームが終わって、クラスが気持ち昂ぶった開放感に包まれる中、俺はにやにやした微笑みを口に浮かべた純に呼び掛けられた。

 

「アリスー、お迎えが来てるわよぉー」

 

 言われて教室の入り口を見ると、下級生の教室の入口で所在なげにしている蒼汰の姿が目に入った。

 蒼汰がこの教室に来るのって文化祭のときくらいで、普段の教室に来るのは初めてのことだ。

 俺は普段より多い荷物を持って蒼汰の元に駆け寄る。

 

「どうしたの、蒼汰?」

 

 集合はお互い一度家に帰ってからのはずだった。……何かあったのだろうか?

 

「ちょっと……いいか?」

 

 どうやら、ここでは話しづらい内容のようだ。

 

「うん」

 

 俺が答えると同時に背後で黄色い声があがった。さっきから俺達は、教室中の視線を集めている。

 

 これって、イブのデートのお誘いに来たと思われているんじゃ……

 

 そのことに蒼汰も気が付いたらしく、慌てたように言葉を続ける。

 

「ち、違っ……おーい優奈、一緒に来てくれ。話がある」

 

「わかったよ、蒼兄」

 

 蒼汰の呼び掛けに優奈が親しげに答えた事で、周囲のざわつきが増した。聞こえてくる呟きの中には、姉妹丼とかいう不穏なワードが混じっている。一部の男子からはどす黒い嫉妬のオーラが見えるような気がした。

 勘違いが収まらない様子に俺と蒼汰は動揺を隠せない。

 

「おまたせ」

 

 だけど、そんな中にやって来た優奈は堂々としていて、周囲の視線を気にした様子は無かった。

 

「それじゃあ、部室に行きましょうか」

 

 そう言って蒼汰の後ろから出てきたのは翡翠だった。

 蒼汰を取り巻く女子が増えて教室の一部はさらに色めき立つ。翡翠は蒼汰の妹なんだけど、事情なんて知らないクラスメイトが大半だ。

 ハーレムとかそう言う声が聞こえてきて、男達の纏う嫉妬のオーラの濃度が増した気がした。

 

「お、おう……」

 

 教室の雰囲気から逃げ出すように蒼汰は廊下に出て、俺も小走りで後を追った。

 優奈と翡翠は動じることなくゆっくりと教室を出る。

 

 教室から出た俺達は、連れだって部室に向かった。

 

「……ふたりは平気なの?」

 

 今頃教室ではどんな話になっているのかと思うとうんざりする。さして気にした風もないふたりに俺は問いかけた。

 

「私はアリスと噂になるのなら別に構わない。むしろ事実にしてしまってもやぶさかじゃないわ」

 

 相変わらず翡翠はぶれない。

 と言うか、蒼汰とは兄妹だからそれ以上噂になりようが無い。

 

「騒がすだけ騒がせておけばいいの。どうせ、すぐに飽きるわよ」

 

 優奈は達観している。

 確かに優奈は噂になっても自身がばっさりと否定して長続きする事はなかった。

 俺も同じように否定しているはずなんだけどなぁ……解せぬ。

 

「……でも、いろいろ言われるのって気にならない?」

 

「後ろめたい事なんて無いのだから、堂々としていれば良いのよ。いちいち反応してたら相手を喜ばせるだけよ」

 

「……なるほど」

 

 しかし、未だに女子に取り囲まれてわいわい騒がれるのには慣れない。特に色恋沙汰に対する食いつきの良さは何なのだろう。

 

「アリスあなたね……そんなどうでもいい事より、これからの事を心配しなさいよ」

 

 そんなことを考えていたら、そう優奈から突っ込まれた。

 確かにその通りだ。

 

 優奈達にはこれから俺と蒼汰でエイモックと話をつけに行くと伝えてある。不良グループの集会に二人で乗り込むなんて事を言ったら卒倒しかねない。

 優奈と翡翠はこれから翡翠の家に一緒に行って、時間になったらおじさんに送迎してもらってクリスマスパーティに行く事になっている。

 

 そういえば涼花は部室に居るのだろうか? 電話で無事を確認したものの昨日から姿を見ていない。涼花には蒼汰から注意がいっているはずなんだけど……

 

 そんな事を考えているうちに部室に到着した。

 室内は無人で涼花は居なかった。

 なんとなくそれぞれの定位置になっている場所に座ると、全員が蒼汰を見る。

 

「それで、私達に話って何かあった?」

 

 どう言い出せばいいのか迷っているようで、蒼汰は幾分か困惑した表情になる。そして少し考えた後、蒼汰は口を開いた。

 

「……涼花は今エイモックの所にいるらしいんだ」

 

 蒼汰から開口一番告げられた内容は衝撃的だった。



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涼花の行方

「涼花が攫われた!?」

 

 俺達は思わず前のめりになって蒼汰に詰めよる。

 

「……多分そうじゃないかって思ってる」

 

 蒼汰から返ってきたのは微妙な言い回しの回答だった。

 

「涼花は昨日から家に帰ってないみたいなんだ。学校にも本人から休むって連絡があったらしい。さっき校門であった執事の安藤さんからその事を聞いたんだ」

 

「だけど、それでどうしてエイモックに攫われたってことになるの? 昨日の放課後に私が涼花に電話したときには特に異常は無さそうだったけど……」

 

「それに昨晩だって私達とスマホでガールズトークしてたわよ?」

 

 と俺の言葉に優奈が付け加える。

 部活動グループとは別に蒼汰を除いた女子四人でグループがあって、昨晩はそのメンバーでクリスマスのことで盛り上がっていた。

 

「もしかして、俺はぶられてる……?」

 

「ガールズトークだからね、男子には聞かせられない話もあるんだよ」

 

 涼花の恋愛関係の相談とか。

 

「お前が言うのか……まぁ、そんなことはいい」

 

 蒼汰は気を取り直して続ける。

 

「安藤さんに聞かれたんだ、『エイモックって人をご存知ですか?』って。今その人の所に居るから大丈夫だって話を涼花自身がしていたらしい」

 

「エイモックって、不良グループのリーダーよね。異世界人かもしれないっていう。涼花と知り合いだったの……?」

 

 翡翠が蒼汰に問う。

 

「安藤さんも初めて聞く名前だったみたいだったから、その可能性は低いと思う」

 

 涼花は執事の安藤さんのことを実の姉のように慕っていて、何でも相談している風だった。お泊りするような関係の知人なら安藤さんが知らないっていうのは確かに考え辛い。

 

「安藤さんも突然お泊りだなんて言い出した涼花に問いただしたみたいなんだけど、どうにも答えが要領を得ないみたいで……ぶっちゃけ、安藤さんには涼花は俺の所に居るんじゃないかって疑わてれた」

 

 まあ、一番疑わしいのは間違いない。涼花のお誘いに理性を保てている蒼汰を今は尊敬していた。

 

「だったら、何で涼花がそんな事を言ったんだろう?」

 

「攫われて言動を監視されてるとか……?」

 

 優奈が可能性を口にする。

 

「それにしてはエイモックの名前が会話に出て来てるみたいだし、昨日電話で話した涼花も自然体すぎる気がする……」

 

「名前が出たのはそいつからのメッセージかもしれないね。涼花の身柄を確保しているって蒼兄に伝わらない事には脅迫にならないんだもの」

 

「……そうかもしれないな」

 

 うーんと唸って、考え込む俺達。

 

「取りあえず、本人に電話してみたら早いんじゃない?」

 

 そんな俺達を見かねた翡翠が言った。

 

「それもそうだな。じゃあ、俺が掛けてみるよ」

 

 言うが早いか、蒼汰がスマホを取り出して操作する。さらに蒼汰が操作するとコール音が大きく室内に響き渡る。音声をスピーカーに切り替えたらしい。

 

「は、はい、涼花です! そ、蒼汰さん、どうかなされましたかでしょうか!? こ、今晩の予定ならフリーですの!」

 

 電話に出たのは普段通りの涼花だった。

 ……いや、これはクリスマスを意識していつもよりややてんぱってる涼花だ。

 素っ頓狂な声の調子に場の空気が弛緩する。

 

「……涼花、無事か?」

 

 蒼汰は涼花のお誘いを華麗にスルーした。

 涼花も俺達に聞かれてるとは思って無いはずだ。俺達の間にいたたまれない空気が流れる。

 

「え? あ、はい。わたくしは何ともないですけど……?」

 

「良かったぜ。しかし、涼花は今何処に居るんだ? 学校も休んだりして……安藤さんが心配してたぞ」

 

「えっと、わたくしは今知人の家にお邪魔しておりますの」

 

「もしかして、エイモックってやつの所か……?」

 

「蒼汰さんはエイモックさんの事、ご存知なのですの?」

 

「ああ……ちょっとな。それで、そいつと涼花とは一体どういう関係なんだ?」

 

「エイモックさんはお父様のお仕事の関係で昔から良くして下さった方ですの」

 

「そうなのか? 安藤さんはその人の事を知らないみたいだったけど……」

 

 蒼汰の疑問に涼花の言葉が途切れる。

 

「ええと……? おかしいですわね。鈴音とも面識はある……はずですけど……昔から、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいておりまして……あら? していた、ような……?」

 

 ガタン!

 

 涼花が携帯を取り落としたのだろう。大きな物音がスマホから聞こえて来た。

 

「どうした、涼花。大丈夫か!? 涼花! 涼花!!」

 

 物音がする。落とした携帯を拾っているのだろうか?

 物音が収まり、次に聞こえてきたのは涼花では無く別人の声だった。

 

「続きは(われ)が話そう」

 

 部室に高圧的な年齢不詳のバリトンボイスが響き渡る。一度聞いたら決して忘れない特徴的な言い回し。その声の主の名は――

 

「「エイモック!?」」

 

 予想外の相手に俺達は総毛立つ。

 

「神代蒼汰か。どうだ、考え直して我に従う気にはなったか?」

 

「誰がそんな気になるかよ! それより涼花に何をしやがった!」

 

「別に大した事はしてはおらぬよ。我の興味はこの女には無い。貴様が我との約束を違えず集会に来るならば、この女の無事は我が名を以って約束しよう」

 

「……本当だな?」

 

「我との約束が果たされぬ場合は、その限りではないがな」

 

「てめえ……もし、涼花に手を出してみろ。絶対に許さねぇからな」

 

「ふん……ハマコーの暴れ狼と呼ばれる貴様との余興、楽しみにしているぞ。我を失望させてくれるなよ」

 

「せいぜい首を洗って待ってやがれ」

 

「それでは、約束された地で祝福の時にまた会おうぞ」

 

「まて! ……最後にもう一度涼花と話をさせてくれ」

 

「……いいだろう」

 

 多少の間があって、やがておずおずとした涼花の声が聞こえてくる。

 

「蒼汰さん、わ、わたくし……何でこんな……」

 

 どうやらさっきの間に正気に戻ったようだ。現状を理解した涼花の声はあわれなほど震えている。

 

「……涼花、身体は無事か?」

 

「はい、わたくしは何もされてはおりません。だけど、どうしてわたくしは……」

 

「すまない、涼花。巻き込んでしまって」

 

「蒼汰さん、すみません。わたくしは、また蒼汰さんに御迷惑を……」

 

「いや、俺の責任だ。やつの狙いは俺なんだ」

 

「いいえ、蒼汰さんが狙われるようになったのはわたくしに関わったからです。ですから……」

 

「とにかく、俺が必ずお前を助けるから。だから待っていてくれ」

 

「……わかりました」

 

「クリスマスパーティ、一緒に行くんだろ?」

 

「……はいっ!」

 

「それじゃあ、また後で」

 

「蒼汰さん、ごめ……いえ、ありがとうございます。それでは、失礼します」

 

 プツリと音を立てて通話が終了する。

 空気は重く、誰も口を開かない。

 

 涼花が敵の手にある。その事実に心がざわめく。

 エイモックは手出しをしないと言っていたが、そんな口約束を信じられる根拠は何処にもない。

 

『……認識操作魔法』

 

 沈黙を破ったのはアリシアの念話だった。集合した時点でチャンネルは全員に設定済みだ。

 

「涼花は魔法で操られたってこと? 魔法ってそんな事も出来るの?」

 

『闇の系統に属する魔法になります。ですが、わたしも詳しいことはわかりません。使い手が少なく廃れてしまっている魔法ですから……』

 

「どうして? 人の心を操れるのって、いろいろ凶悪っぽい気がするんだけど……」

 

『人の心に影響を与える魔法は魔力消費が激しく、闇魔法の素質があっても祝福を得られないとまともに使えません。そして、闇の祝福を得られるのは極めて稀でしたので、研究される事も殆ど無かったのです』

 

 失われた魔法か……闇の神殿があった魔王領では研究も盛んだったのでは無いだろうか。

 エイモックは魔王の関係者なのか……?

 

『それに精神に干渉する魔法は魔力による対策が容易で、よっぽど魔力差がある相手じゃないと、そもそも効果が無いとも伝えられています』

 

 使い手が少なく燃費が悪い上にレジストも簡単……そりゃあ廃れる訳だ。

 

『ですが、全く魔力を持たないこの世界の人にとっては、とても危険な魔法です。状況から考えて涼花さんはその魔法を受けた可能性があります』

 

 あの感じからするとエイモックを親しい知人と誤認させたとかだろうか。だが、ふとしたきっかけで魔法が切れてしまうあたり万能ではないらしい。

 

「奴と戦闘になった際の影響は?」

 

『ありません。イクトさんには魔法抵抗力がありますし、蒼汰さんにも魔力障壁を張ることで影響は排せます』

 

「わかった。そのときは頼む」

 

『了解しました!』

 

「……さぁ、蒼汰。これからどうする?」

 

「とにかく涼花が心配だ。俺は今から準備してエイモックのところに乗り込もうと思う。翡翠と優奈は俺の(いえ)まで送って行くからそのまま(うち)に居てくれ。それで、幾人は……」

 

「もちろんついていくよ。もし奴が異世界人だったなら、私の力が必要でしょ?」

 

「おう……頼む」

 

 蒼汰はまだ少しだけ躊躇したようだった。女の体になった俺の事を気遣っての事だと思う。もし負けてしまったとき、女になった俺のリスクは男の蒼汰と比べて大きいからだ。

 だけど、負けるつもりなんて無い。

 

「私は異世界で魔王だって倒したんだから、大船に乗った気持ちで任せなさいって!」

 

 俺は蒼汰の背中を強めに叩いてそう言い放った。

 

 拳を握り腕を蒼汰に向けて掲げる。

 俺の意図に気づいた蒼汰は、同じく腕を掲げて拳を打ち合わせた。

 

 ……さあ、殴り込みだ!

 



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海に向かって

 エイモックによって指定された場所は、うちから徒歩で一時間程のところにある海水浴場だった。そこは、俺がこの世界に帰って来た場所でもある。

 この時期の海水浴場は閑散としているので、集会するには打ってつけの場所なのだろう。

 

 俺達は蒼汰の自転車に二人乗りして現地に向かった。

 最初はそれぞれ自転車で向かうつもりだったが、背丈ほどある杖を持ってふらふらと自転車に乗ろうとする俺の姿を見かねて、蒼汰が後ろに乗れと言ってくれたのだ。

 俺は横座りで右手に杖を抱え持ち、もう片手で蒼汰の腰に手を回して掴まって自転車に乗っていた。

 

「すまないな、蒼汰にばかり漕がせちまって」

 

 信号待ちで止まったときに、俺は蒼汰に話し掛ける。

 

「ん……気にすんな。それは戦いに必要な物なんだろ?」

 

 蒼汰は振り返ってそう答えた。

 俺は頷く。

 

「これは、魔法の魔力消費を抑えられる世界樹の杖さ。鉄よりも固くて軽いから打撃武器としても優秀なんだぜ!」

 

 俺は見せびらかすように手に持った杖を掲げた。

 

「おお、世界樹ってなんかすげー異世界っぽいな。幾人は見た事あるのか、世界樹?」

 

 蒼汰が目を輝かせて食いついてくる。そう言えば、こいつもファンタジーとか好きだったな。

 

「ああ、あるぜ……というか、登らされた」

 

 俺は遠い目をして思い出す。

 

「突風吹き荒れる中、身ひとつで枝を飛び移りながら魔獣と戦闘しつつ、数百メートルある世界樹を登っていくのは中々大変だったぜ……」

 

 俺の中でもう二度としたくない経験のトップ5には入るだろう。

 

「そ、そうか。大変だったんだな……」

 

 世界樹の杖はその際に手に入れた副産物だった。

 

「それじゃあ、その服にも何か効果があったりするのか?」

 

「おう……っていうか、そうじゃなけりゃ、わざわざこんな服着ねーよ……」

 

 今の俺が着ているのはアリシアが異世界で着ていた水の巫女の法衣だ。

 白をベースに装飾の施された短めのワンピースに、同じく白のガーターベルト付きニーソックス。清廉で神秘的なアリシアの法衣だった。

 

「この法衣は水の精霊神ミンスティアの加護が与えられているんだ。チェインメイルよりも防刃性能に優れていて、人の持つ魔力程度なら無力化する魔法耐性があり、さらに汚れや破損も自己修復する逸品なんだぜ」

 

 継続して人に与えられる祝福とは違い、一度物に与えられた祝福はこの世界でも消えないらしく、これらの特性は失われていなかった。

 

「……なんかすげぇんだなそれ」

 

「むこうでは、一式揃えるのに余裕で家が建つくらいの価値があるみたいだぜ」

 

「マジか……」

 

 こっちの世界では規格外過ぎて値段をつけられないだろうとは、性能を検証した父さんの台詞だ。

 

「ちなみに耐熱防寒機能もあるから、本当はコートも要らないんだけどな……」

 

 今の俺は法衣の上から通学に使っている紺色のダッフルコートを羽織っていた。

 

「流石にそれはどうよ……」

 

 地方都市の郊外の道を走る格好として、コスプレ紛いの巫女の格好は違和感ありまくりだ。クリスマスのイベントか何かだと思って貰える分、平日よりはまだマシだとは思うけど……

 

『……でも、なんだか懐かしいですね』

 

 感慨深げにアリシアが話しかけて来る。念話は蒼汰にも繋いでいる。

 

『そうだな。俺が巫女の姿でこの道を逆に歩いて帰ったのって、まだ半年前の事なんだよなぁ……』

 

 ここ半年は異世界での一年に勝るとも劣らない刺激的な経験が続いていた。

 最初は違和感ばかりだったこの体にも、今は随分と馴染んだ気がする……毎月訪れるアレにはまだ慣れないけど。こればかりは、もうずっと付き合って行くしか無いのだろう。

 

『しっかし、冬の海岸は寒そうだな……アリシア、前にも話したけど来年の夏は海に行こうな』

 

『それは、とても楽しそうですねぇ』

 

『……お前ら、これから敵の只中に攻め込むってのに余裕だな』

 

 蒼汰は呆れたような口調で言った。

 

『異世界では四六時中気を抜いたら命を狙われるような事が日常茶飯事だったからな……適度に緊張を抜く事にも慣れたよ』

 

 緊張しっぱなしだと心が持たない。襲われたら直ぐに動ける状態を維持しながら緊張を抜く方法は戦いの中で自然に身につけた。

 

『幾人、お前はあっちで相当な経験をしてきたんだな……』

 

『……まあね』

 

 移動時に過剰に周囲を警戒してしまう癖は、日本に帰ってきて半年経つ今でもまだ抜けきっていない。

 

 信号が青に替わり、俺達は再び漕ぎだした。

 

『涼花、必ず助け出そうな』

 

『おう!』

 

   ※ ※ ※

 

 海岸に続く唯一の道路を誘導灯を持った不良っぽい風体の男達二人組が封鎖をしていた。

 蒼汰が自転車を停めると男達は威嚇するように近づいてくる。

 

「ここから先は今日は俺達ウロボロスの貸切だぜ!」

 

「関係者以外は立入禁止だ。カップルでいちゃつくなら別のところへ行きな!」

 

 男達は俺達を追い払うように誘導灯を振る。

 

「俺はお前らのボスに招かれてるんでな。不本意だが一応は関係者ってことになると思うぜ」

 

「……お前はヒラコーの暴れ狼!? てめぇ、良く俺達の前に顔を出せたな……ぶっ殺してやるっ!」

 

「待てよ。エイモックさんからこいつが来たら通せと言われてるだろ?」

 

「だけどよぉ……!」

 

「……やるのか、やらないのか? 俺はどちらでもいいぜ」

 

「こいつ、調子に乗りやがって!」

 

「落ち着けよ。エイモックさんがこいつを呼んだのは公開処刑する為だって言ってただろ? 俺達の恨みはエイモックさんが果たしてくれるさ……ほら、行けよ。いきがってられんのも今のうちだぞ」

 

 そう言うと、不良達が道を開けた。

 再び自転車に乗って、俺達は不良達が待ち構える海水浴場の敷地に入った。

 



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エイモックの正体

 海水浴場の中は完全に別世界だった。

 夏は海水浴客で賑わうのであろう広々とした駐車スペースには、派手な髪や格好をした集団が幾つかに分かれて集まっていて、合計で軽く百人を上回る人数が居るようだった。

 どの集団も中心にはバイクが据えられていて、派手な旗が掲げられている。周りを取り囲む男達(一部女達)は皆ヤンキー座りで、周囲にある他の集団にガンを飛ばしていた。

 どうやら、それぞれのグループは友好的な関係では無いらしい。この人数に一丸となって襲われたら流石にどうしようもないので少しだけほっとした。

 

『涼花はどこにいるんだ……』

 

 俺は涼花の姿を探しながら、念話で蒼汰に話しかける。

 念話にしたのは、改造されたバイクの異様な排気音で、大声を出さないと声が届きそうになかったからだ。

 

『涼花が居るなら、エイモックの野郎の居るウロボロスだと思うんだが……見分けがつかねぇな』

 

『しかし、なんでわざわざクリスマスイブにこんなに集まるのかねぇ……』

 

 この中には恋人と過ごしたかった奴もいるだろうに。こんな日を指定したエイモックは傍迷惑な男である。

 

『……全くだな』

 

『それにしても、俺達の場違い感が凄いな』

 

 通学用の蒼汰愛用のママチャリ(蒼海丸)を真ん中に、普通のコート姿の俺達は、この空間では逆に異質で目立ちまくっている。

 だけど、視線を感じるのはそれだけではないようだ。普段であればもっぱら注目を浴びるのは銀髪の俺だったが、この場では蒼汰の方が人目を引いている。

 

『お前、この界隈では有名なんだな……なぁ、ヒラコーの暴れ狼さん?』

 

『うげ、やめろよ……そっちがそのつもりなら、俺だってお前の事を純白の妖精さんって呼ぶぜ?』

 

『……うん。互いを傷つけあうのは不毛で無益な行為だな、やめよう』

 

 そんな話をしていると、駐車場の脇にある少しだけ高くなった石造りの簡易ステージの周辺がざわついている事に気がついた。

 そちらを見るといつの間にかステージの上には見覚えのある人影。

 

「……エイモック!」

 

 ステージの中央に一人立っているのは、金髪碧眼が印象的な男エイモック・ハルトールだった。

 以前見たジャラジャラとした格好と違い、黒をベースに金色の刺繍で飾りつけられた神官のような荘厳な服を着ている。

 

『イクトさん、リョウカさんです! エイモックの右後方の集団の中に居ます!』

 

 アリシアの言葉に俺がエイモックの後方を注視すると、不良グループの集団があって、その中に明らかに不釣り合いなお嬢様の姿を確認できた。

 不良グループの構成員らしい派手な格好の少女に手を摑まれてはいるが、一見乱暴されたような形跡はない。流石に表情は強張ってはいたが……

 

「涼花!」

 

 蒼汰が大声で呼びかけると、俺達の姿に気づいたらしい涼花が顔を綻ばせた。口が動いて何かを言っている、多分「蒼汰さん……」だろう。

 

 ……待ってろ、俺達が必ず助けてやるからな。

 

(われ)はウロボロスの現代表であるエイモック・ハルトールだ。我は今、諸君らの頭の中に直接語りかけている』

 

 脳内に響くエイモックの声。

 

『念話……!?』

 

 アリシアの驚いた声が、同じく脳内に響く。

 広場に集まった群衆は皆戸惑いざわついている。エイモックは、ここに居る全員に念話で話し掛けているようだ。

 

『――此度は我の呼び掛けに応じ、良くぞ集まってくれた。大儀である。諸君らに集まって貰ったのには他でもない。我の手伝いをして欲しいのだ』

 

 独特の抑揚の大きい口調でエイモックの演説が始まる。相変わらずの傲岸不遜な物言いは、まるで臣下に対する君主のような態度であった。

 

『――この世界は退廃に満ちている。物と人が溢れ理想郷と言っても良い世界だと言うのに……何故か!』

 

 俺はエイモックの演説を聞き流しながら、蒼汰に涼花を救う打ち合わせをしようと蒼汰の様子を覗う。

 だが、蒼汰はぼんやりとエイモックを見ていた。

 

『いけない! イクトさん、蒼汰さんに魔法障壁を!』

 

 アリシアに言われて俺は慌てて魔力障壁を詠唱し、蒼汰の腕に触れて魔力障壁で蒼汰を包む。

 とたんに蒼汰の瞳は正気を取り戻す。

 

『……俺は、いったい?』

 

『エイモックは念話に魔法を乗せています。範囲が広いので洗脳とまではいきませんが、緊張が解されて話を受け入れやすい状態にする効果があるようです』

 

 これがエイモックの魔法か。やはり、魔力の無いこの世界の人間にとってこいつの魔法は危険だ。

 

『――それは、この世界に神が失われて久しいからだ! 神の祝福を失ったこの世界は迷走し救いを見出すことが出来ずにいる。諸君ら若人は迷い、悩み、苦しみ、そこから逃げ出すように日々の享楽にその身を任せているのだろう』

 

 エイモックの演説は続いている。新興宗教の教祖のような怪しげな説法を周囲の不良グループのメンバー達は声を荒げる事もなく大人しく聞いている。それだけで、明らかに普通じゃない光景だ。

 

『迷い、悩み、苦しみ、その全てをこの我、エイモック・ハルトールが受け入れる。そして、諸君らには答えを与えよう』

 

 ……全く余計なお世話だ。

 

『――聞けば今日は神の子の生誕を祝う日だという。今日この日、我が諸君らに誓おう。神に見棄てられたこの地に、我が真の神の祝福をもたらす。そして、かつての神にかわり、真の神の代弁者たる我がこの世界を導く救世主になると!』

 

 確かに異世界に神はいたが、意思は無く純粋な力としての存在だと俺は知っている。善か悪かを決めるのは扱う者の資質に関わるものだ。

 

水の精霊神(ミンスティア様)の巫女としては、あのような男に神の意思を語って欲しく無いですね……神との語らいは本質的には自身との語らいであって、他人を従わすようなものではありえません』

 

『――喜び祝え! 我は神の使徒なり。今宵、この場から我、エイモック・ハルトールがこの世界の救済を創める』

 

 一人に全てを委ねる事の危険、それは俺達の世界が過去の経験から学んだ教訓だ。

 だから、こいつがこの世界でそんなことを始めようというのであれば、異世界の関係者として俺はそれを止めなければならないと思う。

 

『――諸君らには使命を与えよう。この世界に我の声を届ける救世の伝道者となる栄誉ある役割だ。我が率いるウロボロスに合流し我と共に栄光の道を歩もうぞ! 異議ある者は声をあげよ』

 

 その言葉に反応して数人の男達が動き出す。

 

「さっきから聞いてたら神だの何だのふざけた事言いやがって……下らねぇんだよ! 俺達はお前らウロボロスをぶっ潰しに来たんだ。なぁ、お前ら!」

 

「お、俺は……」

 

 だが、男達の中には先程のエイモックの演説に心を動かされた者も多かったらしい。最初に声をあげた男に対する他のメンバーの反応はぎこちないものだった。

 

「ちぃ……くだらない戯言に惑わされやがって! こんなペテン師野郎、俺が化けの皮を剥いでやる!」

 

 男は舞台に上がる。他のグループからも同じように考えた数名が続けて舞台に上がって来る。その男達の中にはナイフや木刀等の武器を手に持っている者も含まれていた。

 

「エイモックさん……!」

 

 壇上の後方に控えていたウロボロスのメンバーらしき男達が割って入ろうとするのをエイモックは手で制した。

 

「よい。我の力を信じられないが為に従わない者も居るだろう……我が相手をしてやる。全員で掛かって来い」

 

「てめぇ、どこまでもふざけやがって! 後悔させてやる!」

 

 その言葉を合図に男達は一斉にエイモックに襲いかかる。

 次の瞬間、エイモックの足元から異変が起こった。

 エイモックの影から黒い塊が飛び出してきて、腕ほどの大きさに何本にも別れて伸びていく。

 持ち上がった影は蛇が鎌首をもたげるようにしなり、襲撃者を威嚇する。

 

「変なトリック使いやがって……!」

 

「トリック……? 違うな、これは神の奇跡だ」

 

 エイモックが指をパチンと鳴らすと影が四方八方に伸びて襲撃者を逆に襲っていく。勢いのある黒い影が男の腹に当たるとバットでも打ち付けられたかのように鈍い音がして、男の体がくの字に折り曲がって吹き飛んだ。

 

「ちくしょおおお! ふざけんなぁああ!」

 

 その男は闇雲に武器を振るって蛇のように延びる影を払う。だが、払われた影はトリッキーな動きで方向を変えて男の背中を穿ち、男はゆっくりと倒れた。

 

 それでも、まだまだ襲撃者の方が人数が多かった。その中でも勇猛な男が影の合間を縫って、棒立ちしているエイモックに果敢に襲撃をしかける。

 

「死ねぇ!」

 

 男が振りかぶった拳は、だが、振り下ろされる事なかった。

 常人では考えられないような速度で、エイモックが動いて拳の一撃を男のボディに叩き込んだのだ。

 男はそのまま硬直し、力なく崩れ落ちる。

 

「……ひ、ひぃぃぃ!? お前、いったい何なんだよ!?」

 

 男達の大半は瞬く間に影に瞬殺されてしまい、残った男達は完全に戦意を喪失していた。

 

「神の奇跡だと言っている。これぞ、神が我に与えたもう力の一部だ。闇の神ダクリヒポスが神官、エイモック・ハルトール・ダクリヒポスにな!」

 

 そう高らかにエイモックは宣言した。



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聖夜の決戦(対峙)

『闇の神官……!?』

 

 エイモックの宣言にアリシアが驚きの声をあげる。

 風火水土の四大属性にはそれぞれの属性神を讃える神殿がある。神殿では人々に祝福を授ける為に、神官か巫女が一人選ばれる。アリシアもそうして選ばれた巫女だった。

 そして、光と闇の神殿は人々の記憶から忘れ去られていて、神官も巫女も存在しない……そのはずだ。

 現に俺が闇の神殿で祝福を受けたとき、神殿は無人だった。

 

『これこそ神より賜りし力なり。この力で我はこの国に変革をもたらす。異議ある者は力で示せ、我に従う者は頭を垂れよ!』

 

 エイモックの言葉に周囲に戸惑いが広がる。やがて、膝をついたり土下座したりとばらばらに不良達が頭を下げて恭順の意を示していく。

 それは、とても異様な光景だった。

 

『洗脳効果は薄いはずじゃなかったのか……?』

 

『少し甘く見すぎていたかもしれません。ここまでとは……』

 

 しばらくすると、その場で立っているのはエイモックと俺達二人だけとなった。

 

『……ほう、貴様はまだ我に屈せぬか、カミシロソウタ。流石、我が見込んだ男よ』

 

 俺達の姿を確認したエイモックが念話で話し掛けてくる。

 

『それでは余興を始めるとしよう。壇上に来るがよい』

 

 腕をふるう大げさな仕草でそうエイモックが蒼汰を促す。俺達はお互いを見て一度大きく頷くと、不良達がひれ伏す駐車場を歩き出した。

 石造りの簡易ステージは、長い辺が十メートルくらいの長方形をしている。今そこに立っているのは俺達とエイモックだけだ。

 相変わらずステージの周囲では不良達が頭を下げたまま固まっている。

 

「よく来たな、カミシロソウタ。以前のウロボロスが崩壊した原因である貴様を倒して我が力を示し、それをもって救世の狼煙をあげることにしよう」

 

 エイモックは念話を止めて話し掛けてくる。いつの間にかバイクの排気音は止まっていて、会話をするのに支障は無くなっていた。

 

「それよりも、俺は約束は守ったぞ。涼花を直ぐに解放しろ!」

 

「……よかろう」

 

 エイモックが指を鳴らすと、ステージの裏に居るウロボロスの集団の中に居て、周囲と同じようにひれ伏していた涼花が跳びあがって体を起こす。

 涼花は目を白黒させて視線を彷徨わせた後、俺達の姿を確認して一直線に蒼汰に駆け寄ってくる。

 

「蒼汰さんっ!」

 

 涼花はそのまま蒼汰の胸に飛び込んだ。

 

「ごめんなさい、蒼汰さん! ……わたくし、わたくしはっ!」

 

 感情が溢れて止まらない涼花の頭をぽんぽんと撫でて、蒼汰は涼花を落ち着かせようとする。

 

「涼花、大丈夫だ、わかってるから……お前は悪くない。だから、気にすんな」

 

 二人の様子を傍目で見守りながら、俺はエイモックに向き直る。今のうちにこいつに確認しておきたいことがあった。

 

『イクトさん、わたしに話をさせて下さい』

 

 アリシアが俺にそう言った。

 俺は頷いて、念話の対象にエイモックを加える。

 

『エイモック・ハルトール・ダクリヒポス!』

 

 念話で名前を呼ばれたエイモックは、その余裕たっぷりの表情の中に初めて驚きの感情を見せた。

 

「念話、だと? お前は……学び舎に居た女……?」

 

『わたしの名前はアリシア・ヘレニ・ミンスティアあなたと同じ世界から来ました』

 

 アリシアの名乗りに合わせて俺はコートを脱ぎ捨てた。下に着ていた白い薄手の法衣が冬の寒空の下に曝け出される。

 

「その法衣、そして我と同じく精霊神の御名を名に連ねる事を許された者……そなた、よもや水の巫女か」

 

『……あなたは本当にダクリヒポス様の神官なのですか? 闇の神殿は打ち捨てられ無人でした。そもそも魔王領にある神殿で人が生きられるはずがありません!』

 

「我の一族は代々魔王様に従い魔族の祝福を得る助けをする事で家系を繋いできた。神殿が無人なのは神官が生きていれば神殿は不要ということで打ち捨てられたからだ」

 

『あなた方は、人類に仇なす魔王に協力していたと言うのですか!?』

 

「我らの先祖は光の信者に迫害され、かの地に逃れてきた。故に我らが人類に義理立てする義務など無い。寧ろ我らに庇護を与えてくれた魔王様に協力し恩を返すのが、人としての常道ではないか」

 

『……ですが!』

 

「まあそれはよい……いずれにしろ終わった事だ。魔王様も勇者に討たれ、我が一族郎党の行方は知れず……まあ、あちらの世界に居たならば魔王様に協力した罪で晒し首であろうが」

 

『……あなたの事情は理解しました。わたしは貴方を裁く権利も意思もありません。ですが、精霊神に仕える身でありながら人々を煽動し、あまつさえ、この国の転覆を図るのであれば同じ神に使える者として見過ごすことは出来ません。あなたはどうしてこのような事を!』

 

「神に仕えるからこそ、だ。神の祝福無きこの世界に我が救済をもたらそうと言うのだ」

 

『そんな事は余計なお世話です。この世界は試行錯誤を繰り返し、今の国の形を作り出しています。完璧な物という訳ではありませんが、部外者であるわたし達が安易に引っ掻き回していいようなものじゃありません!』

 

「神に見放された民が己が力で国を治めんとする努力はいじらしいものがある。だが、我がこの世界に来たからにはもう心配は無用だ。今後は我が民を導く標となろうぞ」

 

『どうしてそんなに上から目線なのですか! わたしたちがこの世界の住人と何の違いがあるというのです!』

 

「我は神の代弁者である。神に祝福されし我が祝福無き民を従え救済をする……それは自然かつ必然ではないか」

 

『そんなの間違ってます! 祝福の有無で人に優劣など存在しません!』

 

「我はそうは思わぬ。もし、そなたが我に異議があるならば、力で我を止めてみせよ……そうだ、賭けをしようではないか」

 

『賭け……?』

 

「我らが闘い貴様が勝利すれば我はこの世界への干渉を止めよう」

 

『……本当ですか?』

 

「我に二言は無い。必要であれば誓約の魔法を使っても良い」

 

 誓約の魔法。互いに宣誓をして使う事で、その誓約に反する行為を出来なくする魔法だ。誓約に反する行為をしたときは廃人になると言われている程の強制力がある。

 

『それで、貴方が勝った場合は……?』

 

「我が勝利した暁にはそなたを貰う」

 

『……なっ!?』

 

「丁度憂いておったのだ、我が王となっても正当な血筋を残せぬ事をな。巫女であれば魔力も血筋にも不足は無い。我が妻となり子を成す栄誉をやろう。どうだ、悪い話では無かろう?」

 

「ふざけんな! 誰がお前なんかに!」

 

 俺はエイモックに向かって思わず叫んだ。手に持った世界樹の杖を突き付けてエイモックを威嚇する。

 

『……イクトさん。ここはわたしに任せて下さい』

 

 エイモックに届かないような小声でアリシアが話しかけてくる

。俺は一瞬逡巡してから小さく頷いた。

 

『その賭け受けましょう。では、誓約の魔法を』

 

「……よかろう」

 

 エイモックが指を鳴らすと俺とやつの間の空中に羊皮紙と羽ペンが現れた。

 

「我、エイモック・ハルトール・ダクリヒポスは誓う。我がこの闘いに敗北した暁には、我はこの世界への干渉を止めると」

 

 ペンが自動的に動いて、口述した内容が異世界の文字で羊皮紙に書き込まれていく。

 

『わたし、アリシア・ヘレニ・ミンスティアは誓います。わたしがこの戦いに敗れたときには、わたしはエイモック・ハルトール・ダクリヒポスに隷属し彼の者に従うと』

 

 同様にアリシアの誓った内容も羊皮紙に書かれていく。

 一抹の不安を感じながらも俺はアリシアに委ねて成り行きを見守る事にする。

 

『イクトさん、右手をまっすぐ紙に伸ばして下さい』

 

 アリシアに言われるまま、俺は杖を左手に持ち替えて、右手を伸ばした。

 

「『誓約(コントラクト)!』」

 

 次の瞬間羊皮紙が光り輝いて粒子に別れて消えていく。

 その様子を見てエイモックは満足そうに笑う。

 

「くっくっくっ……これは予想外の収穫だ。まさか、我が手に水の巫女を得られるとはな!」

 

「……まだ、戦ってもいないのに随分な自信だね」

 

 ちなみに勝っても得られはしないのだけど。

 アリシアの掛けたペテンに気づいた俺は苦笑する。

 今誓約したのはアリシアであって俺では無い。

 だから、もし敗北してエイモックに隷属する事になったとしても、体のないアリシアには何もできない。そして、体を動かす俺は誓約の影響は一切受けないのだ。

 どちらにしても負けるつもりなんて無かったが。

 

「……ちょっと待てよ。エイモックとやるのは俺のはずだろ? 何勝手に話進めてんだよ」

 

 涼花を落ち着かせて離れさせた蒼汰が、俺達の会話に割り込んでくる。

 

「悪い蒼汰、こっちも因縁があるみたいでさ。私に先譲ってよ」

 

「お前、負けたらあいつのものになるってんだろ……? そんなの黙って見てられるかよ!」

 

「そんな事言われても……」

 

 俺達の様子を見てエイモックは余裕の笑みを浮かべて言う。

 

「構わぬ、二人一緒にかかってくるがいい。少しは楽しめる余興ななりそうだ」

 

 エイモックのその言葉を受けた蒼汰は渡りに舟とばかりに乗っかる。

 

「それじゃあ、遠慮なく行かせて貰うぜ。後悔すんなよ!」

 

「ちょっ……蒼汰!」

 

「負けられない戦いなんだろう? 四の五の言わず一緒にやろうぜ幾人」

 

 今の突っかかりは確信犯か。エイモックの性格ならさっきのような状況なら、二人共相手してやると言いそうだ。

 蒼汰が魔法全開の戦闘にどこまでついて来られるのかはわからないがその気持ちは嬉しかった。

 

「ああ、わかったよ……頼むぜ相棒」



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聖夜の決戦(戦闘開始)

 俺達はステージを挟んでエイモックと相対する。

 

「俺達には得意の精神操作は効かないぜ?」

 

 俺は口調を幾人に戻してエイモックを挑発する。

 女口調も自然に出てくるようになったけど、戦いに際しては本能を剥き出しにする本来の俺の口調の方がしっくりくる。

 

「精神操作が闇魔法の本質とでも思ったか? 闇が司るは破壊の力、本当の闇魔法というものを見せてやろう」

 

 以前の俺は闇の祝福を受けていたが、神官が居なかった為に闇魔法の教授を受けていない。その為、闇魔法の知識は敵が使ってくる魔法を幾つか見知っているくらいだ。

 

『いずれにしても祝福の無いこの世界では、大規模な魔法は使えないはずです』

 

 アリシアが念話で俺と蒼汰に現状を伝える。ちなみに、エイモックとの念話は既に切ってある。

 

『魔法を牽制に使いつつ物理戦闘を行うのが基本になると思います。相手の手札が見えるまでは、やられない事を第一でいきましょう』

 

『『おう!』』

 

 俺は自分に身体能力向上(インクリスフィジカル)(小)を詠唱して臨戦態勢に入る。

 対峙するエイモックは先程同様に影を操作する魔法を使っているようで、足元の闇が隆起して鎌首をもたげたヘビのように俺達を威嚇していた。

 

「影の手数は厄介だな……まずは牽制するか」

 

 俺は魔法を詠唱する。一メートル程長さの氷の槍が五本、俺の周囲の空中に現れた。

 

「いくぞ、氷の槍(アイスランス)!」

 

 俺の言葉に応えて、エイモックに向けて一直線に槍が放たれた。

 

「ふん、そんなもの……!」

 

 エイモックが腕を真っ直ぐ前方に伸ばすと、エイモックの足元の闇が左右から多数伸びてきて、エイモックの前方をすくい上げるように半円を描き格子を作りあげた。

 俺の放った槍は全て闇の格子に当たり、弾かれて爆ぜる。

 

 視界が氷片で満たされたその一瞬、俺は大地を蹴って一気にエイモックとの間合いを詰める。そのままの勢いで、目の前に広がる闇の格子を長く持った世界樹の杖で大上段で斬りつけた。

 目の前の闇はバターを切り裂くようにあっさりと引き裂かれて、間近にエイモックの姿が迫る。

 

「もらったぁ!!」

 

 さらに一歩踏み込んで、横薙にエイモックに杖を叩きつける。

 打ちつける手応えがして、だが、俺の一撃はエイモックの腕に阻まれていた。

 ただ腕で防いだだけなら、腕の骨の一本も持っていけたのだろうが、エイモックの腕は暗い焔のようなものに包まれていて有効打にはなっていない。

 

「……我の影を引き裂くか」

 

「これは世界樹から作られた杖でね、光属性の加護がついてるのさ……その腕のは打ち消せなかったみたいだけどな」

 

「この闇の腕(シャドウアーム)は我の暗黒格闘術が真髄、闇を纏う概念武装である。容易く消せるなどとは思わぬ事だ」

 

「これはまた、厨二病を拗らせたような武器だこと……っとぉ!」

 

 袈裟がけに一撃、さらに振り子のごとく返して一撃、常人の目には止まらない速度での連撃を加える。

 だが、その全てはエイモックの暗く燃える腕によって防がれていた。

 当たり前だが、俺と同様にエイモックも身体強化を使っているようだ。故に身体能力の優位性は無く、逆に体が小さい分劣っていると言っていいだろう。

 絶え間なく何度も打ち込んでいるが、いずれも完全に捌かれてしまっていた。

 

『イクトさん、踏み込みすぎです! 一度引いて態勢を立て直しましょう!』

 

 アリシアの言葉を受けて俺は一旦脚を止める。狭窄してた視野が戻り、視界の端に動く気配に気付く。

 

「……ちぃっ!」

 

 俺は後方に飛んだ。先程まで俺が居た場所を影の槍が連なって突き刺さる。

 少し遅れて来ていた影が方向転換して、空中でバランスを崩している俺に向かってくる。

 

「やばっ……!」

 

 杖で薙ぎ払おうにも空中では満足に振るえない。

 眼前に影が迫ってくる。

 

「させるかよぉぉ!」

 

 次の瞬間、視界に飛び込んで来たのは、木刀を手に突っ込んでくる蒼汰の姿だった。

 

 俺に殺到していた影の群れに身体ごとぶつかる蒼汰。横からの衝撃を受けて影の軌道が明後日の方向に逸れた。

 俺達はエイモックから少し距離を置いて背中合わせに立つ。

 

「さんきゅー蒼汰、助かった」

 

「馬鹿、一人で突っ込みすぎだ」

 

「……わりぃ」

 

 こうして、背中合わせに話している間にも、腕くらいの太さの影が四方八方から襲って来る。

 単体の脅威はそれほどでもないが、数が多く鬱陶しい事この上ない。

 俺達は念話で手短に意見を交換する。

 

『とはいえ、正直幾人とエイモックとの戦闘は目で追うだけで精一杯で、俺が混じっても逆に足を引っ張り兼ねないな……どうする? やつは相当つええぞ?』

 

『いろいろやって隙を付くしかないさ。人の魔力で強化できるのは身体能力くらいで、防御は普通の人と大差無いはずだ。だから、一撃でも当てられたら、それで決着がつく可能性も十分ある』

 

『……逆に言うと一撃食らったら、それが致命傷になりかねないってことか』

 

『やられる前にやるしかありませんね。使える補助魔法はいくつかありますから、それで何とかするしか無いでしょう。イクトさんはエイモックを、ソウタさんは影の警戒をお願いします』

 

『了解だ、お前らの背中は俺に任せろ』

 

『頼りにしてるぜ、蒼汰。アリシアも、サポートよろしく!』

 

 俺達は背中合わせを止めて、再びエイモックに向き直る。

 

 ……さあ、第二ラウンドだ。



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聖夜の決戦(痛打)

 俺たちは再度の攻めに転じたものの、攻防一体のエイモックの影と本人との連携を前に攻めあぐねていた。

 何本もの影を周囲に纏わせたエイモックの姿はまるで想像の怪物である八岐大蛇やメデューサを彷彿させられる。

 

「どうした。勢いが良かったのは最初だけか?」

 

 エイモックが俺達を挑発してくる。

 

「そう慌てるなよ。こっちだっていろいろと都合があるのさ」

 

 俺は軽口で返すが、内心はじりじりと焦燥感が募る。

 布石を打っていない訳じゃないが、この状況を覆すにはまだ弱い。

 

「ふん……ならば、こちらから行かせて貰うぞ」

 

 エイモックが繰り出していた幾筋もの影が、エイモックの本体の影に戻っていって消えた。

 絶え間ない影の脅威が去って一息ついたのも束の間、エイモックは右手を大きく掲げて指を鳴らし次の魔法を発動する。

 

「昏き漆黒よ。戦場を闇に閉ざせ――暗黒(ダークネス)!」

 

 魔法の発動と同時に闇の球がエイモックの指先に発生した。それは瞬く間に大きさを増して、エイモックの姿を包み隠す。

 闇はさらに拡がっていき、あっという間に俺達を覆い尽くした。一瞬で視界が奪われて平衡感覚が狂って体がふらつく。

 

『……闇を操る魔法のようですね。どこから襲われるかわかりません、気をつけて下さい』

 

 アリシアが警戒を呼び掛ける。

 

『……だけど、こんなに暗いとエイモック自身も動けないんじゃないか?』

 

 と疑問を口にする蒼汰。

 すぐ傍に居るはずの蒼汰すら視認できない真の暗闇である。この状態では攻撃を仕掛けるのは難しいと考えるのも無理は無い。

 

『その可能性は無いな。エイモックは闇の神官、暗闇は奴のテリトリーだ』

 

 水の巫女であるアリシアが水の中で支障無く動けるのと同様に、闇の神官であるエイモックが闇の中で行動に制約を受ける事は無いだろう。

 

『うへっ、マジか……』

 

 蒼汰がうんざりとした口調でこぼした。

 俺は物音一つ聞き漏らさないように気配を研ぎ澄まして襲撃に備える。

 

「……!」

 

 右後方に突然生じた殺気に、俺はとっさに床を蹴って体を全力で逸らせる。

 闇の中でもなお暗く燃える黒炎を纏ったエイモックの拳が今まで俺の居た空間を切り裂いた。躱しきれなくて巻き込まれた髪の毛が何本かちりちりと焼ける。

 

「くっ……!?」

 

 反撃しようと構えたが、エイモックの姿は再び闇に溶けて見失ってしまう。

 

「蒼汰! やつは気配を消して襲って来るぞ、気をつけろ!」

 

「わかった! ……来やがった!? こなくそぉぉお!」

 

 蒼汰の声がして、何かがぶつかり合う音が何回かした後、蒼汰の悲鳴と共に大きく物を叩きつけるような衝撃音がした。

 

「ぐぁぁああああ!?」

 

 蒼汰の悲鳴が闇に響く。

 

「蒼汰あぁぁ!」

 

 援護しようにもどちらに居るのかも判別出来ない。この闇は視界を遮るだけでなく、音が反響して音で位置を特定する事も難しくする特性があるようだ。

 

 ……現状を打開するにはどうすればいい!?

 

『イクトさん、霧の領域(フォグテリトリー)を使いましょう!』

 

 そんなとき、アリシアが魔法の使用を提言してきた。

 

霧の領域(フォグテリトリー)……そうか、その手があったか!」

 

 すぐに俺はアリシアの意図を理解して、魔法を詠唱する。

 

濃霧(フォグ)!」

 

 俺を中心に霧が発生して周辺に広がっていく。

 闇に包まれている為に見た目の変化はわからないが、これで、エイモックの視界は遮られたはずだ。

 

 さらに、俺は水の刃(ウォーターカッター)で軽く自分の手の甲を切って血を宙に撒く。

 そして、先程発生させた霧に溶かしこんでいった。

 

「血の索敵(ブラッドサーチ)

 

 この血には触れた先の存在を知覚できる魔法を付与してある。そして、この血を霧にのせる事によって、俺は霧に包まれた空間内部で動く物全ての一挙一動を把握出来るようになるのだ。

 これで、エイモックとの立場は完全に逆転する。

 

 魔法によってもたらされた知覚が拡がっていく。

 色は無く形だけではあるが、霧の中の空間全体を認識できる、まるでレーダーのような感覚だ。

 

 最初に見えたのは膝をついて胸を抑えている蒼汰の姿。どうやら攻撃で倒れたらしく、体を起こそうとしているようだ。

 そして、蒼汰の背後にはとどめを刺そうと今にも襲い掛かろうとしているエイモックの姿があった。

 

「蒼汰! 後ろだぁああ!」

 

 俺が叫ぶとほぼ同時にエイモックが攻撃態勢に入る。俺の言葉を受けて蒼汰は振り返るが、体が言う事をきかないらしく、足がもつれてそのまま倒れ込んだ。

 エイモックは蒼汰に暗い焔を纏った腕を振り下ろす。それは蒼汰の命を刈り取るほどの威力のある危険な凶器だ。

 俺は考えるより先に駆け出していた。

 

「蒼汰ぁぁぁ!」

 

 俺は全力で飛びかかる。

 蒼汰を突き飛ばしてエイモックの攻撃から逃れさせた。

 

 次の瞬間、俺の背中にエイモックの拳が叩きつけられる。

 

 焼きごてを直接肌に当てられたかのような熱さを背中に感じた次の瞬間、ダンプカーに轢かれたかのように体が跳ね飛ばされた。

 

「ぐぁああぁ!?」

『きゃあぁぁぁっ!?』

 

 悲鳴をあげる俺とアリシア。

 吹き飛んで何秒か宙を舞った俺の体は、石の床に何回か跳ねてゴロゴロと転がった。真っ黒な視界がぐるぐる回る感覚がして、頭の中が掻き混ぜられる。

 そして、うつ伏せに倒れ込んだ状態で俺の体は止まった。

 

「くぅ……」

 

 体中が痛みを訴えて悲鳴をあげている。

 だが、俺はその訴えを全て無視して頭を無理矢理に思考させる。今はまだ戦いのまっ最中だった。

 霧の領域(フォグテリトリー)によって拡張された感覚のお陰で、顔をあげなくても状況を認識出来るのはありがたい。

 今は顔をあげるのすら大事だった。

 

 エイモックとの距離は10メートル程。随分と吹っ飛ばされたものだ。

 やつはまだ警戒を緩めていない。意識を失っていれば魔法は解けるので、俺にまだ戦闘の意思があることは明白だからだ。

 不意に闇が解けて周囲が濃い霧に包まれた真っ白な空間になる。今のエイモックに暗闇を維持するメリットはほとんど無いので妥当な判断だろう。

 こちらの霧の領域(フォグテリトリー)はまだ解除しない、というか出来ない。床に這いつくばった状態の今、この魔法で姿を隠す事が俺の出来る唯一の生存戦略だった。

 だが、この魔法は燃費が悪い。維持できるのは持って数分と言ったところだろう。

 

「……まだ、かくれんぼを続けるつもりか? 無益な事だ」

 

 ……そっちから初めておいて随分と身勝手なものだ。

 

 エイモックは再び影を動かす。そして、周囲に影を巡らせて半径5メートル程の警戒網を作りあげた。

 その状態で、エイモックはゆっくりとこちらに近づいてくる。

 このままではこちらの位置が露見するのも時間の問題だ。

 俺は連続で魔法を発動させていく。体の痛みに加えて、襲って来た激しい頭痛に顔を歪めて耐えた。

 そしてエイモックに狙いをつけて一気に放つ。

 

「行けっ! 氷の槍(アイスランス)20連!!」

 

 エイモックの背後に大量の氷の槍を発生させて、矢継ぎ早にエイモックを襲う。

 これは先程から打っていた布石によるものだった。戦闘の合間に予め魔法を詠唱して置いておくことで、遠距離での発動を可能としたものだ。

 攻撃はエイモックの影による防御と回避行動によって、全部躱されてしまう。だが、それも想定の内だ。

 

「ふん……そっちか」

 

 そう言ってエイモックは振り返り、俺に()()()()()

 さらに、霧の密度を調整してエイモックの振り向いた先にぼんやりと白い影が見えるようにする。

 

「そこか!」

 

 エイモックが影をそちらに一斉に放つ。白い幻影は串刺しされて掻き消えた。

 

「氷の槍、10連!」

 

 続けて離れた場所に置いていた魔法を発動させた。魔法発動のトリガーを引く度に、頭の中をハンマーで殴打されたかのような頭痛が襲う。

 そして、さっきと同じように白い影を出してエイモックの攻撃を誘う。

 この調子でステージに設置してきた魔法を発動していけば、少しは時間を稼げる筈だ。

 

『蒼汰、大丈夫か……?』

 

 そうして出来た時間で俺は蒼汰に声を掛ける。

 

『俺は大丈夫だ。それより、お前こそ大丈夫なのか!? さっき俺を庇って攻撃を食らったんじゃ……!』

 

『命に別状は無い。ただ、戦うにはにはちと厳しいな……』

 

 自分の状態を分析してみる。肋骨が何本か折れているのと、内蔵へのダメージ。さらに、吹き飛ばされた際に腕や足の骨も折れてしまったようで立ち上がる事すら難しい。他にも捻挫に加えて擦り傷打ち身等は数え切れない程だった。

 それらは時間を掛ければ魔法で治癒出来る範囲ではあるが、いまにも魔力を使い果たしそうな現状ではそれも望めない。

 むしろ、これから試みる最後の賭けに使う魔力の為に治療に使う魔力すら惜しんでるのが現状だ。

 

『だから、悪いけどちょっと頼まれちゃくれないか…分の悪い賭けになるけど、やつを倒すにはお前に頼るしかなさそうなんだ』

 

 俺は蒼汰に最後の望みを託す。



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聖夜の決戦(最後の賭け)

『幾人!?』

 

 俺に誘導されて、霧の中をやって来た蒼汰が床にうつ伏せに倒れ込んだままの俺の姿を見つけて駆け寄って来る。

 世界がひっくり返って、気がつくと抱き起こされていた。小柄な俺の体は軽々と抱えられて蒼汰の両腕の中に収まる。

 

「……っ!」

 

 体中を走る痛みに、思わず言葉にならない声が口から漏れる。

 

『す、すまん……大丈夫か?』

 

 久々に役割を取り戻した視界に蒼汰の姿が映る。

 

『おう……これくらい全然大した事ねーよ』

 

 せめて心配を掛けないように俺は強がって見せる。

 こうして軽口をきけるのも念話のおかげだ。口の中は切れていて腫れぼったく多分普通には喋れない。鉄っぽい血の味がする。

 

『……全然大した事あるだろ、それは』

 

 蒼汰は呆れたような口調で返す。エイモックに見つからないように基本的に会話は念話を使っている。

 

『異世界では良くある事さ。これくらいなら、後で魔法で回復できるし問題ない』

 

『……本当か?』

 

 蒼汰はとても疑わしげだった。

 嘘なんて言ってないのになんでそんなに信用無いかなぁ……

 

『それより聞いてくれ。あまり時間も無いんだ』

 

 こうしている間にも俺は設置した氷の槍(アイスランス)を発動してエイモックを牽制している。魔法を使う度に襲ってくる頭の中をガンガンと打つような痛みで気分が悪くなり吐きそうになっている。

 ステージに設置した氷の槍(アイスランス)も残り僅か。そして、そもそもの俺の魔力も尽きようとしていた。

 俺が出来る時間稼ぎはもうそろそろ限界だった。

 

『わかった……俺は何をすればいい?』

 

 真剣な表情で蒼汰は俺に問う。

 

『実のところ特別な作戦はないんだ。けど、このままだと何もできずに負けてしまう。だから、俺はお前の可能性に賭けてみたいと思うんだ』

 

『俺の可能性? でも、俺はお前たちの戦いについていけていないんだぜ……』

 

 蒼汰は悔しそうに言う。

 魔法も使わずに魔法使い同士の戦いに参加するってのは普通は無理たから。あの影の猛攻を捌くのだけで大概すごい事なんだが……

 

『魔法で身体能力を強化しているのが大きいからな。だから、これから蒼汰に同じ魔法を使おうと思ってる』

 

『マジか! それなら俺もやつと戦える! ……しかし、そんな事が出来るなら、なんで最初からやらなかったんだ?』

 

 蒼汰から当然の疑問が出てくる。俺も別に出し惜しみをした訳じゃない。

 

『身体能力が上がっても体に頭がついていけなくて、逆に戦闘能力が下がる可能性があるんだ……ちなみに俺の場合は違和感なく戦えるようになるまで一週間は掛かった』

 

 例えるなら乗用車の運転しかしてこなかった人間がレーシングカーを運転するようなものだ。こうして、ぶっつけ本番で使うのは無謀以上の自棄ととられても仕方ない行為だと思う。

 それでも……

 

『俺の魔力はもうじき尽きる。そしたら俺にはもう戦う手段は残されていない。蒼汰一人で戦ってエイモックに勝つには、強化された体を制御出来る可能性に掛けるしかないんだ……』

 

 アリシアと相談したが、他に可能性は思いつかなかった。

 蒼汰に無茶振りをして、勝敗の行方を丸投げてしまう事に申し訳なくなり、俺は顔を歪めた。

 

『んじゃあ、まぁ、やってみるしかねぇなぁ……幾人の言うとおり今のままじゃ、やつに勝てる見込みは無さそうだし』

 

 そんな俺に対して蒼汰は軽いノリで応える。そんな蒼汰はとても頼もしく見えた。

 

『蒼汰に全部押しつけるような事になってすまない……俺ひとりで何とかなるって過信してた。予め蒼汰にも身体強化して慣らしておけばこんな事にはならなかったはずなのに……』

 

 魔法があればどんな人間相手でも圧倒できるだろうと余裕ぶっこいた結果がこの有様だ。

 そもそも、今の俺が使える水魔法はサポートを得意とする魔法だった。最初から蒼汰を強化して俺が掩護を中心に立ち回っていれば、戦いの結果は全く違っていた筈だ。

 

『エイモックがここまで強いだなんてわからなかったし仕方ねーよ。それに、お前の怪我は俺の不甲斐なさが原因だ。足手まといにしかなってない俺が戦える可能性があるなら願ってもない事さ』

 

 そう言って蒼汰は俺の額に手を置いた。ごつごつとした大きい手でぽんぽんとなだめられた。

 

『もともと、これは俺の戦いだからな?』

 

 蒼汰は親指を立てて笑顔を見せる。

 

『……蒼汰』

 

『心配すんなよ。知ってるだろ? 俺は初見のゲームをクリアするのは得意な方なんだ……さあ、やってくれ。それで、後は俺に任せて休んでるといいさ』

 

 俺は最後に残った魔力を使い、身体能力向上()の詠唱を開始した。

 

   ※ ※ ※

 

「……ほぅ、そんなところに居たのか。探したぞ」

 

 俺の魔力が尽きてステージに立ち込めていた霧は晴れて視界がクリアになる。

 いつの間にか日が落ちようとしていて、海辺の海水浴場のステージは夕焼けで紅く染まろうとしていた。

 

 エイモックは影を周囲に纏わせながら悠然とステージに立っている。影になって表情は分かり辛かったが、勝利を確信して勝ち誇って笑っているに違いない。

 

 俺は蒼汰によってステージ隅の電柱に背中をもたれさせて座らせて貰った。これで霧の領域(フォグテリトリー)が切れた今も戦いの結果を見届ける事が出来る。

 

「どうやら魔力が尽きたようだな。あれだけの魔法を連続して使えば無理も無い。しかし、これほどの魔力を持った母体をこの世界で得られるとは……やはり(われ)は神に愛されているとしか思えぬな」

 

 母体とか言うな、気持ち悪い。

 お前の子供を産むだなんて絶対にお断りだ。

 俺は熱のこもったエイモックの視線を感じてゾクッと身震いする。

 次の瞬間、蒼汰が間に割って入り、俺の視界からエイモックの姿を遮って隠した。

 

「おいおい、まだ戦いは終わっちゃいないぜ……?」

 

 蒼汰の背中は大きく見えて頼もしく感じる。と同時に何も出来ない自分自身を不甲斐なく思う。

 

「カミシロソウタか。素養は感じるが所詮魔法も使えぬただの人、身の程をわきまえるが良い」

 

 エイモックは蒼汰を対等な相手として見てはいない。俺を打ち倒した今はもう負ける事は無いと思っているのだろう。

 

「……御託はいい、始めようぜ」

 

 ――そして、戦いは最終局面を迎える。



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聖夜の決戦(祝福の時)

 蒼汰はステージで拾った木刀を正眼に構えてエイモックに対峙していた。対するエイモックは闇の焔に包まれた腕を広げ両方の手のひらを上にして構えている。

 

 仕掛けたのは蒼汰からだった。

 蒼汰は踏み込む前動作として腰を沈め――次の瞬間、姿を消した。

 

「「!?」」

 

 衝突音がして、視線を移すとエイモックに肩からぶつかる蒼汰の姿があった。それは、蒼汰自身を含めてこの場にいる誰にとっても想定外の動きだった。

 二人は勢いのままに跳ね飛ばされる。

 反応が早かったのはエイモックで、即座に複数の影を網状に展開して自分の体を受け止めると、拳を振りかぶって蒼汰に反撃してきた。

 だが、蒼汰もそれをなすがまま受けるような事はなく、展開されたエイモックの影を蹴って身を翻し攻撃を躱す。

 

「おおっとっと!?」

 

 大きく跳び上がった蒼汰は危うい着地をする。

 そのまま勢い余って、数メートルたたらを踏んで下がった。

 蒼汰が力を持て余しているのは明らかだろう。

 

『気をつけろ蒼汰! 身体能力向上(インクリスフィジカル)(小)で上がる肉体の強度は最低限だ。今、全力で壁に突っ込んだりしたら下手すると死ぬぞ!』

 

 念話で蒼汰に警告する。

 俺の魔力はさっきまでの戦いで殆ど尽きては居たが、念話の使用くらいなら問題無い。

 

『そういうのは先に言えよな!』

 

『……すまん、忘れてた』

 

 蒼汰の至極当然の抗議に俺は素直に謝った。

 

身体能力向上(インクリスフィジカル)(小)を使ったか。だが、その力持て余しているようだな。そんな付け焼き刃がこの我に通じると思うな」

 

 いきなり変わった蒼汰の動きの理由にエイモックはすぐに気づいたらしい。それが予め準備されたものでは無いということも。

 

「付け焼き刃でも刃がついてることに違いないぜ。通じるかどうかその身で確かめてみるといいさ」

 

「……ふん、小賢しい。ならばその自信ごと打ち砕いてやろう」

 

 エイモックが指を鳴らすと、触手のような黒い影がエイモックの影から何本も飛び出して来て蒼汰を襲う。

 蒼汰は大振りな動きで何とか躱し、あるいは木刀で受け止めて影に対処する。攻撃に投入される影の数は時間と共に増加して、四方八方から蒼汰を襲う。

 そんな蒼汰を俺は手助けも出来ず、ただ見ている事しかできない。

 

『蒼汰……!』

 

 俺は祈るような気持ちで蒼汰の名前を呼ぶ。

 蒼汰は目まぐるしく襲ってくる影を捌く合間にちらりとこちらの様子を窺い、俺と目が合うと笑顔を見せてきた。

 

『大丈夫、俺に任せとけって!』

 

 ……いや、俺に気を使ってる場合じゃないだろ。

 

 そんな蒼汰の様子に思わず呆れてしまう。影の一撃でさえも当たればダメージは馬鹿にできない。それに、一度打撃を受けて足を止めてしまったら、続く影にタコ殴りにされて致命傷になる可能性が高い、そんな紙一重の状況なのだ。

 

 ……それなのに、あの馬鹿楽しんでやがる。

 

 蒼汰の口角は上がって、不敵に笑っていた。こいつは昔から追い詰められる程状況を楽しむ性質がある、真性のバトルジャンキーだった。恐らく不良グループのメンバーに取り囲まれたときもこんな風だったに違いない。

 蒼汰は攻撃を捌く度に明らかに動きの無駄が減ってきていた。

 体に慣れてきたとでもいうのだろうか? まだ、魔法で肉体を強化して数分も経っていないというのに信じられない。

 自分で期待しておきながら、本当に魔法の強化に対応し始めている蒼汰を空恐ろしく思う。

 

『……なあ、アリシア。俺より蒼汰が勇者として異世界に行った方がよかったんじゃないか?』

 

『そ、それは……戦闘能力だけが勇者様のすべてって訳じゃないですから!』

 

 逆に言うと蒼汰の戦闘能力は俺を上回っているってことだろう。

 そう言っている間にも蒼汰の動きは鋭さを増している。今や二桁はあるだろうすべての影の攻撃を余裕を持って捌いていた。

 

『このまま続けても埒が明かないな……何か良い手段は無いか?』

 

 蒼汰が俺達に問う。

 

『ソウタさん、イクトさんが使っていた世界樹の杖を使って下さい! あれは聖属性の杖ですから、影を切り裂く事ができるはずです』

 

 そういえば、世界樹の杖はさっきエイモックに殴り飛ばされた際に取り落としていた。

 辺りを見回して探すとそれはすぐに見つかった。

 

『蒼汰、左側ステージの端に落ちてる!』

 

 俺の言葉に即座に反応して蒼汰は世界樹の杖に向かう。

 相対しているエイモックはその意図に直ぐに気付いたようだった。

 

「世界樹の杖か! やらせはせぬ……!」

 

 杖を弾き飛ばそうとエイモックが影を伸ばす。

 それは蒼汰よりも早く杖に到達し、だが、杖に触れることなく弾かれた。

 

「なんだと……!」

 

『世界樹の杖は聖属性が付与されていますから、杖自体に闇を阻む特性があるんです!』

 

「っしゃあ、ゲットだぜ!」

 

 その隙に蒼汰が世界樹の杖を拾い上げた。そのまま体を翻すと、迫っていた影を斬りつける。影は実に呆気なく切断されて消えた。

 

 蒼汰は世界樹の杖をバトンのように一回転させると、ホームラン予告をするバッターのように長く構えてエイモックに突きつけた。

 

「丁度良い準備運動になったぜ、ありがとよ」

 

 うん、ちょっと格好良く決めすぎじゃないかな。

 ……まぁ、いいけど。

 

「調子に乗るなよ、祝福の無いただの人風情が!」

 

 蒼汰の挑発に相当苛ついたらしい。エイモックは表情を険しくして蒼汰を罵る。

 そして、腕を振ると影を引っ込めて魔法を詠唱する。

 

「彼方より此方へ閉じたる扉を開き我に祝福を――(ゲート)!」

 

 エイモックの頭の直上で何かが弾けて衝撃波が広がった。俺は思わず目を細める。

 

『何が起こったんだ……?』

 

 エイモックの様子に一見何も変化は無かった。

 

『この魔法……いえ、そんなはずは……』

 

 エイモックの魔法を見たアリシアが、珍しく困惑していた。

 

『知っているの? アリシア』

 

『オリジナルの術式で詳細は不明です。多分空間操作の術式だと思うのですが……』

 

『それじゃあ、戦ってみて確認するしかないか……行くぜ!』

 

 そう言って蒼汰はエイモックに襲いかかる。

 それに対して目にも止まらぬ小振りなジャブで対応するエイモック。闇の焔を纏った拳はジャブですら致命的な一撃になる。

 蒼汰は世界樹の杖で凌ぎつつ隙を伺う。これが普通の木刀だったら燃え尽きていたところだ。

 

 エイモックの体術は驚異的なものである。

 だが、それをいなす蒼汰の動きはそれをさらに上回っていた。

 

「大口を叩いておいてそんなものかよ!」

 

 動きを重ねる毎に体のキレが増していく蒼汰。そして徐々に蒼汰がエイモックを圧倒し始める。

 

「ほざけ、影捕縛(シャドウバインド)!」

 

 エイモックが詠唱すると蒼汰の足元の影が蔦のように伸びてきて左足に絡みついた。足首を抑えつけられた蒼汰はつんのめりバランスを崩す。

 

「もらった!」

 

 エイモックは蒼汰が見せた隙に対し、掬い上げるようなアッパーを見舞って応える。

 

『蒼汰!』

 

 蒼汰は残った即座に自由な右足で地面を蹴って、捕らわれた足首を軸に体を後方に回転させてエイモックの一撃を躱す。さらに上半身が倒れこむ前に地面に手をついて、世界樹の杖で闇を薙ぎ払い拘束を解いた。

 

「ずいぶんと(こす)い手を使うんだな!」

 

 蒼汰は手の反動だけで横たわった状態から体を起こすとそのままの勢いでエイモックに切り掛かる。

 その攻撃は腕で受けられるが、間髪入れずに蒼汰は追撃を加えた。

 そして、ついにエイモックの胴体に蒼汰の横なぎの一撃が入った。

 エイモックは数歩よろめいて下がる。

 

「このぉ……ただの人如きがぁ……! よくもこの我を傷つけたな……!」

 

 エイモックは憎しみの籠った視線を蒼汰に向ける。

 

「……もうお前の勝ちは無い、おとなしく負けを認めやがれ」

 

「……負けを認めろだと?」

 

「ああ、そうだ」

 

「く……くくっ……はーっはっはっは!!!」

 

 蒼汰の言葉を受けてエイモックが大声で笑いだす。

 現実を受け入れられずに発狂しているとも思われたが、なんだか嫌な予感がした。

 

「なんという勘違い! 自惚れも大概にすることだな。本気の我の力がこんなものだとでも思ったか!」

 

「……どうやら、とことん痛めつけてわからせてやるしかなさそうだな」

 

 その時、上空に一陣の風が吹いた。

 

「……時間だ」

 

 エイモックが両手を広げそう告げると、それが起こった。

 

『まさか、これは……』

 

 上空に黒い球体があった。夕焼けに染まる空に浮かぶそれは不吉な予感を俺に抱かせる。

 風はそこから吹き荒れているようで、周辺の空間が歪んで見える。

 

 悲鳴がした。

 見ると洗脳が解けたのか、周囲に平伏せていた不良達が我先に逃げ出そうとしている。

 そして、喧騒の中で俺はどこか懐かしい感覚に包まれていた。

 

 様子を伺っていた蒼汰は、世界樹の杖を握りしめると振りかぶってエイモックに切り込む。

 

『ダメだ、蒼汰! 奴は……!』

 

 エイモックが指を鳴らすといままでの数倍にも及ぶ百近い影が包みこむように飛び出してきて蒼汰を襲った。

 慌てて世界樹の杖でそれらを打ち払おうとする蒼汰だったが、杖は影に弾かれてしまう。

 

「……なっ!?」

 

 そのまま濁流のような影が蒼汰を襲う。

 

「ぐわあぁぁ!?」

 

『蒼汰!』

 

 影に大きく吹き飛ばされた蒼汰は、床を跳ねて倒れた。

 

「くっくっく……」

 

『エイモック、あなたは……!?』

 

「我は半年程前、気がつくとこの場所に居た……そして我は気付いた。転移した際に出来た時空の歪みは完全に消滅してはいないと」

 

 エイモックは俺達の転移魔法に巻き込まれていたらしい。

 そしてその際の歪みは消えていなかった……?

 

「我は時空の歪みを解析し、そこから術式を作り出した。ゼロから門を作りあげるには祝福無しでは不可能だが、そこにある歪みを広げるくらいなら今の俺でもどうにかできる」

 

 さっきの魔法は異世界への門を開く魔法だったらしい。上空の穴の先に繋がっているのはアリシアの居た異世界だということか。

 

「さあ、我の居た祝福されし世界との門は開かれた。この世界に祝福がもたらされるのだ!」

 

 エイモックの闘気が増していく。闇の神官であるエイモックは闇の精霊神ダクリヒポスの祝福を得ている。異世界との回線ができた今その祝福を取り戻し本来の力を発揮する事が可能となる。

 

「ダクリヒポス様の祝福を取り戻した俺に児戯のような攻撃は一切通用せぬ。恐れ慄き讃えるが良い! 我こそが祝福されし神の子である!」

 

 高らかにエイモックは宣言した。



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聖夜の決戦(祝福されし者)

 ――雪崩込んでくる力の奔流が体内に満ちていく。

 俺がその力と共に在ったのは、ほんの一年にも満たない期間だったというのに、その感覚はとても懐かしく思えて。

 

   ※ ※ ※

 

「なんだよ、それ……」

 

 倒れ伏せた蒼汰はエイモックの話を聞いて顔を歪ませていた。

 蒼汰の気持ちはわかる。ようやく優位に立てたと思ったら、それが一瞬で覆されたのだ。

 エイモックから溢れ出る闘気が、さっきまでとは比べ物にならない程に強大なのは見るだけで明らかだった。

 

「だけど、お前に幾人をやる訳にはいかねぇんだよ……!」

 

 蒼汰は歯を食いしばって立ち上がる。

 

「……ほう、まだ立ち上がるというのか。(われ)の真の力を目の当たりにしてもなお挫けぬその心意気は賞賛に値する。認めてやろう」

 

 手も足も引き摺って、満身創痍な状態でも、蒼汰は諦めようとはしない。それは、諦めたらそこで俺達の敗北が確定してしまうと考えているからだ。

 

「だが、その有様で何ができる? 大人しく我に(くだ)るが良い。なに、悪いようにはしない。我と志を共にするのであれば地位も女も望むがままにくれてやろう」

 

「じゃあ、幾人のやつも俺にくれるってのか?」

 

「イクト? ……ああ、水の巫女のことか。駄目だ、あの女は我の妃となり正当なる後継を残すという役割がある」

 

「それならやっぱり、俺はお前に負ける訳にはいかねぇわ……あいつは俺の一番のダチなんだ。あいつが苦しんでるときに何も出来ないなんて、俺自身が許せねぇ」

 

「……まあ良い。今の我であれば貴様の記憶を改竄するのも容易い事。我に従わぬと言うのなら、従うようにするまでだ」

 

 祝福の無い状態であれだけの群衆を従わせていたエイモックの魔法である。祝福を得た今では、その力で世界征服すら夢物語ではないのかもしれない。

 ただし、それは阻む者が居なければの話だ。

 

最高位回復呪文(ハイエスト・ヒール)

 

 俺は魔法の詠唱を終えた。

 みるみるうちに体中の傷が癒えていく。折れた骨が元通りに繋がり、打撲は消え、傷は塞がり、腫れは引いた。

 俺は立ち上がり、体を動かして痛むところが無いか確認する。

 

 ……よし、問題ない。

 

 俺は蒼汰に歩み寄って、後ろから蒼汰の腰に手をあてた。

 蒼汰は驚きの表情で振り返り俺を見る。

 

「い、幾人……!?」

 

「もう、平気だから。ありがとな、蒼汰……高位回復呪文(エクストラ・ヒール)

 

 暖かい光が蒼汰を包み込み傷を癒やしていく。蒼汰はその光景を信じられない様子で目を丸くして見ていた。

 

「怪我が治った? 幾人、これは一体……」

 

「祝福を持っているのは、エイモックの奴だけじゃないって事さ……もう、大丈夫だ。後は全部俺に任せて、涼花を連れて避難してくれないか?」

 

「お前にだけに任せるなんて、そんな事できるかよ!」

 

「これからの戦いはこれまでとは次元が違う物になる。蒼汰達がいると巻き込む危険があるから本気で戦えないんだ。だから、悪いけど引いて貰えないか」

 

「……勝算はあるんだな?」

 

「おう」

 

「……わかった。必ず勝てよ」

 

 そう言い残して蒼汰は俺の側から走り去った。

 そして、俺は改めてエイモックに向き合う。

 

「水の巫女か。治癒魔法で己の傷を癒やしたか」

 

「お陰様で、俺も祝福を得る事ができたからな。残念だったな、エイモック。もう、お前の思い通りにさせはしないぜ」

 

「くっくっくっ……愚かだな。思い上がるなよ、水の巫女風情が!」

 

 エイモックは俺を嘲るように言葉を紡ぐ。

 

「我が得た闇の神ダクリヒポスの祝福は四大属性神の祝福と比べて五倍以上の恩恵があるのだ。故にお前がミンスティアの祝福を得たところで我の障害にはなり得ない」

 

 それは、異世界でもほとんど知られていない事実だった。

 ……だけど、

 

「……そんなことは知ってるさ」

 

 かつて、光と闇の祝福について存在すら知らなかった俺は、四大属性の祝福を得て魔王に挑んだ。その結果、闇の祝福を持つ魔王に手も足も出ずに殺されかけたのは苦い経験だった。

 

「知っている、だと? ならばどうして……」

 

「じゃあ、これは知っているか? お前が見下すこの世界の人間は、生まれつきの属性もなくて魔力も持っていない。だけど、その代わりに普通なら生来の属性しか得られない祝福を複数得ることができることを」

 

 俺は魔法を詠唱して両手に双剣を生成する。

 火と氷の剣と風と大地の剣、かつての俺の愛剣だ。

 

「反属性魔法だと……馬鹿な!?」

 

「かつて、俺はこの世界から召喚されて、全ての属性神の加護を得てこの世界に戻って来た」

 

「そんなことあり得ぬ……複数の属性神の祝福など、それではまるで……」

 

「そういえば、()はまだ名乗っていなかったな。俺は如月幾人、あちらの世界では勇者と呼ばれていた者だ」

 

「勇者、勇者だと……? 馬鹿な、お前は水の巫女ではないか……それに勇者は男だったはずだ!」

 

 エイモックの表情が驚愕に歪んだ。

 勇者という俺の称号はあちらの世界ではそれなりに名が通っていた。エイモックも俺の事を知っていたらしい。

 

「訳あって、今はアリシアと体を共有している。だけど、力の発動に支障はないぜ」

 

 今の俺の体はアリシアのもので水魔法の適性がある。その分他の属性の祝福は受けられない可能性もあったが、杞憂だったようで全ての祝福の恩恵が有効だった。

 むしろ、自前の魔法適性がある分、幾人のときよりも魔力は向上している。

 

「ふざけるな、そんな戯言を誰が信じる……その化けの皮、剥がしてくれよう!」

 

 エイモックが指を鳴らすと、夥しい数の影がエイモックの影から飛び出して来る。腕くらいの太さで紐状の影は放射線状に広がって辺りを覆い尽くそうとしていた。

 

「あいも変わらず同じ魔法とは、芸の無いやつだな……影操作(シャドウ・アクト)!」

 

 俺はエイモックと一緒の魔法を詠唱する。闇の祝福の恩恵で使われた闇魔法の構成を読み解き自分でも使うことができた。

 

「闇魔法……だと……!?」

 

 俺の足元から影が飛び出して扇状に広がっていく。溢れる魔力に物を言わせて作り出した影の数はエイモックの約二倍。

 迫りくる影の迎撃を命令すると影は方向を変えて矢のように飛んでいく。迫りくる影の塊同士が交差して、ぶつかり合い弾けて消滅していく。

 

「……まるで、誘導ミサイルだな」

 

 影の総数は俺の方が圧倒的に多い為、影同士でかちあわずにエイモックに向けて抜けていく影も多数残った。

 俺に向かってくる影も幾つかあり、それらは両手に持った魔法剣で切り捨てた。

 

 エイモックを襲った影は数十にも及ぶ。

 影が命中する直前にエイモックは後方に数メートル飛んでかわす。何本か勢い余った影がステージに突き刺さると、轟音を立てて砕けて飛散した。

 

「ちぃっ……!」

 

 残った影は自動的にエイモックを追尾するが、エイモックが闇の焔に包まれた腕を振るうと衝撃波で次々に引き裂かれて消えた。

 

「認めん……我はこんなことは認めんぞ!!」

 

 エイモックは着地するや否や、地面を蹴って俺に突撃して来る。

 

「――風の加護(ウインド・ブレス)、――岩石の守護(ストーン・ガード)、――身体能力向上(インクリス・フィジカル)(極大)!」

 

 俺は一息で強化魔法を重ねて詠唱すると、こちらからも一気に距離を詰めてエイモックに斬りかかる。初撃は闇の焔を纏った腕で受けられた。

 衝撃波が周囲の空気を震わせる。

 

「この世界に救いをもたらすのが我の使命! この世界に転移したのも神の意思のはずだ! それなのに何故だ!?」

 

 俺は風魔法で空中に作り出した足場を蹴って、続けざまに斬撃を繰り出す。今の俺の攻撃は一振りで小高い丘を粉砕する威力がある。普通の人間なら攻撃を防ぐ事すら叶わず粉微塵となるだろう。

 だが、闇の祝福を得たエイモックもまた常識の枠外の存在だった。俺の度重なる攻撃に耐え、さらに反撃すら加えて来たのには驚きを禁じ得なかった。

 

「神に意思があるかどうかは俺にはわからない。だが、少なくともこの世界はお前による救済なんざ望んじゃいない!」

 

 エイモックの表情は引きつっている。

 

「黙れ、黙れ、黙れ!!」 

 

 怒りに任せたエイモックの攻撃を俺は受け流す。

 

「唸れ、迅雷球(ボール・ライトニング)!」

 

 俺は風と火の混合魔法で球状に連なる稲妻を作り出してエイモックに叩きつけた。

 

「ちぃっ!? 宵闇の水晶結界(ダーク・シールド)!」

 

 黒い半透明の膜状の四角錐がエイモックを取り囲む。膜に命中した稲妻が稲光を撒き散らしながら爆ぜて轟音をあげて四散した。

 ――だが、本命は別にある。

 

轟雷柱(ライトニング・ピラー)!!」

 

 魔力を収束した火と風の攻撃魔法を発動させた。

 エイモックを中心に幾筋もの稲妻の柱が立ち登る。重ねられた稲妻は四角錐の結界を打ち抜いて、中心にいるエイモックをも貫く。轟音が響き渡り、放電と共に辺りが眩いばかりの光に包まれた。

 世界が白く染まっていく。

 

 やがて、視界は戻る。

 

 放電の残滓と焼け焦げた匂いが周囲に立ち込める中、クレーターのように抉れ跡形も無くなったステージがあった場所に、エイモックはそれでも立っていた。

 俺は警戒を緩めずに居たが、エイモックはそのまま動き出す事なく、やがて力無く倒れた。

 

 ――それで、戦いは終わった。



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聖夜の決戦(終結)

「なあ、生きてるか?」

 

 俺は補助魔法を全力掛けで警戒しながら、倒れたエイモックを覗き込む。

 普通の人間なら消し炭も残らないような強力な魔法の雷を受けたエイモックは、あちこち焼け焦げてボロボロの状態ではあったものの人の姿を保っていた。

 

「死んではおらぬ……まあ、ただそれだけとも言えるが」

 

 意外にも返事があった。

 こんな状態なのに相変わらずの尊大な態度には、呆れを通り越して感心させられる。

 

「……生きていたか」

 

 俺は正直なところ安堵した。いまさら敵の命を奪う事に躊躇いはなかったが、なるべくならこの世界での殺生は避けたかった。

 

「神は我を見放したもうか。いや、最初から神の意思はそなたにあって我には無かったのだろう……我も道化を演じたものよな」

 

「……神の意思なんて関係ねぇよ。俺は俺の意思でお前を倒しただけだ」

 

 神の存在を身近に感じられる異世界の人間は総じて信心深い。その分、運命を神の思し召しに委ねてしまっているように感じるときがあり、そこを時折もどかしく思のだった。

 

「で、どうするんだ。続けるか? それとも、大人しく負けを認めるのか?」

 

「認めよう、我の負けだ――さあ、止めをさすがいい」

 

 どこかやりきったかのような口調でエイモックは言う。だが、俺はそんなのに付き合う義理は無い。

 

「……アリシア?」

 

 俺はアリシアに確認する。すぐに俺の聞きたい事を察してくれたらしく答えが帰ってきた。

 

『大丈夫ですイクトさん。今の言葉で誓約魔法は履行されました』

 

 その言葉を聞いたエイモックは怪訝そうな表情をする。

 戦いが終わった今はエイモックとの念話のチャンネルを開いていてアリシアの言葉はエイモックにも届いていた。

 

「いまさら誓約に何の意味が……」

 

 確かに今から死ぬと言う相手に誓約は無意味だろう。

 エイモックの疑問に俺は魔法を詠唱しながら答える。

 

「こういう事だよ……最高位回復呪文(ハイエスト・ヒール)

 

 温かい光がエイモックを包み込み、焼け爛れた皮膚がみるみるうちに癒えていく。

 

「……何を……している?」

 

「戦いは終わってお前の野望は潰えた。だったら、これ以上やり合う理由も無いさ……そっちがまだやる気なら容赦するつもりもないけどな」

 

「……いや、魔王様をも倒した勇者に我が勝てる道理も無い。それに、無駄な抵抗は趣味では無い」

 

 エイモックは上半身を起こした。

 その瞳は憑き物が落ちたように力が失われていて虚ろだった。

 この分なら反抗されることも無いだろう。

 それに、今の俺はエイモックがどんな手段を試みて抵抗してきてもなんとか出来る自信がある。

 

『イクトさん、門を閉ざしましょう』

 

 エイモックとのやりとりが一段落したのを見計らってアリシアがそう提案してくる。

 見上げると薄闇の空にポッカリとあいた黒い穴が健在だった。大きさは二メートル程の球体で、不気味に佇んでいる。

 

『あちらの世界との繋がりを残しておく事が、この世界に良い影響を及ぼすとは思えません』

 

 今後世界を渡って侵略者が来ないとも限らないし、逆もまた然りだ。このような物は閉じておいた方が良いというアリシアの意見には同意だった。

 

「でも、いいのか? その、里帰りとか……」

 

 この穴は異世界へと繋がっている。そこはアリシアが生まれ育った世界だ。

 アリシアは神殿で育てられた孤児のため、あちらの世界には実の家族こそ居ないが、アリシアと親しい家族と言える人達は大勢居たはずだった。

 

『あちらの世界でわたしはもう居なくなった者として扱われているはずです。別の巫女も選出されているでしょうし、わたしが戻ることで、いたずらに混乱を招くことになるかもしれません』

 

 アリシアはそう言って俺の提案を断る。

 

『それに、以前はイクトさんの肉体が鍵となってこの世界への道を繋ぐ手助けをしてくれていたんです。ですから、イクトさんの肉体が失われた今、再びこの世界に戻って来られる可能性はとても低いと言わざるを得ません』

 

「そうか……」

 

 それを聞いて俺は申し訳ない気持ちになる。俺は家族と一緒に生活することができているのに、アリシアは一時的な里帰りすら望めないのだ。

 

『気にしないで下さい。イクトさんの家族はわたしの事を本当の家族のように接してくださっています。だから、わたしは寂しくなんてありません』

 

「……ありがとう、アリシア」

 

 俺はアリシアに感謝した。

 

「……それで、お前はどうするんだ? 聞いての通り、俺達はこれからこの門を閉じる。元の世界に帰るなら今のうちだぜ」

 

 もう一人の異世界人であるエイモックに尋ねる。

 

「あちらの世界に戻っても、人類の裏切り者である我に居場所などない……もう、一族も残ってはいないだろう」

 

 エイモックは門を見上げながら遠い目をして言った。

 いろいろあったが、俺自身はエイモック個人に思うところはない。不良達とごたごたしたのはこいつの指示では無かったし、勝負のときも人質を利用したりとか戦闘不能の相手を狙ったりといった行為はなかったのでそれほど印象は悪くない。

 だから、俺はエイモックがこの世界に残る事に反対ではなかった。

 

「わかった。ただ、この世界に残るのなら、ひとつ確認しておくことがある」

 

「……なんだ?」

 

「この世界に魔法はない。もし、魔法の存在が認知されたら、この世界は驚き混乱することになるだろう。それは、今誓約で禁じたこの世界への干渉になるだろう。だから、お前は魔法を秘匿する義務がある……わかったか?」

 

「……わかった。神に誓おう」

 

『それでは、門を閉じます。わたしに続けて魔法の詠唱を行って下さい』

 

 アリシアが紡ぐ言葉を繰り返して、俺は魔法の詠唱を行う。

 

『光と闇の狭間より来たれり門よ――』

 

 その魔法は半年前に異世界から戻って来るときに見た魔法と似た構成だった。朗々と謳い上げるように言葉を紡いでいく。

 

「―――かく祈りて我は扉を閉じん。閉門(クローズ)!」

 

 そして、魔法が発動する。

 黒い球が蠢いたかと思うと、徐々に大きさが小さくなっていって消失した。

 異世界との接続が切れて体内から祝福が失われていくのがわかる。

 こちらの世界に戻って来たときも思ったが、祝福が失われるというのは不思議な感覚だった。心の中に満たされていた物が失われるような、ぽっかりと穴が空いたような独特の喪失感。

 

『ありがとうございました。ミンスティア様……』

 

「今までありがとう……さようなら」

 

 俺は今まで俺に力を与えてくれていた神様達に別れを告げた。

 両の手に持ったままだった魔法剣はきらめいて消失していく。

 

「……神の祝福が失われたか」

 

 俺と同様に祝福を失ったエイモックは自分の両手のひらを見つめながら放心していた。

 

「そうだ。これであちらの世界との関わりは絶たれた……お前も神にこだわらず自分の好きな事をしていいんだぜ」

 

「好きな事……か」

 

「何かやりたい事は無いのか?」

 

「……わからぬ。我はダクリヒポスの神官としての生き方しか知らぬのだ」

 

『でしたら、これから見つければ良いと思います。もうあなたを縛るものは何もないのですから』

 

「……ミンスティアの巫女か。お前は見つけたのか? 神無きこの世界での生き方を」

 

『……はいっ!』

 

「……そうか」

 

 エイモックは立ち上がり、俺達に背を向けた。そして、沈みゆく夕日を静かに眺め続けていた。

 

「おーい! 大丈夫かー!?」

 

 遠くから俺達に声が掛けられる。

 それは、戦闘に巻き込まれないように離れてもらっていた蒼汰だった。

 蒼汰は涼花を背負っていた。涼花の豊満な胸が蒼汰の背中で潰れているのがわかる……羨ましいやつめ。

 

「終わったのかー!?」

 

 蒼汰の問いかけが繰り返される。

 俺は満面の笑顔と勝利のVサインでそれに応えた。



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後始末

「悪ぃ……涼花が右足をくじいたみたいなんだ。魔法で治して貰っていいか?」

 

 涼花を背負った蒼汰は、俺の側にやってくるなりそう言った。

 

「りょーかい」

 

 俺は一瞬だけ躊躇したが引き受ける。涼花にも魔法の存在を明かすことになるが、いまさら隠し立てもできないだろう。涼花は蒼汰と一緒にさっきの戦いを見守っていたのだ。

 そもそも、怪我をさせてしまったのも俺達のいざこざに巻き込んでしまった事が原因だ。

 

 蒼汰に背負われて脇からスラリと伸びている涼花の足に、俺は手を近づけて魔法を詠唱する。

 

回復呪文(ヒール)

 

 俺の手先がぼんやりと暖かく光り、その光が涼花の足に移ってしばらくふわふわと輝いて消えた。

 

「すごい……痛みが引きましたわ」

 

 涼花が驚きの声を上げる。

 

「涼花、平気そうなら下ろすぜ?」

 

「わ、わかりました」

 

 蒼汰がしゃがむと、涼花は名残惜しそうにその背中から体を離した。そして、恐る恐る右足を地面につける。

 

「……痛くありませんの」

 

 足首を回してみて具合を確認する涼花。痛そうな様子は見られなかった。

 

「ありがとうございます。魔法ってすごいのですね……ええと、如月幾人さん?」

 

 涼花の口から出てきたのは本当の俺の名前だった。

 

「……どうして?」

 

「どうやら、エイモックと戦っているときの会話を聞いて知ったみたいなんだ。それで、涼花なら信頼できると思って俺の判断で、全部の事情を話した……事後承諾ですまないが」

 

 俺の疑問に蒼汰が答える。

 

「涼花なら信用できるし問題ないさ」

 

「安心して下さいませ。わたくしは恩人であるあなたの秘密を漏らしたりは決して致しませんわ」

 

「……そっか。ありがとな涼花」

 

「それよりも、ごめんなさい。わたくしはあなたに不名誉な嘘を……」

 

 以前の嘘について涼花は謝罪する。それは随分前に俺の中ではとっくの昔に終わっていた話だったが、俺が幾人である事をついさっき知った涼花にとっては別の話なのだろう。

 

「いいって、いいって。前にも言った通り俺は気にしてないから。こっちこそ、今まで本当の事言えなくてごめん」

 

 俺が俺であると話せていれば、涼花をもっと早く楽にしてあげる事ができていた。

 こちらも事情があった事とはいえ、それは申し訳ないと思っていたことだった。

 

「それこそ仕方ない事じゃありませんの……それに、こんな非現実的な事が続いたから蒼汰さんのお話も受け入れられましたけれど、普段言われたら、からかわれているとしか思えませんわよ……以前の面影なんて全くありませんし」

 

 そう言って俺の事を改めて見る涼花。そういえば、涼花は以前の俺の事を知っているのだった。

 

「そりゃそうか。それじゃあ、改めてよろしく……ええと、これからも友達でいてくれるかな?」

 

「もちろんですわ! アリスさんはわたくしの大切な後輩で、デュエルの師匠ですもの……でも、如月さんとは同級生になるのだから、後輩っていうのはおかしいかしら?」

 

 そう言われて口調が完全に幾人の頃のものに戻っていたことに気がついた。

 戦いで男の本能を刺激されたからだろうか。

 俺は意識して口調を切り替える。

 

「えっと……今の私はアリスだから、今まで通り後輩として接して貰えれば……」

 

「それじゃあ、俺の後輩でもある訳だな!」

 

 蒼汰が俺をからかうように言う。

 

「へぇ……それじゃあ、『かみしろせんぱい』とでも呼べばいいの?」

 

 俺がわざと媚びた声でそう呼んでみると、蒼汰は露骨に嫌そうな顔をした。

 

「やめろよ、お前にそう言われるのは気持ち悪ぃ……俺が悪かったぜ」

 

「ふふん、私に先輩風を吹かそうだなんて思うからだよ」

 

「……最近お二人の距離が近くなったと思っていましたが、そういう理由だったのですね」

 

「おう、俺達は生まれた頃からの親友だからな」

 

「安心したと言うべきなのか、そうでないのか微妙な心境ですわ……」

 

 涼花のつぶやきが耳に入る。

 今まで涼花には何度も蒼汰との関係を否定していたが、今まではいまいち納得してない風だった。

 俺の正体を知ったからには流石に納得しただろうと思ったんだけど、何故だ……

 

「それにしても、随分派手にやったなぁ……これ、後始末どうすんだ?」

 

 蒼汰の言葉に俺は現実に引き戻される。なるべく考えないようにしていた問題が目の前に広がっていた。

 

 海水浴場の野外簡易ステージと駐車場だった周辺は、俺達が魔法戦を繰り広げた結果、瓦礫の山となってしまっていた。

 ステージは割れ、アスファルトは溶けあちこちに大穴が空いている。

 ……しまった、穴だけでも祝福があるときに塞いでおくべきだったか?

 

「……げっ、やべぇぞ!? 警察だ!」

 

 誰かが通報したのだろう。遠くからパトカーのサイレン音が聞こえてきた。消防車の音も混じっているようだ。

 

 警察の厄介になるのはいろいろとまずい。まず、魔法を説明せずに今の惨状の経緯を説明する自信は無い。

 何か良い手段は無いだろうか……?

 

「後始末は我が引き受けよう。お前達はこの場を去るがいい」

 

 そう言ったのはエイモックだった。いつの間にか側に来ていた。どこか振り切ったのか、目に意志の力が戻って来ているように思える。

 

「……大丈夫なの? この世界の常識とか、そもそもお前はこの国の戸籍とか無いんじゃ……?」

 

「そのあたりは問題無い。戸籍も魔法を使って作成している。今日の集会も我の名で警察に利用許可申請を出してあるのだ」

 

「そのあたり、割りとしっかりしているんだな……」

 

「して、この状況だ。お主は何があったように見える?」

 

「……ガス爆発とか?」

 

「ガス……? まあよい。ならばそれが起こったと、ここに来た者にそう思いこませれば良いだけの話だ」

 

 あれほど恐れていたエイモックの魔法が今は頼もしい。

 

「……ありがとう、助かるよ」

 

「我がお前達を巻き込んだのだ。礼など言われるような事は無い……そこの女も人質に取るような真似をしてすまなかった」

 

「エイモックさんはわたくしに対して紳士的でした。わたくしは貴方を恨んではいませんわ」

 

「……さあ、行け。このままだとどんどん人が集まって来るぞ?」

 

「……それじゃあ、あとは頼んだ」

 

 そう言って俺達はエイモックから離れた。

 来たときに乗っていた蒼汰の自転車を探すが見つけられない。どうやら瓦礫の中に埋もれてしまったようだ。

 

「ああ、俺の流星号……」

 

 蒼汰は無くなった愛車を嘆く。

 ……お前、中学の頃に自転車につけていた名前、今もまだ使ってたんだな。

 

「自転車は私が代わりの用意するからさ。とにかく今は急いでここを離れないと!」

 

 未練がましく立ち尽くす蒼汰を引きずるようにして、俺達は車が来ていない海水浴場の裏手側の入口に向けて駆け出した。

 

『エイモックさん……その、ごめんなさい』

 

 背中のエイモックに向けてアリシアは念話を送る。

 

『……水の巫女か。何故謝る?』

 

『元はといえばわたしの転移魔法に貴方を巻き込んでしまったのが原因だと思いますから……』

 

 エイモックがこの世界に来た来歴を考えると俺が魔王を打ち倒して倒れたあの場所にエイモックもいて、転移魔法に巻き込んでしまった可能性が非常に高い。

 

『なんだ、そんな事か。気にする必要など無い……何度も言うがあちらの世界では我に選択肢などなかったのだ。お前に感謝こそすれ、恨むような事などあり得ぬよ』

 

『……そう、ですか』

 

『我は改めてこの世界を見てみるつもりだ。そして、この世界で我が成すべきことを探してみようと思う……それがいつ見つかるのかはわからないが、幸い時間だけはたっぷりとあるからな』

 

『……あなたが答えを見つけられるよう、幸運を祈ります』

 

『それではさらばだ、水の巫女よ』

 

 ――これが、異世界からやってきた巫女と神官である二人が交わした最後の会話となった。



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戦の準備

 海水浴場の裏側は山になっていて、車も通れない獣道が続いている。こんな冬の年末に人が通るような道ではないので、俺達は人目を気にすることなく身体能力向上(インクリス・フィジカル)(小)を使って駆け抜ける事にした。

 涼花は蒼汰にお姫様だっこされることになった。ぶっつけ本番で魔法で体を強化して山の中を走るのは危険だからだ。

 蒼汰に抱えられて最初は少し恥ずかしがりながらも嬉しそうにしていた涼花だったが、俺達が移動を始めるとその表情は一瞬で凍りついた。

 

「ひゃあああ!!?」

 

 涼花を抱えたままあり得ない速度で駆け出す蒼汰。

 呆れたことに蒼汰は魔法によって強化された身体を完全にコントロールしていた。

 草が地面を覆い野良生えの木が行く手を阻むような道を、速度を落とすこと無く、枝から枝に飛んだり、石から石に数メートル跳ねたりと、アクロバティックな動きを繰り返して移動する。

 それは、世界樹の杖しか荷物がない俺でもついて行くのがやっとの驚異的なスピードだった。

 

 ……うん、下手なジェットコースターよりも迫力がありそうだね。

 

 目を固く閉じてひたすら蒼汰にしがみつく涼花の様子を見て、俺は内心合掌した。

 

 海水浴場の裏手側の山道を抜けた先にあるコンビニまでは直線距離で3キロメートル以上ある。俺達がそこに辿り着いたときの時間は、出発時刻から十分弱しか経っていなかった。

 

 このくらい離れたら警察に見咎められることは無いだろうと、俺達はコンビニで休憩する事にする。

 人目がある為ここから市内に帰るのに魔法は使えない。涼花が執事の安藤さんに連絡して迎えに来てもらうことになった。

 

 ちなみに、蒼汰に散々振り回された哀れな涼花は腰が抜けてしまっていた。

 

「……蒼汰さんのバカ!」

 

 涙目の涼花が自分で立てるようになるまで、蒼汰は涼花をお姫様だっこしたまま、ひたすら謝って涼花の機嫌を取ることとなった。途中から涼花は怒っているふりをして蒼汰に甘えているようにも見えた。

 

 ……このリア充共め。

 

 とても見てられないと、俺はいちゃつく二人を置いてクリスマス装飾がされたコンビニに入る。

 戦いの際に脱ぎ捨てたコートは探す事ができなかったので今の俺は巫女の法衣の姿だったが、今日は割りと普通に応対された。クリスマスの仮装と思ってくれたのだろう。

 首から下げてある財布からお金を取り出し、暖かい飲み物を三つ購入した。

 コンビニから出ると、ひとりで立てるようになっていた涼花が少し落ち込んでいた。

 俺が渡した紅茶のボトルを涼花は礼を言って受け取る。

 

「鈴音にこんなに怒られたのは初めてです……」

 

 無許可外泊に近い事をしてしまった涼花は、執事の安藤さんにこっぴどく叱られたらしい。

 それから、俺たちは安藤さんへの説明をどうするか考える事になった。

 魔法の事を明かす事はできない。安藤さんは信頼できる良い人だと思うけど、橋本家に雇用された執事である。善意を期待しすぎるのは間違っているだろう。

 また、エイモックに攫われたことも話すこともできなかった。エイモックの立場を考えたからではない。続けて二度も攫われた事を知られたら、涼花は日本に留まる事を許されず、両親のいる外国に行く事になるだろうと涼花が言ったからである。

 

 結論として、涼花は昨晩は俺の家に泊まりに来ていて、エイモックは俺の家に来ていた共通の知人ということにした。

 些か無理がある設定のような気はしたが、他に良い案が思いつかなかった以上これでいくしかなかった。

 

「……でもこれ、俺が涼花をたぶらかして口裏を合わせて貰ってるんじゃないかって安藤さんに勘違いされるんじゃないか?」

 

 蒼汰が疑問を口にする。

 

 ……うん、実は俺もそんな気はしてた。

 

「……そうだとしても、後で涼音の誤解は解いておきますわ」

 

 どうやら、涼花も同じように思っていたらしい。

 

「うっ……けど、まあ、しゃあねぇか」

 

 蒼汰一人に押し付ける事になってしまうかもしれず、少し罪悪感を抱いていると、涼花が意を決したような表情で口を開いた。

 

「その……わたくし今晩はパーティの後の予定はありませんの。ですから……その……誤解じゃなくしてもらっても、わたくしは……構いません……ですの……」

 

 涼花は顔を真っ赤にしてそんな事を言う。自分で言って恥ずかしくなったのか、だんだんと声が小さくなって語尾は途切れになっていた。

 聞いてるだけの俺ですら恥ずかしくなるくらいの超ド直球なお誘いである。クリスマスイブなればこそだろうか……涼花の頑張りに俺は思わず心を打たれた。

 

 だけど、涼花が一所懸命に勇気を振り絞ったお誘いは、蒼汰が固まって返事に窮している間に安藤さんのお迎えが来た事で有耶無耶になってしまった。

 

 ……このヘタレ。

 

 その後迎えに来た安藤さんに打ち合わせ通りの話をした俺達だったが、ぎくしゃくした蒼汰と涼花の二人の態度もあいまって案の定安藤さんに思いっきり疑われていた。

 だけど、もう蒼汰に同情する気持ちは一切湧かなかった。

 蒼汰も真剣に考えているから結論を出せていないというのは分かってる。だけど、真面目に一途な涼花を見てると俺は応援してあげたくなるんだ。

 

   ※ ※ ※

 

 安藤さんの車に乗った俺達はパーティ会場の学校に向かう前に涼花の家に立ち寄る事になった。昨日外泊した涼花の準備があった為である。

 涼花の家は見るからに高級そうな分譲マンションの最上階にあった。俺達が通されたのは、市内を一望できる大きな窓が印象的なリビングで、高級そうな家具でシックに纏められている。完全な庶民である俺と蒼汰はどうにも落ち着かない空間だ。

 

 涼花はパーティの仮装としてクラシカルで本格的なメイド服に着替えてきた。よく似合ってはいたが、生粋のお嬢様のせいか華やかすぎてメイドっぽさはあまり無い。

 

 蒼汰も戦闘でボロボロになった制服ではパーティに行けないと涼花に説得されて、何故か蒼汰のサイズで用意されていた執事服に着替える事になった。

 それは安藤さんの執事服ともまたデザインが異なっていて、それを着た蒼汰はまるで乙女ゲームに出てくる不良執事のようで少し笑った。

 

 ちなみに俺はそのままでパーティに行くつもりだった。祝福を受けた法衣は魔力を注いだ事で新品同様に修復されていたし、汚れも浄化の魔法で祓っていたからだ。

 

「パーティにノーメイクで行くなんて女性としてありえませんわ!」

 

 だけど、そんなふうに涼花と安藤さんに強く説得されて、俺は軽く化粧をすることになった。

 

 ……いや、涼花は俺が男だって知ってるよね。

 

 それに、パーティと言っても学校の行事なんだから気合入れなくても……という俺の言葉は笑顔で聞き流された。

 

 執事の安藤さんに肌の綺麗さを褒められたり羨ましがられたりしながら、俺はされるがままに化粧される。くすぐったかったりこそばゆかったりと不思議な気分だった。

 

「ほら、出来ましたよ」

 

 仕上がった俺の顔を鏡で確認する。

 普段よりもはっきりした目鼻立ち。幼い顔の作りは変わらないけど、その中でもぷっくりとピンクに染まった唇は誘うような色気あって――我ながらドキっとさせられる危うさがあった。

 

「……如何ですか?」

 

 安藤さんが俺に微笑みかけながら尋ねてくる。

 

「まるで私じゃないみたいで……なんだか、どきどきします」

 

 お姫様気分ってこういう感じなのだろうか。安藤さんは終始俺を恭しく扱ってくれるので、なんとも言い難いふわふわした気持ちになってしまう。

 執事喫茶にハマる女性の気持ちが少しわかった気がした。

 

「如月様はとてもお美しいですからやり甲斐がありました。その可憐な衣装とあいまってパーティの華となるのは確実でしょう」

 

 ……それは別になりたくないんだけどなぁ。

 

 そう思いつつも安藤さんに言われるのは悪い気分じゃなかった。

 

「おかしいよね? 私が化粧なんて……」

 

 蒼汰が俺の顔をじーっと見ているのに気がついて、俺は苦笑しながら訪ねてみる。

 何故か顔を背けた蒼汰は、口をもごもごさせて、顔を背けてポツリと答えた。

 

「変じゃ、ねーよ……ちょっと、びっくりしただけだ……」

 

「そ、そう……」

 

 そんな蒼汰の様子に何故か俺も気恥ずかしくなって顔を逸してしまう。

 安藤さんはそんな俺達の様子を笑顔で見守ってくれていた。

 

 ……あっ、涼花がちょっと拗ねてる。

 俺の正体を知ってもまだ心配するだなんて涼花は心配性だなぁ……

 

 俺と蒼汰で何かあるはずなんてないのに。



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クリスマスパーティ

「本日は生徒会主催のクリスマスパーティに良く来てくれた!」

 

 壇上にはつい先日選出されたばかりの生徒会長の女生徒が立っている。このクリスマスパーティは毎年新旧生徒会の引き継ぎも兼ねていると聞いたことがある。

 

「勝ち組のカップルの諸君! 周りに羨ましがられながら楽しんでくれたまえ。……ああ、不純異性交友はほどほどに、くれぐれも人生計画を崩さないようにな」

 

 随分とざっくばらんな言い草の生徒会長だ。個人的にこういう雰囲気は嫌いじゃない。

 

「そして、独り身の諸君! このパーティで最後の足掻きをしてみるのも良し、友人達と楽しむのも良しだ。もし、一人で来ていても楽しめるように、生徒会ではいろいろ企画を考えてある。是非参加して私達と一緒に盛り上げてくれると嬉しい」

 

 最前列にいる集団から歓声があがった。ノリと調子が良い運動部を中心とした野郎共だ。

 

「とにかく、それぞれがこのパーティを楽しんで貰えたらと思っている。それでは、皆グラスを掲げてくれ……メリークリスマス!」

 

「「「メリークリスマース!!」」」

 

 ノンアルコールのシャンパンが入ったグラスが掲げられて打ち合わされた。パーティの開始を告げるかん高い音が体育館に鳴り響く。

 俺は近くにいるウィソ部のメンバー達で乾杯してから、グラスに口をつけた。ほんのりと甘い炭酸飲料が喉を潤していく。

 

 パーティは立食スタイルだった。

 中央に並んだテーブルにはクリスマスケーキの他に大盛りのオードブルにおにぎりやおかし、それからジュース等が用意されていて、生徒会メンバーや料理部等の有志がそれらを提供していた。

 

「やあやあアリス、ボクだよ。飲んでるかーい?」

 

 ご機嫌で絡んで来たのはクラスメイトの純。

 

「飲んでると言ってもノンアルコールでしょうに……」

 

 隣には同じくクラスメイトの文佳が呆れた顔でトレードマークのポニーテールを揺らしていた。

 

「それにしてもすごく本格的な衣装だねぇ……まるで、ゲームに出てくる司祭みたい、素敵!」

 

 この格好は俺が異世界で一年間見続けて来たアリシアの姿そのものだったから、アリシアを褒められるようで素直に嬉しい。

 

「ありがとう! ところで、純は仮装しないの?」

 

 純達は普段通りの制服だった。パーティのドレスコードは制服かドレス又は仮装という何でもありで、参加者の半数くらいは制服を着用していたので違和感は無い。

 

「んー、そういうのはボクの柄じゃないからさ!」

 

 メイド喫茶のときのメイド服は似合ってたし、そんな事は無いと思うんだけどなぁ……

 

「私は衣装を買うお金があるなら本を買うわ」

 

 文佳は相変わらず本の虫のようだ。

 

「ところで、優奈も随分本格的な巫女さんのコスプレだねぇ!」

 

 お揃いの巫女の格好で並んでいる優奈と翡翠を見て感嘆の声をあげる純。

 

「あたし達のはコスプレなんかじゃないよ!」

 

 腰に両手を当てて胸を張りながら優奈は言った。

 

「これは私の家の神社で使っている本物の巫女服よ。興味があるならあなた達も年末年始にうちで巫女のアルバイトをしてみない?」

 

 と翡翠が早速勧誘している。二人は年末年始は既に予定が入っているようでバイトは難しいとの返答だった。

 

「こんばんわ、如月さん。それすごく似合ってるね! 写真を撮らせてもらってもいいかな!?」

 

「あ、山崎くん。私でよければどうぞ」

 

 テンション高く声を掛けてきたのは制服に写真部の腕章をつけた山崎くんだった。

 彼は俺がアリスになってからの数少ない男子の友達だ。

 写真の被写体として頼まれて話するようになり、以前俺のことを好きと告白してくれたことがある。

 告白を断った後はどう接すれば良いのか不安だったが、向こうから今まで通りに話かけてくれたので以前と変わらず友達でいる事ができていた。

 

 ただ、友達と言っても俺が幾人だったときと同じような関係ではない。性別という壁は大きくて、蒼汰以外の男子とは以前のような気安い関係は望めなかった。

 山崎くんはいい奴で、もし俺が男のままだったらもっと仲良くなれたかもしれないと思うと少し寂しい気持ちになる。

 

「山崎。あなた、それってどうなのよ……」

 

「ちょっ、文佳いいから……!」

 

 山崎くんを何故だか白い目で見る文佳。そして、純はそんな文佳を慌てて止めようとしている。

 

「あ、いや、これは……生徒会の依頼で仮装した生徒を中心に撮影するように言われてて……」

 

 文佳に言われてしどろもどろになる山崎くん。同じクラスだけど、あまり教室では関わりの無さそうな三人の様子に意外に思っていると、文佳から出てきたのは、さらに思いもよらぬ言葉だった。

 

「だからって付き合い始めた彼女を放っておいて別の女の写真を撮るのに夢中っていうのはどうかと思うわ」

 

「だから文佳、ボクはいいってば!」

 

 純は顔を真っ赤にしている。

 

 え……? 付き合っているって山崎くんが? ……純と?

 

「そ、そのごめん海江田さん……」

 

 文佳に言われた山崎くんが慌てて純に謝罪する。

 

「き、気にしないでいいよ!? 写真に一生懸命なところは山崎くんのいいところだとボクは思ってるから! それに、その……ボクなんかよりアリスの方が全然かわいいし……」

 

「そんなことない! 僕は海江田さんが一番かわいいって思うよ! だから、その……」

 

 言っているうちに恥ずかしくなったのか、山崎くんの言葉は途中で途切れ、二人して向き合って顔を真っ赤にして固まってしまう。

 

「山崎くん、カメラ貸して」

 

 見かねた俺は山崎くんに声をかける。

 

「き、如月さん……?」

 

「二人で撮ってあげるから……よかったね」

 

 俺は軽く山崎くんの背中を叩いて祝福した。

 

「あ、うん……じゃあ……」

 

 山崎くんからカメラを受け取る。使い方は以前教えて貰っていた。

 ある程度離れてから、振り返りカメラを二人に向ける。

 

「何でそんなに離れてるの? 遠いわよ、もっと近づいて。手も繋いで……そうそう」

 

 と、文佳に指示されて近づいて手を取る二人。

 カメラの小さな液晶には遠慮がちに手を繋いで恥ずかしそうに微笑む二人が写っていた。

 

「はい、チーズ!」

 

 フラッシュが焚かれて二人の姿が記憶される。何度かシャッターを押して何枚か続けて撮る。俺のような素人でも枚数撮れば良い瞬間が撮れる可能性が上がると山崎くんに教えて貰っていた。

 

 写真を撮った後、山崎くんは俺に礼を言ってカメラを受け取る。純と二人で撮った写真を見てまた顔を赤くしていた。

 

 それから山崎くんはパーティの様子を撮影するからと移動する事になり、他の二人も別の生徒に話かけられて、自然と別れることになった。

 クラスメイトと二人別れてから、俺は優奈に問いかける。

 

「まさか、あの二人が付き合うなんてね……優奈は知ってた?」

 

 クラスメイト達と別れて少しして、俺は優奈に話しかける。

 

「ううん、あたしも初耳でびっくりしたよ。今度、経緯を詳しく――根掘り葉掘り聞かせてもらわないと」

 

「……そうだね」

 

 優奈に問い詰められるであろう純に同情する気持ちは無くはないが、幸せのお裾分けって事で諦めて貰おう。何より俺もどうして二人が付き合うようになったのか興味がある。

 

「しかし、見ているこっちが恥ずかしくなるほどの初々しさだったわね……」

 

 翡翠が俺に話しかけてくる。

 

「そうだねぇ……いいなぁ」

 

 純のあの大きいおっぱいを自由にできるなんて羨ましい……胸には男の浪漫が詰まっていると思う。

 

「ねぇ、アリス。この後なんだけど私の家で二次会とか如何かしら? 父さんは親戚の家に行っていて今晩は家に誰も居ないの。一人だと私ちょっと不安で……」

 

 俺の邪な考えを見抜いたのか、翡翠は俺の耳元でそんな言葉を囁く。

 

「……いや、俺は外出する予定無いから大丈夫だぞ?」

 

 隣で翡翠の囁きを聞いていた蒼汰が口を挟んでくる。

 

「……蒼汰は夜通しネカフェで遊ぶ用事があるって言ってたじゃない」

 

 翡翠の詰問するような冷たい声が、双子の兄である蒼汰にかけられた。蒼汰はそんな翡翠の様子にたじろぎながらも反論する。

 

「そんな予定知らねーよ。アリスと二次会するなら俺も一緒に参加させろよ? 今日の戦勝会をやろうぜ!」

 

「今日はイブなのよ? 私はアリスと二人で過ごしたいって言ってるの! 空気読みなさい、この唐変木!」

 

 ここまで言われて蒼汰はようやく翡翠がどういう意図で俺を誘っているのか理解したらしい。

 

「アリスと二人でって……お前らまさか……」

 

 妹と友人の関係を知って動揺する蒼汰。

 

「だったらどうだと言うの? 私とアリスの関係よ、あなたに口出しされる謂れは無いわ」

 

「そ、それはそうだが……」

 

「それに、涼花から聞いたわよ。あなた涼花からお誘いを受けて置いてちゃんと返事してないんでしょ? ちゃんと答えを出してあげなさいよね。あ、別に今日は家に帰ってこなくていいから」

 

「そ、それは……」

 

 痛いところを突かれて蒼汰は顔をそらす。

 その先には涼花がいて。

 

「ふえ……わ、わたくし、ですの? あわわ、翡翠さん……」

 

 と、突然自分の事に触れられて動揺していた。

 

 ……しかし、涼花のお誘いの話、もう翡翠に伝わっているのな。

 

「ごめん、翡翠。私は今晩アリシアと二人で過ごしたいから……」

 

 俺はそう言って翡翠に断りを入れる。

 

「……そう。それなら、仕方ないわね」

 

 翡翠は食い下がる事はなく素直に引き下がった。温泉旅行のときの一回だけという約束は今も有効のようだった。

 

「……俺もごめん。涼花のことは嫌いじゃない。だけど、もう少し待って貰えないか? 俺自身まだ答えを出せていないんだ。中途半端な気持ちで涼花と付き合うのは不誠実だと思うから……」

 

 蒼汰は改めて涼花に向き直ってそう言った。

 人生がかかっているので慎重になるのはわかるが、目の前のおっぱいに負けない蒼汰を正直尊敬する。

 

「わかりました。わたくし蒼汰さんが結論を出すのを待ちますわ……いつまでも」

 

 涼花は健気に微笑んで応えた。

 がんばった涼花に、俺は心の中でエールを贈る。その想いが報われる事を祈りながら……

 

 その後生徒会主催の仮装コンテストがあって、半強制的にエントリーさせられていた俺は舞台で一芸を披露することになった。

 俺はアリシアが良く歌っていた異世界の歌をアリシアと一緒に歌い、なんと大賞を得る事ができた。

 祝福の言葉にくすぐったい気持ちになりながらも、アリシアが認められたような気がして嬉しかった。

 他にも細々した催し物に参加したりして、パーティが終わるまで俺達の間に笑顔は絶えなかった。

 

 



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恋人達の夜

 クリスマスパーティが終わって、外に出るといつの間にか雪が降り出していた。

 

「素敵、ホワイトクリスマスだね……」

 

 優奈がうっとりそう言うが、俺としては寒い上に降った雪が溶けて濡れるので鬱陶しい限りだ。

 

 ……まあ、人目さえ無ければ何とかなるからいいけど。

 

 俺は魔法を詠唱し、自分と優奈を水分を弾く膜で包み込んだ。

 

「おお、こんなこともできたんだ。これがあれば傘なんて要らないね!」

 

「それは無理だよ、雨を弾くのって目立ちすぎるから」

 

 人影もまばらな夜道で、降っているのが雪だから使える魔法だった。

 

 帰り道、俺は今日あった事を優奈に話しながら歩く。

 ただし、不良グループの集会に乗り込んだのではなくエイモックのところに話をつけに行ったとか、大怪我を負ったことは抜かしたりとか、過度な心配を掛けないように細部はところどころ変えてある。

 

「異世界への門かぁ……ちょっと勿体無いって思っちゃうなぁ。アリスが得たっていう全属性の祝福があればチート無双がこの世界でもできるんでしょ?」

 

「何を相手に無双するのさ……」

 

 俺は苦笑気味に返す。

 非日常な戦闘に巻き込まれるのは今回だけで十分だ。

 

「それに、もし異世界で祝福を得られたらなら、魔法が使えるんでしょ? 憧れるよ」

 

 そう思う優奈の気持ちはわかる。

 

「……けど、だからこそ門は塞ぐべきなんだ。力への憧れで異世界を侵略しようと考える人は絶対に出てくるから」

 

『それに、あちらから人に危害を加える魔の存在がやって来ないとも限りません。そうなれば、この街の平穏は乱されてしまうでしょう』

 

「うへぇ……確かに物騒なことは勘弁だね」

 

「平和が一番だよ……」

 

 俺が行った異世界は決して理想郷のような世界ではなかった。魔獣に魔族、そして魔王と人類に仇なす存在が多く、死は常に身近なものだった。

 日常で命の危険を感じることの無い日本の治安がどれだけありがたいものか、俺は異世界で実感させられた。

 

   ※ ※ ※

 

 家に戻った俺達は交互にお風呂に入ることにした。

 優奈と肌を重ねてから俺達は一緒にお風呂に入ってはいない。特に打ち合わせた訳じゃないけれど、自然とそうなっていた。

 

「頼まれていた物、ここに置いとくね」

 

 お風呂から出てリビングに居た優奈に声を掛けると、そんな言葉がかえってきた。

 

「ああ。ありがとう、優奈」

 

 俺は礼を言ってダイニングテーブルの上の物を確認する。

 それらは、俺がアリシアの為に用意したクリスマスプレゼントだった。アリシアと意識が同調している俺はサプライズできないので、優奈に購入を依頼していたのだ。

 ラッピングされたプレゼントが三つにシャンパンのボトルとペアグラスが置かれていた。

 

「……あれ? 多い……?」

 

 依頼していない物が混じっていたので困惑していると優奈がウインクして俺に告げた。

 

「アリシアから頼まれた物もあるからね。後、シャンパンはあたしからのサービス」

 

『ありがとうございます、ユウナ』

 

「このくらい、お安い御用よ」

 

 どうやらアリシアも俺にサプライズのプレゼントを用意してくれていたらしい。優奈とアリシアはときどき二人だけで念話で話をしているときがあるから多分そのときに依頼していたのだろう。

 

 優奈に手伝って貰ってプレゼントを部屋に持って入り、勉強机の上に置いた。

 

「それじゃあ、あたしはお風呂入って寝るね。おやすみ、アリス、アリシア」

 

『「おやすみなさい」』

 

 優奈は俺の頭をぽんぽんと軽く撫でてから部屋を出ていった。

 パタン、とドアの音がして廊下を立ち去る足音が遠ざかって行く。やがて室内に残った音はエアコンの作動音のみになった。

 

『今日はいろんなことがありましたね……』

 

 ぽつりとアリシアが呟いた。

 

「全くだ」

 

 終業式が終わって涼花が攫われた事が判明。蒼汰と二人で海水浴場に殴り込み。

 エイモックと対峙、戦闘。苦戦するも全属性の祝福の恩恵でなんとか勝利。

 門の封鎖と再び失われる祝福。涼花に俺の正体がばれる。

 涼花の家に訪問して準備。それから、クリスマスパーティに出席、参加させられた仮装コンテストで大賞を貰う。

 

 俺がこの世界に戻ってきた日にも匹敵するくらい目まぐるしい一日だった。

 

 そんな事を思い出しながら、俺は一瞬身体強化の魔法を使いボトルのキャップを開け、中の液体をペアで並んだグラスに注ぐ。優奈が用意してくれたのはアルコールの入った本格的なシャンパンだった。

 こぽこぽと炭酸が泡立って、シャンパングラスが琥珀色の液体で満たされていく。

 果実の良い匂いがふわっと鼻孔をくすぐる。

 

『綺麗……』

 

 アリシアは溜息をこぼすように呟いた。

 異世界では成人だった俺達は、祭りのときなんかはお酒も飲んでいた。だけど、そういう場で出てくるのは大抵木製のジョッキに入った果実酒で、こういったグラスに注ぐようなお酒を飲むのは初めての経験だった。

 

 俺はグラスをひとつ手にとって軽く掲げる。

 

『「乾杯」』

 

 ふたりの声が重なり、俺は手に持ったグラスを机の上に置いてあるグラスに当てる。澄んだ音色が静かな部屋に響いた。

 そのままグラスを口元に持っていって傾ける。

 冷えた液体がお風呂上がりで乾いた喉を潤していく。フルーティな味がさわやかに広がって、一瞬遅れてピリッとした炭酸が心地良く口内を刺激する。

 

『美味しいです……』

 

「ほんとだね……明日、優奈にお礼言っとこう」

 

 シャンパンの良し悪しなんてわからないけど、とても美味しく感じた。

 

 ……アリシアと一緒に飲めたらもっと良かったんだけどな。

 

『イクトさんは今日は誰かと一緒に過ごさなくて良かったのですか? いいですよ今からユウナを呼んでも……』

 

 俺がもうひとつのグラスを見ているのを別の意味と捉えたのかアリシアがそんな事を言った。

 

「俺はアリシアと二人で過ごしたいんだ。その……日本では、今日は恋人達の日だから」

 

『……わたしはイクトさんに無理させていないか心配なんです』

 

「無理なんかしてないよ」

 

 あれから俺は誰ともエッチな事をしていない。

 もちろん、アリシアへの遠慮も無い訳じゃないが、それよりも自分自身の反応に戸惑いがあったからというのが大きい。

 

「アリシアと一緒に翡翠や優奈と肌を重ねた事は確かに気持ち良かったけど、男のときとは感じ方が違ってて……」

 

 ムラムラと相手を求める感情よりも、体の内側からキュンとなって相手を欲しいと思う感情が強く出てしまうのだ。

 翡翠と優奈どちらのエッチでも俺はアリシアと一緒に翻弄される結果となってしまっていた。

 

「このまま回数を重ねてその快楽に身を任せてしまったら、もう戻れなくなりそうで少し怖くて……」

 

『……そうだったんですね』

 

 体が女の子になっても、心はアリシアのことを好きな男でありたいと思う。

 幸いと言うべきか翡翠とは一度きりという約束だったし、優奈とも以前より肌の接触は少なくなったけど、不自然さはむしろ無くなって、なんだか普通の姉妹になったような感じだった。

 だから、誰とも肌を重ねない事で不義理にはなってはいない……と思う。

 

「……まぁ、俺のわがままだから気にしないでよ。それじゃあプレゼントを開けるね」

 

 アルコールによる熱を少しだけ頬に感じながら、アリシアの為に用意した一つ目のプレゼントを手に取った。それは角張っていてずっしり重い。

 俺は丁寧に包装を解いていく。

 

『こ、これは……!』

 

 アリシアの弾んだ声が聞こえてくる。中から出てきたのは毎年出版されている現代用語辞典の新刊で、ジャンルを問わずに読書する事が好きなアリシアなら喜んで貰えるだろうと俺が選んだものだった。

 ペラペラとページをめくってみせる。様々なジャンルのいろいろな言葉が見出しで解説されている。

 

『うわー、うわーっ! すごいですっ! イクトさん、ありがとうございます!』

 

「喜んで貰えたみたいで良かった。明日にでもゆっくり読もうな」

 

『はいっ!』

 

 そう言って俺は次の小さい袋を手に取った。本はあくまで前座で、本命はこっちだった。

 袋から小さな白い箱を取り出す。箱を開くとその中には小さな指輪が二つ入っていた。

 

『イクトさん……これって……』

 

 物自体はアリシアも見た事があるはずだった。これを選ぶのに優奈と一緒にジュエリーショップに見に行ったからだ。

 二つ揃いのリング。

 

「……アリシア好きだ」

 

 あらためて口に出すのは照れくさい。だけど、ちゃんと気持ちを伝える事は大切だって優奈も言っていた。

 

『……はい。わたしも好きです、イクトさん』

 

 俺は白い箱からリングを取り出して右手で摘む。

 

「つけるね」

 

『はい……』

 

 俺は左手の薬指にリングを通していく。サイズは以前測っていたからぴったりだ。続けて、もうひとつのリングを同じく左手の薬指に着ける。

 リングをつけ終わった俺は左手を目の前にかざした。薬指に並んだ揃いのシルバーのリングが光っている。俺とアリシア二人分の指輪だ。

 

『素敵……イクトさん、ありがとうございます!』

 

 アリシアが感極まった様子で礼を言う。

 そんなアリシアの反応が嬉しくて自然と俺も笑顔になる。

 

「こちらこそ、いつもありがとうアリシア……これからもよろしくな」

 

『はいっ……!』

 

 照れくさいような、誇らしいような感情で胸が一杯になる。

 視線をさまよわせているともうひとつアリシアが用意してくれたプレゼントがある事に気がついた。

 

「アリシアのプレゼントも開けていいかな?」

 

『……! あっ……ええと……は、はい……』

 

 アリシアが動揺している風なのは何故だろう。

 不思議に思いながら俺はプレゼントを手に取った。その包みはやけに軽い。

 俺は封を開けて中に手を入れる。手に触れるのは艷やかな布のような感触。中身を取り出して机の上に置く。

 

「こっ……これは……」

 

『わ、わたしイクトさんからこんなに素敵なプレゼントいただけると思ってなくて……こんなので、ごめんなさい』

 

 出てきたのは黒色でレースがふんだんに施された布……セクシーな下着の上下だった。

 

 俺はそれらを手に持ってみる。胸と腰の部分のレース部分が透けていて、なんだかとてもエッチだ。

 

『ユウナに相談したらイクトさんはこれが一番喜ぶだろうって……その……軽蔑しましたか?』

 

 優奈の助言というのが気になったが、悔しいが的を射てると言わざるを得ない。

 

「そんなことないよ。すごくエッチで素敵だ……俺の気持ちアリシアにもわかるでしょ?」

 

 こんなセクシーな下着をアリシアが用意してくれたかと思うと俺はもう体の奥が熱くなってしまっていた。

 そんな俺の反応はアリシアに筒抜けだ。

 

『は、はい……嬉しいです』

 

 そんな事をアリシアに言われてまた体が反応してしまう。

 鼓動が早くなるのがわかる。

 

「……早速着てみてもいいかな?」

 

『は、はい……』

 

 用意の良いことにタグは全部外されていた。

 俺はパジャマのボタンを外していく。脱いだ衣類は丁寧に畳んでいく。

 以前は乱雑に脱ぎ捨てて置いても何も言われなかったのだが、この体になってからは母さんのチェックが入るようになってすっかり習慣になってしまった。

 パジャマの上下、キャミソール、それから最後にショーツを脱いで、小さく畳んでパジャマの間に差し入れて隠す。

 

 それから机の上の下着を手にとって身につけていく。

 ショーツを手にして少しだけ悩む。今の状態で身につけたらせっかくの新しいショーツを汚してしまうんじゃないかと思ったからだ。だけど、むしろそうする為に身につけるものだと思い直してそのまま足を通していった。

 冷たいツルツルの布地がきゅっとお尻を包み込んで、その部分がじんわりと湿っていく感触がする。

 続けて前屈みになってブラを身につけていく。寄せ集めてカップに収めると谷間ができていた。これでも以前と比べると少しは大きくなっているのだ。

 

 上下の下着をつけ終わった俺は姿見の前に移動する。

 

「きれいだ……」

 

 幼いアリシアの容姿には不釣り合いのセクシーな下着は、背徳的な色気を際立たせていてとてもいやらしかった。

 頬が赤みを帯び潤んだ瞳の少女は見るからに発情していて、艷やかに鏡の中から俺を見返していた。

 

「アリシア好きだ……」

 

 俺は鏡の中の少女が愛おしくなって姿見に近づいていく。そのまま姿見に顔を近づけて目の前の少女に口づけをした。

 

 ――鏡越しのキス

 

 それが今の俺達の距離。誰よりも近くに居るのに触れ合う事はできない。

 

『イクトさん、今日はこのまま……』

 

 だけど、想いは共有しているから。

 少しだけ寂しくはあるけど、俺達は大丈夫。

 

 ――そうして、恋人同士で過ごしたクリスマスイブの夜は更けていった。



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番外編 お正月の銀髪巫女

 俺の名前は音成(おとなり)十蔵(じゅうぞう)、平山高校一年生だ。

 正月三箇日の最後の日である今日、俺は一人で神社に来ている。

 例年一緒に初詣をしていた男友達のマツリは、最近できた彼女と二人で外出するとの事らしい。

 片思いだった娘に告白して玉砕したマツリは、そんな奴を見ていたというクラスメイトの女子に告白されて付き合うようになった。

 

「振られて直ぐに別の娘と付き合うのって不誠実じゃないかな」

 

 なんて面倒くさいことをマツリが言ってたけど、

 

「そんなの手前が付き合いたいかどうかで決めやがれってんだ。世間体とか言い訳にするのはその娘に失礼だろ」

 

 と俺が背中を押してやったんだ。

 付き合うことになったと紹介された海江田純という女子は自分の事をボクと言う少し変わった娘だったが、話してみると世話焼きで情の深い良い女だった。小柄なのに出るところは出ていて羨ましい限りだ。

 尻には敷かれそうだが、マツリには丁度良いだろう。

 

 ……よかったな、マツリ。

 

 冬休み前に付き合い始めてクリスマスもあったというのに、どうやら、まだキスすら出来てないようだ。

 それなのに、今日マツリは彼女の家にお呼ばれしているらしい……ご愁傷様だな。

 

 これからも、せいぜいからかってやろう……もてない男の僻みを受けるくらいはしてもらわねぇとな。

 

 そんな訳で俺は今年の正月は一人寂しく初詣となった訳だ。

 本当は、一つ下の妹が一緒に来たがっていた。だけど、妹は受験生だ。一番大切なこの時期に初詣に行って風邪でも貰ったりしたら大変なことになるから、と説得して家に居させたのだ。

 

「……しっかし、混んでるな」

 

 俺は人の多さに思わず俺は独り言をこぼす。

 正月だし神社が賑わっていて当然なんだが、3日にもなればいつもならそれなりに落ち着いているはずだった。だが、今年はなんだか例年よりも随分人が多いような気がする。

 境内に進むと売店あたりが特に込み合っているようだった。

 不思議に思いながらもまずは参拝を済ませることにした。

 

 俺の妹は俺なんかと違って医者になるっていう立派な夢がある。それを叶える為には良い学校に行かなければならない。

 あいつがどれだけ頑張って来たかは俺が良く知ってる。こんなところで躓かせる訳にはいかねぇんだ。

 俺の事はどうだっていい。だから、頼むよ神様……

 

 賽銭は奮発して500円玉を投げて念入りに祈っておいた。それから、お守りを買う為に売店に向かう。

 

 ……しかし、なんでこんなに人が多いんだ。

 

 人混みの中を押されるように少しづつ進んで、ようやく売店に辿り着く。そして、不意に見覚えのある顔を見かけた。

 

「あれは……妖精さんじゃねーか」

 

 売店で働く巫女さんの中でも一際目立っているちっちゃい娘がいた。それは、見間違えようも無い、マツリが以前告白した如月アリスという女子だった。

 

 銀髪に高校生と思えない幼い容姿が印象的な彼女が、ややサイズの合ってない巫女服を来てぱたぱたと動いている様子は小動物を見ているようで、なんとも微笑ましく思える。

 この様子を一目見ようと来ている人が多いから混雑しているのかもな……なんとなく御利益(ごりやく)ありそうだし。

 

「あれ? あなたは、山崎くんのお友達の……ええと……エロ本の人!」

 

 俺に気づいたその娘は、そんな風に俺に話しかけてきた。

 

「音成だ。別に憶えなくてもいいが、その呼び方はやめてくれ……」

 

 容姿に似つかわしく無い単語が出てきて、周りの人がぎょっとしてるじゃねーか。なんだか、周囲の人が俺を見る視線が冷たくて痛いし……

 

「わかった。ごめんね、音成くん」

 

 この娘は全く悪気の無さそうに言うから始末が悪い。

 

「それで何を買うのかな……恋愛成就の御守りとか?」

 

「いや、それはいらねぇよ」

 

「……彼女いるんだ?」

 

 意外そうな顔をすんじゃねーよ。

 ……まあ、実際居ないけどな。

 

「今は付き合うような余裕がないだけだ。健康祈願と学業成就の御守りを頼む」

 

「……意外に優等生?」

 

「俺じゃねぇよ、妹だ。今年受験生でな」

 

「そっか……いいお兄ちゃんなんだね。はいどうぞ」

 

 俺はお金を払って御守りを受け取ると、再び人混みをかき分けて人混みから出て、一旦境内の裏で休憩することにした。

 

「うわ……すげぇ回数転載されてる」

 

 試しにスマホのつぶやきアプリで神社の名前を検索してみると、神社の公式アカウントがあってそこに神社の様子とか巫女さんの写真が載っていた。中でもくだんの妖精さんの写真はやたらと転載されていた。「銀髪巫女萌え〜」とか返信がついていたりするし。

 こりゃ人も増える訳だ。

 そんな風に思ってると何だか周囲がざわついてる気がして。顔を上げると話題の当人が息を切らして俺の目の前に立っていた。

 

「良かった……まだ居た……」

 

「俺? ……何か用か?」

 

 彼女とはマツリを通じて何回か話をしたくらいの付き合いしかない。

 ……お釣りを間違えていたとか?

 

「これを、音成くんに渡したくて……」

 

 そう言って差し出されたのは、

 

「家内安全の御守り?」

 

 俺は渡された御守りを摘み上げて目の前に掲げてみる。

 

「私からのプレゼント。もちろんお代はいらないから」

 

「……どうして、これを俺に?」

 

 俺は相手の意図がわからずに訝しげに聞いた。

 

「……その、知り合いの話なんたけど……受験のときに兄が大変な事になって受験に集中できなかった子が居たから、音成くんは自分も大事にして欲しいって思って……ごめん、変だよね。自己満足みたいなものだからあまり気にしないで」

 

 なるほど、それで合点がいった。

 

「サンキュな。それより大丈夫だったのか、仕事抜け出したりして……」

 

「うん、そこは問題ないよ。丁度休憩時間だったから、仕事を放り出して来たとかじゃないよ!」

 

「そうか」

 

 少し安心した。

 それにしてもこの娘は本当に物怖じしないな。自分で言うのも何だか、俺は体がでかくて目付きも悪いから、初対面の相手(特に女子供)には怖がられる事が多いのだ。

 

 だが、まあ、それも納得はできる。

 この娘が付き合っていると噂の男はヒラコーの狼と呼ばれているこの学校の影の実力者で、一人で不良グループのウロボロスを壊滅させたと噂されている。

 なんでもその男はこの学校で四人の女を囲っていて、その一人がこの娘だいう話だ。

 さらに、復活したというウロボロスがリベンジするという噂もあったが、最近になってそれも聞かなくなった。再びヒラコーの狼に壊滅させられたというのがもっぱらの噂となっていた。

 同じ学校で顔見知り程度に知っているウロボロスの関係者にその辺りの話を聞いたところ、何かに怯えた風に決して口を割ろうとしなかった。

 恐れられているのは男だけではなく、彼女も白銀の魔女と呼ばれて畏怖の対象になっているという噂もある……流石に眉唾だろうが。

 とにかく、目の前の少女を外見のままのか弱い存在だと思うのは間違いだろう。そして、俺の直感もそれを肯定していた。

 

 俺達はしばらく雑談してグループチャットのアドレスを交換したりした。

 

「……それにしても、何でこんな俺に話しかけようだなんて思ったんだ?」

 

「うーん……同じ巨乳派のよしみ、とか?」

 

「くくっ、なんだよそれは……」

 

 冗談にしても皮肉がきいている。なにせ、目の前の少女は完璧に幼児体形で胸は真っ平らもいいところだからだ。無い物ねだりというやつなのだろうか……つくづく面白い女だった。

 

「それじゃあ、今日のお礼に俺のおすすめの本をやろうか?」

 

「……い、いいの? あ、いや、その……やっぱりいい、です……」

 

 何かを思い出したのか、何故だか急に顔色が悪くなった少女を不思議に思いながら、その日は別れた。

 

 後日、良い画像が手に入ったときに思いついてメッセージで送ってみたら、割と嬉しそうな反応が帰ってきて――ますますよくわからなくなった。

 それからというもの、ときどき良さげな画像を見つけたら彼女に送信するようになった。

 家族に見られないようにしてるのか、既読になるのはいつも夜の時間で、大体一言乳や尻についての感想がメッセージで帰ってきた。グッとくるポイントが俺の趣味と一致してて、とてもわかっていた。

 まるで男のダチを相手にしているように思えて――このアカウントは別人のアカウントを教えられたのではないか疑いたくなったのは一度や二度では無い。

 レズビアン……いや、バイセクシャルなのか……? と悩んだこともあったが、そのうちどうでも良くなった。

 その後もリアルの接点は全く無いままに、俺達の不思議な関係は続いたのだった。



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第五章 Alicemagic
お休みの日


 わたしのナマエはありしあ

 

 だいすきなかあさまといっしょでマイニチがしあわせ!

 

 ……だけど、ときどきシンパイになるの

 

 わたしはタイセツなことを、わすれてしまってるんじゃないかって

 

 そのことをおもうと、とってもおムネがきゅーってなって、くるしくなるの

 

 でも、そんなときは、かあさまにダッコしてもらえばだいじょうぶ

 

 そしたら、きゅーっとしたきもちなんて、ババーンってどっかいっちゃうんだ!

 

 かあさまはスゴイ!

 

「かあさまはきっと、しあわせの魔法がつかえるんだね」

 

 わたしがそういったら、かあさまはわたしのあたまをナデてほほえむの

 

「だったら、アリシアも私を笑顔にしてくれる魔法使いね」

 

 うん! わたしもステキなまほうつかいになる!

 

 ……えへへ、かあさまダイスキ

 

 かあさまといっしょなら、コワイものなんてなにもないよ

 

 だから、ずっと、ずーっといっしょ……ヤクソクだよ、かあさま!

 

   ※ ※ ※

 

 ――――

 

 俺は目覚し時計の鳴る音で目を覚ます。

 どこか普段と異なる違和感を感じて、俺はその違和感の原因を思い出した。

 

「……ああ、今日はおやすみの日だったか」

 

 返事は無い。

 当たり前だ、これはただの独り言なんだから。

 

 今日、アリシアは居ない。

 

 バイトで慌ただしかった正月を終えて一息ついた昨日、アリシアから受けた相談が事の始まりだった。

 

『イクトさん、わたし明日はお休みをいただきたいと思います』

 

「お休み?」

 

『今は夜にだけ精神同調を切っていますが、これからはそれに加えて週に一回くらい一日中切る日を作ろうと思うのです』

 

「……どうしてそんなことを?」

 

『週に一日くらいはお互いのプライベートな時間もあってもいいかなと思いまして。最近読みたい本も溜まってきてますし』

 

 アリシアは俺が流し読みした本を完全に記憶しておいて、同調を切ったときに記憶から呼び起こして読んでいると聞いたことがある。

 特に拒否する理由もなかったので、俺はアリシアの提案を了承したのだった。

 

 そんな訳で今日の俺は一人だった。

 一日中アリシアと一緒じゃない日を過ごすのはこの世界に戻ってきてから初めてなので、なんとなく気の抜けた感じになる。

 

「おはよう、優奈」

 

「おはよう……アリス」

 

 俺はリビングに降りて優奈と朝の挨拶を交わす。

 だけど、いつもならここに加わるはずのアリシアの元気な念話(こえ)がなくて、お互い少しぎこちない間ができてしまった。

 

「アリシアが居ないとなんだか調子狂うね」

 

 いつの間にかアリシアは我が家にとって居るのが当たり前の存在になっていたらしい。

 

「すっかり、アリシアは家族になってたんだなぁ……」

 

 そう思うと寂しい中にも嬉しさが込み上げてきた。

 

「……そうね」

 

 だけど、優奈はそんな俺を見てよけいに寂しくなってしまったようで表情が暗い。

 

「大丈夫だよ、明日になれば帰ってくるんだから」

 

 一日居ないだけで大袈裟だなぁ……

 だけど、それだけ優奈がアリシアの事を大切に思ってくれているということだから嬉しく思う。

 

 俺はダイニングテーブルに座って母さんが用意してくれた朝ご飯を食べる。

 これも普段はアリシアと優奈のおしゃべりを聞きながら食べる事が常だったので、とても静かに感じた。

 

「アリスは今日はどうするの? あたしは街中に買い物に行くつもりだけど一緒に行く?」

 

「ええと、特に考えてはなかったんだけど、買い物はちょっと微妙かな……」

 

 まだ初売りの名残りで人が多そうだし、何よりアリシアが一緒のときの方が確実に買い物は楽しいから、わざわざ不在のときに行きたいとは思わなかった。

 

 かといって、俺一人でしたいことと言えば何だろう?

 

 以前の自分は普段何をしていただろうと思い返してみると、大抵暇があれば目的も無く蒼汰の家に行ってた気がする。

 

「気兼ねする必要も無くなったし、せっかくだから今日は蒼汰の家に行くよ」

 

 俺は優奈にそう答えた。

 食べ終わった食器を洗い片付けてから、俺は部屋に戻って外出の準備をする。蒼汰の家に行くのに女の子っぽい服装で行くのは気恥ずかしかったので、なるべくおとなしめの格好を選んだ。

 白のセーターにブラウンチェックのキュロットスカートと黒のタイツ、それにキャメル色のダッフルコート。

 最後に左手の薬指にツインのリングを着けて出来上がりだ。

 

 姿見に自分の姿を写すと可愛い感じに仕上がった自分が居た。

 ……うちにある服の中ではおとなしめなのだ、これでも。

 

   ※ ※ ※

 

「おーい、蒼汰入るよー?」

 

 いつも通り縁側から家に入って、蒼汰の部屋で声を掛けるものの返事はない。少しだけ間をおいてから襖を開けた。

 室内は無人で、蒼汰は居なかった。

 

「留守かな? ……まっいっか」

 

 別に本人と用事がある訳じゃない。

 蒼汰が帰ってくるまでごろごろするとしよう。別に帰って来なかったらそれでいいし。

 俺は蒼汰の部屋に入ると持ってきた紙袋を勉強机の上に置いて、壁のフックに掛かっているハンガーにコートを掛けた。

 それから、本棚に向かって読む本を物色する。

 

 うーん、何を読もうか。

 少年漫画の新刊も気になるけど折角だから……

 

 俺はベッドの上に立って、本棚の一番上の棚に手を伸ばす。それから、並んだ百科事典の箱を取り出して、一冊づつ中身を確認していく。

 

「ふむふむ……ほうほう……なるほど……」

 

 中に収められていたのは蒼汰のお宝コレクション、いわゆる成年向けの本だ。見覚えのあるものも多く懐かしい気分になったりしたけど、新しい本も結構増えていた。

 以前はナイスバディのお姉さん系のものが殆どだったけど、新しい本の中にはロリ系の本もちらほらあるようだ。

 

「蒼汰……ちょっと趣味変わった?」

 

 ちなみに俺は元々どちらもイケるから問題なし。

 ……強いて言えばおっぱいがあればより良いかな、うん。

 

 俺はそこからロリ系の成人向け写真集を一冊取り出して、ベッドうつ伏せに横たわりながらページを捲り始める。

 写真の女の子はかわいい系の小柄な子で、胸は割と控えめだった――俺よりは大きかったけど。

 それは、男優との絡みのある写真集だった。

 

「お、大きいな……」

 

 相手の男は体もアレも大きくて、小柄な女の子との対比が顕著だった。ペラペラとページをめくっていくと、女の子が男のそれをあれしたりこれしたりと、なかなかに迫力がある。

 そして本番シーン……

 

「……全部入るんだ」

 

 すべてを受け入れてとろんとした女の子の表情はとてもエロくて、気持ち良さそうだった。

 

 入れられるのってそんなに気持ち良いのかな……

 

 なんて思うとお腹の下の方がきゅって熱くなって、

 

「!!?」

 

 い、今俺は何を考えた!?

 この娘としたいじゃなくて、この娘のようにされたい……?

 

「ありえない……うぇ……最悪だ……」

 

 一瞬の気の迷いでも男にやられたらっていう考えが自分から出てくるなんて……俺はノーマルだ。えっちするなら女の子としたい。

 

「……けど、この子としても主導権は相手なんだろうなぁ」

 

 そう考えるとちょっとへこむ。この体は敏感すぎて、相手に翻弄されてしまう可能性の方が高いのだ。

 それはそれで気持ち良いのだろうけど、俺が思い描いていたセックスとはちょっと違う。

 

 アリシアとするなら違ったんだろうなぁ……

 

 とても敏感なアリシアをあれやそれやでとろとろに気持ち良くしてあげて、準備万端になったその部分に俺のモノを……

 

 そのとき、急に部屋の襖が開いた。

 

「ひゃいっ!?」

 

 妄想の世界にトリップしていた俺は、思わず変な声が出てしまう。

 

「おわっ、なんだなんだ!? ……って、アリスか」

 

 蒼汰からも想定外の俺の姿に驚きの声があがる。

 

「お、お邪魔してるよ……」

 

「お、おう……って、ちょっ、おまっ!? 何勝手に読んでるんだよ!」

 

 俺が読んでた本に気づいた蒼汰は、慌ててベッドの上の本を取り上げると背中に隠す。

 

「何焦ってるんだよ……エロ本の貸し借りなんて前は普通にしてたろ?」

 

「お、お前の中には、アリシアさんもいるんだろ!?」

 

「ああ、そういうことか……だったら大丈夫だよ。アリシアはお休みの日なんだ。だから、今日は俺だけなんだ」

 

「そ、それなら……って、やっぱダメだろ」

 

「なんでだよ、俺達の仲じゃないか……それとも、蒼汰はもう俺と前のような関係には戻れないのか?」

 

 そう考えると不安になる。

 ようやく俺は幾人として蒼汰と接する事ができるようになったのに……

 

「そうじゃなくてだな……お前、嫌じゃないのかよ」

 

「……なんで? 男がエロ本くらい持っているのは普通だろ」

 

 いまさらなんで蒼汰がそんな事を聞いてくるのかがわからない。

 

「……はぁ、わかった。お前が気にしないなら別にいい」

 

 変な蒼汰。

 

「それで、今日は何しに来たんだ?」

 

「なんだよ、用事が無いと来ちゃいけないのか?」

 

 さっきから蒼汰に邪険にされているように思えて、俺は唇を尖らせて答える。

 

「別にそういう訳じゃないが……」

 

「あげるって言ってた制服と自転車持ってきた。机の上の紙袋に入ってるから使って」

 

 エイモックとの戦いで使えなくなった制服と自転車の代わりに、母さんの許可を貰って前に俺が使っていた物を蒼汰にあげることにしていたのだ。

 

「お、おう……ありがとな。正直助かる」

 

「どうせ、俺はもう着れないからな」

 

「そ、そうか……」

 

「……なあ、もう用事は無いんだけど、前みたいにごろごろしててもいいか?」

 

「あ、ああ……構わないぞ」

 

 俺は漫画の単行本を手にとってベッドで読み始める。

 それからも、俺達はややぎくしゃくしていたが、少しずつ昔の感覚を思い出して自然に接するようになっていった。

 漫画の感想を言い合ったり一緒にウィソをプレイしたりして、俺達はだらだらと一日を過ごしたのだった。

 

 そして、帰りに写真集を一冊借りた。



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イルカとカモメ

「明日、日帰りで家族旅行に行こう」

 

 海外から家に帰って来た父さんは、新年の挨拶が終わって早々にそう宣言した。冬休みも終わりに近づいたある日の事だった。

 

「そういえば最近家族で旅行して無かったわね……いいんじゃないかしら」

 

「あたしも賛成!」

 

 早々と家族の過半数が賛成に回った。

 かくいう俺も異論は無い。宿題の残りが若干気掛かりだけど……最悪、優奈に泣きつけばなんとかなるか。

 

「それで、明日の行き先はアリシアに決めて貰おうと思ってる」

 

『え、えっと……わたし、ですか?』

 

 不意に自分の名前が出てきた事に戸惑うアリシア。

 

「うん、アリシアと一緒に行く初めての家族旅行になるからね」

 

「日帰りで行ける場所だと、私達は行った事がある所ばかりになるから遠慮はいらないわ」

 

 父さんの言葉に母さんが補足する。

 

「観光ガイド持ってきたから、一緒に見て決めようよ!」

 

 いつの間にか観光ガイドを持ってきていた優奈が俺の横に椅子を寄せて座り、雑誌のページを広げて一緒に見る体勢になる。

 

『うわー、うわー! ……どこも楽しそうです!』

 

 ガイドブックをめくると、観光地や施設、それから名産品やレストラン等の写真が色とりどりのっていた。

 各ページ一通り文章に目を通してからページをめくっていく。

 ページが変わるたびにアリシアの歓声があがって、一緒に見ている俺達も自然と嬉しくなる。

 

『あっ……』

 

 そのページを見たときのアリシアは、明らかに反応がす違っていた。

 そこにあったのは水槽に魚、イルカにペンギン等の写真。

 

『わたし、ここ……水族館に行ってみたいです!』

 

 その一声で俺達の明日の予定は決まったのだった。

 

   ※ ※ ※

 

 翌日、俺達は父さんの運転するワンボックスカーで旅行に出かけた。目的の水族館は高速道路で三時間程の距離にある。

 

 俺は助手席に座って流れる風景を眺めていた。

 道路から街や施設が目に入る度に、その詳細をアリシアがテンション高く解説してくれるので道中全然飽きがこない。

 さまざまなジャンルの本を乱読しているアリシアの知識は、特に雑学の分野で完全に俺を上回っていた。

 

『サービスエリアですか……旅の途中に寄った宿場町を思い出しますね。行先も目的も異なる人達が集う独特な雰囲気を感じます』

 

 途中立ち寄ったサービスエリアでは、いつの間にか種類が豊富になっていた地元のお土産品を見て回り、道中で食べる用に購入した。

 ……なかなか美味しかったので、帰りに蒼汰達に買って帰ってあげようっと。

 

 そんな感じで、体感時間ではあっと言う間に目的地に到着した。

 

『うわー! 大きいですっ!』

 

 目的の水族館は、海に面して建てられたこの地域最大の施設で、入口からは見上げる高さの建物が視界一杯左右に広がっていた。

 俺達は受付を済ませて館内に入り、順路に従って歩く。

 

『お魚が一杯です……!』

 

 毎日湖の祭壇で祈りを捧げていたアリシアは、水中の生物に対する思い入れが深いらしい。

 祈りを捧げてる間にちょっかいをかけてくる人懐っこい魚の話とか、水棲モンスターに襲われている水の精霊を助けた話とか、アリシアの思い出話を聞きながら、俺達は薄暗い廊下を歩いて行く。

 

『それにしても、この世界にはいろんな種類の魚がいるんですね! 熱帯のお魚は色とりどりで素敵ですし、深海に住むお魚はおどろおどろしさが癖になりそうです……』

 

 やがて、高さ三メートル程ある壁一面の巨大水槽がある広場に辿り着いた。この水族館最大サイズの水槽で、この水族館の目玉のひとつだった。

 

『……すごい、まるで本当に水の中に居るみたいです』

 

 俺は何度か来たことはあったが、その都度ここの光景に圧倒されていた。

 

 人くらいの体長があるサメがゆっくりと迫る合間を、小さい魚の群れが隊列を組んで行先を変え、大きいエイが体をはためかせて横切り、我関せずの魚が岩陰に潜み佇む。

 

『ほんとうにすごいです……』

 

 ダイナミックに躍動感溢れる光景でありながら、音は無く静寂に包まれている不思議な空間に俺達はすっかり心を奪われていた。

 

『アリシア、異世界の魚はこの世界の物と同じ形をしているのかい?』

 

 父さんが念話でアリシアに話しかけてくる。こういう静かな場所で会話するのに念話は都合が良い。

 

『そうですね。わたしが見たことのあるものはそれほど種類は多くはないのですが、基本的な形状は一緒だと思います』

 

『そうか……異世界で独自に進化を遂げた生物が我々の世界と似たような姿形になると証明されているなんて、生物学の教授が知ったら腰を抜かすだろうな』

 

『そうですね……ただ、あちらには魔物や魔獣といったこの世界には無い生物も存在していますけど』

 

『そのあたりは、我々の世界には無い魔法や祝福が関係しているのかもしれないな』

 

『ただ、この世界でも伝説上の生物としては魔物や魔獣と思われるような存在も出てきていますので……もしかしたら、この世界にも昔は魔法のようなものがあったのかもしれませんね』

 

『それはとても興味深い話だね。でもそうなると何らかの理由でこの世界から魔法が失われたことになるが……』

 

 父さんは何か考え込んでいるようだった。

 

 半分くらい巡ったところでお昼どきになったので、水族館の中にあるレストランでランチにする事にした。

 

 段々になった屋根を利用して作られたレストランは全面ガラス張りで海を一望できる展望の良いお店だった。

 屋根の部分が広いルーフバルコニーになっていて、屋外にも座席が設けられていたが、流石に今の季節に外で食事している人はいなかった。

 

 当然と言っていいのか微妙なところはあるが、おすすめメニューはシーフードだった。俺はシーフードパスタを注文した。

 窓の外の海を見ながら注文が来るのを待っていると、海上に白い鳥が群れをなして飛んでいるのが見えた。

 

『綺麗な鳥……』

 

「あれはカモメだな。寒さを凌ぐ為に北の国からやって来た渡り鳥だ」

 

 父さんがアリシアにそう説明してくれる。

 

「渡り鳥と言えばアリシアの居た神殿の湖でも見かけるんだっけ。たしか……」

 

 俺は以前アリシアに聞いた話を思い出しながら言った。

 

『ミグラトールですね。カモメと同じ白い翼が印象的な渡り鳥です。毎年湖にミグラトールがやって来ると冬の訪れを実感していたものです。そして春になるといつの間にか居なくなっているのです……』

 

 アリシアの口調はどこか寂しそうだった。

 身寄りもなく神殿で育ったアリシアは、大空を自由に飛び回る渡り鳥に思うところがあったのだろうか。

 

「お待たせしました。特製シーフードパスタのお客様ー」

 

 そのとき、ウェイトレスのお姉さんが料理を運んで来た。

 目の前に置かれたのはエビや貝等がたっぷり入ったクリームパスタで。

 

『美味しいです!』

 

 施設併設のレストランなのであまり味には期待はしていなかったのだけれど、予想以上の美味しさで思わず俺達は舌鼓を打ったのだった。

 

 食事を終えた俺達が少し休憩をしていると、場内アナウンスでイルカのショーが始まる事が告げられたので、俺達はそれを見に行く事にした。

 

 イルカの調教師のお姉さんが合図をするとイルカが飛び上がって輪をくぐったりボールを使った芸をする。

 

『イルカって賢いんですね……』

 

 魔獣以外でイルカのような大型の水棲生物を見たのは初めてだったアリシアは驚き、芸をするその姿に歓声をあげていた。

 

 続いてイルカとの触れ合いタイムがあり、イルカに触る事が出来た。

 

『なんだかつるつるしてます……!』

 

 イルカの体は濡れたゴムのような不思議な触り心地だった。

 

 その後は、よちよち歩くペンギンを見たり、再び大型水槽に戻ったりして全力で水族館を満喫した。

 

 最後に館内のショップでいろんな雑貨を見て回る。

 

『わわわっ、イルカのぬいぐるみです! 大きい!』

 

 アリシアが目をつけたのは、今の俺の背丈程ある大きなイルカのぬいぐるみだった。

 

『イクトさん、ちょっとそのぬいぐるみをぎゅーってして貰っていいですか?』

 

『う……わかった』

 

 ぬいぐるみをぎゅーってしている自分の姿を想像して、一瞬怯むがアリシアのお願いを無碍にはしたくない。

 覚悟を決めてイルカのぬいぐるみを持ち上げて、両手で抱きしめる。

 

『ふわぁ……ふかふかできもちいいです……』

 

 両手が回るくらいのイルカは丁度良い抱き心地だった。しばらくその感触を堪能する。

 

「おう、アリス。それが気に入ったのか?」

 

 そんな俺をいつの間にか父さんが見ていてニヤニヤとしていた。

 慌てて俺はぬいぐるみを離して棚に戻す。名残り惜しげなアリシアの声が脳内に響いた。

 

「こ、これはアリシアの希望だから、私の意思じゃなくて……」

 

「別に照れなくていいじゃないか。ぬいぐるみを抱っこしている姿はとても愛らしかったぞ?」

 

 父さんは面白そうに言う。

 

「……ぐれるよ」

 

「冗談さ……よし、お詫びじゃないが父さんがそれを買ってやろう」

 

『本当ですか!』

 

「なっ……わ、私は……!?」

 

 こんなぬいぐるみがあるなんて、まるで女の子の部屋みたいじゃないか!

 

 今の俺の部屋は、姿見が置かれたり小物や服は入れ替わったりしたものの、ぱっと見は以前と大差なかった。だけど、こんなかわいいぬいぐるみが入ったら一気に女の子っぽい部屋になる気がして。

 

「アリシアにプレゼントだよ……それとも、アリスは反対なのかい?」

 

『……イクトさんは嫌なのですか?』

 

「……嫌じゃ、無い」

 

 だけど、こんなに欲しがるアリシアの様子に、断る選択肢なんて俺には無かった。

 

『ありがとうございます! イクトさん、お父様!』

 

「……父さん、ありがとう」

 

 会計を済ませたぬいぐるみは袋に入れずにそのまま受け取って両手で抱えた。

 ……アリシアがそうしたいんじゃないかって思ったから。

 本物と違ってふかふかの体表に顔を埋めてぎゅーってする。

 正直こうしていると気持ち良くて、とても落ち着く。

 

 家族だけじゃなくて周囲の視線が全部微笑ましいものを見る風になっている気がするのも、イルカで視界を隠してしまえば気にならない。

 ……そういうことにしておこう。

 

 帰りの車は母さんと場所を代わって貰い、イルカを抱えたまま後ろの座席に座った。

 はしゃぎ過ぎて眠気が襲ってきていたので。

 車が動き出すとまるで揺り籠に揺られているかのようで、うつらうつらと記憶が飛び飛びになる。

 

『ふわぁ……わたし、今日はもう休みますね』

 

 アリシアからいつもより早めに同調を切ると告げられる。

 どうやら、アリシアも疲れたようだ……多分、昨日の夜は同調を切った後も記憶から観光ガイドブックを呼び出して、何度も読み返していたのだろう。

 

「わかった……」

 

『皆さんおやすみなさい。今日は本当に楽しかったです、ありがとうございました』

 

「おやすみ、アリシア」

 

 家族がアリシアに返事を返してくれた。

 同調が切れる感覚がして――欠伸が出る。

 

 俺ももう限界だった。

 

 途中のサービスエリアで蒼汰達へのお土産を買うのを母さんにお願いして、俺はイルカを抱きしめたまま意識を手放した。



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誕生日(その1)

 三学期が始まり、日常は普段通り過ぎていく。

 アリシアは毎週水曜日を同調を切るお休みの日としていた。

 最初こそアリシアの不在に戸惑っていた俺だったが、それに慣れてくると、むしろ丁度良かったのかもしれないと思うようにもなっていた。

 いくら大切に想っているアリシアとはいえ、自分の一挙一動を見られていることで、どうしても緊張してしまうところがあったようで。

 そんな緊張の糸を緩める事ができて、かつ不在を感じるが故にアリシアの存在の大きさと大切さを自覚できる、俺にとってお休みの日というのはそういう日だった。

 

 月が替わって2月。

 世間はバレンタイン一色だったが、我が家では別の重要なイベントがあった。

 それは、俺達兄妹の誕生日。2月8日が優奈の、一日おいて2月10日が俺のバースデーだ。それに今年は異世界で俺と同じ日同じ時間に生まれたアリシアもそれに加わっていた。

 うちでは毎年二人の誕生日の中日である2月9日に誕生日パーティをしている。

 今年もその予定だ。昨年は俺が行方不明で祝えなかったので、今年は盛大に祝おうと母さんは随分前から張り切って準備している。

 

二月八日()

 

 今日は優奈の誕生日だでもある今日は、アリシアとの同調を切るお休みの日だ。放課後に俺は一人で街中に買い物に来ていた。

 優奈とアリシアの誕生日プレゼントを買う為だ。

 

 と言っても、買う物はこの前の日曜日にアリシアと優奈とで一緒に街中に出かけたときに大体の目星は付けてある。それは、雑貨屋にあった五十センチくらいある大きなペンギンのぬいぐるみのペア。これを優奈とアリシアに一匹づつプレゼントするつもりだった。

 

 アリシアはこの前の水族館でよちよちと歩くペンギンの姿を見て、イルカの次に気に入っていたようだったから。

 そして、優奈にも同じ物をあげようと思ったのには理由がある。

 水族館で子供じゃないからと優奈はぬいぐるみをねだらなかった。だけど、優奈は俺の部屋に来る度にイルカのぬいぐるみを抱きしめて顔を埋めていたりして、本当はぬいぐるみに未練があったんじゃないかと思ったからだ。

 

 後、それとは別にアリシアから頼まれた優奈へのプレゼントとして、洋服屋で見つけたタータンチェックのストールを購入した。

 アリシアは同じように俺へのプレゼントを優奈に頼んでいるのだろう。親しき中にもサプライズありというやつだ。

 

「あら、アリスじゃない」

 

 プレゼントを買い終わって、街中を歩いていると不意に声を掛けられた。

 振り向くと、そこには翡翠と蒼汰がいた。

 

「……よぉ」

 

「珍しいね、二人が一緒なんて」

 

 この兄妹が二人で出歩いているところを見たのなんて小学生ぶりくらいじゃないだろうか。この兄妹はお互いを嫌っている訳じゃないのだが、あまり気は合わないようで二人だけで行動する事は極端に少なかった。

 

「まぁ、ちょっとな……」

 

 そして、何故かばつの悪そうにしている蒼汰。

 

「まるで逢引でも見られたかのような反応だね」

 

「あ、逢引って!?」

 

 慌てる蒼汰に対して翡翠は心底嫌そうな顔をして答える。

 

「アリス、そういう冗談はちょっと笑えないわ。蒼汰があなたへのプレゼントなんて思いつかないって言うから、私か付き合ってあげているだけよ」

 

「……お前、プレゼントの事を本人に話すなよ」

 

「別に何をあげるか話した訳じゃないんだしいいじゃない……蒼汰と一緒だと私もプレゼントの予算を上げられるから、言わば歩く財布と居るようなものね」

 

「お前、兄に対してそれはちょっと酷すぎないか……?」

 

「アリスへの誕生日プレゼントに純白の下着をプレゼントしたい、なんて言い出すような変態には正直こんな言葉も生温いと思うけど……本当に気持ち悪い」

 

 翡翠は吐き捨てるように言った。

 

「そ、そうなんだ……」

 

 俺は苦笑して応える。

 蒼汰はそれをプレゼントしたいけど、自分一人で買いに行く度胸が無いから、翡翠に勇気を出して相談を持ちかけたというところか。確実に勇気を出す所を間違えているだろう、それ。

 

「……蒼汰は、そこまでして私に白い下着を履かせたいの?」

 

「ち、ちげぇよ!? あれはただのジョークで本気じゃないから!」

 

「……本当かしら?」

 

 翡翠の冷たい視線が蒼汰を突き刺す。

 

「ま、まあ……私は別に気にしてないから、大丈夫だよ」

 

 蒼汰の性癖なんてもう全部知ってるし。

 

 ……まあ、たとえプレゼントされていたとしても、履いたところを蒼汰に見せるつもりなんて全く無かったけどね。

 

「だから誤解だって……」

 

 うん、わかってるから。

 

「そういえば、アリシアは今日は……?」

 

 アリシアの反応が無い事に気づいた翡翠が問いかけて来る。

 翡翠は見透かすような遠い視線をしていて、なんとなく彼女が今、俺達の魂を見ているのがわかった。

 

「アリシアは同調を切ってお休みする日だよ」

 

「そう言えば、今日は水曜日だったわね……大丈夫なの?」

 

 翡翠が心配そうに問いかけて来る。

 大袈裟だなぁ……

 

「うん、私は大丈夫。週に一度だけだし今はもう慣れたから」

 

「そう……」

 

 翡翠は深刻そうに顔を歪めた。俺が強がっているように聞こえたのだろうか? 別にそんな事は無いのに……

 

「お前はもう帰るのか?」

 

「うん。後はスーパーで母さんに頼まれた買い物をしたら帰るつもり」

 

「……そんな大荷物で大丈夫か?」

 

「よかったら、アリスの家まで蒼汰に持つのを手伝わせようか?」

 

 兄妹揃って俺の心配をしてくれる。こういうところは気が合うらしい。

 

「かさばっているだけで、中身は軽いから大丈夫だよ。それに、そもそも私は蒼汰よりも力は強くなれるんだからね?」

 

「……頭ではわかっちゃいるんだが、その見た目だとどうしてもそう思えなくてな」

 

「これから二人で買い物なんでしょ。私は気にせず楽しんできてよ。プレゼント貰う立場の私が言うのも変だけど……」

 

「……こいつと一緒で楽しめるかどうかはともかくとして、わかったわ」

 

「明日はよろしくな、パーティ楽しみにしてるぜ」

 

 明日の誕生日パーティには家族の他にこの二人と涼花が来てくれる事になっていた。

 

「蒼汰達がうちに遊びに来るのも久しぶりだね……前に来たのっていつくらいだったっけ?」

 

 俺が幾人だった頃は互いの家を良く訪問していたものだ。

 この体になってから蒼汰の家には何回か遊びに行ったが、蒼汰達がうちに来る事は無かったから感慨深い。

 

「……お前覚えてないのか?」

 

 そんな俺の反応に呆れたように蒼汰は返す。

 

「私達が前にあなたの家に行ったのはお葬式のときじゃない」

 

 ……そうだった。

 

「……あのときはごめんなさい」

 

「もういいわよ。無事でいてくれたんだし」

 

「それにしても、葬式の後に誕生日を祝う事になるとは思わなかったぜ」

 

「そうだね」

 

 三人揃って笑い合う。

 こうやってみんなで笑える日が戻ってきたのは嬉しい。

 

「それじゃあ、また明日」

 

「おばさんにもよろしくね」

 

 そう言って俺は街中に向かう蒼汰達と別れた。

 

   ※ ※ ※

 

「お帰りなさい」

 

 台所で明日の準備をしている母さんが、リビングに入った俺に声をかけてくれた。

 

「ただいま母さん。これ、頼まれていた買い物」

 

「ありがとう、アリス……先に部屋に上がってたの?」

 

「うん、買ってきたプレゼントを片付けたかったから……母さん、何か手伝う?」

 

「大丈夫よ。今日はまだ下準備だけだから」

 

「そっか……何だかいい匂いがするけど、今は何を作ってるの?」

 

「ケーキよ」

 

「すごい! 母さんケーキも作れるようになったんだ」

 

「せっかくだから作ってみたの。今年は特別だからね。あなたが帰ってきてくれて、アリシアと一緒にお祝いできる大切な誕生日だもの」

 

「ちょっと見てもいい?」

 

「いいわよ。お店のと違って不格好だけど……」

 

「全然そんなことないじゃない。うわー、美味しそう!」

 

 二つ並んだ少し小さめのホールケーキ。優奈が好きなイチゴのケーキと、アリシアが好きなチョコレートのケーキ。

 プレートにはアリシア、アリス、優奈、そして幾人の名前があった。

 

「母さん、これ……」

 

 思わぬ名前を不意に見つけて感情が込み上げてくる。

 

「幾人は私の大事な息子だもの。ちゃんとお祝いしないとね」

 

「母さん……」

 

「あなたは今はアリスだから、普段は娘として接するようにしているけれど、幾人であることを忘れた訳じゃないのよ」

 

 母さんが俺の頬に触れる。いつの間にか涙がこぼれていた。

 悲しい訳じゃないのに何故だか涙が止まらなくて――涙脆くなったのはこの体の影響だろうか?

 

 そんな俺が落ち着くまで、母さんは優しく抱きしめてくれた。

 

   ※ ※ ※

 

 翌日2月9日誕生日パーティ当日。

 だけど、俺とアリシアとの同調は切れたままだった。

 

 

 



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誕生日(その2)

二月九日()

 

 朝、目覚めたときに感じたのは違和感。

 

「あれ? ……アリシア?」

 

 問いかけに返事は無い。いつもならアリシアから朝の挨拶が帰ってくるはずだった。だけど、今の俺の中にはアリシアの存在は感じられなくて。

 

「今日はお休みの日……だっけ? 違う、よね……」

 

 体を起こして、まだ覚醒しきっていない頭で記憶を探る。昨日お休みの日を過ごした記憶がある。今日は木曜日……誕生日パーティをする予定の日のはずだ。

 

「アリシア……おはよう?」

 

 念の為、再度呼び掛けてみるが、やはり返事は帰ってこない。

 ベッドの上で、ひとり俺は取り残された気分になる。

 

「……これは、サプライズだったりするのかな?」

 

 だったら、家族は何か知っているかもしれない。

 そう考えた俺は、とりあえず、いつも通りにリビングに降りてみることにした。

 

「おはよー。アリス、アリシア」

 

 リビングでは優奈が朝食を食べていて、いつも通りに挨拶をしてきた。

 

「おはよう、優奈」

 

 だけど、いつもなら続くアリシアの挨拶は無くて、優奈は直ぐにその違和感に気づいたようだった。

 

「……あれ? アリシアは……?」

 

「それが、今朝は帰って来ていないんだ。優奈は何か聞いてる?」

 

 俺が質問すると、優奈は表情を険しくして答える。

 

「あたしは何も聞いてないけど……」

 

 どうやら、サプライズという訳ではなさそうだった。

 

「アリス、それは本当なの?」

 

 キッチンで作業していた母さんが、手を止めてリビングにやって来た。

 

「う、うん。いままでこんな事無かったのに……どうしたんだろ」

 

「……アリシアだって調子が悪いときくらいあるんじゃないかしら。元気になったらきっと帰ってくるわよ」

 

「そう、かな……でも、今日はアリシアも楽しみにしていたパーティなのに……」

 

「パーティまでにアリシアは帰って来る事はないの?」

 

「一度同調を切ったら、私が寝ている間じゃないとアリシアは再同調する事ができないんだって……ねえ母さん。今日は学校を休んでもいい? アリシアが元気になったときに戻って来られるように寝ていたいんだ」

 

「……仕方ないわね。今日は特別よ?」

 

「それじゃあ、アリシアが心配だからあたしも……」

 

「優奈は駄目。学校に行きなさい」

 

「……だよねぇ」

 

 便乗して学校を休もうとした優奈の企みは母さんによって即座に却下された。優奈は肩をすくめる。

 

「仕方ない、あたしがアリスの分も授業聞いてくるよ」

 

「ありがとう、優奈」

 

「お寝坊さんのアリシアによろしくね。それじゃあ、ちゃっちゃと朝ごはん食べて学校行きますか」

 

 優奈が食事を再開した。俺もテーブルについてご飯を食べる事にする。学校に行かないと決めたのでいつものように急ぐ必要は無い。

 手早く朝食を片付けた優奈は、食器を流しに浸けて、朝の支度の為に洗面所に向かった。

 俺はゆっくりと食事をとりながら、忙しない優奈の様子を見守る。アリシアの為とは言え、病気でもないのに学校を休むというのに少し罪悪感を覚えた。

 

「それじゃあ、行ってきまーす!」

 

 バタバタと階段を降りてくる足音がして、廊下から優奈の声がした。俺と母さんがいってらっしゃいと返すとほぼ同時にバタンと玄関のドアが閉まる音がして、慌ただしい空気は過ぎ去って行った。

 普段は喧騒の側に居るので不思議な気分だった。

 

「ホットココアを入れたから。これを飲んでゆっくり休むといいわ」

 

 母さんはそう言ってマグカップを俺の前に置いてくれた。

 

「ありがとう、母さん」

 

 丁度食事を終えた俺は、両手でカップを持ちココアに口をつけた。風味のある甘い匂いがふわっと漂って、ほっとする味が口の中に広がっていく。

 

「……アリシアが居たら喜んでいただろうな」

 

 アリシアはチョコレートとか甘い物が大好きだった。

 ここ最近はどこに行ってもきらびやかにバレンタイン用の飾り付けがされているのでテンションが上がっていたのだ。

 

「だけど、この前食べたカカオたっぷりのチョコは苦くて嘆息してたんだよね……」

 

 その時の様子を思い出すと、自然に笑みがこぼれる。

 

 ……まあ、俺も苦手な味だったから、食べたときは渋い顔をしていたんだけどね。

 

 食事を終えた俺は、母さんに言って食器洗いを引き受けた。学校をさぼったのだから、せめて家事の手伝いくらいはしようと思った次第である。

 手伝いを済ませたら、洗面所とトイレに寄って部屋に戻った。

 

 部屋に帰った俺は、真っ直ぐにベッドに倒れ込む。

 そのまま、もそもそと動いて、捲れていたままになっていた布団に入り込んだ。まだほんのりと暖かいお布団との再会に、体が歓喜の声をあげているのがわかる。

 

「今頃、学校が始まった頃かなぁ……」

 

 それなのに俺は布団にくるまって二度寝をしようとしている。

 そんな背徳感がスパイスとなって、幸せ具合を加速させていた。

 

「んにゃ……おやすみ……アリシア……」

 

 窓から射し込む朝日を受けながら、やってきたふわふわとした心地良さに俺は身を任せる。

 目が覚めたらアリシアを何て言ってからかおうとか、そんな風な事を考えながら。

 

 ……だけど。

 

 お昼を過ぎて再び目を覚ましたとき、やっぱりアリシアは戻って来ていなかった。

 

 俺はリビングに降りて母さんにアリシアがまだ戻って来ていない事を伝えた。母さんはきっと戻ってくると俺を励ましてくれたが、やっばり心配そうだった。

 

 軽くお昼を食べて、自分の部屋に戻る。

 

「……眠れない」

 

 なにせ、さっきまで眠りっぱなしだったのだ。

 それに、ここに来て胸の内に押し込んできた不安が漏れ出して来ていた。

 

 ……アリシアがこのまま戻ってこなかったらどうしよう。

 

 これまでアリシアが同調を切ったときは、必ず予告通りに帰って来ていた。

 

 なのに今日はどうして……

 

 アリシア自体は今も俺の中に居る。目を閉じて自分の中に意識を集中すればアリシアの存在を感じることができた。

 

 何らかの理由で同調出来なくなってしまったのだろうか?

 もしも、このまま戻ってこなかったら――

 

 意識が覚醒しているのに眠る為に布団の中で何もしないでいると、いろいろ悪い想像が浮かんできて胸が締め付けられる。

 

 これは良くない傾向だ。

 このままだと眠れそうにない。何とか夜の誕生日パーティに間に合うようにアリシアに帰って来て貰う為には、眠らないといけないのに。

 

「何か良い方法は……あっ……」

 

 ひとつ思いついた。

 でも、学校を休んで真っ昼間っからというのはどうなんだろう……

 

「……眠る為だし仕方ないよね」

 

 一度意識しだすと体が疼くような気がして、そういえば生理前だったと思い出す。

 こんなときにという罪悪感はあった。けれど、それもアリシアの為という免罪符も自分の中にはあって。

 

「下着の上から軽く触るくらいなら……」

 

 いつ来ても大丈夫なように念の為にナプキンを付けているから、そのまま寝てしまっても気持ち悪くなる事も無いだろう。

 

 俺は服の上から自分の体に触れる。左手を胸に、そして右手はパジャマのズボンの中に潜らせる。

 

「んっ……んん……」

 

 俺は溺れるようにその行為に浸った。

 そうしている間は何も考えなくて良かったからだ。

 その結果、いつもよりも激しくしてしまい何度も達した。

 そして、疲労感と共にやがて訪れた眠気に従って俺は眠りに落ちた。

 



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誕生日(その3)

 トントンと。

 定期的に繰り返される音がする。

 それは、遠慮がちにノックされる俺の部屋のドアで。

 

「――っ!? アリシア!?」

 

 意識が覚醒すると同時に俺は彼女の名前を呼んだ。

 

 ……だけど、返事はない。

 

 定期的なお休みの日で精神同調を切ったのが昨日。今日一日学校を休んで眠っていたのに、アリシアとの精神同調はまだ戻らなかった。

 

「いったい、どうしたんだよ。アリシア……」

 

 目を閉じて俺は自分の手を胸元にあてる。こうしていると、俺の中にアリシアの存在を感じる事ができた。

 俺の中から消えた訳じゃないとわかって俺はほっと胸を撫で下ろす。

 

「アリス、大丈夫!? アリシアになにかあったの!? ねえ、アリス!」

 

 俺の叫び声を聞いたのだろう、外に居る優奈がノックを激しくして俺を呼んでいた。返事する気力も無くて、だけど、そのままにする訳にもいかなくて体を起こす。

 俺は重い体を引きずるように部屋の入り口まで移動して、鍵を外してドアを開けた。

 そこには心配そうな優奈が立っていて。

 

「アリス……大丈夫?」

 

「……アリシアが、戻って来ないんだ」

 

 淡々と優奈に状況を告げると、優奈は沈痛な表情をする。

 

 ――次の瞬間、俺は抱きしめられていた。

 

「アリシアは本当にお寝坊さんだね……大丈夫、きっとすぐに戻ってくるよ」

 

 身長差で俺は優奈の胸の中にすっかり収まってしまう。

 

「でも、今晩はアリシアも楽しみにしてたパーティなのに……」

 

「延期すればいいわよ。もともとあなた達の誕生日は明日なんだし、あたしは気にしないから」

 

 柔らかい胸元から優奈の匂いがして、俺は体の力を抜いて目を閉じて優奈に身を任せた。

 

「うん……」

 

「みんなにはあたしから連絡いれとくね」

 

 アリシア不在でパーティをしても楽しめる気なんてしないから優奈の申し出は正直ありがたい。

 

 ……だけど、本当に明日アリシアは戻ってくるのだろうか?

 

「そうだ、お風呂湧いてるから入ってきなよ。今のアリスはリラックスして気持ちをリセットした方がいいと思うわ」

 

「うん……」

 

 正直なところあまり気乗りはしなかった。

 寝起きで体がだるくて何もする気がおきない。ベッドでずっと横になっていたかった。

 だけど、優奈の言うことも一理ある気がする。

 

「仕方ないわねぇ……それじゃあ、久しぶりにあたしが一緒に入ってあげる」

 

 そんな俺を見かねたのか、優奈はそんな事を言う。

 

「い、いいよ、そんなの!?」

 

「ほら、いいからいいから!」

 

 優奈は部屋に押し入ると、タンスの中から俺の下着の替えを取り出してお風呂の準備を整えていった。そのままの勢いに押し切られるようにして、俺は優奈に連行された。

 

 優奈と一緒にお風呂に入るのは昨年肌を重ねてから初めての事だった。戸惑う俺に構わず、優奈は思い切りの良い脱ぎっぷりで早々と全裸になる。

 相変わらずスタイルの良い、確実に男子生徒の夢想の対象になっているであろう肢体が惜しげもなく晒された。

 

 ……また胸が大きくなっている気がする。

 

「ほら、アリスも……あたしが脱がせてあげるね」

 

 そう言って優奈の手が俺のパジャマに手を掛けてきて。

 

「じ、自分でできるから!」

 

 体を逸して優奈の手をかわす。そして、自分でパジャマを脱ごうとして、ふと今のまま脱ぐのは問題があった事を思い出した。

 

「ちょっとトイレ!」

 

 慌てて優奈に断って、俺は脱衣所を飛び出した。

 

 ……ナプキンを処理しないと。

 

 下着につけたそれは寝る前にした行為でぐっしょり重くなってしまっている。

 そういえば、さっきは行為の余韻のままに寝てしまっていたけど、優奈にばれなかっただろうか?

 

「匂いとか大丈夫だったかな……?」

 

 俺は腕を鼻にやって自分自身を嗅いでみるがよくわからない。

 

「……まあ、いいか」

 

 優奈には俺の恥ずかしいところをいくつも見られてしまってる。それがひとつ増えたところでいまさらだった。

 

 トイレでナプキンの処理をして、俺はお風呂場に戻った。

 浴室の曇りガラス越しにシャワーの音と優奈の気配がする。どうやら先に入って体を洗っているようだ。

 

「……別にやましいことなんて無いから」

 

 姉妹でお風呂に入るだけだ。今までも何度も一緒に入っていたんだし、特別変なことじゃない。

 

 そう自分に言い聞かせながら、俺はパジャマのボタンをひとつっつ外していった。

 

「アリスちょうど良かった……おいで?」

 

 一言声を掛けて浴室に入ると、優奈は手早く体を洗い終えていたみたいで、髪をタオルで頭にくるりと巻いた状態で、俺に洗い場を譲ってくれる。

 俺は優奈に導かれるままに洗い場の椅子に腰を下ろした。

 

「今日はあたしが洗ってあげるね」

 

 背中から両手を俺の肩において鏡越しに視線を合わせて優奈が宣言する。

 

「ん……ありがと……」

 

 俺は素直にその好意に甘えることにした。

 優奈がスキンシップを求めるのは、俺を心配してのことだろうから。

 それに、優奈自身の不安もあるのだと思う。俺を気遣ってあまり態度には出していないけど、俺の次にアリシアと親しくしている優奈が、アリシアの事を心配していない筈が無かった。

 

 優奈はシャワーヘッドを手に取って、お湯で俺の髪を濡らしながら、手に持った櫛で髪を梳いてくれた。

 

「本当にアリスの髪はさらさらで綺麗ね」

 

「うん、そうでしょ」

 

 この体になって俺は髪に手間暇を掛けるようになり、この綺麗な長い銀髪に愛着が湧いてきていた。髪を切るのにも千円カットの数倍の費用を掛けて美容院に通っている。

 最初は戸惑っていた他人に髪を触られる感覚にも今はもう慣れたものだ。

 

「……気持ちいい」

 

 わしゃわしゃと頭皮をマッサージされるように洗われて俺は心地よさに目を細めた。

 

「それじゃあ、次は体を洗うね」

 

 髪を洗い流した後、優奈はポンプを押してボディソープを手に出した。

 

「か、体は自分で洗えるよ」

 

 今まで一緒にお風呂に入っていたときでも、体は洗って貰った事が無かった。最初に一緒にお風呂に入ったときに自分で触るのが怖くて、あそこを洗って貰った事はあるけどそれっきりだ。

 

「今日はあたしに任せなさいって」

 

「ひゃっ!」

 

 背中から脇腹にかけてぬるっとした感触がして俺は小さく悲鳴をあげた。ボディソープのついた優奈の手が体を這い回ってくる。

 

「優奈、ちょ、ダメだって……くすぐったいよ」

 

 柔らかい優奈の手で丁寧に体を洗われる。

 

 こ、こんなのムリ! 耐えられない!?

 

「大丈夫よ、優しくキレイにしてあげるから」

 

「んんっ! んんんー!?」

 

 優奈は事務的に体を洗っているだけなのに、体は敏感に反応してしまって、変な声が出そうになるのを必至に堪える。

 それはまるで、天国のような地獄だった。

 背中に押し当てられる柔らかい肌の感触に、なんだかいけないことをしているような錯覚すらおぼえてしまう。

 

 確かにスキンシップは良いんじゃないかって思ったけど、これはやりすぎじゃないかな!?

 

 そんな事を考えながら耐えていたら、優奈の手が止まった。

 ようやく、開放されるのかと思ったら、優奈はクスッて笑って、

 

「ここも洗わないとね」

 

 ……って!?

 

「も、もう私は自分で洗えるから!」

 

 と、体を捻って逃げ出そうとするけど、後ろから優奈にがっちり包み込まれいる状態ではそれも難しくて。

 

「ひゃあっ!?」

 

「……アリス、パパとママが居るから声は抑えて」

 

 そう、優奈に耳元で囁かれて、慌てて俺は両手で自分の口を塞いだ。

 

「んんーーーっ!?」

 

 優奈の手がわきわきと蠢く。

 それは明らかに体を洗う手つきとは違っていて――

 

「大丈夫、アリスの体を洗ってあげるだけだから、ね」

 

 優しい声で優奈がそう言って蛇口を捻る。

 

「だ、だめだって……優奈ぁ……んっ……」

 

 俺の吐息はシャワーの音に掻き消されていく。

 長い銀の髪から水が滴り落ちて、ボディソープの泡と混じって排水溝に流れていった。

 やがて、流れる水に泡が無くなっても、優奈は俺の体を洗い続けていて。

 俺はただひたすら声を噛み殺してそれに耐えるのだった。

 

  ※ ※ ※

 

「ごめんね、最初は本当に体を洗うだけのつもりだったんだけどど、我慢してるアリスを見てたら、もっとしてあげたくなっちゃって……」

 

 そう優奈は謝罪する。

 俺達は浴槽に二人一緒に優奈に抱きかかえられるようにして入っていた。力尽きた俺は優奈の胸を枕にして体を預けている。

 優奈の胸は後頭部をふんわりと受け止めていて、実にけしからん柔らかさだった。

 

「……怒ってる?」

 

「別に怒ってはないけど……」

 

 気持ちよかったし。

 だけど、どうして優奈は突然あんな事をしたのだろうか。

 最近の優奈は不必要にくっついたりとか、一緒にお風呂に入ったりする事は無くなっていたのに。

 

「落ちこんでいる男の人を元気づけるのには、えっちするといいって聞いたことがあるんだけど、どうだったかな?」

 

 毎度この妹はどこからそんな知識を仕入れてくるのか。

 

「……今の私は女だけど」

 

 しかも、妹が相手っていうのはどうなんだ。

 なんだかいろいろ間違っている気がした。

 

「……効果無かった?」

 

「それは……あった、かな……」

 

 こうして肌が触れ合っていると安心するのは確かだった。

 眠りから覚めたときから感じていた不安や焦燥感も幾分落ち着いている。

 

 目を閉じるとアリシアの存在を感じられる。居なくなった訳じゃない。だから、きっと大丈夫。

 

「待つことしかできないってしんどいよね……」

 

 その言葉には重みがある。優奈は一年も俺のことを待っていてくれたのだ。

 

「アリシア、早く戻ってくるといいね」

 

「うん……」

 

 優奈の両腕が俺の体に回されて、ぎゅーって抱きしめられた。

 



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誕生日(その4)

 お風呂から出た俺は自分の部屋に戻った。

 優奈もなんとなく一緒について来て、ベッドに横になって漫画を読んでいる。

 俺は優奈が持ってきてくれた今日の分のノートを書き写しながら、わからない部分を聞いたりして時間を過ごした。

 何かしなければいけないことがあると気が紛れる。

 それに、優奈が居ると心細さを感じる事が無かったのでありがたかった。

 

 晩御飯は母さん手作りのデミグラスソースのハンバーグだった。

 落ち込んでいる俺を好物で励まそうという母さんのやさしさが伝わってきてありがたいと思った。だけど、食欲が湧かなくて半分くらい残してしまった。

 謝る俺に母さんは頭をやさしく撫でて、気にしないでと言ってくれた。残ったハンバーグは父さんが食べてくれた。

 

 食事中に交わされた会話はどこかぎこちないものだった。

 父さん、母さん、優奈、そして俺。四人居るのに全然家族が揃った気にならないのは、それだけアリシアが家族として受け入れられているという事で。

 アリシアが居るときの家族団欒光景を思い出して、寂しい気持ちが込み上げてくる。

 

 そんなときだった。

 下腹部からどろりとこぼれ出る感触がして――生理が始まった。

 俺は、家族に生理の事を告げて、早々にリビングから退出した。寝る準備を終えて、自分の部屋に引き上げる。

 

 お腹が痛くて、体が重い。

 俺は自分の部屋に戻るなりベッドに倒れ込んだ。

 キリキリと痛むお腹を両手で抱いて布団の中で丸くなる。

 

 こんな日はすぐに眠ってしまいたかったけど、眠気は一向にやってくる気配がなかった。

 あれだけ昼間寝溜めしていたのだから無理もない。

 だけど、暗闇の中ひとりで横になっていると、いろいろと考えてしまって――体調が良くないからか、悪い考えばかり出てきてしまう。

 

「……アリシアの気に触る事をしたのかな?」

 

 知らないうちにアリシアを傷つけたり、怒らせたりして、アリシアが俺への抗議の為に同調を切っているのだとしたら。

 

 ……たけど、その可能性は正直低いと思う。

 アリシアが怒っていたとしても、他人に心配をかけるこのような手段に出ることは想像し難い。それに、アリシアは今日の誕生日パーティを本当に楽しみにしていたから……

 

 万が一俺に落ち度があってアリシアが出てこないのなら、許して貰えるまで何度でも謝罪しよう。

 

 そんなことよりも。

 

「アリシアに何かあって、今も苦しんでいるんじゃないかな?」

 

 それが一番怖い。

 同調が切れている今の俺には、アリシアの声は聞こえないし、こちらの声も届かない。

 だから、もしアリシアが苦しんでいたとしても、俺には何もできないばかりか、苦しんでいることを知る事すらできないのだ。

 

 俺は目を閉じて自分の中のアリシアの存在を確認する。

 胸の中心あたりにほんのりと暖かく光るものがあるようなイメージ、それがアリシアである事は本能的にわかる。

 ――だけど、それ以上の情報は俺にはわからない。

 

 アリシアは苦しんでいないだろうか?

 辛い思いをしていないだろうか?

 

『アリシア……』

 

 何度念話で呼びかけてみても返事は無い。

 

「もしも、このままアリシアが戻ってこなかったら……」

 

 不吉な考えがこぼれ出てきて、俺は慌ててそれを否定する。

 

「そんなはず、無い……」

 

 もしかして、お風呂場での優奈とのことを怒ってるとか?

 あれは体を洗って貰っただけだから……大丈夫だよね、多分。

 

 それに、アリシアは俺が優奈や翡翠と肌を重ねることには、むしろ積極的だった。

 

「……あれ?」

 

 自分の考えに、ふと違和感を覚えた。

 アリシアとの旅の途中、勇者である俺を歓待したり、血の繋がりを求めたりとかで、そういった誘惑は多かった。それらを全部断ることができたのは、ひとえにアリシアがいたからだ。

 アリシアは俺の行動を咎めるようなことは基本的にしなかったけど、俺が他の女の子と親しくしてると機嫌が悪くなってすぐ拗ねる。そんな性格だったように思う。

 

 だから、妹である優奈はともかく翡翠とも肌を重ねる事を容認している今のアリシアの姿勢には違和感がある。

 俺がアリシアと一緒になって、触れ合う事が出来なくなった事への代償行為なのかと今まで思ってた。

 

 ……だけど。

 

 もし、自分が居なくなる事を知っていたから、他の女の子との関係を認めるようになったのだとしたら……

 

「……そんな馬鹿な」

 

 俺は首を振って自分の考えを打ち消した。

 その考えにはどこか納得できる理由があって……だけど、俺は絶対にそれを認める訳にはいかなかった。

 

 頭の芯がズキズキと痛む。

 この頭痛は生理が原因なのか、不安からくるものか、あるいは両方なのか。

 

「こんな形でお別れなんて嫌だよ、アリシア……」

 

 体が寒い。今晩は特に冷え込む気がする。

 俺は、自分自身を抱きしめた。

 

   ※ ※ ※

 

二月十日(金)

 

「――っ!!?」

 

 最悪な夢を見て、俺はベッドから飛び起きた。

 鼓動が激しく波打ち、体中が嫌な汗でじっとりと湿っている。

 

「アリシアっ……」

 

 両手を胸元に押し当てて崩れるようにベッドに体を横たえる。

 

「アリシアはここに居る……」

 

 先程の悪夢が現実ではなかったことに安堵し、だけど、次の瞬間まだアリシアが戻ってきていない事に落胆する。

 

「また、か……」

 

 もう何度目だろう。

 アリシアが戻れるように寝ようとしても、生理痛と不安から来る焦燥でなかなか眠りにつけず、それでも、いつの間にか力尽きるように眠りに落ちていて――そして、また悪夢に起こされる。

 先程からこんな事の繰り返しだった。

 

「うぁ……最悪……」

 

 下半身に湿り気を感じて、見るとパジャマの股の部分が汚れてしまっていた。生理の血が漏れてしまっている。

 体を起こして確認すると、不幸中の幸いで布団に被害は出ていないようだった。

 

「処理しないと……」

 

 鉛のように重い体を起こしてベッドから降りた。朦朧としながら着替えを準備して、重い体を引きずって洗面所に向かう。

 

 浴室で血で汚れたパジャマを脱いだ。

 ショーツも血で汚れてしまっている。許容量を超えたナプキンがぐっしょり湿っていて気持ち悪い。

 ショーツに指を引っ掛けて一気に下ろした。

 

「うわぁ……」

 

 赤黒く染まった惨状に思わず声が出てしまう。

 ポタポタと床のタイルに紅い華が咲いて、独特のにおいが鼻をつく。

 

 その状態で途方に暮れていると、洗面所のドアがノックされた。

 

「……大丈夫?」

 

 声をかけてきたのは優奈だった。

 心配そうに廊下から顔を覗かせている。

 

「えっと……」

 

 優奈と視線が合う。

 洗面所から浴室のドアは開けっ放していた。

 

「ああ、汚しちゃったのね」

 

 俺の状態を確認した優奈が洗面所の中に入ってきてドアを閉めた。

 固まったままの俺を放置して、テキパキと片づけようとする。

 

「じ、自分でできるから……」

 

 汚れものを優奈と言えども他人に始末させるのは抵抗がある。何より申し訳ない。

 

「そんな倒れそうな顔して言われても心配にしかならないわよ……ほら、これは片付けとくからシャワーで洗い流しちゃいな?」

 

「う、うん……」

 

 優奈の勢いに俺は思わず頷いた。

 それに、優奈の申し出は正直ありがたかった。

 服を脱いで髪を後頭部で纏めて、シャワーで下半身を洗い流す。汚れが落ちて少し気持ちが落ち着いた。

 

 シャワーを止めると洗面所のドアが開いて優奈がバスタオルを渡してくれた。体を拭き終わると夜用のナプキンとショーツが渡された。次はキャミソール、最後にパジャマ替わりのジャージが渡される。

 汚れた衣服は優奈が洗って洗濯機に入れてくれた。

 

「この体になって優奈に頼ってばかりだね、私……」

 

 優奈に助けられて後始末を終えた俺は自嘲気味にそう言った。

 優奈は俺の頭にぽんっと手を置いて優しく笑う。

 

「そんなこと気にしないの。女の子に関してはあたしの方が大先輩なんだから、アリスはあたしを頼ってくれていいんだよ」

 

 情けなさや、心細さや、ありがたさとか、いろいろごちゃまぜになった感情があふれてきて、涙がこぼれてきてしまう。

 

「うゔ……」

 

 優奈が俺を抱きしめてくれた。

 しばらくそのままで感情のままに俺は優奈にしがみついて泣いた。

 

「お誕生日おめでとう、アリス」

 

 やがて、落ち着いてきた俺を抱きしめたまま優奈が言った。

 

「ああ……ありがとう優奈」

 

 いつの間にか零時を過ぎていたようで、誕生日になっていたらしい。

 それは、俺がアリスとして迎える初めての誕生日で。今日から俺は世間的には16歳になる。

 そして、幾人《俺》とアリシアにとっては17回目の誕生日だった。

 でも、一緒に誕生日を迎えるはずだったはずのアリシアはいない。

 

「……その、アリシアは、まだ……?」

 

「……うん」

 

「そう……」

 

 優奈は慰めるように背中をポンポンとしてくれる。

 

「……ありがとう」

 

 アリシアの不在を心配する優奈が一緒に居ることで、少しだけ気持ちが落ち着いて。

 もう、この際だから今日は徹底的に甘えてしまおうか。

 

「優奈……一緒に寝てもらってもいい?」

 

 俺から出た言葉に優奈は一瞬驚いた後に笑顔で承諾してくれた。

 

「それじゃあ、アリスの部屋に行くね」

 

 部屋に戻った俺達は二人でベッドに入る。捲ったままの布団は夜気に晒されてすっかり冷えてしまっていた。

 

「おお、寒い寒い……ほらアリス」

 

 先に布団に入り込んだ優奈が俺を抱きしめてくる。体温が暖かくて、冷えた体を温めるように互いの体を重ね合わせた。

 優奈の柔らかい胸に埋もれながら、俺は安心感に包まれた。

 

 ……これなら悪夢を見ずに寝られそうだ。

 



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誕生日(その5)

 わたしはアリシア!

 

 わたしのまわりにはいつもエガオがいっぱい

 

 だけど、そうじゃないトキもあるの

 

「かあさまどうしたの……?」

 

 かあさまがシクシクとないていて

 

「いたいの? つらいの? だいじょうぶ、かあさま……?」

 

 かあさまがないてると、わたしもカナしくてなきそうになる

 

「ごめんなさい、アリシア。私は大丈夫よ……少し、昔の事を思い出していただけ」

 

「かあさま……つらいことあったの?」

 

「……ううん、今思い出せるのは楽しかった事ばかりね」

 

「たのしかったことなのにナミダがでるの……?」

 

「そうね……アリシアがもっと大人になったら判ると思うわ」

 

 わたしにはよくわからない。オトナってむずかしい……

 

「なかないで、かあさま……」

 

 わたしはかあさまをギュッとだきしめる

 

 それは、かあさまゆずりのシアワセのまほう

 

「もう泣いてないわ……ありがとう、アリシア」

 

 かあさまがギュッとだきかえしてくれて

 

 わたしはアンシンするにおいにつつまれる

 

 かなしいときはいつだってわたしがソバにいてぎゅっとするから

 

 だから、ナかないでかあさま……

 

   ※ ※ ※

 

 ――夢を、見ていた気がする。

 

 内容は覚えてない。ここ最近は悪夢で飛び起きてばかりだったので、少なくとも悪夢ではなかったのだろう。

 

「ん……」

 

 薄ぼんやりとした状態で目を開いた。

 ふんわりと甘い優奈の匂いがして、昨晩優奈と抱きあって眠った事を思い出す。

 優奈の姿は無い。どうやら既に起きて出ていったらしい。ベッドサイドの時計には、もうとっくに学校が始まっている時間が表示されていた。

 一瞬だけ学校の事が頭に過ぎったが、行く気にはなれなかった。狂った生活リズムに心労、そして生理二日目も重なって体調は最悪だった。それに――

 

「……アリシア」

 

 もう何度繰り返したかも判らない呼びかけ。けれど、返ってくる声は無くて俺は落胆する。

 一昨日のお休みの日から数えて三日目となる、アリシアの居ない朝。

 

「今日は誕生日だってのに……」

 

 いったいアリシアに何があったのだろうか……

 

 俺は目をつむって自分自身をぎゅっと抱きしめる。自分の中にアリシアの存在がある、それだけが心の拠り所だった。

 

 何もする気が起きずベッドで横になっていると、控えめにドアがノックされた。返事する気力も無くてぼーっとしていると、静かにドアが開いた。

 

「アリス、起きてる……?」

 

 部屋に入って来たのは、この時間は学校に行っているはずの優奈だった。その声は震えていて、何かを堪えているような緊張感があった。

 

「ん……」

 

 そんな様子を訝しみながら、俺は体を優奈の方に向けて一言返事を返す。これだけで優奈は目を覚ましてはいるけど起き上がる気力は無いという俺の現状を理解してくれるはずだ。

 

 だけど、不安そうに胸元に手をやる優奈は部屋を出て行く様子はなかった。どうやら何か用事があるらしい。

 

「あ、アリシアは……?」

 

 恐る恐る発せられた問いに、俺は小さく首を振って答えた。優奈は俺を見て、思い詰めたようにきゅっと目をつむる。

 

 そんな優奈に俺は違和感を覚えた。

 もちろん、優奈もアリシアの事を心から心配している事は知っている。だけど、今まで優奈は俺の前では極力明るく振る舞うようにしていた。俺が不安にならないようにという優奈なりの気遣いだと思う。

 

「……どうしたの? 優奈」

 

 だけど、今目の前で小さく震える優奈は、そういった態度を取り繕う余裕も無くなっているようで、俺は心配になった。

 

「パパがお兄ちゃんに話があるって。だから、起きて来られるならリビングに降りてきて欲しいんだ……」

 

 正直なところ、体を起こすのはしんどいけど。

 こんな表情をした妹の頼みを無碍になんてできなくて。

 だから俺は優奈に頷いて答えた。

 

 優奈には先に行ってもらって、俺はトイレに行ってからリビングに行く。今日も一日寝て過ごすつもりだから服装はパジャマのままだった。

 リビングについた俺を待っていたのは父さんだけじゃなくて、母さんと優奈も揃ってリビングテーブルに座っていた。

 

「……いったい、どうしたの?」

 

 俺はリビングの椅子に座って聞く。

 みんな思い詰めた表情をしていて、ピリピリとした雰囲気に俺は息を呑んだ。

 

「アリス、あなたに話しておかないといけない事があるの」

 

 母さんがそう前置きして、父さんがそれに続けて重々しく口を開いた。

 

「……アリシアはもう戻って来ないかもしれない」

 

 昨日まで、きっとアリシアは帰ってくると元気づけられていたというのに、今日父さんから出てきたのは全く正反対の言葉で。

 

「アリシアの魂は失われる運命(さだめ)にあるんだ」

 

 続けて告げられた内容に、俺は頭が真っ白になる。

 

 アリシアの魂が……失われる?

 そんなこと……

 

「ひとつの体にふたつの魂は存在できない。だから、お前の魂がその体に定着するにつれてアリシアの魂は所在を失い、やがて消滅する」

 

 父さんの話を理解する事を頭が拒絶する。

 そんな事はあり得ない。こんなの受け入れられる筈が無い。

 

「何言ってるんだよ、父さん……やめてよ、そんな冗談は笑えない……」

 

 脳天をハンマーで打ち据えられたかのように、頭がくらくらして視界がおぼつかない。俺は頭を押えた。

 

「すまないが、嘘でも冗談でも無い」

 

 俺は助けを求めるように母さんや優奈を見回すが、彼女達は辛そうに俺の様子を見守っているだけで、父さんの言葉を否定してはくれなかった。

 

「……なんでそんな事わかるんだよ」

 

 それでも俺は抵抗し、父さんの言葉を否定しようとする。

 

「本人から聞いたからだ」

 

 だけど、父さんの返答は明瞭だった。

 

「アリシア、から……? そんな……いつから……」

 

「最初からだ。お前がこの世界に戻って来てアリシアの体の持ち主になったときから彼女はそうなる事を知っていた」

 

「嘘……だ……」

 

 頭がガンガンと早鐘を叩くように痛む。

 

「父さんの言ってる事は本当よ、アリス……」

 

 母さんが父さんの言葉を肯定する。

 母さんもこの事を知っていた? ……優奈も?

 

「そんな……それじゃあ、俺だけ何も知らなかったって事……?」

 

「……そうだ」

 

 そんなの、まるで……道化じゃないか。

 

「なんで……なんで、俺に黙ってたのさ!?」

 

「――っ!?」

 

 優奈が目を見開いて、動いた椅子がガタンと音を鳴らした。

 父さんと母さんは表情を変えずに俺の事を見ていた。

 

「……それが、アリシアの望みだったからな」

 

 父さんは続ける。

 

「彼女は気遣われる立場ではなく一人の女の子として残りの時間をお前と一緒に過ごしたいと願った。そして、俺達はそれに協力する事にしたんだ」

 

「そんな……そんなのって……」

 

 アリシアとの日々が脳裏に思い出される。

 俺を通じて体験したありふれた日常を、アリシアはどんな風な思いで過ごしていたのだろう。

 

 生まれてからずっと神殿で巫女として、親の顔も知らずに、ただ使命に生きてきたアリシア。

 魔王を倒し使命を終えたアリシアに許されたのは、アリシアを知る人の居ないこの世界で、僅かな期間の余生を俺と過ごすだけなんて……

 

「そうだ、俺が居なくなればアリシアは助かるんじゃ……!」

 

 この体はアリシアのものだ。だから、持ち主に返すのが筋だ。

 アリシアを犠牲にして、俺だけが生きるだなんて間違ってる。

 

「それは無理な話だ。体から魂を取り出す方法は未だ見つかっていない」

 

「じゃあ、俺が死ねば……」

 

「バカな事を言うな!」

 

 空気が震えた。

 父さんの本気の叱責に俺は身を竦める。

 

「……魂の消失は肉体の死の後におこる。お前が死んだらアリシアも当時に死んでしまうだけだ」

 

「そんな……」

 

 俺のせいでアリシアが居なくなってしまうのに何もできないなんて……

 

 やるせない気持ちが胸にあふれてきて、俺は父さんに八つ当たりじみた反感を抱いてしまう。

 

「父さんは何でそんなに冷静でいられるんだよ! 父さんはアリシアと一緒にいた時間が少ないからアリシアのことなんてどうでもいいって言うの!?」

 

「アリス、言い過ぎよ!」

 

 俺を諌めようとした母さんを父さんは手で制して話を続ける。

 

「アリシアとお前どちらがより大切かと聞かれたら、お前の方が大切と俺は答える」

 

「――っ! 父さんのバカ!」

 

 俺は椅子から飛び降りてリビングから飛び出した。

 階段を駆け上がって自分の部屋に入ってカギを締める。

 そのままベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。

 

「アリシア……」

 

 頭の中がぐちゃぐちゃで擦り切れそうだった。

 目をつむると自分の中にアリシアの存在は確かに感じられるのに……だけど、もう話すことも叶わないかもしれない。

 そう考えると涙があふれてきて。

 

「うう……くぅ……」

 

 この世界に一人取り残されたような孤独に押し潰されそうになる。

 誰にも会いたくない……もう、何も信じられない。

 



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誕生日(その6)

 どれだけ泣いたのかわからない。

 

「うう……ひっく……アリシア……」

 

 ひたすら泣いて、泣いて。

 泣き疲れて、視線を虚ろに彷徨わせるとアリシアとの思い出の品が目に入って、また泣いての繰り返し。

 

 クラスメイトと放課後に寄ったお店で購入した雑貨。

 アリシアと一緒に読んだ小説や漫画。

 温泉街で買った紫と水色の透明なブレスレット。

 ベッドで今も抱きついている大きいイルカのぬいぐるみ。

 クリスマスにプレゼントしたペアリング。

 

 アリシアとの楽しかった思い出が、今はただひたすら悲しくて、涙が止まらない。

 

「……ぐすっ……うぇぇ……」

 

 あふれてくる衝動が抑えられずに泣きじゃくる。

 感情をコントロールすることができなくて、まるで小さな子供に戻ってしまったかのように。

 

「アリシアぁ……」

 

 悲しくて、辛くて、寂しくて、悔しくて。

 心が押し潰されてしまいそうだった。

 

   ※ ※ ※

 

「……外に行こう」

 

 俺はのっそりと体を起こして独りごちる。

 アリシアとの思い出があふれているこの部屋に居るのが辛かった。

 

 着替えようとクローゼットを開くと、目に入ってくる服はアリシアと二人で買い揃えたもので。一着一着に思い入れがあり、次々にそれらが頭に浮かんできて、俺はその場でまた泣き崩れてしまった。

 

「……えぅ……アリシアぁ……」

 

 それでも、なんとか外出用の服に着替えた俺は、コートを羽織って家を出る。優奈が心配しないようにメッセージアプリで『散歩してくる』とだけ残しておいた。

 

 ――そして、結論から言うと外に出たら気が紛れるだろうなんていう俺の考えは浅はかだった。

 

『今日は何を買って食べるんですか? ラムネ? チョコ? アイスもいいですね!』

 

 学校の帰りに寄り道して食べるお菓子を楽しみにしていたコンビニ。

 

『焼きたてのパンってこんなに美味しいんですね! ……わたし感動しました!』

 

 初めて食べた焼きたてパンの美味しさに驚いていたパン屋。

 

『この箱に入れるだけで、世界中に手紙が届くんですねぇ……なんだか、すごいです……』

 

 郵便の制度にすごく感心していたポスト。

 

『……大丈夫ですよ。わたし達が必ず飼い主を探してあげますからね!』

 

 迷子の子猫を見つけ飼い主を探して奔走した街角。

 

「うう……」

 

 好奇心旺盛だったアリシアと一緒になって探検した思い出が、街のあちこちに残っていて、俺は涙があふれてくるのを堪える事ができなかった。

 だけど、こんな家の近くで泣きじゃくるなんてのは最悪だ。ご近所にどんな噂が出回るかわからない。

 

「うぁ……とにかく落ち着ける場所に行かないと……」

 

 俺は顔を伏せて目元を手の甲で拭いながら走った。

 

 自宅以外で落ち着ける場所なんて思い当たるのは一箇所しかなくて、俺は真っ直ぐそこに向かう。

 

 山の袂から神社へ続く石の階段を駆け上がって、境内を裏手に周り、社務所を兼ねる屋敷の縁側で靴を脱いで家に上がった。

 ノックもせずに襖を開けて無人の部屋に入り込むと、そのままうつ伏せにベッドへ倒れ込んだ。

 

 蒼汰の部屋。

 子供のころから通い慣れている勝手知ったる他人の家。ここにあるのは幾人としての思い出ばかりだった。

 

 荒い呼吸を整える為に深呼吸すると、ベッドに残る蒼汰の匂いが鼻をついた。それは決していい匂いではないけれど、不快ではなくて。深呼吸するにつれ、ざわついていた心が落ち着きを取り戻していくのを感じていた。

 

 少し落ち着いた俺は、コートを脱いでベッドの横の壁に吊ってあるハンガーに掛ける。そして、再びベッドに戻って布団に潜り込んだ。

 行儀が悪いかなとも思ったが、二月の室内は冷え込んでいて凍えそうなのでやむを得ないだろう。家主に断りもなく勝手にエアコンを使うのは気が引けた。

 そのままの状態で布団にくるまっていると、ようやく落ち着ける環境と、体に溜まった疲労とが相まって、眠気がやってきた。俺はそのまま眠気に任せて意識を手放した。

 

   ※ ※ ※

 

 夢を見ることのない静かな眠りは久しぶりだった。

 

「ん……」

 

 ぼんやりと戻ってきた意識の中で、室内に気配を感じた俺は視線を動かす。

 

「おっ……起きたか?」

 

 勉強机に座って宿題をしていたらしい蒼汰が椅子を回してこちらを振り向いた。

 

「ああ、蒼汰。おはよう……」

 

「おはようじゃねーよ。もう夕方だぞ?」

 

 そう言う蒼汰は、少し呆れた口調だった。

 

「ん……俺、寝てた……」

 

 俺はぼんやりした頭で応える。

 そして、寝起きの習慣になってしまったアリシアへの呼び掛けを心の中で行った。返答は相変わらず無い。

 俺はため息をこぼした。

 

「……大丈夫か? また何か大変な事に巻き込まれてるのか?」

 

 目を覚ましたかと思ったら急に黙り込んで落ち込む俺を見て蒼汰が心配そうに聞いてきた。

 

「蒼汰は、優奈から何か聞いてる?」

 

 俺は蒼汰の質問に質問で返した。蒼汰は首を振る。

 

「いや、何も……だけど、お前昨日から学校休んでるみたいだし、誕生日パーティーも延期になるって聞いて、それっきりだったからさ……」

 

「そうか……」

 

 それを聞いて少しだけ迷う。関係の無い蒼汰にアリシアの事を相談するのは迷惑じゃないだろうか。

 

「何かあったなら話を聞かせてくれよ。そりゃ、俺には何も出来ないかもしれないけどさ……ひとりで悩んでないで俺も一緒に悩ませてくれよ。水臭いぞ」

 

「……ありがとう、蒼汰」

 

 俺は素直に蒼汰の言葉に甘えさせて貰うことにした。自分で抱えこむのにいっぱいいっぱいになっていたから、蒼汰の申し出は嬉しかった。

 

「それじゃあ、話したいからこっちに来てくれる?」

 

 俺は座っているベッドの横をぽんぽんと叩いて、蒼汰を隣に呼んだ。

 

「……ええと、そっちに行かないと駄目なのか?」

 

「うん」

 

 俺が自信を持って言い切ると、蒼汰は戸惑いながら立ち上がって、おずおずと俺の隣に座った。

 

「後ろ向いて貰ってもいいか?」

 

「お、おう……」

 

 蒼汰は俺に背中を向けてベッドに胡座をかいて座る。

 

「ありがと……」

 

 ……これでよし。

 

 こうすれば俺の顔を見られることはない。事情を説明するのに俺は泣かずにいられる自信かなかった。

 

「おおぅ!?」

 

 俺は蒼汰の背中に両手をついて、よりかかるように、ぴたっとくっついた。

 

「な、何してんだよ!?」

 

「くっついてるだけだよ……男同士なんだから別にいいだろ」

 

「いや、男同士でべたべたしていたら気持ち悪いだろう……常識で考えて」

 

 そう言われてみればそうかもしれない。

 この体になってからスキンシップをする機会が随分と増えた気がする……まあ、相手は女の子ばかりだったけど。

 だから、癖になってしまったのだろうか?

 男の頃の俺は蒼汰にくっつきたいなんて思った事はなかった。

 だけど今は人肌が恋しい。

 

「……だったら、今は男と女なんだから問題ないだろ?」

 

「いや、問題しか無いだろ……」

 

 蒼汰とは家族のような関係だし、俺が男だったときも優奈とはこれくらいのスキンシップはしてたけどなぁ……

 

「今ちょっと弱っててさ。このままがいいんだけど……嫌か?」

 

「嫌、じゃない……お前が構わないならこのままでいい」

 

「ありがと、助かる」

 

 がっしりした蒼汰の背中はごつごつと硬くて、今まで俺が触れ合って来た女の子とは全然違っていた。

 

「蒼汰の背中こんなに広かったんだな……」

 

 俺もこんな感じだったんだろうか?

 自分の背中なんてほとんど見ることなんてなかったから、わからないな。

 

 少し間をおいて、頭の中を整理してから、俺はぽつぽつと話し始めた。

 

 一昨日お休みの日に蒼汰達と出会った後、誕生日パーティー当日だった昨日になってもアリシアが戻ってこなかったこと。

 アリシアの魂はやがて消えてしまう運命にあり、このままお別れになってしまうかもしれないと、今日家族から言い渡されたこと。

 

 やっぱり涙を堪えられなくて、俺は蒼汰の背中にすがって嗚咽しながら話をした。

 蒼汰は背中をむけたまま、そんな俺の話に相槌を打ちながら静かに聞いてくれた。俺は途切れ途切れになりながら、なんとか話し終えた。

 

「……そうか。アリシアさんが……」

 

「まだ、俺は何もアリシアに言えてないのに、もう帰ってこないかもって……ぐすっ……この体はアリシアのものなのに……うぅ、アリシアが消えて俺だけ残るなんて……!」

 

 俺は蒼汰の背中に触れている手をぎゅっと握り込んだ。

 

「みんな俺に隠してて……俺だけ何も知らなかったんだ……」

 

「……お前はそのことで家族を恨んでいるのか?」

 

「……ううん、今はそれはない……かな。最初は裏切られたって思ったけど、もし、実際に打ち明けられていたら、俺はアリシアと自然に接するなんて出来なかったと思うから」

 

 そもそも、ここ半年の俺はアリシアの体になった自分自身の事で精一杯で、事実を打ち明けられていたとしても、ちゃんと受け入れられたかどうか自信がなかった。

 

「それに、黙っている方だって辛かったと思うから……」

 

「……そうだな」

 

 特に俺とアリシアに一番近い場所に居た優奈。

 いつも付きっきりで甲斐甲斐しく俺達の世話をしながら、優奈はどんな事を思っていたのだろうか?

 

「何も知らなかった能天気な自分が許せなくて……俺は知らないうちにいっぱいアリシアを傷つけていたと思う」

 

「だけどそれは、アリシアさんが自ら望んだ結果だろう? その事でお前が自分を責めるのはアリシアさんも望んでいないと思うぞ」

 

「……そうだね」

 

 多分蒼汰の言う通りだろう。

 

 ……アリシアに会いたい。

 声が聞きたいよアリシア。

 

「辛かったんだな……」

 

 蒼汰の言葉がやさしくて、また涙がこぼれてしまう。

 感情が落ち着いて涙が止まるまで、俺は蒼汰に背中を借りた。

 

   ※ ※ ※

 

「ごめん、蒼汰。シャツ汚しちゃって……」

 

 顔を押し付けた事で、涙や鼻水でぐちゃぐちゃになった蒼汰の背中を、枕元に置いてあるティッシュでおずおずと拭く。

 

 冷静になった今、蒼汰の背中で子供のように泣きじゃくってしまった事が、とても決まりが悪く恥ずかしい。

 

「気にするな。これくらいどうってことないさ」

 

 蒼汰が振り返って、俺の頭にぽんっと手を置いて言う。それもまた子供扱いされた風に感じて、いたたまれなかった。

 

「うー……」

 

 俺は口の中で小さく唸る。

 そんな俺を見て蒼汰は優しく笑った。

 

「……それで、お前はどうするつもりなんだ?」

 

「……?」

 

 蒼汰がまっすぐに俺の目を見て聞いてくる。

 

「このまま、何もせずに諦めるつもりなのかって聞いてるんだ。お前はそんなに往生際の良い奴じゃ無いだろう?」

 

「……!」

 

 蒼汰に言われてはっとする。

 今も俺の中にはアリシアが居る。

 終わってしまった訳じゃない……いや、始まってすらいない。

 俺はまだ何もしていないじゃないか……!

 

「……嫌だ。諦めたくない」

 

「それじゃあ、助け出す方法を探さないとな……お前の大切な人なんだろ? アリシアさんは」

 

「……うん!」

 

 俺は異世界で勇者と呼ばれていた。

 勇者ってのは世の理不尽に抗って覆す存在だと言われた事がある。だったら、俺は勇者として徹底的にこの理不尽な運命に抗ってやる。

 

「俺にできることがあるなら言ってくれ。なんだって協力するから」

 

「ありがとう、蒼汰!」

 

 俺は蒼汰に飛びついて、腕を回して抱き締めた。

 

「……ちょ、ちょぉっ!?」

 

 抱きつかれた蒼汰が慌てるのがおかしくて、俺はくすりと笑った。

 

 そうだ、魔法でも奇跡でもいい、絶対にアリシアを救う方法を見つけてやる。

 アリシアは俺が助けるんだ。

 



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誕生日(その7)

 どたどたと部屋の外から足音が聞こえてきた。

 

「アーリースー!」

 

 聞き慣れた声と一緒に、それは勢い良く近づいて来て、蒼汰の部屋の前で止まった。

 

 俺はササッと蒼汰から離れた。

 蒼汰に甘えている姿を知り合いに見られるのは、すごく恥ずかしいと思ったからだ。

 

「アリスー!? いるのー!?」

 

 バーンと音を立てて襖が開き、制服姿の翡翠が現れた。

 

「アリス、やっと会えたわ……」

 

 俺の姿を確認した翡翠は、部屋に入ってきて後ろ手で襖を閉めた。獲物を見つけた狩人のように視線は俺をロックオンしている。

 

「お見舞いにアリスのお家まで行ってたんだけど、まさかこんなところに居たなんて。灯台下暗しとはこの事ね……蒼汰、アリスが弱っているのにつけ込んで、変な事してないわよね?」

 

「そんなことする訳ないだろ……お前、俺をなんだと思ってるんだ」

 

「……性欲猿?」

 

「ちょっ!? それは酷くねぇ!?」

 

「……まあ、そんな事はどうでもいいわ」

 

 ばっさりと蒼汰の抗議を切り捨てた翡翠は、つかつかと俺に近づいて来て、そのままの勢いで俺を抱き締めてきた。

 

「ひゃぃ!?」

 

「アリスはとうとう知ってしまったのね……辛かったわよね」

 

 蒼汰と違って圧倒的に柔らかい感触に、兄妹でこんなに違うものかと思ったけれど、それよりも翡翠の言った言葉に聞き捨てならない違和感があって。

 

「ええと……翡翠はアリシアの事……?」

 

 いい匂いのする豊満な翡翠の胸にうずまったままで、俺は翡翠に問いただす。

 

「……ええ、知っていたわ」

 

 どうして翡翠がアリシアの事を……?

 そう疑問に思っていると、翡翠はそれに答えるように続ける。

 

「私はアリシアの魂の状態をずっと見て知っていたから……あなた達の事を知ったあの日、アリシアにその事を尋ねて事情を聞いたの」

 

 翡翠は俺の後頭部をやさしく撫でながら話を続ける。

 

「私は魂の状態を見れば、その人の体調や健康状態がある程度わかるわ」

 

 それは、翡翠の巫女としての能力だった。

 言われてみると、思い当たる節もある。俺達の体調が悪い時、いつも誰よりも(ときには本人よりも)早くその事に気づいて、気遣ってくれていたのが翡翠だった。

 

「アリシアはアリスと同調しているとき、魂のエネルギーを消費しているの。そのエネルギーは同調を切っている間に回復していて、最初の頃は朝になれば全快していたわ」

 

 寝ている間は同調が切れているから、その間に回復していたのだろう。

 

「けど、月日が経つにつれて、アリシアの魂の状態は悪化していった……徐々にエネルギーの回復が遅くなっているみたい」

 

 翡翠の話で、アリシアが夜に早めに同調を切る事にしたり、お休みの日を作るようになった本当の理由がわかった。

 彼女はそうしたかった訳じゃなくて、そうしないと魂が持たなかったのだ。

 

「段々と同調を保つのが難しくなっている事をアリスに気づかれたくなかったんでしょうね。アリシアは相当無理をしていたみたい……一昨日に見たアリシアの魂はかなり酷い状態だったわ」

 

「そんな……」

 

 週に一日としていたお休みの日が段々と増えていけば、俺もアリシアの状態を疑問に思うようになっていた可能性は高い。

 そうならないように無理をしたアリシアの事を思うと胸が痛くなる。

 

「今は一昨日よりも随分安定している。だから、すぐに危険な状態になる事は無いと思うわ……もうすぐ、同調もできるくらいに回復するんじゃないかしら?」

 

「ほんと!?」

 

「今までずっと私はあなた達を見てきたから……信用して貰っていいわ」

 

「アリシアが、戻ってくる……!」

 

 もう一度アリシアに会える。

 俺は暗闇の中で灯りを見つけたような気持ちになる。

 

「だけど、これはただの小康状態でしかないの。このままだと、そう遠くない未来にアリシアの魂が消えてしまう事に変わりはないわ」

 

「……うん」

 

 ……それでも。

 このまま永遠の別れになるかもしれないと思っていたさっきまでよりは全然マシだった。それにアリシアに話を聞ければ、彼女を救う手段を見つける手掛かりにもなるはずだ。

 

「あなたは、アリシアを助けるつもりなのね」

 

 翡翠は、俺の気配から察したのだろう。

 俺を抱きしめる腕がきゅっと強くなる。

 

「うん、必ず」

 

「それなら、もうアリスのお父様から話は聞いた?」

 

「……私の父さん?」

 

「お父様はアリシアを助ける方法をいろいろと手を尽くして調べているはずよ。私もいろいろ協力しているから、一度話を聞いてみるといいと思うわ」

 

「父さんが……」

 

 その事を聞いて、今朝俺が父さんに感情のままにぶつけてしまった事を思い出す。

 

「どうしよう。そんなこと知らずに、私は父さんに酷いことを言っちゃった……」

 

「謝ればいいんじゃないか? きっと、おじさんならわかってくれるだろ」

 

 多分、蒼汰の言う事は正しい。

 そして、父さんは俺の怒りの矛先を自分に集中させる為に、わざとあんな言い方をしたのではないかという事に気がついた。

 

「……そう、だね」

 

 父さんの懐の広さと同時に、自分の未熟さを思い知らされる。

 異世界で勇者とちやほやされて一人前になったつもりでいた自分が恥ずかしい。

 

「……私、帰るね」

 

 俺が宣言すると、二人一緒のタイミングで頷いてくれた。

 

 こういうところは、兄妹なんだなぁ……

 

   ※ ※ ※

 

「ただいまぁ……って、優奈!?」

 

 家出から帰ってきたときのような気まずさで家のドアを開けると、そこには思い詰めた表情をした優奈が俺を待っていた。

 

「……おにいちゃん」

 

 優奈は俺の顔を見るなり、感情があふれだしてきたらしく、表情を崩して涙をあふれさせる。

 

「……ごめんなざい、おにいちゃん……あたしっ……!」

 

 ぼろぼろと優奈の瞳から涙がこぼれて落ちる。

 俺は慌てて靴を脱ぎ捨てて、泣き崩れる優奈を抱きとめた。

 

「優奈、私は大丈夫だから……」

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」

 

 優奈は涙ながらに謝罪を繰り返す。

 

「謝る必要なんてないよ……優奈は私達の事を思って黙っていてくれたんだよね?」

 

 俺は優奈を抱きしめる力を強くする。

 

「おにいちゃん……うぅ、うえぇ……アリシア、アリシアがっ……!」

 

 がばっと、飛びつくように優奈が抱き返して来た。

 

「うん……黙っているの辛かったよね、優奈」

 

 背中をポンポンと撫でる。

 

「う、うう……おにいちゃん。アリシアぁ……」

 

 そうしていたら、俺が優奈を慰めていた筈なのに、胸の中からぶわっと感情が込み上げてきて、涙がほろほろとこぼれてくる。

 

「……うぐっ、優奈ぁ」

 

「……えぐっ……うぇ……おにいちゃぁん」

 

 優奈の悲しみ、アリシアの悲しみ、そして俺の悲しみが反響して溶けて混ざってしまったかのように。

 感情があふれるまま。

 

「うぇぇ……ひっく……」

 

 俺達はお互いが落ち着くまで、しばらくの間家の玄関で抱き合って嗚咽を漏らしていた。

 



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再会

二月十一日()

 

 朝日に照らされて俺は目を覚ます。

 確信めいた予感がして、俺は彼女に声を掛ける。

 

「おはよう、アリシア」

 

『……おはようございます、イクトさん』

 

 三日ぶりに聞く彼女の声は随分と懐かしく思えて、自然と涙があふれてきて頬を伝った。俺と感覚を共有しているアリシアは、直ぐにその事に気がついたようで。

 

『随分心配をお掛けしました。その……』

 

「父さんから聞いたよ、アリシアの事」

 

 それだけで彼女は全てを理解したようだった。

 

『そう、ですか……ごめんなさい。わたしはイクトさんに隠し事をしていました』

 

「いいよ……理由は優奈から聞いたから」

 

『本当はもっと早く打ち明けるつもりだったんです。ですが、イクトさんと一緒にこの世界で経験する事が本当に――本当に楽しくて……もっと、この時間を長く続けたいって欲が出てきて、つい延び延びになってしまいました……全部わたしのせいなんです、ごめんなさい』

 

 本音を言うと、もっと俺を頼って欲しかったっていう気持ちはある。だけど、幼馴染に自分の事を話すこともできなかった俺が言えた義理ではなかった。

 

「アリシアの体になった自分の事だけで、俺は精一杯になっていたから……その事でアリシアが俺の事を頼れなくても仕方ないって思うよ。実際、俺のせいでアリシアがいなくなってしまうなんて事を知っていたら、アリシアへの罪悪感でこの体を受け入れられなかったかもしれない……」

 

『秘密にしていた事は完全にわたしの我儘です。イクトさんは全く悪くなんてありませんよ!』

 

 アリシアはそう言い切って、頑として俺の責任を認めようとはしなかった。

 

「それは……」

 

 俺の事を買い被りすぎだと思う。

 だけど、これ以上何を言っても、こうなったアリシアは考えを曲げる事は無いだろう。そう思った俺は話題を変える事にした。

 

「前にも聞いたけど、元に戻る魔法はないの?」

 

『ありません。肉体から魂を取り出す魔法は、不老不死の方法として太古から研究されて来ました。ですが、成功は記録されていません』

 

「でも、それじゃあ俺に使った魔法は……?」

 

『わたしがイクトさんに使ったのは世界転移の魔法です。わたしとイクトさんの存在の同一性を利用して、転移の際にわたし達がひとつの存在であると世界に誤認させて、失われようとしていたイクトさんの魂をわたしの体に移しました。正直一か八かの方法で、成功したのは奇跡と言っていいでしょう』

 

 存在の同一性。

 同じ日、同じ時間に、違う世界で産まれた俺達は、魂の有り様が非常に良く似ているそうだ。

 その話を聞いたときは、性別も姿形も全く異なるのにと不思議に思ったものだ。アリシアが俺を召喚できたのも、この性質があったかららしい。

 

『だから、逆は不可能なんです。本来であれば転移したときにわたしの魂は失われていた筈でした。ですから、この世界でのわたしはおまけみたいなものなんです。イクトさんと過ごせたこの世界での時間はミンスティア様がくれたご褒美なんだとわたしは思ってます』

 

「……っ!」

 

 アリシアの達観した言葉に、俺は胸を締め付けられる。

 

 そんなアリシアになんと返せば良いのか言葉を探していると、部屋のドアがノックされて思考が中断された。

 

「……アリス、起きてる?」

 

 優奈だった。

 俺は念話を起動して応える。

 

『起きてるよ、おはよう優奈』

『おはようございます、ユウナ』

 

 同じ声で二回繰り返されたかのようにも聞こえる挨拶だったが、優奈が俺達の声を聞き違える筈も無かった。

 

「……! アリシアっ!」

 

 アリシアの声を聞いた優奈は、即座にドアを勢い良く開けて俺の部屋に飛び込んできた。

 ベッドの上の俺に駆け寄ってきたパジャマ姿の優奈に、俺はぎゅっと包み込むように抱きしめられる。

 

「良かった、また会えた……! お帰りなさいアリシア」

 

 昨日から抱き締められてばかりだな、と俺は思う。

 

『ただいまです……その、ご心配とご迷惑をお掛けしました。本当に、色々と……』

 

「いいの。いいのよ、そんな事……」

 

『ユウナ……ありがとう』

 

 そのまましばらく俺達は再会の余韻に浸る。

 

 くうぅぅぅ

 

 と、静かな朝に俺のお腹が鳴って、空気が一気に弛緩した。

 

「ふふ、お腹空いたよね。ママがご飯作ってくれてるからリビングに行こう?」

 

『はいっ!』

 

 思い返せば昨晩は父さんの残してくれた資料を読みふけっていて、昨晩のご飯は部屋に差し入れてくれたおにぎりだけだった。

 一度意識すると急に空腹を感じるようになるのは不思議なものだ。

 俺達は連れ立って階段を降りてリビングに向かう。

 リビングに入るとお味噌汁のいい匂いが出迎えてくれた。

 キッチンに視線を向けると、いつも通りに台所に立つ母さんが居て。

 

「おはよう」

『おはようございます』

 

 俺達が二人揃って挨拶をすると、母さんの顔が一瞬驚いたものになって、すぐに笑顔になって俺達を迎えてくれる。

 

「おはよう、二人共」

 

「あたしも、いるよー! おはよう、ママ」

 

「優奈も、おはよう。もうすぐ出来上がるから、座って待ってて」

 

 俺達はいつも通りにテーブルの定位置に座る。

 しばらく優奈と話していると母さんが朝食を並べてくれた。

 それは、ご飯にベーコンエッグと味噌汁といった代わり映えしないものだ。

 母さんがテーブルについて準備が整う。父さんは昨日俺が帰宅したときにはもう海外に出張に出ていなくなっていたので、今日はこれで家族全員が揃った事になる。

 

 いただきますと皆で挨拶して食事が始まった。

 

『美味しいです……本当に』

 

 しみじみとアリシアが感想を口にする。

 ここ八ヶ月ですっかりアリシアは我が家の味に慣れたようだった。

 母さんと優奈は共にうっすら涙を浮かべてそんな(アリシア)の様子を見守っている。

 俺はいつもよりも気持ち味わいながら、静かに箸を動かしてご飯を食べ終えた。

 

 今日は土曜日なので学校は休みだ。

 みんな一緒にリビングでゆっくりしようという優奈の提案を了承する。

 母さんにパジャマを洗濯するからと言われて、一旦部屋に戻って着替える。ゆったりしたピンクワンピースに白のカーディガン、それから下は黒い裏起毛のレギンスといったラフな格好に着替える。

 脱いだパジャマを洗濯機に入れて、リビングに戻ると、ソファーのローテーブルには母さんが紅茶を入れてくれていた。

 同じくテーブルに用意されていた個包装のチョコレートを摘みながらティータイムにする。

 

『はぅ……』

 

 チョコレートの甘さに溜息のような声がアリシアからこぼれる。昨日までの焦燥が嘘のような、ゆったりした時間の流れだった。

 

「……それで、アリシアは今、どれくらい同調していられそうなの?」

 

 同じく着替えてリビングに戻って来た優奈が発した問いで俺は現実に引き戻される。

 

『一日おきにお休みがあれば大丈夫だと思います。今のところは、ですが……』

 

 アリシアの言葉に俺は思わず顔をしかめる。

 今までの半分以下の時間しか同調していられないのか……翡翠の言う通りアリシアは随分と無理をしていたらしい。

 

『大丈夫ですよ! ちゃんとお休みさえしてたら今回みたいに突然同調が切れてしまうなんてことはありませんから……まだまだ、皆さんと一緒に居られます』

 

 重くなってしまった空気を払うように、ことさら明るい声でアリシアは言った。

 だけど、そんな様子がまた痛ましく思えてしまって、彼女の望んだ効果は得られなかった。

 

「アリシア……」

 

 優奈も辛そうにしていて。

 

「アリシア、俺が君を助けるよ」

 

 俺はアリシアに宣言する。

 

「アリシアの魂を救う方法を絶対に見つける……だから、俺の事を信じて待っていて欲しい」

 

『……ありがとうございます、イクトさん』

 

 そう応えたアリシアは、少し困ったような表情をしているような気がした。気持ちは嬉しいけど、現実問題としては難しい、そういった事を考えている雰囲気だ。

 

「あ、あたしも協力するからっ!」

 

 優奈が手を上げてそう主張する。

 

「もちろん、私も協力は惜しまないわ。アリシアは大事な家族ですもの」

 

『……みなさん』

 

 と、いつの間にかリビングに戻っていた母さんも加わる。

 父さんの作ったレポートには母さんの記述もあった。

 後で母さんにも詳しい話を聞くとしよう。

 

「……でもね。とりあえず、今日は誕生日パーティをしましょう」

 

「っ! ……そうだね!」

 

『誕生日パーティ、やりたいです!』

 

 母さんの言葉に優奈とアリシアが同意する。

 

「……うん、わかった」

 

 正直なところ、少しでも早くアリシアを救う為に行動したかったのが本音だけど、誕生日パーティは以前からアリシアも楽しみにしていた事だったし反対する気にはなれなかった。

 焦ったところで仕方ないと自分を言い聞かせ、ぎゅっと逸る気持ちを抑える。

 

「今日は休日だから、パーティはお昼から開始にしましょうか?」

 

「そうだね、あたしみんなに予定を聞いてみる!」

 

 元々は一昨日の夜に予定していたパーティだった。

 それが、アリシアの件で先送りになっていたのだ。

 

「準備はあたし達でしておくから、アリスはアリシアと話をしてて」

 

「……いいの?」

 

「アリシアを救う方法を考えるんでしょ?」

 

「ありがとう」

 

 俺は礼を言って、部屋に戻りアリシアと話し合う。

 と言っても、あらかた父さんのレポートで現状と考えられる手段は網羅されていたので、その確認が殆どとなる。

 父さんのレポートで抜けていた魔法を使える視点からの質問を幾つか補足で聞いて書き加えていった。

 

 優奈からメッセージが入る。

 パーティに誘っていた蒼汰、翡翠、涼花の三人共今日の昼から来られるとの事だった。

 少しして、蒼汰と翡翠の二人がやってきた。

 二人はアリシアの事を心配して、様子見に少し早めに来てくれたらしい。

 翡翠も魂の概念の確認で父さんにいろいろ協力していたみたいで、リビングのソファーでそのあたりを聞いた。

 そうしているうちに涼花もやって来て、誕生日パーティが始まった。

 みんなからプレゼントを貰い、優奈が買ってきたケーキのロウソクを俺と優奈(と気持ちだけアリシア)で吹き消して、母さん手作りのご馳走を食べて、みんなでウィソで対戦したり、人生ゲームを遊んだりして――笑顔の絶えない時間を過ごした。

 

 アリシアの事が解決していない現状では、俺は心の底から楽しむ事はできなかった。

 だけど、俺はその事を一切表に出す事無く笑顔で隠し通した。

 アリシアには笑顔でいて欲しかったから。

 



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調査レポート

二月十二日()

 

 アリシアが戻ってきて誕生日パーティをした翌日。

 二日に一日同調を切らなければいけなくなったアリシアは今日はお休みする日になる。

 日曜日の今日は一日アリシアの為に使う事ができる。本当は学校を休学してでも、アリシアを助けることに専念したかったが、それはアリシアと母さんに却下された。

 

『わたしの為に行動してくれる事は嬉しいです。だけど、その為にイクトさんの日常を壊して欲しくはありません』

 

「私達家族が協力して調査しているから日中は私に任せてアリスは学生としての義務を果たしなさい」

 

 二人にそう言われて、俺は一旦引き下がった。

 学校を休んで何ができるのか、具体的なプランも無かったからだ。

 

「アリシアを助ける手掛かりを見つけたら言いなさい。そのときは学校を休んで調べに行くのに反対はしないわ。私も可能な限り協力するから」

 

 だから、兎にも角にも手掛かりを見つけなければならない。

 

 アリシアの魂が失われる事を知っていた俺の家族は、以前からアリシアを救う手段を探していた。その成果を纏めてレポートを、俺は一昨日の夜に受け取っていた。

 

 レポートでは本当に様々な可能性を検討していて、父さん達がどれだけアリシアの為に動いてくれていたのか思い知らされた。

 レポートを一通り目を通して、俺は直ぐに父さんに電話して謝罪した。

 

「父さんレポート読んだよ……その、ごめん。俺、父さんの気も知らないで酷い事言った……」

 

「気にしなくていいさ。俺達がお前に隠し事をしていたのは事実だ。レポートにしても、アリシアを助ける手段は見つけられず、現状の確認がほとんどだしな……異世界で経験を積んだお前なら何か見つけられるかもしれない。期待してるぞ、息子よ」

 

「……おう」

 

「協力を惜しむつもりはない。俺達は家族だ、出来る事があったら何でも言ってくれ」

 

「ありがとう、父さん」

 

 今日はもう一度レポートを読み直して、状況を整理する事から始めるとしよう。

 

 事の始まりは、異世界からこの世界に戻る際にアリシアの体に俺の魂が転移した事だ。

 一つの体に二つの魂がある状態は普通はあり得ない。

 俺の魂がこの体に馴染んでいくにつれてアリシアの魂が失われてしまうという事は、アリシアは直ぐに理解できたらしい。

 

「アリシアは最初『自分は渡り鳥みたいなものだから、一時的にここにお邪魔させていただく事を許してください』なんて事を言ってたの」

 

 それは、一昨日の夜に優奈から聞いた話だった。

 当時の俺は、自宅に帰ってきて家族と再会出来た安心感が大きくて、体が変わってもアリシアと一緒なら何とかなるだろうと気楽に考えていた。

 それに対してアリシアはそんな悲壮な覚悟を決めていたと知って、俺は胸が締め付けられる思いだった。

 

「最初はね、アリシアの事はお兄ちゃんを救ってくれた恩人っていう意識が強かったわ。だけど、一緒に暮らしていくうちにアリシアはアリスと一緒で手の掛かる妹――家族だって思うようになっていったの」

 

 俺もひっくるめて妹扱いされているのはどうかとは思うが、優奈がアリシアを家族だと言ってくれるのは嬉しかった。

 

「だから、あたしは絶対にアリシアを助けたい。これからは、アリスも一緒に頑張ろうね!」

 

 作成されたレポートにはファンタジーへの造詣が深い優奈が協力したであろう箇所も多かった。特に魔法に関してアリシアへの聞き取りは主に優奈が行っていたようだ。

 

 そして、魂については大体が翡翠からの受け売りだった。

 

「魂は体から常にエネルギーの供給を受けているわ。そして、人が死ぬとエネルギーの供給を受けられなくなった魂は消滅してしまう。だから、人が死んで魂だけ残る人魂というのは存在しないの」

 

 昨日の夜パーティの前に聞いたら、翡翠はそう説明してくれた。

 

「アリシアの魂は体との接続が細くなってきている。だから、体から供給されるエネルギーが少なくなって、同調できる時間が短くなっているの」

 

「それじゃあ、別の方法でエネルギーを供給できるようになればアリシアと今まで通りに暮らせるようになる?」

 

「……それは難しいわね。アリシアの問題はエネルギーの不足だけじゃないから。アリシアの魂は、存在自体が希薄になってきているの。エネルギーを確保できたとしても、このままだと消滅してしまうのは変わらないわ」

 

 アリシアの体に二つの魂が同居しつづける事は不可能という事だった。アリシアを救うには別の体に魂を移さなければいけない。

 

 その点についても、父さんは色々と検討していた。

 

 まず、人形やぬいぐるみやアンドロイド等の無機物に魂を移せないか検討したが、現実的では無いとされていた。最低限、五感に相当する機能が無ければ人として生きるのに支障が出る可能性は高いだろうという事だ。

 

 また、遺伝子から作成するクローンは、技術的な問題に加えて倫理的な問題もあり、未だ人の体を複製するには至っていない。

 これに関しては父さんは色々手を尽くして調べたようだったが、非合法組織と関わる事に加えて、異世界の魔法使いであるアリシアの遺伝子を提供するのはリスクが高すぎるとして、選択肢から外した方がよいだろうと判断していた。

 

 似たような物に人造人間(ホムンクルス)がある。こちらも、クローン同様の問題とリスクがあった。こちらは異世界においても研究されていたようで、人造人間の作成を試みた魔法使いは過去に複数居たらしいが、成功したという話は聞いた事が無いとアリシアが言っていた。

 

 そして、比較的実現性の高いとされていたのが、既にある他人の体を使うという選択肢だった。

 ただ、それには誰かを犠牲にする必要があり、確実に非合法の領域に踏み込まなければいけなかった。

 それに加えてその体は魂が無い物でなければならない。

 魂のある肉体にアリシアの魂を移したとしても、体との結びつきが弱いアリシアの魂は消滅してしまうだろうと考えられたからだ。

 だけど、それもまた難しい事だった。

 魂は胎児の心拍が始まる頃に宿り、人が死を迎えた後に消滅する。つまり、魂の無い体というのはあり得ないのだ。

 脳死と言われる状況でも魂は体の内にあって失われている訳では無いという事は翡翠によって確認は済んでいるらしい。

 だけど、魂を抜く事を考慮しなければ、体自体の確保は何とかできそうだとレポートにはあった。具体的な手段について触れて居ないのが怖いところではあるが、取り敢えずそこは気にしないでおこう。

 

 だけど、代替の体を用意出来たとしても、それで解決という訳じゃない。

 俺の中にある魂を移す手段が必要となる。

 これについては現状は何も手掛かりがなかった。

 優奈がネットや図書館でいろいろ調べているようだが、殆どが怪しいオカルトで信頼性のある情報は見つかっていない。

 怪しげなオカルトじみたネット上の情報をひとつづつ検証していく作業はまるで砂漠で砂金を探しているかのようでうんざりすると、優奈が愚痴をこぼしていた。

 翡翠も神社関係を当たってくれているようだったが、こちらもめぼしい情報は見つかっていなかった。

 そして、魔法にも魂を扱うものは存在していないとアリシアは言った。

 

 魂を体から出し入れする方法が見つからない事にはどうしようもない。

 だけど、それさえ見つけられれば、なんとかなるかもしれない。

 レポートは、そう結論付けられていた。

 

「魂か……」

 

 現代日本で魂をどうこうする手段なんてどうやって探せばいいのだろうか。家族が既に挑んでいる山の険しさを呆然と見上げるばかりと言うのが正直なところだった。

 だけど、俺にはひとりだけ、そういうのに詳しそうなやつに心当たりがあった。

 闇の神官であるエイモック。奴ならアリシアの知らない魔法も知っている可能性がある。

 リスクはあるけれど、会って話してみる価値は十分にあると思われた。

 

 ……だけど、奴に会うのはどうすればいいんだろうか?

 



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バレンタインとアリスの覚悟

二月十三日()

 

「明日はバレンタインデーですね!」

 

 アリシアにそう言われてその存在を俺は思い出した。

 正直、アリシアを救う手段を探すことで手一杯で、それどころでは無かった。

 だけど、

 

「創作物で定番の日を是非経験してみたいです!」

 

 というアリシアの希望は尊重したいと思い、俺は初めてあげる側になったバレンタインデーを体験する事となった。

 なお、本来であれば明日のバレンタインデーはお休みの日になるアリシアだったが、今日と明日二日連続で同調し、その代わりに15日・16日を続けてお休みにする事で帳尻を合わせる事になった。

 

 今日はバレンタイン前日と言う事で、蒼汰を除いた部活の面々で放課後に街中に出かけてチョコレートを買いに行く事になった。

 と言っても、本命チョコを渡す相手なんて居ないので、俺が買ったのは義理チョコばかりではあったけど。

 父さん、蒼汰、山崎くん、音成くん、後はクラスの男子達みんなに気持ちだけ。

 

「わざわざクラスの男子全員に配る必要なんてないのに」

 

 と呆れ顔で優奈は言った。だけど、元貰う側だった経験から、一個30円の義理オブ義理チョコでも、全く貰えないよりはマシだろうって思ったから。

 少なくとも、貰えた個数には計上できる訳だし……

 

 そして、買い物した中にはチョコケーキの材料もあった。

 

「わたくし、この後家でチョコケーキを作るつもりですの。よろしければ皆さんもご一緒に如何ですか?」

 

 という涼花の提案に乗って、みんなで涼花のマンションに行ってケーキ作りをする事になったからだ。

 執事の安藤さんは用事で外出しているらしくて、アリシアも含めたみんなでわいわいとケーキを作った。

 生まれて初めて作ったチョコケーキは、我ながらなかなか上手にできたと思う。甘くて美味しいとアリシアにもとても好評だった。

 作ったチョコケーキは俺が母さんに、そして翡翠が光博おじさんに持ち帰ったくらいで、後は自分達で食べた。

 父さんは海外なので、俺達が他にチョコケーキをあげるような相手なんて他に蒼汰くらいしかいなくて。

 だけど、蒼汰には涼花が明日に本命のチョコケーキを渡すという暗黙の了解があったので。

 蒼汰から良い返事を貰えるといいね、と涼花に言うと彼女は曖昧に微笑んで、そうだといいのですが……と複雑そうに応えた。

 

二月十四日()

 

 バレンタインデー当日。

 クラスの男子達に義理チョコを手渡していくと、大げさに喜ばれて、なんだか逆に申し訳ない気持ちになった。

 それから、何故かクラスメイトの女子複数からチョコを貰った……ええと、友チョコってやつだっけ?

 男だった頃よりも貰った数が多いのは複雑な気分だ。

 

「男子も女子もそわそわしているこの雰囲気。とてもいいですね!」

 

 例年バレンタインにイベントなんて無かった為、俺自身正直そこまでこの日に思い入れは無い。

 だけど、創作物によって期待が高まったアリシアから見た生徒達はとても輝いて見えるようだった。

 そんなアリシアの事を思うと、不意に胸がきゅっと締め付けられるような思いが込み上げてきて、それを悟られないように俺はアリシアと一緒にテンションを上げて誤魔化した。

 誰が誰にチョコをあげたとか貰ったとか、告白が成功したとか振られたとか、普段から恋愛話が好きな女子達の話題は今日は事欠かない。正直興味は無かったが、俺は女子達に話を合わせてはしゃいでおいた。

 一日中そんなテンションで過ごして、チョコもいっぱい食べて少し胸焼けしそうな程だった。

 まあ、アリシアは満喫したみたいだったから良かった。

 

二月十五日()

 

 エイモックに会うためにどうすれば良いか。

 俺が思い出したのは、以前俺を襲ってきた鳳という二年生の事だった。

 だが、鳳を訪ねて二年の教室に行ってみたところ、彼は去年の暮れから学校に来ていないとの事だった。

 あまり良い評判の生徒では無かったようで、彼と関わるのはやめておいた方が良いと、鳳の事を教えてくれた女子は俺に忠告してくれた。

 

 そして、いきなり手詰まりとなってしまう。

 他に俺を襲ってきた不良達は居たけれど、何処の誰だかいちいち覚えていなかった。

 

 不良、不良かぁ……そうだ!

 

「……それで、俺の事が思い浮かんだってか?」

 

 年の始めからメッセージのやり取りをするようになった音成くんは、突然放課後の屋上に呼び出された理由を聞いてげんなりとしていた。

 

「ごめんごめん。音成くんってなんとなく顔が広そうだし、そっち方面の面識もあるかなって思ったんだ……それで、エイモックって人がどこにいるか知ってたりしないかな?」

 

「俺は知らない。知ってるかもしれない奴に心当たりが無い訳じゃないが……」

 

 音成くんは、あまり気乗りしない様子だった。

 積極的に連絡を取りたくない相手なのかもしれない。

 不良グループと関わって良い事なんて無いだろうし……

 

「エイモックっていうとウロボロスの元リーダーだよな。それを聞いてお前はどうするつもりなんだ?」

 

 確かに普通の女子高生が用事のある相手では無い。

 音成くんの疑問は尤もだ。

 

「内容は言えないけど、どうしても彼に確かめないといけない事があるんだ。お願い、この礼は必ず返すから……」

 

 俺は両手を合わせて頭を深く下げて音成くんに頼み込む。

 音成くんはやがてため息をついて言った。

 

「ったく、わーったよ……少し時間をくれ。けど、わかるかどうか確証なんてないからな?」

 

「ありがとう、音成くん!」

 

 そして、その日の夜に音成くんからメッセージが入った。

 そこには音成くんが知人から聞き出したという街中の住所があった。ここでエイモックらしき男を見た人がいるらしい。

 音成くん、超有能。

 もし俺が巨乳だったなら、お礼にセクシーな自撮写メを送ってあげたいくらいだ。

 残念ながら俺は彼が求める物を持っていなかったけど……お礼は今度別の物を用意しよう、うん。

 

 スマホで調べてみるとそこはお姉さんと密着してお酒を飲むお店のようで、絶対に一人では行かないようにと音成くんに念押しされていた。

 

二月十六日()

 

 翌日の放課後、俺は音成くんに教えて貰った場所に一人で来ていた。

 一人で行くなという彼の忠告を無視した形となる。

 それだけじゃなくて、俺はここに来る事をアリシアを含めて誰にも相談していなかった。危険な事に巻き込みたく無かったし、これから俺がしようとしている事を知られたら、多分反対されると思ったからだ。

 

 エイモックがアリシアを救う手段を知っているというなら、俺はどんな事をしてでも、それを教えて貰うつもりでいた。

 だけど、エイモックとの関係は薄いどころか、敵対していた分マイナスに振り切れていて、何かをして貰えるような義理なんてまるでなかった。

 また、対価を払うにしても俺ができる事なんてたかが知れている。交渉のカードになりそうなものなんて、ほとんど思いつかない。

 ……ただひとつ、以前求められた俺の体以外には。

 最悪、エロ漫画のような展開になる事も考えられた。

 だけど……例えそうなったとしても、それでアリシアが助かるのなら俺は受け入れるつもりでいた。

 アリシアの体が他人に犯される事に対する忌避感はあった。だけど、今はもうこの体は俺の体っていう意識が強くなっていて、その忌避感は以前程ではなかった。

 そして、俺自身の感情は、アリシアを助けるという目的の前には考慮に値しない。

 だから、他の全員に反対されたとしても、俺はそう覚悟を決めていた。

 

 いかがわしいお店の前をうろうろしているのを誰かに見られたらまずい。

 そう思った俺は、一瞬だけ躊躇ってから、そそくさと雑居ビルに入った。そして、入り口から影になったところにあるエレベータに乗り込む。

 スマホでお店の名前を確認し、四階のボタンを押した。

 音を立ててエレベータが上昇して、ドアが開く。

 俺の目の前には、黒ベースの内装に間接照明で照らされた狭い入口が飛び込んで来た。

 俺は恐る恐る足を踏み出すと、エレベータのドアが自動的に閉まった。

 これまた黒塗りの鉄の重厚なドアが目の前に立ち塞がっている。

 俺は意を決してドアノブを回して引く。

 ぎぃぃ、と音を立ててドアが開き、俺は店内に体を覗き込ませた。

 

「ごめんくださーい」

 

 店内は薄暗い。

 

「……だぁれ?」

 

 店の奥から、気だるそうな女性の声がして、直後に胸を強調したセクシーな光沢のある紫のドレスを来たお姉さんがお店の奥から姿を現した。

 

「……悪いけど、うちは18歳未満は雇って無いの」

 

 制服姿の俺を見て開口一番そんな事を言う。

 

「ち、違います! そういうのじゃなくて……え、エイモックさんはこちらにいらっしゃいますでしょうか!?」

 

 女性は不審そうにしげしげと俺を見てくる。

 指を口元にあてる仕草ひとつがとても色気があって、何もかも見透かしてくるような視線に俺はどぎまぎする。

 

「……貴女、エイモックの女?」

 

「い、いえ……そういうんじゃないですけど……」

 

「ふうん……まあ、いいわ。いらっしゃい」

 

 それだけ言うと、お姉さんは振り返って店の奥に戻っていく。

 

「お、お邪魔します……」

 

 俺は慌てて後を追った。

 当たり前だけど、こういう店に入ったのは初めてである。

 狭い入り口に対して思ったよりも店内は広かった。やっぱり間接照明に照らされた店内は黒をベースに赤いカーテンや金の飾りの高級感がある落ち着いた内装だった。

 だけど、店の奥にある大きなテレビから流れている時代劇が、雰囲気を台無しにしてしまっている。

 

「エイモック、貴方にお客さんよ」

 

 女性がテレビの前に背を向けて並んでいるソファーに声を掛けたどうやらその男はソファーに横になっているようだった。

 

「どうせまたグループの頭として我に再起して欲しいとかだろう? ……我はもうそういうのはやらぬ。取り次ぎは不要だ」

 

「違うわ、かわいい女の子よ。貴方何処かで餌付けでもしたの?」

 

 人を捨て猫か何かみたいに言うのはやめて欲しい。

 

「女……? なんだ、誰かと思えば水の巫女ではないか」

 

 ソファーから起き上がった金髪の男は俺の姿を確認して言う。

 

「……ども」

 

「知り合い?」

 

「ああ、以前ちょっとな……正直、もう二度と会う事は無いだろうと思っていたのだが……」

 

「お前に教えて欲しい事があって来たんだ」

 

 俺の言葉にその男は怪訝そうな表情をする。

 

「……お前が? 我に?」

 

 ――そして、俺はエイモックと再会した。



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闇の禁呪(前編)

 ばたんと音を立ててドアが閉められた。

 カチャリと鍵が掛けられる音が聞えて俺は思わず息を呑んだ。

 

「こ、ここは……?」

 

 エイモックに連れられてやってきた場所は、簡素なパイプベッドで半分以上が埋まっている狭い部屋だった。

 奥には浴室が見える。どうやら、寝泊りができるような造りになっているらしい。

 

「休憩所だ、倒れた酔客の介抱に使う場所だな……まあ、別の用途に使われる事の方が多いようだが」

 

 間接照明で照らし出された室内は紫色に薄ぼんやりと染まっていて、とてもいかがわしい雰囲気を醸し出している。ベッドサイドに置いてあるティッシュがやけに生々しい。

 

「……それで、貴様が知りたい事というのは何だ?」

 

 そんな雰囲気に委細構わず、ベッドに投げ出すように腰を下ろしたエイモックは、上半身を壁に預けて鷹揚に問いかけて来た。

 

「……そ、それは……その……」

 

 だけど、俺は経験した事の無い雰囲気に呑まれてしまい上手く言葉が出て来ない。

 

「どうした? ……邪魔が入らない場所を希望したのは貴様であろう」

 

 確かに移動をお願いしたのは俺からだった。

 お店の人がときどき行き交う店内では、こちらの事情を含めた相談ができないからだ。

 念話で話すにしても、その間は二人で無言で座り続けることになり好奇の視線に晒されるので落ち着かない。

 

「でも、その……鍵……」

 

 だからと言って、そういう用途に使われる密室でこの男と二人きりになるというのは、身の危険を感じざるを得ない。

 だが、エイモックはそんな俺の態度に意外そうな顔をして応えた。

 

「邪魔が入らないようにしただけだ。大体、魔法の使える貴様にとってこんなドアなど物の数に入らないであろうに」

 

「……そ、それもそうだな」

 

 確かにエイモックの言う通りだった。何でもするという覚悟をしてきたせいか、少し変な先入観ができていたのかもしれない。

 

「わかったら、さっさと座るがいい。我は見下されるのは好かぬ」

 

「お、おう……」

 

 俺は、なるべくエイモックから離れたベッドの隅に腰を下ろした。制服のスカートの裾を整えてから、胸に手を当て深呼吸をし気持ちを落ち着かせる。

 

「ふっ……今の貴様は、まるで初めて伽に来た生娘のようだな」

 

「なっ!?」

 

 エイモックはそういう経験があるのか!?

 神官ズルい。

 

「そう言えば、貴様は元男だったな。女としての経験は無いか……それで、なんだ? 男を知りたいというなら、考えてやらぬ事も無いぞ」

 

「ふ、ふざけるな! 誰が望むかそんなこと!」

 

 冗談じゃない。

 俺は思わず激昂したが、エイモックは表情ひとつ変える事なく涼しい顔のままだ。

 

「ならば、はやく用件を言え。我に話があると言ったのは貴様であろう」

 

 声を上げた事でやや緊張がほぐれた俺は、ここに来た目的を思い出してエイモックに向き直る。

 

「……俺と体を共有しているアリシアの事だ」

 

 一度話を始めると周囲の事はもう気にならなくなった。

 俺はエイモックに事情を説明していく。

 俺とアリシアが魂を共有するようになった経緯。

 アリシアの魂が減衰していっているという現状。

 そして、アリシアを救う為に魂を操作する方法を探している事。

 

「俺は彼女を救いたいんだ。アリシアは魂に関する魔法なんて無いと言っていたけど、闇魔法に詳しいお前なら何か知ってるんじゃないかと思って」

 

「魂の操作か……確かに闇魔法の範疇であるな」

 

「本当か!?」

 

「魔力で擬似的な手を造りだして魂に触れる魔法がある……まあ、貴様の望む結果は得られんが」

 

「……どうして?」

 

「魔法で人の魂に触れて、それを体から取り出す事はできる。だが、魂というのは人という器から取り出すと、形を保てず瞬時に霧散してしまうのだ」

 

「つまり、その手段さえ探す事ができたら――」

 

「不可能だ。魂を取り出して他者に移す方法は、繰り返し研究されてきた。だが、未だそれを成功させた者はいない」

 

 エイモックはそこまで言った後で俺を見て、思い出した様に訂正する。

 

「いや、唯一の成功例が目の前にいたな。存在の同一性を利用して世界転移の際に魂を移したのだったか……よくもまあ、そんな無謀な事を思い付いたものよ」

 

「アリシアのした事ってそんなに無茶な事だったのか?」

 

 俺が聞くと、エイモックは呆れを表情に出して言った。

 

「正気とは言いがたいな。理論的には可能でも、魂が歪に結合されたり、双方の魂が壊れたり、即廃人になっていても不思議では無い。成功したのは奇跡と言っていいだろう」

 

 ……アリシアは俺を救う為にそんな危険な橋を渡っていたのか。

 

「……とにかく。同じように見つかっていない手段があるかもしれないって事だな」

 

「……否定はせぬ。だが、魔法を得られたとして貴様はどうやって検証するつもりだ?」

 

「そりゃ、実際に試してみて……あっ……」

 

 そこまで考えて言葉に詰まる。

 まさか人体実験をする訳にもいかない。

 

「昔の話だ。とある国の王が不老不死を求めて魔道士と結託し、民を使って人体実験を繰り返した。結果、多くの人命が失われ、その国は滅んだ」

 

 この事がきっかけで、ダクリヒポスの信徒は迫害されるようになり、人の世から逐われる事になったとエイモックは語った。

 どこの世界も権力者が不老不死を求めるのは一緒らしい。

 魔法という超常の力が身近な分、可能性を感じて余計に諦めきれないのかもしれない。

 

「数を減らし魔の島に渡った我らの祖先は、過ちを繰り返さぬよう魂を操作する魔法を禁呪としたのだ」

 

「そんな事が……」

 

「ミンスティアの巫女もこの事は承知しているであろう。だが、敢えて貴様には伝えなかったのだろうよ」

 

 過去に禁呪として葬られた魂に関する魔法。

 巫女であるアリシアは世に残っていない闇魔法の存在を知っていた。エイモックの言っている事が正しい可能性は十分あると思われた。

 

「……それでも、なお、貴様は魂を操作する魔法を求めるのか?」

 

「俺は……」

 

 ……諦めきれない。

 アリシアを救う為にやっと見つけた手掛かりだった。

 

「ならば、その魔法教えてやらぬ事もない」

 

「……っ!? お前はその魔法を使えるのか!」

 

「無論だ、我は闇の神官だからな。禁呪も習得している」

 

「お願いだ……いや、お願いします、教えて下さい! 俺にできる事なら何だってする!」

 

「……ほう、何でも?」

 

「ああ……アリシアが助かるのなら、俺はお前に全てを差し出しても構わない」

 

 真正面にエイモックを見据えて俺は言った。

 エイモックは俺の体を無遠慮に一瞥してからおもむろに口を開いていう。

 

「……それは別にいらぬ。貴様のような発育の悪い娘を好んで抱く趣味は無い」

 

「!? だ、だって、前に俺を妃にしたいって……!」

 

「王の妃として水の巫女を欲していただけだ。今の我にそのような気持ちは微塵とない。女に不自由している訳でも無いからな」

 

「そ、そうか……」

 

 覚悟を決めていた分、拍子抜けしたような気持ちになる。

 喜ぶべき事の筈なんだけど、どこか釈然としない思いが胸によぎる。

 

「貴様がどうしても我に抱かれたいと言うのであれば、考えてやらなくもないぞ?」

 

「だ、誰がそんな事言うか!」

 

「まあ、今日のところはツケにしといてやろう……この国で生きていくうちに、貴様に頼る事もあるだろうからな」

 

「わ、わかった……」

 

 こいつに借りを作るのは気が進まなかったが、仕方ない。

 

 ともかくこれで、一歩前進だろう。

 気分的には後一歩でアリシアを救う事ができるように思えた。

 その一歩が過去に不老不死を目指した人々が決して詰める事のできなかった距離だったとしても。

 



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闇の禁呪(中編)

「では、上を脱いで横になれ」

 

「……は?」

 

 何でもない事のように告げられたエイモックの言葉に、俺は思わずそんな言葉で聞き返す。

 

魂操作(ソウル・マニピュレータ)は直接胸元に手を触れる必要があるだけだ。実際に使って体で憶えるのが手っ取り早いであろう?」

 

「わ、わかった……」

 

 一応理由に納得した俺は、制服の上に着ていたハーフコートから脱ぎ始める。

 丁度良い具合にベッドサイドの壁にハンガーがかかっていたので使わせて貰うことにした。

 靴を脱いでベッドにあがりハンガーを手に取る。制服のブレザーも脱いでハンガーに一緒に掛けた。

 

「じろじろ見るなよな……興味なんて無いんだろ?」

 

 先程からエイモックの無遠慮な視線を感じていた俺は文句を言った。

 ……女の子の着替えをガン見とか普通に失礼だと思う。

 

「我は我の好きなようにさせて貰う。別段その体に興味は無いが、貴様が恥じらう姿を見るのは一興だ」

 

「……くっ!」

 

 悪趣味の変態野郎がっ!

 

 と俺は心の中で罵る。

 教えて貰う立場である以上、奴に悪態をつく事はできない。心変わりをされたら元も子もないからだ。

 

 ……こうなったら、さっさと着替えて終わらせてしまおう。

 要は健康診断のようなものだと思えばいいのだ。

 

 俺はエイモックに背を向けてから、胸元にある制服のリボンを取り、カッターシャツのボタンを上から外していく。

 ボタンを外し終わるとカッターシャツを両腕から脱ぎ、キャミソールの紐を手に取って片方づつ肩から落とした。

 

「しかし、なんと色気の無い下着よ。そんな有様で色仕掛けを考えていたとは……正気か貴様」

 

 背中から何か聞こえてくるが、無視だ無視。

 ……でも、全く飾り気の無い白のハーフトップは油断しすぎだったかもしれない。今日は体育も無かったので、何も考えずに着心地が良い楽な下着を選んでしまっていた。

 

 そういうことをするなら、下着も当然見られるんだよな。

 ……そりゃそうか。

 

 覚悟を決めてここに来たつもりだったけど、本当のところ俺は何も理解(わか)っちゃいなかったんじゃないだろうか……?

 

 そんな事を考えながら、両腕を上げてハーフトップを脱いだ。

 これで上半身は裸となる。

 暖房が効いている部屋でもさすがに肌寒くて、俺はぶるっと体を震わせた。

 

「……ほぅ」

 

 胸こそ見られてはいないものの、背中にエイモックのいやらしい視線をひしひしと感じる。

 俺はさっき脱いだカッターシャツを手に取ると、そそくさと再び腕を通して羽織った。

 

「ふぅ……」

 

 ……肌を隠せて、ようやく少し落ち着いた。

 俺はエイモックに向きあう前に、脱いだ下着類を畳んでスクールバッグに片付けていく。

 

「……これでいいか?」

 

 準備ができた俺は振り返り、ニヤニヤと笑っているエイモックを睨みながら言った。

 今の俺の格好は、上半身にカッターシャツのみを羽織っていて、前は(はだ)けないように手で押さえている。下は制服のスカートだ。

 

「全くもって色気が足らぬが、まあ、仕方あるまい……では、そこに横になれ」

 

 あんまりな言い方にイラっとしつつ、俺はエイモックの指示に従ってベッドに仰向けに横たわる。

 覆いかぶさってきたエイモックが視界に入ってきて、俺の頭の横に手を着いた。

 片手を伸ばした距離のところに奴の顔がある。

 壁ドンならぬ、ベッドドン……とでも言えばいいのだろうか?

 しかし、何が悲しくて野郎とこんなシチュエーションで見つめ合わなければならないのか。

 

「ああ、言い忘れていたが、魂に触れさせるというのは生殺与奪を我に委ねるという事だ」

 

 ――って、聞いてないよ!?

 

 そんな大事な事を忘れるなよ!

 こいつ、ワザとか! ワザとなのか!?

 

「我が気まぐれで魂を握り潰せばそれで貴様の生は終わる……それでも貴様は我に魂を委ねるというのか?」

 

「うっ……」

 

 即答できず、俺は一瞬息を飲む。

 

「……どうする? 我は止めても一向に構わぬぞ。真っ当な理性があれば、魂を他人に晒すなど、到底できる事では無いのだ」

 

 挑発的に言うエイモックを真正面に睨み返して、半分やけっぱちな気分で俺は言い放つ。

 

「上等だよ。男に二言は無ぇ……さぁ、やってくれ」

 

 大体、エイモックが俺に何かしようと思えば、機会なんていくらでもあった。こいつは性格は悪いが、騙し打ちのような卑怯な事はしない……と思う。

 そもそも、何かする気があったなら、こんな忠告なんてしなければ良いだけの話だ。

 

「……いい返事だ」

 

 エイモックが手を着いていない側である右手を掲げ、俺の胸元に押し当てて来る。

 

「……んっ」

 

 指がカッターシャツの中に侵入してきて、直接肌に触れる冷たい手の感触に俺は思わず体を震わせる。

 

「魔力の膜を開いて、我の魔力を受け入れよ」

 

 異世界の住人であれば無意識に体表に纏っている魔力の膜は、他者の魔力に抵抗する最後の砦でもある。

 精神に干渉する魔法を得意とするエイモックの前で、それを開放するのは、普通に考えればあり得ない行為だ。

 

「……わかった」

 

 だけど、今の俺はまな板の上の鯉である。

 素直にエイモックの言葉に従い、体を覆っている魔力の膜に意図的に穴を開けて待つ。

 

魂操作(ソウル・マニピュレータ)

 

 エイモックが詠唱すると、俺の肌に触れたエイモックの右手に闇の魔力が編み込まれていき、擬似的な手が作成されていく。

 エイモックはゆっくりと紡いで魔力の流れを見せてくれているようで、俺は必至にその行程を脳裏に焼き付ける。

 幸い魔力の消費も少なさそうで、闇魔法に適正の無いこの体でもなんとか使う事ができそうだ。

 腕から先の部分が作られた半透明の疑似手は、エイモックの手を包み込んでぼんやりと光っている。

 

「では、貴様の魂に触れるぞ」

 

「……おう」

 

 胸元のエイモックの疑似手が、音も立てずに俺の中に埋まっていく。

 

「っ……!?」

 

 埋まっていく部分が、まるで実際に押し広げられているかのような錯覚。俺の中に異物(エイモック)が入ってくるのが理解(わか)る。

 

「ぐっ……うぇ……」

 

 ……きもち、わるい。

 

 体の中を直接(まさぐ)られているような。

 エイモックの指が体の中を掻き分けて進む都度、得体も知れない感覚がして悪寒がゾゾっと走る。

 

「気分はどうだ?」

 

「……最悪、だよ……くぅぅ……」

 

 なんとか弱音に聞こえないように返したものの、正直かなりキツい。

 

「くっ! ……あぅ……!?」

 

 エイモックが指を動かして俺の体を探る度に、体がビクビクと反応して跳ねてしまう。

 無意識に逃げ出そうと体を捩らせるけれど、俺の体に入りこんだ疑似手が、まるで杭にでもなっているかように身動きが取れなかった。

 

「ほう、本当に魂がふたつあるのだな……」

 

 どういう仕掛けになっているのかわからないが、体内の疑似手から、俺の魂の様子がわかるらしい。

 

 エイモックは好奇心のまま、遠慮なく俺の中を弄っているようだ。

 

 ……くそっ……少しは俺に気を遣えよな……!

 

 俺は耐えるのに精一杯で、抗議の言葉を出す余裕すら無い。

 

「貴様の魂はこれか?」

 

「ひゃぅ!?」

 

 エイモックの指が俺の魂に触れた瞬間、電撃が走ったように頭が真っ白になる。

 

「ふぁ……あ、あぁ……!!?」

 

 人差し指がつつーっと魂を撫であげてきて。

 ゾクゾクとしたナニかが込み上げてくる。

 

 ……この感覚はやばい。

 

 それは、まるで翡翠や優奈にされたときのようで――

 

「ほぅ……魂に触れられた者は、こんな反応をするのだな」

 

 エイモックはまるで実験動物を見るように俺の様子を観察していた。

 

「くっ……って、お前、魂に触るの初めてなのかよ……!」

 

「禁忌の魔法と言っただろう? 無闇に使う訳にはいかぬ。それに、魂を他人に触れさせるなどという馬鹿な真似をするような奴も今まで居なかったからな」

 

「……だ、大丈夫なんだろうな……やっ……あぁぁ!?」

 

 前置きなく、エイモックの手が俺の魂を手で包み込むように触れてきて。

 頭の中で火花がスパークしたかのような衝撃に、俺は意識が一瞬弾けて飛んだ。

 

「手荒く扱うと危険だろうな……だから、光栄に思うがいい。特別に優しく扱ってやる」

 

「な、ちょ!? ……ばっ……!」

 

 俺が止めるのも聞かず、エイモックは俺の魂に触れた五本の指を這わせるように動かした。

 

「やぁ!? あっ、ふっ……ああっ!」

 

 直接すぎる刺激に、俺はただされるがままに悲鳴をあげる事しかできなかった。

 優しく扱うといったエイモックの言葉は嘘じゃなくて、指が俺の魂を包み込んで蠢いて、その一挙一動に甘い感情が強制的に引き出されてこぼれ堕ちる。

 

「や、やめっ……! あ……くぅ……」

 

 俺の痴態をエイモックは相変わらずの冷静さで見下ろしていて、それがまるで侮蔑されているように思えて、俺は必死に流されないように抗って心の手綱を握り直す。

 

 くっ……こんなのに、負けるかよ……!

 

 ばたつかせた足がエイモックな当たって蹴っているが、体格に大きな差がある為、押し退けるどころかビクともしない。

 

「……わ、わかった! もう十分魔法の使い方は理解したから! だから……もう、やめ……んんっ!?」

 

 なんとか声を絞り出して懇願するが、エイモックは我関せずと魂を弄ぶのを止める事はなかった。

 

「んっ! ちゃ、マジでヤバ……や、やめぇ……!?」

 

 魂を優しく揉みしだかれる。

 狭い室内は、ひたすら俺の嬌声のみが響き渡っていて。

 無理矢理に溶かされるような甘い刺激で思考が混濁してくる。

 

「あっ! ふぁ、ああぁ……い、いやぁ……!?」

 

 体が弓の様に反って痙攣し、最大の波がやってきて。

 

「……んぁ、ああぁっ!?」

 

 視界が白濁して思考も真っ白に染め上げられる。

 体はガクガクと痙攣して張り詰めた後、弛緩する。

 じんわりと股間が暖かくなっていく感触がして、チロチロと漏れ出ているそれに気がついた。

 

「や、やぁぁ……」

 

 一度堰を切って溢れ出したそれは、俺の意思に反して止まらない。

 ショーツの股布からお尻にかけて濡れた感触が広がり、太股にも溢れ出した飛沫が散っていく。

 

「あ、ああ……ぁ……」

 

 俺は両手を眼前で組んでエイモックの視界から顔を隠して、ただひたすら、それが早く終わるように願った。

 



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闇の禁呪(後編)

「なんだ、漏らしたのか」

 

「――――っ!」

 

 俺の様子で何が起こっているのか察したエイモックが歯に衣着せずに言った。

 恥ずかしさやら屈辱やらで、俺は顔を両腕で隠したまま固まってしまう。

 

 エイモックが魔法を解除したらしく、俺の中にあった擬似手が消えた。体の中にあった圧迫感がぽっかりと消失して楽になる。

 そして、伸し掛かるように俺に覆い被さっていたエイモックの気配が無くなった。

 

 ぐっしょりしたショーツが肌に張り付いてきて気持ちが悪い。お尻までべっとりで、この様子だと制服のスカートやベッドまで濡れてしまっているだろう。

 独特のアンモニア混じりの臭いが、ツンと狭い室内を漂ってきた。

 

 やってしまった……

 

 この体になってから何回かお漏らししてしまった経験はあるけれど、今回のは最悪だ。

 

 何を言えばいいのか、どうすればいいのか、頭が全く働かない。思考がぐるぐる回って纏まらない。

 

 無言で固まったままでいると、入口のドアが開く音がした。

 腕で視界を隠したままなので部屋の様子はわからないが、どうやらエイモックが部屋を出て行ったようだ。

 

 席を外してくれたのか……?

 

 少し間を置いてドアがノックされる。

 返事をしないでいると、ドアが空いて人が入ってくる気配がした。

 

「……あらあら、大丈夫?」

 

 それは、さっきお店の入り口で会った色気のあるお姉さんの声だった。

 てっきりエイモックが帰ってきたものとばかり思っていた俺は慌てて飛び起きた。すっかり(はだ)けてしまっていたシャツを抑えて胸を隠す。

 

「あ、あの……ご、ごめんなさい!」

 

 俺はとにかく謝るしかできなかった。

 大変な粗相をしでかしてしまった……

 

「別に気にしなくていいわよぅ? こんなの割りとある事だし」

 

「そ、そうなんですか……?」

 

「ほら、私が後始末してあげるから、あなたはお風呂で綺麗にしちゃいなさいな」

 

「あ、いえ……そんな事させられません。私、自分でやりますから……」

 

 見ず知らずの人に自分のお漏らしの後始末をさせるだなんて……

 

「もうすぐ、お店の女の子が出勤して来るから、それまでに片付けておきたいの。恥ずかしいとは思うけど、私に手伝わせて?」

 

「わかりました……その、すみません」

 

 俺は恐縮しながらお姉さんが差し出してくれたタオルを受け取る。タオルでひと通りスカートの中をさっと拭いてから、床にこぼれないようタオルで押さえて、小走りで浴室に駆け込んだ。

 

「って……あなた、スカートとか着替えは大丈夫?」

 

 背中からお姉さんの声が聞こえてきた。

 

「へ、平気です! なんとかなりますから!」

 

 浴室はホテルにあるようなトイレと洗面台が一緒になったユニットバスだった。

 まず俺はカッターシャツとスカートを脱いで洗面台のふちに掛けた。

 次に、ショーツと靴下を履いたままの格好で空の浴槽に入り、シャワーのお湯を下半身に当てて汚れを流していく。

 それから、カッターシャツとスカートの濡れた部分をシャワーで洗ってからそれらを着直した。

 最後に、魔法を詠唱して衣服を乾かす。

 

「――乾燥(ドライ)

 

 魔力で衣類がぼんやりと輝いて、濡れた服は急速に乾いていった。

 一分くらいで概ね乾いたので、臭わないかどうかだけ確認して浴室から出る。

 

「あら? 随分早かったのね。それにスカート乾いて……?」

 

「これ、水を弾くんです!」

 

 我ながら少々無理があるとは思うが、魔法の事は話せないので強引に誤魔化した。お姉さんは最近の制服ってすごいのねぇ、と感心していた。

 

「ごめんなさい、私も片付けます」

 

 お姉さんはシーツを剥がして雑巾でベッドを拭いていた。俺は足元に置かれたバケツに雑巾を見つけると、それを手に取って絞り後始末に加わる。

 

「……それで、どうだったぁ?」

 

「どうって……何がですか?」

 

 お姉さんの質問の意図がいまいちわからなかったので、俺は聞き返す。

 ベッドの表面は防水加工されているようで、お漏らししても染みになってはいなかった……割りと良くあるというのは本当らしい。

 

「ちゃんとえっち出来たのかしら……初めてだったんでしょ?」

 

「わ、私そんな事してません!」

 

 俺は慌てて反論する。

 

「……え? でも、確かに――」

 

「ひぃぁ!?」

 

 お姉さんがおもむろに俺のお尻を鷲掴みして、わさわさと揉みしだいてきた。俺は小さく悲鳴をあげる。

 

「まだ経験していないお尻みたいね。あの人のアレが大きすぎて入らなかったとか?」

 

「は、はい……っ!? ち、違います! そもそも、あいつとはそんな事をするような関係じゃありません!」

 

「あら、そうなの……?」

 

 お姉さんは困ったような表情で俺を見ていた。

 ふたりきりで服を(はだ)けてお漏らしさせられるような事をしておいて、何を言ってるんだという顔だ。

 

「……え、ええと、エイモックにして貰ってたのは健康診断のようなもので……そういうのでは……」

 

「えーと? ……ああ、うん。まあ、いろいろ事情はあるわよね。無理に言わなくていいわよ?」

 

 ……だめだ。

 何をしていたか言えない以上、誤解を解くのは難しそうだ。

 

 お姉さんは美人で妖艶な雰囲気に反して、雑談好きの気さくな人で、片付けが終わる頃にはそこそこ親しくなっていた。

 だけど、親切心なのか自分のときの経験を赤裸々に教えてくれるのは反応に困る。特にエイモックとのアレやコレの話に至っては、どんな顔をすればいいのかわからなかった。

 

 エイモックはこんな綺麗なお姉さんと日頃エッチしてるんだ……

 

 俺はなんとなく敗北感を感じて落ち込む。

 

「大丈夫よ、ちゃんとあなたにも入るから……そんなに気にしないの!」

 

 お姉さんが勘違いしたままで俺を励ましてくれる。

 

 入れたいと微塵も思わないです。というか、エイモックが他の人とそういう事しても平気なんですね……

 

「そうだ! よかったら、私が一緒に手伝ってあげようか? 私あなたとなら嫌じゃないわ……むしろ、あなたみたいな娘の初めてに立ち会えると思うと、ぞくぞくするわぁ……」

 

 お姉さんは頬に両手を当てて熱に浮かれたような表情で言う。

 正直とてもエロい。

 このお姉さんとエッチな事をできる……

 セクシーな衣装に包まれた豊満な体の中身を想像して、俺は思わずゴクリと唾を飲んだ。

 

 ……いやいや、待て待て。

 

 お姉さんとエッチするのは良いとしても、エイモックとの3Pは有り得ない。そっちを想像してしまい一気に気分が萎えた。

 

「え、遠慮しときます……」

 

「あら、残念」

 

 お姉さんは本当に残念そうに言った。

 

 片付けが終わって休憩室の前でお姉さんとは別れた。

 お姉さんは抱えたシーツを別の所に持っていくという事で、エイモックと二人で話できるように気遣ってくれたようだ。

 お店に戻ると、エイモックは相変わらず偉そうな姿勢で長椅子に座って時代劇の続きを観ていた。

 

「これ、録画だったんだ……」

 

 エイモックの趣味がよくわからない。こいつの話し方も時代劇に影響されてのものなのだろうか?

 

「終わったのか」

 

「う……」

 

 どんな反応をするべきか迷った。

 こいつには謝るのはなんか癪だ。

 

「……それで、どうだ? 使えそうか?」

 

「……へ?」

 

「何を惚けている。魂操作(ソウル・マニピュレータ)を覚える為にわざわざ実演してやったのだろうに……よもや、喘ぐのに夢中で見ていなかったなどとぬかすのではあるまいな?」

 

「ちゃ、ちゃんと見てたさ! おかげさまで、俺もなんとか使えそうだ……あ、ありがとな」

 

 結果はさておき、俺の為に魔法を見せてくれたのは間違いない。俺はエイモックに礼を言った。

 

「この貸しはそのうちに返して貰う。だから、気にするな」

 

「うげっ」

 

 ……いや、めっちゃ気になるから、それ。

 

「それに、なかなか興趣が尽きぬ姿も見られたしな。前回の意趣返しにはなったか……くくっ」

 

「ぐっ……ぐぬぬ……」

 

 相変わらずの全く気遣いのない物言いに、少しだけあった申し訳ないという気持ちは吹っ飛んだ。

 

 ……この男、やっぱり敵だ!

 

 そんな風に俺をからかっていたエイモックは、不意に真剣な表情にかわって口を開く。

 

「我らの祖先はこの魔法の使い方を違え多数の不幸を生み出してしまった。勇者と呼ばれた貴様がこれをどう使うのか見届けさせて貰おう」

 

「わかった」

 

「もしも、貴様が見境なく他人を犠牲にするのであれば、魔法を伝えた我はこの世界に干渉しないという貴様との誓約に背く事になる……そうなれば我は貴様を討たねばならぬ。面倒を掛けぬ事だな」

 

「……心しておくよ」

 

「ああ、そう言えば……魂操作(ソウル・マニピュレータ)を使えば今すぐにでも水の巫女を助ける事はできるぞ?」

 

「え? でも、さっきは……」

 

 魂を取り出すと消滅してしまうって――

 

「そうだ。魂を他人の体に移動させる方法は見つかっていない。だが、貴様のケースは例外的にひとつだけ手段がある」

 

「アリシアを助けられるのか!? それなら、俺は何だって――」

 

「魔法で自分自身の魂を取り出せばいい。そうすれば、貴様の魂は消滅し、その体には水の巫女の魂が残る事になるだろうよ」

 

「――なっ!?」

 

「良かったではないか。これで、貴様の念願は叶うのであろう?」

 



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困惑

 エイモックと別れた俺はショックを受けた状態で街中を彷徨っていた。

 

 先程エイモックから教わった魔法で、俺は人の体から魂を取り出す手段を得ることができた。

 後は取り出した魂を消滅させずに移す方法を見つけられれば、アリシアを救う事ができる。

 あと一歩のところに迫っているようにも思えて、その一歩が遠い。この道程は異世界の魔法使い達が何代も求めてたどり着けなかったものだ。

 そもそも、俺の魔法の知識は実用的なものに傾向していて、理論的なところが完全に抜けている。方法を探すにしても、どこから手を付ければ良いのかさえ見当もつかないと言うのが正直なところだった。

 

 もし、このまま見つからなかったら……?

 

 俺は視線を下ろして自分の手を見る。

 視界に入った手はちいさくて華奢で――特に意味も無く握って開いてを繰り返してみた。

 

 アリシアを救う為ならどんな手段でも厭わない……ずっとそう考えていた。

 だけど、実際に自分の命と引き換えにアリシアを救うという選択肢ができた事で、俺は改めて考えてしまうのだ。

 

 この体をアリシアに返す。

 その事自体に異論は無い……そうするべきだと思う。

 だけど、それは即ち俺の存在が消えるという事で。

 

 ――脳裏に思い浮かぶのは家族や友人達の顔。

 

 母さんの慈愛に満ちた笑顔。

 優奈の安心しきった笑顔。

 父さんの男臭い笑顔。

 

 葬式で見た翡翠の涙、蒼汰の慟哭。

 

 俺は家族が自分の事で悲しんでいる姿を知らない。

 だけど、俺が生死不明で行方知れずになっていた間、我が家からは笑顔が失われ空気も暗く沈んでいたと優奈から聞いていた。

 

 俺の選択は家族にもう一度家族を失う経験をさせる事になる。

 ……それはどれだけ残酷な事なのだろうか?

 

 それを考えてしまうと、アリシアを救う為なら命すら投げ出せると、迷い無く言い切る事ができなくなってしまう。

 

 ――そして、思い出す。

 異世界で俺がまだ幾人だった頃の最期の記憶。

 

 俺に向けたアリシアの悲痛な決意に満ちた笑顔。

 

 俺の選択はそんな彼女の決意を踏みにじってしまうのではないだろうか。

 もしアリシアに事情を打ち明けて相談したら、彼女は自分よりも、俺が生きる事を優先させるだろうという確信めいた予感があった。

 彼女の意思を尊重するのなら、俺が生きるべきなのだろうか……?

 

「……だからと言って、アリシアの魂が失われていいはずがないんだ」

 

 俺は胸元でぎゅっと手を強く握って思う。

 

 この体はアリシアの物、彼女に返すのが道理だ。

 彼女がこの先得るはずだった幸せを俺が奪って生きていくなんて許される筈がない。

 俺は家族や彼女の事を言い訳にして、自分が死にたくない事への理由付けをしているだけじゃないのか……

 

「アリスさん……?」

 

 突然俺は名前を呼ばれて顔を上げた。

 俺を呼び止めたのは、部活動のメンバーである橋本涼花で。

 

「……どうかしましたの?」

 

 心配そうな顔をして俺を見ていた。

 

「ええと……その……なんでも、ない……」

 

「何でもない顔じゃありませんわ……そんな足元もおぼつかない様子で……どうします、優奈さんを呼びますか?」

 

「い、いや! いい。ごめん、今は……」

 

 家族にどんな顔をして会えばいいのかわからない。

 

「……それでは、わたくしのマンションに来ませんか?」

 

「そんなの、悪い……」

 

 ひとり暮らしでは無いとは言え、女性の部屋に行くなんて。

 

「今の状態のアリスさんを一人になんてできませんもの。お気になさらず頼ってくださいまし」

 

 俺は涼花の言葉に甘えることにした。

 

   ※ ※ ※

 

「自分か大切な人かどちらかしか助からない、ですか……辛い選択ですね」

 

 俺の話を一通り聞いた涼花はそんな感想をこぼした。

 俺の体の事情を知っていて、かつ幾人の頃の繋がりが薄い涼花は相談相手として最適だった。

 

「私はアリシアを救いたい、この体を返したいんだ。だから、私は自分の魂を取り出すべきなんだと思う」

 

「アリスさんはアリシアさんに相談せずに結論を出すつもりですの?」

 

「……わからない。でも、アリシアに話したら、多分私が自分を犠牲にする事に反対すると思うんだ」

 

「それは――そうかもしれませんわね」

 

「私はどうすればいいんだろう……」

 

「そうですわねぇ」

 

 涼花は口元に手をあてて考える。

 

「ねぇ、アリスさん。デュエルしましょうか?」

 

「ふぇ……?」

 

 一瞬何を言われたのかわからなくて気の抜けた声が出た。

 

「え……あ、うん……いいけど……」

 

 唐突な提案に訝しく思いながらも、俺はスクールバッグからデッキケースを取り出す。

 涼花が折り畳みテーブルを広げてプレイスペースを用意してくれたので、俺達はそれぞれデッキをシャッフルしてテーブルに置いた。

 ダイスロールで先攻後攻を決めてゲームが始まる。

 お互い慣れた動作で淡々とターンを進めていく。

 ここ数ヶ月の特訓で涼花は随分と強くなっていた。俺や蒼汰相手でもほぼ互角の戦いができるようになっている。

 カードを触る手をふと止めて涼花は口を開いた。

 

「このゲームの勝敗でアリスさんのこれからを決めるというのは如何でしょう?」

 

「そ、そんなこと……!?」

 

 俺が勝ったら俺が生きて、負けたならアリシアが生きる……そういう事だろうか?

 馬鹿げた話だ。デュエルの結果で将来を決めてしまうなんて、冗談にもならない。

 

「アリスさんが悩んで決められないようでしたので……決めるのはアリスさんですわ」

 

 涼花は言い終わると同時に配下の生物で俺に攻撃を宣言した。

 俺はどの生物で攻撃を受けるのかを選ぶ。

 

 序盤から中盤にかけては、やや不利な展開だった。

 だけど、終盤では紙一重の差で盛り返して、ついに後一手のところまでやってきた。

 

 これに勝てばアリシアは――俺は手を止めて考える。

 

 攻撃を宣言すれば俺の勝ちは確定する。

 逆にこのまま攻撃せずにターンを涼花に渡せば、逆に俺は敗北する。

 アリシアを生かすのなら、このまま自分のターンを終えるべきなのだろうか?

 

 ……いや、だめだ。それはできない。

 ゲーム外の理由でデュエルの勝敗は変えられない。

 そんな事をするのはゲームに対する冒涜だ。

 

「攻撃」

 

 配下の生物で俺は涼花を攻撃する。

 

「負けました……わね……」

 

「……ごめん、涼花。やっぱりデュエルでは決められないよ」

 

 俺は涼花に謝る。

 ゲームの勝敗で俺の将来は決められない。

 

「そんなの当たり前ですわ。ゲームの結末がゲームの中でしか出ないように、アリシアさんとの結論はアリシアさんとの話し合いの中で見つけるしかありませんもの」

 

 優しく俺を諭すように涼花は言う。

 

「あなたはアリシアさんとちゃんと話すべきですわ。彼女の意思を無視して彼女の為だなんて言うのは、あまりにも独り善がりに過ぎましてよ」

 

「そう……だよな。ごめん、涼花」

 

 涼花の言う通りだ。

 反対されるからといって話さないで済ませられる事では無い。

 

「それに、アリシアさんの協力があれば二人共助かる方法が見つかるかもしれないじゃありませんわ。それが第一でしてよ?」

 

 涼花はそう結論づけると、おもむろに立ち上がった。

 座った俺の横を通り過ぎて後ろ斜めのところでしゃがみ込む気配がする。

 

「……でも、わたくしを頼ってくれた事は嬉しかったですわ」

 

 そしておもむろに背中から腕を回して、俺を後ろ抱きしてきた。シャンプーだろうか? ……涼花から花の匂いが漂ってくる。

 

「ちょっ!? 涼花何してっ――あ、あたってるって!?」

 

 背中に当たる双球の存在感は暴力的と言ってもいいほどで。

 だえど、涼花は顔色一つ変える事も無く、そのまま俺を離してくれない。

 

「あてているのですわ。こうすれば殿方が喜ぶと教えてくれたのはアリスさんではありませんか」

 

「そ、そりゃそうだけど……」

 

 蒼汰に有効と思われる色仕掛けの方法を助言したのは俺だった。

 

「どうです、少しは元気がでましたか?」

 

 涼花はこれをされた男のナニが元気になるのかわかって言ってるのだろうか……? 俺にはもうソレは無いのだけども。

 

「そ、そういうのを蒼汰以外の男にするのは問題が……」

 

 ある。そう続けようとした俺の言葉は涼花に遮られた。

 

「問題ありませんわ。わたくしはもう蒼汰さんに振られた身ですから」

 

「振られた、って……え!?」

 

 衝撃的な告白に俺は動揺を隠せない。

 

「バレンタインの日に、蒼汰さんから返事を頂きましたの」

 

「そ、そんな……どうして……?」

 

 蒼汰は涼花の事を嫌っていなかったはずだ。

 家の事や将来の事いろいろあるのは聞いてはいたけど、本人達が想い合っているのなら乗り越えられるんじゃないか。そんな風に思ってたのに……

 

「蒼汰さんの想い人はわたくしではありませんでしたから、仕方ありませんわ」

 

「……そうか。蒼汰に、そんな人が……」

 

 知らなかった。

 だったらなんで俺に相談してくれなかったんだよ。

 水臭いにも程がある。

 ……いや、俺は涼花とも仲が良かったから、言い辛かったのは仕方ないか。

 

「だから、大丈夫ですの。わたくしにもアリスさんの抱き心地堪能させて下さいまし」

 

 翡翠や優奈が俺に気軽にスキンシップしているのが、涼花は羨ましかったそうだ。それでも、男である俺に気軽にくっつくのは問題だと思う。

 そんな風に言っても涼花は俺を抱き締めたままで、一向に離す気配は無かった。

 

「はぁ……いっそ、わたくしも他の方のようにアリスさんのお相手に立候補しようかしら」

 

「な、何を……!?」

 

 耳元で囁かれるように涼花がこぼした言葉に俺は動揺する。

 

「如何ですか? アリスさんはお胸が大きな方がお好きなんですよね」

 

 なんでそんな事がばれてるんだ……何故?

 

「わかりますよ……アリスさんは良く女性の胸を見てますから。最初は憧れか何かかと思ってたのですが……男性と聞いて納得できました」

 

 ……気をつけよう。

 

「……で、でも、私にはアリシアが……」

 

 お胸は嬉しいけれど正直困る。

 これ以上女性関係を拗らせるのは良くない。

 特に今は涼花の部屋に二人っきりだし、もし彼女に強引にされたら俺は抵抗できないだろう。

 涼花はパニックに陥っている俺の様子を見てクスリと笑って、

 

「……冗談ですわ」

 

 と言って、その豊満な体を離した。

 

「それに、いくら男性だと聞いていても、わたくしにはアリスさんは女性にしか思えませんもの」

 

「……え?」

 

 中身が男って知られているのに女にしか見えないって……

 

 俺の男としてのアイデンティティがボロボロと崩れ落ちる音が聞こえた気がして、

 

「……多分あの人も」

 

 だから、涼花が小さく付け加えた言葉の意味に、俺は気がつく事は無かった。



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籠の中の鳥

二月十七日()

 

 今日は二日ぶりにアリシアが帰ってくる日だ。

 

「アリシア、おはよう」

 

 寝起きで覚醒しきっていないまま、俺はアリシアに朝の挨拶をした。

 

「……?」

 

 だけど、返事は無くて……また同調ができなくなっているんじゃないかと不安に思い出した頃、

 

『……おはようございます』

 

 ようやくアリシアの声が頭の中に聞こえてきて安堵する。

 だけど、ほっとしていられたのは一瞬の事。

 続けて発せられたアリシアの言葉で、俺の眠気は一気に吹き飛んだ。

 

『イクトさん、何かわたしに言う事がありますよね?』

 

 ……やばい。

 どうしてかは知らないが、アリシアは完全に不機嫌モードだ。

 普段と変わり無い口調のように聞こえるけど、言葉の端々から漏れ出ている怒りの感情が俺には手に取るように解る。

 

「な、何の事かな……?」

 

 アリシアが怒っている理由に心当たりは無い……正確に言うなら心当たりはあるけれど、目覚めたばかりのアリシアはまだ知らない筈だった。

 

『しらばっくれようとしてもダメです! 一昨日に魂に触れてきた不快な感触――あれはエイモックの闇魔法ですよね。いったい何があったんですか!』

 

「あー……気づいてたんだ……」

 

 話すつもりだったとは言え、既にアリシアにバレてしまっていると知り俺は冷や汗を流す。

 

『わかりますよ、そんなの!!』

 

 堪忍袋の緒が切れたらしいアリシアは感情を爆発させて叫んだ。

 

『――っ、思い出すのもおぞましい……いったいどうしてそんな事になったんですか!? イクトさんには納得のいく説明を求めます!』

 

 ここまで怒りの感情をダイレクトにぶつけてくるアリシアは珍しくて俺は動揺を隠せない。

 

「それは、その……アリシアを助けたいと思って、エイモックに魔法を教わったんだ」

 

『だからって、無防備に魂を晒すって何を考えてるんですか!? もし洗脳されていたら、今頃イクトさんはエイモックの言いなり――操り人形になっていたかもしれないんですよ!?』

 

 どうやら、同調が切れた状態で感じた異常な事態に、アリシアはやきもきしていたらしく、感情が抑えられないようだった。

 

『――イクトさん、本当に大丈夫ですか? 洗脳されてませんか?』

 

「大丈夫だよ、俺は何もされてないから」

 

『記憶操作でそう思わされているだけかもしれません……思い出して下さい。エイモックに会っていたときの記憶に整合性はありますか? 不自然な抜けはありませんか?』

 

「無い……と思う。それに、多分だけどエイモックはそんな事はしないんじゃないかな?」

 

『なんでそんな事言えるんですか!? あの人はイクトさんの体を要求していたんですよ。そんな相手に据え膳状態で魂を委ねるなんて……何もされていないと思う方が無理がありますよ!』

 

 俺もそう思ってた。

 だけど、エイモックの反応は違っていたんだ。

 

「それが、その……エイモックが興味を持っていたのは水の巫女っていう器だけみたいで、その……貧相な体には興味が無いって」

 

『ひ、貧相!?』

 

 ピキッ――空気が凍った気がした。

 

「いや、やつが言った事だから!? 俺の言葉じゃ無い」

 

『……そんなのイクトさんを油断させる為の方便に決まってます』

 

 アリシアは恨みがましい口調で言う。

 その気持ちはわからなくも無い。だけど、俺にはエイモックがそんな事をする必要が無かった事を知っている。

 

「それに、わざわざ魔法を使わなくても、やつは俺の事を好きにしようと思えば出来たんだし……あっ」

 

 その失言に気付いたときにはもう遅くて。

 

『へぇ……それってどういう事ですか。そこのところ詳しく教えて貰えませんか? ――イクトさん』

 

 絶対零度にまで落ちたアリシアの声が、俺に突き付けられる。

 

 ……やばい、この状況はやばい。

 

「あ、いや……誤解だよ……必要に迫られてというか、その……」

 

『誤解かどうかは説明を受けてから判断します。イクトさんの主観は結構です。起こった事実だけを順序立てて教えて下さい』

 

「わ、わかった……」

 

 俺は戦々恐々としながら、アリシアを救う手段――魂を操作する魔法を得る為にエイモックと接触した経緯を一から順に説明した。

 話の間アリシアが、『……へぇ』とか『……そうですか』と、淡々と相槌を打つだけなのが怖くて、報告も自然に丁寧口調になってしまう。

 

「と、まあ、こんな経緯がありまして……」

 

 話終わってしばし無言になる。

 ……沈黙が痛い。

 

『……イクトさん、姿見の前に正座して下さい』

 

 アリシアから告げられた言葉は想定外のもので、

 

「え……?」

 

 一瞬、聞き違いじゃないかと思った。

 異世界では正座なんて聞いたことは無かったから。

 

『正座! 姿見の前! ――今すぐに!』

 

「は、はいぃっ!?」

 

 俺は慌ててベッドから飛び降りた。あたふたと姿見の正面に移動して、ピシィっと正座する。

 姿見に映っているのは、怯えた小柄な少女(オレ)の姿。

 

『それでは、わたしの目を見て話を聞いて下さい』

 

「……でも、鏡に映ってるのは俺じゃ……」

 

 視覚も同調している以上、アリシアが俺の様子を確認しようとすれば鏡を使うしか無い。だけど、それは俺がアリシアを見る事にはならないと思うのだけど……

 

『――だまらっしゃい!!』

 

 アリシアの聞いたことも無いような剣幕に俺は本気でビクッと体を震わせた。

 俺はアリシアに言われた通りに、鏡に映った俺をアリシアだと思って目を合わる。

 

『イクトさん、わたしが何で怒っているか解りますか?』

 

「……アリシアに黙ってエイモックと接触したから?」

 

『もちろんそれもあります。あの人は闇の神官で、わたし達とは違う常識で生きてきた危険な人物です』

 

 俺が思い浮かべたのは時代劇を観ているエイモックの姿で……正直あまり怖いとは思えなかった。だけど、そんな感想を口に出しても反感を買うだけなので内心に留める。

 

『イクトさんは自分が女性である自覚が足りなさすぎです。男性の前で無防備に隙をみせるような真似をしたら、一生物の傷を負わされるなんて事はざらにあるんですよ?』

 

「……そんな事くらいわかってるさ」

 

 男達がどんな事を考えて俺を見ているのか、元男だった俺は十分良く知っている。

 今の俺が何ともないのだって、たまたまエイモックが俺の体に興味が無かったからってだけの偶然でしかない。

 普通であれば、女性にとって大切なものである処女(はじめて)を失ってしまっていても不思議では無かった。それどころか、もっと酷い目にあっていた可能性も十分考えられた。

 それくらい俺も理解していた。

 

「でも、アリシアが助かるなら、俺はそれでいいって思ったんだ」

 

『そんなの全然良くないです!』

 

 アリシアは悲しそうな声色で叫ぶ。

 

『それに魂操作(ソウル・マニピュレータ)なんて何を考えているんですか!? もし精霊教会に知られたらイクトさんは異端者認定されてお尋ね者になるくらいの忌まわしい禁呪ですよ!?』

 

 やはりアリシアは魂を操作する魔法の存在を知っていたらしい。それがもたらした悲劇の事も。

 俺にその存在を話していなかったのはそれが禁忌(タブー)だったからのようだ。

 

「だけど、この世界に精霊教会なんて無い。だから、この魔法でアリシアが救えるなら俺は――」

 

『駄目です! ……魂操作(ソウル・マニピュレータ)は魂を取り出すだけで、その魂は消滅するそうです。こんな魔法では、私達の現状の解決になんてなりません』

 

「だから、アリシアにも協力して欲しいんだ。魂を移す方法を俺が必ず見つけてみせる……だから、待っていて欲しい」

 

『見つけるってどうするつもりですか……?』

 

「動物で実験を重ねるしか無いだろうな。人を使った実験は気軽にできるものじゃ無いし……」

 

『――止めて下さい』

 

「え……?」

 

魂操作(ソウル・マニピュレータ)が禁呪になったのは人が犠牲になったからだけじゃ無いと思うんです。エイモックに魂を触られたときの悪寒は未だ忘れられません……魂は人が弄んでいいものなんかじゃ無かったんです!』

 

 イクトさんの魂をこんな風にしたわたしが言うなって話ですけどね、とアリシアは自嘲気味に付け加えた。

 

「でも、それじゃあ……!」

 

 アリシアを救う事ができない。

 そう続けようとする俺を遮ってアリシアは宣言する。

 

『わたしの為に生きる道を探してくれるのが嬉しくて、わたしはイクトさんやご家族の好意に甘えていました……でも、本来わたしの生命は世界転移のときに終わっている物なんです』

 

 その口調は優しくて。

 告げられる内容は哀しくて。

 

『……だから、もう止めにしましょう』

 

「アリシア? 何を……」

 

 ――アリシアの寂しげな笑顔が脳裏に視えた気がした。

 

『わたしは自分が消える運命を受け入れます。だから、イクトさんもわたしを助ける方法を探す事はもうしないで下さい』

 

「い、嫌だ……」

 

 俺は反射的に拒絶の言葉をこぼす。

 

「嫌だよ、そんなの……」

 

 だって、それって……そんなのって……

 それを認めたら、俺はもうアリシアと一緒に居られなくなる。

 

『……ごめんなさい。中途半端にしてきたわたしの責任です』

 

 そんな罪を告白するような口調で言わないで欲しい。

 アリシアは何も悪くなんて無いのに。

 

「だったら! ――俺は、自分の魂を取り出してアリシアに体を返すよ!」

 

『それこそ、馬鹿な事を言わないで下さい。イクトさんの家族はどうするんですか』

 

「家族はきっと解ってくれる……と思う」

 

『それに、イクトさんの家族の中に遺されたわたしはどんな顔をして生きて行けばいいのですか……?』

 

「そ、それは……」

 

 アリシアに指摘された事実に、俺は思わず言葉に詰まる。

 

『ごめんなさい、嫌な言い方してますよね、わたし。でも、これは本心です。この世界にはわたしの事を知る人なんて居ません。だから、お願いです……わたしを遺して逝くだなんて考えは捨てて下さい』

 

 アリシアは俺の家族以外に頼る相手を知らない。

 今は家族として受け入れられていると思う。

 ……でも、アリシアが俺の代わりに生きる事になったなら、そのときも同じように家族として居られるだろうか?

 

「だけど、この体は――」

 

『イクトさんの体ですよ。イクトさん自身もそう思うようになってきているんじゃないですか?』

 

「そ、それは……」

 

 俺はアリシアの言葉を否定できなかった。

 以前とは何もかもが異なる小さく華奢なこの体に違和感を覚えなくなったのはいつからか。

 身長の低さから来る、視線の低さや不便さにも慣れた。

 ちぐはぐな行動で悪目立ちする事は少なくなってきた。この容姿なので常に注目されて視線を集めるのはもう仕方ない事で、その事にももう慣れた。

 仕草は……母さんに言わせれば、まだまだ男っぽさが残ってて雑だと言われるけど、それでも大分女性っぽくなったと思う。

 女性として必要な体の手入れ――身だしなみも、当たり前にこなせるようになった。

 

『とにかく、魂の操作に関してはわたしは一切協力しません』

 

 俺が迷っている間にアリシアは俺に結論を告げる。

 

「もし俺がアリシアの言う事を聞かなかったら……?」

 

『わたしが原因で無辜の魂を冒涜してしまう……それは即ちわたし自身の罪。そうなったら、わたしはそれを償う為この命を絶ちます』

 

「……そんな!?」

 

『わたしはミンスティア様の巫女です。巫女が禁忌を破るというのはそういう事なのです』

 

 アリシアはそう言って

 

『……もし、どうしても魂の操作をするというのなら、まず最初にわたしの魂を使って下さい。わたしだったらイクトさんに何をされても構いませんから――それ以外の魂に使うのは、例え虫や動物であっても一切禁止します』

 

 その後、アリシアは家族や友人達の前で、俺がしでかした事を説明した。

 俺の行為がどれだけリスクが高い事だったか強調して話し、俺がアリシアを助ける事を諦めさせる事に同意せざるを得ない状況に話を持っていく。

 さらに、スマホのGPSによる位置確認に加えて、外出のときは事情を知る人間が同行するというルールを作り、俺の監視体制をあれよあれよという間に整えたアリシアの手腕は見事と言うしか無い。

 やり過ぎだという意見は俺以外には出てこなかった。

 

 ――かくして俺は籠の中の鳥となった。



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幻夢の夜

 夢を見た。

 

 学校の教室の俺の席、いつも通りの視界。

 優奈や幼馴染、クラスメイト達の姿も確認できる。

 そして、隣の席には男の姿をした(イクトさん)が座っていた。

 (イクトさん)は、笑顔で(アリシア)に話し掛けている。

 話の内容はわからない。

 それどころか、何も聞こえないし、視線を動かすことも出来ない。

 だから、これは夢なのだろう。

 同調の影響からか、これまでも何度かこんな風にアリシアが見ているらしい夢を見た事がある。

 

 放課後だろうか?

 俺達はとても楽しそうに話をしていた。

 (アリシア)が笑うと、(イクトさん)が笑い、時間は緩やかに流れていく。

 それは、なんの変哲もないありふれた光景で……

 

 ――とても悲しい夢だった。

 

   ※ ※ ※

 

二月二十五日()

 

「……っ!!!!」

 

 俺は声にならない悲鳴をあげて飛び起きる。

 様々な感情が怒涛のように押し寄せてきて、頭の中が焼き切れそうだ。

 

「……ぅぁ……っ」

 

 胸の中心を両腕で掻きむしるように抱いて、体を丸めてベッドに上半身を投げ出した。

 そのまま俺は感情の波が鎮まるのをひたすら待つ。

 

「っ……くぅ……」

 

 さっき見た夢は、アリシアが望んだ光景であると直感的に解った。

 それは、俺達が当たり前に享受している日常。

 

 ――だけど、アリシアにとっては手の届かない憧憬。

 

「うう……」

 

 次から次へとボロボロと涙があふれて、嗚咽が止まらない。

 寝る間際、同調を切る前に言われたアリシアの言葉が思い出される。

 

『次の同調は明々後日(しあさって)になります』

 

 容赦無く突き付けられた現実。

 アリシアの魂の状況は日々悪化していて一日毎の同調すら難しくなっていた。

 

 闇魔法を禁じられて一週間ほど。

 あの日から、俺は常に行動を監視されるようになった。

 俺が早まった行動に出ないようにと、他ならぬアリシアが望み、俺がそれを受け入れたからだ。

 同調している間はアリシアが一緒なので、これまでと変わりは無い。同調していないときは主に優奈が俺の監視をするようになる。

 学校に行っている間は勿論のこと、帰宅したらそのまま俺の部屋にやってきて一緒に過ごす。お風呂も一人で入る事は許されずに、トイレですらゆっくりしていると様子を見に来られるような状態だ。

 夜は来客用の布団を持ち込んで俺の部屋で寝ている。同調している日でも、夜は同調を切るので、夜は毎日優奈と一緒だった。

 優奈がここまで頑なになってしまったのは、もう一度俺を失ってしまうかもしれないという状況が、彼女のトラウマを呼び起こしてしまったからで、完全に俺の自業自得だった。

 

 それでも、俺はアリシアを諦めるつもりは無かった。

 アリシアと同調していないときは、図書館で魂に関する情報を探す日々を過ごす。

 付き添っている優奈はそんな俺の行動を咎めたり、アリシアに告げ口したりする事はなかった。

 むしろ優奈が自分で調べた事を俺に教えてくれて、この辺りは既に優奈が調べ尽くした後なんだと実感し落胆させられる。

 どこまで探しても、魂に関する情報は絵空事の話でしかなかった。

 あるかどうかもわからない手掛かりを探し求める、それは、まるで先の見えない泥の中を掻き分けて歩くような感覚で。

 闇魔法の使用を禁じられた事でぽっかりと空いた俺の心の空白は、焦燥と絶望で埋まっていった。

 

 それでも、全てをなげうって魂操作を使えばアリシアを生かす事ができる。俺にとってその事実は救いであり、唯一の光明だった。

 

 ――例えその光が身を焼く誘蛾灯のものだとしても。

 

「……アリス?」

 

 不意に声がした。

 どうやら、優奈を起こしてしまったらしい。

 

「泣いている声がしたような気がしたから……大丈夫?」

 

 俺はなんとか声を絞り出して優奈に返答をした。

 

「……うん……大丈夫。おこして、ごめん……」

 

 先程の夢の影響で、まだ頭の中は混乱している。

 心臓の動悸も激しいままで落ち着かない。

 体中から吹き出した嫌な汗で、体の熱が奪われて俺は小さく震える。

 

 丸まったままじっとしていると、優奈がベッドにやってくる気配がした。

 背中に手が触れて、俺の背を撫でてくれる。

 

「……怖い夢でも見たの?」

 

 上下する手の感触から俺を気遣う優奈の気持ちが伝わってきて安心した。

 

「怖くない。ただ、悲しい夢……」

 

「……そっか」

 

 背中から覆い被さるように抱き締められた。

 優奈の体温と柔らかさが心地良く感じる。

 

「アリシアの夢……?」

 

 それは優奈にしてはデリカシーに欠ける問いのように思えた。優奈の意図が掴めなくて、俺は返答を躊躇う。

 

「……アリシアから聞いたの。アリシアが起きていられる時間が短くなってきてるって」

 

 優奈の俺を抱き締める力が強くなる。

 

「……もしかして、自分を犠牲にしてアリシアを助けようって考えてる?」

 

「それは――」

 

 俺がそうする事ができるのは、アリシアによってみんなに知らされていた。

 俺は優奈の問に即答する事ができなかった。

 

「アリシアが居なくなるのが辛いのはわかるよ。あたしでも辛いもん……だけど、アリシアを助ける為にお兄ちゃんが自分を犠牲にするのは止めて」

 

「……優奈」

 

「アリシアには悪いって思ってる。だけど、あたしお兄ちゃんがまた居なくなるのは耐えられない!」

 

 優奈は背後から俺を縋るように抱き締めながらそう告白した。

 

 ああ……俺はまた優奈を傷つけてしまった。

 一年間、俺が居なかった事で優奈は心に深い傷を負った。

 俺の安易な行動はそんな優奈の癒えきらない傷を開いてしまった。

 

「あたしはアリシアにはなれないけど、あたしにできる事なら何でもする。お兄ちゃんのしたい事何だってしていい……だから、お願いお兄ちゃん。あたし達家族を、捨てないで……」

 

 必死になって説得する優奈(いもうと)の一言一言が痛々しく胸に刺さる。 

 

 俺は……

 

「俺は自分自身を犠牲にしてアリシアを助ける事はしない。優奈の前から勝手に居なくなったりなんかしないから、大丈夫だ」

 

「……本当?」

 

「本当だ。誓うよ」

 

 ごめん、アリシア……

 こんな優奈を遺して逝く事は俺にはできない。

 

 俺は自分を犠牲にアリシアに体を明け渡す選択肢を諦めた。

 アリシア自身は逆に安心するであろう事だけが救いだった。

 

「お兄ちゃん、ありがとう……」

 

 もぞもぞと動く音がして。

 どうやら、優奈が布団に入ってきているようだった。

 俺は体を起こして優奈の様子をぼんやりと伺っていると、優奈は両手を広げて胸の中に俺を誘ってきた。

 俺は導かれるままに優奈の両腕の中に収まる。

 柔らかい優奈の体に包まれて、俺は張り詰めていた心が落ち着きを取り戻していくのを感じる。

 

「あたしが一緒だから……」

 

 優奈の手が俺の髪を撫でている。

 もう一方の手は背中を撫でていて、まるで子供をあやされているみたいだ。

 髪を触っていた手が、頬に触れてきてくすぐったい。

 何度か形を確かめるように動いて、やがて首筋に指先が移動する。

 背中を撫でていた手が下がっているような気がして――

 ここに至ってなんだか違和感を覚えた。

 首筋から鎖骨に指が這わされて、思わず体が震えてしまい声をあげる。

 

「ちょ……優奈……!?」

 

 優奈がしようとしている事に気がついて、俺は焦って優奈を制止する。

 

「不安や心配でいっぱいだと眠れないよね……大丈夫、あたしが何も考えられないようにしてあげるから」

 

「す、ストップ! ごめん、優奈。今はそんな気分じゃ――」

 

 こんな気持ちのときにどんな事をされても、そんな気にはなれない……

 優奈から逃げて拒絶の意思を示そうとしたが、両腕でがっちり絡め取られていて身動きがとれない。

 

「お願いお兄ちゃん……居なくなっちゃやだよぉ……あたし、お兄ちゃんが居なくなったらって思うと怖くて、怖くて、怖くて……怖いよ、お兄ちゃん……」

 

 泣きながらそんな風に求めてくる優奈をもう拒絶する事はできなくて――俺は体の力を抜いて優奈のなすがままに身を任せた。

 

 心が冷めてしまっている今の俺は何をされても反応しない。

 優奈には悪いけど、それがわかれば優奈も諦めるだろう。

 

 俺はそう思い優奈のしたいようにさせる事にした。

 

 ……だけど、俺は知らなかった。

 

 優奈は俺自身も知らない()をオンにするスイッチの在り処を知っていて。

 一度そうなってしまえば私の意思なんて関係無く体が反応してしまう状態にさせられてしまうって事を。

 

 ……いや、多分それも違っていて。

 私自身、無意識に逃避したかったのだと思う。

 

 そうされている間は何も考えることはなかったし、疲れ果てて泥のように眠ってしまえば、夢を見る事もなかったから。

 



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春の訪れ

 とてとて、とてとて、ハラッパはしる

 

 かあさまとイッショ、いっぱいあそぶ

 

 つかれたら、すわってちょっとオヤスミ

 

 そしたら、かあさまがジュースをくれた

 

 ゴクゴクのむ……おいしい

 

「……アリシアは将来何になりたいの?」

 

 キュウケイしてたら、かあさまがそういった

 

「およめさん!」

 

 わたしのコタエはきまっている

 

 おひめさまみたいなドレスをきて

 

 だいすきなひととケッコンする!

 

「相手も決まっているの!」

 

「あらあら、そうなの……? ――くん?」

 

 かあさまはオトモダチのおとこのこのなまえをいった

 

「ちがうの!」

 

 ふふん、わたしはそんなこどもにキョウミなんてないの

 

「ほんとはヒミツなんだけど……かあさまだけに教えてあげるね!」

 

「ふふ、ありがと……」

 

「ときどき男の人の夢をみるの。とても格好良くて素敵で……きっとわたしの運命の人!」

 

「そう、なんだ……」

 

 だけど、かあさまはわたしのハナシをきいてすこしかなしいかおをした

 

 わたしがケッコンしておうちをでていってしまうって、おもったのかしら

 

「心配しないで、かあさま……結婚するのは、わたしが大人になってからだから!」

 

 それまではかあさまのムスメでいるから

 

 だから、そんなカオをしないで、かあさま……

 

 かあさまがぎゅっとわたしをだきしめてきて

 

 わたしは、かあさまのせなかをよしよしとなでた

 

二月二十八日()

 

 三日前の夜、優奈に何も考えられないようにされて。

 一昨日の夜、ずるずると同じ事が続かないように俺は優奈の誘いを毅然と断った。

 だけど、闇の帳に包まれたベッドの中でじっとしていると、焦燥感と不安で頭が痛くなって体も震えてくる始末で、とてもじゃないけど眠れそうになくて。

 そんな状況から逃避するように、ちょっとだけならと声を殺して自分自身で慰めていたら、それが優奈にばれた。

 ……後はなし崩しだった。

 そして昨日の夜、当たり前のようにベッドに入ってくる優奈の事を俺は拒絶できなかった。

 今朝、目が覚めた俺の隣には当たり前のように一糸纏わぬ優奈が居て、俺の寝起きの顔を覗き込んでいた。

 

「おはようアリス……目、覚めた?」

 

「ん……おはよ……」

 

 昨晩の影響が残っていて体がだるい。

 ……でも、何か忘れてるような……?

 

『おはようございます、イクトさん』

 

 頭の中で声がして。

 

「あ、アリシア!?」

 

 そうだ、今日はアリシアと同調する日だった。

 昨晩優奈に触れられる前はその事を覚えていて、後始末をしてから寝なきゃって思っていたんだけど……

 幾度となくイかされているうちに、そのまま意識がトんでしまっていたようだ。

 二人共全裸の上、部屋の中は甘ったるい匂いが漂い昨日の行為の残滓が生々しい。おまけに腰の辺りが湿っていてひんやり冷たい。

 言い訳のしようもない状況に俺は狼狽する事しかできない。

 

『……イクトさん念話をお願いします』

 

 と、アリシアに言われて、俺は使うのを忘れていた念話を起動する。

 

『おはようございます、ユウナ』

 

「うん、おはようアリシア」

 

 何でもない風に普段通りの挨拶を交わす二人。

 今日の予定や放課後の予定の確認など事務的なやりとりをしている間に、優奈はベッドサイドに畳んで脱いであった衣類を身に着けていく。

 寝間着を着終わった優奈が自分の部屋に戻る頃になっても、俺は全裸で佇んだままで、

 

「アリス、そろそろ支度しないと学校に遅刻するわよ」

 

 と言われて我に返った俺は、わたふたと脱ぎ散らかされた服を拾い集めて着はじめるのだった。

 

 優奈が部屋を出ていってから、俺は着替えながらアリシアにおずおずと聞いた。

 

「あ、アリシアは怒ってないの……?」

 

『……え? いったい何を怒るんですか?』

 

 不思議そうに逆に俺に聞いてくるアリシア。

 それは、本気で怒っているからという訳では無さそうで。

 

「ゆ、優奈とのこと……その……俺……」

 

『ああ、夜のことですか。大丈夫ですよ、ユウナとは話をしてますから……むしろ、お願いしたくらいですから。イクトさんが夜中に一人で考えこんでしまって、後先考えない行動に出ないようにと』

 

「そ、そうだったんだ……」

 

『はい、そうですよ』

 

 目的の為には手段を選ばないアリシアに、俺は背筋がひんやりする思いだった。

 

三月三日()

 

 桃の節句。

 客間に飾られた雛人形を見て、アリシアは驚きの声をあげていた。我が家の雛人形は雛壇が七段ある立派なもので、先月に女三人で飾りつけたのだった。

 アリシアがこれを見るのは初めてで。

 

『綺麗……』

 

「優奈が産まれたときに父さんが気合入れて買ったのよね」 

 

 そのときはまだ狭い賃貸だったのに。

 と、母さんはそのときの事を思い出したのか苦笑気味に言った。

 

「それにしても、アリスとアリシアに無いのは不公平かしら?」

 

「……ごめんね、あたしばっかり」

 

 と二人に言われたけれど、別に雛人形なんて欲しくないから。

 それに、俺には鯉のぼりがある。

 これも長男の誕生に喜んだ父さんが奮発して買った物だ。

 今年も飾りたいな。

 ……もう、うちに男の子は居なくなったけど。

 

三月六日()

 

 今日は卒業式だ。

 三年生に交流の深い人は居ないので、それほど思い入れは無い。

 だけど、式を初めて経験するアリシアは感じ入るところがあるようで、ときおり溜息のような声をこぼしていた。

 

 ――アリシアは卒業を迎える事はできないのだろうか。

 

 そう考えてしまったら、途端に胸の奥からきゅーっとしたものがこみ上げて来て、涙がぼろぼろとこぼれ落ちて止まらなくなった。

 

 だけど、泣き崩れてしまうのは、ぐっと堪えて。

 アリシアと同調しているときにみっともない姿は見せられない。

 幸い他にも涙を流している娘はいたので、涙を流すくらいなら不審に思われる事はなかった。

 

 ……夜、次の同調は四日後になるとアリシアに告げられた。

 

三月十日()

 

 生理が始まっていて、体調は芳しくない。

 同調しているアリシアが心配で、負担を掛けていないか聞いてみたが、返答に時間差があり違和感を覚えた。

 

 まるで、アリシアは生理痛を感じてないかのような――

 

 ……気のせい、だろうか。

 次は五日後になる。

 

三月十五日()

 

 アリシアの口数は少なくなっていて、俺が心配して呼び掛けると何でもない風に取り繕った反応が返ってくる。

 

 授業中、俺はアリシアにいろいろと話し掛けた。

 

 優奈と放課後に行ったスイーツのお店。

 春用にちょっと奮発して買ったワンピース。

 初めて買った化粧品の話。

 アリシアが気に入っていた小説の新刊。

 

 ……話したい事は尽きない。

 

『ちゃんと授業聞かないとダメですよ?』

 

 と、アリシアはたしなめるけど、楽しそうに相槌を打って俺の話を聞いてくれていた。

 そんな事をしていたら、先生に名前を呼ばれて。

 慌てて返事して立ち上がると、アリシアが問いと答えを教えてくれて何とか事なきを得た。

 

『……ほら、だから言わんこっちゃないです』

 

 アリシアは苦笑しているみたいで。

 俺は笑ってごまかした。

 

 放課後、自宅にて。

 ……やっぱり、アリシアは五感のうちいくつか同調が切れてるようだった。

 

『甘くて美味しいですねぇ……わたしチョコレート大好きです!』

 

 こっそり用意しておいたカカオが殆どのチョコレートを食べたアリシアの反応がこれだった。

 この前に食べたときは、苦さで言葉に詰まっていたのに。

 だけど、日常を続けようとするアリシアの気持ちを無碍にしたくはなくて、俺は何も気が付かないふりをすることにした。

 

 ……チョコレートは本当に苦くて、少し涙が出た。

 

 ――次の同調も五日後。

 

三月二十日()

 

 アリシアの希望で今日は久しぶりに部活に出た。

 部室には部員が全員勢揃いしていて、アリシアと他の部員総当りで対戦する事になった。

 アリシアはカードを動かせないので、どのカードを使用するかを念話で指示してもらい、実際のカードのプレイは俺が行うことになる。

 完全記憶能力に加えて、戦闘で培われた状況判断力のあるアリシアは、ウィソが恐ろしく強かった。

 

「それじゃあ、まずはあたしだね!」

 

 最初の対戦相手は優奈とだった。

 学校での優奈は以前と変わらずで。

 ややスキンシップが多いかな? くらいだった。

 夜は毎日肌を重ねていた。

 ……そう、毎日である。

 生理のときですら、優しく丁寧に俺の全身に触れて俺の不安を解消してくれていた。

 だけど、優奈はあくまで俺の事を気持ちよくしてくれるだけで。俺が優奈に触ろうとしたら、その行動は優奈に制止された。

 だけど、正直俺はほっとしていた。

 俺は優奈と対等な立場でしているのではなく、優奈が求めるがままに応えているという体裁でいられたから。

 後で思い返してみると、この頃の俺は優奈に完全に甘えていた。

 

 優奈は気に入ったカードを軸にした自作デッキを好んで使う。今使っているのは銀髪天使のカードが主力の天使ちゃんデッキ(命名:優奈)だった。

 正直デッキとしてはやや弱いけれど、優奈自身とても楽しんでプレイするので勝っても負けても気持ちいいゲームになる。

 

「さすがアリシア、強いね!」

 

 ゲームはアリシアの勝利に終わった。

 続いて、対戦相手の席に座ったのは翡翠だ。

 

「アリシア、今日は負けないわよ?」

 

 ……思えば翡翠には助けられてばかりだ。

 

 翡翠は毎日俺の教室に来てはアリシアの魂の様子を教えてくれている。日々悪化する状況を淡々と告げられるのは辛かったが、それでも知らないでいるよりかは全然マシだった。

 

 翡翠が使うのは対戦相手によって変幻自在にプレイスタイルが替わるミッドレンジデッキだ。

 アリシアが使うのは完全受け身なコントロールデッキの為、翡翠が攻め手となった。

 

「……負けたわ」

 

 翡翠は悔しそうに投了の言葉を告げる。

 ゲームは、翡翠の攻勢をアリシアはぎりぎりのところで捌き切って勝利した。

 次に少し居心地が悪そうにして俺の前に座ったのは蒼汰だった。

 

「……よぉ」

 

 蒼汰とは、俺が危険を冒してエイモックに会ったとアリシアがみんなに話して以来、なんだかぎくしゃくするようになっていた。

 相談なしに身勝手な事をした俺に腹を立てたんだろう、自業自得だし仕方ない。

 そんな蒼汰であったが、ウィソで対戦しているうちに少しぎくしゃくが薄れてきた気がして嬉しかった。

 

 蒼汰との対決は、相手の行動を受けて行動するコントロールデッキ同士がぶつかることになった。時がくるまで静かに動き、戦端が開くと一気にカードの応酬が始まった。

 

「……俺の負けだな。また今度やろうぜ、次は負けないから」

 

 ゲームが長引いて取れる選択肢が増える程、適確なプレイが即座に導き出せるアリシアが徐々に有利を取っていき蒼汰に勝利した。

 

 続いて、ふわっとした雰囲気のお嬢様である涼花が次の対戦相手だ。

 

「お手柔らかにお願いしますわ」

 

 蒼汰とは逆に涼花とは最近親しく付き合うようになった。

 あれから何度か涼花の家にお邪魔させて貰っている。

 彼女が蒼汰を諦めてから逆に落ち着きが増したように感じて、以前よりもさらに魅力的になっている気がする。

 蒼汰は随分惜しい事をしたんじゃないかと今でも思ってる。

 

 ……そんな事を言っても仕方の無い事だろうけどさ。

 

 ゲームは速攻デッキを使う涼花による猛攻をアリシアががっつりと受け止める展開になる。

 

「……負けましたわ」

 

 ぎりぎりのところで凌いだアリシアが、なんとか勝利をもぎ取った。

 

 ゲームを終えて、部員全員でハンバーガーショップで買い食いをして帰った。

 みんな最後まで笑顔だった。

 

 ――次は六日後。

 

三月二十六日()

 

 随分と暖かい日だった。

 折角の日曜日だったので、どこかに行かないかと提案したが、今日は一日一緒にお家でのんびり過ごしたいです、というアリシアの希望で家にいる事になった。

 

 俺達はいろんな話をした。

 

 異世界でのこと。

 この世界でのこと。

 

 俺がアリシアの事をどう思っていたのか。

 アリシアが俺の事をどう思っていたのか。

 

 ときどき、アリシアの事をエッチな視線で見てしまっていた事が、思いっきり本人にバレバレだったのはショックだった。

 しかも、迫られたら拒絶するつもりは無かったとか……

 

 他の娘に迫られている俺を見て、ずっと側にいる自分が手を出されないのには何か原因があるのか悩んだ事もあったと聞いて、必至に我慢してきた俺の努力はなんだったのかと残念な気持ちになったりもした。

 わたしも素直になっていれば良かったです、とアリシアも残念そうに言った。

 

『イクトさん、来週は遊園地ってところに行ってみたいです……デート、しませんか?』

 

 アリシアから、控えめに切り出されたお誘いの言葉に、俺は一も二もなく了承の返事をした。

 

 彼女は何も言わなかったけど、わかってしまった。

 これが最期のデートになるということ。

 

 ……もう、アリシアは限界なんだって。



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デート(その1)

アリシアが私にくれたもの

 

未来、命、彼女のすべて

 

そんなアリシアに俺は何ができるというのだろう?

 

まだ、何も返せてなんていやしないのに

 

その機会は永遠に失われようとしている

 

だからせめて――

 

どうか、最後まで楽しい記憶を残せるように

 

終りの刻まで笑っていよう

 

……そう、決めたんだ

 

 

 

四月二日()

 

 朝――目覚めは不思議と穏やかで。

 

「おはようアリシア」

 

 一週間ぶりにするいつもの挨拶。

 

『――おはようごさいます、イクトさん』

 

 返ってきたアリシアの声に、俺は内心胸を撫で下ろす。

 

『今日はとってもいい天気ですね!』

 

「うん」

 

 やわらかな朝の日差しが窓から部屋に差し込んできて暖かい。

 絶好のデート日和だった。

 

『きっと、てるてる坊主のおかげですね』

 

 窓にぶら下がったそれに気づいたアリシアが言った。

 それは、昨晩優奈と二人で作ったてるてる坊主。

 昨日の天気予報では晴れるかどうか五分五分で、すがる思いで作ったものだった――本当に晴れて良かった。 

 

「おはよう、二人共」

 

 床に敷いた布団で寝ていた優奈が、目元を擦りながら挨拶する。

 昨日は優奈と別々に寝ていた。眠りに落ちるまでアリシアの事だけを考えていたかったからた。

 優奈は俺が眠れるかどうか心配していたけど、一晩くらいどうって事はないからと押し切った。

 案の定、いろいろと込み上げてきて殆ど眠れなかったけど、それでいい。

 欠伸を噛み殺している優奈もあまり眠れなかったようで、俺の我儘に巻き込んでしまって申し訳なく思う。

 

『おはようございます、優奈』

 

 念話を起動したタイミングで、アリシアが優奈に挨拶する。

 

「ん……」

 

 優奈は挨拶に応える代わりに、のそのそとベッドに上がって、俺をぎゅっと抱きしめてきた。

 私と同じシャンプーの匂いが一瞬ふわっと鼻孔をくすぐって、それから、甘い優奈の匂いで満たされる。

 俺はすっかりこの匂いで安心する体になってしまっていた。

 力を抜いて身を委ねる。

 両腕できゅっと強く抱きしめられて――俺を包み込む優奈は、少し震えているように思えた。

 

「晴れて良かったね……今日はいっぱい楽しんできてね」

 

「うん!」『はいっ!』

 

 俺達はふたり元気に返事をした。

 

 それから無言で互いの温もりを確認しあう。

 一分くらい、たっぷり抱きしめられてから離れる。

 

「デートに行くなら目一杯おめかししないとね! あたしがやったげるから、まずはぱぱーっとご飯食べちゃお!」

 

『ありがとう、ユウナ!』「う……」

 

 やる気溢れる様子に俺は少し引き気味になるけど、今日は優奈の好意を素直に受けておくことにする。

 今までの俺はあまり着飾る事に意識を向けて来なかったので、化粧の仕方も碌に知らなかったから。

 

 優奈と一緒に一階に降りる。

 リビングには、キッチンで料理している母さんと、ソファーに座ってテレビを流し見ながらノートパソコンを操作している父さんが居て、家族全員が揃う事になった。

 俺達は挨拶をして、並んでダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。

 

『うわぁー、美味しそうです!』

 

 並べられていた母さんの朝食は、いつもよりも少し気合いが入っていた。

 ご飯、お味噌汁、漬物皿、ソーセージ付きベーコンエッグ、サラダ、デザートのフルーツ。

 メニュー自体は普段出ている物と変わらずに、それぞれが少しずつ手が込んでいた。

 アリシアがいつも通りミンスティアへの感謝の祈りの言葉を捧げ終わるのを待ってから、

 

『「いただきます」』

 

 と唱和して、俺達は朝ご飯を食べ始めた。

 茶碗と箸を手に取って、一品づつゆっくりと味わって食べていく――味がアリシアに届くように祈りながら。

 

『……うん、美味しいです!』

 

 アリシアの上機嫌な声を引鉄にして会話が始まった。

 今日のデートの予定とか、着ていく服とか化粧とかいったそう言った話で盛り上がる。

 母さん……やたらフリフリな服を俺に着せようとするのは勘弁して欲しい。

 父さんは基本的には会話には入らず、ソファーで背中を向けたまま作業をしていて、たまに話が振られたら答える。

 これもいつも通りの光景だ。

 

『「ごちそうさまでした」』

 

 優奈より先に食べ終えた俺達は再び両手を合わせて言う。

 

『お母様、いつも美味しいご飯をありがとうございます。わたし、お母様のご飯大好きです』

 

「アリシア…………ありがとう、ね……」

 

 返事の声は震えていた。

 母さんは手で口元を押さえて、目尻に皺を寄せている。

 

「ご、ごめんなさい……お手洗いに行ってくるわね」

 

 そう言い残して、母さんはリビングから飛び出した。

 

 残されたリビングに不意に沈黙が訪れる。

 食器が立てる音と、テレビから流れるニュースの音声だけが、室内に聞こえていた。

 少し間を置いて、父さんが無言で立ち上がってリビングを出ていく。

 

 誰も何も言わない……言わなくてもわかっていた。

 もしあそこで母さんが泣き崩れていたら、取り繕うようにして作られた日常は壊れてしまっていただろう。

 そうならないように母さんは出ていったのだ。

 

 涙は今日という日に相応しくない。

 だって、今日は楽しいデートの日なのだから。

 

「ごちそうさま!」

 

 朝食を終えた優奈と一緒に食器を片付けてから、三人で会話を再開する。

 遊園地で何に乗りたいとか、どれから行く予定なのか、優奈が取り出したスマホでアトラクションの案内を見ながら、俺達はあれに乗りたいこれも良いと楽しく計画を立てた。

 

 そのうちに父さんが戻って来てソファーに座り、そしてまた少しして母さんが戻ってきた。

 

 母さんはそのまま台所で食器を洗っている。

 

「それじゃあ、出掛ける準備しましょ」

 

 と優奈に促されて、俺達はリビングを後にした。

 最初は洗面所。洗顔をしてから、化粧水と乳液をつける。

 それから、俺の部屋に戻って服を着替えた。

 姿見の前に立ってお澄まし顔で微笑んで、アリシアにお披露目する。

 

『この服とてもかわいいです!』

 

 白ベースに水色のチェック、そして白のカラーがついたセーラーワンピース。

 この前優奈と一緒に街に行ったときに買った服で、アリシアは初見になる。

 服のデザインがアリシアに良く見えるように鏡の前でくるくると回る。裾やカラーがふわっと翻るのがとても楽しい。

 

「……ふふっ、やっぱりそれ似合ってるわね」

 

 いつの間にか部屋に入って来た優奈が、俺の様子を見て言った。化粧品が入ったバッグを小脇に抱えている。

 

「うん、かわいいよね!」

 

 思わず私もテンションが高く応えた。

 これは、お店で一目惚れして買った服だった。

 アリシアもきっと気に入ってくれると思ってはいたけど、実際に反応して貰えるとやっぱり嬉しいものだ。

 ……結構いい値段したから、財布は少し寂しくなったけど。

 

 優奈が椅子を持ってきてくれて、そのまま姿見の前に座って化粧してもらう事になった。

 

「アリスも少しづつ化粧の仕方も覚えないとね」

 

 優奈の申し出はありがたいものだった。

 少しだけめんどくさいと思う気持ちもあるけれど、今後生きていく為には必要になる事だ。

 

「と言っても、あたし達の歳だと濃い化粧は逆に不自然になるからね。軽く自然に仕上げるだけだし、そんなに手間は掛からないわ」

 

 ヘアバンドで前髪が上げられて化粧が始まる。

 手慣れた優奈によってささっと整えられていく俺の顔。

 化粧なんて今の俺には要らないんじゃ……と正直思っていた。

 だけど、実際に施されてみたら、自然な雰囲気のままで印象が際立つようになっていて。

 可愛らしさが強調された見慣れぬ私にドキドキする。

 

「これが私……」

 

 鏡の中で、薄く紅が塗られた唇が動いて。

 なんとなく気恥ずかしくなって思わず視線を反らした。

 

『……素敵です』

 

「今日は最初だからあたしが全部やったけど、次からは一緒に練習しようね」

 

 優奈は俺のヘアバンドを外しながら満足そうに言った。

 

「次はヘアメイクだね」

 

 と言っても今日はいつものストレートヘアから変えるつもりはないので、整えて貰うだけだ。

 お出かけ着で化粧までした私が、椅子に座ったまま優奈に櫛で髪を梳かれている。

 姿見に映る光景は、まるで夢でも見ているかのように幻想的で――それが俺である事も忘れて思わず見入ってしまう程だ。

 櫛が入る度に春の日差しを受けてきらきら光る白銀の髪が、はらはらと落ちていく。

 心地よい感覚に俺は思わず目を細めた。

 

「うん……上々ね」

 

 鏡越しに見える満足げな優奈の表情。

 そして、鏡の中には頬を上気させた美少女が居た。

 心臓がトクンと跳ねる。

 

 俺はナルシストなのだろうか?

 ……いや、これは仕方ないだろう。

 だって、鏡に映っているのは生まれて初めて俺が本気で好きになった女の子の姿なのだから。

 

 優奈に礼を言って立ち上がり、勉強机の前に立つ。

 引き出しから小箱を取り出して開け、中に入っているクリスマスに買ったツインのリングを摘んだ。

 左手を眼前に掲げて、アリシアに見えるように指輪を薬指に嵌める。

 そして最後に、セーラーワンピースと揃いで買ったお洒落な黒のラインが入った麦藁帽子(カンカン帽って言うらしい)を頭に乗っけて完成だ。

 

「……これで完璧っと」

 

「アリスーこっち向いてー?」

 

 振り返ると優奈がスマホのカメラを構えていた。

 

 しょうがないなぁ……

 

 俺は優奈の方を向いて、何枚か写真を撮って貰う。

 ちょっと調子に乗って、ファッションカタログで見るようなポーズを幾つか取ってみたりした。

 見せて貰った写真に写った私は、我ながらあざとかわいかった。

 

『イクトさん、とってもかわいいです!』

 

 いえいえ、それほどでも……あるかな?

 

 優奈は自分も着替えるとのことで、先に部屋を出て自分の部屋に戻った。

 俺は誕生日に母さんから貰ったお出かけ用の白い小さなバッグにスマホを入れて肩に掛けると先にリビングに降りる。

 両親は着飾った俺の姿を絶賛してくれて、何だかくすぐったく思う。

 やがて、普段着に着替えた優奈がリビングに降りて来て。

 顔を合わした早々に優奈が遠慮がちに聞いてきた。

 

「ねぇ、あたしは駅前に買い物に行こうって思ってるんだけど……よかったら駅まで一緒に行ってもいい?」

 

『はい、勿論です! 一緒に行きましょう』

 

「ありがとうアリシア。アリスもデートの邪魔しちゃってごめんね? ……その、駅前までだからさ」

 

 少しでも長くアリシアと一緒に居たい、だけどそれは俺達二人のデートを邪魔する事になる。

 そんな風に考えている優奈の気持ちが見て取れたから。

 

「気にしないで。私も優奈と一緒がいいよ」

 

 と言っておいた。

 そもそも俺は優奈にお世話になりっぱなしで、彼女を邪険にする選択肢なんて端っから無い。

 それに優奈はアリシアと最も一番親しい同性の友人であり家族でもあるから……

 

 出発にあたって、家族揃ってのお見送りになった。

 母さんは父さんに寄り掛かるようにして立ち、父さんは母さんの肩を抱いて静かに支えていた。

 

 二人の視線を受けながら靴を履く。

 アトラクションに乗る為、履くのは黒のローファーだ。

 

「……それじゃあ、行ってくるね」

 

 靴を履き終えた私は振り返って言う。

 

「行ってらっしゃい――私の大切な娘たち」

 

「楽しんでおいで」

 

 短く挨拶を交わす。

 最後まで、父さんと母さんは笑顔のまま。

 

『お父様、お母様、行ってきます――今までありがとうございました』

 

 アリシアの言葉に合わせて俺は丁寧に頭を下げる。

 体が自然に動いていた。

 礼から直るとき、両親と目を合わせてしまったら堪えなくなりそうで、俺はさっと振り返ると、そのまま玄関から家の外に駆け出した。

 後ろ手で締めたドアで、両親の姿は完全に見えなくなった。

 

 家の前の道では、先に出た優奈が待っていて。

 少し息の荒い俺を見ても何も聞かず、俺の手を取って両手で包み込んでくれた。

 

「大丈夫……?」

 

 優奈の手の柔らかさが、温もりが俺に安心感をもたらしてくれる。

 

「……ん、もう平気」

 

『ありがとうございます、ユウナ』

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 最後にもう一度だけ振り返った後――

 我が家に背を向けて俺達は駅に向けて歩き出した。



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デート(その2)

 駅までの道を三人で歩く。

 俺と優奈、そしてアリシア。

 

「ほんと、いい天気ねぇ」

 

 優奈の言葉に俺達は同意の言葉を返す。

 日差しは優しく、風も随分と柔らかい。

 ここ数日で空気は緩んで、すっかり春めいていた。

 

「ねぇ……私なんか変じゃないかな?」

 

 俺は二人に尋ねる。

 今日の俺は、いつにも増して道行く人の視線を集めている気がした。

 

「全然? 今日のアリスはとってもかわいいからね。そりゃあみんな見るわよ」

 

『そうですよ、自信持っていいと思いますよ!』

 

 二人の言葉を受けて俺は複雑な気分になる。

 この体になって他人の視線に晒される事には随分と慣れたつもりだ。

 だけど、デートの為に着飾った姿を注目されるというのは、なんだか気恥ずかして、くすぐったく思うのだ。

 

「あら、アリスと優奈じゃない」

 

 交差点で信号待ちをしていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。

 

「おはよう二人共」

 

 それは、クラスメイトである純と文佳だった。

 

「おはようアリス、今日はとても素敵ね。似合ってるわ」

 

「え! ……ほんとだ!? 今日のアリスめちゃくちゃ気合い入ってる。すごくかわいい!」

 

 純は俺の格好を見るなり目を輝かせて、だだだーっと、こちらに駆け寄ってきた。

 

「あ、ありがと」

 

 純のテンションの高さに俺は若干引き気味で応える。

 

「それに比べて優奈は割りとカジュアルだね――ふふん、ボクが察するにアリスはこれからデートとみた!」

 

 猫のように丸くした目をらんらんと光らせて純は言った。

 ……するどい。

 

「そ、そうだけど……?」

 

「そんなにおめかしして、相手はやっぱりあの先輩なのかな? なのかな!?」

 

「あ、いや。それは……」

 

 何といえば良いのだろう。

 俺は別に勘違いされたままで支障は無いけれど、あんまり噂が広がってしまい、もし蒼汰が好きという女性に勘違いさせてしまったら蒼汰に迷惑が掛かるだろう。

 

「蒼汰とは本当にそういうのじゃなくて……」

 

「だったら、いったい誰とデートなのかな?」

 

「そ、それは……」

 

 自分の中にいるもう一人の人格とデート――なんて言える筈もなく。

 

「ふふーん、照れなくてもいいって! ボクは応援してるよ! それで、どこに――」

 

「はい、ストップ。やりすぎよ、純――アリスが困ってるじゃない」

 

「えー、でもでも、文佳だって気になるっしょー!」

 

「アリスだって話し辛い事だってあるんだから、そんなに根掘り葉掘り聞くものじゃないわ」

 

「えぇ、だってぇ……!」

 

「だったら、この前貴女が相談してきた山崎くんとの事、二人に洗いざらい話してしまってもいいのかしら……?」

 

 とたんに純の顔が真っ赤に染まる。

 

「ぜ、絶対にダメ!」

 

「ほほぅ、それは気になる話だねぇ」

 

 と、優奈は興味津々のようだ。

 山崎くんと純はクラス公認のラブラブカップルである。

 本人達は一応気を使っているらしく、クラスでいちゃいちゃとする事は無かった。

 授業の間の休み時間はほとんど話もせずに、こっそりとメッセージをやり取りする姿を見るくらい。昼休みも半分くらいは友達と過ごしている。

 それでも、ふとした拍子に相手の姿を目で探してしまうようで、不意に視線が合うと互いに顔を赤くして顔を背けたりして、それがとても初々しく思えた。

 だけど、ここ最近は視線が合っても、目で会話して微笑んでから自然に逸らすようになっていて、二人の間に何かあったのではないかと噂になっていた。

 

「あ、いや……それは、その……」

 

「ほら、貴女にだって言えない事はあるんだから、アリスにだって強要してはダメよ」

 

「わかったよぉ……アリス、ごめんね」

 

「私は別に気にしてないから大丈夫だよ」

 

「今日のアリスは本当にいい笑顔してたから。そんな顔をさせる相手がどんな人か気になっちゃって……それに最近のアリスはずっと悩んでる風だったし」

 

 後頭部を触りながら、純はばつが悪そうに言う。

 思えばクラスメイトにも随分と迷惑を掛けてしまっていた。

 ここ最近の俺はアリシアの事で頭が一杯で、何を聞いても聞かれても話半分しか入ってこない状況が続いている。

 周囲には生まれた国絡みの事情で悩んでいると伝えてはいるけれど、そんな状況がもう二ヶ月近くも続いていて、元気の無い俺の事を心配してくれる人は多かった。

 だけど、俺にはそんな気遣いに応える余裕すら無くて――今もクラスで邪険にされていないのは、優奈のフォローのおかげだと思う。

 そんな中でも、この二人は以前と変わらない態度のままで居てくれて――それが、とてもありがたかった。

 

「ごめんね、二人にも随分心配掛けちゃって……」

 

 二人共すぐさま気にしないでと返してくれる。

 

「その……詳しい事は言えないけど、デートの相手は私の本当に大切な人なんだ」

 

「うん、わかった。茶化すように聞いてごめんなさい……」

 

「もういいってば……今度純と山崎くんとの話も聞かせてね?」

 

「う……話せる範囲で良かったら……」

 

 これはもう……しちゃってるのかな?

 いつかお泊まり会とかして、根掘り葉掘り聞いてみたいところだ。

 

「それじゃあ、そろそろ私達は行くわね。これ以上足止めするのも悪いし」

 

 私達が交差点で話をしだしてから、もう何回も信号が変わっていた。

 

「といっても、ボク達はこれから図書館で宿題なんだけどね……」

 

 純が盛大にため息をつきながら言う。

 

「そんなに嫌なら帰ってもいいんだけど? 昨晩、私に泣きついて来たのは誰だったかしら」

 

「あー嘘嘘、ごめんなさい! 文佳が居ないと宿題が進まなくて困るのはボクだから。トショカン、オベンキョ、タノシミダナー!」

 

「……ったく。ほんと、騒々しくてごめんね」

 

「てへへ……アリスはボク達の分もデート楽しんできてね!」

 

「うん!」

 

 そのときアリシアにささやかなお願いをされた。

 俺は是非もなく了承する。

 

「それじゃあ、バイバイー!」

 

 二人が離れていく。

 そして――

 

『さようなら、お二人とも――お元気で』

 

 アリシアが念話で別れを告げた。

 それは彼女達が初めて交わす言葉でもある。

 二人はアリシアの事を知らない。

 だけど、例え俺達しかその事を知る人が居なくても、アリシアが俺と一緒にクラスの一員として過ごしてきたのは事実だった。

 

 二人は頭の中に聞こえてきた声に、少しだけ怪訝そうな顔をして。

 

「アリスも元気でねー!」

 

 と、純がぴょんぴょん跳ねて返事をしてくれた。

 多分、俺からの声が変な風に聞こえただけと思ったのだろう。

 文佳はそんな純の行動に恥ずかしそうにしながらも、俺達に会釈を返してくれた。

 

『……わたしの我儘を聞いていただきありがとうございました』

 

「こんなのお安い御用だよ」

 

 ……こんなことしか俺には出来ない。

 

 信号が青に変わって、俺達は駅に向けて再び歩き出した。

 優奈が中心に話を振って、どうという事のない話をしながら歩く。

 だけど、駅が近づくにつれて段々と口数が減っていって。

 駅前のロータリーにつく頃には無言になっていた。

 そのまま駅に入り切符を買って、とうとう改札の前までやって来た。

 

「電車が来るまで5分くらいね」

 

 時刻表を確認して優奈が言う。

 それはつまりアリシアと優奈との間に残されたタイムリミットでもある。

 

『ユウナ、今までありがとうございました。わたし毎日が本当に楽しかったです』

 

「アリシア……あたしも楽しかった。本当の妹が出来たみたいに――ううん、あたしアリシアの事を本当の妹だって思ってる」

 

『ありがとうございますユウナ。ただ、その……わたしの方がお姉さんなのですけどね?』

 

「そういえば、そうだったね……すっかり忘れてた」

 

 ったく、優奈のやつ……

 俺が兄だって事も忘れてたりしてないよね……?

 

『教会で生まれ育ったわたしには、本当の家族っていうのがどんなものか知りませんでした』

 

 淡々と言葉を紡いでいくアリシア。

 

『……だけど、お母様、お父様、そしてユウナにイクトさんの家族として迎え入れて貰って。今では、それがどんな感じなのか少しだけわかった気がします』

 

「っ――アリシア!」

 

 感極まった優奈が、ぎゅっと俺を抱きしめてきた。

 いつものように胸元に包み込む抱き方じゃなくて、少し屈んで肩を抱くような抱き方なのは、私が化粧をしているからなんだろう。

 首元からふわっと香るいい匂いは、家を出る前に一緒につけた柑橘系のオーデコロンのもの。

 

 俺達が抱き合っている光景に周囲を行き交う人達が視線を向けてくるけど、それが駅で見られる日常光景であると理解すると、それ以上見ないようにそっと視線を外していく。

 そのまま、俺達は何も話せなかった。

 何かを口にしたら、いろんなものがそのまま零れ落ちてしまいそうだったから。

 だけど、ずっとそうしている事は出来なくて……

 電車の到来を告げるアナウンスがその終わりの刻を俺達に知らせた。

 

「優奈……」

 

 俺のつぶやきを切欠にして、優奈が数歩後ろに下がって俺達から離れる。

 

「いっぱい、いっぱい、楽しんで来てね」

 

『――はいっ!』「うん!」

 

 俺達は力一杯返事した。

 優奈に背を向けて、改札に向けて歩く。

 改札の人に切符を渡して切って貰う。

 

 駅の構内に入ってから振り返る。

 俺が振り返るのを見た優奈の表情が一瞬曇った。

 何も出来ない自分自身の無力さ、それに対する贖罪の意識。

 そんな感情が瞳から伺い取れた。

 何故わかったのかというと、その感情は俺自身強く抱いていたものだったから。

 

「――っ」

 

 だけど、優奈は歯を食いしばって言葉を飲み込んで。

 精いっぱいの笑顔になって俺達に向き直った。

 キラキラと舞う光。

 

「いってらっしゃい!」

 

 電車のブレーキが立てる金属音がけたたましく響く中でも、優奈の声ははっきりと聞きとれた。

 プシューと音を立ててドアが開いて、場内アナウンスが流れる。

 

「『――いってきます』」

 

 言うが早いか再び背を向けて。

 俺達は電車に乗り込んだ。

 発車を告げるベルがジリジリと鳴って、やがてドアが閉じた。

 

 そして、俺達のデートが始まる。

 

 これから待っているのは楽しい事ばかり。

 

 ――だからまだ、こぼれないで涙。



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デート(その3)

 電車に乗って三十分程のところにある遊園地。

 そこは、俺が住んでいる地方の都市圏にある唯一の遊園地で、家族連れやデートの行先として定番の場所だった。

 もちろん俺にとっても馴染みは深くて、子供の頃から家族や幼馴染達と一緒に何度か来た事がある。

 といっても、ここ数年はすっかりご無沙汰だったけど。

 ……最後に来たのは、まだ俺が小学生の頃だったか。

 

『わぁーー! これが遊園地なんですね。素敵です!』

 

 駅から出て視界に飛び込んで来た光景にアリシアは感動の声を上げる。

 駅の真正面には遊園地入口のゲートがあって、背後には観覧車やジェットコースター等の巨大なアトラクション。そして、周囲には陽気なマーチが流れていた。

 

『賑わってるねー』

 

 ゲートの前に並んでいる人達の後ろについて順番を待つ。

 春休み最中の日曜日ということもあって学生達やカップル、そして親子連れ等、様々な人達が並んでいた。

 その中で傍目に一人で来ているように見える俺は、その容姿も相まって浮いてしまっている気がした。

 

 ……まあ、この姿になってから、周囲に溶け込めた事の方が少ないけど。

 他人からじろじろと見られるのも、もう慣れたものだ。

 

 受付で一日主なアトラクション乗り放題になるワンデーパスと、待ち時間が短くなるファストパスを購入して入場した。

 

 ……ええと、受付のお姉さん。私は高校生ですからね?

 保護者も居ませんから!

 

  ※ ※ ※

 

『それじゃあ、まずはスパイラルハリケーンに乗りましょう!』

 

 うきうきとした口調でアリシアが示したそれは、いわゆる絶叫マシンである。

 その名が示す通り高速でぐるぐると回るアトラクションで、この遊園地の目玉アトラクションの一つだ。

 

『お、おう……』

 

 実のところ、俺は昔からこういう絶叫系が苦手だ。

 ここに来る度に、同行者に連れられて嫌々乗っているけれど、なんでお金を払ってあんな思いをしないといけないのか未だに理解できない。

 それでも、アリシアが楽しみにしている以上、行かないという選択肢は無い。

 覚悟を決めて順番待ちの列に並ぶと、十分程で順番が回って来た。

 バッグと帽子をロッカーに入れてから機械に乗り込む。

 

 ――ガタン

 

 視界が回る。

 

「ひぃやぁぁああああああああああ!!?」

 

 天地が目まぐるしく引っくり返り、脳がシェイクされる。

 俺は本能のままに悲鳴をあげてしまっていた。

 

『すごい迫力でしたね。楽しかったです!』

 

 まだ抜け切らぬ余韻の中、興奮した様子でアリシアは言った。

 

『……そ、それは良かったよ』

 

 フラフラとした足取りでよろめきながら応える。

 俺は足元に地面がある事のありがたさを痛感していた。

 

『イクトさんは楽しめなかったのですか?』

 

『そんなことは無いよ……ただ、ちょっと激しい動きに体がついていけなかったというか……』

 

『以前のイクトさんは、飛行(フライト)で今の機械よりもずっと激しい動きをしてたと思うのですけど……?』

 

 異世界で風の祝福を得た俺は魔法で空を飛ぶ事ができた。

 アリシアの言う通り、大鷲のような魔獣相手に激しい空中戦をしたり、何百メートルもの上空から身一つでスカイダイビングした経験もある。

 だけど……

 

『自分の意思で飛ぶのと、身動きの取れない状態で激しく揺れ動かされるのとでは、全然違うよ』

 

『はぁ……そういうものなんですね……』

 

 俺の話を聞いたアリシアは不思議そうにしていた。

 

  ※ ※ ※

 

 次に乗ったのは回転ブランコだ。

 馬鹿でかい傘のような円形の構造物をぐるりとブランコが吊り下げられているもこで、遊園地の定番の乗り物である。

 

 合図の音が鳴ると、傘が回転し始めて、俺達の乗ったブランコも徐々に勢いがついていく。

 俺の長い銀の髪がたなびいて、風が心地よい。

 遠心力でふんわりと体が浮く感覚がする。

 

『おおー地面が傾いてますーー!』

 

『気持ちいいねーー』

 

 これくらいなら全然平気だ。

 風が少し冷たいけど、耐えられないほどでもないし。

 

 ただ、はためくワンピースがどうしても気になってしまう。

 帽子とバッグを持った両手で膝を抑えていたけれど……下から見えていないよね?

 

  ※ ※ ※

 

 今度の選択はメルヘンカップ。

 これも定番のアトラクションで、カップを模した乗り物がくるくると回りながら舞踏会のように円を描いて動くものだ。

 俺はスカートの後ろを手で抑えながら、ティーカップの座席に腰を下ろす。

 

 ……ものすごく注目されている気がする。

 それどころか、ちらほらスマホをこちらに向けている人も居て……盗撮だよね、それ?

 別にいちいち目くじらを立てるつもりはないけど。

 

『一人で乗ってるのが珍しいのでしょうか?』

 

 ヒソヒソとこちらを見てざわめく周囲の人達を不可思議に思ったアリシアが呟く。

 確かに周りはカップルや家族連ればかりで、見渡す限り一人で乗っているのは俺達だけだ。

 

『それもあるだろうけど……多分もっと別の理由だと思う』

 

『場違い……だとか?』

 

『逆だと思う。似合い過ぎているというか……』

 

 今の俺は銀髪で日本人離れした少女の姿をしている。

 そんな俺が一人でメルヘンカップに乗っている絵面は、非常にメルヘンチックになっているのだろう。

 周りはそれほど気にはならないけれど、少女趣味の極まりない状況を自分が作り出しているという事実は何とも受け入れがたいものがある。

 音楽が鳴りカップが動き始めても、気恥ずかしさは抜けなくて。

 俺は手元のハンドルでカップを回す事で視界をぼかして、気分をごまかすのだった。

 

 くるくる、くるくる。

 

『……これ、身体能力向上使って全力で回したらどうなるかな?』

 

『やめてくださいね?』

 

 アリシアに怒られてしまった。

 

  ※ ※ ※

 

 次に俺達が選んだのはゴーカートだ。

 

『車の運転が体験できるんですね!』

 

『……ちっちゃいやつだけどね』

 

 と言ってもここのカートは結構スピードの出る本格的なものだ。それに普通の車と違って地面が近いので結構迫力がある。

 

 だけど……

 

『スカートだと乗れないのか……』

 

 うーん、服のチョイスをミスったかもしれない。

 男の頃は服装なんて気にした事もなかったからなぁ。

 でも、この服はデートに着て来たかったし……

 女の子のお洒落って難しい。

 

『あ、貸出用のスパッツがあるみたいですよ?』

 

 良かった、だったら問題は解決だ。

 ホッと安心した俺は早速受付に申し込む。

 

『わひゃーー! はーやーいーでーすーー!』

 

 初めてカートを体験したアリシアは、目まぐるしく動く視界に歓声を上げていた。

 俺は記憶を総動員してコースを思い出しながら、カートを操りコーナーを攻めていく。

 以前、蒼汰と夢中になってタイムを競い合った事を思い出して、懐かしい気分になった。

 

「ふぅ……まあ、こんなものかな」

 

 ヘルメットを取り電光掲示板に表示されたタイムを確認する。

 ブランクがあるにしてはまずまずのタイムで、デイリーランキングの下の方に乗る事が出来た。

 順番待ちをしている男の子達から受ける尊敬の視線が心地良い。

 

 ……ふふん、君達とは年季が違うのだよ。

 

  ※ ※ ※

 

 そして、ついにやって来た絶叫系アトラクションの花形。

 この遊園地の一番の目玉でもある急転直下のジェットコースターだ。

 

『……別に無理して乗らなくても良いですよ?』

 

『大丈夫。これくらいどうってこと無いさ!』

 

 遊園地に来たら毎回優奈に連れ回されて絶叫系アトラクションをコンプリートしていたのだ。

 慣れ……はしないけど、我慢は出来るさ。

 ……多分。

 

『あ……』

 

 アトラクションの注意事項を見たアリシアが小さく声をあげる。

 

『身長140センチ以上ないと乗れないみたいです……』

 

 アリシアは自分が身長制限に引っ掛かっていると思ったようだ。

 ――だけど、問題は無い。

 

『大丈夫、今の私はこの基準をクリアしてるからね!』

 

 この前の身体測定で、私の身長は140センチ台に突入していたのだ。ビバ成長期!

 

『……成長、してるんですね』

 

『へっへー』

 

 俺は得意げに胸を張る。

 ……こっちの方は以前と変わってなかったのは黙っていよう。

 

『それじゃあ、何も問題無いとわかった事ですし、張り切って行きましょうか!』

 

『え……あ、うん……』

 

 俺は一瞬で意気消沈した。

 

 シートベルトが降ろされて、スタッフの人が固定されているか確認をしていく。

 ……以前乗ったときと比べてやけに隙間が空いているような気がするんだけど、大丈夫だよな?

 

 ブザー音の後、車両がカタカタと音を立てて動き出す。

 急な角度がついたレールをゆっくりと登っていく。

 

『わくわくしますねーイクトさん。あっ、景色が綺麗ですよ!』

 

 パンフレットによると観覧車の次に見晴らしが良いらしい。

 この高さからだと園内を一望出来る。

 それどころか、園の周囲を取り巻く雄大な山々まで見通せた。

 

 ――ああ、俺は何でまたこれに乗っているのだろう。

 

 思い出した。

 前に乗ったときも、同じように後悔して、もう絶対に二度と乗らないって心に誓ったんだった。

 今度こそ誓おう。もう俺は二度と――

 

「ぴぃゃゃあああああああーーーー!!!!」

 

 俺が覚えていたのはそこまでだった。

 後はひたすらされるがままに、スピードの暴力に耐えるだけ。

 とにかく、早く終わってくれと祈っていた。

 

  ※ ※ ※

 

 時間的に丁度よい頃合いになったのと、絶叫マシンの後で休憩したかった事もあり、俺達はレストランに入る事にした。

 

『実は、一度食べてみたいメニューがあるのですがいいですか……?』

 

 アリシアが見えるように、メニューを捲りながら眺めていると、アリシアがそう尋ねてきた。

 

『もちろんだよ』

 

 最初っから、アリシアの食べたいものを頼むつもりだった俺は一も二も無く答えた。

 だけど、アリシアから聞いたのはメニューは想定外のもので。

 

「お、お子様ランチをお願いします……」

 

「は、はい。お子様ランチですね……注文は以上でよろしかったでしょうか?」

 

「は、はい」

 

 ウェイトレスの若いお姉さんはプロフェッショナルで、顔色も変えず応対してくれた。

 

『すみません、いろんな創作物に出て来るもので、どうしても気になってしまって……』

 

 ウェイトレスさんが立ち去った後も固まったままの俺の様子をみて、申し訳なさそうにアリシアが言う。

 

『だ、大丈夫だから……! 久しぶりだったから、その、ちょっと緊張しただけだよ!』

 

 高校生にもなって、お子様ランチを頼む事になるとは思わなかった。

 最後に食べたのっていつ以来だろう……これって年齢制限とか無かったっけ?

 それとも、注文してもおかしくない年齢に思われたとか……?

 

「お子様ランチご注文のお客様ー。こちかから、おもちゃをおひとつどうぞ」

 

「は、はひっ!?」

 

 不意に声を掛けられて変な声が出た。

 そんな俺にお姉さんは微笑んで、おもちゃが入った箱を置いて立ち去ってくれた。

 俺は取り敢えず、持ってきてくれた大きな箱を覗き込んで気分を誤魔化す事にした。

 

『アリシアはどれがいい……?』

 

 無心で箱からおもちゃを取り出していく。

 車や飛行機のおもちゃは男の子向け。

 ビーズ細工や装飾品やお人形が女の子向けなのだろう。

 

『イクトさん、そのティアラがいいです』

 

 アリシアに言われて一瞬どれか迷ったが、底の方にある髪飾りに気がついてそれを手に取った。

 

『これ……?』

 

『はいっ!』

 

 ティアラを取り出した俺は、まずは残りのおもちゃを片付けた。

 そして、ティアラをじーっと見る。

 いかにも安っぽい銀メッキが施されたプラスチック製のおもちゃ。袋を閉じてある厚紙には『今日からお姫様! プリンセス・ティアラ』と書いてある。

 アリシアがどうしてこんなものを欲しがったのかはわからないけど……まあいいか。

 俺はビニール袋に入ったティアラを取り出して、頭に着けてみた。 

 ……なんとなくアリシアがそうする事を望んでるように思えたからだ。

 

 スマホを取り出してインカメラで自分の顔を写し出す。

 

『ふふっ、かわいい……ありがとうございます。イクトさん』

 

 アリシアの反応に俺は満足した。

 せっかくなので撮影しておこうかな。

 

 ――カシャリ

 

「お子様ランチのお客様ー」

 

「は、はいぃぃ!?」

 

 動転する俺に構わず、ウェイトレスのお姉さんが料理を置いていく。

 冷静になれ、冷静になるんだ、俺……!

 

「……お似合いですよ、それ」

 

「……あ、ありがとうございまひゅ」

 

 ぎゃー

 

「それでは、残りのおもちゃは片付けますね。ごゆっくりどうぞ」

 

 ウェイトレスのお姉さんが去った後も俺はダメージが抜けずしばらく固まっていた。

 

『うわーー! かわいいですっ!』

 

 ファンシーな容器に、これまた色鮮やかに盛り付けられたメニュー。一口唐揚げ、ハンバーグ、タコさんウィンナー、ゼリー、そして、ケチャップたっぷりのオムライスには英国の旗(ユニオンジャック)が翻っている。コップにはオレンジジュース。

 まごうこと無くお子様ランチだ。

 俺はファンシーなフォークとスプーンを手に取って食べ始める。

 

『美味しいですね、イクトさん!』

 

 アリシアが嬉しそうに言う。

 その声を聞いたら、もう他の事なんて気にならなくなった。

 

 ――久しぶりに食べたお子様ランチは、なんだかとても懐かしい味がした。



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デート(その4)

 午後一の乗り物は足こぎボートにした。

 食事の後なのでおとなしめの乗り物で、腹ごなしの軽い運動ができるのでちょうど良いと思ったからだ。

 湖にひよこ形のボートが点々と浮かんでいる様子は、なんとも牧歌的な光景である。

 

「……ボートを進めるのは割りと大変だけどね」

 

 キコキコとペダルを漕ぎながら俺は愚痴をこぼす。

 軽い運動と思ったけど……意外に重労働だな、これ。

 優雅に泳ぐ水鳥も水面下では必死に足を動かしている様を再現したかったのだろうか。

 ……そもそも、ひよこって泳げるのか?

 

『大変なのでしたら、魔法を使えばいいのではないでしょうか?』

 

『……それもそうだね』

 

 軽い運動はおしまいっと。

 俺はペダルから足を離して魔法を起動する。水の巫女であるアリシアの素養を引き継いだ俺にとって、このくらいの水流操作はお手の物だ。

 よちよち泳いでいたひよこのボートは、緩やかに速度を上げて水面を滑っていく。

 周りに他のボートが居ない所まで進ませて、俺は魔法を切ってボートを波間に漂わせる。

 それから、俺はお尻をずらして浅く座り直すと、全身の力を抜いた。

 

「……ふぃー」

 

 俺は気の抜けた声をこぼす。

 だらしのない格好だけど、人目のない所だからいいよね。

 今日はいつにも増して注目されたから、緊張が抜けなくて少し疲れた。

 俺はおなかの上に両手を重ねて目を閉じる。

 

『やっぱり、水に囲まれてると落ち着きますねぇ……』

 

 遊園地の喧騒が遠くに聞こえる。

 常に音楽が流れている園内と違って湖の上は静かだった。

 ボートの底に波が当たってトプントプンと音を立てた。

 

 ふたりとも無言――だけど、気まずさなんてものはない。

 まるで寄り添っているように思える程、アリシアを近くに感じる。

 そんな風に、俺達は心地よい午睡(シエスタ)をして過ごした。

 

 ――さあ、昼からは何をして遊ぼうか。

 

  ※ ※ ※

 

 海賊船というアトラクションは、船を模した大きな乗り物を振り子の要領で繰り返し弧状に揺さぶって、中に乗った人を恐怖に陥れるという拷問である。

 

「ぎにゃぁぁあああああ!」

 

 地面に向けて、勢いを増した船が落ちていく。

 地上スレスレまで落ちた後、その勢いのまま、今度は角度を付けて登っていく。

 船体は高さと引き換えに徐々に速度を失っていって、やがてぴたっと動きを止める。

 乗客である俺の体はほぼ真横になっていて。

 

「ぴにゃぁぁぁあああああああ!!」

 

 今度は背中から落ちていく。

 心臓が抜け落ちてしまいそうな錯覚に襲われる。

 ひたすら責め苦に耐える殉教者の気分だ。

 

 ――そんな中で、至極どうでもいい発見もあった。

 船が静止して浮遊感を覚える瞬間、以前は股間が縮み上がってきゅーっとなっていたけれど、今の体ではそれが無くなっている事に気がついた。

 縮み上がる物が無くなっているのだから、当然と言えば当然なのかもしれないけど……どうせなら、恐怖心の方を無くして欲しかった。

 

  ※ ※ ※

 

 遊園地と聞いたら、まずこれをイメージする人も多いくらいに定番の乗り物、それがメリーゴーランドだ。

 今、俺はその順番待ちの列に並んでいる。

 

『とっても素敵な乗り物ですね!』

 

 いかにもメルヘンな雰囲気のその乗り物は、高校生男子だった俺にとってアウェイ感が半端ない。

 例え、今の俺の外見との違和感がなかったとしても。

 午前中に乗ったメルヘンカップと違って一人乗りの席も多いので、変に悪目立ちはしないだろうというのが唯一の救いだ。

 

 順番が来て係員さんに誘導されたのは大きな作り物の白馬だった。

 俺はスカートに気遣いながら座席を乗り越えて横座りに座ると、手摺代わりの金属のバーを両手でギュッと握りしめた。

 白馬の上から周囲を見回してみる。

 普段より高い目線が何だかとても新鮮だ。

 

 ……いつも見下ろされている私だけど、今は見下ろす側なんだよ、ふふん。

 

『ふふっ、皆さんとても良い笑顔ですね』

 

 俺が後ろ暗い想いを抱いているときに、アリシアは全く違った感想を持ったようだった。

 アリシアに言われて改めて見ると、確かにみんな楽しそうに笑っている。遊園地という非日常の空間は、普段の悩みを忘れさせてくれる効果があるのだろう。

 

 合図のブザーが鳴って、ゆったりとした曲調の音楽が流れると同時にメリーゴーランドが動き出した。

 電飾がキラキラ輝いて、俺を乗せた白馬はリズムに合わせて上下に動きながら、ゆっくりと円を描いて進んでいく。

 

『素敵……まるでお姫様になったみたいです……』

 

 夢見心地な様子でアリシアが言う。

 

『だったら、俺は王子様とか?』

 

『……王子、ですか。わたしは王族に憧れはないといいますか……むしろ、若干苦手意識がありまして』

 

 王政の国にいたアリシアにとって、王子は夢物語の存在ではないようだ。

 かつてのアリシアは巫女であり教会の代表だった。

 象徴的な存在であり実務は他の人がしていたとはいえ、王族との折衝の場に出席する事も多かったらしい。

 王族との関係は概ね良好だったようだが、国内にあって独自の法を布く教会の立場は複雑で、いろいろと気苦労が絶えなかったと聞いたことがある。

 

『だから、イクトさんは勇者様のままでお願いします!』

 

 有無を言わさない様子でアリシアは言い切った。

 

『巫女になる啓示を受けた日から、わたしは勇者様にお会いできる日を心待ちにしていたんですよ』

 

『……そんな勇者が俺みたいなので失望させなかったかな?』

 

『そりゃ、イクトさんは想像してたよりもずーーっとエッチで、旅の間わたしの事をしょっちゅういやらしい視線で見てましたし、それなのに、他の女性に言い寄られたら、すぐにデレデレして鼻の下を伸ばすような人でしたけど……』

 

 アリシアの散々な評価に俺は苦笑いするしかない。

 というか、アリシアは俺のそういう視線に気づいていたんだね。

 ……そりゃそうか。今の俺だって、そういう風に見られるのわかるもんな。

 

『だけど、イクトさんは、まっすぐで、優しくて、真面目で、一所懸命で――想像してたよりもずっと素敵な人でした。だから、わたしはイクトさんに失望なんてしませんでした。イクトさんが勇者様で良かったです』

 

『お、おう……』

 

 だからって、そんな風に真っ直ぐに言われるのも照れる。

 ……褒められる事にはあまり慣れてない。

 

『お、俺も、その……アリシアが巫女で良かったよ……』

 

『え……あ、はいっ……』

 

 それから、お互い恥ずかしくなってしまって、メリーゴーランドが終わるまでお互い無言になってしまった。

 

『……えへへ』

 

 照れ笑いのような声を漏らすアリシアは可愛かった。

 

  ※ ※ ※

 

『――いっぱい遊びましたね!』

 

『これで、アトラクションも大体乗ったかな。後は……』

 

 パンフレットの地図に指を走らせて確認する。

 メリーゴーランドの後も園内のアトラクションを制覇していった結果、残っているアトラクションは後一つだけだった。

 

『……観覧車ですね』

 

『ど、どうしようか? もう一度乗ってみたいものがあるならそれでも――』

 

 俺は慌てて提案する。

 観覧車に乗ったらアリシアとのデートが終わってしまうような、そんな予感がしていたから。

 まだまだ日も高くて、心の準備もできてないと言うのに。

 

 だけど――

 

『いいえ、観覧車に乗りましょう』

 

 アリシアの言葉に俺は一瞬言葉を失う。

 

『この後イクトさんと一緒に行きたいところがあるんです。だから、観覧車に乗って遊園地はおしまいにしてもいいですか?』

 

 アリシアが続けた言葉に安堵した俺は観覧車の順番待ちの列に並んだ。

 

 ――まだ、デートが終わる訳じゃないんだ。

 

  ※ ※ ※

 

『イクトさん、今日はありがとうございました……遊園地楽しかったです』

 

 観覧車が動き出してアリシアは言った。

 

「ああ、俺も楽しかったよ」

 

 ――本当に。

 

 視界に遊園地の全景が入ってくる。

 ゴンドラの中は静かで、先程まで二人ではしゃぎ回っていた眼下の遊園地はまるで別世界のようだった。

 

『先程の話の続きですけど……』

 

 そう前置きをしてから、アリシアは静かな口調で語り始める。

 

『イクトさんのおかげで、わたしは世界の広さを知る事ができたんです』

 

 物心がついてからしばらく、アリシアは孤児院と神殿と往復するだけの毎日を過ごしていた。神殿でお祈りをしてお勤めをこなし、孤児院で生きるための糧を得るための作業をする。

 それは何度か聞いたことのあるアリシアの身の上話だった。

 

『――そういった日々がずっと続くものだと思ってました』

 

 変化の乏しい繰り返しの毎日の中で、アリシアは寝かしつけのときに聞かされる夜噺が楽しみだったらしい。物語の登場人物に自分を重ねて心を躍らせていたとアリシアは言った。

 

『そんなある日、神殿からの遣いが孤児院にやって来て、ミンスティア様の御神託があったことを知りました。そして、わたしは巫女候補として指名されたと告げられたのです』

 

 それから、アリシアの日常はガラリと変わってしまったという。

 水の精霊神(ミンスティア)の巫女として、毎日湖の中の祭殿で祈りを捧げるようになった。

 そして、やがて召喚されると予言された勇者と共に旅立ち魔王を討ち倒すという使命を全うするため、連日様々な教育と訓練を受けるようになる。

 礼儀作法、巫女の儀式、魔法、基礎体力作り、戦闘訓練、文字、算術、世界情勢、地理、旅人の知恵、生存術、戦闘技術、等々。

 

『つらいと思ったことはありませんでした。さいわい物覚えは良い方でしたし、学ぶことはわたしにとって何もかも新鮮でしたから……それに、いろいろなお話が書かれた本も読めるようになりましたし』

 

 それでも、アリシアの行動範囲は神殿とその周辺に制限されていた。彼女は神殿の重要人物になったからである。

 

『冒険者をしていた護身術の先生から、先生が訪れた国々の話を聞いたりはしていましたが、それは知識でしかなくて……わたしにとって外の世界とは、ぼんやりと霞がかった実感の伴わないものでした』

 

 初めてアリシアと出会ったとき、俺は彼女に何処かチグハグな印象を受けていた。

 浮世離れしているように見えて、生き残るための知識が豊富でサバイバル能力が高かったり、応用ができていて基礎が抜けていたりすることも頻繁にあった。

 天測や森で木を見て方位を知ることはできるけれど、一日で歩ける距離を見誤ったり、どの野草が食べられるか見分けられても、それを美味しく料理する方法を知らなかったり。

 ……まあ、そのチグハグな感じも最初の方だけだったけれど。

 旅の中で知識を経験に基づいて修正し、足りないものを習得していったアリシアは、本当に頼もしいパートナーになっていった。

 彼女が居なければ、間違いなく俺は旅の途中で野垂れ死にしていただろう。

 

『イクトさんと出会えて、わたしは使命の旅に出ることになりました。それからは毎日が驚きの連続でした』

 

 アリシアが驚いている表情は良く記憶に残っている。

 小さい事、大きい事、何でも新しい事を見つける度に彼女は感動していた。

 

『旅の途中に目に入るもの全てが色鮮やかで、わたしの心に焼き付いています。それは、綺麗なものばかりではありませんでしたけど……それらの光景は、今でも鮮明に思い返せます』

 

 アリシアと一年間、異世界を巡った冒険。

 険しい峡谷、雄々しい山々、天にまで届く世界樹と麓の大森林、何もかも厳しい砂漠、天上に聳え立つ空中の城、闇に包まれた常夜の大陸。

 楽しかった事、大変だった事、苦しかった事、辛かった事。

 本当にいろんな事があった。

 

 ――でも、今になって思い返すと全てが懐かしい。

 

『……綺麗』

 

 ゴンドラは頂点に達しようとしていた。

 足元に広がる遊園地の背後に連なる山々、そして何処までも続いているように思える青い空。

 穏やかな眺めだった。

 

『この世界に来てからは、わたしの常識は根底から覆されました。この世界の広さ、科学技術、流通、教育、歴史、娯楽、何もかもが衝撃の連続でした』

 

 思い返せば、この世界に来た頃のアリシアは驚いてばかりだった。好奇心旺盛な彼女は知らないことがあれば何でも興味をもって聞いていた印象がある。

 それに――

 

『わたしのわがままに付き合って、いろいろな本を読ませてくれてありがとうございます』

 

 ここ九ヶ月ほどで俺がアリシアと一緒に読んだ本の数は、俺が中学のときに読んだ本の総数を軽く上回っている。ジャンルもさまざまで、俺も随分と知識が増えたと思う。

 

『改めてイクトさんにお礼を言いたかったんです。イクトさんが居てくれたから、わたしはこんなにも幸せだったんです』

 

「お礼を言うのは俺の方だよ。どんな苦しいときもアリシアがいつも一緒にいてくれたから、俺は最後まで挫けずに戦えたんだ」

 

 苦しい旅路や辛い戦いの最中、俺は何度挫けかけたかわからない。俺ががんばれたのは、傍に居るアリシアにいいところを見せたいっていう、男の意地があったからだ。

 

「それに何度も俺の命を救ってくれた。こうして家族や幼馴染の元に帰って来られたのも――全部アリシアのおかげだ」

 

 文字通り命をかけてアリシアは俺のことを救ってくれた。

 どれだけ言葉を紡いでも足りない、それだけの恩がアリシアにある。

 だというのに、俺は何もできなくて。

 

「アリシア、俺――」

 

『イクトさん、もうゴンドラが地上に着きますね』

 

 俺の閉じられた扉からこぼれ落ちた言葉はアリシアによって遮られた。

 もう、地上は間近に迫っていて……

 夢の国から現実に帰る時間がやってくる。

 

『もう一度言いますね。アリシア・ヘレニ・ミンスティアは幸せでした。わたしは胸を張ってそう言いきれます。それと……』

 

 一瞬俺は息を呑む。

 

『――大好きです、イクトさん』



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デート(その5)

『学校に行きたいんです』

 

 帰りの電車の中でアリシアが言った。

 もちろん、俺に反対する理由なんてない。

 

 家の最寄り駅まで戻った俺達は学校に向かう。

 途中からはいつもの通学路になった。

 アリシアと学校に通ったのは半年ほどだったけど、いろんなことがあって、ふたりで思い返しながら話していると、あっという間に学校に到着する。

 

 俺は校門で立ち止まり、ぐるりと周囲を見渡した。

 

『うわぁ……!』

 

 アリシアの感嘆の声が聞こえてきて、俺は意図した反応が得られたことに満足する。

 校庭は年に一度の晴れの装いで、満開の桜が咲き誇っていた。

 

 少し大回りをして俺は桜の木の下を歩きながら校舎へ向かう。グラウンドには部活に励む生徒たちがいて、掛け声が聞こえている。

 

『これが、桜……』

 

 顔を上げると桜に視界を埋め尽くされた。

 手前側の桜は傾きかけた太陽に照らされて、燃えるように紅く輝いている。奥側の桜はまだ蒼さの残る空を圧倒的な白で覆い隠して、天然のモザイクを作り出していた。

 俺はその光景に足を止めて見入ってしまう。

 

「きれいだね」

 

『……ええ、本当に』

 

 アリシアが桜を見るのは初めてのことだ。

 

『桜のことはアニメや動画で知ってたつもりでしたけど、実際に見るのとは全然違いますね。こうやって木の下から見上げてると、まるで吸い込まれそうで……少し怖いくらい』

 

「今日はちょうど見頃だね。先週は殆ど咲いてなかったし、来週にはほとんど散ってしまってるだろうね」

 

『わたしは幸運です――また新しい体験をすることができました。それにしても、こんなきれいなのに直ぐに散ってしまうなんて、なんだか少し寂しいですね』

 

「そうだね。でも、桜の花が散った後は、すぐに青々とした葉っぱで一杯になるよ。それはとても生命力に溢れていて力強いんだ」

 

『そういえば、夏休みに初めてここへ見学に来たときは緑でいっぱいでしたっけ。そうやって夏に葉を着け、秋に紅葉し、冬に葉を落として……そして、また春に花を咲かせるのが桜なんですね』

 

 この国の人たちが桜に強い思い入れを持っている理由が少しわかった気がします、とアリシアは続けた。

 

 俺たちはゆっくりと桜の木の下を歩いていく。

 

『〜♪』

 

 ふいにアリシアが鼻歌を歌いだした。

 聞き覚えのあるメロディだ。

 

「……仰げば尊し?」

 

 俺がなんとはなしに呟くと、アリシアは鼻歌を中断した。

 

『この歌はそんな名前だったんですね。この前卒業式で聞いて、いい歌だなって思ったんです』

 

 定番の曲でもアリシアにとっては初めて聞く曲なんだ。アリシアと居る時間が当たり前すぎて、いまさら、そんな当たり前のことを思い出した。

 

『歌詞で少し意味がわからないところがあるんですけど、聞いても良いですか?』

 

「もちろん」

 

 アリシアが聞いてきたのは、幾年(いくとせ)の意味だった。

 漢字を伝えるとアリシアは直ぐに得心がいったようだ。

 

『もうひとつ、思えば――の後のなんですけど、いととし……? (いと)おしいの聞き違いでしょうか?』

 

『愛おしいではなくて、いと()し――って歌詞だね。振り返ってみると学校で過ごした時間はとても短かったっていう意味だよ』

 

『なるほど……その気持ち、よくわかります』

 

 アリシアは、意味を噛みしめるように『いと疾し』と繰り返し呟いた。

 

 そんなやり取りをしているうちに校舎前まで到着した。

 

「それで、アリシアどこに行きたい? 教室、体育館、それとも、部室?」

 

 俺たちの思い出深い場所を挙げてみる。

 だけど、アリシアの示した場所はそのどれでもなかった。

 

『ええと、屋上に行って貰ってもいいですか?』

 

「屋上? ……うん、わかった」

 

 屋上なんてクリスマス前に不良に襲われたときくらいしか、行ったことはないと思うんだけど。涼花とふたりで話したのも旧校舎の屋上だしなぁ……

 まあ、いいか。

 

 俺は昇降口で靴をを上履きに履き替える。

 私服のセーラーワンピースに学校指定の上履きというのはどうかと思ったけど、まだ裸足でいるのは辛いのでやむを得ないだろう。まあ、誰に見られる訳でもないし。

 

 春休みの校舎に人影は無くって。

 日差しが窓から廊下に差し込んでいて、校舎は夕日色に染められていた。

 歩く度にコツコツと足音がやけに大きく響く。

 階段に差し掛かる頃、アリシアが仰げば尊しを今度は歌詞入りで歌い出した。

 

『仰げば尊し、我が師の恩』

 

 校舎の階段を上がって行く。

 

(おしえ)の庭にも、はや幾年(いくとせ)

 

 3階の廊下から屋上に続く階段は真っ暗で、俺はスマホを取り出して足下を照らしながら進んだ。

 

『思えばいと()し、この年月(としつき)

 

 階段を登り切った先にある鉄のドアを押し開けた。

 ドアの隙間から差し込んでくる光の強さに、目を細めて一瞬立ち竦む。

 

『今こそ別れめ、いざさらば』

 

 アリシアが歌い終わるのとほぼ同じタイミングで、俺は紅く染まった屋上に足を踏み出した。

 

『……ありがとうございます、イクトさん』

 

 逆光で黒くなったビルの背後に重なった太陽は、下半分を隠しながらも存在をアピールするかのように強い光を放っていた。

 空は朱と蒼のグラデーションに、まばらに散らばった茜色の雲がアクセントとなって、思わず見惚れてしまうような景色を作り出していた。

 

 その光景に目を奪われながら歩を進める。

 日中優しかった日差しは弱まり、風は冷たさを増して、春物のワンピースでは肌寒く思えた。

 屋上の真ん中あたりで俺は立ち止まる。

 誰の気配もない黄昏時。

 遠く聞こえてくるブラスバンド部の演奏音と部活動の掛け声。

 

 そして、アリシアによって告げられる。

 

『それじゃあ、これからわたしの卒業式を始めます』

 

 ――終わりの始まりを。



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デート(その終わりに)

 夕陽に照らされて紅く染め上げられた屋上。

 遠方に見えるビルは影に沈み、空は朱と紺のグラデーションを描いている。

 それはとても幻想的で、まるで夢でも見ているかのように現実感が乏しい光景だった。

 

「卒業式……?」

 

 俺はアリシアが発した言葉の意味を確認するように呟く。

 

『はい、そうです。と言っても、わたしは学校に籍はありませんので気分だけですけど』

 

 アリシアはおどけた調子で言う。

 

『わたし自身に思い残すことはありません。観覧車でお話した通りです。心残りはひとつ、イクトさんのことだけです』

 

「……俺?」

 

『……ごめんなさい、イクトさんと一緒に居られなくて。そして、そのことをずっと黙っていたことも』

 

「謝らないで。一緒に居られないのはアリシアのせいじゃない。アリシアが俺に打ち明けられなかったのだって、俺がしっかりしていなかったのが悪いんだし――」

 

『黙っていたのは完全にわたしのわがままです。イクトさんのせいなんかじゃありません』

 

 アリシアは俺の言葉を間髪入れずに否定する。

 

『イクトさんと同じものを見て、同じものを食べて……一緒の時間を過ごして、ふたりで笑った日々。これらは全てわたしの大切な思い出です。だから――』

 

 自分の得になるようについた嘘だからアリシアが全部悪い、なんて理屈らしい。

 それらの思い出は俺にとっても掛け替えのないものだし、損得を言うなら、何度もアリシアに助けられた俺の方がよほど得しているというのに。

 

『謝らないといけないことは、それだけじゃありません。わたしは残された時間を隠したままイクトさんの恋人になりました。関係を深めるほど、別れるときにイクトさんをより傷つけるとわかっていたのに……』

 

 アリシアは申し訳なさそうに言う。

 

『告白されて、イクトさんがわたしと一緒の気持ちだと知って、本当に嬉しかったんです……だから、本当は受け入れるべきじゃないとわかっていても、イクトさんのことを拒絶できませんでした』

 

「アリシアの恋人になれて俺も嬉しかった。だから、そんな風に言わないでよ。アリシアに拒絶されていた方がよっぽど辛かったと思うから」

 

 俺はわざと明るく応える。

 こんなことでアリシアに罪の意識なんて持って欲しくなかった。

 

『……イクトさん。ありがとうございます』

 

 だけど、アリシアの口調は重いままで。

 

『でも、ごめんなさい。わたしは、もうひとつわがままを言います。言わないといけないんです』

 

 それから、少し間を置いて――

 

『イクトさん、わたしとの恋人関係を解消して下さい』

 

 アリシアは俺にそう告げた。

 

『わたしはイクトさんから、たくさんの想いをいただきました。自分勝手な申し出だとわかってます……でも、イクトさんの人生はこれからも続いていきます。だから、ちゃんとわたしから卒業して下さい。そうしたら、わたしは安心して行くことができますから』

 

 アリシアはことさら明るくそんなことを言う。

 自分勝手と言いながら、あくまで遺される俺のことを心配しての申し出だった。

 でも……

 

「嫌だ」

 

 だけど、それだけは受けられない。

 

『え、えっと……わたしの最期のお願いでもだめですか……?』

 

「ダメ……だな。最期にアリシアを一人にすることなんてできないよ」

 

『それだと、わたしに心残りができて心配なんですけれど……』

 

「悪いけど心配したままでいてよ……俺は今もアリシアに心を奪われたままなんだ。それくらい責任取って貰ってもいいだろ?」

 

『……それだと、イクトさんが余計に辛くなるだけですよ?』

 

「構わない。将来どうなるかなんてわからないけど、せめて最期の瞬間までアリシアの恋人で居たいんだ」

 

『……もう、しょうがないですね、イクトさんは』

 

 アリシアは困った様子で、でも嬉しそうに応えた。

 

『ひとつだけ約束してください。これから先、誰かと恋人になるかならないかはイクトさんの自由です。ですが、わたしを理由にして、お断りすることはしないで下さい』

 

「わかったよ」

 

「お付き合いするにしろしないにしろ、ちゃんとその人と向き合って返事をして下さいね。それが、ヒスイさんでも、ソウタさんでも、それ以外の方でも……』

 

「……どうして、その二人の名前が出てくるの?」

 

『ヒスイさんのイクトさんへの想いは誰よりも強く真剣です。わたしのことを全部知ってなお、不戦勝を良しとせず対等なライバルとして、わたしにぶつかってきたくらいですから。本当に容赦なく……』

 

 嘆息混じりにアリシア。

 翡翠とのことを思い出しているのだろう。

 ……いろいろあったな。

 

『わたしはヒスイさんに感謝しているんです。彼女が居なければ、わたしはイクトさんとお付き合いすることはなかったと思いますから……イクトさんと向き合うことを躊躇っていたわたしを叱責してくれて、勇気を与えてくれたんです』

 

 話を聞いていると翡翠の考えることがわからなくなる。

 俺とアリシアのことを応援してくれているのかそうじゃないのか……

 

『最近アプローチが控えめなのは、わたしのことを考えて遠慮してくれているのかもしれません。ですが、わたしが居なくなったら、本気でイクトさんを落としにくるんじゃないでしょうか?』

 

「うへぇ……」

 

 思わずそんな声が出る。

 決して翡翠のことを嫌いな訳じゃない。

 でも、翡翠と居ると俺が俺でなくなってしまうというか、いつも以上に女にされてしまう気がして――それが、少し怖いのだ。

 

『あと、ソウタさんはなんだかんだでイクトさんが一番心を許している相手だと思いますから』

 

「でも、男同士だぜ……?」

 

 俺はホモじゃない。

 だから、蒼汰のことを好きになるなんてあり得ない。

 

『今は男性と女性ですよ。イクトさんはわざとその辺を理解しないように誤魔化してるところがありますよね?』

 

「そんなこと……」

 

 蒼汰から自分のことを性欲の対象として見られていることはわかる。

 だけど、それは男だったらやむを得ない感情で、恋愛感情があるかどうかは全く別の話だ。

 ……でも、アリシアにその違いがわからなくても仕方ないか。

 

『まぁ、それはいいです。とにかく誰をパートナーに選ぶかはイクトさんの自由ですから、イクトさんの思うままにやっちゃって下さい』

 

「そんなこと言われても……」

 

 俺が好きなのはアリシアだけだ。

 他の人とどうこうなるなんて考えも及ばない。

 

『あ……悪い男の人に引っ掛からないように気をつけて下さいね。ただでさえ、イクトさんは隙が多いんですから……エイモックなんて、ぜぇぇぇったいにダメですからね!』

 

「……わかったよ」

 

 まるで母さんのような言い分に、俺は苦笑交じりに答える。

 アリシアがそんな調子だったから、とてもこれで最期っていうのが信じられなくて。

 

「もう、本当にどうしようもないの? お休みの期間をもっと長く取るとか……」

 

 そんな益体もない質問をした。

 

『……ごめんなさい、それは無理なんです』

 

 俺の浅はかな考えは、即座に否定された。

 当たり前だ。

 アリシアがこんな可能性を検討してないはずもない。

 

『わたしの魂はもう形を保てなくなっているんです。お休みの日を増やしてエネルギーの補充ができても、入れ物自体が維持できなくなればどうしようもありません』

 

 アリシアは淡々と自分の状態を告げる。

 

『それに、イクトさんとの同調も切れかかっています。残っているのは視覚と聴覚だけ……それも感覚は薄くなっていて、今は暗闇の中でテレビを見ているかのようにぼんやりとしか感じられません』

 

「そんな……」

 

『今のわたしは例えるなら、湖の真ん中でもがいて、なんとか水面に顔だけ出ているような状態なんです。気を抜けばわたしの意識は水の中に沈んでしまい、もう二度と戻る事は無いでしょう』

 

 アリシアが語る状況は俺の想像していたよりも酷くて。

 それを敢えて教えてくれたのは、俺が無為な希望を抱かないようにという彼女なりの優しさだった。

 

「やっぱり、俺の魂を取り出して体をアリシアに返すべきじゃ――」

 

『無用です』

 

 衝動的に口走った言葉は、アリシアによってばっさり拒否される。

 

『イクトさんをこの世界に無事に戻すことはわたしの誓いでした。それは完全な形で果たすことはできませんでしたが、それでも、イクトさんの命を救えたことはわたしの誇りなんです。だから、それを無かったことにしないで下さい』

 

「……俺にできることはもう何もないの?」

 

『……そんなことないですよ。そうですね……それじゃあ、わたしのことを憶えていてください』

 

 これもまたわがままですね、とアリシアは笑った。

 

『イクトさんと冒険した日々、この世界ですごした日々、全部がわたしの宝物です。だから、イクトさんにとってもそれらが大切なものだったらいいなって思うんです』

 

「うん」

 

 それは間違いなく。

 

『それから、イクトさん自身の人生を楽しんで生きて下さい。そして、いつかふと振り返って、こんなことがあったと笑顔でわたしのことを思い返してくれたなら嬉しいです』

 

「……うん」

 

 それはまだ自信はないけれど……

 

『イクトさんのことを考えたら、わたしのこと忘れて下さいって言うべきかもしれませんけど……ごめんなさい。わたしはわがままです。わたしはイクトさんの記憶に残っていたいと思ってしまうんです』

 

「そんなこと……頼まれなくても、忘れられるはずもないよ」

 

 そのとき、下校時間を知らせるチャイムが鳴った。

 

『……さて、そろそろ時間ですね』

 

 空は深みを増して僅かに茜色が残るのみだった。

 太陽の姿はビルの間に隠れて半月の月が薄く姿を現していた。

 

『わたしの魂はミンスティア様の元に召されますが、イクトさんの体にも魂の残滓が残ると思います……だから、イクトさんとわたしはこれからもずっと一緒なんです』

 

 最後の最後でアリシアはそんなことを言う。

 アリシアは何も感じることもできず、誰にも伝えることもできなくなるというのに。

 

『だから、さよならは言いません』

 

 俯きそうになるのをぐっと堪えて俺は前を向く。

 学校の屋上、遠く影に隠れた街並み、茜色の空。

 黄昏に暮れる景色をアリシアに見せるため、そして俺自身の目に焼き付けるために、目を見開いた。

 

『これまでありがとうございました……海に泳ぎに行く約束、守れなくてごめんなさい』

 

 そう言えば、結局アリシアと海に泳ぎに行くことができなかった。

 なんで、去年の夏に俺は海に行かなかったんだろう。

 水着が恥ずかしいなんて我慢すれば良かっただけなのに。

 

『それではイクトさん、お元気で……大好きです。わたしの勇者様』

 

「ああ、俺も……大好きだよ。アリシア!」

 

 歯を食いしばって口角をあげる。

 最後まで笑顔で。

 

『あぁ……楽しかったぁ……』

 

 最期にアリシアは満足げに呟いて。

 

「――っ!?」

 

 唐突に訪れる喪失感。

 俺の中からアリシアの存在が消えた。

 

「あ……ぁぁ……っ……」

 

 ぽっかりとできた空白を抑えるように、俺は右手で胸元を掻きむしるように掴んだ。立っていることができなくて、俺は崩れ落ちるように膝をつく。

 

「ううぅ……ぁ……」

 

 そのまま上半身を屈めて、小さく丸くなる。

 溢れ落ちる雫がポタポタと、コンクリートの屋上に跡をつけていく。

 

「ぁ……アリシアぁ……」

 

 呼び掛けても、もう何も返ってこない。

 

 脳裏にアリシアの姿が次々に浮かんで消えていく。

 

 美味しいものを食べて無邪気に微笑むアリシア。

 新しい体験に我を忘れて興奮するアリシア。

 俺の事を遠慮気味に揺さぶって起こしてくるアリシア。

 

 一緒に生きていたかった。

 もっと楽しいことや嬉しいことを共有したかった。

 もっともっとアリシアに幸せを感じて欲しかったんだ。

 

「アリスっ!!」

 

 どこかで聞き慣れた声がする。

 うずくまっている俺に誰かが駆け寄ってきて、抱きついているみたいだった。それが誰かなんてわかっていた。

 

「優奈……アリシアが行ってしまったんだ……」

 

 これだけは伝えないといけない。

 そう思った俺は、なんとか言葉を絞り出して。

 

「わかってる! わかってるから……!」

 

 無理に言葉になんてしなくていいと、優奈は俺を包み込んで、ただ抱きしめてくれていた。

 

「なぁ……俺は最後まで笑っていられたかな……?」

 

 そんなこと、優奈に聞いてわかるはずもないのに。

 俺はそんな言葉を口にしていた。

 

 何もかもがぼんやり遠のいていく。

 

 

 

 辛い、苦しいよ、アリシア。

 きみの居ない世界はこんなにも寂しい。

 

 ……声が、聞きたいよ。

 



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最終章 アリスとアリシア
魔法でも科学でもなく


 ――どうやって家に帰ったのか憶えていない。

 

 気がついたら俺は自分の部屋のベッドで横になっていた。

 目が覚めたのは、メッセージの着信を知らせるスマホの振動で。全く動かない心のまま、惰性でスマホを手に取って画面を確認する。

 いろいろ俺のことを心配するメッセージが入っているようだったが、内容が頭に入ってこない。

 スクロールさせて目に入ったのは、たった今届いた翡翠からのメッセージ。

 そこに書かれていたのはたった一文だけ。

 ――ドクン

 俺の心が動き出す。

 

『アリシアを救う方法を知りたい?』

 

   ※ ※ ※

 

 俺は翡翠に呼び出されて深夜の神社にやってきた。

 拝殿は灯りがついていて、装飾された畳間の真ん中に白と朱の巫女装束を着た翡翠が一人神様に向き合って正座していた。

 

「翡翠!」

 

 俺が名前を呼ぶと、彼女は静かに振り返る。

 

「……アリス、来たのね」

 

 普段よりもさらに抑揚のない声で翡翠は応えた。

 

「アリシアを助ける方法がみつかったって本当なの!?」

 

 俺は翡翠に駆け寄って問いただす。

 アリシアを救う方法がある。そう書かれたメッセージを見た俺は、直ぐに翡翠に電話をして、直接話をするために自転車で駆けつけたのだった。

 今の俺の格好は着の身着のまま、少しよれてしまったセーラーワンピースの上にコートを羽織っている。

 

「……ええ、本当よ」

 

 淡々と翡翠は言う。

 

「お願い、教えて欲しい!」

 

 ――今ならまだ間に合うはずだった。

 

 意識が消えてしまっても、まだアリシアの魂がこの体に残っていると俺にはわかる。魂が見える翡翠なら、今の俺の状態をより正確に把握しているはずだ。

 

「これを知れば、あなたの人生は確実に狂うことになる。それがわかっているのに、あなたに教えることが正しいことなのかどうか。私にはわからないの……」

 

「方法を知っても、実行するかどうかは私が決めること。だから、どんな大変だったりしても私自身の責任だよ。それに、これまで異世界に行ったり、性別が変わったり、いろいろ乗り越えてきたんだ。今回だってきっと大丈夫さ」

 

「アリシアはこんな手段で助けてもらうことを望まないと思う。私が今までアリスに黙っていたのも、あの娘が知ったら絶対に阻止すると考えたからよ……それでも?」

 

 何を言われても、俺の気持ちは揺るがない。

 

「うん、教えて。私はアリシアに命を救われたんだ……アリシアを助けられるなら、この命以外何だって差し出して構わないと思ってる。だから――」

 

「……そう。やっぱり、あなたはそう言うのね」

 

 翡翠は瞳を閉じて小さく溜息をついた。

 

「ひとつ、条件があるわ」

 

「……条件?」

 

「私をあなたの恋人にして欲しい」

 

 予想外の言葉に俺は返答に窮する。

 翡翠のことは大事に思っている。アリシアの言う通り将来翡翠とそういった関係になる未来はあるのかもしれない。だけど、今の俺はアリシアのことで一杯で、翡翠のことを考える余裕なんてなかった。

 

「ごめん……翡翠の気持ちには応えられない」

 

 翡翠の告白を断るのはこれで二度目だ。

 だけど、俺の言葉を聞いても翡翠は表情を変えなかった。

 

「あなたがあの娘のことを大切に思っていることはわかってるわ……だから、私はアリシアの次でいい。アリシアが戻ってくるまででもいいの」

 

「そんなのダメだよ……」

 

 アリシアのことが好きなままで同時に翡翠を愛するなんて器用なことは俺にはできない。

 それなのに恋人になっても翡翠が辛くなるだけだ。

 

 それに、アリシアが戻るまでとか、そんな都合の良い関係なんて恋人とは言えない。

 

「ダメじゃないわ。私がアリシアを助ける方法を教えれば、あなたはきっとそれを実行して傷ついてしまう。そんなあなたが一人苦しむ姿を見ているだけなんて私には耐えられないの。だから、お願い……私にあなたの側で支えさせて欲しい」

 

 翡翠は俺の目を真っ直ぐに見て言う。

 

「でも……」

 

「私もアリシアのことを大切な友人だと思ってる。だから、あなたに全部を押し付けて知らないふりをするなんてことはできない。もし、この条件が受け入れられないなら、アリシアを助ける方法は教えられないわ」

 

 翡翠の決意は硬いようだ。

 俺は迷う。

 この関係が翡翠のためになるとは到底思えない。

 だけど、それを受け入れなければアリシアを救うことができないのなら……

 

「……わかった、よ」

 

 俺は翡翠に了承の返事をした。

 彼女がどうしてここまで頑なになるのかはわからない。

 だけど、俺はアリシアを助けたかった。

 この選択が翡翠を傷つけてしまうかもしれないけど、それでも……

 

「ありがとう……嬉しいわ。私、幾人と恋人になれたのね」

 

 翡翠は胸の前で両手を重ねて、感慨深げに言う。

 そんな翡翠を見て俺は罪悪感で胸が苦しくなる。

 

「ごめんなさい。大好きよ、幾人……」

 

「う、うん……」

 

 真っ直ぐに翡翠の目を見れない。

 

「心配しないで。こんな関係を望んだのは私。だから、あなたが罪悪感を抱く必要なんてないわ……どんなことがあっても私が一緒に居る。だから、安心して」

 

 ふふっと翡翠は微笑んで言う。

 

「それじゃあ、アリシアを助ける方法を教えるわね」

 

「……うん」

 

 まずは、アリシアの命を救うこと。

 ……それ以外のことは、その後で考えることにしよう。

 

「と言っても難しい話じゃないわ。アリスの体内で魂の無い体を作りだして、魂操作(ソウル・マニピュレータ)でアリシアの魂を移す。それだけよ」

 

「それだけって簡単そうに言うけど……そんなこと魔法でも科学でも不可能だ。できるわけない――」

 

 魂を体の外に取り出せば消滅してしまう。

 だったら、体の中に入れ物を用意すればいい。

 それは道理だけど、そんな方法があれば苦労しない。

 

「できるわ」

 

 だけど、翡翠はそう言い切る。

 

「魔法も科学も要らないわ。今のあなたなら、女性になったあなたにならできるの」

 

「そ、それって……?」

 

 俺は混乱する。

 翡翠の言っている意味がわからない。

 

「子供よ」

 

「へ……?」

 

「子供――正確には胎児ね。アリスがそれを作ってアリシアの魂を移すの。魂は心拍が始まると同時に宿るから、その前に」

 

 こども……?

 

 妊娠、出産。

 女性の身体に備わっている機能。

 

 そんなことは知っている。

 保健体育で習った知識だ。

 

「ど、どうやって……?」

 

 思わずそんなことを聞くと、翡翠は呆れた顔をした。

 

 わからないはずがない。

 だけど、俺はそれを認めたくなくて。

 何か他に方法があるんじゃないかって信じたかったんだ。

 

「そんなこと、決まっているじゃない……性交、セックスよ」

 

 翡翠から突きつけられたのは無慈悲な現実だった。



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選択

「……ひとつ、とてもとても残念なことを言わないといけないわ」

 

 茫然自失している俺に、翡翠はとても悲しそうに告げる。

 

「どうしても、女同士で妊娠する手段を見つけられなかったの。私にペニスさえあれば何の問題もなかったのに……」

 

 翡翠は本気で悔しそうにしている。

 いや、問題がなくなる訳じゃないと思うけど。

 そりゃ男に抱かれるよりかは抵抗は無いけどさ……

 

「科学でも魔法でもダメなんて……」

 

「って、科学はわかるけど魔法も調べたの? いったい、どうやって……」

 

「エイモックという男に聞いたわ」

 

「え……?」

 

魂操作(ソウル・マニピュレータ)で魂を胎児に移せるか聞くために会ったのよ。根拠もなくこんな方法を伝えられる訳ないでしょう? それに、アリシアに聞くわけにはいかないもの」

 

「エイモックに会ったの!?」

 

「ええ」

 

「蒼汰と一緒に……?」

 

「いいえ、一人よ。誰にも聞かれたくなかったから」

 

 翡翠はいったい何をやっているんだ!?

 エイモックはこの前蒼汰に煮え湯を飲まされているのだ。

 そんな相手に一人で会いに行くなんて。

 

「無謀すぎるよ! あの男がどれだけ危険なのか翡翠はわかってるの!?」

 

「そんなの聞いたわよ散々。でも、実際に会ってみたら話のできない相手じゃなかったわよ? 蒼汰の妹だと名乗ったらエイモックは呆れていたけどね」

 

「話ができるから余計危ないんだ。もし、会話の中に洗脳魔法を乗せられていたら、知らないうちにあり得ない要求でも受け入れてしまう状態にされていたかもしれないんだよ?」

 

「でも、あなたは一人で会いに行ったんでしょ? それは、アリシアを助けるのに必要だと思ったからよね」

 

「そ、それは、そうだけど……」

 

「私も必要と思ったからしただけ。それで、あなたと同じことをした私を非難するの?」

 

「だって、翡翠は女の子なんだし……危険すぎるよ」

 

「あなたも十分女の子してると思うわよ?」

 

「で、でも……!」

 

「まあ、無事だったんだしいいじゃない。妊娠して胎児に魂を移す方法が可能かエイモックに聞いたら、その手があったかと面白がっていたわ。実際に過去に母親が胎児に魂を移した例もあるみたいよ」

 

「……なんであいつはそれを私に教えてくれなかったんだ」

 

「結果としては失敗だったから思いつかなかったみたいね。その人は魂の転移は成功したけど、自分の魂を胎児に移したものだから、母胎が死亡してそのまま胎児も亡くなってしまったらしいわ」

 

「なるほど……」

 

 魂がふたつあるというイレギュラーな状況だからこそ使える手段という訳だ。

 

「その後、魔法でペニスを作れないか聞いたら頭を抱えてたけど……こっちは真剣なのに全く失礼しちゃうわ」

 

 ……エイモック。

 

「まぁ、それはさておき。さっきはああ言ったけど妊娠は性行為以外でも可能ではあるわ。具体的に言うと人工授精や体外受精ね」

 

 聞いたことがある。

 採取した精子を体内に入れるとかそういうやつだ。

 俺はそれを聞いて少し安心する。

 それだったら、まだ抵抗なくできるかも……

 

「だけど、問題はあるの。日本ではそれらの方法は不妊治療でしか認められていない。だから、まっとうな方法では、今のアリスが受けることは無理よ」

 

「う……」

 

「国外ならできるかもしれないわ。アリスのおじさまに聞いてみたらどうかしら?」

 

「そ、そうだね……」

 

 親を頼ってばかりなのは情けないけれど、そもそも子供を産むのだって両親の全面的な補助がなければ不可能だ。

 両親に事情を説明して協力してもらわないといけないのは間違いない。

 

「行動するならなるべく早い方がいいと思うわ。アリシアの魂が消滅するまでに残された猶予は三ヶ月くらいだと思うから」

 

 子供を望んだからと言って確実にできる訳じゃないもの、と翡翠は付け加える。

 それもそうか。妊娠についてちゃんと調べないといけないな。

 

「それで、アリスはどうするつもり?」

 

「決まってる……私はアリシアを産むよ」

 

 俺は翡翠に宣言する。

 

「ちゃんとその意味をわかって言ってる? 妊娠したら学校は退学しないといけない。それどころか子供が大きくなるまで、四六時中子供に掛かりっきりになるわ。アリスの青春は終わってしまうのよ」

 

「……うん」

 

 アリシアを救うことができるなら、それくらい受け入れる。

 今の俺がここに居られるのは、アリシアが全てを差し出してくれた結果だから。

 

「それに、妊娠出産は命懸けよ。特に小学生くらいの体格しかないあなたは、子供を産むリスクは通常よりも高いものになるわ」

 

 俺は下腹部に手を当てる。

 子供がお腹の中にできて、それから、その……あそこを通って出てくるんだよな……

 全く想像もつかない。

 指ですら怖くて自分では入れたことがないのに。

 

「それに、魂の転移に成功したとしても、胎児にアリシアの魂全てを収めることはできない可能性が高いの。だから、産まれてくるアリシアは記憶が受け継がれないかもしれない。今のアリシアと同じ性格になるどうかもわからないわ。そもそも、胎児の性別は選べないから、アリシアが男になる可能性だってあるの」

 

 それでも、アリシアを自らの子として宿すことを望むのかと、翡翠は問う。

 

「……答えは変わらないよ。私はアリシアと一緒に生きたい。そのために取れる手段があるのなら、私は決して諦めたりしない」

 

「……そう。やっぱり、あなたはそう言うのね」

 

 俺の答えを聞いた翡翠は溜息をついて言う。

 

「わかった……私も覚悟したわ。どんなことをしても、あなたのことを支える。それが、このことを伝えた私なりの責任の取り方よ」

 

「翡翠が責任を感じることなんてないよ。これは、私自身の判断だから」

 

「いいえ、このことを話すときに決めたの。私だってアリシアを助けたい。それに私はあなたの恋人なんだからね? 私も一緒に背負わせてよ」

 

「……ありがとう」

 

 俺には圧倒的に知識が不足しているから不安なことばかりで。

 翡翠に頼らせて貰えるのは正直ありがたい。

 

「確かアリスは前の生理から今日で24日目だったわよね? ……普通に考えたら今は生理前の高温期だと思うけど、アリスはまだ生理周期が安定していないから、妊娠できる可能性はゼロではないか……基礎体温なんて測ってないわよね?」

 

「基礎体温って何……?」

 

 まぁ、そうよね、と翡翠は言った。

 体温が妊娠に何か関係があるのだろうか……?

 

「そ、それより、どうして翡翠は私のそんなことまで知ってるのさ!?」

 

 俺の生理事情を把握しすぎていて、正直少し引いた。

 

「女同士ですもの。毎日見ていたらわかるわよ、それくらい」

 

「そ、そんなものなの……?」

 

「ええ、そうよ」

 

 さらっと翡翠は言い切る。

 俺は他の人のなんて全然わからないけど……

 でも、友達との会話の中で今日は何日目で辛いとか出てくるから、それを憶えていたら、なんとなくわかるの……かな?

 

 ……俺は深く考えないことにした。



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説得

 翡翠によってもたらされた選択肢。

 俺はその可能性に掛けることにした。

 

 子供を宿しアリシアの魂を移して産む。

 それが消滅しようとしているアリシアの魂を救い出す唯一の手段。

 

 だが、そのためには家族の協力を得ることが必要不可欠で、俺は説得のため家に帰ることにした。

 

「おまたせ、アリス」

 

 巫女服から普段着に着替えた翡翠が戻ってきた。

 俺と一緒についてきて両親に説明してくれるとのことで、俺を全面的に支えるという翡翠の宣言は本気らしい。

 ありがたく思うと同時に、翡翠の気持ちを利用しているようで申し訳ない気持ちにもなる。

 

「手段のあらましをメールでアリスの家族に伝えておいたわ。突然こんな話を切り出すよりはいいでしょう?」

 

「ありがとう、翡翠」

 

 子作り云々を自分の口で説明するのには抵抗があったので翡翠の気遣いはありがたい。両親も事前に知っていた方が、考えたり相談したりする時間が取れるだろう。

 

 ……でも、もし反対されたらどうしよう。

 

 異世界では勇者だ救世主だとちやほやされていたけど、この世界の俺はただの無力な子供でしかない。

 俺ひとりでは子供を産んで育てるどころか、自分自身の衣食住すらままならないのが現状なのだ。

 

 そんなことを考えていたら、翡翠にそっと抱き寄せられた。

 俺は翡翠の腕の中にすっかり収まってしまう。

 

「心配しなくても平気よ。おじさまもおばさまもアリシアのことを大切に思っているわ。だって、あそこまで手を尽くして彼女を助ける方法を探そうとしていたんですもの」

 

「そう……かな……?」

 

「ええ、きっと大丈夫」

 

 厚手のセーター越しでも感じる柔らかさに包まれて、俺は本能的な安心感を覚える。柔軟剤だろうか、ふんわり鼻孔をくすぐるいい匂いに思わず目を細める。

 

「……もし、どうしても反対されたなら、黙って妊娠してしまえばいいわ。そうしたら、中絶しろとまでは言わないと思うから」

 

「そ、それは……」

 

「アリシアを助けたいんでしょう? だったらそれくらい覚悟なさい」

 

 困惑する俺をたしなめるように翡翠は言う。

 

「まず目標を決めて、それからそれを為すための方法を考えるの。本当に大切なものなら、手段なんて選んでいてはダメ。迷いを残していたら、おじさんやおばさんの説得はできないわよ?」

 

「……わかった」

 

 いろいろありすぎて少しナーバスになっているのかもしれない。

 俺は目を閉じゆっくりと深呼吸をして心を落ち着かせる。

 その間、翡翠は包み込んだ俺の頭を優しく撫でてくれていた。

 

「ねぇ、アリス? 不幸になる決意なんていらないわ。だって、あなたは幸せになるために行動すると決めたんだもの。そこを間違えてはだめよ」

 

 翡翠に言われてはっとする。

 アリシアを助けるためなら、俺はどんな辛い目にあっても構わないと思っていた。

 

「そうだ、ね……うん、翡翠の言う通りだ」

 

 だけど、それではダメだ。

 俺が不幸になることを両親は許してはくれないだろうから。

 アリシアと一緒に幸せになるために、俺はこの未来を選ぶ――そのことを絶対に忘れてはいけないんだ。

 

「……ありがとう、もう大丈夫」

 

 俺は身をよじらせて翡翠から離れる。

 頭の中のもやもやは晴れて、思考ははっきりとしていた。

 

「いい顔になったわ」

 

 翡翠が綺麗に笑って言う。

 俺は強がりじゃない笑顔で翡翠に応えた。

 

   ※ ※ ※

 

 家に帰った俺がリビングに入ると既に両親と優奈が勢揃いしてダイニングテーブルに座って待っていた。

 俺と翡翠は挨拶をして、並んだテーブルの席に腰を下ろす。

 

「メールを読ませて貰ったよ翡翠ちゃん。まさか、こんな方法があったとは……よく気づいたね」

 

 席について最初に口を開いたのは父さんだった。

 

「魂のことを調べるためによく病院で妊婦さんを見ていたので。魂操作(ソウル・マニピュレータ)の話を聞いて、思いついたんです」

 

「なるほど……それで、アリスはどうするつもりなんだ?」

 

「産むよ。私はアリシアを産んで育てる」

 

 父さんの問いに俺は間髪入れずに返答した。

 

「……アリス、あなたそれがどういうことかわかっているの?」

 

 母さんが俺に問う。

 

「まだ、良くはわかってないと思う……でも、覚悟はしてるよ」

 

 俺は正直に答える。

 俺の子供を産んで育てることに対する知識は中学の保健体育レベルで、作る方法すらエロ本で得たあやふやなものしかない。

 

「子供を産むということは、親になるということよ。親になれば、子供のことを第一に考えて生きなければならないわ」

 

 俺が親になる。

 それは、子供を産むのだから至極当然のことだった。

 だけど、そう言われるまで、なぜかその発想がなくて――改めて突きつけられたその事実に俺は途方もないものを感じて。

 

「あなたは親になって子供に対する責任を全うする覚悟はあるの?」

 

「ある……!」

 

 それでも、俺は即答する。

 実感はない、自信なんてない。

 だけど……迷ったりなんてしない!

 

「周りの子達が人生で一番自由に楽しむ中、ろくに外出もままならない状態で、四六時中子供のペースに合わせて過ごさないといけなくなるのよ?」

 

「アリシアにまた会えるなら、それくらいどうってことない」

 

「互いに支え合って愛し合うパートナーとしての関係と、守り与えて愛を注ぐ親子の関係は全く違うものよ。たとえ、アリシアが戻ってきたとしても、あなたたちの関係はこれまでとはまるで異なるものになるわ」

 

「……うん」

 

「子供はいつか親から離れていくもの。アリシアが子供になるということは、いつか彼女は好きな人を見つけてあなたの元を離れていくことになるわ……それでも、あなたは子供としてアリシアを産むと言うの?」

 

 それでも……俺は……!

 

「私はアリシアと一緒に生きたい。幸せになって欲しいんだ。その隣に私が居られなかったとしても――父さん、母さん、私がアリシアを産むことを許可してほしい、協力してほしいんだ。お願いします」

 

 俺は両親に向かって頭を下げて許しを請う。

 

「……」

 

 母さんと父さんは少しの間無言で、どうやら視線で会話をしているようだった。

 やがて、父さんが口を開いた。

 

「……お前の気持ちはわかった。アリシアは家族だ、助けたいという気持ちは俺達もかわらない。だから、お前がそこまで覚悟しているなら、それ以上とやかく言うつもりはない」

 

「それって……」

 

「許可するってことだ。それから、出産育児には俺達も全面的に協力すると約束しよう」

 

「あ、ありがとう! 父さん、母さん」

 

「ただ……」

 

 そこで父さんは少し言いにくそうに続ける。

 

「相手はどうするつもりなんだ? 子供はひとりで作れるものではないだろう?」

 

「そ、それは……」

 

「もしかして、アリスはもうそういう相手が居るのか……?」

 

「い、いないよ、そんなの!? ……そのことで、父さんに相談があるんだ」

 

 父さんに人工授精や体外受精のことを話した。今の俺が、日本国内でそれを受けるのは難しそうだということ。

 

「それで、父さんの伝手で海外で受けられないかと思って」

 

 俺の書類上の生誕地である東欧の国。理由は詳しくは知らないけど、父さんはその国でいろいろと融通を利かせることができるみたいだった。

 俺の身分まで偽造したのだから、人工授精くらいなんとかなるだろう、そう思っていた。

 

「それは……難しいな……」

 

 だけど、父さんの返答は否定的なものだった。

 

「あの国では宗教上の理由で自然妊娠以外認められていないんだ。非合法だとしても技術自体がないんだ。他の国をあたるにしても、お前の年齢で合法的なものは無理だろうな。この分野で非合法のものになると――調べてはみるが、難しいと思う」

 

「そっかぁ……」

 

 困った。あてが外れた。

 そうなると、妊娠するために取れる手段はひとつしかない。

 

「それで、お前はどうするつもりだ?」

 

「アリス……」

 

 みんなが俺の顔を心配そうに見ていた。

 人工授精でなんとかなると思っていたから、何も考えてなかったとはとても言いだせない雰囲気だ。

 

「ご、ごめん……ちょっとトイレ」

 

 俺は立ち上がって、席を外す。

 そのままリビングの扉を開けてそそくさと廊下に出た。

 

 ……どうするのか考えないといけない。



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決意

「……ふぅ」

 

 俺はトイレに腰を下ろして考えにふける。

 

「早く決めないといけないんだよな」

 

 翡翠から聞いた話によると、生理というものは排卵日から約二週間で来るらしい。

 排卵日とは文字通り卵子が生まれる日のことで、卵子はその後24時間くらいの寿命の間に精子と出会って受精すれば妊娠し、出会わなければ生理のときに体外に排出される仕組みとなっているそうだ。

 俺の生理周期が一定していないのは、女性ホルモンだかなんだかの影響で排卵日がずれるかららしい。

 

 つまり、生理周期が不安定な俺は、今日が排卵日で妊娠できる可能性も有り得るということだ。

 だから、できることならすぐにでも精子を貰って妊娠を試みた方がいいと翡翠は言っていた……アリシアを救うために俺に与えられた妊娠の機会は有限なのだから。

 

 体を前方に折り曲げて肘をつくと、用を足すために下ろしたショーツとナプキンが視界に入る。いつ生理が来ても大丈夫なようにつけている薄いやつだ。

 もちろんまだ生理は来ていない。

 

「妊娠かぁ……」

 

 人工授精を頼れない以上、誰かに種を貰う必要がある。

 種を貰うということは、つまりセックスするということだ。

 こんなことを誰に頼めばいいのだろう……?

 

 異世界人とこの世界の人との間で子供が産まれることは実証されている。過去に俺と同じ方法で異世界に召喚された勇者が、あちらに残って貴族となり子孫を残しているという話をアリシアから聞いたことがあるからだ。

 だから、相手は異世界人に限られるといったことはない。

 

 問題となるのは、知り合いに頼むのか、それとも見知らぬ他人に頼むのか、だ。

 

 心情的にはやっぱり知り合いの方が安心はできる。だけど、魂がアリシアのものとはいえ、相手を父親にしてしまうことを考えると気軽にお願いできることではない。

 

 それに、俺がお願いするのは快楽を求めるためのセックスではなく、子作りのためのセックスだ。知人にセックスを誘われるのはまだいいとしても、積極的に生で中出しを求められるのって普通に考えてあり得ないと思う。俺なら怖い。

 生理がまだ来てないことにしようにも、授業中の教室で初潮が来たことは学校では割りと知られている話だと思うし……

 

 そう考えると、知り合いに頼むにしてもアリシアの事情を話せる相手に限られると思う。その条件に当てはまる男は、蒼汰、エイモック……それから、親父くらいか。

 

 まず、蒼汰はまっさきに却下だ。

 心情的には一番頼みやすい相手で……多分頼み込めば蒼汰は嫌とは言わないと思う。

 だけど、こいつを父親にしてしまうのは問題だ。

 別に認知してもらうつもりも必要もないけれど、産まれてきたアリシアのことを蒼汰が他人として見られるかどうか……あいつはきっと責任を感じてしまうんじゃないかと思う。

 そのことが、将来蒼汰が女性と付き合ったり結婚したいと思ったときに、足枷となってしまう可能性が高い。

 俺の事情でそこまで迷惑を掛ける訳にはいかない。

 それに、蒼汰は男の俺を知る唯一の親友だ。それが、男女の関係になって、関係が変わってしまったらと考えると怖い。

 

 父親にしてしまうことだけを考えるなら、一番支障が少ないのは親父だろう。なにせすでに俺達の父親だから、アリシアの親になることに対する負担は少ないと思われる。

 世間にばれたら社会的に死ぬことになるけれど、子供の父親が誰かなんて俺が話さなければわからないだろうし、どうにでもなるはずだ。

 ただ、心情的には一番抵抗がある。

 なにせ俺にとっては実の親父なのだ。

 遺伝子的には問題ないとはいえ、親とそういうことをするのなんて想像したくもない。一緒にお風呂に入るのとは訳が違う。

 それに、父さんには母さんがいる。

 浮気……になるかどうかは微妙だけど、夫が元息子とはいえ家族とそういうことをして気分が良いはずもない。

 家庭に不和をもたらす原因になるくらいなら、他の誰かに頼んだ方がマシだろう。

 

 エイモックは……は良くわからないが、お願いすれば面白がって協力してくれるような気がする。倫理観が違うので父親になることで責任を感じさせることもないだろう。

 やつに大きな借りを作ってしまうことになるのと、アリシアの記憶が戻ったときにエイモックが遺伝子上の父親であると知ったときの反応が少し怖いくらいか……

 

 いっそ見知らぬ他人の方が良いのかもしれない。

 そうすれば相手を父親にする心配なんてしなくていい。それに、名前も知らない関係なら、無責任に中出しをすることに躊躇はしないだろう。それこそ、まだ生理が来てないことにしてもいい。畜生、どんなエロ漫画だ……

 

 問題は相手をどうやって探すかだ。

 探せばいくらでも俺とそういうことをしたい相手はいるだろう。だけど、具体的にどうしたらいいのだろう。

 

 真っ先に思いついたのは出会い系だった。

 詳しくはわからないけど、そういう相手を求める場所としては一番手っ取り早い方法だと思う。

 

 問題は警察に見つかったら確実に補導されるということ。

 そして、それが学校に知られたら俺は退学になるだろう。俺自身は育児で高校を続けられなくなるから構わないけど、同じ学校に行っている優奈に迷惑をかけることになる。さらに、もし近所にまで噂が広まれば、最悪家族全員で別のところに引っ越さないといけなくなるかもしれない。

 それに、不特定の相手と関係すると、性病にかかる危険があると聞いたことがある。出会い系はそのリスクが高いイメージだ。

 

「……性病はやだなぁ」

 

 他に探すとすればSNSとか……?

 出会い系と違って発言で相手の人柄をある程度知ることができるので比較的安心できそうだ。優しそうなロリコンの変態さんを探して、エロ写メ付きのメッセージで誘ってみるとか?

 

「……なんか、そういうエロ漫画を最近読んだ気がする」

 

 見知らぬロリが中出しをお願いしてくるとか怪しいどころの話じゃない。だけど、釣れるかどうかと言えば釣れるんだろうなぁ……だって、男だもの。

 

 結論としてまだ有り得そうなのは、知り合いならエイモック、そうでないならSNSで探すかのどちらかかな。

 知り合いとするのは難しいけど、かと言って不特定の相手も嫌だ。ある程度身元がわかる他人がちょうどいい頃合いだと思う。

 男に抱かれること自体は、もう医療行為とでも思って割り切るしかない。

 

「おっきいお注射しましょうねーってやつかな……ふふっ、全く笑えない」

 

 俺は自嘲気味に呟いた。



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翡翠の覚悟

 居間に戻るとみんなが揃って俺を見てきた。

 どうやら俺が戻ってくるのを待っていたようだ。

 

 大丈夫……何も考えていなかったさっきとは違う。

 

 俺は椅子に座って家族に向き直る。

 

「それで、お前はどうするつもりだ?」

 

 早速父さんが聞いてきた。

 

「ええと――」

 

 俺はトイレで出した結論をみんなに説明する。

 相手を父親にしてしまったり関係が気まずくなったりと、今後の付き合いに支障が出るから知り合い以外で。でも、不特定の他人は怖いから、エイモックか、SNSで無害な人を探そうと思っていると。

 

「知らない相手とか……」

 

「エイモックという人も、アリシアから危険な人だと聞いているわ……賛成はできないわね」

 

 家族の反応は総じて微妙だった。

 内容が内容だけに仕方ないと思う。

 

「それじゃあ、誰か頼めそうな人に心当たりはある?」

 

 誰かにお願いできるというなら、俺はそれで全然構わない。

 だけど、両親の返答は芳しくないものだった。

 ……そりゃそうだ。うちの娘と子作りしてくれと頼める相手なんて、そうそういるものじゃないだろう。

 

「とにかく、アリシアを産むために種が必要なんだ。そのためなら、多少の無茶も覚悟の上だよ」

 

 俺の言葉を受けて「うーん」と考え込む家族。

 

「……ふむ、事前に探偵に依頼して身辺調査をすればリスクは抑えられるか。SNSの発言から辿れば身元調査もできるだろうし」

 

 父さんは俺の提案を検証しているようで、考えていることが口からこぼれていた。

 

「仕事をしていて社会的立場があり遠方に住む独身男性。独り暮らしだとなお良しだな……あと、ロリコンか」

 

 父さんはちらりと俺を見てそう付け加える。

 

 いや、全く持ってその通りだと思いますけど……!

 なんか、もっと言い方とか……その……むぅ……

 

 父さんのデリカシーの無い言葉に微妙なもやもやを感じていると、翡翠が小さく手を挙げて発言の許可を求めてきた。

 

「……ねぇ、アリス。ちょっといい?」

 

「翡翠? ……どうしたの」

 

「うちの唐変木にその役目を任せて貰えないかしら」

 

「……唐変木って蒼汰のこと?」

 

 なんで翡翠がそんなことを言うのだろう?

 彼女の意図がわからない。

 

「ええ、そうよ。アリスだって知らない誰かが相手よりはその方がいいでしょう?」

 

「そ、そりゃそうだけど……でも、蒼汰に子供の責任を負わせる訳にはいかないよ」

 

 その辺りの理由は今話したばかりだというのにどうして……?

 

「責任は私が取るわ」

 

 え……?

 

「あいつとは一応兄妹で血が繋がっているもの。だから、蒼汰の種なら、ほとんど私の娘であると言っても過言ではないと思うわ」

 

 ……いや、その理屈はおかしい。

 

「お父様、お母様、アリシアを宿すために蒼汰の種を使うことを許して貰えませんか? アリスへの責任は妹である私がとります」

 

 言葉を失って固まっている俺を尻目にして、翡翠は俺の両親に向き直って訴えはじめた。

 

「私はアリスと二人でアリシアを育てたいと考えています。今は学生の身ですが、覚悟を示せと言うなら、すぐにでも学校を辞めて働いてアリス達を養うつもりです」

 

 翡翠の口調は冗談と疑う余地もないほどに真剣なものだった。

 

「私はアリスのことを愛してます。今の法律では私はアリスと結婚することは叶いませんが、将来的に同性婚が可能になれば、籍を入れたいとも思ってます」

 

 え、えええええ!?

 

「……え、ええと、翡翠ちゃん?」

 

「あなたたちいつの間に……」

 

「ひ、翡翠姉!?」

 

 翡翠の宣言を受けて阿鼻叫喚となる我が家。

 

「ひ、翡翠……何を言って……?」

 

「ご両親への報告よ。一生アリスのことを支えるっていう私の宣言をあなたは受け入れてくれたじゃない。それってつまり、私のプロポーズを承諾してくれたことと一緒よね?」

 

 どこから突っ込んだらいいのだろう。

 け、結婚って……

 

「で、でも、私はアリシアのことが……」

 

「かまわないわ。私もアリシアのことを私達の娘として愛するつもりだもの……ああ、もちろん、アリシアが拒絶するなら関係を解消するという約束はちゃんと守るわ」

 

 え……えっと、ええと……?

 

「ちょ、ちょっと翡翠姉……!? いつの間に二人はそんな関係になっていたの!? あたし何も聞いてないよ!」

 

「それはそうよ……今さっきなったばかりだもの」

 

「え……? それなのに結婚って――」

 

 優奈は引き気味に言う。

 

「結婚を申し込むのに付き合った期間は関係ないわ」

 

「そ、それにアリスはずっとアリシア一筋だったと思うんだけど――?」

 

「そうね……今もアリスはアリシアのことを好きでいるわ。だけど私は構わない、そんなアリスを私は愛しているもの」

 

「そ、そこは構おうよ!? 両想いじゃないのに結婚なんて……」

 

「世の中恋愛結婚ばかりじゃないわよ。形から入る結婚だってあるわ。ねぇ、そうでしょ? アリス」

 

「え、ええと……?」

 

 話についていけてない。

 俺と翡翠が結婚……?

 なんでそういう話になっているんだっけ……?

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 

 手で額を押さえた父さんが、もう一方の手で翡翠を抑えるようにかざして言う。

 

「……突飛な話が多すぎて頭がついていけてない。話を整理させてくれ。翡翠ちゃん、詳しいことを聞かせてもらっていいかい?」

 

「……わかりました」

 

 腰を浮かして訴えていた翡翠は、我を取り戻したようで椅子を引いて座り直した。

 

 こほんと一度咳をしてから、父さんは翡翠に質問をはじめる。

 

「まず、光博さんと蒼汰くんはこのことを知っているのかい?」

 

「いえ、まだ話はしていません」

 

「翡翠ちゃんは未成年で光博さんに学校へ通わせてもらっている立場だ。それに、蒼汰くんの考えもあるだろう。ご家族の了承なしに決められるような話ではないよね?」

 

「……家族は必ず説得します。そうしたら、私たちのことを許していただけますか?」

 

「許すもなにも、まずは当事者の意思を確認してからだな――どうなんだアリス、翡翠ちゃんと結婚するというのは……その様子だとお前も承知してない話なんだろう?」

 

 突然話を振られた俺は、思わずしどろもどろになる。

 

「え、ええと……その……わ、わからないよ。翡翠のことは大事な人だって思ってるけど、結婚とか考えたこともなくて……その、ごめん……」

 

 子供を妊娠して産むってことだけで、いっぱいいっぱいなのに、結婚なんて……処理できる限界を超えている。頭の中がぐちゃぐちゃでパンクしてしまいそうだ。

 

「アリスもこう言ってることだし、少し考える時間をくれないか? 翡翠ちゃん自身も家族と話をする時間が必要だろう……今日はもう遅い。明日以降にあらためることにしよう」

 

「……わかりました。ですが、アリシアを助けるために残された時間は限られています。妊娠できる機会を逃さないように、なるべく早く決断した方がいいと考えてます」

 

「そうだね……だけど、これは将来に関わる大事なことだ。いっときの感情で決めてしまわない方がいいと思う」

 

「いっときの感情なんかじゃありません。私はもう何年もずっとアリスを――幾人のことを想い続けてきました。アリスとの結婚も、以前から考えていたことです」

 

「……どうしてそこまで焦っているんだい? 用意周到な翡翠ちゃんにしては随分と詰めの甘い行動だと思うのだけど――」

 

「本当はちゃんと段階を踏むつもりだったんです。アリスの恋人として一緒にアリシアを育てる中で関係を深めて、その間に外堀も埋めていって……それからプロポーズしようと考えていました」

 

 今、翡翠からさらっと怖い計画を打ち明けられた気がする。

 

「だけど、アリスのことを何も知らないような変態に、アリスを好き勝手されるかもって考えたら、とても嫌で嫌で仕方なかったんです」

 

 翡翠……

 

「だから、無茶を承知の上で行動することにしました。ちゃんとアリスの価値を知って、アリスのことを大切に思っている蒼汰が相手なら、まだぎりぎり我慢できるんじゃないかって思ったんです」

 

 翡翠はきゅっと両手を握り合わせて言う。

 

「……私が原因でこんなことになっていて、当事者であるアリスの方がずっと辛い思いをしているのに……ごめんなさい、自分勝手なことを言ってるよね」

 

「そんなことないよ。翡翠が嫌って思ったのも私のことを大切に思ってくれているからでしょ? それにやっぱり知らない人とするのは怖いって思うし……」

 

 妊娠するまでってことは一回だけじゃすまないだろうし、必然的に積極的に中に出してとおねだりするエッチな女の子を演じることになるだろう。

 ……ただやられることより、そっちの方がきつい。

 

「それに、アリシアのことも翡翠のことも決めたのは私自身だから。むしろ、翡翠が教えてくれたから、私はこうやって前を向いて進めるんだ。だから、翡翠が責任を感じる必要なんてないよ」

 

 翡翠は小さく首を振ってから、全員に向き直って話し出す。

 

「もし、アリスが私を受け入れてくれなかったとしても、私はアリスの側で出産と育児を支えようと思ってます。それが、私のけじめです」

 

「……だが、自分の方を向いていない相手を側でずっと想い続けるっていうのは、翡翠ちゃんが辛いんじゃないか?」

 

「草葉の陰から幸せを祈るとか、アリスが幸せなら私はどうなってもいいとか、そういう考えは私にはありませんのでご心配なく……アリスを私に振り向かせる勝算はあります」

 

 翡翠は不敵に微笑んで言う。

 

「だてに子供のころから幾人のことを見続けてきた訳じゃありません。アリスの好みは何でも知っているつもりですし、時間はいくらでもありますから」

 

 目の前でそんな宣言されると、された当人としてはどんな反応をすればいいのか困る。

 

「そ、そうか……翡翠ちゃんの気持ちはわかった。俺としては翡翠ちゃんのご家族とアリスが良いなら反対する気はない」

 

「お父様、ありがとうございます!」

 

「昔から幾男さんと話をしていたのよ、翡翠ちゃんがうちにお嫁さんに来てくれたら嬉しいって――ええと、今も翡翠ちゃんがお嫁さんに来るの良かったのかしら……?」

 

「はい、そのつもりでいます」

 

「えぇ……翡翠姉があたしの義理姉(おねえさん)? ……いや、アリスはあたしの妹だから、義理妹(いもうと)になるの? ややこしいなぁ……」

 

「優奈もよろしくね」

 

 えぇ……もう、外堀が埋まってきてる気がする。

 

 だけど、こういう翡翠は俺も嫌ではなかった。

 俺と蒼汰が考えなしに動いて優奈が場を掻き回した結果、行き詰まってしまった状況を、翡翠が解決してくれたのは数え切れないほどある。

 普段は俺たちの後ろを静かについてくるような性格なのに、常に周りを良く観察していて、いざというときの判断力と行動力は誰よりも頭抜けているというのが、俺のよく知る翡翠という女の子だった。



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かわるもの

「話も一段落したことですし、そろそろお(いとま)しますね」

 

 翡翠は俺たちにそう告げる。

 

「それじゃあ、私送って行くよ」

 

 すでに良い子は寝ている時間帯になっていた。

 神社までの道は街灯も少ないので、女性に一人歩きさせるのは危険だ。

 

「却下だ。送って行ったら帰りはお前一人になるだろう? ……翡翠ちゃんは俺が送っていく」

 

「私なら誰が襲ってきても撃退できるのに……」

 

「危機管理の問題だ。襲いやすいと思わせる状況を作れば、無用のトラブルを招く危険が高い。未だその辺りの自覚が薄いのは問題だな」

 

「うっ……」

 

 それは全くもって父さんの言う通りで、俺はぐうの音も出ない。

 そんな俺の様子を見て翡翠は少し笑って返答する。

 

「お気持ちありがとうございます。でも大丈夫です、迎えは呼んでありますから」

 

 迎え……? と思っているとインターホンの呼出音が鳴った。

 

「ちょうど、来たみたいです」

 

 モニター式のインターホンに映し出されたのは蒼汰の姿だった。

 

「はいはーい」

 

 母さんが応対して、蒼汰を招き入れているようだった。

 

「そうだ。せっかくだから、ここで蒼汰に事情を話して協力を承諾させましょうか」

 

「ちょ、ちょっとまってよ翡翠!?」

 

 説得するにしても、この状況はあまりにもハードにすぎやしないだろうか。

 俺の家族に見守られながら、実の妹から俺を抱いてほしいと説得されるなんて、気まずいにもほどがある。

 それは、やめてあげてほしい……男心は繊細なんだ。

 

「私自身のことだし、自分で説得するよ。みんなの前だと話しづらいから、蒼汰と二人で私の部屋に行くから」

 

「……わかったわ」

 

 翡翠はすんなり俺の提案を受け入れてくれた。

 蒼汰の説得に関しては、割りとおざなりな気がする。

 

「ねぇ、アリス?」

 

 優奈がおずおずと問いかけてきた。

 

「……何?」

 

「そ、そのまま蒼兄と――しちゃったりする? もしそうなら、その……心の準備しとくから」

 

 顔を真っ赤にしてしどろもどろにそんなことを聞いてきた。

 

「し、しないよ!?」

 

 蒼汰が了承してくれたとしても、他にいろいろ考えないといけないことは多い。それに、家族や優奈が下に居る状況でするとか――そもそも、優奈がする心の準備って何さ!?

 

「こんばん――わ?」

 

 そのとき、リビングのドアが開いて蒼汰が入ってきた。

 固まっている俺達を見て、何があったのかと目を丸くする蒼汰。

 

「え、ええと……?」

 

「蒼汰、いこう」

 

 俺は椅子から飛び降りると、蒼汰の手を取ってリビングから脱出する。蒼汰の手はひんやりと冷たくて硬かった。

 

「――ちょっ!? な、なんだ、なんだ!?」

 

 そのまま有無を言わさず、蒼汰を引っ張っていく。

 無言で、ぐいぐいと。

 蒼汰は戸惑いつつも俺に逆らわずについてきてくれた。

 廊下から階段を上がり、俺の部屋のドアを開けて入る。

 蒼汰を部屋の中に誘導してからドアを閉めて、ようやく俺はほっと一息ついた。

 

「……大丈夫か?」

 

 背中から蒼汰の心配そうな声が聞こえてくる。

 

「だ、大丈夫! 何でもないから……」

 

 俺はドアに向き合ったままこたえた。

 

「それならいいが……ええと……」

 

「どうか、した?」

 

 俺は振り向いて蒼汰を見上げる。

 春になったと言っても、まだ夜は冷えるのだろう。

 蒼汰の頬は赤くなっていた。

 

「……その……手」

 

 そういえばずっと蒼汰の手を掴みっ放しだった。

 

「ん……? ああ、ごめん」

 

 俺は蒼汰の手を離して部屋の中まで進むと、ぼふっと顔からベッドに倒れ込んだ。

 

「あー」

 

 なんだかなぁ……

 これからお願いしないといけない内容を思うと気が重い。

 

 何から話すべきなのか頭の中で考えていると、ふと違和感が。振り返ると蒼汰が部屋の中で所在なさげに立っていた。

 

「……なんで、立ちっぱなしなんだ? 俺の部屋に来るのが久しぶりだからって遠慮してるのか?」

 

「いや、その……正直、混乱してる。ここは幾人の部屋だったから、お前が使ってて当たり前なんだろうけど……」

 

「まだ、俺が幾人だって信じてなかったのか?」

 

「いや、そういうわけじゃないんだが……部屋自体は何度もきた幾人の部屋で、家具も見覚えがあるのに……その、女の子の部屋になってるから」

 

「んー? ……そうか?」

 

 俺は目に入ったイルカの抱き枕をなんとなく手元に引き寄せて抱きしめながら言う。別にそんなに変わってないと思うんだけど……

 

「かわいい小物とかぬいぐるみとか、後、壁に女子の制服が掛ってるし……何より、その……いい匂いがする」

 

「はぁっ!?」

 

 何言ってるんだ、コイツ!?

 変態か!?

 

 ……あ、変態だったわ。

 

 男の頃に散々性癖を語り合った仲だったので、その辺りはよく知っていた。

 

「……お前気をつけろよ。俺はいいけど、他の子の部屋に行ったとき、いい匂いとか言ったらお前ドン引きされるからな」

 

「お前以外に言わねぇよ、こんなこと」

 

「まあ、いいや……いつも通りベッドに座れよ。でかいのに突っ立っていられると見上げるのが疲れる」

 

「お、おう……」

 

 遠慮がちにベッドに腰を下ろす蒼汰。

 俺は体を起こして隣に並んで座った。

 自分で誘っておきながら変に意識してしまうのは、これからお願いすることを考えたら致し方ないだろう。

 

「……思っていたよりも元気そうで良かった」

 

 蒼汰は俺の顔を見下ろしながら安心した口調で、そんなことを呟いた。

 

「あ……」

 

 そういえば、蒼汰が知ってるのは今日俺がアリシアと最後のデートをするということだけのはずだ。

 だから、人と話せるくらいには元気のある俺の姿が意外だったのだろう。

 もし、翡翠からアリシアを助ける方法を知らされていなければ、俺はきっと今も一人でふさぎ込んでいたはずなのであながち間違っていない。

 俺が今こうやって居られるのは理由がある。

 

「それが、その……アリシアを助けられるかもしれない方法が見つかったんだ」

 

「そうなのか!? 良かったじゃねぇか!」

 

 蒼汰は、まるで自分のことのように喜んでくれた。

 

「それで……そのことで、お前に協力してほしいことがあって……」

 

「なんだ? いいぜ、俺にできることならなんでもするさ」

 

「アリシアを救うためには、子供を宿してアリシアの魂を胎児に移して産まないといけないんだ」

 

「……え?」

 

「だから、蒼汰。お前の精子を使わせてくれないか?」

 

「お、おう……? って、あれだろ? 体外受精ってやつ」

 

「いや……それはできないみたいなんだ。だから、その……」

 

 なるべく冷静にそれを言おうとしたけれど、引っかかってしまってその単語が出てこなくて。一度言いよどんでしまうと、余計に言いづらくなってしまう。

 だけど、そんな俺の態度で蒼汰は察したようで、顔を真っ赤にして黙りこんでしまった。

 

「か、勘違いするなよ! これは救命行為だから。人工呼吸(マウストゥマウス)みたいなものだから!」

 

「そ、そんなこと言われても……」

 

 少し冷静になってみると、ちょっと蒼汰に失礼な言い方だったかもしれない。種だけが目的の行為だとしても、そう言い切られるのは、あまり気持ちの良いものではないだろう。

 

「そのかわり、蒼汰がしたいことなんだってしていいから」

 

「な、なんでも……?」

 

「それとも、やっぱり無理か? いくら見た目が女でも中身は俺だし……」

 

「……それは大丈夫だ」

 

「そ、そうか……」

 

 抱けるのか。

 ……複雑ではあるが、この際ありがたい。

 

「というか、大丈夫じゃないのはお前の方じゃないのか? ……男の初めてとは訳が違うだろ。それに出産なんて……」

 

「うん……でも、俺は大丈夫。アリシアにもう一度会えるならこれくらいどうってことないから」

 

「お前……」

 

「後、認知とかは考えなくていいからな。責任は翡翠がとって俺と結婚してくれるらしいし」

 

「け、結婚!? なんでそうなるんだよ!?」

 

 それは、俺もわからないけど……

 

「それとも……やっぱり、好きな人がいるからダメなのか?」

 

「な……なんでお前がそんなことを知ってる!?」

 

「涼花から聞いた。彼女を振ったんだろ、もったいない……それに、水臭いじゃないか。そんな娘がいるなら俺に相談してくれても良かったのに……」

 

「で、できねぇよ……」

 

「まぁ、お前にも事情はあるわな。でも、そういうことなら無理強いする気はないさ……変なお願いしてすまなかった」

 

「もし、俺が断ったらどうするんだ? 諦めるのか?」

 

「いや……多分、誰か知らない相手を探すことになると思う」

 

「はぁ!? 何考えてるんだよお前!?」

 

「……仕方ないじゃないか。それ以外に方法がないんだから」

 

「ったく……わかったよ! 協力する、させてくれ。知らない誰かとなんか考えるんじゃねぇよ!」

 

「お前、無理してないか……?」

 

「無理してるのはどっちだよ!? ……俺のことはいい。別に捧げる操があるわけでもないし、童貞なんて捨てられるならいつだって捨てたいと思ってたんだから。それはお前といつも話してたことだろう?」

 

「……そうだなぁ」

 

 昔蒼汰と語り合ったことを思い出す。

 近所のお姉さんから誘惑されて後腐れのないエッチな関係になれたら最高だなって馬鹿話を良くしてたな……

 

「ほら、俺は役得しかないだろう? だから、俺のことより自分のことを心配しろよ……」

 

 そういうぶっきらぼうな物言いも俺に気を使わせないようにするための蒼汰の気遣いだろう。

 

「……ありがとう、蒼汰」

 

 そして、俺はその蒼汰のやさしさに甘えさせて貰うことにした。

 ……正直なところ、知らない誰かに抱かれるのは怖かったから。



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かわらないもの

 蒼汰との話を終えて、俺達はリビングに戻った。

 

「……話はついたのね? それじゃあ帰りましょう」

 

 翡翠は蒼汰にそれだけを確認すると、俺達家族に挨拶をして帰っていった。

 

 翡翠の蒼汰に対する態度は普段よりもぞんざいさが増してるように感じた。基本的に素っ気ない翡翠なので、ほんのわずかな、俺じゃないとわからないくらいの違いなんだけど。

 ……蒼汰は何か翡翠の機嫌を損ねるようなことをしたのだろうか?

 

 二人が帰った後、家族だけで改めて話をする。

 

「アリシアを助けるために子供を作る、その方針に変わりはないか?」

 

「うん」

 

 父さんの質問に俺は間髪入れず肯定の返事を返す。

 迷いはない。

 

「それじゃあ、翡翠ちゃんの提案についてお前はどう考えているんだ?」

 

「……私は翡翠の提案を受けたいと思ってる。蒼汰も協力するって言ってくれたし。もちろん、光博おじさんがオッケーしてくれたらだけど」

 

「そうか……」

 

「私達としてもその方が安心できるわ。蒼汰くんと翡翠ちゃんなら赤ちゃんの頃から知っている子たちだもの」

 

 父さんも母さんもどこか安堵している様子だった。

 気持ちはわかる。俺自身もどこか緊張が抜けた感じになっているから。

 

「ただ、翡翠と結婚ってことに実感がわかなくて……こんな私でいいのかなって思うんだ」

 

「そうねぇ……翡翠ちゃんとのことは、すぐに結論を出さなくてもいいんじゃないかしら?」

 

「え?」

 

 母さんから出た意外な言葉に俺は声をあげる。

 

「あなた達の関係を否定するわけじゃないの。だけど、あなた達はまだ若いわ。これからいろんなものを見て、いろんな経験をすることになるの。その中で二人はかけがえのないパートナーになっていくかもしれない……そして、その逆もあるかもしれない」

 

「でも、それじゃあ翡翠が……」

 

 母さんの言うことはわかる気がする。

 でも、俺のために尽くしてくれるという翡翠に答えを保留したままと言うのは、あんまりじゃないだろうか……

 

「義務感で一緒になっても長続きしないわ。無理にそんなことをすれば、お互い傷つくだけよ」

 

 その母さんの意見に俺は何も言えなくなってしまう。

 

「だから、お互いが成人するまで婚約者ということにしておきなさい。そしたら翡翠ちゃんを裏切ることにはならないでしょ?」

 

「う、うん……」

 

「そうやって翡翠ちゃんと時間を掛けて向き合ってみて、成人してもお互いが一緒になりたいって思えたなら、身内で披露宴をあげましょう?」

 

「そしたら、二人分のウエディングドレスを準備しないとだね!」

 

 と優奈が食いついてきた。

 

 いや、俺はタキシードの方が……と口に出そうとしてやめた。

 タキシードを着た俺とウエディングドレスを着た翡翠を想像してみたら、滑稽な絵にしかなりそうになかったので。

 まだ翡翠の方がタキシード映えするだろう。

 

 ……それに、俺がタキシードを着るなら、隣にはアリシアがいて欲しいって思うんだ。

 

「アリス……どうするかはお前がよく考えて決めなさい。どんな選択をしても、俺達家族は全力でお前をサポートするからな」

 

 父さんは真剣な目で俺を真っ直ぐに見て言う。

 

「助けような……アリシアを」

 

「うん!」

 

 ……ありがとう、父さん。

 

   ※ ※ ※

 

 それから、俺は優奈と一緒にお風呂に入った。

 もう監視される必要はないと思うから一緒に入る義務はないのだけど、なんとなくそれが習慣になっていた。

 お互い体を洗いあってから、いつも通り優奈の脚の間に挟まるようにして湯船に浸かると、優奈が後ろから肩越しに両手を回してきて、俺をぎゅっと抱きしめてきた。

 俺は抵抗せずに体を優奈に預けると、暖かくて柔らかい感触に包まれた。

 

 ……翡翠と結婚したら、これも浮気になるのかな?

 

 姉妹のスキンシップだからセーフ。

 セーフだよね……多分?

 

「……おにいちゃん」

 

 ぼーっと感触を楽しみつつそんなことを考えていたら、優奈が辛そうな声で俺を呼んだ。

 

「どうした、優奈?」

 

 気持ちを兄モードに切り替えて俺は聞き返す。

 

「どうしておにいちゃんばっかり、こんな辛い思いをしなきゃいけないの?」

 

「辛い……?」

 

 聞き間違えたかと思って俺は聞き返す。

 

「そうだよ!」

 

 激高した様子で優奈は声を荒らげる。

 

「おにいちゃんは異世界で大変な思いをして、戻ってこれたと思ったら女の子になっていて、好きな人とは別れないといけなくて……今回だってアリシアを助ける手段が見つかったと思ったら、妊娠して出産しなきゃいけないなんて……そんなのって……!」

 

 改めて指摘されると波乱万丈にもほどがあるな、俺の人生は。

 ……でも、俺は自分のことを不幸だと思ってはいない。

 

「……俺はついている方だと思うよ、優奈。本当なら俺はもうとっくに死んでたんだ。それでも、俺は今こうして生きてる。お前とも再会できた」

 

 手を優奈の頬に触れさせる。

 

「アリシアのことだって今日お別れをして、もう二度と会えないと覚悟していたんだ……だから、再会できるかもしれないと聞いて俺はすごく嬉しかった」

 

「で、でも、でもっ……! アリシアとはもう恋人じゃなくなっちゃうんだよ!?」

 

「アリシアはずっと使命に囚われて生きてきた。だから、俺は彼女にそうじゃない生き方を教えてあげたいと思ってた。……想定していたのとは違う形になっちゃうけど、家族としてアリシアと生きていけるなら俺は嬉しく思うよ」

 

 ……たとえ、子供は親の元から離れていくのが定めだとしても。

 

「おにいちゃん……」

 

 それに、こうやって俺のことを心配してくれる家族が居る。

 蒼汰も、翡翠だってそうだ。

 だから俺は大丈夫。

 

「ありがとう、優奈……」

 

 優奈にぎゅっと、少し苦しいほどに抱きしめられて。

 彼女の温もりに俺は安心感を覚える。

 

 お風呂から出て優奈と別れて一人部屋に戻る。

 ゆっくりと考えるために一人の方がいいと思ってくれたのかもしれない。

 ベッドに横になると思い出すのはアリシアとの楽しかった思い出ばかりで。

 

「待ってて、アリシア。必ず助けるから……」

 

 目を閉じて集中すると、体の中にわずかに残るアリシアの魂を感じられる。俺は胸元で手を握って心の中で誓う。

 

 それからこれからのことを考えていたけれど、昨日寝ていなかったこともありすぐに眠りに落ちた。

 夢は見なかった。

 

 翌日、俺は家族に翡翠の提案を受け入れること伝えた。



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わずかな変化

四月三日()

 

「ん……ぅ……」

 

 微睡みながら俺は静かな目覚めを迎えた。

 随分と長く眠っていたようだ。

 焦燥も悪夢も享楽も無く越せた夜はいつぶりだったろう。

 

 俺はもぞもぞと枕元のスマホを手繰り寄せる。

 目元をこすりながら画面を確認すると、そこには朝と昼の間辺りの時刻が表示されていていた。普段の目覚めよりも随分と遅い時間だった。

 

「まぁ、無理もないか」

 

 昨日はいろいろありすぎた。

 最期になると覚悟していたアリシアとのデート。そして夜に翡翠から聞いたアリシアを助ける方法。それから家族との話し合い……それに加えてその前日は徹夜だったのだ。

 

 寝ている間に何件かメッセージが入っていて、俺は布団に入ったままそれらを確認していく。

 

 翡翠から光博おじさんの了承を得られたという報告が入っていた。そのメッセージは夜だか朝だかわからないような時間に送られていて、彼女が随分と頑張って自分の親を説得してくれたことが窺えた。

 

 俺は感謝の言葉を添えて、翡翠に提案を受け入れる旨の返事をした。

 昨晩はあまり考えることもなく眠ってしまったけれど、一晩経って心の整理がついた。

 もとよりアリシアを助けることは決まっている。蒼汰や翡翠が協力してくれるというのなら、その好意に甘えさせて貰おう。

 それから、俺を心配するメッセージを送ってきていた優奈にも、翡翠の提案を受け入れることにした旨の返答をした。

 

 次に来ていたメッセージの相手を見て俺は体を硬直させる。

 それは涼花からのメッセージで、アリシアと別れることとなった俺のことを心配し励ます言葉が綴られていた。

 そのこと自体はありがたいし嬉しかった。

 だけど――

 

「涼花は私がしようとしていることを知ったらどう思うんだろうな……」

 

 すでに失恋しているとはいえ、蒼汰は彼女の想い人だった相手だ。俺がこれからすることは、彼女から裏切者と罵られても仕方のない行為だろう。

 

「……でも」

 

 涼花には申し訳なく思うけど、今の俺には、彼女の気持ちに配慮して他の選択肢を選ぶ余裕はなかった。

 結果、涼花には心配してくれたことに感謝する当たり障りのないメッセージだけ返しておいた。

 ……俺自身がもう少し落ち着いたら、ちゃんと会って事情を全部話そう。

 私は涼花のことを友達だと思ってるから、ちゃんと話したい。

 それで嫌われたら……仕方ない。

 

「蒼汰……からは無いか」

 

 蒼汰もきっと翡翠と光博おじさんとの話し合いの場に一緒にいたはずだ。それなのに蒼汰から連絡がないのは、きっとこれからすることを考えて悶々としてたからなんだと思う。

 

「……ふふっ、このむっつりめ」

 

 戸惑う蒼汰の姿を想像するとなんだかおかしくて、俺はくすりと笑った。

 

「まぁ、どうせ翡翠から伝わるとは思うけど……」

 

 これからお世話になると決めたのに何の連絡しないというのも気が引ける。だから、『よろしく頼む』とだけメッセージを送っておいた。

 既読はすぐについて、少し時間を置いて『おう』とだけ返ってきた。

 

 これで朝の連絡は一段落。

 俺は枕元にスマホを置いて大きく伸びをした。

 

「んーっ……今日も良い天気!」

 

 暖かい春の日差しが室内に差し込んでいる。

 そろそろ着替えて下に降りようかと思っていたら、部屋のドアがトントンとノックされた。

 

「アリスー、開けるわよー?」

 

 どうやら、俺のメッセージを見た優奈が直接話をしにきたらしい。俺の返事を待たずにドアが開いて優奈が入ってくる。

 

「おはよう、アリスー」

 

「おはよう、優奈」

 

「……決めたのね?」

 

「うん」

 

 俺は優奈に笑顔でこたえた。

 迷いはもうない。

 

「アリス……」

 

 なのに、何故か優奈に抱きしめられてしまった……優奈に心配かけないようにしているつもりなんだけどな。

 数秒間俺を抱きしめてから優奈は離れた。

 そのまま優奈は勉強机の椅子に腰掛けて――どうやらこのまま部屋にいるつもりのようだ。

 いまさら、それでどうこう言う間柄でもないので、俺は気にせずに着替えることにする。

 

「さっきパパが光博おじさんと電話してたよ。今日の午後からみんなでおじさんのお家に行って話をすることになったみたい」

 

「そうなんだ」

 

 さすがに家族ぐるみで付き合ってきただけあって話が早い。

 そう思いながら、俺はクローゼットから着替えを見繕う。

 

 左右非対称(アシンメトリー)でワンポイントにレースがついた黒いニットのセーターに同じ黒のギャザースカートを合わせようかな?

 俺はそれらを手に取って姿見の前で合わせてみる。

 

「そのトップスに合わせるなら、そっちのスカートの方がいいんじゃない? 黒のワントーンだとちょっと重いかも」

 

 優奈に言われるまま、俺は白のフレアスカートに持ち替えて合わせてみた。

 

 ……うん、たしかにこっちの方がしっくりするね。

 やっぱり、まだまだこういったセンスは優奈にかなわないな。

 

「しかし、光博おじさんも驚いただろうね」

 

「ほんとにねぇ……」

 

 俺の事情だけでも受け入れがたいことだろうに、娘の翡翠が戸籍上女である俺に嫁入りすると宣言して、息子である蒼汰の種を使って俺との子供を作るとか……ほんと、翡翠たちはよく光博おじさんを説得できたものだ。

 

 パジャマの上下を脱いでベッドに投げ、取り出した服に着替えていく。

 着替え終わって姿見に自分の姿を映すと、そこには見慣れた姿の自分が居て――少しだけ胸が苦しくなった。

 そして、ふと思いつく。

 

 ……髪を切りたいな。

 

「ねぇ、優奈。ご飯食べたら、ちょっと外に出ても大丈夫かな?」

 

「大丈夫だと思うけど……どうして?」

 

「美容院で髪を短くしたいんだ」

 

 この体になってすぐ、同じことを提案したときは母さんと優奈に反対されたけど。

 

「そう……いいんじゃないかしら」

 

 と、優奈は割りとあっさり同意してくれた。

 

「ばっさり切っちゃおうかなー」

 

 と俺は指でハサミを作って、うなじあたりで髪をちょん切る真似をする。

 

「駄目よ、そんなの! 今持ってる服が合わなくなっちゃうじゃない」

 

「……そんなのもあるんだ」

 

「あーりーまーすー! だからね、短くするにしてもせめて肩くらいまでにしとこう?」

 

「そっかぁ……」

 

 今は腰くらいまであるから、肩くらいまででも印象は変わるかな……?

 

「もし、イメージを変えたいんだったら、髪をくくってみたりとかもできるから」

 

「それ、いいかも」

 

 今まで髪型はほとんど触ってこなかった。

 アリシアと鏡写しである自分の姿をなるべく変えたくなかったからというのがあったから。

 

「後でシュシュ持ってきてあげるよ」

 

「ありがとう、優奈」

 

 だけど、この機会にそれもやめてしまおうと思った。

 アリシアの面影が大きく残るこの姿のままで、他人に抱かれたくないという……小さな俺のわがまま。



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ふたつの家族

 いつも指名している美容師のお姉さんに髪を短くすることを告げると大層驚かれて、本当に切っていいのかと何度も確認された。

 

 ハサミが入る度、バサッと落ちていく銀の束。

 腰まであった俺の髪はみるみるうちに短くなってあっという間に肩くらいまでの長さになっていた。

 ずいぶんと頭が軽くなった気がするけど、お姉さんが言うにはこれだけ切って100グラムもいかないそうだ。

 

 髪を洗って貰った後、美容師のお姉さんと優奈との三人で髪型のアレンジを試してみた。

 いろいろやってみた結果、後頭部で纏めてシュシュで飾るというシンプルなスタイルに落ち着いた。自分一人でできる気軽さと、動くにつれてピョコピョコと踊るしっぽが我ながら可愛いと思ったからだ。

 鏡に映った自分の姿は、いくらか活発な雰囲気になった気がする。

 

 美容室に居る間に母さんからメッセージが入っていた。

 光博おじさんと大人だけで話をしたいので、先に神社に行くこと。そして、美容室が終わったら食事を済ませて神社に来るようにという内容だった。

 

 コンビニに寄ってパンを買ってから俺達は神社に向かう。

 満開の桜に囲まれた階段を登っていくと、箒を持って境内を掃除をしている巫女服姿の翡翠にばったり出会った。

 俺を見た翡翠は一瞬驚いた表情をした後、似合ってると俺の髪型を褒めてくれた。

 

 翡翠も昼食はまだとのことだったので、買ってきたパンを一緒に食べようと誘った。

 翡翠達の住居でもある社務所の縁側に三人で並んで座る。

 春の日差しは暖かくて、ここにも咲いている桜とあいまってちょっとしたお花見気分だ。

 

 なんでもない雑談をしながら食事を終えると、丁度蒼汰が俺達を呼びに来た。

 俺の姿を見た蒼汰は一瞬固まって、その後の態度もどこか余所余所しい感じだった。

 俺のことを露骨に意識してしまっている様子だ。まあ、これからすることを考えたらそれも仕方のないだろう。

 

   ※ ※ ※

 

 和室の客間には四角いテーブルが真ん中に置いてあって、奥の角から右手に父さんと母さんが、左手に光博おじさんが座っていた。俺と優奈が右手の手前に、翡翠と蒼汰が左手の手前に座る。

 これで如月家、神代家の両家勢揃いという訳だ。

 皆が座ったところで、俺は立ち上がって光博おじさんに向かって頭を下げた。

 

「光博おじさん、いままで私のこと黙っていてごめんなさい!」

 

 事情があったとは言え、自身を偽っていたことを謝罪する。

 

「幾人くん、なんだよね? ……話を聞いていても信じがたいよ。こんなにかわいい娘がそうなんて」

 

「おじさんに教えて貰った空手の型はまだ憶えてますよ。前みたいに体が憶えているって訳にはいかないですけど……やってみせましょうか?」

 

「いや、大丈夫。それより、魔法っていうのを見せて貰えないかな?」

 

 確かに、そっちの方が荒唐無稽な俺の身の上話を証明するにはもってこいか。

 

「わかりました!」

 

 俺は部屋の入口まで移動して、裏庭が見えるように襖を開け放った。

 裏庭の真ん中には一本の桜の木。周囲に人影は無い。

 

「それじゃあ、いきますね」

 

 せっかくだから、ちょっと見栄えのする魔法にしよう。

 俺は頭の中で魔法式を構築して発動させる。

 

(スノウ)!」

 

 桜の木の周辺の空気がぼんやりと揺らめいて、やがて小さな白い結晶たちがしんしんと落ちてくる。

 

「綺麗……」

 

 薄桃色の桜を中心にして舞い落ちる、季節外れの白い雪は幻想的な美しさがあって、魔法を使った自分でも見惚れる程だった。

 そのまま一分程続けてから魔法を終了する。

 幕引きとばかりに襖を閉めてから、後ろの皆に向き直って一礼した。

 

「ざっとこんな感じになります」

 

 ちょっとくらい調子に乗っても仕方ないよね。

 我ながら上手くいったと思う。

 

「いやはや……なかなかすごいものだね、魔法というのは」

 

「ほんと、綺麗だったね!」

 

 賞賛の言葉を受けながら俺は席に戻る。

 

「……さて、それじゃあ、これからのことを話し合うとしよう」

 

 父さんの一言で話し合いが始まった。

 

「まず、アリス。お前は自分の体に残るアリシアの魂を胎児に宿して子供として産み育てる。その意思に変わりはないか?」

 

「うん」

 

「じゃあ、翡翠ちゃん。君はそんなアリスと結婚して支え合う関係になりたい、それでいいのかい?」

 

「はい」

 

「俺達は基本的にお前たちの選択を尊重したいと思っている。だけど、お前たちはまだ若い。アリスと翡翠ちゃんは婚約者としてそれぞれの家で過ごして、二人が二十歳になってもお互いの気持ちが変わらなかったら一緒になるといい」

 

「わ、私はすぐに一緒になりたいです! 出産育児することになったのは私の責任なんです。だから、私にアリスを側で支えさせて下さい!」

 

「支えて貰えるのは家族としても嬉しい。だけど、それを選んだのはアリス自身の選択だ。翡翠ちゃんが責任を感じる必要はない」

 

「で、でも……!」

 

 なおも反論しようとする翡翠を遮って、光博おじさんが静かに話しかける。

 

「翡翠、あなたの幾人くんへの想いは知っていますし、あなたたちの関係を否定するつもりもありません。だけど、早急に結論を出すには、まだあなたたちは若すぎます」

 

「そんな……学生であることがダメなんだったら、今直ぐに学校を辞めて働いて私アリスを養う!」

 

「そんなことを軽々しく言うものではありません」

 

「軽々しくなんか――」

 

「いいですか、翡翠。大人は自立しているものですが、自立しているからと言って大人になれる訳じゃありません。今のあなたは社会に出るための力を蓄えている(さなぎ)なんです。無理に羽化して羽ばたこうとしたら、羽根が傷ついて飛べなくなってしまうかもしれません」

 

「で、でも……」

 

「四年なんてあっという間です。その間によく学んで視野を広げなさい。アリスさんと生きたいだけじゃ足りません。何をして養うのか、そのためにはどうすればいいか、しっかりと考えてあなたなりの答えを示して下さい」

 

「……わかった」

 

「それまでは親に甘えて大人になりなさい。その上でアリスさんと一緒になりたいって言うのなら、私は応援しますから」

 

「うん」

 

 そのやり取りを聞いて俺は少し安心した。

 光博おじさんは翡翠の危ういところをちゃんと見て注意してくれるんだなって思ったから。

 

「アリスさんもそれでいいですか?」

 

「あ、はい。大丈夫です」

 

 ……俺達はまだまだ子供だ。

 だけど、子供でいられるってことは幸運なんだと思う。

 

「それじゃあ、後はアリスのことだな」

 

「……私?」

 

「俺達はアリスにもできれば高校を卒業して欲しいと考えてる」

 

「でも、妊娠出産しないといけないのにどうやって……」

 

「確かに通学しながらの妊娠出産に学校の理解を得るのは難しいだろうな。だから、お前のお腹が大きくなる前に休学して、お前の出生の国となっている東欧の国に滞在と出産して、産後ある程度落ち着いたところで日本に戻ってきて復学するというのはどうだ?」

 

「でも、本当にそんなことできるの……?」

 

 妊娠しているのに学校に通えるのか。

 出産後に子供の面倒をみながら通学なんて可能なのか。

 何もかもが未体験すぎて、全く想像もできないのが正直なところだった。

 

「できなかったら辞めることはいつでもできるからな。育児が一段落ついたとしてもお前はまだ若い、高校を卒業しておけば広がる道もあると思う。考えてみたらどうだ?」

 

「それなら……」

 

 アリシアを産むと決めたときから高校の卒業は諦めていたので、卒業できるかもしれないというだけで嬉しく思える。

 無事に卒業できたとして、幾人として入学したときから五年目で卒業することになる。なんとも、平穏無事にとはいかない学生生活だ。

 

「昨日も言ったが出産育児は家族が全力でサポートする。お金とか周囲の心配はしなくていい。お前自身とアリシアのことだけ考えていればいい」

 

「……ありがとう。みんな、本当に」

 

 俺のわがままとも言える決断を受け入れて支えてくれる家族や幼馴染。全員に感謝の気持ちがいっぱいで、胸の奥からこみ上げてくるもので目元が潤んだ。



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仕事部屋

 話が一段落ついた頃合いで、父さんがテーブルの上に見たことのない鍵を二本とメモ帳を置いた。

 メモ帳には知らない住所が書かれていた。どうやら駅前のマンションのようだ。

 

「俺がときどき仕事部屋として使っているワンルームマンションの鍵だ」

 

 意味がわからなくて首を傾げている俺に、父さんはそう教えてくれた。

 

「でも、どうしてそれを……?」

 

 仕事関係のことは極力家庭には持ち帰らないのが父さんの基本的なスタンスだった。それは、俺が今までこのマンションの存在を知らなかったくらいに徹底されていた。

 

「アリシアを宿すためにしなければいけないことがあるだろう……お前はどこでするとか考えなかったのか?」

 

「あ……」

 

 父さんに言われてはじめてそのことに気づいた。

 蒼汰の家は神社の敷地内にあり、大っぴらにそういうことをするのはあまり好ましくない。だからと言って、俺の部屋でするのも具合が悪い。母さんは在宅の仕事で基本的に家に居るし、隣には優奈の部屋もあるからだ。

 だからと言って、それ用のホテルを高校生同士で利用するのも難しい。出入りするところを誰かに見られたら確実にアウトだ。

 それに、まさか学校でするわけにもいかないだろう。

 

 そう考えると気兼ねをしなくていいマンションの部屋というのは大変ありがたい話だった。

 

「しばらく使う予定はないから、お前達で使うといい」

 

 だけど、セックスするために用意された部屋というのは、なんだかとても生々しく思えてしまう。

 うちは割りと性にオープンな方だと思うけど、これだけあからさまにセックスすることが前提の話をするのは初めてで、どうにも反応に困ってしまう。ましてや、ここに居るのは自分の家族だけじゃなくて、蒼汰の家族も一緒なのだ。

 

「あ……ありがと……」

 

 俺は手を伸ばして、机の上の鍵をメモ紙と一緒に握り込んだ。

 緊張で思わず手が震えてしまっていたのには、誰にも気づかれなかっただろうか?

 微妙な沈黙を断ち切るように、父さんはわざとらしく咳をしてから口を開く。

 

「蒼汰くん」

 

「は、はいっ!」

 

 突然話しかけられた蒼汰は、飛び跳ねるように背筋を伸ばして答える。

 

「えーと……あー、なんだ。その、うん……がんばれ」

 

 適当な言葉が思いつかなかったようで、父さんにしては珍しく歯切れが悪かった。蒼汰からは種を貰うだけの関係になるので、俺のことを頼むと言うのも少し違うんじゃないかと思ったのだろう。

 

「わ、わかりましたっ!」

 

 と蒼汰はカチコチになっていた。

 

 こいつと、する……んだよな、俺……

 

 改めてそのことを意識してしまい俺は息を飲んだ。

 手の中に握りしめた鍵は冷たくて、やたらと存在感がある。

 

「他に何もないようならこれで解散ってことでいいか?」

 

 と、父さんが言った。誰も異論は無かったため、そのまま解散となり大人たちは部屋を出ていった。

 だけど、俺達子供4人は座ったまま居間に残っていた。

 俺は蒼汰としなければいけない話が残っていたからで、他の二人はそんな俺に付き合ってくれているのだろう。

 

「ええと、これ……」

 

 俺は、鉄の輪っかから鍵を一本外して蒼汰に差し出す。

 

「お、おう……」

 

 蒼汰はぶっきらぼうに返事をすると、手のひらを上にして突き出してきた。俺は親指と人差し指で摘んだ鍵をそこに落とす。

 それから、スマホを操作してマンションの住所をメッセージで送った。

 

「…………」

 

 不意に訪れる沈黙。

 

 蒼汰にこれからのことを相談しないといけない。

 そう思いながら、どうやって切り出したらいいのか分からずにまごまごしていると、見かねた優奈が先に口を開いた。

 

「それで、アリスはこれから蒼兄とエッチするの?」

 

 身も蓋もない言葉に一瞬ぎょっとするけど、言い繕っていても仕方ないことなのでそのまま話を続ける。

 

「う、うん……蒼汰が大丈夫なら、この後お願いできたらって思ってるんだけど……どうかな?」

 

 卵子が妊娠できる期間は排卵されてから大体24時間前後らしい。その間に精子に出会えなければ、妊娠するには次の排卵を待たないといけなくなる。

 前の生理からかなりの日数が経っているので、今の俺が妊娠できる可能性は低い。だけど、ゼロじゃない以上精子を受けて妊娠できるようにしておきたいと思う。それも、なるべく早く。

 

「お、俺は別にいつでも大丈夫だけど……」

 

「そ、そっか……それじゃあ、お願いしていい?」

 

「お、おう……」

 

 頭に血が登って蒼汰の顔を見られない。

 多分蒼汰も同じようになっているんじゃないかと思う。

 

「それじゃあ、これからアリスは準備しないとだから、今から二時間後にマンションに行くってことで!」

 

 俺達が再び黙ってしまったので、優奈が仕切って話をまとめようとする。

 

「……二時間もかかるのか?」

 

 口に出た蒼汰の疑問に俺も同感だった。

 そんなに時間をあける必要はあるのだろうか。

 

「アリスは女の子だからね。これくらいでもまだ短い方だよ。だから、蒼兄はおとなしく待っててよね」

 

「わ、わかった」

 

 俺は時間を置くより、このままさっさと終らせてしまった方が良いんだけど……

 と、俺は口を開こうとして。

 

 そういえば、今日はどんな下着つけてたっけ?

 

 ふと、そんなことが思い浮かんだ。

 

 えーと……

 

「……それじゃあ、蒼汰。また後でね」

 

 少し考た後、俺はそう答えていた。

 

 ……うん。

 一旦家に帰って下着を着替えてこよう。

 エイモックのときのような失敗を繰り返すのは良くない。



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不安と焦燥

 家族同士の話し合いを終えて、俺達は家に帰ることにした。

 

「翡翠も家に来るの?」

 

 玄関まで俺達を送ってくれた翡翠は、そのまま靴を履いて一緒にくる様子だった。

 

「そりゃあ、アリスのことが心配だし……家にいてもすることなんてないもの」

 

 翡翠は心外だと言わんばかりの態度だった。

 

「蒼汰の悩みを聞いてあげたりとか」

 

「冗談」

 

 俺の提案は、ばっさりと翡翠に切り捨てられた。

 取り付く島のない態度に、少し蒼汰に同情してしまう。

 望まないセックスをするのは俺と一緒なのに、蒼汰だけなんでこんなに顧みられないのだろう。話し合いでも父さんが声をかけてたけど、意思の確認とかは無かったし……

 男の童貞喪失なんて、そんなものかと思わなくはないけれど。それでも、元男の親友とやるなんて普通に嫌だろうに……

 

 それにしても、初体験っていうのは一生残る経験だよな。

 中には失敗してトラウマになる人もいると聞く。

 俺の都合で協力して貰うんだし、なるべく良い思い出になるようにがんばりたいと思う。

 

 ……感じる演技とかした方がいいのかな?

 

 はじめては痛いって聞く。 

 ……でもまぁ、魔王との戦いで腹に風穴を開けられたときよりはマシだろう。蒼汰の思い出のため痛みに耐えて感じる演技をするのも、やってやれないことはないと思う……多分。

 

「……どうしたの? さっきから百面相して」

 

 そんなことを考えていると、心配した優奈に話し掛けられた。

 

「あ、いや……はじめてって、やっぱり痛いのかなぁって……」

 

「んー、そうだねぇ……人によるみたいよ? 体の相性とかモノの大きさとかあるっぽい。だけどアリスは、その……大変そうね」

 

 俺の体をまじまじと見ながら優奈は難しい顔をする。

 

「うっ……」

 

 相性なんてものはわからない。

 だけど、全体的に体のつくりが小さい俺はその部分も人より小さい可能性が高いだろう。

 

「蒼兄の方はどうなんだろう? 体も大きいから、小さくはなさそうだけど……」

 

「あいつのは……でかいな」

 

「え? アリスは蒼兄の……見たことあるの?」

 

「そりゃあ、まぁ……以前は男同士だったし」

 

 一緒に温泉にでも行けば自然と目に入る。

 俺と蒼汰はお互いライバル視していて、なにかと競い合っていた。

 身長では蒼汰に勝っていた俺だったが、股間の大きさではわずかに蒼汰に負けていたことを心の中で悔しく思っていた。

 蒼汰もそのことを認識していたはずだが、勝利宣言されなかったのは武士の情けだろう。いろいろデリケートな部分なので。

 

 ……だけど、お互いに晒したのはあくまで平常時のモノだけだ。

 俺は膨張率に自信があったから、臨戦態勢であれば大きさは決して蒼汰に負けなかったはずだ。

 そもそも、男の価値はアソコの大きさで決まる訳じゃないし。

 

「って、何の言い訳してるんだろ……」

 

 俺は首を振って要らぬ考えを散らした。

 いずれにしろ、今はもうなくなってしまったモノだ。

 

「……だけど、そうか。アレが私に……って、やっぱり無理じゃね?」

 

 かつての自分自身のモノを思い返してみても、アレがソレに入るとは到底思えない。赤ちゃんが出てくる場所なのだからそれと比べたら全然小さいのだろうけど、実際は指一本すらきつくて自分では入れられないくらい窮屈なところなのだ。

 

「が、がんばって……?」

 

「だ、大丈夫だし」

 

 優奈のはげましにも、俺は引きつった笑顔で強がりを言うことしかできなかった。

 その間、翡翠はあきれたような表情のまま無言で俺達を見守っていた。

 

   ※ ※ ※

 

「ただいまー」

 

 俺達は自宅に帰ってきた。

 父さんと母さんからは二人でランチしてから帰るとメッセージが入っていたので家は無人である。

 

「それじゃあ、あたしお風呂の準備してくるね。アリスは着替えの準備ができたら降りてきてね」

 

 洗面所で手洗いうがいをして優奈と別れた俺は、翡翠と一緒に自分の部屋に移動した。

 

「ここが、アリスの部屋……」

 

 俺に続いて部屋に入った翡翠は、入り口で立ち止まって室内を見回していた。

 こういう反応は兄妹で似ているのが面白い。

 

「そう言えば、翡翠も私の部屋に来るのは二年ぶりくらいだっけ」

 

「二年……もうそんなになるのね」

 

 俺が幾人だった頃、俺と蒼汰は放課後、ほぼ毎日どちらかの家で集まって遊んでいた。優奈や翡翠も週に二回程度は一緒にゲームしたり遊んだりしてたので、この部屋にもそれなりの頻度で来ていたことになる。

 

「それにしても、随分とかわいい部屋になったのね」

 

「……そうかなぁ?」

 

 翡翠にも言われてしまった。ぬいぐるみ以外は小物やアクセが増えた程度で家具類は男だったときのをそのまま使ってるから、そんなに違いはないと思うんだけど……

 

「それじゃあ、私は準備するから、適当にくつろいでてよ」

 

 翡翠は室内に入ってくると、いつも座っていたベッドに腰を下ろした。俺は構わず着替えの準備を始める。翡翠が部屋にいるのは慣れているので、二人きりでも居心地の悪さを感じたりとかはない。

 

 俺はベッドの前に置いてあるプラスチックの三段収納ケースから、下着が入っている段を引き出した。箱の中にはきちんと畳まれたショーツとブラがきれいに並んでいる。

 

「蒼汰が好きなのは、やっぱり白なんだろうな……」

 

 俺はその中から白い下着を選んで取り出してみた。

 といってもほとんどが色や柄付きのもので、俺が持っていたのは2枚だけ。

 ひとつは、無地でフロントに赤いリボンがついてるシンプルな綿のショーツ。この体になってすぐ母さんに買って貰ったものだ。これに合わせるなら、ブラもシンプルなものが無難だろう。

 もうひとつは、サテン地でツヤツヤしてて繊細なレースが施されているショーツとブラのセット。優奈と一緒に下着専門店で買ったものだ。

 俺は両方をベッドに並べてみて考える。

 

「うーん……」

 

 普通考えたらこっちの勝負下着(レースつきの)なんだろうけど、気合いを入れて選んだって思われるのも恥ずかしいんだよな……買ったときに着てみたけど、ちょっと背伸びをしてるような感じだったし。

 シンプルな方も年相応で悪くないと思うけど、初体験に臨むにしては飾り気がなさすぎるようにも思える……悩ましいところだ。

 

「随分と熱心に選んでいるのね」

 

 翡翠が背中から覗き込んできて言う。

 

「やっぱり、見られるって思うとね……それに――っ!?」

 

 俺は言い終えることができなかった。

 翡翠に背後からのしかかられてひっくり返されたからだ。

 気がつくと俺は翡翠に馬乗りに押し倒されていた。

 

「ど、どうしたの翡翠……?」

 

「別に……アリスがあの男のために下着を選んでいることがイラっとした――なんてことはないわ」

 

 ……どう考えてもそれが原因だよね。

 

「……えっと、怒ってる?」

 

 翡翠の指が俺の頬に触れて。

 

「怒ってなんてないわよ。ただ、アリスのはじめてがあいつに奪われるって思うと少し面白くないだけ……」

 

 俺は翡翠の恋人で婚約者にもなっている。

 そんな俺が蒼汰に抱かれるということは、翡翠にとって気分が良いはずもない。

 翡翠と肌を重ねたのは温泉旅行のときの一回だけで、そのときも処女を奪わないように配慮してくれていた。

 その後優奈と肌は重ねたりしたけれど、一応俺はまだ処女のままだった。そして、このままだと処女喪失の相手は蒼汰になるのだろう。

 

「ええと……いまから私とする?」

 

 蒼汰とすることはやむを得ないにしても、せめてはじめてくらいは翡翠に捧げるべきじゃないのかと思い俺はそう口にした。

 だけど、翡翠は残念そうに首を振り、恨めしそうに言った。

 

「私、今生理なの」

 

「そうなんだ……」

 

「本当、くやしいわ……」

 

 翡翠の人差し指が俺の頬に押し付けられて、ふにふにと弄ばれる。少しそうやって戯れた後、指の動きがピタッと止まった。

 

「いっそ、このまま指で奪ってしまおうかしら」

 

 サディスティックなその声に、思わず俺はびくっと竦みあがってしまう。だけど、俺はひるむ心をぐっと抑えて、きゅっと目をつむってこたえた。

 

「……いいよ。翡翠がそうしたいなら」

 

 他に今の翡翠にしてあげられることを思いつかなかったから。翡翠が望むことは、なるべく叶えてあげたい。

 

「……冗談よ。ただでさえ蒼汰との初体験はアリスに負担を掛けるもの。余計な負担をあなたに掛けたくなんてないわ」

 

 その声を聞いて俺は息を吐いて脱力した。

 翡翠とのエッチは気持ちいいのか苦しいのかわからないくらいにぐちゃぐちゃにされて、自分の中で若干トラウマ気味になっているらしい。

 そんな思いが自分の中にあるのが少し後ろめたくもあり、俺は翡翠に謝罪することにする。

 

「婚約者が他の男に抱かれるのって嫌だよね。翡翠の気持ちを考えてなくて……ごめんね」

 

 俺が謝ると翡翠の表情に何故か困惑が産まれて視線を彷徨わせた。

 

「なんで……謝るの? アリスは何も悪くなんてないじゃない。今の状況を招いたのは私……そう、全部私自身が望んだことなのに」

 

 翡翠の表情が悲痛に歪んで――

 瞳から涙がこぼれだす。

 

「蒼汰なら我慢できるかもって思ったけど、やっぱり無理だった。けど、私よりアリスの方がずっと辛いはずだから……辛くてもアリスと二人なら我慢できる。だから、私がアリスを支えなきゃって、そう思ってたのに……!」

 

「翡翠……」

 

「なんで、アリスはそうやって人に気をつかっていられるの? 私だけじゃなくて蒼汰まで。あなたはこれから望まない相手に抱かれるのよ。なのに、どうしてっ……!」

 

 ポタポタと俺の胸に翡翠の涙が落ちてくる。

 

「うぅ……ぁ……最悪だ、私。こんな八つ当たり……アリスの支えになるって大口叩いておいて、こんな……」

 

「大丈夫、大丈夫だから……」

 

 俺は翡翠が安心できるように頭を抱きしめて胸元に抱き寄せた。後頭部をあやすように撫でる。

 しばらく翡翠が落ち着くまでそうしていた。

 

「……ごめんなさい」

 

 やがて、謝罪の言葉を翡翠は告げる。

 

「ごめんなさい、アリス。私こんなこと言うつもりなんてなかったのに……」

 

「俺は気にしてないから大丈夫だよ。正直、辛いっていう感情はあんまりないんだ……むしろ嬉しいとさえ思ってる。アリシアのために俺ができることがあるんだから」

 

「幾人……」

 

 異世界で俺はいろいろな経験をした。

 出会いと別れ。生と死。

 だから、俺が大変な思いをすると言っても、命が失われない分御の字だと思ってる。

 ……それに、誰かが俺のために犠牲になることと比べたら万倍もマシだ。

 

「それに、翡翠には本当に感謝しているんだ。翡翠が俺を助けてくれるように、俺も翡翠を大切にしたいって思ってる。しばらく翡翠には辛い思いをさせると思うけど……俺の恋人は翡翠だから」

 

 翡翠の涙を指で拭って、静かに唇を重ねた。

 彼女とのはじめてのキス。

 角度と場所を変えて啄むように唇を重ねていく。

 

「ん……んんっ!?」

 

 キスを終えようとすると、今度は翡翠の方から唇を重ねてきた。頭を両手で包み込まれ、強引に求めてくる激しい口づけ。

 

「ふっ……んっ……!」

 

 唇を舌先でこじ開けられて。

 翡翠の舌が俺の口内を蹂躙してくる。

 俺も翡翠に応えようとなんとか舌を突き出すと、絡め取るように翡翠の舌が巻きついてきた。

 

「んんっ……ふぅ……ぁ……」

 

 そのまま一心不乱に舌を絡ませ合う。

 いやらしい水音が口の中から頭の中に直接響いてきて、思考かがとろけそうだ。

 粘膜がぐちゃぐちゃに交わって、俺達の境界を曖昧にしていく。俺達はただひたすらに舌を絡め合うだけの生き物になっていた。

 

 どれだけ続いたのかわからない。

 気がついたら翡翠の顔が離れていていた。

 頭の中はどろどろになっていて、酸素を求める息は荒い。

 

「こっちのはじめてはもらったわ」

 

 不敵に微笑んで翡翠は言う。

 でも……

 

「えっと、ごめん……キスははじめてじゃ……」

 

 訂正しようとする俺の唇に翡翠の人差し指が押し付けられた。

 

「恋人同士のキスははじめてでしょ?」

 

「う、うん」

 

「だったらいいわ」

 

 翡翠は綺麗に微笑むと、ベッドから降りて立ち上がった。

 

「それじゃあ、私家に帰るわね」

 

「ん……わかった」

 

「……ありがと、幾人」

 

 翡翠は小さく手を振って、俺の部屋から出ていった。



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準備(その1)

 翡翠が帰った後、一階に降りると優奈が俺を待っていた。

 お風呂の準備ができたから一緒に入ろうと誘われて、了承の返事をした。

 二人の間で何があったとか聞いてくることはなくて、そんな優奈の態度がありがたく思う。

 髪は美容室で洗ってもらったので、ヘアゴムで纏めて濡れないようにタオルで包む。髪の長さが短くなった分少し楽だ。

 

「えっと……なにそれ?」

 

 優奈が見慣れないスティック状の小物をお風呂に持ちこんでいた。ピンク色のそれは携帯用の制汗スプレーくらいの大きさで、どうやらスイッチがついているみたいだった。

 

「こ、これって、もしかして……」

 

 お、大人のおもちゃ!?

 

 はじめてが痛くならないように小さいので慣らした方がいいとかそういうことだろうか。

 で、でも、それってどうなの……?

 はじめてがおもちゃなんて――

 女同士ならむしろ普通……なのか?

 

 というか、翡翠と恋人になった今、優奈とそういうことをするのって浮気になるんじゃないだろうか……?

 姉妹だから、ぎりセーフ……?

 

「……何を勘違いしてるのか知らないけど、これはエチケットシェーバーだからね」

 

 うろたえている俺に対して優奈は冷ややかに言った。

 

「……え?」

 

「蒼兄に見られるんだから、ちゃんと無駄毛の処理をしないとダメよ?」

 

「……なんだ、そういうことか」

 

 びっくりしたぁ……

 それにしても、気になることがひとつ。

 

「優奈って処理してたの?」

 

 あれだけ一緒に居ながら、俺は今まで優奈がそれをしている場面を見たことがない。

 

「当たり前でしょ? さすがに恥ずかしいから、アリスの前ではしてなかっただけよ」

 

「そ、そうなんだ……」

 

 四六時中側にいて肌も重ねておきながら、そこは恥ずかしいんだ……俺自身、随分と考えが女性っぽくなってきたと思うけど、まだまだそのあたりの感覚はよくわからないな。

 

「アリスは肌も弱いし、まだそれほど必要なさそうだったから教えてなかったけど、これからはちゃんとしないとダメよ?」

 

「……ええと、それってしなきゃいけないのかな?」

 

 試しに自分の脇や脚を見てみるけれど、そこに毛が生えているようには思えなかった。そして、ぷっくらしたお腹の下もつんつるてんで、それが逆に恥ずかしいくらいなのに……

 

「男の人の前で肌を晒すんだから最低限の身だしなみよ。エチケットシェイバーを使えば肌を痛めることもないし、そんなに時間もかからないからさっさとしちゃいなさい」

 

「わ、わかったよ……」

 

 俺は優奈からスティック状のそれを受け取った。

 蓋を外してスイッチを入れるとぶーんというモーター音がして本体が振動しはじめる。

 

 男だったころ使っていた電気カミソリを思い出すなぁ……そういえば、あれは今どうなってるんだろ?

 

 丸くなっている先端部分を腋にあてて動かすとしゅりしゅりと音がした。どうやら、全く毛がないという訳でもないらしい。毛色が銀色なので目立たないのかもしれない。

 脛やふくらはぎ、そして一応お腹の下も。

 

 ……こ、これは結構恥ずかしいかも。

 

 優奈は湯船の中で視線を逸してくれているから、みっともない格好は見られてないとはいえ、シェーバーの音はまる聞こえだし……

 

 前言撤回、優奈の気持ちわかった。

 これを人前でするのはかなり恥ずかしい。

 

 お互い無言のまま、シェーバーの立てる音だけがお風呂の中で響いていた。それはほんの数分間のことだったけど、俺にはとても長く感じた。

 ようやく一通り剃り終えて、優奈にお礼を言ってシェーバーを返した。

 

 それからいつも通り、いやいつもより少し丁寧に体を洗う。

 ……臭かったりしたらイヤだから。

 

 体を洗い終えると、優奈が見慣れない瓶を見せつけてきた。それは琥珀色のガラスの瓶で、ピンク色のラベルがなんとも怪しげな雰囲気を醸し出している。

 

「それじゃあ、仕上げにボディオイルを塗ってあげるよ」

 

「え……? いいよ、そんなの……」

 

「よくないよ。雰囲気作りはお互いの協力が大切なんだからね?」

 

「わ、わかったよ……」

 

 優奈が瓶を手にとって手のひらに中身を垂す。

 それから、俺の背中に移動すると両肩に触れてきた。

 

「ひゃいっ!?」

 

 ひんやり冷たい感触に変な声が出てしまう。

 優奈の手にはねめっとした液体がたっぷり塗られていて、肩から首回りにかけて指で丁寧に塗り広げられていく。

 冷たさこそすぐに収まったけれど、妙なくすぐったさを堪えるのに顔が引きつってしまう。

 不意に柑橘系の匂いがツンと漂ってきた。

 

「あれ、この匂いって……?」

 

 どこかで嗅いだことのある匂いのような気がする。

 

「これは、あたしがアリスとはじめてエッチしたときにつけてたやつなんだよ。憶えてる?」

 

「う、うん……」

 

 そう言われてみると確かにあの日の優奈からしていた匂いだった。不意にそのときの記憶が呼び起こされてしまって、お腹の下が疼く。

 

 てかてかしている優奈の手が両腕を撫でるように往復してオイルが塗り広げられていく。素肌の上を(なまめ)かしく動く指からぬめぬめとした感覚が伝わってくる。

 気になって触ってみると、それは糸を引くくらいに粘度の高い液体だった。

 

「こんなのつけて服を着れるの?」

 

 それに匂いもちょっと強すぎるような……

 

「このボディオイルは、肌に塗りこんでからシャワーで流すものだからこれでいいんだよ」

 

「……流しちゃうの?」

 

「うん。そうするとね、ほのかに香るくらいのちょうどいい匂いが残るんだ」

 

 ……なるほど、そういうのもあるんだ。

 

「このオイルのすごいところはそれだけじゃないの」

 

 いたずらっぽく微笑んで、どこか得意げに優奈は言った。

 

「エッチのときに体が興奮するとね、体が熱くなって毛穴が開いて、お肌に染み込んだオイルが蒸発するの。そしたらね、周囲にフェロモンの混じった甘い匂いを発散して、ふたりの気分を盛り上げてくれるんだよ!」

 

「そ、そうなんだ……」

 

 優奈に早口で捲し立てられて少し引き気味に答える。

 というかそんなオイル何処で買ったんだよ……しかも、はじめてのときって優奈も全くの未経験だったはずなのに。

 それにしても、優奈ははじめてのときそんなオイルをつけてたのか……どんな匂いだっただろうか?

 思い出される記憶は強い興奮と快楽が入り混じったおぼろげなもので、甘いミルクのような匂いがしていたような――

 

「ふひゃ!?」

 

 不意に両脇から手が差し込まれて、お腹にひんやりと冷たい手が触れた。たっぷりと補充されたオイルのついた優奈の指が、それぞれ別の生き物みたいに蠢いて、お腹に脇、太ももと体中を這っていく。

 

「ん……んんぅ……」

 

 我慢しなきゃと思うけれど、敏感な部分に触れられると、どうしてもお腹の下のもやもやが大きくなってくる。

 ぬるぬるがくすぐったくて……気持ちいい。

 

「……塗りこむときは毛穴が開いてた方がいいから」

 

 歯を食いしばって声が漏れないようにしていると、優奈がそう耳元で囁いてきた。

 

「……え?」

 

「だから、我慢しなくていいからね?」

 

 天使のような小悪魔の笑みを浮かべて優奈はそんなことを囁く。

 

「ちょ、優奈!? ……だ、だめだよ……」

 

「大丈夫、これはマッサージをしているだけだから、やましいことなんて全くないよ……マッサージで気持ちよくなるのは普通のことだし?」

 

 こんなふうに気持ちよくなるのは普通のマッサージじゃないと思う!

 

「ちょ……ゆ、優奈っ……ふぁぁ!?」

 

 だけど、一応でも言い訳ができてしまうと弱くて。

 こうすることが日常的になっていたことも、俺の中の抵抗感を下げていて。なんとなく翡翠なら赦してくれそうな気もして(多分お仕置きはされるだろうけど……)

 結果、俺は流されるままに、背中の優奈に体を預けたのだった。



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準備(その2)

「……まだ、怒ってるの?」

 

 優奈が困った表情で聞いてくる。

 

「怒ってないよ」

 

 怒ってない。全然怒ってやしない。

 

「ごめんってば。でも、今日の本番はあたしじゃないし……」

 

「わかってるから」

 

 ……もう、触れないで欲しい。

 

 さっきの浴室でのこと。

 優奈の丁寧なオイルマッサージを受けた俺は我慢ができなくなり、もやもやを晴らして欲しいとおねだりした。そうすれば、いつものように最後までしてくれる、そう思っていた。

 

「それはダメ」

 

 だけど、返ってきたのはまさかの拒絶の言葉で。

 

「だって、毛穴が開ききっちゃうと、塗り込んだオイルの効果が飛んでしまうからね」

 

 と、優奈にされた無慈悲な宣告。

 それからも中途半端に与え続けられる刺激は、まるで責め苦のようで。

 重なっていく切なさで頭の中がいっぱいになった俺は、もう一度優奈にお願いした。だけど、優奈はそれでもマッサージ以上のことはしてくれなくて。

 ついには、我慢できず自分で触ろうとしていたのを優奈に咎められる始末だった。

 

 冷静になってそれらの行為を思い返すと、恥ずかしいやらなさけないやらで自己嫌悪に陥ってしまい、お風呂を出てからの俺は口数が少なかった。

 

 今、俺は自分の部屋にある化粧台の前に座って、優奈にされるがまま着せ替え人形にされている。

 

「どう、このシュシュかわいいでしょ。ピンク色でベビードールとお揃いなのよ――つけてあげるね」

 

 後頭部でポニーテールで纏められた俺の銀色の髪は、ヘアゴムで括られて、ピンク色のシュシュで飾られた。

 

 お風呂あがりの脱衣所でシンプルな下着と勝負下着とどっちにするか迷っていたら、それを見た優奈に有無も言わさない勢いで勝負下着を選ばされたのが始まりだった。

 一緒に用意していたシンプルな肌着にもダメ出しをされて、優奈がいつの間にか持ってきた薄いピンク色のベビードールを着せられていた。

 ふりふりの花柄のレースがふわふわしてて、一見お人形さんのようにかわいらしいのに、透けて見える白い下着はとてもセクシーで、鏡に映った自分の姿を俺はしばらく直視できなかったくらいだ。

 

「次はメイクだね」

 

「化粧もするの……?」

 

 これからセックスするのに。

 汗で化粧が落ちたりしないのかな……?

 

 そんな疑問が顔に出てたようで、優奈は言葉を付け加える。

 

「大丈夫よ、化粧崩れしづらいやつを使うから。それにアリスはそのままでも十分かわいいから、軽く際立たせるくらいね」

 

「……わかった」

 

 それ以上考えるのがめんどくさくなった俺は、もう全部優奈に丸投げすることにした。

 その旨を優奈に告げると、彼女は一層張り切って俺を仕上げに掛かった。

 

 あどけない容姿に、織り交ぜられていく男を誘う色。少し間違えると滑稽になりそうなくらいの危ういバランス。

 

 蒼汰に抱かれるために整えられていく、鏡の向こう側の俺。

 

 気持ちはなんだかふわふわして。

 自分のことだという実感が湧いてこない。

 心と体のピントがズレているような違和感。

 

「鏡の国のアリス……なんて」

 

 ふと思いついた言葉を口にしてみる。

 我ながら安直な発想だ。

 

 何もかもがあべこべな鏡の国で、俺は少女となり、男に抱かれて子供をつくる。

 もしも、これが鏡の国だというのなら、俺は夢を見続けているのだろうか。そうだとしたら、いつから夢だったというのだろう。

 

 この世界に戻ったとき?

 それとも、異世界に行ったとき……?

 

 鏡に手を伸ばすと、鏡の中の少女も恐る恐る手を差し伸べてきて――鏡越しに手が触れ合う。

 ひんやりと冷たくて硬い鏡の感触で、俺は現実に引き戻される。

 

「……どうしたの?」

 

「ううん、なんでもない」

 

 俺は小さく首を振ってから、優奈に心配させないように笑顔を見せた。

 

 馬鹿馬鹿しいことを考えてしまった。

 これは夢なんかじゃない。

 全部俺が自分自身で選択した現実だ。

 鏡の中の(アリス)に囚われたアリシアを取り戻すため。

 彼女と一緒の未来を迎えるために。

 

 そのためには蒼汰には射精して貰わないといけない。

 だから、ちゃんと興奮できるように普段と違う格好で雰囲気を作るのも大切なことだ。

 なにせ、中身は俺なのだから。

 

 ……ほんとに大丈夫なのかな?

 

 普段の俺がでないように口調も意識しないと。

 念の為、心の中でも私を使うようにしようか。

 

 服は白いノンスリーブのワンピースを優奈と二人で選んだ。

 母さんが買ってくれたものけど、あまりに少女趣味っぽい服だったから、試着だけしてクローゼットに入れっぱなしにしていたものだ。

 こういうの蒼汰が好きそうだと思ったし、優奈に言わせると背中にファスナーがあって脱がせやすいのも良いらしい。

 

「……そんなことまで気を使うの?」

 

「そりゃそうよ。服を脱がせて貰うのにまごついて微妙な雰囲気になったりしたら嫌でしょ? だいたい、アリスだって最初の頃は女性服の着方がわからないって四苦八苦してたじゃない。蒼兄がそのへん詳しいと思う?」

 

 納得した。

 

 ワンピースだけだとまだ少し肌寒いので、ネイビーのセーラーカラーがついた白のブラウスを上に羽織った。

 普段とは随分雰囲気の違う『私』のできあがりだ。

 

「うん、これで完成っと……かわいいわよ、アリス」

 

「ありがとう、優奈」

 

 最後に、アクセは少し迷ったけどいつも付けているひとつ揃いをつけることにした。

 左手の薬指にシルバーのツインリング。

 



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準備(その3)

 準備を終えた私は優奈と二人で家を出て駅前まで歩いた。

 新しくできたスイーツのお店とか、クラスメイトの恋愛事情とか、そんな他愛もない雑談をしながら。

 渡されたメモに書いてある住所で優奈と別れた。

 別れ際、優奈は何も言わずにぎゅっと抱きしめてくれて、私のことを心配に思う気持ちが痛いほど伝わってきた。

 

 そのマンションは、建物の前まで到着してやっと『ああ、ここか』と思ったほど記憶に残らないくらいの無個性なビルだった。

 エントランスに入ると、ずらりと並んだ集合ポストは整然としていて、古い建物だけど管理はされているようだった。

 

 奥にあるエレベータのボタンを押して少し待つと、ドアが開く。中に入り、メモを見ながら、書かれてある部屋号数の頭と同じ数字のボタンを押す。

 ガタンと音を立ててドアがしまり、エレベータが動き出した。

 

 2、3、4、5……

 

 くるくると表示盤の数字が変わっていく。

 6が表示されると同時にピーンと音がしてドアが開いた。

 

 部屋号数の表示と手元のメモをにらめっこしながら廊下を歩く。目的の部屋はすぐに見つかった。

 表札は出ていない――と言っても他の部屋も殆ど出ていなかったけど。

 これからどうするか少しだけ迷った後、バッグから鍵を取り出してドアにある鍵穴に挿し込んだ。鍵をは抵抗なく回ってロックが外れた。建物や部屋を間違えていなかったことがわかって、少しほっとした。

 

「……おじゃましまーす」

 

 私はドアノブを掴んで、少し重い鉄のドアを恐る恐る引いていく。

 ドアの先には小さな玄関があって、その向こうは廊下と台所を兼ねたスペースになっていた。

 正面には奥の部屋に続くドアが開いていて、部屋の奥に人影が見えた。様子を見ていると人影が動いて、蒼汰がひょっこりと顔を出した。

 

「……よ、よう」

 

「やあ、蒼汰。さっきぶり」

 

 私は小さく手を振ってから玄関に入る。

 手を離したドアがゆっくり閉まった。

 振り返って、一度深呼吸をして。

 ドアノブのつまみを回し、カチャリと鍵を閉めた。

 

「……ごめん、待たせちゃったよね?」

 

 再び振り返って、ミュールを脱ぎながら、蒼汰に話しかける。

 いろいろあったせいで、余裕をみて二時間後に設定していた約束の時間も少し過ぎてしまっていた。

 

「大丈夫だ。それにしても、随分と時間掛かったんだ、な……」

 

 私は室内に足を踏み入れる。

 そこは私の自室よりも少し広いくらいの一人暮らし用の部屋だった。

 まず目につくのは、正面に置かれた室内の三分の一くらいを占めているベッド。そして、他にはスチールの事務机にテレビとキャビネットがあるくらいで、生活感の無いビジネスホテルのような部屋だと思った。

 

「……ん? どうしたの、蒼汰」

 

 私が部屋を見回している間、ベッドに座った蒼汰は、少し前屈みでスマホを両手で持った体勢のまま固まっていた。

 

「いや、その……着替えたんだな」

 

 そう言う蒼汰はさっき別れたときと同じ服装だった。

 

「あ、うん……変じゃない、かな?」

 

 自分だけ気合い入れているように思えて少し恥ずかしい。

 

「そんなことねぇよ。ただ、お前がそんな服を着たところなんて見たことなかったから、その……びっくりしただけだ」

 

「そっかぁ」

 

 そういえば、蒼汰の前でこんな風におしゃれしたのはじめてだったなぁ……

 いつも学校の制服かラフな普段着だったように思う。学園祭のときにしたメイドコスは少し方向性が違う気もするし。

 

「……に、似合ってるぜ」

 

「へ……?」

 

 意外な言葉に私は呆気にとられてしまう。

 

「……蒼汰から、女性の服装を褒める言葉が出てくるなんて」

 

「お前なぁ……俺をなんだと思ってるんだ」

 

「んー……だって、蒼汰は蒼汰じゃない」

 

「なんだよそれ」

 

 だけど、なんで突然そんなことを言い出したのか、なんとなく理由を察せてしまった。私を待っている間、時間を持て余した蒼汰はスマホでハウトゥーや体験談を必死に調べていたのだろう。その中にパートナーを褒めろとか、そういうアドバイスが書いてあったに違いない。

 

「……なに笑ってるんだよ」

 

 不器用さは相変わらずだなと安心していると、蒼汰は拗ねたようにそう言った。

 

「ううん、なんでもない……ありがとね、蒼汰」

 

「お、おう……」

 

 慣れないことをして褒められたことが恥ずかしいのか、蒼汰は顔をそらしてしまう。

 

「……それに、話し方も違うんだな。ここ最近二人っきりのとき、お前は男言葉を使ってたから調子が狂うぜ」

 

「そりゃあ、これからすることを考えたら、ね……私だって気ぐらい使うよ。大丈夫、半年間ずっと被ってきた猫だから、そうそうボロはでないと思うよ」

 

「そ、そうか……」

 

 複雑そうな表情をする蒼汰。

 

 ……さて。

 このまま立ちぼうけていても仕方ないな。

 私は肩掛けバッグを事務机に置いて、アウターのセーラーブラウスを壁に掛かっていたハンガーに吊るす。

 そんな私の一挙一動を蒼汰がじーっと見ていて、少しやり辛い。準備中の女の子をあまりジロジロ見るものじゃないってハウトゥーに書いてなかったのかな?

 ……まぁ、いいけどね。

 

 白いワンピース姿になった俺は、蒼汰が座っているベッドの横に並んで腰を下ろした。すぐ側に座るかどうか少し迷って、結局、いつもの距離を開けた。

 

 そして、訪れたのは、いつもと違う気まずい沈黙。

 蒼汰は俺が近づくと同時に顔を背けてしまっていた。

 じーっと見たり、視線を反らしたり忙しいやつだ。

 

 ……さて、なんと声を掛けたらいいのだろう?

 

 蒼汰も多分同じ気持ちなのだと思う。

 ぎくしゃくとした中で沈黙を破ったのは蒼汰だった。

 

「……なぁ、本当にするのか?」

 

 それは、昨日今日で何度も繰り返された問いだった。

 所謂、最後の意思確認というやつだ。

 

「……覚悟はできてる」

 

 短く返事をする――迷いはない。

 アリシアと一緒に生きるために取れる唯一の手段だから。

 

「……わかった」

 

 蒼汰は私の顔を見て、真剣な表情でそれだけ言った。

 こんどは、私が蒼汰を見返しても視線をそらさない。

 だけど、顔が見る見るうちに真っ赤になってしまい、蒼汰が緊張していることが丸わかりだった。

 

 そんな様子を見て、私は少しだけ安心する。

 緊張してるのは私だけじゃないってわかったから。

 不器用だけど、親友のためになんでもしてくれる蒼汰の真っ直ぐさが、今はとてもありがたい。

 

「えっと、それじゃあ……よろしくお願いします」



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◇初体験

 初体験は相手に身を任せて天井のシミを数えている間に終わる。

 

 ……そんなふうに思ってたときもありました。

 

 まな板の上の鯉の気分でゴーサインを伝えたはずなのに、蒼汰はなかなか手を出そうとしなくて、私達はベッドに腰掛けたままで固まっていた。

 

 思い返してみると、今までエッチをした相手はみんな私をリードしてくれていた気がする。元男としてそれはどうなのって思わないでもないけれど、それらはまるっと棚上げして、蒼汰にはしっかりしてもらわないと困る。

 

 覚悟さえすれば、後はただじっと耐えていればいいと思っていたから、自分からどうするなんて、まるで考えてなかったのだ。

 

「ええと……シャワー、浴びるか?」

 

「家でお風呂に入ってきたから、大丈夫」

 

「そ、そうか……実は俺も家でシャワー浴びてきたんだ」

 

「う、うん……」

 

 その気づかいは大事かもしれないね。

 だけど、あれだけ準備に時間を掛けたのだから、察して欲しかったかな?

 

「それじゃあ……キスしていいか?」

 

「え……? いや、キスはないでしょ」

 

 常識で考えて。

 

「そ、そうなのか……?」

 

「そうだよ」

 

 恋人じゃない相手、しかも男とキスなんてする訳ないじゃない。何を考えてるんだ、蒼汰のやつ?

 

 うげ……想像するだけで鳥肌が立ってきた。

 

 だけど、蒼汰は拒絶されるとは思ってもいなかったみたいで、目に見えて狼狽していた。

 そんなに私とキスしたかったのだろうか……?

 

 蒼汰にとってみたら見た目は美少女とのキスだから、それほど抵抗ないのかもしれないけど、私は男とキスするなんて絶対に嫌だ。

 

「じゃ、じゃあ……これから、どうすればいいんだ?」

 

 蒼汰はそんなことを言い出した。

 

 ……え、それ、私に聞くの?

 

「そ、その……キスをしながら体に触れてお互いの気分を盛り上げるものだと思ってたから……」

 

 マニュアル至上主義にも程がある。

 もっと、アドリブを利かさないと現実の女の子は相手できないぞ? エロゲと違って選択肢なんて出てこないんだから。

 そう言いたいのをぐっと堪えて、

 

「蒼汰がしたいようにして……いいよ……?」

 

 ――と、俯き加減に言った。

 顔が赤くなっているのは恥じらっているのではなくて、あざとい台詞を言う自分自身が恥ずかしかったからで。

 

 蒼汰は顔を赤くして手を宙にさまよわせた後、首の後ろに手をあててぽつりとつぶやいた。

 

「そ、それじゃあ……抱きしめてみてもいいか?」

 

「……どうぞ」

 

 私は体を蒼汰に向けて上半身を差し出す。蒼汰はのそのそ近づいて、ぎくしゃくしながら両腕を広げてきた。

 見られているとやり辛いかなと思ったので、目を閉じて待つ。

 

 恐る恐るといった様子で体に触れてくる蒼汰。

 最初は腰に手があてられて。それから、もう一方の手で肩を包むように抱きしめてきた。力をなるべくかけないように、ほとんど触れるだけの抱擁ともいえないような代物だ。

 

 ……まどろっこしいなぁ

 

 じれったくなった私は目を開けて、目の前にある蒼汰の胸元に飛びついた。

 

「……えいっ」

 

「――おおぅ!?」

 

 蒼汰は驚きながらも危なげなく胸板で受け止めて、手に力を込めて支えてくれた。

 抱きついたことで、私は全身がすっぽりと蒼汰の両腕の中に収まってしまった。

 

「……お、お前なぁ」

 

「えへへー」

 

 蒼汰の抗議の声を笑って誤魔化しながら、両腕を蒼汰の体に回してくっついた。

 

「ちょ……!?」

 

 今まで触れてきた女の子とはまるで異なる硬い胸元。

 手に触れる背中もごつごつしていて硬い。私はぺたぺたと触ってみて感触を確かめた。

 男だったときも蒼汰とじゃれてくっついたりとかは割とあったけど、その頃とは受ける印象はまるで異なっていて、なんだかとても頼もしく思える。

 

「やべぇ……すげぇ小さいのな、お前って……」

 

 蒼汰が感嘆の声を漏らした。

 

「蒼汰が大きすぎるんだよ」

 

 前は蒼汰よりも身長高かったんだけどなぁ……と思ったけど口には出さないでおく。せっかく、男だったことを意識させないようにしているのに、そんなことを言ったら台無しだ。

 

「やべぇ、やわらけぇ……なんかいい匂いするし」

 

「んっ……」

 

 すんすんと鼻を鳴らして私の後頭部の匂いを嗅ぐ蒼汰。

 ……息が荒くて、少しキモい。

 堪能したくなる気持ちはわかるけれど、もう少し私に気を使ってもいいんじゃないかな、きみは。

 でも、匂いか……

 目の前にある蒼汰の胸元に顔を埋めると、石鹸と柔軟剤のいい匂いに混ざって、微かに蒼汰自身の匂いを感じる。

 男のときには全く意識しなかったもので、なんだか落ち着く気がする。

 

 ……これも、私が女の子になったからなのかな?

 

 そんなことを考えていると、肩にあった蒼汰の手が私のポニーテールの下に潜り込んできて、そのまま頭の後ろを撫でてきた。

 大きくて硬い手の感触がくすぐったい。

 目を細めていると、もう片方の手が知らず知らずのうちにさがっていて、

 

 ――ふにっとお尻を揉まれた。

 

「ひゃい!?」

 

 不意に訪れた感触に体が跳ねてしまう。

 私の反応に慌てた蒼汰は手を離して飛び退いた。

 

「す、すまん!」

 

 即座に私に謝罪する蒼汰。

 

 し、しまった……

 つい反射的に拒絶してしまった。

 

 蒼汰は気まずそうに手を掲げたままで固まっている。

 

「だ、大丈夫! 大丈夫だから、ホント! ……だけど、その……ワンピースにシワがつくから……」

 

 我ながら苦しい言い訳だと思う。

 言ってることが嘘ではないと証明するために、私は立ち上がって蒼汰に背を向けると、ワンピースの背中にあるチャックを下げはじめた。

 

 そこに至って、はたと気づく。

 

 ……これって、脱がせて貰った方が良かったのかな?

 

 自分から脱ぐのがはしたないとか思われたりは……しないだろうな。今の蒼汰にそんな余裕があるとは思えない。

 いっそ、もっと早くに脱いでおくべきだったろうか。

 そもそも、これはどこまで脱げばいいのだろう。

 

 ……全部脱いでしまう?

 

 でも、それだとせっかく優奈が用意してくれたベビードールが無駄になってしまう。正直体にはあまり自信ないので、下着で誤魔化してしまいたい。それに、何も身につけているものが無くなるのはどうにも心もとない。

 

 ワンピースだけ脱いで後は流れに身を任せることにした。

 ファスナーを下ろし終えた私は、肩からワンピースを片方づつ外してストンと足元に落とした。

 

 蒼汰が息を飲むの気配がした。

 今の私の姿はピンク色のベビードールに透けて見える白の揃いの下着だけという扇情的なものだ。

 背中越しでも、蒼汰の熱い視線が注がれているのがわかる。

 

 足元のワンピースを畳んでベッドの下に置いた。

 両手を胸元に置いて小さく深呼吸して、意を決して蒼汰に振り向いた。

 

「おお……」

 

 蒼汰から感嘆の声があがる。

 

「すげぇ……めっちゃエロいな、それ……」

 

「そ、そう……」

 

 そんなふうに褒められても、どんな反応をしていいのか困る。

 興奮させる為に着ているんだから、本来の目的を果たせてはいるんだろうけど……

 

 私は再びベッドに腰掛けて、蒼汰を見上げる。

 ベビードールの効果は抜群で、あきらかに欲情している様子だった。少し目が怖い。

 この様子なら、もう大丈夫かな?

 

 でも、念の為……もう、ひと押し。

 

「えっと……私、はじめてだから……」

 

 少しあざとすぎるだろうか?

 蒼汰にひかれるかもしれない……

 

 ええい、言ってしまえ!

 男は度胸、女だって度胸だ!

 

「だから、その……やさしくしてね?」

 

 私は真っ赤になって顔をそらした。

 

 

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喪失

 性交した。

 うん、性交した。

 

 ……成功したとはお世辞にも言えないけれど。

 振り返ってみると初体験は散々だった。

 

 予想外だったのは蒼汰のアレ。

 通常時だけでなくて臨戦態勢になったときのサイズも尋常ではなくて、はじめてその凶器を目の当たりにしたときは自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。

 

 大きければいいってモノじゃないんだぞ……マジで。

 それでも、いまさらやめるという選択肢はなかった。

 

 膝の上で後ろ抱きにされて、私は蒼汰のなすがままにされる。

 たどたどしく体に触れてくる蒼汰は、力の加減がわかってなくて。痛いと抗議の声をあげると、今度は恐る恐る触ってくすぐったいばかりだったり。お互い何もかもがぎこちなくて、明らかに経験が不足していた。

 思い描いていた展開通りにいかず焦る蒼汰は、準備を早々に切り上げて本番に臨もうとして――失敗した。

 なかなか繋がることができなくて、四苦八苦しているうちに蒼汰のアレが萎えてしまったのだ。

 

 そうなることがあるというのは知識として知っていた。

 だから、落ち込む蒼汰に気にすることなんてないと慰めて。

 私たちの間で格好なんてつけなくていいからと励ました。

 

 それでも、すっかり蒼汰は気落ちしてしまって、気まずい空気が流れる。

 そんな空気を断ち切ろうと何かなかったか考えたとき、私は父さんから入っていたメッセージのことを思い出した。

 困ったときはベッドサイドのチェストの一番上の棚を開けてみるといいというもので、ことさら明るく振る舞いながらその通りにしてみると、チェストの中にあったのは柔らかな容器に入ったローションが一本。

 

 二人の間の空気がさらに凍りついた。

 

 ありがた迷惑を通り越して地球を一周するくらいな父さんの気づかい。だけど、悔しいけれど、現状これが有効であることは明らかで……私は何も考えずにそれを使うことにした。

 蒼汰任せにせずにちゃんと自分でも準備しよう。

 急がば回れの精神で、今度はゆっくりじっくり――ねっとりと準備をしていく。

 ローションのぬるぬるは悪くなかった。

 ……わりと癖になりそうなくらいに。

 

 そして、何度目かの挑戦のとき。

 ついにそのときが訪れた。

 

 スルリという感触の後、一瞬遅れて鈍い痛みがやってきた。

 

 痛い。

 痛い、痛い。

 

 頭が真っ白になる。

 だけど、痛覚なら我慢できる。

 私はもっと酷い痛みを経験しているから。

 肉を牙で断たれる痛みと比べたらどうってことない。

 槍を体に穿たれる痛みの方が余程きつかった。

 

 収まるはずのものを収めるべきところに収める、ただそれだけのことだ。不可能を可能にするような話ではない。

 

 ――それなのに、涙が止まらなかった。

 

 私は弱くなってしまったのだろうか。

 体は平気なはずなのに、何だかわからないものがこみあげてきて、こらえきれなかった。

 うろたえまくる蒼汰に、大丈夫だからと訴えてみてもまるで説得力がなくて困る。

 ……結局、蒼汰は一度仕切り直してくれて。落ち着くまで私の体をぎゅっと抱きしめ、頭を撫でてくれていたのだった。

 

 落ち着く蒼汰の匂いに包まれる。

 しばらくすると涙は止まっていて、心のざわめきも徐々に収まってきた。

 

 ……もう大丈夫。

 そう言って、私は蒼汰に行為を再開して貰うように促した。

 

 だけど、蒼汰は優しかった。

 少しでも痛がる素振りを見せると蒼汰はその都度私の様子をうかがってくれた。

 友人である私を大切に思って気遣ってくれている。

 それは、とてもありがたいことだけど、そうしていることで、蒼汰が気持ちよくなるのを阻害してしまっているように思えた。

 こんな調子だといつまでたっても終わらないのではないかと心配になる。

 

 だから、私のことは気にしないで蒼汰の思うままにして欲しいと訴えたけど、そんなことはできないと蒼汰に拒絶された。

 

 だけど、蒼汰にはそうしたい欲求があることを私は知っていた。蒼汰が持ってるエロ本は大体把握していたから……それらのどこのページが自然に開くようになっているのかも。

 それに、特殊な性癖というものでもない。大切なものをめちゃくちゃにしたくなる衝動は誰しも持っていて、理性で抑えられているものだ。

 

 だから、私はその理性の箍を言葉で外していくことにした。

 

 私の体を道具のように扱っていいと告げた。魔法が使える私は回復できるから、多少の無茶をしても平気だと。

 そして、これは蒼汰の為だけに言ってるのではなくて、私自身の為に早く終わらせて欲しいのだと訴えた。

 

 そんなふうに蒼汰に甘美な免罪符を与えていく。

 

 それでも……と、まだ躊躇する蒼汰だったけど、体の一部は正直で。私がそのことを指摘すると、蒼汰が体を震わせて反応するのがわかった。

 

 ようやく蒼汰は私の提案を受け入れてくれた。

 私はそんな蒼汰に笑顔で告げる。

 

 蒼汰の好きなように、蒼汰が気持ちよくなることだけを考えていいから……私が泣いたりしても止めないで欲しい、と。

 

 蒼汰は私の目を真っ直ぐに見つめて了承の意を伝えた。

 すでにこれからのことを想像しているのか目の色が違う気がして息が荒い。

 

 ……それが、少しだけ怖くて。

 私は左手の指輪をぎゅっと握り込んだ。

 

 その後の蒼汰は本当に遠慮なかった。

 だけど……これで、良かったのだと思う。

 痛みなら耐えればいいだけだから。

 

 そうした紆余曲折とすったもんだの末、なんとか私は目的を果たすことができた。

 

 事が終わった後、ベッドに横になった私は、お腹に手をあてて回復呪文を使いながら、蒼汰にひとつお願いごとをした。

 

 これから、精子は全部自分の中に出して欲しいと。

 

 アリシアを救う可能性を少しでも無駄にしたくなかった。

 やりたい盛りの高校生にそれをお願いすることがどういうことかくらいはわかっているつもりだった。私自身、少し前までそうだったのだから。

 蒼汰がしたいなら、いつでもそれに応えるつもりだと伝えた。

 蒼汰は神妙な表情で私の頼みを受けてくれた。

 

 ……だけど、直後に早速もう一回とお願いされるとは思ってなかったな。

 断る理由は私にはない。

 数重ねればそれだけアリシアを救う可能性が増えるのだ。

 

 それから、続けて二回した。

 その後に一緒に入ったお風呂でもう一回。

 

 気がついたらすっかり日がくれていて。

 スマホを見たらメッセージの通知が酷いことになっていた。

 

 ……みんなになんと説明したらいいのだろう。

 



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事後処理

 一回目は、ただただ必死だった。

 とにかく蒼汰に気を使って、事が失敗に終わらないよう気が気じゃなかった。

 

 二回目は少しだけ余裕ができていた。

 といっても、蒼汰はもう大丈夫だろうという安心感があっただけで、私自身は相変わらずいっぱいいっぱいだったけど……

 蒼汰は私の体を使って気持ちよくなることを覚えたらしい。両手で腰をがっちりと固定された私は、蒼汰の欲望が果てるまでただ耐えるだけだった。

 

 三回目は蒼汰が少し調子に乗っていた。

 ベビードールを着た姿で上に乗ってほしいとか。恥ずかしそうにそうリクエストしてくる蒼汰を私は少し冷めた目で見てしまった。

 まるで、新しいおもちゃを買ってもらえる子供のようなはしゃぎっぷりだ。

 だけど、元男としてその気持ちはわかってしまう。蒼汰も私なら理解してくれるだろうという考えがあって言ってるのだろう。

 私は蒼汰の要望を受け入れた。

 

 ……だからと言って、私が上になるのが上手くできなかったのを、余裕綽々でにやにやと見ていたのは許せないと思う。

 一回目に蒼汰が散々手こずってたときは、私が必死にフォローしたり励ましたりしたのに……!

 結局、私がまごまごしているのがもどかしくなったのか、途中から体を起こした蒼汰に包みこまれるように抱かれながら、三回目も終わった。

 

 三回戦を終えて、私の体はもう限界だった。

 ただでさえオーバーサイズな上に遠慮ない蒼汰の行為によってできた傷は魔法で癒やしていたけれど、筋肉痛やそれに類する痛みは治せないし、体力も使い果たしていた。それに加えて腰も抜けていて、まともに立つことすらおぼつかない。

 だけど、体はローションやら体液やらでべとべとの酷い有様だった。気持ち悪くて、どうしてもそれらを洗い流したくかった。

 だから、私は蒼汰にお姫様だっこされて一緒にお風呂に入ることになったのだ。

 後ろ抱きにされて湯船に浸かること自体はもう慣れたけど、いつもより全然硬いし二重の意味で浴槽も狭い。

 さらに、感触を確かめるように遠慮なく触られるのもあまり気分の良いものではない。お尻にあたる段々と硬くなってくるモノも……

 そして、ついに蒼汰からこのまましたいだなんて要望が出た。

 ここじゃ潤滑させるものが無いからと断ろうとしたら、何故かボディーソープやシャンプーに混じって新しいローションボトルが置いているのを蒼汰が見つけて……父さんは無駄に配慮しすぎだと思う。

 後ろ抱きのまま両手で太ももを掴まれて足を広げさせられて――赤ちゃんがおしっこするような体勢で、体をひょいっと持ち上げられた。

 そのまま四回目となったのだった。

 

   ※ ※ ※

 

 先にお風呂から出た私は、普段使いの下着に着替えてベッドに入り、スマホに来ているメッセージをチェックする。

 一番新しいのは優奈のものだった。

 どうやら、優奈は翡翠と一緒に近くのファミレスで私のことを待ってくれているらしい。

 私のことを気遣うメッセージが2画面分くらい並んでいた。『決して一人にはならないでね?』とか『なにかあったら絶対にあたしのことを呼んでね?』とか、長い間音信不通にしてしまったことで、随分と不安にさせてしまったみたいだ。

 着信が入っていなかったのは、俺達のことを配慮してくれていたのだろう。

 メッセージを既読にすると直ぐ様『大丈夫?』って入って、『うん、私は平気。心配かけてごめん』と打ち返した。

 

 続いて翡翠からのメッセージを開いて見ると、そちらはより剣呑としていた。『アリスが蒼汰に酷いことをされていないか心配……』は最初の方で、『辛い目にあったら私が全部忘れさせてあげるね』とか『もし、蒼汰がアリスに酷いことをしてたら、私がどんな手段を使っても報復してあげるから』とか『誰かを殺したくなったら教えて下さい』とか……って、何で敬語!? 怖いよ!?

 振動もしないマナーモードにしてたから気づかなかったけど、着信も何回か来ていたようだ。

 そして、最後のメッセージは『後10分たっても連絡がなければ優奈と二人で様子を見に行きます』というものが五分前に入っていて……危ないところだった。

 とりあえず、『大丈夫だから心配しないで』と打ち込んでおいた。

 

 もし、もう一回とかいうことになってたら、最中に乱入されていたかもしれない。そうなっていたらどんな惨劇が起こっていたのか。下手したら包丁片手にとか……いや、流石に無いか。無い……よね?

 そんなことを考えてしまい一人背筋を冷やす思いをしていると、何も知らない蒼汰が手に持った二本のペットボトルのコーラのうち一本を差し出してくれていた。

 

「ほいっ、そこの冷蔵庫に冷えてたやつ」

 

「ん……ありがと」

 

 ……本当にいろいろ準備怠りないのな、この部屋。

 少し複雑な気持ちになりながら、受け取ろうと体を起こす。

 

「――っ!」

 

 と、筋肉が悲鳴をあげて、声にならない声が漏れた。

 

「大丈夫か?」

 

 蒼汰が心配そうに顔を覗き込んでくる。

 他人事みたいな顔をしているけど、全部お前のせいだからな。

 ……ちょっとムカつく。

 

「大丈夫だと思う? あれだけ好き放題されたのに」

 

 やや大げさに恨みがましくそう言うと、

 

「すまん……」

 

 とたんに蒼汰は顔色を変えて、申し訳なさそうに謝った。

 そんな姿を見たら少しは溜飲が下がったので、これ以上の意地悪はやめておいてあげよう。

 

「冗談、体は平気だよ――痛みはまだあるけどね」

 

 そう言って私はにへらっと笑って見せる。

 

「そ、そうか」

 

 心底ほっとした表情を見せる蒼汰。

 私は改めて礼を言ってコーラを受け取った。

 

 気がつけば随分と喉が乾いていたようで、キンキンに冷えた炭酸飲料が心地良い。

 体が良い感じにクールダウンされて、ようやくほっと一息ついた感じがした。

 

 蒼汰もベッドに体を投げ出すように腰を下ろす。

 上半身裸で下半身はトランクスだけという姿、かつては見慣れた蒼汰の体。

 それなのに、なんだか見慣れないものを見るようで落ち着かない。背中がでっかく思えて……いや、実際に今の私と比べたら大きいけれど。

 

「それにしても、優奈と翡翠にずいぶん心配かけたみたいだね」

 

「そ、そうか……」

 

 蒼汰は二人のことを完全に失念していたようで、困った顔になる。なんと言い訳しようか考えている顔だ。

 せいぜい良い言い訳を考えるがいいさ……フォローくらいはしてあげようかね。

 

「そう言えば俺にもメッセージが来てるようだな……」

 

 蒼汰は何気なくヘッドボードに手を伸ばし、ランプが明滅するスマホを手に取った。

 

「――ひぃっ!?」

 

 スマホを開いた瞬間、蒼汰から悲鳴があがった。

 そんな様子が気になって背中にくっついて覗き込むと、そこには翡翠のメッセージが表示されていた。

 興味本位で蒼汰のスマホの画面を指で弾いてみて後悔した。

 蒼汰に対する愚痴や憎まれ口が、段々と恨み言になり、終盤は呪詛と言ってもいいような文章が連なっていて、文字だけなのに禍々しさがあふれていた。

 ……不在着信が続いた後の『デンワデロ』マジ怖い。

 

 私に送られていたのをカレーの甘口とするなら、蒼汰に送られていたのは駅前にあるインド人経営のカレー屋の5辛(ゴカラ)に相当すると言っていい激辛だ。

 ちなみに私は3辛(サンカラ)ですら空前絶後の辛さに挫けて残しそうになったものだ。私が幾人だったときは、辛いものは比較的得意だったというのに。

 

「そ、蒼汰は悪くないよ! ほら、私からして欲しいってお願いしたことだし……大丈夫だよ、そのへんは二人にちゃんと説明するから」

 

 と。必至にフォローして、ようやく蒼汰は正気に戻れたのだった。

 



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査問会(被告人不在)

 俺は今優奈たちと合流するためにファミレスに向かっていた。蒼汰とはマンションの前で別れていて一人だ。話し合った結果、今はまだ蒼汰は二人と会わない方が良いだろうということになったからだ。

 店員に待ち合わせている旨を告げて店内に入っていくと、俺に向かって大きく手を振る優奈がすぐに見つかった。

 注目を集めてたのが少し恥ずかしかったので、席まで小走りで駆けて止めさせる。

 

「もう、優奈ってば……」

 

 文句をこぼしながら優奈の隣の席に座る。

 と、そのまま抱き締められてしまった。

 

「ちょっ――優奈!?」

 

 腕の中で軽く抵抗してみる。いつもならそれで開放してくれるのに、優奈は離してくれなかった。

 

「アリス。大変だったよね、辛かったよね……お疲れさま」

 

「う、うん……?」

 

 優奈の態度に俺は戸惑う。

 確かにいろいろ大変だったけど、なんだか少し大げさすぎやしないか。

 

「良かった。アリスが無事で……」

 

 心の底から安堵した優奈の声を聞いて、俺は回された腕の中で動きを止める。

 

「蒼兄と上手くいかなくて、アリスはヤケっぱちになってるんじゃないか心配してたんだ。部屋を飛び出して、街中をさまよっているうちに援交目当てのおじさんからの誘いを受けてしまって、事の後でホテルの部屋でひとり後悔で泣いてるんじゃないか……って」

 

「わ、私そんなことしないからね!?」

 

 俺は声を大にして否定する。

 周囲の空気がざわつくから、援交とか不穏な単語を出すのはやめて欲しい。

 それにしても、随分と想像力豊かだなぁ……

 それだけ俺のことを心配してくれていたということだから、茶々を入れるつもりはないけれど。

 

「……ごめんね、優奈。心配かけて」

 

「うん、心配したよぉ……でも、良かったぁ」

 

 ぎゅっと、抱き締められた。

 女の子らしい柔らかさと嗅ぎ慣れた甘い匂いがして落ち着く。

 うん、触れ合うならやっぱり女の子の方がいいなぁ……

 そんなことを考えていたら、

 

「私も心配した」

 

 と不服そうな声が向かい側の席から聞こえてきた。

 顔を上げると、頬を膨らませた翡翠がジト目で俺たちを見ていた。

 

「翡翠も、ごめんね?」

 

 そう謝ってみたけど、翡翠の機嫌は悪いままだった。

 

「なんで優奈の隣に座るの? ぎゅっとして慰めるのは、恋人である私の役目のはずなのに……」

 

 頬を膨らませて抗議する翡翠。

 言ってることはもっともな話なので、俺は慌てて謝罪する。

 

「今までの習慣というか……その、ごめん。そっちに座るね? ……って、優奈?」

 

 がっちり抱きしめられていたら動けないんだけど……

 だけど、回された腕は緩むことはなくて。

 

「あたしはアリスのお姉ちゃんだからね! 翡翠姉が恋人になってもこの役割は譲れないかな」

 

 と、俺を抱きかかえたまま得意げに言う優奈。

 そんな煽るような言い方しなくても……

 

「いいわよ、私がそっちに行くから」

 

 翡翠はすっと立ち上がって、置いてある俺たちの荷物を向かい側に移すと、俺の隣に座ってきた。

 

「ちょ、翡翠!?」

 

 三人掛けの席とはいえ並んで座るのは少し窮屈だ。

 それから、翡翠は優奈に負けじと頭を胸に抱えるようにしてぎゅっと俺を抱きしめてきた。

 

「アリス、お疲れさま」

 

 弾力のある胸に優しく受けとめられる。ふわっと石鹸のいい匂いが漂う。

 そして、そんな翡翠に対抗してか、優奈もさらにくっついきた。

 

「ちょ、ふたりとも!?」

 

 目立ってる、目立ってるから、ねぇ!?

 

 ファミレスの対面席で三人の女子が片方の席に詰めて抱き合ってる状況はとても普通じゃない。この時期だから、卒業で別れを惜しむ微笑ましい光景とでも思ってくれてたらいいんだけど……

 

「ふふっ、両手に花だね」

 

 と楽しそうに優奈。

 

「せ、せめて、離して……」

 

「私、本当に心配した」

 

 だから、我慢してという翡翠の無言のお達しだった。

 俺は諦めて、二人が満足するまでされるがままで居ることにした。

 

「あ、あのぉ……お客様? ご注文は如何されますか……?」

 

 俺たちのどたばたが落ち着くのを見計らっていたのか、遠慮がちにウエイトレスさんがやってきた。

 

「ええと……」

 

 もうすっかり日も暮れていた。

 変に食べると晩御飯が入らなくなるかも……どうしよう。

 

「あたし達はアリスを待ってる間に晩ご飯食べちゃったよ? ママに相談したら今日は外食にしなさいってことになったから、家に帰っても食べるものは無いと思うよ?」

 

 ……なるほど。

 それじゃあ、遠慮なくがっつり食べちゃおう。

 

 ささっとメニューを見て、目についたハンバーグセットを頼む。注文を読み上げながら機器に入力した店員さんは、並んで抱き合って座る俺たちに一礼して立ち去った。

 

『……それで、ちゃんとできたの?』

 

 優奈が念話に切り替えてその質問をしてきた。

 デリケートなことだから、聞かれないかなと思ったりもしたけれど……アリシアを助けるのに重要なことだから、やっぱりそんなことないよね。

 

『う、うん。なんとか……あっ』

 

『どうしたの?』

 

『……ううん、なんでもない』

 

 ……たれてきた。

 

 体内からどろりとそれがこぼれ出た感触。

 ナプキンをつけているから問題はないけれど、さっきまでの光景が思い出されて、頭に血が登る。

 

『それにしても、随分時間がかかったのね? やっぱりはじめては大変だった?』

 

『それもあるけど……その、一回じゃ終わらなくて』

 

『ええ!? はじめてなのに二回もしたの?』

 

『いや……それが……』

 

 俺は親指を折って残りの手のひらを伸ばして体の前に小さく掲げた。

 

『よ、よん!? えええ!?』

 

『あいつ、何考えてるの!? 殺す、絶対に殺すわ……!』

 

『はじめての女の子相手に四回って……蒼兄って案外鬼畜?』

 

 翡翠は激怒、優奈はドン引き――二人とも予想した通りの反応だった。なんとかフォローして誤解を解かないと蒼汰が死ぬ。社会的か物理的かはわからないけど、間違いなく死ぬ。

 

『い、いや、蒼汰は悪くないよ!? これは私から望んだことだから』

 

『え、アリスから……?』

 

 顔を真っ赤にする優奈。

 頭の中で蒼汰におねだりする俺の姿を思い浮かべてそうだった。

 

『ち、違うから!? そういうのじゃなくて……私は少しでもアリシアを助ける可能性を高くしたかっただけで……』

 

『それで? 実際のところどうだったの?』

 

『……痛かったけど、我慢できないほどじゃなかった』

 

『ええと……気持ち良かったりとかはしなかったの?』

 

『……よく、わからない。体の中に入ってくるのがきつくて、なんだか、気持ち悪かった。後はただひたすら耐えてたから』

 

『そんな状態なのに四回も……?』

 

『だから、これは私が蒼汰にお願いしたことなんだってば』

 

『それにしても、蒼兄だけ気持ちよくなってたってことよね。流石にそれってどうなのかなぁ……』

 

『私が納得してるからいいの。私は種が欲しくて、蒼汰は気持ちよくなる。それでギブアンドテイクは成立してるから、そのことに不満なんてないよ』

 

 そこまで言っても優奈はまだ不服そうだった。

 だから、俺は付け加える。

 

『それに……蒼汰はちゃんと優しくしてくれたから』

 

 ……途中までは確実に。

 俺は目を逸らしながら言う。

 

『あいつ私のこと気づかってた。気づかいすぎてその……アレが小さくなっちまうくらいで。だから……その……』

 

 なんだこれ。恥ずかしいぞ……

 

『……そうなんだ。ちゃんと優しくして貰えたんだね』

 

 それで、ようやく優奈は少し笑った。

 

『バージン相手に四回もするような猿が優しいとかあり得ないでしょ』

 

 バッサリ切り捨てる翡翠。

 

『……それも、そうだね』

 

 そして、優奈もあっさり同意する。

 どうやら、フォローはこれくらいが限界のようだ。四回した事実は覆らないし、そこは蒼汰の自業自得なところもあるから仕方ないよね、うん。

 

『それで――具体的にはどんなことをしたの?』

 

 目を爛々とさせた優奈が聞いてきた。

 

『そ、それは……』

 

 俺は言いよどむ。

 プレイの内容はアリシアを助ける事と関係ない。

 プライベートなことだし、蒼汰にも悪い気がする。

 それに――

 

『ええと、その……翡翠に聞かせるような話じゃないと思うから……』

 

 優奈に話すのはともかく、他の人とのプレイ内容を恋人に聞かせるとか駄目なんじゃないか。

 そう思った。

 

『私も……聞かせて欲しい。アリスに何があったか知っておきたいの。思い出すのも辛いことなら無理にとは言わないけど……』

 

 だけど、当の翡翠はそんなことを言う。

 そんな風にお願いされると断り辛い。それに、翡翠が知りたいと言うのなら、話をするのが恋人としての義務じゃないかとも思うし……

 

『わかったよ』

 

 俺が了承したのとほぼ同じタイミングで、ウェイトレスさんが来て料理をテーブルに置いてくれた。

 俺は食事をしながら、念話で俺が蒼汰にされたことをかいつまんで伝える。

 優奈はひゃぁ、とかふぁぁ、とかよくわからない声をあげながら顔を赤くして話を聞いていた。それに対して翡翠は顔色ひとつ変えないまま無言で話を聞いていて、それがとても怖かった。

 

 ……せっかくのハンバーグだったのに味がよくわからなかったや。

 



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爆弾処理

 蒼汰にされたことを話している間、翡翠はずっと無言だった。そして、俺が話し終えると同時にすっと立ち上がった。

 

「ひ、翡翠、落ち着いて!?」

 

 俺は慌てて翡翠を押しとどめる。

 漏れ出ている殺気だけで蒼汰が三回くらい死にそうな雰囲気がある。

 

「……お手洗いに行くだけよ」

 

 そんな俺を一瞥した翡翠は、それだけ言うとお店の奥へと消えていった。

 

「はあぁぁぁ……」

 

 翡翠が居なくなり、張り詰めていた空気が一気にゆるんで全身の力が抜けた。

 嫌な汗がいっぱい吹き出していて気持ち悪い。

 

 このままじゃいけない。

 そう思った俺は念話を優奈と二人の会話に切り替えて相談することにした。

 

『どうしよう、優奈』

 

『そうねぇ……』

 

 優奈は人差し指を口元にあてて、真剣な表情になって考えているようだった。やがて静かに口を開く。

 

『何回かしたら蒼兄も余裕が出てくるんじゃないかな。そうしたら、アリスのことも気持ちよくしてくれるようにお願いしてみるとか……?』

 

『そんなことは心配してないから!?』

 

 思わず念話の声を荒げてしまった。

 

『じゃあ、何だってのよ?』

 

『翡翠のことに決まってるでしょ! このままだと蒼汰は翡翠に刺されるかもしれないよ?』

 

 俺が懸念を伝えても、優奈の反応は微妙だった。

 

『別にほっといて平気だと思うけど……そんなに心配なら、この後、翡翠姉を家に誘ってみたら?』

 

『……家に?』

 

『そう、一日お泊まりして時間を置けば、翡翠姉も落ち着くんじゃないかな』

 

 確かにそれは良い案に思えた。だけど、ひとつだけ優奈が知らないことがある。

 

『でも……翡翠は今生理なんだ』

 

『……だから?』

 

 優奈は首を傾げてそう聞き返してくる。

 

『その……エッチできないのにお泊まりに誘うのってどうなのかなって』

 

『はぁ……?』

 

 優奈は何を言っているんだという顔になる。

 

『だ、だって……恋人同士でお泊まりって言ったら、普通そういうことじゃないの?』

 

『なんでそんな風に思うかなぁ……好きな人の家にお泊まりして一緒に居られるだけで嬉しいものよ。エッチしないと満足できないなんて、男子みたいな考えはやめてよね』

 

『う……』

 

『むしろ、心も体もしんどいときだからこそ、側に居て欲しいって思うんだよ』

 

『そうなんだ……』

 

 優奈に言われてショックを受ける。

 ……無意識に私は期待していたのだろうか。

 もしかして、私ってエッチな女の子なのかな……?

 普通……だよね? ……多分。

 

『でも、あたしが一番心配なのはアリスのことなんだからね? きっと翡翠姉もそう。だから、アリスには自分自身を一番に考えて欲しいって思うよ』

 

『わかった。ありがとう……』

 

『……それと、ね。もし、エッチなことしたいんだったら、あたしだったらしてあげられるよ?』

 

『な、何を言ってるんだよ!? そんなの駄目に決まってるだろ? 翡翠という恋人がいるのにそんなこと――』

 

『あたしがアリスにするのは姉妹のスキンシップみたいなものだから大丈夫。それに翡翠姉はあたしたちのことも知ってるよ?』

 

『え……そうなの……?』

 

 それは、初耳だった。

 

『エッチした後、アリスとあたしの間で雰囲気が変わったことに翡翠姉は直ぐに気づいたみたい。それで、翡翠姉からそのことを聞かれてあたしは答えたの』

 

『そ、そうなんだ……』

 

『別に後ろめたいことはなかったからね。アリスのことは大切な妹だって思ってる。そして、それは誰と付き合うようになってもかわらないよ。だから、アリスが望むなら遠慮しなくていいから。もし、心配なら翡翠姉には秘密にしておくね?』

 

 優奈は人差し指を口の前に立てていたずらっぽくウインクする。平然とそんなことを言う優奈が少し怖いと思った。

 

 優奈の柔らかさや匂い、指の感触が想起されて。

 体の奥がきゅんと反応してしまう。

 

 ……そう言えば、今日は結局一回もイけてない。

 優奈には散々焦らされて、蒼汰とは最後までしたのに。

 

『…………だ、だめだよ』

 

 俺は大きく首を振って、湧き上がってきたもやもやを打ち消した。

 いくら翡翠が承知していたとしても、それは俺が翡翠の恋人になる前の話だ。翡翠と恋人になった今、蒼汰はともかく優奈ともって言うのはあまりに不誠実だと思う。

 

『ふふっ……わかったよ』

 

 ……ふぅ、危ないところだった。

 

 そして、あらためて今俺がどうしたいのかを考える。

 俺自身については正直よくわからない。

 翡翠のためと考えていることも、自分のことを考えないように逃避した結果なのかもしれないと思った。

 だけど、翡翠が辛い思いをしているのは俺のことを大切に想ってくれているからというのは事実で。そんな翡翠にできることがあるならしてあげたいと思う。

 それは、俺のエゴかもしれないけど……その結果として翡翠が喜ぶのならそれでいいんじゃないだろうか。

 

『私、翡翠を誘ってみるよ。翡翠とは恋人になったのにゆっくり話をする機会もなかったし、ちょうど良い機会だと思うから』

 

『うん。アリスがそうしたいなら、それでいいと思うよ』

 

 優奈はそう言って優しく微笑むと、そっと手を伸ばして俺の頭を撫でてくれた。

 

 翡翠が戻ってきたのは、相談が終わって、ウエイトレスさんが俺の分の食器を片付けた後だった。

 体調か機嫌が悪いのか、それとも両方なのか、翡翠は普段よりも二割増しで仏頂面になっていた。

 

「あ、あの……翡翠?」

 

「どうしたの、アリス。あいつに復讐したいのなら協力は惜しまないわよ」

 

 翡翠からは黒いオーラが漏れ出ていて背筋がぞくぞくする。

 俺は慌てて両手を目の前で振った。

 

「いや、そういうのじゃなくて……今日なんだけど、この後、家でお泊まり会とかどうかなって。せっかく恋人になったんだから、翡翠と二人でゆっくりお話ししたいって思ったんだ」

 

「アリスの家に……お泊まり……!?」

 

「あ、迷惑だったら大丈夫だからね? 突然の誘いだし、翡翠は昨日夜は遅かっただろうし……」

 

「迷惑だなんてそんなことあり得ない! 何があっても是非お伺いさせてもらうわ!」

 

 前のめりに俺の両手を包み込んで承諾の返事をする翡翠。

 一瞬でテンションが爆上がりしていた。

 表情がきらきらと輝いている。

 

「う、うん……」

 

 俺はその勢いに圧倒されながら、早まったかなと少しだけ後悔していた。

 まぁ、元気がでたみたいだから良かった……かな?

 



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帰宅

 ファミレスを出た俺達は、お泊まりの準備のために一旦家に帰るという翡翠についていくことにした。

 

「シャワーも浴びるから待たせちゃうし、先に行ってくれていいわよ?」

 

「夜道を翡翠一人で歩かせられないよ」

 

 他に口にしなかった理由もある。

 家で翡翠と蒼汰が鉢合わせることがあれば、翡翠の怒りが再燃するかもしれない。そうなったとき俺達が居れば翡翠のストッパーになるんじゃないかと思ったからだ。

 

 家についたとき蒼汰の靴は玄関に無かった。

 どうやら外出したままのようだ。とりあえず鉢合わせてしまうことはなさそうでほっとする。

 

「シャワーを浴びてくるから、少し待っててね?」

 

 俺と優奈は翡翠の部屋で待つことになった。

 ここに入ったのは小学生のとき以来だ。

 昔からあまり飾り気の無い部屋だったけど、今はさらに実用性に磨きがかかっていて、ここが女子の部屋だと判別できそうなのは、壁に掛けられた制服くらいしかない。

 

「おまたせ」

 

 十分くらいで翡翠は帰ってきた。

 急いでシャワーを浴びてきてくれたらしい。

 

「言われた通り髪は乾かさなかったんだけど……」

 

「うん、任せて」

 

 魔法で乾かした方が早いので髪は乾かさないでいいからと翡翠に伝えていたのだ。

 ベッドに座った翡翠が頭に巻いたバスタオルを外すと、ウェーブ掛かった烏の濡れ羽色の髪がふわっと広がった。

 普段はポニーテールにしてある印象が強いので、髪を下ろした姿はとても艶っぽく見えて、どきどきしてしまう。

 俺はベッドに上がり、翡翠の後ろから頭に手をかざして魔法を詠唱する。乾燥(ドライ)、それから修復(リペア)を使った。瞬く間に乾いて綺麗になる髪に翡翠は驚きを顔に出していた。

 

「魔法ってこんなこともできるのね……」

 

「へへ、すごいっしょ!」

 

 となぜか優奈が得意げに答える。

 

「すごいけど少し複雑な気分ね。毎日乾かしてケアするのにかけている手間暇を思うと……」

 

 翡翠の長い髪は良く手入れされていた。聞いたら、翡翠は髪の乾燥に毎日十分前後かけているらしい。

 

「わかる。ズルいよね!」

 

 優奈はほぼ毎日魔法をせがんでくる癖にそんなことを言う。

 

「なんだかなぁ……」

 

 と、俺は苦笑するしかなかった。

 翡翠は手早くお泊り用の道具を手提げカバンに詰め込んで準備を終える。

 そして俺たちは翡翠の家を後にした。

 

 結局、俺たちが居る間に蒼汰は帰ってこなかった。

 惨劇を避けられてほっとしたけれど、いったいどこをほっつき歩いてるんだか。

 翡翠を待っている間に、メッセージアプリで俺達の状況を伝えて、まだ家に帰らない方がよいと書いたけど、既読にもなっていなかった。

 ……まぁ、どうせスマホのバッテリーが切れたとかだろう。

 

 家に帰ると母さんが出迎えてくれた。

 

「おかえりなさい二人共。それから、こんばんは翡翠ちゃん」

 

 いつも通りのおかえりなさいが、なんだかとても安心した。

 

 父さんは家に居なかった。急な仕事が入って出ていくのはいつものことだけど、母さんに聞いても行き先がわからないのは少し珍しいかもしれない。

 

 それから、しばらくリビングでお茶を飲みながら女四人で談笑した。翡翠が家に来てゆっくり話をするのは数年ぶりで、話題には事欠かなかった。

 

「あ、そうだアリス。これ、渡しておくわ。朝夕に飲みなさいね?」

 

 話の途中、思い出したようにそう言った母さんは、柔らかいボトルに入った薬のような物をテーブルに置いた。

 

「何これ……?」

 

「妊婦用のサプリよ。葉酸がメインで他に鉄やカルシウムが入ってるの」

 

 母さん曰く、葉酸には細胞を作る働きがあって、胎内で子供を作る妊婦にとって必要不可欠な栄養素らしい。日本人の普段の食生活では不足しがちなので、こうやってサプリで補うのが良いそうだ。

 

 ほんと、いろいろ知らないことばかりだなぁ……

 子供を産むって大変だ。

 

 その後、俺は翡翠と一緒に自分の部屋に戻った。

 母さんが客間から布団を持ってきてくれて、二人で床に敷いた。二人でベッドに並んで座り話をしていると、優奈がお風呂に呼びにきたので、俺は翡翠を残して部屋を出る。

 浴室に向かう前にトイレに寄った。

 

「……うわぁ」

 

 思わず声が出てしまう。

 エッチした後につけたナプキンは、体から出た蒼汰の精液でどろどろになっていた。

 

「……」

 

 ショーツから外したそれを、なんとなく鼻に近づけてみる。青臭い雄の匂いが鼻を付いて、むせかえりそうになった。かつては日常的に嗅いでた匂いのはずなのに、なんだかとても生臭く感じてキツい。

 

「……なにやってるんだろ、私」

 

 ふと我に返った俺は、ナプキンを丸めてトイレットペーパーで包みサニタリーボックスに捨てた。

 

 今日三回目になるお風呂は一人でゆっくりできるかなと考えていたら、脱衣所に優奈が入ってくる気配がした。翡翠が居るのに……と思ったけど、優奈と一緒にお風呂に入るのはいつものことだったし、まぁいいかと何も言わなかった。

 

 しばらく脱衣所で何やらごそごそしていたらしく、優奈が浴室に入ってきたのは、俺が髪と体を洗い終えて湯船に浸かった頃だった。

 

「アリス、だめじゃない」

 

 ドアを開けて早々優奈は、俺を軽く叱るように言った。

 

「着ていった下着を洗濯機に入れたでしょ。普段使いのとは違うんだから、ちゃんと手洗いしないと」

 

「そうなんだ……」

 

 知らなかった。

 

「今日はあたしが洗っといたから、次からは自分でしてよね」

 

「え……洗った……の?」

 

 あれは蒼汰との行為で汚れてたはずなのに……

 

「なっ、なぁぁぁ――!?」

 

「……別にいまさら気にするような間柄でもないでしょうに」

 

 気にするよっ! 優奈のばかぁ……

 

 蒼汰にされたことは話していたけど、それで私がどんな反応したかまでは知られたくなかった……例えそれが与えられた刺激に対する体の生理的な反応だったとしても。

 

 私はずり落ちるように湯船に顔を沈めて、呆れ顔の優奈を視界から消した。

 ため息が泡になってぶくぶくと音を立てた。

 



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翡翠との夜

 部屋に戻るとパジャマ姿の翡翠がベッドに横になってくつろいでいた。

 床には布団が引かれていて、多分母さんが持ってきてくれたのだろう。

 

「おかえりなさいアリス……遅かったのね」

 

 俺に気づいた翡翠は体を起こしながら言う。

 若干拗ねが混じった口調だった。

 

「わ、私は湯船にゆっくり浸かる方だから……」

 

 優奈と一緒に入っていたことは、わざわざ報告するようなことじゃないだろう。別にやましいことはないけど……

 

「そう……ところで、お風呂は優奈と一緒だったのよね?」

 

 だけど、翡翠はお見通しのようだった。

 

「ど、どうして――?」

 

「さっき優奈が宣言しに来たからね――今から一緒に入るんだって」

 

 優奈……えぇ……

 

「そんなに動揺してどうしたの? もしかして、恋人の私に言えないことでもしてた、とか……?」

 

 人差し指を下唇にあてて、笑顔で首を傾げる翡翠。

 

「し、してないよ!?」

 

 否定する声が思わず上ずってしまう。

 

「怪しいわねぇ……」

 

「ほ、本当だって!」

 

 翡翠と付き合うようになってからは、まだ優奈とそういうことはしていない。昼間のはマッサージだし、最後までしなかったのでノーカンで……いいよね?

 

「……ふふ、冗談よ。ちょっと意地悪したくなっただけ」

 

 問い詰め気味だった翡翠の口調が不意に柔らかくなる。

 

「ちなみに何をしていても責めるつもりはないから安心していいわ。二人の関係を私は認めているもの」

 

 え? ええと……

 

「翡翠はそれでいいの? 私が優奈としていること知ってるんだよね」

 

「ええ」

 

 あっさり受け入れられて逆に不安になる。

 普通に考えて恋人がその妹と肉体関係にあるのって嫌だろう。だから、優奈とは少し距離を置かないといけないって考えていたんだけど……

 

「優奈が私たちの仲を取り持つ代わりに、私は優奈がいままで通りの関係でいることを認める――二人で話し合ってそう決めたの」

 

「い、いつの間に……」

 

 本人不在でそんな協定が交わされていたなんて。

 

「アリスのことが一番大切なのは二人とも一緒だからね。あなたが一番大変な時期に周辺でごたごたするよりは、妥協できるところは妥協して、お互い協力することにしたの」

 

 翡翠らしい割り切りと言うべきなんだろうか?

 ……なんだか、複雑な心境だ。

 

「以前の優奈はあなたのことを拗らせていたけど、今の彼女が求めているのは姉妹としての関係だから……二人が仲良くすることに嫉妬はするけど不快ではないわ。もし、アリスが幾人のままだったら、受け入れられなかったと思うけど」

 

「……うん」

 

 翡翠の言うことはわかる気がした。

 兄と妹のままだったら、俺も優奈と一線を引いていたはずだ。

 そう考えると俺と優奈との関係はいろいろと偶然が重なって、落ち着くべきところに落ち着いたのかもしれない。

 

「それに、蒼汰がアリスに好き勝手している方が断然不快だから……それに比べたら、優奈のいちゃつきなんて笑って許せるわ」

 

「はは……」

 

 蒼汰の名前が出たとたんに声のトーンが低くなり、機嫌が悪くなる翡翠。

 少し蒼汰をフォローしてあげたほうが良さそうだ。

 

「蒼汰は私のためにしてくれているから……あまり、あいつのことを責めないであげてほしい」

 

 俺がそう言うと翡翠は一瞬おどろいた顔をして、それから、苦虫を噛み潰したような表情になった。

 

「……責めたりなんてしないわ。そもそも、あいつを関わらせたのは私だもの。あいつは与えられた役割を果たしているだけだって、そんなことはわかってる。だから、そんな蒼汰の背中を刺すような真似はしないわよ」

 

 それを聞いて俺は安心した。

 『背中を撃つ』を若干現実的に言い間違えていた気もするけど、敢えて指摘するほどでもないだろう。

 ……大丈夫だよね、うん。

 

「それでも、不快なものは不快なの……アリスも、辛かったら私に吐き出してくれていいからね?」

 

「私は大丈夫だって」

 

 心配性だなぁ……翡翠は。

 男なんて性欲の塊なんだから、蒼汰のことは不快もなにもあんなもんかなーくらいにしか思ってない。ちょっと回数は多かったけど、それはまぁ願ったり叶ったりだし。

 蒼汰が翡翠のメッセージに本気でびびってたのがちょっとかわいそうなくらいだ。

 

「でもそうだなぁ……蒼汰が死にそうな顔をしてたのは気になってたから、思ったより翡翠が冷静そうでほっとしたよ」

 

 だけど、翡翠は俺のその返事が気に入らなかったようで、頬を膨らませた。

 

「なんで、あいつのことばっかり……私、恋人なのに」

 

 翡翠の機嫌を損ねてしまったらしい。

 あちらも難しい兄妹関係のようだ。

 

「ごめん、その……」

 

 何と言えばいいのだろう?

 上手く言葉が出てこない。

 

「……抱っこ」

 

 そんな俺の様子に業を煮やしたのか、翡翠は両手を広げて直接的な要求を告げてきた。

 

「……アリス分が足りない」

 

 どうやら、言葉はどれも不正解だったらしい。

 俺は翡翠に近づいて、首とポニーテールとの隙間に両腕を差し入れた。翡翠も俺の背中に腕を回してきて、体ごと抱きかかえられる。

 抱き締めたはずなのに、今の俺は翡翠にしがみついてるようにしか見えないだろう……体格差が悲しい。

 まあ、他人の目はないし、気にしてもしかたない。

 それにしても、翡翠とくっついているのはとても気持ちいい。

 

 お互い無言のまま、体温を交わす時間が過ぎていく。

 

 手持ち無沙汰に俺は気まぐれに翡翠のポニーテールに触れた。

 絹のようなきめ細やかな手触りの黒髪は、手ですくうと、はらはら落ちていく。

 

「翡翠の髪はきれいだね……」

 

 この長さの髪でこの艶を維持するのにどれだけの手間暇を掛けているのだろう? 普段は魔法で手抜きすることが多い俺とは段違いの女子力だ。

 

「アリスの髪もすごくきれいよ」

 

 そう言いながら翡翠も俺の髪に触れてきた。

 後頭部から肩あたりの毛先まで、繰り返し髪を手で梳かれる。

 

「ねぇ、翡翠は長い方が好きだった?」

 

 ふと、思ったことを聞いてみる。

 

「……どうして?」

 

「だって、翡翠に相談せずに髪を切っちゃったから……」

 

 そんなことが今更気になった。もし長い方が好きだったら、悪いことをしてしまったかなぁって……

 

「私は今の髪型も好きよ、似合ってるわ。それと、私が髪を伸ばしてるのは、あなたが長い髪が好きだからよ」

 

「な、なんで、翡翠がそんなことを知ってるの!?」

 

「そんなのわかるよ。小学校のときに憧れてた先生とか、中学のときに好きだった先輩とか、あなたが好きになる相手はみんな髪長かったじゃない」

 

「そ、そうだっけ……」

 

 それらは、俺ですらあやふやな記憶だった。

 ……翡翠は本当によく憶えてるな。

 

「でもそうね……私も短くしてあなたとお揃いにしようかしら?」

 

「もったいないよ。せっかくきれいなのに……」

 

「アリスがそう言うのなら、やめておくね」

 

 翡翠はあっさりと取り下げた。

 当たり前のように翡翠は俺のことを優先してくれる。

 その気持ちはありがたいけど、俺はそれに相応するなにかを返せているのだろうかとも思ってしまう。

 翡翠のことは大切だ。

 でも、恋愛的な意味での好きという感情ではない。

 そんな俺と翡翠は今は恋人同士になっている。

 だけど――

 

 不意に上半身が離されて、両手でほっぺたを引っ張られた。

 

「ふぇ……?」

 

 翡翠の顔が真正面にある。

 

「また、他人(ひと)の心配してるでしょう?」

 

「ふぁひふりゅんりゃよ、ひしゅい《なにするんだよ、翡翠》」

 

 俺が文句を言うと、顔を摘んでいた手が開かれて、そのまま両手で頬を包み込まれた。

 

「今はあなた自身とアリシアのことだけを考えていればいいの。それ以外の細かいことは落ち着いてから考えましょう? 一旦全部保留して私を頼ってほしい……甘えていいんだよ?」

 

 翡翠の手は頬から後頭部に移動して、優しく俺の顔を翡翠の胸元に導いてくれた。

 顔が翡翠の豊満な膨らみに受け止められる。パジャマに着替えたときにブラは外していたようで、寝間着の薄い生地越しに柔らかい感触が伝わってくる。

 

「十分甘えてると思うんだけど……」

 

 それも、ギブとテイクが釣り合わないほどに。

 

「まだまだよ。幾人は昔から強がりなんだから」

 

「そうかな?」

 

 このまま甘えつづけてると、いつの間にか翡翠への借りが積もって首が回らなくなりそうな気がする。

 

 ……だけど、確かに今は考えることが多すぎる。

 翡翠の言葉に甘えて先送りにさせてもらおうかな。

 

 俺は目を閉じて、心地良い感触に身を委ねる。

 翡翠に抱き締められたまま、赤ちゃんに戻ったような格好で。

 

「……ありがとう、翡翠」

 

「ううん、いいの」

 

 おっぱい……きもちいい。

 顔をスリスリしてふにふにを楽しむ。

 

 おっぱい……やっぱり大きいのいいなぁ。

 翡翠の手が背中を優しく撫でてくれている。

 

「ふぁ……」

 

 欠伸が出た。

 安心感に包まれて、急速に眠気がやって来る。

 思ったよりも疲れているのかもしれない、心も体も。

 

「そろそろ寝る……?」

 

「ん……」

 

 俺は翡翠の胸元で小さく首を振る。

 まだ、こうしていたかった。

 

「それじゃあ、このままベッドで一緒に横になろうか。それだったらいいでしょ?」

 

「ん……」

 

 俺は翡翠の胸元でこくりと頷く。

 おっぱいで眠れたら幸せだと思った。

 

「しょうがないなぁ……」

 

 そんなふうに言う翡翠の口調はだけど優しい。

 

「ほら、電気消すから一旦離れてね?」

 

 ベリっと翡翠の胸元から強制的に剥がされて、ベッドに転がされる。そのまま横になっていると、翡翠が立ち上がって照明の紐を引いた。部屋が暗闇に包まれる。

 電気が消えても翡翠はすぐには来なくて、もぞもぞと何かしている気配がした。

 そして、焦らされた後、翡翠が俺の隣にやってきた。

 

「お待たせ」

 

「ん……」

 

「もう大分眠そうね。それじゃあ、寝る前に――」

 

 翡翠の顔が顔の正面に来た。

 目をつむって顎をあげると、唇に柔らかい感触が一瞬触れる。

 触れるだけの優しいキス。

 

「それじゃあ、アリスちゃん。ネンネしましょうねー」

 

「んー……」

 

 子供をあやすように言われても抵抗する気もなくて。

 翡翠が胸元に誘導してくれて、もそもぞと動いてそれに従う。導かれた先で、ひんやりとすべやかな感触が触れた。

 

「……!」

 

 それは遮る物のない、絹のような素肌。

 どうやら、翡翠は電気を消した後、一旦上半身裸になってパジャマだけ羽織ったようだった。

 

「アリスが喜ぶかなって思って……」

 

 少し恥ずかしそうに言う翡翠は天使かと思った。

 

「おっぱい、すき……でも、寒くない?」

 

「しっかり毛布羽織るから平気よ。後はアリスが人間湯たんぽになってくれたら完璧かな?」

 

「ん……わかった」

 

 俺は翡翠にぴとーっとくっついて丸まる。

 翡翠の肌は少しだけひんやりとしていて、だけどすぐに俺の体温で暖められた。ふんわりと、優奈と違ういい匂いがする。

 ボディソープの匂いなのかな……?

 

「おやすみなさい、アリス」

 

「おやすみ、翡翠」

 

 疲れて眠くて気持ちよくて。

 思考が鈍化していく。

 

 おっぱい。ふにふに。

 きもちいい。しあわせ……

 

 本能のままに赤ちゃんがするようにして甘える。

 翡翠は当たり前のように受け入れてくれた。

 

「私はあなたに幸せになって欲しい。それが私の一番の望み……」

 

 翡翠の手が頭を撫でてくれている。

 俺はそのまま眠りについた。

 



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一夜明けて

4月4日(火)

 

 朝。目を覚ますと翡翠が俺の寝顔をじーっと見ていた。

 

「おはよう、アリス」

 

「ん……おはよう」

 

 翡翠に挨拶を返しながら、もぞもぞと枕元のダッシュボードを探る。目当ての物はすぐに見つかった。婦人体温計という基礎体温を測る用の体温計だ。それは、普通の物より液晶が大きいしゃもじのような形状をしていた。その柄にあたる細い部分を口に咥え、舌の下で押さえて固定する。

 

 基礎体温とは寝起き直ぐ動かずに測った体温のことを言うらしい。それを記録していくことで妊娠しやすい時期をある程度確認できるそうだ。

 

 女性の体温には低温期と高温期がある。

 生理に伴って低温期が始まり、排卵日に体温が少し下がって、それから高温期になる。生理が28日周期の場合、低温期と高温期が大体14日づつ。高温期の長さは大体一定で、俺のように生理周期が一定していない場合は低温期の長さが変わるらしい。

 

 そして、セックスをして一番妊娠しやすい時期は排卵日の前日から前々日と言われている。これは精子が射精から受精できるようになるまで数時間のラグがあるのと、卵子の寿命が一日くらいしかないのに対して、精子の寿命は二日〜七日前後と長いからだそうだ。

 

 『ピピピ』と電子音が鳴って体温計を口から取り出す。

 液晶を見ると昨日とほとんど変わらない数値が表示されていた。

 

「……どう?」

 

 俺の様子をずっと見ていた翡翠が聞いてくる。

 

「うーん、よくわからない」

 

 基礎体温を測り始めたのは昨日からだ。

 それまで体温を測ることなんてほとんどなかったので、今が低温期なのか高温期なのかが判らなかった。前回の生理から今日で27日目だから普通に考えたら生理前の高温期なんだろうけど、過去二ヶ月近く生理が来なかったこともあるからなんとも言えない。

 

「まぁ、継続して記録することに意味があるから」

 

「うん」

 

 俺は体を起こしてスマホを手に取ると、アプリに今測った体温を入力した。

 

「ところで、今日の予定は決まってるの?」

 

「特にはない――」

 

 と言いかけたところで、蒼汰からメッセージが来ていたことに気づいた。

 朝から一緒に外出しないか――か。

 随分と露骨なお誘いだなぁ……

 まあ、わかりやすくていいけど。

 

「と思ってたけど、そうでもなかったかも……」

 

 と翡翠に言葉を濁すように言うと、翡翠は直ぐに理由を察したようだ。

 

「蒼汰なの?」

 

「う、うん……」

 

 無言の間が怖い。

 

「…………はぁ、仕方ないわね」

 

「あ、でも翡翠がどこかに行きたいなら、蒼汰とはその後にしようか?」

 

「いいわ。今日のところは一晩中アリスの寝顔を見て満足したから」

 

「……もしかして、寝てないの?」

 

「一時間くらいは寝たわ」

 

 ……なんでドヤ顔なんだろう。

 俺の寝顔をそんなに見ていても退屈なだけだと思うんだけど。

 

「……無理はしないでね」

 

 翡翠は満足そうだし、深く考えないようにしよう。

 

 目が覚めた後は、一階に降りて翡翠を加えた家族みんなで朝ご飯を食べた。

 

「……父さんはなんでそんな怪我をしてるの?」

 

 朝ご飯の最中、ふと気になって聞いてみた。

 昨晩居なかった父さんが居て、何故か体のあちこちに傷を作っていた。

 

「いや、ちょっとな……」

 

 父さんはばつが悪そうに首の後ろをかく。

 

「あんまり母さんに心配かけるようなことをしないでよね。もう若くないんだし」

 

 俺は回復魔法を父さんにかけた。大きな傷こそ無かったけど、細かい擦り傷や切り傷がいっぱいだった。

 

「ありがとな、アリス……気をつけるよ」

 

 それにしても、何でもありの近接格闘術を使う父さんがここまで怪我するなんて……熊退治でもしてきたのだろうか。

 

 ご飯の後、翡翠は一足先に帰宅した

 俺を迎えに来る蒼汰と顔を合わせたくないそうで、少し遠回りをして帰るとのことだった。

 玄関でいってらっしゃいのキスを唇に要求されたので応えた。

 

「まるで新妻みたいね」

 

 と、優奈がニヤニヤとしていた。

 ほっとけ。

 

 それから外出の準備をする。

 今日は普段通りの服装だ。春物のブラウスにチェックの巻きスカート。下着も下ろしたてだけど普段使いのシンプルなやつだ。シャワーも今日はマンションについてから、さっと浴びたのでいいだろう。

 

「蒼兄とデートなのに……」

 

 優奈は不満そうだった。

 

「蒼汰相手に気合を入れる必要はもうないでしょ」

 

 初体験の義理は果たした。

 

「それに、蒼汰はどうせ普段着だよ? 私が気合入れたらバランスが悪くなるじゃない?」

 

「……それもそうだね」

 

 優奈は深くため息をついた。

 

「蒼兄から変えないとダメかぁ……」

 

「ちなみに私は蒼汰を変えようとは思わないから。やるなら優奈にお任せするよ」

 

 そんなやり取りをしていたら蒼汰が迎えに来た。

 ジーンズにパーカーといった服装で、やっぱり普段着だった。

 

 ……ほらね?

 

 優奈からジト目で見られて訝しむ蒼汰を、俺は手を引いて外に連れ出した。

 

「そういえば、朝から……するのか?」

 

 望むところではあるのだけど、もう蒼汰との関係は変わってしまったのかと思うと少し寂しい気がした。だけど、蒼汰から出てきたのは、

 

「ん……? ああ、話してなかったっけ。お前大変だからチェックできてないかと思ってたが、今日はウィソの新しいカードセットの発売日なんだぜ。だから、発売記念トーナメントに参加しようと思って誘ったんだが……」

 

「聞いてない」

 

 なんだ、相変わらずのウィソ馬鹿か。

 ……心配して損した。

 思わず笑みがこぼれる。

 

「そうだったか。悪ぃな」

 

「……てっきり朝からするのかと思ってた」

 

 蒼汰は変わらなくて、なんだか安心したような拍子抜けしたような……

 

「お前なぁ……そりゃ、アリシアさんを助けるのに必要なことだろうけど、ちゃんと息抜きはしないと続かないぜ?」

 

「う……全く間違ってないけど、蒼汰に言われるのは理不尽感ぱない……」

 

「ったく、俺をなんだと思ってるんだ」

 

「じゃあ、今日はしないの……?」

 

「あ、いや、それは……」

 

 このスケベ。

 がっついてない雰囲気出そうとしても、すぐボロがでてるじゃないか。そんなに慌てて……

 

「ふふっ、蒼汰ってば必死すぎ! ……冗談だよ。して貰えないと困るのは私だもん」

 

「そ、そうか……」

 

 安心する態度がかわいいな、この馬鹿。

 

「……ところで、さっきから気になってたんだけど、なんで体中傷だらけなのさ」

 

「あー、いやぁ……これは……」

 

 なんとなくピンときた。

 

「父さん……?」

 

「おう……昨日久しぶりにおじさんに乱取りの稽古をつけてもらったから……」

 

「呆れた。なんでそんなこと――」

 

「ええと、その……男だから、かな」

 

「そうか……」

 

 ため息ひとつ。

 なんだかわからないけど、なんとなくわかった。

 通過儀礼という父さんが現状を受け入れるための八つ当たりだろう。

 

「回復魔法使うから背中向いて?」

 

「お、おう」

 

 周囲に誰も居ないのを確認してから、蒼汰の背中に両手をあてて、体を寄せ額を背中にくっつけた。

 

「……わりぃ、な」

 

 聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いてから、魔法の詠唱をする。体の痛みの記憶は消えないだろうけど、せめて傷だけでも。

 蒼汰はどこかばつが悪そうに輝いて治っていく傷を見ていた。

 

 カードショップについたら人がいっぱいだった。大会にエントリーした後は運試しに数パック買ってみたり、箱買いを開封している人の隣で、新しいカードを確認したりしていた。

 大会が始まって、発売された新しいカードを使ってお昼過ぎまで思い存分に遊んだ。

 とても、楽しかった。

 

 その後、少し遅めのお昼を蒼汰とハンバーガーショップで食べた。新しいカードの感想を話し合いながら食事をしてると、ふと蒼汰が薬のようなものを飲んでいるのに気がついた。

 

「何を飲んでるの?」

 

「これは、その……精力剤だ」

 

 言いづらそうに蒼汰は言った。

 マカとかクラチャイダムとか亜鉛とかいろいろ入っているらしい。これは、父さんが蒼汰に渡した物で間違いないだろう。

 

「……昨晩と今朝も飲んだんだ」

 

「それって効くの?」

 

「あ、ああ……やばいくらい効く」

 

「そ、そうか……」

 

 効いた結果どこがどうなるかは明白だった。

 つまりはそういうことだ。

 

 それから、お互い意識してしまい言葉が少なくなってしまう。

 会話もどこか上の空で、蒼汰の視線がやたら胸や太ももに注がれている気がする。嫌な気分ではないが、なんというか恥ずかしい。

 店を出た私達は無言でマンションに向かった。

 

 ……今日は五回した。精力剤ってすごい。

 

 



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訪れ

4月5() 0週0日

 

 朝、体が重い感覚で目覚める。

 もぞもぞ動いて基礎体温を測ると、昨日から0.5度ほど下がっていた。

 認めたくはなかったけど、これはもう間違いないないだろう。

 

 生理が来ていた。

 スケジュール通りの28日目。今回ばかりは遅れてくれていたら良かったのにと思ってしまう。

 

「あーー……」

 

 なにもしたくない。

 でも、トイレに行ってナプキンを変えないと……

 今つけているのは、念のため用の薄いやつだから心許ない。パジャマが汚れたら余計に面倒だ。

 

 俺は気合を入れて体を起こす。

 トイレとご飯。それから、みんなに報告。

 最低限やらないといけないことを終わらせて。

 

 ……それが終わったら今日はずっと寝ていよう。

 

   ※ ※ ※

 

 気がつくと俺は辺り一面の暗闇の中にぽつんと立っていた。

 スポットライトを浴びているかように水の巫女姿の自分とその周囲だけが白く光っていて、他には何もない。

 

「これは、夢……?」

 

『そうさ』

 

 ひとりごとのつもりだったが、意外にも返事が返ってきた。

 姿は見えないが若い男の声だった。

 

『妊娠できなかったな、あんな思いまでしたのに……全部無駄だったというわけだ』

 

 俺の夢の中だというのに随分と失礼な奴だ。

 誰だろう……どこかで確実に聞いたことがある声なのだが、思い出せない。

 

「無駄じゃないよ。そもそも確率が低いことなんてわかっていた。本命は次、今回はその予行演習だと思えばいい」

 

 こうなることは最初から想定内だ。

 落ち込むようなことじゃない。

 

『……でも、もし次もだめだったらどうする?』

 

 妊娠する確率は三割程度と言われている。そして、次がダメだった場合、その次の機会があるかどうかもわからない。

 だけど――

 

「やる前から、できなかったときのことを悩んでも仕方ないさ」

 

 絶望するのは、やれることがなくなってからでいい。

 

『そもそも、お前のしていることは自己満足じゃないのか? 禁忌の魔法に手を出して、産まれるはずの胎児から体を奪ってまで生きることをアリシアは望まないだろう』

 

 それでも、己のエゴを貫くつもりかとその声は問う。

 

「そうだね、全部私のわがまま。それでも……」

 

 それが、罪深い行為だったとしても。

 それで、みんなに迷惑をかけたとしても。

 それを、アリシアが望まなくとも。

 

「私はもう一度アリシアに会いたいんだ」

 

 罪は抱えて生きていこう。

 掛けた迷惑は恩としていつか必ず返す。

 アリシアからの恨み言ならいくらでも聞く。

 

 右も左もわからない異世界で、怖くて、苦しくて、辛い思いをいっぱいして……なんど挫けそうになったかわからない。それでも、最後までやり遂げて帰ってこられたのは、いつも側にアリシアが居てくれたからだ。

 

「アリシアは使命を終えて満足の中で逝けたのかもしれない……だけど、そんなのは私は嫌だ。彼女には自分自身の幸せのために生きてほしかったんだ。だから私は――!」

 

 だから俺は――俺のためにアリシアを救う。

 

『その結果、人生をやり直すこととなるアリシアに、自分以外の好きな相手ができたとしても?』

 

「アリシアの幸せには変えられない。考えるだけで胸が張り裂けそうなくらい嫌で、嫌で、苦しいけど……」

 

『……そうか』

 

 男は俺の答えに満足したようだった。

 

「……でも、そんなことは聞かなくてもわかっているんじゃない? あなたなら」

 

 今度は俺が声の主に問う。

 俺はもうその正体に気づいていた。

 

『そうだな……だけど、それを確認するのは俺にとって大事なことだから』

 

 ベールが剥がれるのように周囲の闇が一瞬で開けた。急に明るくなった世界に俺は思わず目を細める。

 

「うわぁ、懐かしい……」

 

 周囲には水の神殿のある湖畔を見下ろす小高い丘の風景が広がっていた。ここはアリシアが育った故郷であり、俺にとっては旅立ちの場所だった。

 

 丘には俺の他にもう一人、男が立っていた。

 それは、見慣れた高校の制服を着た男の頃の俺。

 

「こうして見ると、割とイケてるかも?」

 

 初めて客観的に見た自分の姿は案外悪くないように思えた。

 

『過信しない方がいいと思うぞ。この姿はアリシアの記憶の中にある俺だからな。脳内補正が掛かっているはずだ』

 

「そんなこと言うなよ……」

 

 俺の夢の中でくらい良い気持ちにさせてくれてもいいのに。

 

『事実だからな』

 

 目の前の俺は素っ気なく言う。

 聞こえてくる声色に違和感を覚えるのは、アリシアが聞いていた俺の声だからなのだろう。

 

『この場所で、俺は誓いの言葉をアリシアに言ったんだ』

 

「……そうだったっけか」

 

 とぼけてみせたが、忘れるはずもない。

 それは、異世界の雄大な光景と与えられた使命に高揚して言った、若気の至りと言っていいほど恥ずかしい誓い。

 

『必ず魔王を倒してアリシアを幸せにする――そう俺は誓ったんだ』

 

 魔王は倒すという方は果たした。

 だけど、アリシアを幸せにする方はまだ全然足りていない。

 

『誓いを果たせ』

 

「……おう」

 

 それは言われるまでもない。

 男の俺が握った右手を突き出してきたので、同じく握った右手を打ち合わせて応える。

 男の俺は満足そうに笑った。

 

   ※ ※ ※

 

「……大丈夫?」

 

 目の前に心配そうに顔をのぞきこんでいる翡翠が居た。

 いつの間にか眠っていたらしい。

 

「ん……おはよう翡翠」

 

「おはようって、もうお昼前よ。アリスの様子を見に来たんだけど、寝てたから寝顔を見てたの。だけど、少し辛そうにしてたから心配で……起こしちゃった?」

 

「ううん、大丈夫。ありがとう翡翠」

 

 翡翠の手が俺の頭に触れる。

 撫でて貰えるの気持ちいい。

 

 生理が来て、少しだけショックだったけど今はもう平気だ。

 夢の中で心の整理をすることができたから。

 自分自身との対話で励まされた。

 

「アリスは一人で居たい? それとも一緒に居る?」

 

「一緒がいい」

 

「そう。だったら、今日はずっと側にいるね」

 

「何もしたくないや……」

 

「いいわよ、好きなだけ甘えても。春休みの宿題も終わらせたし、いくらでも付き合ってあげられるから」

 

「……うぐっ」

 

 宿題という単語を聞いて俺は言葉が詰まる。

 

「もしかして宿題が残ってるとか?」

 

「……いっぱいある」

 

 アリシアのことに一杯一杯で宿題はほとんど手をつけられていなかった。学校が始まるまであと二日しかないのに。

 

「私も手伝ってあげるから一緒にやりましょう?」

 

「うう……」

 

 今日は翡翠にくっついて、一日中ぐでーってしようと思っていたのに……

 



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明日に向けて

4月6() 0週1日

 

 今日は春休み最終日。

 昨日に引き続き俺は春休みの宿題に追われていた。

 

「はぁ……学校に行けなくなるかもしれないのに、宿題を頑張る意味ってあるのかな……」

 

 俺は勉強机に突っ伏して愚痴をこぼす。

 学校には妊娠出産を隠して休学する予定とはいえ、それが上手くいくとは限らない。もし学校にばれて退学になったら、今俺がやっていることは無意味になるのだ。

 

「しんどいのはわかるけど、最初から諦めてどうするの」

 

 翡翠にたしなめられる。

 彼女は今日も手伝いに来てくれていた。

 

「……そうだね」

 

 まったくもってその通りだった。

 俺自身やる前から諦めるつもりなんてない。

 

 ……だけど、弱音を吐きたくなるときもある。

 

「うぅ、お腹痛いぃ……」

 

 両手でお腹を押さえる。今日は生理の二日目で一番しんどい日だった。できることなら一日中ベッドに横になっていたい。

 

「ほら、私も手伝うから、あともう少し頑張りましょう?」

 

 翡翠が机に伏せた俺の頭を撫でてくれる。

 俺はされるがまま身を任せて目を細めた。

 

「ん、気持ちいい……」

 

 だんだんと翡翠に甘えるのが癖になってきてるかもしれない。なんだかズブズブと深みに嵌ってるような気がする。

 

 そのまま痛みが落ち着くまで待って、なんとか気合を入れ直した俺は宿題を再開した。翡翠の付きっきりのサポートのおかげでわからないところも躓くことなくスムーズに進んだ。

 

 しばらくたった頃、部屋のドアが興奮気味にノックされた。

 

「アリスいるー!?」

 

 返事をすると勢いよくドアが開いて優奈が部屋に入ってきた。

 

「見て見て、大発見よ!」

 

「……どうしたの優奈?」

 

「蒼兄とエッチしなくても妊娠できる方法を見つけたの!」

 

「なんですって!?」

 

 ガタッと翡翠が立ち上がる。

 俺は訝しがりながら優奈が持ってきた雑誌を受け取った。

 

「出かけてると思ったらこんな物を買いに行ってたのか……」

 

 それはいわゆる妊活雑誌だった。

 女子高生には買いづらい本だろうに、俺のために買ってきてくれたのだろう。

 

「うっ……」

 

 かわいい赤ちゃんの写真の周囲に『授かる』をキーワードに様々なキャッチフレーズが並んでいて、なんというかとても妊娠することへの圧を感じてしまう。

 だけど、俺は誰よりも必死にならないといけない状況なのだ。この本は後で俺も読ませてもらおう。

 

「ほら、このページ!」

 

 付箋のついたページを開くとシリンジ法の紹介という記事が出てきた。

 シリンジとは針のない注射器のことで、それを使って採取した精液を膣内に注入するというのがシリンジ法というそうだ。

 購入するのに通院や診断は不要で、キットを通販で買えるらしい。

 

「これを使えば、あいつをアリスに触れさせなくてすむわ!」

 

「それじゃあ、早速これ注文しておこうか?」

 

「うーん……」

 

 盛り上がる二人に対して俺はあまり気乗りしていなかった。

 

「せっかく調べてもらって悪いけど、私はあまり使いたくないかな」

 

「どうして? アリスは蒼汰とのセックスを望むの?」

 

「まさか」

 

「だったら、納得できる理由を聞かせてもらえるかしら」

 

 翡翠は身を乗り出して、俺を問い詰めるような口調で言う。

 

「シリンジ法には、出してすぐの精液が必要になるみたいだけど、そうなると蒼汰は一人でしなくちゃいけなくなるよね?」

 

 セットには検尿のときに使うような紙コップがついていた。これを使って精子を採取するようだ。

 

「それがどうしたの? どうせほっといても猿みたいにするんだから、あいつにやらせたらいいじゃない」

 

「一日に何回もは難しいよ。男の射精って意外と繊細なんだから」

 

「……そうなの?」

 

「私がセックスできない体なら仕方ないけど、そうじゃないし……」

 

 シリンジ法は勃起不全などで性行為が上手くできない夫婦にとって有効な手段と書いてあった。つまり、セックスできるならそれに越したことはないのだ。

 

「それに、セックスをしたらホルモンが分泌されて、子供を妊娠出産しやすくなるっていう説もあるみたいなんだ」

 

 科学的な裏付けまではないみたいだけど、なんとなく俺はその説は正しいんじゃないかと思う。

 女性の体はそういう風にできている――そんな風に思うのだ。

 

「アリシアは巫女の祝福の関係で成長が止まっていたから。出産に向けて少しでも体を作りたいと思ってるんだ」

 

 蒼汰のアレなんかより比べ物にならないほど大きい胎児がそこを通ることになるのだ。それに備えて少しでも体を慣らしといた方が良いだろう。

 

「……でも、アリスはセックスしても辛いだけなんだよね?」

 

「蒼汰が気持ち良いならそれでいいよ。興奮するほど精子はいっぱい出るし、少しでも妊娠する確率を上げたいから」

 

 多分、お願いしたら、蒼汰はシリンジ法に協力してくれるだろう。

 だけど、妊娠する可能性を高めるにはなるべく多くの精子を受けることが必要だ。そうなると、蒼汰に何度も紙コップに射精する自慰を強要することになる。その後の賢者タイムは想像するだけで虚しいものになるだろう。

 

 オナニーをするときは自由であるべきだと思う。

 自分勝手で独りよがりな行為だからこそオナニーなんだから。

 俺の都合でその自由を奪うのだから、対価として蒼汰が良い思いをするくらいじゃないと釣り合いは取れない。

 俺はそう思う。

 

「……アリスはそれでいいの?」

 

「うん」

 

 それでも、処女を失う前にこれを知っていれば迷ったかもしれない。だけど、もう初体験は済ませてしまった。

 幸いなんとか蒼汰のアレを受け入れることはできている。今となっては蒼汰に抱かれることにそこまでの抵抗はない。

 ただ、目を閉じて我慢すればいいだけだから。

 

「……それなら仕方ないわね」

 

「ごめんね、翡翠」

 

 恋人である翡翠には悪いと思うけど、そもそも蒼汰を巻き込んだ計画を立てたのも彼女だからここは折れてもらおう。

 

 もちろん、蒼汰自身の意思は確認しないといけない。

 蒼汰がシリンジ法を望むなら何の問題もない。

 

 あいつには好きな人がいる。男だから好き嫌い関係なしに抱けるだろうけど、変に生真面目なあいつを苦しめているかもしれない。

 それに、親友であり元男の俺を抱くのは抵抗があるだろう。

 

「……そうでもないか?」

 

 俺は考えを撤回する。

 組み敷かれながら薄目で見た蒼汰の顔は蕩けそうなほど緩んでいて……とても気持ち良さそうだった。

 蒼汰は初めてのセックスに夢中になっているのだろう。

 まぁ、無理もないと思う。

 

 その後、話しあって取り敢えずシリンジは注文しておくことになった。何があるかわからないし、これなら、最悪蒼汰が駄目だったときに父さんにお願いできなくもないし。

 

 

4月7() 0週2日

 

 今日から高校二年生だ。

 朝一に張り出されたクラス分けを確認して教室に向かった。

 二年になっても優奈と同じクラスでほっとした。他にも純も含めた数人が去年と一緒のクラスだった。残念ながら、文佳と山崎くんとは別のクラスになってしまったようだ。

 去年からのクラスメイトには、休みの間に髪を切ってポニーテールにするようになったことに驚かれたけど、この髪型も似合ってると褒めてくれた。

 ホームルームで無難に自己紹介をして、その後、ちょこちょこ新しいクラスメイトとも話ができた。この調子だと多分すぐに馴染めるだろう……妊娠したら休学する予定だからどこまで一緒に居られるかはわからないけど。

 

 今日は始業式とホームルームだけで授業は無い。

 二日間ひたすら宿題に追われていたので、今日は気分転換したくなって俺はなんとなく部室に向かった。

 

「……よ、よう」

 

 部室には蒼汰が一人でいた。蒼汰とは一昨日に生理が来たことを伝えたっきりで、それ以降連絡を取っていない。

 俺が部室に入ると蒼汰は不自然に体を緊張させて、俺を意識してしまっているようだった。

 

「今日は、大丈夫なのか?」

 

 ……大丈夫じゃないです。

 

 生理三日目で、まだお腹が重い。

 そりゃ昨日よりはマシだけど……

 

「ごめん、今も血が出てるから、その……今日はできないんだ」

 

 親友とはいえ、女になった自分の体のことを説明するのは若干気まずいものがある。

 

「ええと、ヤりたいのはわかるけど、女の子にそんな風に聞いたら本当はダメなんだよ? ……まあ、私相手だからいいけど」

 

 蒼汰が女性の体のことをわからなくても仕方ないと思うから、今回は減点は勘弁してあげよう。

 

「ち、ちげーよ!? そういうことを聞いたんじゃなくて! 俺は純粋にお前のことを心配してだな……」

  

 どうやら、俺は質問の意図を勘違いしていたらしい。

 

「ご、ごめん……その、私は平気だから」

 

 随分恥ずかしいことを口走ってしまった気がする。

 ……これは私が減点だな。

 

 出会い頭にいきなりぎくしゃくしてしまった。

 俺は気を取り直して、ここに来た目的の物を探すことにする。

 それは、直ぐに見つかった。先日発売された新しいウィソの全カードが載ってあるガイドブックで、涼香が部室に置いてある半備品だ。

 俺はそれを手に取って、蒼汰と少し離れた席に腰を下ろした。

 本のページをめくりながら、新しいカードを使ったデッキのアイデアを考えていると、妙に蒼汰がこちらの様子を伺っていることに気がついた。

 

「ん……? 蒼汰もこの本を読みたかった?」

 

 蒼汰は慌てて首を振った。

 

「い、いや、そういう訳じゃないが……」

 

 それからもチラチラと視線を感じた。それもなんだか熱っぽいやつだ。

 

「な、なんだよ。そんなに見られると、気になるじゃないか」

 

「す、すまん……」

 

 蒼汰は顔を反らして言う。

 

「どうしたんだよ、お前。もしかして、三日できなかっただけで発情してるのか?」

 

 少しからかい気味にそう言ったら、蒼汰がギクリと体を震わせて固まった。どうやら図星だったらしい。

 え、マジか……

 いくらセックスを知ったからと言って、こんなに我慢できなくなるのか? これじゃあ、童貞だったときより余裕がなくなっているんじゃ……

 

 そこまで考えて、不意に思い当たることがあった。

 

「お前、もしかしてあれからヌいてないのか……?」

 

「……約束したからな」

 

 はじめてしたときに蒼汰とした約束。

 精子は全部私の中で出してほしいというやつだ。

 

「そりゃそうだけど、別にできないときまでしなくてもいいのに……」

 

「お前が頑張ってるのに俺だけ好き勝手はできねーよ」

 

 蒼汰は顔をそらしたまま不貞腐れたような口調で言った。多分、照れ隠しなのだろう。

 

「蒼汰……」

 

 その結果として性欲を抑えられないってのは、どこか抜けているというか、なんとも蒼汰らしい気がする。

 

「もしかして、サプリも飲み続けてる?」

 

「……おう」

 

「それは無茶だろ……」

 

 馬鹿だこいつ。

 セックス覚えたてでお預けになって、ただでさえ悶々としてるだろうに、その上に精力増強のサプリを飲むなんて。

 マゾか、マゾなのか。

 

 俺は思わず溜息をついた。

 

「明日だったらほとんど血は止まってると思う。少しは出てると思うから汚れるかもしれないけど、蒼汰が構わないならしてもいい……どうする?」

 

 明日は生理四日目だ。感染症のリスクもあるので、本当なら完全に血が止まるまで待った方がいいのだけど、今は事情が事情だから蒼汰が望むなら多少リスクは許容しよう。

 生理中のセックスでも精子は射精後一週間くらい寿命があり、排卵が早めに来た場合は妊娠できるので無駄という訳ではない。

 

「……頼む。正直お前の口からヌくとかするとか聞いてるだけで、どうにかなりそうなんだ」

 

 座っている状態なのに蒼汰のズボンの股間部分はギンギンに主張している。俺の視線を感じたのか、ソレはビクリと震えて反応した。蒼汰の息が浅い。

 

「ほんと、重症だなお前……」

 

 我慢しすぎて箍が外れかかっているようだ。普段の蒼汰なら部室で硬くなったアレを見せつけてくるようなことはしないだろう。

 でもまぁ、強力なサプリで性欲が増している状態でオナ禁なんてしたら、そんな風になっても仕方ないか。

 

「明日になったら好きなだけ付き合うから、今日は我慢できるか?」

 

「す、好きなだけ……うぅ」

 

「……想像するな、バカ」

 

 どうやら今の蒼汰には俺の姿は刺激が強すぎるようだ。

 蒼汰相手に焦らしプレイをする趣味はないので、今日は早々に引き上げることにした。カードリストはスマホでチェックすることにしよう。

 



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入学式

4月8() 0週3日

 

 今日は入学式があるため、土曜日だけど登校していた。

 校内を歩いているといつもより見られている気がした。

 新入生が居るからというのもあるけれど、目立つ銀髪が今までと違うからというのも大きいかもしれない。

 トレードマークだったロングヘアーのストレートは、今はセミロングのポニーテールになっている。

 知り合いにも会う度に驚かれた。

 

「髪型だけじゃなくて雰囲気も休み前とは違っているね」

 

 と、去年に引き続きクラスメイトの純に言われた。

 

「何かを我慢しているような思い詰めた感じがなくなって、明るく柔らかくなった気がする」

 

 俺にできることが見つかって前を向けたからだと思う。

 処女じゃなくなった影響は……多分ないと信じたい。

 

「恋愛関係で悩んでいたのがふっきれたとか……?」

 

「そんなところ、かな……」

 

 とわざと目を伏せて言うとそれ以上は聞かれることは無かった。どうせ本当のことを話すのは絶対に無理だ。だったら、勘違いさせて置いた方が良いだろう。

 それにあながち間違ってもいなかった。

 

 いつもならぐいぐいと突っ込んできそうな純が控え目だったのは、自分は山崎くんと順調だからそのことで私が傷つくかもしれないと気づかってくれているのだろう。

 

 クラスが変わったタイミングなので、他の女子からも深く聞かれなかったのは幸いだった。

 女子達は敵と味方とそれ以外を識別する友達作りに忙しそうだ。

 私も何人かと挨拶して当たり障りのない話をしたけれど、女子達の輪に入るのは相変わらず苦手だった。社交的な優奈や純のフォローがなければクラスで浮いてしまっていたかもしれない。

 

 うちの学校の入学式は体育館で在校生全員が出席して行われる。二年前に新入生として参加したときと同じだった。

 

 去年もそうだったんだろうな。

 

 そのときのことを想像して胸が痛くなる。本来なら在校生の中に居るはずの俺が居ないことで、優奈にどれだけ寂しい思いをさせてしまったのだろう。

 

 もう、優奈を悲しませたりはしない。

 

 隣に立つ姉を見上げて心の中で誓いを新たにしていると、視線に気づいた優奈が不思議そうに首を傾げた。『どうしたの?』と念話で聞いてきたので、『なんでもない』と首を小さく振って、壇上で話をする校長先生に向き直った。

 

 入学式が終わると在校生は退場して新入生に対する部活動紹介が始まる。

 俺達ウィソ部も新入部員を勧誘するためにステージに立つことになっていたのだが……

 

『なんで、こんなときに大きくしてるのさ!』

 

 発表前の舞台袖で、俺は蒼汰に文句を言った。

 他の人に聞かれていいような内容じゃなかったので念話を使っている。

 

『しかたねぇだろ、治まんねぇんだから……』

 

 聞けば昨日くらいからずっと勃起しっぱなしらしい。

 自分と交わした約束が原因である以上、それ以上蒼汰を責めることはできなくて。

 

『……なんとかばれないように誤魔化してて。勧誘は私がするから』

 

 そうしているうちに俺達の出番がやってきた。

 俺と蒼汰の二人でステージに上がる。

 

 ……結果は大失敗だった。

 

 ステージに立った俺がマイクで部活動の紹介をしている間、蒼汰は両手をズボンのポケットに入れて、前のめりに立っていた。

 眉間に皺を寄せたその姿は、傍から見ると周囲を睨みつけて威嚇しているようにしか見えず、新入生を軒並みドン引きさせてしまったようだった。

 俺のトークで必死に誤魔化したけど、逆にちぐはぐ感が際立って、ヤバい部活と思われたに違いない。

 部活動終了後、部室への見学希望者は一人も来なかった。

 

「こんなことなら、女子だけで説明すれば良かったかな……」

 

 トレーディングカードゲームのプレイヤー人口は基本的に大きく男性に傾いている。蒼汰以外女子部員であるうちの部はその例外中の例外だった。

 だから、男子が居ないと入り辛くなるかもしれないと気を回したのが今回の敗因だ。

 

「すまん……全く面目もない」

 

「ま、まぁ、勧誘が失敗に終わったと決まった訳じゃないし……」

 

 まだ挽回するチャンスはあるだろう……多分。

 

 もともと蒼汰が俺のために作ってくれた同好会だけど、せっかくだから部活として続いていってほしいと思うから、勧誘もがんばろう。

 

 見学時間が終わったら、今日学校でやらないといけないことはもうない。その後は蒼汰との約束を果たすことになる。

 

 私は蒼汰と一旦別れて別々にマンションに向かった。

 一緒に下校して部屋に入るところを誰かに見られたらまずいので、話し合ってそうすることに決めたからだ。

 

 それから、蒼汰にはマンションに来る時間を一時間ほど遅らせてほしいとお願いしてある。別に焦らしている訳ではなくて、準備をしておきたかっただけだ。

 

 マンションについた私は、お風呂と一緒になっているトイレでナプキンを処理する。出血はほとんど止まっているみたいで安心した。

 ナプキンをここに捨てるのは嫌だったので、ナイロン袋に入れてポシェットにしまっておく。

 

 それから制服を脱いでシャワーを浴びた。

 髪はタオルでまとめて濡らさないようにして、体だけさっと洗う。

 バスルームから出ると、体を拭いて下着を履き替える。

 汚れが目立たないダークグレーのサニタリーショーツ。上はノーブラでキャミソール。それから、マンションに置いている着替えからシンプルな萌黄色のワンピースを取り出して着た。

 香水をつけるかどうか少し迷ったけど、なんとなく恥ずかしくてやめておいた。制汗剤だけ吹いておく。

 これで準備完了だ。

 

「……時間が余っちゃったな」

 

 まだ蒼汰が来るまで三十分ほどあった。

 

 ……なんだか落ち着かない。

 もう大丈夫ってメッセージするか迷ったけれど、私が待ち切れないって思われるのはなんだか癪だし。

 

「……ほぐしておこうかな」

 

 今日の蒼汰の様子を考えると、とても余裕のある扱いをされるとは思えない。それ自体は私自身が望んだことだけど、なるべく痛くない方がありがたい。

 だから、今のうちに準備をしておいた方が良いだろう。

 これは必要なことだから。

 ……私がエッチな訳じゃない。

 

「んっ……」

 

 私はワンピースの裾から手を差し入れた。

 

 適当なところで切り上げるつもりだった。

 だけど、場所が場所だったからか色々思い出してしまって。

 

 蒼汰の切なそうな表情。

 私に向けられた欲望の塊。

 快楽を求める道具にされる。

 荒々しい乱れた息づかい。

 窮屈で苦しいだけの行為。

 胎内で弾けて脈動する感覚。

 

「アリス……?」

 

 だから、いつの間にか部屋に蒼汰が居たときは頭の中が真っ白になった。

 

「ひゃ、ひゃい!? 蒼汰、なんで……!」

 

「なんでって約束の時間になったから来たんだが……」

 

 そんなことも気づけないほど私は行為に没頭していたらしい。

 

「ち、違うの! これは――」

 

 何か違うというのだろう。

 自分でも何を言っているのかわからないほど混乱していた。

 

「お前すげぇエロい……このまましてもいいか?」

 

「ちょっ! あっ……やぁ……!」

 

 蒼汰は荒々しく服を脱ぎながらベッドに上がり、私に伸し掛かってくる。そのまま押し倒されてしまう。

 

「ダメだ、こんな姿見せられて我慢なんてできねぇ……やるぞ、いいな?」

 

 蒼汰は理性を失うくらい興奮していた。

 多分絶対にこれは私の自業自得なんだろうけど、少し怖くて。

 

 混乱した頭でそれでも拒絶していないことを伝えないといけないと思って、私はただ頭を縦に振った。

 



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お泊まり

4月9() 0週4日

 

「ん……」

 

 ぼんやりと視界に入ってくる見慣れない天井。外から日差しが差し込んでいて既に日は高いようだ。

 

 ええと……俺は何をしていたんだっけ……?

 

 周囲を確認しようと起き上がろうとして、

 

「いっ……!」

 

 全身に痛みが走ってベッドに逆戻りした。

 体を起こすのは諦めて、俺は記憶の糸を手繰ることにする。

 

 ここは……父さんに使わせてもらっているマンションの部屋だ。昨日は蒼汰に求められてここに泊まったんだったっけ。

 

 蒼汰と一緒にお泊まりするのは初めてじゃない。俺がこの体になる前は、月に一度はどちらかの家でお泊りをしていた。

 だけど、その頃と今とではその意味は異なっていて。母さんにお伺いのメッセージを送った後、既読がついて返事があるまで気が気ではなかった。

 特に詮索されることもなくあっさり了承されたときは、心の底から安堵したものだ。

 

 そんな訳で、俺はここで一夜を明かしたのだった。

 親の目が無いこの部屋でのお泊まりは正直楽しかった。蒼汰とこれだけの時間一緒に過ごしたのは久しぶりだったし。

 スマホの対戦ゲームで遊んだり、お互いデッキを持っていたのでウィソで対戦したり。夜は蒼汰がテイクアウトしてくれた牛丼を食べた。

 ……いや、まぁ、殆どの時間はセックスしてたんだけど。

 

 今の俺は一糸纏わぬ姿でシーツのみ掛けられている。

 昨日は何度目かわからない行為が終わった後、そのまま力尽きて寝てしまったらしい。

 顔を動かして隣に視線を向けると、大きく口を開けてぐーすかと眠っている蒼汰の顔があった。

 

「しかし、ほんと幸せそうだな……」

 

 あれだけ好き放題すれば満足だろうな。

 最後の方があやふやな昨晩の記憶を探りながら思う。

 

 ――それにしても、

 

「……酷い匂い」

 

 部屋中にすえた匂いが立ち込めていた。甘酸っぱいような生臭いような……様々な体液が揮発して入り混じったとても不健全な匂いだ。

 

 ゆっくり体を起こすと、途端に不快感がやってきて顔をしかめた。体中がべとべとして気持ち悪い。

 

「……シャワー浴びよう」

 

 気だるく重い体を引きずって、のそのそと動き出す。節々で悲鳴をあげる筋肉の痛みで、だんだん意識がはっきりしてきた。

 ベッドから足を下ろして、お風呂場に向けての一歩を踏み出したとき、下腹部からどろりとこぼれ出る感触が――

 

「――っ!」

 

 慌てて手でそこを押さえる。ねちょっと、粘り気のある嫌な手触りがした。俺は少し涙目になりながら、ひょこひょこと内股歩きでユニットバスに駆け込んだ。

 

「うぅ、蒼汰のバカ……」

 

 能天気に寝ているやつがやけに恨めしくなって愚痴をこぼした。八つ当たりだけど。

 

 ユニットバスに入って俺は便器に腰を下ろした。

 そこをきれいに拭いて、もよおしてきたので小用を足す。

 

 その後、浴槽の中に移動してシャワーを浴びた。

 カーテンを閉めてシャワーヘッドを手に取り、青と赤の水栓を捻ってお湯の温度を調整する。

 

「……面倒くさいな、これ」

 

 ちょうどいい温度になったらシャワーヘッドを元の場所に戻して、お湯を全身に浴びる。

 しばらく洗い流してから髪と体を洗ってしまい、そのままお湯を溜めて湯船に浸かることにした。

 今日はお休みで予定も無いしゆっくりするとしよう。

 

「はふぅ……」

 

 湯船に横になって弛緩した声を漏らす。

 やっと心も体も落ち着いてひと心地ついた心境だ。

 

「昨日はすごかったな……」

 

 お湯に顔を半分沈めながら、昨日のことを思い返す。

 精力増強サプリを飲んでオナ禁をしていた蒼汰は、まるで飢えた獣のようだった。私に対する気遣いも最低限で、本能を剥き出しにして襲ってきた。

 

 生理で少し日が開いてしまったこともあり、最初はちょっとだけ怖かった。

 だけど、蒼汰が私を求める姿は少し滑稽なほど必死すぎていて。まるで大きな子供のようだなって思ったら、すこし心に余裕ができた。

 

 それに、「ちょっと待って」って言ったら、ちゃんと手を止めて待ってくれたし……

 

 いつの間にか指を絡ませて握られていた蒼汰の大きな手を握り返すと、すごく安心することに気づいた。

 

「それにしても……」

 

 蒼汰はもうちょっと女の子の扱い方を覚えるべきだと思う。

 あいつの抱き方はいささか以上に荒っぽい。もし治癒魔法が使えなかったら、私の体は今頃酷いことになっていただろう。

 

 私自身はこのままでも問題ないけど、将来蒼汰に恋人ができたときのことが心配だ。少し責任を感じないでもないので、今度優奈に相談してみようかな?

 

 お湯に浸かりながらそんなことを考えていたら、突然入口のドアが激しくノックされた。不意をつかれて体がビクッと震える。

 

「頼むアリス、開けてくれ!」

 

 ドアの外からは切羽詰まった蒼汰の声。

 

「ま、待って。今、お風呂入ってるから――」

 

「無理ぃ!! しょんべんが漏れそうなんだ!」

 

「え、えええっ!?」

 

 仕方ない。

 私は片手で胸を隠しながら、浴室のドアのロックを外すと、勢いよく全裸の蒼汰が飛び込んできた。

 

 蒼汰は便器に向かって仁王立ちすると、手で半立ち状態のそれを持ち照準を合わせて体を弛緩させる。

 

「ふぃぃ……」

 

 筒の先端から放たれた水流が放物線を描いて、便器の中でちょぼちょぼと音を立てる。

 湯船に戻って腰を下ろした私はその様子を特等席で鑑賞させられることになった。

 狭い空間にツンと漂ってくるアンモニアのにおい。

 やがで、だんだんと水の勢いが弱まってきて、放出が終わる。

 蒼汰は小さく震えて先っぽの水分を飛ばすと、トイレのレバーを捻って水を流した。

 

 用を足し終えて出ていくと思っていたら、何故か蒼汰は立ったままこっちを見ていた。

 

「……そんなにじーっと見るなよ」

 

 今更になって少し恥ずかしくなったのだろうか。

 それにしては全く隠そうともしてないけど。

 

「その……なんだか懐かしくてね」

 

 蒼汰がおしっこする姿なんて珍しくもない。並んで立ちションなんて日常茶飯事だったし。

 だけど、それはもう私はできなくなってしまった。

 おしっこしてもおしりが汚れることもないし、手軽で少し羨ましい。

 

「ああ……そりゃそうだよな」

 

 だけど、蒼汰が少しだけ残念そうなのは何故だろう。

 

「……もしかして、私がえっちな気持ちで見てるだなんて思ったりした?」

 

「あ、いや、その……」

 

 図星か。

 なんで私が物欲しげにそんなものを見ないといけないのだ。

 

「はぁ……エロ漫画の読みすぎだよ」

 

 これは本格的に矯正しないとまずいかも。

 私が真剣に蒼汰のことを憂えていると、視界に入っている蒼汰のアレがゆっくりと鎌首をもたげてきて――

 

「……なんで大きくしてるのさ」

 

「それな。じーっと見られてると、その……わかるだろ?」

 

 わかるか、馬鹿。

 蒼汰が見せつけるようにこちらに向き直ると、私の顔の正面で、元気になったソレがびょいーんと跳ねた。

 

「ちょ!? そんなのこっちに向けないでよ、汚い!」

 

 慌てて私は浴槽の奥に逃げる。

 蒼汰はそんな私の反応に唇を尖らせる。

 

「その態度はさすがに傷つくぞ」

 

「だって、蒼汰の洗ってないじゃん。ここまでちょっとにおってきたよ」

 

 そこは一番臭う場所と言っても過言ではないと思う。

 汚いモノのにおいを嗅いだり嗅がせたりして興奮する性癖があるのはわからなくもないけど、私にとっては単に汚いし衛生的でもないのでそういうのはノーサンキューだ。

 

「そ、そうか……」

 

 さすがににおいを指摘されるのはこたえるらしい。

 蒼汰は上も下もしゅんなって元気がなくなった。

 

「私はもう出るから蒼汰も体洗えばいいと思うよ」

 

「……一緒に入らないか?」

 

「やだよ」

 

 二人で体を洗うにはユニットバスは狭すぎる。

 それに蒼汰は体を洗うことを口実にして、私にエロいことしようとしてるのバレバレだし。

 いや、べつにすることはいいんだけど、せっかくさっぱりしたのに、洗っていない蒼汰にベタベタされるのは嫌だ。

 

 ほんと蒼汰は女心がわかっていないなぁ……

 



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恋人デート

「ごめん、遅れた」

 

 待ち合わせをしていた翡翠への第一声は謝罪だった。

 

「気にしないで。急に誘ったのは私なんだし」

 

 そう言って微笑んだ彼女はいつもとは違う雰囲気だった。

 トレードマークのポニーテールは解かれて、ウェーブがかったロングヘアーがたなびいている。スラッと大人っぽいいつもの服装とは違う、かわいさを強調した年相応のガーリッシュな装いは、俺の好みのど真ん中を射抜いていた。

 

「……どうかした?」

 

 思わず固まっていた俺の様子を見て翡翠が小首を傾げる。

 

「いや、その……かわいい格好だったからびっくりしちゃって」

 

「やっぱり、私にはかわいすぎたかな?」

 

 不安そうに恥じらう姿がまた新鮮で。

 

「そんなことない、よく似合ってるよ! その、ごめん……私はこんな格好で」

 

 自分の姿を顧みて申し訳なくなる。

 翡翠はお洒落してメイクもきっちり気合が入っているのに、自分はすっぴんにシンプルなワンピースという近所にお買い物にでも行くような格好だった。

 

「ううん、こっちこそごめんね。その、どうしても今日は気合い入れたくなっちゃって……」

 

 そういえば、二人が付き合うようになってから初めてのデートだった。そりゃ、気合いも入るか。それじゃあ……

 

「ねぇ、翡翠はどこか行きたいところはある?」

 

「ううん、特にはないけど」

 

「だったら、春物を買うのに付き合ってもらっていいかな。せっかくだから翡翠に負けないくらいかわいいのが欲しい」

 

「私に無理に合わせなくても……って、そんなこと言っても気になるよね、ごめん」

 

「ううん、ちょうど買いたいって思ってたから。それに、翡翠が私のためにがんばってくれたんだから、私もそれに応えたいんだ」

 

「アリス……」

 

 最近になって気づいたことだけど、女子は他人の服装をよく見ている。今の私たちを女子目線で見たら随分とアンバランスに映るだろう。少なくともデートしているようには見えないはずで、それは嫌だった。

 

「まぁ、私が最初からちゃんとしてれば良かったんだけどね……」

 

 それもこれも、節操の無い誰かさんのせいで家に着替えに帰る時間がなくなって、マンションに置いてある普段着で来るしかなかったからだ。

 

「それと、翡翠にメイクを教えてもらってもいいかな? まだ私一人じゃ自信がなくて」

 

「だったら、一緒に初心者向けのコスメも見にいこうか」

 

「うん、お願い」

 

 そうしてデートが始まった。

 二人で街中のショップを巡って、ふんわりひらひらした桜色の上下を買い揃える。ちょうど春物のバーゲンをしていて手頃な価格で買えたのでラッキーだった。

 買った服のタグを取ってもらって更衣室で着替えた後、今度はそれに合う靴を探して別のお店へ。少しだけ背伸びができるヒール付きのミュールを購入して、スニーカーから履き替えた。

 

 その後は、コスメのお店で店員さんと翡翠のレクチャーを受けながらメイクに挑戦。自然な感じでポイントを際立たせるのが良いらしいのだけど、なかなかに難しい。

 店員さんに二人の関係を聞かれたとき、翡翠は自然に恋人だと答えていて、なんだかとても気恥ずかしかった。

 とっても可愛らしい彼女さんですね、だって……むぅ。

 商売上手な店員さんにすすめられて、リップをお互いに選んでプレゼントした。

 私がプレゼントされたのは、リップクリームを兼ねた自然な発色で、普段使いのできる学校につけて行ってもバレないだろうという物だった。

 翡翠には少し艶っぽい朱色の物を選んだ。

 

 ようやく並んで歩いても恥ずかしくない姿になって私は満足したけど、二人で街中を散策しているととにかく目立った。

 翡翠と指を絡めた恋人繋ぎをしているからというのもあるかもしれない。

 他人に見られるのはいまさらなので、そんなに気になることはないけど、ナンパされたりよくわからないスカウトを受けたりするのは困る。そういうのは翡翠が毅然と断ってくれたのでありがたい。

 

「この後どうしようか?」

 

 ランチのために入った喫茶店で翡翠に聞く。

 昔は互いの家にみんなで集まってテレビゲームやウィソをして遊ぶことが多かったけど、今の翡翠とは何をして遊ぶのがいいのだろう。

 

 ……カードゲームショップは無しだろうな。

 ゲーセンというのは、それなりにありかもしれない。

 

「その……私は二人で落ち着けるところに行きたい、な」

 

 翡翠は手で口元を隠しながら視線を反らして言った。

 心なしか顔が赤い。

 

「ええと、それって……」

 

 その言葉の意味を一瞬遅れて理解する。

 その選択肢をなんで自分は想定していなかったのだろう。

 翡翠とは恋人になったのだから、そういう関係になるのはおかしいことではない。恋人になる前に贖罪として一晩翡翠に身体を委ねたこともあるくらいだし。

 今までしていなかったのは二人に順番に生理が来て機会を逃していたからというだけだったので、それが終わった以上お誘いがあるのは当然とも言える。

 

「……よ、よろしくお願いします」

 

 返事した声が上擦ってしまった。

 

「でも、どこで……?」

 

 あらためて二人きりになれる場所と考えると困ってしまう。

 今日はお互いの家に家族がいるだろうし、ホテルに入るのも難しい。調べたら中には監視カメラの無いカラオケもあるみたいだけど、どこがそうだなんて知らないし、カメラが無かったってリスクが無いわけじゃないし。

 

「お父様から借りているマンションは?」

 

 蒼汰とそういうことをしている場所に翡翠を連れ込むというのはどうなのだろう。

 それに――

 

「翡翠はそこでいいの?」

 

「そりゃ、気にくわないこともあるけど……人目を気にしないといけない場所よりはマシだわ」

 

 他に案も出てこなかったので、俺達は喫茶店から出てマンションに向かうことにした。

 二人で手を繋いで街中を言葉少なに歩く。

 握った翡翠の手はしっとりと冷たくなっていた。

 緊張を和ませるような会話ができたらいいんだけど、上手く言葉がでてこない。

 いつもと違う様子の翡翠にどぎまぎしている自分がいた。

 もう通いなれたマンションの共用部を先導して歩いて、借りている部屋の前に到着した。

 少しだけ緊張してドアを開けると、中には誰も居なくて胸を撫で下ろした。

 

 両親にはこの部屋に入ることはないと宣言されている。優奈も鍵を持っているけど、これは念の為に渡されているだけだ。

 それから、出てくるとき部屋に残っていた蒼汰には予めメッセージを送っておいた。

 翡翠と二人で部屋を使うことがバレるけど、知らずに鉢合わせしてしまったら、気まずいどころの話じゃない。

 

「へぇ、こんなところだったのね……」

 

 蒼汰が出かける前に片付けてくれたみたいで、目立つような痕跡はなかった。汚れが酷かったベッド周辺は予め浄化の魔法で清めていたから安心だ。

 

「それじゃあシャワー浴びてくるね」

 

 そう言い残して俺は翡翠を部屋に残してユニットバスに入る。

 翡翠とする前に絶対に身体を綺麗にしておきたかった。

 今朝は蒼汰がぎりぎりまで求めてきたせいで、デート前にシャワーを浴びれなかったからだ。

 香り付きの制汗剤でごまかしていたけど、翡翠とのデート中も匂いに気づかれるんじゃないか、正直気が気ではなかった。

 

 ……それにしても、昨日からここでシャワーを浴びるのはもう何度目なのだろう。

 少なくとも後一回は浴びることになるだろうし、肌がふやけてしまいそうだ。

 

 浴室から出ると入れ替わりで翡翠がシャワーを浴びる。翡翠が脱いでる姿を見てたら顔を赤らめて「……見ないで」と恥ずかしがられて、慌てて顔を背けた。

 綺麗なレースの入った上下揃いの水色の下着だった。

 

「そういえば、下着は買い忘れてたな」

 

 そういうところに気が回らない分、まだまだ女子力が低いのだろう。いずれにしても、バスタオル一枚巻いているだけの今に至っては関係ない。

 ……先にシャワー浴びておいて良かった。

 

 翡翠が浴室から出てきて、お互いバスタオル姿でベッドに並んで座った。湯気と一緒に立ち昇ってくる色気が半端なくて。ぼーっと眺めていたら翡翠に困った顔をされてしまった。

 今日の翡翠は温泉のときと違って俺に見られることを恥じらっていて、なんだかこっちも恥ずかしくなってしまう。

 

「ねぇ、今だけ幾人って呼んでもいい?」

 

「うん」

 

 それが、普段纏っている強さを意図的に取り除いた昔のままの翡翠の姿だってことに気づいていた。

 だから俺は、翡翠の望みを受け入れることにした。

 

「……幾人、私のはじめてをもらってほしい」

 

 その言葉に俺は覚悟を決めて頷く。

 翡翠がはじめて愛し合う相手として選んでくれたことをありがたく思うと同時に、自分の方はもう処女ではない事に申し訳ないという気持ちが湧き上がってくる。

 童貞ではあるけれど、それをなくすことはできないだろうし、同性同士でのカウントの仕方もわからないけど。

 

 だから、せめて良い初体験の記憶が残るようにしよう。

 

 俺は翡翠の頬に触れて顔を近づけていく。

 そして、誓いの証として唇を重ねた。

 



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はじめての体験

「これを使って」

 

 翡翠がショルダーバッグから取り出したのはいわゆるペニスバンドというやつだった。

 

「バッグが大きいと思ってはいたけど、こんな物が入ってたんだ……」

 

「私のはじめてを幾人にあげたかったから」

 

 翡顔を真っ赤にして恥じらう翡翠に対して、俺は引き攣った笑顔で応じるので精一杯だった。

 

「うわぁ……」

 

 手に取って持ち上げてみる。

 それは、光沢のある黒いベルトでできた紐の下着のような形状をしていた。股間部分にツルッとした黒いナスのような張り型がそそり立っている。

 張り型の根本は股間を包み込むようなカーブを描いていて、内側にも小振りの張り出しがついていた。

 

「こっちとそっちで二人が繋がれるようになってるの」

 

「そ、そうなんだ……」

 

 思わず声が引き攣る。

 処女ではなくなったとはいえ、自分のそこに異物を挿入することの抵抗感がなくなったわけではない。

 

「こんなに大きいのが入るか不安に思う気持ちはわかるわ……だけど、私もがんばるから」

 

 眉をしかめていると翡翠にそんな風に勘違いされた。

 だけど、この張り型は以前の自分にあったモノと比べても控えめなサイズで、そこを気にしていた訳ではない。

 

 蒼汰のがこれよりも二周り以上大きいと知ったら、翡翠はどんな顔をするだろう。

 

 怒るかな? ……うん、怒りそうな気がする。

 それで、『こんなのを入れようだなんてアリスを壊すつもりなの』とか『もっと小さくできないの』とか文句を言いそうだ。

 

「ふふっ」

 

 そんなことを考えてしまい、思わず吹き出してしまった。

 

「……?」

 

 そんな俺のことを不思議そうに見ている翡翠に、 

 

「ああ、ごめん。なんでもない、大丈夫だから――」

 

 と言い繕う。

 翡翠は自分のことを心配してくれているのだから、笑ったりなんかしたら失礼だ。翡翠が男のモノの大きさがわからなくても当然だし、むしろ安心した。

 

「そ、そう……?」

 

 だとしたら、より不安に思っているのは自分よりも未経験である翡翠の方だろう。ここは経験者である俺がリードするべきだと思う。

 

「これを使うにも、ちゃんと準備をしないとだね」

 

「あ、うん……」

 

「それじゃあ――はじめよう」

 

 俺は翡翠をゆっくりベッドに押し倒した。

 

「大丈夫だから……私に任せて?」

 

「ん……」

 

 不安そうに戸惑っている翡翠の頬に手を添えて唇を奪う。そのまま、翡翠の首筋を撫でるように指を這わせた。

 

 翡翠の肌を隠すバスタオルを、プレゼントの包装を解く気分でゆっくりと外していく。仰向けの状態でも迫力のある胸の膨らみがぽよんと開放されて、俺は本能に誘われるがまま顔を近づけていった。

 

「あっ……」

 

 自分のバスタオルは翡翠に外されて、肌と肌が直接触れ合う。

 男のゴツゴツとした毛深い手足と違い、翡翠の柔らかくきめ細やかな手足は滑らかで、肌を重ねると寸分の隙間もなく密着した。身じろぎすると、絡み合った部分から心地良い感触と熱が伝わってくる。

 

「んっ……」

 

 翡翠の手が私に触れてきて、全身に電気を流されたかのように体が弾けた。

 翡翠にはもう私の弱いところを知られていて、あっという間にスイッチが入ってしまう。

 欲しい刺激が与えられる幸福感に満たされる。

 

 与えられる気持ちよさにそのまま身を委ねたくなる気持ちを、ぐっと押し留めた。今日は受身でいる訳にはいかない。

 

 思えばこんな風に、お互いを気持ち良くする行為は随分ご無沙汰である。

 蒼汰とは初体験のときに手で立たせたことがあるくらいで、それ以降は基本されるがままだったし、優奈とも最初の一回以外は、私だけを気持ち良くしてくれる一方的な行為しかしていなかった。

 

 だけど、今日は私も頑張らないと、翡翠が痛い思いをすることになる。

 だから、ローションも使って入念に準備した。

 

 それから、身も心も溶け合うどろどろに混濁した時間を過ごして。

 

 ――俺は童貞を、翡翠は処女を喪った。

 

 その瞬間、様々な感情が溢れ出してきた。

 子供の頃からいつも一緒に居た翡翠。妹のように親しく思っていた彼女との思い出が走馬灯のように頭に過って。

 

 翡翠への感謝や男としての達成感。

 そして、拭いきれない後ろめたさや罪悪感。

 

 翡翠の目元には涙があった。

 体が辛いのか、それとも心――

 

 そういえば、自分もはじめてのときは涙が出たんだっけ。

 

 俺は人差し指で涙を拭う。

 両腕を伸ばして翡翠の頭をぎゅと抱き抱えた。

 

 それでも翡翠は気丈に大丈夫だからと俺に続きを促す。

 

 こうして翡翠をくみしだいていると、彼女のすべてを支配しているような錯覚を抱いて、それがとても背徳的に思えて背筋がぞくぞくする興奮を覚えた。

 

 ……なるほど、蒼汰が夢中になる訳だ。

 

 翡翠が耐える姿がまた扇情的で、俺の名前を呼ぶ翡翠に彼女の名前を呼んで応えながら、欲望をぶつけた。

 それは、俺が彼女を苦しめている証左だというのに、俺は翡翠に甘えて自分の快楽を優先させた。

 蒼汰のことなんて笑えない、ひとりよがりな行為。

 

 だけど、翡翠は苦しそうにしながらも、笑顔ですべてを受け入れてくれた。

 俺は子供のように翡翠にしがみつきながら、真っ白になるまでその行為に没頭した。

 

   ※ ※ ※

 

 どうやら、少し意識が飛んでしまっていたらしい。

 腰が軽くなっているのは翡翠がペニスバンドを外してくれたからのようだ。

 欲望を吐き出し尽くしたからというのもあるだろう。

 

 視線で翡翠を探すと既に翡翠は起き上がっているようだった。

 

 翡翠はヘアゴムで髪をまとめて、いつものポニーテールに戻していた。動きに合わせて髪が揺れていて、俺はぼーっとそれを見ていた。

 

「……翡翠」

 

 体は大丈夫なのだろうか?

 傷になっているなら回復魔法をかけないと……

 

「起きたのね、アリス」

 

 振り向いた翡翠はニコリと微笑んだ。

 先程までの耐えながら与える女神のような慈悲に満ちた笑顔とは違う、猛禽類が獲物を狙うときのような微笑みで。

 彼女が着けているのは私が今日プレゼントした朱いリップだろうか。それは彼女にとても似合っていて、妖艶な雰囲気を際立たせていた。

 

「――それじゃあ、次は私の番ね?」

 

 翡翠の股間には先程まで私の腰にあったペニスバンドがついていて――

 

 そこから先は、未知の領域だった。

 

 心も体も全部求められるのは初めてで。

 今まで辛いばかりと思っていた行為は、体の中にぽっかりとできていた空白が満たされるような充足感が得られるものに変わっていた。

 

 それは、気持ちよすぎて苦しくて悲鳴をあげてしまうほど。

 やめてと言っても、やめてくれなくて。

 終わらない快感の波に飲み込まれて、溺れてしまいそうで怖かった。

 

 翡翠はわざとリップの朱を私の白い肌に付けていった。その痕跡は全身に見当たらないところが無いくらいに。

 それは、まるで私が翡翠の所有物であると主張しているかのような、求愛行為だった。

 

 そして、同時に、私は女としての快楽を刻み込まれた。

 



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揺れる日常

4月10日(月) 0週5日

 

 今日から授業が始まった。

 授業中はアリシアと念話で語らうのに最適の時間だったことを思い出して寂しさを感じてしまう。

 日常もまた変わっていく。

 この寂しさにもいつか慣れてしまうのだろうか。

 

 新しいクラスメイトとも話をした。

 蒼汰と付き合ってるのか聞かれたので否定したけど、どうやら、この噂は学校中に広がっているらしい。

 俺たちは何かと目立つ上に一緒に遊ぶことも多いから、仕方ないのかもしれないけど、なんでみんな色恋沙汰にしたがるのだろう?

 俺たちはただの幼馴染なのに……

 あ、いや、肉体関係はあるけど。

 今の二人の関係は何と言うのが適切なのだろうか。

 

 セックスする友人《フレンド》、略すとセフレ?

 なんだかセックスが目的の関係みたいで嫌だ。

 

 ……うん、やっぱり親友かな。

 俺と蒼汰は親友だ。それが一番しっくり来る。

 

 この普通じゃない関係も子供ができるまでのこと。

 それが終われば今まで通りの関係に戻れるはずだ。

 

 放課後はウィソ部に行った。

 俺と蒼汰と涼花はウィソで対戦、翡翠と優奈は紅茶を飲みながら宿題や勉強をする、いつも通りの部室。

 そうやって一時間ほど過ごしてから解散した。

 

 その後、俺は一度家に帰り、デニムのスカートとパーカーに着替えてからマンションの部屋に向かう。

 私服に着替えて来たことで、蒼汰が酷くがっかりしていた。

 

 制服でしてみたかったんだと。

 気持ちはわからないでもないけど……

 

 今日はする前にひとつ蒼汰にお願い事があった。

 精液を採取して、妊娠させることができるかの検査をさせて欲しいというものだ。

 これは、父さんのアドバイスで、郵送して検査するセットも用意してくれていた。さっき家に帰ったのもこれを持ってくるためだった。

 本当は採取前に何日か禁欲期間を設けておいた方が良いらしく、私が生理の間に採っておけば良かったのだけど、気づかなかったものは仕方ない。

 精子を調べるということは、男としての機能を疑うという訳で、蒼汰に不快な思いをさせるかと心配だったけど、蒼汰はすんなりと了承してくれた。

 

 ――ただし、ひとつだけ条件を付けられて。

 

「出すのはアリスにお願いしてもいいか?」

 

 ぐぅ……やむなし。

 

 他人の――に触れるというのは、なんとも複雑な気分だ。自分のときは当たり前に触っていたけど、硬いのに柔らかくて、独特で不思議な触り心地だよね、これって。

 ……懐かしいような、もう一生無縁でいたかったような。

 

 それにしても蒼汰のは大きい。

 自分の手が小さいから大きく感じるだけだと、なんとか自分を誤魔化してみたりしたけれど無理だった。

 どうしても敗北感を覚えてしまうのは、僅かばかり残っている男のプライドが刺激されたからなのだろうか。

 

 そんな風に現実逃避していたら蒼汰に催促された。

 幸いどうすればいいかは解っていたので、行為自体はそれほど難しいことではなかった。状況を堪能しまくっている蒼汰に少しだけ腹が立ったくらいで。

 

 口でして欲しいとリクエストされたけど、そんなの無理に決まってるだろ!?

 何を考えてるんだ、蒼汰のやつ……

 

 少し時間が経過して、蒼汰からストップを掛けられた。だけど、状況を理解した私はむしろ勢いを強める。

 そして、無事紙コップに採取を完了した。

 蒼汰が少しうらめしそうにしていたけど、長く楽しみたいなんて要望に付き合う義理はない。

 気持ち良かったならいいじゃないか。

 私の手で与えられる快感に翻弄されて悶える蒼汰の姿を見て、少し優越感を覚えたのは事実だけれど。

 

 ――だけど、そのお返しは後でたっぷりされた。

 私の体で好き放題、じっくりたっぷり堪能されて。

 続けて二回も。

 

4月11日(火) 0週6日

 

 授業中、昨日蒼汰に出された精液が漏れてきた。

 こんなときのためにナプキンを着けているとはいえ、誰かに気づかれやしないかと周囲をきょろきょろと見回す。

 そんな様子はあまりに挙動不審だったようで、後で優奈に何をしているのと突っ込まれた。

 

 今日は部活が終わったら、そのままマンションに向かう。

 制服でという蒼汰のリクエストに応えたからではない。そもそも昨日着替えたのだって、家に帰る用事があったついでだし。

 

 でも、蒼汰はそうは思わなかったみたいで、部屋に入って直ぐに抱きつかれて、手がスカートの中に入って来た。

 

 ちょ!? 何考えているんだ、この馬鹿!?

 

 私は慌てて蒼汰を制止する。

 女の子の事情というものを少しは察して欲しい。

 ナプキンも外してないし、シャワーだって浴びたい。

 全力で拒絶して、やっとふりじゃないと気づいたらしく、蒼汰は体を離してくれた。そして、不機嫌な私に平謝りする。

 

 ……うん、謝罪するなら受けてあげます。

 

 それから、シャワーを浴びて一心地ついて。

 浴室から出た私は再び制服を着直した。

 

 結局、蒼汰の要望を拒絶できなかった。

 興奮すればするほど多く出るから協力して欲しいと言われると弱い。それが、体のいい口実だってことはわかっているんだけど……

 

 そのまま制服を着てしたけど、シワにならないように気を遣うし、汚れたらと思うと気が気ではなかった。

 普段学校で居るそのままの姿の私にいろいろした蒼汰は大層興奮したらしく。晩御飯に合わせて家に帰るまでの時間に三回連続でした。

 

 ……蒼汰の言う通りだったのが無性に悔しい。

 

 夜、家に帰って確かめたら、スカートの内側に染みができていた。外から見てもわからないだろうけど、臭ったりはしないだろうか……?

 あーもうっ! クリーニング代は払わせるからな。

 

4月12日(水) 1週0日

 

 今日のリクエストは体操着だった。

 学校指定の名前付きの白い上着に紺色のハーフパンツである。

 ……元々汚れてもいい服装だし、洗濯すればいいから気は楽かな、うん。

 

 一回戦を終えた後、蒼汰から言いにくそうに聞かれたのは翡翠とのことだった。

 

「日曜日に翡翠とその……ここでしたのか?」

 

「う、うん……その、翡翠とは恋人だし」

 

「マジか……」

 

 私から自分の妹との関係を聞いた蒼汰はショックを隠せないようで動揺していた。

 

「それで、どうだったんだ……?」

 

「あー、うん……すごかった」

 

 怖くなるくらいに。

 

「そうかぁ……ちなみに俺とするときよりも?」

 

「それは、その……」

 

 返答に困る。

 蒼汰との行為にも大分慣れて痛みこそ無くなってきたけれど、だからと言ってそれが気持ちよくなる訳でもない。

 

「翡翠との方が良いのか……?」

 

「……そんなの、比べられないよ」

 

 そもそも、翡翠と蒼汰とでは行為の性質が異なっていた。

 翡翠がしているのは私を気持ちよくさせるための行為で、蒼汰がしているのは蒼汰が気持ちよくなるための行為だった。

 

 蒼汰との行為は子供を宿すためのものだから、それで目的は果たせているし私的には問題ない。

 ……だからと言って、それをそのまま伝えるのは蒼汰に失礼だろう。

 

「女の体のことだから、同じ女である翡翠の方が慣れてるのは仕方ないと思うよ」

 

 でも、蒼汰は納得していないようだった。

 それからもなんだかぎくしゃくしてしまって、その後はもうセックスしなかった。

 ……一日一回していれば十分だろうけど。

 

 それにしても、私はどうするべきなのだろう。

 感じているふりをした方が良いのだろうか。

 

 だけど、蒼汰の女性に対する扱いが今のままというのも良くない気がする。将来蒼汰が付き合うようになった相手が、セックスが原因で別れてしまったとか聞いたら目覚めが悪い。

 

 だからと言って、女の扱いを体で教えるというのもなんだかなぁ……

 

 ほら、ここを優しく触って、とか言って導いて、自分を気持ちよくさせるように誘導する……のか?

 

 うーん、キツいなぁ……

 別に私は蒼汰に大切に扱われたい訳じゃないし。

 

 帰宅して優奈にこのことを相談してみたら、がっつり食いつかれて蒼汰とのことや翡翠とのことを根掘り葉掘り聞かれる羽目になった。

 

 興味本位とかじゃなくて真剣に聞いてくれていたのがわかるから、誤魔化すのもどうかと思って真剣に答えてしまった。

 

 結局直ぐに結論は出なかったけど、悩みを聞いて貰えただけでもすっきりしたから良かった。

 まぁ、最悪制服に頼ればなんとかなるだろう、多分。

 

4月13日(木) 1週1日

 

 放課後になっても、結局良い解決法は思いつかなかった。

 部活中、蒼汰とのやりとりもぎこちなくて。

 

 部活が終わり皆と別れてから、コンビニで時間を潰してマンションに向かうとエレベータの前でばったり蒼汰に遭遇してしまった。

 

「……よ、よう」

 

 周囲に人影はないし、わざわざ別れるのも不自然だ。

 エレベータの中の狭い空間の中での沈黙が気まずい。

 

 そして、二人で部屋に入ると中に思わぬ先客が居た。

 

「ゆ、優奈……? どうして……」

 

 それはさっき部室で別れたはずの優奈だった。

 

「二人のためにあたしが一肌脱いであげようと思ってね!」

 



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優奈のレッスン

「なんで優奈がここに……それに一肌脱ぐって、どういうこと?」

 

 優奈がここに来た意図がまるでわからない。

 父さんから予備の鍵を受け取っていたのは知っていたけど、今まで部屋に立ち入ることもなかったのに。

 

「昼休みにね、部室で蒼兄と話をしたの。そしたら、蒼兄もアリスとのセックスのことで悩んでいるらしくて、それだったら、あたしが実地で教えてあげたらいいんじゃないかなーって」

 

 学校の授業でわからないところを教えてあげるくらいの気軽さで、優奈はそんなことを言った。

 

「そんなのダメに決まってるだろ!?」

 

「……なんで?」

 

「なんでって、優奈はまだ経験もないじゃない!」

 

 私の知る限り男性経験は無かったはずだ。

 

「え? ……アリスとは何度もしてるじゃない」

 

 優奈がさらっと爆弾発言をして、それを聞いた蒼汰がギョッと目を剥いた。

 

「お前、妹と……?」

 

 蒼汰からの疑惑の視線を受けて私は慌てて否定する。

 

「ち、違う!? 優奈とそういう関係になったのは異世界から帰ってきてからで、兄として妹に手出しなんてしてないから! それに、この体になってからの優奈は、妹というよりお姉ちゃんだったというか、その……」

 

「そ、そうか……」

 

 蒼汰は聞いてはいけないものを聞いてしまったとばかりに言葉を濁して視線を逸らす。

 ……なんだか、余計に墓穴を掘ってしまった気がする。

 

「とにかく、優奈が蒼汰となんて絶対にダメだよ!」

 

「アリスはしてるのに?」

 

「わ、私がしているのはアリシアを救うためで――」

 

「その手伝いをしたいっていうのはダメなの?」

 

「そんな理由で初体験を済ませていい訳ないだろ!?」

 

「経験の有無で人生が変わる訳でもなし、アリスは大げさすぎるよ」

 

「とにかくダメなものはダメだ! ……蒼汰が相手なんて」

 

 お兄ちゃんは許しませんよ、そんなの!

 それに、父さんと母さんに申し訳が立たない。

 優奈に期待していたのはアドバイスであって、実地での指導なんて求めてない。

 

「なんでよ。あたしがいつ誰とするなんてあたしが決めることでしょ? ……あたしは蒼兄となら別に嫌じゃないよ」

 

「そこは、嫌がろうよ!? もっと、体を大切にして!」

 

 いくら幼馴染で気心が知れているとはいえ。

 親友としてはいいやつだけど、隠してる本性はエロ猿なんだからな! 男はみんな狼だぞ!?

 

「……じゃあ、あたしが蒼兄としなければいいの?」

 

「え……?」

 

「あたしは蒼兄がアリスとするのをお手伝いするだけ。それだったら問題ないでしょ? 自分だけしないままでいるのはズルかなって思ったから言ったけど、本当はあたしはする必要ないし……」

 

 それなら……って、

 

「いや、問題あるよ! 大ありだよ!?」

 

「なんでよ? アリスは頑固だなぁ……」

 

 大体こういうのは誰かと一緒になってするもんじゃないだろう。

 

「普通じゃないっていうか……」

 

「あたしたちの間で普通なことの方が少ないと思うけどね」

 

 今更何をと言いたげに肩をすくめる優奈。

 

「もし、どうしても三人が嫌だったら、あたしと蒼兄の二人で教えるのでもいいけど……?」

 

「なんで、そうなるのさ!?」

 

 そんなの余計にダメに決まってる!

 コラ、蒼汰! 人の妹をエロい視線で見るんじゃない!?

 この節操なし!!!

 

「翡翠姉とはちゃんと気持ちよくなってるのに、蒼兄とは苦しいままだなんて、このままじゃ、蒼兄もかわいそうだと思わない?」

 

「そ、それは――」

 

 男子にとって下半身関係で他人と比較されるというのは、とてもセンシティブな案件である。

 比べられるのが、兄妹(きょうだい)なら尚更だ。

 脱童したばかりの蒼汰はまだ自信もなくて、心は脱皮したての虫のように傷つきやすい状態にあると思う……多分。

 

「だぁぁ、もぉぉ!」

 

 これも、ギブアンドテイクのギブの部分だろう。

 私のせいで蒼汰のセックスが下手になったら後味が悪い。

 

「わかった! わかったよ! ……三人でいい」

 

 ……ぐぬぬ

 

「だけど、優奈はエッチなことは一切無し。脱いじゃダメだし、蒼汰が優奈を触るのも却下。それが最低条件」

 

「あたしはそれでいい……蒼兄も大丈夫?」

 

「お、おう。俺は相談に乗って貰ってる方だしな……」

 

 そう言って蒼汰は大きく息を吐いた。

 半分安堵、半分残念ってところだろう。

 

 ……そんないい思いばかりさせてたまるか。

 

「それじゃあ、まずは着替えようか」

 

 学校から直接だったので全員制服姿だった。

 このままくんずほぐれつなんてしたら優奈のパンツが見えてしまうかもしれない。そんなの不健全にも程がある。

 

「着替えって……何に?」

 

「そりゃあ、体操着でしょ」

 

「そ、そうなんだ……?」

 

 それからはじまるお着替えタイム。

 優奈には浴室の中で着替えてもらった。

 

「アリスは過保護すぎるよ。別に下着くらい見られても減るものじゃないのに……」

 

「減るよ!」

 

 蒼汰の記憶に残ったりしたら、私の心の平穏値ががりがりと削られてしまうのだ。

 

 浴室に優奈を押し込んだ私は手早く制服から体操着に着替えていく。ちらちらと蒼汰の視線を感じるけど、下着を見せずに体操着に着替える方法は女子の必修科目だから、残念だったね。

 

 着替え終えて、私と優奈はベッドに、蒼汰はベッドサイドにあるミニデスクの椅子に腰を下ろした。

 室内に微妙な空気が流れる。

 それにしても、狭い室内に三人が体操着姿で座っているというのは、どうにも不自然な光景だ。

 

「それじゃあ、はじめようか?」

 

 ベッドを膝歩きで移動した優奈が、私の背後から両肩に手を置いてそう宣言した。

 

「それでは蒼兄に問題です。女の子を気持ち良くさせるにはどこに触るのが良いでしょうか?」

 

「えっと……それは、胸とかアソコとか……?」

 

「んー」

 

 優奈は両手の人差し指で小さくばってんを作った。

 

「答えは全身です。そこは敏感なところだからね、いきなり触っても刺激が強くて痛かったりするんだよ。だから最初は、いろんなところに触れてあげるの」

 

 優奈の指が首元に触れた。そのまま表面を撫でるように首の根本を滑っていき鎖骨に到達する。

 触れるか触れないかの微妙な力加減に体がゾクッと震えた。

 

「やさしく、焦らずに、ね? アリスは首の裏とか耳たぶの後ろとかも気持ちいいんだ」

 

 自分の弱いところを口に出して指摘されるというのは、恥ずかしいにも程がある。

 

「こうやって言葉で指摘してあげるのもいいね。アリスは恥ずかしがり屋さんで、その恥ずかしいが気持ちいいになる娘だから」

 

「わ、私はそんなこと――」

 

 ないって言おうとした口を優奈の人差し指で塞がれる。

 

「ふふっ、違うって言うの? もうこんなに体が反応しているのに……?」

 

 耳元で囁かれると頭の中に優奈の言葉が響いてジンジンする。

 

「蒼兄に見られるの、恥ずかしくて、嬉しいんでしょ?」

 

「ち、違う!?」

 

 私はそんな変態じゃないっ!

 

「蒼汰もそんなに見るなよぉ……」

 

 蒼汰はさっきから私たちのことをガン見している。

 瞬きひとつしていない気がする。

 

「いや、見るだろ」

 

 無慈悲な返答。

 せめてもの抵抗として、両手で顔を隠して視線から逃げる。

 

「だから、いっぱい恥ずかしい気持ちにしてあげるといいよ」

 

「なるほど……」

 

 なるほどじゃないよ。

 ばかぁ……

 

「男の子は体の準備ができたらいいみたいだけど、女の子は心の準備も一緒にしてあげないとダメなの」

 

「お、おう」

 

 そこからは優奈にされるがまま。

 優奈は私の弱点を熟知していて、普通じゃない状況で頭が混乱していることもあって、すぐに私はふにゃふにゃになってしまい。やがて、優奈に促された蒼汰も私に触れてきて。

 

 二人にされるというのは予想もできないところからの刺激に絶え間なく襲われるということだった。

 最初はたどたどしかった蒼汰の触り方も優奈の指使いを真似て直ぐに修正してきて、相変わらず物覚えの良さはチート級だなとなんだか悔しく思ったりした。

 

「焦って強くする必要なんてないから。ゆっくり弱火でコトコト煮込むように高めて上げるの」

 

 それから優奈のレッスンは続いて。

 与えられる快感の連続で、時間の感覚が曖昧になる。

 

「話には聞いていたけど、蒼兄のすごい……」

 

 気がついたら、蒼汰が体操着を脱いでいた。

 私もいつの間にか全部脱がされていたけど、そんなことはどうでもよくて。

 

「ちょ!? 優奈こんなの見ちゃダメ!」

 

 なんてものを優奈に見せてるんだ、この馬鹿!?

 

「こんなのってなぁ……」

 

 私の物言いに蒼汰は苦笑して、人差し指で頬を掻く。

 

 いいから早く隠せ!

 優奈に悪影響が出たらどうするんだ!?

 

「わかったよ……見えなくなるようにすればいいんだろ?」

 

 そう言って蒼汰が伸し掛かってきた。

 確かに剣を鞘に収めてしまえば刃は見えなくなるけど、そう言うことじゃない。

 

「ちょ、ちょっと待て! 馬鹿ぁ!?」

 

「わぁ……♡」

 

 ローションを使わなかったのははじめてで、だけど、体の抵抗は少なかった。むしろ、軽く……その、ダメになった。

 

 今日の蒼汰はいつもと違っていた。

 どうやら、自分が気持ちなることよりも、どうすれば私が気持ちよくなるのか探ることを優先していているようだ。

 

 ――それから、少し時間が経って。

 

 何やってるんだ、優奈のやつ!?

 

 ベッドの横に居る優奈が体操着のハーフパンツに手を入れていることに気がついた。

 指で抑えた口元から切なげな声が漏れている。

 

 こんな優奈の姿を蒼汰に見られる訳にはいかない。

 私は両手を伸ばして蒼汰の顔を自分に固定した。

 

「蒼汰、私だけを見て(優奈を見たら殺す)」

 

「お、おう……」

 

 言外に込めた気迫が伝わったのか、蒼汰は戸惑いながら私の要請に応じる。

 

 これでよしっと……

 

 私は蒼汰の目をじーっと見て監視する。

 行為が再開された。

 

 あれ……?

 これって、結構恥ずかしい――かも?

 

 当たり前ではあるけれど、蒼汰の顔が近い。

 目を合わせたままでいると蒼汰の反応が丸わかりで、それは、逆に言うと私の反応も蒼汰に筒抜けということでもある。

 

 だけど、蒼汰のことを監視しないわけにはいかない。

 視線を逸したくなるのをぐっとこらえた。

 視界も心も体も全部が蒼汰で埋め尽くされてしまう。

 

 蒼汰の表情はとても気持ちよさそうに蕩けていた。

 

 ……自分は今どんな顔をしているのだろう?

 



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4月17日 1週5日

 

 優奈のレッスンのおかげで、あの日以来蒼汰は変わった。

 

 以前の蒼汰は余裕もなく、ただ自分が気持ちよくなるためのセックスをしていたのだけど、先週の水曜日からは、私を感じさせて一緒に気持ちよくなることを楽しむようになっていた。

 

 独りよがりじゃなくなったことは喜ばしいことだと思うけど、私個人としては複雑な心境だった。

 自分の弱いところを弄ばれて蒼汰に情けない声を聞かれたり、感じている顔を見られたりするのは、なんとなく敗北感があってくやしいのだ。

 蒼汰が自分のイきたいときにイくのに対して、私は蒼汰のされるがままにイかされているというのも釈然としない。

 かといって、私が主導権を奪って蒼汰をイかせたいかと言えばそうでもないし。

 

 達する回数も私の方が多い。

 これは、イった後に快感が冷めやすい男と、冷めにくい女という男女の違いが大きいのだろうけど……それでも、なんだか蒼汰よりも自分がこの行為にハマってるように思えて嫌だった。

 

 学校で蒼汰と話すときも、今まで通りにすることができなくて、ぎくしゃくしてしまっている。

 

 放課後の部室で蒼汰とデュエルしているときに、行為中のことを思い出してしまって狼狽えたり、そんな私の態度に蒼汰もまた動揺して、いつもはしないようなプレイミスをしたりして。

 

 事情を知る女子二人の視線は、微笑ましげに生暖かいのと、殺意混じりで氷点下以下に冷たいのとで正反対だった。

 

 そして、部室にはもう一人居て。

 私たちがあまりに不自然だったからだろう。

 

「アリスさん、二人でお話したいことがありますの……部活の後でわたくしの家に来てくれませんか?」

 

 お手洗いに行った帰り、部室の前の廊下で待っていた涼花からそんなことを言われてしまった。

 

 とうとうこのときが来てしまった。

 

 アリシアとお別れした後、涼花とはほとんど話をしていない。

 春休みだったからというのもあるけど、学校が始まってからも、蒼汰とのことを話せないでいる罪悪感で以前のように話せないでいた。

 涼花は私のその態度をアリシアを失った悲しみから来るものだろうと、そっとしておいてくれていたけれど、最近の蒼汰への態度で何かあったことに気がついたようだ。

 

 涼花には本当のことを話して謝らないといけないと思っていた。だけど、自分のことで精一杯だった私はそれを先延ばしにしてしまっていた。

 

 ……覚悟を決めよう。

 

 部活の後、私は蒼汰との待ち合わせに遅れる旨の連絡をして、涼花と二人で涼花の住むマンションに向かう。

 道中は涼花から積極的に世間話を振ってくれたおかげで、気まずい沈黙にはならなかった。

 

 何度か訪れたことのある涼花のマンション。

 いつになく居心地が悪く思えるのは、涼花に対しての後ろめたさからだろう。

 リビングに置いてあるL字型のソファーに促されて座る。執事の安藤さんはこの時間買い物に出ているそうで、しばらくは二人きりとのことだ。

 

 涼花が入れてくれた紅茶を飲んで喉を潤す。

 いつの間にか喉がカラカラに乾いていたことに気づいた。

 それからしばらく食器のたてる音だけがリビングに響く。

 

「涼花、ごめん……」

 

 口を開いて最初に告げたのは謝罪の言葉。

 

「……どうして、謝られるのですか?」

 

 穏やかに首を傾げる涼花。

 いかにもお嬢様然とした彼女らしい所作である。

 

「それは、私が涼花のことを裏切ったから……」

 

「と言いますと、蒼汰さんのことでしょうか?」

 

 私は肯いた。

 蒼汰に対する涼花の気持ちを私は知っている。

 それなのに、私は蒼汰と肉体関係を持ってしまった。

 

 謝罪して許してもらえるなんて虫の良い考えだろう。

 ……最悪、絶交されても仕方ないと思う。

 

 だけど、断罪の言葉は来なかった。

 むしろ涼花は困ったような顔をして口を開く。

 

「わたくしは蒼汰さんにもう振られていますもの。アリスさんが蒼汰さんとどのような関係になってもそれは二人のこと。裏切りにはあたりませんわ」

 

「だけど――!」

 

 涼花はあれほどまでに真っ直ぐひた向きに蒼汰を想い続けていた。今もきっとその気持ちは変わっていないはずだ。

 そして、私はそんな彼女のことを応援すると言っていた。

 いや、本気で応援してた。それなのに――

 

 涼花は首を振って否定する。

 

「仕方のないことですわ。蒼汰さんは大切な人を失ったあなたのことを支えたいと思ったのでしょう。あの人が見ていたのはわたくしではなくあなたでしたから……他の方ならともかく、あなたと蒼汰さんが結ばれたなら、わたくしも諦めがつきますわ」

 

 む、結ばれ……?

 ああ、今の話し方だと普通はそう思われるか。

 ちゃんと事情を説明して訂正しないと……

 

「ええと……私と蒼汰は恋人になったわけじゃないんだ」

 

「……?」

 

 理解できないと言った風に涼花は首を傾ける。

 

「実は――」

 

 私は涼花に事情を説明した。

 

 アリシアの意識が消失したあの日知ったこと。

 失われゆく魂を助ける可能性、その手段。

 そして、私の選択とその結果。

 蒼汰と翡翠、二人との歪な関係。

 

 私が全てを話し終えても、涼花は無言のまま俯いて表情が見えない。

 沈黙が重く伸し掛かってくる。

 

 ……怒らせてしまっただろうか。

 

 私は蒼汰を利用して、体だけの関係を続けている。

 改めて振り返ってみると、単に付き合っているよりも、よほどたちの悪い話なのかもしれない。

 だけど、変な嘘でこれ以上誤魔化したりしたくはなかった。

 

 涼花が勢い良く立ち上がる。

 

 ……頬を叩かれるのだろうか。

 私は目を閉じてそのときを待つ。

 

 だけど、衝撃はいつまで経っても来なかった。

 

「――え?」

 

 私は涼花に強く抱きしめられていた。

 

「小さい体で……こんなに辛い思いを抱えて……」

 

 涼花は感情を昂ぶらせて泣いていた。

 すっかり萎縮していた私は、その温度差に戸惑いを隠せない。

 

「いや、その……私は大丈夫だから……」

 

「こんなの平気なはずがないですわ!」

 

 背中に回された腕が強くなる。

 全身が柔らかな涼花の体に包まれた。

 ちょっと窮屈だけど辛くはない。

 

 良い匂い……

 シャンプーも良い物を使っているのだろうな。

 

 それにしてもこの反応は予想外だ。

 怒りで罵られなくて安心はしたけど、どう言えば涼花は納得してくれるのだろう。

 

「……私には辛いことなんてないよ」

 

「アリシアさんと離れないといけなかったのに?」

 

「……だって、また会えるから」

 

 悲しむ必要なんてない。

 

「けど、そのためには子供を産む必要があるのでしょう? アリシアさんの体のまま男性に抱かれないといけないなんて!」

 

「……それは、仕方のないことだから」

 

 今はもうこの体は私自身だと思っている。

 友人に抱かれることに複雑な気持ちはあるけれど、納得しているし、我慢もできる。

 

「そうやって再会できたとしてもアリシアさんと恋人にはなれない。だって、産まれてくる彼女は子供――二人は親子になるんですもの!」

 

「……形は違っても愛していることに変わりはないから」

 

 私は辛くない。

 

「ですが! ですがっ……! そんなのって――!」

 

「お、落ち着いて」

 

 私は涼花を抱き返した。

 彼女がここまで感情を乱して泣いたところを見るのは初めてのことで、どうしたらいいのかわからない。

 取り敢えず落ち着けようと背中を撫でてみた。

 

「アリスさんも泣いていいです」

 

「いや……」

 

 そんなことを言われても。

 

「いえ、泣いて下さい」

 

 無茶ぶりだ。

 だって、私には泣く理由なんてないのに。

 

「じゃあ、私が泣きますわ。アリスさんのかわりに」

 

 涼花が再び声を上げて泣き始めた。

 

 ……なんでそうなるのかがわからない。

 

 だけど、彼女は私のことを思って泣いてくれている。

 邪険になんてできるはずもなかった。

 

「アリスさん、アリシアさん……!」

 

 涼花はアリシアのことも友達だと思ってくれていて、彼女のことも含めて悲しんでくれているようだ。

 そのことが嬉しかった。

 

「うぇぇ、ひっく……うぅ……こんなの、悲しすぎますわ……」

 

 あれ……?

 

 泣きじゃくる涼花を見てると、なんだか私も悲しくなってきた。

 

「……う……」

 

 彼女に会いたい。

 

 一度堰を切ると気持ちが溢れてきて。

 

「……うぅ……アリシア……くっ……」

 

 彼女の名前を口にしたらもうダメだった。

 ほろほろと大粒の涙が頬を伝うのがわかる。

 

 アリシアの声を聞きたい。

 

 アリシアは無茶をしてと怒るかもしれないけど、私頑張ってるよ。頑張ってる、よね……?

 

「わたくしはアリスさんの味方です。あなたが一途で一所懸命なことをわたくしは知っていますもの」

 

 もう頭の中はぐちゃぐちゃで、泣いてもいいんだという思いで一杯になって。今まで留めておいたものが次々にこぼれてしまう。

 

「……いえ、わたくしだけじゃありませんわね。みなさんも知っているからこそ、アリスさんのことを大切に思うのでしょう。自分の手で幸せにしたい、守ってあげたいと願うのだと思いますわ」

 

 父さんと母さんに私は幸せになると宣言した。不幸かもしれないと疑問を抱かせる訳にはいかない。

 

 優奈は私のことを第一に考えてくれている。だけど、アリシアと一番親しい関係は優奈だったから、迷いは見せられなかった。

 

 翡翠は今の状況に対して一番重く責任を感じている。弱音をこぼして彼女に辛い思いをさせられない。

 

 私の事情を全部わかってくれて、辛いと打ち明けていいと言われたのははじめてだったから。

 

「……うぐっ……うあぁぁ!」

 

 私は涼花と抱き合いながら、二人で子供のように泣きじゃくった。

 

 しばらく、そうしていた。

 

 やがて、言葉と一緒に感情が流れていき、気持ちが落ち着いた頃、少し恥ずかしそうな涼花が拗ねたように言う。

 

「アリスさんに怒っていることがありますわ。それは、わたくしに悩みを打ち明けてくれなかったことです」

 

「それは……」

 

「わたくしはアリスさんのことを大切な友達だと思っていましたわ。過去にいろいろありましたけど、あったからこそ私たちには特別な繋がりがあると思っていましたの」

 

「う、うん……」

 

 私も涼花のことは大切な友達だと思っている。

 最初はウィソの師匠として。それから、蒼汰に対する恋愛のアドバイザーとして、彼女とは部活やそれ以外でもよく話すようになっていった。

 クリスマスのことがあって、私の事情を知られてからは、身内や幼馴染以外で私の過去を知る唯一の友達であり、いろいろ相談に乗ってもらったりもした。客観的な立場で助言をくれる彼女には随分助けられていた。

 

「蒼汰さんのこともありますし、言い辛かったというのはわかります。これがわたくしのわがままだと言うことも。それでも、わたくしのことを頼って欲しかった――」

 

「ごめん……」

 

 私は怖かったんだと思う。

 涼花の気持ちを踏みにじることを知っていて蒼汰を利用する選択をした私なのに、涼花に嫌われたくないと思ってしまったのだ。

 

「自分勝手だよね、私……」

 

 非難されて罵られても仕方のないことだと思う。

 

「もういいですから、自分を責めないで下さい。辛いことが重なったら、逃げたくなるのは当たり前のことですわ」

 

「涼花……」

 

「逃げていいんです。そして、よかったらわたくしを逃げ場として思っていただけたら嬉しいですわ」

 

「……ありがとう」

 

「これからはなんでも相談して下さいね?」

 

「うん……」

 

 ふふっと涼花が笑みをこぼす。

 

「どうしたの?」

 

「いえ、わたくしたちってお互い謝ってばかりだなって思っただけです」

 

「……そうだね」

 

 嘘をついて謝って。許して許されて。

 私たちは今ここにいる。

 

「それで、その……これからも私と友達でいてくれるかな?」

 

「そうですねぇ……」

 

 涼花は少し不満げな口調になる。

 

「友達じゃ足りないですわ。わたくしはアリスさんと親友になりたいと思っています……アリスさんは如何ですか?」

 

「うん……私も涼花と親友になりたい」

 

 二人抱きしめあったまま、いろいろな話をした。

 

 ――すっかり忘れていた蒼汰からメッセージが入るまで。

 



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ファーストキス

 放課後のマンションでいつも通り蒼汰と二人。

 私はまな板の上の鯉のごとく、されるがままベッドの上で美味しくいただかれるための調理をされていた。

 さっきから室内は私から出た恥ずかしい音で溢れてしまっている。

 

 ――不意に蒼汰の顔が近づいてきて、

 

「んんー!?」

 

 唇を奪われてしまった。

 驚いて固まっていると、舌まで入ってきて、

 

「ふぁ!? ちょっ――!」

 

 慌てて私は抵抗して蒼汰を引き離した。

 

「それは、ダメだろ」

 

 手の甲で唇を拭いながら、蒼汰を睨みつける。

 

「……嫌だったか?」

 

 男とキスするのが嫌じゃないわけがないだろう。そりゃ、蒼汰がするのは女の私だから抵抗が少ないのかもしれないけどさ……

 そんなことより、

 

「これって蒼汰のファーストキスじゃないの?」

 

「……悪いか」

 

「私が初めての相手ってどうなのさ」

 

「それ以上のことをしてるんだし、いまさらじゃねぇか?」

 

「そうかもしれないけど……」

 

 蒼汰にとってキスは大したことのない行為なのだろうか?

 

 たしかに私も男だった頃はセックスの前段階くらいにしか思ってなかったかもしれないけど……少しだけ、蒼汰にがっかりしてしまった。

 蒼汰は好きな人が居るから涼花のことを振ったはずなのに、それにしては少し行動が軽々しすぎる気がして。

 

 男が好きという感情と性欲を切り分けて考える傾向にあるのはわかっているつもりだけど、蒼汰はそんなやつじゃないって思いたかったというか、なんというか。

 

 ……まぁ、蒼汰にお願いしてこんなことをしている私が何を言ってるんだって話だけどね。

 

「やっぱりキスは無しでいい? こういうのは好きな人とするものだと思うよ」

 

 蒼汰が気持ちよくなれるように、私はなるべく協力するつもりでいるけど、キスは少し怖かった。

 特に舌を絡ませ合うディープキス。

 確かに気持ちのいいことなんだけど、頭の中を直接掻き回されるような刺激は、思考と同時に理性まで溶かされるような気がして。

 蒼汰との友人関係を維持するために、そこはちゃんと線引きしておきたかった。

 

「……そうか」

 

 でも、蒼汰は何故だか結構落胆しているようだった。

 なんでもない風を装っているけど、幼馴染の私にはわかる。

 

 ……そんなにキスしたかったのかな?

 

「もしかして、キスに自信がないとか? 心配しなくていいよ、別に下手じゃなかったと思うから――良かったじゃない、私で練習できてさ」

 

「そんなんじゃねーよ。他に好きなやつなんていねーし……」

 

 少し拗ねたような口調で蒼汰はこぼす。

 だけど、その言葉には聞き捨てならない内容が含まれていた。

 

「何言ってるんだよ、蒼汰。好きな人がいるから涼花のことを振ったんじゃないの」

 

「そ、それは……」

 

 私の指摘にしまったと言う顔をする蒼汰。

 

「嘘、ついたの……?」

 

 涼花は蒼汰のことが本当に好きで告白したんだ。

 それなのに嘘ではぐらかしたというのなら、私は蒼汰を軽蔑することになるだろう。

 

 涼花は蒼汰にはもったいないほどの良い子だ。

 美人で一途でおっぱいも大きい。

 それに、ウィソ馬鹿の蒼汰ためにウィソを勉強してくれるような子なんてそうそう居るもんじゃない。

 

「……嘘じゃねーよ」

 

「でも、今、好きな人はいないって!」

 

 私が問い詰めると蒼汰は苦虫を噛み潰したような顔になって、

 

「ああ……他にはな」

 

 そう、告げた。

 

「え……?」

 

 どういうこと?

 

「……お前、なんだよ。俺が好きなのは」

 

 ……え、私? ……何が?

 意味が、わからない。

 

「……だから、さっきのだって練習のつもりなんかでしてない」

 

 ……………? ええと……?

 

 蒼汰は何を言っているのだろう。

 

「じょ、冗談――」

 

「冗談でこんなこと言う訳ないだろ」

 

「……え、待って? おま……ホモ?」

 

「ちげーよ、馬鹿」

 

「で、でも、だって……! 私はお前の幼馴染で親友で――」

 

 ――男なのに。

 

「仕方ねーだろ。お前の正体を知る前に好きになっちまったんだから……」

 

「え…………え……え、ええぇ!?」

 

「お前が幾人だって知ったとき、正直かなりへこんだ。この気持ちはなかったことにしようと何度も思ったさ……でも、ダメだった」

 

 そう言って自重気味に笑う蒼汰。

 その顔からは随分と悩んだのだろうことが窺い知れた。

 

「お前が悪いんだぞ。最初から全部打ち明けてくれていたらこんな気持ちになることなんてなかったのに……正体を隠したままで、幾人が居なくなってぽっかり空いた俺の心に居座りやがって」

 

「そ、それは……」

 

 私は私だから、幼馴染の蒼汰の心地よい距離感は誰よりも熟知しているし、何が好きで何が嫌いかも、蒼汰の家族よりも詳しい自信がある。

 私は幾人だった頃と同じように、一緒におもしろおかしく過ごしていたつもりだった。

 

「……すまない、本当はこんなことお前に話すつもりはなかったんだ。ただでさえ大変な状況にあるお前を困らせるだけだってのはわかっていたから」

 

「いや、それは……私こそごめん」

 

 蒼汰を問い詰めたのは私だ。

 涼花のためなんて先走って余計な口出しして、ヤブから蛇を出してしまったのは、私。

 

 涼花の想いを断念させた原因も私だった。

 彼女になんと言って謝ればいいんだろう?

 それよりも先に蒼汰に返事をしなければいけない。

 

 ……でも、なんて?

 

 固まっている私を見かねた蒼汰は首を振った。

 

「返事はしなくていい。お前は今、それどころじゃないだろ?」

 

「う、うん」

 

 それは助かる。

 頭の中が混乱していて、まともに返事できる気がしない。

 

「俺が軽い気持ちでキスした訳じゃないってことはわかってくれたか?」

 

「……うん」

 

「ならそれでいい」

 

 指で唇に触れる。

 

 それでいいのかな?

 ……よくわからない。

 

「それじゃあ、続きをするか」

 

「え? ……ええ!?」

 

 続きって――

 

「……なんだ?」

 

「お前、この流れでするつもりなのか!?」

 

 ありえないだろう!?

 気まずいにも程がある。

 

「……やらないで、いいのか?」

 

「そ、それは……」

 

 そう言われて思い出す。

 順調にいけばそろそろ排卵日がくるはずだった。

 そして、排卵日の前日か前々日が一番妊娠しやすい日であると言われている。

 だから、今はなるべく回数をこなしておきたいところで。

 

「……やる」

 

 迷った末にそう答えた。

 今は、私の気持ちよりも、少しでも妊娠する可能性を高める方が大事だから。

 

「それじゃあ……」

 

 蒼汰の手が私の腕に触れて、

 

「ぴゃあ!?」

 

 思わず私は飛び退いて逃げる。

 

「な、なんだよ……?」

 

「なんでもないよ!?」

 

 私は自分の体を抱き抱えて、ぎゅっと目をつむって待つ。

 頬に蒼汰の手が触れる。

 

 あ……

 

 また、キスされた。

 触れるだけのキスをして蒼汰は離れる。

 

 好きな人が相手ならいいんだろ?

 

 薄目を開けて見た蒼汰の目がそう言っていた。

 

 蒼汰は私が嫌だって言うことはしない。

 いろんなエッチを試してみたがるのだって、私が蒼汰の好きなようにしてほしいと望んだからだし。

 だから、拒否したら蒼汰はもう二度と私にキスをすることはないだろう。

 

 だけど、そうすれば蒼汰を傷つけてしまうかもしれない。

 そう思うと拒絶することができなかった。

 

 これはセックスの前段階の行為だから。

 セックスと一緒……私が我慢すればいいだけ。

 

 それなら、今までと何も変わらないはずだ。

 

「ん……」

 

 私は再び目を閉じると、顎をあげて唇を差し出す。

 

 唇にもう一度訪れる独特の感触。

 女の子のそれとは違って厚みがあって大きい。

 

(舌、入ってきた……)

 

 幸い口臭は特に気にならなかった。

 私はそのまま蒼汰に体を委ねる。

 後はいつも通り。

 蒼汰がすることをされるがままに受け入れるだけ。

 

 ……蒼汰はどんな気持ちで私を抱いていたのだろう。

 

 後腐れのないセックスを楽しめてラッキーだと単純に思っていた。洋ロリ処女に無責任に中出しし放題、男の妄想を具現化したようなシチュエーション。

 

 ――でも、私が好きだという蒼汰にしたらどうなのだろうか。

 

 求められるのは体――正確に言うと種だけ。

 

 自分ならどう思うだろう……

 辛い、よな……多分。

 

 蒼汰は感情的になっているのだろう、いつもより少し荒っぽかった。蒼汰は私に告白したことを後悔している様子だった。

 

 口内と頭の中を掻き回されながら、弱いところも責められて。

 蒼汰の気持ちが入ってくる。

 

 それは、友情からくる優しさだと思ってた。

 だけど、もう気づいてしまった。

 これは翡翠と同じ、私のことを想う気持ち。

 

 きれいなだけじゃない。

 愛欲の入り混じったドロドロとした想い。

 

 ……翡翠、ごめん。

 

 これは、浮気になるのかもしれない。

 

 蒼汰の気持ちに無自覚だったことを責めるように、蒼汰は執拗に私を溶かしていく。

 好きという気持ちを流し込まれて、深く、深く。

 いつもよりも深く。

 

 それは、翡翠に似ている激しさで。

 全く似てない兄妹なのに、こんなところで似ていると思うのは不思議だと、頭の隅で思ったりもした。

 

 そのうち、何も考えられなくなる。

 

 戸惑う心は置き去りにして。

 私の体は蒼汰を拒絶しなかった。

 



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夜の街で

「……どうすればいいんだろう」

 

 告白された後エッチして、いつもどおり家まで送ってくれようとした蒼汰に用事があるからと言って断り、私は街中をあてどなく歩いていた。

 

「蒼汰の好きな人が私だったなんて」

 

 ショックだった。

 蒼汰が親友であることは何があっても変わらないと、私は無邪気に信じていたのだ。

 裏切られたなんて思う気持ちはない。

 私のことを好きになってしまったことで、蒼汰はずいぶん悩んだはずだ。それに――

 

「最初から蒼汰に事情を打ち明けなかった私のせいだよね」

 

 そのせいで蒼汰に勘違いさせてしまったかもしれない。申し訳ないと思うのは、蒼汰に失礼だろうか。

 それにしても、私はあいつにどれだけ無神経でいたのだろう。

 蒼汰の好きな相手を聞き出そうとしたのは数え切れないほどだったし、頑なに隠そうとする蒼汰のことを、水臭いやつと非難したりもした。

 そのあたりの言動を思い返すと、自己嫌悪で気が重くなる。

 

「……こんなところに公園なんてあったんだ」

 

 歩いているうちに、ビルが建ち並ぶ繁華街の路地裏に公園を見つけた。

 敷地はテニスコート二面分くらいの広さで、人影はなくひっそりと静まりかえっている。

 足の疲れを感じた私は、ベンチで少し休憩することにした。

 

「……ふぅ」

 

 日中は体を動かすと汗だくになるくらいだが、夜はまだまだ肌寒い。だけど、考え事で少し熱っぽくなっている頭を冷やすにはちょうど良い。

 

 お腹に手を置いてみる。

 蒼汰との行為を思い出して体がとくんと反応した。思わず頬が熱くなる。

 

「今日もいっぱい出てたな……」

 

 蒼汰ので満たされていると思うのは複雑だけど嫌ではない。これはアリシアと私を繋いでくれる唯一の道標だから。

 

 でも、以前はもっと抵抗があったように思う。これは慣れなのか、諦めなのか、それとも別の……

 

「ねぇ君、どうしたの。どこか悪いの?」

 

 不意に話しかけられて私は顔を上げる。

 私の前には2人の軽薄そうな男が立っていた。

 話し掛けられる前から気配は気づいてはいたけれど、自分には関係ないと意識から外していた相手だった。

 

「大丈夫ですから、放っておいて下さい」

 

 純粋に心配して声をかけてくれた可能性もあるので丁重にお断りしておく。だけど、彼らはにやにやと笑いながら話し掛けてくるのを止めなかった。

 

「もしかして家出? だったら俺たちと一緒に遊ぼうよ。行くところないならうちに泊めてあげるからさ、パーティしようぜ」

 

「結構です」

 

 話しかけてきたのはナンパ目的か。どうやら見た目通りの軽薄さらしい。

 

 ……いや、訂正する。

 どうやらもっと下衆な輩のようだ。

 

 ベンチの背後の茂みにもう1人、息を潜めている気配を感じる。ナンパに失敗したら強硬手段に出るつもりでいるのだろう。

 

「こんな暗い公園に女の子一人でいると危ないぜ? 悪い男に襲われてしまうかもしれないよ――こんなふうにね!」

 

 男が軽く手を掲げると、私の後ろの気配が動いた。

 

「――!」

 

 私の口を塞ごうと右から伸びてきた手を、反対側に倒れて交わし、そのままベンチで回転して横に逃げる。

 

「こいつっ!?」

 

 私の動きが想定外だったのだろう、男たちはあっけに取られていた。その間に、私は身体能力向上の魔法を使い、半身に構えて体勢を整える。

 

「反省して二度としないと約束するなら、まだ許してあげなくもないけど……?」

 

 私の言葉で我を取り戻した男達は、まだ自分達が圧倒的に優位な状況だと思い直したようで、再び下卑た笑いを浮かべ出す。

 

「許すだぁ? 何言ってやがる。こいつ、状況が全くわかっちゃいねぇ」

 

「ここは俺たちの溜まり場なんだよ。この時間は近づくやつもいねぇ。助けなんてこねぇぞ」

 

「言うことを聞くなら痛くしないでやる。大人しく俺たちについてきな」

 

「絶対にお断り」

 

 以前の俺なら、妊娠するチャンスだと思っていたかもしれない。だけど、今の私はこんな男たちに抱かれるなんてのは、まっぴらごめんだった。

 そんな風に考えて、ふと気づく。

 

「……あれ? 私、蒼汰とするのは嫌じゃない?」

 

「何ぶつぶつ言ってやがる。構わねえ、取り押さえて個室に連れこめ!」

 

 その言葉を合図にして、三人が一斉に襲いかかってきた。だけど、連携が取れているとは言い難い動きだ。

 体が動くままに任せていれば、危険はないだろう。この男たちの得意分野は暴力であって戦闘ではない。

 そんなことよりも――

 

「え、嘘!? いつから!? 優奈と一緒にしたときから……?」

 

 あの日から、私は蒼汰に気持ちよくさせられるようになった。義務的にやっていることとはいえ、気持ちよくないよりは気持ちいい方がいいに決まっている。それで、抵抗感がなくなったとか……?

 

 両腕を広げて突っ込んできた男をしゃがんで避けて、腕を掴もうとしてきた男の手を払って、逆に小指だけを狙って掴んでひねりあげる。

 

「いでぇ!!」

 

 静かな公園に鈍い音と男の悲鳴が響いた。

 蹲った男に蹴りを入れて地面に転がす。

 

「てめぇ!」

 

 蹴り足を戻しながらステップを踏んで、上体を反らして拳を避ける。体をねじりながら地面に手をついて跳ねた。

 

「……違う気がする」

 

 蒼汰のセックスが変わる前も、よく考えてみれば嫌ではなかったように思う。

 体は馴れなかったけど、蒼汰をちゃんと気持ちよくできていることにある種の満足感はあったし。

 必死に私を求めてくる蒼汰のことは嫌ではなかった。目の前にいる男たちから同じことをされたらと思うだけで、鳥肌が立つほど嫌悪感を覚えるのに。

 

「くそっ、ちょこまかと――」

 

 回し蹴りを叩き込む。制服のプリーツスカートが宙にふわりと舞った。筋力を強化して全身をバネにしていてもなお私の蹴りは軽い。

 それならば、軽い攻撃でも致命傷になる箇所を狙うまでだ。

 フェイントを入れつつ距離を詰めて一気に懐に入り込むと、飛びかかるような勢いで股間に蹴りを一撃

 ぐにゃりと足に嫌な感触がした。

 

「ぐぇ……」

 

 泡を吹いてゆっくりと崩れる。

 めちゃくちゃ痛そう。

 

「もしかして、最初から……とか?」

 

 もちろん、セックスすることに抵抗がなかった訳じゃない。でも、それは私の内面の問題で、蒼汰に抱かれるということには、最初からそれほど抵抗感はなかった……?

 

「あ、ありえない!」

 

 そりゃ蒼汰は親友だから他の誰よりも安心できる相手だったのだろうと思う。だけど、私は男に抱かれるなんて絶対に嫌なはず。だって、私は……

 

 右、左、右、左、リズム良く拳でワンツーを刻む。続けざまにローキックで脛を強打、男の体勢が崩れる。

 

 前のめりになった男の後頭部にローファーの踵落とし。確かな手応えを感じながら、後ろに離れる。

 どさりと、男は地面に倒れた。

 

 これで、公園に立っているのは私一人になった。

 

「……ふぅ」

 

 ……認めざるをえないようだ。

 どうやら、私は蒼汰に抱かれる事自体はそれほど嫌じゃなかったらしい。

 男だったときの性対象は女性だけだったから、私は女として蒼汰のことを男として見ていることになるのだろうか。

 知らない男から性的に見られるのは嫌だけど、蒼汰からは嫌じゃなかった。なんというか必死すぎて微笑ましいというか、しょうがないなぁ……って気持ちになって赦してしまうのだ。

 

 だからって、蒼汰のことを恋愛対象として見られるかと言われれば、そうじゃない。

 そもそも、私が好きなのはアリシア一人だ。

 

「……でも」

 

 思い浮かぶのは翡翠のこと。彼女の好意は真っ直ぐ私に向けられている。ただでさえアリシアのことで中途半端になっているのに、蒼汰相手にも気持ちが揺れているようでは彼女に申し訳ない。

 

「まだ、やる気……?」

 

 男たち三人のうち一人は倒れたままだったが、残り二人は起き上がろうとしていた。

 

 正直に言うと体を動かしたことで、むしゃくしゃした気持ちが少し晴れた。感謝なんて絶対にしないけど、役得だと思うことにする。

 

 好きとか嫌いとかもこんな風にわかりやすく決着がつけばいいのに……

 

 一瞬、私を奪い合ってウィソでデュエルする二人の姿が思い浮かんだが、流石にそれはない。

 

「なんなんだこいつ。ふざけやがって……!」

 

 どうやら、まだ戦意喪失はしていないようだ。

 ジャケットの懐に手を入れて……携帯ナイフでも持っているのかな。まあ、どうでもいいけど。

 冷めた視線で見下ろしていると、

 

「お巡りさん、こっちです!」

 

 と叫ぶ女性の声が公園の入口の方から聞こえてきた。

 

「やべぇ!?」

 

「おい、逃げるぞ!」

 

 その声を聞いた男たち二人は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。おいおい、倒れている奴も連れて行ってやれよ。

 

「っと、私も逃げないと」

 

 警察に事情聴取されるのはまずい。補導されてしまうかもしれない。

 それに、つい先日父さんに危機管理をしろと言われたばかりなのだ。こんなことが、家族に知られたら大目玉を食らうだろう。

 

「アリス!」

 

「――って、優奈?」

 

 公園の入口に居たのは優奈だった。

 

「なんでこんなところに……?」

 

「スマホで位置を――じゃなくて、それはこっちの台詞だよ! こんなところで、何をしているの!?」

 

「ごめん、ちょっと考え事してて……その、警察は?」

 

「嘘よ。居ないわよ、そんなの。それより何があったの?」

 

「それは、その……何でもない」

 

「嘘ね」

 

「……うん」

 

 一瞬、蒼汰に悪いと考えて黙っていようとしたけど、優奈に隠し事ができるはずもなかった。

 

「まぁ、詳しいことは後で聞くわ。まずは、ここから離れましょ」

 

「わかった」

 

   ※ ※ ※

 

 帰りの道すがら、私は優奈に事情を話した。

 

「あちゃぁ……蒼兄、告白しちゃったんだ……」

 

 優奈に話したらそんな反応だった。

 蒼汰が私のことを好きなこと自体に驚きはないらしい。

 

「返事はしたの?」

 

「ううん、それは私が落ち着いてからでいいって」

 

「アリスに返事をさせなかった、と……まぁ、そりゃそうか」

 

「私、どうしたらいいんだろう……」

 

「保留しとけばいいんじゃない? 翡翠姉と一緒で」

 

「う、うん……」

 

 蒼汰は大切な親友である。

 だけど、恋愛対象として意識したことは全く無かったし、今の私はアリシアのことしか考えられない。それに、翡翠という恋人もいる。

 今、答えを出すのなら告白を拒絶することになるだろう。でも、それをするのは少し怖かった。親友で居られなくなるんじゃないかって。

 だから、先送りできるというのは私にとっても都合の良い話ではあるのだ……基本的には。

 

「ダメなの?」

 

「どっちつかずでいると落ち着かないんだ」

 

「どっちつかずって言っても、アリスが好きなのはアリシアでしょ。そんなことは二人も承知してるんだし、気にしなくていいんじゃない?」

 

「蒼汰の気持ちを知ってしまったから難しいよ。蒼汰といるとき、どうしても翡翠のことを考えてしまうんだ……エッチのときだって浮気しているみたいでどこか集中できなくて。多分、翡翠と居るときも蒼汰のことを考えてしまうと思う」

 

「それは……あんまりよくない状態ね」

 

「それに、さっきしているとき蒼汰も感情を押し殺しているみたいだった。多分感情を露わにすると私を困らせるから気遣っているのだと思う」

 

「……あー」

 

 お互い黙り込んでしまう。

 少しの間、無言で考え事をしながら夜の街を歩く。

 やがて、ぽつりと優奈が言った。

 

「二人で居るときは、一緒にいる相手のことを好きになるのってのはどうかな?」

 

「……できないよ、そんなこと」

 

 二人共なんてあまりに不誠実すぎる。

 

「そもそも、アリスは翡翠姉と恋人ってことになっているのに、少し距離を置いているよね」

 

「……そう、かな?」

 

「それは、相手の気持ちに応えられない罪悪感がアリスの中にあるからじゃないかな? 今の蒼兄に対しても同じ。いや、二人になった分余計に拗れているんだと思う」

 

「……そうかもしれないね」

 

「大体、翡翠姉も蒼兄も自分勝手すぎるよ。アリスはアリシアのことで精一杯なのに、自分の気持ちを押しつけて……それだけアリスのことが好きってことなんだろうけど」

 

 優奈は大げさなリアクションで怒ってますアピールをして、思わず笑いがこぼれてしまった。

 不意に真剣な表情になって私に訴えかける。

 

「でも、このままだとアリスが壊れちゃう。そんなのはダメだよ。それに、そんなことは二人とも望んでない。誰よりもアリスのことが大切な二人だもの」

 

 壊れてしまうって大げさだな、と思った。

 私は大丈夫なのに……

 

「二人ともアリスに甘えているんだ。だから、アリスも二人に甘えて、受け入れてしまえばいい。受け入れないままでいるから心が軋むんだ」

 

「優奈……」

 

「今のアリス酷い顔してる。正直、見ていて辛いよ」

 

「ご、ごめん……」

 

「ほら、そうやってあたしにも気遣う。いいんだよ、心配くらいかけても……あたしには心配することくらいしかできないし」

 

「ありがとう、優奈」

 

 優奈の言う通り、何も考えずに相手に委ねられたら、なんて楽なのだろうと思う。

 だけど、そんなこと許されるのだろうか。



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アリスとその周辺(前)

4月18日 火曜日 1週6日

 

「あ、アリスさん!? いったい何を――」

 

 放課後、昨日に引き続き涼花のマンションを訪れた私は、リビングに通された直後に土下座した。

 

「蒼汰が私のことを好きって言ったんだ。涼花の恋敵は私だった。あれだけ涼花のことを応援すると言っておきながら――」

 

 昨日の今日でこんな事を告げたら、今度こそ愛想尽かして絶交されるかもしれない。

 私を親友だと言ってくれた涼花に対して酷い裏切り行為だと思う。だけど――だからこそ、隠したままでいることはできなかった。

 

 涼花が近づいてきて、しゃがみ込む気配がする。臆病な私は体を竦めた。

 

「謝罪は無用ですわ。蒼汰さんが誰を好きになるかなんて、アリスさんに責任はありませんもの」

 

「涼花……」

 

 私は涼花に抱きしめられていた。

 

「それに、蒼汰さんの想い人のことは既に知っていましたから。それも含めてわたくしは昨日、アリスさんの謝罪を受け入れておりますわ」

 

「知っていたの……?」

 

「告白をお断りされたときに蒼汰さんから……ですが、もし聞いていなかったとしても、それくらいわかりますわ。わたくしは誰よりも蒼汰さんのことを見ていたのですから」

 

「で、でも、私と蒼汰は男同士で――」

 

「アリスさんから見たらそうなのかもしれませんけど。わたくしから見たお二人はお似合いのカップルにしか見えませんでしたよ? ……本当、悔しいほどに」

 

「そ、そうなんだ」

 

「わたくしアリスさんにライバル心を燃やして牽制していたこともありましたのですけど……気づきませんでしたか?」

 

「言われてみれば……」

 

 そんなこともあった気がする。

 涼花に蒼汰との関係を疑われたことは一度や二度ではない。

 だけど、そんなことはありえないと、その都度一笑に付していたから、記憶に残っていなかったのだ。

 

「そういうことですから、わたくしのことは気にしないで下さい。それで、お二人はお付き合いされるのですか?」

 

「いやいや……それはあり得ないでしょ」

 

「どうしてですか?」

 

「だって、相手は蒼汰だし……」

 

「? 蒼汰さんのことをお好きではないのですか?」

 

「親友としては誰よりも信頼しているけど、そういうのとは違うというか……そもそもあいつと恋人になるなんて想像もできないよ」

 

 私がそう言うと涼花は上品に笑った。

 何がおかしいのだろうと訝しんでいると、

 

「想像するも何も――お二人は恋人同士ですることはもう大体経験されているのでは?」

 

「ふぇ!?」

 

 変な声がでた。

 確かに蒼汰と一緒に居る時間は多いけど……

 デートも――カードショップやゲーセンに二人で行くのをデートと呼ぶのならば――何度も行っている。

 必要に迫れてとはいえ体の関係もある。

 ……身体の相性も悪くはないと思う。

 大きすぎるアレも一応受け入れることはできているし、最近は大分馴染んできたというか、その……って、違う!?

 

「と、とにかく! 今の私は誰かとどうなるとか考える余裕なんてないから」

 

「ふふ……もしそれを考えるときが来たらわたくしに遠慮なんてしないで下さいね? わたくしはお二人を応援しますわ」

 

 涼花に応援されてしまった。

 

「……あ、ありがと」

 

 あまり強く拒否するのも失礼かと思って、私は曖昧に言葉を濁すしかなかった。

 

   ※ ※ ※

 

 涼花から絶交されずに済んで安心したのも束の間、次は翡翠と話をする予定が入っていた。

 私は一度家に帰ってから、翡翠の家である神社の社務所に向かう。

 相変わらず飾り気の無い翡翠の部屋に入り、ベッドに座る翡翠の隣に腰を下ろした。

 

「優奈から聞いたわ。蒼汰はあなたに気持ちを伝えたのね」

 

「……うん」

 

「それで、アリスはどうしたい? ……蒼汰のこと好きなの?」

 

「親友としては好きだけど、恋人としての好きとは違うよ」

 

「……そう」

 

 相談した全員から同じことを聞かれるのは、傍から見たら私と蒼汰はそういう仲に見えるのだろうか。むぅ……複雑だ。

 

「蒼汰とは今まで通りでいたいと思うんだけど……そういう訳にもいかないよね。私は翡翠の恋人なんだし」

 

 蒼汰が自分に恋愛感情を抱いているのを知っていて、変わらず親しくするのは良くないことだろう。それは私が受け入れて良い感情ではない。

 

「でも、今は距離を置くのも難しくて、どうしたらいいんだろうって……ごめん、こんなこと翡翠に言っちゃダメだよね」

 

「……やっぱり、そんな風になってるのね」

 

「え?」

 

「優奈から聞いていたのよ、アリスがロジックエラーを起こして思考の迷路に入り込んじゃってるって」

 

「ろ、ロジックエラーって……」

 

 優奈のあんまりな言い方に苦笑せざるを得ない。

 

「それから怒られた。恋人として縛るんだったら、ちゃんとアリスのことを支えてよねって」

 

「ご、ごめん!」

 

 優奈のやつ。翡翠になんて失礼なことを――

 

「いいの、優奈の言うことは正しいわ。私はアリスの恋人という立場を得て安心してしまっていた。蒼汰とのことは今だけだからって見ないようにしていたの。こうなったのは私の責任なのに――」

 

「翡翠のせいなんかじゃないよ」

 

 何度繰り返したかわからない問答。だけど、やっぱり翡翠は首を振って認めなかった。

 

「だから、私は優奈の提案を受け入れるつもりよ」

 

「……提案?」

 

「蒼汰もあなたを支えることを認めるってこと……悔しいけど、今のあなたにはあいつが必要みたいだから」

 

 翡翠に誠実でいるのなら、私はすぐに否定しないといけなかったのだと思う。

 だけど、私は直ぐに答えを出すことができなかった。それだけで翡翠が確信するには十分だったようで、翡翠は私に微笑みながら首を振る。

 

「アリスはアリシアのことだけを心配していればいいの。私が無理強いしてまで恋人になったのは、あなたのことを支えたかったから。それなのに、逆に苦しめてしまったら本末転倒だわ」

 

「……ごめん」

 

「そのかわりと言ったらなんだけど、二人きりのときは、もっと頼ってほしい。私はアリスの居場所になりたいの」

 

「私からすれば、十分頼ってるつもりなんだけど……」

 

「さっきアリスは言ってたよね、蒼汰の好きはアリスの好きとは違うから受け入れられないって。それって、私の好きも一緒だったりしない?」

 

「そ、それは……」

 

 翡翠の言うことを否定できなかった。私はどこか無意識のうちに翡翠との間に壁を作っている自覚がある。

 

「アリスは心に嘘をつくのが苦手なんだと思う。だから考えたの、演技をするのはどうかなって」

 

「演技? ……それって嘘と違うの?」

 

「全然違うわよ。嘘は他人を騙すもの、この場合の演技は自分を騙すものだから。他人を騙すのは気が引けても、自分を騙すのに罪悪感はないでしょ?」

 

「……そんなものかな」

 

「だからね、二人きりのときは私がアリスのママになってあげる」

 

「へ……?」

 

 ママって……え、なに?

 

「私なりにいろいろ調べたの。アリスが私に甘えてくれるにはどうすればいいかを。男の人ってママに甘えたい願望があるんでしょ?」

 

 ちょっと待って。

 それは、いろいろおかしい気がする。

 

「いや、私普通に母さんいるんだけど……」

 

「母親じゃないの、ママ。徹底的にアリスのことを甘やかす存在だよ?」

 

 意味がわからない。

 

「自分で変な事を言っているのはわかってる。でも、他に方法が思いつかなかったの。だから、試しにやってみようよ。上手くいかなくても損することはないんだから」

 

「え、ええ……まぁ、いいけど」

 

 翡翠が私のために考えてくれていることなのは間違いはない。だから、私はその提案を受け入れることにした。

 

「それじゃあ、手を叩いたら始めるね?」

 

「う、うん」

 

 翡翠の手が軽く打ち合わされて、パンッと音が鳴った。これで、翡翠は私のママになったらしい。

 ……どうすればいいんだ、これ?

 

「アリス、おいで?」

 

 両腕を広げて私を誘う翡翠。

 おずおずと近づくと腕が閉じられて、私は翡翠の胸に柔らかく受け止められた。

 そのまま抱きしめられて後頭部を撫でられる。

 

「よしよし、ママですよー」

 

 そんな台詞を照れながら言うものだから、なんだか私も恥ずかしくなってくる。

 体は固定されて逃げ出せないので、かわりに翡翠の胸に顔を埋めて表情を隠した。

 

 あ、柔らかい……

 

 ブラもインナーもつけている筈なのに翡翠の胸はふかふかだ。顔を左右に動かして柔らかさを堪能する。

 

「ふふっ、ママにいっぱい甘えていいからね?」

 

 背中をポンポンと優しく叩かれて、それからゆっくり上下に撫でられる。全身溶かされていくような安心感。

 

「アリスはがんばってる。えらいね」

 

「んっ……」

 

 今のは少しやばかった。私は込み上げてくる何かに耐えるため、翡翠の背中に腕を回し返してぎゅっと抱きつく。

 

「……翡翠」

 

「ママ」

 

 優しく叱るように。

 

「えっとーー」

 

「二人きりのときはママって呼んで?」

 

「……ママ?」

 

「うん、ママだよ」

 

「ママ……」

 

「よしよし、私のかわいいアリス」

 

 それは蠱惑的な免罪符だった。

 ママだから甘えてもいい。

 ママからの好きを受け入れるのは当然のこと。

 それは、あたたかいーー湯船に浸かっているような感覚。ストンと体中の力が抜けて、ズブズブとお湯の中に沈んでいくみたいな。

 

「大丈夫、だから……泣かないで」

 

 泣く? 誰が泣いているのだろう。

 ……私?

 

「なんでーー」

 

「いいのよ、ママは全部わかっているから」

 

 ぎゅっと、強く優しく包まれて。

 

「……ママ、ママぁ」

 

 感情のままに縋りつく。

 

「うん、うん」

 

 全部受け入れてくれる。

 

「アリス、大好きよ。好き、好き、好き……」

 

 耳元で囁かれるあいのことば。

 それは、心という容れ物に好きを注ぎ込まれていくかのよう。容器が好きで満たされていくにしたがって、それ以外の感情がこぼれ落ちていく。

 

「それじゃあ、ゴロンしようね」

 

 翡翠が背中から倒れこんだ。私は翡翠に抱えられながら、一緒に並んで横たわる。

 

「アリスはおっぱい好きだね……それじゃあ、今からおっぱいの時間にしようか?」

 

 眼の前で翡翠のワイシャツのボタンが外されていく。飛び込んでくる白いレースのブラ、おっぱい。圧倒的ボリュームのおっぱい。

 

 それを前にした私はただ本能に従うのみで――それが男としての本能なのか、幼子だった頃の本能なのか、それ以外なのかは分からないけれど。

 



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アリスとその周辺(後)

 蒼汰が待つマンションの部屋を訪れたときには、すっかり日が暮れていた。

 

「お疲れ」

 

「おう」

 

 部屋に入ったとき、蒼汰はベッドに横になってスマホでゲームをしていた。

 事務机に牛丼の入ったビニール袋を置く。到着前のメッセージのやり取りで蒼汰からリクエストされた物だ。

 肩に下げたスポーツバッグを床に置いてから、流し台で手を洗った。

 

「先に食べてるよ?」

 

「ああ」

 

 袋から並盛の容器を取り出して蓋を開ける。食欲を唆られる匂いに、思わずほほが弛む。

 

「あ……飲み物忘れてた」

 

 立ち上がって冷蔵庫に取りに行く。コーラと……蒼汰はジンジャエールでいいだろう、多分。

 部屋に戻ったら、蒼汰が袋から特盛の容器を取り出していた。

 

「ん」

 

「サンキュな」

 

 ジンジャエールを受け取った蒼汰はそのままフローリングにどかっと腰を降ろして食べ始めた。

 私もデスクチェアに座って食事を開始する。

 

 牛丼を食べるのは久しぶりだった。

 以前は主に放課後の間食に食べていたけど、この体で同じことをすれば夕飯が食べられなくなってしまうので。

 

 今日から数日はマンションに外泊するつもりなので、夕飯は外で食べることになるだろう。

 これは以前から予定していたことだった。排卵予定日が近づいて妊娠する確率が高い今の時期に、時間を気にしないで集中できるように、と。

 

 お互い無言で食事が続く。

 いつもなら、ゲームとかアニメとかの雑談をしているのに、なんだか空気がぎくしゃくしていた。

 

「待たせちゃってごめん」

 

 食べ終わった頃合いをみて、私は蒼汰に謝罪する。

 

「……大丈夫だ」

 

 返事が来るまで少し間があった。流石に待たせすぎたかもしれない。蒼汰は放課後すぐにここに来ていたはずだ。

 それとも、さっきまで翡翠と会っていたことがバレているとか……?

 

「……今日はもう来ないんじゃないかと思ってた」

 

「どうして? してもらえないと困るのは私の方なのに」

 

「困る……そうだよな」

 

 蒼汰の表情が曇る。今の言い方は体だけが目的みたいに聞こえて、感じが悪かったかもしれない。

 

「今日は楽しみにしてたんだよ? その証拠にほら!」

 

 スポーツバッグの中身を蒼汰に見せながら言う。着替えの他にお菓子と携帯ゲーム機、それからウィソのデッキが入ったデッキケース複数と調整用のカード数千枚が入ったストレージボックスが入っていた。

 

「お前なぁ……」

 

 蒼汰はバッグの中身を見て苦笑する。

 

「へへ、蒼汰と一緒にお泊りするのって久しぶりだからね」

 

 楽しみにしていたのは本当のことだ。

 だけど、計画していたときは蒼汰に告白されるなんて思ってもいなかったのもまた事実で。

 

「昨日は、その……すまなかった。優奈に怒られたんだ。アリスが大変なときに悩みごとを増やさないでよって」

 

「ご、ごめん! 優奈は後で注意しておくから」

 

 優奈のやつ。私のことを考えてくれてのことだと思うけど、翡翠にも、蒼汰にも、ちょっと言い過ぎだ。

 

「いや、俺が悪かった。だから、その……昨日のことは忘れーー」

 

「忘れないよ」

 

 蒼汰の言いかけた言葉を先回りして拒否する。

 

「そんなこと言わないで。涼花の告白を断るくらいに蒼汰が真剣なのはわかるから……それを無かったことになんてしないでほしい。返事ができていない私が言うことじゃないと思うけど」

 

「……お前は嫌じゃないのか?」

 

「逆に聞くけど、私が男のままだったとして、蒼汰のことが好きって言ったらどうする?」

 

「びっくりするだろうな」

 

「……嫌?」

 

「嫌じゃないけど、戸惑うだろうな。そんなふうに考えたことなんてなかったし。だけど……受け入れられるかは別として真剣に応えたいと思う。どんな姿であれお前は俺の大切な親友だから」

 

 蒼汰の口から聞きたいことを聞けて満足した。

 

「私もまさにそんな気持ちだよ」

 

「そっか……なるほどな」

 

「だから、今は待っていてほしい。あ、いや、もし私に幻滅したり、他に好きな人ができたら遠慮しなくていいけど……」

 

「わかった。それじゃあ、それまでは今まで通りでいいか?」

 

「うん。だけどひとつだけ、お願いしたいことがあるんだ。蒼汰は今までその……しているとき、私への感情を抑えていたよね」

 

 気づいたのは昨日。だけど、思い返してみれば心当たりがあった。蒼汰は私を抱きながら、時折気持ち良いのとは違う切ない表情をしていた。

 それはきっと好きな相手と繋がりながら、心はそうでないことを自覚したときの顔。

 後腐れのないセックスができて蒼汰はラッキーだろうくらいに考えていたのだけど、実際は好きな相手と体だけの関係を強要していたことになる。

 私には想像することしかできないけど、それは甘い拷問のように蒼汰を苦しめていたのじゃないだろうか。

 

 だから――

 

「私はもう蒼汰の気持ちを知っているから、我慢しなくていいよ」

 

「だけど、それだとお前に負担がかかるんじゃ……」

 

「ううん。堰き止めるから積もる想いに押し潰されそうになるってわかったから。私もその方が楽なんだ。だから、その……二人きりのときは蒼汰の気持ち受け入れてもいいかな? 中途半端なことをしてるって自分でも思うけど……」

 

 蒼汰のためなのか、私が楽になりたいのかもわからなかった。自分にとって都合の良い関係を押し付けているだけなのかもしれない。

 

 だけど私は、蒼汰があんな顔をして我慢するのを見たくなかった。

 

「……俺は構わない」

 

「ありがとう、蒼汰」

 

 私はほっと胸を撫で下ろす。

 妊娠するまで後何回するのかはわからないけど、せめてその間だけでも蒼汰の気持ちに応えよう。

 

 蒼汰が立ち上がって近づいてきた。

 

「キス、してもいいか?」

 

「え、ダメだよ」

 

「なんでだよ!? そういう雰囲気じゃないのか、今のは」

 

 断られるとは思ってなかったらしい蒼汰がずっこける。

 

「だって、牛丼食べたばかりだし……」

 

 空気を読んでほしい。というか部屋に牛丼の匂いが籠もっているので空気も入れ替えたい。

 

「じゃあ歯を磨いた後なら?」

 

「それなら、うん……」

 

「それじゃあ」

 

 早速とばかり行動する蒼汰。

 随分と待たせてしまったので悶々とさせてしまっていたのかもしれない。

 そう思いつつ、私も容器の片づけから始めることにする。蒼汰に求められるのは悪い気分ではなかった。

 

 あ、でも……

 

「えっと、シャワー浴びてもいい?」

 

「……ああ」

 

 翡翠と一緒に過ごした後、そのまま急いできたので一度シャワーを浴びてさっぱりしたかった。

 だから、蒼汰にはもう少しだけ待って貰うことにする。別に焦らすつもりはないのだ、決して。

 

 シャワーを浴びて、準備を終えた私は、バスタオル一枚でバスルームから出る。

 蒼汰にくっついてベッドにちょこんと腰を下ろした。

 微妙な沈黙が居心地悪くて。

 

「それじゃあ、キス……する?」

 

 と言ってみたものの、自分からキスするのはやっぱり抵抗がある。まあ、いいや。目をつぶって待っていれば向こうからしてくれるだろう……それくらいの甲斐性はあるよね?

 

「ん……」

 

 口先を突き出すようにして目を閉じる。変な顔になってないかな? 少し心配だ。

 

 唇にふにっとした感触。そのまま何度か啄むように重ねられるキス。

 ちゅっちゅと唇が音を奏でる。蒼汰の大きな手が伸びてきて、顎を支えるように指が回される。

 

「んっ……」

 

 唇が押し開かれて舌が口内に侵入してきた。絡みつく粘膜からゾクゾクとした快楽が伝えられてくる。蒼汰の両手で頭を包まれるように固定されて。

 

「ふぁ……んんぅ……」

 

 舌で頭の中を掻き回されているみたいで、思考が混濁して溶けていく。

 

「好きだ、アリス」

 

「――うん」

 

 今の精一杯で蒼汰の気持ちに応える。

 

 嬉しさ、辛さ、喜び、切なさ、苦しさ、様々な感情が入り混じったものが込み上げてきて。

 そうなると私は涙がこらえられなくなってしまう。

 

「アリス……」

 

「大丈夫、ごめんね……」

 

 私は心配そうにしている蒼汰の頭を撫でる。

 短くてトゲトゲとした髪がチクチクした。

 

「アリス、好きだ、好きなんだ――俺はっ!」

 

 大きな体が私に覆いかぶさってきて、私は抱きかかえられながらベッドに押し倒される。

 

「うん……ありがとう、蒼汰」

 

 蒼汰の手を重ねるようにして握ると、それが震えていることに気づいた。冷たく硬い手をほぐすように軽くぎゅっと何度か握る。

 体温が伝わるにつれて震えは消えていった。

 

 再び唇を奪われる。

 バスタオルがはだけられていく。

 強く、強く、抱きしめられて。

 



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行為の果てに

4月19日 水曜日 2週0日

 

 朝、基礎体温を測ると昨日より目に見えて下がっていた。

 低温期から高温期に移る直前に基礎体温が下がるらしいので、それじゃないかと思う。もしそうだったなら、ここ二三日が排卵日となる可能性が高かった。

 そして、受精できるのは卵子が排卵されてから約24時間。

 そう思うと学校に居る間も落ち着かなくて、授業も上の空になってしまう。

 おりものが粘っこくなるのも目安になるらしいと休み時間にトイレで確認してみたけれど、ナプキンは蒼汰の精液でドロドロになっていて見分けがつかなかった。

 それだけ出してもらっている実感は得られたので、それはそれで安心できたけど……

 そんな理由もあって、授業が終わったら部活にも行かずマンションに直行した。

 

4月20日 木曜日 2週1日

 

 ピピピと通知音がして、口に咥えた体温計を取り出す。基礎体温が上がっていた。

 

「排卵してるのかな……」

 

 ベッドに横たわったまま、手でお腹を押さえて呟く。

 人間関係が落ち着いたら、今度は妊娠できるのかという不安がぶり返していた。

 自分の中にあるアリシアの魂は、徐々にだけど確実に存在が失われてつつある。

 その不安をごまかすには、今できることをするしかない。だから、学校と食事とか最低限のことをする以外はずっとセックスしていた。

 抱かれている間は、不安に押し潰されそうになることもなかったから。

 

4月21日 金曜日 2週2日

 

 学校をサボった。

 私が蒼汰に懇願したからだ。

 優奈にメッセージを送って後を託し、朝から不健全な行為に浸る。

 とにかく少しでも可能性を上げたくて、蒼汰が喜びそうなことは何でもした。

 

4月22日 土曜日 2週3日

 

 昼も夜もない時間を過ごしていると、優奈が部屋にやってきた。

 

「うぁ……何これ、酷い臭い」

 

 優奈は顔をしかめながら、ぐちゃぐちゃになっていた部屋を片付けだす。

 私も蒼汰も全裸にシーツを被っていただけだったけど、優奈は気にかける素振りも見せなかった。

 

 私達二人は寝起きと疲労が重なっていて、しばらく頭が回らなかった。そして、頭が回るようになった頃には、見られることはもうどうでも良くなっていた。

 

「じ、自分で片付けるから!」

 

「別にいいわよ」

 

 だからといって、自堕落の不始末を優奈にやらせるというのは人としてダメだと思う。

 だけど、体は筋肉痛が酷くて直ぐには動けそうになかった。

 

 お弁当の容器やペットボトルが散乱したテーブル、精力ドリンクの瓶が並ぶ冷蔵庫の上、そこかしこに脱ぎ散らかされた衣類、そしてゴミ箱や床に落ちている丸まったティッシュ。

 

「あ、あぅ……」

 

 他人に片付けさせるのはあんまりな物ばかりだったけども、優奈は意に介すことなくてきぱきと片付けていった。

 

「お風呂入れたから二人で入っててよ。ベッドもきれいにしたいから」

 

「う、うん」

 

 ようやく動き始めた体を引きずるようにして、蒼汰と二人でノロノロとお風呂に向かう。

 体を洗う気力もなくて、軽くシャワーで汚れだけ流して湯船に直行する。先に入った蒼汰の膝の間に収まるようにして浴槽に入り背中を蒼汰に預けた。

 それからしばらく体の筋肉が緩むまでぼーっとして過ごす。

 

「……ねぇ、硬いのが当たってるんだけど」

 

「仕方ねぇだろ、朝なんだし……わかるだろ?」

 

「それはわかるけど、蒼汰が私の体を触っているのはわからない」

 

「だって、手持ち無沙汰だし」

 

「なんか、触り方がいやらしいんですけど……ダメだよ、今は優奈が居るんだよ?」

 

「ダメって言われると余計に燃えるよな」

 

「やっ……ほんとにダメだって、後で好きなだけしていいから」

 

「……ごめん、我慢できないわ」

 

「ば、バカぁ……んっーー!」

 

 声が漏れないように、自分の手で口を押さえる。

 こうなったらなるべく早く終わらせてしまった方がいいだろう。長くなるほど優奈に気づかれる可能性が高くなる。

 

 ここ数日で蒼汰のエッチなモードに切り替えるスイッチがバカになってしまっているかもしれない。

 

「ん、んーー! んんっーー!」

 

 ……私もか。

 

   ※ ※ ※

 

 体を魔法で清めた私は蒼汰を残して先に出てきた。

 浴室前に用意されていた着替えを身に着けて部屋に戻ると、窓が開けられて換気されていて、空気がとても新鮮に思えた。

 シーツの替えを持ってきてくれていたらしく、ベッドメイクまでされている。

 優奈はベッドに腕を組んで腰掛けて、呆れたといった表情で私を見ていた。

 

「あんた達ねぇ……」

 

 優奈の顔は少し赤くなっている。

 

「……なんか色々ごめん」

 

 声を抑えたつもりだったけど、何をしていたかバレバレだったらしい。

 

「まぁ、別にいいけど」

 

「あはは……」

 

 愛想笑いをしながら、優奈の隣に腰を下ろす。

 

「……ご飯は食べてる?」

 

「あー、うん……一応」

 

「ちゃんと食べなさいよ? 冷蔵庫に母さんが作ってくれたご飯とおかずのタッパーを入れといたから」

 

「ありがと」

 

「それと、制服はクリーニングに出して着替えと一緒に後でまた持ってきておくね」

 

「重ね重ね申し訳ない」

 

 後先考えずに行動した結果、制服はよれよれになって汚れてしまっていた。

 

「明日は学校に来るんだよ、わかった?」

 

「うん」

 

 優奈に抱きしめられる。

 

「無理はしないで……ね?」

 

「……うん」

 

4月24日 月曜日 2週5日

 

 今日は久しぶりの通学だった。

 金曜日は体調不良で休んだことになっていたのでクラスメイトから心配されたけど、なんだか申し訳ない気持ちになる。

 疲れているのは本当だったから、疑われることはなかったけど……

 授業は半分以上眠ってしまった。

 

4月26日 水曜日 3週0日

 

 基礎体温はすっかり高温期になっていた。

 妊娠すればこのまま高温期が続き、妊娠できなければ生理が来て低温期になる。

 

 ……どうか、このまま体温が下がりませんように。

 

 基礎体温が上がった日前後で排卵して、受精できていたなら、今頃受精した卵子は胚と呼ばれる物になっているらしい。

 大きさは1ミリ未満、重さは1グラム未満の小さな小さな存在。それが人になるというのだから人体というのは不思議なものだ。

 

 今日から夜は家に帰ることにした。

 マンション通いはまだ続けている、妊娠できる可能性がなくなった訳ではないので。人体は例外や想定外の宝庫で絶対は無いから。

 

5月3日 水曜日 4週0日

 

 生理から28日目、生理予定日となる今日、早期妊娠検査薬を使うことにした。

 妊娠検査薬は妊娠したときに増加するホルモンを検出して妊娠を判定する仕組みで、普通の物だと生理予定日から一週間くらい後から判定ができるようになるらしい。

 早期妊娠検査薬は通常より少ないホルモンで反応するようになっていて、生理予定日前後から判定できるそうだ。

 普通の薬局には売ってないらして、買うのに名前や連絡先の記入が必要なこともあり、母さんに買ってきてもらった。

 

 トイレで便座に腰を下ろした私はスティック状の検査薬を手に持ってふとももの間に差し入れる。

 

「……ん」

 

 先端部におしっこを数秒かけて引き上げた。

 キャップをして、膝のハンカチの上に置く。

 検査薬の中央にある丸い窓にラインが表示されたら妊娠していることになるそうだ。

 祈るようにしてじっと待っていると、薄っすらとラインが浮き上がってきた。

 

「や、やった……!」

 

 逸る気持ちで後始末を済ませて、トイレから飛び出す。

 

「どうだった!?」

 

 リビングのドアを開けたとたんに優奈が詰め寄ってきて、私は反応の出た検査薬を掲げながら、もう一方の手でピースサインを作る。

 

「えへへ……」

 

「やったね、アリス!」

 

 優奈が抱きついてきて、私も合わせて飛び跳ねて喜んだ。

 

「あんまりはしゃいでいると、こけるわよ?」

 

 母さんの言葉で浮かれすぎた気持ちを引き戻す。

 

「検査薬に反応がでたからといって確実に妊娠している訳じゃないから、あまり浮かれすぎないようにね?」

 

「うん」

 

 妊娠検査薬でわかるのは体が妊娠に必要なホルモンを出していることだけだ。無事に受精卵が子宮内に着床して育っているかどうかは病院で検査しないとわからない。

 

「ゴールデンウィークが明けたら産婦人科に行きましょう」

 

「すぐに行かなくてもいいの?」

 

 なるべく早く確定させたいと気が急いてしまう。だけど、母さんは首を横に振った。

 

「緊急で診てもらうようなことじゃないわ。それに、どうせまだ今の時期じゃ妊娠しているかどうかの確認はできないと思うから」

 

「そっか……」

 

 その後、母さんから妊婦としての心得を教えて貰った。リラックスを心がけて体を冷やさないように気をつけたり、夜ふかしはダメだったり、カフェインを控えたりと、いろいろ気をつけた方が良いらしい。

 

 夜、寝る前に何度もお腹を撫でながら、アリシアを助ける決意を新たにした。

 

5月4日 木曜日 4週1日

 

「妊娠……できたかもしれない。まだ、わからないけど」

 

 マンションに訪れた私は蒼汰に報告した。

 

「そ、そうか」

 

 蒼汰はいきなりの告白に戸惑いを隠せないようだった。子供を作るためにしていたとはいえ、実際にできたとなると実感が湧かないのだろうと思う。

 

「これで、アリシアさんを助けられるんだな?」

 

「うん……蒼汰のおかげだよ」

 

「そんなお礼を言われるようなことはしてないけど……」

 

 やりまくってたたけだしと自嘲気味に呟く。

 

「ううん、蒼汰はいっぱいがんばってくれたもん」

 

 しんどいときもあっただろうに、私が求めたら蒼汰は絶対に断らなかった。射精後の賢者タイムにお願いしても応えてくれた。それがどれだけ難しいことか、私はわかる。

 

「とにかく、良かったよ」

 

「うん。それで、蒼汰とはもうできなくなるんだけど……」

 

「あー……そうか。そりゃそうだよな」

 

「ごめんね」

 

「気にするなって。それより体は平気なのか?」

 

「うん。ちょっと熱っぽくてだるいけど生理前はいつもこんなもんだし」

 

「そ、そうか……とにかく、体を大事にな」

 

「ありがとね、蒼汰」

 



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はじめての

5月5日 金曜日 4週2日

 

「……あれ? また寝てた? ごめん」

 

 いつの間にか寝てしまっていたらしい。

 翡翠と一緒にくっついて話をしているうちに寝落ちしてしまうことが癖になってしまっていた。体に疲労が溜まっているからだと思うが、翡翠に申し訳ない。

 

「いいのよ、気にしないで」

 

 翡翠はそう言って私の後頭部を優しく撫でる。

 眼前に迫る翡翠の胸元は少し汗ばんでいて、甘い匂いが鼻孔をくすぐってきた。

 何もかもを放棄して、再び訪れたまどろみに身を任せてしまいたくなるけど、まだちゃんと翡翠と話ができてなかったので堪える。

 

「……えっと、どこまで話したっけ?」

 

「妊娠できたかもしれないということと、早く病院に行きたいってことは聞いたわ」

 

「そうなんだよ。母さんは今病院に行っても確認できるほど育ってないから、急いでも仕方ないって言うんだけど、はっきりしないと落ち着かなくて……私の中に子供の魂は見えないよね?」

 

「見えないわ。胎児に魂が宿るのは心拍が確認できた後、8週〜10週くらいだっていうのは前にも話したでしょう?」

 

「でも、万が一ってこともあるし……」

 

「大丈夫よ、今回アリスの基礎体温ははっきり分かれていたもの。予定日から大きくずれることはないと思うわ」

 

「そっか」

 

「それにあなたの中にあるアリシアの魂も今は安定しているから、安心して」

 

「わかった……ありがとう、翡翠」

 

 翡翠が不安を受けとめてくれることで、私は随分と救われていた。

 

「いろいろと考えるから心配になっちゃうのよ。今は何も考えずにママに甘えちゃいなさいな」

 

「う、うん」

 

 これからのことを思い浮かべて頬が熱くなる。赤ちゃんのように翡翠に甘える行為はすっかり習慣になっていた。

 恋人とはいえここまで他人に依存するのは普通じゃないと思うけれど、全く抗おうとする気持ちが湧いてこない。

 

「おいで」

 

 翡翠の胸元が緩められて、両手で抱き寄せられる。私は小さく丸くなって、赤ちゃんのように口づけた。

 

「ん…… 」

 

 全身が本能的な安心感に包まれる。なにもかも許してくれるような心地よさに微睡む。

 

 お腹の子──アリシアを無事に産むことができたら、私がこの安らぎを与えることになるのだろうか。

 

 ……自信がない。

 いろんな意味で足りてないと思うし。

 

 だけど、今は──なにもかも放り出して、この柔らかさに身を任せてしまおう。

 

5月8日 月曜日 4週5日

 

 ゴールデンウィークが明けて検診を受けられる日がやって来た。学校を休んだ私は、母さんの運転する車で隣町の産婦人科に向かう。

 学校にバレるのは不味いので、目立ちすぎる銀髪は黒髪のウィッグで隠し、伊達眼鏡を掛けて変装していた。

 問診に備えた前開きのブラウスとロングスカートは、少し大人っぽい桜色のトーン。

 学生な上に実年齢より幼く見られることも多い私が妊娠出産することで、周りから奇異な目で見られることは覚悟しているけれど、目立たないに越したことはない。

 

「堂々としていたら大丈夫よ」

 

 車の中で緊張する私に母さんが言った。

 

「そもそも産科と婦人科の両方があるんだから、あなたが診察を受けていてもおかしいことなんてないの」

 

 受診するのがどちらかなんてお医者さん以外にはわからない訳で、それを聞いて少し安心した。

 

 郊外の病院はお洒落な外観をした建物だった。

 受付をして問診票に記入する。何の目的で来たのかとか生理の状況とか性行の有無とか。質問の中に出産を希望するかという項目があり、二重丸をつけておいた。

 待合室には大人の女の人ばかりで、それも妊婦さんがほとんどだった。何でもない風にしていたけど、内心は落ち着かない。

 

 それから名前を呼ばれていくつか検査をした。

 体重測定、尿検査、血圧測定。

 その後、再び名前を呼ばれて一人で診察室に入る。

 

「ええと、如月アリスさん。出産希望……で良かったのですよね?」

 

「はい、間違いないです」

 

 うちの父親と同じくらいの年代と思われる男の先生は、私の姿を見て少しだけ戸惑いの表情を見せた後、問診票に視線を戻して話を再開する。

 基礎体温表を印刷したものを見せながら、自分がわかっている状態を先生に伝えると、良く勉強していると関心された。

 

「それでは内診をしますので、あちらに移動して下さい」

 

 そう言われて隣の部屋に移動する。

 そこはカーテンで仕切られた狭い部屋で、真ん中にリクライニングチェアのような椅子がどでんと置かれてた。

 

 看護師さんに下半身は何も着けないように指示されたので、ショーツを脱いでポシェットにしまってから籠に置いた。

 下着を脱いだことを伝えると、スカートをたくし上げて椅子に座るようにと言われたので、その通りにする。

 座ってじっとしていると、椅子が音を立てて動き始めた。

 入口の方を向いていた椅子は90度回転してカーテンで仕切られた方向に向きを変える。同時に背中が倒れていって、なんとなく歯医者さんを思い出したけど、歯医者さんと決定的に違うのは、脹脛で支えられた足が広げられながら持ち上げられていくところで。

 

(うわ……うわぁ……)

 

 下半身はカーテンの先に隠れてしまったけど、見えなくなった先には大股開きで丸出しになった下半身が晒されているはずだった。

 カーテンの向こうには先生と看護師さんがいる気配がする。

 

(うぅ……見られちゃってる……)

 

 ここまではっきりと見られたことなんて蒼汰相手ですらなかった。外気が直接肌に触れる感覚がなんとも心許ない。

 

「大丈夫ですか?」

 

 先生に声を掛けられてビクッと体が震えた。

 

「は、はぃ!」

 

 ……恥ずかしくて死にそうです。

 

「それでは、指を入れますね」

 

「……!」

 

 先生の指があそこに触れて、ぐいっと入ってくる。当然ながら濡れているはずもないので痛い。

 

「狭いですね、ローション塗りますね」

 

「んーー!?」

 

 ぬるぬるとした冷たいのが塗り拡げられる。私は変な声が出ないようにするのに必死だった。

 

 指を奥まで容赦なく突っ込まれて、もう片方の手で下腹部を押さえられる。子宮の状態を確かめているらしい。

 

 続いて冷たい金属の器具を入れられて、中の状態を隅々まで確認されたりして、

 

(ひぃぃぃ……!)

 

 セックスよりもよほど恥ずかしい行為に、頭の中が沸騰してしまいそうだった。

 

 それから、超音波検査というものをした。

 これも棒状のセンサーを膣内に挿入するとのことで……うん、もう何でも来いだ。

 

 再び無の境地で耐えていると、診察台から見えるディスプレイに白黒の画像が映し出された。

 

「これがあなたの子宮です。胎嚢が確認できますね、黒いのがそうです。妊娠していますよ」

 

「は、はい」

 

 白い砂のような画面の中央に小さい豆のような黒い箇所があった。その中に、ほんのひと欠片白い点があって、これが胎児になるらしい。

 

 そこからは母さんも呼ばれて一緒に先生と話することになった。

 

 今確かに妊娠しているということ。

 だけど、この状態から流産する可能性は15%もあるらしい。この場合の原因は胎児側の理由によるものがほとんどで、母親にはどうしようもないことだと説明を受けた。

 胎児の心臓が動き出して心拍が確認できれば、流産する可能性は下がるだろうとのことだった。

 

 それから、私は低身長で赤ちゃんが通る骨盤が狭く、ハイリスク出産に該当するらしい。

 先生からは設備の整った病院でお腹を切る帝王切開での出産を勧められた。特に産む方法にこだわりはないので、そうしようかと思う。

 切り傷なら魔法で回復することもできるし。

 

 最後に来週の予約をして、初めての妊婦健診を終えた。

 

 いろいろと衝撃的なことが多くて、ぼーっとしてしまっていた。

 

「よかったわね、アリス」

 

 帰りの車の中で母さんに言われて、ようやく実感が湧いてくる。

 

 子供ができた。

 これでアリシアを救うことができる。

 

「ありがとう、母さん」

 

 いろんな人に助けられてここまでやってきた。

 ……もう一度、彼女に会えるんだ。

 



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自覚

5月10日 水曜日 5週0日

 

 気持ち悪い。

 胃がムカムカして気を抜くと吐き気が込み上げてくる。

 覚悟はしていたとはいえ、昨日から始まったつわりは想像以上にきつかった。昨日はそれでも授業を受けられたけど、今日は途中でギブアップ。

 

 昼休みの教室に漂っているご飯の匂いが気持ち悪くて耐えられなかった。トイレで吐いていたら始業のチャイムが鳴ったので、優奈にメッセージを入れて保健室に退避した。

 心配した保健の先生に薬を飲むか聞かれたけど、妊婦が飲んで良いものかわからなかったので曖昧に断った。

 

 こんな調子で学校に通い続けられるのだろうかと、先行きが不安になる……体調が悪いと何もかもネガティブになっていけない。

 

 食欲もなくて朝は焼かない食パンを半分だけなんとか食べて、昼は食べられず。午後の授業の休み時間に優奈に買ってきてもらった炭酸水をちびちび飲んで、炭酸でお腹を膨らましてごまかした。

 

 明日から昼休みは部室に逃げることにしよう。保健室で横になりながら私はそう思った。

 

5月15日 月曜日 5週5日

 

 二度目の健診を受けに母さんと再び産婦人科を訪れた。

 診察台も一度経験してしまえば、うろたえることはない。つわりの吐き気で、それどころじゃなかったというのが正直なところだけど……

 

 超音波のエコー検査で、ディスプレイに私のお腹の中の様子が映し出された。

 白いもやの中に先週よりも大きくなった黒い丸ーー胎嚢が見える。

 胎嚢の中には点からそら豆のような形になった胎児が確認できた。

 

「心拍が確認できますね。おめでとうございます、赤ちゃんは無事に成長していますよ」

 

 先生の言葉も上の空で、私はディスプレイに映し出された映像に心を奪われていた。

 表示されたスケールによれば、全長3ミリにも満たない大きさの胎児。その中心部が規則正しく動いていた。

 大きくなって、小さくなって、その繰り返し。

 

「生きているんだ……」

 

 どくん、どくん、と力強い命の鼓動。

 衝撃と共にこみ上げてくる吐き気。

 

「うぷ……」

 

 ――だめだ。

 

「すみません、洗面器を――!」

 

 カーテンが空いて、看護師さんが洗面器を差し出してくれる。間一髪、惨事は避けられた。

 

 経過に問題はないけど、つわりがひどいときは無理せず休むようにと先生に言われて診察は終わった。

 

 家に帰ってからは部屋とトイレとの往復だった。お昼には酸っぱいのが食べたくなってポン酢のぶっかけうどんを少しだけ食べたけど、直ぐに戻してしまう。

 部屋では基本的にベッドに横になっていた。

 

「大丈夫?」

 

 いつの間にか優奈が学校から帰ってきていた。

 

「……しんどい」

 

 体を動かすことなく返事をする。

 

「うん……辛いね」

 

 心配した表情で覗き込んできた優奈が、額に張り付いた髪を除けてハンカチで汗を拭いてくれた。

 

「……ありがと」

 

 なんとか微笑むことができただろうか。

 

「翡翠姉から伝言よ。心拍が確認できたのならなるべく早く魂を移した方が良いみたい。明日の放課後、翡翠姉の家でするのはどうかだって。同じ内容のメッセージが入ってると思うけど……」

 

 そう言われて枕元のスマホが点滅していることに気づいた。

 画面を見ていると気持ち悪くなってしまうので、検診の結果を報告した後は、スマホを確認できてなかった。

 

「ごめん、見てなかった……うん、私はそれで大丈夫だよ」

 

「……? わかった。翡翠姉には返事しとくから無理はしないでね」

 

「うん」

 

 怪訝そうな顔をして優奈が部屋から出ていった。

 

 そう、これは予定通りのことだ。

 アリシアを救うために必要なこと。

 だけど……

 

 一人になった私は、両手で下腹部を押さえる。この中では新しい命が育っているはずだった。それは、私の子供。

 

「うぁ……」

 

 だけど、この子はあるべき形で産まれることは叶わない。明日胎児にアリシアの魂を移せば、本来この命に宿るはずの魂は生まれない。

 

 男のときは精子を、女になってからは卵子を、無為に体外へと排出してきた。

 魂が生まれる前の胎児にアリシアの魂を入れることも、それらと大きな違いはないだろうと考えていたんだ。

 

 でも、違った。

 エコーに映った小さな命は懸命に生きていることを主張しているように見えた。

 

「くっ……」

 

 ごめんねと、こぼしたくなるのをぐっと堪える。謝ることなんて許されない。これは一生抱えなくてはならない私の罪だ。

 

 これから、私がするのは産まれてくるその子供の可能性を奪うということ。人の親としては最低の行為だろう。

 

「うぐっ……」

 

 そんなことは、最初からわかっていたことなのに、私は何もわかっていなかった。

 頭の中がぐるぐるして、気持ち悪くて、涙が止まらない。

 

「ううぅ……うぁ……」

 

 結論は変わることはない。

 変えてしまえば何をしているのかわからなくなる。アリシアを助けると私自身が決めてやってきたことだ。

 

 でも、お腹の中にいるのは私の赤ちゃん。

 動いてた、生きていた。

 私は……

 

「うぷっ……」

 

 体を引きずってトイレに移動する。

 便器を覗き込むように座り込んで、吐いた。

 

 どれだけ出しても楽にならない。

 でも、吐いて体の苦しみでいっぱいになっているときは他のことを考えなくてすんだ。

 

「……アリス、大丈夫?」

 

「ごめん、優奈……トイレ使う?」

 

「下の使うから平気。背中撫でる?」

 

「ううん……今は一人でいたい」

 

 優奈や翡翠に打ち明けたら慰めてくれるのだろう。だけど、私はそうしたくなかった。

 

 この苦しみは私の物だから。

 

 本当に自己満足で偽善なのだけど。

 今日は、今日だけは、私の中にある命のことだけを考えていたかった。

 



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魂転移

5月16日 火曜日 5週6日

 

 気持ち悪さで目覚める。というか、あまり眠れていない。トイレとベッドを往復していたら、いつの間にか力尽きていた。

 

 今日も学校を休んで、放課後まで横になって過ごした。つわりは昨日よりは落ち着いていて、その分眠気がやってきて、日中ずっと眠っていた。

 

 夕方に優奈が学校から帰ってきてから、アリシアの魂を胎児に移すために私たちは翡翠の家に向かう。

 

「なにも家族全員で来なくても……」

 

 優奈はともかくとして父さんと母さんも一緒だった。

 

「何があるかわからないんでしょ? 私達は何もできないかもしれないけど、せめて側にはいさせて」

 

「……わかった」

 

 そう言われると何も言い返せない。

 言葉少なに神社への道を歩く。

 

「……昔はよくこうして家族でこの道を歩いたっけ」

 

 あの頃と同じ視界で、家族の背中を見上げる。

 

「……大丈夫か?」

 

 父さんが心配して振り返っていた。

 無意識に立ち止まってしまっていたらしい。

 

「うん、平気」

 

 だけど、言葉とは裏腹に涙がぽろぽろこぼれてしまう。

 

「アリス……辛いのなら日を改めるか?」

 

「本当、大丈夫だから!」

 

 私は慌てて両手を振る。

 

「ただほんと……なんというか、いろいろ考えちゃって」

 

 自然に私の選択を受け入れて応援してくれる家族のこと。

 

 将来一緒にこの道をアリシアと一緒に歩けるのだろうかということ。

 

 ……そして、家族として受け入れることができなかったこの子のこと。

 

 ありがたくて、嬉しくて、悲しい。

 

 私は目をつむってお腹の前で両手を組んだ。

 

「どうしたの? 泣き笑いみたいな顔して」

 

「……私は幸せだなって」

 

 叶うなら、いつかちゃんとこの子を産んであげたい。私たちの家族として迎えてあげたい――そう思った。

 

 そのときに宿る魂は、この子に宿るはずの魂とは同じものではないのかもしれないけれど。

 

   ※ ※ ※

 

 そこは、神社の敷地内にある町内の寄り合い等で使われている集会所だった。個人的には男だった頃におじさんによく稽古をつけてもらっていた印象が強い。

 集会所には意外な人間が居た。

 

「げっ、エイモック……!?」

 

 エイモックが畳間の中心で胡座を組んで新聞を読んでいた。金髪碧眼にパンクっぽい服装の男が純和風の室内で寛いでいる姿は違和感しかない。

 

「なんだ、請われてわざわざ来てやったこの我《われ》にそのような態度は」

 

「だ、誰がそんな――!」

 

「私が呼んだの」

 

 巫女服姿の翡翠が傍らから出てきてそう答えた。

 

「翡翠!」

 

 あれほど、エイモックと関わるのは危険だと言ったのに。

 非難されることは承知の上だったのだろう、翡翠は私が声を上げても平然としていた。そんな私たちの様子をにやにやと見ているエイモックにイラッとする。

 

「あなたがエイモックさんですか?」

 

 横から父さんが声を掛けた。

 

「そうだ。貴様は?」

 

「私は如月幾男、アリスたちの父親です」

 

「ふん……」

 

「本日はお越し頂きありがとうございます。単刀直入にお伺いしますが、うちの娘たちのサポートをお願いできませんでしょうか?」

 

「今日は興味本位で来ただけだ。人助けなどするつもりはない。慈善事業をしてやる義理もないしな」

 

「では、メリットを提供するのであればいかがでしょう。さしあたって、あなたがこの世界で生きるために必要なものを」

 

「金か……?」

 

「それでも、それ以外でも」

 

「……ほほう? 我のことは聞いているのであろう。我は清廉潔白な身などではない。この国の法もいくつも犯している無法者なのだぞ?」

 

「――俺は親だから、娘たちの幸せのために清濁併せ呑むくらい覚悟してるさ。あなたはこの世界で唯一無二の闇魔法のエキスパートだ。私は魔法に関して門外漢で、娘たちの一大事に何もしてやれない……だから、あなたにお願いしたい」

 

「ふん……我一人が生きるには不自由はしてはいないが……貴様のような男に貸しを作っておくのも悪くはないか」

 

 エイモックはそう言って不敵に笑う。

 

「ありがとう。では、これは手付けということで」

 

 父さんは懐から封筒を取り出してエイモックの前に置いた。随分と厚さがある……もし、中身が1万円札だとしたら百万円くらいあるんじゃないだろうか。

 エイモックはそれを無造作に手で掴むと、ジャケットのポケットに突っ込んだ。半分封筒が出たままになっている。

 

『ちょ……父さん!? この男を信頼するっての?』

 

 父さんに念話で問い掛ける。

 

『信用するのは人格ではなく損得勘定だ。エイモックについては俺の方でいろいろ調べてみた。この男は無茶苦茶に見えて、本質的には実利を重んじる性格をしている』

 

『でも、私はできれば自分一人でやりたい……』

 

 アリシアの魂を他の誰にも触らせたくなかった。そのために自分に適正の無い闇魔法の練習までしてきたのだ。

 

『別に一人でできるならそれでいい。それにしても、魂を扱うなんて何が起こるかわからないんだ。何かがあったときに専門家が一緒に居た方が安心できる』

 

 いつ寝首を掻かれるのかわからなくて逆に不安なのだけど……まぁ、私に対する恨みがあれは晴らす機会は何度でもあっただろうし今更か。

 

『失敗なんてできない、だろ?』

 

『う、うん……』

 

 覚悟を決めよう。

 

 魂を転移させるための準備をする。

 集会所の入口に鍵をかけて、遮光カーテンを引いた後、中央に敷布団を整えた。

 建物に残ったのは最低限の人数、私の他には魂が見える翡翠と闇魔法が使えるエイモックの二人。

 これは、私が集中できるようにとのことだった。

 

 照明器具による灯りの下で、私は敷布団に横になり、セットアップの上着と肌着を一緒に胸元まで捲り上げた。

 ブラは既に外してあるので胸が直に外気に晒される。傍らに腰を下ろしたエイモックの不躾な視線が気になるが、無視する。

 

「ほぅ……少し見ないうちに随分体つきが変わったな。女になったということか」

 

「うるさいよ」

 

 エイモックをにらみつける。翡翠もエイモックを氷点下の視線をぶつけて無言で非難していた。

 

 エイモックが肩をすくめて心外と言った顔をする。どうやらあれで褒めたつもりだったらしい。このセクハラ野郎。

 

 ……気を取り直して。

 

 目を閉じて両方の手のひらを胸元に当てる。心臓の鼓動を感じつつ、手から体内に魔力を通して魂の状態を確認した。

 

「魂操作《ソウル・マニピュレータ》」

 

 手先から伸ばした魔法の手を自分の体内に静かに沈めていく。

 以前はわからなかったけど、ずぶずぶと体に埋まっていくイメージはアレに似ている。

 必死に体が反応してしまわないように抑える。

 

「んっ……」

 

 深呼吸しながら、ゆっくりと進める。

 冷静に心を落ち着けて。

 

「ふぁっ……!」

 

 不意に疑似手の指先が自分自身の魂に触れた。指の感覚を確かめるようにひと撫でしてみると、なんとも言えない感覚に全身がぴくんと震える。

 

「――っ」

 

 剥き出しの魂は敏感すぎて危険だ。

 自重しないと……今は一人で自室に居る訳じゃないのだ。

 それに今日の目的はこちらではない。

 

 疑似手を動かして、隅の方で弱々しく輝いて見える魂を手のひらで包み込んだ。アリシアの魂。優しく暖かいイメージが擬似手を通して伝わってくる。

 

 それから、胎児の鼓動を探った。

 だけど、直ぐには見つからない。体内に複数の鼓動があるせいで特定が難しいのだと思う。

 耳を澄まして聞き分けて、探り当てる。自分の中にあって自分ではない命の所在を。

 

『……あった』

 

 鼓動に合わせて明滅している暖かいイメージを体の内側に見つけた。存在がぶれているように感じるのは、自分自身との境界が曖昧だからだろうか?

 

 神経を研ぎませて胎児の輪郭を把握した。

 

 ここからが本番、心臓付近にあるアリシアの魂を動かして胎児に宿らせる作業となる。

 

 一旦深呼吸をして呼吸を整えると、魂を包み込んだ疑似手に同期している手を胸元からゆっくり下げていく。

 

 疑似手に包まれてアリシアの魂が動きだす。

 剥き出しの魂は、まるで殻のない生卵のように不安定で。一瞬の気の緩みが取り返しのつかないことになりかねなかった。

 

 慎重に慎重に、ゆっくりと動かしていく。

 緊張の連続。

 

 ようやく下腹部まで到達した。

 どれくらいの時間が経ったのかわからない。

 

「……あっ」

 

 アリシアの魂を胎児にそっと押し当てると、しゅるしゅると胎児の中に魂が吸い込まれていった。

 

 心配になりながら様子を見ていると、胎児の中に収まった魂が落ち着いて穏やかな光を放ち始める。正確に言うとそんなイメージが伝わってきた。

 

「――終わったな」

 

 近くでエイモックの声がする。いつの間にかエイモックの手が私の肩に触れていた。途中から魔力を通すのが楽になった風に感じたのは多分エイモックが何かしてくれたおかげなのだろう。

 

「アリシアの魂が胎児に定着するのを確認したわ、お疲れ様……おめでとう、アリス」

 

 翡翠の声に安心して体中の力が抜ける。魔法を解除し疑似手を霧散させて、深く息を吐いた。

 

 翡翠が額の汗をハンカチで拭って、張り付いた髪の房を避けてくれた。めくれ上がったトップスを直してくれるのをされるがままに受けながら、手でお腹を撫でる。

 

「成功……したんだ……」

 

 ほっとした。

 登山で言うならまだ登山口に差し掛かったあたりかもしれないけれど、ここまでは来られたのだ。

 

 一通り私の身だしなみを整えてから、翡翠は立ち上がる。

 

「みんなを呼んでくるわね」

 

 宣言した後、翡翠はエイモックを何かいいたげに見るが、ヤツは我関せずで座ったままだった。翡翠は諦めて人を呼びに行くことにしたようだ。

 

「貴様はこれで良かったのか?」

 

 翡翠が立ち去って、エイモックと二人になったとたん、そう問いかけられた。

 

「どういうこと?」

 

「貴様は魔王様を打ち倒した英雄だ。本来であれば富も栄誉も思うがままであっただろうに」

 

「異世界《あっち》に未練はないよ。俺は元よりこの世界に帰るために戦ってたから」

 

「何も得ることもなく、自らの体すら失って不満はないのか。貴様の力があればこの世界を征することもできたのではないか?」

 

「特に興味はないな。俺が戦っていたのは他者を従えるためなんかじゃないし……あぁ、でも一人の女の子に良いところを見せたかったというのはあるかな?」

 

 彼女が居たから俺は戦えた。彼女の前では強がっていたいと思ったから頑張れた。

 ……結果は、随分と弱いところや情けないところも見られてしまったように思うけれど。

 

「それに、何も得られなかったわけじゃない。あっちでできた唯一の未練だった彼女が一緒に来てくれた」

 

「……それが、水の巫女なのか?」

 

「そうだよ」

 

 お腹を撫でながら言う。

 アリシアと異世界で生きるか、家族の居るこの世界に戻ってくるか、一年の冒険の中で俺は答えを出せないでいた。それだけアリシアの存在は俺の中で大きくなっていたのだ。

 

 こんなことになったけど、結果としてアリシアと家族を天秤にかけなくて済んで安心したのは事実だった。

 その分、アリシアには申し訳ないことをしたと思うけど。

 

「我には到底理解できぬ」

 

「仕方ないだろ、好きになったんだから」

 

「惚れた腫れたで魔王様は討たれたと言うのか、お前は?」

 

「んー、そうと言えばそうなるのかも?」

 

 実際のところそれ以外にも人々を救いたいとかそういう気持ちもあったけれど、一番はやっぱり、うん。

 

「くっ、くくっ! なんとも、いやはや……色恋、色恋か! はっ! ははっ! はーっはっはっ!」

 

 何かツボにはまったのか、エイモックはしばらく笑い続けていた。

 

「……気を悪くしたならすまん」

 

「気にするな……人族の未来のためとかそんなのより余程納得のいく答えだった」

 

 エイモックが立ち上がり背を向ける。

 

「帰るのか?」

 

「我の用事は終わったからな」

 

「……ありがとう」

 

「ふん……出産は人の生の中で最大級の苦行であると聞く。貴様は我を打ち倒したのだ、それくらいの試練は乗り越えてみせよ」

 

「……おう」

 

 背を向けたまま片手を上げて出ていくエイモック。すれ違いで優奈が慌てた表情でやってきたのは、さっきのエイモックの笑い声に驚いたからのようだ。

 蒼汰が出ていくエイモックに何か突っかかっているようだが相手にされていない。

 

 鮮やかな日常の喧騒を眺めながら、私は目を細める。お腹に触れながら目を閉じて一瞬、誰にも聞こえないように「またね」と小さく呟いた。

 



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ふたり

5月22日 月曜日 6週5日

 

 魂の転移も無事に終わり。後はアリシアの魂が宿ったお腹の中の子を出産するだけ。

 

 ……そんな風に思っていた。

 

「もう一人いますね」

 

 3度目となる妊婦健診のエコー検査で、病院の先生にそんなことを言われた。

 

 妊娠しているのだから、お腹の中にもう一人居るのは当たり前なんじゃ……と思っていたら、そういうことではないらしい。

 

「前回は確認できなかった胎嚢がもうひとつあります。胎児の心拍も確認できました。双子です」

 

「えっ……双子?」

 

 その意味を理解すると同時に頭が真っ白になる。

 

 それから先生にいろいろ話しかけられたけど、私はしどろもどろになって反応できなかった。

 見かねた母さんが応対してくれて、私は先生と母さんが話しているのを上の空で聞いていた。

 

 帰りの車でもまだぼーっとしていて、つわりの気持ち悪さも相まって考えがまとまらない。

 

 母さんも私の体調を確認するくらいで、今後のことについて話を振ってくることはなくて。まるで病院でのことは夢だったような……

 

「まぁ、そんな訳はないのだけれど」

 

 家に帰ってきてお腹に気遣いながら自室のベッドに横になった私に、現実が容赦なく襲いかかってくる。

 

 私の中に双子の赤ちゃんが居る。

 アリシアの魂を転移させた胎児ともう一人。

 

「……どうしよう」

 

 頭がぼーっとしている。

 

「……トイレ」

 

 妊娠してからおしっこが近くなった。子供を産むために私の体は否応なしに変わっていく。

 

 用を足して一階に降りる。

 リビングには母さんが居て、私がテーブルに座ると紅茶を入れてくれた。

 

 レモンが混じった紅茶のいい匂い。口をつけると、体に染みわたる暖かさにほっとする。

 母さんはテーブルの向かい側に自分の分の紅茶を置いて座った。

 

「少しは落ち着いたかしら」

 

「……うん」

 

 お茶を飲みながらしばし無言。母さんは急かすことなく私の発言を待ってくれている。

 

「母さん。私、どうすれば……」

 

 ようやく出てきたのはそんな言葉だった。

 

「先生の話は聞いていた?」

 

「ごめん……頭に入ってない」

 

「仕方ないわ。思いもよらぬことでショックだったでしょうし」

 

 母さんはそこで一旦話を中断して紅茶を口に運ぶ。カップを置く音がカチャリと響いた。

 

「先生の話によると、双子の出産はリスクが高くなるんだって……あなたは初産で小柄だから特に」

 

「うん」

 

 私のお腹はとても小さい。ご飯も以前より全然量が少なくなった。

 ここに子供が入ることも信じられないのに、それが二人だなんて想像すらできない。

 

「医学が進歩したと言ってもお産が命懸けな事に変わりはないわ。だから、ね……私は、手術で中の子を減らすのがいいと思うの」

 

「……え?」

 

 母さんから出た思いもよらぬ提案に私は戸惑う。

 

「減らすって……どうやって?」

 

「薬を注射するのよ。そうすれば、もう一人に影響させずに中の子を減らすことができるわ」

 

「そんな、そんなのって……」

 

 思わずお腹を押さえる。

 手が震えていた。

 

「残酷に聞こえるかもしれないけど、無理をすれば、あなたとアリシアのどちらか――最悪、二人ともが命を落しかねないの」

 

 母さんの表情に迷いはない。そのことが怖く思えて、私は顔を逸した。

 

「強要するつもりはないわ。だけど、私がそうしてほしいと望んでいるって事は覚えておいて。私はもう二度とあなたを失いたくない」

 

「……うん」

 

「直ぐに返事しなくていい。時間はまだあるから、よく考えて決めなさい」

 

 話は終わりとばかりに、母さんは再びティーカップを口元に運ぶ。

 

 私はしばらく俯いたまま動けなかった。

 半分くらい残った紅茶の水面に映る自分自身が視界に入る――酷い顔をしていた。

 

 やがて、私はなんとか立ち上がると、逃げ出すようにリビングから抜け出した。おぼつかない足取りのまま、二階の自分の部屋まで戻る。

 

 お腹に気遣いながらベッドに横になった。

 手は自然とお腹の上に。

 しばらくそのまま、ぼーっと何も考えないですごす。

 

 やがて、枕元のスマホを手に取って検索画面を立ち上げる。

 

 最初に調べたのは、双子の出産のこと。

 母体への負担が大きくなるだけじゃなくて、子供にも影響が出てくるかもしれない。流産や早産になるリスクも高くなるらしい。

 

 それから、子供を減らすことについて。

 胎児を減らす手術は減胎手術と言って、複数の子供を妊娠して出産のリスクが高い場合に行われるそうだ。

 一般的には3人以上妊娠した場合に行われることが多いようだけど、私の場合は一人の出産ですらリスクが高くなるので、先生は私に手術を勧めたのだろう。

 

 手術は大体妊娠11週に行われることが多いらしい。

 今は7週手前なので手術をするなら約一ヶ月後になる。手術の予約があるからもっと早めに決めないといけないのだろうけど。

 何故11週なのかというと、妊娠週数が少ないと流産になる危険性が高くなり、逆に妊娠12週からは死産扱いとなり死亡届が必要になるから、というのが主な理由らしい。

 

「死んだことにもならないんだ……」

 

 記録に残らない命。

 胸がチクリと痛む。

 私はすでに生まれてくるはずだった命をひとつ奪っている。

 

「全部、私の我儘。私がアリシアにもう一度会いたいから……」

 

 その為には手段を選ばない、そう決めた。

 それを貫くのなら、答えは決まっている。

 

 双子を出産しようとすれば、私だけじゃなくて、アリシアの命を危険に晒すことになるのだから。

 

 それに蒼汰との関係も問題だ。

 今は本当にギリギリのところにいると思う。これから適切な距離を置けば、初体験のことは思い出にして、二人の関係を元に戻せなくはないくらいの。

 だけど、この子を産んでしまえば蒼汰を完全に父親にしてしまう。魂を転移させたアリシアを産むのと違ってごまかしはきかない。

 蒼汰は責任を取ろうとするだろう。そうなれば、あいつが将来恋人を作ったり結婚するにあたっての大きな障害を作ってしまう。

 

「だけど、どうしたら……」

 

 私はお腹を撫でる。

 

 この中に赤ちゃんがいる。

 最愛の人アリシアが宿った命。

 そして、もうひとり。

 私の子供。

 

 ――守らなきゃ。

 

「……え?」

 

 自然に出てきた感情に戸惑う。

 

 それは、いままで悩んでいたこととか、いろいろ調べたリスクのこととかを全部すっとばしていて。

 だけど、一度出てきた想いは溢れ出して膨らんで、胸の中を埋め尽くしてしまう。

 

「――ああ」

 

 生きていた。

 エコーで見えた小さな影は、力強く脈動していて、必死にここにいると主張していた。

 

「諦めることなんて……できないよ」

 

 可能性があるのなら。

 リスクや問題、抱えないといけないことはいっぱいで。

 

 でも――

 

「私は、産みたい」

 

 親になることは覚悟していたはずだった。今まで何度も確認したし、確認もされた。

 

 だけど、いまいち実感が沸かなかったのも事実だった。

 産まれてくるのはアリシアで、彼女はずっと一緒に旅してきた俺の頼もしいパートナーだったから。

 

 でも、この子は違う。

 私の選択によっては消えてしまう、一人では生きていけない儚い命。

 私の子供。

 

「だから、私が守らなきゃ」

 

 アリシアにリスクを負わせてしまうけれど、そのことに対する罪悪感はそれほど無かった。

 

 アリシアは減胎を望まない。そして、もしお腹の子を減らさないといけないのなら、かわりに自分を犠牲にして欲しいと彼女は願うはずだ。

 

「私の自分勝手な思い込みかもしれないけれど……」

 

 多分、アリシアはわかってくれるはず。

 そんな彼女だから、俺は――

 

 私はお腹を撫でる。

 切なくて、愛おしい感情が胸を締めつける。

 

 迷惑は元よりかけている。家族、蒼汰、翡翠、そしてアリシアに。

 それらは、全部アリシアにもう一度会いたいという私の我儘が原因だった。

 

「その我儘にもう一人分付け加えさせて貰おう」

 

 いろいろと申し訳ない気持ちはあるけど、それでも――

 

「二人とも産んであげたいんだ」

 

 だって、私はこの子たちの母親なのだから。

 



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新しい家族

「アリスがしたいようにすればいいと思う。あたしは応援するよ」

 

 学校から帰ってきた優奈に今日あったあれこれを説明すると、想像していた通りの反応が帰ってきて安心した。

 

「あたしはいつでもアリスの味方だからね」

 

「ありがとう、優奈」

 

「でも、そうなると説明と説得をしなきゃだね。うちの両親に蒼兄と翡翠姉、それからおじさんかぁ……」

 

 二人してうーんと唸る。

 

「まずは蒼兄と翡翠姉かな」

 

「そうだね」

 

 大人を説得するには材料が必要だ。子供たちの中で話がまとまっていることは、その大前提だろう。

 

 話したいことがあるから家に行く旨スマホでメッセージを送ると、二人共から自分がそっちに行くから大人しく家で待つようにと帰ってきた。

 

「なんだか気を遣われるのって変な感じ」

 

「早く慣れてよね、アリスはもう自分だけの体じゃないんだから。無理するとお腹の赤ちゃんたちに響くよ」

 

「うん、気をつけるよ」

 

 ありがちな台詞だけど、いざ自分が言われると新鮮な驚きがあった。

 

 ベッドで横になって安静にごろごろしていると、蒼汰と翡翠がやってきた。

 二人一緒に来たのにお互い視線を合わせようとしないあたり、兄妹仲は相変わらずらしい。

 

「おう、大事な話ってなんだ?」

 

「大丈夫、アリス? その……もしかして……」

 

 ああ、魂が見える翡翠にはわかっちゃうんだ。

 

「えっと、お腹の中に赤ちゃんがもう一人居たんだ」

 

 私がお腹をさすりながらそう言うと、翡翠は申し訳なさそうに顔を歪める。

 

「ごめんなさい。もしかしてと思っていたけど、確証がもてなくて私……」

 

「翡翠が謝ることなんてないよ。早く知ったからどうなるものでもないし……それより、私はこの子たちを産みたいと思っているんだ。それで、二人にも協力して貰えたら嬉しいのだけれど」

 

 それから、双子を出産するリスクやそれに反対する母さんのこと。そして、私の気持ちを二人に説明した。

 

「そうか……それじゃあ、俺も覚悟を決めないとな。父親になるんだし」

 

 話を聞いた蒼汰は、事も無げにそんなことを言う。

 

「ちょっ、ちょっと待って!? 産みたいのは私のわがままだから、無理に蒼汰が父親にならなくても――」

 

「でも、その子はアリシアさんと違って俺の子なんだろ? だったら、認知するのは当たり前じゃないか」

 

「そ、そうは言うけどさ……それだと、蒼汰が結婚できなくなっちゃうかもしれないんだよ?」

 

 両家で話し合った結果、もし私が無事にアリシアの魂を移した子を出産できたときは、戸籍には母親だけ登録して、父親の名前は登録しないことにしていた。子供がいるとなれば蒼汰が将来女性と付き合ったり結婚したりするときの障害になるからだ。

 

「まぁ、大丈夫だろ」

 

 それなのに蒼汰の態度は変わらない。

 でも、ここはちゃんと話しておかないと。

 

「それは私のことが好きだから? でも、私はその気持ちに応えられないよ。蒼汰は親友で大切な人だけど、付き合うとか恋人とかは……考えられないもん」

 

 突き放すような言い方になってしまうが、これは私の本音だった。中途半端な希望は残さない方がいい。今はいいかもしれないけど、先々後悔するかもしれないのは蒼汰なのだ。

 

「んー、それはあまり関係ないな」

 

「じゃあ、なんで、そんなにあっさり受け入れられるのさ」

 

「別にあっさりって訳じゃないぜ? もし、父親にならないままでその子が大きくなったら、俺はその子に顔向けできなくなっちまうだろ?」

 

「そ、それは……」

 

「いろんな事情で父親が居ない家庭はあるさ、望まれなかったりすることも。でも、この子はそうじゃないだろ? 俺とお前が望んだ結果のことだから。俺にも責任取らせてくれよ」

 

「……そうだね」

 

 私は自分の都合ばかり考えていたけれど、蒼汰は産まれてくる子供のことを考えていた。親としての意識が足りないことを自覚させられて少しへこんだ。

 

「……それに、な。俺が本当に望んでいるのは恋人じゃないんじゃないかって最近気がついたんだ」

 

「……?」

 

「俺はお前と家族になりたい。いままで通り二人で遊んで馬鹿やれるような、そんな関係に」

 

「……家族? 元々蒼汰は大切な幼馴染だし、家族同然だとは思ってるけど……」

 

 それは、今までと何が違うというのだろう。蒼汰が何を望んでいるのかがいまいちわからなかった。

 

「俺とお前は一番の親友だ。性別が変わってもそれは変わらなかったし、そのことが嬉しかった。けど、どちらかに恋人ができたら今まで通りって訳にはいかなくなるだろう?」

 

「……そう、かな?」

 

「そうだよ。少なくとも俺は嫌だぜ。彼女が幼馴染とはいえ男の家に一人で遊びに行ったりとかするの」

 

「それはーーそうかもしれないな」

 

「だから、今まで通りでいるために、お前と付き合えばいいんじゃないかって考えたんだ」

 

「ええと……抵抗はなかったの? だって、その……中身は俺なんだぜ?」

 

「正体がわかるまでは素直に惚れてたし、自分でも驚くくらいすんなり受け入れられたな。ちなみに男だった頃は微塵もそんな風には思ってなかったから、そこのところは勘違いしないでくれよ」

 

「そ、そうか……」

 

 蒼汰にとって、男の俺を好きになることと女になった私を好きになることは全然違うことのようだ。

 私の主観ではあまり違いはないのだけど。

 

「だから、な。子供ができたら俺が父親でお前が母親で、そしたら、家族になるだろう? それだったら、これからもずっと変わらず一緒にいられるんじゃないかって」

 

「家族、か。うん……」

 

 正直悪くないと思った。

 変わらない関係でいられるというのには正直惹かれるものがある。蒼汰の言う不安は私も感じていたことだったから。

 

 そんなとき――

 

「だ、だめぇ!!」

 

 と、翡翠が声を上げた。

 

「だめよ、そんなの!? 家族だなんて! 蒼汰ばっかり、ずるいわ!」

 

「……翡翠」

 

 普段冷静な翡翠が珍しく取り乱していた。

 

「蒼汰はそうやっていつも幾人を独り占めして……昔からそうだった。私だって幾人と遊びたかったのに! 恋人になって、今度こそ、ずっと一緒にいられるって思ったのに――!!」

 

 俺たち四人は物心ついた頃から一緒に遊んでいた。だけど、小学校に上がってからは蒼汰を含めた男同士で遊ぶことが多くて、そのことで翡翠と優奈からは度々文句を言われていた。

 その頃から長年積もった恨み辛みが噴出したようだった。

 

「だったらさ、お前も家族になればいいんじゃないか? 無理矢理の恋人なんかよりずっと良いと思うぞ」

 

「はぁ!?」

 

 側で見ていてびびるほどの怒気が込められた翡翠の声。だけど、蒼汰は臆した様子もなく続ける。

 

「アリスが好きなのはアリシアさんだ。関係を押し付けたところで本当の恋人にはなれやしない。そんなことは、お前もわかっているんだろ?」

 

「そんなことない! 今はそうかもしれないけど、いつかはーー」

 

「このまま歪な関係を続ければぎくしゃくして、余計に距離が離れるだけだと思うぞ。俺はどんな形でもアリスを支えたい。だから、家族になりたいって思ったんだ」

 

「で、でも……私には何もないわ。蒼汰と違って子供の繋がりも、なにも……」

 

「前に言ってただろ。俺の子供は双子の妹であるお前の子供みたいなものだって」

 

「でも、そんなの……」

 

「母親が二人でいいじゃないか。俺が父親でアリスとお前が母親で、そんな感じで家族にならないか?」

 

「……アリスはどう考えているの?」

 

「二人と家族になれるなら、私は嬉しいよ」

 

 それは、裏返せば恋人を続けることへの緩やかな拒絶の意思表示でもある。

 恋人でいることが嫌な訳じゃない。ただ、翡翠の好きに対して、自分は満足に返せていないことが申し訳なかった。翡翠には申し訳ないけれど、やっぱり好きなのはアリシアだから……

 

 ほんの少しの間沈黙して。

 

「……わかったわ」

 

 やがて、いつも通りの口調で翡翠はそう答えた。

 

 好きと言ってくれている翡翠の気持ちを拒絶するのは何度目だろう。こればかりは、何度経験しても慣れそうにない。

 

「はいはい、はーい! じゃあ、私も家族になるー! あたしだけ仲間外れは嫌だもん!」

 

 重くなりかけた空気を破ったのは元気の良い優奈の声だった。

 

「……優奈は元から家族でしょうに」

 

「みんなで新しい家族を作るって話でしょ? だったらあたしも一緒がいい! 私もアリスの子供のお母さんになる!」

 

 ……おばさんって呼ばれたくないだけじゃないかな。

 

「私は別にいいけど」

 

 二人も特に異議はないようで、この四人と産まれてくる子供で新しく家族を作ることになった。

 

 と言っても、住むところはそれぞれの家のままだし、表面的には何が変わるという訳じゃない。とりあえず、高校卒業するまでは今のままで、それからのことは追い追い考えようということになった。

 

「それじゃあ、誓いの儀式をやろうよ!」

 

 優奈がそんなことを言い出して。部活の出陣式のように、円陣を組んでみんなが右手を出して重ねる。

 

「それじゃあ、アリス。宣誓よろしく!」

 

「え!? わ、私……!?」

 

 無理振りだ。ええと……

 

「私たちは家族になる。例えこの先、歩む道が別々になったとしても、私たちが家族であることに変わりはない」

 

 そうあって欲しいと願いを込めて。

 

「これからしばらくは私が助けられてばかりになると思う……だけど、その分はいつか返せたらって思ってる」

 

「家族なんだから貸し借りなんて気にしないでいいわよ」

 

「だな」

 

 目頭が熱くなる。

 

「……みんな、ありがとう。それから、産まれてくる子供たちのことも頼む。家族として、親として、見守ってくれると嬉しい」

 

 三人の顔を見回す。全員が私を優しい目で見ていてなんだかくすぐったい。

 

「それじゃあ――これからもよろしく!」

 

 手を押し込んでから跳ね上げた。

 

「よろしくー!」

 

「おう」

 

「よろしく」

 

 それから、全員で母さんに報告に行った。

 あなた達がそう決めたのならと、母さんは割とあっさり双子を産むことを認めてくれた。

 

 その後、父さんやおじさんからの同意も得て、私たちは家族になった。

 



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一番の親友

5月23日 火曜日 6週6日

 

「ずるいですわ!」

 

 昨日あったことを涼花に事情を説明したら、返ってきたのは抗議の言葉だった。

 

「みんなで家族なんて、羨ましいです」

 

「えっと……じゃあ、涼花も一緒に家族になる?」

 

 そんな提案を口にしていた。

 涼花と家族になれたなら嬉しい。他ならぬ涼花なら、みんなも受け入れてくれるんじゃないだろうか。

 

「残念ですが、それは難しいですわ。わたくしは一人娘で家業の跡取りを期待されていますの。皆さんの家族になると言うのなら、両親の期待を裏切ることになります。そこまでの覚悟は今のわたくしにはありませんもの」

 

「そうか。ごめん、そうだよね……」

 

 涼花は彼女の家族を大切に想っていて、だからこそ、蒼汰とも気軽に付き合うという選択ができなかったくらいなのだ。

 軽率だったと反省する。家族というものを少し軽く考えていたかもしれない。

 

「でも、こうして全部話してくれて家族に誘ってくれたのは嬉しかったですわ。ありがとうございます」

 

「涼花……」

 

「ーーでもでもっ! やっばり、わたくしだけ仲間外れなのは、寂しいですわ!」

 

 言いながら涼花は立ち上がる。

 そのまま、私の後ろにまわって、きゅっと抱き締められた。後頭部が高級天然クッションに埋まる。

 

「ほ、ほら……涼花は私の一番の親友だから! 家族以外で私の事情を知ってるのは涼花だけだし」

 

「……なんだか、繰り上げられた感が否めないのですけれど」

 

「そ、それは……」

 

「でも、そうですわね……一番の親友。うん、悪くない響きですわ」

 

 一番、一番と涼香は何度か満足気に小さく口にする。私の親友かわいい。

 

「それにしても、アリスさん。最近こうやって抱きしめても、前みたいにうろたえたりしなくなりましたね」

 

「それは、まぁ……」

 

「わたくしのおっぱいに飽きちゃいました?」

 

「ぶほっ!? な、ななっ!? ――なんで!?」

 

「おっぱいが嫌いな殿方はいないと教えて下さったのはアリスさんですわ。それとも、やっぱり翡翠さんの方が良いのでしょうか?」

 

 そう言いながら涼花の上半身が下がり、押しつけられたままの柔らかさが、後頭部から背中へと移動する。

 

「違うくて!? 慣れただけで飽きたとか、そんなことはありえーーあっ、どっちが良いとかじゃなくて、おっぱいは全部尊いから!」

 

「そんなに慌てて。アリスさんかわいい」

 

 くすぐったいから、耳元でささやくのはやめて。

 

「な、なんでずっとくっついてるの!?」

 

 親友同士とはいえ距離感おかしくない!?

 

「女の子同士ならこんなくらいは普通ですわ。それに、今はアリスさんは誰ともお付き合いされていないのでしょう?」

 

「そ、それは……いや、私にはアリシアがいるから、その……」

 

「冗談ですわ……ふふっ、ちょっと悔しかったので、からかっちゃいました」

 

 心臓に悪い。

 最近涼花は二人きりのときに私のことをからかう頻度が高くなっている気がする。

 私が元男だと知っているのに無防備すぎじゃないかな? 涼花のことが心配になる。

 男なんてみんな羊の皮を被った狼なんだからね!

 

「……えーと、そろそろ離してくれない?」

 

 襲っちゃうぞ、がおー

 

「そうですね。それじゃあーー」

 

 背中から涼花の体が離れたかと思うと、私の頭部が涼花の手で優しく後方に導かれてる。

 ぽふんと涼花の膝に受け止められて、膝枕の体勢になった。

 

「えっと……?」

 

 上下逆さになった涼花が私を見下ろしている。涼花は両手で私の顔を包み込んで、指先でふにふにと頬をつついて弄んでいた。

 されるがまま、抵抗はしない。涼花が私に害意のある行為なんてしてくるはずがないので。

 くすぐったさに目を細める。

 

「涼花……?」

 

 指の動きが止まった。

 さっきから無言で無表情なのが少しだけ怖い。涼花は私の心の中まで見透かすようにじーっと見ている。

 

「アリスさんは強いのですね……」

 

「えっと……なんで?」

 

「わたくしは妊娠することが少し怖いのです」

 

 ぽつんと罪を告白するかのように涼花は言った。

 

「小さい頃からわたくしは両親に跡取りを期待されていましたの」

 

 別にそれが嫌だった訳ではないのです、と涼花は付け加える。結婚もことさら強制されている訳じゃなくて、涼花の選択に任せてくれているそうだ。

 そんな風に大切に思われているからこそ、できれば涼花も親の希望を叶えたいと考えているらしい。

 

「第二次成長期が来て、体の変化があってから妊娠出産をより意識するようになりました。この頃、男性を好きになることが怖いと思っていましたの。わたくしにとって人を好きになるということは、その人の子供を産む覚悟をすることと一緒でしたから」

 

 なんだか申し訳なくなる。だって、その頃の自分は、恋人ができたら気持ちいいエッチしたいくらいしか考えてなかった気がするので……男ってバカだね、うん。

 

「わたくしはこのまま人を好きになんてなれないんじゃないかと思ってました……ですが、その、不思議ですよね。本当に人を好きになったときは、そんな不安も迷いも微塵と感じずにストンと恋に落ちていたのですから」

 

 少し寂しそうに笑う涼花。

 わかってはいたけれど、涼花は本当に真剣に蒼汰のことを好きだったんだな。

 

「少し話がそれました……わたくしが言いたかったのは、女性はそうやって子供のころから妊娠出産を意識して育つのですが、アリスさんはそうじゃないってことですの」

 

「それは、まぁ……」

 

 昨年までは男だったのだから、自分が妊娠して出産するなんて考えるはずもない。

 

「突然女の子になったあなたが子供を産むことを受け入れるのに、どれだけの覚悟が必要だったのか想像もできませんの」

 

「好きな人のためだからね。ほら、涼花も人を好きになったら行動してたでしょ? あれときっと一緒のことなんだと思うよ」

 

 そんなに大それた覚悟はしていない。

 そりゃ、蒼汰とセックスするのはちょっと……いや、かなり抵抗はあったけど。

 

「それに、私は異世界に行ってたから。そこで割と肝は座ったかな」

 

「そういえば、アリスさんはそうでしたわね」

 

 異世界で冒険した日々。命懸けが日常だったあの世界で生きることと比べたら、妊娠出産も、多分なんとかなるかって思えるのだ。

 

「よかったら、異世界での話を聞かせてもらえますか?」

 

 そう言えば、涼花にはほとんだ話したことがなかった。

 

「いいよー」

 

 ええと、何から話そうか。

 大変だったことや辛いこともあったけど、今思い出すのは楽しかったこと。

 見るもの、聞くもの、触れるもの、食べるもの。何もかもが初めてのことばかりだった。

 そして、その経験がかけがえのない思い出になっているのは、隣で全部一緒になって楽しんでくれた女の子が居たからというのが大きい。

 

「……アリシアさんはあなたにとって本当に大切な方だったんですね」

 

「うん」

 

「お腹に触れてもいいですか?」

 

 涼花の手が制服のブラウス越しに私のお腹に触れた。まだ外からは目立った変化のないお腹を優しく撫でる。

 

「……ここに、いらっしゃいますのね」

 

「うん」

 

 不思議だね。

 

「わたくしも早くアリシアさんにお会いしたくなりました」

 

「仲良くなれると思うよ」

 

「楽しみです」

 



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母親の顔

5月29日 月曜日 7週5日

 

 授業中、静かな廊下を歩く。目的の場所に着くと私はドアをノックして、少し間を置いてから開けた。

 

「……ああ、君か」

 

 保健の先生が迎えてくれる。つわりの症状が出てから、私はここ保健室の常連になっていた。

 

「どれ、体の調子はどうだ……少し熱があるか?」

 

 先生の手が額に触れる。少し冷たいマニキュアが塗られた大人の女性の手。

 

「最近はずっとこんな感じなので……体調はあまり良くはないですけど、慣れました」

 

 心配そうな顔をする先生に私は笑顔で返す。体調が悪いのはつわりが原因なので、どうしようもないのだけれど、先生に言えるはずもない。

 

「ところで、今からコーヒーブレイクのつもりだったのだが……君も飲むかい?」

 

 先生の入れてくれるコーヒーは美味しい。何度か頂いたことがあるので知っている。

 でも、今はーー

 

「いえ、コーヒーは、その……お気持ちだけで、すみません」

 

 カフェインはお腹の子供に良くないと言われているので控えたかった。

 

「ふむ……そうか」

 

 保健の先生は奥の棚の上に置いてあるティーセットの準備を始める。電気ケトルには既に湯気が立ち昇っていた。

 

 ーー授業を休んで喫茶なんて少し罪悪感ありますね。でも、このコーヒーとても美味しいです。

 

 以前、ここでコーヒーを呼ばれたときのアリシアの言葉を思い出す。砂糖とミルクを多めに入れてもらったら、アリシアの舌でも美味しいと思えたんだよね。

 

 そんなことをぼんやり考えながら、並べられるカップが立てる音を聴いていた。

 

「それで、今は何週目なんだい?」

 

「えっと、もうすぐ8週目です」

 

「そうか」

 

 何気ない世間話のように交わされたやりとり。違和感は後からやってきて、

 

 ん……?

 

「え、ええ!? えええええ!?」

 

 い、今のって!?

 

「騒ぐのは良くないな。今は授業中だぞ? ーーほら、ほうじ茶だ。カフェインは入ってないから安心して」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 差し出されたコーヒーカップを受け取る。混乱した頭を落ち着けるため、とりあえずカップに口をつけた。

 

「あつぅーー!?」

 

「ほら、慌てて飲んだりするから……まずは、落ち着きたまえ」

 

「うぅ……」 

 

 あらためて少しづつお茶を口に含んで嚥下していく。

 乾いた口内が潤されて、体の内側が優しく温められる。

 時間を掛けて何度かそれを繰り返しているうちに、大分気持ちは落ち着きを取り戻していた。

 

「……どうして?」

 

「そんな風に愛おしそうにお腹を撫でていたら、ね? 他にもいろいろ推測できることはあったけど、一番はそれかな」

 

 アリシアのことを考えていたら、無意識にお腹を撫でてしまっていたらしい。

 失敗したなぁ……

 

「少しだけ話を聞かせて欲しい。相手の男は責任取ってくれるのかい?」

 

「はい」

 

「年上? 社会人?」

 

「いえ……詳しくは言えませんけど、その人はこの子の父親ーー家族になってくれるって言ってくれてます」

 

 自分が退学になったとしても、それが蒼汰に及ぶようなことはあってはならない。

 幸い誰が父親なのかなんて証拠が出てくるはずもないので、いくら関係を疑われようがシラを切り通せば問題ないだろう……蒼汰は嫌がりそうだけど。

 

「親御さんはこのことを?」

 

「知っています」

 

「反対されてない?」

 

「はい」

 

「そうか……それなら、よかった」

 

「……叱らないんですか?」

 

「叱って欲しいのかい?」

 

「いえ、そういう訳じゃないですけど……」

 

「悪い大人に騙されていないか心配だったけど、そうじゃないみたいだしな。その様子だと産むと決めているんだろう? 相手の男と親御さんとで話がついているなら、他人が口出しするようなことじゃない」

 

「そんな風に言われるなんて思っていませんでした。てっきり、高校生なのに妊娠なんてって怒られるのかと」

 

「体が未熟な状態で子供を産むというのはリスクのある行為だからね。ましてや学生ならいろいろと難しいこともある。だから、避妊はしっかりした方がいいのだけど……今君にそれを言っても仕方ないだろう?」

 

「ええと、私は自分の意志で妊娠を望んだんです。事情はちょっと言えないのですが……」

 

「そうか……それは、意外だな」

 

「驚きますよね、やっぱり」

 

 現役の女子高生が妊娠出産を望むなんて普通ではないと自分でも思う。事情を説明することなんてできないし、周囲に受け入れてもらえないのは仕方ない。

 それに、理解して欲しい人たちにはわかって貰えている。それ以上を望むのは贅沢だろう。

 

「でも、学校はどうするつもりだったんだ? 学校が君の妊娠出産を認めることは難しいだろう。親御さんはそれでもいいと?」

 

「本当は休学して子供を産んで、落ち着いたら復学をと考えていました……ですが、こうなった以上諦めます。元々難しい話でしたし」

 

 二度も高校に行かせてくれた両親には申し訳ないけど、ばれてしまったものは仕方ない。

 

「ああ、私は学校に報告はしないぞ?」

 

「え……?」

 

「私は校医だ、患者の個人情報は守秘義務がある。それに、私個人としては応援したいと思っているーーお腹を撫でているときの君は本当に幸せそうだったからな」

 

 無防備にアリシアのことを想っていたときの顔を見られていたのだと思うと顔が赤くなる。

 

「仕事柄、妊娠した女生徒から相談を受ける事はときどきあるんだ。だが、相手の男や家族、それから学校といった周囲が、彼女らの妊娠を受け入れるのはなかなか難しくてな……結果、学校を退学したり、中絶したり、望まない結果になって傷ついた子も多かった」

 

 先生は昔のことを思い出しているのか、少し遠い目をしていた。

 

「だからな、少なくとも私は君たちの味方でありたい。そう考えているんだーーまぁ、一介の校医である私にできることなんて、たかが知れているがね」

 

「そんなことないです! 先生にそう言ってもらえて頼もしく思います」

 

 食い気味に言うと先生は指で口元を掻きながら「そうか」と答えて、コーヒーを口に含んだ。

 

「それと、な。私は妊娠出産にはいろんな選択肢があっていいとも思っているんだ。学生だから、社会人になったばかりだから、仕事で責任のある立場だからーーそんなことを言っていたら、いつ子供を産んでいいんだってことになるだろう?」

 

「そう、かもしれませんね」

 

「少子化で子供を産むことが望まれているんだ。社会全体がもっと妊娠出産育児を受け入れていくべきだと思う」

 

 女性がいつ妊娠出産をするのかなんて、今まで考えたこともなかった。

 高校大学を出て、就職して、結婚して、仕事を辞めて出産ーーというのが全てじゃないってことくらいはわかるけど。

 

「……それにしても、君の場合は少し事情が特殊というか心配ではあるが」

 

「あはは……」

 

 私の体の成長具合を心配してくれているのだろう。先生には初潮が来たのが最近なことも知られている。

 

「ええと、その……実はお腹の中の子は双子なんです」

 

「……本当に大丈夫なのかね、それは?」

 

「がんばります」

 

 お腹を撫でながら、私はつとめて明るく先生に言った。

 先生は眉間を指で押さえて難しい顔をする。

 私のことを心配してくれているのがわかる――いい先生だ。

 

「……何を言っても無駄なんだろうな。君はもう母親の顔をしている」

 

「えっと……はい」

 

 ……母親の顔ってどんな顔なんだろう?

 私はちゃんと母親になれるのか。

 

「学校に居るときは私を頼ってもらってかまわない、遠慮せず積極的に利用するように。無理は禁物だからな」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 それから、先生はいろいろ私の手助けをしてくれるようになった。

 つわりで吐き気が酷いときに教職員用のトイレを使わせてくれたり、度々授業を抜けることを不審に思われないよう他の先生方に話をしてくれたり、中でも体育を見学できるように体育教師に話をつけてくれたのは本当に助かった。

 それに、雑談混じりでいろいろ相談に乗ってくれるのも嬉しかった。

 妊娠初期の検診は四週間毎で受けるようにと言われていて、その間お腹の中の状況がわからないのが不安だったから。出産こそ未経験とはいえ、保健教諭である先生の知識は豊富でありがたかった。

 



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二度目の夏

6月19日 月曜日 10週5日

 

 少しだけお腹がぽっこりと膨れてきた。まだまだ服を着たらわからない程度だけど。

 

 学校を休んで病院で一月ぶりの妊婦検診を受ける。

 エコーで見た胎児は、空豆のような形だったのが人っぽい形になっていて感動した。ちゃんと育っているのだ、二人とも。

 

 減胎手術をせずに二人を出産することは事前に母さんから電話で伝えてもらっていた。だから、今日はどこで出産するかの相談が主な話となる。

 と言っても、病院の先生との打ち合わせは基本的に母さんがしてくれるので、私はもっぱら話を聞いていたのだけど。

 

 学校に妊娠していることを隠すために、お腹が大きくなる妊娠中期以降は、地元から離れることにしている。

 元々は私の出身地になっている海外での出産も検討していたのだけどやめた。

 私は低身長かつ双子という難易度の高いハイリスク妊娠になるので、設備の整った国内の病院で出産に臨むのが良いのではないかという話になったからだ。

 

 母さんはそのことを「この子が落ち着ける環境で出産させたいと思っているんです」と先生に説明していた。

 先生はそれならと、心当たりの病院を紹介してくれた。その病院は、私は行ったことがないけど、有名な県庁所在地にあるようだ。

 父さんが現地の確認や住居の手配などを下調べをして、ここにするかどうか決めるらしい。

 

 病院の後はその足で市役所に向かった。病院で貰った妊娠届出書を提出するためだ。

 母さんや役所の人に手助けしてもらいながら届出を行う。役所の手続きを自分でしたのは初めてで、なんだか少し大人になった気がした。

 届出書の母親のところに私の名前を書くのはまだいいけれど、父親のところに蒼汰の名前を書くのは、なんだかとても複雑だった。

 追加の交付申請をして、母子健康手帳を2冊貰った。それは手のひらサイズの小冊子で、表紙には某有名キャラクターのイラストが入っている。

 ペラペラとページをめくると最初の方は妊娠のときの様子を、出産後は子供の成長を記録するようになっているらしい。

 予防接種の記録は大人になっても使うそうで、(幾人)の物は今でも母さんが大切に保管してあるとのことだった。

 まぁ、予防接種の記録はもう使えないのだけれど。今度、見せてもらおうっと。

 

 他にも大きい封筒を貰った。中にはいろいろと行政サービスやサポートなどの案内が入っている。

 その中に見覚えのある図柄のキーホルダーを見つけた。マタニティマーク、見た目で分かりづらい妊娠初期にそれとなく妊娠していることを周囲に伝えるための物だ。

 

 自分がこれを使う側になるなんてなぁ……想像もしていなかったよ、うん。

 

 だけど、学校では秘密にしている私が実際にこれを使うことは多分ないだろう。人に気遣って貰えない分は、自分で我が子を守らないとね。

 

6月23日 金曜日 11週2日

 

 この日の放課後、私は母さんに車で学校へ迎えに来てもらって、とある場所に向かった。

 そこは、海水浴場のある海岸、私が異世界から戻ってきた場所である。

 あの日からちょうど一年経ったことになる。

 

 私は制服姿のまま一人で海岸に佇む。海水浴にはまだ早い海岸は無人だった。

 母さんには車で待って貰っている。

 本当は一人で来たかったけれど、今の体で徒歩一時間くらいの距離を歩いて往復するのはダメだろう。

 

 特別理由がある訳じゃない。

 ただ、ここに来たかった。

 

「この一年、本当にいろいろあったなぁ……」

 

 アリシアの体になって、アリシアと一緒に過ごして、アリシアと別れて……それからアリシアとまた会うために子供を宿して。

 

「前にここに来たのは、クリスマスでエイモックと戦ったときだったっけ」

 

 そのときに凸凹になったコンクリートのステージは今はもう修復されている。

 この一年、異世界に行ったその前の一年と比べても負けず劣らずの波乱万丈さだった。

 

「……来年は一緒に来ような」

 

 お腹を撫でながら想う。

 無事に産まれていれば、来年は3人で来られるはずだ。私とアリシア、そしてもう一人の子供。

 

 目を閉じて、祈るように胸に手を当てる。

 

 アリシアが巫女をしていた水の神ミンスティアは生命を司る神で、その魔法や加護は出産にも及んでいた。

 

 異世界の神様。この祈りが届くのなら、あなたの眷属たる巫女とその兄弟を護りたまえ。

 

7月13日 木曜日 14週1日

 

 すっかり気候は夏めいて蒸し暑い日々が続いている。

 妊娠三ヶ月目に入ってつわりも大分落ち着いてきた。

 学校も特段変わったこともなく穏やかに過ごせている。体育のプールは当然ながら見学だったけれど……みんな涼しそうで羨ましい。

 

 産婦人科の先生に紹介して貰った病院で出産することに決めた。

 

 夏休みになれば家族全員で県外の仮住まいのマンションに引っ越すことになっている。

 そして、夏休みが終わったら、わたしと両親はそのまま残って優奈だけこっちに帰ってくる予定だ。

 

 と言っても女子高生の一人暮らしなんて危険すぎるので、優奈は蒼汰の家で寝泊りすることに家族同士での話し合いをして決まっていた。

 

 私は反対した。

 蒼汰と一つ屋根の下で暮らすなんて危険すぎると思ったからだ。だけど、他に良い代案もなくて、渋々同意するしかなかった。

 

「でもね、私は思うんだよ。蒼汰と一緒に優奈が住むなんて、肉食獣の檻に兎を放り込むようなものじゃないかって」

 

「……それを俺に言うのかよ」

 

 私の部屋に来ている蒼汰に愚痴ったら微妙な顔をされた。

 

「少しは親友を信頼しても良いんじゃないのか。大体、俺はついこないだ失恋したばかりなんだぜ。そんな簡単に切り替えられるかってーの」

 

「それはわかるけどね」

 

 だけど、恋愛と性欲は別物だ。そして、男は度々下半身で判断を誤ることを俺は知っている。後、蒼汰の性欲の強さは身をもって理解しているので。

 

「優奈からエッチしても良いって言われたら断れる?」

 

 優奈は私に協力してくれた蒼汰に相当恩義を感じている。

 そして、私に協力した結果悶々とすることになった蒼汰に、自分の体を差し出すことくらいしそうで心配なのだ。

 

「…………もちろん」

 

 その間はなんだ。

 なんで、顔を逸らす。

 

 さては、優奈が私と3人でエッチしても良いって言ったときのことを思い出してたな、このスケベ。

 

「……うん、十分にわかったよ」

 

 とはいえ、私は蒼汰を責められない。

 だって、私だって蒼汰の妹である翡翠に誘われて断りきれなかったから。いや、私の場合は性欲に負けた訳じゃないのだけれど。

 

「だから、私は蒼汰にオカズをあげることにしました」

 

「え!?」

 

「溜まってなければ、理性が勝てるでしょ? そう思ったので」

 

「え、ええと……?」

 

 突然の展開に蒼汰はついていけてないようで困惑していた。

 

「……欲しくないのなら別にいいけど?」

 

「欲しいです!」

 

 うんうん、人間素直が一番だ。

 幾人のときに集めたお宝本やDVDがダンボール一箱分くらいある。私にはもう必要のない物なので、それらをあげることにしよう。

 そう思っていたのだけど、

 

「じゃあ、お前の下着が欲しい」

 

「……ほへ?」

 

 下着、私の?

 なんで、ホワイ?

 

「オカズくれるんだろ? え……なんか間違ってたか?」

 

「えっと、そういうのとは思ってなくて……」

 

「ダメか?」

 

「ダメって訳じゃ……ないけど……」

 

 想定外の要求に頭の中がぐるぐる回ってる。

 

「ええと、蒼汰は私のこと家族って思ってるんじゃなかったっけ?」

 

 家族のことをオカズにするのってどうなのさ。

 

「それとこれとは別っていうか……義理の家族ってシチュも悪くないかなって」

 

「あー……」

 

 わかる。

 わかるけど、わかりたくなかった。

 

「大体それを言うなら、お前だって翡翠とそういうこと続けてるだろ?」

 

「そ、それは……」

 

 正確に言うとエッチはしていない。つわりでしんどかったし、何より妊娠してから性欲が消え失せていたから。

 だけど、翡翠のことをママって呼んで甘やかして貰うプレイは続けていた。

 恋人じゃなくて家族になったからと断ろうとしたのだけれど、「ママが家族なのは当たり前でしょ?」と言われて納得してしまい、そのまま……

 エッチな気分にはならないけれど、幼児退行して甘えるのって、とても安心して落ち着くんだ。おっぱいは偉大。

 

「とにかく、それさえあれば耐えられると思うんだ! 頼む!」

 

 そう言いながら、土下座までしてきた。

 ええ……なんでそんなに必死なの。

 

「まぁ、別に……いいけど」

 

「マジか!」

 

 私に実害はないし。

 妊活してたときは全部私の中に出してなんてお願いしてたくらいだし、私のこと考えて射精するのが癖になったのも、仕方ないと思う。

 むしろ、今まで私に何も要求して来なかったことを、褒めてあげても良いくらいだろう。

 

「でも、洗濯してるやつだからね」

 

 今履いてるやつをくれとかは無理。

 

「……わかった」

 

 そんな苦虫を噛み潰したような顔をするなよ、バカ。

 

「ええと、じゃあ……はい、どうぞ」

 

 私は立ち上がって、ベッドの向かいにあるタンスの真ん中にある引き出しを開けた。

 その中には、左から格子状に区切られた収納箱に入ったショーツ、畳まれた肌着、重ねて並べてあるブラの順番で私の下着が収められている。

 

「おぉ……」

 

 まるで宝箱を覗き込んでいるかのように、歓喜の表情を浮かべる蒼汰。

 

 気持ちはわからなくもないかな。

 正直、ちょっと引いてるけど。

 

「……それで、どれにするの?」

 

 私はなるべく感情を出さないようにして聞いた。

 

「好きなのを選んでいいのか?」

 

「黒いレースの以外だったら」

 

「お前こんなの持ってたんだ……すげぇ、エロいな」

 

「これ、アリシアに貰ったやつなんだ」

 

「そうか……その、ごめん」

 

「後、高いのはやめて欲しいかな……お金出してくれるならいいけど」

 

「それは大丈夫。普段使いの方が興奮するし」

 

「……左様で」

 

「あ、この縞パンって前にパンツ見せてもらったとき履いてたやつだよな!」

 

 薄いピンクに赤のストライプが入った縞パンを指差して蒼汰は言う。

 

「良く覚えてるね」

 

 忘れてもいいのに。

 ……私は忘れたい。

 

「このパンツと、後はお前が普段学校に行くときに着けてる下着を1セット欲しい」

 

「セット……ブラと肌着も?」

 

「おう、普段のお前自身を感じたいんだ」

 

 う、うーん……

 

 まぁ、いいや。

 深く考えないようにしよう。

 

「じゃあ、私が普段つけてるのでいいなら適当に選んじゃうよ?」

 

「それで構わない」

 

「じゃあ、これとこれとこれで……いい?」

 

 ワンポイントのリボンがついたハーフトップブラにキャミソール、それから3枚セットのショーツ。

 蒼汰の好みも考慮して、全部白に揃えておいた。

 

「おぉ……いいな。ぐっとくる」

 

 いい笑顔だこと。

 

「じゃあ、袋に入れるね」

 

 要らない紙袋を持ってきて、下着を入れていく。汚れてないか気になったけど、もし汚れていたとしても、こいつは喜ぶだけだろうし、もういいや。

 捨てたことにして、これらの存在は頭から消してしまおう。それがいい。

 

「……勃ってる」

 

 まだ、物欲しげにタンスを覗き込んでいる蒼汰のそこは座っていてもわかるくらいにテントを張っていた。

 

「こ、これは、その……仕方ないだろ……?」

 

「そだねぇ……」

 

 私は迷っていた。この節操なしが本当に下着くらいで我慢できるのかと。

 だめ押しで、もう少しくらいご褒美を与えておいた方が良いのかもしれない。

 

「それ、私が抜いてあげようか?」

 

「えっ!? い、いいのか!?」

 

 わかりやすい反応だなぁ……

 

「ご褒美があった方が頑張れると思うから」

 

「え、俺ってそんなに信用されてないの?」

 

「しなくても平気って言うならしないけど……?」

 

「して欲しい! 頑張る、頑張るから! お願いします! ご褒美欲しいです、アリス様!!」

 

「蒼汰、必死すぎ」

 

 男ってバカだなぁ……ちょっと面白い。男を手玉に取る楽しさが少しだけ分かった気がする。

 

「エッチはできないけど、それでいいのなら」

 

「問題なし!」

 

 本当は安定期になったらできなくもないみたいなんだけれど、子宮が収縮するという話もあるし、少しでもリスクは避けたい。

 それに、私自身がしたいと思えないのだ。

 

「手でするのでいい?」

 

「その……よかったら、口でしてもらえないか?」

 

「うーん、口かぁ……」

 

 お口の経験は無くはない。

 溺れるようなセックスをしていたときに、萎えたペニスを口で勃たせたりしたことはある。

 

 だけど、射精させるまではしたことはないし、何よりそのときと違って、今はめちゃめちゃ冷静だった。

 そんな状態で、男のアレを口に含むというのは、ちょっと……いや、かなり抵抗がある。

 

 でも、まぁ……蒼汰には我慢をさせてしまっている訳だし、お預けされた犬のようにそわそわしている姿はかわいそうでもある。

 妊娠雑誌にも、妊娠中のパートナーの性欲関係はちゃんと話し合おうと書いてあったし。

 なにより、大事な妹の貞操のためだ。多少の労苦は覚悟しよう。

 

「しょうがないなぁ……いいよ」

 



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胎動

※前話の後のエロい話(挿絵4枚付)をR18の方に投稿してます。
エロいだけなので読まなくても支障はありません。


7月17日 月曜日 14週5日

 

 今日は妊婦検診の日。

 次回からは、出産する県外の総合病院で検診を受けるので、ここに来るのは今日で最後となる。

 

 エコーに映った双子は、二頭身の人の形に成長していた。体長は大きな卵くらいあるらしい。

 それだけじゃなくて、もぞもぞ足をバタつかせたり、指をしゃぶったりと動いていた。

 

 ……生きているんだ。

 

「そういえば、子供の性別ってどうやって見分けるんですか?」

 

 ふと気になったので、先生に聞いてみた。

 

「エコーで確認するんだよ。おちんちんが見えたら男の子、無かったら女の子だね」

 

「えっと……そこで判別するんです?」

 

 遺伝子とか血液検査とか何かしら見分ける手段があると思っていた。

 

「ええ、目視ですね」

 

 エコーに写った二人の股間を凝視して見るが何もあるようには見えなかった。

 

「まだちょっと早いかな。大体16から20週くらいで判明すると思うよ」

 

「20週……」

 

「赤ちゃんの体勢によっておちんちんが上手くエコーに写らなかったりして、なかなか性別がわからなかったりすることもあるから、焦らないでね」

 

「そ、そうなんですか……」

 

 どちらの性別でも変わらず愛せる自信はあるけど、どちらかといえば女の子の方が良いかな、とも思う。

 アリシアの魂は女性の物だった。記憶が残るかどうかわからないけど、同じ性別の方が苦労はしないだろう。

 後は名前も考えないといけなくなる。男の子にアリシアというのは、どうかと思うので……

 

 まぁ、なるようにしかならないのだけども。

 

 検診が終わってから、母さんとベビー用品の専門店に行った。この手のチェーン店は街中に何軒かあるのは知っていたけど、入ったのは初めてだ。

 

「……いろんなものがあるんだなぁ」

 

 子供服、おもちゃ。ミルクに離乳食、それからお菓子。ベビーベッドやベビーカー。

 その他諸々。

 広い店内にずらりと並んだ商品に圧倒される。どうやら、妊娠出産育児に際して必要な物は、一通り取りここで揃うらしい。

 

 今までの人生で全く用事がなかったので、こういう専門店が何のためにあるのか疑問だったけど、中に入ってみて納得できた。

 

 今日の目的はマタニティ用の下着である。

 妊娠してお腹とお尻が大きくなったので、今まで履いていたショーツが少しきつくなっていたので。

 選んだのはお腹にゴムを使用せずゆったりと包み込むタイプのマタニティショーツ。

 どでんと大きい実用性に振り切った物で、色気はまるでない。流石の蒼汰も、これには反応しないだろう、多分。

 

 ……しないよね?

 

 胸も大きくなっていて、なんと谷間ができていた。出産までに平均で2カップ程サイズアップするらしい。

 それでも、涼花はもとより翡翠や優奈にも、大きさで勝てそうになかったけど……人と比べるのはやめよう、うん。

 

 私が普段使いしているのはカップの入っていないハーフトップブラなので、今のところは窮屈さを感じてないけど、今後のためにカップ付きのマタニティキャミソールを買っておいた。

 胸元が開くようになっていて、つけたままで授乳できる物だ。

 

 翡翠の分も買ってプレゼントするのはどうだろう、とふと思う。今は夏だけど冷房をつけているから、ずっと前をはだけているのは寒そうなんだよね。

 

 でも、母さんと一緒だと買えないか。

 理由なんて話せないし……うーむ。

 

「この服どうかしら?」

 

 そう言った母さんが持っているのは、ゆったりした薄桃色のワンピースだった。サイズに余裕がありそうだから妊娠中にも着られそうだし、デザインもかわいい。けど……

 

「これ、子供服だよね?」

 

 ここにはマタニティ用の服もあるけれど、それとは違うようだった。

 

「似合っているのだから、細かいことはいいじゃない」

 

「細かくはないと思うけど」

 

 似合ってるからこそ、逆に嫌というかなんというか。

 

「それに安いのよ、これ」

 

「あ、ほんとだ……」

 

 全国チェーン侮りがたし。

 でも、子供服かぁ……

 

「気に入ったなら、買ってあげるけど?」

 

「えっと、それじゃあ……うん……」

 

 服って自分で買うと結構お金かかるから、母さんに買ってもらえる機会は貴重だ。

 子供服かどうかなんて、自分から話さなければわからないよね……多分。

 

 夜、優奈に子供服のことを知られてしまい着て見せるはめになった。すごくかわいいと褒められたけど、なんだか複雑。

 

「今度はあたしも一緒に行って、アリスの子供服選びたい!」

 

 って言われたけど、行かないからね?

 

7月20日 木曜日 15週1日

 

 今日は一学期の終業式の日。

 終業式の後のホームルームで、クラスメイトに休学することを発表した。一身上の都合で一時帰国するということにしている。

 

 同じクラスの純には事前に話しておいたけど、ほとんどのクラスメイトには初耳となったためとても驚かれた。

 今のクラスは一学期しか一緒に過ごしていないのに、惜しんでくれる声が多くて。嬉しいと同時に、偽りばかりで申し訳ないとも思う。

 

 戻ってこられるのは出産後、多分来年になるだろう。

 単位は佐伯先生と保健の先生に掛け合ってもらって、課題とテストで出席日数を補えるようになった。

 留年するものと思っていたのでありがたい。

 

 笑って卒業できるといいな。

 

8月3日 木曜日 17週1日

 

 妊娠5ヶ月目となり安定期に入った。

 双子が入ったお腹は目に見えて大きくなっていた。ゆったりした服装でも知り合いに会ったらごまかせなさそうで、外出はなるべく控えるようにしている。

 

 今日は用事があって家族と一緒に車で蒼汰たちの実家に来ていた。

 

 「戌の日参り」という風習がある。

 子沢山でお産が軽い犬は古来より安産の象徴で、妊娠5ヶ月目の戌の日に安産を祈祷してもらうのだそうだ。

 

 蒼汰たちの実家は神社なので、それらのお祈りは本業として行なっている。そして、蒼汰の子供を宿している私がこの神社で祈祷をするのは、当然の流れだった。

 

 本殿は2つの家族で貸切となっている。

 まずは、光博おじさんにお祓いをしてもらい、祝詞の奏上を受けた。

 それから、翡翠による巫女舞が奉納され、最後に翡翠に腹帯をつけてもらう。

 家族たちの前で、トップスをたくし上げ、ふっくらしたお腹を晒すのは少し恥ずかしかった。

 

 腹帯とは大きくなったお腹を支えるための物で、今日つけて貰ったのはお腹に巻くサラシタイプの物だ。

 だけど、きちんと巻くのが難しかったり手間だったりして、最近は腹巻や下着タイプが主流になっているらしい。

 私も普段使い用として、それらを何枚か持ってきて祈祷してもらっている。

 

「アリスさん。母子共に無事出産できるようお祈りしております。本来、祈祷に私情を加えるのは良くないのですが……私も人の親ですので」

 

 光博おじさんは力強く穏やかな視線を向けながら言った。

 

「はい、ありがとうございます。おじさん」

 

 蒼汰たちの母親は、二人を産み落とした後、ほどなくして亡くなったと聞いている。

 同じように双子を宿した私のことを真剣に心配してくれているおじさんの気持ちは痛いほど伝わってきた。

 

 それにしても、光博おじさんは産まれてくる子供のおじいちゃんになるのか……なんだか不思議。

 

「アリス、これを」

 

 翡翠から安産祈願の御守りを手渡される。

 売店で売っているものより豪華な刺繍がされた御守りだった。

 

「俺からも」

 

 蒼汰からも別の模様の御守りが手渡される。

 

「……二人ともありがとう」

 

 その後、社務所を兼ねた蒼汰の家で昼食会が行われた。終始和やかな雰囲気で、居心地が良い。

 以前も家族ぐるみで仲良くしていたけれど、ここ最近のあれこれがあってひとつの家族と言っていいくらい親しくなっていた。

 子供たちが4人でひとつの家庭を作るという普通じゃない宣言も、親たちは否定せずに見守ってくれている。

 お腹の中の子供たちが無事に産まれてくれば、もっと楽しく賑やかになるだろう。

 その日が本当に待ち遠しい。

 

8月5日 土曜日 17週3日

 

 今日は引越しの日である。

 と言っても家財道具はそのまま家に置いていくので、準備と言っても着替えとか勉強道具とかを詰めるくらいの簡単な物だった。

 

 蒼汰と翡翠に見送られて家を出た私たちは、父さんの運転で引越し先に向かう。

 学校が始まるまでは優奈も一緒で、家族揃っての移住だった。

 

 高速道路に乗ってちょくちょく休憩を挟みながら移動する。

 道中食べる用に土産物屋でお菓子を買ったりして、ちょっとした旅行気分だ。

 

 そして、仮住まいのマンションに着いたときは、もう夕方になったていた。

 さすがに疲れたので、最低限の荷物だけ片付けたら、もうやる気ゲージが尽きた。

 

 交代でお風呂に入り、夕飯は宅配のピザで済ませることになった。

 買い物に出なくて良いし、食器も出さなくていい。ピザが引越しのときの定番である理由がわかる気がした。

 

 夜は優奈と一緒にセミダブルの布団で寝る。仮住まいの部屋は2LDKの間取りで個室はとれなかったし、優奈と一緒に寝ることも慣れたものだったので。

 

「むにゃむにゃ……もう食べられない……」

 

 優奈は旅の疲れもあって、ぐっすり眠っているようだ。

 

 自分は体は疲れているけど気が張って眠れない。

 

「……随分と遠くまで来たな」

 

 物理的な距離よりも、境遇的な意味で。

 

 今の自分自身に後悔はない。

 申し訳ない気持ちはあるけれど、今はいろんな人に迷惑を掛けながらでも我儘を通させてもらって、将来に受けた恩は返していくと決めたから。

 

「アリシア……」

 

 彼女は怒るだろうか……怒るだろうな。

 説教されるのは覚悟しておこう。

 

「それでも、もう一度君に会いたかったんだ」

 

 ぽつりと呟く。

 誰に聞かせるでもないひとりごと。

 

 だけどーーそれに応えるかのように、お腹がぽこんと震えた。

 

「え……?」

 

 もう一度、ぽこん。

 お腹の内側から伝わってくる不思議な感覚。

 

「……お腹を蹴られた?」

 

 子宮の中にいる赤ちゃんは、いろいろ動いている。そのことを胎動といって、妊娠中期から母親はその動きを体感できるようになるらしい。今のがそうだったのだろうか?

 

「アリシア……?」

 

 ぽこん。

 

「これは、どっちなんだろう」

 

 肯定なのか、名前を間違えさせられたことへの抗議なのか。そう考えていたら、今度はお腹の中の別の場所でぽこんと感じた。

 

「こっちがアリシアなのかな。それとも、赤ちゃん?」

 

 どっちかは、わからないけど。

 

「あなたたちも、私に会いたいって思ってくれているのかな」

 

 ぽこんぽこんと再びお腹の中に感じる。

 

「アリシアと赤ちゃん……」

 

 お腹を撫でる。

 性別が判明したら早めに名前をつけてあげないと。名前が無いと呼びかけ辛い。

 

 知らない場所で、少しホームシックになっていたのかもしれない。

 そんな気分は赤ちゃんたちに励まされて吹き飛んでいた。

 



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母親として

8月7日 月曜日 17週5日

 

 引っ越しして3日目の今日は、母さんと優奈と一緒に出産する予定の病院にやってきた。

 最近改築されたらしい建物はオシャレな外観で、ロビーは天井も高く開放的だった。

 紹介状を受付で渡して番号の書かれた紙を受け取る。

 

「人多いねぇ」

 

 待合ロビーは混み合っていた。

 私は座らせて貰ったが、母さんと優奈は立ったままで少し申し訳なく思う。

 

「いいのよ、私たちはなんともないんだから」

 

 ここでは特に妊婦を優先させるのは当たり前のような雰囲気があった。

 小一時間ほど待たされて、ようやく番号を呼ばれる。尿検査、血圧、体重測定。

 後は身長も……妊娠してから伸びてないけど。

 

 問診は母さんと二人で受ける。

 

「如月アリスさん」

 

 先生は女性だった。母さんと同じくらいの年齢くらいだろうか。男の人よりは気が楽かも。

 先生は私を前にして少し戸惑っているようだった。

 

「ええと、日本語で……?」

 

「はい、大丈夫です」

 

 私が返事するとほっとした様子だった。

 

「それにしても若いね。16歳、しかも双子か……」

 

 先生は人差し指を口元にあてて難しい顔をする。

 

「とりあえず、状況を確認させてもらいますね」

 

 お腹を出して、ベッドに横になった。

 メジャーでお腹回りとお腹の下から出っ張りまでの大きさを測られる。

 それから、お腹にぬるぬるしたものを塗られて、大きなスタンプのような器具がお腹にあてられた。

 モニターに胎内の様子が白い影のように映し出される。

 器具が動くと画面が移り変わって、人のパーツっぽいものがチラチラと見える。

 

「これが、顔」

 

 ぼんやりと白っぽい顔が映っている。もぞもぞと動いていて、なんだかホラー映像みたい、なんて思うのは不謹慎だろうか。

 

「右側にいる子の体長は11cmくらいですね。体重は100gくらい」

 

 マウスで画面を操作して長さを測って教えてくれる。

 

「体重もわかるんですか?」

 

「大体だけど、頭や胴体の大きさから計算できるのよ」

 

「へー」

 

 器具が動いて、もう一人の子供を映す。

 

「左側の子は10cmの90gで少し小柄ね」

 

 なんとなく、こっちの子がアリシアのような気がする。実際どうかはわからないけど……今度、翡翠が来たら教えてもらおう。

 

 次に、足を診てもらう。妊娠中はむくみやすくなるからだそうだ。今のところ特に症状は出ていなかった。

 

 一通り検査が終わった後、先生との話になる。

 

「出産は帝王切開を予定しています。問題はありますか?」

 

「いえ」

 

 出産方法にこだわりは無い。産後の回復は自然分娩の方が早いみたいだけど、私には回復魔法というチートがあるので問題ない。

 

 それから、体に関する質問に答えていく。

 胎動を感じられるようになったことも報告する。一昨日の夜に始まった胎動は、昨日一日のうちに何度も感じていた。蹴られたり、うねうねーとしたりお腹の中でいっぱい動き回っているんだなってことがわかる。不思議な感覚だった。

 

 その後は、出産時の入院やNICU(新生児集中治療室)についての説明や事務的なことについての確認等だったけれど、その辺りは母さんが対応してくれた。

 

 一通り話が終わった頃合いで、

 

「アリスさんだけちょっと残ってもらっていいですか? お話したいことがありますので」

 

 と、先生に言われた。

 

 ……なんだろう?

 

 不思議に思いつつ了承し、母さんを見送る。

 

「ごめんなさいね。どうしても、あなたの意思を確認しておきたくて」

 

「かまいませんけど……なんでしょう?」

 

「あなたかお腹の中の子供、どちらかしか助からない場合、あなたはどうしたいですか?」

 

「え、ええと……」

 

「双子の出産というのは大変なことです。初産で年齢も若く小柄であるあなたは特にリスクが高くなるわ。だから、もしもというときのことを考えておいてほしいの」

 

「……」

 

「返事は今すぐじゃなくていいから」

 

「いえ、それは大丈夫なんですが……」

 

「もう考えているの?」

 

「私はお腹の中の子供と約束したんです。自分の命を犠牲にしないって」

 

 普通に考えて有り得ない話。先生は私がそういう決意をしていると捉えたようで話を続ける。

 

「つまり、あなたのことを優先するのね? それでいいと思うわ」

 

「いえ、そうじゃないんです」

 

 先生が不思議な顔をする。

 確かに、自分でも何言ってるんだろうなと思う。

 

「私は親不孝者でした。家族に迷惑ばかりかけて、それでも家族みんなが私のことを大切にしてくれてます」

 

 父さん、母さん、優奈。

 それから、蒼汰、翡翠、光博おじさん。

 

「だから……もしそうなったら、私は家族に謝らないといけません」

 

 両膝の上の手をぎゅっと握る。

 

「どちらかしか助からない状況になったら、子供たちを優先してください。いろんな人に迷惑かけっぱなしで、子供たちにも無責任なことをしてしまいますが……」

 

「あなたはまだ若いわ。まだまだこれからがあるじゃない。生きていれば新しい出会いもーー」

 

 先生は良い人なのだろう。

 後から聞いた話なのだけど、先生には私と同じくらいの娘が居るらしい。だから、同じ母親の気持ちになって心配してくれたのだと思う。

 

 私は首を振る。

 

「この子たちの代わりはいませんから」

 

 私は子供だけど、それでも、やっぱり母親だから。

 迷わないと言い切れるほど強くはないけれど、それでも。

 

 子供たちは家族が育ててくれるだろう。

 心配なのは残される家族のこと。

 

 優奈との約束を破ってしまうことになる。育児も一番負担を掛けることになりそうだ。というか、私の替わりにと強引に蒼汰と結婚して、子供たちを自分の子として育てるくらいやりそうな気がする。

 

 翡翠は自分自身を責め続けることになるだろう。子供の存在が彼女の救いとなるのか、責め苦となるのかはわからない。

 

 そして、アリシア。許してくれないだろうなぁ……けど、こんなことになったのは私の我儘だから、最後まで責任を取らせて欲しい。

 前とは違って、血の繋がりのある家族への転生になるから、君がこの世界で独りになることはないと思うから……

 

 いや、まあ、死ぬって決まった訳じゃないけど。

 念のため、遺書のようなものは書いておこう、全員に宛てたものを。

 

「……あなたの気持ちはわかりました。私たちは可能な限り母子共に無事出産できるよう、あなたをサポートします」

 

「よろしくお願いします」

 

 診察を終えて待合ロビーに戻る。母さんと優奈から心配されたけど、大したことではないと誤魔化しておいた。

 

 診察を終えて、料金を払うまでがまた長かった。人が多いロビーは冷房が効いているはずなのに蒸し暑くて空気が悪い。中にはいかにも風邪を引いてるっぽい咳をしている人もいて、マスクをしてくれば良かったと後悔した。

 病気がうつらないといいのだけど。

 

8月9日 月曜日 18週0日

 

 外に出ると暑いので、1日だらだらと過ごして夜。

 お風呂の後でマタニティフォトを撮影する。

 マタニティフォトとは横から撮ったお腹の写真で、優奈に言われて妊娠が判明した頃から毎週撮影してもらっているものだ。

 

 お腹は先週よりも明らかに大きくなっていて、ぷっくらとした膨らみができていた。双子は急にお腹が大きくなると聞いていたけど、本当なんだなって思う。

 

 撮った写真を見せて貰ったけど、下着こそ見切れているとは言え、幼い容姿の私がワンピースをたくし上げて妊娠していることが明らかなお腹を露わにした姿はとても背徳的でエッチだった。

 妊婦をそういう風な目で見るのってどうかと思うけど、自分自身で見てもそう思えるのだから、これはもう仕方ないね。

 

 蒼汰に画像を送ろうかなと一瞬考えてやめた。性癖を増やされても責任取れないからね。

 

 そのことを軽い気持ちで優奈に話したらすごく怒られた。蒼汰の性癖がどうとかじゃなくて、送ることに対してだ。

 

「画像を他人に見られたらどうするの!」

 

 かく言う優奈は自分のスマホに私が妊婦だとわかるような写真は一切残していないそうだ。少し前まで画像フォルダのサムネは私で埋まるくらいだったのに、だ。

 

「……ごめん」

 

 優奈の言う通りだったので素直に反省する。

 

「……やめてよね。エッチな本を見せ合う男子みたいなノリで、自分の写真を送ろうとするの」

 

 写真を撮ったら、マッサージタイムだ。

 妊娠すると、いろんなところが急に大きくなるので、その分皮膚が伸びてしまう。そのときに亀裂ができて肌に残るのが妊娠線と呼ばれる物らしい。

 急にお腹が大きくなる双子の妊娠は特にできやすいみたいだけど、今のところそれらしき物はできていない。優奈に毎日保湿クリームで入念にマッサージをしてもらっているおかげだろう。

 このマッサージは毎日の癒しだ。

 

「んー、気持ちいい……」

 

 けど、夏休みが終わって優奈が帰ったら自分でしないといけなくなるんだよね。

 そう思ったら、なんだか心細く思えてきた。もしかしたら今の自分は結構優奈に依存してるのかも。

 

 ……大丈夫かな、私。

 



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名前を呼んで

8月23日 水曜日 20週0日

 

 今日から妊娠6ヶ月目だ。一般的には今日で妊娠生活の折り返しと言われている。

 ただ、双子は早めの出産になるそうで、私も帝王切開の予定が12月18日(36週2日)に決まっていた。

 なので、妊娠生活はもう残り半分を切っていることになる。

 

 この前の健診で、二人とも女の子の可能性が高いと先生に言われたので、赤ちゃんに名前をつけることにした。

 

 一人はもちろんアリシア。

 そして、もう一人はアリサに決まった。

 

 私とアリシアがアリから始まるので、一人だけ仲間外れにならないようにと考えた名前だ。

 

 アリサ、アリシア、そして私アリスで、『さしす』と並ぶのも個人的に気に入っているところである。

 

 優奈は「だったら、次はアリセとアリソか……ちょっと難しいね」って言うけど、次の予定なんてないので。

 

 体重は二人共200グラムを超えていた。やっぱり小さい方がアリシアのようで、アリサと比べると成長が遅いのが少し気がかりだ。

 

 そうそう、昨日から翡翠と蒼汰が引越し先のマンションに遊びに来ている。

 

 今はお昼が終わってリビングでみんなで勉強をしているところだ。

 

 優奈は夏休みの宿題、私はそれに加えて二学期で習う部分を自主学習。

 翡翠と蒼汰は受験勉強をしている。二人とも進学するらしい。

 

 翡翠は市内にある国立大学志望で、市外は、考えていないのだそうだ。四年のうちに私を養える力を身につけると宣言していて頼もしい限りだ。

 

 蒼汰は実家の神社を継ぐために県外の神道科のある大学に進学すると聞いた。4年間離れ離れになると思うと少し寂しいけど、仕方ない。

 

 二人とも同い年なのに将来をしっかり考えていてすごいなぁ……

 

 私なんて行き当たりばったりで、人に頼ってばかりだ。

 食い扶持くらいは自分で稼ぎたいと思うのだけれど……この子たちがある程度大きくなってからかなぁ……

 

「あ、動いた」

 

 お腹の内側がぐりぐりと刺激される。

 

「本当? 触ってみてもいい?」

 

「どうぞどうぞ」

 

 すっかり大きくなったお腹を翡翠に向けて、ゆったりしたトップスを肌着ごと捲る。

 

「えっと、このへん……」

 

 動いたところをさすって場所を教えると、翡翠は恐る恐るお腹に触れてきた。

 

「こんにちは、アリサ」

 

 お腹の中に宿る魂が見えているのだろう。翡翠は迷うことなく名前を呼んだ。

 

「……すごい、動いているわ」

 

 名前を呼ばれて嬉しいのだろうか? アリサがうねうねと動く。それに刺激されたのか、アリシアもうにうにし始めて少し痛い。

 

「アリシアも元気そう……二人とも小さいけど力強い魂をしているわ」

 

 翡翠の手が動いてアリシアの入っている方を撫でる。

 

「こんにちわ、私は翡翠。あなた達のもうひとりのママよ」

 

「……いや、お前はママじゃないだろ」

 

 蒼汰が翡翠に突っ込みを入れる。

 

「私とアリスは家族なの。だから、アリスの娘は当然私の娘でもあるわ」

 

「何が当然だかさっぱりわからないんだが」

 

「もちろん、あたしの娘でもあるんだからね!」

 

 とドヤ顔の優奈が参戦する。

 

 ……うーん、そんなにママが多いと混乱しちゃうんじゃないかな。

 

「なぁ、俺も触ってみてもいいか?」

 

「もちろん、ダメよ」

 

「って、なんでお前が返事するんだよ!?」

 

「だって、さっきから妊婦のお腹をいやらしい目で見て……汚らわしい」

 

「そんな目で見てないからな!?」

 

「あ、私は気にしてないから大丈夫だよ?」

 

「アリスも、なんで俺が欲情している前提のフォローなんだよ!?」

 

 いや、蒼汰だからねぇ……

 

「いいから蒼汰も触ってみてよ、ほら」

 

「お、おう」

 

「……仕方ないわね」

 

 不満そうな態度で、けれど素直に翡翠は離れた。

 そして、今度は蒼汰が私のお腹に触れる。

 躊躇する手を「このへんだよ?」と導くと、蒼汰は顔を赤くして触れてきた。

 

「アリサ、アリシア。パパですよー?」

 

 うにうに、うにうにと反応がある。

 

「ほんとだ、動いてる……すげぇな……」

 

「すごいよねぇ、ほんと」

 

 お腹の中に二人も入っているなんて不思議で仕方ない。まさしく人体の神秘というやつだ。

 

「無事に産まれるといいな」

 

「うん」

 

 今のところ、妊娠生活は概ね順調である。

 ときどきお腹がきゅーっとなるのが気になるけど、これはお腹が張るという状態で、子宮が収縮しているらしい。続くと良くはないのだけれど、妊婦なら誰もが日常的に経験することみたいだから、あまり心配しすぎる必要もないのかな。

 

 夜は三人が川の字になって布団で寝る。

 

「こうしていると将来の予行演習みたいね」

 

「え……?」

 

「私とアリスと優奈。そして子供たち……近い将来こうやって家族全員でこんなふうにみんなで寝るのかなって思ったから」

 

「えっと、蒼汰は一緒じゃないけど……」

 

「あいつと一緒に寝るわけないでしょう。アリスもあんなケダモノと同衾なんてしちゃダメよ? それにあいつは県外に行くでしょ。なんなら、そのまま戻ってこなくても、私たちが居るから問題ないわ」

 

「……おーい、聞こえてるんですけどー」

 

 私たちの寝室と隣り合うリビングから蒼汰の抗議の声がする。

 

「……ちっ」

 

「まぁまぁ、蒼兄も翡翠姉も仲良くだよ。子供たちの前で喧嘩はダメだからね」

 

「仕方ないわね」

 

「ええと、俺一方的にハブられてるだけじゃない!?」

 

「蒼汰ちょっと静かに。子供たちが起きちゃったじゃない」

 

 お腹の中がぽこぽこ動きだした。

 

「す、すまん……」

 

 まぁ、夜のこれくらいの時間に動き出すのは最近良くあることだけど。

 本音を言うと眠れなくなるから夜中は静かにしていて欲しい。ただでさえおしっこが頻繁になっていて、夜中に目が覚めがちなので。

 おかげで最近寝不足気味で、日中寝ることが増えている。

 まぁ、学校も無いから特に支障はないのだけど、体の気怠さが抜けなくてしんどい。

 

 でも、みんなでこんなふうに過ごしていると本当に家族って感じがして、これからのことが楽しみに思えるのだった。

 

8月24日 木曜日 20週1日

 

 お昼前にお腹が強く張ってしくしくと痛んで、トイレに行くと生理の一番多い日よりも血がでていた。

 母さんに病院に電話して貰って状況を伝えると、すぐに受診するようにと言われたので、車で連れて行ってもらう。

 病院につくとすぐに受診して貰えた。

 診断結果は切迫流産、私は即座に緊急入院することになった。

 



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入院生活

 切迫流産というのは、流産しそうな切迫した状態であるということで、流産したという訳ではない。最初に切迫流産と診断されたとき、私はそれを勘違いして絶望しかけた。

 子供たちはまだ生きている。

 それでも、危険な状況であることは間違いなくて、私は即座に緊急入院となった。

 

 子宮と膣をつないでいる管のことを子宮頸管という。子宮の断面図を思い浮かべてーーと聞いて、すぐにピンと来たらエッチな人だと思う。

 妊娠しているときの子宮頸管は、赤ちゃんが子宮から出てしまわないように硬く閉じて蓋をしている。

 一般的な妊娠初期の子宮頚管の長さは35~40ミリほど、これが妊娠の経過によって短くなっていき出産直前には25~32ミリ前後になる。

 だけど、私の場合は妊娠中期で23ミリしか無かった。

 この状態で普通に過ごしているとお腹の中の子供が出てきてしまう危険性がある。お腹の中の赤ちゃんは、まだ外で生きられるほど育っていないのに、だ。

 だから、私は先生に絶対安静と言われて、ひたすらベッドに横になることとなった。

 

 腕にはお腹が張るのを止める点滴がつけられている。これは24時間付けっぱなしになるらしい。

 横になっていると、動悸が早くなって身体が熱くなってきた。

 気分も悪くなってきて回復魔法を使ったら、頭がすっきりしたけれど、同時にお腹が強く張ってしまいナースコールを押した。

 どうやら、これらの症状は薬の副作用だったらしく、回復魔法は薬の作用ごと打ち消してしまったようだ。

 より強くなった点滴を受けながら、朦朧とした意識の中で、ようやく落ち着いたお腹の痛みに安心して涙がこぼれた。

 

「ごめんね…アリシア、アリサ……」

 

 自分の考えなしの行為で子供達を危険に晒してしまったことに恐怖して、点滴の副作用で震える手でお腹に触れながら謝ることしかできなかった。

 

 寝てるのか起きてるのかも定かではないようなぼんやりとした時間を、ひたすら何もなく無事に過ぎ去るように祈って過ごした。

 

 お腹の中で二人がぐりぐり動いている。

 あまり激しく動くとお腹から出てきてしまいそうで心配だった。

 大人しくしていて欲しい、お願いだから。

 

8月28日 月曜日 20週5日

 

 絶対安静の日々は続いている。

 点滴の副作用にも慣れた。楽になった訳じゃないけれど、気分が悪い状態が日常になった感じだ。

 

 母さんと優奈と翡翠で、面会時間には必ず誰かが付き添ってくれていた。

 

 ずっとベッドに横になっているというと、だらだらできて楽のように思えるかもしれないが、24時間起き上がることができないというのは苦痛でしかない。

 身体中が軋むように痛むし、寝ながら食べるご飯は食べづらい。

 

 何より一番辛かったのはトイレだ。

 小の方は尿道に管を通しているので、出したのを見られることに慣れたら、そこまで問題はなかったけど、大の方はそう簡単ではない。

 ベッドの上でお尻の下に差し込み式の便器を入れてもらってすることになるのだけど、準備から後処理まで全部看護師さんにお願いしてしてもらうのは抵抗しかなかった。

 かと言って、するのを我慢しているとお腹が圧迫されて張りやすくなると言われると我慢する訳にもいかず。

 初めてしたときは恥ずかしいやら、情けないやらで、涙目になりながら、終わった後もなかなか消えないにおいに消えてしまいたい気持ちになったりして……事務的にこなしてくれる看護師さんの態度がありがたかった。

 

 父さんと蒼汰も病院に来てくれるけど、面会は短時間にしてもらっている。申し訳ないと思うけど、おしっこの管とか臭いとかやっぱり気になるので。

 

8月31日 木曜日 21週1日

 

 気がつけば今日でもう夏休みが終わるらしい。私にはもう関係ないけれど、優奈と翡翠と蒼汰は今日で地元に帰ることになる。

 ということで、今日はみんなが面会に来てくれた。これからは、毎週末に3人のうちの誰かが面会に来てくれるらしい。片道電車で半日ほどかかるというのに。

 無理しないで、という気持ちはあるけど、個室で家族以外見知った人と話す機会がない入院生活は心細いので、正直嬉しかった。

 

9月6日 水曜日 22週0日

 

 今日で22週になった。今日からは、私の症状は切迫流産ではなく切迫早産と呼ばれるようになる。

 それは、お腹から赤ちゃんが出ても、生きられる可能性が出てきたということだ。

 なんとか、今日という日を迎えられたのは、素直に嬉しいと思う。

 かといって、まだまだ気は抜けない。

 早産になればなるほど、赤ちゃんに障害が出るリスクが高くなる。だから、可能な限り一日でも長くお腹の中に居て育ってもらわないといけないのだ。

 お腹の中の赤ちゃんたちは400g程度と平均よりも小さめなのも気になるところだ。

 

 幸いお腹の張りは落ち着いていて、点滴も弱い物に戻っている。

 何より食事とトイレだけは体を起こしても良くなったのが、ありがたかった。

 

 日中は、だらだらスマホでアニメを観たりゲームをしたり。ときどき勉強もするけれど、体を起こせないので教科書を見るくらい。

 何よりずっと気怠いのが続いていて集中できない。

 

 普通なら四人部屋に移動するらしいけど、部屋が開いていたこともあり、個室を継続してもらっている。どうしても私は周囲から浮くと思うので、余計な心労を抱えたくなかった。

 

9月9日 土曜日 22週3日

 

 今日は優奈が来てくれた。

 学校が始まってクラスのみんなは休学した私のことを寂しがってくれているらしい。

 

9月20日 水曜日 24週0日

 

 入院生活について。

 規則正しく不健康な生活を送っている。

 

7:30

 

 エコーと血圧測定。

 

8:00

 

 朝食。パンとおかずとヨーグルト。

 

9:00

 

 検温して、温かいタオルで清拭。

 髪がごわごわしてにおいが気になる。

 浄化の魔法を使いたい欲求が30分置きくらいに湧き上がってくるけど、魔法が子供に悪影響があるかどうかわからないので我慢する。

 明日はシャワー浴びれるかな。

 シャワーはさっぱりするんだけど、立っているとお腹が張って不安だったり、刺さったままの点滴が邪魔だったりで、落ち着かない。

 

 ……ゆっくり、お風呂に入りたいな。

 

10:00

 

 ノンストレステスト。

 胎児の心拍と胎動、それからお腹の張り(子宮の収縮)を確認するため毎日している検査である。

 名前とは裏腹に結構ストレスが溜まる。

 

 お腹の上に胎児の心拍を測る円形の器具を二人分とお腹の張りを測定する機械を乗せて、20分くらいじーっとしていなければいけない。

 

 移動して心拍が確認できなくなったり、双子の心拍が重なったりすると機械を動かさないといけないし、お腹の中で寝たままだったりすると機械で起こしてあげないといけないし、とにかく双子の動きはフリーダムで困らされる。

 

 お腹の張り具合によって、点滴の濃度が濃くなったりするので、落ち着かない。

 

12:00

 

 お昼。

 食事は数少ない楽しみのひとつで、毎日メニューが違っていて嬉しい。

 

14:00

 

 面会開始時間。基本的に母さんが来てくれる。洗濯物とか差し入れとか。

 

15:00

 

 先生の診察。貧血気味らしいので、これからは食後にシロップを飲むことになった。

 

18:00

 

 夕食。

 和食洋食選べる。基本は洋食を選んでいる。

 シロップは最初は甘かったけど、後味は鉄の味だった。

 

20:00

 

 面会終了時間。と言っても最近の母さんは早めに帰ることが多い。

 親と四六時中一緒に居ても、そんなに話すこともないんだよね、うん。今日も2時間くらいで帰った。

 再び、エコーと血圧測定。

 

21:00

 

 消灯。おやすみなさい。

 夜中にお腹が張らないといいなぁ……

 



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窓の外の紅葉

10月1日 日曜日 25週5日

 

 今日から10月。と言っても、四六時中ベッド上でトイレとご飯以外は横になっている私の世界に変化はない。

 

 日々変化を感じるのはお腹の大きさくらい。アリサが780g、アリシアが630gになった。

 

 お腹が大きくなるに伴って、張りやすくなっているようで、張りを抑える点滴の濃度は4つあるうちの最高の濃度になっていた。

 

 これでも張りが治まらなくなったら、より強力な点滴になる。そっちは副作用が強くなるみたいで、今から不安だった。

 ここ最近は、お腹の張りを調べる毎日のノンストレステストを祈るように受けている。

 

 昨日と今日とで蒼汰が面会に来てくれていた。ゲームやアニメのことを話していると、時間が経つのがあっという間だった、

 お見舞いに来てくれるのは誰でも嬉しいけれど、一番気兼ねなく馬鹿話ができるのはやっぱり蒼汰だった。

 

 蒼汰の家で一緒に暮らしてる優奈に手を出さないように重ねて釘を刺しておく。さすがに今は何もしてあげられないから、ご褒美はツケ払いで。

 

 ちゃんと私のことを考えてしてるから大丈夫だって? そうか……なら、よろしい。

 

 ……ん? よろしいのか?

 

10月7日 土曜日 26週4日

 

 アリサが886g、アリシアが752g。

 

 今日は優奈と涼花が見舞いに来てくれた。

 涼花とはメッセージアプリでやり取りはしていたが、こっちに来るのは初めてだった。入院で弱った私の姿を見たとたん、涼花はぼろぼろと涙をこぼして手を握り締めてきた。

 アリスさんばかりどうしてーーと、涼花は私の境遇を嘆いてくれたが、大抵が自業自得で、それに周りを巻き込んでしまっている自覚のある私としては、逆に申し訳なくなる。

 また見舞いに来ると宣言してくれたけど、受験生なんだから無理しないでね? ありがたいけど。

 

 ちなみに、涼花からの差し入れはウィソの新しいカードセットのボックスだった。

 今は遊ぶことはできないけれど、カードを見たり匂いを嗅いだりしていると落ち着くし、デッキを作ってスリーブに入れてシャッフルしているだけでも気が紛れた。

 その様子を看護師さんに見られて、男の子みたいだねって笑われた。

 

 こう見えても心は男だし……一応……多分……

 

10月15日 日曜日 27週5日

 

 アリサ1002g、アリシア880g。

 

 アリサが1kgを超えた。二人とも平均より小さめではあるが順調に育っている。このまま1日でも長くお腹に留まって、大きくなってほしい。

 

 優奈に指摘されて、念話で赤ちゃんたちと会話できることに気がついた。

 と言っても、もちろん赤ちゃんからは意味のある言葉は伝わってこない。楽しいとか、安心とか、そういった言葉になる前の感情を微かに読み取ることができるだけだ。

 アリシアの記憶が受け継がれていたら、もしかしたら返事が返ってくるんじゃないかと期待していた私は少し落胆したけど、子供たちの楽しそうな感情を聴いているとすぐに気持ちは回復した。

 

『二人とも元気かなー? ママですよー』

 

 私の声がわかるのだろうか。

 お腹の中の子から、喜んでいるっぽい反応がある。

 

『あたしもママですよー』

 

 と優奈が話しかけると、きょとんと不思議そうな反応が返ってきた。おばさんじゃないかな? って突っ込んでいる訳ではないと思う、多分。

 

 初めての念話で興奮したのか、赤ちゃんはお腹の中で元気に動き回っていた。というか暴れている。

 

 ……嬉しいのはわかったから、もう少し大人しくしてほしい。お腹を蹴られるのは内臓に響く。

 

 子供たちを落ち着かせるために、歌を歌ってみることにした。旅の途中で聞いたアリシアが居た世界の歌だ。

 

『ーー♪』

 

 歌詞は自然と出てきた。その意味はもうわからないけど……もし、機会があれば、エイモックに聞いてみるかな。

 

10月20日 金曜日 28週2日

 

 アリサ1180g、アリシア958g。

 

 ついに、強力な張り止めの薬を使うことになった。

 ノンストレステストの後の検診で先生にそのことを告げられた。

 何度も針を挿し直して蒼くあざになっている腕に新しい点滴を打たれる。

 

 ぽたぽたと落ちていく点滴が、毒を身体に注入しているように感じて、ぎゅっと目を閉じて耐える。

 

 点滴を打たれてしばらくすると、体が熱くなって、全身に力が入らなくなっていた。

 お腹が張らないように筋肉を弛緩させる作用が全身に及んでいるという理屈はわかってはいるけれど、実際に体に力が思うように動かなくなるというのは思っていた以上に不安になる。

 頭がぐらぐらして、全身がむくみ、扁桃腺も腫れていた。何もやる気がでない。

 

 それなのに、トイレに行く回数が多くなっていて、それがしんどい。喉がものすごく渇くので、水をよく飲むからだ。

 この薬が体に有害なので、排出するように本能がそうさせるらしい。

 

 吐き気もして、食欲もない。

 

 それでもーーこれは今の私には必要な薬だった。

 どれだけ体が辛くて、生きるのがしんどく感じても、お腹の張りは抑えられている。

 

 子供たちが、無事に育つため。少しでも長く私のお腹の中にいられるように。

 

11月1日 水曜日 30週0日

 

 アリサ1380g、アリシア1058g。

 アリシアも1kg超えた。

 

 子供が大きくになるに伴って、お腹もぐんぐん大きくなっていた。まだ子供は倍以上大きくなるはずなのだけど、その前に私のお腹が裂けてしまうんじゃないか心配になる。

 強力になった張り止めの点滴は3段階あるうちのレベル2まで上がっていた。

 濃度が上がると副作用も大きくなる。

 みるみるうちに体力が低下して、目の焦点も合わず、頭の中にもやが常にかかっているような感じになって。私の体は入院生活で確実にボロボロになっていた。

 

 ぼんやりと想像していたマタニティライフとは全然違う。

 お腹の中の子供の成長を喜びながら、運動とかランチとか旅行とか楽しんで、日々穏やかに過ごす。そんなのが、私の抱いていた妊婦のイメージだった。

 

 だけど、実際は違っていた。別の命を生み出すために、体中のあちこちに負担をかけているのが妊婦だった。

 

 新しい体や血を創るために栄養を持っていかれて、貧血やビタミン等もろもろの栄養が不足しがちになる。

 かといって、下手に食べると糖尿病や肥満になりやすい。また、食べられないものも多い。

 ホルモンバランスが崩れて、肌や髪の毛も傷む。

 お腹の中のを大きくなった子宮に占拠されて、胃や腸などの内臓は体の隅にぎゅうぎゅうに押し込まれて機能に不具合が出る。

 胎動は動いたという穏やかなものではなく、お腹の中で暴れるといったことも多く、夜中に起こされることもしばしば。

 

 誰もがしていることだからと、妊娠を軽く考えていたことは甘い考えだったと思い知らされた。

 

 母さんにそのことを話して、私を産んでくれたことにお礼を言ったら、母さんは複雑そうだった。

 

11月6日 月曜日 30週5日

 

 アリサ1460g、アリシア1120g。

 

 今日は助産師との面談があった。

 出産後の入院病棟の説明とかの後、バースプランをどうするか聞かれた。

 バースプランとは、出産前後の予定のことで、そのときになると余裕が無くなるため、予め打ち合わせておくものらしい。

 私は帝王切開なので、それほど決めることは多くない。私としてはとにかく無事に産まれてきたらそれでいいという想いだった。

 

 手術の経過を知りたいとか、臍の緒をどうするかとか、出てきた胎盤を見るとか、特に興味はない。産まれて直ぐの写真撮影は無理に一緒じゃなくてもいいかな。

 それから、産まれて直ぐの授乳をどうするか。

 翡翠とのプレイを思い出してしまったけど、そうじゃない。リアルな授乳だ。

 

 私が授乳、するんだよな……

 

 ……できるのかなぁ

 



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出産

11月15日 水曜日 32週0日

 

 妊娠期間は2週間毎に壁があって、それを超える都度、死産や後遺症のリスクが下がると言われている。

 

 22週以前の出産はほぼ生きられない

 22週で生きられる可能性が出てきて

 24週で生存率が半分くらいになり

 26週で生存率が8割を超える

 28週で1kgを超えてほぼ生存可能

 30週で内臓がほとんど完成して

 32週で排泄機能が備わる

 34週で呼吸ができるように

 36週で殆ど準備ができて

 37週からは正産期となる

 

 だから、少なくとも後2週間は頑張ろうと、自分に言い聞かせて日々を過ごしてきた。

 今日で32週。後2週間頑張れば自力で呼吸ができるようになる。

 数日前から張り止めの点滴の濃度がほぼマックスになっていた。

 それに伴う副作用が酷くて、死んだ魚のようにベッドに横になっている。

 

 アリサが1680g、アリシアが1396gになった。お腹は見るからにもうパンパンになっている。よくもまぁ、ここまで大きくなるものだと、自分でも関心するほどだ。

 後2週間で自力呼吸ができるようになる。そうなればNICUに入ることもないかもしれない。狭いだろうけど、もう少しだけお腹の中で我慢してね。

 

11月19日 日曜日 32週4日

 

AM 3:00

 

 夜中に痛みで目が覚めた。

 赤ちゃんに蹴られたのではなく、お腹が張っているのとも違う。生理痛に似た内臓の痛みで、すぐに治まった。

 そして、眠りに入りかけた頃、再度痛みがやってくる。

 だけど、そんなに強い痛みではなかったこともあり、しばらくじーっとしていたら痛みは引いたので、眠気に任せて私は意識を手放した。

 

AM 7:00

 

 違和感で目覚めた。

 股間が濡れている感覚がある。

 

「もしかして、おねしょ……!?」

 

 掛けシーツをめくってみると、パジャマの股間の部分とシーツが濡れていた。

 

 お腹が大きくなってから、くしゃみしたときにおしっこが少し漏れたりとかはあったけど、お漏らししたことはなかったのに……

 だけど、妊娠していると漏れやすくなるみたいだし……恥ずかしいけど、仕方ないよね。

 

 そう思っていたら、なんだか違和感が。

 

 アンモニアのにおいがしない?

 それじゃあ、これは一体……?

 

 お腹がずきっと痛む。夜中に感じたのと同じお腹がきゅっとなる痛み。

 だけど、より強くなっている。

 これってもしかして、陣痛というやつではないのだろうか。

 それに、赤ちゃんが下に降りて来ているような気がする。

 

 だったら、これは――

 

「……破水?」

 

 私は震える手でナースコールのボタンを押した。

 

 看護師さんはすぐに来てくれて、状況を伝えると応援が呼ばれた。

 看護師さんたちが着替えとベッドの処理をしてくれて、私はお腹にモニターを取り付けられる。先生が来て診察が始まった。

 

「破水してますね。子宮口が4cm開いて、赤ちゃんが降りてきています。いつ産まれてもおかしくない状況です」

 

 予想していたとはいえ、先生に告げられた事実に私はショックを受ける。

 

「幸い二人とも頭位なので、このまま通常分娩を試みてみましょう」

 

「……え?」

 

「張り止めの点滴を止めますので、数時間で張り替えしが来て陣痛が強くなると思います。それから、赤ちゃんの内蔵の発達を促すためにステロイドを投与します。質問はありますか?」

 

「えっと……その……帝王切開ではないんですか?」

 

「このまま通常分娩で出産した方が安全でしょう。もちろん、危険だと判断した場合は、緊急帝王切開手術に切り替えますが」

 

「そ、そうですか……」

 

 そのとき、お腹の痛みがやってきた。

 

「……これが、陣痛」

 

AM 8:30

 

 診察後、陣痛室で子宮が開いて出産の準備ができるまで待つことになった。

 帝王切開のつもりでいたので、普通に出産する場合のことなんて知識がなかったので、陣痛の合間にスマホで調べる。

 

 陣痛とは出産するために子宮が収縮する作用のことで、痛いときと痛くないときが交互に来る。

 今は痛みを感じる時間は大体30秒くらいだけど、陣痛が進むとこれが1分くらいに伸びるらしい。そして、今は6分間隔のインターバルのは陣痛が進むにつれて短くなる。

 

 簡単に言うと痛みは強くなり、時間は長くなり、インターバルは短くなるということだ。

 しかも出産が順調でも半日程度かかるという。

 

 うわぁ……

 

 私の場合は朝の時点で陣痛が大分進んでいるようで、そこまでかからない可能性が高いというのが唯一の慰めだった。

 

 助産師さんが痛みの逃し方を教えてくれた。長くゆっくりと息を吐き出すのが良いらしい。リラックスしたりするのが良いって言われたけど、なかなか難しい……

 

AM 11:00

 

 陣痛が強くなってきた。お腹だけじゃなくて腰も痛い。

 ただ、張り止めの薬が抜けてきたからか、ここ最近ずっと感じていた霞がかかったような感じがなくなって、意識がはっきりしてきた。

 

 父さんと母さん、そして昨日からこっちに来ていた優奈が病院からの電話を受けて駆けつけてくれる。こういうときに家族が側に居てくれるのは本当に心強い。

 

PM 0:30

 

 痛みはさらに強くなっている。

 ご飯を出されたけど、帝王切開の可能性があるので私は食べられない。そもそも食欲自体が無かったけど。水分だけは陣痛の合間に採っている。ご飯は優奈が食べてくれたので無駄にしなくて済んだ。

 

 この痛みを魔法で消せたらいいのに。

 生理もそうだったけど、妊娠や出産における体の反応に魔法で干渉するのはあまり推奨されないそうだ。

 もっとも、出産のときは魔法の補助を使うようで、温水プールのような場所に妊婦が入って、水中で水魔法を使った出産方法になるらしい。

 アリシア自身出産の補助で何度か出産に立ち会ったことがあると聞いた。

 ノウハウも無い状態でそれを試すつもりはなかったので、私の出産は現代医学に頼りっきりだけども。

 

 ところで、助産師さんに「いきみたくなっても我慢してくださいね」と言われたけど、いきみたくなるってどんな感じだろう……?

 

PM 4:00

 

 いきみたいという感覚がわかった。

 便意と似たような、外に出したくなる感じだ。

 

 だけど、子宮が開ききるまでは、いきんではいけないらしい。出したいのに出せないというのは苦しみ。

 いきみを逃すのに、優奈が握った拳でお尻のところを押してくれた。最初は少し戸惑ったけど、確かにそれで楽になった。そして、恥ずかしいと感じていられる余裕はすぐに無くなった。

 

 陣痛の時間は1分程度、間隔は2分程度、優奈がアプリで大体の時間をカウントしてくれている。後、5秒、4、3、2――

 

「――うくっ」

 

 声が、出ない。

 うずくまってひたすら耐える。

 意識が遠のきそうなほどの激痛。

 生理痛を何倍にもしたかのような下腹部の痛み。

 そして、骨をバキバキに砕かれているかのような腰の痛み。

 

「ひっひっふーで呼吸して!」

 

 助産師さんが呼吸法を教えてくれる。

 この呼吸法自体はなんでか知っていたけどこの場面で使うものだったんだ。

 

 言われた通りに呼吸すると、気持ち楽になったような気がする。

 呼吸を繰り返して痛みを逸らす。

 額の脂汗を母さんが拭ってくれた。

 優奈が背中をずっとさすってくれて、お尻を押してくれている。

 

PM 6:00

 

「あぁあああああああぁぁ」

 

 痛い。

 痛い。痛い。

 痛い。痛い。痛い。

 

「ぐぁぁあぁぁあああぁ」

 

 陣痛の合間に時計を確認しても、ほとんど時間は進んでしない。

 いつになったら終わるんだ、これは。終わりが見えない。

 

「あああぁああああぁぁ」

 

 嫌だ。もう嫌だ。

 なんで男の俺がこんな思いをしなきゃいけないんだ。

 

 助産師さんに帝王切開して欲しいと訴えても、もう少しがんばろうとしか言ってくれない。

 

 お腹を切って終わるなら切って欲しい。

 魔法があるから、体を切った傷の回復はなんとかなるんだ。

 お腹を痛めて産むとかどうでもいいから、早く終わらせて欲しい。

 

 そんな泣き言を優奈にこぼす。

 

「アリス、がんばろう? もう少しでアリシアに会えるんだよ!」

 

 優奈の言葉で我を取り戻す。

 そうだ、俺は……

 

「――う、くぅ……アリシアぁぁ!」

 

「そうだよ、アリシアだよっ!」

 

「……ぐぅ……うぅぅ、あああああぁぁ……!」

 

 ……

 …………

 

 これは、もう一度アリシアに会うための痛み。痛みが強くなるのは陣痛が進んでいる証拠だ……だったら、耐えられる。耐えてみせる。

 

 うっ――

 

「ああああぁぁぁ、アリシア! アリシアっ!」

 

 訳もわからなく叫んでいた。

 痛くて叫ばずにはいられなかった。

 

 そのとき、不意にお腹が内側から蹴られた。

 この位置はーー

 

「ごめんーー忘れていた訳、じゃ、ないっ。アリサっ、アリサぁ! あなたにも会いたいっ!」

 

 私の赤ちゃん。

 妊娠してからずっとずっと一緒だった。

 お腹の中で元気に反応してくれた赤ちゃん。

 

 二人とも無事に産んであげるんだ。

 絶対に。

 

「くぅぅぅぅぁぁあああ! 痛いっ! 痛い! 痛いぃぃぃ!!」

 

PM 7:00

 

 内診で子宮口の開き具合を確認されて、ようやく子宮口が全開だと言われた。

 やっと終わりが見えた、この苦痛から解放されるというのが正直な感想だった。

 

 出産のため助産師に付き添われて分娩室に向かう。移動途中で陣痛が来て、その間は母さんと優奈に捕まってひたすら耐える。

 陣痛の合間に母さんと優奈も立ち会って貰うように話をしていたので二人も一緒だ。

 父さんには遠慮してもらった。

 

 分娩台に乗せられて、お腹の上下に二つセンサーがベルトで固定された。点滴が腕に刺される。

 そして、腰のあたりにあるグリップを握った。

 

「それじゃあ、いきんで下さい!」

 

 と言われていきもうとするけれど、いざとなると力の入れ方がわからない。

 困惑していると、助産師さんから指示が出た。

 

「深呼吸を二回してー」

 

 吸う……吐く。吸う……吐く。

 

「大きく吸ってー」

 

 大きく吸う。

 

「ちょっとだけ吐いて、そのまま息を止めて、いきんで!」

 

 少し吐いて、息を止める。

 

「くぅ――!」

 

 便秘のときのうんちをひり出すようなイメージで力を入れる。

 

 ……うんちが出たりしないかな?

 

 そんなことが少し頭をよぎったけど、すぐに気にする余裕なんてなくなった。

 いきむと指示されるタイミングは陣痛に襲われているタイミングだったので、痛みに耐えつついきむので精一杯だったからだ。

 

 後で聞いた話だと出産のときにうんちが出るということはままあるらしい。もしかしたら、知らないうちに出ていた可能性もある。確認するつもりもないからわからないけど。

 

 痛みの中、助産師さんの指示に従ってひたすらいきむ。

 繰り返しているうちに、なんとなく赤ちゃんを出口に押し出す感覚が掴めてきた。

 

PM 8:25

 

「頭が見えてきましたよ!」

 

 と助産師さんに言われた。

 まだ、出てこない。

 

PM 9:12

 

 入院生活で落ちきった体力はもう限界で、意識は朦朧としていた。母さんや優奈の声を聞きながら、もう何度目かのいきみを繰り返す。

 

「少し切りますね」

 

 と先生に言われて、なんでもいいからやってくれと頷く。

 それから、そこを切られている感覚があったけど、特に痛みは感じなかった。

 

「はい、いきんで!」

 

 助産師さんの言葉でほぼ無意識の反射でいきむ。

 

「頭が出てきましたよ! 後少し、がんばって!」

 

「がんばって、アリスっ!!」

 

「はい、いきんで!」

 

 繰り返す。

 

「――っ!」

 

 まだか……まだなのか……

 

「はい、いきまないでー! 手を胸に当てて、はっはっはって息してー!」

 

 いきまなくていいの……? と、疑問に思いながらも言われた通りにする。

 

 少しして、体の中からズルリと出ていく感覚がして。

 

「ふにゃぁ、ふにゃぁ……」

 

 小さい声がした。

 

「産まれました! お姉ちゃん出てきましたよ!!」

 

 ただ、呆然と。

 

「やったね、アリス!」

 

 周りの反応を眺める。

 

PM 9:35

 

「じゃあ、妹ちゃんも頑張りましょう!」

 

 助産師さんの言葉で現実に引き戻される。

 まだ、一人が出てきただけだ。

 終わった訳じゃない。

 

「二人目は道ができているから、早いですよ!」

 

 そう言われてほっとする。

 

「妹ちゃんは頭位のまま! 心音オッケーです!」

 

 先生に手を突っ込まれて中をぐりぐりされる。子供の位置を確認しているようだ。

 

 うぐっ……痛い。

 

 破水したみたいで、ばしゃっと水が流れ出る感触がした。

 

 とたんに復活する陣痛。

 それからはまるでジェットコースターのように。

 

「はい、そのまま、いきんでー!」

 

 言われるがまま、いきんで。

 

 今度は十分くらいで二人目が出てきた。

 

「ふにゃぁ、ふにゃぁ……」

 

 産声が、聞こえる。

 

「うう……やったね、やったね、アリス……!」

 

「お疲れ様、アリス」

 

 優奈も母さんも涙で顔がぼろぼろだ。

 返事する気力もなかった。

 疲れすぎて感情が動かない。

 

 終わった……というのが、正直な今の気持ちだ。

 

 だけど、そう思ったのは早計だった。

 

 まだ、お腹の中に残っている胎盤を出さないといけないらしくて、お腹をぐいぐいと押された。

 

 これ、痛い。

 

 そして、弱い陣痛がまた来たかと思うと、肉の塊がどろりと……割とグロい。

 

 それから子宮を収縮させるために腕が埋まるくらいお腹を押し込まれる。

 それがまた痛くて、拷問かと思ったほど。

 

 ダメ押しは切ったあそこの縫合。麻酔していたみたいだけど、結構切れてしまったのか、針が、刺さるのが、痛いっ!

 

 一度終わったと思って安心してしまったから、その後の痛みを耐えられる強さは残っていなくて、情けないほどに悲鳴をあげまくった。

 

 子供は産後すぐにNICUに行ったらしい。

 顔もまだ見れていないけど、仕方ないと諦める。未熟児ではあるけれど、今のところ不安要素はでていないらしい。

 

 アリサ1786g、アリシア1501g。

 

 ……育ちきるまで、お腹の中に居させてあげられなかったな。

 

 という罪悪感と、無事産まれてきたことへの安堵と。

 

 とにかく、今は早く休みたかった。

 



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再会そして

11月20日 月曜日

 

 出産後2時間は経過観察しないといけないとのことで、体を拭いて着替えさせてもらってから、しばらく分娩台の上で過ごした。

 

 先生のオッケーが出て、やっと部屋に帰れると思ったら、その前にトイレに行くように言われた。

 

 出産後初めてのトイレは必ず助産師さんが立ち会うことになっている。トイレの中で倒れないか見守ったり、出血量を確認したり、それから、おしっこが出るかどうかも大事なのだそうだ。

 出産直後は尿意の感覚が麻痺して、おしっこが溜まっているのがわからなかったり、出なかったりするみたいで。おしっこが溜まっていると子宮の収縮に良くないので、もし出なかったら、カテーテルで導尿するのだと説明された。

 

 血塗れになっている座布団のようなナプキンを外して便座に座る。

 尿意はなかったけど、恐る恐る力を入れる。

 すぐに出なくて少し焦ったけれど、何度か試みるうちになんとか出た。

 切った部分の痛みは感じなくてほっとした。

 

 終わった後、そこを拭くのにまた覚悟が必要だった。

 ばい菌が入るかもしれないのでトイレットペーパーは使えないらしく、助産師さんから渡された湿った脱脂綿を使う。

 恐る恐る触れると、痛みはそれほどでもなくて、腫れている感覚があった。ポンポンと押し当てていくと、割れ目の右斜め下あたりで、縫合に使われた糸と縫われて引きつった部分に触れて、心の中で「ひぃぃ」と悲鳴を上げた。

 

 新しいナプキンをつけて着衣を直すと、助産師さんに声をかけて、出血量を確認してもらった。

 大量に出血しているように思ったけれど、これで普通なのだと聞いて、改めて出産という行為の壮絶さを思い知らされる。

 

 病室に戻る頃には日付が変わっていた。

 室内には家族が待ってくれていて、大仕事を終えた私のことをねぎらってくれた。

 疲れているだろうからと、それから少しだけ話をして。

 

 私は一人になった。

 

「やっと、終わった……」

 

 一日が長かった。

 体はとにかく疲れていて、早く寝たい。

 だけど、極度の緊張が続いたせいか、気が張っていてなかなか寝付けない。

 

 病室はとにかく静かに感じた。

 昨日まで感じていた気まぐれな胎動も、今はもうない。

 

 もうお腹の中に赤ちゃんは居ない。

 

 そのことが、なんだか不思議で――

 

「産めたんだよね、私……」

 

 と自分自身で確認の言葉を呟いてしまう。

 

 現実感が乏しかった。

 赤ちゃんの顔を一目も見ていないから、というのもある。

 体中の筋肉痛や子宮が収縮する痛みが、これは現実だと知らしめてくれるけれど。

 

 四六時中一緒だったお腹の中の存在が居ないことにすごく違和感があった。

 結局、眠れたのは夜が明けようとする頃だった。

 

   ※ ※ ※

 

 朝、診察で看護師さんに起こされる。

 疲労と寝不足でぼーっとしたまま、体温、脈拍、血圧を測られた。

 それから、先生による内診。

 

 切開した会陰部の痛みは2~3日くらいで落ち着くだろうとのことだった。

 縫合している糸は自然に体に取り込まれるとのことなので、診察が終わったら魔法である程度回復してしまおう。麻酔が切れてドーナツ型のクッションが無いと座ることもできないくらいに痛むようになっているけど、糸が怖くて我慢していたのだ。

 

 子宮の収縮も順調とのこと。後陣痛と呼ばれる痛みはしばらく続くみたいだけれど、陣痛と比べたら全然耐えられる。

 子供たちは検査に異常もなく元気だとのことで、この後面会できるらしい。

 

 それから、子供たちのことを考えながら朝ご飯を食べた。

 丸一日以上ぶりの食事が体に染み渡る。同時に回復魔法で会陰の傷を癒しておいた。

 

 そして、ついに赤ちゃんとはじめての対面である。

 

 NICUの入り口にはインターフォンがあり、そこで名前を告げるとドアが開いた。

 髪をゴムで束ねてから、中の手洗い場で手洗いとアルコール消毒をし、マスクを着用して中に入る。

 看護師さんに連れられて室内に入り、二つ並んだ保育器の前にたどり着く。

 

 少しだけ浮ついた気持ちは、二人の姿を見て直ぐにしぼんでしまった。

 

 保育器の中の二人はすごく小さかった。

 着衣はオムツだけ。そして、口や肌にはいろいろなチューブや測定のための機器がつけられている。

 その姿はとても痛々しいもので。

 

「大丈夫ですよ、お母さん。二人ともす少し小さいですけど、元気ですから」

 

 絶句している私に、看護師さんが声を掛けてくれた。

 私は動揺して返事することもできない。

 

「そんなに小さな体で、二人も。お腹の中でここまで育てて、産んであげられたんです。お母さんすごいですよ」

 

「……ありがとう、ございます」 

 

 看護師さんに慰められて、ようやく私は現実と向き合う気力が沸いてきた。

 

「まだ抱っこはできませんが、触ってあげてください」

 

 私は如月アリシアと名札のついた保育器の前に立つ。

 保育器は赤ちゃんを透明の箱が取り囲む形状をしている。惣菜のパックを大きくしたみたいだと思った。

 体温の調整ができるようになるまで、温度や湿度が保たれているこの保育器の中で過ごすことになるのだそうだ。

 透明な箱の側面には穴が開いていて、そこから手を入れられるようになっていた。

 

 彼女は眠っていた。私とよく似た銀の髪色。

 管はいろいろついているけれど、表情は穏やかそうでほっとする。

 

「両手で包み込むように触ってあげて下さい。赤ちゃんが安心しますから」

 

 両手を広げたら、全身を包めてしまいそうだった。

 手足に至っては指と同じくらいの大きさしかない。

 

 起こしてしまわないように、静かにアリシアに触れる。

 

「暖かい…」

 

 赤ちゃんの肌は柔らかくぷにぷにしてとても暖かい。

 触れられることに違和感を感じたのが、アリシアが少し顔をしかめた。

 手の中でもぞもぞと動く。生きてるんだ。

 

「こっちがお姉ちゃんですね。アリシアちゃんはお母さん似かな?」

 

 家族以外の口から発せられた、その名前を聞いて。

 涙がこぼれた。

 

「……アリシアぁ」

 

 嬉しさ。申し訳なさ。

 誇らしさ。悔しさ。

 愛おしさ。罪悪感。

 

 ごちゃ混ぜになった感情が溢れてきて、涙が止まらない。

 両手は小さな命に触れたまま、ほろほろと。

 

「――っ」

 

 涙は看護師さんがハンカチで拭ってくれた。

 

 やがて、名残惜しさを感じながら手を離した。

 

「すみません、もう大丈夫です」

 

「どういたしまして」

 

 そして、隣の保育器に移動する。

 

「こちらが妹ちゃんですね。妹ちゃんはお姉ちゃんより大きいから早めに退院できると思います」

 

「アリサ」

 

 アリサはアリシアと違って起きていて、もぞもぞと動いていた。

 半開きになった焦点の合わない目がぼんやりと宙を眺めている。

 

「アリサは黒髪なんだね」

 

 きっと、翡翠に似た美人さんになるに違いない。

 アリシアより少し大きいけれど、やっぱり小さい。

 

 この子がお腹の中に居たのだと思うと不思議で仕方ない。

 

「私の赤ちゃん……」

 

 アリシアにもしたように、両手で抱くようにアリサに触れた。

 

「あー」

 

 とアリサが声を上げる。

 肌に指を這わせると「きゃっきゃ」と、くすぐったがるように体をよじらせた。

 

 ……喜んでるのかな?

 

 ふかふかの黒髪に触れると、お気に召さなかったのか、アリサの口が富士山になる。

 

「……かわいい」

 

 手に触れると、小さなてのひらが、私の指先をきゅっと包み込む。

 くすぐったい。

 

 ああ……産まれたんだな。

 

 娘たちを前にして、ようやく私は母親になったという自覚を得た。

 

 今まで大切な物を取り戻すため、がむしゃらに走り続けてきた。

 そして、ようやくここにたどり着いたんだ。

 

 ここはゴールではなくスタートだけども。

 

 あの日から立ち止まってた私は再び歩き出す。

 アリシアとアリサ、二人の娘たちと一緒に。

 



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卒業

 出産してからも大変な日々は続く。

 産後の体力の落ちた体で、3時間おきに搾乳機で搾乳して、娘たちのために母乳を用意する日々。

 

 それでも、少しづつ体は回復していった。そして、子供たちに刺さったチューブも徐々に外れていく。

 

 はじめてアリサを抱っこした日。

 その小ささに怯えながら両腕で抱えた。

 

 はじめての授乳のときは、なんとも言えない気持ちになった。胸がきゅっとなって、切ないような寂しいような気持ち。

 

 そして、アリサに続いてアリシアも。

 アリシアを再びこの手で抱きしめることができたという感動で、涙がこぼれてしまった。

 

 退院の順番は私、アリサ、アリシアの順。

 最後のアリシアが退院できたのは年が明けてのことだった。

 

 少し寂しかったけど、アリサ一人をお世話するだけでも、いっぱいいっぱいになっていたので、二人同時に退院しなくて逆に良かったのかもしれないと、後になって思った。

 年末年始が過ぎてからも、しばらくは借りたマンションで過ごして。

 1月末に部屋を明け渡して、約半年ぶりに自宅へと帰ることができた。

 

 おっぱいに、おしめに、入浴に、夜泣きに、吐き戻しに、と慌ただしく日々がすぎていく。

 家族の助けがなかったら、どうなっていたのか考えるだけで恐ろしい。

 

 二月で私と優奈は17歳になった。

 今年の誕生日パーティは心から楽しめた。

 

 春になって子供たちの首が座りだした頃、年度が替わるタイミングで私は復学した。

 久しぶりに袖を通した制服は、なんだか違和感があった。

 外見はそこまで変わっていないのにコスプレしてるかのような……心境の変化だろうか。

 「あー」とか「うー」とか言うようになった娘たちを母さんに預けて登校する。

 幸い今年も優奈と一緒のクラスだったので、心細くはなかった。

 

 ちなみに、蒼汰は県外の大学に受かって神職になる勉強をするために一人暮らしを始めて、翡翠と涼花は市内の大学に入学した。

 

 新しいクラスにも優奈のおかげですぐに馴染んで、学校生活と母親の二重生活は順調のように思えた。

 

 けれど、初夏のある日、私は職員室に呼び出された。

 娘たちの存在が学校にバレていたのだ。

 二人のことを問いただされたとき、私は正直に答えた。娘ではないという嘘はつきたくなかったので。

 

 ハーフバースデーを迎えた二人は、ちょこんと座る姿がかわいらしくて愛おしい。

 私はこの子たちのことを一番に考えたいと思っている。学校に行かせてくれた両親には申し訳ないと思うけれど……

 

 先生たちから言われて、私は自主退学することになりかけた。

 妊娠出産を隠していたのは事実だから、仕方ないと思っていた。

 

 けど、学校の方針に反対だと声を上げてくれた人たちがいた。

 文佳や純、それに今や昔のクラスメイトが中心になって、私が学校に居られるように働きかけてくれたのだ。受験の忙しい時期だというのに署名までしてくれて。

 保健の先生や佐伯先生が、他の先生たちを説得してくれた。

 卒業した涼花が、身内である理事長に直訴してくれた。

 最後に両親が、どうしたいのか聞いてきた。私は、学校を続けたいと答えた。

 

 保護者を交えた面談することになって、私は学生を続けられることになった。

 

 話し合いの部屋の前には生徒たちが何十人も集まっていて、結果を告げると自分のことのように喜んでくれた。

 

 それが嬉しくて、涙がこぼれてしまった。

 

 この学校への思い入れは、自分でも気づかないほどに大きくなっていたらしい。

 最後までこの学校で思い出を残そう。

 

 夏休み。

 はいはいをしはじめた娘たちは、片時も目が離せなくなっていた。

 リビングを所狭しと移動して、姉妹で頭をぶつけて泣いたり、少しでもドアが開いていたら廊下に出ようとしたり。

 動きは見ていてかわいいのだけど、怖い。

 後、なんでも口に入れようとするので、小さい物は子供たちの手の届くところには、絶対に置かないように徹底する必要があった。

 

 二学期が始まり、受験生である私たちの周辺は、目に見えてピリピリしてくる。

 優奈は翡翠や涼花と一緒の市内の大学に進学するらしく、夜遅くまで勉強している。

 私は進学はせずにしばらくは家で育児に専念することにした。

 母さんは進学しても良いと言ってくれていたけど、母さんにも仕事があるし、今は二人の成長を見守りたかった。

 

 秋の文化祭には娘たちと一緒に参加した。

 私が学校に居られるように協力してくれた人たちに、子供たちを見てもらいたかったので。

 

 銀髪と黒髪が特徴的な双子の娘は、行く先々で注目された。

 私のことを内心けしからんと思っているはずの堅物の先生でさえ、二人の顔を見ると口角を下げた。

 

 ただ、男子諸君。私のことをママと呼ばないように。私は君たちのママじゃない。

 

 それとは別に、私のことをエッチな視線で見てる男子も多いけど……これはもう仕方ないね、うん。

 

 後、エッチといえば音成くん。

 子供たちが彼の顔を気に入ったのかなんだかきゃっきゃと喜んでいたなぁ……

 彼は子供に好かれることはあまり無いみたいで嬉しそうだった。

 

 署名運動のときは、山崎くんたちと一緒に動いてくれたりした。彼はやっぱり良い奴だ。

 御礼として、優奈に事情を全部話して水着の写真を撮らせてもらって送った。

 ……私の写真じゃお礼にならないからね。

 

 けど、反応が微妙だったのはどうしてだろう? 優奈はスタイルも良いし、音成くんの趣味に合うと思ったんだけどなぁ……

 

 冷たい風が冬の訪れを感じさせる頃、子供たちがリビングのテーブルに掴まって、初めて立った。

 

 少ししたら、テーブルに掴まったまま歩きだして、何度も転げながらよちよちと歩くようになった。

 

 11月19日、娘たちの初めての誕生日。この日を無事に迎えることができたのは喜びだった。

 アリシアがちょっと小さいけれど、二人とも順調に大きくなっている。

 

 まだ普通のケーキは食べられないので、ヨーグルトを使ったケーキを手作りして、誕生日パーティをした。

 

 パーティは、本当に楽しかった。

 今日の主役の娘たちは、よくわかってないみたいで、不思議そうにしていたけど。

 ケーキとプレゼントのボールプールは嬉しそうにしていた。

 

 冬、クリスマス。

 今年から私はサンタとしてクリスマスプレゼントをあげることになる。

 去年はまだアリシアが入院していたので初めての大役だ。

 

 二人お揃いのアンパンさんのおもちゃ。朝目が覚めて枕元のおもちゃを見つけて、喜んでいた。

 

 アンパンさんはテレビでDVDを流してると、二人並んでしばらくじーっと座って観てくれるので助かっている。

 アンパンさんマジ偉大。

 

 そして、卒業式。

 

 人生の節目の日なので、家族全員が来てくれた。もちろん、娘たちも一緒だ。

 

 家族全員で撮った卒業写真は大切な物で、私の部屋のよく見える場所に飾っている。

 

 こうして卒業を迎えられて思うのは、本当にいろんな人たちに助けられて、今の自分たちが居るということ。

 

 幾人として入学して。修学旅行のフェリーから落ちて異世界に行って、アリシアの体になって戻ってきて、アリスとして転入。

 女としての高校生活、そしてアリシアとの別れ。

 出産のために一時休学。そして、出産。

 復学した後、出産がバレて自主退学しかけて、それをみんなが止めてくれた。

 

 楽しいこと、辛いこと全部。

 今では大切な思い出。

 

 ーーだから、最後に。

 

 春の陽気の下で。

 

 校門を振り返って、大きく頭を下げる。

 

「今まで、ありがとうございました!」

 

 心からの感謝を。

 



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そして、私は

 卒業してからは、子育てに専念する日々が続いた。公園デビューしたり、児童館に行ってみたり。

 

 2冊の母子手帳に書かれる内容が増えていく。成長の様子や、受けた予防接種の記録。そのときどきの疑問などのメモも残っている。

 

 この頃、私が主に悩んでたのは子育てよりも蒼汰と翡翠との関係だった。

 

 翡翠は学校が忙しいので毎日は来れなかったけれど、週に何回かは必ず家に来ていた。

 ときどきは母さんに子供たちを見てもらって、二人でデートするときもある。

 そのときは、鍵を預かったままのマンションで、二人の時間を過ごすこともあった。

 

 そして、蒼汰が長期休暇で地元に帰ってきたとき。

 私は蒼汰から誘われて、初めて子作りという理由のないセックスをした。

 蒼汰へのお礼という建前はあったけど、そんなの関係なしに蒼汰から求められるのは嫌じゃなかった。

 ……自分でも、どうかと思うけど。

 

 蒼汰も翡翠もお互いと私との関係を承知しているけれど、改めてこんな関係を続けていていいのかと本気で悩んだ。

 

 私が悩んでいることは、みんなにはバレバレだったみたいで、私と翡翠と蒼汰と優奈の四人で話し合うことになった。

 

 結論は前と変わらない。私たちは家族として暮らしていくことになるのだから、世間はどうであれ、このままでいいのだと。

 

 それでも、私の迷いは消えなかった。

 けど、疑問に思わなくなったら、それはそれでダメな気もするので、この気持ちは抱えていくことにする。

 結局流されるまま、二人と関係を続けること自体は変わらないんだけれど……

 

 ともあれ、子供は成長していく。

 

 はじめて言葉を喋った日。

 アリシアが私のことをママと呼んでくれた。言葉はアリシアの方が早かった。

 

 ちなみに、アリサは翡翠のことをかーさ(ん)と呼んだのが最初の言葉だった。

 

 言葉が増えて自分の意思を言葉で発するようになる。特にアリシアは物覚えが良い。後から判明したことだけど、彼女は完全記憶能力を受け継いでいた。

 

 そのうち、単語ではなく文章を話すようになる。

 

 意思疎通ができるようになった分、逆に理解されないことがストレスになる。

 私たちが自分のしたいことをわかってくれないと、娘たちは癇癪を起こす。

 こちらが体調が悪かったりしてしんどいときも、要求を止めない娘たちに勘弁してと思うときがある。

 うちは、そういうときは家族みんなに助けてもらって休めるけれど、そうじゃなかったら多分爆発してしまっていたと思う。

 

 自分一人で居る時間の大切さを実感した。

 

 結局、できることは根気よく繰り返して教えるだけ。娘たちのアクションが私たちにどのような感情をもたらすのか。その結果を繰り返し教えるトライアンドエラー。

 

 幸い二人とも知識が理解に変わるのが早かったので、大分楽な方だったのだと思う。

 

 子供たちのことばかり考える日々。

 少しづつ成長に合わせて日常は変化して、子供が自分でできることがひとつづつ増えていった。

 振り返ると、いつの間にこんなに大きくなっていたのかと驚かされる。

 

 年が明けて成人の日。

 神社で祈祷する人はそれなりに居るので、例年は神社の手伝いをするのだけれど、今日は祈祷を受ける方だ。

 私と優奈は朝から祈祷してもらい成人式に行った。

 二人ともレンタルした振袖姿で、普段と違う華やかな姿に子供たちもはしゃいでいた。

 

 ……抱っこはちょっと我慢してね。

 普段着が鼻水やら涙やらで汚れても気にならなくなったけど、この服は高いから。

 

 成人式では、高校の頃の友達とか、懐かしい人から話しかけられることが多かった。

 

 そして、二月が来て、私は二十歳になる。

 誕生日を過ぎたある日、私は父さんと二人でお酒を飲んだ。

 

 ビールは苦いままだったけど……約束を果たせたことを嬉しくて泣いた。父さんも泣いていたと思う、多分。

 

 それからは、ときどきお酒を飲むようになった。子供たちの世話があるので家でだけど。

 ときどきカクテルを少し飲むのが殆どだったけど、蒼汰が帰ってきているときはみんなで私の部屋で飲み会をするときもあった。

 

 けど、何度目かの飲み会のとき、酔ってやらかしたことがある。

 

 優奈が真っ先に潰れて、次に翡翠が眠り、私は残った蒼汰と二人で飲んでいた。

 お酒のせいか、なんだか無性に人肌が恋しくなって、私は蒼汰にくっついて飲んでいた。

 そしたら、蒼汰がその気になってしまった。ただのスキンシップでそんなつもりは全く無かったのに。

 徐々にボディタッチが増えてきて、手つきがいやらしくなっていく。

 みんながいるからダメって言ってるのに。

 けど、そのうち私も気持ちよくなってしまって、そのままずるずると流されてしまった。

 

 そんなとき翡翠が起きてしまいーーそれからはめちゃくちゃだった。

 翡翠と蒼汰が罵りあいながら私を求めてきて、仕舞いには優奈まで……

 

 この日のことは触れないというのが、私たちの間で暗黙の了解となった。

 

 翌朝、私は二日酔いの頭を抱えながら、お酒はほどほどにすることを心に誓った。

 

 3歳になった娘たちは幼稚園に通い始める。

 二人はあまり似ていない双子だった。

 

 アリシアは銀髪のロングヘアーで身長はクラスの中で一番低い。

 好奇心が旺盛で、目に映るもの何でも興味を持ち、新しい友達も積極的に作っていく。

 テレビが好きで、アニメだけじゃなくニュースも難しい顔をして観てたりもする。

 

 アリサは黒髪のロングヘアーをツインテールにしており、身長はクラスでも高い方だ。

 大人しく言葉は少なめで、自分から積極的に他人に話しかけることは少ない。

 と言っても、アリシアに手を引かれて、友達と一緒に遊ぶことが常なので、特に孤立しているという訳でもなかった。

 好きなのは、アンパンさんのカバのモブらしい……なんで?

 

 アリシアは私に似ているけれど、アリサは子供の頃の翡翠に本当によく似ていた。

 幼稚園のお母さんは、アリサが翡翠から生まれたと思っている人も多いだろう。

 

 幼稚園は子供の行事やらで、母親がすることが案外多くて、保護者会やらランチ会やらで話を合わせるのが大変だった。

 

 基本十歳以上歳上の人が殆どだったし、家族の事を話すにも特殊すぎて……別に隠してる訳じゃないから話すけど、驚かれるよね、そりゃ。

 

 多分、いろいろ噂されているのだろうなぁ……まぁ、子供に悪影響がなければ、何を言われようと、私は別に気にしないけども。

 

 うちは母さんが二人いてズルいと言われたりしたみたいだけど……

 

 ちなみに娘たちは私を『ママ』と呼び、翡翠のことを『母さん』と呼んでいる。

 

 優奈は一時期自分のことを『かーちゃん』と呼ばせようとしていたが、今は母親と名乗ること自体やめていた。

 優奈はようやく妹《兄》離れしたらしく、私たち家族とは、別の道を進むことに決めたらしい。

 今は娘たちに『優奈姉』と呼ぶように指示している。

 ちなみに、娘たちが正しい続柄を知って、一度だけ優奈のことをおばさんと呼んだときがある。

 そのときは優奈にものすごい笑顔で諭されて、娘たちは二度とその単語を口にすることは無かった。

 

 時は流れ、大学を卒業した蒼汰が光博おじさんの跡取りとして実家の神社で働くことになった。

 翡翠も地元企業に就職が決まっている。

 

 これを機に私たちの今後を正式に話し合うことになった。

 

 その結果、私、蒼汰、翡翠、アリサ、アリシアの5人はひとつの家族として認められた。

 

 そして、私たち家族はリフォームした蒼汰の実家の社務所に移り住むことになった。

 

 普段は家事や育児をしながら、忙しいときには神社の仕事を手伝ったりするのが日常となる。

 

 縁結びにご利益があるとかいう噂になったりして、地元で有名な銀髪巫女としてテレビに出たりして。

 

 そして翌年、娘たちは幼稚園を卒業し、小学校に入学する。

 

 ランドセルを背負った姿は二人とも愛らしい。

 一人でいるときになんとなく私も背負ってみたら、違和感が無さすぎて鏡の前でドン引きした。他人には見せられない、絶対に。

 

 娘たちはしっかり頼もしく育っている。

 アリサとアリシアで成長の差はあるけれど。

 人見知りをせず明るく前のめりなアリシアと、おとなしく一歩引いて様子を見るしっかり者のアリサは、互いが互いの欠点を補うように支え合っていて、安心して見ていられる。

 

 心配事と言えば魔法のことくらいだ。

 

 そう、娘たちには魔法の素質がある。

 そのことに気づいたのは、二人が無邪気に私に「見て見てー」と水を出す魔法を見せてくれたからで、私は二人のことを褒めながら、他の人には見せないように言い聞かせた。

 

 魔法を教えるかどうか迷った。

 教えない方が良いのではないかとも思った。家族みんなで何度も話し合ったものだ。

 

 魔法の存在が公になったときのリスクは、以前よりも大きく深刻になっている。

 遺伝で受け継がれることが確定したからだ。

 

 けれど、魔法は便利なものである。

 遭難や事故等の深刻な危機に直面したときに、助かる可能性が高くなるメリットは無視できない。

 

 知識のないまま、魔法を使って魔力を暴走させてしまう可能性もある。ちゃんと教育しておくべきだろうという結論になった。

 

 魔法バレだけは本当に気をつけるようにと、二人には真剣に話しておいたから大丈夫ーーだと信じたい。

 

 それから、私は子供たちに魔法を教えるようになった。

 

 アリシアは当然のように水属性の適性が、アリサはなんと全属性の適性があった。

 

 各属性の神官や巫女に教わった魔法を思い出しながら教えていく。

 ひとつだけ教わっていない属性があるけれど、あの男には連絡を取りたくはないので諦める。

 あの男ーーエイモックは、アリシアの魂を移したときから、一度も姿を見ていないし、噂も聞かない。いったい何をしているのやら。

 

 そして、また時は過ぎて、娘たちは小学校を卒業し、中学生に入学する。

 

 思春期に入った二人の娘。

 親の贔屓目を抜いても文句なく美少女で、毎朝巫女姿で家の手伝いをする姿は微笑ましいとバイトの巫女さんや参拝客からの評判も良い。

 

 アリシアは在りし日の彼女と瓜二つに育った。

 つまり、若い日の私とそっくりということになる。アリシアと私は良く姉妹と間違えられた。

 私の身長は高校のときから殆ど伸びず、アリシアとほぼ一緒の身長になっている(私の方が1cm高い)。三十路になるというのに、お酒を買うときには必ず身分証を提示する必要があった。

 

 アリサは実の母親である私よりも翡翠と波長が合うようだった。

 こちらも姉妹に間違われることが多い。

 アリサが大人びているので、中学生と思われないことが多いのだ。

 身長も胸も、アリサが小学生の頃から私より大きくなっていた。

 普段はそんなに気にしてはないけれど、アリサと一緒にいるときに、私が妹だと勘違いされたことには納得していない。

 

 体は子供の体つきから、しなやかな女性らしい物へと変わっていく。

 そして、生理が来るようになる。

 母親としては、ようこそこちら側へと言った感じだ。毎月の物に悩まされるのも既にベテランの域になっている。

 娘たちへアドバイスするのも母親の役目だろう……と思っていたら、アリサは翡翠に相談して、アリシアはアリサに相談したため、私の出番はお赤飯を作るくらいだった。

 

 そして、アリシアが14歳になったある日、アリシアの生まれる前の記憶が戻った。

 

 朝目覚めて青ざめたアリシアはその事を私に告げて、謝罪の言葉を繰り返した。

 酷く混乱していたため、学校を休ませて部屋で休ませた。

 

 私はホットココアとクッキーを持って、アリシアの部屋を訪問して、二人で話をした。

 

 まず、私はアリシアに謝罪をしてから、母親として成長を見守ることができて嬉しかったことを伝える。産まれてきてありがとう、と。

 

 アリシアは、私を産んで、育ててくれてありがとうございます、と敬語で答えた。

 そういえば、以前のアリシアは誰に対しても敬語を使っていたな、と思い出す。

 産まれてからは、普通に話すようになっていたけれど。娘に敬語を使われるというのはちょっと寂しいものだ。

 

 今までの倍以上の人生を一気に思い出したアリシアは混乱していた。

 彼女の完全記憶能力が、それに拍車をかけているのだと思う。

 私は少しだけ話をして、後はアリシアが一人で落ち着けるように部屋から出た。

 

 お昼ご飯を部屋に持って行って、また少し話をする。

 夜も同じようにご飯を持って行き、後はアリシア自身が落ち着くのを待つことにした。

 

 そうしたら、私たちの態度が冷たいとアリサに非難された。

 アリサは事情を知らないので仕方ない。

 

 翌日もアリシアは学校をお休みした。

 ご飯や飲み物を持っていったとき、昨日よりもいろいろ話をした。

 

 私が幾人だった頃のこと。

 私がアリスになってからのこと。

 アリシアが私の娘になってからのこと。

 

 魂を転移させたことについては、やっぱり怒られた。私は謝罪するしかない。

 

 そして感謝された。私の娘として過ごした日々がどれだけ楽しかったか。いろいろなことを私たちと経験して、それがどれだけ幸せだったか。

 家族というのはこんなにも暖かいものだったんですね……と。

 

 笑って、泣いて、そしてまた笑って。

 

 アリサには全部を打ち明けたらしい。

 びっくりはされたけど、あっさりと事実を受け入れてくれたそうだ。

 

 私たち家族が非常識なのは今に始まったことじゃないし、魔法も使えるから異世界くらいあるよね、とのこと。

 

 あなたから本当の姉を奪ってしまったと謝罪するアリシアに、私の姉はあなただけ、と言って抱きしめてくれたらしい。

 むしろ、アリシアが居なかったら自分も生まれなかったと、アリサは言ってくれて。

 二人で抱き合って泣いたそうだ。

 

 それを聞いて、二人ともちゃんと良い子に育っているんだ、と感動した。

 

 アリシアの気持ちは落ち着いて。午後には、父親である蒼汰と、育ての母親である翡翠に改めて挨拶をした。

 

 優奈とは抱きしめあって再会を喜んだ。元々友達感覚の付き合いだったけど、記憶が戻って二人は昔からの親友のような関係になっている。

 

 それからのアリシアは、記憶と経験が増えた分、以前より落ち着いた。

 

 中学生で我が家の特殊な事情を知ったアリサの心情も心配だったけど、あっさり受け入れたみたいだった。

 私たちが大切に育ててくれたことを知ってるからと、アリサは言った。

 アリシアと差がつかないように二人とも大切な娘として接するようにと気をつけていたので、嬉しかった。

 

 変わったのは、アリシアが私と二人きりのときには昔のようにイクトさんと呼ぶようになったのと、以前よりも甘えるようになったくらいで。

 

 そんなある日のこと。

 アリシアの機嫌が非常に悪かった。

 

 アリシアは記憶の戻る前から、当然に蒼汰と翡翠と私との関係を承知している。

 記憶が戻っても、その関係に何か言ったりすることはなかった。

 けど、実際に私が二人としていると意識してしまったらダメだったらしい。

 その日の前日は蒼汰と夜を過ごしていた。

 

 そして、アリシアは私と一緒に夜を過ごすことを望んだ。

 

 正直なところ困った。

 アリシアは私の大切な相手なのは間違いないけど、ずっと娘として接してきたので、性的の対象としては見ることはできなくなっていたからだ。

 

 アリシアはいろいろ理由をつけて押し切られそうになったけれど、私は母親だから、娘とそういうことはできないと強く言うとしぶしぶ諦めた。

 

 恐ろしいことに、蒼汰と翡翠には事前に了承を取って、優奈の協力も得ていたらしい。

 

 アリサも当然相談を受けていたみたいで。

 それとなくそのことをどう思ってるか聞いてみたら、私はアブノーマルな性癖は無いから安心してと言われた。

 元々私たち三人の関係を知ってたから、いまさら我が家の非常識は気にしないと。

 

 複雑だけど、アリサがグレなくて良かった。ママ嬉しい。

 

 逆にママも大変だったんだね……と同情されてしまった。

 いや、まぁ大変だったけど、そのおかげであなたたちに出会えたのだから、幸せだと答えといた。これは本音だ。

 

 ーーそして夏。

 

 みんなで海に行くという話になった。

 蒼汰が運転する車に乗って。

 

 果たせなかった約束がある。

 一緒に海に泳ぎにいくというだけのもの。

 

 その事自体はそれほど特別な訳でもない。

 やり残した夏休み宿題があるくらいの感覚。

 

 実際二人が生まれてから何度も海には行ってるので、果たしたと言ってもいいと思うし。

 

 けれど、記憶が戻ったアリシアと二人で来れたというのはやっぱり感慨深くて。

 

 あの頃とは、いろいろ変わってしまったけれど、二人の時間はずっと繋がっていた。

 

 そして、これからも。

 




エピローグ:そらとうみのあいだ

「ここは……」

 どこだっけ。

 記憶が混濁している。
 昔の夢を見ていたせいだろう。

 アリシアと一緒の体で過ごした約一年間の思い出。

「あれから10年以上経ったんだな……」

 思い返すとあれからいろんなことがあった。
 何度も心が折れそうになったけど、みんなが私を支えてくれて何とか今までやってこれた。

 そして思い出す。
 今、私が居るのは自宅から車で15分ほどのところにある海水浴場――異世界から帰ってきた場所だった。

「だから、あんな夢を見たのかな」

 ビーチベッドに横になったまま視線を下げると海が視界に入ってくる。
 あのときと違い手前に広がる砂浜にはカラフルなパラソルやテントが点在していて、多くの人で賑わっていた。

「もう一度、ここに来られるとは思いませんでした」

 傍らから少女が話しかけてくる。

「これまでも何度か来てたけどね」

「それでも……です」

 彼女の小さな手が胸元でぎゅっと握られる。
 麦わら帽子からすらりと伸びた長い銀色の髪がたなびいた。

「……ようやく、約束を果たすことができました」

「うん」

 それは、他愛もない約束。
 だけど、私達にとっては大切な約束。

「わたしは幸せ者です……ずっと幸せでした。ですが、そのせいであなたに大変な思いをさせてしまいました。後悔してはいませんか?」

「まさか」

 私は迷うことなく否定した。
 本当にいろいろ大変だったのは事実だけど……後悔なんてまったくしていない。

「――!」

 海岸から私達を呼ぶ声がする。私は体を起こして手を振って応えた。
 私は立ち上がり、彼女に向き直る。

「……行こうか」

「はいっ!」

 二人並んで歩き出す。
 彼女と同じ目線で、だけど少しだけ違う世界を見ながら。

 変わってしまったり失ってしまったものがあった。
 だけど、それ以上に得られたものがある。

 眩い光が私達を照らしていた。
 その中を海に向かって。


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