もう一度、愛しき人達と (ユータボウ)
しおりを挟む

プロローグ

 この作品は真・恋姫†無双-革命-蒼天の覇王の二次創作です。オリキャラは出しません。とりあえず一刀さんや華琳さま達を再会させて幸せにしたい。


 目が覚めて最初に感じたことは、"帰ってきたんだ"という実感だった。

 

 視界に映る天井は病院のそれだろうか。少し顔を動かせば窓ガラスが、その外には道路や車、家々などが見える。そのどれもが俺にとって当たり前のもので、かつ俺がいたあの世界にはなかったものだ。

 

 それから次に押し寄せてきたのは、寂しさと悲しさ。

 

 俺の愛した、何よりも大切な人達と、もう二度と会うことは出来ないかもしれない。そんなことを考えた途端に、涙が止まらなくなってしまった。

 

「うぅっ……ぐずっ……華琳っ……皆っ……!」

 

 病院と思わしき場所でベットに横たわりながら、俺──北郷一刀は、嗚咽を噛み殺しつつ静かに泣いた。

 

 

 

     ▽△▽△

 

 

 

 俺が魏の皆を想って泣いたのは、今振り返ってもその一回だけだった。

 

 泣いてなんかいられない。うじうじしている暇などない。

 

 今の俺を華琳が、皆が見たらなんと言うだろうか。いつまでそうしているの、あなたは一体何をしているのかしら、なんて、そんな事を言うに違いない。そう考えるとこんな情けない様を晒している場合ではないと思い知ったのだ。

 

 色んなことを一生懸命やった。それは剣道部での活動であったり、学校での勉強だったり、地域で行われるボランティアであったり。時間を無為にはしないよう、とにかく色々なことに手を出してみた。

 上手くいかなかったり、失敗したことも数え切れないくらいあった。けれど、その度に反省をして、次はどうするべきかをしっかり考えるようにした。失敗を失敗したまま置いておくような真似は、絶対にしてはいけないと分かっていた。

 

 ──華琳、俺はちゃんとやれているかな? 少しは前に進めているかな?

 

 返事がないことは分かっている。それでも時々、俺は澄み切った蒼穹にそんなことを尋ねた。

 

 やがて俺は聖フランチェスカ学園や大学を卒業し、いつしか一端の社会人となっていた。選んだ仕事は、警察官。魏では警備隊長を勤めていた経験もあるし、俺自身も単純な企業よりも交番など、人々の生活に近いところで働きたいと思っていたので、これ以上適任な職業もないだろう。

 尤も、警察官という仕事自体、俺が想像していたより遥かに大変なものだった。警察学校での日々は訓練と勉強漬けで、卒業して交番の勤務になってからも、帰宅すると同時にベッドに倒れ、泥のように眠ることも多々あった。また勤務時間が長いのは承知の上であるし、給料も悪くないのだが、人々の安全を守る職業だけあって有事の際は休日でもする必要がある。とにかくまとまった休みがなかなか出来ないのだ。

 それでもまとまった時間が出来れば漢文や中国語を勉強したり、乗馬のクラブに通ったりもした。あの魏で必死になって身に付けたものを無駄にはしたくなかったから。

 

 街の人々の生活を見守り、窃盗などの犯罪者を取り締まる。決して楽な日々ではなかったが、それでも誰かのためにと思えば頑張ることが出来た。

 

 そんな日々を過ごしているうちに……気付けばあれから、十年もの時が流れていた。

 

「ん~……いい気分だ、ほんと」

 

 暖かな陽気に照らされ、俺はポツリとそんなことを呟く。天気のいい非番の日は、こうして適当に散歩をするのが習慣になっていた。もう見慣れた道や風景でも、今と仕事でパトロールをしている時とでは、また違った風に見える。

 気の向くままに、行く宛もなくブラブラと散歩を続ける。時折顔見知りの人とすれ違えば挨拶を交わし、時には少し立ち話をすることもあった。それは地元の小学校に通う少年であったり、買い物帰りの奥さんや、杖をついたお爺さんであったりする。こうした何気ない人とのふれ合いが、俺は好きだ。

 

「ふぅ……もうお昼時か」

 

 休憩がてら立ち寄った公園、そこで俺は自動販売機で買った缶コーヒーを片手にベンチへ腰掛けた。少し離れたところにある遊具では子供達が元気に遊んでいる。その様子に微笑ましさを感じつつ、ゆっくりとコーヒーに口をつけた。

 

「華琳、春蘭、秋蘭、華侖、柳琳、栄華、桂花、季衣、流琉、凪、真桜、沙和、霞、風、稟、香風、燈、喜雨、傾、瑞姫、天和、地和、人和……皆、元気にしてるかな……?」

 

 雲一つない綺麗な青空を眺めつつ、俺は大切な人達の顔を思い出す。あれから十年もの年月が流れ、あの頃の記憶も少なからず薄れてしまった。いつ誰の買い物に付き合っただとか、誰と何を食べただとか。仕方ないと割り切るべきこととはいえ、皆と過ごした記憶が少しずつ薄れ、なくなっていくのはとても悲しいことだ。

 

 だが彼女達の笑顔と声だけは、十年経った今でも鮮明に思い出せる。

 

 それだけは、絶対に忘れはしない。

 

「……会いたいなぁ、もう一度」

 

 笑顔も声も覚えている。けれど、やはり会いたい。お互いにちゃんと向かい合って、触れ合ってその熱を感じたい。俺の名前を呼んでほしい。

 これはきっと叶わない夢だ。俺の物語は華琳を勝利させたあの瞬間に終わったのである。あの世界に戻ることは、残念だがもう出来ないだろう。俺は一人、この世界で生きていくしかない。

 

「──あぁ、分かってるよ。悩んでる暇があるなら、やれることをやるべきだよな」

 

 ぐっと缶コーヒーを傾けてその中身を一気に煽り、立ち上がる。もうお昼時で腹も空いてきた。どこかで適当に飯を食って、もう少しブラブラしてから家に帰ることにしよう。家に帰ったところで誰も待っていないのだ、ゆっくりしていたって誰にも文句は言われない。

 

 北郷一刀、もうじき三十路になるのを控えたアラサーであるにも関わらず、未だに独身を貫き通している。理由は語るまでもないだろう。

 

 この身は余すところなく華琳と曹魏に捧げると誓ったのだ。例えもうあそこには戻れず、皆に会うこともないのだとしても。

 

「ははっ……まるで春蘭みたいなことを言ってるな、俺」

 

 流石に彼女ほど一途に尽くせるかと問われれば分からないが、俺にとって華琳と曹魏は己の命より大切なものだ。それだけは間違いない。皆を守るためならどんな困難にだって立ち向かってみせると、胸を張って断言出来る。

 

「やっぱり、俺は皆が大好きなんだなぁ……」

 

 十年、まだ三十にもなっていない俺にとって、その時間は人生の三分の一に相当する。それだけの時間を経て尚、俺は未だに華琳達を想い続けている訳である。あらためて思えば結構な重症だ。きっとこれは死んでも治らない、不治の病に違いない。

 

 ぼんやりとそんなことを考え、意味もなく妙な誇らしさを抱きながら、俺はまだ元気な子供達の声の残る公園を後にした。

 




 正直、警察官になるまでの過程とか、普段の仕事内容とか、そんなのはネットに知識しかないので、大きく外れてない限りは見逃していただけると幸いです。ぶっちゃけ、大事なのはここじゃないしね。一刀さんが警察官であるということが大切なのです。

 革命のヒロインだと一番は華琳さまなんだけど、次点は栄華ちゃんかなぁ……。同じ男嫌いの桂花は最後までそんなにデレなかったけど、最後の方のデレデレ栄華ちゃんがクッソ可愛くて……ね。あんなん反則ですわ。

 とりあえず長々と自分語りをしてましたが、感想などございましたら是非お願いします。作者にはそれが一番の原動力になりますので。ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

帰還①

既にお気に入り登録されている方がおられて嬉しい限りです。2000~4000文字くらいでサクサクいけたらなぁと思ってますが、果たしてどうなるのか……。

とりあえず一刀さんが死なないと本編が始まらないので、早足ですが一気にいきます。


 ()()の存在に気付いた時、反射的に体が動いていた。

 

 いつもと変わらないパトロールになる筈だった。あらかじめ定められていたルートを通り、不審者や事故が起きていないかを見て回る。通りすがりの人達に挨拶をしながら、相方である先輩巡査と「今日も平和だなぁ」なんて話をしたりして、それで終わる筈だったのだ。

 

 けれど、見てしまった。

 

 数メートル先にある横断歩道。そこで赤ん坊を抱いている女性へ、狙ったかのように突っ込もうとしている一台のトラックを。

 

「っ! 危ないっ!」

 

「ほ、北郷!?」

 

 驚きで目を見開いた先輩を置き去りにして、俺は一目散に駆け出した。まるで時間の流れがずっと遅くなったかのような錯覚、周りの景色がスローモーションで後ろに流れていく。

 だが、トラックは止まらない。それどころか減速すらしない。相当な速度を維持したまま、真っ直ぐ女性目掛けて突っ込んできている。あんなものに巻き込まれれば命の保証はどこにもない。女性も、その腕に抱かれた赤ん坊も。

 

 そんなことは、絶対にさせない。

 

「(届けっ! 届いてくれっ!)」

 

 全力疾走したままあらん限りの力を振り絞り、右腕を女性へと伸ばす。必死の祈りが通じたのか、その刹那に確かな感触が腕に伝わる。強く突き飛ばされた女性は大きくよろめき、先程の位置から少し離れたところで赤ん坊を守るように背中から倒れ込んだ。

 

「──良かった」

 

 これで女性と赤ん坊はトラックの進路からギリギリ外れた。あの位置ならトラックに轢かれることはないだろう。

 

 俺はほっと胸を撫で下ろし──次の瞬間にはトラックに撥ねられ、宙を舞っていた。

 

「……ぁ」

 

 グシャリ、と体から生々しい音がした。俺はその音を知っている。同時に視界のほとんどが赤く染まり、全身からありとあらゆる感覚が消え失せていく。

 

 あれは、肉が潰れる音だ。

 

 十年前に経験した戦争であちこちから聞こえてきた、人が死ぬ時の音である。

 

「─────!?」

 

「──! ────!」

 

 誰かが何かを言っている。けれと、今の俺にはそれすら分からない。ただ、自分はもうじき死ぬことだけは、この上なくはっきりと理解出来た。

 

 そこに後悔はない。

 

 目の前にあった二つの尊い命が失われる様を何も出来ないまま見届けるくらいなら、俺が代わりになる方がずっといいと思えた。その気持ちは、こうして瀕死になった今でも変わらない。

 

 あの親子を救えた。

 

 それだけで十分だった。

 

 ただ一つだけ心残りがあるとすれば……華琳の許可なく逝ってしまうことだろうか。

 

「(華琳……皆……)」

 

 十年前にあの世界で過ごした思い出が、脳裏に次々と浮かんでは消えていく。きっとこれが走馬灯というものなのだろう。それを見た俺は、死の間際だというのに酷く懐かしい気分になった。

 

「(もう一度、皆に会いたかったなぁ……)」

 

 どこまでも広がる、眩しいくらいの蒼穹。

 

 その景色を目に焼き付けたのを最後に、俺の意識はゆっくりと遠ざかっていった。

 

 

 

     △▽△▽

 

 

 

「──に──ちゃ──」

 

 ……声が聞こえる。ぼんやりと靄がかかっているように聞こえにくいが、恐らくはまだ小さい女の子の声だ。それに引き上げられるように、沈んでいた俺の意識が徐々に覚醒していく。

 だが、これはどういうことなのだろう。俺はあの親子を庇ってトラックに轢かれ、死んだ筈だ。あれだけの傷を負って助かる見込みがあると思えるほど、俺は楽観的ではない。つまりここは……天国か?

 

「おに──ちゃ──兄──ん」

 

 ゆさゆさと体が揺さぶられる。それと同時にさっと柔らかな風が頬を撫でた。

 自分が今どんな状況に置かれているのか、気になって仕方がない。俺は生きているのか、それともやはり死んでいて、天国のような場所に招かれているからこそ、こうして思考を張り巡らせることが出来るのか。体の自由が利くようになり、重い瞼を開けようとすると、真っ暗だった世界に一筋の光が差し込んだ。その眩しさに思わず「ううっ……」と声が漏れる。

 

「っ、お兄ちゃんっ!」

 

 先程はよく聞こえなかった声が、今度ははっきりと聞こえた。その瞬間、俺は目をかっと見開き、倒れていた体を勢いよく起こした。その際に額を何かに強打し、生じた鈍い痛みに表情を歪める。

 

 それでも、俺があの声を聞き間違える筈がない。

 

 ずっとずっと会いたいと思っていた、あの時代に残してきてしまった大切な人達。その中でも俺を『お兄ちゃん』と呼ぶのは、たった一人しかいない。

 

「香風……なの、か……?」

 

 痛む額を手で押さえながら目を開くと、同じく額を押さえながら涙目になっている少女の姿が映った。薄紫色の髪も、白い首巻きも、水着のような薄手の格好も、近くに転がる大斧も、記憶に残っている彼女と何も違わない。

 

「あ……あ……ああぁ……」

 

 視界が涙で滲む。額の痛みなどすっかり忘れ、俺はよろめきながらも香風に手を伸ばした。何故彼女がいるのだとか、ここは一体どこなのだとか、そんなことはどうでもいい。ただ今は彼女に触れて、その存在が本物なのかを確かめたかった。

 

「お兄……ちゃん……」

 

「あぁ……夢じゃないんだ……」

 

 伸ばされた指が香風の頬に辿り着き、その柔らかな肌をそっと撫でる。暖かい。指先から感じる彼女の熱が、彼女が間違いなくここにいることを、これ以上なく明瞭に伝えていた。その途端に、とうとう俺の目から涙が零れた。

 

「香風……香風なんだよな……?」

 

「ぐずっ、うん。シャンは、華琳さまに仕えて、お兄ちゃんと一緒に、空を飛んで……ひっぐ……それで……それで……!」

 

「あぁ……香風……! 香風っ!」

 

 嗚咽を漏らし、香風の小さな体にすがりつく。涙だけでなく、色んな想いが堰を切ったように溢れてきて、俺は声を上げてわんわんと大泣きした。

 

 嬉しかった。

 

 嬉しくて嬉しくて、それ以外のことが出てこない。俺は──否、俺と香風は暫し抱き締め合ったまま、二人揃って嬉し涙を流し続けた。

 




季衣は『兄ちゃん』、流琉は『兄さま』、風は『お兄さん』、そして香風が『お兄ちゃん』。呼び方で誰が誰か分かるんですよねぇ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

帰還②

長いです。きりのいいところまで頑張ったら長くなってしまいました。登場人物が多いと必然的に台詞も多くなってしまいますね。

感想や評価をくださった方はありがとうごさいます。


 一体どれだけの間、泣いていたのか。

 

 ザリッという何者かが地面を踏み締める音に、延々と泣きじゃくっていた俺と香風はようやく我に返った。チラリとまだ赤いであろう目で音の方を確認すれば、黄色の頭巾をした三人組がこちらに近付いてきていた。強面の男を筆頭にチビ、デブという個性的な面々の姿に、記憶の遥か奥深くに眠っていた出来事が甦る。

 

 そうだ。あの三人は俺が華琳達の時代にやって来たばかりの頃、混乱していて訳が分からなかった時に出会った連中だ。

 

 この荒野で目が覚めてすぐに香風と出会ったことといい、あの三人組といい、つまり俺は、あの時と同じ状況に置かれているということなのだろうか。

 

「(トラックに轢かれて死んだと思ったら生きていて。最初の頃みたいな状況な筈なのに、何故か香風は俺のことを覚えていて、華琳のことも知っている。何がどうなってるんだろうな……?)」

 

「おうおうおうおう! お二方よぉ、こんなところで随分と楽しそうじゃねぇか!?」

 

「兄貴! あの男、珍しい格好をしてますぜ!」

 

 俺が一人そんな思考を展開する中、ニヤニヤと挑発的な笑みを浮かべた三人組は、大股で俺達に歩み寄ってきた。脅しのつもりか、手にした剣を見せびらかせるように掲げている。

 確か最初は、ドラマや映画の撮影か何かだと勘違いしていたんだと思う。だが、今の俺には分かる。太陽の光を反射して光るあの剣は、(なまくら)とはいえ立派な本物だ。まともに斬られれば当然死ぬし、そうでなくとも怪我をするだろう。

 

「お兄ちゃん……」

 

「うん。大丈夫だよ、香風」

 

 心配そうにこちらを見上げる香風の頭を一度撫で、俺はゆっくりと立ち上がる。その際に腰に巻いた帯革をなぞれば、警棒や拳銃といったいざという時に対する武器があることも分かった。今の格好といい、どうやら俺はトラックに轢かれた時の状態のまま、この場にいるようだ。相手が剣という凶器を持っている以上、使うかどうかはともかく、こうして何か得物があるのは精神的に心強い。

 

「お? なんだ兄ちゃん、命乞いでもしようってか?」

 

「み、身ぐるみを全部置いていけば、命だけは助けてやるんだな……!」

 

「命乞いなんてしないよ。ていうか、あんた達こそさっさと逃げた方がいいと思う。じゃないと──」

 

 そう俺が言い終わるより早く、隣にいた香風が斧を持って大きく跳躍する。身の丈よりも巨大な得物を頭上に振り上げ、重力に任せて落下し始めた彼女は、そのまま斧を全力で振り下ろし──結果、地面を真っ二つに叩き割ってしまった。そして、あんぐりと口を開ける三人組に彼女は告げる。

 

「次は、そっちがこうなる……!」

 

 大斧を構え、鋭い眼光を放つ香風に、三人組の誰かが「ひっ……!」と短く悲鳴を上げる。香風と自分達の実力差を理解したのだろう、彼等は数度アイコンタクトを交わすや否や、一目散にどこかへ逃げていってしまった。その背中がみるみるうちに小さくなっていく。

 

「……やっぱり香風は凄いなぁ」

 

「えへへ、もっと褒めて」

 

 三人組を追い払ったことで香風は得物を下ろし、笑顔でとてとてと俺のところに帰ってくる。流石は曹魏でも五指に入る猛将だ。十年ぶりにその力を目の当たりにした訳だが、その迫力は微塵も衰えておらず、やはりまだまだ彼女には勝てそうにない。

 

「お兄ちゃん」

 

「ん、どうした?」

 

「また会えて、嬉しい」

 

「……あぁ。俺もだよ、香風」

 

 香風と目線の高さを合わせ、ふっと笑い合う。しかし彼女はすぐに顔を伏せ、その目に涙を溜めた。

 

「もう……いなくならない?」

 

「っ……それは……」

 

 その言葉に、俺は思わず言い淀んでしまう。一体どういう理由でここにいるのか、それは本人である俺にも分からないのだ。これからどうなるのか、そんなことは自分でも予想がつかない。ずっとここに留まっていられるのか、はたまたすぐに消えてしまう可能性も否定出来なかった。

 

「えっと──」

 

「香風! やっと追いついたぞ!」

 

 口を開き、言葉を発そうとしたその瞬間、遮るように俺の背後から声が響く。振り返るとそこには、赤い槍を携えるヒラヒラとした服を着た女性が、やや乱れた呼吸を整えているところだった。その姿には見覚えがあるような気がするのだが、肝心の名前がなかなか出てこない。少なくとも俺がいた時、華琳に仕えていた人ではなかった。

 

「あ、星」

 

「全く、いきなり駆け出して何事かと思えば、こんなところで殿方と逢瀬とは。そしてそこな御仁、一体何者だ?」

 

「あっ、俺は──」

 

「お兄さん、ですよね……?」

 

 名乗ろうとした刹那、女性の後ろから聞こえた声にビクッと肩が跳ねた。そして、ゆっくりと現れた二人に俺の視線は釘付けになる。

 

「風、稟……」

 

「はい~」

 

「お久しぶりです、一刀殿」

 

 渇いた喉から声を絞り出すと二人は──風と稟は優しく微笑んでくれた。もう一度見たいと思っていた愛しい人達の笑顔に、俺はまたも目頭が熱くなるのを感じる。俺はこんなにも涙脆い人間だっただろうか?

 ごしごしと目を擦り、再び顔を上げると、すぐ目の前にさっきまで稟の隣にいた筈の風がいた。彼女はそのまますっと両腕を横に広げ、倒れるように俺へ寄り掛かってきた。ポフンと頭が俺のお腹に当たり、腰にはその手が回される。

 

「お兄さん」

 

「……どうした、風?」

 

「風は……いえ、風だけではありませんね。風も稟ちゃんも、華琳さまも皆も……とっても、とっても寂しかったのですよ」

 

 チクリと、その言葉に胸が痛む。俺がいなくなったことで皆がそんな思いをしていたことに、罪悪感がどっと押し寄せてきた。

 

「お兄さんがいなくなって、曹魏の人は変わってしまいました。それは何も将だけではありません。お兄さんの警備隊に勤めていた兵の皆さんも、その警備隊に守られていた街の人も、皆み~んな悲しい思いをしたんです」

 

「……あぁ」

 

「……ねぇお兄さん、今度は、風達の前からいなくなったりしませんか?」

 

 それは先程、香風がしたのと同じ問い。俺は上目遣いになりながら僅かに震える風をそっと引き離し、屈んでその肩に手を置いた。彼女の翡翠色の瞳と真っ直ぐ向き合う。

 

「約束するよ。俺はもう、勝手にいなくなったりしない。俺は俺の愛した人達と、ずっとずっとここにいるから」

 

「本当ですか~……?」

 

「本当だよ。こんな状況で嘘なんてつける訳だろ」

 

 風の不安そうに揺れる瞳を見つめつつ、俺はそう断言する。そのまま見つめ合うこと数秒、やがて風は無言のまま、もう一度こちらに体重を預けてきた。小さくて軽く、柔らかい彼女の体を、俺は出来るだけ優しく受け止める。

 

「信じますよ、お兄さん。もういなくなったりしたら駄目なんですからね~」

 

「あぁ、分かってる」

 

 そう言って抱き付いてきた風の背中をそっと撫でると、やがて彼女から「ぐぅ……」という小さな吐息が聞こえた。それになんともいえない懐かしさを感じ、俺は小さく笑みをこぼす。そして、そんな風を抱いたまま俺はそろりと立ち上がり、今度は稟の方へと歩を進めた。

 

「稟」

 

「言いたいことは風が言ってくれましたからね、私からこれ以上貴殿(あなた)に言うことはありません。ただ……」

 

「ただ?」

 

「強いて何かあるとすれば……おかえりなさい、とでも言っておくべきでしょうか」

 

 眼鏡をくいっと上げて微笑と共に言う稟に、俺もつられて笑った。

 

「うん、ただいま。でも正直、なんでここに戻ってこれたのかはよく分かってないんだけどね」

 

「分かってない? ということは、自力で戻ってきた訳ではなくなんらかの偶然で、ということでしょうか?」

 

「そうそう。ちょっとした事故に巻き込まれてね」

 

 流石にトラック──稟に分かるように説明するなら、馬より速く走る鉄の塊とでも言うべきか──に撥ねられて死んだと思ったら、とは言わない。これでは現実味があまりに無さすぎて、逆に相手を混乱させるだけだ。本人にもあまり分かっていないのだから、これ以上の説明も出来ないのだし。

 

「まぁ、偶然でもなんでもいいよ。こうして稟や風、香風に会えたんだからさ」

 

「……変わりませんね、貴殿は。外見は大人なのに、中身はあの頃と全く同じです」

 

「お兄さんの体、凄く大きくなってますね~。ここなんてとっても分厚いのですよ」

 

「お兄ちゃん、シャンもして」

 

 腕の中でもぞもぞと風が動き、その頬を胸板に擦り付けてくる。相変わらず猫みたいだなぁと苦笑した俺は、目をキラキラさせてこちらを見上げる香風を、左腕一本で抱き上げてみせた。体はきっちり鍛えているため、二人くらいの体重なら同時でも特に問題はない。

 

「むぅ……」

 

「おやおや? 風達が羨ましいんですか、稟ちゃん」

 

「……そうですね。少し羨ましいです」

 

 恥ずかしそうにやや俯きながら、それでも稟は風の言葉を肯定する。すると、「だったら……」と呟いた香風が器用に移動して俺の肩の上に──すなわち、俺が彼女を肩車するような形となった。

 

「これで、左腕が空いた」

 

「ふふっ、ありがとうございます香風。一刀殿、お邪魔しても構いませんか?」

 

「おう、どんと来い」

 

 俺は大きく頷き、左腕で稟を抱き寄せる。柔らかくて、華奢で、少し力を込めれば折れてしまいそうな体だ。目を瞑って耳を澄ませば、三人の鼓動や息遣いも感じることが出来た。

 

 俺の愛した人達が、今ここにいる。

 

 それが嬉しくて、愛しくて堪らない。

 

「……お楽しみのところ申し訳ないが、少しよろしいかな?」

 

「ん……あ、あぁ。えっと、なんかごめんなさい」

 

「いえいえ。こちらとしてもなかなか面白いものが見れましたからな。特にあのように素直な稟は随分と珍しい」

 

 そう言ってくつくつと笑う女性──香風は星と呼んでいたが、恐らくは真名だろう──に、稟は俺の腕の中で小さく身を竦めた。今のその反応で、目の前の女性がどんな性格なのかが少し分かった気がする。飄々としたからかい上手、といったところか。

 

「さて、申し遅れました。私は趙雲、字を子龍と申します。以後、お見知り置きを」

 

「北郷一刀です。北郷が姓で、一刀が名になるのかな。この国の生まれではないので、字も真名もありません。好きなように呼んでください」

 

「ほう、異国の出身とは珍しい。ふむ……では北郷殿と呼ばせて頂こう。私のことは是非、子龍と」

 

「えぇ。よろしく、子龍殿」

 

 両腕が空いていないため握手は出来ない。そのため、お互いに軽く会釈をして挨拶を済ませた。出来る限り自然な対応を心掛け、内心の動揺は悟られないようにする。

 まさかこの女性があの趙雲だったとは思わなかった。だが逆にこの人が趙雲だとすれば、そこにいるだけで感じる強さや空気にも納得がいく。おおよそ分かった実力だけでも、香風か霞といい勝負が出来るだろう。勿論、俺なんて歯が立つ訳がない。

 

「さてお兄さん、風達はそろそろ行くのですよ。いつまでもここにいては、怖いお役人さんに捕まってしまいますので」

 

「官軍か。もう少し話をしたいところではあったが……仕方があるまい」

 

 風達の視線の先、遥か彼方にじっと目を凝らせば、もくもくと土煙が立っているのが見える。俺の記憶が確かなら、きっと彼女達なのだろう。

 

「一刀殿、我々はもう少しこの大陸を見て回ろうと思います。何もかもがかつてのように進むとは限りませんから。昔のことは一旦置いて、現在(いま)を自分の目で確かめてきます」

 

「シャンは、お兄ちゃんと一緒にいく」

 

「そっか。なら風と稟、子龍殿とはお別れだな」

 

 せっかく再会出来たのにすぐ別れてしまうのは寂しいが、彼女達にもやるべきことがあるのだろう。ならば、俺が無理に止める理由はない。俺がこの世界にいる限り、きっとまた会えるだろうから。

 

「お兄さんお兄さん、お別れの口付けはしてくれないんですか?」

 

「ごめん風、そんなのがあるなんて初耳なんだけど」

 

「おいおい兄ちゃん、そこは知らなくても男なら察するところだぜ?」

 

 唇を突き出した風に困惑していると、彼女の頭に乗っている宝譿が呆れたように呟いた。正確には彼女による腹話術での自演なのだが、そこはあえて黙っておく。何か言おうとも風のことだ、適当にはぐらかされるのは目に見えている。

 

「……そうだな。じゃあ遠慮なく」

 

 頼まれたなら応えてやるのが男の甲斐性だ。俺は屈んで風と高さを合わせると、そっと彼女と口付けを交わした。男女の交わりの最中にするような情熱的なものではなく、鳥が啄むような軽いものである。

 元々風とのキスは、躊躇いこそらすれど拒否することではない。むしろ望むところですらある。愛しい女性とのキスだ、恥ずかしがる理由などありはしない。

 

「んふふ、どうもどうも。ほら、次は稟ちゃんですよ~?」

 

「わ、私もやるのですか?」

 

「当たり前じゃないですか~。ほら、早くしないと追い付かれちゃいますよ?」

 

 それとも、と風は一旦言葉を区切った。

 

「お兄さんとの口付けはしたくない、とか?」

 

「そんな訳が! ……あっ」

 

 うっかり口を滑らせ、顔を真っ赤にしてしまった稟。それを見てニヤニヤとしているのが子龍殿だ。彼女はしきりにこちらへ視線を向けては、「さぁいけ」と言わんばかりにくいっと顎を稟の方にやっている。外野なのをいいことに言ってくれるなぁと、俺は思わず苦笑してしまう。

 とはいえ、このままでは埒が開かないのもまた事実。俺は腹を決めると稟に近付き、その唇に己のものを重ねた。突然のことに稟の動きがピタリと止まり、周りからは「お~」と感心するような声が上がる。

 

「お兄ちゃん、大胆」

 

「これは意外ですね~。風もびっくりなのですよ」

 

「ふむ、流されるだけの優男かと思っていましたが……なかなかどうして。この趙子龍、見直しましたぞ」

 

「煽っておいて随分な言い草だな……。っと、稟、いきなりしちゃってごめんな」

 

「い、いえ……少し驚いただけですので……」

 

 耳の先まで真っ赤になりながら答えた稟だが、こほんと一度咳払いをすると、すっかりいつもの様子に戻っていた。正直、自分の方も結構恥ずかしかったりするので、稟がこうして切り替えてくれたことはありがたい。

 

「さて、次は私の番ですな」

 

「残念ですがお兄さんは風達のものなので、星ちゃんにはそう簡単にはあげられませんね~」

 

「おや、それは残念だ」

 

 ……うん、流石に会ったばかりの子龍殿ともやるのは憚られる。ていうか、子龍殿も絶対冗談で言っているに違いない。ああいう性格の人は華琳のところにいなかったから、油断するとうっかりあちらのペースに巻き込まれてしまいそうだ。

 

「二人共、行きますよ。このままではいつまで経っても進めません」

 

「む、それもそうか。では北郷殿、我々はここらで失礼させて頂く」

 

「ではではお兄さん、勝手にいなくなってちゃいけませんよ~」

 

「あぁ、分かったよ。それじゃあ皆、気を付けて」

 

「星、稟、風、ばいばい」

 

「一刀殿、香風、どうか御武運を。華琳さまによろしくお伝えください」

 

 最後に少しずつ言葉を交わし合い、俺達五人は三人と二人に別れて歩き出した。お互いに背を向けて、振り返りはしない。きっとまた会えると信じているのだから。

 

 そして俺達は、これからもう一つの再会を果たす。

 

 誇り高き王、寂しがり屋の女の子と。

 

「行こうか、香風」

 

「うん」

 

 右隣を歩く香風と手を繋ぎ、俺は来るべき再会に胸を高鳴らせた。

 




ようやく次回だ……! これの続き書くために魏ルートのエンディングを繰り返し見てるんですが、その度にしんみりしてます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

帰還③

始まったばっかりなのにランキングに入るくらい読んでもらえて嬉しい限りです。


 ドドドドという馬の足音が大きくなるにつれて、俺の中の感情もどんどんと膨れ上がっていくのを感じる。それは期待であったり、感動であったりと様々だが、それら全てをひっくるめた今の気持ちを述べるなら、『早く会いたい』の一言に尽きる。十年もの間、叶わない夢と目を逸らして蓋をし続けてきた想いは、ここにきてこれ以上ないほどの昂りを見せていた。

 だがここで焦るのは厳禁だ。無様な姿はほんの少しでも晒す訳にはいかない。相手はあの華琳であるので、多少取り繕ったところですぐに見抜かれるだろうが、それでも男ならこういう時にはきっちり格好をつけたいものなのである。

 

「お兄ちゃん、緊張してる?」

 

「そうだなぁ……うん、そうかも。嬉しくて堪らない筈なんだけどな」

 

 手を繋ぐ香風の言葉に苦笑し、一度大きく深呼吸をする。

 

 そして、ついにその瞬間がやって来た。

 

「北郷ぉおおおおおおおおおおおお!!」

 

「待て待て待て待て待て!?」

 

 近付いてくる数にして十ほどの騎馬の一団。そこから最初に飛び出してきたのは、大剣を携えた黒髪の女性だった。怒気を孕んだ表情で叫びながら得物を振り下ろした彼女に、俺は久しぶりと挨拶をする暇もない。勢いよく横に転がってなんとか躱すことが出来たが、切り落とされた髪の毛がはらはらと宙を舞った。

 

「避けるなっ!」

 

「おまっ、馬鹿言うな! 死ぬわ!」

 

「えぇい、うるさいうるさい! 貴様は大人しく私に斬られておけばいいのだ!」

 

 滅茶苦茶なことを言いながら再び七星餓狼を構えた女性──春蘭。俺は助けを求めるように彼女の後ろで黙っている主へ視線を向けた。そこで返ってきたのは、思わず見蕩れてしまいそうなほど優しい微笑み。残念ながら助けに期待は出来なさそうだ。

 

「秋蘭、手を出しては駄目よ。香風、あなたもね」

 

「御意」

 

「は~い」

 

「ちょっ、華琳さん!?」

 

「さぁ覚悟してもらおうか、北郷! 華琳さまを散々悲しませた罪、その身を以て償うがいい!」

 

 結果、俺はそれから暫しの間、春蘭と命懸けの鬼ごっこをする羽目になってしまった。迫る刃からみっともなく逃げ回ることおよそ一刻、そこまでしてようやく華琳から制止の声が飛んだ。

 

「もう満足したかしら。春蘭、剣を納めなさい」

 

「はっ!」

 

「はぁ……はぁ……俺……生きてるな……」

 

 声に出して生存を確認し、すっかり上がってしまった息をゆっくりと整える。激しく地面を転げ回ったせいか、青い制服のあちこちは土に汚れて悲惨なことになっている。何度か叩いて払ってみるがあまり意味はなさそうだ。

 何より、春蘭に追いかけられている間は生きた心地がしなかった。我ながらよく頑張って逃げたものだ。あれだけの恐怖を感じたのは果たしていつぶりになるだろうか。曹武の大剣、恐るべしである。

 そんなことを考えながら顔を上げると、今度は秋蘭がこちらに近付いてきていた。穏やかで柔らかな笑みを浮かべる今の秋蘭からは、記憶にある凛とした表情の彼女とはまた違った印象を受ける。気付けば、そんな秋蘭に見入っていた。

 

「久しいな、北郷。息災そうで何よりだ」

 

「ん……あぁ、久しぶり。秋蘭こそ、元気そうで良かったよ」

 

「無論だ。華琳さまに仕える身として、己の健康には十分に気を遣っているとも」

 

 それより、と秋蘭は言葉を区切り、俺の体をまじまじと見つめた。琥珀にも似た橙色の瞳がすっと細められ、足の爪先から頭頂部までをじっくりと観察される。顔には出さないものの、秋蘭ほどの美人にじっと見つめられてはなかなかにくすぐったいというか、恥ずかしい。

 

「あの、秋蘭……?」

 

「ふむ、やはり以前より逞しくなっているようだな。それに背も伸びている。いやはや、随分と男らしくなったものだよ」

 

「そ、そっか。まぁこれでも一端の警察官……えっと、天の国での警備隊みたいな仕事に就いてたからな。トレーニング……じゃなくて、鍛練もきちんとしてたし」

 

「ほぉ……なるほど。ならばその辺りのこともまた詳しく聞かせてほしいものだ。ふふっ、楽しみにしているぞ」

 

 そう言って微笑した秋蘭は数歩ほど後退り、彼女と入れ替わるように華琳を乗せた馬が現れた。漆黒で大柄の騎馬を操り、太陽を背にして堂々と胸を張った華琳の姿は、俺もよく知る覇王のそれで、俺は無意識のうちに姿勢を正していた。

 

「久しぶりね、一刀」

 

「……うん、久しぶり。華琳」

 

 口から出たのは、そんなチープな言葉。言いたいことは他にたくさんある筈なのに、上手く出てこないのだ。待ち望んだ再会だというのに、これではなんとも締まらない。そうしてまごまごしていると、先に華琳の方から口を開いた。

 

「いい面構えをしているわ。天に帰ってからも、研鑽は怠らなかったようね」

 

「……そうだな。腑抜けた俺を皆が見たらなんて言うかを考えたら、自然と体が動いてたんだよ」

 

「そう。いい心掛けではなくて」

 

 華琳は俺の返答に満足げに頷くと馬から降り、そのまま立ち尽くす俺のもとにやって来る。そしてふっと笑みを浮かべ──俺の胸にすとんと体を預けた。

 

「……ねぇ一刀」

 

「おう」

 

「……もう、離さないわよ」

 

 それは今にも消えてしまいそうな、か細い声。俺に抱かれているのは誇り高き王ではない。一人の、寂しがり屋の女の子だ。

 

「あなたにはずっと私の隣にいてもらうわ。これは命令よ。もう二度と天の国に帰れるとは思わないことね。もし破ったりすれば──」

 

「首を刎ねる、か?」

 

「えぇ。よく分かってるじゃない」

 

 俺の腕からするりと抜け出した華琳は、そう言って得意げな笑みを浮かべた。それにつられるように、俺もまた小さく笑う。そして、その場に跪いた。

 

「華琳。こんな俺でいいのなら、もう一度君の傍に置いてほしい。君の覇道を、そしてその先を、今度こそ最後まで見届けさせてくれないか?」

 

「許すわ! この曹孟徳の行く末を、あなたには特等席で見せてあげましょう!」

 

 高らかに宣言された華琳の言葉に、俺は再び頭を下げて臣下の礼をとる。直後、その頭をふわりと何かが包み込んだ。優しくて、温かい。これはきっと華琳の腕だ。

 

「おかえりなさい、一刀」

 

「っ……ただいま……華琳……!」

 

 感極まり、今にも溢れ出しそうな涙をぐっと堪える。だが……駄目だ。数秒も持たずして涙腺は決壊し、俺は大声で号泣しながら華琳の体に抱き付いた。十年もの間に重なった想いが次々と流れ始め、当分止まる気配はない。

 

 嬉しかった。

 

 華琳が俺を受け入れてくれたことが。また共にいさせてくれることが。

 

 おかえりと言ってくれたことが、何よりも嬉しかった。

 




春蘭と秋蘭の一刀さんの呼び方は普段は北郷、いい感じの雰囲気なら一刀になります。どっちにするかは悩みましたが、最後には原作参考ということで。

ところで秋蘭が一刀さんに「華琳さまと姉者の次に大切」的発言をしてましたが、それってつまり「世界で三番目に大切な人かつ世界で一番好きな男」ってことになる訳ですよね。見た瞬間に思わずパソコンの前で悶えました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

陳留郡①

誰かを泣かせるのがノルマ化してきてるような気がしてならない。ワンパターンで申し訳ない。


 華琳に受け入れられたことで、改めて彼女の下に身を寄せることとなった俺は、最寄りの街に数日の滞在後、陳留への帰路に同行することとなった。元々華琳達が追っていた三人組の賊が隣にある豫州の沛国──つまり、現在は燈の治める領地へ逃げてしまったらしく、手出しが出来なくなってしまったのだ。そんな訳で、俺達は燈に宛てた手紙をしたためる以上にやれることはなく、それが済めば大人しく帰還する他なかった。

 さて、陳留への到着までは順調に行っても数日は掛かるとのことだが、お互いに積もる話のある俺達にすれば逆に好都合であった。俺は天の国に帰ってからのことを。華琳達は俺がいなくなったその後のことを。俺達はそれぞれを語り合い、離れていた間を埋めるようにしながらゆっくりと進んだ。

 

 そんな中で、俺は三人と香風に一つの質問をした。

 

 何故皆は俺のことを覚えており、俺と一緒にいた時の記憶を持っているのか、と。

 

 よくよく考えてみればおかしなことである。華琳の話からするに、今はまだ黄巾の乱も起きていないような時期、つまりは過去なのだ。今の華琳はあの時ほど大きな力を持っておらず、彼女と共に大陸を統べることとなった英雄達も表舞台には現れていない。孫策と孫権は袁術の客将として酷使されているらしく、劉備に至ってはまだ筵を作って売っているような一村人なのだそうだ。

 これが大陸を三国が統べているような時代ならば、理由はどうであれ、俺がいなくなった世界に戻ってこれたのだと素直に喜び、華琳達が俺を覚えていることになんの疑問も抱かなかっただろう。思い切って尋ねてみた俺に華琳達は、そのことかと言わんばかりにこくこくと首を縦に振り、やがて全く同じ答えを教えてくれた。

 

 曰く、夢を見たのだそうだ。

 

 今から十日ほど前、普段と変わらない一日を過ごした華琳達は、しかしその夜にある夢を見た。自分達が知らない男と共に、この大陸を統べるまでの道程だ。苦楽を共有し、想いを通じ合わせ、愛し合う関係になった彼女達だが、最後にはその男は消えてしまう。個人によって内容には差異があったものの、大まかな流れについては同じだったらしい。

 

 そして翌日、目を覚ますと思い出していた。

 

 男、北郷一刀と自分達が歩んできた道のり。そしてその果てに作り上げた太平の世を。

 

「あの時は大変だったのよ。あなたがいないと春蘭は暴れるし、華侖は大騒ぎするし、柳琳と栄華は大泣きするし。おかげでその日一日は全く仕事に手がつかなかったわ」

 

「か、華琳さま! それを北郷に言わないでください~!」

 

「シャンのところも、似たような感じ。でも星がいたから、なるべくこれまで通りにしてた」

 

 香風の言葉に俺は確かにと納得する。子龍殿は旅の同行者だが、俺の知る限りではいずれ蜀の将軍となる人だ。勘も鋭そうだったし、下手に態度に出せば悟られて色々と聞かれかねなかったのだろう。

 

「ははっ、嬉しいなぁ……」

 

「何が嬉しいのだ、北郷?」

 

「皆がそこまで俺を想ってくれていたことが、かな。男冥利に尽きるっていうかさ。本当に幸せ者だよ、俺は」

 

 大切な人にここまで想われていたのだ、あまり自惚れるつもりはないが、それでも嬉しいものは嬉しい。ここに戻ってくることの出来た理由はまだ分からないが、これが神様の悪戯とでもいうのなら、俺はその神様に深く感謝したかった。

 

「残念だけど、陳留に帰ればやるべきことがまだまだあるわ。当分の間は多忙な日々が続くわよ、一刀。あまりのんびりしている暇はないものと思いなさい」

 

「任せてくれ。忙しいのは慣れているからな」

 

「ふふふっ、なら期待させてもらうわ。あなたが天の国で培ったもの、見せてもらおうかしら」

 

 華琳の言葉に俺は自然と口角が上がるのを感じる。期待されているということに誇らしさと、下手なことは出来ないという緊張感。二つの思いに浮わついていた心に気合いを入れ直した。

 

 それから数日後、道中で特にアクシデントが起こることはなく、俺達は無事に陳留に到着することとなる。

 

 

 

     △▽△▽

 

 

 

 十年ぶりに見た陳留の街を囲む城壁は、相変わらず凄まじいまでの迫力を有していた。その迫力に圧倒され、暫しの間呆然としていた俺だったが、直後に響いた春蘭の「開門!」という勇ましい声にはっと我に返る。が、呆然としていた時の様子はばっちり見られていたらしく、隣にいる華琳と秋蘭が小さく笑っているのが見えた。少し恥ずかしい。

 

「城壁なんて大して珍しいものでもないでしょうに」

 

「一応十年ぶりだからなぁ。それに、天の国(むこう)にはこんな立派な城壁はなかったし」

 

 苦笑しながらそんなことを話しているうちに、重厚な音を立てながらゆっくりと城門が開かれていく。そしてそこから飛び出し、一目散にこちらへ駆けてくる少女が一人。二つに結んだ金髪を揺らす彼女に、俺は思わずその真名を叫んだ。

 

「栄華!」

 

「北郷さぁん!!」

 

 馬から飛び降り、飛び込んできた栄華を優しく抱き止める。俺を見上げる彼女の目は赤くなってしまっており、目尻には涙が溜まっていた。

 

「あなたという人は……どうして勝手にいなくなってしまったのですか……! 一体どれだけの人を悲しませたか、分かっているのですか……!」

 

「……ごめんな、栄華」

 

「いいえ、許しませんっ……! 絶対に、許してなんてあげないんだからぁ……!」

 

 上擦り声で今にも泣きそうになりながら、栄華はより強く俺の体を抱き締めた。離れたくないという気持ちを行動で示す彼女に、掛けるべき言葉がなかなか見つからない。俺は自分の胸に顔を(うず)める栄華をただ慰めることしか出来ず、時折背中にぽんぽんと手を当てたり、頭を髪型が崩れない程度にそっと撫でた。

 

「栄華、俺はずっとここにいるよ。もう皆を悲しませたり、寂しい思いをさせたりなんてしない。勝手にいなくなりもしないから」

 

「北郷……さん……」

 

 泣き止まない小さな子供をあやすように、俺はゆっくりと栄華に語り掛ける。

 

「俺はこの街が好きだ。そしてこの街に住む人達が大好きだ。俺はここにいたい、大好きな皆と一緒にいたいんだよ。だから……笑ってくれ。泣いてる栄華より、笑ってる栄華の方が俺は好きだから」

 

「……約束、ですわよ?」

 

「あぁ、約束だ」

 

 そうして見つめ合うこと数秒、やがて栄華はこくりと小さく頷くと、俺の体に回していた腕を離した。そして取り出したハンカチでそっと涙を拭い、今度は華琳の方へと向き直る。

 

「見苦しい姿をお見せして申し訳ありませんわ、お姉様」

 

「構わないわ。それより出迎えご苦労だったわね、栄華。私のいない間に何か起きたことはあるかしら?」

 

「いえ、お姉様の陳留は平穏そのものですわ。ただ、以前お姉様の仰っていた案件の書簡がいくつか届いていますので、また確認の方をお願いします。それと、お風呂の支度が出来ておりますので、今日は是非そちらで疲れを癒してくださいませ」

 

「いい手際ね。それではありがたく使わせてもらうわ」

 

 先程までの様子とは一変してすらすらと報告をする栄華に、華琳はふっと笑って満足そうな表情を見せ、春蘭と秋蘭達騎馬隊を連れて陳留の城門をくぐっていった。残されたのは俺と香風、そして栄華の三人だけだ。俺は自分の乗る馬の後ろを叩きながら、ポツンとその場に立ち尽くす栄華に声を掛ける。

 

「栄華、良かったら乗るか?」

 

「へ? わ、わたくしが、北郷さんの後ろに?」

 

「おう。わざわざ出迎えに来てくれたのに、また歩かせるのは悪いしな。なんだったら交代の方がいいか?」

 

「いえ、いえ! そ、それでは失礼しますわ!」

 

 俺の提案にぱっと表情を綻ばせた栄華は、そのまま慣れた動きで馬に上った。金庫番としての文官的側面が目立つ栄華ではあるが、彼女もまた華琳を支える立派な将軍の一人だ。騎乗くらいは朝飯前らしい。と、そこまで考えたところで、後ろから栄華がおずおずと寄り掛かってくる。

 

「えっと、北郷さん。わたくし、重くはありませんか……?」

 

「平気だよ。栄華一人くらい軽いもんさ」

 

「栄華さま、久しぶり」

 

「あら……あらあら、香風さん! お久しぶりですわ! お元気そうで何よりです」

 

 最初は俺の背中にぴったりと引っ付き、おっかなびっくりしていた栄華だが、隣にやって来た香風に気付くとすぐに嬉しそうな声を上げた。そういえば栄華は香風や季衣、流琉といった子が好きだったなぁと、俺は後ろから聞こえてくる楽しげな会話に、一人笑みをこぼした。

 

「北郷さん、お姉さまを追い掛けなくて良いのですか? 早く行かなくては、怒られても知りませんよ?」

 

「おっと、そうだった。栄華、それじゃあしっかり捕まっててくれ。香風、行くぞ?」

 

「はーい」

 

「よろしくお願いしますわね」

 

 栄華のその言葉を合図に俺と香風は馬の尻を蹴り、すっかり先にまで行ってしまった華琳達を追い掛け始めた。

 




この話書くために栄華ちゃんとの初対面のシーンを見て、それから拠点フェイズの最後の話を見たら態度が軟化しまくってて一刀さんの凄さを改めて思い知った。

次で残る二人に会ったら再会は一旦ストップかな。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

陳留郡②

 大勢の人々で賑わいを見せる陳留の大通り。そこを馬に乗って進みながら、俺は十年前の記憶に思いを馳せた。

 華琳の覇道も、俺の警備隊も、皆の夢も、全てはこの陳留から始まったのだ。俺にとってこの街は第二の故郷と言っても過言ではない。そんなこの陳留に再び戻ってくることが出来たせいか、不意に胸の内から温かい何かが込み上げてくるのを感じた。

 

「懐かしいな……本当に……」

 

「ですが今の陳留には、まだまだ改善すべき点が山のようにありますわ。区画の整理、治安の向上、その他諸々……。正直、お金も人も全く足りていません」

 

「確かに。シャンの知ってる陳留と比べたら、ちょっと寂しい」

 

 後ろの栄華がふぅと息をつき、俺と同じくキョロキョロと辺りを見回していた香風がポツリと呟く。彼女の言う通り、俺の記憶にある陳留も今よりもっと綺麗で、かつ活気に満ちていたような気がする。とはいえ、時期としてはまだ黄巾の乱も起きていないような頃と、劉備孫策連合との決戦を間近に控えた頃とでは差があって当然だ。仕方のないことだろう。

 

「だから言ったでしょう、当分の間は多忙な日々が続くと」

 

 どこから聞いていたのか、少し前にいた華琳がそんなことを言った。その意味をここにきてようやく完全に理解し、俺はこくりと頷く。

 街の大通りを進んでいた俺達は、やがてどっしりと構えられた城へと到着した。沸き上がってくる帰ってきたのだという実感に、自然と頬が緩んでしまう。そして、そんな俺達を城の前で出迎えてくれたのは、これまた俺のよく知る女性だった。

 

「お帰りなさい、お姉様。そして……一刀さん」

 

「ええ。今戻ったわ、柳琳」

 

「ただいま、柳琳」

 

 ペコリと下げていた頭を上げ、丁寧なお辞儀をする女性──柳琳。全てを包み込むかのような優しい微笑みは、相変わらず健在のようだ。その隣に華侖の姿はないが、自由奔放な彼女のことだ。きっとどこかで日向ぼっこでもしているに違いない。

 

「申し訳ありません。姉さんも一緒にと思ったのですが……その、見つからなくって……」

 

「もう、華侖さんったら……。お姉様のお帰りだというのに、一体何をしているのかしら……」

 

 なるほど、やはりだ。華侖の気ままさは変わっていないらしい。

 

「そう……なら一刀、柳琳と一緒に華侖を探してきなさい。私は湯を浴びてくるわ。後でこれからについての話をするつもりだから、将であるあの子を放っておく訳にはいかないわ」

 

「分かった。栄華、降りるぞ」

 

 栄華に短く断りを入れてからさっと馬から降りる。そうして、城に入っていく華琳達の姿が完全に見えなくなるのを待ってから、俺はあらためて柳琳と向き合った。

 

「久しぶり、柳琳」

 

「はい。本当に……お久しぶりです」

 

 そう言って柳琳は先程と同じ笑顔を見せる。が、俺には今の彼女がどこか取り繕っているように思えた。それは僅かに震える肩や潤んだ瞳を見れば一目瞭然で──俺は無意識のうちにそんな柳琳を抱き寄せていた。

 

「あ……」

 

「柳琳……」

 

 もう一度会えて嬉しい、そんな気持ちを全身で示すように抱擁をする。ピッタリと体をくっ付ければ、とくん、とくんという柳琳の鼓動が聞こえてくるような気すらした。

 

「何も言わずにいなくなって……ごめん」

 

「謝らないでください。こうして一刀さんは戻ってきてくれたんですから……私には、それだけで十分です」

 

「……ありがとう、柳琳」

 

「はい。……一刀さんは、暖かいですね」

 

 言葉を重ねる度に、最初は強張っていた柳琳の体から、だんだんと余計な力が抜けていく。やがて彼女の方からも腕が回され、俺達は少しの間お互いの温もりを感じ合った。

 

 

 

     ▽△▽△

 

 

 

「ありがとうございます。もう大丈夫です」

 

「辛い時は力になるよ。辛い思いをさせてた俺が言うのもなんだけどさ」

 

「ふふっ、ではこれからは頼りにさせてもらいますね」

 

 そう言って微笑んだ柳琳はまるでつきものが落ちたようだ。俺のよく知る彼女に戻ってくれたことで、こちらもつられるように破顔した。

 

「さて、それじゃあ華侖を探しに行こうか」

 

「はい。城の外に出ていったという報告は受けていませんから、きっとまだ城の中にいる筈です」

 

 先行する柳琳の後に続き、俺も城へと入っていく。ここに足を踏み入れるのも十年ぶりだ。どの道かどこに通じているのかも曖昧になっているので、迷わないようにしっかりついていかなくてはいけない。

 

「姉さーん! どこにいるのー!」

 

「華侖、俺だー! 帰ってきたぞー!」

 

 二人して華侖の名前を呼びながら、彼女が日向ぼっこしていそうな場所をどんどん回っていく。こうして名前を呼べば向こうからも出てきてくれるし、何より一々屋根の上に上がって確認していては、いくらなんでも時間が足りない。あと、危険だ。

 そうして華侖を探し始め、そろそろ二刻もの時間が経とうとしていた。食堂、蔵、厩等々、彼女がいそうな場所は一通り行ってみたが、未だに見つかる気配はない。ここまでくると、もしかすると華琳を待たせているのではとも思えてくるので、俺と柳琳もやや焦り気味だ。

 

「う~ん……華侖の奴、どこ行ったんだ?」

 

「もう大体の場所は見終わりましたが……もう、どこにいるのよ、姉さん」

 

 小さく溜め息をついて項垂れる柳琳だが、彼女の言葉も尤もだ。こうも見つからないと焦りもそうだが、心配になる気持ちも強くなってくる。

 

 もしかすると城の外に行ってしまったのかもしれない。

 

 そんなことを考えた瞬間だった。

 

「お──────い!」

 

「ん……?」

 

「こっちっす────! こっち─────!」

 

 不意に響いた声に顔を上げ、発せられた方に目を向けると、少し離れたところにある屋根の上でブンブンと手を振っている人影が見えた。キラキラと光る金髪に見覚えのある青の衣装。俺と柳琳は同時に目を合わせるとすぐに頷き、そこに向かって走り出す。

 

「華侖っ!」

 

「姉さんっ!」

 

「一刀っち! 柳琳!」

 

 その人影──華侖は、駆け寄ってくる俺達を喜色満面で迎えた。持ち前の人懐っこい笑みを浮かべ、すっくとその場に立ち上がった彼女は勢いよく助走をつけ──跳んだ。

 

 もう一度言おう、跳んだのだ。

 

 建物の二階部分、すなわち地面から六、七メートルはあろう高さから。

 

「はぁ!?」

 

「きゃあああああああああ!?」

 

 予想だにしなかった華侖の行動に俺の口から困惑の声が、そして柳琳からは絹を裂くような悲鳴が上がる。思わず足をもつれ、そのまま転んでしまいそうになるが、すぐさま体勢を立て直し、ギリギリのところで着地地点に滑り込むことに成功した。

 

 その直後、重力に引かれるがままに降ってきた華侖を体で受け止め、俺は背中から地面に叩きつけられる。

 

「ぐえっ!?」

 

「一刀さんっ!?」

 

「ふぇ!? 一刀っち! しっかりしてほしいっすー!?」

 

 あまりの衝撃に一瞬意識が飛びかけた。視界がチカチカと点滅し、近くにいる筈の華侖と柳琳の声すら何故か遠く感じる。それでもなんとか生きてはいるようで、俺は弱々しく呻きながらも小さく手を上げ、自らの無事を彼女らに伝えた。

 

「もう姉さんっ! あんなところから飛び降りて、怪我でもしたらどうするの!」

 

「あはは、もう柳琳は心配性っすねー。あたしがあれくらいで怪我する訳ないっすよ!」

 

「着地の時に足を挫くことだってあり得たわ。姉さんがいくら凄いといったって、絶対に何も起きないなんて言えないの。だから一刀さんもこうして姉さんを助けようとしたんじゃない。出来るとか大丈夫とか関係なく、あんな真似はもうしないで……」

 

 だんだんと涙目になりながら懇願する柳琳。華侖もこれには身にこたえたようで、申し訳なさそうに目を伏せ、ペコリと頭を下げた。

 

「うっ……ご、ごめんなさいっす。一刀っちの姿が見えたから、それで……つい……。一刀っちも、本当にごめんっす」

 

「華侖の気持ちも分かるし、気にしないでくれよ。華侖に会いたかったのは俺も同じだからさ」

 

 いてて、と小さくこぼしながら少々痛む体を起こし、あらためて華侖と向き合った。不安げに揺れていた藍色の瞳を、すっと覗き込むように目線を合わせる。

 

「ただいま、華侖。また会えて嬉しいよ。元気そうでよかった」

 

「……! お、おかえりなさいっす! あたしも! 一刀っちに会えて凄く、すっごく嬉しいっす!!」

 

 感極まったのか、その一言と共にガバッと抱き付いてきた華侖に押され、俺は再び地面に倒れる。

 

 痛い。だがそれ以上に喜びが勝った。沸き上がってくる幸福感に思わず顔がにやける。

 

「ねぇねぇ一刀っち。一刀っちはもうずっとここにいるんすか?」

 

「あぁ。俺はここでまた皆と一緒に、華琳のために尽くすつもりだよ」

 

「ホントっすか!? ならあたしと柳琳と一刀っちは、これからずっと一緒にいられるっすね! 三人で買い物にも行きたいし、美味しいものも食べたいっす! それからそれから──」

 

 爛々とした目でこちらを見つめる華侖は、俺が肯定したことで更に目を輝かせた。それから嬉々として自らの願望を語り始めた彼女を、俺と柳琳は微笑みと共に見守り続けた。

 彼女の望みを必ず叶えよう、そんな誓いを胸に立てて。

 




最近オリジナルの作品を考えたりもしてるんですが、自分が思っていた以上に凝り性だったらしく驚いてます。もっと時間がほしいなぁ……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

陳留郡③

お待たせしました。今週は忙しくてなかなか時間が取れなかったです。


「ここにいたのか。北郷、華侖、柳琳」

 

「遅いぞ。一体何をしている?」

 

 後ろから掛けられた声に振り返ると、そこには秋蘭と春蘭の二人が立っていた。恐らく華琳と共にお風呂に入っていたのだろう、二人の白い肌は上気して微かに赤くなっており、身に付けている服も汚れ一つない綺麗なものに変わっている。よく見れば髪も完全に乾いている訳ではないようだ。

 

「あっ、春姉ぇと秋姉ぇっす! おかえりなさいっすー!」

 

「あぁ」

 

「うむ。さて北郷、華侖も見つかったようだし、そろそろ華琳さまのもとに向かうぞ。あまり我らが主を待たせるな」

 

「分かった」

 

 春蘭と秋蘭がここにいるということは、華琳の方も既に支度は終わっている筈だ。秋蘭の言う通り、あまり待たせてはせっかくお風呂で良くなった機嫌を損ねかねない。華侖を見つけるという目的が達成された今、速やかに参上するのが望ましいだろう。

 

「? 柳琳、華琳姉ぇがどうかしたんすか?」

 

「それは歩きながら説明するわ。一刀さん、行きましょう」

 

「だな」

 

 柳琳の言葉に頷き、俺達は春蘭と秋蘭の後を追った。

 

 

 

     △▽△▽ 

 

 

 

「来たわね。それでは早速始めようかしら」

 

 先行する春蘭と秋蘭に続いて謁見の間にやって来た俺達を確認してから、華琳はそう切り出した。その身から放たれる覇気がこの場を満たし、あまりの緊張感に俺はごくりと唾を飲んだ。

 

「一刀と香風がこうして揃ったことだし、今後の我々の方針を説明しておくわ。まず第一に、私の目指すところは、この混乱した大陸に再び平穏をもたらすことよ。中央の腐敗に伴い拡大する民の不満、それは最早到底抑えることの出来るものではないわ。この様子では近いうちに必ず破裂する。それが例え、天和達がいなくともね」

 

 天和達がいなくとも争いが起こる、華琳はそう断言した。その理由が分からず首を傾げていると、隣の秋蘭がそっと耳打ちしてきた。

 

「太平要術の書があっただろう? あれが華琳さまの元から盗まれていないのだよ」

 

「太平……あぁ、なるほど。それでか」

 

 天和達が図らずも黄巾の乱を起こしてしまった原因、それが太平要術の書だ。あれによって集められた彼女達のファンが暴走、そこに不満を抱えていたり、生活に困っていた民や賊が一斉に便乗し、結果としてこの漢の地を巻き込む大規模な反乱となってしまったのである。具体的な数は覚えていないが、恐らくは何十万という人々がいた筈だ。この時期の諸侯の持つ兵力が数千から数万程度だったことを考えると、その数が如何に膨大であるかがよく分かる。

 

「ん……あれ? じゃあなんで秋蘭達はあそこに来たんだ? 確か三人があそこに来たのって、太平要術の書を盗んだ賊を追い掛けてたからだよな?」

 

 如何せん十年も前のことだ。初めて華琳と出逢った時のことは覚えていても、彼女が俺のいた荒野に来ていた理由については記憶が曖昧になっている。だが、確か俺の言った通りの理由だった筈だ。

 

「華琳さまの素早いご判断のおかげで書が盗まれることはなかった。だが、それ以外にいくつか盗まれたものがあるのだよ。あの時の我々はお前のことを思い出したばかりで、かなり慌ただしく動いていたからな。情けない話だが、賊の侵入を許してしまった」

 

 肩を竦めながら秋蘭は小さく息をついた。太平要術の書のような特別な代物でないにせよ、華琳の所有物を賊に掠め取られたという事実は、彼女にとって許されざることのようだ。

 

「……でもさ、その太平要術の書が天和達に渡ってなくても、本当に争いが起きるっていうのか?」

 

「うむ。彼女達がいようがいまいが、民の不満が高まっていることに変わりはない。華琳さまの仰られる通り、そう遠くないうちに国は乱れるだろう。かつてとはきっかけが違うだけでな……」

 

 国が乱れる。争いが起こる。そうなれば、人が死ぬ。

 

 当然の帰結である筈なのに、酷く胸が傷んだ。

 

「これから私達は大規模な乱に備えて動かなくてはならない。愛しき我が民を守るため、今の自分達が出来ることをする必要があるわ。全員、己が役目に全力を尽くすように!」

 

『はっ!!』

 

 春蘭、秋蘭、華侖、柳琳、栄華、香風、そして俺。この場に集った者達の声が木霊した。その気迫にビリビリと空気が震えるのを感じる。

 

「──それと、一刀」

 

「ん? どうした?」

 

 不意に名前を呼ばれて顔を上げた俺の視界に、にやりと笑う華琳が映った。なんとも嫌な予感がする……。

 

「あなたにはこれから少しの間、皆の補佐に回ってもらうわ。十年も天の国にいたのなら、少しくらいこちらに慣れるための時間は必要でしょう? それに私自身、今のあなたがどこまでやれるかも知りたいのよ」

 

 なるほど、それは俺にとって願ってもないことだ。華琳の下で働く以上、自分に何が出来るのか、しっかり把握しておかなくてはならない。

 

「それが終わればあなたにも一人の将としてきっちり働いてもらうつもりでいるから、覚えておきなさい」

 

「将としてって……本気か?」

 

 直後に来た予想外の一言に軽く目を見開き、思わず聞き返してしまう。だが、華琳は間違いないと言わんばかりに頷いた。

 

「ええ。有能な人材を適当な仕事で腐らせはしないわ。ただでさえ今は人手不足が深刻なのだから、使えそうな者は遠慮なく使うわよ」

 

 それとも、と華琳は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「かつて出来ていたことが今は出来ないなんて、まさかそんな腑抜けたことを言うつもりはないでしょうね?」

 

「む……」

 

 その一言は、この上なく的確に俺のプライドを刺激した。むすっと頬を膨らませて不機嫌さを露にした俺を、華琳は何も言わずにただ見つめる。

 

 今の自分は過去の未熟な己にも劣るのか?

 

 十年もの時を無為に過ごしたのか?

 

 お前は、口先だけの男なのか?

 

 空のように澄んだ碧眼が俺にそう尋ねてくる。

 

 そんなもの、答えは一つしかない。

 

「分かった、やるよ」

 

「ええ、それでこそ一刀よ。期待しているわ」

 

 こうして俺はこれから少しの間、皆の補佐という形で様々な仕事を経験することになった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

陳留郡④

「あと五周だ! 気を緩めるなよ! 最後まで走り抜け!」

 

『はっ!!』

 

 訓練場に響き渡る春蘭の怒声に、ランニングをしている兵士達が威勢よく返事をする。既に十五周ほどしているにも関わらず、これだけの声が出せるとは凄まじい体力だ。流石は春蘭の率いる兵士達、根性のある先鋭揃いだというのは伊達ではないらしい。

 

 そんな先鋭の中に、何故か春蘭の補佐である俺が混じっているのは、未だに訳が分からないのだが。

 

「北郷! 声が聞こえんぞぉ!」

 

「そりゃあこれだけ人数がいれば俺の声なんて聞こえる訳ないだろ! ていうか名指しするな!」

 

「それは気合いが足らんのだ! もう五周させられたいのか!」

 

「理不尽な!?」

 

 あまりの言い分に俺は息切れしながらも声を張り上げる。正直、武器や鎧を身に付けた状態で長距離を走るのはとてもしんどい。勿論、戦場においては今の状態が当たり前なので、甘えたことなど言ってられないのだが、それでも俺だけピンポイントで無茶苦茶言われるのは間違っている筈だ。

 

「よし、走り込みが終われば二人組を作れ! 私が止めと言うまで組んだ相手と打ち合うのだ!」

 

『はっ!!』

 

「北郷、お前は私とだ! さぁ構えろ、戦場で待ったは通じんぞ!」

 

 七星餓狼を抜刀し、ぜぇぜぇと息を整えていた俺のところに来た春蘭は、とてもいい笑顔でそう言った。きっと彼女の辞書に情けの文字はないのだろう。半ばやけくそになりながら剣を抜いた俺は、両手でそれを構えて春蘭に相対する。

 

「っ、せえぇええええええい!」

 

「はぁああああ!」

 

 訓練用に刃を潰した得物を春蘭目掛けて全力で振り下ろす。そこで相手が怪我をするかも、と躊躇いはしない。相手が曹武の大剣たる春蘭だからだ。こちらがどれだけ力を出したところで、向こうにこの剣が届く可能性はごくごく低い。俺と彼女との間には、それほどまでに圧倒的な実力差があるのだから。

 

 そして案の定、俺の一撃は春蘭に呆気なく止められてしまう。

 

「軽い、あまりに軽い! こんな程度では華琳さまをお守りすることは出来んぞ!」

 

「言ってくれる……なっ!」

 

 警察学校での日々、そして卒業してからも行った剣道の練習を思い出しつつ、出せる力の限り春蘭に当たっていく。纏った鎧によって体は普段より遥かに重いが、その重さを剣の一撃一撃に込めて振るう。刃と刃がぶつかる度に甲高い金属音と火花が散った。

 

「ふっ、今のは悪くなかったな。だが、これはどうかな!」

 

「うわっ!?」

 

 ギラリと春蘭と瞳が光った瞬間、俺の目と鼻の先を大剣が横切った。全身から血の気が引き、思わずその場にへたり込みそうになってしまう。

 

 捉えられない。

 

 春蘭の剣が速すぎるのだ。

 

「ここが戦場なら貴様は今ので死んでいる。いや、それ以前にも少なくとも五回は私に斬られているぞ」

 

「ははっ……全くもってその通りだな……」

 

 声が震え、乾いた笑いしか出てこない。情けないことに今の俺は春蘭の闘気に当てられ、既に参ってしまいかけていた。

 

「むぅ……そんな捨てられた犬のような顔をするな。確かに華琳さまをお守りし、将として軍を率いるつもりなら、北郷の武はまだまだと言わざるを得ん。精々、百人隊長といったところだろう」

 

 だが、と春蘭は言葉を区切る。

 

「今の貴様は以前に比べればずっと強くなっているぞ。それはこの夏候元譲が保証してやる。歴然の強者ならいざ知らず、凡百の武将相手なら勝つことは出来ずとも、そう簡単に負けはせん筈だ」

 

「……あぁ。ありがとな、春蘭」

 

 慣れない励ましの言葉だったのだろう、顔をやや赤くしてこちらから目を逸らす春蘭に、少しだけ気持ちが楽になった気がした。

 

 俺は弱い。ならば、強くならなくてはならない。

 

 生きるためにも、誰かを守るためにも。

 

 例え強くなれなくとも、強くなるための努力を怠っては駄目だ。

 

「春蘭、もう一度頼む」

 

「うむ、さぁ来い!」

 

 再び剣を構える頃には、既に体の震えは止まっていた。真っ直ぐ正面から春蘭を見据えた俺は、勢いよく地面を蹴って突撃を敢行した。

 

 

 

     △▽△▽

 

 

 

 午前中の組み手では散々に打ち負かされた俺であったが、午後からの訓練では兵達に混じらず、彼等が春蘭の指示で行動する様子をつぶさに観察していた。数にしておよそ千人もの兵がまるで春蘭の手足のように動く様は、ただただ圧巻の一言に尽きる。素早く陣形を敷き、高い士気を長時間維持し続ける夏候惇隊は、恐らく現在の漢において最も強く、勇敢な軍であるに違いない。

 

「今日の調練はここまでとする! 次回に備えてしっかりと体を休ませておけ! 以上! 解散!」

 

 夕陽も沈み始め、綺麗な茜色に染まる空の下、春蘭の号令を最後に訓練は終了した。ぞろぞろと去っていく兵達の背中を見送り、やがて全員がいなくなったところで、俺はふぅと大きく息をついた。その途端に全身を疲労感が襲ってくる。

 

「どうした。くたびれたのか?」

 

「うん……。正直、だいぶ疲れちゃったよ……」

 

「全く、この程度で情けない。天の国でもけいさつ……かん? とやらをやっていたのだろう? このくらいで音を上げていては先が思いやられるぞ」

 

「はははっ……その通りだな」

 

 春蘭の言う通りだ。以前、華琳に言われた将になるという話が実現すれば、俺も春蘭や秋蘭のように兵を束ね、指揮を執らなくてはならない。そうなった時、彼女達のようにとはいかずとも、ある程度のことが出来なければ、その役割を全うすることは不可能である。

 

「春蘭」

 

「ん、なんだ?」

 

「俺、頑張るよ」

 

「うむ、そうしておけ。華琳さまのお役に立つ上で、優秀すぎて困るということはないだろうからな。精々励めよ、一刀」

 

 にやりと不敵な笑みを浮かべた春蘭に、つられるように俺も笑った。

 

 今日の訓練で、自分の力がまだまだであることをあらためて思い知らされた。がむしゃらにもがき、警察官として生活していた日々は無駄ではなかったものの、それだけでは足りないということがはっきりと分かったのだ。

 きっと華琳はまた戦乱の世に身を投じるだろう。この国の平和と民のために、険しい棘の道を進む筈だ。そんな彼女のためにも、そして誰かを守るためにも、俺はもっともっと精進しなければならない。

 

「……やってやるさ」

 

 沈み行く夕陽に手を伸ばし、小さな誓いを胸に立てた。

 




春蘭に杏仁豆腐を食べさせてもらうシーンを入れ忘れたでござるの巻。とりあえずそれはまた今度ということで……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

陳留郡⑤

 ブンと振り下ろされた剣が空を切る。

 

 まだ太陽も顔を出してすらいない明け方、まだ白みがかった空の下で、俺は兵卒の扱うような剣を使って素振りをしていた。一回一回きちんと確かめるように中段に構え、ふっと息を吐きながら全力で振り下ろす。竹刀よりも遥かに重い得物は、同じ素振りでも掛かる負担がずっと大きい。まだそこまで続けていないにも関わらず、両腕の筋肉は既に悲鳴を上げ始めていた。

 

「ふぅ……せいっ!」

 

 しかし、だからといって止まる訳にはいかない。地道な繰り返しが結果に結びつくことは、三十年近く生きてきた中で身に染みて理解している。これを問題なく振り続けられるようになって、初めて前に進むことが出来るのだ。

 

「(とはいえ……あんまり無理したら今日の仕事に差し支えるかもな)」

 

 自主訓練をやりすぎて本来の仕事が出来ませんでした、などと華琳に言おうものなら、一瞬で首と胴が泣き別れすることだろう。その辺りの見極めもしておいた方が賢明かもしれない。

 

「朝から精が出るな、一刀」

 

「あれ、秋蘭?」

 

 不意に後ろから掛けられた声に振り向けば、いつもの青い装束を纏った秋蘭が立っていた。珍しくその隣に華琳や春蘭の姿はない。どうやら彼女一人だけのようだ。

 

「おはよう。どうしたんだ、こんな時間帯に? まだ随分と早いぞ?」

 

「今日の朝議で報告すべきことをまとめていた。それも先程終わったから、気晴らしに少し散歩していたのだよ。それにしても、一刀が朝からこんなことをしていたとはな」

 

 そう言って持ち前であるクールな微笑を浮かべる秋蘭。別に誰かに見られたくない秘密の特訓という訳ではないが、しかしこうして見られては少し恥ずかしくもある。

 

「……続けないのか?」  

 

「え? あ、あぁ、そうだな。……すぅ……ふぅ……」

 

 胸に手をやって深呼吸をし、気分を元の状態に戻す。そうしてから、俺はもう一度素振りを再開した。

 

「ふっ……はっ! ふっ……はっ!」

 

「……」

 

 荒い呼吸音と風切り音だけが静かに中庭に響いては消えていく。俺が剣を振り続けている間も、秋蘭はただ無言でその様子を見ているだけだ。口を挟むことなく、腕を組んでこちらの動き一つ一つを観察している。

 

「あの、見てて楽しいか?」

 

「あぁ、楽しいぞ。お前が真剣な顔をして取り組んでいるのだ、こうして見ているだけで……胸の奥が暖かくなってくるような気がするよ」

 

「そ、そっか……」

 

 つい気になって尋ねてみたところ、予想以上に鋭いパンチが返ってきた。今の俺はきっと耳の先まで赤くなっていることだろう。これではいけない、もっと集中しなくては。

 

 それからどのくらいの時間が経っただろうか。腕に蓄積した疲労がそろそろ限界というところで、俺はゆっくりと剣を下ろした。それと同時に、全身を適度な疲れと怠さが襲ってくる。

 

「秋蘭、そこにある桶を──」

 

「これか?」

 

「そう、それそれ。ありがとな」

 

 言い切る前に差し出された水桶をありがたく受け取り、底に沈めていた布で汗を拭う。上気した肌が冷たい水によって冷やされ、とても気持ちいい。出来ることなら上着も脱いでしまいたいが……秋蘭の手前だ、あまり見苦しい姿は見せられない。

 

「ふむ……一刀、私で良ければ背中を拭こうか?」

 

「……え? いいのか?」

 

「あぁ。ほら、早く上着を脱ぐといい」

 

 そう言って秋蘭は俺の手から布を取り上げると桶の水に付け直し、たっぷりと水を吸ったそれをぎゅっと絞る。一方の俺は秋蘭の言ったことがまだ飲み込めず、その場に立ち尽くしたまま、そんな彼女の様子をぼんやりと眺めていた。

 

「どうした? 今更肌を見せることを恥ずかしがるような関係でもあるまい。それとも……余計なお世話だったか?」

 

「えっと、なんていうか……まさか秋蘭がそんなことを言うなんて思わなかったからさ。別に嫌とか、そういうのじゃないんだ」

 

 嫌な訳がない、むしろ大歓迎だ。大切な人が厚意で言ってきた提案をどうして断れようか。

 俺は上着を脱いで畳むと、その背中を秋蘭に向けてどっと座る。それから一拍ほど空いて、先程肌を撫でていた時のひんやりとした感覚が背中に走った。ベタベタとして気持ちの悪かった汗が、秋蘭によって丁寧に拭き取られていく。これはちょっとした極楽気分だ。

 

「ふぅ~……気持ちいいよ……。ありがとな、秋蘭……」

 

「ふふっ、そうか。一刀がそう言ってくれるなら、私もお節介を申し出た甲斐があるというものだ」

 

 ちょっとした会話をしながら束の間の休息を楽しむ。が、十数秒もしないうちに秋蘭の動きはだんだんと小さくなっていき、やがてピタリと完全に止まってしまった。

 

「……秋蘭?」

 

「……かつて華琳さまが仰ったのだ。お前が天に還ってしまった理由は、本来の歴史から大きく乖離してしまったからだと」

 

 小さくこぼれた秋蘭の声は、まるで懺悔をしているかのように聞こえた。震えていて、今にも泣き出してしまいそうな雰囲気。こんな秋蘭は初めてで、俺は何も言えずに沈黙を貫いた。

 

「……私のせい、なのか?」

 

 その言葉で、気付く。

 

 気付いてしまう。

 

 俺がいなくなってから秋蘭が背負い続けていた、とてつもなく大きなそれの正体に。

 

「あの時、定軍山で私と流琉が死んでいれば、一刀が消えることはなかったのではないか? お前の知る歴史の通りに私が死んでいれば、華琳さまに辛い思いをさせることもなく、姉者が悲しむこともなかった──」

 

「秋蘭っ!」

 

 駄目だ、絶対に駄目だ。

 

 それは、それだけは言っちゃいけないことだ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()、そんなのは間違っている。

 

「仮に二人が定軍山で討たれることで俺がこの国に残れたとしても、秋蘭と流琉がいなくなった世界で心の底から幸せになれる訳がないだろう! 俺だけじゃない、華琳も、春蘭も、季衣も、皆だってそうなんだ! 秋蘭と流琉が死ねば残された皆が悲しむって、そんなの考えなくても分かるさ!」

 

 振り返り、秋蘭の肩を掴んだ。大きく揺らぐ橙色の瞳を、俺は真っ正面から覗き込む。

 

 秋蘭と流琉は俺にとって──否、曹魏にとって欠けてはならない大切な人だ。それは一人の将としてという意味だけではない。秋蘭は公私において華琳を支えてくれていたし、流琉の料理は誰もを笑顔にしてくれた。

 

 そんな二人だからこそ、華琳に禁止されていた天の知識を使ってでも、助けたいと思ったのだ。

 

「俺はな、秋蘭と流琉に死んでほしくなかった。例え自分が消えることになっても、二人には生きてほしかったんだよ! 俺のことはいくらだって責めてくれていい。だから、頼むから……『自分が死ねば良かった』なんて言わないでくれ……!」

 

「……すまない」

 

 ──いや、違うな。

 

 秋蘭はそう言い直した。はらりはらりと、その目から涙を流して。

 

「ありがとう、一刀。私と流琉を救ってくれたことに、今一度礼を言わせてほしい」

 

 ペコリと頭を下げ、秋蘭はふっと微笑んだ。その時の彼女の表情からは、先程まであった憂いの感情は影一つなく消え去っていた。

 




次回は多分華琳さまのターン。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ある夜のこと

 華琳から渡された現在の陳留における警備隊の諸々について記された紙の束。それらに一旦目を通した俺は、ふぅと息をつきながら背凭れにゆっくりと寄り掛かる。

 

 あまりよろしくない、というのが正直な感想だった。

 

 目下の問題として街の広さに対する警備隊の詰所の数が少なすぎる。これでは犯罪や喧嘩などの問題が起きても、場所によっては警備隊が間に合わないこともあるだろうし、騒ぎが連続で起きた際にはカバー出来ない部分も出てきてしまう。せっかくの警備隊もそうなってしまえば意味がない。

 では詰所の数を増やし、働く人材も増やせばいいのではないかと言われると、そういう訳にもいかないのが現状だ。詰所を建てるのにも、人を雇うのにも、装備を整えるにも、何をするにしてもまとまった額の金が必要になる。残念ながら今の陳留の懐は暖かくない。金庫番の栄華に頭を下げたところで芳しい成果が得られる可能性は低いだろう。

 

「とりあえず警邏の頻度を増やして、あと犯罪者はしっかり捕まえて処罰するってところかな。これが後々の犯罪への抑止力になってくれるといいんだけど……」

 

 小さくぼやきながら筆を手に取り、すらすらと報告書を書いていく。とはいえ、華琳からの書類だけでは分からない問題点もある筈だ、俺も警備隊の一員として実際に働いてみた方がいいかもしれない。現場の様子を一番知っているのは同じく現場の人間なのだから。

 

 それにしても、やはり現代とここでは勝手が全然違う。携帯電話もパトカーもないこの世界では、知らせを届けてくれるのも現場に向かうのも全て人力に頼らざるを得ない。加えてまだ治安が良くないせいか、警備隊の駆り出される回数もここ最近は多くなってきている。なんらかの手を打たなくては流石にまずいだろう。この陳留は華琳のお膝元、街の人々が安心して暮らせる場所でなくてはならないのだから。

 

「とりあえず今は出来ることから、か……」

 

 それから俺は夕食などで途中休憩を挟みながら作業を進める。警備隊や陳留の治安に関すること以外にも、現在華琳の有する兵力や糧食、部隊の状況など、将軍という大役を任される上で知っておくべきことを頭に叩き込む。付け焼き刃かもしれないが、全く何も知らないでいるよりはいい筈だ。

 

「兵法は……桂花が来たら聞いてみようかな。いやでも、基礎くらいは自分でやっとかないと話にならないか……」

 

 ──頭の中では女を犯すことしか考えていない救いようのない変態のアンタなんかに、一から兵法のなんたるかを教えていられるほど、この天才荀彧さまは暇じゃないのよ! せめて基礎くらいは自分でやって、何が聞きたいのかをしっかり決めてから出直しなさい!

 

 今のままの俺が教えを乞うたところで、こんな具合に追い返されるのが関の山だろう。これからは書庫に通う日々になりそうだ。

 

 ……それにしても、桂花を思い出すと恋しくなってくるのがあの毒舌だ。別に彼女に罵られたいとかそういう特殊性癖を持ち合わせている訳ではないが、あれがないと締まらないというか、少し寂しく思えてしまうのも事実である。

 

 ──桂花が来たら少し厄介がられるくらいにちょっかいを掛けよう。

 

 俺はそう誓った。他の誰かが聞けばきっと呆れることだろう。

 

「一刀、いるかしら」

 

 コンコンと控えめなノックと共に響く凛とした声。どうぞと許可をすると姿を現したのは案の定、華琳だ。

 

「やはりまだ起きていたのね。早く寝なさい、もう遅いわよ?」

 

「そっか。もうそんな時間なのか……」

 

 どうやら仕事に没頭するあまり、時間の経過を忘れてしまっていたようらしい。当たり前だがこの世界に時計なんてものはないので、意識していないと時間が経つのは本当にすぐだ。机に向かっていた体をぐっと伸ばせばポキポキと背骨が鳴る音がした。

 

「うん、じゃあそろそろ寝るよ。気を遣わせてごめん」

 

「別にあなたを心配した訳じゃないわ。それより早くしなさい」

 

 そう言って華琳は俺の隣を横切ると寝台の方へ行き、そこにすとんと腰を掛けた。

 

「……もしかしてここで寝るつもりなの?」

 

「ええ。何か問題でもあるかしら?」

 

「事前に言っておいてくれると良かったかな……」

 

「それではつまらないじゃない」

 

 ですよね、と俺は苦笑し、机の上に広げていた道具一式の片付けに入る。我らが覇王さまの無茶振りに応えるのも臣下の務めだ。この程度のものならお安いご用である。

 

「入るよ、華琳」

 

「さっさとなさい」

 

 そそくさと寝具に着替え、一人用の寝台に華琳と一緒に横たわる。落ちてしまわないよう身を寄せた華琳の体は驚くほどに細く、しなやかで柔らかい。この世界にはシャンプーもリンスもトリートメントも存在しない筈なのに、作り物のように美しい金髪からは仄かに甘い香りがした。

 

「ふふっ」

 

「どうしたんだ?」

 

「いいえ。ただ、今宵はよく眠れそうと思っただけよ」

 

「あぁ……俺もだよ」

 

 触れ合った素肌から伝わってくる華琳の優しい体温に、俺の意識は既に微睡んでいる。もう一つあるとすれば……それはきっと安心感だろう。愛しい人がすぐ傍にいるという、そんな安心感だ。

 

 華琳もこの気持ちを抱いてくれていたなら、これほど嬉しいことはない

 

「今みたいな時間が……ずっと続けばいいのに……」

 

「寝言は寝てから言いなさいな。あなたも分かっているでしょう、もう時間がないということくらい」

 

「厳しいなぁ華琳は……。まぁ、確かにそうなんだけどさ」

 

 以前、この陳留以外の土地について調べてみる機会があったのだが、それはもう酷いものだった。多くの太守や県令といった役人は高い税率を定めて民から多くの税金を搾取しており、それを自らの贅沢や中央への賄賂としてしか使っていないのだ。民の暮らしは過酷さを増すばかりで逃げ出す者すらいる始末。役人や国に対する不満は今この瞬間にでもどんどん蓄積していっている。最早、その膨れ上がった怒りはいつ破裂してもおかしくない。

 

「争いが起きる、か……」

 

「……不安なのかしら?」

 

 俺を見上げる華琳の碧眼がすっと細められる。思うところがあるならここで言っておけ、そんな風に言っているような気がした。

 

「……いつか俺も誰かの命を奪うことになるのかなって……そんなことを考えてたんだ。前に華琳が俺に将になってもらうって言ってたからさ、やっぱり覚悟くらいは決めておかないとなって」

 

「一刀……」

 

 誰も傷つけずにこれから始まる乱世を歩んでいけるだなんて思ってない。どれだけ望まなくとも戦は起きてしまうし、そうなれば戦死する者だって出てしまう。今はまだ綺麗なこの手も、いつの日かきっと血で汚すことになるだろう。

 

 だからこその覚悟だ。

 

 例え誰かの命を奪うことになったとしても振り返らず、心の中にそっとしまって前へ進む。罪の意識に苛まれ、迷い苦しみ、時には傷つき地を這いずることになろうとも、俺は自分の信じた道を行くのだという覚悟を決めなければならない。

 

 それがきっと戦場に立つ者が背負うべき責任なのだろうから。

 

「本当は怖いよ。どんな理由があるにしたってやることは……その、人殺しだから。出来ることなら誰も傷つけたくないし殺したくないっていうのが本音なんだ」

 

 でも、と俺は言葉を区切る。そして、華琳をそっと抱き寄せた。

 

「俺は華琳を支えるって決めたから。この大陸を平和にしたいっていう華琳の隣に立ちたいって思ったから。戦わなくちゃいけない時が来たなら……戦うよ、俺も」

 

「……それが、あなたの答えという訳ね」

 

 その返事に俺は頷く。自分の意志で、確固たる信念のもとに。

 

「ならばそれが口先だけではないということを明日から見せてもらおうかしら? この曹孟徳の前で口にしたのだから、もう覆させはしないわよ」

 

「おう。期待に応えられるよう頑張るよ」

 

「……一刀、もしあなたが誰かを殺めることになったとしても、あなたが私達の愛する北郷一刀であることに変わりはないわ。それを忘れないで」

 

 そう言って華琳は俺の唇にキスを落とすとそのままふっと優しく微笑んだ。込み上げてくる温かい気持ちに、華琳を抱き止める腕に少しだけ力が入る。

 

 ──俺が俺であることに変わりはない、か。

 

 この先に何があろうとも、どんなに辛い思いをしようとも、その一言があれば自分を見失うことはなさそうだ。

 

「ありがとう……華琳」

 

 落ちていく意識の中で、俺は最後に愛しい人へ感謝を紡いだ。

 




どんな崇高な目的があろうとも、どんな綺麗事を並べようとも、それが人殺しであることに変わりはない。現代人故の葛藤というか、そういうお話。

このままだといつまで経っても終わらないからそろそろ本筋の方も進めないと。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

再会①

難産というか、色々考えてたら遅くなりました。タイトル通りではありますが、ようやく彼女の登場です。


 その場に出会したのは本当に偶然だった。

 

「申し訳ありませんがこの先に通す訳にはいきません。お引き取りを」

 

「だから! 私は華琳さまの筆頭軍師になる者だって言ってるでしょう! 一刻も早く華琳さまのもとに参上しなくちゃならないのよ! いいから早く通しなさい! それが駄目なら早く誰かを呼んで! 夏候惇でも夏候淵でも、将軍職なら誰だっていいわ!」

 

 街の警邏を終えて城に戻ってくると、一人の少女が城の警備にもの申している様子が目に映った。ここからでは少女の後ろ姿しか伺えないが、彼女は猫耳を模したような特徴的なフードを被っており、困り顔の警備に絶え間なく毒を吐いている。俺はそんな少女の対応をしている兵を気の毒に思うと同時に、沸き上がるどうしようもないほどに懐かしさに表情を緩めた。

 

「……って、見てる場合じゃないな」

 

 いかんいかんと自分の頬を叩き、俺は少女と警備のところへ足を運ぶ。しかしただ行って再会するだけではつまらない、そう考えた俺は息を殺し、忍び足で少女の背後へと近付いていく。そんな俺に気付いた警備が「この人は何をしてるんだ?」とばかりに変な目で見てくるが、幸いにも肝心の少女は俺の存在に気付いていない。

 

 少女までの距離はもう数メートル、数歩をいけばこの手が届く範囲に到達する。

 

 そろり、そろりと。俺は笑いを堪えながら進む。そして──、

 

「ふはははははははははははっ! 荀文若破れたりぃ!」

 

 後ろから少女──桂花に抱き付いた。

 

「きゃあああああああ!?」

 

「はーはっはっはっ! 久しぶりだなぁ桂花! 変わってなくて安心したぞ! 元気にしてたか? 元気じゃないなら今から元気になれってあははははははははははっ!」

 

「きゃあああああああああああああああああ!! ぁああああああああああああああ!!」

 

 絶叫しながらじたばたと手足をばたつかせて本気で逃げようとする桂花。しかしいくら俺がへっぽこでも、文官で非力な彼女を捕まえるくらいはどうということもない。

 抱き締めた桂花の体は相変わらず細かった。ちゃんと食事を摂っているのかと心配になるくらい細かった。起伏に乏しい、なんて言った暁には後で何をされるか分かったものではないから黙っておくが、しかしそれでも女の子らしく、柔らかくて温かくていい匂いもするのだ。俺は腕の中の桂花をくるりと反転させて向き合うと、そのまま頬擦りを敢行しようと顔を寄せ──見事に彼女の拳が頬に突き刺さることとなった。

 

「ふげっ!?」

 

 ラッキーパンチかそれとも狙ったのか、なんにせよ桂花の拳を受けた俺はまるで蛙のような声を上げて倒れ込む。痛い、が、こんなものは春蘭との稽古に比べれば大した痛みではない。そうして顔を上げて立ち上がろうとした俺だが、目の前でわなわなと震えながら怒りを隠そうともしない桂花に、つぅっと一筋の汗が流れるのを感じた。

 

「よ、よぉ桂花……ひ、久しぶり……」

 

「あんたは……あんたって男は─────!!」

 

「ちょっ!? 待っ、いたっ! 痛い痛い!?」

 

「うるさいうるさいうるさーい!! この変態っ! 色欲魔っ! 全身精液男っ!」

 

 罵倒と共に飛んでくる足に蹴られ、踏まれる。これはなかなか馬鹿に出来ない痛さだ。おまけに今の桂花は怒り心頭といった様子でこちらの声は届きそうにもなく、彼女が落ち着くまでは耐えるしかない。

 

「勝手にいなくなって! 散々迷惑を掛けておいて! 今更どの面下げて帰ってきたのよ!? あんたが消えたことで私達がどれだけ大変だったか、その煩悩まみれの頭に嫌っていうほど叩き込んでやろうかしら!?」

 

「桂花、落ち着けっ!? ごめん! 悪かった! 俺が悪かったから顔はやめて!?」

 

 そんなやり取りを繰り広げること数分、騒ぎを聞きつけて俺達のもとにやって来たのは柳琳だった。彼女はまず初めに桂花を見て嬉しそうな顔を見せ、続いて文字通り踏んだり蹴ったりされている俺に血相を変えて駆け寄ってくる。

 

「け、桂花さん!? 一体一刀さんに何を!?」

 

「こいつが自分のしたことの重大さが分かってないようだから、こうやって教えてやってるのよ! 邪魔しないで頂戴!」

 

「で、でも流石にこれ以上はやりすぎだと思うわ。一回落ち着きましょう。ね?」

 

 あぁ……流石は柳琳、曹魏の良心だ。その優しさが身に沁みる。俺は全身を叩いて砂や埃を落として立ち上がり、柳琳にお礼を言おうとして──、

 

「何を騒いでいるのかと思えばあなただったのね、桂花」

 

 ピタリと。まるで時が止まったかのように、この場に居合わせた全員が先程の声がした方を向いて動きを止めた。そんなことが出来る人間なんて陳留に──否、この大陸に一人しかいない。

 

「か、か、華琳さまぁ~!!」

 

 堂々とした足取りで、全身に圧倒的な覇気を纏わせて近付いてくる華琳に、桂花は感極まってその名前を叫んだ。その態度は先程まで俺に向けていたものとは全くの正反対で、相変わらずだなぁと思わず苦笑がこぼれる。

 

「また会えて嬉しいわ。愛しき我が子房……ふふっ」

 

「あぁ……勿体なきお言葉です……華琳さまぁ……」

 

 華琳にそっと頭を撫でられると甘い声を上げる桂花は、フードも相まって本当に猫のようだ。そんなことを思いながら甘い空気から目を外すと、隣にいた柳琳とばっちり目が合った。どうやら彼女も同じことを考えていたらしく、それがおかしくて俺達は小さく笑った。

 

「桂花、ここに来たということは最早聞くまでもないとは思うけれど、今一度私についてきてもらえるかしら? 来るべき乱世を乗り越え、この曹孟徳が飛躍するためにはあなたが必要なの」

 

「勿論ですっ! 非才で矮小なこの身ではありますが誠心誠意、血の一滴に至るまで華琳さまに尽くします! ですから是非、この荀文若を華琳さまの覇道を支える者として、その末席を汚すことをお許しくださいっ!」

 

 そう言って桂花は華琳に向かって頭を垂れた。見ているこちらが惚れ惚れするほどの臣下の礼である。

 

 それを受けた華琳は……予想通り、不敵な笑みと共に満足そうに頷いた。

 

「あなたの想い、しかと受け取ったわ。これから頼りにさせてもらうわよ、桂花?」

 

「御意!」

 

 主従の契りはここに結ばれた。

 

 王佐の才と呼ばれし荀文若──桂花がこの曹魏に再び加わった瞬間だった。

 

「桂花さん、これからまたよろしくお願いしますね」

 

「えぇ。よろしく柳琳」

 

「よろしくな桂花。俺も会えて嬉しいよ」

 

「私は全然嬉しくないわよ」

 

 うん、いっそ清々しさすら感じるこの対応の変わり具合である。まぁ、桂花らしいと言われれば桂花らしいのだが。なんにしても、彼女とこうしてまた一緒に過ごすことが出来るのであれば、俺としてはもう何も言うことはなかった。

 

「何を笑ってるのよ、気持ち悪いわね」

 

「ははっ、別になんでもないよ」

 

「……馬鹿」

 




 申し訳ありませんがこれから少しの間、投稿が途切れると思います。一ヶ月もすれば戻ってくるとは思いますが、何卒ご理解ください。

 次の次、もしくはそのまた次くらいで黄巾の乱に入る予定ですが、その前に一回閑話を挟みます。洛陽にいる傾と瑞姫、霞の話がしたいので。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

来訪の報せ

お久しぶりです。色々あってモチベーションが低下していましたが、孫呉の血脈のおかげもあって復活します。蓮華と思春、亞莎が可愛い。


「北郷さま、いらっしゃいますか?」

 

 自室で柳琳から預かった竹簡に目を通していると、不意に部屋の外から自分の名を呼ぶ声が聞こえた。一体誰だと首を傾げながらも「どうぞ」と一声を掛けると、一人の女性が恭しい態度で以て部屋に入ってきた。

 

「曹操さまがお呼びです。至急、謁見の間までお向かいください」

 

「華琳が……? 分かりました、ありがとう」

 

 礼を告げると女性は頭を下げ、入ってきた時と同じようにして部屋を後にしていった。それを見送ってから、俺もすぐに身嗜みを整えて謁見の間へ向かう。万が一にも遅れてはいけないため、やや早足だ。

 

「あ、お兄ちゃん」

 

「ん、香風」

 

 その途中、曲がり角で偶然にも香風と出会(でくわ)した。聞けば彼女も侍女の人に謁見の間に来るよう言われたらしい。そんな訳で、そのまま二人で一緒に行くことになった。

 

 そういえば、香風は華琳が俺達を呼び出した理由を知っているのだろうか。俺達でなく香風まで声が掛かったということは、恐らく他の面子も同じと見ていいだろう。気なった俺は足を止めずに隣の眠そうな香風に尋ねてみる。

 

「香風は何か聞いてないか? 華琳が俺達を呼び出したことについて」

 

「うんん……。シャンもご飯を食べて城に帰ってきたばかりだから、全然」

 

「そっか……」

 

 残念ながら香風もこのことについては何も知らないようだ。主要な臣を集めるくらいなのだから、重要なことに間違いはない筈だが。と、そんなことを考えながら歩くこと数分、俺達は何事もなく謁見の間に到着した。

 

「あら、あなた達が最初に来るなんて意外ね。春蘭あたりだとばかり思っていたのに」

 

 到着した俺達に、玉座に座っていた華琳は楽しげに微笑んだ。その傍には既に我らが猫耳軍師、桂花が控えている。

 

「華琳、一体どうし──」

 

「慌てずとも皆が揃えば話すわ。少し待っていなさい」

 

 一体どうしたんだ、と尋ねようとした矢先に言葉を遮られ、俺は大人しく皆が集まるのを待つことにした。初めに来たのはやはりというべきか、春蘭だ。彼女は俺に遅れを取ったと気付くや否や、声を大にして悔しがり、続いてやって来た秋蘭に慰められている。秋蘭は秋蘭でぐずる春蘭を頭を撫でつつ、「ふふ、姉者は可愛いなぁ……」と満足そうにしていた。なんというか、平常運転である。

 

「申し訳ありません、ただいま参上しましたわ」

 

「ほら姉さん、着いたわよ。しっかりして?」

 

「ふぁ~……ご飯食べた後は眠いっすよ……」

 

 やがて最後に現れたのは華侖、柳琳、栄華の三人だった。柳琳と栄華の少し疲れた様子を見るに、華侖を引っ張ってくるのに苦労したのだろう。華琳もそれは見てとれたようで、特に何も言うことなく三人が並ぶのを見送っていた。そして、整列した俺達を軽く一瞥してから、彼女はゆっくりとその口を開いた。

 

「つい先程、燈からの手紙が届いたわ。桂花」

 

「御意」 

 

 華琳の声に短く応え、どこからか一つの書簡を取り出した桂花は、そこに書き記されていた内容を淀みなく読み上げ始めた。

 堅苦しい挨拶や難しい説明を省略すれば、『こちらの都合がつきそうなので、近々そちらへ伺わせてもらう』というものだ。沛国の相という高い地位にある彼女が自らこの陳留へ出向く理由があるとすれば、恐らくは俺が戻ってきた時に出会った三人組の賊のことだろう。兗州の賊が州境を越えて豫州の沛国に入ったともなれば、その沛国を治める燈が出てきても不思議ではない。

 

「──かつての臣でも今の燈は沛国の相。そんな人物を迎えるともなれば相応の支度が必要よ。全員、心して準備に取り掛かりなさい。あまり悠長にしている暇もない上、一片の粗相も許されないわ」

 

『はっ!!』

 

 皆の力強い返事が謁見の間に響く。かつての戦友とはいえ隣国のお偉いさんがやって来るのだ。小さな失敗であっても、それは華琳の顔に泥を塗るにも等しいのだから、この緊張感も当然と言えよう。

 

「柳琳、少々付き合ってもらえますか? 至急、用意しなければならないものがありますので」

 

「勿論だよ、栄華ちゃん」

 

「秋蘭、現状で動かせる兵はどのくらい? 警備の配置の参考にするから聞かせてほしいわ」

 

「そうだな……今使える人数となると──」

 

 謁見の間から解散するとほとんど同時に、早速来るべき日に備えて話し合いを始めた栄華と柳琳、そして桂花と秋蘭。対してまだ動きを見せていないのが俺と香風、そして春蘭と華侖だ。語るまでもなく武力寄りのメンバーである。

 

「お兄ちゃん、どうするの?」

 

 袖を軽く引かれて視線を落とすと、香風がじっと俺の目を見つめていた。そんな彼女に「どうしようかなぁ……」とこぼした俺は、自分に出来そうなことを脳内で順に挙げていき──、

 

「……うん、やっぱり警邏かな」

 

「? 警邏?」

 

「そう。こういう時って何か普段しないような特別なことをしなくちゃって気になるけど、俺ってそういうの空回りして全然出来ないから。いつもしてることで、一番俺らしい仕事って言われたら、やっぱり警邏なんだ」

 

 そうだ、何も気負うことはない。燈と喜雨の二人が来るからといって、変に力んで格好をつける必要はないのだ。俺は俺に出来ることを精一杯する、それでいいではないか。

 

「それにさ、街の治安が悪いと燈と喜雨に笑われちゃうだろ? それは流石に嫌だしな」

 

「うん。じゃあシャンも、お兄ちゃんを手伝う」

 

「面白そうなことを話しているではないか、北郷。私も混ぜろ」

 

「あたしも手伝うっすよ! こういうのは皆で協力した方が絶対いいっす!」

 

 春蘭と華侖のありがたい申し出に頬が緩むのを感じる。体の底からやる気がどんどんと溢れてきて、俺は「よしっ!」と拳を天へ突き上げた。

 

「それじゃあ、皆で頑張ろう!!」

 

「「「おー!!」」」

 

 

 

 それから俺達四人は現陳留警備隊と協力し、きびきびと不正を働く輩を取り締まった。俺以外の三人は調練や他の仕事のために来れない日もあったが、暇を見つけては街を歩いて目を光らせており、何度も助けられることとなった。そんな三人に負けていられないと、俺自身も今まで以上に真剣に取り組んだ。

 

 朝起きてから警備隊と街を練り歩き、夜は飯屋で皆を(ねぎら)ってから床に就く。日によって差異はあれど、おおよそ似たような日々を十日程度繰り返し──、

 

 いよいよ、その日を迎えることとなった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。