ありがちな聖職者の一生 (belgdol)
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ありがちな聖職者の一生
おとうさんがひっしにかみさまにおいのりしてる。
おとうとか、いもうとがうまれるよっていったとき、おとうさんたちはとってもうれしそうだったのに。
いま、いもうとをおなかのなかから、がんばってだしてあげようとしてるおかあさんがたすかりますようにって。
ずっとおかあさんのことばっかりだ。
なんでおとうさんがそんなにかみさまにおいのりするのかわからない。
だってぼく、いいこにしてた。
ごはんたべるまえはおいのりして、きょうかいでもかみさまのいうことをまもってたし、おかあさんのてつだいだっていっぱいした。
だから、きっとだいじょうぶ。
すぐおかあさんは、あかちゃんといっしょにでてくるんだ。
でも、ちょっとねむいな。
おきたらおかあさんのつくってくれるやさいすーぷがたべたいな。
ぼくやさいはきらいだけど、おかあさんがつくってくれるやさいすーぷはおいしいんだ。
……おやすみなさい。
おきたら、おかあさんとおとうさんのへやにつれていかれていわれた。
おかあさんとはおわかれだよ、って。
なんで?
わかんないよ。
おかあさん、ぐっすりねてるのになんでおわかれなの?
ぼくわるいこだから、すてられるから、おかあさんとおわかれなの?
やだよ、やだよ。
ぼくはないた。
おかあさんがいっしょにいられないっていうから、それがいやでないた。
おとうさんもないてた。
そしたら、あかちゃんもないた。
そうだよおかあさん。
あかちゃんおいてどこにいくの?
いっしょにいようよ。
おかあさんとおとうさんと、あかちゃんとぼくで、ずっといっしょにいようよ。
やめて、おかあさんをつれていかないで!
ねてるだけなんだ!おかあさんはねてるだけなんだ!
なんでつれていくの!?なんでおかあさんをとるの!?
やめてよ!やめてよ!やめてよ!
むらのみんながおかあさんをじめんにほったあなのなかにいれた。
ずっとわからなかったおはかのいみが、なんとなくわかった。
ここはもうおきないひとをずっとねむらせてあげるばしょなんだ。
でも、なんでそれはいえじゃないんだろう。
じめんのしたなんてずっとくらいよ、つめたいよ、かわいそうだよ。
そういったらおとうさんはまたないた。
ぼくがいちばんにおかあさんにつちをかけてあげなさいっていわれた。
おかあさんがよごれるのがいやで、やだっていった。
そしたら、ぼくがつちのふとんをかけてあげないと、おかあさんがねれないからっていわれた。
ぼくは、そっと、おかあさんがぼくをふとんにいれてくれたときをおもいだしながら、やさしく、やさしくつちをかけた。
おとうさんもおかあさんのおはかにつちをいれた。
みんながきょうりょくして、おかあさんをつちのおふとんでねむらせてあげた。
ぼくは、あんなにきれいでやさしいおかあさんとおはなしできないあかちゃんがきになった。
あかちゃんは、いもうとはあんまりげんきじゃなかった。
ふつうはないたりするらしいのに、それもあんまりしなくて、ねつっぽいんだって。
おかあさんみたいに、ねることになるかもしれないって。
ぼくはたくさんたくさんかみさまにおいのりした。
いもうとがげんきになりますように、おかあさんみたいにねちゃわないようにって。
まいにちきょうかいにかよった。
なんどもおとうさんにだいじょうぶだよねってきいた。
おとうさんは、かおをしわくちゃにしてなにもいってくれなかった。
妹、マナは三年生きた。
でもやっぱりダメだった。
お母さんみたいに神様が天国に連れて行ってしまった。
ずっと苦しそうだったマナ、村のおばさん達から可哀想がられても、なかば見捨てられていたマナ。
お父さんはマナの事を余り見ずに、お酒を飲むようになっていた。
こんな可哀想だ。
お母さんにも抱かれない、お父さんもあやしてくれない、僕は小さすぎて満足に抱っこしてあげられなかった。
そればっかりだなんてマナが可哀想すぎるから、僕は天国に居るマナとお話するために教会の教導師様に弟子入りすることにした。
お父さんは反対しなくて、そうか、とだけ言ってお酒の入ったカップを傍においてテーブルに突っ伏した。
僕はすっかり神様の言葉の乗っている本の内容を暗記して、時折帰る家では無口になって、でもお酒はやめたお父さんと無言の時間を過ごすようになった。
時は流れて行く。
残酷なくらい、ゆっくりとゆっくりと流れて、僕の中の哀しみをすり減らして行く。
いや、これは時間じゃなくて神様の祝福なのかもしれない。
だってお母さんとマナが行ったところは、いつも暖かくて、ごはんが好きなだけ食べれて、皆優しい、そんな場所だと知ったから。
だから僕はお母さんとマナにお祈りで一日あったことを話すだけじゃなくて、問いかけるようになった。
今日も元気ですか、今日も二人は仲良しですか、僕とお父さんはいつ一緒になれますか。
答えは帰ってこないけれど、僕は問いかける事を続けた。
ある年、教導師様のいう事には十五年ぶりに、僕の村に星光調査団という人達がやって来た。
教会の人達で街から街へ廻って星光という、癒しの光を使える人間がいないか調べているらしい。
星光は夜空に強く輝く星のような力を人に分け与えて、病気になった人、怪我をした人、病弱な人の体を強く出来るらしい。
まぁ万人に一人居ればいいという確立らしいから、お母さんもマナも眠らせてしまうしかなかった僕にはあまり関係ない調査だと思った。
思っていた。
僕にはその適正があった。
叫びたかった。
何故、何故、何故となんども神様に問いかけた。
僕が小さい頃から星光を使えていれば、お母さんもマナも今も元気にくらしていたかもしれいないのに。
何で調査団が来るのが十五年に一度だったのか、何でこんな辺鄙な村に暮らしていたのか、何で僕は自分の力なのに星光を使えずに生きてきたのか。
疑問の連続だった。
神様の存在を疑いもした。
でも、星光は存在する。
だったらきっと、この力を与えてくれた神様も、居る。
ならなんで僕にお母さんをこの世に留めさせてくれなかったのか。
なぜマナに苦しく短い、明確な想い出も作れない三年という生を与えたのか。
どうして僕の祈りを聞き届けてくれなかったのか。
僕はずっとその事を胸に、星光の力の使い方を更に詳しく勉強する為に大聖堂のある街へと移された。
お父さんは、僕についてこないかと教会の人に聞かれていたけど、お母さんとマナが眠るこの土地を守りたいからと残る事を選んだ。
それが嬉しかった。
お母さんとマナの事、お父さんが忘れたわけじゃないって、愛してないわけじゃないって解って嬉しかった。
僕の分まで二人のお墓を見守ってあげて欲しい、そう思った。
私が星光の扱いを実地も交えて学んでいく課程で解った事がある。
神が私の母と妹をお連れになった理由だ。
私は、それこそ誰よりも努力した、寝る間も惜しんで。
それは私以外の失う人を減らす為だ。
あの苦しみを、悲しみを、消えはしたけれどいまだに胸に空虚を残すあれらを他の誰かに作らないように。
そう強く私が思うようにきっと神は二人を召し上げたのだ。
私に、優しさと思いやりという心を胸に刻めという、神の試練だったのだと今は思う。
だから私は一生を癒しに捧げると決めました。
この誓いは神に捧げる神聖なもので、きっといつまでも変わらずに私の中にあることでしょう。
星光師と呼ばれるようになった私は悩んでいた。
金の問題だ。
欲しいというのではない。
私は教会に所属し、教会は喜捨を行う金持ちに優先的に星光師を使わせる。
では貧しいものはどうなるのだ?
この空の下、今にも死にそうな母を抱える貧しい子供が居たら。
そう思うと体中を切り刻まれるかのような痛みを覚える。
その事を教導師長様に相談すると、考えすぎだと言われた。
星光師も神ならぬ身ならば、救える人にも限りがあるのは仕方ないと、星光師をスラムのような危険な場所には行かせられないと。
言い含めるように言われた。
私は、神と教会の間で揺れていた。
結論から言うと、私は教会を捨てた。
破門を願い出て、自由の身になる事を望んだのだ。
多くの人々は私を引きとめようとしたが、最後に説得に来た教導師長様は私の眼をみるとただ一言、行きなさいと仰ってくださった。
そして私の放浪と飢えと苦痛に満ちた旅が始まった。
初めは何事も無かったが、星光師が一人で旅をしているという話を聞きつければ、それを狙う人間も現れる。
私はそれから辛くも逃れて旅を続け、人々を治癒し続けた。
だがそんなものにはすぐ限界が訪れた。
ああ、やはり所詮人間一人の力などと思った、その時だった。
私を囲むならず者を瞬く間に打ち倒す元傭兵を名乗る男女が現れた。
彼らは強く、優しい人間だった。
私の理想に賛同し、私を守ってくれるという。
その言葉に、心身ともに疲れ果てていた私は甘えた。
どう考えてもそれ以上の一人での旅は無理だと、脳裏で自分が囁いていて、私はそれに屈したのだった。
三人での旅は安全になったが、問題も生んだ。
間違ってもそれは色恋の類ではない。
治療費の問題だ。
私一人なら最低限の施しと引き換えに癒しを与えてもよかった。
だが今は他に二人、戦うことを生業にしている連れが居る。
どうしても、金を取らざるをえなくなった。
僅かな、だが貧しいものには万金に値する蓄えを受け取る。
聖者気取りが我利我利亡者になったといわれることもあった。
本当にお金が無くて泣いている母親にも、あった。
それでも結局は、私に救える範囲というものが出来て、そこから零れ落ちてしまう人々が居た。
零れ落ちて行く人々の事は辛かった。
それでも手の中で掬い上げられる人々を救い続けた。
いや、救われ続けた。
病が治り家族と喜び合うその顔に、母と赤ん坊ならばふっくらとしているはずの頬をこけさせたマナが、美しい面相になって微笑むのを重ね合わせた。
救うたびに救われる。
妙な話だがそれは等価だった、少なくとも私にとっては。
そんな生活の中護衛になってくれた二人が子を成し、その話が人づてに伝わると新しい護衛希望の人が現れるようになった。
私は実感した。
私が人々を支えているように、私も支えられ助けられている。
神の説く、愛というものがどのように人を奮わせるのかを実感した。
私は幸福だ。
幸福の確信を得てから私はより一層精力的に世界を廻るようになり、多くのものを癒した。
だがそれにも終わりが訪れる。
私自身の命が尽きるという終わりだ。
体はいう事を聞かず、起き上がれない。
星光も満足に使えなくなる。
そんな私を多くの人が見舞い、快癒することを祈ってくれた。
だが解るのだ、召される時が来たという事が。
呼吸が浅くなる、次第に動きを止めて行く心臓を感じながら、私は天使を見た。
母とマナだ。
そういえば死ぬことを迎えが来るという事もあるな、と埒も無い事を考えながら、私は満たされた気持ちで二人に言った。
「久しぶり。これからはずっと一緒だよ」
それ以上は言葉にならず、私は意識を失った。
その日、とある街は悲しみに包まれた。
寒村の村の出で、その一生を人々のために費やしてきた聖人が逝ったからだ。
幼い頃自分自身や家族を救われ、最期に一目その姿を参らんとする人々が集まった街は涙に包まれた。
神も務めを果たした彼を労わるかのように雨を降らせた。
その中を、誰にも見えない家族が天に昇っていく。
きっとさらに上空の天国では父も待っていて、家族四人、永遠に共に過ごすのだろう。
だが余人はその事を知れないし、知らされない。
ただ、そういう人が在ったというのが歴史に残るのみである。
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