風少女 〜蝶の羽ばたき〜 (小方)
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▽1 薄氷の幸せ

原作本が手元に無いので記憶を頼りに書いていますが、全然足りません。圧倒的に情報不足。

つじつま合わせに適当に調べて、後はとにかく妄想で補完してみました。

困ったときの合い言葉、これは二次。




私のお父さんは警察官で、お母さんは弁護士だ。二人は早くに別居してしまい、時間を置いて離婚して、別々の道を生きることを選んだ。

 

□■□■□■□■□■□

 

 

小さかった私には、別居の元となる二人の不和の原因は分からない。

 

弁護士に成り立てで忙しいお母さんが、イライラしてお父さんを責めたせいかもしれないし、家事と育児と仕事を必死にこなそうと忙しいお母さんに、リラックスして欲しいお父さんが、気楽に行こうと脳天気に言ったことが癇に触ったのかもしれない。

 

それとも警察官という仕事柄、不在がちで家事も育児も投げっぱなしのお父さんに、お母さんが不満を溜め込んだせいかもしれないし、料理が上手いとは言えないお母さんの腕前を、うっかりお父さんが揶揄したせいかもしれない。

 

 

 

仕事を持っている二人が留守のたびに、お父さんのお母さん。おばあちゃんが私を預かってくれていた。

 

保育園へ送り届けてくれるのは、出勤前のお母さんかたまにお父さん。でもお迎えは大体がおばあちゃんだった。

 

最初に入っていた保育園は、迎えに来てくれるおばあちゃんの家から遠くて大変だと、お父さんが変えてしまい、それもまた喧嘩の元になった。

 

 

「せっかく入れた保育園を勝手に変えるなんて、どういうことなの」

 

「確かに教育方針はご立派で先進的だが、迎えの時間に融通がきかねえし、お前もそれは文句言ってたろ。あそこは送るにも通り道だし、おふくろん家からも近い」

 

 

 

 

 

最先端の設備に教育方針が人気のその保育園は、教育熱心なお母さんが、是非にと望んだ保育園だった。きっと入るのも大変だったのだと思う。

 

 

「あそこは古いが、園長の住職は昔から知ってる。あの人は名士で人格者だし、安心だ。なにより送迎の時間の融通がきくから、俺たちにはありがたいじゃねえか」

 

 

自分もお世話になった保育園ということで、絶対的な信頼感を抱いているお父さんが、強引に決めてしまったのだ。

 

 

「でも、せっかく入れたのに…。お義母さんには申し訳ないけど、幼児期って大切なのよ。蘭にはあの保育園で自分を伸ばして欲しかったのに…」

 

「あそこは昔ながらの保育園だが、伸び伸び過ごせる。何も蘭の歳から、勉強を詰め込む必要はねえだろう」

 

「詰め込み教育じゃないわ。遊びから学ばせるのよ」

 

私が眠ってから、夜遅くに最初は小さかった二人の声は、だんだんと興奮して大きくなっていき、自然と目は覚める。聞きたくなくて、耳を押さえた。

 

お父さんとお母さんの声で目が覚める頻度は、段々と増えていく。私は何気なく、おばあちゃんに二人の不仲をこぼした。

 

 

「またお母さんがお父さんに怒ってた。ご飯いるなら電話してって、冷たいの食べないでって」

 

 

疲れて帰って来たのに、冷たいご飯なんて胃に悪いわ。起こしてよ。お風呂だって沸かしたのに、シャワーじゃ疲れは取れないわ。

 

 

「疲れてるなら、編み物なんてするなってお父さんがお母さんに言ってた。お母さん、お父さんにマフラーぶつけてた」

 

 

お前も疲れてるんだから、俺を待つ必要はない。先に寝てろ。マフラーなんて無くても、家族を思えば暖かい。大丈夫だ。気にするな。

寒がりの貴方が風邪をひくのが心配なの。だから拒否しないで。

 

 

「あらあら、仕方ない子たちねぇ」

 

 

言外を読み取ったおばあちゃんは困ったように、でも私を安心させるように優しく笑いながら慰めてくれた。おばあちゃんの温かい膝に抱っこされると優しい香水の香りが匂った。

 

おばあちゃんは早くにお父さんを生んだ。お父さんも早くお父さんになったから、おばあちゃんはとても若くて綺麗だ。

私がおばあちゃん似ということもあって、よく親子に間違われる。まず祖母と孫には見えないのだろう。

 

「二人ともお互いが大切で一生懸命なのね。蘭ちゃん、喧嘩しても許してあげてね」

 

 

柔らかく抱きしめてくれたおばあちゃんは、綺麗な眉根を困ったように寄せていた。ああ、困らせたくないな。と思って頷いた。

 

 

「うん。蘭ね。お父さんもお母さんも大好き」

 

 

それは本当。

でも、二人が喧嘩をするのを見るのが苦しい。

 

お母さんがお父さんのシャツを抱きしめて、あの馬鹿と言ったり、お父さんがソファで寝てしまったお母さんをベッドに運んで髪を撫でているのを見ると胸がキュウってなる。

 

私はだんだん家に居ても安心出来なくなっていった。おばあちゃんの家だとよく眠れるし、ご飯も食べられるのに、家だとお腹が空かないし、夜眠れない。

 

だって夜になると、お父さんとお母さんが喧嘩する声が聞こえてくる。

 

だから眠りたくなかった。

 

 

 

 

夜に眠れない弊害は昼にきた。保育園で私は、友達とも遊ばず先生に声をかけられても気付かず、ぼんやりと過ごすようになっていった。

 

私の様子を心配したお母さんが、仕事を休んで病院に連れて行ってくれた。

 

忙しいのに休むからか、仕事場へ電話の時に向こうの人に何度もペコペコ頭を下げていた。申し訳ありません。ご迷惑をお掛け致します、すみませんと繰り返し言うのが聞こえた。

 

お母さん、お仕事大丈夫? と聞くと、あなたの方が大事だからいいのよ。と言う。

 

お母さんが心配してくれるのは嬉しいけど、困らせているのが悲しかった。

 

 

「あまり小さい子どもさんに薬は処方しないんですが…。」

 

 

眠れない寝たくないと言う私に、お医者様は困ったように言った。

 

眠り薬は習慣になると効きにくくなるし、だんだん強くしていくと体に負担になる。特に私はまだ幼児だったから、余計に薬を使いたくなかったらしい。

お母さんもそれを聞くと心配になったようだった。

 

出来るだけ薬の使用は避けて、自然な入眠を助ける方法をお医者様は考えてくれた。お母さんは、ボディマッサージやリラックス効果のある食材や調理法、アロマを使うなどの指導を受けた。

 

お母さんは一生懸命メモに取って。これで大丈夫よ。お母さん頑張るからねと、私を元気づけてくれた。

 

 

お父さんも心配して、仕事の合間に電話をしてきてくれた。お母さんが電話を代わってくれると、お父さんも眠れる方法を考えるからなと言ってくれた。

 

お父さんとお母さんは私が大切で、私も二人とも大好きなのだ。でもやっぱり恐い。

いつ喧嘩をする声が聞こえてくるのか怖くて苦しくて、無理やり寝ようとしても眠れない。

 

お母さんが温かいミルクを飲ませてくれたり、優しく話してくれながらマッサージをしてくれると眠れるけど、今度は自分の知らないうちに二人が喧嘩をしているんじゃないかと、怖くて眠れなくなった。

そうして私の生気はますます薄れていき、知らずに表情が乏しくなっていったようだった。

 

この頃のことはあまり記憶に無い。

お母さんの弁護士としての仕事が増えて、私を預かることが増えたおばあちゃんが、たぶん最初に気が付いたんだと思う。

私の異常に。

 

 

 

おばあちゃんに指摘されて気が付いたお父さんとお母さんは、更にお互いを責め立てて、昼間でも喧嘩をするようになった。

おばあちゃんに指摘されて気が付いたお父さんとお母さんは、更にお互いを責め立てて、昼間でも喧嘩をするようになった。

 

ある日、お父さんとお母さんは私の前で喧嘩を始めた。きっかけなんて大したこともない、いつものちょっとした口喧嘩だった。

 

 

でもそれはいつの間にか、いつもの軽い口論どころじゃない酷い言い争いとなってしまった。

 

お父さんとお母さんが互いをひたすら罵る姿に、私は唖然とした。

 

二人の目に私は入っておらず、ただお互いを憎々しげに睨みつけ、罵声を浴びせるばかりだった。

 

 

激昂してテーブルを叩く乱暴なお父さんと、こんな馬鹿は見たことがないとばかりにお父さんを見下すお母さんの姿に、私は恐怖を覚えて泣いた。

 

いつもの静かに涙を流す泣きかたではなく、火がついたような泣きかたで。

 

私のいつもと違う異常さに、正気に戻ってお父さんとお母さんはあやそうとした。

 

しかし私は二人を尻目に、ひたすら声が()れるまで泣き続けた。優しい二人の言葉には耳を貸さず、ただおばあちゃんを呼び続けた。

 

泣いて泣いて、過呼吸からの呼吸困難になって意識が朦朧とするまで泣き続けた。

 

気がついたら病院の処置室で、私を見てお父さんとお母さんは項垂れていた。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

お母さんが処置室のベッドに横たわったままの私の手を握って、ずっと泣き続けている。

お父さんの目元も赤かった。きっと泣いたんだ。

 

 

お父さんが連絡をして、夜遅くなのにおばあちゃんが慌ててやって来た。よほど急いだのか、いつも綺麗にしているお化粧も無く、部屋着に上着を羽織っただけといった格好だった。

 

お父さんとお母さんはお話しのために廊下に出た。

 

そうして私は、おばあちゃんの家にずっと預けられることになったのだった。

 

 

 

 

お父さんとお母さんが意図せず壊して。私が止めを差し。家族はバラバラになってしまった。

 

もう戻らない。

 




映画の公開間近。

コナン熱がたぎった挙げ句の果てに、妄想を文字に起こしてみた。結果は筆が滑りすぎてシリアスになり過ぎた。
自分が一番ビックリした。



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△2 世界の中心は自分じゃなかった

送迎の問題から保育園を早くに移ったため、園子ちゃんとは友達になり損ない、新一君もまだ入園して来ていませんでした。

第1話からすでに原作と道筋が違っています。

蝶々さん、仕事しすぎてます。



お父さんとお母さんは話し合って、私をおばあちゃんに預かってもらうことにした。

 

 

「お義母さま、反対を押し切ってまで作った家庭を、私たちは守ることが出来ませんでした。…この人も蘭のことも幸せにしたいのに、私は傷つけるばかりです」

 

 

お父さんとお母さんは大学生の時に結婚している。まだ若いからと、だいぶ反対されたようだった。現にお母さんの方のおじいちゃんとおばあちゃんは、二人が結婚したことをまだ許してくれないらしくて、私は会ったことがなかった。

 

 

「今までも散々迷惑をかけておきながら、厚かましいと思われるでしょう。ですが無理を承知でお願いします。…大きな口を叩いておきながら、今さらだと言われても仕方がありません。腑甲斐無い親で申し訳ありません。どうか蘭をお願いいたします」

 

 

お母さんは高校の頃から有名な美人で、留学経験もある才媛だった。それは伊達ではなく、大学に在学中に司法試験に受かっている。

 

お母さんほどではなくても、お父さんも優秀だったらしい。大学時代の二人の生活費は親がかりにならず、お父さんが家庭教師で支えていたというのだから、大したものだと思う。

 

自分に自信があって、全てを勝ち取って来た二人だから、仕事も家庭も両方取れると思ったのだろう。

若いくせに欲張りすぎだと、言われたこともあったようだ。でも自分たちなら、きっと出来ると信じていたに違いない。

 

そんなお母さんが、泣きながらおばあちゃんに頭を下げていた。

 

 

「すまん。おふくろ…」

 

 

お父さんも泣いていた。

親が子供を守れないなんて、俺は最低だと言いながら。

 

お父さんたちが学生結婚だったこと。反対されたこともあり、自分達だけでやって行こうと決めた矢先、私が生まれたことをこの時に知った。

 

子育てはお金以上に、精神に負担がかかる。おばあちゃんが手助けを申し出たのは、孫可愛さばかりではなく、お父さんとお母さんを見兼ねたためだった。

 

経済的には頼りたくないと言う二人に、助言や手助けをすることを申し出たという。

 

弁護士として仕事を始めたばかりのお母さんの負担が、あまりに大変そうで、見て見ぬ振りは出来なかったとおばあちゃんが話してくれた。

 

特にお父さんが大学を出てから警察学校へ行っている間は、お母さんが子育てと家事と生活費を担わないといけなかったから、大変なんてものじゃなかったようだ。

 

覚えることがたくさんの弁護士の仕事、溜まっていく家事と手間のかかる赤ん坊。私なら頭がおかしくなったことだろう。

 

 

「お義母さまが手助けしてくださったおかげで、なんとかやってこれました」

 

「高い学費を払ってもらいながら、期待に背いて警官になったんだ。おふくろには、見捨てられても仕方なかったと思ってる」

 

 

おじいちゃんの会社を継ぐために入った大学だった。それが一人息子のくせに後継ぎを拒否し、勝手に恋人と結婚して子供を作り、卒業後は警察学校へ入学した。

 

こうして見てみると、だいぶ好き勝手してるなあ。若さゆえの傲慢っていうもの?

 

でも自信満々にやりたいことをやって来て、幸せだったはずなのに、駄目にしてしまった。

なにが悪かったのだろう。私が生まれたから?

 

 

「迷惑だと思うなら最初から預かりません。蘭ちゃんは、貴方たちに似ていますよ。優しい子です」

 

 

おばあちゃんの手が私の髪を撫でると、不安が薄れる。自分が誰かの大切な存在だと感じられるからだろう。

 

 

「間違えたと思ったなら、そこからやり直せばいいの。もっと周りを頼りにしなさい。全部抱え込まなくていいの」

 

 

「お義母さま…」

 

 

私にするように、おばあちゃんの手がお母さんの頭に触れると、お母さんが喉を詰まらせた。

 

 

「頑張りすぎて、二人とも今は余裕が無くなってるだけ。私にももっと手助けさせてね」

 

 

おばあちゃんは優しくお父さんとお母さんの手を握った。

 

 

おばあちゃんは涙ぐんでいたが、お父さんとお母さんはもっとずっと泣いていた。私が泣かせたと思ったら、私も涙が止まらなかった。

 

 

「必ず迎えに来る」

 

 

そう言ったお父さん。ごめんなさいと繰り返し、私を抱き締めたお母さん。

 

 

待ってるね。と小さく手を振って、お父さんとお母さんを見送った日。

その日から、おばあちゃんの家が私の家になった。

 

保育園のお迎えやお父さんとお母さんが仕事で家に居ない時、元々おばあちゃんの家には、よく預けられていた。たまにお泊まりもして、おばあちゃんの家には慣れていた。

 

でも夜中に目が覚めて。そこがおばあちゃんの部屋のベッドだと気が付いた時は、涙が止まらなかった。

 

おばあちゃんに助けを求めて、自分からお父さんとお母さんの手を離したのに。苦しいし悲しい。

 

お父さんとお母さんを泣かせてしまったのが悔やまれた。私がそうさせた。

 

もっと私が我慢すればよかったのだろうか。

 

泣きたくて叫びたくて、息が苦しくて。でも同じベッドの隣で眠る優しいおばあちゃんに、お父さんたちと同じ顔をさせたくなくて。

 

起こさないように、声を殺していつものように泣いた。

 

 

 

 

 

 

結果的に、最初に通っていた保育園から今の保育園に移ったのは正解だった。おばあちゃんのお友達でもある園長先生は、私の様子を気にしてくれたから。

 

悲しかったが、お父さんお母さんと離れたことは、私にプラスになった。少なくとも互いを憎々しげに傷つけ合う姿を見ることは無くなり、私たちは穏やかな日常を取り戻した。

 

 

 

 

親子遠足や観劇はおばあちゃんと一緒だったけど、運動会にはお父さんとお母さんも来てくれた。

嬉しくてはしゃぎ過ぎた私は、翌日に熱を出しておばあちゃんを慌てさせた。

 

 

小学校はおばあちゃんの家の近くの、米花第一小学校に入学した。

 

本当はお父さんと一緒の帝丹小学校に入れたかったらしいけど、受験日当日に熱を出した私は、面接を受けられなかった。

 

でも帝丹小学校はおばあちゃんの家からは遠いから、歩いては通えない。受かっても通うのが大変だっただろうから、よかったかもしれない。

 

 

 

入学式には、お父さんが買ってくれた赤いランドセルを背負い、お母さんが選んでくれた可愛いワンピースを着て、桜並木をくぐった。

 

お父さんとお母さんに手を繋いでもらい。嬉しくて自作の歌を歌う私を、おばあちゃんが横を歩きながらニコニコ見ている。

 

幸せだなってお父さんがボソっと言うと、お母さんがそうね。と答えた。

 

うん。幸せ。これが幸せなんだ。

 

そう思った後で、お父さんが約束の時間に少し遅れたことで口喧嘩をしていた。

ちょっと悲しくなったが。おばあちゃんが、大丈夫。喧嘩してても楽しそうでしょう。と教えてくれた。

 

 

ああ、確かに怖い喧嘩じゃない。二人とも表情は明るくて、ちょっとふざけているんだな。と分かった。

 

 

「あの二人は、昔からこうよ。仲良く喧嘩をするの」

 

 

仲良く喧嘩なんて大人って変だなと思ったけど、お父さんもお母さんも楽しそうだからいいかな。

 

でも仲良くない喧嘩は嫌い。大きな声で怒鳴ったり傷つけるのを見ると、胸がキュウって苦しくて泣きそうになって、息が苦しくなる。

 

私は絶対、喧嘩はしたくない。誰にも悲しい思いをさせたくない。

それくらいなら、私が泣く方がいい。

 

そう言った私を見るおばあちゃんは、とても悲しそうだった。




小学校も帝丹じゃない学校へ入学しました。

まあ、住所を移れば学区も違うし、そうなるわねえ。



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▽3 新しい生活と魔法使い

蘭ちゃんってアニメでもピアノを弾いてたけど、自宅にはピアノが無いですよねえ。

習ってたけど、もう止めちゃったのかな?




おばあちゃんの家の子になって始めた習い事がある。ピアノだ。

 

元々おばあちゃんの家には古いピアノがあり、興味を持った私に弾き方を教えてくれていた。

でも上手になりたいのなら、ちゃんとした先生に教えてもらった方がいいと言ったのは、おばあちゃんだった。

 

 

「ピアノ教室がお家の近くにあるのよ。おばあちゃんじゃあ、あんまり上手に教えてあげられないから、一度見に行きましょう」

 

 

お父さんとお母さんと離れてから、以前よりピアノを弾くことが多くなった私に、そう言ってくれた。

 

思えば子供の下手な演奏を延々聴かされるのは、さぞかし苦痛だっただろうに、おばあちゃんに文句を言われたことは一度もなかった。私への愛情ゆえの忍耐に、今更ながら感謝します。

 

そうして見に行った教室には、大きなグランドピアノが置いてあって、家のアップライト式のピアノしか知らなかった私は、それが弾きたくて堪らなくなってしまった。

 

 

「触ってもいい?」

 

 

最初の先生への挨拶もそこそこに、私は教室のピアノに夢中になってしまった。

 

そうしてその場で、これからお願いしますとご挨拶をして、おばあちゃんと先生に笑われてしまった。

 

それくらいピアノに熱中していた。ピアノは大きな慰めで、私の中の、欠けて無くしてしまった物を埋める手段となっていった。

 

 

 

おばあちゃんの家に住むようになって、お父さんとお母さんとは、日時を決めて三人で会うようになった。

 

時々急な仕事で、お父さんが来られなくなったりもしたが、警察官という仕事柄では仕方がないとおばあちゃんに教えてもらった。

 

埋め合わせるようにお父さんは、疲れた顔をしながらも仕事の合間に顔を出してくれたから十分だ。

 

 

ちゃんと事前に休みを申請しなさいとお父さんと同僚の人に怒ってたお母さんだが、向こうがそれを承知で連絡してくるんだから、仕方がないよ。

だからお父さんを叱らないでね。お母さん。

 

相変わらず、よく二人は喧嘩をする。せっかく顔を会わせたのに、と思わなくもなかったが。

 

離れてしまって初めて、お父さんとお母さんの様子を余裕を持って眺めることが出来るようになったのだと思う。

 

そうは言っても、いつまでも二人の喧嘩を放置していては時間がいくらあっても足りない。せっかく会えたのに。

 

 

「ねえねえ。私ね、ピアノを習ってるんだよ」

 

 

この頃から、自分のことを名前で呼ぶことを止めた。

 

私はお父さんとお母さんの間に入り、ピアノを習い始めたことや小学校の話をした。

 

 

「そういやあ、おふくろのピアノがあったなあ。昔はよく弾いてたもんだ」

 

「今は私が弾いてるよ」

 

 

私が練習出来るように、おばあちゃんは調律を頼んでくれたから、無駄にしたくなかった。まだまだ下手くそだけど、いつか上手に弾けるよう頑張っていた。

 

 

「俺もな。柔道を後輩たちに教えてるんだ」

 

「蘭。お父さんは強いのよー。犯人もそれで捕まえちゃうの。でも試合では勝てないけど」

 

「うるせー」

 

「あら、本当のことじゃない」

 

 

あーあ。すぐに二人とも仲良く喧嘩を始めてしまう。困った大人だ。

 

知らなかったが、お父さんは本当に柔道が上手いらしかった。ただ試合になるとやる気が空回りして、全く勝てないから、選手にはなれないとのことだった。

 

帰ってからおばあちゃんにも聞いたら、同じことを言っていた。それでも能力が高いので、頼まれて逮捕術を教えてるんだって。凄い! お父さん。

 

 

お父さんが得意だという柔道に興味が出て、習いたいなと思ったが。おばあちゃんに調べてもらったけど、近くに教室がなかった。残念。

 

お父さんが教えてくれたら嬉しいけど、忙しそうなお父さんには頼めなかった。

 

何年か経ってそのことを話したら、頼って欲しかったと淋しそうに言われてしまった。

うん。そうだね。ごめんなさい。

 

 

この日連れて行ってくれたのは、有名なマジシャンの黒羽盗一さんのマジックショーだった。

世界的にも著名だというその人のステージチケットは、なかなか取れないということだったが、お母さんの顧客の人が手配をしてくれたらしかった。

 

私が以前テレビで観て本物のマジックを見てみたいと言ったのを、お母さんが覚えていてくれたのだ。嬉しかった。

 

 

 

初めて見た圧巻のステージに、私は釘付けだった。

 

よほど喜ぶ姿が目立ったのか、お手伝いに舞台へ呼ばれたのはいい思い出になった。お手伝いのお礼にもらったウサギの縫いぐるみは、今も部屋に飾ってある。

 

縫いぐるみのお礼がもう一度言いたくて、ガードマンさんにお願いしたら、控え室に通してもらえた。

 

お父さんは煙草を吸いに行ってしまったし、お母さんはお化粧直しに行きたいというので、一人でお邪魔することにした。

 

 

こんにちは。お邪魔しますと入れば、マジシャンの黒羽さんと私と同じ位の年格好の男の子がいた。

 

 

「やあ、さっきのお嬢さん。どうしたんですか」

 

「この子を……、ありがとう。…さっきは言えなかったから」

 

さっきは興奮し過ぎて、縫いぐるみをもらったお礼がろくに言えなかった。だからちゃんと伝えたかったのだ。

 

たぶんお父さんより年上のその人は、笑いジワの出来る優しい笑顔を浮かべた。

 

 

「ああ、お礼に来てくれたんですか。でもその子はお手伝いのお礼だから、いいんですよ」

 

 

背の高い黒羽さんは、ステージでの紳士的な振る舞いそのままに、私に視線を合わせるためにしゃがんでくれた。

 

 

学校のおじさんの先生か、荒っぽいお父さんくらいしか大人の男の人を知らない私にとって、その人は未知の存在に見えた。

今なら笑ってしまうが、本当にその時は後光が差して見えたのだ。

 

 

「親切にしてもらったら、ありがとうは当たり前なの。…おばあちゃんが…」

 

 

「ああ、そうですね。では改めて私も。お嬢さんこそ、お手伝いをありがとう。助かりましたよ」

 

 

恭しくお辞儀をしてくれたその人にドキドキしながら、どういたしまして。と頭を下げたその時。

 

ぺろんと勢いよく、私のスカートがめくられた。

 

 

 

 

「にゃあっ」

 

「快斗っっ」

 

 

思わず変な声が出てしまったし、直後に黒羽さんが私のスカートをめくった男の子の頭にゲンコツを落としたので、びっくりして涙が出てしまった。

 

 

「お前はっ、レディにいきなり失礼なことをするんじゃないっ」

 

「痛い…」

 

「痛いようにしたんだ。ごらん、快斗。小さなレディがびっくりして泣いてしまっただろう」

 

泣いたのは男の子のせいじゃなく黒羽さんの叱りつける声に驚いたためだったのだが、男の子が慌てて謝ってきたので訂正しそびれてしまった。

 

 

「…ごめん。…なさい」

 

「小さなレディ。家の馬鹿息子が大変失礼をしました。この子は可愛い女性が好きで、よく悪戯をしてしまうんです」

 

 

コツンと黒羽さんが、再び男の子の頭を小突いた。

 

 

「ぃてっ」

 

 

さっきのゲンコツが当たった場所だったらしく、痛かったようで、男の子は黒羽さんを見上げ、黒羽さんに背を押されて私の前に立った。

 

 

「…謝ったじゃんかっ」

 

「快斗。相手が受け取らなければ、どれだけ謝っても意味がないんだよ」

 

 

不服そうに呟く快斗君に、黒羽さんは面倒がらず説明した。

 

 

「誠意をこめて…。自分が悪かったことを認めて、相手に許してもらわないとダメなんだ」

 

それに納得した快斗君は、小さな手のひらを私に向かってかざす仕草をした後、虚空からピンク色のミニ薔薇を取り出し、私に差し出した。

 

 

「やる。ごめん」

 

「お詫びの品だよ。受け取ってあげてくれませんか。お嬢さん」

 

 

懇願するように黒羽さんに言われ、私は男の子から小さな薔薇を受け取った。

 

男の子の暴挙に驚きはしたが、謝罪をしてくる相手を無下にするほど、私は怒ってはいなかったから。

ちょっとは思うところもあったが、それも謝ってもらって、お花を受け取ってしまえば許せる程度だった。

 

 

何よりも自分と同じくらいの男の子が、彼の素敵なお父さんと同じ魔法のような技を見せてくれたことに驚き、感心してしまった。

 

するりと誉め言葉がこぼれた。

 

 

「すごいねえ。快斗君も魔法使いなんだね」

 

「おう。……ありがと、な」

 

 

思わずこぼれた言葉に、快斗君は照れ臭そうに笑みを返してくれた。

 

 

こうして出会った快斗君だが、案外長い付き合いになろうとは、この時は思いもよらなかった。

 




原作主人公なあの子より先に、怪盗親子が登場しました。

そして、おや? 主人公の様子が…。



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△4 戦闘力0になったのは、必然でした

前回のおさらい。

親子間、夫婦間の関係は好調。
怪盗親子登場。主人公蘭の心情に変化あり。


原作主人公、影も形も無し。



小学校に上がって初めての夏休みを迎える前、引っ越すことになった。

住んでいるおばあちゃんのマンションが、経年劣化のために補修工事を必要としたためだった。

 

 

「どうせなら、新しいマンションに移ろうかしら。今分譲中の物件で良いのがあるって、聞いてるし」

 

 

おじいちゃんが亡くなる前からお世話になっている不動産屋さんが、今の部屋を下取りに新しい部屋を買ってはどうかと勧めてきているらしい。

 

今のマンションはモダンで立地もいいけど、古いからなかなか買い手はつかないだろうし、割安でも買い取ってもらった方がいいかしら…。みたいなことを言っている。

 

うん。よく分からない。おばあちゃんが良いようにしたらいいね。

 

新しく部屋を買うにしろ補修工事を待って戻るにしろ、どのみち一旦マンションを出ないといけないのは一緒だった。

 

 

「とにかくお引っ越しになるわ。準備しないとね」

 

 

昔、おじいちゃんとおばあちゃが住んでいたことのある部屋があり、ずっと空いたままらしい。どのみち夏中は、そこで仮住まいになるようだ。

 

 

「おばあちゃん、ピアノには行けるの?」

 

「ちょっと遠くなるから、おばあちゃんが送るわね」

 

 

そういえばピアノ教室に通い始めた後、バレエとスイミングも習い始めた。

 

 

お父さんが得意だという柔道を習ってみたくて、おばあちゃんに相談したのだが、見つかった柔道教室は自宅から通うには遠かった。

それにピアノの日程と被ってしまう。これはダメだなと諦めたのだ。

 

代わりにとおばあちゃんが、バレエとスイミングと剣道と空手を勧めてきた。もちろん全部やれと言われたわけではなく、習い事の候補としてどうかいうことだ。

 

考えるまでもなくピアノをメインにしたいので、まず指を痛めそうな空手は一番に私の中の選択肢から外れた。

 

それでも一応、空手教室の見学をさせてもらったが。

でも組み手とかを見ていたら、ますますそう思えてきて、早々に見る気を無くしてしまった。

 

よし。次に行きましょう。

 

怪我をしてピアノが弾けなくなったら困るなあと思っていたからだろうか。

剣道教室も見学したのだが、テレビの時代劇はカッコイイと思うのに、目の前の練習風景には全く興味が持てなかった。

 

あまりの私の気の無さに、おばあちゃんに笑われてしまった程だった。

 

 

「やっぱり蘭ちゃんは、ピアノが一番なのねえ」

 

 

「ピアノは特別なの」

 

 

そんな調子で、スイミング教室にも乗り気ではなかった私だった。

 

でも泳げなかった私を気にして、おばあちゃんはスイミング教室を勧めてくれたのだ。少なくとも体育の授業には役に立つだろうからと。

それもそうだと納得して、スイミングは始めることにした。

 

ついでにと、ピアノ教室の近くだというバレエスタジオも覗いてみた。

 

衝撃的だった。

可愛らしいレオタードにピンクや白いタイツ姿の女の子たちが、ピアノの調べに合わせて踊っている。

 

私が真っ先に思ったのは、踊るためにかかっている曲を弾いてみたい。だった。

 

そこは踊ってみたいだろう。と言われそうだが、私にとっての一番は、飽くまでもピアノなのだ。聴いたことのなかった曲に惹き付けられたのは、仕方がない。

 

動機はどうあれ、おばあちゃんも賛成してくれたので、すぐにその場でバレエを習うことを決めた。

 

バレエスタジオでの手続きを終えてすぐ、バレエ用品のお店へそのまま足を伸ばした。ピアノはわたしの体だけあればいいけど、バレエには何がいるんだろう。

 

色とりどりのレオタードにカラータイツにレギンス。バレエシューズの可愛さにときめき、髪をまとめる飾りにワクワクした。私より、主におばあちゃんが。

 

もちろん私も楽しかった。

でもおばあちゃんの着せ替え人形になって色々買い込んだので、家に帰る頃にはすっかり疲れてしまった。

 

 

そうして始めたバレエだったが、体を動かすのは元々嫌いじゃないので楽しかった。

 

バレエは見た目は優雅なのに、ビックリするほど疲れる。凄く筋肉を使うので、90分のレッスンが終わればくたくたでフラフラだった。

 

教室のお友達が、自分もそうだったから頑張れと励ましてくれて飴をくれた。

 

その子の言う通り、段々と体力がついてくるとそんなことも無くなり、通うのも楽しくなっていった。

 

ピアノ程ではないが、バレエにもなかなかのめり込んで、今も止めずにレッスンに通っている。

対してスイミングの方は、泳ぎを覚えたら、ほとんど行かなくなってしまったが。

 

水泳選手になるほどの才能も執着も無かったから、そんなものだろう。今ではたまに、おばあちゃんとジムへ泳ぎに行くくらいだ。

 

 




習い事 空手× バレエ○

上の結果、戦闘力0となり。ウチの蘭ちゃんは非戦闘員の道を邁進中です。


ピアノと空手を両立している人もいるでしょうが、普通に考えたらケガのリスクが増えるので、避ける方が多いんじゃないかなと考えます。ピアノがメインなら尚更ね。



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▽5 コーヒーはまだ飲んだことがありません

まだまだ続く日常回。というか、日常しかありません。
やっぱり私には、シリアスは無理なようです。たぶん十年待っても、シリアスはやって来まい。

というわけで、タグを追加しました。

〔基本ほのぼの〕

あれ? スリルショックサスペンスな原作とは、明後日の方向性のタグですね。知ってます。

試しに検索してみたら、数多いコナン二次でも、このタグ付いてたの2作品だけでした…。


私は何処へ向かっているのでしょう。





引っ越しをしたのは、夏休みの少し前にだった。

 

おばあちゃんは結局、今のマンションを売ることに決めた。おじいちゃんのものだったという空きビルで、新しいマンションの完成を待つしばらくの間、そこで仮暮らしだ。

 

今のマンションに住む前に、おばあちゃんたちがちょっとの間住んでいたという、住居スペースにやって来たのだが…。

 

 

「なんか、教室みたいだね」

 

 

三階部分は、元々管理人の住居として設けられたフロアだが、どうにも無機質で素っ気無い造りだった。

 

おばあちゃんたちが住んでいたのもかなり前のことなので、余計なものは何にも無かった。

 

 

 

表通りに面したリビングに当たるそこは、さほど広くもないのにガランとして見えて。運んだ大きな家具がピアノとソファくらいしかないためか、まるで学校の教室か病室のように寒々しく感じられた。

 

 

「壁が白いから、余計にそう感じるのね。長く住むなら、壁紙を張り替えてもいいんだけど…」

 

 

うん。ここにはせいぜい秋までしか住まないのに、そこまでするのも勿体ないね。

 

剥き出しの壁からは敵意みたいな物を感じるわねえ。絵でも飾りましょうか。と、おばあちゃんもおっとり首を傾げている。

 

絵かあ。後で下から取って来ないとダメだね。

 

 

ピアノだけは入れてもらったが、ここは三階なので運び入れるのだって大変だった。業者さんお疲れ様でした。

 

最初は家財道具を倉庫に預けるなり処分なりして、ホテル住まいでも良いとの話もしていたけど、ピアノも無いし小さな私には窮屈だろうと、おばあちゃんがここを用意してくれたのだ。

 

ごめんなさい。ありがとう。

 

 

「英理さんがお家に誘ってくれたけど、あそこに三人では狭いしねえ」

 

 

それに今お母さんの事務所は、大きな案件を抱えているらしくて、度々仕事場に泊まり込むくらいに忙しいようだった。そんな時に私たちが同居すると、きっと邪魔になってしまうだろう。

 

 

「お父さんのアパートはやだよね」

 

「問題外よ。狭い以前にあり得ないわ!」

 

 

おっとりと物静かなおばあちゃんが語気を荒げるなんてこと、それこそ滅多にない。この有様で分かるが、二人とも酷い目にあったのだ。

 

この前おばあちゃんと行ったお父さんのアパートの惨状が頭をよぎり、私も頷くしかなかった。

 

うん。イヤだ。あそこには住みたくない。断固拒否します。

 

 

「私もイヤだよ」

 

 

お父さんは放っておくと、ゴミに埋もれて死んじゃいそうだから、おばあちゃんと時々掃除に行くのだが、先月は本当に酷かった。

 

溜まった洗濯物。カビの生えたバスルーム。ここまでは許容範囲だった。

 

問題はキッチンだった。

 

カビの生えたシンク。捨てるタイミングを逃しているのか、キッチンの隅に溜まったゴミ袋の山。そこから漂う残飯の腐敗臭。

 

ゴミ袋からはみ出したスーパーの惣菜のパックで油染みが出来た床板。袋の中からカサカサという虫の音が…。

 

おばあちゃんがいつもの鷹揚な自分をかなぐり捨てて、次の瞬間ゴミ袋の口を縛った隙間へと、殺虫剤を噴霧しまくっていた。

 

私、あんなに機敏に動くおばあちゃんは、初めて見たんだよ。

あれ? その殺虫剤って、どこにあったの?

 

その後おばあちゃんは、まるで能面のような表情で。聞いたことがないほど平坦な声で、お父さんに電話をかけていた。

 

ゴミ袋から聞こえたカサカサという音より怖かった。

 

とにかくお父さんには、いくら仕事が忙しくても、せめてゴミ出しはして欲しいと心底思ったものだった。

 

とにかく色々な理由があって、お父さんお母さんとは住めない。

特にお父さんの部屋は無理だ。あの部屋、絶対に出るもん。

 

 

「…あそこまで酷いのは初めてだったわ。きっと、しばらく行かなかったからね」

 

 

忙しくても、月に一度は掃除に行くべきね。と溢すおばあちゃんの横で、私は食器棚にしまうお皿を包んだ梱包材を次々に外していった。

 

 

引っ越しって大変だよね。

荷物をまとめるのも手間なんだけど、それを荷ほどきして片付ける手間とかがあるから、本当に大変だよ。その後に出るゴミも大量だしね。

 

最低限の必需品以外は、下の二階の空きフロアに入れておこうと言ったおばあちゃんに賛同するわー。

 

あ、絵と一緒にクッションも取って来ないと無いよ。

 

このおじいちゃんの遺産だった三階建ての貸ビルの空きが、ちょうど二階分丸々あって助かった。

 

そうじゃないと必要な家財道具は倉庫に預けなきゃダメだったからね。すぐに持ってこれるのは楽で良いよ。

 

今いる三階は掃除が必要だったけど、二階フロアは少し前まで学習塾として貸していたせいか、事務机や椅子が一部置かれたままだけど綺麗だったので助かったし。

 

 

 

 

「こんなものね。蘭ちゃん、お茶の時間にしましょう」

 

 

ようやく片付けが一段落したので、一階の喫茶店で一服しようということになった。

 

三階分の階段を降りて、ドアベルを鳴らして下のお店に入れば、店主らしい年配のおじさんが迎えてくれた。勧められるまま、窓に近い席に着いた。

 

 

「大家さん。おひさしぶりですね」

 

「こんにちは。コーヒーをいただけますか?」

 

 

おばあちゃんは、私にはフレッシュジュースを頼んでくれた。

 

何か食べるかと聞かれたが、そんなにお腹は空いてなかったので、今はいいと断った。

 

ジュースを待っている間、窓に書かれた店名らしい文字を読んで、私は首を傾げた。

 

 

「ロアポ?」

 

「ポアロよ。蘭ちゃん」

 

 

ポアロ。

 

 

ああ、こっちは裏だから、右側から読まないといけないのか。

たまにあるよね。社用車とかで左右のドアに書かれてあるアレと一緒。時々変なのがあって、笑っちゃう。

 

この前は信号待ちで、バタコと書いてあるのを読んだら、コタバだったよ。パン屋さんの助手の人じゃなかった。

 

 

「はは。逆から読んじゃったのか」

 

 

飲み物を持って来たおじさんがニコニコ笑いながら、頼んでいないケーキのお皿を置いた。

 

私が尋ねる前に、サービスですよと教えてくれる。

 

おばあちゃんを見ると頷いたので、ありがとうと言って受け取った。

 

いい子だね。と言われたので、ペコリと頭を下げたら、ケーキに頭突きをしそうになって笑われた。危ない危ない。

 

お腹は空いてなかったけど、フレッシュジュースもケーキも美味しくいただきました。ごちそうさまでした。

 

ケーキもいいけど、おばあちゃんは、ポアロのコーヒーとモーニングが好きなんだって。

 

お休みの朝は来ましょうねって言ってたけど、夏休み中ずっとってわけじゃないよね。分かってるよ。

 

冷蔵庫が空っぽだったから、夕ごはんは、近くのお店のミートソーススパゲティだった。お店の名前は忘れたけど、それも美味しかった。

 

きっと明日の朝は、ポアロのモーニングだね。楽しみだな。

 

 

「あ、お腹が苦しい。食べ過ぎたかなあ」

 

 

食べてばかりだと良くないから、寝る前にバレエの自主レッスンをすることにした。

 

レッスンバーがないから、ちょっとやりにくい。仕方がないから、壁に手を付いてポージング。

 

鏡がないから、ちゃんと出来てるか確認出来ないけど、足の爪先から指先まで、神経を集中する。

おばあちゃんが見ててくれるから、たぶん大丈夫。

 

あ、ちょっと引きつる感じ。

バレエスタジオで、私が一番に体が固いの。よし、頑張ろう。

 




ポアロの上にやって来ました。住みます。二階に探偵事務所は在りません。

だって小五郎さん。刑事のままですから。



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△6 突撃、そして残される私

条件は整った! 工藤さんのお宅に突撃ー!




お父さんとお母さんが、高校と大学が一緒だったことは知っていたが、元々小さな頃からの友達だったことは知らなかった。

いわゆる幼馴染みというもので、恋人同士になる前から、とても仲が良かったらしい。

 

仲が良すぎて、喧嘩することも多かったというが、それは今と変わらないね。

 

教えてくれたのは、お父さんたちの同級生で、今でも親交のある工藤夕希子さんだった。

 

 

「蘭ちゃん。ジュースのおかわりはいかが?」

 

「あ、まだ入ってるから…、いいです」

 

「それなら、パイをもう一切れどうかしら。このクッキーも私が焼いたのよ。いかが」

 

 

しきりにジュースやお菓子を勧めてくる有希子さん。

すみませんが、まだ昼過ぎなので、お父さんと食べたポアロのナポリタンで、お腹がいっぱいなんです。

 

 

「もうお腹いっぱいなので、ごめんなさい」

 

「あらあら、やっぱり女の子は食が細いのねえ…」

 

 

同じ小1とはいえ、サッカー少年の新一君と比べれば、食べる量は少ないかも…。いやいや。すでに炭水化物で、胃が満たされてますからね。

 

ここに来た時すでに満腹だったのに、有希子さんの押しに負けてアップルパイとジュースをいただきました。

 

大変美味しかったですけど、お腹いっぱいでなければ、きっともっと美味しかっただろう。うっぷ。

 

 

「じゃあ、帰りにお土産に持って帰って、おばさまと召し上がってね」

 

「はい」

 

 

あ、それは嬉しい。おばあちゃんもケーキは大好きなのだ。

 

おばあちゃんの喜ぶ顔が浮かんだので、思わずにっこり笑ってお礼を言ってたら。

 

やっぱり女の子も、可愛いわねえと、さらに構われるようになってしまった。おばあちゃん、早く迎えに来てー。

 

私とのおしゃべりに早々と飽きた新一君は、自分のアップルパイを平らげたらどこかに行ってしまった。

 

そりゃあね。私は彼が好きだという、サッカーも難しい推理小説にも関心がないから。きっと退屈だったんだろう。

 

おかげで私が、初対面の彼のお母さんの関心を一人で負うことになったよ。

 

有希子さんの旦那さまの優作さんは、お仕事の続きがあるとかで、新一君より先に退散してしまったので、本当に二人きりだった。

 

どうして私が、こちらのお宅に一人でいるかというと、おもにお父さんのせいなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

初めての夏休みも八月に入って引っ越し先に慣れた頃、有希子さんの家に連れて来てくれたのは、久しぶりに会えたお父さんだった。

 

お母さんとは前の時に会ったので、今日はお父さんと二人だ。

 

お父さんからは、本当なら遊園地にでも連れて行ってやりたいが、今日は非番だから、待機していないと駄目なんだと説明されている。

 

うん。ゴミ袋の山が、部屋に溜まるほど忙しいんだよね。知ってるよ。責めてないよ。ちょっとしか。

 

 

 

だからといって遠出が出来ないという理由で、呼び出しの際に対処しやすい近場の友人のお家を、いきなり先触れも無しに訪ねるのは、果たしてどうなのだろうか。

 

 

「いやー。すまんな、有希ちゃん」

 

「おじゃまします」

 

 

いきなり訪ねたお父さんに、有希子さんは相変わらずねと笑って迎えてくれた。見た目と違って大らかな気質らしいから許してくれたけど、すまんなじゃないよ。お父さん!

 

親しき仲にも礼儀ありって、おばあちゃんが言ってるでしょう。

 

仕方がないから、

蘭です。お父さんがすみませんと、代わりに私がペコリと頭を下げた。

 

 

「あらあら。お利口さんでしっかりしてるわ。きっと英理ちゃん似ね」

 

「いやいや。アイツみたいにツンツンしてないだろ。俺に似たんだよ」

 

 

いやいや。私、おばあちゃん似らしいよ?

園長先生にもポアロのマスターさんも、おばあちゃんにそっくりだ。隔世遺伝だねって言われたけどな。

 

あれ? それは顔のこと? 私の性格は、誰に似てるんだろう…。

 

思わず首をひねっていると、有希子さんに手を取られた。

 

 

 

 

「フフフ。入って入って。優作さんと新ちゃんに紹介するわね」

 

 

可愛らしく笑う有希子さんは、けっこう強引な人だった。私は有無を言わさず、お家の中に引っ張り込まれて、有希子さんの家族の人に引き合わされた。

 

有希子さんの旦那さまの優作さんと一人息子の新一君に、はじめましてのご拶をした後は、お茶とお菓子をいただきながら、お互いの近況なんかのお話をしていた。

 

が、嫌な予感は当たるもので、お父さんは呼び出されて警察へ戻ることになってしまった。

 

 

「!!!!!!!!」

 

 

がなるようなお父さんの声が、ドア越しに廊下から聞こえている。電話越しに相手を怒鳴りつけるように話しているお父さんは、だいぶ苛ついているようだった。

 

 

少しして電話を終えて戻って来ると、頭をガリガリとかきむしりながら説明してくれた。

うん。忙しいんだよね。知ってますよ。

 

 

「ちくしょう、やっぱりだ!

有希ちゃん、すまんが蘭を頼む。おふくろに迎えに来てもらうから。工藤さん、すみません。ご迷惑をかけます」

 

 

ああ、せっかくセットした頭がくしゃくしゃだ。

ダメだよ。後で直してね。

 

お父さんは、バタバタバタと音にしたらそんな感じで飛び出して行った。後ろ髪を引かれるのか、何度も私を振り返りながら。

 

 

「ごめんな。帰りはおふくろに迎えを頼むから…。蘭、今度は動物園に行こう。すまん」

 

「うん。また今度ね」

 

 

ちょっとだけど、顔が見れたし、平気だよ。気をつけてね。

 

 

今住んでいる所も、こことあまり離れていないから、おばあちゃんがすぐ迎えに来てくれるから大丈夫。

今日は無理だけど、道順を覚えれば、たぶん一人でも歩いて帰れるくらい近いんだよ。そんな顔しないでよ。

 

いってらっしゃい。気をつけてね。

お母さんが言ってたように笑って言って、バイバイと手を振って見送れば、じわじわと寂しさが胸を攻めて来る。

 

ああ、またかあ。置き去りにされるのはいつものことなのに、こんなに淋しい。

 

きゅうっとする胸を押さえて目を閉じていたら、後ろから有希子さんに抱き締められた。

 

 

「さあ。蘭ちゃんは私とお茶の続きよ」

 

 

 

 

 

 

至る。現在。今までの進行状況でした。

 

お父さんを心配させないよう、大丈夫だと平気な顔を作って送ったのが、有希子さんには分かっちゃったみたいで、やたら私に構って来るのだ。

 

まあ、お客さんを迎えた女主人としとは、もてなさずに放っておくわけにもいかないんでしょうが。

 

ああ、そんなに分かりやすい顔をしていたんだ。ダメだなあと思ってる私に、今の状況はキツイです。

 

 

「小五郎くんと英理と私は元々同級生でね。喧嘩もしたけど、とっても仲良しだったのよ。……今はちょっと拗れてるけど、きっと元に戻れるわ。だからね。泣かないで、蘭ちゃん」

 

しかも有希子さんは、私の息の根を止めようとしてないかな?

泣かないでと言いながら、そういう話は止めて欲しい。

 

泣くのを我慢すると苦しくなるんだよ。下手に堪えるより泣き叫んだ方が、楽になるんです。

…私みたいに、泣きすぎからの過呼吸の発作を起こすこともあるみたいだけどね。

 

この場合の正解は、泣かないで…よりも、泣いて楽になりなさい。だよね。

 

でもこれくらいじゃ泣きませんよ。いつもの事だから。

何度も同じことが続けば、小さな子供でも自分の中で折り合いがつけられるようになるんです。自分を守るためにね。

 

 

 

ええ。観念したというか、そんなものなんだと、思うようになりました。諦めとも言いますね。

 

だから有希子さん、優しくしないで。泣きたくなるから。

 

あなたは見てないから知らないでしょうけどね。あれは、ちょっと拗れたどころの騒ぎじゃあなかったんです…。

別居の原因になった、あの惨事を思うと、いまだに私は息苦しくなるんで、思い出したくないんですよ。

 

そう言いたかったが、悲しげだった夕希子さんが綺麗だったので、黙って頷くだけにしておいた。

 

子供らしくない、可愛くないと言わないで。そうしないと、たぶん私は生きられない。

 




突撃からの、お父さんだけ撤退で、まさかの敵陣一人ぼっち(笑)

大人でもストレスが溜まる状況です。小1女児に、なんて仕打ちだろうか。


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▽7 基本的姿勢は専守防衛

攻めてはいけない、守るだけ。
大丈夫。工藤邸は中立地帯のはずだ。たぶん。





工藤さんのお宅なう。

 

お父さんから連絡を受けたおばあちゃんが、工藤さん宅に電話をしてきました。

 

有希子さん曰く、今出先なので、お迎えは夕方になるとのことでした。

 

うん。今日はお父さんとの予定がそうだったものね。今日は習い事が何もないから、夕方までいっぱい、お父さんに甘えられるはずだったんだよね…。はぁ。

 

おばあちゃんには、おばあちゃんの予定がある。いつも私に掛かり切りで自由な時間がないんだから、たまにはゆっくりしないとね。

よし。私も腹を据えて有希子さんに接することにしよう。

 

 

 

 

 

で、有希子さんから持てなされ中です。

 

親が別居中で祖母に預けられたかわいそうな友人の子供。有希子さんにしたら、保護対象ですよね。だから優しくしてくれます。

 

実際とても優しい人なんだろう。…でも凄く押しが強い。

 

うん。有希子さんの笑顔の圧力に断りきれず、ついクッキーを食べた私だが、でも本当にお腹いっぱいなので、お菓子を勧めるのは、止めてください。うっぷ。

 

 

「もういいの? そう? 新ちゃんはあんまり食べてくれないから、蘭ちゃんが食べてくれて嬉しいわ」

 

 

ウフフと可愛らしく笑う有希子さん。私のお母さんもとても綺麗だけど、有希子さんとはタイプがだいぶ違う。

 

 

 

夕希子さんには、ワガママを言ってもワガママと思わせないふんわりした雰囲気がある。何より甘え上手だ。これには私も負けた。

 

さっきのお父さんとのやり取りを見ていても、お母さんが夕希子さんみたいな性格だったら、ここまで二人の夫婦仲は、拗れなかったんじゃないかなと思ってしまう。

 

おばあちゃんがよく言うけど、二人とも我が強くてどちらも折れないから、喧嘩になっても落とし所が探せないんだって。

 

人付き合いに妥協は付き物だけど、二人とも職業柄もあるのか、強硬さが身に染み込んでしまってるのかもしれないな。

 

でもお父さんは、気が強くて強情で意地っ張りだけど、肝心なところが抜けているお母さんがとても可愛いと、酔っぱらった時に言っていたなあ。

 

それなら自分が折れろと言いたいが、それが出来ていたらそもそも別居に至るまで、夫婦仲がこじれることはないよね。

 

お父さんは、お母さんが大好きなんだ。知ってるよ。

でも好きなのに、離れてしまうしかなかったの。悲しいね。

 

私を優しく慰めてくれる夕希子さんには悪いが、お父さんとお母さんが元に戻ることは、たぶん無い気がする。

 

どんなに好きで望んでいても、どうにもしようが無いことがあるということ。私はずいぶんと早く、幼児期に知ってしまった。私の諦めがいい性格は、思うにそこが起因だろう。

 

あの日にお父さんとお母さんがお互いにぶつけた酷い言葉は、消えることはない。

 

 

お父さんとお母さんの反目が私を傷つけ、私は二人を拒絶して傷つけた。本来なら子供の私は、二人を繋ぐ(くさび)になるはずなのに、逆に二人の間を割る楔になってしまった。

 

皮肉だね。同じ楔なのに、使い方が違えば効果も真逆なんだよ。

 

一度出した言葉を取り消せるほど、お父さんとお母さんは素直じゃなくて、私が二人を拒絶した事実が横たわって邪魔をしている。

 

今思えば。すぐに二人が離婚しなかったのは、幼かった私への配慮とお互いへの未練だったのかな。

 

 

でも親の元からはぐれた子供にしてみれば、もう一緒に住めない時々会えるだけの二人が、別居中でも離婚していても、状況的には変わらなかったと思うんだけどね。

 

子供(当事者)の私が、もう見切りをつけているのに、周りに慰められるのがどうにも居辛くて仕方がなかった。

下手に期待させる方が余程罪だと、そう思うのはおかしいだろうか。

 

 

「蘭ちゃんは何が好きなのかしら。ピアノは好きね?」

 

 

何が好きと聞かれて、有希子さんの後ろを見た私に、彼女は優しく尋ねた。

 

ここって応接間じゃないかな? と言うくらい広くて立派な工藤さんのお宅のリビング(居間)には、大きなグランドピアノがデデンと置いてあるのだ。

 

お邪魔した当初から、ずーっと気になってて、見てれば分かるよね。

 

 

「弾いてみる?」

 

「うん」

 

 

一も二もなく頷いた私は、お迎えが来るまでピアノから離れなかった。

 

 

「ピアノが弾きたかったら、いつでも来ていいのよ。新ちゃんはサッカーばかりで、ピアノは興味がないから、遠慮しないでね」

 

 

私が今、近くに住んでいることを知った有希子さんは、帰り際そう言ってくれた。

 

たくさん優しくしてくれて、ありがとう。下手なピアノを聞かせちゃってごめんなさい。

 

お父さんに置いていかれた私を、ずっと慰めてくれていた有希子さんは、何度も女の子も欲しかったわねえと言っていた。

 

新一君はどちらかと言えばお父さん似のようだが、有希子さんに似た女の子なら凄く可愛いだろう。私のお父さんお母さんと違って、工藤さんのお宅は仲良しみたいだし、作ればいいのになあ。

 

ここに生まれる子は、きっと幸せだ。私にしてくれたように優しく包んでもらえるだろう。

 

 

 

 

家に帰ったら、リビングにレッスンバーと姿見があった。

 

レッスンバーは壁面に取り付けるタイプじゃなくて、スタンド付きの可動式で洗濯物干しみたいな形の物で。使わないときは部屋の隅に片付けられる便利仕様の物だった。

 

実際に時々、洗濯物や洋服が掛けられるのはご愛敬だ。

 

鏡は取り付け型でだいぶ大きい。少なくとも店頭に気軽に置けるサイズじゃなかった。以前から注文していたようだ。

 

 

「これで家でもレッスンが出来るでしょう」

 

 

私がいない間におばあちゃんは、練習環境の改善をしてくれていたのだ。お迎えが遅かったはずだ。

 

 

「ありがとう。おばあちゃん」

 

 

 

離れていても時間を見つけて、必ず会ってくれるお父さんお母さん。足りない部分を満たそうとしてくれるおばあちゃん。

 

私も充分愛情を注がれている。無い物ねだりは止めよう。

 

 

 

 

 




初対面の人がこちらを知りすぎてると、気が休まりません。

たとえ相手が善意の人でも、ガリガリ精神を削られます。



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△8 似て非なる者

シニョンって、分かるかな?
お団子頭のことですよ。

バレエのシニョンは、高いと髪飾りを付けるのに邪魔になるので、首筋に近い低い位置でぺたんこのお団子になるよう作ります。




「美味しかったー」

 

「そうね。また来ましょうね」

 

「うん」

 

 

今日はお母さんと、お昼ご飯を食べる約束をしていた。お母さんの勤める弁護士事務所近くに、評判の和食レストランがあるというので、そこでの食事だ。

 

土用の丑の日にはちょっと早いけどと言いながら、お母さんは鰻重を注文してくれた。

 

 

「暑いけど、負けずに頑張らないとね。蘭もお稽古頑張ってるのね。…お団子頭も似合うわよ」

 

 

すっかり私のトレードマークになってしまった頭のシニョンを見て、お母さんが笑う。

 

バレエを始めてから、教室のお友達のように伸ばし始めた髪は、やっと肩を過ぎる長さになって結えるようになった。

 

毎日おばあちゃんが結ってくれるシニョンは、首筋がすっきりして涼しい。見た目もバレリーナっぽく見えて、私もお気に入りだ。

 

 

「前髪も伸ばすの?」

 

「うん。汗で張り付いて気持ち悪いから。…変?」

 

 

まだ上げるには短い私の前髪はピンで留められ、おでこが丸出しになっている。まだちょっと見慣れないが、別におかしくは…ないと思う。

 

 

「とっても可愛いわよ。その方が女の子っぽくて良いわ」

 

「えへへ。お母さんと一緒だよ

 

「そうね。お揃いね」

 

 

いつもポニーテールのお母さんだが、今日はたまたま私と同じ髪形だった。お母さんとのお揃いを褒めてもらえたのが嬉しくて、笑った。

 

 

今日は頬がゆるみっぱなしだ。

ご飯は美味しかったし、この後はバレエスタジオまで送ってもらう予定だけど、まだ時間があるから。

もう少しだけ、お母さんと一緒にいられる。

 

 

「バレエは3時からだったわね。ちょっと時間があるから、この後…」

 

 

ふいにお母さんの携帯電話が鳴った。

 

笑っていたお母さんの眉が、着信表示を確認した途端に曇る。

…お仕事の電話かな。

 

 

「蘭、ちょっと電話をしてくるから待っててね」

 

「うん」

 

 

お母さんは電話をするために、店の外に出ていった。さっきまでの浮き立つ気持ちが、急速に萎んでいく。

 

ああ、残念。気分が下降して行くのが止められない私は、お手洗いへ気分転換に手を洗いに行った。

 

鏡に写る下がり眉のへにょんとした自分の顔。変な顔だなあ。前髪を上げていると表情が丸見えなんだ。

見ていたくなくて、顔を洗ってお気に入りのハンカチで拭いて、お手洗いを出た。

 

それでも気分を変えられず、しょんぼりしていると、ふいに声が掛けられた。

 

 

「なあ、お前。あー。えーと。蘭、蘭だよな」

 

「あ」

 

 

振り向くと見覚えのある男の子が立っていた。彼は…。

 

 

「なんだよ。覚えてたの俺だけかよ」

 

ぼんやりして反応を返さない私に苛立ったのか、その子は不満気に呟いた。

 

 

「……覚えてるよ。魔法使いの快斗君」

 

 

快斗君と、ついこの前会ったばかりの新一君の顔立ちがよく似ているため、一瞬戸惑ってしまった。でもよくよく見れば全然違う。

 

 

「こんにちは。快斗君」

「おう」

 

 

この前会った新一君の興味無さげな、不機嫌そうな顔と、目の前の人懐っこい快斗君の曇りのない明るい笑顔を比べてみる。

 

うん。丸っきり真逆の反応。別の人だね。

 

 

「ごめんね。快斗君によく似ている子と間違えたの」

 

 

「なんだよ。それ」

 

 

第一印象でやらかしてくれたアレな快斗君だが、今の私の中での好感度は高い。

快斗君への好意に、多分に彼のお父さんが影響していることは、誰にでも想像に難くないだろうけれど。

 

もしここにいたのが、快斗君ではなく新一君だったら。私は挨拶もそこそこに、お母さんを待つために席へ戻っただろう。

 

そういえば、快斗君は誰とここに来たかと確認してみれば、店の奥の方の座敷席に、彼のお父さんで天才マジシャン黒羽さんと、恐らく奥さんらしき女の人の姿が見えた。

 

 

 

すっかり黒羽さんに魅せられてしまっている私は、快斗君の手を取って、一直線に駆け出した。

 

そうしてご挨拶をして、彼の小さなレディ呼びがくすぐったくて笑いつつ。少しお話をしていたら、お母さんが戻って来てしまった。

ああ、残念。時間切れだ。

 

 

「蘭ー。どこなのー」

 

 

慌てて黒羽さん御夫妻にペコリと頭を下げ、快斗君には手を振って。それではまた今度と別れる時、快斗君が今度はマジックを見せてくれると言ってくれた。

 

 

「約束な」

 

「うん」

 

 

お互いに名前しか知らず、いつどこで会うとも叶うかも知れない約束だったが、私たちは子供の気楽さで何も思わず別れた。

 

またあの人たちに、会えたらいいなあと夢想する私は、さっきまでの憂鬱さなどすっかり消え去り、いっそ晴れ晴れした気分だった。

 

「お友達と話していたから、平気だよ」

 

 

待たせたことを謝るお母さんに、にっこり微笑む余裕も取り戻していた。

 

大丈夫。ちゃんと笑えてる。ありがとう。

 

快斗君と黒羽さんに、心の中でそっとお礼を言った。

 

 

 

 




原作主人公とは互いに初期値のままの好感度は、怪盗親子に限りかなり高め。
憂鬱も吹き飛ばすレベルです。



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▽9 海より山派? いやいや。むしろインドア派

原作でも新一君と蘭ちゃんの仲が深まる要素って、幼少時を外してしまったら無さそうかも。

まず二人の趣味嗜好に接点が無いし、性別が違えば回りの目もあって反発心も出て来る。

大きくなって出会ってたら、きっとこんな感じで上手くいかない。




工藤さん家のピアノが弾きたい。そう思っても、なかなか行く気にならなかった。主に構ってきすぎる有希子さんのせいで。

 

それでも欲求に耐えられず、とうとうお邪魔することにした。

 

有希子さんには、いつでもピアノを弾きに来ていいのよ。と言われたが、お父さんじゃあるまいし突撃するのは失礼が過ぎる。

なんて親子だと思われそうなので、きちんとお邪魔させてくださいと、事前に電話をしました。

 

親しき仲にも礼儀あり。

お父さんがおばあちゃんに良く言われているが、全く身に付いてない格言だね。駄目だよ。

 

ともかく私は、親しくないので尚更きちんと礼儀は大事。

 

そうしてお邪魔した工藤さんのお宅でピアノを堪能させていただき、有希子さんにジュースとお菓子を勧められるままごちそうになりました。

 

今回は予測して、お昼ご飯は少なめにしましたよ。

 

 

「蘭ちゃんは本当にピアノが好きなのね」

 

「ええ。家でも暇さえあれば弾いているわねぇ」

 

 

習い始めの下手なピアノをBGMに、お話しをしていた有希子さんとおばあちゃん。

私がまだ小1で道にも慣れていないので、おばあちゃんが連れて来てくれました。

 

 

「蘭ちゃん。喉は渇いてない? ジュースがあるわよ」

 

 

「ください。手を洗ったら」

 

「あら、お利口ね。新ちゃんもそうなら良いのに」

 

 

手が汗でベタついて気持ちが悪いまま飲食するのは嫌なので、有希子さんに断ってから手を洗いにリビングを出た。

 

 

「あ」

 

 

「こんにちは」

 

 

廊下を出た途端、サッカーボールを抱えた新一君と遭遇した。取り合えずペコリとお邪魔してますのご挨拶。

新一君の返事を待たずに手を洗いに行った。

 

ついでに用も足して、リビングへ戻ったら新一君がいて、手を洗えと有希子さんに叱られていた。

 

 

「もう。新ちゃん、そんな汚れたボールを持ち込まないで。おやつはまだよ。手を洗って来て」

 

 

注意しながら有希子さんが、手洗いから戻った私を引き合いに出して叱るから、手を洗いに行く新一君に睨まれた。

 

えー。私は悪くないよう。

 

 

 

 

新一君も交えてのおやつタイムは、主に大人ばかりが喋っていた。私と新一君の間に会話は無い。

 

だって話すことなんて無いし。

 

 

「あの、おば様。今度家族で海に行く予定なんですが、ご一緒しませんか?」

 

「あら、いつ?」

 

 

予定は来週ですか。うん、お盆過ぎた海はクラゲだらけになるものね。行くなら、その頃になるでしょう。

 

 

「おばあちゃん、駄目だよ。合宿があるから」

 

「ああ、そうだったわね」

 

 

残念ながら、バレエ合宿の予定がありました。嬉しそう? えー。

 

そりゃあ、なんの接点もない新一君の遊び相手として海に行くより、バレエ教室のお友達と過ごしたいのは当たり前でしょう。ねえ。

 

ほら。横で新一君もどうでも良さそうな顔をしてるし。不参加で良かったでしょう。

 

分からないかなあ。歳が同じだからって、セットにまとめられても、私たちは戸惑いしかないんだよね。

 

何より私、バレエ合宿の話を聞いてから、凄く楽しみにしてたんだから。

 

だからごめんなさい。有希子さん。食い下がらないで下さい。

 

バレエ合宿では、バレエの練習以外に森の中を散策したり、みんなでご飯やおやつを作ったりする予定らしい。

 

帰りには軽井沢でお買い物も出来るというから、おばあちゃんにお土産を買って帰ろう!

 

というわけで、私の頭の中はすっかりバレエ合宿モード一色なんです。

 

残念ですが、また今度機会があれば誘ってください。

 

ちなみにバレエスタジオでは、冬にスケート教室とスキー教室も企画しているそうですが、一応参加を予定しています。

 

リゾートホテルに宿泊で、父兄の参加も可能って…行きたい!

 

バレエと何の関係が? とおもったら、普段の生活やバレエで使わない筋肉を付けたり、色んな経験を体験させて自立心を育てる方針らしいです。

 

 

凄い考えてるな。お母さんもこのバレエスタジオは良いわよって言ってたから、問題は無さそうです。

 

なんでも大人バレエのコースを、お母さんと一緒の事務所のスタッフさんも何人か受講しているから、知ってたよう。

 

スポーツジムに行く感覚で、バレエのコースを取る女性は多い。スタイルが綺麗になって、練習着もオシャレだって理由かな。大人の生徒さんが巻いてる巻きスカートとか、素敵だからね。

 

宿泊はリゾートホテルで、移動にはバレエ教室の送迎バスがあるし、スキーもスケートも現地のインストラクターが付くらしいし、至れり尽くせり。

 

去年のスキーインストラクターは、元日本代表の人だったっていうから凄い。

 

でもみんなを見てると、自立心とかより、単に楽しいから参加を希望しているようだった。

 

そもそも、うちのバレエスタジオは、本格的にバレリーナを目指す人には向かないからなあ。

 

 

バレリーナ育成より、バレエを土台に別になにかしらのスポーツをしたり、体力と綺麗な体を作りたい人が通うところだから、遊びの要素が多いんだ。

 

そう言う私も、週に二回しかレッスンには行っていない。私にはピアノが一番だから。

 

数あるバレエ教室の中から、おばあちゃんはここを選んで勧めてくれたんだけど、大正解だったよ。バレエ教室のお友達とは、和気藹々と楽しく学んでいる。

 

私がバレエを習っていると言うと、じゃあ将来はバレリーナね。と言われるし、有希子さんにも訊ねられたが、違います。

 

私の夢は、別にあるんだ。

 

 

 

 

で、後で有希子さんから聞いたけど、私は行かなかった海には、新一君と同じ学校の同級生を誘ったらしい。

 

うん。ろくに接点も親交もない私と行くより、新一君も楽しかったでしょう。

 

えー? 何か事件があったんだ?

大変でしたね。

 

 

 

 

 

夏休みも終盤に、偶然町の図書館で、新一君と明るめのボブカットの女の子と行き合った。

 

すれ違いざま私は、ペコリと頭を下げた。

 

 

「誰?」

 

「母さんの知り合いの子供」

 

「ふうん」

 

 

後ろからそんな会話が聞こえた。

 




有希子さんの押しの強さに負けず、蘭ちゃんがバレエ合宿を満喫している間に、さざなみ編が終了しました。

若い赤井さんと新一君との出会いに立ち会うこともなく、赤井さんに世良ちゃんをヨロシクとも言われません。

交代要員は、きっともう一人の幼馴染みでしょう。問題無い。



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△10 夏の京都は、正直避けたい

先週の金曜ロードショーを観てから、彼が忘れられないので、特別に絡めてみた。





夏休みも残り数日、私は京都にいた。初めて来た夏の京都は、

 

 

「暑い…」

 

「京都は盆地だからね」

 

「涼しくなってから来たかった…」

 

「ふふ、夏の京都も良いものよ。蘭ちゃん」

 

 

透け感のあるシンプルな織りのオレンジ色の紗の着物に、色襦袢を重ねたおばあちゃんは、着物を着ているのに涼しそうに見える。

 

下に着たのが白襦袢ではなく色襦袢だからか、透け感が押さえられて真夏というより、初秋の装いのように思う。

 

私は夏感満載のノースリーブのワンピースだから、横に並ぶとちょっとバランスは悪いかもしれない。

 

おばあちゃんが夏の京都の良さを色々と教えてくれるが、子供にはちょっと理解出来ない。というか、暑くて頭が回らない。

日傘を差すおばあちゃんに手を引かれ、なんとも強い日差しの下を歩いてようやく着いたのは、呉服屋さんだった。

 

店内は天国だった。冷房があるって素晴らしい。

 

 

「涼しい…」

 

 

呆然とつぶやけば、おばあちゃんとお店の人に笑われた。

 

ここはおばあちゃんが昔から贔屓にしているお店で、去年の七五三に私が着た着物も、こちらで作ってもらった物らしい。

 

そういえば七五三って数え年でするんだよね。まだ六歳なのに、なんで七五三 ? って不思議だったな。

 

 

出してもらったジュースを飲みながら、反物を広げてお店の人とお話しをしているおばあちゃんを窺う。

 

おばあちゃんのお着物の話かと思ったら、私の成人式の振り袖がどうとか話してる。

 

十年以上先なんですが。

 

涼しくはなったが退屈だった。

しばらくはお利口にしていたが、どうにも間が持たない。

 

暇潰しにと、京都駅でもらった観光客向けのパンフレットを、肩から下げたポシェットから取り出してみたが、良く見たら外国人向けだった様で全く読めなかった。

 

諦めてパンフレットを仕舞い直して、おばあちゃんを見るが、まだ話し込んでいる。

 

 

 

外は暑くて出たくない。

 

退屈に負けて、私は側にいた男の人に声をかけた。

 

 

「こんにちは」

 

「…こんにちは」

 

 

訝し気(いぶかしげ)に返ってきた挨拶は、関西の人特有のイントネーションで。少なくとも地元のお客さんだと思った。

 

 

「お兄さんはお使いですか。私はおばあちゃんを待ってます」

 

「ええ。母の使いです。よく分かりましたね」

 

 

二十歳は越えていない若い男の人が、呉服屋にいるのは、たぶん珍しい。そこで出されたお茶を飲みながら、落ち着いて座っているのは、もっと珍しいだろう。

 

彼自身普通に洋装だから、彼ではなく、知り合いが常連なのだろうと思った。

 

なんとなく分かったと、えへへと笑えば、女の子が知らない男に声を掛けるのは危ないと注意された。

 

 

「でもお兄さんが誰のお使いの人で、ここで待ってるのか、お店の人は知ってるよね」

 

 

どこの誰だか、身元が分かってるんでしょう? そんな人がお店の中で、悪いことはしないだろうと答えれば、クククと笑われた。

 

 

「確かになぁ。こんなとこで、悪いことは出来ませんなぁ」

 

 

そうすると冷たそうな切れ長の目元が緩んで、雰囲気が柔らかくなる。改めて見ると、結構カッコイイ人だなと思う。

 

こっちの言い方をするなら、シュッとした男前って感じ?

 

 

「お兄さん。お話ししましょう」

 

 

退屈だから相手をしてくれと言えば、お兄さんはちょっと目を見張ってさっきよりもハッキリ笑った。あ、笑うとちょっと表情も柔らかくなるんだ。

 

 

「本当に豪胆なお嬢さんや」

 

 

困った子やなあ。子供やからかなあ…と呆れたように笑って、それでも無下にしたりせずに私の相手をしてくれた。

 

 

「ごうたんは知らないけど、毛利蘭です。おばあちゃんと東京から来ました」

 

 

とペコリと挨拶をすれば、丁寧に返してくれた。

 

 

「ご丁寧にどうも。綾小路文麿です」

 

「ふみまろ…。まろさん。まーさん」

 

 

ちょっと長かった名前を呼びにくいので、勝手に縮めた。

 

 

「…まーさん」

 

 

彼の反応から。あ、嫌かな? と思ったが、特に反論も無かったのでそのままにした。

ふと思い付いて、ポシェットに仕舞ったパンフレットを取り出して見せた。

 

 

「まーさん。これ、何て書いてあるのかなあ」

 

「外国人観光客向けの観光案内やないですか。なんでこんなもんを持ってるんですか」

 

 

綺麗だったから貰ったけど、さっぱり読めないと言えば、外国人観光客向けの凝ったデザインは、子供の目を引いたのだと納得された。

 

 

「まーさん。読んで」

 

 

一方的に話し掛けていた私は、この頃にはすっかりまーさんに対しての遠慮が無くなっていた。

 

人懐こいと評される私は、図々しくも彼にそれを読めとねだった。豪胆とまーさんは言ったが、単に図太い子だと思われたかもしれない。

 

硬質な雰囲気のまーさんだったが、存外に子供好きだったらしく、嫌な顔もせずそれを読んでくれた。

 

うん。顔だけ見ると情が薄そうなんだけど、本当は優しい人だと思ったよ。

 

だってまーさんは、自分のお使いの、お母さんの物だというお着物を受け取っても、帰らないで私がおばあちゃんを待つ間、おしゃべりに付き合ってくれたから。

 

 

 

いい人だったなあ。

 

おばあちゃんがまーさんに、ありがとうございましたと何度も頭を下げ、私はまたねと手を振った。

 

 

「子供が人懐こいのは可愛らしが、気をつけんとあきませんよ。悪い人もたくさんいますからね」

 

 

苦笑しつつ小さくだが、まーさんも手を振り返してくれた。

 

バイバイ。まーさん。

また会えたらいいなあ。

 




寿命の問題があるから、映画に出ていたリスは、多分ポケットには入ってなかろうと、描写はしなかった。

衝動に負けて書いてみたが、綾小路警部の口調が分からないし、こんな性格なのかも全く分からない。
でも出したかったので後悔はない。



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▽11 食べれば太るし使えば汚れる

原作開始の10年前の喫茶ポアロには、トリプルな執行人も可愛い美人店員さんも存在しません。
デザート作りの得意なバイトさんを、適当に捏造しました。

マスターも10年も経てば、別人かもしれない。




「蘭ちゃん。発表会の時の写真が見たいって言ってたよね。」

 

「うん。今回は出れなかったから。見たいの」

 

「お父さんが録画したのがあるけど、見に来る?」

 

「見たいな」

 

 

春からバレエを習い始めた私だが、通うバレエスタジオの発表会が入ってすぐの5月の連休中だったため、参加はしなかったのだ。ちょうどお母さんとお出掛けの予定があったし、見学に行くこともなかった。

 

でもお友達の間でよく話題に上がり、この前のバレエ合宿中でも、発表会の時の話は度々出ていた。

だから写真を見せて欲しいと仲の良くなった子に言ったら、録画映像があると言う。

 

見たい。うちのバレエ教室の発表会はスパンが長く、2年に1回だ。次回私が出る時は、3年生の時だが、ぜひとも参考にしたかった。

 

そうしてその子に都合を聞いて、お家にお邪魔する約束をした。

 

 

 

 

 

「だったら、お土産がいるわねえ」

 

「何がいいかな」

 

「お持たせとして、一緒に食べられる物とかね。やっぱり洋菓子かしら」

 

 

学校の後にピアノ教室へ直行した私たちは、さすがに疲れてしまって、ポアロでちょっと一服中。

 

今の住所だと小学校が遠いので、おばあちゃんは毎日車で送迎してくれている。

 

 

 

学校の後に行く習い事も、ピアノが週3回にバレエが2回、スイミングも1回あるから、送迎役のおばあちゃんは毎日大忙しだ。

 

おばあちゃんも疲れてるし、自分でお茶を入れるのも手間だから、美味しいコーヒーの飲める喫茶店があって良かったね。

 

もう5時過ぎだから、夕ご飯に響くといけないから、いつも頼むのは飲み物だけ。

私はいつものフレッシュジュースで、おばあちゃんはマスターのブレンドコーヒーだ。

 

私はコーヒーはまだ飲めないけど、コーヒーの香りは好きだった。

 

 

「お土産ですか? よかったら、うちのタルトはいかがですか? 」

 

 

手土産をどうしようかと二人で悩んでいると、マスターが声を掛けてきた。

 

 

「あら、タルトですか?」

 

「はい。バイトの子の発案の、秋の限定メニューなんですが、お薦めしますよ」

 

 

「ああ、確かパティシエ見習いの学生バイトさんがお勤めでしたわね」

 

「ええ。その子の作るデザートなんですが、これが下手なケーキ屋の物より、ずっと美味しいんですよ。自信を持ってお薦めします」

 

 

マスターは飲み物と軽食が専門の人らしいのだが、調理学校の学生バイトさんが作るデザートも、なかなか美味しいと評判なのだ。

 

いつも私がポアロに来るのは、お休みのモーニングの時間か、今日のように晩ご飯前のことなので、パンメニューか飲み物しか頼まない。

 

例外が、初めて来た時のマスターのサービスで頂いたケーキだった。

 

あのシフォンケーキは美味しかったなあ。

 

フワフワでしっとりした生地は、口に入れるとあっという間に溶けて、余韻のように紅茶の香りが優しく残った。

 

クリームに添えられたキャラメリゼしたりんごと、生地を一緒に食べれば。また違った味わいで、ちょっと贅沢な気分になれる。本当に美味しいケーキだった。

 

あのケーキも、そのバイトさんが考案した物らしかった。

 

あれを考えた人のタルトかあ。いいんじゃないかなあ。そんな私の心の声を聞いたように、マスターが言う。

 

 

「今ちょうど有るんですが、味見しますか?」

 

 

もちろん味見した。お夕飯前だけど、今日は特別にね。とおばあちゃんが言ったから。

 

やっぱり、そのタルトも美味しかった。こうしてお友達のお家の人へのお土産が決まった。

 

 

 

 

 

そうして今日は、約束のお休みの日。バレエ教室のお友達の家には、おばあちゃんに送ってもらう。お友達の家は元のマンションの方に近いので、

 

駐車場が離れているため、おばあちゃんが先に車を取りに行っている間に、私は身仕度を済ませた。

 

頼んでおいたお友達のお家へのお土産のタルトをポアロで受け取り、店の前に停まっていた車に乗り込むと、後部座席のジュニアシートに座ってシートベルトをカチンと締めた。

 

私を待っていたおばあちゃんが、エンジンを掛けながら言った。

 

 

 

 

「蘭ちゃん。小五郎のアパートへ寄っていくわね」

 

「いいけど、なんで?」

 

 

お父さんの家には、先週末に掃除に行ったばかりだ。夏休み前におばあちゃんに叱られたせいか、そんなに汚れてはいなかったけど、またチェックしに行くの?

 

 

「着替えを届けて欲しいんですって。今、連絡があったの。あの子ったら、忙しくてろくに部屋に帰ってないのよ」

 

 

部屋が綺麗なはずだわ。とおばあちゃんが言った。なるほど、汚せるほど家に居なかったんだね。

 

 

「警察に行くの? 先に行く?」

 

 

「約束の時間があるから、あなたを送った後で行くわ」

 

ああ、確かに。急いでもお友達との約束に間に合わない。もう少し早く言ってくれたら、私も一緒に行けたのにな。

 

残念。お父さんの顔が見たかった。そう思いながら、お友達のお家で過ごした。

 

 

 

 

 

夕方迎えに来たおばあちゃんが、私の顔を見た途端に言った。

 

 

「蘭ちゃん、来なくて良かったわよ。向こうで大変だったの」

 

 

聞いてみたら、本当に大変な事が起こっていた。

なんと取り調べを受けていた容疑者の人が、隙を見て逃げ出して大騒ぎだったらしい。

 

え? ニュースでも報道されたの?

 

 

ちょうどおばあちゃんは、その時にお父さんと会って話していたので、容疑者の人が確保されるまでの間、安全な会議室に隔離されてしまったんだそうだ。

 

さっきまで、出して貰えなかったんだって。大変だったね。

 

私がお友達とバレエの発表会の話題で盛り上がっていた頃、まさかおばあちゃんが、そんな目に遭ってたなんて…。

 

 

「ふふふ。大丈夫よ。可愛い婦警さんにお茶をいれてもらって、お話ししてるうちに解決してたから…」

 

 

おっとり話すおばあちゃんは、いつも通りだった。

良かった。心配はいらなかったみたいだ。

 

 

 

でもせっかく捕まえた容疑者を、御膝元で逃がしたら駄目でしょう。何やってるの…。

しっかりして欲しいなあ。

 




原作で毛利夫妻が別居する引き金になった事件には、おばあちゃんが遭遇しました。
でもタイミングがズレたため、人質にもならず、のんびり婦警さん達とお茶をしながら、息子の話をしていました。

人質になる者がいないため、可及的速やかに容疑者は確保。当然人的被害も無し。

容疑者の扱いの在り方等で、警察がマスコミに叩かれたりは有るんでしょうが、これくらいならコップの中の嵐で収まるんじゃないでしょうか。



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△12 それでも私が通う理由

※うっかり手直し前をそのまま残して投稿してしまった…。
ので、(同日一時十分)に部分的にちょっと修正しました。
話の筋に変更は、ありません。


前回のおさらい。

本来なら英理さんと蘭ちゃんの課題だったお使いは、おばあちゃんが難無くクリア。
小五郎さんが警察を辞める原因、人質発砲事件が消失しました。

うん。警察を辞める理由が無いんだな。



私はどちらかと言えば、有希子さんが苦手だ。それでも私が工藤さん宅に通う訳。

当たり前だけど、ピアノ目当てですよ。

 

でも新居となる新しいマンションが近く完成するので、間もなく引っ越しとなる。

名残惜しいけど、そろそろこちらのピアノも弾き納めだ。

 

鍵盤をタッチすると響く音に、溜め息が出た。やっぱり、グランドピアノは良い。

 

私が毎日弾いてるピアノはアップライトだから、私がグランドピアノを弾けるのは、ピアノ教室とここだけだ。

 

それがこの前、私が有希子さんのピアノを、夢中になって弾いている姿を見ていたおばあちゃんが。どうせ引っ越すなら、ピアノの買い替えをしないかと言い出した。

 

つまりアップライトから、グランドへと。

 

………いやいや。そんな気軽に、買い替えを考えるような物じゃないでしょ。ピアノだよ?

よく知らないけど、車が買えるくらいの値段はするよね?

 

下取りしてもらったとはいえ、新築タワーマンションも買っちゃったばかりでしょう?

それに合わせて、家具も選んでたよね?

 

なのに、更にピアノを買う?

 

と、私が戸惑っている間に、おばあちゃんは御世話になっているピアノの先生に相談してしまった。

 

つまり私のために、グランドピアノを買いたいのだと。

 

……親バカならぬ、婆バカだ。おばあちゃん、どれだけ私が可愛いの?

 

ねえ。目に入れても痛くないって言うけど、流石に目に入れたら痛いと思うよ。

 

でも本当に先生が真っ当な指導者で良かった。

教室や学校関係者には、業者と仲が良くて、特に必要も無くても、ピアノを買い替えさせる人もいるらしいから。

 

まあ普通に考えてピアノは高い買い物だから、一度買えば長く使おうと思うだろうし、実際に簡単に車の様に買い替えたりはしない。

なかなか回転率は悪かろうね。メーカーや販売店が思うようには、ピアノが売れるはずもない。

 

機会があれば、売りたいだろうね。そんな都合、知ったことじゃないけど。

 

でも先生は、私がどうなりたいかによって、ピアノを変えるのか決めれば良いと教えてくれた。

 

飽くまでも趣味の範囲で続けたいなら、おばあちゃんのピアノを使い続ければいい。でも上を目指すならグランドピアノを薦めると。

 

そして私戸惑う私に、どうなりたいかによって、買うピアノは変わるとも教えてくれた。どんなピアノを選ぶかは、各々の希望や方針によると。

 

先生は、ピアノ奏者はピアノを持ち歩けない。必要なのはどんなピアノでも弾きこなせる応用力だ。というのが、持論の人だった。

 

地力をしっかり付ければ、素晴らしい作品を生み出せる。弘法は筆を選ばずよ。と教えててくれた。

 

だから私は、子供なりにも考えて、グランドピアノが欲しいとおばあちゃんにお願いしました。

 

 

 

ピアノを買い替えるとお父さんとお母さんに言った時は、凄く高価な物なので、中途で投げ出すなんて以ての外だ。しっかり励めと言われた。

 

 

「おふくろの期待を裏切り続けた俺に、言えることじゃないがな…」

 

 

お父さんが自嘲するように呟いていたのは、聞かない振りをした。

 

でも、もっともだと思ったけど。大丈夫だとも思ったんだ。

だってピアノは私の支えだから、弾かなくなるなんて有り得ない。

 

それこそ、指が無くなりでもしない限り。

 

 

 

 

 

そうしてピアノを決めて来たんだけど、おばあちゃんが勧めるピアノを新居に設置するのは、けっこう大変なことだと分かった。

主に重さと音の問題だった。

グランドピアノの重さで、床が抜けるのは論外だけど、一番気になるのは音かなあ。

 

近隣住民との騒音トラブルで事件が!! とかありがちだし。

実際のところ、ピアノの音って迷惑だと思うんだよね。

 

私もピアノの練習中は延々と同じ曲を弾き続けるもん。2時間3時間とかざらに。

 

言っておくけど、それも通しじゃないよ。

 

上手く弾けない一小節を。ひたすら集中力の続く限り。延々と延々と延々と…、ただひたすら満足がいくまで弾き続けるから。

 

そんなのを数時間も聞かされ続けたら、誰だって殺意も湧くんじゃなかろうか。

よくおばあちゃんが耐えてくれてると、常々思っている。発狂する前に、耳栓しても良いんだよ?

 

とにかくそんな環境では、音の聴こえる範囲にいる人に、私の殺害計画でも立てられ兼ねないんじゃなかろうかと思うんですよ。

 

だから前のマンションでは防音対策をした上で、時間を決めて弾いていたんだけどね。今の仮住まいでは、ほぼ弾き放題だったりする。

 

だって凄く条件が良いのだ。二重窓等のある程度の防音対策はしてあるが、ビルの両隣も鉄筋コンクリートの建物で防音に優れ、すぐ下の2階部分は空き物件でその下のポアロにまで音は届かない。

今の仮住まいでは、ほぼ弾き放題だったりする。

あれ? 別に引っ越す必要性無くないかな?

 

グランドピアノはここへ運んでもらって、ずっと居ようかな…。

 

無理だよね。分かってる。

 

ともあれどんなにお金と時間が掛かろうと、音対策は大事ということです。ということ。

防音室の工事費とか、考えると本当に恐ろしいんだけどね。

 

おばあちゃんが業者の人と、窓を二重にとか、扉も防音とか、床の補強のこととかも話しているのが聞こえてましたよ。

 

置いてあった見積書の金額とか、私はまだ桁数の読み方を習ってなかったから覚えてないけど、100万くらいじゃ済まなかった気がする…。

 

 

 

今さらだけど、私ってなんてお金の掛かる子供だったんだろうか。

 

とにかくそれだけ愛もお金も掛けられたんだから。返さないと、夢を叶えないと申し訳なさ過ぎる。

 

与えられるものを、当たり前だと思いたくない。別におかしくはないでしょう?

 

 

それで補強工事の都合上、引っ越しは少し遅れるようだ。

 

私の新しいピアノとも、それまで会えない。今のうちに工藤さんのお宅にお邪魔しておこう。

有希子さんのピアノは凄く良い物だから、可能な限り弾かせてもらおう。

 




ピアノ←本命
バレエ←趣味

着実に健康的なインドア派の道を進んでいる…。



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▽13 人を見た目で判断するな。というくらいには、見た目は重要

ほっそりして見えるが、バレリーナ体形は密かにしっかり筋肉質だった。
あんなに優雅なのに、バレエって、無茶苦茶体力を消耗する。筋肉が凄いバキバキだった…。

知り合いの先生の、体脂肪率を聞いたときには耳を疑った。




インドアとはいえハードな運動量をこなす私は、そこそこ運動が出来る。なのに周囲には、鈍臭いと思われているようだ。

 

縄跳びは小1で二重跳びが出来るし、逆上がりも連続してだって出来る。跳び箱もへっちゃらで、マット運動は前転後転側転どころか、実はバク転も出来る。

 

クラスでプールの端から端までクロール出来たのは、私の他は男子が二人だけで、運動会の徒競走ではその子達よりも速かった。

 

うん。間違えた。

そこそこどころか、だいぶ運動は得意だ。

 

なのになぜだろう。鈍臭いと思われているのは。

 

顔か? 顔のせいか?

 

ふと手を洗ったついでに、視線を正面の鏡に向けた。

 

うん。普通に子供の顔だ。丸いおでこにプニプニした頬。小さい鼻と黒目がちの大きな目。

 

びっくりする程、可愛らしい訳でもないが、不細工ではない。

おばあちゃんのお友達の、大人の人には可愛いといわれるが、大人の特に女の人は息をするように可愛いを連発するから、信じちゃいけないんだって。

お父さんが言ってたよ。

 

あの人達から見れば、道端のノラ猫だってポアロの新作デザートだって、可愛いの一言で済まされる。

 

そもそも大人から見れば、大抵の子供は小さくて可愛らしいものなんだよ。これもお父さんが言ってたな。

 

鏡の中の私は、ムムムと眉根を寄せている。

 

うーん。少なくともシャープな印象のお母さんには似てないが、お父さんみたいな素っ気無い感じでもない。

やっぱり、おばあちゃん似かな。

 

あ、アゴに砂が付いてる。洗っておこう。

 

 

 

 

どうしてこんなことを思うかと言えば、今日が小学校の校内マラソン大会だったからだ。

 

私達1、2年生は小学校をぐるりと周回するルートを走り、私はさっきゴールした。

 

予測は付くだろうが、ぶっちぎって私が1着だった。

だいぶ引き離して、2年生の男の子が後からゴールして、その子に憎々しげに睨まれたのだ。

 

ぼそりとその子が。トロ臭そうな顔して、あいつゴリラかよ。と言っているのが聞こえて、地味に傷ついた。

 

ゴリラ…。

 

違うよ。バレリーナです。

 

週に2回みっちり90分のレッスンを受けて、毎日ストレッチやポージングなどの自主トレをやるうちに、私は男の子にゴリラ扱いされる程の体力と筋力を身に付けていたのだ。

 

みんな知らないけど筋力が無かったら、バレエなんて出来ないからね。試しに通しで一曲踊りきってごらん。物凄く体力を消耗するんだからね。

 

私程度でゴリラなら、バレエやってる人はみんな人間辞めてるから。ゴリラを超えて、ゴジラ(怪獣)だからね。

 

でもゴリラ扱いもだけど。トロ臭そう、鈍そうと言われた方が傷ついた。

 

と、バレエ教室のお友達たちに話したら、彼女が言った。

 

 

「顔というより、性格? 蘭ちゃん、大人しいから」

 

「そうそう。物静かだって、うちのお母さんが言ってた。この間、蘭ちゃんがうちで発表会の動画見たときに」

 

 

大人しい。

人が私を評する時、今も昔もほとんどの場合はそう言われる。外だとあまり喋らないから。

通知表にも、よく書かれたな。積極性が足りません。ってね。

 

物静か。

そりゃあ、黙ってれば静かだろうね。御呼ばれしたおうちでも、基本的にお口ミッフィーちゃんでした。

 

聞かれれば言葉少なに答えて、話し掛けられれば、笑顔でごまかす。

 

今更だけどね。なんて子供らしいところの無い、可愛げの無い子だろうか。

 

 

この頃の私は、ちょっとおかしかった。

実際には人見知りもなく、初対面の人とでもコミュニケーションを取れる質なのに、周囲との軋轢や齟齬を怖れて、自分から動くことがあまり出来なかったのだ。

 

何かの切っ掛けで、喧嘩になるのが怖かったんだよね。大きな声で人が言い争うのを見ると、相変わらず息苦しくなって、呼吸の仕方が分からなくなるし。

 

 

その場限りになりそうな人とかだと、平気で接することが出来るんだけどな。

 

京都で会ったまーさんとか、ガンガン自分から話し掛けてたよ。

 

 

まーさんが東京での私を見たら、きっと別の子だと思うだろうな。

 

でも今回で、自分がどう思われてるのか、大体分かった。

 

大人しいゴリラか…。悲しい。

せめて子猿くらいにしといて欲しかった。お猿さんなら、まだ可愛いのになあ。

 

泣いてもいいかなあ。

 

 

 

しょんぼりしてたら、お友達が飴をくれた。あ、それCMでしてた新しいやつだね。ブドウ味のやつ。

 

私も同じように練習鞄から、お気に入りのバターミルクの飴を取り出して、3人で交換した。練習のあとは疲れてるから、飴が美味しい。

 

お喋りをして甘いものを食べたら、ささくれた気持ちが、ちょっと上向きになった。

 

うん。帰ったら、今日も習ったおさらいをしよう。

 

 




着実に健康的なインドア派の道を進んでいる、主人公です。

真面目にコツコツ練習を積み重ねてきたため、基礎体力が高めです。下級生女子に負けた男子の腹いせの、体力ゴリラ呼びにショックを隠せない…。

でも大人しくて泣き寝入り。

実際の周囲には、大人しいけど運動神経バツグンくらいに思われているはず。



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△14 お料理はじめました

最近、おばあちゃんに習って料理を始めた。

切っ掛けは新しいマンションのピカピカのキッチンを、私も使いたくなったからだった。

 

仮住まいの時も、階下のポアロでマスターがカウンターの中で料理するのを楽しく見てたりしたが、おばあちゃんが楽しそうにキッチンを動き回るのを見ていたら、私もやりたくて堪らなくなってしまったのだ。

 

私が料理を覚えたいと言うと、おばあちゃんは凄く嬉しそうに歓迎してくれた。

 

今日は日曜日で、学校も習い事もないから、お料理のお勉強中だ。

 

今までのおさらいで、今日は私だけでおやつを作る。

おばあちゃんが出していいのは、口だけね。

 

「ボールに卵の殻が入っても気にしないで。すぐに取ればすむからね」

 

「うん。あ、黄身が潰れちゃった…」

 

「かき混ぜてしまうから大丈夫よ」

 

「うん。混ぜるね」

 

「混ざったら、溶かしバターとお砂糖を入れましょうね」

 

「うん。あ、甘いのがいいな」

 

「じゃあ、もう少しお砂糖を入れる? お砂糖の代わりにハチミツとかシロップもいいわねえ」

 

 

まだ危ないからと火は使わせてはもらえず、ほぼ切ったり、乗せたり、挟んだりとかだけど。電子レンジと冷蔵庫は自由に使わせてもらえるから、結構作れる物は多い。

今はレンジ加熱で作れるマグカップケーキを作成中だ。

 

薄力粉ではなくホットケーキミックスを使うので、手順さえ覚えてしまえば私だけでも出来るという理由で、おばあちゃんが教えてくれている。

 

ホットケーキミックスには、すでにふくらし粉も砂糖も入っているから、あとは卵と油と味の調節に砂糖を足すくらいで良いらしい。

 

材料を全部混ぜて、前に作った時はプレーンだったが、今日はレーズンを入れてみる。出来たら、お玉で口が大きめのマグカップに生地を注いで。

 

 

「あ」

 

 

今日は少し生地が緩かったみたいで、ちょっとこぼしちゃった。拭かないと。

後片付けも料理のうちなんだって。

 

生地を注いだマグカップは、ラップをしないでレンジで加熱。えーと、一分半?

 

 

「そうよ。もし加熱が足りなかったら、またチンしたら良いからね」

 

「うん。焦げたら戻らないから、まだ生の方がマシなんだよね?」

 

「そうよ。覚えられたわね。簡単でしょう

 

 

こうしておばあちゃんとおやつを作るのも、今日で何回目だろうか。

 

一番最初に作ったのは、ハムとキュウリのサンドイッチだった。

 

まな板から転がりそうなキュウリをにゃんこの手で押さえ、なんとか作ったキュウリの薄切りは、どこが薄切りかと聞きたくなるような、厚みもバラバラの不細工な切り口だった。

 

 

 

「挟んでしまったら見えないから、いいのよ」

 

 

おばあちゃんに言われるまま、上手に薄く切れた物だけをマヨネーズを塗った食パンの上に、丁寧に並べた。おばあちゃんの分にはカラシを少し混ぜたマヨネーズを塗ったが、私は辛いのは苦手だからカラシは抜きだ。

 

キュウリの上にロースハムのお布団を被せて、マヨネーズを塗ったもう一枚の食パンで蓋をする。

 

うん。簡単。

 

そうしてサンドイッチは切りやすいように、ラップフィルムを被せて少し馴染ませるわけだが、このラップがどうしても子供には扱いにくい。

 

 

 

「うー」

 

ラップフィルムの蓋の切り口で切ろうとするが、上手く切れないのだ。

初めてラップを切ろうとした子供は、多分みんな経験しているだろう。本当にラップフィルムは、慣れないと上手に切れない。

 

必死に蓋の切り口と格闘した結果。最終的にラップは、私の手の中でクシャクシャになって、煽りを食らったサンドイッチは、見事に傾いてバラバラになっていた。

 

 

「あー」

 

「あらあら、大変」

 

 

あらあらと言いながら、おばあちゃんはサンドイッチを手直しする。でもそれ以上は手出しせず、私に続けるように促してくる。

 

結局、クシャクシャになったラップを、私はハサミで切ることにした。

 

 

しかしラップに刃を入れたとたんに簡単に裂けてしまい、切り口が本体に貼り付いて取れなくなるという二次被害を生み出した。

 

 

「あああ」

 

「あらあら」

 

 

本体は取りあえず横に置いて、切れたラップのシワを伸ばして、被せようとするが簡単に破れてしまった。

 

 

「ああああああ」

 

 

苦労して切ったラップは、ゴミになった。

 

おばあちゃんが苦労して、張り付いてしまったラップを剥がす横で、私はそのままサンドイッチを切った。

 

ちょっと切りにくかったが、おばあちゃんがいつも丁寧に研いでいる包丁は、特に問題なくサンドイッチを等分した。

 

…ラップ要らないじゃんか。

 

初めてのサンドイッチ作成体験は、ラップで苦労した記憶だけを強烈に残した。

 

最初に得た教訓は、よく切れる包丁さえあれば、サンドイッチにラップは不要だった。

 

この前はカスタードサンドケーキを作ったんだけど、カスタードクリームって、電子レンジで作れるんだよね。知らなかった。

 

ちょっと手間で、面倒だなと思ったけど、私って料理するのに向いているんだって。おばあちゃんが言ってくれた。

 

料理は基本に忠実に。

うん。ピアノやバレエと一緒だね。

 

特に料理は、慣れないうちの下手なアレンジは、失敗の素だって。

 

 

「英理さんは頭が良すぎて、色々と試してしまうのよねえ…」

 

 

おばあちゃんはお母さんに料理を教えた時を思い出したのか、溜め息をついた。完璧に見えるお母さんの、独創的な料理の味付けを思い出しているんだろう。

 

あの美味しそうな見た目で、びっくりするくらい意外な味がするんだよね…。

 

おばあちゃんのご飯に慣れている私は、お母さんの作る変わった味のご飯が苦手だった。

あれ、なかなか飲み込めないんだ…。

 

探究心が強すぎるのも問題ね。職業病かしら。とおばあちゃんは首を傾げる。

お母さんの求める、料理の真理ってなんだろう。何故食べやすさを求めてくれないのかが謎だなあ。

 

今日の晩ごはんも、ちょっとお手伝いさせてもらうことになってる。

 

何を作るのかなあ。

 

 

 




原作の蘭ちゃんって全部の家事を一人でこなしてるようだけど、誰に習ったんだろうか。



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▽15 狼は毛が抜けても、悪い癖が直らない

2年生のゴールデンウィークを利用して、また京都へ行った。

 

おばあちゃん、京都好きだなあって思ってたら、ひいおばあちゃんが京都の人で、そちらの親戚が多いから、行く機会も多いらしい。

 

 

「お母さん…ひいおばあちゃんのお願いで分骨したからね。」

 

「ぶんこつ」

 

「ひいおばあちゃんの半分は、ひいおじいちゃんのお家のお墓の中だけど。もう半分は、京都のひいひいおじいちゃんとひいひいおばあちゃんのお墓に入ったの」

 

 

だから必ずこっちにもお参りに来るのよ。そう言ったおばあちゃんの手には、可愛い赤いダリアの花束。

ひいおばあちゃんが好きだったんだって。

 

おばあちゃんは京都へのお墓参りは、いつもお彼岸の時期に来るようにしている。だけど今年は、その時期に私がインフルエンザにかかってしまったので、時期をずらして、今日にしたらしい。

 

そういえばいつもお彼岸には、私はお母さんのマンションにお泊まりしているな。なるほど。その時に、こちらにお参りに来ていたようだ。

 

今までは私が小さかったから、遠出には連れて来なかったけど。そろそろ長距離の移動にも耐えられるだろうと、去年の夏に、初めて連れて来てくれたらしい。

 

蘭ちゃんは、電車の中でも大人しくしてられるから、安心だわ。とのこと。

 

うん。体力面でもゴリラだから、大丈夫だよ。ちょっとの疲れくらい平気だからね。

 

 

夏に来たときは茹だるほどの暑さで嫌になったけど、5月の初めの京都は爽やかだった。駅を出てすぐ、頬をくすぐる風が心地好い。

 

よし。歩くぞ。と思ったら、今日の行く先は遠いからと、タクシー乗り場へ連れて行かれた。

 

京都駅からタクシーで向かって着いたのは、いかにも由緒ありげなお寺さん。

ひいおばあちゃんが眠るお墓は、凄く古く見えた。

 

おばあちゃんが、火を付けたお線香を立てている間に、私がダリアの花束のフィルムを剥がして、花立てに供えた。

 

そうして。はじめまして、ひ孫の蘭です。とご挨拶をした。

 

 

 

お寺さんを後にして、今度はタクシーを使わず少し歩いて。お茶屋さんで一服した。

 

お茶屋さんって、芸妓さんがいるお座敷の方のお茶屋じゃないよ。休憩して飲食する方の、茶店(ちゃみせ)の方のお茶屋さん。

 

そこでおばあちゃんは、お抹茶と花菖蒲を意匠にした季節の和菓子を、私はお煎茶と柏餅をいただいた。

 

5月のお菓子で柏餅って、東京でも食べられるじゃないかと思ったら、味噌餡だって。

 

アンコに白味噌! なにそれ。ってなったけど。食べたら、これ好きだなあって思った。

お父さんとお母さんにもって、おばあちゃんにお願いして買ってもらった。

 

そうしてもう一杯お煎茶だけをいただいて、頼んでおいたお土産の味噌餡柏餅を私が持って。その近くのお漬け物屋さんに入った後に、忘れ物に気が付いた。

 

あれ? 肩から下げていたはずのポシェットが無い。

 

多分、さっきのお茶屋さんだ。肩から外して、横の椅子に置いた記憶があった。

 

 

「取って来るね」

 

 

おばあちゃんが着いて行くと言ったけど。大丈夫だよ。すぐ近くのお店だから。と、お店を飛び出した私だったが、迷いました。

 

お茶屋さんはすぐ近く、たぶん数軒挟んだ並びにあるはずなのに、進んでも進んでも見当たらない。

 

 

あれ? と来た記憶も無い道を、何のためらいも無く曲がり、また戻って、進んで。

 

似たような店構えが続き。歩いて歩いて、覗いて。覗いて、歩いて歩いて。

 

毛利蘭、七歳。

この日、生まれて初めて迷子となってしまいました。

 

 

 

 

 

「えー。どこだっけ」

 

 

京都独りぼっちな私。完全に迷子になりました。

 

恐らくお漬け物屋さんを出たところで、反対方向へ曲がってしまったのでしょう。

 

目標物のお茶屋さんが見当たらない時点で、まだ戻れば問題が無かったはずなのに。

思いきりよく突き進み。戻るつもりが逆に曲がり、曲がった記憶も無い角をさらに曲がって、進んで曲がって。本当に見知らぬ路地へと入り込みました。ごめんなさい。

 

後天的に臆病で慎重と言われる性質となった私だけれど、元来は物怖じせず大胆だったという、反する物を実は備えておりました。

 

つまり今回の事故(迷子)は、後者の本来の私の性質が出ての不運だった。

 

普段の学校や習い事の場では大人しくしている私が、出先で気持ちが開放的になっていたことが原因で迷子になるとは、きっと誰も思わなかっただろう。

 

今までは外出先でも、おばあちゃんやお父さんお母さんから、臆病な私は離れたことが無かったため、誰も知らなかった。

 

 

もちろん私も分からなかったし、知らなかった。まさか、自分が方向音痴だったなんて。

 

のちに決断力のある方向音痴と言わしめた私の。困った癖が発覚したのが、この日のことだった。

 

うわあ。どうしよう。

 

 

 

 




狼は毛が抜けても、悪い癖が直らない。

確か、 三つ子の魂百まで 的な意味合いだったように思う。



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△16 闇夜の灯火

今回も、呼吸するように捏造があります。

つじつま合わせの妄想ですので、気にしちゃいけません。

はい。 これは二次です。



立ち止まって思った。

あ、迷子だよ。って。

 

どうしたら。戻れるのか分からない。困ったなあ。歩いても同じように続く店の並びに、溜め息が出た。

 

お茶屋さんも、おばあちゃんがいるお漬け物屋さんにも戻れません。目の奥が熱くなり、涙が込み上げてくる。

 

ああ、泣きそうだ。こういう場合は。えー、

 

あ、まーさん?

 

今、すうっと目の端を、どこかで見た人が(よぎ)った。

 

角を曲がって行ったその人を、迷わず追い掛けて、捕まえた。

 

地獄に仏、闇夜の灯火。

京都でまーさん。

 

 

「待って! 行かないで」

 

 

たとえ違っても、まーさんじゃない人でも。この人に、近くの交番まで連れて行ってもらえばいい。

 

最悪この人が変な人でも、ゴールデンウィーク中の人通りの多い町の中だ。大きな声で、周りの人に助けを求めよう。

 

そうして掴んだ、その人の服の裾。振り返ったその人は、

 

 

「……なんや」

 

 

吊り目がちの目許も涼しい男前。シュッとした立ち姿。

 

 

「やっぱり、まーさん」

 

 

大当たり。9ヶ月ぶりで二度だけ訪れた場所で、二回とも同じ人と遭遇するなんて、わたしってば凄いくじ運だよ。

 

 

 

振り返って訝し気に私を見下ろしたまーさんは、次の瞬間ぎょっとしたようだった。

 

 

「…あんたは」

 

 

困ったように棒立ちになり、私を見下ろしたままのまーさんに、このままでは(らち)が明かないので腕を広げてアピールした。

 

涙目で見上げて抱っこを強請(ねだ)る小学2年生、7歳女児。断れるものなら、断ってみろ。

 

我ながらあざとかったが、顔に似合わず優しいまーさんは、断れないだろうという計算が、たぶん当時の私には、きっとあった。

 

だって歩き疲れてたんだよ…。自業自得だけどさ。

 

 

「あー、確か。蘭さん?」

 

 

抱き上げてくれたまーさんの首に腕を回し、ギュッと抱き着く私に、戸惑ったまーさんが声を掛けてくる。

 

 

「どうしはりましたんや?」

 

 

どうも私は、思ったより初めての迷子に、神経を削られていたらしい。

ポンポンと軽く、遠慮がちに背中を叩くまーさんの不器用な慰めが胸に染みる。

 

 

「蘭さん?」

 

 

遠慮がちに話し掛けられ、我慢していた涙が、ぽろりと一粒こぼれて落ちた。うう。まーさん、やっぱり優しい。

 

 

 

私はまーさんの首にしっかり抱き着いたまま、迷子になったことを申告した。

 

 

「ああ、なんや。迷子になりはったんか」

 

 

ポンポンと背中を叩きながら、ホッとしたように、まーさんが言った。

 

 

「しかし相変わらず、警戒心の薄い子やなぁ…。よう知らん男に抱き着くのは、よろしゅうないです」

 

 

まーさんは前に会ったから、知らない人じゃないと返せば、まーさんは若干呆れた様子だった。

 

袖すり合うも他生の縁。前に会ったのも、何かの縁。これも前世からの、浅からぬ因縁かもしれませんなあ。とまーさんが言った。

 

確かにね。去年呉服屋さんでまーさんに会ってなかったら、私はこうして助けを求めなかった訳だし。

 

おばあちゃんがよく口にする(えにし)って、たぶんこういう物なのかも知れない。

 

それなら前にまーさんに会ったのは、単なる偶然ではなくて、今日に繋がるための 前世からの因縁によるものってこと?

 

首を傾げる私に、まーさんは、だからどんな出会いも大切にせなあかんということですよ。と言った。

 

一期一会だね。と言えば、随分難しい言葉を知っとるんですなぁと感心された。おばあちゃんがよく言ってるの。

 

「ああ、涙も引っ込んだようですな」

 

 

顔を覗き込まれ、ちょっとばつが悪くなった私は、またまーさんの首に齧り付いたが、またもやポンポンとされただけだった。うん。ちょっと恥ずかしかったんだ。

 

 

「それで? 蘭さんは、何処から迷わはったんですか?」

 

 

 

 

 

 

私が覚えていたお土産の柏餅の包みの模様がお店の屋号だったため、一服したお茶屋さんは、まーさんがあっさりと割り出した。

 

そうしてその周囲で私を探していたおばあちゃんとも、すぐ無事に会えたのだった。

 

まーさん、名探偵だね。

 

 

おばあちゃんは、もう交番へ行くつもりだったって、とても悲しそうだった。ごめんなさい。

 

 

 

そうして是非ともお礼をと言うおばあちゃんと、まーさんがちょっとした押し問答になってた。というか、まーさんが押されてる。

 

ああ、前は挨拶だけだったけど、今回は名前と大学名まで名乗らされたよ。まーさん大学生なんだね。19歳。

 

え? おばあちゃん、まーさんのお家のこと知ってるの?

へえ、ひいおばあちゃんの実家繋がりで…。

 

うちのおばあちゃんって、おっとりしているけど、案外押しが強いから。多分まーさんが負けるなと思った通りだったね。

 

でもその間、私はまーさんに抱っこをされたまんまだったんだけどな。私を間に挟んでの問答は止めて。

 

地獄で仏に会ったよう。とおばあちゃんがまーさんに、しきりにお礼を言っていたけど、本当にそうだった。

 

うん。私もまーさんに後光が差して見えたんだよ。捕まえて良かった。そうして思わず拝むと、まーさんに微妙な顔をされた。

 

 

「止めてください」

 

 

ふふふ。そのイントネーションが聞けるのは、次はいつだろうか。

 

でもそんなに先じゃない気がするよ。だって、まーさんとは前世の因縁があるらしいから。

 

 

 




原作蘭ちゃんって調べてみたら、極度の方向音痴とのこと。思い切りの良い彼女のことだから、豪快に迷いそうです。

しかし、綾小路さんの使う京弁がよく分からない…。


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▽17 婦唱夫随な恐妻家。 むしろラブラブ

『蘭ちゃん? あのね、旅行のお土産があるの』

 

 

おばあちゃんから、私宛に電話だと言われて出たら、有希子さんだった。

 

今のマンションに移る前、たくさんピアノを弾かせてくれた有希子さんは、どういうわけか私がお気に入りだ。単に友人の子供というだけでは無いようで、よく遊びやお宅に誘ってくれる。

 

今日の電話では、イギリス土産を渡したいとのことだった。家族でゴールデンウィークに行って来たのかな?

 

次の日曜は、おばあちゃんは用事があるから、私だけ送ってもらうことにした。

 

 

『待ってるわね。美味しいお菓子もあるの』

 

 

有希子さんにお菓子を勧められたら断れない私は、どうも食いしん坊だと思われている気がする。違いますよ。普通です。

 

ともあれこんなこともあろうかと、おばあちゃんの勧めで買っておいた、京都のお土産が役に立ちそうで良かったよ。

 

いつ行くか分からなかったから、選んだのは腐る物じゃないけど、長く手元に置いておくのは嫌だったし。

 

 

 

 

 

 

「いらっしゃい。蘭ちゃん。ゆっくりして行ってね」

 

 

おばあちゃんを見送って、私をにこやかに招き入れた有希子さんは、やっぱり今日も綺麗だった。

 

 

「お邪魔します。こんにちは」

 

リビングには優作さんが居たので、ペコリとご挨拶。

 

いらっしゃいと返す優作さんを遮るように、座って座ってとソファをポンポン叩く有希子さんは、今日も相変わらずのテンション高めだ。

 

 

「蘭ちゃん。どうぞ」

 

 

私が座るのを待ち兼ねたように、有希子さんが私に差し出したのは、一抱えもあるクマの縫いぐるみだった。

 

あ、何だかテレビで見たことのあるキャラクター。たしかこれは…。

 

 

「パディントン?」

 

「そうよ。イギリスと言えば熊のパディントンよね」

 

 

いやいや。ピーターラビットやスヌーピーもありますよね。と思ったが、情報として目にしていた時はそれほど好きでもなかったのに、差し出された縫いぐるみのクマは凄く可愛かった。

 

 

 

「可愛い…。お洋服着てる」

 

 

つぶらな瞳で平和な顔付きの、色の薄いクマの縫いぐるみの愛らしさは、私の胸に突き刺さった。本当に可愛い。

 

ぎゅうぎゅうに抱き締めて、ありがとうとお礼を言えば、有希子さんが嬉しそうに笑い。それを見る優作さんも笑う。

 

ああ、仲良しだなあ。この人たち。

 

特に優作さんが有希子さんを大好きなんだ。だから、大事な有希子さんが可愛がる私のことも、受け入れてくれるんだね。

 

 

「さあ、お茶にしましょう。蘭ちゃんは紅茶は飲める?」

 

 

おもてなしに有希子さんにどうぞと勧められたのは、紅茶と赤いチェックの箱のショートブレッドだった。両方イギリスで買って来たらしい。

 

もちろん紅茶は飲めます。一番好きなのは、ポアロで頂くミルクティですが、今日みたいなレモンティでも美味しいですよね。

 

でも今日は紅茶なんだ。珍しいな。いつもはジュースなのにな。と首を傾げたが、お茶うけのショートブレッドを食べて納得がいった。

 

初めて食べたショートブレッドは美味しいんだけど、ずいぶん甘い。

なるほどだから紅茶なのか。紅茶の渋みでちょうどよかったよ。ジュースだと、たぶん口の中が甘くなりすぎるだろうね。

 

イギリスの人って、甘いもの好きなのかな? って思ってたら、ティータイムのお菓子は、大体が紅茶に合う味になってるって、優作さんが教えてくれた。

 

さすが物知り。優作さんは作家さんだっていうから、色んなことを知っている。優作さんのパディントンのうんちくに耳を傾けているうちに、外から新一君が帰って来た。

 

うん。新一君は、居なかったんだよ。多分小学校でサッカークラブでもあったんじゃない?

 

なんだ。また来てるのか。みたいな新一君の視線には、私も無言のままお辞儀で返した。

 

 

 

 

 

有希子さんは相変わらずで、最近は優作さんも構ってくれるようになったが、新一君とも相変わらずだった。

 

つまり、有希子さんのご厚意で御呼ばれして、お茶をしたりピアノを度々弾かせてもらう際に、顔を合わせたら挨拶をする程度の仲だね。言ってしまえば顔見知り?

 

 

お父さんの優作さんの方とは何度かお話をする機会があって、けっこう可愛がってもらっているけど、新一君とは本当に接点が無い。

 

ああ、そうだった。忘れていた。私もお土産があるんだった。

私は持って来ていながらすっかり忘れていた、京都で買っておいたお土産を渡した。

 

おばあちゃんと相談した結果の、有希子さんにはあぶらとり紙、優作さんと新一君には白檀香(びゃくだんこう)の栞だ。あぶらとり紙は女性の化粧直しには必需品だし、本好きの親子なら栞が無難かなとの選択だった。

 

 

「ここのあぶらとり紙って使い心地が良いのよね。あら、これ限定デザインじゃない。ありがとう、蘭ちゃん」

 

「ほう、香木製の栞か。良い香りだね。白檀か」

 

「線香臭い…」

 

 

渡した結果? 見ての通りだよ。新一君以外には好評だったよ。

まあ、小学校2年男児にお香の栞は渋すぎるとは思ったけど、本好きだし虫食い予防にもなるし、実用品でいいじゃないかと決めたのは私だ。

そんなに仲も良くないから新一君の好みは知らないし。無難かなと思ったんだ。

 

ああ、サッカーと推理物(ミステリー)が好きなのは、知ってるよ。

 

…でも京都の和小物屋さんに、サッカーグッズや推理物(ミステリー)グッズが置いてあると思うかい? 無いよ。あるほうが不思議だよ。

 

そういうことで新一君の反応はスルーして、大事な本に挟んでおいたら、虫除けになりますよーとだけ言っておいた。

有希子さんは喜んだし、優作さんも頷いていたし、問題は無い。

 

そのあとは、主に優作さんが話した。有希子さんも話すけど、話の流れが滞ると、優作さんが上手く話題を出してくれる。有希子さんが笑うと満足そうだ。

 

 

「古い本だが、君が好きそうな本だよ。読んでみるといい」

 

と、話の流れでお薦めの児童文学を、こうして渡してくれたりする。優作さんの書斎には、児童書まであるのかあ。やっぱり資料なんだろうな。

 

よく在宅でお仕事をしている印象の優作さんの職業は、作家さんだったんだけど、そんじょそこらの作家じゃなかった。

何度も作品がメディア化され、海外のファンも多いらしい有名な人だった。道理でお家が立派なはずだ。

 

大きな最高級のグランドピアノが置かれた、豪勢なリビングルームが標準装備な御屋敷。そこに住んでいる時点で、世帯主が普通の人の訳がなかった。

 

そういえば快斗君が言ってたけど、黒羽さんのお宅も大きそうだ。まああちらのお父さんも、世界的な有名人だからね。

 

 

 

「おれ、トイレ」

 

 

新一君が言いながらリビングを出て行った。たぶん戻って来ないだろう。

 

小学校でもあんまり男の子と話さないから、新一君との距離も取りにくい。だからほとんど話さない。

新一君も話し掛けてこないから、たぶん向こうもそうなんだと思う。私が居ると、居心地が悪いんだろうな。

 

顔だけ似ている快斗君となら、いくらでも話せるのになあ。

この前会った時は、おばあちゃんが声を掛けてくるまでずっと二人でお喋りしてたんだよ。

 

新しいマジックを練習中だって言うから、また見せてもらえるようお願いしておいた。

 

パディントンの絵本のことや、私がお気に入りの本の話をしながらも、頭を(よぎ)ったのは、快斗君や黒羽さんのことだった。

 

 

「どうしたんだい?」

 

 

話の途中でぼんやり優作さんを見ていた私を、優作さんは不審がったようだ。

 

新一君に最初に会ったとき、快斗君と似すぎていてびっくりしたんだけど。

 

 

「新一君もだけど、優作さんが知ってる人にそっくりなんです」

 

 

そう。最初は新一君が、兄弟かと思うくらい快斗君によく似ているなあと思ってたんだけど、違うんだ。優作さんと黒羽さんがそっくりなんだ。

 

だから父親似の息子同士も、当たり前のようにそっくりなんだな。

 

そう思ったまま話すと、ほう…。と相槌を打った優作さんの、眼鏡の奥の眼が、光った気がした。

 

 

 

 




描写があったかは知らないけど、普通に考えて。父親似の息子同士が他人なのにそっくりなんだから。そういうことでしょう。

別に兄弟だったって、落ちはないよね?



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△18 ショートブレッドとミルクティー

イギリス土産だと有希子さんにご馳走してもらってから、ショートブレッドにはまってしまった。

 

ブレッドがパンという意味を持っていると聞いて、どこがパンなの? クッキーじゃないの?と最初は言いたくなったが、それならカップ焼きそばは焼いてないよね? あれはカップ茹でそばでしょ。というのと同じ様な屁理屈だから、何も言わない。

 

まあ、パンと言われてるけど、実際のところショートブレッドは、バタークッキーだ。

ただそのまま水分無しで食べると、口の中が非常にもっさりする。しっとりでもまったりでもない、もっさり。

 

バターが多いせいなのか、どっしりと重くて、なんとなく舌に粘り付く。しかも初めて食べた銘柄は、私にはかなり甘く感じた。美味しいんだけど、ちょっとストレスが溜まる。

 

 

 

 

ショートブレッドとの出会いはそんな感じだった。

衝撃の出会いに慌てて紅茶を飲んで、舌がスッキリして納得した。紅茶のお供として食べることを想定されているからだわ。これ。

むしろ紅茶が無かったら、キツかった。

 

そんな感じの第一印象だったのに、なぜか妙に癖になってしまった。

 

おばあちゃんが簡単に作れると教えてくれたので実際に作ってみたら、材料の種類は少ないし、レシピは単純。まさに料理初心者向けのお菓子だった。

 

なんだろうな。第一印象の悪い人と付き合ってみたら、妙に波長が合ってしまい、意外に相性が良かった。そんな感覚。

おばあちゃんにレシピをいくつか調べてもらって、最近はよく一緒に作っている。

 

でもあのもっさり感は嫌なので、バターを減らしたり甘さを抑えたりして、レシピは甘さを控え目に改変している。

自分は甘いものが好きだと思ってたけど、それほどじゃなかったみたいだ。

 

 

 

ショートブレッドを見ると、どうしても工藤さん一家を連想してしまう。初めて食べたのが、工藤さんのお宅だったこともあるだろうけど、たぶん語りに語っていたうんちく王の優作さんのせいだろう。

 

ショートブレッドはスコットランド発祥と優作さんが教えてくれたけど、あの人たちがイギリスへ行った理由は、シャーロックホームズなんだろうな。

 

優作さんがホームズの話をするときは、新一君も食い付いて来るから、あの親子は余程ホームズが好きらしいし。

 

 

 

『新ちゃんったら、ホームズがするからって、ヴァイオリンを習いたいって言うの』

 

 

この前、有希子さんが言っていた。好きでも中々そこまではやらないだろうから、新一君は余程のホームズマニアなんだと思う。結局どうしたかは知らないが、あの様子なら近所のヴァイオリン教室に行けば、新一君の姿があるかもしれない。

 

 

 

ホームズ好きの彼らが言うには、ホームズは紅茶と同じくらいコーヒーもよく飲んでいたらしいけど、私は紅茶派。だから今日のショートブレッドにも紅茶を入れる。

 

有希子さんが入れるように本式のティーポットじゃなくて、ティーパックだけどね。イギリスの人がするように、牛乳は別にちゃんと温めてある。

 

入れる手順を面倒がらず、きちんと守ればティーパックでも美味しいのよとは、おばあちゃんの言葉だ。

 

はい。基本に忠実にだね。アレンジするのは、もっと上手に出来るようになってから。

 

それではいただきます。と、おばあちゃんの美味しいミルクティーを先ずは一口飲んで、ショートブレッドをかじった。

 

 

 

 

 

そもそもショートブレッドのショートは、短いのショートじゃない、食感を表すショートらしい。

 

ショートブレッド。サクサクしたパン(クッキー)。

 

 

え? じゃあ苺のショートケーキは?

と思ってたら、あったよ。イギリスの苺のショートケーキ。

本来のサクサクしたケーキという意味通りのが。

 

当時都内でも珍しかった、イギリスの家庭料理のお店に、アフタヌーンティーセットで、イギリス風苺のショートケーキがあるというので、おばあちゃんが連れて行ってくれた。

 

 

うん。そのまま、生クリームとイチゴをショートブレッドで挟んだものだったよ。ただし、形は円形。

 

 

生地がスポンジケーキじゃないから、フォークで上手く切ることが出来ず食べにくかったけど、美味しかった。

やっぱりショートケーキと言ったら、スポンジケーキに生クリームと苺の組み合わせが、浮かぶけど、これはこれで悪くなかった。

 

でも気になったのは、食べたことのないイギリス料理。夕方に近い時間帯だったから、普通の料理を頼む人もいて。厨房からお肉をグリルする良い匂いがしていた。

 

近くの席の人の前に、ウェイターがお皿を置いた。

 

んー。遠目だから分かりにくいけど、サーモンサラダとソーセージかな?

いいなあ。スモークサーモン…。

 

大きなソーセージのお皿には、ソースのかかったマッシュポテトもたっぷり添えられている。

 

「今度来ましょうね」

 

 

って言ったおばあちゃん。忘れないでね。

 




今は手軽に買える赤いチェックの箱のショートブレッドは、実際の私には甘過ぎでした。甘いものが好きな別の人は美味しいと言ってたから、好みによるんでしょう。
でもやはり口の中がもっさりするから、水分は必須。

昔行ったことのある、イギリス料理のお店が美味しかったのは事実です。
イギリス料理が不味いって、本当に? と首を傾げる程度には。


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▽19 後悔先に立たず。うん、知ってる

設定に盛り込むための、準備回です。




6月になる前、週に一回だけ通っていたスイミング教室を辞めた。

丁度始めて一年になる頃で、キリも良かったし、ある程度泳げるようになっていたから、通う必要を感じなくなっていた。

選手になるわけでもない私には、これ以上教室を続ける意味はなかった。

 

代わりに習字を習い始めた。

きっかけはポアロでよく会う常連客の人が、自宅で習字の教室を開いていると知ったからだった。

 

自分の字を特に汚いとは言わないが、綺麗とも思えなかったので、おばあちゃんに勧められたのは嫌ではなかった。

 

何よりポアロで偶然居合わせた、小さな生徒さんと先生のやり取りも決め手だった。

先生のお家はポアロの近くだから、自宅からは遠い。

だからどうしてもおばあちゃんの送迎が必要になるけど、私が教室にいる間はポアロでのんびり待っていれば済むことで、問題は無かった。

 

今になって言うが、書道と習字が違うんだってことを、私は全く知らなかった。

 

えっ。習字と書道って違うんですか? って首を傾げて聞いたのは、習い始めてずいぶん経ってからだった。

 

今ごろ何を言うんだろうという顔で先生は教えてくれたが、聞いてみたら全然違うものだった。

 

 

 

習字は、文字の正しい書き方を習うことだった。お手本通りに書けるようになるのが、目標で小中学校で習うのが習字で、だから教科名が、書写や、書き方と言われていたのだ。

正しく書き写すこと。そこに個性はいらない。

 

 

反対に書道は、文字の美しさを表現するのは一緒だが、お手本通りではなくそれぞれが持つ個性を表現するのを目的とする芸術だった。

 

習字は字を習うこと。書道は書く道を究(きわ)めること。と先生に熱く語られてしまった。

 

次いで、ノートに綺麗な字を書けるようになりたいなら、習うのは毛筆ではなく硬筆だとも言われた。

そもそも使う道具が違うんだから、毛筆が綺麗な人は硬筆も綺麗に書けるというのは誤解。だから別に習うべきだとも。

 

なるほど、私に必要なのは硬筆だったのか。なのに毛筆習っちゃってるじゃないか。

道理で普段書く文字の方は、全く上達しないはずだよ。

 

たぶん私は遠い目をしていたことだろう。

 

でも今さら硬筆の教室に行くのもなあ…。と思った私は、先生の話を聞かなかったことにした。

 

うん。硬筆の練習は地力でしよう。と決意して。

 

 

 

 

翌日はピアノのレッスンのある日だった。習い始めて二年目。私には初めての、ピアノの発表会が近付いていた。

私だけでなく、教室のみんながソワソワしている。

 

ずっと練習していた曲のこと、当日に着る衣裳。特に女の子たちは、どんなドレスを着るかとかの話ばかりしている。

 

日頃の成果を披露する晴れ舞台なんだから、浮き足立つのは当たり前なんだけど、失敗しないように練習は欠かせない。

とにかく練習練習と思ってたら、大きいお姉さんに思いもよらないことを言われた。

 

「あのね。一度ドレスを着て、ピアノがちゃんと弾けるか、ちゃんと確かめた方がいいよ」

 

 

え? そうなの? 似合うかどうかじゃなくて、ドレスを着ているせいで演奏に支障が出るってこと?

 

なんだそれって顔をしただろう私に、自分は発表会には制服を着て出るという、中学生のお姉さんが教えてくれた。

 

 

「ドレスの丈が長いとね。ペダルに引っ掛かりやすいからとかあるんだよ。…私は、丈は良かったんだけどね。サイズが合わなくて襟ぐりが大きかった、お姉ちゃんのお下がりのドレスを無理に着てたの…。

それが演奏中に、背中のホックが外れちゃってさ。まあ、考えるまでもなく、まともな演奏にならなかったんだよ」

 

 

 

ああ、そうか。熱中してたら、ドレスが脱げそうになっちゃったんだ。……って、ええ!! そんなことがあるの?

 

びっくりしてお姉さんを見ると、もう一人のお姉さんも口を開く。

 

 

「私は素材で失敗した。艶のあるドレスにしたんだよね。だからペダルに足が届く位置に座ったら、前に滑って滑って…。

椅子から落っこちそうになりながら、泣きながら弾いた」

 

 

あー。まだ背が低い低学年だと、ペダルに届かないからどうしても、浅く椅子に座りがちになるのだ。

お姉さんは、椅子から落ちないようにしないといけないのを耐えながら、ピアノを弾ききったんだね。それは辛い。

 

次々聞かされる体験談には、驚かされるばかりだった。

なるほど。 実際にドレスを着用した状態で、何度か練習をした方がいいんだな。

 

おばあちゃんが発表会のドレスに、袖無し(ノースリーブ)を選んでくれたのもピアノが弾きやすい衣装だからだったけど。長さや素材については全然考えていなかった。

 

袖が無いって初夏でも冷房の効いたホールだと寒くないかなって思ったら、舞台の照明は想像以上に熱があるものだから、大丈夫だってお店の人が言ってたし、長さは膝下で長くはない。

でも椅子に座っては確かめてないから、ちょっと心配になってきた。

 

 

とにかくドレスを準備したら、発表会まで楽しみに取って置くなんてダメダメ。

発表会当日と同じ状態で、練習をしておくべきだよとアドバイスを受けた。ふう。

 

でももう終わりかと思ったのに、終わらない。

 

 

「あと、靴もね」

 

「あと、演奏中は右側が観客席に見える側になるから…」

 

 

あー。無理無理。覚えきれないよ!

メモしていいかなあ。

 

あわあわ焦ってたらお姉さんたちは、注意事項をメモして渡してくれた。ありがとう。

 

 

「ちゃんとおばあさんに、見せてね」

 

「そうだよ。蘭ちゃんは、私らみたいな失敗はしないでね」

 

 

 

 

そう言って、お姉さんが頭を撫でてくれた。

このお姉さんたちは面倒見がよくて、私だけじゃなく他の小さな生徒さんにも、凄く親切だ。

もちろん、みんなに好かれている。

 

私も、こんな優しい人になりたいな。

 

お姉さんたち、ありがとうー。好き。って抱き着いたら、蘭ちゃんーって抱き返してくれた。えへへ。

 

 

そうしてなぜか、お姉さんたちに飴を貰った。

 

…なんだか最近、どこに行ってもお菓子を貰う気がするのは何故だろう。

え? もしかしなくても私って、食いしん坊キャラなの?

 




ピアノじゃないけど、ヴァイオリンの演奏中にドレスの後ろホックが外れた知人はいます。
ドレスを肩から落とさないよう、ほとんど仰向き気味で弾ききったそうだ。


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△20 ピアノとバレエシューズ

今日はピアノの発表会だった。

去年の春、入学してすぐにピアノを習い始めて。初めての発表会。(つたな)いながらも、懸命に(のぞ)みました。

 

 

 

おばあちゃんが選んでくれた、スカート部分がカーネーションみたいなピンクのミニドレスを着て、シニョンに結った髪には甘いピンクのレースのリボン。靴はお父さんと買いに行った、ピンクのエナメル。

見た目だけなら、一丁前のピアニストだ。ちょっと美人度数も上がっている。

特に靴はお父さんが選んでくれたお気に入りだ。

 

 

「蘭はバレリーナだからな。やっぱりこれだろう」

 

 

靴屋さんでお父さんが真っ先に手に取ったのは、バレエシューズそっくりのピンクのエナメルだった。細い二重のストラップがリボンの様で可愛らしい、

 

まだトゥシューズを履くことを許されていない私にとって、バレエシューズはとても馴染みがある。いつもレッスンでは柔らかな布製のピンクのバレエシューズを履いている。

 

以前練習終わりに、お迎えがてら会いに来てくれたお父さんは、それを覚えていたようだ。

 

 

「やっぱり蘭は一番ピンクが似合うからな」

 

 

 

 

蘭ちゃんは色白だから、淡いピンクがよく似合うんだけど、ステージに立つなら少し濃い目がいいかしらね。淡い色は照明に負けそうだし…。

 

おばあちゃんもそう言って、ピンクのミニドレスを選んでくれた。

 

学校以外では屋内でしか運動をしない私は、ほとんど日焼けしていない。更にはおばあちゃんがスキンケアにうるさいため、日焼け止めを常用しており、ほぼ生来の肌の白さを保っていた。

一部の同級生には、白すぎて気持ちが悪いと言われるが、大体の女の人は支持してくれる。白肌は、高い化粧品を使っても手に入れ難い財産だって。

 

確かにね。色白の人は、日焼けしたら小麦肌になれるけど、小麦肌から、色白肌にはなれないんだよ。

なんだったかな。美白美白、遅い衰え、早めのお手入れ、とかお父さんの同僚の婦警さんが交通標語みたいに言っていたよ。

 

白雪姫みたいで可愛いと言われて悪い気はしなかったので、同級生の方は気にしてない。むしろバレリーナなら、白い方が良い気がするし。

ああ、今日はバレリーナじゃなくて、ピアニストだった。

 

 

 

 

発表会があると先生に初めて言われた時、あんまり実感が湧かなかった。何せ私は習い始めてそんなに経っていなくて、元々出る予定じゃなかったから。

それがなぜか、今習っている曲で出ることになったのは、実は単に数合わせが理由だったりする。予定していた参加者が欠けての補充。つまりは補欠だ。

なんだそれ。野球やサッカーなら人数不足で試合が出来なくなるのは分かるが、ピアノの発表会の数合わせって、正直なんだそれって思った。

 

でも今年は怪我をしたり、急に教室を辞めたりと、参加人数が当初の予定から減りすぎて、プログラムの厚みが少なく、発表会自体が中止になるかもしれない異常事態だった。私の他に簡単な演目での参加をお願いされた子が、何人かいたのだ。

 

本当なら発表会の半年以上前から、先生と相談して発表曲を決め、しっかり練習して参加する。早い子は発表会が終わるとすぐ、翌年の発表会のことを考え始める。

なのに私たちは、3ヶ月足らずでここにいる。早まったことをしたなあと思いもするが、他のお姉さんたちの努力が無駄にならず良かったとも思うし、なんとも複雑な気持ちだった。

 

 

 

生まれて初めての独奏の発表会。本来ならしっかり準備して臨みたかったところのそれは、バタバタしている間に終わった。

 

プログラムの2番目だった私は、会場のホールに着いてからすぐ、急かされるままに着替えて、そのまま準備が出来たらステージに追い立てられた。

 

椅子の高さ調節と譜面台の位置調整さえすれば、あとは弾くだけだった。ちょっとドキドキしたが、あれだけ練習した曲だ。失敗も無かった。

私も、私の前の子も、たぶん無難に弾きこなせたと思う。演奏を終えると拍手が聞こえたから。

 

最後のお辞儀もきちんと忘れず出来て、ステージマナーもたぶんばっちりだった。たとえ上手く弾けなくても、お辞儀を忘れて舞台袖へ逃げるのはダメだと習ったからね。

 

 

お父さんは来れなかったけど、お母さんとおばあちゃんが観ていてくれて、誉めてくれた。

 

 

「堂々としてたわよ。蘭」

 

「ええ。お家で弾くのと同じように、上手に弾けたわね」

 

 

うん。先生がビデオを撮ってくれているから、お父さんも観てくれたらいいなあ。そう言うと、お母さんがやっぱり怒っていた。

 

 

「全く、あの人ったら。せっかくの蘭の晴れ舞台なのに」

 

 

スケジュール通りに進みやすいお母さんのお仕事より、お父さんのお仕事は、突発的な変更が珍しくない。だから前もって分かっていた予定でも、急に仕事場へ呼ばれることが多かった。

 

お父さんの仕事が、交番勤務や内勤とかなら問題は無かったのだが、この頃はもう刑事課にいたため仕方がなかったんだと思う。

 

 

 

 

 

ずいぶん経ってから、お父さんと一緒にそのビデオを観る機会があった。映像の中の、まだ小さな私を見るお父さんの目が、とても優しかった。

 

あの靴はお父さんが買ってくれたの、覚えてる? と聞けば。ぶっきら棒に、そうだったか? と言われる。

 

 

「まだ取ってあるからね」

 

「履けないのに取ってあるのか? 捨てちまえよ」

 

「捨てられない思い出もあるでしょ」

 

 

捨てないよ。と言えば、何年振りかに謝られた。

 

 

「…行ってやれなくて、悪かったな」

 

「お父さんが仕事をしないで、事件が長引く方が困るよ」

 

 

父親の役割をろくに果たせなかった悔恨から、いつも謝るお父さんに、私もいつものように返した。

 

大丈夫。分かってるから。

 




小さな生徒さんほど本番でもあがらず、ケロッとしているらしい。何故だろう。


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▽21 趣味を仕事にしたら、息抜きには何するの?

お料理回。

※作中のレシピの材料と分量が、ハニージョイに変更する前の別の物と混同していたので、変更しました。


今日は、土曜学習の代休の月曜日。午前の内に、私は一人でお菓子を作る。おばあちゃんはカウンター越しにこちらを見ているだけだ。

 

いつもは一緒に作るが、今日は口は出しても手出しはしないことを、約束してもらっている。

 

 

それでおばあちゃんの大切なキッチンの使用許可を貰ったわけだが、年齢的に扱いの難しい物は今日は使えない。例えばガスコンロとか。

でも鍋で加熱する手順があるので、代わりに電熱器を出してもらった。

 

 

料理の基本のまず最初は、事前の準備。特にお菓子作りはそれが大事で、一度失敗すると誤魔化しが効かない場合も多い。

レシピの分量や手順などには、ちゃんと理由があって決められているのだから、失敗したくなければ守らなければならないからね。

 

とおばあちゃんに教わりました。

 

ということで、道具と材料は先に用意する。えーと。

 

計量カップに計量スプーン、計量計(スケール)、木しゃもじにゴムべら、スプーン、ホーロー鍋。

 

あと人にあげる予定だから、可愛い紙カップ。アルミカップだと生地がくっ付いて、食べるときに剥がれないんだって。

 

それから材料が。

 

無糖のコーンフレークを二と二分の一カップは、カップに2杯と半分だけ。

バターの60グラムは計量計で量ること。先にお皿を量り(スケール)の上に置いて。お皿の重さに60グラムのバターを足す。

同じようにお砂糖を20グラムと蜂蜜が子さじ4杯。

 

 

 

ああ、用意するだけで調理台が一杯になってしまったよ。狭い。作業スペースが足りない。とりあえず使わない物は、カウンターへ移動させようか。

 

そうそう。オーブントースターを使う前に、温めておかないとダメなんだ。あー、寒い時期じゃないから、直前で二三分でいいんだったっけ?

 

おばあちゃんが頷いているから、間違いないね。

 

次に鍋にバターと砂糖と蜂蜜とを入れてから、電熱器の上でゆっくり温めて混ぜる。焦がしたら大変だから、時々電熱器から降ろして、とにかく混ぜ混ぜ。

 

綺麗に混ざったらそこにコーンフレークを入れてよく絡める。

うーむ。なんか水っぽいかな?学校で作ったよりしゃばしゃばしている感じがする。バターが多いの? コーンフレークが少なかったかも?

…ちゃんと分量は量ったんだけど、どうして?

 

まあ、いいや。それを紙カップに盛って、オーブントースターで10分加熱。

中の温度が下がるから、開けたくなるのは我慢。窓を覗きながら焼き色が付くのを待つ。

 

研修に来ていたオーストラリア人の先生が、交流会の後のリクレーション会で教えてくれたレシピで作ったお菓子だ。蜂蜜とコーンフレークで作る、ハニージョイ。

オーストラリアの家庭では、よく作るお菓子だって言っていた。先生も小さな時から、よく作ってたんだって。その頃の夢はパティシエだったらしい。

 

パティシエかあ。クラスの子でも、将来成りたいって言ってた子がいたなあ。

 

 

 

 

「んー。すごい甘い匂い。換気扇換気扇ー」

 

 

焼けるほどにキッチン中に広がる甘ったるい匂いに、おばあちゃんが顔をしかめている。慌てて換気扇を付けて空気を入れ替えた。

 

うっかりしてたよ。おばあちゃんは甘いものは好きだけど、甘い匂いがあんまり好きじゃないんだ。

 

オーブントースターのタイマーが止まる音がしたので、慌てて駆け寄った。火傷しないよう両手にミトンをはめて、扉を開けて鉄板を取り出す。

結構、いい手際じゃない? だいぶ慣れてきたよね。

 

 

「やっぱり、なんか柔らかい気がするなあ…」

 

 

生地が水っぽかったせいだろうか。もう少し焼いたら、どうだろうか。でも冷めたら、ある程度は固まるんだよね。

 

しばらく迷ったが、おばあちゃんに相談して、半分だけ取り出して、試しに残りを更に2分くらい加熱することにした。

 

あ、焦げた?

流れて来る匂いが変わったので、慌ててオーブントースターのタイマーを切って、扉を開けた。ミトンをはめて、そうっと天板を取り出して焼け具合を確認する。

 

焦げまではいかないけど、少し色が濃くなったかな。ああ、フレークの端が濃いきつね色になっちゃったわ。

 

冷ます間に片付けをしようか。片付けも料理のうちだと言うおばあちゃんの言い付けは、守ります。

 

生地をかき混ぜた鍋は水に浸けておいたが、底に蜂蜜と砂糖が張り付いて取れないので、水は捨てた。

おばあちゃんがしているみたいに、ポットのお湯に浸けておこう。そうして先に材料を入れた器やゴムべらを洗った。

 

 

 

冷ましておいたハニージョイが二種類。レシピ通りに一度だけ焼いたものと、水分を飛ばすために更に加熱したもの。

見た目は二度焼きした方が、当然色目が濃い。

 

味見をしてみると、最初のは蜂蜜がしっとりねっとりと絡む感じで、後の方は、固めでややガリガリしている。味は一緒だから、どちらが良いかは好みかな。

 

おばあちゃんは固い方が好きだって。

 

 

「上手に出来たわね」

 

「作るのは2回目だからね」

 

 

学校で食べたのは最初の方が近い。同じレシピで作ったはずなのに、やっぱり学校ではオーブンだけど、今回はオーブントースターを使ったからかな。

 

おばあちゃんは、焼き菓子は火力で焼け具合が変わるから仕方がないと教えてくれた。たとえ同じ機種のオーブンでも、それぞれの癖が出るから、それを読み取らないといけないようだ。

 

ああ、ピアノと一緒だね。ピアノもそれぞれで、弾き心地や音の出方が違うの。

うちのピアノ、ピアノ教室のピアノ、学校のピアノ、弾いてみるとみんな違うんだよ。

 

 

 

出来上がったハニージョイは、蜂蜜が苦手な人はダメかもしれないが、私は好きだ。蜂蜜のねっとり感とバターの風味が結構癖になって、美味しい。

 

 

手土産用だから、あんまり食べちゃダメなんだけど、もう一つだけ食べてみた。

 

 

「美味しいー」

 

 

美味しかったので衝動に突き動かされるままに、その場でクルクル踊ってみた。エプロンとスリッパでピルエットを5回転。ピタリとポーズを決めるのも忘れない。

 

…間が抜けてる自覚はある。うん。

 

 

「あら、美味しいの舞。上手に回れるようになったわね。蘭ちゃん」

 

 

どんな状況でも誉めてくれるおばあちゃん。あなたのお陰です。たぶんお母さんなら、キッチンで踊るなと注意するでしょう。

 

いつもの事なので、おばあちゃんは私の奇行など気にもせず受け流し、ハニージョイにピーナッツを砕いて混ぜてもアクセントになっていいかもねなどとアドバイスをくれる。

ピーナッツかあ。アーモンドは? 私、アーモンドの方が好きだな。

 

ふーむ。蜂蜜をメープルシロップにしてもいいかも?

うーん。その場合の名前は、ハニージョイじゃなく、メープルジョイになっちゃうねえ。

 

 

 

冷ましたハニージョイを、用意しておいたワックスペーパーに包むのは、おばあちゃんが手伝ってくれた。私はまだ綺麗にリボンを結べないから、助かる。

 

 

後片づけをしたりと、お昼近くまでキッチンを占領していたので、おばあちゃんが横でお昼ご飯の仕度を始める時も、私はまだキッチンにいた。

 

 

「蘭ちゃん。おうどんとパスタとどっちがいい?」

 

「おうどん。温かいので」

 

 

冷蔵庫に冷凍うどんが入っているのを知っていた私は、即答した。モチモチの冷凍うどんは大好きなのだ。具材がお揚げと玉子ならば、言うことはない。

 

もう暑い時期だが、あまり冷たい麺類は好きじゃないので、夏でもうどんは温かいのが食べたい。一推しは鍋焼きうどんだけど、あれが美味しいのは、やはり寒い時期だよね。

 

さて用意は出来てるし、習字の教室までは、まだ時間があるから、ちょっと休憩しよう。

 




レシピは簡単な手順なので、時間をかけさえすれば、作中の蘭ちゃんの年齢でも作れます。

問題はラッピング。蝶々結びって、自分は何歳で出来たかなあ…。



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△22 迷うときは、どうしても迷うんだよ

一週間ぶりです


お昼ご飯におうどんを頂いてくつろいでいたら、おばあちゃんが急な用事でお出掛けすることになった。本当に急な連絡だったので、おばあちゃんは考え込んでしまった。

 

 

「蘭ちゃん。もしかしたら、お習字の時間に間に合わないかもしれないわ。帰りが、夕方を回りそうなの。今日はお休みにしない?」

 

 

習字の時間は3時から6時の間だ。特に時間の縛りは無く、その間の1時間に指導を受ける。いつもは学校が終わったら、おばあちゃんが車で送ってくれるので、私は大体4時くらいから1時間の指導を受けている。

今は1時を回ったばかりなので、送ってもらうにしても早すぎるのだ。車ならね。

 

 

「バスで行くから大丈夫だよ」

 

 

流石に二年生ともなれば、バスを一人で利用するくらいは、出来る。現に引っ越したために今の自宅マンションが、小学校の学区ギリギリとなってしまい、通学にバスを利用していた。

 

ポアロの上に住んでいた時に何度か、おばあちゃんと今のマンションの下見でバスを利用した事があるし、乗る路線も分かっている。だから別にバスで行っても問題は無い。はずだ。

 

目的地が行ったことの無い場所ならともかく、何度も足を運んだ習字の教室だし。大丈夫だろう。たぶん。

 

バスを使ったのは去年だが、バス通りとポアロのビルの通りは、そんなに離れていなかったし。大丈夫だよ。きっと。

 

 

「早い時間にバスで行って、暗くなる前に、帰りもバスで戻ったらいいじゃない」

 

「あら、先生のご用事で、時間が変わるんじゃなかったかしら?」

 

 

あ、そうだった。今週は先生の都合で開始時刻が1時間、後ろにズレると連絡があったのを忘れていた。今週だけは4時から7時になるんだ。

そうなると最初に入っても、帰りは5時以降だ。

 

 

「また終点まで行ったりしない?」

 

「大丈夫だよ。たぶん」

 

 

実はバス通学を始めた頃、団体客に巻き込まれて、最寄りバス停を降りそこねて終点まで行ってしまい、こっそり座席で泣いていたことがある。

まあ、折り返し運転だから時間はかかったものの、目当ての停留所に着いた。でも私が座席にいることに気が付かなかった運転士さんを、凄く驚かせてしまったのだ。

おばあちゃんも予定時間をだいぶ過ぎても、バスから降りて来ない私を心配して、学校へ連絡するところだった。

 

つまり私に前科があるので、夕方の混雑するバスから、また降りそこなうかもしれないと、おばあちゃんはバス帰宅に否定的なのだ。

じゃあ、行きだけバスにすればいいじゃない。

 

 

「お習字が終わったら、ポアロで待ってるよ」

 

「そうね。終わり次第迎えに行くわね」

 

 

 

 

習字の先生のお家は米花5丁目。同じ米花町内でも、私の家からは距離があるので、バスに乗らないと行けない。でも路線が一緒だから、降りるバス停を間違えなければ、私でも問題は無い。

 

お習字の先生のお家は、ポアロを目標物にすればすぐだ。

おばあちゃんのビルだ。

 

念のためにと、おばあちゃんが心配して用意してくれた地図には、バス停からポアロへと至る道順が描かれている。

 

問題は無い。私が道を間違えなければ。間違えなければね。

 

しつこいって? 仕方がないじゃない。だって、迷っちゃったんだもん。

 

そう。あれだけ大丈夫だと言ったのに、迷ってしまった。

 

 

おばあちゃんが善かれと思って描いてくれた地図は、何の役にも立たなかった。

 

地図は写真じゃない。目に見た景色通りを、写したものじゃないんだ。あくまでも目印になるものを、記号にして表示したものなんだ。

つまり私に読み取る力が無い以上、地図は何も教えてくれないということ。

 

去年何度か通ったはずの道が分からず、進む方向も曲がる角も間違えて、私は全然反対の通りに出ていた。

 

不思議だね。確かにバス停を降りた時は、まだ自分が行くべき方向は分かっていたんだよ。

 

なのに横断歩道を渡って、自分の立ち位置が変わったとたんに、どっちへ進めばいいのか分からなくなってしまった。

 

少し迷って私が足を踏み出したのは、きっと逆方向だったんだな。何度か角を曲がり、ポアロに着く距離くらいを歩いて差し掛かったのは、小さなビルや建物が目立つさほど広くはない通りだった。

 

ポアロがあるのは大通りで、商社ビルやカフェなどの飲食店のテナントが入ったビルが軒を連ねているから、明らかに道が違う。たぶん目的地からは、道が一二本ズレている。

 

今度からは、自分が思ったのと逆に進んだ方がいいのかもしれないと、この時に思ったが、今思うと満更不正解ではなかったんだよね。

 

 

 

 

 

 

「そういう訳で小さい頃から、筋金入りの方向音痴なの」

 

 

いや、筋金入りと言うのはおかしいか。別に方向音痴を鍛えてるわけじゃないし。

 

でも実際に努力も虚しく、むしろ方向音痴の度合いはレベルアップしている気がしている。特に初めての場所は、地図があっても辿り着けないの。ごめんね

 

今日も快斗君と青子ちゃんが通う江古田高校のある地元に来るのに、迷いに迷って約束の時間を1時間半もオーバーして到着してしまった。

一応1時間の余裕を見ていたのに、見通しが甘かった。迷いに迷って更に1時間半も余計にかかるなんて、我ながら酷い話だと思う。

 

変な人に声をかけられて時間を無駄にしたことも理由だけど、それは私のせいじゃないし、運がなかったんだよね。

 

 

 

「はあ…。お前さあ、地図アプリがあってもダメって、どんだけ方向音痴なんだよ」

 

 

「うーん。まず、地図が分からないかな。地図の中の自分が、何処でどちらに向いて立っているのかが、理解出来ないの」

 

 

「マジかよ」

 

 

マジだよ。

 

けっこう長い付き合いなのに、知らなかった…。と快斗君が溜め息を吐いた。

だろうねえ。待ち合わせの場合、たいてい送ってもらってたし、快斗君や青子ちゃんが一緒にいる時は、私が先導して動くこともまず無いし。

 

 

「もう、快斗ったら。次からは、青子たちが蘭ちゃんを迎えに行くから、いいじゃない」

 

 

今日はたまたま待ち合わせ場所が学校だったから、来てもらって迷っちゃったんだから。

ね。蘭ちゃん。って青子ちゃんが慰めてくれる。でも一度迷ったから、たぶん覚えた。次は大丈夫。だと思う。

 

 

「いいから、早く行こうよ。せっかく二人とも当番代わってもらったんだもん」

 

「そうだな。腹も減ったし、焼きそば食いに行くか」

 

 

青子露店のチケット出せよ。えー最初は唐揚げにしようよ。青子、唐揚げ食べたい。

などと、まるで子犬の様に二人がじゃれだす。

ああ、二人とも仲良しだ。ラブラブで可愛いね。照れてないで早く付き合っちゃえよ。

などとうっかり和んでいると、両腕を二人に引っ張られた。

 

え、私。連行される宇宙人みたいになってない?

 

 

「腹減ってんだから、焼きそば」

 

「青子は唐揚げがいいの」

 

「はいはい。順番に行きましょうね。まずは混んでない方にしましょうか」

 

 

せっかく二人の学校に来たんだから、後でクラスの展示とかも見せてね。

 




後半途中から、語り手の現在である原作時間に移りました。

小1の快斗君との出会いから、青子ちゃんが途中で交ざって、学区は離れていても3人とも仲良しです。



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▽23 衣食足りて礼節を知る。…足り過ぎて、奇矯に走ることもある

夏休みに、お母さんのマンションに泊まる機会があった。ちょうどお母さんのお休みと重なったから、久しぶりのお泊まりだ。

晩ごはんを一緒に作って、いっぱいお話して、お風呂から出たら髪を乾かすのも手伝ってもらった。

 

一緒のベッドで休んで、たくさん甘えた。

 

 

「お客用の布団はあるけど、まだ一緒でいいわよね」

 

「いいの?」

 

 

秋には八歳になるけど、甘えん坊だって思わない? ベッド、狭くないかなあ。

 

 

「お母さんのベッドは大きいから、二人でも平気よ」

 

 

蘭と一緒じゃないと、お母さん寂しいわ。とまで言われたら娘としては、大きいから我慢するという選択は消えた。一緒に寝るの一択だった。お母さん大好き。

 

 

 

 

 

 

 

次の日のお昼と夜は、外食に行くことが決まっていたから、お母さんのために、私が朝ごはんを作ることにした。

 

朝はいつもシリアルだというお母さんは、お母さんの独特な料理が苦手な私のために、トーストとサラダくらいの朝食なら用意するつもりだった様だが、私が作ると申し出たのだ。

 

 

「蘭は器用ね」

 

 

器用って言うより、慣れじゃないかなあ。料理を作るのは好きだから、苦にならないんだ。

 

それに今から作るのは、料理と呼ぶのも恥ずかしい簡単レシピなんだよ。

 

朝ごはんの材料は昨日、一緒に行ったスーパーで買っておいた。

 

お母さんは、ほとんど料理を家ではしないらしく、調理器具はうっすらと、ホコリを被っていたし、自宅の冷蔵庫の中身は、ミネラルウォーターとチョコレートと化粧水くらいしか入っていなかった。あ、お米が少しあるね。

 

 

「蘭。パンを買い忘れたわ」

 

「うん。知ってる」

 

 

今からご飯を炊いたら遅くなると言うお母さんに、私は請け合ってみせる。大丈夫だよって。

そのためにホットケーキミックスを買ったんだよ。問題は無いからね。

 

お母さんには、コーヒーだけ淹れてもらうことにする。

あ、私のはカフェオレにして。カフェオレボールは今から使うから、マグカップに入れてね。

 

それから私は、マグカップケーキの準備をする。私はよくおやつに作るけど、別にパン代わりに朝ごはんに食べてもいいんだよ。

 

 

 

 

 

いつも作る私のマグカップは普通サイズだけど、お母さんのマグカップは小さいから、カフェオレボールを使う。分量も増やしちゃえ。

 

ホットケーキミックス、大さじ5 牛乳 大さじ2、砂糖 大さじ2、卵1個。おばあちゃんに教えてもらった時は、きちんとボールで生地を混ぜていたんだけど、洗い物を減らすために、今は計量スプーンとカフェオレボールしか使わない。作り方もシンプルこの上ない。

 

カフェオレボールに砂糖とホットケーキミックスを入れ、ザッと混ぜ合わせて、卵と牛乳を入れてよくかき混ぜるだけだ。

 

これがマグカップなら、底に混ざらなかった粉が残らないようにお箸で丁寧に混ぜるんだけど、マグカップと違ってカフェオレボールは混ぜやすいから問題無い。

 

混ざったらラップも何もせず、そのままレンジでチンする。目安は500Wで2分間。

 

この分量なら2分位じゃ完全には固まらないから、あとは様子を見ながら加熱を調整。

 

油断して長めに加熱すると、すぐにカチカチになっちゃうから、そこは面倒がったらダメなんだよ。

 

 

次は味を変えて作ろう。熱いけど、ケーキをカフェオレボールから取り出し、別皿によけてから次を作り始める。

 

次は砂糖と卵を抜いて、紅茶をプラスだ。

 

材料はホットケーキミックス大さじ5、紅茶のティーバッグ一つ、牛乳大さじ4。

 

カフェオレボールにホットケーキミックスを入れ、紅茶のティーバッグをカットして開けて、中身の茶葉をホットケーキミックスに混ぜ合わせる。

砂糖と卵を入れないのは、紅茶の香りの邪魔になるからだ。甘い方が好きなら、砂糖を入れてもいい。

 

で、ふたをしないで電子レンジで2分間。

あ、半生だった。さらに30秒追加。

 

 

これはマグカップケーキじゃなくて、カフェオレボールケーキだね。いや、カフェオレボール蒸しパンかな?

 

とにかく基本のやつと、紅茶のを2個づつ作った。

 

 

 

さあ、朝ごはんだ。

冷蔵庫から出した有名メーカーのヨーグルトは、私はイチゴ入りでお母さんのはイチヂク入り。コーヒーは私の分に、牛乳をたっぷり入れてカフェオレにした。

 

出来上がったカフェオレボールケーキは、そのままでも良いけど、頂き物だというオシャレなビンのマーマレードを付けて食べた。

 

これに熱いうちにバターとメープルシロップをかけても、凄く美味しいんだとお母さんに教えてあげた。

 

 

「びっくりよ。簡単なのに、美味しいわ」

 

「でしょう? ホットケーキミックスが余ってるから、作ってみてね」

 

 

 

ああ、ホットケーキミックスは開封したから、冷蔵庫にしまってね。常温保存だとダニが湧いちゃうから、危険なんだって。

レシピをメモしておくから、存分に作ってください。

 

お母さんはご飯を作るのが苦手で、今までいくつもの個性的な料理を生み出して来たけど、私が一緒に作って変なことをしないように注意していれば、そんなに酷い物が出来ることもなかった。

 

逆にお母さんだけだとどうなるか分からないから、このマグカップケーキがどう化けるのか、ちょっと不安だ。

 

 

 

昨夜、私監修の下で出来上がったお母さんの唐揚げは、見た目は抜群。味はそこそこ。凄く美味しいわけじゃないけど、特に悪い点もないという出来映えの物だった。

 

良く言えば及第点。悪い言い方なら、無難な味と言うべきか。

 

うん。おばあちゃんの言う通りだった。作るうちに、ついついアレンジしたくなるんだろう、お母さんの手を止めるには、誰かが監督していないと駄目だった。

 

おばあちゃんも言っていたけどお母さんの料理能力の欠点は、調理経験の不足と力量に見合わないアレンジをしたがることなんだ。

 

 

更に付け加えるなら、想像力の欠如かな。

 

調理過程に一手間かけたり隠し味を加えることが、プラスの結果になるとは限らないことを、きっと理解してないんだろうと思う。

 

料理についての足し算は、場合によったら危険なのに。気軽に、ちょい足ししたがるのが怖い。

 

何よりこれが一番重要なんだけど、そのアレンジ料理を普通に平らげるんだよ。お母さんって、ちょっと一般と味覚が違うのかも知れないわ。もしかしたら俗に言う、味覚音痴ってやつかも知れない。

 

だって、ねえ。

唐揚げの衣に、お母さんが混ぜようとした物って…。

 

 

「お母さん、そんなの何に使うの?」

 

 

…こらこら、粉ワサビなんて使ってどうするの?

 

これは普通、水で溶いてお刺身とかの薬味に使うんだよね。

片栗粉感覚でお肉にまぶしたら、大惨事だよ。そもそもいつ買ったの?

 

私が止めると、お母さんは不思議そうな顔をした。

 

いやいや、今このタイミングで粉ワサビが調理台に出現する方が、よっぽど不思議。

 

色が綺麗? 唐揚げを緑に染めるの? …色付けなら普通に色粉を使おうか。

 

違う? 隠し味?

ねえ。隠し味って隠れているから、隠し味なんだよ。

 

粉ワサビを一掴み分も、衣に投入なんてしたら、全てがワサビ味に染まって、ワサビしか感じられなくなるからね。隠したくても、ワサビは絶対隠れていられないからね。

 

ていうか、なんで普段忙しくて滅多に料理をしない人のキッチンに、粉ワサビなんてものがあるの? チューブのワサビでいいじゃない。

 

チューブは開封したら、味がボケる?

なら冷凍したら? 試したことないけど。

 

とにかく、うっかり舞った粉ワサビの粉塵を、吸い込んだりしたらバイオテロ並みの凶事が降りかかるからね。

粉ワサビはお触り禁止です。はい。封印。

 

私はお母さんを説得して、粉ワサビを没収した。

 

 

 

 

 

 

というやり取りが、実はあったのだ。

 

ともかくお母さんのあの手料理を、お父さんがなんとも個性的な味と言い換えて表現していたけど。それでも貶し(けなし)ながらも、必ず食べてたお父さん。スゴいよ。愛だね。

 

3人で同居していた頃、私は愛があっても無理だったあの料理を、お父さんは完食していたんだ。みんながそれくらい誰かを愛していたら、地球だって救われるだろうになあ…。

 

まあ以前のことを思えば、格段の進歩と言い切って構わないと思う。果たしてお父さんが、お母さんの手料理(改)を再び食べる機会はあるんだろうか。

 

あるといいな。と思いながら、その日のためにお母さんが料理の下味に使いそうで、危なそうな調味料をそっと遠ざけておくことを決めたのだった。

 




料理って味見をしながら作れば、普通は滅多な物は出来ないです。それでもとんでもなく不味い物が出来上がってしまうなら、それはどういうことなのか。

たぶん妃さんは、味覚音痴なんじゃないかなあと思います。



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△24 月の淡さに無常を知る

コナンとルパンはよく特別編でコラボしているけど、コナン世界ではルパンの位置ってどうなってるんだろうか。

キッドとルパンって商売敵だよねえ…。ニアミスしていたら面白い。





「あ」

 

「なあに? 蘭ちゃん」

 

「……」

 

 

晩ごはんを食べている時に、歯が取れた。

 

正しくは乳歯が抜けただな。

里芋とイカの煮物を噛んでたら、メリメリって感じであっさりと根っこから取れちゃった。

 

指で押すとグラグラしていたから、けっこう前から気になってたんだけど。無理に抜くのはダメだとおばあちゃんが言うので、ずっと触るのを我慢していた。やっと取れてスッキリしたよ。

 

とりあえず口の中が大変なことになってるから、全部ペッてしよう。

 

 

「ああ、抜けたのね」

 

 

でも抜けた歯と一緒に吐き出した里芋も血染めになってて、おばあちゃんがびっくりしてた。

 

ご飯を中断して席を立ち、口をすすぎに行く。うわー。口の中が血だらけで、凄く気持ち悪い。

 

 

「蘭ちゃん。大丈夫?」

 

「んー」

 

 

何度も口をすすいだけどなかなか血が止まらなくて、ティッシュで押さえた。

 

 

「もうご飯いらない」

 

 

別に痛くはないが、今食べてもたぶん血の味しかしないだろう。おばあちゃんにお茶だけもらって、ソファに腰を下ろした。

 

何となくテレビのリモコンを手に取って電源を点けると、ニュース番組をやっていた。特に関心は無かったが、そのままにした。

 

 

『世紀の怪盗、キッドが最初に現れたのはパリでした。以降キッドは主に宝石を専門に狙い…』

 

どうやらニュースではなくて、過去に起こった未解決犯罪を振り返る特集番組だったようだ。今はちょうど怪盗キッドの事件簿とやらをしていた。

 

 

『犯行予告状を送りつける大胆さ、思いもよらぬ鮮やかな手口で犯行件数100件以上、その被害総額は300億円以上とも…』

 

 

怪盗キッドかあ。ルパン三世か怪盗キッドかと言われる程、有名な大怪盗らしいけど、私は今までどちらの名前も聞いた記憶が無かった。

全然興味が無かったから、右から左へニュースが抜けてたのかもしれない。

 

ただキッドによる被害の数字が、やたらに大きすぎて何だかよく分からないということだけは理解した。

 

 

比較されているルパンとの共通点は、魔法のような手口と見事な変装と声色で。どちらも芸術的に周囲をあざむき、狙った獲物は逃がさないということらしい。

 

 

ルパンには、キッド程エンターテイメント性は無いらしいが、そりゃあそうだ。犯罪者がエンターテイメント性を求めて、どこへ行き着くつもりなのか。

 

始めこそキッドの軌跡を追う流れだったのが、なんだか流れが変わってキッドの熱狂的なファンだというコメンテーターの女性が、キッドについて熱く語り始めた。こういうのを編集もせずに放送するとか、今思うと番組はキッドをどうしたかったのだろうか。

 

私はテレビの電源を切った。

 

 

「変なの」

 

 

犯罪の多発に苦しむこの国で、犯罪者であるキッドを迎合するような番組の主旨が苦痛で、続けて視るのが嫌だった。

 

 

「人の物は欲しがったらダメなんだよ。お父さんの仕事が増えちゃう」

 

 

ただでさえお父さんの仕事が忙しくてあまり会えないのに、仕事が増えるようなことを歓迎出来るはずがない。私はキッドが嫌いになった。

 

さっき耳にしたエンターテイメントという言葉に、ふと黒羽さんと快斗君が浮かんでいた。

 

違う。キッドは人を困らせる犯罪者。私たちを喜ばせてくれる黒羽さんたちとは違うから。

 

 

そういえば快斗君とは住んでいる所は離れているのに、不思議と出先でちょくちょく出会った。まーさんが言っていた縁があるというのは、こういうのを言うんだろうなと思った。

 

快斗君もきっと運命だなと笑っていた。

自然と普通に連絡して会うようになり、新しいマジックが出来るようになると見せてもらっている。

 

先月は快斗君の同級生の女の子、青子ちゃんとも一緒になって、遊んだ。楽しかったなあ。

 

快斗君のお父さんの黒羽盗一さんが、マジックの舞台の事故で亡くなったとニュースで聞いたのは、それから間もなくのことだった。

 

 

 

 

 

 

お葬式で喪主のお母さんの横で唇を真一文字に結び、泣くのを我慢している快斗君に、私はなかなか近づけなかった。

快斗君はしきりに、蒼白い顔色のお母さんを気にしているようだった。

 

 

ああ、彼はお父さんの黒羽さんの代わりに、お母さんを守ろうとしているんだ。そう思ったら涙が止まらなくなってしまった。

 

 

「なに蘭が泣いてるんだよ」

 

 

だって快斗君が泣いてないから。

 

 

「そんなに泣いたら、目がとけちゃうよ」

 

 

結局私があまりに泣くので、快斗君がお母さんを置いてこっちに来てしまったのは、本当に申し訳ないと今も思う。

全く我ながら呆れてしまう。慰めるどころか、逆に快斗君と青子ちゃんに慰められてしまった。ごめんなさい。

 

私を慰めながら、お父さんのようなマジシャンを目指すと言った快斗君。応援してます。

 

絶対出来る。だって快斗君は魔法使いだから。って言ったら嬉しそうだった。

 

うん。彼なら大丈夫。きっと夢を叶えることが出来るから。

 

 

 

 



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▽25 小さな世界がひび割れる音がしても、私たちは生きるしかない

簡潔なサブタイトルの付け方を知りたいです。






お盆を過ぎて、あれだけ強かった日差しも少し弱まり、夜には虫の鳴き声が聞こえる頃、お父さんのアパートにやって来た。もちろん掃除にだ。

 

お父さんの仕事が忙しいため、たまに会える日が掃除の日に成りつつある。……出来れば一緒にお出かけしたいなと思うけど、この部屋の汚なさを見てしまうと掃除をせずにはいられない。

 

 

「夏休みもそろそろ終わりだろう。宿題は大丈夫か?」

 

「ほとんど終わったよ」

 

 

算数ドリルも漢字の練習帳も終わっている。後は図工の宿題の絵だけだ。画題に指定がないので、逆に何を描こうかと迷っているのだ。

 

 

「あ、お父さん。タオルと靴下は一緒にしちゃ駄目だよ」

 

「んあ? 面倒臭せえなあ」

 

 

溜めに溜めた洗濯物を、分別もせずに洗濯機に放り込もうとしたお父さんを制止し、私は仕分けの真っ最中。

 

 

「混ぜたら靴下の臭いが、タオルに着いちゃうよ」

 

 

一体何日履いたのか、知りたくもない存在感を放つ靴下を、私は摘まんで洗濯カゴへ戻した。うえっぷ。

 

 

「こりゃあ、もう駄目だな」

 

 

どんな状況で着いたのか不思議なほど、広範囲にべったりとカレー染みが酷いワイシャツをお父さんが捨てようとしていたのを、止める。

 

 

「大丈夫。それ落ちるから」

 

「これがかあ?」

 

 

お父さんは不審そうだが、カレー染みの原因の色素は、紫外線に弱い。洗剤でよく洗って日干ししておけば、一日か二日もあれば大抵の場合落ちる。

前に給食のカレー染みを着けてしまったハンカチも、同じ方法で綺麗になったから、たぶん大丈夫なはず。

 

そうして洗ってしまった洗濯物を、干すためにベランダへ出た。でもシーツもあって大量だったため場所が足りず、アパートの敷地内の共同スペースを借りて全部干した。

 

今風のメゾネットタイプと違い古いこのアパートには、アパートの敷地内に洗濯物を干すための物干し台や花壇があった。大家さんが作ったというその花壇で、気の早い黄色いコスモスが一輪だけ風に揺れている。

 

それを見て、描くならやっぱり花だろうかとぼんやりしていると、どこからかでっぷりと大きな猫が現れた。

 

 

「ちっ。相変わらずブサイクだなあ。お前は」

 

 

うん。なんとも愛嬌のある立派なブサにゃんだった。

その子はお父さんの足元に転がり、体を砂だらけにしてゴロゴロと喉を鳴らした。凄くお父さんに懐いている。

 

 

「おうおう。汚ねえなあ」

 

 

お父さんはじゃけんに扱う素振りだが、顔が嬉しそうだ。じゃれつく猫に、お父さんは口でこそ否定的だが、この様子だと絶対いつも構っているはず。

ブサイクだなあ。汚ないなあと言いながら、足元に転がる猫の腹を触っていた。

 

しばらくしてお父さんと遊ぶのに飽きた猫は、風が吹くたびユラユラ揺れるコスモスの花弁を、狙ってやろうと、耳をそばだてている。

 

 

「お父さんって、猫好きなの?」

 

「好きじゃねえな。鬱陶しい」

 

そう言うくせに、コスモスで遊ぶ猫を見る目は優しかった。それを見て、私は以前お母さんに聞いた話を思い出した。

 

 

 

 

 

 

お父さんとお母さんがまだ学生で結婚したばかりの頃、アパートの大家さんに隠れて猫を飼っていたらしい。

 

半ノラの猫だったけど可愛がっていたら、ある時いなくなってしまい。寂しそうだったお母さんのために、疲れているのに仕事終わりに探し歩いてくれていたらしい。

 

でも結局猫は見つからなかった。その子は地域猫で、あちこちでエサを貰いに渡り歩き、寒い冬には家の中にまで入れられていて、実は結構な高齢だったようだ。

 

猫は見た目で年齢が分からない。若く見えたが、もう16年前にはすでに居たらしかった。老衰だ。

 

よくご飯を貰う家の日当たりの良い裏庭で、満開のコスモスの中で埋もれて、猫が眠るように死んでいたのを見つけたのは、その家のおばあさんだった。

 

そのままコスモス畑に猫を埋葬したというおばあさんが、体調を崩してしばらく入院していたため、誰も行方を知らなかったのだ。

 

お父さんはそれを調べて知ったものの、猫が死んだことをお母さんに告げられず、間もなく私が出来たのでアパートを引っ越したらしい。

後日買い物先で、お母さんはその家のお嫁さんに偶然会って、本当のことを聞いたと言っていた。

 

お父さんがお母さんを悲しませたくなくて本当のことを言えなかったから、お母さんもそのことは知らなかったことにしたんだね。内緒よと言っていたお母さんとの約束だから、私も知らないフリをしている。

 

 

 

 

 

それから間もなく、お父さんとお母さんは正式に離婚した。

 

残念だけど、こればかりは縁だからね。とおばあちゃんが言ってた。

 

昔じゃあるまいし、女が家を守るのが仕事なんて言わないけど、どちらも意地っ張りの強情者。あの性格じゃ大黒柱が二人いるようなものだから、ぶつかっても仕方がない。

 

 

どちらかが受け身なら上手くいくけど、ぶつかって反発してもどちらも反省しないんじゃ、見込みはないわねえ。とのこと。

確かになあ。

別居中でも私の教育方針で反発して、ところ構わず口論していた二人だ。きっとどうしようもなかったんだよね。

離婚しても、私が二人の娘であることは変わらない。昔の学生時代のような友達に戻れるといいね。

 

 

二人が恋に落ちて結婚して、子供が生まれた。今さらだけど、きちんと家族計画はした方がいいよ。若気の過ちの結果の私からの(はなむけ)に二人に言ってあげる。

 

次は失敗しないようにね。

 

お母さんが一緒に住もうと言ってくれたけど、この前行ったときのお父さんのアパートの様子が頭をよぎった。

 

うーん。一緒に住むなら、むしろお父さんの方じゃないかなあ。お母さんは一人で大丈夫だけど、お父さんはあのままだとゴミに埋もれて死んじゃいそうだよ。

 

でも無理だな。私はどちらにも行けない。一緒にいるためには、誰かが現状を変えて我慢しなくてはならなくなる。

 

この頃の私の習い事は週5日。おばあちゃんが送迎などのサポートに掛けてくれている手間暇はかなりのものだった。

 

それは弁護士として独立を夢見て邁進するお母さんと、警官として多忙を極めるお父さんには、どれ程の負担になるだろう。かと言って、私が望んで始めた習い事を減らすのは論外だと、おばあちゃんは切り捨てた。

 

お母さんは大好きだけど、お父さんはほっといたら心配だけど、誰かが我慢するのは違うだろう。また同じことの繰り返しだ。

私がこのままが良いと言えば、お父さんは歯を食い縛り、お母さんは泣きそうな顔をした。私は二人をごめんなさいって、ギュッと抱きしめた。

 

必ず迎えに来ると言ってくれたお父さん。あの時も泣いていたお母さん。

 

私たちは長く離れすぎたよ。三人ともがすでに地盤を固めてしまって、今がベストの状態な以上、もうどうしようもない。

 

最後は笑ってくれたお母さん。今度セーターの編みかたを教えてね。代わりに料理が苦手なお母さんに、おばあちゃん直伝の炊き込みご飯の作り方を教えてあげる。

オカズがなくても炊き込みご飯とお味噌汁が有れば生きられるよ。最近はインスタントのお味噌汁も多彩で美味しいから、後は玉子焼きもあればバッチリかな。

 

でも玉子焼きに一味唐辛子を入れるのは止めようね。私、しばらく舌の(しび)れが取れなくて大変だったんだからね。

 

お父さん。ゴミに埋もれないように、時々掃除に行ってあげる。たまには職場に差し入れにも行くよ。

 

 

 

 

 

こうして二人は離婚したが、元々三人で暮らしていた訳ではないから、生活は何も変わらない。このままだ。

お父さんは警官として生き続けるし、お母さんは独立を目指し、私は夢のために勉強と習い事を頑張るだけだ。

 

夏休み明けにやって来たお父さんのアパートの庭先の花壇では、満開の黄色いコスモスが風に揺れていた。

 




とうとう別れてしまいました。
蘭ちゃんも英理さんも、目標があるので前だけを見据えます。女は常に今と未来を大切にするので、あまり未練を引きずりません。

何故か男の方が、過去に捕らわれやすいんですよね。

小五郎さんは思い切ることが出来るでしょうか。




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今後の更新についてのお知らせ

長らくご無沙汰しておりました言い訳と今後の更新についてのお話です。




最初に謝らせていただきます。これは今後の更新についてのお知らせです。

 

本来なら活動報告に書くべきなのでしょうが、私自身が投稿小説は読んでも活動報告をほぼ読まないので、お気に入りに入れていただいた方たちの目に触れるように、こちらへ書きます。

 

 

実はタブレットを換えたら、自動ログインが無効になってしまいました。パスワードを綺麗に忘れてしまい、何通りも試したものの弾かれてしまいます。当然のことなのですが、マイページに入れません。

 

これは出先の閲覧用にたまに使っていたメールと通話専門のガラケーから打っています。でもガラケー排除の波はハーメルンさんにも来ているようで、閲覧中に度々切断の表示が出ます。

 

そのせいかこのガラケーからパスワード再発行の手続きをしても、届いたメールからはアクセスしようとするもがっつり拒否られてしまいました。取り付く島もないとはよく言ったものです。本当に打つ手が有りません。

 

アドレスの登録は実際に使うものをとなっていたので、何も考えずガラケーの番号を入れていた私。変更にもパスワードがいるのにガラケー以外の運営への連絡手段が無いんですよね。弾かれるのに。

 

ああ、普段使いじゃあなくタブレットを登録しておけばよかったと、仕方ないから再登録しようとかと思いましたが、パスワードが分からないため今の登録を取り消せないんですよね。

 

つまり再登録出来ないということ。このまま新たに登録、再投稿したら、複数アカウントとやらで違反行為のようです。

 

困りました。とにかくパスワードが判明するまで、ガラケーから入るしかないようです。

 

 

 

自動ログインに頼りすぎた自業自得ですね。メモしたはずのパスワードは、未だに見つかりません。

 

まだ今のところガラケーから打てますけど、基本動作のたびに切断されますから、やっぱりそのうち使えなくなるんでしょうね。

 

とにかくガラケーからは入れるのでこのまま出来る限り更新するか、思い切って別の媒体に投稿するかを考え中でした。

 

 

とりあえずあと1話投稿して、また考えたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次話として投稿するには一千文字いるそうなので、ちょっと無駄話を。

 

 

 

 

 

 

 

元々コナンは好きでアニメも見るしコミックも機会があれば読んでもいたものの、二次創作には興味なかったんですよね。それが書こうかなと思ったのがふと読んだ二次で、ヒロインなのに蘭ちゃんの扱いが悪いんじゃないかい? と思ったからですね。

 

実際に蘭ちゃんは青山先生の趣味(気の強い女の子好きみたいですよね)故か、いい意味で単純(素直)で粗暴でワガママなタイプのカワイイ女の子だと思います。

 

これって好き嫌いが別れるタイプだなあ…。でも生育環境を思えば、グレずに上手に育ったものだと言えるのになあ…。と思ったら、この子を違う環境に置いたらどうなるかなーと、妄想がムクムクと湧き出て来たんですよね。

 

でも書いといてなんだけど、こういう子ってヒロインには成れないですよねえ。ゴメンなさいね。コナン君。

 

 

 

 

 

 

 

 



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△26 自由自在、あるがままという自由

バレエを習い始めて三年目、三年生の春に初めて発表会に参加した。

 

当然役柄はその他大勢の一人で出番も少なかったけど、おばあちゃんは大喜びで色んな人に声を掛けたようだ。客席におばあちゃんのお友だちだけでなく、習字の先生やポアロのお客さんも居たからびっくりした。

 

本気でバレリーナを育成する程ではないバレエスタジオの子供の催しなんて、今思うと下手くそでつまらない舞台だったに違いなかった。それも他人の子供の発表会になんて、よく貴重なゴールデンウィークのお休みに来てくれたものだ。皆さんありがとうございました。

 

当日はお母さんもお父さんも来てくれて嬉しかったけど、離婚して初めて並んで観客席に座っている二人を見るのは複雑な気分だった。でもパンフレットを手に顔を寄せあって、小声で何かを話す二人の様子は以前と変わらないので、おばあちゃんが言ってた別れて夫婦ではなくなっても親であることは変わらないって、こういうことかってホッとしたのを覚えている。

 

「蘭。可愛かったわよ」

「さすがは俺の娘だ。主役の子より断然、良かったぞ」

 

舞台が終わった後の控え室で。親馬鹿ぶりを発揮して二人が写真を撮るのに夢中になってしまい、私はなかなか着替えさせてもらえなくて困ってしまった。そうそう、おばあちゃんに仲良く叱られていたなあ。

 

これは今も変わらない。お父さんとお母さんは元々が幼友達であったので、気心が知れているのだろう。心が離れてしまっても、気安く付き合いをしているようだ。

 

そのすぐ後、お父さんのアパートへ行ったら、意外なことを聞かされた。

 

「え。お父さん、引っ越すの?」

「ああ、大家のばあさんがな、綺麗なアパートに建て替えたいんだと。ここもあちこちガタが来てるからなあ」

 

お父さんの部屋に入るまでにふと目に付いた、錆び付いてボロボロだった階段の手すりを思い出して納得した。アパートの建て直しはもう一年くらい前には分かっていたことらしい。次のアパートも手配済みとの事だった。

 

「ここからそんなに離れてねえから、お前も大丈夫だろ。まあ俺かお袋が送るから問題ねえな」

 

しっかりと道順を覚えろよ。とお父さんに言われてしまった。

 

もう私の方向音痴は、おばあちゃんによりお父さんとお母さんに知らされている。そのためか三年生にもなったというのに、ちょっと距離のある慣れない所へは送迎することが暗黙の了解となっていた。

 

「それよりも蘭。猫を飼う気はないか」

 

「猫?」

 

去年の夏、お父さんのアパートで会った猫の飼い主が、代わりに飼ってくれる引き取り手を探しているという。

 

「だいぶ困っているみたいなんだ」

 

近日中にアパートを立ち退かないといけないらしいのだけど、飼い主さんは猫の飼える転居先を見つけられず、困ってお父さんに相談したらしい。

 

「年金暮らしのじいさんだからなあ…。こんな安アパートか公営住宅くらいしか、入るあてはねえのさ」

 

ペット可のアパートは探せばありそうだが、公営住宅でペットを飼うのは無理だろう。退去の話は一年以上前から聞いていたけど、飼い主の人は希望の家賃で借りられる部屋が見つけられなくて困り果てているとの事だった。

 

「猫」

 

私は以前見た、でっぷりと大きな三毛の猫を思い浮かべた。

 

派手な三毛柄と大きな体に見合った大きな顔に目付きの悪い、でも愛嬌たっぷりのブサにゃん。お父さんも不細工不細工と言いながら、甘い顔で構い倒していた。

 

おばあちゃんは私に甘いから、ねだればきっと大丈夫かな。そう思っているとお父さんが悪い顔をしていた。

 

「俺が頼んでも無理だろうが、お前からならいけるだろ」

 

 

 

 

 

お父さんの言う通り、おばあちゃんは嫌がらなかった。

むしろ、まあ。立派な猫ちゃんねえ。と愉快そうに、猫ちゃんに必要な道具を揃えてくれた。

 

「蘭ちゃん。この子のお名前は?」

 

そう、問題は名前なんだよね。人懐っこくてゴロゴロよく言うからゴロちゃんとか、太っているからブウちゃんとか、どら猫のドラちゃんとか好き勝手に呼ばれていたけど、女の子だからね。可哀想だよ。

 

ちなみに元の飼い主さんはドラミと呼んでいたらしいけど、どうしても猫型の妹ロボットを連想してしまうから却下したい。でもまだぴったりとくる名前が決まらないのだ。

なかなかドラミに代わる名前が浮かばず悩む私。でも猫ちゃんはそんなこと意に介さず、私に背中を撫でられて喉をゴロゴロ鳴らしている。

 

困った。三毛猫でミーちゃんとか、安直すぎる名前しか思い付かない私に、ゴロゴロゴロちゃんやどら猫ドラちゃんを笑う資格はない。

 

うーん。でも困ったことに、ゴロゴロゴロちゃん以上にぴったりくる名前が本当に浮かばない。

 

ゴロ、ゴロー、五郎…。お父さんの名前みたいだなあ。

 

あ、お正月の時代劇に出てきたお姫様の名前だ。

 

 

五郎八と書いて、いろはと読ませていたな。いろはといえば、以呂波カルタだけど。物事の習いはじめのことも、いろはと言うんだっておばあちゃんが教えてくれたよ。 

 

ペットを初めて飼う私の最初の猫ちゃんなら、いろはがピッタリじゃないかな?

 

いろはちゃん。うん。悪くないよ。

 

「いろは。いろはちゃんって呼んで」

 

おばあちゃんに答えて、私はにっこりと笑った。

 

 

 

 



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▽27 当たれば何でも嬉しいわけじゃない

お久しぶりです


三年生の秋、休日と祝日が重なって三連休になったので、おばあちゃんに連れられてまた京都に来た。お墓参りとひいおばあちゃんの実家を訪ねるために。 

 

分からないまま来たけど、ひいおばあちゃんの兄弟の法要だったようで、私たち以外にもたくさん人がいた。遠い親戚である人たちとお話をして、その日は市内のホテルに泊まった。

 

翌日は観光の予定だったけど、朝ごはんをビュッフェで済ませてロビーに行くとまーさんがそこにいた。 

 

「おはようございます、まーさん。お久しぶりです」

「はい。おはようございます。久しぶりですなぁ。蘭さん、ちょっと背が伸びましたか」

「伸びました。8歳にしては大きいって言われます」

 

まだ三年生なのに、私はよく高学年に間違えられる。 

 

背は平均より少し大きい程度なんだけど、バレエを習っていて姿勢が良いことも関係しているのか、どうも大きく見られがちだ。

 

……特別私が老けているとかじゃないと思う…。たぶんだけど。

 

まーさんに駆け寄って抱き着くと、いつものようにポンポンと頭を軽く叩かれた。

 

「だから、女の子が気安く男に抱き着くものやないというとるでしょう」 

 

まーさんは呆れた口調だが、私の頭を撫でる手は優しい。この人は私を突き放したりしない。時に厳しいことも言うが、初めて会った時からずっと優しかった。

 

初めの頃は偶然居合わせていただけだったけど、最近は京都に来ると当然のようにまーさんがいる。私がまーさんを好きでよく懐いているので、おばあちゃんがお願いして構ってもらえるようにしているんだろう。

 

嬉しいけど、いいのかなとも思う。確かまーさんって、大学二年生じゃなかったっけ?

 

よく知らないけど、来年くらいから卒業に向けての就職活動とかが忙しくなったりするんじゃないのかなあ。ポアロのアルバイトの人が、それで辞めちゃったって前に聞いたことあるんだけど。

 

まーさんはどうなのかな。もうあんまり会えなくなったりするのかなあ。

 

心配になって聞いたら、自分は問題ないから気にするなって言われちゃった。

 

「僕が好きで来とるんや、蘭さんが気にすることやない」 

 

そうしてまた頭をポンポンってされた。もう、あんまりするとシニョンが崩れちゃうよ。やめて。

 

「ああ、ごめんな。…癖になっとるんやなぁ」

 

でも抗議したら、手櫛で整えてくれるんだけどね。

 

「さあ、蘭さん。お部屋に行って用意して来なさい。僕はここで待っとりますから」 

 

おばあちゃんは用事があるため、今日はまーさんと二人でお出掛けだ。取って置きのスイーツが食べられるお店へ案内してくれるらしい。

 

うん。待っててね。

 

 

 

 

 

 

まーさんの案内で古い町家の並ぶ通りを歩いていると、袴姿の子供をちらほらと見掛ける。

お正月でもないのに和服なんて着て、珍しいなとぼんやり見ていたら、うっかり色黒の男の子とぶつかりそうになった。

 

すかさずまーさんに引き寄せられて、助けられたから大丈夫だったけど。

 

「おっ、悪い」

 

ごめんなー。と手を振りながら、その子は連れのポニーテールの女の子と走って行ってしまった。 

 

「…やれやれ、危ないなぁ。蘭さんも気をつけなあきませんよ」

「はい。ごめんなさい」

 

それでも袴姿の子供たちが気になって見ていたら、まーさんが理由を教えてくれた。 

 

「ああ、確かカルタ大会をやっているんですわ」

 

「カルタ」

 

いろはにほへとで、犬が歩いてて棒に当たっちゃうやつ? 

 

あのことわざって、おかしいんだよね。歩いていたら不意に棒が当たって災難だっていうのと、棒が良かったよ。当たってラッキーの逆の意味が二通りあるの。

 

歩いてて棒が当たったら、普通に事故だし痛いし、不幸だって言うのは分かるんだ。でもね。

 

おめでとう。あなたに棒が当たりましたって急に言われて、喜ぶ人って滅多にいないんじゃないかな? 

 

嬉しい? 欲しがってもいない棒が当たって。

 

犬だって棒の単品だけ当たっても、嬉しくないんじゃない?

どうせなら、投げてくれる人とセットでないと遊べないし、嬉しくないんじゃないかなあ。 

 

「以呂波ガルタやのうて、三十一文字。……短歌、五.七.五.七.七の五句、百人一首の大会です」

 

みそひともじ。味噌人文字。この場合は三十一文字だった。小学生には読めません。 

 

脳内変換に失敗して変な顔をしていたらしい私のために、たーさんが噛み砕いて説明してくれた。ありがとう。 

 

知らなかったが、百人一首の全国的なカルタ取り大会があるらしい。今日はそれの小学生バージョンの催しを行っているようだ。でも袴はカッコいいけど、袖が邪魔そうだね。 

 

私たちは特に古い町家に入って行く子供たちを横目に、まーさんのお奨めのカフェへと向かった。

 

そこで噂の人気メニューだという抹茶白玉パフェを食べながら、おしゃべりした。ほとんど私ばかりがしゃべってたけど、まーさんがコーヒーカップを片手に、時々相づちを打ってくれるので、気持ちよく過ごせた。

 

お店を出てすぐ、なにか気配を感じてカフェの横の路地を覗いたら、少し進んだ辺りに小さな黒いものが見えた。

 

「蘭さん」

 

まーさんが止めるのも聞かず、私は路地に足を踏み入れた。 

 

近づく程に聞こえるか弱い声に、そのままにして立ち去ることは選択肢にはなかった。頭を上げることも出来ないくらいに弱りきった憐れなその姿に、私は恐る恐る手を伸ばした。

 

果たしてそれは小さな生き物だった。

 

「猫ちゃん…」

 

私を呼んだのは、真っ黒い毛並みの小さな子猫だった。しかし私を呼び止めることで力を全部使ってしまったのか、その子は私が抱き上げても目を開けることはなかった。

 

「猫ちゃん…」

 

抱えた腕の中で、ぐんにゃりと力を無くしたその子猫を抱きながら、私は涙を堪えていた。

 

「貸しなさい」

 

呆然とする私から、まーさんが子猫を取り上げた。そうして子猫の様子を確かめると、私の手を引いて歩きだした。どこへ行くのだろうか。私は黙ってまーさんがするに任せていた。

 

まーさんは表通りに出ると、私に断って携帯を取り出し、少しの間なにかを調べていたようだった。が、直ぐにそのまま最寄りの動物病院へ飛び込んだ。ちょうど他に患者…じゃないな。患畜? が居なかったので、子猫は直ぐに看てもらえることになった。

 

そして適切な診察の後に注射と点滴を受けて、あんなにぐったりとしていた子猫は、息を吹き返したのだった。

 

「体力は落ちているようですが、これだけ元気なら大丈夫ですよ」

「そうですか」

 

獣医さんが言う通り、子猫は先程までの様子が嘘のように動き出していた。点滴の針を抜くとき痛かったのか、威嚇のうなり声を出す程だった。

 

「蘭さん。とりあえず子猫は僕が連れて帰ります。」 

 

ほとんど動かない子猫がもう死んでしまうものだと思っていた私は、安心して泣き出してしまって、頷くことしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

東京に戻ってから、まーさんから電話があった。子猫はすっかり元気になり、まーさんの猫好きの親戚が飼うことになったとのことだった。

 

『大切に育てられてますから、もう心配はせんで大丈夫ですよ』

 

「ありがとう。まーさん」

 

ポーと名付けられたその黒い子猫は、今でも大切に飼われているという。

 

 

 




今回の場所が京都だったので、あからさまに大阪組とニアミスさせてみました。

でも、映画から紅での平次くんと紅葉ちゃんとのカルタ大会での出会いが、一体何歳の時なのかが調べても時系列が分かりません。

そのため、これが映画の回想シーンの出会いの頃かは明言出来ません。この回かもしれないし、もっと後かもしれません。



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