盾の少女の手記 (mn_ver2)
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盾の少女の手記

ロストベルトNo.1クリア記念


 時々。

 私は時々……先輩を怖いと思う時があるのです。

 

 先輩が嫌い、というわけでは決してありません。むしろ大好きで大好きで、ずっと一緒に行きたいと願っています。

 爆発によって瓦礫に下半身を押し潰されたあの日。我を顧みずに私を助けようと、魔術師でもない、本当にただの人間が、か弱い力で顔に脂汗をにじませながら。破片で掌の皮膚が、肉が破けて血が滲ませながら。そんな先輩に、私は自分の目尻に涙が溜まるのを感じました。

 今まで無色だった私の人生に、先輩は色彩を与えてくれました。

 そして一年間、未来を取り戻すためにゲーティアと戦い、さらに一年間、亜種特異点なるものの撲滅。計二年もの間、私は先輩と共にいましたね。

 

 だからこそやはり、私は先輩を知らない。

 

 冬木が私たちの初めての出撃でしたね。街は文字通り火の海で、全てが焼け焦げ、黒いサーヴァントと戦いました。戦い方すらままならない私と先輩。既に殺されていた一般人の無残な姿に、先輩は涙して、何度ももどしてもいたことをよく覚えています。

 それが今となってはどうでしょう。

 もう、先輩は涙のひとつすら流すことがなくなりました。笑うことはよくあります。冗談だって言うし、私にセクハラまがいのことだってします。胸を触ったり、お尻を撫でられたり。どうしても許してしまうのですが。

 しかし、絶対に涙は流さないのです。絶対に。悲しむことはあれど。決して。

 私が先輩を初めて怖いと思ったのは、第四特異点、ロンドンでのことです。

 戦い方がだいぶ板についてきた頃のですが……先輩はもう、全く違うモノが板についていたのでしょうね。

 これまでたくさんの死体を見ました。もう数えることすらやめたくなるほどの数を。老若男女問わず。

 何度も言いましょう。先輩は魔術師ではありません。ただの人間です。

 死とはかけ離れた生活をしていた先輩には、このグランドオーダーは、私たち魔術をかんでいる者たちだからこそわからない、想像を絶するほどのストレスを背負わされたのは間違いないのです。

 あまりの非日常的な外界の刺激に、心が壊れる可能性がある、とオルレアンのあとにダ・ヴィンチちゃんが私に言いました。だから心のケアも必要不可欠なのだと。

 しかし、先輩は言ったのです。

 

『生存者を探そう、マシュ』

 

 首がもげ、肉が爆ぜ血が噴き。それらがぐちゃぐちゃに、山積みになったただの肉山を背景に、そう微笑みをむけて。

 そこに、感情というものは、一切感じることができませんでした。

 

 ◇

 

 私にはあまりわかりませんが、先輩と同じ年頃の少女というのは、恋なるものを

 するのですよね?

 恋バナ、というものに花を咲かせ、意中の男性を見るだけで心が熱く脈打たれるのだとか。

 確かにカルデアには女性サーヴァントだけでなく、男性サーヴァントもたくさんいました。特異点の調査以外では彼ら彼女らと楽しくコミュニケーションを図っていたし、私もまたそうしていました。

 しかし先輩には浮ついた話のひとつもありませんでした。恋バナをするのを見たことがありませんでした。

 人間とサーヴァント間の恋愛というものはタブーであるとか、そのようなものはあるかどうかすら知りませんが、職員の方とも同様に皆無でした。

 人間には三大欲求があり、これが満たされなければ、人間としてまともな生活ができないとされているのを知っています。

 食欲、睡眠欲。そして性欲。

 私を含めサーヴァントはその三大欲求が満たされなくても問題ないのですが、先輩は性欲について、どう処理しているのでしょうか。第二次性徴期を迎えた身体、特にそれが強く求められる時期だと私は思うのです。

 フェルグスさんやキアラさんなら喜んで処理してくれそうな感じがしますが、先輩は一度もそんなことをお願いしていません。

 だからといって私から口にするのは気恥ずかしく、躊躇っているといつものようにセクハラされて。

 

『う〜ん、元気百倍!』

 

 と無邪気な笑顔を浮かべるのです。

 無理をしているようには見えず、私はついつい安心してしまうのです。

 果たしておかしいのは私でしょうか? それとも先輩でしょうか?

 

 ◇

 

 エミヤオルタさんは言いました。

 

『俺と同じになるな』

 

 ゴルゴーンさんは言いました。

 

『マスター、いったいどこを見ている?』

 

 ジャンヌさんは言いました。

 

『マスターの心は病んでいません。ならいったいどこが……』

 

 金時さんは言いました。

 

『たまにだけどな? 大将が頼光の大将より恐ろしく感じるんだよな』

 

 エミヤアサシンさんは言いました。

 

『僕と同じ眼になる時があるね』

 

 私は知っています。先輩の、サーヴァントたちからの評価を。誰一人として不満はありません。実力は高いわけではないですが、人を思いやり、仲間と団結して立ち向かう姿に誰もが惚れ惚れとするのです。

 ですが私は知っています。

 先輩の弱さを。マイルームのゴミ箱に夥しいほど血に染みた包帯が捨てられていたことを。咄嗟に腕を隠したこと。マイルームに入る度、必ず酸味の効いた……吐瀉物の匂いがすることを。口の端に消化途中だった夕食のおにぎりが付着していたこと。

 これはきっと触れてはいけないものなのだと、私は悟りました。

 誰にだって、決して入り込まれたくない領域はあるのです。しかし、私は先輩の心のケアをしなければいけません。

 何も言わずにベッドに押し倒し、ぎゅう、と抱き締めて『辛いことがあったら言ってくださいね。私、絶対に力になりますから』と優しく伝えました。

 それでも先輩は。

 

『辛くなんかないよ? 皆は私は立派に戦ってるって言うけど、ただ突っ立ってマシュたちに命令してるだけだからね。そういうマシュこそ辛いことがあるんじゃない? ほらほらー、私を押し倒すなんて……その気になった?』

 

 そのあとめちゃくちゃ遊ばれました。でもやられるばかりではいられず、私もたくさんやり返しました。

 どれほど長い間、にゃんにゃんしていたかはわかりませんが、ついに疲れた私たちはそのまま眠ってしまいました。

 

 ーーやっぱり、先輩に近づくほど、酸味のきいた匂いは強くなりました。

 

 ◆

 

「先輩、入りますよ?」

 

 ここはシャドウ・ボーダーの中。

 ドアを叩いても反応がなく、おそらく寝ているのだろうと思い、静かに私は入った。

 マイルームに比べると、やはり格段に部屋は小さい。質素すぎるベッドの上で、先輩は可愛らしく吐息をたてて寝ていた。

 ベッドの上に座り、先輩の袖をめくってみる。

 

「……やっぱり」

 

 そこには無数の切り傷。

 最近はしていないらしく、自然治癒力によってかさぶたができている。しかし、どう見ても肉を裂き骨にまで至る傷は、きっと一生残るだろう。

 そっと戻し、手をギュッと握りしめる。先輩の手は暖かくて、生の鼓動を感じる。

 ちょっと他愛のない話をしようと来たのだが、寝ているのならしょうがない、またあとでお邪魔しよう、と寝顔を5分ほど観察してから立ち上がった。

 

「ん?」

 

 ふと私は机の上にあるものに気がついた。

 一冊だけ、ノートがある。ボロボロで、数年ほど使わない限りこうはならないだろうというほどの。

 私はどうしても気になってしまいました。ゆっくりと手にとって開く。初めの一ページ目は私と初めて出会った時のことを書いていました。

 次をめくれば冬木、さらにオルレアンと、楽しいことや悲しいことが異常な量書かれていました。

 

「日記……」

 

 ……ようなもの?

 しかし、めくる度に私にもわからないが、確実に『ナニカ』がおかしくなっていきました。

 そして一番最近のページになった瞬間。

 

「ッッ!!」

 

 あまりの悍ましさに、ついノートを落としてしまった。これは狂気の結晶だ。これほど怖いものを人間が書けるというのか。

 まずい! と思い先輩を見ると、眼を覚ます様子はない。

 ノートを拾い、元あった場所にきちんと置く。

 

「ーーーー」

 

 これは絶対に触れてはいけない。

 そう私は確信した。そして私はこれを無視しなければならない。これに触れれば、確実に先輩は終わる。

 私はきっと、残酷なサーヴァントでしょう。マスターのサケビを知ったにも関わらず、何もしないのだから。今マスターを失えば、私たちは戦えなくなり、それはつまり汎人類史の完全なる喪失を意味してしまう。

 これは、私だけの、先輩の秘密。

 全てが終われば、私はどんな罰だって受けましょう。

 

「ごめんなさい、先輩……ごめんなさい……」

 

 先輩の頭を撫で、頬にキスをする。

 ホームズさん曰く、虚数空間からはやく浮上しなければ、食料が尽きてしまう。明日にでも浮上したい、と。

 先輩にはまた過酷な戦いを強いらなければならない。さらに敵はマスターだ。状況によっては殺さざるを得ないかもしれないのだ。それを果たして先輩は耐えられるのか?

 

 ……わからない。

 

 私は部屋から出た。

 やはり酸味のきいた匂いは強かった。

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………」




苦しくて苦しくて。どうしてわたしがこんな目に合わないといけないの? 生きていながら死んでいるようなもので私は私が失われそうで死んでしまいそうで死んでしまいたくてでもマシュたちに励まされて生きている。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺してして殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺してして殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺してして殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺してして殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺してして殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺してああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああああああえあああ、あかあかあああえあああああああえあえあえあああ




























































だれかわたしをころして


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行動の責任

ネタバレ注意。
その後のことを妄想してみました。



思いついたことを書いてるので、特に更新ペースとかはないです。
経済流通さん、評価ありがとうございます!


「イヴァン雷帝の問いに答えられず、パツシィとかいうヤガには許さないと言われ、悲惨な旅だったな。ともあれ空想樹オロチの伐採おめでとう。晴れて大量殺人鬼の称号は君のものだ。同じようにあと6つの空想樹を伐採しなければならないが……あと何万人……いや、何億人殺す気だい?」

 

 カドックはそう、生気のまるで抜けた白い顔で笑ってみせた。

 

 ◆

 

「拷問でもなんでもかけて洗いざらい吐かせるんだ! あとは虚数空間にでも捨ててしまえ!」

 

 後ろ手に魔術を用いた拘束具で拘束し、壁に繋いであるカドックを見下ろしながら、ゴルドルフ所長は生唾をぶちまけながら口早に言った。

 

「まあまあ所長。一旦落ち着きましょう」

 

「そ、そうだな。うむ。ふー。ふー。よし」

 

 ムニエルの指摘に、ゴルドルフは目を瞑って深呼吸をすると、今度はマスターに向き直った。

 彼女もまた激しく神経をすり減らされた身だ。誰が見てもわかるような疲労が顔に浮き彫りになっていて、それを見たゴルドルフはぎこちなく話を切り出した。

 

「……こいつをどうする? 実際に確保したのはお前だ。お前がいなければできなかったことだ。楽に殺すもよし。拷問にかけて苦痛の中殺すもよしだ」

 

 カドックの処理はこれで全て任されてしまったことになる。

 このシャドウ・ボーダーは狭い。拡張することでなんとか部屋を確保しているのが現状だ。独房などあるはずもなく、かといって通路にでも括り付けておく訳にもいかない。

 カドックはクリプターのひとりだ。汎人類史を無にした七人のうちのひとり。誰かと同室にでもすれば、彼がどうなるかは火を見るより明らかだ。

 

「先輩……」

 

 マシュが心配そうな目でこちらを見る。戦闘補助パーツを身に纏い、少し重装備にみえる彼女は、それでもいつも通り艶やかで、僅かながらマスターに安心感を与えてくれる。

 

「ダ・ヴィンチちゃん、どうすればいいと思う?」

 

「そうだねー。どうにもならないのなら、私の簡易工房で面倒を見てもいいよ?」

 

 マスターの問いに、ダ・ヴィンチが朗らかに答える。拘束具を作ったのは彼女だし、なんらかの誤作動が起こった場合、迅速に対応できる人物としたらうってつけだ。だが言わずもがな彼女の工房は小さくなってしまった。カドックがいれば気が散るのは自明の理。

 ホームズは何も言わない。ただ眉を釣り上げ、結論を待っているようだ。

 

「……彼は私の部屋で面倒を見ます」

 

 皆が絶句する中で、ホームズだけが、やはりという顔をしていた。

 

 ◆

 

「僕は君よりいいマスターになれる」

 

「否定しないわ」

 

「……そうかい」

 

 カドックは不機嫌そうに相槌を打つと、ベッドに寝転がった。両手首についた輪っかが鈍く光る。

 

「ボタンを押せば瞬時に床に貼り付けられる。なんともまあ、めんどくさい仕様だ」

 

 苦言を言いながら、輪っかを撫でた。

 その間もマスターは机の上で日記をつけていた。あの日から2日。数少ない職員は皆クールダウンに入っている。それはダ・ヴィンチやホームズ、マシュも例外ではなく、今頃自室でぐっすりと眠っていることだろう。

 カドックは完全にマスターの監視下に置かれた。食事や睡眠、トイレも許可を得なければできないという状態だ。

 

「まるで奴隷にでもなった気分だよ」

 

「人権があるだけマシだよ」

 

「冷たいな。アナスタシアといい勝負だ」

 

 ぼんやりと主人を観察しながら、彼はベッドから立ち上がった。

 

「そういえばそれ、何を書いているんだ? 僕にも見せてくれよ」

 

 結構気になっていた。

 ふたりがこの部屋に入ってから、かれこれ二時間ほど経つのだが、その間ずっと何かを書いていたのだ。シャー芯を三本消費したのを彼は数えていた。まるで狂ったように殴り書く様を見て、興味が湧いたのだ。

 彼は彼女の隣に立ち、『ナニカ』を覗き込もうとした。

 

 その時。

 

 グルンッ! と天地をなんの前触れもなしにひっくり返されたような、強大な力を手首に受け、カドックは床に縫い付けられた。

 

「ッ! ゥグッ……!」

 

 これは骨にヒビが入った。

 カドックはじわりと広がる鈍痛に顔をしかめながらそう思った。

 いったいいつの間にボタンを押したのだ。リモコンが彼女の手から少し離れているのを確認してから動いたというのに、どうやって。

 どれだけ力をいれても手は上がらず、目玉だけを動かして彼女を見上げるだけで精一杯だった。

 

 ……なんて#####な顔なんだ。

 

 この時初めて彼は彼女の表情を読み取ることができた。

 こんなの、クリプターの誰にもできない顔だ。彼自身はもちろん、ヴォータイムにすらできないと断言できた。

 なんとなくだが、彼女がここまで生きてこられた理由の欠片を掴んだ気がした。

 

「手荒い真似はしたくなかったんだけど、これだけは誰にも見られたくないの。ごめんね?」

 

 ノートを閉じると、彼女の滑らかで、すべすべな指がカドックの手首を優しく撫でた。

 なんて美しい指なのだ。ロシアにずっといたカドックの指はひび割れが酷いだが、マスターのはまるで対照的だった。はるかに短い間の滞在だったのはわかるが、それにしても傷つかなさすぎるのである。

 

「謝るの、なら、もっと優しく、してほしいもんだ……」

 

 マスターは解除ボタンを押すと、カドックはふらりと立ち上がった。

 そしてベッドに座るように促され、おとなしく従う。

 

「僕は君の部屋が嫌いだよ」

 

 突然そんなことを言い出す。

 

「どうして?」

 

「僕はね、人がもどしたのを見たり、匂ったりしたら連鎖的にもどしてしまいそうになるんだ」

 

 皮肉だ。

 くんくんと鼻をひくつかせ、男なのに弱くて悪いな、カドックは誠意の全く感じられない謝罪をする。

 マスターはイスを回転させ、カドックと正面に向き直る。すると嫌な顔で上半身を逸らす。

 

「ほら匂う」

 

 リモコンをかざすと、はいはいと気だるそうに頷く。

 

「君はこの状況を全く理解していない。僕の力ではこの拘束を外すことはできないけど、それ以外ならだいたいのことはできる」

 

 そう言うや否や、ググッ、と身体を寄せくる。

 何かされるのか? と身構えるが、数秒待っても何も起こらず、恐る恐る目を開く。

 

「これで僕は自由だ」

 

 彼の手には先ほどまでマスターが持っていたはずのリモコンが握られている。

 咄嗟に取り返そうと掴みかかったが。

 

「よっと」

 

 簡単に腕を掴まれ、逆にベッドに押し倒されてしまった。抜け出そうと足掻いてもビクともしない。馬乗りにされて、両腕を彼の膝に踏まれ、ほどよく成長した胸がカドックの股間の前で自己を主張する。

 彼の隈のひどい眼がマスターを見下ろす。

 頭を横に向けるが、両手で頭を掴まれ、正面を向かされる。

 

「こんな狭い部屋に男と女のふたりきり。ましてや敵だ。僕が君を犯したり殺したりする可能性は十分ある。ただの善意から僕をここに置いたのか?」

 

 何も答えない。

 代わりに彼女は抵抗することを止めた。

 ただ時間だけが二人の間を生意気に通り過ぎる。その時間も、虚数空間での時間だ。実数空間では一瞬か、それとも数年の時間が孕んでいる。

 カドックはつまらなさそうにため息を吐いてから、両手を彼女の首にそえた。

 

「10秒もあれば僕は君を絞殺することができる。怖くないのか? 命乞いをしたらどうだ?」

 

 彼なりの精一杯の脅しに、彼女は一言。

 

「……私はあなたを信じているから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ーーなんともまあ、お花畑な頭だな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「出たよそれ。馬鹿みたいに信じる信じるってほざく主人公きどりの人間がさぁ!」

 

 腹が立った。

 カッとなった。

 眼が吊り上がった。

 頭に血が上った。

 腹わたが煮えくり返った。

 虫唾が走る。

 

 彼なら出来損ないのデミ・サーヴァントなんか使い捨てにして、より強いサーヴァントを率いて、彼女よりもっと効率よく、そして早く人理焼却を解決することができた!!

 仲間とか、友情とか、そんなものに執着しているからいつまでたっても弱いのだ。愚かにも今でもデミ・サーヴァントに助けられて生きているのだ。

 いいだろう、君が信じると言うのなら、それを裏切ってやる!!!

 

 指を彼女のか細い首に食い込ませる。

 手抜きは無しだ。本気で。殺す気で力を入れる。

 

「どうだ? 苦しいだろう? 君が助けを呼ばなければ誰もこない。君は死に、僕たちクリプターの目標は達成される。ここで死ね。僕の……僕たちのために死ね」

 

 ギリ、ギリギリ、とさらに食い込ませる。爪が肌に食い込み、血が流れる。

 

「……コヒュッ! ッッ!! カふッ、カヒュ……」

 

 抵抗は一切なかった。背中を膝で蹴られなかったし、膝から逃れようと腕を動かす気配もなかった。

 #######な顔をしようと知るか。そんなもの、知ったことか。

 アナスタシアをあの異聞帯の頂点に立たせるという夢を『殺した』のは目下で無様に泡を吹き、今にも白目をむいて死にそうな、コイツなのだ。

 

「………………ゥ」

 

 もう死ぬまであと二秒もないだろう。

 カドックはずいぶん呆気ないものだと、可愛らしい顔が、醜悪にぐちゃぐちゃになったのを見下ろして思う。

 馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。自分の身すら満足に守れない人間が世界を二度も救う? そんなもの、ご都合主義の創作物にすぎない。

 そして、最後に死に顔でも拝んでやるか、と『浅はかな考え』を抱いてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女は#笑#で##。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ーーッッ!!」

 

 虚数空間だけでなく、実数空間も『死んだ』。そうカドックは錯覚してしまった。肺から都合よく酸素を盗まれ、水中にいるわけでもないのに溺れてしまった。一瞬だけ呼吸が『殺され』、リモコンのボタンを押されたわけでもないのに、床に転がり落ちてしまった。

 何だったのだ、今のは。

 すぐに呼吸は『生き返り』、カドックは何事もなかったかのように立ち上がる。

 チャームの亜種か何かか? いや、そんなことはコイツにはできないし、そもそもそれにかかる彼ではない。

 

「オ゛ッッ!! ガハ、ゥ、ォッッ! ゴホッ! 」

 

 彼女は男の前で喉に込み上げてきた胃液をベッドの上に撒き散らした。色は透明だ。晩飯を食べてきたと言っていたくせに、それは嘘だったのか。

 酸味の効いた匂いが狭い部屋に充満する。

 眼はハイライトを失い、虚ろな表情で彼を見つめた。

 

「なんなんだよ……お前は……」

 

 とにかく離れたかった。

 部屋の隅に素早く移動し、サーヴァントのように霊体化でもして消えてしまいたかった。もういっそ幽霊にでもなっていいから壁をすり抜けたかった。

 そんな恐怖に凍りついた彼に。

 

「########」

 

 と、汚い顔のくせに、とびきりの笑顔で言ったのだった。

 

 ◆

 

「う〜ん、おはようマシュマシュ〜!」

 

「はい! おはようございます先輩!」

 

 シャドウ・ボーダー内の時間では朝を迎えた。

 マスターはマシュに遭遇するや否や、サーヴァント顔負けのスピードで背後に回ると、胸を揉みしだく。

 

「ひゃっ! も、もう! やめてくださいよ」

 

「大丈夫だ、問題ない。これでマシュ成分はMAXになったから生きていけるよ」

 

 昨日の疲労が嘘のようだ。

 元気なマスターは、そのまま朝食をマシュと一緒に食べると、そのままオペレーションルームへと向かった。

 

「そういえば先輩」

 

「ん?」

 

「マフラー、しているのですね。寒いのですか?」

 

 マシュに指摘され、「ああ、これね」とマスターは下がってきたマフラーをあげ直した。

 

「そうだねー、ロシアは寒かったからねー。ロシアはおそロシア〜。なーんちゃって」

 

 全く理由になっていなかった。ロシアの寒さが抜けない、というのならばなぜマフラーだけしかしていないのか。それ以外は別段普通の服装だというのに。

 しけた冗談のせいで微妙な沈黙が流れてしまう。

 突っ込むタイミングは今かと口を開いたマシュだったが、それは偶然すれ違ったダ・ヴィンチに阻害されてしまった。

 

「おはようダ・ヴィンチちゃん」

 

「うん。おはよう。晩はよく眠れたかな? 彼と同室なのはいささかストレスが溜まるだろう。本当に大丈夫かい?」

 

「大丈夫だよ。あまりおしゃべりしないから私にとっても楽かな」

 

「それならいいんだけどね〜」

 

 そしてダ・ヴィンチは向こうへ行こうとーー。

 

「あ、そうそう。リモコンのことなんだけど、もし何かあったらすぐに私に言うんだよ? あれが壊れたりとかしたら何されるかわからないからね」

 

「そうだね、怖いね。でも私は『大丈夫』だよ」

 

「ん。なら良し」

 

 今度こそダ・ヴィンチは去っていった。

 1日の休みを経て、今日からまた忙しい日々が始まる。シャドウ・ボーダーが受信した信号。完全に消去されたかと考えていたところに現れた思わぬ生存者。しばらくはその彼らとの合流を最優先として進むのだろう。

 ふと、マシュの手をマスターが握る。

 やや恥ずかしそうにえへへ、とはにかむのがなんとも可愛らしい。マシュも笑顔で返すと、手を握り返したのだった。

 

 ◆

 

「どうして君が世界を救えたのか、ほんの少しだけどわかったような気がするよ」

 

 部屋を漁っていたら思わぬ収穫だ。机の隠し引き出しからなんとあのノートが出てきた。

 ひと通り目を通してサッと元に戻す。

 昨晩の『信じている』とは『そういうこと』ではなかったのか。つまり彼は彼女の掌で踊らされていたことになる。

 敵ながらあっぱれとはこの場合は言うのだろうか。

 人間でないものと戦うためには、己の人間性を捧げなければならない、か。

 なるほど、面白い。

 人類の救世主となるか、それとも人類悪よりもタチの悪いただの破壊者となるのか。彼にはもう、ことの行く末を彼岸より見届けることしかできない。

 

 元々入っていた、修復不能なほど壊されたリモコンと一緒に、カドックは隠し引き出しを静かに閉じた。

 




また、お願いしていいかな?


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囁き

イヴァン雷帝のピックアップは意外w
さっそく回したらアストルフォ君二人目でした。でもサリエリ来たから満足。モーションかこいい。


 マスターはカルデアの通路を全速力で駆け抜けた。息を荒げ、必死の形相でリズミカルな足音を響かせて緩いカーブを曲がる。

 目を丸くして驚く職員たちには風を残し、ただただある場所を目指していた。

 

「ああマスター、あなたから私の胸に飛び込んでくるのですね!! ……ってあれ?」

 

 目をハートに輝かせ、身体をくねくねとさせて嬉々と喜ぶ清姫の横を素通りして。

 目的地に着いたマスターはそれこそまさに神速の速さでドアを開けるとすぐさま閉めて鍵をかける。慣れた手つきでスカートを下ろし、パンツを下ろす。

 そしてうずくまり、苦しさに顔を歪ませる。

 痛い。痛い。

 鈍器でお腹を強打され、さらにぐりぐりとねじりこまれるような重い痛みに手汗が滲む。シワができるのを気にする余裕などなく、腹部を手で押さえ、白い制服を力任せに握りしめる。

 声ならぬ声が喉につっかえても、それすら奥に押しとどめてマスターは独りで長い時間痛みに耐え忍ぶ。

 ギュッ、と目を瞑り、精一杯いきんでも解決されるはずもなく。代わりにと喉に胃液がこみ上げる。

 

「ゥ……ぼオエエぇぇ!!」

 

 びちゃびちゃと汚い音が終わるまでが気の遠くなるほどにも感じられる。疲労が溜まっているわけでもないのに、なぜか力が抜け、壁にもたれかかってしまった。

 しだいに、惨めな自分があまりに無様に思えてきて。

 

『ただの少女』の弱々しくすすり泣く声は、狭い個室の中にやけに虚しくて。

 

 ◆

 

 ここ最近、ずっとこんな調子だ。

 痛みを抑える薬を飲んでもまるで意味がない。生理もなかなかな痛みだが、これは別格だ。デミであってもサーヴァントの身体だからだろうか。生理を知らぬ彼女にこの痛みを語るのは無意味だ。

 通路に出たマスターはげんなりとした顔でとぼとぼとマイルームへと戻っていった。

 ベッドに身体を斜めに放り投げ、だらしなく枕に顔を埋める。が、すぐさま息苦しさに跳ね起き、その勢いで机の引き出しから綺麗なノートを取り出し、椅子に座ってガリガリと文字を書き殴っていった。

 見たこと感じたこと、思ったこと、全て。文字通り全てを事細かに記すのだ。

 そうすることで気分が楽になり、非日常を澄まし顔で過ごすことができる。

 この儀式は、ノートに書くことによって嫌なことを捨ててしまいたいという哀れな逃避願望からくるものだった。

 このノートこそがマスターにとって唯一の心の拠り所、マシュやロマ二、ダ・ヴィンチたち仲間という安らぎとは異なる、異色極まりないものなのだ。

 

「は、あ、あ、ああぁぁ……」

 

 苦しみという塊を思い起こす限り全て捨てたマスターは、今度こそベッドに安心して身体を預けることができた。

 予定は確認してあるし、緊急なこと以外、今日はすることはない。召喚したサーヴァントたちを強化すべく出撃、という気分ではさらさらなく、こんなやる気のないマスターでごめんね、と誰に届くわけもない謝罪を心の中で呟き、数日ぶりに完全な、安心した睡眠をとれる。

 ……と、勘違いした。

 

 ◇

 

 救えるのに、他を優先して救えなかった命があった。

 救いたくても、自分の力の無さが故に救えなかった命があった。

 救えないと、諦めてしまった命があった。

 たくさんの命が、マスターの前で失われた。皆が皆、血に染まり、肉を穿たれ、地を爪を立てながら手を伸ばして言うのだ。「助けてくれ」と。だが、「……ごめんなさい」とマスターは血のにじむほど唇を噛み締めながら、聖杯を手に入れるべく背を向けて走り去る。

 大粒の涙がポロリ、ポロリと地に堕ちる。

 

 ああ。痛い。いたい。

 苦しい。苦し……。

 殺してくれ……いっそ、殺してくれ……。

 あははははは!! ははハハハはハハは……!!

 

 物理的にはマスターの背中には届かない。だが、声は届く。苦しむ声、それらが呪詛となって容赦無くマスターへと降り注ぐ。

 だが足を止めてはいけない。彼ら彼女らの命と特異点解決を天秤にかけると、どうしても傾きは決まってしまうのだ。目先の助けより、人理の助けをしなければ前者は意味のないものになる。だから見捨てる。

 もう一度「ごめ、ん……なさい」と涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになり、しゃくりあげ、なんとか発することができた謝罪も。

 

「「「許さない」」」

 

 と死者たちは無慈悲に告げ、力のこもった呪いの言葉をかけ続ける。

 

 呪いだ。呪いだ。呪いだ。呪いだ。

 呪いだ。呪いだ。呪いだ。呪いだ。

 

 私たちを見捨てた女め、死ね。

 手足をもがれて死ね。

 暗闇の中で誰にも知られず死ね。

 冷たい、無音の海の底で溺れ死ね。

 絶望を味わえ。救われぬことを知りながら死ね。

 私たちの苦しみを知れ。そして後悔の果てに死ね。

 死ね。

 死ね。

 死ね。

 死ね。

 死ね。

 しね。

 しね。

 しね。

 しね。

 しね。

 しね。

 しね。

 シネ。

 シネ。

 シネ。

 シネ。

 シネ。

 シネ。

 シネ。

 シネ。

 シネ。

 

 やめて、と頭を抱えることができなかった。

 死者の言うことは何も間違っていないのだ。正当性と正当性のぶつかり合い、それにマスターは負けただけの話。

『ただの少女』には荷が重すぎた。無理だったのだ。サーヴァントたちを率いることができるだけの、正統な魔術師でもない人間には。

 もしかすると、自分が人類の救世主になれるのではと僅かながら舞い上がったのは認める。辛く苦しい旅になるのだと甘く考えていたのも認める。

 

 ……グランドオーダーが、これほど恐ろしいとは露にも思わなかった。

 

 ◇

 

 ああああああああああアアああああああああああアああアああああああアああああアあああアあアああああアあああアああアああああアアああああアああああああアああアああああアああああアああアアアああアアああアああアああああアアああああアああああアああああアアああああアあああああああアああアああああアアああああアああアアああアああああアアああああアああああアああああアアああああアああああああアああああアアああああアああああアああああアアああああアああああああアああああアアああああアああああああアああアああアああアああああああああアああああああアああああアああアああああアああアアああアああ!!!!

 

 ごめなさいごめんなさいと、リプレイするDVDプレイヤーのように機械的に呟く。目の焦点は合わず、枕に顔を埋めているはずなのに、赤の光景がはっきりと彼女の網膜が映している。

 忘れられない。忘れられるわけがない。ノートに捨てても、その残滓が彼女にまとわりつき、いつまでたっても苦しめる。

 その光景から逃げたくて。

 半狂乱に枕を投げつけ、部屋の隅へと逃げ込んだ。

 お腹が痛い。切れ味の悪い果物ナイフで何度も腹を抉られ肉を切られるような激痛だ。

 

「ぐうっッ! うう、ううウうぅぅぅ……!!!」

 

 惨め。

 立派に胸を張って戦う姿こそがサーヴァントたちの、マスターへの理想像。弱いマスターなど不要。強くなければ死ぬ。自分が死ねばその時点で人理は焼却される。そういう戦いに足を踏み入れてしまった。

 もう、後戻りするための道すら断たれている。

 だがどうだ。見下ろすがいい。幻聴幻覚のようなものに心を抉られ、ストレスで腹を容易に壊してしまうほど弱いマスターがそこにいるぞ。

 死者たちは後ろ指を指して嗤う。

 そしてこんな者のために死んだのかと怒りを再燃させる。

 怯え、震え、恐れる。

 灼けつくお腹の痛みが治まらない。

 これほどの痛みをあと何度味わえばいいのだろう。

 嫌だ。こんなの、嫌だ。

 儀式を始めるべく、地を這って手を伸ばして机の上にあるノートとシャーペンを地面に落とす。

 

「はあッ……! はあ、は、あ、ああぁぁ」

 

 乱雑にページを開いた。どこでもいい。なんとしてでもこの痛みを捨てなければ。そんな使命感に駆られ、震える右手でシャーペンを握った。しかしいざ書いてみると、「いたい」としか書けない。書いている間も容赦無く腹痛は彼女の集中力を乱す。

 これではダメだ。

 マスターにも意地はある。

 嗤われ、死ねと言われ、弱くても、誰に誇れるほどではなくとも意地はあるのだ。

 

「こんなことで……」

 

 ーー弱るな私……!

 

 カチッと芯を長く出して垂直に構える。

 

「…………ッ!」

 

 眼を逸らすな。立ち向かう瞬間を記憶に灼きつけろ。

 高く振りかぶって。

 左手首に深く突き刺した。

 

 ◆

 

「素材回収お疲れ様です、先輩」

 

「うん。皆もお疲れ様。帰ろうか」

 

 敵の死骸から視線を逸らし、マスターは目的の素材を手に取った。

 これがどのような原理で力を持ち、英霊を強化するのかなんてマスターにはこれっぽっちもわからない。だが、まあ、いい。

 ロマ二に連絡してレイシフトしてカルデアに帰還する。

 

「だいぶ集まったね。これでネロくんも強くなれるよ」

 

 マスターから素材を預かり、満足げにロマ二は言った。

 

「うむ! これで余の美しさにさらに磨きがかかるな、奏者よ!」

 

「これ以上美しくなるとかもうミューズすら凌駕するんじゃない?」

 

「ミューズとな! そう、あれはとても美しかったぞ……」

 

「カエサルさんは痩せればイケメンになること間違いないねっ」

 

「なんと!」

 

 話に割り込んできたカエサルを軽くいなし、マスターは彼らの元を離れた。

 なんとも賑やかな人たちだ。ふたりは確か、歴史では暴君として悪名を広めていたという。だがどうだ。実際話してみるとなんのこともない、気前のいい人物だ。一緒にいるととても楽しい。

 そしてマイルームに入ったところでイチがゼロになり、緊張の糸が切れる。死者たちの呪いの合唱が始まる。待ちくたびれた指揮者が指揮棒をかざす。

 はやく捨てなければならない。

 はやく。はやく。はやく。

 そうしなければまたあれに苦しむことになる。

 焦る手でノートを開き、その瞬間あれの予兆を感じた。その前に! シャーペンを握り、手首にーー。

 

「先輩? 入りますよ?」

 

 なんと悪すぎるタイミングだ。

 ノートを閉じ、これ好機と指揮棒は振られ、大合唱が始まり、腹痛がマスターを襲い始める。咄嗟にシャーペンをポケットに滑り込まる。

 

「う、うん。どうぞ……」

 

 自動ドアが滑らかに開き、マシュが入ってくる。

 いったい何の用だろう。内臓をミキサーにかけられるような幻痛を澄まし顔の裏に張りぼてで隠す。

 

「お疲れのところごめんなさい先輩。少し……相談したいことがあって……」

 

「相談? なんの?」

 

「今日の戦闘についてなんですけど……」

 

 マシュをベッドに座るよう促す。

 痛みに全身が熱くなり、指先1つ動かすことすらマスターには苦痛だった。

 

「実は私……まだ戦うのを心のどこかで恐れているんです。マスターは戦う時、何を考えていますか?」

 

「ーーーー」

 

 死者たちが煽る。

 はやく答えてやれ。

 大事な後輩の相談だぞ。

 何も考えていないって答えてやれ。

 歪なハモりで死者たちは唄う。

 何も考えていないのではない。何も考えられないのだ。戦いとはマスターにとっては恐怖の具現化。味方も、敵も傷つき鮮血が飛び散る。

 文字通り命の削りあいに、気が狂いそうになる。『皆のマスター』の仮面を被っているが、裏では狂気が渦巻いているのだ。

 

「そうだねぇ……マシュやカルデアのことを考えてるかな。そうしたら負けられないってなる、かな?」

 

「なるほど……そうですか……。ありがとうございます、先輩。とても参考になります」

 

 ーー嘘つきめ。

 ーー嘘をついたな。

 ーーこのクソ女が。

 

 合唱が変わる。

 ただ乱暴に、リズムも何もない、調和性の欠片もないレクイエムとなった。

 仮面に亀裂が走る。狂気が隙間から漏れそうになり、焦って手で押さえる。

 

 ーーその化けの皮を剥いでやる。

 ーー罪を知れ。戒めを受けろ。

 

 違う。違う。違う。

 弱いところは見せられない。

 だからやめて。やめてください。

 嫌だ。やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてーー……!

 

「……ぱい? 先輩?」

 

「ッ!!」

 

 いつの間にかマシュはマスターの目の前で心配そうに表情を伺っていた。

 驚き目を見開くと、視界いっぱいに薄紫色が広がる。

 

「大丈夫ですか先輩……?」

 

「……ちょっと大丈夫じゃないっぽい。お腹がすごく痛い。ごめん、トイレまで連れて行ってくれる?」

 

「ドクターも呼びましょうか?」

 

「大丈夫。ただの生理痛だから。うん……生理痛。だから大丈夫」

 

 マスターは弱々しい笑顔をマシュに向けた。

 もちろんとマシュは頷くと、マスターの肩を借り、ゆっくりとした足取りでトイレへ向かう。

 偶然にも誰とも遭遇することはなく、トイレに到着した。

 逃げるのか? と死者たちが焼け落ちた唇るを震わせて問う。そうだとマスターは自答する。

 

「あとは大丈夫だから。ありがとうマシュ」

 

 これからすることは誰にも知られたくない。これは『ただの少女』の戦い。この程度のことで、他人の手を煩わせるわけにはいかないのだ。

 

「でも……」

 

「大丈夫。……大丈夫」

 

 自分に言い聞かせる意味も含め、マシュにしぶしぶ承諾させる。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 

「わかり、ました」

 

 マシュが完全に去ったのを見届けて、個室のドアを閉めて。マスターは『皆のマスター』の仮面の亀裂を抑えるのをやめた。

 

 ……それはダムの決壊。

 

 この瞬間まで耐えていた痛みが、極大の一撃となってマスターを直撃した。

 

 上半身と下半身が別れた。

 もはやこの痛みを表現にすることはできなかった。えづくことも許されず、吐きそうになっても、吐き出すタイミングを失う。喉を抑えても意味はなく。鼻から逆流した胃の内用物が吐き出し、その気持ちの悪さに口からも吐き。

 気道が塞がってしまい、呼吸ができなくなったマスターは無様に床に倒れ、弱々しく四肢を動かす。

 なんと。なんと哀れなのだ。

 誰もマスターの戦いを知らない。一対無数の孤独な戦い。

 どれだけ苦しくても助けは求めない。すでに負けているのに。勝てないと思い知ったはずなのに。それでもなお足掻こうとする。その理由は一体なんなのだ。

 涙が流れた。だがその理由は自身にもわからない。

 

「ううっ、えぐッ……」

 

 小さく泣きじゃくり、吐瀉物で汚れた手をポケットに突っ込み、入れていたシャーペンを掴む。

 呼吸ができない。目が白黒し、視界がぼやけて世界に霞がかかる。

 合唱は止まない。力を持ち、暴力となった指揮者は指揮棒を叩き折る。

 マスターにも、『ただの少女』にもまだまだ戦ってもらわなければならない。

 死にたかった。死者の声から逃れたかった。耳を塞いでいても、脳に直接伝わる彼らの呪詛がなによりも恐ろしかった。

 生きたかった。マシュや皆と過ごす日々があまりにも眩しくて。あの温もりを忘れない。忘れたくない。

 

 ーーならば戦わなければ。

 

 薄れ行く意識の中、『ただの少女』は力一杯振りかぶった。

 

 ◆

 

「新たな特異点が発見された。場所はロンドンでーー」

 

 翌朝のブリーフィングで、ロマ二がそんなことを言っていた気がする。




ああ神様。
なぜ47人の誰かでなく、ただの弱い女の私を選んだのですか?



思ったより反響があって驚きです。
が、ここでネタが尽きました。もし何か面白そうなシチュとかあったら教えてほしいです。琴線に触れたらまた書くかもです。
ねこがすきさん、評価ありがとうございます!


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毒に溺れる少女 前編

パシフィック観に行ったついでにUFOキャッチャーしたら、ジャックちゃんのフィギュア取れたので嬉しくてつい勢いで書きました。
ネタは『サーヴァント視点』と『毒』。
それでは。

あと、たくさんの評価ありがとうございます!!!!
ちょこちょこランキングに載ったりして嬉しいです!!!!!


「おや?」

 

 朝、自身の工房で、あるものがなくなっていることに気づいた。

 パラケルススは静かに目を瞑り、昨日の記憶を掘り起こす。……だがなんの成果も得られず、結局これ以上深く考えることはやめた。

 無くなっていたのは毒物注意の棚にある試作品のものだ。有害度は最低ランク、数時間にわたる手足の痺れがでる調合品。命に関わることはないが、それでも危険に越したことはない。

 パラケルススは白衣に袖を通すと、とりあえずロマ二に報告するべく工房を後にした。

 

 ◆

 

「ああマスター。私は幸せです……」

 

「私もだよ〜〜」

 

 朝っぱらからなんという熱々なのだろうか。静謐のハサンとマスターのその様に、もし清姫がいたら、彼女は近づけず、4枚ほどハンカチを噛み破くに違いない。

 

「夜這いする子にはお仕置きだぞ〜〜」

 

 マスターはいかにも怪しげに指をくねくねさせると、静謐のハサンに襲いかかった。当の彼女は願ってもないことで、されるがままだ。

 静謐のハサンには誰も容易に近づけない。それはアサシンであるからでなく、彼女の体質がそうさせている。彼女は猛毒そのものだ。何物にも触れた瞬間、毒に侵される。もちろん英霊とて例外でなく、人ならばもってのほかだ。

 ゆえに職員たちは距離をとらねばならない。彼女の汗が蒸発し、それを吸い込んだだけでも命に関わってしまう。一応、魔術的な防壁を見に纏うことでその障害を排除している。

 あんなにもおとなしいのに、お近づきになれない。英霊でさえ細心の注意を払って接触するほどなのだ。

 

「ああっ、マスター。そこは……」

 

 静謐が短く喘ぐ。

 マスターは彼女の腰のラインをいやらしくなぞる。ゾクゾクくる感覚に、彼女の腰が浮く。

 なに、なにも心配することはない。ただの女の子同士のスキンシップだ。

 マスターは静謐の手を繋ぎ、ころん、とベッドで横になった。

 

「マスターの手、すごく温かいです」

 

「静謐ちゃんの手もすべすべで気持ちいいねっ! ずっとさわさわしていたいよ」

 

 そう言うと、マスターはにぎにぎと手を握る。

 自分が求められているということに、静謐は嬉しくなり、ついマスターに抱きついてしまった。

 

「わわっ⁉︎」

 

 驚くマスターがとても可愛らしくて。

 こんなにも自分よりも弱いマスターが日々を生き抜いているのだと感じ、母性本能のようなものがくすぐられた。

 自分の身体は猛毒。誰にも触れられざる存在。でも、この人は全てを受け入れてくれるのだ。

 果たしてこれ以上に幸せなことはあるだろうか……!!

 静謐が微笑むと、マスターも微笑み返してくれる。そんな、特に意味もないやり取りのうちに、ふたりはいつの間にか夢の世界へと誘われた。

 

 ◆

 

 パラケルススは毒に耐性があるというマスターの体質に大変興味を惹かれた。静謐のハサンレベルの毒も完全に無効化してみせるのだ。なんらかの魔術を使用しているようには見えないし、かといって物理的な防御を施しているわけでもない。

 これ以上に理由が必要か? いや必要なわけがない。それほどパラケルススの科学者としての探求心が刺激されたのだ。

 

「先日あげた睡眠薬はどうでしたか? よく眠れましたか?」

 

「うーん……あまり実感がないから効いてないかもしれない……ごめんね?」

 

「そうですか……すみませんマスター。お力になれなくて」

 

 マスターは安眠を求めている。

 パラケルススはマスターの身体を知りたい。

 パラケルススの渡したという睡眠薬は、劇薬の一歩手前のものだ。日本では有無を言わせず禁止とされる薬だが、ここではそんな法には縛られない。マスターも快く承諾してくれているし、ウィンウィンの関係が形成されているのだ。

 パラケルススはマスターを観察する。なぜかわからないが、静謐のハサンも一緒だ。仲良く恋人繋ぎまでして時々見つめ合っては「ねー」と微笑んでいる。

 パラケルススは人の心の機微を感じ取るのは非常に不得意だ。科学に生きてきた、ある程度魔術のかんだ男に過ぎない。ふたりの奇妙な行動を理解することができず、とりあえずそこは目をつぶっておくことにした。

 

「そうです、ついでに静謐さんの毒を少しもらえないでしょうか?」

 

「いいですけど……」

 

 そう言うと、静謐はどこに隠していたのか、ピックを指に挟むと、手首にチクリと刺した。傷口から流れた血を数滴試験管に回収したパラケルススは嬉しさに身を震わせた。

 

「ねえパラパラ? それをどうするの?」

 

 マスターの疑問ももっともか。

 猛毒を手に入れて嬉しそうにする男なんて奇人以外の何者でもないだろう。

 

「一応この身はサーヴァントですが、私は戦闘に長けてなどいません。なので、こうして研究し、その成果がマスターの役に立てば……と思っているのです」

 

「ほえー」

 

 関心するマスターだが、ならば、と静謐は質問した。

 

「その、惚れ薬とかはあるのでしょうか⁉︎」

 

「ありますが?」

 

「えっ⁉︎」

 

 本当は期待していなかったのか。それともなにか。予想をいい意味で裏切られたらしい静謐は珍しく目を見開いて驚いた。

 パラケルススとて伊達に科学者をしていない。他には媚薬や、肉を再生させる秘薬、現代の科学を用いて開発したウイルス兵器だってある。

 だがその異常性を彼自身は理解できていない。

 

 だからこそ彼は、マスターに少しだけいたずらをいようと思った。本当に、小さな子供のするような、レベルの低いものだ。

 

「マスター」

 

「ん? なにパラパラ?」

 

 パラケルススはポケットから袋に包まれた錠剤を三粒、マスターに手渡した。

 

「こちらの睡眠薬はどうでしょう? 魔猪ですらすぐさま眠りに落ちる代物です」

 

「おお……でも害は?」

 

「普通ならば軽い昏睡状態に陥ります。が、すぐに復帰できます。ですが……万に一つもないとほぼ断言できるのですが、そのまま目が覚めない可能性が……」

 

「ーーなら大丈夫!」

 

 おおなんと快いことか。

 マスターは命の危険になるかもしれないのに、まさかの即答にパラケルススはつい嬉しくなる。

 マスターは良い実験台だ。その体質を活かし、パラケルススの研究に大いに貢献してくれている。

 

「本当に大丈夫ですか?」

 

「ダイジョブダイジョブ。もしそうなったら静謐ちゃんが目覚めのキスをしてくれるから! ね?」

 

「はい、もちろん。愛のキスをマスターに」

 

「あーそうなったらもう結婚一直線だねっ!」

 

「はいっ!」

 

 隙あらばイチャイチャし始める二人を前に、パラケルススは完全に空気と化していた。

 

 ◆

 

「……おかしい」

 

 翌朝、パラケルススは、また毒物系の試作品がなくなっていること気づいた。しかも昨日より有害度が高いものだ。命に関わることはないが、全身を激しい痛みが襲うものだ。さらに悪いことに、持続時間はまだ分かっていない。

 いったい誰がこんなことをするのだろうか。アサシン系だろうか。いや勝手に決めつけるのは良くない。

 念のため報告に行ったら、さすがにロマ二に少し注意された。これは猛省。

 管理の甘い自分が悪いのだ。

 工房を出て通路へ。

 

「あ、おはようパラパラ!」

 

「はい、おはようございますマスター。今日は遅めの起床ですね」

 

「そうだね。あはは……」

 

 寝癖の治っていない髪に気づいていないのか、若干照れながらマスターは後ろ頭をかいた。

 パラケルススはマスターを観察した。特に変わったところはないが、強引に指摘するとしたら、袖の隙間から隠れて見える手首の包帯だろうか。さらに凝らしてみれば、少し赤く滲んでいる。

 きっと血、なのだろう。

 適当にどこかでできたちょっと深い切り傷か。手当はされていることだし、パラケルススが首を突っ込む必要はなさそうだった。

 

「静謐のハサンさんは……?」

 

 彼女がいない。昨日あれほどくっついていたのに、今日は一緒ではないようだ。

 パラケルススの指摘に、ああ、とマスターたは思い出すように。

 

「ほら、私起きるの遅かったじゃない? だから今から迎えに行こうと思ってね」

 

「そうですか」

 

「うん」

 

「ところでマスター」

 

 パラケルススは昨日のいたずらの結果を知りたかった。

 マスターのことだ。「もう」とか言って頬を膨らませて許してくれるだろう。マスターの優しいところにつけ込んだ、ちょっと嫌らしいいたずらだが、果たしてどうだったか。

 

「?」

 

「昨日差し上げた薬、どうでしたか?」

 

「そうだねぇ……前よりもだいぶ効いたと思うよ!」

 

 そんなマスターの答えにパラケルススはつい「え?」と聞き返しそうになってしまった。

 なぜならばそれはおかしいからだ。前回より今回の薬が効いた? そんなわけがない。マスターが嘘をついているの明白だ。

 マスターをジッと見つめるが、いたって普通に見える。そう、普通。何もおかしな様子には見えない。

 また今度よろしくね! と元気に手を振ってマスターはパラケルススの横を通り過ぎていった。

 

「…………」

 

 なにやら妙な匂いがした。

 だがすぐにわかった。これは酸の混じった匂いだ。それにこれは間違いなく胃液。……つまりマスターは吐いたのだ。

 ……パラケルススは人の心の機微を感じ取ることが非常に苦手だ。

 ゆえにそこから考察できることは何もなかった。せいぜいマスターも苦労しているのですね程度しか思えなかった。

 しかし、そんな彼でも唯一気になったことがふたつほど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日あげた薬は、実は何の効能のないことと。

 マスターの後ろ姿、太もも付近に酷く掻きむしった跡があることだった。




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毒に溺れる少女 後編

▼シリアスさんがログインしました。


マスターがアナスタシアさんと楽しそうに話す世界もあるというのに、こちらのマスターは……ねぇ?
ま、是非もないよねっ!


 パラケルススは静謐のハサンから入手した毒を解析した。

 具体的な説明は省くが、彼女の遺伝子構造と魔術回路が絶妙な具合で融合しており、特にその接合部から猛毒が発生していることがわかった。簡単に言えば彼女の猛毒とは即ち魔術的老廃物である。

 その老廃物を老廃物足りうる前の状態に戻し、活性化させる。すると、それは猛毒というより『死』という概念に近いものへと昇華される。

 ……これの恐ろしいところは、作ることが可能だということ。

 パラケルススの予想だが、原種の毒性が1と仮定するならば、これは軽く1万を超えるだろう。パラケルススの今までの人生において、これほど危険なモノを作ったことがない。

 危険であるがゆえに興奮する。科学者としての性がパラケルススを刺激する。

 魔術で少しいじってやれば……。

 

「これはなかなか……」

 

 ニヤリと口角を上げ、完成したものを有害度の最高ランクにカテゴライズし、棚にしまった。

 今日は気分がすこぶる良い。ロマ二に怒られたことなんてどこ吹く風。それほどパラケルススには吉報だった。

 ……マスターに知らせなければ。

 無表情で鼻歌を歌う。ちょうど腹の虫が鳴き始めたので、昼食を取りに行くことにした。

 

 ◆

 

「勝負には勝ったけど、戦術的には大敗北、かな。これは」

 

 ロマ二が結果をまとめた資料をざっと目を通し、簡単にまとめた。

 マスターは下を俯いている。

 今日はシュミレーター室で訓練を行う日だったらしい。マスターに会いに行こうとしたら、運悪く巻き込まれてしまった。フィールドはありきたりな中世風の街路。仮想敵は大量のスケルトンとゴーストだ。

 

「パラケルススを前衛に行かせたのは悪手だね。さらにカバーの指示が遅れたことで静謐ちゃんとマシュの行動が遅れ、結果マスターへの直接攻撃を許してしまった、と」

 

「いえ、あれは私が」

 

「マシュ。それは違う」

 

 ロマ二がタブレットに映された動画をタップ、スワイプして、マスターたちの前にホログラムとして動画を再生させる。

 マスターがマシュと静謐に指示を出す。ふたりがパラケルススのカバーへ向かおうとするも、敵が壁のように押し寄せてきて先に進めない。そうしてモタモタしている間にマスターが背後から敵の攻撃を受けた。

 そこで動画は停止する。

 

「僕は言ったはずだ。君たちがうまく連携できれば、今回の敵は強くなんて決してないと。だができなければこうなる」

 

 ロマ二はマスターに近づき、優しくぽん、と肩を叩く。マスターはおずおずと顔を上げ、ロマ二の表情を伺う。

 

「今回の訓練は責任は君にある。君の指示が的確じゃなかったからああなってしまったんだ。でも、誰にだって失敗はある。全員、一度も失敗したことがないなんてことはないんだよ」

 

 そう深く落ち込まなくていいよ、とロマ二はマスターに諭して、ダ・ヴィンチに締めを促した。

 

「さて、皆にはいい勉強になっただろう。マスターにはまだまだ成長の余地がある。彼女に足りないところを手助けしてあげるのも君たちサーヴァントの役割だ。訓練中は存分に失敗してくれたまえ!」

 

 うまいこと締めくくったようだ。

 マスターはロマ二からスポーツドリンクを受け取り、マシュと静謐に気分転換をしようと促されて小走りに連れていかれた。その時のマスターは少し嬉しそうな、楽しそうな表情だった。

 

 と、パラケルスス思った。それが間違いだとは微塵にも思わなかった。

 

 ◆

 

 二度あることは三度ある。

 三度目の正直。

 そんな言葉をふとパラケルススは思い出した。さすがにまた盗まれたとなるとロマ二にどんなとばっちりを受けるかわかったものではない。

 抜き足差し足で自身の工房へ入る。

 

「……」

 

 ビンゴだ。

 何者かが罠にかかった合図がある。

 さて、果たして誰が罠にかかっているのかーー……。

 パラケルススは部屋の照明を点けた。

 

「……ォ……ッ」

 

「……やはりあなたでしたか」

 

 触手型拘束にガチガチに拘束され、死んだような目でパラケルススを見上げる。

 抵抗の意思はとうに尽きたようだ。

 服ははだけ、ブラジャーはズレて女性のステータスたる胸が露わになり、パラケルススの前に晒される。

 スカートは脱げ、パンツも足首までずり落ち、秘部すらも同様に晒されている。

 なぜだ。なぜこうなっているのだ。パラケルススは罠にかかった獲物の裸体を冷静に見下ろしながら思考を巡らせる。

 この触手は暴れるほど締め付けが強くなる。ということは、その分だけ苦しみに悶える。だからこその疑問。

 いったいどれだけ長い間、暴れていたのか、と。

 触手は四肢に、全身に絡みつき、ギチギチに締め上げている。どう見ても血管が押さえつけられ、まともに血が循環していないはずだ。さらに悪いことに、首にも触手が絡み付いていて、獲物の苦しそうに呼吸をする音がよく聞こえる。

 この状態が何時間維持されていた。いやもしかするとほんの数分かもしれないが、やはりそのようには思えなかった。

 

「マスター……」

 

 彼女は何も言わない。が、代わりに「コヒュっ」と呼吸する。

 何を盗むつもりだったのか、と棚を見て、すぐに気づく。ひとつだけ無くなっている。そしてそれは彼女の手に確かに握られている。だがそれは……。

 

「マスター、それはいけません。さすがの私でも許可は出せません」

 

 コツコツとマスターに近づき、それを返してもらう。力など入らないはずなのに、ありえない力で指だけで抵抗する。それでもサーヴァントに対しては無力。

 なんなくパラケルススは回収する。

 マスターは飢えたゾンビのように手首だけ動かすも、触手に容赦無く叩きつけられ、「コッ! ズヒ、ァッ!!」と息苦しさに痛みを混ぜて棘のような喘ぎを漏らす。

 

「この毒は静謐のハサンさんの毒の一万倍はあります。いくらあなたに高い毒耐性があるとしても、それが完全であるかはわかりません。さらに、マスターは無効化したとしても、マスターの身体が無効化しきれていない可能性だってあります」

 

 パラケルススはマスターの下半身を観察する。昨日疑問に思った太ももの掻きむしった跡。それが腰あたりまで伸びている。まだ赤く伸びた無数の跡が痛々しく、パラケルススは見ていられなかった。

 しかも、熱を感じる。離れていてもわかるこの熱気は、マスターの身体から発生する危険物に対する拒絶反応……つまり発熱していることは明らかだ。

 一度目は全身の痺れを引き起こすもの。二度目は全身を激痛が蝕むもの。具体的にどれほど効いたのかはパラケルススに知る余地はないが、その集大成が苦しいと口無き口で語っている。

 

「この一連の窃盗、犯人はあなたなのでしょう。ここ数日のあなたを振り返るに、効果はある程度ですが効いている様子」

 

 マスターは何も言わない。言えない。

 ただ目だけはパラケルススから逸らさない。強い意思などなく、かといって激しい熱もない。

 虚ろに見るだけのマスターに、パラケルススは僅かながら恐怖を覚えた。彼女がこうなるまで動こうとする原動力はなんなのだ。

 何度も。何度でも言おう。

 パラケルススには人の心の機微を感じ取ることは非常に苦手だ。

 だから、彼に彼女を理解することは決して叶わない。抱える闇の量、質、密度、力。それらがわかるはずもなかった。

 

「あなたが最近静謐のハサンさんとよく一緒にいる理由がなんとなくわかります」

 

 マスターから視線を逸らす。これ以上見つめていると、マスターの瞳に内在する『ナニカ』に呑まれると錯覚したからだ。サーヴァントですら身を引く異常性。

 しかし、パラケルススはそれをわかってやれない。

 チクチクと静かに時を刻む時計の針の音が、パラケルススに何かを急かすように、耳元でエコーがかかる。

 とにかく、拘束を解除してやらねば。

 マスターの身体はとうの昔に限界を迎え、マイナスの領域に達しているだろう。

 呪文を唱え、触手たちが霧に消える。

 解放されたマスターは、粘液まみれの身体を一切動かすことなく、死んだように横たわる。どこかから空気が抜けるかのような、永遠に満足しない濁った呼吸を繰り返している。

 ほぼ裸同然でその状態だと気持ち悪いだろう。

 

 ここで、パラケルススはマスターを見誤っていた。

 

 抱えて工房の簡易シャワー室へと連れて行こうと近づいた瞬間。

 

「ーー!!」

 

 マスターが再起動した。

 バネのように飛び上がると、さっきまでの衰弱が嘘みたいな動きでパラケルスス……がマスターから回収した毒を狙って飛びついてきた。

 その目はよく知っている目だ。バーサーカーやアヴェンジャーたちがスイッチの入った時に見せる目と非常に酷似していた。憤怒や殺意などがドロドロに渦巻く瞳だが、ふたつのクラスの共通点は、『絶対に逃さない』だ。

 

「ーーッ!!」

 

 だが相手はただの人間。

 恐るるに足りない。しかし、タイミングが悪かった。パラケルススが完全に重心を前のめりにした瞬間。サーヴァントの身であろうと、これを避けるのはほぼ不可能に近かった。

 今度こそパラケルススは恐怖に震えた。身体中に満足に血も酸素も循環していないはずなのに、まるでそれ以外の『ナニカ』が代用しているかのような、疑いようのない動きと俊敏さだった。

 刹那の時間を切り取り、パラケルススは考える。マスターの視線は完全に手に持つ毒。ならば手だけを守ればいい。

 身体全体の制御は効かなくとも、この程度なら造作もない。

 時間が再開する。

 パラケルススは手を曲げ腕を曲げ、マスターの突進を見事避けきってみせた。

 隙をついたマスターの奪取は失敗し、べちゃっ! と顔で地面に着地した。

 

「マスター」

 

「……」

 

「あなたは疲れているのです。今日の訓練だって調子が悪かった。もう寝ましょう。私とマスターはふたりでちょっとお話をしていた。そうですね?」

 

「……ぅん。ごめん、な……さい」

 

 ついに気力が尽きた。

 パラケルススにおとなしく抱きかかえられ、簡易シャワー室で粘液を落とした後、ドライヤーで髪を乾かし、適当な服を着せる。

 

「……すぅ……すぅ……」

 

 いつの間にかマスターは寝てしまったようだ。

 静かに吐息を立てるマスターを見て、つい微笑ましく思う。さっきまでとは本当に別人だ。

 発熱している彼女を、世に言うお姫様抱っこをして、パラケルススは工房を出て、真っ直ぐ彼女のマイルームへと向かう。額に手を当てる。熱は非常に高く、おそらく39℃はあるかと思われる。

 そして圧倒的に軽い。訓練中に静謐のハサンを抱きかかえる場面があり、その時は少なくとも戦闘により興奮していたから具体的には覚えていないが、このあまりの軽さはその曖昧さをはっきりとさせた。これは確実に彼女より小柄なはずの静謐のハサンよりも軽い。

 最小限のライトは通路に薄暗さを生み出す。カツンカツンと深夜に響く足音。やがてパラケルススの姿は、暗闇に消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 パラケルススは人の心の機微を感じ取れない。

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 パラケルススには、マスターの心を理解できない。




マスターが何を思ってこれらのような行動をとったのか、それは皆さんの想像にお任せます。



はいネタ尽きました。
前回同様、何か面白そうなネタがあれば是非教えてください。琴線に触れれば燃えます。


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英霊召喚システム・フェイト

シリアスばかりでお口が苦いでしょう。
少し甘いものでもどうぞ。

ずっとタイトル詐欺してましたからね。今度はちゃんとマシュマシュに手記を書いてもらいます。


 私の盾を敷いて召喚サークルを形成、先輩が呪文を唱えて英霊を召喚する。

 初めの頃は忘れないように、噛まないように、メモ書きした紙をゆっくり読み上げていた頃が懐かしく感じられます。

 盾に反応があり、魔力の渦が屹立する。

 かつての特異点で敵同士だった方。味方として共に戦ってくれた方。特殊な条件下で、普段とは異なるクラスで召喚される方。様々な方が先輩の呼びかけに応じます。

 そしてそのたびに、私は密かに残念に思うのです。

 

 ……ああ、先輩じゃなかった、と。

 

 ◆

 

 ーー英霊には時間の概念はない。私のように未来の英霊が召喚される場合だってある。私でない私が過去の自分と戦ったこともあるらしい。過去の私を見るというのは、なんとも奇妙な感覚なのだろうな。

 

 エミヤさんは昔、ソーセージを炒めながらそんなことを私に教えてくれました。

 古代の英雄王からBBちゃんまで。世界に功績を認められた人物が座に登録され、魔術師によって召喚されます。

 

 ならば。

 ならば先輩はどうなのでしょう。

 

 先輩は世界を救ったのです。

 誰かが考えるお伽話のような話ですが、ゲーティアを倒し、先輩は、2017年を取り戻しました。

 それほどの大偉業を成したのです。座に登録されないわけがありません。ですがこれまで、一度も先輩が召喚されたことはないです。

 それはいったいなぜなのか。

 ロマニ……真名ソロモンはゲーティア戦にて座からすら消滅しました。あの人が存在しているかどうかすらわかりません。だからこそ、私はふと思うのです。英霊としての先輩もソロモンと同じ状態なのでは、と。私の勝手な妄想です。先輩が座に登録されていることが前提の、まったくもって想像の域を出ないもの。ですがそう考えればこの身勝手な考察は筋が通ります。

 英霊へと昇華した先輩は彼岸のかなたで『無』として漂う。果たして何をし、何を捨ててソロモンと同じ道を辿ったのか。ソロモンの消滅を誰よりも近くで見たはずの先輩が、どうして。

 ……考えすぎです。ただの妄想なのに、ここまで深く考えてしまう私がバカみたいです。

 ……ただの『イフ』だというのに。

 

 もしすると。もしかすると先輩が「お、久しぶりだねマシュ!」と召喚されるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて私は召喚に立ち会うのです。

 

 4つもの亜種特異点を無事解決してみせ、2018年を迎えるために先輩含め皆大忙しです。年末には査察官がカルデアにやってきます。それが無事に終わればカルデアは解体され、先輩は元の生活に戻ることになるでしょう。魔術とは縁のない、先輩のあるべき生活が。

 先輩が私を呼んでいます。

 掃除でたまりにたまったゴミを大量に抱えてこっちに小走りでやってきます。

 ああ、そんなに不安定な状態で走ったら……。

 ……やっぱり盛大にこけてしまいました。ゴミが散乱し、そばを通ったBBちゃんがいやな顔をして「私がそんな汚物に触れると思いますか?」と先輩をいつもどおり煽っています。やれやれ、手伝いに行きましょうか。

 

 今日はここまで。また今度。




え? 苦い? いやですねーもー笑。

次のネタはまだ完全には決まっていません。
でもジャックちゃんは登場させます、絶対、ハイ。


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美味しい。おいしい。オイシイ。 前編

バアルを書くために新宿読み直しました。
たまにはストーリーを読み返すのもなかなか面白いですよ?


『3000年の計画を台無しにされたからでもない。英霊たちによって、人理焼却を防がれたからでもない。まして、忌まわしきソロモンによって指輪を天に返されたからでもない。完全な計画、完全な展開。全てを台無しにした起点がある。……そう、お前だ!!!』

 

 ただの巨大な柱だった魔神がヒトの姿を得た。

 無数の紅い眼が列を成して宙を浮き、息を呑むほどの白い肌を、『憎悪』がまとわりつく。朱い瞳は憎しみに燃え、マスターを殺さんと視線だけで貫く。

 

 なんと。なんという執念なのだろうか。

 策とは確実に勝つために練るもの。だが、バアルは違った。その確実性を捨ててでもマスターを殺すことを優先した。

 まだこの世に生を授かってからまだ10年と暫くしか生きていない少女に、遥か昔、神代から生きる魔神柱が、隠す気すら見せずに、剥き出しの殺意を向けるのだ。

 ヒトにまで堕ちる屈辱を味わい、マスターの前で無様を晒し、なおも己が望みのためにモリアーティーと手を組んだ。ホームズですら敗れるほどの策を講じて。

 マスターにはバアルの感情を理解することはできないだろう。何しろ年季が違うのだ。魂の位が違うのだ。

 

『魔術師ですらない、ただの女が我々を打ち負かした。……なんたる屈辱ッッ!!!! なんたる無念ッッ!!!!! これでは死んでも死にきれぬ!!!!! 憎い!! お前が憎い!!! 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!!!!!!!』

 

 バアルが頭を抱え、生唾を撒き散らしながら連呼する。その言葉は、まるで実体を持ち、力を有しているように錯覚してしまうほどだ。血の涙を流し、目だけでマスターを殺さんと睨みつける。

 マスターはそんなバアルを、死ぬことよりも遥かに恐ろしく感じた。これほどの恨みを延々とぶつけられるのなら、いっそ死んでしまった方がマシだ、と思ってしまうほどにも。

 これまでにたくさんの苦痛を味わった。地を這い泥水を啜り、血を浴びてボロボロになりながらも足を進め、ついに人理焼却事件は解決された。

 だからもう、マスターは全てが終わったのだと安心していた。これからも人理は続き、平和な日々が戻ってくると。

 狂おしくて狂おしくて、だが狂おしく、そして狂おしく、狂おしくて狂ってしまいそうな劇日を勝ち抜き。

 その結果がこれか。

 残党は復讐に燃え、世界を殺すことでマスターを殺す。これを狂気以外の何という。

 もうマスターには平和という名の幻想は二度とやってこないのか。

 絶望したか? と誰かが嗤う。絶望なんて、とっくの昔にしている。しすぎていて、絶望とは何かなど、忘れてしまった。頭にこびりついた無数の記憶が根を張り、幹を伸ばし葉を広げ、黒い花が常に満開している様だ。マスターと一体化したそれを取り除くことは、モウデキナイ。

 

『お前のその顔を見るだけでも虫唾が走る!! 胸を掻き毟る劣情!!! 血が湧き上がる苦悶!!! ああ憎い! お前が憎い!! ……死ね。今すぐに死ね。死なぬというのなら、こちらから殺してやるーー……!!!!』

 

 バアルが魔神柱本来の姿に戻る。

 黄金の柱がバベルの塔を貫き破るほど伸びる。無数の紅い目がマスターを見下ろす。

 ……殺意。そう、殺意だ。

 皮膚を裏返しにされ、肉を晒され針を刺されるような感覚。

 自我を獲得し、復讐のみに身を焦がした魔神。目のひとつひとつが独立した生物のように蠢き、口もないのに、マスターに言葉を投げつける。

 

『小娘め、ゆっくりと嬲り殺してやる』

『我らの苦しみを知れ』

『肉片のひとつも残さぬ』

『死ね。ただただ死ね』

『太陽を堕としてやる。闇を喰らえ』

『お前に恨みの鉄鎚を』

 

『完全犯罪はもうすぐ成立する。かかって来い、カルデアのマスターよ』

 

 モリアーティが自身の背丈ほどある巨大な棺をマスターに向ける。『自身を善だと信じていた』彼に裏切られ、今はこうして敵対している。

 認めよう。彼との新宿での調査は楽しかったと。だが、あれが彼の本性なのかどうか、そんなことなどマスターにとってはどうでもよかった。

 

『……うん。倒させてもらうよ、バアル、モリアーティ。あなたたちは私の敵。この世界は私を殺すためだけに用意したステージなのでしょう? なら私なりにせいぜい足掻いてみせるわ』

 

 サーヴァントたちを呼ぶ。

 ……そうだ。これは『いつもの戦い』だ。なんの感慨もわかない。具体的な理由など不要。ダ・ヴィンチたちは今ごろ死に物狂いでマスターを帰還させるためにあらゆる手を尽くしていることだろう。ならば自分もあらゆる手を尽くす。ただそれだけだ。

 何も間違っていないでしょう?

 

『憎むのならいくらでも私を憎むといいわ。でも、私は負けない。負けられないの。……だからお願い。あなたたちの完全犯罪を……解決させて』

 

 手を高く掲げる。

 それが合図となった。

 

 ◆

 

「ああマスター! 私の手料理を食べてくださるのですね⁉︎ 私の手料理を食べてくださるということは、もう恋人の関係……いえ、すでに私とマスターは恋人ですから、それ以上……つまり妻ということですね!!!」

 

「なんだか途中でぶっとんでるねおかーさん」

 

「いつものことだから気にしないでいいよー」

 

 マスターはジャックを膝の上の乗せ、いつも通りの清姫の愛の告白をいつも通り受け流す。

 エミヤ氏は今日は非番だ。

 誰もいない食堂にいつもの賑やかさは無く、嘘のような静けさが広がっている。そもそも現在は15時だ。昼過ぎもいいところ、もうおやつの時間だ。清姫はいつの間に入手していたのか知らないが、裸エプロンで厨房に立つ。

 ……もちろんエプロン『だけ』着ている。

 

「こうして……」

 

 料理するのはオムライスだ。

 特に凝ったものではなく、しかしとても美味しい料理である。

 人参などの野菜をみじん切りにし、フライパンで軽く炒めたものに、ちょうど炊きあがった白米を加える。

 

「ケチャップ……ケチャップは……っと」

 

 あったあった。

 清姫のイメージと違って、複数個ある比較的小さなボトルに入ったケチャップのひとつを掴み寄せ、一気に全部ぶっかけた。

 さらに軽く炒めながら全体が程よく混ざったところで火を止める。

 オムライスにおいて、ここが一番の見せ所。これを失敗してしまえばもう終わりだ。

 フライパンをさらに一つ用意して油をしく。手際よく卵を片手で割ってみせ、フライパンの上に落とす。ちょこっとミルクを加えてとろみを出させる。

 いい具合に焼けてきたところで、さきほど用意していたケチャップご飯を適量盛った後、フライパンを皿に添え、クルッと乗せれば……。

 

「完成しました!!」

 

 完璧だ。文句なし。ジャガーマンも満面の笑み間違いなし。

 最後に二本目のケチャップボトルで大きくハートマークを描いて終わりだ。

 半ばルンルン気分でお盆に乗せると、軽くスキップしながら愛しのマスターの元へと運ぶ。

 波打つスカート部分からいろいろと丸見えになりそうになる。ちなみに小ぶりなお尻は元から丸出しである。

 

「さあさあ、存分に味わってくださいね? あ・な・た? うふふふふ」

 

 腰をふりふり。マスターの前にお盆に置く時にわざとらしく前かがみになり、エプロンの隙間から豊かな双丘をのぞかせる。

 だがマスターはそれをがっつりと数秒間目に焼き付けたあと、まるで空虚を見ていたかのようにパッと切り替えた。

 

「うん、ありがとう清姫! 本当にジャックちゃんはいらないの?」

 

「うん! ナーサリーとおやついっぱい食べたから大丈夫だよ」

 

 ジャックが顔を上にあげ、ニッコリと笑う。

 お腹が空いた。今もお腹の虫をどうどうと落ち着かせているのが現状だ。

 

「マスター、私があーんしてあけますね?」

 

「え、あ、はい」

 

 スプーンを手に取ろうした瞬間に、清姫に先にとられてしまい、主導権は彼女になってしまった。

 オムライスをひとくち、スプーンに乗せ、マスターの口元に持っていく。

 

「はい、あーん」

 

「あ、あーん」

 

 目の前のオムライス、よりも清姫のなんとも言い難き、へにゃっ、と、まるでペットに餌を与えるかのような愛情丸出しの表情に、マスターは顔を引き攣らせながらいただいた。

 ぱくり。

 もごもごと咀嚼して、一言。

 

「ーー超美味い!!」

 

 親指を立てて可愛らしくウインクして。マスターの予想以上の高評価に、清姫は天にも舞い上がる気持ちになった。

 

 ◇

 

 マスターは満足気にマイルームへと帰っていった。

 結構大盛りで皿に盛ってしまったが、全部あーん、で残すことなく食べてくれた。

 少しだけご飯が残っている。また卵を割ってもいいが、ご飯との比率が合わない。ここはおとなしく諦めて卵はなしにしておくか。

 

「んー? 余ったの?」

 

 子供用の台に乗ったジャックが、調理台からピョコ、と頭を出す。

 そんな彼女を清姫はよしよしと頭を撫でた。ジャックがにへらと微笑む。

 

「……そうです、ジャックちゃんはいりますか?」

 

「食べる! おかーさんが美味しそうに食べてたから、わたしも!」

 

「はいはい」

 

 食器棚から適当に皿を取ってきて、残りをよそう。

 スプーンをジャックに渡す。嬉しそうに受け取ったジャックはさっそくとちんまりとひとくち分をスプーンにすくって口に運んだ。

 

「うぇっ、ペッ!! なにこれ、辛すぎるよぉ……」

 

「え?」

 

 しかし。

 ジャックが苦しそうに皿に吐き出す。

「美味しい!」と喜ぶ図を想像していたのに、それは大きく裏切られた。

 ……そんなはずはない。全てはマスターのため。日々の努力の結果、目まぐるしい進化を遂げた料理スキル。熟練度はEXだと自負しているほどだ。清姫はひとつまみすると、口に運ぶ。辛いなんてはずがなーー。

 

「ん、んんんん!!」

 

 ダッシュで冷蔵庫へ向かい、コップをとって水を注ぎ、強引に喉奥に流し込む。

 ……なんという……辛さだ……!

 これは、激辛料理ではないか。いや違う。辛さの次元を超え、痛覚にまで訴えかけてくるほどのレベルだ。舌が痛い。喉が痛い。加熱した鉄トングを押さえつけられるような激しい熱さと痛みだ。なぜ気づかなかった。これほど辛く痛いのなら匂いですぐにわかるはずなのに。

 再びコップに水を注ぐと、ジャックに手渡す。

 どれだ。いったいどれがオムライスをこれほど辛くしたのだ。食材を漁り、片っ端からつまみ食いをする。

 そして。

 

「これ、か……!」

 

 それはケチャップボトル。だと清姫が思い込んでいたもの。てっきり色がそのものだったからなんの疑いもなく使っていたが、原因はこれだった。

 保管庫にもまだ数本残っている。

 きっとジャガーマンが冗談半分で作った試作品か何かだろう。意味不明なものなのは今に始まった事ではない。匂いがないのも頷ける。

 だがしかし。

 清姫はシンクに置かれた、マスターの食べ終えた食器を見て静かに畏怖する。

 

 ーーマスターは……これほど『痛い』料理を何も感じずに食べきったというの……!!!

 

 ◆

 

 モリアーティーとバアルの攻撃をすんでのところで回避し、敵に最後のトドメをさした。

 サーヴァントたちに持っていかれた魔力が予想よりも遥かに多く、激しい立ちくらみに、一瞬だけ世界が黒化しそうになったが、偶然にもそばの柱に倒れこむにとどまった。

 冷や汗か何かもわからないような汗が素足を流れるのを感じながら、倒れる敵を、マスターは歪曲する視界の中で確かに見た。

 

『やはり……やはりこうなるか。いくら策を練っても! いくら怨念に我が身を注ごうとも! 結局、悪は正義にやられるのか!! フフフ……フハハハハハハハハハハハ!!! だがいい! 『それでこそ』だ! もうじき私は滅ぶ。しかしお前の死は揺るぎないものになった。これで完全犯罪は……成立した……!!』

 

 バアルがヒトの姿に戻る。

 ところどころ身体の一部がぐちゃぐちゃに抉れ、あれほど威圧的だった無数の目は今や半分も生きていなかった。

 ……今回も、無事に勝った。果たしてこれは、何度目の命のやり取りなのだろうか。数えてなどいないし、数えたくもない。

 終わりのない、苦痛の螺旋階段。上を見上げれば光などなく、下を見れば底は見えぬ。

 

『クヒャ……フヒヒヒハハハハハハハハハハハハ!! お前は死ぬ! ここで死ぬ!! これほど愉快なことはあるか! お前は今、『自殺した』!!!』

 

 バアルが血反吐を吐きながら、その仮初めの身体を崩壊させながら嗤った。嗤い続けた。

 ダ・ヴィンチから通信が入る。隕石はこのバベルに標準が定められた。七発目の弾丸として因果を定められ、もはや揺るぎのないものとなった。

 ……ゆえに回避など不可能。

 

『完全犯罪とは、誰にも暴かれることはなく、そして確実に成し遂げるもの!! ありがとうモリアーティ! これで我々(わたし)の憎悪は今、晴れる!! 私を倒したと安堵したな? それは大きな間違いだ!! 死ね。死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねッッ!!!! フッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハーー……!!』

 

 やがてバアルは嗤いながら塵となって消えた。しかし、同時に消えたはずの嗤い声がいつまでも続くような錯覚を覚え、頭を抑える。だが、そんなことは無意味だと言わんばかりに止まることはない。

 あれ? なんだかおかしい。今は残ったモリアーティと落ちてくる隕石に意識を向けないといけないのに、バアルの嗤いがいつまでたっても頭から離れない。なくならない。どれほど頑張って掃除をしてもやがては溜まる埃のように。

 離れない。離れない。離れない。

 何度も何度も嗤う。やがてモリアーティやバベルの塔がマスターの意識の外へと追いやられた。

 おかしい。おかしい。

 何を見ているのかもわからない。暗闇ではない。しかし何も理解できない。

 わかるのは、バアルの嗤いだけ。

 

 フハハハハハハハハハ!!!! クヒッ! ハハハッ!! ハハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!

 ハハハハハハ! クヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!! アッハハハハハハ! ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ! ハハハ! ハハハハハハ!! ハハハ! ハハハハハハハハハ!! クハハハハハハハハハ! クハ!! ハハハハハハハハハ!!!!

 アハハハハハハハハハ!! クヒッ! クヒャハハハハハハ! ハ! ハハハ!

 ハハハハハハハハハハハハ!

 ハハハハハハクハハハハハハ!!

 ハハハハハハーー……。

 

 ◇

 

「ッッッ!!」

 

 やはり深く眠るのは難しい。

 汗で張り付いた服が気持ち悪い。へそを丸出しで寝ていたからか、小さく可愛らしいくしゃみをひとつして、ベッドから気だるげに身を起こすと、マスターは無表情で机に向かうと、いつもの儀式に取りかかった。

 ゲーティアはマスターを、人理焼却における障害として排除しようと動いた。しかしバアルは純粋な殺意のみで動いた。両者の程度には明らかな意識の差がある。局面になって本気でかかってきたゲーティアと、狂うほどの憎悪を抱いてかかってバアルでは、後者の方が圧倒的だった。

 あれは何よりも恐ろしかった。

 そして、このグランドオーダーはまだ前座が終わった程度なのだと認識した。

 まだ、なのだ。

 あと三柱も倒さなければならない。

 見方を変えれば、あと三柱だけ倒さなければならない。気楽にいこう……とはもうマスターには不可能だ。

 ふと時計を見ると、晩の8時をさしている。半からちょっとした用事があるから、手早く支度を済ませなければ。

 洗面台の前に立って、ボサボサの髪を少し濡らしたあと、ドライヤーで整えながら直す。

 

「よしっと」

 

 鏡に顔をグイッと寄せて、マスターの死相が大きく映る。目元をほぐし、口角を指で押し上げて表情の再確認をする。

 

「うーん、違うなぁ……」

 

 これは可愛いくないこれはブサイクとあれでもないこれでもないと奮闘すること五分。

 

「できたっ」

 

『笑顔』の完成だ。この形を忘れないように頭に叩き入れて、二度三度シュミレーションする。細かい微調整をして、今度こそ終わりだ。

 時間は……だいぶおしている。走っていけば一応間に合うほどだろう。

 最後に髪ゴムを口に咥えて部屋を出る。サイドテールにくくるのは走りながらでもできる。タッタッタッ、とリズミカルに通路にマスターは走り抜ける。すれ違う人たちに『笑顔』を振りながら。




次回。
清姫、問う。



ゲーティア戦で「生きるためだ!!」って言葉が言えるかどうかが気になるという旨の感想がたくさん届いていて、いつかゲーティア戦書けたら書いてみたいですね。


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美味しい。おいしい。オイシイ。 後編

壊れ、壊れ、壊れゆく。
悲しさを知れ。虚しさを知れ。寂しさを知れ。
だが、もう遅い。……遅すぎた。


「1日レイシフト権をかけた激辛料理対決〜〜! どんどんぱふぱふ〜〜!!」

 

 清姫はブザーをやかましく鳴らし、盛大に決闘の開幕を盛り上げた。

 対決者はマスターとトリスタン。清姫の宣言通り、1日レイシフト権を争い、激辛料理を食べるという、ちょっとした催し物だ。

 外の世界から隔絶されたカルデア。言わずもがな娯楽とは程遠い施設で、レイシフトで様々な場所に飛び、満喫する時間を享受する。カルデアの限りある娯楽のうちのひとつだ。とはいっても査察官が来てレイシフトが停止されるまであと一年を切っているが。

 観客もある程度集まっており、開始前にもかかわらず、円卓'sとアーサー'sがそうそうトリスタンにヤジを飛ばしている。

 

「トリスタン卿、まさか貴様、マスター相手に容赦無く勝つなんてことはないだろうな!」

 

 ラムレイに騎乗したアーサーのひとりが、黒化した聖槍を高く振りかざしながら問い詰める。

 

「……ああ、私は悲しい。我が主に脅され、さらには同僚にさえ白い目で見られる有様。私はただ、ビーチでじょせ……ごほん、のんびりしたいだけなのに……」

 

 欲望がだだ漏れだ。

 リリィにジト目で見られ、トリスタンは萎縮する。

 やがて運ばれてきたのはラーメンだ。真っ赤な。それがいったい何かは鼻腔を貫くような匂いで全員がすぐに理解する。

 

「うわぁ……」

 

 マスターが嫌そうに上半身を逸らす。

 

「ダメですよマスター。頑張って食べてください」

 

 清姫はそんなマスターを顧みずにラーメンをドン! とマスターの前に置いた。

 マスターは再び匂いを嗅ぐそぶりを見せる。が、やはり嫌そうな顔をする。

 ふと隣を見てみると、トリスタンはとても涼しそうな顔だ。眉ひとつ動かさずに清姫の開始合図を待っている。

 

「トリスタン……私、負けられないの」

 

「ええ」

 

「オランダらへんのお花畑に行きたいの」

 

「ええ」

 

「どうせビーチには鼻の下伸ばしに行くだけなんでしょ」

 

「ええ。……いいえ違います」

 

 よし倒す。

 言質はとった。

 そんな卑しい理由でレイシフトしたがる男に慈悲はない。マスターには、マシュマシュとフォウとでお花畑で、マシュをマシュマシュしたり、フォウをフォウフォウしてきゃっきゃっうふふしたいという願望があるのだ。

 

「では……始めっ!」

 

 裸エプロンの清姫が開始合図を出す。

 瞬間、ふたりは箸を掴み、麺を挟むと勢いよくズズズッ、と啜った。マスターの顔が一瞬硬直するが、トリスタンはまるで普通のラーメンを食べているが如く余裕顔で食べる食べる。

 なにか不正でもしているのではないかと思われたが、トリスタンの額に流れる確かな汗がそれを否定する。

 なにくそっ! とマスターはそんなトリスタンに触発され、見栄をはろうと一気にラーメンを啜るが、すぐ辛そうに舌をペロリと出す。そしてコップに手を伸ばし、水を飲みのではなく、口に貯めてから飲み込む。

 

「おおっと、両者とも引けを譲りません! これは面白くなって来ました!」

 

 清姫が燃えて実況する。

 互いに残り半分といったところ。後半戦に突入する頃だが、もうすでにトリスタンに余裕はなかった。いつも通り目を瞑っているのかいないのなわからないくせに、よく観察すれば汗に紛れて涙が確認できる。対してマスターは一定のペースを保ったままだ。

 

「おや、マスター。そんなに食べ急いで大丈夫ですか?」

 

「それなら私に勝ちを譲る?」

 

「それはできませんね」

 

 円卓のプライドもなんとやら。

 マスターに挑発されたトリスタンが、水をがぶ飲みすると、さらに半分、つまり四分の一を平らげてしまった。

 

「トリスタンさん、なんという男気! 一気にラーメンを食べたーー!!」

 

 清姫の実況に、観客が湧く。

 あれほど辛そうなラーメンを一気に啜る様を見て、誰もが生唾を飲む。今頃きっと、彼の口内は煉獄のような暑さが常時運転されているだろう。

 全員がトリスタンに勝利の女神が微笑むかと思い始めた時、トリスタンに異変が起きた。

 水を飲んで、さあ次の一口と言ったところでふと彼の手が止まった。吹き出すように汗をかき始め、数分そのまま硬直していると、突然椅子から立ち上がって猛ダッシュでトイレへと向かって行ったのだ。

 マスターの残りはまだトリスタン以上ある。トリスタンのように急いで食べようとしていないからか、水を飲む頻度も圧倒的に少ない。

 やがて、トリスタンとともにトイレに突入していたガウェインだけが戻ってきて、清姫に耳打ちする。

 

「えー、今ガウェインさんから情報が入りました。トリスタンさんは昨日、余裕ぶっこいて酒を大量飲酒したそうです。で、そのツケが回ってきたようで、棄権するようです」

 

 その瞬間、円卓'sとアーサー'sが大きくガッツポーズをきめる。

 

「というわけで、トリスタンさんの棄権により、マスターの勝利となります! さすが私の愛人! 惚れ直しましたっ!!」

 

 これにて無事、トリスタンの鼻の下伸ばす安寧は無に帰した。そして逆に、マスターの鼻の下伸ばす安寧は約束された。

 どちらにせよ、我欲丸出しの戦いだったのだ。

 マスターがマシュの方を見る。彼女はとても嬉しそうに手を振っていた。

 ただそれだけで、マスターには幸せだった。

 

 ◆

 

 また、誰か……いや、ナニカが嗤っていた。

 知っている。知っているとも。見ても見ぬふりなんてもうできない。バアルの憎悪がマスターに灼きつき、剥がすことはできなくなっている。

 これを色で表現するならば……そう、黒と緋と紫といったところか。それらがぐちゃぐちゃに混ざっている……訳ではなくて、油と水のように、混ざり合うことのない絶妙な具合だ。

 マスターはただ椅子に座り続けていた。儀式を行うでもなく、手首を傷つけるでもなく、本当に、ただ椅子に座り続けていた。

 やる気が起きない。だが、いざとなると自分で自分を見失いそうなほどやる気に満ち溢れる。

 身体が動くのだ。ならば動け。

 そんな感じだ。

 かれこれどれだけ長い間こうしていたかはわからない。何時間もこうしていたかもしれないし、逆にたった数分程度かもしれない。

 どうなんだろう、と思って時計を確認したら、10分ほどしか経っておらず、そんなものか、と椅子から立った。

 喉が痛い。ずっと無意識に口で呼吸をしていたからか。のど飴か水が欲しい。

 マスターは早速食堂の冷蔵庫に向かうことにした。アイス系があれば大勝利だ。

 

 真夜中だ。

 ジャックらへんはもう寝た頃だろうか。なんて考えながら鉛のように重い足を動かして通路を歩く。

 予想通り通路に人は少なく、せいぜいロビンフットやメディアにあった程度だ。

 そしてようやく食堂に着いた。やはり誰もおらず、静寂という名の暗闇が広がっている。

 最低限の照明を点けて冷蔵庫へ。

 喉が砂漠のようにカラカラだ。唇が乾燥していたので、舌で舐める。

 水を一杯。……美味しい。しかしまだ足りないと二杯三杯と飲んで、五杯目で喉が潤った。

 さあお目当のアイスはどこだ。冷蔵庫を漁ろうとしたその時。

 

「マスター」

 

「きゃっ⁉︎ え、あ、清姫⁉︎」

 

「はい、清姫です」

 

 ぬぅっ、と現れた清姫に、マスターはいたずらのバレた子供のように驚いて尻餅をついた。

 清姫に差し出された手を握って立ち上がる。ちなみに今の清姫は裸エプロンではない。夜にそんな格好だと完全に露出魔認定されてしまう。

 

「ぐ、偶然だね」

 

「いえ、必然ですマスター。なぜなら私はマスターを探していたのですから」

 

 これだからマスター好き好きトリオは。

 好ましく想ってくれるのはその限りではないのだが、なにせ愛が重い……。

 さらっと否定されたマスターは、気を取り直して口を開いた。

 

「で、どうしたの?」

 

「マスターに食べて欲しいものがあるのです。私の料理スキル、侮らないでくださいね?」

 

 そう言いながら清姫は懐から可愛らしくラッピングされたクッキーを取り出した。

 クッキーか、とマスターは内心少しだけ残念に思った。できれば口内の水分を持っていかれないようなものが嬉しかったが、それを言ってはあまりにも悪い。どうせさっき水をたくさん飲んだのだ。そこまで問題はない。

 清姫からクッキーを一枚もらい、かじる。意外にしっとりとした食感で、そのまま一枚食べきった。

 

「どう……でした?」

 

 清姫が心配そうにマスターに尋ねる。

 彼女の料理スキルはあのエミヤ氏も高く評価するほどだ。ならば何も恐れる必要はないというのに。

 

「うーん、美味い! これはチョコかな? もー大好きだよー」

 

 オムライスの時と同じような笑顔だ。

 だが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……そうですか。それは残念です」

 

 だが、清姫の反応はマスターの予想と全く違った。清姫はクッキーの入った袋を調理台に乱雑に投げ置くと、マスターに詰め寄った。

 突然の清姫の強気に、マスターは驚いて何もできなかった。そしてついに壁際まで迫られ、ドン、と清姫に手をマスターの背後の壁につく。

 完全にマスターの後手だ。清姫の意図がわからず、ジッと彼女の目を見つめることしかできなかった。

 

「マスター」

 

「は、はい」

 

 滅多に見せない顔だ。怒っているのか泣いているのかわからないような顔だ。だが、激しくマスターに激情を抱いているのは確かだった。

 清姫がマスター胸ぐらを掴む。

 さらに互いの顔が急接近する。

 清姫の目尻に涙がほんの少し溜まっているのが見えた。

 

「マスター……マスターには味覚が無いのではありませんか……?」

 

「ーーーー」

 

 先ほどまで道化じみていたマスターの表情が固まった。

 

「マスターが今食べたクッキーは、砂糖ではなく塩を使いました。激辛料理のラーメンだって匂いこそそっくりなものの、マスターのものには辛いものは一切使っていません。さらに昼食に食べたオムライス、あれは私のミスですが、辛さを通り越した料理でした。……気づいてましたか? マスター?」

 

「ーーーー」

 

 マスターは何も言わない。

 ただ清姫を見て、次を待っているかのようだった。

 ……カルデアには娯楽は限られている。レイシフトを含めてせいぜい片手で数えられる程度。その程度しかないのだ。その内のひとつに食事は文句なしに属する。

 最も身近で、かつ多彩に堪能できるものといえば食事以外にないと断言できる。

 だがマスターには堪能するための必須道具が……味覚が、無い!

 果たしてこれ以上悲しいことがあるのだろうか!!

 

「どうしてマスターがそうなったのかは私にはわかりません。ですが、私が……清姫がここにいます! ダ・ヴィンチさんに相談しましょう。あのお方ならきっとなんとかしてくれます!!」

 

 しかし、マスターは何も言わない。

 ポロポロと大粒の涙を流しながら、清姫はなおもマスターに問い詰める。

 

「何が……何がマスターをそうさせたのですか? 私はここまで必死に料理スキルを磨きました……他でも無いマスターのために!! でも……でも、味わうことができないなんて、悲しすぎるじゃないですかぁ!!」

 

 力強く掴んでいた胸ぐらを弱々しく放し、とうとう清姫は声を押し殺して泣き始めた。そこにはサーヴァントではない、普通の恋する乙女がいた。

 味のない世界なんていったいどんな世界なのだろう。食事をとる、という行為は本当に『食事をとる』だけの行為に成り下がってしまう。なぜなら味がしないのだから。

 実際に食べる時なんて、どのような感覚なのか、考えるだけでも恐ろしい。それなら、点滴で栄養を与えるほうがよっぽど優しい『食事』だ。

 いったいいつからだ。いつからそうなってしまった。最近? それとも一週間ほど前? それともひと月ほど前? まさかもっと前、始めの頃から……?

 違う。それについて予想することは今すべきことではない。今すべきことは……。

 

 袖で涙を拭い、清姫はキリッとマスターに向き直った。

 まだマスターは動じる気配を欠片も見せない。その様子はフリーズしたパソコンのようだが、目だけは清姫を確かに見ていた。

 

「……マスターはひとりではありません。私たち……たくさんの仲間がいます。どうか、私たちを頼ってください。全力で力になります。ーーだからっ!」

 

 泣き腫らした目だが、強い意志がこもっている。

 マスターを救いたい。その一心で清姫は手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ーーやめて」

 

 ……ぱんっ、と手がはらわれた。

 

「……え」

 

 決して痛くないはずのマスターのはらう手が、なぜかとてつもなく痛く感じた。

 清姫はマスターを見上げた。

 それは赤の他人を見るような目。完全なる無関心。そして絶対の拒絶だった。

 向けられた想いは何だろう?

 

「ます、たー?」

 

 言葉をゆっくり思い出すように文字を紡ぐ。

 非常に冷たく、暗く。そんな印象を清姫は感じた。

 次に何を言われるのかが途端に怖くなった。ここで初めて、清姫はマスターから離れたいと心から思った。内に秘める『ナニカ』が、ある種のパンドラの箱のように感じられた。

 果たして何を内に隠し持っているのか、興味でなく、激しいほどの知りたくない、が清姫の頭を一瞬で埋め尽くした。

 マスターが手を差し伸べる。

 何をされるのかがわからず、怖くて、思わず身を縮こませてしまう。

 

「はい、立って立って」

 

 しかし、恐る恐る見上げると、マスターはいつも通りだ。いつの間にか、いつも通りだ。いつの間にか。

 マスターに手を優しく掴まれ、ぐいっと立たされる。

 

「大丈夫だよ清姫。心配してくれてありがとう。別に死ぬわけじゃないんだから何も問題ないよ。明日はマシュとフォウとイチャイチャしに行かなきゃならないから、今日はもう寝るね。……おやすみ、清姫」

 

 そう言い残し、マスターはいつも通りの歩き方で食堂を出て行った。

 

「あ、え、いや、マ、マスター! 待って……待ってください……!」

 

 追いかけようとしても思うように足が動かず、咄嗟に手を伸ばすも届くはずもなく、マスターの姿は、とうとう真夜中の暗闇に消えてしまった。

 明日になれば、あのマスターのことだ、何事もなかったように清姫に接してくるのだろう。だって変に勘繰られたくないから。

 願うことも、祈ることも許されない。

 サーヴァントといえど、元はマスターと何も変わらない人間だ。恋い焦がれる乙女にはこの障害を超えることはできない。よくある脳内お花畑の少女漫画では、都合良く解決の糸口が現れ、そこから好展開の連続なのだろう。障害が大きければ大きいほど乗り越えた時の爽快感は極大なものになるのだろう。だがそれは作り物の話でしかない。そんな幸せな恋愛物語など、ない。ないのだ。

 そして少女は薄々直感してしまう。

 

 ーー少女の力ではもう、愛する人を救うことはできない、と。

 




……例え救えなくとも、マスターの隣に立つことはできる。
この少女をどう思うのか。それはそれぞれ次第です。



い つ も の。
ネタが尽きました。何か面白そうなのがあれば是非教えてください。燃えたら書きます。
あと、ゲーティア戦がいいというのなら、この『盾の少女の手記』は完結として、新しく投稿するつもりです。


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堪忍な?

今回は官能編とグロ編で逝きます。

分量はそこまで多くないから、早めにグロ編も投稿できそう。


 魚を捌いたことがある。

 ずっと昔の話だ。カルデアにやってくる前の話。具体的な時期は、記憶が焼け落ちて、もう覚えていない。ただ、その日が初めて包丁を手に持った日だったような気がする。小さな小魚だった。こちらに腹を向け、胸のあたりに刃をすべり込ませてプツリと刺す。あとはススス、と腹に沿ってなぞれば終わりだ。

 指を腹の中に入れ、贓物を掻き出す。色々なものが出てきた。これらはこの小魚を生かしたらしめるもの。やがてほぼ全てを取り出したが、何か小さな粒のようなものが指に触れる。いくら取り出そうとしてもうまくいかず、ついに爪でひっかくようにすることでなんとか腹から姿を現させた。

 しかし。

 

「ーーあ」

 

 それは、爪のせいでつぶれてしまった。

 その小魚は元々死んでいたから特に何も思わなかったが、これは心臓だ、となんとなく理解できた。

 

 ◆

 

「あんま動かへんほうがええで?」

 

 衆合地獄にマスターは隆起した岩に抑えてつけられた。本来なら大けがを負っていたところを彼女が救ってくれた。だがそれでも痛むものは痛むわけで、マスターに抵抗する余裕などあるはずもなかった。

 

「な、何をする気?」

 

 ゴツゴツした岩肌が背中に擦れて痛い。

 腕を動かすことはできるのだが、サーヴァントに上に乗られ、ただの人間という致命的な汚点がそれは無意味だと諭す。ここに味方はひとりとしていない。誰もマスターを守ることができない。最悪の状況だ。

 

「そないに怖がりはって……可愛いなぁ」

 

 妖しく微笑む。

 パチパチと爆ぜるたき火。時を刻むように規則的に落ちる水滴の音。心をも凍えるような冷たい風。それらすべてが敏感に感じられる。なぜならそれだけしかないから。気を紛らわせてくれるものは何もないから。

 そう、彼女は敵なのだ。人を惨殺し、それを悦ぶ鬼なのだ。

 

「ちょっとな? 一か八かで試したいことがあってな?」

 

 衆合地獄がマスターの礼装を紙のようにたやすく破る。

 年頃の少女らしいすべすべな肌。触れると張り付きそうな透き通った健康的な肌に、彼女は頬をほのかに赤く染め、熱い息を吐いた。

 マスターは恥じらうことなく彼女を睨みつける。だが、それは子犬の可愛い威嚇のようなものだ。ライオンには効くはずもない。

 鋭い爪でブラジャーを切る。

 これでマスターは、衆合地獄に跨がられ、上半身が裸の状態を晒すこととなった。長い時間彼女はマスターを見下ろす。ごくりと喉を鳴らす。

 

「思った以上に綺麗な体やなぁ。……つい汚したくなってしまうわ」

 

 手を伸ばし、マスターの腹、子宮の上あたりに指を置く。いやらしく大きく円を描くように何周も何周もなぞる。しだいに聞こえてくる「はッ、あ……」と小さく喘ぐ声が衆合地獄の欲情をそそる。上へ上へと、わざとらしく長い時間をかけて指が北上する。マスターの顔が赤く火照る。しだいにとろんとした表情になり、呂律のまわらない口で彼女の名前を呼ぶ。

 

「酒てん、どうじぃ……」

 

「そんな人の名前は知らへんなぁ」

 

 指が鎖骨あたりに到達した。

 衆合地獄の指は冷たく、マスターの熱い体はその冷感に感覚が集中する。呼吸が乱れる。視界が定まらない。

 彼女の愉しそうに微笑む顔がおぼろげに映る。この鬼は何が目的なのだ。ただマスターを辱め、犯すことだけが目的なわけがないだろう。

 こんなところで、誰にも知られずに死ぬのか。マスターは荒い呼吸を繰り返しながら思った。敵に凌辱されて死ぬだなんて屈辱にもほどがある。ではなく、ある種の諦めだった。死はいつでも覚悟している。もちろん今回も、している。別におかしなことではない。死は突然訪れるのだから。みんなの前で大々的に死ぬだなんてかけらも思っていない。小者だろうと、大物だろうと、死ぬときはあっけなく死ぬのだ。

 遺言は絶対に書かない。そんなもの、あったところで意味はないのだ。

 衆合地獄がマスターの首をひっかいた。

 

「う……あ?」

 

 性的に興奮しているからか、痛みは全く感じない。傷口から血が流れる。

 すると、衆合地獄があいているほうの手でマスターの口をふさいだ。顔を首元に近づけ、じゅるッ! とマスターの血を吸い尽くすように舐めとった。

 

「~~~~ッッ!!」

 

 それは少なくとも快感とも言えた。

 だらしなく嬌声をあげて激しく身体を震わせ、逃避からか、腰を高く上げて快感の波から逃れようとした。だが力が入らない。なにより衆合地獄が上に乗っかっているから何もできない。

 甘い甘い蜜のような時間がどろりどろりと流れるように続く。

 いったい何分経ったのだろう。いや何時間だ? 思考ができない。何も考えられない。手足の感覚がなくなり、衆合地獄が抱きついている感触、首元に感じる僅かな痛み……を遥かに上回る快感しかわからない。

 これは人間が味わっていいものではない。甘美。実に甘美。しかして死に至る快楽。

 脳が悲鳴をあげている。やめてくれと血の涙を流しながら訴えている。だがマスターにはどうすることもできない。全ては衆合地獄の気分しだい。

 とても惨めである。これぞ被征服感。これまでに知ることのなかった未知の感覚。

 衆合地獄がうふふと笑う。するとマスターも、鼻水が垂れ、涎が垂れた不細工な顔であははと砂漠のようにワラウ。

 

「……あんまりにもあんたはんが可愛いから遊びすぎてしまったわぁ。堪忍な? ……ほないくで?」

 

 にっこりと衆合地獄は微笑みながらそう言った。その表情はどこか慈愛を感じ、マスターは安堵に意識を捨てようとした。

 ……瞬間、衆合地獄が手刀のように手を曲げ、音も無く振り上げた。

 それが何をしているのはマスターには分からなかった。

 だが、すぐに自分の腹部が生暖かいことに気づいた。ずっと冷たかった腹。この暖かいものの正体は何なのだろう、とカスほどの力を振り絞り、マスターは首をあげ、自分の腹部を見下ろした。

 

 赤、だった。

 いや違う。そこにあるはずの空間はなく、赤が広がっている。ヌチョ、ヌチョ、と普通ならば晒されることのないモノが光を浴びてテカテカと光る。

 

「ーーあ、え?」

 

 ぼんやりしていた視界が急にクリアになる。

 わかる。これがなんだか、わかる。だがわかりたくない。頭が事実を受け入れられず、ただ自分の、狂気の外へと出ていくほどの落ち着いた呼吸音が聞こえる。

 でもおかしい。痛くない。不思議だ。ゆっくりと衆合地獄を見る。彼女はマスターに跨ったまま、こちらを見返している。

 数秒は経った。

 なんだ、そこまで痛くなーー。

 

「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛アア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛アア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛アア゛ア゛ア゛゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」




普通こんなことされたらまずショック死でしょ笑


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小魚の小さな小さな心臓

感想でアンケート的なのはアウトだなんて全く知らなかったです……。せっかくたくさん考えてくれて送ってくれたものが消えていて、送ってくれた人にはとても申し訳ないです。ごめんなさい。自分の無知でした。
これを読んでる? かは知りませんが、運営さんもすみませんでした。


では切り替えて。
グロ編、逝きますっ!


 今まで生きてきた中で、これ以上の痛みを味わったことはないと断言できた。

 数多の特異点を巡り、軽い擦傷などいつものこと。打ち身や打撲、骨にヒビが入る一歩手前の怪我なんてザラにある。

 果たしてあの時の小魚はどんな気持ちだったのだろうか。

 焼けた記憶。灰と化したそれは舞い上がり、どこかに消えてしまった。

 

「ア、ア゛アッーー……」

 

 死ぬ。

 死ぬ。

 死ぬ。

 敵に腹を綺麗に裂かれ、晒される。

 目を見開き、足りなくなった酸素を剥き出しの肺が求めて激しく暴れる。白い炎に炙られるような、静かで猛烈な熱がマスターの全身を灼く。

 

「ほな、いくで?」

 

 呑気に衆合地獄が言うと、腕をマスターの中に突っ込んだ。

 

「ウッ、ッ! ……ボおっッ!!」

 

 気持ちの悪さに、咄嗟にマスターは顔を横にして吐いた。

 いやに生々しい音が聞こえる。

 

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 

「カ、ハ……!」

 

 触れられている。その感覚がとても鮮明に感じてしまう。

 嫌なのに。嫌なのに遮断できない。その信号を遮断できない。

 

「ゲロまみれの顔で……可愛い顔が台無しやわぁ。おっと、あまり動いたあかんで? 臓物傷つくのはさすがにキツイからな?」

 

 そんなことを言いながらも、衆合地獄は愉しそうにマスターの腹を搔きまわす。

 

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 

 マスターは苦しみに空気を吐くことしかできない。口の端から血が溢れる。それでもマスターは弱々しくも足掻いた。

 ビクンビクンと死んだ体に電気を流されたような微弱な運動を繰り返し、しかし意識は決して手放さず、虚ろな瞳で衆合地獄を見ている。

 激痛の時間は続く。

 突如、ゴリッ、という固形物に触れた音。それだけでも、身体を剥がされるような痛みに襲われ、血が噴き出した。

 

「あ」

 

「コッ、カフッ!!」

 

「だから言うたのに。少し骨を掠めてしもうたわ」

 

 いったん腕を抜き、やれやれと衆合地獄は肩をすくめた。

 その腕は真っ赤に染まっていて、それが自分の血だと悟るのは容易かった。

 霞がかる視界でもよくわかる。

 自分を中心に夥しい血の池が形成されている。

 それを認識した瞬間、ふと力が抜け、ついに指先ひとつ動けなくなる。

 

「頑張りはるなぁ。たぶんもう、血ぃ半分はきってるやろなぁ。これ以上下手に動けばホンマに死ぬで? コツは掴んだ。あとはそこを弄るだけ。……これで最後。いくで」

 

 衆合地獄が再び腕をマスターの腹に沈める。

 

「泣いてもええんやで? それほど痛いことしてるさかい、しょうがないしょうがない」

 

 衆合地獄が優しくマスターに語りかける。

 だが、そんな彼女の言葉はマスターには届かなかった。届くわけがなかった。

 身体の構成を弄られる感覚がする。強引に破られ、壊され、引き離され。それらを衆合地獄によって再び繋ぎ合わされる。どのような仕組み。どのような方法。そんなことはどうでもよかった。

 ただマスターは、4回ほど死ぬのに十分すぎる激痛に耐えればいいのだ。

 

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 ぐじゅ。ぬぽ。ぐじゅ。ぐじゅ。ぬぽ。

 

「あ゛ぎッッ!! ぶ、ぶ……!」

 

 口から血の霧を吐く。

 それが衆合地獄の顔に吹きかかるも、顔色ひとつ変えずになおも腕を動かし続けた。

 

「泣かへんの? 変やなぁ」

 

 臓物のひとつを掴むと、それに反応して面白いようにマスターが血を吐く。

 繋ぎ合わせると激しく咳き込み、気管に血が流れ込んできて呼吸ができず、肺が極限まで収縮するのがよくわかる。

 ……最後の仕上げだ。

 心臓を裏から優しく持ち上げ、後ろに隠れる目当てのものに触れる。

 衆合地獄がマスターの容態を確認してみると、すでに虫の息になっていた。血を失いすぎた。もしこのまま放置すれば、10分もせずに死ぬだろう。

 ひとつまみ分ほどのか弱い呼吸をゆっくりと繰り返している。もはや何をしても反応はない。だが目は確かに衆合地獄を見ている。見ているのだ。偶然そう見えるのか、それとも意志のこもった目なのか、彼女にはわからなかった。

 時間を数秒無駄にした。その間にも、この非力な少女は命の炎は消えそうになっている。こんなところで死んでもらっては困るのだ。

 お目当ての部分と少女の魔術回路を強引に接合する。

 ……完了。これでこの異質な世界を生き抜くことができるだろう。

 衆合地獄は少し安堵した。

 

「よう耐えた。今からあんたはんの綺麗なお腹を元にーー」

 

 戻すで、と言いかけて、衆合地獄は力強いナニカで腕を掴まれたのを感じた。

 瞬時にわかる。ナニが掴んだのかはわかる。だがありえない。ありえて良いわけがない。

 衆合地獄は恐る恐る少女の顔を覗いた。

 

「フーーーーッ!! フーーッッ!」

 

 必死に歯を食いしばり、血を吐くことをさらに助長する愚かな行為だとわかっているはずなのに、少女は衆合地獄を見つめた。口の端の血の泡が膨らみ、爆ぜる。その目は虚ろではなく、煉獄のような業火の炎が宿っているように衆合地獄には見えた。

 

「あ、あんたはん、どうして……」

 

 マスターは何も言わないが、衆合地獄の腕を掴む力にさらに力がこもった。

 

「……ひっ」

 

 ……恐怖した。ただの人間相手に、恐怖した。

 振り払おうとすれば簡単にできる。だが、できなかった。その目が衆合地獄に何よりの恐怖を与えた。

 何を伝えたいのか、衆合地獄にはわからない。

 掴む手が激しく痙攣しているのはわかる。自ら命の炎を燃え尽くそうとする行動の理由が、衆合地獄には全くわからなかった。

 

 そして衆合地獄はプツリと何かを刺した音を耳に聞いた。

 まさかと思い、バッ! とその音のしたところを見ると、自分の爪が少女の心臓に深々と刺さっていた。

 

「ああ……あかん……これはあかん」

 

 風に吹かれて消えそうな声で衆合地獄が呟く。

 掴む手を強引に引き離し、早急に心臓から刺さった爪を抜き、腹に沈めていた腹から腕を抜き、ちぐはぐな魔術で傷ついた箇所を修復していく。

 だが、また少女に衆合地獄の腕を掴まれた。今度こそ彼女は心の底から恐怖した。

 

「なんなんや、あんたは……人間やないわ……」

 

 少女は声もなく笑っていた。

 ゲロと、血で醜悪な顔をを歪ませながら笑っていた。

 応急処置完了。絶対安静にしていれば、数日で万全の状態に戻るだろう。

 やがて、ついに少女は意識を失い、死んだように倒れた。

 さっきまであんなに性的に興奮し、色顔だったのに、今は死相を晒して、血の海に沈んでいる。

 とりあえず血の海を綺麗にしてやる。

 サーヴァントたちに発見された時、主人が血まみれだったら顔面蒼白間違いないだろう。

 衆合地獄は洞窟を出た。

 あれこそがマスターの真性なのだろう。

 でも、もう『あれ』に関わることはない。そう思うとなぜか安堵してしまう。次に会うときは、『みんなの』マスターだ。そうあることを望む。そうであってほしい。お願いだ。

 空はマスターの苦しみなど知らず、今日も元気に太陽の光を降りそそぐ。

 

「……あんなん、鬼よりも遥かに恐ろしいわぁ」

 

 ◆

 

「ダイジョブダイジョブ! 夢の中で何かされたような気がするけど、ほら、どこも怪我してないでしょ? うん! よし、じゃあ行こうか!」

 

 マスターはサーヴァントたちを連れて山頂を目指す。

 先を急がせる。

 血の唾を吐き、マスターは歩き出した。




あれは夢か。それとも現実か。


活動報告のところでネタを募集することにします。一応募集用の投稿も済ませているので、いいネタがあればぜひ教えてください。むしろネタがないとこの小説はいい感じに機能しないので苦笑。
メッセージでも全然ダイジョブです。
お手を煩わせて本当にすみません。
もしこれもアウトなら、指摘してください。
イヴァン雷帝戦のサリエリもいいなと思ってます。


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我が憎悪を

勢いで書きました。後悔はしてません。
マスターは関節的に出演します。

※ネタバレ注意


 ーー神に愛されし者を殺さねばならない。

 

 ◆

 

 アマデウスの能天気な囁きがサリエリの周囲を踊る。

 

『弾け』

 

 その囁きたちはひとつひとつサリエリの耳元まで浮遊すると、役目を果たして消える。そしてまた発生する。

 壁の囲まれた部屋。それでもこのロシアの異常なほどの寒さはサリエリの身体を容赦なく攻撃する。

 

「やめろ! やめろ! 私にはそのような技量はない!」

 

 ピアノ椅子に座り、サリエリは頭を抱えてうずくまった。

 彼は天才ではないのだ。アマデウスのような、人の心に訴えかけるような、神域に達する曲を弾けるわけがないのだ。

 彼はイヴァン雷帝に眠りを与えるため、二ヶ月間もの間、その魂を文字どおり削った。その心労、サリエリにはわからない。

 なぜなら天才ではないから。

 

『弾け。でなければ世界は救われない』

 

 アマデウスの甘言がぼんやりと消える。

 自分にはあの巨大な……現世に顕現した神のような絶対的存在をどうにかできる自信がなかった。

 偉業をなすためには、それ相応の技量を持ち合わせていなければならない。

 だが彼にはない。

 なぜなら天才ではないから。

 無理だ。無理なのだ。

 ただ神に愛されし者を殺すことに自身の価値を見出しているサリエリに、ピアノを弾けと。

 血迷ったかアマデウス!!

 

「この偉業を私に託すか! 答えろアマデウスッ!!」

 

 無意味な音。

 乱暴に指を叩きつけ、冷えきった部屋の中に憎悪の炎が小さく燃える。

 アマデウスの幻霊たちが生意気に踊りながら生じた炎で暖をとる。赤黒の炎は消える様子はなく、むしろメラメラと激しく燃え始める。

 

『見てごらん』

 

 幻霊のひとりがサリエリの肩を叩き、窓の外を指差した。

 サリエリはゆっくりと顔を上げ、促されるまま視線を外へと向けた。

 

 あれこそ神代の戦い。

 アヴィケブロンの造った原初の巨人アダムと、像をかたどった巨獣のイヴァン雷帝。

 激しいぶつかり合いに、足元の町々が砕ける。一撃一撃の衝撃が広範囲にわたって拡大する。頑丈なはずのこの壁も恐れをなしたかのように震えた。

 そんな激戦を見て、サリエリはやはり無理だと自己を再認識した。

 

「アマデウス、我が殺すべき者よ。やはり無理だ。私の霊基がそう叫んでいるのだ」

 

 すると、アマデウスの幻霊はサリエリの頭を叩く。激昂して詰め寄ろうとした彼を手で制し、あるところを指さした。

 

「いったい何なのだ……!」

 

 サリエリは指さされた場所……アダムの肩を凝視すると、そこにはある人物が必死に落ちまいと掴まりながら、必死に戦っていた。

 サーヴァントたちに指示を出している。サーヴァントたちはシンクロのような美しい連携をとってイヴァン雷帝に挑んでいる。

 ……巨獣の鼻がアダムの顔を抉った。

 その破片が飛び散り、そのひとつが少女に直撃し、肩から滑り落ちてしまった。

 

「!!」

 

 サリエリは震えた。

 あれは、マスターだ。

 あの巨人は高さ数十メートルはある。それほど高い位置から落下すれば、サーヴァントであろうと深手は免れない。ましてやただの人間だと……!

 

『ーー見てごらん』

 

 落ち着いた声でサリエリを鎮める。

 しばらくすると、アダムの自動修復機能により、ミノタウロスの宝具で形成された壁が顔の喪失部分を修復した。

 そして少女が肩に再びよじ登ってきた。礼装が傷つき、機能は完全に働かず、今ごろ内臓すら刹那の間に凍るような寒さに晒されているはずだ。だが、それでも少女は立ち上がった。

 だらんと力なく右腕を垂らしながら。頭から血を流しながらも再び戦い始めた。

 

「なぜだ……なぜそこまでして戦う……⁉︎」

 

『勇気だよ、アントニオ・サリエリ』

 

「!!」

 

 アマデウスの幻霊が消えかかっている憎悪の炎へとふわふわと移動した。他のアマデウスの幻霊たちは疑似的な演奏会を開いている。

 なんとこの場にふさわしくない合唱だ。サリエリは唇を噛み締めた。

 

『英霊でもない本当にただの人間が、神にも等しき恐ろしい敵に立ち向かっているんだよ? 対して君はどうだい? 天才じゃないなんてくだらない理由でピアノを弾かないだなんて、臆病だねぇ』

 

 相変わらず神経を逆なでする物言いだ。

 

 憎悪。

 ひとりが炎へ飛び込んだ。

 ぼうッ! と炎が息を吹き返す。

 

『世界を救え。君にしかできないことが……君の存在する理由はまさにそこにある』

 

 憎悪。憎悪。

 ひとりが炎へ飛び込んだ。

 大きく深呼吸をした。

 

『僕たちは戦いの専門家じゃあない。そんなもの彼女たちに全部ポイ、さ』

 

 憎悪。憎悪。憎悪。

 ひとりが炎へ飛び込んだ。

 部屋が少し明るくなった。

 

『弾け。僕は君に、託したのだから』

 

 憎悪。憎悪。憎悪。憎悪。

 ひとりが炎へ飛び込んだ。

 ……炎が再燃した。

 

「ーーわかった。いいだろう! 弾いてやる! 弾いてやればいいんだろう!!」

 

 サリエリは鉛のように重い足を動かしてピアノ椅子に腰掛けた。

 死んだように冷たいピアノの鍵盤に触れ、サリエリは弾き始めた。

 滑らかな曲調。指が奏でる音は慈しみに溢れていて、アマデウスの最後の幻霊は眉をひそめる。

 

『違う。そんなうわべの演奏はいらない。君の本性こそ、この瞬間求められている演奏。心赴くままに弾くんだ。大丈夫、技術なんてどうでもいいんだ。だって……天才なんて、僕以外にいないだろ?』

 

 サリエリの演奏が止まる。

 最後の幻霊がつまらないと肩をすくめる。その態度。その言葉。その顔。全て。全てが気にくわない。

 憎悪が燃える彼には、アマデウスの言葉は油でしかなかった。

 

「うるさい、黙れ! なら私の全て、私の憎悪を全て注ぎ込んでやる!!! ォォォオオオオオオオーー……!!!!」

 

 音楽を奏でる者が汚く罵る。化けの皮が剥がれ、美で塗装された曲が、急激に憎で溢れ出した。

 これぞサリエリの曲。アマデウスには弾けない、魂の雄叫びを表現してみせた、神が忌み嫌い、悪魔が心地よく耳を寄せる曲なのだ。

 サリエリの身体が憎悪が纏わりつく。

 憎悪。憎悪だ。憎悪こそがサリエリの本性。全て。彼のクラスたらしめる源。だが足りない。まだまだ足りない。君の憎悪はそんなものかと幻霊に煽られた。

 ならば。

 これまでの人生で味わった苦痛を。絶望を。苦悶を。劣情を。屈辱を。殺意を。嫌悪を。憎悪を。憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪……ーー。

 

 飛んで来たかけらが天井を吹き飛ばす。

 びゅおっ! と凍てつく風がサリエリを撫でた。それだけでも背中の一部が凍りついた。

 

 ……寒、すぎる……! だがこの演奏を、止めてはいけない!! これが世界を救うというのなら、弾いてみせよう!! 聴くがいい、アマデウスううぅぅぅぅ!!!

 

 ピアノの内部、弦を叩く役割の盤が凍りつき、壊れてしまうと弱々しくサリエリに訴える。

 ……だから、どうした。

 

 壊れた城壁、その一部がサリエリを激しく打った。

 だからどうした。

 

 身体が燃えるように熱い。だが蝋人形のように、凍りつきそうだ。

 だからどうした!

 

 指が凍った。

 ……だから、どうした!!!!!!

 

 弦が折れたのなら別の音で代用しろ!!

 部外者が邪魔をするというのなら、その憎しみの曲で黙らせてみせろ!!

 身体がいうことをきかない? 知ったことか! 死ぬ気でやり抜け!!!

 指が凍ったのならその指を叩きつけろ!!! 指が崩れたのなら足の指ででも弾いてみせろ!!!

 

 見ろ、あそこで死に物狂いで戦うマスターを!

 過酷な運命に立ち向かい、その全てに打ち勝ってきた、汎人類史における、正真正銘、本物の天才だ!! 神に愛されず、祝福もされない。そんな報われぬ少女よ。このサリエリが神の代わりに祝福してやる! 愛情を注いでやる!!

 

 ふと、サリエリは自分の霊基が強化されたと気づいた。

 だがそんなこと、どうでもよかった。

 アマデウスの皮を被ったモノがまるで生を得たように蠢き、憎悪の炎を纏い急成長を遂げる。

 より禍々しくなり果てたサリエリの姿。

 曲は短調で、恐ろしく静かで、だが想像を絶する憤怒が孕んでいる。聴くものの心は、それに無慈悲に……。

 

『ウオオオオオオオオォォォォォォ!! 余の心に入り込むなああぁぁぁぁ!!!』

 

 遠くでイヴァン雷帝の苦しみに悶える叫びが聞こえる。

 

『それだ』

 

 最後の幻霊が拍手を送る。

 あの少女のような、狂気を超えた勇気がサリエリにはない。だが、彼の一途な思い……神に愛されし者に対する憎悪が彼を突き動かす。

 イヴァン雷帝、あの巨獣こそ、この異聞帯における神そのものだ。

 

『きらきら星、忘れないでくれよ?』

 

 ああ、忘れるはずがない。

 サリエリが召喚された理由。それは今この瞬間にある。憎悪を燃やし尽くした後ならば、快くお前のお願いを聞いてやろう。

 アマデウス、聞こえるか? これが私の曲。どうだ、恐ろしすぎて何も言えないか?

 サリエリが炎に包まれた部屋で、最後のアマデウスの幻霊に問いかける。

 幻霊は何も答えなかった。

 しかし、親指を立てたあと、炎へ飛び込んだ。

 

 十分すぎる評価だ。

 ノってきた。これまでの人生ですこぶる気分が良い。

 笑う。腹の底から笑う。

 これほど愉快だと思ったのは、いつぶりだろうか!

 

「ーー行くぞ、公演の始まりだ」




あのシーンは最高ですよね。思わず何度もリプライしました。
あと、やっぱりサリエリのモーションかっこいい。

では、い つ も の。
ネタが完全に切れたので、ネタ募集してます。
感想欄で思いついたネタを書いてしまうと、違反らしいので、活動報告もしくはメッセージで是非教えてください!!


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狂##### 冠#時#神殿 ソロモン

活動報告で要望があったので、ついにゲーティア編を書くことにします。
「生きるためだ!!」まで書く予定です。
狂気全開、それいけみんなのマスター!


 盾は何も語らず、ただそこに鎮座している。だが、盾の少女はその痕跡さえ残すことを許されず、完全に焼却された。

 マスターは、ただただ、今さっきまでそこに盾の少女が存在していた場所を無為に見ていた。

 あんな笑顔、初めてだった。

 盾の少女は、これまでそんなことを思いながら戦っていたのか。

 初めて聞いた、想い。だが、それに応えることは、永遠にかなわなくなってしまった。

 

「やはり、そうなるか」

 

 ゲーティアはつまらなさそうに口を開いた。

 

「必ずや我が第三宝具を防いでみせるだろうとわかっていた。だが同時に、それはマシュ・キリエライトの肉体が耐え切れないということもわかっていた」

 

 第三宝具、再装填完了。

 玉座に在わす、人類史の全て……人類の が積み上げてきた繁栄を束ね、極限まで凝縮した光帯が再び輝き始める。

 ここで終わり、か。

 マスターは静かにゲーティアに向き直った。たかが小娘風情が彼に敵うことはまずない。

 もちろん憎しみが湧いた。それは当然の権利であるし、それをぶつけるのも自由で、彼がそれを受けるのも自由だ。

 だが、どうしても足が動かなかった。一矢報いたい。あの恐ろしい顔に一発殴りをいれたい。そんな激情がマスターの中で轟々と燃え上がった。

 だが、動かない。動かないのだ。

 

「どうした。あの娘は貴様の唯一無二の存在だったのだろう? 殺したのは他でもない私だ。せめてもの餞別だ。

 我々(わたし)の身体に触れる権利をやろう」

 

 ゲーティアが高笑いする。

 ゲーティアが勝者。マスター……人類が敗者。

 もう、これは覆らない。

 

「死ぬことがそんなに怖いの?」

 

 目元を伏せ、マスターは淡々とゲーティアに問うた。

 

「死とはそれすなわち悲しみ。この世界は悲しみに溢れている。もうたくさんだ。見たくない。だから我々(わたし)がこの星を死のない世界へと再誕させる」

 

 玉座の周りの魔神柱のような縦長の触手たちが呼応し、興奮し、その肉体を激しく震わせる。

 死とは果たしてなんなのだろう?

 よくある天国か地獄に送られるのだろうか。それとも根源へと導かれる? それとも無、か。

 いかに英霊であろうと、等しく死は訪れた。どのような形であろうと、死んだ。そして例外なくソロモンも死んだ。

 

「マシュの言った通り、死のない世界には悲しみなんて存在しないんだね」

 

「その通りだ。だからヒトとして彼女の同意が欲しかった。なのにあろうことか否定した。全く、理解できないな」

 

 ゲーティアが黒く笑う。

 ただそれだけでも、マスターの恐怖心は刺激され、無意識に萎縮してしまう。

 これまで数多の恐怖があった。しかし、マスターはその全てをことごとく打ち負かし、ここに立っている。だが、それはすぐ隣にマシュがいたからだ。どんな時でも一緒にいてくれて、どんなに苦しい時でも励ましてくれたからだ。

 

「どうした。かかって来い。せめてもの……貴様、泣いているのか?」

 

「ーーえ?」

 

 指摘されて、気づく。

 そっと目元を指でなぞれば、確かにゲーティアの言う通り、マスターは泣いていた。でも、泣いているなんて自覚はなかった。

 

「あ、あれ? なんで? ちょ、ちょっと……」

 

 拭っても拭っても涙はなぜか止まらなかった。

 ぽろぽろと大粒の涙は取り留めなくこぼれ落ち、ついにマスターは泣き崩れてしまった。

 その姿は地球にいる、どこにでもいる普通の女の子が泣いているだけにしか見えなかった。事実、マスターの精神は、皆が思うより遥かに、遥かに脆かったのだ。それがいま、ついに崩壊し、一気にマイナスまで転落しただけのことだ。

 この一年間、普通に生活をしていればまず経験しないようなことを経験した。それによって自分自身が成長した気がした。だがそんなものは、幻想に過ぎなかった。

 私は大丈夫という張りぼてを乱雑に貼り付けただけの、無意識に行なっていた見苦しい精神維持行動なのだ。

 

「哀れだな、カルデアのマスター。自身をコントロール出来ないくせにこの我々(わたし)に挑んだのか」

 

 ゲーティアはマスターにゆっくりとした足取りで近づき、大きな手でマスターの頭を鷲掴みした。

 

「あ、グ……!」

 

 痛みに喘ぐ。

 必死にゲーティアの小指を掴んで引き剥がそうとしても、圧倒的な力の差に、敵うはずもなかった。

 

「フンッ」

 

 薙ぎ払い。

 マスターの身体は一気に加速され、すぐ側の魔神柱の一部、その触手に激しく打ち付けられた。

 壁にぶつけられたボールは、一瞬だけ大きく変形し、弾性力によって元の丸いボールに戻るらしい。まさにそれをマスターは身をもって体験した。もっとも、マスターには弾性力などないのだが。

 べちゃっ、と身体の中で鈍く嫌な音が鳴ったのを感じた。込み上げてくる嘔吐感を我慢できず、無様に吐き出す。

 それは胃液ではなく、血だった。内臓のどこかがやられたのだろう。

 

「ぶべッ、カ、エ……」

 

 涙はそれでも止まらなかった。

 立ち上がる気力はあった。しかし、瞬時に伸びた無数の触手たちがマスターの身体に絡まり、きつく締め上げて拘束した。

 胸のあたりに絡みついた触手がギリギリと締め付け、その力の強さに肋骨が乾いた音を鳴らして悲鳴をあげる。肺に溜まった空気が強制的に排出させられ、酸素を求めて小刻みに震える。

 

「七つの特異点を修正してみせたのは実に遺憾だが認めよう。だが、所詮はその程度だ」

 

 触手のひとつがマスターの目の前に伸びる。先端が変形し、鋭いものへとなる。

 そしてそれは高速で回転しながら、ゆっくりとマスターの胸を抉った。

 

「あ、ぐ、ああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァ!!!!!!!!」

 

 身じろぎすることすら許されない。一ミリも動かせない胸を容赦なく触手は抉り進んでいった。肉を貫き、かき混ぜる。そんなこれまで経験したことのない痛み。そんなもの、耐えられるはずもなかった。

 それでも涙は止まらなかった。

 地獄のような時間は続き、やがて触手の侵攻が止まった。回転は続いている。

 胸部がギチギチと拘束されているため、満足に呼吸をすることすらままならない。

 

「ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ」

 

 陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクと開閉させる。

 いまこの瞬間、マスターを助けられる人物は誰もいない。英霊たちは無限増殖する魔神柱の対処で手一杯だ。

 召喚する手を封じられたいま、完全にマスターとゲーティアの一対一となってしまった。

 勝ち目は、ゼロだ。

 

「わかるか? 貴様の心臓の一歩前で止まっているのが。我々(わたし)のさじ加減で刺し貫くことなど容易い」

 

 先端が僅かな熱を帯びる。徐々にそれは熱くなっていき、中で肉の焦げるに音が聞こえた。

 

「う、ううううぅぅぅゥゥゥゥ!!!!」

 

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!! どうだ? 貴様が苦しむ姿を見るのは存外にスッキリするものだな!」

 

 意識が混雑し、ゲーティアの黄金の身体の輪郭が霞む。

 時間神殿の黒とゲーティアの黄金が混じり、よくわからない色彩がマスターの網膜に映った。

 これが死か。目が見えなくなり、あらゆる感覚がこの世から引き離されていくような、そんな奇妙な感じだ。

 ああ、私は死ぬのか、と。

 無理だ。無理だったのだ。人間対魔神。そんなもの、幼稚園児でもわかる結末だ。

 ここで終わりだ。全ての物語にハッピーエンドは約束されていない。勝利の女神だって、時には見て見ぬ振りをするものだ。

 手を伸ばしても、この世にはもうマスターの手は届かなかった。暗闇だった。よもや、死ぬ時は暗闇に沈むのか。そんなどうでもいい発見をしてーー……。

 

 ふと、マシュの姿が浮かんだ。

 本当に、浮かんだだけだ。何気ない、実に何気ないマシュの姿がぶわり! とマスターの脳裏をよぎったのだ。

 どうして一年間、彼女とつらいグランドオーダーを続けてきたのか、はっきりと思い出した。

 

 ……こんなところで負けるわけにはいかない。現在進行形で、英霊たちはマスターの勝利を信じて身を粉にして戦っているのだ。その尽力、無駄になんてできるはずがなかった。

 負けることは許されないのだ。一年間、共に戦った仲間たち、彼ら彼女らのためにも立ち上がらなければならないのだ。立って、戦って、そして、勝つ!!

 そう思うと、意識の不明瞭さが嘘のように晴れた。

 ゲーティアの姿が見える。胸部の肉が爛れているのが見える。

 

「ゲーティ、あ……」

 

「む?」

 

 面白そうに観察していたゲーティアが眉をひそめる。

 カ、カ、と粒ほどの呼吸を繰り返しながら、マスターは手を伸ばした。

 やはり、涙は止まらなかった。

 

「そうか、まだ足掻くか……だが我々(わたし)には届かん! フハハハハハハハハ!!!」

 

 マスターの伸ばしてた手が届くことはなかった。ゲーティアが一歩引くだけのことなのだから。

 そのたった一歩は、マスターにとっては途方もない距離で。

 そして触手が無慈悲に心臓に刺さり、死んーー……。

 

 ◇

 

「その程度で死ねると思ったのか? 馬鹿者め」

 

「ーー!!」

 

 気づけば立っていた。

 咄嗟に胸も部分に触れてみるが、さっきの傷が嘘のように治っている。しかし、破けた服が現実だったと語っている。

 なぜだ。あと、いったい何が起こった。

 

「たったあれだけで死なれては困るからな。貴様程度、全快させることなど容易いこと。最終証明まではまだ時間はある。それまでの余興として、貴様で遊んでやる」

 

 地獄はまだ始まってすらいなかった。

 

 ◇

 

 引き千切られた。

 斬り刻まれた。

 噛み砕かれた。

 焼き尽くされた。

 嬲られた。

 押し潰された。

 貫かれた。

 凍り付けられた。

 溶かされた。

 沈められた。

 叩きつけられた。

 落とされた。

 毒に犯された。

 光を盗まれた。

 血を失った。

 

 何度も何度も殺されかけられる。いや、そんな表現はあまりにも優しすぎる。実際、まさに死ぬ瞬間に傷を全快させられる。そしてまた、ただゲーティアが楽しむためだけに誰が見ても惨すぎる拷問を与えられる。

 

「………………ぁ、グ」

 

「ほう……まだ屈しないか。面白い」

 

 ご丁寧に礼装まで完全に修復された。傷跡ひとつない。この時間神殿にやってくる前と全く同じ外見だ。

 しかし中身はすでにボロボロだ。糸の切れた操り人形のようにだらんと地に崩れ、動き出す気配など皆無だった。

 ゲーティアは鼻を鳴らし、残り時間を確認する。まだまだ時間はある。少し苛立つところだが、ちょうどいい玩具があるから、特に気にも留めなかった。

 ここまでを1セットとして、あと5セットする余裕があるほどの時間だ。

 

「ふむ」

 

 ゲーティアが指を鳴らす。

 ただそれだけで、うつ伏せに倒れるマスターの背中からトゲトゲしい触手が生えた。

 

「ーーーー」

 

「もう反応もできなくなったか。つまらん」

 

 べちゃっ、とゲーティアの足元に投げ捨てられる。

 瞬く間に血の池は広がり、ゲーティアの足に触れた。その瞬間、血はマスターの元に戻っていき、痛々しい傷が修復された。

 

「何も、言わないのか」

 

「……」

 

 マスターを蹴り、仰向けにする。

 全く普通の呼吸を繰り返しているが、ただの植物人間のように動じなかった。瞬きすらせず、倒れていた。

 

「殺してくれ、とは言わないのだな。言ったとしても、殺すとみせかけて復活させるがな」

 

「……」

 

 マスターは何も答えない。だが、立ち上がろうとした。

 身体の節々が全く痛くない。動ける。でも身体がマスターに必死に停止を呼びかける。

 何をしている。どうせまた破壊されるだけだ、と。

 うるさい、とマスターは身体を黙らせ、トゲトゲの触手を背中に擦り付けながら、震える脚に力を込め、ついに弱々しく立ち上がった。

 

「……立つか」

 

「例え……わ、たしに勝ちめ……がないとし、て……も」

 

 涙は、いつの間にか止まっていた。

 まるで生まれたばかりの子鹿だ。歩くこともままならないくせに、必死にゲーティアに近づこうとした。

 だがしかしゲーティアが一歩引けばいいだけ。さっきと全く同じーー。

 この時、ゲーティアはマスターを侮った。

 警戒はしていた。なぜならあれほど苦痛を与えられたのに、立ち上がろうとしたから。果たしてそれが人間の業かどうかはどうでもいいが、その異常性に僅かながら警戒心を抱いたのだ。

 その僅かながら、はあまりにも僅かすぎた。

 

 マスターが駆けた。

 

「なにっ⁉︎」

 

 その行動に、さしものゲーティアは目を見開いた。ゾンビのようにうだうだと歩くだけと思っていたが、それを大きく裏切ってきた。

 咄嗟にゲーティアは魔神柱の力をこちらに譲渡させ、マスターの両脚を切断した。

 

「たち、むか……わない、と」

 

 崩れる。

 安堵しかけたゲーティアだったが、両腕を使って這いだした時はさすがに戦慄した。

 とりあえず楔を打ち込んでおく。地面に縫い付けられ、今度こそマスターの動きは完全に停止した。

 

「貴様……本当に人間か?」

 

 口から赤い血を吐く彼女を見下ろす。

 あの時ロンドンで見逃してやった小娘が、文字通りバケモノとなって帰ってきた。ヒトの皮をかぶった、バケモノ。ゲーティアは過去を視る目によって、マスターの過去ーー特異点を巡る旅ーーを覗いた。

 それは、あまりに悲惨なものだった。マスターの周りの者は『マスター』を知らず。堕ちてゆく彼女を誰も知らず。なんと救われない少女であろうか。おかげで人間性を奪われてしまっているではないか。

 

「貴様の持つ獣性、確かに見させてもらった。これほどのものなら、ここまで耐えきることができる理由として納得だ」

 

 傷を最低限で癒す。

 血は止まらず、しかしながらマスターは立ってみせた。

 腹部の風穴はふさがっているが、曖昧な治療のせいで見るも無残な傷口だ。

 

「やはり立つか」

 

「……う、ん」

 

 ふわっ……、とわずかな擬似的浮遊感を感じ、足元がふらつく。それでも確実に歩を進め、ついにゲーティアの目の前までたどり着いた。今度はゲーティアはその場を動かず、長い時間をかけて歩み寄るマスターを待った。

 自分の倍以上もあるゲーティアを見上げる。その瞳に宿るのは、諦めではなかった。燃えるような情熱だ。

 

「惜しい。殺すにはとても惜しいぞ、カルデアのマスターよ。貴様の見る世界は、マシュ・キリエライトとも、我々(わたし)とも異なる異質なもののはずだ。その獣性、ヒトの器では維持するのが困難だろう。どうだ、ヒトであることを捨て、我々(わたし)の同胞とならないか。そうすれば、マシュ・キリエライト以上に、新生後した地球の平和は約束されるはずだ」

 

 それは、ゲーティアのマスターの抱く獣性を十分に理解した上での誘いだった。ここはソロモンの第二宝具の領域。カルデアとの通信をカットすることは容易いことだ。つまりこれらの行動はカルデアには伝わっていない。そしてこの会話も。

 魅力的な話のはずだ。獣性に人間性を犯されているマスターにとっては、ゲーティアの誘いはある種の救いに違いないのだ。

 だが。しかし。それでもマスターは。

 

「ごどわ、る゛……!!」

 

 血反吐を吐きながらもゲーティアをにらみつけ、そう叫んだ。




ソロモンさんがもし来るのが遅かったら。
ゲーティアとマスターの話なので、それ以外……つまりソロモンなどにスポットライトを当てるつもりはありません。一応出演はちゃんとさせます。ちゃんとノヴァらせるつもりです、ハイ。


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狂#解放刹那 ###### ソロモン

アキレウス召喚しました。イエイっ!


「残念だ。とても残念だ」

 

 手を払う。

 それだけでマスターの身体は吹き飛んだ。

 結局、ゲーティアの誘いを断ったところで、双方の優勢劣勢が覆ることはない。

 命乞いをするべきだったのだ。一本だけ垂らされた蜘蛛の糸。それを必死にたぐり寄せるべきだった。獲得した異質な獣性。マスターを苦しめるためのものでしかないこれが、唯一役に立つ瞬間が訪れたというのに。

 

「なぜ我々の理想郷を理解できない? 悲しみなど生きる上で不必要だろう?」

 

 ゲーティアは歩く。

 素晴らしい同胞となりえたかもしれない存在を討つために。

 マスターは立ち上がった。

 

「さあ。どうしてだろうね……」

 

 哀愁漂う表情だ。どこか悲しいような。どこか虚しいような。あれほどボロボロにされたのに、どこ吹く風だ。

 轟音がマスターの耳に届く。英霊たちが必死に戦っている証が。皆、マスターに未来を託している。未来を紡ぐ。それをするのはサーヴァントではない。マスターたち今を生きる人間たちなのだ。過去との因縁。それを今、果たすべき時が来た。

 

「マシュを殺した恨み、受け取ってもらうよ」

 

 燃え上がるは闘志。

 

「第三宝具、再装填。……いいだろう。貴様の気持ちもわかる。最後に殴りかかるくらいは許そう」

 

 再び人類の結晶が輝く。

 あれが次に放たれれば、今度こそマスターに防ぐ術はない。つまりは終わりだ。きっともう、勝ち目はない。だからゲーティアに、最後まで死に物狂いで抵抗した人間がここにいたという証を何としてでも残しておきたかった。そのための拳。そのための貧弱な殴り。

 だがそれは建前に過ぎない。本当にただ、マシュを殺したという恨みが何よりもマスターの中の感情で勝った。

 例えダメージ量にして一にも満たないとしても、ゲーティアをなぐったという確かな事実が欲しかった。

 

「ああああああ!!!」

 

 自ら誰かを殴りつけるなんて、いったい何年ぶりだろう。そんな考えがぼんやりと脳裏をよぎった。

 カルデアに来てからは、少なくともそんなことはなかった。

 ゲーティアまであと数メートル。

 思い切り力を込めた拳をヤツの腹にーー……!!

 

「いやいや、落ち着こうよ。玉砕はまだ君には早い」

 

 ロマ二がのほほんとした口調で、マスターを諭した。

 

 ◆

 

「ゲーティア、お前に最後の魔術を教えてやろう。第一宝具、再演。『訣別の時きたれり。其は、世界を手放すもの』。……アルス・ノヴァ」

 

 それは極光の爆発だった。

 人類がそれを見るにはふさわしくない。神へ万能を返還する儀式。まさにその歴史的な瞬間を目撃したマスターは、もはや言葉に言い尽くせないでいた。

 ロマ二……ソロモンが自爆する。それによってゲーティアの万能性は崩壊した。

 

「ォォォ……。オオオオオオオォォォ!!! なぜだ。なぜ貴様にそんな選択肢ができる、ソロモン! 『無能』な王のどこに、そんな勇気があるのだ!!!」

 

 時間神殿が一部崩壊する。

 ゲーティアの万能性が消えたことで、第二宝具の運用が弱体化したからだ。魔神柱たちの結束も解かれ、一気に優勢がぐらつく。

 もうゲーティアには不死性はなくなった。つまりは、マスターにゲーティアを倒す絶好のチャンスがやって来たということだ。

 

「ドクター!」

 

 マスターが叫ぶ。

 

「今まで隠していて悪かったね。私のこれまでは、ほとんど君に助けられてばかりだった。今、この瞬間こそが私の存在意義、それを果たす時。私の完全消滅をもって、過去……神代の終わりを迎える」

 

 ソロモンの身体が次第に透けていく。

 これはマスターがよく見るもの、英霊の消失の前兆だった。

 

「待って、ドクター!」

 

 走る。

 ゲーティアに全快してもらっていないせいで、足元がおぼつかない。それでも何とか彼の元へたどり着くと、マスターは胸に飛び込んだ。

 この温もり。この匂い。何より感じるこの優しさ。これはロマ二のものに間違いなかった。

 

「ドクター。死ぬの?」

 

「そうだね。あれはようは自爆攻撃なのさ。だから仕方ない」

 

 なおもソロモンの消滅は進む。

 これまでだって、このようにしてたくさんの英霊と別れてきた。そして、マシュの盾による召喚でかつての敵だったサーヴァントとだって契約を結んでいる。

 だから、この戦いが終われば、ソロモンも……。

 

「自爆攻撃だと? そんな生易しいものなどではない! 英霊の座から降り、さらには己が存在の全てを放棄した!! 我が光帯などまだ優しいものだ。貴様は今、『無』に至ったのだぞ!! 以降、貴様の功績が地上に現れることは、ないッ!!」

 

 ゲーティアが必死にまくし立てる。

 黄金の身体を赤く燃え滾らせ、怒り……いや、何故という疑問の具現化がゲーティアを苦しめる。

 そんなゲーティアの言葉に。

 

「………………え?」

 

 としか言えなかった。

 

「そんな、でも……嘘。嘘……だよね?」

 

 ソロモンの服を握りしめる。

 涙目で彼を見上げる。だが、彼が悲しそうな顔をする意味を悟り、マスターは息を飲んだ。

 

「ごめんね?」

 

 ソロモンがマスターを抱きしめる。

 いつもならば、淡くも幸せな気持ちになれたのに、今回はそうならなかった。

 ソロモン……ロマ二とは、初めからずっと一緒にいた仲間。マシュと同じくらい大切な仲間なのだ。そんな人を、マシュに続いて、二度までも失うなんて、マスターには耐えられなかった。

 

「そんなの、ないよ……! ずるいっ! 私を……置いていかないでよぉ!!」

 

 大粒の涙が止まることを知らない。

 鼻水で汚くなった顔をソロモンの胸に深く埋め、これでもかと人生最大の力でソロモンを抱きしめた。絶対に離したりするものか、と。絶対にどこにも行かせない、と。

 しかし、完全消滅の時は無慈悲にやって来る。だんだんと『抱きついている』という感覚が曖昧になっていく。

 

「ダメ! 絶対にダメ!」

 

 雲をつかむような感じ、とはまさにこういうことを言うのだろうか。

 触れているような感覚はなく、だがそこに確かに実在する。触れられない存在。ソロモンは今にも、もうマスターの手の届かないところへと行ってしまいそうだ。

 

「本当にごめん。君の獣性を知っていながら、私は見て見ぬ振りをすることしかできなかった。だから今、全ては無理だけどある程度なら……」

 

 ソロモンの手がマスターの頭に触れる。

 ぽうっ、と温かい光が輝き、マスターの中で、ナニカがごっそりと取り出される感じがした。

 これまで溜まりに溜まった悪性。それが消えるだけで、これほどにも世界が美しく見えるのか。感動に身を震わせ……違う。

 

「そんなのはどうでもいいの! 誤魔化さないで!! どうすればいい! ……ねぇ、どうすれば……」

 

 もはやソロモンの身体は光の残滓となっていた。

 それに気づいたマスターは彼に触れようとするも、すでに何も感じることはできなかった。

 ゲーティアはまだ苦しんでいる。万能性を剥奪される恐怖がどれほどのものか、マスターにはわからないが、目の前で、残り一分も残されていないであろうソロモンは、二度経験することになったのだ。

 

「全く……我が儘な娘だなぁ」

 

 薄い光だけの腕が伸び、マスターの胸に触れた。

 触れているという感覚はないはずなのに、触れられているという感覚は、なぜか感じられた。

 それを忘れたくなかった。両手で彼の手を自分の胸に押しつけるように重ねる。

 

「僕がいなくなっても、思い出はいつも、そこにある。大丈夫、また会えるよ。その時まで、少しの間お別れだ」

 

 こんな時なのに、解せない。

 ニヒルなスマイルを見せられ、マスターは思わず微笑んでしまった。目の端を指でぬぐい、まっすぐにソロモン……ロマ二を見上げた。

 

「カルデアの司令官として君に最後の命令を。……勝利を。完膚なきまでの勝利を。さあ、行ってきなさい。これが君とマシュのたどり着いた、ただ一つの旅の終わりだ」

 

 そうだ。

 これですべてが……すべてが終わる。

 長かったような。短かったような。そんな辛く厳しい旅が。

 第一の獣を討てと、残った獣性が歓喜に震えながら叫ぶ。

 言われなくともそのつもりだ。人理焼却事件、その終止符を打つ時が来た。覚悟しろ、ゲーティア。人類の繁栄、返してもらうぞ。人類の未来を、返してもらうぞ。

 

「我らの結合は解けているが、時間は十分にある! 最後の一柱になるまで我が第一宝具を回せばいい! 命に限りは必要ない! 死を前提にした物語など、私には、無用だ!! 失せるがいい、人間たちよ! 七十二柱全てを以て、貴様たちを宇宙の塵にしてみせる!!!」

 

 サーヴァント、召喚。

 残り僅かな魔力を回して、ゲーティアを討つ。

 魔力が足りなければ己が命の火を燃やし尽くせ。ここが正念場。ここが命の張り処。持てるすべての力を出せ。

 

「ドクター……行ってきます」

 

 ロマニは微笑み、ついに消滅した。

 必ず勝つ。

 抱くはこれまでにないほどの闘志。

 最終決戦、今ここに。

 

 ◆

 

「ォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオーー……!!!!!!」

 

 ゲーティアが膝をつく。

 時間神殿が崩壊する。それは何よりの、ゲーティアの敗北を意味していた。

 マスターの持つ魔力はもう、ほぼゼロだ。視界がぶれ、横に倒れる。サーヴァントたちの現界を維持できず、光となって消えてしまった。

 

「貴様が邪魔だ。貴様ひとりが邪魔だ。なのに何故……何故我々はこんな人間ひとりを排除できないのかーー……!!」

 

 無敵であるはずの魔神柱たちが敗れる。

『ゲーティア』たらしめる要素が光速で削ぎ落とされ、魔術式の停止があと僅かとなった。

 ゲーティアも、マスターもボロボロの身体だ。両者とも、立っていられるのが異常なほどだ。これが互いに獣性を抱える者同士の意地と言うべきか。

 

「何故だッ! 貴様と私、同じく獣性を獲得した者同士、分かり合えたはずだ! それなのに何故!!!」

 

 先に立ち上がったのはゲーティアだ。

 大きな身体をふらつかせ、マスターに近づく。先ほどのような黄金の身体は色あせ、戦闘前の神々しさは無くなっている。

 魔神柱たちが『終わり』を迎え、消滅していく。

 

「『終わり』だと? このゲーティアにそんな言葉は不要である!」

 

「いや、終わりだよ……ゲーティア」

 

 ようやくマスターが立ち上がる。

 自分が水平の上に立っているのかもわからない。どこを見ているのかも、何を感じているのかもわからない。だが、ゲーティアという明確な敵はちゃんと目に焼き付いている。

 

「我々の前で終わりを語るな……!! 我々はまだ負けていない。戦う意志は、貴様を殺すための拳は、まだ残っている」

 

 瀕死ながらもゲーティアは依然として堂々と歩いてくる。

 

「フォウ! フォーウ!」

 

 威嚇するフォウを宥め、マスターはゲーティアを待ち構えた。

 

「お前という人間の真価を計れていなかったことは認める」

 

 拳撃。

 

「……ッ!」

 

 咄嗟に魔術防壁を張る。

 ガギィンッ! と鈍い音が響き、マスターに重い衝撃が伝わる。

 だが倒れない。

 

「不快だが訊いてやる!」

 

 拳撃。

 魔術防壁。

 衝撃。

 だがマスターは倒れない。

 

「なぜ。なぜ我々に屈しない! なぜ戦い続ける!!」

 

 溜め。からの拳撃。

 カスほどしか残っていない魔力を全て使い切り、全力の魔術防壁を張る。

 衝撃。

 それでも、マスターは倒れない。

 逆に、ついにゲーティアは力尽きた。膝をつき、下を向く。魔神柱たちはそれぞれ滅び、四散し、逃亡し、とうとう残るはあと一柱。魔神フラウロスのみ。

 令呪、三画解放。全てを魔力回復に。それでも全体の二割程度。……十分だ。

 

「生物じゃない、ただの魔術式でしかないあなたには一生理解できないことよ

 獣性がなに。光帯がなに。三千年? ……ハッ! 知ったことじゃないわ」

 

 魔力を全て拳に注ぎ込む。

 ゲーティアがゆっくりと顔を上げる。時間神殿の崩壊まであと少し。

 グラつく地盤。崩れてゆく魔神柱。『ゲーティア』は、ついにゲーティアとなった。

 三千年の人類の繁栄に対するは、たった一年で歪に成長した少女の拳。

 

「私を殺したことを後悔する日が、必ず来るぞ……!」

 

「ーー例えそうだとしても」

 

 重い踏み込み。

 上半身を右に逸らし、血が滲むほど拳を握り締める。

 

「#########ために戦うわよ、ゲーティア」

 

 少女の拳は深く。深くゲーティアの顔面に食い込んだ。

 

 ◆

 

 ーー生きる為。

 

 そうゲーティアは聞いた。

 だが、その言葉と表情はどう考えても一致していなかった。

 消えかけのソロモンによって獣性の大半は浄化されたというのに、それでも『これ』か。

 濾過された透明な獣性が落とされ、取り残された濁った獣性が暴走する。ソロモンが9割を浄化したというのなら、残った1割が特大の獣性を抱えていたということか。そこはソロモンの誤算……というのだろうか。

 いや、そもそも本当に生きる為と言ったのかも怪しくなってきた。

 言った? 言ってない? どっちだ? 言っていないとしたら、いったい何と言った?

 思考の渦に囚われるも、時間があまりにも足りなかった。

 その答えが得られることはなく。

 

『魔術式ゲーティア、停止します』

 

 無慈悲なことに、ゲーティアの活動はここーー……。




マスターはなんと言ったのか。
それは、誰にもわからない。

次、活動報告にてリクエストがあったので、ナイチンゲールさんいきます。


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どくにおぼれるしょうじょ

やりました。
ランキング上位に入りました。
超嬉しくて、勢いで書いてしまいました。今日一日でお気に入り数も超増えて超嬉しいです。(語彙力)


 突然だが、マスターが発熱した。それもなかなかの高熱だ。

 その日、カルデアはちょっとしたパニックに陥った。

 

「38.8℃……高いですね」

 

 ナイチンゲールは、体温計の温度を読み取ると、マスターの額に乗せたタオルに包んだ保冷剤を交換する。

 まだ交換して五分と少ししか経っていないのに、もう完全に溶けきっている。だがナイチンゲールの指示により、保冷剤はまだまだいくらでもある。持久戦ならば、ナイチンゲールの勝利は揺るがない。勝利の女神も安心のグッドサインだ。

 

「あの……大丈夫……でしょうか?」

 

 静謐のハサンが心配そうに尋ねる。最近最もマスターの側にいたのは彼女だ。その特性から、自分のせいで発熱したのかと危惧するのも当然か。

 そして隣に清姫、頼光ママとマスター好き好きトリオが揃いに揃っている。そしてハッピーセットということでちんまりとマシュがいる。総勢五人、マスターの部屋に居座っているというわけである。

 

「何も問題ありません。環境は完璧。道具も完備。申し分ありません、この程度の病人を救うには余裕です。ええ」

 

「マスター……」

 

 マシュが呟く。

 マスターの頬に触れる。想像以上の熱さに一瞬目を見開くも、すぐさま離すことはなかった。

 大粒の汗を流し、苦しそうに呻いている。

 

「本当に治るんですよね……?」

 

「もちろん。必ず治してみせます。それこそ殺してでも」

 

「それはちょっと」

 

 苦笑いを浮かべ、マシュはマスターから離れる。

 

「マスターが苦しんでいる……なればこの清姫がっ! 看病しなければっ!!」

 

「いえそれには及びません。ここは母にお任せを」

 

「私はマスターに愛のキスで目覚めさせると約束しました。なので……」

 

 にじりにじりと歩み寄るマスター好き好きトリオ。

 完全に今のマスターは無防備な状態だ。そんな中、彼女たちに襲われたらひとたまりもない。清姫にいたっては、よだれダダ漏れの欲望ダダ漏れだ。

 そんな三人組を。

 

「殺菌!」

「ぐえっ」

 

「消毒!」

「あぐっ」

 

「緊急治療!」

「ぐはっ」

 

 伸びる手を掴み、見事な連続CQCを決めた。これには思わず蛇さんも満面の笑み間違いなし。

 

「ここはもう病室です。騒ぐのなら退室させます」

 

「もうどっちが騒がしいのか……」

 

 目に星が回っている三人を、まるで子猫のように乱雑に首根っこを掴んで廊下へと蹴り出した。

 飛び火しないように、どさくさに紛れてマシュも退散することにした。

 ナイチンゲールは治療の道のスペシャリストだ。ダ・ヴィンチと比べると、その年季も異なることから、熟練度も遥かに差があるだろう。

 だから、彼女に任せても大丈夫だ。

 

「では、マスターをお願いしますね」

 

「ええ。任せてください」

 

 マスターのためにお粥くらいならマシュにだって作ることができる。今から用意すればちょうどいいくらいだろう。厨房にエミヤ氏もいるはずだから、あの人にも手伝ってもらおう。

 そう考えながら、マシュはマイルームを後にした。

 

 ◆

 

「ごめ、ん……やばい」

 

「どうぞ」

 

 さすがサーヴァント。素早い速さでエチケット袋を持ってくると、すす、とマスターの口元に当てた。

 

「オ、エエェェェ……」

 

 びちゃびちゃびちゃ。

 酸味の強い香りがマイルームに充満する。だが、ナイチンゲールは嫌な顔のひとつせずに、マスターの口元を布巾で拭いた。

 

「慣れてますね。普通なら、変に逆流して鼻から出たり、流れでもう一度吐くのですが」

 

「ぐーぜん、だよ」

 

「いいえ、いったい私が何人の治療を行ってきたとお思いで? 歴戦の私をあまりなめないほうがいいですよ」

 

「さっすが……白衣の天使、だねぇ」

 

「な、何を言うのですか」

 

 照れを誤魔化そうと、ぷいとそっぽを向き、エチケット袋をゴミ箱に捨てた。そして新しいものを3枚ほど用意する。

 熱は相変わらず下がらない。だが、マスターの調子はいつも通りに見える。身体は悲鳴をあげているが。

 獣のように荒々しい呼吸。吐く時以外、身体は一切動いていない。さらに、マグマのように熱い身体。さすがのナイチンゲールも、このような症状は知らなかった。

 明らかにただの熱ではない……はずだ。

 それに眼が少し濁っているようにも見える。おそらく今のマスターは、ほとんど眼が見えていない状態だ。

 試しに実験。

 

「マスター」

 

「う、ん……?」

 

 眼球だけ動かし、ナイチンゲールの場所を探している。

 ナイチンゲールは、そんなマスターの目元に手をかざした。これで視界は完全に塞がれているはずだ。

 

「あれ……? へや、暗くした?」

 

 ビンゴだ。

 

「いえ、気のせいですよ」

 

 スッ、と手を退けて、今度はマスターの身体を起こした。ふと時計を確認し、簡単に今後の予定を組む。

 

「だいぶ汗をかいています。軽くシャワーでも浴びてスッキリしましょう。立てますか?」

 

「もう。おばあちゃんじゃ、ないんだから……」

 

 ナイチンゲールの腕を強く掴む。鉛のように重そうな脚をベッドの端まで動かして、ようやく地面につくことができた。そして、ゆっくりと立ち上がる。

 

「ほら、でき……あ、れ」

 

 バランスが崩れる。

 変に見栄を張ったところで、ちゃんと目も見えないくせに立つのは馬鹿のすることだ。ナイチンゲールは小さくため息をつくと、倒れかかったマスターの腰を受け止めると、残った腕を膝の裏に回し、持ち上げた。

 

「ちょっ、ちょっと。これじゃ恥ずかしいよぉ……」

 

 お姫様抱っこ。

 それは世の少女たちが、空想上の物語で目にするドキが超ムネムネする夢のひとつ。されれば大勝利(イケメンに限る)だが、看護婦さんにされるのはいささか妙な感じだった。そして何より恥ずかしい。抵抗しようにも力が出せないし、出したところでサーヴァント相手にどうしようもない。

 いろいろと考えたところで、頭に熱が回ってきた。意識がぼんやりとしてきて、これ以上はいけないと本能で悟る。

 兎にも角にも、彼女はバーサーカーだ。曲がり曲がっても看護婦であるが、その本質は暴走に囚われている。

 どうしようもない。彼女がシャワーと言えばシャワー。飯と言えば飯なのだ。

 座薬を……。と言い出さぬことを祈るばかりである。

 

 ◇

 

「あーー……」

 

 冷たいシャワーが、熱く燃える身体を冷やす。これぞ命の洗濯。存外に気持ちよく、何も考えられないマスターに、快をもたらす。

 

「どうですか? マスター」

 

「あーー……」

 

 ナイチンゲールの言葉が耳に入らない。

 隔絶された意識の中で、ただただこの冷たさを享受していたかった。

 裸体のマスターは、背中をナイチンゲールに支えられ、だらしなく口を開けていた。

 そんな彼女が、満足して弱々しく笑顔を見せるまで、ナイチンゲールはただじっと見ていた。

 

 ◆

 

 マシュ手作りのお粥を少しだけ食べて、マスターはまたナイチンゲールに介抱されながらマイルームへと戻った。

 あれほど冷たいシャワーを浴びたというのに、また身体が熱くなってきた。ましになっているか……は、息絶え絶えのマスターにはわかるはずもなかった。

 

「……くる」

 

「どうぞ」

 

 エチケット袋があてがわれる。

 

「ウ、ウ。ゲエエエェェェ……」

 

 吐く。さっき食べたばかりのお粥も吐き出してしまった。マシュに対して申し訳ない気持ちになってしまい、「……はあ」と熱いため息をはいた。

 

 あの行動に、後悔はしていない。

 ただ、何を考えていたのかは、忘れてしまった。いや、きっと自分で自分に、都合よく無意識にフィルターをかけているのだ。ならば詮索するのはその時の自分に対してかわいそうだ。

 結果がこれだ。

 他人……いや、カルデア全体に迷惑をかけてしまった。どんな考えであれ、自分本意であったのは確か。

 実に罪深い女だ。

 

「マスター」

 

「……」

 

 答える余裕はなかった。

 だが手首に触られる感覚。そして何かを塗られた瞬間、高熱など嘘のように素早い速さで手を引っ込めた。

 

「あなたは今、非常に思考が曖昧になっています」

 

「なに、したの」

 

「塗り薬です。食事中に英雄王から調達してきました」

 

「……そう」

 

 首だけを動かして、塗られた手首を見る。

 一瞬だけピリッと痛みを感じるが、すぐさま湿布を張った後のようなスゥーッ、と涼しい感覚。皮が破け、処所肉が見えていた手首の傷が瞬時に治ったのだ。ちゃんと視認することはできないが、治ったという事実は確かに感じられた。

 

「私の仕事は、怪我人を治療すること。英霊となっても、それに変わりはありません」

 

 一枚羽織っただけの服がめくられる。

 マスターの裸体が露わになり、羞恥に頬を染める。だがナイチンゲールはそんなことお構いなしと背中に手を回し、マスターをうつ伏せにする。そして痛々しい腰の掻き毟った後にも塗り薬を塗る。

 身体が熱いせいで、いやに治る感覚が鮮明に感じられる。

 

「看護婦には、すべてお見通しです」

 

 ああ、とマスターは力が抜ける。

 再び服を着せてもらって、仰向けに寝転ぶ。眠い。ゆっくりと瞳を閉じ、夢の世界への切符を切る。

 身体はまだ熱い。だがそれとはまた別種に、ほのかに温かさを感じた。

 例えバーサーカーのクラスに召喚されても、暴走に囚われていても、本質の……人格を形成しているのはその人の信念、といったところか。

 思考が曖昧だ。本当に指摘されたとおりだ。

 怪我は治った。あとは熱が下がれば元通り。それでいい。それで終わりなのだ。どこもおかしくない。

 ……そう、元通り、だ。そのはずだ




時系列は……わかりますよね?
マスターが高熱にうなされる回でした。


では。
い つ も の
ネタが尽きたので、活動報告にてネタ募集中です。琴線に触れたら燃えます。


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裁きを受けよ、魔女め 前編

ぐだぐだ書いていたら思ったより長くなりそうだったので二分割します。


 サンソンは絞首刑に処され、物言わぬ骸となった。

 この異端の地で原因不明の受肉を果たしてしまっているせいで、カルデアに召喚されてからの彼の記憶は完全に失われた。これでもう、例えこのセイレムから解放されてカルデアに帰還し、無事サンソンを召喚できたとしても、ゼロからリスタートとなってしまう。そのもどかしさ。言い尽くせないものになるのは間違いない。

 マシュが息を飲む。マスターは、サンソンが首を絞められる苦しさに白目をむきながらもがくさまをただただ見ていた。

 

「……クソッ」

 

 ロビンが悪態をつく。

 

「これで罪人は裁かれた!」

 

 村人たちが歓喜にいきり立つ。

 どこかで一匹のカラスが狂ったように泣き喚き、マスターたちの心を毟る。

 哪吒に抱きつかれていたアビゲイルが、顔を真っ赤に泣き腫らしている。

 ……見ていられなかった。キルケーが悔しそうに唇を噛み締め、杖を握りしめている。

 どうしてこの人たちは、人を処刑して喜んでいるのか。まさに狂った集団だ。次は自分が神に背くものと裁かれるのではないか、と恐怖を抱くせいで互いに疑心暗鬼になり、人と人の信頼、信用が崩壊している異様な状態に何故気付かないのか。

 

「……無念」

 

 マスターがぽつりと呟いた。

 その瞬間、哪吒はマスターの胸倉を掴み、近くの木に軽く突き飛ばした。

 すぐ側にアビゲイルがいるというのに、覇気迫る表情でマスターに詰め寄る。哪吒の中で膨らんだ怒りが、つい爆発してしまう。

 

「我が主人 見損なった それでも人か」

 

「……」

 

 マスターは哪吒の目を見つめたまま、何も言わない。

 十秒か。それとも一分か。やがて哪吒はそっとマスターから手を離した。

 

「謝罪 憤怒 我慢できず」

 

「こっちこそごめん。……何もできなくて」

 

 苦しそうに数度咳き込んだ後、マスターは哪吒に寄り添ってあげてと諭し、哪吒はしぶしぶとアビゲイルの元へと戻っていった。

 マスターは、いち早くこの処刑場という、仲間を殺すためだけの異端の象徴から離れたかった。マスターとロビンしか気づいていないが、村人たちのうちの何人かはこちらを疑わしげに見ている。処刑されたのは、マスターを座長とする団員のひとりなのだ。しかも二人目。疑いの目で見られるのも当然だ。

 

「さあ、あの女も地下牢にぶち込んでおけ」

 

 判事が警官に指示する。

 

「座長さんは悔しくないの⁉︎ 私は悔しい! あの人は誰よりも誠実な人だった。それなのにどうして……」

 

 アビゲイルが吠える。

 無垢な少女の叫びは誰にも届くはずはなく、夜の帳が下り始めた処刑場での歓喜の声にかき消されるのみ。

 誰も聞いてくれない。誰も、カーターですら、話を聞いてくれない。

 

「悔しい。とても悔しいよ。でもどうしようもできない。次の処刑の矛先も私に向いた。……悔しい、ね」

 

 マスターがアビゲイルを抱き寄せる。

 マスターの心臓の音が聞こえる。ものすごい早さで脈打っているのが伝わり、アビゲイルはふと顔を上げる。

 

「座長さんーー」

 

 だが、言葉を紡いでいる途中で、それは遮られてしまった。マスターを警官が取り押さえたのだ。

 

「先輩っ!!」

 

 力を失っている状態のくせに、マシュが警官たちに掴みかかろうとする。全てはマスターのため。今連れていかれたら、サンソンと同じ道を辿るのは明らかだ。

 しかし、ここでさらに厄介ごとを起こせば、事は複雑になってしまう。それだけは何としてでも避けなければならなかった。

 

「来ないで、マシュ」

 

「先輩っ、それはっ、できないです……!!」

 

「ーー来ないで!!」

 

 令呪、一画使用。

 その瞬間、マシュが身体のスイッチを切られたかのようにその場に倒れる。

 何が起こったのか、一瞬わからない顔をしたが、すぐさま震える手で地をわずかに這いながらも叫んだ。

 

「やめてください先輩!! こんなの……こんなの、誰も望んでません!!!」

 

「……わかってる」

 

 いつも一緒にいるはずのマシュが、なぜか今だけは邪魔に思えてしまった。

 彼女の言う事は全て正しい。それは誰よりも理解している。だが、そんな世迷言は、この地では通じない。彼女の行動、言葉、それら全てにマスターの心が揺さぶられてしまうのだ。

 だから……。

 

 令呪、さらに一画使用。

 黙って、マシュ。

 ……そしてごめんね。

 

 ついに、マシュはマスターに口を盗まれた。

 

「ーー!!」

 

 ロビンたちに目だけで訴えかけるも、目を伏せて首を横に振る。

 どうしようもないのだ。次に死のスポットライトに当てられる役は、マスターに回ってしまったのだ。

 

「私が……魔女だったなら……」

 

 アビゲイルが呟く。

 

「私が……真に……神の教えに背く魔女ならば……。この虚ろなるセイレムの……唯一確かな……罪ならば……!」

 

 生気の抜けた表情で、アビゲイルが呟く。

 

「みなさん……聞いてください。ここに、みずからを告発します……」

 

 その声はなぜか、全員の耳に侵入した。さっきは誰ひとり聞こうとすらしなかったのに、強引に割り込んできたその声は、カーターの眉を一瞬だけ顰めさせた。

『死の丘』に嘘のような沈黙が流れる。誰もが皆、アビゲイルの、次に来るであろう言葉を……来ると確信している言葉を待っている。

 

「私はーー魔女です。森の中に隠れ、悪徳の儀式をしました。友人を惑わしました」

 

 それ見たことかと『セイレム』が嗤う。

 これ見よがしに、少女たちがアビゲイルが魔女だと喚き散らしながら石を投げつけ始める。

 サンソンという悪魔を処刑した途端にこれだ。カーターの元にやってきたマスター一座、まさに疑惑の塊。

 村人たちの不安、ストレス。そして都合の良い捌け口を探している。

 哪吒がアビゲイルを庇う。

 

「同郷の友に 投げるか! 愛 憎む者のみ 石を投げよ! さもあらずんばーー」

 

 槍で石を全て捌ききってみせる。

 石を投げている少女たちだって、アビゲイルを知る者のはずだ。それなのになぜ魔女アビゲイルと口早にまくしあげるのか。

 何の罪もない人を神という絶対的な存在を振りかざして裁き殺すのか。

 なぜ。なぜ。なぜーー。

 

「いいの。いいのよ」

 

 アビゲイルが哪吒を宥める。

 でも! とそれでも庇おうとするが、やや強引気味に彼女を退かせた。

 

「どれだけ傷つけられても私はもう、気分がーー」

 

 アビゲイルの身体を未知のナニカが覆う。それらが絡みつき、アビゲイルを再構成してゆく。

 紫の炎がアビゲイルを燃やし、歪な姿を貸し与える。

 

 それは、まさに魔女。

 

「ーーちっとも、つらくないの」

 

 ……本来ならばありえるはずのない魔女、ここに誕生せり。

 

 ◆

 

「あぐっ!」

 

 乱暴に地下牢に投げ込まれ、マスターは汚い床に倒れた。

 ゆっくりと目を開くと、飛び込んできたのは三匹ほどのゴキブリだ。だがそんなものに悲鳴をあげて後ずさるマスターではない。落ち着いた様子でゴキブリたちを手で払い、立ち上がった。

 質素なトイレに赤い錆がよく見えるベッド。湿気かカビか。ボロボロに崩れた木箱のようなもの。おそらく椅子の代わりだろうか。それにしても環境が劣悪だ。この場にナイチンゲールがいればどうなっていることか。

 どこからかわからないが、部屋の端で水がほんの僅かだが漏れている。それにハエがぶんぶんと飛び回っている。

 キルケーとは別の部屋にされた。だがそれも致し方のないこと。魔女化したアビゲイルを食い止めるためとはいえ、大魔女の真価を発揮したのだから。そしてふたり一緒の部屋だと何かを企てるかもしれないから。そしてなにより座長であるマスターは、キルケーよりも格上ではないかと疑われるのも当然。本音は一刻でもはやく始末したいところなのだろう。

 

「……」

 

 あのノートが今、手元にないのが痛い。

 きっと明日……早ければ深夜にでも裁かれて『死の丘』行きが決定される。

 その間にマシュたちが何か策を講じてくれることは願う。それだけしかできない。

 こんな部屋に時計などあるはずもなく、何分、何時間経ったかわからなくなったころ、錆びついた牢の鉄格子がギギギ、と嫌な音を響かせながら開いた。

 

「……」

 

「……」

 

 入ってきたのはカーターだ。

 門番が去り、互いに無言で見つめ合う。

 先に口を開いたのはマスターだった。

 

「やって来たね……魔神柱」

 

「……ほう」

 

 カーターの目が赤く光る。

 この瞬間、僅かながらも敵意を向けられ、身を引きそうになるも、負けじと胸を張った。

 

「いったいいつから気づいていたのかね?」

 

「さあね」

 

「つれない娘だな」

 

 そう言うと、カーターは魔術で崩壊した木箱を再生させ、それに腰かけた。

「ついでにベッドも綺麗にしてよ」とお願いしてみるも、「ハッ」とひと蹴りにされる。

 

「で、こんなに汚いところに何しに来たの?」

 

 マスターが冷たくカーターに問うた。

 

「私の『目的』を理解して欲しいのだ」

 

「目的?」

 

「そう。目的だ。魔術式ゲーティア……あれは誕生時から人類の救済を目的としたモノだ。それは私に通じていて、今も変わりない」

 

 思い起こすは、あの激闘。

 あの時ゲーティアを殴った感触が拳に残っている。それは消え去ることなく今なお残り続けている。

 

「そのためにこのセイレムはまさに最適と言える場所だった。さらにはアビゲイル・ウィリアムズの存在もある。そして彼女には願望があった。だから私はそれを助けようとした。だが誰にも、私にもできなかったのだ。だからカルデアを呼んだ」

 

「できなかった? どうして過去形? もしかして……いや、ループしたの? 何度も」

 

「ループだと? それに何の意味があるのかね。私は逆行は求めない。私は前進を求める……苦痛ある前進を。ただその工程を圧縮したのだ。生と死のサイクルを加速した」

 

「……悪いけど、生と死のサイクルを加速? っていうのがよくわからない」

 

「……所詮はただの小娘か」

 

 ガンガン、と何かを叩く音が喧しく響いた。門番が鳴らしたのだろう。

 カーターはスッと立ち上がると、鉄格子のドアを開けた。

 

「私は非常に君を警戒している。一瞬でも気を抜くと、いつも形勢を逆転される。我々が敗北から学んだことだ。だから徹底的に君を潰させてもらう」

 

 カーターの目が再び赤く光る。今度は敵意ではなく、殺意。明確な殺意だ。

 

「ひとつぶんのセイレムを消費することで、『外なる神』をアビゲイル・ウィリアムズに降ろすために必要な結び目は揃った。だからもう、カルデアは……君は不要となった。だからこの後、すぐにでも魔女裁判にかけてやる。そして魔女認定されて役に溺れ死ね。シバの召喚した大魔女は無罪放免で解放されるだろう。役が回っていないのだから」

 

「殺したいのなら今すぐ私を殺せばいいじゃん」

 

「それじゃあつまらないだろう? 主役は大々的に処されるべきだ。アビゲイルの前で死ぬ慈悲をやろう。それで目的の達成は揺るぎないものとなる」

 

 悪役に似ず、上品に笑いながらカーターは地下牢を出た。

 その瞬間、彼が復元した木箱が元どおりに崩れ、さらにはマスターの座っていたベッドが灰となって消えた。

 まさかの不意打ちに、マスターに身構える隙など与えられるはずもなく、無様に尻餅をついた。

 

「そうそう、そんなに汚いベッドに座るのはさすがに嫌ではないかね? 年頃の少女にそれはいささか酷だろう。『床に可愛らしく座った』方が……薄暗い地下牢で、助けを待つ少女像としては完璧だな」

 

 唯一腰をおろせる家具だったのに、それを奪われてマスターは腹が煮えくりかえった。

 すぐさま立ち上がってカーターに肉薄しようとするも。

 

「こらこら、そこで『待て』しないとダメじゃないか」

 

 カーターがスッ、と手をマスターに下ろすだけで、マスターの身体は、見えない力によって、地面に縫い付けられた。お尻がみちゃっ、と嫌な音をたてて踏みつぶす。

 そしてすぐにそれはゴキブリだと悟る。

 

「これで可愛らしく女の子座りして待ち続ける像の完成だ。……ふむ、だがこれだけでは足りないな。待つからには『時間』が必要だ」

 

 手を横に払う。

 すると、マスターの目元を黒い何かが覆い、完全に視界が塞がれる。さらにそれは口にも強引に侵入してきて、言葉を発することすらできなくなってしまった。

 

「ーー! ッッ!! ーー!!」

 

「あとはこの地下牢だけ時間経過を遅延させて……おっと。手元がくるった。まあいい。数日……いや数週間ぶんくらいに間違えて引き伸ばしてしまった。しかし、衰弱しきって死にそうになったら勝手に解除されるから安心したまえ。君は我慢強い人間なのだろう? ならば一週間程度、問題なかろう」

 

 ギギギ、と鉄格子が閉まる音が聞こえる。

 門番は。門番はこの異常に気づかないのかと唸るが、耳に誰かの生の感じさせない唸り声で静かに悟った。

 ダメだ。無理だ。そんなの、耐えられるわけがない。

 必死に身体を動かして抵抗しようとすると、両手が何かに拘束され、ついに身動きひとつできなくなってしまった。

 

「そんなに暴れたら余計に疲れるだけだ。鎖を壁に繋いでおいたからおとなしくしているんだぞ。では、次に会う時を楽しみにしているよ」

 

 置いていかないで。

 最後の令呪を使用して拘束を外そうとしたが、ほんの少し腰が浮いただけで、もう、それ以上の抵抗は臨めなかった。

 耐えきれる自信がなかった。いや、きっと耐えるのだろう。だが、その時自分がどうなっているのか想像するだけで恐ろしかった。

 やめて。

 やめて。

 やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてーー……!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ーーさようなら、カルデアのマスター」




次回。
マスター、裁かれる。

すっごくカーター氏が悪役になってしまった。でも魔神柱だからこれくらいは普通だよね^_^


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裁きを受けよ、魔女め 中編

キリがいいとこだったので結局三分割になりました。
後編は短くなりそう……。


 暗闇だ。

 完全なる暗闇だ。

 マスターは静かに呼吸を繰り返しながら、死にかける寸前までの時を待ち続けた。

 

「……」

 

 無限の牢獄。いつ果て終わるかなどわからず、永遠とも錯覚する時間を漂う。足は痺れを通り越し、感覚を失ってからどれほどの時間が経ったのかはわからない。

 足元では糞尿がダダ漏れとなり、とんでもない異臭が狭い地下牢に充満していた。頼れる感覚は嗅覚のみ。だが、それも異臭に犯され、頭がおかしくなってしまいそうだ。いや、すでにおかしくなっている。口に溜まった唾が飲み込みにくく、いたずらに溜まるのみ。気持ちの悪さに吐きそうになっても、口を覆う正体不明の物体が邪魔し、一度口の中まで上がり、吐き出すことを許されずに胃へと退却させられる。その繰り返しだ。

 おこぼれを許された一部が口の端から零れ落ち、地面で糞尿の一部となる。

 そしてそれにたかるハエたち。耳元で羽ばたく高い音が離れたり、近づいたりを繰り返してマスターの意識をかき乱し、休むことを拒絶する。

 まさにこれぞ地獄。醜悪な魔神柱に囚われた、極小の辺獄だ。

 ハエが一匹、マスターの左耳に止まった。髪の毛よりも細い足がカサカサと這い回る音。感覚。それらが非常に鮮明に感じられる。

 

 頭をひと振り。

 ……離れない。

 

 さらにひと振り。

 ……予想以上に傲慢で、なかなか降り落とせない。

 さらにあろうことか、ハエは奥へと進み始めた。

 

「! ーーッ!! ーー……!!」

 

 カサカサ、カサカサカサと音が大きくなる。

 頭を左に大きく傾け、激しく頭を振り回す。

 だが、それでも落ちることはなかった。

 

 カサカサ。

 カサカサ。カサカサ。

 カサカサ。カサカサ。カサカサ。

 

「〜〜〜〜〜〜!!!」

 

 それだけは許せない。何が何でも許さない。

 両手首の鎖が食い込もうと知ったことか。限界まで地面に頭を下げ、全力で耳を打ち付けた。

 激痛が走る。ここに閉じ込められてから感じた初めての感覚。だが、そんなものに感傷に浸っている暇はない。

 絶対に!! させない!! 絶対に!!!

 ガンッ! ガンッ! と血が流れようとお構いなしだ。

 狂ったように叫ぶことすらできず、極限まで引き伸ばされた時間の中、獣のように唸ることしかできない。

 あとどれくらい時間が残っているか、なんて考えられる余裕がある程度だ。実際のところ、まだ半日も経っていないことだって十分にありえる。いや、きっとそうだ。

 本当に余裕が無くなるというのは、何も……何も無くなるということだ。これ以上は言い表せない。

 いったい何度耳を打ち付けたのだろうか。もしかしたら耳が潰れているかもしれない。だが、それでも防ぎたかった。

 いつの間にかカサカサという、恐ろしい音は聞こえなくなった。

 体力をだいぶ消耗してしまった。だがこれは必要なものだ。後悔はしていない。

 鼻だけで呼吸を整える。豚のように無様に音を立てながらしていたせいで、勢い余って鼻水が流れてしまう。それを拭く術はない。

 疲れた。周囲を飛び交う無数のハエが安眠を邪魔するが、せめて。せめて脳だけでも休ませたかった。

 やがて呼吸が落ち着き、ハエの飛ぶ音を意識から排除しようとした、その時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……カサッ。

 

 ◆

 

 夜の静けさを讃えるフクロウの合唱もなく。闇がかかった、暗いセイレムを照らすはずの月光は弱く。

 簡易法廷である教会に、ひとりの罪人が裁かれていた。

 教会には半数以上グールがいるというのに、まるでさも当然のように村人たちは共に傍聴席に座っている。もちろんロビンやマシュたちもこの裁判に立ち会っている。

 

「壮観だ」

 

 キルケーが鼻で笑う。

 

「被告。芝居職人の子役、キルケー」

 

「だいま……女優だ! この場では! お間違いなく願おう!」

 

 キルケーの訴えも虚しく、判事は眉ひとつ動かさずに裁判を進める。

 

「被告は公衆の面前で魔術を行なった。それを確かに認めるか?」

 

「……それは認めざるを得ないようだ」

 

 しぶしぶとキルケーが肯定する。

 傍聴席にいるグール含め大半の村人たちがそれを目撃しているのだ。否定しようもないし、魔女化したアビゲイルと堂々と魔術を行使したのは疑いようがない。

 そもそもキルケーは大魔女だ。結局どうであれ、魔女裁判で有罪判決のなるのは明らかだった。

 ……だった。

 

「ーー異議あり」

 

 だが、それを否定してみせたのはまさかのカーターだ。

 判事がここで初めて不快そうに顔を歪めた。

 

「あなたも見ていたはずだ。それなのになぜ」

 

「……」

 

「……異議を認める。発言を」

 

「ありがとう判事」

 

 カーターは席から立ち上がると、口を開いた。

 

「皆さんは物事を真面目に捉えすぎです。よく思い出してください。あの時、戦っていたのはアビゲイルとそこの子役……ただの子供ではありませんか。年頃の子供によくある妄想の産物だ。巧妙な芝居職人は見た者を惑わすだけの視覚トリックも持ち合わせていよう。当然、他者を貶めることにも使えるはずだ」

 

「そんな……伯父様……! わたしは魔女なのよ? どうして信じてもらえないの?」

 

 罪悪感に駆られ、アビゲイルはカーターの言葉を否定する。

 アビゲイルのせいでキルケーが裁判にかけられたのだ。これは紛れも無い事実であり、それによってマスター一座に迷惑をかけてしまっている。しかも、その座長であるマスターの姿がまだこの教会にはない。

 今回の魔女裁判は、キルケーとマスターを裁くために開かれたものだ。

 どこかがおかしい、とアビゲイルは思った。

 

「嘘はよくないよ、アビゲイル。……失礼しました。この通り彼女は心身が疲れている。とても魔女とは思えません」

 

「伯父様……」

 

 さらに、とカーターは言葉を続けた。

 

「一連の事件には、全て来訪者……一座の座長が関わっている。しかも女だ。もしかしたら裏で糸を引く黒幕、つまりは本当の魔女ではないでしょうか?」

 

「詭弁です!」

 

 マシュが横槍を入れる。

 

「口を慎みなさい。今はカーター氏が異議を申しています。さらにあなたのその発言、神に背く魔女の味方と判断されかねませんよ?」

 

 判事が木槌を叩く。

 

「まだ先輩が魔女と……!」

 

「やめておきなさいマシュ。これ以上は危険よ」

 

 ヒートアップするマシュをマタ・ハリが止める。

 ふと我に帰ったマシュは、グールと村人たちの視線に気づき、悔しそうに唇を噛み締めながら着席する。

 

「カーター氏。続きを」

 

「そうだな判事。……ということで、『子役』の被告キルケーの裁判の結果は無罪として、座長の裁判をするべきだと提案します」

 

「……ふむ。あなたの意見は一理あります。ですが、被告キルケーの裁判は一旦保留とし、先に座長の裁判を優先させます。召喚を」

 

 判事が木槌を再び叩く。

 すると教会のドアが開かれ、グールに肩を担がれてひとりの少女が教会に召喚された。

 鼻が曲がるほどの異臭を放ち、たった半日足らずで礼装はボロボロ。なにより表情が完全に抜け落ち、見るに耐えない様だった。いったい何があればあのようになるのか。

 どちらかというとグールに引きずられながらの召喚だった。

 その正体はまぎれもない、マスターだった。

 

「ぇ……先、輩」

 

 グールたちが喚き始める。

 マジョ。マジョ。ヒニアブラレテシネ。

 ハイハウミニマイテシマエ。

 カチカチと顎を開閉させ、唸りながらマスターに手を伸ばす。

 

「まだそれは許されない」

 

 カーターの目が赤く光り、グールたちはすごすごと引き下がった。

 

「魔神柱! この娘になにをした⁉︎」

 

 キルケーは怒りに震えた。

 キルケーはマスターと部屋を離されたため、何が起こったかはわからない。だが何か酷いことがあったのは、マスターの姿を見れば明らかだった。

 杖を構え、火球を作り出し発射体制をとる。

 

「勘違いしているようだが、私は何もしていない。それに、せっかく君を無罪にしようとしているのに、無駄になってしまうが?」

 

「そんなことはどうだっていい!」

 

「ーー裁判中です! 被告キルケー。それにカーター氏も静粛に。これから座長を裁かなければならないのです」

 

 小槌を三度四度叩き、判事はふたりを黙らせた。グールに顎で指示し、マスターを強引に椅子に座らせた。

 マスターはなすがままにされ、力なくだらんと座った。

 

「被告。あなたには魔女である疑いがかかっています。あなたは魔女であることを認めますか?」

 

 判事が問う。

 あれほど騒いでいたグールたちは静かにマスターの返事を待っている。

 

「…………ぁー」

 

 しかし、帰ってきたのはまるで意味をなさない言葉であり、マスターがもう、潰れかけているのは誰が見ても簡単に悟ることができた。

 

「判事、続けたまえ」

 

「ですが……」

 

「『続けたまえ』」

 

「はい」

 

 もはやこれは魔女裁判などではなく、カーターを中心に回る独裁と化していた。判事は狂ったように何度も木槌を叩きつけ、壊れようと今度は拳で叩きつけた。その姿はグールとなり、それはまたたく間に伝播し、傍聴席に座っていた村人たちもまたグールとなってしまった。

 

「あナタは団いンをてあシノように使い、神に……カミにかミニ神二カミに……! 許さレザる罪をッ! 犯しマしたネ?」

 

「あー。あー……」

 

「ヨロシイ! デハあナタはマジョであり、ヨッテ、シケイ、だ!! 」

 

 指が折れようとも、手を叩きつける。肉の砕ける音が聞こえるが、それでも判事は続けた。

 

「そいつぁおかしいぜ、判事さん。証拠もなく、動機もない。それなのに魔女であるって決めつけるのは強引すぎはしませんかね」

 

「イイエ、このオンなは、魔女! デス! 『セイレム』に……『神』に背キマしタ!! これイじョウ、必要なシツギはアリまセン」

 

「……そうかい」

 

 ショケイヲ! ショケイヲ! とグールたちが囃し立てる。

 罪が重なり、無造作に積み上げられ、それゆえの赦しを乞う。グールたちがマスターを想い、乞う。死を。苦しみを。痛みを。

 痛みこそ、何よりも代えがたい確かなものであり、それによる救いを求める。喜びも悲しみも憎しみもいつかは薄れ、消える。ならば、消えることのない痛みによる救済を。

 ロビンが弓を構える。

 

「もうこれは裁判なんかじゃない。マスターを魔女に貶めるただの茶番だ。そうとわかればあとは簡単だ。茶番を終わらせ、マスターを救う」

 

「でもこれだけの相手、できるかしら?」

 

 マタ・ハリがナイフを構える。

 今、戦いが始まったとしても、完全な劣勢からのスタートだ。こちらは少数。そして敵は多数。さらにこの狭い教会で、というのも大きなハンデだ。

 

「それでもやるんだよ!」

 

 ロビンが矢を放つ。標準はカーターの頭。

 

「ふむ。強行突破できたか。ならば私もそうしよう。ぐだぐだしていると、すぐに逆転されるからな」

 

 カーターが指をパチン、と鳴らす。

 たったそれだけで、ロビンたちを残し、教会には誰もいなくなってしまった。

 

 ◆

 

「魔女の処刑を執行する。なお、懺悔も自白もなかったため、目隠しをして執行するものとする。……いつ床が抜けるかわからない恐怖の中死ぬがいい」

 

 人間に戻った判事が冷たく言い放つ。

 意志を持ったグールたちがマスターの両脇を持ち上げ、処刑台まで運び上げた。

 一歩遅かった。

 大急ぎで『死の丘』へと向かったマシュたちだったが、すでにマスターが登壇した後だった。別行動をしていたシバの女王と合流し、グールの壁を前に立ち止まる。

 

「そんな……そんなの、ないです!! 先輩!! 先輩ーー……!!!」

 

 マシュが必死に手を伸ばす。だがそれは、行く手を遮る大量のグールたちが邪魔し、近づくことすらままならない。

 マスターの寂しそうな、今にもボロボロに崩れそうな笑顔が見えた。だがそれはすぐさま目隠しによって隠されてしまった。

 ロビンも、マタ・ハリも、シバの女王も、キルケーもマシュも、もう見てはいられない。弱体化していながらも、全力でグールの波を超えようと奮闘している。

 

「おいシバの女王! あんたの宝具でなんとかできないのか⁉︎」

 

 グールの脚を弓の柄で叩き折り、次のグールの両目をナイフで刺す。

 一体一体倒している余裕などない。一刻でも早くマスターの元へ辿り着かなければ、間に合わなくなってしまう。ロビンは最後の矢をマスターを運ぶグールの片方の心臓に命中させるも、動きは止まらなかった。

 

「できませんねえ。弱体化しているせいで、有効打を与えられはしないでしょう。しかも、私はすでに『セイレム』に囚われた身。私が戦うことは脚本には載っていません」

 

 これでも精一杯なんですよお? とシバの女王が、雲のようなよくわからないものでマシュに襲いかかるグールたちをなぎ払う。その表情は相変わらず涼しいが、流れる汗が何より焦りを感じさせる。

 

「キルケーさん、先輩のところへ飛んで行けませんか⁉︎」

 

「無理だ! 飛ぶ隙がないんだ!! ああもう! しつこいやつは豚にするぞ!」

 

 皆が皆、必死だが、手一杯だ。

 互いに援護に行くことができず、マタ・ハリにいたっては、まともに戦えないマシュの守りに専念している様だ。

 弱体化さえしていなければ、この程度の敵、吹き飛ばしてみせるのに。そしてマスターをすぐにでも助けられるのに。

 

「ああっ! 首に縄がかかりました!! お願いです!! 誰か先輩を……先輩を!!!」

 

 マシュのいっそ悲鳴と言うべき叫び声に、一斉に視線が処刑台のマスターに集まる。

 

「どうだ。君の仲間の健闘虚しく君は死ぬ。何か遺言はあるか?」

 

 カーターがマスターの耳元で尋ねる。

 だが、マスターは何も答えず、魂の死んだ亡霊のように「ぁー……」と意味のない言葉を垂れ流すだけだった。

 

「ああ、そうだったな。君は二週間も地下牢で『救い』を待ち続けたんだ。ならばその『救い』……『痛み』を以って私が成し遂げよう」

 

 カーターの顔がヒトとは思えぬ、とんでもなく醜悪に笑う。

 床を抜くレバーに手をかける。

 

「ロビンさん、私を投げてください!!!!」

 

「いやできるがどうすんだ⁉︎ さすがに向こうまで届かないし、グールたちの波に呑まれて終わりだ!」

 

「わかっています! それでもお願いしますッ!!」

 

「ああクソッ! どうなっても知らねーぞ⁉︎」

 

 マタ・ハリからの護衛から抜け、マシュがグールたちの手を退けながらロビンに走り寄った。

 

「いくぞ!」

 

「はいっ!!」

 

 ロビンがマシュの腕を掴み、1回転。

 

「らあっ!!」

 

 マシュが空を飛ぶ。

 その背中を、隙間を縫ったキルケーが魔術で風を与え、一時的に風をまとった状態にする。マシュはキルケーに心の中で感謝を口にし、グールの波に飛び込んだ。

 着地の負荷はなく、身体のバランスが安定した瞬間、全速力で処刑台へ迫る。その距離、残り15メートル。

 マシュの周りには風が荒れ狂い、超小規模の嵐が形成され、グールを寄せ付けない。だからあとは、マシュの脚が先か、カーターがレバーを下げるのが先かの勝負となった。

 残り10メートル。

 

「聞こえるかね? マシュ・キリエライトが君を呼んでいる声が。……言っても無駄か」

 

 心身を激しく消耗してしまったマスターの心は、すでにもぬけの殻だ。

 カーターはそんなマスターの両頬を片手で乱暴に挟み込み、頭を揺らす。抵抗なし。ただ「あー……あー……」とどこにいるかわからないマシュを探している。徹底的に凌辱されてもなお意志は完全に砕かれてはおらず、腰の高さまで上げられないほど弱っているくせに手だけはプルプルと震わせ、指をかすかに動かし、マシュに触れようとしている。

 

「ハハハ……ハハハハハハハハハハ!! そうか! それが最後の足掻きか、カルデアのマスター!! だがその指は誰にも届かない!!」

 

 カーターが面白おかしく嗤う。手をマスターから離し、今度こそレバーに手が伸びた。

 

「やめてください!! やめてーーー………!!!!!!」

 

 残り5メートル。

 マシュが吠える。今にも泣きそうな顔だ。グールたちを風でなぎ倒しながら処刑台に登ろうとする彼女を、カーターは冷たく見下ろす。

 

「客は黙って見ていてもらおうか」

 

 カーターがマシュに向けて手を横に振る。それだけで、マシュの纏っていた風が失せ、紙のように吹き飛ばされてしまった。

 マシュを守るものがなくなる。その途端、グールたちが一斉にマシュに襲い掛かり、あっという間に地面に押さえつけられた。

 

「う、あっ……!」

 

 デミ・サーヴァントとしての力はほぼ失われ、さらに弱体化というふたつもの荷物を背負わされたマシュに、のしかかるグールたちから逃れる術はなかった。

 シバの女王たちはまだ距離が離れすぎている。とても助けには行けない。

 悔しさに視界が霞む。

 ほんの、あと、たったほんの少しでマスターの元へ行って助けることができるのに……できない。

 できないのだ。

 

「せんっ、ぱい……ッ!」

 

 手を伸ばす。だがそんなものに意味はなく、地面に生える雑草をブチブチと掘り起こすのみ。

 マスターは魔女なんかではない。ただの人間である。裁かれるのならば、マシュたちが裁かれるべきだったのだ。そうすれば弱体化しているとはいえ、マスターよりも頑丈な身体は仮死薬ありならばきっと吊り首に耐えられるだろう。

 何もできないのか。本当に何もできないのか。わかっている。わかっているのに、どうしても諦めきれなかった。マスターだってどんな時だって、完全に諦めきったことなんてなかった。だからマシュだって……。

 

「ううっ、う……」

 

 涙が溢れる。

 どれだけ考えても、どうにかできるビジョンが思い浮かばなかった。

 万策尽きたとは、おそらくこのことを指すのだろう。

 マシュが命を失った時は、キャスパリーグがその獣性を燃やし尽くし、それと引き換えに魔法を超えた完全なる死者蘇生をしてみせた。

 しかし、キャスパリーグは討伐され、もういない。英霊ならば再召喚してゼロから思い出を作ればいい。

 だが、マスターは違うのだ。死んでしまえば、そこで終わりなのだ。

 

「せんぱい……せんぱいぃ……」

 

 マシュにはただ、自分のマスターの名前を呼び続けることしかできなかった。

 

 ◆

 

 マシュの声、聞こえた。久しぶりあの声。

 人の温もり、触れたかた。

 から、だ動かず、どこいるかわからな。

 どこ。

 どこ。

 どこ。

 どこ。

 どこ。

 

 足元に一瞬、浮遊感。

 

「ギッ……!」

 

 ぐ……じ……。

 

 ◆

 

 ハエが一匹、飛び去ったのをマシュは確かに見た。




裁きは下された。

そのハエは、いったいどこから現れたのか。

ネタは活動報告欄にていつでも募集しています。


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裁きを受けよ、魔女め 後編

そういえば、ヘブンズフィールの第二弾が予告されましたね。超楽しみ。


裁きは下され、マスターは首を吊られた。
今回は、その後のお話。


 床は開かれ、マスターの身体は重力に従って下に落ちた。

 そして首が絞まる。

 普通に考えれば、少しでも楽になろうと足掻くはずなのに、マスターにはそれをする気力はなかった。

 もはや完全なる首吊り人形だ。

 

「ああ……ああああああああ!!!」

 

 マシュが泣き叫び、無駄だと明らかなのに再び暴れ始めた。のしかかるグールたちは、今まさに首を吊られているマスターに対して喜びの歓声をあげている。

 だから少しだけ隙ができると思った。だがそれは容易に裏切られ、何もできずにマシュの力の方が先に尽きた。

 あんなマスターを見たくなかった。あんなに傷つき、文字通り全てをボロボロに

 され、最後は首を吊られるなんてあまりにも酷すぎる。

 目を逸らすか。逸らさないかの狭間で苦しむ。だがその間にもマスターの命の刻限が迫ってきている。

 もしこのままマスターが死に、無事カルデアに戻ってきたとしても笑顔で2017年を超えられるはずなどない。

 未来を取り戻した、そしていつか未来で必ず英霊となるであろうマスターの、何よりの功績である2017年……その先が閉ざされるのだ。

 そう思うと、諦めきったマシュの心に、蝶が羽ばたくだけで消えてしまいそうなほどだが、小さな火が点いた。

 

「盾を!」

 

 手を伸ばして部分武装し、盾を召喚する。

 そしてそれをマスターの足元へと飛ばした。開かれた床の面積は狭い。だから、そこを盾で被せば、マスターが足をつくことができる……。

 火が灯した、微かな希望。マシュはそれに藁にもすがる思いで縋るしかなかった。

 だがこれには致命的な前提条件があり……。

 

「……ふん。小賢しい」

 

 それは、カーターが邪魔しなければ。

 カーターが飛んできた盾を蹴り、明後日の方向へと飛んでいった。

 

「ーーーー」

 

 ついにここでマシュはガクリと項垂れる。

 火は大いなる雷風になすすべもなく消され、何が起ころうと二度と再燃することはなくなった。

 マスターの足元からポタリポタリと尿が溢れている。それは股の筋肉が緩かった証。そして、とうの昔にマスターが危険域に突入していることを悟る。

 

「無様だな。所詮はヒトの子だったか」

 

「先輩を馬鹿にしないでください!!」

 

「事実を述べて何が悪いのだ……ん?」

 

 カーターがマシュを笑おうとしたところで、視界の端に夜には似合わない、あまりに白いモノが映った。

 ラヴィニアだ。

 

「こ、ここにいた……のね……」

 

 グールたちの目をかいくぐり、いつ間にか彼女は処刑台の足元に立っていた。

 カーターは彼女を見下ろし、口を開いた。

 

「今さら来たのかいウェイトリー? 罪の告白なら判事が快く聞いてくれるだろう。もしかしてこの娘を助けに来たのか……? だがもう遅い。この娘はすでに処された。あと数分で死に絶えるだろう」

 

「そう」

 

 興味のなさそうな顔で答えてみせる。

 

「わ、私は別にそこの人のことなんか、なんともお……思ってないわ。でもね……」

 

 壇を登る。マシュでさえ触れることすらできなかったのに、ラヴィニアは登った。そしてカーターの前に立つ。その後ろではマスターが首を吊られている。

 

「皆一度化けの皮を剥がした、のよ。なら、あなたも正体を、現しなさい!」

 

 懐に隠していた、粉のようなものをカーター振りかける。不意を突かれたカーターは、それを全身に浴びてしまった。

 

「ッ……ガアァッ……!!」

 

 ドタドタとカーターがよろめく。

 黒い闇のような衣が剥がれ、顔が割れ、異質なカラスの頭が姿を現した。

 

「おの、れ……ウェイトリイィィィィ!!!」

 

 頭を手で抑え、苦しみもがく。

 さっきまでの余裕はなくなり、憎悪に嘴をガチガチと鳴らしながらラヴィニアに手を伸ばす。だが、彼女は可憐に避けると、夜の闇に消えてしまった。

 その去り際に、マシュと目が合う。

 

「マスターを!!」

 

 しかし、ラヴィニアはマシュの言葉を無視して行った。

 

「あ、あ……」

 

 最後の希望が去ってしまった。

 まさに今、カーターが怯んでいる隙にマスターの首にかかる縄を切ることくらいできたはずだったのに、それをしなかった。いや、でもとマシュは自分を落ち着かせる。ラヴィニアが刃物を持っている様子はなかった。もしマスターに寄っても、縄を解いている間にカーターに襲われる可能性がある。

 結局は……。

 

「ーーあの子はよくやった。まだ諦めるな嬢ちゃん!」

 

 マシュが負のスパイラルに陥りそうになったのを、ロビンの励ましの声がすんでのところで止めた。

 シバの女王が雲によってマシュに群がっていたグールが一掃される。

 

「ラヴィニアちゃんのおかけでえーー、私、魔神柱の呪縛から解放されましたあーー」

 

 てへっ、と可愛く舌をペロリと出して埋もれていたマシュを引きずり出す。

 

「キルケー!」

 

「了解。ジメジメの地下牢にぶち込まれた恨み、八つ当たりとして返させてもらうよ!」

 

 ロビンの呼び声に、キルケーが応える。

 風を起こし、カーターに向かって撃つ。

 

「グッ……!」

 

 まだ完全に霊体が物質化されておらず、不安定なカーターには大打撃だ。

 ーーチャンス。ここで最大のチャンスが訪れた。ここでモタモタしていると、置いてきたグールたちにまた呑まれて逆戻りになってしまう。

 

「マタ・ハリ、キャッチ!」

 

 ロビンが矢を放つ。狙いはマスターの首にかかる縄をくくりつけている木だ。

 外れるはずもなく、見事命中して砕いてみせた。それによってマスターの身体は地面に落ちーー……。

 ることなはく、マタ・ハリが抱きかかえてみせた。キャッチする瞬間、大きな力を受けるだろうと少し身構えていたが、あまりの軽さに腰が浮ついてしまう。

 

「確保したわ! さあ皆、撤退するわよ!」

 

 キルケーがさらに風に力を送り、カーター……魔神ラウムを空高く吹き飛ばした。

 頭はカラスだが、身体は人間のものだ。ある程度頑丈だとはいえ、あの高さから落下して無傷とはいかないはずだ。

 シバの女王がマシュをおぶる。無理に英霊化したせいで、体に大きな不可のかかった彼女には、走るだけの力は残っていなかった。

 グールたちも近い。だが走れば距離を離せる。マスターの奪還も成功した。あとは撤退するだけ。

 深い深い闇夜に紛れ、やがてロビンたちの姿は完全に見失われた。今はただ、逃げ切ることに全力を注がなくてはならない。

 ……マタ・ハリの腕に抱かれたマスターの息は、すでに止まっていた。

 

 ◆

 

「急いで! そこのソファーに寝かせるから上の物をどけて!」

 

 空き家に逃げ込んだが、予断は一切許されない状況だった。

 マタ・ハリがシバの女王に指示し、服やら本などをどかせる。

 

「心肺が停止してるわ。早急に蘇生措置を始めるわよ!」

 

 マスターの身体をソファーに降ろし、その隣に座ったマタ・ハリが心臓マッサージを始める。

 紫色に萎みきった唇。極限まで痩せこけた頬。そして何より、あまりにも細すぎる手足。どれをとっても悲惨な容体だった。

 あれほど真っ白な礼装が、真っ黒に汚れていた。身体のいたるところが黒ずんでいて、マシュはためらいなく礼装を破き、脱がし始めた。

 

「先輩の……身体を拭かせてください。ロビンさん。水を汲んできてもらえますか……?」

 

「喜んで」

 

 ロビンが適当に水を入れられる容器を見繕って、家を出て行く。

 

「キルケー! お願い!」

 

「うん! いくぞ!」

 

 杖の先端をマスターの胸の中央やや右寄りに当て、キルケーが魔術を発動させる。高電圧がマスターの中で流れ、大きくビクリと震える。

 すかさずマタ・ハリは顎を上げ、気道を確保したあとに、人工呼吸を施す。

 ……息が戻らない。

 

「……もう一回!」

 

 誰も、必要なこと以外は何も話さなかった。

 夜が明け始め、神不在のセイレムにも太陽は上り始める。地平線の彼方から顔をのぞかせ、家をほんのりと照らし始める。

 

「持ってきたぜ」

 

「ありがとうございます……」

 

 マシュは静かにロビンから水入りの容器を受け取ると、比較的綺麗な布を適当に漁り、それでマスターの身体を拭き始めた。

 

「戻ってきてください、先輩……私たち……まだまだこれからじゃないですか……」

 

 ポタリポタリと干からびた肌に涙が落ちる。視界が滲む。それを誤魔化すように、マシュはただ黙々と身体を拭いた。

 

「キルケー! マシュ、離れて!」

 

 再びキルケーの魔術が発動する。

 さっきよりもさらに強い電気が加わり、大きく海老反りをするように腰が高く浮いた。

 そして数秒後、微かにマシュの握った手が握り返される。

 

「……………………………………コホ」

 

 消えてしまいそうなほどだが、あまりにも弱々しいかったが。マスターが息を吹き返したのを聞いた瞬間。

 滝のように涙を流しながら、まるで赤子のように大声で泣きながらマスターに抱きついたのだった。

 

 ◆

 

「キルケーさん、その……マスターの首の……」

 

「ああ。任せなさい」

 

 マスターの首。吊られた跡が痛々しい。

 キルケーは快く受諾し、首元の跡を消してみせた。

 マシュがようやくマスターの全身を拭き終わった。日はすでに高く上っており、朝を迎えている。何度も何度も水を取替えに行ってくれたロビンには感謝の念が絶えない。

 マシュのおかげでだいぶ汚れは落とせた。異臭はまだ少し残っているが、ちゃんと洗剤などで洗えばすぐにでも落ちるだろう。

 礼装はもはや何の意味もないただの布切れになってしまい、捨てることにした。下着も汚れと異臭でどうしようもなく、同じように捨てた。代わりにクローゼットで見つけた、サイズの合いそうな服を一式着せている。

 

「ひとまず難は脱したわね」

 

 水を飲み、マタ・ハリが椅子に腰掛けた。どれくらい長い間人がいなかったのか知らないが、床の埃がわずかに舞い上がる。

 

「そうだな。でもだから終わり、ちゃんちゃん、というわけにはいかないんスよね。一般的に、首を吊った後、だいたい十秒で意識を喪失。その後酸素が脳に行き届かなくなり、五分以上経つと、後遺症が高確率で残るとされ、十分以上経つと、蘇生率は絶望的になる」

 

「ロビン、ちなみにマスターは……?」

 

「九分だ」

 

 一同の視線がマスターに集まる。

 穏やかに呼吸してはおらず、時々、突然詰まったように激しく咳き込む。

 あれから随分と時間が経ったが、目覚めそうな気配は全くない。

 

「キルケーさんなら治せるのでは?」

 

 マシュが尋ねる。

 

「残念だけど、私には無理だね。そういうのに特化しているわけじゃないからね。大魔女とはいえ、なんでもできるわけじゃないんだ。すまない」

 

「い、いえ、気にしないでください……。あ、そ、そうです! カルデアに戻れば……!」

 

「たぶんそれも厳しいと思うよマシュ」

 

「どうしてですか、キルケーさん!」

 

「複雑骨折とかその程度なら、骨を動かさないように固定して強引に繋ぎ合わせれば何とかなる。だがマスターのは違うんだ。……脳の一部が死んだんだ。だから後遺症が残る。治すとしたら、そこを生き返らせなくちゃいけない。例え大魔術を行使しても、ぎこちなさはどうしても抜けないだろうね」

 

「そんな……」

 

 マシュがまた涙目になる。

 例えマスターが目覚め、どんな障害を背負ったとしても、その状態でラウムと戦わなければならないのだ。とても戦える状態ではないのに、明らかにマスターには苦痛でしかない。

 

「それに……まだある。何をされたかは知らないが、半日でほぼ廃人にされてしまった。お前たちも聞いただろう。判事に対するあの返答を。どう見ても心が犯されているのは疑いようがない」

 

 ロビンがさらに追い打ちをかける。

 マシュはもう聞いていられないと耳を塞いでいる。

 

「……ん? ちょっと疑問なんですけどおーー? その半日間の記憶を消してしまえばいいのでは?」

 

「あんた、えげつないこと考えるんだなぁ」

 

「いや、それはアリだな」

 

 シバの女王の非人道的な提案に、キルケーが乗っかった。

 

「おそらくこのまま目覚めても、会話はおろか、ヒトとしての尊厳は潰されている。それならばいっそ、その部分の記憶をなくしてしまうべきかもしれない。でもそれには欠点があって……当人にとっては、急に記憶が変わるんだ。だからより繊細な記憶補助が必要になる。曖昧な記憶は、何にでもと繋がろうとする」

 

 つまりは海を眺めていたら、突然山の頂上に立っていたようなもの。突然の記憶のすり替えに、頭は混乱し、エラーを起こしてしまう。だからそうならないためのストッパーが必要なのだ。

 

「ーーその役、私にやらせてください」

 

 セイレムはまさに異端だった。そしてそれにマスターは呑まれた。そして壊れた。どんな言葉で誤魔化そうとその事実は覆らない。

 罪悪感か。

 あの時、あの瞬間。目の前にいたのに何もできなかった罪悪感か。例えそうだったとしてもいい。

 マスターのためならば。そう願い、この亜種特異点へと足を運んだのだ。

 

 マシュの目は、真剣だった。

 

 ◆

 

「ぁ……ぅぁ……。ま、ましゅ……?」

 

 マスターが目覚める。

 ゆっくりと見回すと、知らない家。手を強く握るマシュの手が痛いくらいで、さらに、自身の服が変わっていることにも気づく。

 

「なに、が……」

 

「先輩はアビーさんの魔女化を止めた後、魔力切れで倒れたんです。その後先輩が連れていかれそうになったので、ここまで運びました。皆さんは今は出かけています」

 

「…………ぇ?」

 

 半開きの目でも光が眩しく、まだちゃんと目を開けられない。

 しばらくの間虚空を見つめ、やがてマシュの方に向き直った。

 窓から差し込む光をバックに、マシュがなんだか神々しく見えてしまい、思わず笑ってしまう。

 

「どうしました? 先輩?」

 

「いや、私のこと、たいせつにおもってくれてるんだなーって」

 

「そ、それはあ、当たり前ですよ」

 

 マスターが両手をマシュに伸ばす。

 マシュはすぐにその手を掴む。すると、弱い力で引っ張られ、仕方なくマスターに抱きつく形で倒れた。

 

「んふふ〜。いいね〜」

 

「何がですか?」

 

「いいやー? 何でもないよー?」

 

 ただただマスターはマシュを抱きしめ続けた。そして無邪気に微笑み続けた。

 マシュにはその理由がわからなかった。だがそれでよかった。ラウムに何をされたかはわからないが、その記憶はキルケーによって消された。だから、何も心配することはない。

 マスターの腕がマシュの身体を確かに抱きしめる。

 ただそれだけで、マシュはとても幸せに感じたのだった。




キルケーは『半日間』の記憶を消しました。


ではではそれでは参りましょう。
い つ も の。
ネタが尽きました^_^
面白そうなネタなどがあれば、活動報告にてビシバシドンドン送ってください。琴線にビンッビンに触れたら燃えます。書きます。


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わがまま

関係のない話ですが、魔法使いの嫁というアニメを何話か観ました。
ただキャッキャウフフなアニメではなく、とても感動する、いいアニメでした。




では切り替えて。
要望があったので、ブリュンヒルデをテーマに逝きますっ。


 ーーそんなに優しくしないでください……優しくされると私……。

 

 ◆

 

 マスターは集中治療室で安静に寝ている。

 ダ・ヴィンチやナイチンゲールの健闘によりとりあえず一命は取り留めた。具体的な傷は、左腹部の、槍による貫通。

 臓器は辛うじて逸れているおかげで、治療はあっという間に終えた。さすがは(いろいろすごい)ふたり。朝飯前という顔で汗ひとつ流すことなかった。

 

「せ、先輩は⁉︎」

 

「うん、大丈夫だよ。しばらくしたら目が覚めるだろうから、部屋の中で待ってるといいぜ?」

 

「ありがとうございます……あの……ブリュンヒルデさんは……」

 

「自室にこもってるよ。相当落ち込んでいるみたいだったから、今はそっとしておいたほうがいい」

 

 ダ・ヴィンチが水を一杯飲み、ふぅ、と息をつく。

 マシュはそんな彼女の横を通って、マスターの眠る部屋へと突入した。誰もいない、と思っていたが、中にはエミヤ氏がいた。

 しゃくしゃくと器用にりんごを果物ナイフで剥き、まさかのうさぎの形にしてみせるというちょっと凝ったことをしている。

 

「ああ、マシュか」

 

 マシュに気づくと、完成したうさぎ型りんごのひとつを手に取り、マシュに渡した。

 受け取り、口に運ぶ。

 

「ほら、あれだ。少しは着飾ったほうが女の子にウケるだろう?」

 

「さすがエミヤ氏。……女たらしの名は伊達じゃない」

 

「む」

 

 女たらし、に眉をピクリと反応させたが、まあいいと再び作業に戻った。

 マスターの着ている病衣を少し捲る。すると、何重にも巻かれた包帯が姿を見せる。しかも血が滲んでいるのが嫌でもわかる。

 

「……すまない、マシュ」

 

「何が……ですか?」

 

「マスターを守れなくて、だ。傷ついた彼女をマスターが助けようとして、その時に……」

 

 エミヤが悔しそうに語る。

 マシュにはどういう理由でブリュンヒルデがマスターを攻撃したからは知らず、疑問がずっと渦巻いていた。ここにいるサーヴァントたちは全員、結果的にいい人たちだ。アヴェンジャー'sの危なっかしさは平常運転だが。

 

「マスターは……少しみんなに対してて甘すぎる。サーヴァントたちにはそれぞれ歴史がある。愉快な人生もあれば目を覆いたくなるような悲惨な人生を送った者もいる。そのことも考えてコミュニケーションを図るべきなのだが……」

 

 例えばメドゥーサ。

 例えば巌窟王。

 例えばジル・ド・レェ。

 例えば天草四郎。

 挙げだせばキリがない。そんな人たちを英霊として召喚し、従えているのがマスターなのだ。そしてその彼女を支え、特異点を解決するためにあるのがカルデア。

 マスターには、彼ら彼女について詳しいことは知らない。「私、歴史は大嫌いだったんだよね」と、歴史の本を漁りながらそんなことを言っていたのをマシュの脳裏をよぎる。

 

 ーーえ⁉︎ この人がかのチョウ有名なアーサーさん⁉︎ ちょっとあれ、聖剣見せてよ!! 先っちょだけ、先っちょだけでもいいから!!!

 

 そんなことを言って、召喚されたばかりで、自己紹介で真名を明かした瞬間にロケットのごとく飛びついたマスターに対し、さすがの王さまも「え、え、え」と全力で顔を引きつらせていた。

 そんなことも記憶に新しい。

 

「マスターにとっては……どんな英霊も人なんです。もちろんオリオンさんとか神霊とかもいますが、やはりマスターにとっては、英霊以前に、人に見えるですよ。それはもう、どうしようもない先輩の悪いとこであり、良いところなんです」

 

 くすり、とマシュが笑う。

 マスターの頬に触れ、優しく撫でる。ぷにぷにの柔らかい感触に意外にもハマってしまい、抜けられなくなってしまう。

 

「まあ……考え方は人それぞれだからな。私がマスターにとやかく言って強制させるのも違うだろうから、その辺は首を突っ込まないでおく」

 

 どれ、少し私も、とエミヤ氏もマシュと反対側の頬に触れる。

 

「おお……これはいいな。マシュマロみたいだ」

 

「でしょう?」

 

 ふたりはマスターが起きるまで、その柔らかさをただひたすらに堪能していた。

 

 ◆

 

 女は愛を求めた。しかし愛を求めなかった。

 優しさは、毒だ。甘美で、つい依存してしまいそうな、毒なのだ。だから、あの太陽のような、女を照らし、どれだけ嫌がっても優しく接してくるあの少女が苦手だった。

 もちろん嫌いではない。嫌いならば指示など聞かないし、そもそも召喚になど応じない。

 だがついに、優しさを受け取れる皿からそれは溢れてしまった。

 悪いのは少女だ。あれほど止めてくれとお願いしていたにも関わらず、優しくしたからだ。

 だがもっと悪いのは女だ。ああ言ったのならば、徹底的にその優しさから逃れればいいだけなのに、それをしなかった。むしろ心地よいと思ってしまった瞬間があった。

 

「ブリュンヒルデ、マスターがお呼びだよん」

 

 いつの間にかダ・ヴィンチが部屋に入ってきていて、そう言った。

 入ってきたのに気づかないほど自己嫌悪に陥っていたのか。

 

「私には、マスターに合わせる顔がありません……」

 

「勘違いしてるようだけど、あの子は君のこと、嫌ってないと思うよ? だってほら、もし嫌いなんだったら呼ぶわけないだろ?」

 

「もしそうだとしても、私があの子を苦手としているんです……それに、会うのが怖い……です」

 

 薄暗い部屋にブリュンヒルデの鈴のような美声がふわりと鳴る。

 だがダ・ヴィンチは、んなこと知るかとズカズカと部屋の奥へと侵入すると、端でいじけているブリュンヒルデの腕を掴んだ。

 

「ほら、悪いことをしたんだったら謝りに行く! いつの時代どこの国でも変わりない当たり前のことじゃないか」

 

 半ば強引に引きずられながらブリュンヒルデはダ・ヴィンチに部屋を連れ出された。その手を払おうと本気で思えば払うことができた。しかししなかった。

 明るい通路の光に思わず目を覆う。

 マスターのいる集中治療室の前に立つ。

 

「ここから先は君ひとりで行ってもらうよ」

 

「え……私ひとりですか……?」

 

「ああ。あの子がそう言ったからね」

 

 肩を軽く叩き、ダ・ヴィンチは「いやぁ、ちょっと手術後のデザートが楽しみだねぇ」と軽やかなステップを踏んで去っていった。

 そんなハイテンションな彼女を見送った後、ブリュンヒルデは部屋に入った。

 カーテンが影になり、マスターのシルエットが見える。上体を起こしていて、項垂れているように見えた。

 

「マスター?」

 

「ん? ああ来たね」

 

 ブリュンヒルデの呼びかけに、マスターが頭を上げ、カーテンを開けてこっちに来なよと促され、首肯してマスターの元へと近寄った。

 ふと無意識にマスターの腹部に目がいってしまう。病衣にまで血が滲んでいる。こうしてブリュンヒルデと話すためだけに上体を起こしているのだろうが、それだけでも痛みは感じているはずだ。

 

「マスター……血が……」

 

「ちょっとくらい大丈夫だよ」

 

 マスターそう言いながら微笑みかける。

 しばらく沈黙が流れる。どうしても話の切り出せないブリュンヒルデに対し、マスターはハキハキと話し始めた。

 

「別に私、あなたのこと怒ってないから」

 

「え?」

 

「ほら、たぶん私が優しくしたせいなんだよね? 私を刺すとき、小声でシグルドシグルドって言ってた。私をその人と見間違えてしまったのかな?」

 

 気づかなかった。言われて、初めて気づいた。

 自分はそんなことを言っていたのか、と。

 あの時マスターの腕に抱かれて、何か胸の奥が熱くなるのを感じた。身体は冷たいというのに、それは燃えるような……太陽のような熱さだった。そしてマスターに感謝を口にしようと顔を上げ……いつの間にか自分の槍はマスターを貫いていた。

 

「ええそうです。マスターがシグルドに見えてしまった。だから刺したのだと思います。……だからいつも言っていたではありませんか。私に優しくしないで下さいと」

 

 言って、失言に気づく。

 一番悪いのはブリュンヒルデだ。それなのに、これでは罪をなすりつけるような物言いだ。

 青ざめる。弁明の余地などない。いったい何とマスターに怒られるのだろう。そんな恐れだけが、彼女の中で震えていた。

 

「このカルデアに来てからね、私は自分が思った以上にわがままなんだって気づいたんだ。皆の人生なんて全然知らないから、少しずつ勉強して、それでみんなの事をたくさん知りたい。だからまずは友達にならないと」

 

 マスターが、ブリュンヒルデを見つめる。

 純粋な、無垢な瞳が彼女を貫く。

 

「で、私なりの結論が、皆に優しくすることだった。これは私のわがまま。たとえどうなってもこのわがままは貫くよ。私だって、中途半端な意思でここにいるわけじゃないからね」

 

 あはは、と言い終えて笑う。

 なんの取柄もない少女の、唯一の意地というかプライドというか、そんなことをブリュンヒルデは初めて知った。

 特異点解決はまだ半分も完了していない。遥か長い旅路。人類の未来を取り戻す、前人未到の旅。それを今目の前で病衣に血を滲ませながらはにかむ少女が挑戦するのだ。そして必ず達成しなばればならない。それだけの偉業、果たして為すことができるのか。それはブリュンヒルデにはわからない。

 

「それは……また私に襲われるということになりますが理解していますか?」

 

「うん、してるよ」

 

「私にはそうはーー」

 

「してるよ」

 

 マスターはただブリュンヒルデを見ていた。だがブリュンヒルデはマスターをいっそ睨みつけていた。

 今回は傷が深くなかったからよかったものの、この調子だと次はどうなるか目に見えている。馬鹿だ。あまりに馬鹿だ。筋金入りの馬鹿か。それとも頭のねじを無くした狂人か。

 味方であるはずのサーヴァントに殺意をぶつけられるのだ。そんなもの、恐怖以外のなんと言えよう。

 

「今回は、あなたを知るいい機会になった。次は気を付けるよ」

 

「次はとか、私はそういうことを言っているのではありません……」

 

「さっきも言ったけど、私はあなたに優しくし続けるよ。だって、拒絶しないじゃん」

 

「ーーーー」

 

 まさに核心の言葉だった。

 口を開くが、否定することができずに無為に口をパクパクさせる。

 

「眠くなってきたよ。どう? 一緒に」

 

 大きなあくび。目尻の涙を指で拭い、ちょいちょいと手招きをする。

 

「いえ、私は……」

 

「よしわかった、少しでも悪いと思うのなら、私と寝て」

 

「それはちょっと……ずるいです」

 

「まあまあ」

 

 そう言って、マスターは上体を倒し、布団をめくってブリュンヒルデに入るよう促す。ついに観念した彼女はおどおどと布団に入った。

 あの時鼻腔をくすぐった匂いが記憶によみがえり、一瞬だけマスターの姿があの男に霞んでしまい、目を見開く。

 

「どうしたの?」

 

「……いえ、なんでもないです」

 

「ならよし」

 

 いちいちブリュンヒルデを惑わすこの少女には困らされてばかりだ。こっちを向いて寝るものだから、反対を向こうとすると、手を握られて防がれてしまう。

 わざとか、無意識なのか。そんなことを考えていると、瞬く間にマスターは穏やかな吐息をたてて寝てしまった。

 この少女の優しさを拒絶していないのはもう認める。

 ルーンの魔術で、マスターの開いた傷口をふさぐ。

 

「……」

 

 マスターの寝顔があまりにも愛らしくて。

 

「ふふ」

 

 ()してしまいそうだった。




ブリュンヒルデの初登場がいつか知らないので時系列に矛盾が生じるかもしれませんが、そこは目を瞑ってほしいです。
まだシリアス度が低い頃のお話。


次は、珍しくネタの神様が降臨したので、その意思に従います。
テーマは、これまでの話のどれかに繋がるもの。
ネタのストックはいつもゼロなので、活動報告にて募集してます。


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X×0=0

なんとなく呼符を使ったら、ランスロット来ました。
物欲センサーすごい……。


「ソロモン……魔術王ソロモンと言ったのかいマシュ?」

 

「はいドクター。あの生命を嘲笑うような笑いを思い出すと……今でも恐ろしく感じます」

 

 無事、第四特異点は修復された。

 最後の最後でまさかの黒幕の出現には全滅さえ覚悟したが、なんとか生還を果たすことができた。今回の出撃はとても重いものとなった。だが逆に、カルデアの目的意識を明確化させ、向上させる、いい機会となった。

 シャワー室から出たマスターはタオルを首に巻き、ぼんやりと意識のはっきりしないままロマ二やマシュ、ダ・ヴィンチたちのいる部屋へと入っていった。

 適当に椅子に座り、情報交換をするふたりを違う世界での出来事のように客観的に眺めていた。

 まだ完全に乾いていない髪からポタリポタリと雫が垂れる。

 

「ちゃんと髪を乾かさないとダメじゃないか。髪は女の命って言うだろ?」

 

 腕を握られ、洗面台へ連れて行かれる。

 タオルを取られ、軽く拭かれてからドライヤーを当てられる。

 その暖かさに、マスターはだらしなく口を開け、眠そうにこくりこくりと舵を漕ぎ始める。

 

「わ、ふ」

 

 ドライヤーが終わると、すでにマスターは夢の扉の前に立っていた。やれやれとダ・ヴィンチはマスターを抱きかかえると、彼女の部屋へと運んだ。

 照明を暗い方にして点け、ベッドに降ろす。

 手ぐしで髪をすき、整ったところで布団をかぶせる。

 

「んくぅ」

 

「こりゃ犬みたいだね」

 

 首筋にそって顎を撫でてやれば予想通りの好反応で、ダ・ヴィンチはある種の興奮を覚える。

 しばらくそれを堪能したところでふと我に返り、依存性から覚めて、頭をぶんぶんと振る。そして胸ポケットをあさり、小瓶を取り出し、キュポンッ! と開け、マスターの口元に運ぶ。

 甘い香りが部屋に広がり、マスターの鼻腔を優しく撫でる。頭だけをダ・ヴィンチに向け、くんくんと鼻をひくつかせて、小さく微笑んだ。

 

「いい匂いだね……」

 

「うん、ちょっとした栄養ドリンクさ。超甘いからね。特異点解決お疲れ様、今日は……ゆっくり休むといい」

 

 ダ・ヴィンチがマスターの背中に手を回し上体を少しだけ起こし、飲ませる。

 飲み終えたマスターは数秒間だけ動きを止める。そして半開きの瞳でダ・ヴィンチを見上げる。

 

「ん? どうしたの?」

 

「いや……なんでもない」

 

 それは違和感だった。しかし今にも眠りそうなマスターには何かわからなかった。致命的なもののような気がしたが、それは真夏のアスファルトに水を撒き地に接した瞬間の……そんな感じですぐさま違和感は消えた。

 いったいこの胸に広がるもやもやはなんだろう。

 ダ・ヴィンチが部屋を出ていく。眠いから、また明日、覚えていたら改めて訊きに行けばいい。

 掠れゆく意識の中、マスターはそんなことを思った。

 

 ◆

 

 朝はとても良い目覚めだった。

 昨夜ダ・ヴィンチが髪を丁寧に整えてくれたおかげで寝癖もない。文句なしのパーフェクトである。着崩れた服を一気に脱ぎ捨て、下着姿で部屋をうろつき、いつもの制服に着替える。

 そしていつも通り死者たちの演奏が……始まることはなく、天井に張り付いて不気味にクスクスと笑っているだけである。

 机の引き出しからあのノートを取り出し、開く。久しく触れていなかったこれ。だが、少し表紙の型紙が柔らかくなってきている。使い古しているのがわかる。

 今日の昼頃にでもいつもの儀式をしようと静かに元に戻す。

 とりあえずは朝食だ。

 食堂に着くと、遅い起床だったせいか、人がまばらだ。「おほほー! マスター殿! おはようございますぅ!」と黒ひげが視界に乱入してきたので、偶然すぐそばにいたドレイク船長に頼んで問答無用で食堂から退場させる。

 

「隣、いいかな?」

 

 マスターが話しかけたのはアルトリア・ペンドラゴン。そのセイバーオルタだ。彼女はリスのように頬いっぱいに膨らませながらこちらを向くと、隣の椅子を引き、トントンと叩いて促してくれた。

 

「ありがとう」

 

 椅子に座り、恐る恐る彼女の様子を窺う。

 いっぱいに広げられたジャンクフードの山。その大半はすでにもぬけの殻でもうすぐで完食というところだった。

 

「なんだ。貴様もこのハンバーガーが食べたいのか?」

 

「い、いや〜……朝からそれは私にはキツイかな……なんて」

 

「そうか。しかしだな、女だからといって少食だというのはいただけんな。たくさん食べて力を蓄えろ」

 

 そう言うと、アルトリアは一瞬だけ躊躇うような表情を見せてから、ハンバーガーのひとつをマスターに渡した。

 いざ渡されると断りづらいのが日本人の性。気付いた時にはすでに遅く、マスターの手にはハンバーガーが握られていた。

 

「なんだかんだ言ってもらうのか」

 

「こ、これは不可抗力っていうので……!」

 

 それ以上否定しても意味はなく、せっかくアルトリアの厚意だ、やっぱり返すだなんてあまりに失礼だ。

 渋々包み紙を開き、香ばしいジャンクジャンクな匂いについ頬を引きつらせる。美味しそうなのは認める。条件反射で口の中で唾が出てきたのも感じられるし、こう目の前にすると食べたいという衝動にかられてしまうのも事実だ。

 

 口を開け、ハンバーガーを頬張った。

 

「ーーーー」

 

 ぶわり。

 いや、ぞわり。か。

 昨夜の違和感が蘇った。そしてそれがマスターを襲った。分厚い、不透明な黒い波となって呑む。

『これ』だ。意識が曖昧だったからあの時は分からなかったが、間違いなく『これ』だ。

 咀嚼する。飲み込む。

 そしてすぐさま二口目を頬張り、あっという間に完食してしまった。

 

「お、いいぞその食べっぷり。もうひとつどうだ?」

 

「……もらっとく」

 

「ははは! ついに貴様もジャンクフードの偉大さに屈したな?」

 

 愉快そうに笑いながらアルトリアはさらにもうひとつハンバーガーを渡した。

 マスターはそれを受け取ると、今度は長い時間をかけて味わいながら食べた。

 

「その飲み物ももらっていい?」

 

「もちろん。コーラだが大丈夫か?」

 

 その質問に答えることなく、マスターはコーラを一気飲みし、口元についたソースを拭き取ると立ち上がった。

 その目は驚きと失望に彩られていた。しかしアルトリアにはマスターの小さな背中しか見えない。アルトリアが目を細める。

 

「もしかして口に合わなかったか? もしそうならば悪かった」

 

「違う……違うの。あなたは悪くないわ。美味しかったんだけど、やっぱり朝はダメだったよ」

 

「それは残念だ。新たな同志が生まれるのかと思ったのだが」

 

 嫌々と言いながらふたつも食べたのだ。

 本当に嫌ならひとつしか食べないし、コーラなんてもってのほかだろう。

 アルトリアはポケットを弄ると、手のひらサイズの容器をマスターに投げた。驚きながらもマスターはそれを受け取る。

 

「ブレスケアだ。さすがにこういうのを食べた後は胃が臭くなるからな。これで許してくれ」

 

「うん……ありがとう」

 

 さっそく蓋を開け、一粒口に含む。

 そしてアルトリアに手を振りながら、マスターは食堂を出て行った。

 

「おいエミヤ。ホットドックを三……いや、四本寄越せ」

 

「ふ……あれかね。向こうで見た槍の君の成長ぶりに触発されたのかな?」

 

「卑王鉄槌……極光は反転する。『エクスカリバー・モルガン』!!」

 

「ぐああああああああ!!!!」

 

 ◆

 

 マイルームに戻ると、死者たちがさらに増えていた。

 一斉にマスターに向け、手に持つ錆びついたナイフを刺す。

 

「は」

 

 いつものことだ。しかし、今日は数が多いため、痛みが大きい。幻痛に顔を歪ませながら、マスターは心だけは冷静を装ってノートを広げた。手を伸ばし、赤ペンを握る。

 とりあえず書くことは、ロンドンのこと。今回は……今回は……ドウダッタッケ?

 記憶にモヤがかかる。落ち着いて、思い出す。すると、まず浮かんできたのは赤だ。そして血、肉、骨。最後に大量の死骸だ。

 そうだ。そうだった。いつも通り『死』を見ただけだ。そして次は……そうだ、マシュに微笑みかけたのだった。

 そこまで思い起こしたところで、いやそれだけじゃないだろうと頭を振る。その間にもマスターを刺した無数のナイフが、流れる偽りの血によって、さらに錆びが錆びつく。その色は赤茶色ではなく、闇のような黒だ。

 他にもたくさん思い出はあった。モードレッドやヘンリー。あとは玉藻の前など。彼ら彼女らと話したことやしたことを綴る。

 書き終え、内容を確認もせずにノートをしまった。あくまでノートは日記であり、日々の安寧を保つための手段でしかない。

 身体を蝕む激しい幻痛よりも、ずっと耳から離れない死者たちの嘲笑よりもマスターの心を支配していたものがあった。『違和感』の正体。それを確かめずにはいられなかった。どこかでそんなはずはないと髪を引き千切りながら叫び否定している自分がいた。だがしかし、これは紛れも無い事実なのだろうと静かに納得していた。

 食堂から戻るときについでにパラケルススからもらった、五感を活性化させる薬を飲む。するとどうだ。瞬く間に、感覚が研ぎ澄まされ、視覚が向上し、物がいつも以上にハッキリーー……!!

 

「ウゥ……ッ! ゲッェ……オ゛!!」

 

 突然吐き気がこみ上げてきた。

 吐き出す袋などすぐに用意できるはずもなく、吐くまいと自身の首を絞めるのが関の山。

 感覚が強化されすぎたからか。食道を逆流する胃の内容物が嫌に生々しくわかってしまう。

 血の循環、肺の萎み、脈打つ心臓。腸のウネウネ。全て、全て。身体の全てを感じてしまう。

 気持ち悪かった。自分の身体はこれほどにも気持ち悪かったのか。

 抑えきれず、吐く。白い床にハンバーガーが中途半端に消化された、粘性のある茶色のドロドロがボタリと落ちる。

 馬鹿めと死者たちが嗤う。

 たったそれだけのことなのに、耳という感覚器官を貫き、その言葉言葉が脳をハンダごてで炙られるような灼熱の痛みを生む。

 

 ほラ、ハヤくソレをクえよ。そノタめに……愚かなことをしたのだろう?

 

 片目の爛れた男が這い寄り、氷の手でマスターの足首を掴む。すると、一瞬で氷がマスターの膝まで登り、肌が感じたマイナス100℃の過剰冷感に、足元がふらつき、受け身すら取れずに床に倒れた。

 

「いギ……ッ!!」

 

 それと同時にポケットからレモンがふたつ、床を転がった。

 そうだ。そもそもこれを食べ、『違和感』の確認をするのだった。

 ひとつ、首のない女がマスターにレモンを拾い、手渡す。女の流す血がレモンを赤く染め、受け取ったマスターの腕を伝う。

 

「まさ、かッ……ゥあっ……手伝ってくれる、なんてね」

 

 自分を責め立てる者が助ける。どうせ早く食べて絶望に伏してほしいだけだろう。鎖骨と左胸の間の位置に目がギョロリと生まれ、そうだと瞳をグルリと回転させる。

 拒絶したところで意味はない。ならば、受け入れるしかない。

 指を食い込ませ、汁が流れる。

 マスターは、それにかぶりついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、何も感じることはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 やはり、か。

 冷静に受け入れる。しかしそんなこと、本当に受け入れられるはずなどなかった。

 手が震え、指が震える。レモンが落ちそうになり、反対の手で抑える。

 ゆっくりと理解が進んでいき、ことの甚大性がわかってしまう。わかってしまった。小さく嗚咽を漏らし、顔を伏せる。

 

「えぐっ……ひぅっ……」

 

 幻痛の大嵐。凶夢の始まり。絶望のエンドレス。

 ポロリと涙が溢れる。

 

「……どうして!! どうしてッ!!!」

 

 レモンに乱暴に噛み付く。

 感じたのは、レモンの果肉の噛み応え。冷えた液体が喉を流れるのみ。それ以外は、なかった。

 

「嫌! 嫌! こんなの絶対、嫌ぁッ!!」

 

 両手で乱暴に皮を剥き、握り潰し、浴びるように果汁を飲む。だがやはり、舌は何も感じない。

 まだ足首から手を離さない男の死霊の肩に噛み付く。だがその瞬間、男の身体はケラケラと笑いながら四散してしまう。

 

 味はなかった。

 

 今度はレモンを渡してくれた女を襲い、かぶりついた。しかし、口もないのに同じようにケラケラと笑って四散する。

 

 味はなかった。

 

 ケラケラ。ケラケラケラケラ。

 ケラケラケラケラ。ケラケラ。

 ケラケラ。ケラケラケラケラ。

 ケラケラケラケラ。ケラケラ。

 ケラケラ。ケラケラケラケラ。

 

 死者たちをひとり残らず襲い、マスターはかぶりついた。それでも誰も、何も味は感じなかった。

 どうせあなたも味を持たないのでしょ! ともうひとつのレモンを壁に投げつける。

 味を感じられない? 全てを不味く感じてもいいから、何かを味わいたかった! 味のない食事など、食事とは言わない……。

 

「嫌だ……嫌だ……」

 

 手首の治りかけの傷を歯で抉る。

 流れる血を口に含んだ。

 

 味はなかった。

 

 ハンバーガーの吐いた跡がある。

 五感を強化されたせいでまともな思考ができない。芋虫のように床を這い、舌を伸ばしたが、やはり我慢できないと顔を突っ込み、吐いたものを再び口に含み、呑み込んだ。

 

 ……それでもやはり、味はなかった。

 

 そしてついに、マスターは自身の味覚が完全に失われたことを理解してしまった。

 

「う、あ、あああぁぁぁ……」

 

 ……弱々しく泣く姿は、誰も、誰の目にも映ることはなく、酸味の漂う部屋にただ一人。

 助けは求めない。

 ただ、人類を……未来を救うために、己の人間性を捧げただけだ。実際、ついに特異点は半分を超えた。やってみせたのだ。

 そう思えば、気分が少しだけ楽になった気がした。




以上、清姫との絡みの話に繋がる話でした。


では、またネタが尽きたので活動報告にて募集します。ビシバシバンンバン送ってください! 待ってます!!


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価値再考

おかげさまで日間ランキング24位をゲッチュしました。いやぁ、びっくりですねぇ……。


人理を救う価値があるか否かをテーマに書いていましたが、いつの間にかこうなってしまいました。長めに書いたらいろいろとヤバイ気がしたので、短くカットしました。


 ふと、自分が立っていることに気づく。

 夢……そう、夢だ。死んだようにベッドに倒れこんだことは確かに覚えている。だからこれは夢だ。

 いったいどこだろう。薄暗く、とても広い研究室のような部屋だ。目の前には人三人が入ってもまだ余裕のありそうな培養カプセルがずらりと部屋中に並んでおり、さらにその全ての中にこの世のものとは思えない、グロテスクな化け物が口元にマスクをつけられ、黄緑色の培養液に漬けられている。

 こんな生き物、これまで巡った特異点でも見たことがない。明らかに何かを施された化け物だ。

 しばらくたったところで白衣を着たーー40後半だろうかーーふたりの男がカツカツ、と歩く硬い音が、ブウウウン……と静かに稼働する機械音と混ざる。

 

「ワイバーン……でしたっけ? そんなおとぎ話にあるような生き物、よくこんなにも捕獲できましたね」

 

「詳しいルートは知らんが、地球のどこかにまだそういった秘境はいくらでもあるらしい。ここにある実験体はその一部にも過ぎない」

 

 ぱらりと紙を捲り、ふむと頷く。

 マスターはその場を静かに、かつ速やかに離れようと考えた。すでに異形の怪物に作り替えられてしまった生物たちを救う術をマスターは持ち合わせていなかった。雄雌の判別はつかないが、ここで生を凌辱された生き物たちは己が生を全うしようと人目につかない地で生きていたのだ。

 それを、人間が犯している。

 じりじりと後退し、どこの施設かもわからないから去るべく後ろを振り向いた。

 

 男がいた。

 黒い死がいた。

 

 血管が張り付いたような二丁拳銃を握り、無関心に二人を眺めていた。

 

「エ、エミヤ!?」

 

 オルタ。

 あまりに突然のことで腰を抜かし、尻餅をついてしまう。

 マスターは自分の出してしまった声に、気づかれてしまったと思い、恐る恐るまた振り返ると、別段気づいた様子はなく、意見交換に夢中になっているようだ。

 

「エミヤ、どうするの?」

 

 マスターが問いかける。

 しかし、エミヤオルタは無視し、隠れるそぶりすら見せず、堂々と前に躍り出ようとした。

 バカなことをしないで、と腕を掴んで引き戻そうとしても、触れたと思った瞬間、マスターの身体は透け、空を掴んだだけだった。

 

「だ、誰だお前は⁉︎」

 

 ひとりがエミヤオルタに気づき、声を荒げる。

 

「オレか? オレは平和をもたらす悪魔さ」

 

 もうひとりが緊急コールを押す。

 すると、瞬く間にエミヤオルタを無数の化け物たちが取り囲む。

 そのうちの一体がマスターに重なる位置で足を止める。不安定で乱雑な呼吸がマスターの耳に直接届く。顔は左半分は陥没し、足は五本。腹の皮がベリベリに剥がれている。実験の成れの果て。その呼吸が、マスターには悲鳴に聞こえた。

 

「行けッ! 化け物ども!」

 

 号令に、苦しみの咆哮で応え、一斉にエミヤオルタを襲う。

 しかし、アクロバティックな動きで化け物たちの突進を避け、銃を放ち、投影した双剣で首を落とし、弓で頭を貫通させる。

 

「待って! 止めて!」

 

 手を伸ばしても、必死に声をかけても届きはしない。

 令呪を使用しようとするが、目の前のエミヤオルタとは繋がりがなく、意味はなかった。

 誰も聞こえないのか。この声が、悲鳴が聞こえないのか。

 確かに化け物たちは言葉など話せないし、理解することなどできない。だがわかる。これだけは間違っていないと断言できた。

 

「……つまらん」

 

 たった数分で死体の山が積み上げられた。最後に残った一体が死に体ながらも逃げようとしているのを見て、助けたいという思いが炎のように燃え上がった。

 走り寄り、頭を優しく抱きしめる。しかし、触れることはできず透けてしまう。だが届かないとしても、ここに想ってくれる者がいると証明したかった。

 

「痛かったね。……もう大丈夫」

 

 頭を撫でようと手を伸ばす。

 しかし、その手の上から、透け通ったエミヤオルタの足が無慈悲に頭を踏み潰した。

 

 ぐしゃッッ!!

 

 マスターの足元に脳みそと血が混じったものが広がる。

 怒りが爆発し、エミヤオルタを見上げ、睨みつける。しかし彼はマスターを見向きもしないで息を吐くように男二人を撃ち殺す。

 

「救われないな」

 

 宝具、極大開帳。

 固有結界を孕んだ銃弾をセットし、いつもの文句を唱える。

 

「……『無限の剣製(アンリミテッド・ロストワークス)』」

 

 上に撃ちあげ、空間固定で弾を空中に縫い付ける。

 役割を終えたエミヤオルタの身体が光の粒となり、消え始める。

 

「エミヤ! エミヤ! あなたは何も思わないの⁉︎」

 

 やはり声は届かない。

 悲哀を語る背中を叩こうと手を上げても触れることはなく、結局マスターの役割は観客でしかない。サーヴァントの記憶に迷い込んでしまった迷子に過ぎない。

 だから何もできない。ただの夢なのだから。

 人の悪性。それを戒める機構。それがエミヤであり、さらにそこから外れ、壊れた機構がエミヤオルタである。

 

「どこで間違ったんだろうな。オレも……人類も」

 

 エミヤオルタの姿が完全に消える。

 その瞬間、弾から無限の剣が生え、施設は跡形もなく破壊されて。

 マスターの夢はそこで一旦途切れた。

 

 ◆

 

 マリー・アントワネットの最期を見た。

 織田信長の最期を見た。

 ジャンヌ・ダルクの最期を見た。

 ブーディカの最期を見た。

 ヴラド三世の最期を見た。

 

 何人も、何十人も、悲惨な最期を見た。

 ただ見せつけられ、何もできないという生殺しの夢を見せつけられた。人間の醜悪さを見せつけられた。

 救われず、無念に沈んだ英霊となる前の人間たち。

 マスターは悲しみに涙した。怒りに唇を噛み締めた。

 記憶が終わればすぐに次の誰かの記憶へと飛ばされる。終わることのない夢。人が歴史を紡ぎ、未来へ託す。そんな美しい営みの裏にある、捨てられた影たち。

 人間とは過ちを繰り返すもの。その繰り返しのなかで学ぶ。

 なんて妄言は腐るほど語られてきた。

 ゲーティアは死を嘆いた。だがそれ以前に悲しみを嘆いた。

 人の愚かさゆえに悲劇を被った人。それらが歴史の一部として編み込まれる。まさに『そこ』にゲーティアは着眼したのだ。

 

 完璧な人間などいない。そんな言い訳じみた言葉、とうに聞き飽きた。

 どうだ。何も……何も変わらない。人理は救われた。しかし、そんなことなど知る由もない盗人は、今日も性懲りもなくどこかで盗みを働くだろう。

 未来を取り戻したところで、全ての人間が善性に目覚めるわけではない。

 獣性が語る。

 人間だ。人間が原因なのだ。と。

 ゲーティアは人間の本性を見誤っていた。死のない、悲しみのない世界を再構築したかったのだろう。だがそこに人間を加えるのは誤りなのだ。

 人間は社会的生物へと進化してしまった。いくら幸せになるべく外から力を注いでも、内に抱えるモノをどうにかすることはできない。ゆえに死を許されない桃源郷で、地獄よりも惨い結果となる。

 ……人間が存在している時点で、すでに終わっているのだ。

 

「……」

 

 長い長い夢から覚める。

 時刻を見ると、まだ深夜の三時だ。単純計算だとたったの四時間しか寝ていないことになる。

 嫌な夢だった。可愛らしいクマがプリントされたパジャマが汗で肌に張りついていたので脱ぎ捨てて下着姿になる。すっかり目が覚めてしまったから、ついでに軽くシャワーを浴びる。

 獣性の言うことはすべて事実だ。だが、それを遥かに上回るほどの人間の美しさを地球上の誰よりも理解している。これまでの人との触れ合いの中で、その奥深さを知った。

 どうやらゲーティアの抱く理想を獣性はお気に召さなかったらしい。今回の夢の犯人は君か。

 そして獣性は最後にひとつだけ、糸一つまとわぬ姿になったマスターの胸にずるりと入り込み、問うた。

 

 人類を滅ぼさないか、と。




人類を救った。それでいいじゃないか。


今回はそこまでシリアスではありませんでしたね?(感覚麻痺)
次、エレシュキガルかメルトリリスかで悩んでいます。どちらか希望があれば活動報告まで教えてください。どちらにせよ、シリアスを超ハッスルさせるつもりです。


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槍檻のゆりかご 前編

エレシュキガル前後編のあと、メルトリリスという予定で逝きますねっ。
時系列は二部スタート前のクリスマス。

ふたりのどちらかをアンケートする活動報告は消させてもらいました。
何時くらいに投稿したら一番目につきやすいかと悩む最近。


「マスター! ツェルコに乗って逃げるんだ!」

 

 エレシュキガルは強すぎた。

 そもそもこの冥界の主人である彼女は言うまでもなく冥界において最強、神々でさえ赤子のようにあしらわれる。

 圧倒的な力の前に、アルテラが叫ぶ。

 

「逃がすものですか!」

 

 エレシュキガルが鈴を鳴らす。

 すると地面から黒い竜が顔を現し、マスターを拾い上げようとするツェルコを呑み込まんと襲いかかった。魔力消費により素早く移動できないマスターには、もうツェルコが最後の頼み綱だった。

 竜の牙がツェルコのもふもふの毛皮を裂く。しかし、間一髪ギリギリで避け切ったツェルコは無事マスターの下にたどり着き、その勢いのまま足首に噛みつき、飛び去っていった。

 

「いッ……!」

 

 たい、とは言えなかった。

 逆さに吊るされながら暗い暗い冥界の空を飛び、残されたアルテラを逆転した視界で見下ろす。苦渋の決断だったのだろうが、これが最善の手であるのは間違いない。

 惨敗。惨敗だ。

 なぜか記憶を無くしているエレシュキガルは、元の冷血な女主人へと逆行してしまった。あれこそ本来のエレシュキガル。だが、時々見せる戸惑いはよく知る彼女そのもので、まだ完全に逆行しきっていない。ならばまだ希望がある。

 魔力を消費しなければならないが、無事着地すればまたアルテラを呼び出すことができる。

 まだエレシュキガルと話し合っていない。また会いたい。そして思い出をたくさん聞かせればーー……。

 

 瞬間、黒い閃光。

 

 それはツェルコに直撃し、マスターの足首から口を離してしまう。

 

「う、あッ!」

 

 急落下。

 あまりに突然のことで、バランスなど取れるはずもなく不安定なままで落ちていく。

 

「ツェル、コ……!」

 

 手を伸ばす。地面と空が高速で回転し、途切れ途切れで視界に入るのみ。そして暗い閃光が再びツェルコを襲い、遠くへと飛ばされてしまった。

 三周、四周目でようやくそれを理解し、自分の力だけでなんとかしなければならないと悟ったマスターは、先ずバランスをとることを優先させた。手足を伸ばし、一直線になる。ブレが収まってきたところで地面に平行に身体を倒し、なるべぬ空気抵抗を受けるような体勢になって落ちていく。

 顔を叩きつける風が痛く、満足に目が開けられない。

 

 あ、あああああああああ

 ああああああああああああああああああああ

 あああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁーー……!!!

 

 そして地面が迫って……!!

 

「ーー生者が冥界の地を汚すことは許しません」

 

 ふわり、と浮遊感。地面すれすれの位置でマスターはエレシュキガルの召喚した黒い竜に受け止められた。

 

「反吐が出るのだわ」

 

 途端に竜は消え、「へぶしッ」と地面とキスをする。

 しかしすぐさま立ち上がると、エレシュキガルに接近した。そして彼女の腕を掴もうとしたところで、後ろから闇の霧のようなものが伸ばした手を伝い、急に実体を得てマスターの腕を力強く掴んだ。その力はあまりに強く、指が肉にめり込みかけている。

 

「生者の分際で、エレシュキガル様に触れるな」

 

 耳元に身体の芯が凍えるような声で誰かに囁かれ、頭から足先へ、体温が一気にマイナスに突入するほどの感覚に身が震えた。

 

「ギッ……離し、て……よ!」

 

 逆の手で邪魔者の胸を押し退けようとした瞬間、逆に押さえつけられてしまう。そして刹那の間に両脇に腕を滑り込まれ、両腕を拘束されてしまった。

 死のように冷たいモノがマスターの背中に張り付く。それだけで、無数の氷の槍に身体を貫かれたような刺痛を覚え、マスターの意識が飛びかける。

 

「愚か、そして無礼ですね。深淵の海にやって来るなんて……もはや救いようがありません」

 

 エレシュキガルが槍をマスターの喉元に突き立てる。

 かつて共闘したはずの味方に脅される。ゴクリと喉が鳴る。そして悲しみを感じる。なぜ、という疑問が頭の中でいっぱいになり、怯えながらエレシュキガルを見つめた。

 マスターの様子に彼女は一瞬だけ目を逸らすも、キッ! とすぐさま敵意を剥き出して睨みつける。

 

「そんな目で見られても慈悲など与えません……。あなたは冥界の最深部まで来てしまいました。もうカルデアに帰ることは、このエレシュキガルがさせません」

 

 冷酷な女主人。それがエレシュキガル。

 鈴を鳴らし、マスターの周りに、無数の竜を呼び出す。どれも死に飢えていて、漆黒の冷たさに襲われたマスターは、手足の感覚が次第に失われていっていくのを確かに感じた。

 

「ま、待ってよ! ほら、覚えてない? ここでマーリンやキングハサンたちとでティアマトを撃破したのを!」

 

「知りません」

 

「こっそり私に何度も会いに来たことも!」

 

「知りません」

 

「この冥界にも、綺麗な花が咲いていたんだよ……?」

 

「知りません。……そもそもこの冥界に花など咲きません。私が実証済みです」

 

 エレシュキガルがはあ、とため息を吐く。

 そんなわけがない。ティアマト戦の時、マスターのためにと冥界の長としての力を最大限に貸し与えてくれたのは彼女だ。さらにわざわざ時間神殿にまで助力に来てくれたのも彼女だ。

 それほどマスターのために尽くしてくれたのに、この態度は明らかにおかしかった。

 

「お願い……やめてちょうだい、エレシュキガル。何があったの? あなたのこと、私はとてもよく知っているよ。いつも自分に自信がないくせに、誰かに頼りにされるととても嬉しそうな顔をして、でも空回りしないように平然を装う……そうでしょう?」

 

 あれから一年が経った。その頃の記憶は、穴だらけだがまだなんとか生き残っている。

 拘束された肩が痛い。曲げてはいけない方向に力を加えられていて、下手に動けば簡単に骨が折れそうだ。

 それでも力を振り絞ってほんの僅かながらも、感覚の無くなった脚で前に進んだ。

 エレシュキガルの槍の矛先が首に触れ、血の玉ができる。

 エレシュキガルが一歩下がる。

 

「う、嘘を言わないでほしいのだわ。誰かに頼りにされる? その『誰か』なんてこ、この冥界にはいないのだわ」

 

「嘘じゃないよ。……ほら、槍に迷いがある。それは何か思い当たる節があるってことだよね?」

 

 マスターに指摘されて、エレシュキガルは自分の槍を見る。そして、まさにその通りであると気づき、あまりにもわかりやすく顔を真っ赤にしてみせた。それは果たして怒りか、恥か。

 

「……う、うるさい!」

 

 神速の一貫。

 空気すら貫くその業はマスターの首の横を掠める。

 マスターは動じない。

 

「私はエレシュキガルに……あ、ぎッ! あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 喋りながら近づこうした瞬間、拘束していた邪魔者……ガルラ霊が、マスターの肩をさらにキツく締め上げた。

 ボキッ! と肩の骨の砕かれる音が高く反響し、さらにマスターの悲鳴に乗って深淵の海に遠くこだまする。

 不意打ちの痛みに、視界に大きなノイズが走り、がくりと項垂れる。

 

「エレシュキガル様。この女の言葉を聞いてはいけません。あなたははやく役割を全うするのです」

 

 ガルラ霊がマスターを離すと、力なく崩れ落ちる。

 肩が激痛に耐え切れず、「グ、ウ、ううぅ……」と毛虫のようにのたうち回る。

 立つことができない。両肩に力を入れることができない。膝を曲げ、手をついた瞬間、無様に倒れる。何度やっても、立てない。その様子をエレシュキガルとガルラ霊は無言で見下ろしている。

 

「……助け、て……エレシュキガル……」

 

 頭を横に倒し、助けを求める。

 

「ーーーー」

 

 エレシュキガルが息をのむ。

 揺らいでいる。揺らいでいるのがよくわかる。なにを考えているのかはわからないが、少なくともこの時だけは冷血ではなかった。

 

「エレシュキガル様。魂を抜き取り、閉じ込めるのです。この女は大罪人、それはあなたもおわかりでしょう?」

 

「で、でも……」

 

「あなたは最後まで冥界のために尽くさなければいけません。さあ」

 

 フードの陰から、ガルラ霊が醜く笑っているのが見えた。

 エレシュキガルが目を逸らし、躊躇いながらも鈴を鳴らす。するとマスターの周りの大口を開けた竜たちが一斉にマスターの身体に噛みつき、地面に大の字に縫い付ける。おびただしい量の血がガルラ霊の空虚な足元まで流れ、音もなく嗤う。

 

「ウ゛ッ、グ……ギィぅッ……!」

 

 血を吐く。だが、仰向けで倒れているマスターの口に残った血が、激しくせき込む度に気管に流れ込み、より一層苦しそうに悶える。

 エレシュキガルが槍をマスターの胸の位置に添える。

 血に染まった視界の中なのに、槍が小刻みに震えているのがよくわかる。

 獣のような汚い呼吸。……呼吸をするだけで精一杯だ。抵抗はできない。あとはもう、マスターをどうするかはエレシュキガル次第だった。

 

「ゴボッ……ゴッ……。ハァッ! ハァッ、ハァッ……」

 

 喋ることができない。呼吸する度に肺が燃えるように熱くなる。そんな無限地獄。

 それでもしっかり目はエレシュキガルを見つめる。

 

「あなたのことなんて何も知りませんが……あなたの言うこと、なんだか引っかかって……」

 

 エレシュキガルが槍を収めようとする。

 片手に鈴を持って竜たちを下がらせようと……。

 

「ーーエレシュキガル様、それは気のせいです。あなたは冥界の誓約を破った。その罪を一刻も早く償わなければなりません」

 

 ガルラ霊がエレシュキガルを急かす。

 

「そ、そうね……そうだったわね……」

 

 鈴をしまい、槍を再び構える。だがやはり、まだ槍は僅かながら震えている。

 

「えれ、シュ……きガル……わた、しは……ゴボッ……もっと、あな、たとたくさん、は……話したい……」

 

 ついに、マスターの最後の力も尽きた。急速に血が失われ、その寒さに血の泡を吹きながらガチガチを歯を鳴らす。

 エレシュキガルはまだ迷っている。そんな彼女をガルラ霊は後押しする。

 

「エレシュキガル様。さあ早く」

 

「……」

 

「あなたはまた誓約を破られるのですか?」

 

「……それは、いけません」

 

「ならば」

 

 ゆっくりとエレシュキガルが手を動かす。

 その槍は、すんなりとマスターの胸に刺さり、エレシュキガルは冥界の女主人としての仕事を淡々とこなし始める。

 ……それでもまだ、槍は震えていた。

 

 ◆

 

 身体の中を氷の釣り針で引っ張り上げられる感じ。まさにこれが最適な表現だ。

 グイッ、と強引に引かれるも、痛みは感じなかった。ただ冷たさを感じた。

 肉体が連れて行かせるかと抵抗するが、呆気なく打ち砕かれ、ついに魂が釣り針にかかった。あとはスルスルと、『マスターの体』から釣り上げられる。

 とても不思議な感覚だった。槍に貫かれ、『自分』を見下ろす。口からゴポゴポと血が垂れ、目は虚ろ。客観的に見ると、これほどにも無様だったのか。

 槍檻に入れられる。ふわふわと漂う。そして檻が閉められる。もう出られない。何もできない。

 

「終わった、わ……」

 

「そう。それでいいのです」

 

 抜け殻となったマスターの身体から竜たちは興味を無くし、霧となって四散する。

 マスターの魂は、槍檻の隙間からただ見ているだけしかできなかった。

 

「魂は捕らえた。ならもう……この身体はいらない」

 

 ガルラ霊が腕を掴んだ。そして深淵の海へと運んでいく。

 

「ちょっ! そこまでする必要はないでしょう⁉︎」

 

「いいえ。この女はカルデアのマスターです。この女を完全になかったものにすれば、あなたの完全消滅は安定したものになるでしょう」

 

 エレシュキガルが、ガルラ霊を止めようとする。

 しかし、間に合うことなく、マスター身体は海へと投げ込まれた。だが沈むことはなく、浮き上がる。

 

「底に沈む資格のない者は、深淵から拒絶され、意味消失するだろう。部分的に消えゆくのではなく、身体の定義の脆弱性を完全に把握された瞬間、瞬きの間に消える」

 

 ガルラ霊が槍檻に近づく。

 

「自分の身体から見放すなよ? いつ消えるかわからないのだからな」

 

 そう言って、ハアアアア……と魂に息を吐く。

 すると、たちまちマスターの魂は凍りつき、ゴトリ、と落ちた。




もしあの時、アルテラがマスターを逃がすことに成功したらという分岐からの派生。
身体はいつ消えるかわからない。そして魂は凍った。
さて、ここからどうする?


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槍檻のゆりかご 後編

お気に入りが600を超えていました。
いつもくれる感想もすごーーーーく嬉しいです!


 怒りはなかった。

 ただなぜ、という疑問があった。

 エレシュキガルは深淵の海に沈んでいった。ガルラ霊はその後をついて行った。

 ここには、凍ったマスターの魂と、海に浮くマスターの身体のみが存在していた。

 誰もいない場所で、ひとりっきり。ずっと自分の身体を遠くに眺めていた。

 情けなかった。次第にそんな感情が大きくなり、凍った魂がさらに凍り、槍檻をも凍らせる。

 どこでなにを間違ったのだろう。思い返してみるも、間違えていたと確信する地点はなかった…………いや、あった。

 そうだ、エレシュキガルから逃げたことだ。

 だからこうなった。だからこの槍檻の中に閉じ込められたのだ。

 もしあの時、アルテラの指示を無視してでもエレシュキガルとの対話に臨めばどうなっていただろう。たとえ攻撃されようと、アルテラがいたからまだ抵抗はできたはずだ。そしてきっと、こんな結末は迎えなかった。

 あああああ自分が悪い。悪い。かつての仲間と真摯に向き合おうとしなかった自分が悪い。

 自責の念に駆られ、身体から目を逸らす。

 そもそも魂だけのくせに、目が見えるだなんてなんという生殺しだ。

 とうにアルテラは、マスター不在による魔力不足によって座に強制送還されているはずだ。だから誰も迎えに来ない。終わりだ。

 今ごろカルデアでは熱にうなされているサーヴァントたちで阿鼻叫喚となっているはずだ。

 全て悪い。何もかも、全て、マスターが、悪い。

 

 誰もいない。風も、音もない。

 ただ虚しくて、ただ寂しくて。

 

 ……ごめんなさい。

 

 と言うための口も無く、『沈黙』とともに氷漬けにされて。

 無限の時間を、身体が今この瞬間消えて無くなるかもしれないという恐怖と戦い続ける。

 

 ごめんなさい、アルテラ。

 ごめんなさい、エレシュキガル。

 ごめんなさい、みんな。

 全て私が、悪かったの。

 

 ◆

 

 ……二度と這い上がれないほど深い深いまどろみの中、かすかに音が聞こえた。

 どうやら意識が無に至っていたらしい。眠るでもなく気絶するでもなく、なんとも曖昧な状態から目覚める。

 槍檻がガサガサと揺れている。

 ゆっくりと視界を槍檻の外に向けると、真冬に似合わぬ露出っぷりのアルテラが顔をぐいぐいと近づけていた。

 

「この霊基は人間か……? いや……違う……? いや、人間か」

 

「あそこにマスターの身体が浮いています! このレオニダス、いざ行かんッ! とうッ!!」

 

 何のためらいもなくレオニダスはバシャバシャと泳いでいく。そして数分足らずで海から上がり、マスターが息をしていないことに気づくやいなや、すぐさま心肺蘇生を始めた。

 

「アルテラ殿! マスターが息をしていません!!」

 

「うむ。それは当然のことだ。とりあえずその身体をこちらに持ってきてくれ」

 

「ですが」

 

「いいからいいから」

 

 いまいち腑に落ちないながらも、レオニダスはマスターの身体を肩に担いで猛ダッシュでアルテラの下にまで運びその横に優しく置いた。

 アルテラの血色のいい手がマスターの唇に触れる。そして喉、胸へとだんだん下に下ろしていき、「やはりな」と呟いた。

 

「今のマスターは身体と魂を分離された状態にある。これがたぶん、その魂なのだろう」

 

 マスターの魂が囚われた槍檻をカラフル剣でバッサリ破壊すると、中の凍った魂を手につかんだ。そしてそれを胸に当て、ぎゅううう、と温める。それだけではまだ足りず、ツェルコのもふもふの毛皮に突っ込み、ようやく溶かしきった。

 燃えるような赤い炎。しかし色はとても淡く、力無さそうに見える。

 

「聞こえているだろうマスター。そして疑問に思っているはずだ。どうして私がここにいるのかと。その答えは簡単。カルデアから聖杯を持ってきて、その力でここまでやって来た」

 

 ようはゴリ押しですな、と後ろでレオニダスが笑う。

 

「残りの門を全て聖杯の力でゴリ押……クリアし、プレゼントを押しつけ……丁寧に渡してきた。さすがに宝石の亡者には対応が困ったが」

 

 アルテラが空となった袋をツェルコのもふもふに詰め込み、収納する。

 

「宝石の亡者から聞いた。どうもエレシュキガルはそこの海に沈んでいっているのだな?」

 

 魂は口を持たず、ただゆらゆらと揺れるのみ。

「む。そうだったな。悪かった」と謝罪を口にすると、ぎゅうう! と抱きしめた。

 

「寒かったろう? 少しの間だが、私が温めてやろう。サンタ・サービスだよ」

 

「アルテラ殿ー! マスターの持っていた冥界の砂が海に溶けたおかげで潜れるようになっています! 行きましょう! 今! さあ!」

 

 レオニダスがアルテラを催促する。

 あのハイテンションぶりは、いったい何を燃料に維持しているのか。

 そんなどうでもいいことを考えながら、レオニダスが潜っていった後ろをついていった。

 

 ◆

 

「来たわね。あなたたち……って、何してるのかしら⁉︎」

 

 暗い深淵の海。その底に沈んでいくエレシュキガルをアルテラとレオニダスが追う。

 エレシュキガルが、半分腐りかけた顔を怒りに歪める。

 アルテラはその怒りが理解できず、ただエレシュキガルを追いかける。

 

「何とは、何だ?」

 

「魂だけを連れてくるなんて自殺にもほどがあるわ!! 肉体の無い状態でこの海に沈めばすぐに虚無に還ってしまう!」

 

 興奮するエレシュキガルに対し、アルテラはツェルコのもふもふから聖杯を取り出し、だからどうしたという顔で掲げる。

 

「聖杯があるからな。そのおかげだろう」

 

「……あなたは何もわかっていません。冥界のルールは絶対。聖杯だろうがなんだろうが、何も意味はありません。本当は何をしたのですか? 海に触れた時点で崩壊が始まっているはずなのに」

 

 エレシュキガルはマスターの魂の様子を確認する。

 その輝きはとても弱々しいものの、崩壊の兆しはほぼ皆無。冥界のルールから逃れたイレギュラーか。もしそうならばそれはエレシュキガルがいる限り、同じようなイレギュラーが再び現れるかもしれない。そう思ったエレシュキガルは、槍をかざし、マスターの魂を、身体へと戻してやった。

 ふわりふわりと不安定な動きで浮遊しながら、なんとか身体に接触し、中に侵入し溶け込む。

 

「これは私が招いたイレギュラーなのでしょう。ここにいる魂の、望んでいない消滅は冥界の主人として見過ごせません」

 

 病的なほど白かったマスターの肌に生気のこもった熱が蘇り、やがて激しく咳き込んで完全復活を果たした。

 その間にもエレシュキガルの消滅は進み、左の脇腹が腐り果て、ボロボロと崩れる。

 エ#シュ#ガルの認識が次第に曖昧になっていく。

 

「ごほ……こ」

 

 マスターが身体を動かす。だが、その動きはとても弱く、まともに再起動できていないのがわかる。

 レオニダスがマスターを抱えると、エ#シュ#ガルへと急接近した。

 

「……帰りなさい」

 

 鈴に呼ばれ、腐敗した巨大な黒竜が現れる。大きく首を仰け反らせると、青い炎のブレスを放つ。

 

「私の専門は暴動鎮圧。この程度の障害、軽く退けてみせましょう! ォォォォオオオオオオオ!!!!」

 

 空間感覚の無い中、レオニダスは盾の陰にマスターを押し込み、強引に歩を進めた。押し負けんと吠え、竜の下にたどり着くと、尻尾のなぎ払いを避け、喉に一貫、槍で貫いた。

 

「さあマスター! どうぞ行ってください! あの分からず屋のダメダメ女神に一発入れるのです!!」

 

「う、ん……ありがと、う」

 

 盾の陰から身体を出し、拙い動きで歩き始める。

 後ろからアルテラが聖杯の力を借りてマスターの魂と身体の融合を補助し、一歩歩くごとに、意識が鮮明になっていく。

 

『なぜ存在できている……いやそんなことはどうでもいい。エ#シュ#ガル、あの女を殺すのだ』

 

 声がエ#シュ#ガルの持つ槍から響き、彼女の身体がビクンと震える。そして槍をマスターに向けて構える。

 今度は逃げない。槍檻に閉じ込められていた間、逃げた自分をずっと責めていた。だから、今度こそは、絶対。

 エ#シュ#ガルは動かない。しかし、腐敗は残酷に進み、首の部分が崩れ落ちる。今の彼女は首の皮で繋がっている状態だ。

 同時に認識もさらに曖昧に、薄れていく……。

 エ#シュ#ガル……エ####ガル……エ######……#######。

 

 ……そもそもなんのためにここまで来たのだろう?

 

『完全消滅までもう少しだ。ハハ、記憶枝を消してしまえばこんなものだ。脆い。あまりに脆い。こいつが消えればこの冥界は私のものになる。どこまでも冷たく、冷酷な冥界へと生まれ変わらせる。そしてそこで、私は私の威光を知らしめるのだ!』

 

 声が笑う。

 #######はまだ動かない。目的を忘れそうになりながらも、マスターは#######についにたどり着いた。

 

「こ、来ないで」

 

「いやだ」

 

「私なんて忘れてしまいなさいよ」

 

「いやだ」

 

「私はあなたのことを忘れているのよ?」

 

「いやだ。絶対にいやだ。一緒に戦った仲間を忘れてしまうなんて、いやだ」

 

 まるで駄々をこねる子供だ。だが実際、そうでもしないと、#######が完全に記憶から消えてしまいそうだった。だから、絶対に譲ることはできない。拒絶の言葉を続け、#######がマスターの記憶から完全に消去されるのに抗う。

 怯える#######の腕を掴む。その瞬間、腐敗がマスターの手に伸び、紫色に変色し、何とも言い難い、『生』を犯されているような感覚に歯を食いしばる。

 

「放しなさい」

 

 口では拒絶しても、#######はマスターの手を払わない。

 冷酷に振る舞おうとしても、恐ろしいほど力強く握られた腕がとても温かく感じた。

 

「#######!」

 

「放しなさい!」

 

 いや違う。ダメだと大声で叫ぶことで誤魔化し、己を律する。もう自身は消えゆく者。余計な感情は要らず、逆にそれをもたらすマスターは不快でしかないのだ。そうであるはずだ。

 槍を振り下ろし、マスターの腕に叩き付ける。所詮は人間。いとも簡単に腕は折れ、手が放れ……。

 

「どうして放さないのよ!!」

 

 ず、寧ろ掴む力が強くなる。それと同時に温かさも増す。

 

「エ######!!」

 

 マスターが失われかけている名を叫んでいる。

 しかしエ######は「うるさいうるさいうるさい!!!」と何度も何度も叩く。

 その度に肉が痛めつけられる音が鈍く深淵の底に響く。アルテラとレオニダスは黙って二人を見守っている。いつの間か黄金の羊もその傍らに浮いている。

 マスターの腕はボロボロだ。おかしな方向に腕が曲がっている。だがそれでもエ######から放さなかった。

 

「どうして! 放さない、のよ! あなた、狂ってるんじゃ、ないの!?」

 

 叩く。叩く。

 半狂乱になりながら、エ######はマスターをこれでもかと攻撃し続けた。

 消そうと思えば瞬きの間にできる。心臓に刺そうと思えば刹那の世界でできる。

 でもしなかった。そうしなかった。槍から聞こえる『殺せ』と急かす声が邪魔で、脳が剥き出しの頭を抱え、苦しみに悶える。

 一刻も早くこの苦しみから解放されたかった。

 

「あああああああああああああああああ!!!!!」

 

 ……そしてまた、この娘を傷つけるのか。『自分のため』に。

 

「ーーエレシュキガル!!!」

 

「----ぁ」

 

 次こそ必ず貫いてみせる、と刃の部分で腕を切り落とそうと振り上げた隙を突き、マスターがエレシュキガルを抱き寄せた。激しい叩き付けによって極限まで痛めつけられた腕は、とうとう限界を迎え、だらんと力なく垂れる。エレシュキガルから伝わった腐敗により、どろどろに肉が爛れている。

 

「どうして……そこまでして私を……」

 

『それ以上聞くな、エレシュキガル!』

 

 槍の声はエレシュキガルに届かず。

 槍はエレシュキガルの手から放れ、底へと落ちていく。エレシュキガルに抱き着いたことにより、マスターの全身がすさまじいスピードで腐敗を始める。離れようとマスターの胸を突き飛ばそうとしても、なぜか力が入らなかった。

 マスターの身体は冥界全てを包み込むほどの温かさだった。じんわりと滲むように、胸を中心として広がり、エレシュキガルの全身に伝わっていき、どこか居心地がいいと感じてしまっていた。

 エレシュキガルは「……ほぅ」と安堵の息をついた。

 

「……ほら、あなたはひとりじゃない」

 

 マスターがエレシュキガルにに微笑みかける。

 どうしてあんな酷いことをしてしまったのだろうと、目に熱い何かを感じながら思った。ガルラ霊ーーネルガルーーに催促されたからだとはいえ、生きながらにしてこの娘の身体から魂を抜き取ってしまった。

 それほど傷つけたのに、来た。

 あんなに腕を叩いたのに、放さなかった。

 これほど自分のために動いてくれるただの人間に対し、神とかそういうものの以前に、許されざる行為をしてしまった。その罪は、以前の自分が犯したらしい罪より遥かに重いと断言できた。

 

「……あなたを『頼り』にしている人が、ここにいるじゃない」

 

 その言葉はとても単純で、簡単で。だからこそうれしかった。ただただうれしかった。

 これほど素晴らしい人が、以前の自分と共にいたという事実が、なによりもうれしかった。

 

「ぁ、ぁぁ……ぁぁあああーー……!!」

 

 こんなの、泣いてしまう。

 エレシュキガルは数千年ぶりに泣いた。

 今まで解放されることのなかった涙が、一気に溢れた。申し訳なさと後悔でいっぱいになり、今なお腐りゆきながらも抱きしめるマスターに、エレシュキガルは不甲斐なく泣きついた。

 その隙に黄金の羊が割り込み、エレシュキガルに失われた記憶を再付与する。

 

「失われた記憶、お届に参りました。手数料ゼロに輸送料ゼロ。これぞ安心パック。お代はその感動の再会に代えさせてもらいます。……はい、OKです。ご利用ありがとうございましたーー」

 

 キィン! と明るい音。

 陰に太陽の光がさすが如く、エレシュキガルの腐敗が晴れ、同時にマスターの腐敗も失せた。

 底から槍が浮上する。

 ネルガルの悪意の宿った槍。それがエレシュキガルの再起を果たそうとする一番の要因となったマスターを狙う。

 

「させないのだわ!」

 

 マスターを退け、槍を掴む。瞬間、ボウッ! と槍に深淵全てを照らすほどの炎が燃え、槍に宿っていた闇……ネルガルの悪意が引き剥がされた。

 深淵が太陽のような光に照らされる。元のガルラ霊となったネルガルは、その眩しさに目元を隠しながら憎悪をぶちまける。

 

「お、の、れ……カルデアのマスター!! あともう少しだったというのにいぃぃぃ!!!」

 

 みるみるうちに巨大化し、異形の幽霊へと変貌する。ネルガルが襲いかかってくる。しかし、エレシュキガルはそれを槍でたやすく弾いてみせる。

 まだ完全に復帰しきれていないマスター。エレシュキガルが記憶を取り戻して安堵したのか、一気に力が抜けてその場に倒れそうになった。

 

「おっとっと」

 

 それをエレシュキガルが優しく受け止める。

 

「……ありがとう」

 

「気にすることはないわ。私は元に戻ったのだわ! 全てマスターのおかげよ。ありがとう」

 

 くるくると燃える槍を振り回す。

 それだけで、冥界の魂たちが、自分を安らかになるようにといつも願ってくれていた主人の帰還に震え、歓喜に震える。

 エレシュキガルの腕に抱かれ、マスターはその凛々しい姿を呆然と見上げていた。

 側にいるだけで、十分だった。マスターが感じたのは、安心だ。エレシュキガルならば大丈夫というものだ。

 

「この輝きは太陽の灼熱なり!」

 

 深淵の海に集った魂たちが、赤く燃え上がる。その光は底をも明るく照らしてみせた。

 それらはエレシュキガルへと収縮し、より一層の輝きを放つ。

 

「マスター……あなたに敬意を表してこう名付けましょう! 冥界の陽、荒野を暖める平和の証! 発熱神殿、ギガル・メスラムタエアと!」

 

 ◆

 

 ネルガルの悪意は討たれた。

 エレシュキガルにマスター。アルテラとレオニダス。それに聖杯の補助もあり、為すすべもなくネルガルは消滅した。

 足りない魔力は聖杯から抽出することで、いつもより比較的負担の少ない戦いができた。

 

「居場所が欲しいだけのあなたに冥界は渡せません。冥界とは死者の魂たちが安らかに存在していられる場所。ここはそうあるべきなのです」

 

 ネルガルの消えた跡は何も残らず、エレシュキガルは語る。

 

「これで一件落着。ハッピーエンドじゃな。ほっほっほ」

 

 いつの間にかヒゲを蓄えたアルテラがサンタらしく笑う。

 ついに魔力を使い切った聖杯が灰となり、散ってゆく。最後の魔力の欠片でボロボロのマスターの腕を治す。

 海から上がったマスターたちは、改めて久々の再会に花を咲かせる。

 しかしエレシュキガルはマスターと目を合わそうとしない。伏せ目っぽく俯き、さきほどの威厳はなんとやら。ビクビクとマスターの言葉を待っていた。

 

「エレシュキガル」

 

「え、ええ……」

 

「……久しぶりだね」

 

「そうね……久しぶり……って! 私のことを怒らないの?」

 

 エレシュキガルが突っ込む。

 だがマスターは、なんだそんなことかと言った。

 

「あれはエレシュキガルの意思じゃなかった。そうでしょう? それに私が死んだわけじゃない。ならオールオッケー。問題なし」

 

「いや、その程度で終わっていいわけがーー……!!」

 

「失礼ながらおふたり方。残り時間が限られています。エレシュキガルは2016年の12月に。カルデアはその一年後の12月に。ちなみにあと15分。時間を超えてしまうと色々ヤバいことになるのでどうかそれを頭に」

 

 エレシュキガルとマスターの間に割って入ってきた黄金の羊が淡々と告げた。

 

「あと少しなのだわ! というかあなたドゥムジじゃない⁉︎」

 

 エレシュキガルは身構えるも、ドゥムジはいやいやと敵対意思がないことを伝える。

 冥界には昼も夜もない。永遠に広がる暗闇。静寂。どれをとっても負のイメージしか思い浮かばないが、この冥界には確かな暖かさがある。

 それはエレシュキガルだ。彼女こそ冥界の主にして核。

 いつもなら空など見えるはずがないのに、今日だけは地上を透き通して夜空を眺めているように、空は美しかった。

 

「ほっほっほ。これはサンタのアフターサービスじゃよ?」

 

 アルテラがここぞとサンタ力を存分に発揮する。

 最後の最後で、とても美味しいところをものにしてみせた。

 

「あなたと私の縁はこれで完全に結ばれたね。……ってことはカルデアに召喚できる」

 

「一年のズレがあるから、少し待たせてしまうけれどね」

 

「そんなの知らない呼ぶったら呼ぶ」

 

「強引なのだわ⁉︎」

 

 エレシュキガルが今日一番のツッコミを入れる。そして、一緒に笑う。

 

「……私を助けにきてくれて、ありがとう」

 

 もじもじと顔を赤らめながらエレシュキガルは言う。

 そんな彼女を見て、マスターはぷっ、と吹き出した。

 

「ちょっ! ここは真面目シーンでしょうに⁉︎」

 

「あはははは!! いやぁごめん。うん、そんな真面目シーンは要らない! その言葉だけで十分だよ」

 

 マスターがエレシュキガルに微笑みかける。

 

「さあマスター! そろそろ時間です! ドゥムジさん曰く、遅れてしまうと時間経過が狂って大人になっていたり子供になっていたりしてしまうらしいですよ!」

 

 存在の薄れていたレオニダスが声を張り上げ、マスターを呼んでいる。

 

「よし子供に戻ろう」

 

「それはダメなのだわ⁉︎」

 

 エレシュキガルがいやいやと駄々をこねて残ろうとするマスターを半ば強引に引きずり、なんとかレオニダスに返却した。

 彼に担がれ、ついに観念したか、だらりと力を抜く。

 

「さよならの時間だ。また会おう、冥界の主よ」

 

「ええ。あなたも」

 

 瞬時に再起動したマスターはレオニダスから逃れようと抵抗したが、やはり彼からは逃れられず、ようやく観念した。

 

「エレシュキガルと一年待ちたいんだけど、本っ当に不本意ながら……うん、帰るよ」

 

 残念そう……いや絶望している表情だ。エレシュキガルは苦笑いを浮かべる。すると、マスターはハッ、と何かを思い出したらしく、エレシュキガルに手を伸ばし、小指を出す。

 エレシュキガルにはその意図がわからなかったが、「ん」とマスターに顎で指図されて、仕方なく同じように小指を差し出す。差し出された小指を、マスターの小指で交差させる。

 

「また絶対に会おうね。ーー指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます指きった!」

 

「え、えええ⁉︎」

 

「約束だからね!」

 

「そんな恐ろしい約束知らないのだわ⁉︎」

 

 けらけらとマスターは笑う。

 ツェルコが浮き、マスターの姿がものすごい速さで遠ざかっていく。

 完全に彼女たちの姿が見えなくなるまで、エレシュキガルは手を振り続けた。

 ……最後の最後で、ある言葉が聞こえたような気がして。

 

「ーーメリークリスマス!!!」

 

 地上まで届きそうな大きな声で言葉を返した。

 エレシュキガルは、自分の胸がぽかぽかと暖かいことに気づいた。この気持ちをどう表現すればいいかわからなかった彼女は、再び大きな声で感謝を口にした。

 

 ◆

 

「さて、何しましょうか。また花を咲かせるために頑張ろうかしら」

 

 マスターたちを見送ったエレシュキガルはふぅ、と息をついた。

 前回試した結果、ダメだった。でもだからといって諦めるのはよくない。こんな荒野の大地だからってやる前から諦めるのはよくない。

 あわよくば、マーリンが咲かせた花のように、冥界全体に広がるといいな。

 

「思い上がってはダメよ、私。そう、まずは一輪咲かせるのだわ」

 

 広がっていく想像がどうせエレシュキガルを裏切ることはいつものことだ。だから少しずつ、まずは一輪。二輪と増やしていけばいいのだ。

 トコトコと冥界の闇にエレシュキガルは消えてゆく。

 

 ーー花なんてもうすでに一輪、ずっと、ずっと咲き続けているというのに。




『この程度』、二週間に比べればなんてことはない。
ハッピーエンドの裏には色々なものが蠢いていましたね^_^


というわけで次回は要望通りメルトリリスで。
いいネタ、活動報告にていつでも募集してます。メッセージでもいいし、なんならツイッターでもwelcomeです!


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花言葉

FGOのメルトリリスとCCCのメルトリリスは性格が少し違う……? ということでちょっぴりCCCよりを意識しました。
シリアス全開にしようかなー、と思いましたが、あえて控えめにしました。つまりシリアスさんに休息が訪れる→シリアスさんが力を蓄える。
……意味はわかりますね?

あと、呼符で沖田さん来ました。
ヤターー!! 大勝利!!


 人形。

 人形。

 人形。

 人形。

 可愛いもの。かっこいいもの。凛々しいもの。整ったもの。どれをとっても『キレイ』な人形たちだ。

 メルトリリスはそのうちのひとつを感覚の無い手で……両手で優しく持ち上げる。幼い男の子の人形だ。ふっくらと丸みを帯びた頬が愛らしい。ぷにぷにの唇が愛らしい。簡単に取れてしまいそうな、小さな可愛い鼻が愛らしい。

 たっぷりと愛情を注ぐ。それだけでいい。見返りは求めない。ただ愛情を享受するだけのモノであれ。

 

「ふふふふ……ああ、可愛いわ……愛している……永遠に私のモノに……」

 

 艶やかにほほ笑む。その様子は無邪気。そしてその想いは異質。だが本質は本物の恋愛を知らぬ赤ん坊。だからこそ求める。

 マスターを好きなのかもしれない。少なくとも嫌いではない。嫌いではない人間は片手で数えられる程度しかいない。そのうちのひとりがマスターで、現在最も距離の近い人間だ。

 ああ注ぎたい。愛をたっぷり注ぎたい。上から見下ろした時のマスターの上目遣い。かわいい。小さいものを見ているようで、加虐性が刺激され、ゾクゾクしてしまう。

 ……この想いよ、届け。

 

 ◆

 

『いつも通り』だ。

 毎日毎日苦しみ、ひとり寂しく戦っている。

 ゲーティアを倒したというのに、まだマスターにその残滓が付きまとっている。獣が付きまとっている。未来を取り戻したら終わり……そういう話ではなかったのか。

 次から次へと湧き上がる脅威。しかもそれらがやってくるのはいつも突然だ。こんなことを考えている今この瞬間にだって襲ってくるかもしれない。だから気は抜けない。

 次こそ死んでしまうのではないか。そう思ってしまうだけで、頭が諦めに染まる。まるで悟りを開き、真理を悟った修行僧のようになってしまう。いつものことなのだが、やはりこれだけはまだ慣れない。

 接着剤で張り付いたように全く開かない重い瞼を頑張って上げる。寝起きのせいで、視界がぼやけ、意識が覚醒するまで待つ。

 まず視界に飛び込んできたのは、薄紫だ。しかも、なんだか右腕に重さと同時に温かさを感じる。

 フォウ? と思ったが、次第に鮮明になりゆく正体の全体図がそれを否定する。フォウはこんなに大きくない。とりあえずそのやわらかい物体の正体を探るべく、ペタペタと触る。

 

「ん、うみゅ……」

 

 ……明らかに人の声だ。

 そしてついに姿を現したその人物、マシュだ。

 どうやら自分の右腕を枕として提供していたようだ。退かしたいのだが、簡単に動かすわけにもいかず、身悶えする。

 マシュと完全に対面している状態だ。穏やかに吐息をつくマシュを数分眺め、十分に癒された後、その愛らしさに耐えきれなくなったマスターは、残った左腕で背中を抱き、マシュが起きないように細心の注意を払いながら胸に寄せた。

 

「……」

 

 マスターは何も悪くない。ここで可愛らしく寝ているマシュが悪いのだ。そう自己肯定したマスターは、マシュのいい香りと、柔らかい身体を堪能する。

 これささやかな幸せ。愛おしいが故の、疑いようのない変態行為だが、マシュならば許してくれるだろうと計算した上での行動だ。そもそも目覚める前に手を退ければいい話……。いやそういえば、どうやってマシュに枕にされた右腕を開放するかと悩んでいた、はず。退かすことができないのに、なぜややこしくなることをしてしまったのだろう。

 ……やはりかわいいマシュが悪い。私は悪くないと思考を放棄する。

 もうどうにでもなれと思い、そのまま二度寝に突入しようとしてーー……。

 

「あの……先輩?」

 

 頬を真っ赤に染めながらこちらを伺うマシュに。

 ……あ、死んだ。

 と、マスターはそっと静かに目を閉じた。

 

 ◆

 

 今日は訓練の日だ。

 マスター、エミヤオルタ、アルトリア、メルトリリスの計四人でシミュレーターよって古代遺跡を模したフィールドへと送られる。『この組み合わせは珍しいからね。良い指示を期待しているよ』とダ・ヴィンチ。『それと、今朝はマシュとベッドでイチャイチャしていたんだって? 熱いね、ひゅーひゅー!』いらない追撃にマスターの頬がポッと赤くなる。言うまでもなくダ・ヴィンチの言葉はアルトリアたちはもちろん、オペレーティングルームにいるスタッフたちにも聞こえている。こんな場面に公開処刑はキツい。誰にも顔を見られたくないと顔を手で覆い、俯く。

 メルトリリスは、オルタのエミヤに随分と不機嫌なようだ。

 

「ちょっと、どうして私があのコーヒー豆みたいな男と同じパーティーなのよ?」

 

「心外だな。ならオレが真っ白だったらお前は満足するのか?」

 

「いいえ? 私は二丁拳銃じゃなくて双剣のあなたのほうが好きなのよ」

 

「そうかい」

 

 行動前から険悪な雰囲気だ。マスターは若干涙目で遠い目をして眺めているアルトリアに助けを求めた。

 するとその視線に気づいたのか、腰に下げていたポケットから何かを取り出し、マスターに渡した。何か考えがあってのことだろうと素直に受け取り、それを確認した。

 

 それは美味しそうなクッキーだった。

 

 マスターは絶句し、無言でクッキーとアルトリアを往復する。そして五往復したところでようやく口を開く。

 

「顔がお腹空いたと言っていたので……」

 

 今日の王様はどうやらダメなほうらしい。

 マスターが目頭を抑えて天を仰ぐ。しかしもらったクッキーはしっかり食べる。案外美味しく、胃に収めた後、微妙に口に寂しさが残る。

 崩壊した遺跡の入り口をアルトリアの剣で吹き飛ばす。舞い上がる砂が口に入ってしまい、マスターは何度も気持ち悪さに咳をする。

 中に入ると、そこはとても広い部屋となっていた。

 

『遺跡の中にある宝箱を開けたら終わりだからね』

 

 了解、とマスターは簡単に返すと、改めてぐるりと部屋を見回す。広さはどこの学校にもある平均的な体育館ほど。古びた遺跡というだけあって、所々天井が崩落した跡がある。そして左手にドアがふたつ。右手にひとつ。

 エミヤに索敵してもらい、問題ないことを確認すると、マスターは右のほうを指差した。

 

「あっちから行こう。異論はある?」

 

 三人からの無言の首肯。

 それを確認したマスターはスタスタと歩いていき、ドアを開けようとする。赤茶色の錆が張り付き、一瞬躊躇ってしまう。

 

「待て、オレがいく。何があるかわからんからな。そもそもマスターはひとりで先走るな」

 

「え、あ、うん。ありがと」

 

 マスターが一歩下がる。そしてエミヤはドアの前に立つと、拳銃を一時的に消した後に盛大にドアを蹴破った。

 

「ちょっと、もっと丁寧に開けなさいよ! 服が汚れるじゃない!」

 

「ああ? そのくらいのことでぴーぴーうるさいぞ」

 

 月はこんなに汚くなかったわ、と真っ白な服をパンパンと叩いて汚れを落とす。極度の潔癖症の彼女にはこの遺跡は最悪の相性だ。脚の方に手が届かずに苦労しているようだったから、マスターはその手伝いをする。

 

「あら、嬉しいじゃない」

 

 おかげですぐにメルトリリスの汚れは落ち、彼女は満足げに鼻を鳴らす。

 エミヤが改めて中を覗く。瞬間、二丁拳銃を手元に投影させ、構えた。

 

「ーー来るぞ」

 

 暗闇から飛び出してきたのは、大量の蜘蛛。椅子ほどの大きさの蜘蛛がカサカサカサとドアの前でせめぎ合いながら、爆発するかのように一斉に押し寄せて来る。

 エミヤが咄嗟に対処するも、全てを排除しきれずに何体か逃してしまう。そのうちの一体がメルトリリスを、アルトリアを、そしてマスターを狙う。

 

「マスター、失礼を!」

 

 一歩踏み込み、急加速でマスターに接近しアルトリアが、抱き上げようと両腕を膝裏に伸ばそうとしたが、マスターはそれを断った。

 

「エミヤはそのまま食い止めて! 王様はおこぼれを。メルトリリスは私を襲う蜘蛛をお願い!」

 

「それはさすがに……!」

 

「ダイジョブダイジョブ。これくらいできないとマスターじゃないからね」

 

 ひょいっ、とアルトリアの腕から逃れ、メルトリリスを呼んだ。

 

「いいわ、実にいいわ! そのバカな行為、私は評価するわよ? せいぜい無様に走り回りなさい?」

 

 面白おかしく笑うメルトリリスを尻目に、マスターは蜘蛛達の前に躍り出る。

 エミヤとアルトリアの見事な連携攻撃で蜘蛛たちはほぼ倒されている。サーヴァントにはもちろん劣るが、体力にはある程度自信がある。一年と半年が過ぎたほどか。ほぼ激動の毎日を送っているおかげで、運動能力は飛躍的に向上した。筋肉はまだあんまりだが。

 だからここでその成果を見せたい。そしてサーヴァントたちの直接的な手助けがしたい。

 

「さあ、来い!!」

 

 マスターはそう吼えた。

 

 ◆

 

「うーん、ギリギリ不合格だね、こりゃ」

 

「うっ」

 

「エミヤオルタ君も言っていたけど、君は前に出すぎだね。ジッとしていられない性格だからなんだろうけど、そこが悪い癖になってるぜ?」

 

「ぐはっ」

 

 痛いところを指摘され、マスターがよろめく。

 それをエミヤオルタは黙りこくり、アルトリアは残ったクッキーを目にも留まらぬ速さで口に運び、メルトリリスにいたっては、ずっと声を押し殺して笑っている。

 

「でもほら、皆は無傷。宝箱も見つけられた。それじゃダメ?」

 

「うーん、ダメ」

 

 綺麗に否定され、ガミガミとダ・ヴィンチのお叱りを受けて今日の訓練は終わった。結果はグレー。エミヤオルタはそそくさとどこかへ消えてしまった。

 

「ではマスター、私はこれから円卓の者たちと、きのこ派たけのこ派の議論をしなければならないので、ここで失礼します」

 

「あ、はい」

 

 そう言い残した腹ペコ王様は軽やかなステップを踏んで行ってしまう。

 どちらかというと、その会議の方が彼女にとっての今日のメインだったのかもしれない。

 

「やれやれ、ここには頭のネジが二、三本飛んだ連中しかいないのかしら」

 

「そんなことないよ」

 

「まあ、アナタは全部飛んで行っちゃっているけど」

 

「大げさだよ」

 

「さあどうかしら? ……ああ。少し渡したいものがあるのだけれど、いいわよね?」

 

 もちろん、とマスターは頷く。嬉しそうに口角を上げたメルトリリスは、カッ、カッ、と高い靴底で床を叩きながら歩く。よくもまあ、カルデアの床が落ちないことだと内心感心しながらメルトリリスの自室に着くと、少し小走りに部屋の奥に入っていった。

 ちらりと奥を覗くと、大量の人形が飾られている。確か、人形が大好きだとか言っていた気がする。

 やがて戻ってきた彼女が手に持っていたのは、二本の黒い薔薇だった。マスターはメルトリリスからそれを受け取り、匂いを嗅ぐ。

 花……花、か。そんなものに触れ合えるなんてとても久しぶりだ。甘く、蕩けるような匂いに思わず熱い息をはく。

 

「珍しいでしょう?」

 

「うん……とても、珍しいね」

 

「でしょう? ……それと。もし全てがイヤになったら私に言いなさい? アナタをドロドロに溶かして、私の一部にして、永遠の快楽に溺れさせてあげてもいい。人形にして、私が直接愛でてあげてもいい。アナタには、私の愛を受ける権利があるのだから」

 

 メルトリリスはそう言って、無邪気に微笑んだ。




検索 : 黒薔薇 二本 花言葉

次のテーマが決まらないので、活動報告欄にて希望を集います。


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はっぴーえんど

テーマははっぴーえんどで。
今回のマスターは、心身ともに正常であるものとします。獣性には一切犯されておりません。


 カルデアは色鮮やかに彩られ、時の流れを感じられる。通路から通路にわたって門松やら餅やら、なぜかクリスマスのツリーまでもが飾られている。なんでも、片付けるのがかったるいのだとか。

 レフに爆破され、甚大な被害を受けたオペレーションルームもすっかり元通り。亡くなったスタッフたちの命は帰ってこないが、その無念はちゃんと晴らしてみせた。

 マスターはマシュと手をつなぎ、賑やかな雰囲気を楽しんでいる。彼女の手はふにふにで温かく、この手がいつも盾を持っていたというのが信じられないほどだ。

 少し強く握ってみれば、マシュは顔をこちらに向け、くすりと笑って、ちゃんと握り返してくれる。そんな、なんの意味もないやり取りが楽しくて、嬉しくて、つい何度も握ってしまう。

 

「い~~や~~だぁ~~!! 私はこたつにもぐって! ミカンをほおばって! グダグダしたいの!! ニートの特権を奪うなーー!」

 

「そんなこと言わないで今日くらい部屋から出たらどうだ! 大晦日くらい皆と過ごせ!」

 

 刑部姫がエミヤに引きずられながら叫んでいる。ドアの端に両手でしがみつき、なんとか耐えている。エミヤは彼女の腰を両腕で掴み、ぐぬぬと引っ張る。

 なんとも小さな争いか。そんなふたりのレベルの低い喧嘩から、ゲーム機のコントローラーを手にインフェルノが、アサシンに霊基チェンジしたかと疑ってしまうほどの気配遮断でするりとドアの隙間から出て行った。

 

「あ、逃げるなーー!!」

 

「どこを見ている!」

 

 仲間(インフェルノ)の逃亡を見た刑部姫は首を伸ばして叫ぶも、その隙をエミヤに突かれ、とうとう手がドアから離れてしまった。そしてずるずると引きずられていく。

 なんとなく彼女の部屋を覗いてみると、FPSの真っ最中で、ちょうど敵にやられた瞬間だった。インフェルノはこれをプレイしていたのか。

 

「先輩っ」

 

「ん?」

 

 マシュがマスターを呼ぶ。

 にへらと笑う彼女が可愛らしい。そして愛おしい。「なんでもないですよっ」とおどけてみせたマシュに、マスターは容赦なく全力でマシュマシュにしてやつた。

 向かうは食堂。

 今夜はエミヤ氏だけでなく、(自称)料理できるんですサーヴァントが何人も参加してくれているおかげで、大晦日の晩御飯はさぞ盛り上がることになるだろう。

 クリスマスが終わり、査察を挟んでたった数日でこれだ。カルデアはとてつもなく大忙しだったが、それ以上にとても楽しかった。

 

「……あ」

 

 マスターの視界の端に、ことこういうものには興味のかけらもなさそうなふたりが映った。向こうはこちらに気がつくと、そそくさと曲がり角の向こうに消えようとする。

 

「……マシュ」

 

「もちろんです先輩」

 

 マスターとマシュは小走りにふたりの後を追う。曲がり角を曲がると、そのすぐ脇でエミヤアサシンとエドモンが壁にもたれかかっていた。

 ふたりはマスターと目が合うと、何も言わずに見て見ぬ振りをした。そしてムスッとマスターは手を掲げた。

 

「令呪を以て命ずる。イリヤとクロ、あとナイチンゲールもーー……」

 

「……それは強引すぎないか?」

 

 エミヤアサシンがぼそりと呟く。

 使用を中断したマスターは、彼の目の前まで迫ると、ぽんぽんと胸を叩いた。

 

「ゴー、食堂。ウィズアス」

 

「わざわざ英語で言う理由がわからない」

 

 変にハイテンションなマスターから逃れようとするが、逃すか、と彼の服を掴んだ。ついでに気配を消して退散しようとするエドモンの外套もしっかり捕まえる。

 

「俺たちはああいうのは好まない。だから、ほっといて、くれ!」

 

「ダーーメーー!」

 

 まるでおもちゃをねだる子供だ。

 必死に逃れようとするふたりを、マスターが力づくで抑える。ちゃっかり令呪を使用して筋力補強しているため、そうそう引けを劣らない。まさに我が儘な犬二匹をなだめる我が儘な飼い主といった奇妙な図の完成である。

 

「2017年の最後だよ? お願い、皆で過ごそう? ほら、コーヒー豆のエミヤですら参加しているんだよ?」

 

 そんなマスターの言葉に、まさかとふたりは顔を振り向いた。

 コーヒー豆のエミヤ……通称デミヤは完全なる孤独の悪性だ。本性は言わずとも皆が知っている。クッキングパパのエミヤとは正反対な彼が、そんな和気藹々とした空間にいるわけがない。そんな暗黙の了解レベルのものなのだ。

 しかし期待は裏切られ、彼はオルタグループに吸収されてしまっている。そのせいでオルタグループではさらなる混沌が渦巻いている。アーサー'sに無理やり食べさせられていて、少し可哀想にすら思えてくる。

 

「そんな、バカな……ボクたちと彼は同志だと信じていたのに……」

 

 エミヤアサシンが落ち込む。

 しかしエドモンはどこ吹く風だ。このひねくれようは筋金入りだ。これはもう、どうしようもないのかと思われた。彼の迫力にはつい退いてしまう。だから絶対に嫌だと断られたら……残念だが、諦めるしかない。

 

「私は皆に参加してほしかったんだけど……」

 

 俯く。エドモンの袖から手を放し、難なく彼はマスターから離れる。

 黒い雷のようなものがバチバチと爆ぜ、怒っているのかとさらに委縮してしまう。

 エドモンが無言でマスターを見下ろす。そしてバサリと外套を翻すと、早歩きで遠ざかっていった。

 

「……行くぞ」

 

「……え?」

 

「貴様ではない。アサシン、食堂に行くぞ」

 

「ボクか?」

 

「ああ。コンチェッタなら、きっとそう言っていたからな。……勘違いするなよ我が契約者? 貴様の言うことに従うのではない。俺がそうしたいからだ。クハハハハハハ!!」

 

 そう言い残し、エドモンは黒雷を纏いながらよくわからない移動方法で滑るように、あっという間にマスターの視界から消えてしまった。その後をエミヤアサシンが音もなくついて行く。

 マスターはポカンとした顔だ。

 

「先輩、あれはきっと照れ隠しなのだと思いますよ」

 

「あれで?」

 

「はい」

 

 マシュが頷く。

 そんなものなのか。男の心はよくわからないものだ。そう思いながら、マスターは再びマシュと手を繋ぎ、さっさと食堂へと向かった。

 

 ◆

 

「お、主役が来たね。さあさ、ここに座りたまえ!」

 

 食堂にマスターとマシュが入ってきたのを見たダ・ヴィンチはふたりを座らせ、「静粛に」と全員の注目を集めた。

 ぐるりと見渡せば、錚々たるメンツだ。巡った特異点では敵だったサーヴァントも、今では味方となり、同じ杯を交わしている。たとえ文化、価値観そして時代が違えど、わかり合うことはできるのだ。その証明が、ここにある。

 大晦日は大盛況だ。食事はバイキング形式。バリエーションもたくさんで、よりどりみどりだ。料理担当のスタッフやサーヴァントたちには感謝の念が絶えない。

 

「査察も無事に終わった。これでグランド・オーダーは完遂ということになる。皆、この二年間よく頑張ってくれた! カルデアは部分解体ということになってしまい、レイシフトはできなくなるが、現在カルデアに滞在するサーヴァントたちの在籍が特別に許可された」

 

 全員が一斉に湧き上がる。

 どうどうとダ・ヴィンチは鎮めると、「そして」と言葉を紡ぐ。

 

「なによりも、全てマスターのおかげだぜ? これほど異色極まりない英霊たちを纏め上げてみせた。これこそまさに偉業だろう」

 

「ちょっと……大袈裟だよぉ」

 

「何を仰せですか我がマスター様」

 

 遜ったダ・ヴィンチの物言いがなんだかおかしくて、思わず吹き出してしまう。

 皆がマスターを見ている。さっきの二人も、無関心ながらも流れに乗って、マスターを見てくれている。

 ダ・ヴィンチからマイクを受け取り、立つ。何を言うかなんて考えていない。言いながら、考える。それしかないとマスターは思った。

 

「まずは感謝を。皆、こんな未熟な私を支えてくれてありがとう。力を貸してくれてありがとう。ええっと……うん、明日からも頑張ろーー!! か、乾杯!」

 

 オフの時はこんなにも抜けているくせに、やるときはやる。そんな理屈のよくわからないマスターながら、よくぞここまで生き抜いてきた。人類史を守り抜いてみせた。

 今日は大盤振る舞いだ。酒やらワインやらも目白押し。しかしマスター含め、未成年はジュースで勘弁。

 食堂にひとつしかないテレビで何を観るかという争いがアーサー's+円卓とマスター好き好きトリオとの間で勃発したり、調子に乗って酒を飲みすぎたメイヴが艶やかにマスターに迫ったりと、それはもう大はしゃぎだった。

 最後は武蔵が全員分の年越し蕎麦を振る舞うという、大晦日の締めとしては最高の料理を皆で食べ、終わった後は、時計とにらめっこをしながら2017年が終わるのをガヤガヤと騒ぎ立てながら待っていた。

 ……とても楽しかった。

 マスターは心の中で思った。辛いことがたくさんあったが、それでもここまでたどり着くことができた。それらは全てここにいる皆のおかげなのだ。ひとりでは決して叶わなかった任務。尊い犠牲を払って成し遂げた試練。

 もう終わった。これからはサーヴァントたちとの何気ない日常が繰り広げられるのだろう。

 この先の未来がどうなるかなんて、今を生きる者たちには何もわからない。だからこそ、しっかりと生きる。それだけで十分だ。

 だが、あまりの騒ぎに新年を迎える瞬間を祝い合うことができず、来年はリベンジだね、と皆笑ったのだった。

 

 ◆

 

 真っ暗な部屋なのに、マシュの顔がとてもはっきりとわかる。ひとり用の布団をふたりで被る。述べるのならば、窮屈なんて感想ではなくて、これだけ距離が縮められる、という感想だ。

 手を伸ばし、頬をぺたぺたと触る。

 

「な、なんですか先輩?」

 

 驚きながらも、やめてとは言わない。ならこれはもっとやってほしいという意味では? そう勝手に結論づけたマスターは、今度はマシュの顔を自身の胸に押しつけた。

 ……マシュの息遣いが、パジャマを通じて身体に感じる。互いに何も言わず、沈黙の時間がただただ通り過ぎる。

 やがて耐えきれなくなったのか、先に口を出したのはマシュだった。

 

「あの、先輩……これは一体どういう……」

 

「私の心臓の鼓動、聞こえる?」

 

 マシュが自ら動いて、耳を胸に当てる。

 

「えっと……はい、とてもはやいですね。緊張しているのですか?」

 

「それもあるんだけど、恥ずかしいもあるかな」

 

「じゃあどうしてこんなことするんですか?」

 

「ほら、深夜テンションってやつだよ」

 

 あはは、と小さく笑って、マスターはぎゅうう、とマシュの身体を抱き締めた。人の温もりが直に伝わり、なんとも言えない、幸福な感じがマスターを支配した。マシュもまんざらでもない様子で、同じようにマスターの身体を抱き締めてくれた。それがとても嬉しかった。

 

「この心臓はね、いつもマシュが守ってくれたものだよ? マシュがいてくれたおかげでここまで生き抜くことができた」

 

「もう、大袈裟ですよ?」

 

「ううん、大袈裟なんかじゃないよ」

 

 全ての始まりは、マシュが下敷きになったあの時からだ。その時からずっとそばにいてくれた。

 マスターにとって、最古で、かつ最愛の人物は、他でもないマシュなのだ。

 

「マシュ、大好きだよ」

 

「……はい、私も先輩のことが……その……大大大好きです」

 

「おっと、言ってくれたね? これはもう相思相愛、結婚を前提にお付き合いしないといけないね?」

 

「ふふふ……そう、なってしまいますね」

 

 甘くて蕩けそうな幸せ。

 それでいい。これでいい。マシュと、カルデアと、皆と。これから歩んでいく未来がとても楽しみだ。

 そして朝になると次はおせちを食べなくてはならない。その時に寝不足だったら笑えない。だから、おとなしく眠ることにする。

 最後。マシュの額に、キスをした。その瞬間、彼女の顔は真っ赤になった。

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 薄暗い部屋。

 マシュと一緒に寝た時とは異なり、真っ暗ではなかった。なぜ? と思い部屋を見渡してみると、その理由がすぐにわかった。

 

 ……ここは、シャドウ・ボーダーの中だ。

 

「ん? ああ。やっと目が覚めたか」

 

 マスターの上に馬乗りしていたカドックが相変わらずの不健康そうな表情でこちらを窺う。

 そして首から両手を離し、ベッドを降り、回転椅子に座った。つまらなさそうにくるくると回転し、やがてマスターと対面する状態で止まった。

 

「もう何回やってるんだ? 僕としては飽きないからいいけど」

 

 いまいち状況が読み込めず、ぼんやりと彼を見つめる。

 すると彼はおいおいやめてけれよと手を振った。

 

「君が僕に頼んだんじゃないか。今回は随分と長く意識が飛んでいたな?」

 

 ……ああ。

 

「こういう時ってなんて言えばいいんだ? そうだな……」

 

 あれは夢だったのだ。

 幻想。叶うはずもない夢。いつの間にか、そんな理想の世界を自身の中で想像していたのだ。とてもリアルな夢。だが偽りのもの。

 そして今更になって、彼に絞められていた苦しみを身体が思い出す。

 

「ーーさよなら理想。おはよう、現実」

 

 マスターはまたまた、カドックの前で、無様に吐いたのだった。




……『はっぴーえんどで終わる』なんて言ってませんよ?

▼シリアスさんは十分力を蓄えました。
シリアス(愉悦)警報発令。
次は、CCCコラボの『1周目』です。これ以上の説明は……いりませんよね?


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オワリセカイ

水着ピックアップ来ていたから回してみたら、まさかの虹演出で「きたああああああああああ⤴︎」と喜んでいたら、不意打ちの婦長さん(2人目)でした。

では。
シリアスさん全解放。
ストーリーとかは色々と独自解釈を含めています。矛盾点なども探せばたくさんあるでしょうが、そこはどうか目を瞑ってほしいです。
今まではほぼ三人称の神視点で書いてましたが、今回はマスター視点に挑戦してみます。


 ガウェイン、トリスタン、タマモキャット。臨時選抜メンバーと共に、私はこれまで通り、レイシフトのための準備に取り掛かった。もう何度も何度もやったことだ。頭というより、身体が動作を覚えている。

 

「はやくしてくださいね、センパイ。セラフィックスの危機を救えるのはあなたしかいないのですよ?」

 

 クスクスとBBが煽る。

 ダ・ヴィンチがコンソールを操作し、時間軸を指定、さらに座標を固定する。BBは、カルデアは2018年以降へのレイシフトができないと言っていた。それが一体どういう意味なのか、今の私にはそのことはどうでもよかった。ただセラフィックスの危機を救う。それだけに集中だ。

 自分の頬を叩き、気合いを入れる。

 ……戦いだ。戦いの予感がする。

 最終定義完了のアナウンスが流れ、意識が細分化され始める。向かうはマリアナ海溝の底。助けを求める未来の誰か。私の善性が刺激される。

 BBの仮面のような笑顔が怪しさをぷんぷん匂わせる。私は彼女がジャックしたモニターを無言で見つめる。

 

「なんですかセンパイ? あ、もしかして私に一目ぼれですか? 人間にそんな感情を向けられても不快ですーー」

 

 可愛らしく頬を膨らませてBBが怒る。流石は未来のAI。煽りから煽り、さらに人間への悪口はお手の物のようだ。

 

「なんで『今』の私を呼んだの? もっと未来の私のほうがあなたの力になれるんじゃないの?」

 

 ダ・ヴィンチから大丈夫か、と声がかかる。私は何も問題ナッシングと親指も立てるハッピーセット付きで答えてみせた。マシュがダ・ヴィンチの隣でこちらに手を振っている。これこそ答えねばならぬといっぱいに手を振る。

 BBはそんな私を傍観した後、カルデアのレイシフト補助定義を、侵入した回路を用いて強引にカルデアスとシバへ送り込む。ふう、わざとらしく流れてもいない汗をぬぐうと、『にっこり』と笑顔を浮かべ、最後に冷酷にマスターだけに告げた。

 

「その極未来が『今』ですから。ーー勝ち目のない、死ぬだけの救いのない地獄へようこそ。あなたはもう、逃げられません」

 

 BBの紅い目がマスターを人間と見下し、見下ろす。

 ああ、未来人からの遠回しな死亡宣告がなぜか心地よく感じてしまう。本当ならば恐怖に身体を強張らせるべきなのだろうが、そのような感情はあまり強く持ち合わせていなかった。

『いつも通り』だ。だから何も心配はいらない。

 これまで数多の死線を避け、時には擦りながらもなんとかくぐり抜けてきたのだ。それくらいの覚悟があれば、今回だって、『いつも通り』の範疇だ。

 そして私は、セラフィックスへと送られた……。

 

 ◆

 

 まず感じたのは、圧倒的電子世界。

 見るもの全てが電子世界ましましで、立っている地面すらも、よくわからない青緑色っぽい光で構成されている。

 床を撫でてみると、確かな物体の質感を肌が感じる。いったいどうなっているのかなど、専門家ではない私にとってはわかるはずもない疑問だ。爪で削ってみても、何も変化はなく、爪に何かが挟まるわけでもない。本当にここは地上ではないと思い知らされる。

 立ち上がり、数分間周りを見渡す。誰も人らしきものは確認できず……サーヴァントすらいない。

 おかしい、と私はだらだら歩き回っていた脚を全力で運動させ、できる限り広い範囲を走り回った。確か一緒にレイシフトしてきたはずなのに、どこにもいない。走り疲れて、どデカいフィールドに、ひとり息を切らして大の字に倒れた。

 

「ガウェインーー! トリスターーン! タマモーー!! 誰もいないのーー!」

 

 反応はない。

 もう一度叫ぶもやはり誰も応えず、ついに私は諦めた。

 誰一人として側にいないのは白状すると寂しいし、そしてなによりも、どんなことが起こるか全く予想できないセラフィックスにたった一人という状況が、どれほど危険であるかはよく理解している。

 

「……とにかく」

 

 誰かに出会わないと。

 じゃなければ何も始まらない。ようはイベントだ。そのためのフラグを立てるのだ。楽観的に考えればそんな感じ。相変わらず能天気で、狂った感覚だ。

 よっこいしょ、とまだまだ年若いくせにくさいひとことをバネに起き上がる。

 まずは何をしようかと考えて、できるだけ高い建物から周囲を広く見渡すことを第一の優先とした。

 そうと決まればあとははやい。完全に不規則に点在している建物のうち、それなりに高い教会っぽい建物に目星をつける。距離は……だいたい300メートルほどだろうか。

 軽く走っていけばすぐに着く距離。そう思い、初めの一歩を踏み出そうとした、まさにその瞬間。

 

 目にも止まらぬ速さで、何かが私の向かおうとしている方向とは真逆の方向の彼方で激突した。

 

 爆音。

 距離はだいぶ離れているはずなのに、風圧が私の身体を容赦なく殴り、呆気なく飛ばされた。

 

「う、あッ……」

 

 電子世界だから土煙が上るわけではなく、ただ私が転がり回る。

 天と地が逆転した視界でその衝突した方向を確認してみると、そこには三体の馬……とそれらが引く乗り物ーー戦車だろうか?ーーに男が乗っているのがなんとなく見えた。見るからに只人ではなさそうだ。おそらくサーヴァントとみて間違いない。

 セラフィックスに来てようやく誰かに遭遇できた。その朗報に、吹き飛ばされたのが嘘のようにかき消され、さっさと立ち上がるとその男に近づこうと駆け出した。どちらかというと教会っぽい建物の方がはるかに近いのだが、一瞬で優先順位が更新された私にとっては些細なものだった。

 しかし、男は手綱を握るとまた何処かへ飛んで行ってしまった。向かう先はーー……。

 

 ぬぅっ、と現れた、あまりに巨大なマンモスだった。この遠さでも視界いっぱいに広がるほどの巨躯。もし誰かがあれを獣の神だとポロリと漏らしても容易に信じてしまいそうなほどだった。

 男の乗った戦車が稲妻のようにジグザグの軌跡を残しながらそのマンモスに体当たりする。激しい轟音が空気を爆発させ、私のところへとまた影響が及ぶ。

 体当たりされたマンモスは少しだけ仰け反るも、長い長い鼻を振り払うと、戦車にクリーンヒットし、地面に叩き落とした。そのまま大きく湾曲した牙に魔力を迸らせ、極大の魔力の球が……。

 

「ーー!!」

 

 あれは……宝具だ。

 ビリビリと肌を灼く威圧感がそれを何よりも語っている。これだけ距離が離れていても、絶対に死ぬ。そう確信できた。あれはマシュでないと防ぐことは不可能だ。しかし、そのマシュはカルデアで留守をしている。

 マンモスに背を向け、全速力で逃げた。逃げ込む先は教会。力をためる時間、そして私に届くまでのタイムラグを見積もって、時間としてはある程度の余裕が生まれそうだ。

 建物が自然に生み出した簡単な迷路を走り抜け、ようやく教会の正面ドアが見えた。空気がバチバチと激しく反応し、そこらじゅうで静電気のような現象が起こっている。その欠片が私の肩を打つ。

 

「グッ……!」

 

 鋭い鞭に叩かれたような痛みに少しだけ足元がふらつく。サーヴァントの戦いの余波でけがをするなんてざらだ。もしかすると、何度も宝具のぶつかり合いなどを目の前で見ているのにまだ生きているなんて、奇跡なのかもしれない。

 とにかく教会へ。走ってきた勢いのままドアを開け、中へと入る。鍵がかかっていなかったことに感謝しながら、上がった息を整える。肩を上下させてようやく落ち着いたところで、あのマンモスが宝具を発動した様子がないことに気づいた。たぶんあの戦車男がなんとかしてくれたのだろうと結論付け、当初の目的、高い建物からセラフィックスを見下ろす、を達成すべく教会の中を歩き回り、階段を探した。

 ……古い教会だ。木造で、列を成して並べられている横長椅子のいくつかは背部が腐りかかっている。電子世界のはずなのに、触れた感覚がやけにリアルだ。ギシ……と足の重みに軋む音もリアルだ。

 腕に亀裂が走っている女神像をサッ、とスルーし、その下にある壇に登った。

 見下ろせば一瞬で宣教師気分。適当に「アーメン」と唱えてみた。

 馬鹿馬鹿しい。そんな言葉で誰かが救われるわけでもないのに。一刻も早く上に登らなければ。そう思い、壇を降りた。

 

「誰か、いるのですか……?」

 

「ひゃっ⁉︎」

 

 猫は驚いた時、高ジャンプをするらしい。それに負けず劣らずの高さまで飛び上がり、私は声のした方から離れた。十分な距離が取れたところで止まり、様子をうかがう。ゆっくり思い返せば、今の声はとても弱弱しく、放っておけば死んでしまいそうだった。

 もしかしてセラフィックスのスタッフか? であるのならば早く助けなければ。もしそうでなかったとしても、私の良心が助けるべきだと訴えてきている。

 もう一度壇に登り、注意深く探し回った。

 ……教会の壊れた高窓から射し込む光に眩しく反射する、歪な脚部の金属。膝から突き出た長い棘。それらが私の目にまず飛び込んできた。そして次第に視点を移動させ、やがて正体の全体像が明らかになってきた。……少女だ。おそらくサーヴァント。……しかも露出度が高レベルな。

 

「……」

 

 私は彼女を見下ろす。

 壁に寄り掛かっているこの子はとても傷ついている。何があったのかわからないが、とりあえず少しだけ魔力を分け与えた。

 

「は、あ、あああ……」

 

 変に艶やかな声を漏らし、彼女は瞬時に傷を修復した。たぶん全快、とはならないだろうが、動き回れるほどにはなっただろう。

 彼女はゆっくりと目を開けると、長い時間私を見つめていた。数秒ほど経った後、口を開いた。

 

「魔力を分けてくれたのはあなた……ですか?」

 

 あれほど生気を失っていた顔はみるみると血色を取り戻していく。

 

「うん」

 

「そうですか……ここで消えるのを待つだけの私を助けるなんて、とんだお人よしですね。でも、感謝を」

 

「よくわからないけど、そうだね。みんなにもよく言われるし」

 

 マシュがふくれっ面で「先輩はお人よしすぎです……!」と私に迫ったことがあったなと最近の記憶をゴミ箱の中からあさる。

 

「で、あなたの名前は?」

 

「メルトリリスです」

 

「ふむ」

 

 メルトリリスが立ち上がろうとするのを手伝おうと咄嗟に手を差し伸べるが、断られる。

 

「私の棘が刺さったら大変です。それよりもあなた、サーヴァントは?」

 

 訊かれて、三人を思う。

 どこにいるかまったくわからない状態。こんなことで令呪を使うのももったいない気がする。右手の甲に残る三画を見て、いや、やっぱりまだいいと私は手を下ろした。

 

「今はいないよ。しがない迷子ってとこかな」

 

 あはは、と後ろ頭をかく。一緒に笑ってくれるかと思ったが、逆にメルトリリスは驚きに目を見開いた。

 高い踵でカツカツと床の上を器用に歩き、私の目の前に立った。

 さっきは私が見下ろしていたのに、逆転してしまった。その膝の棘で蹴られてしまえば、呆気なく死んでしまうのか、なんて変なことを考えていると、メルトリリスが問いかけた。

 

「サーヴァントがいない? ここSE.RA.PHはサーヴァント128騎による大規模聖杯戦争が行われているのに?」

 

「……128騎?」

 

「まさかそれも知らないのですか?」

 

 一般的に知られている聖杯戦争は、それぞれのクラスで召喚されたサーヴァントと、そのマスターを1組とした、7組の生存対戦である。そしてそこで勝ち抜いたただ一組にのみ聖杯が与えられ、自身の望みを叶えることができる。そうダ・ヴィンチから教わっている。

 ……それがサーヴァント128騎? とんでもない量に頭がおかしくなりそうだ。

 

「……はあ、もう。わかりました。私と契約を結んでください」

 

「え?」

 

「あなたに借りができてしまいました。だから、あなたを守るということでチャラにさせてもらいます。それに私自身、都合がいいので」

 

「ん」とメルトリリスが指図し、私はとりあえずそれに従った。

 まだきちんと理解できていないが、外ではドロドロの阿鼻叫喚なバトルロイヤルが繰り広げられているということだけはよくわかった。

 一時的に契約を交わし、魔力がメルトリリスに流れていく感覚が新しく加わる。

 

「で、どうするのメルトリリス?」

 

「まずは敵を倒し、吸収します」

 

「吸収」

 

「今の私は初期化され、レベル1ですからどんどん倒していかないといけません」

 

「レベル1」

 

「そして私はあなたを生かし、あなたは私を生かす……って、聞いてますか?」

 

 敵を吸収だとはなんと物騒な。可愛らしい見た目とは反してなかなかエグいことをするサーヴァントだ。しかし、今はどんな手を使ってでも生存することが大切だ。その手が随分と物騒だが。

 口早に説明するメルトリリスは、悶々とする私にようやく気づき、眉を顰めながら訊いてきた。

 

「ちょっとごめん。もしかして私たちって……初めから詰んでるんじゃないの?」

 

「初めから悲観的になるのはよくありませんよ?」

 

「逆に私はなんでそんなに楽観的なのかがわからない……」

 

 これじゃあよくある魔王討伐系RPGの『はじまりの大地』とかでモブ・オブ・モブで超有名な、雑魚モンスターことスライムさんではないか。

 しかもそんなスライムさんに勇者パーティーひと組が襲いかかってくるのではなく、100を超える勇者が単騎で休む暇も無く戦いを挑みに来るのだ。

 どう足掻いても絶望的。剣で軽く薙ぎ払われてワンパン。そして経験値の足しになるオチが容易に想像できる。

 

「とりあえず外に出ましょう。まずは弱っている敵を見つけ、倒すのです。今の私では正攻法で挑むのはまず無理でしょう。奇襲。不意打ち。漁夫の利。なんでもアリでいきます」

 

「……訊いてなかったけど、もしかしてクラスはアサシン?」

 

「いえ、アルターエゴです」

 

「あ、あるたーえご?」

 

 オルターエコではない? エコなオルタなら大歓迎だが、生憎そんなクラスは聞いたことがなかった。おそらくはルーラーやアヴェンジャーと同じ、エクストラクラスなのだろうか……?

 メルトリリスの言い方も多少問題があるが、事実そうせざるを得ない状況だ。勇者同士で傷つけあった後、美味しいところをスライムさんの『体当たり』でいただく。現実的にみても異論はない。

 

「じゃあよろしくね、メルトリリス。奇襲! 不意打ち! 漁夫の利上等!」

 

「私が言うのもなんですが、あなたのテンションも相当変ですよ? 命の危険だというのに、なぜそんな正常でいられるのだすか?」

 

「うーん、もう慣れたから、かな」

 

 軽く流す。

 誤魔化すように、メルトリリスから逃げるようにドアに向かう。

 メルトリリスが128騎のうちの1騎だから、要するに127騎の相手をしなければならない。バビロニアでの無限増殖する牛若丸もだいぶ手こずったが、今回はそれ以上になりそうだ。

 握り拳を作り、気持ちを切り替える。この大規模聖杯戦争を勝ち抜きながら、セラフィックス……SE.RA.PHの生存者と合流。何が起こっているのかを知り、解決にあたる。

 考えるだけならばこれほどにも簡単なのに、いざ実際やるとなれば遥かに難易度が高い。

 

「あと、気づいていないようですから伝えておきますが、あなたの身体、徐々に電子化していってますよ? SE.RA.PHが沈むほどそれは顕著に現れて、最後には、消えます」

 

「……うそ」

 

 咄嗟に私は自分の手を確認する。

 ……確かに輪郭が薄れていて、ポリゴンのように砂粒単位でゆっくりと現在進行形で削られている。

 それと同時にSE.RA.PHの探索にもうひとつ時間制限が条件として加わる。

 

「じゃあ……速攻で敵を倒さないといけないってこと?」

 

「はい。早速行きましょう。1分1秒が惜しい状態ですので」

 

「了解」

 

 レベル1のサーヴァントと共に、時間制限ありの中、100以上のサーヴァントとバトルロイヤル。控えめに言うと超ハードモードなのだが、やらなければならない。

 カルデアからの通信ももちろん途絶えているため、天才たるダ・ヴィンチからのアドバイスはもらえない。サーヴァントとしての力を失ったマシュもいない。

 BBの言っていたことが本当ならば、おそらくもう、二度と声を聞くことも、顔を合わせることもないだろう。寂しいし、割り切ることなどできないが、どうしようもない。

 私は無言でふたりに……カルデアに別れを告げて協会のドアを開ける。

 

 するとそこには、あの男がいた。

 

「ぃよう。お前さんが出てくるのをずっと待ってたんだが、やっと出てきてくれたな? もうすぐでこの戦車で教会ごと引き潰すところだったぞ?」

 

 雄々しい三頭の馬が蹄で地面を蹴り上げる。

 槍を構え、私に矛先を向ける。

 

「さっき、誰かがいるのはわかってはいたものの、まさかただの人間だったとは! ここのルールはわかっているよな? ーーならば、死んでもらうぜ?」

 

 馬が高く鳴く。

 男が手綱を握り、戦車が私に向かってくる。

 避けよう、と思った。完全に避けることなど不可能だろうが、少しでも被害を抑えたかった。

 左に跳ぶべく、予備動作をとった。しかしそのコンマの世界で、馬の力強い脚はすでに私の頭の上にあった。

 

「…………ぁ」

 

 死を悟った。

 侮っていたつもりは欠片もなかった。だがそんな言い訳が相手に通じるはずもない。

 こんなにはやく死ぬのか。私だって、こんなの無理だって心の底で微かに思っていた。バトルロイヤルで必ず現れる、颯爽と誰にも知られずに脱落する、哀れなプレイヤー。まさにそれが私というわけだ。なんと無様な幕引きか。これには私自身、簡単に納得することはできなかった。

 そして……馬の蹄が私の頭に当たり、頭蓋を割る、その瞬間。

 ーー黒いバレリーナが、馬を蹴り飛ばした。その隣の二頭も巻き込まれ、戦車は横倒しに倒れた。

 

「契約した途端に死なれるのは困ります」

 

 すたっ、と軽やかに着地すると、後ろを振り向き、私にそう言った。

 戦車が壊れ、馬と共に光の粒となって消えていく。素早く飛び上がった男は、メルトリリスの前に綺麗に着地した。男よりも身長の高いメルトリリスは男を見下ろす。

 男はニヤリと口角を上げる。

 

「おいマジか。お前さんにもサーヴァントがいたのかよ。……滾るなぁ。なら存分に殺しあえるじゃないか、ナァ!!!」

 

 槍を握り、刹那の時間でメルトリリスに肉迫する。

 槍による一貫……と見せかけて脚のひと蹴り。私の目では捉えることができない速さを、メルトリリスはなんとか脚を振り上げて相殺する。

 男は仰け反りざまに槍を振り回し、先端がメルトリリスの頬を掠める。メルトリリスが追撃しようと接近すると、認識の外から飛び込んできた、馬たちが引く戦車に跳ねられ、メルトリリスは高く空に上がった。

 

「おいおい、その程度か? 興醒めだぞ」

 

「クッ……!!」

 

 メルトリリスが空中でバランスを取ろうとする。そこに男の投げた槍が金属の脚に命中する。貫通することはなかったが、大きくバランスを崩してしまい、背中から地面に激しく打ちつけて着地してしまう。

 

「ア……! ク、ッ」

 

 すぐさま立ち上がろうとしたが、許すはずがないだろうと男が追撃を仕掛ける。咄嗟に脚を振り上げて牽制するが、なんなく避けられ、男のつま先が深くメルトリリスの腹部にくい込み、そのまま遠くへと蹴り飛ばされた。

 

「……つまらねぇ」

 

 すっかり興味を無くしたメルトリリスから意識を背けると、今度は私の方に歩いて来た。

 怒っている。明らかに怒っている。目だけで殺すような威圧だ。思わず悲鳴が漏れそうになったが、私はグッと耐えた。

 

「おい」

 

 男が私を見下ろし、口を開く。

 

「あの程度でこの俺に勝てると思ったのか?」

 

「思ってない。そもそも私たちはとても弱いわ。だから強者から戦いを挑まれた時点で勝つのはほぼ不可能なの」

 

「そうか」

 

 男が槍を構える。

 私は打開策を考える。今すぐ令呪を使うこともできるが、その前に右腕を切断されて終わり。真正面から私が戦っても数秒で殺される。

 ……どうやら私の命運はここで尽きたようだ。

 

「……だからといって、俺はあんたに慈悲を与えるつもりはねぇ。たとえ命乞いをされてもな。だからここで死んで、俺の戦果の足しになってもらうぜ」

 

 ……諦める。

 ……脱力する。

 

 ーー諦めた。

 ーー脱力した。

 肩をだらんと下ろし、その時を待つ。

 私を待つ死とは、この男のことだったのか。

 メルトリリスが不器用そうに腕を動かしながら、這って私のもとへたどり着こうとしている。でもダメだ。あまりに距離が離れている。

 男が一歩引き、一気に槍を突き出す。

 矛先が鈍色に輝き、金属特有の光沢が煌く。そう、ゆっくりな時間を味わった。

 走灯馬も、願いも、祈りも、救いもない。ただ絶望と、失望と、悲哀に沈む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だがやはり、私はどうも生き汚く、死に汚いらしい。

 私自身の魔力はまだ十分残っている。

 この男にひと泡ふかせる程度のことをしておかないと……不愉快だ!!!

『刹那』では遅い。もっと、もっと……! それこそ光の速さの如く……!!

 

 ーー魔術防壁を、展開。

 

 脳が灼け落ちそうだ。ガンガンとハンマーで脳を直接叩かれるような痛み。柔らかいそれは、跡形もなく脳汁をぶちまけて潰される。意識がブレ、一瞬だけ『死ぬ』。

 形は私の前に盾のようにではなく、逸らすことを目的としたものを。

 これで槍の軌道を逸らすことはできるはず。これでーー……。

 

 しかし、槍は私の胸から生えた。

 

「……は」

 

 ……目の前に男の姿は、なかった。

 震える手を懸命に持ち上げ、血濡れの矛先に触れる。そして手を開き、べっとりと血に染まっているのを見た。

 まだ、何がどうなったのかがわからず、これ(・・)の指す意味もわからなかった。

 ーーヒンヤリと絶対零度の冷たさが私の胸を撫で、それを灼熱の炎が燃やした。

 

「……ゴ、ぷ」

 

 口から血が溢れる。

 叫ぶにも、喉を逆流してくる血に溺れ、醜く血を吹き出すのみ。

 

「ゴボっ……ケッ、ッ゛ッ゛」

 

 誰かが私の肩に優しく手を乗せた。

 耳元で、誰かが話す。

 

「……いやぁ、やっぱお前さんなら何かしらすると思ったぜ? だが残念、それは失敗に終わったなぁ? お前はここで……終わりだ」

 

 ……そうか、ここまでか。

 血の意味も理解し、さらに声の主が男だとわかった瞬間。

 

 私はきっと、死んだ。




それではさっそくマスターさんには脱落してもらいまーー……。
シリアスさんが、許しません♡
次、(小)悪魔BBちゃんがマスターちゃんをシリアスシリアスします。
誰と誰が戦っていたかはわかりますかね? そこが文章力の熟練度に大きく影響するというかなんというか……。


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オワリセカイ 2

今更感が半端ないのですが一応忠告を。
この作品はシリアス中心ですが、その度合いが違います。プチシリアスが目的でしたら、この小説を読まないことを強く推奨します。

ではでは。
(小)悪魔BBちゃん、頑張っちゃいます♡


 ゆっくりと槍を抜かれる。

 同時に心臓すら身体から抜かれてしまう感覚を味わい、気持ちの悪さに激しく血を吐く。

 

 ……し、ぬ。

 

 そう思った。だがそんなことは何度もあった。だから、これは『いつものこと』だ。ただ、死ぬほど痛いだけ。

 倒れ、血の海に沈む。指先一つ動かすことすらできず、ただ私は男を血濡れの視界の中、見上げた。

 

「……あとはあの露出狂を始末するだけだな」

 

 どうやら今の一撃で私を殺したと信じ込んでいるらしい。だが、私はまだ生きているぞと叫ぶことなどできず、私には目もくれずにメルトリリスへと歩いていく男を、動じない視界から消えてしまうのをただ待つしかできなかった。

 ……負けた。負けたのだ。

 それを潔く受け入れろ。

 最後には必ず勝利をおさめてきた私だったが、今回ばかりは女神様は嗤って去ってしまった。

 いいの。もともと私は女神様なんて信じていないし、いつも私と、サーヴァントたちの力でそれらを全て打ちのめしてきた。

 そして今回は完全に誰の助けもない。だから死ぬ。実に単純明快な事実だ。

 ついに男が私の視界から消える。グルンと回ってはいけない角度まで回っていた目玉を元に戻す。

 ぼんやりと真上を見上げ、青い深海の空を仰いだ。

 

「……は、ゥ、ァ」

 

 やはり腕は動かない。どうせ上がったところで、その先は本当の空ではない。深い深い、冷たい海の底なのだ。

 なぜか悲しくはなかった。

 ただ、残念に思ったことはある。それはメルトリリスとの約束だ。彼女にはとても申し訳ないことをした。願わくば、こんな未熟で愚かな私ではなく、もっと力のあるマスターが彼女についてくれますように。

 そして私はーー……死ーー……。

 

 ……音が、聞こえた。何か……硬いものを引きずる音だ。

 ガリガリ。ガリガリ。とその音は次第に大きくなり、私に近づいていることがわかる。

 やがてそれは私の耳元へとたどり着いた。目玉を動かし、その正体を確認する。

 鉄球、だった。いたるところに棘が伸び、血が滴っている。……いや、この血は私の血か。

 鉄球に繋がる鎖が見え、ついにそれを持つ人物が私の視界に映った。

 女の人だ。驚くほど白い肌だが、どこか薄汚れているような気もする。

 その人は私を無言で見下ろす。そして感覚でサーヴァントだとわかる。最悪のタイミングだ。相手は何も言わず、私を見下ろしていた。

 じゃり、と鎖を握り、再び鉄球を引きずり始めた。

 振り上げ、私の頭を叩き潰すつもりか。

 だから私は目を瞑り、待つ。しかし、いくら待とうとその時は来なかった。

 さらにあろうことか、鉄球の引きずる音は私から遠ざかっていく。

 

「ぁ、ぇ……?」

 

 女の身体は燃えるように熱かった。目が血走り、すでに私から興味は失せたらしく、隣を早歩きで通り過ぎていく。その跡には炎の道が生まれ、バチバチと爆ぜ、消える。

 

「ーーアキレウスウウウゥゥゥゥゥ!!!!!」

 

 女が耳をつんざくほどの声で誰かの名を叫ぶ。

 きっと、あの男の名前なのだろう。だがそんなこと、私にはもうどうでもいいことだ。

 これで死ぬ。やっと死ぬ。

 今度こそ……と思った。

 しかし、その後にさらに新たな足音が近づいてきた。

 

「やだーーセンパイったらブ、ザ、マ♡ こんなところで死ぬなんてえ、あまりにも呆気なさすぎてつまらないですよ? そんな終わり方……」

 

 カルデアの通信を乗っ取った……BBだ。

 私の血を踏まないように「気持ち悪いですねぇ」と言いながら華麗なステップで私の隣へとやって来た。

 腰を落とし、『にっこり』と微笑む。

 

「ーー私が許しません」

 

 紅い目でそう告げ、ステッキを私の額に当てた。

 

 ◆

 

 明らかに知らない場所へと送られた。

 ドサッ、と乱雑に床に打ち付けられ、私はその痛みで喉に詰まっていた血の塊を吐き出す。

 

「まだ吐くんですかセンパイ? も〜〜、汚いセンパイをここに連れてくるのも嫌々だったのにこれ以上汚されるのならさすがの私だって怒りますよ? ぷんぷん」

 

 BBが可愛らしく頬を膨らませて私に注意する。

 だが私には応える余裕はなく、瞬きの間に燃え尽きそうな命をなんとか長らえさせようと必死なのだ。

 BBはようやくそのことに気づくと、だからどうしたと言わんばかりにゆっくりとした動作で手元に注射器を出現させる。

 

「センパイに死なれると困るので応急処置をとりますね? そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。電子ドラックを色々と弄った魔剤なので、このチートキャラBBちゃんが効果を保証します。副作用は私にもわかりませんが♡」

 

 ……どうせこのままならば死ぬ命だ。助けてもらえるだけ喜ぶべきなのだろう。

 すでに私はされるがままの肉人形だ。何か酷いことをされることなんてこれまで何度もあったし、だから大丈夫。

 血色に滲む視界が注射の中身を血色に染める。

 気持ち悪いほど良い笑顔を見せながら注射器を私の首元にぐさりと乱暴に刺す。そして中身を注射する。

 

 それは何と表現すべきかわからなかった。ただ確実に言えるのは、ヒトに属するものがこれを受けてはならないということだけ。

 体内に残る僅かな血が文字通り沸騰する。身体が燃えるように熱く、大量に発汗し、すぐに蒸発する。

 

「ア゛、ア゛、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛…………!!!!」

 

 ……わかった。

 マグマ風呂だ。マグマ風呂に浸かっているのだ。

 肉を溶かされ、骨をしゃぶられ、組織をイチからゼロへと変換される。いったん私は『ゼロ』に全変換され、『イチ』へ再変換される。

 強引に接合され、あれじゃないこれじゃないとあらゆる組み合わせを試される時間が永遠に感じられ、夢幻の苦しみに囚われる。

 痛みというより、それを感じることすら許されなかった。だからこそ恐ろしく、怖かった。

 

「グベ……ハグ、アぎッ……」

 

「獣みたいに汚い声で鳴きますねえ?」

 

 BBが嗤う。

 

「………………ギィ、ぁ」

 

 ふと気づけば身体は元通り。

 胸の空白も完全に再生していて、破れた服の部分から私の肌が見えている。

 

「よく耐えきれましたね……ってあらやだ、胸が見えそうじゃないですか。下手すれば18禁に直行ですよそれ。そんな魅惑的な胸で今からSE.RA.PHを走り回るなんて、とんだ変態さんですね」

 

 BBの言う通りだ。

 上手いこと谷間が強調されるような穴が少々うざったい。なんなら脇腹のあたりを貫いてほしかったと、ここにはいないアキレウスに愚痴をこぼす。

 ともあれBBは私の命を助けてくれたのだ。感謝の一言くらいはしておかなければ、と思い口にしようとしたが、喉にひっかかるナニカが邪魔をする。

 口元を抑えたがそれは自律しているかのように私の喉を上がりはじめた。

 

「こ、れ……なに…………ガヒュ……ッッ!!」

 

 喉が肥大化して破けそうになり、ギリギリのところでなんとか……いや、ナニカは口から吐き出した。

 ビシャビシャ! と落ちたそれは真っ黒い液体で、なにやら気持ち悪い動きをしている。

 BBが小さく悲鳴をあげると、イヤイヤとステッキを振り回し、その不明な物体を消し飛ばした。

 

「なんですかあれはー⁉︎ さすがのBBちゃんもぷんぷん丸です。たぶん副作用なのでしょうけど! あれはないでしょう! あんな生き物みたいなウネウネが生まれるなんて論題です!」

 

 私は無言でその場に倒れ、喉に残ったイガイガに不快感を覚え、何度も咳き込む。

 咳をしすぎて少し血を吐いたところでようやく収まり、私はふらりと立ち上がった。

 

「ありが、とうBB。メルトリリス、は……?」

 

「え、あのロリっ子二歩ほど手前のドSのことですか? あの子ならまださっきのところを彷徨っているんじゃないですか?」

 

 なんてことだ。

 メルトリリスはあのまま放置されているというのか。アキレウスは鉄球の女に追われていたと思われるから、なんとか彼女は無事なはず。なのに私がいなければ激しく混乱しているはずだ。たとえ次第だとしてもあるはずの私がいないのだ。

 一刻も早く会わなければならない。

 

「お願い……私を、あの子のと、ころに送ってくれる?」

 

「ええいいですとも」

 

 BBがスッ、と手を振ればホログラムのキーボードが現れる。それをマシンガンの如く素早いタイピングでデータを入力、検索すると彼女の目の前にモニターが現れ、メルトリリスの姿が映し出された。

 誰かと戦っているようだ。

 どちらもボロボロだが、力は拮抗しているようだ。メルトリリスに対する敵は……黒ひげだった。

 疲労度の溜まりで比較すると、黒ひげのほうが溜まっている。動きにキレがないし、そのせいでメルトリリスの鋭い脚技の直撃を何度も受けている。

 

『やっとこさBBAを倒せたと思ったのに、息をついた途端これでござるか。とんだご褒……とんだ仕打ちですなデュフフフフフ!!』

 

 黒ひげが一方的にやられている。

 それなのになぜか彼はご満悦そうに鼻の下を伸ばしまくっている。……なるほど、あの変態男の真の目的が理解できた。

 あの黒ひげはカルデアにいる黒ひげとは違うが、本性は同じということか。

 メルトリリスの膝蹴りのクリティカルヒットを受け、建物の壁に飛ばされる。

 もはや黒ひげに抵抗する力はなかった。カツカツと歩いてくるメルトリリスを見上げ、なおもデロンと鼻の下を伸ばしている。

 

『これで終わりよ。……宝具、片鱗解放。『弁財天五弦琵琶(サラスヴァティー・メルトアウト)』!!』

 

 黒ひげを海の渦巻きのように高く舞い上げる。無防備となった黒ひげを何度も膝の棘で滅多刺しにし、最後に踵で彼の胸をブチ抜いた。

 

『こんな露出度の高い美少女に殺されるのなら本望でござるーー……!!!!』

 

 欲望だらだらの一言を残し、黒ひげは光の粒となって消滅する。

 それを吸収したメルトリリスは、深く息を吐くと横に倒れた。

 

『……さすがに、今は物理特化だから……強引に吸収しようとしたら効率がガタ落ちするようね……ねえ、どこにいるのですか、マスター?』

 

 ゆっくり立ち上がるとメルトリリスは再び歩き出す。目的地もなく、少しレベルの上がったスライムが、生存困難な聖杯戦争を生き抜こうともがく。

 そんな彼女を見て、私も死んでいられないと両手の拳を強く握った。

 

「それではいきますよ?」

 

 BBがステッキを振る。

 すると私の身体はよくわからない紫色に光に包まれ、足元から徐々に向こうへと転送されていく。

 

「どうぞ私にセンパイの生き様を見せてくださね? もし死にそうになってもご安心を。私が何度でも助けてあげますから。何度も何度も何度も何度も……。殺してくれと言っても助けます。センパイを生かすかどうかは私の手に。……ああ、なんだかゾクゾクしちゃいます♡」

 

 そんなもの、何度でも受けてみせましょう。何度でも耐えてみせましょう。死にそうになれば生きることを放棄し、生きていれば死ぬまいと足掻く。そんな矛盾を抱いた私を徹底的に虐めたいのなら、いくらでも虐めるといい。

 BBが『にっこり』といい笑顔を振りまきながら手を振る。私は最後に彼女を一瞥する。

 そして、私はメルトリリスの下へと送られた。

 

 ◆

 

 RPGのレベル上げは自身の命にはなんの害もない行為だ。時間さえ捧げればMAXにするなんてことは簡単だ。ネットで経験値効率の良い場所を探し、入り浸り、昼夜問わず狩り続ければいい。そんな簡単なことだ。

 だがSE.RA.PHはそうはいかない。実際に動かしているのは私自身なのだ。レベル上げをするのはメルトリリスなのだが、行動するために必要な魔力を提供するのは私だ。いくら敵を倒して強くなっていくとしても、魔力はほんの少ししか吸収できない。

 一万円投資して返ってくるのがたった百円。そんな感じだ。

 

「マスター、大丈夫かしら?」

 

 敵を吸収し終えたメルトリリスが膝をついて過呼吸をする私に走り寄る。

 だが手が致命的なほど不器用なため、私に手を差し伸べることができない。

 

「ごめんなさい……あなたを立たせる手伝いすらできないなんて……」

 

「大丈夫。うん……これぐらいで倒れるわけにはいかないから、ね」

 

 私は地面に手をつき、力の入らない腕を立てて懸命に立ち上がろうとしたが、バランスを崩して倒れてしまう。何回か繰り返して、四回目でようやく立ち上がることができた。

 ……魔力が足りない。全力で戦うとしても、あと二戦分ほどが関の山だろう。身体の輪郭はとうに電子化され、どこからが『私』なのかが曖昧になっている。

 

「メルトリリス……今だいたいレベ、ルどれくらい……?」

 

「136ほどね。たぶん上位には属するんじゃないかしら」

 

「それ、はよかった。というか……口調変わった……ね?」

 

 感覚の鈍くなった足を半ば引きずりながら歩く私に合わせてゆっくりと歩いてくれている。そんな見えにくい優しさがなんだか嬉しくて、ついつい微笑む。

 

「吸収するたびに強くなり記憶は戻っていくから当然よ。それよりマスター、あまり喋らないほうが良くて?」

 

「うん……そうするね」

 

 ぜぇ、ぜぇと熱い息を吐き、私は歩き続ける。目指すは天球シミュレーター室。セラフィックスの心臓部であり、そこをなんとかすればいいだろうというメルトリリスの案に乗って、残り少ない時間をそれに全力で注いでいる。

 このペースだとあと二時間しばらくで私は完全に電子化されるだろう。そうなってしまえば帰ることはおろか、永遠にこの世界の住人になってしまう。だからその前に決着をつけなければ。

 

 天球シミュレーターへの分岐点へと差し掛かる。

 はるか前方に見えるドーム状の建物がおそらくそうなのだろう。メルトリリスの反応がなによりも語っている。

 やや小走りに私の前に出ると、メルトリリスは口を開いた。

 

「ここから先は私が前に立ちます。何が起こるかわかりません。どうかお気をつけてください」

 

「……ありがとう」

 

 メルトリリスの高い背丈がさす影に私はすっかりと覆われてしまう。

 あの長い踵が無ければきっと私と同じくらい……いや、私より身長が低いだろうと大まかな見当をつけてどうでもいいことに優越感を得る。

 しばらく歩いたところで、建物の全体像が大まかに把握できるまでに近づいた。

 メルトリリスとの距離は4メートルほど。

 この建物、大きいねとメルトリリスに話しかけようとした瞬間、都合の悪いタイミングで『BB〜〜チャンネルーー!!』と私たちの前に突然モニターが映し出された。

 そこに映るBBは満足しているような、不満なような、どちらかわからない表情をしていた。そしていつも通り満面の笑みで『にっこり』としてみせた。

 

『えー、マイクテストマイクテスト……うん、完璧! SE.RA.PHで頑張って醜くもがく血みどろの皆さーん、人類の愛されチートキャラ、BBちゃんです♡ たった今、アキレウスさんとペンテシレイアさんの同士討ちにより、128騎全てが死にましたので、本来の聖杯戦争が完遂できなくてBBちゃん、悲しいです。しくしく』

 

 128騎が、全滅?

 それはおかしい。だってメルトリリスがそのうちの1騎ではないのか。私はメルトリリスを窺うと、彼女も動揺を隠せずにいた。

 だが実際これで聖杯戦争は終わった。これでSE.RA.PHの問題は無事解決されるはずなのではないか。障害の一切ない状態ならば、スタッフな捜索も格段としやすくなる。

 これは喜ぶべきなのだろう。

 やっと終わったと安堵し、気を抜きかけた『私たち』に、BBは言い放った。

 

『ーーなので、もう一度聖杯戦争を開催することにしました』

 

 ーーぇ。

 と間抜けな声を漏らすと同時に、私は背後に気配を感じた。

 ばっ! と後ろを振り向くと、そこにはひとり、誰かがいた。距離はだいぶ離れているが、とあるものだけははっきりと見えた。

 

 ーーなんて凶悪な()だ……!

 

 少女は目隠しをされていて、金属製の爪を立ててこちらへゆっくりと移動してきている。

 メルトリリスにそのことを伝えようとしたが、とうの彼女はBBの言葉のせいでまだ動けないようだ。

 

 ……そして、私とメルトリリスの間に、正体不明の歪んだ空間が生まれた。

 ゆっくりと収縮していくそれは、爆発する前の、力を溜めている状態に見えた。今のメルトリリスはきっとこれに気づいていないだろう。……助けなければ。

 残り少ない魔力を右腕に集中。

 ぎこちない脚を強引に動かし、悲鳴をあげようが歯を食いしばり、なんとか彼女へとたどり着いた私はその手首を掴み、力任せに投げ飛ばした。私のすぐ横では今にも爆発しそうな空間の歪み。

 

「ーーーーえ?」

 

 メルトリリスがまだ状況をつかめていない顔で呟く。

 グググ……! と一気に収縮し、歪みが解放された。

 途端、極小のブラックホールのようなものが発生し、伸ばしきった私の右腕の指から飲み込み、ゆっくりと手首、肘、二の腕、肩に伸び、ようやく満足したらしいブラックホールは最後に再び収縮して消えた。

 急いで腕を抜こうとしたが、どうやらそれより先にブラックホールが消えたようだった。

 

 ……だが一体どうしたことか、消えた跡には、何もなかった(・・・・・・)

 

 空間がないのだ。空間と定義できるものがごっそりと飲まれ、虚無へと化していた。

 ぼんやりと見つめ、あるはずの部分に何もないこと(・・・・・)に気づいた時にはもう遅く、私の首元の辺りまでが……無くなっていた。

 

「……ぁ……ぁ……ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」

 

 理解する。

 血が噴き出る。

 私の身体はバランスを完全に失い、ふらりと足元をおぼつかせ、仰向けに倒れる。

 動かそうと右腕に指示を出しても、そもそもないそれに届くことはなかった。

 

 力なく上を見上げる。

 深海の空に、100を軽く超える真っ赤なコードが現れ。

 それらが人の形となるのは、すぐのことだった。




魔力はほぼゼロ。
マスター、右腕欠損。
そして再び始まる128騎による聖杯戦争。
もはやマスターに勝ち目はなし。

でも大丈夫。死にそうになったらBBちゃんが助けてくれるからっ!


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オワリセカイ 3

生放送をまだ見ていない人にはネタバレになるので詳しくは語れませんが……カッコいい!! そして楽しみですよねっ!!! ねっ!!??

ではでは。
BBちゃんの活躍は続く。


 RPGで例えるならば、ラスボスを倒したと思ったら実は偽物で、すべてを出し切って疲労困憊の勇者たちの前に真のラスボスが現れたという感じ。

 恐ろしい速度で血が流れ、私の身体が急速に冷たくなってきているのがわかる……よりも先に本能が寒さを私に激しく訴え、無意識にガチガチと歯を鳴らし始める。

 血色に染まった真っ白な腕の骨が、綺麗に一部を失って突き出ている。脇腹も少しだけ抉られ、肋骨を空洞から覗かせる。

 叫び声をあげる心の余裕はなかった。濁り始めた眼はもはや全く何も映さず、私は暗闇に囚われた。敵サーヴァントの密集地帯のど真ん中で、無抵抗で死にかけの身体で倒れている。

 すぐ隣で繰り広げられている戦闘の音が体を揺さぶり、銃を放つ音が耳を撃つ。

 きっと、私は絶好の獲物なのだろう。

 何がどうなっているのかはわからないが、私の周りで激戦が繰り広げられているのは確かだ。

 いつ殺されるかわからない中で、私は本当に無様に倒れている。BBがこれを見ていたら、また無様を晒しているのですか〜? と良い笑顔で言われるだろう。……言っているだろう。

 何かの破片が飛んできて、私の身体に当たった。

 

「……ッ。メルと、リ、りす……」

 

 掠れる私の小さな声は、邪魔だ、と周りの騒音にすぐさま消される。

 私のすぐ側で、メルトリリスの声が聞こえる。鋭く息を吐いて、じゃりぃん! と金属の脚に力を込め、風を残してどこかへ行く。

 何かの液体が私の顔に飛んできた。舌を伸ばして舐めてみると、それはたぶん血なのだとわかる。

 

「はぁ……はぁ……マス……ター! まだ、死んではいけま、せん……!!」

 

 しばらくすると、いつの間にか辺りは静かになっていて、メルトリリスがたったひとりで倒したのかと感心していると、恐怖がよく伝わる声色で言葉を紡いだ。

 

「ああ……どうすれば……! 私の手は使えませんし、でも足は棘が……。……クッ、なんてタイミングよ……!」

 

 べちゃっ! と私の血がつくことなどおかまいなしにメルトリリスは私の横に倒れると、不自由な腕を懸命に動かして私の身体を押して動かそうとするが、なかなか上手くいかない。

 

「リップが……そこまで来ているというのに……!」

 

 私は残りカスの力を燃やし、首を傾け、メルトリリスの背後を見た。

 全く見えないが、あの特徴的な身体の部位をなんとか確認する。私の腕を飲み込むブラックホールのようなものを生み出した彼女はリップというのか。

 

「Ahhhhhhhhhhhーー……!!!!」

 

 リップが少女とは思えないほどの荒々しい雄叫びをあげる。

 もう一度あの攻撃をされてしまえば終わりだ。動けない私に、動かせないメルトリリス。どう考えても足を引っ張っているのは私だ。

 何十人いたかはわからないが、大勢を相手にメルトリリスはたったひとりで挑み、勝ってみせたのだ。おそらく吸収してレベルも一気に上がったのだろうが、致命的に魔力が足りていないはず。だから今からリップと戦うにしても勝つことは難しいだろう。

 やることは決まった。

 動けないのは私だけではないのだ。それでもなお戦おうとするメルトリリスに、何もしてやらないのはマスターとして失格だ。それくらい、力のない私にだってわかる。

 手探りでメルトリリスを探すと、どこでもいいからそこに触れた。

 

「…………ぁ」

 

 メルトリリスの動きが止まる。

 私は離さないように指を絡ませる。そしてわかる。これは、手だ。

 

「マスター……何をしているのですか⁉︎ そんなことをしたら死ーー」

 

「少し、聞いてくれるかな……?」

 

 振り払おうとするメルトリリスだったが、させまいと私は手をガクガクと震わせながら強く握った。

 メルトリリスの目が見開かれる。

 ありったけの魔力をメルトリリスに流し込む。それでもきっと足りないだろう。リップに対抗できるほどの魔力量ではないだろう。

 ……ならば。

 ならば、命のロウソクを削ってでも魔力を体内で作り出せ!!

 足先からの感覚が完全になくなり、自分が呼吸をしているのかどうかもわからなくなる。極限まで命を代償にし、魔力を獲得する。

 目は……もう見えない。メルトリリスの美しい姿を見ることはもうできなくなり、私は瞼の重さに従って、視界に別れを告げる。

 何も聞こえず、ついに力を無くした手はぱたりと落ちた。地面に触れた感覚もなく、すぐさまその手の感覚すら失せる。

 ああ、メルトリリス。あなたが何を言っているのかがわからない。でも、これだけは言いたかった。

 令呪のある手を失い、絶対命令をすることはできなくなったが、『お願い』することならできる。

 

「めるとりりす……かって……おねが、い」

 

 イエスと答えたか、ノーと答えたかはわからない。

 あとは彼女を信じるだけだった。

 完全に何も感じられなくなる。

 何も……なにも……ナニモ……ワカラナイ。

 

 ◆

 

「復活したかと思えば性懲りもなくすぐ帰って来ましたね? でもいいですむしろウェルカムですよ、センパイ! 私がセンパイを絶対に死なせたりしませんからね♡」

 

 ……悪魔の囁きが聞こえた。

 薄っすらと目を開けると、つい数時間前までいたBBのスタジオで私は横になっていた。

 立ち上がろうとして、激しい目眩と、取れないバランスのせいで後ろに倒れる。すくそばの机を掴んで、縋って、ようやく立ち上がる。

 その様子を黙って見ていたBBはわざとらしく拍手した。

 

「よく立てましたっ。立てなかったら『どうしようか』と思いましたが、よかったです」

 

「ありがとう……メルトリリスは?」

 

 頭がくらくらする。頭を片手で押さえる。

 BBがステッキを後ろの方をさす。私はその方向を凝視すると、確かにメルトリリスがいた。それになぜかリップも一緒に並んで静かに待っている。

 メルトリリスは私の顔を見るや否や、私の胸に飛び込……む前に安全確認をした後で私に顎でこっちに来てと指示される。言われるまま片脚を引きずりながら彼女の前まで移動すると、懸命に腕を動かして私の前に手を差し出した。

 

「握ってください」

 

「う、うん」

 

 左手でメルトリリスの手を握った。

 私は彼女を見上げると、不満そうにもう一度言った。

 

「握ってください。もっと強く。壊れるくらい強く」

 

 私は言われるがままに強く握った。力はほとんど出ないが、できる限り最大の力で握った。

 

「……どう?」

 

「ーーーーええ」

 

 メルトリリスはゆっくりと目を瞑ると、もういいです、と言った。

 

「……本当にごめんなさい。私のせいで、あなたに大怪我を負わせてしまった」

 

 メルトリリスが伏せ目で私の無くなった右腕を見る。包帯が何重にも巻かれていて、血に染まっている。

 ……というより、私を治療したのは誰だろう? まさかあの悪魔が……。

 悪魔を見ると、『その通りですよっ』と微笑む。

 

「あの魔剤を打てば良かったんじゃないの?」

 

「センパイにはその程度の治療で十分です。それよりも魔力の確保が最優先と判断しました」

 

 ……そういうことか。つまり、『死にそう』になった時に悪魔は助けてくれるということ。そして今回はそうではなかった。彼女の判断基準がいまいちわからず、いっそ尋ねてみようかと思ったがどうせ答えた後に煽りを上乗せするだろう。

 

「大丈夫だよ、メルトリリス。私は生きている。これ以上なにを求めるの?」

 

「あんな目にあって大丈夫なわけがないわ。どうしてそんな……そんなにも楽観的なの?」

 

 メルトリリスの鋭い瞳が私を縫いとめる。

 乾いた笑いで誤魔化そうとしたが、眉ひとつ動かすことなく私を見つめ続ける。どうしようもなく、逃げられない。狭いBBのスタジオからは逃げられそうになかった。

 

「……私、このSE.RA.PHで死ぬらしいから。そうだよね、BB?」

 

「どことなく言ったんですけど、まあその通りです。センパイはここで死にます。これは異聞帯と剪定事象の要素を中途半端に含んでしまったこの世界の決定なので、逆らうことはできません」

 

 BBの言うことはよくわからなかったが、要するに私は死ぬのだ。それに揺るぎはない。

 瞬間、メルトリリスの足蹴りがBBを襲う。しかし、BBはそれを余裕の表情で避けると、ステッキでメルトリリスに軽く触れる。すると、黒い帯のようなものがメルトリリスを包み込み、激しく内部爆発する。

 

「ぐううッ!!」

 

「いきなり殺そうとするなんてはしたないですよー? 女の子ならもっとお淑やかじゃないといけませんよ、メルトリリス」

 

 壁に背中を強く打ちつけたメルトリリスをBBが冷ややかな目で見降ろす。

 メルトリリスはBBを悔しそうに見上げる。

 

「あなたの現在のレベルは239。対して私のレベルは999より上。どう頑張っても私には勝てません」

 

「あの子を救おうとは思わないの!?」

 

「無理です。……そもそも私はもう、諦めていますから」

 

 リップが爪を棘に引っ掛けてメルトリリスを起こす。

 起き上がったメルトリリスはまたBBに挑もうとしたが、リップに制されて唇を噛みしめて引き下がる。

 

「センパイもセンパイでメルトリリスとパッションリップ……ドSドMセンチネルを仲間にするなんて正気の沙汰ではありませんね。魔力を少しだけ回復させたものの、これではすぐにスッカラカンになりますよ?」

 

「魔力……回復させてくれたの?」

 

「え? 何を言っているのですかセンパイ。魔剤その2をキメたじゃないですか~。あの暴れようはさすがに私も焦りましたけど」

 

 そういえば、魔力が確かに僅かながら回復している。気分は言うまでもなく死にそうだが、魔力譲渡をした後に失ったすべての感覚が元に戻っている。しかしどう頭を穿り返しても、魔剤を打たれた記憶はなかった。BBが改ざんしたのかと疑いを抱いたが、どうもそうではないらしい。

 メルトリリスは私の『お願い』を聞いてくれ、無事パッションリップを倒してくれた。何がメルトリリスを突き動かしたのかはわからないが、そのおかげで死の淵から落ちずに済んだ。

 

「大まかなことは、わかった。じゃあBB、天球シミュレーターまで送ってくれる?」

 

「え、嫌ですけど」

 

 どうしてセンパイの言うことに従わないといけないのですか? と本当に理解できないという風に装い、おどけてみせた。

 いったいどこまで私を虐めれば気がすむのだろう。私自身はどうなってもいいが、メルトリリスと……メルトリリスと仲の良さそうなパッションリップのふたりには害を加えないでほしい。

 

「でも安心してください。ちゃんと帰しますから。あなたの状態、魔力量、そしてこれから想定される魔力消費量、まだ残る96騎のサーヴァントたちのステータス、配置、移動予測。そして何より天球シミュレーターからの距離を計算し、最適な場所を弾きだしましたから♡」

 

 BBが楽しそうにホログラムのキーボードをタイプし、ッターン! とわざとらしくカッコつけてエンターを押した。

 すると私の足元から徐々に消えていく。前回も味わったこのなんとも言えないヒンヤリとした冷たさについ身がぴくりと震える。

 メルトリリスとパッションリップも同じように足から電子に変換されていっている。あと数秒で転送されるだろう。

 まだ目的の一部も達成していない。手がかりはあるが、それが外れたら私はきっともう、終わりだ。

 私に残された時間はもう、少ないと悟り、焦りが募る。

 

「それでは三人とも頑張ってくださいね? 私からささやかな特典としてメルトリリスとパッションリップのレベルは1にしました。嘘⁉︎ 急いでレベル上げしないと! なんて思わなくても大丈夫です。レベルが上がらないようにしましたので、気にすることなく天球シミュレーターへと向かってください♡」

 

 悪魔の伝言を聞き終えた私は、絶望に膝をついた。

 何時間かけてあそこまでたどり着いたと思っている。モザイクが目に見えて目立つ腕を見る。時間がない。圧倒的に足りない。それに来た時と比べると歩くスピードが遥かに落ちている。ここからいったいどれくらいの時間がいるのか、私にはもうわからなかった。

 メルトリリスも、パッションリップもその身体的な特徴から私を抱えて走ることはできない。

 

『何しているのですかセンパイ? ほら、もう10秒のロスが出ていますよ? この調子では『ギリギリ』には間に合いませんよ?』

 

 悪魔の通信が入り、私は我にかえった。

 いくら絶望しようと、時間は否応なしに刻まれる。

 ぼろぼろの机に身体を擦りつけるようにして立ち上がる。偶然その上に置かれていたいつかの女神像がぐらりと揺れ、落ち、地面に打ちつけられて、両脚と右腕がぽろりと壊れてしまった。

 それを見て私は自嘲する。

 堕ちた女神様。

 どう考えても不要な像がどうしてここにあるのかはわからない。だが、ぽつんとあったこれに何かを想い、私はその像を元の場所に置いた。ついでに破片もちゃんと側に。

 

「ふたりとも、行くよ。すごく申し訳ないけど、非力な私を連れていって。そのためなら私の魔力、この命、いくらでも燃やしてやるわ」

 

 必死に足を引きずりながらも私は隻腕でドアを開ける。

 すると案の定、そこには10騎ほどのサーヴァントが血みどろの戦いを繰り広げている。その内の3騎がこちらに気づき、すでに間合いを計り始めている。

 倒す必要なんてない。倒してもレベルアップはしないし、なにより時間の無駄だ。しかしそれでもレベル1になったふたりではまともに敵に対応できない。だからこそ私の少ない魔力をフル稼働させ、十分立ち回れるようにさせる。

 メルトリリスの顔を窺う。

 彼女は怪訝な顔だが、どうしてもやらなければならない。ごめんね、と心の中で謝り、魔力を注ぐ。

 パッションリップは「ぅ」と応えたかどうかいまいち微妙な返事をしている。

 

 ……私は崩れる崖から逃げる女だ。

 歩みを止めてみろ、一瞬で呑まれるぞ。

 全方位から迫る全ての攻撃を一撃でも受けてみろ、それが終止符になるぞ。

 ここから天球シミュレーターまでおおよそ四時間ほどかかった。しかし、私の電子化を考慮すると、制限時間はその半分もない。

 悪魔におっぱい星人めと心の中で1秒で1000回呟き、精一杯の平穏を保つ。そうでもしないと恐怖に、不安に、絶望に、そして死に殺されてしまいそうだから。

 こんなところで死んでたまるか。世界がわざわざ私に死ねと言ったのだ。ならば全力で抗わなければ面白くない。

 私は、自由になりたい。

 そして嗤う。

 

「……クヒャ」




おや、マスターちゃんの様子が……。

次回。
マスターちゃん、無事にDEAD END。


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終わり世界

すみません、一度間違えて夕方頃に誤投稿してしまいました……。

発売日にリンク買いに行きました。
昨日とりあえず一つのルートをクリアしたのですが、まだいくつか他のルートがあるっぽいですね。
育成するサーヴァントで性癖がわかってしまうんだよねーこれが。

では。
マスターちゃん、DEAD END


 歩みは誰にも止めさせない。私はただひたすら進み続けた。

 飛んでくる無数の矢の雨をくぐり、バーサーカーに追い回され、逃げ切れたかと思えば完全に死角からのナイフの投擲が横腹を掠め、振り返る間も無く前方からの新たな敵の突進を、パッションリップが逸らす。

 

「あ゛ど……少じ……ッ!!」

 

 あの時メルトリリスと見たドーム状の建物が見えてくる。

 ガヒュ、コ、クヒュッ、と乱暴な呼吸で酸素を確保し、お返しに血を吐く。途中で拾ったちょうど良い破片を繋ぎ合わせて作った杖が非常に役に立っている。

 幸運なことに、見る限り私とふたり以外は誰もいない。しめた、と思い、よろよろと杖をついてできる限りの速さで向かう。

 BBに回復してもらった魔力も、もう底をつきそうだ。いざとなればあの最終手段を使うが、何があるかわからない天球シミュレーターのためにもゼロの状態で行くのはどうしても避けたかった。

 

「お願い……頑張って……!」

 

 メルトリリスが私を励ます。

 さっきから何度もチラチラとこちらを心配して顔を振り向かせている。

 喉が灼けそうだ。今すぐにでも掻きむしりたいほどなのだが、そのための空いている手がない。

 私はこくりと頷き、全身を使ってさすらいの浪人のように前へひたすら進んだ。

 そしてやがて、空間が消えたところ……私の右腕が呑まれた場所へとやってきた。

 

「ぅーーぁ、あ」

 

 パッションリップを横目で見ると、彼女は私から目を逸らして萎縮する。

 別に気にしなくていいのに。あの時のパッションリップは、センチネルとして私を排除しようとしただけ。そこに悪意はなかったから、憎む必要もない。

 大丈夫だよ、とちゃんとできているかわからない笑顔を向けると、彼女はほぅ、と安堵のため息をつく。目隠しをされているのに、今のが見えたのだろうか? だがそれをツッコむ時間はない。

 全身にまでモザイクはかかり、時折視界にノイズのようなものが走る。

 

「天球シミュレーターよ!! あそこから中へ……!!」

 

 メルトリリスがそう叫び、私は安心しきり、死にそうになってしまった。

 確かに見えるただの鉄製のドアが、いっそ神々しく見えてしまうほどだ。

 だが、青い炎がそのドアを塞ぐように燃え上がる。

 現れたのは大きな黒い男。骸骨のような頭。血濡れの黒剣がギラリと鈍色に光る。死の象徴。

 あれは……キングハサンだ。

 だが私は進むことをやめてはいけない。

 

「……来たか、来訪者よ。我の名はハサン・サッバーハ。ハサンを殺すハサンなり。我はここで汝の首を断つためにいる」

 

 睨まれる。

 それだけで心臓を直接鷲掴みにされたような異質さを感じた。

 メルトリリスとパッションリップは臨戦態勢をとっているが、意味はない。なにせ彼は冠位を捨てたものの、アサシンの中ではトップクラス……いや、トップだ。その気になればビーストにすら死の概念を付与させるほどの力がある。

 メルトリリスとパッションリップが地を蹴り、一気にキングハサンに肉迫する。

 リズムのいい、今までで最高に連携のとれたコンビネーション攻撃を仕掛けるが、ボウッ! と燃え上がる青の炎を残し、彼は姿を消す。

 直後、メルトリリスの背後に現れる。

 

「くっ……!」

 

 振り向きざまの足蹴り。

 しかし、強固な鎧を貫くことは叶わず、ガイィンンッ!! と激しく火花を散らしながら逸れる。

 

「愚かな」

 

 パッションリップの凶悪な爪が襲いかかる。完全に背後をとった一撃。だがそれすらも、まるで未来予知の如く、青い炎を爆発させて妨害する。

 逆に不意を突かれ、のけぞったパッションリップに、逃がさんとキングハサンの剣撃。

 ……不可視のひと振り。一幕遅れて、斬痕の嵐。

 彼女の周りを鬼神のように舞い、防御しようと組んだ爪を、左右合わせて四本削り取った。

 

「あ、う、ぁ……!」

 

 ボロボロになった金色の爪の欠片が輝き、ごとりと落ちる。

 

「汝らに用はない。我はあの小娘を殺さねばならぬ。……退くがいい。さもなければその首、切り落とさん」

 

「誰があんたみたいなガイコツ野郎にマスターを譲るものですか! あんたが退きなさーー……」

 

 瞬きをしたわけではなかった。ましてや意識を逸らしたわけでもない。だがそれでも『いつの間にか』首元に剣が突きつけられていたことに、ようやく気づいた。

 ここで完全に剣に意識が向く。

 避けようと上半身を極限まで反らす。

 瞬間、腹部に重い重い拳が落ちる。

 

「はぐぅッッ……!!!」

 

 電子で構成された地面に、メルトリリスを中心にひび割れがありえないほど伸びる。それは私の元まで届き、ほぼ電子化した私の足が引っかかり、コケそうになる。

 だが、それでも私は止まってはいけない。

 たとえふたりが倒されようと、諦めてはならない。ゴールは本当にあと数メートルなのだ。

 私の足は、止まれなかった。

 

「小娘よ、死ぬがいい」

 

 ぬうっ、と私の前にキングハサンが立ち塞がる。それでも私は懸命に杖をつき、歩き続けた。

 

「ヒトの道から外れた者をこの先に行かせることも、生かすわけにもいかぬ。死こそが、汝にとって救いである」

 

「どい、てぇ……!」

 

 がふ、と血を吐きながら答える。

 杖を弱々しく振り回し、先端がキングハサンの腰にあたる。何度も叩くが、彼はただそれを見下ろすだけで、何もしない。

 時間が惜しい。一刻も早く、元冠位サーヴァントを殺してでも進まなければならない。

 腕が震え、とうとう手から力が抜けて杖を手放してしまった。

 

「あ、ふ」

 

 ずっと長い間、杖を頼りに歩き続けていたせいか、前のめりに倒れそうになる。今ここで倒れてしまえば、きっともう二度と立ち上がれなくなる。そう予感し、緩やかに崩壊し始めた脚に鞭を打ち、一歩、また一歩と歩き、キングハサンに寄りかかった。

 硬いゴツゴツの鎧が私の頬に張り付き、冷たいも温かいもわからない感覚に重く息を吐く。

 

「小娘よ、なぜそこまでしてこの先へ行かんと欲す。待つのは死すら超越した、想像を絶する恐しいものでしかない」

 

 鉛のような声が上から注がれる。

 私は頭だけ上げると、答えた。

 

「こ、の゛……SE.RA.PHを、救う゛だめ……!!」

 

「そこまで身を焼いてでもか」

 

「はや゛ぐ、どい゛てェ……ッ!!」

 

 左手で殴る。

 すると指のかけらが一気に電子化される。だがそんなことに構っていられない。私はそれでも何度も、何度も殴り続けた。

 

「……哀れなり」

 

「うるさい゛っ! う゛るざいうる゛さいうる゛ざいゔる゛さいうる゛さい゛!!!」

 

 冷血な目は依然として私を見下ろし、無為に時間だけが過ぎていく。

 

「何故理解できぬ。汝は働いた……働きすぎた。安らかな死、休息が必要なのは明白である」

 

 無視をする。

 あと一発でも殴れば手が無くなってしまいそうだ。血と電子でぐちゃぐちゃの手を見て、私はキングハサンの身体を伝ってその後ろへと回ろうとした。

 

「ふーーー!! ふーーー、ぶ、ぶべッ! ギィゥ……」

 

 大きく口を開けて、これ以上動くなと泣き喚く肺を黙らせて強引に酸素を送りつける。

 そしてほら見ろと血が喉に逆流し、お返しとばかりに吐き出す。血がキングハサンの脚を流れる。だがそれでも彼は何もしなかった。

 ようやく私はキングハサンの裏に回った。あとは彼という支えから離れるだけだ。

 全身を使って彼から離れる。脚の一部が剥がれ落ちてきている。安定しない歩行。だが、たった数歩でゴールだ。

 

「はぁ、は、あぁ、はあぁぁ……」

 

 あと少し。ほんの少し。崩壊しかけた手を伸ばす。

 あと、あと……!!

 

「やはり理解できぬ。ヒトに非ざる者が何故人を真似る。質問に答えよ。その回答をもって汝の生死を判断する」

 

 突如、青い炎が燃え上がり、キングハサンが鼻息が触れるほど至近距離に現れる。

 感じたのは、静かな殺気。だが燃えるように激しく身を焦がす殺気だ。

 しかし私は動じなかった。こいつのために時間を費やすわけにはいかなかった。

 キングハサンが剣を地面に突き立てる。それは私の股の間に綺麗に刺さった。

 邪魔だ。こいつが、邪魔だ。

 メルトリリスとパッションリップが再起可能になるために必要な魔力はまだなんとか残っている。だがその瞬間、私が再起不能になってしまうだろう。

 そんなことはどうでもいい。ふたりに約束したのだ。私をここに連れていってと。そのためならばこの命は惜しくないと。まさに今がその時だ。

 こいつを退かせて、天球シミュレーターに行く。私のグチャグチャの頭で唯一考えられるのは、それだけだった。

 手として存在できているかどうかわからないものに力を込め、拳を握る。

 そして、殴る。

 

「そごを゛……どけええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!」

 

 私の拳はキングハサンの剣にあたる。

 ボロッ、とついに私の左手は完全に失われ、肘まで一気に崩壊する。

 痛みが電撃のように全身を駆け抜け、恐らく一瞬だけ死ぬ。

 

「ーーーーーー」

 

 キングハサンに傷は一切ない。

 しかしその眼には幾ばくかの驚愕を感じられた。

 私はこいつの結論を聞いてやるつもりなどなかった。私の力で排除はできないし、抵抗したところで無意味だ。

 ふたりに魔力を流し込む。だが、たった数秒で逆にふたりから拒絶されてしまった。

 

「私、だって……意地があるのよ。人間風情に何度も助けられるなんて……反吐が出るわ……」

 

 メルトリリスがふらりと立ち上がる。彼女は私を見ると、ふっ、と小さく笑ってみせた。

 パッションリップも、残った爪を地面に突き立てなんとか立ってみせた。だがバランスはあまりちゃんととれていないらしく、ふらふらとしている。

 

「行くよ、ふたりとも」

 

 うなずく。

 歩き方を忘れた私は、ゆっくりと思い出しながらドアに近づき、手をかけた。

 

「行くがいい、獣に堕ちた者よ。どのような結果であれ、それが汝の選んだ結末である」

 

 キングハサンが何かを言っていた。

 うるさい。お前は、もう黙ってて。これで終わりだ。この先にあるものを終わら、ら、ら。終、わらせせせせて、みんなハッピーエンドだ。

 私はようやくゴールへとたどり着いたのだ。

 

 ◆

 

 まず目についたのは、壁にぎっしりと並べられた棺のようなものだ。おそらくその数は100を超えている。

 機械の電気だけで照らされた部屋。SE.RA.PHの心臓部。とても不気味な雰囲気を放っていた。

 

「これ、は……」

 

 私でもわかる。この部屋には魔力が充満している。それも吐き気を催すほど汚い魔力が。

 中へと進む。限りある私の命はもうあと数分で消えてしまうだろう。

 ……ひとり、女がいた。

 尼のような服装に身を包み、こちらに気づくと、火照った顔をこちらに向けてきた。

 

「あら。ここまで来たのですね、カルデアのマスターさん。ようこそこの楽土へいらっしゃいました」

 

 警戒。

 二人が身構えたのを見て、私はこの女が敵なのだと認識した。

 

「出会いがしらさっそく敵対ですか? 残念です。私はただこの地球の核となり、人類すべてを救いたいだけなのに……。そうです、あなたも一緒にどうですか? 同じ女として、私が最上の女の悦びを教えてさしあげましょう」

 

 楽しそうに笑い、私に提案を持ちかける。女としての悦び? 実に甘美な響きだが、私には、それに浸っていい人間ではない。

 私は並んだ棺のようなものを肘で指した。中には子供がいる。

 

「私の質問に答えて。あの棺は何?」

 

 不思議そうに女は小首を傾げて私を見る。少ししてから「ああそうでした」と手を叩いた。

 

「あの子たちはマスターです。ほら、ただSE.RA.PHが沈んでいくのはとても暇ではないですか。だから催しをしていたのです。月と同じように、128騎による聖杯戦争。そのためのマスターですよ」

 

 BBの開催した2回目の聖杯戦争が脳裏をよぎる。

 私が来る以前からSE.RA.PHは沈んでいっていた。つまりその前から何度も偽りの聖杯戦争は行われていたということだ。

 

「その聖杯戦争……何回したの?」

 

「サーヴァントの皆さんの戦い様があまりにも気持ちよくて、美味しくて、私、すっかり夢中になってしまいました。ええっと……70回を超えたあたりからは覚えていないのです。ごめんなさいね?」

 

 この女は、悪だ。

 私のこれまでの経験が強く訴えている。

 

「ふたりとも、あいつを倒すよ」

 

「ええ当然よ。あんな生物の風上にも置けない頭のおかしい奴なんて、細かく切り刻んでやるわ」

 

 いくら再起したからといってもふたりとも万全の状態ではない。勝利は望み薄だが、だからといってなにもしないのはもっと悪手だ。

 女は悲しそうな顔をして、すぐに「ならば」と言った。

 

「あなたたちは私の敵なのですね。仕方がありません。ここで死んでもらうことにいたしましょう」

 

 すると、女の姿が突然変生し始めた。白黒を基調とした尼の服はピンク色に変色し、頭からは生えるはずのない角が二本、左右に伸びる。さらに天球シミュレーターまでもが変化を始め、蓮の花が辺り一帯に咲く。あれだけ薄暗かった部屋が、黄金に照らされる。

 それだけに収まらず、女の身体はみるみるうちに巨大化していった。

 

「7つの人類悪のひとつ。3つめの『快楽』の獣、ビーストⅢ、殺生院キアラでございます。地球の核まで落ちるまであと数分。もう少し早ければ勝機はあったかもしれませんが、残念ですね? それでは私の時間つぶしに……おや?」

 

 女……キアラがふたりを見て何かに気づいたようだ。

 そして面白おかしく、口元を手で隠して笑い始めた。

 

「あっははは! はははははは!! カルデアのマスターさん? よくもセンチネルのままふたりをここにつれてきましたね? KPから解放されていないのに私に挑むなど愚かの極みですよ?」

 

 KP? いったい何のことだ。今初めて聞いた単語だ。センチネルは聞いたことはあるが、結局はどちらの意味もわからない。

 なぜならそんな余裕はなかったから。

 

「何がおかしいの」

 

「ええ。ええええ。わからないのですね? ならばその愚かさ、身をもって償ってくださいな。……『メルトリリス、パッションリップ。マスターを攻撃しなさい』」

 

 何をバカなことを命令している。

 ふたりのマスターでもないのに、そんなこと、従うわけがないだろう。

 嘲笑おうと、キアラを見て、次にふたりを見た。

 

 どうしたことか、ふたりともなぜか私に攻撃した。

 

「……………………ぇ?」

 

 視界が一気に低くなる。

 だるま落としをされたような感じだ。あまりに突然のことで、何が起こったのかが全く理解できず、私はうつ伏せに倒れた。

 ……身体がとても軽く感じた。血に染まりきった視界で自分の身体を確認すると、それもそうだと狂おしいほど落ち着いて理解できた。

 両脚が無くなっている。横腹が半分以上えぐり取られている。

 腸やら肝臓やらが私のお腹から溢れ、地面に肉と一緒に転がっている。

 メルトリリスとパッションリップを見る。……パッションリップの爪に、私の片脚が突き刺さっている。

 つまりはそういうことか。

 理解したことで、ようやく反応が現れる。

 

「ぅ……ぅ…………」

 

 苦しみを、痛みを通り越し、いくつか先の次元の感覚へと至った。それが何かわからないが、ワタシなら曖昧ながらも理解できた。

 

「ああ、あああ……ああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 メルトリリスが叫ぶ。

 自分のしてしまったことの重大さに膝をつき、ひたすら叫び続けた。

 

「なんですか。その程度ですか。私が直接手を出す必要すらなかったではありませんか。でも……そうですね。最後のトドメくらい、私がしてあげましょう」

 

 キアラが泣き喚くメルトリリスを巨大な手で弾き飛ばす。パッションリップをデコピンで壁まで突き飛ばす。

 私の守りは誰もいなくなった。ふたりはもう、完全にキアラの手に落ちた。自ら望んでではないだけ、なおさらたちが悪い。

 

「どろどろに溶かしてさしあげましょう。そして快楽の海に溺れるのです。……ああ、なんて素晴らしいのでしょう。女の悦びを是非体感して下さいませ」

 

 キアラの手が私を覆い、掴み取る。

 激しい快楽に襲われ、血の雨と肉の雷雨と死の抱擁。

 許容できない。人間には無理だ。人間には、無理だ。

 頭が限界を迎え、ついに壊れる。

 

 ーーああ、私の旅はここで終わりらしい。

 

 ぱしゃり、と私の身体は溶けた。

 

 ◇

 

 メルトリリスは叫び続けた。

 あの協会で死を待つだけだった自分を、マスターは助けてくれたのだ。その後いかなる傷を負ってでもメルトリリスを守り、そしてここまでたどり着いたのだ。

 なのにこの最期はなんだ。

 メルトリリスがマスターを殺した。そう言っても過言ではなかった。これが望んだ結末か。

 否。否。……否。断じて否である!!

 マスターはメルトリリスを助けてくれたのだ。ならば今度はメルトリリスがマスターを助ける番だ。

 センチネルを全て倒した時、その時にキアラの全能に陰りが現れる。そのためにはどうすればいいか。どうマスターを導くか。それだけがメルトリリスの中で光の速さで計算をしていた。

 

「リップ……私は、上にあがります」

 

「う、ん……」

 

 それだけで何を意味するかパッションリップは理解した。

 ふたりで放つ、対篭城宝具、ヴァージンレイザー・パラディオン。光の速さを超え、キアラの発する重力から逃れ、上へ……過去へと逆行する。

 パッションリップが宝具を展開する。それをカタパルトとして、手にメルトリリスを乗せる。

 

「何をしているのですか? BBの子供たち。勝手なことを許可するわけがないでしょう?」

 

 キアラに気づかれる。

 完膚なきまでに叩き落とそうと、手が迫る。せいぜいレベル1のふたりに抵抗などできるはずもなかった。

 万事休す。この望みが絶たれれば、真の意味でもう終わりだ。

 絶対に……絶対にここで終わるわけには……!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人が、いた。

 いた場所はマスターが溶け、液化した場所。

 女の子だ。太陽のようなオレンジ色の髪。いつもはサイドテールだったか、今は解放されて、ぶわり! と波を打つ。

 その裸体は神々しいほど美しく、キアラですら見惚れ、意識が完全にふたりから逸れてしまうほどだ。

 

「あなたは、いったい……」

 

 キアラの問いを無視し、女の子は後ろを振り返った。

 ……マスターだ。間違うことなき、ふたりのマスターだった。

 マスターはにこりと微笑むと、口を開いた。

 

「ありがとう、ふたりとも。私のためにそこまでしてくれて。どうか、バカな私をちゃんと導いてあげてね?」

 

 メルトリリスの目から涙が流れた。

 その言葉が『ここの』マスターとの別れの言葉みたいで、その辛さからきたものだ。

 

「マスター! 私はあなたのことが……大好きです!! だから必ず……必ず救ってみせます!!!」

 

「うん、お願いね?」

 

 マスターはとびきりの笑顔を見せ、メルトリリスは悲哀と歓喜の狭間で涙を流し続けた。

 

「誰が行かせるものですか! 復活したのならば、また殺せばいいだけのこと! 三人まとめて死んでしまいなさい!!」

 

 キアラが両手を広げて振り下ろす。

 しかし、マスターは余裕の表情で巨大な魔術防壁を展開し、それを見事防いでみせた。

 

「なっ⁉︎ どうして私の攻撃を弾けるのです⁉︎」

 

 混乱するキアラにマスターは淡々と告げた。

 

「あの子たちを行かせるための時間稼ぎをさせてもらうよ、ビーストⅢ」

 

 突如、マスターの周りに白い光が発生する。それは次第に大きくなり、キアラの手を覆い、腕、肩とその手を伸ばしていった。

 

「これは何ですか! 抜、抜けない……!!」

 

 その間にも上半身を包み込み、腰へと呑み込み始めている。

 メルトリリス発射まであと数秒。

 メルトリリスは叫んだ。

 

「マスター!!」

 

 マスターは再び後ろを振り向いた。

 

「これで『私』とはお別れだね、メルトリリス。でも大丈夫。過去の私も、私だから。……行きなさいメルトリリス!!!」

 

 メルトリリス、装填完了。爆発的な推進力を得て彼女の身体が発射される。

 瞬間、彼女はマスターとキアラが光に呑まれて消えるのを見た。何がどうなっているかなど今となってはわからなくなってしまったが、唯一わかることは、過去へ飛翔するための時間稼ぎをしてくれたということ。

 身体を煉獄の炎が歓迎する。霊基すら燃やし尽くす炎。だが、これを耐え抜かなければ過去へ逆行できない。

 その程度の苦しみ、マスターのことを想えば何ともなかった。少しの間、耐えればいいだけの話だ。

 全てはマスターのため。マスターを救うため。

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 キアラはゆっくりと目を開けた。

 あたりは暗く、奇妙な図太い触手のようなものがたくさん、周りでうねうねと動いている。

 よく見ると、これら一本一本、全てが魔神柱だと悟る。

 

「いったい何が……そもそもここは……」

 

 さらに自分の身体が普通のサイズに戻っていることに気がつく。そんなはずはない。戻った記憶などない。ふと後ろを振り返り、キアラは戦慄した。

 あの白い玉座。その後ろに在わす光帯の脱け殻。間違いない。ここはあの時間神殿……!!

 

「ーーどうだビーストⅢ/R? なかなか上手く再現できているだろう?」

 

 後ろから声が聞こえて、とっさにキアラは距離をとった。

 この声は知っている。カルデアのマスターが死力を尽くしてうち破った者の声だ。でもあり得ない。あり得て良いわけがない。

 キアラは、そのいないはずの者を視界に収めた。

 黄金の身体。頭部に燃える枝のような禍々しい角。だがしかし、ところどころ錆が剥がれているかのように、人間の肌としか思えない部位を覗かせる。

 

「あなたは……ゲーティア、ですか?」

 

「私はゲーティアではない。この身体、この神殿は模倣したものにすぎん。だが私が人類悪であることは確かだ。貴様らのような人類愛が故の人類悪ではない。私は、人類悪が故の人類悪である。……つまり私は真性の人類悪だ」

 

「ではあなたはいったい誰……いえ、何ですか?」

 

 ゲーティア? はキアラの横を通り過ぎ、玉座に腰を下ろす。その様子は画になりそうなほど覇気迫り、圧倒的であった。

 

「さあ、なんだろうな。私だって、今生まれたばかりなのだから。適当にビーストとでも呼ぶといい。では、言わせてもらおう。……ようこそ我が時空神殿へ。さっそくだが死にたまえ。それが……貴様にとって唯一の救いである」

 

 ビーストが高々と嗤う。嗤う。嗤う。

 

 ーー人類悪、在臨。

 




CCC1周目はこれで終わりです。

ネタを補充したいので、活動報告で募集します。琴線に触れたら燃えます。書きます。


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ケイオスタイド

イベントがついに始まりましたね!!
狙うはもちろん沖田オルタ! 結果はアウト。明日また挑戦します。

では。
今日も今日とてシリアスは平常運転です。



 エレシュキガルによる冥界の権限を最大限に行使し、サーヴァントたちとマスターは宙に浮かび、ティアマトに対峙する。

 ウルクは滅びた。

 冥界の底にいるから今の状況は詳しくはわからないが、地上ではきっと煉獄の炎が顕現したが如く、ひとつの巨大な火となっていることだろう。

 

「Aaaaaaaーーーー…………」

 

 随分弱っている。だがそれでも依然その圧倒的な力を振るい続ける。

 ティアマトが口から聖杯の泥……ケイオスタイドを吐く。マシュたちはそれを死に物狂いで避ける。

 あれに触れようものならば、一瞬にして霊基を呑まれて、強制的に再構成されて人類の敵に堕ちてしまう。

 牛若丸がその最もな例だ。

 無限増殖というチートじみた権能はさんざん苦戦させられた。

 それはマスターにも当てはまることで、どうなるかすら見当もつかない。

 

「神代は終わりを迎え、人による世界が始まる。そこに貴様は不要である。大人しく永遠の眠りにつくがいい……!!」

 

 マスターのよく知るアーチャーバージョンのギルガメッシュは原典武器をフルで召喚し、ティアマトの牙を数本抉り取った。

 怒りに吼えたティアマトはギルガメッシュを呑み込まんと大きな口を開けて上から降り落ちる。

 

「王様!」

 

 マシュが咄嗟の防御を貼り、ギルガメッシュを守る。

 さらに盾で顔面を殴りつけ、狙いを逸らす。ティアマトが痛みに唸り、顔を引かせる。

 

「よくやったぞ小娘! ……この一撃を以て決別の儀としよう!!」

 

 ギルガメッシュが高らかに笑い、ティアマトの頭上まで上昇する。

 宝物庫から召喚するは、乖離剣エア。ギュルギュルと赤い雷を纏って剣尖が世界を混ぜるように回転する。

 マスターはあれが宝具発動の前兆なのだと理解すると、ありったけの魔力を彼に送った。

 彼の言う通り、これで終わりの一撃を放ってもらう。それでビーストⅡは倒され、神による支配から解き放たれるのだ。

 

「貴様からもらった魔力、存分に使わせてもらうぞ」

 

「うん……ギルガメッシュ、ビーストⅡを討って……!!!」

 

 出し惜しみは無しだ。中途半端にではなく、徹底的に倒さねばならない。令呪を三画全てを純粋な魔力へと変換し、マスターはその全てをギルガメッシュに与えた。

 今や彼の力は普段の数十倍。威力はあのキャメロットでのランサーアルトリアのチート宝具も、対界宝具の域も軽く抜きんでる。

 

「……いいぞ! いいぞ! それでこそ人類最後のマスターだ。その大胆さ、我は気に入ったぞ!!」

 

 ギルガメッシュが剣を掲げる。すると、空に何重もの嵐が生まれ、重なり合い、ティアマトに照準を定める。

 赤黒い空。ティアマトを上から照らす一撃必殺の明かり。闇を切り裂く未来の星、ここに。

 

 天を仰げ。

 人の業を見よ。

 そして、人に世界を譲り渡せ。

 

「原初を語る。天地は別れ、無は開闢を言祝ぐ。世界を裂くは我が乖離剣。星々を廻す渦、天上の地獄とは創生前夜の終着よ。死を以て鎮まるがいい……!! 『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』ッッ!!!」

 

 それはまさしく最後を飾るにふさわしい一撃だった。

 マスターは歴史的瞬間を目にし、地球すら揺るがしているのではないかと錯覚してしまうほどの、空気ですら激しく振動する威力を身に染みて感じた。

 後に残ったのは、右半身を大きく削られたティアマトの亡骸。冥界の壁をよじ登ろうとしていた異形のビーストIIが剥離し、落下していく。

 ここにいては危ない。はやくウルクへ……地上へ上がらなければ。

 ティアマトが吼え、前脚をマスターに伸ばす。だが届かない。

 全ての母。『回帰』を願った母はこれで永遠の眠りについた。彼女の言葉は理解できない。しかし、もし会話ができていたならば……どうなっていただろう?

 少し横のマシュを見る。疲れ切った表情をしているが、達成感に良い笑顔をマスターに向けてくれている。

 

「行きましょう、先輩」

 

「そうだね」

 

 特異点たらしめる元凶は倒し、七つ全ての特異点を解決してみせた。おそらく次は……ソロモンとの、今後の世界の行く末を決める最終決戦だ。だからもってくれ、この身体。この心。

 マスターも微笑み、マシュに手を伸ばす。

 

 ……視界の端の端で、ティアマトが唾を吐くのが見えた。

 

 狙いは間違いなくマシュ。ティアマトに一番近いのは彼女だ。

 霊核を破壊されたというのに、まだ動くか……!! 神の威厳など投げ捨て、ただ意地に従って汚く足掻く様が、マスターにはどうしても憐れにしか思えなかった。

 マシュはティアマトの唾……ケイオスタイドに気づいていない。

 

「マシュ!!!!」

 

「?」

 

 マシュに飛びつく。

 あまりに突然のことで、マスターにどん、と押されて尻餅をついた。

 これでマシュは大丈夫。

 そしてマスターは気づいた。愚かさと、基本的なことに。

 まずは、デミ・サーヴァントであるマシュならば、このケイオスタイドに少しなら耐えられること。そして、マシュを助けた後のことを何も考えていなかったこと。

 

 ーーはは……馬鹿なこと、しちゃったなぁ。

 

 身体はケイオスタイドに呑まれた。

 

 ◆

 

 地球の始まりを見た。ような気がした。

 生命の始まりを見た。ような気がした。

 人理の始まりを見た。ような気がした。

 そして、人理の終わりを見た。

 

 ティアマトの見たものを見た。気がした。

 マスターは完全に意識体として分解され、どこへも知らぬ永遠の闇をさまよっていた。ような気がする。しかして永久に聖杯の泥に浸かる。

 なぜか苦しくはなかった。むしろ、いつもよりとても穏やかな気分になった。これまでの全ての疲れを癒してくれるかのようだ。眠気がマスターを襲う。

 とても久しぶりに訪れた安息にマスターは身を任せようとしたが、ダメだと己の頬を殴った。優しく『誰か』が『少しなら休んでいいのよ』と耳元で囁く。その声はとても魅惑的で、実に安心できる言葉だった。自分の声に瓜二つなのだが、それはまるで母にあやされる子供のよう。

 だがそれでも抵抗してみせる。神に対する反抗期だ。そしてその先にある自立を手にするのだ。

 ここで眠ってしまえば、きっともう戻ってこれなくなるだろう。……帰らなければ。

 黒一色に染まっていた世界に、赤い光が見えた。じゃぶじゃぶと泥をかき分けて進む。

 あったのは、『何か』だった。形を説明することができず、そしてまた特徴を捉えることもできなかった。赤い『何か』は何秒か浮遊を続けると、突然爆発した。

 

「ーー!!」

 

 一気に世界が血色に変化した。

 あたりは崩壊後のウルクを映し、マスターの身体は、腰まで浸かっていたケイオスタイドによって拘束された。

 ドロドロのはずだったものが、さらに粘性を増し、固形となり、その場から動けなくなる。

 

「う、そ……!」

 

 侵食が始まる。

 血管のようなものに変化したケイオスタイドがマスターの身体を犯す。じわじわと骨の髄まで蝕み、ゆっくりとヒトから乖離されてゆく。だがまたこれも痛みはなく、むしろ快感に等しく、マスターは膝を笑わせることもできずにへたりと力が抜けて後ろに倒れた。

 それを優しくケイオスタイドが支え、一部液化しているところに上半身までも沈んだ。

 ……安心感があった。母に抱かれるような、庇護の塊。幼い頃の自分はきっとこんな感じだったのかと、もう思い出せない母の顔と温かさに小さく呟く。

 いっそもう、このまま母の子宮まで回帰して……。そう思った時、マスターの隣で一緒に沈んでいた『誰か』が『十分休んだでしょう?』とマスターを叩き起こした。

 そして手を掴み、強引にケイオスタイドの泥から引き上げようと引っ張る。

 

「いッ、たい……!!」

 

 脚がもげそうだ。

 

 ケイオスタイドとほぼ一体となった脚が軋み、張り付き、離すまいとキツく脚を締める。

 

「あ、グ……あぁぁーー……!!」

 

 グググ、と胸まで伸びたケイオスタイドがマスターの全身を締め付け、肺の膨張を阻止し、呼吸ができず、マスターは乱暴に暴れた。

 それでも『誰か』は腕を引っ張る。

 食い込み、血が流れる。それに齧り付き、ケイオスタイドは下品な音を立てて飲む。激痛が身体を舐め回すように一周、二周、三周とし、骨をしゃぶり尽くし、マスターは白目をむいて絶叫する。

 痛みと快楽の狭間。プラス無限とマイナス無限に挟まれて。

 

「ガ、アアアアあああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

 助けを求めて『誰か』にもう片方の腕を差し出した。

『誰か』はマスターの期待に応え、両腕を引き千切るほどの力で引っ張り始めた。

 

「ひぐっ、う、う、ううううううううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅーー……!!!」

 

 ブチブチ、と肩と股から嫌な音が聞こえる。組織を破られる音がどうも鮮明に聞こえ、より痛みを明確に感じてしまう。

『誰か』が獰猛に笑う。『誰か』はマスターから手を離すと、代わりに抱きついた。

 全く温かさは感じられず、かといって冷たさも何も感じられなかった。しかし、助けてやろうという意志は伝わった。

 マスターは『誰か』を信じることにした。手首まで伸びたケイオスタイドが皮膚を裂き肉を抉り血が吹き出る。それに齧り付かれ、血が急速に失われていく。

 全く動かせられない腕を強引に動かし、『誰か』の背中に回した。

 神経が四本ほどブツリと切れる。

『ハハ』と笑い、キツく抱きつき、最後の力を振り絞り、『誰か』は一気に引き抜いた。

 

「ぎうっ」

 

 ずぶぶ、とマスターの身体はケイオスタイドから解放され、無様に地面に倒れた。

 周りを見ればウルクの世界はサッと波が引くように遠ざかり、いつの間にかさっきと同じ、泥に浸かり、赤い『ナニカ』の前でマスターは呆然と立っていた。

 

「あれ……え……?」

 

 今のは夢だったのか。

 そう思ったが、だいぶひいたものの、まだ四肢に残る獄炎の痛みが現実であったことを語る。

 隣では『誰か』はマスターよりとても大きな『獣』になっていて、触れるだけでも容易く切れそうな牙を剥き出しにしている。

 聖杯の泥はだいぶ浅くなり、水たまり程度になっている。マスターは『ナニカ』に向かって歩き始めた『獣』の後ろをついていく。

 そして、依然としてそこにある赤い『ナニカ』を『獣』が呑み込んだ。

 その瞬間、『獣』の身体が赤く発光し、暗闇を隙間ひとつなく照らしてみせた。激しく息を吐き、『獣』はぐったりと横に倒れ、『誰か』に戻る。

 マスターはこの者の正体がわからず、どうしても知りたいという興味に駆られた。

 

「ねえ、あなたはいったい……誰?」

 

 マスターが問いかける。

 

 しかし『誰か』はマスターに顔を向けるだけで何も答えず、大きな声で笑い始めた。

 

「ヒヒ、クヒャ!! ヒハハハハハハハハハッッ!!! ハハッ! ハッ! クハハハハハハハハハハハハハハハハハ!! ハヒヒヒッ! ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!!! 八ッハハハハハハハハハハ! ヒャハ!! ヒ!! アハハハハハハハッッーー……!!!!」

 

 永遠にさえ聞こえる笑い声が、とてつもなく怖かった。

 狂ったように笑う『誰か』は満足すると、マスターの顔を覗いた。

 

「ひっ」

 

 マスターが尻餅をつき、何も考えずに泥の水たまりに触れることなどお構いなしに、ボロボロの手を使い足を使い後ずさる。

 怖くて怖くて、立ち上がるという行動すら忘れ、ただひたすら無様に逃げようとした。

 あれはこの世ならざる悪である。『誰か』はゆらりゆらりとマスターに向かって歩く。

 

「こ、来ないで!」

 

 マスターが叫ぶ。

 

「アハ」

 

 しかし『誰か』は引くどころかむしろ逆に滾らせる。

 マスターの考えが正しければ、これはティアマトの核ともいえる部分を喰らった。それがいったいどのような影響を与えたかはわからないが、少なくとも良いことが起こるなんてことはない。

 

「ぁ、あ…………」

 

 身体がカタカタと震える。股が温かくなり、アンモニア臭が漂う。

 ついに『誰か』はマスターに追いつき、上から覆いかぶさった。嫌悪感に顔を逸らし、目を合わせないようにする。力づくで抵抗するも、『誰か』はびくともしなかった。

 同じように自分も呑まれるのか。せっかくティアマトを倒せたのに、あとはカルデアに帰るだけなのに、ここで呆気なく死に絶えて、旅が終わるのか。

 そう考えると、今までの疲れがドシンと背中にのっかかる。押し潰され、立ち上がることができない。これ以上頑張ると、さらに重くなる疲れに亀裂の走る背骨が耐えられなくなってポキ、と折れてしまいそうだ。

 

 疲れた。

 ……もう、疲れた。

 

「私を殺してくれる……?」

 

「…………」

 

 ここで初めて『誰か』の動きが止まった。

 ラグのように姿が何重にもぶれ、もとに戻ると、再び笑い出した。

 

「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ! くひゃ、ハ、クヒヒヒヒ!!」

 

「殺すのなら殺してよぉっ!!」

 

 マスターは叫んだ。

 それでも『誰か』は笑い続け、ついに首に手を伸ばした。

 グッ、と力をこめる。マスターは息苦しさに目を白黒させる。

 

「ーーカ、ふ」

 

「終わり、終、わり、終わ、わ、わ、終わ、らない。終わらせ、ない」

 

 意味のある言葉を発し、さらに力を加える。『誰か』は爪を食い込ませ、血が流れる。

 苦しくて苦しくて、白濁した視界のなか、マスターは失意に目をそっと閉じた。どうやら『誰か』はそう簡単に死なせてはくれないらしい。『誰か』がマスターの中に溶け込み、戻ってくる。

 そして、今さらになって気づいた。

 

 ……これは『誰か』じゃない。『自分』なのだと。

 

 しかしもう遅い。

 なにもかも……すべてが遅すぎた。

 

 ◆

 

 目覚めたマスターを出迎えたのは豊かな双丘。

 寝ぼけざまにそれらに手を伸ばし、揉みしだく。

 

「せんぱ、い……! ちょっと……!!」

 

 この声、どうやらマスター愛しのマシュだ。つまりこの双丘はマシュのもの。ならば最高。証明完了。

 マスターは眩しい世界に目を細め、何度かこすってピントを合わせる。ようやくブレが修正されていくと、マシュの姿が次第によく見えるようになっていった。

 彼女の目には真っ赤な泣き腫らした跡があり、まだ流れる涙を指で拭った。

 

「先輩、先輩ぃ……!!」

 

 マシュにきつく抱き締められて、マスターは感じた温もりを最大限に享受しようと互いに抱きしめ合った。

 ふと後ろを振り向けば、ボロボロに破壊された冥界の底が見える。ならばここはウルクなのか。

 朝日が燃え尽きた町々を明るく照らす。人間は誰もおらず、すぐ隣でイシュタルやらジャガーマンやらが雑談に花を咲かせている。

 

「先輩、こっちを向いてくれませんか……?」

 

「うん」

 

 マスターはマシュの言う通り、抱き締めていた腕を離し、見つめ合った。

 マシュはマスターの頬を愛おしそうに撫でると。

 

 ーー強く頬を張った。

 

 ぱん……! と音が無人のウルクに響き、マスターは何が起こったのかが全く理解できずに呆然としている。

 続けざまにマシュはマスターの肩を掴むと、激しく揺らし始めた。

 

「助けてもらったことは心から感謝しています……それは本当です! でも……でも、先輩が身代わりになるのは全然違います!! どうしてあんなことをしたんですか⁉︎ 先輩が傷ついたら私は……! わたしはぁ……!!!」

 

 後半はもうしゃくり声で、最後まで言い切れず顔を鼻水と涙でぐちゃぐちゃににしながらマシュはマスターの胸に顔を埋めた。

 マスターは黙ってマシュの心の訴えを聞いた。

 無言で頭を腕で包み込むと、マスターは口を開いた。

 

「大切な人を守りたかったから、じゃダメ?」

 

「……いいえ、十分です。叩いてごめんなさい、先輩」

 

「いいよ、マシュ。私は大丈夫だから」

 

 マシュの呼吸が直に胸に感じられる。

 特異点が解決され、強制送還されるまでの間、ふたりはずっと、抱き合う。

 

 ……ごめんねマシュ。私はもう、傷ついた。傷つきすぎたの。

 

 すべては手遅れで。

 失った歴史を取り戻すために奔走しているのに、自分は次第に人間性を失っていく。そんな、自分自身さえ守れない女が本当にソロモンに勝てるのか。

 不安と期待に押し潰されそうだ。

 ああ、はやく日記を更新しないと。身体が痛い。心が痛い。はやく。はやく。はやく。

 私はそんなに強い女の子じゃないんだよ、と。

 誰にも……とても言えたものではない。




自分のことを大丈夫とよく言う人ほど大丈夫ではないらしいです。

今後の予定としては、
・二部プロローグ
・これまで出てきた話と繋がるもの
IFルート系
・もしマスターちゃんの日記の内容がバレたら
・もしカルデア強襲は起こらず、マスターちゃんが日常生活に戻ったら

面白いネタの提供があれば、そっちに浮気します^ ^


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忘れ物

やりました。
昨日10連して沖田オルタとエミヤと以蔵さんの3人が一気にきました。

今回のイベントって時系列はいつ頃なんでしょうね? たぶん1.5部だと思うんですけど……。いいシリアスネタが思い浮かびそうで思い浮かばない。


 終わりは始まりの始まりであり、次のステップへ……新しい絶望の幕開けでもある。

 

 ◆

 

「……で、お前はまだだんまりというわけか。いつになったらその固い口は開くんだ?」

 

 マスターの目の前では、ひとりの兵士が座り、前のめりに腕を机に乗せた。その後ろではさらにふたりの兵士が銃を担いで立っている。

 尋問が始まってから何分、いや何時間経ったのだろう? 兵士たちは入れ替わり交代などをしているが、マスターに休憩など1分もなかった。長い間座っていたためお尻が痛い。脚も痺れ、じわじわと頭の頂点まで浸透し、少し意識も朦朧としてきた。

 男がボールペンの芯を何度もカチカチと出し入れする音が、マスターにとっては苦痛となっていた。

 

 カチカチ。

 

「レイシフトの私的利用は重大な犯罪だ。それをカルデアは……お前は何度も行った。これがいったいどういう意味かわかるな?」

 

「……」

 

「……チッ」

 

 カチカチ。

 

 男が小さく舌打ちをする。

 そして大きくため息を吐く。

 それにマスターの身体がビクリと震えて反応し、おずおずと男を見上げる。

 ダ・ヴィンチには必要最小限しか答えるなと厳命されている。間違えてしまえばどうなるかわからない、危ない綱渡りの真っ只中なのだ。今ごろ彼女はマスターよりも危険な道を歩いているはずだ。

 ならばこちらも頑張らなければ。

 

「カルデアの皆はお前のことを英雄と謳うだろう。でもな、こっち(・・・)は違うんだ。まだ断定はされていないが、カルデアは犯罪を犯した。罪に問われるのは時間の問題だぞ」

 

「……」

 

 一年間、人理を守るために奔走し、さらに一年間ゲーティアの残党と戦った。その果てがこれか。怒りに拳を握り締める。だがあくまで冷静に。ここで面倒ごとを起こそうものならマスターだけでなく、カルデアの人間全員に不利益となってしまう。

 マスターはだらんと俯く。

 

 カチカチ。カチカチカチ。

 

 男は資料をめくり、現在カルデアに残っているサーヴァントのページで手を止めた。

 

「マシュ・キリエライトとレオナルド・ダ・ヴィンチか。報告書を見たところ、時計塔の連中にとっては喉から手が出るほどの『資料』になるぞ、これは」

 

「!」

 

 いや、お前の方がいい『資料』か……? まあ俺は興味ないけどな、とぼやく声など耳に入らず、マスターはガタッと立ち上がった。

 それは……それだけは避けなければならない。『資料』の真の意味は、大人でないマスターにでもわかる。思いつくイメージはたったひとつ。

 ダメだ。絶対にダメだ。これ以上犠牲を出すことは許されない。

 だが、ふたりがマスターを押さえつけるよりも先に、足の痺れにへたりと再び腰を落とす。

 

「お、ようやく反応があったな?」

 

 男が眉を吊り上げる。

 ようやくカチカチの音が止まり、マスターにひとときの休息が訪れる。

 

「そうさ。カルデアの全てが貴重な『資料』さ。シバ、カルデアス、英霊召喚システムフェイト……ぽつぽつと長い眠りから覚め、それぞれの故郷に帰っていく本来のマスターたちの情報……関係のあるもの全てだ」

 

 ……人の醜さよ。

 でもマスターには何もできない。新たに就任したゴルドルフ所長の背後には時計塔がある。潰そうものならカルデアなどプチッと終わる。

 所詮は上の奴隷。孤立した世界ではカルデア『しか』存在しなかったが、救われた世界においてカルデアはひとつの機関に過ぎない。価値があるとわかれば態度を急変し、我が物にしようとする魔術師たちの水面下の争い。

 大人の世界だ。マスターにはそのかけ引きはわからない。それでもわかることは、カルデアは人の欲望に呑まれようとしていることのみ。

 納得がいかなかった。

 正直に言うと、世界を救った英雄とカルデア以外の人間からも褒めてもらいたかったという気持ちは少なからずあった。

 それほどのことをしたのだと自負しているし、そこに間違いはないと確信もある。

 しかし現実とは非情であり、残酷。

 

 部屋のドアが開き、新たにひとり、兵士が入ってきた。そして男になにやら耳打ちをする。

 カチカチカチカチと不服そうにボールペンを弄り、男は立ち上がった。

 

「……尋問は終わりだ。部屋に帰れ」

 

 ぶっきらぼうに一言だけ告げ、男は足早に部屋のドアを開けて消えてしまった。

 突然終わらせられてホッと安堵する反面、完全に大人の都合に振り回されている状態に腹が煮えたぎる。

 マスターはふたりの兵士に支えられながら立ち上がり、おとなしく部屋へと戻っていった。

 

 ◇

 

「大丈夫でしたか、先輩?」

 

「いやぁ……さすがに疲れたね。あはは……」

 

 部屋に連れ戻されたマスターは、ベッドに身体を投げだした。しかし受け止めてくれるのは柔らかい感触ではなく、「いたっ」とベッドとキスをする。

 最悪な部屋だ。謹慎室として用意されている部屋なのだが、これではまるで独房だ。

 

「もっと予算を回せばよかったぜ!」

 

 ダ・ヴィンチが悪態を吐き、冷えきった椅子に腰を下ろす。

 ぐだりと仰向けに寝転がったマスターは、すぐさま寝返りをうった。

 

「ついでにそのまま寝ることを勧めます先輩。もう六時間ほど尋問されていましたよ?」

 

「そんなに⁉︎」

 

「本当ですよ。誰よりも長かったのではないでしょうか? 何か変なことしましたか?」

 

「なにもしてないよ。逆に本当になにもしなかったよ」

 

 よく言う黙秘権の行使を意識したのだが、マスターの生きる世界は魔術世界である。その辺の常識があまり通じなかった結果が六時間というのなら、それは自業自得となってしまう。

 ともあれもう終わったことだ。疲れた身体は休憩を求めている。このままマシュの提案に従って眠ることにする。

 2017年最後の日だというのに、すでに退去してしまったサーヴァントたちと年越しを過ごせないのはとても寂しい。心にぽっかりと穴が空いた虚しさ。

 

「……人間っていうのは難しいね」

 

「?」

 

 マシュが不思議そうにマスターの言葉に小首を傾げる。

 

「私たちは世界を救った。でもそれではい終わり、なんていかないんだね」

 

 抱く感情は、怒り。

 荒く鼻息を吐き、マスターはベッドの骨を力強く握る。怒りからの衝動。

 不満。不快。不愉快。遺憾。負の感情をボウルでがちゃがちゃと混ぜられるような感じだ。

 そしてなにより、悔しい。

 

「そう……ですね。でも私たちは先輩の味方ですから。今は安心して眠ってください」

 

 マシュが頭を撫でてくれる。

 それだけで眠気はマスターを容赦なく襲い、抵抗できるはずもなく渦に呑み込まれる。

 こんな狭い部屋に女3人に男1人。ムニエル氏にはなんとも居づらい空間だろうが、どうか耐えてほしい。

 そして、次に目がさめる時には全てが終わっていますように。

 マイルームにある日記が手元に無いのがあまりにも歯痒い。あれがないと安心できない。心が落ち着かない。たとえ仲間が側にいようと、完全な安寧は訪れない。

 おそらくもう、依存してしまっている。

 だからはやく、マイルームに戻りたい。マスターの頭の中では、そんなことばかりだった。

 

 ◆

 

 マスターを起こしたのはマシュの声ではなく、かといってムニエルでもダ・ヴィンチでもなく、脳髄をガンガンと揺さぶるけたましいサイレンだった。

 よく聴いてみると、初めて聴いた音で、それほど異常な事態なのだとわかる。

 

「ああっ! 先輩! 起きましたか⁉︎」

 

 マスターは寝ぼけ顔で目をこすると、マシュが差し伸べた手を握ってベッドから立ち上がった。

 ムニエルのほうを見ると、彼は口元に人差し指を立てて、静かにするように促してくる。マスターはそれに素直に従うことにした。

 ドアの向こうは嫌な音が聞こえる。……戦闘の音。誰かが死ぬ直前の断末魔。それ以上にマスターが完全に覚醒するのに必要な要素はなかった。

 

「マシュ。何があったの?」

 

 小声で話しかける。

 そういえばダ・ヴィンチがいない。

 

「わかりません。ダ・ヴィンチちゃんがAチームの解凍に連れ出されて、その後に言峰神父が来て……出ていった時にちょうどサイレンが鳴り始めました」

 

 ともあれ何かが起こったのは確かだ。それもよくないことが。

 ドアは開けられない。向こうでは何が起こっているのかが全くわからない。全てにおいて後手にまわった状態。

 

「とにかく出ることを考えよう。僕だって男だからね。これくらいのドアなんて力づくで……!」

 

 ムニエルが腕を捲り上げわざとらしく力こぶを見せつける。その言葉は頼もしい限りだが、その程度で破れるものならば謹慎室の意味がないではないか。

 取っ手を掴み、強引に引っ張る。顔を紅潮させながらも頑張るムニエルを見て、自分も、とマスターもムニエルを手伝い始めたその時。

 ズガン! と逆に向こう側から来た衝撃にふたりは飛ばされてしまった。

 後ろの椅子に背中を激しくぶつけ、マスターは痛みに呻いく。

 

「いッ……」

 

 上半身を起こし、ドアを見る。

 今もなお現在進行形で破壊しようとしているのが何者かはわからないが、味方か敵かの判別がまるでつかない。声を大にして問いかけるかどうかを考えている間にもドアはだんだん破られていく。このままだとあと15秒ぐらいだろう。

 

「武装の許可を、先輩!!」

 

 マシュが懇願する。

 いや無理だ。今のマシュに武装は耐えられない。だからゲーティア戦からずっと、彼女はオペレーターとしてずっとマスターたちを助けてきたのだ。

 

「ううん、ダメ。わかってるでしょう?」

 

「でもここでやらないと! 自分のことは自分がよくわかっています!! お願いです、どうか……!!」

 

 服を掴み、鬼気迫る表情で言うマシュをよそに、マスターはムニエルを見た。

 彼は無言でマスターを見つめ、任せるよと目で語る。

 果たしてどうすればいいのか。ここで武装を許可してしまえば、マシュに大きな負荷がかかることは明白。現れるのがどのような敵であれ、ムニエルとマスターではどうしようもなく、蹂躙されるのみ。

 

「……ごめんねマシュ。お願いできるかな」

 

「はい! 必ず守ってみせます!」

 

 申し訳ない。本当に申し訳ない。頼ることしかできない自分が恨めしい。

 令呪を一画使用。

 マシュの身体が完全武装し、久しぶりにあの盾が出現する。そして膝をつく。

 

「はあッ、はあッ……!!」

 

 どう見ても辛そうだ。

 マスターはマシュに肩を貸し、何とか立ち上がらせる。

 ついにドアが吹き飛ばされた。飛んできたドアをマシュの盾で弾き、部屋へ侵入してきた敵の正体を捉える。

 全身黒ずくめで、頭部は烏のよう。明らかに人間でないものなのに、マスターは恐怖も何も感じず、淡々とマシュに命令を下した。

 

「マシュ、突破するよ」

 

 無表情。無感にして無関。

 二年間、地獄を生きてきたのだ。『この程度』の修羅場、幾度となく掻いくぐってきた……!!

 カルデアが攻められる? だからどうした、いつも通り行動すればいいだけのこと!!

 おそらくもう、考え方がおかしくなっているのは自分でもなんとなくわかる。それでもマスターは『マスター』でなければならない。

 そう呪詛のように己に言い聞かせた。

 

 ◆

 

 マスターが激しく後悔したのは、目の前に広がる、南極の氷が黒で見えなくなるほどの数の敵。そして探偵が虚数空間へ突入すると言った直後だった。

 

 日記が……ない。

 

 マスターは激しく狼狽し、今すぐにでも取りに戻りたかった。が、ホームズも、ダ・ヴィンチもマシュもそうさせてくれそうにはなかった。そもそもカルデアはもう、終わった。氷に閉ざされた。

 でもどうしてもなければならない。あれはマスターにとって何よりも大事なもの。

 チャンスはいくらでもあった。なんならゴルドルフ所長を助けるついでにでも取りに行けたはずだ。

 しかしそんな余裕はなかった。あの皇女と呼ばれたサーヴァントのせいで、逃げるので精一杯だった。そしてダ・ヴィンチが……。

 ミニサイズになったダ・ヴィンチがどこかに消える。その背中を見届けつつも、複雑な心境はやはり隠せない。『あの』ダ・ヴィンチは死んだのだ。ミニダ・ヴィンチは記憶を共有しているなどと言っていたが、マスターからしてみれば赤の他人にしか見えない。顔が非常に酷似しているだけの。

 何事もなかったかのように受け入れている皆がおかしく感じてしまう。違和感はないのか。それともこれは自分だけが抱いているのか。つまりおかしいのはーー……。

 

『しっかり掴まってね。『あれ? これ私の身体?』ってなったら必死に自分の身体にしがみつくんだよ?』

 

「それって幽体離脱じゃないか⁉︎」

 

『おおムニエル君、まさにその通りだね! ダ・ヴィンチちゃんポイントを10ポイント進呈しよう』

 

 ミニダ・ヴィンチからの説明が思考に横入りし、マスターは放棄せざるをえなくなる。座席のシールベルトをちゃんとセットする。

 いったいこれから、どうなるのだ。

 クリプターと名乗るAチームのマスター。白紙化した世界。これではまるで、冬木の後よりも酷いスタートではないか。歴史は淘汰され、無に帰した。

 味方はごく数人。敵は遥かに強大にして未知数。

 マシュはサーヴァントとしての機能は期待できない。現在戦力としてカウントできるのは探偵だけだ。

 文字通り心臓と表して間違いのない日記をなくしたのは痛すぎる。これでは、今をもってリスタートするであろう壮絶な戦いを生き抜くことができない。この二年間、あの日記にはとても助けられた。いやあれがあったからこそ生きていられたと言っても何ら大袈裟でもない。

 

 ……ふと、思いつく。

 それはまるで、こうすればいいじゃないか! と一気にモヤモヤした思考が晴れるような。エジソンあたりならわかるかもしれない。

 なんだそんな簡単なことだったのかと、バカな自分を殴りたくなるほどだ。

 

「……先輩?」

 

「ん? どうしたのマシュ?」

 

 だいぶ落ち着いた様子だ。

 強引にカルデアに戻ろうとしていたが、現状を受け入れ、疲労した身体を休めている。

 

「今、笑っていませんでしたか?」

 

「……いや、まさか」

 

 マシュは疲れてるんだよ、と念入りに言い聞かせ、手を握る。

 

「ですよね……そう、ですよね」

 

 ミニダ・ヴィンチがカウントダウンを始める。

 

 ……無いのならば、また新たに作ればいい。

 焼けてしまった記憶でも、繋ぎ合わせれば完全復活とまではいかなくともなんとかなるはずだ。

 ならばいける。頑張れる。

 今度こそマスターは、口角を上げた。




今回はシリアス度低めの、日記がテーマのお話でした。
次はこのままの勢いで、IFルート編の『もしマスターちゃんの日記の内容がバレたら』に予定を変更します。

誰を登場させるかはまだ決めてないので、いつものごとく活動報告で募集します。どんな話になるのかは、募集結果次第です。


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慈愛

たくさんの意見ありがとうございました!
本っ当に悩んでこのふたりにしました。
ひょっこりランキングにも載って、もうすぐで総合評価が1000に届きそうであります。

今回はどちらかというとシリアス度が高く、もしかすると鬱度も含まれるかもしれません。ご注意を。


 無言の訴えは届いたが、それは望まれたものではなかった。

 絶対に開けてはならないもの。知ってはいけないもの。無数の悪を解放し、一の善を世界に拡散するパンドラの箱とは違う、明らかな絶望の塊。救いなどなく、また助けを求めなければ誰かが手を差し伸ばされるはずもなく。

 

 やはり、と言うよりも、壊れるべくして壊れた。

 

 ◆

 

「……ふん」

 

 ジャンヌオルタ……邪ンヌは高く鼻を鳴らした。

 不満だからではない。不愉快だからだ。

 完全に無反応のマスターの腕を掴み、必死に止めようとするマシュたちを力づくで押し退け、強引にレイシフトした。場所はもちろん、オルレアン。

 適当な家屋に入り、薄汚れたベッドにマスターを放り投げた。しかし、勢いが強すぎたか、そのまま上を転がって、地面に落ちてしまう。

 

「ああもう!!」

 

 右腕で膝裏を。左腕で背中を持ち上げ、いわゆるお姫様抱っこできちんとベッドに置いてやった。

 やはり反応はない。呼吸は正常だし、目も開いている。しかし一切の無気力。

 よく見ると頬が擦れ、血が滲んでいる。落ちた時に打ったのか。

 邪ンヌは適当に桶を手に取り、その辺の井戸から水を汲み上げて、自身の服を一部を裂いた。

 それを濡らし、マスターの傷口をそっと優しく拭いた。

 

「マスター」

 

 返事はない。

 

「私はね、カルデアの連中みたいに優しくはないの」

 

 そこにいつもの悪女らしい汚い微笑みはない。

 ……返事はない。だが、邪ンヌは一方的に話し続けた。

 

「今じゃあいつらほぼ全員がマスターの日記の中を見てるでしょうね?」

 

 日記、という単語に少し邪ンヌは期待したが、それすらも反応はなかった。

 やはり不愉快だ。ばさりと黒の外套を椅子にかけ、邪ンヌは座る。

 邪ンヌももちろん日記は読ませてもらった。流れてきたものだ、いったい何があってあれが流出したかは知らないが、彼女は完全に何も考えず、興味本位で目を通した。

 

「……マスターが書いたって嘘よね? あんなの、人が書くようなものじゃないわ」

 

 読むべきではなかったと誰もが後悔しただろう。だが邪ンヌは後悔しなかった。抱いたのは煮え滾る憤怒だった。

 マスターがこんな日記を書いていて、そして壊れるまで続けていたことに気づけなかったことにではなかった。

 そうさせた周囲、世界に憤怒したのだ。

 邪ンヌはジャンヌ・ダルクの悪性。人間の悪意に殺され、彼女の怒りが積もり積もって生まれた側面だ。境遇、環境、立場、度合いこそ違うものの、その気持ちはなんとなくわかってやることができると思った。

 その他諸々の理由でここまで連れ出した。

 服は皺が目立ち、はだけ、皮膚も荒れに荒れ、あの太陽のような綺麗な髪はボサボサで陰気を醸し出している。少し前と比べると別人だ。

 ただ呆然と上を見上げているが、それはきっと、視界に映るだけで、見てはいない。

 もう治らないだろうと邪ンヌは確信した。たとえ記憶消去をしたとしても、マスターの霊基はもはや修復不可能なほどに傷ついている。

 グランドオーダーはここで終わりだ。最後のマスターはもう戦力として機能しないだろう。

 つまり人類史の終焉だ。

 ふと聞いたことがある。『盛者必衰の理をあらわす』……だったか。栄えていても、必ず朽ち果てる時は来るのだと。

 人類史はソロモンに負けた。

 勝ち負けによる時代を生き抜いていた彼女にはその時代の価値観があり、それに従う。実に単純明快な真理だ。

 

「ここでせいぜい休むといいわ。マスターはそこで一生イモムシ生活。私はマスターからの魔力供給を得るために養う。どうよ。完璧な関係ね」

 

 再度鼻を高く鳴らす。

 わかってはいたものの、マスターからの反応は一切ない。それでも邪ンヌは構わなかった。ただこれまで共に戦ってきたーー……。

 

「あ、言っておくけど、仲間意識が芽生えたとかそんなんじゃないから」

 

 ふい、と首を振って、誤魔化すようにせかせかとボロい家屋を掃除し始める。ものの数時間で見間違えるほど綺麗になったのを、邪ンヌはしみじみと感じ、得意げにまた鼻を鳴らす。

 

「私だってね、元々はがっつり田舎娘だったのよ。これくらいできて当然よ。褒めてくれてもいいのよマスター?」

 

 チラリと横目で見る。マスターは魂の抜けた人形のようで、無駄だったわねと視線を戻した。

 そして邪ンヌの鼻腔を刺激したのは、鼻がひん曲がるほどの異臭。マスターの手を掴み、クンクンとにおう。

 

「……臭いわよ」

 

 今頃になってようやく気づく。

 改めてマスターの髪に手を伸ばして匂ってみると、想像以上の異臭に邪ンヌは顔を顰めた。

 そんなマスターをここまで運んだのだ。抱いていた時、マスターと外套は完全に密着していた。確認してみたが、やはり臭う。

 

「洗わないといけないじゃない! 論外! 意味わかんない!!」

 

 ひとりで憤慨しながらも、邪ンヌはこの原因をなんとかしなければならないと考えた。

 洗わなければ、マスターを。

 そのためにはお湯が必要……だが、この時代にそんなものはないし、浴場などそう簡単に見つかるはずもない。となれば、作らなければならない、か。

 窓を開けて遥か前方を見る。

 開けた大地に中規模の町のようなものが形成されている。あそこにいけば何か手に入るはず。最優先はマスターの代わりの服。

 邪ンヌはなんのためらいもなく彼女の服を剥ぐ。当然恥じらいも何も示さないマスターを無視し、服を外に放り投げ、デュへインする。臭いものに慈悲はなし。

 そして外套を上から被せてやる。短時間ここを空けることになるが……まあ、マスターがここから動くことはないだろう。

 ダッシュで行けば2分。物色する時間を10分、荷物を持つことを考慮して帰る時間4分。お金など持ってないから脅す。邪魔ならば殺す。邪ンヌは優しくはないのだ。

 

「少しの間おとなしく待っているのよマスター?」

 

 いつもの悪女の顔をする。

 返事はなく、邪ンヌはサッと表情を戻して旗を握る。

 地味な服ではなく、あえてとびきり可愛い服だけを盗ってきてやろうか。そして言ってやるのだ。「ハッ! 悪いわねぇ? 私は元田舎娘だからこういうセンスはゼロなの」と。どうせ無抵抗だから着せてやるなぞ造作もない。

 これまでマスターはおしゃれとは無縁だった、というよりそんなことをしている余裕がなかった、が正しいか。

 ともあれ善は急げ、邪ンヌは魔力消費を最小限に抑えつつ爆発するような勢いで飛び出した。

 道中で邪魔をするワイバーンなど知ったことか。銃弾のごとくその横を走りすぎ、街へと向かっていった。

 

 ◆

 

 収穫は上々。

 そのぶん戻ってくるまで時間はかかったが、むしろお釣りが帰ってくるほどの収穫だ。唯一残念なのは、マスターが全身浸かることのできるほどの浴槽の代わりが手に入らなかったこと。一応大きいサイズのものはあるが。

 可愛い服も手に入れたし、食料も手に入れた。石鹸もゲット。満足げに邪ンヌはらしからず微笑んだ。

 まずはお湯を作らねば。適当に木を伐採してきて、ラグロンドして燃やす。その上に簡単な台を乗せ、さらに水をたっぷり入れた容器を乗せた。

 

「ほら、身体を洗うわよ」

 

 指先ひとつ動かした様子のないマスターを抱きかかて運ぶ。

 十分温まったのを確認すると、羽織らせていた外套を脱がす。糸ひとつまとわぬ姿となったマスターを座らせ、桶にお湯を汲み取り、頭からざぱぁ! と盛大に浴びせた。

 手櫛をかけてみると、パサつき、さらさらな質感はなく途中で絡まってしまう。

 

「……せっかく綺麗な髪なのに、台無しじゃない」

 

 わしゃわしゃと頭を石鹸で洗い、十分だと判断したところでお湯で流す。さらにリンスもしてやりたかったが、無い物ねだりは意味がない。

 仕方なしにタオルに石鹸を染み込ませて、手首の酷い切傷を触らないように気をつけながらゴシゴシと擦る。傷の意味をなんとなく察するも、何も言わずに邪ンヌは黙々とマスターの身体を洗い続けた。

 

「……好きな人とかはいないの?」

 

 ポツリ、と邪ンヌは呟く。

 マスターとて人の子だ。しかも年頃の女の子。恋愛などにうつつを抜かしても問題ない……青春を謳歌しているのかを邪ンヌは暗に尋ねたかった。

 だがどんな返事か返ってくるかなどわかっている。

 邪ンヌには生前、青春と認識するものがなかった。だから少しでもきっかけを作りたいと思ったのが、どうやら無駄骨だったようだ。

 邪ンヌはまた押し黙り、ついに身体を洗い終えてしまった。バスタオルで水気を拭き取り、下着を着せ、シンプルな白いワンピースを着せた。

 櫛はないから邪ンヌ自らがマスターの髪を手櫛ですく。以前のようなサラサラとまではいかないものの、幾分かはマシになったので文句なしだ。匂っても石鹸のおかげで全く臭わない。

 マスターをお姫様抱っこして今度は椅子に座らせた。無気力に落ちるかと思ったが、どうやらちゃんと自分で座ろうとする意思はあるようだ。

 邪ンヌは少し嬉しくなり、町でかっさらったパンの山とミルクの瓶をマスターの前にドン! と置いた。

 

「食事よ。時間的に夕食かしら」

 

 窓からさす夕日の淡い赤色の光がマスターを照らす。

 その姿はとても美しく、だがその美は汚れきっている。

 

「ーーーー」

 

 見惚れ、時が止まる。

 邪ンヌはふたりだけの世界に飛ばされたかのような錯覚に陥った。うたかたの平穏を邪魔する者など誰もいない、完全に孤立した世界。かつて昔、自身がまだ少女だったころの思い出……心安らぐ静かな故郷の様子と被ってしまい、頭を振って現実に帰ってくる。

 食べる様子はないから食べさせてやる。パンを手に取り、マスターの口元に運ぶ。

 どうせ口を開けはしないだろう、と邪ンヌはマスターの顎を掴み、強引に開けさせ、突っ込んだ。

 しかし数秒は咥えたものの、ぽろっと落としてしまう。何度繰り返しても同じ。前半戦は面白半分だったが、後半戦に突入すると、逆に苛立ちが増してきた。

 

「呑みこんでくれたっていいじゃない⁉︎」

 

 床に落ちる前にパンを拾い上げるループ作業にとうとう飽きた邪ンヌが吠える。

 咥えさせることはできる。なら次は呑みこませるまで。

 ……実にマスターには失礼だが、これしか他に思い浮かばない。やるか? やらないか? いやいややらねばといつの間にか朱色に染まった顔をブンブン! と擬音が聞こえそうなほど激しく頭を振り、ようやく邪ンヌは平然に戻る。

 邪ンヌはパンを一口頬張り、咀嚼した後、マスターの頭を抱えた。

 顔を近づける。顎を指で下げさせて口を開かせる。カサカサに干からびた唇だが、それでも十分邪ンヌにとってはかわいいマスターは魅惑的で、この子のファーストキス(?)を奪ってもいいのかと寸前になって思い留まる。だがつい今しがた決意したではないか。決意の二重固めをする。数ミリ近づいては止まり、数ミリ近づいては止まりを繰り返してついに接吻する。

 ピクリとマスターの身体がわずかに反応したような気がしたが構うものか、邪ンヌは自分の口の中のパンをマスターの口へと押し込んだ。

 絶対に吐き出させてやるものか。マスターがパンをちゃんと食べるのを確認するまで唇は離してやらない。

 

「…………」

 

 少しだけマスターの瞳に生気が蘇り、ついにマスターの口が動く。

 ゆっくりとした動作で咀嚼を始め、マスターの舌が邪ンヌの舌に触れる。そして喉を通る。

 ようやく食べたマスターを見て、邪ンヌはそっと唇を離した。

 二人の間を唾液の糸が引く。

 

「……どうして」

 

「え?」

 

「どうして私にそこまでするの?」

 

 数週間ぶりに聞いたマスターの声。それは驚くほど暗くて、聞いているだけでこちらの心が痛みそうだった。目元には影が差し、陰湿な雰囲気を放っている。

 

「マスターを守りたいと思ったからよ」

 

「信用できない。私はもう、何もしたくない」

 

 決してマスターは邪ンヌを見ない。

 でもそれでもよかった。やっと。やっとマスターが反応してくれたのだ。それだけで大勝利なのだから。

 

「私は優しくないからねぇ。嘘だってこともありえるわよ?」

 

 マスターからの返事はない。

 奇跡のような瞬間は、本当に瞬間で終わってしまい、邪ンヌは黙りこんだ。しかしそれと食事とは話は別だ。パンを再び口に含み、また接吻して口移しする。何度も。何度も。何度も。ゆっくりと。マスターにちゃんと生きてもらうために。

 夕日が沈み、夜の帳が下りて外で虫が静かに合唱を始めても、邪ンヌは黙々とマスターにパンを食べさせた。

 

 ◆

 

 朝目覚めて。

 邪ンヌはすぐ隣のマスターを確認した。

 あれほど色あせていた顔は血色をいくらか取り戻している。昨日の懸命な介護が功を奏したのか。

 ベッドから起き、伸びをする。寝癖ができていたからささっと水に濡らして直す。ここにはドライヤーなどないからそういう面では不便だ。

 寝返りのひとつうっていないマスターの白ワンピースは皺が全くなく、今度パジャマも手に入れなければと心の中で強く決心してボロカーテンを勢いよく開け、窓を開放する。

 暖かい朝日が邪ンヌとマスターに優しくおはようの光を浴びせる。カルデア以外で朝を迎えるなんてずいぶんと久しぶりなことだ。

 朝食は何にしようか。残しておいたパンを食べてもよし、狩りに出かけて適当に動物を捕まえてデュへって食べるもよしだ。

 草原が風に吹かれなびく。まるで波がざわつくようにさあさあと静かな音が邪ンヌの耳に届く。

 痩せ細ったマスターには、もっと肉を食べてもらわなければ困る。

 マスターを抱き起こさないと。

 視線を部屋の中へ向けようとした時、白い女が見えた。自分の霊基が敏感に反応している。

 ……間違いなくあいつだ。

 とうとう追手がここまで追い付いたか。だがここでマスターをそうやすやすと明け渡すつもりなど、絶対にない。

 

「マスター。ちょっと行ってくるわ。……勝手に連れ出したりして、悪かったわね」

 

 いつの間にか目を覚ましていたマスターの額にキスをする。

 反応はない。でも邪ンヌにとって、そんなことはどうでもよかった。彼女とふたりきりの時間を過ごせたのは、決して偽りではない。ジャンヌの側面でしかない邪ンヌだが、この1日は紛れもない本物だった。

 家を出て、邪ンヌはあいつと対峙する。

 

「……ここにいたのですね」

 

「ええそうよ。悪い?」

 

 ジャンヌだ。

 旗を立て、いつもは穏やかな彼女だが今回ばかりはそうとはいかなく、怒っているように見える。

 邪ンヌも戦闘衣を纏い、黒く染まった旗を手に臨戦態勢をとる。

 

「どうしてマスターを連れ出したのですか。日記の中身を知られたから壊れてしまったのは知っています。そんな状態のマスターを……あなたは自分のしたことがわかっているのですか」

 

「わかっているわ。少なくとも、あの連中の誰よりもマスターのことをわかってやれる自負すらあるわ」

 

 キッ! とジャンヌは激昂し、邪ンヌに詰め寄ろうとした。

 しかし、邪ンヌは旗をひと振り、近づけさせないと炎を燃え上がらせる。

 

「そこを……退きなさいッ!」

 

 炎の壁を強引突破。

 ジャンヌは旗を大きく振り下ろす。邪ンヌも咄嗟に旗で防御をとり、がぃんん!! と硬い金属音が鈍く轟く。

 

「あなたを倒してでもマスターを返してもらいますよ!」

 

 純粋な力比べはジャンヌが勝ち、彼女を一気に弾き飛ばす。

 土煙が上がり、それを火柱が巻き上げる。姿を現すは、黒の聖処女。

 

「そうするといいわ。でも今回はいつものギャグはゼロ。見掛け倒しの戦闘じゃない、本当の殺し合い。霊核を潰すつもりで戦わないと、逆に潰されるわよ?」

 

 背後にはマスターがいる。対して敵となったジャンヌにはカルデアが。

 はたから見れば邪ンヌはカルデアの反逆者だ。それは自身でも理解しているし、しかしながらこの行動に間違いはないと強く思っている。

 

「カルデアに戻って、皆でなんとかできないか考えましょう? そうすればきっとマスターだって救えるはずです」

 

「……ハッ! これだから脳内お花畑の連中は嫌いなのよ」

 

 皆で、とか。救う、とか。

 そういう話ではないのだ。もう、マスターは全てに絶望してしまったのだ。すべてが嫌なのだ。救いは求めない。おそらく死すら望んでいるだろう。誰にも、何にも刺激されない世界をマスターに。そう願って邪ンヌはマスターの腕をつかんだ。

 それを理解できない連中にマスターを渡す? どうしようもなく阿呆だ。あちらに悪意はないのだろう。こちらは一。向こうはカルデア。分が悪いのは百も承知だ。力づくででも取り返してみせろ! でも……私の屍を踏み越えることね!!

 

「「この……分からず屋!!!」」

 

 自身の写し身との衝突。

 己を殺すために、マスターを守るために戦う。

 信用できない、と言われた。だが残念ながら邪ンヌは悪女だ。そんなことを言われようと自分の好きに行動する。

 

 邪ンヌは、優しくなんてないから。

 

 ◆

 

 ジャンヌは玄関に立った。

 そもそも彼女にはマスターの代わりに聖杯のサポートがある。僅かしか確保できないマスターからの魔力で対抗できるはずなどなかったのだ。

 だがなぜだろう、まさに死闘といえる戦いだった。彼女の張り付く執念には何度も度肝を抜かれた。あれはアヴェンジャーだからこそのものなのか。それとも……。

 とにかく。マスターはこの家のどこかにいるはずだ。はやく見つけなければ。

 そして一歩を踏み出そうとした、その時。

 ガシッ! と誰かに足首をつかまれた。

 

「ッ⁉︎」

 

 振り向くと、地面を這いつくばり、息絶え絶えながらも死に物狂いでしがみつく邪ンヌがいた。

 

「私の屍を越えて行きなさい……!!」

 

 掴む手に熱を帯びさせ、ジャンヌの足首を焼く。

 

「マスターは……あの子は絶対に……!」

 

「ーーごめんなさい」

 

 旗を掲げ、その背中を貫く。正確に、霊核を貫く。

 邪ンヌは目を見開き、悔しさと悲しみに口元を歪ませながら完全消滅する。

 これでついにジャンヌを邪魔する者はいなくなった。今後再び邪ンヌが召喚されたとしても、それはきっと『このこと』を知らない、別人だ。

 ……完全に倒しきらなかったことが仇になったか。焼き爛れた足首を見下ろし、魔力を消費して応急処置を施す。

 彼女にはなぜそこまでしてマスターを守ろうとしたのかよく理解できなかった。そこが別側面だからこその壁なのだろうか。

 家を調べ、そしてジャンヌはついにマスターの姿を遠目に見つける。

 彼女はまるで死んだ天使のようにベッドの上で眠っている。白いワンピースが天使を連想させる。連れ出される前はあんなにも見た目が汚かったのに、そんなことはなかったのだよ、と諭されるほどに綺麗な姿だった。

 

「マスター?」

 

 ゆっくりと近づく。

 なんだか違和感を感じる。

 目は開いているが、それ以外の活動が一切見てとれない。それに口元から血が流れている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………ぁ」

 

 マスターは舌を噛み切って死んでいた。

 

 さっきはマスターの影で見えなかった、枕元にある血まみれの舌。まだ新しい涙の跡。

 その姿が目に焼き付いて。

 何も考えられず。

 ジャンヌはただ呆然と立ち尽くした。




ふたりに悪意はなかった。
……ただマスターを守りたかっただけ。

次もifルートにするか、それとも別の方にするか。そこは悩み中です。


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虚偽の日常

前回の話ですが、感想欄で指摘のあった通り、邪ンヌの出自は本来ジルの願いによるものです。訂正はしませんが、そこだけは理解してください。本当にすみませんでしたm(_ _)m

では切り替えて。
総合評価が1000を超えました。私、すごく嬉しいです! 何人もの人にも評価してもらえて恐縮ですっ!! 感想ももうすぐで100に届きそう!

今回はifルート。
もし二部が始まらず、マスターちゃんが日常生活に戻ったら、です。


 カルデアとは永遠の別れを告げた。

 人理を救い、その後も戦いに明け暮れた。ノーベル賞何回分だろうか。

 ともあれマスターとしての役目は終えた。そもそもマスターは余り枠でカルデアにやってきたただの人間に過ぎない。あとはレフの陰謀によって大怪我をさせられ、最近目を覚まし始める本来のマスターたちが仕事を引き継いでくれるはずだ。

 マシュとの別れが一番心に響いた。大粒の涙をぽろぽろと流す彼女と別れるのはマスターにとっても非常につらかった。だがそれぞれに日常があるのだ。さんざん泣き喚いたマシュとは、毎日ビデオ通話をするということで手を打った。

 

 マスターはもう、マスターではない。

 普通の、どこにでもいる少女に戻ったのだ。

 

 ◆

 

 起床して、真っ先に洗面台へ向かう。寝ぼけ目でボサボサの髪を櫛で直そうとするが、まるで自我を得たように跳ねるくせ毛に悪戦苦闘し、五分ほどでようやく少女は勝利する。

 見知らぬーーいやおぼろげに覚えているという設定にしようーー両親に張りぼての笑顔で「おはよう」と言って、ちょうどいいタイミングで焼けたトーストにバターを塗り、サクッと軽快な音をたてて食べる。

 牛乳を喉に流し込んだ後、歯磨きをして、今日は……サイドテールではなくポニーテールでいこう。ゴムを口で咥え、両手で髪を束ねる。

 片手でキープして、ゴムでくくる。

 そして学校に行き、席について授業を受ける。

 少女はまる二年間勉強とは無縁の生活を送ってきた。英語や古典、数学に物理化学などなど。今「単振動とは」なんて訊かれても何もわからない。部分分数分解? 共通電子対? いったい何を言っているのやら。

 そんなことよりも魔術のほうがよく知っているし、そちらの方が興味ある。だが魔術とは別れを告げた身、一般人として社会の歯車に組み込まれ生きていかなければならない。そのためには勉強をしなければならない。

 そう思うと無気力になってしまう。なんとつまらない日常だろうか、と。

 ノートに綺麗さを求める馬鹿がどこにいる。綺麗なノートだからといって頭が良くなるわけではない。どう考えても不要な何色ものボールペンなど笑止。赤、青、緑だけでも充分すぎる。

 先生が黒板に書くことを自分にしかわからないレベルの乱雑さで写していく。

 重要と思われるものに星マークを書き、一言だけ端的に内容を添える。

 学校が終われば無言で立ち上がり、下駄箱へ直行する。

 上履きを脱ぎ、靴を手に取ろうと……。

 

「いたッ」

 

 指にチクリと痛みが走り、手を引っ込める。中を覗いてみるが、自分の靴以外に針のようなものは見当たらなかった。しかし、指にできた血の玉は明らかに何かに刺されたことを意味している。

 いじめか? と思って周りを見渡してみるも、誰もこちらを見ていない。

 では誰がこんなことを……いやもしかすると……いやいや、そこまで煩悩ではないとかぶりを振り、そそくさと靴を履き替えて家に帰る。

 通り魔とか、大火災とかのつまらないニュースをポテチを食べながら無感動に眺め、さっさと勉強しに自分の部屋に上がる。

 中では亡者たちがつまらなさそうに床で駄弁っていた。少女はそれらを踏まないように気をつけながら机につくと、鞄を横のフォックに引っかけ、棚から参考書を三冊取り出して机の上に広げる。

 その音に気づいた亡者たちは少女の周りに群がり、興味深そうに参考書を見ている。

 

「もう……なに?」

 

 亡者たちは無言で少女の身体を撫で回す。

 凍てつく手が少女の頬に触れ、僅かに凍る。それを無視し、黙々と勉強を始める。

 無視されたことに憤慨したのか、亡者たちは少女に自身が死んだ時の光景を思い浮かばせる。どうやら効果は抜群らしく、数分後に頭を抱えてベッドに身を投げ出した。

 

「やめてよ……勉強中なんだから……」

 

 やっと構ってくれると嬉々として喜び、少女を囲んで憎悪の合唱を始める。

 

 忘れるな。忘れるな。

 私たちを忘れるな。

 お前の悪夢はまだ終わらない。

 私たちはお前を一生、絶対に忘れない。

 苦しめ。泣け。叫べ。苦悶しろ。

 ひ、ひ。ひ、ひひ、ひ、ひひひ。ひひひ。ひ。ひひ、ひ。

 

 うるさいうるさいと弱々しく手を振って少女は亡者たちを散らす。

 いつになったら出番が来るのだという問いかけには答えず、引き出しからボロボロのノートを取り出すとガリガリと痛みを堪えるように書き殴る。

 今日はいつにも増して構ってちゃんだ。一刻も早く学力を皆に追いつけなければならないのに、これでは全く集中できない。

 

「わかってるわかってるから。ちゃんとあなたたちを頼る時が来るから。その時はいくらでも私を殺していいから」

 

 その言葉に亡者たちは大喜び。

 さっきまでの暴れようが嘘のように鎮まり、まるで子を見守る親のように穏やかに少女に温かい言葉をかけた。

 

 楽しみだ。

 今すぐ死ね。

 待ち遠しい。

 頑張れ。

 はやく頼れ。

 

 どうも、と返し少女はようやく沈黙を獲得する。

 状態方程式はPV=nRT。Rは……定数だったはず。その値は……。Tは温度の変化量で……。nはmol。

 ダメだ、完全に忘れている。例題を解いてみても記憶にすら引っかからない。すでに学んでいるはずの項目が、全くわからない。

 いったいなにがどれだけわからないのかすらわからなくなってきてしまう。よく馬鹿の言う、わからないところがわからないではなく、知らない。その一言に尽きるのだ。

 魔術に生きる人として普通の人生を二年分捧げた結果がこれだ。これからやって来る苦労を想像するだけで鬱に陥ってしまいそう。

 なんとか完璧にボイル・シャルルを理解したところで今日は終わり。母の料理を手伝い、夕食を食べたらまた部屋に引きこもって、本日のメインイベントが始まる。

 手のひら大のサイズの専用モニターを起動し、飾りっ気ひとつないホーム画面の、ひとつだけインストールしてあるアプリを起動させる。それはビデオ通話のアプリで、まさかの1コール目というはやさで彼女が応じた。

 

『こんばんは先輩!』

 

 いつにもなく可愛いマシュの声に、少女は懐かしさを感じる。といっても毎日通話しているのだが。

 テンションは明らかに急上昇。1日の疲れなど彼方に吹き飛んだ。

 ビデオ越しに見る彼女の外見はなにも変わっておらず、今すぐにでも触れたいという衝動に駆られた。手を伸ばしてみたが、ディスプレイ画面に阻まれてしまう。

 

「触れないのは悲しいものだね」

 

『そうですね。会いに行ければいいのですが……』

 

 そう言ってマシュは手を伸ばす。やはり向こうも同じようにこちらには届かず、ディスプレイに手のひらが大きく表示されるのみ。

 

「そういえばそっちはどうなの? 最近何してるの?」

 

『レイシフトは基本的に上からの指令がない限りできませんから……最近はずっと事務処理に追われていますね。おかげさまで身体が鈍ってしまいそうです』

 

「……太らないように気をつけないとね?」

 

 クスクスと少女は笑う。

 

『なっ⁉︎』

 

 マシュの顔が真っ赤に染まり、反射的に自身の腹に触れる。

 半分からかうつもりだったが、どうやら本気に気にしているらしくて、笑いの頂点に至ってしまう。

 

『何を言うのですか⁉︎ 私は大丈夫ですよ! それはもちろん甘いものを食べたりしてますが! してますが! ちゃんと運動しているのでっ!!』

 

「はいはい」

 

『そ、そんなこと言いながら先輩はどうなんですか? 自堕落な生活を送っているのでは?』

 

「何も問題ない。毎日学校に歩いて行っているからね。まあまあ距離もあるからいい運動だよ」

 

 ふんす、とふんぞり返る。

 かつてのほどではないが、運動量はあまり落ちてはいないはずだ。おかげさまで自画自賛していいほどのこのスタイルは維持できている。女としてここは負けられない。

 

『……やっぱり会いたいです、先輩』

 

 ふととりこぼしたようにマシュが呟く。

 その瞳はやはりと言うべきか、悲哀に揺らいでいる。

 

「それは私も思ってる」

 

『できれば今すぐにでもレイシフトして先輩のところに行きたいです』

 

「勝手にレイシフトはダメなんでしょ?」

 

『そう……なんですけど……』

 

「仕方ないよ」

 

 みるみるうちにマシュが涙目になってくる。なんだ、マシュは少女に恋する乙女なのか? 百合百合全開なのだがいや、それはそれで可愛い。良い。

 

『私決めました。ダ・ヴィンチちゃんに直談判してきます。先輩と私が会えないなんておかしい。先輩は私に会いたい。世界を救った人がそう言っているんですよ? それが叶えられなくてなにがカルデアですかっ⁉︎』

 

「うーん、あはは……」

 

 こうなってしまってはもう少女にすら止められない。

 拳を握りしめ、固く決意するマシュを引きつった笑みを浮かべながら見守る。暴論にもほどがあるが、その想いは素直に嬉しい。

 

『そうと決まれば早速行ってきますね! 今日はここまでです、先輩。明日、ぜーったいに朗報を持ってきますからね!!』

 

 マシュはガタガタと立ち上がって、一方的に向こうから通話を切ってしまった。バイバイと言うこともできなかったのが少し心寂しい。

 でもまあいい。マシュのことだから、変な意地を張って何が何でも会う権利を強奪……ゲットしてくるはずだろう。だから明日の通話がまた楽しみだ。

 

 ◆

 

 今日も今日とて学校だ。

 月曜は絶望。

 火曜は憂鬱。

 水曜は希望。

 木曜は歓喜。

 金曜はレッツダンス。

 どうせ一週間とはこんな感じだろう? 少女も当然、このもはや一般常識といってもなにも間違っていないスパイラルの中に囚われている。

 交差点を渡り、すれ違う小学生の子達とすれ違い、学校までもうすぐ。

 そして少女は気づいている。

 

 ……誰かが尾行してきている。

 

 後ろを振り返っても、誰もいない。もう慣れた。襲ってこないあたりなんとなく目的は察するが、少女はあえて無視をする。

 つまらない日常も、もうすぐ終わりそうだ。

 学校に着き、誰もいないはずの教室に入ろうとして。

 

「誰?」

 

 まったく知らない男が少女の席を漁っていた。制服を来ていない、明らかに外部の人間だった。

 少女の声に気づいたのか、男は人間離れした速度で少女の横をすり抜けてどこかへ消えてしまった。

 あまりにも速すぎてなにも反応することができない。

 追いかけるか? といつの間にか少女の首元をガジガジ噛んでいた亡者のひとりが問いかける。

 

「ううん、大丈夫。でもたぶん今日、あなたたちを頼るかも」

 

 亡者たちが歓喜に震え、教室に誰もいないことを好機と見て暴れ始める。少女は鎮めるのに精一杯だった。これだけで1日のエネルギーを使い果たしそうだ。

 その後は何事もなく、変な違和感を感じる事もなく極めて平和的に学校が終わった。帰り道はいつも通り誰かが尾行しているが、それはどうでもいい。

 また同じように取り憑かれたように勉強に専念し、亡者たちと談笑するという日常を過ごし、少女はついに行動することにした。

 第二の心臓であるノートを手に持ち、ライターをポケットに突っ込む。

 外へ出て、近くの公園まで足を運ぶと、ベンチに座った。

 そろそろ日が沈み、完全な夜になる。

 街灯が列をなして点灯し、薄暗くなり始めた公園を淡く照らす。ひとりうなだれ、誰もいない中パチパチと虚しく火が燃える。

 残った灰を亡者たちが浴びるように巻き上げ、たった数秒で跡形もなく無くなってしまう。

 これでカルデアとは真の意味で永遠にお別れだ。思い残しはたくさんあるが、物思いにふける時間はもう残されていないようだ。

 

「……もう出てきたら? ここ二ヶ月ほどずっと私にストーカーみたいなことしてさ。そっちもはやく終わらせたいでしょう?」

 

 少女の声が響き、木の陰、公衆トイレの陰、いたるところから音もなく男たちが姿を見せた。全員、闇を写したような黒衣を着ていて、夜だというのに彼らの方が『夜』と例えるにふさわしい。

 何人いる? たぶん10人はいる。いやもっとかもしれない。逃げ場はなく、そもそも少女に逃げるつもりなどない。

 男のひとりがゆっくりと近づく。

 

「世界を救ったカルデアの最後のマスターよ」

 

「……元マスターだよ。間違えないで」

 

「いいや、我らにとってお前はずっとマスターだ」

 

 ポンチョを被っていて顔がわからない。

 だが死んでいるような色の肌が首元から見えている。

 

「で、なに?」

 

「お前はとても素晴らしい実験体だ。おそらく我ら以外にもお前を欲しいと思っている連中が飽きるほどいる」

 

「つまり私を捕まえたいわけでしょ。もし断ったら?」

 

「殺す。生きていようが死んでいようが何も問題はない。むしろ死んでくれた方がこちらとしては好ましい」

 

「……そう。じゃあ断るわ」

 

「では死ね」

 

 腰のホルスターから刹那を切り取るが如くの速さで銃を手に持ち、躊躇いなく少女の眉間を撃ち抜いた。

 額から血を流し、少女はぐらりとベンチから落ちた。

 男は顎で指図すると、いっせいに少女に群がり、厳重に魔術的拘束を施し始める。

 たった数秒で作業は終わり、棺桶のようなものの中に入れられる。

 なんと容易い仕事か。所詮はただの少女。令呪すらないのならば失敗する可能性などゼロだ。そこに良心の呵責などない。目的を果たすだけ。

 棺桶の上からさらに厳重に拘束する。これでよほどのことがない限り開くことはない。あとはこれを運べば終わりだ。

 三人が棺桶を持ち上げようと下に手を伸ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ッ!!」

 

 持ち上がらない。というより重すぎる。

 おかしい。筋力的に十分だと判断した三人に任せているのだ。それがなぜか持ち上げられない。

 ふと男は気づく。

 

 ーー誰かが棺桶の上に座っている。

 

 いるはずのない人。

 迷わず男は発砲したが、弾はすり抜ける。

 男か女かすらわからない人物は棺桶の周りの三人をたやすく持ち上げ、はるか上空へと上昇していく。

 そして手を離し、グジャッ! という潰れる音とともに血の池が三つ形成される。

 その明らかに人ではない誰かは棺桶を、結び目を解くように拘束を一瞬で全て解き、少女の亡骸を抱え上げた。

 

「何者だ」

 

 男が問う。

 しかし無視し、少女を無理やり立ち上がらせる。

 それに集まるは無数の霊。どこからともなく現れ、男たちを囲む。代表者らしき指揮者が指揮棒を振りかざして、ぐちゃぐちゃのリズムで合唱を始める。

 

 起きろ。起きろ。起きろ。

 お前は私たちと約束した。

 死ぬことは許さない。生きろ。生きろ。

 生きて生きて罪を償え。お前には永遠の死と生がお似合いだ。

 ひ、ひひ、ひ。ひひひ、ひ、ひ、ひひ。ひひひひ、ひ。ひ。ひひひ。ひひ、ひひひひ、ひ、ひひ。ひひひ」

 

 いつの間にか死んだはずの少女の口が動いている。悍ましい。この世の生き物とは思えない微笑みを浮かべ、少女は顔を上げて視線を向けた。

 男たちが一歩後ずさる。

 霊たちに支えられ、少女は自力で起立を維持している。

 そんな……そんなはずはない。これは誰がどう見ても死者蘇生だ。

 

 これを……魔法以外の何という。

 

「……ほら、言ったでしょ? あなたたちを頼る時が来るって。というか、可視化していいの?」

 

 霊たち……亡者たちが少女の周りを踊り、喜びのダンスを踊り始める。

 いったいどれだけの亡者がいるのだ。百はゆうに超えている。三百? 五百? もしかすると千にも届いているかもしれない。

 

「お前はいったい……何者だ」

 

 男がもう一度問う。

 

「あなたが言ったじゃない。私は世界を救ったマスターよ? 対抗策ぐらいあるに決まってるじゃない」

 

「そうじゃない。それ(・・)は、なんだ」

 

「この子たちは私の罪の象徴。永遠に私を罰してくれる子たちだよ」

 

 少女は手を掲げる。すると亡者たちがいっせいに矛先を男たちに向ける。

 こちらは圧倒的な戦力。対してあちらは足腰が震え、逃げようとしている者もいる。

 私を殺したくせに、いざ殺されるとなると逃げるのか。私は逃げなかったのにね。

 こういう時、なんと号令をかければいいのだろうか。……そうだ、あの筋肉ムキムキ征服王の言葉を使わせてもらおう。

 

「ーー蹂躙しなさい」

 

 手を振り下げる。

 つまらない日常は終わりだ。

 これは亡者たちと約束を交わしたその瞬間から覚悟していたこと。もう少女に普通の生活など送ることはできない。なぜならば退屈すぎて死んでしまいそうだから。ならばそれを破壊するまで。

 今日をもって、複数の組織から追われる身へと転じる。刺激のある、生と死を繰り返す地獄の毎日が幕を開ける。

 

 人を初めて殺した感想はどうだ? と亡者のひとりに訊ねられて。

 

「すごく気持ちいい(苦しい)ね」

 

 と醜悪に歪んだ口で答えた。




少女は『日常』に戻ることはできなかった。
ところでマシュはどうなるのでしょうね? 悪気はありませんが、一方的に切ってしまいました。あれが最後とは思いもせず。

妄想が膨らんだので要望があればこの続きを書きます。なければifルート編はここで終わります。


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霊怪討伐戦 前編

要望があったので続きを。
一話分では収まりきらないため、二話に分けます。


 マシュはただひたすら後悔し続けた。

 先輩と連絡が取れなくなってはや三ヶ月。せっかくダ・ヴィンチを説き伏せることに成功し朗報を届けられると思ったのに、その晩、先輩が呼び出しに応じることは果たしてなかった。何度、何時間コールし続けても、電話マークのディスプレイは無情にも変化することはなかった。

 先輩の言葉を聞かず、通信をこちらから切ってしまったことが非常に心苦しい。「バイバイ」すら言えなかった自分がとても……とても……。

 あの瞬間に戻れるのなら、自分を殴ってでも通信を維持させていた。

 だがそれはもう過去のこと。どうしようもない。

 部屋に引きこもり、今日も機械作業のようにコールをかけ続ける。

 

「大丈夫かい、マシュ?」

 

 いつの間にか部屋に入ってきていたマスターのひとりがマシュに声をかけた。

 殺風景な白い部屋で、ベッドの上でだらしなく寝転んでいる。しかし両手から端末は離さない。

 

「いえ……たぶん大丈夫ではないです」

 

 誰が見ても暗いマシュの笑顔はどうしようもなく寂しいものだ。マスターは歯痒さに目を逸らしつつも、端的に用件を告げた。

 

「よくわからないけど、ダ・ヴィンチさんに呼ばれているぞ? 内容は知らないケド」

 

「ダ・ヴィンチちゃんが? まあ……はい、わかりました」

 

 応答なしの音がポロロンと鳴り、マシュはそっと端末をベッドの上に置いた。マスターはちらりと見えた通話履歴の列に驚愕する。

 画面いっぱい分では足らず、356ページまである。いったい何回コールを繰り返したのだ。それほど盾の少女は『先輩』なる人物を好いているのがよくわかるが、いつまでたってもこれではマスターとしても問題だった。

 

「諦めろとは言わないけど、その人ばかりに固執するのはあまりよくないと俺は思うぞ?」

 

「それは……ダメです。どうしても諦めたくないんです。諦めてはいけないのです」

 

 弱々しいながらも堅いその決意はマスターの心を揺さぶった。

 マスターはマシュが『先輩』と特異点を回っていたことはよく知っている。だがそれは記録のみだ。そしてその中にある物語は知らない。

 皮肉にも『マスター』としての仕事はゼロといっても良いほどで、実のところマスターたちはカルデアにとって、ただの置物となってしまっている。

 

「俺はその『先輩』という人がどういう人か知らないから深入りできないけど、はやく見つかるといいな」

 

「はい。ありがとうございます……」

 

 マシュはマスターの横を通り過ぎ、廊下へ出た。

 すれ違うサーヴァントたちは皆、共に二年間戦ってきた仲間だ。しかし一度強制退去させられ、あの記憶を持った人はもう、マシュと天才ふたりしかいない。

 当時では考えられないほどの賑わいぶり。ひとりの時ですら相当だったのに、現在はその何十倍だろう? たくさんの人に話しかけられ、相槌を打ちながらなんとかダ・ヴィンチの工房にたどり着く。

 軽く三回ノック。

 

「マシュだね? 入りたまえ」

 

 ドアを開け、中に入る。

 ここはいつまでたっても片付かない。全く理解できないものまでそこらに転がっているせいで、迂闊に触れることができない。天才(マッドサイエンティスト)の発明品はなにが起こるかわかったものではない。

 適当に近くにある椅子を手繰り寄せようと手を伸ばす。

 

「待った! その椅子には触らないほうがいい」

 

「えっ」

 

「触った瞬間、ビリビリと電流が流れる仕組みになっているのさ。ちょ〜っとあのバリツ野郎にイタズラしてみたくてね」

 

 てへっ、と可愛く舌を出しても笑えない。天才同士だからこそできるイタズラなのだろうが、それを常人が理解することはできない。

 呆けていると、ダ・ヴィンチが「ささ、これに」と今度こそちゃんとした椅子を差し出してくれ、ようやくマシュは腰を下ろした。

 

「実はね、複数の教会のほうから指令が来ているのだよ」

 

「指令、ですか?」

 

「Yes。なんでも、全くもって正体のわからない人物を殺さずに捕らえろとかいうブラック極まりないものだ」

 

 そう言ってダ・ヴィンチはタブレットを操作して日本の地図をホログラムにアウトプットする。徐々にズームしていき、とある地域でストップする。

 その場所の意味するものを理解したマシュが息をのむ。

 

「ここは……」

 

「ーーそう、あの子の家の近くだ」

 

 ダ・ヴィンチが静かに告げる。

 そして顔を上げるマシュに言葉を続ける。

 

「後々全員にこれを通達し、レイシフトして現地に向かってもらうことになる。過去への干渉は厳密に禁止されているため、時空に変化はないものとする。そこでだ。マシュ、君には特別任務としてあの子の捜索を命じる。いいね?」

 

「……え、えと……ということはつまり……」

 

 嬉しさが大きすぎるせいか、マシュは興奮気味に息を荒げる。

 胸に手を当て、呼吸を落ち着かせようやく鎮まる。そしてみるみるうちに表情が明るくなり、抑えきれなかった興奮が爆発し、椅子から立ち上がってダ・ヴィンチの手を握った。

 

「あ、ありがとうございますっ!! 私はすごく嬉しいです!! 必ず、必ず先輩を見つけ出してみせます!!!」

 

「お、おう」

 

 予想以上の喜びぶりにダ・ヴィンチも苦笑いを浮かべる。

 感極まって工房を出て行こうとして。ダ・ヴィンチは再び「待った」をかける。

 

「なんでしょう! このマシュ・キリエライト、今幸せの頂点にいますよっ!!」

 

「それは少し早い気がするんだけど」

 

「そうでした、この程度で頂点だったら先輩と会ったら幸せすぎて死んでしまうかもしれませんね!」

 

「気をつけたほうがいい。どの教会も内容はほぼ同一。生死を問われていないあたり、怪しい匂いがプンプンする。おそらくこいつは……」

 

 数枚の要請書類にザッと目を通す。

 ターゲットはどれも『UNKNOWN』と顔写真すらない。そのくせに最重要ときた。報酬も桁が4桁ほどズレているのではないかと錯覚してしまうほど高額。明らかに怪しい。

 これらから考察するに、ダ・ヴィンチはひとつの予想……確信があった。

 それはーー。

 

「……封印指定だ」

 

 ◆

 

 マスターは6人。

 それぞれにひとりのサーヴァント、エルキドゥ、ジャック、武蔵、坂本龍馬、ロックなノッブ、そしてマシュが同伴する。

 

『まずは魔力痕を調べるんだ。情報によると、夜な夜な戦闘が発生しているらしい。その痕を辿れば何か見つかるはずだ』

 

 ダ・ヴィンチの通信に、マスター6人が頷く。

 相談の結果二人一組、つまり三組になった。マシュと武蔵、エルキドゥとジャック、ノッブと坂本に分かれる。

 

「ここじゃだいぶ目立つ姿だから皆霊体化していてくれ」

 

 マスターの言葉にマシュと坂本とノッブ以外が従って姿を消す。

 

「三人もして欲しいんだけど……」

 

「すみませんマスター。どうしても私はそうするわけには……」

 

 そう言ってマシュがくるりと回転する。すると一瞬で私服姿に代わり、ノッブが「是非もなし!」と意味のわからないツッコミをする。

 

「これならいいでしょう?」

 

「うーん……まあいっか」

 

 一人目、合格。

 

「ほら、僕はパッと見は日本人っぽいだろう? というか日本人なんだけどね」

 

 ハイカラな制服さえ着ていなければ文句はないのだが、マスターはがくりと項垂れて渋々了承する。

 

「ならお竜さんも日本人だからイケるな」

 

「いやいや、さすがにダメでしょ」

 

 坂本に反対されぶーぶー駄々をこね、最終的に「あとでカエルな」と要求して大人しく霊体化する。

 二人目、条件付き合格。

 

「ノッブは……うん、アウト。令呪を使ってでも霊体化してもらうよ」

 

「是非もないのじゃあ⁉︎」

 

 言葉遣い、水着、それに骸骨イェーイなギターは誰がどう見てもこの街には合わない。異なるものに過剰に敏感な日本でノッブが歩くとする。するとたちまち警察のお世話になってしまう。

 三人目、不合格。

 

『準備はできたかい? ならさっそく捜索を始めよう。昼過ぎだからあまり騒ぎは起きないと思うが、それでも気をつけるんだ』

 

 ダ・ヴィンチの合図に三組が一斉に別れる。ターゲット潜伏予想範囲は存外に広い。抜け目なく終わる頃にはおそらく夜になっている頃だろう。

 そしてそうそうマシュはポケットから地図を出して広げる。

 マスターはそれを覗き込むように見て、不思議そうに首をかしげる。

 

「本当にごめんなさい、マスター。私にはどうしても行きたいところがあるので、そこに行かせてください」

 

 突然まっすぐに頭を下げるマシュにマスターは困惑する。

 武蔵のマスターに目線だけで助けを求めるも、無反応だ。

 

「さすがにはいそうですかと簡単に許可を出すわけにはいかないな。理由を教えてくれ。それ次第では……うん、許そう」

 

「……この近くに先輩の家があるんです。そこに行けばもしかしたら先輩に会えるかもしれないのです。だからどうか……」

 

 また『先輩』か、と正直なところ思い、何か言ってやろうと口を開きかけるも、マシュの懇願する顔を見てしまうと、どうしても言葉が喉に詰まって口から出てこない。

 サーヴァントをひとり手放すのはあまりにも惜しい。ダ・ヴィンチの言う通り、昼間だからといって何も起こらないわけではない。そこを考慮すると、武蔵だけでは心もとない部分もある。無論武蔵が頼りになるとわかっていてもだ。

 

『行ってきなさいな。私がマシュの分も頑張ればいいだけなんだから!』

 

 武蔵が霊体化しながら声だけマスターに届ける。

 

「……条件がある。端末を常に持っていること。俺たちが呼んだらたとえどんな状況でもすぐに来ること。それが守れるのなら……いい」

 

「自分で言うのも少しあれですが……本当にいいのですか?」

 

「はやく行けよ。大切な人を探す奴を止めるのはただの畜生だから」

 

 マスターが端末をマシュに投げ渡す。

 手のひらサイズのそれをポケットに入れると、とびきりの笑顔で感謝を告げた。

 

「ありがとうございますマスター! 必ず先輩を見つけますからーー!!」

 

 言いながら、最後にはもう、遠くへ走ってしまってあまりよく聞こえなかった。マスターは黙ってそれを見届け、人混みに消えたところでようやく足を進める。

 

「ん。悪いな、マシュを行かせてしまって。武蔵、あの子の分もよろしく頼む」

 

『合点承知! マスターもいいよね? この武蔵に任せなさいな!』

 

「もちろん。でもちゃんと私の指示を聞いてよね?」

 

 痛いところを突かれたか、武蔵はそれきり無言になってしまう。

 ともあれこの二人のマスターにとって戦力となるのは武蔵のみとなってしまった。

 賑やかな商店街で、魔力痕を探しながら歩き、時々道草を食う。みたらし団子をこっそり武蔵に食べさせてやる。すると彼女は都合よく現れて三本ほど頬張る。

 

「君、もしかして故郷では結構モテたりしてた?」

 

 ふと、そんな武蔵のマスターの疑問に。

 

「まさか。俺は天涯孤独。ソロぼっちを極めた男だぞ」

 

「……そ」

 

 爪の先ほどだがカッコいいじゃない、と思っていたそれは、すぐさまどこかへと飛んでいった。

 

 ◇

 

 地図を広げ、拙い土地勘を頼りに街を走る。すれ違う人に道を尋ね、交番で道を尋ね、ようやくそれと思われる一軒家の集まりに着いた。

 ざっと見渡すと30軒ほどあり、どれが先輩の家なのかわからない。地図は確かにここを示しているのだが、どうしてもここから先どうすればいいのかわからなかった。

 途方に暮れていたその時。

 

『マシュ、家がわかった! その家の列のひとつ向こうにある二列目、その左から二番目の赤茶色の屋根がそうらしい』

 

「本当ですか⁉︎」

 

『ああもちろんだとも。天才が間違えるわけないだろう?』

 

 ありがとうございます! と通信を切り、マシュは駆け足で二列目へと移動する。そして見る。左から二番目……赤茶色の屋根……。

 

「……!」

 

 ある! 確かにある!!

 あれだ、あれが先輩の家だ!!

 この三ヶ月分の絶望が一気に彼方へと飛んでいった。

 あの家に先輩がいる。先輩を怒って、どうして通話に出てくれなかったのですかと泣きながら叫んでやるのだ。

 先輩の苗字の名札を確認し、高鳴る心臓の鼓動を抑えることも忘れたままマシュはインターホンを押す。

 はやくはやくと急かすマシュの心と裏腹に、ピンポーンとのんびりに聞こえてしまう呼び出し音。

 数秒待っても反応はなく、もう一度押す。

 

 ……反応がない。もう一度押す。

 ……反応がない。もう一度押す。

 ……反応がない。もう一度押す。

 ……反応がない。もう一度押す。

 ……反応がない。もう一度押す。

 ……反応がない。もう一度押す。

 ……反応がない。もう一度押す。

 

「あ、れ……」

 

 もしかして間違い……? いやそれはありえない。この家に間違いないのだ。

 

「どうしたんだい君?」

 

 ランニング中の男に声をかけられ、マシュは我に返った。

 

「あ、あの! ここの人は今どこにいるかわかりますか⁉︎」

 

 指をさして、やや半狂乱気味にマシュは訊いた。

 男はポカンと惚けた顔を晒し、逆に不思議そうにマシュの様子を伺いながら答える。

 

「何を言っているんだい? この家に人なんていないよ。三ヶ月くらい前だったかなぁ……この家で殺人があったんだよ。両親は惨殺。一人娘は行方不明。今はもう迷宮入りした事件だよ」

 

「ーーーー」

 

 この瞬間、マシュは己の考えの浅はかさを思い知った。

 そもそも先輩が通話に出なくなったのは、何かが起こったから。そのくせに普通に家にいるわけがない。三ヶ月間あったというのに、なぜそう考えられなかったのか。ダ・ヴィンチの教えてくれた情報があるからといって、必ずしも先輩が見つかるはずでもないのに。

 

 いったいどれだけ自分の頭の中はお花畑だったのだろうか。

 

 両親は死に、先輩はどこかへ消えた。

 とっくの昔の話だ。この地域はもういないに決まっている。きっとどこか遠くに行ってしまっているはずだ。

 マシュは先輩の家だった建物を前に膝をついた。

 そして震える手でポケットから端末を取り出して。

 

「マスター……私、今からそちらに……合流、しま、す」

 

 と、小さくえづきながら短く伝えた。

 

 ◆

 

 ターゲット発見の知らせを聞いたのは晩のことだった。

 

『そんなわけがない……これはどう考えてもおかしい!!』

 

 マシュがマスターに返した端末から珍しくダ・ヴィンチが叫ぶ。

 こんな彼女は珍しい……いや、初めてかもしれない。それほどの狼狽ぶりだった。

 

「ダ・ヴィンチさん、何がですか⁉︎」

 

 マスターの問いにも答えず、ぶつぶつと目と目の間を指で摘みんでつぶやき始める。

 現在対峙しているのはエルキドゥとジャックのペアらしい。場所は人気のない裏路地。なんと偶然居合わせた教会の人間と共闘しているらしい。

 

「これは特大だね」

 

 武蔵が人目の少ないところに入った瞬間に霊体化を解除し、自分のマスターに言った。

 

「マシュ、しっかりしなさい。あなたの本来の目的はUNKNOWNの捕獲。そうでしょう?」

 

「……そう、です」

 

 武蔵に諭され、マシュは私服から武装し、盾を召喚する。

 

『そういうことだったか!! 私たちは……カルデアは嵌められた……!! ああ……ダメだマシュ。君は行くべきではない。そもそもこの指令を請け負ったのが大正解(・・・)であり、大間違い(・・・・)だった……!』

 

 ダ・ヴィンチが支離滅裂なことを言い始める。だがもう四人は止まらない。止まれない。マシュだって本来の任務は理解している。あくまで先輩の捜索はサブ任務にすぎなかったのだ。今回はその機会があり、ものにできなかっただけ。

 ならば次の機会、万全を期して先輩を探せばいいのだ。どんな苦境でも生き抜いた人だ。だから必ず今回も生きている。そして生きているのなら、必ず見つけられる。

 ようやくそう無理やり自分を理解させたマシュは、角を曲がる。その先にUNKNOWNの正体が……!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは人だった。

 女の子だった。

 夜だというのに、太陽のように明るい髪色だった。

 

 しだいに『あの人』と面影が重なっていく。

 

 まだよく見えないから、もっと近づく。

 顔がしだいに鮮明に見えてくる。

 

「……うそ」

 

 一瞬だけ他人の空似だと思ったが、見間違えるはずなどなかった。

 エルキドゥの天の鎖で空中に縛り上げられ、苦悶の表情を浮かべている。

 

『待て、やめるんだ!!』

 

 誰に言ったのかわからないダ・ヴィンチの制止の声。

 

「ーーせ」

 

 ついに面影が完全に重なる。

 確信。あの女の子は間違いない……『あの人』だ!!

 だが、マシュが彼女を呼ぶのを遮るように。

 

 ジャックの宝具が元マスターの腹を深く、深く切り裂き。下半身がぼとり、と。臓器がぼとぼと、と。夥しい血がビシャビシャ、と地面に落ちた。

 

 ……それは、五ヶ月ぶりの再会であったとしても、あまりにも残酷なものだった。




何度か質問を受けましたが、マスターちゃんはビースト覚醒していません。

マスターちゃんに憑く亡者たちは、お竜さん的なポジションだと思ってもらえば。
ずっと前に説明しましたが(感想欄だったかな?)、亡者たちは特異点を訪れるたびに増えます。特にバビロニアは酷かったですねぇ? ということは……そういうことです。


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霊怪討伐戦 後編

早速イベントガチャ回したのですが、イベント礼装が一枚も来ないという謎事案が発生しました。


 先輩が、死んだ。

 マシュがそれを理解したのは、天の鎖の拘束から解放され、残った上半身がおまけと言わんばかりに落ちた後だった。

 

「ーーーーーーぁ」

 

 ゆっくりとした足取りでその亡骸に近づき、マシュは自分の戦闘衣を血まみれにしながらふたつに分かれた肉塊を抱きかかえた。

 口からは血があふれ、虚ろな目が空を見上げている。

 時が盗まれたような。永遠の氷に閉じ込められたような。

 怒りや悲しみを通り越して、超越した感情に自分は迫っているのだと感じた。

 

「せん、ぱい……」

 

 血を拭い、いったい何をして生きていたのか、汚れきった顔をやさしく撫でながらつぶやく。

 いつの間にかノッブ坂本ペアが合流し、マシュを中心に、亡骸を回収しようと歩み寄ってくる。

 

「どうして……どうして殺したんですか……」

 

 エルキドゥとジャック、そのマスターたちを睨みつける。

 

「その少女がUNKNOWNだからだよ」

 

 エルキドゥが淡々と告げ、再び天の鎖を召喚する。

 マシュには彼ら……皆を責めることができなかった。皆は先輩のことを知らないのだ。凍結されている間に人理焼却事件を解結してみせた人物。それが先輩。そしてこれ以上多くを語るわけにはいかなかった。なぜならば彼女はもう日常生活に戻ったのだから。今後人類史に偉業として記録されるであろうから。

 きっとそれが災いしたのだ。

 さらに追及したかったが、押し黙ってしまう。皆に悪意はない。知らないのだから。ただ任務を達成するために行動しているだけだ。

 

『なんてことだ……カルデアが人類の宝を壊してしまった……』

 

 カルデアとマシュ、ダ・ヴィンチの温度差は言うまでもない。

 そもそもなにがあって先輩がUNKNOWNとばれたのだ。そして視界に映った、教会の人間と思われる二人の女に問うた。

 

「あなた方がどの教会の所属かは知りませんが……あなた達なら先輩のことをよく知っているはずですよね」

 

「……」

 

 どちらも無言だ。

 だが歩いてくるのに対してマシュは警戒レベルを一気に上げた。

 盾を向けて威嚇するが、ついに目の前まで迫ったふたりはあろうことか、亡骸……下半身に対してさらに攻撃を浴びせようと迷わず銃を撃った。

 まさかそんなことをするとは露にも思わなかったマシュは完全に不意を突かれ、反応が遅れた。

 その場にいた誰もが反応できなかった。

 弾丸は無慈悲に先輩の下半身を木端微塵に……。

 

 しかし奇妙なことに、二発の弾丸は空に固定された。

 

 回転が徐々に弱まり、やがて完全に停止したところで再度回転し始める。

 回転。回転。回転。

 回転。回転。回転。

 回転。回転。回転。

 空気をかき混ぜ、コンクリートの地面を微かに削るほどの風圧を生み出す。いったい誰がこれを行っている。マシュは周りを見渡したが、犯人らしき人物は一切見当たらなかった。

 

「エルキドゥ!」

 

 彼のマスターが叫ぶ。

 その意味を理解したエルキドゥは天の鎖を超高速回転する弾丸に巻きつけるべく、じゃりぃん!! と発射する。風圧に負けじと恐るべきスピードで勢いを失いながら接近するも、やがて鎖の方が押し負け、粉々に砕け散ってしまった。

 サーヴァントの拘束すら弾いてみせる力。ついに極回転まで至った弾丸が発射され、撃った女ふたりの頭部を肉片すら残らず破壊した。

 それを認識したのは、軌跡が残した暴風に身体が吹き飛ばされそうになった後。

 

 そしてさらに気づく。

 誰もいなかったはずの裏路地に、霊のようなものがいる。それも一体や二体ではない。十人以上はいる。楽しそうに死んだ女たちの死体で遊ぶ霊。先輩の臓器をかき集める霊。先輩の下半身に欲情している霊。人に理解できない笑い声で笑う霊。

 たくさん、たくさんの霊がそれぞれの思いのままに彷徨っている。

 

「龍馬!」

 

「はいはいわかってますよ!」

 

 坂本がそのうちの一体、挙動不審の霊に対して攻撃を仕掛ける。

 剣撃を浴びせ、お竜の拳が喉元に寸分の狂いなく命中するが、『当たった』という感覚は希薄で、風景に滲むように消える。

 

「さてはお前、お竜さんと同類以上とみたぞ」

 

『気をつけるんだ。その霊たちの霊基が確認できない! おそらく新種のなにかだ! それとマシュ、そこは危険だ! はやく下がるんだ!』

 

 ダ・ヴィンチの叱責にすら、マシュは動くことができなかった。身体的な問題は何もない。しかし、先輩が死んだという現実をまだ完全に受け入れられない彼女の狼狽え、悲哀、氷のような憤怒が自身をドロドロの闇に陥れた。

 サーヴァント全員が次々に現れる霊に対応しているのに、マシュだけ何もしていない。

 カルデアを、世界を救った真の英雄が、その救ったはずの人類に殺されたのだ! なんという残酷な仕打ち。世界から称賛されることすらなく、代わりに与えられたのは死だ。

 

 マシュの前に霊がひとり、現れる。

 

 その霊を見上げると、なんと霊は敵対意思はありませんとかぶりを振る。

 そしてボロボロに破けた黒い制服の首元を正し、折れた指揮棒を振り上げる。すると各々好きにしていた亡者たちが一斉に動きを止め、先輩の亡骸を囲むように集まった。

 指揮棒の振るリズムに合っているように聞こえて、だが合っていないようにも聞こえる合唱が始まった。

 

 起きろ。起きろ。起きろ。

 いつまで寝ているつもりだ。

 私たちはお前と約束したのだ。

 さあ立て。死ね。立て。死ね。立て。死ね。立て。死ね。立て。死ね。立て。死ね。立て。死ね。立て。

 ひ、ひひ。ひひ。ひ。ひひひひひひ、ひ、ひ。ひ、ひ、ひひひ、ひひひひひ。ひひひひひ、ひひ、ひひ、ひ。ひひ。ひひひひ、ひ、ひひ。

 

 身が震え上がるとはまさにこのことか。

 鳥肌が立ち、足の先から頭の頂点に至るまでに微細だが、北極南極ですら生温い極限の寒気が染みわたる。

 ぞわり、と見ることを生理的にすら拒絶してしまう、未知の感覚。

 亡者たちは怯えるマシュから先輩を取り返すと、臓器、血をかき集め、上半身と下半身をくっつける。

 いっそ美しいまでに切断された部分から紫色の糸が無数に伸び、己が身体に触れると縫うように結びつけ、それが全体に行き届いたあと、ズルズルと身体を引きずりながら接続を果たした。

 そのなんとも人間ではない活動に、武蔵のマスターが嗚咽を漏らす。

 

『霊基は確かに人だが……どうなって……いや、これはまるで変数だ』

 

 ようやく解析を完了させたダ・ヴィンチが言う。

 

『人に縛られてはいるものの、何にでもなれる存在。受け皿。変態者。だがそのどれも行使せず、生きることだけに執着している。……もはや一種の呪いじゃないか』

 

 死んだ人間が、生き返る。

 この世に別れを告げたはずの先輩が再び息を吹き返す。

 ゆっくりと目を開き、辺りを見回す。そしてマシュの姿を見つけると、いつものあの笑顔で語りかけてきた。

 

「久しぶりだね、マシュ。何年ぶりかな?」

 

 ロングヘアの先輩は大人の魅力ともいうべきものを獲得し、さらに美しさを増していた。だがだからこそ、それを背にのしかかっている狂気が、マシュとっては正直怖く感じてしまった。しかし、それと同等かそれ以上に先輩に再会できたことが嬉しかった。

 マシュも狂気に堕ちたわけではない。ただ、先輩と会うことができた。その喜びが何よりだっただけだ。

 

「先輩! 先輩ぃっ!!」

 

 死者? 生者? そういうことではない。先輩なのだ。まぎれもない。

 抱きついた瞬間、あの懐かしい匂いを感じ、マシュの中の思い出が爆発した。

 

「いままで何をしていたのですか……! なんの前触れもなくいきなり通話に出なくなったりして!! どれだけ私が心配したかわかりますか⁉︎」

 

 胸を叩き、彼女を叱りつける。

 涙がとどまるところを知らず、決壊したダムのように流れる。

 亡者たちはポップコーンを貪りながら感動モノのお話を観賞している。さながら映画館模様。

 

「ごめんねマシュ。簡単に許されることではなかったね」

 

「当たり前です!」

 

「私のこと、嫌いになった?」

 

 顔を離し、先輩はマシュの様子を伺う。

 

「それは……ずるいですよ……」

 

 嫌いになるわけがない。嫌いになる理由などない。

 もう一度熱い抱擁を交わし、ふたりは絆を確かめあった。

 エンドロールの流れない映画を観終わった亡者たちは最後に底に残ったポップコーンになれなかった種もバリボリと噛み砕いて、ゴミは丁寧にスタッフもどきの亡者に投げつける。

 

「カルデアよ、何をしている。あの女が目標だ。はやく捕縛するのだ」

 

 木陰から、死んだはずの女が……五人、六人……いやホムンクルスか……が現れる。

 マシュと先輩のあれを見せられ、戸惑うマスターたちをよそに女は続ける。

 

「あれは人ではない。あれは貴重なモノだ。あれは我らがいただく。拒否は許されない。我らに従え。さもなくばお前たちを殺す」

 

 高圧的な声色で一方的に命令する。

 たった数秒で女の数が増え、ざっと40人ほどになっている。

 

「ゴキブリみたいだな」

 

「それ、直接言ったらダメだからね?」

 

 お竜が緊張感のかけらのない言葉を坂本が咎める。不服そうな彼女は「あんな量産型ゴキブリはやく倒そうぜ」とファイティングポーズをとる。

 

『君たちはどこの者だ? ターゲットがあの子であることをなぜ隠していた? カルデアは君たちに対して信頼を失ったぞ』

 

「カルデアの信頼などいらない。あれを渡せ。それだけでいい」

 

 女……ホムンクルスたちが臨戦態勢をとる。

 ……敵対だ。

 

『カルデア所長代行として絶対命令だ! 絶対にあの子を渡してはいけない!』

 

 マスターたちが先輩を守るように陣形を組む。

 ノッブ、ジャック、エルキドゥ、坂本、武蔵が多方面に展開し、女たちを迎え撃つ。

 

「わしのわしによるわしのための是非もない戦いじゃな!!」

 

「うるさいぞノッブ、はやく戦え!」

 

「マスターはわしに対して是非もなさすぎじゃないかのう⁉︎ ところで誰か全体宝具の奴はおらんのか? ……え、いない? 全員単体宝具? わしはロックなノッブだから単体宝具でいいんじゃよ。ま、是非もないよネッ!!」

 

「ピーチクパーチクうるさいぞ、帰ったらアルトリア顔の集団にぶち込んでやろうか⁉︎」

 

「是非もなさすぎワロタ」

 

 そんなことを言いながらもノッブは宝具の断片展開で骸骨を召喚してホムンクルスたちを一網打尽にする。

 取り逃がした敵は、坂本の正確な射撃で撃ち落とす。

 

「うーん、今のは80点だ。カエルをくれたらあと20点プラスしてやろう」

 

「はいはいあとであげますよっと。お竜さん、合わせてくれ!」

 

「ほいきたー」

 

 腰に差す剣を抜刀。

 ホムンクルスたちの間を縫うように通り過ぎ、後には斬撃が残る。「とどめはもらったぞ」と最後の一撃をお竜が丁寧に拳で殴り倒す。

 しかし倒せば一体、また一体とどこからともなく現れる。

 

「本当にゴキブリだな」

 

「さすがに僕も同意せざるをえないかもね」

 

 ホムンクルスたちは同胞の屍を踏み、まるでゾンビのように襲いかかってくる。

 マシュも盾で迎撃はするが、活路を見出せない状況でいた。

 武蔵の鬼神の如き剣技が敵を圧倒しているが、それだけだ。攻撃範囲から逃れた敵は先輩へと攻撃を集中させる。

 

「マシュちゃん、左50度!」

 

「はい!」

 

 武蔵の的確な指示を頼りに、マシュは盾を振り回す。

 

「先輩は! 私が、守りますからッッ!」

 

 先輩を背に、マシュは覚悟を叫ぶ。

 武蔵との連携。盾で攻撃を防ぎ、大きくのけぞったところを武蔵の二刀流が襲う。

 

「マシュ」

 

 先輩から声がかかる。

 

「私に任せてください、先輩!」

 

「違うのマシュ。退いて」

 

 肩を掴まれ、マシュの動きが止まる。

 前に進ませるわけにはいかないと引くつもりなどなかったが、存外にその力が強く、引き下がってしまう。

 

「武蔵も退いて。危ないから」

 

「カルデアの元マスター! 本当に大丈夫なの?」

 

「いいから」

 

 貫いた刀を引き抜き、刃についた血を振り払いステップを踏んでその場から離脱する。

 ホムンクルスたちの動きが止まる。

 本命自らのお出まし。これまで離れていた場所で戦っていた者たちも集い、先輩の前に捕縛しようとにじりにじり寄ってくる。

 

「……出てきて。私の子たち。200人ほどでいいわ」

 

 瞬間、亡者たちが吼える。

 一瞬で武装を果たし、さらにその数が増える。黒い炎の在然、その一柱一柱の燃え後に亡者が召喚される。

 そして指揮者が指揮棒で199人を統率し、力強く足踏みをする。それは瞬く間に全員で伝染し、地を揺るがす。

 

 ざっ、ざっ、ざっ。

 らっ、らっ、らっ。

 うらっ、らっ、らっ。

 

 足踏みをする亡者たちは、決して戦士だけではない。ただの農民、ただの子供。ただの老人。実に多種多様な集まりだ。

 ではなぜ彼ら彼女らが戦うのか。生涯に渡り、一度も武器を手にしたことのない者もいるというのに。それはただひとつ。

 

 元マスターへの罪の精算である。

 

 この瞬間において、戦士となった亡者たちは鬨の声を上げ興奮のまま武器を闇夜に掲げる。己が主の号令を今か今かと待ち遠しそうに醜く唸っている。

 その錚々たる圧、轟きにホムンクルスたちが一歩引く。

 単なる一般人であるはずの元マスターが、これほどの魔術……いや違う、もっとほかの何か……純粋な力、だろうか。魔術師ですらないのに、あれほどの力を。ともあれあの亡者たち、そして彼女明らかな脅威だった。

 

「ーー踏み潰しなさい」

 

 ざっ、ざっ、ざっ。

 らっ、らっ、らっ。

 うらっ、らっ、らっ。

 ひひ、ひひ。ひひひひひ、ひ、ひひひ。ひひひひひ。ひひひ、ひ。ひひ、ひひ、ひ、ひひ。ひひひひ、ひ。

 

 それは、数の暴力。

 それは、戒め。

 それは、研ぎ澄まされた、あまりにも純粋な憎悪也。

 

 ホムンクルスたちを囲い、虐殺と表現して何も違わない一方的な蹂躙を広げる。

 亡者は嗤い、貪り、殺す。

 あれほどサーヴァントたちが苦戦していたというのに、ものの数分で敵を一体も残すことなく殺してみせた。

 

 嗤う。嗤う。勝ったことにではない。

 元マスターがここで終わりを迎えなかったことに嗤っている。

 

 ひひひひ、ひ。ひ、ひ。ひひひひひ。ひ、ひひひ、ひひ。ひひ、ひひひ。ひひひひ。ひひ、ひ、ひひ。ひひ」

 

 最後に満足げに亡者たちは最高の笑顔を浮かべて戦いが終わるかと思われたが、あろうことか我先にと死体を漁り始めた。

 

「あれはいったい……なにを……」

 

 マシュが見る先には、服を剥ぎ、金属物を取り上げて子供のようにはしゃぎ回る亡者たち。

 

「あーそうだった、ついいつもの癖で。ほら、こういう系の敵はいいもの持ってるんだよね」

 

 程よい物を回収した後で、亡者たちはわざわざマッチ棒を燃やして死体を焼く。空腹そうに指をしゃぶっている者は耐えきれずに炎に呑まれながらも食事をする。

 ようやく終わった亡者たちは30人ほどに数を減らし、元マスターを囲んで今回の戦利品を献上する。

 

「いいね。これで新しい服が買えそうだね。久しぶりにおにぎりぐらいの食費が浮きそう」

 

 破けた服を脱ぎ捨て、そこをすぐさま亡者たちがカモフラージュ。早着替えで現れた元マスターはさっきよりも酷いボロボロの服を着ていた。

 

「完璧。……じゃあマシュ、お別れの時間だ」

 

「えっ、なにを言っているのですか?」

 

「なにって……え?」

 

 そのわけのわからない発言をマシュは聞き捨てならなかった。

 あんな目にあったのに、今からどこに行こうというのだ。両親は殺され、家には帰れない。言動から予想するに、とても苦しい生活を送っているのは明らかだ。

 

「そんな状態の先輩を放っておけません。その……両親も亡くなったらしいですし……またもう一度カルデアで暮らしませんか?」

 

「いやー、それは無理だよ」

 

「どうしてですか……?」

 

 何をバカなことを、とでも言いたげな表情で彼女の周りの亡者たちを指差す。

 

「この子たちがカルデアに迷惑をかけるのは確実だよ。だって寝てる時に私を殺すんだよ? さすがに驚きだよ」

 

「そんな……でも、皆でなんとかすれば……」

 

「無理だよ、絶対に。この子たちの行動理由は私を苦しめることだから。それに私は追われる身。たとえ本当にこの子たちが何もしなくても外部から何か攻撃されるのは確実なんだよ。だから私は……カルデアと関わってはいけない」

 

 踵を返し、元マスターはマシュに背を向ける。

 前は涙の別れだった。笑顔の別れだった。

 だが今回は全くの逆だった。

 涙はなかった。笑顔などありえない、黒い絶望の果ての別れ。

 もう人類最後のマスターだった少女を、元に戻すことは不可能である。

 ほぼ不死となった彼女に、救いは……。

 

「……最後にマシュ」

 

「これでお別れなんて認めせんよ、先輩!!」

 

「私を哀れんだ? 悲しんだ? 助けたいと思った? 絶対に救おうと思った?」

 

「当たり前です! 先輩を救うためなら、私はなんだってやる覚悟です!!」

 

「そう? じゃあこれを」

 

 亡者のひとりがマシュに激しく湾曲したナイフを手渡す。切れ味は素人が見るだけでもわかるほどとても鋭いもの。軽く触れるだけでも容易く切れそうだ。

 

「私は行くね、マシュ」

 

 振り返り、寂しそうにも見える、今にも崩れ落ちそうな笑顔をマシュに向け、屈強な亡者に抱きかかえられて夜空を舞い上がった。月光が彼女を淡く照らし、その様子はまるで地球を去る、血に濡れたかぐや姫のよう。

 マシュは届かないとわかっていても、手を伸ばした。

 こんな別れ方、絶対に認められない。この後になんの意味もない、本当になんでもない話をしたかった。

 カルデアでのこととか、他にもたくさん、いっぱい、それこそ1日では語りきれないほどの。

 

「もし本当に私を想ってくれているのなら……」

 

 彼女の姿がだんだん遠のく。声だけがぼんやりと伝わり、しかしすぐさま消えてしまう。

 

「ーーそのナイフで私を殺し(救い)に来て」

 

 ついにどこかに消えてしまった元マスターを、マシュは力無く見上げる。

 また会いたい。なんとしてでも会いたい。マシュと彼女が培ってきた絆は、この程度で崩れるものではないはずだ。今度は向こうから一方的に別れを告げられてしまった。これでは立場が逆だ。

 目線を落とし、ナイフを見る。

 

「私は……わたし、は……」

 

 これがマシュとっても、彼女にとっても人生最大の決断となる。

 どっちを選ぶとどのような結末を迎えるかなど、マシュにわかるはずなどない。しかし、これが最善であると。これが唯一の方法なのだと信じて行動する。これがもし間違いだったとしても、後悔は絶対にしない。

 

 そしてマシュはーーーー…………。




約三ヶ月間ほぼ毎日敵に襲われ、まともに休むことなどできず、死ぬように眠ることが許されたとしてもその間に亡者たちに殺されるし、だがまた蘇生させられる。
そんな無限地獄に堕ちた元マスターちゃんをマシュマシュはどうするか。
ここで話は終わりです。

ifルート編はとりあえずここで終わります。
次。
ーー人類悪、在臨。


ネタが次で尽きます。ということは……。


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隔絶唯一魔境 時空神殿 ####

全然関係ない話ですが。
フォーナイト(あまり上手くないけど)面白いですね! 特に50vs50が好きです! でも一緒にやる人がいなくていつも草生えてます。魅せるッ! チキンプレイッッ!!

では切り替えて。
今話はCCC一周目の『オワリセカイ』と『価値再考』を読んでいないと何もわからないと思います。


 キアラはここからはやく抜け出したかった。メルトリリスを逃してしまい、死んだはずのマスターにここに強制転移され、ビーストと名乗る、ゲーティアを象った真性の人類悪。

 キアラには地球の核と同化するという偉大な使命があるのだ。このような意味不明な空間にいつまでも入り浸っているわけにはいかない。

 

「私を今すぐSE.RA.PHへ帰していただけませんか? やるべきことがあるので」

 

「不可だ」

 

 玉座に座るビーストはキアラを見下ろし、脚を組み直す。

 

「私は私のために、貴様をここで足止めするために私は私を産んだ」

 

 よくわからないことを話すビーストに、キアラは理解することを放棄する。

 

「……つまり私を帰すつもりはないということですね?」

 

「肯定する」

 

「そうですか。わかりました、では強引突破させてもらいますね」

 

 キアラがビーストIII/Rの特性を纏う。

 頭から二本の角が生え、地面から彼女を支える半透明の手が現れる。さらに魔神柱の残骸を万本召喚して威圧する。まだ巨大化することはできないが、これだけでも十分な戦力だ。

 しかしビーストは「ふ」と笑い飛ばす。

 

 手がキアラを投げる。狙いはもちろん、ビースト。

 大きく右足を後ろに振り、蹴りの体勢で刹那の瞬間に肉迫する。

 しかしそれはビーストが指を鳴らすだけで屹立した擬似魔神柱の肉壁に阻まれる。蹴りはビーストには命中せず、壁に波を走らせるのみ。キアラは歯ぎしりする。

 

「喝破!!」

 

 邪魔ならば破壊するまで。

 魔神柱の攻撃を壁に集中させ、空気をも打つ拳撃を何度も浴びせ、最後に手の攻撃で粉々に砕いてみせた。

 依然としてビーストは高みの見物だ。どこまでも見下されるような不快感に、キアラの怒りは募るばかり。苛立ちが彼女の拳に力を込める。

 

「次は私の番だ。初めて攻撃するからな、いまいち良い方法がわからん」

 

 ついにビーストが玉座から立ち上がる。その瞬間キアラの魔神柱が腕に、脚に巻きつきビーストを拘束する。

 膝をつき、頭を垂らす。ギリギリと締め付けられ、短く呻く。

 身長差がほとんどなくなったことによって、キアラの攻撃が頭部に当てやすくなる。

 

「あらあら、聖杯の欠片でも落ちていましたか?」

 

 ビーストの前にて踏み込み、拳を突き出す。

 ぱぁんっ! とどこまでも届きそうな音と衝撃波を放ち、キアラの攻撃は確かにビーストの顔面に命中した。肉をえぐった感触に、彼女はほくそ笑む。

 対してビーストはあまりの力に動けないでいる。所詮は産まれたばかりの赤子のようなもの。キアラにとってはあやす程度の行為だ。

 魔神柱の光線を浴びせ、さらに手を数本ビーストの足元に召喚し、一方的に殴りつける。

 

「弱いですねぇ? これならまだその辺の英霊の方が強くてよ?」

 

 ははははは! と高笑いし、さっさと勝負を決めるべくキアラは宝具の真名解放をすることにした。

 無駄な時間を過ごすわけにはいかない。一刻もはやく『人類』を救わねばならないのだ。『人類』を殺そうとする害虫は、殺さねば。

 廃棄孔。極限ない魔神柱を孕む天の孔(ヘブンズホール)へと超重力でビーストを引き寄せる。ズズズ、と地面を深く穿ちながら呑み込む。

 中でビーストに無数の手が伸び、ギシリギシリと肉を砕かんと破壊的な力で身体を握りつぶす。

 

 ぶじゅ。グジュ。ぶじゅり、り。

 

「ドロドロに溶けてしまいなさい。この世に人は我一人。この世に星は我一つ。ビースト……ゲーティアの皮を被った偽物よ……あなたを楽土へと導いてさしあげましょう。『スカーヴァティー・ヘブンズホール』」

 

 ビーストを呑んだ廃棄孔が爆ぜ。

 無人の時空神殿に、遠く、遠く神殿すら叩く爆音が轟く。

 キアラはその音を聞き、確かなビーストへの攻撃を感じ取った。これで致命傷は与えられた。男か女か一切わからないが、性器があれば相手をしてやるのも一興なのだが、股間にそれに該当するものはなく、恐ろしいまでのツルツルに、昂った愛欲が萎える。

 ……また己の欲を満たそうと悪い癖が出てしまった。気づけば火照ってきた身体をを慰めたいところだが、これでビーストは瀕死のはずだ。あとはさっさとSE.RA.PHへ帰してもらうだけだ。

 ブラックホールのような暗黒の廃棄孔を解放し、ボロボロになったビーストを吐き出す。

 

「あんなに偉そうにしていたくせに、随分と呆気ないものですねぇ?」

 

 くすくすと手で口を隠して妖しく笑うキアラは頭を片足で踏みつけ、グリグリと力を徐々に込める。

 幾つにも分岐して伸びる角は一本が根元がごっそりと折れてしまっている。さらに傷口付近の黄金の皮膚が剥がれ、薄く茶色がかった白い……肌? いや確かに肌が覗いている。

 キアラはビーストに違和感を感じ、その部分をつま先でさらに削ってみることにした。

 魚の鱗を落とすように、ガリガリと削る。するとなんということか、肌としか断言できないような隠された部分が徐々に露わになり、キアラは訝しげに感じる。

 これは明らかに人の肌。はじめは勘違いかと思ったが、ここで確信に変わった。

 

 ビーストは、ゲーティアの皮を被ったーー……。

 

「ーーああ、思い出したよ」

 

 文字通り完膚無きまでに叩きのめされたビーストが、ありえないほどすっきりとした口調で呟いた。

 瞬間、ビーストの魔神柱がキアラを激しく打ち、一時的に距離を取られてしまう。

 ふらりとビーストは立ち上がり、一瞬で傷を修復してみせる。人間色の肌は黄金に覆われ、外見は完全にゲーティアへと戻る。

 

「そうだった、私はいつもボロボロだった。……弱かったから。心も身体も脆く崩れてしまって、救いようのない自分にさらに絶望したんだったね」

 

 たらたらとビーストが語るのを聞いてやる道理などない。

 黙りなさい、そして大人しく私を帰して死になさい。

 廃棄孔を部分召喚。孔を開き、魔神柱の残骸をビーストにぶつける。

 一幕置き、赤黒の津波。

 

 ビーストは手で顔を覆い、口を狂気に歪ませる。

 

「……第一の聖杯。聖処女を失った騎士の嘆きをここに」

 

 ビーストの目の前に神々しく輝く聖杯が突如姿を現わす。それを掴むと、ビーストは自身の胸に押し込み、沈めた。

 すると、ビーストは激しく苦しそうにもがき始め、しかしながら笑った。

 

「ハ、ハハハハハハハハハハ!! そういえばそんなことがあったわね!! 少しだけ思い出したぞ!!!」

 

 手で空を薙ぎ払い、時空の狭間を生み出す。

 するとそこから無数の光線が前方に余すことなく照射され、キアラの発射した残骸は跡形もなく蒸発する。

 

「第二の聖杯、破壊者の祈りをここに」

 

 手をかざし、その上にさらに聖杯が現れる。それもまた胸に沈めると、今度は喀血した。

 しかしまだ嗤っている。ただ無邪気に。なくしものをを見つけた幼い子供のように。声は次第に高くなっていき、なんだか聞き覚えのある声色に近づいてきている。

 キアラにはビーストのしようとしていることがわからなかった。聖杯を己に取り込むという自害に等しい身の毛もよだつような狂気がどうしてもわからなかった。

 しかしひとつだけ言えることがある。それは、絶対にこれ以上ビーストに聖杯を取り込ませてはならないこと。

 それを許してしまえば最後、どうなるかはキアラにも想像すらできない。

 

「やめなさいビースト! あなたは何がしたいのです⁉︎」

 

 出し惜しみはなしだ。

 キアラの孕む魔神柱を全て召喚。ビーストを確実に屠るべく、最大の力を出す。

 強引にすれば身体にある程度の負荷がかかるが、今はそんなことでうじうじしている余裕などなかった。

 巨大化。

 ビーストをはるかに上回る巨体となったキアラは、手のひらで地面を叩きつける。

 

「第三の聖杯、海賊の略奪をここに」

 

 低く腰を落とし、左腕を下段に構える。

 圧倒的な質量のキアラの手が降ってくる。

 聖杯を取り込み、一瞬意識が飛びかけたビーストだったが、だからどうしたと拳を空へ突き出した。

 避けはしない。正面から受けて立つ。

 ビーストはキアラの巨大な手を迎え撃つ。

 ガギィンンンンン!! とこの世ならざる破音が地を弾き空を殴る。

 両者の力は拮抗し、地面が陥没する。

 だが、それは永遠に続くわけではなく、軍配はキアラに上がり、ビーストは弾丸のように超高速で飛ばされ、岩が肩を貫通する。

 

「第四の聖杯、アングルボダの本質をここに」

 

「ーーさせません!!」

 

 次、両手でのはさみうち。

 ビーストはすかさず両腕を横に伸ばし、キアラの攻撃を受け止める。

 

「大人しく……潰れな、さい!!」

 

 やはり力比べはキアラに劣り、ビーストの両腕は見るも無残に折れてしまう。両腕を無くしたビーストは、肩だけで耐える。

 そしてキアラの奮闘も虚しく、聖杯は再び胸へと沈んだ。

 

「たくさんの人が、人が、人が、死んだ。私の心は……きっとすでに死んでいた」

 

 ビーストを中心に、カッ! と白い閃光。

 そのあまりの眩しさに、キアラは目を手で覆い隠した。次にビーストを……そのはるか後方を見た時、キアラは戦慄した。

 人類の潔白を主張しているような真っ白の玉座、その後ろ。ゲーティアが人理焼却に用いた第三宝具、『誕生の時きたれり。其はすべてを修めるもの(アルス・アルマデル・サロモニス)』を解放する時に使用する、光帯の発射台に僅かな魔力が存在しているのだ。

 

「まさかあなた、魔神王ゲーティアの遺志を継ぐつもりですか……⁉︎」

 

「否定だ。人間の本質を見抜けなかった人類悪に人類悪たる資格はないわ」

 

 両腕を完全に再生したビーストはキアラを見上げた。

 

「あれは間違いなく、人理を燃やし尽くす光帯! 違いますか!」

 

「否定よ。人理を燃やすつもりはない」

 

 ビーストが片手を高く上げ、魔神柱を地面から生やす。

 その数、数えること能わず。

 それら全てがキアラの脚に、腕に巻きつき、地面に縫い付ける。そこに腕からの光線を受けそうになり、咄嗟に巨大化を解いて元の大きさに戻った。

 

「もどかしい。私は私に私がやるべきことを教えてくれた。だからそれを実行する。だからあなたは邪魔なの、キアラ。そろそろ終わりにするわ。ーーすべての聖杯、私の記憶をここに」

 

 出現するは、14個の聖杯。

 ふわりふわりと宙を浮き、ビーストの周りを音もなく舞い始める。

 あらゆる願望を叶えるとされる聖杯。それがこれで計18個の聖杯がビーストの手にある。……これだけの数を、いったい何に。

 浮遊する聖杯がビーストに急接近し、その身体に触れ、ついにすべての聖杯の完全所有権がビーストへと移行した。

 もはやSE.RA.PHに帰るなど呑気なことは言っていられない。ここで見逃してしまえば、ビーストは地球規模で何かをするだろう。『人類』であるキアラに悪影響を及ぼすのは間違いない。

 

「死になさい。私は人類を救わなければなりません。そのために地球と同化するのです」

 

「人類愛か……くだらない。地球は人類のものなんかじゃない。いったい誰がそんな人間勝手なことを決めたの?」

 

 ビーストが一歩を踏み出す。

 キアラはそれに反応して進もうとした瞬間。

 ……気づくと腹をビーストの太い腕に貫かれていた。

 

「ーーは」

 

 ごぷ、と口から血が溢れ、何が起こったのかを長い時間をかけてようやく理解した後、血に濡れた手でキアラは腕をつかんだ。

 

「あなた、は……BBとパッションリップと一緒にいた、カルデアの、マスター! でしょう!?」

 

「否定だ。あの子はお前が殺した。だが肯定だ」

 

 腕を引き抜く。

 びしゃびしゃと血が流れ、時間神殿に酷似……いやそのままの時空神殿を汚す。

 キアラが膝をつき、うつぶせに倒れる。

 キアラの虹彩に漆黒の光帯が充填されていくのが映る。その正体を探り、悟った彼女は恐怖した。

 自身を永遠に飽くことのない愛欲だというのならば、あれは全てを、なんでも許容し、かつ優しく、だが暴力的なまでに絶望へと容赦なく叩きつける狂気の権化。星ひとつを終わらせるのには十分すぎる力。

 それでもまだ光帯は充填を続ける。

 

「ゲーティアの真似事だけど、結構いい感じでしょう? 初撃を記念して、あなたをこれで殺してあげるよ」

 

 ここにはビーストとキアラ以外、誰もいない。ゆえに語り部がこの戦いこの結末を伝える日は永遠に来ない。

 

「ここはあらゆる空間、時間から脱した、ひとつしかない場所……隔絶唯一魔境、時空神殿####。光帯に束ねるは私のすべて。人類悪ゆえの人類悪、真性人類悪たる私がすべての人類を滅ぼす。ーー人類は間違えたのよ」

 

「私はまだ、満足して、いません……!!」

 

「おこがましい。……オワリ宝具……対人類宝具、展開」

 

 光帯がビーストの呼びかけに応じ、鈍色に光る。

 あれだけの……あれだけの……あれだけの……なんとも表現できないアレに、人に属するものは絶対に勝てない。なぜならば、アレは人類を殺すことに特化した宝具だから。

 

「終わりの時きたれり。其は人類悪を為すもの。……人類よ、死になさい。『終わりの時きたれり。其は人類悪を為すもの(テウルギア・ゴエティア)』」

 

 カッ! と発射台が輝き、地球破壊規模の攻撃をキアラは一身に受ける。

 せっかく月の世界の自分を知り、それに憧れたというのに、『キアラ』はここでどうやら終わりらしい。

 ただ、気持ちよくなりたかっただけなのに。果たしてそれのどこが誤っていたのか。

 キアラの意識が暗黒に沈む直前に見たものは、この世にはない、それはとても素晴らしいものだった。

 

 ◆

 

 ほんのコップ一杯ぶん程度の光帯の消費。数秒で再装填が完了する。

 ビーストは邪魔者を排除し、やっと偉業に手をつけられると安堵する。戦いによって崩壊した一部を修復し、玉座に向かう。

 ビーストの黄金の皮膚に亀裂が走る。

 それは一瞬で身体を覆い、ぱりんッ! と鏡が割れるように、バラバラと黄金が崩れ落ちる。

 その上に立っていたのは、真っ白な少女だった。糸ひとつ纒わぬ姿で、人間の美しい部分だけを剪定し集めたような、完璧な身体。

 サイドテールに留めていたゴムが光の粒となって消え、ぶわりと風のない神殿で微かに赤白い髪が舞う。

 

「……センパイ」

 

 ビーストが振り返る。

 その目は宝石のように蒼く、つい呑まれてしまいそうになるほど美しい。

 

「……たった一本だけ、この神殿に掠ったのを感じてね。賞賛という形でここに来ることを許してみたら……やっぱりあなただったのね、BB」

 

「ええ」

 

 頭から下へ、殺人的なボインが構成され、お腹、腰、脚とBBの転送が完了する。

 

「センパイが死ぬことはわかっていました。ですがこんな結末になるだなんて想像もつきませんでした。このチート頭脳たる私をもってして、です。……センパイ、何をするつもりですか?」

 

「わかっているでしょう? 全人類の消去だよ」

 

「それは剪定事象や並行世界、異聞帯の人類全てという意味ですか?」

 

「そうだよ」

 

 躊躇いもなく言う。

 ビーストはほんの微かに小さくBBに微笑み、さらに言葉を紡いだ。

 

「さっきも言ったでしょう? 人類は間違えた。歴史を編むのにふさわしくない」

 

「そんなことないはずです。人間にだって良い部分はあるはずです。それはセンパイが一番よくわかっているのではないですか?」

 

「わかってる。でもその善をものともしない極大の悪があるの」

 

 私みたいなのがね、とビーストは最後に付け加えて終わった。

 BBは咄嗟にビーストの霊基を観察する。だがやはりゲーティアやティアマトと同じ反応だ。

 それに時間神殿の双子のような時空神殿。これをやってのける宝具など英霊にすらまだ昇華していない人間が持てるはずなどないのだ。

 

「考えていることが手に取るようにわかるよ、BB。私はティアマトを倒し、ゲーティアも倒した。それに今さっきキアラも。三つの獣性を私は獲得したんだよ? 私自身もう狂ってるね」

 

「……」

 

「必死に時間稼ぎをしようと考えているんでしょう? そしてここの座標をチートパワーで記憶する気なのはわかってる。でも残念、たとえ私でも知らない方法でここを特定できたとしても、ここを『更新』すればいいだけだから。……おしゃべりはここまで。必ず私を倒そうとする者が現れるって言いたいのよね? それもわかっているから。さよならBB。またいつか会えるといいね」

 

「待ってください! センパーー」

 

 ブツリ、と電源を切られた機械のようにBBの姿は瞬きの間に消えた。

 ビーストは手を振り払い、時空神殿を『更新』する。そして魔力で編んだ闇色の衣を身体に纏い、玉座まで歩いてそれに座った。

 まさに人類悪。その格好は人類悪と表現するに完璧で、非の打ち所がない。

 脚を組み、口角を僅かに上げる。

 

「飛べ、時空神殿。人類繁栄の起点へと。悪を以て、跡形もなく消してやるわ」

 

 時空神殿が生を得たかのように重低音が鳴り響く。何も映さない真っ暗な空が、光速をはるかに超えたスピードで移動する時空神殿に追いつけず、真っ白に染まる。

 そんな空を見上げていると、一瞬だけ盾の少女の顔が映されたような気がした。

 

 ーーそういえば、バイバイも何も言ってなかったな……。

 

 と、ビーストはちょっぴり後悔した。




久しぶりに。
い つ も の。
ネタが尽きました。活動報告にてネタをいつでも募集しているので、ビシバシどんどん教えてください! 琴線に触れたら燃えます、書きます!!


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テウルギア・ゴエティア 前編

ロストベルトNo.2の告知が来ましたね!!
興奮に筆が一気に進みました。

あそこからどう続けようかだいぶ悩んで、こうすることにしました。もしかすると矛盾などがあるかも知れませんが、そこはどうか目を瞑っていただければ。
ネタ提供のことですが、はい、提供してくれることはとてもとてもとてーもありがたいのですが、感想でそれをされると、もし運営に目をつけられたら感想自体が消されるので、なるべく活動報告に書き込んでください。よろしくお願いしますm(_ _)m
一言付き評価はとても素晴らしい文明。書いてる側からすると、感想を書いてもらえるのと同等の喜びなのですが、この気持ちわかりますかね?


この世すべての悪(アンリマユ)』であれ、と封され、殺された青年がいた。

 ヒトの体験する責め苦をすべて味わった青年は当然亡くなり、亡霊となり英霊へと昇華した。だが『この世すべての悪(アンリマユ)』である青年はまっとうな英霊ではない、反英霊として座に登録された。

 人の悪性を笑い、だが善性を認め、賛美する怨天大聖。

 アンリマユは語る。

 

「おいおい、オレを前線に出すのか? 頭沸いてるんじゃないか?」

 

「ああそうかも知れない。だがこうするしかないのだよ」

 

 ダ・ヴィンチはそう言うと1枚の紙を彼の前に差し出した。それを受け取り、読む。

 そこには現在カルデアに在籍するすべてのサーヴァントの一覧が並べられていて、全員それぞれに役割を割り当てられている。おそらく書かれているのは時代に場所だ。

 アンリマユの欄には、『1771年イギリス』とある。

 

「1771年ー? この時代は確か……なんだっけ?」

 

「産業革命初期だね。馬車は時代遅れとなり、蒸気機関を主とする汽車が走る時代だ」

 

「ほーん。で、ここに行けと」

 

「そう。もうカルデアに余力はない。後がないのだよ。マスターがいないからサーヴァントたちに十分な魔力を供給できないことは知っているだろう? スタッフが霊脈を確保するために毎日時を超えて世界を飛び回っている状態だ」

 

 マスターが緊急の時のためにちょっとずつ溜めていた魔力はもう底を尽きかけている。もう明日明後日には完全にゼロになる計算だ。

 カルデアは大きく衰退した。厳重に保管されていた聖杯すらすべて消失し、持続困難の危機に陥っている。

 ゲーティアとの戦いに燃えていた頃とは対照的に、もはや風前の灯火だ。

 

「今朝、BBから世界がひとつ消失したという報告があった。これで26個だ。それだけの世界をあの子は消してしまった」

 

「……」

 

 アンリマユは黙り込み、さもつまらなさそうに頭をかく。

 ふと彼は耳を澄まして、部屋の外……廊下の様子を窺う。いつもなら嫌気がさすほどの騒々しさなのだが、ここ最近は死んだように静かだ。無駄な魔力消費を抑えるため、皆が最小限の活動を維持しているのだろう。

 

「まあわかりましたよ、ダ・ヴィンチ女史。それでいつ行くんですかね?」

 

 マスターの攻撃対象候補はそれこそ星の数ほどある。文字通り『すべての』世界が対象なのだ。途方もない数の世界に生きる人間を、マスターは一人残らず殺してまわっている。

 現在進行形で増える世界を抑止、剪定するよりもはるかに速いスピードであり、マスターの行動は非常に積極的らしい。『この』世界は無数にあるうちのひとつにすぎない。だからカルデアがマスターに遭遇できる確率は、極限ほどのゼロだ。

 アンリマユはもう一度だけ紙に目を通す。

 エミヤ。コーヒー豆のエミヤ。マシュ。坂本。沖田オルタ。巌窟王。

 なんだこれは。抑止のメンツガッチガチではないか。しかも皆、揃いも揃って強者だ。こんな人たちの中に最弱が混じっていい訳がない。ついでに言うのならば弱すぎるから大人しくカルデアで待機する方がカルデア全体の魔力消費がマシになるはずだ。

 

「……明日だ。もしこの当てが外れ、また霊脈が見つけられなければカルデアは終わりだ」

 

 BBのチート能力を全てフル稼働させ、マスターの狙った世界の存在座標、時代の統計、そしてマスター自身の性格から推測する。そして次にマスターが来るのは、彼女がリストアップした……つまりアンリマユが今持っているそれにすべて記されている。

 アンリマユは紙をダ・ヴィンチに返し、だらしなく立ち上がった。

 世界を救ったマスターが、今度は世界を本気で壊しにやってくるのだ。

 ……実に面白い。とても皮肉がきいていて、これでメシウマは間違いない。『この世すべての悪(アンリマユ)』は人類悪を滑稽に思う。

 

「んじゃ、オレはいつも通り死ねばいいんだな。嫌なことはお互い様ってな」

 

 手をひらひらと振り、アンリマユは部屋を出る。

 腹減った。喉渇いた。惰眠を貪りたい。

 静かな長い廊下をアサシン顔負けの音無しで歩き、アンリマユは部屋へと帰っていった。

 

「誰も悪くないさ♪ 誰もマスターを責める権利なんてないのさ♪」

 

 そう、リズミカルに小さな声で歌って。

 

 ◆

 

 過去最大のレイシフト。

 計15グループに分かれての大捜索。マスターの攻撃対象が『この世界』であるという、確証もなにもない、ただの予想が当たることが大前提の、隕石が降ってくるよりも遥か遥かに低い確率にカルデアは賭けた。

 これでマスターが来なければカルデアの負け。また、賭けには勝ってもマスターを止められなかった場合でもカルデアの負け。

 戦力を分散させたせいで、どれほど強いかわからないマスターを相手できるかどうか。それが悩みの尽きぬところだ。なにしろビーストIII/Rを単騎で倒してみせたのだ。

 アンリマユたちは第9グループ。無事レイシフトが完了し、マシュはつい反射的に空を見上げる。これまでの特異点ならば切り取ったような円が広がっているはずなのだが、ここにはそれがない。

 つまり1771年イギリスはハズレ……とはまだ断言はできない。

 

「第9グループ、到着しました。……光帯は確認できません」

 

 マシュが端的に伝えると、ダ・ヴィンチからすぐさま返事が返ってきた。

 

『うむ。了解した。他14グループでも確認できなかったから今回の作戦は……』

 

 ダ・ヴィンチの次に続く言葉が容易にわかってしまう。だが、それが音を得るまでに異なる音が聞こえてきた。

 

『いいえ、それはまだ断定できません。させません。光帯はそれが為された後に生じるもの。なので、これから起こる可能性は十分あります』

 

 BBの声が割って入ってくる。

 彼女は現在、わざわざSE.RA.PHからカルデアへと出張中で、ダ・ヴィンチの補佐役を担っている。貴重な人材だ。彼女のおかげでこの作戦が生まれ、決行できたのだ。

 

『この世界にセンパイやって来る確率はおよそ0.00092375%。さらにそこから15グループのいずれかに遭遇できる確率は0.0000000752114%。はっきり言ってゼロですが、ゼロではありません』

 

「確率おかしくね? それだったらオレ単騎で人類悪に勝てる確率の方が高いんじゃないか? ……いや低いか」

 

 アンリマユがひとりツッコミして自滅する。やられることが戦法の彼は、やはりどう足掻いても最弱だった。

 

「安心しろクソ雑魚。まだクソ雑魚ナメクジよりはマシだ。あいつは自分の力量すら計れないクソ雑魚ナメクジだからな。マジクソ雑魚ナメクジ」

 

「こら、そんなこと言ったら以蔵さんに失礼だろう? ……すみません、お竜さんがいらないこと言ってしまって」

 

 坂本が代わってアンリマユに謝る。

 嘲笑うようにお竜はアンリマユの周りを飛び回り、ついに坂本のゲンコツを食らってようやく大人しくなる。

 

「いや、気にしちゃいねぇよ。オレこそはサーヴァント界隈で最弱の英霊サマ。ピカイチの雑魚であることは自負しているさ」

 

 自虐全開でアンリマユは演説を終え、視線を遥か前方、工場群に向ける。産業革命の真っ最中だからか、高い煙突からは見るからに有害そうな黒煙がもくもくと空に昇っていく。

 舌の肥えた牛、だったか。一度味を占めてしまえばもうそれより下位のものを喉に通せなくなる、ようなもの。石炭による急速な人類の発展。これまで人力でやってきたことが、蒸気機関により代用されるようになってくる時代。

 公害という代償を払いながらも成長した結果が、2017年に結びつくのだ。

 

「……ああ、タバコの一本でも吸いたいものだな。おい、黒い方のエミヤ。重いのはいけるか?」

 

「いいだろう。こんなゴミみたいな環境を紛らわせることができるのなら清々する」

 

 巌窟王が外套に隠していたタバコの箱から一本取り出すと、エミヤオルタに渡す。それを受け取ると、躊躇いなく銃を発砲し、先端だけ燃やして口に咥える。

 巌窟王は自身の黒い炎で燃やす。

 

「で、どうするんだマシュ・キリエライト。このグループのリーダーはお前だ。お前の指示に従おう」

 

 長く煙を吐いて一服。

 エミヤオルタは肺に残った煙を吐き出すようにマシュに尋ねる。

 

「そうですね……えっと……」

 

 一瞬言いよどみ、マシュは下を向いて目を瞑る。数分後、ハッ、と顔を上げて声を張った。

 

「とりあえず人気(ひとけ)のない場所まで行きましょう! ここには聖杯がないため、野良サーヴァントはいないはず。街に下りても意味はないでしょう」

 

「それはいいんだけどさ、そのあとは?」

 

「それは……た、待機で」

 

「ま、そうなるか」

 

 気楽なアンリマユはニシシと笑い、両手を頭の後ろに置いて愉快そうに歩き始める。沖田オルタはその後ろを黙ってついていく。

 蒸気機関車が走るための建設中の線路を横切り、未だ馬車に頼って荷物を運ぶ商人を眺める。

 アンリマユはそれらすべて、人の為す業がこの上なく興味深かった。この後、これらをさらに発展させた技術を用いて戦争を始め、殺人を為す。だが戦う者たちは我こそは正義と高々と腕を上げて戦場に臨むのだ。

 悪なんてどこにもない。正義と正義、善と善のぶつかり合いなのだ。

 

「沖田ちゃん」

 

「む。どうした真っ黒いの」

 

 レイシフトしてきてからというものの、まだ一言も発していない沖田オルタにアンリマユは話題を振ってみる。

 

「アンタも抑止のひとりなんだろ? マスターのこと、アンタではなく抑止としてどうみる?」

 

「……」

 

 ほんのつい最近カルデアに合流したサーヴァントだからその辺は難しいか。だが抑止かどうかは知らないが、坂本とエミヤはなんだかんだ気が合いそうだ。主にお竜絡みで。「類い稀にみるイケメンだなこれは。さらに女難の匂いもする」なんてしょーもないことを言っている。

 まだ新参者には早かったか、と話を切り上げようとした時、沖田オルタは寡黙ながらも口を開いた。

 

「マスターは……排除しなければならない悪、だ」

 

「そうか」

 

 その表情はどこか悔しさが滲み出ていて。アンリマユはただ短く相槌を打った。

 彼は最弱ゆえ、マスターの戦闘には極力参加しないようにしている。いわば穀潰しだ。英霊だから、という理由で大した活躍もできないくせしてカルデアに居座っているニートだ。これならばまだ変態海賊のほうがよっぽど価値がある。

この世すべての悪(アンリマユ)』だから抑止の考えていることはよくわからない。だが、彼女がそう考えているのだ。ならばあのダブルエミヤだって、それは少なくともわかっているはず。

 アンリマユはふたりの様子を少しだけ伺うが、わかりきっていることだとすぐに意識を切った。

 

「時に女難のエミヤ。お前はマスターを殺すのか?」

 

 そんなお竜の一言が、マシュを後ろに振り向かせ、一行の足が止まる。

 エミヤは難しそうに悩み、それでも答えが導き出せないまま返した。

 

「殺す……べきなのだろうな。人類が人類悪になるのは殺生院キアラがいい例だが、その逆はない。聖杯に願えば……と考えてもカルデアにそれはない」

 

「故障した聖杯ならオレがいくらでも譲るぜ?」

 

「黙れ。そんなものなど必要ない」

 

 エミヤがドスの効いた声でアンリマユに言う。

 

「人類悪に堕ちた者は……殺さねばならない……。黒い私もおそらくこの考えは同じはずだ」

 

「あ?」

 

 タバコを吸い切っていないのに話を振られたからか、エミヤオルタは半ば怒り気味に返事をする。

 中指と人差し指でタバコを挟み、近くの岩に擦り付けて上に放り投げた。

 それを巌窟王が上手に炎で灰にしてみせた。

 

「殺すに決まっているだろう。オレたちは抑止の英霊。それとも首輪でもつけて飼いならすか? おいおいやめてくれよ、獣なぞ誰が調教するんだ」

 

 やれやれと両手を振り、エミヤオルタはうすら笑みを浮かべる。

 しかしマシュはそうではなかったようだ。ずんずん、と彼の前に立つと涙目ながら叫んだ。

 

「そんなこと言わないでください! 殺すなんて、そんな酷いこと……!」

 

「……そうかい」

 

「ここにいる皆さんは先輩の召喚に応じた。そうでしょう⁉︎ 私は諦めませんよ、絶対に。人類悪が人類になった事例がないのなら、先輩がその初めてになればいいだけじゃないですか」

 

「好きにすればいいさ。オレたち抑止から言わせてもらうと、マスターは殺すべき悪だ。どうするかはお前に一任するが……忠告はしたからな。後悔しても知らんぞ」

 

「後悔なんて、しません」

 

 エミヤオルタとマシュの睨み合いが終わり、重々しい行進が再開する。

 坂本は息苦しさに帽子を深く被り、沖田オルタはお竜に纏わり付かれて嫌そうに大太刀に手を伸ばそうとしている。

 いつもの明るい雰囲気など一切ない、マスターを止めるためのエンドオーダー。毎度のことだが余裕のない旅。それぞれの思惑の異なる中、何がどうなるかは全くわからない。

 

「なあ巌窟王さんよ、オレにも一本吸わせてくれよ」

 

「悪いな、さっきので最後だ。運が悪かったな」

 

「くそぅっ」

 

 すぱっ、と最後の一服を済ませた巌窟王は灰色の空に煙を吐く。

 その様子は孤高で、背中は虚しさを語る。彼は抑止のひとりではないが、人を陥れる悪を嫌う復讐鬼。マスターの抱く悪とはベクトルが異なるが、彼はどう思っているのだろう。

 アンリマユはその真意を知ろうと口を開きかけ、やはりやめておくことにした。これ以上マシュの心をかき乱す言葉が飛び交うことは避けることが懸命だ。

 マスターと共にいた時間が一番長いのは彼女なのだ。だからこそわかるものだってあるはず。それはきっと、人の持つ心の救い……つまりは善。

 

「……ファリア神父なら、どうするのだろうな」

 

「ん?」

 

「なんでもない。忘れてくれ」

 

 巌窟王は誤魔化すように大げさに外套をバサリと翻し、少し足早になった。

 そういえばさっきから全くこの旅に進展がない。ダ・ヴィンチからの連絡もあれっきりだし、マシュが向かおうとしている場所に具体性がない。できるだけ人の多くない道を歩くように意識はしているのだろうが、彼女は今きっと、マスターのことで頭がいっぱいなのだろう。

 

 ……そもそも本当に会えるかなんて、ゼロに等しいというのに。

 

 アンリマユは、少しだけイラっときた。

 いつまでも始まらないイベント。マスターが来ないのならば来ないではやく帰還させてほしい。終わるのならば終われ。マシュもマスターにあまりにもお熱になっている。そのせいで周りとの不和を生み出してしまっている。

 ああだがもちろんそれが悪いわけではない。無論エミヤたちも悪くない。

 どっちが悪いかだなんて、誰にも決めることができないのだから。

 最弱は疲れた。皆よろしくな英霊サマは休憩が欲しかった。

 ふぅ、と息をついて両手を腰に当てて後ろに仰け反る。

 

「くっ、あああぁぁ……」

 

 ぽきぽき、と腰の骨が鳴る。この感覚が気持ちいい。

 十分腰をほぐし、ようやく上半身を上げようとした。

 

「……んん?」

 

 視界が逆さになっているから世界が逆になっている。

 アンリマユはさっさと上半身を上げ、そそくさと後ろを振り返った。

 空にあるのは、工場から吐かれる煙……だけではなかった。

 微小の台風のようなものが水に墨汁を垂らすが如くじわりと発生し、灰色に染まった空をゆっくりと、だが着実にどんどん吸い上げていく。

 

「……なあ、おい。あれ……」

 

 誰に話しかけたわけでもない。

 アンリマユは手だけで前を行く全員に手招きし、なおも空を見上げる。

 いつの間にか灰色の空に、一部分がすっぽり切り抜かれたような青空が円状に広がっている。

 そして瞬間、無数の赤紫色の雷が意思を持ったかのように発生し、青空の部分から雷がジグザグに降り注ぎ、地上を容赦なく灼き尽くす。

 高い煙突は根元から折れ、何本も上から降ってきて、二次災害を引き起こす。そして、大爆発。随分距離が離れているはずなのに、熱気が肌をジリジリと焦がす。

 

 たった数秒で街ひとつが破壊されてしまった。

 

 誰かが息を呑む音をアンリマユは聞き、それでもそこに立ち尽くした。

 ようやく終わったか、とでも言うように空の円から大陸がゆっくりと顔を覗かせる。それは徐々に下に降りてきて、予想だが全体の約半分ほどが出現したところで大陸の移動が止まる。

 

『探知機に反応あ……きゃっ⁉︎ 壊れた⁉︎ そんなはずが……!』

 

 突然乱入してきたBBの連絡に、マシュはビクリと驚きながらも通話を始めた。

 

「BBさん、あれですかっ⁉︎ あれなんですね⁉︎」

 

 大陸の先端に人影がひとつ、現れる。そしてその後方ではかつてあの時見た、一生忘れるはずがない光帯の発射台に闇の光が灯っている。

 サーヴァントの視力だからそこに立つ影の正体は容易にわかる。赤白い髪、蒼い目。まるで別人のようだが、あの容姿は紛うことなく彼女だ。

 

『はい! 人類悪反応、確認しました! あれがセンパイのいる、隔絶唯一魔境、時空神殿レーー……』

 

 BBの解説が途中で途切れる。

 カルデアは0.0000000752114%という確率に勝つことができた。だがしかし、そこからマスターに勝たなければならない。人でありながら、獣に至った悪。人類悪。人類の敵。討たねばならぬ敵。……そして、かつてのマスター。思うところは数知れず。だがもう、相互理解は不可能。

 ビーストがアンリマユたちに気づき、顔をこちらに向ける。そしてにこりとこちらに微笑んだ。

 その笑顔はとても人類悪だとは思えなくて。普通に可愛い女の子のそれでしかなかった。

 そんなビーストを見て、アンリマユはあまりの面白おかしさに、ふつふつとこみ上げてくる笑いを抑えるのに精一杯だった。

 

「誰も悪くないさ♪ 誰もマスターを責める権利なんてないのさ♪」

 

 そして誰にも聞こえないように、小声で歌った。




どんな結末にするかはまだ決めてないんです泣泣
次の更新はしばらく時間かかるかも……。

ネタはいつでも募集してますからねっ!!


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テウルギア・ゴエティア 後編

ゲーティアはたぶん、ゴエティアからきていると思います。
妄想が膨らんだので書き殴りました、ええ。

時空神殿レ####とビーストの出現。
様々な思惑が入り乱れ、何が生まれるか。


 果たして偶然か。必然か。いやおそらくこれは必然なのだろう。だってゼロだから。どんなに先を尖らせた鉛筆を地面に立てても必ず倒れるようなゼロを、カルデアはイチとして得たのだ。

 だからこれは……きっと運命なのだ。

 エミヤオルタがいつの間にか投影していたエクスカリバーを矢のように弓に構え、マシュに制止する暇を与えずに発射する。

 真っ直ぐに金色の軌跡を残しながら時空神殿、その玉座に座るビーストに吸い込まれるように伸びていきーー。

 ビーストが先端を親指と人差し指だけでエクスカリバーを摘み、勢いを殺す。そしてクルクルと回転させて柄を握ると、こちらに投げ返して来た。

 それは瞬きの間に返却され、エミヤオルタの足元に深々と突き刺さる。反応が一瞬遅れたが、彼は満足そうに鼻で笑った。

 内心冷や汗をかきながらアンリマユはおどけてみせる。

 

「ヒュ〜、狙いが俺じゃなくてよかったぜ。あれ食らったらオレは間違いなく天に召されてたな」

 

 その間にもビーストは玉座から立ち上がり、宙をゆっくりとこちらに向かっておりて来ている。その様はまるで……地獄からやって来た熾天使。

 

「どうするマシュ」

 

 沖田オルタが大太刀を抜刀しいつでも攻撃できる体勢をとっている。

 マシュの、盾を持つ手に力が入り、地面を擦り微小の火花が散る。

 

「……待ちます。それと攻撃は認めません。特にエミヤオルタさん」

 

「……チッ」

 

 今度はカラドボルグをつがえていたが、腑に落ちずに舌打ちをしながらも渋々と消した。

 ふわりとビーストの纏う衣がなぜか空を覆い尽くすほど大きく錯覚してしまい、夜を演出する月光すら存在を否定されるような漆黒の闇に包まれる。

 誰もその姿を見て動けない。いや、動こうと思えば動けた。だが無拘束の魅惑に囚われてしまい、男はもちろん女であろうとビーストの美に酔いしれた。

 無音の時間はついに終わりを告げ、ビーストが地に舞い降りる。

 アンリマユは息を呑み、ビーストの様子を伺う。

 優しく地面に着地したビーストはゆっくりとした足取りでこちらに近づき、約10メートルほど離れた位置で止まった。

 

「……久しぶりだね、みんな」

 

 まるで鈴の音色のような、透明感のある声。そして虜にされてしまいそうな声。

 はにかむような微笑みは確かにマスターの面影を残している。

 

「正直驚いたね。また会えるなんて全く思っていなかったから。たぶんBBの仕業かな? すごいね」

 

 マシュが一歩前に出る。

 敵対の意志はないことをアピールしようと盾を消す。

 

「確かにあの人のおかげで私たちは先輩に会うことができました。何をしに来たかわかっているかとは思いますが、それでも言わせてもらいます。……もうこれ以上人類を殺すのはやめてください。先輩が罪を重ねていくのを見るのは……耐えられないです」

 

 ビーストは顔色ひとつ変えずマシュの言葉を聞く。

 

「うんうん。そうだね。それはそうだよね」

 

 どうもこちら側の意志はちゃんと伝わったようだ。首肯し、ビーストはでもね、と口を開く。

 

「止めることはできないな。だってそれこそがこの私、ビーストの存在意義だから」

 

「先輩……」

 

「私はもうマシュの先輩じゃないよ、ビーストだよ。そこのところ、現実から目を背けずに理解してほしいな」

 

 反論しようとマシュは一歩踏み出したが、その半ばで足が止まってしまう。

 なぜならばビースト……マスター……ビーストから殺意を感じたから。だがそれは刺々しいものではなく、包み込むようなもので、だが触れれば最後、たちまち死んでしまうだろう。だからこれはそう……生物的本能だ。それが危険信号を鳴らしたのだ。

 

「退けマシュ・キリエライト。やはりあれは生かしてはおけん」

 

 気づけばすぐ後ろに立っていたエミヤオルタがマシュの肩をグイッと掴み、自身の後ろに押しやって二丁拳銃を構える。

 だが負けじとマシュは彼の腕を掴み、撃たせてたまるものかと食ってかかる。

 

「私言いましたよね⁉︎ 先輩を攻撃することは許しません!!」

 

「まだわからないのか。外見は人間だがもうあれはお前の知る女ではない!」

 

 目を血走らせ、エミヤオルタが吼える。

 ふたりの女々しい争いをアンリマユは黙って鑑賞する。

 どちらの言い分ももっともなのだが、結局はどちらかにしなければならない。アンリマユにとって、正直なところどっちでもいい。……ビーストに勝つことができればという大前提の話だが。

 

「できれば私はカルデアを滅ぼしたくはない。昔みんなで過ごした楽しい日々、それをなくしたくはない。だからどうかな? 私の時空神殿に来ない? 皆が快適な日常を送れるように私、頑張るから」

 

 ビーストの誘いに、マシュが時空神殿を見上げる。

 確かにあれはあまりに巨大だ。まだ全体像が明らかになっていないが、それでもあれだけでカルデアより遥かに大きい。

 人類悪になったビーストのもと、カルデアに安寧が訪れる。致命的な魔力不足は解決し、そしてまたビースト……マスターとかつての毎日を送ることができるのだ。そして時間さえかければ人類悪から人間に戻すことだってきっとできるはずだ。ならば……。

 

「耳を貸さないほうがいい、マシュ。あの言葉にはもう中身が感じられない。単純な破滅機構になってしまった彼女におそらく想いはない」

 

 エミヤがマシュの思考の邪魔に入る。

 彼までもがマスターを否定するのか。そこまでマスターは変化してしまったのか。何がマスターをそうさせてしまったのか。疑問が尽きない。彼の顔を伺うが、苦虫を万匹噛み潰したような表情をしている。

 

「エミヤ。エミヤ。正義の味方さん。私を殺すべきなのでしょう? 抑止以前に、あなたの信念が私を許さないのでしょう? 私を殺せば兆? 京? いやもっとか。とにかく大勢の人間の命を救えるよ。ほら、これで本物の英雄だね」

 

「私、は……」

 

 エミヤが押し黙る。あんな言い方をしたが、これは彼なりの悩み抜いた果ての答え。瞳の奥でそれが揺らぐ。

 

「おう女難のエミヤ。ちょっと小突かれたくらいでグラグラしやがって。そんなんじゃクソ雑魚女たらしと呼んでやろうか」

 

「決意したのなら、最後まで貫き通しなさい。それが僕から言えるアドバイスかな。坂本龍馬が坂本龍馬である所以、そういうのには自分でも驚くほど敏感なんでね」

 

 お竜がエミヤの周りを浮遊し、軽くビンタを一発お見舞いしてやる。

 決して強くはない一撃。だが、エミヤの目を覚まさせるのには十分で、双剣を投影させ、マシュに謝る。

 

「すまないマシュ。やはりマスターは討つべき敵だ。私を憎んでくれても構わない。いやむしろ憎んでくれ。……オレは、ようやく切嗣のことを少し理解できたような気がしたんだ」

 

「…………ッ」

 

 マシュが悔しさに歯をきつく食いしばる。

 マシュの味方をする者は果たしてここにはもういないのか。沖田オルタに、巌窟王に目だけで助けを求めてもふたりとも黙って首を横に振るのみ。

 

「オレは中立ってことで。どうなるかなんてオレにわかるわけないでしょ」

 

 アンリマユは誰よりもビーストから離れた位置で物語のいく末を眺めている。ちょうど座り心地の良い岩に腰掛け、完全に傍観に徹している。

 戦いなら勝手にやってくれ。だが巻き込むのはNG。なぜならば弱いから。

 

「マシュさんよぉ、お前の考えは正しい……とまでは言えないが、何も間違っちゃいない。だからといって抑止さんたちが間違っているわけでもない。オレは何もしない。ただ見届けるだけ。エミヤは決意した。んで行動する。ならお前も決意するべきじゃないのか? お前の行動であいつらを納得させてみせろ。……そうじゃなきゃ先輩が死んじまうぜ?」

 

 坂本がアドバイスをやったのだ。ならばアンリマユだってアドバイスしてもいいだろう? それくらいの権利は認めてほしい。

 マシュは俯きながら、ひとつひとつ落し物を拾うように言葉を発した。

 

「先輩……私は先輩に死んでほしくありません。……なので全力で先輩を倒します。エミヤさんたちの思い通りには、させません」

 

 盾を召喚。重々しくそれを構え、ビーストを見据える。

 ビーストは寂しそうに小さく微笑む。

 

「とても残念だな。たぶんゲーティアもこんな気持ちだったのかな」

 

 やっぱりその表情は、人間だ。

 ビーストが一歩踏み出す。それが合図となった。

 エミヤが双剣で斬りかかる。ビーストは咄嗟に両腕を剣に変形させて迎え撃つ。

 エミヤの単純な突き……に見せかけた首を搔き切る一撃をなんなく華麗なステップで避け、その隙を狙ったエミヤオルタの射撃を、召喚した魔神柱を壁として利用し防ぐ。

 ここまでの時間、わずか0.8秒。

 巌窟王が黒い炎で地面を燃やし、ビーストの行動範囲を拘束する。だがそれは地面を抉りながら蹴り上げられ、意味を無くす。

 超高速で移動し攻撃する巌窟王の攻撃を全て捌ききり、最後に突進してきたマシュを受け止める。

 

「私は絶対に先輩を助けてみせますからッッ!!」

 

「うん、期待してるよ」

 

 両腕でマシュの盾を受け止めていたが、片腕だけ強引に動かし、盾の防御範囲外からマシュの横腹を貫く一貫が迫る。

 電光石火の如く。マシュの頭の中で思考が加速し、手首をひねり、盾を回転させる。

 ガガアアァァン!! と激しいせめぎ合いが始まり、単純な力勝負はマシュのの負けに終わり、華奢な身体が吹き飛ばされる。

 息をつく暇もなくビーストに今度は沖田オルタと坂本タッグが肉迫する。

 

「お、お、おおおおおおぉぉぉぉーー……!!」

 

 その辺の武器に比べ、リーチの圧倒的に長い大太刀がビーストの衣の一部を裂く。だがその一部がひらりと舞い、最後に小爆発を起こすのはさすがに予想できなかったか。煙で視界からビーストの姿が消えーー……。

 首筋を指で撫でられたのに気づいたのは、すんでのところで庇いに乱入した巌窟王が彼方まで吹き飛ばされた後だった。

 

「重、すぎるぞ……!!」

 

 巌窟王が口元に流れる血を拭い、滾った炎がボウッッ!! と燃え上がる。

 彼がビーストを炎で撹乱し、沖田オルタがその隙間を縫うように太刀を振るう。

 

「行くぞ、お竜さん!!」

 

「よし、行こう」

 

「「『天駆ける竜が如く!!!』」」

 

 お竜の姿が巨大な黒蛇の姿となり、頭の上に坂本が騎乗する。

 沖田オルタも流れに乗って宝具を解放。無数の斬撃を空中に固定し、多段発動させる。無人の空間に剣を振る音が止まることなく高く鳴り響き、防御に徹しているビーストをお竜が食らう。

 そして吐き出したところを。

 

「『絶剣、無窮三段ッ!!』」

 

 剣尖から黒い光線を放ち、地面を深く穿ってビーストごと吹き飛ばした。

 後に残るのはレンガで補整された道路の残骸。土煙が上っているのを見て何かを悟った沖田オルタは迷わずそこに突入する。

 その瞬間、不協和音がゴガゴ、と引きずるように鳴り、何度か火花を散らせて数秒後、ボロボロになった沖田オルタが弾き出される。

 

「ぐッ……!」

 

 土煙が晴れ、ビーストの姿が視認できるようになる。

 無傷だ。

 衣はさすがに所々破れてしまっていて、それに気づいたビーストが瞬時に修復する。

 同時にその背後で円状に回転しながら浮遊するのは18個の聖杯。黄金に光り輝くそれはとても神々しく目に映る。

 

「勢いに押されると少し難しいね。ここはまだまだ改善余地がありそう。いい勉強になったよ。ありがとう」

 

「ふざけるな……!」

 

 身体全体をバネにして地を蹴り、超至近距離でエミヤオルタが射撃する。

 しかしそれはつまらなさそうにビーストが息を吹きかけるだけで弾の勢いを殺し、驚愕に目を見開いているところをデコピンで頭を吹き飛ばす。

 

 ……爆ぜる。

 

 頭部を失った身体がだらりと膝をつき、重力に従って地に伏せる。

 

「ーーーー」

 

 一同に戦慄が走る。

 たった一撃でエミヤオルタが死んだ。それだけでも十分恐るべきなのだが、あまりの力の変化ぶりがこれまでビーストはまったく本気を出さずにマシュたちと戦っていたことを意味している。

 さっきのはそう……前菜だよ、とでも言わんばかりのものだ。

 すすす、と腕を横に払えば空間を切り裂き、魔神柱の孕む廃棄孔の口を開く。中で蠢く魔神柱たちを解放し、マシュたちを襲う。

 それらが波となって大きなひとつの生き物として迫る。

 

「宝具、展開します! 私の後ろに下がってくださいッ!!」

 

 宝具、『いまは遥か理想の城』。擬似的にキャメロットの城壁を左右に広げて強固な防御を築き上げる。

 

 ーー衝突。

 

 完璧に敵の進行を止められるはずだったが、それは容易に裏切られ、ズガガガッッ!! と容赦なく城壁を削り、一気にギリギリのところまで攻められる。

 

「そんな……!!」

 

 蝕み、侵し、破壊する。

 今なお防御を突破してマシュたちに迫ろうとしている魔神柱との距離は、手を伸ばせば届くほど。このままでは……破られる。

 マシュの持つ盾はその主の心のありように強く依存する、絶対の守り。

 ゲーティアの第三宝具すら防いでみせた盾。だが今それが破られようとしている。逆を言えばマシュの心のどこかに迷いがあるのだ。

 マスターを守ると決意してはいたが、傷つけなければならないという矛盾に揺らぎが生じてしまったのかもしれない。

 共に戦ったかつての仲間を攻撃するなんて、やはり耐えられるものではなかった。

 マシュは……優しすぎた。

 ついに絶対を謳う壁が破られる。荒れ狂う魔神柱に呑まれ、なすすべもなく攻撃に身を晒すことになり、通り過ぎた後には、ぐったりと倒れ伏せる四人の影。ビーストのたった一撃の範囲攻撃で、全員が戦闘不能に陥った。

 

「あなたたちは強い。私なんかいつも後ろであなたたちに指示を出していただけだから。意志の力。洗練された連携。どれも私にはないもの。今回はとても、とても勉強になった」

 

 ビーストが倒れるマシュの側に立ち、手をさしのばす。

 これまでのマシュならば、これは立ち上がる手助けなのだと素直に手を伸ばしていただろう。だが今回はできなかった。

 

「別に変な意味は無かったんだけどな」

 

「……せん、ぱい」

 

 ビーストはマシュに背中を見せると今度はアンリマユに歩み寄る。

 彼があぐらをかいて座る岩の横に立つ。

 

「あ、気にすんなビーストさん。オレはあんたと戦う気ナッシングだから」

 

 ニシシと笑い、まだ傍観に徹している。

 

「でもオレ、引っかかることがあるんだよな。……あんた、いったいどこにいる(・・・・・)んだ?」

 

 途端、ビーストの足が止まる。

 そしてゆっくりとアンリマユに振り返り、獰猛に口元を歪ませた。

 

「ああ。あなたは最高だね。そう、そうだとも。私はここ(・・)にはいないよ」

 

 バレたか、と幼稚ないたずらっ子のように額を軽く叩く。

 

「ど、どういうこと、です……か。せんぱいがどこに、なんて……」

 

 身体中から血を流しながらも這いずりながら上半身を持ち上げ、アンリマユに問いかける。

 相変わらずおどける彼は面白おかしそうに笑う。

 

「変だとは思わなかったのか? あいつの言動の全てが。エミヤが中身が無いって言った時はお? って思ったんだけどな。まあようするにーー」

 

 アンリマユが説明しようとしたまさにその時、マシュの通信機からあの声が聞こえてきた。ダ・ヴィンチだ。

 

『第9グループ! 無事か⁉︎ カルデアは負けてしまった……!! 全グループは全滅。残っているのは君たちだけだ!!』

 

 向こうも余裕がなさそうだ。珍しく覇気迫る声色で彼女が叫ぶ。

 そして、言葉の意味を確かめるように噛み砕きながらその異常を理解する。

 

「そ、れはどう、いうこと……ですか」

 

『マシュ⁉︎ マシュだね⁉︎ よかった、まだ生きているのなら希望はある。はやく逃げるんだ! この世界には今、172人(・・・・)のマスターがいる!!』

 

 呆けた顔でそれを聞き、マシュはにっこりしているビーストを見る。

 いやいや、それはおかしい。現にマスターはここにいる。ずっとここにいるし、どこかに行ってもいない。そもそもマスターはひとりしか存在しない。

 実は双子だったと言われても信じないし、172人いるだなんて……ありえない。

 

「14グループに『私たち』は勝ったんだね。でも『この私」はまだ。反省点がボロボロ見つかって困っちゃうよ。ともあれ今回は興味深いものになった」

 

 ……霞む視界だからなのか、マシュにはマスターがふたりいるように見えた。

 

 目を凝らし、もう一度確認する。

 どうやらマシュは狂ってしまったようだ。本当にマスターがふたりいる。

 

「久しぶりだね。この私がビースト、分身じゃない、本物の私。ちょっとひとりで世界を滅ぼすのはさすがに時間がかかるからね。より効率を高めるために多方面に私の分身を展開したの。成果は出たけど、この方法を正式に採用するのはまだしばらく先になりそう」

 

 お疲れ様、とビーストはもうひとりのビーストの頭を優しく撫で、泥に還す。

 分身でさえこのザマだというのに、本体が現れたとなれば、もう勝ち目はない。……終わりだ。

 ビーストは微笑む。

 

「BBは本当にすごいよ。私が狙った基点を正確に予想したのだから。まあダ・ヴィンチの言ったとおり排除させてもらったけど。だからあなたたちが最後。これで邪魔者……ですらないけど、いなくなればスムーズに事が進められる」

 

 アンリマユ以外、誰も立ち上がれない。

 分身にはなかった、圧倒的な威圧。ビーストは何もしていないが、そこに存在しているだけで彼女たちに未知のプレッシャーを与えているのだ。

 鬼だ。悪魔だ。死神だ。魔神だ。

 人より上位に在わす存在。人が絶対にかなわない存在。それがビーストであり、マスター。

 エミヤが汚く吼え、それでも立ち上がろうと腕を地面に立てる。その様子を見たビーストは優しく甘い声で誘惑する。

 

「エミヤ。エミヤ。正義の味方さん。無理しなくていいんだよ。優しく、そして瞬きの間に殺してあげるから」

 

「私は、マスターを止めてみせ、る!!」

 

「……そう」

 

 ビーストは無感動に相槌を打つと、エミヤの腕を掴み、立たせてやる。そして両腕を広げてどこでもどうぞと身体をさしだす。

 よろよろと立つのを維持するだけで精一杯のエミヤはそれでもビーストをしっかりと見据えた。

 右腕を引き、拳を突き出す。

 ぱんっ、とビーストの胸に確かに命中したが、それだけだった。

 

「……つまらなかった」

 

 何を期待したのか、どうやら満足はしなかったようで、左腕を剣に変形したビーストはエミヤの身体を跡形も残さずに微塵切りにしてみせる。

 血を浴びて、微笑む。

 

「……つまらなかった。もういいや、この世界。基点は全て抑えた。終わらせよう」

 

 手を垂直に掲げる。

 すると上空に浮遊する時空神殿が重低音を遠く遠く轟かせながら降下してくる。一定の高さになっところでビーストは空を飛び、玉座へと戻っていった。

 マシュが盾を杖代わりにして立ちあがり、ビーストを見上げる。

 おそらくきっと、この後ビーストは光帯を発射させるつもりなのだろう。だがそれはさせない。絶対に……!!

 

「無理だよ、マシュ。もはやあなたたちは私にとっては燃えるゴミと同じ。殺すのはとても残念だけど……仕方ないよね?」

 

「やめてください!」

 

「あなたに私を止める方法はない。せいぜいその盾で光帯を防ぐだけ。でも大丈夫? 本当に防げる?」

 

 ビーストの指摘しているのはさっきのことだ。

 盾の守りが破かれた。そんなくせして本当に防ぐ気なのか、と。

 覚悟はした。

 覚悟は、した。

 もうあの人は先輩ではない。ビーストだ。敵、なのだ。

 大好きな人との決別。それは何よりも苦しい。頬を伝う熱いものを感じながらマシュは盾を構えた。

 

「来なさいビースト!! 私はもう、迷いません!!!」

 

 宝具再展開。

 再度築くはキャメロットの城壁だけではない。カルデアでマスターと共に過ごしてきた想い出を全て組み込み、より頑丈に、決して揺るぎのないものになる。

 何が何でも防いでみせるという強い意志の表れ。ビーストはピクリとそれに反応する。

 

「……オワリ宝具、対人類宝具、極展開」

 

 背後の発射台、闇光帯の充填率が100%を超え、目にするのも悍ましい破壊の力が現れる。

 ゲーティアの光帯を受け止めたマシュだからこそわかる。あれは単なる焼却のため光帯ではない。悪そのものだ。

 自分はきっと、また死ぬのだろう。

 マシュはそっと瞼を伏せ、そう思う。

 キャスパリーグはいない。この攻撃を受けて身体が蒸発し死んでしまったらマシュの命はもう、そこで終わりだ。

 しかし、それくらいの恐怖を跳ね除ける意志がなければビーストと向き合うことはできない。

 覚悟を決めろ! マシュ・キリエライト!!

 瞼を開ける。

 

「終わりの時きたれり。其は人類悪を為すもの。……ありがとうマシュ、大好きだよ。『終わりの時きたれり。其は人類悪を為すもの(テウルギア・ゴエティア)』」

 

 カッ!!! と眩い黒の閃光。

 あの時とシチュエーションは全く違うが、それでもマシュはマシュのすべきことを貫く。

 

「ぁぁぁぁぁあああああああああああ!!!!!!」

 

 こんな土壇場にビーストからの告白だなんて、ずるい。ずるすぎる。

 だが、光帯が迫り、マシュの防御に触れようとしたまさにその瞬間、真っ黒の人影がマシュの前に躍り出た。

 最弱英霊、アンリマユ。

 後ろを振り向き、一方的に話しかけられる。

 

「お前バカじゃねぇの? これを受けてお前は消滅。で、その次は? どうせ何も考えてなかっただろ。……あいつの光帯の本質は悪。ならこの『この世すべての悪(アンリマユ)』と相性は最高というわけだ。オレが受けてやる。だから退け」

 

 アンリマユがマシュの横腹を蹴り、吹き飛ばす。

 途端、宝具は中断され、キャメロットが消え去る。

 アンリマユは笑った。腹の底から笑った。これほど愉快なことが果たしてあるだろうか。

 

 ーーない!!!!!

 

「オレ単騎で人類悪に勝てる可能性って……この瞬間じゃねえかよォッ!!!!!」

 

 宝具、『偽り写し記す万象(ヴェルグ・アヴェスター)』。

 雄叫びを上げ、獣の姿に変貌する。

 アンリマユは『この世すべての悪(アンリマユ)』だから。そう呼ばれる所以、『あの程度』の悪ならば受けとめてやる!!

 バウッッ!! と身体が光帯を浴び、自身が死んだ錯覚に陥り、アンリマユは生きていることを示そうと笑い続けた。

 

「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」

 

 霊基を喰らう熱のない炎を心臓に受けながらもアンリマユは耐え続けた。

 ビーストがどうなるかに興味はなかったが、この世界を滅ぼすというのならば話は別だ。

 あまり力にはなっていないが、少なくともこの世界を救うために彼は彼なりに頑張ったのだ。それを無駄にするような行為は許せなかった。

 笑った。

 笑った。

 笑った。

 笑った。

 人類悪を、ビーストを、マスターを笑った。

 煉獄に身を晒す時間が終わり、後ろの地面の存在を否定され空白になっているが、アンリマユは立っていた。

 耐えた。耐えきってみせた。

 ゲーティアの光帯ならば絶対に死んでいた。これは、ビーストの光帯だからこそできたこと。

 

「アンリマユ……あなた……」

 

 ここでようやく、初めてビーストが驚愕の表情を浮かべる。

 アンリマユはボロボロになり血反吐を吐きながらも「ハッ!」と笑い飛ばした。

 最弱が、人類悪に勝つ。

 面白い。実に面白い。シェイクスピアらへんなら血の涙を流しながら記録を残してくれそうだ。

 

「……さて、ビースト……オレの宝具のことよくわかってるよなぁ?」

 

 獣の口が大きく開き、キシシと笑う。

 

「ーーいくぞ人類悪。遺言はきちんと残したか?」

 

 待ってはやらないんだけどな、と残し、最弱宝具を解放する。

 自身の受けた攻撃を倍加して返す、『報復』という原初の呪い。

 ビーストの宝具を耐え、アンリマユに蓄えられた力はもはや測定不可。光帯をも超越した力。

 身が有り余る力に震え、今にも爆発して溢れかえりそうだ。それを必死に押さえつけ、制御する。

 

「へへへ、てめぇの自業自得だぜ? 逆しまに死ね! 『偽り写し記す万象(ヴェルグ・アヴェスター)』ァァァーーーー…………!!」

 

 アンリマユを中心に特大かつ特濃の魔力が発生し、ひとつの球となり、銀色に光り輝く。

 ーー時、きたれり。

 照準が定められ、ボボ、とあまりにも普通の発射音で球はアンリマユの手元から離れる。

 その爆発を見た者すべてがその言い尽くせない迫力に畏怖した。

 時空神殿に球が触れ、弾ける。幾万、幾億の鐘が共鳴するような轟音とともに、闇を、さらに深い深淵の闇が呑み込み。

 遥か宇宙にまで届かんばかりの黒の火柱が屹立させて。

 時空神殿を、ビーストごと消しとばした。




悲報
続きまーー……。

ネタストックが雀の涙状態なので誰か……ネタをオラにわけてくれーー。


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シャロウ

悲報
続きます。

この物語において、悪人はひとりもいない。


 大陸が、落ちる。

 空間維持ができなくなった時空神殿は割れ、崩壊し、地球に衝突する。それは容易く地面を深く、深く抉り、削る。脳髄に重く響く音に鼓膜が悲鳴をあげる。衝突によって刺激された地下マグマが噴き出す。ビーストも少なからず傷を負い、痛みに頬を紅潮させる。

 

「はあ、はあ、はあ……」

 

 短く荒く息を吐き、ビーストは己の心の平常を保とうと努める。痛みを感じるなどずいぶんと久しぶりだ。ずっと前ならばそれが当たり前だったのだが、どうも過ぎた時間はビーストにかつての苦痛をある程度忘れさせてしまったようだ。

 そしてこの感覚はもう、ビーストには不要のものだ。

 見誤った。完全に『この世すべての悪(アンリマユ)』を侮っていた。最弱の英霊、最弱の宝具。その脆い牙が今になって首元に噛みつくか。

 左半身を失いながらもアンリマユたちの上空を浮くビーストはゆらりと降下し、傷口に魔神柱の欠片を用いて応急処置を施す。ぐじゅぐじゅとビーストの肉と混ざり、左半身を黒紫色の肉体で復活させる。左脚、腕を動かして動作確認は無事終了し、倒れる五人を見下ろした。

 

「はは、あれを受けて生き、てるとか……まったく、バケモノ……だぜ」

 

「私にとっては人類のほうがもっとバケモノだよ」

 

 息絶え絶えのアンリマユにビーストはとどめを刺すことにする。

 油断はしない。慢心もしない。

 悪がやられるのは当然である、と新宿で魔神バアルが教えてくれた。ならばあらゆる手を潰して、自らを排そうとする存在のことごとくを消してみせよう。

 道半ばで死ぬ悪は、悪として三流ですらない。

 頭を踏みつけ、徐々に力を加える。ぐりぐりと地面に押し付けるように。

 

「ギッ、あ……!」

 

 頭蓋にヒビが入る音が聞こえる。ビーストはそれでもさらに力を加え、本当に頭が割れるギリギリのところで一度足を上げる。そして彼の気が抜けた瞬間にもう一度力強く踏みつけ頭部を破壊した。

 グジャりッ! と脳汁がぶちまけられる。念には念を。霊核も確実に潰しておく。これでアンリマユは死んだ。

 さようなら最弱英霊。あなたはとても強かった。

 

「時空神殿は破壊された。分身の時空神殿からすり替えたことが仇になっちゃったか」

 

 破壊されたのなら、また創造し直せばいいだけ。少しばかり時間はかかるが、造作もない。しかし、少なくとも今すぐにこの世界の人類を殲滅させることはできなくなってしまった。

 脚を滴る血が気持ち悪い。衣を脱ぎ、それで血を拭うと空に投げ捨てる。裸になったビーストはまたすぐさま新たな衣を身に纏う。

 マシュはビーストの一連の行動に驚きと悲しみを隠せずにいた。

 だって殺したのだ。あれほど優しかったマスターが、顔色ひとつ変えることなくかつての仲間を殺したのだ。マシュは怒りを感じなかった。だがどうしようもない悲哀を感じた。

 

「仲間を殺すか、ビースト……!!」

 

 沖田オルタが無様に両腕で這いながらビーストに接近する。それでもそのスピードはとても遅い。これなら赤ん坊にハイハイさせたほうがまだ速い。

 待つ必要など無し。ビーストはこちらから歩み寄り、彼女に大太刀を手に取らせまいと先に取り上げる。

 葛藤も無し。

 下向きに構えると、ビーストは無言で霊核を貫き彼女を絶命させる。

 残り3人だ。

 マシュがビーストに襲いかかる。タイミングを見計らっていることなどお見通しだったビーストは一歩だけ横にズレる。たったそれだけでマシュの奇襲は失敗し、地面に飛びつくだけになってしまう。

 他愛ない。

 ビーストはうつ伏せに倒れるマシュの背中を踏みつける。

 

「ビース、ト……」

 

 マシュはもう、彼女を先輩と呼ばない。

 倒すべき敵と決めたマシュは、それでも必死にビーストの足から逃れようともがく。

 うだうだとそれを見ているつもりはない。直ちに殺す。ビーストもマシュに対して覚悟を決めたのだ。

 カルデアがビーストの軍門に下るというのならば、昔のような毎日がまた過ごせると期待していたのに。

 残念だ。

 大太刀をマシュの首を這わせる。チャキン、と角度を変えると鈍色に光る刃がマシュの表情を映す。

 

「……」

 

 まだ諦めていない表情だった。

 こういうものを、よく知っている。このあとの展開を、よく知っている。

 だから時間の猶予など一切許さない。

 大太刀を振りかぶる。勿体ぶらず、速やかに、殺す。

 さよならだ。永遠にさよならだ。マシュの旅はここで終わり、ビーストの旅はまだまだ続くのだ。お別れだ。

 振り下ろす。首を断つために。

 思い出は、もういらないのだ。

 ビーストの大太刀がマシュの首の皮に触れ、鋭利な刃が斬り裂き鮮血が噴き出すまさにその瞬間。

 視界の外から振り上げられた剣が、激しく火花を散らしながらビーストの一撃を防いだ。

 

「ーーーー!!」

 

 咄嗟にマシュから離れ、さらに二人からも距離をとる。

 いったい誰が。ビーストに飛び込んできた剣はしだいに魔力の粒になって消えてしまう。

 投影……?

 それはおかしい。エミヤと黒エミヤはこの手で殺したはずだ。それに投影魔術を使える者はこの場にはいない。

 全方向への威嚇攻撃。魔神柱の一斉射。それは周囲のマグマをさらに活性化させるだけに終わり、何の成果も得られなかった。空高く噴出したマグマが沖田オルタの身体を呑み込み、ジュワッッ!! と蒸発する。

 どこにもいない。どこにもいない。

 

「誰……?」

 

 こうしてぐだぐだしている間に、状況が一気に逆転されてしまうことは絶対に避けなければならない。

 魔神柱にマシュと岩窟王と坂本を拘束させ、指ひとつ動かせないようにする。

 これで安心。あとは乱入してきた者の登場を待つだけだ。

 その間にも空間の温度は急速に上昇し、マシュたちの滴る汗が地面に落ちた瞬間に蒸発してしまう。

 あと数分で肉をも灼くまでにいたるだろう。

 

 ……ふと、ビーストの前でいまだ圧倒的な高さまで立ち上るマグマに、無音とともに氷のカーテンが開かれた。

 

 それは上下左右から押し寄せるマグマを防ぎ、凍らせることで生じた幻想的な氷のアーチを潜り、こちらへ歩いてやってくる。氷の結晶が真っ赤に照らされ、キラキラと輝く様はなんとも言い難いもの。

 そのカーテンはマグマがそれを溶かそうとする力を遥かに超え、とてつもないスピードで侵食する。

 鬩ぎ合い、水蒸気が辺り一帯に広がる。ひんやりと冷え、ビーストの足元にまで届く。

 

「ーー凍らせて、ヴィイ」

 

 刹那。

 巨大なマグマの山は巨大な氷の山になった。

 ビーストは目を見開いた。

 しかしやってくる人物……女は腕に人の頭ほどの大きさの魔獣を抱えて歩く。

 水蒸気の霧が晴れ、その姿がしだいに明確になっていく。

 腰まで伸ばした長い長い太陽色の髪が波打ち、まるで希望の星から舞い降りたような純白のドレスを見に纏っている。

 そしてクッキリとした目元。鼻。

 あの顔は、誰も知らないはずがない。

 まさに天使、だ。

 

「ぁ……あ……」

 

 マシュが掠れた声でその人物の名前を呼ぼうとしている。

 目尻に溜めた涙が今にも溢れそうだ。

 

「ありがとう、ヴィイ」

 

 少女がヴィイの頭を優しく撫でる。

 するとヴィイと呼ばれた魔獣は満足気に消えた。

 ついにビーストの目の前に少女は立った。

 互いに視線を交わす。

 その姿は鏡写しのようなーー……。

 

「せん……ぱい……」

 

 今にも消えそうなその声はちゃんとマスターの耳に届いた。

 マスターがマシュの方に振り向くと、ビーストに背を向けて、一言。

 

「……『疾風怒濤の不死戦車(トロイアス・トラゴーイディア)』」

 

 緑の閃光とともに、稲妻の軌跡を描きながら三匹の馬が引く戦車がどこからともなく現れる。

 マスターが手を横に振ると、馬たちは蹄を鳴らし、高らかに前脚を上げて駆けた。

 その速さ、もはや見ること能わず。

 突然吹いた突風。その後にはマシュたちを拘束していた魔神柱たちが身体に大きな穴を開けて夥しい血を流していた。

 

「……あなたは誰?」

 

 ビーストが問いかける。

 戦車は消え、マシュたちが自力で拘束を逃れたのを見届けるのを確認すると、マシュから通信機を取り出し、一方的に連絡する。

 ザザ、ザザザ、とちゃんと通信ができずにノイズが流れるだけだったが、指先に宿した電気を流し込むと、嘘のようにクリアな音声が流れてきた。

 

『マシュ⁉︎ マシュ⁉︎ 聞こえたら返事をしてくれ……って……え?』

 

 ダ・ヴィンチのホログラムが焦りであたふたしていたのが凍りついた。

 なぜならば人類悪に堕ちたマスターと瓜二つの人物が彼女の目に映ったからだ。

 口を忙しく開閉する彼女にマスターは手短に伝える。

 

「今からマシュたちをカルデアに帰還させます。存在証明はどうですか?」

 

『問題はない、が……君は……』

 

「私のことは気にしないでください。私はあなたが知っているような『私』ではありません。マシュたちをレイシフトさせられる。そうですね?」

 

『できる……』

 

 ようやく再起動したダ・ヴィンチが下を向いて忙しそうに指を動かす。するとマシュたちの身体が透け始める。帰還の合図だ。

 ダイヤモンドダスト。

 まだ解けない氷の結晶は煌びやかにマスターを彩り、ある種の眩しさを噛み締めながらマシュは言った。

 

「ありがとうございます……先輩」

 

「残念ながら私はあなたの先輩ではありません。ですが……助けられて良かったです。この先カルデアは暗迷することになるでしょう。どうか、自分を見失わないようにしてくださいね。あの子は……私が相手をします」

 

 カルデアはもう、壊滅状態。

 一世一代の大博打が失敗に終わったのだ。魔力は尽き、命がけでそれを集める旅がすぐにでも始まるだろう。

 

「……頑張ります、私。だから先輩もどうか……!!」

 

 だから先輩ではありません、と言おうとして。とうにマシュたちがいなくなっているのに気がつく。

 誰もいなくなった。夜が雄叫びを上げ、氷で埋め尽くされた一帯が闇色に染まる。

 

「……あなたは誰?」

 

 もう一度、尋ねる。

 

「私はあなた。旅を終えた者。そして今はあなたを倒すためだけに存在する虚ろな影……シャロウです」

 

 凛としたその声色はビーストの堪忍袋の緒に手を伸ばした。

 

「ーー殺す」

 

「ーー負けません」

 

 突如シャロウの周囲に現れたのは、無数の黄金の円状の空間。そこから武器の先端が顔を覗かせている。

 あれは……英雄王ギルガメッシュの『王の財宝』だ。

 撃たせてなるものか。ビーストは全方位に光線を放ち、その全てを撃ち落とす。

 極限まで至った同一人物の戦い。1秒ですら長すぎる。コンマの世界での判断が勝敗を決する。

 ゲーティアの殻を纏う。ノーモーションシフトからの移動エネルギーの全てを込めた拳撃。

 ビーストの前方に天の鎖が何重にも重なって壁を成すが、構うものかと撃ち抜く。ガギィィィン! と鎖はたった一撃で破壊された。その奥には槍を構えるマスター。

 

「『刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルグ)』」

 

 渦巻く因果の嵐。

 二撃目を放つためにすでに腰を深く落としていたビーストにはそれを避ける術を持たなかった。

 そもそもこの宝具は避けても意味がない。心臓を貫いたという結果が確定されているのだから。

 ……ならば受け止めるまで。

 マスターを殴るつもりだったその拳を地面に叩きつけた。ずずす、と次々召喚される魔神柱たち。それが何重、千重、万重となってあらゆる物質より硬い守りを築く。

 

「ーーは!」

 

 激突。

 その熱さはマグマを鎮めていた周りの氷を一瞬で溶かし、水になることすら許さずに昇華する。

 邪魔がなくなったマグマは歓喜に燃え、再び噴き出す。

 クーフーリンの槍は容赦なく壁を抉り、残り1メートルを切っている。

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」

 

 ビーストが腹の底から吠える。

 さらにキアラの廃棄孔から無尽蔵に魔神柱の抽出。膨大な質を塗りたくり、強度が増す。これならばあの槍を防ぐことができ……。

 

「そうしてくれると思っていましたよ、私」

 

 壁の横から白いドレスの裾がひらりと踊り、ビーストの懐に侵入してきた。

 シャロウの片手に持つ剣は、エミヤの愛用していた夫婦剣。その黒い方。首を搔こうと鋭く、軽い音が迫る。

 ビーストはすんでのところでゲーティアの殻を脱ぎ捨て、高低差を利用した回避を成功させる。未だ守りを攻めるゲイ・ボルグも思考に入れなければならない。

 シャロウが着地した瞬間を狙ってその腹を膝をめり込ませる。

 命中。確かな感触。

 シャロウは吹き飛び、近くの岩に背中を激しく打ち付ける。

 このまま接近して、殺す。

 ここまで考えてから、上げていた右脚を下ろそうとする。

 ……そこでビーストは音を聞いた。何かが飛ぶ音だ。そしてそれは近づいてきている。

 すぐにその正体を悟る。シャロウの双剣、そのもう片方だ。思い返せば簡単に気づけたはずだった。姿を見せた瞬間からおかしかったのだ。

 避けようと思えば避けられる。だがその瞬間、ギリギリの攻防を続けていたゲイ・ボルグとの正面衝突に負ける。

 優先順位は、言うまでもなかった。

 だが被害をは抑える。

 アクロバティックな動きで可能な限りの動作で飛んでくる剣の攻撃範囲からできるだけ逃れる。

 そしてついに剣がビーストの腹を深く切り裂いてシャロウの手へと帰っていく。

 ぱっくり開いた傷から内臓をボトボトとこぼれ落ちる。

 

 痛い。

 

「ガあああッッ!!!」

 

 だがまだ終わらない。

 ありったけの力を使ってゲイ・ボルグを叩き落とすのだ。壁が急速に上下左右に展開し、津波が如く呑み込んだ。

 大地を揺るがさんほどの大爆発。

 シャロウの持つ力、次々に英霊たちの力を身に宿すあの力は……いったい何だ。

 あれは絶対に投影魔術ではない。なぜならさっきからビーストを襲う武器の全てが本物だからだ。エミヤの十八番のあれは本物に限りなく似た贋作を作り出すもの。

 明らかに違うのだ。

 爆発を地球の怒り……マグマの起こした熱風が吹き飛ばす。

 膝をつき、ビーストは激しく肩を上下させる。

 バアルの言った通りだ。悪は必ず負ける。

 

「……ははは」

 

 思わず笑ってしまう。

 本当だ。その通りになってしまった!

 ビーストは一本の天まで伸びる光の柱を見た。

 世界がシャロウを祝福している。悪を討てと。そのための力がとある黄金の剣に収束している。

 あの宝具にビーストはこれから打ち負かされるのだ。そして旅が潰える。

 

 潰え……させるわけにはいかない!!!

 

 第二の獣。ティアマトの権能、ケイオスタイド。

 黒の聖杯を中身を垂らす。

 それは一瞬で広がり、大地の生命力を無慈悲に吸い取る。触れたマグマはただの『固体』になる。そしてシャロウの足元まで伸びる。これであいつは死ぬ。死ね。直ちに死ね。

 

「……無意味です。それは霊基を攻撃するもの。しかし私には霊基はありません。虚ろなのです。なので効きません」

 

 絶句。

 

「私は強くありません。だからこれまで戦ってきたサーヴァントたちの力を『借りて』あなたを倒します。光ある限り影は永遠に存在する。それが私です」

 

 昔。

 輝きのようだとか、太陽のようだとか、そんなことをよく言われていたことを思い出した。悪に堕ちてもまだ光るか。その色は何色か。そして永遠に続く影との戦いを終わらせるには、太陽を落とさなければならない。

 つまり、ビーストの負けは将来的に決定づけられているというわけだ。

 人類は不要。その揺るぎない信念の下に行動してきたのに、よもや自分に殺されるとは。これでは自殺に他ならない。なんと無様な最期だろう。

 唇を噛み、血が滴る。

 

 ふひははは

 

「あそこでもし私が死んでいれば、きっと私はあなたと同じになっていたでしょう。だからあなたは何も悪くないのです」

 

「違う、私は望んで悪になったの」

 

「違います」

 

「違う! 私は! 望んだ!! 人類を!! 殺すって!!!」

 

「……私にも、こんな未来があったのですね」

 

 シャロウから哀れみの目で見られ、ビーストは萎縮してしまう。

 

 それでいいのだわたしそうだもっとじかんをかけろはははははははははは

 

 ビーストはただこれから放たれるであろう宝具を力無く見上げた。

 なんと皮肉な名前の宝具か。あんな名前にしたブリテンの王に毒舌を吐く。

 ビーストには、ひとつシャロウに確認したいことがあった。

 

「ねえ私。私が死ねばあなたも死ぬ。そういうこと?」

 

「はい。死ぬ……という表現は違いますが、あなたが死んだ瞬間、私は消えます」

 

 いいことをきいた

 

 剣の輝きが増す。

 シャロウは剣を高く掲げる。

 

「アンリマユも言っていたでしょう? 誰も悪くないのだと。誰もあなたを責める資格はないのだと」

 

 じゅんびおーけーいつでもかもーん

 

「……そう。じゃあ殺せば」

 

 ビーストは立ち上がり、おとなしくシャロウの宝具を受けるようだ。

 シャロウは安堵の息を吐き、真名を解放する。

 

「『約束された勝利の剣(エクスカリバー)』!!」

 

 純粋な力がビーストに迫る。

 嘘つき。私は強くないだなんて、嘘つき。借りただけの武器をここまで使いこなすことなんてできないはずなのに。

 

 たがいいこれでいいこれでびーすとは『しぬ』ことができる

 

 ……この瞬間を……待っていた!!

 ビーストは死ぬ。皮肉めいた宝具に間違いなく殺される。それを待っていた。

 シャロウが現れた瞬間から用意していた最後の布石。これまであまたの逆転劇の主人公だったビーストだから展開がわかる。それゆえの『これ』だった。

 時空神殿が落ちたことによりできた超巨大クレーター。そこからとある台座が上昇する。

 

「ーーーーーーーーな」

 

 シャロウは気づかなかった。

 ビーストを倒し、これ以上の暴走を防ぐ。その一点に集中していた。だからこそビーストの最後の足掻きに気づけなかった。

 充填率200%以上といったところか。今にも爆発して自我崩壊を起こそうとしている発射台を、ビーストの命をすり減らしながら、繊細な魔力の注入ですんでのところを維持している。

 勝利の宝具は止められない。また人類破滅宝具も止められない。

 どうしようもないのだ。止まれない時間。進む時間。

 

「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!!!」

 

 わらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえわらえ!!!

 

 シャロウは何も悪くない。結果的にひとつの世界を犠牲にすることになってしまったが、たったひとりで人類悪を倒したのだ。

 誰もシャロウに苦言を呈する権利などないのだ。

 

 ……誰も悪くないさ♪ 誰も『マスター』を責める権利なんてないのさ♪

 

 そう言えば、誰かがそんな言葉を口ずさんでいた。

 残酷なことにエクスカリバーの光線はビーストを跡形もなく消しとばす。

 その前にビーストは一言。

 

「『終わりの時きたれり。其は人類悪を為すもの(テウルデア・ゴエティア)』」

 

 と呟いーー。

 

 ◆

 

 1771年イギリス。

 そのとある場所で、天変地異の如き異変が起こった。深く抉られた地面からマグマが噴き出し、しかしそれと氷の城が対立し合う。そしてその池では飢えたケイオスタイドがドロドロと流れる。

 明らかに激しい戦闘があったことを物語っているが、誰もいない無音はそれを全力で否定する。

 遥か空、夜空にこの世ならざる物体がある。

 正真正銘、あれこそが人類を過去と未来にわたって滅ぼす最悪の宝具。

 主はおらず、だが与えられた命令は確実に実行する。

 人類を滅せ、と。

 無音だ。オワリの前の静けさよ。

 またこれを見届ける者は誰もいない。

 

 ーー叫べ、闇の光帯。




シャドウ+ホロウ=シャロウ

通達ですが、自分、しばらくリアルが忙しくなるのでしばらくはこの『盾の少女の手記』の更新をストップします。とはいっても今月だけで、八月からまた再開しますが笑
ロストベルトNo.2クリア記念とか言って突然更新するかもしれなくもないことはないかもしれませんが。
では首を長くし……げふんげふん、愉悦に浸りながら待っていてください^_^

ネタは普通に募集しているので、ちゃんと反応は返します。活動報告に書くのがあれだったらメッセージで送るのも全然大丈夫です。むしろウェルカムな感じ。



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神殺し

ロストベルトNo.2クリア記念

がっつりネタバレしているので、クリアしていない人は読まないほうがいいです。


 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マスターは、人の業を遥かに超えた大量殺人鬼である。

 人類史上最悪の女。戦いにおいて、万人殺せば英雄だとかいう言葉があるらしいが、マスターはぴったり万人殺してみせた。

 なら英雄か? 否。

 違えた歴史、そこから3000年の間、スルトに見守られながら我が子を守ってきたスカサハ=スカディ。彼女の偉業を、奇跡を、跡形もなく『殺した』のだ。

 特異点ではそこにいる全員が死ぬというわけではなかった。そこが異聞帯との決定的な違い。

 這い寄る罪の重さがマスターにのしかかり、無間地獄行き確定のチケットをそっと心に刷り込ませる。

 久々にマスターはシャワーを浴びることにした。

 そこら中にある雪解け水を使い、十分に電力補給を済ませたシャドウ・ボーダー内での、久々のシャワー。

 マシュに一言伝え、シャワールームに行く。

 ロシアと続いて北欧。ロシアほどではないが、ここもとても寒かった。

 服を脱ごうとして、できない。

 

「いたっ……」

 

 どうやら服がマスターの皮膚に焼き付いているようだ。気づくのが遅すぎた。認識して、ようやく引き攣るような痛みが襲う。

 これではシャワーを浴びることができない。しかし花も恥じらう乙女であるマスターにとって、シャワーは必須なのだ。数日間まともに身体を洗うことができなかったから、臭いが気になるところ。

 息を吸って、止める。お腹に力を入れて一気に剥がす。

 皮膚を持っていかれたが、なんとか脱ぐことができた。それでも剥がさなければならない箇所はあと4つほどある。

 はやくシャワーを浴びたいのにこれでは生殺しだ。剥がれた皮膚にお湯が触れた瞬間、痛みが襲うだけ。全部スルトの炎のせいだ。道連れに死のルーンを刻めなかったのが非常に悔しそうだったが、ちゃんとマスターを苦しめることには成功している。しばらくの時間は必要だが、ちゃんと治りそうな傷だからひと安心。擦れるだけで痛む最悪な日々を余儀なくされるが、大丈夫だ。大丈夫。

 悪戦苦闘し、やっと全て剥がしたマスターは自身の裸体をまじまじと鏡ごしに見つめた。

 なんとあろうことか、ほぼ全身に焼き爛れた跡がある。軽度の火傷だ。なんとなく予感はしていたが、いざ事実であるとなると思わず溜息を吐いてしまう。これは……完治にしばらく時間がかかりそうだ。もしこんな状態で海にでも飛び込んだらどうなってしまうだろう。

 礼装を調整したりするのはダ・ヴィンチだ。不安要素を与えるのはどうしても避けたい。張り付いた皮膚を剥がし、ゴミ箱に捨てる。

 これでも最高の状態なのだろう。マシュが守ってくれていなければ、きっとマスターはすでに炭すら温い、彼の言う通り灰塵に帰していた。

 だからこれは、マシなのだ。

 

 普段より長い時間をかけてシャワーを浴び、丁寧にタオルで身体を拭いてシャワー室を出る。あとで包帯を見繕っておこう、そう考えながらブリッジに入った。

 中ではダ・ヴィンチと新所長、そしてムニエルがコーヒーを啜っていた。

 

「やあ、ちょうどいいところに来たね。コーヒーはいるかい? ブラック? それとも砂糖ガッツリ?」

 

「じゃあ砂糖ガッツリガッツリで」

 

「お任せあれ〜」

 

 コーヒーポットを小さな手で掴み、中身を注ぐ。そして砂糖の塊をひとつ、ふたつ、まだ足りぬと三つ四つ入れる。

 

「はいどうぞ」

 

「ありがとう」

 

 ダ・ヴィンチから受け取り、マスターは静かにコーヒーを啜った。

 シャワーを浴びた直後で眠気に誘われていたから、ちょうどいい目覚ましだ。

 でも、さすがに甘すぎるコーヒーは胸にどろっと重くくるのだろうが、マスターにはそれがない。

 

「今はどの辺にいるのダ・ヴィンチちゃん?」

 

「送られた座標から……210kmほどだね。明日くらいに着くよ」

 

「幸い今はゆっくりできる。明日着いたところで何が起こるかわからん。ここからは私たちの仕事だ。どうせお前程度が手伝えないだろうから下がっていなさい」

 

「まあ要するに君にはきちんと休んでおけってことさ」

 

「な……! 私はただ適材適所と言いたいのだ! いざという時に動けなくては話にならないからな!」

 

 ムニエルの指摘に、ゴルドルフが焦りながら必死に誤魔化しの弁論を繰り広げる。

 今回の作戦において、彼の生存思考が成功に大きく結びついたと言っても過言ではない。初めは虚数空間からの強引浮上。正体不明の物体にシャドウ・ボーダーが囲まれていた時だ。彼の鶴の一声で結局は異聞帯に浮上することとなったが、あれが最善だっただろう。彼はこの世のテンプレというのをよくわかっているようだ。

 それにシグルド……スルトにシャドウ・ボーダーが襲われた時も、生存を優先し、率先して彼にペーパー・ムーンを渡そうとした。結果、逆に彼に疑問を抱かせ、時間を稼ぐことに成功し、マシュたちによる抵抗ができた。ホームズが重傷を負ってしまったが、それ以外の人的な被害は全くなかった。

 臆病で自分勝手な性格だが、だからこそ生存に非常に長けた判断をすることができる。初対面の時はあんまりだったが、こうしてロシア、北欧と経て彼の人柄がなんとなくわかってきた気がする。

 

「新所長の言う通りだ。今はゆっくり休むといい。ホームズもまだ本調子ではないらしいからね」

 

 果たしてダ・ヴィンチが飲んでいるのはブラックか、それとも砂糖ガッツリか。そんなことを考えている間に彼女はコーヒーを飲み干してしまい、簡易的な機器のメンテナンスを始めた。

 ゴルドルフはああ言ったはいいものの、何をすればいいのかわからない様子に見えてしまう。じっと彼を見つめると。

 

「な、何を見ているのかね⁉︎ 職員たちを見守ることも所長の役割でもあるのだぞ!」

 

 つまり暇であると。

 ムニエルは自動運転に不具合がないかを確かめるために運転席に座っている。現時点で何もしていないのは彼だけというわけだ。

 確かにゴルドルフの言う通り、マスターにできることは今は何もない。

 だが、どうしてもマスターはしたいことがあった。

 この北欧異聞帯を担当したかつてのカルデアのマスター、そしてクリプター……。

 

「オフェリアさんのところへ……」

 

「ああ……彼女なら今日にでも冷凍保存するつもりだよ。まだあの部屋にいるから今のうちに顔を見に行くといいよ」

 

 オフェリアの遺体はダ・ヴィンチが綺麗に血を拭き取り、今もあそこのベッドで物言わぬ状態で部屋を冷やして安置されている。

 マスターは再び彼女と対面しなければならない。対話はできないが、それでも同じカルデアのマスターとして。

 

「ゴルドルフ所長もどうですか?」

 

「……やめておく。お前だけで行ってこい」

 

「ありがとうございます。ダ・ヴィンチちゃん、あそこの部屋のロックを解除してくれる?」

 

「了解さ。……うん、解除したよ。終わったらまた言ってね」

 

 口から吐かれる言葉はどうも素直でない。しかし彼の密かな思いやりにマスターは好感度が少し上がる。きっと彼はマスターのことを気遣ってくれたのだ。

 ブリッジを出て、狭く短い廊下を歩いて目的の部屋に着く。マシュは呼ばない。呼べば絶対についてくるだろうが、マスターは呼ばなかった。呼べなかった。

 シャッ、と自動ドアが左に流れ、途端冷たい空気がマスターを出迎えた。急な温度差に、爛れた皮膚が悲鳴をあげる。

 ベッドの上に、彼女はいた。

 その足元で膝をつき、彼女の顔を伺った。

 綺麗な死体とはまさにこれのことか。これまでそんなものを見る機会がなかったから、これが初めてだ。たぶん。

 彼女の生前の口ぶりから察するに、マシュと友達になりたがっていた。七人のAチームで、数少ない女。同性の友達が欲しかった。そうでしょう?

 マスターは彼女の髪を優しく撫で、前髪をはらう。力を失った魔眼は魔力痕すらない。瞼を強引に指で上げ、眼球の無事を確認する。

 

 もしこの眼球を自分のものにすることができれば。

 

 そう考えてしまった。

 いや当然だ。オフェリアは戦えるマスターだ。可能性のピン留め。間違いなくこの力は素晴らしいもの。これを自分の眼球と入れ替えれば……。しかしだからといってそれで力が手に入るとは思っていない。そう簡単にことは進まないだろう。だからこれは、彼女は大事に保管し、いざという時は……。

 カドックなら今のこんなマスターに何とコメントするだろう? 無言で嘲るような目で見下ろすだけかもしれない。

 そこに込めた想いは哀れみか、嫉妬(オロチ)か。

 ゲルダの言う、大人になったら死ぬという定めにマスターも嫉妬してしまったのかもしれない。

 結局あの子とは突然家を飛び出したきりだ。果たしてどんな思いで自らの生の最期を迎えたのか。それはもう、永遠にわからない。

 なぜならばもう『いない』から。

 マスターがあの子を殺したから!!

 スカサハ=スカディの覚悟……神の覚悟は一切の揺らぎがなかった。しかしその果てにマスターに負け、(ソンブレロ)のように息を沈めて、消えた。

 恨み言の一つでもぶつけてくれても良かったのに。いやむしろぶつけてほしいと願ってもいた。

 だってそうしてくれないと、罪の意識が重くなるから。

 己のために、己の子を愛するために戦う神を殺すという極悪非道なマスターになってしまうから。……もうなってしまった。

 後戻りできないところまで来てしまっている。後ろを振り向くことはできず、前方にレールはない。通った後には何も残らない。異聞帯側からすればマスターこそが天災なのだ。

 

「私はあなた以上に酷い女だよ」

 

 もちろんあなたも酷い。

 あの死に様なんて、

 なんと儚く。

 なんと小さく。

 なんと美しく。

 なんと凛々しく。

 なんと力強く。

 なんと決意の満ちたものだったろう。

 

 そして。

 なんと無様なことか。

 

 きっとオフェリアにこのような想いを抱いているのはマスターだけだ。

 何がしたくてクリプターとなった。その答えはわからないが、カルデアの敵となったのならそれを最後まで貫いてみせろ。死に際にあんな幼稚な言葉など聞きたくなかった。

 思い返せば怒りが募ってしまう。しかしそれを冷えた部屋が冷ましてくれる。怒り、あたったところでオフェリアからは何の反応も得られない。

 勝手に蔑み、怒るだなんてそんなの……。

 

「……バカみたい、私」

 

 ヤメだ。

 これ以上もう関わるのはやめよう。顔を見るだけで不快感が燃えそうだ。もちろんオフェリアは悪くない。きっと根はいい女性なのだろう。ナポレオンが一目惚れしたと言うほどなのだから。ならばおかしいのはマスターだ。歪んだ感性を持っているマスターが悪いのだ。

 瞼を下ろし、眼球の観察を止める。

 もう用は済んだ。また会うときはきっと、マスターがその魔眼を真に求めた時のみ。そうであることを願う。

 部屋を出て、偶然すれ違ったスタッフにダ・ヴィンチにロックをかけてと伝言を預け、そそくさとマイルームに戻る。

 ベッドに身を投げ、泥沼の意識に沈む。

 まだ少しだけカドックの匂いがする。

 決して臭くはない、だが良くもない匂い。そうだった。彼はもういないのだ。だからもう、首を絞めてくれる人はいない。

 残念だ。非常に残念だ。短い間だったが、とても良い暇つぶし相手だった。自分の首を撫で、絞められながら見上げた彼の顔が鮮明に蘇る。

 

「カヒ……ヒュ、ク」

 

 ……いつの間にか自分で自分の首を絞めていた。

 頭に血が足りなくなり、曖昧になった感覚が苦しい。

 でもこの程度では足りない。彼の力はこんなものではなかった。女の力というのはどうしても軟弱だ。誰かに頼み込む……のは明らかに狂っているし、縄などで吊るのも違う。

 人によって絞められたいのだ。力の強弱を味わいたい。その人に自分の命を握られているという被征服感を味わいたい。その人の顔、息遣いなどを感じたい。

 

「おかしい……狂ってる。……狂ってる……? いや……違う……?」

 

 これは一旦置いておこう。

 最優先すべくは日記なのだ。

 現在鋭意複製中。ボロボロになった記憶から崩れないように丁寧にすくい上げてインプット。そしてアウトプット。

 それでもやはりどうしようもない記憶というものもいくつかあって、日記に空白となってしまっている部分がある。そこは潔く諦めるしかない。

 例えば第二特異点の……第二、特異点………………?

 

 ……なにがあったんだったっけ?

 

 急いで途中まで書いている日記を読み返し、なんとか零れ落ちることは防いだ。

 そうだった、薔薇の皇帝たちとアルテラを倒したのだった。どういった経緯でそうなったかは忘れた。マシュに訊けば話してくれるだろう。

 こんな調子では完成するのに長い時間がかかりそうだ。気の遠くなるほどの……ではないからまだ幸いか。

 身体中が痛い。包帯でぐるぐる巻きに……ミイラみたいにでもされないとこの痛みはずっと続く。想像以上に生活に割り込んでくる。

 この熱さを意識するたびに、あの巨人王の憎しみに彩られた真っ赤な目を思い出す。道半ばに倒れた彼の悔しさ。殺意の孕んだ目を惜しげも無くこちらに向けた彼の表情。

 皮膚に受けたやけどと同じように激しく焼き付けられた。

 新しい安眠を妨害するお仲間か。喜んで歓迎しよう。どうぞ好きに苦しめてもらっても構わない。マスターにはそれを受け入れる義務がある。大量殺人鬼としての罪を償わなければならないのだ。

 人を殺し、神をも殺す。これ以上罪深い人間は過去と未来においてマスター以外いないと断言できる。

 

 ゲルダの料理は本当に美味しかった。

 しかし、その出来事も、彼女のことすらもいつかは記憶から灼け落ちてしまうのだ。

 嗚呼、マスターはなんて罪深い女なのだろうか!!




ーーゲルダの涙よ、心を溶かせ。


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たとえあなたを殺してでも

ゲッテルデメルングのクリア記念に一話挟みましたが、とりあえず忙しい時期は終えたので投稿を。

fgo婦長「たとえあなたを殺してでも救う」
この小説婦長「たとえあなたを殺してでも救う」

何がとは言いませんが違いを感じてしまう〜〜。


 戦場のど真ん中。

 銃弾が飛び交い苦痛の悲鳴が永遠にこだまする。

 マスターは突然の状況に右往左往していた。何がどうなっているかなどわかるはずもなく、ただひたすらマシュの姿を探した。

 

「マシュ! マシュ!! どこ!?」

 

 彼女の戦闘衣は比較的目立つ見た目だ。そして何よりも高さ1メートル以上の盾を持っている。探し出すことは簡単だ。

 マスターのすぐ隣で地面が爆ぜる。遠く前方では軽く30を超える大砲が並べられ、休む暇なく火を噴いている。激しい爆音のドミノが耳を劈き、キーン、と脳の奥深くまで届く酷い耳鳴りにマスターは呻く。

 

「う……」

 

 はやくマシュを探さなければ。

 再び名前を叫ぶが、大砲の発射音にかき消される。

 原型をとどめていない死体の上を無感動に乗り越え、スカートに跳ねてしまった血を一瞥することもなく走り抜ける。

 無我夢中にマシュを探す。

 転がっていた首に足がつまづき、コケる。膝を擦りむき、ぐにゅぐにゅとした生肉の感覚を身体全体で感じ、血塗れになった礼装を気に留めずに顔を上げた。

 いったん動きが止まったことで周りを冷静に見渡せる少しばかりの余裕が生まれた。

 ゆっくりと見回して、ついにマシュを発見する。

 盾を構えて銃弾を防ぎながら必死に何かを叫んでいる。こちらには気づいていない。

 こんなところに長時間居座るのはあまりにも悪手だ。いつ流れ弾に身体を貫かれるかわからない状況はあまりにもマズイ。

 

「マシューー……ッッ!!!」

 

 あらん限りの声で叫ぶ。

 するとマシュがこっちを振り向いた。

 互いの存在を確認することができた。急いでこの戦場を離脱しないと。

 マスターは地を蹴り上げて走り出した。あまりの爆音の連続で耳が少し馬鹿になっている。

 

「ーーい!!」

 

 マシュが何かを叫んでいる。

 しかしそれをマスターは理解することができなかった。肺が苦しい。こんなにも必死に走るのはいったいいつぶりだろうか。鋭く息を吐き、できるだけ呼吸を乱すまいとリズムを保つ。

 残り10メートルと少しといったところか。

 ずっとマシュの叫んでいた言葉がようやくはっきりと聞こえてくるようになった。

 

「ーー危ない!!」

 

「………………へ?」

 

 危ない……? それの意味することは……。

 意味はマスターが理解するよりも先に逆に迎えにやってきた。

 瞬間、足元で爆発。

 爆風に吹き飛ばされ、身体が空に高く打ち上げられた。どっちか下か、どっちが上か。視界が逆転し、マスターは自分の身に何が起こったのかがわからなかった。

 通常ではありえない落ち方をして、運悪く右脚が逆の方向に折れ曲がる。

 そして何回も転がり、勢いが失われたところでようやくマスターの身体は動きを止めた。

 

「ヒュッ、コ……」

 

 たぶんこれは……砲撃にやられた。

 地面に無様に倒れ伏せ、ようやく理解した事態に、マスターは細い息を吐いた。

 指先一つ動かせない。まるっきり感覚が失われ、口の中でじゃりじゃりする砂が気持ち悪い。

 ゆっくりと視線を自分の脚に移すと、そこにはあまりにも酷い有様が広がっていた。

 膝の部分で曲がっているわけではなく、太腿の部分で曲がっているのだ。綺麗に後ろに。

 

「あ……ぁ……」

 

 足の骨が肉を突き破り、白い部分を剥き出しになっているのを見てマスターは吐き気を催す。

 そして全身を貫く激痛。恐ろしいスピードで流れる血。おおよそ耐え難い痛みにマスターは死を悟った。

 腰に携えた通信機から誰かの声がする。ロマ二か、ダ・ヴィンチか。もはやそんなことを気にしていられるほどマスターには余裕がなかった。

 果たしてどうすればよかったのか。どうすればこんなことにならずに済んだのか。

 それを考えることすらできず、マスターは重い瞼を閉じた。

 

 ◆

 

「……ふむ、どれをとっても致命傷ですね。ええ致命傷ですとも」

 

 誰かの声が聞こえた。

 

「う、ぁ……」

 

 マスターはうっすらと目を開け、上を見上げる。

 ここは少なくとも屋外ではない。おそらくテントだろうか。天井にあたるものが目に入る。

 薄暗い。

 孤立して吊るされているランプの火がゆらゆらと揺れ、時に明るく、時に暗く声の主を映す。

 もうこれ以上考えることができない。再びマスターは目を閉じ、意識を暗闇に沈めようとした。

 

「左大腿部が大きく抉れています。これは切断するしかありません。右腕……も、そうですね。とても酷い。同じく切断」

 

 何やら不穏な響きだ。

 マスターは懸命に意識を覚醒させようとして上半身を起こそうとした。しかしそれはできず、無駄なエネルギーを消費するだけだった。

 

「ああ、無理に身体を動かそうとしないでください。これ以上ベッドを血まみれにされるのは流石の私も困ります。なので早速治療を始めますね? 左の脇腹から脾臓が見えています。というより体外に出ています。この損傷具合は……無理ですね。摘出します。どうかご心配なさらず。脾臓はなくても生きていけます。感染症などへの抵抗力は落ちますが」

 

 ひとりつらつらと語る看護婦にマスターは命の危機を感じとった。

 しかし彼女の言っていることは事実。どうやら自分の身体はぐちゃぐちゃだ。それでもそういう身体的な危機ではなく、彼女から感じる危機だ。

 殺され……はしないだろうが、絶対にろくなことにならない。

 マスターはまだなんとか動かせる左腕を上げて、抵抗した。

 

「ま、待っで……やめ、て……」

 

「おや? まだそんな元気があったのですか? それなら安心です。ですが治療中に動かれては困りますので手足を縛らせてもらいます。……ああごめんなさい、痛いのはお嫌いなのですね。でもしょうがないのです。麻酔がもうありませんし。ですので、どうか歯を食いしばってください」

 

「ぇ、ち、ちょっと待っ……ん、んん!!」

 

 どこからか手に縄を持った彼女がマスターの四肢をあっという間にベッドの骨に縛り付けた。

 そして口に何重も縄を巻かれ、ただ呻くことしかできなくなった。

 ガチャガチャと医療器具を乗せたテーブルを引き寄せ、メスを器用に指で挟み、頭上のランプを台の上に乗せて患部を明るく照らした。

 マスターは看護婦に必死に目でやめてくれと訴えるが、まるで聞いていない様子だ。完全に彼女の思うがままに事が進められている。

 

「では始めます。さあ落ち着いて。多少の痛みくらい我慢なさい。女性は出産の痛みにも耐えられるのです。実は男性より女性の方が耐性があることを知っていましたか? ……いえ、それは今は関係のない話でしたね。目を瞑って。片腕と片脚をばっさり切られる痛みなんて屁でもありません。大丈夫。必ずあなたを救います。……たとえあなたを殺してでも」

 

「ん゛ん゛〜〜〜〜ッッ!!」

 

 迫る。看護婦の紅い目がマスターを見下ろし、鋭利な刃を皮膚に這わせる。

 看護婦のメスがマスターの大腿部を綺麗に切り裂く。赤い鮮血がツツ、と流れ、マスターの腰が浮く。

 そして焼き爛れ、真っ黒になった肉を切り落とすべく、恐ろしいスピードでマスターの肉に正確に刃を滑らせる。

 あまりに華麗な捌き。それゆえの高鮮度の激痛がマスターの身体を蝕み、暴れた。

 

「ん゛ーーーー!!!」

 

「頑張ってください。まだ治療は始まったばかりです」

 

 首を上げてメスで切る様を見る気力もない。

 死んでしまうのではという恐怖に身体を不自然にガクガクと震わせる。

 それにいちはやく気づいた看護婦は片手でマスターの腹部を抑えつけ、目にも留まらぬ速さで縄を巻いてこれ以上の挙動を防いだ。

 安心そうに一息ついた彼女は最後と言わんばかり、刃を肉の奥に食い込ませて一気に切り抜いた。

 

「ーーーーーー」

 

 べチャリ、と真っ黒になった肉が落ちる。

 自分の脚の一部分が切り取られたという事実が何よりも恐ろしく、いっそ夢であってほしいと強く願った。

 そうだ、そもそもまだ第五特異点になど来ていないのだ。いつも通りじわじわと襲いかかる苦痛の生活を過ごしているのだ。だからこれは悪い夢。夢の中で色んな冒険をするなんてことはよくある。だからこれはそういうことだ。

 

 だがら゛はやぐ、目覚め゛てよ゛ぉ……!!!

 

 目玉が飛び出さんほどに見開き、速やかな夢からの浮上を祈った。

 

「……ふう、次は脾臓ですね。こちらは比較的容易に終わりそうです。さあ頑張って」

 

 看護婦の手が涙の跡がよく見えるマスターの頬を優しく撫でる。

 マスターの反応はない。虚ろだ。しかし触れた瞬間、その瞳に絶望が彩られて逃れるように頭を弱々しく横に振った。

 

「ではいきます」

 

 左手で腹部を抑えつけ、ぐにゅ、と全体を晒した脾臓の接合部を躊躇うことなくばっさり切り落とした。

 不思議と痛みはなかった。しかし、切られた。無くなったというおよそ普通に生きていれば決して味わうことのない体験をしてしまったマスターは静かに身体の力を抜いた。

 看護婦が丁寧に接合部同士を縫い合わせ、腹のなかに押し込んで口を開けた横腹を縫って終わりだ。

 

「よく頑張りましたね。最後は腕です。特に酷いのでナタで一気に切り落とすのがベストなのですが、残念ながら今ここにありません。ので、応急処置です。これ以上の損傷を防ぐために……とりあえず骨を切除します」

 

「⁉︎」

 

 なんの悪意もないその恐ろしい言葉に、マスターの意識は完全に覚醒した。

 自分の腕を見る。確かに変な方向に曲がっているし、骨も複雑に骨折しているだろうが、果たしてそこまでする必要があるだろうか……⁉︎

 働かない身体に必死に鞭打ち、首を何度も横に振らせる。マスターにできる唯一の抵抗はたったそれだけだ。

 

「いいえ。いいえ。やめるわけにはいきません。私はあなたをなんとしてでも救わなければなりません。殺してでも、あなたを救います」

 

「んん゛ッッ!!!」

 

 割り箸のような細い金属の棒が傷口から容赦なく腕の中に入り込み、中を、ゆっくりと、そして丁寧に、丁寧に骨を探す。

 

「〜〜!! ッ、ん゛゛!!!!」

 

 痛みに腕が微かに震える。そのせいで金属棒が不意にさらに深いところを突いてしまい、マスターが口を塞がれたまま絶叫する。そんな負の循環。

 コトリ、とトレイに骨の欠片の置かれる乾いた音が聞こえ、同時にあと何度これを繰り返せばいいのかと暗闇に浸る。

 

 ああ、なぜこんな目に遭うのだろう。

 彼女はマスターを救いたいという本心、善意でやっているのだろう。だがそれが弱ったマスターをさらに無慈悲に責めたてる。

 痛い。どうしようもなく痛い。

 こんなの、拷問だ。

 こんなの、死んだ方が幸せなのでは?

 いや、死んだ方が絶対に幸せだ。

 誰か、誰か。

 助けに来て。

 

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 音。

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫。

 絶叫ーーーー…………。

 

 ◆

 

 マシュはマスターを探した。探し回った。

 あれからさらに攻撃が酷くなり、再びはぐれてしまった。なんという不運。二人が悪いわけではないが、あの砲撃から守ってやれなかったマシュは激しく自責の念に駆られた。

 マスターはきっとどこかで治療されているはずだ。静かになった戦場を越え、テントをあちこち回った。

 どこもかしこも負傷した兵士たちで溢れかえっている。もうどれほどの数のテントを探したのかすらわからなくなってきた頃、ようやくマスターを見つけることができた。

 ボロボロのカーテンをめくり、中に入る。

 酷い血の臭いだ。あまりの強烈な臭いにマシュは顔を歪ませる。そして見つける。

 四肢をベッドに拘束されたマスター。口は半開きになり、呆然と上を見上げている。

 

「先輩⁉︎」

 

 急いでマシュは駆け寄り、マスターを拘束する縄を全て解いた。

 左脚、右腕、腹と包帯でぐるぐる巻きにされている。だがそれはすでに血色に染まっていて、ベッドの毛布もすでに血が固まっている。

 マシュにはどのような治療がなされたのかはわからない。だがそのおかげでマスターは九死に一生を得た。

 急いで治療しなければ。

 盾の収納スペースから治療術式のスクロールを取り出し、マスターにかざす。すると魔法陣のようなものが光とともにぽわ、と浮かび上がり、瞬時に傷を癒した。

 

「大丈夫ですか、先輩!!」

 

「あぁ……ましゅ……」

 

 力のない返事だ。

 傷を修復中のようで、邪魔になりそうだから包帯を急いで剥がした。バリッと肉の一部が一緒に剥がれ、マスターが苦悶に脂汗を垂らして歯を食いしばった。

 肉体の再生が終わり、ゆっくりとマスターをベッドから起こした。ボロボロに破けた礼装を脱がし、別のものをまた盾から取り出して着せる。

 

「肉体の修復が終わりました。私が肩を貸すので、ゆっくり歩きましょう」

 

「……うん」

 

 拙い歩きで一歩、また一歩と確かに足を進める。

 そしてようやくカーテンまでたどり着き、それを開けようとした瞬間、逆に向こう側から開けられた。

 そこに立っていたのは看護婦だ。だがあり得ないことに片手にはとても凶悪なナタを持っている。

 

「……ひっ」

 

 マスターが一瞬だけ小さな悲鳴をあげる。

 それを聞き逃さなかったマシュはとっさに彼女を自分の後方へ押しやり、盾を構えた。

 

「……おや、珍しい格好の方ですね。どちら様でしょうか? 私はこれから治療をしなければならないのですが」

 

「あなたこそ、そんなもの持って何をするんですか⁉︎」

 

「何って……切断です。右腕と左脚をばっさり切り落とします」

 

「け、結構です! もう先輩は回復したので!」

 

「結構? いいえそれは違います。彼女は私の患者です。私は命を奪ってでも命を救う。その信念をもってここに現界したのですから」

 

 看護婦がにじりにじりマシュに近寄る。

 彼女はクラス分けするならば間違いなくバーサーカー。こんな暴れ馬が看護婦だなんてとんでもない。全く人の話を聞かないし。

 どうするかマシュは悩む。

 この女性は間違いなく一本では飽き足らず、五、六本は頭のネジが彼方へ飛んでいる。

 強引に退けてもいいのだが、一般人を相手にそれは良心が痛む。

 仕方ない。

 マシュが盾を持ち直して強引突破しようとした時、予想外なことにマスターが前に躍り出た。

 

「今、現界って言った、よね……? という、こと、はあなたはサーヴァント。そうで……しょう」

 

 マスターの指摘に、看護婦サーヴァントはそれがどうしたと腕を掴んでナタを振り上げた。

 

「ええそうです。私はナイチンゲール。さっそくあなたを治療……ふむ、本当に治っているようですね」

 

 サーヴァント……ナイチンゲールのあまりの行動の速さにマシュは反応できなかった。もし治療が間に合っていなかったらと想像するだけで身の毛がよだつ。

 ナタを下ろすと、ナイチンゲールは他の患者の治療があるのでと足早に消えてしまう。

 どうやらマスターの通信機は壊れているようだ。代わりにマシュが自分の通信機を使ってカルデアと連絡を取る。

 

「こちらマシュです。……はい、無事に先輩と合流できました。それにこの地に召喚されたサーヴァントもーー」

 

 一悶着あったが、無事にマスターと合流できた。ナイチンゲールを怖がっているのが少し心配だ。だがきっといつもの呑気さと陽気さで慣れてくれるだろう。

 これで第五特異点の調査も始められる。

 これからだ。

 解決は、これから始まるのだ。




次、神父さんと麻婆豆腐を食べるだけ。
これは身体的なダメージは皆無だから健全ですね(にっこり)

Q.脾臓は元に戻りましたか?
A.…………。


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嵐の前に

この小説はマスターちゃんがとことん傷つけられる内容ですが、ふとマシュの闇落ち小説を書いてみたいなぁと思って設定とか上の空で考えていたらすでに二次に既出で、設定も似ていたから(たぶん)断念。

シグルド二人、やりました。
おかげさまでキャスギルが宝具レベル4になりましたわよ、奥様(白目)


 外からの訪問者達との水面下の睨み合いは未だ続く。嫌な空気だ。

 あのゴルドルフという男、第一印象は典型的な小者だが、考えることはそれなりにしっかりしている。ここ数日の様子を観察するに、秘書官のような女性がほぼ常に付きまとっている。神経を逆撫でするような性格で、様々な人物と関わってきたマスターの勘が危険信号をガンガンと発している。

 ほぼ無人の通路を右折。食堂へ。胃がキリキリと痛む。ゴルドルフ新所長の私兵たちと時々すれ違う時の目線が怖い。特にあの秘書官とは顔も合わせたくない。彼女の目は、完全にマスターを何かのために品定めをするそれだった。

 しかしそれも少しの我慢。年明けと同時に帰るからそれまでの、だ。

 全て終わった。終わったのだ。悲しいがカルデアと別れを告げ、家に帰って両親にただいまを言って……言って……。

 

 両親の顔が思い出せない。

 

 声も思い出せない。思い出を何ひとつ思い出せない。

 きっと感じたことがあるだろう家族という温もりも。

 しかし両親の顔くらいはダ・ヴィンチに尋ねれば自分の経歴とかで容易に見せてくれるだろう。なら大丈夫だ。完全に記憶から焼却されることはない。

 無人の食堂はこんなにも広かったのか。

 英霊たちはダ・ヴィンチとホームズを除いて皆退去してしまった。いつもあれほどうるさかった日常がまるで幻のようだ。

 料理担当のエミヤ氏がいないから、空いた小腹を満たすために調理台に立った。

 冷蔵庫を漁り、適当に簡単に作れそうなものを探す。

 

「うーん……」

 

 あれもダメだこれもダメだとひとり悶々としていると、突然後ろから誰かに話しかけられた。

 

「麻婆豆腐を食べようではないか」

 

「ひゃん⁉︎」

 

 猫にも負けないほど高く飛び上がったマスターは横に飛んだ。

 青黒い修道服に、どこか自信ありげな表情の男。

 

「えっと……」

 

「言峰綺礼だ。神父をやっている」

 

「ああ……あの時の。えと……はい、覚えてますよ」

 

 驚きのあまり腰が抜けそうになったが、なんとか抜けなかったことに自分自身も内心感心しながら立ち上がる。

 アサシン顔負けの隠密性だ。マスターもそれなりの死線を潜ってきた身。しかし全く彼に気づくことができなかった。所詮はただの人間。頑張るだけ無駄だ。

 

「腹が減っているのだろう? ならば麻婆豆腐だ。タイミングのいいことに、私も腹が減ったのだ」

 

「はあ……」

 

「気にするな。私が料理する。君は適当に席に座って待っておきたまえ」

 

「んー、なら……はい、お願いします」

 

 必要な材料や器具などの場所を教え、大人しくマスターは言峰に料理を任せることにした。

 ひとりポツンと席に座り、彼を待つ。

 ゴルドルフ新所長と彼は正反対のような人間だ。言峰は実に近寄りがたい男なのだが、意外にそんなことはなく話せば悪くない男かもしれない……?

 だが考えていることが何ひとつわからない。

 沈黙を守るマスターに掛け時計の秒針はチクタクと静かに時が進むのを伝える。やがて果たして誰も食堂にやって来ることはなく、ほくほくと湯気が昇り、美味しそうな麻婆豆腐がマスターの前に置かれた。

 言峰はマスターの隣に座る。

 レンゲを渡され、受け取る。

 腹の虫がそろそろ騒ぎ始めそうだ。実にいい出来だ。色が赤黒く、匂いも……。と無意識に脳内審査をしている最中、はやくも第二項目で行き止まりにあう。

 

「さあ、食べたまえ」

 

「これ、すごく辛いのでは……?」

 

「何を言う。辛くない麻婆豆腐など麻婆豆腐ではない。ただの豆腐だ」

 

「さすがに言い過ぎじゃないですか……⁉︎」

 

 そんなマスターの狼狽に脇目も振らず、言峰は黙々と麻婆豆腐を食べ始めた。レンゲですくい、数度息を吹きかけて口に運ぶ。

 漫画表現で、辛いものを食べて火を吐くあれ。まさにそれのようにはふはふと赤くても不思議でない息を吐きながら汗を流して食べる。

 その姿はなんだかただの中華好きのおじさんに見えてしまって少し面白い。

 マスターはガラスコップを二つ持ち出し、ポットから水を注ぐ。キンキンに冷えたそれはコップの表面に結露を生じさせる。

 

「水はありがたいのだが、私はあえて飲まない派なのだよ」

 

「それはなかなかですね……。やせ我慢ですか?」

 

「……さあどうだろう」

 

 自分でもわからないのですか。

 マスターもレンゲですくう。普段見るような麻婆豆腐とは根本的に違う。

 料理をお願いして今さらやっぱりダメですなんて失礼なことはとても言えない。内心涙目でマスターは口に運ぶ。

 そしてみるみるうちに顔が紅潮し、コップをガッ! と掴む。喉奥に流し込み、手で扇ぐ。

 

「か、辛……ッ!」

 

「そう神経を張り詰める必要はない、少女」

 

 そう言っている間にも言峰はぱくぱくと食べる。この男には辛味という味覚だけいかれているのではないだろうか。いや間違いなくいかれている。

 一口食べる度に水を大量に飲むマスターを置いてけぼりにし、ついに十分足らずで完食してしまった。

 最後に「……ふう」と熱い息を吐き、ようやく水を口に含む。

 

「む? 全然食べていないではないか。世の中は辛いことだらけだからな。これくらいで根を上げてどうする」

 

「卵を混ぜたら美味しそうですね……」

 

「邪道」

 

 完全に滅入ったマスターの一言すら言峰は容赦無く切り捨てる。

 

「……そうだな、少し舌の休憩だ。その間に面白い話でもしようではないか」

 

 言峰が空になったマスターのコップに水を注ぐ。

 マスターはふたつの意味で感謝を口にし、ついに許された休憩を全力で休憩に勤しむ。

 

「もし、我々のいるこの世界が間違っていて、滅ぼされるとしたらどうする?」

 

「……?」

 

 予想の斜め上をいく彼の問いに、マスターは小首を傾げた。なんでもない世間話……はないだろうが、そんな話題が上るとは露にも思わなかった。

 途端に滅ぶとか重苦しい話題を持ち出すとは、この男は本当に神父なのだろうか?

 

「そのままの意味だ。で、君はそれを受け入れるか?」

 

「それって死ぬってことですよね? なら全力で抵抗しますよ」

 

 まるでゲーティアとの戦いを振り返らされているみたいだ。

 未来を奪われ、それを取り戻した。ゲーティアの逆光運河・創世光年を防いだ。悲しみのない、幸せのみあふれた世界を創造しようとした彼を止めた。

 

「ふむ、では相手側に背景を付け加えよう。我々の世界を滅ぼさないと相手の世界が滅びる。それでも抵抗するか?」

 

「します、ね」

 

「相手は自分たちの世界を守るために死に物狂いで襲いかかってくる。それでも?」

 

 この男の意図が読めない。

 

「……はい」

 

 マスターのたった二文字の応えに、言峰は楽しそうに口角を僅かに上げた。

 

「そうか。そうか。君はとても面白い。私は君に興味が尽きない」

 

「な、なんですか。変な意味じゃないですよね?」

 

「まさか」とかぶりを振って、言峰はクク、と笑った。

 

「そもそも誰が何を基準にして世界を剪定するのか。もしカルデアの介入がなく、ジャック・ザ・リッパーがロンドンで猛威を振るっていたら? 近々やってくる第一次世界大戦でイギリスはそれどころではなくなってしまう。もしかするとそのせいで負けていたかもしれない。それは果たして間違えているのか?」

 

「……」

 

「もしカルデアの介入がなければ、ギルガメッシュはティアマトに敗れ、人が神に縛り付けられる時代が続いていたかもしれない。それは果たして間違えているのか?」

 

 彼が何を言いたいのかが何もわからない。

 とうに舌が十分に休憩するだけの時間は過ぎたというのに、言峰の話はまだ終わる気配を見せない。

 

「これから続くであろう無数の人類史。不要と判断され、切除されまいと必死に足掻く。それは人間とて同じだ。そして私はその様を見るのがとても楽しい。君はどちら側の人間だ?」

 

「……私はきっと、足掻く人間です。これまでだってそうしてきたし、カルデアから去った後も、色々と壁に当たります」

 

 日常生活に戻った後は、失った時間を取り戻すのに必死になる。

 たぶん学校……に行っていたはずだから、そこに通わなくてはならない。しかも学力は大きく低下しているだろう。他の生徒と同レベルまでになるには人一倍などでは足りない、二倍も三倍も勉強しなくてはならない。

 そして大人になり、結婚し、子を授かり、生きる。

 これが魔術とは関係のない者の人生だ。その道をこれからマスターは歩むのだ。

 

「ん? 君は大きな勘違いをしていないか? 世界を救った英雄が普通の生活を送れると本気で思っていたのか? 君を喉から手が出るほど欲しがっている連中はそこら中にいる。カルデアから去ってみろ、あっという間に拉致されて封印指定。身体をいじられ、永遠に実験台にされるのは目に見えている」

 

「え……」

 

「まさか本当に知らなかったのかね?」

 

「じゃあ私はもう……」

 

「家には帰れない。永遠に家族とは会えない。このカルデアに縛り付けられ、死ぬまでここにいる。君はそもそも足掻く人間でも、観賞する人間でもない。被虐の塊なのだよ」

 

 言峰の言葉が胸の奥に深く突き刺さる。

 彼は笑みが溢れるのを見られまいと口元を手で隠しているが、その小さな嗤い声は確かに聞こえている。

 マスターは怒らなかった。なぜならば全くその通りだからだ。

 たったひとりのマスターとして戦うことを余儀なくされ、およそ体験することのないだろう。たくさんの苦痛、絶望、悲哀を味わった。そしてそれらを全て生き抜き、今ここで椅子に座って言峰の話を聞いている。

 だが今さらそんな辛い記憶を掘り返さないでほしい。辛い記憶……いや、それしかない。特異点での記憶は、全て、全て忘れたくなるほどのものだ。

 

だから(・・・)君はとても面白い。所詮は背後から心臓を貫くのが趣味の神父の戯言だ。そこまで真剣に受け止めなくーー」

 

 ようやく話は終わるそうだ。

 しかし、マスターには意地がある。被虐と言われ、まさにその通りである被虐のマスターだって、生きている。

 神父のように導いてくれそうな人では決してないが、そんな悪魔みたいな彼に言いたいことがある。

 

「……それが、どうしたのですか」

 

「……む?」

 

 冷えきった麻婆豆腐を一気に食べ、マスターは言う。

 

「確かに私は被虐なマスターなのでしょう。でも……それでも必ず生きてみせますよ。被虐ながらも、足掻いてみせます」

 

「……ははっ」

 

 どうやら今の答えに言峰は大満足のようだ。

 立ち上がり、マスターから離れる。

 追いかけることなくマスターは彼をじっと見つめる。まだ残っているマスターのコップを見て、言峰はまた面白おかしく嗤う。

 

「ーーどうやら君は、演技が下手なようだ。その熟練度から察するに……一年半ほど前とみた。ほぼ全員を騙せているらしいが、私には通じないからな?」

 

「ーーッ」

 

 彼の方が一枚上手だった。

 心臓がキュッ、と引き締まり、思わず鋭い目で言峰を睨みつけてしまう。

 見破られた。たった一度の食事なのに、それだけで。

 料理は作ったから、後片付けはよろしくと言峰は食事のドアを開けて出ていく。

 

「そうそう、言い忘れていた」

 

 まだ何かあるのか。

 もうこれ以上神父もどきの話を聞きたくなかった。なんだか身体の何もかもを晒され、見られ、嗤われる。そんな胸を掻き毟りたくなるような気持ち悪い感覚。

 

「滅ぼす滅ぼされるの話だ。君がもし滅ぼす側に立った時、躊躇いなく相手の世界を滅ぼすことができるか?」

 

 それだけ言い残し、マスターの返事も聞かずに出て行ってしまった。

 恐ろしい男だ。

 一緒にいて、息ができていたのが不思議なくらいだ。

 遅れて、息がつまる。あながち心臓を貫くのが趣味というのも間違っていないだろう。

 食事の際は喉の渇きなど一切感じなかったが、今はなぜかカラカラだ。ぬるい水を喉奥に流し込み、まだ足りないと二杯目を飲む。

 彼も十分に警戒すべき相手だ。秘書官とはまた違ったベクトルで危険な人物。

 痺れかけた脚に鞭打ち立ち上がる。そして自分の皿と、言峰の皿を重ねた。

 

 ◆

 

 たった五日ほどの滞在なのに、それ以上の長さを感じる。

 三日目の昼である。

 そろそろホコリなどが目に見えて溜まる頃だ。ダ・ヴィンチに伝え、箒をもらう。

 カルデアの通路は広く、長い。ひとりで掃除するにはとんでもなく時間がかかるが、時間はたっぷりある。

 レイシフトを凍結され、何もすることのないマスターにはうってつけの仕事だ。

 端っこなどにホコリは溜まりやすい。念入りに丁寧に箒ではき、ゴミを集める。ある程度集めたところで一度捨てる。その繰り返しだ。

 

「ふう」

 

 水を飲んで、ひと休憩。そして再開。数時間で随分と進む。しかしやはり人手が足りない。

 マシュを呼んで手伝ってもらうか? と箒をはきながら考えていると、足元に誰かのハイヒールが見えた。

 

「あら? マスター様がゴミ掃除をしているのですかぁ? お疲れ様ですねぇ〜」

 

 その声だけで誰かわかってしまう。

 会いたくない人物、第2位をぶっちぎってる第1位の女性。

 セクシーな脚から見上げ、爆発的な胸、そして下等生物を見下しているかのような目。良妻を自称するサーヴァントとよく似ている女性。

 コヤンスカヤだ。

 

「汚いエプロンなんてして。まるで逆シンデレラですね。輝かしい栄光を手にしたのに、こんなことをしている」

 

「通路が汚かったらあなただって嫌でしょう? だから私がしているんです」

 

「まあ!」

 

 頭を振る。長い桃色の髪がばさりと波打つ。

 メガネをクイッと指で上げ、クスクスと目を細めて笑う。

 

「なんと健気で可愛らしいことでしょう! でも残念、あなたに王子様は振り向かないし、あなたを助ける魔法使いもいません!」

 

 カツ、カツ、と甲高いヒールの音を響かせてコヤンスカヤはマスターを壁まで追い詰める。

 とても甘い匂いがして、マスターはコヤンスカヤを見上げる。彼女は『にっこり』と微笑んで、片手でマスターの顎を持ち上げた。

 そしてこれ以上近づかれたら接吻してしまうほどの距離まで顔が迫り、口を開く。

 

「でも安心なさい? 私が魔女としてあなたを壊してあげるわ。心をぐちゃぐちゃに、どろどろにね。そして私の肉人形としてベストコレクションにしてあげる。私に身も心も犯されるのよ。……ああ、考えるだけでも身体がぞくぞくして鳥肌が立ちます……!」

 

 顔を紅潮させ、熱い息を吐く。

 その匂いも蕩けるほど甘ったるく、脳髄に強く染み付く。

 力が抜けてしまう。コヤンスカヤがマスターの顎から手を離すと、ぺたりと膝をつく。

 

「あらあら。可愛らしい」

 

 全く、本当に人を虐めるのが得意だ。

 だからあの女性は嫌いなのだ。

 箒を握りしめ、産まれたばかりの子鹿のようにマスターはふるふると壁を使って立ち上がる。

 楽しそうに笑いながら去っていくコヤンスカヤを、マスターはただ見届けることだけしかできなかった。

 こんなに辱められるのはもう嫌だ。だからといって抵抗することはできない。彼女たちは査察官。事が起きればカルデアに損が生じる。それだけはどうしても避けなければならない。

 悔しい。でもあとたった数日の我慢だ。だがらきっと……大丈夫。

 

 いつの間にか、マスターの袖は濡れていた。




次。
いけない子


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星の報せ

実はマスターだけBBから特別条件が課せられていて、そのせいで何百回もマシュたちより多くループしている、とか妄想してしまいましたぁ!


 夜とは深い闇である。夜は負の意味を持つ事が多い。しかしそれは本当にそうだと言い切れるのだろうか?

 薄暗い森林をメフィストフェレスと歩く。夜を彩るフクロウの膨らむ鳴き声は聞こえず、夜虫の静かな鳴き声も聞こえない。

 メフィストの腕に絡む無数の小さな爆弾がジャラジャラとうるさい。いつか誤作動で爆発したりしないのだろうか。とても危険だが、したらしたでまあまあ面白そうだ。

 

「んん〜〜! 聞こえますねぇ!! 人々の喧騒がっ! 罵り声がっ!!」

 

 相変わらず気持ち悪い奇声を発す。

 マスターは耳を抑えて呻く。

 アビゲイルの夢の中とはいえ、寝起き(?)状態のマスターにはキツイ目覚ましだ。

 頼れるサーヴァントはこの爆弾魔のみ。無い物ねだりは意味がないし、仕方がないと言われればそれまでだ。

 半ば早歩きで森の中を歩き、ついに木々の間から村が見えてくる。

「キヒヒッ」とメフィストがしゃくりあげたように笑う。彼の視線の先では人だかりができている。

 嫌な雰囲気だ。大人が。子供が。誰か一人をはやし立てている。

 

「全部、全部、ア……その子が……!」

 

 子供たちが喚く。

 薄暗い月光に照らされ、責任転嫁の言葉を浴びせられる幼い少女はゆっくりと微笑んだ。

 

「あなたたちも聞こえたでしょう? 見えたでしょう? 闇に紛れて囁くあの声が。教会の天井に張り付いていたモノが」

 

「う、うるさい。黙れ! 口を塞げ! 耳に砂を詰めろ! あれは悪い夢だったんだ。もうたくさんだ!」

 

 頭を抱え、忌々しい記憶から逃れようと爪で皮膚すら裂いて懇願するようにひとりの村人が少女に訴える。

 

「夢? あれは夢? いいえ? とても面白いご冗談ね?」

 

 少女はひらりと黒い服を靡かせ、言葉を紡いだ。

 

「このセイレムに悪はなかったのだ。すべては疲弊した精神から生まれたもの……。不当な判決で処された者たちの名誉も直に回復するだろう」

 

 彼女の言葉に反応したのはとある男だ。そしてその姿を見た瞬間、マスターの中でセイレムの記憶がどっと溢れかえった。

 あの男は……判事だ。グールとなってマスターを不当に裁き、吊り首にした判事だ。

 血が凍える。

 間違いないトラウマを植え付けられたマスターは息を詰まらせた。あの時の苦痛。忘れるはずもない。忘れられない。

 何も見えない暗闇の中で首を吊られたあの苦しさ。幻痛が首筋をキチキチと締め付け、無意識にマスターは首に手を伸ばした。

 

「どうされましたか?」

 

「ううん……なんでもないわ」

 

 かぶりを振り、マスターは足を進める。

 あれはもう、過去のことだ。もう二度と味わいたくない。

 腰の高さほどある雑草をかき分け、さらに村人の様子をよく見れるように近づく。

 

「あれが神様からの試練だったとでも言うの? そんな都合のいい言い訳が通じるとでも思っているのかしら?」

 

「ぐっ……」

 

 判事が押し黙る。

 

「結局、誰も私と同じものを見ていなかったのね……」

 

 ついに村人たちを次々に論破してみせる少女の姿がはっきり見えるようになった。

 アビゲイルだ。

 空を見上げ、物憂げに涙を浮かべる。

 誰も彼女の言葉に耳を傾けないのだ。誰も彼女の言葉を違うと否定するのだ。

 あの惨劇は確かに存在した。それを指を咥えてただじっと事が終わるのを待ち、のうのうと生き延びた人たちが、今! ここにいる!

 そしてそれを『なかったもの』として終わらせようとしている。

 

「この罪は何度生まれ変わっても晴れることはないわ……」

 

 アビゲイルがうつらうつら訴える。だがそれすらもまるで聞き入れない。

 そしてついに、アビゲイルの想いが爆発した。

 

「魔女は、ここに……確かにいたのよ!!」

 

 もうこれ以上見ていられなかった。

 いちはやくマスターのしようとしていることに勘づいたメフィストの制止を振り切り、村人たちの前に躍り出た。

 

「アビゲイル・ウィリアムズ!!」

 

「!!」

 

 その名を持つ少女がこちらを振り向く。

 それと同時に村人たちの目線がこちらに向く。ほぼ全員、見たことのある顔だ。そのいくつもの表情にあるのは驚愕か? 畏怖か? 憎悪か? 憤怒か?

 それは今はどうでもいい。とにかく、アビゲイルを止める事が先だ。

 

「アビー。落ち着いて」

 

「マス、ター?」

 

 マスターは棒立ちになった村人たちの山をくぐり抜け、そっとアビゲイルを抱きしめた。まだ心も身体も幼いのに、よくここまで言いきってみせた。その精神力は大変素晴らしいが、これ以上は良くない。

 彼女に震えはなかった。しかし、胸にじわりと染みる彼女の涙を感じた。

 

「私、私……なんだかおかしいの。まるで私が私を操っているような変な感覚なの」

 

「ゆっくり息を吸って。吐いて」

 

 すー、はーと深呼吸を繰り返し、アビゲイルはようやく落ち着きを取り戻す。

 

「変な気分だわ。とても、変」

 

「うん……うん。私がいるからもう大丈夫……大丈夫だからね」

 

 メフィストはまだ遠くでこちらを見守っている。

 村人たちもようやく状況を飲み込み、一気に興奮が高まる。なにせあの座長が再び姿を現したのだ。すべてはマスターが来たところから始まった。急変した。

 怒りか。怒りだ。

 

「お、お前はあの時の座長……!」

 

 誰かがわなわなと拳を震わせながら喘ぐように叫ぶ。

 マスターはそれを黙って聞き入れ、静かに彼らを見据えた。

 

「からくも神の試練を乗り越えたというのに、またか! また私たちは苦しめられなければならないのか!!」

 

「忘れろ! 忘れろ!!」

 

「ようやく立ち直ろうとしているセイレムに汚れたお前たちは必要ないんだッ!」

 

 糾弾の罵声がマスターとアビゲイルに容赦なく降り注ぐ。

 

「なかったことにするなんてひどい……。亡くなった人たちを冒涜したいわけじゃないわ。私が生まれ育ったセイレムでの、辛かったことも……楽しかったことも……」

 

 あの時と記憶が被る。

 あれはそう……アビゲイルが自分を魔女と告発したのに、誰も聞き入れなかった時と同じだ。

 誰もがアビゲイルを避ける。誰もがアビゲイルを否定する。

 そんな村人たちが、本当に試練を乗り越えたと言い切れるのだろうか。

 マスターは怒らなかった。皆が皆、聖人のように素晴らしい人格を有しているわけではないのだ。きっとマスターも村人の側に立ったら、嫌な思い出を忘れさせまいとする外部の人間が憎たらしく思うだろう。

 

「この、こノ……神をオソれヌ小娘ドモガァッ!!」

 

 判事が汚れた呻き声をあげる。

 すると突然、肉体が驚異的なスピードで腐敗していき、グールになってしまう。

 それが伝播し、たった数秒で村人全員がグールになってしまう。

 マスターは心の中でため息を吐く。

 なんだ、悪は『そこ』にいたんじゃない、と。

 

「ギィアアアアアア!!」

 

 ひとりがアビゲイルに襲いかかる。

 

「メフィストッ!!」

 

「いつでも参加できるよう待機していたメッフィー、満を辞して登★場! さきほどから私の可愛い可愛い爆弾(ベイビー)ちゃんたちがウズウズしていましてねぇ?」

 

 無駄口をふたつみっつほど抜かしながらもメフィストはそれを弾き飛ばした。

 しかしひとり、またひとりとその波は引く様子はない。

 

「やめてマスター! あの人たちは本当は優しい人なの。マスターにとってのカルデアの仲間たちと一緒なのよ?」

 

「……それでも、仲間が傷つけられるのを黙って見ていられない」

 

「マスターは……いけない人ね」

 

「ずっと前からだよ」

 

 メフィストに指示し、迫るグールたちを退ける。

 

「魔ジョめ! 魔女メ!! オ前さエイなけれバ私タチはシアワせに生きテイラれタとイウの二! また首ヲ吊ってヤル! イヤまだ足りなイ。その穢レタ身を燃やサれながら、死ねッッ!!」

 

 判事が手をマスターに伸ばす。

 距離はとても届く距離ではなかったが、空想の手がマスターの首を確かに掴んだ。実際には掴んではいない。

 しかしなぜかギチギチと締め付けられる幻痛に襲われる。

 痛くはなかった。なんというか……心……というべきか、概念というべきか。それに当てはまるものを攻撃される。

 

「私が……私がセイレムの魔女よ!!」

 

 そう叫ぶアビゲイルを必死に守り抜く中で。

 ポキッ、と。とても乾いた音が無音で鳴り響いた。

 

 ◆

 

「ッ⁉︎」

 

 目が覚めた。

 後味の悪いそれにマスターは心を落ち着かせようと深呼吸する。

 となりではつぶらな瞳をパチクリを開くアビゲイルが静かにマスターを見つめていた。

 

「ごめんなさい、座長さん。私が一緒に寝たいなんて言ったばかりに……」

 

「いや、いいんだよ」

 

 背中にパジャマが汗で張り付いている。とりあえず適当にタオルで汗を拭き、洗面台に立って顔を濡らして眠気を覚ます。少し気分が悪い。

 

「気持ちが落ち着くまで、カルデアの中を散策するのはどうかしら?」

 

「そう、しよっか」

 

「ええ」

 

 鋭い自動ドアの開く音。

 アビゲイルはマスターの手を握って通路に出る。

 夜だから通路は最小限の明かりしかない。刑部姫の部屋の前を通っても、FPS特有の銃撃音が聞こえない。前々から苦情が来ていたものの、一向に止む気配はなかったがついに観念したか。

 恐ろしいほど静かだ。もしかしてもう寝てしまったのか……? それはないか。昼夜逆転しかけている彼女に限ってそれはない。

 やはり誰一人いない。次第にマスターの中で疑念は大きくなり、渦巻く。

 

「ここはとても広いのね、座長さん?」

 

「でしょう? 部屋もたくさんあって、すごく楽しいよ」

 

 ふふ、とアビゲイルが笑う。

 大浴場……の横を通り、「ここは?」と尋ねるたびにマスターは丁寧に教え、アビゲイルは楽しそうに頷く。

 

「楽しいわ座長さん。私、ずっと座長さんのいるところに行ってみたかったの」

 

「それはよかったよ、セイレムの(・・・・・)アビゲイル」

 

 そう言うと、アビゲイルは寂しそうにはにかむ。

 マスターはそっと彼女の小さな身体を抱き寄せ、力強く抱きしめた。

 安堵するような、満足するような息がほう、と彼女の口から漏れる。

 やはり、というかさっきからの言動から想像するには容易かった。

 手はまだ握ったままだ。ぎゅっ、と手を強く握られ、マスターもそれに応える。

 

「星辰の合の間だけ……夜明けまでの、ほんの少しの時間しかいられないの。だからまた会えて嬉しい」

 

「そんなこと言わないで。いつでも会いに来てくれていいんだからね」

 

「いくつもの幸運が重なって……あなたが私を想ってくれて……そのおかげでここに立っていられるの」

 

 本当の私はまだ旅の途中。ずっとずーっと、気の遠くなるほど向こうに私はいる。と目を伏せてそう言う。

 マスターには彼女が具体的にどのようにしてここまでやって来たのかはわからない。きっとレイシフトよりも遥か高次元の方法なのは間違いない。

 

「今日は懐かしい思い出に浸るためにここに来たの。私のことを覚えているのはもう、座長さんとマシュさんと、数人のサーヴァントだけ」

 

 しだいにアビゲイルの様子が目に見えて変わってゆく。これがフォーリナーだからなのか、それは知る由も無い。なぜならフォーリナー自体、特例中の特例のエクストラクラスなのだから。

 彼女の興奮が高ぶってきている。

 

「座長さんの顔が見たかったの。でもダメ。この気持ちが抑えられないの。私は…………いけない子ね」

 

 突如、アビゲイルが爆発的な魔力の暴走を起こし、あのセイレムで、魔女と自称した姿に変容する。

 病的なまでに白い肌。真っ黒の花で彩った服。霊基再臨。

 アビゲイルはマスターの手を握ったままだ。

 

「ねえ、行きましょう座長さん? 星の報せがあなたに届いたの」

 

「星の報せ?」

 

「あなたはもう、ここ(・・)にいるべきではない。それは自分でもわかっているはずでは?」

 

 心当たりが、ないわけではない。むしろありすぎる。そのせいでアビゲイルが言わんとしていることがいまいち理解できない。

 

「……」

 

「私と旅に出ましょう? ラヴィニアを探しましょう。私ひとりだったら寂しいけど、座長さんとなら……とても楽しいに違いないわ」

 

「……」

 

 しだいにアビゲイルの霊気再臨は進み、大きくて太い、雄々しい触手までもが具現化する。それらはマスターの身体を優しく撫で、こちらに寄せようと腰を掴まれれ。

 抵抗は無意味だ。そもそもサーヴァントにマスターが敵うはずがないのだから。アビゲイルの前まで移動させられ、嬉しそうに抱きつかれる。マスターはそれを大人しく素直に受け取った。

 

 そして、マスターはゆっくりとアビゲイルを引き離した。

 

「え……座長、さん……?」

 

 まるでおもちゃを取り上げられた子供のように目尻に涙を溜め、マスターを見上げた。しかしマスターは首を横に振る。

 マスターにはまだ、使命があるのだ。ゲーティア、魔神柱との決着はついたが、マスター個人として、まだやらなければならないことがある。

 罪への償い。

 アビゲイルの勧誘に、惑わされる余裕はない。

 

「ダメだよ、アビー」

 

「ど、どうして……」

 

「こんな誘拐じみた方法で私は一緒に行きたくない。それに、アビーも私もまだ、終わっていないでしょ?」

 

 正論を突きつけられ、アビゲイルは黙る。

 マスターが口を開く。

 

「薔薇の眠りを越え……」

 

「「窮極の門へと至る……」」

 

「そう、アビーはまだ、未完成。わかるでしょう?」

 

 ぎこちない動きで顎を下げる。

 きっとやろうと思えば本当にマスターを連れて彼方へ飛び立つことができるのだろう。しかしそれはダメだ。ふたりとも、まだ未完成だからだ。

 

「でも、でも! 星の報せが……! ここ(・・)にいても座長さんは苦しむだけ。それよりここ(・・)ですらなくなってしまうのっ!!」

 

「それは、未来のことかな?」

 

「…………」

 

 失言だったようだ。

 ハッ! と目を見開くが、手遅れだ。マスターは微笑み、今度はマスターからアビゲイルを抱き寄せる。

 すると、雄々しい触手たちは消え、霊基も落ち着き、いつものおとなしい彼女に戻っていく。

 

「別にアビーが嫌いだからとかじゃないわよ? 何年、何十年後かはわからない。私なんてよぼよぼのおばあちゃんになっているかもしれないし、とうに死んでいるかもしれない。でも、ずっと待ってる。あなたと私が完成した時、また私を誘ってくれる?」

 

 たとえ星の報せによってマスターの未来が予言されていようとも、やることは変わらない。

 これまでマスターの無知、無力のせいで死んだ者たちへの償いを続けるのだ。その決意は誰も揺るがすことはできない。

 

「本当にそれでいいの?」

 

「もちろん。ずっと前から覚悟していたことだから」

 

「……そう。なら、いつかまたお迎えに上がらせてもらうわ。今度は、完成した私が。絶対に。だからその時は……」

 

 誰もいないカルデア、氷に閉ざされたが如く静まり返ったここで、とある言葉が重なって、溶ける。

 ふたりの少女は笑って、別れを告げる。

 それは遥か長い長い時間の約束。女の子同士の、秘密の約束。

 束の間の談笑を交わし、来訪者(フォーリナー)は元の自分へと帰っていく。胸に刻み、決して失われない、ふたりの絆。

 

 ーーそんな、夢のような出来事だった。




突然のあれですが、たぶん次で最後の投稿にします。


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Step! 0→1

超短いです。


 2015年8月◯日

 

 突然だけど、日記をつけることにした。

 新しい日常が始まるから、ついついこういうものに手を出してしまった。毎日ランニングする! と宣言したくせしてたった1日で終わってしまう、そんな三日坊主が得意な私だけど、今度こそは頑張ってみせようと思う。

 カルデア? とかいう名前のところで働くらしい。超極秘の機関のようで、どうして私が、という疑問が絶えないけど……まあいっか。どうせ考えても私にわかるわけないし。審査基準とかよくわからないし、何かの適正が高いことが要因だったとのこと。

 ともあれ私は明日から家を出て、カルデアに行く。家族と別れるのはとても寂しくなるが、そこまで長期間ではないと契約書に書いてあったから大丈夫だ。私にかかるお金が大量に節約できるね、と言ってみたら、そのお金で美味しいものが食べられるな、と返された。おのれ父さん母さんめ、私が帰ってきたら感想をつらつらと述べる気なのが手に取るようにわかる。涙がポロリ。

 荷物はすでにまとめた。下着とか日常用品とかはちゃんと突っ込んでいる。巨大なスーツケースを用意したんだけど、私以外にカルデアに行く人はいったいどんな荷物を持って行くのだろう? 誰が行くかなんて知らないから聞くこともできない。……どうか浮いていませんように。浮いていたら、私は無事恥辱にまみれた初日を送ることになるだろう。そう考えたら今からでも荷物の詰め直しをしたくなってきてしまう……けど、やめやめ。もうこれでいいのだ、うん。

 そしてどうも携帯は持っていけないらしく、泣く泣く解約しておいた。しかしそもそも携帯は随分と古く、容量も少ないから帰ってきたら買い換えよう。

 学校の勉強とかはその分停滞してしまうため、しわ寄せは未来の私に託す。未来の私よ、後は任せた。泣き言いってももう遅いんだからねっ!

 私は行く。

 魔法? 魔術? どっちかは忘れたけど、そういうのに深く関わるとのことだから、私の冒険心がくすぐられる。

 とても楽しみだ。短い間だが、きっと私のこれからを変えるのに十分な刺激をくれるだろう。

 おっと……もう0時を超えた。お迎えが向こうから来るから、もう寝なきゃ。

 おやすみ。

 これからの日々が、楽しみだ。

 

 ◆

 

 2018年8月◯日

 

 誰か。誰か。

 神様……いや、悪魔でもなんでもいい。

 教えてください。

 私はあと、何人殺して。あなたのこれまでの人生は『存在してはいけなかった』のよ、と否定すればいいのですか?

 誰か……。

 誰か……。

 誰か……!!




四か月程の短い間でしたが、お付き合いありがとうございました。
シリアスよ、永遠なれ……!!

『テウルギア・ゴエティア』より、ビースト

【挿絵表示】


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無価値の意地

最近あまり書いていなかったのですが、突然書きたい発作に襲われて、リハビリ的な感じで書きました。
魔神王やったんだから人王は……? ということで。


 足が動かない。だが動く。動け。動け。動け……!

 とうに魔力など切らしている。身体を動かすための力はもう残っていない。ならばなぜマスターの身体は、脚は時空神殿の崩壊から逃れようと動くのか。

 

『あと500メートル! 頑張ってくれ……ッッ!!』

 

 ダ・ヴィンチの激励が聞こえる。

 しかしそれは聞こえるだけで認識しない。はるか前方で光る離脱点が見えるが、それを認識することができない。

 あそこに行けば、助かる。

 走っているのか? 歩いているのか? 這っているのか? それとも地に伏せているのか?

 わからない。

 マシュは死んだ。だがゲーティアは殺した。マスターは今、生きるか死ぬかの瀬戸際に立っている。

 

「は、はぐ、ぐ……ぎ……!」

 

 進め。進め。

 どうやらマスターは走っていたようだ。しかしその速度は遅く、蝿が止まりそうなほど。でたらめな呼吸。見るからに無様な走り。だが、着実に進んでいる。距離は縮まる。でもこれでは間に合わない。

 旅の目的は達成せしめられた。だが、帰るまでが旅である。

 サーヴァントたちはマスターの魔力不足の所以で現界を保てず、消えた。彼女を助ける者は誰もいない。自分の力で戻らなければならないのだ。

 このままではまずい。そう本能で判断したマスターは、残り一画の令呪を使用した。二画はゲーティアを倒すためにサーヴァントたちに力を与えるのに使った。

 スウ……と、視界が明瞭になり、淡い意識をなんとか繋ぎ止めるほどまで覚醒した。

 

『400メートルを切ったぞ! ……ああっ! すでに半分ほど崩壊してしまっている!! 頼む……頼むから急いでくれッ!!』

 

 ダ・ヴィンチの嘆願ともいえる叫びが、今度はしっかりとマスターの耳に届き、認識された。

 

「わた、しは……か、え。る。から」

 

 蚊の鳴くほどの声で返答する。

 身体の感覚はとりあえずある。令呪のおかげで魔力も回復し、体力も回復した。しかしサーヴァントを召喚するほどの力はない。

 残り400メートル……いける。

 喉が焼け、肺が酸素をよこせと悲鳴をあげる。脚はやはりまだ重い。まるで鉛にでも全置換されたような重さだ。泥にはまったかのように踏み出す脚が遅い。

 

『聖門までだ! そこの時空断層に飛び込めば終わりだ! 絶対に大丈ーーな、なんだこの反応は⁉︎ 突然顕れた? いや違う、待っていたのか⁉︎ それにこの霊基は……!!』

 

 狼狽える声を無視し、マスターは静かに正面を見た。

 すると僅か10メートルほど前に浮遊している男の影が見えた。

 その姿を見ただけで、マスターの脚はただでさえ弱々しい勢いは失っていき、男の目の前で止まった。

 ……その人物は黄金だった。長い髪が神にも等しい美しさを放ちながら靡く。片腕は失われ、だがその意志のこもった眼差しはしっかり止まったマスターを射止めている。

 

「……まあ、簡単に、は逃がして……くれな、いよね」

 

「ああ」

 

 瞬きすらせず、男はゆっくりと頷いた。

 あれほど狂っていた呼吸すら忘れ、マスターは目の前の、本当に最期の障害の、次の言葉を待った。

 

「ーー私の夢は、君の手によって潰えた。この神殿に座し、行った3000年という莫大な時間は無為となった」

 

 ゲーティアの表情は悔しさに彩られてはいなかった。むしろいっそ清々しいなまでの様子で言葉を紡ぐ。

 

「私は敗北した。光帯は消え去り、人理焼却は焼却された。もはや私は七十二柱の魔神ではない。その残滓、最後に残った結果のようなものだ」

 

「うん」

 

「私がここで何をしようと敗北は覆らない。君を殺そうが、覆らない。……これは何の意味もない戦いだ。魔神だった私では考えようのない選択だ」

 

「……う、ん」

 

 そう言っている間にもゲーティアの身体は失っている右の腕側から消滅が始まっていて、今は肩をズズズとゆっくり侵食している。

 マスターはゲーティアを見上げ、言った。

 

「あなた、の理想郷、それ、は神の御業だ……と私は思うの。ロマン……ソロモン王、が指輪を還したのと同じように、神の、手を借りず、人が……人の意志で生、きる時代の到来を願った……。あな、たも見たで、しょう? 英雄王……は神との決別を果た、すために乖離剣を、手に取り、母を斃した。ーー人の意志は、ここにあるのよ」

 

 まともに言葉が話せない。

 過呼吸を起こしながらもマスターは訴えかける。それをゲーティアは黙って聞き入る。

 

「……」

 

「死、のない世界。悲しみのな、い……世界。確かにとても、素晴らしい。……でも、違うの」

 

「……そうか」

 

 ゲーティアの周りを回転しながら浮遊する十個の黄金の指輪。その輝きが増し、ゲーティアは地に足をついた。

 この時間神殿はすでに終わっている。一刻も早く脱出しなければならない。

 

「ーーでも」

「ーーだが」

 

「「戦う理由はある」」

 

 戦う必要はどこにもない。

 しかし理由はある。同じ見解を持った互いの……ケジメだ。

 それを終わらせるためにゲーティアは再び現れた。

 それを終わらせるためにマスターは再び戦う。

 

「私には意地がある。いや、意地ができた。私は今、人間の精神性を理解した。限りある命を得て、ようやく」

 

 これまで出会った英霊を含め、全ての人物の想いを背負ったマスターは鋭く息を吐いて呼吸を鎮めた。

 ……一年だ。カルデアに足を運び、初日の爆破事件から始まった、彼女以外の代わりはいない、未来を取り戻すための時間だ。その集大成が、乗り越えなくてはならない最後の壁が、今、ここにある。

 ゲーティアが距離を取る。

 マスターはそれを戦闘の意思表示だと理解し、自身は意志を固めた。

 短期決戦だ。

 出し惜しみなどできない。

 一気に、全てを、出しきる。

 魔力は令呪によって少しだけ回復している。サーヴァントたちの召喚はなんとかできそうだ。だが現界を保たせるだけの余裕がない。

 ……だから、どうした。

 己に活を入れ、自らの命を燃やすことに決める。この程度の修羅場、飽きるほど潜ってきたではないか……!

 ゲーティアは人を理解し、意地を得たと言ったのだ。マスターにももちろん意地がある。

 必ず生き延びなければならない。カルデアで待っているダ・ヴィンチ、スタッフたちのためにも。ゲーティアの全能性を剥奪するために、自らの命を投げ打ったロマンのためにも。……そして、マスターを守るため、たったひとりで光帯を防ぎきり、消滅したマシュのためにも。

 

 誰もが皆、命を懸けた!

 マスターが命を懸けずして、どうする!!

 

「あ、ぁ、ぁぁぁぁああああああッッッ!!!!」

 

 命を燃やせ! 足りぬのならそれ以外のなんでも燃やし尽くすがいい!! 灰の一欠片も残すな! 全て、全てを燃やせ……!!

 だが死ぬことは許さない! こいつに……ゲーティアに、勝て!!

 

「……ありがとう。もう死んでもおかしくないボロボロの身体。私は君をあれほど傷つけたというのに、まだ私のためにこの状況でも付き合ってくれること、感謝する」

 

 サーヴァントを六人、召喚。

 考えは纏まらず、曖昧な生が、手放すまいと必死に身体にしがみついている状態だ。死のそよ風が吹けば死ぬ。死の甘い甘い囁きだけで死ぬ。だが生きている。この瞬間を、生きているのだ。ならば戦える。

 魔力を全て、六人に託す。その瞬間、意識が暗転し、ついには……。

 

 ーー違、う! 死ぬの、は今じゃ……ない!!

 

 脚の力が抜け、倒れると同時にわざと頭を地面に強く打ち付けた。鈍くなった感覚はなんとか痛みを捉え、脳に伝達してくれた。

 痛みによって意識を保持し、再びゆっくり立ち上がる。

 目を開けろ。耳を澄ませ。

 この戦いから意識を背けてはならない。まだ、ゲーティアとの決着は、ついていないのだから。

 

「私は私の譲れないものの為に君を止める」

「私は私の譲れないものの為にあなたを止める」

 

「ーー言葉にすべき敬意は以上だ。それでは探索の終わりを始めよう。人理焼却を巡るグランドオーダー。七つの特異点を越えたきたマスターよ。我が名はゲーティア。人理を以て人理を滅ぼし、その先を目指したもの。私はいま生まれ、いま滅びる。どうか見届けてほしい。この僅かな、されどあまりにも愛おしい時間が、『ゲーティア』に与えられた、本当の人生だ」

 

 戦え。

 

 ◆

 

 死闘。まさに死闘。

 徐々に指輪の力を解放し、こちらを翻弄し、確実に戦力を削り取っていく。しかしゲーティアも無傷とはいかず、みるみるうちに傷ついていくのがわかった。

 神殿は崩壊する。もう本当に時間がない。ゲーティアの背後、その先に聖門があるというのに、行けない。

 違う、行かないのだ。この戦闘からこっそり離脱して帰還するだなんて愚行は決してしない。それはゲーティア、そして自分にに対しても失礼である。

 この、人を得た魔神を倒さなければ真の意味でこの度に終止符を打てないのだ。

 半端なままで投げ出すわけにはいかない。指示は出せない。すでに全てをサーヴァントたちに託したのだ。マスターはもう、死体も同然だった。

 

「第十の指輪、解放」

 

 瀕死に追いやられたゲーティアが、ついに最後の指輪の力を解放する。

 

「カルデアのマスター、ここで死んでもらうぞ……ッ!!」

 

 しかし、その攻撃の向けられた先はサーヴァントではなく、マスターだった。

 ゲーティアには明確な意地があった。マスターを行かせない。ここで殺すという意地があった。きっとそこから湧いた、執念の行動だったのだろう。

 四人が消滅し、残りふたりのサーヴァントも激しく消耗している。その間を光線がくぐり抜けるのは、実に簡単だった。

 それは正確無慈悲にマスターの胸を貫いてみせた。

 

「ぐ、ふ……」

 

 痛みはなかった。しかしその瞬間、胸がグググ、と一気に熱くなり、狂おしいほどの熱的死を迎えそうになった。

 もちろん肉体的なダメージを負った。だが、それとは別に何らかのダメージもあった。それはおそらく、『ゲーティア』だ。彼の失望、叫び、願い。それらが流れ込んでくる。そして『人理焼却』、その先、目指したものをおよそ完全に理解した。

 胸に穴が空いている。位置的に心臓が貫かれたかもしれないが、まだ生きているからそうではないようだ。傷口からは驚くほど血は流れない。そこにまわす血がないというわけ、か?

 気を抜けば一瞬であの世へと誘われそうだ。まだ生かさんとする自分の身体に感謝する。

 まだ、生きている。執念深く生きている。うつぶせに倒れるが、それでもゲーティアからは決して目を離さなかった。

 きっと今の一撃が本当に、最後の力を振り絞ってのものだったのだろう。あれほど神々しかった輝きもすでに霞み、ボロボロだ。彼の身体を侵している崩壊も、終盤にきている。

 苦しそうに呻き声を漏らし、ゲーティアは膝をついた。

 

 ……あと、一撃。あと一撃さえいれることができればゲーティアを倒せるだろう。

 

 だが、できない。その前にマスターが死ぬ。

 咄嗟に現界させていたサーヴァントたちとの繋がりを切る。その瞬間ふたりが消え、再びマスターとゲーティアのふたりだけが滅びゆく神殿に残された。

 さあ立て! 立ち上がれ!

 ほんの少しだけ余裕ができた。

 悍ましい獣の叫びとともに力の入らない腕を酷使し、立ち上がる。

 一歩、また一歩と揺れる大地を確実に踏みしめ、ついに膝をつくゲーティアの前に立つ。

 

「………………」

 

 それは果たしてどちらの沈黙だったのかはわからない。もしかするとどちらもだったかもしれない。そして、先に口を開いたのはゲーティアだった。

 

「……私の負けだ」

 

「そ、う……」

 

 再び沈黙の時間が流れる。

 マスターは自身に時間がないことを十分すぎるほどに理解している。それでも、彼に付き合うことにする。

 ゲーティアはマスターを見上げ、彼女の胸に手を当てる。

 すると、ぽう……と微かに光が灯り、マスターの傷を完全に癒した。

 光が消えると、マスターは深く息を吐いた。

 

「あなたの目指した未来、私は理解した。でも私は私の未来を歩く。いいでしょう?」

 

「……いいだろう」

 

 ゲーティアの腕を掴み、ゆっくりと立ち上がらせる。

 脚はところどころ崩壊し、ひとりでは立てない状態だ。肩を貸し、維持する。

 

「たとえ君の未来に。私よりも遥かに強大な敵が現れるとしても、歩き続けるのか?」

 

「もちろん。現に今こうして、私はあなたに勝った。そしてこれからも立ち向かい、進み続けるわ」

 

「第二の獣、ティアマトの獣性を獲得し、次は私の獣性をも手にしようとしている。これらは人の手に余るモノだ。これらは人の身では耐えられまい。きっと君はこれから他の獣とも戦い、人を保ったままその悉くを打ち砕くだろう。もういっそのこと人を捨てたほうがはるかに楽だろうに。それでも君は……」

 

「ーー進むよ。それが私の選んだ未来。後悔なんて絶対にしない。したらあなたの屍を越えて生きる私に、意味がなくなっちゃうから」

 

 ゲーティアの身体が崩壊する。

 黄金の残滓となって、虚空に溶けてゆく。

 穏やかな表情だ。マスターはそれを無言で見届ける。左腕が消え、バランスを失ったゲーティアの、背中を抱いて胸に寄せる。

 崩壊の音は波が引くように遠ざかり、世界から隔絶される。

 

「ーーありがとう、人類を想ってくれて」

 

「私は滅びる。私は彼岸から見届けよう。君が切り開く未来を。私を否定してまで勝ち取った歴史の果てを」

 

「うん……任せて」

 

 ふたりだけの会話。

 遥か神代から生きる魔神との、約束。

 魔力を纏わせた拳を握りしめ、彼を押し倒す。

 目を瞑り、無抵抗の彼の胸に。

 拳を突き入れ。

 霊核を掴み。

 握りつぶし。

 そしてーー。

 

「ーーいや、まったく。不自然なほど短く、不思議なほど、面白いな。人の人生というヤツは……」

 

 殺した(喰らった)




シトナイちゃんかわいい。
ところでNo.3そろそろきてもいいと思うんですよね。勝手な考察入れると、『SIN』は『秦』と『罪』をかけてるのでは。


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見えない余命

もともと少し怖いマスターちゃんをテーマにしてちまちま書いていたのですが、introをプレイして火が付きました。
言わずもがなネタバレパーティーなので、初めはいくらか改行入れます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恐ろしいほど眠かった。もうこのまま永眠してもいいと言えるほど、眠かった。

 いや、これは正しい表現ではない。

 完全に無気力になった、が正しい。

 薄っすらと目を開け、恐ろしいほど真っ白なマイルームを見渡す。しかしこれは第二のマイルームだ。彷徨海バルトアンデルス。シオンとキャプテンの手によって再建された新生カルデアだ。

 

「……」

 

 ベッドに寝転ぶマスターは寝返りを打ち、もぞもぞと布団のポジションを確認しながら再び目を閉じた。

 もう数日後には大西洋の異聞帯に向かう。英気を養えと言われてこうしてグダグダしているわけだが、やはりなんとも言えぬ無力感を覚える。

 別段、これは人をダメにする布団、ベッドなどではない。ただマスターが、無気力なだけだ。

 何も考える気が起きない。何もする気が起きない。ただそれだけ。

 いつもならちょっかいを出す亡者たちも、今日はベッドの周りで満面の笑みをマスターに向けるだけ。虚ろな眼孔。抉れた顎。流れる脳汁。蠢く脳みそ。たくさん。

 でも何もしてこない。いや、これはあえてなのだろう。

 グロテスクなものはもう、慣れた。

 十八禁のグロ映画でも持ってくるがいい。そんなもの、紅茶でも優雅に啜りながら最後まで無表情で鑑賞してみせよう。本物は、『その程度』ではないのだ。血飛沫を頭から浴びてみろ。死臭に塗れた血の臭いを知れ。味を知れ。そしてその『痛み』を知れ。そうすればマスターと同じ境地に達することができるだろう。

 今日は全力で死んだように静かに過ごそう。

 

「先輩、おはようございます」

 

 スライドドアが開かれ、盾の少女が笑顔であいさつをする。

 そう、これがいい笑顔だ。お前たちに私の心が癒される笑顔はできないだろう? そう一瞥してから寝返りを打ち、横向きになった世界でマシュを眺める。

 だがいまいち今日はやる気が起きない。

 

「もう、いつまで寝ているのですか? それでは太ってしますよ?」

 

 ムスッとした顔でマスターの傍らに立つと、ちらりと布団をめくった。

 その瞬間、中でぬくぬくに暖まっていた空気が逃げ、代わりに冷たい空気が入り込んでくる。

 ひんやりとしたそれはマスターの身体を優しく撫で、鳥肌が立ち、僅かに身震いする。

 

「ああ、うん……」

 

 いまいち元気の無い声で答える。するとそれを機敏に感じ取ったマシュが、心配そうに声をかける。

 

「えっと……大丈夫ですか? もしかして気分が優れないのですか?」

 

「いんや、そんなことはないんだけどね? なんだかちょっと……」

 

 そう言いながらもマスターはバレないようにこそこそとマシュによってめくられた布団の端を直そうと試みている。

 

「今日はね、なんだかひとりになりたい気分なんだ」

 

「そうですか……。えと、本当に大丈夫ですか?」

 

「熱があるとか、そんなのじゃないの。だから大丈夫だよ」

 

 無事に布団の修正、完了。

 マシュのせいですっかり目が覚めてしまったが、マシュが可愛いから許す。

 いっそ恐ろしいほど似すぎているこのマイルームに少し怖くなる。

 

「今日一日だけ、今日一日だけ私をひとりにして? 明日は普通に顔を出すから」

 

「わかりました……。でも最後に」

 

 いまいち納得していなさそうなマシュだったが、無理やり自分を抑え込んだのだろう、隠しきれていない険しい顔のまま口を開く。

 

「いつでも頼ってくださいね。私は……私たちは先輩を何よりも大事に想っていますから」

 

 なんと健気で優しい言葉なのだろう。しかしマスターにはそれを素直に受け取る余裕も、心もない。

 マシュの背中を無言で見届けた後、再びマスターは目を閉じる。

 身体は十分に回復した。体力も、大丈夫だ。なんなら今すぐにでも異聞帯へ行くぞと言われても問題ないほどだ。だがなぜだろう、心がそれに追いついていないのだ。マスターの身体は確かに生きているのが、心はそれに引きずられているみたいだ。こんな感覚はこれまで一度もなかった。しかし、もしかすると意識していなかっただけで、いつの間にかそうなっていたのかもしれない。

 シオン……そう名乗った少女はカルデアに技術を提供した張本人であるという。見た目はマスターと同じか少し年上だ。彼女こそが世に言うとてつもない天才というものなのだろう。

 マスターにはトリトメギストスやその他の機器については理解のりもわからない。そんな彼女が、マスターたちがあの絶望的なカルデア襲撃から生き延び、この彷徨海にやって来るのを信じてずっと待っていた?

 計算の結果だとは言っていたが、もしそれが外れていたら彼女は……シオンはどうしていただろう。

 もしマスターがカルデア襲撃で死んでいたら? イヴァン雷帝に敗れ、その巨大な足で踏み潰されていたら? スルトによって、灰すら生温い、完全焼却されていたら?

 来ることのない人を永遠に待つことになっていた。

 ……尊敬に値する少女だ。

 

 しかし彼女に違和感を覚えるところがある。それだけではない。マシュやダ・ヴィンチ、新所長にも同じ違和感がある。

 それはこのバルトアンデルスに再建されたカルデアだ。

 なぜだ、なぜわざわざ『カルデア』に似せて作り直した?

 誰も思わないのか。思い出さないのか。あの日を。

 まったく似通った通路、まったく似通ったマイルーム。そして、まったく似通った管制室。

 見るたびに思い出す、あの嫌な記憶。

 血と、悲鳴と、死と、死と、死と、死と、死と……。

 死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死――……。

 あれだけはどうしても都合よく無くなって消えない。もうロマンの記憶はほとんど残っていないのに。

 

「どうして」

 

 その言葉に、思いに反応した亡者たちが反応する。

 大急ぎで狙撃部隊を編成し、重そうなスナイパーライフルを軽々と抱え、ロマンとの記憶だけを正確無慈悲に撃ち落としていく。

 

「やめて。やめて」

 

 マスターにはそれが彼らをさらに面白がらせる要素でしかないとわかっていても、言うしかなかった。

 パリンッ、パリンッ、と割れ、その残滓がキラキラと輝きながら消えてゆく。

 言わんこっちゃない、と腕の無い隊長がやれやれと肩をすくめると、部隊は消えた。

 あの人との思い出だけは絶対に忘れるわけにはいかないのに。どうしてそんな酷いことをするの?

 理由がわかっているのがまた悲しい。覚悟している。理解している。だがやはりそれでもやるせない。

 眠ろう。眠ろう。そう言い聞かせ、マスターは眠ろうと努力することにした。今日はきっと、心が弱い日なのだ。だから嫌なことを考えてしまう。思ってしまう。何も考えないでいよう。何もしないでいよう。誰にも会いたくない。誰とも話したくない。そうすればきっと、大丈夫だ。

 ゆっくりと瞼を閉じ、そして眠り……眠……。

 

 ◆

 

 目が覚めた。

 ゆっくりと目を開けると、時計はまだ夕方の六時を越えたところをさしていた。というより、白紙化した地球で時間という概念がまだ機能しているかどうか怪しいところだが。

 どうやらぐっすり眠ることには成功したようだ。

 ふぅ、と息をつき、寝返りを打って反対を向く。マスターはやはりまだ重い瞼を開けようと努力した。

 するとそこには誰かがいた。

 椅子に腰掛けているが、頭を下げて船を漕いでいる。さらさらな紫色の髪が優しく波に揺れる。

 マシュだ。

 この瞬間、マスターの中で怒りが湧き上がった。なぜだ。なぜここにいるのだ、と。ひとりにしてくれ、とそうお願いしたのに、なぜここにいる。

 明らかなため息を大きく吐く。

 するとそれに反応したマシュが目を覚まし、マスターの起床を確認したところで完全に覚醒した。

 

「あ、ご、ごめんなさい先輩! 私、寝てしまっていました!」

 

 ガタッと立ち上がったマシュは傍の台に載せていたお盆をマスターに差し出す。彼女が眠っていた時間はそれほど長くないということを、まだ湯気の立つスープが語っている。

 なるほど、食事を持ってきたのか。スープの他にも、キレイに揚げられたカツなどがある。

 しかしマスターの怒りは収まらなかった。

 

「マシュ……」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「私は今日、ひとりにしてって言ったよね?」

 

「ええっと……はい、ごめんなさい……やっぱり先輩が心配で……」

 

「はあ……」

 

「…………ごめんなさい」

 

 確かにマスターはマシュにひとりにしてと言った。しかし食事はいらないとは言わなかった。だからきっとマシュはそこが気になってやって来たのだろう。

 これはマスターの落ち度。ちゃんと伝えられなかったマスターが悪いのだ。

 それ見ろ、マスターに怒られて、マシュはしょんぼりと落ち込んでいる。いつも隣にいて、マスターを守ってくれる彼女を自ら悲しませた。それもマスターの勝手なわがままでだ。本当に謝るべきはどう考えてもマスターだ。

 ふたりの間に無言の時間が流れる。

 マシュはまるでマスターの許可がなければ何もできないような状態に陥っている。マシュはこの時、確かにマスターを恐れていたのだ。

 

「……ごめんね、マシュ」

 

 だから先に。

 

「え……?」

 

 驚き、顔を上げる。

 次は罵声でも飛んでくるとでも思っていたのだろうか、豆鉄砲をくらった鳩のようだ。

 

「私を心配してくれたんでしょ? それは素直に嬉しいよ」

 

「でも……」

 

「いいの。いいの」

 

 手を伸ばし、マシュの手を握る。

 そのまま優しくこちらに引き寄せ、マシュをベッドインさせる。

 まだ無気力ではあったが、そんなことでうだうだ言ってはいられない。今日はもう十分に時間をくれた。皆はマスターの都合に合わせてくれた。

 これ以上求めるか? 否。否。

 これ以上マシュを遠ざけるか? 否。断じて否だ。

 

「あの、先輩?」

 

「ごめんね。ごめんね」

 

 手を強く握る。

 するとマシュはもう何も言わなくなり、ただただマスターの手を握り返すだけになった。

 それが拒絶ではないと理解したマスターは心から安心し、再び眠りに落ちることにした。マスターはひとりではないのだ。仲間がいる。長い間、形は違えど、ともに戦ってきた仲間が。

 なんて私はバカだったのだろう、と陰で自嘲する。

 今度こそは、安心して眠れそうだ。

 マシュが起きているのか、寝ているかなど些細なことだった。誰かが側にいてくれる。ただそれだけで、今のマスターには確かな安らぎが存在した。

 だから……だから……。

 

 ――そんなマスターを、心から蔑み、妬み、憎み、恨む者たちがいた。

 

 ◆

 

 また目が覚めた。

 心地は悪くない。時計を確認して深夜を迎えていることを知る。

 ふと気づくとマシュがいないことに気づいた。持ってきていたお盆も無くなっている。代わりに菓子パンがひとつだけ置かれている。

 

「喉、乾いたな」

 

 食べ物があるだけでも十分ありがたいのだが、一緒に何か飲みたい。マスターは今日初めてベッドから下り、菓子パンを手にマイルームから出た。

 見慣れた通路だ。やはりあの嫌悪感は拭いきれていない。できるだけ意識しないように、これはただの通路だと自分に言い聞かせて食堂に向かう。

 誰もいない。深夜だから仕方ないことか。きっとダ・ヴィンチやホームズなどの天才たちはきっとまだ自室で起きているだろう。

 ドアを開き、薄暗い部屋を明るくしようと電気のスイッチを入れる。

 するとそこには人影がいた。

 あまりに突然のことで驚いたのか、口に運びそこねたケーキが頬についてしまっている。

 

「む⁉」

 

 その人物の反応に、マスターは一瞬だけ固まる。

 

「お、わ」

 

「な、なんだね⁉︎ 私は今夜のティータイムをしているのだ! 盗み食いではないぞ!!」

 

 つまり盗み食いらしい。

 その人物……ゴルドルフ所長は半ば必死にマスターには対して言い訳を始める。

 しかしマスターはジト目で彼を見続ける。やがて観念したのか、まだ口惜しそうにケーキとマスターの間を視線が五往復ほどした後で、最後に喉をゴクリと鳴らした。

 

「……仕方あるまい。本当に仕方あるまいな! 私はもう十分味わった。まだ手をつけていない半分をくれてやる。お茶はそこのポットにある」

 

 所長が顎でさした先には、なんともいい香りのするお茶が確かに入れられていた。

 

「じゃあ、いただきますね。でも菓子パンがあるので、それを食べてから」

 

「ふん、好きにしたまえ」

 

 マスターは所長の前の席に座る。

 ポットに手を伸ばし、カップに淹れ、早速と飲む。

 

「ふぅ……」

 

 温かい。ただそれだけ。

 眠気がさっぱりと消えるほど爽やかな喉伝いだ。ただそれだけ。

半分ほど飲み干すと、持ってきた菓子パンをさっさと食べる。

 まあ、いつも通りの味だった。ただそれだけ。

 

「ところで、何か不満はあるかね?」

 

「?」

 

「お前だけではないぞ。あの盾の小娘についてもだ」

 

 最後の一口を飲み込み、再びお茶で奥に流し込む。

 珍しく所長は少し真剣モードな顔だ。

 

「不満……不満ですか……逆に所長は私たちに何かないですか?」

 

「むむ。そうだな……お前たちはよくやっていると思うぞ。決して高スペックではない、むしろ低スペックのコンビなのに、数々の困難を生き抜いてきた。そこは素直に私は評価するぞ。ただ……」

 

 ここぞとばかり不満の雨に濡れると思っていたが、思わぬ好印象にマスターは驚いた。

 

「やはりもっとお前ができるヤツだったら……と思うのだよ。まあ、無い物ねだりはしないがな」

 

「今この手にあるもので挑まないといけない。それはわかっていますよ。だから私たちは全てに全力で戦うんです」

 

「そうだな……そうだったな。すまないな」

 

「いえ、私だって、もっとできれば……と自分の無力さを呪うことなんていつもですよ」

 

『ぺろり』と半分のケーキを平らげる。その食いっぷりに所長が感嘆する。

 

「甘いものを食べ、温かいお茶を飲んだら心も落ち着くだろう。無論、翌日は『私はひとりで食堂で夜食を食べていた』と言うのだぞ? 無人の食堂でケーキを共にこっそり食べた共犯者としてな」

 

 所長が冷や汗を垂らしながら口早に言う。それほど盗み食いしていたことがバレるのが怖いのか。

 内心クスリと笑ったマスターは「わかってますよ」と短く返す。

 しかしすぐにあれ? とマスターは違和感に気づいた。無人なのにケーキだけが置かれていた。これは状況的に考えておかしいのではないか。

 

「このケーキは所長がつくったのですか?」

 

「そんなわけなかろう、これほどふわっふわで頬がとろけるほど美味いケーキがつくれるのなら、私はとっくに超有名ケーキ職人になっている」

 

「所長がつくったのではないと?」

 

「私が食堂に入った時にはすでにこれがあって、『マスターちゃんへ♡』と愛情たっぷりに置かれていたな」

 

 言った途端、所長の顔がみるみる青ざめていく。

 つまりこれはマスターのために用意されたケーキということだ。それを所長は勝手に食べていたと。まさに『盗み食い』というところか。

 なんだか嫌な予感がする。

 

「ははは! 完食したな? では共犯者となったわけだ! ……ところで君ィ、すごく顔色悪くないかね? 驚くほど顔が青いぞ?」

 

 マスターは自分の顔をペタペタと触る。特に何も感じなかったが、おそらくこれが『言われてみれば』なのだろう、おそらくそんな気がしないわけでもなかった。

 

「いやでも所長も真っ青ですよ?」

 

「うむ、さっきから寒気と目眩が止まらないのだが? なんだかとっても嫌な予感が……」

 

「しますね」

 

 それを認識し始めるともう止まらなかった。

 マスターも所長に似た症状が出たことを自覚する。さっき飲んだお茶の温かさが急速に失われていくのを感じる。視界がぐにゃぐにゃに曲がる。曲がりすぎて一瞬スリムに見えてしまったほどだ。

 そして意識すら曲がり始めて――。

 

 脳髄に響くほどのけたましいサイレンに呼び起こされた。

 

『警告。警告。登録外の生体反応が検知されました』

 

「な、なんだね⁉︎ つまり侵入者かね⁉︎」

 

「しょ、所長! こっちへ!」

 

 よろけながらも所長に近づく。

 足がもつれ、前かがみに倒れる、その瞬間。まるで刹那の空間を食い破って乱入してきたかのような、認識の外から迫ってきた一本の鋭利なナイフが眼下いっぱいに迫っていた。

 

「…………ぁ」

 

 ――死んだ。

 そう確信すらした。

 だが、それが果たして結果とならなかったのは、マスターの前にひとつの影が躍り出たからだ。

 キィン! とかん高い金属音が響き、ナイフが弾かれる。

 

「……危ないよ、下がってて。そこの壁にイヤな女がいる」

 

「キャプテン!」

 

 現れた小柄な少年は振り向きすらせずに、ただの向かいの壁を睨みつけていた。

 

「――思わぬ邪魔者につい気配遮断が乱れてしまいましたわ、ゴルドルフ閣下?」

 

「お、お前はTV(タマモヴィッチ)・コヤンスカヤ!!」

 

 ぬうっ、と滲むように姿を現したのは、同じ女性としてあらゆる観点で優っているコヤンスカヤだった。マスターと目が合い、彼女は『にっこり』と微笑む。

 

「相変わらず、人の足を引っ張ることだけは一流のようですね? おかげさまで可愛い可愛いマスターちゃんを華麗に、そしてスマートに毒殺しようとしていましたのに……。台無しですわ、閣下」

 

「毒殺だとぅ⁉ それはないぞ! 毒見は私がした! 毒が入っていたらとっくの昔に吐き出している! 超絶パーフェクトグルメケーキだったぞ!!」

 

「そうですか、死ぬほどおいしかったのですか。それはよかったです。当初の目的は果たせませんでしたが、もう時間の問題ですね」

 

 満足そうに舌なめずりをすると、今度はマスターに言葉を投げかける。

 

「カルデアのマスターちゃんがひとりで喘ぎ苦しむ姿を見たかったのですが……。残念です。死にたくないですか? 助かりたいですか? 私のお人形になるのなら助けてあげてもいいですよ? と、目の前で解毒薬をちらつかせながら言うところまでが私の予定なのでしたが……」

 

 目を細め醜悪に歪んだ口から発せられる、悪意の塊をマスターはじっと聞く。

 ここで彼女に怯えるそぶりを見せることは、今絶対にしてはいけない行為だと理解している。それはコヤンスカヤの加虐性により一層の熱を与えるだけでしかないのだ。

 だからここは、強気に。

 

「たとえそうなったとしても、私は絶対にあなたに助けなんて求めない。その結果死んでも、あなたに弄ばれるのに比べたら遥かにましよ」

 

 コヤンスカヤの表情が嘘のように覚める。

 そして何か面白いことを思いついたかのように、突然子供のように無邪気に笑い始めた。

 

「ええ。ええ! いいですとも! やはりそうでなくては!! そうでなくては堕とし甲斐がありませんもんねぇ!! 嬉しい、私は嬉しいですわ。是非生き抜いてくださいな。私は全力であなたを堕としてやるわ!!!」

 

 ははははははははははははははははははははは!!!!! と嗤いながらコヤンスカヤが青いオーラに包まれる。

 

「――させるか!」

 

 キャプテンが拾ったナイフを投げるも、それは虚空を貫いただけで、そこにはもう、コヤンスカヤはいなかった。

 

 ◆

 

 ゴルドルフ新所長、余命十日。

 マスター、異常なし。

 

 マシュの加護のおかげで毒はマスターの身体には効かなかった。

 だが所長はそうはいかず、時間がない。本音を言ってしまえば勝手に人のものを食べた自業自得なのだが、この状況でそれを責める余裕はない。

 仲間の命だ。あの時、崩壊寸前のカルデアで彼を助けた。そう簡単に消え去ってしまうのは、その意味がなくなってしまう。コヤンスカヤは彼のことを足を引っ張ることに関しては一流と言っていたが、決してそんなことはない。

 彼のおかげで危機を脱したことなどいくらでもある。彼だからこそ、生き残ったカルデア職員はここにたどり着いたのだ。

 彼は決して、邪魔者などではない。

 

「よし」

 

 準備はできた。

 今すぐにでも出港を。一秒すら惜しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突然、苦しさがこみ上げてきた。

 それに耐え切れなくなり、マスターは深くえづく。

 喉が焼けるようだ。マグマが食道を逆流しているような錯覚に陥り、激しくせき込む。

 

「ごっ……ふッ!! っつ……!」

 

 大きく肩を上下させ、ガンガンと頭痛に揺さぶられながら口元を抑え、咳をする。

 小刻みに呼吸を繰り返し、五分ほどしてようやく落ち着いたと判断したマスターは口元をぬぐった。

 そして手を見て、戦慄する。

 

「――――――ぇ」

 

 血に濡れていた。




コヤンスカヤってこんなキャラでしたっけ?(困惑)
いつの間にかこの人、一人走りしてました笑笑

マシュの加護によって、完全毒耐性であるはずのマスターちゃんにも症状が現れる。
余命はメインヒロイン兼所長より遅いのか、それとも早いのか。

いいネタがあれば書くかもです。希望があれば受け付け……ようかな笑
それではまた。


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つまらない女

Lostbelt No.3クリア記念
ネタバレなので、改行を。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ!

 ああ!

 嗚呼!!

 なんて愚かなのだろうか!!

 オフェリア!! 芥!!

 いっそ気味が悪いほどだ……!

 ……ふたりして揃って、なんて女々しいの!!

 

 ◆

 

 マイルームに入った途端、死ぬ。

 突然電源の切れた人形のように床に崩れ落ちる。動かず、静止する。

 始祖を討ち、項羽を討ち、始皇帝に勝利し、歴史の衝突はこちらに軍配が上がった。

 異聞帯に突入してから何日経った? もう死にそうだ。光の速さで解毒薬を作成するから待っててくれと言われたが……。

 ……もう、無理だ。

 むしろこの異聞帯でよく一度も倒れずに戦い抜いてくれたと皆に褒めちぎってほしい。

『健康』の仮面は剥がれ落ちる。彼のような美しい要素など、どこにも。ひとつもない。

 しかしこれでマシな方なのだ。ゴルドルフ所長がいたからこそ、マスターはまだ生きることを許されているのだ。あの時ケーキを盗み食いしてくれていなかったら。想像するだけでゾッとする。

 マスターは所長にこれ以上にない感謝の念を抱いている。だからコヤンスカヤのくれた解毒薬を先に飲ませたのだ。

 だが……。

 ようやく落ち着ける。ゆっくりできる。そう安堵した途端にこれだ。全身に毒がまわっている? そもそも毒に対する完全耐性を獲得しているマスターが、なぜ命の危機に晒さなければならない? 異聞帯の毒、それが汎人類史では防ぎきれなかったという可能性が考えられる。

 

 ――それでもこれは、あまりに脆すぎるのではないか。

 

 目が濁り、視界があまり鮮明に映らない。動悸も激しい。まるで死にたくないと、心臓が最後の足掻きとばかりに弱々しく喚いているみたいだ。

 今はダ・ヴィンチを信じて待つしかないのだ。だからそれまでに死ぬわけにはいかない。

 這いずりまわり、机の脚を掴む。なけなしの力を込めながら、それを軸にマスターはなんとか椅子に腰掛けることに成功した。

 喉まで上る苦しみを呑み込み、胸に手をあて、しわなど気にせずに強く服を握りしめた。

 目を瞑り、上を向いて、大きく口を開けて、ゆっくりと、そして激しく呼吸を繰り返す。

 

「はぁッ、はぁッ! ッッ!! はあぁぁ……」

 

「あらあら、ごきげんようマスターちゃん。とても苦しそうですねぇ?」

 

「………?」

 

 誰かの声。でもよく聞こえなかった。誰だろう?

 なんとか症状を抑え込んだマスターは椅子を回転させ、その声の正体を探ろうとした。

 そしてあの嫌なピンクの毛が見えた瞬間、咄嗟にマスターは助けを呼ぼうと……!

 

「――今騒がれると迷惑ですので。安心してくださいな。別に危害を加えるつもりはありませんから」

 

 手が伸び、マスターの口を抑える。

 それでも懸命に逃れようと暴れるが、そもそも毒のまわりきっているマスターと力のあるコヤンスカヤでは結果は歴然としている。

 息苦しくなったマスターはしだいに力が抜け、ついに抵抗すらできなくなる。

 

「そうです。おとなしくしてくださればすぐに終わりますから」

 

 コヤンスカヤが手をゆっくりと放す。

 口を解放されたマスターは、コヤンスカヤを睨みつけながら苦しそうに呼吸をする。

 

「なに、しに……きたの」

 

「解毒薬を渡しに来ました。NFF特別サービスなんですからね? というのは嘘で、ただ私の信念を貫いているだけです」

 

「そう……」

 

 チャイナ服の懐から解毒薬を取り出すと、それをコトリと机の上に置いた。瓶は初めにもらったものと同じ。おそらく本物だ。

 

「私は約束はきちんと守りますので。簡単に裏切る人類とは違います。それに咸陽で助けていただいた恩がありますしね」

 

「助けた?」

 

「ええ」

 

 幾分かましになったマスターは瓶をつかみ取り、さっそくといわんばかりに蓋をキュポン! と開ける。

 喉が渇いているわけではない。しかし身体がこれを切に欲しているのがなんとなくわかった。本能が欲しているのだ。

 そもそもの始まりは毒に犯されたからだ。それが今、終わろうとしている。成長した空想樹を切除し、毒を解く。

 終わりだ。

 

「ちょっと。少しは私の話、聞いてくださいます?」

 

「いやだ。終わったんだったら帰って」

 

「辛辣ですわ。……そうカッカせずに」

 

 触るときっと柔らかそうな尻尾をふりふりとマスターの目の前でわざとらしく振ってから、上品にベッドに座った。

 こんなところで、敵とふたり。超閉鎖的空間で、マスターを堕とすと声高らかに宣言した敵といる。

 カドックとは違う、歴然とした、敵だ。

 床を蹴り、椅子を転がして距離を取る。

 

「……まあいいでしょう」

 

 まだ不服そうだったが、とりあえず納得したコヤンスカヤは口を開く。

 

「私、咸陽で助けられるまで拷問されていましたの」

 

「……」

 

「その様子だと知らないようですね。いやあれはほんとに不味かったんですよ。力を封じられ、誰もいない牢獄で人形に無限に切り刻まれる。壮絶な経験だと思いますけどね?」

 

「で?」

 

「えーつまんなーい。普通ならここで、敵であっても心配する言葉のひとつかけてくださってもいいじゃないですかー」

 

「私はあなたと話す気はないの。今すぐにみんなを呼んで捕まえたいほどなの。わかる? ……まあできないんだろうけど」

 

「結局は私の話を聞かないといけない。潔くて助かります。で、続きですが……すごく痛かったんですよ、あれ。マジで」

 

「……もしかして私に慰めてほしいの?」

 

「ご名答♪」

 

 わざとらしく完璧なウインクをマスターに向ける。

 呆れすぎて、マスターは言葉を失った。敵に対して慰めてほしいと言うのだ。きっとこれは副次的なものなのだろう。それでもそんなことのためにやって来たコヤンスカヤの胸中を計ることはできなかった。

 明確な悪意はある。しかし、従わなければ何をされるのかわかったものではない。

 やむなしと諦めたマスターは、ため息を吐いた。やはり何がしたいのかわからないが、ここは流されるのが最善であると判断する。

 

「わかった……わかったから。それで私に何をしてほしいの?」

 

「私と同じ経験を」

 

「――」

 

 身を引く。

 嫌な予感がする。

 コヤンスカヤの目が細まり、口が歪む。

 不味い。

 そうマスターは直感的に悟った。毒がどうした。今、この瞬間逃げなければ殺される。

 反応が鈍くなっている身体に鞭打ち、さらに離れようと試みる。

 

「冗談ですよ。真に受けちゃって、かわいいですねぇ」

 

 表情が一変し、コヤンスカヤが楽しそうに笑う。

 

「怒るよ?」

 

「しようと思えばできるんですよ? こう、額に指を当ててビビっと」

 

 マスターが認知するにはすでに遅く、コヤンスカヤはマスターの額に人差し指をあてていた。

 しかし何かが起こるわけではなく、見開いた目でコヤンスカヤを見た。どうやら本当に何もしていないようで、楽しそうにクスリと妖艶に微笑む。

 腹がたったマスターはその手を払い退け、彼女の身体をベッドまで押し戻した。

 いつの間にか呼吸が震えていることに気付き、落ち着かせようとする。その様子をコヤンスカヤは黙って見届ける。

 きっとマスターは恐怖を感じていた。コヤンスカヤが語っている経験、それがマスターからしてみれば『その程度』であるのだが、壮絶であることに違いはないのだ。だがそれに恐怖したのではない。『その程度』と何も考えずにそう判断した自分に恐怖したのだ。

 慣れとは……とても恐ろしい。

 

「楽しいわ。とても楽しいわ、あなたを弄るのは。私、人間を剥製にするのが好きなのですが……お人形ではつまらないですね。……そう、奴隷がいい! 言われるがまま、されるがままだけど意思はまだギリギリ保っている。その曖昧な状態がお似合いですわ。そして私はあえて堕とさない。ようはアメとムチです」

 

 くねくねと身をよじらせながらコヤンスカヤは妄想に浸り、顔を紅潮させながら呟いた。それはマスターに向けての言葉ではなく、自分を興奮させるためのものだった。

 二人の目が合う。

 コヤンスカヤが、醜悪な、欲望にまみれた、ねっとりとした視線を注ぎ、『にっこり』と微笑む。

 

「――――ぁ」

 

 何もないとわかっているのに、悪意に身体を巻き付かれる強烈な不快感を覚える。

 息が詰まり、思わず視線を逸らす。

 

「……この辺にしておきましょうか。かわいい反応も見られたことですし」

 

 ムギュッ、と頬をつままれる。

 マスターは無反応を返す。純粋な反応はコヤンスカヤを喜ばせるだけだ。だからこれがせめてもの抵抗。

 やがて飽きたコヤンスカヤはマスターから離れると、しだいに青い光に包まれてゆく。

 解毒薬の瓶を掴み、マスターは口元まで持っていく。

 

「――どうでした? 今回の異聞帯は」

 

 その流れるような言葉に、手が止まる。

 

「あれほど完璧な歴史はあまり見ないですよ? 皆ハッピーでしたねぇ? ああ、答えなくて結構です。私はそんな歴史を踏み潰してどんな気持ちかなーと思っただけですので」

 

 毎度嫌な狐だ。

 マスターの返答を許さないと言わんばかりにコヤンスカヤは消えてしまう。

 無意識に張り巡らせていた緊張の糸が切れ、マスターはへなへなと力を抜く。いったん飲むのをやめ、瓶を再び置く。腕で目元を覆い、全身を椅子に預ける。

 ギシ、と背中が後ろに傾き、大きく息を吐く。

 全く、本当に、嫌な狐だ。

 スパルタクスのあの言葉が頭の中で反復する。

 

『生き残るべきが汎人類史の側だと決めつけて進むべきではない』

 

 いつも圧制やら叛逆やらを叫ぶ男が、今回は妙に饒舌に語る様がより一層マスターにスパルタクスを意識させた。

 コヤンスカヤの言うとおり、この異聞帯は幸せだった。不幸を知らず、争いを知らず、悲しみを知らず。

 それをカルデアは壊した。

 仕方ないのだ。あれは剪定された歴史。編纂事象であるこちらを犯すものであることは事実。だから戦い、勝たなければならない。

 しかし不思議に思う。

 こちらの常識は向こうでは非常識である。また逆に、向こうの常識はこちらでは非常識である。

 ならば。

 ならば、幸せの定義も、平和の定義も異なるはずだ。マスターだってこの中国に生まれ落ちていたならば、きっと死ぬまで平穏な日々を過ごせていただろう。

 これこそが『普通』なのだと。他の歴史など知ったことか。今、生きているこの歴史こそが自分たちであると。

 マスターたちが行っているのは、まさに自分たちの大義――我々が編纂事象であると――を剪定事象に対して振りかざす行為だ。

 非情。しかしそういう戦いが起こっている。

 おそらくスパルタクスはそういうことを言いたかったのだろう。

 マスターにはそんな大それた考えはない。ただ自分たちの歴史が侵された。だからそれを取り戻す。当然の行動であると確信はしている。

 でも今、犯しているのはこちらだ。

 悪だ。悪は間違いなくこちらにある。一方的に侵略し、誤った歴史を狩り取り、破壊する。

 さらにあまつさえ現地人と関係をもとうとする。所長の言うことは『正しい』。消さなければならない者たちと仲良くなってしまえば情が移るだろうと。その通りだ。全くその通りだ。

 しかしマスターにはそれができない。彼ら彼女らのことを、何も知らずに消すのが耐えられないのだ。

 剪定された歴史にだって、人々の歩みが、生きた証が確かにあるのだ。マスターは全力で脳に焼きつけなければならない。パツシィも。ゲルダも。その他にも、たくさん。これから出会うだろう人々のことも。

 

 ――しかしマスターは全員をいつかは忘れる。

 

 実際、胸倉をつかみ上げられながらパツシィに言われたことをもう忘れかけている。だが日記にその内容が書かれているからなんとか忘れずにいられる。

 ゲルダとのやり取りはまだなんとか記憶している。でもこの忘却ペースだともう、あと一週間ほどで……。

 

「大丈夫。まだ忘れてないよ。忘れないから。忘れてたまるものか」

 

 これはマスターの戦い。

 誰の手も借りない、独りぼっちの戦い。

 それは七つの異聞帯をすべて『拒否』するまで続く。『拒否』する者としての、せめてもの責任だ。

 どんな障害が待ち構えていようとも、前を向いて進まなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それにしても、あのクリプターの弱さといったら!!

 弱い! 弱すぎる!!

 あの程度でマスターの前に立ちはだかるとは、見くびられたものだ!!!

 項羽への色恋? まさかそんなもののためにクリプターになったのではないでしょうね⁉

 個人の願望のためにマスターと戦ったというのなら、それこそ救いようのない馬鹿だ。

 こちらは背負っているものが違う。遥かに違う。カルデアを毛嫌いしていた癖に本気で潰しに来ないとはどういう了見だ。

 カルデアは命をかけてクリプターたちと戦っているのに、そっちは色恋にうつつを抜かすか。

 恋などマスターはしない。そんな『個人の事情』などにかまっている余裕などこちらには欠片もないのだ。

 マスターは人間性をも捨てながらずっと戦いに身を投じている。いったいこれ以上なにを捧げればいい⁉

 芥……!!

 

「教えてよ……!」

 

 息が苦しくなる。

 少し興奮しすぎたようだ。

 これ以上は不味い。

 胸の灼ける痛みに耐えながら、マスターはベッドに倒れ込んだ。呼吸を落ち着かせ、症状が引くのを待つ。

 永遠の命……マスターが彼女の思いを理解することはできない。しかし『個人の事情』であることは確かだ。

 負けた敗因はまさにそれにあるのだ。

 オフェリアだって、同じくそれに殉じた。

 ……馬鹿だ。やはり馬鹿だ。

 クリプターはバカしかいないのか?

 いいえ、いいえ。そんなことはないはず。きっとあのふたりがそうだっただけだ。

 次の異聞帯では、『いいクリプター』に出会えることを願う。

 だいぶ落ち着いた。

 ベッドからふらりと立ち上がり、ペンを用意し、日記に今回の出来事についてできるだけ事細かに書く。これでひと安心できる。僅かだがマスターに休息が訪れ、疲れを癒やす時間が訪れ、訪れ、訪れ、訪れ、訪れ、訪れ、訪れ、れ、れ、れ、れ、れ、れ、れ、れ、れ、れ、れ、れ、れることはない。

 永遠に、ない。

 隠し場所にしまう。

 そして瓶を掴み、マイルームを出ていく。

 

 ――虞美人とはもう、顔も合わせたくない。




コヤンスカヤとマスターちゃんの絡みが少ないと思うんですよね。

それではまた。


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お風呂

すごく遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
ずっと前にこれで終わるとか宣言してましたが、完全に終わる終わる詐欺状態ですね笑
今年の目標は、ロストベルトクリア記念を投稿すること。

今回のネタは、マスターちゃんにも休憩をプレゼントしたいと思ったので、シリアスはなしです。ごめんなさい。


 紅閻魔亭は絶賛再建築中。

 大昔から客の『ありがとう』を貯め、奉納する由緒ある建物。

 訳あって従業員として働かざるを得なくなったマスターたちは無事に今日もその激務を終えた。

 

「あーー、やっぱ身体にきますね、これ。英霊たちの相手するの、疲れましたわーー。なんなら猫の手も借り――」

 

「呼んだかにゃ! オリジナルも堕ちたものよ――」

 

「呼んでません」

 

 いったいどこからやって来たのやら。突然ふすまを開けて顔だけを覗かせたタマモキャットに対し、戦闘の時よりも速いのではないかと疑うほどのスピードでふすまを閉めた。

 盆に載せられた十数個のみかんを、ディルムッドが華麗な剣さばきで見事全てを一口分にしてみせた。

 

「ご覧になりましたかマスター! これぞ剣を持つディルムッドの力です!!」

 

「めっちゃ綺麗に切れたね! でもお行儀悪いからダメだよ? 紅ちゃんに見つかったら罪ありきだから」

 

「食べ物で遊んではいけまちぇん!」とマスターの脳内紅閻魔が叱責する。が、本人はここに存在しないため誰も彼に罰を与えることはない。

 恥ずかしそうによそよそしくディルムッドが切ったみかんの一部を手にとって口に運ぶ。

 マスターも無言でみかんを食べ始めた。ここにこたつもあったら最高なのだが……と願うが、ない。もしあれば我こそはと脚を入れようとして聖杯戦争ならぬ炬燵戦争が始まることだろう。

 誰も無言のまま取り憑かれたようにみかんを貪っていたため、たった数分でなくなってしまった。

 さて次のみかんを、と誰もが思ったろうが、どうも皮を剥く行為が面倒くさく感じてしまったようだ。

 誰が最初に皮を剥き始めるかを全員がチラチラと目配せをしながら心理戦が始まっている。

 全てはディルムッドのせい。彼のあの剣さばきを見てしまったが最後、剥くという行為がいかに非効率的な作業なのかを悟ってしまったのだ。

 そしてとうとう我慢の限界を迎えた巴御前が立ち上がった。

 彼女のクラスはアーチャーだが、なんだかんだ薙刀も保有している。もしてかして切ってくれるのかな? とマスターは期待したが、そういえばいつもなら振るった後に炎がその軌道を燃やすからダメだ、焼きみかんだと諦める。

 

「お、お風呂に行きましょう! みかんは十分に食べましたしね! それに今日の疲れを癒やすにはピッタリですから!」

 

 ポンコツが偶然いい提案をした。

 このままでは平行線だったみかん闘争がこれでなんとか終結させられそうだ。

 出された助け舟だ、乗らない手はないとマスターは痺れた脚でふるふると立ち上がりながら巴の提案に全力で同意した。

 

「決まりましたね。じゃあ早速行きましょう!」

 

 マシュもマスターの心を理解したようだ。円卓の机を想起させるような重々しい空気から逃げるように移動を始めた。

 フィンがディルムッドに目配せをし、いそいそと用意を始める。

 

「先輩、今日こそは一緒に入りましょうね!」

 

 マシュの笑顔が眩しい。

 マスターは喉の奥で転がしていた言葉をようやく外に出すことができると心底喜びながら吐き出す。

 

「うん、いいよ」

 

 清姫は紅閻魔から花嫁修業という名の地獄を受けているため、残念ながら彼女とはまたの機会になってしまう。それが幸か不幸か言えないが、少なくとも一緒に入りたかったという気持ちはあった。

 

「紅閻魔さんに感謝しないといけませんね。私たちのためにわざわざお風呂の営業時間を延ばしていただいているのですから」

 

「まあ、だからといってだらだら長い時間使うのは迷惑だからちゃっちゃと上がろうね」

 

「はい」

 

 フィン、ディルムッドと別れ、マスター、マシュ、玉藻そして巴は脱衣所に入った。浴衣をかごに入れ、制服を脱ぐ。

 そこは、美少女たちの園。

 皆が皆が生まれたままの姿となり、その美は世の誰もが目が釘付けとなるだろう。

 神の創造ミスで産み落とされたとしか思えない生。これほどの眩しさは代金を取るだけではなお足りない、そんな光景。

 

「いやはや、良い正月休みですねぇ。どこかの所長のせいで働く羽目にはなりましたが……これはこれでまた。玉藻ちゃん、これでも結構楽しんでるんですよ?」

 

「紅閻魔さんの前ではサボれませんもんね……」

 

「こらそこ、そんなことを言ってはいけませんよ」

 

 玉藻が巴のグチを黙らせる。

 仮にも師匠なのだ、その言葉が耳に届こうものならどうなることかわかったものではない。

 ゴシゴシと念入りに身体を洗い、今日一日の垢を落とす。

 

「…………」

 

 マシュは黙々と身体を洗うマスターを凝視した。

 それに気づいたマスターは「ん?」と一瞥すると、バスチェアに座りながらマシュの横に移動する。そして足りなくなった泡をマシュから借りる。

 ようやくくまなく洗い終えたマスターはさらにシャワーを借りて泡を流した。

 

「どうしたのマシュ? 私なんか見て。……ハッ! まさか私の身体に発情したの⁉」

 

「いやいやいや! そんなわけないじゃないですか⁉」

 

「え……」

 

 残念そうな顔をするマスターに、マシュはどんな答えが正解だったのかを本気で考えそうになって、変態的思考に切り替わりそうなところで頭を振って邪念を払った。

 全員が身体を洗い終えたようだ。無言で湯船に足のつま先を触れ、ぶるりと震えた後、ゆっくりと全身に浸かった。

 四人が快の嗚咽を漏らす。

 人理を修復したとはとても思えないほどのグダだ。尻を滑らせて鼻の下まで湯に浸かる様はとても英雄サマではなく、ただの温泉客にしか見えない。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛〜〜ぎも゛ぢぃ〜〜」

 

「下品ですよ、先輩」

 

「あぇ」

 

「まあまあ、今くらいいいじゃないですか。私たち、そこいらに比べて胸の大きい女性ですから、肩がこるんですよ。ねえマスター?」

 

「イエス。さすが玉藻。ついでに肩をもんでくれると最高なんだけど」

 

「ダメです」

 

「ダメかー」

 

 ジリジリと尻を左右に振り、沈みかけていた上半身を伸ばす。

 巴はいつの間にか用意していた酒を盆に載せ、ひとり夜景を楽しんでいた。

 これはずるいと思ったマスターと玉藻は、マシュを強引に連れて彼女の背後に忍び寄るや否や、その脇に手を入れてわしゃわしゃとくすぐった。

 

「ひゃわっ⁉」

 

 突然の奇襲に可愛い声で叫んだ巴は、手に持っていたおちょこを滑らせてしまい、中身を湯船に零してしまった。

 じわりと滲み、ものの数秒で溶けた酒を無言で見つめた後、巴は『にっこり』と微笑みながらこちらを振り返る。

 

「ああ、せっかくの高い日本酒が無駄になってしまいましたね? これ結構高かったんですよね?」

 

「怒った?」

 

「怒ってませんよ」

 

 マスターの問いに対してラグを感じさせない素早い返答に身の危険を感じる。

 急いで後ろを振り向いたマスターは「盾を!」とマシュに懇願する。しかしマシュは面白いいたずらを思いついた悪ガキのような笑顔を浮かべると、マスターに腕を掴まれる前に巴のおよそ被害を被るであろう領域から離脱する。

 もうそれは面白く、お年玉を取り上げられた哀れな子供のようなマスターをマシュは楽しそうに笑うのだった。

 

「ああ、可哀想に先輩……」

 

 その声はとても可愛そうには思っていない。

 マスターは手を伸ばそうとしたが、それよりも先にマスターと玉藻の肩を掴んだのは鬼の角を生やした巴だった。

 

「お二人ともよろしいですか? 正月ですし、まあ気が抜けるのは仕方のないことでしょう。しかしそれとこれとは別です。私も全力でくすぐって差し上げましょう。泣いてもやめません。――では、お覚悟を」

 

「あの、巴さん? 私がサーヴァントに本気で迫られたら死んじゃうけど?」

 

「ええ、マスターはちゃんと力加減してあげますから安心してくださいね?」

 

 一瞬の隙を見出した玉藻が巴の手から逃れようと足掻くが、逃がすまいと尻尾を力強く掴まれて「ふぁふん!」と陥落する。

 心底震え上がる。

 紅閻魔の修行(修羅モード)と巴のくすぐりのどちらかが選べるとしたらマスターは間違いなく前者を選ぶ。それほどの脅威を感じたのだ。

 マシュはただこちらをジッと見つめているだけ。

 おのれマシュめ。後でマシュマシュの刑にしてやると心の中で固く決意したマスターは、賢者モードに突入してすべてを受け入れた。

 

 ◆

 

 ピクピクと肉体が震える。

 鬱憤を晴らした巴は満足そうに風呂をあとにした。

 マスターは縁にだらんともたれ、肩を上下させ、だらしなく小刻みに熱い呼吸を繰り返した。

 

「これ、巴、は、やばい……ね……」

 

「はい……なんかもうやばかったですね……」

 

 玉藻も完全にダウンしたようだ。顔だけこちらに向け、死にそうな表情で言う。しかしサーヴァントだからこその体力だからか、ものの数分で復帰してみせた。

 ふらりと湯船から出た玉藻は生まれたばかりの子鹿のような歩き方で風呂を出ていく。

 残されたのはマシュとマスターだけ。

 

「大丈夫ですか、先輩? 少し私もいたずらが過ぎたようですね」

 

「うん、大丈、夫と言えば……大丈夫。でも、ちょと休憩が……欲しい、なぁ」

 

「私はもう満足したのであがりますね。コーヒー牛乳を買っておきますので、あとで飲みましょうね?」

 

「いいねそれ……ありがとう」

 

「いえいえ。それでは」

 

 マシュマシュの刑はチャラにしてあげよう。

 トテトテと去っていく後ろ姿を見届けたマスターは岩に顎を置き、俯いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ずっと見てたの?」

 

 ただの独り言に聞こえたそれが湯船に満たされた湯が小さな波を生じさせ、マスターの身体を打った。

 岩陰からぬぅ、と人影が現れる。

 幽霊屋敷に出てきそうな仮面。にじりと全身を覗かせ、くすりと笑った。

 

「いいものを見せてもらったわぁ。眼福眼福♪」

 

「――蛇庄屋」

 

 ススス、とマスターの横に移動した蛇庄屋は手にした温泉卵を、仮面の下から頬張った。

 

「思ったんだけど、あなたって性別どっちなの? 口調は女だけど、なんとなく男って感じがするし」

 

「アタシのこと疑うの? なら見せてあげるわよ?」

 

 ざぱぁっ! と蛇庄屋が立ち上がる。

 マスターは興味本位に頭だけを横に傾けてその股間を確認する。

 そして勢いよく逆の方向に頭を向けると、のぼせているのか恥ずかしがっているのかわからないくらい真っ赤に顔を染める。

 

「…………ダメじゃん」

 

「おほほほ。昔は混浴が普通だった時代もあるのよ? それにアナタだって、アタシのこと、全然拒否しないじゃない」

 

「それはまあ……恩があるからね」

 

「本当にそれだけかしら? まあそれについては別に気にしないでいいのに。この程度は造作もないことよ」

 

「それでもだよ」

 

『これ』のおかげで今日、この紅閻魔亭に来て初めてマシュたちと一緒にお風呂に入ることができたのだ。それはマスターにとってこの上なく嬉しいことであり、一言だけのありがとうだけでは言い尽くせないほどなのだ。

 だから蛇庄屋を無下に扱うことはできない。

 

「……っと、そろそろ時間切れだわ」

 

 蛇庄屋が呟く。

 ちょうどその瞬間、マスターのまわりに無数の札が舞い始めた。それらはすぐに燃え散り、残ったのは、見るも無残なマスターの身体だった。

 

 ――傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡。傷跡――……。

 

 肩から腰に伸びた引掻き傷。

 右の脇腹に残る痛々しい火傷の跡。

 まだ完全に塞がれていない太腿の抉れた跡。

 右肩を何かに貫かれた跡。

 腎部に目立つ、死んだ肌。

 探せば無限に見つけられそうなほどの、傷跡。

 極め付きは……。

 

「あらアナタ、ずっと前に手術でも受けたのかしら?」

 

 まるで包丁で切れ込みを入れられたような、綺麗に胸から子宮の上に真っ直ぐ伸びる傷跡だ。

 

「手術……手術か……いや……えっと……」

 

 思い出せない。

 暗い洞窟の中、誰か小さい女の子に岩に押さえつけられて腹を裂かれたのは覚えている。あれほど強烈な痛みだったのだ。思い出すだけでも吐き気を催すレベル。まだその記憶は灼けきってはいない。

 でも誰だったろうか。

 ジャック? パライソ? メドゥーサ? 静謐?

 ……いや。いや。そんなことはたいしたことではない。

 そもそもいつの出来事だったか。

 覚えているのは、ただ痛かった。

 それだけ。

 

「どうだろうね……」

 

「なんて曖昧な答えなのかしら」

 

 蛇庄屋が嘆息する。

 マスターが貼っていた護符……『これ』は曰く、花咲爺さんの再現のようなものらしい。

 肉体の逆行……とか何とか説明していたが、マスターにはそんな具体的なことはどうでも良かった。

 しかし再現は再現でしかなく、つまるところ制限時間があるわけだ。

 

「……どうする? 暇つぶしに昔から作っていたからまだ護符はたくさんあるけど、いるかしら?」

 

 巴の被害からようやく復帰したマスターは、湯船から立ち上がった。それは風呂に入ってきた時のあの美しさはまるでなく、『幻想』だったかのような見すぼらしい姿だった。

 蛇庄屋はのぼせないのだろうかとふと気になったマスターは後ろを振り向いた。

 蛇庄屋はさっきのマスターと同じ体勢で縁にもたれたままマスターの後ろ姿を凝視していた。

 

「……こんな私に発情なんてしないでしょ」

 

「ほほほほ。喜んでいいわよぉ? そんなアナタを好む『イロモノ』なんてこの世にはいくらでもいるのよ?」

 

「気持ち悪いね、そんな人も………………私も」

 

 蛇庄屋を残してマスターは脱衣所へ向かう。

 マシュがあがってからだいぶ時間が立っているはずだ。両手にコーヒー牛乳を持って部屋で自分を待ってくれていると考えると、はやく戻ってあげないと、と思った。

 

「結局……」

 

「やっぱりもらうよ。お代は……」

 

「いいのよお代なんて。アタシもいらないものを処分できるから一石二鳥よ」

 

「ありがとう。またあとであなたの部屋に取りに行くね」

 

「わかったわ。……ところでひとつ訊きたいのけれど……アナタ、今日は何をしてたの?」

 

 突然の話題から大きく逸れた質問にマスターは再び後ろを振り向き、目をぱちくりとさせながら答える。

 

「今日は外で食材集めをしていたよ。でも猿たちと結構やりあったなー」

 

 その返答に納得したのか、顎をさすりながら「ああ、そういうコトね」と頷いた。

 

「な、何?」

 

「いやぁね? もう一回身体を洗うことを勧めようと思ったのよ」

 

 失礼な。

 マスターは頬を膨らませてその理由を問う。

 湯船に浸かる前に身体を洗うのは当然のことであり、マナーだ。汚い身体のまま浸かるのは他に人に迷惑になるのだから。

 ちゃんと四人全員で洗っていたし、別に適当にしていたわけでもない。これでもマスターは女の子だ。それくらいのことは当然なのだ。

 しかし蛇庄屋はさっきのように戯けたりせず、ごく普通に、思ったことを口にする他人に過ぎなかった。

 

「――――だってアナタ……とても獣臭いわよ?」




シリアスはなかった。


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KiGA 1

お 待 た せ ♡
電撃大賞に挑戦しようと思い、しばらくそっちに時間を費やしてました。
CCC復刻からちょこちょことネタストックを蓄えようと思ったものの、どれも序盤で燃え尽きて永遠のゼロ状態。
でもビースト案件なら話は別。これは4章が楽しみですねっ!


 獣が歓喜に震えている。

 餌だ。餌だ。餌だ。と。

 だからこそ、あの宇宙から逃げたマスターを責め立てる。なぜ食べなかったのかと。

 お前もお腹が空いて仕方がないはず。知っているぞ。本当は涎が垂れそうで、誰にも見られないように、顔を上げないことに精一杯だったことを。

 なのに逃げた。

 美味しそう。食べたらどんな味がするのだろう。ゲーティアや他の獣とは違った、甘美な味がするのは間違いない。あの香りを思い出すだけで気が狂いそうだ。

 なのに逃げた。

 飢餓に苦しんでいるのは知っている。お前が唯一満足できる食事はあれだけなのだから。

 なのに逃げた。

 なのに、逃げたのだ。

 ――弱虫め。

 

 ◆

 

 赤。

 一面赤の大奥。壁も、床も、天井も、赤。

 どうしても血を想起してしまったマスターは吐き気を催してしまう。が、なんとか胃まで戻した。

 それにダンジョンのようなレベルの低い嫌がらせにも反吐が出る。むしろこちらはゲーム気分になってしまう。

 徳川化に対する対抗手段を得たマスターは再び対峙するカーマに思いを馳せていた。

 獣。獣。マスターの獣が鼻をクンクンとひくつかせて下を指差す。

 はやく行こうぜ、と急かしてくる。

 しかし、だーめ、とマスターは言い聞かせ、前を向いた。

 

「行きますよマスター? あ、いえ、やっぱり先に行っていただいていいしょうか? 出待ちトラップとかがあったら死んでしまいますので」

 

 こんな時でも究極に死に怯えるシェヘラザードがぷるぷると杖を震わせながら言った。

 徳川慶喜の印籠、『徳川を終わらせる力』を手にした今のマスターたちなら、カーマに立ち向かえることができる。

 とんだ騒動になったものだとマスターは最下層への扉に手を触れた。

 五戒を突破し、徳川化に打ち勝ち、今度こそ。

 

『安心してください、そこにトラップなんてありませんので。正々堂々ぶち破ってやってください』

 

 シオンが力強くマスターの背中を押す。

 みんなの期待を背負って、マスターは意思を固める。

 

『行きましょう、先輩! ビーストに勝って、みんなを取り戻しましょう!』

 

 マシュが応援してくれるのならマスターは百人力、もっと、千、もうひと声、万人力だ。

 すべては奪われた仲間たちを取り返すために。

 獣を食べ……あれ? これは、いや、違う。これは二番目に優先することだ。

 扉を開けると、そこには暗闇が広がっていた。無だ。しかし、すぐに遥か遠くの星が輝き始め、前に悠々と立ち、快楽の獣が妖艶に微笑んでいた。

 

「はい、おかえりなさい」

 

「……」

 

「なんですか、その生意気な目つきは。でもいいですよ。そんなあなたでも私は愛してあげますから」

 

 コツ、コツ、と無音の世界にただ一つの音を鳴らしながらマスターに向かってくるカーマ。

 しかし。

 

「――主殿に近づな、でなければ斬り捨てる」

 

 柳生但馬宗矩が神速の一太刀を、カーマが伸ばした手を襲う。恐るべき反応速度で身を引いたカーマがうんざりするほどのにやけ顔で再び話しかける。

 

「……いじらしい。その対抗心はいったい何から来ましたか? 使命? 恐怖? どちらにせよ私はそのすべてを愛します。本当は嫌ですけど」

 

『そんなものは必要ありません。なぜ私たちがまたここに戻ってきたのだと思いますか? もちろん勝つためです。カルデアのサポートがあるからには次は負けませんよ、ビーストⅢ/L。……やっちゃいなさい! 対徳川特殊礼装、起動!』

 

 通信機越しのシオンの声に、マスターが礼装を起動させる。

 ふぉん、と軟質の音がマスターのまわりを包み込み、堕落することで己を失う『徳川化』からの防御膜を纏う。

 以前は手も足も出なかったが、今回は違う。パールヴァティー、宗矩、マタ・ハリ、シェヘラザードもいる。これで勝てないわけがない。

 ビーストと戦うのはこれで……四度目だ。ティアマト、ゲーティア、キアラ、そしてカーマ。

 どうやって勝ったかは、よく、覚えていない。

 パールヴァティーが動く。

 その初動を機敏に感じとったカーマが、黒い太陽を散りばめる。それらひとつひとつが圧倒的な爆発力でパールヴァティーを襲う。しかし駆けながら槍から発射した光弾が、必要最低限の太陽だけを撃ち落として肉迫した。

 チッ、と特徴的な角を掠めるも、まだ余裕の笑みを向けるカーマは無限の閃光を放出してパールヴァティーを灼く。その一部が肩に命中して顔をしかめる。いつの間にか姿を現していたランプの魔人が左手で摘んで後ろへ投げ、逆に右手が何かをカーマに向けて一直線に投擲した。

 

「――――!!」

 

 老剣士だ。

 短く、鋭く息を吐き、神速すら超えたスピードでカーマに飛ぶ。

 僅かに反応の遅れたカーマの角を、少しばかり抉り取った。

 ゴトリ、と重い音が確かにマスターの耳に届く。こちらの攻撃が通用していることとに希望を見出し、ここで押し切るべきと判断した。

 礼装全解放。四人のサーヴァントに力を与え、命令した。

 

「――倒して!!」

 

 そして、カーマが今までで一番の笑顔を浮かべた。

 

「ああ、その時を待ってましたよ……ずっと」

 

 どう見ても優勢はこちら。なのにカーマは焦る素振りすら見せず、じっとマスターを愛おしそうに目を向けていた。

 マタ・ハリがその間に介入し、宝具を発動させる。

 対象者を魅了する、マスターから意識を削ぐために。

 

「その程度で私が惑わされると思ったのですか?」

 

 小さな太陽の爆発。その爆炎を斬り裂いて接近したのは宗矩だ。パールヴァティーがカーマの周囲に雷の波を這わせ、逃げ場を防ぐ。

 上からは物語の巨人。逃げられない。

 

「……私に本気で勝てると勘違いしているところ、私はいじらしくて好きですよ? 希望が絶望に変わる瞬間、その落差に至福を感じてしまいます」

 

 ひときわ眩しい閃光がマスターたちを照らし、攻撃の手を止めさせた。

 

「なんのためにその印籠を入手させたと思っているのですか? 徳川を終わらせる力……それが本当に私の脅威足りうるのならば、そんなわかりやすいところに隠すはずがないでしょう。待っていたんですよ、この時を。徳川の代すべての堕落を味わった貴女は『私自身の誘惑』にかかったからにはもう逃げられません」

 

 溶けるような甘言に、マスターの意識が混濁し始める。

 

「わはははは! いい気分だぞぅ! む? そこの小娘よ、何を苦しんでいる。苦しむ必要などどこにもない。何もかも楽になってしまえばいい。ここは何もかもが揃っているからな! さあ信綱とやら、もう一杯飲むぞ~!!」

 

 遠くでゴルドルフが酒盛りをしている。実に楽しそうな笑顔だ。隣の信綱は嫌そうな顔を全開に醸し出しているが、ゴルドルフはお構いなしに盃に酒を注いでいる。

 

「……ちょっと、場の雰囲気が乱れるのでその人を遠くにやってもらえません?」

 

 カーマが初めて嫌な顔をした。明確に邪魔をすることができたのはもしかするとゴルドルフが一番目なのかもしれない。

 

「……く、ぅ」

 

 まただ。これは『徳川化』の影響だ。身体が怠くなり、思うように視界が定まらない。それにしだいに内面をぐりぐりとほじくられるような不快感がマスターを襲い、立っていられなくなって膝をつく。

 

『先輩、しっかりしてください!』

 

 マシュの激励が飛び、マスターは手首を強く抓って自意識を持っていかれないように努めた。

 カーマは今、マスターに集中している。

 ならば。

 マタ・ハリがマスターのフォローに入り、あとはカーマへの集中攻撃を始める。

 

「みーんな平等に愛してあげるのに」

 

 完全に死角から与えられた攻撃に、パールヴァティーがボロ雑巾のように吹き飛ばされる。

 カーマは一切の攻撃動作を見せなかった。咄嗟にその元へと首を傾ける――前に宗矩は閃光に灼かれ、シェヘラザードはランプの魔人の腕によって追撃を逃れた。

 

「少し徳川化の兆候が鈍いですが……まあいいです。羽化するための餌として貴女は十分な役割を果たしてくれました」

 

 無限に広がる広大な宇宙。それを彩る無限の紫色の光が、焔となってゆらゆらと燃える。

 それらが人の形となり、女の形となり、カーマとなるまで数秒もなかった。

 すべてがカーマ。

 あれもカーマ。

 これもカーマ。

 みんな、カーマ。

 マスターの獣がついに我慢の限界を超えて飛びつきそうになったが、更に深く爪を食い込ませて自身を戒めることで抑えつける。

 餌!? 餌だと!? ぽっと出のウブで赤ん坊ビーストが、なに生意気なことをほざいてるのだろうか!

 礼儀のなっていない奴め! 捕食者と非捕食者の違いも理解できん脳みそピンク色の雑魚女が!

 獣が激昂して、涎の水たまりの中心で満足するまでだだをこねた後、煮えたぎる欲望をマスターに当たり散らす。

 飢えた牙がマスターの脇腹に食い込み、骨を砕かれる痛みに呻く。だがこれは幻痛だ。リアルへの痛みはない。

 

『そんな……ナイナイ! 群体のビーストだなんて! どれも分身や分裂ではなく、正真正銘、ビーストです!』

 

 角が消え、代わりに天使の輪のようなものがカーマの頭上に出現する。

 

「なぜ大奥に目がついたと思いますか? 別にどこでも良かったんですよ。でも、ここがピカイチで私の目に映ったんです。『徳川を愛し続けたい』という妄執……それに引き寄せられてここに来たのですよ。――ねえ、春日局」

 

 パールヴァティーが着物姿になり、春日局が表出化する。

 カーマに指摘されたことに、取り乱し始める。

 

「私、が。そんな……。あああああ!!」

 

「落ち、ついてください!」

 

 マスターが全力で声を飛ばすが、どうやら彼女には届いていない。それだけではなく、誰にも届いていない。その証拠に、宗矩も、マタ・ハリも、シェヘラザードも、マスターを見向きすらしない。

 そして、本当は声など出していなかったことに気づく。出せていなかったことに気づく。

『徳川化』の影響がますます酷くなっていく。取り返しのつかないダメージをジワジワと与え続けるような、万力で頭を潰されるような感覚にマスターは短く喘いだ。

 それに比例して、獣の飢餓が頂点に達しそうになる。苦痛の果て、いくら呼吸をしても満足に肺が満たされない。焦げた鍋に僅かな水を注ぐような。

 これは地獄か? いいや違う。通常営業だ。

 

「貴女の心を折らせてもらいましょう。酸素を極限までカット。これは慈悲です。地面を無くし、重力を消失。視界もカット。光など与えません。永遠の暗闇の中、芋虫のように宇宙を遊泳してもらいます。どうです? 貴重な経験でしょう? 満足するまで楽しんでもらいますよ。……いえ、逆ですね。私が満足するまで楽しませてあげます。私はそこら中にいます。貴女を温かく見守っています。果たして堕落しきった状態でどこまで堕ちることができるのか……あ、やばいですね。自分でも思った以上に興奮してきました」

 

 ふわり、と足に触れていたものがなくなり、マスターは完全に何もできなくなってしまった。

 無限のカーマがマスターを全方位から眺め、楽しそうにくすくすと笑う。

 地面がなくなってもある程度自由に動けるが、カーマの機動力には遥かに及ばなかった。マスターの手を掴み、遠くへと運んでいく。

 凍えて死んでしまいそうだ。恐ろしく冷たいカーマの手はマスターを蝕み、必死に抵抗しようとこれ以上になく露出した腹を蹴るが、所詮は人間とビースト。敵うはずなどない。

 

「本当にめんどくさいですけど、貴方のこと、本気で愛したくなってきました。なんだかこう……虐め甲斐があって楽しいんですよね。圧倒的弱者をいたぶる快感というやつでしょうか。でも私はすべてを愛する義務がある。だから嫌なんですけど、やっぱり宇宙遊泳、してもらいます。どうしようなく矮小な人間の心が折れ、私の『温かさ』を求めた時……その時まで今後の『貴方を虐めたいリスト』でも作って待っておきますね」

 

「放し、て!」

 

 カーマの手首を殴り、逃げようとしても無駄な努力。それに余分な運動のツケが回り、過呼吸に陥り、ついにだらんと力なく項垂れてしまう。

 

「まだ酸素しか手を出していないんですけど、よく囀りますね? それだけより苦しくなるというのに」

 

 カーマの声が耳に入らない。すべての機能を破棄してでも呼吸を全力で繰り返した。

 ヒュ、ヒュ、と小刻みな呼吸音はカーマ達の静かな嘲笑にかき消される。次第に感覚が薄れていく。マスターに牙を這わせていた獣は凶悪な爪でマスターの身体を抉りながら輝いた眼でカーマに接近している。

 違う、今じゃないとなけなしの力で獣を強引に自身の意識に従わせ、その代償を払う。

 

「……そろそろ忌々しいパールヴァティーたちから十分な距離をとれたかしら? ええ、始めましょうか」

 

 手を引かれ、マスターとカーマは対峙する。

 おんぶからだっこまで。何もできないマスターは、冷たい抱擁を受け入れるしかなかった。

 これがカーマの愛。心がちっとも熱くならない。彼女なりに愛情表現をしようと腰に手を回してより強く抱きしめるが、それは余計にマスターを苦しめるだけ。

 

「く……ぁ。ひ、たぃ」

 

「痛かったのですか? それは悪いことをしてしまいました。ではお別れの挨拶はここまでとします。――さようなら、またあとで会いましょう」

 

 この世の美を集約したような、永遠に記憶に焼き付く笑顔が向けられる。

 そしてカーマの手が離れ、「ぁ」と気づいたときは遅かった。

 マス




最後のシーンが書きたかっただけ。
獣ちゃんはマスターちゃんの可愛い可愛い守護者(要審議)です。


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KiGA 2

食事の時間ですよー。


 くすくすと。くすくすと笑い声が聞こえる。それ以外は、無。

 上下左右、何もわからないマスターは宇宙を漂うことしかできない。背後で笑っているのかと思えば、耳元で囁かれ、次は複数のカーマの笑い声が聞こえた。

 何かを求めた。

 決して愛ではない。

 何か、だ。究極の抽象的出来事。

 手足をバタバタと動かしても無意味。カーマによって供給されている酸素は必要最小限。息苦しさに悶え、ついにマスターは自分から何かをすることをやめた。

 逆にマスターは物思いにふけることにした。ここにはマスターを阻害するものはいないのだ。獣と亡者、カーマを除いてだが。

 だからこれは一時の休息と思えばいい。そう考えるだけで、焦っていたマスターの心は驚くほど落ち着いた。

 

「……寝よう」

 

 疲れた。

 思考を切り替えただけで、どっと疲れが溢れる。特に脚。大奥をずっと歩き続けて痛い。これは明日は筋肉痛だな、と呑気なことを考えながらどうせ見えもしない目を瞑った。

 通信機は……どこかになくした。おそらくカーマに引っ張られた時に落としてしまったのだろう。

 今マスターができることは、仲間たちが自分を見つけてくれること信じて待つ、ただそれのみ。

 動かなければ、いい。呼吸もだいぶ楽になって、リズムも掴んだ。

 久々に人間らしく休息らしい休息がとれる。獣も遊び疲れ、マスターに食いついたまま眠っている。

 何も考えず、頭の中を空っぽにすればカーマなんて意識の外へと押し出せる。

 お腹が空いてきたが……まあ、大丈夫だろう。

 温かな母の胎内の羊水はない。呆れ返るほど広く冷たい宇宙だが、マスターにとってはあまりにも贅沢すぎる寝床だった。

 眠気に襲われ、しだいに瞼が重くなる。

 愛……愛、か。

 マスターはみんなを愛している。その質は数値化するなどといった、ロマンに反することでは表せない。

 たとえ苦手なサーヴァントたちでも、大事にしたいと思っている。それがマスターとしての努めだから。みんな違ってみんないい。バカみたいに幼稚な言葉だが、意外なことに理にかなっている。

 愛は一方的に与えられるものではない。それは愛ではなく、支配。カーマのやっていることは支配でしかない。

 Rは自己を、Lは他者を。揃いも揃ってまあ、我儘な人たちだ。

 つまり、愛とは無償であり、また有償でなければならない。それらだけだと、いずれ堕落と義務となってしまう。だからほどほどの関係に。

 その障害を超えることができた時、それこそが真実の愛と言えるのではないだろうか。

 マスターはマシュを愛している。その度合いは他の誰よりも強い。恋愛的な意味の愛ではないことを付け加えておく。長年一緒に戦ってきた唯一無二の友として、これ以上にない信頼を寄せている。

 しかし、だからといって愛に欲望的になろうとはしない。

 マスターは、愛に殉じたどうしようもないバカを知っているからだ。

 その結末を、目の前で見届けた。

 

「…………」

 

 少し、あの光景が脳裏に浮かんで苛立ちが募った。

 愛に生き、愛に死ぬ。

 実に格好のいい言葉だが、マスターはそれを愚の骨頂と考え、自身の肝に強く銘じている。

 なぜならそんなことのために生きる余裕などないからだ。そして死ぬわけにはいかないからだ。

 ではマスターにとって、愛とは何か。

 ――不要。

 気づいてしまう。自分には愛が不要であることに気づいてしまう。

 みんなへの愛は、確かにある。しかし、しかし、しかし、これは表面上のもの? そんなはずはない。みんなのためにマスターは頑張れる自信がある。それこそ死ぬ覚悟で。これが愛に死ぬ?

 必死に今の結論への否定材料を集めようと、マスターは躍起になって頭を働かせた。

 みんなに対して恋愛的感情はさすがに抱いていない。抱いているのは、かけがえのない仲間としての愛だ。

 マシュに対しては?

 思考が鈍くなってくる。愛とは何か。それを明確に説明、もしくは理解できない。もやもやに拍車がかかり、どれだけ考えても、とマスターは満足できるほどの材料を集めることできないでいた。

 霞み、薄れ、散る。

 頭が、痛い。脳が直接バーナーで炙られるような熱さに耐えかねて絶叫する。

 喉が張り裂けても気にしないほどの、およそ人とはとても思えない絶叫。

 ぐちゃぐちゃに混ぜられ、歪んで戻った後には、すでに何ピースかなくなっていたパズルから、さらにひとつピースがなくなっていた感じがした。

 ……そもそも先程からずっと、何を考えていたのだろうか。愛は、そう……愛、は……えっと……あ、い、は――……。

 何がなんだかわからなくなってきた。焦げた脳は黒ずみ、ガリガリと削られる感覚に痺れる。

 眠っているはずだった。しかし眠れていなかった。ひとときの休息にはなったものの、しっかり休めたかというと、違う。

 ふと、なにか温かい何かに身体が包まれていることに気づいた。意識が次第に戻ってくると、獣は食事中だったらしく、げっぷをひとつし、頭をすりすりとマスターにこすりつける。

 カーマの静かな笑いが蘇り、次に誰かの声が聞こえた。

 

「主殿、無事か。ここはしぇへらざぁど殿の絨毯の上だ」

 

 この声は……宗矩か。

 突然腕を力強く引かれ、マスターはされるがままに彼の鍛えられた胸板に吸い込まれる。

 

「ひぇっ? あ、う、うん」

 

 マスターに今必要なのは、絶対的な情報量だ。

 空いている両腕を伸ばし、宗矩の身体をしっかりと抱きしめる。

 

「……みんなは?」

 

「お局殿が大奥を再展開するための準備をしている。我々はここで大人しく座禅を組んで待っている」

 

 宗矩の背後でシェヘラザードが物語を語っている声が聞こえる。

 

『聞こえますか? ならばよし。なんとか探し出せてよかったです。今、春日局さんが『春日局の物語』を聞いて、マタ・ハリさんの宝具で精神的自己改造を施しています。『春日局』が、大奥の支配権を奪還するために』

 

 シオンの声が聞こえる。

 なるほど、カーマという大奥を新たに塗り替えて、土台を作り変える作戦ということか。

 魂だけの存在となった彼女はその影響をダイレクトに受け、強い力を発揮できるようになるだろう。しかし大丈夫なのか。パールヴァティーに憑依することによって命を繋いでいる存在であるはずだ。

 一度パールヴァティーから離れると、消滅する恐れが……。

 

『先輩の懸念もわかります。ですが春日局さんもこのことを了承しています。聴覚情報しか共有できなくてすみません。春日局さんが大奥を奪還し次第、すぐに視覚を確保します』

 

 キン、と鋭い音が鳴り、真っ暗な視界に白が殴り込む。

 

「――ごめんなさい、そしてありがとうございます。カーマの大奥は、私に任せてください」

 

 途端、ぼんやりと色が塗られていき、遠くに無限の宇宙が広がっているのが見えてきた。しかし、そのどれもがカーマ。

 いち早く駆けつけてきたオリジナルらしきカーマが初めて余裕ぶった表情を豹変させて苛立ちを隠せないまま口を開いた。

 

「なんですか。せっかく貴女を愛するために虐めリストを作っている最中でしたのに……。ゴミみたいな人間が私の大奥に手を出すなんて不愉快です」

 

『不愉快ですって……? 私の大奥(・・・・)に手を出したあなたの方こそ不愉快です。私が作り、私が見守り、私が育てたこの大奥を弄ぶなど言語道断っ! ここは宇宙などではなく、地球という星の上にあります! 足のつかぬ場所など誰が安心して歩けましょう!』

 

 宇宙一面に、床が張られる。

 長い間宇宙を漂っていたせいでバランス感覚を失ったマスターは久方ぶりの地面にしっかりと立つ、ことができずにその場に座り込んでしまった。

 

「お手を」

 

「ありがとう」

 

 宗矩に差し出された手を掴み、マスターは立ち上がった。

 今ふらついたのは、見なかったことにしてほしい。これから戦うというのに、これではカーマに失礼だ。

 宗矩の補助を振りほどき、マスターは今度こそ自分の力で立ち上がった。

 しっかりと地に足を踏みしめ、カーマに向き直る。

 激しく狼狽していたカーマだったが、すぐさま余裕を取り戻して微笑む。無限のカーマが降り、人外の容貌を存分に晒しながら言った。

 

「地面を付け加えたところで、貴女たちは振り出しに戻っただけです。徳川化の呪縛は解かれていない。そんな貧相な状態で私と戦えるとでも? 見えませんか? そこら中にわたしはいます。本当に相手にできますか? できませんよね? 最高に愚かです……大人しく私の#に溺れてしまえばいいのに」

 

「く、ぐ……!」

 

 身体の節々が音を立てて軋むほどのプレッシャー。しかしマスターはそれに耐え、獣、獣。獣。獣、獣、獣、餌、獣。獣をガッチリと見据える。

 たとえ徳川化がマスターの身体を蝕んでも、それでも戦える。みんなのために。

 それが、マスターの……マスターの……マス、ターの……?

 靄がかかり、その後の言葉が思い浮かばなかった。だがこれはさしたる支障ではない。必要なのは思いではなく、行動なのだから。

 シオンから礼装の頭部生命維持機能を発動させたと連絡が入る。どれだけ高性能なのかはマスターの知るところではないが、確かに呼吸はずいぶんと楽になった。これなら激しい運動をしても息苦しさを感じることはない。

 

「……ケホッ。では、もうひとつ刃を与えよう。最も信頼に足る武士に」

 

 魔力をサーヴァントたちに送り、いざ立ち向かわんとした時。ごぼうのようにやせ細った信綱が服を乱暴に掴みながら、すかすかの声で待ったをかけた。

 大きく深呼吸をし、だがすぐに苦しそうに浅い呼吸に戻り、また深呼吸……と無残な状態であることは明らかだ。

 

『信綱! 出てきましたね! こら、なに勝手に私の大奥に乗っているのですかー!』

 

「許されよ。拙者はひとつ、乳母殿に貸しがある。それを返す時が来た」

 

『貸しなんてありません! むしろそっちには徳川を裏切ったどでかい負債が……!』

 

「――徳川のためにやらねばならぬことは、たとえ後に自分が罰せられるのだとしてもやらねばならなぬ。そう、すべては徳川を護るために」

 

 カーマは黙って信綱の決死の演説を楽しそうに聞いている。それはまるで、そんなことをしても、どうにもならないのです、と言っているようで……。

 

「後ろ指をさされようと、恥にまみれようと、拙者は次代の将軍にお仕えし、徳川を支える。それが拙者のすべきことと信じるが故。こうして生き続け、いつか、誰かが訪れることを信じて……ゲホッ! ッッ、ゲ、ホッ!!」

 

 信綱が口元を抑える。その端からは決して無視できない量の血が溢れ、片膝をつく。

 マスターは何も考えずに飛び出した。カーマの間合いの外にいたのに、自ら足を踏み入れてしまう。しかしカーマはその様子を眺めているだけだった。

 恐らくマスターよりも軽い身体を抱き起こし、血が付着することなんて考えもせずにできるだけ楽な姿勢を取らせた。

 

「面目、ない……かるであのますたぁとやら。花札を作るのに少々無理をしすぎたようだ……。クク、拙者の腑はどうなっていることか。腹でも開けば見せられよう」

 

『え、嘘……花札のブラックボックスが一斉に起動して、裏プログラムを実行し始めた?』

 

 シオンの驚きを隠せない声とともに、マスターの懐にしまっていた花札が仄かに光を帯び始める。

 驚き、「なにこれ⁉」と言いそうになったが、それよりも先に確かな反応を見せた者がいた。

 

「――――――は? ちょっとちょっと。何ですかそれは。そんなの想定していません」

 

 焦りの色が表情に濃く滲んでいるのがよくわかるほどの明らかな反応を、カーマが示した。

 

「機と場は整った。自ら認めよう。拙者は……心底より……徳川の価値を失わせる者であると」

 

『この花札は大奥を構成するエネルギーであり、貴方自身の肉体でもある。効能は……自らの性質の暴露……外へと向けられる慶喜公の印籠の力とは逆の、内側に向けられる力……。つまり、汚染された徳川化を打ち消す、中和剤のようなものになる!』

 

 マスターは蚊に血を吸われるだけで死にそうな信綱を見下ろし、袖でそっと口元の血を拭った。

 味方を護るために味方を裏切り、敵の足元で顔色を窺う日々はさぞつらかっただろう。将軍に仕える者として、裏切りは重罪であることは間違いないだろう。その重圧を背負いながら『いつか』を待っていた。

 

「ですが花札はあの方の肉体、なのでしょう? 使って消費してしまってよろしいのでしょうか」

 

 シェヘラザードが問う。彼女の言う通り、この薄っぺらい紙に込められた、文字通り信綱の血肉を費やしたモノ。

 どうしても思うところがあるのは仕方がない。

 マスターは、信綱が首肯するのを見た。

 己の身を犠牲にしてでも、徳川を護ろうとするその心。それは#以外の何モノでもない。

 

「迷うな。それに、そちらにも選択肢はないはずだ」

 

「……ありがとうございます。大事に使わせてもらいます。あとは、私に任せてください」

 

「……ああ」

 

 大奥で集められた花札をマスターに集めて、裏プログラムに従って消費する。

 負けられない。人の#の結晶をこの身に受けたマスターは決意を固める。目の前にいるは、ビースト。

 生まれ変わったような爽快感に身震いし、気持ちを切り≪オイシソウ≫替える。

 

「……?」

 

 何か、変な違和感を覚えた。

 しかしそれ以外何もなく、今のは勘違いだと一蹴する。

 

「丁度良い、宗矩殿。もう一つ策があるのだ。今一度言おう。これまでの拙者の所業を見よ。貴殿の目の前にいるのは、徳川に仇為す者(・・・・・・・)

 

「!」

 

 宗矩の眉が吊り上がる。

 マスターにはその意味するところが分からなかった。しかし宗矩には理解できたらしく、依然として顔に刻まれた皺をより一層深くしながらマスターと信綱の前に立った。

 

「――老中、松平伊豆守信綱。貴殿はまことの忠臣よ」

 

「否、拙者は逆臣だ。そうでなければならぬ。故に――」

 

「――斬らねばならぬ(・・・・・・・)

 

そうだ(・・・)

 

 刀を鞘から抜く宗矩に、マスターは形相を変えて飛びついた。

 

「それは違うでしょ⁉」

 

 見てほしい。信綱はもう虫の息。あと数分で息絶える。なのにこれ以上苦しめる必要がどこにもないはずだ。

 

「……主殿。これは徳川を護ろうとした男の、最後の足掻だ。どうか、見届けてやってほしい」

 

「でも……っ!」

 

「いいのだ、小娘よ。その気持ちだけでも拙者は充分すぎるほど救われた」

 

 自力で立ち上がった信綱がマスターの肩を持ち、ぐい、と後ろに押し退けた。

 刀を構える宗矩の前に両手を広げた信綱は頭だけこちらに向けて、いっそ清々しいほどの微笑みを向けながら言った。

 

「感謝。そして、さらばだ」

 

 刀は容赦なく逆臣の肩から腹にかけて斬り裂いた。

 

「これで信綱殿は魂のみの存在となった。故にこそ、お福殿と同じく、ここでは姿を変える」

 

 それは、ひとつの刀だった。

 信綱の亡骸から溢れんばかりの青白い光が宇宙を照らし、形を為す。

 その柄を握り、触り心地を確かめる宗矩は一言、「伊豆守の村正擬きか」と呟いた。

 

「よかろう。貴殿の忠義、しかと預かった。徳川家兵法指南役、柳生但馬守宗矩。――唯一度、偽りの徳川を滅ぼすために、偽りの村正を振るおう」

 

 袖にべっとりと張り付いた血を見る。

 これは彼が生きた証だ。そして、宗矩が握る刀は彼の忠義の証。

 ここで決着をつけなければ、人理を救った者として名が廃る。

 

「いじらしく手を尽くした挙げ句、結局どうにもできずに私に蹂躙される姿を見るのはとても面白そうだなって目を瞑ってあげたのに――」

 

「見誤ったね、カーマ。あの人の忠義の深さを見抜けなかったのは」

 

 マスターの心に抱いたのは怒りではない。憐れみだ。さんざん#を熱く語っていたくせに、#に裏を取られるとはいったい何事か。

 だから、憐れ。

 あの神々しく輝いている手足はどんな味がするのだろう。

 あの豊満で柔らかそうな肉体はどれほど舌を肥えさせてくれるのだろう。

 あの赤い目を歯でぷちゅっと潰す食感、味わってみたい。

 こらこら、そんなに飢餓に苦しんでいるからって私に訴えなくてもいいでしょう? そう言おうと足元を見下ろしたが、獣は大人しくマスターのゴーサインを待っているだけだった。涎を垂らしているからてっきり獣の欲望が思ったが、どうやら違うらしい。

 ――では、今の悍ましい欲望は、いったい誰のもの?

 

「意味がわかりません。なんですかこれ。変です。この気持ち悪さを表す言葉を私は知りません。ああもう、どこまで痛いのが好きなんですか、人間って!」

 

「痛いのが好きってわけじゃないの。自分の目的が、痛みを伴うものとしても果たすべきものなら、迷わず人間はそっちの道に進むの」

 

『わかりませんか? 不器用ではありましたが、これこそが徳川に対するまことの忠義です。これでもわかりませんか? なら言い換えましょう。それこそが、信綱殿がそうであると信じた、#なのです』

 

 春日局の説教に、カーマは頭を抱えて否定を繰り返す。

 

「いいえ、いいえ違います。#を与え、宇宙を満たすのは私です。おまえたちが愛を持つ必要なんて無い! 私の知らない#なんて特に!」

 

 《ビースト失格》。

 #欲の獣が、知らない愛があると自白する。これは一体どういう了見だ。獣は牙を剥き出しにしてその是非をマスターに問いかける。

 間違いなく、それは罪。そう判断すると獣は面白おかしく笑った。ぺろぺろとマスターの袖を舐め、信綱の血を啜る。

 もはやマスターはカーマをビーストと認識しない。ただの我儘なな#の化身。ならば、あとは排除するまでだ。

 

「さあいらっしゃい、可愛らしいマスターさん。貴女たちの思い上がりを正面から叩き潰してあげましょう。ビーストⅢラプス。腐敗堕落の天魔王が、無限の#を与えましょう!」

 

 ◆

 

 薙ぎ払い、斬り払い、肉迫する。

 

「ッ!」

 

 宗矩の剣尖がカーマの頬を浅く裂き、髪を斬る。

 迎え撃とうとすればパールヴァティーの槍が背後から伸び、距離を取ろうとすればランプの魔人が行く手を阻む。

 同位体のカーマをいくら向かわせても、その悉くを撃破される。もはやジリ貧であることはカーマにも理解できているはずだ。

 いくら宗矩が走ろうとも、そこに床は存在し、焦燥を隠せないカーマへの道しるべとなる。

 

「こんな、はずは……っ! なんですか、その切れ味は!」

 

「宗矩、宝具解放!」

 

「承知」

 

 令呪を一画使用。

 それによって瞬間移動をした宗矩はカーマの背後に現れる。

 完全に意識の外を突いた瞬間。

 

「――我が剣に、お前は何れを見るものか。『剣術無双・剣禅一如』」

 

 偽村正は振るわれ、カーマの首を落とす、不可視の刃が襲った。

 しかし、すんでのところで別のカーマが身代わりになり、血飛沫を上げて斃れる。

 

「おかしいです……! 他の宇宙から来る私が間に合わないだけじゃない……少なすぎます(・・・・・・)……! ああ、でも、私があれを直に喰らうのだけは……ッ」

 

 回避に専念し、その後を考えていなかったカーマをパールヴァティーの光弾が頭を殴る。あれほど輝きを放っていた頭の光輪が半壊し、カーマは奥歯を噛みしめる。

 

「背に腹は替えられません……私から、徳川の属性を、大奥であることを、切り捨てるしかない!」

 

 するとカーマが身体から青い焔を滲ませ、どろりと黒に変色して消えた。

 

『――カーマの性質が変化しました! 春日局さん、今です!』

 

 シオンの鋭い声がどこにいるかよくわからない春日局に届く。

 キン――、と空気を震わせながら春日局がカーマに言う。

 

『徳川との繫がりを、偽りの大奥との繋がりを切り捨てましたね? それはつまり、私の大奥に逆らう力を失ったということ! ここは#欲の宇宙にあらず。尚の事、私の大奥たらん!』

 

 床が畳へと補強される。

 壁が現れ。

 襖が現れ。

 あっという間に色を獲得する。

 カーマの大奥を、一瞬にして春日局の大奥が上塗りした。

 

「#欲を押し込める、それのどこが幸福なんですか! 堕落を切り捨てる、それのどこが幸福なんですか! どうなんですか、貴女!」

 

 カーマが怒り狂い、長髪が命を得たように大きく広がりながらマスターに問うた。

 その間にも、サーヴァントたちの集中攻撃を喰らい、ついに宗矩の一太刀を受けてしまう。

 

『大奥を取り締まる老女としての言葉を。大奥法度――怪しき女性、疾く追い返すべし! 大奥老女、春日局の名において命じる。汝、この場に居る事能わず! 即刻、大奥より出て行かれよ!』

 

 絶対支配権の行使。いわば強力な概念魔術がカーマに下された。

 襖が開き、外へ誘う圧がカーマを襲う。

 

「く……ッ! こんな、ところでやられて……たまりますか!」

 

 床に深く足を食い込ませることで命令に抗おうと必死に耐えている。

 だが、カーマの大奥で好き勝手していたように、春日局もまた、好き勝手にできるのだ。

 支えが失われた瞬間、カーマは文字通り大奥を蹴り出される。その時を、マスターたちは待っていた。

 

「私だって……そう、簡単にやられる、つもりは……ないですよ!!」

 

 最後の足掻き。

 髪が意思を持ったような動きで伸びた。あまりの想定外のことに誰も反応することができなかった。しかしその髪は攻撃するためではなかった。

 

「――――――ぇ?」

 

 パールヴァティーではなく、シェヘラザードでもなく、また宗矩やマタ・ハリでもなく。

 マスターの両足首にしっかりと巻き付かれた時、その真の目的を悟った。

「や」ばい。と言おうとしたときはすでに遅く、カーマは床から足を浮かせていた。

 途端、鈍器で殴られたような衝撃がマスターの足を引っ張り、根本から千切れそうな痛みに呻いた。

 

「せめて、道連れに……なって、もらいますよ……!」

 

 襖が開き、奥へ。襖が開き、奥へ。襖が開き、奥へ。

 一瞬で仲間たちとの距離が離れてしまった。

 このままではカーマと一緒に外に放り出されてしまう。道連れだなんてご免だ。

 何でもいい! 何でもいいから!

 両手を伸ばし、何かに手が触れるときを待った。

 その時はすぐに訪れ、手を掠めた物を、マスターは必死になって掴んだ。

 それは部屋の柱だった。

 しかし。

 

「ぎ、アアアアァァァ!!!」

 

 ずっと飛ばされていた分の力が両肩と両足を遅い、ぶつりと致命的な断絶音が中で聞こえた。

 カーマが自分の髪を伝いながらゆっくりとマスターに近づいて来ている。

 それをどうにかするための力は、今のマスターにはない。両腕は柱にしがみつくので精一杯で、片手を離すだなんてことはとてもできない。両足はきつく縛られていて、どうにもならない。

 

「私はみんなに#を与えるというのに、そんな私を倒すなんて、頭おかしいんじゃないですか⁉ 私の#は、そんなに気に入らないのですか⁉」

 

「もちろん、気に入らない。そんな歪んだもの、いらない。それに私のこと、餌って言ってたよね? 怒りを通り越して、むしろ笑えるよ。餌は、そっちだよ。もう結構齧ったけどね」

 

「……まさか貴女、あの時、私があんなに少なかったのは!」

 

 獣がカーマの髪をサーカスの火渡りのように逆立ちしながら歩き、カーマの胸にズルリと沈み込む。

 獣性確保。捕食開始。

 

「まだまだ幼い可愛いビーストもどき。その育ち盛りの実、熟していないからこそ美味しかったりはするのかな」

 

「この……!」

 

 残りの距離を一気に詰め、手を振りかざした。心臓を一突き。指一つ動かせないマスターには避けようのない絶体絶命の一撃。

 しかし。

 

「――っ⁉」

 

 カーマの腕は、マスターの心臓を貫くことができなかった。それどころか大きく狙いが逸れて、思わぬ方向に手が伸びている。

 おかしい。一メートルにも満たない距離をどうして外すことができるのか。

 ニ撃。三撃。四撃。

 そのどれもがなぜかマスターに当たらない。

 

「どうして、ですか……⁉ 私は、貴女も愛してあげようとしていたのに……!」

 

 獣は満腹そうに腹を膨らませ、カーマから抜け出し、マスターの中に還った。

 ――オイシカッタ。

 舌を通るその味。後味残る、実に美味な獣性だった。唯一不満があるとすると、熟していないがゆえに、少し渋かったことくらいだ。

 飢餓は満たされ、マスターは久しぶりの食事の悦びに震えた。

 もうこの抜け殻に用はない。

 頭を動かし、カーマを見下ろす。その右目からは血の涙が流れていて、カーマは思わず動きを止めた。

 

「私は、攻撃が当たる未来を視ない(・・・)。愛……愛、か。あ、れ……? 愛って……何? ごめんね? よくわからないから、いらないや。……ああ、そもそも私には不要だったんだ」

 

 カーマが攻撃を外す可能性なんて。ほぼゼロ。だから外す可能性を探すのに、魔力を使いすぎた。それに、一撃ごとに狭まる可能性を捉えるには、もはや人間の業を超えていた。その代償は、眼球が溶けてしまいそうになるほどの激痛。

 もしもう一度攻撃された時、ピン留めができるか怪しい。

 その前に。

 両ひざを縮めて、一気に突き出す。それは呆気にとられるカーマの顔に命中し、髪の拘束は解かれ、カーマは一瞬にしてコメ粒ほどの大きさになり、ついに大奥の外に弾き出される。

 あとは、みんながやってくれるだろう。

 どこかの一室に倒れるマスターはそこから動かず、ずっともぐもぐと咀嚼する素振りを見せていた。

 まだ口の中に残っていた味をしっかりと感じるために、何もない口内を時間をかけながら舐めまわし、味わっていた。

 味わっていた。

 味わっていた。

 ……味わって、いたのだった。

 とても嬉しかった。ただそれだけの、ごく普通の感情がマスターの胸中を支配していた。

 




飢餓は満たされた。しかし何かが灼けた。
それはいったい、何でしょう?

しばらくハーメルンから離れている間にアンケ機能が実装されていたのか!Wow!


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また会う日まで

思ってたよりアンケートに投票してくれて嬉しかったです。
メッセージじゃなくて、活動報告のことをすっかり忘れてました笑


 何も見えず、何も聞こえず、何も感じられない。時間の感覚さえも失われた。

 少女はまぶたの裏世界に映る亡者たちがキャンプファイヤーで盛り上がっているのを無感動に眺める。だがなんとあろうことか、それっぽい服を着て阿波踊りをしている。バカか? バカなのか? 応えることができるのは、あの中で口のある者だけだ。

 死んだ。何度も死に、生き返った。その度に死ぬことは許されないというおよそ人の味わうことの決してできない責め苦を受けた。

 首を断たれたことなんてザラにある。拷問の挙句に殺されたこともあった。圧死したこともあった。焼き殺されたこともあった。魔獣に食い殺されたこともあった。溺死したこともあった。監禁され、四肢を徐々にもがれ、挙句達磨の状態で捨てられたことだってあった。……いや、最後のはただのサイコパスに捕まった時の話だ。特にそこまで語る必要はない。

 はやく五感もまわして、と頼むと快諾した亡者たちは素直に提供してくれた。

 少女の両脇に重武装している男が座っている。時々ガタゴトとこの閉鎖空間そのものが揺れていて、さらにB5サイズほどの小さな格子の隙間から運転手らしき人物が見えたので、ここは車の中であると簡単に結論が出た。

 ところで、なぜこうなった……つまり捕まったのか。これもすぐにわかる。亡者たちの遺志だ。逃げ続けるよりたまには捕まっても面白そうだとかきっとそんなところだろう。全く、時々予想だにしないことを相談すらせず勝手に実行するような自由気ままさには頭を悩まされる。共存するにあたって、これは大きな障害だ。

 そうでしょう? と答え合わせをすると、大正解と拍手を返される。褒美くらいあったっていいでしょ、と頼むが笑い飛ばされるのみ。

 その場しのぎの食事を探すためにゴミ箱を漁り、適当に夜の街をぶらぶらしていたら突然頭をスナイパーで撃ち抜かれた。で、蘇生はしてくれたもののこの状況から助ける気はなさそうだ。

 どこの組織かは知らないが、彼らの心は意気揚々としているだろう。なにせ絶対に捕まえられないと言われていたのに、これほどにもあっさり成功したのだから。だが厳重に拘束されても容易に突破した試しなんていくらでもある。そのせいか、少女を囲む男ふたりの武装の裏で、冷や汗がこれでもかと流れているのがわかる。

 

 

 ふふ、可愛いね。

 

 

 と、どこかに着いたようだ。重々しい真っ黒な壁がそびえ立ち、圧倒的な存在を主張している。これだけ大きければ必ず誰かにバレるのではないかと思ったが、門番が手元のデバイスを操作した瞬間、外世界から隔絶されたのを感じた。

 車の後ろが開かれ、葬式の棺桶運びよりも丁寧に、そして優しくふたりの男によって魔術的拘束衣を着せられた少女が運び出される。

 何もしないのはなんとなく癪だった。眠りこけるふりをするものアリだったが、それでは反応が見られそうにないからつまらない。

 面白半分にわざとらしく芋虫のように身体をくねらせてみる。とはいっても指一本動かさない状態だからそこまで激しい動きはできなかった。

 しかし効果は絶大で、そもそも少女への大きな恐れがあったふたりはまるで気持ち悪いものに触れたかのような反応を隠すことなく見せ、咄嗟に手を離した。当然そうなれば少女は受け身すら取れないで地面に打ち付けられた。

 何も落とすことはないでしょう⁉︎ と男たちを非難していると、突然頭に強力な蹴りを一発もらってしまった。どうやら非常に好評だったようだ。

 呻き声を漏らすこともできない。喉奥まで突っ込まれた何かのせいでこの痛みを発散させることができない。

 確かにほぼ不死身な身体なのは認めるが、だからといって本気で痛みつけるのは酷い。酷すぎる。痛いのは痛いのだ。容赦がなさすぎて逆に笑いそうになる。そんな扱いじゃ女性にはモテないぞ、と。

 空中水泳を楽しんでいる亡者たちは手を出さず、面白おかしく嗤っているだけ。

 

 

「メインターゲットの捕縛、完了しました」

 

 

 よくある研究所のような、だが迷路以上に複雑な通路を右左左前……と進んでとある部屋に運ばれた。二十畳くらいの比較的広い部屋。その中央に見るだけでも吐血しそうなほどの物々しい拘束台が見えた。その周りに十数人の白衣を纏った男たちが立っていた。

 台の上に載せられた少女は拘束衣を脱がされるや否や、同時に一番近くにいた男の腹を蹴り上げて台から転げ落ちる。そしてまだ開いているドアに向かって駆け――。

 

 

「あ゛あ゛あ゛ッ!」

 

 

 背中に凄まじい電流が流れ、少女はその場に倒れた。

 それでも逃げようと必死に手足を動かすが、小さく痙攣するだけでまるで言うことを聞かない。

 スタンガンか。でもこれはどう考えても人に向けて撃つ 電流ではなかった。

 脳の水分が蒸発する感覚に少女は死にかける。

 しかし、あ、そもそも私は人間じゃないんだ、と気付く。骨の棒で爛れた脳髄を突く亡者たちが楽しそうにキャッキャッと笑っている。

 正解だ、と喚き、三ポイントをくれた。還元先は、死の回数。

 ひときわ体格の大きい男に抱きかかえられ、抵抗虚しく少女は拘束台に載せられてしまった。そして恐ろしい速度で拘束が施され、指一本、一センチも動かせないという徹底した警戒心の現れに少女は苦笑した。

 

 

「君の存在は極めて貴重だ。完全なる死者蘇生。それも何度も。もう魔法すら凌駕している。心当たりは?」

 

 

「ないね」

 

 

「嘘だ」

 

 

 背中、蔵物を貫いて腹から針の山が伸びる。

 チカチカと燃える視界。少女は死ぬ。

 針が戻り、数分後には肉が再生し、血塗れの少女が息を吹き返している。

 

 

「言って、おくけど……私が生き返るからって、痛い、のは、痛いんだから」

 

 

「我々も手荒な真似はしたくないのだよ。できればウィンウィンな関係を――」

 

 

「じゃあこれ、外してよ」

 

 

「ダメだ」

 

 

 言っていることとやっていることが矛盾している。

 しかしながら彼らの言い分も尤もである。これほど頑丈に拘束されても尚、恐れを抱いているのだ。

 実際、この子たちがその気になればウルトラマンよりも早く仕事を終えるだろう。なれば、だが。

 

 

「人理焼却事件……その解決の中心に立った女。数多のサーヴァントを使役し、複数の魔術礼装を使いこなすという業。これだけならばまだ傍観するだけだった。冠位を与えるだけで、それ以上はなかった。しかし今はどうだ。その不死身の身体。封印指定されるのも無理はない」

 

 

 聞き慣れない単語を耳にした少女は顔をしかめた。どちらにせよ不穏な単語だ。

 口の中に残った血を吐き出し、黙々と服を剥がれるのをぼんやりと見ている。

 

 

「その力、譲り渡してくれるのならば今すぐにでも楽にしてやろう」

 

 

「ダメ。それだけはできない。だってこれは私の罪だから。償うために私はこうなったの」

 

 

 やがて糸一つ纏わぬ姿となった少女はそれでも恥辱を感じずに、ずっと問いかけてくる男を見据えている。

 空に漂いながら少女の裸体を見下ろしながら必死に絵に描いている人は、一体誰だろう。

 床に転がっている腕は、いったい誰のものだろう。

 ずっと向けられている、肉を舐るような殺意は、いったい誰のものだろう。

 さっぱりわからないのだ。しかしただひとつ、これだけは明確にわかることがある。

 それは、少女がかつて、助けられなかった人たちであること。

 罪は償わなければならない。

 実に単純明快な事実だ。

 だが、少女にはその方法がわからないでいた。死が最も相応しい。そう結論に至ったが、果たしてそれは本当に正しいのかと自問する。

 これは逃げではないのかという疑問が浮かび上がる。少女は優しい女の子だった。だからこそ、こういうことはきちんと真面目に尽くさないといけないと思ったのだ。

 どれほど歪んだものであったとしても。

 そしてまた、これのどこも狂った判断ではないと思い込んでいた。

 少女の思考は壊れていた。とうの昔に壊れていたのだ。

 

 

「君の魔術回路に興味を示すものは星の数ほどいる。どういう構成であのような人外の力を持つのか……いや、時計塔に回収される前に確保できて本当によかった」

 

 

 そう言っている間にも少女の身体にいくつもの電極のような針が刺される。さらに頭にも何十本も線の伸びたヘルメットを被せられ、ボルトで固定される。

 ある程度空洞があったが、きゅっ、と引き締まり、わずかの隙間をも埋めた。

 血が全て鉛に変換されたような重みを全身に感じ、怠惰感に震える呼吸を吐いた。

 カルデアを去ってからは完全ではないものの、全能を体感していた。そしてそれに酔ってもいた。

 だが今は、たとえ拘束が解かれてもその場から動けそうになかった。

 

 

「生命活動速度を落とした。これで感覚は鈍くなり、痛覚もマシにはなるだろう」

 

 

「それは嬉しいね。死ぬまで長く苦しめられるから」

 

 

「君の魔術回路を剥き出しにして、コピーする。あまり人道的な方法ではないが、致し方ない。頑張ってほしい」

 

 

 刺した電極を指で弾いて確かめながら男が言う。

 

 

「私の魔術回路なんか覗いても何もないけどね」

 

 

 それと同時に作業が始まった。

 まず始めに襲ったのは、頭蓋を割る衝撃。続いて全ての骨を折られるような圧力だ。

 刺された電極が致死の電流を流し、強引に魔術回路の活動を促す。

 あっという間に黒い拘束台が血色に染まり、少女は必死に奥歯を噛み締めて痛みに耐えた。

 魔術回路に手が伸びているのがわかる。少女の言う通り、魔術回路をコピーしたところで不死を獲得できるわけではない。

 亡者たちの祝福があってのこの身体なのだ。だからこの男たちのしていることは無意味。ではなぜ少女は抵抗しているのか。

 実に簡単だ。やられっぱなしではつまらないからだ。せめて思い通りになってたまるものかというまだ子供っぽい思考が、四度死ぬのに十分な激痛に耐えさせているのだ。

 

 

「深層領域、yに侵入。これ以上は進めません」

 

 

 口を開けば、出てくるのは苦痛に歪んだ絶叫だ。こんな奴らにそんな声を聞かせてたまるか。そう意地を張って上下の歯を全て噛み合わせて必死に濁った唸り声を漏らす。

 

 

「――では、出力を上げろ」

 

 

「⁉」

 

 

 少女のバイタル信号が激しく上下している。と、一度少女を痛みつける侵略が止まった。

 汗か血かまったくわからない液体に全身が濡れている少女は、朧気ながらも部屋に運ばれてくる軽自動車ほどの巨大な装置が運ばれてくるのを見た。

 身体中に接続された機器が一旦全て外され、少女は安堵のため息を吐いた。

 しかしその表情は一気に絶望の色に変わる。

 外されたケーブルが、次は巨大装置に繋がれる。

 かけられていた布を取り払うと、大きくペイントされた『DANGER』マークが少女の痩せ細った身体を震わせた。

 さっきのはお遊びだったのかと思わせるほどの威圧感。黒光りする機器は本能的に死を感じさせた。

 

 

「いや……ぇ……? 嘘、でしょ……?」

 

 

 少女は耐えられる自信が一気に喪失した。

 ジジジ……と今に爆発しても何もおかしくないレベルで重々しく活動し始めるそれを、半笑いしながら少女は見上げた。

 身体が逃げようと動く。しかしさっきの責めの影響で指一本満足に動かせない少女は、ただの人形でしかなかった。

 こんなの、無理。耐えられるわけがない。これはどう考えても処刑用……それすら生温い。痛みを与えることのみに特化した拷問器具だ。

 これを受ければ、間違いなく死ぬ。

 死ぬことに恐れはない。しかし、死ぬという恐怖にはいつまで経っても打ち勝つことのできない。言わば生物として当然の感情だった。

 

 

「仕方ないだろう? 無理ならば、こじ開けるまで。『押してだめなら引いてみろ』ではなく、叩き壊してみろ、だ」

 

 

 今までどんな痛みにだって耐えてきた。

 蘇生するとはわかってはいても、だんだん曖昧になっていく生死の境目がとてつもなく恐ろしくなる。ふと自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなることがよくあるのだ。

 そんな経験は人類史上、少女以外、誰も味わったことのない苦痛だ。

 

 

 無駄だとわかりきっていても、少女はやはり抵抗した。

 しかし指の先まで正確に拘束された少女には、腰を僅かでも捻らせることすらできない。

 

 

「では――」

 

 

「……待って……! 無理、そんなの、耐えられるわけがないよっ!!」

 

 

「耐える? そんなことは求めていない。君が死んでいようが生きていようがどうでもいい……のだが、死なないのなら僥倖だ。手加減無しで全力で君の結界を壊してみせよう」

 

 

「嫌……! 嫌、だッッ! 嫌嫌嫌イヤイヤイヤイヤイヤ…………!!!」

 

 

 まだ何もされていないというのに、物々しい迫力と恐怖に股の筋肉が緩み、アンモニア臭がし始める。

 そんなことを気にすらせずに少女は叫び、どうせ無理な拘束を解こうと暴れる。

 だが客観的に見ると、泣き喚きながらただ必死にやめてと懇願しているだけ。

 魔術の世界に足を踏み入れた時点で、まともな人生が送れないことはもちろん理解していた。それでも、カルデアの人たちとふれあって、圧倒的に辛いことばかりだったが、少なくとも楽しいと思える時もあった。

 あの瞬間がいったいどれだけ幸せだったのか。それをようやく少女は気づいたのだった。

 男が機器に手を伸ばし、あまりにもシンプルなON-OFFスイッチを撫でる。まるで焦らすかのような動きに少女の呼吸はリンクする。オンに近づけば呼吸が速くなり、オフに近づけば遅くなる。

 数分ほどその繰り返しを楽しんだ後、男はスイッチから手を離した。

 少女は汗と涙でぐちゃぐちゃな顔を、安堵して力を抜いた。

 その時、男は完全に少女の隙をついてオンを押した。

 

 

「っっぴびゃあア゛アああ!!? あ゛あ!? ッア゛アッッッ! ああ゛ぁぁア゛ア゛ああぁあ゛ああ!!!!!」

 

 

 甲高い絶叫が部屋に反響する。

 いくつもの拘束を施された少女は小刻みに身体を震わせることしかできないが、本当は跳ね回らんばかりに悶絶していた。

 先程とは次元の超えた侵略。身体の隅々までほじくり返すだけではない。ごりごりと、容赦なく心身ともに抉られる感覚に少女は狂うほどの激痛を味わう。

 

 

「ひゅ゛ー!! ひゅ゛、ぃ゛ぎぁああ゛あ゛アア゛ぁあぁア゛アあ゛!!! う゛ぇぇ゛ぇぐ、あ゛アアア゛ぁぁ゛……ッっっ!!!」

 

 

「yを破壊しています。……意外に硬いですね。最低14年は」

 

 

「なるほど」

 

 

 目の前で少女が生きるか死ぬかの瀬戸際に立っているというのに誰一人と目も向けず、計測器を睨む。

 絶え間なくこの悲鳴が聞こえているはずなのに、誰も耳を傾けない。

 灼ける。灼ける。灼ける。

 灼けていくのは、なに?

 怖くて怖くて、ただ激痛を発散させようと叫ぶことしかできない少女の喉もあっと言う間に限界に達し、音を発することすら困難になり、時々「ど……め゛、て…………!!!」と意味のある言葉を口にするだけになってしまった。

 永遠拷問。それが一番ふさわしい。誰にも相手にされず、ただ利用されるだけの道具として扱われるこの『憐れ』だけではあまりに表現しきれない有様。

 助けなど来るはずもなく、少女を人間ではなくモノとしか見ていない集団の、ど真ん中にいいようにされている状態。

 助けてよ! と周りの亡者たちに助けを求めても、集音器を少女の口元に向けてASMRを録音しているのだと主張するだけで、他は何もしてくれない。

 苦しみに悶える。誰にも助けてもらえない。誰にも見られない。

 そして、死。そして蘇生。

 

 

「――――――ッ、っ゛っっ゛!! カ――……ッ! い゛ゃああ゛……ぁ゛!! 待っ゛……あアア゛――――――……あぁ゛ぁあ!!!!」

 

 

 誰も少女の訴えに気づかない。生死をモニターしているはずだから、今少女が死んだことがわかっているはずだ。なのに何の反応も示さない。どれだけ必死に掠れきった喉を酷使して使っても、それに見合った成果は得られず、余計に苦しみが増すばかり。

 

 

「隔離する。なにも急ぐ必要はない、我々にはまだやることがあるのだから。特殊隔離指定、レベルQに設定」

 

 

 男が機器を操作し、周りも一旦少女から離れた。

 すると拘束台が縦九十度に回転し、床が開かれる。視覚、聴覚に意識を与える余裕などとうに失っている少女には、あまりに突然のことに驚きつつも、それ以上は何もできないでいた。そして、拘束台ごとゆっくりと床に沈んでいく。

 まず足に触れたのは、液体だ。嫌な予感を察知した少女は、なけなしの気力を振り絞って叫んだ。だがそれは亡者たちを喜ばせるだけで、男たちにはただの絶叫にしか聞こえない。

 

 

「……っ! ひっ、く!! ぅあ゛あ……ッ! っっっっっ゛ッ、が、ぁ………………!!」

 

 

「安心したまえ。この液体は毒ではない。君の排泄物などを消化してくれるバクテリアを含んだ液体だ。直接肺に飲み込めば酸素は問題ない。生命維持機能は……不要か。最小限の栄養はチューブから送られるから問題はない。不死性の極限の実験にはもってこいの隔離だ」

 

 

「くぶっ……ッ! ごボッ!! おがし、くなっらぁぅ……!! あは……ば……っっ! くる゛、じぃ!! か、ら、じな゛せ……っ、しなぜてぇ、っ……!!」

 

 

 弱々しく震えながら死の安寧を求める少女。しかしそれは許されない。死は許されても、少女にとっての死は絶対に許されないからだ。

 狂いながら、これまで経験したことのない生死の連続の中、潰れかけの喉の痛みに咳き込みながら泣いている。

 男たちが呑気にパネルに入力していることなど知りもしない少女は懇願している。

 腰、腹、胸と液体に沈み、もう本当に時間がないと悟る。

 ああ、皆にもう一度会いたい。

 マシュに誘われた時、本当はとても嬉しかった。またカルデアに戻れる。そんな淡い期待を抱いたのも確かだ。

 これが最悪の結末なのか? いや違う。これは最善の結末だ。少女だけが悲劇のヒロインになることで、他の皆はこれ以上に酷いことをされることはない。もちろん望んでそうなったのではない。

 できることならば今すぐ亡者の呪縛を剥いでやりたい。

 しかしその想い以上に罪の意識が少女を縫い付けるのだ。

 どこまでいっても救われない。

 苦しみは続く。

 それを見る亡者たちの気が少しでも晴れるのならば……まあ、いいか。

 狂っている。壊れている。そんなこと、ずっと前から自分自身が一番わかっている。だってそうしないと自分を保てなかったから。自分が嫌いで嫌いで、どうにかなってしまいそうだったから。

 でも、やっぱり苦しいのは、嫌。

 

 

「拘束レベルⅤ」

 

 

「っっ゛! ぅぁ゛っ……っ! ギぅぅ゛ッ、っっ――――――っっ゛っ!! っ―――……っっっ゛!! くぁっ゛………いやっ、やだっやらぁ!いやいやいや嫌ぁっッっ゛!!!?! っ、いっ゛……が、ぁっ………っっっ゛、っ―――――――…………っっ゛ッ!!!」

 

 

 ただでさえ動けないのに、さらに拘束が課せられる。台が動き、両手を背中にまわされ、一切の隙間を与えられないブヨブヨの肉塊が台から溢れ、ギチギチと少女の身体を締め上げる。

 仰け反った腹部にも覆い被さるように拘束され、呼吸すら満足できないようになる。さらに首にも巻き付き、締め上げられる。

 

 

「ではさよならだ。次に会うのは私の後継者かもしれないが、その時はよろしく頼む」

 

 

「ご、ア゛っっ………っ゛っ!! ……っ! っ! ………だ、す、け゛っ…………っ!! ――――――っっっ!!!」

 

 

 筋肉がギジギジと悲鳴をあげ、骨格がゴギリと軋む。あと少しでも無理に力を入れようものなら、少女の身体は壊れる。

 窒息寸前まで締め付ける首の拘束。辛うじて息はできるが、声がまったく出せない。

 ついに口、鼻と液体に沈む。数秒も我慢できなった少女は口から肺に液体を流し込み始める。だがお構いなしに少女を殺したらしめる苦しみは続き、満足に液体が飲めない。そして数分後には窒息死し、蘇生し、勢いよく飲み込んで、また吐く。その繰り返しを上から見ていた男たちは、ついにぼこりと粘性のある液体が表面に泡立たなくなると、チェックに印を入れて、無言で蓋をするのだった。




NORMAL END

以上、『霊怪討伐戦』後、もしマシュがマスターを追いかけなかったらのIFルートのIF分岐でした。


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ツギハギ

次章の告知きましたね!
次こそは、シンよりシリアスなストーリーになることを期待してます!!
ということで、事件戊コラボの後に投稿しようと思ってダラダラ書いてたやつをやっと。


 電子レンジで温められた食事はすでに冷えた。はやく食べないといけないのに。

 スパゲッティ。ミートスパゲッティだ。

 マスターにとって、優先すべきは食事よりもペンを持つことだ。灼けた記憶を――全てではないが――見ることができたのだ。再演された記憶を今すぐにでもこの手記に記さねば。またいつ忘れてしまうかわからない。

 三十分ほどかけてできあがったものを読み直して、齟齬がないか確かめる。

 

「うん、完璧」

 

 完璧などではない。

 あの再演は、マスターの記憶とは些細な部分が異なる。そのことにマスターは気づいていないのだ。

 何ら、何も、全く不思議に思っていないのだ。なぜならば、もう二度と思い出せないと諦めていたものを見ることができたから。

 その嬉しさで胸がいっぱいになっている。だからこの小さい……だが致命的な改竄に気づけない。

 

 継ぎ接ぎ、継ぎ接いで、継ぎ接ぐ。

 

 出来上がったものは、真実ではなく虚実。記憶の齟齬は、最終的に大きなズレとなる。

 憐れ。実に憐れ。

 久しぶりに嬉しい気分になったマスターは、いつもなら歯と舌の食感だけの気持ち悪い食事も我慢することができた。味は当然しない。

 手記をしまい、食器を片手に廊下に出る。

 すると、ちょうど目の前を通りかかったヒロインXがマスターに気づくと、血相を変えて肩を掴んだ。

 

「またアルトリア顔属性を増やしましたね⁉」

 

「アルトリア顔? ……ああ、グレイのことね」

 

「そうです、髪の色を変え、フードを被って隠そうが、この私にそんな小細工は絶対に通用しません。そう、絶対にです!」

 

 アホ毛がビンビンに反応しているのを見て、マスターは思わずくすりと笑ってしまう。

 グレイは引っ込み思案な子だ。自分から誰かに関わるのが苦手そうだが、これなら問題ないと判断していいだろう。グレイにとってプラスかマイナスかは棚に上げて。

 

「アルトリア顔のアサシン……これはまた新手が増えましたね。……む。もしかして私とキャラ、被っているのでは? これは重罪ですね。今すぐにでも処置しなければ」

 

 室内にもかかわらず双剣を握ったヒロインXがダッシュで去っていく……と思いきや、ブーディカに叱られてしまい、早歩きで向こうに消えた。

 そんな様子を微笑ましく眺めていたマスターは食堂へと立ち寄った。

 ノウム・カルデアにまだ旧カルデアの皆を呼び出せていないが、それでもこの賑わいっぷりだ。真昼から美遊にイリヤが突っかかって百合っぷりを発揮し、それを遠めに見守る刑部姫が涎を垂らしながらペンを動かす。以蔵がキングハサンの背中を陽気に叩いている。それを見た百貌と呪腕が顔面蒼白状態で必死に以蔵を引き離す。

 ……うん、実に平和だ。

 流し台に運び、無言で皿を洗い始める。

 芥のロストベルト攻略からだいぶ日が経った。傷はだいぶ癒え、深夜に痛みから目を覚ますこともなくなった。

 

「あの……マスター」

 

 ちょいちょいと袖を引っ張られ、一度水を止めたマスターはその主を見る。

 グレイだ。目元が見えないほど、いつもよりいっそう深くフードを被っている。表情は窺えないが、怯えていることはすぐにわかった。

 

「どうしたの?」

 

「アッドを部屋に置いて散歩してたんですけど、さっきからよくわからない人が拙を追いかけてくるんです。セイバー死すべしって叫びながら。でも拙はアサシンですし、話が通じる相手ではありませんし……えっと……」

 

「なるほど、すべて理解した」

 

 そして一瞬で皿洗いを終えたマスターは手をかざして惜しみなく令呪を使用した。

 現れたのは、まさにヒロインX……ではなく、エナジードリンクを片手に。冷えピタを額に貼り、死んだ目でデバイスに何かを入力しているヒロインXXだ。

 突然出てきたヒロインXXにグレイは小さく悲鳴を上げると、マスターの背中に隠れた。

 

「……ん、ああ。マスターですか。わざわざ令呪を使って呼び出すなんて贅沢ですね。用があるならはやく言ってください。私は今脳死状態で仕事をしているので。え? 見えない? 見たらわかるでしょう⁉ こんなにも可愛そうな私に休みをくださいよ! じゃないと、銀河パトロールをバックレてニートになりますよ⁉ いいんですかっ⁉」

 

「いや、私まだ何も言ってないんだけど……」

 

 そう会話している間にもヒロインXXは五本指を起用に動かして仕事をしていた。サーヴァントは伊達じゃない。が、あまりにもその様は悲壮を感じさせた。

 

「ちょっと提案があるんだけどね」

 

「くぅ〜来ましたよ。どうせ断れない案件でしょう? いいですよ何でも言ってくださいよ。外宇宙からの干渉ですか。ルルハワの時みたいなのは流石に勘弁ですけど」

 

「ヒロインXが暇を持て余しているっぽいからさ、一緒に仕事したらどうかなーって思うんだよね。ちょっとくらいならあなたの仕事、わかるはずだし」

 

「――――――お、それはいいですね」

 

 ようやく手が止まったヒロインXXが顔を上げた。クマのよく見えるやつれた顔だったが、キラリと輝く希望の光を見たマスターは思わず涙を禁じ得なかった。

 しかしこれでヒロインXXの負担もいくらかは楽になるだろう。そしてグレイに迫る魔の手も遠ざけることができる。五本ほど冷蔵庫からエナジードリンクを取り出して意気揚々と食堂を去る彼女の背中を無言で見送り、安心することができたグレイの手を優しく握る。

 

「いろんな時代の、いろんな人がここにいるの。あんな人もたくさんいるから、接し方はこれからゆっくり学ぶといいよ。私も手伝うからね」

 

「は、はい。ありがとうございます! 拙、もっとみんなのことを知りたいです!」

 

 食堂を出たマスターとグレイは手持ち無沙汰に廊下を歩き始めた。

 ふと腕時計を見て、トレーニングの時間まで余裕があると判断したマスターはグレイと仲を深めることにした。タバコを吸うときだけ大人の姿になるキャスターは……呼ばないでおく。都合のいいタイミングでコロコロ姿を変えるあの男をグレイに矯正してもらうのは、また今度だ。

 廊下を歩くと他のサーヴァントともどうしても会ってしまう。それがどうも恥ずかしいグレイは手を滑らせて、マスターの指をちょこんと握るだけになってしまう。

 

「おや? 主殿ではありませんか」

 

 マスターのなかでどスケベ防具上位に入っている牛若丸がいつも通り、従者の弁慶を連れていた。

 気さくに話しかけ、とたたと駆け寄ってくるが、これが世界の力か、胸を隠す部分が絶妙なズレ具合で、決して見ることの叶わないチラリズムを生み出している。「それエッチすぎない?」と訊くと本人より弁慶が過剰反応を示しそうだから何も触れておかないでおく。

 

「ええっと……ぐれい、殿でありますよね?」

 

「あ、はい」

 

「なるほど、実に可愛らしいお方だ。フードで顔を隠すのはカルデアの損失。外したほうがいいと思いますよ」

 

「拙はこれが好きなので……逆に貴女はもう少しちゃんと服を着たほうが……」

 

 グレイが目を向けているのは言うまでもなくアソコだ。初対面だからこそ、そのインパクトは計り知れないだろう。牛若丸はグレイの言いたいことをすぐさま理解したようで、自身の胸をパンパンと叩いた。

 

「いえいえ、服なんてむしろ邪魔でしょう。いっそ裸のほうがマシと思えるほどです」

 

「そ、そうですか……」

 

 露出狂の予兆を機敏に感じ取ったグレイは頬を引きつらせながら無理やり笑顔を作った。それを純粋に好意と受け取った牛若丸は微笑み返す。

 ……危ない。きっとこれはあれだ、弁慶がいないとき、つまり一人の時はほぼ間違いなく全裸になっている。マスターはグレイよりさらにひとつ深く感じた。

 本人には捻れた貞操概念に違和感すら抱いていないだろうが、もしフェルグスにでも見つかってみろ、秒でベッドに連れて行かれる未来が千里眼なしでも見える。

 

「マスター、我々は今からトレーニングをしますので、この辺りで」

 

「うん、どっちもほどほどにね」

 

 弁慶が牛若丸の首根っこを掴む形でマスターとグレイの前から立ち去っていく。

 その後ろ姿をぼんやりと眺めていたマスターは、どっちが主かわからなくなりそうになる。

 

「……………………」

 

 ああ、そうだった。

 彼の背中を見たことがある。

 いつのことだったか。真っ黒い海。辺り一面、真っ黒い海。その上に弁慶は堂々と立っていた。

 対峙するは……誰? 誰?

 ジジジ、と映像にノイズが走り、弁慶の姿は牛若丸の姿へと置換される。

 間違えた。

 これは、覚えている。これは……そう、バビロニアで弁慶がケイオスタイドに犯され、それを牛若丸が鎮めたのだった。こっちが正しい記憶だ。

 しかし、マスターの前に仁王立ちするのは、牛若丸ではなく、弁慶のほうがどうしてかしっくりくるのだ。ちょうど空いたピースにぴったり合うように。

 この違和感は、いったい、なんだろう。

 ……やめよう。

 記憶も、思い出も、心にある。

 灼かれまいと抵抗する継ぎ接ぎが、崩れそうだ。

 

 継ぎ接ぎ、継ぎ接いで、継ぎ接ぐ。

 

 築いた奇怪な記憶城。継ぎ接いでできている骨組みは突くだけで崩れそう。

 その門番は、マスター自身だ。

 しかしその役割を果たすことは結局できない。これまでの死者の苦悶を前にすると、どうしても足がすくんでしまうのだ。だから形だけの防衛になる。

 突破され、憂さ晴らしとばかりに城は壊される。

 

 継ぎ接ぎ、継ぎ接いで、継ぎ接ぐ。

 継ぎ接ぎ、継ぎ接いで、継ぎ接ぐ。

 無限に、いつまでも、永遠に、止まることはなく。

 

「マスター?」

 

「……あ、ああ。なんでもないよ。少し考え事してただけだから」

 

 グレイの呼びかけに、遅れて反応する。

 考えれば考えるだけ、無駄だ。前のことをうじうじと引きずる余裕はない。それに今を頑張って生き抜く気力を保つだけで精一杯だ。それ以外は、もう。

 だからこそ、前を見るしかない。未来を信じるしかない。過去は灼け、現在は曖昧だ。ならもう、マスターが見ることができるのは未来しかない。

 きっと楽になるだろう、この地獄も終わるだろうという、なんの根拠もない、希望的観測に縋るしかない。それでさえも、本当は薄々……。

 

「無理、なんだろうね」

 

 グレイに聞こえない声量で弱く呟く。

 でも、もしかしたら。本当にもしかしたら。

 そんな期待を僅かながら抱いている。

 牛若丸たちがいなくなり、誰もいないことを理由にグレイがちゃんと手を握りしめてきた。さっきは指で摘まむ程度だったのに。

 マスターは何も言わなかった。きっとグレイだって恥ずかしいはずだ。それを自覚させるようなことを言ってしまうと、手を離してしまうかもしれない。

 せっかくのグレイの行為を無下にできない。しかしこの場面をマシュに目撃されるという何も言われるかわからない。「先輩は女の子が好きなんですね!」と無垢な納得に至ること間違いなしだ。

 恋愛などに興味のないマスターにはいい迷惑になってしまう。

 

「どこに行くのですか、マスター? ……あ、いえ、マスターが行きたいところなら、拙はどこへでも」

 

「ダ・ヴィンチちゃんとこだよ。この前の異聞帯でゲットした植物があってね。それで美味しい飲み物ができたらしいから、飲みに」

 

「甘いものですか?」

 

「わかんない。ただ美味しいってしか聞いてないんだよねぇ」

 

 ダ・ヴィンチに指定された部屋についたふたりを迎えるようにスライドドアが滑らかに音もなく開いた。

 その奥で椅子に脚を組んでダ・ヴィンチが座っていた。短い脚は床についていない。ついずっと見続けていると視線の意図に気づき、頬を膨らませながらぴょこん、と降りてマスターに駆け寄った。

 

「こら。こういう時の弁解はね、可愛いねで十分なのだよ」

 

「可愛いよ、ダ・ヴィンチちゃん」

 

「むぅ。……まあ、今はそれでガマンしてあげるとも。席につきたまえ。すでに用意はできてるからね。グレイくんも」

 

 促されるままに席に座るとちょうど目の前にコーヒーポットがあった。その吹き出し口からは甘い匂い……というより酸味の濃い匂いがしている。

 ふとグレイのほうを見ると、ぎょっとした目をしてマスターに視線を投げかけている。

 

「なんていう植物かわかないが安心したまえ。成分は調査済みだ。毒味はシオンくんにしてもらった」

 

「なら安心かな。スパゲッティ食べたあとで喉乾いてたからちょうどいいや。グレイはどうする? ……飲む。なるほど、飲むんだね」

 

「拙は何も言ってませんよ⁉」

 

「はいは~い、お待たせだよー」

 

 マスターが言ってすぐに淹れ始めたダ・ヴィンチは、グレイが否定するときには既に淹れ終えていた。

 カップの取っ手を掴み、くんくんと鼻をひくつかせたグレイはおよそモザイクがかかるレベル、もしくはライネスが三度見するほどの渋い表情を浮かべた。

 

「グレイちゃんダメよ、その顔は人に見せられないわよ」

 

「マ、マスター。これはその……酸っぱすぎませんか? 匂いから」

 

「大丈夫だよ、うん……うん。別に死ぬわけじゃないし。私も飲むから、一緒に逝こう」

 

「え、いや、逝くってどういう……でもマスターが飲むのなら拙も……ここは腹をくくるところなのですね、よし」

 

 マスターがカップの縁に口をつけるのを見て、グレイも同じく一気に液体を喉に流し込んだ。

 

「ぴぇっ!」

 

 酸っぱすぎる味は舌に電流が流れたようなビリビリ感を与えた。その後、追撃とばかりに喉も同じことが起こり、グレイは俯いて必死に我慢しようと顎に力を入れた。

 たっぷり時間を要し、なんとか口を開くことができるようになったグレイに、マスターは何ら変わらない口調で尋ねてきた。

 

「どんな味だった?」

 

「しゅごく、しゅっぱかったです……。すみません、拙は、やっぱりこれはにがてです。マスターはすっぱいの、大丈夫なんですか?」

 

 グレイに言われて、二口目を啜ったマスターは、やはり特に反応を示すことなく、小さく舌を出すだけだ。

 

「うん、たしかに酸っぱかったね」

 

 本当に酸っぱいと思っているのかよくわからない感想だったが、舌の被害が甚大なグレイにはそれを気にする余裕はなかった。

 

「ごめんね」

 

「……? え、あ、はい……?」

 

 どういう意味かわからない謝罪をされて、グレイはつい中途半端な反応をしてしまう。

 この意味はダ・ヴィンチにだって絶対にわからない。これはグレイに飲ませるような真似をさせたことに対する謝罪などではない。

 グレイにだけその超酸っぱいらしい味を感じさせたことに対する罪悪感である。

 

「もしこれが好きでしたら、あとはあげますけど……?」

 

「そこまで好きじゃないよ、流石にね。それとダ・ヴィンチちゃん、グレイに水出してくれない?」

 

「いいとも。君はいいのかい?」

 

「これくらい我慢できるよ。あと、さ……」

 

「うん?」

 

「私の家族の情報とか……あったりする……かな」

 

「…………すまない、それは旧カルデアに」

 

 本当はどんな返事が来るか、なんとなくわかっていた。だからこれは、確認に過ぎない。

 

「……だよね。うん、そうだよね。ごめん、変なこと聞いちゃって」

 

 グレイがいない、ダ・ヴィンチと二人きりのときに聞きたかった。ただ今訊きそびれたら、この前のコヤンスカヤ襲撃もあったし、後回しにするのはよくないと思ったのだ。

 

 継ぎ接ぎ、継ぎ接ぎいで、継ぎ接ぐ。

 家族の記憶の欠片がなければ、継ぎ接ぐことすらできない。

 マスターの小さな掌では、たくさんの記憶をすくいきれない。その半分以上が溢れてしまう。

 だから第二の手記に書くのだ。忘れても思い出せるように。絶対に忘れてはいけないことが消えてしまわないように。

 ムネーモシュネーの記憶再演はとてもありがたいものだった。

 しかしそれでも再演されなかったものは、もうマスターの記憶から消えてしまっている。

 

 ――あれだけ大事な人……マシュとの出会いも、絵の具のように滲んで……虚空に混ざってしまって、思い出すこともできない。




頑張ってロストベルトNo.4クリア記念も書く予定です。


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ロストベルトNo.4クリア記念

ネタバレ含むのでいくらか改行。
インド村に引っ越してもいいと思った。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マスターは、自分がいったいどれほど酷い記憶の欠落を患っているのかを、ある程度だが客観的に知ることができた。

 アーシャとふれ合って気づくことができた。

 大事なことをどうしても思い出せない、もしくは完全に忘れ去っているということが、どれだけ悲しくて、胸が締め付けられそうな想いになるのかを。

 内面から自身を評価していたマスターは、改めて自身を蝕むこの記憶四散を理解した。

 

「…………ん、終わり」

 

 手記に記憶を移したマスターは安堵のため息を吐いた。椅子の背もたれに限界まで体重を預けて天井をぼんやりと見上げる。

 シミひとつない、呆れるほど白いそれにやがて見飽きると、ダ・ヴィンチ曰く栄養ドリンクを喉に流し込み、ベッドに身を投げた。そしてゆっくりと目を閉じる。

 人類史上最大で最低の大量殺人を四度も成し遂げてすぐのことだ。間違いなく見る夢は悪夢だろう。

 ……無意識に手が下半身に伸びていた。

 指をスカートの中に、そしてパンツの中に滑り込ませて静かに自慰を始める。枕に顔をうずめて、声を押し殺して。ゆっくりと、確かめるように人差し指で弄る。

 

「……っ」

 

 しだいに頭がチカチカと点滅し始める。視界が真っ白になり、脚、さらに足の指も伸びきって高みへと至ろうとした。

 いやらしい音が、沈黙したマイルームではマスターの耳に大きく聞こえてしまう。どうせ誰もいない。皆疲れ切って仮眠室などで休んでいるだろう。だからマスターは羞恥とともにそう考えた。それにプレイべート空間だし、別段何をしても他人に迷惑をかけなければいいのだ。

 息が荒くなり、熱がこもり始める。頬も紅潮し、そして絶頂へと――――。

 

「――――――――」

 

 ――やめた。

 指を止め、自分はいったいなんてことをしようとしていたのだと自責する。びしょびしょに濡れた両手を見て、マスターはひどく自身に失望した。

 欲望を満たす権利などない(・・・・・・・・・・・・)のに。人を殺したばかりだというのに、その当人がだらしなくベッドに寝転がって、その上自慰に耽るというおよそ人の道を外れた所業に。

 どうせその人たちのことを忘れてしまう。ロシアで血まみれになりながらマスターの襟首を掴み上げ、『何か』を託したヤガの名前も忘れた。一応手記に書いてあるから読めばわかる。だが絶対に覚えていることがある。それは、生きようと日々を送っている彼らの未来を断ったことだ。

 三大欲求。

 食欲。睡眠欲。性欲。

 食事を口に運べば無味の触感に吐き気を催し、目を閉じれば亡者たちの恨みの宴が開かれ、絶頂を迎えたくても罪悪感から中途半端にやめてしまう。

 ……ならばこれらはもう、『不要』ではないだろうか。

 マスターは洗った手を見下ろしながらアルジュナの想いを振り返った。不要を排し、最終的に完全な世界を目指すというもの。

 その内容が、どれだけ残酷な忘却を課すことになっても。

 ……私だって消してほしかった。『不要』として、三大欲求をなかったことにしてほしかった。そうすればどれだけ気が楽になるか。今となってはもう遅いが、そう願ってしまったのは仕方のないことだった。

 だって、苦しかったから。いっそすべてを放棄して逃げ出したかったから。

 でもできない。逃げ出したとしてもどこに逃げる? 白紙化した地球の、どこに安息の地がある?

 それでも強引にその道を選ぼうとしたら、選べる。しかしそんなことはできない。なぜならマスターは汎人類史最後のマスターなのだから。他に代行してくれる人がいる? いない。ならばもうやるしかない。誰かがやってくれるのではない。その誰かは全員白紙化され、もう自分しかいない。そこに選択の余地などないのだ。

 ペペロンチーノのように選択することができなかった。彼は確かに人のよさそうな男だった。根っからの異端者ではなかった。

 だからこそダメだ。死に物狂いの戦いでなくてはならない。それが互いに譲れないもののぶつかり合いならば尚更。

 善のために許されない悪を行おうとしているのだ。手足をもがれても喉元に噛み付いてくるくらいの『強さ』をぶつけてくれないと、悪を為す覚悟ができない。心に深い罪を刻みながら伐採するというのに。

 生き残りをかけた争い。殺さなければ、殺される。その規模が巨大なだけ。

 獣がキャッキャッと嬉しそうに微笑みながらマスターの頭に凶悪な顎を突っ込んで記憶を味見する。

 どうやら微妙……つまり面白くなかったようだ。最近さらに獣性を獲得して満足していた獣だが、やはり怒り狂うと怖い。すべて見抜いているぞと言わんばかりの殺意の孕んだ眼に殺されそうになり、気づいたときには酸欠に陥っていた。

 

「………………ぃ、やッ」

 

 今すぐにでも発狂して死んでしまいたい。

 胸にヘドロよりも粘性の高いベトベトが詰まっているような感覚に激しく咳き込む。しかしなかなか楽にならない。胸が圧迫され、息苦しさに喘ぐ。食道をこみ上げる胃の内容物が口内にまでやってきた。このまま咳をしてしまったら部屋が悲惨なことになる。

 洗面台に走りこみ、我慢も限界を迎えてついに吐いた。

 

「うげえぇッ! ぶっ、グ」

 

 胃の中身をすべて吐き出したマスターは無言でうがいをした。

 死相。

 それが鏡に映ったマスターの顔だった。

 

「はは…………」

 

 カルナに指示を出していたマスターの姿は皆の目にはきっと凛々しく映っただろう。でも気を抜くとこの様だ。これでは人前に出られない。冷たい水で顔を殴り、表情を作る。両手で目元をほぐし、だらけた頬に力を込めて生気を復活させる。

 

「あれ? ちょっと……嘘でしょ……?」

 

 なんだか難しくなっている。うまく表情を作れない。いつもならこんなに時間がかからないはずなのに、どうして。

 焦りに焦りを重ね、「え?」と何度も繰り返しながらもようやく完成する。ひとまず用意ができたマスターは、濡れた下着を穿き替えて廊下に出た。

 相変わらずシャドウ・ボーダーの収容体積の大きさに感嘆させられる。おかげでプライベートスペースが得られているわけだが。

 この気持ちの悪さをなんとしてでも紛らわせたい。誰かと会話をして、少しでも楽になりたい。

 自然と足は指令室へと向かっていた。あそこに行けば誰かはいるだろうと思って。さすがに個室に突撃するほど無礼でもない。その辺りはきちんと弁えているつもりだ。

 だが指令室にはゴルドルフしかいなかった。しかも運転席に座って大きないびきをかいて寝ている。顔を覗き込むとアイマスクをしていて、『起こすな!』の文字がデカデカと書かれていた。

 それを見たマスターはなんだか面白くて、小さく吹いてしまった。今やメインヒロインのポジションの座についた彼はその仕事ぶりを存分に発揮していた。

 運転は……オートになってる。よかった。一応ダ・ヴィンチの管理下にあるが、いつの間にかゴルドルフがマニュアルに切り替えていたら笑えないことになっていた。しかしついうっかりということもある。マスターの力だけではどう頑張っても彼を動かすことはできない。バランスを崩すと押し潰されて、そこで人理終了だ。

 怒られることを覚悟で、マスターはゴルドルフの肩を揺らした。

 

「所長、起きてください」

 

 ピクリともしない。もう一度肩を揺らすと、今度はめんどくさそうな呻き声を漏らして手を振り払った。

 それでも諦めずに起こそうと試みると、ついにアイマスクを外してマスターを見上げた。

 

「キミぃ……。せっかく私が世界統一カーレース大会で優勝しかけていたのに、その邪魔をするとはいったい何事だね……」

 

「あ、いえ、そこで寝るのはあまり良くないと思いまして……」

 

 まだ口元の涎にに気づかないゴルドルフは目をゴシゴシと擦って自分が今いる位置を把握した。そしてついでに涎に気づくと、呆けた顔を数秒間晒した後、再起動して勢いよく立ち上がった。

 

「まあ、その通りだな。私は部屋でもうひと眠りするとしよう。ところで何をしに来たのだ?」

 

「誰か……と話したくて」

 

「それは残念だな。知っているとは思うがスタッフ全員に休息を命じているから、ここに来る者はいないだろうな」

 

 最後に大きなあくびをしたゴルドルフはマスターの横を素通りして指令室を去ってしまった。

 ひとり残されたマスターは呆然とその場に立ち尽くしていた。

 そういえば、そうだった。

 異聞帯を攻略し終えたばかりなのだ。全員疲れ切っているのは当然だし、仮眠をとっているかもしれない。ゴルドルフだってそうだったのだ。

 マスターは自分中心に事を考えていた。

 

「やっぱり、戻ろうかな」

 

 寝よう。それしか考えられない。

 踵を返し、ドアを開けて指令室を出る。すると目の前には、なぜか部屋に帰ったはずのゴルドルフが立っていた。

 

「えっと……」

 

 ついこの瞬間まで入るかどうか悩んでいたそうだ。ドアを開けようと中途半端に伸びた腕がそれを何よりも物語っていた。

 

「所長として、部下の労をねぎらうのも大事な仕事なのだよキミぃ。そんなにやつれた顔を見てしまったのに放って戻るほど私は鬼畜ではないからな。――私の部屋に来なさい。少しいいものをやろう」

 

「私、そんな顔してましたか?」

 

「いや? だがそんな雰囲気を滲ませていたからな」

 

 そう言うとゴルドルフはマスターの返事を待たずに足早に歩き始めた。

 有無を言わさないその背中にマスターは、不思議に思いながらもその後ろについていくことにした。

 ゴルドルフが連れてきたのは、自室だった。そこはマスターの部屋よりもひと回りほど狭く、身体の大きい彼にとっては過ごしにくい空間だった。

 

「狭いのに文句を言うならキャプテン……いや、ネモに言いたまえ。私もいつも抗議しているのだがね。まるで聞いてくれない」

 

 そんなことをぶつぶつ呟きながらもしゃがみ、椅子くらいの大きさの冷蔵庫を開ける。そしてそこから姿を現したのは、ケーキの載った皿だった。

 適当なフォークとともに皿を渡したゴルドルフは顎で指図する。

 

「これは……?」

 

「見てわからんのか。ケーキだよキミぃ。異聞帯攻略後に「よく頑張ったぞ私」とご褒美に美味しくいただくつもりだったが……まあいい。…………あ、やっぱり半分こにしてくれない?」

 

「もちろんですよ」と返し、もう一本フォークを取り出したゴルドルフにマスターはケーキを渡した。

 嬉しそうに半分を一口で頬張るのを見ていることに気づくと、飲み込んでから答える。

 

「一緒に毒ケーキを食べた仲だ、くれぐれもスタッフ達には内緒にするんだぞ。あの女狐がつくったことを除けばあのケーキはパーフェクトな美味さだった……。だからエミヤ氏にこっそりつくってもらったのだよ」

 

 厳密には半分と少しを食べてしまっていたが、それを見て見ぬふりをしてマスターに後を譲った。

 当然マスターもわかってはいたが、そもそももらっている側だ、文句は言うまい。

 どうせ味はない。だから複雑な気分だ。

 だが、胸が少し軽くなったのがわかった。

 ケーキが嬉しかったのではない。甘いものに目がないとスタッフ一同が共通認識を抱いているゴルドルフが、ケーキをわけたという行為そのものに嬉しかったのだ。

 無味のくせに、恐ろしいほどふわふわする食感は、まるで市販のスポンジを食べているようで、すぐにでも吐き出してしまいたかった。

 

「……っ、……」

 

「喉に詰まったのか?」

 

 ふるふると首を横に振り、美味しそうに咀嚼する素振りを見せる。

 ごくりと飲み込んで、マスターは深呼吸を繰り返す。

 

「言っておくが、これきりだからな! 次は自分でご褒美を用意しろ! ……そう考えると私はMVP……だって神の砲撃をドライブ技術ですべて避けきったから……ということはつまり、ケーキ二個分の働きをしたのでは⁉」

 

「また太りたいんですか? さすがにそれ以上食べるのなら私も黙っていませんよ?」

 

「ぐ……!」

 

 大奥でたくさん甘やかされたせいで――オブラートに表現すると――ふくよかになってしまったトラウマが蘇り、ゴルドルフは短く悶絶する。

 机の上に乱雑にばら撒かれた資料の山に目が入った。汚い字だが、びっしりと赤ペンで補足しているのがわかった。

 それを見てマスターは、頑張っているのは自分だけではないということに気がついた。もちろん皆が頑張っていないなどとは欠片も思っていないが、常に最前線で死闘を繰り広げているマスターのほうが遥かに頑張っていると当然のように感じていた。

『頑張る』の方向性は違えど、誰もがマスターのために……少しでも楽に活動できるようにと願って頑張っていたのだ。その努力の痕跡を見て声を失ってしまう。

 自分だけがこんなにも頑張っている。そう悲劇のヒロインぶった考えが本当は僅かながらあった。

 そもそもスタッフたちのサポートがなければ、マスターは全く何もできないのだ。

 自分が嫌になる。

 嫌なほど自分は自己中心的な女だった。

 

「……ありがとうございました。ケーキ、美味しかったです。実のところ、アルジュナの砲撃を躱す所長は今までで一番カッコよかったと皆が思ってるはずですよ」

 

「そそそそうか。直接言われるとこう……腹がむず痒い感じがするな。しかし、ハハハハ!! 悪くないぞぅ! トップに立つものとして部下を導くのは当然だからな!」

 

 陽気に笑うゴルドルフはそのままの勢いで冷蔵庫からさらにもう一つケーキを取り出そうとして……。

 

「だめですよ」

 

「どうしても?」

 

「どうしても」

 

 調子が良くなると隙あらば自分を甘やかそうとする。ナイチンゲールが担当医になったら間違いなくひと月で人が変わると確信できる。

 

「そろそろ私戻りますね」

 

「ああ、ゆっくり休みたまえ」

 

 水が飲みたい。ケーキを食べたせいでガサガサする喉を潤したい。部屋を後にしたマスターは、寄り道せずまっすぐマイルームに帰った。

 急いで水を喉奥に流し込み、それだけではまだ足りないと何度もうがいをする。代償は喉に残る不快感。しばらくすれば治るだろう。そして得られたものは、人の不器用な温かさだった。

 だがそれは真にマスターの心労を軽減することはできない。

 人の業を超えた殺人鬼を(・・・・・・・・・・・)人程度が癒やそうとしても無駄(・・・・・・・・・・・・・・)なのだから。

 やっと怒りが収まった獣は足元に歩み寄り、スリスリと頭を擦り付ける。マスターはこの小さな獣には決して逆らえない。逃げられない。獣性を獲得する毎にその支配力は強まるばかり。

 予測できない時に牙を向いてくるが、まだ『本気』ではないことはなんとなくわかっている。

 もしその時が来たらどうなるだろう。

 ……怖い。どうなるか想像もしたくない。きっと死より恐ろしい目に遭うのは本能的に理解できている。

 

「……ねぇ、どうしたらいなくなってくれる?」

 

 愛らしい目だ。うるうるさせながら肩に乗った獣は歯に付いた血の脂をマスターの服で拭い、満足げにひとつ吠えた。

 マスターの人間性は喰われ、代わりに獣性が侵食する。避けることのできないそれに、マスターはただ声を押し殺して耐えるだけだ。

 獣が何か言いたげだ。いや。もしくするとただ可愛らしいくしゃみが出そうなだけかもしれない。

 興味を惹かれた亡者たちがどこからか現れ、静聴すべしと正気のない者の中の、さらに正気のない者の首を断つ。今回は褐色肌が目立つ。

 ごくりと喉を鳴らしたことに気づいたのは、マスターの身体中に亡者たちが恨みをぶつけるために絡みついてきたあとだった。

 

 ――不要なのは………………。

 

 そのあまりに無慈悲な言葉に、マスターはひとり、小さく嗚咽を漏らしながら静かに涙を流した。




【二択】
Q.不要なのは――――。
 →獣性
  人間性


書いてる本人が言うのはあれかもだけど、邪ンヌとの逃避行がしゅき。
また気が向いたら投稿しますね。


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えんどおぶざすとーりー

ノーマルエンドは綴られた。
即ち、マルチエンディングの存在はすでに示されていた。


 ……この物語は、どうすることもできない物語だ。

 

 

 魂の抜けたように歩いている少女がいた。

 身なりは夜遊びから帰ってきた少女。しかし背中に募る影は、月が僅かに照らす夜空を呑むほど暗かった。

 すれ違う人々もその底のない陰気に怖気づき、いつの間にか不可侵のエリアが周りに出来上がっていた。

 

「……この服、ちょっと小さいかな?」

 

 とても歩きづらい。お腹を締め付けられて、少し気持ち悪い。

 ――太ってるわけじゃないんだからね⁉

 ちゃんと脂肪がつかないように食事はしてないし、いつも死ぬほど運動してるからこのスタイルはどう頑張っても崩すことは不可能だ。それに最終奥義、文字通り余分な肉をカットしてもらえばいい。

 果たしてこれからどうするか。人混みから抜けた少女は電柱にもたれ掛かり、ぼんやりと電灯に群がる羽虫たちを見上げた。

 ……行動指針を定めないと。

 そう思った。ただ追われるから逃げるだけじゃ、それは何もしていないのと同じだ。少女は誰かにされてばかりだ。だから、自分から、何かを。

 目頭を摘み、強く目を閉じる。そして次に目を開くと、目の前には亡者の宴が開かれていた。

 血の悦びに歓喜している彼らは今宵の獲物、ホムンクルスたちを貪り、中央では少女の記憶を燃料にして火柱が高く滾っている。

 断罪、罪あるからこそ。

 死、生あるからこそ。

 が、許しはない。

 ずりずりと背中を擦りながら地面に腰を下ろす。少女はその宴に加わるわけでもなく、ただ眺めるだけだ。

 

「………………」

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 …………………………果たして何を考えていたのだろう? 

 完全に無に陥っていたことに遅れて気づいた少女は、どれだけここで時間を潰していたのかと尋ねようと顔を上げると、すでに宴は終わっていた。丁寧に片づけまで終えて、臓物のデザートを味わっている。

 

「どうでもいっか」

 

 時間なんて、少女にとっては何ら意味のないものだ。無限の罪を、永遠の時間を以て返上する。それを実現するには、有限の命では事足りない。だから魔法すら超えた、歪な不死を得た。

 立ち上がろうとして、長い時間座り込んでいたせいで痺れた少女の脚が盛大に尻もちをついてしまった。

 こんな無様なところ、もし誰かに見られていたら恥ずかしくて死んでしまいそうだ。

 もう少しだけ、休憩しよう。もう少しだけ休憩したら、寝心地のよさそうなところを探しに行こう。俯く少女はそう決めて、痺れが収まるまで待つことにした。

 しかしその時、少女の視界内に誰かの手が伸びていた。

 

「――先輩」

 

 顔を上げた。

 月光に映える紫色の髪、透き通った声。

 少女は静かに息をのんだ後、乾ききった唇を震わせながら口を開いた。

 

「誰?」

 

「…………、え?」

 

「だから、誰?」

 

 自分を先輩と呼ぶ誰かに対して少女は敵意を剥き出しにして端的に問うた。

 動揺が目に見えている。逆に少女は臨戦態勢だ。脚の痺れはまだ少し残っているが、そこまで問題じゃない。亡者たちが耳元で「処す? 処す?」と執拗に囁く。

 間違いなく一般人ではない。まだ蘇生して間もないからコンディションは最悪だ。吐き気は収まりそうにないし、身体を再生させたことによる全身の痺れがまるで取れない。

 だからどうした。そう少女は自分に活を入れる。ここでやられるわけにはいかない! もっと不利な状況で、もっと劣悪な場面に直面したこともある。『この程度』、どうとでもなる!

 

「何を言ってるんですか……? マシュ・キリエライトですよ?」

 

「……知らないんだけど。………………ああもう。そっか、『そういうこと』か。えっと……マシュだっけ。何しに来たの?」

 

 あらゆる可能性は捨てきれない。もしかすると記憶の欠落に付け込んで友情演出をしているだけかもしれない。

 

「先輩を……先輩を殺しに来ました」

 

 歪曲したナイフを手にした不審者は動揺を振り払い、言い放った。

 今までの不審者は「実験に」だとか「政治的利用に」だと自己満足気に言う輩が大半だった。だがマシュとやらは違った。明確な殺意を抱きながら、間違いなく「殺す」と言ったのだ。

 

「捕まえないの?」

 

「いいえ、それではダメだとさっき先輩が言ってました。なので殺します」

 

「――――私が? さっき?」

 

「はい」

 

 興味が湧いた。

 立ち上がり、マシュと向き直る。少女にはそんなことを言った記憶がない。もしかすると嘘をついているかもしれない。その可能性は十分あった。

 手を伸ばす。一瞬だけピクリとマシュは身体を震わせたが、少女が頬に触れるのを避けはしなかった。

 やわらかい頬だ。それに温かい。比べて自分のものはガサガサできちんと手入れをしていない証拠だった。

 

「先輩の手、冷たいですね」

 

 マシュの手が重ねられ、じんわりと広がる熱に、少女は身震いした。

 

「当たり前だよ。何回も死んでるんだから死体も同然」

 

「……そんな悲しいこと、言わないでください」

 

「でも本当だよ」

 

「………………」

 

 沈黙が流れる。

 長い間まともに人と話すことがなかったから、どんなことを話せばいいかわからなくなってしまった少女は口を閉ざしてしまう。

 マシュが装備しているナイフはなんの変哲もないものだ。別段魔術的補強もされていない。ただ本当に鋭利なだけのナイフだ。

 当然こんなもので少女を真の意味で殺せるはずなどない。

 では、殺すという行為が……違う、もっと広義の意味、『マシュに殺される』ということに意味がある。

 聡明な少女は簡単にその結論に辿り着いた。

『正解だ』とファンファーレを鳴らした亡者のひとりが自らの腹を破いて曝け出し、消化されかけの記憶を見せつける。

 もはやこれは残滓でしかない。会話、動作、想い。すべてが霞み、理解することが困難だったが、それで十分だった。

 腕を広げ、マシュに胸を差し出す。

 

「さあ、刺しなよ。それだけで私は本当に死ぬことができる」

 

 腐った血を優雅にグラスで啜りながら決定的場面を見届けようと亡者たちもスタンバイオーケーで今か今かとその時を待っていた。

 マシュはナイフを構えた。俯き、柄の先を震わせながら、構えた。

 それはそうだ。何年も一緒にいた人を殺そうとしているのだから。たとえどれだけ強い覚悟を抱いたとしても、いざとなると葛藤する。それはよほど心が強くない限り避けられないことだ。

 少女は待つ。

 

 ――マシュが、腕を動かして。

 ――ナイフを振りかざし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――そして、顔面に手加減の一切ない拳撃が炸裂した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ゛ッ!」

 

 完全に不意を突かれた少女は向かいの壁に激しく背中を叩きつけられた。いくら人を捨てたとはいえ対サーヴァント、軽傷ではすまない。

 

「私がどんな想いで先輩に会いに来たのか、わかりますか⁉」

 

 魂の叫びだった。涙で頬を濡らし、顔を真っ赤にしながら叫んだ。

 まさかの事態に困惑するが、気を持ち直した亡者たちが一瞬にして具現化し、マシュに襲いかかろうとする。

 

「待って」

 

 少女の鋭い制止の声に亡者たちは動きを止めた。大義名分が立ったというのにこれではクソみたいな実写映画を観ているようだと不満そうに愚痴をこぼしながら泥となって地面に沈む。

 

「そんな簡単に先輩との関係を終わらせたくないんです!!」

 

「何それ。私を殺しに来たんでしょ? 長引かせるほど辛くなるのはわかるくせに」

 

「わかってます! わかってますよ! それでも、こんなにあっさりだなんて、やっぱり私にはできません!」

 

「じゃあ何がしたいのよッ!!」

 

 ここまできて、そんな弱音を吐くか。

 怒りが少女の中で爆発し、つい語気を荒げてしまう。

 マシュは血が出るほど強く歯を噛みしめている。その様子を見て、怒る。応えることができないのに何をそんな幼稚なことを。怒る。ついに我慢できなくなった少女は、マシュの顔を全力で殴った。

 

「ぐっ……!」

 

 だが、ふらりと一歩だけ後ろに下がるだけだった。

 

「先輩ともっと……お話がしたいです……。それで、ちゃんとお別れを言って…………それから……。それから、殺したいです」

 

「――――」

 

「必ず殺します。必ず。だから……だから私とお話をしてくれませんか……?」

 

 流れてきた鼻血が口に入ったことで、今更ながら鼻血が出ていたことに気づいた。

 血の味はしない。

 ここで一方的に拒絶するのもいいが、結局のところ、殺すのはマシュだ。マシュが行動しなければ少女は死ねない。

 きっとそんなつもりはないのだろうが、いじわるな物言いだったことは確かだった。

 手で鼻血を拭い、少女は降参だと両手を上げた。

 

「わかったよ。好きにするといいよ。で、何を話したいの?」

 

「楽しい話がしたいです。どこかでくつろぎながら」

 

「……は? くつろぎながら? ……ああもうわかったからそんな顔しないの!」

 

 演技かと思ってしまうがそうではない表情に、少女の微かな良心が刺激されてしまう。

 かぶりを振って、少しの間だけマシュお嬢様の命令に従ってあげることにした。

 

「手、握って。いいところに連れてってあげるから」

 

「はい」

 

 差し出した手を、マシュが握る。

 焼けてしまいそうなほど本当に温かい手だ。今日くらいは大人しく私に従いなさいよ? と念を押し、亡者たちにふたりの身体を持ち上げさせる。

 突然の浮遊感にマシュは腑抜けた声を漏らす。

 傍から見れば、空を飛んでいるようにしか見えないだろう。しかしふたりの足元には無数の亡者たちが山を成して上へと運んでいるのだ。

 高く。さらに高く。

 行き着いた先は、人の決して侵入してこない地帯。その中でもひときわ存在感を放つ、赤ん坊が触れるだけでも倒れそうなほどボロボロな高層ビルの屋上だった。

 

「ちょっと待ってて」

 

 そう言い残してマシュをおろした少女はすぐさまビルから飛び降りた。初期動作なく空を飛び、やがて豆粒ほど小さくなって見えなくなる。そしてたったの数分で帰ってきた。

 その手に持っていたのは割ってニ等分できるアイスバーだ。

 

「ん」

 

「あ、ありがとうございます。お金渡しますね」

 

「いいよ別に。いっぱいあるし」

 

 そう言って掌を返すと、まるで源泉のように小銭やらが溢れてきた。

 今の少女にとっては不要なものだ。ずっと前なら喜んでスイーツやスイーツ、そしてスイーツなどに貢いでいただろう。

 袋を開けて、ふたつに割ってマシュに渡す。

 鉄骨に背をくっつけ、その場に座る。

 

「……ここしばらく、マシュは楽しかったの?」

 

 先に口を開いたのは少女の方だった。

 

「はい。英霊の方々は全員座に還ってしまいましたが、残ったダ・ヴィンチちゃんやホームズさん、その他のスタッフさんたちと過ごしてました」

 

 マシュがぱくりとアイスバーを食べる。

 

「先輩は?」

 

「楽しく……はないけど、面白い話ならたくさん」

 

 少女に楽しい話のストックなんて、あるわけがなかった。だが、長い逃避生活の中でなかなか痛快なエピソードはある。

 執拗に追いかけてくる敵を撃退するために、別勢力の敵と遭遇させて潰し合いをさせたこと。なんとなく宿泊しようと近くのホテルに行ったらラブホしかなくて、違和感なく入るためにドスケベな衣装で突入したら無事通報されたことなどなど。

 マシュはそんなベクトルの違った『面白い話』を黙って聞いてくれた。

 マシュはいつの間にかアイスバーを食べ終えていて、『はずれ』とかかれた棒を袋に入れた。

 

「『覚悟』はあるの。何十年、何百年かかってでも罪を償う」

 

「……でも、私が先輩を殺してしまうと、その義務が果たせなくなるのではないですか? 『覚悟』が無駄になってしまいます」

 

「でもそれを含めて私を殺しにきたんでしょ? マシュの覚悟を、私はよく理解してる。だからその上で言うよ」

 

 少女は世界を救ったことがある。だから決して『弱く』ない。

 それは客観的な感想でしかない。七つの特異点を修復、ゲーティアの撃破、さらに逃げた魔神柱の掃討。これだけですべてを言い表せる。これを聞くと、とんでもない偉業であることは確かだ。

 これらは『強く』なければ不可能。

 そう考えるだろう。

 だが少女はどうしようもなく『弱い』人間だった。魔術など何もわからないレベル。ならば体術はどうかとなると完全な弱者だ。

 ではなぜこんなにも『弱い』のに生き残れたのか。答えは簡単だ。『強く』あろうとしたから。『強く』なるのではなく、だ。

 あらゆる精神、身体的傷害を耐えられるように己の心を保たせた。たとえ綻びが生じても休めることなく強引に保たせた。その心があったから少女はあらゆる障壁を乗り越えられた。

 心に誓ったものは、『世界を救う』。

 あまりにも単純だが、『弱い』少女にはとても抱えきれない覚悟。今となっては終わったことだが、きっと隣に腰を下ろしているマシュも、これまでにない覚悟を背負っているはずだ。

 だからこそ、少女は優しく語りかけた。

 

「――私の覚悟を、ここで折るよ」

 

 罪の償いを放棄するという、さらに重い罪を犯すことになってしまう。しかし、まだこれからを生きるマシュに、前を向いて未来へと歩いてもらいたい。それにもう少女は死人だ。一度死んだ時点で人として終わっている。

 こんな自己満足な贖罪を考えている死人と早く決着をつけて、救われた世界を見渡してほしい。

 世界中のいろんなところに行って、美しいものに触れ、知り、感じてほしい。

 そう願う。

 

「結局はどっちかが折れないといけないからね。後悔はしないよ。絶対に。これが私が出した答え」

 溶けかけていたアイスをパクリと食べて、刻まれた文字を見てクスリと笑う。

 手のひらを開いたりを繰り返して蘇生後の痺れが抜けたことを確認した少女は立ち上がり、無防備に天を仰いだ。

 なんだか今日はいい気分。ずっと昔から胸につっかえていた違和感が抜けたなような。いつもならなんとも思わない夜空も、異様に冴えた目で見上げることができた。

 

「ありがとうございます、先輩。私はもう、迷いません」

 

 いつの間にかマシュもすぐ側に立っていて、その手にはナイフが握られていた。

 これから殺されるというのに、少女は妙に落ち着いている。熱い息を吐き、空に手を伸ばす。

 

「先輩……?」

 

 不思議に思ったマシュが声をかけると、自分でもなぜこんなことをしたのかわからないような目で手を見つめた後、胸に当てて拳を作った。

 

「いや……なんでもないよ。さ、いつでもどうぞ」

 

「最後にひとつだけ……私のわがままに答えてくれませんか?」

 

「まだそんなことを言うの? ………………まあ、いっか。なに?」

 

「先輩の人生は、幸せでしたか?」

 

「――わからない。ちゃんとどっちだったって答えるべきなんだろうけど……うん、わからないの。死ぬのも嫌。生きるのも嫌。でも苦しいのはもっと嫌。だから、私は私を捨てる」

 

 月は地上を見下ろしている。

 生きる者も死ぬ者も、等しく見下ろしている。

 見て、それだけ。何もしない。だから英雄であり、死人である少女の死だって、なんの感慨もなく見下ろすのだ。

 狙いは心臓、一突き。

 あっさりすぎるほどナイフは少女の皮を裂き、肉を貫いて心臓へと達した。

 涙は流れなかった。できるだけ苦しまないように。そう考えたマシュは両手で柄を握り、手加減なく刺した。

 俯かず、先輩と慕った少女の顔を見る。

 少女もまた涙を流すことはなかった。

 苦しそうな呼吸を始めるが、些細なことに過ぎない。

 ふと、マシュの頬に冷たい手が添えられる。鳥肌が立つほどの冷たさだったが、マシュは無言を徹した。

 

「マシュに、未来を……託すね…………」

 

 どれくらい時間が経ったかわからなかった。お前の存在などそもそも認めていないと世界から宣告されたかのように、死体が灰になって夜風に攫われても、その場を動くことはなかった。

 

「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………今まで、ありがとうございました」

 

 憎しみも、悲しみも、怒りもない。

 ただ、これまでの感謝を、マシュは言葉に込めた。

 踵を返し、屋上から飛び降りる。

 懐から連絡機器を取り出したマシュは、カルデアへ起こった出来事すべてを報告する。

 

 

 

 

 今一度言おう。

 この物語は、どうすることもできない物語だ。

 

『弱い』ながらも『覚悟』を胸に抱いたことで、重い代償を課せられた物語だ。

 

『強く』あろうとした、『弱い』少女の物語だ。

 

 そして。

 救われない少女が、死力を尽くして取り戻した未来を捨てる物語だ。




はっぴーえんど。

人を捨てた者は、人へ願いを託す。
その想いは、決して汚されることのない、さぞ美しいものだろう。

以上、『霊怪討伐戦』後、マシュがマスターちゃんを追いかけることを選択するifルートでした。


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……………………。

「い、ぎああああああッ⁉」

「――つまらぬ奴め。耳障りだぞ。せめて頭領ならば、それなりの意地を示せ」

 頭蓋を強く揺さぶる衝撃に、男の意識は白黒する。

 勝てない。まるで勝ち目などない。地面に落ちている、拳銃を握りしめた手を見下ろして静かに死を悟る。

 逃げ場もない。手段もない。狭い一室まで追い詰められた男にはもう、目の前の襲撃者たちに生死を握られていた。

「それにしても物好きよ。魔術師でもないただの雑種どもの掃討など、本来は我のするべきことではないのだがな」

「アーチャー。仕事はまだまだ山ほどある。この程度に時間を潰すのはあまりにも無駄だ。……こ奴らのためにわざわざ相手をしてやることを感謝すべきだとは思わんか。なあ?」

 杖を手にし、その先端で胸を軽く突く。

 男は文字通り顔を真っ青にして恐怖ながら悲鳴を上げる。

「な、なんでも話す! 金だっていくらでもやる! だから……!」

「…………ほう。では話せ。その質によって貴様を量る」

 薄暗い月光が、窓から射す。

 口早にすべてを語り尽くした男はこれで救われると、安堵のため息を吐いた。どうやらふたりの目的は男の提供した情報だったらしい。満足げに口角を上げたのを見て、男もそれにつられる。

「ふむ、確かに貴様の言ったことは有力な情報だ。まさに我がマスターの求めていたもの……」

「なら――」

「ああ、そうだな。これで別れだ」

 杖に力を込め、心臓を一突き。

 男は何故と弱々しく繰り返しながら、やがて目の光は失せた。

 数多の宝具を収納している宝物庫へと、片っ端から目についた資料を放り込み、十分と判断されればふたりはその場を後にした。

 

 

「知っているか? この世には三種類の人間がいる。我、雑種、雑種でないものだ」

「ふうん。じゃあ私は?」

「もちろん三つ目だ。貴様の逸脱した実在。しかしながらそれに反したその生き様。ながらにして今もこうして居る(・・)。これを雑種とするものなら、王として我は終わっている」

「……ってアーチャーは言ってるけど、キャスター的には同じ意見なの? やっぱり」

「当然。我は我。たとえ我がバーサーカーのクラスであったとしても、人類の叡智たるこの頭脳が判断を誤るわけがなかろう」

 キャスターの巨大な工房で、三人は今回の成果を報告し合う。

 誰にも認知されない領域。陸にあらず、空にあらず、また海にもあらず。キャスターにしか制御できない異空間に工房はあった。

 七畳ほどの狭い領域。最小限のものしかない空間。

 仕事は無事達成。キャスターから得られた情報は、依頼主の条件を十分に満たすものだった。それに多額の金が振り込まれている口座も得られた。これで当分資金面において不自由することはない。

「じゃあそろそろ報告しに行こっか。キャスターはここで留守番。アーチャーは霊体化して私と一緒に来て」

「いいだろう」

 相槌をうったアーチャーは、黄金の塵となって消える。キャスターから情報を預かり、落合場所に工房を移させて地表へと降り立った。

 場所は人気のないぼろアパートだ。深夜はすでに過ぎ去り、あと数時間で日が昇るといったところ。アパートの階段を上り、指定された部屋のドアを指定された数だけノックする。

 するとドアは開かれ、快く中へと入れてくれた。男が五人。四人は筋肉質な黒服。つまり最後の一人、病的なほど白い肌の青年が依頼主だ。

「こんな時間にすまないね、T」

「いえ、気にすることはありません。……貴方が欲しがっていた資料、これで十分でしょうか?」

 懐を漁り、依頼主にホッチキスで留められた五枚の紙を渡す。

 受け取り、猫のような目をしながらざっくりと読み切った依頼主はほくそ笑んだ。

「ええ、ええ! まさにこれでですとも! 完璧です。さすがはT。依頼された仕事は必ず完遂させる。手口を一切明かすことなく、ミスのひとつもない……噂通りですね」

「……ありがとうございます」

「で、報酬は……不死殺しの情報でしたよね……この世に不死は確かに存在します。しかしそれを殺す方法は今のところ見つかっていませんね。時計塔や様々な組織を探りましたが、考察があるだけで確実な方法はありませんでした。一応それらの論文を報酬としてお譲りします」

「はい、確かに受け取りました」

 依頼完了。

 この依頼主との関係はこれで終わりだ。両者とも、探りを入れない。それが暗黙の了解だ。

 踵を返し、五人に背を向ける。まだ仕事がある。山ほどに。だから時間があまりにも惜しいのだ。

「本当にこの程度の報酬で、あのような大仕事を請け負ってくれるとは……個人的に貴女に興味がわきましたよ」

「……依頼、ですか?」

 気づけば、ドアが消失している。

 依頼主は猫のように舌なめずりをした後、醜悪な欲望をむき出しにして言った。

「欲しい。私の手駒として、欲しい。貴女の手腕は間違いなく私たちに大きな力を与えてくれるでしょう。どうです? 待遇も応相談ですが?」

 部屋はいつの間にか実験施設の一室へと姿を変え、壁からは幾つもの武器が向けられている。四人の男たちも見たこともないような武器を構えて立ち塞がっている。

 初めからこれが狙いだったのか。上手い具合に偽装が施されていて、完全に思惑に気づくことができなかった。

 小さくため息を吐き、やれやれと肩を上げる。依頼主の勝ち誇った表情は崩れない。圧倒的アウェイで、突いただけでバランスを崩して尻もちを付きそうな軟弱なモノ。それに過剰とも言えるカードを用意している。

 これだけ見ればどう頑張っても抵抗する手段はない。

『クク、さあどうするマスター』

 アーチャーが耳元で囁く。

 私ひとりで十分だと宥め、ハキハキとしたく長で言い放った。

「断るわ。私は、私のすべきことをするためだけに動いているの」

「では仕方ありません。その身を捕縛させていただきます。安心してください。殺しはしませんので」

 刹那。

 ガクンと視界が下がった。そして次に何が起こったのかを認知した時、灼けるような激痛に絶叫する。

 壁から照射されるレーザー光線が両脚をバッサリと切断したのだ。魔術師の癖に、現代兵器を用いるとかナンセンスと毒づいている間にも容赦なく第二波が両腕を焼き払う。

「護衛をひとりもつけずにのこのことやってきたのが運のつきでしたね。貴女を人質とし、貴女の部下たちを懐柔する。どうです?」

「ぅ、あ……ァ」

「実はどこも、貴女のことを知りたがっているんですよ。いつも独りで活動し、行方をくらますことだって多々ある。そのくせ依頼はきちんとこなす。興味の目が向けられても仕方のないことです」

 依頼主に髪を掴まれ、傷口を地面で擦りながら引きずられる。断続的な痛みに、必死に歯を食いしばることでしか耐えることができなかった。

 冷たい線が、首を撫でる。

「――――――コ」

 横一文字に赤いラインが刻まれ、そこから鮮血が吹き出る。

 別に死んでいても構わないということか。必死に呼吸をしても切られた喉から漏れ、満足に肺に酸素が送られなくなり、やがて絶命に至る。

 その様を見て不敵に微笑み、部屋を出る。

 と、ここでようやく『再起』の反応が現れ始める。

 蘇生させられた意識を束ね、虚ろな身に『存在』を収束させる。

 ぶくぶくと。

 ぶくぶくと。

 肉が妙な動きを始める。

 その異変に気づいたのは、真後ろから付いてくる、無精髭の生えた護衛の男だった。

 脊髄反射に近い速さで銃を向けられるが、今度はこちらが笑ってやった。

「ごっくん」

 ――死が居た。

 咀嚼する素振りに反応したのかまるでわからないが、その起因を探ることはできず、男だった肉塊は壁に四散する。

 ――死が居た。

 ――死が居た。

 ――死が居た。

 ――死が居た。

 ――死が居た。

 ――死が居た。

 ――死が居た。

 ――死が居た。

 ――死が居た。

 ――死が居た。

 疑似的な不可視、ゆえにぼんやりと虚空に映る幽霊の如く、死の群れはその場に鎮座していた。

「な――――」

「不死は存在する。そう言いましたね?」

 依頼主があり得るはずのない状況に悶絶する。その間にも肉体の『存在付与』は完了し、重くなっていることに気づいた依頼主は、素早く命令を下した。

 せいぜい敵は一人。それにもはや衣服としての機能すら果たしていない布の下に隠し武器もないのはわかっている。

 だから、この奇妙な生物を一刻でも早く黙らせないといけない。

 本能だ。本能が、そう泣き叫ぶばかりに訴えてきたのだ。人間とは理性の化物。だが、この瞬間だけは本能に従った。

 捕縛は断念。よって殺す。トカゲのように手足が生えてくる様子を生で見る依頼主は不快感を募らせた。

 三人の護衛が襲いかかる。魔改造を施した人間兵器、よほどの猛者でない限り負けることはまずない。

 懐へなんなく飛び込み、力強く踏み込み、拳を固め、藁人形のような身体のど真ん中、つまり狙いは心臓。

 なんらかの回避手段の前作もなし。呆気なく拳は胸を貫通し、べちょりと臓器が依頼主の胸元に飛んだ。

「――死とは」

 死んだ。確実に死んだ。心臓を穿たれてなお生命活動に衰えがないその歪さに、瞬時に拳を引き抜こうとする。

「――安らかな眠り。あなたも、もうお休みなさい」

 太い腕を、細い指が絡めるように触れる。そのあまりの冷たさは錯覚でもなんでもなく、現実として理解したのは、触れられた部位から腕が腐敗し始めてからだ。

「うわあああああああアアアアアアッッッ⁉」

「……死の王政、凍結執行」

 王に呼ばれ、集う死。

 甘き死を。

 良き死を。

 儚き死を。

 あなたに。

 死は誰にも与えられる平等な権利。それを一方的に行使する、反則めいた王の権限。

 恐るべき速度で腐敗が全身にまで行き渡り、やがて骨も残らず塵と化す。

 瞬時に近接戦闘が危険と理解した護衛は血相を変えて距離を取った。

 死は形を得られず、苦しんでいるようだ。人型と断定できない影たちが蠢き、憎悪のままに口無き口で咆哮する。

 生と死は表裏一体。なのになぜ死はこれほどまでに拒まれるのだろう。いずれは皆、死ぬというのに。

 ――傲慢である。

 生物として生まれたのならば、この理に従え。生を謳歌したのならば、次は死を甘んじて享受せよ。

 死が不吉なもの? そちらの方が見るに堪えない惨たらしさだ! 生き汚い様を見せつけられる、生を謳歌できなかった者たちの怨みを知れ!

「クッ、クヒャヒャヒャ! 憎いぞ! 生者よ! 私たちの死を咀嚼しろっ!!」

 依頼主を含め、周囲の人間の魂をすべて狩り取る。実体も霊体も持たぬ死に対抗する術などあるはずもなく、一方的に蹂躙される。

 数分後には中身が空虚な肉片がゴロゴロと転がっていた。

 ……悪意ではなく、善意だ。母性のように優しくも残酷で暴力的なまでの抱擁をするだけだ。

 それだけでは飽き足りなかった死たちは壁をすり抜け、敵施設内の人間を求めて放浪を始める。

「――我が出るまでもなかったな」

「ごふっ……。ッッ! ァ、――――グ。はぁッ……!」

 アーチャーが周囲の死体を見下ろし、わずかに口角を上げる。

「雑種だったな。これを耐えられないとは、人間もひどく軟弱になったものだ」

「ひぁッ、ぁう。うぐ、ア……ッ゛ッ゛ッ゛!!」

「せいぜい三分ほどで終わるな、これは。…………キャスターに診てもらうか?」

「いや……いら、ない。どうせ意味、ない、の……わかってるでしょう……?」

 息苦しく胸を抑えて過呼吸を繰り返す素振りを見ても、アーチャーは何もしない。そして、今ふらりと力が抜けて身体にもたれかかられても顔色一つ変えず、症状が治まるまでただ見ていた。

「死の王、か。確かに貴様以上に死んだやつはいないだろうよ。あの肉ダルマでさえ十二回よ」

「肉ダルマって、なに?」

「そのままの意味だ」

 金ピカの鎧に手を当てて体勢を立て直し、ようやく落ち着かせることができた。

「ふん、どうせ教えてくれないんでしょ。……ねぇ、いつになったら教えてくれるのアーチャー? あなた達のことと、私のこと。どう考えても私の名前はTじゃないでしょ。ふたりともどう見ても同一人物だし……いや、双子って可能性もあるか」

 アーチャーは腕を組み、つまらなさそうに死体を眺めていた時とは一変、妙に明るい口調で答えた。

「貴様にとってそんなこと(・・・)はどうでもいいだろう! 我とあいつはアーチャーとキャスター。ただそれだけだ。なぜ貴様が雑種ではないと思う? 貴様などもうどこにも居るはずがない(・・・・・・・・・・・・・・・・・)からだ。人という殻の中に個人――つまり心が存在する。だが心が人の殻を作り出すか? ……ああ、確かに固有結界とやらを具現化させる輩もいるが、永遠に維持はできまい。そういうものなのだ。人を捨て、もはや何であるかも分からぬ貴様はいかなる傷を負っても心が肉体を修復させてしまう。よく考えてみろ。本当にその肉体は本物か? その心がどう在るのかは我は興味はないが、それを抱き続けている貴様を評価しているのだ」

 そもそもTという偽名を与えたのはアーチャーだ。

 もちろんなんの意味を含んでいないわけがない。皮肉たっぷり、今もなお目の前で死にそうな者への命名だ。

 もう、行き止まりを迎えている(・・・・・・・・・・・)。人の生を捨て、死に酔い、世界中の人たちためにと言いながら自分のことは何も考えていない(・・・・・・・・)のだ。

 肉体的、精神的成長はこれ以上望めず、ただ毎日死にながら活動を続けている機械のよう。使命のために動き、使命のために死ぬ。そして蘇生する。それ以外の欲求も意志もなく。

 これしか存在する理由がないと公言しながら。

「悪を討ち、悲しい死を迎える人をひとりでも減らす」

「せいぜいその在り方を放棄するなよ? 放棄したが最後、貴様は間違いなく自己崩壊の後に意味消失する。そうなってしまっては我の愉しみも減るしな」

「そんなこと絶対にないし。私を誰だと思ってるの? 私は…………、誰だっけ? HAHAHAHA!」

「フハハ、いいぞマスター! その調子で今後も頼むぞ?」

 遠くから微かに聞こえる悲鳴や命乞いの声をBGMをバックにひとり漫才をしてみせる。

 そもそも依頼を請け負ったのはここへの尻尾を掴むためだ。

 もし依頼主からの過剰なスキンシップを図られていなくとも、キャスターが常にこちらを監視しているため、場所の特定は為されていただろう。

 アーチャーとキャスターは部下ではなく、使い魔だ。部下以下の関係である。もちろんふたりが使命に面白半分かどうかはどうでもいいが、賛同してくれているから思う存分従わせているだけだ。

 魔力なんて知らないし、なんなら勝手にふたりが吸っているらしいから問題はない。別段身体に軋みが生じても気づけないし、そもそも軋みなどとという生ぬるい表現で済まない身体は常に苦しんでいる。

 どうやら狩りは終わったようだ。

 王政に呼び出された死たちは微力ながら満足してくれたようだ。アーチャーにはその機微は理解できないが、理解者がひとりいるだけでも僥倖だろう。

 紫色の焔となって消えた死。

 彼らはまた王によって呼び出され、生を貪る快楽を王の内にて昂ぶらせるのだ。

「帰ろっか」

「うむ」

「ここを木っ端微塵に破壊するの、忘れないようにね」

「任せよ」

 アーチャーが抱きかかえ、空中に姿を見せたキャスターの工房へと飛び上がる。

 そこは、巨大なドーム状の施設だった。よくもまあ時計塔に掌握されずに存在できたものだ。

「ご苦労であったな、アーチャー、マスター。用が済んだってことは……いいということだな?」

「いいけど……アーチャーに任せるから」

「そう案ずるな。我がすでにやっている」

 人差し指を上に向けるキャスター。空を仰げば宝物庫の鍵は開けられ、幾千もの宝具が照準を地上へと向けていた。

「な?」と言わんばかりに眉を上げたキャスターを見てアーチャーは口を噤む。つまりはまあ、黙認ということだ。

「別にそんなこと競い合わなくても、最悪私がやるんだけど……」

「いいや、貴様がすべきことはそんなことではないはずだ。そうだろう? 後始末程度

 我がいくらでもいてやろう。悪はいくらでもある。今日はその内のふたつを潰したに過ぎない。地球規模で見ればゴマ粒未満の成果だ」

「……でも、塵も積もれば山となる。そうだね、キャスターの言う通りだよね。私のするべきことは、悪の掃討……うん」

 身に纏うボロ布を捨て、全裸になり、適当に脱ぎ捨てられているポンチョを羽織った。流石に露出狂の趣味はなく、最低限のモラルは弁えているつもりではある。

「ねえキャスター、あなたとアーチャーってなんで私と一緒にいてくれるの?」

「先日も訊いたばかりではないか」

「え? そうだっけ?」

 地上では無数の宝具による後始末が行われている。二度と悪行ができないように、細部にまで拘って徹底的に破壊し尽くす。

 その轟音。その爆音。その暴風。

 それら一切をなんでもない自然現象のように感慨なく感じている。

 キャスターはやれやれと肩をすくめる。

「貴様を観るのが愉しいだからだ。我が査察だからといって大人しく座に帰るとでも思ったか? 王であるこの我に雑種風情がよくもまあ命令するものよ。聖杯をいくつかくすねてドサクサに紛れて去ってやったわ。だがさすがの我とアーチャーも魔力が切れてはどうにもならん。聖杯の魔力だけではな。そこで貴様に合流できたのだ」

「何言ってるかよくわからないけど……なんとなく理解」

 いつ存在し始めたのかは覚えていない。世界に拒絶され、灰となり四散した自意識はそのまま死へと至る。そのはずだった。なぜそうなったのか。なぜ今こうしてこの世に留まっていられるのかがまるでわからない。明らかに何かによって引き止められたに間違いない。そして、ただひとつだけ魂に刻まれていることがある。

 贖罪だ。

 この束縛からどうしても逃れることができない。どうしてこうなったかもわからない。誰も教えてくれない。だってこれは心の内の問題なのだから、他人が感知することなどできない。

 きっと以前、とんでもない罪を犯してしまったのだろう。その罪悪感が自身への鎖となった。

 では身に覚えのない罪を、どうやって償えばいいのか。

 答えはとても簡単だ。善行を為せばいい。

 決してその罪を無かったことにはできないが、それを上回るだけのことをすればいい。

 ふたりとともに世界中を飛び回った。

 悪を為そうとする者たちを躊躇なく殺すことができた。

 悪を為している者たちを皆殺しにしたこともあった。それによって大勢の者に感謝された。だが間に合わず、救えぬ命も僅かながらあった。

 今現在だってどこかで間違いなく悪が牙を剥いている。それによる犠牲者だっている。

 胸が締め付けられる。一秒すらあまりにもったいなさすぎる時間だ。

 吐き気がする。完璧に悪から人を救うことができない自分に嫌気が差す。これでは贖罪ができない。いつまでたっても完了しない。

 もっと。もっと頑張らないと。

 もっと。もっと。もっとだ。頑張って頑張って。でもやっぱりそれでも助けられない命というものはある。その度に自責する。

 もっと頑張っていれば、と。いつも最上のパフォーマンスをしているつもりだ。しかしまだ圧倒的に足りない。

 もっと頑張らないと。

 頭が痛い。どこかで誰かが叫んでいるかもしれない苦痛の叫び声が、頭の中で反響する錯覚に襲われる。

 頭を抱える。罪人は聖人になれるのか? その是非を問うことはない。なぜならそれは答える人によって千差万別だからだ。

 ゆえに、たとえ世界中の人々がお前は永遠の罪人だと後ろ指を差され、石を投げつけられたとしても自分だけは、自分を聖人であると。聖人であろうと死力を尽くしていると信じている。

 ああ、救わないと。皆を、悪から救わないと。

「だめ、だめ。私は。わたしは……救うの。皆。理不尽な死から。それで死は絶対に悲しくあるべきじゃないって、王として教えないと。安らかなる眠り。平等な権利。生を全うした人に与えられる愛だと」

「「………………」」

「時間があまりにも惜しい。次、いくよ」

 キャスターによって完全な更地となった土地を確認する。これで悪を排除できた。

 だが安寧はない。

「死の王政、執行」

 呼ばれた死たちは王の周りに集い、頭を垂れる。顔はない。手もない。足もない。だが王に対する忠誠はわかる。王の言葉を素直に聞き入れてくれる、頼りになる者たち。

 ふたりに出会う前にすでに何度も殺された。あまりの激痛に泣いたことも少なくない。でもその度に死たちが鼓舞し、まるでそんな事実はなかったと言わんばかりの修復を施して蘇生させてくれる。

 王とは孤高に非ず。

「死を嗅げ。安らかなる者に祈りを。悪に断罪を」

 統率する者たちがいてこそ王は成立する。

 王命は示された。

 死たちは忠誠を果たそうと各々が散らばり、死と悪を求める。

「相変わらずあれらと意思疎通ができるマスターが末恐ろしいものよ。で、あれだけ放っていいのか? そうとう身体にくるのではないか?」

 アーチャーの問いに答えることはできず、その場に崩れ落ちる。

 魔力は死たちの奉仕という形で納められている。それらがほぼいなくなってしまったせいで生命力が格段に落ちるのだ。

 浅い呼吸。

 身じろぎすらせず、その場に這いつくばる。

「助けは、いい。自分で立つ、から」

 震える枝のような腕に力を込め、上半身を持ち上げ、次に――。

「焦れったいぞ。我が運んでやる」

 あっさりと抱きかかえられ、お姫様抱っこでベッドまで運ばれる。

「王が人を抱き上げるとはな、ハハ、これは傑作だ」

「それ、いつも言ってるぞアーチャー」

 キャスターの鋭い指摘に対して無視をしてベッドに放り投げる。

「ぶべっ」

「ちょうどいいタイミングだ、マスター。さっきので我とアーチャーはいささか魔力不足だ。補給させてもらうぞ」

「私は少し寝るから……いくらでもどうぞ。吸いすぎてあまり殺さないでね」

「「わかっているとも」」

 ふたりのニヒルな笑顔を見て、「あ、これは手加減する気なしだわ」と確信する。いやでもどうせ寝ている間のことだし、最悪天井の染みを数えて……天井なんてなかったわ! HAHAHA!

 

 主人公ではない。脇役でもない。もはやその扱いは名を記されることすら許されない。

 そもそも世界から一度完全に消去された存在だ、仕方のないことである。

 強くてロードゲーム。装備品はなし。

 魔王は在らず。だが人でない、何でもないモノが人のように振る舞う奇怪なお話。

 称号は『死の王』。正体不明の男ふたりを連れてゼロから始める。

 果たしてこれは幸せか? その問題は心配ない。それほどの余裕はなく、提起すらされないからだ。

 これはちょっとした後日談。過去、現在、未来で紡がれる無限の人生の、ひとつの結末だ。

 生を全うできず、半端な死を乗り越えてしまった、名を喪った誰かの結末だ。




ノーマルエンド、ハッピーエンドは綴られた。
よかったね、これで終わりだね! と思った者はどうやらひどく勘違いをしているようだ。
もちろん皆はわかってたよネ!


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そして彼女は戦場へ帰る

お久しぶりです。
デスストが楽しすぎて土日を捧げたマンです。


「ああ、マスターともあろう者が死んでしまうとは情けない」

 

 死んだ。確かに死んだ。

 圧倒的……その表現すら生温い。天と地。これも違う。蟻と象。レベルが低い。……そう、人と銀河だ。

 銀河の攻撃に為す術などあるはずもなく、後味が残らぬほどすっきりした惨敗だった。

 ――そしてマスターは真っ白い空間に大の字で寝転がっていた。

 痛くもない。痒くもない。さてはさてはついに天に召される時が来たのか。寝起きのように気だるい身体を起こした。

 

「あれ? もしかして私の言ったこと、聞こえてませんでした? ならもう一度言いましょう。……こほん。ああ、マスターともあろう者が死んでしまうとは情けない」

 

「………………ぱ?」

 

 立派な髭を生やした神様っぽい人でもなく。それはそれは神々しい女神様でもなく。マスターの目の前には、和菓子を齧る暗黒少女騎士がこちらを見つめていた。

 

「蘇生の代金をよこせください。そうすれば私の飽くなき(和菓子への)空腹は満たされ、マスターはもう一度やり直せます。つまりwin-winです」

 

「『すみません、私の手違いで貴女を死なせてしまいました。そうだ、違う世界に特典もつけて転生させてあげましょう』的なのではないんだよね?」

 

「何を言っているんですか。今は半殺し状態です。それに基本死んだらそこで終わりです。痛い妄想を聞くこちらの身にもなってください」

 

「仰るとおりです。今のは聞かなかったことにしてください」

 

 美味しそうな和菓子だ。イシュタルたちと旅をしている間にも美味いものはいくつか食べたが、やはり女子たるもの、甘いもの専用の胃袋は虚数空間並に異次元である。

 存在するのはマスターと、この暗黒騎士のみ。いったい彼女がどういうポジションなのかはまったく想像できないが、口ぶりからするに、何かしら大きな力を持っているようだ。

 丁寧に口元をハンカチで拭いたあと、暗黒騎士はさらに懐から新たな菓子を取り出した。

 

「……で、どうしますか?」

 

「……できるの?」

 

「できます。不思議な力で死者蘇生ではありませんが、過去の時間軸に放り投げます」

 

「お代は……」

 

「20000000QPで手を打ちましょう」

 

「くっ」

 

 星5サーヴァントのスキレベを10に出来る額だ。出せないことはないが、今後のサーヴァント育成に大きな影響が出てしまう。しかし出さないとずっとこのままだ。実際死んでしまっているわけだし、現状を打開するためならばどうってことはない。

 

「――うーん、やっぱやめとこうかな」

 

「…………えっ?」

 

 てっきりお願いされると思っていたのだろうか。暗黒騎士はそれまで忙しく動かしていた手をついに止めた。

 マスターは立ち上がると、その手を掴み、和菓子をひょいと自分の口に放り込んだ。

 

「死ぬ時っていうのはね、あっさりやって来るものなんだよ、きっと。一度死んで、やっぱり死んでないから頑張ろうって言われても……ねぇ? って考えるとどっちでもいいかなーって思ってきちゃった」

 

「……このままだと間違いなく負けますよ?」

 

「そういう結末なんじゃない? すべての戦いに勝利できるなんて、それはもう……なんだろ……少なくとも人の業ではないね」

 

 すべてに於いて、勝利をもぎ取ってきた。

 幾度となく不利な状況に陥ろうとも、必ず勝ってきた。皆からすれば、マスターは勝利の女神に見えるかもしれない。しかしマスターはコイントスの表を常に出し続けられただけである。

 そして、今回はとうとう裏が出た。それだけ。

 気に病むことはない。ずっと、ずっと前から覚悟していたことだ。ああ、いつかは死ぬだろうなと。

 だから今のマスターの心はとても落ち着いている。なぜならば、このまま死ぬという選択肢があるからだ。

 

「仲間を助けたくはないのですか?」

 

「もちろん助けたい。なんとしてでも助けたい。……でも、死んだ人間が助けるのは違うと思わない?」

 

 和菓子を両手いっぱいに乗せ、それらをマスターの胸に押し付ける。

 

「――あなたは……まだ、死んでいません」

 

「そうだね。半殺しだもんね」

 

 もしマスターが戻るという決断をしたのならば、きっと彼女たちのために銀河と戦うだろう。

 暗黒騎士はそれを望んでいる。そこにどんな想いがあるのかなど知ったとこではない。

 すべてはマスターの自由だ。生殺与奪の権利は自身にある。

 

「誰にもお別れを言えずに死ぬだなんて、寂しいと思いませんか?」

 

「――――――」

 

 そんなことを言われて。

 ……胸の奥が、少しだけ痛く感じた。

 受け取った和菓子を落としてしまうことなど気にせずにマスターは胸に手を当てた。

 特になんの機微もなかったが、ふとユニヴァースに拉致される瞬間を思い出した。

 あれは完全にマシュと自分が騙されたのが悪いが、軽いノリでアシュタレトについていった。

 そして帰ることは一生なかった。そうなってしまえば誰が何を考えてしまうのかは容易に想像できた。

 どんな別れがあったとしても、そんな無味な別れは許容できない。人間性を削ぎ落とされたマスターでも、これだけは人間的に間違っていると辛うじて判断することができた。

 まだだ。まだ非人間には至っていない。そもそも人間性を捨てたくて捨てているわけではない。だから、今ある僅かなものだけでも大切にしたい。

 ――誰かとの約束があった。

 誰なのかは記憶から灼けおちた。ずいぶん前の話だ。

 未来を勝ち取り、自分の道を歩み続けると誓いを立てた。その相手の胸を穿ち、獣性を獲得した。確か…………ゲのつく名前だったような……気が……。

 そして振り返る。

『これ』は、納得できる終わりなのかと。

 道半ばで死ぬのはいい。大往生を遂げるのもいい。しかし『これ』は違う。何が違うのかはマスター自身にも言葉に言い表せない。天才ならできるだろうがマスターはそうではない。

 約束は他にもある。何もゲ……との約束しかないわけではない。

 どれも死んでもなお果たせないものばかりだ。ならばなおさら死ぬわけにはいかない。今死んでしまうと、約束は怒り狂い、他のもっと醜悪なものに変貌するだろう。ただでさえすでに許容範囲を大幅に上回っているというのに、どうなってしまうか自分でも予想できない。

 

 「――――――こわい」

 

 誰にも聞こえないほど掠れた声は、マスターの中でのみ反響する。

 怖い。怖くて怖くて、どうにかなっ…………。

 いや、すでになっている。

 

「……戻ろうか」

 

 マスターは落とした和菓子を大きく鷲掴みして、口に放り込んだ後に言った。

 暗黒騎士は特に何も言わなかった。

 手を貸したいと思ったから手を貸す。その善意は正直なところ、マスターには眩しすぎて直視できないほどだ。

 昔は自分もこうだったのだろうかと過去と照らし合わせてみたりする。

 

「ねえ、私はあの銀河に勝てるの?」

 

 尋ねると、暗黒騎士は答える。

 

「勝てます。そのための要素はすでにあります」

 

 疑うことすら失礼に値してしまうくらい確固たる自信に、マスターは「そっか」と返す。

 過去に遡って、何が銀河への特攻口になるのかを探ろう。何がアシュタレトの悪性を否定させてあげられるかを探そう。

 もし力が及ばなければ、あの人たちの力も借りよう。何をしてくれて、どんな見返りを求められるのかが怖いけど。

 だから信じてみよう。

 善意でマスターを助けてくれるのだ。恩人の言う言葉を信じられずして、どうして人間であることを主張できようか。

 

「和菓子ありがとう。頑張るよ!」

 

 私は人間である。まだ人間である。だから人間として、人間らしく、『人間』にしがみつく。

 そのうちに『人間』を無くしてしまっても、人間のように生きられるのだ。

 どう頑張っても避けられない決定事項。その中で唯一の終着点。妥協点。こればっかりは譲るつもりはない。『人間』を失うまでは。

 ――努めて朗らかに笑顔を浮かべ、マスターは暗黒騎士の導きに身を任せて過去へと去った。




忘るるなかれ、死の恐怖を!
お前の致す人間模様。私たちには滑稽で、憎たらしいこと!

それでは、ロストベルトNo.5までシリアス成分を溜めておきます^^


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侵入者を殺せ

ロストベルトNo.5-1クリア記念
ネタバレ回避のため、数行空白。

たとえただの人間でも、神に立ち向かうことはできる。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 殺さねばならぬ。

 それ以外、何も考えられなかった。

 この先には行かせないという使命など二の次だ。正直なところ、あの潜水艦はそのまま行ってくれても気にしない。怒られはするだろうが、それよりもこの全身から燻る憤怒を発散することを優先しなければならない。

 たかが英霊如きにコアを盗まれたことだけでも虫唾が走る。腹立たしい。呪いを付与したからもう来れないはずだが、もし再び来たら絶対に殺す。何が何でも。一切の手加減などなく、神性全開で。必ず、殺す。

 そしてどうやって克服したのかは知らないが、愚かにも身体に乗り込んできた。すでに二つ目のコアは破壊されてしまった。残り二つ。

 

 

 ――――――殺す。

 

 

 呪いを。呪いを。今すぐにでも死に至らしめる呪いを喰らえ。

 幸い三つ目のコアに集中しているから、呪いの手の接近に気づかないでいる。ゆっくりと汗をかいている身体、胸に触れて、勢いよく内側へと潜り込んだ。

 

 

 ◆

 

 

 そこは深い深い朝だった。

 空はあれほど暗いのに、何故か地表は明るいのだ。辺りを見回すと、呑気にくつろいでいる、『人のようなもの』がたくさん見える。

 空に溶けそうなほど黒いものもいれば、奇怪な姿のものもいる。実に多種多様な『人のようなもの』がいるのだ。

 彼らはラジオのチャンネルを切り替えてラジオ体操を流している。それに合わせて体操を始める。

 何をやっているのか全く理解できず、彼らを無視しようとした。しかしそのうちのひとりに気づかれてしまう。不味い、と思ったが、相手は警戒することもなく寧ろ快く歓迎してくれた。

 なんだここは? と不思議に思った。ここには呪うためにやって来たのだ。この者の深層意識は必ず抵抗するはずだ。なのにこの待遇は明らかにおかしい。

 警戒しながら彼らに近づくと、一緒にラジオ体操をしようと誘われた。そんなことはしないとかぶりを振ると、ならお腹が空いているのかと訊かれる。それも違うと応えると、難しそうな顔をしたあと、じゃあ遊ぼうと半ば強引に連れて行かれた。

 この深層意識はあまりに広い。初めに呪いに来たときより何十倍も広い。

 連れてこられた場所は、処刑台だった。こんなところでどうやって遊ぶのかまるでわからずにいた。すると皆は一列になって順番に階段を登り、首を台にセットしたあと、自らの手で留め具を外して刃を落とすのだ。

 血で錆びついているのに、まるでそれは幻想のようなレベルの切れ味で首は綺麗に落とされる。

 首が足元に転がってきた。身体は処刑台を降りるとあたりを彷徨い、首を見つけてくっつけた後、楽しそうにキャッキャッと笑う。

 こんなものは見たことがない。死を楽しみ、遊びとして捉えている狂気がまるで理解できなかった。島に落とされるアルテミスの矢を……死を喜ぶ者たちはいるが、死をそのように扱うなどまるで人の領域から外れている。

 さすがに自分も首を落とすわけにはいかないから完全に観客となって、だいたい162回ほど刃が降ろされたところで遊びは終わった。

 運動のあとは、ちゃんと食事を取らないと駄目だよね、と無邪気な笑顔を向けられる。

 特に反応は示さなかったが、再び一方的にどこかに連れて行かれる。

 次は大きな枯れた大木だった。

 生気はなく、また水気もない。その根本には同じように腹をすかせた『人のようなもの』たちが手を上に伸ばしていた。

 木に実っていたのは、この世のものとは思えないほど美しい色をした、たくさんの果実だった。

 そのうちのひとつが、下から投げられた石によって落とされる。それをキャッチするや食べるのかと思えば、レコードのように実を回転させながら爪を当てて、中身を再生し始めたではないか。

 一緒に映像も上映され、ちょっとした映画館のような雰囲気になる。

 流れ始めたのは、誰かの視点だ。

 荒れる猛吹雪の中、目の前の狼っぽい人間に血を流しながら胸ぐらを掴まれ、怒鳴られている。

 これは恐らく記憶なのだろう。上映を終えると、嬉しそうに皮を剥ぎ終えた果実に齧り付く。味はわからないが、とても美味だったのだろう。文字通り頬が溶けていく。

 この大木は、ただ実を与えるだけのものへと成り下がっていた。虚しさが滲み出ている。きっとこんなことは望んでいないだろうに。

 何かがおかしいと結論に至ると、そそくさと大木から離れる。

 そもそもここに知的生命らしきものが存在していることがおかしいのだ。もしかしてこの者は一度呪ったのとは違う? いやそんなことはない。

 なぜなら、こんなにも複雑に何重にも絡まった呪いがあるのだから。解くことは不可能と断定できる。いつの間にこれほど肥大化したのかは知らないが。でもこれのおかげで死にたくなるほど苦しんでいるのは確かだ。とても心地が良い。

 それでもさらに呪いを課さねばならない。まだ怒りが鎮まったわけではない。

 ふと気づくと、海辺に立っていた。

 防衛意識が反応したのかと警戒するが、何も現れない。

 そして何かが浅瀬にいることに気づいた。

 あれは安楽椅子だ。しかも誰かが座っている。

 こちらには気づいていない。直感が告げる。あれがコアなのだと。

 砂浜を歩き、赤い海へと足を踏み入れる。

 まだ座っている者は気づかない。よく聞くと、子守唄を歌っている。ゆっくりと椅子を前後させて何かをあやしているようだ。

 だがそんなことは関係なかった。

 安楽椅子の後ろに立つと、椅子ごと蹴り飛ばしてやった。軽々と横に倒れ、座っていた者も浅瀬に投げ出される。

 すかさずその首を掴んで持ち上げた。

 正体は赤毛の女だった。抱いていた疑問はこれで払拭された。こいつは間違いなくコアを盗んだ奴だ。

 白いワンピースを身に纏っているが、滲んだ血が所々黒ずんでいる。それに身体は壊れかけのガラス細工のようだ。どこもかしこも亀裂が走り、少しでも衝撃を与えるだけで壊れてしまいそう。

 首を掴む呪いの手から逃れようと足掻き始める。しかしその力はあまりに弱々しい。

 女の目は恐怖に染まり、涙を流し始める。

 

「……っ゛、ぃ……や……! 〜〜〜〜!!」

 

 女を砂浜へと投げ捨てる。

 右半身を強く打ち付け、鈍い音が聞こえたが、それを無視して再び詰め寄る。

 女はその場にうずくまり、逃げようともせずに啜り泣き始めた。

 

「誰か助け、て……! 嫌だ、嫌だ……。怖い!怖いよぉ!! 死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、しにたくない、しにたくない、しにたくないしにたくないしにたくないしにたくないしにたくない…………!!!!」

 

 目の前に立つと、女は股を濡らしながら後ずさる。お前を殺すと告げると、女はさらに酷く泣きじゃくった。

 

「なんで皆私を傷つけるの⁉ 私何か悪いことした⁉ 皆に嫌がること、した⁉ こんな『私』になりたくて私は頑張ってきたわけじゃない!!」

 

 やや自棄になりながらヒステリック気味に叫ぶ。さらに亀裂が深く刻まれることなどお構いなしに、手を動かし砂をかけて抵抗する。

 だがこれは抵抗ですらないほど非力だ。

 

「まだ死にたくない! 普通に生きて、普通に働いて、普通に結婚して、普通に子供を産んで、普通に死にたい! 何も特別なことなんていらない!! そんなちっぽけな願いもだめなの⁉」

 

 雑魚だ。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を見下ろして評価する。殺すのはあまりに容易い。こんな奴にコアを攻撃されたと思うと腹が煮えたぎる。

 四つ目のコアも破壊されそうだ。もう終わらせよう。

 手を振りかざす。女が身を極限まで縮こまらせる。あとは振り下ろすのみ。

 しかしその瞬間、背後から赤ん坊の泣くような声が聞こえた。

 振り向いて、声の正体を確認する。そういえば、女は何かをあやしていたのを思い出す。

 浅瀬に浮かんでいたのは、『繧ア繝「繝』だった。耳障りな泣き声だ。魔力を込めた弾を当てると泣き止んだ。邪魔はいなくなり、再び女に向き直ろうとしたが、なぜかまた泣き声が聞こえた。

 繧ア繝「繝は間違いなく殺したはずだ。なのに泣き続け、不快感を与えてくる。

 怒りに任せて複数命中させるが、今度は泣き止むどころか声量が大きくなってくる。

 浅瀬は引き、水平線へ海が消えゆくのかと思えば実は水平線がすぐそばで、海から繧ア繝「繝がその全容を現した。それを見上げていると、今すぐここからいなくなりたいほどの恐怖を覚えた。

 

 ――その姿はまるで、獣のような…………。

 

 潜り込んだのはフランシス・ドレイクではなかった。ではいったい誰の深層意識に潜り込んでしまったのか。これほど恐ろしい繧ア繝「繝を内に隠し、表出化させないように維持させるなど……どう考えても不可能で……。

 そんな疑問と後悔に、呆然と見上げる侵入者を、繧ア繝「繝は………………。

 

 

 ◆

 

 

 オリュンポスを見下ろす。

 そこは神の国。人間が立ち入ることは疎か、視認することさえ許されない理想郷。

 神への挑戦状を手にした。三つの試練を乗り越え、ここまで来た。大勢の先駆者たちが土台を築き、オリオンたちが送り届けてくれた。彼らの想いはただひとつ。マスターに未来を託す、その一点のみ。

 身体の中で、何かが壊れたような気がした。

 マイルームにたどり着く前に廊下で膝をついてしまう。きっと疲れたのだ、慌てたマシュに肩を借りながらマイルームに入った。

 

「先輩、大丈夫ですか?」

 

「うーん、これはやばいかも。一歩も動けないほど疲れた」

 

「ええっ! 今すぐ休憩しましょう! あまり時間はとれませんが……少しでも疲れを回復させないと!」

 

 マスターは無気力に「あーあー」と意味なく唸る。ストーム・ボーダーはこのままオリュンポスに突入する。そうすれば空想樹を伐採するまで休みを取ることはできないだろう。

 

「でも解決方法はひとつだけありますな」

 

「なんですか? 私にできることならなんでもしますよ!」

 

「マシュにすっごくやさしーくマッサージしてくれたら元気百倍になるね、これは間違いない」

 

 マシュの行動は速かった。

 マスターの身体をベッドに押し倒す。鼻と鼻が触れるほど至近距離になり、マスターは無意識に赤面してしまう。

 

「そそそ、そういうのは違うと思うなぁ! 私としてはウェルカムだけど、時と場所をだね、マシュ君?」

 

「いえいえいえ! ち、違いますよ⁉ そういうのではありませんからっ! 」

 

「う、うむ」

 

 必死に否定されて少し悲しくはなったが、合法的に、しかもマシュの方から触れてくれるという喜びを噛み締めながら、この一瞬一瞬を全力で堪能しようと決意する。

 仰向けのマスターの横でマシュが腕や脚やらを揉んでくれる。これほど幸せな時間が永遠に続いていればいいのに……と考えていると、マシュに「先輩、顔がニヤけすぎておじさんみたいですよ」言われてしまう。

 それは仕方のないこと。マシュは自分の可愛さを全く理解していない。実にけしからんことだ。だからマスターがわからせてあげないといけない。マスターとして! マ ス タ ー と し て !

 

「先輩、うつ伏せになってください」

 

 マシュの声に我に返ったマスターは、寝返りをしようとする。

 ……しかしできなかった。身体がまるで言うことを聞かないのだ。特に右半身が痺れる。辛うじて右腕を上げられるが、実行までのラグが酷い。

 握り拳をつくっても、握っているという感覚がしっかりと伝わってこない。

 

「先輩?」

 

 右手を見ながら訝しむマスターを心配したのか、マシュが声をかける。

 

「ん? いやなんでもないよ。どうせだしおんぶにだっこまでマシュにお願いするよ」

 

「またおじさんみたいな顔してますよ……まあ、いいですけど」

 

 これもマシュとスキンシップをするために必要なことだ。誰かと親密度を上げるためにはやはりスキンシップが必要なのだ。

 

 そうだよね、繧ア繝「繝?

 

 繧ア繝「繝は爪楊枝で歯に挟まった神性をとり、満足げに大きくげっぷをする。

 最近はあまり食事ができていなかったからね。あれはとても美味しいご馳走だったろう。犠牲はあったが、それより大きな成果があった。それはマスターとして喜ぶべきことだ。

 

「先輩、どこを見ているんですか?」

 

「ううん、何も。さあさあ、どんどん私を揉んでくれたまえ」

 

 マシュにごろんと寝返りをさせてもらい、十分ほどかけて丁寧にマッサージをしてもらった。

 終わった頃には痺れはずいぶんマシになっていた。活動に致命的な影響は出ないと判断したマスターは嬉しそうに微笑む。

 これならなんとかオリュンポスでも戦えそうだ。キリシュタリアとも戦える。戦いは終わりに向かい始めている。異星の神の降臨を食い止め、残り三本の空想樹を伐採すれば終わりだ。だからこの身体よ、どうか最後まで戦わせてください。

 ベッドから降りたマスターはマシュに向かって両腕を開く。

 

「ハグしよう」

 

 今日はなんだかテンションがおかしいと判断したマシュだが、自分にこれほど甘えてくれることに多少なりとも嬉しかった。わかりきってはいるが一応周りを確認してからマスターの胸に飛び込んだ。

 マシュの身体の熱が伝わってきて、同時に安心感にほう、と息を吐く。

 

「先輩はハグが好きですね」

 

「…………うん」

 

 いつかはこの温もりの意味がわからなくなってしまうかもしれない。だから、今のうちにできるだけ感じたいのだ。

 鏡に映る、マスターの肩に乗せられる呪いより恐ろしい手を見る。やはり、繧ア繝「繝からはどうやっても逃れられないようだ。

 マシュの身体に触れられない、小刻みに震える右腕を見てマスターは口を歪ませた。




神が、鍛え抜かれた獣性に敵うはずがないだろう。

▶マスターちゃんに新たなバッドステータスが追加された!
・自傷行為
・味覚障害
・記憶障害
・幻覚
・幻痛
・感情異常(中)
・右半身麻痺(軽微) new!


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たぶん夢

知ることが悪しとされる残酷さをまだ知らない少女は救われていた。
知ろうとする。向き合おうとする。肯定しようとする。その『悪』をまだ知らない少女は救われていた。
なのに。

【悲報】今回はシリアスありません。


こんな夢を見た。

 

 

 口はせわしなく開閉させているのに、少しも鳴き声が聞こえない烏の群れが飛ぶ。

 欠けた日は地平線に消えかけ、あと数時間で夜に移り変わる時。気づけば私は存在していた。ここはどこか。確かマイルームのベッドでぐっすりと寝ていたはず。

 なるほど、ではこれは夢というわけだ。しかし身体に吹き付ける白い風はやけに現実味があり、感覚が起きていると変わらないほどで鮮明だ。

 くしゃみをひとつ。頬をつねると痛い。

 なるほど、ではこれは夢ではないというわけだ。しかし前方に見える『それ』は、少なくとも現実的ではない。

 恐らく人……だろう。人の形をした何か。陽炎のようにその影は揺らいでいる。数は恐らく三。ちょっぴり怖い。ホラーゲームに出てきても不思議じゃない。

 フランクに話しかけてみる? 次の瞬間襲われたりしない? サーヴァントがひとりもいない状況を鑑みると、何もわからないまま無闇に行動するのはやめておくべきだ。

 

 ゆらりゆらりとその影は。

 どこかをぼんやり見つめてた。

 静かに佇む影たちが。

 何を想うか知る由もなし。

 

 思っていたより随分と広い土地だ。建物はさっきの場所しか見当たらず、その他は何もない。まばらに雑草が生え、小さな丘がある程度だ。

 夕暮れは続き、烏たちは何もない何かを啄んでいる。通信機能は……だめっぽい。カルデアに繋がらない。

 私ひとりではここからどうやって脱出すればいいのかまるでわからない。私は頭が良い方ではないからね。頭脳プレイはロマンやスタッフたちにすべてお任せ。その他いろいろを私が頑張るのだ。おかげさまで体力が劇的に向上している。筋肉もだけど、腹筋が割れたりとかそういうのはよろしくない。だって可愛くないからね。

 所詮は夢か夢じゃないのかわからないのだからどうしようもない。こういう時は寝るに限る。今日はシミュレーションルームでたくさん連携の確認とかをしたから、私はとても疲れているのだ。マシュにマッサージも依頼している。それがこのあと予定された幸せなのだ。理由をつけていつも依頼しているため、本当に来ることは滅多にないけど。でも今日は頑張った。マシュポイントはカンストした。だから来てくれるはず。もし来てくれなかったら泣く。

「寝る。うん、寝る」

 あまり暖かくない環境だが、地面は寝るに最適だ。まるで草のベッドのよう。私は何も考えず、後ろに身を投げだした。

 しかし背中を受け止めたのは草ではなく、妙に湿り気のある物体だった。

「ッ⁉」

 慌てて立ち上がって確認すると、そこは青々と茂る草ではなく、死んで間もない誰かの死骸だった。それに背中にべっとりとついたものに触れ、私は恐る恐る見た。

 ――血、だった。

「きゃあッ!!」

 私は後ろに倒れ込み、尻もちをついてしまう。死骸に触れるなんてそんな恐ろしくて怖いこと、できないのに……。頭は一瞬で混乱に支配されてしまい、思考がフリーズ寸前にまで陥る。

 さらに辺りは草原などはなく、跡形もなく破壊しつくされた街へと変貌していた。果たしてさっきのは幻覚だったのか? 夢だから? いや、夢ではない? どっち? どっちだった?まずい、頭がこんがらがってきた。

 パニックだ。どうしたらいいかわからない。こういう時はロマンたちが指示を出してくれるが、今は私ひとりだけ。何も考えられない。

 とにかくこの場から離れよう。立つという無意識の行動もできず、四肢すべてを使って移動を始める。

 瓦礫の山にぶつかって、私はようやく犬のような歩き方になっていたことに気づいた。

 不安定な呼吸を整え、力の入らない腕に活を入れる。

「立って。立って、私」

 足の震えがまだ収まらないが、立つことはできた。そしてまた大きく深呼吸を繰り返してから、ようやく改めて状況把握に努める。

 私以外、誰もいない。死骸はあるが、それだけだ。数は四、五人ほど。強く身体を打ち付けたり、焼かれて死んだり。

 死臭が酷い。口を抑え、私は空虚な街を歩き回る。もしかしたら見つからないだけで、どこかで瓦礫の下敷きになっているかもしれない。

「誰かいませんかーー!!」

 声を張る。

 が、反応はない。

「誰か……誰か!!」

 その時、右前方の瓦礫が少し盛り上がったように見えた気がした。ただ崩れただけなのかどうかわからないが、そこにいるかもしれないという可能性は捨てきれない。

 レンガひとつ退けるだけでも力がいる。大きなものは時間がかかってしまう。擦れて手から血が出るが、それでも私は必死になっているかもしれない誰かを救うべく手を動かした。

 そして、いた。

 少年が一人、柱に身体が挟まって出られなくなっている。その少年は虚ろな目で私を見る。

 何も思っているのかはわからない。口をぱくぱくと動かしているが何を言っているのか聞こえない。

「絶対助けるからね」

 少年は小さく頷く。

 助けるには、てこの原理だ。

 周りにある瓦礫の中から頑丈そうな板を持ってくる。それを少年と柱の間に差し込み、支点代わりの石を置き、私は両手で渾身の力を入れる。

「くっ、ッッ!!」

 少しだけ柱が持ち上がる。そこにすかさず私は適当な瓦礫を足で割り込ませる。

 十分な高さになったところで、ゆっくりと力を抜いた。だいたい五センチほどの隙間か。これで少年は抜け出せるはずだ。両脇を掴んで、丁寧に引っ張り出す。ずいぶん軽い。血が流れているのだろうか。傷口を強く押さえれば大丈夫。そう思って少年の身体の全容が明らかになった瞬間、私は小さく悲鳴を上げた。

 

 その少年には下半身がなかった。

 

 少年は呼吸をしておらず、冷たい。

 血は今も流れ続け、どろりと溢れ出した内臓が見える。

 血の匂いがした。

「え? …………は? ………………ぇ、なん、で?」

 死んでる? い、や、それはおかしい。だって私が助けるって言ったとき、ちゃんと反応してくれた。死んでいたら反応はなかったはずだ。

 なら、どうして。

 下半身は、下半身はどこ?

 柱の奥を確認する。初めは少年の身体で見えなかったが、確かにそこに下半身はあった。それも、いくつもの破片で抉られていた。

「――――――――」

 ぼんやりと、ひとつの可能性が浮かび上がる。

 下半身はぐちゃぐちゃで、すでに少し引っ張るだけで簡単に離れてしまう状態ではなかったのだろうか。

 そこに私が来て、助けようとして、柱を上げて引っ張り出した……。

 ということは、少年にとどめを刺したのは――。

「わた、し?」

 そんな、それは、それだけは、違う。そう否定したい。だって私は本気で助けようとして行動したのだから。私が殺した? 人を? あり得ない。

 善意で助けようと思った。本当。悪意なんて欠片もない。誰か、これをウソって否定して。そうだ、これは夢なんだ。だからこんなにもおかしな現象が起こっているのだ。急に場所が変わったりしないし。だから本当に私が殺したわけではない。皆も夢の中で色んなことをするでしょう? でもその事実は現実には持ち込めない。それと同じ。だから違う。私じゃない。そんな酷いこと、私はしない。だってそうでしょ? 殺すとか、そんなこと一度も考えたことのない私がすると思う? しない。絶対しない。だから私じゃない。そんな私は人間失格だ。今すぐにでも死んでしまえ。でもそこで少年は死んでいるし、この生々しい感触は夢では感じられないはずだ。じゃあこれは事実として残るの? 相談しよう。誰かに相談しよう。帰って、マシュでもロマンでもダ・ヴィンチでも。もしくは人を殺したことのあるサーヴァントだったら詳しく……………………。

 …………。

 ……………………。

 ……………………………。

 だから私は殺してないっっ!!!!!!

 頭を抱えて、膝をつき、叫ぶ。

 パニックになっている。ヒステリックを起こしている。自分を落ち着かせないと。落ち着かせないと。落ち着かせないと。どうやって?深呼吸。そう深呼吸。深呼吸。深呼吸を。深呼吸だ。深呼吸。深呼吸。焦るな私。たかが呼吸だ。その方法を忘れるとは何事だ。空気を吸って、吐く。それだけの単純作業。

 血の臭いにも慣れた。良くないけど。

 死の臭いにも慣れた。良くないけど。

 今一度、少年の亡骸を胸に抱く。

 私が殺したことなんて知りたくないけど。私が原因なのかもしれないなんて知りたくないけど。そもそもこれはきっと夢なのかもしれないのに。

 それでも、目の前で失われた死を弔うことは、人としての礼儀だと、思う。

 死後の世界なんて知らないけど、せめて安らかでありますようにと祈り、静かに瞼を下ろす。

 今思えば、あの場所はオルレアンのような気がしなくもなかった。それに、この子を見たことがあったような気がしなくもなかった。

 そのときは確か、間に合わなかった。

 

 気に病むことはない。

 貴女には救えない命だった。それだけ。

 すべてを救うなんて神の所業。

 だから彼の想いを『知る』必要はない。

 貴女は振り返らず、前に進む。

 貴女は積み上げられる死の砦を知る余裕なんてない。

 

 胸に抱く感覚がふとなくなって、私はゆっくりと瞼を上げる。

 そこは草原だった。血も死の臭いもしない、草の香り。唯一変わっていることは、いっぽんの大木があることだ。

 あれだけ血まみれになった礼装も綺麗になっている。それを確認した私は、やはりあれは夢だったのだと深く安堵した。よかった。あれが事実だったらどうすればいいか全くわからないところだった。

 私は周囲を見渡してから大木に近づく。手を伸ばし、硬く太い幹に触れた。

 すると頭上にひとつ、果実が成った。手の届かない高さだ。ジャンプしても届かない。

 その色は認識できなかった。しかしそこに果実があるということは認識できた。まだ熟していないからかもしれないと私は思った。

 そして何かが物欲しそうに見上げていることに気づいた。それは揺れる影。ぼんやりと人の形をとっていて、下半身は存在していない。

 口なき口を動かしているような気がして、私はこの子があの果実を欲しがっているとわかった。

「ごめんね。まだダメだよ。ほら見て、実が熟していないでしょ?」

 指差す場所は、あると思われる果実。まだ実在していないが、いずれ実を持つモノ。

 しかし影は嫌だ嫌だと駄々をこねる。どうしたらいいものかと私は悩む。ここでいい知恵など働かない。だって私は天才ではないから。影は細かく震えながらしだいに癇癪が激しくなり、とうとう私に襲いかかる。

 初動作が一切ない飛びかかりに、私は反応しきれなかった。

 腹を鋭い何かが電流のように通り過ぎた感覚。痛みはないが、代わりに巨大な不快感に震えた。たたらを踏み、腹部を手で抑えようとするが、ずるりとゆっくり腰が物理的に横にズレていくのに気づいた。

「ぁ」

 肉が切断されているのに溢れる血など止められるはずもない。何もできずに私はズレが広がるのを見ることしかできない。そしてついに私の上半身が完全に下半身と別れた。

 どしゃ、と地面に崩れ落ち、私はまだ何が起こったのかまるでわからない顔で夥しい量の血が流れるのを見ている。

 これは夢だ。だから痛みはない。

 落ち着いていられるのはそのおかげだろう。ゆっくりと深呼吸をしよう。大きく息を吸う。しかし底の無い入れ物のように空気がどこからか漏れてしまう。そして吐くのは血。

 痛くはない。これは夢なのだから。

 落ち着いて。私は大丈夫。大丈夫。落ち着いて……。

 

 ゆらりゆらりとその影は。

 どこかをぼんやり見つめてた。

 静かに佇む影たちが。

 何を想うか知る由もなし。

 

「……ッ! ひっ、ぐ!! ぅあ゛あ……ッ! っっっっっ゛ッ、が、ぁあああああア………………!!」

 

 そんなの無理だってわかるよ!!!

 痛くなくても! 夢であっても! こんな知らない感覚を味わって落ち着けるわけがない!

 怖い! ここは怖い!! はやく帰りたい!

 マシュ、みんな、助けて!

 吐き気を催し、喉までこみあげる胃の内容物を吐き出す。

「⁉」

 足がある。

 今、確かに足がある。つまりさっきのは夢? 何がどうなっているのかを理解できる範疇を超え、私の気は狂ってしまいそうだ。

 草原も大木も消え失せ、今度は砂浜に倒れている。深く咳き込んだあと、おぼつかない足で立ち上がる。

 静かな波の音が聞こえる。潮の匂い。海が近いようだ。袖で口元を拭って私は歩きだす。

 浅瀬まで浸かり、その先に何かがあるのを発見した。

「安楽椅子……?」

 なぜこれがそこにあるのかはどうでもいい。休むことができるとわかった瞬間、溜まっていた疲れがどっと溢れてきた。私は足早に椅子に近づき、座った。

 深くため息を吐いて、目を瞑る。

 波が安楽椅子を揺らし、私はすぐに睡魔に襲われた。寝よう。寝よう。

 こんなにも怖い世界、私は知らくていい。ほら、よく聞くじゃん、知らないほうが幸せってやつ。まさにそれ。

 うとうとと船を漕ぎながら、私は今度こそ心の底から安らぎを得た。

 

 

「くあっ!! んっ!!」

 痛い。痛すぎる。

 何も考えずに頼んだ私が馬鹿だった。ミシミシと骨が悲鳴を上げているのが聞こえる。肺の空気が強引に押し出され、私は奥歯を噛みしめる。

 下心丸出しだったのがバレたのか。しかし私が苦悶の声を漏らしても全く力を弱めてくれる気配がない。むしろ強めてくる。

 私、何かやってしまったかな?ここ最近マシュに対してやったことといえばブリーフィング中にマシュへの愛を堂々と演説したことや、マシュをたくさん撮ったカメラをどこかに落としたこと、「マシュのその服装ってえっっっっっ!! だよね」と言ったくらいだ。まるで思い当たる節がない。

 違う、考え方を変えよう。これはきっと愛なのだ。間違いない! 素直になれないマシュからの愛! 愛なら喜んで受け取ろう!!

「先輩、少し顔が気持ち悪いですよ」

「ちがッ、これは、痛いから、だよ……」

「でもなんだかそれだけではないような……どうですか? 私のマッサージは?」

 ぐりぐりと肩甲骨の裏側を巧みに責めるマシュ。私は堕ちる。ギシギシと軋むベッドがいやらしいし、私の嬌声を誰かに聞かれたら誤解されること間違いなしだ。

「エッジが、効、いててとても良いッ⁉ ねっ」

 マシュはまったくそんなことは考えていないようだ。淡々と私の疲れが溜まっているところを重点的に責めもといほぐす。

 そしてマッサージという名の拷問(愛)が終わる頃には、私の身体は痙攣し、微動だにできなくなってしまった。効果は抜群だが、やはりサーヴァントにマッサージをしてもらうとはこういうことなのか。とても効果があるのは確かだが。

「えっと……大丈夫ですか?」

「すごく効いた……ありがとう」

 うつ伏せの私を見て、マシュは茶を濁す。

「そ、それはよかったです」

 頑張って仰向けになって、ゆっくりとベッドに腰掛ける。隣のマシュが、不思議そうに私の顔をうかがう。

 私は夢なのかどうか自信のないあれを思い出して、はにかんだ笑顔を見せた。

 ……きっとあれは悪い夢だったのだ。いつもいい夢が見られるとは限らないし、今回はそういうことだと片付けよう。忘れてしまおう。

『振り向いてばかりじゃ前に進めない』なんてよく聞くけど、今の私にはとても大事な言葉。人理修復も始まったばかりだし、先はまだまだ長い。もし私の力が足りずに後悔することがあれば、それを糧に、二度と同じ後悔をしないようにする。

 亡くなった人たち全員を知ることなんてとてもできない。だからこそ、私にできることはなんでもしておきたい。

「マシュ、あとでトレーニングルームに行かない?」

 私の突拍子のない提案に、マシュは豆鉄砲を食らったような顔をする。今日はとてもハードトレーニングをしたのに、まだ運動するのですか? と言いたげだ。

 私も普段ならそう思う。でも、私が死ねばそこですべてが終わってしまうし、死を間近で見せつけられると影響を受けてしまう。

 あの少年の想いを知ることはできなかったが、私はそれに執着しない。前を向かないといけない。

「どうせ明日はフリーだし、今頑張って、明日全力でゆっくりしようよ」

「先輩がそう言うのなら……いいですけど」

「決まりだねっ」

 水分補給を済ませ、私はマシュの手を引いてマイルームを出る。腹筋が割れるのは嫌だからそうならないくらいまで鍛えよう。

 私たちの旅は順調。魔術世界の常識には驚かされてばかりだけど、なんとか私はついていけている。世界を救うなんて大きなものを背負うことに不安はあるけど、皆となら成し遂げられるはずだ。

 私達の未来は、明るい。




いくつの夢、知って。
いくつの夢、灼いて。
アナタ、先に進むだろう?

想定時系列は一部前半。幸せそうなマスターちゃんでしたね。
ほら、シリアスはなかったでしょ?


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それでも私は――

ロストベルトNo.5-2クリア記念
ネタバレ回避のため、数行空白。

すごく久しぶりに活動報告にコメント来て驚いた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うたガ キコえ ル。

 

 

 何ともない平和な広場。両脇にはずっと向こうまでびっしりと売店が並んでいる。人々が行き交い、とても賑やかな声が聞こえてくる。

 てぶらの私はなんの目的もなくそんな広場に出てきてしまった。頭が痛い。気分が悪い。今すぐにでも頭を割って脳を取り出し、直接冷水に浸したいほどだ。

 誰も私のことを構ってくれない。視界が定まらない。わたしは今何を見ている。すぐ横で美味しそうなリンゴを売っている女店主目の下のほくろか? それとも私を映さない女店主の瞳か?

 あ たマ が、 イタ イ。

 その場に倒れ込むも、立てと何かに脅されたような気がして急いで立ち上がる。そんな私を、誰も見て見ぬふりをする。まるで私が誰にも認識されていないかのようだ。

 人酔いしているのだ、きっと。ヒトの善意に触れすぎた。ヒトの悪意に触れすぎた。なるべく人気のないところへ行こう。血走った目で私は周囲を見渡し、偶然見つけた裏路地に逃げ込む。

 レンガで建てられた建物の壁に背を預け、解放された安心感とともに大きく息を吐いた。

 ……………………私は今、どうして解放されたと感じた? 何から?

「――おい、お前」

 私は振り向く。そこには獣のような体毛が身体中に生えている男が立っていた。銃を背中に背負っている。それほど外は寒くないというのに、どうしてこの男は暑そうな格好をしているのだろう。

「眠そうな顔をしているな。眠いのなら寝とけ。だが、起きてる理由があるなら寝るな」

「えっと……ちゃんと起キてますよ?」

 眠くなんてない。私はただ……ただ、なんだろう? どんな顔をしているのだろう?

 男は目を丸めて私の匂いを嗅いだ後、首を傾けた。

「おいおい、流石に寝ぼけすぎじゃないのか? 誰が見てもそう思わないぞ。まったく、お前は疲れてるんじゃないのか?」

「あなたは誰、ですカ?」

 すると男は気難しそうに眉をひそめる。

「……『忠告』はしたからな」

 何が言いたいのか全くわからない。忠告も何も、私は至って普通だ。頭痛はひどいが、まったく眠くなどない。

 こんな妙な姿の男に構っている暇はない。どこかに消えてしまおう。踵を返し、さらに奥へ逃げ込もうとする。しかし、いつの間にか目の前にひとりの少女が立っていた。腰の辺りまでブロンズ色の髪を伸ばし、北欧の民族が着そうな衣装を身に着けている。

「あら、おはようございます! お久しぶりですね。どちらに行かれるのですか?」

「あナたも私を知って……?」

「? ……おかしなことを言いますね」

 少女は小さく首を傾げ、私を見る。おかしなことを言っているのはこの少女の方だ。私はこの子のことなんて知らない。初めて会った。なのに馴れ馴れしく話しかけてくる。

 声を大にして自分から言うことはないが、私は人理を救った実績がある。それなりに名を知られているであろう自覚もある。だからこそ寄ってくる人間と安易に接することは危険だ。それに今はひとり。マシュもいない。襲われても対して抵抗もできない。

 ……ああ。でも。もしかすると私が忘れてしまった、決して忘れてはいけない人なのかもしれない。頭が痛い。どうにかなってしまいそうだ。判断力が鈍くなる。どう行動したらいいのか、わからなくなってしまう。

 人の機微がわからない。このふたりのことがわからない。

「ずっとこの調子なんだ。変なものでも喰ったのか、変な歌でも聴いたのか」

「お歌?」

「……ああ、お前の故郷には歌があったんだったかな」

「はい。お歌は七つありました。御使いのお歌が四つと、巨人のお歌が三つ。私、特に御使いのふたつ目が好きで……って。そんなことよりも、すごく調子が悪そうですよ。大丈夫ですか?」

 私の顔を覗き込んでくる。ここで取るべき適切な対応がわからない。適当の微笑んで誤魔化そうとするが、うまく口角を上げられない。

 誰か、安心できる人に会わなければ。マシュ。マシュ。どこにいるの? 私を独りにしないで…………。

「寝床で休んだほうがいいのでは?」

「あるいは医者に診せるかだな。……っと。ちょうどいいところに。おーい、アーシャ! こっちに来てくれ! ついでに馬も!」

 男は表の方を見て誰かの名前を呼ぶと、少女よりもさらに五つほど年の低い子供が走り寄ってきた。赤いインド風の民族衣装が魅力的な、髪を後ろで結いでいる女の子だ。

 とてとてとアーシャという名前の子供は背伸びをして私の顔にぺたぺたと触れる。「うーん」とひとつ唸る。

「おねえちゃん、おなかいたい……?」

「オ腹は……大丈夫だよ」

 所詮は子供のお医者さんごっこのようなものだ。可愛らしいと思えただろうが、今の私にそんな心の余裕なんてない。

「――馬、と。馬と私を呼んだのはどなたですか? ええまあ、呂布は馬の如き巨躯の将ではありますが」

 そう言ってアーシャの後ろからひとりの馬人間が歩み寄ってくる。彼は……どこかで見かけた馬だ。

「私はアーシャ殿と父君を背に乗せて、朝の清涼な空気の中を駆けなくてはならぬ身。ですので失礼しますよ。さ、アーシャ殿。我が背に」

「でも、おねえちゃん元気なさそう……」

「……おや、確かにそのようですね」

 この人たちは私が安心して身を預けられる人間ではない。知らない人たちの言葉を鵜呑みにすることはできない。でも、そんなことを考えられないほど……。

「ツらい……デス」

「そうよね、やっぱり! でもどうしたらいいのかしら……」

 少女が私の肩を支えてくれる。男も反対側を支えてくれるが、身長差のせいでバランスが非常に悪い。だがその善意は素直に嬉しかった。

「どうもこうもありますまい。この御仁、どうやら『歌を聴いている』ようですし」

 アーシャを背に乗せた馬がよくわからないことを言っている。歌を聴いているから頭が痛くなったのか。なら耳を塞ごう。だが両手で耳に蓋をしてみるも、まるで意味がない。耳で聴いているのではない。脳が直接歌を聴いているのだ。

「やっぱりそれか」

 男は納得した様子で私を裏路地から連れ出そうとする。人がたくさんいるところへ連れ出そうとする。

 ――嫌だ。やりたくない。これから人を殺すなんて、やりたくない!

 抵抗したかったが、そんな力もない。私はふたりにされるがまま運ばれてゆく。足に力が入らない……というより、足が浮いている。私はふたりに肩を支えられるだけで持ち上がるほど中身が軽いのか。

「…………ァ、ゥァ゛」

「――わかってるんだろ。お前は」

 鋭い眼光で射抜かれる。私は萎縮し、目を逸らす。人々が私を見ている。それがとてつもなく怖くて、いっそ消えてしまいたいと強く願って目を閉じた。

 

 再び目を開けると、私を支える二人はいなくなっていた。アーシャも、馬もいなくなっている。ふと、私は死の臭いに気づく。後ろを振り返るとそこには死体の山が広場を覆い尽くし、遥か彼方……地平線の果てまでも埋め尽くしていた。

 皆が皆、生きているように綺麗な状態だ。でも死んでいる。見るだけでそれがわかってしまう自分自身が嫌だった。

 誰かに肩を叩かれる。前に向き直ると、人々が私を見つめていた。まるで視姦されているような不快感に私はえづく。隅から隅まで、私というずるい人間性を暴こうとしている視線が貫く。

「――これはあなたがやったのですか?」

「チがっ……」

「違いませんよね? 自分勝手な理由で皆を殺して、どこが違うのですか?」「俺たちは怯えている! オマエが俺たちの領域にずかずかと入り込み、荒らし、殺し、終らせる蛮行に!」「……そう、あなたは悪い人だ。悪魔だ。いや、悪魔でもこれほど人を殺しはしないだろう」「あなたは何様ですか? 神様? もしくはそれ以上の存在? だからといって人殺しをしていいわけじゃない」「まさか、自分が正義だなんて思ってないよな?」「我々の生きた証を無かったことにされてたまるか!」「死んでもなお許されない罪と知れ」「君に歴史を否定する資格はない」「リーダーとして責任を取れ」「いったいどうしてそんな悪の諸行ができるんだ?」「いつかお前以外の全員が死ぬ」「死ぬのはあんただ」「手前らのためにオレたちが受け入れると思っているのか。死ぬ気で殺してやる」「神様はどうしてこいつを真っ先に始末してくれないの?」「おんたこそ死んでしまえ! 俺たちの大切の人を奪うな!」

 一方的に浴びせられる現実な声が胸を灼く。苦しい。痛い。苦しい。痛い。苦しい。痛い。苦しい。痛い。

 暴言はしだいに暴力となり、石を投げつけられる。私に当てられることは別に良かった。でも、私の後ろにいる死体たちを傷つけるのは何があっても許されることではない。私が殺したのは事実だが、それ以上に陵辱するのは望んでいない。矛盾した思考。相手の尊厳を自分で犯したくせに、誰かに犯されることは許せないときた。

 なんという身勝手。もはや、私は救いようのないくらい狂った女だ。

 懸命に立ちはだかり、両手を広げ、背後の死体たちを守る。でもとても全部は守りきれない。私の小さな身体では皆を守り通せない。

 内蔵が傷つく。歯が落ちる。骨が軋む。砕ける。目が潰れる。鼻が抉れる。腕が千切れる。頭が割れる。

 痛みはすでに消え、ぐちゃぐちゃになって崩れ落ちた私は血の海に沈んでゆく。誰も手を差し伸べてくれるはずもなく、暗くて冷たい底に沈んでゆく。

 ――私は、最期に咆哮した。

 

「うむ……幻覚に幻聴、幻痛。味覚障害、記憶障害。自傷。感情異常。右半身の麻痺。PTSD、鬱。どれをとっても無視し難い症状だ。言うまでもなく即入院ものだよ」

「――――――――ゥ?」

 椅子に座っていた。服も普段カルデアで着ているものだ。対面に同じく椅子に座っているのは昔のダ・ヴィンチちゃんだ。バインダーに挟まれた数枚の紙をペラペラと捲りながら言葉を紡ぐ。

「これまでは呆れるくらいに健康優良児だったのに、まるで別人のようだね」

「…………」

「今までよく貫き通せたものだよ。これまでずっと、問診を上手くやり過ごしてきたんだろう? 君は別にテスト満点を取る必要はなかったんだ。ありのままの自分で失敗するべきだったんだ」

 私はだらだらと口からよだれを垂らしながらダ・ヴィンチちゃんの話に耳を傾ける。口元を拭えない。右半身が動かない? いいや。いいや。それは大げさだ。現に私はオリュンポスでここまで戦い抜いてきた。神を斃した。ならゼウスをも必ず殺してみせる。

 私は何も異常はないと努めて朗らかに返答する。

「ううん、ダメだよ。もう私達にそれは通用しない」

「いあゥ」

「ずっと君に無理をさせ続けていたんだろうね。もう休むといい」

 休めない。休むことは許されない。やることは無限にある。だからマスターとしても、人間としてもここで終わるわけにはいかなかった。

「うタ が、きこエ マ す ね?」

 苦しい。歌が聴こえる。脳汁をストローで吸い取られるような奇妙で耐え難い感覚だった。心臓? これも違う。私という存在そのもの。魂の在り処を探られているのだ。

「ああ、うん。そういう事だよ。まさしくそれでいいんだ。――その通り、君は『歌を聴いている』。耳で聴くものではなく、魂で聴く女神の旋律だ。すでに脳の大部分が掌握されているから、いつ精神崩壊が始まってもおかしくない。医師を、探さないと。……しかし、君なら克服できるかもね」

 椅子を蹴り飛ばし、ダ・ヴィンチちゃんに肉迫する。代わりなんていないから、私しかマスターを頼めないでしょう⁉ と縋りつこうとした。

「それでも私は――――」

 しかしその瞬間、彼女の身体は霞がかって消えてしまった。

 

「おはようございます、先輩。……先輩?」

 マシュがいた。

 呆然としている私の前で手を振っている。今の私はどうにかなっている。確信できる。自分でも何を考えているのかわからないままマシュに抱きついた。訪れる安らぎに、このまま死んでしまってもいいとすら思うほどだ。

 力いっぱい抱きしめ、暖かさを身に染み渡らせる。

「わっ。な、なんですか?」

「――おはよう。朝からマグマのように熱いわね」

 知らない声が聞こえた。

 そこには見覚えのある女がいた。名前はたぶん覚えているけど間違えたら怖いから口にしない。確か、何かしらの感情を向けたことがある。

「?……なんだかずいぶん顔色が悪いようだけど」

「……真っ青です。尋常ではない状態に見えます! 普段の先輩と全く違いますし、危険な状態と思われます! すぐにドクターのところへ行きましょう!」

 体調はいつにもまして悪い。歩くことすら億劫だ。実際マシュに直立を支えられている現状だ。何も考えられない。考えることが難しい。思考することすら放棄してしまいたい。

 歌が聴こえる。細胞一つ一つを正確に巡回し、音ではないものが届けられる。

「い っ シ ョニう た わな イ?」

 今、私は何を口走った? 思い出せない。

 マシュが豆鉄砲を食らったような顔をしている。きっと変なことを言ってしまったのだろう。

「――いいえ」

 女が語りかける。

「女神の歌は、あなただけに聞こえている。急ぎなさい。すぐにでもあなたの中心部を掌握する。……それは愛の歌。魂を『ねじる』歌。尊きものすべてを殺す強制反転、精神汚染」

 わからない。聞こえにくい。女の大事なアドバイスが聞こえにくい。この歌が精神汚染であることだけわかった。

 精神汚染? 何を今更。背負えるもの以上のものを背負った私にはちっぽけな石ころのような存在だ。

 何を馬鹿な、と言いかけて気づく。私の手はマシュの首に伸びていたのだ。その意図なんて考えるまでもなくわかってしまった。咄嗟にマシュと距離を取る。それは絶対にしてはならない。守り、守られの大切な人。殺してしまいそうになれば、その前に私が死ぬ。

「急ぎなさい。目覚めて。バレルに触れた今のあなたは危険な状態なの。『ここ』に長く留まってはだめ。お願い。目覚めて。でなければ……あなたはマシュを殺すわ」

「そんなこと、しない!!」

 そう言って、私は虚ろなナイフで胸を深く突き刺した。

 

 食堂で私は人肉のハンバーグを食べていた。もちろんスープも一緒だ。ハンバーグの味付けにソースをまるまる一本。あとケチャップも二本ほど。これがなければ食事は始まらない。誰もいないからゆっくり右手で箸を使う必要もないから両手で手掴みして食べる。

 静まり返った食堂に、ふたりの人物が入ってきた。シオンとゴルドルフだ。急いで手拭きで口元と手を拭く。

「所チョウ?」

 私が呼ぶと、所長は数秒無視したが、やがて自分が呼ばれたのだと気づいた。

「所長? 何だねそれは? 私は時計塔から派遣された歴とした査問官だが?」

「あ、アれ……?」

 彼はカルデアの現所長だ。ほぼ毎日顔も合わせているし、彼を忘れるはずがない。しかしこの口ぶり、旧カルデアが襲撃される前の肩書きと同じだ。ということはつまり、過去へ逆行? 記憶の追体験? ……いや、それはない。

「困るよシオン君。部下の教育は徹底してもらわないと。……よく見ればこの若者、顔色がヘンではないか。どう見てもまともではないぞ」

 そんなはずはない。きちんと食事をとったから元気一杯だ。歌がまだ聴こえているのが不快だが、少しは気分が楽になったはず。だから今出撃命令が出てもすぐに出られるほどだ。

「あら、本当。これはいけません。至急治療が必要かと」

 そう言うと、シオンは踵を返して急いで食堂のドアを開けた。首だけ外に出し、「ドクター! ドクター! お忙しいところすみませんが、急患です!」と声を張る。すると瞬く間にひとりの男が食堂に入ってきた。白衣に身を包んだ、柔らかそうな男だ。

 私は男を見ていると、いつの間にか頬に熱いものを感じていた。ああ、これほど汚れてしまった私がこの人に出会うことなんてどれほど罪深いことか。しかし意思に反して身体は勝手に動いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ――歓喜と、感謝と、恐怖だ。

 

 

 

 

 

 

 逃げるように隅に飛び移る。

 この熱いものは偽りのない喜びである。しかし、「ごめんなさい」という気持ちと、情けないという自罰も含まれていた。

 あれだけ私を支えてくれた。あれだけ私を助けてくれたこの人に果たしてきちんと報いることができているのだろうか? そう考えると、歌が聴こえていることなんかよりも遥かに恐ろしさが勝った。声にならぬ奇声を上げ、私は隅っこにうずくまる。

 しかしドクターは私に近づき、話しかけてきた。

「縺?s? 縺ゅ≠縲∽ケ?@縺カ繧翫□縺ュ縲ゆサ翫∪縺ァ縺壹▲縺ィ縲∵悽蠖薙↓鬆大シオ縺」縺ヲ縺阪◆縺ュ縲ゅ?繧ッ縺瑚ィコ縺ヲ縺ゅ£繧医≧縲」

「ぉアア゛あ、アあぁあ゛ッ!!」

 歌が聴こえる。怖い。身体中を蛆虫が這いずり回っている。なんだか私を私が見ているような奇怪な体験。完全に異常者となった私を私が側で見下ろし、見下している。私はそんな滑稽で憐れな私を見つめている。でも私はそれを否定しようと千切れんばかりに首を振っている。だからといって全てから解放されるはずもなく私は項垂れる。それでも希望を見い出そうともがく私はいずれ無意味であることを知る。知っている私はそんな私を嗤う。いつの日か、誰かとふれ合えた喜び、暖かさを忘れてしまった私は結局のところ、人でなしであると揶揄する。私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私はわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはワタシハワタシハワタシハワタシハワタシハワタシハワタシハワタシハワタシハワタシハワタシハワタシハワタシハ――――――――……………………。

 …………………?

 

 

 

 

 

 

 

 あれ……? 私は、どこにいるノ…………?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――たぶ ンゆ めを 視タ。

 私はいつだって、最善を尽くしてきた。

 ――シラ ナいひ と タ 違イた。

 それがどれだけ困難であろうとも。

 ――うた がキ 声 る。

 私は、危険を顧みず、私を貫いた。

 ――デも この 夢 ニはシラ な い人 タチ がい た。

 これでいい。これでいい。

 でも……でも。忘れてしまっても、完全なゼロとなったわけではない。あったものを、なかったことにするなんて、私自身に対してだとできない。

 ぼんやりと。雪の結晶のように。見ることはできる。触ることはできる。でも、触れた途端に消えてしまう。そんなもどかしさがどうしても胸の奥に潜んでいる。たくさん。たくさん。

 それらに苦しめられるのだ。あの人たちは何も悪いことはしていない。私がただ、これを完全に克服できていないだけだ。しかし克服はしない。それは真の意味で、私が人でなしに堕ちると同義だ。

 ――もっと皆と一緒にいたいな。

 すると、何者かが現れた。獣のような男だ。

「なら立ち止まれ。俺の言ったことも何もかも忘れて、立ち止まれ」

 すると、何者かが現れた。北欧の民族衣装の少女だ。

「無理をしなくてもいいのですよ? 少し休みましょう?」

 すると、何者かが現れた。インド風の子供だ。

「おねえちゃん、だいすきだよ」

 すると、何者かが現れた。右目に眼帯をした女だ。

「目覚めて。でも、本当にここにいたいのなら……いいわ。歓迎はしないけど」

 皆、知らない。忘れてしまった。

 それでも言葉は確かに私の荒んだ心に届き、癒やしてくれる。ありがとうを何度も言った。感謝の涙を流し続けた。

 ……でも、私はここで立ち止まることはどうしてもできなかった。

 立派な理由? そんなものはない。私はズルくて、臆病で、バカで、愚かなくせに皆の前では明るく振る舞う救いようのないくらい女だ。だからカッコイイことなんてなにも考えられない。

 私はいつか無理に無理を重ね、壊れる。そんなのわかりきっている。回避しようなんて余裕は残念ながら私にはない。

 胸を張って堂々とできない私だ。それでも私には、やらなければならないことがある。そのためにも、あらゆる犠牲を積み上げてでも進まなければならない。私自身の魂までも。

「――そうか。誰もが綺麗な生き方ができるわけではない。私の屍を乗り越え、さらに先を征く。その結末を、見届けさせてもらうぞ」

 ……そうだとも、ゲーティア。

 私はあなただけではなく、たくさんの誰かと約束を交わした。それを果たすことが私のやるべきこと。だからここで足を止められない。たとえどんな敵、どんな障害が行く手を阻もうと――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――それでも私は、立ち上がるよ」




誰よりも強い葦よ。


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見ないほうがいい

久しぶりですね。
最近シリアスを身近に感じられなくて悶々とした日々を送っていませんか?

さて、こんなに遅くなったのは、
・リアルが忙しかった
・ゆゆゆの執筆に浮気していた
からです。一つ目がひと段落ついたので投稿しまーす。
以前アンケートしましたが、活動報告に来たリクを消化しますね


 マスターの役割は、なにも戦闘だけではない。こうして人理を護る戦いは長期化し、契約したサーヴァントは百を軽く超える。それぞれに部屋が割り当てられ、それでも特に問題なく稼働するカルデア。しかしそのひとりひとりは人間(人間ではない者もいるが)であり、心というものがある。

 それのケアというのは建前で、ちゃんとサーヴァント全員と偏りなくコミュニケーションをとって絆を深めることもマスターとして大事な仕事だ。

 とはいってもマスターが勝手にそう考えて動いているだけだから、別段忙しくはなる。

 そうまでしようとするマスターの人柄に皆は惹かれているのかもしれない。

 

「ヘイ、マイフレンド! そこの煎餅とって頂戴!」

 

 とはいっても誰のところにお邪魔するかはその日の気分次第だ。今日は、ふと目に止まったアサシンにも負けないほど存在感を消してミーティングルームから察そうと去ろうとするマンドリカルドの後をつけて、勢いのままに乗り込んだ。

 部屋の中はとても簡素で、特徴的なものは特になかった。強いて言えば、本棚にヘクトールに関する本で埋め尽くされている程度だ。

 

「俺はマスターの雑用AIではないんですがね……っと。ほい」

 

 マンドリカルドはそうやさぐれながらも渋々と箱の中の煎餅を一枚差し出した。

 

「サンキューマイフレンド!」

 

「……っす」

 

 マンドリカルドは椅子に座って本棚に手を伸ばし、本を手にとって読み始める。

 マスターも同じように本を一冊手にとって読むことにした。とはいってもどれもヘクトール関連のものしかなく、どれがいいかわからないから適当に薄いものを選んでベッドに腰を下ろした。

 それはヘクトールの英雄として活躍を絵本にしたものだ。明らかに子供向けではあるが、別に構わないとマスターはページを捲り始める。

 するとしだいにマンドリカルドがちらちらとこちらの様子を窺うように見てくるのに気づいた。

 自他認める陰キャだから、こうして他人と閉鎖空間に無言でいることにもしかするとストレスを感じてしまっているかもしれない。

 

「……ごめん、マンドリカルド。私、邪魔だった?」

 

「え、あ、いや、そんなことは……ないっす」

 

 突然にそんなことを訊かれて驚いたのか、しどろもどろになってしまう。

 

「ちょっと強引に押し入った感あったから、嫌だったら出ていくよ」

 

 本を閉じる。

 あの時マンドリカルドは独りを望んで場から離れようとしていた。それはつまり、ひとりになりたいと考えたからだろう。でもマスターは後をつけ、部屋に戻ろうとしたマンドリカルドに声をかけたのだ。

 

「別に……嫌では……ないっすよ。まあ確かに最初は驚いたけど、そういうところがマスターなんだなって」

 

「そういうところ?」

 

「それは……サーヴァントたちを気にかけてくれていることとか? こんなトップ陰キャサーヴァントの俺に気を配って、こうして一緒にいようとしてくれてるんすから……まあ、嬉しい気持ちはありますよ」

 

 やけに早口言葉になっている。

 照れ臭いのか、俯きながら喋るせいで後半の言葉は少し聞きづらかった。しかし言いたいことはちゃんと伝わった。

 

「……俺だって知ってるんすよ。毎日ずっとカルデアを歩き回って、色んな人たちと話しているのを。あれってきちんと全員と仲を確かめ合って、深めるためっすよね?」

 

 鋭い……というわけではないが、そんなことをしていれば誰かの目に止まるのは必然か。

 マスターは指先を弄りながら少し気恥ずかしそうに言った。

 

「そうだね。でもそれは私がマスターだから……」

 

「……そうだとしてもっすよ。中身のない会話じゃなくて、ちゃんと歩み寄って話そうとしてるのがわかるんで」

 

 マシュと話す時。訓練後のブリーフィングでカエサルとの意見交換の時。アルテラサンタを刺激するため文明について話す時。モリアーティと悪巧みをする時。

 そのどれもが本物の会話で、差し当たりのないふわふわした会話などではなかった。陰の者だからわかる話の雰囲気というか、とにかくそういうのはよくわかる。

 

「――私のこと、よく見てるんだね」

 

「あー……ごめん。なんか、ごめん。陰キャ特有の変な方向に考える癖が」

 

『誰か』が気にかかってしまうと、自然と目がいってしまう。行動を知ろうとしてしまう。それに何の意味があるのかと問われると、特にないというのが正直なところだろう。苦し紛れに人間観察だと誤魔化せば『変な奴』という印象を与えて終わるだけだ。

 マンドリカルドのはまさにこれで、世間一般からすれば変なことなのかもしれない。カルデアに来てまだ日が浅い。すでに何年もマスターと共に過ごしている古参と違って新人もいいところだ。

 なのにこんなストーカーじみたことは……。

 

「気にしないで。マイフレンドが思ってるようなことは絶対にないから。なんならヤンデレみたいな子もいるしね」

 

 まだ全員を把握しきれていないマンドリカルドにもすぐに思い当たる人物を複数人思い浮かべることができた。

 陰の者でも陽の者でもないオーラは未熟なマンドリカルドにはまだはやい領域だ。

 マスターはにんまりと微笑むと拳をマンドリカルドの胸に当てた。それだけで動揺が最高潮に達し、目の前が真っ白になってしまう。

 

 ――知ってる! これ知ってる! これが男が勘違いするやつっすね!!

 

 立派な黒い髭を生やした、海賊風の男からもらったアドバイスが脳裏をちらりとよぎった。

 

『いいか新入り、よく聞け。このカルデアは我々には地獄であり、天国だ。拙者は何度も過ちを繰り返し、地獄を見てきた。だがこれらの原因はすべて拙者が受動的に行動したせいだけではない……そう! 天国が向こうからやってくるのだッ!! これほど最高なものがあるだろうか⁉ いや、ない!! 絶対ない!! だがここで注意するべきなのは、地獄がハッピーセットとしてついてくることだ。いいか? キャッキャウフフはほぼ不可能と思え。向こうからすり寄ってくることがあっても心を許すな。……そして最後に、我らがマスターとキャッキャウフフしてみろ、翌朝お主が目覚めることはないだろう。……だろう……だろう……』

 

 ありがとう! 髭の人!!

 おかげでマンドリカルドは陰キャである自分を保ち、貫くことができた。マスターはなんて犯罪的な立ち回りをするのだろう。もうすぐでふたつの意味で逝きそうになってしまった。

 音が聞こえるほど大きくかぶりを振り、現実世界に戻ってきた。

 

「最近来たばっかりで不安かもしれないけど、なんだかんだ皆いい人だから仲良くしてね。……あ、そうだ。マイフレンドはゲームは好きかな? 似たような属性の人を三人ほど知ってるから今度紹介しようか?」

 

「もしかしてそのうちの一人ってダサ……文字がプリントされたTシャツの、角を生やした女性ですかね?」

 

「そうそう!」

 

『おっきーのゲーム部屋』によく入り込んでいる人物の一人だ。白地のTシャツに『0分針』とよくわからない文字がデカデカと書かれているが、マンドリカルドにはそれが何を意味するのかわからない。ちなみに角のありなしで興奮状態かどうか判別できる。

 その人物と同じくらい目立つのが、サンタが持つような大袋に限界までお菓子を詰め込んでゲーム部屋に突入しようとしていた小太りな象だ。

 見事失敗し、袋が破けて中身が濁流のように溢れ、集めるのを手伝った記憶がある。

 そのどれもが手を汚さないようなお菓子ばかりで、本気度が窺える。

 カルデアに来たからには是非ヘクトールと色々話などがしたいが、ひとりに執着するのはあまりにもったいないことだとマンドリカルドは自身を戒めた。せっかくヘクトールだけでなく大勢の英雄たちが集う場に自分はいるのだ。

 全く知らない人と会話をすることでもしかすると新たな発見ができるかもしれない。それに、マスターの好意を無駄にしたくもない。

 

「ゲームは普通ですけど……まあ、お願いします」

 

「よしきた、任せて! すぐにでも話をつけておくね!」

 

 パッ、と勢いよくベッドから立ち上がったマスターはトタタと別れを言って部屋を出る。

 そのままの足で『おっきーの部屋』に向かったが、ドアの前に『入るな!』と立て札があったのでまた時間を改めることにした。きっと今ゲームに必死にプレイしているのだろう。マスターはふと最後にゲームをしたのはいつだろうと振り返るが、わからなかったからそこで考えることをやめた。

 手記に書かないと。マンドリカルドと話して、少し仲が良くなったことを書かないと。記憶が零れ落ちないように今のうちに、はやく視覚化するのだ。

 

「――おお、クリスティーヌ、クリスティーヌ……」

 

 突然後ろから話しかけられ、マスターは足を止めた。

 振り返ると、半分だけの狂人の仮面を被ったファントムが氷のような目でマスターを見下ろしていた。

 ファントムはマスターの周りを犬のように歩き回り、顔を覗かせてマスターの後ろを見る。

 

「うん? どうしたのかな?」

 

「我が眼、クリスティーヌを見たり。その声をもっと聞かせておくれ……その顔をもっと見せておくれ……」

 

「ああさっきの? さっきはマイフレンド……マンドリカルドと話してたんだよ! まだここに来たばっかりだからね。私が積極的に話して皆との繋げてあげたいんだ」

 

 するとファントムは嬉しそうに鋭利な鍵爪をカチカチと鳴らしながら口角を上げた。

 

「美しきものよ、美しくあれ。醜きものよ、私が排す」

 

 思わぬ申し出にマスターは目を丸くした。

 普段ならそんなことは言いそうにないのに、どうしてなのだろうと考える。いつもクリスティーヌクリスティーヌと言っているから、好んで近寄る人がいないのかもしれない。だからきっと、寂しがっているのだ。

 

「りょーかいっ。マイフレンドと一緒にゲーム部屋は……うーん、ファントムはゲームとかあまりするような印象ないけどそこのところどう?」

 

「今こそ耳を傾ける時……」

 

「ま、そうだよね。そんな気はしてたよ」

 

 人というのはどうしても相性というがあるし、こればっかりは仕方ないだろう。絶対にいがみ合うと思っていたキアラとカーマだと、一方的にキアラがちょっかいを出したりしてカーマが毎回キレるがなんだかんだ上手くいっている。逆にアルトリアは若き日の自分と必要以上のことを話そうとしない。歩んできた人生に無意識に引け目を感じてしまっているからだろう。同じベクトルの人間だと思ってアサシンエミヤとエミヤオルタを同室にする機会を与えても泥のような空気が流れるだけだった。

 

「嗚呼、クリスティーヌ……その歌声で私を震わせておくれ。それに酔うことができれば、私は何も要らない……」

 

「そうだねぇ……最近思うんだけど、私って実はもう成人しているんじゃない? って考えたりするんだよね」

 

「一時の愛は実に甘美……」

 

「まさにその通り。確認しようしようって常に思っててもまた今度でいいやってなっちゃうんだよね」

 

「歌え歌え……安らかな死を!」

 

「お酒⁉ それは駄目だよ! まだ私本当に成人してるかわからないし!!」

「歌姫よ、君こそが最高の歌姫だ」

「そりゃあ……ね? ちょっとは気になるよ」

「世界は私を見ない。だから私も世界を見ない」

「マシュに怒られるからそれは駄目だよ。すぐに酔っちゃう体質かもしれないし」

「私は……おお……クリスティーヌ……愛しき我が歌姫……! 参ろう。永遠に、どこへでも……」

「一理あるね。……あっ、今のなんだかホームズっぽいセリフがふわっと出てきた! あの人の口癖って結構あるから印象に残ってるんだよね」「その歌声を私だけに……」「今は語るべきではない。なるほど。実に興味深い。とか?」「君こそ君こそ君こそ……。今を生きているのだ」「いやーそれはないでしょ! あははは!」「美しい君に私は歌う」「うん……うん。ありがとう。ファントムは優しい人だね。でも私以外にそんなこと言ったらだめだよ?」「ララララッ」「もう、何言ってるの。私は変な人じゃないよ。こうして生きているし、()と仲良く話せてるからどこも変じゃないよ」「…………」「でも癒やしが欲しいっ! 癒やしがなければ生きていけない! だからね、最近よくマシュを配達してもらってるんだ。それでマシュを十分に堪能したらアマゾネスCEOで返品してもらうの」「…………」「人間ってやっぱり『可愛い』のために生きているんだなぁって思い知らされたよ……いやぁ、身近にマシュがいてくれてよかったよ。マシュがいなかったら私は確実にどこかで折れてたね。あはは……」「…………、……」「ふふふ」「………………」「うん? どうしたのファントム? あ、もしかして私の後ろにクリスティーヌがいるの、やっと気づいたの? 氷みたいに固まっちゃってっ。そこは頬を赤らめたりとかするのがセオリーじゃな〜い?」「…………」「ほら、ちゃんと挨拶しないと! 人と会うときはまずは挨拶だよ! とはいってもだいたい特異点とか異聞帯ではたいてい突然殺しに来られるけどね」「…………」「いやいや、晩御飯はシンプルなのでいいよ。別にそんな凝ったのだとエミヤコック長が疲れるでしょ」「今日ね……なんと! 私の星座占いが一位でした! ラッキーアイテムはお気に入りのペンだって! ちょうどいいの持ってるから運がいいなぁ!」「ツカレタ」「難しいね……それでも、ありがとう」「最近ね……8ビット音楽にハマってるんだよね」「そろそろ枕を換えようかなって思ってて。たまにはそういうところから気分転換もいいじゃん?」「……モウ」「この前行ったところですごく綺麗な石を見つけたんだけど、戦闘に忙しくて持ち帰れなかったのが残念だなぁ」「ははははは!! それはっ! ないでしょ! とんでもないネタだよ! おっきーに教えたら色々派生ネタ考えてくれそう!」「ごめん、ちょっとすぐにはわからないや。あとで孔明に訊いてみるよ」「イナクナリタイ」「スパゲッティはミート一択。異論は認める」「わかる。父上をたくさん詰込んだ部屋にモードレッドを突っ込んだからどうなるか見たい。絶対面白くなる」「海はちょっと……ほら。私の身体、傷だらけだから嫌だな」「真の意味でジャックちゃんのお母さんになりたいんだけどどうすればいいと思う?」「マリーンズのピクミン感」「ゼンブゼンブカラニゲタイ」「明日? 明日は訓練してからマシュ成分を確保、その後はゲーム部屋にマンドリカルドを招待して……それから……うーん、エウリュアレとババ抜きでもしようかな。意外に弱そう」「デモ」「それからね――」「この前? えっと――」「そうそう! バニ上が――」「デキナイ」「BBがまた変なことを――」「靴を新調したいなって――」「皆といられて、私は――」

 

 ◆

 

「何しているのですか、先輩?」

 

 食堂の一角から全体を見渡していたマスターは中腰の姿勢から戻り、後ろを振り返った。その手にはカメラマンが持つようなごついカメラがあった。

 マシュがカメラを覗き込むと、その最新履歴にはがやがやとサーヴァントたちが集っている食堂の写真が映されていた。

 

「ちょっと面白そうだから始めてみたんだ。どう? 一枚撮るよ〜」

 

「じゃ、じゃあ……お願いします」

 

 パシャリ、とフラッシュを切って後輩の姿を映す。マシュはてっきりOKサインを送ってくれると思っていたが、マスターの表情はなぜか曇ってしまった。

 

「先輩……?」

 

「……ダメ。ぜんっぜんダメダメだよ! マシュの! 魅力は! こんな程度じゃないの!!」

 

「えぇ……」

 

 悔しそうに地団駄を踏むマスターに呆れつつも、その仕草がなんだか可愛らしく、くすりと微笑を漏らした。

 マシュにはカメラの仕組みはわからないが、色々ボタンなどを押して設定を弄っているマスターを見るのは新鮮さがあった。

 

「よし、撮影会をしよう! さあこっちに来るんだぐへへ……」

 

 いやらしいおじさんのようにちょっと汚い笑みを浮かべたマスターは、マシュの手首を握って食堂を出た。そのまま若干駆け足で通路を過ぎ、マイルームへと連れ込む。

 

「さあさあ、ポーズを取ろう! うーん……そうだね……腰を捻って……それに右手をそえてみようか」

 

 マスターがとてもやる気になっているのが面白くて、撮影会に付き合ってあげることにした。マスターの実演を真似てポーズを取る。

「そう! それで! そのまま目線はこっちで!」とやけに細かい指示が飛ぶ。これは戦闘時よりも熱が籠もっているとみて間違いないだろう。

 ちらりと横目で見るような構図でマシュはマスターを見る。するとなぜかマスターは小刻みに震え始め、梅干しのように渋い顔をして鼻を摘んだ。

 

「はあ……尊いかよ。人間の神秘を見てしまった私はいったい何者……」

 

「先輩さっきからテンションがおかしいですよ?」

 

「あれ……そう? じゃあちょっと下げるね」

 

 そう言うとマスターは興奮しきった熱を一気に下げた。まだ変態的な目はしているものの、明らかに落ち着きを取り戻したのがわかった。

 テンションを下げると言って下げるのはなんだか違和感の残る言動だが、これでマシュも落ち着いて被写体になれる。

 ローアングルからの一枚。スカートの下にぎりぎり潜り込まない絶対領域をよく理解した角度でシャッターを押した。このチラリズムがなんともいえない興奮を呼ぶのだ。

 そしてカメラの位置を変え、上目遣いになるような構図でまたシャッターを押す。

 素材が素材だからどれだけ撮っても飽きることはない。しだいにマシュも乗り気になり、自分からポーズを取るようになっていく。

 可愛らしい仕草からカッコいいものまで。満足する頃には熱が入りすぎて汗をかいてしまっていた。

 

「すごくいいのが撮れたよ。ありがとう、マシュ」

 

 重そうなカメラを丁寧に机の上に乗せ、マスターは椅子にゆっくりと腰を下ろした。そして引き出しから一冊のアルバムを取り出すと、割れ物を扱うように優しく触れた。

 

「写真を撮るなんて、どうしたんですか先輩? それにデータ化するんじゃなくて、こうして印刷までして」

 

「思い出を残しておきたくて、ね。印刷したのは……なんだろ。アルバムに一枚一枚納める作業に意味があるからかな」

 

「そうですか……思い出、ですか」

 

「うん。写真を見たらさ、あの時あんなことがあったなぁ、とかって振り返れるじゃん」

 

 まだアルバムは三ページ程度しか埋められていない。写真もそれほど大量にあるわけではなく、ほんの少し前から始めたことがわかる。

 透明なフィルムを剥がしてしまわないように念入りに指を這わせてページを捲る様は、言葉が正しいかわからないがなんだか過保護な気もしなくもない。

 その様はなんだか我が子を優しく宥める母親のような……。

 ぶんぶんとかぶりを振ってマシュは曖昧な考えをどこかに捨て去った。

 

「じゃあ今度は私が先輩を撮りましょう」

 

 そう言ってマスターの今まで使っていたカメラに手を伸ばそうとしたが、「あ、なら待って」と呼び止められた。

 

「そのカメラだと大きいから撮りにくいでしょ。それだったらこっちの方が……」

 

 マスターは机の下の引き出しを開いた。すると中には丁寧に並べられたカメラがたくさんあった。棚の壁にあたって傷つかないように、きちんと衝撃吸収用のスポンジがセットされている。

 マシュにはカメラに関する知識は乏しいが、調整するための小道具のようなものまで完備している。

 

「すごいでしょ。これ全部ゲオルギウスから借りたんだよ。アルバム見てもいいけど大事に扱ってね」

 

「わかりました、先輩」

 

 特に表紙には何のタイトルも書かれていない、本当に新品のアルバムだった。新品特有の涼しい匂いもする。マシュはそれを手にとって開いた。さっきは遠目で覗くことしかできなかったからよく見えなかったが、これでよく見える。中に丁寧に入れられている写真は何の他愛もないものばかりだ。

 エミヤとキャットが一緒に料理をしていたり、カメラを構えるゲオルギウスだったり、ギョロ目のジル・ド・レェに追いかけられるラクシュミー。

 どれも印象に残るようなシーンばかりで、ある種のセンスを感じる。

 そんな中、マシュは一枚の写真に目が止まった。

 それはモノクロで、被写体もないただマイルームを写したものだった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「先輩、これは何ですか? モノクロになってるんですけど、何かのミスでしょうか?」

 

「ああそれ? それはミスじゃないよ」

 

 ごそごそとマシュ用のカメラを取り出しながらマスターは答えた。その大きさは掌に収まる程度で、カバーを外して手渡した。

 

「っと、はいこれ。持ち歩きやすいからふとした時に使ってみるといいよ。見返すといろいろ面白いから」

 

 色は薄い灰色で、角が丸くなっていて可愛らしい外見をしている。

 そもそもそれほど数のない写真だから仕方ないがすぐにアルバムを見終えてしまったマシュは初めのページに戻り、指さした。

 

「ありがとうございます。その……やはりどうしてもこの写真が気になってしまうのですが、何か写ったりしているのですか? 例えば壁のシミが人の顔に見える……とか」

 

 と尋ねられて、マスターは薄っすらと微笑を浮かべた。その意味がマシュにはわからなかったが、別に嫌がっているわけではなさそうだ。

 マスターが手を伸ばしてゆっくりとモノクロ写真を指で撫でる。

 そして、

 

「ううん、誰もいないよ(・・・・・・)

 

 と真っ直ぐに答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(見ないほうがいいよ!)

 

【挿絵表示】

 




だから『見ないほうがいい』ってちゃんと警告したのに……

ファントム以上に意思疎通ができないなんて……。そもそも、マスターちゃんは誰と話していたのだろう……?

それではまた次回!


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