パパは新卒社会人 (拙作製造機)
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こんにちは赤ちゃん

分かる方は分かるネタ。とはいえ、これは子育て話がメインではなく、結婚などしないというか出来ないだろう彼が、自分の子と接する事であの間違ったままで放置していた青春を終わらせる話。


「……やっぱ仕事なんてするもんじゃないな」

 

 心の底から噛み締めるように呟き、彼は愛飲しているMAXコーヒーへ口を付ける。人によっては殺人的甘さと評するそれを、彼は美味そうに飲んでいく。思い返せば良くも悪くもイベントだらけだった高校時代。それに比べれば幾分大人しくなった大学時代。それらを経て、彼―――比企谷八幡は無事とある企業へ就職する事になった。従来の夢であった専業主夫は諦めざるを得なかったのだ。その理由はただ一つ、養ってくれる妻となる存在がいない事に尽きる。

 

「このまま親父達のように社畜人生を送るんだろうか……?」

 

 疲れているのだろう。その特徴とも言うべき目がいつも以上に酷くなっている。氷の女王と彼が名付けた女性が見れば罵倒の二つか三つは飛んでくる事請け合いである。まぁ、ここには彼女どころか彼以外誰もいないワンルームマンションなのだが。

 

「腹、減ったな……。買ってきた弁当でも食うか」

 

 大学の頃は節約も兼ねて自炊を心がけていた彼であるが、それは社会人となった二日目には既に諦めていた。とてもではないがそんな気力は湧かないために。節約はした方がいいが、学生バイトと新卒社会人では収入が違う。なので彼は潔く内外食へとシフトしていた。本日のメニューは季節の筍を使ったご飯が嬉しい幕の内弁当である。

 

「いただきます」

 

 彼が割り箸を手に弁当を食べようとしたその時だった。雷が落ちる音がしたのは。

 

「……結構近いな。停電とかにならんといいんだが……」

 

 思わず振り返り、立ち上がってカーテンを捲って外の様子を窺う。気付けば雨が降り出しており、余計滅入った気分へと彼を誘う。

 

「雨まで降ってやがる。朝には止んでくれよ?」

 

 独り言が多くなったと思いながら彼は再び弁当の前へと戻る。改めて手を合わせて食事を開始しようとしたその瞬間だった。再び落雷の音が響き、彼の心配した事が現実となったのだ。電気が消え、真っ暗な闇が室内を包む。今まさに弁当を食べようとしていた八幡にとっては、とんでもないところで水を差された―――はずなのだが彼はそんな事も気にせず黙々と弁当を食べ始めていた。暗闇でもある程度は見えるため、もうブレーカーなどを見に行く気力もなかった彼は食欲を優先したのである。

 

 だからだろうか。そんな彼に天罰が下ったかのような現象が起きたのは。突然落雷の音が彼の耳へ一際大きく響き渡ったかと思うと、室内に眩しく輝く何かが出現したのだ。

 

「な、何だっ?!」

 

 その輝く何かから何やら声がすると八幡は気付いた。よく聞いてみると、まるで赤ん坊の機嫌が良い時の声のような、そんな言葉になっていない言葉らしきものがするではないか。まさかと思って八幡は恐る恐るその謎の輝きへ近付いた。そこには一人の赤子がいた。着ている物は当然ながらベビー服で、八幡が受け止めると輝きは消える。その途端、彼の腕に確かな重みが感じられた。

 

「い、意外と重いのな」

 

 八幡を見て赤子は嬉しそうに笑う。と、そこで明かりが戻る。そして彼は気付いた。何か手紙のようなものが足元に落ちている事に。

 

「すまんが少し待っててくれ」

 

 赤子をベッドへ寝かし、八幡は手紙へ目をやった。そこには、赤子が未来の彼の子である事。この時間軸へ赤子が来るのは避けられない事。元の時間軸へ戻せるのは一年後である事などが書かれていた。名前はゆいこで女の子である事も。そこまで読んで八幡は赤子を見る。ゆいこと名付けられているその子は、八幡の枕へ顔を埋めるようにしながら無邪気に笑っていた。

 

「……ドッキリ、とかじゃないな。あんな手の込んだというより凄い仕掛け、やるとしたら最低でも特番か下手すりゃ映画レベルだ」

 

 信じ切る事が出来ない事ではあるが、だからといってゆいこと言う名の赤子を警察に届けるのも気が引けたのだ。手紙の内容が真実ならば、この子は一年間親元から離れて暮らさねばならないし、帰るとしてもどこからどうやっても分からない。ならば来た時と同じ状況などを整えてやる必要がある。そこまで考え、八幡は気付いた。

 

「何でもう俺は預かる気でいるんだよ……」

 

 その理由も彼は気付いている。ゆいこの髪の毛だ。一部が跳ねて目立っている。俗に言うアホ毛という状態である。その自分や妹の小町と共通する要素こそ、彼がゆいこを無関係と思えない最大の理由であった。ともあれ、このままでは不味い。何せ彼は独り暮らしで恋人さえいた事がない。そこへいきなり赤子の登場だ。怪しまれる事請け合いである。しかも彼は社会人。面倒など見ていられない。

 

「……小町を頼るか?」

 

 現在大学三年生である小町であれば八幡よりも自由な時間は多い。だが、それはあくまでも普通ならばだ。今年からは本格的に就活を始めるため、下手をすると彼よりも忙しい可能性もある。それを考えると安易に頼る事は出来ない。と、そこで思い出すのは彼の一年後輩の女性。何故か同じ大学へ進学し、やたらと接触を図って来た存在の事だった。

 

「あいつなら内定も決まってるみたいだし、高校大学の分の貸しを返してもらうか」

 

 呟くや否や手慣れた感じでスマホから相手の連絡先を呼び出し電話をかける。程なくして繋がった。

 

『どうしたんですか先輩。いきなりこんな時間に』

「おう、一色か。悪いんだが、明日俺の部屋に来てくれ」

『……何なんですかいきなり部屋に来いとかドキっとしてそういう事だと思って覚悟しちゃいますけどいいんですかごめんなさい』

「相変わらずはえーよ。そのだな。落ち着いて聞いて欲しいんだが」

『はい』

「さっき、俺のマンションへ落雷があってな」

『大丈夫ですか? PCとかダメになって今後悲しい生活を送る羽目になってません?』

「どうして心配が妙な方向なんだ。まあいい。それでな、何故か未来から俺の赤ん坊がやってきた」

 

 間違いなく電話口で呆れるような声が漏れた。それに構わず八幡はこう告げた。証拠を送るから一旦切ると。そして彼はスマホでゆいこを撮影し、その画像をメールに添付して送った。数分してスマホが振動した。いろはからの着信だった。

 

「どうだ?」

『先輩、信じられないですけど信じます。だって、先輩に誰かと一線超えるとか、ましてや子供産ませるとか不可能ですし』

「……色々言いたい事はあるが信じてもらえたならそれでいい。で、お前に頼みがあるんだ」

『嫌ですよぉ。ただ面倒見るだけなら考えますけど、この歳でベビー用品とか買いに行きたくないです~』

 

 いろはの言い分は八幡にも予想出来ていた。だからだろう。彼は枕と戯れるゆいこを横目にし、苦渋の決断を告げた。

 

―――もし引き受けてくれたらこの部屋の合鍵を渡す。

―――何が必要ですか? メモするんで教えてください。

 

 即答だった。八幡もどことなく気付いていた。いろはが自分へ好意を寄せている事は。だが気のせいだと、勘違いだと自分へ言い聞かせて過ごしていたのだ。それでも今回頼った事での反応を理由に彼は認めざるを得なかった。彼女が自分へ本当に好意を抱いてくれている事を。

 

 いろはへ用意して欲しい物を伝え、明朝に来て欲しいと告げると彼女は思いがけない返事をしてきた。

 

『いえ、今から行きます』

「バカ、時間考えろ。何かあったらどうする」

『でも先輩、そのゆいこちゃん、でしたっけ? おむつとかすぐ必要になりません?』

 

 反論出来ない事実だった。だが、女性が一人で出歩くには少々物騒な時間になりつつあるのも事実。どうするかと考えた八幡が出した結論は金で解決する事だった。

 

「分かった。ならタクシーで移動しろ。代金は俺が出す。おむつやミルクなんかもだ」

『……分かりました。じゃ、まず先輩の部屋へ行きます。そこから三人で買い物に行きましょう』

「は? いや、赤ん坊連れて出歩くのは余計不味いだろ」

『なら先輩、その子の使ってるおむつ、どこのか教えてください』

「…………気を付けてこい」

 

 会話終了。さすがの八幡もおむつのメーカーまでは分からない。というよりも、今はそういう事へ割く力が残ってなかったのだ。彼はそこで空腹だった事を思い出し、すっかり冷めてしまった弁当をレンジで温め直して食べる事にした。

 

 そうやって食事を終え、ゆいこを抱っこしてぼんやりとしていると来客を告げる音が室内へ響く。

 

「来たか」

 

 ゆいこを抱えたままで玄関へ向かう八幡。ドアを開けると、そこには大きめのバッグを持ったいろはの姿があった。すると彼女の目が八幡の抱えているゆいこへ向いた。

 

「わぁ、ホントに赤ちゃんだぁ。先輩、抱っこしてみていいですか?」

「ああ、いいけど意外と重いからな。それと荷物よこせ」

「はーい、ありがとうございまーすっと、本当だ。ズシッときますね」

 

 どこか嬉しそうに笑っていろははゆいこを抱き抱えた。すると一瞬だけ、ゆいこの髪色が黒からいろはと同じ色へ変化する。それに二人は揃って目を疑う。だが、もうゆいこの髪色は黒へ戻っていた。

 

「……どういう事なんでしょうか?」

「知らん。何せ未来からの使者だからな」

「あー、そうですね。じゃ、行きましょうか」

「その前にタクシー代を出す。いくらだった?」

「それ、後にしてくれません? 待ってもらってるんですよ」

「……そうか。雨だもんな」

「ですです。赤ちゃん連れて行くんだし、行きぐらいは車にしてあげようかなと」

 

 こうして二人はゆいこを連れて、タクシーで遅い時間でも開いてる大型ドラッグストアへと向かった。そこでゆいこの使っているおむつのメーカーも判明し、同じのはないようなので似た物を購入。ミルクなども店員からアドバイスを受けながら選び買い物は終了。帰りは八幡が片手に荷物を、もう片手で傘を差して、いろはがゆいこを抱き抱える形で帰宅する事となった。

 

「あの、先輩」

「ん?」

 

 車が撥ねる水しぶきからいろはを守るように車道側を歩く八幡。そんな彼へいろはが少しだけ微笑みながら声をかけたのは、八幡の部屋まで後五分程度まで来た辺りだった。周囲の明かりは乏しく、精々が自販機や時折存在するコンビニぐらいだった。

 

「この子、未来から来た先輩の子供なんですよね?」

「だと思う。未だにどこか信じられないがな」

「お母さん、誰なんですかね?」

 

 それは八幡が考えないようにしていた事だった。名前から推察しようにも平仮名で書かれていた上、ゆいこという響きだけではヒントもない。一人非常に似た響きの名を持つ女性に心当たりがあるものの、だとしても安直すぎるとも思えるのだ。果たして自分が名付ける際、そこまで簡単に名を付けるだろうかと。

 

「最初は由比ヶ浜が第一候補だったが、おそらくその線はないな」

「どうしてです?」

「あいつが自分の子供にゆいこなんて安直な名前付けるとおもうか?」

「…………たしかに結衣先輩でももう少し捻りそうです」

「何気に酷いな、お前。で、次にありそうなのは平塚先生だが……」

「でも、そうじゃないですよね」

「ああ、やはり名前が引っかかる。ゆいこ。漢字でもなく平仮名でゆいこだ。一体どういう意味で名付けたのか分からん。一色、お前でもゆいことは付けないだろ?」

 

 何気ない問いかけだった。会話の流れとしても深い意味はない。ただし、それは八幡にとってである。いろはにとっては軽い問いかけではなかった。何せ、それは八幡がどこかで彼女へそういう可能性があると思っている事を意味していたのだから。

 

「そうですね。でも、可愛い名前とは思います。それに、私一つ気付いちゃいました。先輩、この子と私の名前に共通点あるんですよ」

 

 八幡が足を止めた。それが自分の言った意味を理解したからだと分かり、いろはは悪戯っぽく微笑んで振り向く。

 

―――平仮名三文字の名前って、私と一緒じゃないですか?

 

 盲点だった。まさしく八幡の表情から感情が抜ける。だが、それでも彼はある事を思い出して我に返った。

 

「じゃ、何で一瞬こいつの髪色が変わったんだ? まるであれはお前が抱っこしたから起きたみたいな現象だったぞ」

「……実は本当に私がお母さんだからとか?」

「だったらますます分からん。お前が仮に俺の妻になるとしてだ。どうしてそれを完全に伏せる? それとなく匂わせるぐらいはしそうだ」

 

 その意見に賛成なのかいろはも何か反論する事なく黙っていた。それを見て八幡は更にこう続ける。

 

「あの手紙が直筆だったらまだ違ったんだがな。あれはどう見てもプリントアウトされた奴だ。徹底して俺に母親の正体を悟らせないようにしてると見ていいだろう。だから、名前も本当に平仮名でゆいことは限らん」

 

 まるで立ち直ったかのように、いろは母親説を否定していく八幡に対し彼女が少しだけ悲しそうな顔をした瞬間、それまで機嫌の良かったゆいこが急にぐずり出した。

 

「あれ? どうしたんだろ? どうしたの~? 大丈夫だよ~、お姉さんは怒られてないからね~?」

 

 優しくいろはが話し掛けながらあやすと、すぐにゆいこが笑顔へ戻る。それを見た八幡は、内心でいろはが本当に母親なのではと思ってしまっていた。それぐらいあっさり泣き止んだのだ。そうして二人は部屋へと戻り、ゆいこをお風呂に入れてやるべきといろはが提案した。

 

「この子、女の子ですよね。私が一緒に入ってあげます」

「いや、万一を考えれば俺の方がいいだろ。それに、お前は帰った方が」

「先輩、あの荷物見て分かりません? 私、今日泊まりますから」

「は?」

「先輩でも赤ちゃんのいるところで変な事は絶対出来ませんし、おむつの替え方とかも練習したいです。だって、先輩私にゆいこちゃんの面倒見て欲しいんですよね?」

 

 いろはの言葉に八幡は返す言葉がなかった。夜泣きなどされた場合、彼では泣き止ませる自信がないからだ。あの帰り道での出来事はそう思わせるに十分な程の光景だった。結局入浴は八幡が共にする事になり、いろはがゆいこの体を拭いてあげる事で決着となる。

 

 湯を張ったバスタブに入浴剤を溶かす。そうやって色を付けてから八幡はバスルームから出た。いろはは丁度おむつの着け方を練習しているところで、ゆいこはそんな彼女を楽しそうに見つめて笑っている。

 

「一色、ゆいこ連れてくぞ」

「あ、はい。どれぐらいで行けばいいですかね?」

「あー……あまり長く入らせるのもあれだろうから、俺がバスルーム行って五分ぐらいでいいぞ。ゆいこ渡したら俺は体とか洗うわ」

「……うん、先輩先に体とか洗っておいてください。私、ゆいこちゃん抱いて待ってますから。頭とか全部洗い終わったらお湯に入って待っててください。で、私を呼んでくれればゆいこちゃんを渡しますんで」

「……それがいいか。考えたらお前も入るんだもんな」

「ですよ。ま、私が先に入ってもいいんですけどね」

「そうした方がいいかもな。何て言うか、今まで経験どころか考えた事もない状況の連続で上手く頭が回らん」

 

 こうして先にいろはが入浴する事と相成った。八幡はゆいこを抱き抱え、今後の事をぼんやりと考え始める。いろはが基本的に時間に余裕があるとはいえ、それも絶対ではないしいつでもとはいかない。となると、やはり妹の小町の助けも借りるしかない。だが、それも限度がある。一年間はゆいこは帰れないのだ。その間、この幼い命が頼れるのは父である八幡のみ。そう思うと彼はため息を吐いた。

 

(彼女が出来る前に子供が出来るとか、どこの漫画やアニメだよ)

 

 しかし、裏を返せばこのままいけば将来妻が出来る事を意味している。それが誰かは分からないが、おそらくあの奉仕部関係で知り合った相手であろうと予想をつけていた。何故なら、今も彼と繋がりがあり、好意らしきものを見せたり感じさせたりするのは、その頃の相手ばかりだからだ。

 

「……由比ヶ浜が仮に母親だとしたら、名前は理解出来るし納得も出来ない訳じゃない。一色もないとは言い切れないな。ただ……」

 

 彼の脳裏に甦る長い黒髪が美しい女性の姿。彼女が母親と仮定すると納得どころか理解さえ出来ない。なのでその女性は絶対に近い程ないと断定し、八幡はゆいこを見つめた。ゆいこは小さな手をいっぱいに伸ばして彼の顔を触っている。それがここにはいない肉親を求めているように思え、彼はほんの少し表情を緩めた。

 

「ごめんな、お前の父ちゃんじゃなくて。何年後かにはそうなってる予定らしいが」

 

 懸命に手を伸ばす姿が微笑ましく、八幡は優しい表情でその行動を眺めていた。それを湯上りのいろはが思わず息を潜めて見守るぐらいに優しい微笑みで。彼女が八幡へ声を掛けたのは、それから四・五分は経過してからだった。

 

「えっと、先輩お待たせしました」

「ん? ああ、別に気にしてないぞ。女は長風呂がデフォだからな」

「そうですけど言い方ってもんがありません? あと、他に言う事も」

「悪いが俺はこういう奴だ。気の利いた事など言える気がしない。それとそれなりに色っぽいぞ。これでいいか?」

「もう……ま、それで許してあげます」

 

 ゆいこを抱き上げながら立ち上がり、八幡はいろはへその抱えた幼子を差し出した。受け取ってくれと言う事なのだろう。なのでいろはは小さく息を吐きながらゆいこを受け取り笑顔を浮かべた。それを横目にしながら八幡はバスルームへと向かう。服を脱ぎ、浴室へ入った瞬間香る嗅ぎ慣れない匂いに気付いた。

 

「……一色のシャンプーか?」

 

 見れば見慣れないボトルが置いてあった。それが彼女の持って来た物だろうと思い、彼は意識を切り替えて体を洗い始める。その脳内では先程までここを使っていた後輩の事を考えそうになり、必死に他事を思い浮かべて対処しようとしていたが。

 

(見られる可能性は低いし気付かれる事もないと思うが、一色は察しがいい奴だからな。何が切っ掛けで気付かれるか分からん。だからここはゆいこの母親について考えてみるか)

 

 手がかりはゼロに等しい。送られてきた手紙は印刷された物なので筆跡などないし、ゆいこという名前からもそれらしい手がかりはないと言える。由比ヶ浜結衣という女性はいるが、いくら何でも娘に自分の名前をそのまま付ける事はしないはず。そもそも何故ゆいこなのかも分からない。必ず意味はあるはずなのだが、それさえも分からないと言えた。

 

 体を洗い終わり頭を洗い始めても八幡の中で疑問は尽きなかった。どうしてこの時間軸に来る事が避けられないのか。あの手紙によればこの事は未来の自分かもしくは妻は知っていた。逆算すれば、この経験を積んだからこそ自分は結婚し子供にゆいこと名付けるのだろうか。であれば、このままではその相手はいろはが最有力となる。そこまで考え八幡の頭の泡をシャワーで流した。

 

「……ま、最有力ってだけで確定ではないしな」

 

 まるで自分に言い聞かせるようにそう呟いて、彼はバスタブへと向かう。と、それを待っていたかのようにドアの外から声が聞こえてきた。

 

「せんぱーい、もう大丈夫ですか?」

「おう、大丈夫だ。ゆいこ、連れてきてくれるか?」

「はーい、ちょっと待ってくださいね」

 

 その返事からややあってドアが開き、いろはが顔だけ覗かせる。そこには湯に浸かった八幡がいた。その体のほとんどを隠すように浸かっている辺り、彼の用心深さが現れていると思っていろはは苦笑した。

 

「何だよ?」

「いえ、先輩らしいなと思いまして。はい、ゆいこちゃんです」

「おう」

 

 浴室へ足を踏み入れ、ゆいこを八幡へ手渡すいろは。その光景ややり取りが本当に夫婦のように思え、二人は少しだけ気恥ずかしさを覚えた。それでもゆいこを八幡が湯へ浸からせるのを見届けるまでいろははそこにいた。

 

「気持ちよさそうですね」

「ああ、ご機嫌だな」

「何か、こういうの見てると赤ちゃんっていいなぁって思います」

「実際はもっと大変だろ。今日だって買い物だけでどんだけ色々聞いた事か」

「ですねぇ。だけど、私達の両親だって似た事をしたんだって思うと頭が下がります」

「……だな」

 

 忘れていた親への感謝。いや、この場合は改めて知る親の凄さだろう。自分達はこれよりも大変な苦労をかけてここまできた。そう八幡といろはは噛み締めたのだ。ゆいこを世話する数時間でそれなりに疲れたのだ。これを両親は何年もやった。それも仕事や家事と働きながらだ。そこからしばらく二人は黙り込んだ。唯一ゆいこだけが楽しそうにはしゃぐだけ。それが二人にはかつての己と重なって見えるのだろう。どこか懐かしく、また愛おしそうに眼差しを向けていた。

 

「……そろそろいいか。一色、バスタオルを持ってきてくれ」

「あっ、はい」

 

 一旦浴室から出てその手にバスタオルを持っていろはが戻る。その広げたタオルへ置くように八幡がゆいこを優しく乗せた。確かな重みを受け止め、いろはは少しだけ笑みを見せる。

 

「じゃ、ゆいこちゃんは私が拭いておきますから」

「頼む」

「はーい、ゆいこちゃん。体拭いたらねんねしましょうね~」

 

 母親のような事を言いながら浴室を出ていくいろはを見送り、八幡は大きくため息を吐いた。

 

「一色を頼ったのは間違いかもしれん」

 

 たった数時間のやり取りではあるが、この上なく現実味のあるままごとになってしまった。そう八幡は感じていた。現実の赤子を使っての疑似体験。これに勝る仮想条件はないだろう。おかげで先程から彼の心は乱れに乱れている。いろはも言ったが、本当に子供が欲しくなるのだ。ゆいこの母親が誰かは分からないが、きっとその相手は自分の知る女性だろうと思っている事もそこに関係しているだろう。あの高校時代に関わり合った三人の女子。一人とは連絡が取れず、一人とは未だに連絡が取れ、もう一人は今ここにいる。

 

「……由比ヶ浜とも会わせてみて、あの変化が起きるか試してみるか?」

 

 もしそれであの変化が起きればいろはは母親ではない事になる。そう仮定して八幡は湯から上がった。バスルームから出るとそこには新しいバスタオルが用意されていた。いろはがやったのだろうと思い、八幡は思わず呟いた。

 

「妻気取りかよ」

 

 だが、言葉とは裏腹に彼の声には喜びが込められていた。その後、彼ら二人は初めての作業に追われる事となる。授乳におむつ替えである。育児書などないのでPCで調べながらゆいこの世話をし、寝付かせた頃には日付が変わっていたぐらいの大仕事となっていた。

 

「……じゃ、先輩。私も寝ます」

「おう、俺も寝るわ」

 

 ベッドにいろはとゆいこを寝かせ、八幡はソファで横になる。幸いな事に夜泣きなどせず、二人は目覚ましで泣きわめくゆいこの声が聞こえるまで眠りに就くのであった……。



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ゆいこはゆいのこ?

二話目はこうなりました。ゆいこの母は誰なのか。それが本当に分かる時、この作品も終わります。


「結衣先輩ですか?」

「ああ、あいつにもゆいこを会わせてみようと思う」

 

 雨も上がり、陽射し差し込む中靴を履きながら、八幡はゆいこを抱き抱えるいろはへそう告げた。社会人の朝は早い。時刻は七時半を過ぎるか過ぎないか。いろはにとっては驚きであるが、これが来年の自分も通る道かと思い微妙な気持ちとなっていた。

 

「まぁ、ある意味で最有力候補ですもんね」

「だから連絡しとくわ。今日か、遅くても今週中には会いたいしな」

「ゆいこちゃんのため、ですか?」

 

 その確かめるような問いかけに八幡は即答出来なかった。それが何よりの答えである。いろはは彼の気持ちを察すると小さく息を吐いてゆいこの右手を優しく掴んだ。

 

「ゆいこちゃん、パパに行ってらっしゃいしようね? 行ってらっしゃ~い」

「……行ってくる」

 

 気恥ずかしさと照れくささが一気に押し寄せ、八幡は居た堪れなくなって玄関を出た。頭の中で、いろはと結婚した場合、先程の光景が日常になるのかと思ってしまったのもある。こうして八幡は一旦ゆいこに関する事を忘れて仕事へ向かった。一方、いろはと言えばゆいこの世話をしながら一度自分の部屋に帰る事を考えていた。

 

「一年間、かぁ」

 

 テーブルに肘を付いてため息を吐くいろは。その視線は、ベッドではしゃぐゆいこへ向けられる。その無邪気な声と姿に彼女は無意識の内に笑みを浮かべた。今朝、ゆいこの泣き声で目覚めた時は八幡と二人で大慌てだった。それでもいろはが抱き抱えてあやすとすぐに泣き止んだので大事には至らなかったが。

 

(ホント、ゆいこちゃんのお母さんって誰なんだろ? 私……だったらいいなぁ)

 

 そんな事を考えながら、いろははそっとある物を取り出す。それは鍵。この部屋の合鍵であった。かつて欲しくても得られなかった物。進路希望校を八幡と同じところにし、奉仕部の二人と離れた彼と親密になろうとした大学生活。だけど、結局進展する事はなく、出来たのは高校時代に比べれば比較的声を掛けられる頻度を増やせた程度。

 

「なのに、自分の子が絡んだ瞬間あっさりと私を頼れるんだから……」

 

 どこか呆れつつも嬉しそうにいろはは微笑む。八幡の家族思いな面を感じられたためだ。元々妹への愛情が重いぐらいあるのを彼女は知っている。だけど、それがまさか子供にまで出せるとは思っていなかったのだ。昨夜のゆいこを見つめる優しい眼差し。あれがいろはの恋心を更に刺激してしまったのだから。

 

「それにしても結衣先輩か。先輩は安直って言ったけど、ゆいこちゃんの名前が偽物だとしたら一気に最有力だよねぇ。ゆいこって、結衣の子って意味だって言えるし」

 

 ぼんやりと結衣がゆいこを抱き抱える様を想像する。スタイルもあって、自分よりも母親感が強いそれにいろはは大きくため息を吐いてテーブルへ突っ伏した。確実に自分よりも母親らしいと思ってしまったのだ。

 

「……ゆいこちゃん連れて部屋戻って、大学のあれこれも持ってこようかな?」

 

 いくら内定が決まっているとはいえ、いつ取り消しと言われてもおかしくない世の中である。それに卒論はどちらにせよやらねばならない。であるならこの一年間、この部屋で同居させてもらう方がいい。そう考えていろはは立ち上がる。が、すぐにある事に気付いて腕を組んだ。

 

「ゆいこちゃん、ずっと抱っこだと辛いよね」

 

 こうしてまずはゆいこを連れて買い物へ行く事にした。よくある子供を連れていくのに便利な抱っこ服を手に入れようと思ったのだ。本格的に母親の買い物だが、一年間は短いようで長い。それに、将来を考えれば無駄にはならないと思ったのだろう。

 

 そして無事に手に入れた抱っこ服へその場で着替え、ゆいこを連れていろはは自分の部屋へと向かう。周囲の目は気にはなるが、そんな事を気にしていたら何も出来ないと覚悟を決めて。この辺り、いろはも僅かながら母らしい気持ちが芽生えてきているのだろう。

 

 いろはがゆいこを連れて自室へ戻っている頃、八幡はPCの画面へ意識を集中していた。彼はとある中小企業の事務仕事を受け持っている。メインは肉体労働系という事もあり、事務方に若い人間がそこまでいないため、新卒でPCも使えるというだけで採用が決まった職場であった。そのため、彼が嫌うようなタイプの人間はあまりおらず、いてもそういう人間はデスクではなく現場の人間なため、直接関わる事はほぼないというのも八幡としては嬉しい点である。

 

「……こんなもんか」

 

 仕事はデータ整理とたまの電話応対。簡単に言えばこれだけである。その分給料は多くないが、人付き合いなどが苦手な彼にとってはそれをクリア出来ている時点で恩の字であった。と、そんな彼の肩が叩かれたのはそんな時だった。

 

「比企谷君、どうだ? もう仕事は慣れたか?」

「社長……」

 

 振り向いた先には五十半ばにしては若く見える男性が立っていた。この会社の社長である。それまで肉体労働系の人間はみなどこかガサツなイメージを持っていた八幡が、その認識が偏見であったと心から認める理由となった人物である。

 

「こんな先の見えない会社へ新卒が来るとは、世も末だなと思ったんだがな」

「自分もびっくりしました。まさか面接であんな事を言われるとは」

「ああ、その目は生まれつきかって奴だな。いや、きっとそれは学生の時に言われてると思ってなぁ。そういうものに対する反応でそいつの人間性ってもんは分かるんだ」

「で、自分は合格だったと」

「いや、採用しないつもりだった」

「は?」

 

 思わぬ返しに素の声を出す八幡。すると社長は呆れた顔を見せる。

 

「いや、お前さんな。普通面接ってのはもう少し外面を気にするもんだ。なのに何て答えたか言ってみろ」

「気が付いたらこうなってました。なので生まれつきというよりは生き疲れですね」

「ああ、そうだ。自分は、これまでのたった二十年ちょっとで生きる事に疲れましたなんて言いやがって。普通ならもう少し自分を良く見せるもんだろ」

 

 その話を聞いていた一人の中年女性が笑いながら二人へお茶を出した。社長の奥さんである。

 

「ふふっ、よく言うわよ。今時自分を飾らない珍しい奴だって、そういって採用する事に決めたんじゃない。アナタも昔は本音ばかり言って痛い目見たものね」

「ほっとけ」

「比企谷君、この人はね、貴方みたいな子は絶対根はいい奴だって言い張ったのよ? 自分もそうだって言いたいでしょうね。ま、仕事ぶりを見てると真面目でしっかりしてるとは思うけど」

「きょ、恐縮です……」

 

 どこかその採用理由がいつかの恩師を思い出させる内容で、八幡は内心で息を吐いていた。

 

(やっぱ、俺はまだ大人になれてないんだな……)

 

 大人ならば、社長の言ったように上手く自分を飾るだろう。本音を言う。嘘を言わない。それらは美点であるかもしれないが、世の中を生きていくには少々難しいためだ。嘘ではない程度に飾り、気に入られようとするのが賢い生き方。それは八幡も分かってはいる。いるのだが、やはりどこかで青臭い気持ちが出てしまうのだ。

 

 自分の事を見つめ直すように茶碗の中身に映る己を見つめる八幡。そんな彼へ一気にお茶を飲み干して社長が問いかける。

 

「で、どうだ? 慣れたか?」

「え、はい。難しい事はそこまでないですし、仕事量も殺人的には程遠いですから」

「あー、それじゃないんだ。いや、それも含めてではあるんだが……」

「比企谷君、この人は職場には慣れたかって聞いてるの。つまり、人付き合い。貴方、そういうの苦手でしょ?」

 

 返す言葉が無かった。彼としてはそれなりに上手くやっていると思っていたのだが、やはりそれは自分だけの認識でしかなかったと痛感した。八幡が返事をしない事で社長夫妻も察したのだろう。揃って苦笑すると彼へこう告げた。

 

「まぁ、今の若い奴らが仕事以外で関わるのを嫌がるのは知ってる。でもな、ここはまだそういう繋がりを大事にしてるんだわ。大手さんみたいな感じには、俺らはさすがに出来ん」

「煩わしいかもしれないけれど、人の繋がりを大事にするのは保険みたいなものなの。ほら、情けは人のためならずって言うでしょ? いざという時に自分が助かるために誰かを助けたり、あるいは仲良くしておくの。これはきっとどこの仕事や国でも言えるはずね」

 

 暗に勤務時間が終わるや挨拶だけして帰宅する八幡への助言であった。人と関る事を避けていては後々困る事になるのは自分だぞ、と夫妻は告げていた。おそらく実体験からのそれに八幡は反論する事は出来なかった。そこまで彼は自信家でもなければ自惚れてもいなかったのである。

 

「すぐに変えろとは言わんさ。ただ、少し考えてみてくれや。久しぶりの新卒で他の奴らも喜んではいるんだ」

「……マジですか?」

「ええ、そうよ。昔なら歓迎会とかしたんだけど、今は不景気のせいか中々ね。それに比企谷君もそういうの嫌いそうだったから」

 

 奥さんの言葉に八幡は身が縮む思いだった。本当に子供だと思ってしまったからである。大手の企業ならまだしも、中小の中にはこういう付き合い方をする会社も少なくない。そういう意味でも彼はまだ未熟だった。

 

「とにかくだ。もしそっちの気持ちが変わったら教えてくれ。こっちはいつでも飲む口実さえあれば歓迎だからな」

「そういう事よ。まぁ、みんな比企谷君の事を受け入れたいの。そういうための切っ掛けが欲しいのね」

 

 そう言って社長夫妻は去っていく。残された八幡は温くなったお茶へ口を付けて呟く。

 

―――大人になるって、難しいな……。

 

 そして昼休みとなり、八幡はいつものように昼を食べるべく外へと向かい、行きつけとなりつつある定食屋へ入った。そこは会社の人間もよく使う場所で、彼もそこを彼らから教えてもらったのだ。いや、連れて来てもらったのだ。それは、彼がコンビニ弁当ばかり食べている事を見た彼らなりの気遣いだと八幡が知るのは、もう少し後になる。

 

「いらっしゃい」

「えっと……日替わりで」

「あいよ。盛りは普通でいいかい?」

「うす、普通でいいです」

 

 少し無愛想だが味はいいし、何より値段が安いのが八幡としては有難かった。近所にあれば毎日通う事請け合いなぐらいである。日替わり定食は五百円。たまの贅沢焼肉定食が七百八十円。他にも焼き魚定食や煮魚定食などもあり、ご飯の大盛り無料でお代わりは一杯までならタダなのだ。

 

「そうだ。今の内に由比ヶ浜へ連絡入れておくか」

 

 久しぶりの連絡に若干緊張しつつ、メールを打ち始める。内容はもし可能なら連絡くれという一文。送信し少し息を吐いて水を飲み、何か雑誌でも読むかと動こうとした瞬間、スマホが振動する。

 

「……マジか」

 

 見れば結衣からの返信だった。そこには久しぶりの連絡且つ彼からしたメールともあっての驚きなどが綴られている。これなら大丈夫かと思いつつ、彼はメールを送った。内容は大事な話があるので電話しても大丈夫な時間を教えてくれというもの。その返信は意外と時間がかかった。

 

「……来たな」

 

 八幡が最後の鳥の唐揚げを飲み込んだ時、それはきた。そこに書かれていたのは午後一時までなら大丈夫という文と、それ以外なら午後五時過ぎという文だった。ならばと考え、八幡は午後五時以降に電話すると返した。その後は店を出てする事もないので会社へ戻り、早く帰れるように仕事を片付け始める。普段であればどこかで時間を潰して休憩時間ギリギリまで過ごすのだが、ゆいこのために早く帰宅したいとの気持ちと、結衣との連絡を茶化されないためにと思い、八幡は仕事へ打ち込んだ。それを周囲がどう見るかを考えぬまま。

 

「じゃあ、お先に失礼します。朝の件、前向きに検討してみます」

「そうか。お疲れさん」

 

 社長を始め他の者達へ挨拶し、八幡は会社を後にした。歩きながらスマホで結衣へ電話を掛ける。するとワンコールぐらいで繋がった。

 

『も、もしもし?』

「おう、由比ヶ浜か。悪いな、突然」

『う、ううん。ヒッキーこそどうしたの? いきなり連絡来て驚いちゃった』

「その……だな。お前、今週予定空いてる日あるか? 出来れば早い方がいいんだが」

『ふぇ?!』

 

 奇声を発する結衣に八幡は内心である事を思った。それは、彼女の自分への気持ち。高校時代、結衣は八幡へ一番分かり易く好意を向けていた。それが今もまだ消えていないのだろうか。そう考えながら八幡は答えを待った。

 

『え、えっと……夜なら大抵空いてるけど……』

「今からはどうだ?」

『ええっ!? い、今からって……ヒッキー、どうしたの? てか、ホントにヒッキー?』

「失礼な奴だな。ま、気持ちは分からんでもない。その、ちょっとした問題が起きてな」

 

 そこで八幡は結衣へゆいこの事を簡単に説明した。証拠として昨日いろはへ送った画像を添付したメールも送って。すると数分後、結衣から再度着信があった。

 

「どうだ?」

『うん、信じるよ。でも、ゆいこちゃんかぁ。何か他人な気がしない名前だね。……お母さん、誰?』

 

 その声に込められた感情を察し、八幡は大きく息を吐いた。いろはと同じだと分かったのだ。大学四年の間で縁遠くなった後も、彼女は一途に思い続けてくれているのだとも。だからこそ、偽りなき本音を告げた。

 

「その母親探しも兼ねてる。やっぱり子供には母親が必要だろうと思ってな」

『それであたし?』

「実は、一色が初めて抱き抱えた時、髪色が一瞬だけ変化したんだ。そこでお前にも抱っこしてもらって同じ事が起きるか確かめたい」

『……それが起きないといろはちゃんがお母さん?』

「可能性が高いってだけだ。どうだ?」

『ヒッキーってどこに住んでるの?』

 

 返事はすぐには出せないだろう。そう八幡は思っていた。だが、その予想に反して結衣は即答とも言える速さで応じた。どこに行けばいいのかと、そう彼へ問うてきたのだ。その声に込められた女としての強い気持ちに気圧され、八幡は少しではあるが息を呑む。それでも気を取り直し最寄駅を告げ、そこで待ち合わせる事になった。通話を終えて八幡はスマホをポケットにしまいながら息を吐く。

 

「お前もかよ、由比ヶ浜。どうしてだ? 何でこんな奴に執着するんだよ……」

 

 呟きつつ、彼は彼女の気持ちにどこかで喜んでもいた。あの頃は直視する事が出来なかった関係。だが、それに目を向けなければならない事態になっている。その大きな理由がゆいこの存在である事は疑いようがない。逆に言えば、あの赤子がいなければ今も彼は目を背け続けただろう。それが一番彼女達を傷付けるとどこかで知りながら。それをしなくてもよくなった。それ自体は彼も素直に喜べる。ただ、その根底にある動機は喜べはしないものではあったが。

 

 さて、最寄駅で結衣を待つ事になった八幡であったが、その心中は複雑であった。大学へ進学した直後ぐらいはまだ連絡をもらう事もあった。会う事はなかったが、繋がりは途絶えてはいなかったのだ。それも一年経ち二年経ちとする内に途絶えがちになり、とうとう誕生日と正月、後は結衣がメアドを変える時しか連絡が来なくなった。それを八幡はどこかでしょうがないとも、これでいいのだとも思っていた。思おうとしていたのだ。

 

―――あいつにはきっといい相手が出来る。俺なんかよりも、あいつの事を想って幸せにしようと考える奴が。

 

 まさしく童貞くさい考えだった。そう今の八幡は言える。何も女性との経験をしたとかではない。あの頃の、高校時代の自分への率直な感想だった。結衣程の女性はそうはいない。大学でそれとなく見た中でもそう断言出来るレベルで、結衣はいい女だったのだから。

 

「ヒッキー?」

 

 不意に聞こえた声に八幡の胸が高鳴る。それでも慌てず自然な風を装って振り返った。そこには、少しだけ髪を伸ばした由比ヶ浜結衣がいた。その格好はいかにも仕事帰りのOLといった風情で、そこはかとない色気に彼の心が騒いだ。

 

「……おう、一瞬誰か分からなかったわ。髪、伸ばしたのか」

「うん、大学入ってからは大人っぽくなろうと思って。ほら、あの髪型だと子供っぽいって見られてさ。エッチな事出来るかもって思われたみたいで」

 

 あははと苦笑いを浮かべる結衣を見て、八幡は思わず息を呑んだ。その脳裏に過ぎる大学でのサークル騒動。そういう連中に何かされたのか。そう思って表情を強張らせる彼に気付いて、結衣が小首を傾げた。

 

「どうしたの? 何か顔怖いよ、ヒッキー」

「……大学で変な連中に絡まれたのか?」

「え? あ、大丈夫。実はそこにめぐり先輩がいてね。あたしの事助けてくれたんだ。今の会社もめぐり先輩の紹介」

「めぐり先輩、か。懐かしい名前だな」

「めぐり先輩もヒッキーの事気にしてたよ? ちゃんと社会でやっていけるかなって」

「余計なお世話……とは言えないな。実際、今の職場へ行ってなければどうなっていたやら」

 

 と、そこで結衣がある事に気付く。それは八幡の目。彼女が最後に見た頃よりも心持ち眼差しが優しくなっているのだ。その原因を考えたところで彼女は肝心な事を思い出した。

 

「そうだ。ヒッキー、あのゆいこちゃんって子に会わせてくれるんだよね?」

「ああ、そうだったな。ついて来てくれ」

 

 こうして部屋へ結衣を招いた八幡だったが、彼は一つ失念している事があった。ゆいこの面倒を見ている存在だ。彼女が結衣を心から歓迎するかどうか。その一点をすっかり忘れていたのである。

 

「ここだ」

「お邪魔しまーす」

「あっ、お帰りなさい先ぱ……」

 

 二人の前に現れたのは、エプロンで背中にゆいこを背負ったいろはであった。その奥さん感全開の姿に八幡は沈黙し、結衣は目を見開いた。いろはも結衣の姿に目を見開く。まさか昨日の今日で連れて来るとは思っていなかったのだ。無言で立ち尽くす三人。その硬直を解いたのはゆいこの楽しそうな声だった。

 

「あ、言い忘れたな。とりあえず一色に面倒を見てくれるように協力を頼んだんだ」

「そ、そうだったんだ。びっくりしたよ。てっきりいろはちゃんがヒッキーの彼女になったのかと」

「あはは、そんな訳ないじゃないですかぁ。まぁ、先輩が望むなら構いませんけどね」

「もう、ダメだよいろはちゃん。そんな事言ってヒッキー困らせちゃ」

「いえいえ、こう見えても昨日一緒にお風呂に入った仲ですし、可能性はないとは言えないかと」

 

 さすがにその発言を流す事は出来なかったのだろう。結衣が動く前に八幡が口を挟んだ。

 

「おい、誤解を与える言い方をするな。ゆいこを入浴させるために、お前は服を着て風呂に浸かった俺へ手渡しに来ただけだろ」

 

 その発言に安堵する結衣と少しだけ不満そうないろは。ただゆいこだけが不思議そうに彼らを見ていた。その眼差しに気付き、八幡がゆいこをそっと抱き上げて結衣へと手渡す。

 

「由比ヶ浜、ちょっと抱っこしてみてくれ」

「う、うん」

「思ってるより重いですから気を付けてくださいね」

「分かった。っと、うわぁあったかくて柔らかいね~」

 

 結衣が抱き抱えても髪色の変化は起きない。それにいろはと八幡が気付く。だが、別の変化が起きた。それは一瞬ではあるがゆいこのクセ毛が消えたのだ。その意味する事に八幡が息を呑んだ。

 

(まさか……ゆいこの見せる変化は一色や由比ヶ浜が妻になった場合か!?)

 

 もしそう仮定するとゆいこの母親は二人ではないとなる。そして、そうなると相手は八幡の中に一人しかいなかった。だからこそ、八幡はそれを切り出すタイミングを計った。今はまだ早い上に面倒な事になる。何故なら結衣はゆいこを心から可愛がっていたからだ。そんな気分へいきなり水を差すのは避けたい。そう考え、彼はとりあえず結衣を部屋に上げる事にした。

 

「とりあえず上がってくれ由比ヶ浜。一色、もしかして料理中だったのか?」

「そうですよぉ。先輩がお腹すかせて帰ってくると思って頑張ってたんですから」

「そ、そうか。悪い。本気で助かる」

 

 少しだけ頬を膨らませるいろはにドキッとしつつ、八幡は靴を脱いで部屋へと上がる。それに続くように結衣もヒールを脱いで部屋へ。だが、結衣を先に行かせていろはは八幡へ耳打ちした。

 

「先輩、ゆいこちゃんのお母さんってやっぱり雪ノ下先輩ですかね?」

「……まだ分からん」

 

 流石に鋭い。そう思って八幡は歩く。その後ろをいろはが追う様に歩き、キッチンへと向かう。結衣はゆいこへ笑顔を向けながら楽しそうにしていた。その姿も八幡には中々胸に迫るものがある。

 

「ゆいこちゃんはいい子だね~。ずっと泣かずに笑ってるなんて、あたしでも出来ないよ~」

 

 何気ない一言だったが彼には耳の痛い言葉である。結衣が泣く事があるとすれば、その内のいくつかは自分が原因だろうと思ったからだ。思えば、あの事故から結衣は八幡へ想いを寄せていた。はっきりとそれを伝える事が出来たのは一年以上後となったが、その前にも一度伝えようと動いた事はある。もし、仮にそこで彼がそれを受け止めていたら、未来は大きく変わっただろう。

 

「ホント凄いなぁ。ね、ヒッキー。ゆいこちゃんって泣いた事あるの?」

「あ、ああ。一度だけな」

「へぇ、夜泣き?」

「いや、一色とちょっとした会話をしていた時だ」

「ふーん、じゃあゆいこちゃんはいろはちゃんのために泣いたのかな? 人のために泣くなんてパパに似てるね~」

「っ!?」

 

 結衣の言葉に八幡は息を呑んだ。それこそ心臓を掴まれるような一言だった。人のために泣く。それは文字通りではない事を彼は理解している。そして、それが結衣の自分への印象であり評価であるとも。あの高校時代、彼女はある意味で一番彼のやり方を見てきている。それは傍からは単なる自己犠牲だ。だが、その根底にはいつだって自分よりも大切な何かがあり、それを守るために動いていた。それを結衣は分かっていると暗に告げていた。

 

(反則だろ……。それを、今、ここで言うのか……)

 

 思わず顔を背ける。今はとてもではないが誰かに顔を向けられないのだ。こみ上げてきそうになる感情の波を必死に抑え付け、鎮静させようとしていた。すると、彼は背後に気配を感じる。そして聞こえてくる小さな声。

 

「ヒッキー、ゆいこちゃんってあたしがママかな? だって、ゆいこって結衣の子って意味じゃない?」

 

 いろはが思った事を結衣も思ったのだ。それが八幡の心を揺さぶった。先程見たクセ毛の消失は、本来あるべき姿への変化だとしたら。そう思って彼はゆっくりと振り返った。そこにはクセ毛のないゆいこと微笑む結衣の姿があったのだ。思わず言葉を失う八幡だったが、ゆっくりとゆいこの髪型は戻っていく。それにも彼は驚くように目を瞬きさせる。

 

「あはは、なんてね。あたしも赤ちゃん欲しくなってきちゃうよ」

「あー、結衣先輩もですか? 私もなんですよ。さすがにまだ早いと思うんですけどね」

「ん~……でもママは産むなら早い方がいいって言うんだよ。あたしも出来れば三十前には産みたいかな」

「ですね。最低ラインはそこです。可能なら二十後半になる前が理想ですけど……」

 

 女性二人の話を聞きながら八幡は頭を抱えたくなっていた。ないと思っていた結衣の可能性。それが再び急浮上してきたからである。ゆいこが偽名とすれば、先程の考えは恐ろしい程しっくりきたのだ。あまり頭の回転が速い訳ではない結衣だからこその、精一杯のヒント。そう考えると腑に落ちてしまったために。

 

「……いや、まだ分からん。こうなったら毒喰らわば皿までだ」

 

 結婚や妊娠出産の話題で盛り上がる二人を見つめ、八幡は意を決して口を開いた。

 

「由比ヶ浜、ちょっと頼みがある」

「ん?」

 

 こちらへ笑顔で振り向いた結衣へ彼は真剣な表情でこう切り出した。

 

―――雪ノ下に連絡を取ってくれないか?



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男として、女として

彼女の出番はもう少し先です。今回は三人が大人になるための話。これは、個人的には高校生相手に早い話題ですのでね。


―――雪ノ下に連絡を取ってくれないか?

 

 その問いかけの意味と意図を結衣もいろはも瞬時に察した。八幡がゆいこの母親は彼女だと、雪ノ下雪乃だと思ったのだと。それでも結衣は嫌がる事なく頷き、ゆいこを彼へ手渡すとスマホを取り出してメールの準備を始める。その間もいろはは夕食の準備を、八幡はゆいこを抱き抱えて結果を待つ。

 

「…………来た」

 

 一瞬ではあるが八幡といろはが揃って息を呑んだ。結衣はその返信内容へ目を通し、やや複雑な表情を浮かべる。それは八幡にはとても気になる反応だった。

 

「えっと、そのまま読むね?」

「ああ」

「その子の母親が誰でも一年経てば帰れるはず。もしそうじゃなければもっとこちらへ注意喚起などをするはずよ。それがない以上は下手な詮索は止めて一年をどうやって乗り切るかを考えた方がいいわ」

「うわぁ、雪ノ下先輩らしいなぁ。これ、要するに会いたくないとか関わりたくないって事ですよね」

 

 いろはの真っ直ぐな一言に八幡が内心で同意する。詳しい理由は定かではないが、雪乃が八幡と関係を持とうとしていない事だけは伝わったのだ。その事で彼の気持ちが若干凹んだのを結衣が察したのだろう。どこか苦笑いしながらこう擁護したのだ。

 

「きっとゆきのんも驚いてるんだよ。で、どんな顔をして会えばいいのか分からないんだと思う」

「あー……それは有り得ますね。雪ノ下先輩も対人関係不器用ですもん」

 

 二人の会話は八幡の痛い部分も突いていた。いろはには大学でも付き合いがあったから平気だったが、結衣とはやはり緊張したのだ。それでも会ったのはゆいこのためという大きな理由があればこそ。雪ノ下にとってはゆいこはそこまでの理由にならないのだろう。何せ未来から来た八幡の子であると分かっているだけだ。そこについて雪乃が興味を持たなければならない理由はない。

 

(雪ノ下が今更と思ってもおかしくないしな……)

 

 何せ彼が逆の立場だとすれば、気にはなるがわざわざ顔を合わせようとはしないからだ。が、そこで彼は気付く。結衣がどうやって雪乃へ自分の現状を伝えたのかを確かめておかないといけないと。

 

「由比ヶ浜、雪ノ下へ送ったメール見せてもらえるか?」

「え? いいけど……」

「すまん」

 

 結衣が見せた文面は、ゆいこという八幡の子供が未来からやってきた事。一緒に送られたであろう手紙には一年間は元の時代へ戻れない事。そして母親と違う相手だとゆいこに何らかの変化が出る事が書いてあった。そこに彼が結衣に送った画像が添付されている。

 

「……サンキュ、由比ヶ浜。助かった」

「うん、でもこれがどうしたの?」

「雪ノ下の返答の意味を考えたかった。それだけだ」

「そうなんだ。ゆきのんの気持ち、分かりそう?」

「こればっかりは本人が言わない限り無理だ。俺に出来るのは精々が予想するぐらいか」

「ヒッキー、その」

 

 その答えに結衣が尋ねようとした瞬間、いろはの元気な声が室内に響いた。

 

「出来ましたよ~!」

「おう、助かる。由比ヶ浜、お前も良ければ食ってけ。一色、足りるよな?」

「当たり前ですよ。結衣先輩を出迎えた時にもう何とかするべく考えてたんですから」

 

 自慢げに胸を張るいろはに八幡の視線が自然とある一点へと吸い寄せられ、不自然ではない程度に逸らされた。が、当然それに気付かぬいろはではない。やや嬉しそうに笑みを浮かべつつテーブルに料理を並べ始めた。一方で結衣も八幡の視線がどこへ向いたかを理解しやや膨れ面を見せていた。

 

「ヒッキー? さっきの気付いてるからね?」

「……その、悪気はないんだが」

「ううん、怒ってるのはいろはちゃんの事じゃないから。ヒッキー、ゆきのんの事教える気がないからだよ? ちゃんと聞かせて欲しいな、ヒッキーがゆきのんの気持ちをどう考えたのか」

「由比ヶ浜……」

 

 どこか悲しげに、でも嬉しそうにそう告げて結衣は八幡からゆいこを抱き上げてテーブルへと向かう。その背中を見つめて彼は静かに息を吐いた。改めて思い出していたのだ。あの奉仕部での日々で結衣がどういう立ち位置をしていてくれたかを。彼女は常に雪乃と八幡の繋ぎ役だった。バランサーとでも言えばいいのか。人付き合いが苦手な八幡と下手な雪乃を取り持つのが結衣の役割だったのだ。

 

 その後はいろは作の料理を食べ、結衣を八幡が駅まで送る事となった。その道中、八幡は結衣へあの雪乃のメールから予想した事を話した。

 

「これは俺の推測だ。本当に雪ノ下が考えている事かどうかは自信が無い。その上で聞いてくれ」

「うん」

「雪ノ下はあのメールと画像を見ておそらくお前達のように信じてはくれたはずだ。だからこそ、自分が関わりたくないと思った。何故なら自分へメールが来ると言う事は、既に由比ヶ浜はゆいこの母親ではない可能性が高いと俺が考えていると予測できるからだ」

「え? どうしてそれで?」

「……俺の希望的観測を含めての答えだ。雪ノ下は画像とメールからお前が母親ではない事を察した。そして自分こそが母親ではないかと踏んだんだ。だけどもし自分が関わってゆいこに変化が起きればどうだ? 次に俺が心当たる存在は誰になる?」

 

 その八幡の問いかけに結衣は少しだけ考えて小さく「あっ……」と声を漏らした。そう、いるのだ。雪乃に似ていて八幡との関わりがある女性。しかも、こんな事を聞けば必ず首を突っ込んできそうな存在が。結衣の雰囲気から八幡もそれを分かったと察したのだろう。

 

「雪ノ下さんがもし母親だったとなれば、面倒な事になるのは目に見えている。だから雪ノ下はこれ以上母親探しをするなと言ってるんだろう」

「で、でもそれじゃゆいこちゃんが……」

「……ゆいこの事はこうとも考えられる。お前や一色が抱き抱えて変化しているのは、俺がまだ伴侶をしっかり決めていないためのものだ。ゆいこ自身は生まれても、母親が絶対に定まっていない事を表してるんじゃないかと思う」

 

 あまりの事で結衣は足を止めた。八幡は少しだけ歩いて振り返る。彼女は、怒っていた。

 

「由比ヶ浜……?」

「ヒッキー、ゆいこちゃんは今の状態が本当の、本物のゆいこちゃんだよ。あたしやいろはちゃんだと変わるんなら、それはゆいこちゃんじゃないゆいこちゃん。どうしてそう思わないの?」

 

 本物と言い換えた事に八幡が内心で呻く。あの青臭さが強かった頃、彼が涙ながらに言った言葉は成人した今では完全なる黒歴史と化していた。だからと言って止めてくれとも言えないのだ。あれは彼が心の内に秘めていた気持ちの吐露だったからだ。

 

「どうなってもゆいこはゆいこだ。そう思うのはいけない事か?」

「……いろはちゃんだと髪色違うんでしょ? あたしでも今のゆいこちゃんじゃない。それってやっぱり違うと思う。ゆいこちゃんはヒッキーと似たクセ毛があって、黒髪の子。そうなるお母さんとヒッキーが結ばれないと生まれないんだよ。ヒッキー、あたし思うんだ。ゆいこちゃんって、もしかしたらこのままじゃ生まれないから現れたんじゃないかって」

 

 結衣の考えは八幡もどこかで考えていた事だった。何故なら、もし今回の事がなければ彼はいろははともかく、結衣や雪乃へ連絡を取ろうとしなかっただろうから。黙り込んだ彼に結衣は優しく微笑んで告げる。

 

「もしゆきのんがゆいこちゃんのお母さんじゃないなら、陽乃さんがそうだって可能性が出てくるんでしょ? じゃ、もし陽乃さんも違ったら? ううん、こうかもしれない。今のゆいこちゃんはお母さんがいないからヒッキー似なんだって。ヒッキーが本気で結婚したい人決めたら、その時こそゆいこちゃんは本物になれるんだよ」

「俺が……決めたら……」

「だからゆきのんとゆいこちゃん会わせるべきだよ。ヒッキー、ゆきのんの連絡先教えるからちゃんとあたしと同じで踏み出してあげて。その一歩をゆきのんも待ってるから」

「由比ヶ浜……」

「もしそれでもゆきのんが振り向いてくれない時は、あたしがいるって事思い出してくれるといいかなって。あたし、ゆいこって名前、いいなって思うから」

 

 目に涙さえ浮かべて微笑みかける結衣に八幡は思わず見惚れた。髪型はあの頃と違っても、その慈愛は変わらない。いや、もっと深くなっているように彼は感じた。こうして彼のスマホに初めて雪ノ下雪乃の名が登録される事となる。だが、すぐに連絡を取る事は彼には出来なかった。まだ踏ん切りがつかなかったのもある。しかし一番の理由は怖かったのだ。自分自身で連絡を取り拒否される事が、拒絶される可能性が怖かった。故に彼はこの日はそのまま自宅へと戻る。そこでいろはからある提案をされる事を知らずに。

 

「ここで一年間同居!?」

「はい、いけませんか?」

 

 にっこりと笑みを見せるいろはに同調するような嬉しそうな声をゆいこも出す。八幡にとっていろはの提案は理解出来るものだった。だが、あくまでも昨夜の宿泊は緊急的なものであり、それを日常とするつもりはなかったのだ。そこにはゆいこが夜泣きを一切しなかった事に加え、そもそも不必要に泣き出すような事もなかったためである。

 

「あのな、お前言ってる意味分かって」

「私、ゆいこちゃんのお母さんになりたいんです」

「……は?」

「先輩、雪ノ下先輩が好きなんですよね? 違いますか? もし違うなら私と付き合ってください。ずっと、あの帰りの電車から好きでした。私、葉山先輩よりも貴方が、比企谷八幡さんが好きだったんです」

 

 絶句。それが八幡の反応だった。帰り道の結衣もそうだが、ここにきていろはまでも告白をしてくるとは思わなかったのだ。だが、その根底にあるのがゆいこの存在だとすれば納得出来てしまう。何故ならば彼も同じだからだ。ゆいこという幼い命。それがもしかすると失われるかもしれない。そう思うからこそ彼も目を背ける事を止めたのだから。

 

「……一色、気持ちは嬉しい。だけど」

「分かってます。雪ノ下先輩次第ですよね?」

 

 間髪入れずに告げられた言葉に彼は今度こそ完全に何も言えなくなった。二人の女性は揃って見抜いていたのだ。彼が一番誰に心動かしていたのか。誰に彼が心惹かれていたのかを。

 

(敵わないな、こういう事への女の敏さには……)

 

 上手く隠せていると思っていただけに衝撃だったのだろう。八幡は力なく笑って項垂れるのみ。いろははそんな彼に少しだけ悲しそうな表情を見せるも、すぐに真剣なものへ切り替えて口を開く。

 

「ゆいこちゃんのお母さんが仮に雪ノ下先輩だったとしても、私は諦めませんから」

「……どうしてだ?」

「先輩、そこは分かりますよね? もし本気で私の言っている意味分からないなら怒ります」

 

 いろはの言う通り、八幡は彼女の真意を悟っていた。雪乃がゆいこの母だとしても、彼が彼女を伴侶として選ばない限り、あるいは雪乃がそれを受け入れない限り身を引くつもりはないと告げたのだ。結衣とは違っていろはは前に出る事を選んだ。それこそが彼女の八幡への接し方だったからだろう。

 

「いつ先輩が雪ノ下先輩に連絡するか分かりませんが、私はゆいこちゃんの面倒を見る人が出来るまで部屋に帰りませんからそのつもりで。何ならそのまま内縁の妻にでもなりましょうか?」

「それは……」

「嫌ならちゃんと動いてください先輩。もう四年以上待ったんです。これで答え出してくれないと、私だけじゃなくて、結衣先輩も雪ノ下先輩も報われないじゃないですかぁ」

 

 若干涙ぐんだ声に八幡は顔を上げた。いろはは今にも泣きそうな顔をしていた。

 

「一色……お前……」

「分かってましたよ。先輩が迷ってるのは奉仕部のお二人のどちらかって事ぐらい。でも、でも好きになっちゃったんです。無自覚に女心掴みすぎなんですよ、あの頃から先輩は。下心がないからでしょうね。雪ノ下先輩も結衣先輩も多分そうだと思います。先輩の言動は下心がないから響いちゃうんですよ。良く見られたいとか良く思われたいとかないから……だからときめいちゃうんです」

 

 涙ながらの独白は八幡の心へ幾多もの棘を刺す。あの高校二年から変わり出した彼の青春。その功罪を突き付けられているようで。逃げ出したいし耳を塞ぎたい。それでもそうしないのは、彼が良くも悪くも根底が変わっていないからだろう。有りもしない本物を求めていた頃から、彼は未だに変わっていない。だが、それも静かに変化が訪れ始めている。ゆいこという来訪者が起こした波紋によって。

 

「先輩、ちゃんと自分の本物の気持ちを見つけてください。結衣先輩や私のためにも。そして、雪ノ下先輩のためにも。お願いします」

「…………ああ、分かった。ゆいこのためにも、な」

「先輩……」

 

 いろはの目に映っていたのは初めて見る顔の八幡だった。決意を固めたような、覚悟を決めたような、そんな凛々しさを感じさせる顔。男の顔をした彼だった。

 

「とりあえず、お前の申し出は有難く受ける。ゆいこの事、頼む」

「はいっ!」

「……布団でも買うか。当分はお前用で、将来的には小町用の布団としてな」

「そこはせめて来客用って言いましょうよ」

 

 こうしてこの日は終わる。八幡、結衣、いろは。三人に少なからずの変化を起こして……。

 

 

 

「何かあったのか?」

 

 翌朝、いつものように八幡が仕事をしていると、そう社長から声を掛けられた。どういう意味か分からず、振り向いた彼は思わず問い返した。

 

「と言うと?」

「いつもは休み時間ギリギリまで会社に戻らんお前が、昨日は飯食ったら戻ってくるわ仕事を片付けるわで驚いたのさ。で、カミさんは女だと言ってたんだが……その辺りどうだ?」

 

 ある意味で当たっているだけに八幡は咄嗟に返す言葉が浮かばなかった。それが何よりの返答だった。社長は口元を吊り上げると小指を立ててみせる。

 

「ホントにこれか? お前さんもそっちはちゃんとしてるんだな」

「いや、そういう事じゃなくて……」

「照れるな照れるな。いや、実を言うと安心したんだ。俺は、お前さんがそこまでして定時で帰りたがってるんじゃないかって思ってな」

「それは……ないとは言いませんが」

「おい、そこは嘘でもないって言い切れ。まぁ、仕事なんか碌にせず帰る奴よりも圧倒的にマシだがな。とにかく、これ絡みならしょうがない。お前ら若い奴らは、そっちに夢中な方が正しいわな」

 

 がははと豪快に笑って社長は八幡の肩を少し強めに叩いた。その接し方がかつての恩師と重なり、彼は思うのだ。また自分は人に恵まれたのだと。少々強引な方が彼としても接しやすいのだろう。それでも正すべき事だけは正さねば。そう思ってこれだけは告げた。

 

「彼女じゃありません。高校の同級生です」

「そうかそうか。俺のカミさんも高校の同級生だ。どこでそういう相手と巡り会うか分からんな、お互い」

「だから……いえ、もうそれでいいです」

 

 これ以上何を言っても無駄だ。そう判断して八幡は項垂れた。と、そんな彼へ社長がこう耳打ちする。

 

―――で、それだけじゃないんだろ? 昨日の朝から今までで何があった?

―――っ?!

 

 思わず顔を上げた八幡が見たのは、真剣な表情をした社長の姿だった。

 

「な、何で……」

「お前さん、昨日の出社時の顔分かってなかったんだな。今までで一番やる気に満ちてたんだよ。あれは女が出来たとかじゃない。もっと大きな、例えば守るもんが出来た奴の顔だ」

 

 社長の口調は優しく噛み締めるようなものだった。自分の見立てが間違っていないと確信している。そう八幡には分かった。そして、それがどうしてかも。彼には二人の子供がいるのだ。

 

「詳しくは聞かないでやる。何せ良い事だからな。今のお前からは何て言うか、生きるために頑張ろうって感じがするんだ。それを無くして欲しくない」

「社長……」

「自分なんていつも見られてないとでも思ったか? 言っとくが、この会社にいる奴らは俺からすればみんな家族みたいなもんだ。それぐらいの気持ちがないと、こんな吹けば飛ぶような会社やってけないんでな」

 

 苦笑して頭を掻く社長の姿に八幡は何も言う事が出来なかった。古臭い考え方かもしれないが、それ故の良さもある。昔から培われてきた事や物には、それなりの理由があるのだと身を持って感じた瞬間だった。

 

「そこにきての退社時の言葉だ。これは何か今までの自分を変えなきゃならん事でも出来たなと、そうピーンと来たわけよ。だから、ま、いつでもいい。お前が話したくなったら話してくれ。仕事の事でも、生活の事でも、俺に出来る事なら力になってやる」

「……すみません。ありがとうございます」

「ああ、ちゃんと謝罪と感謝を言えるなら一人前だ。子供と大人の差はそこだと俺は思ってる。謝るべき時に頭を下げ、礼を告げるべき時にも頭を下げる。それが出来ない奴の何と多い事か」

 

 そこから社長の愚痴が始まる―――と思いきや、それはそこに現れた彼の妻によって不発に終わる。

 

「アナタ、何してるの? 今日は義郎さんとこと打ち合わせでしょ?」

「ああ、そうだった。じゃ、仕事頑張ってくれ」

 

 慌てて動き出す社長の背中を見送り、八幡は社長夫人へ頭を下げた。

 

「助かりました。あのままじゃしばらく話を聞かされてました」

「いいのよ。それにしても、あの人もたまにはいい事言うわね。大人と子供の差はちゃんと謝罪と感謝が言える事、か……」

「聞いてたんですか?」

「ええ、悪いとは思ったけれどね。比企谷君はもう大人になれたのねぇ」

「……はい、やっとです」

「じゃあ、次は男になる番かしら?」

 

 少しからかうように笑って夫人は八幡へ顔を向ける。その意味する事を察して彼は思わず顔を背け―――ようとして止めた。その反応に夫人が小さく驚いたように目を見開いた。そんな彼女に八幡は目を合わせてこう返した。

 

―――成れたらいいなと思います。

 

 

 

 OLのたまり場と言えば給湯室。結衣もその御多分に漏れずそこの常連となりつつあった。

 

「でさ、課長がわざわざ肩へ手を置いて来てさ~」

「うわ、最悪。セクハラじゃない、それ」

「だけど誰にでもやってるし、さすがに肩へ手を置いたぐらいで騒ぐのもねぇ」

「明確な証拠か厄介な行動でもない限りは我慢か。ま、仕方ないかもね。結衣はそういう事ないの?」

「……え?」

 

 どこか上の空で同僚二人の話を聞いていた彼女は、咄嗟に反応出来なかった。何せ、結衣の頭の中は昨日のやり取りで一杯だったのである。八幡へ期せずして告白してしまった事。それに対する彼の反応は悪くはなかった。だがお世辞にも良いとも言えなかった。それが結衣の中でずっと後悔を生んでいた。もっと良い言い方があったのではないか。もっと上手い言い方があったのではないかと。そんな結衣の心情を同僚達が察するはずもない。だが、いつも明るい彼女がどこか暗いのは察したのだろう。二人して結衣の顔を見て小さくため息を吐いた。

 

「ね、結衣。何があったの?」

「え?」

「今日、朝から妙に暗いよ? 何? 男にでも振られた?」

 

 その一言に結衣の顔が曇る。それだけで二人は大体を察した。いつの世も色恋に聡いのは女性である。

 

「結衣、ごめん。ちょっと無神経だったわ」

「う、ううん。そんなんじゃないんだ。そんなんじゃ……」

「あー、なら余計ごめんだわ。うん、今日のお昼は私が結衣の分奢るから」

「て行っても社食でしょ?」

「いいじゃん。で、一体何があったの?」

 

 同僚二人の姿がどこかあの頃の親友二人に重なって見え、結衣は気付けば昨日の事を話していた。ただ、ゆいこの事は勿論伏せて、高校からの片思い相手へ告白にも似た事をしたとだけ告げて。

 

「……うん、今日の話で分かった。結衣、あんた処女拗らせ過ぎ」

「ええっ!?」

「ちょっと言い方ってもん考えなよ」

「でもさ、完全そうじゃん。いつまで待つ女するつもりよ? その男の事好きならやらせてあげるって言いな。その反応で決まりだから」

 

 身も蓋もない意見ではある。だが、彼女には分かったのだ。八幡が女性経験がなく、またそれを怖がっている相手だと。そしてそれは目の前の同僚にも言える事だとも。その意見に何も言えず赤くなっている結衣へもう一人もどこか仕方ないといった表情で声を掛ける。

 

「まぁ、あたしも同じ意見かな。結衣、さすがにもう学生じゃないんだからさ、いい加減割り切りなよ。来ない男ならこっちから行く。それでも来ないならさようなら。大体高校からの知り合いなら、普通大学の頃にケリつけるでしょ?」

「そ、それは……」

「振られるのが怖かった? それとも向こうからコクって欲しい? どちらにせよね、結衣みたいなイイ女彼女にしたがらないなんて、余程の男じゃない限りバカだから。男十人に聞いたら、八人はあんたの男になりたがるって」

「そうそう。大人になりなよ結衣。メール送って今夜勝負決めな」

 

 同僚二人の言葉に押される形で結衣は八幡へメールを送る。文面は以下の一言。

 

―――ヒッキーはあたしとエッチしたい?

 

 当然そのメールに彼が大いに唸り、絞り出すように返したメールは以下の通り。

 

―――察してくれ。

 

 そこに彼の成長と変化を感じ取り、彼女は赤面しつつ小さく喜んだ事を記す。



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踏み出す一歩は誰のため

遂に登場の彼女。そして終わりも近付きます。


「あれ、一体どういうつもりだよ?」

「そのままの意味だよ」

 

 その日、八幡の部屋に結衣の姿があった。日曜ともあり、いろはは自分の部屋の掃除をするためにそこにはいない。ゆいこは結衣が抱き抱えている。そう、今日は彼女がゆいこの母代りだった。

 

 ゆいこを抱き抱えて、少しだけ頬を赤くしながら結衣は八幡へ己が思いを告げる。冗談ではないと分かっていてもさすがにそこまでは踏み込めない彼へ、自分は本気でありいつでも構わないと言わんばかりに。

 

「……でも、あの時お前は」

「たしかにゆきのんが振り向いてくれない時はって言った。でもねヒッキー、あたしは何もしないなんて言ってないんだ。ヒッキーがゆきのんへ踏み出すのが遅れるなら、その間あたしはいろはちゃんみたいに詰め寄るよ? 女、だもん」

 

 同僚から言われた言葉で結衣は少しだけ変わった。いや、踏み込んだ。来ないならこちらから行くと、あの文化祭の時にそう言った事を遂に実行に移したのだ。

 

「由比ヶ浜……」

「いろはちゃんも本気なら、あたしだって本気だもん。ゆいこちゃんのお母さん、ヒッキーが決められないなら決められるようにするだけ。あたし、子育ては上手くなりそうな感じしない?」

「……かもな」

 

 笑顔で八幡にそう問いかける結衣へ彼はそう返すのが精一杯だった。ゆいこのクセ毛は見えたり見えなかったりしている。その意味する事を考え、彼はどうしたものかと思い始めていた。実は同じように、いろはといる時のゆいこの髪色は変化したりしなかったりとなっていたのだ。

 

(本当に由比ヶ浜の言った事が正しいのかもしれん。ゆいこは俺が相手を決めた時、初めて本物になるんじゃないか? だから一色と由比ヶ浜で揺れてる今は、その影響を表したりするんだろう)

 

 最初は一瞬だった。それが今は出たり消えたりとなっている。それだけ今の八幡は揺らいでいるのだ。真剣に想いを告げてきた二人の女性に対して。もう勘違いだの気のせいだのと逃げられなくなった彼には、元から好意を見せてくる結衣といろはは天敵と言ってもいいぐらい相性が良かった。

 

「で、いつゆきのんへ連絡するの? もうあれから二週間近く経ったけど……」

「はっきり言う。未だに踏ん切りがつかん。情けない話だが、ゆいこがお前や一色へ懐いているのを見る度に気持ちがぶれる」

「……ゆきのんが母親だったら、もしくは他の誰かが母親だったらって?」

「ああ、情けないと思うがそうだ。それに、仮に雪ノ下が母親だったとして、俺はそれだけであいつをそういう相手と考えるのは違うと思ってな」

 

 八幡の言葉に結衣は一瞬驚きを浮かべ、そして嬉しそうに笑みを見せた。ゆいこのために母親を。そう思っていながら、雪乃が例えそうだとしてもそれだけを理由に恋人となってもらうのは違う。そう八幡が考えている事が嬉しかったのだ。それは彼女のためでもあり、自分のためでもある。

 

(良かった。これで、ゆきのん次第だけど、あたしやいろはちゃんもちゃんとヒッキーと向き合えるね)

 

 なし崩し的に振られる事だけはなくなった。それが結衣を笑顔にし、つられるようにゆいこも笑顔を見せる。その楽しげな声に結衣と八幡の視線が動いた。

 

「……ゆいこちゃん、ホントによく笑うよね」

「ああ。で、空腹やおむつ以外で泣く時は基本一色やお前が悲しんだりする時だ」

「だよねぇ。これって、あたし達の気持ちを感じ取ってくれてるのかな?」

「そう考えるのが妥当だろ。何せ、お前や一色が少しあやすだけですぐに泣き止むしな」

 

 二人してゆいこの頬を優しく突いたりしながら会話する。それを第三者が見ていれば完全に親子と思っただろう。それぐらい今の彼らは夫婦のようだった。

 

「ね、ヒッキー」

「ん?」

 

 そんな中、結衣が何気ない感じで会話を切り出す。対する八幡も似たような雰囲気で声を返す。共に視線はゆいこへ向けられたままで。

 

「あたしさ、気付いたんだ。ゆいこちゃん、一年で帰れるじゃないんだよね。一年は帰れないんだよ。これ、どういう意味だと思う?」

 

 八幡は返す言葉がなかった。見落としていた訳ではない。ただ、そんな事は有り得ないで欲しいと思っていたのだ。そして、何故今結衣がそれを聞いてきたのかも分かる。いろはが言った言葉の裏にはこれが関わっているのだから。

 

「……帰るには何か条件があるのかもな。それも、俺が自分で気付かないといけないような」

「あたしもそう思うよ。あの手紙を送ったのって、もしかするとヒッキー自身じゃない? だからヒッキーが考えそうな事を逆手に取って、わざと奥さんを探すように仕向けたとか?」

「ないとは言い切れん。雪ノ下かとも思ったが、俺の妻になっているのならそれとなく何がヒントを残してそうだ。だが、あの手紙には妻のヒントらしきものが一切ない。しかし……」

「そうなると、ゆいこちゃんがどうやって生まれるか分からなくなるもんね~。名前の由来も分からないし、まさか小町ちゃんが産んだとか?」

「ないから。それだけは絶対ないから」

 

 心から断言した。いくら何でも実の妹に子を産ませるなどしないしさせない。そう強く思って八幡はその可能性を否定した。結衣もそれを分かっていたのだろう。どこか苦笑して謝った。

 

「ごめんごめん。だけど、そうなると謎だらけだねぇ」

「そうだな。ま、そこは正直どうにかなるだろ。俺が踏み出せれば、な」

 

 するとその彼の言葉に喜ぶような声をゆいこが出した。その反応に八幡だけでなく結衣も驚きつつ、揃って笑顔を見せた。そして日も暮れ、いろはが戻って夕食の支度を始めた頃、八幡のスマホに着信があった。相手は妹の小町である。何事だろうと思って彼は電話に出た。

 

「小町か? 一体どうした?」

『お兄ちゃん、最近何かあった?』

「は?」

 

 突然の問いかけに八幡は素の声を返した。いきなりの質問では内容が分からなかったためである。しかも、問いかける小町の声はどこか不安そうだった。

 

『一週間ちょっと前からかな。雪乃さんが妙にメールを送ってくるようになってさ。しかも、聞いてくるのはお兄ちゃんの事ばかりで』

「小町、その話を詳しく聞かせてくれ。雪ノ下は俺の何を知りたがってるんだ?」

『え? うんと、大学で彼女が出来た事はないかとか、仕事に就けたのかとか』

「俺の勤務先を聞いたりしたか?」

『う、うん。もしかして教えちゃいけなかった?』

 

 その失敗したとばかりの声に八幡は小さく笑みを浮かべた。むしろ逆だったのだ。これまであの社長や夫人が一度もそれらしい事を言ってきていない以上、未だに雪乃は会社を訪れていない。なら、今後やってくる可能性がある。それはさすがに避けたい。そう考えて八幡は小町へ感謝を述べた。

 

「いや、そんな事はない。ありがとな、小町。おかげで俺も決心出来た」

『へ? ま、まぁお兄ちゃんの役に立てたならいいけどさ』

「おう、役に立ったぞ。今度実家に行く時は何か土産を持ってくわ」

『おおっ! じゃ、期待してるね!』

 

 久しぶりの兄妹の会話はあっさり終わった。だが、その内容はとても濃いと言える。結衣もいろはもその会話を聞いていたのか、どこか優しい表情で八幡を見つめていた。彼の言った決心がどういう事かを分かったからだ。それを裏付けるように、彼はそのままスマホでどこかへメールを送る。しばらくして、スマホが振動した。しかし、何故か八幡はそれを見つめるだけで動きを見せない。

 

「ひ、ヒッキー? スマホ鳴ってるよ?」

「ああ……」

「出ないの?」

「……メールなんだ。中身を見るのが少し怖くてな。でも、大丈夫だ。もう読む」

 

 言いながら八幡はスマホを操作しメールを開いた。そこにはたった一文だけが書かれていた。

 

―――分かったわ。

 

 彼が雪乃へ送った内容は、まず自分である事、連絡先を結衣に教えてもらった事、最後にこれから雪乃のマンションで直接会って話がしたい事の三点だった。その返事が了承。八幡は少しだけ息を吐くと、ゆいこを抱いている結衣へ視線を向けた。

 

「これから雪ノ下と会って来る。だから、一色と一緒にここでゆいこと待っててくれるか?」

「……うん、いいよ。気を付けてね」

「おう」

「先輩、食事は三人分でいいんですか?」

 

 そのいろはの問いかけの意味を悟り、八幡は僅かに逡巡したがこうはっきりと返した。

 

―――いや、四人分だ。どうなろうと連れて来る。

 

 どこか男らしさを感じさせる言い方にいろはだけでなく結衣も、そしてゆいこも笑顔を見せた。それを背に受け、八幡は一人あのマンションまで向かった。駅へ向かい、電車に乗って最寄駅へ。かつて修学旅行での一件の後に出会った事を思い返し、やはり自分はあの頃から成長していなかったと実感しながら彼は歩く。

 

(結局俺はいつだって動く理由を誰かに与えられないと動けなかった。それじゃもうダメなんだ。大人になるって事は、男になるって事は、自分の意思と気持ちで動く事だ。責任を自分自身で持つ。それを俺は今まで出来なかったんだ)

 

 ゆいこが来て、ようやく彼は成長出来た。自分一人なら何とでもなるが、幼い命を抱えた瞬間、彼はあまりにも無力だった。今もゆいこから動く理由を与えられてようやくかつての間違いを、誤解を解き直す事が出来ている。それではもうダメなのだと、そう強く感じながら八幡はマンションを目指した。やがてその視界に見慣れた景色が見えてくる。そしてマンション前の呼び出しパネル前まで到着した。

 

「……覚えてるもんだな」

 

 何度も見た訳ではないが、それでも雪乃の部屋番号を覚えていた事。それに苦笑いを浮かべながら彼は待った。

 

『はい?』

「俺だ。比企谷だ。開けてくれるか?」

『……本当に来たのね。いいわ、待ってて』

 

 ゆっくりと開くドアを見て、八幡は表情を引き締め直して歩き出す。解は解き直せるかもしれないが、失われた時間は戻らない。ならば、もう誤解を出す事は出来ないのだ。そう、自分にとっても彼女にとっても、そしてあの二人にとっても。エレベーターを使い一気に目的の階まで向かう八幡。その足取りが少しだけゆっくりになる。その歩みはやがて一枚のドアの前で止まった。インターホンを押し、しばし彼は待つ。するとドアが静かに開いた。

 

「……久しぶり、だな」

「ええ、そうね」

 

 長い黒髪を掻き上げながら雪乃は八幡を見た。その視線を彼も逸らす事無く受け止める。そんな彼の反応に一瞬ではあるが雪乃が息を呑んだ。気付いたのだ。目の前の男がかつてのままではない事に。

 

「雪ノ下、話は分かってると思う。だが、その前に別の話のけりをつけておきたい」

「別の話?」

「ああ、そうだ。俺達が間違ったままで放置してきたあの頃の事だ」

 

 間違いなく雪乃の表情が驚愕に変わった。それでもドアを閉めようとしないのは、彼女なりの強さの表れなのか。それとも意地のようなものであろうか。どちらにせよ、八幡にとっては有難かった。拒絶されない事。それが一番大事なのだから。

 

「今回の事で分かったんだ。俺はやっぱり、周囲と自分は違うと思い込んでた痛い奴だってな。ノリしかなくて、しかも誰かとつるまないと生きていけない奴と、そう嫌っていた奴の方が実社会では上手く世渡り出来る。それを見ない振りして、俺は最低限の協調さえすれば何とかなると思って、それが出来ると思ってたガキだった。今の職場の社長に言われたよ。俺みたいな奴でも来た事を会社の人達は喜んでるみたいでな。可能なら受け入れたいんだと。俺もそれにどこかで気付きながら、そんな事はないと思って、そして仕事さえやれば後はどう過ごしても勝手だと思ってた」

 

 きっと、それは別の会社であれば通用したのかもしれない。だが、それは通用するであって適切ではない。そう、結局彼は成人してもあの頃と同じ事をやっていたのだ。問題の解決ではなく解消。周囲を頼るのではなく個人で何とかしようとする考え方で。

 

「結局最低限の協調さえ出来てなかったんだ。出来てると思っていられたのは、実際は周囲の大人達の理解と寛容に助けられていただけ。な、あの頃と同じだ。俺はお前達や平塚先生のおかげで、総武では何とか上手くやれていただけだ。学校なんて閉鎖空間じゃなくなった瞬間、俺のやり方なんて通用しない。下手をすれば無駄に敵ばかり作って生きていけなくなる」

「比企谷くん……」

「雪ノ下、俺はまだ子供だったんだ。学校が生活のほとんどを占めていたから、俺もあんな生き方と考え方が出来た。通用させられた。だけど、社会を生きていくには、家族を守るためには時にそれを曲げたり、あるいは押し殺さないといけない時が来る」

 

 守るものがあるからこそ、八幡の両親は仕事に打ち込んだ。いや、打ち込めた。今なら八幡もそれが痛い程分かるのだ。ゆいこを一人で世話しなければならないとなった場合、金がどれだけ必要か。保育所の費用。無理ならばベビーシッターの費用。それだけでも痛いだろう。そこへミルクやおむつなどの代金だ。更に家賃や食費、水道・光熱費。考えただけで頭が痛くなるだろう現実がそこにはある。だからこそ八幡は分かったのだ。自分がいかに子供だったのかを。

 

「長々と話してくれたけれど、貴方のしたかったのは説教かしら?」

「いや、お前ならあの頃のままで生きていけるかもしれない。でも、俺には無理だったって事さ。それで、本題はここからだ」

 

 言ってから彼は深呼吸をした。その瞬間、雪乃が微かに息を呑む。

 

「雪ノ下雪乃さん、あの頃から好きでした。今日まで言い出せなかったヘタレですまん」

 

 頭を下げて雪乃の反応を待つ八幡。と、そんな彼の耳にかすれ声が聞こえてきた。

 

―――ズルいわ……。いきなり顔を見せたと思ったら、いつの間にそんな人になってしまったのよ? また、そうやって私を置いて行こうとするのね、貴方は……。

 

 その声に八幡は思わず顔を上げた。雪乃は涙を浮かべていた。だけど笑みを浮かべてもいる。その意味が分からず、八幡は困惑するのみ。それを雪乃も感じ取ったのだろう。笑みを少しだけ苦いものへ変えるとこう告げる。

 

「分からない? 今、貴方は私に何て言った? 好きでした。それだけよ。本来ならそこに続く言葉があるはずなのに、それを言わない辺りが本当に卑怯谷くんだわ。その続きを聞きたければあの赤ちゃんに会えと、そういう事なのでしょ?」

「……会ってくれるのか?」

「会わなければあの子の母は由比ヶ浜さんか一色さんになる。戦わずに負けるなんて私の在り方ではないの」

 

 そこにいたのは、紛れもなく雪ノ下雪乃であった。あの頃の、八幡が一目惚れした頃のままの女性がそこにはいた。彼女は一度部屋の中へと戻るとすこししてから外出の用意を終えて戻った。と、そこで八幡はある事を思い出した。雪乃の分もいろはが食事を用意している事だ。

 

「雪ノ下、お前晩飯はまだか?」

「ええ、それが?」

「実は、一色がお前の分まで用意してくれてるんだが」

「そう、それは助かるわ。一人分を作るのは少々面倒なのよ」

 

 その言葉を合図に歩き出す雪乃。八幡もその後を追うように歩き、すぐに並んで歩く事となる。歩きながら二人は高校を卒業した後の事を話題に話し始める。それはこれまでの時間を埋める作業のようであった。互いの知らない事を相手へ教える。だが、会話はやや八幡が主導していた。それもまた彼の成長だろう。時折雪乃が放つ罵倒さえ懐かしく思って受け止めながら、彼は少しだけ大人になった部分を彼女へ見せる。それがより雪乃の心を騒がせると知らぬままに。

 

 電車に乗り、駅から歩いてマンションを目指す二人。その道中でも会話は途絶えなかった。雪乃が詰まったり、あるいはその話題で会話を続けるのが難しくなる度に、八幡が自分の事を話題にして話を続けさせる。しかし、それはスムーズではない。どこかぎこちなく、また無理矢理な感が否めないものである。それでも、雪乃には自分との会話を途切れさせたくないとの意思表示と受け取り、内心でとても嬉しく感じていたが。

 

「ここだ。入ってくれ」

「お邪魔するわ」

「ゆきのーんっ!」

 

 入室するなり結衣がゆいこを抱き抱えたままで出迎えた。待っていたのだろう。その出迎えに雪乃が若干驚きと嬉しさを滲ませて息を吐いた。

 

「由比ヶ浜さん、驚かせないで。お久しぶりね」

「うん、最後に会ったの今年のお正月辺りだもんね」

 

 にこやかに話す二人を眺め、八幡は僅かばかりの懐かしさと寂しさを感じていた。あの頃は毎日のように顔を合わせていた二人でさえ、既に一月に一度も会わない。そこに流れた時間の残酷さを感じ取って。そんな彼の目の前では、結衣がゆいこを雪乃へ手渡していた。

 

「ちょっと重いからね」

「え、ええ……」

 

 どこかおっかなびっくりといった感じてゆいこを受け取る雪乃。するとゆいこの変化が一切起きなかった。ただ、今までで一番の嬉しそうな声を出したのだ。まるで本当の母に抱かれたように。少なくてもそう八幡と結衣は受け取った。

 

「……変化しないわね」

「じゃ、やっぱりゆきのんがお母さんなんだ……」

「待て。そう決めつけるのは早計だ。とにかくまずは上がってくれ。で、飯を食べてから話し合おう」

「そうね。由比ヶ浜さん、この子はしばらく私が抱いていても?」

「うん、いいよ。ゆいこちゃんも嬉しそうだし、ね」

 

 若干の悲しさを滲ませた声に八幡の心がざわつく。その理由を今の彼ははっきり分かっている。それでもまだ何も言えないのだ。彼は雪乃へ言った。好きでしたと。好きです、ではなく、好きでした。この意味を雪乃はきっと察している。そう彼は考えていた。

 

(あの頃なら、俺は悩みに悩んで雪ノ下と言えただろう。でも、今の俺には無理だ。一色と由比ヶ浜の告白を受けた今の俺は……)

 

 優柔不断。そう人は言うかもしれない。だが、彼からすれば初めての事なのだ。複数の女性から想いを寄せられていると自覚し、選ばなければならない事などは。それでも、もう先延ばしにもしない。ゆいこがいなければならない最低期間である一年。それをリミットに考えて答えを出す。そう彼は人知れず決めていた。

 

「一色さんも久しぶりね」

「はい、雪ノ下先輩もお変わりなく」

「変わりない……そうね、変わってないわ」

「ゆきのん……」

「あの、そういう意味ではないんですけど……」

 

 苦笑いを見せる雪乃に微妙な表情の結衣といろは。仕方ないだろう。この中であの頃に一番近いのは雪乃なのだ。それを何となくではあるが彼女も気付いているのだろう。

 

 大学時代も才女として名を馳せた雪乃であったが、その分言い寄られる事も増えたのは言うまでもない。それらを相手にする事で、彼女があの頃よりも幾分か鋭さを増したのは、ある意味では必然だったのかもしれなかった。いつしか男達は近付かなくなり、女達も遠巻きにするだけ。たまに雪乃と友人になろうとする者はいたが、深い付き合いにはなれずじまい。その問題点も彼女自身だと本人も自覚はしていた。それぐらい彼女は良い意味での変化とは無縁だったのである。

 

「雪ノ下、ゆいこが泣きそうだ。あまり落ち込むな」

「……そうみたいね。不思議な子だわ。こちらの感情を感じ取っているのかしら?」

「だと思いますよ。初日も私の気持ちを察して泣いちゃったぐらいですし」

「人の気持ちに敏感なのかな? ヒッキー、赤ちゃんってそういうものなの?」

「俺に聞くな。ただ、何となくゆいこはそこが敏感な気はする」

 

 四人に見つめられ、ゆいこは不思議そうにしているのみ。その愛くるしい表情に知らず誰もが笑みを零す。そしてゆいこは雪乃に抱き抱えられたままで過ごす事となり、食事中は女性達が代わる代わるでミルクを飲ませていく。その光景を眺め、八幡はその気持ちを大いに乱れさせていた。何せ、結衣が与える時はクセ毛が消え、いろはが与える時は髪色が変わり、雪乃が与える時は元に戻るのだ。それが自分の揺らぎを示していると強く実感し、その原因を考えてより悩んだ。

 

「本当に変化するのね」

「はい、でもここまで長い時間は初めてです。最初は一瞬だったんですよ?」

「最近は長くなりだしてるよね。やっぱりヒッキーが理由かな?」

 

 八幡へ注がれる三対の眼差し。それに彼は息を呑むものの、目や顔を逸らす事はしなかった。

 

「多分な。その事も含めてお前達に聞いて欲しい事がある」

 

 その切り出しに彼女達は黙った。ゆいこだけが指を咥えて八幡を見つめる。その行動に小さく微笑む八幡に三人が揃って息を呑んだ。そこに父性を感じ取ったからかもしれない。あるいは、彼が滅多に見せない表情だったかもしれない。どちらにせよ、その反応は三人の女性の心をときめかせる。

 

「ゆいこは一年は元の時間軸、つまり未来へ戻れない。そしてその戻り方も分からない。だから俺はゆいこが戻れる時までこの部屋で暮らすつもりだった。それで何とかなる。そう思っていたからだ。だが、雪ノ下が抱っこしても変化しなかった事で俺は一つの推測を立てた。ゆいこは、誰を母にするか不安定な存在なんだ。由比ヶ浜は以前こう言った。ゆいこはこのままでは生まれない命なんじゃないかと。俺はそれが一番可能性として高いと思う。その、ゆいこが現れるまでは、俺の中で一番恋い焦がれた存在は雪ノ下だったからだ」

 

 思わぬ告白に雪乃の顔が赤く色付く。それでもすぐにその色は薄くなる。分かったのだ。過去形だった事に。結衣といろははそこに気付いて雪乃と違う意味で顔を赤くしていた。

 

「あの日、一色がゆいこを抱き抱えた瞬間髪色が変化したのは、そのままでいけば一色が母になる可能性が高いとなったからだと思う。由比ヶ浜の時は、一色よりもその可能性が僅かに高いとなったのかもしれん。そして、最近の変化時間が長くなった事は、おそらく俺の気持ちの揺らぎが原因だろう」

「そう、だからあの時好きでしたと言ったのね」

「ああ、そうだ。今の俺はやっと、有難い事に、お前達の中で誰を選ぶかを考える幸せで不幸な状況になれた。正直言う。その答えはすぐには出せない。何せあの頃から考えて単純に五年以上だ。それだけ待たせてすぐに結論が出せたら、それは俺の本物の気持ちかと疑問符がつく」

「ヒッキー……」

「じゃ、どうするんですか? だからってまた何年もは待てませんし待ちたくないです」

 

 結衣が、自分の言った言葉を使ってくれたと感じ入る横で、いろはが当然の意見をぶつけた。雪乃は何も言わず八幡を見つめる。ゆいこは指を咥えたままで彼を見つめているようだった。その注目の的である八幡は、真剣な表情で静かに頭を下げた。

 

―――ゆいこが帰れるようになるまで最低一年。その一年間で必ず答えを出す。申し訳ないがそれまで待ってくれないか?

 

 静寂が室内を包む。雪乃も、結衣も、いろはも、誰もが目を疑っていた。あの頃、彼は滅多に頭を下げなかった。いや、彼女達が知る限り、頭を下げて真剣に謝った事がなかったと記憶しているのだ。それが出来ない人間ではないと分かっている。それでも、実際目の当たりにして強く感じたのだ。目の前の青年はあの頃のままではなくなっているのだと。

 

 子供と大人の違いは、謝罪と感謝をちゃんと言える事。あの社長の言葉通り、八幡はゆいこという守るべき者を得てやっと大人へと一歩を踏み出した。そして、それはそのまま男としての成長でもある。あの青春時代に彼へ想いを寄せた彼女達にとって、それはより想いを募らせる事だった。ある意味では八幡は頭を下げていて正解だったろう。何せ、今の三人は揃いも揃って惚れ直していたのだから。その顔を、耳を、真っ赤にさせる程に。

 

「……先輩、私は言いましたよ。ゆいこちゃんの面倒を見る人が現れるまでここで同居するって。なら、答えは聞くまでもないですよね?」

「いろはちゃん、そんな事言ったんだ。でも、それならあたしだって負けないよ。ヒッキー、あのメールは本気だから。今からなら丁度一年後になるぐらいでゆいこちゃん出来るんじゃない?」

「一色さんもだけど、由比ヶ浜さんもはしたない事を言わないの。比企谷くん、貴方の気持ちは分かったわ。正直言えば一年待たせるという辺りで有り得ない話よ。でも、ここで私だけが諦めたら一色さんや由比ヶ浜さんに負けるみたいで嫌なの。この意味、分かるわね?」

 

 とんでもない返答であった。いろはは予想通りであった八幡も、結衣と雪乃の言葉には驚くばかりである。特に結衣だ。今から子作りすれば、それがゆいこの帰還方法になるのではないかとまで言ってのけたのだから。思わず顔を上げて彼は三人を見た。そこには赤い顔をしながらも微笑む三人の美女がいた。

 

「……ありがとう。それと、今まで長い間待たせてすまなかったっ!」

 

 もう一度頭を下げる。今度は勢い良く。と、そのせいで彼は頭をテーブルに打ち付ける。鈍い音が室内に響き、三人が息を漏らすとの同時にゆいこが手を叩いて笑い出した。そのせいで八幡は照れくさいまま顔を上げ、三人は声を上げて笑う。その声に彼は拗ねるように顔を背けて息を吐く。まだそこまで大人になり切れない八幡であった。



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”ゆいこ”の意味と”パパ”の誕生日

次回で終わり。今回はタイトルままな内容。


「これで……いいかな?」

 

 ゆいこのおむつ替え。それを結衣が行っていた。彼女の横でいろはが見守っている。とはいえ、そこまで難しい事でもないので結果は約束されていた。

 

「うん、完璧ですよ結衣先輩」

「あはは、大げさだよいろはちゃん。でも、昔は紙おむつじゃなかったんだよね。どうやってたんだろ?」

「布でやっていたのよ。おしめと言ってたのはそういう事」

 

 哺乳瓶のミルクの温度を確かめながら雪乃が解説をする。今、休日の八幡の部屋は、かつての奉仕部部室のような場所となりつつあった。勿論毎週ではないが、それでも比較的彼女達が揃いやすくはなっている。

 

「相変わらずだな、ユキペディアは」

 

 家主である八幡は、どこか複雑そうな表情でテーブルに顔を乗せていた。何も雪乃の言った内容に対してそうなっているのではない。ゆいこの現状を見てそうなっていたのだ。

 

「それにしても、ゆいこちゃん変わったねぇ」

 

 結衣の言葉通り、あれから一月程が経過した現在、ゆいこの見た目はいろはの髪色でクセ毛がなく、色白の可愛らしい外見となっていた。まるで三人の女性の特徴を兼ね備えたかのように。それが意味する事を考え、八幡は複雑な表情を浮かべていたのだ。

 

「そうね。しかも、最近はこれで固定されつつあるのでしょう?」

「ですです。私が抱っこしても先輩が抱っこしても、結衣先輩でも雪ノ下先輩でも変化なしです」

「もしかして、これが本当のゆいこちゃんとか?」

「いや、それはない……はずだ」

 

 弱めの否定。それが限度だった。何せ、どこまでいっても推測でしかないのだから。未来からやってきた存在。その母親も謎ならば、どうして変化するかも謎なのだ。雪乃達三人の内の誰かが母親なのか。あるいは他の女性であるのか。それさえも確実な事が何もないのだ。

 

「まぁ、今のこの子の状態は、彼の本音を示していると見るべきね」

「あー、そっか。ヒッキーがあたし達の中でお母さんを選べないから」

「あるいは、三人の内なら誰でもいいとか?」

「そこまで自棄になってはいないと思うけど……」

「こっち見んな」

 

 咄嗟に返した言葉は所謂ネット用語の一つだった。無論、雪乃達にはその事は分からない。が、言ってしまった後の八幡が気恥ずかしそうな反応を見せた事で、何か別の意味があった事だけは察したのだろう。小さく笑みを零すと、雪乃は楽しそうに問いかけた。

 

「比企谷くん、どうして顔を背けるのかしら?」

「ほっとけ」

「でも、こうなるとゆいこちゃんの名前も由来が気になりますね」

「意外とあたし達の名前から一文字ずつ取ったとか?」

「雪乃と結衣でゆがかぶってるわ。ゆいこ。ゆが私と由比ヶ浜さんで、いが一色さん。では、この部分は?」

「それこそ結衣先輩が言ってたやつですかね? 何々の子って意味」

 

 女性三人の会話を聞きながら、八幡もぼんやりとゆいこの名前の意図を考えていた。雪乃と結衣でゆが共通という点に首を傾げたのだ。と、そこで思い出す事がある。それは、結衣が再会した日に彼へ言った言葉。

 

―――ゆいこって結衣の子って意味じゃない?

 

 その言葉を思い出して、彼は思わず立ち上がった。その音に三人の視線が彼へ向く。八幡は驚愕していたのだ。

 

「どうしたの?」

「……分かったんだ。ゆいこの名前の意味が」

「まさか、小町ちゃんの名前も混ざってるとか?」

「違う。ゆいこのゆの字は雪ノ下の名前だ。そしていは一色の名前」

「でも、それじゃ結衣先輩の名前が……」

「いや、ちゃんと由比ヶ浜の名前も入ってるだろ」

 

 八幡の言葉で三人が脳内にゆいこの文字を浮かべて―――同時に小さく声を漏らした。そう、雪乃の”ゆ”といろはの”い”を足す事で結衣の”ゆい”となる。三人の名前を織り交ぜた名前だったのだ。

 

「由比ヶ浜、お前の考えは間違ってなかったんだ。ゆいこはゆいの子。雪ノ下と一色の名を組み合わせて、お前の名も作りだしている。もし、あの手紙が俺の考えたものなら、この考え方が一番有力だろう」

「じゃ、じゃあお母さんは誰なんですか?」

「それは分からん。この考えでいけば由比ヶ浜が最有力な気もするが、雪ノ下が初めてゆいこを抱っこした時に変化しなかった事が気になる。そして、こうなるとゆいこの名前も本当の名じゃない気もするしな」

 

 全員の視線がゆいこへ注がれる。ゆいこは周囲の反応がよく分からずに指を咥えて小首を傾げていた。その愛くるしさに誰もが笑みを見せる。

 

「一先ずゆいこちゃんの名前に関しては今のでいいと私は思います。となると……」

「や、やっぱりお母さんが気になるよね」

「比企谷くんの答え次第ではあるけれど、一つだけ私には気になっている事があるの」

 

 ゆいこの頬を優しく指で突きながら、雪乃はそう周囲へ切り出した。そんな中、ゆいこは雪乃の指をしっかり掴んで離さなくなる。その反応により笑みを深くし、雪乃は微笑む。慈愛に満ちた微笑みに八幡が胸をときめかせると気付かぬままに。

 

「あの、雪ノ下先輩。気になる事って?」

「え……? あっ、その、ゆいこさんが私達にあやされただけですぐに泣き止む事よ。あれから私なりに調べてみたけど、赤子というものはもっと理不尽なぐらい泣くし、実の母親があやしたところで泣き続ける事もあるの。だけど、この子はそんな事はない」

「そうなんだよね。夜泣きもしないし、不意に泣くとしても、ちょっとあやしてあげるだけでニコニコするもん」

「おかげでこっちとしては助かってますけど、そう言われると気になりますね」

「やっぱり本来なら生まれていない存在か? だから母親になりそうな雪ノ下達の心の動きに敏感なのか?」

 

 八幡の呟きにゆいこはただ楽しそうに笑うのみ。と、そこで彼はある事を思った。ゆいこの変化が止まった事は、ある意味で彼の答えに委ねるという、ゆいこなりの意思表示ではないかと。一番初めは雪乃への秘めた想いが強かったための状態で、次はいろはとの接点を設けた事による変化の兆し。結衣が抱いた時も同じ事が言え、雪乃が抱いた時は言うまでもない。

 

 そして、今の八幡はそんな三人との接点を増やしながら、誰へ想いを告げたいのか。あるいは、どう今の自分が想っているのかの、本物の気持ちを見つけなければならないと強く意識している。それ故に対象となっている三人の特徴をゆいこが示しているのではと、そう考えたのだ。

 

「とりあえず、ゆいこが実在しないかどうかに関係なく、俺はこの子をこの腕でもう一度抱き抱えてやりたい。出来る事なら、産声を上げたその瞬間に立ち会ってな」

 

 強い意志を持って放たれた言葉に、ゆいこが一際嬉しそうな声を上げた。更に手を打ち鳴らしての拍手まで始めたのだ。そんなゆいこに雪乃達も笑顔を見せながら八幡へ視線を動かす。

 

「良かったわね、アナタ。娘が喜んでくれているわよ?」

「パパ、ゆいこちゃんがカッコイイだって」

「ゆいこちゃんが喜んでくれて良かったですね、お父さん」

「……おう。あと、何で三人してコメントが奥さんっぽいんだよ」

 

 止めてくれ。恥ずかしい。そんな気持ちを滲ませての言葉に、雪乃達は少しだけ照れを見せながらも何も言い返さなかった。それが余計八幡の心を騒がせる。そんな風に時間は過ぎていく。そして、ゆいこを中心とした四人の関わりはそれぞれに良い変化を与え始める。

 

「本当にいいのか?」

「はい、俺もいい加減ガキのままじゃ不味いんで」

 

 八幡は遂に社長へ自ら飲み会の参加希望を告げた。頻繁には無理だが、時折程度ならとそう前置いて。彼自らの参加希望は社長達男連中を大いに喜ばせ、近くの居酒屋でささやかな酒宴が行われる事となる。そこで八幡は父親のような歳の者達から手荒い歓迎を受けるも、かつて受けた仕打ちなどに比べ、そこにある嬉しさなどの気持ちを感じ取り、こういうのも悪くないと思ったとか思わなかったとか。

 

「いろはさん、何か良い事ありました?」

「じ・つ・はぁ……じゃ~ん」

「おおっ、これってお兄ちゃんの部屋の合鍵じゃないですか。もしかして、遂に?」

 

 同じ大学の後輩にもなった小町へ、ゆいこの事を伏せて話すいろは。この日、ゆいこはいろはのためにと八幡が面倒を見ていた。それさえもまるで夫婦のように思え、いろはとしては幸せな事だった。残るは卒論を仕上げるのみとなっているため、もう半ば大学生活も終わりに向かっている中、ゆいことの将来のために彼女は色々と考え始めていた。その変化を小町に色々追及され、苦しむ事になると知らずに。

 

「結衣、あの後どう?」

「ヤった?」

「ううん、でもイイ返事もらえた。大人じゃないけど、子供な付き合いは卒業かな?」

 

 八幡との事を少しだけ同僚へ話し、結衣は輝いた表情を見せた。そこから二人もその意味を察したのだろう。もう何か言う事なく、彼女の好きにさせる事にしたのだ。が、そんな和やかな雰囲気も、結衣から話される現状に少しずつヒビが生じていく。何せ、拙い付き合いでも幸せそうな雰囲気がひしひしと伝わったのだ。現在彼氏のいない一人といても喧嘩中の一人には、これほど羨ましい事はない。こうしてしばらく結衣は二人に社食を奢るハメになる。

 

「雪ノ下さん、何かあったの?」

「何がでしょうか?」

「いや、最近表情が柔らかくなったからね。周囲の評判もいいよ」

 

 クールビューティーとして社内で人気を博していた雪乃も、ゆいことの触れ合いで、あの頃も顔を出しつつあった可愛さのような部分を出し始めていた。元々仕事が出来る美女が、女性特有の柔らかさを併せ持った気品を漂わせれば、後はもう言うまでもないだろう。

 

 こうして彼ら四人は、あの頃と似てるようで違う時間を過ごし始める。明確な違いは女性三人の想いを男性が気付き、また受け止めて苦悶している事。間違っていたラブコメが、ようやくあるべき姿へと戻り出したのだ。余談ではあるが、八幡の部屋から一番近いドラッグストアへ彼は二度と行けなくなった。何故なら、ゆいこを連れていろはが、結衣が、果ては雪乃までも買い物に出かけた事があるためである。と来れば、理由はもうお分かりだろう。三人もの女を引っかけ、若いのに子供の面倒を見させていると思われたのだ。

 

「……ま、いいさ。どうせ頻繁に行かない場所だ」

 

 そうどこか疲れた声で呟く八幡をゆいこが慰めるように撫でたとか撫でなかったとか。とにかく、そんな風にして時間は過ぎていく。日を追うごとに雪乃達のゆいこへの想いは強まり、八幡の答えは解を出すのが難しくなっていった。

 

 そして迎えた八月八日。この日は八幡の誕生日である。会社でも社長達に祝いの言葉を掛けられ、彼は定時よりも少しだけ遅れて帰路に就いた。同時刻、八幡の部屋ではいろはがゆいこを背負って誕生日会の準備をしていた。本来ならば小町も来るはずだったのだが、ゆいこの事もあり、彼女が機転を利かせてその来訪を阻止したのだ。

 

―――ごめん、小町ちゃん。今年は二人きりでお祝いさせて。

 

 こうなれば小町も聞き分け良く引き下がるというもの。そして、それは外堀から八幡を追い詰めるいろはなりの策でもあった。小町からすれば、合鍵を持ち半同棲している彼女は、既に恋人扱いにも等しかったのだ。勿論、この事は雪乃や結衣は知らない。いろはからすれば、高校時代はともかく、大学時代を共に過ごして距離を詰めようとしていたのだ。いくらゆいこのためとはいえ、むざむざ諦めるつもりはなかったのである。

 

(先輩は小町ちゃんが大切な存在。あとはゆいこちゃんが他のお二人よりも私へ懐いてくれれば……)

 

 小姑と未来の娘か義娘を抑えれば、家族思いの八幡がどうするかは分かり切っている。それでも、いろははその事をまだ明かすつもりはなかった。それで彼が自分を選んだとしても、どこかで信じ切れなくなりそうだからだ。あくまで小町との関係は秘密裏に進め、彼が自分を選んでくれた際に明かす。つまり、ダメ押しの一撃にするつもりだったのだ。

 

「ふふっ、先輩は少し遅くなるって言ってたし」

 

 そこで鳴り響く来客を告げる音。いろははそれが何かを察して玄関へと向かう。

 

「は~い、今開けまーす」

「いろはちゃん、やっはろー。ゆいこちゃんもやっはろー」

 

 ドアを開けた先にいたのは、ケーキが入っているであろう箱を下げた結衣だった。彼女は今日のケーキ担当だったのだ。出迎えたいろはとゆいこに挨拶をし、結衣は手にした箱を持ち上げた。

 

「じゃん。ケーキの到着だよ」

「ありがとうございます結衣先輩。じゃ、とりあえず中に」

「うん。ゆきのんは?」

「少し遅れるみたいです。先輩と鉢合わせにならないといいんですけど……」

 

 ゆいこの頬を軽く突きながら結衣は部屋の中へと入る。玄関先の靴を見て、まだ八幡が帰ってきていない事を確かめると、彼女は小さく笑った。

 

「驚いてくれるかな?」

「だと思いますよ。小町ちゃんが言うには、先輩って誕生日を盛大に祝われた事ないらしいです。ほら、夏休みだから」

「あー……」

 

 そこで、小さい頃から友達づきあいが下手だったと言わない辺りに二人の性格が出ている。きっと雪乃であればやんわりとその事を指摘しただろう。さて、その雪乃であるが、彼女はこのサプライズパーティーのメインとも言える物担当で、今は少しだけ急いでマンションへと向かっていた。

 

「予定より遅くなってしまったわね……」

 

 腕時計を見ながら早足で歩く雪乃。その手には、某百貨店の紙袋がある。彼女は三人を代表してプレゼントを持ち込む運びになっていたのだ。と、その足は僅かに止まる。彼女の視線の先には、見覚えのあるクセ毛を生やした男性が歩いていたのだ。

 

「……こんばんは、比企谷くん」

「ん? ああ、雪ノ下か。何か買い物でもしてきたのかよ?」

 

 何とか先回り出来ないかと考えた雪乃だったが、彼女は方向音痴であるため、知らない道を歩けば迷子の可能性が出てくる。そのため、致し方なく声を掛ける事にしたのだ。全ては目の前の彼のために。

 

「ちょっとね。今帰りなの?」

「おう。そういうお前はまたゆいこに会いに来たのか?」

「え、ええ。何かいけないかしら?」

 

 嘘ではないと、そう自分へ言い聞かせて雪乃は会話していた。ゆいこにも会いに行くのだからと。そのまま二人は揃ってマンションへ戻り、雪乃が家主である八幡を先に行かせようとする。理由は無論サプライズのためだ。今、リビングでは結衣といろはがクラッカーを手にして待っている。そこへ自分が先に行っては意味がない。そう考えて、彼女は結衣へLINEを送り、八幡をリビングへ送り込もうとしていたのだった。

 

「家主を差し置いて先に入るつもりはないわ」

「いや、別にいいだろ。そんな些細な事を気にするような性格じゃないぞ」

「い、いいから先に行ってくれないかしら。貴方に背後を取られると不安なの」

「……分かったよ。じゃ、ちゃんと鍵をかけておいてくれ」

 

 何かある。そう予測した八幡であったが、さしもの彼も、その理由が自分をサプライズで祝うためとの発想は浮かばなかった。やや後ろを警戒するように廊下を歩く八幡。結果として、それは最高のアシストとなった。リビングへ通じるドアを開けた瞬間、彼の耳に発砲音にも似た音が響き渡る。

 

「「ゆいこちゃんのパパ、誕生日おめでとう!」」

「………………は?」

 

 頭にクラッカーの中身を乗せたまま、八幡は理解不能とばかりに間抜けた声を出す。その後ろから雪乃が現れ、楽しげに笑いながら彼の前へと立った。

 

「鈍感谷くん、今日は何月何日?」

「今日? 八月の……」

 

 そこで八幡の表情が変わる。気付いたのだ。今日という日付が意味する事に。そして、彼の表情からそれを察して雪乃が手にしていた紙袋を差し出した。その行動で八幡も理解する。何故雪乃が自分を先に入室させたがったのか。手にしていた大きな紙袋の意味と理由も合わせて。

 

「誕生日おめでとう比企谷くん。これは私達三人からよ」

「……マジか。その、ありがとう雪ノ下。由比ヶ浜と一色も本当にありがとう。本気で嬉しいわ。俺、生まれて初めて家族以外の、しかもこんな美人達に祝われるとか……死んでもおかしくないな」

 

 そう答える八幡の目には光るものが浮かんでいた。一瞬雪乃達が息を呑むも、すぐに微笑みを浮かべる。彼女達が彼の涙を見たのは、あの高校時代での一幕のみ。だからこそ、今の彼が見せる涙に喜びを感じたのだ。何故ならそれは、彼が彼女達に初めて見せる嬉しさの涙なのだから。

 

「さあさあ、じゃあテーブルについてください。今日は私、頑張りましたから」

「それと、ケーキもあるよ。ホールにしようかなって思ったけど、みんなの好み分からなかったから定番の奴を色々買っておいたからね」

「さ、比企谷くん。主役なのだから早く座って?」

「……ああ」

 

 少しくすぐったく思いつつ、八幡は一番に椅子へ座る。しかも、椅子の位置も普段と違っていた。俗に言うお誕生日席の位置取りに。それにも気恥ずかしさを覚えるも、嫌がる事なく彼は雪乃達を待った。やがていろはが作ったであろう料理が運ばれてくる。頑張ったと言うだけあり、よくあるオードブルの数々が彼女のお手製で用意されていた。

 

「一色、本当に凄いな」

「いろはちゃん、料理上手だよね」

「雪ノ下先輩程じゃないかもですけど」

「いえ、私も最近は自炊頻度が落ちているから。だけど、これは本当に見事よ」

「それで、飲み物は酒って事はないよな?」

「それも考えはしたんですけどね。ゆいこちゃんもいますし、それはまた別の機会にって事で」

 

 いろはが出したのはアイスティー。それを氷を入れたグラスへ注げば、見た目だけならウイスキーのように見えなくもない。これでアルコールに見立てて乾杯しようという事だった。なので八幡がグラスを手にし、雪乃達もそれに合わせるようにグラスを持つ。

 

「その、今日は俺のために色々とありがとう。今日の事は、何があっても決して忘れないわ。乾杯」

「「「乾杯」」」

 

 グラス同士を軽く合わせた綺麗な音が鳴り、四人はアイスティーを飲む。そこから小さな、だけども賑やかなパーティーが始まった。ゆいこは八幡がずっと抱き抱える事となり、両手を塞がれる形となった彼は、料理を雪乃達から食べさせられるという、何とも嬉し恥ずかしな状況へとなる。

 

「はい、先輩。あーんしてください」

「…………あ、あー」

「ヒッキー、ポテトもどーぞ? あーん」

「ぐっ……あ、あー」

「なら鶏の唐揚げも食べておきなさい。タンパク質は必要よ。は、はい」

「お、おう……」

「ゆきのん、そこはあーんって言わないと」

「そうですよ。今日の先輩は主役なんですから、こっちがおもてなししてあげないと」

「わ、分かったわ。えっと、その、あーんして?」

「………………あー」

 

 顔を真っ赤にしながら料理を食べた八幡は、ゆいこにミルクを飲ませながらこう思ったという。味がしなかったと。それでも満足していた。いや、これで満足しなくて何で満足するというのか。そう心から実感する程の幸せを噛み締めていたのだ。

 

「ゆいこ、俺はどうしたらいいんだろうな?」

 

 後片付けをする雪乃達を眺め、八幡は小声で呟く。今日の事で思ってしまったのだ。あの奉仕部での時間。あの紅茶の香りが漂う中で、彼女達三人がいた日々こそが彼の人生でもっとも安らぎ、そして満たされていた時だったのだと。それを成人した今、再び取り戻し、より強く実感してしまったのだろう。失いたくないと。だが、それは出来ないのだ。ゆいこの母は一人だけ。この国は一夫多妻など認めていないからだ。

 

「……情けないな。あの頃は有り得ないと言い訳をして、今度は決められないと言い訳をするつもりか比企谷八幡」

 

 彼は静かに拳を握る。自身への憤りをぶつけるように。すると、ゆいこが泣きそうな顔をした。まるで八幡の怒りを怖がるように。その反応に彼は慌てて拳を開き、ゆいこの頭を優しく撫でた。

 

「どうした? 怖い顔してたか? ならもう大丈夫だ。ほら、な?」

 

 いつか幼い頃の小町をあやした記憶を思い出し、八幡は優しく穏やかな声と表情をゆいこへ向ける。丁度そこへ片付けを終えた雪乃達が近寄った。そしてまた見る事になるのだ。父性を見せる八幡の姿を。そんな彼へ嬉しそうに手を伸ばして笑うゆいこを。

 

(比企谷くん……やっぱり貴方はそういう面を持っているのね。小町さんだけでなく、家族を強く思う貴方を……。け、結婚したら私にもそんな顔を見せてくれるのかしら? 私も彼へもっと素直になれるかしら?)

(ヒッキー、とっても優しい顔してる。あたしが奥さんになったら、同じように優しくしてくれるかな? 今よりも、もっと甘えてくれるかな?)

(本当に先輩はゆいこちゃん好きなんだから。……私も、私も同じぐらい好きだといいな。ゆいこちゃんのお母さんにしたいって、そう思ってくれるぐらい好きって、そう言って欲しい……)

 

 三者三様。それでも根底にあるのは八幡への強い好意。自分を選んで欲しい。もっと近くで寄り添いたい。そんな気持ちを胸に、三人の女性は赤子を抱く男性を見つめた。

 

 次の日から、八幡のスマホの待ち受け画像がある物へと変わる。それは、ゆいこを抱えて照れくさそうにする八幡を中心に、微笑む雪乃達が周囲に寄り添っている物。まさしく成長した彼らを象徴する画像だろう。それが、八幡にとってはもう一つの誕生日プレゼントとなった。

 

 ゆいこを抱えてその画像を眺める八幡は、無意識に馬鹿げた願いを口にする。

 

―――これを、いっそ現実に出来ればいいのに……。

 

 そんな彼の儚い望みは、あの三人に聞かれる事なく消える。ただ一人、無垢な眼差しで父を見上げる幼子だけが、それを聞いていた……。



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クリスマスと新年と

終われませんでした(汗
次回で本当にラストです。期待していた方、ごめんなさい。


 季節は過ぎ、暑さが薄れ風が涼しくなり、あっと言う間に凍えるような時期となる。八幡達の関係はゆっくりとではあるが、その深みを増していき、既にゆいこが現れて半年以上が経過していた。

 

「もうすっかり冬だよねぇ。お鍋が美味しい季節だもん」

 

 ぐつぐつと煮えたぎる鍋を眺めて、結衣が噛み締めるように告げる。今日の夕食は寄せ鍋。鶏肉と白身魚が白菜などと共に出汁の中で揺れている。その食欲をそそる匂いと光景に表情を緩めながら、いろはがそれぞれへ椀を差し出していた。秋頃になると、雪乃と結衣も週末は八幡の部屋へ泊まるようになった。それは、何もいろはとの同居生活を邪魔するためではない。実家暮らしの結衣はともかく、雪乃は人の温もりに飢えてしまったのだ。一方の結衣は、単純にゆいこが愛しくて仕方ないためである。出来る事なら実家に連れて帰りたいとさえ思っているのだから。

 

「でも、今年もお野菜高くて大変ですよ。白菜、本当に高いんですから」

「まったくだわ。だからこそ、こうして複数人での鍋は助かるの。一人鍋も悪くないけど、どうしてもね」

「寂しいってか? ま、俺は平気だったぞ。大学時代はよくやった」

「先輩、一応聞きますけど具材は何を?」

「あ? んなもん、基本もやしとか安いもんで、ちょっと贅沢して安売りの鶏肉を入れる事もあったな。濃い味の鍋つゆ買って、シメに麺なんか入れてやれば十分満たされる。夜に鍋として食って、朝は残った鍋に溶き卵と飯いれて、ちょっとした雑炊にしてやれば十分元も取れるし、残りもんを捨てずに済むしな」

 

 鶏肉や野菜の残りと共に煮える玉子雑炊を想像し、確かに美味しそうと思う三人であったが、どこか寂しい気持ちは消えないのだろう。複雑な表情で八幡を見ていた。その彼は、鍋が気になるゆいこを優しく制して、既に意識を彼女達から外していた。

 

「ゆいこ、駄目だ。まだお前に鍋は早い」

「やっぱり同じ物食べたくなるんですかね?」

「かもしれないね。さすがにまだ無理かな?」

「当然よ。離乳食さえまだなんだから」

 

 全員して笑みを浮かべながらゆいこを見つめる。と、そこで結衣がある事を思い付いたのか、鍋つゆを少しだけ別の小皿に入れて冷まし始めた。それだけで何をしようとしているかを気付き、八幡はどうしたものかと考える。何せ、大人と赤子では消化器官の能力が違い過ぎるのだ。なので心を鬼にして現実を突きつける事にした。

 

「由比ヶ浜、気持ちは分かるが鍋つゆの塩分はゆいこには毒だ」

「ええっ!?」

「由比ヶ浜さん、離乳食も初期は味付けなどしないの」

「らしいです。私もゆいこちゃんの世話するようになって、ドラッグストアの店員さんとかに似たような事教えてもらいました」

「う~、せめて味だけでもって思ったんだけどなぁ」

 

 悲しそうに小皿の鍋つゆを見つめる結衣。すると、その気持ちを感じ取ったのか、ゆいこが悲しそうな顔をした。それにいろはが驚く。今までゆいこが彼女達に同調するような反応を見せたのは、その相手に抱き抱えられていた時だけだったのだ。

 

「おっと、由比ヶ浜、ゆいこが泣かないでくれってさ」

「あっ、ごめんねゆいこちゃん。もう大丈夫。いつか一緒にお鍋食べようね?」

 

 笑顔を見せる結衣にゆいこも応えるような笑顔を返す。ただ八幡はその言葉に胸が小さく傷んでいたが。結衣が無意識に返した言葉。それが何を意味するのかを考えて。きっと彼女に深い考えや意味はなかったのだろう。だが、八幡からすれば、それは遠回しのアピールとも言えた。

 

「そういえば、来月で今年も終わりですね」

「そうだねぇ。早いなぁ」

「一色さん、内定は大丈夫だったの?」

「はい、取り消しはないみたいです。まぁ、毎年のように騒がれてますし、早々ないとは思ってましたけど」

「ま、もし取り消されたら、俺が社長に事務として雇ってみないか話してやってもいいぞ。かなりの安月給でも良ければだがな」

「ない事を願いたいですけど、もしもの時は考えさせてください」

「おう」

「あっ、そうだ。ヒッキー、お豆腐いる?」

「ああ、もらっとくわ」

「一色さん、シメは何を予定しているの?」

「一応うどんですけど、ご飯もありますよ。どっちにします?」

 

 それぞれに鍋を食べながら、楽しげに過ごす四人。シメはうどんとなり、様々な具材の旨味が出た鍋つゆで食べるそれに誰もが表情を緩める中、ゆいこが眠くなったのか、八幡の腕にもたれるよう体を倒していた。

 

「ゆいこちゃん、寝ちゃったね」

「最近よく寝るんですよ。まぁ、本来赤ちゃんってそういうものなんですけど……」

「夏を過ぎた辺りから、少しずつこういう事が増えたものね。私も気になってはいるのだけど」

「何て言うか、本物の赤ん坊に近付いてるよな」

 

 八幡の言葉に三人が揃って頷いた。秋頃から、ゆいこは少しだけ手を焼く子になり始めたのだ。初の夜泣きに、あやしてもすぐに泣き止まなくなるなど、春から夏にかけては見られなかった傾向が出始めて。勿論それを嫌がる事はなかった。何よりも、いい予行練習になると感じていたのだ。八幡にとっても、三人にとっても。

 

「これって、それだけゆいこちゃんの存在が現実になってきたって事でいいんですかね?」

「そう考えてもいいかもしれないわ。いえ、その仮定で考えれば、以前の状態も説明出来る」

「どーゆー事?」

「最初の頃、ゆいこさんは安定していなかった。もっと言えば、その存在は極めて不安定だった。だからこそ、現実味が薄い行動が出来たのよ。私達の心情を察したり、夜泣きをしなかったり、すぐに泣き止んだりとね」

「そうか。それが、俺が絶対ゆいこの父になると決意したから……」

「一気に存在が安定したって、そういう事ですか? あー、じゃあ変化の停止はその予兆だったんだ」

「そう考えると今のゆいこさんの状態も納得出来るの。普通の乳幼児と同じになれた。そう考える事でね」

 

 静かに眠るゆいこを見つめ、雪乃は優しい笑みを浮かべた。結衣やいろはも同様に。本音を言えば自分が母親になってやりたい。だが、一番はゆいこが無事生まれてくれる事。そう思えるように、今の彼女達はなっていた。ゆいこと過ごす時間が、彼女達の母性本能を目覚めさせていたのだ。

 

「……今年のクリスマス、ゆいこへプレゼントを渡さないとな」

 

 ぽつりと呟かれた言葉に彼女達の意識が向く。八幡はゆいこを優しく抱き上げると、雪乃達へ顔を向けて小さく笑った。

 

「俺達の初サンタだ。いきなり四つもプレゼントがもらえるとか、ゆいこは幸せもんだぞ」

「そうだね。じゃ、被らない様に相談しようよ」

「値段も決めておきません? 正直、私の財政は仕送りと、先輩からの僅かばかりのバイト代だけなんで……」

「そうね……。ならこうしましょう。各自、絵本を買ってくる。これなら値段も大差ないし、内容が被る事も少ないはずだわ」

「……いいかもな。それに、万が一被っても何とかなる。ほら、子供はすぐに破ったり汚したりするから」

「じゃ、絵本をゆいこちゃんに贈るって事で」

 

 結衣のまとめに全員が頷く。天使のような寝顔を見せるゆいこへ、父親見習いと母親見習い達が初めて過ごすクリスマス。その日まで、後一月を切ろうとしていた……。

 

 

 

「クリスマスは休みたい、か」

「ダメ、ですか?」

 

 あの話し合いの翌日、早速八幡は社長に休み希望を告げていた。こういう事は、早くしなければ不味いと判断したからである。それ自体は間違っていない。だが、社長の反応はあまり良いものではなかった。

 

「比企谷、お前さんにも分かってると思うが、どこも年末は忙しいんだ」

 

 あの飲み会以来、社長は八幡への接し方を変えていた。今までよりも気安く、また親しみを込めたものへと。だからこそ八幡には分かった。今、社長は申し訳ないと思いながら話をしていると。

 

「特に、世間様が浮かれる辺りから、な。有難い事にウチもそうだ。小さいながら一年の三割から多い時は四割ぐらい稼ぐ事もある」

「うす」

「さすがに休みを与えない訳はないが、本音を言えば誰にも休まないで欲しいぐらいだ。そして、それは事務だって例外じゃない」

「……なら、定時で上がるってのは難しいですか?」

 

 社長の話で八幡も理解していた。大手と違い、中小はいつだって後が無い。仕事で穴をあけたり、あるいは失敗すれば大打撃となる。故に、繁忙期は休み希望を聞いてやれないのだろうと。だからこそ、ならばと彼は食い下がった。全てはゆいこのためにと。

 

「…………女か?」

 

 どこか苦笑いするように社長が問いかける。思わず本当の理由を言いたくなる八幡だったが、ぐっと堪えて頷いた。そう言う方が話が早いと思ったからである。社長はそんな彼にため息を吐いて頭を掻いた。何か思い出しているのだろう。その表情は懐かしそうに笑みを浮かべている。

 

「社長……?」

「比企谷、お前、クリスマス前ならどれぐらい残業出来る?」

 

 告げられたのは思わぬ内容。だが、八幡は瞬時に悟った。それが要求の代償だと。故に彼は即答した。

 

「社長が残業代出したくないってぐらい働きましょうか?」

「くっ……はっはっはっ! そいつはいい。言っとくが師走の事務はしんどいぞ? それでもいいか?」

「うす、俺も男ですから」

「……詳しい事はカミさんに聞け。お前さんの休み希望、たしかに受理した」

「ありがとうございます!」

 

 大きく頭を下げる八幡を見て、社長が嬉しそうに頷いていた。入社前とは見違える程に成長したと、そう強く実感出来たのだろう。こうして八幡はクリスマス休暇の代償として、十二月のほとんどで残業する事となる。それを高校時代の彼しか知らない女教師や雪乃の姉が聞けば、それこそ驚愕したはずだ。あの八幡が自分から残業を引き受けたのだから。

 

 そして、その日の夜には八幡はいろはへその事を伝えた。当然と言えば当然だった。何せゆいこの事がある。その世話をしてもらい、更には夕食まで作ってもらっているのだ。が、一つ普段と異なる事があったとすれば、そこに雪乃がいた事だろう。八幡が十二月は残業するため、夜遅くまで帰宅出来ない。それを聞いて雪乃はこう申し出たのだ。

 

「なら、十二月だけでも私もここで暮らしましょうか? 一人だけよりもいいでしょうし、貴方もその方が多少安心出来るんじゃないかしら」

「そうしてくれると俺としても助かるが、いいのか?」

「ええ。一色さんは?」

「あー、ゆいこちゃんもいますしそうしてくれると嬉しいです。私だけだと何かあった時困りそうだし」

「そう。なら、由比ヶ浜さんにも声をかけておくわ。私が遅くなっても彼女がいればマシでしょうし」

「……何だろうな。由比ヶ浜の場合、居る方が不安になりそうなんだが……」

 

 その何とも言えない発言に、雪乃もいろはも苦笑いを返す事しか出来ない。その後、雪乃が結衣へ事情を説明すると、彼女も十二月中は八幡の部屋へ来る事を決めた。こうして十二月は、八幡にとっての運命の一か月となる。

 

 迎えた十二月一日の夜、八幡が初めての残業で疲れて帰ると、彼を出迎えたのはいろはでなく……。

 

「おかえりヒッキー。お疲れ様」

「お、おう……」

「おかえりなさい。上着、預かるわ」

「その、頼む」

 

 結衣と雪乃のコンビが微笑んでのお出迎えだった。まるで新婚かと錯覚するような出迎えに、八幡は内心動揺しながら何とか普段通りに反応をした―――つもりであった。だが、実際には完全に動揺しており、それをしっかり二人に悟られていた。

 

 リビングでは、いろはが八幡の食事を温め直しているところだった。ゆいこはゆりかごで静かに眠っている。

 

「あっ、お帰りなさい先輩」

「おう、悪いな一色。そこまでさせて」

「いいんです。これからこの時間ですか?」

「分からん。これよりも多少早い時もあるかもしれないし、もっと遅い時もあるかもしれん。だから、寝ててくれていい。雪ノ下や由比ヶ浜もだ。特にお前達は仕事があるんだからな」

「うん、分かってるよ」

「安心して。私達は自己管理出来るから」

「……まぁ、そこは信頼してるけどな」

 

 何となく会話が夫婦のものに思えて、八幡は少し気恥ずかしそうにそう言って会話を切り上げた。と、差し出される一膳の箸。彼が見上げると、いろはが少しだけむくれるように箸を差し出していた。その理由を察し、八幡は若干息を吐いて呟いた。

 

「お前とは、もっと早くから似たような事してたろ」

「っ?!」

 

 動揺するいろはからそっと箸を受け取り、八幡は食事を始める。それを合図に雪乃と結衣も洗面所の方へと動き出す。いろはは小さく笑みを浮かべながら両手で頬を押さえ、嬉しそうに何事かを呟いていた。そんな中、八幡は内心で呟く。

 

―――疲れたところにこの状況は不味い……。

 

 笑顔の出迎え、労わるような振る舞い、労う言葉。そのどれもが疲れた体と心に染み渡るのだ。しかも、それをやってくれるのがあの三人とくれば、もう好意を自覚してしまった彼の耐久力など無に等しい。今も頭の中では先程の光景ややり取りがエンドレスでリピートされているのだ。

 

 それでも何とか食事を終えて、八幡はいろはに休むよう告げ、自分の手で洗い物を始めた。今は無心になりたかったのだ。だが、それが逆効果をもたらすとはこの時の彼は知らなかった。洗い物を終え、八幡がソファで一息ついていると、そこに三人が現れたのだ。それも寝間着姿且つ化粧を落とした状態で。いろはのすっぴんは何度か見た事があるし、結衣や雪乃もまったくない訳ではない。しかし、三人揃ってしっかりと、とはなかった。

 

「ゆきのんはもっとスキンケアした方がいいよ?」

「そうですよ。せっかく綺麗な肌してるんですからぁ」

「だけど、必要をそこまで感じなくて……」

「「それは甘いよ(です)」」

 

 雪乃へ揃って指を突き付ける結衣といろは。そんな光景を眺め、八幡はあの高校時代との違いを感じ取っていた。あの頃は、もう少し三人の間に距離があった。雪乃と結衣の間も少しだけ開いていたと。それが、今はほとんど感じられないのだ。年齢のおかげなのか、それともゆいこのおかげかは彼にも判断つきかねるが、確実にあの頃よりも仲が深まっていると断言出来る程、彼女達三人は親しくなっていた。

 

 今も肌のケアなどを話題に成人女性らしい会話を繰り広げている三人を眺め、八幡は改めて時間の流れと自分達の変化をひしひしと感じ取っていた。そして、きっと恋愛に関しての捉え方も変わっているだろうとも。何せ彼自身が変わっているのだ。あの頃、付き合う事に結婚などはちらつきもしなかった。精々が肉体関係を持てるか否か止まり。それが、成人し社会人となると、どこかで結婚の文字がちらつき出すのだ。はっきりではないが、学生の頃にはなかったものである。

 

(ゆいこの影響だとは思う。正直、まだその単語が過ぎる年齢ではないとも。だけど、俺が結婚なんて出来るとすれば、あいつらしかいない……)

 

 気品あふれる雪乃。慈愛の塊である結衣。甘え上手ないろは。誰であっても八幡としては、自分では釣り合わないんじゃないかと思うようなレベルの相手達だ。そこから選べと言われている幸福と不幸。だからこそ悩み、迷い、苦しんでいるのだから。

 

「先輩、まだお風呂入らないんですか? 冷めちゃいますよ?」

「あ? あ、ああ、そうだな。俺も入ってくるわ」

「ヒッキー、ごゆっくり~」

「しっかり温まるのよ。風邪を引いたらゆいこさんが大変だから」

「分かってる。お前らも湯冷めしない内に寝た方がいいぞ」

「はーい。なら先輩、おやすみなさい」

「おう」

「おやすみ、ヒッキー」

「ああ」

「お先に失礼するわね」

「気にするな」

 

 こうして三人と入れ替わりに洗面所兼脱衣所へ八幡は向かう。そして、そこに残る女性達の残り香に苦悶しつつ、浴室で更に葛藤しつつ、バスタブに浸かって煩悩と戦い、色々な意味で疲弊してベッドへ辿り着いたところで、彼は意識をあっさり手放した。どこかで、これが毎日続くのかと、戦慄と期待を同時に抱きながら。

 

 こうやって始まった彼らの師走は、まさしく目まぐるしい日々の連続となる。誰もが初めて迎える年末なのだ。八幡達新卒組は社会人としての、いろはにとっては卒業と就職を控えての、それまでとは毛色の違う時間と環境。その中で懸命に動く彼らを支えたのは、お互いであり、また幼い無垢な命であった。

 

―――すみません、雪ノ下先輩。私がやるべき事なのに……。

―――いいのよ。たまには私も腕を振るいたかったし、丁度いいわ。

 

 ある時はいろはが説明会などで疲弊し、夕食の支度を雪乃が変わった事もあった。

 

―――お鍋ならあたしでも出来るからね。ヒッキー、召し上がれ。

―――…………おおっ、本当に食える。美味いぞ、由比ヶ浜。

 

 またある時は一番早く帰れたため、結衣が炊事を受け持った事もあった。

 

 そうやって支え合いながら過ごし、遂に迎えた十二月二十四日の夜。仕事を終えて帰宅した八幡を三人の女性が出迎えた。そして彼から上着などを受け取り、静かにリビングへ。すると、テーブルには某チェーン店のパーティー用のチキンセットがあり、ワイングラスが四つと赤ワインが一本置かれていた。

 

「……俺を待ってたのかよ?」

「ええ、ゆいこさんはもう寝てしまったけれどね」

「まだギリギリイヴだし、四人でひっそり大人のパーティーって事でさ」

「なのでアルコールです。今日ぐらいはいいですよね?」

 

 声量を抑えて話す四人。だけども、どこかその声は楽しげだ。彼ら四人でクリスマスと言えば、否応なく思い出す事がある。あの頃は苦い感じの強かったそれも、今では笑い話に変わるだろう。そう考えて八幡が口を開いた。

 

「あれだな。俺達でクリスマスって言うとあのイベントを思い出すな」

「あー、あれですね。もう五年前ですか? 懐かしいなぁ」

「いろはちゃんの生徒会長としての最初の大仕事だったね。えっと、海浜との合同イベントだっけ」

「今でも思い出せるわね、あの生徒会長。やたらと横文字を使いたがる男だったわ」

「でも、意外とああいうの会社にいるよな?」

「いるいる。そのままじゃないけど、ちょっと知った感じの言葉とか使いたがる人」

「やっぱりそうなのね。こっちにもいるわ」

「うわぁ、何かそう聞くと就職が怖くなってきます。あの会長みたいなのがいるのかもしれないんだ……」

 

 席に着き、それぞれが自分のグラスへワインを注ぎながら会話する。既に雰囲気からしてムードなどないが、逆に彼ららしいムードではあった。この数か月もの間で培った、あの紅茶の香りに包まれていた時間よりも深くなった繋がりを代表する、そんな雰囲気だ。

 

「じゃ、今回の挨拶は雪ノ下だ」

「どうして?」

「奉仕部の部長だった者として、こういう事を一度ぐらいやってくれ。誕生日の時は俺だったしな」

「ゆきのん、ガンバ」

「いえ、別に嫌ではないのだけれど……」

「ならお願いします」

「はぁ……こほん。では、数年振りの再会の結果、設ける事の出来たこの会を祝して、乾杯」

「「「乾杯」」」

 

 綺麗な音を軽く響かせ、彼らはワインを口にする。そして同時にグラスから口を離し、息を吐いた。

 

「これ、飲み易くて美味いな。いくらだ?」

「いくらだと思う? 当ててみなさい」

 

 ワインを持って来たであろう雪乃が、どこか挑戦的な表情で八幡を見た。それを一種の余興と理解し、三人は互いを見合って思案顔。まず真っ先に意見を出したのはいろはだった。

 

「五千円で買えると思います?」

「いやいや、これはもっとするんじゃない?」

「待て。雪ノ下だぞ? 安直に高価な物で俺達を驚かせるはずはない」

「じゃあじゃあ……三千円ぐらい、とか?」

「五千円近くはするんじゃないですか?」

「由比ヶ浜さんが三千円で一色さんが五千円程度。比企谷くんは?」

「……いちきゅっぱ?」

「正解は、貰い物だから値段は分からない、よ」

 

 楽しげに笑って答える雪乃に、八幡達は呆れるやら苦笑するやら。その後もチキンなどを食べながら話は弾み、日付が変わる頃には、テーブルの上から綺麗に食べ物などが消えていた。

 

「じゃあ、ゆいこへのプレゼント確認タイムか」

「私はこれよ。パンダのパンさん」

「あたしはぐりとぐら」

「良かった。被ってないや。私は14匹のあさごはんです」

「俺は長靴をはいた猫だ」

 

 それぞれに絵本を出し、一名を除く全員が一冊の絵本へ視線を向ける。

 

「「「……パンさん」」」

「な、何? いけなかったかしら?」

「「「そんな事ないから(です)」」」

 

 どこか恥ずかしそうにする雪乃を、三人は苦笑混じりに見つめてそう返す。四冊の絵本はゆいこのゆりかご近くへ置かれ、パーティーはこうしてお開きとなる。そして女性達がそれぞれ床に就いた後、八幡が静かに彼女達の枕元へ何かを置いていく。

 

「……こんな事したら、余計辛くなるんだろうけどな」

 

 三人への彼からのクリスマスプレゼントである。このために彼は通常よりも二時間早く退社させてもらい、閉店前の百貨店へ急行、候補に挙げていた物から、彼女達それぞれに似合う物を選んだという訳だった。読書好きの雪乃には栞とブックカバー、髪型をよく変える結衣には髪飾り、ゆいこを最初から見てくれたいろはには星形のイヤリング。値段などは度外視で、彼女達の事を考えて彼なりに選んだ物であった。

 

 翌朝、目を覚ました彼女達は枕元にあるプレゼント包装に気付き、中身を見てしばらく無言になった後、死んだように眠る八幡へ視線を向ける。

 

「……比企谷くん」

「ヒッキーってば、こんな事するようになったんだ……」

「もう、下心出してくれてもいいのに……」

 

 一人だけ特別。あるいは、三人共に高価なプレゼント。そんな事が出来ない理由が分かるから、彼女達はどこか悲しく、だけども嬉しく思って、久しぶりのサンタからのプレゼントを受け取った。だが、そこでならばといろはがお返しを始め、それを見た雪乃と結衣も恥ずかしながらも続いた。

 

 その後、昼近くにようやく目を覚ました彼は、ゆいこといろはの姿が無い事に気付いた。テーブルの上に置手紙があり、二人は買い物がてら街を散歩してくるとあった。なので顔を洗おうと洗面所へ行くと、彼はとんでもないプレゼントに気付く。

 

「…………やってくれたな」

 

 鏡には、キスマークが三つ付けられた自分の顔が映っていた。しかもご丁寧に色が異なっている。それで八幡には分かってしまうのだ。どれが誰の付けたものかが。しばらく逡巡した彼だったが、意を決して洗顔を始めた。しかし、口紅はそう簡単には落ちない事を彼はまだ知らなかった。結局、いろはが帰ってくるまで、彼は頬に三つのキスマークをうっすらと残して過ごす事となる。これが八幡の社会人として初めてのクリスマスの思い出であった。

 

 そして大晦日の夜、八幡の部屋にはいつもの顔ぶれが揃っていた。本来なら実家に帰ろうと思っていた八幡だが、ゆいこの事もあってそれを中止。小町には若干不信がられるも、そこはいろはがフォローし事なきを得ていた。雪乃は実家に戻るつもりがなく、結衣はむしろ母親から背中を押される形でそれぞれ来訪している。いろはは二人が来るなら当然とばかりに残っていた。

 

「今年もあと僅か、か……」

「色々あり過ぎましたね」

「そういう意味では、あの頃に近いかもしれないわ」

「あー、イベント尽くしだったもんね~」

 

 静かな寝息を立てて眠るゆいこを抱え、八幡がしみじみと漏らした言葉を切っ掛けに、それぞれが口を開く。テレビでは新年に向けてのカウントダウンが始まろうとしており、誰もが笑顔を浮かべている。

 

「まさか、この四人で年越しを迎えるとは思ってもなかったしな」

「そうね。由比ヶ浜さんとは毎年年賀メールを送り合ってはいたけれど」

「ヒッキーもそれぐらいはしてたよね」

「むしろ、そういう時ぐらいしかメールしてくれませんよ。ま、今は違いますけどね~」

「……まぁな」

 

 照れくさいのかゆいこの方を見て答える八幡だが、そんな行動をする時点で内心はバレバレである。三人は彼に小さく笑みを浮かべていた。すると、画面からは残り十秒となった今年を数える声がし始める。それに四人が意識を向けて新年を待つ。そして丁度新年を迎えた瞬間、停電したかのように全ての明かりが消えた。

 

「え?」

「停電……?」

「おかしいですね。そんなはずは」

 

 突然の事に軽くざわつく三人。だが、八幡だけは違った。思い出していたのだ。ゆいこが来た時の状況を。あの時も停電に見舞われた。しかも、今回はそうなる原因が無いにも関わらずだ。

 

「まさか……」

 

 もしやと思いゆいこへ目をやる八幡。すると、ゆいこの体がゆっくりと光り始めていた。それがあの最初の出会いを彷彿とさせ、彼は思わず息を呑む。同時に頭の中で疑問符を浮かべていた。何故なら、まだゆいこが来て一年も経過していないのだ。手紙には一年間は元の時間軸へ戻れないと書いてあったからだ。

 

「ひ、比企谷くん! ゆいこさんがっ!」

「光ってる!?」

「ああ! これはゆいこが来た時と同じ状況なんだ! あの時も、停電して、光に包まれたゆいこが現れたんだよ!」

「えっ!? でも、手紙には一年間は戻れないって……」

 

 いろはの疑問に八幡が頷いた瞬間、ゆいこの体が浮かび上がる。そして同時に大きな声で泣き出したのだ。

 

「どういう事なの!?」

「分からん! もしかして、ゆいこが帰ろうとしてるのか?」

「で、でもまだゆいこちゃんが来て一年にもなってないのに!」

「ゆいこちゃんっ!」

 

 いろはがゆいこを抱き寄せようと腕を伸ばした瞬間、その光が三つに分かれて消える。あまりにもあっさりと、未来からの来訪者は来た時同様に突然いなくなったのだった。明かりの消えた室内で呆然となる四人。理解出来ない訳ではないし、理解していない訳でもない。だが、納得など出来ようはずもなかった。こんな別れが、こんな最後があっていいのかと誰もが思っていた。と、いろはがその場で崩れ落ちた。

 

「っひく……ゆいこちゃん……」

「一色……」

 

 一番最初から面倒を見ていたいろはが、真っ先に喪失の悲しみにやられたのだ。髪色が同じになった事もあり、余計自分の子と思い出していたのだろう。すると、それを契機に結衣も雪乃へ抱き着いた。

 

「ゆきのん、ゆいこちゃんが……ゆいこちゃんがぁ……」

「……仕方ないのよ。彼女は元々この時間軸にはいない存在なの。きっと、遅かれ早かれこうなっていたわ」

 

 結衣を優しく抱き留めながら、雪乃も静かに涙を流す。八幡はそんな彼女達の悲しみを背中で聞きながら、一人天井を見上げていた。泣くまいとしていたのだ。男の意地である。すると、何かがゆっくりと彼の上に落ちてくる。それは手紙だった。

 

「っ!」

 

 その事に気付き、八幡は慌てて手紙を手にして中を見る。そこには、印刷された字でこう書かれていた。

 

―――騙す形になって、申し訳なく思っています。あの手紙に書かれていた期間に関する事は、半分事実で半分嘘です。事実はすぐには戻れない事。嘘は、期限は一年間ではなく、貴方達の気持ちが通じ合うまでという事です。

 

 読み終えた八幡は、静かに手紙を三人へと差し出す。一言、未来の俺からだと告げて。まず雪乃が手紙へ目を通し、次に結衣が、最後にいろはが読んでいく。読み終えたところで明かりが戻った。

 

「……では、ゆいこさんは比企谷くんと私達の気持ちが通じ合ったから戻れたと?」

「そうなる」

「待ってよ。じゃ、何で一年間なんて嘘吐く必要あったの? 正直に」

「結衣先輩、多分そう書かないと、先輩が今みたいになれないからじゃないですか? 母親になる相手と気持ちを通じ合わせるなんて書かれたら、先輩の事だから変な意識して余計こじれてました」

 

 いろはの言葉に八幡は返す言葉がない。何せいろはを頼ろうとしたのも、一年間どうやって面倒を見るのかと考えればこそだったのだ。これが、母親になれる相手と恋愛しろと書かれていたのなら、確実に連絡をするのを躊躇っていたか、あるいは小町を頼っていただろうからだ。

 

「そうなると、ゆいこさんは戻れないどころか消滅する可能性も出てくるわね。成程、実に臆病谷くんらしい」

「悪かったな」

「でも、そうなると誰がゆいこちゃんのお母さん?」

「少なくても小町は違う事が証明された。正直、あの名前を思い付いた時、若干不安がな……」

「ああ、”こ”の部分が小町ちゃんかもしれないって事ですね。当たってましたねぇ。さすが本人」

「うるせ」

 

 少しだけ明るさが戻ってくる八幡達。と、そこで結衣が顔をある場所へ動かして寂しそうな顔をした。八幡もそれに気付き視線を追う。そこには、ゆいこの居た確かな証拠が残っていた。ゆりかごや絵本といった、ゆいこのためだけに用意された物の数々が。

 

「……由比ヶ浜」

「ゆいこちゃん、戻ったって事は生まれてくるって事だもんね。そういう事だよね?」

「ええ。思えば、あの最後の大泣きは産声かもしれない。元の時間軸というのは、出産時という事かしら?」

「だとしたら、あのまま戻る訳じゃないですね。そっか、そういう意味でも不安定な存在だったのかな?」

「とにかく、ゆいこの物は大切に保管しておく。紙おむつやミルクは……未開封のは寄付だな」

「そうね。使用済みなのも、場所によってはもらってくれるかもしれない。当たってみましょう」

「うん、捨てるよりもその方がいいもん」

「ですです。それに、ゆいこちゃんと再会したら、新しいのを買ってあげたいですし」

 

 笑みを見せ始める三人を見つめ、八幡はもう一度手紙へ目を落とす。彼はまだ一つだけ気になっている事があったのだ。それは、ゆいこが何故ここに来なければならなかったのか。そこについては一切触れられていないのだ。

 

(どういう事なんだろうか? 教えてはならない理由があるのか。それとも、それはいずれ分かるのか。どっちだ?)

 

 考えても当然ながら答えは出ない。なので彼は一旦その事は忘れる事にした。今はそれよりも片付けなければならない問題が多いのだ。ゆいこが戻れた理由は、彼が三人の誰かと想いを通じ合わせたから。そう考えれば、この中の誰かを選べばゆいこは生まれる事になる。いや、ここまでくれば、もう選んだ相手こそが未来のゆいこの母となるのだろう。そこまで考え、八幡は小さく息を漏らした。

 

(もしかして、これは昔あった洋画みたいな話か? 現代の息子が過去に行き、自分の両親の出会いを変えてしまった事から始まる話。今回のは、未来の子供が過去に行き、現代の俺達を再会させる事がそれか? だから未来の俺はこの事を阻止出来なかった。したら、ゆいこは消えてしまう。あー、もう訳が分からん。バックトゥザフューチャーとか、もう何十年前の作品だよ)

 

 正直何年後の話かも分からない以上、考えても理解どころか憶測さえたてられない。なので、八幡は考えるのを止めた。それよりも、今は自分の設定したリミットまでに答えを出す方が先である。

 

「とりあえず、お前達に言っておく事がある」

 

 その言葉に、三人が彼を見た。その妙に緊張した表情に内心で苦笑しつつ、表向き真剣なままで八幡は小さく呼吸を整える。それさえも、三人へのブラフとして。

 

―――あけましておめでとう。今年もよろしくな。

 

 その年始の挨拶に、三人の美女が揃って拍子抜けし、その後で軽く文句を言った事を記す。



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わたしがママよ

これで本当に終わり。やはり、どうしてもこういう結末しか思い浮かびませんでした。ご都合ですが、どうかお許しを。


 桜の咲く季節となり、あちこちで新生活の息吹が感じられる頃、八幡は自分の部屋のソファに座ってぼんやりとしていた。ゆいこがいなくなった数日後、この部屋からいろはは出ていった。ゆいこの面倒を見る際の報酬であった合鍵さえ置いて。その理由は一つ。

 

―――ここにいると、どうしてもゆいこちゃんの事思い出しちゃうんで……。

 

 傷がなかった訳ではないと、そう暗に告げていろはは自分の部屋へと帰って行った。だが、どこかで八幡は気付いていた。それは、雪乃や結衣への気遣いでもあると。選んで欲しいが自分だけ特別な条件では嫌だ。そんな気持ちがいろはに生まれたのだろう。そうしていろはと同時期に雪乃と結衣も部屋を訪れなくなり、八幡は寂しさを強く感じるようになった。彼女達が彼から距離を取った背景には、八幡が未だ答えを出せていない事も関係している。一旦距離を置く事で彼にゆっくりと考えて欲しいと考えたのだ。

 

「……俺はどうしたらいいんだろうな。雪ノ下も、由比ヶ浜も、一色も、正直俺にはもったいないぐらいの女性だ。誰を選んでも幸せで、誰を選ばなくても不幸なぐらいに……」

 

 思い出すのはそれぞれが抱き抱えたゆいこの姿。黒髪にクセ毛のあるゆいこに、黒髪でクセ毛のないゆいこ。そして亜麻色の髪でクセ毛のあるゆいこ。どのゆいこも愛しく、なかった事には出来ない。誰かを選べば後の二人のゆいこはない事になる。それもまた悩む理由だった。

 

「それにあの複合されたゆいこ、か……」

 

 ぼんやりと思い出すのは、全部笑っているゆいこだった。本当によく笑っていた。そう思い出すと、その笑顔のためにも決断しなくてはいけないと八幡は思うのだ。

 

「期限も近い。なら……」

 

 意を決して彼はスマホを取り出した。そして、あのゆいこが切っ掛けで作ったLINEグループへメッセージを送る。それは自分の部屋へ三人を呼び出すもの。答えを聞いて欲しい。その一文を。

 

 時間は過ぎ、夕闇がゆっくりと近付く頃、マンションを訪れる三つの人影があった。それらは揃ってある一室を目指して進み、インターホンを押す。やや間を置いてドアが静かに動いて八幡が顔を見せた。

 

「……呼び出して悪いな。入ってくれ」

「お邪魔するわ」

「お邪魔します」

「お邪魔しまーす」

 

 彼女達が揃ってこの部屋を訪れるのは、実に三か月ぶりだった。最後は言うまでもなく、あのゆいこがいなくなった日、即ち元日である。リビングへ通された三人は、そこで思わぬ物を見つけた。それはゆいこの使っていたゆりかご。何故それが出ているのか。そう思う彼女達へ八幡が先んじて口を開いた。

 

「それを出したのは、ゆいこにも聞いてもらおうと思ったからだ。俺の、本物の答えを」

 

 言いながら彼はゆりかごへと近寄り、それを優しく揺らした。そうされるとゆいこが必ず笑っていた事を思い出して、誰もが懐かしく、そして寂しく思った。もう、あの明るく楽しげな声は響かないのだ。

 

「俺は、あの頃一目惚れをした。いや、正確にはしていたんだ。だけど、それを気のせいだとか勘違いだと思い込んで見ない振りをした。それに、その相手も俺へ好意を抱いているように見えなかったしな」

「比企谷くん……」

「そうしたら、今度はそんな俺へ好意をはっきり見せてくる奴に出会った。最初は遠ざけた。その優しさは誰にでも向けるもので、俺だけが特別じゃないと言い聞かせて。だけど、そうじゃないかもしれないとある時から思うようになった」

「ヒッキー……」

「そんな風に思っていたら、とある事で俺達は隙間風が吹く関係になった。そんな時、妹のように甘え上手な奴と関る事になった。そいつは学校で一番モテてる奴が好きで、俺はいつの間にかその恋愛を応援するハメになって、そりゃ大変だった。それでも面倒見ちまったのは、放っておけない奴だったからなんだろうな」

「先輩……」

 

 一度たりとも三人を見ず、まるでいないゆいこへ聞かせるように話す八幡。そして彼はゆっくりと彼女達へ顔を向ける。

 

「雪ノ下に惚れて、由比ヶ浜を好きになって、一色は放っておけないんだ。俺の本物の気持ちはこれなんだ。あの奉仕部で過ごしてた時間。それこそが俺の本物になっていたんだと思う。だから、誰が欠けてもダメなんだ。ゆいこがそれを俺に分からせてくれた。あの最後の姿の意味は、俺の本心だった。選べないんじゃない。三人を選んでいたんだ」

 

 真顔でそう言い切る八幡だが、そこで一旦深呼吸をする。そして勢い良く頭を下げて叫ぶ。

 

―――虫の良い事を言ってるのは分かる! だけど、俺に三人のゆいこを抱かせてくれっ!

 

 その姿に雪乃と結衣が息を呑み、いろはは呆気に取られていた。八幡は常識的であり、良識を持っている人間である。だからこそ、ここまで迷い悩んだ。あっさりと三人がいいと言ったのではなく、様々なものを考慮しながらも三人がいいと言った。それが彼女達には大きかった。

 

 今も頭を下げ続けている八幡を見て、最初に口を開いたのはいろはだった。

 

「先輩、頭上げてください。その気持ち、私もよく分かりますから」

「……一色」

 

 八幡が顔を上げると、いろはは柔らかく微笑みを浮かべていた。そこには、答えを出した事への喜びと振られなかった嬉しさと、自分だけではないという微かな悲しみが滲んでいた。

 

「私、ゆいこちゃんの世話をしてる内に分かったんです。きっと、奥さんからお母さんになるって、こういう事を経験してなってくんだろうなって。私、まだ結婚もしてないのに気分は先輩の奥さんでした。合鍵もあったし、今だから言いますけど、小町ちゃんにもその事教えて堀埋めてましたから」

 

 思わぬ告白に八幡だけでなく雪乃と結衣も驚きを見せていた。だけども、いろははそんな彼らへ寂しそうな表情を向ける。

 

「でも、あのゆいこちゃんを思い出すと、私だけがお母さんでいいのかなって思うんです。結衣先輩にも雪ノ下先輩にも、ゆいこちゃんはすっごく懐いてました。あの子にとって、私達三人がお母さんだったんじゃないかなって」

「……そう、かもしれないね。だって、あたしがママだとゆいこちゃんは亜麻色の髪にならないもん」

「私でもよ。あのゆいこさんは可愛かったわ」

「黒髪のゆいこちゃんも可愛かったよ。クセ毛があってもなくてもね」

「心なしかクセ毛なしの方が甘えん坊でしたね」

「あー、かもしれない。あたしの要素?」

 

 自分を指さして小首を傾げる結衣だったが、それを見て雪乃が即座に答えた。

 

「甘えたがるのは由比ヶ浜さんではなく彼でしょう」

「おい、人を甘えん坊みたいに言うな。確かに甘えたい気持ちは強いが、ちゃんと自立してるだろ」

「あら? 将来の夢が専業主夫だった人が甘えん坊ではないと?」

「……今の夢は三人の娘に絵本を読み聞かせする事だ」

 

 その照れながらもはっきりと告げられた言葉に三人が赤面する。しかし、雪乃はすぐに立ち直ると咳払いをして質問を始めた。

 

「世間は冷たいわよ」

「ああ、分かってる」

「私の場合、あの母がいるのだけど?」

「全力で立ち向かうだけだ」

「由比ヶ浜さんや一色さんのご家族には?」

「誠心誠意を以って理解を求める。無理なら……無理で考える」

「…………私だけではダメ?」

「っ……ダメじゃない、が、分かってくれ。こんなバカな答えを出す奴になったんだよ」

 

 一度として顔を背ける事なく、八幡は最後まで雪乃の顔を、目を見つめて答えた。そこに覚悟のようなものを感じ取ったのだろう。彼女は小さく息を吐くと結衣といろはへ顔を向けた。

 

「だそうよ。どうする?」

「そうだね……」

「じゃあ、どこまで先輩の気持ちが本物か試してみましょうか」

 

 悪戯めいた表情でいろはが告げた言葉に八幡の表情が変わった。

 

「は?」

「まず、ご近所付き合いでの白い目に耐えられるかですね。早速明日から行動開始しましょう」

「うん、そうだね。ママからも、一人暮らししてみた方がいいって言われてたんだぁ」

「由比ヶ浜さん、同棲は一人暮らしとは違うわ」

「きっと、家事などを誰かにやってもらうだけじゃない暮らしをしなさいって事じゃないですか? なら大丈夫かと。今度からは私も社会人ですので」

「当番制? あるいは分担かしら? とにかく、それなら由比ヶ浜さんのお母さんが考えている事にはなりそうね」

「みんなのお家への報告はいつにする?」

「さすがに一年は様子見ません? で、小町ちゃんへ教えて反応を見てから……」

「ね、具体的な話するの止めてくれない? それと、自分で言っておいて何だけど、何でもう受け入れてるの?」

 

 あまりにも現実味のある仮定を聞かされ、八幡はその想像で頭と心が痛くなったのだ。特にズキリときたのが同棲という響きである。間違ってはいないのだが、複数人で住むなら、ルームシェアという言い分が通るのではないかと思ったのだ。だが、そんな彼の気持ちを見透かすように雪乃が平然と告げる。

 

「だって、貴方のその答えが永遠に変わらないとも限らないでしょ?」

「は?」

「うんうん、一緒に暮らしてる間にヒッキーがあたしやゆきのん、いろはちゃんの中で一番を作っちゃうかもしれないし」

「いや、だから」

 

 自分の本心が伝わり切っていないのか。そう思って口を挟もうとした八幡の口元へ、いろはがそっと指を当てる。

 

「先輩、分かってください。雪ノ下先輩も結衣先輩も、そう思う事で折り合いをつけてるんです。勿論私もですよ? いつか先輩が一人に決めるかもしれないって、そう言い聞かせて、ね?」

「一色……」

「ふふっ、これじゃいつかと逆ですね。今度は先輩がはっきり伝えて、私達は見て見ぬ振りをするんですから」

「だけど、それでいいわ。これで御相子よ」

「ヒッキーが昔やってた事だもん。あたし達がやっても文句ないよね?」

「雪ノ下……由比ヶ浜も……」

 

 最低で最悪な選択をしたにも関わらず、それを屁理屈を以って受け入れてくれる三人に、八幡は言葉がなかった。一夫多妻など認めた訳ではない。これからの時間は実力行使で行う恋愛バトルだ。それが三人の表向きの言い訳である。無論、八幡が誰か一人に決める事はないと知りつつ、そんなはずはないと自分へ言い聞かせて。

 

 こうして始まる四人での共同生活は、早々に引っ越しを考える事態となる。当然と言えば当然だ。何せそれぞれの自室がないのだから。それでも同棲を解消するつもりはなく、四人の通勤事情や住居への希望などを話し合いながら、彼らは助け合って生きていく。

男女的な一線を越える事は中々出来ないでも、色恋的な一線は共同生活初日から名前で呼ぶと八幡が決めた事を皮切りに、それぞれとの個別デートや四人でのデートなどを経験し、まるで大学時代にしておきたかった事を経験するかのように、四人は時間を捻出して過ごす。

 

 そんな生活も慣れ、賃貸の一軒家を見つけて引っ越して数年後、思わぬ動きが政界で起きる。少子化対策として幾多もの法案が出され、試験的に一夫多妻が導入される法案も可決されたのだ。とはいえ、当然少子化対策の一環なので、五年以内に子供を作る事と、妻となる女性達との合意が必須条件となっていた。逆に言えば、子供を産み育て、妻とする女性達の合意さえあれば重婚を許されるのだ。

 

「……八幡さん、これって」

「ああ、そういう事だよな」

「ゆいこちゃんとやっと再会出来るよ、ヒッキー」

「ついでにこれで周囲の理解も得られるわ。少子化に対する制度の良い見本として、ね」

「……にしても、よくこんな案も通ったな」

「だからこれについては試験的導入なんでしょう。つまり、この条件で制度を利用する者がいなければ廃止する。要するに政府もそれぐらい追い詰められてるんじゃないかしら。他もかなり馬鹿げているものが多いわ。それでも、色々やってみて効果が出るか否かを確かめてるんでしょ」

「まぁ、普通は無理ですよねぇ。特に女同士の合意」

「あたし達もゆいこちゃんと出会ってなかったら……ね」

 

 そしてこの日から、八幡にとっての天国のような日々が始まった。所謂妊活である。本来ならば婚活が先だろうが、この制度のためには妊娠する事が必要。あれだけ越えられなかった一線もあっさり突破し、彼は一夜にして三人もの美女の初めてをもらう事となった。三人ともに初体験は譲れなかったためである。

しかも、それで終わりではなく始まりだったのだから、世の男性が知れば彼はただでは済まなかっただろう。ただ、さすがに彼女達を同時に相手する事は中々なかったが。

 

―――ゆ、雪乃……もう一度いいか?

―――ええ、いいわ。何度でも抱いて。

―――……雪乃、愛してるぞ。

 

 ある夜は雪乃と日が昇るまで求め合い……。

 

―――えへへ、ヒッキーのがいっぱぁい……。

―――……結衣、悪い。もう一回させてくれ。

―――え? ちょ、ちょっとヒッキー!?

 

 ある夜は天然でその気にさせる結衣を押し倒し……。

 

―――八幡さん、もっとしよ?

―――っ! ……この小悪魔め。退治してやる。

―――はぁい、退治されま~すっ。

 

 ある夜は挑発するいろはを返り討ちにした。

 

 その甲斐あって、見事三人は新しい命を宿した。最初に雪乃が、すぐ結衣といろはも妊娠が確認される形で。今は、その子達の名前をどうするかで八幡は悩んでいる。ゆいこは敢えて使わない事にしたからだ。同然だ。ゆいこは一人で、彼女達に宿った命は別の存在だと考えていたのだから。

 

(きっと、平行世界って奴になったんだろうな。ゆいこは俺が誰かを選んだら生まれてきたんだろう……)

 

 紙とペンを前に、八幡はぼんやりとそんな事を考えていた。雪乃の子には雪乃から一字、結衣の子には結衣から一字、いろはの子にはいろはから一字もらう事に決め、三つの名前を考える事にして。

 

「雪乃の子は、雪をもらうか。結衣は結の字がいいな。いろはは……漢字なら色か。でもあいつは平仮名の名前だからなぁ……」

 

 ゆきみ、ゆいかと書いて、八幡は考える。いろはの名をもらって女の子の名前を作るなら、どの字が一番可愛らしいかを。その結果、ろの字をもらう事にして考え、ろみと書いた辺りで何か違うと首を傾げる。

 

「……やっぱり”い”にするか」

 

 結果、まいことした。小町のまといろはのいの合わせ技に、母親の名と同じ文字数へ揃えただけである。妹分と妹の名を一字ずつ足すという、何とも彼らしい名付けであった。そうやって一例を書き出したところで、八幡は不意に手元に置いてあったお茶の入ったグラスを倒してしまった。

 

「やばいっ!」

 

 慌ててグラスを戻し、零れた水分を出来るだけ丁寧に拭き取って、彼は紙へ目をやった。そこで八幡は気付く。零れた水分の影響で文字が滲み、はっきりと読める文字を繋げるとあの名になる事に。その瞬間、思い出されるあの最後の姿と、消える際に三つに光が分かれた事。全てが線で繋がった瞬間であった。

 

「そうかっ! ……ゆいこは三人の子供の集合体だったんだ。だからあいつらそれぞれに変化し懐いたと、そういう事か」

 

 噛み締めるように八幡が答えを導き出した時、ふと赤子の笑い声が室内に聞こえた。反射的に彼が顔を動かすと、一瞬だけゆいこが天井に見える。だが、驚いて彼が目を擦った後にはそこには何もなく、ただ天井が見えるだけ。

 

「……大正解ってか? ありがとな、ゆいこ」

 

 誰もいない天井へ向かって一人呟き、八幡はそっとスマホを取り出して画像フォルダを表示した。そこから一つの画像を見つけ、画面へ表紙させる。それは、あの誕生日の時に撮影したもの。ゆいこだけがそこから綺麗に消えている。だけど、八幡は呟いた。

 

―――例え記録から消えても、記憶からは消えない。ゆいこ、お前は今も俺達の中にいるからな。

 

 翌年、八幡達は一枚の写真を撮影する。そこには、雪乃に結衣といろはが映り、彼女達に囲まれて照れ笑いを浮かべながら、三人の赤子を抱き抱える八幡の姿があった。三人の子供達は、八幡達の会話内で登場する時、セットで扱われる際にこう総称される事となる。ゆいこ、と……。




最後はやはりご都合で片付けとなりました。自分の悪い癖ですね。……こんな法案、現実には実現しないでしょうし(汗
最後までお付き合い頂きありがとうございました。拙作製造機の次回作にご期待しないでください。


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お兄ちゃんの一番長い日

御希望があった小町視点での途中経過と後日談を書いてみました。これで本当に完結です。タイトルや内容なんかは某有名歌手の歌のオマージュです。


 私が社会人となった二年目の春、久しぶりにお兄ちゃんから部屋へ呼び出された。何故だろうと思いつつ、大事な話があるって言われた。そしたら雪乃さん達がいて、そこで三人と付き合ってる&同棲してるって教えられてもうビックリ。

 

「本気で言ってる?」

「……俺が冗談でこんな事言えると思うか?」

 

 そこで教えられた過去の事。いろはさんが合鍵をもらった裏にそんな事があったなんて……。最初は信じられなかったけど、よくよく思い返せば、確かにその頃、お兄ちゃんは私と距離を取っていたのを思い出した。毎年お正月は実家に顔を出していたのに、その年だけは来なかったし。

 

「でも、雪乃さん達はそれでいいんですか?」

「ええ。いずれ結衣やいろはさんよりも私と言わせてみせるから」

「それはこっちのセリフだよゆきのん」

「ですです。ま、八幡さんもかなり素直になってくれましたし?」

「……悪いか」

 

 目の前で繰り広げられる会話を眺め、私は理解した。お兄ちゃんは本気で三人を奥さんにしたいって思ってる。だから、それを聞いた雪乃さん達は、表向きそれを受け入れてないって風に装って、お兄ちゃんのわがままに付き合ってくれてるんだって。

 

「……雪乃さん、結衣さん、いろはさん」

 

 真剣な表情でそう切り出すと、すぐにこっちを向いてくれる三人が本当に嬉しい。うん、お兄ちゃん、小町は応援してあげる。ただ、それはお兄ちゃんのためだけじゃないからね。こんなにも優しいお義姉ちゃん候補達のためでもあるんだから。

 

「こんな、ハーレムを望んじゃうような兄ですが、小町の大好きなお兄ちゃんを、よろしくお願いします」

 

 その後はもう惚気話の連続。お兄ちゃんは三人の自慢ばかりで、三人はお兄ちゃんの自慢。本当に呆れるしかなかった。だけど、やっとお兄ちゃんと本気で向き合ってくれる彼女さんが出来て、私は嬉しかった。それに、そんな人達をしっかり受け止めているお兄ちゃんを立派に思えた。兄として。

 

 

 

 それから半年近く経ったある日、お兄ちゃんが実家へ顔を見せた。何をしに来たのかと思えば、お父さん達に自分の事を話しに来たらしい。お父さんとお母さんは、久しぶりに顔を見せたお兄ちゃんに驚きを見せていた。だって、すっかりお兄ちゃんが大人になっていたから。私も実感したもん。ああ、これがお兄ちゃんの大人の顔なんだって。

 

「親父、母ちゃん。実は俺、三人の女性と同棲してる」

 

 家中の時が止まった。お母さんは信じられないとばかりに目を見開いて、お父さんは言葉の真偽を確かめるように無言でお兄ちゃんを見つめていた。小町は何も言えず、ただお兄ちゃんとお父さん達の顔を交互に見るだけ。

 

「……それを相手の方はどう思ってるんだ?」

「理解してくれて、納得までしてくれてる。近い内に向こうの家族にも挨拶に行くつもりだ」

 

 その瞬間、お父さんが立ち上がり、何故か自分の部屋へ向かった。そして少しして戻ってくると、一通の通帳をお兄ちゃんへ差し出した。お母さんはそれを見て何かを悟ったように息を呑んでいた。

 

「これを持って行け。俺がお前が生まれてから少しずつ積み立てたもんだ。男はでかい夢を見る事がある。それが何であれ、いるのは金だ。もしお前がそういう夢を追い駆けたいと言い出した時にと、そう思ってな」

「親父……」

「俺も、若い頃は色々馬鹿な夢を見た。だけど、それを実行できるだけの度胸と思い切りがなかった。そして、何よりも金が無かった。だから、お前が生まれた時、同じ想いだけはさせたくないとな」

「八幡、女として一言だけ言わせてもらうよ。その三人が納得してるって事は、もう全てをあんたに預けたって事だからね。何があっても、ちゃんと守り抜きなさい。今のあんたなら、それが出来ると私は思うから」

「母ちゃん……」

「良かったね、お兄ちゃん。本当に……良かった……っ!」

「小町……母ちゃん……親父……ありがとう。本当に、ありがとう……っ」

 

 気付けばお兄ちゃんは泣いていた。お母さんも泣いていた。お父さんは泣いてなかったけど、ずっと上を向いていた。小町は、もう何も見えなかった。バラバラだった家族が、久しぶりに同じ気持ちになった瞬間だった。

 

 お兄ちゃんは泊まって行く事になり、久しぶりの自分の部屋を見て、何も変わっていない光景に驚いてたから、お父さんがいつ逃げ出してきてもいいようにって言ってた事を教えてあげた。すると、その言葉を噛み締めるようにして呟いた。

 

「俺は、本当に子供だったんだな……」

 

 そう言って小さく笑ったお兄ちゃんの背中は、とっても大きく見えた。兄として。

 

 

 

 それから少しして、夏の暑さが薄れてきた頃、お兄ちゃん達が引っ越した事を聞いた。なので引っ越し祝いも兼ねて遊びに行くと、中々年季の入った一軒家。

 

「あっ、小町ちゃん。いらっしゃい」

「こんにちはいろはさん。遊びに来ました~」

 

 二階建ての築二十年ぐらいの家。賃貸らしいけど、家賃を聞いたらビックリ。四人で割ると諭吉さんが二枚。格安だなぁって思っていると、どうやらちょっとした交渉の結果らしい。

 

「え? 家賃を一年分まとめて払った?」

「そう。ヒッキーがそうするので少しまけてくれないかって大家さんに」

「向こうとしても、先んじて手元に来る方が安心出来るから応じてくれたわ。こちらも一年は家賃を考えずに済む。まぁ、これも仲介が介在しないからこその手段でしょうけど」

「そんなお家あるんですか?」

「ここの大家さん、他にも家を持ってるんだって。で、ここは昔の自宅らしくて、人が住んでくれた方が収入以外にも色々助かるからって」

 

 すっかり奥さんみたいな雪乃さん達を見て、私は安心すると同時に寂しくもなった。あのお兄ちゃんは、気付けば立派な大人になって、しかも旦那さんとしてもちゃんとしてるらしい。今日は三人を休ませると同時に、私を歓迎するためにとお寿司を予約し、現在その受け取りにお出かけ中。それに使われている車は、お兄ちゃんが自分のお給料を使って買ったもの。大きなワゴンタイプの奴で、楽に大人が七人は乗れる感じだ。ゆいこのおかげで使う暇がなかったからなって、そう言って笑ってた。

 

「でも、意外です。結衣さんのとこはともかく、いろはさんや雪乃さんのとこも一応理解してくれたって」

「あー、私の家は理解って言うより様子見って感じ。ま、孫が出来ればそれをとっかかりでいけると思ってるけどね」

「私の両親は理解ではなく放任よ。あの二人、いえ母にとっては姉さんがいるし。私が余程の問題を起こさない限り気にしないんじゃないかしら」

「あ、あはは……それでもヒッキーは頑張ってたよ。えっと、男見せたんだよ」

「うん、それは本当。実は、私達の家族には八幡さん一人で会いに行ったんだ」

 

 そこで明かされる事実。お兄ちゃんは三人にご両親との約束だけ取り付けてもらい、たった一人で会いに行って事情を説明。何と、雪乃さんのお父さん以外に殴られたそうだ。それを結衣さんといろはさんは、それぞれのお母さんから聞いたらしい。お兄ちゃん、黙ってたんだ。

 

「その事をヒッキーに聞いたら、パパの気持ちを考えれば当然だからって。それに、それを知る事であたし達がパパの事を嫌いにならないで欲しかったから、だってさ」

「ホント、八幡さんって一度決めると凄いですよねぇ。まぁ、だからこそ決意するのが遅くなるんでしょうけど」

「その分、一度決めれば必ずやり抜くわ。だから、今回の事も必ずやり抜いてみせるはずよ。納得させられなくても理解だけは得ると、そう言ってくれたのだからね」

 

 雪乃さん達を見てると思う。愛って、凄く強いけど、その分重いんだなって。その重さを耐え切れる人だけが愛の力を使えるんだと心から思う。私も、いつかその重さを知る時が来るんだろうか? 願わくば、その時はまだ叔母さんになっていませんように。

 

「ただいま」

 

 そうこうしてるとお兄ちゃんが帰ってきた。今じゃ会社の期待の星なんて言われてからかわれてるらしく、そこからもお兄ちゃんの成長が分かる。もう専業主夫になりたいって言ってた頃のお兄ちゃんはいない。それが少し寂しくて、でもすごく安心している自分がいる。

 

 お寿司はとびきり美味しい訳でもなく、普通に美味しかった。それからは雪乃さん達と一緒にガールズ(?)トーク。お兄ちゃんはそれを居心地悪そうに聞いていたのが面白かった。昔ならどこかへ逃げるか、関係ないとばかりに本やゲームに意識を向けてたはずなのに。

 

「そういえば、寝室ってどうしたの? やっぱり別々?」

「一緒に出来る訳ないだろ。子供が出来たら考えるけどな」

 

 その言葉に、何故か雪乃さん達が嬉しそうに微笑んだのを私は見た。その理由は良く分からないけど、未来から来てた赤ちゃんの事が関係してる事だけは分かった。うーん、やっぱり私も見たかったなぁ。聞くところだとかなり可愛かったらしいし。

 

 その後もちょっと際どい質問をしてお兄ちゃんを、時々お義姉ちゃん達を困らせた。それでもきちんと向き合って答える辺りに、お兄ちゃんの変化を感じて頼もしく思った。兄として。

 

 

 

 それから数年の時が経ち、あるニュースに私は思わず目を疑った。それは、重婚許可の法案。そしてすぐにお兄ちゃん達へ連絡すると、すぐにでも手続きをするとの事だった。そして半年もしない内に私は叔母さんになった。だけど、嬉しさの方が大きかった。何せ、やっとお義姉ちゃん達が式を挙げる事が出来るからだ。お腹が目立つ前にと、お兄ちゃんはあの通帳のお金全てを使い、三人の花嫁に綺麗なドレスを着せた。

 

―――俺のでかい夢の一つが叶ったよ。ありがとう、親父。

 

 式の終わり際、そうお兄ちゃんが告げると、あの時さえ涙を見せなかったお父さんが人目も憚らず泣いた。お母さんも、小町も、事情を知っているお義姉ちゃん達と、仲人をしてくれたお兄ちゃんの会社の社長さん夫婦も泣いていた。一人、お兄ちゃんだけが凛々しくも優しい笑みを浮かべてた。

 

 全てが終わって、お義姉ちゃん達のお腹が段々大きくなり、遂にその時が来た。無事に生まれてくれた三人の赤ちゃんは、お義姉ちゃん達の両親さえも笑顔に変えた。そして桜の花が咲き始める頃、お兄ちゃんが三人の赤ちゃんの名前を決めた。雪美ちゃんに結花ちゃん、まいこちゃんだ。何とまいこちゃんは私の名前からも一文字使ったとの事。

 

「雪美、結花、まいこ、ね。アナタらしいわ」

「どーゆー事?」

「結衣さん、平仮名で考えてナナメ読みです」

「…………ああっ! ホントだぁ!」

 

 そんな話を聞きながら私も考える。ゆきみ、ゆいか、まいこ。斜めにするとゆ、い、こ。ゆいこ。それが未来から来たというお兄ちゃんの子供の名前。だけど、実際には三人も娘が生まれた。ゆいこちゃんは、どこにもいない。だからせめて名前だけでもって、そういう事かな。そう思って私は納得。本当に父親になったんだなって、そう思った。妹として。

 

 

 

「ね、小町おばさん。なによんでるの?」

「ん? ああ、日記だよ。まいこちゃんが生まれる前から書いてたやつなんだ」

「まいこが? みせてみせて」

「だ~め。それに、まいこちゃんには、まだ読めない文字が多いからね」

「そんなコトないもん。まいこ、もうえほんだってよめるもん」

 

 私の膝に座り、拗ねたような顔をするまいこちゃん。本当に可愛い。今日は土曜日。当然幼稚園がお休みなのだが、今日は兄夫婦のお泊りデートのため、実家で私が子供達の面倒を見る事になっていた。お父さんとお母さんは孫達と朝から遊んだために寝室でぐったりしてる。ま、一人で子守するのは嫌ではないし、むしろ楽しくて癒される事もあるのだが、一つだけ難点がある。それは、子供が欲しくなってしまう事。

 

「あー、まいこがおばさんをこまらせてる~」

「結花ちゃん、そんな事ないよ」

「そうなの?」

「うん、そうだよ」

「だけど、ごかいをうむようなはつげんはひかえるべきだわ。おばさまもそう思いますよね?」

「それはもっと大きくなってからでいいよ。雪美ちゃんはお姉さんだから、お母さんみたいにしっかりしたいんだろうけどね」

 

 まいこちゃんの頭を撫でていると、結花ちゃんと雪美ちゃんがやってきた。一応長女の雪美ちゃんだが、同じ年に生まれているためにそこまでの差はないと言える。ただ、雪乃お義姉ちゃんの影響か、口調がかなり似てる。対して結花ちゃんは結衣お義姉ちゃんと一緒で、周囲に笑顔を振りまく天使みたいな子だ。まいこちゃんは甘えん坊というか、人を動かすのが上手な気がする。その辺りはいろはお義姉ちゃんの血だろうなぁ。

 

「でもゆきママ、このまえみちまちがえてたー」

「あ、あれはわたしたちがちゃんときづくかためしたのよ!」

「あれ? でもゆきママ、こーばんでおまわりさんにみちおしえてもらってたよ?」

「そ、それは……もしものときはこうするようにとみせてくれただけよ」

「はいはい、そこまでにしようね? 大体、結衣ママもいろはママもドジなとこや失敗する時はあるでしょ?」

「「うん、あるよー」」

 

 揃って答える結花ちゃんとまいこちゃんについつい頬が緩む。あー、可愛いなぁ。まだハイハイする前から知ってるせいで、本当に愛情が溢れる。私もおむつ換えたりしてあげたんだもんね。仕事で疲れてる時も、この子達の声を聞かせてもらって癒される事だってある。

そして、その度に思うんだ。きっと、昔お父さん達が仕事をあれだけ出来たのは、小町達の笑顔のためにって思ってたからだろうって。擬似的な母親をする度に、親は子供のためならどんな苦労も乗り越えられるんじゃないかって。

 

「そういえば、どうして雪美ちゃんと結花ちゃんはこっちへ来たの? たしかリビングでプリキュア見てたでしょ?」

 

 そう、かつての兄が録画したアニメは、今や立派に姪っ子達のお気に入りとなっている。それと、パンさんも。その理由は、目付きがパパに似てるから。それを聞いてお兄ちゃんは苦笑いし、お義姉ちゃん達は大笑いしたとか。私も聞いた時は笑うのを我慢出来なかったしね。

 

「おなかすいた~」

「そろそろおひるごはんのじかんだとおもって」

「あー、そうだね。じゃ、すぐ用意するから待ってて」

 

 時計を見れば丁度十二時をさしていた。結花ちゃんに可愛いおねだりもされたし、雪美ちゃんの少し恥ずかしそうな顔も見れた。御代としては十分。なので早速お昼を作るとしよう。とはいっても、残りご飯を使ったチャーハンだけどね。卵を用意し、後は便利な素を使えばいいだけ。と、背中に感じる三つの視線。振り返ればそこには可愛い姪っ子達。ははーん、そういう事か。

 

「お手伝いしてくれるの? じゃ、手を洗ってきて」

「「「はーい」」」

 

 揃ってトタトタと走り出す三人。うん、こういうとこは雪美ちゃんもまだ歳相応な感じになるね。可愛らしい後ろ姿を見送り、何を手伝わせようかと考えてメニューを変える事にした。少しだけご飯をレンジで温め、三人の愛らしい助手がくるのに備える。丁度温め終わりで三人の天使が戻ってきた。

 

「「「洗ってきたよ」」」

「よし、じゃあオニギリ作ってもらおうかな」

「「「オニギリ!」」」

 

 何を作るか言った瞬間、三人の目が輝いた。そうだよね。自分でも出来るって分かるもん。お手伝いじゃなくて最後までやれる。これが子供の頃ってすごい感じするんだよねぇ。で、中に入れるものをこっちが用意。ツナマヨはマストで、後はおかかと……のりたまのふりかけを見つけたのでそれを使ってもらう事に。

 

「じゃ、これでよろしく。ケンカしないようにね」

「「「はーい」」」

 

 三人のおにぎり作りを少し眺める。やはりというか何というか、雪美ちゃんは歳のわりに綺麗なオニギリを作る。結花ちゃんはやや苦手そう。でも楽しそうに笑ってる。で、まいこちゃんは雪美ちゃんのやり方を見て真似ていた。いやぁ、三者三様だね~。

 

「おばさん、これでいい?」

「おー、まいこちゃん上手だね。うん、そんな感じでいいよ」

「おばさんおばさん、あたしは?」

「結花ちゃんも上手に出来てるよ。だけど、ちょっとだけ力抜いてごらん?」

「えっと……どんな感じ?」

「少しだけ優しく握るの。やってみて」

「うんっ!」

 

 マイペースなまいこちゃんと元気な結花ちゃん。雪美ちゃんは黙々とオニギリを作っている辺りがらしいなぁ。さて、ではそろそろこっちもやりましょうか。オニギリ用に分けたご飯とは別に、少しだけ残したご飯を使ってチャーハンを作る。すると、三人の視線がこっちに向いたのが分かった。

 

「おばさん、なに作ってるの?」

「チャーハンだよ」

「それもオニギリにするの?」

「ううん、これは普通に食べるの。あったかいものもいるかなって」

「それはいいですね。オニギリのほうは少しつめたいですし」

「そういう事」

 

 フライパンを動かしながら答えるけど、何というかホントお母さんになった気分。あー、こりゃ雪乃お義姉ちゃんやいろはお義姉ちゃんが料理張り切る訳だ。背中に感じる尊敬の眼差し。まだ火を使わせてもらえないもんね。おぼろげな記憶の中で、私も小さな頃はお兄ちゃんに同じような目を向けた事があった気がする。

 

 出来上がったチャーハンをオタマでお店みたいに盛り付け、テーブルへ置くと目に入るのは凸凹な感じのオニギリ。その光景で本当にほっこりしてしまうのは歳を取ったって事なのかな? とにかく早く食べたそうにしてるし、先に姪っ子達だけでも食べさせてあげますか。

 

「じゃ、手を合わせて?」

「「「「いただきます」」」」

 

 合図と共にそれぞれがちゃんと自分以外のオニギリへ手を伸ばす辺りが可愛い。私はお茶を用意してそんな光景を眺める。お茶を入れたコップをそれぞれの近くへ置く。と、そうだったそうだった。

 

「お茶置くからね。気を付けて」

「ありがとうございます、おばさま」

「はい、結花ちゃんの」

「ありがと~」

「まいこちゃんの」

「ありがとっ!」

「うん、じゃあ私もみんなのオニギリいただこうかな?」

「「「はい、どーぞ」」」

 

 一斉に差し出される三つのオニギリ。ああ、もう! 本気で可愛いんですけど! ……本当に相手作って、子供産んじゃおうかな? あてがない訳じゃないし……。とにかく今は姪っ子の気持ちをいただこう。

 

「じゃ、まずは結花ちゃんのからね」

「はーい」

 

 握り方が若干柔らかいけど、最初のやつを見てたから分かる。これは結花ちゃんなりの努力の結果だ。中身はツナマヨ。うん、普通に美味しい。

 

「美味しいよ、結花ちゃん」

「よかったぁ」

「つぎ、つぎはまいこの!」

「はいはい」

 

 ぴょんぴょん跳ねてアピールする辺り、本当にいろはお義姉ちゃんっぽいんだよなぁ。さて、オニギリは……思ったよりはちゃんと握れてる。少し硬いかな。でも美味しい。のりたまは鉄板だね。

 

「どう?」

「うん、美味しい。まいこちゃんもちゃんと出来てるね」

「えっへんっ!」

「おばさま、私のを食べてみてください」

 

 雪美ちゃんの負けん気発動。こうして見ると、お兄ちゃんの遺伝子ってどこに反映されてるんだろ? 娘は基本父親似って聞くんだけどなぁ。そんな事を思いながらオニギリを食べる。うん、幼稚園児が握ったとは思えないぐらいちゃんとしてる。中身がおかかなのもあって、すっごく正統派な感じ。

 

「さすが雪美ちゃんだね。お見事」

「ま、まぁとうぜんです」

 

 そう言いつつ嬉しそうに笑みを見せる雪美ちゃん。この辺りはまだ両親の影響はないみたい。出来れば雪乃お義姉ちゃんとも、陽乃さんとも違うタイプの女性になって欲しい。そうしてオニギリが減ってきた辺りで、三人の視線がチラチラと向いているものをあげましょう。

 

「あったかいもの、どうぞ」

「「「あったかいもの、どうも」」」

 

 丁度いい感じの温度になったはずだし、そろそろ強めの味も欲しいよね。差し出されたチャーハンを三人が楽しそうにスプーンで崩していく。うんうん、何かテンション上がるよね、それ。

 

「「おいひー」」

「……ごくんっ。ゆいかもまいこも、くちにたべものいれたまましゃべっちゃダメ」

「あはは、そうだよ二人共。ちゃんとよく噛んで食べてね?」

「「ふぁーい」」

「もうっ! 言ったばかりなのに……」

 

 そんな感じで楽しい昼食は過ぎていく。お腹いっぱいになった三人は、その後少し遊んで、揃ってお昼寝タイム。その寝顔を眺め、心から思う。お兄ちゃん達はこの天使達と出会ったから結ばれたんだと。あの未来から来た赤ちゃん。それがお義姉ちゃん達に応じて姿を変えた事。それを見たから、お兄ちゃんはお義姉ちゃん達を求め、お義姉ちゃん達はそれを受け入れたんだ。

 

「子は鎹、か……」

 

 この場合もそれでいいのか分からないけど、ゆいこの三人が今に繋げたのは事実。……雪乃さんのゆにいろはさんのい。それを足して結衣さんのゆい。三人の子供って意味のこでゆいこ。だけど、もしこれをお兄ちゃんが付けたなら、絶対こは小町のこだと思う。

 

「……もしかして、私の旦那さんって亜麻色髪なのかな?」

 

 そうすればお兄ちゃん達に聞いた、最後の姿になるんじゃないかな? 亜麻色髪でクセ毛がない子に。そんな馬鹿げた事を思いつつ、私も気付いたら眠っていた。その夢は、私が顔の分からない男の人と並んで、ゆいこちゃんらしき赤ちゃんを抱いている夢だった……。




ゆいこの複合した姿は、自分的には小町が産んだ姿の予定でした。で、旦那さんが彼女の想像通りの髪色で、生まれた子を見て八幡達が驚く。それが最初の最終回のオチでした。ゆいことの名は、そこで彼らの叫びを聞いた小町が妙に気に入り、自分の子へ名付けるという流れで。

今はそれを変えて良かったかなと思います。ここまで拙作にお付き合い頂きありがとうございました。


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愛を+ワン

感想で要望のあった八幡達と子供達との話です。時期としては小町の話よりも後。まさかこれが一応の完結を迎えてからも、ちょこちょこと新しい方達に読んで頂けるとは嬉しい限りです。本当にありがとうございます。


 比企谷家に三人の天使が生まれて既に六年を迎えようとしていた。雪美達は小学校入学が見えてきた事もあり、新しい生活への期待に胸を膨らませて真新しいランドセルを背負って遊んだり、ある時は帽子を被ってはしゃぎ回ったりしていた。そんな様子を八幡達は微笑ましく見つめていた。広かったはずの一軒家がすっかり狭く感じる程の成長を遂げた子供達に、何とも言えない感慨深いものを覚えながら。

 

「パパ、ママ、見て見て。かんぜんそうび!」

「うん、よく似合ってるよ結花」

「ああ、可愛いぞ」

「えへへ」

 

 結衣の娘である結花は母親譲りの愛くるしい笑みを見せる。そんな彼女の前に出るように現れる亜麻色髪の少女。

 

「お父さん、お母さん、まいこはまいこは?」

「勿論よく似合ってるよ。ね、八幡さん」

「当然だ。まいこは可愛いに決まってる」

「だよね!」

 

 いろはの娘であるまいこも母親譲りの愛嬌をふりまく。今はわざとではないが、いつかこれが意識的にやるようになるのかと思って、八幡は複雑な気持ちを抱く。

 

「あの、私はどうでしょうか。父様、母様」

「心配しなくても可愛いわ。雪美、自信を持ちなさい」

「そうだぞ。雪乃に似て綺麗になってきた」

「そ、そうですか」

 

 両親に褒められ照れ笑いを浮かべる雪美。彼女も母親譲りの気品のようなものを見に付けつつあった。ただ、その性格は棘の丸い雪乃と八幡が評する程柔らかいという違いはあったが。

 

 こうして子供達はしっかりと成長していた。そして、もう一つ比企谷家にある大きな変化が訪れようとしているのだ。

 

「それにしても、大きくなってきましたね。母様達のお腹……」

 

 そう、妻達三人揃って妊娠していたのだ。それも、同じ日に身籠ったとしか思えない計算である。その事に小町は気付いて苦笑いを浮かべながら兄へ言ったのだ。

 

―――感謝してよ? 小町やお父さん達が三人の面倒見た日だよね? まったく、するとは思ってたけど、まさか二人目を同時にとか……どじいちゃんなんだから。

 

 そこで呼ばれた新しい呼び方には、以前とは違う親愛が込められていた。その事もあって、八幡は照れ笑いを返すしか出来なかった。比企谷兄妹にも、あの学生の頃とは違う距離感が出来上がっていたのだ。

 

「ねぇ、赤ちゃんはいつ出てくるの?」

「まいこ、早く一緒に遊んであげたい」

「あー、一応出てくるのは春になるかな」

「「「春……」」」

「そう。だからまいこも、結花も、雪美もそれまでお母さん達を助けてね?」

「「はーい」」

「はい」

 

 結衣といろはの言葉に同じ表情を見せる三人の子供達に八幡達も笑顔が浮かぶ。この六年間、どれだけ疲れていてもその存在に癒されてきたのだ。父親である八幡はおろか、母親である雪乃達でさえも例外なく。

 実の母でなくても幼い命は関係なく慕ってくれる。元々仲が良い相手の子だった事もあって、彼女達は分け隔てなく育てようと思っていたが、そんな事を決意する必要などないぐらい、三人の天使は愛おしくなっていったのだ。

 

 しっかり者だがどこか抜けている時がある雪美。ドジだけれど優しく穏やかな結花。愛想は良いのにこうと決めると譲らないまいこ。母親の要素を強く持ちつつ、どこか違うところを見せるその姿に、八幡達は日々の活力をもらっていた。

 

 ……勿論余計疲れてしまう事もあったが。

 

「もう寝たぞ」

 

 二階にある子供部屋。そこの様子を確認して八幡は階段を下りてリビングへと戻った。そこでは、三人の妻達が大きなお腹を嬉しそうに撫でていた。実は、彼らは計画的に子を設けていた。何せ三人の妻である。それが一人産めば家計的に三つ子が生まれるのと同じ計算だ。なので、しっかりと家族計画を立てて子作りもしてきた。子供達が小学生となる上、八幡も会社でそれなりの地位に就いた事を受けて、やっと二人目を産んでもいいとなったのだった。

 

「そう。いつもありがとう」

「いや、身重な嫁に階段の上り下りを何度もさせられるか」

「うんうん。あたし達の代わりにヒッキーが色々してくれてるし。マジ感謝だよ」

「ま、普段はそっちにやってもらってるからな。こういう時ぐらいは」

「ふふっ、何だかあの子達がここにいた時を思い出しますね」

「……だな」

 

 ソファに座っている三人の妊婦を見つめてから、八幡はポツリと呟いた。

 

「やっぱ、引っ越し考えないとな」

「ですねぇ。この子達が産まれたら絶対手狭です」

「だけど、ここより広い家で今と同じ環境は難しいよ」

「そうね。いっそ中古の家でも買う?」

「簡単に言うな。それと、どうせなら自分達で色々考えたいだろ、持ち家なら」

 

 八幡の意見に賛成なのか結衣といろはも頷いていた。雪乃も本音はそうだったのだろう。苦笑しながら彼らの顔を見回していく。

 

「分かっているわ。でも、現状ではそれは厳しいの。結衣さん、どう?」

「う~ん……たしかにあたし達が仕事に戻っても子供が六人でしょ? それでかかる費用を大雑把に考えても……」

「余裕で難しいですよ。それならここで後数年頑張って、この子達が今のまいこ達と同い年になる辺りで……」

「それもどうかしら。現状では子供部屋が一つで済むけど、今後は最低二つに分けなければいけないし、雪美達が大きくなれば個人個人で部屋をと言い出すわ」

 

 その言葉にいろはも小さく息を吐いた。実際彼女も小学生の中学年辺りで自室を欲しがったのだ。いくら我が子達が仲良しと言っても、それはそれこれはこれとなるに決まっている。ならば、確かに今の状況では部屋が足りない。だが、それを彼も考えていたのだろう。やや気恥ずかしそうに口を開いた。

 

「なら、俺達の寝室を一つにすればいい。それなら部屋が一気に二つ空く」

「……それって」

「ひ、ヒッキーといつも一緒に寝るって事?」

「そうなるな。まぁ、さすがにベッドじゃなくて布団へ変える事になるが……」

「その方がいいかもしれないわ。この際だから古いベッドは捨ててしまうべきね。その、色々とあるでしょ?」

「あー、そうですね。思えば、あのベッドで私達って愛し合ってきましたし」

 

 噛み締めるようないろはの声に、雪乃も結衣も、そして八幡も懐かしむ顔をした。結婚して六年になるが、その前の生活を含めれば十年近い付き合いではある。大人の男女として歩き始めたあのワンルームでの出来事。それから既にもうそれだけの年月が経過していたのだ。

 

「ゆいこも小学校だ。色々と考える時なんだろうな」

「そうだねぇ。ここに来てからもう八年?」

「それぐらいね。そうだわ。新居の件、いっそ父に相談してみる?」

「いいかもしれませんね。どこも孫にはダダ甘ですし、多少は援助してくれるかも」

「おい、ただでさえランドセルとか買ってもらってるんだ。これ以上搾り取ろうとするな」

「いいじゃないですかぁ。それに、あれは向こうが勝手にまいこ達へ買ってるだけです」

「お前なぁ……」

 

 世の祖父母が孫に甘い事をいい事に、いろはは娘達に合った甘え方とねだり方を伝授。それを使って三人の子供達は見事に高価な買い物を成功させていた。無論、八幡の両親も例外ではない。今や四家の親達は血の繋がりなど度外視で、愛らしい孫を愛でる存在となっていたのだ。

 

 更に小町や陽乃といった叔母に伯母も姪っ子をいたく可愛がっている。それらを見て八幡達は思ったのだ。大事なのは血の繋がりではないのだろうと。自分達のように、何かもっと強い繋がりが存在する事で他人は結ばれるのだと、そう改めて感じたのだ。

 

「あはは、なら雪乃のとこでお家をお願いして、いろはのとこで寝具。で、うちで衣服なんてどうかな?」

「随分雪ノ下家の負担がでかいな」

「いいのよ。そもそもは土建屋だったのだし、住居関係はお手の物でしょう」

「うちも大丈夫だと思いますよ。古いベビーベッドってもう全部なかったですよね?」

「そうだね。たしかベビーベッドってさいちゃんとこと優美子のとこへ譲って、残り一つも小町ちゃんへ去年あげたから」

「……そうだったな」

 

 八幡の妹の小町は去年結婚した。子供はまだだが、出来るだけ節約したいとの希望で兄夫妻の家からベビーベッドを譲り受けていたのだ。今、彼女達は絶賛妊活中である。ゆいこに負けないぐらいの可愛い子を産んでみせると意気込んでいたのだから。

 

「それにしても、葉山君には驚いたわ。まさか最初で最後の反抗が優美子さんとの結婚だったなんて」

 

 雪ノ下家との繋がりもあって、そことの縁故をより強くするためにと両家から結婚を望まれていた隼人と陽乃であったが、八幡達が結婚するのと前後してその話は無くなっていた。理由は一つ。隼人が両親へ優美子を紹介し、彼女を妻にすると告げたためであった。

 そして、陽乃もそれに賛同。雪ノ下家の跡継ぎは雪乃が産んでくれると言い除け、自分は独り身で構わないと言い放ったのである。ちなみに、その隼人の行動を陽乃は面白い男になったと評したとか。

 

「それよりも驚きなのは、あの二人が大学時代から付き合ってたって事ですよ。結衣さん、気付いてなかったんですよね?」

「うん。連絡は取り合ってはいたけどね」

「それぐらい密かに温め続けてたんだろ。だからこそ葉山を動かした三浦の一途さと、それに応えて男を見せたあいつの成果だ。子供も早かったしな」

「あら、早かったのはアナタでしょ。向こうよりも遅れて始めたのに、出来たのはこちらが先だったのだし」

 

 その言葉で八幡が少しではあるが照れた。実際彼もどうかと思う程の回数、彼女達と愛し合ったのだ。だが、それも仕方ない。何せ長年ギリギリまで我慢していた部分を一気に解放したのだ。それも、高校生の頃からたまに考えていた妄想を超える状況で。

 

「……悪いか。初体験が4Pとか想像もしなかったんだぞ。その後もこれだけ美人を三人、好きに求めていいと言われりゃ誰だって張り切る」

「ですよね。それに、時々なんて夜通しでしたし」

「そうだったねぇ。この子もそうやって作られちゃった」

「あの日のアナタ、まさしく獣だったものね」

 

 楽しげに、だけど苦笑しながら告げる三人へ八幡は少し息を吐いて真剣な目を向けた。

 

「何なら今少しそうなってやってもいいんだぞ?」

「「「っ!?」」」

 

 今や立派な男となった八幡の顔と声に、三人は思わず息を呑む。最初の子作りはどこか互いにぎこちなさが残ったままだった。だが、二度目は違った。それまでの積み重ねと年齢、それらがいい具合に合わさった結果、三人はしっかりと良さを教えられてしまったのだ。愛される喜びと女に生まれた事の幸せを。

 

「……ま、半分冗談だ。お腹の子に障るし、何よりゆいこが起きかねない」

「半分、ですか?」

「ああ。そりゃ俺だって全力で愛する妻達を抱けてないんだ。色々と思う事や溜まる事だってある」

「だ、だから時々してるじゃん。胸とかで」

「結衣さん? それは私に対する嫌味?」

「ち、違うよ。てか、雪乃だって出来るってヒッキー言ってたし」

「それ、多分寄せさせて無理矢理だと思います」

「ストップだ。この事は無事その子達を産んで落ち着いた後にしよう。その、また預かってもらって……な」

 

 含みを持たせた言い方で三人も少し頬を赤めて頷く。その後、一人ずつベッドへ八幡が運び、彼女達は眠りに就いた。ちなみに、八幡は最初の妊娠の際から妻達をいざとなった時運べるようにと地道にトレーニングをしており、今は階段の上り下りも朝と夜だけは彼が運んでトレーニング代わりにしている。

 

「引っ越し、か。本気であいつらの親父さん達から話を聞いてみるか」

 

 一人そう呟いて彼もベッドへ横になる。そしてそこから彼は動き出す。まず、実家の両親に話を聞くための日程を調整。家を建てる事の苦労などを実体験しているためだ。次に職場の社長夫妻。彼らもまた同じ事を経験している。雪ノ下家へは雪乃から連絡してもらって面会の約束を取り付けてもらい、由比ヶ浜家や一色家にも同様に面会の約束を入れてもらったのだ。

 持ち家と借家。どちらがいいのか、またはどんな利点と欠点があるかを実生活で知っている者達からしっかり聞き出そうとしていたのである。全ては、愛する妻達と子供達のために。

 

 そのために、八幡は休日前の夜と休日のほとんどをそれらで使うようになった。すると、当然ながら子供達との触れ合いが減る。そして……

 

「父様」

「パパ」

「お父さん」

「何だ?」

「「「最近遊んでくれないのはどうして?」」」

 

 こうなる。仕事で遅くなり、疲れて帰ってきた彼を珍しく出迎えたのはパジャマ姿の娘達。それで癒されるはずが、告げられたのはどこか寂しそうな声の訴えである。これが家族愛に溢れる八幡には堪えた。がっくりと崩れ落ちるかのように項垂れたのだ。

 

「……引っ越しを考えてるのは教えたよな」

「「「はい(うん)」」」

「それで、今父さんはお祖父ちゃん達から色々話を聞いてるんだ。家を建てた方がいいのか、今のように誰かから家を借りた方がいいのかってな。母さん達にしてもらってもいいけど、母さん達はお腹がおっきいだろ? だから父さんが聞きに行ってるんだ」

 

 何とか気持ちを立て直し、出来る限り分かり易く優しい口調で説明する八幡。それで少しは理解出来たのだろう。三人はふんふんと首を縦に動かしていた。

 

「じゃ、パパもお勉強してるの?」

「そうだな。ずっと勉強中だ」

「お父さんなのに?」

「そうだぞ。むしろお父さんになったから勉強し続けないといけない」

「父様だから?」

「ああ」

 

 そう答えて八幡は三人をそっと抱き寄せる。その温もりに笑みを浮かべ、腕の中の幼い命達を愛おしく思う彼。それが伝わるのだろう。三人もそれぞれに嬉しそうに笑みを見せ、父へと顔をすり寄せる。

 

「大事なお前達と、母さん達、そして生まれてくる子供達のために、父さんは勉強し続けるんだ。少しでも立派で強い父さんであるために」

「父様は今でも十分立派です」

「うん、それにつよくてやさしいよ?」

「そうだよ。じまんのお父さんだもん」

「雪美、結花、まいこ……」

 

 こみ上げてきそうになるものを何とか押し留め、八幡はその代わりに娘達を少しだけ強めに抱き締める。それで楽しげな声を出す三人と、感極まりそうな彼を三人の妻達が見つめていた。

 

「比企谷のお義父様と同じ道、辿りそうね」

「いえ、もうとっくに辿ってるかと」

「だよねぇ。小町ちゃんも呆れてたもん。あれだけ文句言ってたのに同じようになるとかって」

「比企谷のお義母さんも言ってました。蛙の子は蛙って」

「ヒッキーパパ、あたし達には優しいもんね」

「娘、という存在に弱いのかしら?」

「ただ単に、同性に厳しいだけじゃないですか? それも、自分の家族へ近寄る相手に」

「肉親でも?」

「肉親でもです」

 

 そんないろはの締め括りに雪乃と結衣が笑う。それに気付いて八幡達が顔をそちらへ向けた。

 

「ママ達が笑ってる~」

「何か面白い事でもあったかしら?」

「お父さんの顔?」

「まいこ、それ地味に傷付くから。たしかに未だに目付きは腐ってるとか社長達にも言われるけど」

 

 八幡お得意の自虐のような言葉に娘達も笑い、そして揃ってこう返すのだ。それでも自分達はその目が好きだと。それが妻達と同じで、また彼は言葉を失う。泣きこそしなかったが、何度もそうなりそうだった事で彼も理解するのだ。歳を取ったな、と。

 

 それから数か月後、比企谷家に待望の男児が生まれる。幸か不幸かクセ毛を受け継ぎ、見事に父親の遺伝子を見せつけた三人の息子達は、三人の姉に可愛がられて成長していく。

 それから数年後、八幡はマイホームを建てる事に決める。四家からそれぞれの形で援助を受けながら、彼は必死に働いた。ここで彼が恵まれていたのは、かつての自分のような悲劇を回避出来る要素が多かった事だろう。そう、頼れる存在が大勢いた事だ。

 

「ママ、いつもありがとう」

「いいのよ~。こっちも可愛い孫達と触れ合えるし」

 

 息子達を預かってくれる由比ヶ浜婦人は、子守りをしながら家事を行えるという、結衣から見れば雲の上の存在である。微笑みながら手を振る母親へ結衣は一人を背負い、二人をベビーカーへ乗せて帰宅の途に就く。これも、いつもの事であった。

 

「じゃあ、後は温めて食べて頂戴。それとお洗濯したのは畳んであるから」

「うん、分かった。お母さん、本当にいつも感謝してるからね」

 

 定期的に家事をしてくれる一色婦人も、いろはからすれば頭の上がらない相手である。娘達の相手もしてくれる時があるので、ある意味で一番懐かれているお祖母ちゃんでもあった。それを他家の婦人達が若干羨んでいる事を彼女は知っている。何せ、今や四家は親戚であり、そこの妻達は孫や娘を話題に時折茶会を開く仲となっているのだから。

 

「それで、ここなどいいと思うのです。中高一貫教育で、望めば系列の大学へも」

「お母さん、気持ちは嬉しいけれど、そういうのは雪美達自身に考えてもらいたいの」

 

 色々と世話を焼きたがる雪ノ下婦人へ雪乃は呆れ声を返す。かつては家第一の考えで雪乃や陽乃を動かそうとしていた彼女も、孫相手にはやや甘いようだ。何せ、事ある毎に比企谷家を訪れては今のような話をするのだから。そこに母の本質を見た気がして、雪乃は恨みが薄れたと姉へ漏らしたとか。

 

「いやぁ、うちの娘は可愛いけど、男の子は元気でいいよね。私ももう一人産んじゃおうかな?」

「……旦那と相談しろ。あと、たまには俺にも小雪を会わせてくれよ」

 

 そして、たまに顔を出してくれる比企谷家の代表である小町。今や一児の母となった彼女は、トレードマークのクセ毛を揺らしながら、甥っ子達の相手をしていた。ちなみに彼女の夫はどこか八幡に似ていると雪乃達から評されており、本気で兄を想っていたのではと八幡へからかった程である。

 

 それと、小雪は小町の娘の名であり、その由来は彼女自身の名から一字取って、生まれた時期が冬であった事から雪の字を付けたもの。だが、後に八幡は知る事となる。小町はこの後も二人の子を産むのだが、二人目には結の字を、三人目にはろの字を使った名前を付けるのだ。

 そう、兄を大人へ成長させた三人の義姉の名から一字ずつもらっていると。それに気付いた時、小町は悪戯っぽく笑ってこう告げるのだ。初恋の人が選んだ人達へ敬意を表したんだ、と。

 

 そんな周囲の助けを受けつつ、遂に彼らの自宅が完成する。その前で撮られた記念写真。それを撮影したのは陽乃であった。

 

「は~い、みんな笑って笑って。英人、表情硬いよ? 末博はもう少ししゃんとする。信也も欠伸しないの。お姉ちゃん達に後で怒られるよ~? ……よし、じゃあ……はい、チーズ!」

 

 そうやって撮られた一枚は綺麗な一軒家をバックに、八幡を中心としてその前に三人の息子達が並び、周囲を娘三人と母親達が寄り添っているものだった。英人、末博、信也。その名から分かる通り、母親達は息子の名に八の字を忍ばせた。勿論、名への願いや意味合いを込めつつだ。

 

「俺みたいに分かり易くしろよ」

「無理よ。だって、アナタは三つ使えてもこちらは一つだもの」

「そうそう。三人で考えたんだから。八って字をどう使おうって」

「私も最初は平仮名三文字にしようと思ったんですけど」

「そうだ。それで俺は中々確信が持てなかったんだ。何でいろはも漢字二文字にしたんだよ?」

 

 その問いかけにいろはは少しだけ照れくさそうに頬を掻いて八幡を見る。

 

「だって、本物の初恋の人も名前は漢字二文字でしたし」

「あっ、いろはズルい! そういうのヒッキー弱いんだから」

「そうね。それに、ある意味でいろはさんは漢字二文字の相手にしか恋をしてないじゃない」

「よし、ここまでだ。地味に今の雪乃のが俺の心に刺さったから」

 

 そんな風に会話を繰り広げる両親を眺め、子供達は心から想うのだ。いつまでも仲良くいてくださいと。だが、一部はこうも想っていた。でも、もう家族が増えるのは少し遠慮したいです、と。

 

「父様達、さすがにもうないわよね?」

「分からないぞ雪姉様。父様達、小町叔母様曰く万年新婚だそうだ」

 

 雪美と英人の姉弟は、やや諦め顔で両親を見つめていた。幸運にも英人は母親似らしく、その目付きも含めて父親の要素はクセ毛ぐらいしかない。だが、こう見えて彼は隠れプリキュアオタクである。その辺りは、やはり血は争えないという事だろう。

 

「英人にもそうやって言ってるんだ。小町叔母さんらしいなぁ」

「僕は、妹なら欲しいなぁ。あっ、でも弟でもいいかも」

 

 結花と末博の姉弟は、むしろ好意的に両親を見つめていた。末博も父親の要素は表向きクセ毛だけである。が、彼の場合は機嫌が悪い時や眠くなると目付きが父親そっくりになるという点があった。なのでそういう時が一発で分かってしまうという欠点となっている。

 

「俺は……大人しくて儚い感じの妹なら」

「うん、信也? 今の言った後、どうしてこっちを見ながらため息吐いたのかなぁ?」

「……言わなきゃ分からないのかよ?」

「よし、お説教」

 

 まいこと信也の姉弟は、見事に真逆の想いで両親を見つめていた。姉はこれ以上増えて欲しくないと思い、弟は増えてくれ(妹限定で)と思っていたのだ。そして、そんな信也だけがクセ毛も目付きも、そして考え方もどこか父親似であった。皮肉にも、小町に近いいろはの遺伝子が混ざった事で限りなく八幡に近付いたのだろう。

 

 逃げ出す信也を追い駆けるまいこ。それを止めようとする結花に笑って見てるだけの末博。額へ片手をやってため息を吐く雪美と、内心で信也に同意なのか無言で眺める英人。そんな子供達を見つめ、八幡達は苦笑するのだ。

 

「あの頃の俺達よりも大変だな」

「ええ、本当に」

「でも、何となくだけどさ。あたし達に中二とさいちゃんがいるみたい」

 

 その瞬間、一瞬だけ六人の姿がそれらに見えて、四人は思わず言葉を失う。あの頃、そう集まっていた事はなかったが、もしそうだとすれば今の見ている光景に近いものがあったのかもしれない。そんな風に思って彼らは笑みを浮かべた。

 

「さて、そろそろ飯にするか」

「うん。みんな~、ご飯にするから手伝って~」

「雪美と結花はご飯とかよそって。英人と末博は料理を運んでくれる?」

「分かりました」

「りょう~か~い」

「では、やるか」

「そうだね」

「まいこ、テーブルを拭きなさい。信也は片付け終わった後よ。いいわね?」

「「……はい」」

 

 こうして始まる家族全員での食事。一つのテーブルを囲んで料理を食べる。これまでも、そしてこれからも続く光景だが、いつか変わる時が来るのだろう。その時、子供達も想うのだ。当たり前だった日常を支えるのが、どれだけ大変かを。それを彼らが知る時こそ、親への階段を上り始めるのだろう。

 

 温かく微笑み、いつもお祭りのような賑やかさが絶えない家。そう、後年子供達は自分の子へ語るのだ。幸せの未来へ、その足で歩き続けながら……。




これにて完全終了。それなりに子供達との触れ合いやその後もイチャイチャが終わらない四人など描けて満足です。

ここまで読んでいただき本当に感謝。また機会があれば、何かでお会いしましょう。


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