星ヲ撒ク者ドモ (眼珠天蚕)
しおりを挟む

The Beginning
Open Your Life


 ◆ ◆ ◆

 

 戴天惑星"地球"。約30年前、『混沌の曙(カオティック・ドーン)』と呼ばれる現象により、超異層世界的存在『天国』を保有するようになった、唯一の惑星。かつては"天の川銀河の宝石"と呼ばれたその星は、度重なる『天国』を巡る争いによって荒廃してしまった。その混迷は、今なお続いている。

 しかし、この混迷の状況にある地球を目指し、全異層世界中から力ある若人が集まってくる。

 彼らの目的は、みな同じだ。"慈母の女神"アルティミアが設立した、"希望学園都市"ユーテリア。この巨大学園の生徒となり、各々が胸に抱く――または、その背に課せられた――"希望"を実現すべく、存分に自己鍛錬に励むのだ。

 

 しかし、このユーテリアに籍を置きながら、"希望"を持たぬ生徒がいる。

 

 ユーテリアの中心部にある学園本校舎。その最上階にある"眺天の通路"を、悩める女子生徒がゆっくりと歩いている。

 彼女の名は、ノーラ・ストラヴァリ。通路の純白の床壁に映える褐色の肌に、天窓から差し込む陽光にきらめく薄紫色の髪。そして初夏の新緑よりも爽やかな碧眼を持つ、小柄な美少女だ。その背には、彼女の可憐な出で立ちに見合わぬ、背丈ほどの大きさを持つ大剣を鞘に納めて背負っている。

 ノーラは天窓の向こう側に視線を投げる。そこに見えるのは、澄み渡る快晴の蒼穹と、疎らに浮かぶ白い薄雲。そして、蜃気楼のように天空から逆さまにそびえる、城塞風の巨大建築物の集合体――『天国』だ。

 こうして『天国』を眺めていると、ノーラの胸中にはいつも、泡のように自問が湧きあがる。

 (どうして私は、ここに居るんだろう)

 その答え自体は、極めて自明だ。幼い頃から一族が――ひいては父が語り続けてきた"希望"を叶えるためである。

 「お前は必ず、『現女神(あらめがみ)』になれ。そして、我らの世界に『天国』をもたらすのだ」

 この"希望"のために、彼女は幼少時から英才教育を叩き込まれ、故郷から世界層を隔てた地球にやってきたのだ。

 …しかし、その"希望"はあくまで、一族や父のものに過ぎず、ノーラ自身のものではない。

 そもそも、ノーラは自分が何になりたいのか、何を成し遂げたいのか、その"希望"を持っていない。

 ノーラは天窓から視線を外すと、今度は視線を横に――壁に並んだ窓の向こう側に向ける。

 地上8階にある"眺天の通路"からは、軍事演習場に匹敵する規模を持つ学園の校庭が広く、遠く見渡せる。その所々で、激しい砂煙がもうもうと巻き上がっている様子を確認する。たぶん、武闘系または戦術系の部活動に従事する生徒たちが、実戦訓練でも繰り広げているのだろう。

 この放課後の時間、生徒たちは大抵、部活動に精を入れて課外でも自己鍛錬に励んでいる。そんな彼らの姿を目にすると、ノーラは申し訳ないような、悔しいような、後ろめたい気分にさせられる。彼女には、彼らのような熱意が全くないのだから。

 (ホント…どうして私、ここに居るんだろう)

 再度自問しながらため息をつき、視線を床に落とした、その時。胸に抱いたプリントの束を認識した彼女は、はっと目を丸くする。――そうだ、この場所に来たのは、益体もない自問に溺れるためなんかじゃない。

 (早くこれを、学園長に届けないと)

 クラス委員を務めるノーラは、クラス担任の教官に頼まれ、学園生活に関するアンケートの結果を学園長たる"慈母の女神"に届けに来ていたのだ。

 ノーラは視線を真っ直ぐに向けると、速足で学園長室へと向かう。その道すがら、今度は頼まれた仕事に対して疑問を抱く。どうして教官は自分で届けず、わざわざ一介の生徒を学園長へ遣わせるのだろうか、と。

 その疑問を考え始めた途端、ノーラの顔に思わずクスリと薄い自嘲が浮かぶ。

 (私ったら、疑問だらけだ…)

 

 学園長室の両開きの扉は、実に豪奢なものだ。黄金を下地に、男女の天使が向かい合うように片面ずつ彫り込まれている。天使の周囲には、地球の内外問わず様々な宗教における楽園の象徴が配置されている。目も眩むばかりの煌びやかさだが、威圧的な印象は全くない。むしろ、見る者の心を温める柔和さが滲み出ている。

 ノーラが扉をノックする。外観的には金属質な扉は、奇妙なことに、木材の奏でる軽やかなトントンと言う音を響かせる。すると、向こう側から、扉の装飾が醸し出す雰囲気よりなお柔和な、春の陽だまりを思わせる女性の声が漏れてくる。

 「どうぞ、お入りなさい」

 「失礼します、学園長」

 ノーラが声をかけつつ、扉を開くと…その先に広がるのは、落ち着いた木製の家財が整然と並べられた、学園長の執務部屋だ。そして部屋の中央奥、蒼穹と『天国』を大きく映す窓を背に、"慈母の女神"その人がデスクに座している。

 その髪は、ハチミツよりもなお透き通ったブロンド色。その肌は、白磁のごとき澄み渡った輝ける色白。その唇は、夕日よりもなお鮮やかな紅色。その瞳は、海よりもなお深い濃青。そして、その身にまとうは、カーネーションをあしらった装飾で満ちた純白のドレス。女性すらも魅了する美貌と、匂い立つような母性を兼ね備えた外観、それが"慈母の女神"アルティミアの御姿(みすがた)である。

 そして、この麗しき明星のような御姿こそ、一族と父の望みに沿い、ノーラが目指すべき姿なのだ。

 (…"希望"の灯すら持たない私が、こんな神々しい存在になれるというの…?)

 ノーラが憧憬とも諦観とも着かない視線を女神に送り、茫然と立ち尽くしていると。アルティミアは身にまとうカーネーションよりなお優雅な微笑みを浮かべ、ノーラの耳を声の微風でくすぐる。

 「あら、私の顔に何かついているかしら?」

 「あ、いえ…何でもありません」

 はっと我を取り戻したノーラは、それまでの茫然とした思いを断ち切るように、きびきびとした動作で女神のデスクに歩み寄る。そして、胸に抱いたプリントの束を差し出しつつ、こう告げる。

 「1年Q組でクラス委員を務める、ノーラ・ストラヴァリです。ツェペリン教官からの言いつけで、学園生活アンケートの結果を届けに参りました」

 「それはご苦労様ね」

 女神はノーラの足労を労り、満面の笑顔を浮かべる。その表情はまるで、太陽よりなお燦然と輝く大輪の純白のユリだ。そして、ユリが風に撫でられ静かに揺れるような動作で腕を延ばすと、和毛を掴むような柔らかな手つきでプリントの束を受け取る。その一挙一動はことごとく、人の眼の穢れを洗い流す清楚さに満ちている。

 対してノーラは、きびきびとした無機質な動きで深々と一礼。「それでは、失礼します」と無感情に告げた言葉を残し、踵を返した…その直後。

 「ねぇ、ノーラさん」

 耳をくすぐる甘い声が、ノーラの背中を引き留める。相手は学園長ということもあり、無視することのできぬノーラは、チラリと頭だけで振り向いてアルティミアを見遣る。アルティミアは満面の笑みを浮かべたまま、室内の来客用のソファへ手を差し向ける。

 「この後のお時間、空いているのでしょう? 少しお話しましょう」

 予想だにしなかった展開に、ノーラはぱちくりと瞬きする。しかしすぐに、彼女は女神の勧めに従うことにした。女神の言う通り、どうせこの後に予定はないのだ。背負った大剣を外してソファに立て掛けると、自らもソファに身を委ねる。

 「紅茶かココアはいかがかしら? それとも、コーヒーかしら?」

 アルティミアは尋ねながら、繊細な指を小さく鳴らす。すると、デスクの表面からヌルリと、半透明のゲル状の存在が出現する。なんとなく人間の上半身の姿をした、胸元に当たる部分に蝶ネクタイを付けたそれは、給仕用精霊である。

 「いえ、あの…よろしければ、ホットミルクを」

 「うふふ、分かったわ」

 女神はノーラの願いを聞き届けると、精神感応によって給仕用精霊に指令を与える。すると精霊は風のように軽やかに部屋の中を飛び回り、戸棚からカップを取り出すと、右手に当たる部分をティーポットへと変化。その注ぎ口からホットミルクを注ぎ、カップを満たす。そしてノーラの目の前へと湯気立つカップを運ぶと、優雅な一礼を残して蒸発する。

 「すみません…それでは、いただきます」

 ノーラが両手でカップを掴み、丁度良い温度のミルクで咽喉を潤していると。アルティミアは組んだ手の上に顎を乗せ、覗き込むようにノーラを見つめて語りかける。

 「私はね、ノーラさん、以前からあなたと話してみたいと思っていたわ。

 だから今回、ツェペリン先生に頼んで、あなたをここに呼び出したの」

 ノーラはミルクを口に運んだまま、首をちょっと傾げる。数万人の生徒を束ねる"慈愛の女神"が、ノーラただ一人にどんな興味を持ったというのか。全く想像がつかない。

 ノーラの戸惑いを余所に、アルティミアは話を続ける。

 「実はね、この約一年間、あなたに注目していたの。この学園の生徒はみんな、素晴らしい才能の輝きを持ってる。その中でも、あなたの輝きは特に際立っているわ。だから、あなたがどんな希望を抱いて、どんな道を進もうとしているのか、とても興味をもっていたの。

 そしてあなたは、学園生活の中で、その輝きに恥じない成果を残してきた。授業もクラス委員の仕事も、とても真面目に熱心にこなしてきた。学業の成績はとても優秀で、クラスメートや先生たちも、あなたのことを優等生として評価しているわ。そして私も、彼らの評価に同感よ」

 「そんな…もったいないお言葉です」

 ミルクの入ったコップを置いて答えるノーラの顔に、苦々しい笑みが薄く張り付く。その表情と同様、胸中には苦い後ろめたさが広がっている。なぜなら、ノーラにしてみれば、女神の高評価は買い被りとしか言いようがないのだから。希望を持たぬがゆえの空虚さを、目先の努力で必死に紛らわせているに過ぎない。その結果、たまたま成果がついてきただけのこと。決して積極的な動機に基づくものではなく、褒められる価値など一片もない…ノーラはそう強く考えている。

 そんな彼女の心中のわだかまりに呼応するように、女神の笑みが陰る。

 「でもね…そんなあなたに、私は一つだけ、気がかりなことがあるの」

 「そう…なんですか?」

 ノーラがぱちくりと瞬きしつつ問い返すと、女神の紅の唇から懸念の内容が滑り出る。

 「あなたは、少し大人しすぎると思うわ。

 授業や委員の仕事といった、学園が与える枠の中だけに収まってしまっている。その枠を超えてなお、あり余る輝きをあなたは持っているのに、自分から身を縮めてしまっている。

 みんなのように、もっともっと自由な発想で、学園生活を過ごして構わないのよ?」

 この"希望学園都市"ユーテリアは、独特の教育制度を持っている。それは、生徒達は自由な方法で単位を取得することが出来る、というものだ。学園が提供する授業(すべて選択科目であり、必須科目は存在しない)に出席し、教官の教えを受けるも良し。部活動をはじめとした課外活動に従事し、学友たちと切磋琢磨するも良し。自分磨きのための冒険の旅に出るも良し。昼寝をして英気を養うことすら、単位を取得できる可能性がある。要は、成果を学園が認めさえすれば良いのだ。

 しかし、ノーラの場合、アルティミアが言う通り、授業に出る以外の単位取得活動を行ったことはない。その理由はもちろん、彼女には叶えたい希望がないからだ。向かうべき目標を持たずして、どうして独自の道を見出すことができようか。

 女神はソファに立て掛けられたノーラの大剣を見遣りながら、言葉を続ける。

 「私は知っているわ…あなたには、自由の空に羽ばたく、大きな輝きの翼があることを。

 それなのに、翼を伸ばせないでいるのは…もしかして、あなたの背負っているその剣の所為かしら?

 それとも、その剣に(すが)らないと立つことさえ出来ないと、思い込んでしまっているのかしら?」

 急に飛び出した、大剣の話題。一見して無関係そうなこの話題を、ノーラはすんなりと受け入れる。彼女には、大いに思い当たる節があるのだ。

 彼女が持ち歩く大剣は、一族が数年の歳月を費やして作り上げた、高度に魔化(エンチャント)された宝剣だ。地球へと旅立つ日、父はこの宝剣をノーラに背負わせた。一族の"希望"と、それを担うがゆえの重責を、ゆめゆめ忘れぬように…と。

 この経緯を考えると、確かにこの大剣の存在が、彼女の精神活動に影響を与えているとも解釈できそうだが…。

 「…分かりません」

 ノーラは徐々に温かみを失ってゆくカップを弄びながら、(うつむ)いて女神に答える。

 「私自身は、この剣のために心に壁を造っているなどとは、意識したことがありません。

 そもそも…私にはみなさんのような、希望の大空に飛びたてるような翼があるのかすら、分かりません」

 「いいえ、あなたには確かにあるわ。女神である私が保証するのですもの。もっと自信を持ちなさいな」

 女神の励ましにも、ノーラの心は晴れない。いかに尊い存在から保証を受けても、全く実感が伴わない。

 とは言え、せっかく期待を口にしてくれた女神に対し、何か応えねばならない。しかし、どんな言葉を口にするべきか? 頑張ります、と無責任な言葉を口にして良いのだろうか? 考えあぐね、しばし沈黙を保った末…ノーラは、うまく対応することを諦めた。

 代わりに、彼女は話題を変えることで、応えを濁すことにする。

 「あの…アルティミア様。質問しても、よろしいでしょうか」

 「ええ、もちろんよ。何でも訊いてみなさい」

 「アルティミア様はなぜ、この学園を開校なさったのですか?」

 この質問は、女神の予測を超えるものだったらしい。優雅な長い睫毛をもつ(まぶた)をぱちくりと開閉し、母性に反して幼子のようなきょとんとした表情を、女神は見せる。

 女神の紅の唇がなかなか開こうとしない中、ノーラは発した質問の内容を掘り下げる。

 「アルティミア様も十分ご存じと思いますが、女子生徒の中には『現女神』になる希望を抱いて、この学園に籍を置いている者も多いです。このような者を手厚く育てることは、アルティミア様にとって将来の災いとなるのではないでしょうか。

 『現女神』が互いに争い合う存在であることは、アルティミア様がよくご存じのはずです。卒業生から首尾よく新しい『現女神』が生まれたならば、その女神はあなたへのご恩を捨て去り、真っ先にあなたの敵になり得ますよね」

 ノーラの言う通り、『現女神』たちは地球が戴天惑星となった約30年前から現在に至るまで、互いに激しい闘争を繰り広げている。この闘争は『女神戦争』と呼ばれ、地球を荒廃させた大きな要因の一つとして認知されている。

 『現女神』たちが争う理由は、『天国』にあるようだ。超異層世界的存在『天国』は超異層世界集合『オムニバース』に所属するものであり、学術的な根拠はないが、これを支配・制御することで全ての異層世界を定義レベルから支配することが出来ると言われている。この『天国』の所有権を有する存在が、『現女神』であるとのことだ(ただし、これについても学術的根拠はない)。しかし、『天国』と接触するには、現状の彼女らの魂魄のレベルでは不可能らしい。そして魂魄のレベルを高める行為こそ、『女神戦争』なのだと言う。

 『女神戦争』はいつ、終わりを迎えるのか。もちろん、『天国』に接触できる『現女神』が出現するまで、であろう。では、どこまで戦いを続ければ、そんな『現女神』が登場するのか。その問いに関する明白な答えは、『現女神』たち自身すら持ち合わせていないらしい。そこで『女神戦争』の現状と照らし合わせて広く信じられているのが、闘争に勝ち残ったただ一柱こそが、至高の『現女神』として『オムニバース』に君臨するということだ。多くの『現女神』たちもまた、この説に則り、『女神戦争』に心血を注いでいる。

 この説が本当に正しいのならば、"慈母の女神"の行為の弊害は、ノーラの言うような、己の敵を育てることに留まらない。新しい『現女神』を生み出すことで、『女神戦争』を長引かせ、地球の混迷を更に拡大させることとなるだろう。

 この耳痛い問いに対して、アルティミアは一片も顔を曇らせない。それどころか、香り立つような笑いをクスリと漏らすと、にこやかに応える。

 「そうね…確かに、あなたの言う通りでしょうね。

 でもね、私って『現女神』の中でも変わり者らしくてね…『女神戦争』に勝ち抜くことにも、『天国』を手に入れることにも、全然興味がないの。

 私の興味は、ただ一つだけ。希望を抱く若者たちが、希望を叶えた時に浮かべる、笑顔の花。その花でこの『オムニバース』をいっぱいに満たしてみたい…これが私自身の希望よ。

 その希望を叶えるために、私はこのユーテリアを作り上げた。

 もしも、私の生徒の希望が『現女神』になって『天国』を手に入れることで、その希望を叶えるために私を殺すというのなら…私は、喜んでこの命を差し出すわ。その娘の笑顔を『オムニバース』に添えるために、ね。」

 この答えに、ノーラは耳を疑う。希望のために、自分の命さえ差し出す!? 希望を持たぬ彼女には、全く理解できぬ考え方だ。

 ノーラの困惑を見て取った女神は、たたえる笑みにバツの悪そうな色を添える。

 「ホント、私ったらなんでこんな考え方になってしまったんでしょうね。

 きっと、私の"慈母"の性質が起因しているのでしょうね。ホラ、母親って、子供のためなら命も投げ出すでしょう? 私にとって、あなたたち生徒という存在は、私の子供みたいなものだもの。

 それとも…そんな事は全部建前で、あなたたちの信仰心目当てに、この学園を餌にして釣っているだけなのかも。他の『現女神』たちと同じように、ね。だとしたら私、『オムニバース』で一番の詐欺師ね」

 『現女神』たちの力は、彼女らに捧げられる"信仰心"の規模に比例する。ゆえに、彼女らは様々な策略を用いて、人々の心を取り込もうとしている。

 「ノーラさん、もしもあなたの希望が――例え、それが背負わされているものだとしても――『現女神』になることで、私の命を奪うことに抵抗を感じていることが、あなたの翼の妨げになっているとするなら…これで、気にすることはないでしょう? 私は極悪な詐欺師、あなたはそれを罰する、ということになるのだもの。

 そして、あなたは希望を見事に花咲かせることが出来る。そして私は、私自身の希望に沿って、あなたの花を目に焼き付けることが出来る。お互いにとってプラスの結果になるのよ」

 アルティミアは、常にノーラの希望に気を配っている。それを認識する度に、ノーラの胸は潰れそうな苦しみに苛まれる。空虚で構築された精神構造が、希望への嘱望(しょくぼう)に圧し掛かられて倒壊してしまいそうだ。

 この苦しさにとうとう耐え兼ねなくなったノーラは、逃避を兼ねて残りのミルクを一気にあおる。そして、思わず叩きつけるような勢いでカップをテーブルに置くと、素早く立ち上がる。

 「あの…ホットミルク、ごちそうさまでした。

 アルティミア様とお話し出来て、良かったです。世界が、広がった気がします」

 ノーラはそう告げて大剣を背負い、退室の素振りを見せると。女神は心底残念そうに顔を曇らせる。

 「あら、もう行ってしまうの?」

 「はい…やることを思い出しましたので…このあたりで、失礼させていただきます」

 ノーラは深々と礼をすると、早々に踵を返して女神の部屋を後にする。

 その背中に土産を送るように、女神が優しい言葉を微風と共に運ぶ。

 「またお話しましょう。いつでも気軽に、この部屋を訪ねてちょうだい」

 ノーラは答えず、一気に廊下まで歩くともう一度礼をし、静かに扉を閉める。

 

 ノーラの姿が見えなくなり、執務室にただ一人残されたアルティミアは、紅の唇を艶めかしく一舐め。そして、悪戯っぽい笑みを浮かべると、誰ともなしにポツリと独りごちる。

 「可愛い娘…あなたの空っぽの器の中に、これから一体何が満ちていくのかしら…」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 学園長の執務室を出たノーラは、徒歩で一階の教室へ私物を取りに向かう。

 宮殿、もしくは城塞のように広大な学園の中には、上下移動のためのエレベータが幾つも用意されている。しかし、ノーラは余程時間に追われていない限りは、それらを利用しない。ただ待つだけの手持ち無沙汰な時間が出来てしまうと、ついつい余計なネガティブな思考の渦に飲まれそうになるからだ。それを避けるために、一歩一歩に意識を傾けられる徒歩を選ぶのだ。

 ノーラは歩く時、よく下を向いている。その理由については、彼女自身もよく分かっていない。もしかしたら、すれ違う人々の顔を見るのがイヤなのかも知れない。希望に輝く生徒の顔は、彼女に暗澹とした劣等感を植え付けてしまうのだから。

 1年Q組に戻ると、そこには数人の生徒たちの姿がある。彼らはいくつかの小さな集団を作り、とりとめのない話を楽しんでいる。これに対し、ノーラは決して彼らの中に混ざらない。雑事に対しても興味が薄い彼女は、彼らと共に楽しい時間を過ごすことは出来ない。

 この態度ゆえに、学園に来て約1年が経とうというこの時期に至っても、ノーラには友人と呼べる人間がいない。たまに、授業に困ったクラスメートが話しを聞きにくるので、彼らに対応する程度の人付き合いしかしていない。そもそも、ノーラは別段、良好な人間関係を築きたいと考えたことはない。

 ――自分は、浮いた存在なのだ。いわば、決して混ざらないコーヒーミルクだ。…そんな風にノーラは、自分に対して評価を下している。

 

 (…帰ろう)

 カバンを肩にかけたノーラは教室を出ると、真っ直ぐにエントランスに向かう。学園内は土足なので、靴箱のある昇降口は存在しない。

 エントランスは、数万人の生徒の出入りを支える場であるため、解放感溢れる広々とした造りになっている。その中央には、4面に妖精の姿が彫り込まれた大きな円柱が一列に並んでいる。学園の構造を支える支柱、兼、装飾の役割を担っているのだろう。

 ノーラは相変らず、下を向いたまま校舎の外へと歩みを進める。…そしてそれが今、彼女の仇となる。

 「のわぁっ、ちょっと、どいてくれっ!」

 急に、前方から切羽詰まった男子の声が響く。はっとノーラが視線を上げると、もうすぐ眼の前にまで人影が接近していた。回避する余裕は、ない。

 「あ」と口に出す間もなく、ノーラは眼前の人物と激突。相手は相当な勢いで走っていたようで、ノーラの身体は大きく弾き飛ばされる。ガサガサと何かがばら撒かれる音を耳にしながら、受け身を取る間もなくノーラは仰向けに倒れる。

 「いたた…」

 全身を走る衝撃の余韻に苛まれつつ、ノーラがゆっくりと身を起こすと。すかさず、ぶつかってきた人物の姿を探す。その行動は怒りによるものではなく、相手への純粋な心配によるものだ。

 探す相手は、すぐに見つかった。"彼"は、大きなダンボールの下敷きになって、目を回している。ダンボールの中には、折り紙のパックが大量に詰め込まれている。また、"彼"の周りにも、ぶつかった際に飛び出したらしい折り紙のパックが散乱している。

 「あの…大丈夫ですか?」

 口元に手を置いて声をかけつつ、ノーラは"彼"の姿をまじまじと眺めると…思わず、はっと息を飲む。ノーラは、"彼"のことをよく見知っている。いや、彼女だけでなく、恐らく学園の生徒なら誰でも知っているだろう。そんな有名人の姿が、そこにある。

 燃え盛る炎のような紅蓮の髪に、獣のように鋭く大きな犬歯。そして、臀部から生えるワニにも似た鱗ある尾。その形態は、爬虫類系統の獣人種族を思わせる。

 彼の名は、ロイ・ファーブニル。ノーラと同じく高等部の1年生で、"爆走君"のあだ名でよく知られている。

 「あのぅ…」

 いまだ反応のないロイに、ノーラがもう一度声をかけると。ロイがパッチリと眼を見開き、縮んだバネが跳び上がるような勢いで、圧し掛かるダンボールごと立ち上がる。そして金色に輝く瞳でノーラに鋭い視線を送った…途端、その目つきが急激に柔らかく、申し訳なさげになる。

 「ごめんなっ! 怪我、なかったか?」

 ロイの言葉づかいは多少粗暴な感じを受けるが、決して恐怖を植え付けるようなものではない。野生の獣が見せる生き生きとした活気に満ちた、聞く者の心を爽やかにする声だ。

 「うん…大丈夫。こちらこそ、ごめんね。前向いてなかったから…」

 「そっか!」

 ノーラの無事を確認したロイは、ニカッと大きな笑いを浮かべる。幼子のような、真夏の太陽のような、眩しい笑顔だ。

 しかし、次の瞬間。彼の笑顔は一転し、青ざめた焦燥へと激変する。壊れた信号機のように、慌ただしい表情だ。

 ロイは周囲に散乱した折り紙のパックを見回すと、げげっ、と声を上げる。

 「こんなにブチまけちまったのかぁーっ! くっそぉ~、集めるの面倒だなぁーっ!」

 火を吐くような文句を叫びながら、抱えたダンボールを床に置き、ロイは身を屈めて回収作業にあたろうとする。そこへ、ノーラが「待ってください」と一声かけ、彼を制止する。

 「ん?」

 ロイが疑問符を浮かべている間に、ノーラは背負った大剣を引き抜く。金色に輝く幅広の刀身には、彼女の一族に伝わる神話を象った、繊細で見事な装飾が施されている。

 「え、え!? オレ、なんかマズいことやったのか!? いや、確かにキミにぶつかっちまったけどさ!? オレ、そんなに怒らせちまったか!?」

 慌てふためくロイを余所に、ノーラは大剣の長い柄を両手で握りしめ、刀身を天に向けて真っ直ぐに立てる。そして、静かに目を閉じ、桜色の唇から静かに長く呼気を吐いて、意識を集中。すると、彼女の輪郭から蛍光色の魔力励起光が立ち上る。ノーラは今、形而上層上で自身の魂魄から魔力を引き出し、高密度に凝縮しているのだ。

 ついでノーラは、集束した魔力を大剣へと伝搬させる。すると、大剣の刀身に機械的なギミックが幾つも発生。ギミックはガシャガシャと音を立てながら、迅速に刀身の体積と形状を変化。数秒後、刀身は元の長さの半分ほどの、ペン先のように割れた先端を持つ、板のように太い断面の刃へと変形を完了した。その表面には、変形前にあった装飾の代わりに、チューブや計器といった機械部品が臓物のように張り付いている。

 この異様な剣を片手で持ったノーラは、剣の切っ先で大きめの円を宙に描く。すると、その軌跡は蛍光色を放ちながら、内部に幾何学図形と英数字で構成された複雑な文様を生成する。これは、方術陣と呼ばれる、空間固着型の純魔力製自動機関である。

 「機関、起動」

 ノーラが始動の言霊を乗せて、方術陣に命令をぶつける。すると、方術陣から幾つもの魔力の銀糸が伸び、ばら撒かれた折り紙のパックに一斉に絡みつく。そして、素早く器用な動作でダンボールの中へ整然と収めてゆく。回収作業は、ものの数秒で終わってしまった。

 方術陣は役目を終えると、音もなく蒸発して霧散する。そして変形した大剣は、刀身の機関からボワッと白い蒸気を上げると、先の変形過程を逆進し、元の豪奢な黄金の刃へと姿を変える。

 変化を見届けたノーラは、大剣を静かに背の鞘に納め、一息吐く…すると。

 「スッゲーなっ、あんた!!」

 ノーラの視界いっぱいに、目を輝かせたロイの顔がデンと現れる。驚いたノーラは、思わず背をのけぞらせた。するとロイは、彼女を引き留めるように両手をがっしりと掴むと、興奮してブンブンと上下に振る。

 「さっきのアレ、自動識別型の方術陣だろ!? あれって、めちゃくちゃ作るのムズいし、メンドくせーじゃんか! それを、あんな短時間で作っちまうなんて! あんなコトが出来るのは、蒼治(ソウジ)のヤツぐらいだと思ってたぜ!

 あんた、スゲー良い腕してンなっ!」

 「いえ…そんな…大したことじゃ、ないですよ…」

 ロイのあまりの感激具合に、ノーラは気恥ずかしさを感じる以上に、たじろぐばかりだ。

 (とりあえず、腕を振るの、止めてくれないかな…。ちょっと痛い…)

 そう訴えたいものの、"爆走君"の呼び名に見合うロイの猛烈な勢いに押されて、ノーラは苦笑を浮かべるしか出来ない。

 そんな具合に困惑しているノーラの元に、突如、背後から助け舟が入る。

 「スゲー、ではないわっ、この大たわけ者がっ!」

 独特の口調をした、鋭い女子生徒の声が響く。直後、ノーラの真横を疾風のように過ぎる、声の主。"彼女"は一息でロイに肉薄すると、彼の顔面にドロップキックを見舞う。ガツンッ、と壮絶な打撃音がエントランスに響き渡り、ロイは「ぐわぁっ!」と叫び声を上げて吹っ飛ぶ。

 (痛そう…)

 ノーラの苦笑いが、気の毒そうな同情に歪む。その一方で、声の主は、ひっくり返ったロイの元に大股で歩み寄る。

 「な、なんだよっ、副部長っ! 一体、どこから湧いて出たんだよっ!」

 ロイが弾む勢いで素早く立ち上がると、声の主に指を突きつけて喚く。先の強烈な打撃にもめげずに元気に一杯だが、彼の顔面にはくっきりと両足の跡が残っており、間抜けな印象を振り撒いている。

 声の主がロイに答える、

 「おぬしが出て行ったきり、なかなか戻って来なんだから、様子を見に来ておったのじゃ!

 してみれば、おぬしと来たら! 不注意の挙句に人様には迷惑をかけるわ、手助けしてもらっておいて感謝の言葉は口にせぬわ、一人で大騒ぎして恩人の気を退かせるわ! 節操なきこと、山猿のごときじゃのう!」

 「オレはサルじゃねーよ! 見りゃ分かるだろ! この尾と、この角!」

 ロイは真紅の髪をかき分けると、頭皮からちょこんと飛び出た小さな2つの角を見せつける。

 「どう見ても、ド…」

 「角の生えたサルではないか!」

 「違うっつーのっ! だから、ドラ…」

 「そんな益体のない弁明なぞ、どうでも良いわっ! 喚く前に反省せい、このバカタレがっ!」

 "彼女"は鉄拳を頭頂に落し、ロイの口を黙らせる。なんとも剛毅な女子生徒だ。

 その後、"彼女"はノーラの方を振り返ると、表情を一転。大輪のひまわりのようにニカッと笑い、桜色の唇から穏やかな声を紡ぎ出す。

 「騒々しくてしまい、すまんのう。

 この山猿に代わりって、わしからおぬしに礼を言わせてもらうぞ。部員の不始末に手を貸していただき、誠にありがとう」

 深々と礼をする"彼女"…その姿に、ノーラには見覚えがある。陽光に溶けるようなハチミツ色をした、クセっ毛のある長髪。"宇宙の宝石"と呼ばれた、在りし日の地球を写し取ったような、澄んだ青の瞳。磨き抜かれた玉の可憐さと凛々しさを兼ね備えた、利発にして勇壮な顔立ち。そして、小柄な体を大きく見せる、威風堂々たる覇気。

 「いえ…ホントに、大したことはしていませんから、気にしないでください…立花(たちばな)(なぎさ)先輩」

 ノーラはぱたぱたと手を振りながら、"彼女"――渚の名を告げると。渚はケラケラと声を立てて笑い出す。

 「ほほー、見ず知らずの御人の口から、わしの名が出ようとはな! わしも随分と有名になったものじゃのう!」

 渚自身の言葉は、的を外れていない。彼女もまた、ロイと同様、学園中の有名人だ。特に1年生の間からは、その口調と言動から"暴走厨二先輩"と呼ばれている。

 ロイと渚の有名人二人が、共に行動をしている…ということは。

 「あの…渚先輩。この折り紙は、"暴走部"で使うものですか?」

 "暴走部"――この言葉を耳にした途端、渚の笑い声がピタリと止まる。そして、笑顔を張り付けたまま、こめかみに青筋を浮き上がらせる。

 「…わしらの部活は"暴走部"ではなく、"星撒(ほしまき)部"じゃ。

 なぜか勘違いする輩が多いようじゃが…くれぐれも間違えぬよう、心に刻み込んでくれぬか」

 「す、すみません…」

 ノーラはペコリと頭を下げて謝罪する。

 ロイと渚を有名にしている理由は、彼らが所属している"星撒部"にある。この部活は、生徒達に"暴走部"と呼ばれるほど、数々の物騒な逸話を持つ。山地をまるまる一つ吹き飛ばしただの、どこぞの都市国家の行政機関から苦情が飛んできただの、『現女神』にケンカを売っただの…だ。これらの逸話の中心にあるのが、ロイと渚である。彼らは学園の中ですら、先にノーラが目にしたような大騒ぎを起こしたり、無関係な生徒を部活動に引きずりこんだりと、暴走行為と見なされても仕方のない行動を繰り返している。

 このようによく話題に出る"星撒部"とその部員だが、肝心の部活の活動方針はよく知られていない。『折り紙』がどのように"星撒部"に結びつくのか、ノーラには想像がつかない。だからこそ、先のような質問を口にしたのだ。

 この質問に対して、青筋を引っ込めた渚が答えてくれる。

 「折り紙のことじゃが、もちろんじゃよ。折り紙はわしらの常套手段じゃからな。子供だけでなく、大人にも評判が良いんじゃよ!」

 「そう…なんですか?」

 答えはもらったものの、やはりノーラは全容がつかめない。そもそも、どうして"子供"や"大人"といった言葉が出てくるのか。そんな新しい疑問すら生じてしまった。

 ノーラの悩みを余所に、渚はロイに向き直ると、またもや表情を一変。頬を膨らませて腕組みすると、涙目で頭をさすっているロイに鋭い言葉を飛ばす。

 「いつまでボーっとしておるのじゃ! さっさと折り紙を部室に運ばんかいっ! おぬしがボヤボヤしているうちに、蒼治はとっくに作業を終えて、手持無沙汰になっておるはずじゃ!」

 「えっ…いくら蒼治でも、あの量をこんな短時間でこなすのは、無理だろ…」

 「不可能を可能にする、それがわしら"星撒部"じゃろうが!

 つべこべ言わずに、さっさと行かんかいっ!」

 「…はいはい、分かったよ」

 ロイは折り紙がみっちり詰まったダンボールをひょいと持ち上げると、軽々とした速足でその場を後にする。途中、一度足を止めてノーラへと振り返ると、ニッと笑う。

 「そういや、副部長の言う通り、オレからキミにお礼を言ってなかったな。

 手伝ってくれて、アリガトなっ! え~っと…」

 「ノーラ・ストラヴァリです」

 ロイの笑みにつられ、ノーラも薄い微笑みを浮かべて名を告げる。

 「ノーラか、覚えておくよ! それじゃあ、また会おうぜ!」

 そしてロイはエントランスから姿を消した。

 「さて…と。わしも行かねばならぬな。

 それでは、ノーラとやら…」

 渚がノーラに声をかけつつ、ゆっくりとした足取りでロイの後を追おうとした、その途端。ピタリ、と足が止まる。そしてくるりと振り返り、ノーラの方をまじまじと見つめる。

 「ところで、おぬし…今から、下校するところじゃよな?」

 「え? あ…はい」

 「部活はどうしたのじゃ? 今日は休みの日か?」

 「いえ…私、部活動には所属していないんです。クラス委員なら、やってますけど…」

 そのように正直に答えたを、ノーラはすぐに後悔することになる。渚の顔が、ニヤァッと謀略の(わら)いに大きく歪む。それを見たノーラの頬に、一筋の冷たい汗が伝う。――マズい気配がする。

 「そ、それでは、私はこの辺で…」

 逃げるようにノーラが踵を返した…が。その腕がガッシリと掴まれ、動きを制されてしまう。錆びたブリキのような動きで首を回し、引き留めてきた渚の顔を視界に入れると…太陽というには邪悪すぎる満面の笑みが視界に映る。ノーラの顔に、冷や汗の筋が増える。

 「あの…立花先輩…!?」

 「全く、もったいないのう! そして、嘆かわしいのう、若者よ!

 人生で一度きりしかない青春時代を、無為の時間で空費してしまうとは!」

 渚はノーラを掴んでいない方の手で拳を固めると、フルフルと震わせながら、心底悔しげな様子で力の限り訴える。

 次いで、渚の顔がコロリと変わり、キラキラとした爽やかさが現れる。そして、拳から人差し指を立てると、どことも知れぬ天井を差して声を上げる。

 「しかし、安心せい! わしらが、おぬしの青春の時間に、大きな花を添えようぞ!

 いざ来るがよい、そして門をくぐるのじゃ! この学園において至高の部活、我らが青春の居城! 星撒部へ!」

 そして渚は、もの凄い力でノーラを引き連れて歩き出す。その有無を言わさぬ姿は、まさに"暴走部"の名に似つかわしい。

 「あのっ、先輩!? ちょっと待ってください、先輩! 私、部活動には興味がなくて…! 聞いてますか、先輩!?」

 必死に訴えるノーラを、渚は完全に無視。何やら勇壮な軍歌調の鼻歌を口ずさみながら、ノーラを引っ張ってゆく。ノーラは助けを求めて、すれ違う生徒たちに視線を向ける…が。彼らは目を合わせないようにするか、気の毒げな視線を送りつつ距離を取るだけだ。彼らは知っているのだ――"暴走厨二先輩"を止めることはできない。むしろ、下手に手を出せば、自分も引きずり込まれてしまうと。

 「先輩! あの、手を放していただけませんか…!? 先輩、聞いてますか…!?」

 ノーラの必死の訴えだけが、虚しく廊下に響き渡る。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ノーラが連れ込まれた先は、学園本校舎4階にある第436号講義室。空間操作などの魔術加工が特に施されていない部屋で、通常の教室を縦に二つ並べた程度の広さを持つ。小規模な実験講義に使われる部屋で、床に固定された長机が並んでいるのが特徴だ。

 この講義室の開き戸をガラリと勢いよく開いた渚は、開口一番、上機嫌な声を上げる。

 「皆の衆! 新入部員を連れて来たぞ!」

 「先輩…! あのう…私…星撒部に入るなんて、一言も言ってませんよね…!?」

 今なお必死に反論を続けているノーラを、渚は室内に強引に引き込む。すると、室内に居る5人の男女の視線が、一斉にノーラに集中する。

 視線の主の一人は、先に折り紙を運んで去って行った、ロイだ。彼は両腕で長机をバンッと叩き、上体を起こして身を乗り出すと、興奮気味に語る。

 「ノーラじゃんか、さっきぶりだなー!

 まさか、オレ達の部活に入部希望だったなんて! そうと気付いてりゃ、オレが部室に連れてきたのに!」

 「いや…彼女、思いっきり否定してるし、違うだろ…。また渚が強引に連れて来たんだろ…」

 溜息を吐きながら突っ込むのは、ロイの隣に座る、眼鏡をかけた男子生徒だ。青みがかった黒髪に、眼光鋭い眼。そして、長身の痩躯を白いローブで包んだ、いかにも魔術師的な風体をしている。彼の手前には、大量の折り紙がテーブル上に配置されており、折り紙の周囲には幾つもの方術陣が展開されている。おそらく、この男子が方術陣を制御して、折り紙に何かを細工しているようだ。

 眼鏡の生徒は申し訳なさそうな表情を浮かべて、ノーラに語る。

 「ゴメンね。渚のヤツ、いつもいつも強引でさ、君のように人を引っ張ってくる時があるんだよ。僕らもなんとか抑えようとしてるんだけど…なんというか、嵐は檻の中に入れられないって感じでね…」

 「なんじゃと、蒼治! 人のことを災害のように言いおって!」

 渚はズンズンと蒼治と呼んだ眼鏡の男子生徒に迫ると、腕を組み、頬を膨らませて抗議する。このやりとりからするに、蒼治と渚は同年代のようだ。

 一方、ロイ達とは別のテーブルでは。並んで座る3人の女子生徒のうち、中央の生徒がノーラを見つめると、「あれ?」と声を出す。

 「ウチのクラスの、"霧の優等生"ちゃんじゃない。部活やってなさそうだったから、いつかは副部長に捕まるかなーって思ってたけど…ついに捕まっちゃったのか。お気の毒さま」

 言葉の端々に陰を帯びた揶揄を込めて語るこの少女を、ノーラは見知っている。少女が言う通り、ノーラと少女はクラスメート同士だ。

 「こんにちわ、相川(あいかわ)(ゆかり)さん」

 「やっほー、こんちわ」

 腕を上げて応える紫は、神秘的な魅力に溢れた少女だ。ボブカットにした艶やかな黒髪や、赤味がかったブラウンの瞳は、見る者を色の深淵へと引き込むような雰囲気を持つ。クラス内では寡黙なので、その魅力は更に磨きが掛かり、男子生徒たちからの密かな人気を集めている。

 (…相川さんって、しゃべるとこんなに気さくな感じなんだ…。喋ったことがなかったから、分からなかったな…)

 ノーラがクラスメートの意外な一面に関心を寄せていると。紫の右隣に座る女子生徒が、頭上に疑問符を浮かべる。

 「ねぇ、紫。"霧の優等生"って、どーゆー意味?」

 問う女子生徒は、頭に乗せたベレー帽の脇から狐耳をのぞかせ、臀部からはモフモフと大きく膨らんだ獣の尻尾をはやした、明らかな獣人の少女である。その体型は、制服の上からでも分かる健康的な筋肉で引き締まりながらも、非常にグラマラスだ。

 「それはね、ナミト、」紫は獣人の少女の名を呼ぶと、人差し指を立てて説明を始める、「あの娘、ノーラ・ストラヴァリちゃんはね、とーっても成績優秀で、授業の話題ではクラスメートから引っ張りだこな"優等生"なの。

 だけど、普段はすごく無口で、授業以外の雑談には全然混ざってこない。その態度が冷たそうだってコトと、1年かけてもプライベートな情報がほとんど掴めてない所から、"霧"って呼ばれてるワケ。分かったかなー?」

 「うん、よくわかりました、紫先生!」

 ナミトは元気よく手を上げ、おどけて答える。が、すぐにまた疑問符を浮かべる。

 「でも、紫だって、クラスの中では無口だよね? なのに、なんで紫は"霧の優等生"って呼ばれないの?」

 この問いに対し、紫は陰の濃い自嘲の笑みを浮かべると、ため息交じりで漏らす。

 「…どうせ私は、優等生じゃないですよー」

 「そ…そんなことないよ、相川さん…! 環境学や生態学では、学年でもトップクラスだって聞いてますよ…!」

 「優等生ちゃんは優しいねぇ…」

 ノーラのフォローに、紫は涙をぬぐう真似をしながら答えるのであった。

 次いでノーラに声をかけるのは、残る1人の女子生徒。紫の左隣に座る、大人びた雰囲気の少女…というより、女性だ。母性を匂わす柔和な垂れ目に、ボリュームのある薄い桜色のロングヘア。ナミトとはまた違う、優雅な曲線で構成されたグラマラスな体型。"美少女"というより、"美女"という言葉が相応しい。

 「ノーラちゃんって言ったわよね? そんな所で立ってないで、ここにお座りなさいな」

 外観に違わぬ、小鳥が鳴き交わす小春日和を連想させるようなおっとりした口調で、美女が自身の隣の席にノーラを誘う。

 この時、ノーラは彼女の誘いを断り、星撒部を後にすることもできただろう。渚は蒼治やロイとの言い合いに夢中で、ノーラのことはとっくに解放している。元々、星撒部には不本意な形で訪れたのだし、長居する理由は全くないのだ。

 それにも関わらず、ノーラが一歩、踏み出したのはなぜだろうか。誘う美女の放つ穏やかさに魅せられたから? それとも、星撒部を取り巻く賑やかな陽気に心を取り込まれたから? …ノーラ自身、よく分からない。

 ノーラはちょっと遠慮がちに身を縮めながら、薦められた席に座る。すると、美女がユリが咲き乱れるような極上の笑みを浮かべて、自己紹介する。

 「初めまして。2年生のアリエッタ・エル・マーベリーよ。ひとときの時間共有かも知れないけど、これも何かの縁、よろしくね」

 アリエッタに呼応して、ナミトもブンブンと手を振りながら語り出す。

 「ボクも自己紹介がまだだったね! 1年J組のナミト・ヴァーグナだよ!

 ノーラちゃんみたいに頭は良くないけど、体動かすことだけなら絶対に負けないよー! よろしくネ!」

 「相川さんから紹介の通り、ノーラ・ストラヴァリです…よろしくお願いします…」

 ノーラもまた、気恥ずかしげに自己紹介する。考えてみれば、ユーテリアに来て以来、面と向かって自己紹介をしたのはこれが初めてだ。

 それからノーラは、恥ずかしさを紛らわすように視線をテーブルの上に這わせる。そこには、ツルやキリン、サルやカエルといった動物たちの姿に折られた折り紙が広がっている。そしてアリエッタら3人も、てきぱきと指を動かして、次々に折り紙を折っている。渚の言う通り、折り紙は星撒部の活動の一環のようだ。

 茫然と3人の作業を見送っているうちに、アリエッタがツルを完成させる。彼女の優雅さを写し取ったような、非常に均整のとれたツルだ。これを掌に載せたアリエッタは、ノーラに見せつけるように差し出すと、魔力を込める。すると、ツルの輪郭に魔力励起の淡い蛍光が灯り、折り紙のツルがゆっくりと羽ばたく。そして、スイーッと綺麗な円を描きながら、宙をクルクルと何度か飛び回ると、再びアリエッタの掌へ舞い戻る。

 「この折り紙は、蒼治君が魔化してくれたものなの。ほんのちょっと魔力を込めると、折った形に対応して動く仕掛けよ。ちょっと面白いでしょう?」

 アリエッタがニコニコしながら、ノーラにそのように聞かせてくれた。

 「あの…この折り紙って、何に使うんですか?」

 声をかけてくれたのを機に、ノーラがアリエッタに問う。アリエッタは笑顔を崩さず、丁寧に答える。

 「これはね、孤児院とか高齢者介護施設とかに送るの。そのほか、難民非難区の方々に炊き出しのオマケとして配布したりもするのよ。

 今回の作ってる分は、明日行く戦災孤児収容施設へ配るものなの」

 孤児院や高齢者介護施設、それに難民非難区? そのような言葉が出ると言うことは…。

 「星撒部の活動って、社会奉仕活動なんですか?」

 「一部当たりじゃが、それはわしらの活動をあまりに狭くとらえたものに過ぎぬ!」

 ノーラの問いに答えたのは、渚だ。その顔に非常に誇らしげな表情を張り付けると、小ぶりながらも形のよい双丘を突出し、得意げに話しを続ける。

 「コンビニへの買い物から、戦争の停戦まで! この世のあらゆる困り事を解決し、人々の希望を叶え、笑顔の星を届ける! それがわしら、星撒部なのじゃ!

 どうじゃ、"希望"の名を冠するこの学園にぴったりの部活じゃろう!?」

 "希望"。この言葉が、ノーラの空虚な心にズキンと突き刺さり、彼女の表情が曇る。

 その様子を見た蒼治は、ノーラが部活動の途方もないスケールの大きさに驚愕していると勘違いしたようだ。苦笑いを浮かべながら、素早くフォローを入れる。

 「渚は、この世のあらゆる困りごと、なんて大きなことを言ってるけど、この部活は設立して1年も経ってない若い部活でね。他の歴史ある部活に比べて、実績はほとんどない。だから、専用の部室も用意されなくて、この教室を間借りさせてもらってる状態さ。

 …まぁ、時々…噂されてるような過激なことも、確かにやっちゃってるけど…それは大抵、渚とロイの暴走が原因だから…」

 「暴走とはなんじゃ! わしもロイも、人々の希望をより良く叶えるため、全力を尽くしているだけじゃ!

 …確かに、わしらの活動に対して抗議を唱える輩も居るようじゃが…依頼人たちの満足度は100%じゃぞ! 何の問題もなかろう!」

 「確かに、依頼人の皆さんは満足してくれてるようだけど…それでも、非難されている事実はあるワケで、このことには問題意識をもって取り組んでいかないと、星撒部は世界中に敵を作りかねないと…」

 「蒼治ぃ~! なぜにおぬしは、いつもいつもそう、穏便に過ぎて弱腰なのじゃっ! その軟弱な根性、ここらで叩き直してやらねばならぬ!

 ロイ! こやつの背中に尻尾鞭打ち100回、精神注入じゃ!」

 「OK、副部長! それじゃあ蒼治、歯を食いしばれよ~っ!」

 「ちょっと!? ロイも、なんでやる気になってるんだよ! 魔化の集中が乱れるってば…!」

 騒がしいやりとりを、アリエッタは相変らずニコニコと見送り、ほか2人の女子生徒たちはまた始まった、という遠い眼をして折り紙細工に専念する。そしてノーラは、先の胸の痛みもどこへやら、ぽかんと騒ぎを見守るだけだ。

 (…"笑劇部"の方が、似合うんじゃないかな…この部活の名前…)

 そんなことを胸中で呟いていると。ノーラの制服の裾がちょいちょいと引っ張られる。はっとして視線を向けると、そこにはアリエッタの顔がある。

 「折角だから、ノーラちゃんも折り紙していかない? お遊び気分で、ね?」

 そう言いながらアリエッタは、赤い折り紙をノーラの目の前に置く。

 「…でも私、折り紙って実際に折ってみたこと、ないです…」

 「大丈夫、それなら私が教えてあげるわ。だから、一緒にやってみましょう?」

 この誘いを、ノーラはもちろん、断ることが出来た。先にも述べた通り、星撒部には不本意な経緯で連れ込まれているし、特に用事はない。それに、"希望を叶える"と謳うこの部活は、希望を持たない空虚な自分にとって場違いだと痛感している。

 それなのに、ノーラは己の感覚に逆らい、またもアリエッタの誘いを受ける返事をしてしまう。

 「…お願いします」

 なぜ、こんなことをしているのだろうか。部室にまで入ってしまった以上、何かやっていかないと体裁が悪いと感じているのか? それとも、やはりアリエッタの魅力に飲まれてしまっているのか? …いや、そうではない。ノーラは気付き始めている。

 (私…なぜか、この部活に…惹かれてる…)

 アリエッタが自らも黄色の折り紙を手に取り、実演しながら丁寧にノーラに折り方を教える。ノーラは教えを真剣になぞり、非常に丁寧な手つきで紙を折り込んでゆく。

 そしてついに、自らの手でツルを完成させると…ノーラは目を丸くして、自身の作品に見入る。折り紙未経験の彼女にとって、一枚の紙から、切り貼りなしで複雑で美しい形状を作り上げられたことは、まるで魔術だ。

 「さすが、"霧の優等生"だねー! 初めてにして、このクオリティの高さ!」

 ノーラの作品を目にした紫が、ちょっと嫉妬をにじませながら賞賛を口にする。彼女の言葉通り、ノーラの作品は経験者のアリエッタに劣らぬ、う靴しいツルだ。

 「ねぇ、ノーラちゃん。動かしてみようよ! 形が綺麗だとね、動きも綺麗になるんだよー!」

 ナミトの薦めに従い、ノーラは掌にツルを置くと、魔力を込めてみる。すると、ほんの少し――程度にして、指で軽くつつく程度――の魔力で、ツルはふわりと宙に舞い上がり、綺麗な螺旋を描きながら天井スレスレまで上昇。そして、木の葉が風に揺られて落ちるように、ふらふらと揺れながらノーラの掌へと戻る。

 「すごいわ、ノーラちゃん! とっても良い出来よ! こういう芸術的活動に才能があるんじゃないかしら!」

 アリエッタが拍手して褒めてくれる。ノーラは恥ずかしくなり、思わず赤面してしまう。

 「いえ…アリエッタさんの教え方が上手だったんです…。私は別に…」

 「そう謙遜しないでよー、"霧の優等生"ちゃん」

 紫が意地悪げに、ノーラの気恥ずかしさを更に煽りたてる。

 一方、ナミトが何気なく渚に問う。

 「ねー、副部長。今日の折り紙って、ノルマあるんですかー? 聞いてませんでしたけどー?」

 「いや、別に決まりは…」

 と、蒼治が答えかけた途端。渚がビシっと人差し指を立てて、蒼治の言葉を塗り潰す。

 「一人、千個、じゃっ!」

 「ちょっ…渚! そんなに必要ないし、そもそも無茶苦茶すぎるだろ…!」

 蒼治がいさめるが、渚は鼻息荒く腕を組み、語気も強く語り出す。

 「千羽鶴という言葉がある! 千の折り紙は、すなわち希望の象徴じゃ! その数をもってこそ、明日の依頼の満足度を引き出せるというもの!」

 「いや…千羽鶴っていうのは、千って数より、ツルの長寿な点に着眼した言葉でさ…希望というより、病気の回復や長生きって意味が込められているから…明日の活動には、そぐわないと思うんだけど…」

 蒼治が突っ込むが、渚の耳には全く入らない。彼女は五感はすでに、自らが課したノルマへの情熱に全霊を傾けている。

 「良いか、皆の衆! 希望を叶える身であるわしらが、やりもしないで絶望してどうする! 絶望は希望で塗り潰す! それがわしら星撒部じゃろう!

 見ておれいっ! わしが手本を見せてやるっ!」

 語るが早いか、渚は魔力を全身に集結させ、身体(フィジカル・)魔化(エンチャント)を実行。そして、烈風のごとく加速した動作で、折り紙を次々と折り続ける。まるで、燃え盛る大火のごとき勢いだ。

 この炎に当てられ、熱意を燃え上がらせる者がいる。ロイだ。

 「おっしゃっ! オレも副部長にゃ負けてらねぇっ!」

 彼もまた身体魔化を実行すると、渚の横に並び、高速で折り紙を折り始める。そのスピードは、渚より若干早い。それを横目で見て悟った渚は、歯を食いしばって更に身体魔化を増強、更に加速して作業に取り組む。こんな異様なまでに熱心な二人の様子を見ていると、彼らの作業は折り紙と全く違う別の何かに見えてくる。

 「あらあら、二人はいつも元気ねー」

 ニコニコと渚たちを見送る、アリエッタ。そんな彼女に、ノーラがおずおずと声をかける。

 「あの…よろしければ、他の折り方も、教えていただけませんか…?」

 「ええ、もちろん。一緒にいっぱい、折りましょう」

 そしてノーラはアリエッタの指導の下、真剣に折り紙に取り組む。星撒部の部員たちが賞賛するように、ノーラは折り紙の筋が良く、質の高い作品を作り上げる。魔力を込めて動かせば、優雅で大きな、目を楽しませる動きを見せる。その度にアリエッタや紫、ナミトから拍手をもらうと、ノーラの鼓動が大きく弾んでゆく。

 (なんだか…とっても…楽しい…!)

 折り紙を続けるうちに、ノーラの眼から暗澹とした空虚の陰りが消え、愉悦の輝きが大きく灯る。オドオドしていた表情が柔らかくほぐれ、口角がうっすらと上がる。その表情には、小さく儚げながらも、瑞々しい活気の花が宿る。

 やっている作業自体は、単純なものだ。それがどうしてこんなに、楽しく感じられるのだろうか。拍手が心地良いから? それとも単に、単純作業が高揚感を促進する神経物質を誘発しているだけなのか? …いや、そうじゃない。ホントの理由は…。

 ノーラが思いを馳せようとした、その時。渚とロイの激闘が動きを見せ、彼女の思考を中断させる。どうやら二人は、途中結果を比べ合うようだ。この間にノーラが折った折り紙の数は10枚。対して、魔術を使ってまで速度強化した二人の成果は…?

 「見よ! すでに56個も折って見せたわい!」

 渚のすぐ隣には、もっさりと積み上がったツルの山がある。その中から一つ、ツルを取り出して掌に載せると、誇らしげに張った胸と共にロイに突き出して見せる。ツルの質は、アリエッタのものには及ばないが、なかなかの出来だ。

 しかし、ロイは動じない。むしろ、その顔には"してやったり"とした得意さがギラリと灯っている。

 「甘いぜ、副部長! オレはな…73個だっ!」

 ロイの隣には、渚のものより一回り大きなツルの山がある。そして彼も渚にならい、山の中のツルを一つ取り出して突き出して見せるが…その質は、全くもって、ひどい。左右のバランスは明らかにおかしいし、紙自体も張りが無くてぐにゃぐにゃと歪んでいる。溢れる熱意が有り余り、力任せに急いで折ったがゆえの惨状だと、部室内の誰もが一目見て悟った。

 このツルを前にして、だーっはっはっは、と渚は声を上げて大笑い。

 「なんじゃ、そのツルはっ! というか、それ、ツルなのか!? 新種の昆虫の間違いではないか!?」

 「なっ…! 見てくれは悪いかも知れねーが、動かせば、ちゃんと…!」

 反論しながら、ロイは掌に載せたツルに魔力を注ぎ込む。すると…ツル(?)はヨレヨレの翼を、まるで昆虫のようにヒョコヒョコと奇妙に動かし、フラフラと千鳥足で歩き出す。動きの度にプルプルと頼りなさげに震える様が、なんとも滑稽だ。

 渚が、改めて爆笑。テーブルをバンバン叩いて悶える。

 「それ…何!? 誰か、その、新種に、名前をつけて、やってくれい! …腹が、よじれる…っ!」

 「…アルキヅル、かな」と、至って真面目に語るのは蒼治だ。

 「ツル・ウォーカーの方が、メカっぽくてカッコ良くない?」と、陽気に語るのはナミトだ。

 「いやー、この動きはどう見てもザトウムシだね」と、意地の悪い笑み名付けるのは紫だ。

 「んー、そうねぇ…酔っ払いさん、がぴったりだと思うわ~」と、全く悪気なくにこやかに語るのはアリエッタだ。

 「ちょっとお前ら、言いたい放題すぎだろ!?」と、ロイが総仕上げするように突っ込む。

 この滑稽な一連のやりとりの中、クスクス…と微風に擦れる花びらのような笑い声が漏れてくる。声の主は…ノーラだ。俯き、口元に手を置いて、必死にこらえているが…ついに耐え切れなくなり、アハハと声を上げてしまう。

 星撒部の部員一同がきょとんとして、ノーラに視線を集める。するとノーラは、笑い過ぎで流れる涙を人差し指で拭いながら、言い訳する。

 「ごめんなさい…みなさん…ロイ君…ウフフ! でも、どうしても、可笑しくて…アハハ! どうしよう、止まらない…アハハハ!」

 すると、笑いの対象であるロイは…全く腹を立てることもなく、却って彼自身もニカッと笑顔を見せる。

 「ノーラ、お前、スゲーイイ顔で笑うな!」

 そう指摘された時。ノーラは初めて、自分が笑っていることを認識し、驚いた。――そう、私は今、笑ってる! 楽しむなんて感情は、空虚な自分の心からは、もう干上がってしまったと思っていたのに。自分の中のどこに、この心地良さに身を委ねる感性が残っていたのだろう?

 ノーラが笑い続けていると…渚がウインクを送ってくる。

 「活動成功じゃな! おぬしの希望、見事叶えてみせたわい!」

 渚の不可解な言葉に、ノーラは思わず笑いを止め、疑問符を浮かべる。

 「え…? わたしの希望を…叶えた…?」

 ノーラは渚の言葉を全く理解できない。そもそも、自分は希望を持っていない。なのに、彼女は"希望を叶えた"と語る。一体、どういうことなのか?

 渚は語り出す、

 「おぬし、この学園に来たのは、おぬし自身の希望ではないだろう? 恐らく、家族や国家の類から希望を背負わされておるのじゃろう。それゆえに、おぬしは自身の進むべき道を見つけられず、苦しんでおる。

 …何故そんなことが分かるのか、といった表情をしておるのう? おぬしの顔に書いてあったのじゃよ、奈落の底のように暗い顔にな。

 しかしながら、おぬしは行先を見つけられずとも、自身の力を存分に発揮し、羽ばたきたいとも思っておる。だからこそ、ロイを手助けした時に、おぬしは自身の力を使ってみせたのじゃ。

 自分を縛る苦しみから解放されたい。そして、自身の翼を輝かせて羽ばたきたい。そんな心の叫びを、わしは聞き届けたのじゃ。そしてわしは、おぬしをここに連れ込んだ。おぬしの希望を、叶えるために。

 そして今、おぬしはしがらみもなく、行先を意識することもなく、己の心に従ってわしらとの活動を楽しみ、笑った。さぞかし気持ち良かったじゃろう?」

 そして渚は、もう一度ウインクを送りながら、こう締めくくる。

 「わしら星撒部が叶える希望は、何も遠く離れた大地の者達のものだけではない。身近な者の希望ももちろん、大歓迎じゃ」

 この言葉を耳にしたノーラは、先に描きかけた思考に改めて思いを馳せる。――なぜ、私はこの部活に惹かれたのか。

 彼らは――星撒部の部員たちは、何でも溶かしてしまうコーヒーだ。混ざることを拒否していたノーラをも温かく包み、芳醇なる味わいの一員にしてくれる、輝きの寄る辺だ。

 (…なんて気持ち良いところだろう…)

 ノーラの顔に改めて、笑顔が灯る。その笑みは、厳しい冬からようやく芽吹き、可憐にして力強く咲き誇るフクジュソウを思わせた。

 

 ノーラの空虚なる心に、小さな小さな輝きが灯る。

 その輝きの穏やかさを謳歌する時間を過ごす、ノーラであったが…。

 そこに今、波乱が訪れようとしている。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 部室に突如として響く、軽快な調子の着信音。これを耳にした渚は顔を曇らせ、制服の上着のポケットに手を突っ込む。

 「こんな時に野暮な茶々を入れるのは、どこのどいつじゃ…!」

 不愉快そうに毒づきながら取り出したのは、学園が生徒に配布しているタッチデバイス仕様の異層世界間通信端末、通称『ナビット』である。そのタッチディスプレイを見た渚は、「なんじゃ、イェルグか」と嘆息交じりにポツリと漏らす。

 渚はナビットを操作すると、部員全員によく見えるよう大型の3Dモニターを空中に展開する。この行動から鑑みると、通信相手のイェルグなる人物は、星撒部の部員のようだ。

 3Dモニターには、一人の男子の顔をアップで映っている。無精に長く伸ばした黒髪に、頭のみならず顔の右半分を隠すように巻きつけた、民族衣装にも見える色鮮やかな布地。この布から覗く顔立ちは、のんびりした雰囲気を漂わせる穏やかなものだ…が。

 今、彼の顔からは、ただごとならぬ状況が見て取れる。顔中煤だらけで、所々には経度の火傷も見える。また、彼の微笑みにも見える表情の端々からは、剣呑な危機感がひしひしと伝わってくる。

 この様子に、渚が眉をしかめる。

 「そのザマはなんなのじゃ、イェルグ!? おぬしらの今日の活動は、コンサートの運営手伝いじゃろう!? 会場で火災でも起きたのか!?」

 するとイェルグは、表情を困惑で歪めて答える。

 「火災程度なら良いんだけど…それどころじゃない、結構マズい事態になっててね。

 言葉で話すより、見た方が早いな。今、外の様子を見せるよ」

 言うが早いか、イェルグは手にしたナビットを動かす。3Dモニターの映る光景が大きく動き、イェルグの顔のアップから、武骨な金属製の空間の内装を経由して、"外"を映し出す。その光景を見た瞬間…渚を始め、星撒部の部員一同、そしてノーラは表情を凍らせ、息を飲んだ。

 

 荒れ狂う紅蓮の一色が、そこには映っていた。

 植物や木製品といった可燃物はおろか、石も、金属も、コンクリートも…目に見える全ての物体が、獰猛な業火に呑み込まれている。もしかすると、大気すらも業火の燃料に成り果てているかも知れない。発生した黒煙すら、即座に赫々に染まって燃え上がるその光景は、焦熱地獄そのものだ。

 3Dモニターの視界が動き、今度は空を映し出す。天高くそびえ渦巻く火炎の摩天楼の合間から、『天国』が見えるので、この場所がユーテリアと同じく地球上に存在していることが分かる。しかしながら、『天国』の有様は、ユーテリア上空のそれとはあまりに異なる――大蛇のような紅炎が吹き上がる、恒星表面のような有様だ。

 そう、『天国』の外観は地球上で一様ではなく、変化するのだ。その原因は、『天国』直下の地域の魔法科学的環境――特に、『現女神』の活動が関連すると言われる。ただし、学術的には未解明であり、あくまで推測の域をでないものだ。

 この凶悪な『天国』を埋め尽くすように群れて飛ぶ、爆撃機のような存在が見える。イェルグがご丁寧にこの物体を拡大表示すると…それは、どこかヒトを思わせるものの、ヒトにしてはあまりにも異形の存在であることが分かる。鼻と眼窩の窪みがかろうじて分かる、のっぺらぼうの顔。首から下は細長いクサビ状になっており、手足はない。代わりに、腕が生えるべき部分から臀部にかけて、大きな弧を描く器官がある。この器官の周囲には、一定の間隔を置いて並べられた炎の玉が十数個見える。

 地上に業火をもたらしているのは、この異形の飛行物体たちだ。炎の玉を一斉に解き放って、豪雨のように紅蓮に染まった大地に降り注いでいる。すると、焦熱地獄に更なる赤が大きく爆ぜ、残酷な彩りが鮮やかさを増すのだ。

 

 「…ひどい…」

 ノーラは思わず、戦慄き声を唇の隙間から漏らす。

 その一方で、イェルグが天空を映したまま尋ねる。

 「20分前に突然出現しやがってね、この有様だ。

 それで、どうかな、副部長? 飛んでるヤツら、『天使』だと思うんだけどさ。 もしそうなら、どこの"おばさん"がはしゃいでるか、分かるかい?」

 「"獄炎の女神"オリュアドネのヤツじゃ。毎度のことながら、エゲつない『求心活動』じゃな」

 渚が、まるで見知っているように『現女神』の名を口にして即答する。

 求心活動…その言葉を聞き、ノーラがはっと目を丸くする。それは、『現女神』が己の力を増強するために、人々の信仰心を集めるための活動のことだ。しかし…。

 「こんな破壊活動が…殺人行為が…求心活動なんですか…!? 『女神戦争』ではなくて…!?」

 ノーラの問いに、渚は3Dモニターから目を離さずに答える。

 「恐怖は、古来より人心を集める常套手段じゃ。"獄炎"のみならず、これに倣う『現女神』どもは少なくない。己の力を魂に刻み付ける、絶好の手段じゃからのう。

 特に"獄炎"の場合、人々の肉体を滅ぼす結果になろうとも、問題にせぬ。あやつの炎は、肉体だけを焼き焦がし、霊魂を剥き出しにさせる。つまり、強制的にヒトを幽霊に変えることが出来るのじゃ。信仰心は、その幽霊たちから吸い上げるのじゃよ。

 …全く、エゲつない話じゃ…!」

 ノーラは、絶句する。『現女神』という存在に血生臭い話が付きまとうというのは、『女神戦争』の存在から想像していた。しかし、戦争の外側にも、このような凄惨な仕打ちが繰り広げられていようとは…想像だにしていなかった。

 (父は…一族は…私に、こんな存在になれと、望んでいるというの…!?)

 愕然とするノーラを余所に、イェルグと渚のやりとりが進む。

 「オレ達としては、『地球圏治安監視集団(エグリゴリ)』が出張ってくれるまで、持ちこたえるだけだったんだが…どういうワケか、出てくる気配が全然ない。

 だから、この都市国家(まち)の住民の希望に沿って、状況を打破することにしたよ」

 「ならば、わしらも全力で加勢に行くわい!」

 「いや、それはいかんでしょ。相手側は、"おばさん"が降臨してないんだ。その状態で副部長が出張ると、状況は『求心活動』じゃ済まなくなる。

 それに、明日の折り紙の用意、まだ終わってないでしょ? こっちの勝手な都合で延期やら中止やらになったら、待っててくれてる人達ががっかりするでしょ。それは星撒部としてやっちゃいかんよ」

 「…ならば、どうするつもりじゃ?」

 「ロイを加勢によこしてくれ。どうせ不器用なんだし、折り紙の戦力になってないだろ?

 …それに、ロイの力は、この状況を打破にうってつけだ。

 だよな、ロイ?」

 イェルグの言葉に、ロイはやる気のたぎる凄絶な笑みを浮かべると、拳と掌を打ち合わせると共に、尻尾を強かに床に打ち付ける。

 「その言葉は気に喰わねーが…ああ、お前の言う通りさ! 折り紙より、こっちの方がオレ向きだ!」

 「ロイだけで、済むのか?」

 渚が険しい顔を崩さずに問うと、イェルグは自分の顔をディスプレイに映し、頭を掻く。

 「うーん…方術使いも居てくれれば、色々と力強いんだけど…。

 蒼治は、折り紙の魔化に忙しいでしょ?」

 「そうだな…あと1時間くらいは掛かるかも知れない」

 「うーん…それまで、なんとか持たせるしかないかぁ…」

 蒼治の答えに、イェルグが腕を組んで唸っている…と。

 「あの…私、方術は得意な方です。お手伝いできると、思います」

 そう声を出した者がいる。ノーラだ。声は少々おずおずとしていたし、緑の瞳は不安げに揺れている。しかし、固く結んだ唇から、そして、瞳の奥に宿る眼光から、固く勇壮な決意が読み取れる。

 それを見た蒼治が、眼鏡の向こう側に驚きと狼狽を宿し、ノーラを慌てて引き留める。

 「いや…君は部員じゃないだ! だから、こんな厄介事に首を突っ込まなくていいよ!」

 ――そう、関わる必要なんてない。そんなことは、ノーラ自身も分かっている。

 それでもあえて、地獄を目にした上で、進み出ようとしたのは、なぜか。背負わされた"希望"の具現化である『現女神』の所業に、失望と怒りを感じたから? その激情を力いっぱい、ぶつけてやりたいから? …確かに、それも理由の一因だろう。

 しかし、それ以上に彼女を突き動かす動機がある。

 

 それは、希望だ。

 ノーラの空虚な心に灯った、小さな小さな輝きが訴える。

 具体的にどうすれば良いか、どこへ行けばいいのか、分からない。

 それでも、羽ばたいてみたいのだ。

 たった一人なら心細いかも知れなくても…自分を受け入れてくれたこの星撒部の人たちとなら…!

 何のしがらみに苦しむこともなく、何処へでも飛んで行ける気がする!

 

 「お役に立ってみませす! だから…お手伝いさせてください!」

 そう訴えるノーラの声から、震えが消えた。瞳からは不安が消えた。そして揺るがない決意だけが、炎のように全身から立ち昇る。

 この様子を見ても、蒼治はまだ躊躇いを見せていたが…。そこへ、ノーラの決意を後押しする力強い一声が現れる。

 「オレは、連れて行くぜ」

 声の主は、ロイだ。彼はノーラの方に温かい掌をポンと乗せ、言葉を続ける。

 「ノーラは自分の意志で、自分の輝きに従って、"来る"って希望したんだ。その希望を拒否するなんて、オレ達らしくねぇ。違うかよ、副部長?」

 そう話題を振られた渚は…満面に楽しげな表情を浮かべると、首を縦に振ってロイに同調する。

 「良いじゃろう! わしが全責任を持つ! ノーラよ、ロイと共に行ってくるが良い!」

 「…全責任を取ることになるのは、渚じゃなくて、顧問の教官でしょ…」

 蒼治が小さく突っ込むが、渚を引き留めることはしない。彼は知っているのだ、"暴走厨二先輩"と呼ばれる彼女が一度決めたら、もうテコでも動かせないということを…。

 そして渚は、二人を送り出すべく、彼女自身の力を行使する。キンコン、と澄んだ鐘の音が彼女の背後から響くと同時に、空中に純白に輝く円が出現。円の中からは羽毛の形をした光の雫が垂れると共に、異様な人型が逆さまに出現する。体中がベルトやら鎖やらで覆われ、胸には巨大な金属の錠前を付け、背中には一対の翼を生やしたその姿は、まるで…。

 (まさか…副部長さんって、まさか…)

 ノーラが目を丸くしている最中、渚の召喚した異形は右腕を差出し、人差し指を伸ばす。すると、指の先数センチの所に、宙を走る青白い輝線が出現。数秒の後、中央に大きな鍵穴を持つ両開きの扉の形を描かれると、それが実体化。次いで、異形の人差し指が鍵になり、鍵穴の中に進入。ガチャリと重い音が開錠を告げ、扉がゆっくりと開く。その先に見えるのは…眩いばかりの純白だ。

 「おぬしらが目指す先は、その光の向こうじゃ!」

 ウインクしながら声で二人の背中を押す、渚。それに突き動かされて、軽やかに一歩踏み出す、ロイ。対して、ノーラは眼前の出来事に心を奪われて茫然とするばかりだ。そこへロイが振り返り、ニカッと真夏の太陽の笑顔を見せると、逞しい腕をノーラに伸ばす。

 「行こうぜ、ノーラ! 絶望をブッ潰して、笑顔の星を振り撒きに!」

 ロイの笑顔を視界いっぱいに映すと、ノーラの表情から茫然が消える。そして彼女の顔に現れるのは、険しくも輝きを秘めた、決意だ。

 「…うん!」

 ノーラが、ロイの手をしっかりと掴む。その途端、ロイはグイッと力強くノーラを引き、光の中へと飛び込んでゆく。ノーラもまた、ロイの勢いに負けじと床を強く蹴り、光の中へと進む。

 

 向かう先にあるのは、巨大なる焦熱地獄。

 二人は各々の胸に抱く希望の輝きを武器に、この凶悪なる絶望に立ち向かう。

 

 - To Be Continued -

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Stargazer - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 "戴天惑星"地球上に散在する都市国家。それは大きく2つの種類に分類される。

 1つは、『女神庇護下都市』。その名から用意に想像できる通り、『現女神』の勢力下に入ることで、国家の体裁を整えている都市国家である。よく知られている例としては、"慈母の女神"アルティミアが治める"希望学園都市"ユーテリアや、"清水の女神"イリユーナが治める"水園都市"アクアリスなどがある。これらの都市は『現女神』の特性がよく反映され、個性豊かであることが常だ。

 もう一つは、『エグリゴリ庇護下都市』。"エグリゴリ"とは、『現女神』たちとは中立の立場を堅持し、全異層世界に渡る人類の損益的観点から地球および『天国』の統制を目指す、超異層世界間組織『地球圏治安監視集団』の公式的な呼称だ。このエグリゴリに加盟し、彼らの庇護を得て国家の体裁を整えている都市国家のことを指す。都市国家としての独自性を持つかどうかは、個々の行政や住民たち次第である。大抵の場合は、独自性にまで気を回すような余裕はなく、没個性的で無機質な都市が出来上がることが多い。

 

 星撒部の別働班が訪れていたのは、後者のタイプの都市国家。"音楽の都"として全異層世界中に名を馳せる地、アオイデュア。

 別働班に与えられた任務は、先に渚が話していた通り、この地で行われるコンサートの運営手伝いだ。依頼主は、地球に籍を置く弱小芸能事務所。所属する若手女性アイドルグループの初コンサートを、名高いアオイデュアで成したいとのこと。しかし、希望する規模のコンサートを開くには、資金も人材も足りない。そこで、(実に虫の良い話だが)優秀なボランティア人員を探し求め、星撒部に行き着いたワケだ。

 「ウェブを通じて地道に知名度を上げて来たんです! 応援してくれているファンのためにも! そして彼女たち自身のためにも! どうしても、夢のある大きなコンサートを開きたいんです!」

 事務所社長自らがアイドルグループのメンバー達を率い、副部長の立花渚に向かって深々と頭を下げる。それを見て渚は、花がほころぶような有様で満面の笑顔を咲かせると、形の良い双丘をたたえる胸をドンと叩く。

 「任せい! おぬしらにも、ファンたちにも! これからおぬしらのことを知る者達にも! 笑顔の星を届けてやるわい!」

 そこで渚は任務遂行のために、イェルグら3名の部員を選出した。

 対して、依頼主が希望するイベントの規模は、来客数が数万人レベルの大きなもの。これにたったの3名の援軍では心もとなく思えるかも知れない。

 しかし、彼らは異層世界を股にかける英雄として将来を嘱望されている優秀な若者たち。彼らの強力な能力を駆使すれば、一騎当千の働きを実現することが出来る。

 実際、イェルグらは依頼主が舌を巻く活躍をしてみせていた。コンサートは大きな混乱もなく、スタッフが無茶なタスクでてんてこ舞いになることもなく、穏やかに、そしてスムーズに進んでいった。また、星撒部が主導していた事前の宣伝も効果を発揮し、予想を上回るの来客数も確保できた。依頼主のみならず、来訪者たちの顔にも楽しげな笑顔が灯り、この任務は成功裡の内に終わりを迎える…はずだった。

 

 誰もが、このアオイデュアに『現女神』の魔手が伸びようとは、考えてもいなかった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 渚の作り出した扉の向こう側に広がるのは、純白一色の空間と、一直線に伸びる虹色の道だ。転移空間の一種だろうが、ノーラが見知った通常のものとはかなり違う。転移空間は普通、オーロラが満ちる星空のような光景をしているものだ。これはおそらく、渚が独自に作り上げた転移空間なのだろう。

 「もうすぐ到着するぜ! ビビんねーように、心の準備しといてくれよ!」

 ノーラを手を引いて先を走るロイが、ちょっと意地悪げに笑みを送ってよこす。そう言っている側から、道の先に周囲の純白に全く溶け込まない、暗い色彩の窓口が見える。転移空間の出口だ。

 「それじゃ、飛びこむぜッ!」

 ロイが力強く地を蹴り、引っ張るノーラごと宙を跳んで出口に入った――その直後。

 「のわあぁっ!? ――ぶべっ!」

 驚きの叫び、次いでカエルが潰された時のような情けない悲鳴を、ロイが上げる。出口の向こう側、数歩先にあったのは、武骨な金属の壁だったのだ。疾走の勢いのまま飛び出したロイは、大の字を姿で壁にビタンッと激突したのである。

 しかし、彼の災難はこれで終わりではない。

 「ロイ君ッ! ごめんなさいッ!」

 申し訳なさそうな悲鳴と共に、ロイに引っ張られたノーラが彼の背後へと飛び出し、激突。ロイは他人(ひと)の事を心配するよりも、自分の状況を鑑みるべきだったようだ。

 「ぐえっ! …痛っつつ…」

 「ごめんなさい…っ! 手を引っ張られてたから、どうしても回避できなくて…」

 「いや…ノーラが悪いワケじゃねーよ。オレの不注意が原因だからさ…。

 そんなことより…ここは…?」

 ロイとノーラは激突した箇所を摩りながら、周囲を見回し――即座に、息を飲む。

 

 そこは、武骨な金属の壁で囲まれた閉鎖空間である。容積自体は大型トラックのコンテナ並みの広さを持つが、余裕は一切感じられず、むしろ窮屈な印象を受ける。

 その理由は、空間を埋め尽くす数々の器具や箱と、人々の姿だ。器具や箱は治療のための道具や薬の類ばかり。簡易寝台も2つ設置されており、その両方に人が安静に寝かされている。この2人の人物は包帯まみれで、数種類の点滴を受けている。包帯の隙間からわずかに覗く皮膚には、赤を通り越して黒っぽく腫れあがった重度の火傷が見て取れる。浅くて早い胸の上下が危篤状態を物語っており、彼らを取り巻いて数人の人物たちが予断なく様子を伺っている。

 彼らの他にも、この空間の中には人々がぎっしりと詰まっている。みな、身体中煤だらけで、何処かしこには応急処置を受けた跡が見える。身に着けている服や髪の毛がチリチリに焦げている所をみると、彼らも寝台で寝かされている者達同様、火傷に苛まれていることが分かる。

 人々はみな、座りこみ、無言を貫いている。唯一例外なのは、寝台の重症者を世話している者達だけだが、彼らとて最低限度の情報を口早にやりとりするだけに過ぎない。その他の者達は、老若男女の誰もが恨み言も、慰め合いも、一切口にしない。恐怖に戦慄(わなな)く瞳で虚空を見つめているだけだ。彼ら同士の気遣いとして見て取れるのは、家族関係にあるらしい者たちが身を寄せ合っている光景くらいのものだ。

 ここに居る誰もがみな、焦熱地獄によって心身ともに疲弊しきっている――ノーラたちは、この空間に満ちる雰囲気から、その無残な事情を悟った。

 

 ギリリッ…剣呑な歯噛みの音が、ロイの口元から漏れる。星撒部の理念"笑顔の星を灯すこと"に大いに入れ込んでいる彼にとって、この状況はとても許しがたいものに違いない。

 「あの…星撒部の方々…ですよね?」

 そんな彼の様子に気圧された声が、おずおずと掛かってくる。声の主は、応急処置を行っている中年男性だ。鈍い銀色に輝く耐火服を着込んでいる姿から見るに、この都市国家の防災局の機動部隊のようだ。

 「ああ、その通りだぜ。

 ここは、一体どこなんだ? 避難所の中か?」

 ロイの疑問に対し、防災局員は首を横に振る。

 「装甲トレーラーの荷台部ですよ。車体は、部員の方に提供して…というか、"製作"していただいたものです。今、この都市国家(まち)には、十数台が走り回って、消火と救護活動に当たってますよ」

 「そっか、大和(やまと)のヤツか。あいつ、ちゃんと仕事してンだな」

 大和という名をノーラは初めて耳にする。イェルグと同じく、このアオイデュアを来訪していた部員の一人のようだ。

 「それで、」防災局員は天井の一画を指差しながら語る、「お二人がここに来たら、上に来るようにと、イェルグから言付けを受けてました」

 彼が指差した先にあるのは、円形のハッチだ。下方には壁伝いに梯子が下りている。

 「オッケー。

 それじゃノーラ、行ってみようぜ」

 言うが早いか、ロイはひょいひょいと人だかりを軽やかに抜けて、梯子へと向かう。ノーラは彼ほど器用に動けず、「すみません…」と断りを繰り返しながら慎重に人々の合間を縫い、ようやく目的地に辿り着く。

 ノーラが梯子を上り始めると、急に上から大粒の水滴がシャワーのように降り注いでくる。部室に居たころ、ナビット経由で見た街並みは、業火で染まっていたはず。一体どうなっているのかと見上げるが、ロイの身体が邪魔してハッチの外の様子がよく見えない。取り敢えずは、梯子を上る作業に専念した方が良さそうだ。

 ようやくハッチを上り切り、身を閉鎖空間から引きずり出すと…痛いほどの勢いで降り注ぐ豪雨が、全身を襲う。ここでようやく外界の様子を見回すことが出来たノーラは、思わず唖然とする。ナビットで見た光景とは、あまりに違い過ぎる。

 頭上が、分厚い漆黒の雲で覆われている。"上空"ではなく"頭上"と表現したが、これは正しい表現だ。黒雲はノーラの頭上2メートルほどに底面を広げているのだから。この底面から大きな雨粒が高密度で降り注ぎ、ノーラの身体や、トレーラーの重厚な外部装甲を強かに打つのだ。激突した水滴が弾ける瞬間、青白い輝きがポゥッとホタルの光のように灯る。それは、魔術の励起光だ。

 「スゲー派手にやってンなぁ、イェルグ!」

 豪雨の騒音に負けじと、ロイが大声を張り上げる。すると、装甲の上にふらりと直立している男が、ロイに負けない声量で返事をしつつ、歩み寄ってくる。

 「相手も派手な威力だからねぇ! これぐらいでも全然、足りないぐらいだよ!」

 声の主が近寄るにつれて、黒雲の影に隠れていた細部が明らかになってくる。ずぶ濡れになった民族衣装と長い黒髪を身体に張り付け、穏やかな笑みを浮かべている男。ナビットで見た、イェルグと呼ばれている人物そのものだ。映像では煤だらけだった顔は、激しい雨滴によって綺麗に洗い流されている。ただし、点在する火傷はいかんともしがたく、痛々しい存在をまざまざと見せつけている。

 「よく来てくれたよ、ロイ!

 それに、初めまして! えーと…ノーラさん、だったかな!? オレは星撒部2年生の、イェルグ・ディープアー! "空の男"って呼んでくれると嬉しいね!

 もう少し自己紹介したいところだけど…さっき通信で見せた通り、余裕がなくてね! さっそくだけど、仕事を頼みたい…」

 語る傍から、黒雲に異変が生じる。突如、朝焼けよりなお鮮やかな赤の輝きが雲中に発生した…その直後。雲の底面が爆発的に膨張し、乾いた熱風と共に霧散する。そうしてポッカリと生じた穴の中からは、真紅に燃え盛る炎の体を持つ、トラに似た顔面と体格を持つ怪物だ。おそらく、都市国家(まち)中にバラまかれた魔法の炎から生じた暫定精霊(スペクター)だ。爆燃する炎の暴虐性が、そのまま形を成した姿である。

 突然の襲撃に、ロイとノーラの顔に電撃的な緊張が走る。特にロイは星撒部で何度も実戦を潜り抜けた身だ、早くも応戦すべく身構える。

 しかし、誰より早く応戦に動いたのは、イェルグだ。

 「ったく、しつこ過ぎだよ。おちおち話しもできやしない」

 苦言を呈しながら、幾重にもズブ濡れの布地が巻かれた右腕を持ち上げ、炎獣に人差し指をビシッと突きつける。直後、ゴボゴボと音を立てながら、指先に渦巻く巨大な水塊が発生。顔面より二回り大きい球を形作ると、転瞬、炎獣の威嚇する顔面へと砲撃の速度で射出する。

 水塊は炎獣の顔面に直撃した途端、大きな飛沫と共に青白い魔術励起光をバラ撒く。すると獣を形成する炎はもうもうたる黒煙を上げながら、急速に勢いを削がれてゆく。怒り狂うトラの顔は、空腹で衰弱したノラネコのような情けない表情を作ると、燃え尽き行く蝋燭の炎のような有様で消滅する。

 炎獣が消えた後、黒雲は焦熱で作り出された穴をただちに埋めると、何事もなかったように豪雨を降らせ続ける。

 この光景を見たノーラは、思わず息を飲む。

 (あの炎の暫定精霊…『現女神』の強力な魔力で作り出されてるから、ものすごく安定した協力な構造をしていた…! 水だって燃やしてしまう程の、強烈な火魔素(ファイア・ファクター)で満ちていたのに…!

 たったの一撃で、跡形もなく消してしまうなんて…!! この人、ものすごい実力者だ…!)

 ノーラの驚きを意に解せず、イェルグは彼女らに向き直ると、穏やかながらも苦々しさがこもる笑みを浮かべる。

 「まぁ、今見たので大体予想がつくと思うけどさ。この雲の外側じゃあ、都市火災はまだまだ健在さ。

 オレたちが一生懸命消火して回ってるってのに――まぁ、雨を使って消火してるのは、オレくらいのモンだけど――すぐに、雨や消火剤の魔力成分が昇華しちまって、油みたいに燃え上がちまうんだ。ホント、やってもやってもキリがなくてさ。対応を初めてまだ30分も経っちゃいないが、いい加減うんざりしちまってる人も多い」

 "オレたち"という言葉に、ノーラがちょっと眉根を寄せて反応する。

 「あの…下のスペースには、この都市の消防局員の方々が居たようですけど…。今回の件は、星撒部だけでなく、消防局の方々とも連携してるってことですか?」

 「そりゃあ、勿論だとも」

 イェルグが笑みを張り付けたまま、首を縦に振る。

 「いくらオレたちがユーテリア最強の生徒たちだからって、手足も頭も無限にあるワケじゃない。人手が足りない時、必要なスキルがない時には、適切な助っ人に声をかけて協力してもらう。そういう柔軟な発想がなけりゃ、オレたち星撒部の依頼達成率・満足度ともに100パーセントって業績は作り出せないさ」

 (…達成率はともかく、満足度も100パーセントなんだ、この部活…)

 ノーラは自身の質問の答えより、イェルグが口にした自慢の方に大いに関心を寄せる。そして、口の端にこっそりと苦笑を浮かべる。"暴走部"と呼ばれているこの部活が、依頼主の機嫌を損ねたことがないというのが、どうにも信じ難かった。加えて、自ら"ユーテリア最強の生徒"と豪語する態度もまた、滑稽な印象を受ける。

 「あれ? オレ、なんか面白いコト言ったかな?」

 ノーラの小さな表情の変化を目敏く認識したらしい、イェルグが不思議そうな顔をして問うてくる。ノーラはギクリとしながらも、ぎこちない愛想笑いを浮かべて、話題をなんとか流そうとする。この試みは功を奏したようで、イェルグはそれ以上追及してこなかった。

 代わりに彼は、相変わらずの土砂降りの中、雨宿りを提案することもなく本題に入る。

 「ともかく、来てもらってすぐで悪いんだが、早速作業を頼まれて欲しい。

 まずは、ロイなんだけどさ」

 イェルグは右手の親指を立てると、黒雲立ち込める頭上に向けてクイクイと拳を上下させる。

 「ちょっくら空を飛んで、"獄炎"のオバさんの天使ども相手に大暴れしてくれ。ヤツの目がお前に向くように、出来るだけに派手にね。

 勿論、ブッ倒して天使のヤツらの数を減らしてくれても構わんよ。

 要は、地上に降りてくる炎の数を減らせりゃいいのさ。今の状態じゃ、イタチごっこどころの話じゃないからな。

 もっと欲を言えば、天使どもの相手がてら、地上の消火につながるような行動を繰り出してくれると助かるよ」

 「地上の消火の足しできるかどうかは、天使どもの出方次第によるけどさ…まぁ、努力してみるさ」

 ロイは都市をまるごと火災に苛むような天使を相手にするという話にも拘わらず、臆するどころか、気力に満ちた痛快な表情を浮かべる。それを見たノーラが、慌てて諌めの言葉を口にする。

 「あの…二人とも、待ってください…!

 相手は、天使ですよ…!? 私たち人類どころか、いかなる生物とも、いかなる物質とも全く異なる、独立した強力な定義体系で出来てる存在ですよ…!?

 それを相手に、専用の魔術兵装も無しで挑むなんて…! 無謀じゃないですか…!」

 ノーラの懸念は、一理ある。天使とは、つまり、『現女神』が作り出す化け物である。その存在は魔法科学を含む自然法則体系に則らず、『現女神』が敷いた独自の法則『神法(ロウ)』にのみ従う。故に、『現女神』が認めない事象は、天使には通用しない。動き回るのに栄養も不要で、いかなる武器でも傷つかず、作用・反作用や慣性に縛られることなく空間を自在に動き回る。そんな天使に対抗するには、天使自体を定義している『神法』を上回る強烈な定義の上書き――つまり、我を通す――ことが必要だ。しかし『神』の名を冠する存在の持つ強烈な性質を上回るような精神力を練り上げるなど、いくらユーテリアの英雄候補生と言えども至難であろう。

 ところがロイもイェルグも、ノーラの懸念を受けてなお、軽々しささえ感じる笑みを浮かべる。

 「まぁ、確かに他のヤツがやるなら、無謀だろうけどな。オレたちは、希望と笑顔のためには不可能を可能に変える、星撒部だぜ?」

 ロイが勇ましく言葉を口にする。だが、言葉だけでは納得いかないノーラは更に引き止める言葉を口の中で紡ごうとするが…ふいにイェルグに肩にポンと手を乗せられ、言葉を飲み込む。しかしながら、豪雨に濡れる顔に思いっきり心配そうな表情を張り付け、イェルグの顔に真正面から非難を含んだ視線を浴びせる。

 「いやいや、そんなに心配しなさんなって」

 イェルグはウィンクして見せる。

 「ロイは1年生だが、戦闘技術については3年生も顔負けの実力者さ。

 それに、オレたちが天使どもを相手にするのは、これが初めてじゃない。結構手馴れてるんだぜ、オレたち?」

 この言葉に、ノーラの顔が信号機のように一転、今度は驚愕の表情に変わる。――天使を相手にするのが、手馴れている!? 確かに、"暴走部"こと星撒部は『現女神』と事を構えたことがあると噂では聞いていたが…冗談ではなく、真実だというのか!?

 言葉を失うノーラを他所に、ロイがイェルグに一言、確認を問う。

 「ところで、オレが空飛んじまっていいのか? いつもなら、オレが空を飛ぶって言って譲らないアンタなのにさ」

 「勿論、飛びたいさ。こんな地獄の空だろうが、空にゃ変わらんしね」

 イェルグは腕組みすると、悩ましげに顔を曇らせて答える。

 「とは言え、オレだってさすがに、時と場合は考慮するさ。

 現状、オレまで天使を引き付けに空に飛んだら、地上の消火作業に大きな穴が開いちまうからな。…まぁ、その穴さえ閉じれるなら、すぐにでも空に飛ぶってことだけどな。

 それが可能かどうかは、ノーラちゃんに係ってるんだけどね」

 チラリと視線を走らせてくる、イェルグ。ノーラの表情は今度は、キョトンとしたものに変わる。――確かに、役に立つためにここまで来たのではあるが…彼ら実力者を相手に、一体どんな協力を求められるというのか。

 その疑問を口にするよりも早く。

 「それじゃっ、さっさと天使どもを蹴散らしてくるぜ!」

 ロイが豪雨を降らせる黒雲を見上げながら、声高に宣言した、次の瞬間。

 それまでのノーラの思考をすべて吹き飛ばす強烈な変化が、ロイの身体に発生する。

 

 まずロイは、ズブ濡れになった制服の上着を剥ぎ取り、靴下ごと靴を脱ぐと、ノーラの方へと放る。

 「悪ぃ、ノーラ。それ、持っててくれ」

 ノーラは慌てて上着を受け止める。水をたっぷりと吸った衣類が、ズッシリとした重量感を腕に伝える。

 今やロイの上半身は、無駄なく筋肉の引き締まった裸体を豪雨に晒している。滝のように流れる雨滴が、英雄像の彫刻のように隆起した筋肉の合間を伝って流れてゆく。

 次いでロイは、歯茎をむき出しにしてギリギリと歯噛みしつつ、身体をバネのように縮め、全身に力を込める。力のこもった筋肉が山のようにモリモリと隆起しながら、その表面から蒸気のように揺らめく赤の輝きが発生する。それは魔力励起光の一種で、『闘気煙光』と呼ばれるものだ。この現象は、ロイが『闘気』と呼ばれる魔力の一種を体内で練り上げていることを意味している。

 …ところで、『闘気』とは何か。厳密には魔力と同一のものである。思考を初めとする精神活動ではなく、呼吸や演武動作といった肉体活動で発生させる魔力を、伝統的に『闘気』と呼んでいる。闘気は直感性に大きく依存するため、理論性に依存する魔術とは何かと対比されたり、別分野として論じられることが多い。

 さて。ロイの闘気が爆発的に膨らみ、赤い輝きは煙というより火炎のような体を見せるようになったころ。彼の身体の変化が、本番を迎える。

 まず、真紅の髪の内から、鋭い槍先のような銀色に輝く角が2本、ズルリと伸びる。むき出しにした歯茎の形が変わり、犬歯よりも鋭い、肉食獣の牙へと変じる。手足に闘気の赤煌が球のように渦巻き集中すると、その内側で手足の色と形状が変化。頭上の雨雲よりも濃い漆黒へと変じ、恐竜に似た鱗持つゴツゴツした手足へと変じる。その指先には、鎌のように鋭く伸び尖った爪が生えている。

 そして何より目につく変化は、背中だ。肩甲骨の辺りから闘気が細かく枝分かれした樹木のように伸びると、その内側に漆黒の繊維がスルスルと生えてくる。やがて、繊維は絡み合って広い体積を成すと、肉厚の龍の翼となった。その翼長は、伸ばした腕の長さよりも拳数個分も大きい。

 変身したロイの姿を見たノーラは、はっと息を飲む。変身前、目立っていた尻尾から、彼のことを爬虫類系の獣人だと考えていたのだが…違う!

 (賢竜(ワイズ・ドラゴン)!!)

 ノーラは胸中で叫ぶ。そう、ロイは"戴天惑星"地球にのみ存在する、高い知性と社会性そして強大な魔力を持つ希少なドラゴンの一種、賢竜なのである。彼らに関する数少ない目撃例からは、彼らの姿は非常に多様である――いかにもドラゴンといった形から、人類と同様の姿まで――と確認されている。どのような姿をしてあれ、超異層世界人権委員会(アドラステア)からは、公式に人類として認定されている種族である。

 …ちなみに、獣と同様の知性と行動を持つタイプのドラゴンは獣竜(サヴェッジ・ドラゴン)と呼ばれ、人類としては扱われないなど、明確に区別されている。

 

 変身を終えたロイは、愕然と視線を送るノーラに気づくと、牙を見せながらニカッと笑んで見せる。口元や角で多少威圧感は増しているものの、浮かべたヒマワリのような笑顔は元のロイそのものだ。

 「どうだ、スゲーだろ? オレは気に入ってるんだぜ、この姿! カッコいいし、何より強そうだろ? 賢竜に生んでくれたかーちゃんには感謝感謝ってモンさ!」

 「…うん…すごいね…」

 ノーラがやっとこ、それだけの言葉を絞り出した…その時。

 再び、豪雨降らす黒雲に暴力的な真紅の輝きが灯り、異変が生じる。積乱雲を蒸発させながら雲層を掻き分けて現れたのは、今度は巨大なクチバシを持つハゲワシにも似た火炎鳥だ。先の虎とは大分姿は違うが、火炎の暫定精霊には違いない。

 驚愕をはっと払い除け、背中の大剣に手を伸ばすノーラ…その手を、イェルグが静かに止める。何をするのか、と非難と焦燥の混じった眼差しでノーラは彼を見つめるが、イェルグは穏やかな笑みを浮かべたままだ。

 「キミ、ロイのあの姿を見るのって、初めてなんだろ? それなら、話のタネに見ておいたら? アイツの実力を、さ」

 言ってる傍から、火炎鳥は巨大なクチバシを開くと、その隙間から黒雲ごと大気を吸い込む。豪雨も何のその、火炎鳥にとっては油にも等しいようだ。大気を飲み下すにつれて、長い首…というか咽喉が太さを増し、やがて丸太ほどの大きさにまで達する。飲み込んだ大気を体内で爆燃させ、火炎の吐息を作り出しているらしい。

 対してロイは、危機感の欠片もなく、暴力的にして愉快そうな笑みを満面に浮かべている。

 「ドラゴンに対して、息吹(ブレス)勝負を挑もうってのか!? いいぜ、相手になってやるよ!」

 啖呵を切った直後、ロイもまた牙だらけの口腔に大気を吸い込む。ただし、火炎鳥のように長い吸気ではない。ヒュッ、と鋭い疾風のような吸気をほんの一瞬、行っただけだ。別に胸腔が膨らんでいる様子もない。その程度の予備動作で、巨大な暫定精霊の攻撃に対抗できるのか?

 それが杞憂であることを、ノーラはほんの数瞬の後に知る。

 ゴウッ! 火炎鳥がクチバシを全開にすると、真紅を通り越し目を潰さんばかりにオレンジ色に輝く灼熱の息吹が吐き出される。その様は、まるで天から滑り落ちてくる、煌めきの雪崩のようだ。豪雨の雨滴をジュッと蒸発させながら、爆発的に膨張した業火が装甲車の上部装甲に迫る。

 対してロイは、両足を肩幅ほどに開き、腰を落としてしっかりと大地を踏みしめると。迫りくる炎の雪崩に対面し、牙だらけの口腔を大きく開き――叫ぶ。

 ガアアァァッ!

 大気がビリビリと震動する。その衝撃は大気だけにとどまらず、頭上の積乱雲の塊を崩れた綿菓子のように歪ませ、踏みしめる重厚なる装甲車の表面に電撃のような波動を走らせる。同時に、ロイの開いた口の数センチ手前に、正六角形の青い魔術式文様が出現。これを通り抜けた強烈な咆哮は、青みを帯びた白の奔流と化す。この奔流の正体は、非常にキメの細かい、極寒の氷雪の塊だ。その表面に煌めく氷雪の反射には、青白い魔力励起光の輝きがチラリと見て取れる。

 闘気によって咆哮を魔化した物質、または化学反応の奔流として吐き出すドラゴン特有の闘法、『竜の息吹(ドラゴン・ブレス)』である。

 氷雪の息吹は火炎鳥の吐き出した業火を丸ごと包み込むと、勢いを全く殺がれることなく、火炎鳥の開いたクチバシへ…いや、その燃え盛る全身へと一気に襲い掛かる。火炎鳥の業火を雪崩とするならば、ロイの息吹は山一つを飲み込むような大津波だ。

 強烈な白の奔流が通り過ぎると、そこには完全に氷結し、活動を停止した火炎鳥の姿がある。その身を形作っている火炎は化学反応に過ぎないというのに、物質同様氷結しているのは、息吹の魔力によるものだろう。火炎鳥のそのまま浮力を失い、氷と化した巨体を重力に導かせ、そのまま装甲車の屋根に激突。ガシャァンッ、と派手な破砕音を響かせ、大小さまざまの氷塊と飛沫と化し、その存在は完全に死を迎えた。

 (…すごい…これが、賢竜の力なの…? それとも、ロイ君個人の実力…?)

 唖然とするノーラを他所に、ロイは火炎鳥が占めていた黒雲の一画を見つめる。火炎鳥が消滅したことで、そこにはポッカリと大穴が開いている。穴の周りは積乱雲にも関わらず、やはりドラゴンの魔力によるものだろう、ガッチリと凍結して氷壁を成している。

 大穴の向こうに見えるのは、先にナビット経由で見た、恒星表面のごとく紅炎を大蛇のように蠢かす、火炎塊と化した『天国』。そして、群れて飛び回る白い異形の鳥…"獄炎"の凶悪な天使ども。

 それらの姿を金色の瞳に移したロイは、暴虐性に満ちた凄絶な笑みを浮かべる。

 「せっかく、突破口が開いたんだ。オレは行かせてもらうぜ!」

 語りつつ、ロイは背の竜翼を一打ちすると、ブワリと身体を宙に浮かせる。そのまま、視線を向ける穴の向こう側へと飛び去る…かと思いきや、彼はふと、顔を巡らせてノーラを見やる。

 「なぁ、ノーラ!」

 牙だらけの口腔から、雷鳴のような声を轟かせる、ロイ。しかしその響きは、決して威圧的でも破壊的でもない。多少強力で耳うるさくとも、部室でノーラに手を伸ばしてきた時と同じ、逞しくも気優しい響きに満ちている。

 「え…あ、うん…」

 きょとんと聞き返すノーラに、ロイは先とは打って変わった、ちょっと申し訳そうながらも大輪の花のごとき笑みを浮かべる。

 「連れて来ておいて悪ぃけど、ここで一端、別行動になっちまうな。

 でも、気後れなんてするなよ! 離れたところにいようが、オレもノーラも、同じ目的のために力を尽くしていることには変わらねぇ! 同じ志さえあれば、どんなに距離があっても、心は繋がってられるんだってさ!

 …って、副部長の受け売りの言葉なんだけどな! オレのお気に入りの言葉だから、ノーラにも聞かせておきたかったんだ!

 そんじゃ、ちゃっちゃと片付けてくる! また会おうぜ、すぐにでもな!」

 そして右の人差し指と中指を額に当てて、おどけた別れの挨拶を見せると。今度は烈風のごとき強烈さで竜翼を捩じらせるように羽ばたかせると、ロイの身体は砲弾のように急加速し、急上昇。氷結した穴の中を黒い矢となって潜り抜けると、禍々しい赤一色に染まる天空の中の一点となった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ロイは慌ただしく去って行ったが、だからといって残されたノーラ達がのほほんと出来るわけではない。

 「さて、ロイは行ってくれたことだし…」

 イェルグはロイの去った大穴をしばらく眺めた後、人差し指を伸ばした右腕を穴に向けて伸ばす。すると、腕を包む衣服の裾から、黒々とした高密度の雲塊がモクモクと出現。速やかに宙を浮き上がると、開いた大穴の中に入り込んで隙間を埋め尽くす。数秒と経たないうちに、超低空の積乱雲は元の隙のない巨塊へと戻り、ゴロゴロと雲内放電の轟音を鳴らしながら豪雨を大地に叩きつける。

 あっという間に雨粒と雨音まみれになった空間で、イェルグは雨滴が滝のように流れる顔にニッを穏やかな笑みを灯しながら、ノーラに視線を向ける。

 「それじゃ、仮入部…だよね? …ともかく、その身の上で悪いけど、ノーラちゃんにも働いてもらうよ。

 とりあえずは、そのロイの服、車の中の人に預けといたら? それ持ったままじゃ、これから先の作業、すっごい厳しいからね」

 ノーラは即座に、経験者であるイェルグの言に従う。元来たハッチを少し開き、乗っている人たちに「これ、お願いします…」と声をかけると、水でズブ濡れの上着一式や靴などを出来るだけ勢いがつかないように落とす。直下にいた防災局員がうまくキャッチし、了解の意を示して頷いてくれるのを見届けると、ノーラはハッチを閉めて再びイェルグに向き直る。

 イェルグはビショビショの頬をポリポリ描きながら、苦笑いを浮かべつつ語る。

 「作業説明の前に…今更だけど、この雨、大丈夫? 寒くない?

 もし寒くて支障があると言われても、止めることはできないんだけど…雨滴の温度を調整するくらいのことは出来るよ。寒くて体が動かなくて戦力になれない、なんてことになったら、キミだけじゃなくてオレたちも困るし…」

 「あ…お構いなく、です。活動に支障がないよう、身体(フィジカル・)魔化(エンチャント)を掛けてましたから…。

 というか…私独りでかけてしまって、すみません…。イェルグさんにも、かけてあげます…あっ、ロイ君にもかけてあげればよかった…」

 「いやいや、問題ないって。オレは雨だろうが吹雪だろうが日照りだろうが、空から来るものなら何でも平気さ。それに、ロイなんざ生体そのものが魔化の塊みたいなモンだからね、気にすることはないよ。

 それよりも、発動儀式の素振りも見せずに身体魔化をやってのけるなんて、ノーラちゃん、方術師としてはかなり有望だね。かなり安心したよ。これから頼みたいことって、かなーり厳しいからさ」

 穏やかな顔に反して、その口から飛び出た"厳しい"という言葉。その重い響きが、ノーラの身を引き締め、固唾を飲ませる。

 「やってもらいたいこと自体は、単純なんだ。

 オレが消火した地帯を片っ端から魔化して、また燃えたりしないようにしてほしい。

 勿論、魔化の永続化は無理ってのは知ってるよ。だから…そうだなぁ…少なくとも2時間、あの天使どもの炎が効かないようにしてくれりゃ良い。

 方法は任せるよ。キミが出来うる範囲で、機能性もそこそこ高くて、作業時間もあまり長くないやり方なら、なんでもいい。地面に直接方術陣を描くのが一番楽で速いっていうなら、そうやってもらって全然構わない。

 要は、被害の拡大と延焼を効率よく食い止められればいい。

 それともう一つ、キミにはやってもらいたいことがある。っていうか、むしろ、こっちの作業の方が本命だね」

 「どんなことでしょうか…?」

 ノーラは声の端々に緊張を匂わせつつ、問う。イェルグが指示した作業は、はっきり言って、非常に厄介だ。移動に伴って常に変化する広大な面積に対して、リアルタイムで質の高い魔化を施さねばならない。身体一つを魔化する作業とは、比べものにならないほど労力がかかるのだ。しかし、この厳しい作業よりも本命だという作業は一体、どんなものだというのか?

 その答えは、すぐにイェルグが口にしてくれる。彼の顔には、相変わらずの穏やかさが張り付いている。

 「これからオレ達は、作戦拠点に向かう。

 拠点の場所は、オレ達の本来の作業に使っていたコンサートホールさ。そこには、オレ以外の2人の部員もいる。

 そのうちの1人に、神崎(かんざき)大和(やまと)ってのが一年生がいてね。額にアナクロな飛行士ゴーグルをつけてるから、すぐに分かると思うよ。ともかく、ノーラちゃんにはソイツの手伝いをしてもらいたいんだ。

 大和は、ちょっと変わった能力を持っていてね。機械の定義を拡張して、進化した機械を作り出すことが出来るんだ。オレ達が乗ってる装甲車も、その力を使って大和が作り出したのさ。元は普通の乗用車だったんだよ、信じられないでしょ?」

 「そうですね…見た目からだけだと、中々信じられませんけど…物質構造に魔力の痕跡が感じ取れますから、何らかの魔術を使って作ったものだ、とは分かりました…」

 「おっ、ホントすごいねぇ、ノーラちゃんは。そのレベルで一年生とは、御見それするよ。

 まぁ、それはともかく。

 大和の機械定義拡張能力は、機械を無制限に進化できるワケじゃない。車の仲間からは戦車は作れても、飛行機は作れないって感じにね。

 それに似た事情があってね、この装甲車に十分な耐火性能や消火性能を作れないんだってさ。だから、この車以外にも装甲車は走り回ってるけど、消火が出来ないから、専ら人命救助して回ってるだけなんだ。まぁ、それでも十分役立ってもらってるけど、人を探して走り回ってる間、火を消せないどころか、いたずらに装甲を燃やされるハメになってるから、無駄が多いんだよ。

 そこで、ノーラちゃんには、片っ端から装甲車に方術の力で細工を施して、耐火性能や消火性能を向上させてもらいたい。そうすれば、大和のメンテの負担も減るし、何より火災を鎮圧の方向に持っていける」

 大和という一年生の話を聞きながら、ノーラはまたも星撒部に感嘆を覚える。どうやら部員たちは、ロイ達だけが特別なのではなく、みんな一人一人が個性的で強力な能力を持っているようだ。先に"ユーテリア最強の生徒"と自称していたが、あながち的外れではないのかも知れない。

 「…わかりました。部長の蒼治さんほどうまくは出来ないと思いますけど…精一杯、やってみます!」

 緊張を張り付けたままノーラが答えると、イェルグは相変わらずニコニコと笑みを浮かべ、表情でリラックスしろと訴える。

 「そんなに自分を卑下して堅くなっちゃ、出せる実力も出せないよ。ズボラにやっちゃいかんけど、もうちょっと気楽に構えたほうがうまくやれるぜ。

 それに、蒼治だってさ、いくら方術をうまく扱えるったって、都市一つをまるごと魔化できるわけじゃない。この作業は確実に、あいつも手を焼くだろうさ」

 イェルグは一しきりフォローすると、やや口調を怪訝の色に染めて、付け加える。

 「ところで、オレ達の部長は蒼治じゃないよ。あいつは会計兼書記だからね」

 「え…そうなんですか?」

 ノーラはきょとんと聞き返す。部室の様子から、蒼治が部長であると確信しきっていたので、この話は全くの肩透かしだ。

 活動力のある(良い意味でも悪い意味でも)渚が副部長の地位に甘んじているということは、彼女の上に立つ人物は、彼女をある程度御せる常識と実力を兼ね備えた者であろうと判断していた。その点を考慮するに、一番適切なのは蒼治かと思っていたのだが…。

 「まぁ、今は部長のことは置いといて。

 いくら身体魔化してようが、いつまでもズブ濡れってのは気持ち悪いでしょ? さっさとやることやりながら、拠点に向かうとしようか。

 ノーラちゃんは、魔化することだけに集中してくれりゃいい。もしもキミに襲い掛かるような不届き者が出てきたら…」

 イェルグが語っているそばから、積乱雲内に広く赤い輝きが発生し、凶暴な炎の暫定精霊どもの到来を告げる。一瞬後、黒雲の底面を蒸発させながら顔を出したのは、なんと4体もの暫定精霊どもである。そのうち1体は巨大なクマを象っており、牙だらけの口腔から熱風の方向を上げつつ、燃え盛る長い爪を装甲車上に振り下ろしてくる。残り3体は、すべてサメを象ったもので、幾列にも牙が並んだ巨大な口を大きく開き、身体を回転させながら魚雷のように突貫してくる。

 (こんな量の敵、たった一人で捌くなんて、絶対に無茶…!)

 ノーラは背負った大剣に手を伸ばし、炎の化け物どもに対応せんと動く…が。彼女が攻撃行動を成すより早く、イェルグが素早く攻撃行動に出る。

 先刻、炎の虎相手にしてみせたように、人差し指を伸ばした右手を4体の暫定精霊どもに向けて振るうと、ズブ濡れの袖の中からシャボン玉のようにまとまった巨大な水塊が出現。一つ一つが砲弾となって熱風狂う大気を走り、暫定精霊どもに正面から衝突。ビシャンッ、と派手な破裂音を振り撒いたと同時に、暫定精霊たちの気概が一瞬にして衰え、泣き出しそうな情けない顔を作る。この顔を残しながら、炎の身体は大量の水蒸気と共に萎むと、ついには火の粉も残さずに消滅した。

 手早く敵を掃討したイェルグがノーラに視線をよこす。その表情には、自慢が露骨に見て取れる笑みが浮かんでいる。

 「不届き者たちは、こんな風に、オレが片っ端から片付けるよ。大丈夫、この程度の相手なら、10や20が来ても問題ないからね。

 ノーラちゃんはオレのことは気にせず、自分の作業に集中しといてよ」

 ノーラはもはや、了解の言葉も口に出来ないほど唖然としていた。同時に、部活動を通して、自分よりも遥かに長い期間、実践に身を投じてきた者を気遣ったことが、目が点になるほどにバカバカしく感じる。

 (…そんな感想は、ともかく…。私も自分の出来ること、しなければならないことに集中しよう)

 ノーラは抜きかけだった大剣を引き出すと、柄を両手でつかみ、刀身を天に向けて立たせる。そのまま状態で魔力を大剣に注ぎ込む…先刻、ロイの目の前でやってみせた、大剣を変形させる技術だ。

 前回と同様に、大剣の刀身に臓器にも見える機械的なギミックが幾つも発生。それらは白い蒸気は発したり、ガシャガシャと音を立てながら、迅速に刀身の形状を変化。数秒の変化過程を経た後、出来上がったのは…チェーンソーにも見える、奇妙な刀身を持つ剣である。

 刀身の中心軸部は、脈動する青灰色のパイプがギッシリと蔓延(はびこ)っている。その所々には、小さな直方体の機関も見て取れる。この部分の姿だけでも十分奇妙な外観だが、それ以上に目につくのは、刀身の端だ。そこにはまるで、超低速のチェーンソーのチェーンのように、フヨフヨと流動する青みの濃い液体が張り付いている。この部分だけを眺めていると、巻貝の足のようにも見える。この液体の中には、蛍光色を呈する魔術式が高密度に浮かんで泳ぎ回っている。この魔術式は刀身中央部のパイプから常に吐き出されているようだ。

 「へぇ…『定義変換(コンヴァージョン)』か。そんな難解で高度な魔術を使えるなんて、キミも相当な使い手だねぇ」

 大剣の変形を見たイェルグが、相変わらずの穏やかさを張り付けて声をかけてくる。そう、彼の言葉の通り、ノーラが使って見せた魔術は、魔術分類学的には『定義変換』と呼ばれる、高度な魔術の一派である。存在――物体だけでなく、現象や、時には概念そのものまでをも含む――の定義を形而上相から書き換えて、在り様を変化させてしまう。まるで神の創造の力を連想させるような、強力な魔術である。

 「そんなことないです…。『定義変換』と言っても、自由に変換できる対象はこの剣だけですから…あまり融通の利く力じゃありません…」

 「よくよく謙遜するねぇ、ノーラちゃんは」

 謙遜も何も、ユーテリアの学生の中では、本当に誇れるほどの力でないと、本気で思っているからこその言葉なのだが…。その言い訳は取り合えず置いといて。ノーラは早速、指示された作業に取り掛かる。

 「イェルグさん。雨水を使わせてもらいます」

 そう宣言したノーラは、魔術式が泳ぎ回る水の剣先を、積乱雲の中に差し込む。そして瞼を閉じ、桜色の唇を小さく動かして術言(チャント)を口ずさみ、大剣を伝わせる魔力を強化する。やがて剣先の水と共に、降りしきる雨滴も強い蛍光を発するようになる。大剣の機関を通じて、水そのものを強力に魔化したのだ。

 一般に魔化とは、魔術を通じて物体に新たな性質を付加したり、性質自体を強化することを指す。しかし、今回ノーラが使った魔化は、それとは少し内容が異なる。物体としての水自身の性質には、ほぼ手を加えていない。代わりに、水の中に絵具でも溶かし込むように、極小の方術陣を大量に含ませているのだ。『溶媒型(ソルヴェント・)魔化(エンチャント)』と呼ばれる、特殊な技術である。

 この高度技術を用いたノーラの狙いは、次の通りだ。

 魔化を行うためには、何らかの方法で対象の物体に直接魔術を与えねばならない。その方法として一番先に頭に浮かぶのは、物体に対して物理的に魔術式を刻み突けたり、塗り込んだり、埋め込む方法だ。しかし、それではいっぺんに広い面積をカバーするのは難しい。次に考えられるのが、方術陣を利用して物体に魔術を与える方法だ。しかし、広い面積をカバーするには、それなりに大きな方術陣を作り出し、維持し続ける必要がある。方術に非常に長けた人物なら問題にならない方法かもしれないが、ノーラの技術レベルでは荷が重い方法である。

 そこで、方術陣を雨に混ぜ込んで拡散させる方法を思いついたワケである。この方法なら、ある程度の時間内で安定している方術陣を作り、投げっぱなしにすれば良い。あとは、豪雨が勝手に方術陣を広範囲に広げてくれる。この方法のデメリットとして、方術陣を数多く作らねばならない点があるが、それを補助するために大剣を『定義変換』させ、専用の道具を作ったのだ。

 ノーラの狙い通り、蛍光の雨滴は視界いっぱいに広がり、火炎を鎮火させながら、触れた物体に耐火性能を施す。物体の表面にうっすらと青い光沢が宿っているのが、魔化が正常に作用した証拠だ。

 「なるほどねぇ。自力で難しい部分は、元からあるものを創意工夫してカバー、ってことか。

 その臨機応変なところ、オレたちの部活の素質あるよ」

 イェルグは称賛すると、左手でズブ濡れの制服上着のポケットを漁り、ナビットを取り出す。ナビットは完全防水なので、悪意的な魔術が作用していない限り、雨水は全く平気だ。これを使って彼は、装甲車の運転手と音声通信を繋げる。

 「今、延焼対策が整ったよ。手筈通り、拠点に向かってくれ」

 運転手は「了解」と余裕なく語ると、車体を急速にUターンさせる。突然のことにノーラはバランスを崩しそうになったが、なんとか足を踏ん張ってこらえる。直後、装甲車は急加速。ガタガタと激しく震動しながら、拠点へと一直線に向かう。

 道中では、当然ながら、炎の暫定精霊どもが装甲車を狙い、何度も何度も襲い掛かってきた。彼等は黒雲から赤く輝く鳥獣の顔を覗かせた瞬間、穏やかな笑みを浮かべたイェルグの水塊弾によって、ことごとく打破される。加えて、ノーラによって魔化された雲により、暫定精霊たちが運中を突破する間に勢いを削がれ、そのまま消滅する例も散見される。積乱雲の一角が真っ赤に輝いたかと思うと、点いたばかりの蝋燭の炎が縮んで消えるような有様で、輝きが消滅するのだ。

 「いやぁ、ノーラちゃんと組めて、ホント良かったよ!」

 雨滴でビショビショの顔に満面の笑みを浮かべ、イェルグが雨音に負けじと大声で称賛する。

 「未経験の子をいきなり災害対応の現場に投入するのは、正直、めっちゃ心細かったんだよ! いやぁ、空の男のくせに、杞憂の言葉そのものの無駄な心配だったよ!

 こんなにスムーズに事を運べるなんてねぇ! 頭がガチガチな蒼治より、よっぽど役に立ってくれるんじゃないかなぁ!」

 「いえ…そんなこと、全然ないです…! 私はまだ、1年生の身ですし…! 蒼治さんなら、もっと効率の良い方法で問題を解決できると思います!

 それに…私が拙いながらも実力を出せるのは、イェルグさんがしっかりサポートしてくれるからです…!」

 「拙いなんて、そんな謙遜するモンじゃないぜ! 君より実力の劣る大多数の1年生たちの立つ瀬がなくなっちまうよ!」

 二人が当たっている作業は、当然ながら、厳しい作業だ。一瞬も気を抜くことはできない。抜いてしまえば、自分たちだけでなく、装甲車に乗っている人々丸ごとが生死に関わる苦境に陥いるのだから。それでも二人は、緊迫のガチガチした雰囲気を見せず、始終和やかな様子で対処に当たっている。この様子は、余分な力が抜けている点で、二人にとって大きなプラスである。だからといって、勿論、油断しているワケではない。

 そんな最中…イェルグのズブ濡れのポケットの中で、ナビットが雨音に負けそうになりながら、着信音を奏でる。その時ちょうど、雲中から蛇の顔をした暫定精霊が出現したが、右腕で水塊弾を発射しつつ、左腕でポケットとまさぐってナビットを取り出す。音声通信を聞くために耳に押し当てた頃には、暫定精霊は物悲しげな表情を残し、大量の水蒸気と化して蒸発・消滅していた。

 「はい、こちらイェルグ。あ、運転手さん?」

 雨音に負けないよう強い声をあげつつ、イェルグは音声通信の相手と幾言か言葉を交わす。

 「はい、了解。どうぞ、お好きなように」

 その言葉で音声通信を切り上げたイェルグが、ノーラに内容を説明しようと視線を投げた、その瞬間。装甲車に急な方向転換を伴う加速が襲い掛かる。イェルグは予見できていたようでうまくバランスを保ったが、ノーラは溜まらず片足を上げ、両腕をバタつかせた挙句、尻餅をついてしまう。装甲車の堅い天板がお尻にぶつかった時、ズブ濡れの下着の不快感が意識され、ノーラは思わず表情を崩す。

 それをどう解釈したのか、イェルグは申し訳なさそうにビショビショの長髪が張り付く後頭部を掻きながら、語る。

 「ゴメンゴメン、説明しようとしたら、運転手さんったらよっぽど焦ってたみたい。

 オレ達の拠点に行く前に、ちょっと寄り道をすることになった。避難民の反応をキャッチしたんだってさ。どうやら建物に中に固まってるようだから、この車ごと建物の中に突入して救助をするってさ。天井の高さは分からないけど、頭の上と、突入時の衝撃と壁の破片に気をつけといてね」

 「は、はい…了解です」

 ノーラはお尻から這い上がる不快感にいつまでも浸ることなく、スクッと立ち上がると、再び剣を積乱雲中に差し込んで魔化を再開。鎮火の豪雨を振り撒くことに意識を集中する。

 

 -To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Stargazer - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 装甲車は炎に包まれた摩天楼が立ち並ぶ大通りをしばらく疾駆した後…道路から歩道へと脱線すると、そのまま目前の高層建築物へと突進する。

 周りのビルディングと比べて随分と幅が広く、正面玄関の作りが豪奢な建物である。元はこのアオイデュアを来訪するアーティストたちのための、高級ホテルだったのかも知れない。今は高温の灼熱のためにガラスは全て溶融し、辛うじてガラス細工の骨組みを残す金属枠も、炙り過ぎたバーベキューの肉のように発火している。

 突入の瞬間、装甲車は強烈な震動に襲われる。ノーラは今度は事前に心構えが出来ていたため、大きくバランスを崩すことはなかった。加えて、元はガラス壁であった正面を突き破ったため、対して破片が飛んでくることもなく、積乱雲の魔化の集中を乱すことはなかった。

 しかし、事態が酷くなったのは、むしろ突入後である。通路は当然ながら人間用に出来ているため、装甲車が走るには狭すぎる。そこを強引に、コンクリートの壁を瓦解させながら突き進むのだ。装甲車は始終ゴリゴリゴリという耳障りな音と、強烈な震動に苛まれる。ノーラはなんとか踏ん張り続けていたが、あまりの酷い状況に胃袋が不調を訴えてきたほどだ。

 「あ…あの、イェルグさん! こんなに揺れが酷いと…! 車の中の怪我人の方々に、悪い影響があるんじゃないんですか…!」

 怪我人を引き合いに出しながら、ノーラが劣悪な環境への文句を口にする。が、イェルグはこの酷い事態にも笑みを崩すことなく、相変わらずマイペースな穏やかさで答える。

 「大丈夫、中はサスペンションが効いてるよ。大和は良い仕事するから、揺れても地下鉄程度じゃないかなぁ。

 きっついのは運転席と、オレたち外部組だけだよ。…って、それがノーラちゃんには問題なのか。うーん、乗りなれてないと、やっぱりキツかぁ」

 イェルグは流石は災害救助の経験者、この程度は余裕綽々のようである。そして悲しいかな、運転手に運転を手加減するようには言伝してくれない。人命がかかっている状況下では、車の運転程度で四の五の言ってはいられないということだ。

 さて装甲車は、イェルグとノーラの積乱雲を建物内に運びながら、何度かの直角のカーブを経て、目的地へと近寄ってゆく。建物内も炎がそこら中で目にできるが、建物が大きいことが幸いしているのか、火の回りは外ほどではない。だからこそ、要救助者たちはこのビルの中に避難したのだろう。とはいえ、天井は一面、轟々と燃え盛る炎の海になっており、時折炎の塊が雹のように床に落ち、大きな炎の柱を上げる現象が見受けられる。放っておけば、要救助者たちは10分と持たずに炎の中に煤となって消えてしまうことだろう。

 そして、ビルの中を走り回ること、1分半ほど。急に視界が開けた空間に行き当たる。そこは元々ロビーであったところらしい。装飾目的の柱が疎らに立つ合間に、テーブルやら椅子、ピアノなどの豪奢な家財が見える。天井は相変わらず炎が海のように広がっている状態だが、家財の大半は無事だ。

 そしてこの空間こそ、イェルグらが目指す目的地であることを、ノーラはすぐに悟る。空間のほぼ中央に、右往左往しながら寄り集まる一団を見つけたのだ――人である。老若男女、様々な人種が周囲の焦熱地獄に怯えながら寄り集まっている。パニック状態に陥って騒いでいる者の姿も見えるが、集団がバラけるような致命的なトラブルには至っていないようだ。また、幸いにも、危急な重篤状態に陥っている者の姿も(ざっと見た限りでは)見当たらない。

 とは言え、イェルグらの救護隊は安堵して手抜かりするような真似はしない。装甲車は烈風の勢いで人々の集団に突っ込むと、その目前で急激にUターン。人員収納スペースの後部ハッチが要救助者たちの正面に来るようにして停車する。この際に、ノーラは振り落とされそうになって冷や汗をかいたが、剣を積乱雲の中から引き抜いて装甲車上に刺し、支えにして踏ん張ることで、なんとか難を逃れた。

 しかし、一息吐く暇などない。イェルグの豪雨が降りしきる中、装甲車の後部ハッチが重苦しい音を立てながら速やかに開き、アオイデュア消防局の局員たちが続々と降車。要救助者に駆け寄り、彼らの身体を抱えて装甲車の中へと運び入れる。車内はかなりのギュウ詰め状態だが、かと言って危険に晒されている命を見捨てるワケにはいかない。なんとかスペースを作りながら、要救助者を収容して行く。

 一方、建物内の業火は、イェルグとノーラの合わせ技による豪雨で見る見るうちに鎮火してゆく。その様子を見たノーラは、先の乱暴な運転で悲鳴を上げる胃袋を必死に抑え込み、顔色に青白さを呈しながらも、イェルグへと気丈に声をかける。

 「火の手の方は、大分抑え込めてますから…! 私たちも、救助の手伝いに行きましょう…!」

 「ああ、うん。勿論オレは行ってくるけど…ノーラちゃんは、気分が良くなるまで、少し休んでな。

 初めての『現女神』勢力相手の災害救助実戦で、ここまで成果を出せたんだ。車酔いで休むくらい、誰も文句は言わんさ。

 それでもただ休んでるだけじゃ気が収まらないっていうなら…そんなヘロヘロの状態じゃ、怪我人を運ぶ戦力にはならないってことで、納得してくれ」

 そう言い残したイェルグは、雨の勢いを少し弱めると、ヒラリと装甲車上から地上に飛び降りる。人員収納スペースの中で見た消防局員たちに比べて、彼の体格はそれほど恵まれてはいないが、タフさは彼らと同等以上のようだ。流石は"英雄候補生"たるユーテリアの生徒というところだ。

 一人車上に残されたノーラは、勧告に甘えて、その場に尻餅をついて一息。身体を優しく叩く、雨滴の心地よい涼しさを味わいながら、黒雲で覆われた頭上を仰ぐ。苦く酸っぱい味が満ちる食道に、冷えた空気が非常に心地よい。

 (まだ1時間も経ってないよね…。だけど、色々大変な事があって…。でも、なんとか、やれてる…はず…)

 ノーラは、この場に来るために部室で言い放った自分の言葉と、これまでの救助作業を照らし合わせると、再び一息吐く。彼女自身の採点では、決して満点ではない(車酔いで足を引っ張ったのは、大きな減点だ…と考えている)が、まぁまぁ及第点といったところだ。

 (誰かのために、自分の力を思い切り使ってみるのって…結構、良い感じかな…)

 車酔いがスーッと引いてゆく頃には、眼下の消防局員たちの必死のやりとりを耳にしながらも、ノーラの桜色の唇にはうっすらと爽やかな笑みが浮かんだ。

 

 しかし。終わっていない災厄の中で安堵するのは、早すぎる。

 新たな悪意が、ノーラ達の眼前に、文字通り降りかかろうとしている。

 

 初めに異変に気付いたのは、頭上を眺め続けていたノーラである。黒々とした積乱雲の中に、真紅の輝きが灯ったことを発見した。

 (暫定精霊!?)

 体調がほぼ万全な程度まで回復したノーラは、素早く立ち上がり、蠕動する水刃の大剣を構える。そして真紅の輝きから目を離さずに、眼下の人々へ警告を力いっぱい叫ぶ。

 「皆さん! 暫定精霊が――」

 全てを言い終わらないうちに。漆黒の積乱雲全体が、まるで爆雲のように強く輝く赤に染まった、かと思った瞬間。爆発的な熱風の衝撃波が雲を蒸発させながら吹き飛ばすと同時に、攻撃的悪意に満ちた赫々(かっかく)の巨体が天上から大地に降り立つ。

 体長は優に5メートルを超える。体型は人間…というより、人間の全身骨格に似ている。ただし、通常の人骨に比べて凸部が鋭く強調され、眼窩は険悪なキレ目になっている。骨格の合間には筋肉や内臓の代わりに、網膜を灼き焦がすような燦爛(さんらん)たる橙赤色の業火で満ちている。

 (違う…! これ、暫定精霊じゃない…っ!)

 ノーラが胸中で叫ぶ。存在定義から醸し出される魔力の気配が、全く違う。暫定精霊なら、もっと儚くて、不安定に揺らいでいるような定義をしているのだが。この炎の巨人は、魂魄に原始的畏怖を植え付けるような、強烈な存在感を放っている。まるで、人々の畏怖を信仰という形でかき集める、太古の神格のようだ。

 …"神"。その言葉を連想して、ノーラははっとする。この炎の巨人の胸部の中央に、炎とも骨格とも違う、異質な存在が埋め込まれている。そしてその姿を、彼女は見知っている。星撒部の部室でナビット経由で見せられた、禍々しい赤の空を群れて飛び回る、のっぺらぼうの異形…"獄炎の女神"の天使だ! そう、こいつは暴虐を働く神の意志が具現化した、暴虐たる御使いなのだ!

 この炎の巨人の登場と同時に、眼下から幾人かの悲痛な絶叫が響く。声帯を破り壊すような、悲惨極まりない声だ。

 何が起きたのか? ノーラが小走りで装甲車の端まで走り、視線を向けると…炎の巨人から噴き出した業火が、人々を焼いている! 中には、全身火だるまになり、地面を激しく転げ回っている者までいる。まさに阿鼻叫喚の灼熱地獄の光景だ。それを見た巨人は、険悪なドクロの顔立ちにニンマリと残酷な笑みを宿している。

 「ったく、このヤロー…シャレになってねーだろがっ!」

 地獄の只中で、剣呑な抗議を炎の巨人にぶつける者がいる。イェルグだ。彼は消防局員や避難民と違い、ほぼ無傷の状態であったが、ズブ濡れだった髪も衣服も乾ききっている。巨人が降り立った瞬間、どうやら地上には常人には致命的な熱波が吹き荒れたらしい。イェルグが無事だったのは、彼がとっさに何らかの防御行動をとったからだろう。だが、残念ながら、彼の防御作用はすべての人々には行き渡らなかったようである。

 イェルグは即座に右腕を突き出すと、巨大な水塊弾を作り出すと、炎の巨人めがけて砲撃の勢いでブッ放す。対して巨人は右腕を大きく振りかぶると、腕の周囲に大蛇のような火炎の螺旋を纏わりつかせ、肉薄する水塊に真正面からぶつける。

 ジュッ! 耳をつんざく蒸発音と共に、水塊が一気に沸騰し、爆発的に蒸発。白い霞と化し、突風と共に空間を吹き荒れて霧散してしまう。

 これまで、どんな強大な暫定精霊であっても、一撃の元に粉砕してきたイェルグの攻撃であったが…今回は全く功を奏さない! やはり相手は天使、暫定精霊とは格が桁違いということなのか。

 巨人が、今度は左腕を大きく振りかぶって叩き付けてくる。発生した拳風だけでも、皮膚をチリチリと炙る熱風が発生するほどの、強烈な一撃だ。直撃を受ければ、人体は骨すら残さず一瞬で昇華することが、容易に想像できる。

 この凶悪な攻撃の前に、イェルグはあろうことか飛び出すと、指を広げた右手を突き出す。瞬間、服の裾から爆発的な勢いで黒雲が発生。その側面から、水平方向に豪雨――というか、雨滴が一体化し、もはや滝状と化したもの――が発生。業火の拳と雨の奔流は再び真向から激突すると、ジュワワワワッと鼓膜を聾する蒸発音が連続する。事態は、真っ白い水蒸気の烈風が吹き荒れる拮抗状態に陥ったようだ。

 「ノーラちゃんッ!」

 激しい蒸発音の中、イェルグが雷鳴のような余裕ない叫びを上げる。

 「オレの後ろに、全力で防御用方術陣を作ってくれ!」

 この言葉を聞き、ノーラはすぐに彼の意図を悟る。彼は周囲の人々を巻き込むほどの強力な攻撃手段で、天使を粉砕するつもりだ!

 ノーラは装甲車上を走りながら、手にした大剣に定義変換を実行。先刻ロイに見せた、ペン先状の刀身を持つ剣を作り出すと、イェルグの背後へと急ぐ。その道程では、常人ならば直立困難なほどの水蒸気爆発の烈風が吹き荒れており、それに翻弄される人々の姿が見える。五体満足な者たちは地に伏せて身体を踏ん張り、火傷に苦しみ悶える者はもがく姿のまま、風に流され地を転がってゆく。例えイェルグに天使への対抗手段が無かろうとも、防御行為は必須となったことであろう。

 イェルグの背後に位置どったノーラは、出来るだけ大きな円を宙に描き、その内側にも素早く魔術式の文様を刻む。その作業速度は、彼女が出来うる最速のものであった。

 「終わりましたっ!」

 数秒後、烈風に抗うノーラの絶叫と共に、方術陣が発動。円は更に拡大しながら、眩いほどの蛍光を放つと、文様の合間にガラスのような半透明の輝きが宿る。同時に、烈風が半透明の輝きによって物理的に阻まれ、方術陣の背後には凪ぎの静寂が訪れる。方術陣によって、強固な物理障壁を作りだしたのだ。

 ノーラの絶叫と同時に動きを見せたのは、方術陣だけではない。イェルグもまた、彼女の声に寸分と遅れずに新たな行動に出る。指を広げていた右手を閉じ、人差し指と中指を合わせて伸ばす形をとると、指の切っ先を炎の巨人に向ける。そして穏やかな笑みが張り付き続けていた顔の表情をガラリと変え、剣呑な雰囲気で目を見開き、弱った獲物を前にした獣の(わら)いを浮かべる。その歪んだ口元から、重厚な積雲のような威圧を伴った言葉を滑り出す。

 「天使さん一匹、外惑星の極寒のお空にご招待だッ!」

 転瞬、激流の豪雨が凪いだかと思うと、くすんだ白の煙状の奔流が出現。爆発的な流速に周囲の大気がギィンと金切り声を上げ、人々の鼓膜をつんざく。煙の奔流は、豪雨の障壁を失って解放され、迫りくる炎の巨人の拳に激突。(ゴウ)、と烈風の絶叫を響かせながら、爆発的な気流をそこら中にまき散らす。

 爆発的に膨らむのは、大気だけでない。イェルグが放った煙もまた、拳への激突と共に強烈な勢いで膨張。やがて、炎の巨人をすっぽりと覆う、煙の半球と化す。半球の表面は幾パターンか波打つのくすんだ白の帯が走り、所々には薄茶色から白にかけての色合いを持つ楕円模様を持つ。その姿はまるで、太陽系第6惑星土星の表面のようだ。

 半球は数秒間、その形状を維持した後、中心に向かって凝縮して消滅する。そうして露わになった半球の内部は…冷気の煙がモワモワと棚引く、極寒極地の世界だ。床や柱の表面には細かい氷粒の粒子がこびりつき、遠くで燃える炎の光を反射してキラキラと輝いている。そして、半球の中央に位置していた炎の巨人は…今や、氷の巨人と化していた。身体を構成していた炎は、燃え盛る瞬間をそのまま切り出したかのように躍動感たっぷりに凍結し、身体一面がツルリとした澄んだ水色に覆われている。

 どうやらイェルグは、先に言い放った言葉の通り、自身の能力を使ってガス惑星型外惑星の極寒の大気を作り出したらしい。通常のガス惑星の場合、大気には可燃性の水素なども多く含まれているが、今回爆発しなかった事を鑑みると、ヘリウスや窒素といった不燃性物質ばかりで大気を構築させたようだ。

 完全に氷結した炎の巨人であるが、その体の所々からビシビシという音と、細かい震動が見て取れる。見れば、巨人の胸に埋まっている"獄炎"の天使は健在だ。炎をそのまま凍り付かせる極寒を受けてなお、その独特の法則体系を持つ体構造は破壊されなかったらしい。顔は相変わらずのっぺらぼうなので表情は読み取れないが、震えながら首をグリグリと獅子舞のように動かしている姿を見るに、憤怒している様子が見て取れる。

 天使は己の力を総動員して、炎の巨人を再び動かすつもりだ。だが、動きのままならぬ、この致命的な隙をイェルグは見逃さない。

 「極寒の空の旅、ご苦労さん。それじゃ、ゆっくりと休んでくれよ。出来れば、永久に、な!」

 非情な別離の言葉を口にした、直後。イェルグの指先から、再び何かの奔流が放たれる。それは、網膜に灼き付くような眩い青白さを呈した、巨大な電流だ。龍のごとく幾度か蛇行した電光は、大気をイオン化させる生臭い匂いを生成させながら、一瞬のうちに天使の顔面に到達。落雷時に耳にする、大気が破裂する大轟音を発生させながら、独特の定義によって形成された天使の体内を駆け巡り、あるいは貫く。余剰の電力が天使の身体から漏れ出し、氷結した巨人の体表を蛇のように走り回った。

 稲妻の直撃後、巨人の身体がバキバキと音を立てて木端微塵に粉砕。微小な氷の粒子となって大気の中に溶け込んでゆく。そして、宙に張り付いたように停止していた天使は、というと…純白の体表面にピキピキと亀裂が走り、全身を覆ったかと思うと、パアッと超新星爆発のような眩い純白の光の爆発へと変じる。爆発の中からは幾つもの白い羽状の魔法的構造物――神性体と呼ばれる――を振り撒き、そのまま空間中に昇華してゆく。

 消滅してゆく仇敵を、眩しげに細めた眼で見送りながら、イェルグは恨み言を込めた勝ち台詞を吐き捨てる。

 「ったく、空は壁じゃないっての。誰かを守りながらの戦闘ってのは、苦手なんだよなぁ。

 だからロイのヤツの手を借りたってのに…アイツ、明らかに職務怠慢だろ。後でたっぷり、文句言ってやらないとな」

 何はともあれ。"空の男"を名乗る男子学生、イェルグ・ディープアーは見事、天使を打ち破ったのだ。

 (ホントに…人の身一つで…天使を倒しちゃった…!)

 眼前に突き付けられたこの事実に、ノーラはただただ愕然と立ち尽くし、頬に冷たい汗を幾筋か走らせるのだった。

 

 戦闘の喧騒が静まり、周囲に平穏が訪れるかと思いきや…そうはいかない。強敵を打破した勝利に酔いしれる暇は、一瞬たりともない。

 それまで戦闘の渦中に埋もれていた被害が、急激に表面化する。傷ついた人々の間から悲鳴と怨嗟が渦巻き始める。

 「イェルグさん、早く消火を!」

 無事な消防局員から、雨あられと要請が鋭くイェルグにぶつけられる。周囲を見渡せば、炎の巨人の登場と共に火傷を負った者たちの多くは、未だ患部が燃焼している状態だ。現状、消防局員たちは天使の炎に対して対抗手段は持っておらず、巨人との戦闘中に患者を救護することもできないでいたのだ。

 「はいよ」と返答するが早いか、イェルグは両腕を大の字に伸ばすと、両袖の内側からモクモクと黒々とした積乱雲を生成。炎が海のように広がる天井を見る見るうちに覆ってゆく。周辺が宵の口のように薄暗くなると、雲内放電のゴロゴロとした音が轟き出し、やがてポツポツと…すぐに勢いをましてドバドバと豪雨が降り始める。

 「おーい、ノーラちゃーん!」

 雨降り始まった頃、未だ驚愕を味わったまま立ち尽くすノーラに、イェルグが雨音に負けじと大声を張り上げる。

 「魔化の方、頼むよ! 天使の炎を直にくらったんだ! オレの能力程度の消火じゃ、効果が薄いと思うんだよね!」

 「あ…は、はいっ! すぐ、やります!」

 ノーラは慌てて、大剣に再び定義変換。ペン先型大剣から水刃のチェーンソーへと変形させると、頭上数十センチのところにわだかまる黒雲の中へ刃を差し入れる。辺りは再び強力に魔化された雨滴に覆われ、天使が残した厄介な炎は見る見るうちに鎮まってゆく。

 …はず、だった。

 天からの救いたる豪雨が降りしきる一画から、雨音を大きく上回る騒ぎが上がる。矢継ぎ早に交わされる悲鳴のようなやりとりを耳にする限り、予断を許さない、相当深刻な事態が起こっているようだ。

 イェルグとノーラは顔を見合わせてアイコンタクトを取ると、一緒に騒ぎが起こる方へ向かう。高密度の雨滴の中でも、消防局員の集合がはっきり黒々と視覚に飛び込んでくる。そして、それ以上に網膜にギラギラと――文字通り、輝いている――灼きつく赤が、黒々とした集団の合間からチラチラと見える。

 (炎…!? …間違いない、あの輝き方は、炎だ…!

 でも、なぜ…!? イェルグさんと私の力でも、鎮火できないの…!?)

 顔を滝のように伝う雨滴と共に、困惑の冷や汗を流しつつ、ノーラたちが集団の間近までたどり着くと…。雨に冷える思考が一気に燃え上がるような緊迫感と共に、二人は何が起きているのか、なぜ炎を制圧できないのか、すっかりと悟る。

 消防局員たち3人が囲む中央に、全身が火だるまになっている人物がいる。あまりに炎が明るく、燃え上がる人体の細部が確認できないため、性別や年齢などは全く読み取れない。とはいえ、全身が火だるまになったのは、"彼"(と、仮に男性格で呼ぶことにする)だけではなかったはずだ。それはノーラも確認している。だが彼らも豪雨と共に、全身に重度の火傷は負ったものの、炎自体は鎮圧できている。

 ではなぜ、"彼"のみが未だ、燃え続けているのか。

 "彼"を蝕む天使んじょ炎は、もはや彼の肉体のみを燃焼しているのではないのだ。魂魄そのものどころか、より高次元の領域、形而上層上の定義レベルで、"燃焼"という事象が固着されてしまったのだ。その証拠に、炎と共に吹きあがる二酸化炭素や煤の黒炎に混じって、羽根の形にまとまった白く輝く存在定義式片が可視化して見える。"彼"の存在定義自体が、"彼"の中心から剥離し、いずこかへと飛び去ってゆく。…おそらく、"獄炎"の女神の膝元へ向かっているのだ、彼女に隷属し盲信する存在へと成り下がるために。

 「なんとかなりませんか…!?」

 消防局員の1人が、泣き出しそうな表情で懇願をイェルグに突き付ける。その様子からすると、被害に遭っているのは局員の仲間なのかも知れない。対して、イェルグが浮かべたのは、非常に苦々しい笑みである。いや、もう笑みの形を成してはいない、辛うじて口角が引きつりつつも吊り上がっているだけだ。

 存在定義レベルまで魔術現象に侵食された生命を救うのは、至難の極みである。存在を根本的に扱う力は、『神』の御業にほかならない。魔術を得て30年経った人類はまだ、この御業を科学技術にまで落とし込めてはいない。そしてそもそも、存在定義を扱うような分野に関しては、イェルグは全くの専門外だ。

 ――こりゃ、降参だ。

 笑顔を振り撒く立場にあるイェルグの顔が、失意の陰に覆われる。笑みがフルフルと震えながら消えてゆき、薄い唇が絶望的な言葉を紡ぎ出そうかという…その時。

 「イェルグさん! 雨の魔化、一度停止しますね!」

 真夏の太陽の輝きのような勢いで、人々の失意や絶望の陰を振り払って響く声がある。ノーラだ。普段は一歩引いたような物言いをしている彼女だが、この時は、獲物を前にして寝床から飛び出した猟犬のように活力に満ちている。

 ――何をするつもりだ? 全くの予想外の出来事に、イェルグはきょとんと眼を見開いてノーラを見つめる。

 視線を彼女に注ぐのは、彼だけでない。消防局員たちも同様だ。しかし、視線に込められた感情の色は、イェルグのものと全く違う。奇跡の救済を求める非力な者の視線だ。

 そのすべての視線を受け止めながらも、決してノーラは緊張に臆することはない。むしろ、彼女は視線を気に留めてなどいない。もとより、そんな余裕などない。それほど集中する必要があるほどの、超高難度魔術の実践に挑もうとしている。

 まず、ノーラは大剣を積乱雲から引き抜くと、柄を両手でつかんで真っ直ぐに捧げ持つ、定義変換の実行スタイルを取る。そして両の眼を閉じて、自身の魂魄に超深部にアクセスすべく、意識を針先のように集中する。集中のあまりの強さに、思わず眉間にしわが寄るほどだ。そうして自身の内側から紡ぎだされた魔力は、夜空に大きく輝くオーロラのような、強烈な蛍光のゆらめきを作り出す。頭上の積乱雲や、ノーラを囲む者たちの顔が、照り返しで黄緑色に染まる。

 そのままじっくり数秒の時間が過ぎた後、大剣の刀身に機械的な直線の亀裂が幾つも走ったかと思うと、その隙間からブシュウゥゥッ、と盛大な水蒸気が上がる。その後の刀身の変化は、今までノーラが見せたどんな定義変換よりも、異様でダイナミックなものだ。まるで掌の中で転がるルービックキューブのように、刀身は幾つもの立方体へと姿を変え、カチカチカチカチと高速でソロバンを弾くような音を立てながら変形してゆく。やがてカクカクした"とある"形を成すと、刀身は再びブシュウゥゥッ、と盛大な水蒸気を噴出。そして、白煙の中に消えた刀身が再び姿を露わした時、大剣は変形を完了する。

 柄の上に乗っている刀身は、3本の横軸を持つ、幅の太い巨大な逆十字架だ。その刀身には細かい鎖が幾重にも絡みついている。しかしながら、今までの定義変換で見られたような計器類は一切見られない。鎖を除けば、非常にスッキリとしたフォルムをしている。

 ノーラは完成の感触を確かめるように、この大剣を大きく一振り。フォンッ、と重い風切音を確認すると、その四角い剣先を炎上する局員に向ける。

 「機関、始動ッ!」

 ノーラが鋭い号令をかけた、その途端。剣にまとわりついた鎖がバラバラと解けて十数本の蠢く銀糸と化すと、炎上する局員の真上の空間へと一直線に走る。地上3メートルほどまで上昇した後、鎖は各々が空間に白い穴を開けると、その中へと侵入。物質世界から姿を消す。

 消えた鎖の切っ先は、どこを目指しているのか? 鎖の一部は今、形而上層中を"あるもの"を追跡しながら、疾駆している。その"あるもの"とは、天使の炎に魂魄ごと焼かれている消防局員の、焼失して昇天してゆく霊魂の定義情報の残滓である。物質世界では、白く輝く羽根状の光として見えていたものだ。

 消防局員が焼かれている様を見た時、ノーラはこの現象が抱えるデメリット的制約に注目した。"獄炎の女神"の力は、部室で聞いた渚の苦言通り、肉体を焼いて霊魂を剥き出しにするものだ。そして、その霊魂を自分の膝元へと運ぶ。その方法は、"燃焼"という現象に依存するものだ。すなわち、霊魂はただちに女神の元に転移されるワケではない。燃焼という過程を経て、霊魂を徐々に切片に分けねばならない。ならば、失った切片を集めると共に、霊魂を切片に切り分けられないように外力で固着させてはどうか、と考えたのだ。

 形而上層に入った銀糸は大剣本体に内蔵された魔術式機関のルーチンに従い、質量の概念を捨てて光速以上のスピードで霊魂の切片に接触すると、即座に絡みついて引き戻す。そして焼失しゆく霊魂本体の元に戻り、切片を本体へ組み込むと共に、霊魂自体を幾重にも取り巻いて固着させる。この動作を十数度と繰り返し、霊魂の昇天を食い止める。

 形而上層での激しい動作は、やがて物質界にも視覚化された現象として描画される。もはや消し炭同然となり、床に転がるだけとなった肉体の真上に、ぼんやりとした人型の青白い光が浮き上がる。再構築された霊魂だ。光はやがて輝きを増し、超新星のように眩い輝きを放って人々の網膜に焼き付く。余りの眩しさに眼球に小さな痛みが走り、人々が涙粒をこぼしながら眼を細め、しばし耐えた後…フッと、ロウソクの炎が吹き消されたように、輝きが突如として消滅する。

 ――一体、何がどうなったのか? 涙が触れる瞼を開き、光の残滓が残る視界を巡らすと…。まず見えたのは、地に転がる炭化した有機物。豪雨によって鎮火されているところを見ると、"獄炎の女神"の影響はもう、及んでいないらしい。しかし、安堵出来るワケではない。悲惨な生命の馴れ果ては、残酷な現実を世界に訴える。

 「…ロイドォ…ッ!」

 消防局員の1人が、炭素の塊と化した人物に、潤んだ声をかけた、その直後。

 「…ああ、ここにいるけど…」

 返ってくるはずのない答えが、聞こえてくる。声が聞こえてきたのは、頭上の方からだ。消防局員は慌てて首を巡らし、黒雲が垂れ込める天井の一画を見つめる。

 そこに、うっすらとした青白い輝きを放つ、煙のように揺らめく輪郭を持つ人体がある。物質を持たぬ意識体でありながら、自我を持つことから人類として認められている、"死後の人種"…幽霊(ゴースト)である。

 「ロイド!? ホントにロイドなのか?」

 「どうしたんだよ、その姿!?」

 仲間達から質問責めに遭ったロイドは、豪雨の中をフヨフヨ漂いながら、頬を掻く仕草を見せる。

 「いや…オレもよく分からんのだが…。

 体が燃え出してから、痛みが急激に消えて、意識がパーッと真っ赤になって、なんだか泣き出しくなるような…屈服したくなるような…ともかく、変な感覚に襲われて、意識がおかしくなったんだよな…。

 そしたら、今度は急に意識がはっきりし始めてさ…はっと気づいたら、こんな風に宙に浮いてたんだよ。

 どうやら…オレの肉体は焼死しちまったみたいだけど、オレ自体は幽霊になって第二の人生を歩むことになったみたいだな」

 「な…なんだよ、そのテキトーな言い方はよぉッ!」

 消防局員たちの声は、潤みを通り越し、籍を切った嗚咽としなって咽喉の奥からほとばしる。物体でなくなってしまったため、当人と抱き合うことはできないが、その代わりに幽霊と化したロイドの真下で3人の局員は円陣を組んで喜びをたたえ合う。

 この明るい喧騒の一方で…。

 「…はぁっ…!」

 大きく息を点き、雨滴で濡れる地面に尻餅をついて座り込む者がいる。ノーラである。その口から洩れた息は、勿論、安堵一色に染まっている。彼女の試みは、成功したのだ。

 被害者が火だるまになっている様を見た時点で、肉体を救うことは捨てた。彼女の力では、残念ながら、生命維持不能なほどに破損した肉体を蘇生させることはできない。むしろ、どんな医者でも匙を投げる状態であっただろう。そこで彼女は、霊魂だけでも救い出そうと、"炎獄の女神"に隷属するだけの惨めな悠久の時間を過ごす地縛霊とならないよう、急いで手を打ったワケだ。

 昇天してゆく霊魂を繋ぎとめるのは、至難の業である。これが自然死する人体を相手にしたものであれば、ノーラの試みは残念ながら失敗しただろう。人工的な昇天であり、霊魂が離散するでなく、意図的に流動してくれたことが幸いだった。とはいえ、足腰が立たなくなるほどの集中力と、全身の筋肉が脱力するほどの魔力を消費するほど、疲労困憊になる程度の高難度の魔術だった。おかげで定義変換を保てなくなった大剣の刀身が、コンニャクのようにデロリと弛緩して大地に広がっている。

 「…フゥ…」

 もう一度、今度は随分と気軽な安堵の呼吸をしつつ、胸中でほっと一言漏らす。

 (なんとか、やれた…)

 その心の声を待っていたかのように、タイミングよく背後からパチパチパチ、と軽快な拍手の音が聞こえる。まだ重い疲労が残る身体でゆっくりと首を巡らすと…そこに見えたのは、ズブ濡れになった平穏な笑顔を満面にたたえたイェルグである。

 「いやぁー、キミ、スゴイを通り越して、最高だね!

 部員のオレでも不可能だと思っていたことを、可能にして、人々に笑顔を振り撒く! 星撒部員としちゃあ、上出来も上出来、文句なしの100点満点さ!」

 「いえ…そんなこと、ないです…。恐らく…霊魂は網羅的に収集できてはいませんし…。了解も得ずに、勝手に幽霊化させてしまったワケですし…」

 「いやいや、あの状態から肉体を完璧に修復した上で、霊魂まで完璧に修復するなんて、それこそ神の領域だ。現代の魔法科学はその水準まで、全然達しちゃいない。

 空の広さを持つオレの知識によるところじゃ、カレを救うには、キミの方法がベストにして唯一の方法さ。そして、実践難度が無茶苦茶高い方法でもある。それをやり遂げてみせたんだ、そんなに謙遜しないで、胸を張るといいさ」

 「…あ、ありがとう…ございます…」

 あまりに褒められるものだから、ノーラはこそばゆくなり、頬をうっすらと赤く染めながら返事する。ただただ必死にやるべきことをやっただけで、誇るつもりも、褒められるつもりもなかったのだが…。ひどく骨が折れる作業をやり遂げたことは事実なので、ここは素直にイェルグの褒め言葉を受け取ることにした。

 星撒部員2人がほっこりと心身を休めていると、「あの~」と、非常に申し訳なそうな声がかかる。声の主は、ノーラが救い、幽霊となった消防局員、ロイドだ。

 「あの、その…助けてもらった…んですよね?」

 「ああ、この娘がアンタの事、助けたんだ。あのままだったら、アンタ、今みたいに自我を持つこともなく、最悪向こう数十世紀の間、"獄炎の女神"を崇拝するだけの幽霊として時間を過ごすところだったんだ。

 肉体は壊れちまったけど、例え幽体だろうと、命あっての物種だぜ。ちゃんと感謝しておいて損はないよ」

 「そっか…。確かに、あんなに黒コゲの状態じゃ、身体の再生なんて無理だよな…。

 ありがとうな、お嬢ちゃん。オレがオレでいられる状態で、命を長らえさせてくれて」

 「いえ…こちらこそ、困惑させてしまうような状態にせざるを得なくて…すみま――」

 ノーラが思わず頭を下げそうになった、その直前。背後からイェルグが彼女の頭をムンズと掴み、阻止する。

 「だーかーらー、ノーラちゃん。感謝されることはあれ、謝るような事じゃないんだって。胸を張れって言ってるんじゃんか。

 全く、謙遜ってのし過ぎるってのは、害悪そのものだよな」

 そう小言は口にするものの、イェルグの顔からは穏やかな笑みは消えない。もしかすると、常に笑みを浮かべているものだから、表情筋がその形に固定されているのかも知れない。

 それはそうと…。ロイドは更に話があるらしく、後頭部を掻きながら、困ったような笑いを浮かべて留まっている。その様子に気づいた学生二人が、息を合わせたように視線を向けると、ロイドは表情そのままの困惑を言葉に乗せて語る。

 「それで…あの…こんな身体になっちまったワケなんだけど…これからオレ、どうすりゃいいのかな…?」

 しばし、場から言葉が失われ、床を叩く雨音だけが響く。

 やがて、イェルグがポリポリと頬を掻きながら答える。

 「いやー、どうすりゃいいかって言われてもねぇ…。アンタの人生のことだし、オレたちがどうこう口を挟む問題じゃないけど…。

 幽体になったことに困惑やら不安を感じてるなら、まずはその身体に慣れてみることを目標にしたらどうだい? 幽体は物質体ではできないことが色々出来て便利だっても聞くし、慣れりゃ以前の身体以上に人生を満喫できるかもよ?

 まぁ、それよりも何よりも、まずはこの場を離れることが先決じゃないかね。天使をブッ倒して辺りを鎮火したとはいえ、ここは完全なシェルターじゃないから、また暫定精霊だの天使だのが来る可能性があるからね。

 これから先の人生のことを考えるのは、この災厄を乗り切ってからで良いんじゃないかな?」

 「それも、そうだなぁ…。正直、幽体ってのにはまだ慣れてないし、変な感じはするけど…とりあえず、身体は言うことを聞くみたいだしな。

 まずは、消防局員として、この身体で出来る限りのことをやってみることにするよ」

 「うん、それで良いンじゃないかな」

 イェルグは親指を立てて、ロイドの言葉を肯定する。するとロイドは満足したようで、フワリと身体を回して背を向けると、仲間たちが撤収の呼び声を上げている装甲車の人員収納スペースの方へと、宙を滑るようにして向かう。

 彼の背中を見届けることなく、イェルグは「さて」と声を上げてノーラに視線を向ける。

 「とりあえず、オレたちも移動しようか。いつまでもここで雨に当たりっぱなしってのは、空じゃないキミの身体にゃ(こた)えるだろ?

 さっさとシェルターまで移動しちまおう。

 ノーラちゃん、もう立てるかい?」

 「はい…もう大丈夫です。魔力も戻ってきましたから…雨の魔化も出来ます」

 「ホントに、魔化も大丈夫? キツいなら、休んで良いんだぜ?

 シェルターに行ったら、すぐにとは言わんけど、ノーラちゃんにはまた働いてもらうことになるしさ」

 「ホントに、大丈夫です」

 語りながらノーラは、へたり込んでいた尻を持ち上げ、キリッと直立するとイェルグに向き直る。手に握りなおした大剣も、先ほどまでのグニャグニャした不定形を捨て去り、水刃のチェーンソーへとすっかり形を整えている。

 「それに…この程度でへこたれていたら、絶望を希望に変えることなんて、出来ません」

 鋭く、活気に溢れた眼光をたたえて、ノーラがイェルグを射抜く。その力強さに心配の芯を折られたイェルグは、フッと鼻で笑いながら両手を上げる。

 「オッケー、ラジャー、了解だよ。

 いやー、仮入部員だってのに、部員顔負けの働きぶりだねぇ。キミ、ますますウチの部向きだよ」

 そしてノーラとイェルグは、既に人員収納スペースのハッチが閉じた装甲車の車上へと一跳び。そしてイェルグがナビットで運転手に発進を指示すると、装甲車はバックで元来た道を戻り、建造物から脱出。赤々とした空の下に出ると、大通りに沿って驀進を開始。元の目的地である彼らの拠点、コンサートホールへ向かう。

 

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Stargazer - Part 3

 ◆ ◆ ◆

 

 再び焦熱地獄の中を驀進すること、どれほど経過しただろうか。腕時計もしておらず、ナビットの時計も見る暇のないノーラは、正確な時間を把握できない。そこで、体感に依るしかないワケだが…そうすると、ウンザリするほどのひどい長時間が過ぎているような気がしてくる。

 そんな悲観的な思考に陥っているのには、彼女の疲労感が起因する。

 天使との戦闘、そして、女神による強制昇天の阻止を経たノーラは、疲労を心配するイェルグに対して気丈な答えを返していた――実際、深刻な状況ではないと考えていた――のだが。いざ、再びイェルグの豪雨の魔化を初めてみれば、魔力を使うほどに見る見る内に身体が鉛のように重くなってゆく。積乱雲中に突き立てている大剣を支える腕が、フルフルと覚束(おぼつか)なげに小刻みに震えている。正直、大剣の重量を支えるだけでも、非常にしんどい。

 「ちょっと、大丈夫かい、ノーラちゃん…? 顔色、悪いようだけど…」

 見かねたイェルグが声をかけてくれる。常に顔面を叩く雨滴のせいで、自分の顔がどんな風になっているか、ノーラは把握できていない。しかしながら一つだけ、確実なことが言える。雨がなければ、彼女の顔はジットリとした嫌な冷や汗でベタベタになっていることだろう。

 (やっぱり…霊魂にアクセスする魔術なんて…無茶し過ぎだったかな…)

 胸中で独り言ちながら、自嘲の笑みをうっすらと浮かべると。ノロノロとした動きで濁った翠の瞳を動かし、イェルグを視界の中央に捉えると、重い唇と舌で強がりを紡ぐ。

 「ええ…はい…大丈夫です…。皆さんも頑張ってるのに…この程度でヘコたれてなんて、いられませんから…」

 「いやいや、全然大丈夫そうじゃないから。それに、キミはさっき、人の何倍も頑張ってたんだから、"この程度"どころの話じゃないって。素直にヘコたれて、少し休みなよ。そろそろ拠点につく頃だから、手を抜いても問題ないからさ」

 「そうですか…目的地、そろそろなんですか…。それなら…そこまでは、なんとか頑張ります…。拠点こそ、しっかり守らないといけない重要地点ですから…」

 「いやー、そこら辺はヴァネッサのヤツがキッチリ対策してるから、キミが気張る必要はホントないんだってば」

 ヴァネッサ…ノーラの知らない名前が急に出て来た。とは言え、イェルグの話ぶりからすると、星撒部の一員のようだ。

 それはともかく。ノーラはイェルグの言葉にも拘わらず、重苦しい口をパクパクさせる。

 「いえ…。ヴァネッサさんという方が、どんな対策を講じたのか、分かりませんけど…どんな手段であれ、この状況です。万が一っていうこともありますから…」

 あくまで強がりを貫き、意地でも作業を続ける、ノーラ。本音を言えば、言葉に甘えて、すぐにでも五体を投げうちたいところだが…。そうすると、気が抜けすぎて、身体が全く動かなくなりそうで、不安なのだ。そんなことになれば、先にイェルグから頼まれていた拠点内部での作業が出来なくなり、ただのお荷物になってしまう。

 (役に立つために、ここに来たんだもの…。それだけは…絶対に…避けないと…!)

 休息を求める生理的欲求と、努力を求める理性的欲求の葛藤は、ノーラの顔に如実に表れている。眉間にしわを寄せ、口角をピクピクと震わせている痛々しい表情を目にしたイェルグは、困った笑みを浮かべて頬を掻く。

 (どうしたもんかねぇ…)

 なんとかして、ノーラの強がりを降りたい。そう考えるイェルグは、チララチラと装甲車の周囲に視線を走らせ、状況を確認すると…途端に、顔に宿る笑みから困惑が消える。

 (…?)

 一体、何を確認したというのか。イェルグの行動に(なら)えば、何かつかめただろうが…思考もダルくなっているノーラは、ただ疑問符が頭上に漂うに任せる。

 イェルグが、人差し指を立てた右腕をピンと天上向けて伸ばす。すると、頭上に低く垂れ込める積乱雲が、綿菓子を作る工程を逆戻しするように、急激な勢いでイェルグの右袖の中へと吸い込まれてゆく。そう、彼は鎮火のための豪雨を停止させたのだ。黒雲が跡形もなく消え去ると、赤い空めがけて大剣を突き上げている虚しいノーラの姿だけが残る。

 この状況に至り、ノーラは初め、茫然と成り行きを見守るだけで、腕を下すことさえ忘れていた。しかしようやく、堅い土の中にジンワリと水が染み透るように、数秒遅れて状況を理解すると、はっと顔を非難の色に染める。

 「そんな…! 私は、大丈夫って言ってるじゃないですか! なんで、止めてしまうんですか! 私の為だとしたら、それこそ迷惑です! すぐに鎮火作業に…」

 文句を言い終えるよりも早く、イェルグが口を挟みつつ、装甲車の周囲をぐるりと指差す。

 「いやいや、もう鎮火作業が必要ない場所に来たからね。オレは、不要なことはやらない主義だからさ。

 ホラ、その辺を見てみなよ。炎なんて見えないだろ?」

 彼の言葉に従い、ノーラがようやく視界を巡らせる。今、装甲車は周囲に建物のない、広場のような場所を走っている。とは言え、地上は全くの平坦というワケではない。電灯やら花壇、噴水や彫刻といったものもある。公園のような様相だ。しかし、この公園、非常に異様な光景となっている。タイルが敷き詰められた地上はもちろん、電灯や花壇などの突起物もすべて、水色の反射光をたたえる、角張った結晶の中に閉じ込められているのだ。どうやら、この結晶のおかげで、この場所は延焼を免れているようである。

 (この結晶…氷…? いや、違う…ガラスや水晶のように、冷気を全く感じない…)

 美しくも不思議な光景の中をしばらく進むと。やがて、行き先に巨大な建造物が見えてくる。遠目で見ると巨大なドーム状をしているこの建物も、もちろん、全体が角ばった水晶で覆われている。なんらかの魔術による作用であることは間違いないが、この規模が対象となると、相当な魔力が必要となるだろう。その必要量をざっと計算したノーラは、身がすくむ思いと共に、乾かぬ雨滴に交えて冷たい汗を垂らす。

 この水晶に覆われた建物において、特に目を引く部位がある。それは建物の入り口部分である。高さが優に5メートルを超える、ファンタジー世界の城門を思わせる、豪奢な模様を持つ開き扉がそれだ。そして扉の両側には、装飾の雰囲気に合わせて、ご丁寧に扉の高さと同等の体長を持つ番兵が左右に1体ずつ、立っている。この番兵もまた、身に着けた全てが――全身を覆う鎧も、手にした巨大な斧槍もが――水晶で出来ている。

 ノーラは、これらの番兵の全身から、産毛がチリチリと粟立つほどの魔力が湧き上がっていることを感じる。

 (この兵士…人じゃない…! 使い魔だ…!)

 そう、この番兵は、この水晶の世界を作り出したものと同じ力によって作り出された、人工の存在なのだ。

 装甲車はスピードを少しずつ緩めながら、水晶の城門へと一直線に向かう。どうやらここが、イェルグたちの目的地であるコンサートホールのようだ。すると先ほどまで見て来た水晶の世界は、コンサートホール手前の待合用広場だったようである。

 装甲車はそのまま進み、城門の30メートルほど手前まで接近する。すると、水晶の番兵たちはゴキゴキと音を立てながら素早く腕を回し、互いの斧槍を交錯させ、装甲車の行く手を阻もうとする。そこへ…。

 「はいはい、オレたちが帰還しただけださ! 道を開けてもらうぜ!」

 イェルグが右腕を上げ、穏やかな笑みを浮かべてまま、親しげに声を上げる。すると、水晶の番兵たちは再びゴキゴキと音を立てながら、素早く斧槍の交錯を解く。そして、装甲車の経路を確保するように、門の両側でビシッと直立して向い合せになる。そして、荒々しいフルフェイスマスクの下から、エコー掛った太い声を見事にハモらせて叫ぶ。

 「お帰りなさいませ、我らが同志! どうぞ、我らが砦の中へ!」

 そして番兵たちは、閉ざされた門の扉に片手を添えると、グイッと押し開く。城門はガゴガゴと耳うるさい軋みの音を立てながら、重厚な動作でその大きな口を開く。

 装甲車は、そんな番兵の横を難なく過ぎり、コンサートホールの中へと入る。その途中、イェルグは一方の番兵に対してウインクし、上げた右腕を振ってみせる。

 「お勤め、ご苦労さん! 主にゃオレからよろしく伝えておくよ!」

 そう伝えると、番兵たちは感謝のつもりなのか、三度ゴキゴキと音を立てながら腕を上げ、敬礼の恰好を取って見せた。

 そんな番兵たちの様子を一しきり見送ったイェルグは、今度はノーラに向き直って語る。

 「そんじゃ、オレたちの拠点にご案内だ」

 そう言うが早いか、装甲車はコンサートホールの内部へと進入した。

 

 コンサートホールの内部、ホール本体へと続く広い通路は、ぼんやりとした淡い水色の輝きに照らされている。この光は、通路の光源によるものではない。通路内を覆い尽くしている水晶が放つ輝きだ。一方で、天井に一定間隔で並ぶ電灯には、光が灯っているものは見当たらない。どうやら、発生中の大規模な都市火災によって、停電が起きているようだ。

 「んー、とりあえず手筈通り、ホールに行って避難民を下しとこう」

 イェルグはナビットに向かい、音声通信で指示を出している。通話の相手は、装甲車の運転手だ。相手は了解の意を知らせると、通信は早々と終了された。

 ホール本体へと進むしばらくの間、ノーラは無言を貫いている。その表情は、鬼気迫るものを感じさせるほどの、ぐったりとした疲弊感が露わになっている。コンサートホールに入って後、鎮火作業を行わずに済むことを知覚した途端、それまで必死に押し込めていた疲労が一気に噴き出し、全身に重くのしかかってきたのだ。瞼は鉛のように重くなり、意識にもうつらうつらと漆黒の混濁が混じる。

 「もう作業する必要もないんだし、ゴツゴツした床でなんだけど、ちょっと横になって休んだらどうだい?」

 隣でイェルグが苦笑しつつ声をかけるが、ノーラは無言を貫いたまま、ゆるゆると首を左右に振って拒絶する。やはり、自分から役に立つと大枚はたいてここへ来た経緯が気になり、安穏と休息を貪ることに強い罪悪感を覚えてしまう。

 「…いやぁ、意気込みは分かるんだけど…そんなフラフラした状態で、これから先の作業を手伝ってもらうってのは、オレたちとしても心苦しいしなぁ…。

 ヴァネッサのヤツ、なんか良い霊薬(エリクサ)持ってないかな…」

 イェルグは困ったように頭を掻く。その仕草に申し訳なさを感じてしまうほど、ノーラは非常に生真面目な性格をしていた。

 さて、二人が語り合っているうちに、装甲車は通路を抜け、ホール本体へと到達する。周囲が一気に煌々と明るくなり、薄明かりに慣れつつあったノーラの瞳は軽い痛みを覚え、反射的に瞼を閉じるものの、刺激で眠気がわずかに飛ぶ。小粒の涙に濡れる瞳をゆっくりと開き、周囲を見回すと…そこに広がる光景に、彼女は唖然とする。

 壮麗にして、非常に奇妙。その言葉がよく似合う風景が広がっている。数万人を擁することが出来るほどの巨大な円形のホールは、床のみを残し、柱や天井といったあらゆる部分が澄んだ青色の水晶に覆われている。ホールの天井の中心からは、巨大なシャンデリアの形をした水晶塊がぶら下がっており、そこから日常生活を送るには十分すぎる量の光がもたらされている。このシャンデリアだけではない、柱を覆う水晶も、まるでファンタジー映画に出てくる王宮か神殿にあるような、非常に豪奢な装飾が施されている。

 これらの水晶をホールに張り巡らせている理由は、耐火が目的なのであろうが…この装飾は方術学的に意味のあるものではなく、純粋な"飾り"に過ぎない。完全に術者の趣味の領域であろう。

 豪奢な装飾ばかりに目移りしがちだが、地上に目を向けると、印象はガラリと変わる。そこには、黒々とした人海が雑然と広がっている。足の踏み場がないのでは、といぶかしむ程に高い人口密度だ。

 この光景において唯一、開けている場所がある。人海の中をカラーコーン等で隔てて作った通路である。幅は装甲車1両が通れるほどだ。そして通路の行き先は、ホールの端に設けられた、装甲車の駐車スペースともいうべき広場である。そこには現在、3両の装甲車が平行して駐車している。車輛表面にチラチラと明るい火花が散っている様子が見て取れるので、メンテナンス中のようである。

 ノーラ達を乗せた装甲車もまた、通路に沿って駐車スペースへと一直線に向かう。

 道すがら、ノーラは人海の方へと目を向ける。そこには、異層世界中から集まってきたであろう、多種多様な人種がギュウギュウに身を寄せ合っており、混沌とした様子を呈している。身に降りかかった絶望に身をゆだね、身を抱くようにして座り込んでいる者。親子で抱き合ったまま、険しく眉根を寄せた視線で、どこともない虚空を睨んでいる者。一人では感情を御しかねず、隣の者とボソボソと会話を行っている者。中には、感情が爆発し、暴力沙汰が起こっている箇所も見受けられた。そういう場所には、人海の中から紺色の制服を着こんだ治安局員がどこからともなく現れ、必死に仲裁を行っていた。更には、深刻な損傷を負っている人物の周囲に医療関係者が群がり、その場で手術を行っている場所まで見受けられた。

 外を焦熱地獄とすれば、ここは叫喚地獄と言えるかも知れない。

 (…こんな酷い状況…絶対に、私たちの手で、終わらせないと…!)

 莫大な人々が苦悩する様を見て、精神に冷や水を浴びせられたノーラの意識からは、もはや完全に眠気は飛んでしまった。代わりに、胸中でメラメラと燃え上がる強靭な決意の炎が、彼女に力を与えるのだった。

 さて、装甲車が駐車スペースに到着すると。予め申し合わせていたかのように、駐車中の装甲車の合間から次々と消防局員たちが姿を見せる。そして、ノーラたちの装甲車が停車すると同時に、後部ハッチが重厚な動作で開くと、外へとわっと飛び出そうとする避難民を素早く受け止め、なんとか秩序的に誘導しようと試みる。軽度の火傷を持つ者たちは、人海の中へと誘われていく一方で、重傷者は装甲車の陰の方へと連れて行かれる。通信機を手にしている者が同行しているので、医療関係者に連絡を取っているのだろう。

 後部ハッチから、最後に幽霊となったロイドが姿を現すと、消防局員たちはたまらず唖然として、一瞬動きを止めてしまったが。

 「オレの身体の状態なんざ、どうでも良いだろ! お前ら、きちんと自分の役割をこなせ!

 オレもこの身体ながら、やれることはやるつもりだ!」

 そんな健全な一喝が響くと、消防局員たちははっと我を取り戻し、再びキビキビと自分たちの役割をこなすのであった。

 一方。装甲車の上に乗っていたノーラたちは、消防局員や避難民が周囲から離れていったのを確認してから、地上へと飛び降りる。流石はユーテリアで心技体の英才教育を受けている彼らのこと、疲労がたまった身体でも軽やかに着地をしてみせる。

 「さて…と」

 イェルグはキョロキョロと辺りを見回し、誰かが探しつつ小さく声を出していると。

 「ご苦労様でしたわね、イェルグ」

 装甲車の陰から、少女の声が飛んでくる。口調に似つかわしい高貴さと優雅さ、そして高慢さが含まれた声だ。これを聞いたイェルグは、探し人得たりといった様子で微笑みを浮かべると、声のした方へと顔を向ける。

 「お前の方こそご苦労さん、ヴァネッサ。この広範囲にずっと魔術を作用させるのは、流石のお前も(こた)えるだろ?」

 「いいえ、それほどでもありませんわ」

 その台詞を口にしつつ、声の主の少女がようやくノーラの前に姿を現す。ノーラと同じくユーテリアの制服――ただし、細部のディテールはアレンジしてある――を着込んだ、女性的な凹凸のはっきりしたフォルムを持つ人物である。とは言え、先に部室で見たアリエッタやナミトほどにはグラマラスではない。しかし、彼女の身体で目を引くのは、その体型ではない。長く伸ばしたポニーテールの髪の色だ。頭から髪先にかけて、水色から淡い緑色へと移り変わる美しいグラデーションが掛かっている。当然、元来の地球人類ではない、別の異層世界の出身種族だ。そして瞳の色もまた、一風変わっている。角度によって青から緑へと変わる、ガラス工芸品のような虹彩である。

 少女は姿を見せると、貴族的な仕草で優雅にポニーテールを掻き上げると、伏し目がちな目つきでノーラを見遣る。

 「この()が、あなたの言っていた仮入部員の助っ人? ここに来るまでの間だけで、フラフラではありませんか。頼りなさそうな娘さんですこと」

 この言い草にノーラは内心でムッとなる。その感情が顔に出てしまったかは不明だが、慌ててイェルグがフォローを入れる。

 「いやいや、蒼治よりもよっぽど頼りになったよ。お前、さっき見なかったか、幽霊になった消防局員? あの人が"獄炎の女神"の元に昇天されそうになったところを、このノーラちゃんが助けてくれた結果だよ。離散してゆく霊魂を形而上相にアクセスして収集し、再構築する。まさに神業だったね!」

 「確かに、話の内容だけをお聞きしますと、素晴らしい技術をお持ちのようですけど…」

 ヴァネッサは伏し目をジト目に変え、高慢に加えて露骨な嫌味を交えて言葉を続ける。

 「そもそも、消防局員の方が"獄炎の女神"の魔手に落ちないように振る舞うことが、何よりも必要ではなかったのではありませんこと? そうすれば、その方は身体を失わずに済みましたでしょうに」

 一々突っかかってくる言い方に、ノーラがムカムカし、ピクピクと眉根が動き始める。一方で、イェルグは頭の後ろを掻きながら再びフォローする。

 「その落ち度に言及するなら、それはオレとロイの責任だよ。オレは、まさかあのタイミングで"獄炎"の天使が出現するなんて、全く予測してなかったからね。万全を期すなら、考慮して然るべきだったんだよ。

 あと、ロイのヤツも同罪だってのは、オレはあいつに天使の足止めをお願いしたってのに、天使がこっちに襲い掛かってきたからさ。あいつ、絶対に職務怠慢だよ。

 …ってゆーかよ」

 申し訳なさそうな態度を取り続けていたイェルグが一転、笑みに意地悪な色を交え、攻撃的な雰囲気を醸し出す。

 「ヴァネッサ…見知らぬ女の子に一々嫉妬するんじゃねーよ。

 オレは浮気するほどの甲斐性はないって、いつも言ってるだろうが。オレに甲斐性があるとすりゃ、空に関連することだけだっての」

 「それはそれで困りものですわ! 空にしか興味を持たないなんて、我がアーネシュヴァイン家の婿として、大失格ですわよ!」

 ヴァネッサが声を荒立てる。その内容から察するに、彼女とイェルグの間柄は、どうやら恋愛関係――もしくは、それ以上の関係――にあるようだ。

 この事情を悟ったノーラの胸中からイラ立ちがスーッと消え、代わりにきょとんとした表情が顔に浮かび上がる。すると、今度顔色を変えたのは、ヴァネッサだ。彼女は不意に叫んだことを恥じて頬を赤く染めると、過去を誤魔化すように咳払いをする。そして気分を投げ捨てるように、手早く荒い動作で前髪を掻き上げると…今度は、その顔に涼やかにして凛々しい、利発的な笑みを浮かべ、ノーラの顔を真っ向から見遣る。

 「失礼しましたわね、ノーラ・ストラヴァリさん。あなたのことを、てっきり、わたくしの婿に手を出した不届き者かと考えてしまいましたの。声を荒げたり、嫌味を口にしたりなんてして、本当にごめんなさいね」

 「いえ…ご事情、お察しします…。

 とは言え、私はまだ、恋愛なんて、よく分かりませんけど…その…何となく、本能的な感じで、理解できました…」

 自身が語る通り、ノーラには恋愛経験なんてない。故郷にいた頃は『現女神』を目指すための教育ばかりで、同年代の子供と遊ぶことは滅多になかったし、男子に熱を上げる暇なんてもちろんなかった。しかし、もし男子と交流があったとしても、彼等に恋慕の感情を抱いたとは思えない。何しろ、男女問わず、同年代で彼女より優れた身体能力・知識・技術を持つ者はいなかったのだから、幼い少女にありがちな憧憬からくる恋慕は湧かなかったことだろう。

 ノーラの本気で戸惑いが混じる反応を目にしたヴァネッサは、いよいよ安堵する。そして、正に"歩く姿はユリの花"と形容できるような腰ぶりと足取りでノーラに近寄ると、握手を求めて柔らかく手を差し出す。

 「本当に純朴な方なのですわね、ノーラさんって!

 さっきのことの謝罪を兼ねて、お近づきの握手してくださるかしら?」

 「あ…はい。こちらこそ、よろしくお願いします…」

 ノーラがおずおずと差し出した手を、ヴァネッサはしっかりと握り、軽く上下に振る。その直後、はっと目を開くと、再び恥ずかしげな笑みを浮かべる。

 「そういえば、自己紹介もまだでしたわね。わたくしとしたことが、不手際が続いてしまいましたわ。

 わたくしの名前は、ヴァネッサ・アネッサ・ガネッサ・ラリッサ・テッサ・アーネシュヴァインですわ。異層世界"ランデルベルグ"の出身で、軍門貴族の家系に生まれましたの。"希望学園都市"には、アーネシュヴァイン家の長女として、家名に恥じぬ力をつけるために入学しましたの。学年は、そこのイェルグと同じく、2学年ですわ。

 あ…そうそう、イェルグと言えば」

 穏やかながら、口を挟むことを許さない"優しいマシンガントーク"の途中、ヴァネッサは静かに握手を放すと、イェルグの隣へとツカツカと歩み寄る。そして、彼の右肩に両手を乗せて身体を預けると、艶やかで強気な、伏し目がちの挑発的な眼差しを作る。そして、髪色とは対照的な赤の唇が一言、自己紹介に強烈な個性を加える。

 「このイェルグ・エルグ・ベルグ・ボルグ・アーネシュヴァインは、私の婿ですの。

 ノーラさん、今は恋愛のことをよくご理解ないようですけれど、もしも恋愛に興味をお持ちになったとしても、くれぐれもわたくしのイェルグには手を出さないようにしてくださいまし」

 特に強調された"くれぐれも"という言葉に、ノーラは滑稽なものを感じ、苦笑いが顔に浮かびそうになる。しかし、失礼にあたるかと考え直し、緩みそうになる顔に必死に歯止めをかける。

 それにしても――と、ノーラはふと、考えを別の方向に巡らせながら、イェルグに視線を向ける。

 「イェルグ先輩…ご結婚なさっていたんですね。ユーテリアでは学生結婚はあまり珍しくないとは聞いていましたが…実例を目にしたのは、初めてでした。

 おめでとうございます…」

 「いやいやいやいやいやっ!」

 ノーラの言葉尻をかき消すように、雷鳴のような勢いでイェルグが叫び、掌を左右に激しく振る。

 「確かに、オレとヴァネッサは世間一般的には恋愛関係なんだろうけど! 結婚はしてないから! こいつが勝手に言いふらしてるだけだから! さっきのやたら長ったらしい名前も、全部こいつの妄想だから! 学籍でもちゃんとイェルグ・ディープアーって記録されてるし!

 そもそも、空が誰か一人に捕まっちまうなんて、あり得ないから!」

 この言葉に、ヴァネッサは黙っていられない。笑みを消して露骨な怒りの炎を両眼に灯すと、肩に置いていた手を素早くイェルグの首に伸ばし、締め上げてはガクガクと揺らす。恋愛関係にある者からすれば、この反応は無理もないことだろう…イェルグの"誰か一人に捕まるなんてあり得ない"という台詞は、浮気を肯定しているような意味にも取れるのだから。

 「イェルグ~っ! あなたってば、いつもいつもいつもいつもいつも! そんな無責任なことを言ってぇ~っ! 浮気は男の甲斐性だ、なんて言い出すつもりじゃないでしょうねぇ~!?」

 「ぐえっ…だからっ…そういう意味じゃないって…っ! オレもいつも…いつもいつも…言ってるじゃないかよ…っ! さっきも言った通り…こんな性格のお前をほっぽいて…浮気できるほどの甲斐性は…オレにゃないって…っ!」

 この状況に、ノーラはもう堪らず、苦笑いを露わにする。これでは夫婦漫才そのものである。

 しかし、こんな愉快な状況にいつまでも浸るワケにはいかない。ノーラはふと、自身に託された使命を思い出すと、表情を引き締めて尋ねる。

 「あの…神崎大和さんって方は、どこにいるんでしょうか…? 私、その人の手伝いをすることになってるんですよね…?」

 「ああ、そうでしたわね。あなたが、蒼治の代わりなんでしたわね」

 ヴァネッサはあっさりした口調でノーラに答えつつ、イェルグの首をぱっと解放する。イェルグは本気で苦しかったらしく、床に膝をついてゲホゲホと本気でむせ返る。その様子に気の毒なものを感じつつも、ノーラは自身の使命に集中する。

 ヴァネッサが語る、

 「大和なら外に居まわすわ。あなた方の入ってきたのとは別の方向の出入り口から出てすぐのところで、装甲車の制作やらメンテナンスに従事していることと思いますけど…」

 ここで一端、ヴァネッサは言葉を切ると、ズズイッとノーラに顔を近づけ、眉間にしわを寄せる。

 「まさか、あなた…そのコンディションのまま、次の作業に取り掛かるつもりじゃありませんわよね?」

 「え…あの…そのつもりですけど…。状況が状況ですし…休憩している暇なんて、ありませんから…」

 「まぁ、確かにのっぴきならない状況ではありますけど…あなたの今のコンディションでは、はっきり言って、私たちの作業のお荷物になりますわ」

 一片の気遣いもない、はっきりとした物言い。それがノーラの思考を横からガンと殴りつけ、彼女の顔は失意に固まる。――確かに、正直、身体はしんどいし、眠気が再び戻ってきていた。これでは十分なパフォーマンスを出すことなど無理だと、彼女自身も悟ってはいたが…こうして他評されると、その衝撃はあまりに大きく身の内に響く。

 (…役に立つって…言ったのに…)

 瞼のふちに沿って、涙がジンワリと溢れてくる。自分の情けなさが、悔しすぎる…。

 これを見たヴァネッサは、はぁ、と一つ溜息を吐くと。制服の上着のポケットをごそごそと漁る。そして取り出したのは、掌より少し頭が出るくらいの大きさの、茶色のビンである。何のラベルも張られていないことや、キャップの作りがぞんざいなところを見ると、自作のもののようだ。これをノーラに差し出すと、唇を尖らせながらも、柔らかさがにじみ出る口調で語る。

 「これは、わたくしが自作した栄養補給の霊薬(エリクサ)ですわ。麻薬みたいな中毒効果はありませんので、安心して口になさるといいわ。

 わたくしも能力の特性的に、莫大な魔力を使うことが多くてね。薬物中毒みたいな有様で不本意なのですけど、こういった霊薬に頼ることが多いんですの」

 この言葉を踏まえて、ノーラは改めてマジマジとヴァネッサの顔を見つめる。すると、彼女の目の下に、うっすらと(くま)が出来ているのが分かった。余裕綽々(しゃくしゃく)と高飛車な態度を取っているように見えた彼女であるが、実際は表に出さない大変な苦労を抱えている。

 「…もしかして、この辺りの水晶とか、入り口の使い魔とかは…ヴァネッサ先輩の能力によるものですか?」

 ノーラはビンを受け取りながら尋ねると、相手はため息を吐きながら頷き、苦労の大きさを訴えるようにしわを寄せた眉間を指で押しながら答える。

 「ええ、その通りですわ。

 わたくしの能力は、魔力で結晶を作り出し、使役すること。作れる結晶は、種類によって魔力の消費量が違いますけれど、世界が"結晶"と認識する存在ならば、何でも作れるみたいですわね。"作り出す"に留まらず"使役する"とまで言及しましたのは、あなたのおっしゃた通り、結晶から使い魔を作り出し、与えた命令に沿って作動させることが出来るからですわ。

 まぁ…使い魔と言えども、ほぼ自動制御ですから、四六時中状態を監視して制御し続ける手間はないのですけれど…維持するための魔力だけは、消費しますからね。ましてや今回は、あなたも見ての通り、この広範囲をカバーしているワケでしょう? もうずっと、眉間の辺りに締め付けられるような違和感に悩まされっぱなしですわ。ですから、その霊薬なくては、とてもじゃありませんが身が持ちませんの」

 "眉間の締め付けられるような違和感"は、使役系統の魔術を長時間使用した際の典型的な疲労症状である。

 「本当にお疲れ様です、ヴァネッサ先輩…。

 あ、この霊薬、有難くいただきます…」

 「ええ、どうぞ。味の方は…(ヴァネッサは顔をしかめる)あまり保障しませんけど」

 ノーラはキャップを開き、中の液体を少しずつあおると…舌にドロリとした生温い霊薬の感触を認識した途端、思わず眉をしかめる。口腔から鼻の奥へと、ミントにも近い強烈な薬品臭が突き抜けてゆくのが、はっきり言って不快だ。吐き出したくなる衝動に駆られるが、先輩の善意でもらい受けた手前、ぞんざいに扱うワケにはいかない。ぎゅっと目をつぶると、一気に中身を飲み干す。

 ゴクン…と咽喉を鳴らして飲み下すと、ほんの数秒後、体調に明らかな変化が生じる。全身の筋肉に、まるで湿布薬でも貼り付けた時のような、爽快な刺激がスーッと現れる。この爽快感が、筋肉細胞の内にある疲労の鉛を消滅させてくれるようだ。身体がみるみるうちに羽毛のように軽く感じてくる。変化は肉体だけに留まらない。爽快感は頭を突き抜けて思考を刺激し、溶け出すようなだるい眠気を叩き払い、瞼をぱっちりと開かせてくれる。

 この霊薬の効果が『混沌の曙(カオティック・ドーン)』以前の地球で認められていたならば、おそらく、覚せい剤として不当な扱いを受けたに違いないだろう。しかし、脳神経へ負担をかけるような副作用はないので、現在の世界では素晴らしい効果のある栄養剤として認識されるに過ぎない。

 「先輩のこの薬…すごいですね…! すごく元気が出てきました…!」

 「もちろんですわ! ユーテリア入学以前から、わたくしが精魂込めて研究し、完成させた霊薬ですもの!

 ただし、あまり大量に飲むのはお勧めしませんわ。効果としては肉体の疲労を魔法的に消去しているので、理論的には反動は少ないのですけれど、念のためということもありますのでね。

 …これで、ノーラさんのコンディション面の問題は解決ですわね。あとは…」

 ヴァネッサはノーラの頭の上からつま先までにさっと視線を走らせると、腕組みをして語る。

 「そのびしょ濡れの身体をどうにかしませんとね」

 「あ…これは、大丈夫です。疲れをどうにかしていただいただけでも、十分ですから…」

 「そういうワケにはいきませんわ」

 ノーラの辞退を跳ね除け、呆れのため息を交えてヴァネッサがきっぱりと反論する。

 「何をそんなに恐縮しているのか…そういう損な性格なのか…分かりませんけれども、ノーラさんは要らぬ遠慮が多すぎますわ。

 体調だけ取り戻しても、濡れたままでは、不快感は避けられませんわ。あなたが水棲系の人種なら例外でしょうけど…見るからにそうではありませんわよね?

 不快感は動きを鈍らせますから、これからの作業にも支障をきたしますわ。加えて、水分で体温が奪われて体調を崩すこともあり得ますからね。魔法科学が進んだ現代においても、風邪は治療に時間を要する病気ですのよ? そういったリスクを排除する意味では、コンディションをおざなりにして全力疾走し続けるより、少し足を止めてみることも必要なことですわ」

 ヴァネッサの言葉は、(もっと)もである。正直、(はや)っていたノーラは彼女の言葉に頭を冷やし、大人しく従うことにする。

 「それでは、イェルグ、晴天を呼び出してノーラさんの身体を乾かしてあげなさいな。

 とは言え、ここで強い熱を伴う光を出現させてしまうと、避難民の皆さんの神経を逆撫でしてしますわね。どこかの装甲車の中に入りましょう」

 「ああ、了解…だけどさ…。オレもびしょ濡れなんだけど、ノーラちゃんのことしか言及しないってのは、自称妻にしては気遣いなさ過ぎだと思うんだけどさ…?」

 「あなたは、他の女の子に色目を使うところだったんですもの。そのお返しですわよ」

 「…だからそれ、誤解だって、何度も説明してるだろうが…」

 イェルグとヴァネッサの夫婦(?)漫才が終わると、一行は手近な(ただし、ノーラたちが乗ってきたものとは別の)装甲車の人員収納スペースに乗り込む。イェルグは収納スペースの中央に陣取ると、両の掌を胸の前で合わせると、ゆっくりと二つの掌の距離を開いてゆく。そうして生じた掌間の空間に、晴天の中で燦々(さんさん)と輝く太陽そのものの光を放つ球体が、ゆっくりと体積を増しながら生成される。眩い光と共に、真夏の炎天下を思わせる灼熱を放つので、ますます太陽を思わせる。

 「イェルグ先輩って、雨だけじゃなくて、太陽…っぽいもの?…も、作れるんですね」

 「そりゃあ、当然さ。空模様ってのは雨天もあれば、晴天もあるんだぜ。"空の男"であるオレに、作れない空模様なんてないさ。

 …そうだ、乾くのが少しでも早くなるように、風も出しておこうかな。空で作るドライヤーってことでさ」

 小型の太陽型熱源を作り出したイェルグは、これを右手の上に浮かべると、今度は開いた左手のひらを熱源の後ろに置く。すると、手のひらから強風がビュウビュウと吹き出し、熱源の灼熱を含んで熱風と化すと、装甲車内を渦巻く。呼吸が苦しくなるほどの勢いはないので、乾いた熱風が濡れた体には純粋に心地良い。ノーラとイェルグは、表情にほっと穏やかさを浮かべて、爽快感を謳歌する。

 その一方で…乾かす必要のないヴァネッサは、ひどい有様になっていた。特に激しく影響を受けているのは、髪、である。ノーラたちと違い乾いた長髪は、強風に煽られてバサバサとはためく。その激しく吹き上がった髪型は、まるで、山姥(やまんば)のようである。ヴァネッサは必死にまとめようと手を泳がし、グラデーションのかかった髪をまとめようとするが、うまくいかない。

 「お前は濡れちゃいないんだから、外で待ってりゃいいのに」

 イェルグが苦笑しながら語ると、ヴァネッサは風への苛立ちを上乗せした怒声を返す。

 「あなたと女の子とを二人っきりにするなんて、出来るわけがありませんわ! どうせまた、色目を使う魂胆なんでしょう!

 わたくしがきっちりと監視しませんと!」

 「だーかーらー…もしもノーラちゃんに手を出すつもりなら、ここに来る途中でとっくにやってたさ。装甲車の上で二人きりのデート状態だったワケだしな」

 「デートですって!? やっぱりあなたったら、そういうふしだらな心の持ち主だったのですね…!」

 髪をまとめることを放棄し、拳を握りしめ、全身から怒気を噴出しながら、ヴァネッサがユラユラした足取りでイェルグに向かってゆく。イェルグは慌てて左右の手をパタパタと振る。

 「だから、それは言葉の綾ってヤツで! …ったく、お前って、ホントめんどくせーヤツだなぁ!」

 「めんどくさいとなんですの! あなたはもっと真摯に、わたくしたちの関係を考えるべきでしてよ! それに…!」

 ヴァネッサはついにヒステリーを起こし、ギャアギャアと喚き立て始める。イェルグは肩を竦ませながら嘆息し、もう何をやっても無駄と達観して視線を床に落とすばかりだ。世の中には喧嘩するほど仲が良いとは言うが、この二人もそういうものなのだろうか――とノーラはぼんやりと傍観しながら胸中で呟く。

 そんな風に一息を点いていると…ふと、脳裏にロイの顔が浮かび上がった。そういう思考が働いたのは、申し訳なさを感じたためだろう。

 (私たちはこんな風に楽しく休憩を取っちゃってるけど…ロイ君は、今も一人で、あの強力な天使たちと戦っているんだよね…)

 先の激闘を思い出すと、ノーラの顔に陰が落ちる。2年生のイェルグがたった一体の相手をしても、相当の被害を出した、"獄炎"の天使。それなのに、彼は複数を相手にして立ち回り、天使たちの目を地上から逸らさせているのだ。苦戦は必至だろう。

 「…大丈夫かな、ロイ君…」

 桜色の唇からポツリと漏らした呟きは、心地よい熱風の中に紛れたものと思っていたが…。

 「気になりますの? ロイのこと」

 ヴァネッサが喚き立てるのをピタリと止める、耳ざとく反応を返してくる。ノーラはこくりと頷き、肯定を伝える。

 すると、イェルグが横から口を挟む。

 「ロイと言えば、あいつ、絶対に怠慢だろ。オレ達のほうに"天使"をよこしやがってさ。足止めしてくれって、しっかり頼んだはずなんだけどな。オレを差し置いて、空飛び回っていい気分になってるに違いないって」

 「自分が、大好きな空を飛べなかったからといって、変に言いがかりをつけるのはおよしなさいな」

 ヴァネッサは露骨に非難の表情を浮かべ、ロイをフォローする。

 「わたくし、使い魔を飛ばして見守っておりましたけど、あのコ、随分とがんばっておりますわよ。1年生の身で、あんな大量の天使を引き付けて立ち回りできるなんて、称賛に値しますわ。

 …そうだ、ノーラさん。身体と服が乾くまでの間、どうせ時間がありますし、ちょっとロイの様子を覗いてみます?」

 「お手間でなければ…ぜひ、お願いします」

 「お手間だなんて、そう固くならなくてよろしいのよ」

 ヴァネッサは気品あるバラの笑みを灯す。

 「わたくしたちはもう、この過酷な状況に一丸となって立ち向かう、運命共同体ですもの。もっと自然体で振る舞いなさいな」

 「はい」というノーラの答えもまたず、ヴァネッサは右腕を真っ直ぐ前に突き出すと、魔法現象を発現させる。手のひらの輪郭に蛍光が灯った数秒後、手から十数センチ手前に、小さな水晶が出現する。それはガキゴキと音を立てながら、成長しながら体積を増してゆく。最終的には、透明度の高い薄水色をした、荒い輪郭を持つ長方形の形状となる。水晶で出来たモニターだ。

 多少凹凸のあるモニター表面に、やがて、ぼんやりと光景が浮かび上がってくる…。

 

 まず、視界に飛び込んでくるのは、燃えるような赤一色。加えて、大蛇のようにのたうつ、一際赤が生える紅炎も網膜に突き刺さる。

 そこは、間違いなく、この都市国家・アオイデュアの上空の様子である。『天国』はいまだに"獄炎の女神"の影響を受け、おどろおどろしい恒星表面のような有様を見せており、都市を襲う災厄がまだまだ終焉に向かっていないことを如実に物語っている。

 この赤い空の中に、2種類の点が存在する。

 1つは、白い点。空の赤の中に無数に散らばっており、粒子の大きな(もや)のようにも目に映る。この点の正体は明らかだ――"獄炎"の天使である。その周囲に更に小さな赤い点――天使の魔術で作り出した火炎弾――を身につけ、緩やかな加速がついた動きで空を飛び回ったり、"もう1つの点"を目がけて集合したりする。

 この"もう一つの点"は、概ね黒い色をしている。この点は急速度で空中を飛び回り、白い点と交錯しては、青白い魔力衝突の火花を派手にまき散らしている。モニターはこの激しく動く点に焦点を当て、その正体を明らかにすべく拡大を始めるが…そんなことをせずとも、視聴者たちはすでに点の正体を悟っている。

 ロイ・ファーブニルだ。背に展開した漆黒の翼や、凶暴な外観の竜の手足や、真紅の髪から突き出した角など…ノーラたちと別れたときそのままの、『賢竜(ワイズ・ドラゴン)』の姿をしている。その"全身凶器"とも言うべき身体を絶え間なく、思い切り振るい、彼を囲む100近い数の天使と激闘を繰り広げている。

 拳足が空を切れば、漆黒の斬撃となって空間を走る。尾を長く伸ばして振れば、その表面から黒紫色に輝く長針――魔力を帯びて鱗が変化したものらしい――が雨あられとなって宙を駆ける。翼を思い切り前方に向けて振るえば、氷晶が煌めくブリザードが発生する。牙だらけの口を轟然と呼気を放てば、正六角形の青い魔術式文様の出現と共に極寒の息吹(ブレス)が砲撃のように放たれる。その攻撃の一々は必ず天使を捕え、ただならぬ損傷を深く刻み込む。中には、ただの一撃で純白に輝く羽状の神性体をまき散らして消滅させる至ることもある。

 強大な戦闘力で暴れ回るロイだが、決して無傷というワケではない。ズボンのみ履いた制服は大いに焦げが見えるし、身体には竜化した部分も含め、幾つも炎熱で腫れあがった火傷の跡がある。総じてみれば、ボロボロと言っても良い状態だ。

 しかし、そんな辛苦の中、ロイの顔には(わら)いが張り付いていた。

 どんなに天使たちから手痛い反撃を食らおうとも、絶え間ない戦闘で身体が疲れ切っているはずでも、その顔には震えるような剣呑な愉悦が浮かんでいる。その様はまるで、神を打倒さんと天に挑み、残虐な戦いを楽しむ修羅そのものだ。

 ――修羅。なるほど、強大な神を相手に嬉々として戦うには、精神を人ではない領域に踏み入れねば、気を保てないのかも知れない。

 それが正しい道理だとしても、ノーラはこのロイの有様に、頼もしさ以上に畏怖を感じざるを得なかった。

 (これが…あの、ロイ君…)

 別れ際に見せた大輪の花の笑みの気配は、今や微塵も感じられない。散ってしまったというより、根こそぎむしり取られてしまった、という印象がノーラの胸中を支配する。

 

 ノーラが固唾を飲んで、揺れる視線でロイの立ち回りを見ている一方で。イェルグとヴァネッサは、平然と言葉を交わす。

 「御覧なさいな、イェルグ。ロイはこんなに頑張ってるでしょう? 怠慢だなんて、彼に失礼もいいところですわ。

 ロイは、こういう活動の時には、絶対に中途半端なことをしない子ですわよ。…まぁ、普段は騒がしいだけのおバカさんですけど」

 「頑張ってるってより、確実に楽しんでるだろ、あいつ…。あーゆー戦闘バカだから、細かいところに気が行かなくて、こっちに取りこぼしを寄越すようなことをするんだよ」

 「ロイが戦闘を開始してから、天使たちの数が増えておりますのよ。それでもたった一人であれだけ戦えているのですから、純粋に褒めてあげてもよろしいのではなくて?

 それに、そんなに文句をつけるのなら、自分でやってみたらどうなのかしら?」

 「言われれなくても、身体を乾かし終わったら、加勢しに行くつもりだよ。消火の方は、ノーラちゃんに任せられるからな」

 そんなやりとりをしていると、やがてノーラもイェルグも制服や髪の濡れがすっかりと乾いた。こうなると、装甲車内を吹き荒れる熱風が急に鬱陶しく感じてくる。映像に集中していたノーラだが、熱さにだんだんとへばってきて、眼がフラフラになってきた。それを見たイェルグは、風を吹き出す手のひらを閉じ、熱風を止める。

 「ノーラちゃん、身体は乾いたみたいだね?」

 「あ…はい。お蔭さまで…制服がカラッカラな感じです…」

 「オッケー。そんじゃ、この太陽はしまっとくぜ」

 イェルグは浮かべていた熱光源を両側から手で挟み、そのままギュッと押し潰す。すると、熱光源は急激に体積を縮め、合わせた手のひらの中に消えてゆく。すると装甲車内は、余熱はまだ残るものの、ドライヤーのような現象はすっかりと収まった。

 彼の動きに同調するかのように、ヴァネッサも水晶のモニターに手を伸ばし、おそらくしまおうと(もしくは、消滅させようと)した…が、その動きがぱったりと止まる。未だにモニターに釘付けになっているノーラに気づいたのだ。そして、彼女の浮かべている、戦慄き唖然としているような表情を目に留めると、ひと声かけずにはいられなくなる。

 先までの強風で乱れた、グラデーションのかかる髪をかき上げて整えると、ヴァネッサはノーラに語る。

 「どうしましたの、そんな宵闇を怖がるような幼子のような顔をして?

 ロイのことが心配なのでしたら、安心しなさいな。あの子、天使相手の戦闘は手馴れておりますのよ。

 それに、イェルグもすぐに加勢に行きますわ。さっきの天使戦では不意を突かれていい所がなかったみたいですけど、イェルグは私の婿になる男、ロイに劣らぬ対天使戦闘の実力者ですわ。まぁ、ぱっと見、頼りなさそうっていう点については、わたくしも同意しますけど」

 「一々トゲを含んだ言い方すんなよ」

 外野からイェルグが苦笑を交えて抗議するが、ノーラもヴァネッサも特に反応することないのが、実に悲しい。

 それはそうと…ノーラはモニターに注いでいた目をちょっと俯けると、「確かに、心配も、ありますけど…」とヴァネッサの問いに答える。

 「私が今、怖いなって感じてるのは…ロイ君自身なんです。

 私…ロイ君とは別のクラスだし…一緒の授業を受けたこともなかったから…彼の事は、よく知らないですけど…。

 私が今日、知り合ったロイ君は…まるで、真夏の日差しの元に咲く、大きなヒマワリみたいな、爽やかで元気な印象を受けたんです。

 でも…今のロイ君は…花というより…竜というより…戦いを楽しんで暴れまわる、鬼みたいです…」

 「鬼…ね。確かに、頭から2本、角も生えてますしね」

 ヴァネッサは芝居なのか本気なのか、あごに手を置いて目を伏せ、考え込むような仕草を見せて答える。

 「でも、私たち星撒部の部員からすれば、こういうロイの姿って当たり前のことだから、今のノーラさんのように違和感を感じたりしないのよね。

 確かに、普段は花…というより、渚と一緒にバカ騒ぎに走り続けるイノシシみたいですけど。笑顔のために、戦いのみならず、全身全霊を尽くして理不尽に立ち向かう時のロイは、あんな感じですわ。なんで嗤ってるのかは、分かりませんけど。単に無意識にそういう表情が出ているだけかも知れませんし、困難に打ち()つのを楽しんでいるのかも知れません。

 まぁ、この部活に入って、ロイと行動を共にする時間が増えてくれば、分かってきますわよ。今は怖いと思うあの顔も、そのうち、とても頼もしく感じてきますから」

 「そう…だったんですね。ロイ君の、頑張ってくる顔だったんですね…。

 それを怖がってしまったなんて…私、ロイ君を侮辱してしまったようです…」

 あくまで生真面目に責任を背負い、顔に陰を落として失意に陥るノーラを、ヴァネッサはニッコリと笑みを浮かべて肩を叩き、負の感情を叩き払う。

 「別に面と向かって誹謗中傷したワケじゃないのですから、そこまで落ち込む必要なんてありませんわ。

 ノーラさんは、もっと鈍感になって、泰然自若(たいぜんじじゃく)を目指すべきだと思いますわ」

 そう語り終えたヴァネッサは、今度こそ水晶のモニターに手を伸ばすと、その表面を軽く人差し指で弾く。すると、モニターにビシビシと亀裂が走り、ついにはモニターは破砕。大小の破片となった水晶は、氷が急速に解けるように体積を収縮させ、音もなく中空へと溶け消える。

 「さて、そろそろ休憩は終わりにいたしましょうか。この災厄、まだまだ終わりが見えませんからね。

 では、ノーラさん。イェルグから聞いてるとは思いますが、あなたと一緒に作業してもらう大和のところに案内しますわ」

 そう語ると、ヴァネッサはノーラに手招きを残し、さっさと装甲車から出てゆく。ノーラは慌てて、その後ろ姿を小走りで追いかける。さらにその後ろを、イェルグが大股の早歩きで続く。3人はそのまま、並んで駐車している装甲車を挟んで向こう側の、人目につかない箇所を歩くと、やがて水晶がガッチリと蔓延るコンサートホールの壁に突き当たる。この壁沿いに歩くこと数分、3人はやがて水晶で出来た開き戸にたどり着く。入り口の壮麗な造形とは違う、非常に簡素な作りの扉だ。"コ"の字を書いたドアノブ以外に突起物はなく、凹凸の激しい荒い表面がのっぺりと続いているだけだ。

 先頭のヴァネッサはこの扉を開きながら、チラリと背後を確認すると。頭の後ろで腕を組み、穏やかに微笑みを浮かべているイェルグを目に留めて、口を尖らせる。

 「イェルグ、あなたはロイの加勢に行くのではなくて? なんでわたくしたちについて来るんですの?」

 「もちろん、そのつもりさ。そのためにゃ、外に出なきゃならんだろ。お前の行ってる道の方が近道っぽいから、ついてきただけだ。

 あのバカデカい正門まで、無駄に長い距離を歩くのは時間の無駄だろ?」

 「まぁ、確かにそうですわね」

 さて、3人は水晶の開き戸から外に出る。早速、産毛をチリチリと焼くような乾いた熱風と、頭上に広漠と広がる焦熱地獄の赤の空が3人を迎える。ノーラは空に向けてちょっと目を凝らし、モニターで見たロイの姿が見えないかと確認したが…見つけることは出来なかった。

 (考えてみれば…避難民が集まっている上空で、あんな激しい戦闘を繰り広げるワケがないよね…)

 ノーラが独りごちて納得していると。彼女の後ろから、イェルグがスタスタと歩み出て来た。

 「そんじゃ、オレはここらで行くとするかね」

 語るがはやいか、イェルグのまとう服の裾や襟から、もくもくと白雲が溢れ出てくる。それがヘビのようにイェルグの身体に絡みつくと、彼の身体がフワリと宙に浮かんだ。まるで、"東洋"とよばれる地域圏文化に出てくる龍のような有様である。

 初めはゆっくりと、徐々に加速しながら上空に浮かんでゆくイェルグに向かい、ヴァネッサがやや大きめの声を張り上げる。

 「一応、気を付けて、と言っておきますわ! 我がアーネシュヴァイン家の婿となる者が、下郎な天使に無様にやられるなど、絶対に認めませんことよ!」

 「はいはい、分かってるって。

 それにしても、例え地獄と言えども、空は空だなぁ。この広さ、自由さは、全異相世界中のどこだろうが、色や環境が多少変わろうが、普遍だねぇ」

 「そんな無駄口叩いて楽しんでないで、さっさと行ってきなさいな! さっき時間の無駄だとか言っていたのは、あなた自身なんですからね!」

 このヴァネッサの言葉には特に答えを返すことなく、イェルグは上昇の速度を増し、赤い空の中の点となる。それを見送ってヴァネッサは眼を閉じて、ふぅ、と息を吐くと。ノーラに向き直る。

 「さて、わたくしたちもグズグズしてはいられませんことよ。あなたをさっさと大和に引き合わせますわ」

 そう言い残してサッサと速足で歩きだす、ヴァネッサ。ノーラは彼女に遅れまいと歩み出すものの、ヴァネッサの背に注ぐ視線には、ゆらめく不安が満ちている。今度、彼女が思いをかけている相手は、イェルグである。

 「あの…ヴァネッサ先輩。イェルグ先輩、本当に大丈夫でしょうか…?

 さっき、天使と戦った時は…先輩、すごく余裕がなかったみたいでしたから…。多数が相手となると、先輩、大変なんじゃないですか…?」

 「心配は無用ですわよ」

 ヴァネッサは振り向きもせずに、固い信頼が読み取れる、自信に満ちた言葉を口にする。

 「先の戦闘でイェルグが苦戦して見えたのは、おそらく、守るべき避難民を抱えていたからではなくて? 重傷者もいたようですしね。

 そういった――言い方は悪いですが――足手まといなしで、能力を全開できるならば、並の天使の数十や数百、イェルグの敵ではありませんわ」

 この言葉に、ノーラは目を丸くせずにはいられない。特に"数百"とまで語るのは、言い過ぎだろうという感想を持ったほどだ。

 とは言え、前の戦闘のことを思い返すと、確かにイェルグはほぼ一撃で天使を撃破している。しかも、あれがイェルグの全力かどうかは、ノーラには判断できない。彼女よりも断然深く彼のことを知るヴァネッサが自信を持って語るのならば、多少誇大が含まれているとしても、決して実力が低いということはないだろう。

 イェルグの実力云々はさておき。2人の女子生徒は縦に並んだまま、コンサートホールの外縁に沿って、緩やかにカーブを描きながらしばらく歩き続けると…やがて建物の陰から、一風変わった建物――というか、施設――が見えてくる。

 それは、水晶で出来た巨大なテントといったところだ。壁がなく剥き出しになった内部には、幾つもの車輛が見える。装甲車はもちろん、自家用車を初めとした他の車種も十数台集められている。どの車も焦熱地獄にやられて煤っぽくなっているが、特にひどい有様になっているの装甲車である。高熱にやられたらしく、装甲が融解しかかっているものや、暫定精霊(スペクター)や天使にやられたのか、強烈な力で車体がひしゃげているものなどがある。

 これらの車の集合の中心部から、眩い蛍光色の魔力励起光が立ち上る。光の規模から鑑みる限り、術者が実力者であることが容易に見て取れる。

 この光を見たヴァネッサは、満足げに頷いて独り言ちる。

 「うん、人目がなくてもしっかりと働いているようですわね」

 そしてヴァネッサはノーラを連れ、テントの内部、光が発生する地点へと更に歩みを進める。特に整列していない車の合間を()って進み、テントのほぼ中央まで達すると、一人の人物が目に入る。こちらに背を向けた"彼"は、ロイやイェルグと同様の制服に身を包んでおり、星撒部員であることを物語っている。

 "彼"は表面が派手に溶融した装甲車に向き合い、両手を伸ばして、魔力を注ぎ込んでいる。この魔力が車体に作用している光が、さっき二人が目にした魔力励起光である。この作用によって装甲車の表面は粘土のように緩やかに形を変え、徐々に傷のない平面へと変わってゆく。このようにして装甲車のメンテナンスを行っている点と、イェルグやヴァネッサの話を突き合わせると、"彼"こそ何度か話題に上っていた神崎大和であると判断できる。

 それにしても…この大和という人物、"希望を振り撒く"をテーマにしている星撒部に所属しているにしては、なんと希望のない背中をしているのだろうか。肩も腰もガックリと下がっており、ヒザは体重を支えるのも億劫と訴えるかのように折れ曲がっている。時折聞こえる、ハァ…、というため息には、どんよりとした疲労の色が濃く滲み出ている。なんとも頼りない、そして辛そうな有様だ。

 これを見たヴァネッサは顔をムッとしかめると、口を大きく開き、どんよりした空気を吹き飛ばすような鋭い声を上げる。

 「その情けない有様は何ですの、大和! 作業については、キチンとこなしているようですから、何もとがめるつもりはありません…が! その希望の欠片もない、ダラけ切ったその態度は、わたくしたち星撒部の一員として恥ずかしい限りですわよ! もっとシャンとしなさいな!」

 「…そうは言ってもッスね、ヴァ姐さん…」

 錆びついたブリキ人形のように、ぎこちない動きで大和が振り向く。イェルグから事前に聞いていた通り、旧時代の開放型コクピットの飛行機のパイロットがつけるような、大きなゴーグルをつけている。とは言え、このゴーグル、形通りのアナクロなものではないようだ。大和が油まみれの手でゴーグルのふちを触ると、ゴーグルのグラス部分の色が一瞬にしてブラウンから透明色に変わる。どうやら、遮光使用にも出来る実用的なもののようだ。

 ゴーグルを目から外して額にかける、大和。そうして露わになった彼の顔立ちは、なかなか愛嬌のあるつくりをしている…はずである。"はず"といったのは、現在の疲れ切った彼からは、普段の表情が極めて読み取りにくいからだ。ブラウンの瞳は鉛色が混じっているように見えるほどにどんよりと濁り、目の下にはくっきりしたクマが出ている。輪郭はゲッソリとこけ、大きく太い針のように尖らせた髪型の先端は、枯れゆく草花のように(しお)れている。

 (すごい顔してるなぁ…)

 背中以上に希望とほど遠い表情を目にしたノーラは、思わず苦笑が漏れそうになる。とは言え、自分も一度は眠気に沈みそうになるほど疲労に蝕まれた身だ。他人のことを笑ってられる立場ではないと、自らを引き締めなおす。

 さて、大和はヴァネッサへと自らの弁解を訴える。

 「オレ、もうずううううぅぅぅっと、魔力使いっぱなしで、装甲車の作成からメンテナンスに加えて、通信機器の世話までやらされてるんですよ? しかも、ヴァ姐さんの特性霊薬を一滴ももらえずに、ですよ? これじゃあ、馬車馬やハツカネズミどころじゃない、酷使されきったボロ雑巾って感じッスよ…。

 せめて、姐さん特性の元気の秘薬を一口――」

 語っている最中、彼のショボショボした眼がノロノロと動き、ヴァネッサの背後に控えるノーラを捕えた、その瞬間。突然、彼が言葉を止めると、ゆっくりと大きく瞬きする。そして、眼を見開いた時には、ブラウンの瞳から鉛の鈍重さが消え去り、満天の星空のような輝きが爛々と灯る。

 「ヴァ姐さん! 背後に奥ゆかしく寄り添う、そのカワイイ娘は、一体どこのどなたッスか!?」

 瞳の輝きに負けじと、口調まで急に活き活きとする、大和。その不審なまでの変わりように、ノーラは身体をビクッとさせて、ヴァネッサの背中に隠れる。この動作を背中越しに察したヴァネッサは、頭を抱え込むような深いため息を吐くと、口を尖らせ非難めいた口調で鋭く語る。

 「先ほど連絡したでしょう? あなたを手伝いに来る、仮入部員の方が来ると。…この娘が、その方ですわ。

 名前は、ノーラ・ストラヴァリさん。あなたと同じく、一年生ですわよ。…レディをあなたと二人きりにするのは、はなはだ不本意ですけれども…蒼治が動けない以上、背に腹は代えられませんし…。

 ともかく、あなたは現状の深刻さを鑑みた上で、浮かれて騒いだりすることなく、大人しく作業に没頭して――」

 そう語りかけている最中、大和の姿がヴァネッサの視界から忽然と消える。ぱちくりと瞬きし、きょとんとしながらも視界を巡らし、話相手を探していると…。

 「おおおおおおおっ!!」

 水晶のテントを振るわせるような歓声が響き渡る。これを耳にした途端、ヴァネッサは"しまった!"と云う風に顔をしかめ、素早く背後に振り返る。そうして視界に飛び込んできた光景を認識すると…ヴァネッサはこめかみに手を置き、さっきより更に深いため息を吐く。

 そこには、この場に到着したばかりの時の(しお)れ具合はどこへやら、活力に満ち溢れた大和の姿がある。彼はノーラの両の掌を自らの両手で包み、鼻息がかかりそうな距離まで顔を近づけている。明らかに退()いているノーラは背を反って大和から距離を取ろうとするが、大和は更に彼女へと顔を詰め寄せる。

 「そう! 確かにキミは、1年Q組が誇る"霧の優等生"、いや、"花霞の琥珀"、ノーラ・ストラヴァリちゃん!

 琥珀のような褐色の肌! 初夏の新緑のような瞳! 桜の花のような可憐な唇! そして、香り立つ花霞のように儚げでいながら、穏やかな気品のある清楚な物腰! 更には、その美しさに全く引けを取らない、実力の持ち主! その近寄りがたくも男心を掴んで離さない魅力から、ファンの間からは"ユーテリアの高嶺の花"とも言われている!

 そんな娘が、今まさに! オレの目の前に! オレの息がかかる距離に! こうして立っているだなんて! ああっ、もう感激ッス!

 流石は、美人副部長の立花渚サマが率いる、我らが星撒部! レベルの高い娘がグイグイ引き寄せられてくるッスねぇ! オレ、この部活に籍を置いて、ホント良かったッス!」

 大和の語る様は、沸騰したやかんから噴き出す蒸気のような勢いだ。その気迫にグイグイと押されっぱなしのノーラは、顔をヒクつかせて苦笑いを浮かべるばかりだ。

 「…あの…私、そんな大層な人間じゃありませんし…その…買被りだと思うんですけど…」

 オドオドしつつも、なんとか声を絞り出したノーラだが。大和は彼女の言葉などお構いなしに、自身の激しい勢いのままに言葉を爆走させる。

 「ねぇ、ノーラちゃん! 付き合ってる男とか、いないよね!? よね?(ノーラがカクン、と首を縦に振る)

 そっか、そうだよねぇ! キミのような学園のアイドルが誰かと付き合ってたら、絶対に噂が立つもんね!

 それじゃさ! 一度しかない初恋の青春の相手に、オレなんかどうだい!?

 オレ、こう見えても結構硬派タイプなんだよ! それに、結構尽くすタイプなんだぜ! 気遣いも出来るし、楽しませてあげられる話題だって豊富さ! 学業成績だって悪いほうじゃない!

 もしかして、性格面の相性を気にしてるなら、それは杞憂ってもんだよ! 真逆のタイプの性格のカップルの方が、うまく行くんだぜ! 足りないものを補え合えるからね! キミは物静か、オレは賑やか! まさに陰と陽って感じ! これはもう、天地開闢を生み出すほどに相性バッチリだよ!

 あ~、そうそう、大切なことを聞くのを忘れてた! ナビットの番号、教えてくれないかな!? あと、今度の日曜日はヒマ? 良かったら、オレの行きつけの美味しいコーヒーショップがあるんだけど、一緒に――」

 なおをしゃべり続けようとする大和の背後から、「えい」と棒読みの掛け声と共に、ヴァネッサが手刀を強かに打ち下ろす。ゴツン、と痛々しい音が響き、大和は堪らず頭を押さえて身を屈める。

 「お…おおお…っ。

 ヴァ、ヴァ姐さん…! 一体なんなンスか、急に! 頭蓋骨割れるかと思ったッスよ、割とマジで!」

 「あら、大和ったらお元気じゃありませんこと。それなら、わたくしの霊薬なんか不要ですわね」

 「いやいやいやいや! そんなことないッスよ! ホントにボロボロッスから! ペンを持ち上げるだけでも、億劫な感じッスよ!」

 「でも、ノーラさんを相手にしていた時のあなたは、立ちふさがる大岩も砕くような勢いでしたわよ?」

 「いやー、それは、その、ホラ! 可愛い女の子ってのは、オレの原動力ッスから! 身体がいくらズタボロになろうとも、女の子に声をかけるためなら、自然と身体が動いちゃう体質なンスよ!」

 「…ホント、いつものことながら、いやらしいケダモノですわね…」

 ヴァネッサは露骨に非難を込めたジト目で大和を睨み付ける。それからすかさずノーラの方へと向き直ると、今回3度目の、そして一番大きなため息を吐く。

 「あなたを、このケダモノと二人きりにしてしまうのは、非常に不本意極まりないのですが…わたくしもいつまでも自分の持ち場を離れているワケにはいきませんの…。

 ですが、このケダモノがあなたに何か悪さをしたら、いつでも駆けつけますわ! わたくしのナビットの番号を教えておきます! ケダモノに襲われたら、すぐに連絡なさいな! 遠慮や情けは、全く無用ですわよ! 相手は外道、わたくしたちの常識や正論は通じない相手ですから!」

 「…オレ、スゲーけなされまくりッスね。本気で泣いて良いッスか…?」

 両の人差し指をツンツンと突き合わせながら、大和がションボリと呟く。ノーラはその姿に多少憐れみを感じたものの、顔に浮き出た表情は苦笑いだ。彼をめぐる滑稽な有様に、顔が緩むのを抑止できなかったのである。

 「…と、半分冗談はここまでにして、ですわね」

 「半分冗談、ってことは、半分は本気だったワケッスか…。あ、はい、スンマセン、オレが状況を考えずに騒いだのが悪かったデス、だからそんなに睨まないでください、ヴァ姐さん」

 「…オホン。

 えーと、それではノーラさん。イェルグの手筈通り、大和の作り出す装甲車の放水器に、天使たちの炎にも対抗できるような魔化を施していただけるかしら?

 効果の永続を考慮した完璧なものを作る必要はありませんわ。効果が数時間、持続する程度で結構よ。どうせ、装甲車は定期的にメンテナンスを受けに来ますから、その時に改めて魔化を掛けなおせれば十分ですわ。

 もし余裕があるなら、装甲自体の耐火性能の向上も施していただけると、なお助かりますわ」

 「分かりました。…魔化に係る時間は、装甲車の構造にもよると思いますけど…まずは一台、やってみてから、どれほどのことが出来そうか、判断したいと思います」

 「ええ、それで構いませんわ。

 仮入部員だというのに、こんな予断の許さない状況下で忙しい作業を押し付けてしまって、ごめんなさいね」

 「いえ…ここに来たのは、私自身の意志ですから…。みなさんが引け目を感じる必要はありません…」

 「そして…大和!」

 ヴァネッサはノーラの時の穏やかな口調とは打って変わった、鋭い声を張り上げつつ、大和に向き直る。と、同時に、制服の上着のポケットから茶色のビンを一本取り出すと、大和に向けて放り投げた。不意を突かれた大和は、ビンが地面に激突しないよう、慌てて両手を伸ばしてワタワタとキャッチする。

 「その霊薬、渡しておきますわ。それで体力と魔力を回復させてから、作業を再開しなさい。

 わたくしはあなたの能力は高く評価していますけれど、も! そのナンパな態度は、やはり、いただけませんわ!

 ノーラさんに不適切な手を伸ばすようでしたら、すぐに飛んできて、あなたの身体を水晶で串刺しにしてあげますからね!

 そうなりたくなかったら、くれぐれもハメを外さずに! マジメに作業に取り組みなさいな!」

 叱りつけのような言葉に対し、大和は背筋をビシッと正して敬礼のポーズを取ると、爽やかな笑みと共に返事する。

 「もちろんッスよ! オレがやるときはビシッとやる男だってことは、ウチの部の常識じゃないッスかぁ!

 ノーラちゃんのことは、大船に乗ったつもりで、ドーンと任せてくださいよ!」

 「部の常識かどうかは置いておきますが…とりあえず、任せますわよ」

 そう言い残すとヴァネッサは水晶のテントから去ってゆく…が。その途中、何度も心配そうに二人を振り返っては、ハラハラした眼差しで、特に大和を射抜くのであった。

 「…ヴァ姐さんってば…どんだけオレのことを信用してないンスか…」

 肩を落としてポツリと呟いた大和の目尻には、小さな小さな涙粒が光る。そのオーバーな芝居がかり様に、ノーラは再び苦笑を浮かべるのであった。

 

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Stargazer - Part 4

◆ ◆ ◆

 

 ヴァネッサが去り、大和と二人きりで作業に取り掛かり、しばしの時間が過ぎた。

 大和のノーラへのトークぶりは半端なものではなかった。"口先から生まれてきたようなヤツ"という言い方があるが、彼には正にその言葉が相応しい。

 「ノーラちゃんって、地球出身じゃないよね? どこが出身なの?」

 「どんな食べ物が好きなんだい? 女の子だし、やっぱりお菓子好きなのかな?」

 「部活はしてなかったみたいだけど、好きなスポーツとかある? あ、やる側じゃなくて、見る側で好きってスポーツでもいいよ!」

 「その肌、見てるだけでツルツルスベスベだってはっきり分かるよね! 何か特別なお手入れとかしてるの!?」

 と、こんな感じで、質問のマシンガンをぶっ放している。ハキハキしゃべるのは得意でないノーラは、オドオドノロノロと片言で曖昧な返事をするばかりだ。その直後、大和はすかさず新たな質問を咽喉に装填し、高速で舌から滑り出すのである。

 こんなに喋りっぱなしではあるが、かと言って大和は作業の手を緩めているワケではない。軽やかなのは口だけではなく、手足もだ。喋る勢いと同様の素早い動きで車輛の間を動き回り、装甲車の損傷具合や一般車両の状態を確認したり、自身の特有の技術である定義拡張術を車体にかけたりする。流石に"やるときはやる"と自負するだけあって、素晴らしい働きぶりである。ヴァネッサが散々心配していたような、不適切な言動を取るような素振りもないので、そこは大いに安心している。

 一方のノーラも、作業に関しては負けていない。作業前に大和に確認した装甲車の放水機構の詳細を元に、作業時間・持続効果が最適と方術構造を考え出すと、今やお馴染みとなった大剣へ定義変換(コンヴァージョン)を施術。大剣は今、ペン並の大きさに縮み、はんだごてのような形状を取っている。そのペン先で装甲車の放水機構近くの表面に直接方術陣を書き込むと、方術陣は蛍光色を発しながら、まるで砂に飲み込まれる水のような有様で装甲内へと沈み込んでゆく。この大剣(だったもの)の能力は、方術陣の作成支援と、作り出した方術陣を物体内部の任意の位置へと移動させることである。

 ノーラの定義変換を目の当たりにした時、大和ははしゃぐ子供のような歓声を上げたものだ。

 「流石は、"霧の優等生"なんて呼ばれるだけのことはあるッスねぇ! 『神に所業に近い技術』と呼ばれる、定義変換を扱うなんて!

 …それにしても、その技術を見てると、なんか運命を感じちゃうなぁ。オレの扱う定義拡張(エキスパンション)は、キミの技術の下位互換、いわば親戚みたいなものだからね! これは、オレ達二人には運命の赤い糸が結ばれているって証拠に違いないね!」

 (いや…それは、発想の飛躍だよ…)

 ノーラはその突っ込みを、あえて胸の内に留めおいた。ヴァネッサとのやり取りから、大和が(芝居の可能性が高くはあるものの)ヘコみやすい性格だと認知している。だから、下手に冷たい言葉をかけて作業に支障が出ては困る、と判断したワケだ。

 そういうワケで、ノーラは大和のマシンガントークをやんわりといなしながら、作業に従事し続けている。

 やがて、質問されてばかりで嫌気が出たのか…ノーラの脳裏に、ふと、質問が浮かび上がる。

 「あの…大和君。訊いてもいいかな…?」

 「もちろん、オッケーだよ! 身長体重スリーサイズから、テストの成績まで! 何でも訊いちゃってよ!」

 「その…気を悪くしないでね…大和君自身のことじゃないんだけど…いいかな?」

 「あー…うん、別にそれでも、うん、構わないよ。答えられる範囲でなら、なんでも答えるよ」

 そう話す大和の様子は、ちょっと残念そうである。ノーラは悪いかな、と感じつつも、質問を口にする。

 「星撒部の部長さんって、誰なのかな、って…。

 私、部室の様子から、てっきり蒼治先輩が部長だと思ってたんだけど…。副部長の渚先輩の手綱を引いてるような感じだったし…。

 でも、イェルグ先輩は違うって言うから…」

 「ああ、部長ねー。そうだよねー、分かんないよねー。

 オレは、夏休み直前にこの部に入部したんだけどさ、その時は渚副部長のことを部長だと勘違いしてたんだよー。だって、あの存在感に行動力っしょ? 初見なら、誰でもあの人を部長と思って当たり前じゃんか?

 んで、ホントの部長は、ほとんど部室に顔を出さないと来たもんだ。だから、仮入部員のノーラちゃんが分からないのは、当然の話さー」

 ――部長が、ほとんど部室に顔を出さない? この状況を不審に思うのは、何もノーラだけではあるまい。

 「ということは…この部では、部長さんは幽霊部員…ということなの…?」

 「いやいやいやいや! それはとんでもない誤解!」

 作業の手を止めまで、顔の前でブンブンと手を振って力一杯否定する、大和。それほどまでにノーラの勘違いは、星撒部にとって見過ごせないもののようだ。

 「あの人は、部活に忙しすぎて、部室に顔を出す暇がないンスよ。というか、渚副部長によれば、部室どころか、授業にもロクに顔を出せていないみたいッス。課外活動が進級単位として認められるユーテリアだからこそ許される所業だよね。これが他の学校だったら、いくらあの人が超絶的な能力の持ち主でも、退学処分は免れないンだろうなー…」

 ――超絶的な能力の持ち主? 非凡且つ強力な能力の持ち主が集う星撒部において、そのように評される人物とは、一体どんな人物なのか。湧き上がる好奇心のままに、ノーラがストレートに問うと。大和は軽い口調そのままに答える。

 「ノーラちゃんも名前を聞いたことあると思うよ。

 ウチの部の部長は、何を隠そう、バウアー・シュヴァールの兄貴ッスよ!」

 バウアー・シュヴァール。大和の言う通り、ノーラはその名を聞き知っている。そもそも、ユーテリアに所属している学生のほぼ全員が、その名を知っていることだろう。2年生にして、学園内最強候補の一人に数えられる男子生徒である。彼には超絶的な噂が数々ある。曰く――ただ一人で3千の特殊精鋭部隊を数分で殲滅した、だとか、硬直状態にあった銀河規模の戦争において戦況を大きく動かした、だとか、果物ナイフ一つで重金属装甲を持つ強大な獣竜(サヴェッジ・ドラゴン)を打ち破った、だとか…。そんな噂は山ほどあるものの、彼自身の目撃証言は非常に少ない。そのため、実はバウアー・シュヴァールという生徒は存在せず、学園側が生徒たちを奮起させるために作り上げた虚像だ、とまで言われたことがあるほどだ。

 そんな幻のような存在が、なんと"暴走部"として学園中に名を轟かせている星撒部の部長を務めていようとは! 全くの盲点としか言いようがない。

 衝撃に近い事実を前に、作業の手を止め、ぱちくりと瞬きするばかりのノーラ。そこへ大和は、再び手を作業のために動かしながら語る。

 「副部長に聞いた話だけど、この部活は部長と副部長の2人が意気投合して作り上げたんだってさ。あの"暴走厨二先輩"とバウアー先輩が仲良くつるんでる姿って…あんまり想像できないんだよなぁ。共通点と言えば、部活に熱意をもって取り組む、くらいしかないように見えるしさー。

 …いや、やっぱり真逆の性格だからこそ、お互いに補い合って、うまく行くのかもねー」

 「大和君は…バウアー先輩に会ったこと、あるんだ…?」

 「うん、もちろん、あるよ。不定期にだけど、たまーに部室に顔を出すんだよね。面白いお土産を一杯持ってきてくれるんだよ。

 ノーラちゃんも、このまま本入部して、毎日部室に顔を出してれば、会えると思うよ。

 というか、ノーラちゃんの入部祝いやるから顔を出してって頼めば、スケジュール都合して来てくれるんじゃないかなー。ノーラちゃんが本入部したら、副部長に話してみようかな」

 「あ…いや、私のために、バウアー先輩に気を使わせちゃうのは、悪いから…」

 「いやいやいやいや。部長は、こういう仲間の絆ってのはうるさい人だから、むしろ呼ばない方が気を悪くすると思うんだよねー。

 だから、ノーラちゃん!」

 大和はまたも作業の手を止めると、ノーラの顔を真正面に捕えると、馴れ馴れしくウインクする。

 「星撒部に入って、オレと仲間以上の絆を深めようよ! ね!?」

 ここに至っても更にナンパ心を発揮する大和に、ノーラは思わず苦笑を漏らす。

 (入部は前向きに考えたいけど…仲間以上の絆って言うと…恋仲って、ことだよね…たぶん。 それはちょっと…遠慮したいなぁ)

 いつもの生真面目さが悪い方向に働いたノーラは、大和の言葉を冗談としてスルーせず、当人の気分を害さずにどう断るか、本気で考え始めてしまう。と、その時…。

 「おーい、ユーテリアの兄ちゃん!」

 突如、水晶のテントに中年男性の声が響く。続いて、散在する車輛の合間から、キョロキョロと視線を動かしながら4人の消防局員が現れる。彼らは大和を目に入れると、「おっ、いたいた!」と声を上げながら、小走りで大和の元に近づいて来る。

 「頼んでた車の修理、そろそろ終わったかなと思って来たみたんだけど」

 「えーと、スンマセン、整理番号教えてもらえないッスかね? 人の出入りが激しくて、顔と所有車が一致しなくて…」

 バツの悪い笑顔を浮かべて後頭部を掻く大和に、消防局員は「45番だよ」と告げると。大和は上着のポケットを漁って小さなメモ帳を開き、ふむふむと読み終えると、勢いよくパン! と手を叩きながらメモ帳を閉じる。

 「終わってるッスよ! 案内しますんで、ついてきてくださいッス!

 ノーラちゃんもついて来て! ノーラちゃん1号のお披露目ッスよ!」

 大和はメンテナンス中の装甲車から元気よく飛び降り、手振りでノーラを誘うと、意気揚々と車の合間を縫って歩き出す。ノーラはペン状に変化させた大剣をポケットに仕舞い込むと、大和の背後にゾロゾロと続く消防局員たちを速足で追い抜く。

 大和が向かった先は、彼の言葉の通り、ノーラが初めて手掛けた装甲車の元であった。修理前は、装甲が飴のように溶け、骨組みが大きくひしゃげていたが、今では新品同様の美しさを取り戻している。大和の定義拡張能力は――当然、限度はあるだろうが――破壊された機械機構を正しい定義に基づいた構造に治すことが出来るのだ。

 「流石は、地球最高の人材が集まるユーテリアの学生だなぁ! 工具もなしで、プロの職人並の仕事をやっちまうんだから、トンでもねぇよな!」

 「フッフッフッ…今回は、単に直しただけじゃないッスよ!

 忌々しい天使どもの炎を受け付けないように装甲を強化! 加えて、あの炎を完全に鎮火できる放水装置も完備ッス!

 水の自動補充機能の追加は無理だったんで、使い果たしたら手動でタンクに水を補充する必要はあるッスけど、以前に比べればかなり災害対応能力は高くなったッスよ!」

 「へぇ、そりゃあ助かるなぁ!

 まぁ、欲を言えば、出来るんだったら初めからその機能をつけて欲しかったなぁ」

 「いやー、この機能は、オレだけじゃ実現できなかったンスよ。

 ここにおわします星撒部の美しき新星! ノーラ・ストラヴァリちゃんが来てくれたこそ、実現できたンスよ!

 言うなれば、オレとノーラちゃんの愛の結晶ってことッスね!」

 語りながら大和はノーラに視線を走らせると、ウインクしてみせる。謂れのない話に対して目配せされてもノーラは困るだけであったが、事情をよく知らない消防局員たちは大和の台詞を真に受けてしまう。

 「へぇー、こんなカワイイ娘が、神崎君の彼女さんなのかい! こりゃ羨ましいなぁ! ウチの女房だって、若くてもここまで可愛くはなかったよ! まぁ、今じゃブクブク太って、当時の見る影もないんだけどねー」

 「あーっ、スレインさん! 今の話、キチンと聞きましたよ! 奥さんに言いつけておきますよー!」

 「別に構わねーよ! つーか、この話に刺激を受けて、ダイエットに勤しんでくれりゃ万々歳だよ」

 雑談に大盛り上がりの消防局員たちを前に、ノーラは大和の言葉を訂正しようにも、割り込むことができない。――とは言え、誤解されたままだとしても、彼らが学園内に噂を広めるワケではないので、放っておいても大した影響はないだろう。そう判断した彼女は、訂正を諦め、流れに身を任せることにする。

 「それにしても、このノーラちゃんにせよ、ホール内で頑張ってるヴァネッサちゃんにせよ、ユーテリアの女子生徒は美人が多いねー! 戦闘やサバイバルの訓練を受けてるって話なのに、ゴリラみたいな体型にならないしさー!

 それとも、容姿に関しても英才教育カリキュラムが組まれてたりするワケ?」

 「いやー、美人ばかりってワケじゃないッスけど…確かに、筋力のある娘でも、筋骨隆々な体型なのはあんまり見かけないッスね。種族による体質とか、魔法科学に関連した美容技術が関係してるのかも知れないッスけど…。

 あんまり気にしたことなかったんで、こう改めて質問されると、確かに謎ッスね。

 ねぇ、ノーラちゃん! ノーラちゃんの場合は、どうなんスかね? 長い大剣振り回してるようだから、結構筋力あるとは思うけど、体型は結構スマートじゃん? 何かスタイル維持の秘訣とかあるのかな?」

 大和が唐突に振った質問は、客観的に鑑みると、デリカシーのない質問とも捉えられよう。だが、女生徒的にデリケートな話題でもあまり気にすることのないノーラは、普段と変わらない調子で答える。

 「私は…特に、何もやってないよ。筋トレは人並み程度だと思うから…筋肉がガチガチにつくってことはないんじゃないかな…。

 それとも、大和君の言うように種族的な要素があったり、遺伝的な要素があるかも知れない…。私の父は、私が全然及ばないほどの筋力があるけど、そんなにガチガチした体型はしてないし…」

 「なるほど、ノーラちゃんはナチュラルビューティってことッスね! ますますオレのハートを揺さぶるッスねぇ!」

 「…あれ? その娘って神崎君の彼女さんだろ? なんでそういうこと、知らないんだ?」

 「…あっ…。

 ま、まぁ、良いじゃないスか! それよりも! 消防局員さんたち、あんまりここで油売ってちゃいけないンじゃないスか!?

 オレもあんまり手を休めてると、ヴァ姐さんにボッコボコに怒れちゃうんで…話の続きは、この大火事が収まった後にでも、ゆっくりやりましょうよ」

 「ああ、そうだな…。この災厄を、生き残れたら、な…」

 失意の陰に満ちる遠い目をして、消防局員がぼんやりと呟く。そのあまりに寂しげな、諦めきった態度が、ノーラの琴線に触れる。星撒部と関わる前までの彼女なら、あまり気にならなかっただろうが。部員たちから受け取った希望の炎はいまだ冷めず、彼女の感情を煽りたてる。

 「…"生き残れたら"、なんて弱気な仮定形を口にしないでください。

 絶対に、生き残ります。生き残れます。ですから、大和君との話の続きを楽しみにしてて下さい」

 急にキッと鋭くなったノーラの眼光に、消防局員は身を堅くして、顔を見合わせる。しかしすぐに、彼らはニヤリと笑みを浮かべる。ノーラの少々キツい激励に込めた希望の炎は、失意の影を輝きの中に消し去ったようだ。

 「ああ、そうだな! ユーテリアから一騎当千の英雄候補生たちが来てるんだもんな! 『現女神(あらめがみ)』のババァがなんだってンだよな!」

 その後。消防局員たちは、大和から消火装置の使い方や装甲の耐火性能について軽く説明を受けると、足早に装甲車に乗り込み、水晶のテントから早々と出て行った。

 ノーラは去りゆく車体の後ろを、しばらく見つめていた。施した方術は万全を期したはずとは言え、実践テストを行えなかったので、実際の成果が気になって仕方がないのだ。

 自ら激励しておいて、心配そうに視線を揺らしているノーラの背後から、大和が優しく、そして力強く肩を叩く。

 「大丈夫! ノーラちゃんはやれることをキチンとやったさ! 成果は必ず出るッス!

 それに、今は余韻に浸ってる場合じゃないッスよ! これから先、局員の人たちがまだまだ来るからね! 新しい車体の作成も含めて、バンバン作業をこなして行かないと! オレがヴァ姐さんに雷落とされちまうんスよぉ!」

 言葉の最後で大和はおどけてみせたが、彼の話は正論だ。事態はまだまだ収拾に向かっていない。むしろ、これからが"獄炎の女神"への反撃の本番だ。小事に拘り続けて大事を見失うようではいけない。

 「…うん。戻って、作業の続きをしよう」

 ノーラは後ろ髪を引く気弱さをスッパリと捨て、大和と共に速足で元の作業場へと戻る。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 再び時間は流れて…。

 大和とノーラは二桁を超える数の車輛の修理と作成をやり遂げていた。そのすべての車輛が消防局員たちの手に渡り、今頃は焦熱地獄の都市内を慌ただしく走り回っていることだろう。苦情が届かないところを鑑みる限り、ノーラが心配していた自身の方術はうまく効果を発揮しているようである。

 「おおっと!?」

 とある車輛を局員たちに引き渡した直後のこと。残り作業を記録していたメモ帳を読んでいた大和が、突然()頓狂(とんきょう)な声を上げる。

 「今ので、堪ってた作業は全部消化しちゃったンスね!

 いやー、ノーラちゃんのお蔭でメンテの頻度が下がりまくったからなー! ヒィヒィ言いながら作業に追われた頃がウソみたいッスよ!」

 あくまでノーラを持ち上げる、大和。純粋に彼女の存在を歓迎しているからか、未だに彼女のことを恋愛関係的に狙っているからなのか、それは分からない。だが、今のノーラにとってはどっちでもよかった。目まぐるしく動いた疲労が溜まっていることもあってか、大和の言葉を素直に嬉しく受け止める。

 「皆さん、無事に職務を全う出来ているといいですね」

 「きっと、うまくやってるッスよ!

 『天国』が太陽みたいな姿になっちゃってるから、空の色合いから火事の現状は把握できないッスけど…もしかしたら、火事はもうほとんど鎮火されてるかも知れないよ!? それだったら、ホント嬉しいな~! 人道的な意味でも、キツい作業からの解放的な意味でも、ね!」

 「そうですね…。

 でも、状況の詳細が把握できていないので、楽観視しすぎるのは危険だね…。

 大和君、万一のことも考えて、予備の装甲車を作っておこう。ここにはまだ、提供された自動車が残ってるし…」

 水晶のテントの下には、だいぶ数を減らしたものの、数台の自家用車が疎らに散らばっている。

 「んー、そうだねー…。一休みして昼寝したい気分だけど…急にドカドカ作業が頼まれて、忙しくなるのも辛いッスよねぇ…。

 仕方ないなぁ、ノーラちゃんの言葉に免じて、もうちょっと気張ってみるッスかね」

 大和は見るからにノリ気な様子ではなかったが、だからといってダラダラすることもなく、手近な自家用車に近づく。

 自家用車を一から装甲車へと定義拡張(エキスパンション)する様子を、ノーラはこっそり楽しんでいた。特に、まるで風船が膨らむようなプロセスで体積がプクーッと膨らんでいく工程がたまらなく好きだ。あらゆる部分の輪郭がプクプクに丸くなった有様が、とても可愛らしく見えるのである。

 今回の大和の作業でも、この工程を目の当たりにすることが出来た。ボンネットに手を置いた彼が魔力を込めると、車両が眩く蛍光色に輝き、次いでこの膨張が発生するのだ。膨らみきってしまうと、輪郭がどんどん鋭角的・重厚的にまとまってしまい、可愛らしさが失われてしまう。この工程を見るのは、ちょっと寂しい。

 変形の工程は、総じて5分ほど。この間、ノーラは定義拡張現象を傍観して楽しんでいたのだが…その穏やかな時間は突如、けたたましく鳴り響くナビットの呼出し音によって崩壊する。

 

 呼出し音が鳴ったのは、ノーラのナビットである。通信内容は映像通信で、発信者はヴァネッサである。

 この事態に、ノーラはちょっと困惑する。――なぜ、元からの知り合いである大和ではなく、自分に連絡を入れたのか? 仮入部員の自分を気遣っての連絡という可能性はあるが、それにしては連絡を寄越すタイミングが遅すぎる気がする。

 「ヴァ姐さんからの連絡ッスか?」

 大和が作業の手は休めずに、顔だけこちらに向けて尋ねてくる。

 「どーせ、オレがセクハラしてないかどうか、確かめようとでもしてるンスよ。女子の仮入部員が来ると、ヴァ姐さんはいつも、オレを監視してるンス。

 そりゃあ確かに、オレは口では軽いコト言ってるけど、中身までそんな軽薄なヤツじゃないッスよ…いつになったら理解してくれるンスかねぇ…」

 ため息を吐きながら、大和は泣き出しそうな顔でしみじみと呟く。連絡の内容も確かめないうちに、確信的にこんなことを言うあたり、過去に相当苦い経験をしているようだ。気の毒ながらも滑稽なものを感じて、ノーラは思わず苦笑を浮かべる。

 それはそうと、呼出し音を鳴りっ放しにしておくワケにはいかない。タッチディスプレイを操作して通信を受信し、3Dモニターを宙空に展開させる。

 両の手のひらサイズの3Dモニターに映し出されたヴァネッサの顔を見た途端…ノーラは思わず息を飲み、そして問いを口にしていた。

 「どうかしたんですか、先輩…!?」

 彼女を突き動かしたのは、ヴァネッサの表情だ。まるで身体を(えぐ)られて激しい痛みに耐えているかのような、あまりに険しく、辛く、苦しそうに顔を歪めている。整った顔立ちには不釣り合いなほどの大量の汗が見て取れるが、それらは冷や汗に違いない。

 「問題が…非常に厄介な問題が…起こりましたの…」

 呼吸荒く、言葉を途切れ途切れにしながら語る、ヴァネッサ。その様子を離れたところから見ていた大和もぎょっとして、作業の手を止めて小走りで近寄ってくる。

 「ホント、どうしたンスか、ヴァ姐さん!? 悪いモンでも食って当たったンスか!?」

 「あなたじゃないのですから…そんな間抜けなことはいたしませんわよ…」

 ヴァネッサはちょっと笑みを浮かべて返すが、すぐに辛苦が顔を塗り潰す。

 「無様なところを見せてしまって…申し訳ないのだけど…こうして会話している間にも…気を抜くワケにはいかなくて…。話しながらも…集中し続けるというのは…かなり厳しいですわね…」

 "気を抜けない"――この言葉からノーラの脳裏に、ヴァネッサの言う"厄介な問題"の断片を垣間見る。ヴァネッサが集中を要するということは、彼女の能力である水晶の制御に関することだ。ということは…彼女の水晶に覆われているこの地に、何か異変が起こった…または、異変を起こす何者かが到来したということに違いない。

 ノーラの予測は、大方当たりだ。その証拠に、ヴァネッサが次のように続ける。

 「先ほど…このコンサートホールの正面入り口に…設置していたゲートと…使い魔の番兵が…破壊されましたわ…。

 それも…本来ならあり得ないことですが…完全に溶融されてますの…」

 「え、マジッスか!? このパイロエンデュライトを!?」

 大和が驚きの声を上げる。彼が語った"パイロエンデュライト"とは、コンサートホールとその周辺地域を覆っている水晶のことである。この物質の特徴は、"非常に"と云う言葉が生ぬるいほどに高い耐熱・耐火性にある。分子構造に影響を与えている魔法科学的因子が、加熱や燃焼と言った現象を定義レベルで徹底的に拒絶しているのだ。とは言え、炎熱に対して完全に無敵というワケではない。恒星表面程度の莫大な熱エネルギーを与えられた場合、水晶の現象拒絶性は崩壊してしまい、堰を切ったように激しく燃焼しつつ昇華――つまり、固体から一気に気体へと相転移する。しかし、今回の災厄の場合、"獄炎"の天使どもがバラまく炎熱はそれほどの熱エネルギーを持っていないし、水晶の現象拒絶性を上回るほどの燃焼の定義が強固でもない。だからこそ、ヴァネッサは避難拠点の防衛手段として、夥しい量のパイロエンデュライトを生成したのである。

 それがなぜ、急に今になって破壊されるのか。しかも、溶融される――つまり融点を迎えて液化する――という、物性科学的観点から見て考えにくい現象を起こすとは。

 「まさか…新手の天使ですか? それも…今までのよりも強力な…!?」

 ノーラの発する問いに、ヴァネッサは歪めた顔を左右に振る。

 「いえ…相手から感じる神霊圧の規模やパターンを鑑みる限り…天使ではありませんわ。…もっと…厄介な存在が来てしまったようです…」

 神霊圧とは、『現女神』を端として発せられる、独特の魔法科学的圧力である。形而上的にのみ知覚できるもので、『現女神』ごとにその特徴(フレーバーと呼ばれる)が異なる。この圧力は『現女神』本人だけでなく、彼女らが創造したり、力を付与したものからも発せられる。この圧力が強烈になると人類のみならず全生物の精神に影響を与え、『現女神』への盲信衝動を引き起こす。ちなみに、"獄炎"の天使たちも神霊圧を持ってはいるが、彼らは"獄炎の女神"にとって尖兵程度。強烈な神霊圧を持つほどの存在ではないようだ。

 それはさておき、"もっと厄介な存在"と言う言葉を聞いてノーラは首を傾げただけだった…が。大和は露骨に顔色を青くし、冷や汗まで噴き出して見せる。

 「それってまさか…"士師"が来たってコトッスよね!? そうなンスよね!?」

 「未確認ですが…その可能性は十分考えられますわ…」

 "士師"。その存在については、後ほど解説するとしよう。今は単に、「天使よりも数段、厄介な相手」との認識で十分である。

 ノーラも部員二人の反応からこのことを悟ると、ようやく事態を飲み込み、二人の顔色がうつる。天使すらも凶悪な障害だというのに、更にその上がやってくるとは! 仮入部という形で活動に参加してすぐに、これほどシビアな状況に陥ることになるなど、誰が予想できただろうか?

 茫然となって固唾を飲むばかりのノーラであるが、ヴァネッサはそんな彼女を真正面から見据えて語る。

 「今は…わたくしの力を総動員して…足止めしていますが…遠隔制御では力を十分に発揮できない割には…手間もかかりますし疲れてしまいますわ…。

 ですから、わたくしが今から"あいつ"のところへ行き…直接、叩きます。

 もちろん、激しい戦闘になるでしょう…このエリアの水晶を十分制御できなくなる可能性があります…そこで、ノーラさんにお願いがありますの。

 方術を使用して…水晶の維持をしていただきたいのよ…。範囲は広大ですし…パイロエンデュライトはクセのある物質なので…大変なのは百も承知なのですが…この急事に臨む多くの人命に免じて…引き受けていただけないかしら…!」

 続いてヴァネッサは、大和に視線を向ける。

 「ノーラさんをお借りして…も問題ないですわよね、大和…? 元々、一人で作業をこなしておりましたものね…?」

 「まぁ…溜まってた作業も丁度終わったところだったスからね。ただ…」

 大和は何か続けようとしたが、ヴァネッサが即座に言葉を挟む。

 「それなら、問題ないですわね…」

 「いや…あの、現場に出てる車輛でまだノーラちゃんの方術を…」

 作業者として問題点を訴える大和であるが、ヴァネッサはやはり取り合わない。かと言って、それは大和に対して意地悪しているワケではない。うまく回っていた体制を崩すなのだから、問題が生じることはよく分かっている。それを知った上でなお、現在直面している災厄の方が緊急性が高いと判断しているのである。

 「どうかしら、ノーラさん…来ていただけるかしら…?」

 急かすようなヴァネッサの問いに対して、ノーラは多少圧迫感を感じながらも、逡巡せずには居られない。頼まれた作業の内容は、彼女には正直言って荷が重い。パイロエンデュライトなる物質を扱った経験がないので、どのような術式構造で魔化(エンチャント)を施すのが最適なのか、すぐには判断できない。おまけに、カバー範囲があまりに広すぎる。いくら定義変換で方術の施術を補助する器具を作り出したとしても、十分な対応になるとは思えない。

 (それでも…誰かが対応しないと…この避難拠点が、避難民の皆さんが、危ない…)

 ヴァネッサの気だるげな、しかし鋭く迫る視線を受け続けること、数十数秒。巡るノーラの思考は、はっと、一つの場所に落ち着く。

 「…すみません、ヴァネッサ先輩。私の方術の力量では、定義変換の能力を使っても、水晶を維持し続けるのは無理です…」

 この答えは、ヴァネッサを大いに落胆させた。ただでさえ辛苦に陰る表情が、砕けたガラスのような失意に満ち、拒絶を訴えるように目を見開く。これにはノーラの胸がズキリと痛むが、事実は事実だ。ここで見栄を張って安請け合いをし、信頼を裏切る方がよほど酷であろう。

 それに、ノーラの話はまだ終わっていない。

 「水晶の維持をするのは、やっぱり、ヴァネッサ先輩が適任だと思うんです…。

 ですから…私は…この拠点を脅かしているという敵に、当たります」

 「!!」

 この提案に、ヴァネッサだけでなく大和までも驚愕の衝撃に全身を粟立たせる。疲労したヴァネッサが何かを口にするより早く、大和がブンブンと頭を左右に振りながら、重い留めようと説得する。

 「いやいやいやいや! ノーラちゃん、"士師"ってヤツは、『現女神』のオバサンたちの配下でも別格! 天使どころじゃないんだよ!

 ノーラちゃんは、天使との交戦も今回が初めてだったんでしょう!? そんな状態のキミが士師とやり合うなんて…! 無謀にも程があるってもんだよ!」

 言葉の最後は説得というよりも、非難に近い響きを持っていた。ナンパな大和でさえ、そこまで真剣に後ろ髪を引くのだ。本当に尋常でない相手なのだろうと、ノーラは悟る。だが、相手の力量を想像しきれない事情も相まって、彼女は決意を曲げない。

 「大丈夫です。私、戦闘はかなり得意ですから。

 どんな性質から士師が天使より手強いのか、私には分かりませんけど…イェルグ先輩が天使を倒した様子や、ロイ君が天使の群れを相手にしているところを見る限り、立ち回りさえ問題なければ…私の剣は、ある程度通じると思います」

 「まぁ、確かに、士師だって生物だから剣も拳も通じるけどさ! それは物理的に、力学的に作用を及ぼせるって程度の話であって! ヤツらに有効な打撃を与えられるかどうかとは、また別問題なんだよ!」

 「確かに大和君の言う通り…私には経験はないから、士師という存在相手に勝利できるなんてことは、言えません。でも…少なくとも、時間を稼ぐことはできます。

 その間にお二人には、星撒部の部室に連絡して、士師との戦闘経験のある方をこの場に呼び寄せてください。私がこちらに来てから随分時間が経ってますから…部室の皆さんの折り紙作りも一段落してるかも知れません」

 「ノーラさん…あなたまさか…玉砕覚悟ではないでしょうね!?」

 悲鳴とも非難ともつかない口にしつつ、ヴァネッサが怒らせた視線でねめつける。

 「わたくしたちの部活は、笑顔を振り撒くもの。笑顔を絶やすような真似は、厳禁なのですわ!

 もしもあなたが犠牲になった上でこの都市を救ったとしても、あなたの家族が、そして仲間であるわたくしたちが、笑えなくなりますわ! それを部員の誰が許しても、わたくしだけは許しませんわ!

 …やはり、ここはわたくしが行きますわ。ノーラさんには水晶を…」

 「それだと、士師は倒せても、この拠点自体の壊滅を招くことになります! もう一度言いますが、私はこの広大な規模の水晶を支えるだけの方術を扱えません」

 「それなら、オレが…」

 大和が手を上げると、ノーラは即座に反応して振り返り、「ダメです!」と口をつぐませる。

 「大和君は、都市の鎮火や人々の避難を行うための、大切な装甲車を修理したり作り出したりする役割があります。その役目も、私では肩代わりできません。

 私が敵に当たることこそ、最善だと思います」

 ヴァネッサと大和に、苦渋の沈黙が訪れる。現状を鑑みるに、ノーラの案は正論に聞こえる。しかし、どうしても、今日初めて部に入った者に過酷な対処を押し付けるのは、気が引けてならない。

 逡巡する二人を、ノーラは更に追い立てる。

 「敵は迫っているんですよね? あまり時間をかけられる状況じゃありません。迷っていてもどうにもなりません。

 行かせてください」

 ノーラの瞳には、頑とした堅さを持つ輝きが灯っている。それまでは一歩退いたような態度を取っていたというのに、いざとなると、彼女は岩石のごとく頑固となりテコでも動かなそうだ。それを悟ったヴァネッサは、ついに折れる。目を伏せて、はぁーっ、と深くため息を吐いたのが、その証である。

 しかし、ヴァネッサも手放しで承認することはしない。

 「…一つだけ、約束して下さる?」

 伏せた目を開き、鋭い視線でノーラを真向から射抜きつつ、剣呑な調子でヴァネッサが釘を刺す。

 「さきほども言いましたが、あなたが犠牲になることは厳禁です。

 勝てないと思ったら、時間を稼ぐことを考えずに、逃げなさい。私たちに連絡を入れなくても構いません。自分の命を粗末にする真似だけは、絶対に、しないこと!

 これだけは、絶対に、約束なさい」

 するとノーラは、ニコリと笑った。その笑みは、初夏の日差しを受けて小さいながらも懸命に咲く、撫子(なでしこ)のように見える。

 「私…皆さんのように、自信が持てるような人生の目標はありませんけど…まだ死ぬ気はありませんから」

 ――あなたにいつ、わたくしたちの人生の目標を話したかしら? そう問い返したくなったが、ヴァネッサは口を噤んだ。ノーラの言う通り、今は時間が惜しい。彼女の卑屈な人生観を叩き直すのは、この災厄が終わってから、じっくりと取り組んでも問題はあるまい。

 未だ納得していない大和が、引き留めないのか、と目配せするのを横目に、ヴァネッサは優雅に髪をかき上げる。そして左手を腰にあて、右手の人差し指をビシッとノーラに向ける。そして口にした言葉には、もう迷いも後ろめたさもない。

 「いってらっしゃいな! 士師の存在、その目に焼き付けてきなさい!」

 対して、ノーラは無言。ただ首を縦に振ると、ナビットの通信を切断。そして大和の方をチラリと振り返り、ヒラヒラと手を振って別離を告げると、風のように軽やかに駆け出す。

 「え、あ、あの、ノーラちゃん!?

 …あーもっ! こうなったら、オレも応援するよ! 気を付けて、そして絶対に帰って来なよ、ノーラちゃん!」

 すぐに車の陰に遮られて見えなくなったノーラの背中を目がけ、大和は大きく声を張り上げる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ノーラは足取り軽く、水晶の広がる大地を駆けてゆく。

 胸の内では、鼓動が激しく打っている。全力疾走しているから…というのも、もちろん理由ではある。しかし、それだけではない。

 かと言って、緊張や不安が心臓を暴れさせているワケではない。それらの感情を抱いていないワケではないが、今のノーラにとってそれらは大して重要な要因ではない。

 鼓動を突き動かしている最も大きな要素…それは、昂揚感、である。

 経験者たちが"強大"と評価する未知の敵を相手にするというのに、恐怖感よりも、もっともっとポジティブな衝動が胸中を踊っているのだ。

 

 ノーラは今、成果が出ていないにも関わらず、喜びと満足を胸の内に膨らませている。

 自らの意志で、自らの力を人々のために役立てたくて、この災厄に首を突っ込んだ、ノーラ。これまでの彼女の働きぶりは、傍目から見れば、十分すぎるほどだろう。これまで彼女と関わってきたイェルグも、大和も、ヴァネッサも、その口から文句が飛び出すことはないだろう。

 だが、ノーラ本人は全く満足していない。むしろ、自分の成果を疑問視している。

 これまでの活躍はすべて、誰かと共に成し遂げたものだ。純粋な独力で事態の始終を解決してはいない。だから彼女はこう思うのだ――この災厄の解決に対して、私はどれほど役に立てているのだろうか?

 今回の敵との単独交戦は、この疑問の答えを量る絶好の機会なのである。

 加えて、彼女は交戦の結果について楽観視している。敗北することなど考えていない。脳裏に描かれるのは、敵を打ち倒し、避難民たちの脅威と部員たちの懸念を取り除き、笑顔を運ぶ自分の姿である。この痛快な光景は、誰の心にも昂揚感を与えることだろう。

 こんな楽観的な思考するのは、今までの彼女では考えられないことだ。人生の希望も目標も持たず、目先の足元だけを見て過ごしていた日々の彼女なら、もっと沈着冷静にして無味乾燥な思考をしたことだろう。

 しかし、今のノーラの胸には、希望の光が灯っているのだ。その光は、今まで影ばかりだと思っていた世界の様相を遠く、明るく照らし、彼女の世界観を大きく変えたのだ。

 

 ノーラはコンサートホールの中に至る。

 そこで彼女が見たのは、恐怖と混乱に満ち、ホールの入り口の反対側へ津波のように押し寄せてギュウギュウに固まる、避難民の群らがりである。

 恐らく、ヴァネッサか消防局員が現状を避難民に伝えたのだろう。そして安全のために敵が進入してくる入口から遠ざけるようと誘導したに違いない。しかし、都市火災の時点で恐慌状態に陥っている避難民たちが、更なる危険に晒されて平気でいられるワケがない。誘導を耳にした途端、彼らは堰を切ったように入り口からより遠くの位置へと駆け出したのだろう。そして、密度が限界に近い状態になった今でも、更に遠くへ足を延ばそうと、押し進もうとしている。まるで、加減のない"おしくらまんじゅう"だ。

 「あまり押さないで! 返って危険な状態になるから!」

 魔化(エンチャント)により製造された携帯拡声器片手に、局員たちが叫んでいる。あまりの押し合いに圧死者が出るのを防ごうとしているのだろう。だが、局員たちの必死の訴えは避難民たちの喧騒の中に消えてしまう。

 一方、避難民たちの手前の地面から、巨大な霜柱が立つように水晶の壁がニョキニョキと生え出しているのが見える。ヴァネッサが避難民たちを守るために作り出しているものだろう。その大きさからみて、かなりの規模の魔力を消費しているに違いない。加えて、彼女はホールの内に向かっている敵の足止めもやっていることだろう。映像通信時に見た濃い疲労の色にも納得できるというものだ。

 誰も彼もが、極限と言っても差し支えない厳しい状況に晒されている。

 ――これを打破できるかどうかは、自分の双肩に掛っている!

 ノーラは視界に映る光景を見て、自分の重責を改めて認識したが…相変わらず胸の内では、高揚が踊っている。むしろ、目肌で感じたことで、成果を遂げた際の充実感をより一層大きく捉え、興奮してしまったようだ。

 

 敵と戦うならば、尻込みするよりも、ギラつく戦意を抱えてぶつかる方がよほど良い。

 そして今のノーラの眼には、世界の影を取り払うほどの輝きが灯っている。

 しかし、輝きは善にばかり働くワケではない。

 眩しき過ぎる輝きは、却って世界を見えにくいものにしてしまうものだ。

 …そしてノーラはすぐに、そのことを身を持って文字通りに痛感することとなる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ホールを抜けて、正面出入り口への通路へ進入したノーラ。

 そこで目にした光景を前に、彼女の軽い足取りに、急激に鉛が纏わりつく。

 高揚で踊っていた鼓動は、一段と大きくドクンと震えたかと思うと、そのテンポを一気に緩慢なものにする。

 代わりに、体中の毛穴がゾワリと逆立つと共に、汗腺からブワリと水分が噴き出てくる。

 ――暑い。まず認識したのは、その痛々しいほどに不快な感覚。

 次いで想起されるのは――(何、これ…?)と自問せずには、目を丸くせずにはいられない、怯懦と困惑が混在する奇妙な感情である。

 

 "溶鉱炉"、または、"噴火中の火口"。眼前の光景にノーラの脳裏に浮かんだのは、それらの言葉である。

 通路は置くに向かうにつれ、眩い赫々(かっかく)の輝きに満たされる。輝きは網膜へ強烈な疼痛を投げかけると同時に、全身の皮膚に乾き切った灼熱を運んでくる。

 輝きの正体は、高熱によって溶融した通路および水晶が放つ熱光線である。…そう、通路は今、敵の影響によって莫大な熱エネルギーを与えられて、ドロリと溶融しているのだ。上下左右を囲んでいた直線的な辺はグニャグニャに歪み、ドロドロとゆっくりと流動している。天井からベチャリと滴る溶融物の滴と合わせると、この光景がまるで、激しい飢えを覚えた獣が獲物を前にして開いた、唾液まみれの大口のように見えてくる。事実、飛び込めば牙や胃液の役割をする高熱によって、大きな損害を被ることになるだろう。

 (これじゃあ、身動きどころか、まともに目も開けない!)

 ノーラは堪らず、出来うる最大の耐火・耐熱、そして遮光の身体(フィジカル・)魔化(エンチャント)を自身の身体に付与する。全身の輪郭に涼しげな青色の魔力励起光が灯り、全身を襲う強烈な不快感は大きく軽減される。が、それでも体表が常にジットリと汗ばむほどの酷暑を感じる。呼吸するたびに吸い込む空気も、まるで肺を蒸し焼きにせんばかりの熱気を運ぶ。

 (なんて熱量…! イェルグ先輩と戦った時の天使よりも、ずっとずっと、強烈だ…!)

 苦々しげに表情を歪めつつ、この恐ろしい状況を作り出した敵の姿を求めて、眩い赤の通路の奥に視線を投げる。

 求めるモノの姿は、すぐに見つかった。溶融した赤の粘海の中に、ただ一点、青銅の(きら)めきを放つ人物が見える。…そう、それは"人物"だ。一対の手足を持ち、大地を踏みしめて直立するその姿は、旧時代の地球の価値観においても文句なしに「人類」とみなされるものである。

 ノーラは更に目を凝らし、この敵の詳細な姿を脳に焼き付ける。

 まず理解したのは、身体から放たれる青銅の煌めきは、"彼"――そう、敵は男性だ――が身に着けている鎧が放つ金属光沢である。この耐熱性の高いパイロエンデュライトすら溶融する空間の中でも健在なところを見ると、よほど優秀な魔化(エンチャント)を受けているか、はたまたは未知の高耐熱性物質なのかもしれない。鎧は獅子を思わせる造形をしており、特に大口を開いた獅子の顔をした兜は、彼の腰よりながい長髪と相まって、威厳ある実物の百獣の王が見て取れる。

 しかし、鎧よりももっと奇妙な点がある。それは、彼の髪と、体表に浮かび上がる血管である。どちらも、周囲の溶融物質に勝るとも劣らぬ輝きを放ち、ゆっくりと明滅しているのだ。まるで彼の体内を巡る血液が、灼熱の物質であるとでも言わんばかりの有様だ。その輝きは彼の色濃い褐色の肌と激しいコントラストを呈している。

 彼はゆっくりとした足取りで、通路のこちら側に向かって歩みを進めている。その途中、溶融した床の中から鋭く巨大な水晶のツララが幾つも飛び出し、行く手を阻む。ヴァネッサが遠隔で能力を行使し、足止めをしているのだ。通路は一瞬にして水晶で塞がり、ノーラの行く先は行き止まりになってしまう。

 …しかし、この障害はすぐに役割を為さなくなる。数秒後、水晶の隔壁の中央にじんわりと、まるで白布にインクを落としてシミが広がるように、輝く赤が出現して円状に面積を広げてゆく。その直径が1メートルほどに達すると、その中央が粘性の緩い液体へと融解し、トロリと溶けだして穴を作る。同時に、隔壁の全体が徐々に赤みを帯びてゆき、まるで激しく汗ばむように表面がドロドロと溶け出して幾筋もの粘り気の高い滴を作り出す。

 やがてグニャグニャになった隔壁の中を掻き分けて、"彼"が再び姿を現す。鎧は相も変わらずに美しい青銅の光沢を放ち、色濃い褐色の皮膚は何事もなかったかのようにみずみずしく健在だ。高熱の物質の中から飛び出した彼は、太古の地球の一地域で崇められていたという火山の神ウルカヌスを思い起こさせる。

 この神々しく屈強な勇姿に、再び障害が襲撃する。"彼"の真横、熱い赤を帯びて輪郭が大きく歪んだ通路の壁から、突如として太く荒い水晶の柱が発生。転瞬、細かい破片をまき散らしながら爆砕したかと思うと、もうもうたる粉塵の中から煌めく水晶の巨兵が出現する。ヴァネッサの遠隔自動操作型の使い魔だ。長さが優に5メートルを超える、幅広の刃を持つ斧槍を手にし、"彼"へと猛然と打ち掛かる。

 「滅せよッ!」

 巨兵が咆哮と共に斧槍を落雷の勢いで振り下ろす。これに対し、"彼"は身を向けることもせずに、横目で一瞥をくれながら腕を伸ばすだけだ。その高慢とも取れる悠然とした態度は、単なる格好つけで終わらない。伸ばした腕の五指の爪がパックリと口を開くと、そこから真夏の陽光より更に眩しい輝線が出現。それらは鞭となって宙を駆け、激しくしなって躍り、水晶の巨兵に接触する。すると、凧糸が柔らかなスポンジケーキにやすやすとめり込み切り分けるように、巨兵の表面下に侵入。そのまま背中へと通り抜け、巨兵の身体には5つの切断痕が綺麗に残る。

 だが、巨兵は仮初(かりそめ)の命を吹き込まれた無生物の存在。痛みも感じず、動作を停止することもない。さすがに切断によって動きは鈍ったものの、重力も味方につけ、斧槍を"彼"へと肉薄させる。

 しかし、ここで巨兵に悲劇的な変化が訪れる。切断面を中心に、灼熱の赤が急速に広がり始めたのだ。その全身が輝く赤に包まれるまで、ものの数秒と掛らない。灼熱が全身に回ると、今度は巨兵の身体がガラス細工のように形を失い融解してゆく。斧槍はほんの数センチで"彼"の頭をかち割るというところで、完全な液体となって床に流れ落ちる。その直後、巨兵は「おぉぉ…」と無念の声を上げながら、泥のベシャリと溶け崩れると、床を流れる溶融物の一部へと成り果てる。

 (ヴァネッサ先輩の力が、全然…効かない!?)

 圧倒的な所業を目の当たりにしたノーラの心から、胸を張り裂くばかりに膨らんでいた昂揚感が、戦意が、楽天的な希望が、一気に萎む。そして全身から、暑さのものと相まう冷たい汗がブワリと噴き出す。結んでいた桜色の唇が血色を失い、だらしなくあんぐりと開く。立ち尽くす足が床に根付いたように、鉛に覆われたように、固く重くなる。

 

 彼女の眼に、もはや輝きは灯らない。眩さの消えた視界を通して網膜に映るのは、至極冷酷でシビアな世界の姿である。

 

 あ…あ…――あんぐりと開いた口から、呻きとも呼気とも取れる茫然とした音声を漏らすだけとなってしまった、ノーラ。そんな彼女と相対する"彼"は、その失意を汲むことなど勿論せずに、これまで通りのゆっくりした足取りで通路をこちらへ向かって歩いてくる。

 しばしの後、ふいに"彼"は足を止める。"彼"の深海のような深蒼の瞳が、ついにノーラを捉えたのだ。

 「ほう? 我が行く手を阻まんとする者か。それにしては、意外だな」

 穏やかにも聞こえる、力強い声。しかし声音の裏には、人間的な感情を持たぬ、無機質なまでに残酷さが含まれている。

 強烈な衝撃と失意に囚われたノーラが、瞬きするばかりで"彼"の問いに答えらずにいると。"彼"は丸太のように太い腕を組み、威圧感を更に煽って言葉を続ける。

 「神の代行者と戦わんとする涜神者にしては、あまりに脆弱な精神。あまりに非力な身体。

 お前の矮小さを目にしていると、当の昔に捨てた憐憫という感情を思い出されてくるな」

 非難をふんだんに含む酷評をぶつけられても、ノーラは反応できずにいる。そんな彼女の脳内には、対決せねばならないという現実から完全に逃避する思考ばかりが巡っている。――なんて大きくて力強い、神に恵まれた体格をしている相手なんだろう…だとか。凄く熱いな、あの人の身体が尋常じゃない熱量を放出してるんだ…だとか。近くで見ると、輝いている髪や血管や青銅の鎧が、まるでクリスマスツリーみたいんだな…だとか。その一々に、戦意の欠片はなく、(こうべ)を垂れ下げたくなる無力感が溢れている。

 押し黙ったままのノーラに向けて、"彼"が片眉を跳ね上げる。

 「どうやら、単なる勇み足で私と対峙し、神霊圧というよりも存在の強さそのものに屈服してしまったようだな。なんと哀れで、小さな魂魄か。

 だが、安心せよ。矮小なる存在であればあるほど、昇天してしまえば我が主の盲信者として、ひたすらに信仰を生み出す蝋燭となる。お前には、我らが"獄炎の女神"の糧となる、立派な存在意義が生まれる」

 "彼"が再び歩み出す。その足取りは、以前よりも早い。そしてノーラの身体を――魂魄そのものを捕獲しようというように、太い右腕を伸ばす。

 あと数十センチで接触、という事態に至っても、ノーラの身体は微動だにしない。あまりにも理解の及ばぬ、強大な恐怖の塊を目の前にした幼子のように、息を飲んだまま身を堅くしている。迫り来る、煌々と血管が輝く掌を茫然と見送っている。

 迫る掌が、ボォゥッ、と大気を小さく揺るがす鈍い音を奏でる。直後、掌の周囲に、血管と同様の煌めきを持つ灼熱の光域が出現。耐熱の身体魔化をしても、皮膚をジリジリと焦がし真っ赤な火ぶくれを作る灼熱を放つ。この脅威の掌で顔面を掴まれたら、どうなるか。顔面の皮膚が甚大な被害を受けるだけで済まないだろう。天使の炎が消防局員を焼いた時と同様、ノーラの全身を一瞬にして燃焼させ、その魂魄を"獄炎の女神"の元へと昇天させることだろう。

 ノーラはそういう事態を、冷静に把握することは出来ている。だが、身体が全く動かないのだ。脳は危険信号を放ちまくっているというのに、脊椎神経が断絶したかのように、全身が完全に麻痺しているのだ。

 "彼"の手が顔面を掴むまで、残り数センチ。ノーラの可愛らしい顔は火傷だらけになり、ビリビリとした鋭い痛みが至るところで生じている。それでもノーラは、視界の大半を覆う掌を、目を見開いて見つめているばかりだ。

 (…やられる…!)

 胸中で絶叫しながらも、脳の片隅、理性の辺境で…このまま魂魄を捧げてしまってもいい、という虚脱的な思考が泡のように生まれる。この思考は風船のようにムクムクと膨れ上がり、一気にノーラの怜悧(れいり)な思考を蝕む。――なぜ私は、こんな強大にして、素晴らしい存在と敵対しようとしているのか? 彼こそ、私の陰り切った心を照らす明星ではないか!? そんな彼よりも高位の存在である"獄炎の女神"ならば、さぞや素晴らしい光を私に与えてくれるだろう! ああ、この矮小で穢れた陰に満ちた私という存在を、その輝かしい手で浄化し、『現女神』様の元へ――。

 「ダメですわっ!!」

 突如として現れる、恍惚とした呆けに支配されたノーラの思考を鋭く切り裂く、声。直後、彼女の身体は横手から強かに突き飛ばされ、溶融を始めた通路の床に派手に転がる。その最中、身体中に生じる鈍痛の刺激は針となって、彼女の思考を圧迫する虚脱的な思考の泡を破裂させる。恍惚の熱が冷却され、元の怜悧な思考を取り戻したノーラは、瞬き一つすると、眼をキッと鋭くしかめる。麻痺していた身体が解放され、見事なバランス感覚を取り戻すと、キビキビした動きで身をよじり体勢を立て直す。

 壁を背にして片膝を付き、"彼"の方に向き直る、ノーラ。彼女が見たものは、掌を伸ばしたままの格好で、きょとんとした様子で足を止める"彼"。そして"彼"のすぐ手前、水晶で出来た荒々しい表面を持つ細身の鎧騎士である。この騎士、顔の部分だけはツルツルとしていてマネキンのようにのっぺらぼうだ。その反射光を眩く照り返す顔面はモニターの働きをしているようで、人物の顔を投影している。そこに映っているのは、この水晶騎士の主である、ヴァネッサの顔だ。

 ヴァネッサは眉をきつく釣り上げ、怒気に燃える眼でノーラを直視している。鋭い八重歯の目立つ口を大きく開き、火炎を吹く勢いで雷鳴のごとく叱りつけてくる。

 「この都市(まち)の皆さんを"獄炎の女神"から救うために、彼らに笑顔を振り撒くために、ここに来たのでしょう!

 そして、私の提案を剛毅に振り払ってまで、戦うことを選んだというのに! こんな士師程度の神霊圧に簡単にやられてしまうなんて、こいつの言葉じゃありませんけど、脆弱にも程がありますわよ! そんな心持ちでは、この異層世界中に笑顔の星を振り撒くなんてこと、到底できませんわ! 仮入部員としても失格ですわよっ!

 もっと自分の力を信じて、しっかりと――」

 ヴァネッサは更に激励を送ろうとするが、敵対者である"彼"はこれ以上、状況の変化を黙って見過ごしたりはしない。ノーラを掴むはずだった掌で水晶騎士の顔面をがっしりと掴むと、顔面を掴み砕かんと、輝く血管を隆起させながら力を込める。転瞬、掌の周囲の光域の色が一転、青白く濃密な火炎へと変化。水晶騎士の全身を一気に包み込む。

 「なんとも不愉快な物言いだな、人間風情が」

 "彼"は表情こそあまり変えなかったが、その漆黒の瞳の奥に確固とした激怒をギラつかせ、溶けてゆく水晶騎士の顔面越しにヴァネッサへと吐き捨てる。

 「"士師程度"、などと、我らを取るに足りぬ虫のように語るとはな。

 私の足をしつこく留め続けていたことと言い、その冒涜的態度、全く許容できん。

 貴様と相対したならば、その魂魄は昇天などさせぬ。私の力で一片残らず溶融させ、そこらの屑石と共に灼熱の泥濘として打ち捨ててやろう」

 「フンッ、不愉快なのは、こちらの方ですわっ!」

 もはや輪郭を全く失い、ぐにゃぐにゃの形状となった騎士の顔面にて。辛うじて顔が映るヴァネッサが、消えゆきながら一言、鋭い捨て台詞を残す。

 「特に、"人間風情"だなんて、わたくしたちを見下したその物言いがっ!

 あなただって、『現女神』に(こうべ)を差し出しただけの、『人間』のくせにっ!」

 この言葉の直後。水晶の騎士は形状を完全に崩壊させ、多量の水で溶いた小麦粉のようにベシャリと床に流れ落ち、大地に薄く広がって退場する。

 その残滓を不愉快そうに眺め、"彼"は厚い唇から苦言を吐き捨てる。

 「我らは崇高なる『現女神』により、既存生物より高次の存在定義を与えられし者。是非にでも"ヒト"というカテゴリで表現するならば、超越者――すなわち"超人"と称するのが適切だ。同列として扱うな、下等生物」

 生物として、あまりにも高慢な言葉。しかし、"彼"の全身から吹き上げる荒々しくも神々しい威圧感は、この言葉に重く確かな実像を結ぶ。これを耳にした常人は、不快感どころか畏怖に起因する感銘に身を震わせ、首を垂れて平伏することだろう。

 

 だが、そんな不可侵的存在と言える"彼"に対し、威圧の灼熱を切り裂く一陣の疾風となって、神々しい巨躯に牙を突き立てる者がいる。

 

 「ハァッ!」

 鋭く響く、呼気。同時に宙を一文字に駆ける、銀と飛沫の斬閃。それは"彼"の顔面を横薙ぎに襲う。

 肉どころか、鋼をも断つような勢いの一撃。それを受け止めたのは、"彼"が被る獅子の兜――ではない。血管網が赫々に明滅する、褐色の巨掌だ。小うるさい羽虫を掴み取るかのような、無造作にして無機質な態度である。

 受け止めた手の内で、飛沫を纏う銀色がジャブジャブと激しい水音を立てる。"彼"が受け止めた刃――そう、斬閃の正体は剣だ――は、青白くぼんやりと発光する水が周囲を高速回転する、奇妙なものだ。しかし、この刃には見覚えがある。先刻、イェルグと共に行動していたノーラが、積乱雲の魔化(エンチャント)に用いた、定義変換した大剣である。

 この斬撃の主は、もちろん、ノーラだ。今の彼女には、先に"彼"の神霊圧に当てられて畏怖に(すく)んだ面影はない。痛々しい火傷が点在する顔は活力と決意に満ちている。その姿は聖神に刃向う涜神者というよりも、邪神と勇猛果敢に戦う英雄だ。

 ノーラの一撃を阻んだ"彼"は、直ちに激しい反応を起こすことなく、ゆるりとした動きでもう一方の腕を伸ばす。掴みかかるようなその掌は青白い炎に包まれ、ノーラの可憐にして勇壮な顔を燃焼させ、握り潰そうとしている。

 これを避けるべくノーラは、大剣を大きく振るい、"彼"の手を振り払いにかかる。大剣は案外あっさりと解放され、自らの勢いで体勢を崩しそうになるが、すぐにバランスを取り戻すと、跳び退って"彼"との間合いを取る。

 この一連の動作をゆるりと見送った"彼"は、剣呑に身構えるノーラに向き直り、彼女の全身を黒一色の瞳に映す。そして尊大な態度で丸太のごとき巨腕を胸の上で組むと、厚い唇を動かす。

 「解せんな」

 その言葉は、釈明を求める響きを含んでいる。だが、ノーラは"彼"の期待に応えず、無言を貫く。もとより、何を釈明させようというのか、読み取れない。

 数瞬の沈黙の後、"彼"は言葉を続ける。

 「お前はすでに本能、いや、魂魄定義のレベルで認識しているはずだ。私がどれほど高位で強大な存在か。比して、お前がどれほど矮小で脆弱な存在か。その証にお前は一度、その身を私に委ね、その魂魄を我らの主に捧げようとしたではないか。

 しかし今になって、お前は魂魄定義で認識した畏怖を跳ね除け、神の代行者たる私と対決を挑もうとしている。その行為は、手も足も掛けられぬ絶壁に挑み天に至らんとする、白痴なる愚者に等しい。

 お前のその愚行を後押ししたのは、水晶を弄ぶ忌々しい涜神者の言葉であろうが…あの言葉に、一体どれほどの価値がある? その無価値な生命を無理無謀の前に使い果て、無為に失うほどの価値が、どこにある? 私の神霊圧を克服するだけの力が、どこから湧く?

 全く以って、解せぬ」

 対して、ノーラは答えない。その代わりと言わんばかりに、その身を再び褐色の疾風に変えて動く。身を低くして駆け出し、一息で"彼"の懐に飛び込むと、引きずるように後方に構えた水の大剣を下から上へと斬り上げる。

 (私には、このヒトのような余裕なんてない!)

 その身で"彼"の神霊圧を経験したノーラは、自身と敵との絶望的とも言える力量差を把握している。それゆえ、相手の余興的行動に律儀に付き合うような余裕はない。そんな暇があるのならば、相手の見下した態度を逆手に取り、その隙を突かねば勝利はもぎ取れない!

 ノーラの斬撃は、鎧に覆われていない"彼"の二の腕を狙う。まだ"彼"は対処の行動を起こしておらず――起こせないのか、あえて起こしていないかは不明だ――漆黒の瞳でこちらを見送っているだけだ。飛沫を散らす高速の水の刃は、すんなりと"彼"の褐色の素肌を捕える。

 ギィィィン――堅い陶器にでも激突したかのような、耳障りな音が立つ。同時に、ノーラの腕を至極堅固な手ごたえが激震となって伝ってくる。これは、肉を断った感触はない。功を奏すことなく弾き返された、無念の慟哭だ。

 (…しまった…!)

 ノーラは目を丸くするよりも、舌打ちしたくなる後悔に駆られる。相手は天使よりも厄介と評される存在、士師。天使ですら『現女神』の『神法(ロウ)』により存在定義を堅固に守られている。この士師も同じく『現女神』の使徒なのだから、いくらヒトに近い姿をしていようとも、同様の性質を持つことを想定するべきであった。

 "彼"を斬るためには、強烈な意志力を伴った加撃が必要だ。恐らく、天使を斬るより更に強力な意志力が。

 ノーラの斬撃が虚しく肌の上を滑る最中、"彼"が攻撃行動を起こす。体勢を整える動作は、雷光のごとく。赫々に輝く腕に力を入れて振り上げる動作は、弦を引き千切るほどに弓引くがごとく。そして、岩石の硬度で固めた拳をノーラの顔面めがけて振り下ろす様は、まさに天よりの鉄槌のごとく、だ。

 (!!)

 ノーラは反射神経を総動員し、流星のような鉄槌を身を転がして回避する。直後、背後を過ぎる猛烈な灼熱。そして、ベシャンッ、と緩い泥を思い切り踏みつけるような粘性音。即座に立ち上がり、再び"彼"と対峙したノーラが見たのは…ついさっき自分が居た位置の地面が大きく(えぐ)れ、溶岩溜まりのような有様になっている光景だ。これの直撃を受けたならば、身体魔化の効力をやすやすと打ち破り、肉体が即座に炭化させられただろう。

 「その若さにしては、良い反応だ」

 拳を穴から引き抜きつつ、"彼"が称賛を送る…が、その口調はあまりに無機質なため、世辞というより嫌味にしか聞こえない。

 しかし、苛立つような余裕は、ノーラにはない。二度の奇襲は全く功を奏さず、失敗に終わってしまった。却って、敵の化け物じみた性質を見せつけられてしまい、戦意が挫けそうになる。

 (どう戦う…? どうすれば、天使以上に堅いと予想できる『神法』の定義を、突破できる…?)

 暑さ以上に焦りによって、火傷だらけの顔をヒリヒリさせる汗がジットリと流れる。そんなノーラを"彼"は真正面から見据えると、ゆるりとした動きで、しかし大気を大きく渦巻かせながら、どっしりとした構えを取る。脚を肩幅に開き、両膝を軽く曲げ、両手の指を(あぎと)のように曲げた、獣性を想起させる近接戦闘系の体勢だ。

 「勝てぬと悟りながらも、私を打倒せんとする愚行を敢行するその意志は、無益無謀とは言え、勇気には違いない。

 その無駄に強き意志に敬意を表し、主より与えられし我が高尚なる名を告げよう」

 尊大な物言いの後、"彼"は一息を置くと、未だ考えあぐねて動けずにいるノーラへ鋭い呼気と共に名を告げる。

 「私の名は、"溶融の士師"プロクシム。主より賜りし浄化の灼熱で、すべての物体を(あまね)く溶融させ、形と定義を奪う者だ」

 ――ここに、"霧の優等生"ノーラと"溶融の士師"プロクシムの戦いが、本格的に炎を吹く。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Stargazer - Part 5

 ◆ ◆ ◆

 

 さて、先に後回しにしていた"士師"について、『現女神』の性質を交えつつ、ここで解説する。

 

 『現女神』たちは、自身に集った信仰心に比例する"神霊力"と呼ばれる強力な魔力を扱い、『神法』と呼ばれる独自の法則を世界に展開する能力を持つ。しかし、『現女神』は『神法』を直接行使することはできない。媒介者を介することで、初めて世界に影響を与えることが出来るのである。

 『現女神』たちは、神霊力を行使して、『神法』の媒介者を一から作り上げることが出来る。こうして出来上がった存在が、"天使"である。彼女らの身一つで作り上げることが出来るというメリットがある一方、存在定義から創造する必要があるため、注いだ神霊力にロスが生じてしまうデメリットを抱えている。

 このデメリットを克服する存在こそ、"士師"である。

 士師は、プロクシムやヴァネッサが会話の中で匂わせていた通り、『現女神』から神霊力を付与された存在である。この時に、付与された『神法』の影響によって、外観に大きな変化が生じる者も多い。プロクシムの場合は――士師となる前の姿は不明なものの――さほど大きな変化はなさそうであるが。

 『現女神』が士師を作る場合、用意された存在に対してふんだんに神霊力を付与するだけでよい。そのため、神霊力のロスは小さく、注いだエネルギーの大半は士師となる人物の能力に転化される。このため、行使できる能力を比較した場合、一般に天使よりも士師の方が大きくなる…つまり、『現女神』と敵対している者からすれば、士師の方が厄介な相手となるワケである。

 

 戦力として大いにメリットのある士師であるが、『現女神』が自らの手駒を彼らだらけにしていないのには、もちろん理由がある。

 まず、どんな人間でも士師になれる…というワケではない。『現女神』に対する信仰心が"非常に"大きい者に限られる。この"非常に"の具体的な量分や、信仰心の内容については、『現女神』たち自身も論理的に説明できないようだ。ただ、彼女らは士師となる資格を持つ者を判定できるようだ。

 また、士師は天使と違い、自由意志を持つということもデメリットになり得る。士師に任じられた時には多大な信仰心を捧げていた者も、自由意志の働きによって、時と共に心持ちを変えるかも知れない。折角多大なエネルギーを注いで作り上げた士師も、役立たずになってしまう可能性があるワケだ。その点、自由意志のない天使は真に忠実な部下である。

 

 このプロクシムはどうであろうか。事あるごとに主を称えている点、刃向う者に明確な不快感を示す点を鑑みると、"獄炎"の女神にとって忠実な部下であろう。そして安心して信頼を寄せることが出来るがゆえに、彼に単独行動を命じたに違いない。

 

 ――さて、物語の焦点をノーラとプロクシムに戻すとしよう。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 プロクシムの名乗りと共に上がった戦闘の火蓋。その先手を取ったのは、プロクシムである。

 牙のように曲げた指先の爪が、パックリと開く。露わになった指先の肉から噴き出すのは、血ではない、赫々に煌めく輝線だ。鞭のように曲がりくねりながら宙を走るそれを、ノーラは見覚えがある。この場に到着してすぐのころ、ヴァネッサの作り出した水晶の巨兵を切り裂き、完全に溶融させた灼熱の鞭だ。

 ヒュッ――プロクシムが厚い唇から鋭い呼気を吐き出しつつ、グルリと大きく腕を回す。その動きに同調して、灼熱の鞭は幾重にも弧を描きながら、高速で空間を疾駆。瞬きする間もなく、ノーラを八方から取り囲むと、彼女の柔肌目がけて迫る。

 ここに至っては、攻め手を考えあぐねているノーラも、即座に思考を捨てて行動に出る。

 (目の前のことに、集中しないと! 命を、落とす!!)

 ノーラは手にした大剣に魔力を集中。刃の周囲を覆う水を術式で満たすと、水は蛍光色の強い励起光を伴いながら、一気に体積を増加。船を飲み込み砕く渦潮の勢いでうねりながら、術者を中心に球状に展開し、迫り来る10本の灼熱の鞭に対抗する障壁と化す。

 直後、灼熱の鞭が水の障壁に激突する。瞬間、ジュワワワッ、と水が爆発的に沸騰・気化する騒音が辺りに響く。鞭の持つ魔力を帯びた熱を強烈で、水の障壁の術式を破壊しながら、グイグイと中心めがけてめり込んでくる。

 (マズい…!)

 ノーラは大剣への集中を更に強め、水中の術式の密度を増加させる。水分子の分子間力を劇的に強化し、沸点を金属並に、冷却性能を液体窒素並に引き上げる。それでも鞭の勢いは留まることを知らず、相変わらずジュワジュワッと障壁の表面を削り取る。

 拮抗状態がしばらく続くか、と思われた矢先。ノーラは水の障壁の向こう側に、急にヌッと湧いて出たかのような巨躯の影を認める。プロクシムだ。彼は鞭に攻撃を任せるに留まらず、直接手を下すべく接近してきたのだ。

 鞭の制御で手が塞がっているプロクシムは、筋骨隆々とした脚を高速で叩き付けてくる。その勢いは、鞭よりも素早く、強烈だ。ゴウッ、と大気を裂く音が水の障壁を突き抜けてノーラの耳に届く。直後、幾重にも鞭を束ねたような剛脚が、蒸気爆発音を伴って水の障壁を大きく引き裂き、煌めく青銅をまとった足先でノーラの顔面を狙う。

 (ただ防御しただけじゃ、ダメだ!)

 ノーラは瞬時に判断すると、手にした大剣に定義変換(コンヴァージョン)を行いながら、顔を覆うように刃の腹を見せて剣を立てる。そこへ、プロクシムの渾身の蹴りが激突。ゴォゥンッ、と金属の悲鳴が辺りに響き、ノーラの身体が突風に吹かれた木の葉のように軽々と吹き飛ぶ。

 (…熱…ッ!)

 中空で体勢を立て直しながら、ノーラは柄を握る両手から這い上がる高温に痛みを覚え、歯を食いしばる。鞭で突破出来なかった水の障壁を蒸気爆発させたプロクシムの蹴りは、鞭とは比較にならない熱量を持っていたのである。ノーラが素早くも的確な判断を用い、大剣を耐久性重視の物質組成へと変換させていなければ、彼女の首から上は剣ごと溶融していたことだろう。

 だが、プロクシムの勢いづいた蹴りは、彼の体勢に大きな隙を残した。これを見逃すノーラではない。足を発信源として方術を発現させると、青白い魔円陣が出現。そこに仮想の足場が作り出される。『宙地』と呼ばれる、方術ではポピュラーな行動補助魔術だ。これを両の足で思い切り蹴りつけたノーラは、大剣を再び定義変換。物質を分子レベルで崩壊させる超高振動を帯びた刃を作り出し、プロクシムの上方から露わになった太い後ろ首を狙って、流星のように跳びかかる。

 重力を味方につけた斬撃は、無防備なプロクシムの首に激突。瞬間、ギギギィッ、と耳障りな激しい擦過音が響く。まるで、金属にチェーンソーの刃を打ち当てたような騒音だ。

 (…っ!! 何、この硬度…っ! 筋肉の堅さじゃない!)

 定義変換によって作り出した超高振動の刃は、理論的にはダイヤモンドをも両断できる、はず。しかし、プロクシムの薄皮一枚すら侵入することが出来ない。非常に強力な身体(フィジカル・)魔化(エンチャント)がノーラの攻撃を阻んでいるのか、それともこれが士師の身体を護る『神法』の力なのか。

 柄を握る両手になおも力を込め、せめて薄皮一枚ぐらいはと、ノーラは大剣の刃をググイッと押す。その努力も虚しく、全く功を奏せないでいると…ノーラの視界の至るところに、赫々の輝線が現れ、見る見る内に迫ってくる。プロクシムの灼熱の爪鞭だ!

 ――即、回避しなくては! ノーラは再び『宙地』を発動、プロクシムの頭上を水平に跳び退る。その様子を漆黒の瞳でしっかりと追う、プロクシム。その視線に連動するかのように、爪鞭は柔らかくも素早い動きで方向を変え、ノーラを執拗に追う。

 しかし、この攻撃はノーラには幸いだ。10本の爪鞭が一斉、前方から迫ってくる。(さば)くのは全方位行動よりも断然、難しくはない!

 ノーラは大剣を前方に突き出し、定義変換。再び水が刃の周囲を駆け巡る形状を作り出すと、魔力を集中。刃を走る水が激流の勢いで切っ先の方へと(はし)り、そのまま宙へ飛び出して四方に飛び出し、円形の壁を作り出す。もちろん、水中には術式が高密度で込められている――先に球状に展開した時よりも、ずっと濃密だ。あの時の手ごたえからすると、この強度を用いれば爪鞭が10本であろうと、耐えられるはず!

 ドジュウゥゥッ! 10本の爪鞭が絡まり合い、錐のような形となって水壁に激突、激しい蒸発音を放つ。だが、ノーラの予測は的中だ。爪鞭は水壁を完全に蒸発し切れず、その奥へ1ミリとて侵攻することができない!

 だが、これで安堵してはいけない。爪鞭は尖兵に過ぎない。真に注意するべきは、プロクシム本人による直接攻撃だ。彼が発する熱量は爪鞭を遥かに凌ぐ。この水壁であっても、その蹴撃を相殺できる自信はない。ノーラは魔力の集中をこなしながらも、油断なくプロクシム本人の動向を注視する。――いつ、跳びかかって来るか、と。

 だが、ノーラの覚悟を他所に、プロクシムはその場を一歩も動かない。どころか、執拗に水壁にぶつけていた爪鞭を解くと、周囲に大きく散らすようにして退き下がらせた。諦めた…というには、プロクシムの表情は相も変わらず堅く、身体からは充実した闘気をひしひしと感じる。確実に、何かを企んでいる。

 (取りあえず…間合いを取りながら、次の攻め手を考えないと…)

 『宙地』で中空に留まっていたノーラは、魔術を解除。自由落下での着地を試みる。

 その最中、プロクシムが動く。ゆらりと右腕を高く挙げてみせる…何かに号令を出すかのように。

 直後、ノーラにとって奇妙にして危機的な現象が発生する。地面、壁、天井…あらゆる方向の溶融した物体が突如、モゴリと隆起…いや、流動したのだ。四方上下から迫る、網膜を焼き潰すような灼熱の津波が、一挙にノーラを包み飲み込もうとする。

 (何…!? この、デタラメな攻撃!?)

 焦燥で顔面にブワリと冷や汗を噴き出す、ノーラ。まだプロクシムと戦って間もない彼女は知る由もない、彼は自身の能力で溶融した物体を意のままに操れるということを。さっき、ノーラの水壁を突破せずに爪鞭を展開したのは、ノーラの防御の突破を諦めたからではない。灼熱の爪鞭で広げることで広範囲の物体を切り裂きながら溶融させ、灼熱の津波を作り出す布石としたのだ。

 いかにして、この全方位攻撃を逃れるか!? じっくり思考する余裕など、ノーラには全くない。ともかく水の大剣に魔力を集め、球状の障壁を作りながら、本能的行動で視界を巡らす。どこかに、状況の突破口はないか…!?

 (…あそこ…!!)

 視界の端に映った、上方やや左後方にある溶岩の隙間。足元から迫る灼熱が追いすがる前に『宙地』を発動させ、全身の筋肉を総動員させてバネのように跳び上がり、隙間への突入を試みる。

 …しかし、ノーラの見つけた糸口は、希望ではなく絶望に続いていた。

 閉じ行く隙間からギリギリ脱出したノーラであったが、その顔が即座にギクリと強張る。すぐ横手に、背中から透けて輝く橙色の翼を展開して飛ぶプロクシムが居る。その右手を固く握り閉めて巨拳を作り、脇を締めて構えている。万全の攻撃態勢だ。

 反射神経を限界まで駆使し、大剣の腹を盾にしながら、『宙地』で前方の中空を蹴りつけて跳び退る。この防御行動は何とか功を奏した。大剣の腹は見事にプロクシムの拳を引き受け、直撃を免れることができたのだ。

 だが、安心できる状況ではない。受け止めた拳撃の衝撃は強烈で、先に喰らった蹴りと同様、小柄なノーラの身体を軽々と吹き飛ばす。同時に、灼熱が大剣全体を駆け巡る。大剣の柄は一瞬にしてステーキ皿のように高熱を持ち、ノーラは思わず大剣を放り棄てそうになった。そこを踏みとどまり、身体魔化で掌を耐熱処理して柄を握りなおしたのは、英雄志向の学園生活が生み出した強靭な精神力の賜物だ。

 このまま吹き飛んでは、溶融物が沸き立つ灼熱の海に突っ込んでしまう。ノーラは『宙地』を応用して足元の大気の摩擦係数を上昇させ、ブレーキをかける。ところが、そこへプロクシムが輝く翼をはためかせ、獲物を狙うハヤブサと化して頭から突っ込んでくる。

 しかも、プロクシムはノーラ打倒を万全とするため、彼女の足元に広がる溶融物を操作し、火山噴火のごとき溶融物の噴出を作り出す。休む間もない厳しい挟撃に、ノーラは一瞬息を飲み、目を回してしまう。

 (ともかく、回避!!)

 自身に鞭を入れ、『宙地』で横方向へ跳び逃れたが、正に間一髪。右足先は溶融物に触れられて靴が焼け焦げ、剥き出しになった素足は激しい疼痛(とうつう)を起こす火ぶくれを起こす。頭すれすれをプロクシムの拳が過ぎり、美しい薄紫色の髪の毛の一部がチリチリと焦げて、不快な匂いを放つ。熱い痛みに思わず、ぐうぅっ! と押し殺した悲鳴が漏れる。

 しかし、更にプロクシムの襲撃は続く。翼を器用にはためかせ、速度を殺さずに方向転換、ノーラの後をピッタリと追う。そして右腕を伸ばし、上から下へと振る仕草を見せる。この動作に呼応して、熱で柔らかくなった天井が即座に煌めく赤一色に染まると、大粒の滴となってドロドロと流れ落ちてくる。まさに、火の雨…いや、滝だ!

 (…何なの、これ…っ!)

 己の頭上だけでなく、行く先までも垂れ落ちる障害物に阻まれ、ノーラの回避速度が否応なく落ちる。そこへ、溶融物をモノともせずに直進するプロクシムが、ついにノーラに肉薄した。

 ――溶融物より、直接攻撃の方が危険度は大! 即座に判断したノーラは、頭上への注意を捨ててプロクシムに集中。大剣の腹でプロクシムの打撃に備える。

 ゴォッ! ガッ! ドォッ! 嵐のようなプロクシムの連打が容赦なくノーラに襲い掛かる。なんとか剣で拳を、蹴りを阻むが、一撃一撃が砲撃のように重い。そして、熱い! 次第に刀身が赤みを帯び、輪郭が歪んでくる。漂い始める刺激臭は、焦げて空中に放出された金属粒子に起因するものだろう。大剣全体の帯びる熱はいよいよ高まり、掌の身体魔化を突破して熱痛を肉に植え付けてくる。

 加えて、頭上から落ちてくる溶融物が肩や背中に付着し、制服を焦がして破壊し、剥き出しになったツルリとした皮膚をジリジリと焦がす。中には、小さな炎を上げる部位まである。

 完全な防戦一方。しかも、反撃の糸口を見つけるような余裕は微塵もない。ノーラの陥ってしまった状況は、あまりにも絶望的だ。

 

 ――そして、絶望は更なる窮地をノーラに突き付ける。

 「ぬがぁっ!!」

 プロクシムが、鬼の形相を浮かべたかと思うと、厚い唇を獣のように開けて吠える。いつまで経っても獲物を手に出来ず、業を煮やして怒り狂う凶獣の咆哮そのものだ。

 転瞬、乾き切った烈風と共に、プロクシムの渾身の拳が大剣の腹に激突する。衝撃で生まれた熱風の渦に、ノーラの眼球表面の水分が一瞬にして蒸発し、ジクジクと痛みを訴える。瞬きしたくなる衝動に駆られるが、この行動を抑制したのは、彼女の理性ではなく――なんと、本能であった。

 拳が生み出した焦熱が、大剣の熱耐性を上回り、盾にしていた刀身が萎れた葉のようにグニャリと曲がり垂れたのである。これに驚愕したノーラの本能が、瞬きを妨げたのだ。

 プロクシムの拳は更に驀進し、ノーラの顔面に迫る。ヒリヒリする高熱を伴う攻撃を、背を反らせてなんとかやり過ごすノーラであるが…過ぎる拳の余波が振り撒く熱は予想以上に強烈で、焼け付くような熱さを制服越しの皮膚に突き刺す。むき出しの顔面など、薄皮がパリパリと乾いてめくり上がってしまうほどだ。

 この熱痛に運動神経が音を上げたのだろうか…ノーラの膝が不意に力を失い、カクンと折れる。

 (…マズい…っ!)

 そう思うも、時はすでに遅し。ノーラの体制は完全にバランスを失い、『宙地』の制御も失って、溶融物に満ちる床に背中から倒れ込んでしまう。

 「んくぅっ!!」

 背中から駆け上がる熱い激痛に襲われたノーラは、噛み殺した絶叫を上げる。別に、大声を出すのを避けての閉口ではない。あまりの痛みに反射的に歯を食いしばりながら叫んだ結果だ。

 そこへ、容赦のないプロクシムの追撃。輝かしい青銅に覆われた右足を振り上げると、ノーラの顔面目がけて踏みつけてくる。転がって避けようにも、右も左も灼熱に(とろ)けた大地が広がるばかり。全身に大火傷を負いかねない!

 

 四面楚歌、絶体絶命、万事休す。

 ノーラ自身、ここで命を潰えるものと覚悟していたが…。

 まだ諦めていない、小さな鼓動がノーラの耳元をくすぐる。

 それには確かに、死への恐怖も含まれている。だが、そんな受動的で真っ暗な因子は、この鼓動の中においてもあまりにちっぽけだ。

 鼓動の正体――それは、輝きだ。

 部員たちからもらった、小さな希望の輝き。成し遂げてみたいこと、どうしてもやり抜きたいこと…そして、その向こう側にあるものを感じたいという欲求。これがノーラの絶望色に染まった思考に奮起の光を投げかける。

 ――ここで終われば、何も手に入らない! ここで終われば、あなたの言葉は全て無為になる! ここで終われば、あなたが憧れる希望を振り撒く星になんかなれない!

 そして、脳裏に過ぎるのは――ロイ・ファーブニルの顔だ。仮入部員の分際で差し出がましいことを言った自分に手を伸ばしてくれた、屈託のない笑顔。

 彼もまた、今なお戦い続けている。天使の大群を前にしても、彼は絶望していなかった。そんな彼が、今のノーラを見たらなんて言うだろうか。

 彼に、絶望に負けた顔を見せたいのか?

 

 (…私がロイ君に見てもらいたいのは…振り撒いた希望に彩られた、私の笑顔だ!)

 そう胸中で叫んだ転瞬。ノーラは一気に痛みも絶望も飛び越えた。思考の暗雲を振り切り、その向こう側にある青々とした爽快感、そしてその中央に座す輝かしい希望の光を見た。

 ――見るだけでは、満足できない。あれを、掴んで見せる!

 

 ノーラの眼が、剣呑と活気の輝きを放つ。

 迫り来る絶望の足蹴を眼前にして、ノーラがとった行動は…足蹴に向かい、勢いよく立ち上がることだ。

 もちろん、そのままでは単なる無謀な自殺行為である。それを希望的行為に変えたのは、彼女の人生で最高のパフォーマンスを実現した定義変換だ。両手が掴む萎れた大剣が一瞬、目も眩むような蛍光色を発したかと思うと、形状が一瞬にして激変。体積を増して長大に伸長したその姿は、大剣というよりも馬上槍(ランス)だ。ただし、その表面と――恐らく内部にも――有機的なデザインの機械機関が満ちている。

 ノーラはこの槍を、迫り来る足蹴に激突させる。インパクトの瞬間、槍は盛大な蒸気を吹きながら、ドォッ、と轟音を発する。同時に、槍先がパイルバンカーの要領で高速で伸長。その衝撃にプロクシムの巨躯が大きくバランスを崩すと、彼は体勢を立て直すべく数歩後退せざるを得なかった。

 途絶えた猛攻を幸いと、ノーラは立ち上がった勢いのまま宙へと踊り、『宙地』によって中空に足場を作り出し、そこに直立して体勢を整える。制服の上着の背中は溶融物によって焼失し、火傷で腫れた背中が剥き出しになっている。靴はもはや両方とも失い、やはり火傷が覆う素足が露わになっている。その他、露出している顔や手、プロクシムの猛攻によって破砕した制服の合間も、痛々しい火傷に覆われている。

 まさに満身創痍であるが、その眼に灯る輝きは、さっきまでとは全く違う。凛とした凄みを伴った、普段の"霧の優等生"の怜悧(れいり)さがふんだんに含まれている。

 ノーラは今、完全に自身を取り戻したのだ。

 プロクシムが初めて、その無感情な顔にうっすらと驚愕と困惑の表情を浮かべる。このタイミングで何故、ノーラが活力を取り戻した…いや、盛り上げたのか。全く理解できないと、その表情は訴える。

 その隙をみすみす見逃す"霧の優等生"ではない。再び大剣を定義変換、今度は分厚い刀身を持つ、比較的オーソドックスな形状へと変化させると。『宙地』の足場を力強く踏み切り、一陣の疾風となってプロクシムの真正面に突撃する。

 対する"溶融の士師"も、黙って為すがままに委ねることはしない。表情を無感情な冷徹に引き締めると、ノーラを迎撃すべく巨拳を固め、砲撃の勢いで放つ。

 轟ッ! 真正面の激突は、接面を中心に円状の衝撃波を大気中にブチ撒く。ノーラの一撃はプロクシムの腕をビリビリと震わす力を生み出すが、プロクシムの薄皮一枚にすら損傷を与えることはできない。

 (別に、それで構わない!)

 ノーラは無為とも取れる結果に失望しない。いや、そもそも、この結果は彼女にとって無為ではない。

 ノーラ自身も叩き付けた大剣から這い上がるビリビリとした震え、そしてジリジリとした熱を腕に受けるが、それに身を委ねはしない。衝撃を振り切り、回るような体捌きでプロクシムの腕の横手へと過ぎると、そのまま彼の脇腹を――青銅の鎧が覆わぬ、筋骨隆々の体表剥き出しの脇腹を目がけて、強かに大剣をぶつける。

 慟ッ! 響き渡る強烈な打撃音は、ノーラの目論見の直撃を物語る。この攻撃に対応できなかったプロクシムだが、その顔はピクリとも動かない。そして、脇腹の表面もやはり、小さな擦過傷すら付かない。

 それでも、ノーラは失望しない。

 プロクシムがノーラに対応すべく身を回す…が、既にノーラも次の行動へと移っている。『宙地』を駆使してプロクシムの背面やや上方へと跳び上がると、更に『宙地』を使ってプロクシムの首筋へと落下。三度大剣を叩き付けると、ギィンッ、と陶器を打ち合わせたような耳障りな音が響く。この音から想起されるように、この攻撃もプロクシムを傷つけるに至らない。

 それでも、やはり、ノーラは失望しない。

 続けざまの直撃に、プロクシムの顔が怒りに歪む。転瞬、彼の背中に輝く橙の翼が太陽のごとく輝きを増すと、幾重にも枝分かれしてうねりつつ、ノーラに向かって迫る。その一本一本が猛烈な高熱を帯びている。爪先から出した灼熱の鞭と同じような攻撃のようだ。

 この攻撃はノーラの予想外だが、驚愕に息を飲んだのは、一呼吸する間もないほどの一瞬のこと。取り戻した怜悧さで以って、瞬時の的確な判断を重ね、『宙地』と運動神経をフルに活用して悉くをかわす。まるで、舞踏のような有様だ。稀に鞭は、ノーラの体表すれすれを過ぎり、彼女の身体に高熱を与えることもある。この時はさすがにノーラの顔に痛みに耐える表情が浮かぶものの、動きが鈍ることはない。

 それどころか、鞭の動きの中に隙を見出すと、細かく『宙地』で中空の足場を作りながら、一気にプロクシムに接近してみせる。

 「羽虫が…っ!」

 ノーラの執拗で器用な行動に、プロクシムが堪らず声を荒げる。続いて、五指を牙のように曲げた両手を突き出すと、爪を開いて灼熱の鞭を出現させる。背中から跳び出した鞭と合わせると、総計20を超える破壊の輝線が宙を踊り狂い、ノーラの命を目指す。

 さすがにこの数量・密度では、怜悧さを取り戻したノーラも体捌きだけでは対処しきれない。これまでのノーラだったならば、大剣を水の刃に変化させ、球状の水製障壁を作り、亀のように身を固めて防御したことだろうが。

 (そんなコトをしても、追いつめられるだけ…! だから…!)

 ノーラは大剣に魔力を集中するものの、定義変換を実行しない。刃に防御系の魔化を施すに留めると、肉薄する灼熱の鞭をことごとく打ち払う。インパクトのたびにギィンッ、と鋼のぶつかり合う騒音が起こる。しなやかな動きに反して、鞭の硬度は高いようだ。直撃すれば焼かれるだけでなく、衝撃で肉がごっそりと(えぐ)り取られることだろう。

 刃を合わせて初めて、鞭の物理的性質を悟ったノーラだが、胸中でざわつきそうになる不安を歯噛みと共に押し殺す。怯懦は重い足枷(あしかせ)となる――前進するならば、まともに向き合うな。この身への忠告程度に認識し、大部分は意識の外へ追い出せ!

 ノーラの剣捌きは、時を経ると共に、無駄が削ぎ落ち洗練されてゆく。今の彼女は、剣撃の颶風(ぐふう)だ。これが灼熱の嵐を押し返しながら、確実に嵐の中心へ…"灼熱の士師"の元へと向かう。

 「チィッ…!」

 己の攻撃が功を奏さぬ光景を前に、プロクシムは怒りの炎を強める。そして舌打ちと共に、翼と爪から伸ばした鞭を一斉に消滅させる。もちろん、ノーラの抵抗に音をあげて諦めたワケでない。次策への布石であろうが…その内容がどうあれ、ノーラにとっては決定的なチャンスだ。『宙地』にアレンジを加えて反発係数を増大させると、バネのようになった足場を思い切り蹴りつけて跳び出す。もはや砲弾というより、紫電とも言うべき勢いだ。

 頑ッ! 響き渡った堅い打撃音の源は、プロクシムの額だ。ノーラは大剣でプロクシムの顔面を狙ったのであるが、プロクシムが素早い判断で獅子を象った兜で斬撃を受け止めたのだ。兜は傷一つつかず健在であるが、その衝撃はプロクシムの顔面を強かに揺るがしたようだ。彼の顔が初めて、苦痛の色を浮かべて歪む。

 しかし、これで喜ぶノーラではない。『宙地』を駆使し、すぐにプロクシムから距離を取りにかかる。この行動は正解だ。跳び退る彼女の足先すれすれを、真紅の熱塊に包まれたプロクシムの拳が大気を裂いて過ぎったからだ。乾いた灼熱の拳風がノーラの全身を襲い、身体中の至るところの火傷がビリビリと悲鳴を上げる。

 プロクシムは、ノーラの後退を好機とみなした。背中の翼を力強く羽ばたかせると、巨躯を弾丸と化し、ノーラへ一気に肉薄する。彼の両手は、真紅の熱塊に包まれている。これを嵐のように暴力的振るいまくり、ノーラを捉えようと躍起になる。

 対するノーラは、『宙地』で足場を作って後退を停止すると、なんとプロクシムの正面へと跳び出した。自ら死の嵐の中へ進んだのだ――そう、一撃でも喰らえば、ノーラの身体にはひどく炭化した輪郭に覆われる大穴が開き、生命は地獄の熱苦に埋没することだろう。そんな危機的な状況の中へ飛び込む彼女の顔に浮かぶのは、自殺者の諦観ではない。辛苦の向こうに存在する希望を見据え、掴み取らんとする眩しいほどの熱意と気迫である。

 そして、ノーラとプロクシムの間に、あまりにも激しい乱撃の拮抗が生じる。絶え間なく響き渡る、重く堅い激突音。バラ撒かれる、熱風を交えた衝撃の颶風。人の域の極限まで…いや、魔術によって限界を遥かに突破した速度で、息つく間もなく、両者は互いを打ち伏せるべく攻め続ける。

 この最中、ノーラは何度もプロクシムの身体に直撃を当てている。しかしやはり、『神法』の加護を受けた士師の身体は、かすり傷一つ追うことはない。一方で、プロクシムの灼熱を帯びた攻撃は、直撃を避けても拳の熱塊が放つ灼熱が制服を焦がして破き、皮膚を焼く。時を経るにつれて傷だらけになってゆくのは、ノーラだけだ。

 それでも彼女は、瞳に灯す希望を、決意を、気迫を、決して失わない。どれほどズタボロになろうが、痛みが全身を駆け巡ろうが、歯茎から血を流さんばかりで歯を食いしばり、攻撃を繰り出し続ける。

 傍目から見れば、自暴自棄による闇雲な行動にも見えるだろう。何せ、彼女の攻撃は全く功を奏してないのだから…"表面的には"。

 

 だが、一見無為にも見える行動の繰り返しの中で、ノーラは着実に成果へと前進しつつあった。

 

 ノーラの連続攻撃の狙いは、プロクシムの身体に損傷を与えることでは、ない。

 彼女は一撃一撃において、刀身に全く異なる術式を高速で付与している。これを"灼熱の士師"にぶつけた際に形而上相で発生する魔法科学的現象を、瞬きを惜しみ始終観察し続けている。これが、彼女の真なる狙いだ。

 天使や士師は強力な存在であるが、彼らの強さを構築しているのが『神法』である。この『神法』、"(ルール)"と言う名を冠しているからには、何らか法則体系が存在するに違いない。この法則体系こそが彼らの頑強さや魔力、攻撃の際の現象の根源のはずだ。それを解析し、法則体系の"抜け目"を見つけられれば…天使だろうが士師だろうが、規模の分からぬ『神法』の力量を凌駕せずとも、効率的に彼らの存在に損害を与えられる!

 そして、"霧の優等生"の通り名を冠されるノーラの怜悧な頭脳は、着実にプロクシムを守護する『神法』の正体に迫っている。

 (確かに、この士師には傷がつかない。でも、私の与えている攻撃の衝撃は、確実に彼を苛んでる。つまり、単純な力学的作用を無効することはできないということ…!

 鎧の有無は、この士師の防御力には無関係だ。鎧の表面も皮膚も、打撃を与えた時に発生する防御的魔法現象に差はない。鎧は、『現女神』のデザインに過ぎない。つまり、鎧を突破できるなら、皮膚も切断できるということ…!

 そして、彼のあらゆる物体を溶融させる力と、身体を堅固に保つ力…そこには、関連性がある。物質を溶融させるということは、その分子運動を増大させ、分子間力を振り切らせるということ。逆に物体を堅固にするということは、分子運動の増大を防ぎ、分子間力を強固にするということ。すなわち…彼の能力の根本は、分子運動の操作!)

 ここまで分析し終えたノーラの次なる課題は、いかにして分子運動の操作能力に打ち勝つか。そこで彼女が採った試行は…これまでのプロクシムの性質・行動と照らし合わせると、あまりに不可解なものである。

 全体重に『宙地』の反発力を乗せた一撃を与え、プロクシムの身体をのけぞらせた、その一瞬。ノーラは定義変換を実行、そして大剣は…なんと、激しく噴出する青い炎が刀身を包む、"火炎の大剣"と化したのだ。この炎、青色をしているからといって、冷気を発しているワケではない。プロクシムの身体同様、大気を激しく揺らめかす乾いた灼熱を発する、正真正銘の炎の刀身だ。

 体勢を立て直しつつ、これを見たプロクシムの顔が、思わず揶揄に歪む。"獄炎の女神"の使者たる自分に、炎など効くワケがない。この少女は度重なる焦熱と無為の結果に当てられ、正常な思考を失ったのだ…そう判断し、爪先ほどの憐憫と、その数百倍も大きい残虐な哄笑の衝動を抱える。

 「哀れなるかな、凡愚ッ!!」

 プロクシムの大振りな右拳は、愚者とみなしたノーラの死出を艶やかに飾ろうとするかのよう。これに対してノーラは、笑みも嘆きもせず、ただただ冷たい光を瞳にたたえ、ややゆっくりとした動作で舌から上へと、プロクシムの一撃に蒼炎の刃を合わせる。刃は熱拳がノーラの顔面に届くより先に、トン、とプロクシムの筋骨隆々の腕に当たる。

 そしてそのまま、まるで羊羹に包丁が潜り込むような有様で、スーッとプロクシムの筋肉へと沈み込む。

 「――!?」

 この状況に、プロクシムは驚愕を覚えずにいられない。これまで無敵を誇ってきた彼の肉体が、あろうことか彼の土俵であるはずの炎によって、苛まれたのだから。士師となって以来、初めて覚えた鋭い激痛に、彫りの深い顔から脂汗が一気に吹き出し、厚い唇が悲鳴の形に歪む。

 自身の行動の成果を眼と手でしっかりと認識したノーラの顔に、剣呑な輝きがギラリと宿る。転瞬、ノーラは剣を振るう両腕に目一杯力を込め、一気に斬り上げる。

 斬ッ! 大気を裂く鋭い切断音と共に、プロクシムの右腕が両断される。身体と離れた拳からは急激に炎熱が失われ、旋風に巻き上げられた枝のようにクルクル回りながら宙高く舞う。

 

 絶望に晒され続けながらも、積み重ね続けて来たノーラの努力が、遂に功を奏した瞬間である。

 

 グヴァアアアァァァッ――!! プロクシムが狂獣の咆哮を上げ、激痛と絶望的な喪失感に激しく身をよじる。右腕の断面からは、恒星表面の輝きを放つ熱溶融物で構成された血液がドロドロと強い粘性を伴って流失してゆく。

 この決定的なチャンスを、ノーラは絶対に逃さない。振り上げた大剣を握り直すと、横薙ぎに払ってプロクシムの首を狙う。赫々の世界に映える眩しい蒼が美しい直線を描いて、士師の肉体へと吸い込まれてゆく。

 対してプロクシムは、背の翼を乱暴に羽ばたかせて転身し、大剣の直撃を回避する。しかし、余裕のない、ギリギリの回避だ。その証拠に、大剣の切っ先がプロクシムの咽喉を浅く斬り裂いている。熱溶融物の血液が小さな滝のように首筋にドロリと流れる。

 傷つきながらも粗雑な動きで距離を取ったプロクシムは、混乱を隠せない様子で右腕の断面を見遣ったり、咽喉の傷口に触れたりする。

 (一体、何をされた!?)

 彼は、大いに混乱している。自身は炎を総べる"獄炎の女神"から『神法』を授けられた士師である。あらゆる世界の炎はこの『神法』の下に絶対的にひれ伏し、『現女神』はもちろんのこと、天使や士師に仇為すことはない――それが"当然"だと認識していた。しかし、その"当然"が瓦解した今、彼の困惑は精神から身体までも害し、"獄炎"に似合わしくない冷たい汗を噴出させる。

 プロクシムの認識には、大きな勘違いがある。彼は『神法』を世界の枠を超越した、絶対にして不可侵、そして孤高の強制則と認識していた…それは間違いだ。士師であることを…『現女神』から力を得たことを過剰に誇る彼は、夢にも思わない――"神"の名を冠する『現女神』もまた、この異層世界の一部を成す因子に過ぎないことを。『神法』もまた、自然起源ではないものの、所詮は"法則"に過ぎないことを。

 ノーラがやってみせたのは、"法則"の持つ弱みをピンポイントで点く行為だ。先に述べた通り、プロクシムの力の根源は分子間力の操作にある。彼の身体を傷つけるには、異常なまでに強固な分子間力を克服し、物質の分断を実現することだ。そのため、ノーラは何度も何度もプロクシムの身体を叩いては分子間力を強化する術式の構造を解析し、これを無効化する術式を生成する装置の構想を練り上げていたのだ。その結果として出来上がった装置が、蒼を呈しながらも炎を吹き上げる大剣だったことは、プロクシムにとってこれ以上ない皮肉であったころだろう。

 事実、プロクシムは困惑しつつも、自らの口腔を破砕せんばかりの歯ぎしりをして、ノーラへ呪詛の視線を送っている。

 

 相対する二人の間に距離が空いたと共に、戦況はほぼ白紙に戻って仕切り直される。

 ノーラは体勢十分でないプロクシムをすぐに追撃したかったが、蓄積した疲労が足枷となり、行き足が止まってしまう。そのせいで全身の筋肉が上げる悲鳴や、暴れ狂う鼓動や呼吸を認知してしまったことは、確たるマイナス要因だ。引き寄せた流れが途切れるとまではゆかなくても、その勢いを削いだことには違いない。

 他方のプロクシムは、生じた間を利用し、体勢の立て直しを図る。右腕の切断面から餅のように粘り気の強い溶融物の体液をドロリと山のように盛り上げると、それは徐々に複雑な形を成し、掌を形成する。とは言え、この反応は肉体の再生ではない。出来上がった掌は体液の煌めきを放ったままで、褐色の肌へ落ち着こうとはしない。どうやら、彼の溶融物操作の能力を用いて、体液を掌の形に成形しただけらしい。

 この手で動きを慣らすこともせず、プロクシムは固く握り込んで輝く拳を作り出すと、拳を脇腹の横に引いて腰を落とした、大仰な構えを取る。その顔には、初見の際に見せた無情な余裕は一分もない。未だ噴き出す困惑の冷や汗を抑えつける、苦しげな憤怒の形相が浮かぶ。

 真正面からこれと対峙するノーラは、身の疲労に苛まれてはいるものの、プロクシムの有様に対しては全く恐怖を抱いていない。むしろ、喜びを交えた昂揚感のようなものが胸中に浮かぶ。積み重ね続けて来た労苦が報われ、痛手を与えたのだという事実をようやく受け入れたのだ。

 しかし、油断は禁物だ。怒り狂ったプロクシムの身体から湧き上がるのは、暴獣の気迫だ。なりふり構わず、ノーラの生命を速やかに断つべく暴れ狂うことだろう。疲労を言い訳に集中力を欠けば、即座に無情の死が訪れる。

 無言の対峙の時間が訪れたのは、ほんの数瞬のこと。先に動いたのは、怒れるのプロクシムである。灼炎の翼を鋭く一打ちすると同時に高温の大地を蹴り、二段の加速を得て、ノーラの元へと一気に迫る。そして、失った拳の弔いとでも言わんばかりの勢いで、体液で形成した右

拳を烈風と化して放つ。

 ノーラも黙って灼熱の憤怒に甘んじはしない。反発係数を操作した『宙地』を駆使し、迫るプロクシムに真っ向から挑む。

 顎をめがけて突き上げられる炎拳に、蒼炎の刃を叩きつける、ノーラ。体液でで出来た拳はプロクシム自身の肉体とは異なり、硬度がない。刃に宿した術式の加護が無くとも、水に箸を通すように、すんなりと拳の中へ潜り込む。

 だが、プロクシムとしても、この炎拳は仮初めの肉体。刃が通ろうが、痛みを覚えることはない。刃が更に食い込むのも構わず、更に拳撃を押し進める。

 対するノーラも、一歩も退かない。身をよじって炎拳を鼻先スレスレにやり過ごしながら、蒼炎の刃を更に押し進める。刃はついにプロクシムの仮初めの腕の終端までたどり着くと、そのまま彼の肉体に新たな損傷を与えるべく、斬り進む。

 「ングァッ!」

 新たな苦痛に、思わずプロクシムが苦悶の声を上げる。だが、彼の動きは止まらない。自身の体が害されることも厭わず、攻撃をそのまま裏拳へと移行し、ノーラの顔面を狙う。

 ノーラは決して焦らない。熱風をまとう剛拳をしっかりと視界に捉え、十分引きつけた上でサッと身を屈めてやり過ごす。憤怒ばかりが先立つプロクシムは、ノーラの変化に素早く対応できない。火を吹く視線で彼女を睨めつけるのがせいぜいだ。

 ギリリと悔しげに響く歯ぎしりを後目に、ノーラは一度大剣を引く。この動作でプロクシムの右腕は更に抉れ、彼の顔に吹き出す冷たい汗が滝のように流れる。新たに出来た切断面から、高温の溶融物の体液が派手に飛び散る最中、ノーラは『宙地』で一気にプロクシムの胴へと潜り込む。そして、鎧をまとわず、隆々と割れた腹筋が露出する腹部へと、蒼炎の切っ先を稲妻のように突き出す。

 ズブリ…刃がまとう術式はプロクシムの身体硬度を支える分子間力を破壊し、易々と内臓に向かって沈み込む。傷口からデロリと真っ赤に輝く溶融物が流れ、褐色の肌を彩る。プロクシムの顔が、倍加した苦悶に酷く歪む。

 だが、表情とは裏腹に、彼の思考は予想以上に冷静であった。

 「ハアァッ!」

 痛みを押し殺しながら、プロクシムが気合いを込めて吠える。同時に、彼の全身から赫々に輝く炎熱の闘気が爆発的に噴出。乾ききった灼熱の大気に眼球を痛め、ノーラは生体反射に従って(まぶた)を閉じて涙を呼ぶ。

 この時、ノーラは大剣を伝わる手応えに違和感を感じる。士師を加護していた『神法』を克服したはずの刃が、プロクシムの肉体に捉えられ、前進しようにも後退しようにもピクリとも動かなくなったのだ。

 (何をしたの!?)

 ノーラが慌ててプロクシムの肉体に起こった魔法科学的事象を解析しようと集中を始めるが、これが隙を呼んでしまう。うっすらと浮かんだ焦燥の色を見て取ったプロクシムが、してやったり、と凄絶な(わら)いを浮かべる。

 プロクシムが先に行った闘気の練り上げは、攻撃のためのものではない。自らの身体の分子間力を極限まで高めるための布石だったのだ。そして、身体に潜り込んだ大剣にさえも強化した分子間の影響を及ぼし、肉体の中に閉じこめる算段だったのだ。

 オオアァァッ! 次いでのプロクシムの咆哮こそ、攻撃ーーいや、滅殺への意思表示だ。左脚中の血管を恒星表面並に輝かせると、ボォッと大気が爆発的に膨張する音が響く。脚の熱量を彼の出来うる極限まで高めたのだ。そして全身全霊で筋肉を総稼動させ、突き刺さった大剣の腹をめがけて蹴り薙ぐ。その有様は烈風と形容するにはあまりにも烈しく速い、まさに一閃の攻撃だ。

 ビリビリビリッ! 強烈な衝撃が大剣を揺るがし、蒼炎を一瞬にして吹き飛ばす。更には脚の炎熱が大剣全体を瞬時に駆けめぐり、半田鐺(はんだごて)の先端にも等しい熱が柄に宿る。ジュゥッ、と肉を焼く音が上がり、ノーラの両腕から黒煙がうっすらと上がる。掌は重度の火傷を負い、骨の髄まで突き刺す激痛が生じる。

 しかし、それでもノーラは大剣を放さない。血が滲むほどに唇を噛みしめて激痛に耐えるだけでなく、刃をグリッと回してプロクシムの腹部を抉り、大剣の解放を試みようとまでする。

 そこへ、プロクシムが更なる一撃を加える。無事な左腕を堅く握りしめ、再び渾身の筋力と魔力を宿すと、先の蹴撃とは真逆の方向から拳撃を放つ。ガギュン、と金属がたわむ悲鳴が響きわたるーーと同時に、プロクシムは肉体の分子間力をわざと緩和した。転瞬、拘束から解放されようと踏ん張っていたノーラの力は急に障害を失い、勢い余って大剣が大幅に逸れる。加えて、重度の火傷を負った手のひらは、すり抜けてゆく灼熱の柄を引き留めることができない。

 「あっ!」と悔恨の叫ぶ間もなく…大剣は暴力的な熱風にさらわれて吹き飛び、そのまま溶融した通路の壁に激突。壁は貪欲な口腔のように大剣を(くわ)え込み、ズブズブと刀身を内部に引きずり込む。

 武器を失った今、ノーラは"溶融の士師"を傷つけることも、彼の攻めを捌くこともできない。もはや、丸腰同然だ。

 プロクシムは、これ以上ないほど凄絶で残酷な嗤いで口角を思い切りつり上げ、最大の危機に陥った敵を睨め付ける。

 (お前はもはや、私に対して何一つとして抵抗することはできぬ!)

 胸中で勝ち名乗り同然の叫びをあげると、プロクシムは全魔力と神霊力を失った右腕に集中する。その余波で彼の全身からは炎熱の術式が可視化した赤光が放たれる。直視できないほどの輝きに達した彼の身体は、中天で輝く太陽そのものと化したかのようだ。しかし、全霊を注ぐ右腕の輝きは、それ以上の烈しさをまとっている。いわば、超新星の輝きと形容しても差し支えないかもしれない。

 実際、今のプロクシムの右腕は星の苛烈さを持ち合わせている。すなわち、その強大過ぎる熱量で周囲の大気をプラズマ化させるほどだ。そう、女神の代行者たる"溶融の士師"は今、神から授かりし力により、腕の中に星を作り出したのだ。

 この強烈な現象を可能せしめたのは、プロクシムが自身の全能力を右腕の攻撃に集中させたためだ。そのため、今彼の身体の分子間力は通常より大幅に弱体化している。身体から発せられる高温さえ乗り越えられれば、安物の剣でも彼の褐色の肌に傷を与えることが出来るだろう。

 しかし、武器を失ったノーラでは、手も足も出すことができない。格闘術で対抗する手立てが考えられるが、プロクシムの身体に触れた途端、発火点を迎えて燃焼してしまうことだろう。

 (…だが、お前に賜る終末は、焼死程度では済まさぬ。お前に奪われた右腕の屈辱は、その程度でのものではない! 素粒子レベルで跡形もなく! 存在定義ごとこの世から消滅させてくれる!)

 プロクシムが、走り出す。恒星と化した右腕は眩いプラズマの輝線を尾引きながら、火傷だらけのノーラの顔面へと容赦なく肉薄する。

 絶体絶命。惨死の絶望が実体となって迫り来る…この状況下において、ノーラはしかし、その眼から輝きを失いはしない。恐怖や怯懦の曇りや濁りは、一片もない。澄み渡る蒼天に輝く陽光のような、清々しく精悍な光をたたえている。

 プロクシムは、そんなノーラの態度を激しく嫌悪する。

 (なんだ、その眼は! 残酷なまでに強大な神の威光を前にして、悔いて畏怖する素振りも見せぬ、傲慢なる涜神の態度ッ!

 終末まで私の心を乱す、毒蟲がッ!)

 ーー滅せよッ!ーーその形に厚い唇が動いた頃には、星拳は数十センチに満たない距離までノーラに肉薄している。荒れ狂うプラズマの乱流がノーラの火傷だらけの顔の皮膚をめくりあげ、ボロボロの制服を発火させる。

 それでも、ノーラの瞳からは一向に、輝きは消えない。

 

 彼女の瞳に灯る輝きは、決して悪足掻きが生み出す(いたずら)な鬼火などではない。

 退路も迂回路もない絶望的状況下に置かれているはずであろうとも、彼女は怜悧な思考をしっかりと働かせ、そして"狙っている"。

 ーー"狙っている"? 頼れる武器を失った今、彼女は士師を前にして赤子にも等しい丸腰である。その状況で、何を狙えるというのか?

 無論ーー勝利だ!

 事実、彼女には勝利を呼び込む"奥の手"がある。

 (勝機は五分五分…いや、それ以下かもしれないけれど…!)

 恒星の暴拳が更に肉薄し、プラズマが顔の皮膚をジリジリと焦がす頃…ようやく、ノーラが行動に出る。腰を落とし、右手を脇に置いて構えるーーその格好はまるで、腰に差した剣を掴んだ居合いの構えだ。しかし、彼女の脇には手にすべき剣は、ない。

 だが、問題はない。剣ならば、"今から作り出す"のだから。

 …ノーラの扱う特殊能力、定義変換は通常、作用対象や結果は極々限られる。物質を定義の根本から変化させるその(わざ)は、しばしば『神の御業にも等しい技術』とも評価される高等魔術である。この技術を万物に対して自由に適用出来ると者が居るとすれば、『神』と称されても誇張ではあるまい。

 ノーラもまた、『神』ではないがゆえに、定義変換の対象は限られる。彼女がこの技術を適用できるのは、2つの場合に限られる。1つは、彼女が愛用する一族から贈られた大剣を変換元とし、魔法科学的機械機関を作り出す場合だ。

 そして、もう1つの場合とは…無生物全般を対象とする。彼女はこの対象物を変換し、"剣"を作り出すことが出来るのだ。大剣の場合と違って、凝ったギミックを実装することはできないものの、変換対象物の性質を拡張した能力を持つ剣を作り出すことが出来る。

 今、ノーラはこの力を窒素に対して作用させると…強烈な蛍光色の魔術励起光が長剣の形に発生し、実体化。今、ノーラの腰には、一振りの長剣が下がる。

 (何だ!?)

 魔術励起光を認識した時点で、プロクシムは(いぶか)しんだものの…飛び出した拳を引っ込めるには、勢いがつき過ぎている。今、退路を失ったのはプロクシムの方だ。

 (だが、今更何が出来るというのだ! 弱者の虚しき悪足掻きに過ぎぬ!)

 プロクシムは身の勢いに思考をゆだね、弱気な慎重さを放棄した。ノーラの作りだした長剣のことなど認識の外に追いやると、残虐な復讐のみ力を注ぎ、思い切り拳を振り抜くーー!

 一方のノーラは、身を焼かんばかりの暴星の拳へと、自ら一歩を踏み出す。更に接近したプラズマの超高温の前に、衣類はもはや炎上さえしない。音もなく分子分解し、虚空に溶け込んでゆくばかりだ。彼女の美しい薄紫の髪も、琥珀を思わせる褐色の肌も、制服と同じ末路を辿ろうとしている。分子レベルで分解が始まった神経は、痛覚を喚起させる機能すら放棄した。このままノーラは、残酷な熱光の中へと、痛みもなく消え去るのであろうか?ーー

 いや! 彼女の前進は、悲壮な自殺行為などではない。確実なる勝利への一歩だ!

 顔面を激しく焼き焦がされ、頬の色が褐色から炭化の黒へと染まりながらも、ノーラは依然として瞳に毅然とした希望の輝きをたたえている。その輝きが導くままに、プロクシムの暴星の拳を神業がかった反射速度で頭上にやり過ごすとーー!

 「はぁっ!」

 鋭い呼気と共に、腰から窒素の長剣を抜刀。ガラスよりもなお澄み渡った透明の刃が炎熱を受けてギラリと強烈に輝く。まるで飢えた獣の牙のようなそれは、居合いの勢いに乗って、速やかにプロクシムの胴へと肉薄しーー。

 サクリーー窒素の刃は、ノーラの腕にさしたる抵抗を伝えることなく、プロクシムの体内へと侵入する。

 己の全能力を攻撃へと転化したプロクシムの身体は、物理的には単なる肉の塊に過ぎない。ことごとく刃を受け止め、弾き返していた堅固さは、もはや見る影もない。

 (っ!!)

 プロクシムが苦痛と悔恨で顔を歪めつつ、慌てて能力を肉体の硬度へ振り分けようと試みるが…時既に遅し。澄んだ透明の刃は美しい一閃でもって、プロクシムの胴体を両断、通過した。

 全身に一気に広がる、鋭い激痛。酷く冷たく喪失する、下半身の感覚。腕どころでない身体の重大な欠損は、プロクシムの思考に困惑と恐慌の嵐雲を呼び込む。

 (だが…だが…! 我が体液を操作し、切断面を溶接すれば…!)

 プロクシムは散り散りになった冷静さをなんとかかき集め、取り得る最善の回復手段の実行に取りかかる…が。すぐに彼の顔色が、更なる蒼白に染まる。

 (体液が、操作できない!?)

 この時、彼は自信の身体に刻まれた深く傷跡を目にしていない。ゆえに、彼は自分の身に起こっている"異変"に気づけずにいた。

 彼の体内には、灼熱の体液が巡っている。そのため、切断面は体液が放つ熱光の輝きに彩られている…はずなのだが。ノーラに付けられた傷口からは、光も熱も漏れていない。冷え切った赤黒いドロリとした血液が瀑布のように飛沫をあげながら、微動だにしない下半身を流れ下るだけだ。

 (何が起こってる!?)

 彼の問いの答えは、こうだ…ノーラは定義変換を用いて長剣を作り出す際、窒素の不燃性に着目し、その性質を大きく拡張した。その結果、長剣は切断した物質から"燃焼"という現象を取り除くという性質を持った。ゆえに、その斬撃を受けたプロクシムは、切断面を中心にした一定範囲の燃焼が停止してしまったのである。つまり、今の彼の体液はぐらぐらと煮えたぎる溶融物ではなく、凡人同然の血液になってしまったのだ。これでは"溶融の士師"の能力を作用させることはできない。

 能力の不発は、プロクシムに更なる混乱と失意を与える。白痴のように呆然と立ち尽くし、(いたずら)に身体をわななかせるばかりだ。

 この致命的な隙を、ノーラは決して見逃さない。素早く転身し、プロクシムの背後を正面にとらえると、『宙地』にて一息に跳躍。くたびれた獅子のたてがみにも見える長髪に覆われたプロクシムの頭頂から真っ直ぐに、窒素の長剣を振り下ろす。

 

 斬ッーー澄んだ透明の刃は、脳天から一直線に"溶融の士師"を両断する。

 呆然とした表情のまま、顔面の左右がズレてゆく、プロクシム。彼はもはや、我が身を襲った災厄に混迷を深めることも、災厄をもたらしたノーラに憤怒を覚えることもなくなった。

 両断され、溶融を支える熱源を失った彼の脳は、赤黒い血液をドバドバと垂れ流しながら、急速にその機能を失ってゆく。

 急速に暗転してゆく意識の中で、彼が最期に思考に描いたことは…『現女神』の元に魂魄が召されることへの歓喜でも、現世で彼女のために働けなくなる口惜しさでもない。超人的な能力が役立たなくなった今、プロクシムは存在のみならず思考までも凡人の水準へと成り下がっている。彼は無情の死に直面した病人のように、自身を包む虚無に怯え(おのの)き、頼りなく消えゆく生の灯火に必死にしがみつかんとするばかりだ。

 (いやだ…消えたくない…消えたくない…消えたくーー)

 意識の消失は、不意に訪れる。もはやプロクシムは、その事実を認知することはない。彼の思考は久遠の閑寂に覆われる。

 

 プロクシムが死を迎えた瞬間。彼の身体は眩い純白の光を爆発させる。網膜を焼き切らんばかりの輝きの中、彼の褐色の巨躯は完成したパズルを崩すように、白い軽やかな破片ーーそれは、純白の羽根に似るーーへと分解してゆく。

 士師の最期は、天使と同様だ。その身に宿した『神霊力』が爆発的に解放され、形而上層へと蒸発してゆく。その強大なエネルギーの放出に、士師自身の肉体を構成する物質は定義崩壊を起こし、術式の単要素へと相転移する。結果、物質界においては、彼の遺体は塵芥(ちりあくた)も残らない。空の棺に葬られるだけの、虚しい死を迎えるのだった。

 

 ノーラは、プロクシムの身体が昇華してゆく様子を鋭い眼で見送っていた。

 士師について深い知識を持たない彼女は、この状況に至っても気を抜けずにいた。爆発的な純白の光から放出される神霊力をビリビリと感じ取ると、眼前の"溶融の士師"が新たな力を宿して再び立ち上がってくるのでは、と(いぶか)しむほどだ。

 しかし…燃え尽きる蝋燭のような有様で光が消失し、プロクシムの巨躯が物質界からすっかりと滅した事実を認識するに至ると…彼女はようやく、深い吐息と共に表情を緩める。

 同時に、彼女の胸裏にじわじわと興奮が沸き上がってくるーー勝利の興奮が。

 (そうだ…私、勝ったんだ…!)

 興奮が鼓動を早め、火傷で覆われた顔がニコリと綻ぶ…その途端、ガクンと彼女の膝が折れ曲がる。同時に、全身にビリビリとした火傷の痛み、ドンヨリとした筋肉の疲労感、フラフラとした眩暈(めまい)が一斉に襲いかかってくる。これまでの生死を賭した戦闘で始終張りつめていた緊張が消え失せ、無意識が押さえ込んでいた負の財産がこみ上げてきたのだ。

 方術に集中していた精神が解け、足場にしていた『宙地』が失われる。床から50センチ足らずのところに浮いていたノーラは、そのまま溶融物に満ちる床へとくずおれる。ーーいや、床はもはや、煮えたぎる溶融物で構成されてはいない。プロクシムが滅した今、熱源を失った床は、急速に冷えてゆくばかりだ。冷え固まった溶岩のデコボコとした大地にも似た有様の床は、いまだ暖かみを宿している。その温度加減は丁度よく、疲れ切ったノーラの身体を優しく包んでくれる。

 手にした窒素の剣も、定義変換を失って元の大気へと戻ってゆく。愛剣はいまだに、壁にめり込んだまま。身体を支える術のないノーラは、くずおれた勢いのまま、床に五体を投げて寝ころぶ。

 今、ノーラの視界一杯に、溶融した天井が映っている。その中央には、派手に溶け落ちてポッカリと開いた、空まで見通せる大穴がある。穴の向こうは相変わらずの灼熱地獄化した天国と紅色が広がるばかりだ。

 この異様な天空を目にしていると、まだ事態の根本的な解決には至っていないことを再認する。しかし、それよりも今は、空の広さがーー毒々しい赤が広がろうとも、障壁の一つもない天空の広大さが、ただただ心地よい。

 これまで、文字通り身を刺す緊迫感に晒され続けた閉塞感ーーそれが跡形もなく消失した解放感! そして、未曾有の艱難辛苦を自力で乗り越えたという達成感! それらがジワジワと脊椎に浸透するにつれ、浮かんだ笑みが更に澄み渡り、大きくなる。

 そして天空はもう一つ、彼女の心に訴えてくる。それは、一人の男子の顔ーー真っ先に天空へ登り、凶悪な天使たちと激闘を繰り広げる、ロイ・ファーブニルの顔。勇壮ながら朗らかに笑うその顔を脳裏に浮かべ、小さく唇を動かして語りかける。

 「ロイ君…私、やったよ…。これで…星撒部のみんなの…そして、この都市(まち)に住むみなさんの役に、立てたかな…」

 ノーラの呼吸は疲労と苦痛で荒く、苦しげであったが、その響きは灼熱の炉を経て生み出されたガラス細工が奏でる澄音のように、清々しかった。

 

 勝者を讃える平穏ーーそれが唐突に大破されてしまうなど、ノーラは全く想像だにしていなかった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 轟ッーー突如、大気の激震がノーラを叩く。

 続いて全身を襲う、暴力的な浮遊感。視界が目まぐるしく遷移し、三半規管が悲鳴を上げる。

 ーー何が起きている? 激変した状況にノーラの認識は適用できず、巨大な疑問符を頭上に浮かべる。しかし、脊椎を中心に広がる強烈な鈍痛を認識し、ようやく理解するーー岩を破砕するような強打に襲われ、(くう)に打ち上げられたのだ!

 (そんな…まさか、敵…!? 一体、どこから…!? 神霊圧なんて、どこにも感じなかったのに…!?)

 脊椎を激しく軋ます衝撃に苛まれながら、なんとか体勢を立て直そうとするも…鉛のように重い身体は、ピクリとも動いてくれない! 焦燥に駆られるノーラは、必死に眼球を巡らし、状況確認に勤しむ。

 その最中ーー彼女が敵の姿を直視するよりも速く、巨影が視界を過ぎる。慌ててその跡を視線で追うがーー影の正体を視界に捕らえるよりも速く、凶悪な二撃目に襲われる!

 (ドン)ッーー! 激烈な鈍打が、回転するノーラの脇腹に突き刺さる。内臓を突き抜け、脊椎に波及する衝撃が、消化器系を強かに揺さぶる。加えて、急激な落下加速度が三半規管を襲い、嘔吐を催す不快感が食道からこみ上げてくる。

 (ガン)ッーー! 続いて鼓膜を揺るがす破砕音と共に、全身の骨格に激痛と圧迫感が浸透する。

 「あうっ…!」

 圧痛に苛まれた肺からの辛苦の呼気と共に、(かす)れた悲鳴を漏らす、ノーラ。ここに至ってようやく、彼女は自分の体勢と状況ーー横倒しの状態で大地に溶融物が凝固した大地に叩きつけられたーーを認識する。

 痛みに耐えるも、束の間。今度は巨大な質量がノーラの上に降下し、押し潰す。全身の骨格がメキメキと悲鳴を上げ、血の混じった吐瀉物が口腔から噴き上がる。

 窒息を催す重圧に浅く素早い呼吸で抵抗しながら、視線を上げるノーラ。そこでようやく彼女は、自身を足蹴にする"敵"の存在視認する。

 

 "そいつ"は、ちらりと見た印象そのままの、巨体を誇っている。ただしーー先に倒したプロクシムも巨躯であったが、その大きさは比ではない。体長は5メートルを優に越えている。更に体幅も、筋骨隆々のプロクシムを凌ぐ分厚さだ。両点を合わせるに、俯瞰の視線も相まって、巨大な岩山のような印象を受ける。

 岩山ーーそう、まさに"岩"の巨体である。"そいつ"の皮膚は、赤銅の光沢を放つ岩石で出来ている。プロクシムのように鎧をまとっているのではない、"そいつ"自身の体質が岩石質なのだ。二本の腕と脚がなければ、とてもではないが初見で人類だと判別することができない外観だ。

 赤の空に浮かぶ恒星型天国の逆光で、"そいつ"の顔はうまく見えない。辛うじて読みとれるのは、地球旧時代の祭り、ハロウィーンで使われるお化けカボチャのような無骨で粗雑な顔立ちだ。

 実際、ノーラの印象は間違いではない。"そいつ"の顔は岩石に(のみ)で化け物の顔を荒く穿ったようなものだ。唇のない口には、ゴツゴツの岩石そのものの牙がズラリと並んでいる。舟型に穿たれた眼窩には、眩い橙色を放つ小さな瞳が浮かぶだけ。鼻や耳に当たる器官はどこにも見あたらない。

 正に、怪物ーーいや、怪人の呼び名が相応しい存在だ。

 

 "そいつ"はゴキゴキと岩石質の皮膚を打ち鳴らしながらノーラを覗き込むと、グリグリと足の裏を抉り込ませる。ノーラが、ゲフッ、と血の混じった内容物を更に吐き出し、苦痛に表情を大きく歪める様子を眺めると、"そいつ"は残虐にゲラゲラと哄笑する。

 笑い声が解き放たれると同時に、巨体から一気に放出される威圧感。強風のように魂魄をたなびかせ、暴腕のように意識を屈服させる魔力の波及ーー神霊圧だ。

 (この敵…さっきの人と同じ…士師!!)

 認知と共に、槌で頭を割れたような絶望感が意識を支配する。もう絞り出すこともできない程に全力を使い果たした後に、またも凶悪な敵が現れるとは!

 「ったくよぉっ!!」

 岩石質の士師は嘲笑を込めながら唾棄すると、ノーラの体をサッカーボールのごとく軽々と蹴り上げる。一気に士師の胸の辺りまで飛び上がった彼女の体に、士師の巨腕が素早く延びて掴み、ギチギチと骨を軋ませながら握り締める。

 「…っんくぅぅぅっ…!!」

 溜まらず漏れる、苦悶の声。今、ノーラの身を苛むのは、拳の圧力だけでない。拳から伝わる高熱もまた、火傷が蔓延(はびこ)るノーラの皮膚を痛めつける。

 士師はねっとりとした愉悦の眼差しで彼女の苦悶を眺めつつ、嗤いに震える声を口にする。

 「こんな脆弱華奢なメスガキ一匹の息の根も止められねぇなんてなぁ! プロクシムのヤツァ、やっぱり大甘ちゃんのバカ野郎だぜっ!

 どうせ、いつものようにスカした余裕かましたんだろうさ! その隙突かれて、女神様から頂いた力も命も失うたァ、士師の名折れってモンだろ!

 だが、その点じゃあオレ様は…ッ!」

 (ブン)ッ! 掴んだノーラを思い切り振り回し、地面に叩きつける。グシャリ、と骨が砕ける鈍い音が響き渡るーー事実、うつ伏せに叩きつけられたノーラの肋骨が数本、折れた。幸いにも内臓に突き刺さることはなかったが、強烈な痛みが電撃のように駆けめぐり、ノーラの意識を混濁させる。

 士師の苛烈な攻撃は、更に続く。ノーラの小柄な体をすっかり覆う程の巨大な足を振り上げ、思い切り踏みつける。打撃音よりも、大地が砕ける重く鈍い音が響き渡る。そしてノーラには加撃が生む衝撃だけでなく、士師の足裏から発せられる焼き(ごて)の灼熱がグイグイと押しつけられる。痛めた皮膚への追い打ちは痛覚を更に刺激し、彼女に絶叫の大口を開かせる…が、あまりの痛みに声が出ない。

 「オレはナァ、相手が女子供だろうが、手加減しねぇ完璧主義者なんだよッ!」

 もう一度足を振り上げ、思い切りノーラを踏みつける、士師。ノーラの制服は密着した灼熱で黒煙を上げ、皮膚が真っ赤に腫れ上がる。身悶えしようにも()し掛かる重圧が、砕けた骨が体を働かせてくれない。中枢神経にまで到達した高熱で全身の感覚、そして思考が激しく歪曲し、ノーラは痛みさえも感じない惨死の漆黒へと陥ろうとしている。

 

 (…誰か…助けて…)

 声も出せず、身動きもとれない。この状態でノーラが出来ることは、せいぜい"誰か"に対して助けの祈りを捧ぐことだ。

 だが、悲しいかな、遠隔意志疎通(テレパシー)の魔術を使えるほどの集中も出来ない状態では、祈りは意識の檻から出ることはない。祈りは、単なる祈りにしかならず、実益を伴う結果を運んでくることはない。

 それでも、指一本での抵抗すらできぬ惨死への恐怖の前に、彼女は祈らずにはいられない。

 (…お願い…誰か…)

 この行動が無益なことは、彼女のなけなしの理性が(やかま)しいほどに教えてくれる。だからといって、惨死を受け入れられるほど、ノーラは自分の生命に対してドライではない。

 祈りが続く一方で…士師は残酷にも、次の加撃のために足を振り上げる。これが直撃すれば、折れた骨が内臓に突き刺さるかもしれない。下手をすれば、致命的な臓器が破壊され、即座に命の灯火が消えるかも知れない。それとも、辛うじて生きながらえるも、更なる地獄の苦悶に襲われるか、生死の境をヒクヒク蠢く惨めな芋虫のようになるかも知れない。ーー何せよ、待つのは絶望的な将来だ。

 ぼんやりとした視界の中、士師のギラリとした嗤いを見た気がしたーー直後、士師の足が霞んで消える。またも渾身の踏みつけが、無抵抗なノーラに突き刺さることだろう。

 ノーラは、祈りを更に届けようとでもするように、視界を天に向けた。そして、灼熱地獄と化した天国の有様を見て、思わず自嘲の笑みが漏れる。

 (ダメだよね…今の天国は、私たちの敵の作り出した天国だもの。私の祈りなんか、届くどころか、逆手に取られるだけじゃない…)

 胸中で自虐したノーラは、もはや観念した。両の(まなこ)を閉じ、全身脱力し、静かに最期の時を受け入れようとする。

 瞼を閉じる直前のこと…赤い空の中を、一筋の漆黒が飛び込んで来たのを見た気がした。ノーラはこの現象を、死が自分の上に降りてきたのだと解釈した。

 その後、ノーラは…何も、感じなかった。いや、正確には火傷や骨折の痛みをズキズキと感じている。新しい衝撃や激痛が生じていない、ということだ。士師の脚の速度にしては、その結果が現れるのがあまりにも遅い。

 ーー一体、どうしてしまったのか。本格的に脳が壊れてしまったのか。それとも…? 確かめるべく、重い瞼を開くとーー彼女は、飛び込んで来た光景に目を見開いた。

 自分の真上に立っていたはずの士師の姿が、ない。いや、視界の隅に岩石質の手の先端が見える。だがそれも一瞬のこと、視界の外へと消えてゆく。

 その数瞬後。岩石質の腕が消えていった方角から、(ドウ)、と激しい激突音と震動が発生。次いで、「ぐああああっ!!」と、士師の絶叫が鼓膜を聾する。

 (え…何が…)

 視界をうまく巡らすことができないノーラは、状況が把握できずに目を白黒させるばかりだ。

 そんな時だ。彼女の耳に、逞しくも優しい、凛と通った男子の声が届いたのは。

 「"無力化した女の子をいたぶれ"ってのが、お前のメガミサマの教義なのか? それとも、お前の変態趣味なのか?

 どっちにしろ、サイテーなことには変わりねぇけどな、岩石野郎!」

 士師の神霊圧を前にしても、平然と罵声をぶつける、闖入者。その凛とした声音には、聞き覚えがある。

 ノーラの喉を感激と安堵がこみ上げるより早く、彼女の視界に"彼"が現れる。背には漆黒の竜翼と竜尾、頭には燃えるような真紅の髪に鋭い一対の尖角。ヌラリとした漆黒の鱗光沢を放つ、鎌のような爪が延びた手足。そして顔には、真夏のひまわりのような無垢な笑顔がニカッと浮かんでいる。

 「よくやったぜ、ノーラ! この都市(まち)の人々の命を背負って、初めて士師と交戦して、しかも独りでブッ(たお)しちまうなんてな!

 (ゆかり)のヤツは、お前のことを優等生だって評価してたけど、そんなモンじゃねぇ。お前は正真正銘の英雄だよ」

 ロイは褒め称えながら、無骨な竜腕でそっと優しく、ノーラの体を抱え上げる。竜鱗でザラザラする掌は火傷した皮膚にチクチク痛むが、それ以上にじんわりと広がる柔らかな体温が心地良く彼女の神経を包む。疲弊の色濃い彼女の顔は、思わずニコリと綻ぶ。

 ロイはそのままノーラを通路の端へと運ぶと、比較的平らな地面を選び、そっと体を安置する。

 「ちょっと待っててくれよ。

 お前のことを散々痛め付けやがったクズ岩野郎はーーオレが、片づけるからさ!」

 拳と掌をバシンッと打ち合わせ、ギラリと剣呑な笑みを浮かべると、ロイはくるりと背を向ける。彼の爬虫類的な黄金の瞳が鋭く細まり、睨めつけるのはーー十数メートル先で無様に転がる、岩石の巨躯を持つ士師。

 この士師を吹き飛ばしたのは、もちろん、ロイだ。ノーラを助けに飛び込んで来た際、士師が脚を踏み降ろすより早く飛び寄り、両の脚で思い切り蹴りつけたのだ。賢竜(ワイズ・ドラゴン)の力は姿形は旧時代の人間に見えても、その筋力は"竜"の名に相応しい剛力だ。士師は砲撃のような爆打を胸に受けると、片足で踏み留まることもできず、紙人形のように吹き飛ばされたのだ。

 しかし、この一撃は士師への致命打には至らなかった。

 ロイの激情の眼差しに呼び起こされたかのように、岩石の士師はバネのような急激な動きで立ち上がる。その粗雑で無骨な顔には、不器用ながらも烈火のごとき激怒が浮かんでいるのがよく読みとれる。

 「何だ、何だ、何なんだよ、オイッ!? 不意打ちでオレを転ばしたくらいで良い気になりやがった挙げ句に、オレを"片づける"だと!?

 いきがるのもいい加減にしろよ、人間風情がっ! 甘ちゃんのプロクシムを斃したくらいで、人の身で士師を凌駕できるなんざ思ってんじゃねぇぞ!

 ヤツとオレは違う! オレはヤツみたいに余裕かまして足下をすくわれるような甘ちゃんじゃあーー」

 士師のたれ流す高説に対し、ロイは飽き飽きした不機嫌な態度で聞き流していたがーーやがて、その姿が消える。嫌気が差して雲隠れした…ワケではない。漆黒の翼を一度、大きく鋭く羽ばたいたと同時に、高速低空飛行で士師の懐に肉薄したのだ。

 「あ?」

 士師が間抜けな声を上げた、次の瞬間。ロイの竜腕が岩石の腹部に激突する。ガゴンッ、と岩が軋み砕ける音が響き渡る中、士師の超重量の巨躯がブワリと宙に浮き上がる。

 更にロイは竜翼をもう一羽ばたきさせると、浮いた士師の頭上へと急上昇。全身を縦回転し、竜の踵を士師の脳天にたたき込む。ゴギンッ、と鈍い音と共に士師の体は稲妻の勢いで大地へと激突。轟、と衝撃波が強風を伴って大地を走る。

 「おっと、こいつは悪かったかな」

 ロイが宙に浮いたまま、腕を組んで士師の落下地点を見下すと、ニヤリと嗤って言い放つ。

 「余裕ブッこいて、隙だらけで能書きタレてるもんだからさ、退屈しちまって思わずブッ叩いちまったよ。

 だけど、負けた仲間のことを大甘、大甘ってこき下ろしてるアンタのことだ。隙とみせかけて、さぞや(うま)く立ち回るんだろうなって思って、期待してたんだけどさ…。何のことはねぇ、アンタも大甘ちゃんのお仲間だったようだな!」

 ロイは上空からたっぷりとした皮肉を投げつける。と、その口撃が神経に障ったらしい、もうもうたる土煙の中から怒気の色濃い闘気が爆発的に発生。一気に砂塵の帳を吹き飛ばす。その中から現れたのは、両腕を大きく上げ、岩石の巨躯に(まば)らに真紅の灼班を浮かべて憤怒を視覚的に表現する、士師の姿だ。

 「こンの…クソガキがっ!!」

 堅い岩肌では、こめかみに青筋を立てることはできない…その代わりに士師は、背にビキビキと音を立てて二本の大きな亀裂を走らす。その隙間から勢いよく噴出するのは、眩い橙色の魔力励起光だ。それは広がりながらも翼状に形成するーー実際に、それは翼だ。ロイの体をスッポリ覆い尽くすほどに巨大なそれを大きく一打ちすると、岩石質の士師の巨大質量が空中に舞い上がる。その姿から、神の使いたる天使を連想するべきであろうが、どうみても地獄から這い出て天を目指す魔獣にしか見えない。

 「このオレ様、"溶岩の士師"ヴォルクスを憤らせておいて、ただで済むと思うなよッ!

 偉大なる女神より頂いた獄炎で、魂魄ごと焼失させてやるぜッ!」

 力強く羽ばたき、急上昇する士師ーーヴォルクス。凶暴なヒグマも逃げ出すような気迫で急接近する彼を正面に、ロイはあろうことか、浮かべた笑みをますます大きくする。

 「お前、ヴォルクスって言うのか! すげぇ言いにくい名前だな!

 まぁ、でも気にすることねぇか! だってーーこのオレ、ロイ・ファーブニルがすぐに、お前をメガミサマの元に昇天させてやるんだからな!」

 強気に発言しつつ、ロイもまた翼を一打ち。漆黒の流星と化し、上昇する巨岩に真っ向から立ち向かう。

 

 士師と竜。二人の凶暴の嗤いの交錯は、激闘の開始を訴える火花を散らす。

 

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Stargazer - Part 6

 ◆ ◆ ◆

 

 ロイと"溶岩の士師"ヴォルクスが戦闘開始した頃――。

 アオイデュアの一画にある、地上20階を越える高層ビルの屋上にて。隅に座って脚を宙にブラブラさせながら、ぼんやりと都市の有様を眺めている青年がいる。

 漆黒の長髪に独特の民族衣装、穏和な表情を浮かべる彼は、星撒部2年生のイェルグ・ディープアーである。

 真紅の空の下に広がるのは、散々たる有様である。獄炎の天使たちによって"これでもか!"というほどに燃やし尽くされた都市は、魔力の炎によってコンクリートまで燃焼され、鉄骨が剥き出しになった建築物の骸ばかりが目立つ。イェルグが座るビルもまた、その例に漏れない。鉄骨が高温によって歪んでいるため、火災による熱風に煽られる度に、ギシギシと金属の悲鳴をあげながら、不安定にグラグラと揺れ動く。

 しかしイェルグは、揺れに動じることなく、笑みさえたたえる涼しい顔で、都市観賞を楽しむ。

 「んー、思った以上に地上は落ち着いてきたねぇ。この分なら、そろそろ火災は落ち着くかな」

 欠伸(あくび)でもするような呑気な口調で独りごちる。都市は確かに散々な有様だが、彼の言う通り、炎禍の鮮紅も黒煙もほとんど見あたらない。

 「大和とノーラちゃんにペアを組ませたのは、大正解だったなぁ。

 そもそも、初めての災害対応だってのに、ノーラちゃんはホントよく働いてくれたもんだ。ロイが気に入った相手だから、実力者だとは予想してたけど…まさか、ここまでとはねぇ。

 しかも、初体験で士師まで斃しちゃうなんてねぇ」

 感心のあまりに、話し相手もいないというのに、腕を組んで(うなづ)く仕草すら見せる。随分な余裕だ。

 ――彼は、ロイと共に都市上空を暴れ回る天使たちと交戦していたはず。それが、こんな風に遊んでいて良いのか? そもそも、ノーラに加勢しに行ったロイであるが、彼は任務を放棄して問題なかったのか?

 その答えは、もちろん、イエスである。ロイとイェルグの活躍により、天空に飛蝗(ひこう)のごとくひしめいていた天使どもは、大幅に戦力を減らしたのである。以前は天使の群が薄雲のように空の一画にたなびていたものだが、今では禍々しい真紅の天空を晴れ晴れと見渡すことが出来る。

 とは言え、天使は全滅したワケではない。

 丁度今のように…ふらりとイェルグの頭上から数匹の天使が舞い降りて来ると、憎き敵を焼殺すべく、円弧状の腕翼に沿って速やかに幾つもの炎弾を生成する。

 これに対してイェルグは、困ったような、呆れたような乾いた笑みを浮かべ、頭をポリポリと掻く。そして、天使たちが炎弾を万全の状態まで形成し終えるのを待たずに、右腕を軽く延ばす。そして、どこへともない方向に対して人差し指を延ばすと――指の先端に、小さな小さな漆黒の嵐雲が生成される。嵐雲は極小の体積に見合わぬ盛大な雷鳴をゴロゴロと轟かせたと思うと、バァンッ! と大気分子の破裂音をまき散らしながら、強烈な青白光を放つ霹靂(へきれき)を解放。強烈な電子流は大蛇のように曲がりくねりながら、天使たちを結ぶような経路を辿って大気を疾駆し、彼らの体を貫く。

 一呼吸も終わらぬほどの転瞬の後、大電流に全身を蝕まれた天使たちの体は、ただちに羽根状の術式へと分解を始める。偉大なる大自然の暴力に、イェルグの魔力が加算された攻撃は、天使を構築する『神法(ロウ)』を易々と凌駕してしまったのだ。

 イェルグはこんな調子で、大量の天使たちを広範囲攻撃によって羽虫のごとく、ことごとく蹴散らして来たのだ。天使たちが数を激減させたのは、無理もないことだろう。

 天使たちを軽く片づけたイェルグは、何事もなかったように都市を眺める作業(?)に戻る。彼が見つめる先にあるのは、ノーラたちが激闘を繰り広げているコンサートホールだ。

 「まっ、ロイが加勢したことだし、新しく湧いてきた士師のヤツは大した問題じゃないだろ。

 火災も収まりつつあるし、天使も数を減らしてる。この災厄も、そろそろ終わる――」

 と、言い切ろうとしたが、イェルグは眉をひそめる。そして、恒星表面の地獄の様相を見せる天国を視界に捉えると、目つきをさらに鋭いものにする。

 「――はずなんだが…。

 "獄炎"のおばさんの影響は、いまだ衰えることなく健在…か。

 それに…」

 イェルグはクンクン、と大気の匂い――彼に言わせれば「空の匂い」なのだという――を嗅ぐ。常人が嗅いだところで恐らくは、大規模の火災が残した焦げ臭さした感じないだろうが…彼は、その他の"何か"を感じ取り、表情を怪訝そうに歪める。

 「…この(イヤ)な感じ…さっきよりも強烈に臭ってきやがる。

 オレはそろそろ、静かな空で遊びたいんだが…どうにも、まだまだそうはいかないようだ」

 はぁ、と深くため息を吐いたイェルグは、民族衣装の奥に収めていた通信端末、ナビットを取り出す。そのタッチディスプレイを素早く操作しながら、疲れたような、面倒くさそうな様子で独り言を続ける。

 「ノーラちゃんは大怪我で動けないし、ロイは士師と交戦開始。ヴァネッサは霊薬(エリクサ)漬けでボロボロだろうし、大和も独りで車体のメンテナンスにてんてこ舞いしてそうだし…。

 ここはやっぱ、オレが動くしかないかぁ」

 語りながらイェルグは、ナビットで映像通信の準備を進める。連絡相手は、星撒部の副部長、立花渚だ。

 「…1人1000個の折り鶴なんて、相変わらず無茶苦茶なノルマを課してたみたいだけど…そろそろ、結果はどうあれ、折り合いがついてる頃だよな…」

 呟いた後、イェルグは"通信開始"のボタンをタッチする。プルルル、という昔ながらのコール音が2回響いた直後、不意に3Dディスプレイが展開する。連絡相手が通信に応じたのだ。

 3Dディスプレイには今、ウェーブがかった金髪を健康的な童顔の上に乗せた美少女――立花渚の顔がアップで映っている。

 「おお、イェルグか。元気にしておったか! ロイたちがそっち向かってから連絡が入ってこぬので、心配しておったぞ!」

 「まぁ、こっちもてんてこ舞いでね…。

 詳しい事は後で話すとして、まずは聞いて欲しいんだけどさ…」

 それからイェルグと渚は、深刻な顔を付き合わせて、しばしの間、会話を進める。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 一方――避難民達が集まるコンサートホールの、エントランス周辺の通路。

 "溶融の士師"プロクシムによってドロドロに破壊され、地獄の天空が見渡せる大穴が開いたその真下で、"溶岩の士師"と『賢竜(ワイズ・ドラゴン)』の激闘が展開されている。

 爆、爆、爆――ッ! 轟音を立てて空間を激震させる連続爆発が、まるで巨大な星のように宙を閃光の赤と発煙の灰で彩る。

 爆発の源は、ロイと士師ヴォルクスとの拳の激突だ。特にヴォルクスの岩石の巨拳はインパクトの瞬間、その内に宿す灼熱のマグマが生み出すガス爆発を撒き散らすのだ。

 そうして幾度、ロイの竜拳に巨岩の拳をぶつけたことだろうか。しかしロイの漆黒の竜拳は、強烈な爆発を真っ向から浴びながらも、決して砕けることはない。そもそも、ヴォルクスに比べて非常に小さな質量のロイであるが、何度インパクトを受けても、一歩たりとも後退することがない。それどころか、拳を打ち合うほどに、その顔に凄絶な愉悦の笑みが灯り、牙が飢えたようにギラギラ輝く。

 (なんなんだよっ、このガキはッ!)

 拳を打ち続けながら、ヴォルクスは内心で焦燥混じりの舌打ちをする。『現女神』によって選抜され、力を得て士師となった彼には、先に倒れたプロクシムほどではないが、やはり己の身の上に対する自信と誇りがある。――"神"を見上げるばかりの凡愚どもとは、一線を画くす存在なのだ、と。

 しかし、眼前の"凡愚"は、高尚である自分と全く互角の撃ち合いをやってのけている!

 (これが、『賢竜』の…希少人種(レア・レイス)の特別な力ってワケかよ!?

 …だがなっ、レアだろうが何だろうが、テメェが"ヒト"の範疇にあることは、変わらねえだろうがッ!)

 (ドン)ッ! ヴォルクスが一層、大きく拳を振るい、ロイに叩きつける。これまでの攻撃の中で最強の力を込めた一撃だ。だが、ロイは相変わらず凄絶な笑みを浮かべたまま、真っ正面から凶拳を見据え――彼もまた、大振りに右拳を放ち、拳をぶつけ合う。轟ッ、と鼓膜を破砕せんばかりの大音響と共に、最大規模の爆発が宙を彩る。

 四方八方に吹き荒れる爆風と共に、盛大な爆煙の中から弾き出されてきたのは…なんと、巨大質量を誇るヴォルクスである。ロイの小さな渾身の拳は、彼の山のごとき巨体を吹き飛ばしたのだ。

 吹っ飛ぶヴォルクスを追い、竜翼を鋭く羽ばたかせ、爆煙の帳の中から弾丸のようにロイが飛び出す。そのまま一気にヴォルクスに肉薄し、トドメを放つつもりであろうが…。

 吹き飛ぶヴォルクスの顔に突如、ギラリと凶悪な嗤いが浮かぶ。――彼は間を取るために、故意に吹き飛んでみせていたのだ!

 ヴォルクスは巨体に見合わぬ素早さと器用さで、一瞬にして体勢を万全に立て直し、全力で接近するロイを正面に捉える。

 (これだから、テメェらヒトどもは"凡人"じゃなく、"凡愚"だってンだよ!)

 まんまとロイを策にはめたヴォルクス。彼の次なる行動は、無防備に飛び込んでくるロイへ手痛い一撃を加えることだ。

 ゴキゴキと岩石質の皮膚を軋ませながら、右拳をダイヤモンドのごとく堅固に握りしめる…と、その握力に呼応して神霊圧が拳に収束。渦巻く術式は相転移して物質化すると、ゴボゴボと煮えたぎる煌紅のマグマ塊へと変じる。

 「ッラァッ!」

 轟雷の気合いと共に、ヴォルクスはマグマ塊をまとう巨拳に捻りを加えながら、いまだ迫り来るロイに向けて突き放つ。腕が伸びきった瞬間、マグマ塊は熱粒子線となって空中を疾駆。大気を膨張させつつ切り裂く甲高い音をバラ撒きながら、砲撃に勝るとも劣らぬ速度でロイへと肉薄する。

 対するロイは、凶暴な熱線を目の前にしても、飛翔速度を減速させるような真似はしない。そもそも、士師の奇襲に驚愕することも怖じ気付くこともなく、相も変わらず嗤いを張り付けている。

 ――いや、彼の顔に変化が生じた。嗤いがふと消え去ると、ヒュウッ、と鋭い音を立てて大気を吸引する。極短時間ながら、肺一杯に大気を満たして胸をパンパンに膨らませた、直後。

 (ガア)ッ――! 牙がギラつく口腔を思い切り開き、暴竜の咆哮を上げる。咽喉(のど)の奥から(ほとばし)る呼気は雪崩のごとく高圧の奔流となって大気中に解き放たれたかと思えば、口の手前数センチの箇所に出現した正六角形の魔術式文様を通過。すると、呼気は寒々とした青白い氷雪の粒子砲となって、"溶岩の士師"の熱粒子砲と真っ向から激突する。

 爆ッ! 灼熱と極寒の激突によって盛大な水蒸気爆発が発生。濃白の水蒸気の帳が渦巻きながら膨張し、衝撃波と共に空間を駆けめぐる。爆発の閃光こそないものの、十分にド派手な暴力的現象が世界を揺るがす。

 (…すごい…!)

 通路の床に横たわり、激闘を傍観しているノーラは、眼にした光景に圧倒されつつ、呆けた感嘆の声を胸中で発する。特に、大規模な水蒸気爆発がバラ巻いた衝撃によって眼球が歪み、視界がグニャグニャと歪曲したのを認識した時には、意識まで吹き飛ばされて真っ白になってしまうような気さえ起きた。

 ――こんな過激な戦闘の中、賢竜(ワイズ・ドラゴン)だとは言え、ロイは果たして無事であろうか? 重傷と疲労で不自由な身の内で、ノーラは祈るようにして仲間の安否を気にかける。…だが、彼女の懸念は杞憂に終わる。

 水蒸気の濃白が大気に溶け込み、視界が澄み渡ってくると…そこには、宙に浮いたまま対峙する、健在な二つの人影がある。――そう、"超人"たる士師はもちろんのこと、ロイも全くの無傷だ。賢竜(ワイズ・ドラゴン)の体質の恩恵なのか、それともロイ個人の強靱さが為した結果なのだろうか。

 事情はどうあれ、ノーラはロイの状態を喜び、顔を安堵にほころばせる。

 他方…士師ヴォルクスは、敵の健在が気に食わない。岩石の牙をゴリゴリと鳴らして歯ぎしりし、険の色をますます濃くする。

 (オイオイッ、なんなんだよ、このクソガキッ! オレの全力の収束熱粒子砲を、真っ向から相殺しやがった!

 これが、旧時代に"神の軍勢"と張り合ったっていう、竜の力ってワケかよ!?)

 胸中で不満を全開にして唾棄するヴォルクス。その心中には、少なからず驚愕と動揺の念がわき上がっていた。何せ、彼の熱粒子砲の威力は核爆発にも匹敵する威力を持っていたのだ。直撃せずとも何某(なにがし)かに激突すれば、超高熱の衝撃波をバラ撒き、周辺環境に甚大な被害を与えるはず。それを、ロイの竜息吹(ドラゴン・ブレス)は単に相殺するだけでなく、爆発の余波まで押さえ込んでみせたのだ。

 ――手強い。ヴォルクスは敵に対して畏敬のような感情を抱くと…ふと、岩石面を嗤いで綻ばせる。

 (面白ぇ! 最近の凡愚どもは手応えなさ過ぎて、ブッ殺すにしても退屈なヤツらばかりだったからなァッ!

 久々に、"殺す"ことを全身全霊で楽しめそうだぜッ!)

 驚愕や動揺から一転、興奮に気力を充填したヴォルクスは、烈風を巻き起こしながら炎翼を羽ばたかせる。そして、巨大な弾丸となり、ロイの元へと肉薄する。

 ロイの眼前まで迫った時には、脇に勢いを溜めた巨拳を構えている。これを回転を加えながら放った一撃を口火に、再度激しい打撃戦を開始する。

 ――と、思いきや。ロイは竜翼で軽やかに宙を打つと、ひらりとヴォルクスの一撃を回避。力の入ったヴォルクスの一撃は、大振りに宙を殴りつけ、彼の身体に隙が出来る。

 この様をヴォルクスの頭上から見たロイは、獲物を視界に捉えた猛禽の眼光をギラリと放つ。同時に、竜翼で強かに大気を打つと、流星のような速度で急速降下。ヴォルクスの頭頂に迫る。

 ――クソッ! ヴォルクスはなんとか巡らせた視線で、悪態を訴える。その非難を見に受けたロイは、意地の悪い嗤いをギラリと浮かべながら、縦方向に漆黒の旋風と化す。そして竜鱗が分厚く固まる踵を、重力を味方につけながら、思い切りヴォルクスの登頂に叩きつける。

 ゴォギィンッ! 鼓膜を震わす烈しい衝突音! 同時に、ヴォルクスの巨体は落雷の速度で急降下する。

 岩石の巨体が大地に激突する直前、地に転がっていたノーラは衝撃に備えて、瞼をきつく閉じた。耳もふさぎたかったが、鉛のように重い腕はプルプル動く程度だ。強烈な騒音を覚悟して、閉じた瞼に力を込める――が、待てども衝撃波や轟音どころか、微風すら顔を撫でない。

 (…?)

 恐る恐る瞼を開いたノーラが眼にしたのは…非常に奇妙な光景である。ヴォルクスの巨体は、着地していた。しかし、その身体の半ばは地中に埋まっている。降下の衝撃でめり込んだ…というワケではない。なぜなら今もなお、岩石の巨体は地中に沈み込んで行っているからだ。まるで、砂地の上に落とした水滴が染み込んでゆくかのように…。

 更によく観察すれば、ヴォルクスの岩石の巨体が赤黒いドロドロの粘性質へ相転移していることが分かる。その身体が発する薄灰色の煙と熱気、そして、ノーラのこの士師の肩書きを鑑みて、はっと覚る。

 (この士師…身体を溶岩に変えてる!)

 そして同時に、彼女はもう一つ、覚る。プロクシムから勝利をもぎ取った直後、下方からの予期せぬ攻撃を受けた理由…それが、"これ"だ! ヴォルクスは身体組成を溶岩へと変化させ、物質中を液体として泳ぎ回ることが出来るのだ!

 ロイが上空から、点にした眼で"溶岩の士師"の特異な行動を見送ってる一方で、ヴォルクスは早くも胸元まで大地に溶け込んでいる。ここに至って、ようやく事態を飲み込んだロイは、慌てて竜翼を打ち鳴らして急降下。残るヴォルクスの頭への追撃を試みるが――。

 ゴンッ、と鈍い打撃音が響いたのは、士師の巨躯がもはや影も失せた大地である。あの巨大体積だけでなく、強烈なまでに自己主張していた魔力や神霊圧すら、その風ほども感じない。

 「おいおい、なんだよ? あんなデカい図体してるくせして、姿を隠して逃げるのが、おまえの戦い方なのかよ?」

 戦闘中だというのに、いまいち緊張感のない態度で不平を漏らす、ロイ。実際は、これは挑発のつもりだったのかも知れないが…この釣り針に士師はかぶりついてこない。

 しばし、閑寂の時間が過ぎる。傍観者たるノーラが、緊張がこめてコクンと喉を鳴らす…一方で、ロイは明らかに不満そうな半眼で宙を睨みつけ、腕組みをして直立している。何度か竜尾を大地に叩きつけ、士師の行動を催促しても見せる。

 ついにロイは飽き始めたのか、大げさな身振りで深い、深いため息を吐いてみせる。

 「あのさあ、オレを焼失させるって言ってたけどさ…隠れたまんまで、どうやってオレに…」

 そう語る最中、ふいにロイの足下の大地がモコリと盛り上がる――直後、大地が避けて、ドバァッっと真紅の溶岩が盛大に噴出する。

 士師としては、ロイを焦らして隙を誘い、奇襲で終わらせるつもりだったのだろう。しかし、その目論見は身を結ばなかった。ロイは、待ってました、と言わんばかりの満面の笑みを浮かべながら、竜翼を器用に使ってヒラリと飛翔。噴出する溶岩の周囲を螺旋を描きながら飛び、悠然と回避する。

 が、士師の攻撃もここで終わらない。噴出した溶岩は噴水のようにバラ撒かれることなく、あろうことか大きな球状に――そして握った拳状にまとまると、ロイめがけて降下する。

 「よっと!」

 ロイは軽くかけ声を口にしながら、またもや軽やかに空中で身を躍らすと、拳状の溶岩を背にしてやり過ごす。しかし、余裕を見せつけすぎ、ギリギリの距離でかわして見せたのが仇となり、溶岩の高熱が背中を強烈に炙る。

 「うわっ、あっちぃっ!」

 手足をバタつかせながら、慌てて距離を取るロイ。その時、地の底からゲラゲラ、と士師の下卑た嗤い声がわき上がったような気がした。

 直後、嗤いをかき消す轟音と共に、ロイの四方を囲むように溶岩が噴出。彼の頭上から包み込むようにして灼熱の赤が降りてくる。

 ロイの顔に、驚愕と表情が浮かぶ――しかし、それはほんの一瞬のこと。すぐに表情がコロリと変わり、剣呑にして快活な笑いが取って代わる。

 ――こうでもして隙を見せなきゃ、先に進まねぇんだろ? だから、望み通りに、隙を見せてやったぜ!――そんな言葉が、表情から垣間見える。

 ロイは飛翔を停止、降りかかる溶岩に向き直ると、漆黒の右手を拳に固めて振りかぶる。そして、溶岩の灼熱が真紅の髪をチリチリと焦がす距離まで引きつけると、爆発的な瞬発力で全身のバネを使い、拳を叩きつける。拳撃に引きずられた大気が衝撃波となって、轟、と音を轟かせながら巨大な砲弾となって空を走る。

 大気と拳の二段加撃によって、溶岩の帳に大穴が開いた…少なくとも、傍観者であるノーラには、そう見えた。だが、ロイの顔には違和感を訝しむ表情が浮かぶ。――手応えが、全くない。

 ロイの違和感は、正解である。溶岩は穴を開かされたワケではない、自分で穴を開き、攻撃を避けたのだ。

 「バァァァカがっ、凡愚!」

 溶岩が耳を聾する罵詈(ばり)を放ちつつ、大振りな拳撃から体勢を立て直せないでいるロイの身体へ収束。ロイは顔を残して、全身を溶岩の球に包み込まれる。

 「っぐがっ!」

 全方向からの強烈な圧迫と溶岩の灼熱に、ロイの顔から余裕と愉悦が消え、冷や汗に塗れる苦悶が浮かぶ。

 一方で、溶岩球がドロリと流動し、まるでガラス細工で形成するように、体積を膨張させながら荒いヒト型へと変形する。そうして出来上がったのは、右手でロイを逆さに掴んだ、元のヴォルクスに近い形状だ。ただし、元の姿と大きく違うのは、身体が完全な岩石質ではなく、固い粘性の溶岩で出来ている点だ。焦げたような漆黒と輝き発熱する赤が対照的である。

 ヴォルクスはそのまま自由落下、超重量が生み出す激震と共に着地。同時に、逆手に持ったロイの顔面を大地にバァンッ! と叩きつける。その打撃の威力は、大地を抉って亀裂を走らせるほどだ。

 (ひっ…!)

 友を襲った惨劇に、ノーラは息を飲む。ロイがいくら賢竜種族とは言え、頸椎や頭蓋が無敵ということはないはずだ。常人ならば、一撃で死に到っておかしくない一撃だ。

 しかも、ヴォルクスの攻撃は終わらない。何度も何度も右腕を振り上げては、バァンバァンッと執拗に大地に叩きつけ続ける。やがて大地は拳の灼熱をもらって焦げた煙を上げ、地表が赤くドロリと溶融する。

 「オラオラァッ、さっきまでの威勢はどうしたンだよ、クソガキ!

 さっきは、オレに対して隙だらけだと偉そうに指摘してやがったが! 指摘してた本人が余裕ブッこいて逆手に取られてりゃ、世話ねぇよなぁっ!」

 ゲラゲラゲラゲラッ! ヴォルクスは溶岩熱で赤く光る口腔を大きく開いて哄笑する。その嗤い声は、果たしてロイに届いているだろうか? 揺さぶられ、叩きつけられ続ける彼の脳は、果たして今も健在であろうか?

 ――さて、トドメだ! ヴォルクスは一層腕を高く振りかぶると。「そらよっ!」と鋭いかけ声と共に、落雷の勢いで腕を振り下ろす。

 (ロイ君…!!)

 ノーラが胸中で悲鳴を上げつつ、重い腕を延ばし、激励をなんとか届かせんとする。

 そんな彼女の健気な重いが功を奏したのか…ヴォルクスの動き、明らかな負の変調が見られる。

 振り下ろしていた腕の先端が、大地に劇とする寸前で、すっぽ抜けて宙を舞う。拳を失った腕は先端が大地に接することなく、勢いのまま己の股ぐらの間に空振りする。

 (オイ、なにが起きたってンだ!?)

 慌てたヴォルクスが、宙を舞う拳に灼熱の赤を放つ両眼を注ぐ。その視界の中で、本体から分断されて急冷却し、黒々とした岩石に変わる拳に、内側から幾筋もの斬撃の閃きが現る。結果、拳は細かい破片の(あられ)と化し、バラバラと宙に飛散。その中央には…相変わらず頭を下にしたロイの姿が――何度も大地に叩きつけられた割には、さほどの出血も打撲の痕も見られぬ、健在なロイの姿がある!

 ヴォルクスの慌て顔を見て、ニヤリと笑みを返すロイ。しかし、彼のお返しはこれだけに留まらない。翼と尾を振りながらクルリと空中で姿勢制御しつつ、長く鋭い鉤爪が光る両足端を大きく振るう。その斬撃は宙に漆黒の闘気の刃を生成し、烈風と共にヴォルクスの溶岩質の胴に斬、斬と大きな2つの亀裂を深々と差し込む。

 「おおおおっ!?」

 驚愕の叫びと共にバランスを崩してのけぞる、ヴォルクス。これを眼にしながら、悠々と抉れた大地にヒラリと着地する、ロイ。

 「熱くなったのは良いと思うけどさ、柔らかくなったのは不正解だったな」

 ニヤリとした皮肉の笑みを浮かべたまま、ロイがダメ出しをぶつける。

 「いくら圧力を強めても、簡単に切り裂けちまう。岩だったほうが、もっと面倒だったぜ」

 その煽りに反応したのか、ヴォルクスは両足を踏ん張り、力付くでバランスを取り戻すと。ドシンッ、と重厚な激震と共に両足を大地に降ろす。そして、怒りと共に揶揄を交えた、ギラギラした嗤いをロイにぶつける。

 「いやいや、柔らかいのも便利なもんさ」

 語りつつ、ヴォルクスは胴体に深々と刻まれた斬撃の痕を指さす。すると、傷跡に向かって周囲の溶岩が流れ込み、見る見るうちに傷を跡形もなく埋めてしまう。さらには、失った右の拳も切断面から溶岩がせり上がり、元の拳を完全に取り戻す。プロクシムの見せた体液による代用ではなく、完全な再生だ。

 「てめぇの魔力だけは認めてやるよ、オレの『神法(ロウ)』を易々と凌駕して、傷つけてくるんだからな。

 …だが、傷をつけられたところで、今見せた通り、オレには無意味なんだよ」

 ねっとりとした嫌らしい優越感を込めて、ヴォルクスは語る。だが、ロイは決して怖じ気付くことも、失意に陥ることもない。彼の笑みは消えることなく、ヴォルクスの優越感を超えて注がれる。

 「へぇー。確かに、便利な身体だな。

 だけど、オレにはお前が堅かろうが柔かろうが、再生可能だろうが、関係ねぇよ。

 今のお前の身体の作りを見て、"決めた"からな」

 「"決めた"、だぁ?」ヴォルクスが疑問符を浮かべる。「オレに殺される覚悟でも決めたのかよ?」

 「いーや、その真逆だね」

 ロイが笑みを更に大きくし、牙をギラつかせて言い放つ。

 「お前を、ブッ(たお)すやり方だよ」

 「斃す!?」

 ゲラゲラゲラ! ヴォルクスが全身をよじらせて大笑いする。

 「このオレを!? 女神より授かった無敵の身体を持つこのオレを、凡愚のてめぇが、斃す!?

 全く愉快な冗談だが、聞かせてみろよ! どんな手段で斃すってんだよ!?」

 「最高に愉快な手段で、だよ」

 ロイは握った右拳を突き出すと、それを親指を突き立て、逆さにする。昇天ではなく、"地獄に落とす"のシンボルを見せつけながら彼が語った"最高に愉快な手段"とは…。

 「お前を、焼き殺すンだよ」

 これには、当のヴォルクスだけでなく、ノーラまでも言葉を失う。二人の口を塞ぐのは同じ感情――拍子の抜けた驚嘆だ。

 (そんなの…無理だよ…!)

 ノーラが心中で叫ぶ。とは言え、彼女は先に"溶融の士師"を炎で苦しめているのだが…あの時と今回では根本的に差があることを、彼女は覚っている。

 プロクシムは分子間力を扱う能力の持ち主。対して、このヴォルクスは溶岩の性質を持つ士師。より"炎"や"燃焼"という概念に近い存在である。そんな相手に対して、自分の土俵どころか王国とも言える分野で挑み、勝ちを得ようなどとは無謀過ぎる!

 ヴォルクスもノーラの意見に同感のようだ。さっきより更に身をよじらせ、腹を爆破せん勢いで大爆笑する。

 「凡愚ってより、もはやただの愚者だな! プロクシムの雑魚馬鹿ならいざ知らず、このオレを、"溶岩の士師"を焼くなんざ…!

 戯れ言もいい加減にしろよ、クソガキッ!」

 爆笑から一転、憤怒一色に染まったヴォルクスがガンガンと大地を蹴り叩きながら、ロイへと驀進する。

 「戯れ言かどうかは…自分の身で確かめて見ろよ!」

 ロイもまた、迫る溶岩の巨躯に真っ向からぶつかりに行く。

 

 激戦の第二局が、開幕する。

 

 ロイを目前にした位置で、ヴォルクスが急跳躍。同時に、その全身を真紅に輝く溶岩の津波に変化させ、ロイの頭上から覆い被さる。

 対するロイは疾駆を急停止。落下する溶岩流へ顔を上げると、ヒュッと鋭く吸気。転瞬、正六角形の魔術式文様と共に氷雪の息吹(ブレス)を解き放つ。

 寒々とした青白い奔流は、大気に霜の軌跡を残しながら、溶岩流へと驀進する。しかし、溶岩流は器用にグルリと螺旋形状へと変化すると、空虚な軸の中に奔流をやり過ごす。そして、何事も無かったかのように、ロイの頭上めがけて降下を続ける。

 するとロイは、竜翼を一打ちして、急上昇。溶岩の螺旋の中へと進入すると、グルリと身体を回転。堅固な漆黒の竜尾と、鉤爪輝く竜足を振り回し、溶岩流に無数の斬撃を加える。

 しかし、溶岩化したヴォルクスには、物理攻撃は全くの無意味である。細切れにされながらも、溶岩は悲鳴を上げることもなくベチャリと着地。そのままズブズブと地中へと浸透してゆく。

 「また逃げかよ!」

 非難を口にしながら、ロイが宙で身を翻して大地を睨みつける。が、今回は先のように静寂の間隙はない。即座にロイの真下の地面が盛り上がり、溶岩で出来た巨大な拳が打ち上がってくる。

 ロイは身体ごと真下を向くと、ヒュッと再び吸気。そして氷雪の息吹を真っ向から巨拳にブチ当てる。ザリザリザリッ、と細かな氷晶が激しく摩擦する音が響き、拳は徐々に上昇速度を減速しつつ、黒々と冷え固まってゆく。

 これで士師を捕らえた! ――と誰もが思うところだが。

 (危ない…!)

 傍観していたノーラは、身をゾワリと振るわす悪寒に突き動かされ、胸中で声無き悲鳴を上げる。その直後だ、いまだ息吹を吐き続けるロイを囲むように、5本の溶岩の巨拳が地中より出現、急上昇してゆく。

 ロイはすぐに口を閉じ、息吹の放出を停止。殴りかかってくる溶岩の巨塊に対する回避行動を開始する。巨大質量にひきずられて、熱風が乱流となってロイの翼を翻弄する。

 「…っとと!」

 ロイは体軸のブレを必死に押さえ込みつつ、巨拳を回避し続ける…が、この時、彼の意識は動き回る5本の腕にばかり集中していた。

 故に、真下で固まっていた腕が、再び熱を取り戻して動き始めたのを、知覚できなかった。

 ベシャンッ! 痛々しく飛沫が激突する、乾いた音と共に、ロイの体に溶岩塊が命中。ロイの体は再び溶岩の中に握り込まれる。しかも、今回の溶岩は急速に変質し、岩石へと変化。前回のように切断するには、堅すぎる。

 「バァカがっ!」

 罵声と共に、ロイを掴む岩石の一端から溶岩が膨れ上がると、ヴォルクスの岩石質の巨体が出現する。そして自由落下しつつ、重力を味方につけた腕の振り下ろしでロイの体を大地に叩きつける。

 (ドン)ッ! 重く、堅く、悲惨な轟音が大地を震わす。大地は盛大に抉れ、巨大な亀裂を走らせる。

 しかし、この強烈な攻撃の直後、叩きつけた腕を支点にして、まるでシーソーのようにヴォルクスの巨体が浮き上がる。あまりにも強烈な一撃が過剰なモーメントを生み出したのだろうか? …いや、違う。

 (…嘘…っ!)

 傍観者ノーラは、眼にした光景に思わず息を飲む。大地に叩きつけられたロイは、拳から飛び出していた両足で大地を踏みしめると、身体を反らしてヴォルクスの巨体を振り回しているのだ。"竜"の名を持つ種族とは言え、あのコンパクトな体格にして、なんという剛力か!

 轟ッ! 再び激震が走り、ヴォルクスの巨体が背中から大地に激突する。

 「グハァッ!」

 いくら外傷を塞ぐことの出来る身体でも、全身を襲う激震・激打はさすがに抑え込めない。超重量の自重がヴォルクス自信に牙を向き、彼はたまらず苦痛の呼気を漏らす。

 (なんだよ、このガキ! とんでもねぇ力出しやがって!)

 胸中で悪態を吐いてる間に、掌の握力が緩む。この隙にロイは、全身をギュルリと回転。身を包む岩石を翼と手足の鉤爪で削り取り飛び上がり、握力の檻から脱出する。

 自由の身になったロイだが、その身体には内出血を伴う打撲の痕がいくつも刻まれ、口元からは吐血の赤がダラリと帯を引いている。ヴォルクスの一撃を返したとは言え、彼の身は完全に無事とはいかなったのだ。

 だが、ロイは苦痛に溺れたりしない。脱出と同時に高く飛び上がったかと思うと、翼を一打ちして足先から急降下。同時に大きな縦回転を加えると、足先の鉤爪の斬跡がまるで三日月のように宙をギラリと彩る。斬跡はそのまま闘気を帯びて実体化し、巨大な刃となって転がるヴォルクスの身を襲う。

 刃が切り込むよりも早く、ヴォルクスが体構造を変質し、溶岩化。刃は粘りけの強い赤黒いの溶融物をザックリと真っ二つにしたが、ヴォルクスからは苦痛の悲鳴はない。溶岩化した彼を切り刻むことは、水をみじん切りにするのと同じく無意味なことだ。

 ヴォルクスの体が、ドロドロと地中に沈み込んでゆく。

 「逃がすかよっ!」

 ロイが怒声と共に、大きく開いた口から青白い氷雪の息吹(ブレス)を吐き出す。息吹の奔流は大地にぶつかり、派手に微細な氷晶の飛沫をブチ撒け、凝結した水蒸気の霧を作る。この霧の向こう側に、ゴツゴツした漆黒の岩石がいくつか転がっているのが見える…が、ヴォルクスの全身を凝固させるには到らなかったようだ。

 チッ…! 痛恨の舌打ちをするロイ…その足下から、ゴォッ、と空気を潰す音と共に溶岩塊がせり上がる。

 ロイはすかさず翼を打ち鳴らし、溶岩の直撃を逃れる…その背後で、溶岩は恐ろしく巨大な腕の形を取った。そして5指をロイに向けて曲げると、指先に強烈な輝橙色の発光を宿す。その光が一気に収縮し、眼を灼くような閃光となった…転瞬。慟、慟、慟、慟、慟――ッ! 5指から次々に、収束された熱粒子砲が発射される。

 ロイは飛行を急停止して転身し、5筋の熱粒子砲と対峙する。今度もまた、氷雪の息吹で相殺すべくヒュッと鋭い呼気を行う――が。

 ズォッ! ゴォッ! ドォッ! ――ロイの真下を含め、周囲から幾つもの溶岩塊が噴出。ロイを狙ってせり上がってくる。この奇襲に、ロイは十分に息吹を準備することが出来ず、不発の霧氷を吐いて攻撃行動を放棄。熱粒子砲に触れないように低空へ、且つ溶岩塊に捕まらないよう蛇行して飛翔する回避行動に出る。

 熱粒子砲はやり過ごせたものの、地中からせり上がる溶岩塊の噴出は止まらない。逃げども逃げども、何度も何度も何度も執拗に地中から溶岩が噴出し、ロイを捕まえんと巨大な弧を描く。

 「いい加減、しつこすぎるっつーの!」

 小さく舌打ちしながら毒吐きつつも、時にはアクロバティックに、時には慣性を無視したような急転換を駆使し、高密度に林立する溶岩をことごとく回避する様は実に見事だ。傍観するノーラも、まさに神業としか言いようのない身体能力と反応速度で、目を丸くし、感嘆の吐息を漏らしている。

 しかし、いくらロイを捕らえられなくとも、ヴォルクスは溶岩の噴出を決して止めない。そうこうしているうちに、そびえる溶岩の柱は総勢50を超える大勢となっていた。

 ――そして、ヴォルクスは何も徒に、意地を張って溶岩塊を噴出していたワケではない。彼には、確固たる策略がある。そして今、その策略が恐るべき事態を結実しようとしている。

 冷え固まり、灼熱の赤を失い鈍い黒へと変色した溶岩柱――いや、岩石柱が、ゴキゴキと音を立てながら変形。次々に5指を備えた巨腕と成り、グギギギ、と重く鈍い音を立てながら指先を飛び回るロイへ向ける。

 「…あっ…!」

 ノーラはこの光景に悪寒を覚え、思わず小さく声を上げる。思い出されるのは、ついさっき網膜に映った光景。岩石の巨腕…曲がった指先…その先端から解き放たれるのは…灼熱の殺意!

 ――マズい! ノーラが思い至った時には、もう遅い。総じて250を超える指先のことごとくに、眼を焼く鮮烈な橙光が灯り、輝きを更に増しながら収縮してゆく…そして、輝きが臨界に達した瞬間――!

 慟慟慟慟慟慟慟慟慟慟…ッ!! 世界そのものを揺るがすような轟音が連続する。同時に、岩石の指先から真夏の太陽をも凌駕する輝度を備えた熱粒子の奔流が続々と放出される。空間は瞬く間に網膜を焦がすような煌々たる閃光に埋め尽くされる。

 高密度の熱粒子の暴走が与える影響は、視覚に訴えるものに留まらない。熱線が大気分子の結合を破壊し、プラズマ化する際のバチバチという耳障りな破裂音。荷電粒子が大気を焦がす(なまぐさ)い臭い。強烈な熱線同士の激突が生み出す大爆発と、耳を聾する轟然たる爆音。それら全ての凶悪により翻弄される空間が悲鳴のようにバラ撒く、嵐のごとき乱流。

 ――静止する瞬間などあり得ない、極限とも言える空間と物質の狂乱の有様は、まさに具現化した地獄だ。その余波によって、コンサートホールの通路を形成していたあらゆる物質が電離し、分解され、素粒子の灰燼へと帰してゆく。その断末魔は放射線となって空を走り、いまだ健在な物質を己と同じ末路へと誘おうと、滅茶苦茶に疾駆するのだ。

 「…っあうぅっ…!」

 只でさえ重度の火傷に苦しめられているノーラは、敏感になった傷口を放射線にヒリヒリと舐められると、掠れた咽喉からの悲鳴を禁じ得なかった。騒がしい疼痛から隠れ逃げるように、己が身を縮めて抱きしめ、損傷を受ける表面積が最小になるように努める。

 そんな生理的防御行動を取りつつも、彼女の理性は煌々たる地獄の中に――その中に放り込まれたロイに、視線を注いでる。しかし、空間を埋め尽くす致死の輝きが濃密すぎて、ロイの姿を発見することができない。だが、攻撃が止まないということは、彼がまだ健在である証のはず。そう判断しつつ、ノーラは捉えられるはずもないロイの姿を懸命に探している。

 そうしているうちに…ノーラの鼓膜を、新たな騒音が(さいな)み始める。苛烈な爆音をも上回るその声――そう、単なる音ではなく、声だ――は、ゲラゲラと下品な哄笑を上げている。

 この哄笑を耳にした頃、ノーラの視界の中、煌々たる地獄の中に巨影が浮かび上がる。それは、天を貫くような高さと、無骨で荒々しい輪郭を持っている。まるで、岩山のようだ。しかし、この"山"には、1対の腕があるように見える。――いや、見えるだけではない、この"山"は腕を持っている! その腕を大きく打ち振るわせながら、巨体をグラグラと激震させて、ゲラゲラゲラゲラと哄笑し続けている!

 ノーラは、この"山"の正体をすぐに覚る。――"溶岩の士師"、ヴォルクスだ! 彼は浸透した大地と一体化し、50を超える腕と、巨峰のごとき岩石の体躯を持つようになったのだ!

 …そう、ヴォルクスの士師としての能力は、体構造の変化や溶岩、熱線の操作だけではない。溶岩化した際に浸透した物質と一体化し、己の身体として自在にそ操作できる能力も持っている。

 今や文句なしの人外的存在に成り果てたヴォルクスは、その事実に対して実に誇らしげだ。そして、己の体格と比較して非常に小さなノーラ達を見下す尊大さで以て、傲岸不遜な台詞を喚き散らす。

 「どうだ、どうだ、どうだどうだどうだってんだよ、竜のクソガキ!

 この雄々しくも圧倒的な体積、質量、威力! ヒトの身じゃあ、窒息するほど足掻こうとも絶対に手に入らねぇ領域! 偉大なる神より賜りし力によってのみ実現できる、"力"だ!

 この偉大なる力で、オレがこれまでにどの程度のヒトどもを女神の元に召して来たか、知ってるか!? もうとっくに細かく数えちゃいねぇが、数万の命は刈り取ってやってんだよ! てめぇがいくら竜だろうと、そんな真似、出来ねぇだろう!?

 そもそも、"竜だ"って事実はよぉ、神の前じゃあ誇れるステータスでも実績でもねぇんだよ! 凡愚のてめぇのことだ、知らねぇだろうから教えてやる――旧時代のこの惑星の神話じゃあ、竜ってのは神の使者に(すべから)く敗北してンだよ!

 つまりはなぁ! 神から賜りし力を全開にした今のオレにゃあ、てめぇは万が一にも勝ち目はないっつーこったよ!!

 どうだ、どうだ、どうだよ!? 絶望したか!? いや、そんな暇もねぇか!? まぁ、何にせよ――とっととおっ死ねよ、クソガキ!!」

 ゲラゲラゲラゲラ! 絶対の自信が生む余裕を見せつけて、ヴォルクスは嗤い続ける。一方で、大地に林立した彼の凶腕は寸分も手を抜くことなく、手厳しい熱線の嵐を見舞い続けている。もはやコンサートホールの通路は原型を留めておらず、だだっ広い灰燼の平原へとなろうとしている。

 いつまでもいつまでも、ヴォルクスの嗤いは続く。ノーラはその罵声を聞くに耐えず、自らを抱いていた腕をほどいて耳を塞ぐ。

 (もう止めてよ…いい加減にしてよ…神の使者なら、こんな地獄なんて作って、いつまでも私たちを苦しめないでよ…!)

 ジリジリ、ジリジリと始終皮膚が訴える疼痛にも耐えかね、ノーラが胸中で不満を叫び上げた――と、その時ふと、彼女は違和感を覚える。

 "いつまでも"。そう彼女は思考した。ヴォルクスは、"いつまでも"この地獄を存続させている。

 何のために? もちろん、彼の敵であるロイを仕留めるためだ。そのために彼は躍起となって、こんな大規模な攻撃を加えているのだ。彼は神の使者ではあるが、神そのものではない、ゆえにこんな莫大なエネルギーを公使し続けるのは相当な負担になるだろう。その負担を負い続けているのは…いまだに彼の敵が、ロイが、健在だからだ!

 (…嘘…!)

 歓喜と共に、それ上回る驚嘆の念がノーラの中に沸き上がる。この考えは単なる希望に過ぎないのではないか、と言う疑念にも少なからず駆られる。ゆえに彼女は、己の見解を裏付けるべく、(まばゆ)い地獄に細めた視線を投じ、状況確認を試みる。しかし、いくら眼を凝らしても、見えるのは熱線と爆発の烈光のみ。ヴォルクスの巨体は影として見えるものの、彼に比べて段違いに小さなロイの姿を発見することはできなかった。

 しかし、ノーラの見解を裏付けるような変化が、ヴォルクスに生じる。ずっと鼓膜を叩いていたゲラゲラ嗤いが、いつの間にか聞こえなくなっているのだ。代わりに、轟然と連続する爆音にかき消され気味な、焦燥の色濃い唸り声が低く響いている。

 実際に何が起きているのか? ノーラの五感では判断できない。…しかし、ヴォルクスの超人的感覚は全て把握している。――彼にとって、全く好ましくない実状を。

 

 ノーラは見解は的を得ている。ロイは、健在だ!

 爪先の置き場すら無さそうな高密度の地獄の中を、彼は今尚飛び回っている。

 初めのうちこそ、彼は熱線や爆発の直撃を受け、翻弄されていた。その手応えを感じていたからこそ、ヴォルクスは悠然と勝ち台詞を吐いていたのだ。生意気なチビの敵は、もうすぐ素粒子レベルで分解され、死滅すると確信していたのだ。

 だが、いくら直撃を受けても、ロイの動きは止まらない。

 むしろ、時が経過するにつれ、その動きは更に力強く、機敏に、そして、速くなってゆく。ついには、熱線や爆発の手応えを全く感じることができなくなる。それどころか、神域に踏み込んだ士師の感覚でもってしても、ロイの動きを捉えることができない! 今、ヴォルクスの感覚では、同時に3カ所にも4カ所にも高速で動き回るロイの気配を感じる。

 ――分身か!? いや、この無差別な広範囲・高密度の攻撃に対して、攻撃対象を絞らせない幻惑行動は無意味だ。だとすれば…。

 (あいつが、単純に、速すぎるんだ!)

 ギリギリと、ヴォルクスは悔しげな歯噛みをする。暴力的なまでに(たかぶ)る焦燥は、なんとかロイを叩き伏せようと更に攻撃を激化させようと試みるが…もうすでに、ヴォルクスの攻撃行動は限界を迎えている。熱粒子砲を大量放射し続けている現状では、もはや新たな腕一本すら生やすことが出来ない。

 「クッソ、クソクソクソクソッ! なんで当たらねぇんだよ、なんで平気なんだよ! 凡愚のくせして、生意気――」

 悔しさのあまり、不満を罵声の形で表現するヴォルクスであったが、その言葉は最後まで言い切ることが出来ない。何故ならば――突如、ロイの気配を感知できなくなったと認識した瞬間、彼の岩峰の顔面の目前に、漆黒の竜人の姿が現れたからだ。

 その姿の正体は、もちろん、ロイである。ただし、熱線放出前に見た彼とは、体型が少々異なる。身体の大半はトゲトゲと逆立つように目立つ分厚い漆黒に鱗に覆われている。そして翼は、片翼でロイの全身を覆おうほどに巨大化しており、その下辺にはジェット機構を想起させる励起済み術式の高速噴射が見て取れる。この変化によって、士師の能力をも凌駕する能力を体現したようだ。

 ギラリとした剣呑な嘲笑を浮かべるロイの顔面を眼にし、ヴォルクスはゾワリと岩肌が震える悪寒を感ずる。これを振り払うかのように、胴についた腕を振るってロイを狙うが――遅い。

 ロイの姿が、視界から消える。何処へ、という疑問が湧く間もなく、ヴォルクスは巨大な腹部を揺るがす激震と衝撃に襲われ、巨峰の体躯を大きく"く"の字に曲げる。

 ロイが神速と称して過言でないほどの速度で飛翔し、その勢いのまま、右足でヴォルクスの腹部の中央を蹴りつけたのだ。慟ッ、と激突の轟音が響いた直後、ロイの竜足は士師の岩盤の腹部に深く抉り込まれる。同時に、ビシビシビシと痛々しい破砕音が聞こえると共に、激突点を中心に盛大な亀裂が走る。

 「学習能力がねぇな、士師サマ! 余裕ブッこいて隙見せてたら、オレは容赦なくアンタをブッ叩くぜ!」

 ロイが豪語する頃には、ヴォルクスは羞恥と後悔、そして強烈な苦痛によって、すっかりと集中が乱れる。そのため、大地から生えた50を超える腕はぴたりと熱粒子砲の放出を停止。灼熱の地獄はいくつかの残存爆発を名残惜しそうに響かせたのち、静寂と化す。後に残るのは、コンサートホールの通路であったことを微塵も匂わせない、呆然と立ちつくす岩腕ばかりが生い茂る不毛の焦土である。

 この空虚な大地へと、無様に身体を投げうつ羽目になったヴォルクスであるが、士師の矜持を振り絞り、ロイへの反撃に足掻く。すなわち、真紅に輝く口腔をグワァッと限界まで開くと、その内から熱粒子砲を発射したのだ。ただ一撃にエネルギーを集中させたこの攻撃は、それまでの粒子砲よりも段違いの断面積と熱量で、瞬く間にロイに肉薄する。

 一方、凶悪な熱線と対峙するロイは――ピクリとも回避する素振りをみせず、嘲笑を浮かべたまま、動かない。いや、ただ一挙動のみ、巨大な片翼で我が身の前面を覆った。直後、怒怒怒ッ、と轟然たる爆音をまき散らしながら、熱粒子砲がロイに直撃する。

 ヴォルクスの足掻きは実を結んだ――かに、見えたが。彼の顔には、一向に明るい表情は見えない。それどころか、ますます焦燥の色を濃くする。

 ロイの竜翼は、熱粒子砲の直撃に焼滅することも溶融することもなく、平然と防いで受け流したのだ。その光景は、まるで瀑布の大水量を、コウモリ傘で平然と受けているような有様を想起させる。

 (バカなっ! 重金属が蒸発する温度だぞっ!?)

 岩を穿っただけの眼窩を限界まで見開き、驚愕に戦慄(わなな)くヴォルクス。そこへ、熱粒子砲を最後まで受けきったロイが、バサリと竜翼を開く。同時に、彼の頬が吸気によって膨らんでいるのが見える。閉ざされた唇のわずかな隙間からは、パリパリと青白い電光が見える。

 (クソクソクソクソッ、(ブレス)が――)

 崩れた大勢に鞭打ち、慌てて防御行動をとるヴォルクスであるが、全く間に合わない。一対の腕を上げるよりも速く、ロイは牙だらけの口腔を開いて嵐のような吐息と共に、雷光を吐き出す。

 (バン)ッ――大気の破裂する轟音と共に、電光は多頭の大蛇となってヴォルクスの岩石の身体を這い回る。そのまま大地にまで達すると、林立する岩腕のことごとくを雷光の蛇体が締め上げる。岩石は電磁気の暴力によってギシギシと激震すると、神霊力による結合を打ち消され、物言わぬ岩屑となって崩壊してゆく。

 岩腕がことごとく瓦解した頃、ヴォルクスの巨躯は電撃による焦煙をもうもうと上げながら、ズズンと大地に倒れ込む。

 その始終を見届けたロイは、スチャリと素早く、鋭く着地。強化した竜翼を収縮させて畳むと、腕組みをして倒れたヴォルクスに視線を投じる。

 

 (…ロイ君って…本当に凄い…)

 ようやくロイの姿を眼にしたノーラはもう、感心以外の何物の感情も浮かばない。何よりも驚かされたのは、ロイの損傷具合だ。さすがに衣服は高熱に晒されてボロボロだが、皮膚は軽い火傷程度の赤い腫れが点在する程度。鱗に到っては――漆黒の色で損傷の程度がわかりにくいだけかも知れないが――全くの無傷に見える。口元には血を吐き流した後が見えるが、恐らく、ヴォルクスに大地に叩きつけられた際に生じたものだろう。だが、失血で顔色が悪くなっているワケでもなく、大したダメージには見えない。

 神の使者を相手にして、これほどの実力を見せつけるとは、正に"化け物" である。

 

 「なぁ」

 いまだ電撃の影響を受け、立ち上がれないでいるヴォルクスに、ロイは鋭く呼びかける。

 「お前、さっき、”神から賜りし力を全開にした”って言ってたよな?

 ってことは、今のがお前の"底"か?」

 "底"…つまり、これ以上ない限界の全力か、とロイは士師に問うている。

 その質問に、ヴォルクスはゴリゴリと岩石の歯を合わせて、答える。苦々しい悔しさに満ちる雑音は、言葉よりも明快な答えを物語っている。

 しかし、ロイはあくまでヴォルクスからの明確な回答を待つ。しばし重い歯噛みの音が続く。

 再びロイが、口を開く。その言葉は決して急かしも焦りもしていない。

 「もし、あれがお前の"底"だって言うなら、オレはもう終わりにするぜ。

 これ以上、お前を見る必要はないからな」

 …つまり、ロイはこの激闘の中で、わざとヴォルクスの全力を出させていた、ということだ。これは単に、ロイの個人的な主義によるものだ。自身の勝敗の見込みに関係なく、相手の性格・実力にも関係なく、相手に敬意を払って全力を出させる。その上で、自身の力を振り絞って勝利をもぎ取ることを、自身の誇りとしているのだ。

 ロイの敬意の払方は、しかし、ヴォルクスの高慢なる自尊心を傷つける。神に選ばれし超人が、涜神者に見下されていると認識したのだ。歯噛みはますますゴキゴキと恨み音が立て、全身が憤怒と羞恥でブルブルと震える。

 再びロイはヴォルクスの答えを待ち、またも無言の時間が訪れる。その無為さに呆れたのか、ロイがついにはぁー、と深い溜息を吐く。

 「なぁ…」

 三度、声をかけた、その瞬間。ヴォルクスの巨躯がゴウンッ、と轟音を立てて跳ね起きる。

 「"底”ってぇのはなぁ…っ!」

 狂気を帯びた険を含ませて叫ぶ、ヴォルクス。その時、ロイの後方で、「あうっ…!」と力ない掠れた悲鳴が響く。

 素早く振り返ったロイの視界に飛び込んできたのは…大地から生えた一本の岩腕と、その手中に握り込まれているノーラの姿である。

 「こういう"切り札"を見せて、初めて"底"って言えるんだよっ!」

 敬虔なる神の使者にあるまじき、卑劣な行為。だが今のヴォルクスには、良心だの羞恥心だのの仮借はない。凡人に敗北することこそ、彼の最大の汚辱なのだ。

 「余裕ブッこいてたのは、てめぇの方だったなぁ、クソガキぃ! こんなズタボロの怪我人を、戦場のすぐそばに放置しておくたぁ、ひでぇ落ち度だぜ?」

 ノーラに視線を注いだままのロイの背中に向け、ヴォルクスはねっとりとした勝ち誇った声を上げる。

 そしてヴォルクスは、再び大地から岩腕を無数に生成。ロイを取り囲むように配置し、指先を向ける。この頃、ヴォルクスはようやく電撃の息吹の影響から回復してきていた。

 「さぁて、竜のクソガキ。今まで散々にオレを虚仮(こけ)にしてくれたなぁ。今度は、オレがお前を足蹴にする番だ!

 この女を握り潰されたくなけりゃあ、大人しくオレになぶられろ!」

 この言葉が、神に選ばれし敬虔なる超人の口にする台詞であろうか? 寸劇の三下の小悪党が口にするような、全くもって下卑た物言い、そして卑劣な行為だ。だが、人道を重んじる者に対しては、非常に効果的な足枷であろう。

 しかし…この足枷、ロイには全く効果がないようだ。彼の背は怒りに震えることも、失意に戦慄(わなな)くこともない。嵐の中にぽっかり開けた凪のように、ピクリとも反応を見せない。

 …いや、少しの間を置いた後、ようやくロイは反応を見せる。だが、それはヴォルクスが望むようなものとは全く相反するものだ。すなわち、ロイは幼子の悪戯に呆れ果てたような、深く長い溜息をはぁーっと吐き出しのだ。

 「なぁ…アンタさ、思ったよりずっと底の浅い、つまんねぇヤツなんだな」

 ロイがチラリとヴォルクスを振り返り、不愉快そうに見下したジト眼を送る。視線からは、怒りも焦りも全く感じられない。ひたすらに呆れ、そして憐れみさえ混じる、余裕綽々の態度である。

 これには、有頂天に立っていたヴォルクスも、不快の深淵へと転げ落ちてしまう。

 「何、余裕ブッこいてンだよ、クソガキッ!

 てめぇの大事な大事な、可愛いメスガキの生殺は、このオレが握ってるンだぞ!? 今すぐこの手に力を込めりゃ、メスガキの胴体はグチャグチャに捻り潰れるんだぜ!

 それで構わねぇワケねぇよなぁ!? そンなら、泣いてオレに慈悲を懇願しろよ、このメスを助けてくださいって頭下げて、オレに命を差し出せってンだよッ!」

 「確かに、ノーラを捻り潰されるのは困るけどさ…」

 相変わらずジト眼のまま、ロイは冷たく言い放つが…ふと、その眼に嘲りが灯り、細い弧を描く。

 「アンタにゃ出来ねーよ。出来ねーことを突きつけても、脅しにはなんねーぜ?」

 「ンだと、てめぇ…ッ!」

 ヴォルクスは、完全に頭に血が昇った。ロイが何を目的として挑発しているのか…仲間を助け出す隙を伺っているのか、それとも人質を取らねばならない立場を逆手にとって精神的に追い込むためか…分からないが、ヴォルクスは駆け引きに葛藤する理性的な優柔不断さは持ち合わせていない。常に感情の赴くままに行動する彼は、思考を一色に染めた激怒の導きに身を委ねる。…そう、彼はノーラを握り殺すことを即決した。

 「てめぇのクソ生意気な口を恨みやがれ、クソガキッ!」

 ヴォルクスは全力でノーラを握る岩腕を握り込む…が、彼は即座に違和感を感じる。力が、全く入らない! それどころか、指の一本すらピクリとも動かせない! 岩腕は、単なる岩石の彫刻となってしまったようだ!

 異常は、ノーラを握る一本の腕だけに留まらない。ロイを囲む腕も全て、ピクリとも動かせない! そして、大地から生えたヴォルクスの上半身も、その大半が動けない状態に陥っていた。痺れも何も感じなかったため、今の今まで己の窮地を知覚できなかったのだ。

 (何が起きてンだ!?)

 ヴォルクスは慌てて、原因を探るべく思考を巡らす。士師の力が、一般の魔術と同様に、術失態禍(ファンブル)を引き越してしまったというのか? いや、あり得ない! この力は"神"から得たもの、落ち度などあるワケがない! どこかに人為的原因があるはずだ!

 人為的――"誰が為したか?"と自問すると、即座に答えは導かれる。…竜のクソガキだ、それ以外に考えられない! 手中のメスガキのはずはない、このズタボロの状態で強大な『神法(ロウ)』を凌駕できるワケがない!

 では、竜のクソガキは一体、何をしたというのだ? メスガキを人質に取って以降、背を向けたまま一歩たりとも動いてはいない。ひょっとすると、手の動きだけで成立させる類の象形魔術を使用した可能性も考えられる…が、ヴォルクスはすぐにこれを否定する。魔力の励起の気配も一切感じなかったからだ。

 だが、"何か"はしたはずだ! ヴォルクスは焦燥に怯懦が混じる瞳を皿のようにして、ロイの体を注視すると…ようやく、見つけた! だが、この時ヴォルクスの胸中にわき出した感情は、感激や安堵よりも、困惑である。

 何せ、彼が見つけたロイの動きとは、竜尾を大地に深々と突き刺しているというものだ。尾が潜り込んだ地点からは、大した魔力の励起を感じない…だからこそ、ヴォルクスは今まで異変を感知することができなかったのだ。そんな静かな竜尾が、己の強靱無比な巨躯を足止め出来るというのか!?

 「てめぇ、その目障りな尻尾で、オレに何をしやがった!?」

 深く考察する習慣を持たぬヴォルクスは、ついに思考を放棄し、当人へ疑問をぶつける。するとロイは、ようやく気付いたのか、と見下し嘲る表情を浮かべてヴォルクスに向き直る。

 「アンタ、"竜脈"って言葉、知ってるか? 自然魔術の一派、風水道が定義している惑星規模の魔力の配置および流動の分布のことさ。惑星の大地にはどんな箇所にも、大なり小なり、竜脈が存在する。

 オレの尻尾は、その竜脈にアクセスして、大地とつながったアンタの体へ魔力供給をシャットアウトのしたのさ。

 竜脈の"竜"と、オレら『賢竜(ワイズ・ドラゴン)』の"竜"とは、特に関連はないんだけどさ…オレら竜族の特技は、自然現象の操作さ。

 アンタが大地と融合した時点で、この方法でアンタを拘束する手段は考えてたんだよ。つまり、アンタはご自慢のバカデカい身体を手に入れた時点で、詰んでたってワケだ!」

 強めた語気を言い終えたと同時に、ロイは烈風の速度で転身、その勢いのままに鉤爪輝く右脚を振るう。宙を裂いた蹴りは、そのまま魔力の斬撃波となり、前方の岩腕を数本を横一文字に切断して貫通。そのまま、ノーラを掴む岩腕をも切り落とす。破壊された岩腕は、もはや士師ヴォルクスの身体ではない、物言わぬ単なる岩塊である。

 「あっ…!」

 支えをなくしたノーラは、重力の為すがままに大地へと自由落下する。そこへロイは、竜尾を大地に突っ込んだまま、ノーラへの着地点へと急ぐ。疾駆するにつれて竜尾は大地を裂き、ロイの後ろにはボッコリとした狭い裂け目で出来る。

 見事、ロイはノーラを両腕の中にしっかりとナイスキャッチ。ノーラは激突を覚悟して眼を瞑っていたが、身体を包む柔らかな体温を感じると、ゆっくりと瞼を開く。そして、視界一杯にニカッと笑んだロイの顔を見て…安堵の微笑みを浮かべる。

 「わりぃわりぃ」

 ロイの笑みにバツの悪そうなはにかみが混じる。

 「"ちょっと待っててくれ"なんて言っておいて、たっぷりと遊んじまった。挙げ句に、アンタには怖い想いさせちまった。ホント、悪かった」

 「ううん…大丈夫…。

 ただ、火傷と打撲が、まだまだ痛いけど…それ以上のことは、ないから…」

 「そっか」

 和やかに語り合うロイとノーラの一方で…取り残されたヴォルクスは、悠長に二人のやりとりを傍観してはいない。今や巨大な木偶と成り果てた大地の身体を見限り、大地との融合を解除する。

 ゴトゴトゴト…騒がしい激突音を奏でながら、ヴォルクスの巨躯と岩腕は瓦解し、ただの岩塊として大地に落下、静止する。この岩の雨の中、体長4メートルほどに縮んだ、赤黒い溶岩質の身体を持つヴォルクスが姿を現す。

 (クソクソクソッ…!)

 自由落下しつつ、真紅に輝く眼窩をロイの背中に注ぐヴォルクスは、胸中でやかましく喚き立てる!

 (どこまでも、どこまでも、どこまでも…オレを虚仮(こけ)にしやがって! 女神に選ばれし崇高な超人である、このオレを!)

 しかしここで、ヴォルクスは表情を一変し、ほくそ笑む。考えてみれば、これは好機だ! 胸糞悪い竜のクソガキは、無防備にこちらへ背中を向けている! こちらには散々「隙だらけだ」と指摘しておいて、自分で致命的な隙を晒すとは、間抜けなことこの上ない!

 (貧弱な雑魚に一々構って、戦いを忘れてやがる! いくら希少種族だ、(ドラゴン)だといえども、超人の前じゃただの凡愚に過ぎねぇ!)

 着地するより早く、ヴォルクスは自由になった神霊力をまとめ上げて右拳に収束し、熱粒子砲を準備する。メスガキ共々、竜のクソガキを貫き、素粒子レベルに蒸発させてやる魂胆だ。

 だが…ヴォルクスの見解に反して、ロイは間抜けではない。自らが指摘し続けてきた落ち度を見せたのは――故意だ。戦いを忘れてなんて、いない。

 ヴォルクスの右拳の神霊力が恒星の熱を宿すよりも早く、ロイが竜尾を大地から引き抜いて、ノーラを抱えたまま振り返る。この時にはすでに、ロイの口は牙でしっかりと閉じられ、息吹(ブレス)のための吸気は終わっている。

 (マズい!)

 ヴォルクスの表情が、またもや一変する。優越の極楽から、焦燥と怯懦の地獄へと一気に転落したのだ。ロイの牙の隙間から漏れる、真紅の励起光を持つ術式からは、士師の身に震えを起こすほどに高められた魔力が読みとれる。なんとかせねばなるまい、だがこちらの攻撃準備は十分ではない。不十分であろうとも、相手の意気をくじくために攻撃を放つべきか、それともギリギリまで準備の充実を図るべきか!?

 ヴォルクスは慌ただしく逡巡する。それが、彼にとっての命取りとなった。

 

 (ガァ)ッ! ――ロイが、吠えた。その咆哮は世界そのものを揺るがすような音圧を持つ、音の暴力であった。

 この暴音と共に、ロイの牙だらけの口から、火炎の奔流が吹き出す。火炎――そう、赤々と輝きギラギラと熱光を放つ、紛れもない炎だ。それがヴォルクスの巨躯をも飲み込むような大体積で空間を驀進する。

 ヴォルクスは溶岩を操る士師、先にノーラが懸念した通り、炎や燃焼といった概念に近しい存在である。そんな彼にとっては、どんな強烈な炎であっても親戚同然、全く恐るるに足りない…はずであった。だが、ロイの咆哮に気圧されたのか、はたまた単なる予感か…ヴォルクスは両腕を身体の前で交差させ、防御態勢を取る。

 直後、ロイの火炎の息吹(ブレス)はヴォルクスの全身をまるごと飲み込む。

 

 そして、あり得ないはずの事態が発生する。

 

 ああああああああああッ! ヴォルクスが、思わず絶叫する。今、彼の全身は強烈な不快感に襲われている。不快感の主な内訳は2つ…激痛、そして、"熱さ"だ。

 このうち後者は、"獄炎の女神"の士師に選ばれた彼には、あり得ない感覚のはずである。"溶岩"の定義を賜り、”炎"と"燃焼"の概念の上位に立つ存在になった彼が、熱に苛まれるなどあってはならないことだ。

 しかし、"あってはならない"はずの事象が、現にここで発現し、ヴォルクス本人を蝕んでいる!

 (痛ぇ痛ぇ痛ぇ痛ぇ痛ぇッ!)

 いまだ止まぬ炎の奔流の中、"溶岩の士師"は己を苛む辛苦に暴れ悶える。だが、全身で激しく拒絶を訴えたところで、直ちに彼の望む通りになるほど、世界は優しくはない。それどころか、激痛と熱さの二重苦はジリジリと体表から体内へ向かって、着実に侵入してくる。これが意味することは――誠に奇妙極まりないが――士師の溶岩質の身体が燃焼している、ということだ。

 やがて士師の身体は、ドサリと、床に叩きつけられた皿の上の料理のように、無様に着地する。同時に、ようやくロイの火炎息吹が止み、空間に荒涼とした閑寂が訪れる。ただ一つ、士師の悶え狂う騒音だけが耳障りだ。

 身を包む火炎の奔流がなくなってもなお、ヴォルクスの溶岩質の身体は激しい炎を上げている。この不可解な事実を突きつけられ、ヴォルクスは更に混乱しながらも、激化する不快感の為に大地を転げ回る。

 (燃えてる! オレの炎の身体が、炎を上げて燃えてやがる!)

 「何しやがったぁぁっ、クソガキぃぃっ!」

 声帯が(あるならば)破けんばかりの怒号に強烈な怨恨を込めて、う゛ぉるくすが叫び上げる。それを(はた)で眺めていたロイは、ギラリと険悪な笑みを浮かべて答える。

 「さっき言っただろ? オレら竜族は、自然現象の操作が得意だって。

 これも、その応用さ。燃焼っていう自然現象に、ちょっとばかり細工してやったのさ。アンタを加護する『神法(ロウ)』ごと燃やしちまうように、な」

 ロイは事も無げに話してみせる。しかし、彼の腕の中では、ノーラがその言葉に衝撃を受けて顔色を変える。彼女自身が先刻の戦闘で身に染みて理解した通り、『神法(ロウ)』を凌駕するには尋常ならざる努力と機転が必要だ。特に、相手の土俵上にある『神法』を真っ向から破るなんて真似は、無謀としか言いようがない。それを、この竜の青年は、気苦労も見せずに成し遂げたのだ。

 ("暴走君"なんて呼ばれてるロイ君だけど…"暴走"なんてレベルの烈しさじゃない…!)

 驚愕を通り越して、呆れの念を抱いてしまうほどだ。

 一方…ヴォルクスも、ロイの語った並々ならぬ答えに、何か言いたげであったが…それを咽喉から吐き出す前に、激痛が彼の口を塞いだ。熱した鉄板の上に放り投げられた芋虫のように、ビクビクと激しく悶え狂い、声にならない掠れた悲鳴を上げる。

 そこへロイが、ダメ押しとばかりに言葉をぶつける。

 「そういや、アンタ、ヒトを数万人斃したことを自慢してたよな?

 オレは、さすがにそれには敵わないぜ。何せ、総勢で数万もいないだろうからなー、士師ってヤツらは。

 でもな…アンタには数じゃ全然及ばないけど…オレだって士師なら2桁、葬ってる」

 この言葉には、ヴォルクスもノーラも眼を丸くせざるを得ない。"超人"の名に恥じぬ強大な力を持つ存在を、若い学生の身の上で、10を超える数を斃しているとは…! 士師が神の使いならば、ロイは神を(そし)って使徒を喰らう怪物そのものだ!

 そんな涜神的態度が、士師の意地に火を付けた――ヴォルクスの激情が、身を蝕む辛苦を超越したのだ。燃焼の苦痛に歯噛みと共に噛み殺し、暴れ狂う苦悶の衝動を押し殺して、ズルリと巨躯を立ち上げる。真紅の眼窩はますます赤が映え、彼の無念の憤怒を体現する。

 「やらせるかぁ…っ!」

 苦痛にどもる口をノロノロと、しかし必死に動かす。

 「てめぇなんぞのぉ、クソガキにぃ、偉大なる士師が滅ぼされるなんてぇ、あってたまるかぁ…っ!」

 ヴォルクスは語りつつ、苦痛に痙攣する身体をズルズルと動かして、右腕を持ち上げる。ゴキゴキと痛々しい音を立てて堅く握ったその拳には、かき集めた神霊力が純白の小さな球体を作っている。球体は彼が得意とする溶岩や熱粒子の性質を加味したものではなく、単純に神霊力で作り上げた弾丸だ。

 しかし、この弾丸が役目を果たすことはなかった。

 弾丸が十分に形成されるよりも早く、ロイが動く。

 「じゃあな、"溶岩の士師"。アンタの底は、オレが戦った士師の中でも、もっとも浅くて汚かったってこと…オレの心に刻んでおくよ」

 無情なまでに冷たく言い放った直後、ロイは片翼を大きく、素早く打つ。羽ばたきによって生じた烈風は颶風(ぐふう)と化すと、燃え上がるヴォルクスの身体を一撫で――いや、一揉みする。

 すると…ヴォルクスの身体を包む炎が、まるで息を吹きかけられた蝋燭の灯火のように大きく揺らめくと、火の粉の舞となって散華する。これと共に、ヴォルクスの身体も吹き散らされ、粉砕され…塵芥となり、宙に舞い散った。

 転瞬、ヴォルクスが飛び散った空間に純白の光の爆発が生じる。無音ではあるものの、数百を超える羽根状の神霊力残滓が吹雪のように舞い上がる様は、誰の五感にも深く訴える。この美しくも儚い光景が、暴虐な士師の最期を彩るとは、なんとも不釣り合いだ。

 

 ――何にせよ、この美麗なる散華を以て、"溶岩の士師"ヴォルクスの魂魄は昇天を迎える。

 竜と士師の激闘は、竜の勝利に終わったのだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 士師の美しき散華が霞のように消え去った頃…一陣の微風が、焦土と化したコンサートホールの通路を通ってゆく。激闘の始終を見届けた世界が、改めて激闘の終結を告げたかのようにも思える。

 この優しき愛撫を受けて、ロイはふぅー、と安堵の息をはいた。士師との激闘の間、終始優位な態度を見せていた彼であったが、内心ではやはり只ならぬ緊張を抱えていたようだ。生死を賭して"超人"と相対していたのだから、当然と言えよう。

 ようやく平穏を噛みしめたロイの体に、変化が起こる。竜化した漆黒の部位から、きらめく黒紫の術式が解放・蒸発してゆく。これにつれて彼の翼は編み物を解くような様で消滅してゆき、手足も極平凡な五指へと縮む。牙はメキメキと音を立てながら萎んで、平凡な歯並びへと回帰。伸びた角は小さく縮んで真紅の髪の中に埋没し、尻尾も厳つさを失った。

 今のロイは、ノーラが学園内で初めて出会った頃の姿に戻っている。ただし、制服がズタボロだったり、皮膚の所々に軽微な火傷があるのは、相違点だ。

 気軽な姿に戻ったロイはもう一度、思い切り深呼吸。勝利の空気を肺一杯に味わっているように見える。

 そして、抱えたノーラに顔を向けると、ニィッと上機嫌の笑みを浮かべる。

 「ようやく片づけたぜ、ノーラ!

 …それにしても、オレもアンタもボロボロになっちまったなー!

 特にノーラ…今まで戦うのに夢中で気にしてなかったけど…こうやって見ると、相当ヤバいじゃねーか!」

 語りながらロイの表情に段々と焦りの色が濃くなる。士師との戦闘では全然見せなかったのに、仲間のこととなると急にオロオロし出すロイの姿が、ノーラには何とも滑稽に映る。思わず、クスクスと笑い声が漏れてしまったほどだ。

 「…? なんかオレ、変なこと言ったか?」

 「ううん…別に…ただ、私の個人的なツボってだけだから…気にしないでね」

 「??」

 疑問符を浮かべて首を傾げるロイみながら、ノーラはなおもクスクスと笑い…そして、はっと思い至る。

 …"仲間"。さっきノーラは、ロイにととっての自分の立場をそのように称した。確かに今回の戦いにおいて、彼女は大きな役割を果たしてはいる。しかし…本当の意味で、彼女はロイたち星撒部の仲間と言えるのだろうか? 特に入部希望でもなく、成り行きと周りの雰囲気に感化されて協力したに過ぎない自分は、"仲間"だとしても仮初めの存在に過ぎないのではないか?

 そんな疑問を抱いたノーラは、痛みよりも愉快さよりも、急な寂しさに襲われて表情に影を落とす。

 彼女の急な変化に、只ならぬ事情を察知したロイは、至極真剣に問いただす。

 「…どうしたんだ、ノーラ? 気に障ってることがあるなら、遠慮なく言ってくれよ?

 オレはさ、仲間が暗い顔をしてるのを見るのって、どーしても苦手でさ…。まぁ、個人個人の事情があるってのは分かるんだけど、それでもやっぱ、笑ってる方が楽しいだろ、って思うからさ」

 "仲間"。ロイが口にしてくれたこの言葉に、ノーラははっと悲哀の色を消し、驚きの表情を作る。

 「私…ロイ君の仲間で、いいの…?」

 「当然だろ」

 きょとんとした顔で、ロイが即答する。その余りにも無抵抗な語り口に、望み通りの言葉をもらったはずのノーラは、思わず否定的な反応を見せる。

 「でも…私、大したこと、出来てないし…! イェルグ先輩やヴァネッサ先輩には、凄く迷惑かけちゃったし…! ロイ君にも、気を遣わせちゃって…!」

 「迷惑も何も、ノーラは精一杯、オレたちのための力を尽くしてくれたじゃねーか。それで十分だろ、オレたちの仲間である理由は、さ。

 それに、未経験の仕事をぶっつけ本番でやったんだ、うまくいかないのは当然さ。っつーか、オレたちだって、未だに完璧に納得行く結果なんて、残せてねぇ。だからこそ、この部活に籍を置いて、戦い続けてるのさ。

 オレたちはどんな種族だろうが、所詮はみんな同じ"ヒト"。"神"じゃねーんだから、完璧じゃないからって気に病むことなねーさ」

 そう力強く言い放ち、ニカッとヒマワリの笑みを見せるロイに、ノーラの鼓動が高まる。恋愛的な意味で惹かれた…というよりも、彼の単純明快で器量の広い思考に魅せられたのだ。

 (私…もっともっと、ロイ君や皆さんと、こうやって力を尽くす時間を持ちたい…!)

 ノーラの中に躍動する"飢え"が生じる…が、それに従って動こうにも、疲労と損傷が邪魔だ。早く治さないと…と意識した途端、体の重さや痛みがズッシリ、ズキズキと疼きだし、ノーラは不快感に顔をしかめる。

 「おっと、いつまでもこのままにしとくってのは、体に毒だよな。

 待ってろ、すぐにヴァネッサの所に連れてくからな! あいつなら傷や疲労、それに放射線障害の浄化の霊薬だって持ってるはずさ!

 そんじゃ、こんな場所からはとっとと引き上げるとするかぁ!」

 言うが早いか、ロイは尻尾を一打ちして気合いを入れると、力強く焦土を蹴って走り出す。目指す先は、溶融して狭くなった、ホールへ続く通路の続きだ。

 

 ザッザッザッ、とガラス質になった土を素足で踏みつけること3,4歩ほど。もうすぐ建物の中だ、というところで…。

 突如、"異変"が生じる。

  

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Stargazer - Part 7

 ◆ ◆ ◆

 

 "異変"…それを感じ取ったのは、ロイとノーラの二人だけではなかった。

 彼らと同じくユーテリアから来た未来の英雄の卵たち…ホールで耐火水晶の制御を続けるヴァネッサ、ホールの外で装甲車のメンテナンスを続ける大和、都市の空で天使の残党を狩るイェルグ…彼らもまた、"異変"を認識する。

 ――いや、彼らのような非凡な力の持ち主だけではない。この都市国家アオイデュアに住まう全ての者達が、"異変"をハッキリと感じているのだ。

 

 彼らが真っ先に感じたのは、精神に強烈に干渉する圧迫感だ。全身の筋肉が緊張し、痙攣し、冷え切ってゆく重圧。重力のなすがままに五体を投げ打ち、頭を大地に擦り付け、嗚咽を吐き出したくなる強烈な衝動。この衝動に抗しきれず、実際に行動を体現する者も都市の各地に少なからず出現した。

 衝動に苛まれる者たちの思考には、意識を塗り潰すような"言葉"が嵐のように渦巻く。"言葉"からは恐いほどに威厳と共に、魂魄を優しく押し包まんとする深い慈悲もヒシヒシと伝わってくる。

 "言葉"は厳しく、甘く、人々の脳内に語りかける――私を讃えよ、私を崇めよ、私を愛せよ、私のために身を捧げよ。さすれば汝らは、大義の名の下に救済されるであろう。さあ、私を讃えよ、私を崇めよ、私を愛せよ、私のために身を捧げよ。さすれば汝らは――。

 壊れたレコーダーのように、絶えずひたすらに繰り返される言葉は、やがて脳の機能を蝕んでゆく。一種の麻薬のような快楽がジンワリと意識に広がり、老若男女問わず自身の状況を認識すること放棄し、威厳と慈悲と快楽に五体を投げるようになる。彼らは皆、歓喜と畏怖にボロボロと涙を(こぼ)して、「讃えます、崇めます、愛します、身を捧げます」と繰り返し呟き出す。

 

 「ちょっと、皆さん…!」

 コンサートホールで耐火水晶の維持作業を続けていたヴァネッサは、周囲の人々が次々と地に額を(なす)り付けてゆく異様な光景を見ると、思わず作業を中断して声を張り上げる。脳に入り込んでくる甘言を、自身の声で追い出そうとするかのように。

 「ダメですわ、この言葉を聞いては! このままでは皆さんの魂魄は…」

 続きを言い掛けた途端、ヴァネッサもまた脳に入り込んでくる甘言に苛まれ、頭を抱える。体調が万全ならば、こうも簡単に魂魄への強制介入に屈することはないのだが…休むことなく大規模な水晶操作を続けてきたのが災いした。精神障壁を作り出そうにも、甘言の浸透速度に打ち負かされてしまう。

 「くうぅ…っ!」

 遂に苦悶の呻きと共にくずおれたヴァネッサは、最後の抵抗とばかりに両耳を抑える。しかし、脳へ直接作用する甘言の前には、何一つ功を奏するはない。

 塗りつぶされてゆく意識を必死につなぎ止めんとする艱難により、青と緑のグラデーションがかかった美しい瞳は濁り切り、ボロボロと大粒の涙を零す。

 (このままでは…わたくし…)

 胸中に広がる失意に、ついに魂魄が折れてしまう…かと思われた、その瞬間。

 優しく、暖かな手のひらが彼女の肩をポンっ、と叩いた。

 転瞬、彼女の意識を塗りつぶしていた甘言の霧が、一気に晴れ渡った。さきほどまでの苦悩は夢であったかと思うほどに、非常に爽快な気分になる。

 きょとんとして周囲を見渡すヴァネッサは、ホール内の人々もまた、投げ出していた五体を起こし、隣人と不思議そうに顔を付き合わせている様子を見る。どうやら一難が去ったようだが…一体、何がどうなったのか? 事情がよく飲み込めず、首を傾げるばかりだ。

 そんな彼女を、暖かな手が再度、肩を叩く。慌てて振り向いたヴァネッサがそこに見たのは――。

 「あ、あなた――!」

 

 一方、ロイとノーラも、この異変によって苛まれていた。

 特に影響が酷いのは、衰弱していたノーラである。ロイの手の中で、彼女は大きく目を見開いたまま、ガクガクと痙攣しながらブツブツと呟き続ける。「讃えます、崇めます、愛します、身を捧げます」と、呼吸する間も惜しむような勢いで早口で繰り返す。

 「おい、しっかりしろって!

 くっそ…やってくれるよなぁっ、"獄炎"のオバサンはよぉっ!!」

 ロイは憤怒を湛える瞳で、天空を睨みつける。彼は、この"異変"の正体を知っている。

 睨みつけた天空は、相変わらず焦熱地獄の赤に染まっている。その中央に悠々と存在する『天国』もまた、アオイデュアに来た当初と全く変わらず、荒れ狂う恒星表面の様相のままだ。ただし、この2点に加えてもう一つ、この天空に不可解な要素が追加されている。

 それは、巨大な紋章だ。その"巨大"の具合は、都市国家をすっぽりと覆うほどである。澄んだ紫色が混じった白い輝きで描かれたそれは、巨大な円の内部に、非常に複雑な模様――というよりも、何らかを象徴した抽象画のようだ――が描かれている。大きすぎて視界に入りきらず、全容を把握することは出来ないものの、網膜に投影された紋章は脳に直接イメージを訴える…業々と燃え盛る、血よりも星よりも濃い紅の火炎のイメージを。

 ロイはこの紋章の正式名称を知っている。『聖印』と呼ばれる、強大な神霊力が具現化した存在だ。そしてこれを作り出せる神霊力の持ち主は、天使や士師程度の存在ではないことも、苦々しいほどに知っている。

 『聖印』の出現が象徴する事象、それは…『現女神』自身の降臨である。そもそも『聖印』とは、『現女神』が空間転移するために作り出すゲートなのだ。そのサイズは神霊力の強さに比例し、領域内に『現女神』自身から由来する強烈な神霊力が瀑布のように注ぎ込まれる。これに魂魄が影響され、アオイデュアの人々やノーラが見せるような急性の精神症状が引き起こされるのだ。

 ロイが神霊力に屈しないでいられるのは、1年生ながらも士師から勝利をもぎ取るような修羅場を幾度もくぐり抜けたきた経験によるものだ。だが、そんな彼でも全く平気というワケでもない。脳裏には"獄炎の女神"を湛える言葉がチクチクと渦巻き、思考を圧迫している。

 そして更に、ロイの頭を痛めるような事態が発生する。『聖印』の中から、雲霞のごとく白い大群がゾワリとわき出したのだ。ロイは金色の眼をしかめ、大群の正体を確かめると…チィッ、と大きく舌打ちする。それらは全て、"獄炎"の天使だ。士師に比べれば戦力が小さいが、数が多すぎる。ざっと数えても千は超えているだろう。

 この大群を相手に、強烈な神霊力に耐えながら、苦しむノーラを庇いながら、戦えるだろうか? そう自問した直後、ロイの顔には冷たい汗が噴き出し、苦々しい笑いが浮かぶ。そう、笑わずにはいられない…あまりにも自明な無謀だ。

 そして生存本能が、ひっきりなしに叫んでいる――何もかも見捨てて、逃げろ。仲間だろうと何だろうと構うな。命が惜しくば、和毛ほどであろうと重荷を捨て、(かす)かでも身軽になって走れ。それが賢い選択だ――と。

 しかし…ロイはギリギリと歯噛みして、生存本能の叫びを噛み潰す。そして、凄みの利いた気概で、ニヤリと嗤いを浮かべる。

 「オレはバカだからな、賢い選択なんて知らねぇよ! 特に、仲間も何もかも見捨てて生き長らえるような賢さなんてモンは、特に持ち合わせてねぇよ!」

 続いてロイは、天使が呈する絶望の白が蠢く紅空を睨みつけ、叫ぶ。まるで、天を震わせ、大地に叩き落とさんとするかのように。

 「来るなら来いよ、天使ども!

 オレはな、ヒトであるよりも、『賢竜』であるよりも、星撒部の部員なんだよ!

 てめぇらみてぇに、人々から希望の星をむしり取ろうって輩を、見過ごせるワケがねぇんだよ!!」

 そしてロイは、視界を一転、ノーラに視線を注ぐ。いまだに『現女神』の神霊力の影響下にあり、脳を埋め尽くす強烈な誘惑に従ってブツブツと呟き続ける姿を認めると、ロイの表情が一瞬曇る。しかし、すぐに反骨心溢れる嗤いを浮かべると、力なく垂れ下がるノーラの手をギュッと握りしめ、語りかける。

 「なぁ、ノーラ! おまえだって、そうだろ? だからおまえは、自分の足で、心で! この大地に飛び込んだんだろ? このくそったれな地獄に、キラキラ輝く星を撒くためにさ!」

 ロイの言葉に対して、ノーラからの返事はない。彼女は相変わらずブツブツと、『現女神』を賛美する呟きを語り続けている。

 いや…微かに、そう、ともすれば見逃してしまうような僅かに、ノーラが反応を示した。濁りきってしまった碧の瞳が、ユラユラと揺れたのだ。これを目敏(めざと)く見て取ったロイは、気迫を捨てて、柔らかに微笑む。

 次いで眼を閉じ、しばし黙すると――勢いよく眼を開くと共に、再び絶望色が広がる紅空を睨みつける。

 「さぁ、やろうぜ、ノーラ! ヤツら一匹残らず、空の果てまでぶっ飛ばして、星の仲間入りにさせてやろうぜ!」

 語りながら、ロイは体内で闘気を練り上げる。再び竜化するつもりなのだ。実際に、彼の背中には物質化を始めた闘気が漆黒の翼を形成し始めている。

 その最中のことだ…不意に、背後から声が響いたのは。

 

 「うむ、さすがは我らが星撒部の部員じゃ! どんなに絶望の漆黒に塗りつぶされようとも、希望の星の輝きだけは燦々(さんさん)としておる! 全くもって清々しく、天晴れな気概じゃのう!」

 

 凛とした悠然たる響きに、古風な独特の物言いをする、若い女の声。ロイはこの声を、よく聞き知っている。なんといっても、ほぼ毎日耳にしているのだから。

 ロイは思わず安堵を覚え、ニヤリと顔が(ほころ)ぶ。

 「副部長!」

 声の主に呼びかけながら、ロイは勢いよく振り返る。すると果たして、彼の視界の中央に、予想通りの人物が映える。

 赤の空の禍々しい光を受けつつも、柔らかなハチミツ色の輝きとして反射する、豊かにたゆたう金髪。失われた清々しい空の色を思い出させる、深く澄んだ青の瞳。小柄な身体ながらも、その身どころか世界までも溢れさせるような威風堂々たる気概。

 星撒部の副部長、立花渚だ。

 しかし、ロイの視界に映ったのは、彼女だけではない。

 「それに…みんないるのか!」

 彼の歓声が告げる通りである。渚を中心に、左右にずらりと並んでいるのは、星撒部の部員達である。部長であるバウアーなる人物の姿は、残念ながらなかったが…部室に残っていた部員たちはおろか、このアオイデュアに散って戦っていたイェルグ、ヴァネッサ、大和の姿まである。ただし、ヴァネッサに関しては疲労の色が濃く、彼女が慕うイェルグに肩を借りている状況であるが、強がった笑みを見せるくらいには無事のようだ。

 ロイは安堵と歓喜のあまり、竜化のための闘気練成も忘れて、ひたすらに仲間たちへ歓迎の視線を注ぐ。それに答えるように、渚はウインクしながら、親指をビシッと立てた右拳を突き出す。

 「ナイスファイトじゃったぞ、ロイ! 仮入部員のフォローに、士師の撃破! そして、この状況下でも決して忘れぬ星撒部根性!

 じゃが、おぬしばかりにいい格好させるのも癪じゃからのう! わしらも混ぜてもらいに来たのじゃよ!」

 周囲の地獄の状況にも関わらず、渚は始終ひょうきんな態度で語った。そして、『聖印』が幅を利かせるおぞましい紅空を見上げた今も、その態度は変わらない。まるでちょっと邪魔な小石でも見るかのような、軽い態度だ。

 「それにしても、"獄炎"のヤツ、相当頭に来ておるようじゃなー。『女神戦争』でもないというに、これほどまで戦力を投入してくるとはなー。

 まぁ、士師が2柱もやられたのじゃから、焦るのは当然じゃろう。

 じゃがな…」

 ここに至って、渚はようやく態度を一変する。ひょうきんな笑みは、意地の悪い険しい嗤いへと豹変。身体から溢れる気概は、人の心を躍らせるような愉快な気配から、ヒトの心を持たぬ怪物すら震撼させるような威圧へ激変する。

 「人々の胸中に灯る星の光を、利己的な神性で塗り潰すそうなどという暴挙! 『地球圏治安監視集団(エグリゴリ)』の役人ども見逃そうとも、このわしは絶対に許さんぞ!

 おぬしの振り撒く絶望は、わしらが超新星にしてブチ壊してやるわい!」

 そして渚は、バンッと拳と手のひらを強かに打ち合わせる。世界全土に、自らの決意を響かせようとするかのように。

 「さぁ! ここからがわしら、星撒部の真の見せ場じゃぞ!」

 

 こうして、"獄炎の女神"の大勢力と、星撒部の精鋭達との決戦が、幕を開ける。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 暗い…暗い…暗い…。

 重くて、暗い。粘ついて、暗い。濁りきって、暗い。騒々しくて、暗い。

 色彩のみならず、聴覚も嗅覚も、そして思考すらも塗る込めるような無明の闇の中を、ノーラは漂っている。

 身を包む闇は、決して虚無ではない。その真逆だ――あまりに多量の情報で満たされている。それが重なりすぎて、まるで色を混ぜすぎた絵の具が濁りきった色を呈するように、漆黒を形成しているのだ。その点を鑑みると、"暗い"というよりも"黒い"と表現した方が正しいのかもしれない。

 だが敢えて、ノーラが"暗い"と知覚しているのは、闇がもたらす重圧と寒冷による。この闇の中には、開放感や暖かみをもたらしてくれる要素がどこにもない――"光"という要素が。

 いや…微かに、ほんわりと、右手を通して柔らかな光の感触を覚える。その心地よさに意識を委ねようとするが…圧倒的な質量で迫る闇が、それを許さない。重苦しく、やかましく、冷たく、ノーラを四方八方から責め立て、僅かな光の感触すら漆黒の中に塗り込めようとする。

 抵抗しようにも、全く力が入らない…入れられない。闇が力を、それを行使しようとする意志を、貪っているのだ。足掻けば足掻くほど、ノーラは虚脱の深淵へと落下してゆく。

 そのうちに…ノーラは、落下の感覚がだんだん楽しく感じてくる。周囲に高密度に蔓延(はびこ)る、うるさくて縛り付けてくる闇に比べると、なんと単純で爽快なことだろう!

 落下に身を委ねていると…深淵の向こうから、彼女を呼ぶ甘く、美しく、艶やかな声が囁いてくる。

 「私なら、あなたを救済できる。

 私なら、あなたを解放へと導ける。

 だから、ここに来て、私の手を取りなさい。私の手の甲に口づけしなさい。そして…私を讃え、崇め、愛しなさい」

 (…それで、この苦悩から解放されるのなら…)

 熱病に浮かされた者が、その病苦から逃れるために、とろけた思考でふらふらと益体もない迷信にすがりつくように…ノーラもまた、ふらふらと虚脱の深淵へと落下を続ける。そうするほどに周囲の闇はますます深まり、重くなり、粘つき、騒々しくなってゆくも、そうした煩わしい一切が一層ノーラの理性を奪い、落下に爽快感を添える。

 やがて…無限にも思えた深淵の向こう側に、輝きが見えてくる。それは鮮血よりなお鮮やかな、激しく揺らめき(きら)めく赤色をしている。目障りで耳障りな闇に飽き飽きしていたノーラは、この赤を歓迎し、自らの手足を一心不乱に掻き回し、深淵の向こう側へと急ぐ。

 ――その時だ。

 「その赤は、何の光じゃ? そもそも、あれは光なのか? おぬしの胸の内を、頭の中を、意識の大海を照らす、星の光であろうか?

 わしには、おぬしの理性を最期の一片まで焼き尽くし、物言わぬ従順な灰燼へと返る、業火にしか見えぬぞ!」

 どよめく闇の中に、はっきりと響きわたる、凛とした声。それは雷光となって漆黒を一直線に走り、ノーラの脳天を打つ。頭頂から脊椎、そして手足の末端まで、電撃が走り抜ける…だが、その烈しい刺激には、不思議と僅かな不快感さえも感じない。むしろ、自身を押し込める闇の圧迫を滅茶苦茶に破砕する爽快感に、身がぶるりと震える。

 実際、声の雷光は闇を切り裂いていた。雷光自体は曲がりもせぬ一直線であったが、その衝撃波で闇がバリバリと音を立てて幾筋もの亀裂を生じ、微細な破片となって瓦解したのだ。

 完全に崩壊した闇の代わって、ノーラを包むのは…(まばゆ)いほどの輝きを放つ、大小様々なサイズの光の塊…星々だ。

 「見よ! おぬしがその手につかみたかったのは、身を焼き滅ぼす業火などではない。己自身を照らし、そして己から世界を照らす、明星じゃろう!」

 

 その力強い呼びかけが、闇に縮こまっていた意識をガツンと叩いた時――ノーラは混迷の昏睡から、ようやく覚醒を得る。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 だるい瞼をゆっくりと開いたノーラの視界に、まず初めに飛び込んできたのは…。

 「あれ…相川さん…?」

 ボブカットにした艶やかな黒髪と、赤味を帯びたブラウンを呈する神秘的な瞳を持つ少女…ノーラのクラスメートであり、星撒部の一員である相川(あいかわ)(ゆかり)の顔である。

 「やっほー、おはよー、"霧の優等生"ちゃん」

 紫はサッと右腕を上げ、無感情っぽく呼びかける。

 その声に鼓膜が震わす頃、ノーラは後頭部を包む柔らかで暖かい感触に気付く。途端、紫に膝枕されていることを知覚すると、慌てて上体を起こす。

 「あれ…あれ…? 私、なんで相川さんの膝を借りてしまってるの…? というか…なんで、相川さんがここに? 星撒部の部室に居るんじゃあ…?」

 「相川だけではないぞい」

 状況が飲み込めずに混乱するノーラの背後から、独特の物言いをする少女の声が聞こえる。そちらへ振り返れば、そこには腕を組んで威風堂々と立つ、面白がるような笑みを浮かべた立花渚の姿がある。

 「わしら全員――いや、一部居らぬ者もいるが――ともかく、総出で出張ってきたのじゃよ。派手な喧嘩になりそうだったのでな、一口噛ませてもらおうと思ってな」

 渚はウインクをしてみせるが、ノーラは気が気でない。

 「派手な喧嘩って…。相手は、『現女神』なんですよ…! 降臨しない状態ですら、私たちの魂魄に深い影響を与えるような、凄まじい力の持ち主なんですよ…!」

 語りながら、ノーラははっと気付く。そう言えば…空に『聖印』が出現した頃、強烈な不快感に意識が混濁してしまい…その後の記憶は無くしてしまった。恐らく、『現女神』の強烈な神霊力に当てられて意識が狂乱し、思考が暗転してしまったのだろう。

 この事情を踏まえた上で、ノーラは素早く上空に視線を向ける。禍々しい紅の空には、いまだに『聖印』がデンと居座り、強烈な存在感を放っている。その機能は未だに健在のはず…だが、ノーラは今、神霊力の干渉による意識障害を全く感じていない。そのお陰で無事に覚醒することが出来たワケだが…なぜ、神霊力影響下で、意識的な抵抗手段も講じずに平気でいられるのか。理由が解らず、首を傾げる。

 疑問符が浮かぶついでに、もう一つ解ったことがある。思考が暗転するよりも前、徹底的に痛めつけられ、激痛と疲労の枷がまとわりついていた身体が、不思議と軽い。万全な体調とは言い難いが、平時の動作を行うには全く支障がない程度まで回復している。

 実際に、視線を己の身体に引き戻して見てみると…制服はズタボロなままであるものの、火傷に覆われていた皮膚は綺麗に治っている!

 「あの…! 私のこと、治療してくれたのは…副部長さんですか? それとも、相川さん…?」

 「はい、私の方ですー」

 紫がビシッと手を挙げ、自己主張する。すると渚がケラケラ笑いながら補足する。

 「相川は、見た目によらず、治療の腕は学園内でもトップクラスじゃ。特に、薬草類を使った治療術では、本気で他の生徒の追随を許さぬじゃろうな。

 これで愛想さえ良ければ、母性に飢えた男子どもからチヤホヤされるものを…」

 「スミマセンね、生まれながらの毒袋持ちなもので」

 紫は、ジト目で陰のある笑みを浮かべ、フフンと鼻で笑う。

 そこへもう一つ、新しい声が混じる。

 「渚の言う通りですわ。人を癒す時には、もっと和やかに、朗らかにあるべきですわよ。あんな険悪な半眼で接されては、落ち着けないどころか、こちらが悪いことをしているような気がしてきますわよ」

 この声は、ノーラが今日でよく馴染んだものだ。声の来る方…紫の身体がちょうど陰になった、その向こう側…に視線を投げると…果たしてそこには、思い描いた通りの人物が腰を下ろしている。

 水色から緑へ移り変わるグラデーションの長髪を持つ、優雅で多少高飛車な雰囲気をまとった女性――ヴァネッサだ。彼女の姿を認めた途端、ノーラの顔に明るい笑顔が灯る。過酷な士師との戦いを乗り越えられたのは、彼女の激励があったからこそだ…そう考えているノーラにとって、ヴァネッサは正に恩人なのだ。

 ヴァネッサもまた、ノーラの笑みを写し取ったように、クスリと微笑む。

 「ようやくお目覚めになりましたのね、眠り姫さん。一眠りして、頭の中がスッキリしたんじゃありませんこと?」

 「え…あの…えーと…。

 確かに…眠気は感じません。ただ…ちょっと、頭が重い感じが抜けきってませんけど…」

 受け答えしながら、ノーラはふと、首を傾げる。――そういえば何故、私は眠っていたんだろう? そもそも、本当に眠っていたのだろうか? 酷く悪い夢…というか、光景というか…を見ていたことは、はっきり覚えているが…。

 「まぁ、あれだけ意識を浸食されていたからねー」ノーラの隣で、紫が呟く。「脳活動がまだ本調子じゃないんだよ。今は安静にしてるのが一番ね。…ホラ、水でも飲む?」

 「うん…頂くね…」

 差し出してくれた紙コップを受け取ると、桜色の唇で柔らかく触れ、コクコクと小さな音を立てて水を飲み下す。冷たすぎない、優しい涼しさが咽喉から頭に浸透するのが心地よい。一度でコップの中の水を飲み干すと、ふぅ、と安堵の一息をつく。

 そこへ…まるでノーラの平穏を破壊するのを気に病むような態度をとる渚、申し訳なさそうな笑みを浮かべて頬を掻きながら、おずおずと語り出す。

 「そのぅ…おぬしの剣のことなんじゃが…」

 「はい…?」

 答えながら、そういえば、とノーラは思い出す。"溶融の士師”プロクシムとの激戦の最中、手から放れて溶融した壁の中にめり込んでしまって以来、手に戻す間もなく新たな士師との交戦に入ってしまい、それっきりだった。ロイの激闘の最中、通廊は天井も床も壁も吹き飛んでしまったので、今どこにあるか見当がつかない。

 そんな彼女の前に、渚は背中に手を回すと、なにやら酷く歪んだ黒い"消し炭"を取り出す。渚が掴んでいる部分が――ガタガタにひん曲がってはいるものの――細長くなっているので、辛うじて柄であると認識できる。しかし、刃の部分は…溶けて縮んだ蝋燭のような惨めな有様である。

 これを差し出した渚は、いよいよ苦笑いを大きくし、ヒクヒクと頬を痙攣させながら、揺れる声で語る。

 「これが…そのぅ…おぬしの剣なのじゃ…。

 あのロイの馬鹿、戦うことに夢中になりすぎて、おぬしの剣など眼中になくなってしもうてな…。ロイと交戦した士師に、好き勝手に高熱の荷電粒子をバラ撒かせたとの話じゃから…恐らくそのとばっちりを受けてのう…」

 ノーラはパチクリと大きな瞬きをすると、呆けた様子で渚の手から惨めな剣を受け取る。見事な黄金の刃も、刀身を豪奢に飾っていた優麗な装飾も、微塵とて面影はない。

 渚はバンッと両手を合わせて頭を下げる。

 「すまぬ! おぬしの唯一無二、壮麗優美な愛剣が、こんなになってしもうた! 償おうとて償えるものではないが、まずは頭を下げさせておくれ!

 本ッ当に申し訳ない!」

 渚の謝罪をよそに、ノーラは歪んだ柄をそっと握ると、クルクルと様々な角度に回しながら、愛剣の成れの果てを(ため)めつ(すが)めつする。その様子から渚は、愛剣との在りし日の思い出を懐かしみ、哀愁を感じているのだと判断し、ますます表情を暗くしたのだが…。

 「あ、"この程度"なら…」

 ノーラは至って軽く呟くと、ごく少量の魔力を練り上げ、大剣に投じる。すると、まるで枯れ始めた樹木が再び芽吹くように、消し炭の大剣が変形しながら伸び上がる。そしてほんの数秒後、大剣は元の荘厳にして優美な、磨き抜かれた黄金の輝きを取り戻す。

 このあまりにあっけない修復に、渚はおろか、紫もヴァネッサも目が点になる。

 「…へ…? 何なのじゃ、その…そんなにあっさりと…」

 拍子抜ける渚に、ノーラは朗らかに微笑みながら答える。

 「私、授業や個人訓練で、この剣をよく酷使してますから…。元の形状に定義変換するのって、とっても得意になっちゃったんです。

 完全に分子分解されなければ、なんとかなりますよ」

 「…さすがは"霧の優等生"、半端ないわねー。定義変換の時点で超絶技巧だってのに、それを大した魔力も使わずに実行して、消し炭を元の姿に戻すなんてさー。やっぱ、出来が違うんだろうねー」

 紫が賞賛するが、その口調は(かげ)りはどう解釈しても嫉妬の悪意が含まれているようにしか聞こえない。

 「ま、まぁ…ともかく。元に戻ったのなら…うむ、良かったわい」

 ほっと胸を撫で下ろした渚は、安堵に満ちたコメントを口にするのだった。

 

 寸劇のようなやり取りが一段落したところで、ノーラの思考は再び疑問の方へ向く。――どうして眠り込んでしまっただろう? それに、一緒にいたはずのロイは、今どこにいるのだろう?

 これらの疑問を口にすると、まず前者の質問について、ヴァネッサから答えが返ってくる。

 「"獄炎の女神"の神霊力にやられて、魂魄と脳活動とが乖離してしまったのですわ。

 ほら、空を見てご覧なさい。巨大な紋章がありますわよね? ノーラさんは、これまでに見たことがあるかしら?(ノーラは首を横に振る)…まぁ、当然ですわね。わたくし達みたいに、『現女神』と張り合うような活動してないと、中々目にしませんものね。

 あれこそ、『現女神』が降臨のために神霊力を練り上げて作り出した転移ゲート、『聖印』よ。あれ自体が高密度の強烈な神霊力の具現化ですからね、あれだけでも魂魄には相当の影響を与えるのよ。加えて、『聖印』から流れ出してくる『現女神』自身に由来する、直接の神霊力も混ざりますからね。かなりの訓練を積んでいないと、例え『地球圏治安監視集団(エグリゴリ)』の隊員といえども、深刻な症状に陥りますわよ。

 …と、まぁ色々しゃべりましたけれども、あなたの"眠り"は魂魄と脳活動の乖離による意識障害ですから、本当の意味での"眠り"とは別ものですのよ。実際、あなたはずーっと瞼を開いたままでしたしね」

 ヴァネッサの説明を聞いて、ノーラの顔が赤らむ。瞼を開いたままで意識障害に陥っていたということは…さぞや酷い表情をしていたことだろう。それをロイにもしっかり目撃されていたと考えると…羞恥で顔がカァーッと熱くなる。

 するとヴァネッサが腕をパタパタ振りながら、すかさずフォローに入る。

 「そんなに気になさならないで。わたくしだって、あなたと同じように意識障害に陥っておりましたもの。それだけではありませんわ、この都市国家の住民の大半が同じ状況に陥っていましたのよ。

 あなたもわたくしも、身も心も疲れ果てていたのですもの、神霊力に抵抗しきれずなくて当然ですわ」

 ヴァネッサの心遣いに、ノーラははにかむ。しかしここで、新たな疑問が湧き、羞恥を塗り潰す。

 「ヴァネッサ先輩でも抵抗できなかったほどの神霊力なのに…私はどうして、その影響から抜け出せたんでしょうか?」

 「ノーラさんだけじゃないわ」紫がどことなく、自慢げな雰囲気をまとって語る。「もうこの都市国家には、"獄炎"のオバサンの影響を受けてる住人は一人も居ないわよ」

 この言葉に対して、ノーラが更に問い質すより早く。紫は、腕を組んで空を見上げたまま仁王立ちする渚に視線を走らせて、言葉を続ける。彼女の視線には、明らかな羨望の色が混じっている。

 「今は、"獄炎の女神"の力を真っ向から打ち消す力が働いてるからね。『聖印』経由の神霊力程度じゃ、針の先ほどもこの都市には届かないわ。

 まっ、降臨してきたとしても、何の影響も与えられないでしょうけど」

 『現女神』に対し、皮肉たっぷりで不敬の言葉を語る、紫。その一方で、渚へのキラキラした羨望の輝きは決して失わない。

 そんな紫の様子につられ、ノーラもまた渚へと視線を注ぐと…あっ、と思い出す――この都市へ送り出してもらった時のことを。

 星撒部の部室からこの都市までの転移ゲートを作り出したのは、渚だった。その際、彼女は異様な"人型"を呼び出した。背中に一対の翼を持ったその姿は、デザインこそ異なれども、雰囲気はこの都市で飛び回る天使たちと非常によく似ていた。そんな存在を呼び出せるということは…。

 そんな風にノーラが思案している最中のこと。

 「あ、それと、ロイのことだけどさ」

 不意に羨望の輝きを消した紫の言葉が、ノーラの思考に割り込んでくる。

 「あ…うん」

 思案をひとまず棚に上げ、ノーラが紫に視線を注ぐと。紫は右手の人差し指を立てて空を指し、ゆっくりとクルリと円を描いて見せる。

 「あいつなら、バカ元気にこの空飛び回って、天使達相手に大暴れしてるよ。

 "暴走君"なんて呼ばれてるけどさ、あいつのバイタリティにはホント参っちゃうわー。士師相手にバカスカ大暴れしてもまだ飽き足らずに、一休みもしないですーぐに飛んで行くんだもの。どんだけエネルギー有り余ってるんだろうねー」

 皮肉の毒を込めて語る紫だが、どこか誇らしげで、そして楽しげだ。

 「あら、バイタリティなら、わたくしのイェルグだって負けておりませんわよ」

 ここでヴァネッサが、紫に張り合って己の恋人を誇る。

 「今回は士師との交戦の機会はありませんでしたけど、この都市が災厄に見回れて以降ずーっと! イェルグは人命救助に天使討伐にと、活躍し続けていましたわ!

 今回の活動の一番の功労者はイェルグだと評価しても、過言ではありませんわよ!」

 物凄い勢いで力説するヴァネッサの様子に、ノーラは顔を綻ばせずにはいられない。ヴァネッサは本当にイェルグにぞっこんなのだと思い知らされ、とても微笑ましい気持ちになる。

 「確かに、あやつら二人はよく働いておる。だが、今働いておるのは、二人だけではないぞい」

 ここで、空から視線を外した渚が、ノーラにウインクを投じながら口を挟む。

 「この都市を救わんがため、わしら星撒部は今! まさに一丸となって戦っておるのじゃ!

 のう、ヴァネッサ。ノーラに、皆の勇姿を見せてやってはくれぬか? 今のおぬしなら、"映晶石(テレスコルプダイト)"を生成して操るくらい、支障はなかろう?」

 「ええ、だいぶ休みましたから、問題ありませんわ。

 では、ノーラさん。私たちの…取り分けイェルグの勇姿を、ご覧なさいな」

 ヴァネッサは語りつつ両腕を前に突き出すと、軽く瞼を閉じて魔力を練り上げる。すると、宙に幾つかの小さな水色の結晶粒が発生する。それらはピキパキと乾いた音を立てながら徐々に体積を増し、いびつな多角形をした平たい結晶板と化す。板面は磨き抜かれた鏡のように美しく平坦で、ノーラ達の顔を歪みなく映している。

 ヴァネッサが更に魔力を込めると、結晶板が一斉に、ほんわりと青緑色に発光。直後、光が色彩をまとって沈着すると、それぞれの板面には動く光景が投影される。その様は、テレビディスプレイそのものだ。

 板面にはそれぞれ、一人の人物が中央にクローズアップされて表示されている。それぞれの人物が星撒部の部員であることは、説明するまでもない。彼らは各々が、多数の天使を相手に1人で戦いを繰り広げている。しかも、大して苦戦している様子もなく、天使たちをことごとく撃破しているのだ。

 

 それでは、ノーラが目にした星撒部の部員たちの戦いぶりを描いてゆくとしよう。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Stargazer - Part 8

 ◆ ◆ ◆

 

 まず、ノーラが注目したのは、ロイである。

 彼は再び『賢竜(ワイズ・ドラゴン)』の姿を取り、漆黒の竜翼をはためかせながら、自在に紅空を飛び回り、天使達の群へ自ら突撃する。そして鋭い手足の鉤爪を振り回したり、強靱な竜尾を一閃したり、牙だらけの凶悪な口腔から吹雪の息吹(ブレス)を吐き出したりと、怪獣そのものの暴れぶりで、天使達を次々と純白の羽根状をした神霊子へと分解してゆく。

 そんな彼の姿は、士師との戦いを制した直後と全く同じ姿をしている。制服はズタボロだし、竜鱗に覆われていない皮膚部には火傷の腫れも見える。だが、暴れ回る彼には、一切の苦痛も疲労も見て取れない。それどころか、ギラギラした剣呑な嗤いを見せて、身体を思い切り振り回すことを喜ぶ子供のように、戦闘を楽しんでいるかのようだ。

 ――星撒部1年生、ロイ・ファーブニル。学園中からは"暴走君"のニックネームで知られるが、彼をよく知る者達からは、また別の名で知られている。その通り名を、『暴黒竜』。

 

 次にノーラが視線を注いだのは、イェルグである。彼は相変わらず和やかな笑みを浮かべて、のほほんと壊れかけのビルディングの最上部に腰掛けている。

 しかし、彼の余裕綽々の有様とは逆に、彼を取り巻く状況は由々しいものだ。映画スターを取り巻くファンの津波のごとく、純白の天使どもが炎の玉を携えて押し寄せている。

 これに対して、イェルグは人差し指をたてると、その指先に小さな小さな黒雲が生成される。黒雲はパリパリと小さな音を立てて、青白い電流のアークを幾筋か宙に走らせる。

 …と、見えたその直後。水晶板の全面が青白い閃光に包まれる。同時に、耳を聾する轟音が水晶板をビリビリと震わす。震えが止まるよりも早く、網膜を焼き潰すような光が消えると…そこに現れたのは、天使の残骸を示す大量の羽根状神霊子だ。

 イェルグはたった一発で天使の群を(たお)してみせた選考の正体は、霹靂だ。指先に出来た黒雲は頼りない体積を持ちながらも、とんでもない電力を内包した積乱雲だったのである。

 ――星撒部2年生、イェルグ・ディープアー。自らを"空の男"と称し、その名に違わぬ空と天候にまつわる事象を操る男。彼をよく知る者は、彼のことをこう呼ぶ…『空の申し子』。

 

 次いでノーラが見たのは、大和が映る水晶板である。

 …とは言え、ノーラは初め、その映像の中に大和を認識できなかった。彼女が真っ先に目にしたのは、禍々しい赤の空を背にして闊歩する、巨大な金属製の人型機動兵器である。

 機動兵器は両腕に装備した大口径ヴァルカンや、背に生やす2門の巨大高射砲をぶっ放しまくり、空に大地に蔓延る天使達を片っ端から撃破しまくっている。

 そんなド派手で痛快な光景がしばらく続いた後、映像が機動兵器の中央部にズームインする。するとそこには、強化ガラス(と、思われる)に囲まれたコックピットに搭乗し、(せわ)しく機器を操作する大和の姿がある。

 先刻、ノーラと行動を共にしていた際には額に当てていたゴーグルを、今は目に当てている。ゴーグルの表面には蛍光色の照準やら数値やらがみっしりと描かれており、機動兵器を的確に操作するための情報インターフェースの役割を果たしているようだ。

 この巨大な機動兵器といい、多機能なゴーグルといい、おそらくは大和の定義拡張(エクステンション)能力の産物であろう。これらを全身を駆使して操る大和の顔は、ノーラを口説いた時よりも清々しく、活気に満ちている。己の思うがままに作り出した機械を扱う瞬間というのは、例え激戦下の状況であろうと、大和にとっては至福の時間であるようだ。

 ――星撒部1年生、神崎大和。部員一のお調子者である彼だが、"機械工学の求道者"の自称に恥じぬ、機械と道具造りの天才である。特に戦場においては、彼はありとあらゆるものから大量の兵器を作り出し、単身にして圧倒的な物量を実現する。その姿から彼のことを、"歩く兵器工場"と呼ぶ者もいる。

 

 ノーラが4番目に視線をやったのは、部室で折り紙を教えてくれた美女、アリエッタである。

 ノーラは部室で彼女を見かけた時から、そのおっとりとした物腰柔らかな雰囲気が争いには全く相容れないと感じていた。その考えは今も変わらない。

 そして、アリエッタ自身も、殺意溢れる天使に囲まれた現状においても、その雰囲気が変わることはない。危機感に焦ることも力むこともなく、血気に逸ることもない。ただただ、小春日和の微風の中に立つ桜の大樹のように、柔らかな微笑みを浮かべて立っているだけだ。

 脳活動まで小春日和の陽気にやられてしまい、現状がうまく飲み込めていないのでは…そんなハラハラとした焦燥感がノーラの中で生まれた頃。彼女の不安に応えるように、アリエッタがようやく動きを見せる。

 と言っても、彼女の動きは戦闘行為にしてはあまりにも緩慢である。春の陽気の中でジワジワ溶け出す残雪のような、ゆるりとした動きで身をひねりつつ膝を曲げ、腕を腰に延ばす。腰元には鞘に収まった刀が備わっており、アリエッタはこれを鞘ごと手に取る。そしてやはり、ゆるりとした動きで、天使達に見せつけるように刀を身体の前に突き出す。

 アリエッタの刀は、見せつける行為に相応しく、非常に優美な形状と装飾が施されている。純白地に複雑な金の装飾が施された鞘が、一際眩しく網膜に焼き付く。この美しさを見て、自らも剣術を扱う身であるノーラは、感嘆よりも不安を覚える。刀の美しさからは、所有者と同じく穏やかさをひしひしと感じ取ることは出来るが、戦いに対する覇気が全く感じられない。実戦向きというより、儀式向きの逸品だ、という印象が想起される。

 アリエッタが、ゆるりとした優美な動きで、鞘から刀身を取り出すと――ノーラは、自らの不安の的中を悟り、固唾を飲み込む。刀身は真冬の銀月を思わせる、ため息が漏れるほどに壮麗な輝きを放っているが…肝心の刃は、刃引きされている。つまり、刀剣としての殺傷力を持ち合わせていないのだ。

 そんな"無能な武器"を手にしたアリエッタが、強敵である天使たちを前にして始めたことは…なんと、"舞い"である。優麗な曲線的な動作は、春の日差しの元で穏やかに流れる雪解けの川を思わせる静けさと優しさ、そして儚さを見る者に植え付ける。その印象はノーラの意識に深く食い込むと、彼女はそれまでの不安も焦燥も忘れ、ひたすらにアリエッタの演舞に見入る。

 …この時、忘我の最中にあるノーラは、見入る光景の中にある"不可解"を認識できていない。その"不可解"とは、アリエッタを取り巻く天使たちが、無防備に舞い続ける彼女に対して何の攻撃行動も起こさないことだ。『現女神』が生み出した無感情な兵器のはずである彼らも、ノーラと同様に、アリエッタの優美な舞いに見惚れてしまっているのだ。

 アリエッタの舞は、実際には1分も続かぬ短い出し物であった。しかし、見入っていたノーラは、もっともっと長い時間、舞の穏やかさに浸っていたように感じる。天使たちも、同様の思いを抱いていたのであろうか? 彼らののっぺりとした白一色の無貌からは、推し量ることはできない。だが、彼らが身動き一つ取らずに、呆然とアリエッタの動作を見送っていたことは確かだ。

 やがて…アリエッタは刀と鞘を観衆に見せつけるように手前に突き出すと、ゆっくりと刀身を納める。そしてついに、キィン、という澄んだ鈴の音にも聞こえる鍔鳴りが響き渡り、舞の終演を世界に知らしめる。この音に鼓膜を穏やかに叩かれて、ようやくノーラは忘我から現実に引き戻される。とは言え、舞の余韻は魂魄に深く浸透しており、ノーラは拍手喝采を送りたくなる衝動に駆られる。だが、画面に映る天使たちの姿を改めて認めると、頭を振って余韻を追い出し、再び不安と焦燥を脳裏の奥底から引っ張り上げてくる。

 しかし…ノーラの心配を余所に、天使達はアリエッタの舞が終わってもなお、身動き一つ見せない。まるでゴルゴンの人睨みの前に石像と化してしまったかのようだ。…優麗なアリエッタの舞を怪物の凝視に例えるのは、(はなは)だ失礼な話であるが。

 …とは言うものの、先の形容はあながち的を外れたものではないかもしれない。

 何故ならば、停止した天使たちのことごとくが、輪郭がぼやけてゆき…やがてその身体も、霞のように不安定に揺らめいきながら薄れ…とうとう、影も残滓も無く消滅してしまったからだ。羽根状の神霊子へと分解される現象が確認できない点を鑑みると、形而上・形而下問わず破壊的作用が働いたワケではなさそうだ。とすると、天使たちを消し去ったのは、いかなる作用なのか。ノーラは全く理解できず、ひたすらに目をパチパチ瞬きさせるばかりだ。

 「いつ見ても見事ねー、アリエッタ先輩の剣舞は」

 不意に、深い感嘆のため息をつきながら、紫が(とろ)けた声を上げる。部員としてアリエッタと時間を共有している彼女は、当然ながら剣舞の作用を知っていることだろう。

 好奇心が抑えられないノーラは、素直に紫へ尋ねてみる。

 「アリエッタ先輩は、一体何をしたんですか…? どうして天使が、消えてしまったんですか…?」

 この問いに答えてくれたのは、渚である。

 「アリエッタの剣術は、"戦い屈服させる"技ではない。"魅せて楽しませる"技なのじゃ。

 天使どもはアリエッタの剣舞に魅せられ、楽しみ、本来の存在定義である『戦意』を喪失してしもうた。故に、あやつらはもはや天使ではいられず、全く異なる存在へと変質してしもうたのじゃ。何に変質したかは、映像越しでは判断できぬが、恐らく空気か空間と同化したのじゃろう。

 しっかしのう…こんな方法で天使を無力化できるのは、莫大な数の生徒を誇る学園都市ユーテリアでも、アリエッタただ1人だけじゃろうなぁ」

 多くの優秀な人材を束ねる星撒部の副部長をして、心底感心させるアリエッタの能力に、ノーラは畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

 ――星撒部2年生、アリエッタ・エル・マーベリー。故郷の伝統武芸、"アルテリア流剣舞術"の免許皆伝にして、「千年に1人の逸材」と称される天才剣術士。その剣舞は感情を持たぬ無機物にすら、感激を植え付けるとまで言われている。その端麗な美貌と立ち振る舞いから、”剣華"と称される。

 

 アリエッタの舞に心を洗われたノーラが、次に目に入れた映像は…先とは全く異なる、激しい雰囲気が全面から伝わってくる光景である。その中央には、息つく間もなく動き回っている1人の少女――部室では紫の隣に座っていた、狐型の耳と尾を持つ獣人、ナミトである。

 彼女の動きは、ロイと比肩できるほどの速度と激しさだ。翼を持たないため、さすがに"飛び"回ることはできないが、鍛え抜かれた張りのある腿を思い切り曲げ伸ばしながら、赤い空の下を"跳び"回っている。

 ナミトが扱う武器は、己の拳足のみだ。しかも、ロイのように攻撃的な形状に変化したものではない。旧時代の地球人類と全く同じものだ。そして、籠手を始めた具足は一切用いていない。素手素足にて、強敵・天使を相手に(わざ)を振るっている。

 ナミトの体術の動作自体は、さほど特別なものではない。東洋的な要素が見て取れるが、だからといって何かの体系立てられた武術流派を扱っているワケではなさそうだ。敵に対してひたすらに、最短で最適な動作を用いて、己の攻撃を当てるだけである。

 どんな達人であろうと、ただ拳足を当てただけでは、『神法(ロウ)』の加護を受ける天使を撃破するには至らない。それはナミトとて例外ではない。それゆえ彼女の攻撃には、工夫がこらされている。インパクトの瞬間、天使の体内から凄まじい轟音と爆裂が発生するのだ。これは打撃に闘気を乗せて、相手の体内で爆発などの作用を引き起こす技術、"発勁"である。闘気は戦闘的意志を力学的エネルギーに転化させたものであり、意志をぶつける戦闘技術はすなわち、敵対する存在の定義の否定へつながる。故に、天使に対する有効な攻撃手段となるのだ。

 戦っているナミトの姿に見入っているノーラは、部室で見かけた時との相違点を発見する。それは、尾の数だ。部室ではただ1つだったはずが、今は9つに増えているのだ。この数の差は、一体何を物語っているのか? その答えは、発勁を発動する直前に隠されているようだ。ナミトの拳足が天使の身体に抉り込まれた瞬間、尾にパリパリと紫電の糸が走る様が見て取れる。ここから鑑みるに、彼女の種族にとって尾とは、闘気を練り上げるのに一役買っている器官なのかも知れない。

 それにしても…嵐のように不断で戦い続けるナミトの表情は、満面の笑顔だ。まるで、極上の玩具を与えられた幼子のような様子である。ロイもまた戦いの際に笑みを浮かべるが、彼の場合はギラギラとした剣呑な表情だ。ナミトの純真無垢さとはベクトルが全然違う。

 この厳しい戦いのどこに、破壊衝動以外の楽しめる要素があるというのか? ノーラが疑問符を浮かべていると、それを横目で見た紫が答えを口にする。

 「"人生を楽しむ"…それがナミトのポリシーなのよ。言葉だけならよく耳にするけど、ナミトの凄いところは、それを徹底的に実践してるトコね。

 あの娘にとっては、どんなに辛い苦境も、楽しめる一要素に過ぎないのよ。あの娘曰く、"窮地をいかに切り抜けるかを楽しむ”ンだってさ。

 まぁ、手放しには羨ましがれないけど、ホント良い性格してるとは思うよ」

 そう紫が語っている最中、ナミトに早速窮地が訪れる。周囲を囲む天使たちが一斉に、猛烈な勢いで火球を雨(あられ)と叩き込んできたのだ。対するナミトは、もちろん、盾など持ち合わせていない。ノーラの常識で考えれば、魔術で障壁を作って防御するのがセオリーだが…ナミトからは、魔術を発動させる気配が感じられない。ただ単に、喧嘩の際に打撃を防御するのと同様に、顔と胸の手前で両腕を交差させて防御態勢をとっただけだ。

 あっ…とノーラが不安の声を上げたのと同時に、火球の群はナミトに直撃。盛大な火柱と爆発が映像を埋め尽くす。天使の炎の厄介な性質と威力は、都市を走り回って救助活動に当たっていたノーラはよく知っている。それだけに、ナミトの対応では悲惨な結末を呼ぶだけだと確信し、思わず眼を閉じる寸前までに細めた…のだが。

 すぐに、ノーラの眼は丸く開かれることになる。

 盛大で残酷な真紅の中から、勢いよく飛び出してくる人影がある。一呼吸の間もなく姿を現したその正体は――全くの無傷の、ナミトである!

 「え…嘘っ…!」

 ノーラが驚愕の声を漏らしている間に、ナミトは相変わらずのスピーディな動きで天使に肉薄。掌底や蹴りを思い切り見舞うとともに発勁を発動、天使の体内で闘気を爆発させて神霊子へと分解させる。

 ノーラは完全に紫へ顔を向け、身振りで説明を要求する。紫はニヤリと(かげ)りを含んで面白がる笑みを作ると、人差し指を立てながら要求に応える。

 「闘気を攻撃に使う技術、"発勁"が存在するなら、闘気を防御に使う技術も存在する。それが、"鍛功"よ。

 物理性質自体を術式によって拡張したり付加したりする身体(フィジカル・)魔化(エンチャント)と違って、"鍛功"は"性質に『力を込め』て、性能を引き上げる"って代物らしいわ。術式を構築する手間がない分、発動までの時間は断然短いんだけど、身体をミッチリ鍛え込まないと実現できないんだってさ。

 ナミトみたいに、筋肉とナイスバディの二物が同居できる身体に生まれたなら、修得するのも面白そうだけど…私はパスだね、ただの女マッチョになりそう」

 紫が説明する間にも、ナミトは次々と天使を撃破し、周囲を純白の羽根状光だらけにする。その中で汗をキラリと光らせながら無邪気に笑う彼女の姿は、アリエッタとは違う、健康的な美しさで輝いている。

 ――星撒部1年生、ナミト・ヴァーグナ。"仙獣(ビーセージ)"と呼ばれる獣人系人種の少女であり、"発勁"と"鍛功"の達人。無邪気な笑いで激闘を制し続けてきた彼女には、"悦狐"の通り名が送られている。

 

 ノーラが最後に覗き込んだ映像は、星撒部一の苦労人(?)、蒼治である。

 彼も戦闘に際しては、よく動き回っているが、ロイやナミトほどの勢いはない。その行動からは、どこか物静かで、計算高い(さか)しさが見て取れる。

 彼の戦場は、ロイと同様、地上のみならず空中にも及んでいる。とは言え、彼にはロイのように背から翼が生えているワケではない。ただし、翼の代替というべき青白い"部品"が3対6枚、背中の周囲を覆っている。この"部品"の正体は、翼状に変形した方術陣だ。これを翼さながらに器用に扱い、空中を自在に飛翔している。

 蒼治の武器は、両の手に一丁ずつ握られた拳銃である。ただしこの武器、射撃目的にだけ特化した代物とは違う。長めの銃身の上下には強化フレームが取り付けられ、物理攻撃の防御や殴打による近接攻撃を考慮されている。実際、蒼治は接近した天使をこの銃身で強打し、後退させて間合いを取る戦術を見せている。

 蒼治はマニュアルとセミオート連射を巧みに切り替えながら、的確に天使に弾丸を運び、撃破している。その動作を眺め続けていたノーラは、ある違和感に気付く。それは…ひっきりなしに銃撃しているのに対し、リロード動作が全く見受けられないことだ。

 しかしノーラは、すぐに違和感を払拭して納得する。その理由は、射出される弾丸自体が明かしてくれる。弾丸は蛍光の魔力励起光を発しながら宙を疾駆する――それは、方術のスペシャリストである蒼治が弾丸を魔化(エンチャント)しているからだ、と"誤解"していた。だがこの弾丸、実際には一切の物質を用いていない、高密度の術式で形成された純粋な魔力弾なのだ。つまり蒼治は、逐次の射撃の際に方術で弾丸を作り出しているワケだ。機械のセミオート射撃にも対応できる速度で、実用的な魔術弾丸を連続で作り出すとは…達人業という言葉すら霞むほどの技量である。

 そんな強力な業を駆使する一方、蒼治の表情は酷く険しい。眼鏡越しの細い目は厳しい鋭さを帯び、食いしばった歯が薄い唇の間から覗いている。そんな彼の表情は、交戦を繰り広げている部員たちの中でも明らかに浮いている。群れて襲いかかってくる強敵相手に、不断の魔術酷使も相まって、大苦戦しているように見えるが…?

 「あの…渚先輩、蒼治先のこと、援護した方がいいと思うんですが…」

 ノーラがたまらず言及すると、渚はチラリと蒼治の映像を見やったが、すぐに視線を空に戻してしまう。とは言え、彼のことを見限った、というワケではなさそうだ。その証拠に、渚の顔には余裕溢れる笑みが浮かんでいる。

 「蒼治の戦っている様が、苦しげに見えるので、気になるんじゃろ? 初めてあやつの戦いを見る者は皆、そういう感想を抱くものじゃ。

 じゃが、安心せい。蒼治にとっては、いつものことじゃよ」

 この台詞を、突き放した冷酷さと受け取ったノーラが、隣に座す紫に視線を向ける。だが、ノーラに視線で応える紫の表情には、渚への同調が見て取れる。納得のいかないノーラは、更にヴァネッサにも視線を向けるが…彼女も極々平然とした様子で、己が制御する映像を見ているだけだ。

 ノーラの胸中に不安が膨らみ、露骨にそわそわし始めると。渚が再び空から視線を外し、苦笑いを浮かべながらノーラへフォローを入れる。

 「蒼治のヤツ、仮入部員に心配させるとは、罪作りな男じゃのう。

 じゃがな、ノーラよ、本当に心配する必要はないのじゃぞ。よく見てみよ。蒼治のヤツ、別に苦戦しているワケではないのじゃ。その証に、ホレ、天使どもを一発で仕留めておるじゃろう?」

 渚は指差しまでして、ノーラを説得にかかる。なるほど、彼女の言う通り、蒼治の射撃は一々天使を的確に捉えると、大きな球状の青白い爆発を起こし、その後には純白の神霊子の蒸発現象を残す。たまに天使に接近されることはあるが、銃身の殴打や巧みな蹴りで間合いを取るため、押し込まれている様子もない。表情さえ気にしなければ、かなり優勢に戦いを進めているように見える。

 ノーラがようやくこの事実を認識し、ほうー、とため息を吐くと。それを耳にした渚が、こめかみに指を立ててグリグリしながら、眉根を寄せて語る。

 「蒼治のヤツはのう、希望の星を撒くこの部に所属しているくせに、自分自身に対してはひどい悲観主義者なのじゃ。

 よく言えば、慎重派、とも表現できるかも知れんが…相手が明らかに格下であろうと、常に最悪の展開を予想して立ち回る。それ故に、いつでもあのように辛そうな顔をしておるのじゃ。大抵、あやつの予想は杞憂そのものなんじゃが…どうにも、身に染み着いた習慣というか性質というものは、そうそう消えぬようじゃ。

 あやつが平々凡々な表情で臨めるのは、ウォーミングアップ目的の練習試合くらいなんじゃよ。全く、難儀で小心極まりない性格じゃわい」

 そうこうと渚が言及している間にも、蒼治は苦虫を噛み潰したような顔のまま、二十を超える数の天使を軽々と撃破している。この頃ようやくノーラも、蒼治のことを気難しい実力者なのだと、半ば呆れながら安心して映像を眺めるようになった。

 ――星撒部2年生、蒼治・リューベイン。常識的にして慎重な性格ゆえに、勢い頼みの行動派が揃う部員たちへの気苦労が耐えない、苦労人。そして、学園内でもトップレベルの方術操作技術を持つ実力者。彼の紺の髪色と、ブルーな雰囲気から、彼の実力を認める者は『鬱蒼の狩人』と呼ぶ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ノーラが、ヴァネッサの映像を一通り目にした頃のこと。彼女の隣に座っていた紫が、おもむろに立ち上がる。

 「さーて、ノーラちゃんも部員のみんなの戦い振りに突っ込み入れられるくらい元気になってきたことだし。

 ヴァ姐さん、ノーラちゃんのこと頼んでも良いですか?

 私もそろそろ体動かさないと、あとで部員のみんなに睨まれちゃいますからねー」

 「あら、そんなこと気にする必要ありませんのに」

 紫の棘を含みつつも冗談めいた言葉に対し、ヴァネッサはまともに返答する。

 「あなたが、わたくし達のために献身的に治療して下さったことは、周知の事実ですわ。文句など言われるはずがありませんわよ?」

 すると、紫は切ないような、はにかむような、可笑しな表情を浮かべる。

 「…いや、知ってますけど…。

 私も他の部員のみんなみたいに、カッコよく活躍したいだなんて、恥ずかしくてマトモ言えなかっただけです…。言わせないで下さいよ…」

 「あら、そうでしたの! それはそれは…悪いことを致しましたわ」

 「いえ…もう良いです。気にしてませんから」

 紫は言葉ではそう言うものの、顔を赤くしながらプルプル震える様子からは、どう見ても"気にしていない"ワケがなさそうである。

 だが、紫はいつまでも気にしてはいない。はぁー、と長いため息と共に挫けた意気を体内から吐き出すと。先刻と打って変わって、刀剣のようにキリリと引き締めた表情を作り、禍々しい赤の空を睨みつける。

 この時、ノーラ達の頭上には丁度、5体の天使が姿を見せていた。彼らは恐らく、交戦を続ける部員のいずれかの元に向かっていたのであろう。しかし、眼下にノーラ達を見つけると、慣性を無視した動きで飛行を急停止。5体は螺旋を描きながら、弧状の翼上に炎弾を生成しつつ、降下してくる。

 「よっし、おあつらえ向き!」

 紫は指を鳴らし、勇ましく呟く。直後、彼女は両の眼を瞑って深呼吸すると、体内で術式を練り上げる。すると、彼女の体から赤白い魔力励起光が揺らめく円柱状に発生する。まるで、紫の闘志がそのまま燃える炎へと転化したかのような光景だ。

 励起光の柱が出現して、数秒と経たぬほどの短時間の後、紫の体に変化が起こる。彼女の衣類一式…いや、それだけでない、衣類を装飾品の類をつけていない頭や掌まで…が、励起光と同じ色に塗りつぶされる。光はやがて形状を変え、曲線的でありながらも堅固な印象を持つシルエットを持つ。

 形状が完全に固定したのと同時に、光が蒸発するように弾けて消滅。そして露わになった紫の姿は…赤と白を基調とした、体のラインにフィットする機械装甲に覆われている。ただし、"機械装甲"と言えども、無機質な兵器のような印象は持ち合わせておらず、女性的な柔らかさを持ち合わせた、"暖かみのある鎧"といった印象だ。特に、頭に装着されたティアラ状の部品は、猫耳を思わせるような可愛らしいデザインとなっている。

 紫の見せた能力は、『魔装(イクウィップメント)』と呼ばれるもので、『変身』能力の一分野である。変身能力自体も希有な能力であるが、『魔装』はその中でも一際珍しい能力である。術者自身にマッチする物品しか作り出させないという制約はあるものの、魔力を用いて無から有を作り出すこの力は、定義変換(コンヴァージョン)同様、"神に近い技術"とされている。

 紫のこの能力を目にしたノーラは、思わず目を丸くして見入る。ノーラと紫はクラスメート同士であるが、こんな希有な力の持ち主だとは知らなかったのだ。そもそも、クラスでの紫はあまり人との接触を持とうとしないため、クラスメート達の観点からはノーラ以上に未知の人物として扱われ、忌避されているようなきらいさえあるのだから、あまり情報がないのだ。

 ノーラの視線に気付いた紫は、ニンマリと笑って口元に指先を当て、おどけて語る。

 「ウッフッフ、私のシークレットでグレイトな変身に見とれちゃったかなー?

 そのままハートにクラクラ来て、倒れたりしないように、気をつけなよー!」

 語尾にウインクまでつける紫の動作は、彼女の普段の態度とあまりにかけ離れており、ノーラは困惑して目を白黒させる。

 そんなノーラをしばし面白がって見つめていた紫であったが…やがて、降下してくる天使達の神霊力がヒシヒシと皮膚を刺すようになると、キリリと顔を引き締めて上空を睨みつける。

 「っとと、あんまりおどけてる場合じゃなかったわね。

 それじゃヴァ姐さん、後はよろしく!」

 ヴァネッサに向かって指で敬礼するような仕草を残した直後、紫は脚部装甲に装備されたバーニア部を点火。ボォッ、と大気が爆発的に燃焼すると同時に、紫の体が宙に浮かび――一気に急加速しながら、天使たちの元へと肉薄する。

 接近の途中、紫は両手で虚空を握りしめる仕草を見せる。直後、両手を端として、またもや赤白い魔力励起光が発生、グンと幅広に延びる。その大きさたるや、紫の体をすっぽりと覆うほどの面積だ。やがて励起光は小片へと破砕、剥離すると…そこに現れたのは、巨大な剣だ。しかも、単なる大剣ではない。刃にはチェーンソーを思わせる、蠕動する荒い凹凸があり、刀身の峰の部分には3つ並んだバーニア機関がある。紫の魔装に付随して生成される、彼女専用のユニークな武器だ。

 紫はこの大剣のバーニアをも起動させ、さらに上昇速度を加速。赤い稲妻となって天使達の元へと接近すると――!

 「セイッ!」

 鋭い呼気と共に、大剣を暴風と化して一閃。凹凸が蠕動する刃は、一気に3体の天使を薙いで激突する。転瞬、轟ッ、と大気が激震する轟音が響く――いや、違う。震えているのは、大気ではない。轟音と共に発生した漆黒の雷電を伴った黒い球体、その周囲の光景がグンニャリと激しく歪んでいる様子見て、ノーラは覚る。震えているのは、空間そのものだ! そしてインパクトの瞬間に生じた黒い球体、それは暴走する重力の渦なのだ。

 重力の渦は、斬撃をまともに受けた3体の天使のみならず、近くを飛んでいた2体の天使まで引き寄せると、まるで雑巾を絞るように激しく捻り潰しながら、漆黒の深淵へブチ落とす。天使達は美しい純白の神霊子の光を残すことも出来ず、静かにその存在に幕を下ろす。

 あっと言う間に5体を片づけた紫は、収縮して消えてゆく重力塊を過ぎり、そのまま飛翔を続けて赤の空の中へととけ込んでゆく。その飛翔の軌跡の途中には、いくつもの漆黒の球が葡萄の実のように連なって発現する様が見える。その一々が、天使の撃破を物語っているのだろう。

 ノーラのことを散々"霧の優等生"と呼んで持ち上げている紫だが、彼女自身も相当の実力者である。

 ――星撒部1年生、相川紫。クラスの中では、寡黙で人付き合いのない、謎に包まれた人物。だが部活動下で明らかになるその実態は、ブラックユーモア溢れる毒舌家であり、希有なる能力『魔装』の持ち主。彼女の実態を知る数少ない者達は、魔装発動後の赤白い装甲を纏って暴れ回る姿から、『赤雷の剣姫』の渾名(あだな)を送っている。

 

 紫も戦場へと飛び出しまい、残るはヴァネッサとノーラの"お疲れ組"と、未だに空ばかり睨みつけて動かぬ渚の3名となってしまった。

 「全く…紫ったら、やる気旺盛なのは誠に結構ですけど…。わたくしたちが要救助者だということ、すっかりと忘れて飛び出してしまうなんて、理不尽極まりない話ですわね」

 ヴァネッサは肩の高さに手を挙げて首を振り、やれやれとため息を吐く。

 「おまけに、わたくしは了承なんてしていませんのに、ノーラさんのお世話も丸投げするんですものねー。

 …あっ、ノーラさんが悪いと言っているワケではありませんからね、悪しからずですわ!」

 慌ててパタパタ手を振りながらフォローするヴァネッサの様子がなんとも滑稽に見えてしまい、ノーラはクスクス笑いながら頷く。

 「それにしても…」ノーラがヴァネッサに語りかける、「相川さんって、この部にいるときは、とても活き活きしてるんですね…。クラスに居るときと全然違うので、ちょっとびっくりしました…」

 「あの娘曰く、"仲良く出来る人間の数が限られている"、のだそうですわ。

 そんな性格をしていながら、不特定多数の皆さんに希望の星を撒くこの部活に所属しているというのは、なんともおかしな話ですわよね」

 そんな世間話をしていると…再び、頭上からチリチリとした神霊力の波及が現れる。ヴァネッサとノーラがほぼ同時に天を向くと、そこには案の定、天使の姿がある。その数はざっと10体程度と、さっきより数が多い。

 「あーあ…これは明らかに、紫さんの所為(せい)ですわね…」

 ヴァネッサが苦々しい笑いを浮かべ、去っていった少女への苦言を吐く。

 「折角、蒼治が事前に魔力的迷彩を施してくれましたのに…派手に戦闘なんてやらかしたものですから、天使たちに目をつけられてしまいましたわ」

 ヴァネッサの言葉は紫への当てつけとも聞こえるが、あながち的を外れた意見ではない。実際、紫が戦闘を行うまでは、天使たちがこの地点を目的に集結してくることはなかったのだから。

 だが今、赤い空を見上げると、頭上の10体のほかにも、この地点へ向かうような動きを見せる天使の姿がチラホラと見える。紫の派手な行動が引き金になってしまったのは、事実のようだ。

 ノーラはこの時、チラリと渚へ視線を走らせた。ずっと空を見つめている彼女のことだ、天使の存在に気付かないワケがない。しかし、彼女はノーラ達に警告するでもなく、撃退行動を取るワケでもない。ひたすらに空を――とりわけ、『聖印』の中心を睨み続けているだけだ。ヴァネッサやノーラのように、負傷したり疲弊したりしている様子は全くないのだが…。

 (一体、何をしてるんだろう…?)

 部員に気を配る立場であるはずの副部長が、傷つき疲れ果てた部員たちの世話もせずに、虚空を見つめることがそんなに大事なのだろうか? ノーラが胸中で不満の棘を尖らせるが、当の渚は気付くもはずもなく、どこ吹く風といった風体である。

 一方、こんな副部長の態度をとうに見限っているのか、ヴァネッサは不満を漏らす素振りを一切見せない。それどころか、人差し指をピンと突き立てた右腕を上げ、自らの手で事態を打開すること世界に宣言する。

 「全く…先輩遣いの荒い後輩を持つと、気苦労が絶えませんわね」

 ため息を吐きながら口にする不満は、渚に対するものではなく、紫へのものである。渚へ不満をぶつけないのは、同年代のよしみによる気遣いであろうか?

 真相はともかく…そうこうしている間にも、天使達は一直線に降下を続け、ノーラたちの元へ迫り来る。弧状の翼には幾つもの炎弾をたわわに実らせており、すぐにでも破壊衝動をブチ撒けそうだ。

 だが、天使達が衝動が行動に結びつくことはなかった。天使の周辺から突如として、パキパキ、と言う乾いた音が騒然と鳴り始める…それと同時に、宙に深い青色をした結晶が最初は平面的な多角形状に、徐々に厚みを増してゴツゴツした多面体へと成長してゆく。やがて結晶は天使の体に接触、そのまま内部へ飲み込んでゆく。天使達は無貌ながら、この事態に明らかに慌てて始める。まるで捕まったトンボのようにジタバタと体をうねらせ、水晶からの脱出を試みるのだ。この行為にすっかりと気をとらわれてしまったらしい、炎弾を形成するための魔力集中が途切れ、炎は情けなく萎んで消えてゆく。

 天使たちは必死にもがけども、水晶の捕縛からは決して逃れられない。それどころか、水晶は更に成長を続け、天使の全身を飲み込んでゆく。ついに天使が、琥珀に閉じこめられた蜂のように、水晶の中にすっかり閉じこめられてしまうと、水晶は重力の為すがままに自由落下。巨大な雹のように大地に激しく激突し、盛大な砂埃を上げる。

 この美しくも奇妙な現象を引き起こしたのは、言うまでもなく、水晶使いのヴァネッサだ。ピンと立てた人差し指の先端は、高密度の術式の励起光によって眩い青白色に輝いている。広大なコンサートホールの敷地を丸ごとカバーできるほどの強大な魔力を扱える彼女のことだ、効果範囲を限定して結晶凝固に集中すれば、『神法(ロウ)』を打破して天使どもを水晶の棺に閉じ込めることくらいやってのけて当然であろう。

 直近の危機を見事に打開したヴァネッサであるが…彼女は決して気を抜かない。むしろ更に険しい表情を作って、天使が舞う空を睨みつける。彼女の懸念は、果たして的中した…仲間を斃されたことを察知した天使たちが、更に数を増してこの地点目指して集結する様子が見て取れる。事態はますます面倒な方向に進んでしまったようだ。

 ヴァネッサは小さくため息をつくと、落下した水晶塊を見回す。水晶塊の中には、天使たちが神霊子に分解されぬままに封入されている。

 「さあて、天使の皆さん、あなたがたの出番ですわよ」

 ヴァネッサが言葉を口にすると共に、指をパチンと鳴らす。同時に、彼女の体から大量の魔力が水晶塊一つ一つに向けて流れ込んでゆくのを、ノーラは敏感に感じ取る。

 魔力を受け取った直後から、水晶塊に早速変化が起こる。封入された天使が、熱水の中で急速に溶ける氷のように縮みだす。それと反比例するように、水晶塊はガキガキと激しく軋む音を立てながら、樹木が枝を伸ばすような有様で成長する。やがて形状が、一対ずつの手足と翼、そして一つの頭を持つ人型の姿を取ると…パキンッ、と澄んだ破砕音を響かせて細かい結晶片を撒き散らし、細かいディテールを整える。そうして完成したのが、芸術品の領域にも及ぶ緻密で豪奢な装飾が施された、翼を持つ水晶の鎧巨人だ。その体高は、優に5メートルにも及ぶ。この巨躯よりも、さらに頭一つ分も長大な斧槍を左右の手に一つずつ装備したその姿は、空を飛び回る無貌の天使よりも神々しく、力強い。

 ヴァネッサの得意技、水晶の使い魔の生成が今ここに、完遂したのである。

 「さあ、お行きなさい、わたくしの忠実なる兵士達よ!」

 ヴァネッサは戦争映画の軍師よろしく、大仰に右腕を振るって使い魔達に下知する。

 「あなた達の結晶構造には、天使の神霊力を封入しましたわ! その力を存分に振るい、弱き者たちを虐げる天使どもを成敗しておやりなさい!」

 「応ッ! 我らの存在の全ては、我らが姫の御為に!」

 ヴァネッサの命令に応え、使い魔達が一斉に雄々しい声を張り上げる。そして次々に翼をバサバサと大きく打ち振るわせて巨躯を宙に躍らせると、一直線に天使達の群へ向かって突撃してゆく。天使と異なり、意志の疎通が出来る彼らであるが、その感情は仮初めのものである。彼らは自らの存在が破壊されることへの恐怖など微塵も感じることなく、機械的な勇敢さで敵へと立ち向かうのだ。

 使い魔たちを見送ったヴァネッサは、ふうー、と一仕事終えた安堵のため息を吐くと。ノーラに和やかな視線を送り、自嘲の色が混じる小さな笑みフッと浮かべる。

 「ノーラさんはもうお分かりと思いますけど…この部に足をつっこむと、怪我をしようが疲れ果てていようが、おちおち休んでもいられなくなりますわよ」

 そう語るヴァネッサの声は、うんざりとした不満よりも、多忙の中にやりがいを見い出した誇りが色濃く滲み出ていた。

 ――星撒部2年生、ヴァネッサ・アネッサ・ガネッサ・ラリッサ・テッサ・アーネシュヴァイン。その長たらしい名前は、出身世界において貴族階級にあることを意味する。恵まれた環境に生まれ育ちながらも、その恩恵のぬるま湯に浸り続けることなく、自らの意志で過酷な人生に飛び込んだお嬢様。しかしながらその実力は、彼女を単なる"物好き"に留めない、確固たる本物である。その厳然たる貫禄と、華麗な水晶の技を扱う姿から、『翡翠の戦姫』の称号で通っている。

 

 さて…ヴァネッサが回復したての力を振るって、天使との戦いに本格的に参加する一方で…。副部長である渚は、やはり一向に参戦する気配がない。相変わらず『聖印』の中央を見据え、腕組みして立っているだけだ。その姿勢だけは威圧感たっぷりだが、実益は全く伴っていない…そう判断したノーラは、段々と渚に対して不満を募らせる。

 そしてついに、ノーラは少しムスッとした様子で、言葉の棘をぶつける。

 「…副部長さんは、戦わないんですか…? 部員の皆さんは、とても頑張っているますけど…」

 「ん? そうじゃな、皆、本当によく戦っておるのう。『地球圏治安監視集団(エグリゴリ)』でも、ここまで戦える者はそうそう居るまい」

 「…あの、そうではなくて…」

 話の方向をはぐらかす渚に、ノーラはますます不満を募らせると。その感情を直球の言葉に宿す。

 「なぜ副部長さんは、みんなと一緒に頑張ろうとしないんですか? どうして、空ばっかりぼーっと見つめてるんですか?」

 すると渚は、後輩の苦言に気を悪くすることもなく、ハッハッハ、と余裕綽々に声を立てて笑う。

 「要の秘密兵器が、ホイホイと前線に出てはいかんじゃろ?」

 "秘密兵器"…? その言葉が一体、何を意味するのか。全く理解できないノーラは、眉根を寄せて首を傾げる。

 しかしノーラは、その不可解な言葉を単なる言い逃れと判断することにした。そして、募った不満に同意を求めて、ヴァネッサへと視線を向けた…が。彼女は全く気にすることなく、むしろ納得し切った様子だ。それどころか、ノーラの不満を解くべく、語りかけすらする。

 「良いのよ、これで。

 むしろ、こういう場合に渚が出張ると、事態が酷くややこしくなってしまいますのよ。

 必要な時にキチンと働いてくれれば、それで十分ですわ」

 「ま、そういうことじゃ」

 まだ納得していないノーラへ、渚は悪びれなくウインクを送る。

 「しかし、案ずるでない。わしの出番は、必ず回ってくる。不幸にも、のう」

 "不幸にも"。その言葉がチクリとノーラの不満を突く。――確かに彼女にとって不幸だろう、怠けられなくなるのだから――そんな風に嫌味な方向に解釈したノーラは、こっそりとジト目で渚を睨みつける。

 …とは言え…不動の渚に文句をつける自分自身も、戦闘に荷担できてない。その事実を顧みると、渚への不満がヘナヘナと力を失って萎んでゆく。

 一応、ノーラは動けなくても面目が立つ理由を抱いている。意識を失って紫に解放されるまで、都市国家のために休まずに働き、士師との戦闘もこなしたという実績があるのだ。だが、ノーラはこの実績を頼れないでいる。同じくこの都市で働き続けた大和、イェルグ、ヴァネッサ…そして、彼女と全く同様に士師との戦闘もこなしたロイも、未だに戦闘の最前線に立っているのだ。それに比べると、休養にどっぷり浸かっている自分が情けなく、そして怠け者に見える。

 「あの…ヴァネッサ先輩。何かお手伝いできることはありませんか…?」

 ノーラはたまらずに、ヴァネッサへおずおずと尋ねる。紫に――詳細はよく解らないが――治療してもらったとは言え、正直、戦闘をこなせるような気力はない。だからせめて、雑用をこなすくらいのことはしたいのだが…。

 尋ねられたヴァネッサは、ニッコリと和やかに華やいだ笑みを見せると、やんわりと首を横に振る。

 「初めて部活動で、こんな大変な状況に放り込まれたんですもの。あなたは十分すぎるほどに、頑張ってくれましたわ。まだ体調は万全でないのですから、ゆっくりとお休みなさいな」

 「いえ…! 自分から望んで、みなさんのために何かやりたくて、ここに来た身です!

 このまま休んでいては、何のためにここに来たのか、分からなくなります…!」

 強く訴えるノーラに対し、ヴァネッサは心底困った苦笑いを浮かべつつ、諭す。

 「あなたはもう、十分にわたくし達のため、そしてこの都市(まち)のために働きましたわ。その実績を疑う人なんて、どこにも居りませんわよ。

 そんなことは気にせず、まずは十分に体をお休めなさいな。むしろそれこそが、今のあなたがわたくし達、そしてこの都市のために出来るベストだと思いなさいな」

 「…でも…! 私以上に頑張り続けてきたヴァネッサ先輩は、今もこうやって、頑張ってるじゃないですか!」

 ノーラはなおも食い下がるが、ヴァネッサは笑みで彼女の勢いを食い止める。

 「わたくしのことなら、心配無用ですわ。だってもう、慣れっこですもの。

 経験の少ないあなたが、爪先立ちするほど無理をして、わたくし達と肩を並べる必要はありませんわ」

 「もしも…」

 急に言葉を挟んできたのは、空から視線を外しノーラを見つめる渚である。

 「おぬしがわしらと同じ域に立ちたいのならば、いっそ本入部して、わしらと共に場数を踏めば良い!

 おぬしも身に染みて知った通り、決して楽な活動でないが、やりがいや達成感は学園中の部活の中でも一番であることは、このわしが保証しよう!」

 小振りながら形のよい胸をドン、と拳で叩き、渚が誇らしげに声を上げる。こんな時分でなければ、ノーラはこの言葉に素直に感銘を受け、気持ちが一気に傾いたかも知れない。

 だが…渚に対して素直になれないノーラは、(あなたに保証されても…困るんですけど…)と苦言を胸中で漏らすのであった。

 何はともあれ、何もすることがないと言われた以上、ノーラは地に尻を付けると、ヴァネッサの働きを見守ることにした。もちろん、空を見てるだけの渚になんかは一片の興味もない。

 ヴァネッサは顔の周囲に展開した水晶ディスプレイで使い魔たちの状況を把握しながら、頷いたり首を捻ったりする。時々、青白い魔力励起光がともる指先を空に向けて、使い魔たちへ魔力を供給する仕草も見せる。…とは言え、全体的には外観的な動きの少ない作業なので、見ているのは正直、飽きてくる。

 働く緊張感のない状況が続くと、ノーラの体内深くに潜伏していた疲労感が鎌首をもたげてくる。それは瞼に鉛の重さを運び、虚ろな睡魔を呼び込む。

 (いけない…ここは戦場、みんな頑張ってるのに…!)

 一生懸命に自身を鼓舞し、睡魔を押さえ込もうとするが…その甲斐なく、カクリ…カクリ…と首が力を失って、不安定に揺れ動く。

 ついに…瞼が完全に閉じ合わさり、ノーラの意識が暗転する…そう思われた矢先、強烈な異変が生じる。

 

 ガクンッ――擬音語で形容すれば、そんな感じであろうか。急に、頭を押さえつけるような圧迫感が発生。ウトウトと夢の狭間を彷徨っていたノーラを、一気に現実に引き戻す。

 (いきなり、何…!? この感覚って…!?)

 圧迫感は次第に大きくなり、頭蓋や眼底を締め付けるような鈍痛を呼び起こす。同時に、意識の中に流れ込んでくる、騒がしい言葉に嵐。――私を讃えよ、私を崇めよ、私を愛せよ、私のために身を捧げよ。疑うことなかれ、抗うことなかれ、私の魂魄の抱擁に身を委ねよ。さすれば汝、白痴の至福を得ることだろう――理性を(とろ)かす甘ったるい響きを知覚したノーラは、先に意識を失った直前の記憶と共に、声の正体を思い出す。"獄炎の女神"の神霊力による意識介入だ!

 強大な神霊力は魂魄と脳活動との間にギャップを作り出し、意識障害を引き起こす。その前兆として、狂乱した中枢神経が引き起こす異常な神経パルスによって、頭部周辺もしくは全身に圧迫感が生じる。この"圧迫感"から、この現象は"神霊圧"と呼ばれるが、その言葉は正に言い得て妙だ。ノーラは重力操作を受けたように、全身が重くなってくずおれ、四つん這いになってしまう。

 『聖印』が出現したにも関わらず、今の今まで神霊圧を感じなくなっていたものを…何故に、またもや強い影響が生じるようになってしまったのか。その原因を求めて、億劫ながらも必死に首を回し、空を見上げたノーラは…すぐに、この異変の元凶を見出す。

 『聖印』の中央に、大地へ向かって延びる純白の光の噴出が見える。この噴出は断面積と高さを徐々に増してゆき、それに比例して神霊圧が高まってゆく…この点からも、異変の元凶が噴出であることは明らかだ。

 噴出が強烈に吐き出しているのは、神霊力だけではない。これまで以上の勢いと物量で、天使の大群を絶え間なく吐き出している。今や空は恒星表面状の天国が呈する真紅から、天使の表皮の色である純白へと変わろうとしている。

 この光景は、ノーラの肌を激しく粟立たせた。空にゴミゴミとうごめく天使の数は、軽く万単位を越える数を擁しているように見える。これでは、いくら星撒部の部員たちが天使を軽々と撃破できる実力者揃いであろうが、分が悪すぎる。どれほど驚異的なスタミナがあろうが、完璧なる存在である『神』でない以上、いつかは疲労の枷に襲われることになる。そうなれば天使達の圧倒的物量の中にあっと言う間に埋没し、生命をも塗り潰されてしまうことだろう。

 (援軍は…!? 『地球圏治安監視集団(エグリゴリ)』は、来てくれないの…!?)

 状況の打破を望み、ノーラは加勢を求めたが…すぐに、頭を横に振り、この考えを頭から追い出す。加勢は、この問題を解決してくれないだろう…光の噴出からドンドン出現する天使たちは、無尽蔵のように思える。いくら加勢があろうが、高々有限な人員で立ち向かう以上、敗北は必至だ。

 「一体…どうすれば…良いの…」

 ノーラは己の失意を、尻すぼみに消えてゆく力ない言葉に託して表現する。そうしている間にも、空はどんどん天使によって埋め尽くされてゆく。その神々しい純白とは裏腹に、ノーラの意識は絶望の漆黒一色に染まりつつある。いくら希望の星を世界に撒くために奮闘する、勇敢なる部員たちと共にあろうとも、寸分たりとも楽観も安堵もできない。まさに、絶望の深淵の奥底に落ち込んでしまった状態だ。

 その時だ――足掻こうにも四方八方を暗澹が埋め尽くすような状況の中で、フフッと軽く鼻で笑う声が漏れる。その笑いは暗黒の中に差し込む一条の目映い輝きのごとく、ノーラの意識に鮮烈な刺激を与える。

 ノーラは髪を振り乱して、笑い声の主を見やる。そう、声の主は明白だ――これまで何もしてこなかった、空ばかり眺めるだけだった少女、立花渚である。

 (何を笑ってるんですか!? どうして笑えるんですか!? この地獄で、一片の苦労にも荷担せず、ふんぞり返っていただけの貴女が! どんな算段があって、そんなに余裕綽々で笑うんですか!?)

 胸中で爆発する不満を鬼気迫る表情に投影し、ノーラが渚を睨みつける。険しい視界の中、渚はノーラの激情など全く意に介さず、軽いストレッチを始める。

 「そろそろ、良い頃合いじゃな! のう、ヴァネッサ!」

 いきなり話題を振られたヴァネッサは、眉間にしわを寄せた視線を水晶ディスプレイから離さずに、余裕なく早口で言葉だけ返す。

 「ちょっと、遅すぎませんこと!? わたくし、もう手一杯ですわよ! それに、神霊力でまた頭がズキズキしてきましたし…!

 こんなに引っ張っておいて、本当に大丈夫なんでしょうね!? 力及ばず失敗しちゃった、では済みませんことよ!」

 非難にも近い口調には、ノーラも全面同意だ。しかし渚はやはり、余裕な態度を崩さずに、ハッハッハッ、と芝居がかった笑い声を出す。

 「案ずるな、己の分はしかとわきまえておる。その上で、"獄炎"のヤツを殴りつける、最高のタイミングは計っておったのじゃ。

 これでもか、というほどの戦力を投入した今、"獄炎"のヤツは勝った気でおるじゃろう。その上であやつは、悠々とこちらに向かってきておる。わしには――いや、"わしだからこそ"、よく分かる。

 そして、これ以上ないほどにのぼせ上がったあやつを――!」

 鋭く、力強く、弾むように語尾を言い切った、その直後。渚の全身からブワリと、物理的な烈風を伴う強大な魔力の奔流が発生する。烈風に煽られ、渚の美しいハチミツ色の髪が暴れはためき、逆立つ。

 他方、渚の足下を中心にして、大地に巨大な円形の紋章が出現する。文字にも幾何学模様にも見える、複雑な模様を内包した円は、方術陣にも見えるが――ノーラは即座に、違うものだと認識する。何故ならば、この紋章から吹き出すエネルギーは、単なる魔力ではなく…地獄の空から発せられるものと同質の、神霊力だからだ。

 つまり、この図形は、『聖印』というワケである。

 『聖印』は素早く拡大し、半径1キロほどの巨大な図形となり、逆さまにしたオーロラのような神霊力の励起光を放ち始めた…その時。

 「思いっきり、ブッ叩く!!」

 天使で埋め尽くされた天蓋を揺るがすような大声を放つ、渚。転瞬、彼女の身に奇妙な現象が発現する。

 まず、彼女の背のあたりから、キンコン、と澄んだ鐘の音が響く。そして、純白の光の円が虚空に現れると、その中から異様な人型の存在が姿を現す。体中をベルトや鎖で覆い、胸元には大きな錠前を付けた、無貌の者。その背中には、一対の純白の翼がある。

 ノーラはこの人型に見覚えがある。部室からこの都市国家へと移動する直前、渚が呼び出した存在だ。そして、"獄炎"の天使との戦いを経た今、新たな印象が芽生える。

 (この姿、この雰囲気…天使と同質…ううん、違う、天使そのものだ!)

 そう、ノーラの印象の通り、この人型の正体は"天使"だ。その証拠に、神霊力のうねりが発せられている。しかも、そのエネルギーは"獄炎"の天使より強烈だ。だが、頭痛を喚起するような刺々しさは全く持ち合わせていない。それどころか、人の不安のさざ波を押さえつけてくれるような、優しい圧力さえ感じる。

 優しき天が、白光の円からの出現を完了すると、即座に異様な動きを見せる。初めに、胸元の錠前がカチリ、と金属音を立てて勝手に開錠する。次いで、全身の拘束器具がシュルシュル、ビリビリ、ジャラジャラと騒がしい音を立ててほどける。頭部以外の全ての部位が展開すると、ヒラリと動いて渚の身体に背後から覆い被さる。すると、天使の身体は眩い輝きとなって渚の全身に広がり、彼女の輪郭に完全にフィットする。

 今や輝きの人型となった、渚。その形状が、粘土細工のように柔らかに変じてゆく。額や腕などでは細かな輪郭の変化が生じている一方、背中では翼や尾の生成という大きな変化が見られる。変形の最後に、頭上に棘のついた輪っかを戴くと…輝きが一瞬にして飛沫となり、霧散する。

 そして現れたのは…神々しくも異様な風体をした、新たなる渚の姿。

 身体を覆うのは、輪郭にフィットした柔軟にして、陶磁器のような光沢と純白を備えたボディスーツ。手足には、先端部が獣面を模した装具。背中には、魚のヒレのようにも見える、一対の純白の翼。臀部からは、骨片が連なったような外観をした尾がスラリと延びる。この尾の先端は、まるで鍵のように凹凸がついた円柱形をしている。頭には金色に輝く、棘のついた光輪を頂き、その光にハチミツ色の髪や海のような深蒼の瞳がキラキラと輝く。

 この形状を取った瞬間から、渚を中心として強烈は神霊力が放出される。力は威厳溢れる震動となってビシビシとノーラの肌を振るわせると同時に、マシュマロのような柔らかさの毛布が生む暖かみが脊椎深くまで染み込む。畏怖と安堵が共存する奇妙な感覚が、ノーラの意識を捉えて離さない。

 この時、ノーラは"獄炎の女神"の神霊力に由来する頭痛から完全に解放されていた。渚の生み出す神霊力が、前者の神霊力を凌駕し上書きしたのだ。だがノーラは、渚の姿と力から受ける強烈な衝撃によって、頭痛が癒えた事実を知覚できずにいた。

 ノーラの驚嘆の視線に応え、渚は彼女へと向き直ると、深蒼の瞳を細め、桜色の唇を綻ばせて微笑む。

 「疲れているところに、不甲斐なさげな姿を見せてしまい、すっかりイラ立たせてしもうたな。すまんかったのう」

 渚は、ノーラなどとうに察していたらしい。その上で、目先の評価など気にせず、嫌われ役を勝ったまま、対局的な好機を待ち続けていたのだ。

 「じゃが、これまでイラ立たせた分、ここからは痛快劇を楽しんでくれい!

 このわし、"解縛の女神"ナギサの晴れ舞台の始まりじゃっ!」

 女神――渚が自ら語った正体を、ノーラは素直に受け止める。そもそも、薄々感づいていたのだ…この都市に送り込まれた時、天使を呼び出した時から。だが疑問もあり、彼女の中で訝しむ部分もあったのだが…もはや疑いの霧は胸中のどこにもない。

 

 渚が『現女神』として"降臨"した、その瞬間。都市中の天使達が一瞬動きを止めた。

 それは、星撒部の部員たちと交戦中の個体達においても例外ではない。

 ロイは総勢50を越える天使に囲まれながらも、驚異的なスタミナをフルに駆使して、『暴走君』の名に相応しい戦闘の暴風を吹かせていた…が。急に眼前の天使が回避行動も忘れて動きを完全に停止し、ロイの竜炎をまとった拳をまともに顔面に喰らったのを見ると、眉根を寄せて動きを止める。

 羽根状の神霊子へと蒸発してゆく天使の有様など気にも止めず、周囲の天使達に視線を巡らす、ロイ。天使のことごとくが、時間が凍結したかのように停止している様を見ると、ますます眉根を寄せるが…。

 (ん? …この感覚…)

 皮膚を通して伝わってくる、震動と暖かみを知覚すると…ニヤリと笑って、納得する。

 同時に、天使達がロイに背を向け、一斉に同一の方向へ向かって全速力で飛翔する。隙丸出しの愚行としか言いようのない行動だが、ロイは敢えて彼らを追撃しない。――どうせ、彼らの末路は決まっているのだから。

 「副部長、とうとう動いたのか!

 独壇場にされちまうのは悔しいけど…まぁ、オレは十分働いたことだし、見物と洒落込むか!」

 ロイは翼を開いて空中に静止すると、あぐらをかいて天使達が向かう先を見やる。

 

 万を超える数の天使達が集結する有様は、天空に銀河の渦が形成されているような光景である。やがて渦の中心が盛り上がり、高速で螺旋を描きながら地上へ向けて一直線に効果する。まるで逆さまにした山が、天から落下してくるようだ。

 もちろん、山の頂点が目指すのは、『現女神』渚の頭上である。巨大質量に対し、星を撒く女神の姿はあまりにも小さく、儚く見える。山に埋もれる野ウサギ程度にしか映えない。

 それでも渚は、相対する巨大質量に絶望することなく…それどころか、不敵な笑いを大きく浮かべる。その表情は、巨大質量を挑発する――容赦なく、全力でドンドンかかって来るが良い!

 更には、挑発して待つに留まらず、異形の翼を一打ちすると、純白の流星となって降り迫る天使の山へと一直線に接近する。

 (嘘…ッ! これだけの戦力を相手に、自分から立ち向かうなんて…!)

 傍観するノーラは驚愕と不安のあまり、思わず手で口元を覆う。そんな彼女の暗い感情を吹き飛ばすかのように、渚が全天を轟かす威声を張り上げる。

 「寄って(たか)って弱者を(なぶ)らんとする、不届きなる天使どもよ! 真に聖なる『現女神』、"解縛の女神"のお通りじゃぞ!

 おぬしらの横暴なる主に、これから一発ブチかましに行く! さっさと――!

 "その道を、開けよ"!」

 言い終えると同時に――渚は、眼前に迫った天使の山の頂き、大群の戦闘に位置する個体に向けて、拳を繰り出す。拳の肉薄の道中、手を覆う獣面の籠手が献上を変化。長大に延びる円柱の表面に、凹凸がついた独特の形になる。まるで、鍵のブレードだ。これがドリルのように高速回転し、戦闘の天使の身体のド真ん中に突き刺さる。

 インパクトの瞬間、天使の身体がブレードの回転に引きずられながらギュルリと歪み、ポッカリと穴を開く。その直後、ブレードがカッと眩い閃光を放った――同時に、穴を目掛けて金色の衝撃波が放出される。

 衝撃波は漏斗(ろうと)状に断面積を広げながら、強烈な烈風を振りまきながら天上へ一直線に驀進する。衝撃波の断面積は最終的に半径約1キロほどにまで達し、極太の円柱となって天使の山を貫通する。衝撃波を形成する強大な神霊力は、飲み込んだ天使達の神霊子結合を直ちに解くと、羽根状の残滓を残す暇も与えずに瞬時に霧散させる。

 天使の山に、頂から根本までを貫く巨洞が開く。この時点で既に、ノーラやアオイデュアの各地で戦う部員たち、大量の天使の前に怯え縮こまっていた避難民たちは、驚天動地の心地に呆然とするばかりであった――が、渚の威力はこれで留まらない。黄金の衝撃波が振りまく烈風が天使達を押しやり、抉り、潰す…そして穴は、更に、更に、更に拡大を続け――しまいには、山の麓の裾をわずかに残すのみの、大空洞をこしらえる。今や純白の帳はほぼ消え去り、真紅の空と、そこに描かれる巨大な『聖印』を露わにする。

 "道"と言うにはあまりに大きな虚空の中を、渚は真っ直ぐな純白の輝線となって悠々と飛び、大空洞の中心部、『聖印』の中央めがけて驀進する。

 一方、『聖印』の中央では、光の噴出の勢いが火山噴火のごとくに達し、高さが10メートルを優に超えるような飛沫の柱を形成していた。それはまるで、水中から慌てて飛び出そうともがく者が蠕動で、水面が激しく揺れ動くかのようだ。

 事実、『聖印』の向こうでは、"獄炎の女神"が降臨を急ぐべく、転移空間内で足掻いている。彼女は今の今まで、敵対勢力に自分と同等の存在が潜んでいるなど、知る由もなかったのだ。送り込んだ配下が一撃で殲滅寸前まで追い込まれた事実に、彼女は激しく焦燥し、そして憎悪している。

 しかし――女神の努力も虚しきかな――"獄炎の女神"の憎悪は形を結ぶことなく、終わりを迎える。

 渚がついに、『聖印』の中央、光の噴出にたどり着いたのだ。噴出される光の正体は、超高密度のあまりに物質界に相転移した神霊子である。常人ならば飛沫を浴びた途端に魂魄どころか存在定義自体が狂乱し、名状しがたき存在へと変容してしまうことだろう。だが、渚は自らも強烈な神霊力を携える『現女神』である。拳を変形させた鍵のドリルは光の飛沫を盛大に弾き飛ばし、紙程度の障害にもならない。渚はそのまま一気に噴出の根本へ至る。

 「存分に口惜しみ、身悶えして悔しがるがよいぞ、"獄炎"よ」

 噴出の中央に向かい、渚はニヤリと維持の悪い笑みを浮かべ、余裕綽々と勝台詞を投じる。

 「おぬしのド派手な降臨は、ここでドタキャンじゃっ!!」

 目の冴えるような鋭い叫びと共に、渚は鍵のドリルを噴出の中へと挿入。グリッ、と腕を大きくひねる。

 ガギンッ――『聖印』から全天に向けて発される、重々しく軋むような金属音。それは、ドアの錠をロックした時に耳にする音に酷似している。

 いや、"酷似"ではない。ロックそのものの音なのだ。渚の鍵のブレードと化した腕は、『聖印』の転移ゲートに対する鍵として作用し、閉鎖してしまったのだ。"獄炎の女神"はもはや、すきま風ほどもこの都市国家に流れ込みはしなくなったのである。

 

 『聖印』が完全閉鎖されると、アオイデュアの天空に大きな変化が現れる。

 まず、『聖印』が、折り紙を畳むかのようにパタパタと折り畳まれ、急速に面積を縮めて行く。同時に、空を染めていた赤が薄らいでゆき、清々しい蒼穹へと移り変わる。

 恒星表面の姿をした、灼熱地獄の姿をした天国にもまた、変化が訪れる。まるで蜃気楼が風に吹かれて歪むような有様でグニャグニャと姿が潰れる。そのまま数秒ほど、色彩が発狂した巨大な円形の混沌が生じていた…が、やがて、これまでのプロセスを逆再生するような有様で、形状が落ち着きを取り戻してゆく。そして最終的に形成されたのは…希望学園都市ユーテリアの上空にあるものと同様、中世の荘厳な城塞を模した、壮麗にして威厳に溢れる、それでいて平穏な天国だ。この変化から都市の住人たちは視覚的にも、"獄炎の女神"から解放されたことを覚る。

 一方、渚が撃破し損ねた、僅かに残存するだけの天使たちだが…。主からの神霊力の供給を失い、急激に弱体化。大半が体積を極端に収縮させ、昆虫のような大きさになってしまった。体積に比例して力も弱くなり、今では子供の掌で叩かれただけでも消滅してしまう有様だ。

 未だに体積も力も健在でいる個体も、極々少数であるが存在している。しかし、何をしていいのか全く分からない状況に陥っており、フラフラと右往左往するばかりだ。失笑を買うような不抜けた存在に成り下がった…とは言え、何らかの原因で暴れ出す可能性は否定出来ない。一匹残らず撃滅する必要がある。

 「さぁてと…ゆるりと害虫駆除と行くかのう」

 一仕事を終えてなお、気力ありふれる渚は、異形の翼を打ち鳴らして、蒼空を彷徨う天使へと追撃に向かう…その矢先のこと。

 パァンッ! 風船を潰したような音を立てて、視線の先の天使が破裂、消滅する。もちろん、渚はまだ何もしていない。きょとんとして動きを止め、ぱちくりとゆっくり瞬きをしてから、消滅した天使の向こう側を見やると…。

 そこには、蒼穹を背にした大小様々な形状の浮遊戦艦や、戦闘機が大挙して空に一軍を形成している。渚は深蒼の瞳を細めて、戦艦や戦闘機のディテールをよくよく見やる。形状は先述の通り多様であるが、独特の傾向が2点ある。

 1つは、無機物の機関に混じって、植物的な機関部品が存在すること。戦艦になるほど、全体の割合に占めるこの類の部品の比率は多くなり、小さな林のような姿に見える。これは、"樹霊着生型構造"と呼ばれる、魔法科学独特の機械構造だ。金属では成し得ない柔軟性と硬度の共存、そして事故修復機能を備える、高価ながら優秀な構造である。

 そしてもう1点は、装甲のいずこかに張り付けられているマークだ。ディフォルメの地球に、小さな鳩の翼を持つ輪がたすき掛けのように装備されているそのマークは、『地球圏治安監視集団(エグリゴリ)』の所属戦力であることを物語るものだ。

 「このタイミングで、ようやくご到着かい…」

 渚はやるせない感情をジト目に宿し、艦隊に苦笑を向ける。戦いはもう終わりを迎えるという頃に、大挙して押し寄せられても、有り難みは全くない。

 「まぁ、でも、事後措置まで投げっ放しにされるよりは、断然マシというものじゃな。その点だけでも、良しとしておくとしようかのう」

 渚は独りごちるだけに留まらず、芝居かかった動作で独り(うなづ)き、自身を納得させるのであった。

 

 ――星撒部2年生、立花渚。星撒部の副部長として有名であり、特にその独特の言い回しと、冗談で済まない尋常ならざる活動方針を打ち出すその姿から、後輩たちは彼女のことを『暴走厨二先輩』と呼び、恐れている。

 その一方で、無茶苦茶な言動に対して一切文句を言わせないほどの、確固たる実力の持ち主としても知られる。一説では、幻の生徒として扱われている星撒部部長、バウアー・シュヴァールを凌ぐ力を持つ、とまで評価されているほどだ。

 そんな彼女の正体が『現女神』であることを知るものは、学園でも極々限られている。そもそも、"慈母の女神"が運営する学園に、別の『現女神』が共生しているという状況自体が極めて異様なのだ。『現女神』達は『天国』を巡って争い合う存在、手を取り合うなど一般的には考えられないことなのだから。

 人としても『現女神』としても、"色々な意味で"規格外な彼女が持つ女神の号は、"解縛の女神"。あらゆる概念を自在に解き開き、また縛り閉じる神格である。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Stargazer - Part 9

 ◆ ◆ ◆

 

 『地球圏治安監視集団(エグリゴリ)』登場後のアオイデュアの経過は、非常に良好であると評価できるだろう。

 一番の活躍すべき場面に参加できず、遅参と言うにもあまりにも遅れてしまった登場に相当気が退けたらしい…非常に迅速な対応を打ち出す。

 破壊された都市に莫大な数の調査用暫定精霊(スペクター)達を投入。残存する要救助者や被害状況の把握を行うと、今度は即座に復旧用暫定精霊達を投入。破壊された街並みの復興に取りかかる。都市の至るところで、土建業者のヘルメットをかぶった半透明の不定形の存在がヒョコヒョコと蠢き、瓦解物を体内に取り込んでは素材へと変換すると、プロの職人も唸らせるような見事な連携で建造物や道路などをみるみるうちに修復してゆく。

 一方、艦隊に搭乗していた人員の大半は、避難民が集結しているコンサートホールに降下。治療班を中心に迅速に展開し、心身のケアを施して行く。流石は"混沌の惑星"地球の守護者を名乗る軍集団だけあって、その手際の良さや技量は絶大である。欠損した手足を野外での魔法手術で完璧に再生してみせたり、PTSDを発症し狂乱した精神を速やかに安寧に導くなど、素晴らしい功績を次々に遂げて行く。

 彼らの働き振りは、僅かな隙間すら差し挟むほどない程に密で行き届いたものだ。その動きから、今まで働き続けた学生英雄たちにこれ以上手柄を立てさせまいとする意地が露骨に感じられる。

 もはや、アオイデュアでの主役は星撒部から『エグリゴリ』へと移行してしまった。

 そこで星撒部の部員たちは、途中からしゃしゃり出て来て活躍の場を奪った『エグリゴリ』達に腹を立てている…かと思いきや。そんな素振りは全くない。

 むしろ、これ以上の労働をせずに済むことを歓迎し、素直にまったりと憩い和んでいる様子である。『賢竜(ワイズ・ドラゴン)』やら『魔装(イクウィップメント)』能力者、果てには『現女神』までもが在籍している組織とは言え、彼らの本質は学生。賃金をもらって働く職業人と違い、堅苦しい責任感やら実績に対する意地といった要素とはほぼ無縁なのだ。

 だからこそ、災厄に臨んでも余計な気を張らず、持てる最大のパフォーマンスを尽くすことが出来るとも言える。

 

 「痛ててっ…!! 痛ぇってばっ! 痛ぅっ…クソッ、もっと優しく…ぎゃああっ!!」

 コンサートホールの外側、公園のような野外スペース一画。ヴァネッサの耐火水晶によって一切の被害から免れた小さな木立の生え際に集まった星撒部の一同の中から、涙声の悲鳴が上がる。この声の主は、先刻まで勇猛果敢に戦い続けていたロイである。

 彼は今、ボロボロになった制服の上着を脱がされ、火傷だらけの上半身剥き出しの状態で、紫による薬草治療を受けている。薬草は『エグリゴリ』の治療班から分けてもらったものだ。大活躍した星撒部に恩を売れることを喜んだのか、はたまた純粋に星撒部を(ねぎら)ってか、隊員は必要以上に大量の薬草を提供してくれた。

 この薬草に更に魔化(エンチャント)を施し、効能を最適化したものを湿布したものを、紫がテキパキとロイの身体に張り付けているのだが…この湿布、相当()みるようだ。士師を前にしても不敵に笑って見せた気概が嘘のように、ギャンギャン喚いている。

 「紫っ、お前…痛ってぇっ!! 傷治す相手を…うぎゃあおっ! 苦しめてどうする…ちょっ、あああああっ!!」

 全身をビクビク震わせて叫び続けるロイの背中を、紫はバシーンッと強かに叩き、ニヤリと陰を帯びた笑みを浮かべる。

 「はいはいはい、天下のドラゴン様がこれくらいの痛みで泣いたり吠えたりしてんじゃないわよ。天使とか士師と戦ってる時の方が、よっぽど大きなダメージ受けてるくせにさー。ちっちゃい子みたいで、情けないわよー」

 「情けないも何もねぇって! ホラ、よくあるだろ、殴られなれてるボクサーだって歯医者のドリルは苦手、みたいなヤツ! そう、丁度そんな感じなんだよ! こういうチクチクした陰険な痛みってのは、殴り合いの時みたいなスカッとした痛みと違って…ってっ!!

 うぎゃあああぁぁぁっ! 紫ぃっ、お前なんで、黙って湿布貼ってンだよぉっ! 心の準備が出来ねぇじゃねぇかよっ、心の準備がさぁ!」

 「私はね、あんたの治療にばっか気遣ってられるほど暇じゃないの。さっさと終わらせたいのよねー。アリエッタ先輩のクリームココア、早く飲みたいからさー」

 「なんだよそれっ! お前の個人的な願望じゃねーか! それにオレを巻き込むなんて、非人道にもほどが…」

 「あ、首の後ろ、すっごい腫れてるわねー。ここは特に念入りに! たーっぷりと薬を染み込ませた湿布を貼ってあげないとねー」

 「え!? おい、それ、ちょっと…!

 ぐあああああぁぁぁぁぁっ!」

 端から聞いていると、治療なのかコントなのか、分からなくなってくる。ちなみに『拷問』という印象が湧かないのは、ロイの痛がり方は酷いものの、無惨というより滑稽という表現が妙にマッチするからである。

 そんな二人をジト目で見やり、嘆息を吐いているのは渚である。手近な樹木の幹に身体を預けながら、ヤレヤレと呆れ切った様子で首と手を振る。

 「全く、相変わらず騒がしい奴らじゃのう。幼児ではないのじゃから、もう少し落ち着きと節度を持たんかい。

 ホレ、このわしを見習うがよい! いかなる事態を前にしても焦らぬ、この平常心!」

 言葉が続くに連れ、渚の態度は大きくなり、ついに樹木から身体を離すと、エヘンと胸を張って見せる。

 その様子を横で見ていた蒼治が、こっそりと苦笑いを浮かべ、ボソリと呟く。

 「…お前だって、似たようなもんだよ。

 むしろ、平常の状態でも十分暴走してるじゃないか…」

 渚はこれを、耳聡く聞いていた。そしてジロリと蒼治を睨みつけたかと思うと、疾風のような素早さで彼に詰め寄る。蒼治は渚よりも頭一つ分以上高いので、顔をつき合わせるような構図にはならないが、それでも渚は目一杯つま先立ちしてまでも蒼治に顔を寄せて、迫る。

 「なんじゃ~、蒼治~? なにやら含む所があるようじゃが~?

 言いたいことがあるのなら…っ!」

 ここで渚、バッと蒼治に飛びかかると、その首に腕を絡めて締め上げる。

 「陰口なんぞ女々しいことせずに、堂々と面と向かって言えと、常日頃言っておろうがっ! おぬしはなぜ、いつもいつも! そうコソコソしたことが好きなのじゃっ!!」

 「ぐぇっ…な、渚…苦しいっ…! ちょっと、本気で…頸動脈、圧迫してるから…! ホントに、意識が…っ!」

 「そうやって病弱な振りをすればお茶を濁せると思っとるのじゃろうが、そうはいかぬぞ! 今回こそ、きっちりと! 後輩達にも示しがつくように! その性根をトコトン叩き直してやるわいっ!」

 「叩き直される…どころか…心が…折られる…っ!」

 こうした賑やかなじゃれ合いは、辛苦を乗り越えた者たちが分かち合える微笑ましい安らぎだ。

 この安らぎを享受できる権利を持ちながらも、彼らの輪の中に入らず、離れた所から独り静かに見守っている者がいる。ノーラである。

 彼女が安らぎの輪の中に入らぬ理由は、明白である。ただ独りだけ部員でないという立場が、今頃になって疎外感を喚起したのだ。これまでは立場の垣根など気にする余裕もないほどに、目の前のやるべきことにだけ集中し続けてきたのだが…こうやって平穏を得た今では、余計なことにまで変に気が回ってしまう。

 (星撒部の皆さんは、こうやってずっと、一丸となって艱難辛苦を乗り越えてきたんだろうな…。だから、絆が深くて、出来上がったパズルみたいにしっかりと結びついてるんだ…。

 私なんてぽっと出の存在は、どこにも入り込む隙間なんてないよね…)

 自身が勝手に作り出した疎外感が(ささや)くままに、外界との間に心の鉄格子を作り、その隙間から羨望の視線を投じる。そんな消極的で悲愴な態度を取るのは、今に限ったことではない。普段クラスに居る時、授業に出ている時、休憩時間の時…それどころか、故郷に居た頃からすでに、その習性が身に染み着いている。

 周囲が盛り上がるほどに、心が冷え込んでしまう。そんな厄介な精神構造になってしまったのは、いつから、どんな理由からだろうか。…おそらくは、一族の夢と希望を押し付けられて育った幼い頃には既に、歪んだ根が培われてしまったのだろう。

 今回もまた、暗澹とした習性の中に埋没してゆく…かに思われた、その矢先。彼女の鉄格子の破壊者が現れる。

 その人物は不意に、ノーラの背後からガバッと抱きついてくる。

 「ノーラちゃぁーんっ!」

 「!?」

 突然のことに戸惑ったノーラは、慌てて視界を巡らせて"人物"を眺める。そこにいたのは…頭に赤いベレー帽と、その両脇に狐耳を据えた少女、ナミトである。彼女の臀部から生えた尻尾は、とても嬉しげにフリフリと元気に宙を泳いでいる。

 「なになに、一体どうしたのー? 今回の事件で大活躍した主役さんが、こんなところで独りにアンニュイに浸っちゃってさー!

 もっと胸張ってさー、ロイや副部長みたいにパーッと騒ごうよー!」

 子犬のように頬を肩にすり付けながら、ナミトが弾む口調で楽しげに語る。ノーラはくすぐったさに震える声で返す。

 「あの…ロイ君は騒いでいるというより…痛がってるだけだよね…?

 それに…私、主役でもなんでもないよ…。部員の皆さんに、助けてもらってばかりだったし…最後の方は、休んでばかりだったし…」

 「なーにを(おっしゃ)る、"霧の優等生"ちゃん!」

 ノーラの自信なさげな言葉をかき消して、ナミトが元気に声を上げる。

 「イェルグ先輩やヴァネッサ先輩たちに聞いたよー! 初めて天使型災厄に対処したはずなのに、ベテラン並の機転と行動力だったってさ! それに、初めての士師との交戦でも、大金星上げてるじゃん! これを大活躍と言わないなら、地球人類初の月面降下も庭の草むしり程度の活躍としか言えないよー!」

 「で、でも…それなら…士師と戦ってなお、天使との戦いを続けたロイ君の方が、私より何倍も凄い活躍してるよ…。主役というなら、ロイ君の方が…」

 「ロイのことは、いーの! あいつはバカが付くほどタフで頑丈なことだけが取り柄なんだからさー! 石に硬いことを褒めるようなモンだって!」

 「でも…でも…それなら…」

 躍起となって自分の成果を貶める、ノーラ。その態度にナミトは眉根にしわを寄せて、怪訝そうに眉を跳ね上げる。

 「んもー! なんだってそんなに、遠慮っていうか、謙遜っていうか、しちゃうかなー!

 素直に自分のことを褒めて、胸を張って! 楽しく騒ごうよー、みんなと一緒にさー!」

 「でも…私は…部員の皆さんと違って…仮入部の身と言うか…場に流されて、ここに来ちゃっただけで…。そんな私が、皆さんと肩を並べるのは…」

 「え…まさか、そんなコト気にしてたの!?」

 ナミトは酷く驚いた様子でノーラから身を離し、パチパチと大きく瞬きして困惑を見せる。

 「部員だとか、そうじゃないとか、そんなの関係ないじゃん!

 一緒に困難に立ち向かって、戦って、勝利をもぎ取った仲間じゃん! そう! 私たち、もう仲間! もう友達なんだよ!」

 「で、でも…」

 まだまだ意固地になって、ナミトの言葉を否定しようとするノーラであるが…。

 「うんうん、ナミトちゃんの言う通りよ。ノーラちゃん、あなたはもう、私たちの仲間だわ」

 ノーラが言葉をかき集めて反論を組み立てるよりも早く…新たな声が、ノーラの意固地な孤独に柔らかく響く。その声の主は、ゆっくりした足取りで近寄ってきたアリエッタだ。

 アリエッタは部室で見た時と同様、ニコニコとした柔和で優美な微笑みを浮かべたまま、可憐な桜色の唇でホッコリとした声を奏でる。

 「確かに、ノーラちゃんは渚ちゃんに強引に連れてこられちゃったかも知れない。

 それでも、今回の事件に心を痛めて、解決のために尽力しようと決めたのは、誰に強制されたワケでもなくて、ノーラちゃん自身だったじゃない? 苦しんでる誰かのために、何かをしてあげたいと思うだけでなく、出来ることを実践した…それだけでもう、私たちと肩を並べているのよ。

 そして、誰かを助けたいという想いを力に変えて、強大な敵に打ち勝ったのは、紛れもなくノーラちゃん自身よ。ヴァネッサちゃんは、その手伝いをしたかも知れないけれど、その激励を受け取って力に変えたのも、紛れもなくノーラちゃん自身だわ。

 その成果は、誰にも遠慮する必要のない、確固たるものよ。自信を持つことに、胸を張ることに、後ろめたいことなんて何もないのよ」

 「…でも…私は…」

 なおも頑なに卑下を貫こうとするノーラに、さすがのアリエッタも困った色をたたえた苦笑を浮かべる。だが、何らかの妙案が浮かんだのだろうか、突然表情から苦々しさを取り除き、満面に浮かべた純粋な笑顔のまま、パン、と元気よく手を打ち合わせる。

 そしてアリエッタが向き直ったのは…ノーラではなく、ナミトである。

 「そうだ、ナミトちゃん。折角、みんなで一丸となって困難を乗り越えたんですもの、ささやかながらお疲れさま会を開きましょうよ。

 私、部室に戻ったら早速、ココアの準備をしようと思うの」

 「え!? 先輩のココアですか!?

 ぃやっほぉーっ! やった、やったぁーっ! アリエッタ先輩のココアだぁーっ!」

 ナミトは小躍りして全身で嬉しさを表現すると、その勢いのまま飛び跳ねながらノーラの手を取る。

 「ノーラちゃん! アリエッタ先輩のココアだよーっ! 勿論、初体験だろうけどさっ、ホントに凄いんだよー! もう、学園のカフェのココアなんて目じゃないくらいにさーっ!

 そう言えば、ノーラちゃんはカフェのココアは体験済み?」

 「い、いえ…」ナミトの勢いに気圧されつつも、生来の生真面目さに従い、ノーラはきちんと答える、「そもそも、学園のカフェに行ったことがないから…。学食には行くんだけど…カフェには行く目的がなくて…」

 「そーなんだー。それじゃあ、大変だねぇ…」

 「大変…なの? どうして…?」

 「だって、学園のカフェ未経験にして、カフェのココアが飲めなくなっちゃうんだもん。

 カフェのココアって、女子には人気のメニューなんだよー。でも、アリエッタ先輩のココアに比べたら、小石とゾウって感じだね!」

 「そうなんだ…それは楽しみだね。部員の皆さんで、楽しんでください…」

 「なーに言ってるの、ノーラちゃん! ノーラちゃんも参加するんだよ、お疲れさま会! 今回の事件に参加したんだもん、参加は義務だね!」

 「え…そんな…私、部員じゃないですし…義務と言われても…!」

 オロオロと抗議するノーラであるが、ナミトは全く聞き入れない。どころか、アリエッタに向き直ると留まらぬことを知らぬ勢いで話を進める。

 「先輩がココアを作るなら、私はチーズケーキを作っちゃいますよー! ちょっと時間は掛かっちゃいますけど、ロイに頼めば冷やす時間が掛からないですしね!」

 「あらあら、ナミトちゃんのチーズケーキに私のココアを合わせられるなんて、光栄だわ。

 ナミトちゃんのケーキったら、ケーキ屋さんのものよりサッパリしていて、上品なんだもの。とっても優雅なお疲れさま会になりそうね」

 「いやー、そんなに褒められると照れちゃいますよー! それほどでも、ありますけどねー、ナハハー!」

 ナミトが舞い上がってはしゃぐ間、ノーラは静かにこの場を退散しようとしたが…クルリと振り向いたナミトにガシッと捕まってしまう。

 「ねぇ、ノーラちゃん! チーズケーキは好きー!? チーズケーキ以外のケーキでも、何か好きなものってあるのかなー!?」

 ノーラに答える義務などない。振り払って孤独を貫くことも出来た。それでも答えを返したのは、やはり彼女の生来の性質のせいだろうか。

 「ケーキは…あまり食べたことないので、好き嫌いと言えるほどではないですけど…。少なくとも、チーズケーキを嫌う理由は、ないです…」

 「ええー!? ケーキ、あんまり食べないの!? 女の子のソウルフーズ、ケーキを!?」

 「うん…。故郷には、ケーキなんてお菓子はなかったし…。誕生日のお祝いに、特別なお菓子を食べる習慣もなかったから…。

 ケーキを食べたのは、地球に来てからが初めてで…」

 「なんてこったぁーいっ! ケーキを知らない女の子が居たなんてーっ!」

 ナミトは頭を抱えて蒼天に向けて悔しげ叫ぶが…ブンッと全身を揺さぶりながら姿勢を戻し、ノーラの両肩に手を置く。その時のナミトのブラウンの瞳には、キラキラと輝く星が浮かんでいる。――己の中にある希望と喜びの輝きを、他人の闇に飛び火させんとする、轟々たる星の光が。

 「大丈夫だよ、ノーラちゃん! このスイーツ先生ことナミトと、スイーツ師匠ことアリエッタ大先輩が、これ以上ないほど丁寧に! ケーキやココア、そしてチョコレートなんかについて、じーっくり教えちゃうから!」

 「え…あの…私、お菓子には別にそれほど興味は…」

 やはり抗議するノーラであるが、ナミトの勢いはそんな彼女の態度をも飲み込んで驀進する。

 「まず、ケーキといえば、基本中の基本、イチゴのショートケーキ! これはさすがに、ノーラちゃんも食べたことあるよね!? 学食でもたまに出るしさ?」

 「それは…見たことはあるんだけど…実際に食べたことは…なくて…」

 「ちょぉぉっ! アリエッタ先輩っ! ここに、強敵がっ! 乙女でありながら、乙女を捨て去ろうとしている強敵がいますっ!

 イチゴショートを食べたことのない女の子が居ようとは…!」

 「まあまあ、人はそれぞれ違った環境で生まれ育ったのですもの。ましてや今は、『混沌の曙(カオティック・ドーン)』を経た、異層の宇宙が入り交じる世界だもの。 どんな人が居ても、珍しいことなんてないわ」

 アリエッタはナミトを諭すと、ノーラに向き直って語る。

 「それじゃあノーラちゃんは、どんなケーキなら食べたことあるのかしら?」

 「ええと…シフォンケーキというものと…確か、シャルロット、という名前をのケーキだったと思います。

 食べ物とは思えないような、とっても綺麗で可憐さだったので…どんな味がするのか、どうしても好奇心に勝てなくて…。

 食べてみて、びっくりしました…見た目に劣らない素晴らしい味だったので…」

 「シャルロットかー!」

 すかさず反応したのは、ナミトである。

 「あれ、一回作ったことあるけどさー、すっごい手間掛かるんだよねー! スポンジ作って、ゼリーを挟んでさー、あれは大変だったなぁー…。

 でも、手間暇かけて作った甲斐のある、美味しくてカワイイケーキになるんだよねー!

 そっかー、食堂で出してたことあるんだー! それは初耳だなー!

 ねぇ、ノーラちゃんって、食堂ではいつもどんなもの頼むの!? やっぱり、デザートは毎回の必須だよね!?」

 「えーと…デザートは…あまり頼まないな…。変わった感じのものがあると、つい頼んじゃうことがあるくらいで…。

 普段は…AかBの日替わりランチを頼んでるの…。私…メニューが多いと目移りしちゃうから…日替わりランチだとその日その日で別のメニューだし、栄養のバランスも良さそうだから…頼んじゃうんだよね…」

 「へえー、なんか意外だなー! ノーラちゃんって優等生だって聞いたからさー、食事にもキッチリした理論的なポリシーっていうか、拘りがあるのかなーって思ってたんだけどさー!

 それじゃさ、AとBって、どういう基準で決めてるワケ!?」

 他愛もない話であろうとも、非常に楽しそうに食いつき、深く食いつくナミト。流石はなんでも楽しんでしまう性格の持ち主である。

 そしてノーラも律儀な性格を発揮して、逐一答える。

 「うーん…取り合えず、辛くなさそうな方を選ぶかな…。私、辛いの苦手だから…」

 「そうなんだ!? それじゃ、カレーライスとかもダメ!? あんな美味しいもの、食べられないなんて、可哀想ーっ!」

 「いえ…カレーライスは別です。ただ…あまり辛いカレーは、やっぱりダメですけど…」

 「それじゃあ、ノーラちゃん」ここでアリエッタが口を挟む、「食堂のブリティッシュ・ビーフカレーって食べたことあるかしら? ココナッツミルクを上に掛ける、かなり甘いカレーなんだけど、コクと旨味が他のカレーの追随を許さないわ。

 もし食べたことがないなら、一度食べてみることをお勧めするわ」

 「そうなんですか…ちょっと興味ありますね…そのうち、食べてみたいと思います…」

 「その時はさ、私も呼んでよ! 一生に食べようよーっ!」

 ナミトが再びノーラにガバッと抱きついて言う。

 「友達と食べると、美味しさ2倍! 楽しさも2倍! だよー!

 私、別なカレー頼むからさ、一緒に食べっこしようよー!」

 「え…あの…」

 ノーラはほんの少し、逡巡する。それはもちろん、彼女の普段からの頑なさも由来している。しかし、それだけならば、ノーラはすぐに首を横に振ったであろうが…そうしなかったのには、彼女の心境に生じた変化に理由がある。

 彼女は今、部室で折り紙をしていた時と同じ感情を…楽しさを、味わっている。

 ナミトの子供のような愉快さ。アリエッタの母性を感じさせるような優しさと穏やかさ。それらに包まれての会話は、ノーラの心に温かく響き、心地よさを呼んでいるのだ。

 (この感覚を…もっともっと、味わっていたいな…)

 そう胸中で呟いた、その時。ノーラの頭は、自然と縦に振れる。直後、ノーラは自分の行動に一瞬、はっと目を丸くしたが…首を横に振って、行動を撤回することはしなかった。それどころか、はにかみながらも、徐々に照れの色を消した嬉しげな美しい微笑みを満面に浮かべる。

 「…うん…迷惑じゃなければ…是非…」

 この言葉を聞いて、ナミトはぱぁーっと、曇天の合間から輝かしい陽光が漏れるような有様で満面の笑みを浮かべると、ノーラに頬ずりを始める。

 「もっちろんだよーっ! 迷惑なんてこと、あるワケないじゃーんっ! 一緒に楽しんじゃおーっ!」

 すると、2人を見ていたアリエッタも、普段のニコニコした笑みに更に輝きの花を添えて、ナミトの言葉に乗る。

 「その時は、ナミトちゃん、私にもナビットで連絡を頂戴ね。私もノーラちゃんと一緒に、ランチを楽しみたいんですもの。

 ひょっとしたら、私のクラスメートの友達も何人か行くかも知れないけれど…大丈夫よね?」

 「先輩のお友達なら、大歓迎ですよーっ! ねっ、ノーラちゃん! "お友達の友達は、私の友達"だって、言うもんねー!

 ああーっ、こうやって広がってゆく友達の輪、なんて素晴らしき、楽しき世界ーっ!」

 しまいにはナミトは、ノーラから身体を離すと、握った両拳を"うおーっ"と元気よく天に振り上げて、叫んだ。その勢いにノーラは押され気味で、笑みに少々苦いものを交えたが、すぐにクスクスと愉快に楽しむ笑い声を交える。

 そんなノーラの様子を見たアリエッタは、自らもウフフフ、と上品に笑い声を上げながら、胸中で安堵の言葉を独りごちる。

 (ナミトちゃんの勢いを利用させてもらって、正解だったわ。ノーラちゃんの堅さを、少しでも柔らかくできたもの)

 アリエッタが会話にナミトを巻き込むようにしたのは、彼女の計算によるものだ。無用な遠慮と緊張が作った檻の中に閉じこもるノーラの姿が心苦しかったアリエッタは、なんとかしてその堅さを融解したかったのだ。それは単に、アリエッタ自身の価値観が生み出したお節介だったかも知れないが…こうして自然に笑うノーラの姿を見て、自分のしたことは正しかったのだと、アリエッタは確信する。

 その後も3人は、学食の話を中心に他愛のない話で盛り上がり続ける。ノーラの堅さは時を追うごとに消えてゆき、徐々に本音をぶつけるようになる。

 「…あのメニューは、正直、ガッカリしましたね…。すごく美味しそうに見えたのに…食べてみると、なんだか薬みたいな味がして…スパイスなのかも知れませんけど、スパイスって食欲を促進させるものですよね…? あれじゃあ、食欲を減退させるだけですよ…」

 「あーっ、それ、私も食べたーっ!

 なんか変わった卵料理だなーって思ってさー! 卵の黄色が綺麗だったし、フワトロっとしてそうだったからさー、私も騙されちゃって!

 すっごい、ゲロマズだった! さすがの私も、笑いが凍り付くところだったね…」

 「私は幸いながら、食べなかったわ、それ。一昨日のメニューだったんでしょ? その時って私、渚ちゃんと部活で炊き出しに行ってたから、そこで一緒にご飯も食べちゃったのよね」

 「アリエッタ先輩の炊き出しですか…とっても美味しそうなんですけど…どんな料理だったんですか…?」

 「シーフードカレーを作ったのよね。渚ちゃんがひたすら、具材を切ってくれてね…。渚ちゃんって、結構料理上手なのよ。一度ご馳走になってみるといいわ」

 「へえー、それは私も初耳ですね! あとで部長に確認しておこうーっと!」

 こうして3人もまた、賑やかな会話の花を咲かせていると…フラフラ~っとやってくる、1つの人影がある。

 「ああ~…美少女3人の(かぐわ)しさに誘われて…! 恋と青春に誘われる蝶、神崎大和、ここに見参ッスよ!」

 「…うっわ、出たよ…この軽薄変態男」

 ナミトが笑顔を一転、冷たい陰を含んだ苦笑を浮かべて、ジロリと大和を睨む。すると大和は、愕然とした衝撃にガーンッと打たれ、ワタワタと腕を振りながら言い返す。

 「ちょっ…変態って何スか!? ナミトちゃん、紫から染ったみたいな毒舌、やめて欲しいッスね! オレはこう見えても、繊細なんスよ!」

 「だって、事実じゃんかー」

 ナミトはジト目を崩さずに、冷たく、非難の色すら交えて責める。

 「女の子と見れば、学園の生徒だろうが、部活の依頼人だろうが、誰彼構わず声を掛けてるじゃん。脳と下半身が直結してるってはっきり分かるんだよね。すっごい、キモい」

 「そ、そんな…キモいだなんて、あんまりッスよぉ…」

 大和は涙声になりながら、潤んだ瞳をアリエッタに向ける。

 「アリエッタ先輩、なんとか言ってくださいよー! 全く()われのない非難ッスよー! ガツンと、ナミトに言い聞かせてくださいよー!」

 するとアリエッタは、ニコニコとした顔を崩さずに唇に指を当て、んー、と唸っていたが。やがて唇から離した指をそのままピンと立てたまま、語る。

 「確かに、ナミトちゃんの"キモい"って発言はちょっと酷いかな」

 「えー! だって、真実ですよー! この軽薄野郎は、女の子の敵ですってばー! 先輩だって、今まで散々見てるじゃないですかーっ!」

 抗議するナミトを後目(しりめ)に、アリエッタは「でも」と続ける。

 「大和君も反省すべき点があると思うの。確かに、女の子の気持ちを考えないで軽薄な行動をとることがあるものね。そういう点を直さないと、女の子たちから嫌われちゃうわよ」

 「そ、そんなぁ…!」

 大和は袖で涙を拭く動作をしたが…ノーラはしっかりと見た、彼の目は潤んではいるものの、涙は一滴も貯まっていなかったことを。こういう芝居がかった動作で同情を引こうとしたりするから、軽薄だなんて評価されてしまうんだろうな、と苦笑いしながら納得する。

 「…先輩に言われたから、"キモい"ってのは撤回しとく」

 ナミトはムスッとした顔で言い切る。大和の軽薄さを差し引いても、彼に対する態度が冷たく険しい気がするが…過去に何かあったのかも知れない。

 「それで、不届き者の大和くん」

 「ナミト…だから不届き者って…

 …まぁ、もう、良いッスよ、それで。変態よりはマシッスからね…。

 で、何スか?」

 「何の用があって、私たちの花園を踏みにじりに来たワケ?

 …そういえば、ノーラちゃんと一緒に作業してたらしいけどさ…それを口実に、ノーラちゃんに言い寄ろうってンじゃないでしょうね!?」

 「踏みにじりにって…ホント、ナミトはオレには酷いなぁ…。

 いや、ちょっとお手洗いに行ってたら、みんなグループ作ってワイワイしててさ…寂しかったから、人の多いノーラちゃんのところなら、受け入れてくれるかなーと思って、来てみただけッスよ…」

 ここまで、ナミトの非難に満ちた口振りに遠慮して、大人しく、ちょっと切なげに語っていたが…。

 「そしたら!」と、突如元気の炎を取り戻し、手をパンッと慣らし、ニカニカと歌うような上機嫌さで語り出す。

 「ノーラちゃんと一緒にランチする話が聞こえたじゃないッスかぁ! それでオレも、是非是非! ご一緒させてもらいたいなーって思ったンスよー!

 しかもしかも、アリエッタ先輩のご友人まで一緒になるかも、って話も聞こえるじゃないッスかぁっ!

 いやー、視界一面、美女祭の始まりの予感しまくりッスよぉっ! この祭りに参加しないだなんて、男の名が廃るってもンスよっ! テンション上がりまくりッスよぉっ!」

 「…やっぱ、下半身が反応してるだけじゃん。クッソ変態」

 「あっ、また変態って言ったッスねっ!?

 アリエッタせんぱぁいっ、また酷いこと言ってますよ、この狐娘ぇーっ!」

 「んー、でも、私も今回は、大和君の動機は不純だと思うわ。年頃だから逸る気持ちは分からないでもないけど、ほどほどに抑えないと、女の子に嫌われちゃうわよ」

 「そ、そんなぁ…先輩まで…っ!

 …いや、そうだっ! ノーラちゃんっ!」

 ここまでの経過を、楽しいコントのように客観視していたノーラであったが、突然大和にガバッと両肩を掴まれ、顔をズイッと寄せられると、ビクッと身体を身体を硬直させる。

 「え…な…何…かな…?」

 「ランチ会の主役は、ノーラちゃん! つまり、他の誰が何を言おうと、ノーラちゃんの許可さえ取れれば、誰にも文句を言われないっ!

 と、言うことで! ノーラちゃん、オレもランチに同席させてもらえないかな!? かな!? かなぁっ!?」

 余りに必死に訴える大和の態度に、ノーラは思わず腰が引ける。何故ここまで情熱を注げるのか、彼女は全く出来ない。

 だが…何はともあれ、返答しておくとする。ノーラはニコリと笑むと、首を立てに振る。

 「うん…私は、良いよ…」

 「ノォォォラちゃぁぁぁんっ!」

 大和が女神を拝むような盛大な歓声を上げた一方で、

 「えええええぇぇぇぇぇっ!」

 苦虫を噛み潰したようなゲンナリした表情で、ナミトが抗議の声を上げる。

 これで大和の大勝利…かと思いきや。ここでノーラは、意地悪気な笑みを浮かべ、大和にグサリと言葉の釘を刺す。

 「でも…私含めて、同席してる女の子にナンパしたら…お尻を蹴って、ランチ会から追い出すね」

 「そ、そんなぁ…! ノーラちゃんまで、そんなこと言うなんてぇっ!」

 大和の顔色がコロリと代わり、失意の蒼白になり、いよいよ泣き顔になる。と言っても、本気で泣き出しそうな雰囲気はなく、むしろどこか楽しんでいるような気配がする。なんだかんだ抗議してはいるが、イジられるのが好きらしい。そんな彼の性格を覚ったからこそ、ノーラは彼に意地悪を言ったのだ。

 しかし、今までのノーラならば、例え相手がイジられるのを好もうとも、絶対にイジるような台詞は言わなかっただろう。相手のことが申し訳なく感じるというのも理由の一つだが、人とあまり深い関わりを持たないで来た彼女は、コミュニケーションから楽しみを得ようなどとしなかったからだ。

 そんなノーラが今、積極的に会話を通じて楽しさを貪っている。というのも、彼女は今、部室で部員達と折り紙をしていた時に感じていた時と同じ楽しさ、嬉しさ、そして一種の興奮を再び得ているからだ。

 こんな風に彼女を変えたのは、アリエッタの誘導も勿論一因であろう。それが引き金となって、これまでの苦楽を一緒に乗り越えてきた一体感が、ようやくノーラの中で実感となったようだ。

 (私も、この楽しさの輪の中に、入っても良いんだ…! みんなは自然と受け止めてくれるんだ…! 壁を作っていたのは、私自身だったんだ…!)

 今をもって、ノーラの精神が作り出した鉄格子は、完全に瓦解した。

 それから4人は、大和をちょくちょくイジりながらも、賑やかで和やかな、笑いの絶えない会話を楽しむ。

 そんな時、ふと、ノーラは気付く。

 「そういえば…イェルグ先輩とヴァネッサ先輩の姿が、見えないようですけど…? どうしたんでしょうか…?」

 すると、チッチッチッ、とナミトが下を打ちながら指を左右に振り動かす。

 「それを訊くのはヤボってもんだよ、ノーラちゃん。お2人は誰もが認める恋人同士。その2人が一緒に苦境を乗り越えたんだよ? そしたらやることは…ねぇ…」

 ナミトがポッと顔を赤く染め、俯いて見せると。ノーラもその仕草から、はっと想像…と言うか、妄想を(たくま)しくし、自らも頬を赤らめる。

 そこにアリエッタが慌てて手を振りながら口を挟む。

 「いえいえ、あの2人に関してそういう…その…いかがわしいことはないからね。

 ヴァネッサちゃんが、ホール内の避難民の方がどうしても気になるみたいでね。イェルグ君はその付き添いよ。

 イェルグ君としては、落ち着いたこの都市の青空を散歩…というか、散飛び? したかったみたいだけどね」

 「そ、そうだったんですか…」

 ほっと安堵しつつ、ドキドキする胸に手を当てて鼓動を抑えようとするノーラ。それに対して…。

 「あーっ、先輩ーっ! すぐ正解教えちゃってーっ! ノーラちゃんが恥ずかしがるところ、もうちょっと楽しみたかったのにーっ!」

 顔色をコロッと変え、頬を膨らませて抗議するナミトであった。

 そこへ大和が、精一杯キザな表情を浮かべると、カッコつけて前髪をかき上げながらほざく。

 「なんだい、君たちもステキな男性と2人きりのランデブーをしたいなら…ここに1人、イケメンがいるじゃないスか。

 さあ、ハニーたち、オレの胸に飛び込んで来なよ」

 ラブオーラ全開でウインクするものの…女子3人は呆然とした、白けた視線を向けるだけだ。特にナミトは、これまで以上に露骨で険しい嫌悪を込めて睨みつける。

 「…そーゆートコがキモ過ぎだって言ってんのよ、変態」

 「なっ…! だから、変態って言い方は、止めろって言ってるじゃないスか! なんでナミトは、いつもオレに冷たいンスかぁっ!」

 「自分の胸に手を当てて聞いてみろ! 変態変態、ド変態ーっ!」

 「アリエッタせんぱぁいっ、またナミトが酷いこと言うんですよーっ! 諫めてくださいよーっ!」

 「んー、私も今のは、キモいと思ったわ」

 「大和君…私もすごく、気持ち悪かった…」

 「うわぁぁぁん、もう泣いてやる! 泣いて副部長に………いや、副部長はダメか………えーと………そうそう!

 部長! そう、部長に! 言いつけてやるッスぅぅぅっ!」

 …と、賑やかな時間はまだまだ続いていきそうだ。

 

 こうして星撒部の部員達が楽しんでいるところへ…1人の男がスッと姿を現した。

 この男は、壮年に差し掛かった年齢の、スラリとした長身痩躯の持ち主である。ただし、ヒョロヒョロした脆弱さは感じられない。その細身からはギュッと引き締まった力強さと鋭さがにじみ出ている。そんな彼の体を覆うのは、濃緑色をした厚手のコートである。その胸元にはハトの羽根を持つ輪をまとった地球のマーク、すなわち、『エグリゴリ』の紋章がある。その他、大小様々な勲章が『エグリゴリ』マークの下に並べて飾られており、この人物が組織の中でも高い地位と確固たる名誉を持っていることが分かる。目深に被っている濃緑色の帽子の中央にもまた、『エグリゴリ』の紋章がデンと据えてある。

 この人物を目に入れた渚は、蒼治をいじる手を直ちに止める。突然解放され、ケホケホと咳をしてうずくまる彼を後目(しりめ)に、渚は現れた人物に向き直ると…ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。そして両腕を腰に当て、胸を突き出す不遜な態度を取ると、馴れ馴れしくもトゲのある物言いをぶつける。

 「これはこれは、『エグリゴリ』第23軍団にこの人あり、と謳われる名士、エルロン・アルバーグマン大佐殿ではありませぬか。

 随分と"お早い"ご到着でしたのう」

 『エグリゴリ』の行き足遅い行動に対して露骨な嫌味を込めた言葉に対し、男――エルロン・アルバーグマン大佐はひび割れた薄い唇に苦々しい自嘲の笑みを浮かべる。

 「君たちからの不平不満は、甘んじて受けよう。実際、今回の災厄に際しては、私たちは全うすべき職務を何一つ果たせなかったのだからね。

 今回もまた、世話になってしまったね。第23軍団を代表して、心から感謝を伝えたい。

 本来ならば、大きな功績を上げた君たちの元にこそ、真っ先に挨拶するべきであったとは思うが…この都市の市長から、すぐに顔を出せとのお達しがあってね。被害者感情を鑑みた上で、そちらを優先させてもらった。この点について、ご理解いただきたい」

 エルロンは帽子を取って胸元に置き、深々と頭を下げる。これを見た渚は、別にそんなことしなくても良い、という意向を尊大な手振りで示す。

 「わしらは別段、おぬしたちに恩を売りたくて活動しているワケではないわ。人として、"希望の星を撒く"者として、当然のことをやっておるまでじゃ。

 それに、被害者を優先して活動するのは、人助けの基本じゃ。そのことで気を悪くするような愚かな輩は、わしらの中には居りはせんよ」

 「君ならばそういうだろうとは思っていたが…こちらとて、"地球を護る"という大義の元で活動する者。キッチリと筋だけは通しておきたいのだよ」

 「相変わらずお堅いヤツじゃのう。まぁ、そういう部分がおぬしの良いところでもあるがのう」

 年齢も立場もかなり異なる2人であるが、一連のやり取りを見るに、相当見知った仲であるようだ。しかし、それは不思議なことでないかも知れない。星撒部は噂通りならば、度々『現女神』を初めとした、地球規模の事件にも首をつっこんでいる。本来そういった類の事件を担当する『エグリゴリ』と関係を持っていても、おかしくはない。

 エルロンの律儀な態度に気を良くしていた渚であったが、その顔が不意に曇る。

 「しっかし…おぬしらが多忙であることは知っておるが、それにしても今回の失態はヤバ過ぎじゃろ。"獄炎"のヤツ、降臨までしようとしおったぞ」

 「…それは、俺達が『現女神』の思惑を大きく超えて動いたからだと思うんだけど…」

 足下で蒼治がボソリと呟いたのを渚は聞き逃さず、踵で彼の額をゴツンと蹴り叩き、黙らせる。

 「ともかく、じゃ」

 渚はゴホン、と咳払いをして続ける。

 「これほどの大規模な求心活動に対して、偵察部隊すら寄越さずにスルーとは、完全にアウトじゃろ。市長はさぞや、立腹しておったじゃろうな」

 「コップを投げつけられたよ。お陰で、今も物理的に胸が痛い」

 エルロンは苦笑いしながら、トントンと右胸を拳で軽く叩いてみせる。

 直後、彼はハァーと深く溜息を吐き、苦々しい笑いすら消して、暗く重い口振りで語る。

 「言い訳にしかならないが…今回はあまりにも状況が悪過ぎた。

 詳しいことは語れないが、我々は要対応事案を多数抱え込んでいてね。そこにつけ込むようにして、"獄炎の女神"が複数の都市国家で一斉に求心活動を展開したのだよ。

 どの事案も、下手に戦力を裂くことが出来ない難しいものでね。"獄炎の女神"の求心活動については、(はなは)だ不本意ながら、状況の深刻さに応じて優先順位をつけて対応に臨むことになってしまったのだよ。

 そしてこのアオイデュアは、観測時点において、被害を受けている都市国家の中で唯一、士師の活動が見受けられなかった都市だったのでね。優先度が最も低く設定されてしまったのだ。

 君たちが居てくれて、本当に幸いだった。まさかこの都市国家に『現女神』が降臨して来ようとは、思っても見なかったよ。本当に君たちのお陰で、一つの都市国家が壊滅の危機から救われた。改めて感謝の意を伝えたい、ありがとう」

 エルロンは再び帽子を取り、深く頭を下げる。しかし、その誠意ある態度を目にした渚は、あろうことか怪訝げなジト目で彼を睨んでいる。

 「とか何とか言っておいて…本当は、わしらがこの都市に居ることを良いことに、職務を丸投げしたのではないか?」

 「いやいや、滅相もない」

 エルロンは帽子を被り直しながら、薄く笑って答える。

 「我々の魔導観測衛星がいくら高精度であろうと、数千万人の人々の中から居るか居ないか確証のない人物を逐一走査するような真似は、莫大な手間がかかるのだよ。我々の観測班は、そんな手間を一々かけられるほど暇ではないよ」

 「さーて、どうだかのう」

 渚はジト目のまま疑った物言いをしたが…すぐにその態度を改め、真剣な、そして苦々しさが滲む表情を作り、引き続いて問う。

 「それで、他の場での『エグリゴリ』の首尾はどうなのじゃ? このアオイデュアのように、失態をやらかしたりはしておらんじゃろうな?」

 渚の問いに、エルロンもまた真剣な表情を作って答える。

 「"獄炎の女神"の求心活動への対応については、大体は上々だな。すでに交戦を終え、復興のフェイズに入っている箇所が大半だ。

 未だに交戦状態が続いている箇所もあるが、このアオイデュアで君たちが"獄炎の女神"を追い返した頃を境に、敵勢力の勢いが急激に落ち込んだらしい。状況の解決は時間の問題だろう。

 ただ…他の問題への対応については、ボチボチだね。どの問題も、解決にはまだまだ時間がかかりそうだ」

 「むうぅ…。この地球、まだまだ平穏にはほど遠いのう…」

 「今やこの惑星は、銀河系宇宙のみならず、あらゆる異層世界宇宙から注目を受けている身だ。トラブルが起きない方が不思議だろう。

 それにしても、君がそんな台詞を口にするとはな。いくら努力しても報われた気がしない…そんな先の見えない現状を痛感して、流石の君も弱気になったのかな?」

 ここぞとばかりに余裕ある態度で語るエルロンに、渚は再びジト目を作って睨む。

 「相手にしている問題の莫大さを理解できぬほど、わしも向こう見ずではないわい。単に、この瞬間も笑顔と希望を惨劇に潰されている者達がいると思うとな、ふと悲しい気持ちになるのじゃ。

 それに…"報われない"、なんてことはないじゃろ。そりゃあ、山積している問題に比べれば、わしらの成果はあまりにい小さいかも知れぬ。じゃが、笑顔と希望を振りまいておるのは事実じゃよ。それを実感できるだけでも、わしらは十分報われておるよ」

 「…ふむ、野暮なからかいをしてしまったようだな」

 エルロンは穏やかに目を伏せ、自嘲の笑みを浮かべながら呟いた。

 続いてエルロンは目をパッと開くと、少し怪訝そうな表情を作る。

 「ところで…何故君たちは、こんなところでコソコソ集まっているのかね? ホールのどこにも見当たらないのでね、探すのに多少手間取ってしまったよ。

 君たちはこの災厄の英雄であると同時に、被害者でもある。私の部下の治療を受けながら、のんびりと休んでいれば良いだろうに」

 すると渚は、口角をヒクヒクさせる苦笑を浮かべ、多少の非難を交えた視線をエルロンに送る。その表情からは、"おぬしこそ、きちんと空気を読め"という言葉が聞こえてきそうだ。

 「あんなピリピリした場所で、のんびりできるワケがないじゃろうが。

 第一、おぬしの部下たちと来たら、わしらに対して対抗心燃やしまくりで、どこにおってもプレッシャーを感じずにはおられんぞ。

 それならば、この澄み渡った青空の下でワイワイやっておる方が、断然気楽じゃわい」

 これを聞いたエルロンは、口を「(オウ)」の字に開いて目をパチクリとさせる。

 「それはそれは…すまなかったね。

 部下たちは別に、君たちのことを悪く思っているワケではないのだよ。ただ、果たすべき職務を果たせず、学生に全てを任せてしまったことに不甲斐なさを感じてしまっているのだろう。

 事後の復興だけでも、"地球の守護者"の名に恥じぬ成果を出そうとしている必死さの現れであると、理解していただきたい」

 「まぁ、別にわしとて悪気があると思ってはおらぬがのう…やはり、あの雰囲気はどーにもいかんわい。被災者も落ち着けぬのではないかのう、あんなにピリピリしておっては」

 「その忠告も受け取っておくよ。部下たちには、被災者感情を優先して、もっと穏やかに対応するよう指示を出しておくよ」

 ここまで語ったエルロンは、不意にハッと何かに気付いて顔を固める。しかしそれも一瞬のこと、すぐに顔をゆるめると、帽子を深く被り直しながら踵を返す。

 「さて、そろそろお(いとま)させてもらおう。部下たちが必死に働いている中、上官がいつまでものうのうと旧知の者とだべっていては示しがつかないからね。

 それに…私だけが君を独占していては、後のお客に迷惑がかかる」

 エルロンの妙な言葉に渚は疑問を浮かべたが…エルロンの肩越しをチラリと見やると、すぐにその意味を覚る。確かに、エルロンの他にも星撒部に用があるものが居る。

 「それでは、いつかまた何処かで。

 …なるべくなら、戦場でも災害でもない場所で、な」

 エルロンは背を向けると、別れの挨拶として腕を上げて振る。渚は相手の視界に入っていないにも関わらず、大仰に頷いてそれに応える。

 エルロンがコンサートホールへ向かって歩き、その姿がゆっくりと小さくなってゆく…それと入れ替わるように、早足でこちらに近寄ってくる5人が居る。彼らこそ、エルロンが言っていた"後のお客"だ。彼らの正体を知った渚は、振り向かずに背後へ声を飛ばす。

 「蒼治! 虚弱なおぬしでも、そろそろ平気になったじゃろ!?

 早ようわしの所へ来んかい! お客様じゃぞ!」

 渚の言う通り、蒼治はとっくに首締めの影響から立ち直っており、ノーラたちの所で会話に混ざっていたところだった。だが呼ばれた途端、名残惜しそうな苦笑いを浮かべると、ノーラたちに別れを告げて小走りに渚の元へと駆け出す。その様子は、横暴な君主に仕えて頭を痛める大臣の姿にも似ていた。

 

 蒼治は渚の隣に並んでもなお、眼鏡の後ろ側に苦笑を張り付けていた。が、チラリともこちらを見やらない渚につられて、彼自身も渚と同じ方向に視線を向けると…ハッとして、表情と佇まいを直す。

 小太りで背丈の低い、スーツ姿の中年男性を中央に、その左右に2ずつ少女が並んだ、横一列の隊形で近寄ってくる"客"。彼らの顔一つ一つが、渚にも蒼治にも見覚えがある。

 数日前、このアオイデュアでコンサートを開くため、星撒部に協力を要請してきたアイドルグループと、彼女らが所属する事務所の社長だ。

 学園外部の依頼者から話を聞く場合、原則としては部長のバウアー・シュヴァールと副部長の渚が対応に当たる。しかし、バウアーは独自行動が多く、部室に居ることは非常に希だ。そのため、バウアーは自分が不在の場合、蒼治に代理を頼んでいる。故に蒼治は、星撒部に出入りする客の大半と顔を合わせている。このアイドルグループの時も、蒼治は渚と共に対応に当たっている。

 客が間近まで近寄った時、蒼治はニコリと穏やかに笑う。

 「ご無沙汰しております。

 皆さん、今回はとんだ災難でしたね。しかし、ご無事のようで何よりです」

 と、和やかに、そして少々営業的なサービス精神を交えて蒼治が語る一方で…。

 「うむ、本当に皆、無事で何よりじゃ」

 腕を組んで大仰に首を縦に振る渚の姿は、あまりに不遜で傲慢な風に蒼治の眼には写り、彼は苦笑せざるを得なかった。

 だが、客たちは渚の態度にも気を悪くせず、一斉に深々と頭を下げる。そして顔を上げぬまま、社長の男が堅く、そして心底誠実な声を抑えめに出す。

 「この度は、本当にお世話になりました。

 大した報酬も払えない私たちに対し、皆様本当によく支援してくださいました。

 それのみならず、今回の災厄に対しては命までお救い下さいました。

 心から感謝いたします。本当にありがとうございました」

 「うむ。まぁ、当然のことをしたまでじゃ。

 わしら星撒部は、希望と笑顔を糧に活動しておる。おぬしらの希望と笑顔への想いこそ、わしらに対する最大の前払い報酬じゃよ。

 それに、命を救う力を有する者が、命の危機に晒されている弱者を助けるのは、義務と言っても差し支えなかろう」

 と、渚はひとしきり偉そうに語ったが。直後、バツが悪そうにニヘラと顔を綻ばせ、後頭部を掻く。

 「…と、偉そうに言うたが、わしが今回の件に絡んだのは、ほんの最後の最後の部分に過ぎぬ。

 頭を下げたくば、おぬしらを始終支え続けたヴァネッサにイェルグ………」ここで渚は少し間を置いた後、小さく呟くように「と、大和」と付け加えた、「…にするが良い。

 ただ…ヴァネッサとイェルグの両名はここに居らぬ。ホールの中で被災者たちの様子を見ると言っておったが、会わなかったかや?」

 「ええ、お会いしませんでした。

 皆様のことを探したのですがね、どこを歩いても見つからず…。『エグリゴリ』の方から、外で見かけたと聞いたもので、急いで探し回り、こちらに来た次第でして」

 「ふむ…さてはあの2人…被災者の様子見とか言っておきながら、まーた2人きりで空中散歩でもしておるな!」

 渚はそう決めつけて、不機嫌そうに顔をしかめる。しかし蒼治は、それはどうだろうか、と胸中で(いぶか)しむ。コンサートホールの中は広いし、今は避難民だけでなく『エグリゴリ』の人員でもごった返している。そんな中でたった2人の人間を見つけるのは、非常に困難だろうと考えたからだ。

 とは言え…外部での仕事の際、あの2人は仕事を終えると記念として空中散歩をするのは常のことなので、可能性を完全に否定することができないもの事実である。

 それはそうと…渚の軽口を聞いても、なお頭を深々と下げたままの客たちに対し、渚はパタパタと手を振りながら語る。

 「おぬしら、そろそろ顔を上げよ。さっきわしも言ったじゃろう、当然のことじゃって。そんなに気にする必要はないのじゃ」

 「でも、」社長の右隣に居る少女が、凛としたよく通る声で語る、「人から受けた恩は忘れず、感謝を身に刻み、次の活動の力に変えてゆく。それが、私たちのポリシーなんです。何もお返しできない分、この筋だけはしっかりと通させてください!」

 非常に律儀で真面目な態度であるが、渚にはそれが重荷となってのし掛かり、気まずく肩身の狭い思いをする。ひきつった笑顔で頬を掻きながら頼み込む。

 「まぁ…その心がけは立派じゃが…ホントにそろそろ、顔を上げてくれぬか。

 何か…わしらがおぬしらに悪いことをした気になってしもうてな、落ち着かぬわい」

 とても困った響きをたっぷり持たせた言葉に、ようやく頭を上げる5人。そこでようやく渚と蒼治は、客たちの顔を間近でまじまじと見る。

 彼らは皆、表情の端々に安堵を浮かべてはいたが…それよりも目立つのは、暗くぎこちない陰である。災厄の際にもホール内にいた彼らは、傷一つなかったし、煤がついた様子もどこにもない。混乱する人々の姿は見ただろうが、自身はほぼ生命の危機に晒されることなく、災厄を乗り切れたはずだ。なのに、安堵よりも不安…というより、後ろめたさ、申し訳なさをふんだんに醸し出している、そんな濃い陰が彼ら全員の顔に漂っている。

 アイドルグループの少女たちに関して言えば、メイクを落として素顔を晒しているため、初めて顔を合わせた時とは違った印象を受けるのは確かだ。だが、その影響を差し引いても、この顔色の悪さは気になる。

 「むうぅ? 何か気になることでもあるのかや?」

 渚は遠慮なく、ストレートに尋ねると。「え…いや…その…」と社長がおずおずと言い繕い始めるが、なかなか言葉が形にならない。そんな彼の後を継いで、左隣に立つ赤毛のショートヘアの少女が語り出す。オドオドとした陰に覆われながらも、強い責任感を想起させるしっかりした態度を鑑みるに、アイドルグループのリーダーらしい。

 「私たち…迷っているんです…。このまま、のうのうとアイドルとして活動して良いのかな…って」

 その言葉を聞いた渚は、「むうぅ?」と問い返しながら腕を組む。

 「何故、そんな事を考える?

 今回の件、別におぬしらに落ち度があるワケじゃなし。気にする必要など寸毫もないではないか」

 そう渚が何事もなさげに言い返すが、リーダーはゆっくりと首を横に振る。

 「私たちは、浅はかで…身勝手で…無知で…そして、無力です…。

 この地球でコンサートを開きたかったのは、"戴天惑星"として知られて多くの人が集まるこの場所なら、より多くの人目に触れることが出来ると思った…それだけです。社長は、ファンのためとも言ってくれましたけども…実際は、単に私たちの欲のためでしかありません。

 そして、コンサートの最中、この大きな事件が起きた時…私たちができたことは、何もありませんでした。うろたえているファンの皆に避難を呼びかけることも、落ち着かせるように言い聞かせることもできず…ただただ、脅えることしかできなかったんです。

 我欲ばかりで、いざと言う時には何もできない、何もしない…そんな私たちが、皆さんの支持を集めて、お金をいただいて活動して行くだなんて…おこがましくて、申し訳なくて、仕方がないんです…。

 だから、これからものうのうとこんな稼ぎ方をするのは、おかしいんじゃないかと思って…」

 そんなリーダーの言葉に、社長は"そんなことない!"となだめる表情を作り、手振りで落ち着くように訴えるが…。グループのメンバー達も、リーダーと同様の意見を抱いているようで、反論もせずに暗く俯いているだけであった。

 これを聞いた蒼治は、同情するような悲哀の表情を浮かべていたのだが。一方の渚は、困ったようにポリポリと頬を掻くと、少女たちの深刻さを一蹴するような軽々しい口調で語る。

 「いやいや、何もおかしくないし、気にすることではないじゃろ。

 そもそも、おぬしらは無力ではない。きちんと功を残しておるではないか」

 そんな渚の言い方に、リーダーは眼をぱちくりとさせたが、すぐにキッと表情を引き締める。まるで、渚の言葉をムキに否定しているかのようだ。

 「私たちは、皆さんのように怪物と戦えるワケでもありませんし、命を救うために炎の中を走り回ることもできないんですよ!?

 ただただ、安全が確保されたところで着飾って、歌って踊って、マイクパフォーマンスをするだけ! いなくても別に困らない、暇つぶしを提供する程度のちっぽけな存在に過ぎません!

 そんな私たちにどうして、無力でない、なんて言えるんですか!?」

 「おぬしらは『エグリゴリ』の隊員でも、都市お抱えのレスキュー隊でもない。人命救助や天使どもと交戦をこなせなくて、当たり前じゃろ」

 リーダーの必死の訴えにも、渚は全くひるむくことなく、相変わらず軽々しく答える。

 リーダーは更にムキになって反論をしようと口を動かすが、言葉を形にするより早く、ニヤリと笑った渚の言葉が滑り込む。

 「それに、お主たちは、お主たち自身の力で、お主たちの想いを人々に届けておる。その結果として、笑顔になっておる人々がおる。希望や元気をもらっておる者達がおる。それは紛れもない事実じゃ。

 その原動力が我欲であることに、何の恥じらいがあるか? 何をどう取り繕うと、どうせ人は自分の満足のためにしか動けぬのじゃ。

 わしらとて、わしらがそうしたいと思うから、そうすることで楽しいからこそ、希望の手伝いをする活動をしておる。

 『エグリゴリ』の隊員どもとて、真の意味で滅私奉公しておる者など居るまいよ。それが出来るとすれば、魂魄の壊れた狂人じゃろうよ」

 「でも…でも…! 私たちは…!」

 なおも食い下がって自己卑下するアイドル達を、渚はちょっとウザったそうに見つめたが。やがて拳を手のひらに振り下ろし、ポン、と音を立てる。何かを思いついたことの現れだ。そしてより一層、張り付けた笑みを大きく、そして挑戦的にし、語る。

 「ならば、おぬしらが無力かどうか、確かめてみれば良かろう」

 「え…?」

 アイドル達にとって、渚の提案は全くの想定外だったようだ。それまでの陰の濃い表情を消してまでも、キョトンとした困惑の表情を作り出す。

 そんな彼らを後目に、渚は笑みを浮かべたままながら、ハチミツ色の髪を振りながら大きく手振りをし、蒼治をはじめとして部員たちに指示を出す。

 「蒼治! すぐにイェルグとヴァネッサを呼び戻すのじゃ!

 皆の者、まったりお喋りタイムは一度、お預けじゃ! ミーティングを始めるゆえ、すぐに集合せい!」

 「え…あの…何を…?」

 渚の急な動きについていけないアイドル達は、ザワザワしながら渚の元にゾロゾロと集まってくる部員たちにキョロキョロと視線を走らせながら、オロオロと言葉を発する。そんな彼女らの様子に対して、渚は碧眼をウインクしながら語る。

 「此度のコンサート、"獄炎"の阿呆のせいで中止になってしもうたのじゃろ?

 ということは、わしらもまた、おぬしらの依頼を完遂しておらぬということじゃ。

 そこで、じゃ。ここでおぬしらのコンサートを改めて開くのじゃよ。おぬしらは、当初の予定通り、コンサートをやりきることが出来るし、わしらとしては、おぬしらの依頼をきちんとした形で完遂できるワケじゃ」

 この提案に、アイドルグループと社長は眼を丸くする。その瞳に映る感情は驚嘆ではなく、混乱と焦燥である。

 「でも…!」グループの左端に位置する、青いロングヘアのメンバーが悲鳴のにも似た抗議を上げる、「今は、大変な状況がやっと終わったばかりなんですよ! 避難民の皆さんは、まだまだ落ち着いて居ません! そんな中で、コンサートをするなんて…! 非常識というか…不謹慎というか…!」

 しかし渚は、笑顔を全く歪めることなく続ける。

 「おぬしら、わしらに依頼をした時に言うたではないか。"夢のあるコンサートをやりたい"、とな。

 アイドルが運ぶ夢は、希望と元気の詰まった夢だと相場が決まっておろう?

 今、この都市はおぬしらが言う通り、災厄を経て疲弊し、その爪痕が人々の心に不安と絶望の闇を落としておる。

 この暗澹とした状況こそ、おぬしらアイドルの出番ではないのか? こんな時こそ、おぬしらの希望と元気を届けるべいじゃろうが」

 アイドル達は、俯き加減になりながら、顔を見合わせる。――渚の言うことは、尤もかも知れない。戦場や被災地で人々を励ますために、歌手その他のアイドル達が慰問することはよくある話だ。彼らはまさしく、疲弊した人々の心をに光を届ける役割を担っているのだ――そのように理解する一方で、多大な不安と緊張が彼女らの間に落ちる。

 異層世界中に名を轟かす大物であろうとも、災厄の直後に慰問に訪れるような真似はしない。自らの身に危険が及ぶ可能性があるから、というのも大きな理由だろうが、それ以上に被災者の気持ちが慰問に向いてくれないからだ。人々は自らに訪れた恐怖を自己整理するのに手一杯なのだ。そこへ外部からどんな人物が来ようとも、彼らがどんな言葉をかけようと、自己整理の助けになどならない。それどころか、彼らを苛む雑音にしかならず、感謝されるどころか恨まれるのがオチだ――そのリスクを理解しているからこそ、彼はすぐには動かないのだ。

 大物ですらそうだというのに、無名同然の弱小グループである自分たちが、一体何ができるというのか? それを考えればますます、"今からコンサートをする"などという行為が無謀で無為なものに思える。

 そんな彼女らの思考を読みとり、そしてその不安を吹き飛ばすかのように、渚はニカッとヒマワリのような笑みを浮かべる。

 「おぬしらさえ本気でやれるのならば、何の心配もないぞい。おぬしらが心に抱き続けてきた星、見事人々に届けてみせるが良いわい!」

 アイドル達がついに、首を縦に振ってしまったのは、渚のこの言葉だけの影響によるものではない。渚の後方にズラリと並んだ星撒部の部員たちが皆、誰一人として欠けることなく、力強く穏やかな笑みを浮かべていたからだ。その柔らかな暖かみに触れて、アイドル達の心にこびりついた不安の霜は、ついに融解したのであった。

 

 …この時、部員でないノーラもまた、部員たちと同様に笑みを浮かべていた。

 彼女の笑みは、部員たちのものとは少し意味が異なる。

 部員たちの笑みは、自信に裏付けられた、人を安心させる笑みだ。"何も心配することなんかない、任せておけ"と安堵を与えつつも、優しく背中を押す笑みだ。

 対するノーラの笑みは、語りかけ、誘う笑みである。"この人たちとなら大丈夫、何だって出来る。私もまた、そうして事を成し遂げられたんだ"と、物語る笑みだ。

 アイドルグループのリーダーは、部員たちの笑みをおしなべて見回していたが、特にノーラの笑みを注視していた。その笑みに込められた実体験から来る訴えに、彼女の心が同調したのかも知れない。

 そしてその同調こそが、彼女らの頑なな不安の霜を溶かす起点になったのかも知れない。

 それが真か偽かはノーラには分からない。だが、リーダーの娘は確かに、ニッコリと、ノーラに向けて笑みを返した。

 その時、ノーラは胸が弾け飛ぶほどの興奮を嬉しさを覚え、笑みが更なる大輪の花を咲かせたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Stargazer - Part 10

 ◆ ◆ ◆

 

 その後の星撒部の活動は、これまでの戦いの余韻など感じさせぬほどキビキビとしていて素早く、そして派手であった。

 「とりあえず、ステージが必要じゃな」

 と、顎に手を当てながら語った渚は、しばし思案する。今のコンサートホール内はどこもかしこも被災者と『エグリゴリ』の隊員だらけ。歌ったり踊ったりする十分なスペースはない。それをいかに確保するか。

 この問題を解決すべく彼女が遣わしたのが、ヴァネッサと共に呼び戻したイェルグである。渚になにやら言い含められたイェルグは、雲をまとって街中へと一っ飛びし、しばし姿を眩ます。そして再び姿を表した時には…並の体育館ほどの面積を持つコンクリートの円盤を雲に乗せて運んできた。

 これを見たアイドルグループ達は、あんぐりと口を開いて絶句してしまう。

 コンクリートの上からイェルグは大きく手を振りながら、叫び声を上げて報告する。

 「渚ぁーっ、言われた通り、作ってもらったぜーっ。ホント、今回の『エグリゴリ』の連中は優しいねぇ! 軽く頼んだだけで、二つ返事で了承してもらえてさ! すぐに暫定精霊(スペクター)に作ってもらえたよ!」

 「当たり前じゃろう! 今回、あやつらはわしらに完全に貸しを作ったのじゃからなーっ!

 もしも拒みおったら、エルロンの奴に小言を言って、無理矢理にでも作らせるつもりじゃったんだがのう! 平和的に事が済んで、何よりじゃわい!」

 「あのう…」そこへアイドルグループの一人、豊かな金髪をポニーテールにまとめた少女が尋ねる、「あれは…何なんでしょうか…?」

 「無論、おぬしらが存分に歌って踊るための、空中ステージじゃよ!」

 「え…く、空中ですか!?」

 アイドルの少女は眼を白黒させる。大物のアーティストのライブでは、空中ステージなどの魔術を使った演出は珍しくないが、彼女らのようなまだ駆け出しのアイドルグループには未知の体験である。

 しかし、アイドル達には空中ステージに呆気に取られている暇はない。アリエッタとナミトの2人が、アイドル達の背を押してテーブルに連れて行くのである。着いた先のテーブルの上には、大きめの鏡とメイク道具が一式揃っている。

 「プロのメイクアップアーティストほどじゃありませんけど、なかなかの腕前だと自負してますから、安心してくださいね」

 「うんうん!

 私も、自分のは苦手だけど、他人のをやるのはうまいって、よく褒められるんだ! まぁ、騙されたと思って、任せてみなよーっ!」

 そして2人は、未だキョロキョロしているアイドル達に有無を言わさずにメイクを施すのであった。

 一方…部員の中でも一際多忙を極めている人物がいる。大和である。

 彼は今、自身の能力である機械への定義拡張(エキスパンション)を駆使し、集めてきた機械部品屑から照明や音響といった器具を次々に作り出している。その際の魔力消耗は多大で、ノーラが初めて彼を見たときと同等かそれ以上に、疲弊しきった顔を見せている。

 「カワイ子ちゃん達の…為とは言え…疲れることは…うひーっ…どんなに精神論でカバーしようにも…はぁーっ…疲れるもんッスねぇ…!」

 そんな彼に、ピシャリと言葉の鞭を打つのは、先刻と同様ヴァネッサである。

 「全く、情けないったらありませんわね。あなたも紛いなりにも世界を希望の星で満たす星撒部の一員ならば、せめて振りだけでも頼りがいのあるところを見せなさいな。あなたが絶望的な姿を見せてどうしますの?」

 「そうは仰いますがねぇ、ヴァ姐さん…」

 大和は疲労と共に憤りの混じった震え声を腹の奥底から吐き出す。彼の暗く燃える瞳は、ヴァネッサの方をギラリと見つめている。その視界に映るヴァネッサの姿は…のほほんと椅子に座り、どこからともなく取り出したティーカップで紅茶をすすっている。

 「こちとら、ひいこら言いながら作業に勤しんでるというのに…姐さんは一体、何をやってるンスか…!

 悠々と優雅なティータイムに浸ってるだけじゃないッスかぁっ! そんな気楽な身の上の人に、文句言われたくはないッスよぉっ!!」

 血の涙を流さんばかりの勢いで訴える大和であるが、文句を言われた当のヴァネッサは気を悪くするどころか、小馬鹿にしたように鼻でフッと笑う。

 「私の出番は、コンサート開催後ですからね。ホール中に水晶ディスプレイを配置して、依頼主の方々の勇士を観客に届けるという、大事な仕事がありますの。

 ですから、今は英気を養っているのですわ」

 そんな言い訳で、大和が納得するワケがない。怒らせた肩をプルプル震わせながら反論する。

 「…俺なんか、コンサート開催後にだって、作業が待ってるンスよ…! この機械一式を操作するという、大事な作業が…!

 でも俺には、英気を養うような暇なんかちっとも無いンスよ! そんな身の上の俺を気遣ってくれるならまだしも、文句を言うだなんて、酷いじゃないッスかぁっ!」

 大和は本気で泣き出しかねない勢いで叫び上げる。それでも、作業を放棄したりせず、至って真剣に手を動かし続けているのは感心できる。

 しかし、ヴァネッサは大和の訴えを無碍(むげ)にして、呆れたようにふぅーと息を吐くと、口を尖らせて語る。

 「文句を言いたいなら、あなたをその作業に割り当てた渚に言いなさいな。わたくしに当たられても迷惑ですわよ」

 「それじゃあせめて、そのおくつろぎの姿を、俺の目の届かないところに移動してください…! すごく惨めな気分になって、仕方ないンスよぉっ!」

 「どこでティータイムを楽しもうが、わたくしの勝手ではありません?」

 「そりゃ、勝手でしょうけどぉっ! なんで俺の近くなンスかぁっ!

 イェルグの兄貴の隣に行けばいいじゃないッスかぁっ! 兄貴、ステージを持ってきてから暇そうに空に浮いたままッスよぉっ! 一緒にティータイムを楽しめばいいじゃないッスかぁっ!」

 「いえいえ、わかっておりませんわねー。平穏を謳歌するには、暑苦しく働く者を見やるのが一番なのですわよ。ああー、あの方ったらあんなに忙しくて可哀想にー、それに比べてわたくしは何て平和なんでしょうー…と楽しむのが醍醐味なのですわ」

 「鬼ッス! 姐さんは本物の鬼ッス!」

 「あら、そんなに叫べるほど、まだまだ元気ではありませんの。それなら背筋をピンと伸ばして、清々しく作業なさいな」

 「ああああぁぁぁぁーっ! もおおおぉぉぉっ! ちくしょおおおぉぉぉっ!

 この仕事が終わったら、絶対に女の子とニャンニャンしてやるッスよおおおぉぉぉっ!」

 そんな大和の様子を、少し離れたところから同情の眼差しと苦笑で眺めているのは、ノーラである。

 そして彼女はふと、自らを鑑みる。彼女は今、作業を抱えておらず、ぼうっと立ち尽くしているような状態である。他の部員たちの中にも、今は作業を持たずに手持ち無沙汰にしている者もいる…た例えば、ロイと紫だ。2人は絶えず会話をしているが、打ち合わせというよりはふざけあっているような様子である。こんな彼らがいることを考えれば、部員でないノーラが作業無しでも何の気兼ねもする必要はないのだが。生来の生真面目さが、どうにもそれを許さない。

 そこでノーラは、腕を組んで作業を見つめては時折指示を繰り出す渚の元へとトコトコ近寄る。

 「あの…渚先輩、私にも何か、手伝えることはありませんか…?」

 これまで暇を持て余していたことへの申し訳なさを込めながら、オズオズと尋ねる。渚は上機嫌にニカッと大輪の笑顔を咲かせる。

 「うむ。元より、おぬしの定義変換(コンヴァージョン)の力を借りるつもりじゃよ。

 だが、出番はもうちっと先じゃ。詳細はおって連絡するゆえ、それまではゆるりと待ってておくれ。

 …っと、蒼治! それが終わったら、今度はそこに…!」

 そうして渚は、ステージ上で方術陣を施して回る蒼治に細かい注文を喚き伝え始めると、もはやノーラの方には一瞥もくれなくなった。

 こうして、またもや暇を持て余す身になってしまったノーラ。とは言え、ロイ達のようにつくろぐのは、どうしても気が引ける。そういうことでノーラは、渚から何か頼まれ事があればすぐに対応できるよう、渚の側で待機することにしたのであった。

 …しかし、ノーラの名が呼ばれた頃には、コンサートは開始を待つばかりの状態に到っていた。

 

 そして、星撒部が主催する臨時コンサートの幕が開ける。

 

 雲に乗って空中浮遊するステージが、大破したエントランスを通ってホールの内部に姿を現した時、避難民や『エグリゴリ』の隊員たちは何事かと一斉に顔を上げた。

 大半の視線が集中する中、ヴァネッサの力により、ホール内部を囲むように巨大な水晶モニターが形成される。同時に、大和が用意した照明機器がパッとステージ上を鮮やかに彩り、中央にフォーメーションを組むアイドル達の姿を浮き立たせる。

 直後、蒼治が用意した方術陣が効果を発動。満天の夜空をも凌ぐ煌めきを呈する大輪の花火を、大音響と共に打ち鳴らす。

 「被災者の皆様、そして、『エグリゴリ』の皆様。これよりアイドルグループ、"プレアデス・ドールズ"によるヒーリング・ライブを開始いたします。しばしの間、活力と幻想にあふれた歌とダンスでお楽しみ下さい」

 心をほんわりさせる、穏やかなアナウンスで開演を告げるのは、アリエッタである。

 人々が何事か、と状況が飲み込めていないままに、アイドルグループによるコンサートは開始した。

 アイドルグループ"プレアデス・ドールズ"のパフォーマンスは、非常に素晴らしいものであった。大物アイドルが頼りがちな口パクなど一切無し、全身全霊を振り絞って織りなす歌と踊りの絵巻は、知名度の低い駆け出しグループとはとても思えない実力が備わっている。高音でも安易な裏声に頼らない、しっかりとした歌唱力。しなやかにして麗しく、それでいて元気を与える力強さを備えたダンス。ウェブを通した活動で人気が出てきたというのも十分納得できる。

 しかし、コンサート開催当初は、彼女らの実力と頑張りとは裏腹に、観客たちの反応は(かんば)しいものではなった。中には、明らかな嫌悪の視線まで混じっている。とは言え、この反応は至極尤もなものだとも言える。つい先ほどまで、生死をかけた大災厄の中に居たのだ。その恐怖と不安とに折り合いをつけるので手一杯なのであろう。そこに、頼んでもない歌と踊りが割り込んできたのだ。大半の避難民にとっては、煩わしい雑音にしかならなかっただろう。

 だが…十数分も経つ頃になってようやく、彼らの態度が変わってくる。

 冷たい視線が吹雪となって痛々しく吹き荒れる逆境の中でも、めげずに、腐った表情の陰すら見せず、キラキラと汗を輝かせてパフォーマンスを続ける少女たちの姿が、避難民の陰った胸中に光をもたらしし始めたのだ。

 加えて、アリエッタがさり気なく口にしたこのアナウンスもまた、彼らの心を動かしたのかも知れない。

 「"プレアデス・ドールズ"の皆さんもまた、今回の災難の被災者です。しかし、だからこそ、皆さんに笑顔と元気を届けたいと、立ち上がってくれたのです」

 同じ苦難を経験しながらも、自分たちのためでなく、他人(ヒト)のために一生懸命になれる…その事情を心底で理解した時、避難民たちは初めに顔に出した嫌悪感を恥じた。同時に、この健気で勇敢な少女たちを好ましく、羨ましく、そして頼もしく思えてきたのだ。

 押し黙った重苦しい陰鬱は、いつしか弾け飛び上がらんばかりの大声援の嵐へと変わっていったのである。

 

 コンサートに際してノーラは、渚が事前に話していた通り、自身が誇る定義変換の能力で貢献していた。

 彼女に与えられた役割は、定義変換で舞台演出のための器具を作りだし、コンサートを彩ることだ。丁度大和の作業と似ているが、前もって大量に器具を作り出せる彼と異なり、ノーラは己の愛剣にしか作用を及ぼせない。そのため、必要な都度定義変換を行い、場面に応じた器具を作り出さなければならかった。手早さは勿論、精確さも併せて要求される作業なので、ノーラは士師との戦闘時以上に己の能力に対する緊張感を覚えた。

 とは言え、作業が苦行だとは全く思わない。

 むしろ、部員達やアイドル達と一体になって一事に打ち込んでいると、とてもワクワクしてくる。

 これと似た気持ちを、ノーラは一度味わっている――部室でみんなと一緒に折り紙をした時だ。

 そのことに思いを馳せた途端、ノーラは今まで気付かなかった自身の性質をハッと覚る。

 (私…こうやって、みんなと一緒になって何かに取り組むのが、大好きなんだ…!)

 そのことを自覚した瞬間。彼女の心が途端にふんわりと軽く、柔らかく、温かい感触が生まれる。そして、走り出したくなるようなムズムズした興奮が全身を駆け巡ってくる。

 勿論、作業を放棄して走り出すなんて真似はできない。そこで彼女は、満面の笑顔に対して、抱いた興奮のありったけを注ぎ込むのであった。

 

 観客もノリにノってきて、コンサートが盛況になってきた頃。それまであまり作業に携わらなかったロイが、渚からの耳打ちを受けると、ニヤリと大きく笑う。そして、元気に踊り歌うアイドルグループの後方で、盛大な火炎の息吹(ブレス)を天に向かって放った。

 この過激な演出に観客たちは歓声のどよめきを上げたが…ノーラの隣で舞台装置をいじっていた紫が、苦笑いを浮かべて誰ともなしに呟く。

 「アイドルグループのコンサートにパイロって、どうなんだろ…。ヘビメタじゃないんだからさ…」

 「アハハ、そうだね。でも、お客さんたちウケてるし、良いんじゃないかな…」

 ノーラがニコニコと返すと、紫はきょとんとした様子でノーラを覗き込む。先刻部室で見せた笑顔よりもずっと自然で、ずっとずっと気楽なスマイルにクラスメートの新境地を見出し、驚きを隠せない様子だ。

 だが、紫はニッコリと笑って、ノーラの変化を受け入れる。この変化は誰がどう見ても歓迎すべきものなのだから。

 「優等生ちゃん…いや、ノーラちゃん。いい顔するようになったじゃん」

 この賞賛の言葉に、ノーラはこれまでのように遠慮たっぷりに謙遜することをせず、更なる大輪の笑顔を咲かせて答える。

 「だって…みんなと一緒にいるのが、とっても楽しいから」

 「そっか、そっか」

 紫がうんうんと首を何度か縦に振っていた…その一方で、少し離れたところから怨嗟(えんさ)に似た暗澹とした呻き声がどんよりと立ち上る。

 「…楽しくて何よりッスねぇ…その元気、俺にも分けてほしいッス…」

 コンサート前から働きっぱなしの大和からの、多大な疲弊に満ちた泣き言であった。

 これを聞いた紫は、いつもの毒気を含んだ嗤いをニヤリと浮かべ、トゲトゲしく返す。

 「こちとら、ノーラちゃんが部活を楽しんでくれて喜びモードだってのに、ジメジメした様子で雰囲気ブチ壊すんじゃないわよ、変態穀潰し」

 「だからぁ…俺は変態じゃなくて…

 ああ、もういいや、反論する気力は、この機械操作に込めることにするッス…ぐはぁー」

 こうした大和の様子にも、ノーラは覚えた滑稽さを素直に表現し、ケラケラと笑ったのであった。

 

 コンサートは約40分で全行程を終えた。ホールでやるようなコンサートにしては短めではあるが、アイドル達自身や観客の体力も鑑みての時間配分としては、妥当と言えよう。

 「本日は本当に、どうもありがとうございましたっ!」

 声を揃えて一斉に礼するアイドル達に対しては、観客の被災者や『エグリゴリ』隊員達はおしみのない拍手を送る。この心地よい音に包まれながら、空中ステージはスーッと宙を滑り、名残惜しむようにゆっくりとホール内から退場したのであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 さて…ホール内から脱したステージは、ホールを囲む公園地帯の上空をフヨフヨと暫く漂い、着地点を探し出すと。エレベーターよりも緩やかな速度で、穏やかに着地する。ゴウン、と鈍い着地音が鳴り響き、微風の中へと消え去ると、一同は一斉に安堵のため息を吐いた。

 次いで、一同は満面の笑顔を浮かべてわっと歓声を上げると、互いの顔をのぞき込みあって、元気よく手を叩き合う。星撒部もアイドルグループも区別ない、平等な喜びの分かち合いである。興奮はそれだけに留まらず、一同は入り交じって会話を弾ませる。

 「空の上で歌うのって、ホント気持ちよかったー! 移動してる時は、グラグラ揺れて怖いんじゃないかって、思ってたんだけど、全然心配ないくらい安定したし!」

 「ダンスも、あんなに楽しく踊れるなんて、思わなかったー! まさに、風と一体になる、って感じでさー!」

 「そうだろ? 空ってのは、この世でも最高の存在さ。あんたらも一度、この味にハマったら、やみつきになること間違いないぜ」

 「…イェルグ、またそうやって女の子を口説いてる…。これは、あとでお仕置きの必要がありますわね…」

 「お客さんの拍手も気持ち良かったなー! 最初、反応が悪くてヒヤヒヤしちゃったけど、終わり良ければ全て良し、だよね!」

 「ええ、勿論よ。わたしも突然司会をさせられて緊張しちゃって、途中何度か噛んじゃったけど…振り返ってみれば、とても面白かったから、良しとするわ」

 「えー!? 先輩、あれで噛んでたの!? 全っ然知らなかったーっ! スラッスラだったじゃーん!?」

 「…それにしても、ロイさぁ。あんた、やっぱりアイドルのライブでパイロはないでしょ。ギャラリー見てたけどさ、何人か退いてたわよ。特に、ガキんちょがさ」

 「仕方ねぇだろ、副部長から一芸やれ、って言われたんだからさ! 前にどっかで見たことあったからさ、やってみただけだっつーの!」

 「機械操作、お疲れさまでした。あの…大丈夫ですか? 凄くお疲れのようですけど…」

 「あ…うん…? あっ、いやいや! みなさんの華を更に彩れるなら、この神崎大和、例えこの身が灰と崩れようとも本望ッスよ!」

 「…ホント、お前は女の子の前となると、元気だなぁ…。普段の活動も、それくらいビシッとやってれば、文句言われなくて済むだろうに…」

 わいわいと賑わう一団を、少し離れたところから渚が微笑ましく眺めている。そのウズウズしている口の端をみる限り、このお祭り騒ぎに参加して堪らないようであるが…彼女にまだ一つ、仕事が残っている。今回のコンサートの裏方の責任者としての、最後の仕事が。

 その仕事も、すぐに終わりを迎えることになる。彼女の元に、アイドルグループの事務所社長がスタスタと歩いてきたからだ。…渚の残務とは、活動報告を社長に伝えることである。

 「お疲れさまでした。そして、本当にありがとうございます。客席の方で、見せていただきました。

 これまでやってきた中で、最高のライブでしたよ」

 社長は渚の横に並ぶと、世辞の欠片も含まない笑みを浮かべながら声をかけてきた。すると渚は、誇らしげで大仰に首を縦に振る。

 「そりゃあ、わしら星撒部がほぼ前線力を投入したのじゃもの。世界一のライブになったはずじゃよ」

 おどけ半分、自信半分の言葉に、社長はくつくつと声を漏らして笑う。

 「それで…いかがかのう? おぬらの依頼は完遂、ということを承認くださるかな?」

 「ええ、もちろんですとも!」

 社長が勢いよく首を縦に振った、その転瞬。渚の顔が、ニヤァっと大きく綻ぶ。その笑顔には、悪戯っぽさと開放感に満ちあふれている。

 次いで渚は、素早く社長の二の腕を掴むと。突然のことでギョッと驚く彼を後目(しりめ)に、腕を引っ張りながら一団の喧噪の中に飛び込んでゆく。

 「それならば、もう仕事は終わりじゃな!

 そりゃあっ、おぬしらっ! わしらも混ぜんかいっ!」

 騒ぎは"暴走厨二先輩"と称されるトラブルメーカー、渚が加わることで、更にわぁっと盛り上がる。あまりの騒ぎように、近くで復興作業に勤しんでいた暫定精霊がビクッと反応し、身構えたほどである。

 しばしの騒がしい会話、そして事務所社長やグループメンバー一人一人の胴上げなどを経て、たっぷりと歓楽を味わった後…青空に赤みが帯び始めてきたころ、ようやく場に落ち着きが戻る。

 「さぁてと…そろそろ、お暇するかのう」

 ひとしきり騒いだ体をほぐすように伸びをしながら語る、渚。その言葉には惜別の哀愁など欠片もなく、仲の良い友達同士が「また明日ね」と声を掛け合うような気楽さである。

 しかし、それに応えるアイドル達は渚とは真逆に、名残惜しさを露わにして寂しげな笑みを浮かべる。

 「なんだか…切ないですね。こうして知り合えて、一緒に最高の仕事が出来たのに、もうお別れだなんて…。

 あの…私たち、事務所に帰ったら打ち上げをするつもりなんですけど、良かったら、そちらに顔を出して頂ければ…」

 「いやいやいや、それは勘弁!」

 渚は手を左右にパタパタ振りながら、即座に誘いを断る。

 「天使やら士師やらと渡り合おうとも、地獄のような災厄を鎮めようとも、わしらの根底は学生じゃからな。明日も授業が待っておるし、部活の予定もみっちり入っておる。

 ここで大分時間を費やしてしもうたからな、そろそろ休まんと身が保たぬわい」

 そう渚は言うものの、元気のあり余っているロイは少し不満げな顔をしていた。打ち上げに参加したかったらしい。そんな彼を、隣に立つイェルグが軽く肩を叩いて押し留める。それでロイの表情が好転することはなかったが、しぶしぶと引き下がった。

 実際、星撒部が所属するユーテリアは完全とも言える自由をモットーにする学園。明日を丸ごと休暇に当てても、何も文句は言われまい。それでも渚がアイドルの誘いを断ったのは、疲れて切っているはずの彼女たちにこれ以上気を遣わせたくないという気遣いのためであろう。部員の大半もこの事を理解していたため、ロイ以外に文句を言う者はいなかった。

 だが、アイドル達も決して社交辞令で誘いを口にしたワケではなかった。本気で惜しみ、更に表情に陰を落とす。

 その様子を眼にした渚は、鼻の頭を掻きながら苦笑する。

 「大成功したというのに、そんな顔をするものではないわい。

 それに、これが今生の別れというワケではあるまいて。これからも互いに希望の星を抱いて人生を歩む限り、どこかで巡り会うこともあるじゃろうよ」

 「…そうですね!」

 渚のフォローに感じ入ったグループのリーダーは、陰を弾き飛ばすようにニコッと笑顔を咲かせる。

 「今度、コンサートの招待券をお送りしますよ! その時はお客さんとして、私たちのパフォーマンスを存分に楽しんでくださいね!」

 「うむ! それは楽しみじゃわい!」

 渚もニカッと笑って、リーダーの健気に応える。

 それから渚とリーダーは、しっかと握手を交わすと、いよいよ別れの時を迎えた。

 渚はキンコン、という澄んだ鐘の音とともに、全身を拘束具で包んだ無謀の天使を召喚。そいつを媒介に空間に転移路を作り出す。空中にぽっかりと開いた真円の向こうには、眩い純白が広がっている。

 「それでは、別れの言葉は言わぬぞ!

 また会おうぞ、未来に輝く新星たちよ!」

 そう高らかに、堂々と言葉を張り上げると。後ろ髪を引かれる素振りも全く見せず、転移路の入り口に飛び込んだ。

 そんな渚に倣って、部員達も次々にアオイデュアを去ってゆく。

 「それでは、コンサート、楽しみしてますね」

 「そん時は、打ち上げ、一緒にやろうな!」

 そんな風に去り際の言葉をかける者もいた。

 最後に残ったのは、ノーラである。彼女は実際には、部員ではない。だが、この苦楽を共に乗り越えてきた彼女の胸中には、燃え盛る決意が灯っている。

 その決意に突き動かされるままに、彼女の桜色の唇は穏やかに、そしてしっかりとした言葉を告げる。

 「今度もまた、一緒に楽しみましょう…!」

 それは明らかに、今後の再会を考慮したものであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 こうして、険しく長い一日を終えて学園に帰って来た、星撒部の部員達。部室として使用している第436号講義室に着いたとき、カーテンが引かれていない窓の外はすっかり宵の闇に塗り潰されていた。

 真っ先に部室に到った渚は、転移路の出口から身を出すと、つい先刻とは別人のようなフラフラとした疲弊しきった様子で数歩、歩むと。机の上にのし掛かるように倒れ込む。

 「むうぅー…いやはや、しんどかったわいー…」

 彼女の後ろから続々と部室に姿を現す部員達も、顔には程度の差はあれど疲労の色を浮かべてはいたが、渚の大仰なリアクションに思わず苦笑する。

 それに対し、そんな扱いは不当だと言わんばかりに半眼になった渚は、のっそりと申し開きする。

 「折り紙1000枚折り込みに加えて、都市災害やら天使との戦闘、それにアイドルのコンサートの運営まで1日でこなしたんじゃぞ? 疲れたー、と弱音くらい吐いても当然じゃろ」

 この言葉を口にしている最中、最後尾のノーラが部室に顔を出すと、ぎょっと眼を丸くする。

 「え…まさか、本当に折り紙を1000枚、折ったんですか…!?」

 びっくりして問い返す、ノーラ。渚達がアオイデュアに顔を出すまでかなりの時間はあったとは言え、1000枚もの緻密な折り紙を作るだけの時間にしては短すぎると思うのだ。例え、身体(フィジカル・)魔化(エンチャント)で作業を高速化しようとも、だ。

 それに対して、渚は気だるさを交えたままながら、ニヤリと得意げな笑みを浮かべ、声を上げる。

 「もちろん…!」

 「やってないよ」

 即座に蒼治が、渚の言葉を溜息混じりに塗りつぶす。すると渚は酷く不機嫌に眼を細めて彼を睨んだが、だるく机に突っ伏したままでは迫力不足である。

 蒼治は思いとどまることなどなく、苦笑を浮かべた顔をノーラに向ける。

 「渚のヤツ、言い出しっぺの割には、あの後しばらくしてから一番に音をあげてね。折った数は、多めに考えても、せいぜい50枚くらいじゃないかなぁ」

 「失礼な! 62枚じゃわい!」

 ムスッと抗議の声をあげる渚だが、大きな違いはないので、驚嘆の声などは上がらなかった。

 「そもそもさーっ」ナミトが頭の後ろで腕を組み、どこともなしの中空をぼんやり眺めながら語る、「全員で1000枚ずつも折り紙折れたとしたらさー、明日の訪問先の部屋が折り紙の洪水になって、足の踏み場もなくなっちゃうよねー」

 ナミトとしては、渚を責めるつもりはなく、事実を淡々と告げただけなのだが…渚の胸には、却ってそれがグサッと来たようだ。ひどくバツが悪そうに顔を歪め、机に顔を突っ伏し、プルプルと震える。

 その数瞬後、両腕を上げつつガバッと起きあがった渚は、無闇やたらに声を張り上げる。

 「ええーいっ、もう良いわっ! もう終わったことじゃわいっ!

 折り紙は十分な数を作った! アオイデュアは救った! コンサートもやり遂げた! この結果のどこに、文句があるのじゃっ! 問題など微塵もないじゃろうがっ!」

 そして誰かの突っ込みが(くう)を震わすよりも早く、アリエッタの方を勢いよく振り向くと、指差して指図する。

 「アリエッタ、ホイップクリームココアじゃっ! あれがなくては、わしの荒み切った心は癒されぬ! 早よう作らんかい!」

 するとアリエッタは、苦笑いを浮かべながらも、抗議せずに承諾する。

 「他に飲みたい人、いるかしら? 一緒に作るわよ」

 すると、ノーラを除く全員がビシッと挙手する。ノーラが手を挙げなかったのは、部員でないという遠慮というより、アリエッタのココアの価値を理解していなかったからに過ぎない。

 すると、すかさず彼女の隣に移動し、彼女の腕を取って高々と掲げる者がいる。その人物は、ロイだ。

 きょとんとして彼の顔を除くノーラに、ロイはニカッと笑って教える。

 「アリエッタのココアは、スゲーうまいんだぜ! 学食だとかカフェなんて目じゃねーよ! 飲まきゃ損だぜ!」

 その笑顔に魅せられ、ノーラはこくんと首を縦に振ると、アリエッタに向き直って語る。

 「私にも…お願いします」

 「ウフフ、それじゃあ、みんななのね。分かったわ、用意するからちょっと待っててね」

 そう言うとアリエッタは、教室の隅っこの机の上に置いた、白を貴重とした可愛らしいデザインのハンドバッグを開いて漁る。その中から次々と取り出すのは…白磁に可憐な花柄をつけたティーセットに、パックに入ったココアの粉、水が並々と入った大型のボトル、そして術式燃料式の小型コンロである。ハンドバッグの容積に対して、取り出した物品の体積は全く釣り合わないほど大きいが、おそらくバッグの内部は、空間拡張の魔化が施されているか、収納用擬似空間とつながっているか、のいずれかだろう。重量を考えると、後者の可能性が高い。

 アリエッタは満面にニコニコと微笑みを浮かべつつ、テキパキとココアの準備を行う。その作業を眺めながら、今度は紫がノーラに解説する。

 「アリエッタ先輩のココアは、水も粉も先輩の故郷から取り寄せた一級品を使ってるのよ。今はまだ出してないけど、使うホイップクリームだって、勿論最高級品だよー。

 仮入部の身の上で味わうのって、ノーラちゃんが初めてだよー。有り難ーく大事に、いただくんだよー」

 "仮入部"。この言葉を耳にしたノーラは、顔をはっとさせる。立場を忘れて馴れ馴れしく振る舞っていたことを恥じた…というワケではない。その様子は、大事な何かを思い出したという風である。

 ノーラは少々早足になって、突っ伏す渚の元へ歩み寄る。微動だにせずに疲労に身を任せている彼女に言葉をかけるのは気が引けたが…このタイミングを逃してしまうと、時と共にこの衝動が煙となり揺らいで消えてしまうような気がする。

 自分の上に影がかかったことを覚った渚が、気だるそうに顔を上げる。それまでの精悍さを欠いた、惨めさすら覚えるような疲弊の表情に、ノーラは思わずたじろいでしまう。が、瞼を閉じて、コホン、と咳払いして気を落ち着かせてから、口を開く。

 彼女は今、大きく輝く決意を胸中に浮かべている。それをしっかりと手にするためには、一つ、明らかにして乗り越えねばならぬ障害がある。

 「あの…渚先輩。先輩は、『現女神』…なんですよね?」

 真剣な表情の質問に対し、(たたず)まいを直してムクリと起きあがった渚は、急に活力を取り戻す。荒い鼻息をフンスと吹き出すと、腕を組んで誇らしげな笑みを浮かべる。

 「うむ! わしは"解縛"の号を与えられし、紛うことなき『現女神』じよ!」

 その直後、渚は桜色の唇に人差し指を当てて、ちょっとバツが悪そうにウインクしつつ言い添える。

 「ただ、これは一部の者にしか明かしておらぬ秘密じゃて。おぬしも、他の者においそれと言い触らさぬようにしてもらえると助かる。

 …まっ、言い触らしたところで、真に受ける者はそうそうおらぬじゃろうがな」

 確かに、渚は話題性の多い生徒ではあるが、彼女のことを『現女神』ではないかとする噂は全くない。というのは、彼女の"暴走的"な行動力と独特の言い回しは、学園長アルティミアから連想される女神のイメージからはあまりにもかけ離れている。

 それに、そもそも、『現女神』が他の『現女神』と『女神戦争』で争うことはあれども、その下について勉学に励むなど考えにくい事態である。

 そんなことを考えていると、渚は何故、この学園に籍を置いているのか、という点に興味が沸いてくるが…それは今は重要ではない。確かめるべき要点は、他にある。

 「それじゃあ…この部活のみなさんがとてもお強いのは…渚先輩の士師になっているから、ですか?」

 この質問に、渚はキョトンとして数回瞬きをする。彼女にとっては、全くの想定がの質問だったようだ。

 しかし、常識的な感覚で考えれば、ノーラの思考は至って当然であろう。『現女神』は『天国』を独占すべく、他の『現女神』と戦い合う存在。その戦いを制する力を身につけるために、信仰心を集めたり、自らの手駒である士師を作り出す。士師の強さは、交戦を経験したノーラがよく分かっている。そんな士師を目の前で斃したロイの力といい、天使たちを軽く一蹴する部員達の力といい、その起源が彼ら自身が士師であるとすれば容易に説明が付く。

 しかし渚は、表情を引き締めて不敵に笑いながら、首を横に振る。

 「わしは士師も信者も保たぬ主義じゃ。あやつらの力は、あやつら自身の修練の(たまもの)よ。

 そもそもわしは、学園長の"慈母"と同様、『天国』なぞにとんと興味はないのでのう。

 そのお陰で、わしが作り出せる天使はたった一体のみじゃがな」

 そう言うと渚は、キンコン、と澄んだ鐘の音と共に天使を召喚してみせる。そして、それがその一体だけだ、と言わんばかりに肩をすくめると、すぐに天使を消し去る。

 この話を聞いたノーラは…ほっと、安堵の息を吐き、「良かった…」と呟く。

 そこで渚は再びキョトンとする。

 「何か気にかかることでもあったのかや?」

 「あの…この部に入部するとしたら、先輩の士師にならないといけないのかと思って…先輩のことは、嫌いじゃないですけど…なんでも言うことを聞いて働くというのは、ちょっと気が引けますから…」

 すると渚は、アッハッハ、と大きく笑う。

 「確かに、『現女神』が運営の一端を握っておる部活じゃからな。そう(いぶか)しむのは当たり前のことじゃて。

 じゃが、安心せい。わしは先にも行ったとおり、士師などにはとんと興味は持っておらぬ。

 わしが興味を抱いておることは、ただ1つ! 人々の希望の星、それだけじゃよ」

 ウインクしながら、渚はそう答える。人としても『現女神』としても、相当変わった存在だ。

 ――そんなやりとりをしている最中、いつから2人の会話を耳にしていたのか、突如ロイが話に割り込んでくる。

 「なぁ、ノーラ! 今、入部って言ってたよな!? ってことは…!?」

 目を輝かせて訪ねてくるロイに対して、ノーラははにかながらも、大輪の笑顔を咲かせる。

 「うん…この星撒部に、これからお世話になろうと思って…」

 その笑顔は、厳冬を耐えて見事な花を満開にした、桜のそれを想起させるものであった。

 ノーラの決意、それは星撒部の一員になることだ。

 学園に入学して約1年。希望を持たないことを苦にし、希望に満ちた生徒たちとの関わりを極力持たないようにして過ごすしてきた。光のない自分は、まさに影のように息を殺して過ごすのが相応しいと考え続けてきた。

 しかし、この眩しいほどに光を放ち、そして自らにも光を与えてくれたこの部に出会い、交わったノーラは、光の持つ暖かみや楽しさを深く、深くその身に刻んだ。その味をしめてしまった今、彼女はもう、影には戻れないと感じた――。

 いや、影に戻りたくないと、考えた。

 ただし未だに、自分が目指すべきは故郷の者達に託された『現女神』になることであるとは、考えていない。どこへ向かえば良いのか、分かってはいない。だが、今となってはその不安はない。

 (この人達と…この星々と一緒にいれば、きっと私の星の方向も、いつかは…!)

 今、ノーラは希望に対する欲で胸が一杯だ。その弾むような輝きが、表情に、瞳の中に、キラキラとにじみ出ている。

 「だから…皆さん、これからよろしくお願いします…!」

 ノーラが深々と頭を下げると。「おっしゃーっ!」と叫びながら、ロイがガシッとノーラの首に腕を回す。その勢いにビクッと体を震わせつつ、キョトンとロイを見返すノーラ。

 ロイはバチって大きくウインクすると、ニカァッと太陽の笑いを浮かべる。

 「こっちこそよろしくなっ、ノーラ!

 こんな頼れる仲間が出来て、俺はスゲー嬉しいぜ!」

 「頼れるって…そんな…みんなに比べれば、まだまだだよ…」

 「いやいやいやいや! 初戦で士師は倒すわ、災害救助で大活躍するわじゃねぇか! これで凄くなくて、何がスゲーんだよ!」

 そうしてロイが一番に歓迎の声を上げていると、部室の所々から他の部員たちからも声があがる。

 「やったーっ! ノーラちゃんと、これからも一緒に楽しめるねー! 学食にも、いっぱいいっぱい行こうねー!」とは、ナミトの言葉。

 「うわー、優等生ちゃんが入部しちゃうのかー。これは私も、ウカウカしてられないなー」とは、紫の言葉。

 「うおおおっ! これでまた、我が部の美少女率が上がったぁっ! テンション上がりまくりッスよぉっ!」とは、大和の言葉。

 「大変な災難だったいうのに、懲りるどころか、入部を決めてしまうなんて、大した方ですわね。流石は、わたくしの見込んだ方ですわね」とは、ヴァネッサの言葉。

 「苦境にもめげないその心は、器が広いってことさ。器が広いってことは、空の心を持ってるってことさ。そういうヤツは大歓迎さ」とは、イェルグの言葉。

 「いやぁ…ホント、こういう状況で入部を決めたのかい? もし明日、目が覚めて気が変わったら、入部を断ってもいいんだよ!? 入部届けは明日でいいから!」とは、蒼治の言葉だ。

 その蒼治の言葉に、こめかみに青筋を立てた渚は、拳を固めると思い切り彼の頭に叩きつける。ガツン、と痛々しい堅い音が響き、蒼治は頭を押さえてうずくまる。

 「せっかくの決心を折るような言葉を言うとは、なんたる阿呆かっ!」

 渚は刃のように細めた視線を突き刺し、蒼治を叱りつける。

 その直後、コロリと表情を変えると、大人びたようなすました笑顔を浮かべて、トリとして声をかける。

 「ようこそ、ノーラ・ストラヴァリ。副部長として、大歓迎するぞい。これからも一緒に、この世界に希望と笑顔の星を振り撒こうぞ!」

 そして渚が、スッと手を伸ばす。すると空気を読んだロイがノーラを解放すると、ノーラは躊躇いなく渚の手を握る。

 「はい、よろしくお願いします!」

 極上の花が、可憐なノーラの顔に咲き誇った。

 この直後、ココアを作っていたアリエッタから丁度、作業終了の声が上がる。

 「みんな、ココア出来たわよ。

 ノーラちゃんの入部と、今日の活動の成功をお祝いして、乾杯しましょう」

 そして1人1人の前に運ばれてくる、ティーカップ。そこには純白のホイップクリームが山と盛り上げられている。その表面をトロリと溶かしながら沸き立つ湯気からは、嗅覚からでも分かる濃厚で甘いココアの香る。これほどまでに美味しそうなココアを、ノーラは知らなかった。純粋に楽しみで、笑顔が更にほころび、期待に輝く。

 「それでは…」コホン、と咳払いの前を置きをし、渚が音頭を取る。

 「本日の諸々を祝して! ココアで乾杯じゃっ!」

 そして星が瞬く深い夜空に、星撒部の楽しげな乾杯の斉唱が響いた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 翌日。学園での1時限目が始まって間もない朝。

 学園の本校舎最上階にある学園長の執務屋に、「失礼します」と声をかけながら、1人の男が入室する。

 派手な白黒模様のシルクハットに、これまた派手な極彩色の燕尾服を着た中年の長身男性である。更に特徴を付け加えるならば、見事な渦を巻いたカイゼル髭だ。

 彼は、1年Q組の担任教師…つまり、ノーラ・ストラヴァリの担任教師である、ツェペリン・アンルジュである。

 彼の入室に対し、執務室のデスクに座していた至高の美女、"慈母の女神"アルティミアは真紅の唇を愉快そうに釣り上げる。

 「変化が、あったのね?」

 そう問われたツェペリンは小さく(うなづ)くと、ツカツカと『現女神』のデスクに歩み寄り、手にしていた一枚のプリントを机上にヒラリと置く。その際の一々の動作が芝居がかっているのがなんとも奇妙であるが、それがツェペリンという男の個性でもある。

 「ノーラ・ストラヴァリが朝一番に入部届を私に提出しました。入部先は…」ここでツェペリンは困惑したように眉根にしわを寄せて一息入れ、「星撒部です」と語る。

 するとアルティミアも、まずは目を大きく丸くして驚きを表現したが…すぐに、面白がるように眼を弧にして笑う。

 「なるほどね…似たもの同士、惹かれ合った…ということなのかしらね」

 そう語ると、アルティミアは席を立って踵を返し、それまで背にしていた蒼空を一面に写す大きなガラス窓と向き合う。そこに映る逆さまの街並みの幻影…『天国』に視線を投じては、再び面白がる笑みを浮かべる。

 ――『現女神』は、ノーラに注目している。しかし、その理由は何なのか。彼女が言う"似た者同士"とは、ノーラに対して誰の事を告げているのか。その疑問の答えは、ツェペリンも知らない。

 とは言え、ツェペリンは好奇心が生まれたとしても、すぐに押し殺す。この学園長に対して興味を抱いても、彼女がその気にならない限り、どのような手段を用いてもどうせ明かしてはくれないのだから。

 「この1年間、動きがなくて少し焦っていたのだけれども…これでようやく、面白くなってきたわね」

 そう語るアルティミアの眼中には、ツェペリンの姿はもはや映っていない。自身に対して確認するかのように呟いただけだ。

 もう用済みであることを覚ったツェペリンは優雅な一礼を残すと、足音も立てずに執務室から退散した。

 『現女神』ただ1人が残った部屋に、ウフフフ、と艶やかに(たかぶ)った嗤いが響く。

 この"慈母の女神"が、ノーラ・ストラヴァリという少女を元に、どんな思惑を働かせているのか。それを現時点で悟れる者は、この異層世界広しと言えども、誰一人として存在しないであろう。

 

 ――それはともかくとして――

 

 こうして、ノーラの星撒部での生活が始まった。

 

 - episode over -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

星撒 -D.E.S.N.F.-
Tank! - Part 1


 ◆ ◆ ◆

 

 ――途方に暮れる。

 眼下に広がる光景を目にした途端、ノーラ・ストラヴァリの頭の中はその言葉で一杯に埋め尽くされた。

 (…確かに、言い出したのは私で…自業自得と言われてしまうと、それまでなんだけど…)

 健康的な褐色の肌を呈する可憐な顔には今、ひきつりまくった苦笑が浮かんでいる。桜色の唇は、歪んだ丸の形にぼんやり開き、フルフルと戦慄(わなな)いている。頬には冷たい汗が一筋、(いや)らしくジットリと流れ落ちて不愉快な痒みを跡に残す。翡翠色の瞳の奥では、混乱と失意がグチャグチャに渦巻き、今にも泣き出しそうな形で潤んでいる。

 (これじゃあ、"あの()"に希望を届けるどころか…私の心がポッキリと折れかねないよ…)

 少し考えて見れば、就学前の児童であろうとも、"この仕事"が大変な困難を伴うことを容易に判断できるであろう。

 しかし、"あの時"のノーラは『霧の優等生』と評価される怜悧(れいり)な判断をかなぐり捨て、感情の(おもむ)くがまま、自身満々に己の胸を強かに叩きながら、全く(よど)むことなくこう言い切ってみせたのだ。

 「大丈夫だよ…任せておいて!

 私が必ず、あなたが置いてきてしまった希望の星を、届けてみせるから…!」

 ――あの時、きっと自分は、眼を真夏の太陽のように輝かせ、不死身を誇る伝説の英雄でもあるかのような、やたらと眩しい笑顔を浮かべたんだろうな…。そんなことを思い返すと、現在の窮地と相まって、ノーラの胸中に嵐のごとき羞恥が轟々と音を立てて渦巻く。穴があったならば、頭のてっぺんまでその中に潜り込むことだろう。

 (バカバカバカバカ…私の大バカ!)

 渦巻く羞恥が胸中から溢れ出し、全身に満ちるような感覚に(さいな)まれたノーラは、思わず両手で顔を覆うと、声の出ない叫びを上げつつ身体をくねらせながら悶える。

 そんな彼女の肩に…優しくも暖かな手のひらが、ポン、と置かれる。その穏やかな衝撃を受けて、ノーラはゆっくりと首を巡らして手のひらの主を見やる。

 手のひらの主は、ノーラの右斜め後ろに立っている。ボブカットに切り揃えられた艶やかな黒髪に、神秘的な輝きを(たた)える赤みがかったブラウンの瞳。"希望学園都市"ユーテリアの生徒にして、ノーラのクラスメートである少女、相川(あいかわ)(ゆかり)だ。

 ノーラの湿った翡翠色の視線を受け止めた紫は、肩をすくめつつフッ、と小さく息を吐くと。同情をたっぷりと込めて(まぶた)を伏せつつ、首を左右に数度振るう。

 「分かる。分かるよ、ノーラちゃん。

 私にも、経験あるよ」

 紫はゆっくりと(まなこ)を開くと、遠い、遠い空の方へと視線を投げる。その視線が捉えているのが、過ぎ去りてもはやどうにもできない日々であることは、ノーラにも容易に理解できる。

 紫は薄い桜色の唇から、深いためいきと共に言葉を次ぐ。

 「あれも丁度、ノーラちゃんと同じく、入部したての時だったなぁ。

 憧れの副部長と同じ時間を共有できることが嬉しくてたまらなくてさ。身体が空気みたいに軽く感じて、何処にでも行けそうな、そして何でも出来そうな気がしたものよ。それに加えて、副部長に一刻も早く認められたい、って欲もあったわね。

 それで…先輩たちが止めるのも耳に入れずに、独りで突っ走って…何も考えずに取りかかったものの、2時間、3時間と時が過ぎてゆくうちに、段々と意気揚々としていた情熱が冷めていって…深夜過ぎにようやく終えた時には、ボロッボロになってうんざりしてたっけ…。

 ああ…ホント懐かしいなぁ…」

 「相川さん…」

 眩しげに目を細めながら過去を見つめる紫に、ノーラはポツリと声をかける。その声音の中には、過去の紫へ向けた痛々しいほど実感の伴った同情と、同じ経験を持つ者同士に求める同調感が伴っていた。

 しかし――。

 「でもね…」

 紫がふと想起を打ち止めて、瞼を閉じ――再び開いた時には、神秘的なブラウンの瞳の中にギラリと灯る激しい炎が見える。それは決して、冷たい悲観を包み込んで暖めてくれるような、穏やかな炎ではない。

 ニンマリとつり上がる、紫の口角。瞳の内の炎と相まって、その表情が告げる感情は――コールタールのようにドス黒くて粘っこい、揶揄。

 「今のノーラちゃんみたいに、他の人を巻き込むことはしなかったけどねー」

 ナイフのように鋭い半眼ジト目を作り、肩の高さまで両手を上げながら首をすくめつつ、刺々しい皮肉を口にする、紫。顔に浮かべているヘラヘラした笑いは、ノーラに向けた露骨な嘲りである。

 そんな紫の言葉と態度から発される、ズキズキと突き刺さるような威圧感に、ノーラはビクンと身体を縮こめる。それからモジモジと両手の指を絡め回しながら、なんとか紫の非難を鎮められる言葉がないかと、必死に頭を巡らすが…。重苦しい十数秒の沈黙の間、何一つ良い言葉が浮かばなかったノーラは、ついに降参する。ガックリとうなだれると、血の気が引いて白っぽくなった唇を小さく震わせながら、か細く呟く。

 「…ごめんなさい」

 ノーラがやっとこ絞り出した謝罪の言葉を耳にしても、紫の不機嫌な(かげ)りに光が差し込みはしない。それどころか、片眉を跳ね上げて露骨な苛立ちの表情を作り、ガッチリと腕を組んで冷たい視線を投げてくる。

 ここに至っては、ノーラにはもはや紫に返せる言葉はない。しゅん、と目を伏せて、小さくため息を吐く他に、取るべき行動が頭に思い浮かばなかった。

 …と、そんな具合の悪い所へ、突如として割り込んでくる快活な少年の声。

 「おい、紫。なんでノーラを謝らせてるんだよ? 何も間違ったことしてねーだろ?」

 紫の背後、右手斜め後ろの方から上がった声。それを耳にしたノーラと紫の両名は、ほぼ同時に声の主へと視線を巡らす。

 そこに居たのは、燃えるような真紅の髪に、力強く太い漆黒の爬虫類的な尻尾を持つ、制服の上からでも分かる引き締まった体格の少年。"希望学園都市"ユーテリアの1年生の中では最も知名度が高いであろう男子生徒、ロイ・ファーブニルである。

 彼は手にした紙袋の中から、不格好なドーナッツを取り出しては牙がギラリと光る大口へと放り込み、モグモグと咀嚼(そしゃく)しながら言葉を続ける。

 「希望のためなら、コンビニへの買い物だろうが、戦争の仲裁だろうが、やってのける。それがオレ達、星撒部だろ?

 ノーラはただ、そのポリシーに従って、今回の仕事を引き受けただけだ」

 「そうは言ってもねぇ、あんた…ものには限度ってモンがあるでしょうよ」

 紫はヒクヒクと眉を振るわせながら、腰に両腕を置いて上体を倒し、ロイに詰め寄る。

 「実現出来る算段があってこその、希望でしょ?

 口先でだけ出来ると言っておいて、実際やってみたら出来ませんでした、ってパターンはね、最も人を傷つけて絶望させるのよ!?

 そういう無責任なことは絶対にやるなって、部長がいっつも言ってたでしょ!?」

 「だけど、副部長は今回の件、大絶賛してたぞ?」

 新たなドーナッツを取り出し、一口に頬張りながら、モゴモゴとロイが反論する。彼はかなり食い下がっているが、だからと言って紫をやりこめて黙らせよう、としているワケではない。事実を事実として淡々と語っているだけだ。

 咀嚼回数もそこそこに、ゴクンとドーナッツを飲み下したロイは、さらにこう続ける。

 「それに、出来ないことじゃないだろ、今回の仕事は。

 何も、小指一本で惑星をぶっ壊して欲しい、なんて頼まれたワケじゃねーんだし」

 「…脳筋なアンタらしい言葉ねー。

 アンタのそのオメデタいオツムなら、砂漠の中から一本の針を見つけろ、っていう仕事でも、時間さえかければなんとかなるって思えるんでしょうねー」

 紫が(かげ)った嘲笑を浮かべながら語った皮肉に対して、ロイは一瞬キョトンとして身体の動きを停滞させたが。やがてまた、紙袋からドーナッツを取り出して、口に放り込みつつ答える。

 「…え、そういうもんじゃないのかよ?」

 こうなると紫はもう、はぁ~、深いため息をついて、首を左右に振るばかりだ。ロイをやりこめようとする試みについては、白旗を上げた。

 しかし、単に引き下がる紫ではない。ノーラに向けたような鋭い半眼ジト目を作ると、ロイの持つ紙袋を指さして非難する。

 「ていうか、アンタ、物を食べながら(しゃべ)るの止めなさいよ。すんごく、ウザく感じるんだけど」

 するとロイは困ったように頭の後ろを掻きながら答える。

 「いやー、折角、アイツらの手作りをもらったんだしさ。作りたての美味しいうちに食わないと、勿体ないじゃんか」

 そんな答えを耳にした紫は、ため息の代わりに、ハンッ、と鼻で笑い、もう関わりたくないとばかりに視線をロイから外したのだった。

 こうして、非難と揶揄に満ちた一連のやり取りが終わった、その時。

 「何はともあれ、だ」

 3人の1年生の背後から、尖った石のように堅く生真面目な声が響く。

 一同が振り向き、注目を一心に受けた"声の主"は、一片のはにかみも見せることなく、眼鏡をキラリと輝かせながら人差し指でクイッとその位置を直しつつ続ける。

 「僕たちが今、やらねばならないことは、事態の困難さを掘り起こして再認識することでも、不平を口にして時間を空費することでもない。

 建設的で実効性のある手だてを考えだし、完遂までのプランを立てることだ」

 そして声の主は、丁寧に磨き抜かれた眼鏡のレンズ越しに細長い目から放つ鋭い眼光を、紫のトゲトゲしい言葉を受けてションボリしているノーラに向ける。それを認識したノーラは、切れ味の鋭いナイフを思わせる眼光には自分への怒りが含まれていると考えてしまい、ビクッと身体を震わせて硬直してしまう。

 それを見た声の主は、ちょっと慌てた様子で面長な表情を崩すと、またもや眼鏡をクイッと直す。この動作は彼にとって、気持ちを切り返るためのスイッチのようである。そして動作を終えた時には、細長い目を穏やかな弧に曲げている。

 「ノーラさん。今、自分を責めたとしても、問題の解決の助けになりはしないよ。

 それよりも、もっと前向きに、そして頭を柔らかくして、どんな手だてがあるか、どんな事なら出来そうか、考えた方が良い」

 (いわお)のような安定感のある低め声音に、春風を思わせる安心感のある響き。それを耳にして、ノーラはようやく表情から思い詰めたぎこちなさを消す。

 「…ありがとうございます、蒼治(そうじ)先輩。

 そうですよね…正式入部初日から、私が絶望に染まってしまうのはダメですよね…」

 ノーラを元気づけたこの男は、星撒部所属の3年生、青みがかった黒髪と痩身長躯にまとった純白のローブが特徴的な陣部、蒼治・リューベインだ。部内では会計の立場にあり、暴走したがちな部活動のブレーキ役を勤めている苦労人でもある。

 今回の難題を前にしても、嵐の中に平然と立つ巨木のごとく泰然自若といられるのは、そんな彼の立場柄に起因するのかも知れない。

 「…副部長と一緒に居ない時になると、みょ~に良い気になりますよね、先輩って」

 紫が腕を組んでジト目を作り、目上相手だというのに気後れを感ずることもなく、嫌味を口にする。その言葉は、彼女が常々蒼治に対して不満を抱いていたが故、というワケではない。単に、蒼治の態度と比べると、多大な危惧を抱いて事の発端者であるノーラを非難している自身が、非常に卑小な存在のように感じたが為の、逆恨み的な反撃だ。

 しかし、蒼治は紫の反撃にムッとなることもなく。素直に受け入れて、恥ずかしそうに苦笑いする。

 「確かに、ね。渚の突飛な言動には、どうしても調子が狂わされちゃうんだよね。

 あいつとももう、約2年の付き合いになるんだし、そろそろ慣れなきゃと思うんだけどね」

 実に素直な回答だが、紫には面白くない。眉根に(しわ)を寄せつつ片眉を上げて不満を露わにすると、唾棄するように別の不平を口にする。

 「それはどうでも良いですけど…。

 今回の件、私だって建設的かつ実効性のある妙案の1つも出れば、ノーラちゃんにブチブチ文句言うような可愛くないマネ、しませんよ。

 でも、今回の件は、いくら頭を捻っても、頭が痛くなるだけ。解決案の"か"の字だって、思い浮かびませんよ。

 蒼治先輩なら、この馬鹿ロイと違って、砂漠の中から針を探し出す作業の不毛さが理解できますよね?」

 紫は左隣に立っているロイを指す。するとロイは露骨に不満を顔に表して、片眉をビンッと跳ね上げ、握った拳を顔の高さまで上げる。そしてギラリと牙が輝く口で、紫に文句を言おうとするが…その行動は、蒼治の更なる平静な言葉に遮られる。

 「確かに、まともに正面からぶつかっては、君の言う通り不毛だろう。

 だが、僕たちは旧時代の地球人類とは違う。僕たちには、創意工夫によるとてつもない可能性を秘めた、魔術を初めとした魔法科学技術がある」

 「確かに、旧時代と違って取り得る選択肢は広がりましたけどね…」紫はやはり納得せず、腕組みを解かぬまま続ける、「広がりはしましたけど、決して無限大になったワケじゃないですよ。魔法科学技術だって、万能じゃないんですから」

 「それは僕だって、百も承知だよ」

 蒼治が乾いた笑みを小さく浮かべる。しかし直後、彼は眼鏡の位置を直して気持ちを切り替えて、表情を刃のように鋭い生真面目なものに引き締める。

 「それを加味した上でも、今回の作業は決して不可能じゃないと思う。

 第一、渚があれだけ自信満々で快諾したんだ。完遂の算段があってのことだろう。あいつだって、出来るといって人に希望を持たせておいて、やっぱり出来ませんでしたと言うのは最低の行為だと分かってる。初めから無理なものを、勢いだけで引き受けるほど間抜けなヤツじゃないさ」

 渚のことを引き合いに出されると、紫は勢いを失って顔を(うつむ)かせる。先に言っていた「副部長を尊敬している」という言葉に偽りはないようだ。

 しかし…気配が萎んだ上でなお、紫はブツブツと語る。

 「確かに…副部長がそう言うなら…信じたいですけど…。

 でも…でも…ほんの昨日…」

 「昨日?」

 眉を潜めて尋ねる蒼治に、紫はブツブツと続ける。

 「副部長…折り紙のノルマを1人千個にしておいて…一番先に初めに挫折してましたよね…。

 ああいうのを見ていると…副部長への尊敬が消えたりはしませんけど…安心して信じ切ることも出来ないです…」

 その言葉に、蒼治は眼鏡の位置を直す間もなく、表情を大きく崩して肩を下げる。――勢いだけで物事を言う実例が、こんな間近にあったとは…。

 「だ、だけど!」

 蒼治はフルフルと両手を振りながら、この場に居ない渚を必死に擁護する。

 「そういう勢いに乗る時っていうのは、部内の活動だけで! お客さんに対しては、流石に、そういう考えなしの行動はしないよ!

 うん、しない…。

 しない…と…思う…」

 語るに連れて、蒼治の勢いが失われてゆく。今、彼の頭の中では、今回の仕事を快諾した時の渚の様子が何度かリプレイされている。そしてその有様を注意深く、そして冷静に鑑みているうちに…渚への確信が、一滴の墨が大量の水の中に滴り落ちて盛大に拡散するかのように、ブワリと大きく揺らぐ。

 (…あの時の渚…ノータイムで今回の仕事を引き受けたな…。

 それに、今回の人選…能力を鑑みた上での適材適所というよりも…場の流れ、みたいな感じ…というより、そのものだったな…)

 紫の失意が伝言感染してしまった蒼治は、それまでの泰然自若とした態度は何処へやら、どんよりとした感情の(かげ)りを背負って、肩を落とす。

 自分を励ましてくれた蒼治までも絶望に沈んでしまった今、折角穏やかな気持ちになったノーラもまた、感情の奈落へと落ちる。2人の胸中を漆黒に染めてしまった責任を感じ、お腹の高さで指をモジモジと絡めると、消え入りそうな声で謝罪する。

 「…ごめんなさい…。私が、よく考えずに、安請け合いしてしまったから…」

 「い、いや!」

 蒼治が背負った翳りをなんとか捨て去り、慌てて手を振ってフォローする。流石は星撒部のブレーキ役、後輩のテンションの落下にもすかさず歯止めをかけようとする。

 「ノーラさんが全責任を感じることはないよ! 本来なら、経験のある僕ら2年生が、しっかりと判断してあげなきゃいけないんだから!

 もしも今回、僕らの部が初黒星を負う羽目になっても、その責任はあの時点での最高責任者の渚にあるのであって! ノーラさんは、そんなに気に病む必要はないんだよ!」

 蒼治の必死さに、ノーラは微笑みを浮かべたものの、それは微風にも吹き飛ばされそうなほどに弱々しい。そんな風に減じた気力下においては、ノーラは蒼治に感謝を述べることもできなかった。

 天上の積乱雲がズーンとのし掛かってくるような、酷く重苦しい雰囲気が場を支配する。

 石のように固まってしまったのではないか、と疑いたくなる空気の中で…ただ1人、正に"空気を読まない"態度で身も心も軽々しく在る者がいる。

 ――ロイである。

 今頬張っているドーナッツが最後の1つだったらしい、空になった紙袋を片手でクシャクシャと丸めて制服のポケットに突っ込むと。モグモグ咀嚼しながら、どんよりと曇った3人に向き直り、飄々(ひょうひょう)と言い放つ。

 「こんなところでゴチャゴチャ言い合ってたり、考えたりしてても、始まんねーだろ?」

 そして、ゴクリと口の中のものを一気に嚥下すると。ロイの顔に浮かぶのは、曇りなど一気に吹き飛ばしてしまいそうなほどの熱気が籠もった、ギラギラした笑み。

 「出来る、出来ない、じゃねぇ。

 ――アイツのために、やる。それしかねぇだろ?」

 そしてロイは、気力満々といった風体で足を肩幅に広げて立つと、バシンッ、と大気を激震させるような立てて自らの拳と(てのひら)を叩く。直後、彼は体中に満ちた気力に導かれるまま、小走りで走り出す。

 「ちょっ…! 考えもなしに、何処行くのよ!」

 紫が慌てて手を伸ばしながら言葉で制するが、ロイは少し歩幅を縮めただけで踏み留まることなく、顔だけをこちらに向けて答える。

 「だから、言ったろ? ここでゴチャゴチャやってても、始まンねーってさ!

 とにかく、ぶつかってみるンだよ! こんな遠くから眺めてるだけじゃ、何も分かンねーしさ!」

 そう言い残すが早いか、ロイは即座に前へと向き直り、先より素早い歩調で駆け出す。

 その背中を見送っていた紫は、やれやれ、と言った感じで苦笑を浮かべて首を左右に振っていたが…。

 「脳筋バカが独りで突っ走っても、成果なんか出ないわよ」

 見る見る内に遠のくロイの背中に向けて、皮肉たっぷりに呟くと、彼女のまた小走りでロイを追う。ノーラたちの横を過ぎる彼女の横顔は、やはり苦笑が浮かんでいたが、その眼にはキラキラと躍動する誇らしさが宿っていた。

 この場を去る2人に続くように、ゆっくりと歩み出すのは、蒼治である。身にまとった純白のローブをゆるやかにはためかせながら、あくまでマイペースに先に歩いた2人を追う。

 「…確かに、ここから眺めてるだけじゃあ、あまり収穫はないね。

 しっかし…良い手だてもない今から、あそこまで気合いを空費すると、肝心なときに息切れするぞ?」

 先頭を駆けて行ったロイを(たしな)めるような一言を口にするが、それを聞き入れるべき人物はすでに、視界から消えてしまっている。そんな有様に、自分こそ心配を空費してしまったと自嘲して、蒼治は眼鏡の向こうで苦笑い。そのままペースを上げることもなく、かと行って脱力するでなく、スタスタと歩き続けるのであった。

 最後に、ノーラだけがこの場に残ったが…彼女は去って行く3人をすぐに追うことはしない。顔に不安の(かげ)りを張り付けたまま、はぁー、と小さくため息を吐くと。再び、眼下に広がる光景へと視線を投じる。

 直面している問題の困難さを、網膜にしっかりと焼き付けようというかのように…。

 

 今、ノーランたち4人が訪れているこの場所は、プロアニエス山脈。約30年前に発生した惑星規模の魔法現象災厄『混沌の曙(カオティック・ドーン)』によって生まれたこの大山地は、地球の北半球の中でも亜寒帯の広がる北方地域に属する。

 地球の他の山脈地域に比べると、高度はさほど高くはないが、錐のように急峻な山々が針山のように連なっているのが特徴だ。

 またこの山地は、『混沌の曙(カオティック・ドーン)』の影響により、地球での有数の魔法性鉱物の産地としても知られている。産出される魔法性鉱物の中には生物にとって有害な魔法現象を引き起こすものも多いため、まともな植物が大きく育たず、大地の表面は赤茶色の岩肌と、魔法的環境に適用し葉緑素を失った暗色の地衣類ばかりで覆われている。

 ノーラたちは、この厳しい山岳地帯の中からピョッコリと突き出した、結構な広さを有する崖の上に居たのだ。

 そして、この崖の下に広がるのは…急峻な山脈の巨大な腕に抱かれるようにして存在する、真円形の人工物の集合。終端が地平線の向こうに隠れて見えないほどの広大な面積を持つそれは、プロアニエス山脈の中に唯一存在する都市国家、アルカインテールである。

 この都市国家の最大の特徴は、周囲のプロアニエス山脈の鉱物資源を利用した鉱業である。その知名度は地球のみならず異層世界の国家にも知れ渡っている。国土には飛行機は勿論、宇宙船や次元航行艦用の空港が多数存在し、収集した魔法性質含有鉱石の輸出を盛んに行っていた。

 また、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)庇護下都市国家であるこの国では、鉱業の労働力の担い手を確保するため、積極的に難民を受け入れては労働力の補充に当てていた。そのため、地球の難民からは『地上の楽園』としばしば称されていた。

 一方で、都市の外観は『地上の楽園』という言葉には全く似つかわしくないほどに無愛想であった。無骨な鉱物加工用の工場を初めとして、オフィスビルは単なる背の高い灰色の直方体。住宅地も企業がオーナーとなって開発された地域が多く、似たような規格の家が建ち並ぶ。

 一応、プロアニエス山脈の風景を目当てとする観光客用に、外縁地域は少し気取った風貌をしていたが、それでも"希望学園都市"の華やかな住宅地にさえ遠く及ばない、お粗末なものであった。

 ――と、ここまでアルカインテールの都市(まち)について解説してきたが、その全てを過去形で言及してきたのには意味がある。

 現在、このアルカインテールは壊滅してしまったからである。

 ノーラの眼下に広がるこの都市は今や、ゴミ溜めと形容するにも無惨な有様だ。建造物は(ことごと)くなぎ倒され、瓦解したコンクリートが砂利敷の様に所狭しとひしめしている。そんな様子が地平線までビッシリと広がっているのだ。

 アルカインテールをこのような無惨な姿に変えた原因は、戦争である。多数の勢力がこの都市国家を舞台に熾烈な交戦を繰り広げた挙げ句、どこぞの勢力によって次元干渉兵器が投与されてしまった。その結果、国土は瓦礫の山と化した上で、生物が生存するには極めて困難なほどの深刻な空間汚染が残留している。

 こんな崩壊しきった都市国家を前にして、ノーラが帯びた途方に暮れてしまう使命。それは――この広大な瓦解の山から、たった1つのクマのヌイグルミを見つけること、だ。

 もしもこのアルカインテールの都市(まち)が健在であったとしても、非常な難題であることには変わらない仕事だ。

 一応、依頼主からは手がかりをもらっている。しかし…。

 ノーラは制服のポケットを漁り、丁寧に畳まれた1枚の紙を取り出すと、気の進まぬ緩慢な動作で開く。そうして展開された白色無地の紙の上に、依頼主から提供された唯一の"手がかり"である、鉛筆書きの絵がある。それは明らかに少女漫画に影響を受けた画風且つ、非常に(いびつ)なタッチで描かれたクマのヌイグルミの絵だ。特徴など全く掴めない、幼稚過ぎる描写技法の絵画であるが――それは致し方ないことだ。

 何故ならば、この絵を描いた依頼人は、幼い少女だからだ。

 (一生懸命描いてくれたのは、嬉しいけど…。

 正直、これじゃあ、何の助けにもならないんだよねぇ…)

 ノーラの顔に苦笑が浮かばずにはいられない。

 こんな無茶ぶりな仕事を引き受けてしまった…という時点で、十分にノーラは気が滅入っているのだが。こうして現地を訪れてみると、ノーラの胸中にもう1つ、懸念事項が生まれる。

 それは、崩壊したアルカインテールの都市(まち)のほぼ中央上空に存在する、小さな小さな"蜃気楼"的存在。

 天から地へと延びる、長大な長方形が3つ固まったそれは、『戴天惑星』と呼ばれる地球の名物、『天国』である。

 しかし、この『天国』は、他と比べて余りに異質だ。面積の小ささもさることながら、外観もあまりに無機質でそっけない。ユーテリアの上空にあるものや、昨日訪れたアオデュイアのものは、もっともっと個性的な外観をしている。

 この奇妙な『天国』を見ていると、心が安らぐどころか、ざわついて仕方がない。

 (…この都市国家、何か厄介な背景を背負ってそうな気がする…)

 仕事は酷い難題だし、現場にはひどくイヤな雰囲気が漂っている。すぐにでも投げ出して帰りたい気分になるが、そうはいかない。

 無責任に仕事を放棄してしまっては、希望の星を世界に振り撒く星撒部の部員の名折れだ。

 (それに…言い出した私が真っ先に折れちゃったら…付き合ってくれているみんなに、申し訳ないもんね…)

 ノーラは義務感よりも、仲間への申し訳なさを原動力にして、ようやくゆるゆると足を動かして山を下る道を歩き出す。

 (自業自得とは言え…今日はホントに、厄日だなぁ…。

 (ことごと)く、歯車が噛み合わない感じだよ…)

 蒼治の背中すら全く見えなくなってしまった山道をトボトボ歩きながら、ノーラは現在に至る今日1日を振り替えりつつ、長い長い溜息を吐く――。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 歯車の狂いの始まりは、どこからだっただろうか?

 (さかのぼ)るに、真っ先に思い当たったのは――本日の未明、午前2時半である。

 そんな時刻にノーラが何をしたのかと言えば…普段に比べて遅すぎる就寝、である。

 普段のノーラの就寝時間は、午後10時だ。ユーテリアの学生の中では、かなり早い部類に入る。何故こんな早い時刻に睡眠を取っているかと言えば、単に彼女が"眠たがり"だからである。最低8時間の睡眠を取らないと気が済まないのだ。加えて、これまで部活動を初めとした課外活動をやって来なかった為、夕方から夜にかけての時間に特にすることがなかった、というのもこの事情に拍車をかけている。

 そんな彼女が、何故に今日に限ってこんなに遅い時刻に就寝することになったか、と言えば。星撒部の打ち上げに参加していたからである。

 この打ち上げでのお祝いの対象は、3つある。1つ目は、昨日、都市国家アオイデュアで発生した"獄炎の女神"による非道な『求心活動』と対決し、勝利を収めたことに対して。2つ目は、アオイデュアでの本来の仕事である、アイドルグループのコンサートの手伝いが依頼人の大満足する形で終えられたことに対して。そして3つ目は、ノーラが星撒部への入部を決めたことに対して、だ。

 打ち上げは、部の内外でも美人と名高い2年生女子生徒、アリエッタ・エル・マーベリーの入れた絶品ココアによる乾杯で始まった。その後、場所を仮部室である第436号講義室から食堂に移すと、大量のオードブル類を特注しての一大パーティーの様相を呈した。

 ちなみに、ユーテリアの食堂は基本的に24時間営業である。これは、自由を気風とするユーテリアにおいては、深夜や早朝でも学園内で活動を行う学生が少なくないからであり、彼らのいかなる食事のリズムにも対応するための配慮である。

 このため、星撒部のパーティーは閉店時間など気にすることなく、目一杯大騒ぎをしていたのであった。

 「…と、いうワケなのじゃよ。まったく、このロイと来たら、本物のバカタレじゃわい。

 ノーラ、おぬしもこやつと行動を共にする時は、よくよく用心せいよ!」

 「ちょっ、副部長! あれをオレだけの所為にするのは、納得いかねーぞ!!

 副部長だって、超ノリノリだったじゃねぇかっ! なぁ、紫! 副部長のことをよく見てるお前なら、分かるだろ!? 言ってやってくれよ!」

 「…まぁ、確かに、結果としては副部長もノってたけどさ。

 でも、きっかけを作ったのは、どう考えてもアンタじゃん。アンタが突っ走ったから、仕方なくみんな付いていったワケでさ。

 アンタ、自分が『暴走君』って呼ばれてるの自覚してる? もうちょっと自重しても、バチは当たらないと思うわよ。

 …そうですよね、蒼治先輩? 毎度尻拭いさせられている身の上としては、どうです?」

 「…ロイだろうが渚だろうが、同じことだよ…。

 ホント、そろそろいい加減にしてくれ…先生たちと各所に頭を下げに回っている時に、どれだけ胃が痛くなる想いをする羽目になるか…君たち、全然想像できてないだろ…」

 「なーにが、胃が痛くなる想い、じゃ! わしらは常に! 悪いことなど一片もしておらぬ!

 蒼治、おぬしは堂々とその事を訴えてくれば良いのじゃ!

 それが出来ぬというのなら、やはりわしが直々に!」

 「それだけは、ホント、勘弁してくれ…切実に。

 ノーラさん、くれぐれもこいつら暴走コンビに毒されないでくれよ…」

 「は、はい…。努力します…」

 「ところで、ノーラっち! 今日の仕事終わりに話してた、アリエッタ先輩とのランチだけどさ! 明日はどうせヘロヘロになってるだろうから、明後日にしようと思ってるんだけど、どーかな!

 アリエッタ先輩も、どうですか!?」

 「ナミトちゃんの提案通りで良いわよ。場所は、本校舎に近い位置の食堂が良いのだけど…問題ないかしら?」

 「あたしもそこら辺でやろうと思ってました!

 ノーラちゃんも良いかな? もし、昼前に遠くの演習棟なんかで授業を受けるんなら、また考えるけど?」

 「あ、大丈夫だよ。明後日は、演習系の訓練は入れるつもりがなかったし…」

 「じゃ、これで決定しよう!

 よーし、楽しいランチになりそうだぞーっ!」

 「…ところで、イェルグ。さっきの、ロイ達の話題で思い出したのですけど」

 「ん? なんだよ、ヴァネッサ?」

 「あの時…あなた、やけに女性に囲まれる機会がありましたけど…?

 …(やま)しいことしてないでしょうね!?」

 「おいっ、フォークを顔に突きつけるなよ!

 あれは、ホント、たまたまのそうなったんだってこと、もう説明しただろうが!

 もう何ヶ月も経った時の事だろ、今更話題にすんなよ!」

 「なんですの、その言い草! 夫婦の間には過去も未来もないのですわ!

 浮気という不誠実な汚点は、決して消えない深い傷となって、2人の生涯に永遠につきまとうのですわよ!

 我が偉大なるアーネシュヴァイン家の婿として、恥ずかしくない振る舞いをするように常々考えて行動なさいと、何度口を酸っぱくして言い聞かせれば済むのかしら!」

 「だから、終わったことだろう!

 それに、オレはまだお前の婿じゃないっての!

 第一、あの時女の子に声掛けまくってたのは大和であって! オレは単なる成り行きだっての!」

 「ちょっ、先輩!? なんでいきなりオレに話題を振るンスか!?

 オレは、先輩たちの夫婦仲には全く関係ない人間ですよね!?」

 「…大和、もしかしてアナタ、あの時イェルグを(そそのか)したのではないでしょうね…?

 そう考えると、色々辻褄(つじつま)が合いますわ。アナタってば、ずーっとイェルグと一緒に行動しておりましたしね…」

 「ちょっ! ですから、なんでオレに矛先が向くンスか!?

 イェルグ先輩も…って、イェルグ先輩!? 何処行くンスか! 先輩!?」

 ――と、まぁ、よくも次から次へと尽きぬものだという程に途絶えることなく話題が供給され、その度に大きな笑いやら叫びやらがドッと溢れるのであった。

 その最中、滑稽な光景を何度か目にしたノーラは、普段物静かな彼女には珍しく、ケラケラと声を立てて笑うこともあった。特に、大和に向けられた女性陣からの辛辣なからかいには、大和への同情と共に、声を上げられずにはいられない愉快さがこみ上げてしまったものだ。

 「…大和くん…くふふ…それは、ダメだよ…ふふふふっ…女の敵そのものだね…!」

 ノーラもまた、笑いながらからかいに荷担していると、クラスメートである紫が目を丸くしてこちらに視線を注いでいた。

 「…ノーラちゃんって、そんな顔もするんだ…この1年、教室で何度も顔を見てきたけどさ…いやぁ…全然想像できなかったよ、そんな風に笑うところ…」

 大笑いと共に溢れ出した涙を拭きながら、紫の指摘を耳にしたノーラは、自身すらも胸中で大きな驚きを抱いた。こんな風に声を立てて笑った記憶など、故郷にいた時ですら存在しない。幼い頃から厳格な教育環境に晒され続けてきたノーラは、自分でもてっきり、表情筋が岩のように凝り固まってしまったのだと考えていたが…どうやらそうではなかったらしい。

 ノーラはここぞとばかりに顔を目一杯緩ませ、まるで無邪気な幼子のような笑いを浮かべると、弾むような口調で紫に答える。

 「うん…! 私自身、知らなかったけど…出来たみたい…!」

 すると、隣に座っていた渚が突如、叩きつけるような勢いで肩を組んでくる。

 「笑いは健康長寿の薬じゃと言うぞい!

 笑えい、大いに笑えい! 今まで笑えなかった分、ここで爆笑してしまえい!」

 すると紫がすかさず、嫌味の陰を帯びた苦笑を浮かべて渚に語る。

 「先輩…そういう言い方してると、ホントに老人くさいですよ」

 そう言われてムッと来るほど、渚は狭量ではない。却ってハッハッハッ、と高々と笑い飛ばす。

 「そうじゃ、そうじゃ!

 実はわしは、今年で120歳を数える、鬼婆じゃわい!」

 そこでノーラは、至極真剣な表情を作り、固唾を飲む動作までしてみせながら、語る。

 「やっぱり、そうだったんですね…。

 その個性的な言葉遣い…どうにもしっくり来すぎてると思ってたんですよ…。そのお歳なら、納得できます…」

 すると渚は、慌ててパタパタと両手を振って否定する。

 「い、いやいやいやいや! 冗談に決まっておろうが!

 わしは見た目の通り、うら若き17歳じゃ!」

 ノーラは渚の慌てようを直視して、しばしそのまま固まっていたが…やがてニンマリと口角をつり上げると、ケラケラと声を上げて笑い始める。

 「ふふふっ…! 冗談です、冗談ですよ、先輩…っ!

 からかっちゃいました…!」

 すると渚はギラリと歯を見せて剣呑に笑い、ノーラの頭を掴むとこめかみに中指の間接を立てた拳をあてがい、、グリグリと押しつけてくる。

 「こ・や・つ・め・が~!

 入部初日だからと、はしゃぎおって~っ! おしおきじゃっ!」

 「い、痛…っ! 痛いですっ、先輩…っ!」

 ノーラは涙を浮かべながら、笑いながら痛がるのであった。

 ――と、このような賑やかな時間が長々と続き…ようやく終わりを迎えた時、日付を(また)いでいた。

 打ち上げの終わりでは、部員一同で円陣を組み、手を合わせて「星撒部ーっ、サイコーッ!」と叫びながら拳を振り上げて、締めとした。

 その後、渚を筆頭とした2年生一同は、1年生を解散させて、自らは宴会の後片づけに当たり始めたのだが…。ノーラはこっそりとその場に残ると、2年生に混じって後片づけの手伝いに従事していた。

 そんなノーラの姿を見て、渚が呆れたような溜息を交えつつ、こう語ったものだ。

 「おぬしときたら、ホントにバカがつくほどに生真面目じゃのう。

 第一、おぬしは今回の打ち上げの主賓じゃぞ? 自分のお祝いを、自分で後片づけするなど、滑稽きわまりないではないか。

 それにおぬし、入部初日にしてあれほど動き回ったのじゃ。相当疲れが溜まっておるはずじゃ。早々に帰って、休んだ方が賢明じゃぞ?」

 しかしノーラは、首を横に振って渚の好意を受け取らなかった。

 「いえ…私、好きでやってるだけですから…。

 それにこれは、私から皆さんへの、ささやかな恩返しなんです…」

 "恩返し"という言葉に、渚を初めとして2年生達は首を傾げたが。ノーラはそれ以上深く言及することなく、ただ穏やかに微笑んで、テーブルの上を丁寧に拭き始めた。

 恩返し…その言葉には、星撒部に対する沢山の感謝が含まれている。例えば、ユーテリアに在籍していることに気後れを感じていた自分を、何隔てなく暖かく迎えてくれたこと…苦楽を共にする、真なる仲間を手にいることができたこと…自分では持ち合わせていないと思っていた希望や笑顔を、持つことが出来るようになったこと…等々だ。

 これらの感謝にほっこりと体が温まったノーラは、普段の就寝時間を2時間以上も回っているというのに、睡魔を感じるどころか熱い興奮を感じ、体を動かさずにはいられない衝動に駆られていたのであった。

 結局ノーラは、2年生たちと共に後片づけを最後まで成し遂げたのであった。

 「主賓じゃったというのに、手伝ってもらってすまなかったのう」

 「いえいえ…本当に、好きでやっていたことですから…」

 「じゃが、飛ばしすぎはホント、体に毒じゃぞい。

 こんな時間まで付き合わせた身の上で、こう言うのもなんじゃが…なるべくゆっくり休むのじゃぞ。良いな?」

 「はい。ご心配いただいて、ありがとうございます」

 答えるノーラは、夜中に大輪の花を咲き誇る月下美人のごとく、煌びやかで元気な笑顔を見せたのだった。

 解散後もノーラの興奮は冷め切らなかった。"何かと動いていないと気が済まない"と訴えるムズ(がゆ)さが全身を這い回っていた。この衝動を発散させるべく、ノーラは真夜中の時間帯だというのに、移動魔術を使わず徒歩で自室を目指すことにした。

 

 

 ノーラを含め、大半のユーテリアの生徒は、公営の学生寮で暮らしている。ユーテリアの抱える生徒数は莫大なものだから、寮の数は当然ながらかなり多い。これらの寮は全て、学園地区に隣接した地域――一般に、『学生居住地区』と呼ばれている――に建設されており、生徒たちはここから通学している。

 ここで一つ、留意すべき点がある。それは、学生居住地区は学園地区に隣接しているとは言え、非常に面積が広いため、割り当てられた寮の場所によっては学園までの道のりが非常に長くなり得る、ということだ。徒歩通学ではとてもでないが時間が掛かりすぎる場合は多々ある。ゆえに、学生たちは公共交通機関を利用したり、地区内に点在する移動方術陣を利用したり、はたまた自前の移動魔術を駆使したりして、通学を行っている。

 ノーラの場合、自室のある寮は幸いにも学園に比較的近い位置にあり、徒歩通学もそれほど苦ではない。とは言え普段の通学では、魔術の実演訓練も兼ねて、移動用魔術施設を利用している。

 …さて、ノーラの帰宅の様子に話を戻そう。

 美しい造形の石タイルで舗装された道を早足で進むノーラを包む深夜の光景は、非常に静かで、穏やかで、そして美しかった。

 天空には雲の姿は一切見えず、煌々たる冷たい輝きを放つまん丸の月や、天一面を覆う豪勢な城塞を逆さまにしたような蜃気楼的存在――『天国』がよく見える。少し残念なのは、ユーテリアの街の光によって、夜空一面を覆っているはずの星の姿が点々としか見えないことだ。

 月光に照らされた学生生活地区の光景もまた、素晴らしい。旧時代の地球の華やかな中世世界に存在した貴族屋敷を思わせる学生寮が立ち並ぶ光景は、昼間ですらも人々に感嘆の溜息を催させるというのに。淡い光とぼんやりした陰影を伴ったこの時間帯においては、昼間以上に幻想的な印象が深くなっている。

 道中、ノーラの他に人の姿は見あたらなかったが、代わりに清掃用の暫定精霊(スペクター)達の姿が幾つか目についた。彼らは足のない小人の姿をとって、小さな箒とちりとりで丁寧に道を掃き清めている。その隣を通り過ぎようとすると、彼らはのっぺらぼうの顔でこちらを見上げ、

 「こんばんわ! 遅くまでご苦労さまでした! お気をつけてお帰りください!」

 と、子供のような甲高い声で親しげに労いの言葉をかけてくれる。その行動はおそらく、生産時点からプログラムされた形式ばかりの挨拶でしかないであろう。それでも、上機嫌なノーラの更に弾ませる燃料には十分になり得た。ノーラはふと足を止めて屈み込み、精霊ののっぺらぼうな顔に出来るだけ目線を合わせると、天空に煌々と存在する月にも負けぬ輝く笑顔をニッコリと浮かべる。

 「お気遣い、ありがとうね…。

 そちらこそ…夜遅くのお仕事、ご苦労様。工業用の精霊だからと言って、あまり根を詰めないで…ほどほどに、お仕事してね」

 ノーラが労い返すと、精霊ののっぺらぼうの顔にサッと赤みが差し、照れ照れと頭の後ろを掻く動作をしてみせる。生命の定義たる魂魄を持たずして生まれる暫定精霊(スペクター)であるが、この動作を見ているとまるで意志も感情質(クオリア)も兼ね備えた一個体の生物のようだ。よほど凝ったプログラムをされているのか、はたまたは、本当に自我が芽生えて人権を持ち得た固定精霊(エレメンタル)と呼ばれる精霊なのかも知れない。

 そんな人間臭い精霊に手を振って別れを告げると、ノーラは再び小走りになって、自室のある寮へ目指す。

 緩やかな夜風が吹いて、ノーラの美しい淡紫色の髪をフワリと撫でる。地球の北半球の温帯域に位置するユーテリアの2月は冬だ。しかし、学園都市国家を収める"慈母の女神"の影響により、ユーテリアは四季を通して非常に穏やかな天候に恵まれている。とは言え、この時期は他の季節に比べて気温は低い。吹いてきた夜風も、皮膚をギュッと引き締めるような冷たさを含んでいる。

 だが、興奮の熱に浮かされている今のノーラには、ちょうど良い心地よさを運んできてくれる。

 両腕を一杯に広げて、まるで幼子が飛行機のマネをするかのように、体中に夜風を浴びつつ、歩調を早めて帰り路を進む。

 ――そうして10分ほど進んだ後。ノーラはついに目的の寮に辿り着いた。

 

 その学生寮の外観を簡単に表現すれば、縦長の直方体だ。しかし詳細に見れば、壁を彩る色とりどりのタイルや、古風な貴族屋敷を思わせる屋根、そして屋根の隅に設置された小さな天使像など、凝った美麗な趣向がいくつも目立つ。

 気取った白塗りの木製窓は、幾つか灯りが点っている。こんな夜更けに部屋の主たる学生は、勉強に勤しんでいるのか、それとも余暇をのんびりと過ごしているのか。何にせよ、全ての窓が真っ暗になっているよりも、人の暖かみが感じられるようで、ほっこりとした気持ちになれる。

 高さが3メートルほどもある大きな木製の玄関扉を開け、ノーラは内部へと進入する。内観も外観に引けを取らない、美麗な趣向が施されている。天上にぶら下がった照明はシャンデリアのようだし、床には何某(なにがし)かの神話の場面を再現した豪奢な絨毯が敷かれている。白っぽい壁紙には、目にうるさくない程度に花柄のパターンが配置されている。ロビーの奥に見える階段の手すりはツヤツヤに磨かれており、また、芸術品のような形状美を醸し出している。ここに足を踏み入れた来訪者は誰もが、即座にほっこりとした気持ちになれることだろう。

 ノーラの自室は、この建物の5階にある。興奮はまだ冷めていないとは言え、流石に階段を駆け上がるほどの気力はなかったので、素直にエレベーターで自室に向かう。

 アンティーク調の壁付け照明が優しく照らし出す廊下を伝い、自室に至ったノーラ。室内は、まるで高級マンションのような広々とした空間が広がっている。浴室、キッチン、トイレは当然のように完備。部屋はリビングと寝室を含め、なんと4室も用意されている。生徒が生活するには十分過ぎる造りである。

 寮の部屋は構造を作り替える工事をしない限り、自由なカスタマイズを認められている。大半の生徒はこの気風に甘んじて、自分たちの個性を目一杯表現した内装を作り出す。しかし、ユーテリアの在籍を心苦しく思い続けて来たノーラは、部屋をカスタマイズする気などなれなかったため、ほとんど初期状態のままだ。それでも十分、清潔感と解放感に満ちた洒落た内装がしっかりと整えられている。

 ノーラは寝室に直行すると、サクラの花のパターンがあしらわれた寝具一式が揃っているフカフカのベッドに腰を下ろし、ふぅ、と小さく息をついて一休みする。

 ――その途端。ノーラの体に、急激な変化が訪れる。

 強すぎる輝きを放ち続けていた電球が、突如フィラメントが焼き切れてしまい、一切光を放つことがなくなってしまう――そんな風に、ノーラの体から一瞬にしてフッと力が抜け落ちると。瞼を鉛に変える強烈な睡魔に襲われたのだ。

 自室という安堵に満ちた空間に入ることで、興奮やそれに伴う緊張が一気に抜け落ちてしまったらしい。これらが押さえ込んでいた疲労が、一気に噴出したのだ。

 (うわ…すっごい、ダルい…)

 帰路を小走りで踏破してきた勢いは何処へやら。ノーラの動きはカタツムリのようにズルズルとした緩慢な動きになる。ノソノソと脱ぎ捨てた制服をクローゼットに仕舞うことすら、酷く億劫だ。

 (1日くらいだから、生活リズムが崩れても問題ないと思ってたけど…。

 甘かったなぁ…)

 入浴時には、浴槽の内外問わず、何度コックリコックリと居眠りをしたことだろうか。結局、入浴には普段の倍ちかい時間を費やすことになってしまった。

 浴槽での度重なる居眠りによってすっかりのぼせてしまったノーラは、睡魔も手伝ったフラッフラの足取りでベッドにたどり着くと、糸の切れた操り人形のように倒れ込む。

 そのまま眠り込みたくなるが、暗転を急ぐ意識を何とか押さえ込みつつ、芋虫のようにベッド上を前進して、枕元にたどり着く。そこからサイドテーブルへと手を伸ばし、掴んだのは…ベッドと似たピンクの色調をした丸い目覚まし時計だ。

 (ちゃんと設定しておかないと…!)

 焦点がぼやけまくる視界を凝らしながら、目覚ましのアラームを設定するノーラの姿には、睡魔を打ち倒さんばかりの意地が見える。こうまで起床時間に拘るのには、勿論、理由があるのだが…その詳細はすぐに述べることになるので、ここでは言及しないで置こう。

 目覚まし時計のアラームがしっかりとオンになっていることを確認したノーラは…そのまま毛布を被ることもなく、ベッドの上にうつ伏せになったまま泥のように眠り込んだ。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Tank! - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 ノーラの本日、2度目の歯車の狂い。それは、1度目の起床時間と、短すぎる睡眠時間だ。

 "1度目"と言及したからには、2度目の起床時間も勿論あるのだが、これも歯車の狂いに関連しているので、後ほど詳しく述べることにする。

 …さて、普段より4時間以上も遅い就寝についたノーラが目を覚ましたのは、なんと午前5時頃。普段の起床時間は6時か7時なので、この起床時間もイレギュラーである。第一、8時間は睡眠をとらないと気が済まないというのに、睡眠時間は3時間にも満たない時点で、生活どころか生体のリズム自体が大きく狂ってしまっている。

 それでもノーラはこの時、午前5時ピッタリに設定していた目覚ましのアラームが鳴るよりも早く、瞼を羽毛のように軽々しくパッチリと開いたのであった。

 それからのノーラの行動は、睡眠不足を全く感じさせない、非常にキビキビしたものだった。着崩れた水色のパジャマをポイポイと脱ぎ捨て、就寝前になんとかクローゼットに押し込んだ制服を風のごとき勢いで身に纏う。

 直後、ノーラは疾風の足取りで洗面室へと移動。鏡をのぞき込むと、冬場の冷たい真水で顔を洗い、薄紫色の髪を丁寧ながら手早く整える。そして再び鏡に視線を送ると、鏡面に移る自身の顔に向かって、大袈裟な笑顔をニィッと作り、表情筋を叩き起こす。

 「よし…っ!」

 一連の支度を終えたノーラは小さく呟くと、リビングに放置していた通学用肩掛けカバンを身につけ、朝食も()らずに颯爽とした足取りで自室を飛び出した。

 乱れまくった生活リズムに全く負けることなく、ここまでキチンとした行動を機敏に成し遂げられる原動力は、一体何なのか。それは――決意、である。

 ノーラには、今朝一番にどうしてもやり遂げたいことがあるのだ。

 北半球の冬の早朝ゆえ、日の出はまだ遠く、深夜のような闇の帳が町並みに降りている。灯りが点っている窓は殆ど見あたらず、光源と言えば柔らかな輝きを放つ術式燃料式の街灯ばかりである。

 約2時間半前には路上をうろついていた暫定精霊(スペクター)達も、今ではすっかり姿を消している。単に作業場所を移動しただけか、それとも役目を終えて術式へと蒸発したのか、それとも石タイルの隙間に縮こまって潜り込み待機モードになっているのか。何にせよ、深夜よりも路上は更に静かで、寂しい雰囲気であった。

 天候もまた、寂しい雰囲気に拍車をかけている。就寝前までは晴れていた夜空も、今は大半が厚い雲で覆われている。月の輝きも雲に阻まれており、深夜よりもなお暗さが際だっている。

 それでもノーラは一向に気後れすることなく、一直線に、最短の道のりで学園へと駆けてゆく。

 今回は一刻も早く目的をやり遂げたいため、ノーラは普段の通学と同様に公営の移動用魔術施設を使用する。

 学生生活地区には、至るところに行き止まりのような広場がある。そのような一画の地面は必ず、他の道路とは違って、丁寧に水平に(なら)されたアスファルトで覆われている。この地面には更に、真円の外周を持つ巨大な幾何学模様が深々と刻みつけられている。これこそが移動用魔術施設であり、生徒や住人たちから『ポータル』と呼ばれている代物である。

 学生生活地区の『ポータル』を利用することで、学園地区にある総勢19棟の学舎のうちの、任意の場所の玄関へと瞬間移動できるのだ。

 ノーラは『ポータル』の上に乗り、瞼を軽く閉じて精神を集中。すると、足下を囲うように円形の青白い輝きが発生する――直後、勢いづいた火柱のような、まばゆい純白の光が天へと立ち上った。数瞬後、光の柱はホタルの光のように儚く霞んで消滅すると――そこにはもはや、ノーラの姿はなかった。

 同時刻、ノーラは光の柱とともに、学園地区の第1棟、通称『本校舎』のエントランスに出現した。移動魔術は見事に成功したのだ――尤も、よほど魔術の扱いが苦手でない限りは、『ポータル』を用いての瞬間移動に失敗することはないのだが。

 妖精が彫り込まれた円柱が一列に並ぶ広々としたエントランスには、誰の姿もない。昼間には絶対に味わえない広大な解放感を気持ちよく独り占めできるが、そんなことがノーラの目的ではない。上階へ運んでくれるエレベーターを目指し、即座に小走りで移動する。

 本校舎は、他の校舎に比べて生徒用の教室の数が少ない。代わりに、教官達の専用室が数多く配置されている。特に5階から上の階は、全てが教官用スペースと言っても良い。こんな割り当てになっているのは、この本校舎の最上8階に学園長たる"慈母の女神"の執務室があるので、学園長を交えた教官たちの会議などを開きやすくしているためかも知れない。

 今回のノーラの目的地は、6階にある。彼女が所属する1年Q組の担任教官、ツェペリン・アンルジュの部屋である。

 エレベーターを降りると、そこには王宮を思わせるような優美な廊下が左右に伸びている。その中をツカツカと早足で歩き、立ち並ぶブラウンの木製扉のうちの1つの前で立ち止まる。扉の中央やや上方には、金字でツェペリンの名が記された黒いプレートが設置されてあった。

 授業開始までまだまだ時間のある時刻だというのに、果たして部屋の主は居るのか。ノーラはそんな疑問を一切抱くことなく、確信を持ってコンコンとノックする。

 彼女の確信は、的を得ていた。扉の向こうから、やや大仰に芝居がかった中年男性の声で「どうぞ、入りたまえ」との回答が返る。

 「朝早くに失礼します、ツェペリン先生」

 ノーラは声を掛けながら扉を開き、スルリと室内へと滑り込む。

 

 ユーテリアの教官の部屋は、他校に見るようなせせこましい事務室ではない。豪邸の書斎を思わせる広々とした造りになっている。そして、教官たちは自分たちの個性に合わせて、内装をカスタマイズしている。

 ツェペリン・アンルジュの部屋の内観は、美術館の小さな展示室を連想させる。左右の壁に沿って設置されている、天上スレスレまでの高さがある本棚には、様々な形状の芸術品が収められている。また、室内には台座が幾つか点在しており、その上には古代美術品を思わせる男女の英雄像が並んでいる。これらのコレクションは単にツェペリンの趣味というだけでなく、美術史を専門分野の1つとしているがための研究対象品でもある。

 部屋の奥には、多種多様な花や果実を実らせたツタの模様をした厚手のカーテンを背に、小粋な装飾が施された木製のテーブルと、ボリュームのあるフカフカした大きな背もたれを持つ椅子がある。そこに目的の人物、ツェペリンは座していた。

 大抵のユーテリアの教官がそうであるように、ツェペリンの姿は非常に個性的だ。虹を思わせるような極彩色の燕尾服に身を包み、頭には派手な白黒の市松模様をしたシルクハットを被っている。また、口元には見事にクルリと渦を巻くカイゼル髭をつけている。他校では絶対に見かけることのできない、突飛な姿だ。

 ツェペリンは灰青色の瞳にノーラを移すと、一瞬(まなこ)を見開いて驚きを見せた。しかしその表情はすぐに、貴族然とした余裕のある穏やかな笑みに代わる。

 「こんな早朝に登校とは珍しいね、ノーラ君。よほど急いた用件があると見受けるが、どうしたのかな?」

 「はい、(おっしゃ)るとおりです。

 先生は非常に朝が早いと伺っておりましたので、この時刻でも問題ないかと思いまして、来訪させていただいた次第です」

 「ハハッ、そんなに(かしこ)まらずとも良いよ。

 まぁ、こちらに来たまえ」

 右手の甲を見せながら揺らして誘うツェペリンに従い、ノーラは早足で彼の机のすぐ手前まで歩み寄る。

 「早速、ご用件をお伝えしたいのですが」

 「ふむ、言ってみたまえ」

 ツェペリンはやや緊張した面もちを作り、机の上で両手を組んで、ノーラの言葉を待つ。

 だが、ノーラの口にした用件の前に、ツェペリンの緊張は空回りし、間の抜けた驚きが取って代わることとなる。

 「入部届を、提出したいんです」

 「ほっ…?」

 ツェペリンが呆けたのは無理もない。一見して、急を要するような用件だとは全く思えないのだから。

 「…ああ、入部届、か。

 ちょっと待ってくれたまえ」

 数秒を呆然と過ごした後、ツェペリンはワタワタしながら机の引き出しを漁ると、ペラペラと揺れ動く一枚の用紙をノーラに渡す。

 するとノーラは、夜明けを引き寄せるような輝かしく清々しい笑顔をニッコリと浮かべて受け取った。

 「ありがとうございます…!

 あの、この場ですぐ記入したいので…机の端を、お借りしてもよろしいですか?」

 「あ、ああ、構わんよ。

 ペンは持ってるかね? 貸そうか?」

 「大丈夫です。私、いつも制服のポケットにボールペンを忍ばせてますから…」

 そしてノーラは机の端に移動すると、上着のポケットから飾り気のないボールペンを取り出すと、サラサラと用紙に記入事項を書き込む。故郷で英才教育を受けていたノーラは習字などの作法の教育も受けており、書く文字は静かな清流のように達筆だ。

 1分も掛からずに記入を終えると、ピラリ、と音を立てつつ用紙を(ひるがえ)しながら、担任教官へ提出する。

 日の出も迎えていない早朝に登校してまで提出したかった入部届――そこに書かれている部活動の名前は果たして何かと、ツェペリンは視線を走らせると…。

 「ほおー。星撒部…とはね」

 彼は自らカイゼル髭を指で摘まんで撫でながら、苦々しいとも愉快そうともとれる微妙な笑みを浮かべる。

 「何か…おかしいでしょうか?」

 中途半端にして奇妙な反応に、ノーラがちょっと眉根を曇らせて尋ねる。するとツェペリンは髭をいじるのを止めた手のひらをこちらに向けて、「これは失敬」と前置く。

 「年度の終わりに近いこの時期に入部届を提出するなんて、珍しいこともあるものだと思ったんだがね。

 この部活動なら、納得が行くというものだよ。

 副部長の渚君にでも強引に勧誘されて、引くに引けなくなってしまった…というところだろう?」

 星撒部が、自身の活動のために他の生徒を巻き込む『暴走部』であることは、教官たちにも周知の事実であるらしい。ツェペリンは苦笑の中に同情を滲ませながら、質問というよりは確認といった感じの口調で語る。

 対してノーラは、星撒部の評価を胸中で苦笑しながらも、顔には春の微風のごとき穏やかな笑みを浮かべて、首を横に振る。

 「いいえ。

 渚先輩たちからの勧誘とかは、全く関係ありません。

 入部の件は、紛れもなく、私自身の意志です」

 「ふむ…。

 確かに、成り行きでの入部ならば、こんな朝早くから精力的に入部届を提出するなんてことはしないだろうね。

 この様子だと…君はとても、星撒部が気に入ったと見える」

 「はい!」

 即答するノーラの笑顔が、微風から華やかな花吹雪へと変わる。弾くような勢いで閉ざした瞼から、星が飛び出してくるような、可憐で輝きに満ちた極上の笑顔だ。

 「皆さん、とても素敵な方ばかりで…。

 どうしても、一刻も早く、皆さんと正式な形で一員になりたかったんです…! そして…入部初日という今日1日を、最高の形でスタートしたかったんです…!」

 「なるほどねえ」

 ツェペリンは腕を組み、うんうん、と首を数度縦に振る。

 「まぁ、君の担任教官の身の上としては、今回の君の決断はとても喜ばしい限りだよ。

 君は、授業での態度や成績の上では、とても優秀な生徒だ。しかし――こう言っては君に失礼だが――どうにも自発性に欠けるというか、元気が足りないと、危惧していたのだよ。折角輝ける才能に溢れているのに、実にもったいない、とね」

 その言葉を耳にして、ノーラの笑顔に申し訳なさそうな苦々しさが混じる。昨日、学園長の"慈母の女神"にも同じような事を言われたことを思い出したからだ。あまり目立たないよう、影のようにひっそりと学園生活を過ごして来たつもりだったが、希望の輝きに満ちた学園の中では彼女の暗がりが非常に目立ってしまっていたらしい。

 「だから、君が星撒部という活発な活動に自発的に参加を決めたことは、私に嬉しい意外性をもたらしてくれたよ」

 ツェペリンはシルクハットの下でニッコリと、目元に皺を寄せて大きな笑顔を作る。

 「さっきは、星撒部のことをあんな風に言ってしまったがね。私は、世辞抜きにとても良い部活動だと評価しているのだよ。

 確かに、君たち生徒の間で話題になっているような、やりすぎな面もあるし、褒められたことばかりでもない。

 だがね、部員たちは皆、自らの確固とした信念に基づいて、本気で人々と世界のために、幸せの一端を担おうとしているし、実際に実践もしている。ゆえに、彼らの仕事の成果は、依頼者全員から例外なく、大満足の評価を得ているのだよ。

 それに…部長のバウアー君に、副部長の渚君。彼らはこの部活を発足してから本当に良き生徒に――後輩たちにとっては、良き手本となる先輩になったよ」

 バウアーと渚について言及した、その時。ツェペリンの視線が過ぎ去った日々に向けられ、(まなこ)がスッと細くなる。目尻が笑いの形に曲がっているところを見ると、悪い記憶を掘り起こしているのではなさそうだ。

 「彼らは…特に渚君は、大きく変わったよ。

 入学仕立ての頃の彼女は、まるでウニのように、何処から触ってもトゲトゲしていてね。指導にはひどく手を焼いたものだよ…」

 「…先生は、渚先輩のこと、ご存知なのですか…?」

 ノーラが目をパチクリと瞬かせて尋ねると、ツェペリンは瞼の裏側に眺めたい過去の光景でも張り付いているかのように軽く目を閉じると、うんうん、と数度首を縦に振る。

 「私は去年、彼らのクラスの担任教官だったからね。

 ちなみに、バウアー君は中途編入だったんだよ。編入してきた時期は、初夏の頃だったねぇ」

 "中途編入"…その言葉に、ノーラは思わず目を見開いて驚きを伝える。

 ユーテリアにおいて、中途編入は極めて珍しいケースだ。生徒自身が望む場合でも、学園のスカウトマンが誘う場合でも、余程の事情がない限り、次年度の1年生として入学させられることが多い。次年度までの期間、特にスカウトを受けた者に関しては基礎学力が不足している場合が多いので、生徒が望めばユーテリアの準生徒として基礎教養の学習を受けることが可能である。

 このような事情があるので、ユーテリアでは同学年の生徒と言っても、同い年であるとは限らない。中には、20代半ばを越えてから1年生として入学する生徒もいる。

 ちなみに星撒部の場合、1年生も2年生も、同い年揃いである。

 …さて、中途編入について話を戻すと。バウアーのように次年度待たず、即座に生徒として受け入れられる者というのは、心技体が総じて極めて高いレベルにあり、約1年を空回りさせては非常勿体ないと評価される、希有な人材であると言える。現在においても学園最強生徒の候補に上がる彼は、スタート時点から既に、その片鱗を覗かせていたということのようだ。

 「バウアー君の編入初日は、嵐のような1日でね…今でも鮮明に覚えているよ…」

 瞼を閉じたまま、嘆息と共にツェペリンは語り続ける。吐息の中には掘り起こした記憶を楽しむ響きと共に、当時の苦労までも如実に思い出してしまった重苦しさも混じっている。

 「バウアー君と渚君は最初、全く馬が合わなくね…。それなのにお互い、隣同士の席になったものだから…その険悪さときたら、まるでウニと毬栗(いがぐり)をぶつけたような有様だったよ。

 ホームルームの最中、彼らの間にはずーっと火花が散ってるように見えていてね…。そしてついに、何が火種になったのか、教室内で交戦を始めてしまったんだよ。

 いやぁ…あれを止めるのには、本当に苦労したよ。私だけの力では全く及ばず、3人もの先生に応援してもらったからね…」

 ツェペリンは恥ずかしそうに肩をすくめる。

 英雄候補である生徒たちを指導するユーテリアの教官は(すべから)く、生徒たちに劣らぬ高い能力の持ち主である。教職というレッテルを捨てたならば、間違いなく、『地球圏治安監視集団(エグリゴリ)』を初めとした数々の組織から即戦力を期待されて声がかかることだろう。

 そんな彼らを4人も用いなければ、たった2人の1年生を抑えられなかったという事実が、ツェペリンの誇りの深いヒビとなっているようだ。

 「そんな彼ら2人が、どういうワケか意気投合して、今では部活動の中心を担っている。不思議なものだね。

 …いや、むしろ、飾らぬ本音で力をぶつけった仲だからこそ、そういう間柄になれたのかも知れないね」

 …と、ここまで過去の日々を眺めながら言葉を口にしていたツェペリンだが、ふいにハッと細めた目を見開く。そして饒舌だった口を芝居がかった動作で塞ぎながら、慌てた様子で「いかん、いかん」とモゴモゴ語る。

 「本人たちの許可なく、彼らの汚点になり得る過去をペラペラ喋ってしまっては、彼らに悪い。

 すまないがノーラ君、もしもこの事に興味を抱いたのならば、これ以上のことは当人たちから聞いてくれたまえ」

 ツェペリンに指摘されるまでもなく、ノーラは既に過去の渚に関する興味を抱いていた。今は、ちょっと強引なものの、ノリが良くて茶目っ気があって、何事を起こしても憎めない愛嬌のある渚が…トゲトゲしていた様子など、想像もつかなかったからだ。

 とは言え、本人たちの居ないところで、事情をあまりに掘り下げて尋ねるのは失礼だという意見についても、ツェペリンには同意だ。だからノーラは素直に首を縦に振り、それ以上の事をツェペリンから聞き出すことはしなかった。

 その後、ツェペリンは話題を変え、ノーラから受け取った入部届をヒラヒラと振りながら語る。

 「ともかく、入部届は受け取ったよ。

 おめでとう、これで君は正式に、星撒部の一員だ!

 これで、本日の良好なスタートは切れたかね?」

 「はい!」

 ノーラはニッコリと笑う。その笑みが呼び寄せたかのように、ツェペリンの背後の厚手のカーテンの隙間から、うっすらと朝焼けの明かりが漏れてくる。

 ノーラの用事が終わったと見るや、ツェペリンは入部届をデスクの上に静かに置くと。穏やかに笑みを浮かべた視線でノーラの目元を見つめながら、語る。

 「1時限目までは、まだまだ時間がある。もしも君が、今日も1時限目から授業に出席する気なら、保健室にでも頼んで、授業開始直前まで休んだ方がいいだろう。

 …目元に、濃い疲労の気配が見えるよ」

 ツェペリンの指摘通り、ノーラの目元にはうっすらとした隈が浮かんでいる。決意によって心は弾んでいても、身体の疲労は消えてはいなかったのだ。

 「ご心配いただき、ありがとうございます。

 保健室よりはやはり、自室の方が落ち着きますので。一度帰って、休んでおこうと思います」

 「うむ、そうしなさい。

 疲れが溜まった状態では、いくらスタートだけが良くても、辛く苦しい1日になりかねないからね」

 …こうして朝一番の目的を終えたノーラは、担任教官へ深々とした礼を残すと、クルリと踵を返して部屋を後にする。その足取りは、スキップでも踏んでいるかのように軽やかで素早かった。

 そのまま大きな木製扉の向こうへと姿を消すと…室内に1人残ったツェペリンは、デスクの上に両肘を立てて手を組み、入部届に視線を送りながらポツリと呟く。

 「私も、妙な縁があるものだな。

 2年連続で…とはね」

 一体何が"連続"しているというのか。それについてツェペリンは、独りごちて言及することはなかった。

 ――その後、ツェペリンはノーラの入部届の内容を、学園長たる"慈母の女神"へ報告したのであるが…そんな事情を、ノーラは知る由もなかった。

 

 さて、朝一番の目的を果たし、星撒部の一員としての新しい日々の始まりへのスイッチを入れた、ノーラは…廊下を満たす心地よい程度の空気を胸いっぱいに満たすほど深呼吸し、白み始めた雲の多い空を窓越しに眺めながら、満足げに(うなづ)く。

 「これで…良しっ!」

 胸の高さにあげた両手をグッと拳の形に握りながら、小さく呟いた…その直後のことであった。

 決意という支えがポッカリと失われたノーラの身に、ズッシリとのし掛かってくる――強烈な眠気と、疲労感。やはりツェペリンが指摘した通り、ノーラの身体には濃い疲労が深く刻まれていたのだ。

 (うわ…っ。昨日の打ち上げの後の、寝る前の時よりも…ずっとずっと、ダルい…ダルすぎる…)

 直立していてさえも、瞼がトロ~ンと降りてくる。ぼやけた視界はなかなか焦点が合わない。膝から下がまるで綿にでもなったように力が入らず、フラフラというよりもフニャフニャだ。

 保健室で休んで行くと良い――そのツェペリンの言葉が、グニャグニャになった脳裏で妙にハッキリと再生される。その言葉に甘えるべきだとノーラの本能は叫ぶが――彼女の理性は、その提案を却下した。

 (保健室で寝たら、仮眠どころじゃない…。この様子だと、お昼までグッスリ眠り込んじゃう…)

 不良な生徒ならば、それでも本能の提案に喜んで飛びつくだろう。しかし優等生思考のノーラは、真に保健室を必要とする、演習などで傷病を負った生徒を差し置いてベッドを占領することが非常に心苦しいのだ。

 だからノーラは、就寝前以上に厳しい疲労と睡魔に必死に抗いながら、自室へと帰ることを決断した。

 その道中は、非常に痛々しく、苦しいものになった。歩行という行為も眠気覚ましには全く役に立たず、気を抜けばそのまま堅い地面に倒れ込んで、寝息を立ててしまいそうだ。グニャグニャした思考の中でその様を想像すると、泥酔して眠りこける間抜けなオジサンの姿が想起され、ノーラの羞恥心をグッサリと突き刺す。――そんな恥ずかしい姿を晒すことだけは、絶対に避けたい!

 壁に寄り添いながらなんとかエントランスについたノーラは、中央に設置されたポータルを起動させようと精神を集中しようとするが――睡魔のために、なかなか思考がまとまらない。瞼を閉じると、視界の闇の中に落ちていきそうになる。

 (ダメ…っ! ホラ…っ、頑張るよ…私!)

 ノーラは自身の頬を思い切りつねり、涙が滲むほどの痛みで意識をなんとか覚醒させる。

 …この時、丁度ノーラの背後を2人組の学生が通りかかると、ノーラの奇妙な行動に首を傾げていた。しかし勿論、睡魔との格闘で手一杯のノーラは、そんな彼らの様子など気づくはずもない。

 覚醒するも一瞬のこと、即座に鎌首を高くあげてくる、睡魔。それに抗うべく、思い切り奥歯を歯噛みしながら意識内で術式を練り上げると――。

 「転移~ッ!」

 エントランス中に響きわたるノーラの叫びは、声と共に口から睡魔を吹き飛ばさんとするかのよう。その行為が功を奏したと言えるのか、ノーラの身体は青白い魔術励起光に包まれる。移動術式が見事に成功した証だ。

 そのまま光の柱となって姿を消す、ノーラ。その一部始終を眺めていた生徒2人組は、コソコソと語り合う。

 「…あの人、一体どうしたんだろうね…?」

 「夜通しで疑似戦闘演習でもして、テンション上がりまくってたんじゃない?」

 ――何はともあれ、登校時に利用した、自室最寄りのポータルへの移動を成功させた、ノーラ。しかし、ここで気を抜くワケにはいかない。自室まで徒歩でたどり着かなくてならないのだから。

 宵闇が支配していた空に白色と、そして東の空に朝焼けの赤が差してくるこの時間帯になると、学生居住地区の路上にはポツポツと人や乗り物の姿が増えてくる。人は大抵がユーテリアの生徒たちで、部活動の朝練に向かう者が大半だ。中には、自室で飼育しているイヌやら愛玩用暫定精霊(スペクター)の散歩をしている者の姿も見える。乗り物は新聞配達や、生徒向けの朝食配達サービスを請け負っている浮遊スクーターやバンが多い。

 路上を動く者達は皆、朝の清々しい空気の元、ハキハキとした活気に満ちている。新しい1日の始まりを身体全体で歓迎しているかのようだ。

 …それに比べると、ノーラの枯れ果てたサボテンのような気だるさは、あまりにも目立つ。彼女を視界に入れた者たちは皆、怪訝そうに眉をひそめたり、哀れみに目尻を下げたりしている。

 「あの、大丈夫ですか? 具合でも、悪いんですか?」

 あるタイミングですれ違った一団から、本気で心配されてそう言葉をかけられた時。ノーラは時を経ると共に濃くなった(クマ)がクッキリ浮かんだ、極めて不健全な笑みをゲッソリと浮かべて答える。

 「大丈夫です…寝不足なだけですから…」

 こんな状態で"大丈夫"などと言われて納得する者は誰もいないであろうが、一団はノーラが発する妙な気迫に圧されて、それ以上何も言えずにノーラを見送るのであった。

 普段の通学の倍以上の時間をかけ、ようやく寮に到着した、ノーラ。泥にでもなったような足取りでズルズルと、壁伝いにエレベーターまで進むと、倒れ込むようにして入り込む。エレベーターの隅に背を当てて全体重をかけると、そのまま中途半端に座り込むような格好を取り、自室のある5階を目指す。

 エレベーターはノンストップでノーラを5階まで運んでくれた。チーン、という細く高い音を上げて目的地到着を告げたエレーベーターが、綺麗に磨き抜かれた木の目調の扉を開くと――そこに偶然、入れ違いで乗り込もうとしている、岩の肌を持つ逞しい巨躯の男子生徒の姿を現れる。この生徒は、ぼんやりとした様子でエレベーターを待っていたようだが、開かれた扉の向こうにノーラの姿を認めた瞬間、ギョッと灰色の小さな眼を見開く。

 「お、おい! あんた、大丈夫か!? 生きてるか!?」

 鬼気迫る様子でノーラに近寄る、男子生徒。それは無理もないことだ。ノーラは病的なまでにクッキリとした(クマ)を浮かべ、焦点の合っていない視線で虚空を眺めていたのだから。男子生徒の目には、生死の境を彷徨う重篤者のように見えたことだろう。

 「…はっ…!」

 男子生徒の真剣極まりない心配の叫びに、ノーラは一瞬遅れてビクッと身体を震わすと、フラフラしながらも慌てて身体を起こし、制服の袖で激しく眼を(こす)る。

 「あ…す、すみません…。単なる、寝不足なだけです…。

 ご心配、おかけしました…!」

 そう言い残すと、ノーラはこれ以上心配を振り撒いてならぬと、前のめりになりながら足早にエレベーターを出る。男子生徒はしばらくノーラのおぼつかない後ろ姿を見送っていたが、やがて首を傾げながらエレーベーターに乗り込み、姿を消した。

 さて、ようやく――本当にようやく、自室にたどり着いたノーラは…即座に寝室に直行し、制服姿のままベッドに倒れ込む。冬の朝の空気でひんやりした、フカフカの毛布の感覚が実に気持ち良い。瞼の重みがいよいよ耐え切れぬほどになり、視界が暗転してゆくが――。

 「だ、ダメ…!

 今度は、ちゃんと毛布を被って…質の良い睡眠を取らないと…!」

 自身を鼓舞するように声を出しながら首を振ると、抗い難い心地良さをなんとか振り切ってベッドから身を放す。そして、今にも堅く閉じてしまいそうなほど細く伏せられた(まなこ)のまま、モソモソとした動作で制服を脱ぎ、クローゼットに仕舞う。ハンガーに掛けられた制服はかなり崩れた形でぶら下がっていたが、今はそれを正す気力など全くない。

 それから、ベッドの隅のほうに放置された、起床の歳に脱ぎ捨てたままのパジャマをモゾモゾと身につけると。

 「…ふぁああぁぁ~」

 活気の萎えた薄い桜色の唇を大きく開き、盛大な欠伸をする。そしてジンワリと溢れてきた涙をコシコシと人差し指でふき取ると、ようやく待望の毛布の中へと進入する。

 ベッドの中は冬の空気で既に冷やされてしまっており、パジャマ越しにもジーンとした冷気が伝わってくる。その感覚に、ムズムズした興奮にも似た衝動を覚えたが…やがて、ヌクヌクと広がってゆく体温の暖気によって、深い睡魔が呼び起こされる。

 そのまま気持ちよく入眠しようとして…またもやノーラは踏みとどまると、毛布の中から腕だけモソモソと延ばし、サイドテーブル上の目覚まし時計を掴んで引き寄せる。

 今日はもう、午前の授業に出る気にはなれない。入学後の約1年間、別に大した興味のない教科であろうとも、1日中何らかの授業に出席してきたノーラであったが、今日は初めてこの習慣を曲げた日となった。

 とは言え、生活のリズムが狂ったと言っても、1日中寝て過ごすのはぐーたらに過ぎる。そう考えたノーラは、午後の授業には絶対に出ようと心に決めたのである。

 (11時に起きよう…これなら余裕で、13時からの3時限目には間に合うから…)

 ノーラは目覚まし時計のアラームをセットすると…そこで力尽きて、時計を腕の中に抱くようにして、スースーと穏やかな寝息を立て始めたのだった。

 …不幸にも、アラームのスイッチをオンにすることを忘れてしまったことにも、気づかずに…。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Tank! - Part 3

 ◆ ◆ ◆

 

 こうして、ノーラの本日3度目の歯車の狂い――2度目の起床時間がやってくる。

 

 「…んうぅ…」

 微睡(まどろ)みの色の濃い、間の抜けた声を上げながら、重い瞼をゆっくり持ち上げる。ぼんやりした視界の中には、薄手のカーテン越しに高く上った太陽の光で照らされた寝室が映る。

 「…ふぁあ~…」

 上体を起こしながら、両腕を思いっきり伸ばしつつ、大きな欠伸(あくび)をする。途端に(にじ)み出す涙を人差し指でコシコシと拭い取ると、何をするでなく寝室をぼんやりと見渡す。

 「流石に…もう、だいぶ明るいなぁ…」

 独りごちた後、もう一度大きく「ふぁ~」と欠伸(あくび)する。本日2度目の睡眠を経ながらも、まだ睡魔が頭の中から消えていない。

 (自然と目が覚めるというのは、身体が十分な睡眠を取ったから…って聞いたことがあるけど…。

 それって、嘘なのかも…全然、スッキリした感じがしないし…。

 朝に寝るなんて、おかしな生活リズムを取った所為かなぁ…)

 そんなことをぼんやりと思いながら、フラフラと首を左右に巡らし、目覚まし時計の姿を探す。

 アラームが鳴るより早く目覚めた(と、ノーラは思っている)ので、極々普通の感覚で今が何時なのか、知りたくなったのだ。万が一、予定よりかなり早い時刻ならば、まだまだ眠気が強いので寝直そうとも考えていた。

 いつもならば目覚まし時計が置かれているサイドテーブルを真っ先に見たが、ぞんざいに放置されたナビットしか見あたらず、小首を傾げる。何処へ置いたんだっけか、と入眠前の記憶を探るが、強すぎた睡魔のために記憶がグニャグニャと曖昧になっており、なかなか思い出すことが出来ない。

 そんな時、何気なくベッドの中の足をモゾモゾ動かしたところ、コツンと堅い物に当たる感覚を得る。まさか、と思いベッドの掛け布団をノソノソとめくると…うつ伏せに倒れた目的物を見つけた。

 「…そういえば…アラームをセットして、そのまま寝ちゃったんだっけ…」

 目覚まし時計の姿を目にすると同時に、曖昧になっていた記憶がハッキリと輪郭を得たので、ノーラは状況に納得して呟く。

 さて、目覚まし時計を拾い上げて文字盤に視線を向けると…。

 「…あれ…?」

 重たい瞼が垂れ下がる(まなこ)を怪訝そうに細め、絶句する。

 文字盤が差している時刻は、13時過ぎ。起床予定時刻より早いどころか――盛大に、寝過ごしている。

 「…うそぉ…」

 脱力し切った気怠い声を上げながら、今度はサイドテーブルに向き直り、目覚まし時計と引き替えにナビットを取り上げる。ナビットには学園独自の通信プロトコルでキッチリと同期が取られた、正確な時刻が反映されている。念のために、この時刻を参照しようというワケだ。

 待機モードに入り、真っ暗になったディスプレイにタッチして、ナビットのシステムを起動させる。青みがかった黒一色のデフォルト壁紙を背景に、さまざまな機能のアイコンやら情報やらが数多く、しかしながら見やすいレイアウトで表示される。目的の現在時刻は、この画面の右上端にある。

 「………」

 瞼の下がった眼でこれを見やった直後、ノーラは絶句して固まる。――ナビットが指し示す現時刻もまた、目覚まし時計と全く同一の、13時過ぎ。

 ここに至って、ノーラはようやく目覚まし時計のアラームのスイッチを見やり…オフの状態のままになっているのを確認すると。

 「…はぁー…やっちゃったんだ…」

 深い、深い溜息を吐いて、ガックリと肩を落とす。

 乱れた生活リズムを正すため、13時から開始される3時限目の授業に出席しようとしていた計画は、これでもうご破算になってしまった。

 とは言え、リズムを取り返す手段を全く失ったワケではない。遅刻にはなるが、今からでも3時限目に出席することはできる。遅刻が嫌ならば、4時限目に出席すれば、なんとか学園生活を送ったように体裁は整えられる。

 普段のノーラならば、生真面目にこのどちらかの手段を取るところであろうが…気怠い睡魔と疲労感に捕らわれている今の彼女には、どちらの手段も取る気になれない。

 (…もう…いいや…

 予定も滅茶苦茶になったことだし…今日はもう、諦める…)

 ノーラは重い瞼の下で、ムッと不愉快そうに顔をしかめると。先程はだけたばかりの掛け布団をガバリと被り、冬眠に入るイモムシの如くベッドに倒れ込んで体を丸める。

 優等生の名をかなぐり捨て、学園入学以来初めて、平日丸一日をぐーたらに過ごすことを決めた瞬間であった。

 幸いにもユーテリアは必須授業の全くない、完全自由な学習風土のため、今回のノーラの態度が問題視されることはない。

 さて、3度目の睡眠を貪るため目を閉じ、ベッド内の穏やかな暖気にウトウトし始めた頃のこと…。

 ピピピピピッ! 甲高い電子音と共に、ヴヴヴヴヴ、と云うバイブレーションの音が、(たる)みきった鼓膜を鋭く突き刺す。ナビットの通信コール音だ。

 あまりにも無機質で無粋な騒音は、穏やかな安眠の無心へと踏み込みかけていたノーラの心を、トゲトゲしい不機嫌に染める。睡魔で重い瞼を吊り上げ、険のあるジト目を作ると、はぁー、と大きな苛立ちのため息を吐く。

 (…今日はホントに、何から何まで、歯車が噛み合わないなぁ…)

 このままナビットを無視して不貞寝してしまおうか、という選択肢が思考を過ぎる。しかし、ノーラはこの提案に喜んで飛びつくほどには、ぐーたらになりきれなかった。もう一度嘆息しながらもモソモソと状態を起こし、サイドテーブルに向き直ってナビットに手を伸ばす。

 デフォルト壁紙が寒々しいナビットのディスプレイには、連絡相手の名前が丸文字フォントで表示されている。その相手の名は…ロイ・ファーブニルだ。

 「…あれ、ロイ君…?

 何の用だろ…?」

 連絡相手が、昨日命を賭した混乱を共に乗り越えた仲間であることを知ると、ノーラの胸中の苛立ちがスーッと消えてゆく。代わりに純粋な疑問符が頭の上に浮かび、彼女は小首を傾げつつ、通信受諾のボタンを押す。

 直後、ナビットのディスプレイからホログラムが飛び出し、宙に3D映像を描画する。そこに表示された光景は…星撒部の部室である第436号講義室の教壇周辺と、それを背にしてデカデカと映るロイの姿だ。

 「おっ、出た出た!

 よっ、ノーラ!」

 ロイはくだけた敬礼をするような動作で挨拶しながら、昼の太陽にも負けない輝く笑みをニカッと浮かべる。

 …が、その直後。彼の金色の瞳がノーラの姿をしっかりと映した瞬間、彼の顔が申し訳なさそうに曇る。

 「ありゃ、寝てるところを起こしちまったみたいだな。(わり)ぃ、(わり)ぃ。

 そうだよな…昨日は夜遅かったし、ノーラは後片づけまで手伝ってたもんな…。初日からあんな仕事で走り回る羽目にもなったし、疲れちまうのは当然だよな…」

 そう語るロイもまた、ノーラとほぼ同等の――いや、それ以上の働きを成し遂げていたというのに、彼女と違って疲労を全く見せず、ピンピンしている。彼がスタミナの化け物なだけなのか、それとも星撒部の環境が彼を鍛え抜いた結果なのか。

 理由はどうあれ、完全にダウンしてしまったノーラには、ロイの姿が逞しく映ると共に、自身のひ弱さに恥ずかしさがこみ上げてくる。思わず頬がつり上がり、肩身狭そうな苦笑がニヘッと浮かんでしまった。

 「うん…昨日から生活のリズムが狂いっぱなしで…正直、疲れが抜けないんだ…。

 情けない話だよね…」

 「そんな事ねーよ。いきなり天使だの士師だの相手にすりゃ、大抵のヤツは身体ぶっ壊しちまうさ。

 そこを眠い程度で済むンだから、ノーラは十分スゲェよ」

 「…そうかな…ただ、ぐーたらなだけだよ…」

 謙遜してみせるものの、歴戦のロイに褒められて悪い気はしない。ノーラの笑みから苦みが消える。

 …が、すぐにノーラは笑みを消すと、代わりに疑問符を浮かべる。

 「ところで、ロイ君…私に、何の用なのかな…?」

 その問いを耳にしたロイは、苦笑を浮かべて頭の後ろをポリポリと掻く。その仕草にノーラの疑問符はますます大きくなり、眉間に(しわ)が寄る。

 「…やっぱ、忘れちまってたか…」

 ロイがそう前置きを呟くと、ノーラはムムッと眉間の皺を更に深くして、腕を組んで首を傾げる。何を忘れているというのか、思い返そうとするが…どうしても、思い当たらない。

 それでも降参せずに粘るノーラであるが、彼女が答えに行き着くのを待たずにロイが正解を語る。

 「昨日の打ち上げの時、副部長が言ってたぜ。今日の13時から部室に集合するってな。

 今日の部活は、午後から戦災孤児の収容施設に慰問だぜ。そのために、ノーラも昨日、折り紙を作っただろ?」

 こう言われてようやく、ノーラは「あっ」と声を上げ、気怠さの中に埋もれてしまった記憶を掘り起こす。

 ――そうだ! 打ち上げの際、確かに渚は言っていた! 「13時に部室に集合じゃからな! 夜更かししたと言えども、くれぐれも寝過ごすでないぞ!」と!

 ノーラの瞼から、鉛の睡魔が一気に吹き飛ぶ。ぐーたら気分が一変、強烈な焦燥が身を焦がし、冷たい汗がブワリと全身から吹き出す。

 「ご、ごめんなさい!」

 ノーラはベッドの上で座したまま、慌てて深々と腰を折り曲げて謝罪する。

 「みんなのこと、待たせちゃってるよね…? 迷惑掛けちゃってるよね…?

 渚先輩、カンカンに怒ってるよね…?」

 身を引き起こしたノーラは、オロオロと落ち着かぬ潤んだ瞳でロイを見つめながら、早口で訴える。するとロイは、手をヒラヒラ振りながら、ニカッと笑う。

 「そんなに慌てんなって。

 確かに、オレたちは部室で待ってるけどさ、別に迷惑だなんて思ってないぜ。まったりさせてもらってるトコさ。

 それに…言い出しっぺの副部長も、まだ部室に来てないんだよ。蒼治とアリエッタが連絡入れてるんだけどさ、全然出ねーんだよなぁ。

 副部長も案外、爆睡してるんじゃねーかなぁ…。あの人、結構いい加減なトコあるからな」

 「そうなんだ…」

 渚のことを知り、ほっと安堵した顔を作るノーラであったが…そこへロイは、笑みを消して真剣な表情を作ると、カメラに顔をズイッと寄せて、堅い口調で語る。

 「でも、あんまりゆっくりしない方がいいぜ。副部長のことだから、ノーラの方が遅かったら、自分のことを棚に上げてグチグチ文句言いそうだからな。

 急ぎまくる必要はないと思うけどさ、なるべく早いに越したことはないってことさ」

 「うん…分かったよ。

 こっちはもう、遅刻してる身だからね…すぐにそっちに向かうよ」

 ノーランも真剣な表情を作り、コクリとゆっくり頷いてみせる。

 その直後、ロイはふと表情を和らげる。

 「そういえば、起きたばっかりなんだよな? ってことは、まだメシ食ってないんだろ?

 良かったら、オレと一緒に学食に行くか? オレ、昼飯は食ったけど、デザートくらいなら…」

 そこまで語った、その瞬間。ディスプレイ上のロイの姿がグイッと隅に追い込まれる。変わりにディスプレイの中央にデデンと現れたのは、頭からキツネの耳を生やした、スポーティにしてグラマラスな体格の少女、ナミト・ヴァーグナである。

 突如出現したナミトは、カメラに思いきっり顔を近寄せると、ブラウンの瞳をキラキラ輝かせて、興奮した声を上げる。

 「おおっ! ノーラちゃんのパジャマ姿だ! カッワイイ~!

 ホラ、紫ぃ~! 霧の優等生ちゃんの寝起き姿だよ! レアでしょ、レア!」

 すると、ナミトの顔と画面端の合間から、ピョコリと紫の顔が現れる。初めは何気ない無表情を浮かべていた彼女だが、すぐに陰を帯びたイヤらしい笑みを浮かべる。

 「ほほぉ~。確かに、優等生ちゃんのお寝坊姿なんて、レアだねぇ。

 ボサボサになった髪型なんて、ライオンみたいでとっても可愛いよ~」

 そう言及されて、ノーラはハッとなると、急いでナビットのディスプレイの端っこに自身が映ったワイプを表示させる。そこには、紫が指摘する通り、薄紫の地毛がモッフリと持ち上がった髪型を乗せた自分の顔があった。

 (私…こんなみっともない顔を、ロイ君に見せちゃったの…!?)

 火が吹き出るほどの羞恥の熱で、顔面が一瞬にして真っ赤になる。

 一方、画面の向こう側ではロイがナミトを押しやりながら、「いきなり出てくんなよ!」と文句をぶつけている。

 再びディスプレイを占領したロイが、ノーラに視線を向けると…彼の金色の瞳が、点になる。ノーラが急いで毛布を頭に被り、幽霊のような有様になっていたからだ。

 「…何してんだ、ノーラ?」

 純粋にきょとんとして尋ねてくる、ロイ。彼は乙女心などといった、人の抱く雰囲気に極めて鈍感のようだ。

 ノーラは毛布の下でブンブンと頭を左右に振り、「な、なんでもないけど…!」と前置きしてから、先にロイが言い掛けた誘いへの返答を口にする。

 「だ、大丈夫。朝食…あ、もう、お昼か…ともかく、ご飯は作り置きしてるから、食べてから出るよ。

 誘ってくれて、ありがとうね…」

 「へぇー、ノーラは自炊してンのか。スゲーなぁ。オレなんて、生ゴミしか作れないから、学食に頼りっぱなしだぜ」

 「え、別に、大したことじゃないよ、簡単なのしか作らないし…」

 ロイの褒め言葉は、彼自身にしてみれば特に他意のない、純粋な賞賛に過ぎなかっただろう。しかし、羞恥の炎に焼かれる今のノーラには、顔の火照りを更に煽る油である。

 もはや、毛布程度ではこの炎を抑え込むのは不可能だ。

 「あ…そ、それじゃあ、早くそっちに行かないといけないから、そろそろ通信を切るね。

 連絡してくれて、ありがとう…また、後で!」

 「ああ。そんじゃ、部室で待ってるぜ。

 副部長の方が早く来ないよう、祈っといてやるよ」

 ロイが手を挙げて挨拶したのを確認した直後、ノーラは嵐のような勢いでナビットの通信切断ボタンを押し、3Dディスプレイを消滅させる。

 ナビットが沈黙し切ったのを、たっぷり数秒かけて確認した後…ノーラは毛布を被ったままベッドに転がると。

 「うわあああああああっ!」

 叫びながら、ゴロゴロゴロゴロとベッドの上を左右に転がりまくる。こうでもして発散しないと、体内で膨らみに膨らんだ羞恥で顔が爆発してしまいそうだ。

 星撒部に所属する前までのノーラであったならば、別に誰に寝起き姿を見られようが、気にしなかったかも知れない。自分がどんな風に評価されるか、ましてや異性にどう思われるかなど、全く興味がなかったのだから。だが、希望と共に諸々の欲を抱くようになってしまった今、人目――特に異性の目が、気になって仕方がない。

 とは言え、この有様を見られた相手が大和やイェルグだったならば、ここまで騒ぐこともなかっただろう。しかしどうにも、ロイが相手となると、自分を無難以上に見せたくなってしまう。

 その感情の根本は一体何か、ノーラ自身もよく分からないが…ともかく、今は火を吹く羞恥を振り払うので精一杯だ。

 たっぷり数分の間、騒ぎ続けていたノーラであったが。やがてようやく、いつまでもこうしていても仕方がないと達観すると、溜息に羞恥の炎を乗せて身体から吐き出す。騒ぎ暴れたお陰で鉛の睡魔から完全に解放された今、ムクリと身体を起こすとキビキビと登校の準備に取りかかる。

 真っ先に取り組んだのは、髪型の手入れだ。羞恥を吐き出したとは言え、やはり心の片隅では未だに(しこ)りが残っていたようだ。丁寧に櫛をかけながらドライヤーの風を当てた後、大きめの黄色いリボンで後ろ髪をまとめ上げ、普段通りのショートポニーテールを作る。

 続いてキッチンに飛び込むと、冷蔵庫を開いて朝食――いや、昼食に取りかかる。

 ロイとの通話の際に語った通り、ノーラは平日のランチ以外は、自炊で食事を賄っている。忙しい朝は流石に調理はしないが、作り置きを駆使してバランスの良い食事の摂取を心がけている。

 彼女が自炊をしているのは、学食よりも安上がりで済むからだ。希望を抱いていなかった時分においては、故郷から仕送りを受けるのがひどく心苦しいかったので、なるべく節約を心がけていたいたのである。

 …とは言うものの、ユーテリアの学生は余程の豪遊でもしない限り、生活費に困ることはない。というのは、学園は毎月、生徒達に生活費を支給しているからだ。課外活動による遠征費用などで万が一にも支給金が底をついた場合でも、正当な理由と成果を示すことで、学園から追加資金を支給してもらうことも出来る。(もっと)も、学園を納得させられない理由で生活費が底をついた場合は、仕送りを受けたり、アルバイトなどで稼がねばならない。

 ノーラの場合、節約生活のお陰でかなりの貯金を有しているが、それでも安心せずに節約に勤しんでいるのは生来の生真面目さゆえであろう。

 ユーテリアの生徒達の金銭事情はともかくとして。

 ノーラが食材とタッパーが整然と並ぶ冷蔵庫から取り出した食品は、食パン、チーズ、トマトにレタスに厚切りのハム、そしてアボカドのディップを絡めて作った作り置きのサラダだ。この内、サラダ以外の素材は手早くホットサンドイッチへと調理し、ミルクを注いだグラスと共にテーブルに並べると、洒落たランチの出来上がりである。

 これらに口を付ける前に、ノーラは閉め切ったままだった薄手のカーテンを、シャラララ、とカーテンレールを走らす大きな音を立てながら全開にする。カーテンの向こうから現れた、透明度の高いガラス窓の向こうには、高く登った昼の太陽に燦々(さんさん)と照らされた、芸術品のように美しい学生居住地区の街並みが広がっている。

 瞳を洗うような光景を楽しみながら、熱々のホットサンドイッチを頬張る。カリッ、サクッ、とした心地よい触感と共に、新鮮な野菜の風味が口の中一杯に広がると、思考の片隅にしつこく残っていた睡魔の残滓が跡形もなく消えてゆく。

 自作ながらも、大いに舌鼓を打つランチを堪能し終えると。今度はキビキビとパジャマを脱ぎ捨て、クローゼットから制服を取り出して素早く身につける。脱いだパジャマは制服と入れ替わりにクローゼットへ仕舞い込むと、外観の準備は完了だ。

 食器類は洗っている暇が惜しいので、水を張ったタライの中に付け込み、今夜処理することにする。

 あとは、ナビットを制服のポケットに仕舞い込み、財布やその他諸々が常に収納されたカバンを肩にかければ、登校準備の一切が完了だ。

 朝一に登校した時ほどの勢いではないものの、部室で待つ仲間たちと早く合流するべく、足早に自室を後にして、陽光に満ちる午後の街並みへと飛び出す。

 

 ポータルまでの道中では、深夜や早朝の時分とは違い、ノーランはノーラはかなりの数の人々とすれ違った。

 人々の内訳には、もちろん、学園の生徒が多分に含まれている。しかし意外だったのは、生徒達とほぼ同数の一般住民の姿があったことだ。

 そのうち、私服を身につけた人々は散歩の人々や観光客であろうと即座に納得できる。だが、スーツを着込んだビジネスマンの姿もかなり見かけることについては、どうにも納得の行く解答が見つけられない。彼らが生徒相手に一体、どんな業務を行おうというのか、サッパリ分からないのだ。

 (…単なるサボリの営業マン…にしては、背筋がピンとしてるし…。

 あ、でも…背筋がピンとしてるからって、サボってない証拠にはならないか…)

 考えて込んでみるのも面白そうではあったが、今はそんな余興に時間を費やしている場合ではない。取り留めのない疑問は頭の片隅へと追いやり、まっすぐにポータルを目指す。

 ポータルを経由して学園本校舎のエントランスに到着すると、早朝とは大分様子が異なり、多くの生徒の姿を見かける。普段は全日授業を入れているノーラには、授業時間中にこれほど多くの生徒達が彷徨(うろつ)いたり談笑したりしている姿を目にするのは、非常に新鮮な光景であった。

 いや、この光景こそが、生徒の完全自由を認めているユーテリアにおける、特有にして普遍的な日常風景なのであろう。

 しかし、この光景の一員となることに慣れていないノーラは、妙な気後れを感じてしまって仕方がない。この感覚から逃れるべく、星撒部の部室である第436号講義室へと足早に向かう。

 階を上がる時にはエレベーターを使ったが、休み時間のような混雑は全くなく、また同乗者もいなかったため、スムーズに地上4階にたどり着く。そこから目的の教室までは、ほんの数分歩くだけで済んだ。

 「遅れてしまって…すみません…!」

 謝罪を口にしながら、教室の引き戸をガラガラと開くと。そこには数グループに分かれてそれぞれ談笑していた、部員たちの姿がある。彼らはノーラの登場を受けて一斉に顔を向けると、口々に挨拶を語る。

 その中で特にトゲトゲしかった挨拶は、わざわざノーラの目の前で近寄って、ニヤニヤと陰を帯びた揶揄を浮かべた紫のものだ。

 「"おそようございます"、霧の優等生ちゃん。

 斬新なライオン・ヘアスタイルは止めちゃったんですか? 残念ー」

 「…相川さん、お願いですから…あれは見なかったことにして下さい…」

 ノーラは思わず俯き、プルプルと羞恥に震えながら、消え入りそうな声で訴える。再び顔が真っ赤に火照りそうだ。

 その様子に紫は更にニンマリと笑みを大きくし、口に手をあててプププと笑い声を上げると…突如、ゴツンと云う音と共に彼女の頭が引っ込む。

 何事かと見れば、彼女の隣に立つロイが、軽く握った拳で頭を叩いたのだ。

 「な、何すんのよ、レディに向かって! DVよ、DV! 学生生活課に訴えてやる!」

 小さな涙粒を浮かべながらロイを睨み見上げる紫だが、ロイは悪びれもせず堂々と腕を組み、彼女をジロリと半眼で見下す。

 「今のオレの行動がDVなら、さっきのオマエの物言いはイジメだろ。

 からかってンの分かるけどよ、相手がイヤがるやり方はダメだろ」

 至極真っ当な正論を言われて、紫は悔しげにロイを睨み返していたが…それからチラチラと視線だけで周囲を見渡し、視界の端にアリエッタを見つけると、彼女に向かってワッと飛びつく。

 「あらあら、紫ちゃん。どうしたのかしら?」

 「うわぁぁぁん、アリエッタ先輩! ロイのヤツが、あの暴力男が、私に残酷無比に殴るんですぅ!」

 「あらあら、それは大変ね。よしよし」

 アリエッタはのほほんとした笑みを浮かべながら、豊かな胸の内に顔をうずめた紫の頭を撫でてやる。が、ロイを非難する行為――恐らくは、紫がアリエッタに望んでいた行為だ――は、絶対に行わない。彼女もまた、ロイの正論には納得しているようだ。自らの企みがうまい方向に進まなかった紫は、アリエッタの胸の中で悲しむ芝居をかなぐり捨てると、ちぃっ、と感じの悪い舌打ちをするのだった。

 入室早々の賑やかな光景を目にしたノーラは、紫によって想起させられた羞恥をポイッと捨てて、フフフ、と思わず小さく笑う。

 やはり、星撒部は暖かくて、居心地が良い。

 それはそうと…ノーラは部室をキョロキョロと見回し、副部長の立花渚を探す。しかし、その姿はどこにも見あたらない。

 「あれ…渚先輩は、まだ来てないんだ…?」

 その質問に対しては、講義室のほぼ中央で蒼治と眉をひそめ合っていたヴァネッサが答える。

 「ほんのついさっき、ノーラさんがここに顔を見せる直前に、ようやく連絡がついたんですのよ。

 物凄い慌てぶりで、会話も成り立ちませんでしたわ。今頃、こちらに向かってるところでしょうけど、あの()の寮はかなり遠いですからね。ここに来るまでは、かなり時間がかかると思いますわ」

 「いや、それはどうだろうな」

 ヴァネッサの隣で、ぼんやりした顔で折り紙で作った(まり)(もてあそ)ぶイェルグが言葉を挟む。

 「あいつはやるとなると、手段問わずに最速の暴走っぷりで突っ走るからな。

 案外、ソッコーでここに来るかも知れないぜ」

 その言葉を言い終えたかどうかとタイミングで、ノーラの入ってきた扉がガラガラと音を立てて開く。正に、噂をすればなんとやら、というヤツだろう。予想が的中したイェルグは、ちょっと得意げに肩をすくめて、"ホラ、言ったとおりだろう?"と言わんばかりである。

 しかし…妙に落ち着いた手つきで開かれた扉の向こうから現れたのは――イェルグの予想に反する存在。小柄な渚とは正反対の、岩山のようにも見える巨躯をした男である。

 手入れがされているようには見えない、ボサボサとしたクセのあるライトブラウンの髪。無精(ひげ)を生やした(いわお)を削り出したような、しかしどことなく穏やかさを含む中年男性の顔立ち。そして何より目立つのは、使い込まれてヨレヨレになった白衣越しにも分かる、まさに岩山のごとき筋骨隆々とした巨躯だ。肩幅が巨木のように広ければ、背丈も優に190センチを越える。

 男は入室直後、黒々とした瞳を点にしてキョトンと部屋中に視線を巡らすと。安定感と重量感を兼ね備えた低い声に困惑を交えて、発言する。

 「おりょ、なんだよ、お前ら。もう出発してるんじゃなかったのかよ?」

 対して、蒼治が苦笑いを浮かべて、青みがかった黒髪を湛えた己の頭を撫でながら答える。

 「そのはずだったんですけどね…言い出した張本人の渚のヤツが、まだこっちに来てなくてですね。今はみんなで待ちの状態なんですよ」

 「おいおい、このまま4時限目まで講義室を占領したりしないだろうな?

 こちとら、授業しなきゃならない身なんだからよ」

 「それは…流石に大丈夫だと思います。

 渚のヤツとは、今さっき連絡が取れましたから。すぐに来るはずです…多分」

 「全く…あいつときたら、"終わり良ければ全て良し"ってのも分からんでもないがよ、もうちょっと始まりに気を使ってもバチは当たらねぇだろ。

 顧問として、一度ガツンと言ってやらなきゃならんのかねぇ」

 男はゾリゾリと無精髭を撫でながら、眉をひそめて語るのであった。

 蒼治との会話の様子を見る限り、この男――"授業をする"と言っていたので、教官のようだ――と星撒部の部員たちは顔見知りであるようだ。実際、彼の登場に困惑を見せる部員の姿はない。…ただ一人、ノーラを除いて、だが。

 (…この人、誰なんだろ?)

 そんな疑問を顔に描いて男を眺めていると、視線に気づいた男はノーラに向き直ると、ニィッと笑みを張り付けて歩み寄ってくる。

 「おーおー、君が話に聞く新入部員ちゃんか。

 なるほどなるほど、この部活にゃ別嬪(べっぴん)ばかりが集まってくる、って言う大和の言葉も、あながち的外れじゃねーんだな」

 そしてノーラのすぐ目の前に、頑強な壁のような様子で立ちふさがると、ノーラの頭を一掴みできそうなほどに大きな手を延ばし、握手を求める。

 「おっと、自己紹介するぜ。

 オレは、ヴェズ・ガードナー。星撒部の顧問教官さ。

 専攻は心理学だが、大抵は準生徒の基礎教養の世話やったり、スカウトで走り回ってるからな、一般生徒向けの授業はあんまりやってねぇんだ。

 まっ、たまーに授業開いてる時は、暇潰しに出席してくれよ。オレ、生徒評価は甘々だから、気前よく成績点をやるぜ」

 「ヴェズ先生、ですね。

 初めまして…ノーラ・ストラヴァリです。これから、お世話になります」

 そう応えてヴェズの無骨な手を取ると、ヴェズはちょっと痛いほどの力を込めてしっかりと握り返し、ニィッと満面の笑顔をたたえてブンブンと腕を振る。

 「任せとけ、任せとけ。この1年で、問題の扱いはすっかり慣れたからな! 思いっきり暴れちゃってくれて、構わねぇぜ!

 …それにしても、年度末も近いこの時期に入部たぁ、変わってんなぁ! バウアーも居ねぇし、渚が暴走しっ放しだってのに、よく所属する気になれたもんだ!」

 「は、はい…。この部の雰囲気が、すごく気に入ったので、是非とも入部したくなったんです…」

 ヴェズの豪快さに気圧されながらオズオズと語り返すと、ヴェズが「そうか、そうか!」と頷きながら、バンバンと背中を叩いてくる。結構痛いので、ノーラは衝撃に襲われる度に眉をひそめる。

 心理学なんて繊細な分野の専門家とは、とても思えない気質だ。鍛え抜かれた巨躯と合わせて見ると、どう見ても戦闘実技系の教官としか思えない。

 (なんていうか…この部にして、この顧問教官あり…って感じだなぁ…)

 ノーラが密やかに苦笑を浮かべた頃、ヴェズははね飛ばすような勢いでノーラを解放すると、再び蒼治達の方へと向き直る。

 「そんじゃ…オレは予定通り、授業の準備するからな。

 お前らは、4時限目始まる前に、サッサと出掛けてくれよ。

 くれぐれも! 以前みたいに、授業に同席するなんてことは、絶対避けてくれ!

 今回の授業に出席する準生徒にゃ、小さい子が居るんだからな。多感な年頃の子には、お前らみたいな歩いて喋る有害物質は刺激が強すぎる」

 顧問が受け持ちの生徒に語る台詞としてはあまりに散々なものであったので、言葉を向けられた蒼治はただただ苦笑を浮かべるしかできなかった。

 一方で、散々な台詞にも動じず、普段通りに穏やかなニコニコ顔をしているアリエッタが質問を挟む。

 「先生、小さい子の準生徒とおっしゃいましたが、どれくらいのお年の子なんですか?

 中学校1年生くらいでしょうか?」

 「いやいや、9歳だよ。地球の標準的な教育制度で言えば、小学生だな」

 「小学生!? わぁお! その子、よっぽど優秀なんですねぇ!」

 ナミトがキツネのしっぽをフリフリと振りながら歓声を上げると、ヴェズは得意そうに荒い鼻息を吐き、丸太のような腕を組んで語る。

 「その通り! 磨けば最高の宝石になること間違い無しの、天才的素材さ! この学園の歴史に残るだろうよ!

 そんな逸材をスカウトしたのは、何を隠そう、このオレなんだぜ!」

 そんな風に得意げに鼻を高くして見せると、毒舌家の紫が黙っているワケがない。顧問の教官だろうと全く引け目を感じることなく、ニヤリと陰を帯びた嫌みったらしい笑みを浮かべる。

 「先生、独身こじらせて、ついにロリコンに走ったんですか。

 ご愁傷様です、先生にはのぼせ上がった頭を冷たく冷やしてくれるブタ箱がご用意されます」

 しかし、さすがは顧問の教官。そんな紫の性格を把握しきっているようで、苛立ちを見せるどころか、余裕綽々(しゃくしゃく)で笑い飛ばす。

 「生憎(あいにく)と、オレの恋愛対象は20代後半以上だからな。

 ロリコンなんざ、想像するだに寒気がするっつーの」

 そしてヴェズは白衣を(ひるがえ)しながら(きびす)を返すと、教壇の背後にある電子黒板の隣にある、一見すると壁と一体化して見える扉へと向かう。扉の先は、この第436号講義室の準備室につながっている。

 この第436号講義室は、他の教室に比べると面積が狭い。というのは、主に準生徒たちのための教養授業を行う場として利用されているからだ。準備室には、教養授業のために使われる、小学校などでよくみかける授業用小道具が一式揃っている。

 ちなみに、星撒部の備品も、この準備室の一画に保存させてもらっている。

 ヴェズは部員たちに背を向けたまま、右手を挙げてこの場を去る挨拶とし、そのまま準備室へと姿を消す。

 こうして強烈な存在感を(まと)った人物が去った――その、ほんの数瞬後のことだ。

 突如、ガラッ! っと激しい音を立てて講義室の扉が開いたと思うと。ヴェズと入れ替わるように、ハチミツ色に輝く髪をたなびかせながら、1人の少女が「とおおおりゃあああっ!」と叫びながら飛び込んで来る。

 飛び込んできた勢いのまま、即座に教壇に立ったその少女の正体は――もちろん、星撒部の副部長の立花渚である。

 「ふまぬ、みひゃのひゅーっ! まひゃしぇてしもうたなっ!」

 声がくぐもり、聞き取り辛い言葉遣いになっているのは、彼女が手にした弁当を口にかっこみながら喋った所為だ。

 「謝るか、食べるか、どっちかにしてくれよ…」

 蒼治が溜息混じりに突っ込みを入れると。渚は、うむ、と大きく首を縦に振り…弁当を平らげることに集中し出す。それを見て、蒼治は今度は苦笑する。

 「食べる方を取るのか…」

 「ひゃっへ、まひゃメヒをくっへないのじゃもの!」

 口の中から食べ物の飛沫をバラ撒きながら訴える渚の有様に、蒼治は呆れた様子でヒラヒラと手を振る。

 「良いから、分かったから…零しながら喋らなくていいから、ゆっくり食べてくれよ…」

 蒼治には"ゆっくり"と言われたものの、渚は掃除機のような勢いで弁当の中身を見る見るうちに平らげてゆく。そんな勢いで食べてお腹がおかしくならないのかと、ノーラが心配そうに見守っていたが…チラリと他の部員達へ視線をやると、彼らは微塵も心配の気配を感じさせず、各々手近にいる部員たちとの談笑を始めていた。こんな渚の有様は見慣れたものなのか、それとも渚ならば絶対に大丈夫だという確信でもあるのだろう。

 数分後、暇を持て余す時間に終わりを告げるように、パァン! と渚が威勢良く割り箸を持った手を叩く。

 「ごちそうさま!

 うむ、やはり本校舎購買部の弁当は、いい仕事をしておるな!」

 プラスチック製の容器をベキベキと折り畳み、教壇脇のゴミ箱に叩き込む。そして部員たちの方に向き直ると…ニヘラ、っと気恥ずかしそうな笑みを浮かべて、後頭部を掻く。

 「いやぁ、皆の衆、ホントに済まぬのう!

 昨晩の打ち上げの後、自室に帰ってから、バウアーに新入部員の報告がてらの連絡を取ったんじゃがな。時を忘れて話し込んでしもうてな、気がついたら空が明るくなっておったわい!

 そこから急いで寝たんじゃが、どうにも起きれなくてのう! 盛大に寝過ごしてしもうたわい!」

 「あら、バウアー君と連絡、取れたんですか?」

 アリエッタが穏やかな笑顔で尋ねると、渚は満面の笑みを浮かべて大きく首を縦に振る。

 「うむ! 丁度、あやつも待機中だったようでな。それに、気心知れた話相手が居らぬ状態で当分過ごしておったからじゃろう、わしとの会話に相当飢えておった様子じゃったわい!

 がっつくように、話をしてきおったわい! いやー、あの姿は中々可愛かったのう!」

 そう語る渚の姿は、大親友と極上の時間を過ごした幼子のように、ホクホクと上気した顔をしている。バウアーだけでなく、渚もまた、彼との会話に飢えていたようだ。よほど楽しい時間を過ごしたことであろう。

 そんな渚の様子を見ていると、ノーラの脳裏にふと、今朝ツェペリン教官の口から語られた話が浮かび上がる。

 ――出会った当初、2人はウニと毬栗(イガグリ)のようにトゲトゲし合っていたという。それが一体、どのような過程を経て、友好的ではとても言い尽くせないような親密な関係を築いたのか。非常に興味がそそられるところではある。

 しかし、ノーラがその疑問を口にするより早く、ナミトが言葉を割り込ませる。

 「副部長~、準備室にヴェズ先生居るよ~。挨拶してきたらどーですかね~?」

 「おっ、顧問教官どのか! 久しく会っておらんかったのう!

 どれ、ちょいと挨拶してくるわい!」

 そして突風のような勢いで脚を回し、準備室の方へと駆け込む。その後暫く、扉および壁越しに、2人の賑やかなやり取りが聞こえてくる。しかしながら詳細は聞き取れなかったので、ヴェズが先に言っていたように"渚にガツンと言った"かどうかは、不明だ。

 数分のやり取りを経て渚が講義室に戻って来た時、表情には全く悪びれた様子も不機嫌さも(にじ)んでいなかったので、特に耳痛い話などはなかったようだ。…それとも、文句は言われたものの、渚が一向に気にしていないだけなのかも知れないが。

 ともかく、教官との挨拶も無事に済ませた渚は、意気揚々と教壇に上がると、バンッ! と机を叩く。その音は部活動の幕開けの合図を意味するらしい、部員たちはサササッと手近な席に座る。

 ノーラも周りに(なら)って席に着くと、初めて正式な部員として活動に参加する緊張感が芽生えてくる。思わず背筋をピンと伸ばし、堅く握った拳を膝の上に置いて、渚の顔をまっすぐに見つめる。

 「さーて、皆の衆!」

 先刻の遅刻に対する気恥ずかしさは何処へやら。渚は溢れんばかりの自信と活気を込めて、元気はつらつとした声を張り上げる。

 「今日の活動は、前々から言っておった通り、戦災孤児施設への慰問じゃ!

 蒼治よ、折り紙とパーティーグッズ一式は準備出来ておろうな!?」

 蒼治は眼鏡を直しながら、呆れた様子で深い溜息を吐く。

 「勿論だよ、盛大に寝過ごした何処かの誰かさんと違ってね。

 アリエッタとイェルグと一緒に、必要物はキチンと2回チェックしたよ。

 …と言うか、なんで僕が荷物係みたいな扱いを受けてるんだ…?」

 蒼治の最後の文句は受け流し、渚は満足げに頷く。

 「よーし、それでは早速、現地へ出発! …と、その前に、じゃな。

 バウアーのヤツから、新入部員歓迎の言葉を預かってきておる。ここで紹介させてもらうぞい」

 言うが早いか、渚は早速ナビットを操作し、録画映像の再生の段取りを始める。

 渚が準備に(いそ)しんでいる間…ノーラは、初めて目にすることなる星撒部部長、バウアー・シュヴァールという2年生について想いを馳せる。

 英雄の卵とも言うべき神童たちが集まるこのユーテリアにおいて"学園最強"候補として名高いのみならず、準生徒期間もなしに編入を成し遂げた、超絶的逸材の姿とは? ノーラの脳裏に描かれるのは、伝説として永きに渡って語り継がれる英雄を模した大理石の石像のごとく、完璧なまでに恵まれた筋骨隆々の体格と精悍な顔立ちを持つ人物であった。

 果たして、その想像は的を得ているのだろうか? その答えは、渚のナビットが中空に描いた3Dディスプレイが程なく与えてくれるだろう。

 「よーし、準備完了じゃ!

 ノーラ、よく見ておくのじゃぞ。こやつこそ、わしらが星撒部を治める男じゃ!」

 渚が前口上を述べた直後、ナビット上の再生ボタンを押すと…3Dディスプレイの表示がパッと切り替わり、豊かな色彩に溢れる。

 映し出されたのは、金属の銀色に囲まれた、無機質な空間だ。画面の左端にはちょっぴり窓が映っているので、監獄ではない。また、窓に映っているのが漆黒の闇と、ウネウネとした縞模様を描く球体――ガス惑星だ――であることから、この場所がどうやら宙域を航行中の宇宙船であると推測できる。

 この光景を背にして、ディスプレイの中央に1人の男子生徒の上半身が映っている。

 この男子生徒こそ、バウアー・シュヴァールであるはずだが…その姿を見たノーラは思わずパチパチと数度瞬きをして、「あれ…?」と小さく呟いていた。

 先の想像と、実物のバウアー…そのあまりの差異に、困惑を隠せないのだ。

 「ノーラ・ストラヴァリ君、初めまして。

 (われ)が星撒部の部長、2年D組のバウアー・シュヴァールだ」

 岩石のような生真面目さがヒシヒシと伝わってくるような、堅い声音。そのキビキビした口調は、彼が只ならぬ人物であることを伺わせるが…その外観は、ノーラが想像した伝説的英雄の姿とは全く異なる。

 上半身しか見えないので、正確な身長は図りかねるが、それでも170センチを超えるかどうか、という程度だろう。体格にはだらしない要素は全く見当たらないが、かと言って制服越しにも分かるような強靱さは感じられない。

 顔立ちにしても、さほど迫力は感じられない。ノーラよりも色の濃い褐色の肌色によって、顔の陰影がはっきりせず、少し不気味な感じはする。が、丸みのある輪郭に、クルリとした大きな眼は、ともすれば童顔のようにも見えて、愛嬌すら感じる。

 そんなバウアーの外観において、最強とされる実力を窺わせる要素を強いて挙げるとすれば…眼、だ。

 今にも炎を噴き出さんばかりの、燃え盛るような真紅の瞳。この色の由来は、血液だ――つまり彼の虹彩は、アルビノのように色素を全く欠いている。それが彼個人の特徴なのか、はたまた彼が所属する人種に共通する特徴なのかは、分からないが。

 希有な色を呈するその瞳には、全く真逆の2方向から人の鼓動を揺さぶる輝きが宿っている。"2方向"とはすなわち――善良なる心を暖かく包み込む逞しさや穏やかさを内包した剛力性と、悪しき心を一瞥の元で地べたに這いつくばらせる畏怖や重圧を内包した暴力性だ。数語と言葉を交わしてもいないに関わらず、映像越しでも生々しい説得力を帯びるその輝きに、ノーラは思わず固唾を飲み込む。

 立派な目力は認めるが…しかしながら、彼のあまりにもコンパクトな姿は、やはりノーラの疑問符を払拭しきれない。――これが本当に、学園最強の生徒なのだろうか? と。

 そんな風にノーラが抱える懸念など知る由もなく、録画の中でバウアーは挨拶の口上を続ける。

 「まずは、ノーラさん、学園が抱える数多くの部活の中から、我らの星撒部を選んでくれた事に感謝したい。

 そして、我を欠いて歯止めが効かなくなっている渚の暴走にもめげず、入部を決意してくれた君の意志に敬意を表したい。

 …それと、蒼治、君がこの映像を見ているのならば、この場を借りて君にも感謝と謝罪の意を伝えたい。渚のブレーキ役のお勤め、実にご苦労だ。まだ当分迷惑をかけることになるが、引き続きよろしく頼む」

 バウアーは部長という立場に鼻を高くする事なく、愚直なまでに謙虚な態度で頭を下げる。すると、そこへ…。

 「おぬしっ、一言多いぞっ!

 この部分はカットしておくからな!」

 そんな渚の声が混じり、部員一同――特に蒼治――は、思わず苦笑を浮かべる。そして声の当人たる渚は、3Dディスプレイの隣で少し頬を赤らめ、コホンと咳払いをして気を紛らわせていた。

 一方、映像の中のバウアーは渚の文句にニヤリともせず、巌のような堅苦しい表情を保ったまま更に言葉を続ける。

 「昨日の件については、渚から子細を聞いた。仮入部の身の上で、大変難儀な想いをしたことだろう。

 しかし、この部はその性質上、昨日のような過酷で困難な状況に直面する機会が度々ある。脅すつもりではないが、しっかりと覚悟して欲しい」

 この言葉の末尾と共に、バウアーの眼がギラリと輝くと、ノーラは再び固唾を飲まずには居られなくなる。バウアーの目力には、その色彩に頼る以上の、強烈な威圧感がある。

 …と、ここまで堅苦しかったバウアーだったが、突如フッとその表情を和らげる。

 「とは言え、そんな有事さえなければ、この部は和気藹々(わきあいあい)としたボランティア活動部だ。様々な人々、様々な環境、様々な仕事、そして個性的な仲間たちとの交流を通して、君の人生がこれまで以上に豊かで輝きに満ちたものになることを、この我が保証しよう。

 "希望学園都市"が冠する"希望"を正に体現したこの部の活動を、目一杯楽しんでもらいたい。

 …それと…」

 そう前置いたバウアーの表情が、再びキリリと引き締まる。そして、堅苦しく一文字に結ばれた唇から割って出た、次なる言葉は…。

 「渚の暴走には、くれぐれも染まらないように。ロイのように『暴走君』なんて呼ばれるのは、君にとってあまり好ましいことではないだろう?」

 「だーかーらーっ、一言多いんじゃよっ、おぬしはっ!」

 再びの渚の突っ込みが映像の中に飛び交うが、バウアーは動じることなく、挨拶の締めを口にする。

 「さて…長々とした挨拶は苦手なので、この辺で失礼する。

 今度、直接対面した時には、顧問のヴェズ先生も含めて、星撒部全員傘下の歓迎会を改めて開かせていただこう」

 最後にバウアーは薄い、しかし春の微風のような穏やかな笑みを浮かべた――その直後、映像が停止する。

 「…と、まぁ、以上じゃ。

 途中、1、2度(たわ)けたことを言っておったが、気にせずに聞き流してくれい」

 そう語りながらナビットを操作し、3Dディスプレイを片づけにかかる、渚。その一方で、ギャラリーの方から2つの声が挙がる。

 「いや…その部分こそ、結構重要だろ…。特に、お前に染まるな、ってところはな…」

 「そうだぜ! なんでオレがヤバいモノの代表格みたいに、引き合いにだされなきゃならねーんだよ!

 今度部長に会ったら、絶対に抗議してやる!」

 前者は蒼治の、後者はロイの言葉だ。蒼治の切実さを含む言葉に頬を緩ませたのはノーラだけであったが、直後のロイの言葉には苦笑や嘲笑がクスクスと漏れる。

 そんな有様に、ロイは立ち上がって部員たちを見回しては、腕を大きく振りながら抗議する。

 「おい、なんだよ皆! なんで納得って態度してんだよっ!

 オレは副部長ほど暴れちゃいねーだろ!」

 「いや、十分暴れすぎでしょ、『暴走君』」

 ニヤリと陰を帯びた笑みを浮かべて、皮肉たっぷりに述べたのは紫だ。そんな彼女の元にロイは詰め寄ると、ギャーギャーと(やかま)しく更なる抗議を口にする。

 部室に賑やかな笑いの雰囲気が漂い始めるが…一方で、ノーラは蒼治の言葉に緩めた頬を引き締めると、一人虚空を見つめて眉根に皺を寄せている。そんな様子に気付いた、ナビットを仕舞い終えた渚が声をかける。

 「どうしたんじゃ? 何を思い悩んでおる?

 …ひょっとして、入部したことを後悔してる…とかでは、ないじゃろうな!?」

 机に両手を置いてズイッと顔を寄せ、心底心配げな表情で訴えてくる渚に対し、ノーラは慌ててパタパタと手を振って否定する。

 「いえ…思い悩みとか、そんなんじゃないんです…。

 ただ、ちょっと…有り体に言えば、疑問があったので…」

 「むうぅ?」

 「あの…さっきの映像の方って…本当に、バウアー・シュヴァール先輩…なんですよね? 学園で有名になってる、バウアー先輩なんですよね…?

 同姓同名の別人とかじゃ、ありませんよね…?」

 当人にしてみれば極めて失礼な質問であると自覚している渚は、バツの悪い苦笑いを浮かべながら、怪訝な表情をしている渚に問う。すると渚は、表情の曇りを一気に晴らして、何もかにも心得たような愉快げな面持ちを作る。

 「ああ、なるほどのう。あやつの顔を初めて見るヤツは、大抵、そういう疑問を抱くものじゃ。

 別に恵まれた体格をしているワケじゃなし、厳つい顔をしてるワケでもなし、目力くらいしか目立つ部分がないからのう。学園最強、なんて飾り言葉には釣り合わなく見えるのじゃろうな。

 じゃが、あやつこそ、本物のバウアー・シュヴァールじゃよ。その名を持つ生徒は、このユーテリアにはあやつ1人しか居らぬでな」

 「そう、なんですか…」

 渚の答えを得ても、ノーラはどうにも疑念が払拭できず、眉根には皺が寄ったままだ。

 「あの…こういう事を聞くのは、先輩に悪いのは承知してますけど…やっぱり、訊かせてください。

 バウアー先輩って…本当に、噂になるような実力の持ち主なんですか…? 何か偶然のエピソードが誇大に広がってるとかでは、ありませんか…?

 それとも…渚先輩の士師だから強いとか、そういう理由だったりしませんか…?」

 渚は"解縛の女神"の号を持つ『現女神』である。彼女ならば、魔導科学法則をも超越した『神法(ロウ)を人に授け、強大なる神の使者たる士師を作り出すことが出来る。彼らの実力は昨日、ノーラがその身で痛感している。英雄の卵たるユーテリアの生徒と言えども、勝機を得るのは非常に難しいだろう。

 バウアーがそんな存在の列に加わっているのだとすれば、あのコンパクトな外観で学生たちに畏敬を抱かせるに足りる実力を持ち合わせているのも頷けるが…。

 「いやいや、それはないわい。

 そもそもわしは、先にも言った通り、士師やら信者やらを持たぬ主義じゃからな。

 あやつの実力は、正真正銘、あやつ自身の修練によって身に修めたものじゃよ」

 渚はパタパタと手を振り、笑いながら答える。

 その答えゆえに、更に眉根のしわが深くなったノーラの左肩、渚はポンと右手を乗せる。

 「まっ、入部したからには、そのうちあやつの実力を目にする機会が必ず訪れるじゃろう。

 その時、度肝を抜かれぬよう、精々気をつけておくことじゃな」

 「…そんなに、凄いんですか…バウアー先輩って…?」

 小首を傾げるノーラに対し、渚の蒼穹の瞳がギラリと剣呑な輝きを放つ。

 「"バケモノ"という言葉は、あやつのためにこそあるの…そう思わずには居られなくなるじゃろうて」

 全く冗談を含まぬ眼光と声音に、ノーラは眉根の皺を広げると、ゴクリと固唾を飲む。天使の大群を単身で払いのけて見せた『現女神』の真剣な言葉は、否が応でも説得力を持っている。

 そんな会話が一段落した頃…準備室の扉がガタンと音を立てて開き、中から両腕一杯にダンボール箱を抱えたヴェズが現れた。箱の中には地球儀やら丸められた大きな地図や太陽系縮図が入っているところを見ると、彼が4時限目にひらく講義というのは、地球圏環境に関わる授業のようだ。

 「あれ、お前ら、まだ居たのかよ?」

 そう尋ねながらヴェズは、後ろ足で準備室の扉を閉じて教壇へと向かう。彼の問いに答えるのは、勿論、部の代表格である渚だ。

 「バウアーからノーラへ言付けを預かって来ておりましたゆえ、動く前に紹介していたのですじゃ」

 渚は教官相手でも、普段の独特の口調を崩すことはないようだ。そしてヴェズの方も、流石には顧問ということでそんな渚には手慣れているようで、変な顔一つせずに応対する。

 「へぇー、バウアーか。そういや、最近姿を見てなかったな。

 あいつ、今、どこで何してんだ?」

 「むうぅ? お話していませんでしたかのう?

 あやつは2週間前から、とある異相世界の宙域にて、星域間戦争の仲裁に携わっておりますわい。先方の直々の指名でしたがゆえ、あやつってば、それはもう意気込んで行きましたわい」

 そんな渚の台詞に、外野のノーラは思わず目を丸くする。彼女の琴線に触れたのは、"先方の直々の指名"という言葉だ。つまり、バウアーはユーテリアという学園の域を超えて、名が知れ渡っているということを意味するのだから。

 拍子抜けな外観をしていたバウアー・シュヴァールの、外観を遙かに超える実力の片鱗が(うかが)い知れる瞬間であった。

 …さて、感心するノーラを余所に、ヴェズが渚へ言葉を返す。

 「星域間戦争たぁ、また相変わらず面倒臭ぇことに首突っ込んでんだなぁ、あいつは。

 それで、いつ頃帰ってくるんだ? 新入部員ほっぽりだしといて、自分の仕事だけ打ち込み続けるようなヤツじゃねぇだろ?」

 「むうぅ…一昨日までのあやつの話では、ここ2、3日ほどで仕事が終わるはずじゃったのですが…。

 何やら、想定外の面倒が起きてしもうたようで、まだまだ時間がかかりそうとのことなのですじゃ」

 「ハッハッ、あいつはホント、面倒に巻き込まれる体質だなぁ!

 んで、その想定外の面倒ってのは、何なんだ?」

 「むうぅ、それが…戦争の停止を拒む愚かな一派が、余計な工作をしおったそうで。バウアーたちの居る宙域に、宙泳莫獣(オケアノス)どもが何匹か向かっておるとのことですじゃ。

 バウアーはその対処のため、まだ暫く現場に残ることになりましたのじゃ」

 「オ…宙泳莫獣(オケアノス)ッスかっ!?」

 突如、大和がガタンと席を立ち、その身に火でもついたような狼狽(うろた)えぶりで言葉を挟む。

 彼だけではない。部員の誰もが皆、大小の差異はあってもその表情に狼狽や驚愕を張り付けている。ノーラもまた、オドオドと揺らめく瞳を丸くして狼狽を隠せずにいる。

 「そ、そんな規格外の怪物を相手にするなんて、流石の部長でも絶対無理ッスよっ!」

 そう叫ぶ大和のみならず、部員たちが危惧を抱くのには、それなりの理由がある。[rb:宙泳莫獣>オケアノス]]とは、宇宙空間を遊泳しながら生活する魔法体質生命体のうち、天文学単位レベルの莫大な体積を持つ種族の総称を指す。その超巨大な体を海洋に見立てて、地球の旧時代の海の神の名がつけられた。

 体積がバカデカいというだけでも、有文化星域への接近は驚異になりうる。加えて、惑星や恒星を食することで生命活動を維持しているタイプの個体となると、驚異度は更に高まる。そして、過酷な宇宙空間を自在に動き回れるその魔法体質は非常に堅固にして強靱であり、退治には"相当"という言葉ではとても表現しきれないほどの労力が要求される。

 そんな規格外の存在に対して、惑星よりもあまりに小さいサイズのバウアー1人が抵抗勢力に加担したとして、一体どうなるというのか? その問いには、誰の頭中にも絶望的な回答しか想起できない。例えそれが、希望を振り撒く部活動である星撒部の部員であっても、だ。だからこそ大和は、声を荒げたのだ。

 …しかし。

 「ま、そんなに心配することないじゃろ」

 渚は大和の声音に同調することなく、羽虫でも相手にするかのような軽い物言いを口にする。

 「時間はかかるじゃろうが、ピンピンして帰ってくるじゃろうよ。

 おぬしらは、土産を楽しみに待っているが良いわい」

 ヘラヘラ笑いながら語る渚の言葉には、本当に一片の懸念の色も混じっていない。これが演技だとすれば、彼女は余程の役者と言える。そうでないのならば、惑星の幅ほどもあるようなぶ厚い信頼を抱いている、としか言いようがない。

 そして顧問のヴェズもまた、生徒の窮地に動じる様子もなく、ほうほう、と(うなづ)いてみせるだけだ。

 「なるほどな。それにしてもあいつ…呪われてんじゃねぇのか? 学園全生徒の妬みを受けて、とかな」

 「妬まれるほど、目立ってはいないように思いますがのう。名前ばかり先行しているような印象ですし」

 「まぁ、また連絡する機会があったら、自愛しろよって伝えてくれや。

 …ところで、話を振っといてこう言うのもナンだが…お前たちの方は、時間大丈夫なのか? 先方、待たせたりしてないよな?」

 そう言われた途端、渚はハッとすると、急いで制服のポケットに仕舞い込んだナビットを取り出して現時刻を確認する。そして、バウアーの話題の最中には全く見せなかった、雷鳴に打たれたような焦燥を顔に張り付ける。

 「おわあっ、なんとっ、もうこんな時刻なのかやっ!

 先生、慌ただしくてすみませぬが、ここで失礼させてもらいますじゃ!

 皆の衆、急ぐぞっ! もう約束の時刻まで、10分も無いわいっ!」

 そう話している間にも、渚は背後からキンコン、という澄んだ鐘の音を響かせて、彼女自身の天使を召喚する。体中がベルトや鎖で覆われ、胸元には巨大な錠前が装着された、1対の「翼を持つ無貌の天使が、渚の背後の空中に現れた円から逆さまの格好と登場した。

 天使は人差し指を伸ばすと、指した先に中央に大きな鍵穴を持つ両開きの扉が出現する。そこへ、天使が伸ばした人差し指を変形させた鍵を差し込むと、ガチャリという開錠の音と共に純白の光で包まれた回廊が扉の向こうに現れる。

 渚は天使の力で開いた回廊を指差して、慌ただしく叫ぶ。

 「全員、駆け足で扉に飛び込むのじゃ! 急がんと、先方を待たせてしまうっ!」

 「…その主たる原因のお前さんが、オレ達を急かすのかよ」

 苦笑混じりそう語ったのはイェルグだが、渚はギロリと彼を睨みつける。彼は、茶々を入れて悪かった、と言わんばかりの素振りで両腕を上げて肩すくめてみせる。とは言え、表情に張り付いた苦笑は消えることはなかったが。

 他の部員の中にも、イェルグ同様に文句の1つも言いたそうな顔をしている者はあったが、時間に遅れない方が重要であるという冷静な考えは捨て去ることはないようだ。言葉をグッと飲み込んで、純白の回廊の中へと早足で飛び込んで行く。

 部員の列の最後尾となったノーラが回廊に入ったのを確認すると、渚は「それでは先生、行ってきますわい!」と(せわ)しなく手を振りながらの挨拶を残すと、自らも回廊の中へと飛び込んだのであった。

 「ほいよ、ほどほどに騒いで来いよー」

 そう答えたヴェズの声が渚の耳に届いたかどうか、という内に扉は素早くバタンと閉じる。直後、青い輝線だけの輪郭へと変じると、見えない消しゴムが線に沿って動いたかのような様子で、輪郭が消滅した。

 講義室に1人残ったヴェズは、それまでのやりとりの余韻に浸ることもなく、淡々とダンボール箱の中身を取り出して次の講義の準備に取りかかるのであった。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Tank! - Part 4

 ◆ ◆ ◆

 

 ――こうして、ノーラの本日最大の歯車の狂い、無茶な仕事を引き受けてしまった瞬間が訪れようとしている。

 

 空には立体的な奥行きを感じさせる有様で、大小様々な積雲が重なり、その境界は陽光を受けて金色に輝いている。その有様は、黒色の濃い大理石の表面のようだ。上空では強風が吹き荒れているらしく、芸術的な雲の模様はかなりの早さで流れてゆく。

 上空とは打って変わって、地上を吹く風はかなり穏やかだ。時折、髪を掻き乱すような強い風が吹くこともあるが、それは瞬きするような一瞬のことだ。風はユーテリアとは違い、かなりの湿り気を含んでおり、暖かい…いや、むしろ冬服には暑いくらいだ。

 一方、地上には規格の似通った2階建ての住宅が碁盤の目のように整然と建ち並んでいる。まるで、単一の住宅メーカーが土地を買い占めて、建て売り用住宅を並べたかのような有様だ。1つ1つの住宅は建築されてからさほど時間が経っていないようで、汚れが全く目立たないピカピカの屋根と壁をしている。

 綺麗なのは住宅だけではない。大地を縦横に整然と走るアスファルト製の道路もまた、美しい。経年劣化によるひび割れや崩壊は全く見あたらず、一色の墨で(むら)なく塗り潰したような清々しい黒が視界に映える。

 渚の天使が作り出した扉を抜けた先に広がっていた場所の光景とは、このような有様であった。

 さて、星撒部の部員たちはどうしているのか、と言えば。アスファルトの道路の上を、一直線に疾走している。先頭を走るのは蒼治と、最後に扉に入ったはずの渚である。部の代表格ということで、目的地に着いたらスムーズに対応できるように、その位置を占めているのだろう。その後ろをアリエッタとイェルグ、更にその後ろには1年生勢が並んでいる。最後尾を走るのは、ノーラとヴァネッサである。

 元々、ヴァネッサは早いうちに扉に入ったのだが、ノーラが最後尾にいると知るや、歩調を落として彼女の横に並んだのだ。一見して高飛車な口調と態度が目立つ彼女だが、実際には細やかな気配りが出来る良き先輩である。

 そんな優しきヴァネッサの好意に甘んじて、ノーラは走りながら尋ねてみる。

 「あの、先輩…今更こんな質問するのって、可笑しいと思うんですけど…良いですか?」

 「ええ、答えられることでしたら、何でも答えますわよ?」

 「その…ここって、一体、何処なんですか?」

 その質問に、ヴァネッサは虹色に輝くガラス細工のような瞳を点にする。

 「あれ…渚から、聞いてませんの?

 …まさか、今日の活動内容も分からないと言うことは、ありませんわよね?」

 

 

 今日の活動が、戦災孤児収容施設への慰問ということも、まさか知らなかったりしませんわよね…?」

 「あ、それは、知っています。戦災孤児の方々への、慰問ですよね? 昨日、部室に初めてお邪魔した時に、お聞きしました。

 でも…何処で慰問を行うのか、ということを聞くのを、失念していたものですから…。打ち上げの時も…皆さんとの賑やかに過ごすことに夢中になってしまって…」

 ノーラは自分の所為(せい)だ、というスタンスを取るものの、ヴァネッサは彼女を責めることはせず、代わりに列の先頭を走る渚にジト目を走らす。

 「まったく、あの()ってば、騒ぐだけ騒いで、肝心な部分はスッポリ抜けてるんですから…」

 それからゆっくりと瞬きを一つすると、目を開いた時にはとても和やかな笑みを浮かべてノーラを見やる。

 「分かりましたわ、わたくしから教えます。

 ここは、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)が管理する第37番キャンプ地ですわ。地球上の位置で言えば、わたくしたちのユーテリアから南に下って、アウストラ大陸の東側の草原地帯にありますわ」

 アウストラ大陸とは、旧時代の地球においてはオーストラリア大陸と呼ばれていた場所である。[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]の影響によって、形状も気候帯も変わり果ててしまっているため、名称が変更された。ちなみに、地球上の他の大陸もことごとく、旧時代とは名称が異なる。

 「なるほど…南半球に位置しているワケですか…。だからこんなに暖かいワケですね…」

 「今は夏の終わり頃にあたりますからね。わたくしたちの冬服だと、少々暑いくらいですわね。

 …それで、このキャンプ地は今、北半球の一大鉱業都市国家、アルカインテールの住民の方々が避難してきておりますの。なんでも、都市を舞台にして、複数勢力が大規模な戦闘を始めたということですわ。

 戦闘の原因には、様々な説がありますわ。最もシンプルな説は、アルカインテールが持つ魔法性質鉱物資源の独占を狙った、というものですわ。他には、アルカインテールが受け入れ続けてきた難民と元からの住民の間で社会的待遇差が生じ、それが火種になった、という説もそれなりに説得力がありますわ。

 …でも、本当のところは、わたくし達にもよく分かりませんの」

 「そうなんですか…。

 それじゃあ、今から会いに行く子供たちは、随分と悲惨な目に遭ったんでしょうね…。心の傷とか…私に癒せるんでしょうか…」

 緊張した面持ちで、自信なさげに節目がちになって語るノーラに対して、ヴァネッサは安堵を寄越すようにニッコリと微笑む。

 「幸い、住民の大半は戦況が激化するより早く、予防的な段階で避難を行ったようですわ。アルカインテールは地球圏治安監視集団(エグリゴリ)庇護下の都市国家ですし、そのあたりの動きは素早かったようですわ。

 ですから、子供たちの大半は、集団でのお引っ越しくらいにしか思っていないかも知れませんわね」

 それを聞いて、ほっと安堵の吐息を吐くノーラであった。が、ヴァネッサは意地悪げな輝きを美しい碧の瞳に灯し、顔だけは真剣な表情を張り付けて釘を刺す。

 「とは言え、環境の変化などで、子供たちはストレスを抱えているはずですわ。

 安心しきって手を抜いて、要らぬ琴線に触れたりしないように、注意してくださいまし」

 「あ…そう、ですよね。

 いろいろと、敏感な年頃でしょうしね…」

 ノーラとヴァネッサがそんな会話を続けているうちに、周囲の風景が少し変わってくる。似たような規格の住宅が視界のいずこかに存在するのは相変わらずだが、住宅とは明らかに違う、無骨に角張った形状の大きなコンクリート製の建物が目立ち始めてきた。こういった施設の中には、立派な塀と正門を持つものもあり、門のすぐ隣には『水道管理局』や『発電管理局』、『総合病院』といった施設名が彫り込まれたプレートがある。ここらの地域はどうやら、キャンプを運営する地球圏治安監視集団(エグリゴリ)が管理する中枢地区らしい。

 この一画に、戦災孤児の収容施設もあるようだ。

 「そう言えば、今回のこの仕事なのですけど」

 ヴァネッサが人差し指を立てながら、豆知識だと言わんばかりの様子で語る。

 「依頼主は、このキャンプを統括している地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の"オレンジコート"軍団の将軍なのですのよ」

 「そうなんですか…?」

 聞き返しながら、ノーラはふと、昨日のことを思い出す。"獄炎の女神"の非道な軍勢を退けた後、渚の元を地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の士官が尋ねてきたことを。星撒部はその活動の性質柄か、よくよく地球圏治安監視集団(エグリゴリ)と縁があるようだ。

 ちなみに、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)は内包している軍団ごとに決まった"色"を設定しており、その色の制服を着込んでいることから"何某コート"と言う名で呼ばれている。昨日に姿を見せたエルロン・アルバーグマン大佐は"ビリジアンコート"の所属である。また、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の軍団は個々が多機能を有する諸兵科連合軍団であり、ある程度の個性は有するものの、手広くバランスの取れた編成をしている。

 このキャンプを統括している"オレンジコート"にせよ、その例外ではない。キャンプを切り盛りするような人道支援の部隊もあれば、地球圏の脅威を排除するための陸海空そして宇宙用の交戦部隊も擁している。

 …さて、話をノーラ達の会話に戻す。

 「ええ、そうなんですのよ。

 "オレンジコート"とは以前、別件で関わったがありましてね。その際に、将軍にいたく気に入られてしまったんですの。

 その繋がりから、今回の依頼が舞い込んできた、というワケですわ」

 「地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に気に入られるなんて…やっぱり、星撒部は凄いところなんですね…」

 素直に感心するノーラであったが、ヴァネッサはそんな態度に対してバツの悪い苦々しい笑みを浮かべる。

 「と言っても…あの時の依頼は、渚とロイがひたすら暴れ回っていただけ、という印象しか残っていないのですけれどもね…。

 あれで、どうして"オレンジコート"の将軍のお気に召したのか、さっぱり分かりませんわ」

 「渚先輩も、ロイ君も…とても逞しくて、強いじゃないですか。それだけでも私は、安心感を抱きますよ。

 将軍さんも、そんなお2人が気に入ったのかも知れません…」

 「そうでしょうかね…?

 わたくしがあの時の傍観者の立場なら…頼もしいと感じるより、本当に大丈夫なのかとハラハラしっ放しでしょうけれどもね…」

 そんな風にヴァネッサが苦笑いを浮かべながら語っていると…。

 「これ、ヴァネッサ! 全部聞こえておるぞっ!

 ノーラに変なことを吹き込むでないわっ!」

 列の先頭から振り向いた渚が、噛みつくような勢いで叫んでくる。どうやら彼女は地獄耳のようだ。

 対してヴァネッサは舌を出すこともせず、ツンとした態度で堂々と言い返す。

 「変なことも何も、わたくしは事実を述べているまでですわよ!」

 ここで2人の間に激しい視線の火花が散るが、蒼治が溜息を吐きながら即座に隣を走る渚の頭を掴んで前を振り向かせる。

 「お前の所為で時間がないんだからな。自覚して、余計なことにうつつを抜かすなよ」

 「むうぅ、おぬしに言われずとも承知しておるわいっ!」

 その後、一行は2、3度角を曲がりつつ走り続けると、やがて前方に開放感溢れる金属製の柵で周囲を囲んだ、大きな施設が見えてくる。柵の向こうには、外周に沿っていくつかの遊具が設置された公園のような広場が広がっており、その奥に4階建てのコンクリート製の建造物がある。建造物自体は他の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)管理下の施設と似たような外観をしているが、窓が色紙やジェルジェムで可愛らしく飾られているのがよく目につく。幼稚園や保育園のような印象だ。

 「よしっ、ここじゃっ!

 皆の衆、ラストスパートじゃっ!」

 渚は前を指差しながら、走る足の回転を更に速める。他の部員たちも彼女に倣い、速度を速める。ここまで結構な距離を走りっぱなしだったというのに、息を上げている者が1人も居ないのは、流石はユーテリア所属の英雄の卵というべきだろう。

 一行は公園のような広場を一直線に駆け抜けると、透明な魔硬化ガラス製の両開き扉の入り口へと至る。

 「とおおおりゃあああっ!」

 叫びながら真っ先にスライディングの格好で滑り込むのは、やはり、副部長たる渚である。入り口は自動扉だったので、渚はガラスに激突することなく、内部へと進入することができた。

 入り口の向こう側には、公民館のロビーのようなエントランスが広がっており、右手には受付係の有翼人種の男性が収まっている窓口がある。男性は渚の叫びにビクリと体を震わせ、何事かと体を乗り出して渚を眺める。

 スライディングの勢いが止まった渚は、そんな受付係の様子など気にせず、制服のポケットからナビットを取り出して時刻を確認する。表示されている時刻は、13時59分38秒。

 「いよっしゃあああっ! ギリギリ間に合ったのじゃっ!」

 両腕を上げて勝ちどきを上げる。力の入りまくった叫びは、エントランスのみならず、そこから3方に延びる廊下の先まで響き渡ったことだろう。

 続いて、部員たちが続々とエントランスに流れ込む。その中で蒼治とヴァネッサが渚の行いを恥じて顔を赤らめており、イェルグ、大和、紫の3人が呆れたような苦笑いを浮かべていた。

 「…あのう…」

 渚が腕を降ろしてスクッと立ち上がったのを確認した受付係が、おずおずと声をかけてくる。

 「あんたら、一体ここに何の用なんだ…?」

 「ここは、"オレンジコート"管理下の第3戦災孤児院で、間違いないな?」

 受付係は、唖然とした態度のままコクリと頷く。それを確認した渚は両腰に腕をおき、小振りながら形の良い胸を突き出して、何故か偉そうな雰囲気を漂わせながら語る。

 「責任者のルニティ殿にお目通り願いたい。

 ユーテリアの星撒部が来た、とお伝えれば分かるはずじゃ」

 「ああ…あんたらか、今日の慰問の相手って…」

 そう確認する受付係は、唖然とした態度は消したものの、今度は"本当にこいつらで大丈夫なのか?"という言葉が聞こえてきそうな怪訝な態度を取る。

 とは言え、彼は職務を放棄することなく、内線連絡用の通信端末をいじりながらロビーに設置されてある長椅子を指差す。

 「今呼ぶからさ、座って待っててくれ」

 

 受付係の言葉に甘んじて、部員一行が長椅子に座り、一息吐いたり雑談に花を咲かせること、数分後。

 「ようこそ、お出で下さいました。

 この施設の責任者の、ルニティ・エンケラドゥスです」

 玄関から見てロビーからまっすぐ延びた廊下の向こうから、自己紹介をしながら一人の女性が現れる。

 彼女は、"責任者"という肩書きとはあまりにミスマッチな若々しく可憐な姿をしている。歳の頃は、多く見積もっても20代中半にしか見えない。ショートカットにしたライトブラウンの髪は非常に艶やかで、施設内の電灯の光を受けて天使の輪が出来ている。髪の色より少し明るい、大きくて丸々としたブラウンの瞳には、朗らかで和やかな輝きが灯っている。細身ながら母性を感じさせる凹凸のはっきりした体型の上にまとっているのは、ゆったりした割烹着型のエプロンである。その胸元には地球圏治安監視集団(エグリゴリ)隊員のトレードマークである、鳩の羽の生えた輪っかを身に着けた地球の形のバッジをつけている。輪の色がほんのりオレンジ色に染まっているのは、彼女が"オレンジコート"軍団の所属であることを物語っている。

 "オレンジコート"繋がりなのか、はたまた偶然かは判断しかねるが、ルニティの身に着けているエプロンは白地にヒマワリやマリーゴールド、タンポポといったオレンジ系の花の模様が散りばめられている。

 そんな彼女の姿は、施設の運営を預かるデスクワークの"責任者"というよりも、現場で子供たちと触れ合う保育士と言った風体だ。

 こういったルニティの外観に、大和や蒼治、紫といった比較的"常識"の枠にはまっている部員は目を丸くする。そんな様子を見て取ったルニティは、エプロンの上で咲き誇る花々に劣らぬ清々しい笑顔をニッコリと浮かべる。

 「私みたいな小娘が責任者なのは、意外だかしら。

 私自身も、責任者に任命されて驚いてる…というか、戸惑ってるのよ。采配を振るうよりも、現場で働く方が好きだからね。

 でも私、一応佐官だから…それが理由で、選ばれちゃったみたい」

 舌をチロリと出しながら語るルニティの姿は、佐官という厳粛な響きの階級に見合わぬ、茶目っ気たっぷりの可愛らしいものだ。

 「それと…これは別に、責任者であるなしに関わらないんだけど…私、皆の先輩に当たるのよ。

 私も、ユーテリアで学んでいたの」

 「おおっ、先輩殿というわけですかのう!」

 「ええ。

 だから、少将から皆さんが来ると聞いた時は、凄く親近感が沸いちゃって。どんな子達が来るんだろうって、楽しみで仕方がなかったの。

 こんなに元気な後輩たちが来てくれるなんて、嬉しいわ」

 「わしらは希望を振り撒く立場ですからのう! わしら自身が明るく元気でなければ、人々に光を与えることなんて出来ませんわい!」

 「うふふふ、その元気、是非ここの子供たちに分け与えてあげてね」

 そしてルニティは「会場はこっちよ」と語りながら、おっとりした動作で踵を返すと、元来た方へと歩を進める。星撒部の部員たちは一斉に座した椅子から立ち上がると、渚を先頭にしてルニティの後を追う。

 施設内の廊下は外観と同じく無機質なコンクリートで囲まれていてるが、味気なさはちっとも感じない。というのは、壁中に色とりどりのクレヨンや色鉛筆、はたまた水彩絵の具で描かれた絵の画用紙が張り出されているからだ。構図などはともかく、勢いだけはひしひしと伝わる絵柄から、これらを描いたのは子供だということが直ぐに見て取れる。

 そんな賑やかな廊下を見ていると、まるでここが小学校の低学年教室のある区画が想起される。廊下に並んでいる両開き引き戸を持つ数々の部屋もまた、教室のように見えてならない。

 この廊下をまっすぐ歩きつつ、渚はルニティに幾つか尋ねる。

 「子供達の様子は、どんな感じですかのう? やはり、落ち込んでいる子の方が多いですかな?」

 「いえ、この施設の子はかなり元気な子が多いですよ。

 戦争勃発の直後に避難してきた子が多いから、酷い光景を目にしたり体験したりっていうのは少ないのよ」

 「むうぅ? それでは、"戦災孤児"とは言えないのではないですかのう? 単なる疎開のように聞こえるのじゃが?」

 「ええ、元々はそうだったんですけど…。

 ここに居る子たちの家族はみんな、アルカインテールに残っていたんです。混乱は早期に収束するとでも、楽観視していたのかも知れません。

 でも…彼らがこのキャンプに避難してくる前に、あの都市国家で次元干渉兵器が行使されてしまって…。今、アルカインテールは甚大な空間汚染が広がる、非居住地帯(アネクメネ)と化してしまいました」

 「つまり…ここに居る子達は、自分たちが孤児になってしもうたことを、理解していないということじゃな…」

 「現地の調査はあまり進んでいないので、断定はできませんが…その可能性は、非常に高いと思います」

 「むうぅ…不憫じゃのう…」

 眉を曇らせ、尖らせた桜色の唇に指を当てながら、渚がかなり気を落として語る。いつもは弾ける火の玉のように元気すぎる彼女であるが、悲哀のような湿った感情も持ち合わせているようだ。

 そうして湿った渚の肩を、後ろからポンと叩いて掴む者がいる。澄んだ蒼穹の瞳を巡らすと、そこには太陽のようにニカッと笑うロイの顔がある。

 「だからこそ、オレ達が希望を振り撒きに来たんだぜ、副部長。

 ガキどもを、思いっきり笑いの輝きに染め上げてやろうぜ!」

 すると渚は、一瞬ふっと哀愁と羨望の混じった薄い笑みを浮かべると、すぐにロイの輝きをもらい受けて自らもニカッと大輪の笑みの花を咲かせる。

 「おぬしに言われずとも、勿論じゃわい!」

 そんな2人のやりとりを見ていたルニティは、優しげにニコニコと見守りながら、誰にともなしに呟いた。

 「なるほど、少将があなた達を推薦するワケね」

 彼女の言葉は響きや態度からしても間違いなく褒め言葉であったはずだが…それを聞きつけた渚がジト目でルニティを見やる。

 「あの腹黒ヒキガエル少将殿めが、わしらの事をなんと評しておぬしに推挙したのやら」

 するとルニティは、たはは、と苦笑して答える。

 「確かにあの人はカエルっぽいですけど、ヒキガエルなんかじゃないですよ。

 それに、腹黒なんかじゃないですよ。あの人は物言いは意地悪く聞こえますけど、純粋に優しい人ですから」

 「どーだかのう。真に腹黒い者ほど、最後の最後まで仮面を取らぬものじゃしのう」

 ジト目を崩さず、あくまで言い分を貫き通す渚に、ルニティは苦笑を浮かべ続ける。

 そんな2人の背後を歩くノーラは、会話に出てきた"少将"なる人物の姿を、ヒキガエルそのものの顔をしたデップリした中年男性として思い浮かべ、クスリと小さく笑ったのだった。

 

 数分歩き続けた後、一行は廊下の突き当たりにたどり着く。突き当たりといっても、正面にあるのは壁ではなく、大きな両開きの扉だ。

 「この向こうで、みんな待ってるわ。事前に必要なものがあったら、ここで準備してね」

 「ここではちと狭いゆえ、入室してから広げた方が良いじゃろう。

 のう、蒼治」

 「見栄えは良くないけど、仕方ないかな」

 「ということじゃ、ルニティ殿。

 こちらはいつでもOKじゃ」

 ウインクして合図すると、ルニティはニコニコ笑いながら頷く。

 「それじゃあ、元気良くお願いね」

 そう言い残した、直後。ルニティは勢い良くに両腕を広げて、一気に扉を両開きに全開する。バタンッ! と心地よい音が施設内に響き渡る。

 「みんなーっ、お兄さんお姉さんたちが来てくれたよー!

 拍手で迎えてねーっ!」

 ヒーローショーの司会のお姉さんよろしく威勢の良い声を張り上げる、ルニティ。それを口火に、星撒部の部員一同は2列になって入室しながら、左右に広がって行く。

 入室の先頭を切るのは、副部長の渚は勿論のこと、彼女と並ぶのは…ロイである。立場から言えば会計の蒼治が並ぶのが順当と言えるが…彼は入室に際して、コソコソと壁際に移動し、他の部員達が先を行くに任せていた。

 そんな様子を見ていたノーラは小首を傾げつつ、蒼治を横切って入室しようとすると…スッと蒼治が前に入り込んでくる。このため、ノーラと紫が最後尾をつとめることになった。

 (蒼治先輩…? なんか…変な動きをしてる…)

 ノーラが疑問を抱く一方で…真っ先に入室を終えた渚とロイが、大きく腕を振りながら、太陽を2つ並べたようにニカニカッと輝く笑顔を浮かべて、声を上げる。

 「お初にお目にかかるのう、皆の衆! お楽しみのプロフェッショナル、星撒部のおねーさんおにーさんとは、わしらのことじゃ!」

 「今日は目一杯遊びまくろうぜっ! 男の子も女の子も、みんなまとめてかかってこいやあっ!」

 すると、渚たちの声に応えるように、「わぁっ!」という歓声がドッと上がり、空気が破裂せんばかりの無闇やたらな拍手がバチバチバチバチッ! と響き渡る。

 扉の向こうに広がっていたのは、ホールという言葉が正にピッタリな広い空間だ。そこに折り畳み式の長机を2つずつ合わせて作ったテーブルがあり、その各々に6~8人ずつの子供達が座っている。テーブルの中央にはペットボトルのジュースが2、3本と紙コップが置かれている。

 ホールに満ちている子供達は、本当に様々な人種から構成されている。旧時代の地球人型の人種は勿論、獣人属、岩石質や木質の皮膚を持つ者、旧時代に"悪魔"という不名誉な通称で呼ばれていた存在に近い姿の者など…バリエーションは非常に多彩だ。ユーテリアの大講義室を埋め尽くす顔ぶれが思い出されるほどである。

 子供達の年齢層は、幼稚園児から小学生くらいの幅だ。彼らの顔は、初めて目にする星撒部の面々に対して純真な好奇心と興奮にキラキラ輝いている。なるほど、戦災孤児にしては心傷的な陰は見えず、活気に満ち過ぎている。自らが既に悲運の渦に巻き込まれているなど、露ほども自覚していないがゆえの陽気さだ。その無邪気な明るさが、(かえ)って哀愁を誘う。

 ホールの中には、子供以外にも、ルニティと似たようなエプロンを身に着けた成人女性の姿もある。彼女らも胸元に地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のバッヂを身に着けているので、施設の職員だということが一目瞭然だ。責任者のルニティからか、または件の少将からよく言いつけられているためか、彼らは星撒部への不安は一切抱いていない。むしろ、子供達と一緒になって、一体何を見せてくれるのかと期待に瞳を輝かせている。

 さて、扉を背にして部員たちが1列にずらりと並ぶと。鳴り止まぬ拍手を身に受けながら渚が一歩前に進み出ると、列の端の方で心なしか身を縮こめている蒼治に目配せする。すると蒼治は、身を包む純白のマントの下をモゾモゾと動かすと、その中から折り紙が一杯に詰まったビニール袋を2個、3個と取り出す。マントの下の容積とはとても釣り合わない体積を引っ張り出しているところを見ると、マントには体積圧縮か収納系の魔化(エンチャント)が施されているようだ。

 総じて5つの袋を取り出した蒼治は、閉じた口を1つずつ解いてゆくと…袋の口が大きく開いたと同時に、その中からツルを初めとした動物の形の折り紙がワッと飛び出し、宙を飛び回ったり床を走り回ったりする。その有様ときたら、春風に舞い飛ぶ大量のサクラの花弁のようだ。

 「わぁ、キレイーっ!」

 「スゲーッ、生き物みたいに動いてるーっ!」

 「一枚の紙なんだよね? どうやって、作るんだろ?」

 「私知ってる、折り紙って言うんだよ! ノリとかハサミとか使わないで、紙を折るだけで何でも作っちゃうんだよ!」

 「うわぁー、私にも出来るかなー!」

 口々に歓声を上げる子供達。彼らのみならず、ルニティを含めた職員たちもまた、色とりどり多種多様の紙細工が滑らかに活き活きと動く様子に、瞳を輝かせて感嘆の吐息を口にするのを禁じ得ない。

 「皆の衆、面白いじゃろう!?

 これが、わしら星撒部の特製折り紙じゃ!

 今日はこの折り紙を、このおねーさんおにーさん達が皆の衆に伝授するぞいっ!」

 その言葉を口にした後、渚は部員一同に目配せして、イベントの開催を私事したのだった。

 部員達は皆、蒼治が例のごとくマントの下から取り出した魔化(エンチャント)済の折り紙を3セットずつ受け取ると、出来るだけバラけて子供達の座るテーブルを訪れて、折り紙の折り方を教え始める。

 とは言え、部員に対してテーブルの数は倍以上あるため、部員たちは移動を繰り返さねばならないという、慌ただしい動きが要求される。しかし、子供達も指をくわえて珍客が自分のテーブルに来るのを待っているほど無気力ではない。部員が位置取ったテーブルに四方八方から群がると、立ったままテーブルの端で折ったり、しゃがみ込んで床で折ったりする。テーブルに残っているのは乗り遅れた子供たちばかりで、そういう子たちには職員が暇つぶしの相手をしている。

 子供たちに大人気なのは、部室でも誰もが見惚れるような折り方を披露したアリエッタと、意外なことに大和である。前者は当然として、後者には一体どんな魅力があるというのか?

 まず第一に、大和もアリエッタ並に達者な器用さで、美しい折り紙を折ることが出来ること、だ。"機会工学の求道者"を自称している彼は、自らの『定義拡張(エキスパンション)』の能力のみに頼らず、手作業で繊細な装置を組み上げることも多い。その為に、彼の器用さは日々鍛え抜かれているのだ。その能力は折り紙に遺憾なく発揮されている。

 そしてもう一点…彼の軽快なトークもまた、子供たちを惹き付けて止まない。普段は女の子の気を惹くことにばかりに回る――しかも悲しいことに、空回りばかりだ――舌だが、この場では非常に有効な方向に働く。

 「おっ、キミ、上手ッスねーっ! そうそう、そうやって折り合わせるンスよーっ!」

 「ここは確かに難しいところッスけど、ホラ、よく見ていて! この部分を、こんな風に折るンスよー!

 そうっ、出来るじゃないッスか! 偉いッスよーっ!」

 「じゃあ、みんなで一緒に、最後はここを折ってぇー…!

 ホォラ、完成ッスよっ! みんな、拍手拍手ぅっ!」

 幼心をうまく持ち上げる軽妙なトークに、子供たちはすっかり気を良くして、目を輝かせワイワイ騒ぎながら、夢中になって折り紙を折るのである。

 こういう場面だけを見ていれば、大和は面倒見の良い、子供好きな好青年にしか見えない。これで普段の態度がもっと真面目ならば、変なアピールなどせずとも女の子たちの方から声がかかるだろうが…。なんとも残念な男である。

 時が経つにつれて、折り紙ではとても満足できず、体を動かしたくてたまらなくなる子供たち――特に男の子はそうだ――が現れる。そんな子達に対応するのは、渚、ロイ、ナミトの3人だ。普段から活発な彼らは、子供たちの活発さに負けない体力で、ごっこ遊びや体を使ったゲームをしている。

 中でもロイの対応は感心の極みである。肉体派の部員の中で唯一の男子である彼は、子供たちから乱暴な扱いを受けやすい。ごっこ遊びで悪人に扮すれば、本気の拳や蹴りを浴びる羽目になる。しかし、いくら叩かれようが蹴られようが一切苦しげな顔を見せず、あくまでおどけた態度で子供たちに接し続ける。

 「ぐわーっ、やられたーっ!

 流石は強いな、エナジーレンジャーにコスモマン!

 だが、このドラゴン大帝さまはそんな程度では倒れんぞぉっ!

 がおーっ!」

 そんな風に叫びながら、子供を持ち上げて優しく振り回してみたり、肩車をしてみたりと、動き続けるロイ。子供たちは大興奮でキャッキャと騒ぎながら、「ボクも、ボクも!」とひっきりなしにせがむ。それに逐一応えて、手抜かりなしに世話をする彼の姿からは、理想的な父親の姿が連想される。

 「すごいなぁ…ロイ君。

 すごく自然に…あんなに楽しそうに…子供たちと触れ合えるなんて…」

 (はた)で見ていたノーラが心底感服して呟くと、たまたま側を通った紫がいつもの陰を含んだ笑みをニヤリと浮かべて語る。

 「精神年齢が幼いだけなのよ」

 さて…そんな呟きを口にしたノーラは、一体何をしているかと言えば…折り紙班の一員として、周りを囲む子供たちに一生懸命に折り方を教え続けている。

 故郷に居た頃から英才教育ばかりで、幼児時代においても同年代の子供と遊んだ経験に乏しいノーラは、どう子供たちと接して良いのか、戸惑うばかりである。だが、星撒部に入部した今、部活動から逃避することは出来ない――そんないつもの生真面目な義務感に突き動かされ、出来ることを精一杯やろうと集中する。例え、アリエッタや大和、ロイのように愛想良く振る舞えなくても、だ。

 思い悩みを抱くノーラの胸中とは裏腹に、子供たちの間での彼女に対する人気は上々だ。昨日、部室で部員たちに褒められた折り紙の腕は子供たちの目を確実に惹き付けている。加えて、騒ぎ立てるのがあまり好きでない子供たちが、静かな物言いと雰囲気のノーラを良しとして集まってくる傾向もある。

 だがノーラ個人は、多くの子供たちが集まっているというのに、一見して分かるような盛り上がりがないことにかなりの焦りを募らせていた。

 (私…浮いてるんじゃないかな…)

 そう思い、チラチラとホール内に視線を巡らせ、他の場の雰囲気と自分とを比べていると…。

 (…あれ…?)

 自分よりもよほど浮いて見える場を発見し、思わずポカンとしてしまう。

 可笑(おか)しな程にちぐはぐな場を作り出している部員は、2人――蒼治と、紫である。

 まずは、蒼治について。普段は部のブレーキ役として冷静に物事に対応している彼であるが…その面影は今、どこにもない。水にふやけたような歪んだ笑顔を張り付け、錆びたブリキの人形のようにぎこちない動きで子供たちに対応している。

 場を和ませるトークも出来ず、かと言ってノーラのように子供たちにも伝わるような真剣さを(かも)し出せるわけでもない。そんな面白味のない場の中では、子供たちの態度もギスギスしてゆく。蒼治の指導そっちのけでふざけあっていた子供たちがケンカを始めてしまい、それをオロオロして対応しあぐねているところへ、見るに見かねた施設の職員が手を差し伸べる場面が度々見受けられる。

 どうやら、蒼治は子供の相手がひどく苦手のようだ。

 そしてもう1人のヘンテコな雰囲気を作る部員、紫もまた、子供の相手を苦手としている。

 蒼治とは雰囲気は違うものの、紫は始終嫌味の陰を帯びた暗ーい笑みを浮かべながら、投げやりな感じで折り紙を教えている。

 「ねぇ、お姉ちゃん…顔、なんか怖いよぉ…?」

 「うるさいわね。生まれつきこういう顔なんだから、仕方ないでしょ」

 「さっきのところ…よく分からなかったんだけど…」

 「だーかーらーさー、ここを、ホラ、こうだってば。この本にも書いてるじゃん?」

 「おねーちゃんさぁ、教えるの、すごく下手」

 「はいはい、私だって先生に向いてるなんて思ってませんよー」

 あんまりな対応に、彼女の側についている職員が頬をヒクつかせながら、こめかみに青筋を浮かべつつ苦笑しているほどだ。

 活動の性質上、子供たちと触れ合う機会の多いはずの星撒部だが、全ての部員が子供の相手が得意というワケではないらしい。

 そんな彼らの姿に――悪気は全くないものの――安堵と自信を得たノーラは、1つ深呼吸。そしてニッコリと静かに、穏やかに笑みを浮かべて、再び子供たちと向き合う。

 「それじゃあ…今度は、こっちの動物を作ってみようか…?

 今のより、ちょっと難しそうだけど…落ち着いてやれば、きっと、出来るよ」

 そんなノーラの言葉に、子供たちは真剣な表情で鼻息荒くコクコクと頷くと、新しい魔化(エンチャント)済み折り紙を取り出すのであった。

 

 こうして、ノーラが新しい折り方を教えようとした、その矢先…。

 彼女は、テーブルに座る子の中に、他の子供たちと明らかに雰囲気の違う女の子を見つける。

 ノーラから見て最も遠い位置に座っている彼女は、折りかけの折り紙を放置したまま、拳の形に握った手を膝に置いて、じっと机の上に視線を投げている。一見、折り紙が気に食わなくて睨んでいるのかと思ったが…そうではないようだ。渚にも劣らぬ蒼穹の瞳は今にも雨が降りそうな曇天のごとき影がかかっているし、焦点は折り紙やテーブルを突き抜けた遙か遠方へとぼんやりと投げかけられている。

 この少女を目に入れた途端、ノーラの胸中には居ても立っても居られない、なんとも悲痛な気持ちが膨らんでゆく。

 ノーラを特にそんな気持ちへと突き動かしたのは、少女の曇り切った眼だ。輝きのない、どこか達観したようなその瞳を、ノーラは見覚えがある――いや、経験がある。

 星撒部と関わる以前、希望を持てずに、常に居心地の悪さを感じていた時の、自分の(まなこ)にそっくりなのだ。

 この少女には、無知で無垢な他の子供たちが持つ、無根拠ながらひたすらに明るい希望が、全く欠けている。

 (あの()…どうしたんだろう?

 いじめられてる…って感じでもないよね。でも…他の子供たちからは、明らかに浮いてるし…避けられてる…)

 そう、この少女の周囲には、変な空隙がある。他の子供たちは、身を寄せてギュウギュウとひしめき合っているというのに、彼女の周りだけは空間が断絶しているかのように、閑寂が広がっている。

 それに…よくよく見ると、この少女へと視線を向けた子供が即座に、眼を逸らしている様子が見て取れる。

 (あの()に、一体、何があるって言うんだろう…?)

 直ぐに声を掛けたくなるが、下手な言葉をかけて悪い方向の刺激を与えてしまってはいけない。経験の無さゆえに慎重になるノーラは、少女の様子から出来うる限りその背景を探ろうと試みる。

 その時、ふと脳裏に浮かんだのは、ルニティの言葉だ。

 彼女はこう言っていた――"戦争勃発の直後に避難してきた子が多い"と。つまり、戦争勃発後、悲惨な光景を目にした子供が全く居ないワケではないということだ。

 (もしかして…この()は、そういう子なんじゃ…!)

 ノーラは、ゴクリ、と固唾を飲む。もしも自分の予測が当たっていたとすれば、この少女が抱える心の闇――希望を塗り潰す絶望の深さは、どれほどのものなのか、見当が着かない。成人ですら、惨禍に対する覚悟などそうそう持ち合わせていない。ましてや、精神発達が未熟極まりない幼子となると、尚更だ。

 下手に触れれば、滅茶苦茶に爆裂して、周囲にまで甚大な影響を与えかねない爆弾を前にしたかのような、重苦しい緊張感がノーラにのし掛かる。

 (でも…)

 それでも、ノーラは、重くなった腰を敢えて立ち上げる。そうまでして彼女を突き動かすのは、やはり、少女の希望を含まぬ曇天の瞳だ。

 その瞳を持つ者の苦悩は、ノーラ自身が良く知っている。

 その苦獄の奈落から脱することができたノーラは、未だに苦獄の中に捕らわれたままの幼子をそのままに放置しておくなど、とてもでないが耐えられない。

 ノーラが少女の方へと向かうのをみた職員が、慌ててノーラの方へと早足に歩み寄る。

 「あの…その()は、ちょっと…」

 そう言いながら職員は、ノーラの腕を軽く引っ張る。やはり、この()には難しい背景があるようだ。

 しかし、それを見過ごして、絶望に蝕まれるがままにしておくのは――希望を振り撒く星撒部の一員としては、失格だ。

 その強い決意を胸に抱いたノーラは、職員にニコリと微笑んで語る。

 「大丈夫です。お話してみたいだけですから。職員の皆さんにも、他の子供たちにも、迷惑は掛けませんから」

 その澄み渡った微笑みの前に、職員は恥入るように伏し目がちになると、静かに腕を引っ込める。

 「ありがとうございます」

 ノーラはもう一度微笑みを浮かべて感謝の言葉を述べると、もはや二度と職員の方を振り向かずに、ぼんやりと座す少女へと一直線に向かう。

 ノーラの意図を理解した周りの子供たちは、眉根に皺を寄せて不快感を示すと、ノーラと陰を帯びた少女から逃げるようにそそくさと距離を取る。

 そんな子供たちの様子など全く意に介さず、ノーラはついに少女の眼前にたどり着くと。スッとしゃがみ込んで少女の目線に合わせると、有らん限りの明るさを込めてニッコリと笑う。すると少女は、ジロリと、突き刺すような冷え切った視線を寄越してくる。

 「…おねーちゃん、あたいに何か用?」

 月光に輝く刃物のような視線を前にすると、ノーラの鼓動がビクリと跳ね上がる。やはりこの()は、単にこの催しが気に入らないだけなのではないかと、思い改めそうになるが…。

 ノーラは少女の深青の瞳を覗き込むと、鎌首をもたげた不安を押し戻す。――違う、この()は不機嫌なワケじゃない。

 瞳は確かに曇ってはいるものの、その向こう側にうっすらと灯る輝きは、とても真っ直ぐだ。不機嫌そうに見える目つきも落ち着いて鑑みれば、彼女の生来のツリ目がそんな雰囲気を醸し出しているだけだ。加えて、彼女の燃えるような赤紫色の髪もまた、どことなく攻撃的な雰囲気を添えているように見える。

 しかし、小悪魔的なデザインのラフな衣装や、お洒落のこだわりが伺えるボリューミーなツインテールの髪型からは、年相応のあどけない活発さが見て取れる。

 以上のこと覚ったノーラは、鼓動に落ち着きを取り戻すと、思わずひきつりそうになった笑みから安堵と共に堅さを抜くと、羽毛のようにほんわりとした声で少女に答える。

 「ちょっと…ぼーっとしてるみたいだったから、どうしたのかなって…思ってね」

 対して少女は、「ふーん」と無愛想に呟くと、再び机の方へと視線を投げかける。ここでもはや会話の糸が途切れそうになるが…ノーラは諦めない。

 少女と共に机の上に視線を向けると、折りかけの折り紙を見つめながら声をかける。

 「とっても丁寧で、綺麗な折り方だね…」

 ノーラのその台詞は、世辞ではない。確かに少女が折り掛けていた折り紙は、端々がピッタリと合わさっているし、折り目も定規で線を引いたようなクッキリした直線を作っている。

 ノーラの感心の言葉を受けた少女は、初めてうっすらと、嬉しそうな笑みを浮かべる。

 「うん…あたい、パパ似だから。

 パパ、物凄く器用なんだ。なんでも綺麗に作れるんだ。あたいはそんなパパの娘だもん、紙細工くらいどうってことないよ」

 "パパ"。とても誇らしげに、その言葉を口ずさむ少女の様子から、ノーラは2つのことを感じ取る。

 1つ。この少女が純粋に父親をとても大切に思っているということ。

 もう1つ。この場に居ない父について言及を避けるでなく、敢えて口にしたということは、父について誰かと話したがっているということ。

 しかし、職員や他の子供たちの様子から鑑みるに、少女の父への想いは他人にとってあまりにも気の重いものなのだろう。

 (でも…それこそが、この()の瞳の曇りを払う鍵になるはず…!)

 ノーラは、自分より遙かに長い時間を過ごしてきた職員たちすら忌避する少女の想いと真っ向から対面する決意を固めると、まずは互いの距離を縮めるために名を交わすことにした。

 「私、ノーラ・ストラヴァリって言うの。

 あなたの、お名前は…?」

 「あたいは、栞。

 倉縞(くらしま)(しおり)だよ」

 少女――栞は、ようやくツリ目をニッコリと弧状に閉じて、無邪気な笑みを見せたのだった。

 

 この倉縞栞こそ、後にノーラが背負うこととなった途方もない仕事の依頼主である。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Tank! - Part 5

 「(しおり)ちゃん、か。可愛い名前だね」

 「えへへ。この名前もね、パパがつけてくれたものなんだよ。

 本のしおりみたいに、みんなの心に残るような人になるように、って意味なんだって。カッコいいでしょ!」

 先までのどんよりした瞳が一変、真夏の晴天のごとく輝く。やはり栞は、父の話をしている時が一番活き活きとしている。

 「お父さんのこと、本当に好きなんだね」

 「うん!」

 栞は元気良く首を縦に振ると、ツリ目を細めて、過ぎ去った日々へと視線を向ける。

 「あたいのママさ、小さい頃にどこかに居なくなっちゃってね…。それから、パパがあたいのことを、1人で面倒みてくれたんだ。

 パパは、都市国家(まち)の大事な仕事をしていて、すごく大変で忙しいんだ。

 でもね、いつもあたいのために時間を作ってくれたんだ」

 「…とっても、優しいお父さんなんだね」

 そう答えながら、ノーラは父親を誇れる栞のことを羨ましく思っていた。というのも、ノーランは自分の父親をあまり良くは思っていないからだ。ひたすらに自分の期待ばかり押しつけてくるばかりで、ろくに会話が出来ないどころか、顔さえ見せてくれなかった父親とは、いまだに家族であるという実感が湧かない。

 そんなノーラの胸中など知る由もなく、栞は遠い目に寂しげな薄い笑いを浮かべると、折りかけの折り紙をいじりながら語る。

 「こういう風にね、指を使って何を作るのをやってるとさ…パパのこと、思い出すんだよね…」

 言い終えた、その瞬間。栞の笑みがクシャクシャに歪んだかと思うと、深青の瞳が雨曇りのように濁る。そして、突然の豪雨のごとく、涙腺からブワリと大粒の涙が溢れ出す。

 栞は、父親のことを思い出したのだろう――恐らくは、辛く苦しい離別の際の出来事を。

 「だ、大丈夫…?」

 ノーラはオロオロしながら、栞の背中に手を当てる。入部したてで子供とのやり取りに全く慣れていない自分が出しゃばるべきではなかったと、冷や汗が吹き出す胸の底で後悔する。

 しかし栞は、溢れ出す涙を両腕で必死に拭い取りながら、潤んだ笑みを浮かべつつ、嗚咽混じりで言葉を続ける。

 「パパ…パパさ、あたいが、あの都市国家(まち)を離れる、時にさ、くれたんだ、クマの、ヌイグルミ。あたいがね、前にさ、友達の家に、行ってさ、欲しくなった、ヌイグルミ。それで、駄々こねて、作ってもらいたかった、ヌイグルミ。

 パパ、あの頃、すごくすごく、忙しかったはずなのに、ちゃんと、作ってくれた、ヌイグルミ。

 パパさ、オレの代わりに、これを持ってろってさ、渡してくれた、ヌイグルミ。

 なのに、なのにさぁ…」

 笑いを浮かべることで必死にせき止めていた号泣が、大きく鎌首を持ち上げて、栞の表情を奪う。栞の顔は赤子のように真っ赤に染まり、涙を拒絶するように堅く閉じた瞼の隙間からは、止めきれない大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。

 「無くしちゃっ、たんだよぉ…っ。

 避難する、車に、乗ったときにぃ…すごく、ものすごく、混んでてさ…ギュウギュウに、もみくちゃに、されてたらぁ…っ!

 腕の中から、なくなってたんだよぉ…っ!」

 父親が僅かな暇を見つけて作ったヌイグルミ。それを紛失してしまった、という落ち度が子供心に大きな罪悪感を植え付けてるのも事実だ。だが、それだけが栞の号泣を誘っているワケでないことを、ノーラは感じ取る。

 話の内容からすると、栞はやはり、戦況が激しくなった時期に避難をした子供のようだ。避難用車両がごった返していた、という話の部分から察するに、かなりのっぴきならない事態に陥っていたことが容易に想像できる。

 そんな事態の最中、我が子と共に避難用車両に乗らず、戦禍に蹂躙される都市国家に残った栞の父親とは、恐らく公共機関の職員…もしかすると、軍警察やレスキュー部隊のような、有事の際に前線に関わる職業に就いていたのかも知れない。

 そして栞は、父親の生存を絶望視している。もしかすると、目の前で父親が亡くなったのを目撃しているかも知れない。

 だからこそ、栞は父親の最後の温もりを宿しているヌイグルミに執着しているのだ。

 彼女はこのキャンプに避難してからずっと、ヌイグルミの紛失を後悔し続けているのだろう。その暗い陰は、誰にも拭えるものではない。故郷が悲劇に見舞われたことをも認識していない子供たちは、栞の抱える事情を全く理解できず、彼女のことを単に暗くて近づきたくないヤツとしか見なせないだろう。事情を理解している職員とて、父親の温もりの代わりになり得るものを提供できるワケでなく、栞の抱える問題の解決を時間に委ねることしか出来ないのだろう。

 それゆえに栞は、子供たちからも職員からも敬遠され、孤立してしまっているのだ。

 ――では、ノーラは栞に対して一体、何が出来るというのだろうか。

 知り合ったのは、ついさっきのこと。栞の抱える事情を聞き知ったとは言え、到底実感出来るものではない。そんな立場の彼女が、幼いながら凄絶な過去を背負う少女に対して、一体何が出来るというのだろうか。

 その自問に対して、ノーラは建設的な答えを出せそうにない。

 …だが。

 (このままには…しておけない)

 溢れる涙に溺れ、活力の輝きが失意に曇る栞の眼を見て、ノーラは口を堅く結ぶ。

 (この()の瞳を、曇らせたままになんか…絶対に、させたくない…!)

 希望を持てず、眼にどんよりと曇らせたままの人生の苦しみ、辛さ、無気力感を、ノーラはよく知っている。栞の場合は、そこに加えて、幼い身でありながら凄絶な過去を背負わねばならないのだ。その辛苦は時間が癒すかも知れないが…癒されるまでの期間は、確実に、拷問そのものだ。

 なんとかして、栞のそんな暗澹とした人生から救い出したい。――だが、どうやって?

 頭の中をグルグルと問いばかりが回り続けるノーラは、泣きじゃくる幼子を慰める余裕もなく、必死に答えを掴もうと足掻き続けていた…その時。

 「――なぁ、アンタ」

 ふと、凛とした男の声が響く。空回りするばかりの思考を停止させ、ノーラが声をする方に目を向けると――そこには、胸の前で腕を組んだ、真紅の髪に竜の尾を持つ青年の姿があった。ロイだ。

 ロイの言葉は、ノーラではなく、泣きじゃくる栞に向けられていた。それを覚った栞は、いまだに涙が零れ続ける雨曇りの瞳で、ロイを見上げる。

 ロイは笑うでもなく、悩むでもなく、苛立(いらだ)つでもなく、淡々とした調子で尋ねる。

 「アンタの瞳の曇りは、そのクマのヌイグルミさえ見つかれば、晴れるのか?」

 その問いは、一見すると、非常に無神経なものにも聞こえる。栞が背負う一番の悲しみは、誰がどう考えても、父親との離別だ。それは死別という最悪の形ですらあり得る。それを、クマのヌイグルミという一介の物体さえあれば、全ての肩代わりが効くのか、と尋ねているのに等しいからだ。

 普通に考えれば、当然、釣り合いっこない。父親という世界に唯一無二の存在の生命にとって代われる物体など、あるワケがない。

 だが…それでも…栞は、雨曇りの瞳に雷光のような閃きを灯し、生来のツリ目を更に鋭く釣り上げると。コクリと大きく、力強く首を縦に振る。

 「…うん…うん…っ!

 パパのヌイグルミさえあれば…あたい、泣かない…っ!

 あの中には、パパが、いるんだもん…っ!」

 そのように語るということはやはり、栞は自身の父親の生存を否定し、それを受け入れている。その悲愴な覚悟に、ノーラはどうしても不憫さを隠せず、眉を下げて表情に陰を落とす。

 しかし…ロイの反応は、ノーラの真逆だ。栞の曇りも、ノーラの陰りも、全てを弾き飛ばすような燦々たる太陽の笑みをニカッと浮かべる。

 「それなら、簡単じゃねーか!

 なぁ、ノーラ!」

 いきなり同意を求められ、ノーラは表情の陰りもそこそこに、きょとんとしてしまう。一体、何が簡単だというのだろうか?

 考え込む間もなく、ロイが答えを口にする。

 「見つけちまえば良いじゃねーか、そのヌイグルミ!」

 あまりにも単純明快な答え。しかしそれで、ノーラは「あっ」と声を上げると…独りで首を縦に数度振り、納得する。

 (…そうだよ…! 見つけちゃえば良いんだよ…!)

 首を振る度に、ノーラの表情から陰が消え、スッキリとした輝きが満ちてゆく。

 相手は、物言わも言わねば、暴れもしないヌイグルミだ。昨日のアオイデュアでの出来事のように、天使やら士師といった厄介な凶悪な存在を相手にするワケじゃない。次元干渉兵器による環境汚染が懸念されるものの、実力者揃いの星撒部の力を持ってすれば、どうとでも打開できるはずだ。

 全然問題ない! 昨日の騒動に比べれば、この程度の仕事、なんてことはない!

 

 ――ここでノーラが普段の怜悧な思考を行使できていれば、この判断があまりにツメが甘いものだと十分に理解できたことであろう。

 しかし、この時点のノーラは、栞の瞳の曇りに対してあまりにも感情的になっており、客観性がスッポリと抜け落ちていたのだ。

 正に、落ち度という他に言いようがない失態であった。

 

 失態にはまりこんでしまったという自覚を全く抱かぬまま、ノーラはロイの言を得て、水を得た魚の心地になる。

 「大丈夫だよ、栞ちゃん…!」

 胸を叩かんばかりの力強い言葉を口にしつつ、ノーラは両腕で栞の両肩をガッシリと掴み、彼女の雨曇りの瞳と向き合う。

 栞は涙が止まらぬままであるものの、ノーラの得意げな表情の輝きに当てられ、泣き顔の陰りが減じてきょとんとした顔を作る。その顔は、"一体何が大丈夫なの?"と問い(ただ)している。

 ノーラは一瞬、視線でロイを指しつつ語る。

 「このお兄ちゃんが言う通りだよ!

 私たちで、栞ちゃんのヌイグルミ、見つけてあげる!」

 「そ、そんなこと、出来るの…?」

 そう問い返してきた栞の意図を、この時のノーラは、約束の確認だと確信していた。だからこそ、彼女はニッコリと笑み、力強く首を縦に振ったのだ。

 「うん、出来るよ…!

 大丈夫だよ…任せておいて!

 私が必ず、あなたが置いてきてしまった希望の星を、届けてみせるから…!」

 ――しかし、今考えてみれば、栞は破壊されつくした故郷で小さなヌイグルミを探すことの困難さを覚っていたが故に、問い返してきたのではないか…と考えられなくもない。

 だとしても、ノーラの言葉は、少女の懸念を一気に振り払い、失意に曇る眼に期待という名の輝きを灯すのに十分な役割を果たしたのだ。

 栞はノーラの腕の合間から自身の腕を突き出し、ゴシゴシと涙が溢れる眼を擦ると…手を退けた時には、泣き顔は微塵の面影もなく消え去っていた。

 「それじゃあ、お姉ちゃん、あたい、ホントのホントに、お願いしちゃうよ…!

 パパのヌイグルミのこと…お願いしちゃうよ…!」

 「うん、ホントのホントに、お願いされちゃうよ。

 もしも心配なら…ここで、約束しようか。指切りしよう」

 ノーラは右腕を栞の肩から離すと、小指を突き立てて栞の眼前に持ち上げる。

 「うん…約束! 絶対に絶対の、約束だよ…!」

 栞はツリ目を見開き、眼に真夏の太陽がギラギラ照りつけるような青を宿すと、しっかりとノーラの小指に自らの小指を絡ませる。

 その直後…もう一つの小指が、2人の小指に被さるようにして絡まる。

 無骨ながら、どこか柔らかな丸みが見て取れる、栞よりもノーラよりも大きな手の主は、ロイだ。

 彼はニィッと牙を剥き出しにし、絶好の玩具を見つけた幼子とも、獲物を見つけた肉食獣とも取れる、ギラギラした笑みを浮かべる。

 「オレにも一枚、噛ませてくれよ!

 この手で希望の星を取り戻すなんて、面白そうじゃねーかっ!」

 ――今考えて見れば、ロイも言い出しっぺの1人と言えるので、この申し出は当然といえば当然のことだ。しかしノーラは、そんな怜悧な理性などかなぐり捨て、しっかりと絡まった小指がもたらす熱い興奮に突き動かされるがまま、ロイの申し出を大歓迎してニッコリ頷く。

 「ロイ君が来てくれるなら…100人力だよ!

 栞ちゃん、このお兄ちゃんが居てくれるんだもん…ヌイグルミは見つかったも同然だよ!」

 ノーラのみならず、ギラギラとした自信が燃えたぎる魂魄が目に見えるようなロイも目にした栞には、もはや懸念の色はない。涙腺の崩壊はピッタリと止まり、年相応のパァッと晴れ渡るような笑顔を浮かべる。

 「うん! おねーちゃんとおにーちゃんのこと、あたい、信じる!」

 「よーし、そうと決まりゃあっ!」

 ロイは雷が昇るようにガバッと立ち上がると、バシンッと己の拳と手のひらを打ち合わせる。

 「ノーラ! 早速、副部長に話を通そうぜ!

 そして、サクッとヌイグルミを見つけて、希望の星を1つもぎ取ってこようぜっ!」

 そしてロイはノーラの腕を取ってグイッと引っ張り上げ、そのまま渚の元へと走り出そうとした――その時。

 「あっ、ちょっと待ってっ!」

 栞が声を上げて制す。ロイは一歩踏み出した足を慌てて踏み留めたものの、思わずバランスを崩して「おわぁっ!」と叫びながら両腕で宙を掻く。彼に引っ張られていたノーラも倒れ込みそうになるが、なんとか踏ん張り、ロイほどバランスを崩すことなく体勢を立て直す。

 「なんだよ、どうしたってんだよ!?」

 ロイが(しぼ)まぬ勢いのまま、眉根に盛大な皺を寄せて栞に尋ねると。栞はロイの表情にひるむことなく、テーブルの上から一枚の折り紙と鉛筆を取り出すと、鉛筆の芯を折らんばかりの勢いでゴリゴリと何かを描き始める。

 「パパのヌイグルミ、探してくれるんでしょう? でも、おにーちゃんもおねーちゃんも、パパのヌイグルミがどんなのか、知らないじゃん。

 だからさ、教えてあげるんだよ!」

 そう語る栞の口調は陽気な歌を口ずさむかのようで、テーブルの下では両足をリズムに乗せてブラブラ動かしている。先程までの潤んだ失意はどこへやら、今の栞は弾む期待にノリに乗っている。

 数分後…。

 「うん、出来たっ!

 これっ! これだよっ、パパのヌイグルミ!」

 栞は折り紙の裏側を表にしてヒラヒラさせながら、ノーラとロイに見せつける。そこに描かれているのは、明らかに少女漫画に影響を受けつつも、有り余る勢いによる(いびつ)な太い線で描かれた、クマのヌイグルミの絵。

 ――つまり、今現在のノーラが目的の手がかりとして持ち歩いている絵だ。

 この当時からして、ノーラはその絵が手がかりとしてあまりにも抽象的で実用性が薄いことを覚り、思わず苦笑を浮かべていたが…。

 「おっ、アンタ、絵がうまいじゃねーかっ!」

 ロイが顔を輝かせて、盛大な拍手を送らんばかりの勢いで褒めちぎる。その行動は、子供慣れしているロイの優しさから来る演技かと思いきや…キラキラと純真無垢な光を称えた金色の瞳を見る限り、到底演技には見えず、混じりっけのない本心のようだ。

 そんな気持ちの良い褒め方をされて、幼い栞が良い気にならないワケがない。まだ発育していないぺったんこの胸をエッヘンと張り、鼻の下を人差し指で(こす)りながら、これ以上ないくらい得意げに語る。

 「そりゃあ、あたいはパパの血を引いてるもの!

 パパはね、裁縫だけじゃなくて、絵も上手だったんだから!」

 「こんなスゲェ手がかりがあるんだ、すぐに見つけちまうだろうぜ!

 なぁ、ノーラ!」

 同意を求められても、とてもでないが首を縦に振る気にはなれず、たはは、と苦笑いを浮かべてお茶を濁すノーラであった。

 「それじゃ、この絵、借りて行くぜ。

 ちょっとオレたちのボス…つーか、副部長に話つけなきゃならねーけど、それが終わったらすぐに探しに行くからな!

 絶対に、持って帰って来てやる。だから、ボロボロ泣いてないで、ズーンと暗くなってないで、笑って待ってろ!」

 「うん…!

 指切りで約束、したもんね! おにーちゃんとおねーちゃんのこと、絶対に信じて、待ってるから!」

 そしてロイは拳を作って栞に向けると、栞も拳を作り、軽くロイの拳にぶつける。これもまた、指切りと似たような約束の挨拶だ。

 そして2人は、2つの太陽となってニカッと笑い合うと…ロイは今度こそ、雷が昇る勢いで立ち上がると、ノーラの手を引いて小走りで進む。

 「じゃあ行こうぜ、ノーラ! さっさと副部長に話付けて、現地に突撃だぜっ!」

 「うん…!

 栞ちゃんの希望、絶対に見つけて帰ろうね…!」

 

 こうして2人は、広いホールの中を数分ほど小走りで彷徨(さまよ)うと、窓際で子供たちに囲まれて未だに遊びの中心を為している渚を見つける。

 

 「おっ、居た居た!

 おーいっ、副部長っ! 話あるんだけどさぁっ!」

 渚を見つけたロイは、腕を大きく振りながら声を張り上げる。

 その頃の渚は、幼稚園に入りたて頃の小さな女の子を肩車しつつ、変形の鬼ごっこのつもりなのか、「がおーっ! おぬしら1人残らず、捕まえてくれようぞーっ!」などと叫びながら子供たちを追い回しているところだった。追い回される子供たちはそんな渚を楽しみ、キャッキャと笑い叫んで走り回ったり、渚の背後に回って蹴りだの拳だのを繰り出したりと、大はしゃぎしている。

 そこへ突如割って入ったロイの声に渚は嫌な顔一つせず、ピタッと足を止めて、子供たちに向けていた爽やかな笑顔のままこちらを振り向く。

 「むうぅ? 何用かのう、ロイにノーラよ。

 その顔つきから察するに…何やら愉快なことでも見つけたようじゃな?」

 「愉快っつーか…まぁ、悪い話じゃないのは確かだ。

 んで、その話について、副部長に相談したいんだけどさ…」

 ロイが()()まんで事情を説明する。手短ながら、確実に内容のツボを押さえた物言いに、ノーラは目をパチクリさせながら感心する。"暴走君"という名前が先行して脳筋的なイメージがつきまとうロイだが、案外に頭の回転が早い。

 考えてみれば彼は、天使やら士師やらといった、柔軟な機転が生死を分ける難敵との戦いを幾度も潜り抜けてきているのだから、当たり前といえば当たり前のことかも知れない。

 「…っつーワケさ。

 希望の星を世界中に振り撒く、オレたち星撒部としちゃあ、見過ごせないだろ?

 だからさ、オレとノーラを現地に送り込んで欲しいんだよ」

 それはつまり、現在の仕事を放棄することを意味する。現状、相手にせねばならない子供たちの数に対して、星撒部は人手不足な状態だ。そこを懸念されて、渚が渋い顔をするのではないか…と、ロイとノーラは考えていたものだが。

 彼らの懸念こそ、杞憂であったようだ。

 「うむ、相分かった!」

 渚は肩車していた女の子を静かに床に降ろすと、輝かんばかりの清々しい表情で快諾する。

 「自主的に絶望を希望に変えんと行動を起こすその姿勢、感心じゃわい!

 特に、ノーラじゃな! 入部初日から、わしらの部のポリシーをよーく心得ておるようじゃからのう!」

 ――今思えば、ここでやはり渚が作業の無謀さを説いてくれさえすれば、ノーラは蒼治や紫を難題に巻き込まずに済んだように思える。

 だが、思い返せば、渚はこのようにも言っていた。

 「確か、アルカインテール、とか言ったかのう? その現地の状況については、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)どももまだ十分に把握しておらぬのじゃろう?

 ならば、おぬしらが直接現地調査を行えば、クマのヌイグルミ以上の収穫も期待できるワケじゃな! ひょっとすれば、ここにおる子供たち全員どころか、このキャンプに住まう者達全てが享受できる、巨大な希望を手に入れられるかも知れぬ!

 これは、人員を裂くに十分な仕事じゃわい!」

 それから渚は、ホールをキョロキョロと見回し、ある2人の人物を見つけると、親指で彼らを指し示しなが言葉を続ける。

 「とは言え、次元干渉兵器が使用された現場におぬしら2人だけを送り出す、というのはあまりにも酷というものじゃ。

 じゃから、蒼治のヤツと紫も付けようぞ。

 あやつらはどうせ、子供が相手では全く戦力にならぬからのう」

 親指の先では、子供たちを相手に冷や汗を果敢ばかりにたじろぐ蒼治と、彼のすぐ側で壁にうつ伏せにもたれてぐったりとしている紫の姿があった。

 

 ――こうしてロイとノーラは、蒼治と紫の2人を一行に加えると、渚に連れられて施設を出た。

 そのまま渚は公共施設が立ち並ぶ区域をしばらく歩き回ると、放置された公園のように雑然と樹木と雑草が生い茂った区画の中に入る。難民キャンプを運営する"オレンジコート"は恐らく、ここにも何らかの施設を建設するつもりだったのであろうが、何らかの理由で計画が流れてしまったのだろう。

 子供たちが遊ぶにしても、あまりにも草むらが深いため、人があまり近寄らない。だが、それこそ渚にとって好都合だ。

 寸毫の躊躇(ためら)いもなく、腿のあたりまで生い茂る雑草の海の中を掻き分け、渚はサッサと進んで行く。その後をロイとノーラ、そして紫が進み、最後尾を蒼治がたじろぎながら進んで行く。蒼治はどうやら、草むらの中に潜む(ムシ)を懸念しているようだ。

 なにはともあれ、一行は木々に囲まれて外側からは見えにくい一画まで進むと、ようやく歩みを止めた。

 

 「さーて、早速じゃが、現地に送り込んでやるかのう!」

 渚がその言葉を口にするが早いか、背後からキンコンという澄んだ鐘の音を響かせて、彼女の天使を召喚する。例のごとく、天使に空間転移のための扉を開かせるつもりなのだ。

 渚がわざわざ人目につかない場所を選んだのは、天使を使役している場面を――ひいては、彼女が『現女神』であるという事実を赤の他人に知らせたくないからだ。どういう事情かは知らないが、彼女は"神"を冠する存在でありながら、崇め奉られることを毛嫌っている節がある。

 出現した包帯と鎖だらけの無貌の天使は、早々に転移の扉の作成に取りかかる。それが実体化するよりも早く、蒼治が眼鏡をクイッと直しながら渚に尋ねる。

 「良いのか、一気に4人も居なくなって? 人手、足りないんじゃないのか?」

 すると渚は、ケラケラと笑って手を振りながら答える。

 「もう取っかかりは出来ておるからのう、後は流れに乗っかるだけでも十分じゃわい。

 それにのう、蒼治に紫…子供を苦手とするおぬしらは、居ても居なくてもあまり変わらぬしな」

 「…戦力になれずに、スミマセン…」

 普段の嫌みたっぷりの強気はどこへやら、紫がションボリして答える。後に渚のことを尊敬していると彼女は語っていたが、それは偽りではないようだ。そして、紫の役に立てないことを本気で悔しがり、情けなく思っている。

 そんな彼女に対しても、渚はケラケラと謝罪を笑い飛ばす。

 「人間、誰でも得手不得手はあるものじゃ。おぬしだからこそ出来ることも沢山ある。じゃから、そう落ち込むでないわ」

 そんなやり取りをしている間に、扉の実体化が完了した。そしてギギィと重厚な音を立てながら開くと、純白の光が溢れる通廊が姿を現す。

 「アルカインテールの区域内に直通…とは行かぬが、だいぶ近い位置には転移できるはずじゃ。

 何かあったら、すぐにナビットで連絡するのじゃぞ。

 …とは言ってものう、空間汚染の度合いが分からぬからなぁ、まともに通信できるかどうか怪しいがのう」

 「まっ、オレたち4人も居りゃ、大大抵の事態はひっくり返せるさ」

 そう軽い口調で語ったのは、ロイだ。そしてその言葉を残すと直ぐに、通廊の中へと身を投じる。

 「…確かに、子供を相手にするよりは、戦地跡の探索の方が、僕には気楽だな…」

 蒼治は眼鏡の下で苦笑しながら、ロイに続いて通廊へと入って行く。

 「おぬしの場合は、他の取り柄も少ないからのう、今回の仕事で精々男を上げるのじゃぞっ!」

 そう語りながら渚は、バンッ、と蒼治の背中を強かに叩く。すると蒼治は、「おわっ!」と驚きの声を上げながらバランスを崩しつつ、通廊の中に全身を投じた。

 3番目に扉をくぐるのは、紫である。彼女は先の2人のように、渚へ何か言葉を残すことはなかったが…。

 「…この仕事って、実は結構無茶だよね…」

 そんな風に独りごちていたが、渚の耳には届かなかったようだ。…あるいは、聞こえていても敢えて無視されたのかも知れない。何にせよ、紫は特に突っ込みを受けぬまま、純白の輝きの中へと消えて行く。

 ――この頃には既に、紫はこの仕事の困難さを覚っていたようだ。

 さて、最後に扉をくぐりにかかるのはノーラだが…。扉を目前にしてふと足を止めると、渚の方に振り向く。

 現地へ向かうことに後込(しりご)みしたワケではない。ふと唐突に、疑問が湧き出たのである。

 「あの…先輩、1つ、伺ってもいいですか…?」

 「むうぅ? なんじゃ、言うてみい」

 「昨日…アオイデュアで、部員の皆さんで天使や士師を倒してましたよね…?

 そんな実力者揃いの星撒部なんですから…"獄炎の女神"のような非道な求心活動をする『現女神』を、どんどん成敗して行けば…多くの人の命も救えますし、絶望の発生も防げるんじゃないですか…?」

 その質問に対し、渚は苦笑しながら手をパタパタと振る。

 「そう上手く行くのならば、わしもとっくにやりたいところなのじゃがな…。なかなか上手く行かぬものじゃ。

 確かに、天使程度ならばなんとかなるやも知れぬが…士師はなかなかそうは行かぬ。

 昨日、おぬしは初戦にして士師を打ち破っておるからな、大した脅威に感じておらぬかも知れぬが…」

 「い、いえ…そんなことは、ないですけど…」

 慌ててパタパタ手を振って否定すると、渚はクスリと笑って言葉を続ける。

 「大前提として、士師は(すべから)く強い。

 昨日おぬしが士師との戦いで勝利を収められたのは、単純に、おぬしの方が強かったから、というワケじゃ。それは揺るがぬ事実じゃから、誇っても良い。

 じゃが、士師の強さは一定ではない。昨日おぬしが交戦した者どもより強い士師は、平気でゴロゴロしておる。

 特に、"獄炎"のヤツはやたらと士師の頭数を揃える傾向があるかのう。ゴロツキに毛が生えた程度の士師も沢山抱えておるはずじゃ。昨日、おぬしが交戦した個体はそれと同レベルかは定かではないがのう。

 しかし、"獄炎"のヤツも、本物の実力を伴った士師を抱えておる。中でも特に名を馳せておる個体が、"炎星の士師"レヴェイン・モーセじゃ。

 あやつは、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)との戦いを幾度も潜り抜け、全てに勝利を収めておる怪物じゃ。そして何より、バウアーが一戦交えるも、仕留め損ねておる」

 ノーランがゴクリと固唾を飲む。とは言え、渚が非常に評価しているバウアーとの下りを気にしているというよりも、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に対する常勝の話題で畏怖を抱いていた。何せノーラは、バウアーの実力をその目で見ていないので、彼を物差しにして実力を推し量ることが出来ないのだから。

 何はともあれ、一気に緊張ムードとなってしまったノーラを、渚はケラケラと笑って肩を叩いてほぐす。

 「じゃが、今より向かうアルカインテールは、とうに戦いが終わった後じゃと聞く。士師のような厄介な相手に遭うこともないじゃろうよ。

 まぁ、見知らぬ土地の観光を兼ねておるのじゃと、気楽な気持ちで行ってくれば良い」

 「…分かりました。

 『現女神』の件については、私の浅はかな判断でした。そうですよね…そんなに簡単に澄むなら、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)がとっくに『現女神』を管理してますよね…。

 …余計な考えでした…頭を切り替えて、これからの活動に集中します…」

 「うむ! 大きな成果が得られるよう、この空の下から見守っておるぞ!」

 渚から激励をもらったノーラは、それ以上足を止めることなく、純白の通廊の中へと身を踊らせたのであった。

 

 ――こうして現地、アルカインテールに到着し、そして現在に至る。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Borderland - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 ほぼ丸一日の出来事を思い返しながら、岩肌と茶色い地位類ばかりの殺風景な山道を下り続ける、ノーラ。

 (…そもそも、栞ちゃんのヌイグルミが今も健在かどうかすら、冷静に考えてみれば…分からないんだよね…)

 はぁ、とため息を着きながら自嘲の笑みを浮かべた…その時。

 眼前の光景が急に開け、道が急勾配の下り坂から、広々とした平坦な大地へと変わる。大地の大半が人工的な黒色で染まっているが、それはアスファルトによるものだ――つまり、ここは舗装された道路、というワケである。

 道路の幅は、非常に広い。大型トラックが優に10台は横に並ぶか、というほどの広さだ。道の中央には対向車線の境界を示す、白い直線が延々と続いている。

 直線に沿って一方を向けば、数百メートル前方の方に、左右から迫る山肌の合間一杯を埋める金属製の巨大な壁が見える。間違いなく、都市国家アルカインテールの領域境界を示す隔壁――通称、『市壁』だ。

 市壁は、地球上の都市国家において必須の施設である。その目的は、旧時代の中世のように盗賊や庸平といったならず者たちを阻む…というワケではない。壁が阻まんとしている対象は、野生動物である。

 『混沌の曙(カオティック・ドーン)』以降、地球上の生物は大小の差はあれども、(すべから)く魔力の影響を受けた。その結果、強力な魔法性質を持つに至った生物も少なくない。彼らの存在は、天災同様、単純に文化圏の脅威になりうる。そのため、物理的にも強靱で、尚且つ魔術的にも様々な細工を施した壁で彼らを阻むのだ。壁が帯びた魔化(エンチャント)は上空まで効力が及ぶものも含まれているので、空飛ぶ危険生物対策にも一応の万全を期している。

 市壁の反対側を見やると、遙か遠方にある緩やかなカーブまでは、どこまでも見通しよく道路が続いている様がよく見て取れる。この道路は恐らく、プロアニエス山脈中から採取された鉱物資源をアルカインテールへと運搬する大動脈の働きをしていたのだろう。

 ノーラは市壁の方へと向き直ると、広い歩幅を意識して早足で歩き出す。ぱっと見、ロイたち3人の姿を見かけないので、ノーラがぼんやり一日の出来事を思い返しながら歩いている間に、サッサとアルカインテールの入都ゲートまでたどり着いたに違いない。今回の仕事を言い出し手として、あまり出遅れては、付き合ってくれる他の者たちに申し訳が立たない。そんな気持ちに駆られて、ノーラの足取りは早足から段々と小走りへと変わってゆく。

 市壁に近づくにつれて、路上の有様が次第に酷い方向へと変わってゆく。経年劣化によるひび割れ以外は目立った破損のない路面に、乱暴に抉り取られたような凹みが幾つも現れる。無惨に破砕されたアスファルトの合間から剥き出しになった地面には、高熱に(さら)された過去を物語る黒々とした焦げや、溶融してガラス化した部分が見られる。

 これらは十中八九、空爆の形跡であろう。

 更に進むと、抉られたように奥に引っ込んだ山肌に、盛大に横転した巨大な輸送車両の姿が見えた。大型トラックの3倍はある体積を持つその車両は、元は鈍い銀色に染め上げられていた表面に大量の煤がこびり付いている。横倒しになった荷台からは、魔力励起光を薄く放つ魔法性質含有鉱物が土砂崩れのような有様でぶちまけられていた。

 この車両を目にした時、ノーラの頭にふとした疑問が思い浮かぶ。

 (この都市国家(まち)の戦争の原因って…鉱物資源を狙ったって説があるって、ヴァネッサ先輩は話してたけど…。

 その割には…かなりの魔力の抽出が期待できそうな鉱物を、そのまま放置してるなんて…?)

 疑問を頭に思い浮かべていると、何やら嫌な予感が鎌首をもたげてくるが…頭を横に振って、思考を頭から追い払う。まずは、ロイたちに追いつかねば。

 進むにつれ、路面がもはや道路の様相を呈していないほど破壊が進んだ状態になったころ…右手前の方に、市壁を前にして横一列に並ぶ3人の姿がようやく見えてくる。

 3人の手前には、市壁面に設けられた入都ゲートがある。平常時は野生動物を阻むべく厳重に封鎖されているはずのそれは、戦禍を受けて扉が内側に吹き飛び、ガランと無防備に口を開いている。

 酷い状態なのは、入都ゲートだけでなく、市壁もそうだ。近づいてみると表面に煤やら、何かが激突して出来た傷やらが幾つも幾つも目に付く。アルカインテールの軍警察と、戦禍を引き起こした侵略者との間での交戦の名残であろうか。

 「ごめんなさい…待たせてしまって…」

 ようやく3人と合流したノーラは、真っ先に出遅れたことへの謝罪を述べる。

 「ああ、気にすンなって」

 ロイが振り向き、陽気にニカッと笑って手をヒラヒラ振りながらフォローを入れてくれる。

 一方で、蒼治と紫はこちらに一瞥もくれることなく、入都ゲートの方向へひたすら視線を注いでいる。

 そんな彼らの様子に、あまり待たせて怒らせてしまったのでは、とノーラは危惧したが…。しかしすぐに、2人が全く怒気を放っていないことを覚ると、ホッと安堵する一方で疑問が湧く。

 「あの…どうしたんですか?」

 ノーラは列の右端、紫の横手に回りながら問いかけると。

 「…妙なんだ」

 列の中央で蒼治が、眼鏡越しの瞳を更に細めて言うと。

 「…妙ですよね」

 それを受けて紫が頷きながら、同意を口にする。

 「妙らしいぜ。なんだか分からないけどさ」

 列の左端では、ロイが頭の後ろで手を組み、暢気(のんき)な風体で語る。

 「妙って…何がですか?」

 当然、ノーラはそう聞き返す。すると蒼治は、スッと右腕を突きだして、開きっぱなしの入都ゲートの向こうを指差す。

 「あれさ」

 指の差す方には、ゲートの向こうに広がる瓦解した街の光景がある。そこには、壊れたブラウン管テレビに走るノイズのような、垂直方向に細かく振動する"空間の縦筋模様"が見て取れる。

 "空間格子蠕動"と呼ばれる、空間汚染に典型的な事象だ。空間構成が絶えず不連続的に揺れ動くために、光景にノイズが走って見える。また、「パチッパチッ」という静電気が弾けるような音が聞こえてくるのは、この現象によって激しく変動するポテンシャルによって、大気の分子がイオン化して破裂する音だ。

 「…次元干渉兵器が使用されたという話ですから…やはり、空間汚染はありますね…。

 ただ、固体が普通の形状のまま残っているところを見ると…ここらへんお汚染はまだ軽度のようですけど…。

 …十分予測できる状況ですし、妙なほどではないと思うんですけど…」

 「確かに、空間格子蠕動が存在する"だけ"なら、妙じゃない。

 妙なのは…空間汚染を引き起こしている、このあたりの術式構成だよ」

 「…? どういうことですか…?」

 問い返しながらも、ノーラは意識を集中して入都ゲートの向こう側を見つめ、その形而上層における術式構成を認識する。

 こうしてノーラの視覚野が捉えたのは――座標の数学的構成が滅茶苦茶になった、空間定義だ。高密度にして乱雑、更には要素が高速でランダムに変化するその様相は、脳の認識処理に多大な負荷をかける。即座に眉間と頭皮全域に、締め付けるような圧迫感を伴う鈍痛が走る。

 「う…ん…先輩も、紫ちゃんも…よくこんなもの、直視できますね…」

 たまらず音を上げてノーラが語ると、蒼治が慌てて言葉を挟む。

 「いやいや、細部の構造を見ちゃいけないよ。…って言うか、よく直視しながら、会話できる余裕があるね…。

 認識格子(グリッド)をもっともっと広くして…全体を俯瞰(ふかん)するつもりで…」

 「…ちょっと待ってください…今、やってみます…」

 ノーラは形而上層の認識範囲を低くし、思い切り視野を広げてみる。

 魔法現象を解析する際には普通、個々の術式の構成を読み解くために、真っ先に細部構造を認識を試みる。ゆえに、蒼治から指示されたやり方は、セオリーに真っ向から反するものだ。そもそも、視野を無駄に拡大すると、術式の集合の形状くらいしか読み解けず、その形状というのも普通は意味を持たないので無視されるものだが…。

 しかし、蒼治の指示に従ってノーラの視覚野が捉えた空間汚染の大規模構造の形状は――。

 「…あっ…」

 ノーラは思わず声を上げる。――確かに、これは妙だ。

 だがノーラは、認識した妙な点についての議論に入る前に、形而上層の認識を解除すると、はぁー、と小さくため息をつく。

 そして、自然と浮かんだ苦笑いを張り付けた表情で、空を見上げる。

 ――否、青空の一画にぼんやりと存在する、小さくて無機質な外観の『天国』を見やる。

 この『天国』と、ついさっき見た空間汚染の構造を照らし合わせると、ノーラの苦笑は更に大きくなる。

 (…やっぱり…今日のお仕事も…面倒なことになりそう…)

 胸中でにわかにパンパンに膨らんだ悪寒と不安を吐き出さんとするかのように、ノーラは今一度、はぁ~と深い深いため息を吐いたのだった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 旧時代…地球が天国を得ておらず、唯物論が科学を席巻していた頃。

 科学が定義するところの"空間"とは四次元リーマン空間として記述される、という性質を与えられたものの、物体を事象に対する容器である、という古典的な態度を崩すことはなく、その微細構造などが議論されることはなかった。

 しかし現在…魔法科学の出現によって唯物論が否定され、魂魄の存在の確認をはじめとした形而上学的事象が次々に定義されるようになると、空間にも情報定義的側面、すなわち形而上学的な性質や構造が有することが解明され始めた(ここで、"始めた"と述べるに留まっているのは、空間の性質の全てが人類の手で解明されたワケではないからである)。同時に、空間の大前提とされていた"等方等質性"も瓦解。世界には様々な"歪んだ性質"を持つ空間が存在し得ることが判明した。

 この空間の多様性を証明する、比較的身近な現象が"空間汚染"である。

 この現象は同時に、空間が単なる事象に対する容器ではなく、空間もまた事象そのものであることを説明するものでもあった。

 

 …という、魔法科学における小難しい状況はともかくとして。

 ノーラ達、星撒部一行は鉱業都市国家アルカインテールの入都ゲート付近から、都市内部に広がる空間汚染を形而上相からよくよく観察すると…。巧妙に偽装された"不審な性質"が存在することを突き止めた。

 "突き止めた"というものの、一行のうちロイだけは事情を理解しておらず、手持ち無沙汰な態度で後頭部で両腕を組んで、ぼんやりと縦縞状のノイズの走る空間を見やっている。彼は戦闘能力は高いものの、解析といった繊細な技術を苦手なようだ。

 そんな彼を放置して、ノーラ、(ゆかり)蒼治(そうじ)の3人は確認した空間汚染について議論を交わす。

 「これって…人為的なもの、ですよね…?」

 始めに口を開いたのは、最後に空間を確認したノーラである。

 これに対して蒼治は、コックリと深く縦に首を振って肯定する。

 「だろうね。

 こんなに見事な幾何学的な術式構造、単なる空間汚染には絶対に見られない特徴だ」

 ノーラ達3人が形而上相を通して見て、汚染された空間の構造。細部に集中すれば、確かに、発狂した物理性質を表す術式が脳を犯す勢いでグチャグチャに泳ぎ回っているだけだが…。認識の格子を目一杯広げてみる――形而下相面積にして、草野球場ほどの面積を視野に入れる程度――と、そこに現れたのは美しい正多角形のパターンだ。そしてパターンの内部には、非常に整理された形の術式がデンと居座っている。

 加えて、この巨大な術式が記述している物理現象とは…。

 「空間の断絶はもちろんだけど、大規模で繊細な光学偽装が巧みに施されてるんだもんねー。

 これで人為的じゃないとしたら、地球サマだか宇宙サマだか知らないけど、よほど立派な意志を持っていることになるわよねー」

 そんな皮肉に満ちた揶揄を宿した言葉を発したのは、紫である。

 「光学偽装しているってことは…この向こう側には、他人に見られたくない何かがある…って、いうことですよね?」

 ノーラの問いに、再び蒼治が首を縦に振って答える。

 「そういうことだろうね。

 しかし…非常に妙な話だな」

 蒼治は形而上相の視認行動を停止すると、戦火によって焦げた地面に視線を下ろして(あご)に手を添えて、小首を傾げる。

 「確かに、この空間汚染の偽装は非常に巧みなものだけど…。

 だからと言って、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)が解明できないものだとは思えない。現に、学生である僕らが解明出来たんだ。僕らよりも技術も経験も豊富な人材を抱えているはずの彼らが、これを見逃すなんて、考えられない」

 「だとすると、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)自体が、この都市国家(まち)の現状を隠したがってるってんじゃないですかね?」

 こちらも形而上相の視認を停止した紫が、腕を組んで蒼治に視線を向けて語る。

 しかし、蒼治は納得せずに、顎に手を押いたまま再び小首を傾げる。

 「もしもそうだとするなら…何故ルニティさん達は、僕らがアルカインテールの調査に行くことを快諾したんだろう?

 僕らは一介の学生に過ぎないかも知れないけど…誇るワケじゃないが…地球圏最高の教育機関、ユーテリアで学んでいる身だ。下手な大学よりも高度な魔法科学の教育を受けていることぐらい、ユーテリアのOBやOGを多数抱えている地球圏治安監視集団(エグリゴリ)が認識していないワケがない。

 偽装を解析されるリスクは、十分に考えつくはずだ」

 「でも、あの難民キャンプを運営している軍団と、この都市国家を管轄している軍団が別だとしたら、説明が付くんじゃないですかね?」

 紫が更に食らいつき、言葉を続ける。

 「地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の軍団って、独立性が強いじゃないですか。

 この偽装も、この都市国家を管轄している軍団が独断で行ったものだとすれば、難民キャンプの『オレンジコート』に話が行っていない可能性はありますよね?」

 「うーん…それは一理あるけどね…」

 蒼治は首を傾げることをしなかったものの、手を当てた顎を更に引きながら唸る。

 「もしも紫の考えが正解だとしたら…鉱業という特色しかないはずのこの都市国家に、地球圏の守護を大義名分にしている巨大組織が、一体どんな価値を見出したのか…。

 全く新しいエネルギー資源鉱物が見つかったとしても、唯物論的理由から資源に困窮した旧時代じゃあるまいし、事実を隠匿してまで独占するような情報には成り得ないと思うんだよね…」

 「あの…その、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の見出した価値ですけど…」

 ここでノーラが、怖ず怖ずと挙手しながら…いや、気弱な風体で立てた人差し指で天空を指し示しながら、言葉を挟む。

 「もしかして…あの小さな『天国』に、何か秘密があるんじゃないでしょうか…?」

 蒼治、紫は勿論、話題に入らず(というか、入れず)詰まらなそうにしていたロイも、ノーラの指の先へと視線を注ぐ。

 そこには、天から地に向かって延びる、3つの長大な長方形が密に集まった幻影的存在――『天国』がある。その面積ときたら、住宅1棟よりも小さいかも知れない。

 「ふむ…『天国』、か…」

 キラリと輝く眼鏡をクイッと直しながら、紫の議論の時よりも力強く堅固な口調で蒼治が呟く。

 ノーラが自論に裏付けの骨格を与えるべく、続けて言葉を口にする。

 「あんなに小さな『天国』って…私、初めて見ましたし…偏見かも知れないですけど、とても異様だと思うんです…。

 もしかして、あれは…『握天計画』によって人工的に生み出された『天国』だったり…しませんか…?」

 『握天計画』。それは、『現女神』ではない人類が『天国』を手中に収まるための試行の実践の総称である。が、大抵の場合、『天国』の独占を目論む組織が行う、非人道的であったり無茶苦茶であったりするような、ろくでもない実験を指す。

 『握天計画』には、成功例がない――とされる。もしもノーラが予想する通り、アルカインテールの上空に存在する『天国』が『握天計画』によって生み出されたものだとすれば…それは人類にとっての快挙と成り得るかも知れない。

 「確かに、あんなに小さな『天国』は珍しいけどね…。

 でも、怪しいかと言われれば、僕としては五分五分だね」

 蒼治が視線を天からノーラに戻し、ちょっとズレた眼鏡をクイッと戻しながら語る。

 「『天国』と言えば、僕らの母校(ユーテリア)や、昨日訪れたアオイデュアのように、都市国家規模の広大なものが真っ先に連想されるけどね。でも、規模の小さい『天国』が存在しないワケじゃない。

 有名なところでは、サファリーヤ砂漠の『ミニマム・オアシス』だ。それまで知られていたどの『天国』よりも、格段に面積が小さかったそれは、発見された当初は一風変わった蜃気楼としか思われていなかった。だけど、時間帯や季節に関わらず位置も形状も変化しなかったことが疑問視されて、本腰を入れた調査がなされた結果、『天国』だと解明されたんだ。

 僕も一度見たことあるんだけど、面積はこの『天国』より一回り大きいくらいだったね。

 その例を鑑みると、この『天国』が特別だとは、現時点では判断できないね」

 「そう…ですか…」

 ノーラが口にする理解の返答はとてもぎこちなく、全く納得していないことが明らかな口調である。

 そう、彼女は全然納得などしていない。蒼治よりも地球に関する見聞は狭いし、理論的な根拠を持っているワケでもないが…ただひたすら、背筋がザワザワと落ち着かないのだ。

 (単ある予感と言われたら…それまでだけど…。

 絶対に、何かある…確信できる…)

 そんな風にノーラ達が3人が議論を交わしている最中のこと。蚊帳の外にいたロイが、ふわぁ~と大きな欠伸すると、涙で濡れた睫毛(まつげ)を擦りながら口を挟む。

 「ここでウダウダ言い合ってても、仕方ねーじゃん。

 さっさとこの…偽装だか何だか分かんねーけど…ニセ空間汚染をぶっ壊して中に入って見りゃ良いじゃねーか。その方が、何が起きてるのか、すぐに分かるだろ?」

 余りにも思慮のない、あっけらかんとした意見に、ノーラ達は3人は顔を見合わせると…一斉に、苦笑を浮かべる。

 ロイの意見は全く思慮に欠けるものだが、正論だ。"百聞は一見に()かず"の言葉通り、ここでいくら予測に基づいた議論を交わしたところで、事実を導き出せるワケがない。

 

 …ということで、一行はロイの意見に従い、偽装された空間汚染――偽装空間障壁と言うべきかも知れない――の一部を破壊し、アルカインテール内部への進入を試みることにした。

 

 偽装空間障壁の破壊の役目は、一行の中でもっとも魔術に長ける蒼治が担うこととなった。先頭に立った彼は、縦縞状のノイズが走る地点とは1、2歩程度の距離を取ると、純白のマントを(ひるがえ)して五指をピンと伸ばした手のひらを真っ直ぐにのばし、空間に施された術式の打ち消し作業に入る。

 ブツブツと術言(チャント)を唱えるに連れて、蒼治の手のひらが青白く輝く魔術励起光に覆われ、それに呼応するように、ノイズの入る空間の表面に(という言い方は少々おかしいかも知れないが…ともかく、平面状に)輪郭のぼやけた青白い円が描かれる。円の中をよくよく見やると、細かい術式がアリの大群のようにワサワサと動いている様が確認できる。蟲が嫌いな者がこれを見たら、顔を歪めずにはいられない光景だろう。

 一方、蒼治の後ろでは、残る3人が臨戦態勢で横一列に並んでいる。ノーラは愛用の黄金色の大剣を油断なく構えているし、紫は彼女の能力である『魔装(イクウィップメント)』を解放して、紅白を基調とした機械的ながら有機的な鎧を身にまとっている。ロイは黄金の瞳を刃のようにギラリと輝かせつつも、牙が覗く口を不適な笑みの形に成しながら、今にも殴りかかりそうな格好を取っている。

 3人が臨戦態勢を取っているのは、蒼治の指示による。

 「この偽装を施したのが地球圏治安監視集団(エグリゴリ)だろうが他の組織だろうが、この向こう側に他人(ひと)知られたくない"何か"があるのは間違いない。

 万が一偽装が暴かれた時のために、目撃者消去用の防衛手段を配備していると考えて然るべきだろう。

 それが急に襲いかかって来ても良いように、準備はしておくべきだ」

 蒼治は偽装解除で手一杯なので、3人が彼の護衛を兼ねて、臨戦態勢を取っているというワケだ。

 さて、蒼治が偽装解除作業に入って、数分が経過した頃。ジジジッ、とセーターを擦り合わせて静電気を起こしたような耳障りな音が発生する。と、同時に、蒼治がかざした手のひらの真正面に、輪郭が大きく歪んで波打つ"穴"が現れる。

 「おっ! ついにこの都市の真の姿とご対面か!」

 隠されたものを暴く時の子供のような興奮でも覚えているらしいロイが、楽しそうに自らの拳と手のひらをパンッと打ち合わせながら語る。

 そこへ紫がチラリと切れそうなほど鋭い半眼を向け、抑えめな低い声で(いさ)める。

 「蒼治先輩の集中を乱すような無駄口は叩かないこと!

 空間操作系の魔術は、術失態禍(ファンブル)を起こしやすいんだから」

 そんなやり取りをしている内にも、紫の心配をよそに、偽装空間に出来た穴はブヨブヨと輪郭を激しく波打たせながら、立ち歩いたばかりの赤子が歩く速度で面積を広げてゆく。

 やがて…穴は直径5メートルほどまで拡大すると、それ以上の成長を停止する。同時に、蒼治がフゥ、と安堵のため息を吐いて作業の終了を告げながら、かざしていた右腕を下ろす。

 「防衛設備のようなものは、設置されていないみたいだね。

 極力、偽装の術式構造を変質させないように穴を開いたから、施術主にも検知されていないはずだ」

 蒼治は眼鏡をクイッと直しつつ、安心感と自慢とを3人に語りながら、穴の向こうを光景を(さら)すべく横方向に大きく一歩退く。

 

 こうして、一行の前に現れた、アルカインテールの真の姿とは…。

 

 「なんだ、偽装してるっていうから、どんなモンかと思ってたけどよ。

 あんまり変わんねーじゃんか」

 都市の真なる姿を目にすることに意気込んでいたロイであったが、ガッチリと合わせていた腕をダラリと垂らして、ガックリと肩を下げる。

 彼ほど極端な反応は見せないものの、ノーラも紫も目にした光景に拍子抜けとばかりに目をパチクリとさせている。

 それもそのはず。偽装された空間の向こうにあるのは、相も変わらぬ"瓦解した街並み"でしかないからだ。相違点と言えば、縦縞状のノイズが消えたことと、建物の崩壊の度合いや瓦礫の位置が多少違うことである。偽装を解いた後の方が崩壊の状況が酷いことを鑑みると、偽装状態の空間が映し出していたのは同じ地点の過去の街並みのようだ。

 多少の落胆を隠せない3人に対して、蒼治もまた苦笑いを浮かべて肩を(すく)めてみせながら、拍子抜けの光景を庇うように言葉を紡ぐ。

 「まぁ、隠したいものが、都市(まち)の外縁区画にあるとは限らないからね。

 この偽装はさしずめ、人払いのための結界というところだろう」

 「つまり、この空間汚染ってのは、ただの虚仮威(こけおど)しってことか。手の込んだ無駄しやがって」

 ロイはやるせなさげに後頭部で腕を組み、大股でスタスタと偽装空間に近寄ると、縦縞状のノイズが(せわ)しなく走る空間を人差し指で突こうとする。

 と、その瞬間、蒼治が眼鏡をきらめかせながらロイの方へ振り向くと、釘のように鋭い言葉で文字通り釘を刺す。

 「触るのは止めた方がいいぞ。

 人工のものとは言え、それは本物の空間歪曲だ。発狂したポテンシャルに牙を剥かれて、突っ込んだ指が分子分解するかも知れないぞ」

 「うわっと!」

 ロイは指を突っ込む寸前で慌てて飛び退き、事なきを得る。

 そんなロイの無為な行動を皮肉げな笑みで見つめていた紫が、やれやれ、といった感じで首を左右に振りながら突っ込む。

 「全くさぁ…その手の込んだ無駄に、無駄な好奇心を抱いた挙げ句に、無駄に怪我したら笑い者どころじゃないっての。

 そんなことより、さっさと中に入って、都市(まち)の状況を確認して、クマのヌイグルミ探索の作業に入りましょ。

 ただでさえ途方もない作業だってのに、下手に時間を浪費されたらやりきれないわよ」

 そう言うが早いか、紫はサッサと大股で、蒼治の作り出した進入口の中へと入ってゆく。

 「紫の言う通りだね。

 僕は確かに、不可能な作業ではないと言ったけど、困難であることには間違いない。

 素早く作業に取りかからないと、日が暮れるどころじゃ済まなくなる」

 そう言い残して蒼治が後に続くと、そのすぐ後ろをノーラが小走りで続く。

 進入口に入る直前、ノーラはチラリとロイに視線を向けると、申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。

 「ごめんね、ロイ君…私も、先に行くね。

 相川さんや蒼治先輩には、手伝ってもらってる身だから…足を引っ張らないようにしないと、いけないから…」

 そしてノーラの姿も見えなくなり、ロイだけがポツンと残されると。

 「なんだよっ、オレも行くってのっ! ちょっと息抜きにふざけて見ただけじゃんかよっ!」

 牙の輝く大口を開きながら叫ぶと、焦げついた大地に砂煙を上げる勢いで足を回して、先の3人の後を追う。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Borderland - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 偽装空間の向こう側にたどり着いたからと言って、直ちに何か分かるというものではなかった。

 見渡す限りの瓦礫、瓦礫、瓦礫ばかり。特筆すべきものは何1つないように見受けられる。

 ――"見受けられる"と言及したのは、視覚的な情報に限れば、ということを強調するためだ。では、他の感覚の観点に立つことで、何らかの特徴を確認できるかと言えば…。

 「…なんか、遠くの方が(やかま)しいわね」

 紫が眉根に(しわ)を寄せて、そう評した。

 彼女の言葉通り、都市(まち)の遠方からは、ズゥーン…ズゥーン…と、くぐもった雷鳴のような鈍い轟音が断続的に聞こえてくる。

 「確かに…何の音だ? 爆発音みたいな感じだが…」

 蒼治が首を傾げてそう感想を述べると、彼の背後でノーラがギクリとする。

 「そんな、爆発音って…この都市(まち)の戦争状態って、もうすでに終結したという話でしたよね…?

 なんで今になって…爆発音なんて物騒なものが聞こえるんですか…?」

 「僕は"感じ"って言っただけで、確定したワケじゃないよ」

 オロオロするノーラに対して、蒼治は苦笑しながら言及する。

 「とは言え…この位置に居ても、この音の正体は確認できないな」

 蒼治は前方に向き直り、誰ともなしにそう呟いた。

 彼の言う通り、一行の現在位置周辺は建造物に由来する背の高い瓦礫が林立していることもあり、遠方まで見渡すことはできない。先の轟音が本当に爆発音だとしても、爆煙を確認できるような状態ではない。

 「もう少し、見通しの良いところまで移動してみよう」

 蒼治は後輩たちにそう言い残すと、彼らの答えを待たずに素早く歩みを進める。後輩たちも先輩である蒼治の提案以外に何かやれることも考え付かないので、異論を挟むことなく黙って従う。

 蒼治が歩く道のりは、入都ゲートからそのまま続く道路の成れ果てである。激しい亀裂が走ったり、大小の瓦礫が散らばっていたりと路面の状態は最悪だが、元々はゲートから入ってきた鉱物資源輸送車が利用する基幹道路だったらしい。市壁に沿ってグルリと巨大な弧を描くこの道路に沿って進めば、都市の中心部に延びる別の基幹道路に合流する可能性は高い。

 一行が足場の悪い道をヒョコヒョコと歩いている途中、視界には特に目新しいものが入って来ることはない。相変わらずくぐもった轟音が遠方の雷鳴のように続いているばかりだ。この音さえ無ければ周囲の光景は、悲壮感を通り越して退屈さをもたらしていたことであろう。

 無言で歩くこと、十数分ほどの後。ついに道路にT字路が現れる。市壁と正反対の方向には、今まで歩いてきた道路よりも更に幅の広い道路が真っ直ぐに延びている。

 先頭を歩いてきた蒼治がすかさず、道路の遠方へと視線を投げるが…。

 「うーん…これじゃあ、分からないなぁ…」

 すぐに首を左右に振って、眉をひそめる。それもそのはず、道路は左右を背の高い摩天楼に囲まれているのだが、そのうちの何本かが盛大に傾いたり倒れたりしていて、視界を塞いでいるのだ。

 「うわぁ…すごい光景ですね…」

 蒼治に追いついたノーラもまた、道路の遠方に視線を投げると、固唾を飲むような感嘆の声を上げる。

 昨日のアオイデュアの火炎地獄と化した街並みも壮絶であったが、骸骨を連想させるような退廃的な街並みが視界一杯に遠く遠く続いている様も、なかなかに壮観である。

 とは言え、感激したところで、何か新しい情報が得られるわけでもない。かと言って、視界が晴れる場所を求めて、この長い長い道路をひたすら進むのもナンセンスだ。そもそも、この道路の先に開けた場所があるかどうか、確証も持てない。

 蒼治が、どうするべきか、という言葉を表情に張り付けて顎に手をおいて思考に耽り始めた頃。彼の背後で紫が一つ咳払いしてから、提案する。

 「私が"尋ねてみる"わ。

 えーと…ここら辺のどこかに…」

 何に"尋ねてみる"のか、という疑問を挟む隙も与えずに、紫は瓦礫ばかりの大地に視線を落として見回す。しばらくそうした行動の後、「あった、あった!」と小さく叫んで、小走りに移動する。

 移動した先の地点は、一見すると、周囲の光景に比べて何の変哲もない場所である。だが、紫がスッとしゃがんだ時、ノーラはふと気付く。紫の足下に、タンポポに似た形の植物がアスファルトの亀裂の隙間から生えている。芽生えてからそれほど時間が立っていないようで、葉は小さくて初々しい黄色がかった緑色をしており、花などは付けていない。

 この植物に対して手を伸ばした紫は、

 「ゴメン、葉っぱを1枚、もらうね」

 と優しく声をかけながら、丁寧に両手を使って、ノコギリ様の葉を一枚千切る。

 これを手にして立ち上がった紫が、次は何をするのかとノーラが注視していると。彼女は葉の断面の周辺を、唇でフワリと挟んだのだ。

 そして紫は、葉の断面から滲み出る植物の汁でもジックリ味わうように、目を軽く閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返す。唇の端がピク、ピクと動いているのが見えるが、これはどうやら舌を動かしている証のようだ。断面を舐めているらしい。

 この行動の意味を理解できず、小首を傾げていたノーラであったが…ふと、脳裏に学園での授業の1コマが過ぎると、「あっ」と小さく呟いて気がつく。

 紫の行動は、現代のサバイバル技術において"植物読(プラント・リーディング)"と呼ばれる、立派な情報収集行為だ。ノーラは極地における活動にはあまり興味がなかったため、極地環境およびサバイバル系の授業は教養程度にしか受けていなかったため、その用語がスルリと頭の中から出てこなかったのだ。

 (確か…)

 おぼろげな記憶を辿り、ノーラは教師による"植物読(プラント・リーディング)"の解説を思い出す。――植物は成長や活動こそ動物に比べれば速度は穏やかだが、その身に受ける時間経過は動物と変わらない。むしろ動きがゆっくりな分、過去に経験した事象が魂魄に沈着しやすい、という特徴がある。これを利用して、植物の魂魄から過去の事象の形跡を辿り、思考内で解析する。それが、この技術の概要だ。

 紫はクラスの中でも、極地を含めた環境学ではダントツの成績を誇る。そんな彼女にとって"植物読(プラント・リーディング)"とは、双眼鏡で周囲を確認するのと等しいほどの定番の情報収集行為であろう。

 葉っぱを味わう…いや、味覚を通して葉っぱの魂魄にアクセスし、解析すること、数十秒程度。ゆっくりと瞼を開き、薄い桜色の唇から真紅の舌をチロリと出しながら葉っぱを口から取り出して、右手の指で[[rb:摘]]まむと。そのままクルクルと回して(もてあそ)びながら、眉根に渓谷のような深い皺を寄せる。

 「どうしたんだ?」

 ただならぬ様子に蒼治が尋ねると、紫は真冬の空の元に薄着で放り出されたようにブルブルッと震えてから、岩でも噛み砕くような堅い調子で答える。

 「すっごい、悪寒の味…。この植物()、現在進行形で、ひどく怯えてる。

 それに…煙臭いのとか、焦げ臭いのとか、感電するみたいなピリピリしたのとか…ともかく、不味(まず)い味ばっかり。それも、1ヶ月前とかそんなんじゃない。極最近…そうね、2、3日前の記憶の味かな」

 煙臭い、焦げ臭い、そして感電するような味…その言葉はどれもこれも、きな臭いものばかりだ。これには蒼治のみならず、ノーラも紫同様に眉をしかめる。

 「君の言葉を(かんが)みると、どうも"戦闘"って単語が連想されるんだけど…」

 「そうですね」

 蒼治の問いかけに、紫ははっきりと首を縦に振る。

 「私も、そう思いますよ。この植物()から、燃えるだとか潰されるだとか云うことに対する恐怖がひしひし伝わってきましたからね。

 かなり派手なドンパチやってるような感じですね」

 「そ、そんな…!? それじゃあ…ホントに…この都市(まち)の戦争状態が、今も続いてるってこと…なの!?」

 ノーラが悲鳴に近い声を上げる。自らが受けた"クマのヌイグルミ探し"だけでも途方に暮れる任務だと思っているのだ。そこに、混沌の化身たる戦争が加わっては、話が更にややこしくなるどころの話ではない。

 「しかし、気になるのは…」蒼治が例によって眼鏡を直しながら堅い言葉を挟む、「植物が現在進行形で怯えている、ということだな。この場所に、何か物騒なものでも仕掛けられてるいるのか?」

 言いながら、キラリと輝く眼鏡越しにキョロキョロと周囲を見回していると…突如、ギクリ、と蒼治の身体が固まる。

 魔術に造詣の深い蒼治のことだ、魔化(エンチャント)系の戦術トラップでも見つけたのだろうかと、女子2人がそちらの方を向くと…彼女らもまた、ギョッと目を見開いて固まる。

 3人が見たもの、それは危険な魔化(エンチャント)でもなければ、露骨な兵器でもない。――ロイである。

 考えてみれば、入都する前まで騒がしかった彼が、急に黙り込んだままになっていた状態は異様であった。

 そして、3人の視界に映るロイの有様は、正しく異様そのものである。

 その姿はまるで、仇敵を前にして全身の総毛を立たせて威嚇するネコを思わせる。ただし、ロイはネコどころではない、正真正銘の(ドラゴン)だ。そんな彼の迫力といったら、ネコの比どころではない。真紅の髪からは槍先のような角が鋭く天をめがけて延び、両手は黒々とした鱗に覆われた長い鉤爪を持つ竜腕へ変化している。両足も靴が完全に破裂し、手と同様な強靱な黒竜の足が露出している。尻尾は鱗に幾重ものトゲが生えた凶悪な状態へと変じている。背に翼こそ現れてはいないものの、ほぼ本気の臨戦態勢だ。

 鋭い牙が露になる口からグルルル、と威嚇を込めた咽喉(のど)鳴りを漏らす剣呑極まりないロイに、額にジットリと冷や汗を張り付けたノーラが()()ずと尋ねる。

 「ロイ君…? い、一体…どうしたの…?」

 「お前ら、気付かねーのか!?

 物(すげ)ぇ量の殺意だぞ! この辺りに近づいた頃から、急にオレ達に向けて来やがった!

 どこからって方向は分かんねーけど…! ともかく、かなりヤバいぜ!」

 「うっそ!? 殺意!?」

 「気配なんか、全然感じないぞ!? 生命の存在を裏付けるような術式だって、全く感知できてないし!?」

 紫も蒼治も、ロイの言葉は全くの想定外だったようだ。激しくキョロキョロと首を回しながら、周囲の確認を行うが…。どう見ても、死に絶えた荒廃の閑寂の有様しか目に入ってこない。どこにも、爪や牙を研ぐ凶暴な要素など見受けられない。

 しかし、『賢竜(ワイズドラゴン)』という希有にして特殊な存在であるロイが、その特異で鋭敏な知覚で把握し、殺気むき出しで警戒しているのだ。これを気のせいだと笑い飛ばすことは、とてもでないができはしない。

 何度も何度も視界を巡らせても、殺意の主は確認できない。雲を掴むどころではない、全くの暗中模索の状況に、ノーラ達は自然と互いの死角を補うべく、背中合わせになって1箇所に固まる。蒼治も愛用の双銃を取り出して身構え、4人全員が臨戦態勢を取る。

 「どこに居るってのよ…! これで取り越し苦労だったら、ロイ、アンタのことをブッ叩くかんね…!」

 ジットリと冷や汗を浮かべた紫が、丁度真後ろに位置取っているロイに静かに毒づいた、その時。一滴の汗滴が、ツツーッと瞼の上を滑り、紫の赤みがかったブラウンの瞳の中に入り込む。ジンと沁みる塩気に、紫が左眼をギュッと閉じた。

 

 ほんの一瞬だけ出来た、一行の死角。そこを"敵"は見逃さなかった。

 半分閉ざされた紫の視界の中で…ビルの端っこと思われる、角張った形をした人の身長ほどもある瓦礫が、急激な変化を始める。

 まるで、油粘土細工の作品を一度手でこね直すかのように…瓦礫の形が、グニャリ、と輪郭と外観を失って融け出す。そのまま暗い灰色がかった軟体へと変じた"瓦礫"は、弄ばれるパン生地のようにグニグニと変じると…以前とは全く異なる形態へと変形を完了する。

 この数瞬の過程の中、"瓦礫"は徹底した無音を貫いていた。変形の過程をよくよく観察すれば、表面に非常に鈍い輝きをした蛍光色の魔術励起光が発されていることに気付くことが出来たであろう。この励起光の起因となる魔術は、どうやら形質の変形とともに音声の発生の阻害を行っているらしい。

 こうして変形を完了した"瓦礫"――いや、今や全く瓦礫とは呼べない――の形状は、外観が甲殻類か甲虫に似ている。ただし、外骨格は光沢を抑えた鈍い色の金属装甲であり、間接から覗く筋肉繊維は、陽光を反射してキラキラと輝く生体金属繊維だ。地に突き立つ4対の脚は、先端が槍のように尖った凶悪なもので、カニの脚にも見えなくはない。ズングリした胴体はクモにも見えるが、毛は全く存在せず、多少の隆起は存在するもののツルリとした外観をしている。

 そして、頭部。上下左右に円上に収縮する口腔の周囲には、白い牙がズラリと並んでいる。その表面に見えるいくつもの黒ずんだ染みは、何物かを食した痕なのかも知れない。この口器も特徴的であるが、更に眼を引くのは、顔面のほぼ中央にデンと据えられた巨大な単眼だ。瞼を失った人間の眼球に似たそれは、黒々とした光彩とコントラストを成すように、白目が真っ赤に充血し、ブヨブヨと腫れ上がっている。徹夜明けの人物でもここまで酷くはならないだろう、と言うほどの、病的という印象を遙かに越えた不気味な眼球だ。

 "瓦礫"――いや、こいつを一時的に"凶蟲"と名付けよう――は変わり果てた自身の形状を馴らすように、ギチギチゾロリ、と牙を(うごめ)かすと。4対の脚をバネのように引き絞った後、無音のまま烈風の速度で水平方向に跳躍する。

 そして、紫が閉じた左瞼を上げるのと同じ速度で、彼女の方へと肉薄した。

 

 パチリ、と紫が左眼を全開にした、その途端。

 「は…?」

 眼前に迫る異形の凶獣のアップを視認した紫は、驚くよりも状況が理解できず、疑問符を浮かべて間抜けな声を上げた。

 直後、"凶蟲"はグワァッと円形の口を拡張し、ネットリした唾液の糸を見せつける。その不快な光景に紫の危機感がゾワリと機能し始めるが…遅い。彼女の視界の端に、槍のように研ぎ澄まされた刃状の脚の先端が、霞んで見えるほどの高速で迫り来る様子が確認できた。

 いや…霞んで見えるのは、速度のためだけではない。脚自身が超高速で振動していることにも起因する。つまり、"凶蟲"の脚部は高硬度の物体も豆腐のように切断できる、超高周波振動ブレードの役割を成しているのだ。

 (ヤバッ…!)

 紫の脳裏に、自身の頭が横一文字に真っ二つにされる様子が描画される。その最悪の未来を回避しようと理性が叫ぶものの…本能がそれを上回る声量で"手遅れだ!"と叫んでいる。その虚しく惨めな悲鳴によって、紫の足は大地に張り付いてしまったかのように、ピクリとも動いてくれない。ただただ、不毛な冷や汗ばかりがブワリと滝のように全身が吹き出すばかり。もはや紫は、悲劇の虜となってしまった――。

 転瞬――ガギィンッ! 激しく、耳障りな金属の衝突音が、紫の鼓膜をふるわせる。。

 (え…金属音?)

 無意識に眼を閉じてしまっていた紫は、暗い視界の中に響く想定外の音に、キョトンと疑問符を浮かべる。

 状況が呑み込めぬまま、パチクリと瞼を開くと、そこには…"凶蟲"の超高周波振動ブレードの脚部を受け止める、一本の長剣。その刀身もまた輪郭が霞んで見えるが、それはこの長剣自体も超高周波振動ブレードであるようだ。その周波数で"凶獣"の脚部の振動を減衰させることで、悲劇の遂行を阻止しているらしい。 

 唐突に現れたこの長剣は、一体どこからきたというのか? 相変わらず疑問符を浮かべたまま、刀身に沿って視線を這わせてゆくと…。やがて長剣は、(つか)を握り込む両手へ、そしてアオイデュアの制服を着込んだ腕へ…そして遂には、両足を踏ん張って"凶蟲"の体重に抗うノーラの姿にたどり着いた。

 そこで、紫はようやく理解する。今回のあまりに唐突な出来事を前に、神業とも言える反射速度で反応したノーラが瞬時に愛用の大剣を『定義変換(コンヴァージョン)』し、"凶蟲"の攻撃を防御してくれたことを。

 「大丈夫ですか、相川さん…!」

 視線だけをチラリと紫へ寄越しながら雷光のように問いかけるノーラであるが、それもほんの一瞬のことだ。紫の答えを待たずに、ノーラは両足に全力を込めて引き絞られたバネのように大地を蹴ると、"凶蟲"を一気に弾き飛ばす。この際、ノーラの足の裏に方術陣が出現したことから、筋力倍加系の身体(フィジカル・)魔化(エンチャント)によってこの行動を可能にしたことが分かる。

 

 「ギュイィッ!」

 仰け反りながら吹き飛ばされる"、凶獣"。しかし宙を滑るのは一瞬のこと、すぐに刃状の脚部を延ばして大地に突き立て、ブレーキをかけながら体勢を立て直す。

 「な、何なのよ、あいつ!? どっから沸いて来たのよ!?」

 紫の叫びに対して、"凶蟲"が返答だとばかりに取った行動は…背部の装甲を4カ所、パカリと解放して、銃口を出現させる。

 「ちょっ、嘘っ!?」

 未だに状況に対応できずに、慌てるばかりの紫に対し、"凶蟲"は銃口からガガガガッ、と電子的な連続音を放ちながら弾丸を掃射する。放たれた弾丸は単なる銃弾ではなく、魔化(エンチャント)を表現する青や赤の励起光を伴いながら、生物的な曲線機動を描いて迫ってくる。

 これに対応したのも、ノーラだ。紫の前に飛び出しながら、手にした長剣に対して『定義変換(コンヴァージョン)』を発現。肉薄する弾丸の性質に合わせて刀身の性質を変形させると、烈風のように銀閃を(はし)らせ、凶弾をことごとく弾き散らす。弾丸と刀身が激突した瞬間、炎や霜をまき散らす小爆発が発生し、弾丸に込められた徹底的な殺意が見て取れる。

 弾がを弾かれ続けながらも、"凶蟲"は掃射を一行に停止しない。むしろ、掃射速度を速めてノーラの防御行動を手一杯に追い込むと…続いて、腹部の装甲をパカリと解放。そこからは、背部のものよりもずっと口径の大きい砲門が姿を表し、即座に術式を収束させて射撃体勢に入る。

 ――ここに来てようやく、紫の瞳に怒りの色に染まった活力が沸き上がる。

 「こんのッ、キモムシッ! いつまでも調子に乗ってンじゃないわよっ!」

 ようやく口から飛び出した啖呵(たんか)を切りながら、魔装(イクィップメント)の機械装甲のバックパックおよび足裏のブースト機関を爆発的に始動。ノーラが防ぐ弾丸の雨の中をかい潜り、"凶蟲"の真紅の眼球の目前まで肉薄すると。

 「どっせいぃっ!」

 素早くしゃがみ込んだか早いが、右腕部の装甲にある放電機関から盛大な電火を放出しながら、固めた拳で"凶蟲"の顎を殴りつける。バチンッ! と電撃の爆ぜる音と共に、"凶蟲"の巨体が宙に浮き上がる。

 「ンでもって、こいつで…っ!」

 紫の攻撃は終わらない。殴りつけて伸ばしきった右腕に左腕を添えると、両手の合間に魔力を終結。先に魔装(イクィップメント)した際に具現化していなかった魔術機関付き大剣を出現させると、刀身の背についた4つのエンジンを始動。流星のごとき勢いでもって、烈しい斬閃を空間に(はし)らせる。

 (ザン)ッ! 重金属を斬り裂く苛烈な音が、大気に響きわたった時には、宙に浮いた"凶蟲"の巨体は袈裟斬りになっていた。美しい平面をした断面からは、有機体と金属機関が融合した異形の内臓が露わになり、人体の血液と同様のドロリとした真紅の体液がビシャリと宙に飛び出す。

 (奇襲なんてセコい真似してくるから、こんな目に遭うのよっ!)

 胸中で勝ち(とき)を上げ、ニヤリとほくそ笑む紫であったが…その愉悦も、ほんの一瞬のこと。彼女が表情が一転し、雷に打たれたような驚愕に染まる。

 "凶蟲"の傷口から、ブクブクと泡立つように金属質の細胞が増殖。見る見るうちに断面の合間を繋ぐと、油粘土をこねるようにニュルリと滑らかに変質し――何事もなかったかのように、元の状態へと快癒する。

 「嘘…っ!」

 紫の驚愕を冷めぬ間に、"凶蟲"は背中の装甲をパカリと開くと、今度はバーニア機関を露出。鉛直下方に推進材を噴出し、烈風と共に着地すると、腹部から露出したままの砲門で紫を照準しつつ、再び術式を収束。そして、プラズマ状の術式のビームを放出した。

 「ちいぃっ!」

 紫は舌打ちしつつ、大剣の刀身に橙色に輝く術式のフィールドを形成。"凶蟲"が放ったビームに真っ正面から両断するようにぶつけると、ビームは幾つもの細い奔流となったあらぬ方向へと弾き飛ばされ、紫は事なきを得る。

 だが、"凶蟲"の殺意に満ちた攻撃行動は終わらない。一気に紫の眼前に肉薄すると、今度は1対の前脚を超高周波振動ブレードと成して、左右同時から紫の体を切断せんと狙う。

 「なんのっ!」

 紫はすかさず半歩退いて、術式のフィールドを展開したままの大剣の刀身で"凶蟲"のブレードを受け止める。ギギギギィッ、と耳障りな振動音が火花を散らすように響きわたる。

 「ゴメンッ、ノーラちゃんでもロイでもいいからっ! 手、貸してくんない!? こいつ、相当厄介で…!」

 グイグイと前進してくる"凶蟲"と対峙したまま、声だけで仲間たちに助力を求めるが…。返答は、ない。

 「ねぇ、聞いてンの!? みんなッ!」

 チラリと背後に視線を向け、返答を催促した紫だが…。すぐに、固唾と共にその言葉を咽喉(のど)の奥深くにまで押し込む。

 紫は即座に理解した。仲間たちは、自分に助力するどころではないのだと。

 彼らは彼らで、おぞましくも恐ろしい状況を打開することで手一杯になっているのだと。

 

 紫が"凶蟲"との交戦を開始した頃。始めに彼女に手を貸したノーラは勿論のこと、ロイや蒼治もすかさず助勢しようと駆け出すところであった。

 だが――彼らの足を止めさせたのは、一行を取り巻く周辺環境の劇的な変化である。

 ニュルリ、ズルリ、ドロリ…物体が融け出し、流動する音がそこかしこから絶え間なく発生する。何事かと視界を巡らすノーラ達は、そこで背筋の凍り付く光景を視認する。

 路面に散らばっていた大小の瓦礫の大半が、微細な外観を捨てて油粘土の塊のような固い粘性体へと変質する。そのまま形状を変化させるものもあれば、小さな塊同士が終結して体積を増すものもある。その差異はともかくとして、変形の過程は紫を襲う"凶蟲"とほぼ同じである。

 「こいつらかよっ、さっきからオレ達に殺気をぶつけてきやがってたのはっ!」

 ロイが、牙だらけの口から苛立った声を上げるのと、ほぼ同時に。一行の周囲での瓦礫の変形が完了する。

 そして現れたのは…紫が交戦中のものと同型の"凶蟲"に加え、それよりも体積がずっと小さい――人の両手で抱えられるほどの大きさだ――真円形の胴体に3対の刃状の足がついたもの。後者は、巨大なテントウムシのようにも見えなくはない。こいつらは変形完了直後に背部の装甲を展開し、陽光を受けてうっすらと虹色を呈するフィルム質の"(はね)"を解放。ヴィィィン、と微かな振動音を奏でながら高速で羽ばたき、己の身体を宙に浮かさせると、脚を草刈り機の刃のように高速回転しながら飛び回る。…このタイプの個体を、"羽虫"と名付けよう。

 今や一行の周囲は、瓦礫よりも蟲どもの群れの方が目立つ状態だ。ざっと数えても、優に100を超えた数量である。そいつらが瓦礫に擬態し、なおかつ、魔術に長けた蒼治の探知魔術にも引っかからないような魔術的迷彩を施して潜んでいたのだ。

 ヴィィィィィンッ! 耳障りな翅と脚の駆動音を奏でながら、"羽虫"どもがフリスビーのように飛行しつつ、ノーラ、ロイ、蒼治を押し囲みながら接近する。その合間を縫うように、ズガガガガガッ、と機銃の掃射音と色とりどりの魔術励起光を呈する弾丸が雨霰と注ぐ。弾丸の発砲主は、勿論、"羽虫"よりも遠巻きに位置取りして背部装甲から銃口を出している、"凶蟲"どもだ。

 「散開して、回避および撃破だっ!」

 蒼治が雷のような指示を口にする頃には、ノーラもロイも既に各々別方向に跳び退いている。一カ所に固まっていては、取り囲まれて一網打尽にされることくらい、分かり切っている。

 ノーラは、中空に方術陣で足場を作って空中移動する『宙地』を繰り返しながら、超高周波振動する長剣を嵐のように振るいまくる。霞んだ銀閃が(はし)る度に、"羽虫"は高速回転する脚をグシャリと破壊され、そのまま両断される。真紅の体液を撒き散らしながら瓦礫と化し、ボロボロと路上に零れ落ちる。一方で、"羽虫"の合間を縫って、滑らかなカーブを描いて追尾してくる"凶蟲"の凶弾が迫れば、左手で防御用方術陣を展開して、その目的を阻む。

 実に巧みな戦いを繰り広げている彼女であるが、その行動範囲は一向に広がらない。むしろ、押し込まれてさえいる。というのも、両断した"羽虫"どもの残骸は着地するが早いか、即座にブクブクと切断面を泡立てて組織を高速再生。ものの数秒で健全な構造を取り戻すと、身体を馴らすこともなく瞬時に翅と脚を動かして、再びノーラに襲いかかるのだ。

 (こんなの…キリがないッ!)

 長剣を振るい、あるいは方術陣を展開しながら、眉根をひそめる。

 こうした苦境に立っているのは、蒼治もロイも同じだ。

 蒼治は身体の周囲にいくつもの防御用方術陣を展開しつつ、フルオート射撃モードに設定した双銃をひっきりなしに連射し、"羽虫"どもを撃ち落としている。彼が使用している銃弾は、術式のみで構成された弾丸であるため、物理的な弾切れを心配する必要はない。とは言え、(たお)しても片っ端から再生してくる"羽虫"には、正直、頭を抱えっぱなしだ。

 (くそっ! 何か、打開策はないのかっ!)

 形而上相から"羽虫"や"凶蟲"の魔術的性質をとくと解析したいところだが、そんな余裕はなかなか作れない。解析に入ろうとすれば、その行動を丁度邪魔するかのように、背後に回り込んだ"凶蟲"の魔化(エンチャント)された弾丸が方術陣に激突し、相殺しきれない衝撃に蒼治の痩躯が激しく揺さぶられる。

 「くっ!!」

 体勢を立て直すのと、防御用方術陣を維持するのと、この2つを同時に行うことで手一杯になっているところへ、ここぞとばかりに復活した"羽虫"が黒々とした霧のように群れて蒼治を攻撃する。

 まるで、ホラー映画においてコウモリの大群に襲われているような風体になった蒼治だが、彼は恐慌しそうになる思考を、フッと深呼吸と共に押し込める。そして、防御用方術陣の構造をさらに緻密に、そして強度を引き上げると、眼鏡越しにギラリと戦意の眼光を灯す。あとは落ち着いて、しかしながら素早く照準を定め、"羽虫"たちをフルオート射撃で蜂の巣にしながら、跳ねるように身体を引き起こす。

 なんとか窮地を脱したものの…状況は好転しない。撃ち落とした"羽虫"どもは早くもブクブクと組織を増殖させて、再生を始めている。

 「一体、どうすれば…っ!」

 有効な打開策が浮かばず、蒼治は思わず唾棄する。

 彼から離れること、十数メートル先では。ロイが漆黒の颶風となって、両の手足の鉤爪と強靱な尾を絶え間なく振るい、"羽虫"どもを破壊してゆく。"羽虫"の合間を縫って肉薄する"凶蟲"由来の魔化(エンチャント)弾に対しては、方術陣を形成して防御出来ない代わりに、強靱極まりない硬度を誇る鱗で(ことごと)くを弾き飛ばす。

 しかし、彼もまた状況が(かんば)しいとは言えない。破壊した"羽虫"は片っ端から再生して再び戦列に加わり、あらゆる方向から突撃してくる。全く(らち)の明かない状況に露骨な嫌気を表情に張り付けたロイは、牙だらけの口をギリリと噛み締める。

 「斬るのも叩くのも意味ないってんんならッ! これでどうだよっ!」

 "羽虫"たちを威嚇するように怒声を張り上げたかと思うと、ヒュッと鋭い音と共に吸気。直後、牙をゾロリとかみ合わせた口を露わにすると、牙の隙間から赤々とした輝きと共にもうもうたる蒸気が沸き上がっている。

 (ガァ)――ッ! ロイが大口を開き絶叫すると、轟声と共に咽喉(のど)の奥から(まばゆ)いばかりの真紅の熱奔流が放たれる。(ドラゴン)族の特有にして特徴的な攻撃、竜息吹(ドラゴンブレス)である。

 熱線は振り撒く高熱量で大気にリング状の衝撃波を発生させながら、射線上の"羽虫"、そしてその奥に鎮座する"凶蟲"を押し包んで進む。熱線が通った痕に残るのは、黒々とした消し炭になった蟲どもの肉塊だ。

 「ここまでやりゃあ、いくらしつこいテメェらでも、流石に動けねぇ――」

 己の成した大破壊に優越感を感じて、勝ち口上を述べているロイであったが。ニンマリと愉悦に曲がっていた口元が、すぐにポカンと間抜けに開く。

 と言うのも――消し炭にした肉塊の表面がブクブクと泡立って、金属と有機体が混合した組織を山のように盛り上げると、そのまま肉で出来た粘土をこねるように形状が激変。あっと言う間に元の蟲の形状に戻ると、"羽虫"はフィルム状の翅を高速で羽ばたかせて飛翔を始めるし、"凶蟲"は背部や腹部の装甲を展開して銃口や砲門を露出して魔化(エンチャント)弾や術式ビーム砲を放ってくる。

 ロイは即座に優越感をかなぐり捨てて、再び漆黒の颶風となって対処に当たるが…。その顔には、苛立ちよりも驚愕と焦燥が浮かんで止まない。

 「マジかよっ、オレの火炎息吹(ファイアブレス)も役に立たないのかよっ!?」

 さて…最初に"凶蟲"との戦闘を繰り広げていた紫も、今では大量の"羽虫"とも相手をしなければならない状況に陥っていた。

 「いい加減ッ! 吹っ飛んで、そのまま起きあがってくんなッてのっ!」

 背部と大剣のブースト機関を全開にして戦場を赤白の流星となって疾駆し、術式の刀身で"羽虫"を叩き斬りながら吹き飛ばすものの、彼女の周囲がスッキリすることはない。やはり次から次へと、再生した"羽虫"たちが戦線に復帰して彼女を執拗に狙うのだ。

 他の3人と同様、気丈に戦い続ける紫であるが、実際は星撒部一行の中で一番の苦境に立たされている。彼女は方術に長けているワケではないので、防御用方術陣を用いて"凶蟲"の弾丸やビーム砲を阻止することができない。かと言って、彼女の魔装(イクウィップメント)による装甲は、ロイの竜鱗ほどの強度を誇るワケでもない。大剣の体積による広範囲のカバーとブースト機関による高速移動で立ち回ってはいるものの、ひっきりなしの攻撃で装甲にはみるみるうちに損傷が広がってゆく。

 (ヤバッ…このままじゃ、押し込まれるのも時間の問題じゃん…ッ!)

 "羽虫"を一撃で3匹同時に両断しながら、ギリッと歯噛みをするものの、紫も蒼治同様、有効な状況打開策が頭に浮かばない。

 無尽蔵の敵戦力によって窮地へと追い込まれてゆく、星撒部一行。希望を振り撒くことを使命する彼らであるが、出口の見えない真闇のトンネルのような状況に、苛立ちと共に失意の感情が芽生えてくる。

 そんな中、蒼治と同様、状況打開のために敵の形而上相性質を確認する隙を伺っていたノーラは、記憶の琴線にふと触れるものを感ずる。

 ――金属と有機体が混合した体構造…真紅に充血し、腫れ上がった眼球…超絶的な再生能力…。これらのキーワードが、彼女の脳裏にとある記憶の光景を浮かび上がらせる。

 (…そうだ…! 私、この"蟲たち"のこと、知ってる…!)

 目を見開きながら、左掌に展開した方術陣で魔化(エンチャント)弾を弾き、右手に握った長剣で"羽虫"どもに斬撃の嵐を浴びせながら、思考を記憶の光景へ…過去に学園で受けた授業の内容へと、想いを馳せる――。

 

 ユーテリアに籍を置く身として、1日の授業には可能な限り出席することが義務だと感じていた頃。さほど興味を抱かなかったが、比較的役に立ちそうだと思って受けた、教養系の授業。

 羊顔の獣人教諭が担当していたその授業は、人類の定義およびその種類に関する学問――人類分類学に関する内容であった。

 「…とまぁ、今までのことをまとめると、現代における人類の定義とは詰まるところ…」

 獣人教諭は電子黒板に、丸みを帯びたフォントの文字で書かれた箇条書きを表示すると、レーザーポインタでその一部を指し示しながら解説する。

 「次の3つの点が条件となっています。

 1つ目は、自我を主張出来ること。2つ目は、言語的なコミュニケーションを行えること。3つ目として、魂魄を有すること。

 この3つを満たしてさえ居れば、あらゆる生物において例外なく人類と定義することができますし、逆に言えばホモ・サピエンスであっても条件を満たしていない個体は人類として認められないということです。

 対象の個体が人類かどうかを判定するが、地球に本部を置く人類審査委員会でありますが、それこそ天文学的な数量を誇る有魂魄個体すべてに対して逐次判定を下すのは非常な手間になります。そこで彼らは、人類を親に持つ個体は原則的に人類として判定することにし、疑わしい場合のみを取り扱って審議を行うことにしています。

 ここで問題となってくるのは、子が先天的障害をもって生まれる、または成人であっても後天的な障害によって条件を欠いた場合、人類としての認定を取り消されるべきかどうかということですが…」

 思い返してみると、授業の内容をかなり細部まで覚えているものだな、ちょっと驚くノーラであったが。ダラダラと授業の全内容を掘り起こしていては、遅かれ早かれ、戦闘への集中に支障をきたすことになるだろう。

 そこでノーラは、今回必要な部分のみにフォーカスを当てるよう、思考のライブラリをかき混ぜる。すると、脳裏に描かれたのは、同教諭が数枚の画像を電子黒板に表示している光景だ。

 電子黒板に鮮明なフルカラー立体映像として映し出されているその"存在"は、金属の外骨格に有機的なフォルムを有し、充血して腫れ上がった眼球を有する蟲状の生物。――形状こそ、実際に目にしたものとは異なるが、雰囲気は間違く、現在交戦中の"凶蟲"や"羽虫"と同等のものだ。

 「彼らは、人類審査委員会によって『癌様獣(キャンサー)』と呼ばれる種族です」

 教諭は、ノーラ達が正に交戦中の存在について、ピタリと種族名を口にしていた。

 「彼らは、先に上げた人類認定の条件をすべて満たしているにも関わらず、人類審査委員会によって未だに人類認定されていない種族です。

 その大きな理由として、多種族に対する非常に高い攻撃性が上げられます。彼らは種の存続のために環境と融和するという選択肢を持たず、ひたすらに食料および排除すべき障害物として、攻撃行動を取る傾向が強いのです。

 彼ら自身は電波通信などを通して硬度なコミュニケーションを行っているにも関わらず、他種族との接触をまるで無視する様子から、人類認定委員会からは言語的コミュニケーション不能と判断すべきだ、という意見が聞かれます」

 ようやく種族名までたどり着いたは良いが、交戦時下ではあまり役に立たない知識が再生されてしまった。ノーラは眉根を寄せながら、そして"羽虫"どもの猛攻を剣閃でいなしながら、さらに思考を深くに潜らせる。

 「彼の名前の由来は、その強力な再生および増殖能力に因ります」

 …遂に、ノーラの記憶は有効な知識にたどり着いた!

 しかし、安堵するのは早すぎる。有用な情報をきちんと引き出すまでは、気を抜けない。速読するように、素早く記憶を読み出す。

 「…彼らのこの能力は、細胞由来のものではなく、分子構造レベルに起因します。体組織の約70%を構築する重金属の金属格子構造内に、細胞核に似た状態で高密度の術式が格納されています。霊核と呼ばれているこの構造が、周囲の生態情報と常にフィードバックし合っており、異常が起きた際には異相空間上に存在する、種族間共通のエネルギー貯蔵組織から組織再生のためのエネルギーをリアルタイムで取り出すことができるのです。

 彼らの体を破壊するためには、この霊核の術式構造を破壊することが不可欠になるワケです。

 さて、彼らの名の由来についてですが、有機生物の体構造においてもっとも再生・増殖能力が高い癌細胞(キャンサー)と、金属性の外骨格が甲殻類生物(キャンサー)を連想させるところに掛けているワケですね。さらには、種族間共通のエネルギー貯蔵組織を肥大化させるために、恒星系単位での物質浸食活動もまた、癌細胞の作用を連想させることもあり…」

 ノリにノった記憶は、さらに教諭の話を再生させるべく先走ろうとするが、ノーラは小さく首を振ってこれを遮断。即座に交戦の現実に集中の大半を引き戻しながら、教諭の話の中にあった打開策の実行に取りかかる。

 

 ノーラは『定義変換(コンヴァージョン)』を実行し、手にする長剣の性質を変化。一撃必殺に重点を置いた超高周波振動ブレードから、破壊力が乏しいものの強度の高い大剣へと作り替える。

 この変化によって、ノーラは"羽虫"の数を一時的にとは言え減らす手段を失った。大剣の鈍器のような刃は"羽虫"をブッ叩き飛ばすことは出来るものの、重金属性の外骨格の破壊には至らない。あっと云う間に、ノーラは霞のような"羽虫"の大群に取り囲まれてしまう。

 だが、このリスクは覚悟の内だ。肉を斬らせて骨を断つ、そのための布石なのだから。

 制服を切り裂き、その下にある皮膚をも削り取る"羽虫"の刃脚を乱舞のごとき動きでかわし続けながら、何度も何度も、刀鍛冶が精魂込めて刀身を打つが如く、大剣を叩きつけ続ける。その度に刀身に響く衝撃を――衝撃の中に込められた、試験用術式の反応のさざ波を、着実に紐解いてゆく。

 制服の上着がボロ切れ同様の見窄(みずぼ)らしい有様へと変じた頃…。見栄えを失ったノーラは、その代わりに機知を得る。

 (間違いない…ッ!)

 雷光のような確信は、そのまま大事の即決を呼び込む。宵闇から突如閃く星のごとくギラリと輝く眼光と共に、ノーラは手にした愛剣へ魔力を注ぎ、『定義変換(コンヴァージョン)』を発動。数瞬の間、パタパタとタイルをひっくり返すような所作を見せながら、愛剣は体積を収縮し、細い二等辺三角形の刀身へと変じる。しかし、その刃先には切れ味を想像させるような輝きはなく、鈍器とまではいかないものの、刃物とは到底思えない風体だ。

 だが、この姿は正解だ。何せ、この刀身は、本当の意味での刀身ではない。これは、刃を発生させるための装置なのだ。

 変形完了の直後、二等辺三角形の形をした"偽刀身"の周囲から、虹色に輝くオーロラのような輝きが現れる。これこそ、この剣の真の刀身――術式で形成された力場フィールドだ。

 この間も容赦なくノーラの周囲を飛び回り、着実に制服や皮膚を傷つけてくる"羽虫"に対し、このオーロラの刀身で殺伐の世界を彩ろうとせんばかりに、舞踏のような洗練された無駄のない動きで斬撃を放つ。

 オーロラ状の刀身は、"羽虫"の堅固な重金属の装甲をふわりと撫でる…が、それで直ちに装甲がかち割れるワケではない。むしろ、斬撃を喰らった後の数瞬の間、"羽虫"は微風ほどの衝撃も受けずにピンピンしており、急旋回してノーラの肉深くを狙おうとしたほどだ。

 だが、ほどなくして"羽虫"に異変が起こる。高速にして滑らかの飛跡が、突如、ガクンと鋭角を描いて歪んだかと思うと…フィルム状の翅の動きがビクビクと痙攣しながら弱まり、揚力を失って重力の為すがままに破壊された路上に落下する。ビチャリ、と熟れすぎた果実が潰れるような音を立てて着地した"羽虫"の姿は…生体実験に失敗した悲惨な奇形の肉塊を思わせる、醜悪にして無様な姿だ。この状態でもなお、充血した眼を更に腫れ上がらせ、爛々とした憎悪でノーラを睨みつけながら動こうともがくが…。もはや形を為していない脚は言うことを聞かず、瀕死の芋虫のように弱々しくピク…ピク…と動くばかりだ。

 ノーラの試みは、成功したのだ! 癌様獣(キャンサー)の強靱な生命を支える霊核の構造を狂わせ、その生体組織活動を発狂させることに成功したのだ!

 「!?」

 "羽虫"たち、そして遠巻きに掃射を続けている"凶蟲"が、真紅の眼球に困惑を色を浮かべる。見慣れた人類とはかけ離れた形状をしているとは言え、癌様獣(キャンサー)は人類認定に近い知的生命体。感情というものを確実に所有しているのだ。

 その感情こそが、今のノーラに味方する。困惑という隙が出来た"羽虫"たちを一筆書きで結ぶようにオーロラ状の刃を走らせると、殺虫剤にやられた蠅のように"羽虫"たちは次々と大地に転がり、無様な肉塊と化す。

 ついに有効な打開策を得て、精神的にも肉体的にもほんの少し余裕が出来たノーラは、仲間に機知を共有すべく声を張り上げる。

 「私の剣を、見てくださいっ!

 これで、この癌様獣(キャンサー)たちを抑えることができます!」

 ノーラ以外の3人が果たして癌様獣(キャンサー)という固有名詞を知っていたかどうかは、分からない。だが、それは重要な問題ではない。少なくとも蒼治と紫はノーラの意図を瞬時に汲み取ると、すぐさまノーラの刀身にチラリと視線を走らせて術式を解析すると、自らの獲物にも同様の術式を適用。紫の大剣の刃先にも、蒼治が放つ弾丸にも、ノーラの愛剣と同様の虹色のオーロラの輝きが出現する。

 この術式の刃や弾丸で"羽虫"や"凶蟲"を打ち据えれば、重金属の装甲に覆われた敵の体は壊れた綿菓子製造機のようにブクブクと奇形の肉塊を異常増殖させる。そして癌様獣(キャンサー)たちは、次々に身体の自由を奪われ、プルプルと小刻みに震えながら荒れ果てた路面に倒れるのであった。

 「ノーラちゃん、ナイスッ!」

 紫が凄まじい効力に感激を隠せず、交戦中だというのにノーラに向けて突き立てた親指を向けて、彼女の功績を称える。一方、普段から生真面目な蒼治は紫のようにその場で感激を伝えなかったものの、胸中では多大な感謝をノーラに向けているはずだった。

 ノーラの機転により、形勢は大逆転へと向かっていたが…ただ一人、苦戦を強いられている者がいる。ロイだ。

 彼は仲間たちに比べて術式解析能力は散々であるため、[[竜息吹>ドラゴンブレス]]に対癌様獣(キャンサー)用術式を乗せて発射することがなかなかできずにいる。

 「くっそぉっ、みんなして楽勝ムードだってのに、オレだけカッコ[[rb;悪>わり]]ぃじゃねぇかっ!」

 毒づきながら、次から次へと向かってくる"羽虫"を両の手足の鉤爪で叩き斬りまくる。だが、この攻撃手段をとり続ける限り、敵は無限に再生して立ち向かってくるのだ。

 しかし、ロイは『天使』や『士師』をも打倒できる実力者だ。このままで終わるワケがなかった。

 彼は術式による癌様獣(キャンサー)の討伐を諦めた代わりに、攻撃の手段を変化させる。鉤爪で肉体を分断するのではなく、敢えて拳や踵などの鈍器的部位で敵に攻撃し始めたのだ。

 一見すると、傷跡の痛々しさが減じたために、攻撃が有効性を欠いたように見える。しかし、そうではない。拳や蹴りを喰らった癌様獣(キャンサー)たちは、あろうことか、身体の動きを停止させ、力なく荒れ果てた路面上に倒れ込むのだ。

 ロイが癌様獣(キャンサー)たちを機能停止に追い込む手段。それは、拳撃および蹴撃のインパクトの瞬間に特定周波の振動を引き起こして、癌様獣(キャンサー)の内臓器官を激しく揺さぶって"酔い"状態を作り出し、神経の動作を寸断する――つまり、気絶状態に陥らせることだ。ノーラ達の攻撃に比べれば華はないし、根本的な肉体の無力化を狙うことは出来ないが、敵を足止めして余裕を作るには充分な効果を得られる。

 ロイの周囲に気絶した"羽虫"の山が出来てきた頃。彼はようやくノーラの術式を解析すると、竜息吹(ドラゴンブレス)に術式の構成を乗せて、広範囲の癌様獣(キャンサー)たちを一気に無力化させることに成功した。

 「よっしゃぁっ! オイコラ、蟲どもっ! これでみんな、殺虫してやんぜっ!」

 調子付いたロイが意気揚々と声をあげながら、竜息吹(ドラゴンブレス)を連発する。他の3人もそれぞれの武器で"羽虫"、そしてその後方に位置取っていた"凶蟲"をも手がけて無力化を進める。こうして戦況は、完全に星撒部の方へと傾いてゆく。

 

 …だが、癌様獣(キャンサー)たちは、このままで終わるほど無能ではなかった。

 

 異変は、突如起きた。

 ノーラたちの武器が、"凶蟲"の装甲を捕らえた、その時。刃はガァンと甲高い音を立てて弾き飛ばされ、術式の弾丸はカンカンカンカンッ、と耳障りな音を上げながらあらぬ方向へと散らされてゆく。ロイの竜息吹(ドラゴンブレス)も、烈風となって癌様獣(キャンサー)どもの身体を強烈に吹き抜けてゆくが、当の癌様獣(キャンサー)たちは風を耐え忍ぶ巨木のごとく身をガッシリと固めてやり過ごすだけで、外傷はおろか肉体の変化も発生しない。

 「ちょっ、なんだぁ!? いきなり…」

 突然、攻撃が有効性を完全に失ってしまった場面を目の当たりにして、ロイがキョトンとして声を上げたところ。"凶蟲"が背部の銃口から魔化(エンチャント)弾を掃射。彼のこれ以上の発言を咽喉(のど)の奥へと押しやる。

 ロイほどのリアクションは取らないものの、ノーラたち3人もこの現象には困惑するばかりだ。

 (まさか…癌様獣(キャンサー)たちが、霊核の構成を補正して、弱点を克服した!?)

 ノーラは原因を推測するものの、再び愛剣を定義変換(コンヴァージョン)してその事実を確かめることは――できない。

 何故ならば…戦況が再び癌様獣(キャンサー)に傾いたからだ。それこそ、あまりの傾斜に星撒部の4人が絶望の奈落に転覆するほどに。

 まず、路面に転がっていた"羽虫"の肉体が、みるみるうちに奇形状態から快癒し、元の頑強な重金属製の甲虫へと戻ってゆく。倒れた敵が大量に、そして一斉に息を吹き返してゆく光景は、希望を振り撒く星撒部の心にさえも愕然とした絶望をもたらすのに充分である。

 しかし、癌様獣(キャンサー)の逆襲はこれだけに留まらない。

 一行を左右に挟んで立つ、傾き、崩れた、優に地上10階を超える高層建築物。その巨大な体積が屋上から基底部に向けて、グニャリグニャリと粘土質へと変じてゆく。そして、パン生地から1つ1つのパンがもぎ取られてゆくように、粘土が歪んだ球体の形状を取り、幾つも幾つも空中へと遊離。そのままグニグニと形を変えてゆくと…ケンミジンコにイカの長大な触腕を装備したような、新しいタイプの癌様獣(キャンサー)の群となる。

 「ま、まさか…あのビル全体に、コイツらが擬態してるって言うんじゃないだろうな…!?」

 蒼治が頬をヒクつかせながら、脱力気味に呟く。しかしその言葉は決して冗談ではなく、残念ながら、的を得ていた。

 この新型の癌様獣(キャンサー)――便宜的に"長脚"と呼ぼう――は、結局2つのビルが根こそぎ変じて大群を作ったのだ。そしてヤツらは、長楕円形をした触腕の先端を青色の魔力励起光でボゥ…と輝かせながら、空中を遊泳し、ノーラ達の頭上へ迫ると…。腹部から術式で構築された球形の砲弾を射出し、激しい空爆を与えてくる。

 「おいおいっ、マジかよっ!?」

 ロイが辛うじて非難の声を上げたが、すぐに轟雷のような術式の爆音によってかき消される。半球形状の破壊性質を持つ術式の飛散は、大気を電離させながら激しい衝撃をばらまき、路上をあっと言う間に帯電した土煙で満たす。

 「皆さん…ケホッ…無事ですか…!」

 せき込みながらノーラが声を上げると、それにすかさず反応したのは仲間ではなく…眩い蒼白を呈した術式のビーム砲だ。明確な殺意と正確な狙いを伴ったそれは、間違いなく、敵である癌様獣(キャンサー)による攻撃だ。

 (くっ…! 状況が、悪すぎる…!)

 ノーラは胸中で舌打ちの1つもしたい衝動に借られながら、すかさず左手で方術陣を作り、ビーム砲を弾く。網膜を()くような、鮮明に過ぎる光の飛沫がバラ撒かれる、その合間に…。光と土煙の中から、無数の"羽虫"たちが刃状の脚を回転させながら飛来してくる。

 「!!」

 歯噛みするノーラは、しかし理性を捨てることなく、冷静にして迅速に定義変換(コンヴァージョン)を実行。再び愛剣を鈍器の形に変え、変質した癌様獣(キャンサー)の霊核の構造を探る作業に入ることを試みるが…。空爆と土煙によって思うように行動を起こせない。

 (一度、土煙の中から脱出して…周囲の状況を把握するべきかな…!)

 思うが早いか、ノーラは飛来する"羽虫"を大剣で叩き飛ばしながら、『宙地』でもって空中を蹴って上昇。土煙の中からなんとか飛び出す。

 視界が晴れた転瞬、即座に視線を巡らせて状況を把握に勤しむ。すると、自分と同じく視界の確保を狙って上空に飛び出した紫とロイの姿が見えた。紫は魔装(イクウィップメント)で生成した装甲の背部に設置されたバーニア推進機関で、ロイは背中から漆黒の竜翼を生やして、それぞれ飛翔している。しかし、蒼治の姿は見えない。

 「ノーラも無事か!

 …それじゃ、蒼治は!? どーなってんだ!?」

 「先輩って、『宙地』使えたはずだよね!? 何で出てこないのよ!?

 まさか、やられちゃったとか!?」

 ロイと紫が口早にやり取りしている最中、その声に反応したように土煙の中からビーム砲と"羽虫"が飛び出してくる。そして頭上からは、"長脚"がフワリとした動きで、しかし魚雷のような速度で突撃してくる。大量に飛びかかってくるその有様は、バケツひっくり返したような土砂降りの雨を連想させる。"長脚"は爆撃だけでなく、近接攻撃用の兵器も備えているようだ。

 「蒼治のことは後だ!

 とにかく…避けるなり、ブッ倒すなりしねーと!」

 語るが早いか、ロイは既に手足や竜息吹(ドラゴンブレス)で迎撃を開始している。しかし、弱点を克服してしまった癌様獣(キャンサー)たちは一時的に体勢を崩したり損傷を受けるものの、即座にブクブク泡立ちながら再生し、果敢な殺意を剥き出しにして襲撃してくる。

 「こんなの…どうしろってのよっ!」

 大剣を自棄気味に振り回す紫が、苛立ちを込めて怒声を張り上げた頃。宙の3人は癌様獣(キャンサー)の勢いに押され、未だ土煙の晴れぬ地上へと押されてゆく。

 一番高度の低い位置で、絶え間なく『宙地』を繰り返しては回避行動と迎撃兼解析行動を取っていたノーラの脚が、ついに土煙の中へと突っ込んでしまった時のこと。

 ガタガタガタガタガタッ! まるで岩石の表面が連続で剥離されるような音が、土煙の向こう側から響いてくる。その音が、路面のアスファルトが砕けた音であることは、想像に(かた)くない。

 この耳障りな騒音が発生した、ほんの数瞬後――。

 「くっそぉっ!」

 火を吹くような罵声と共に、土煙の中から噴石の飛び出してきたのは、蒼治だ。両手に携えた双銃は、どちらも眼下に銃口を向けており、頭上には一瞥もくれていない。

 (蒼治先輩、頭上にも注意しないと!)

 その警告は、ノーラの唇から発されることはなかった。なにせ、彼女は目にした驚愕の光景に、言葉を咽喉(のど)の奥深くに飲み下してしまったのだから。

 ハッと呼吸と共に固唾を飲んだのは、ノーラだけはない。紫もロイも、蒼治を追って土煙の中から現れた"それ"を目にして、一瞬とは言え行動を停止せざるを得ない衝撃に思考を殴りつけられる。

 全長が優に10メートルを超える重金属の装甲で完全に覆われながらもしなやかにして強靱に躍動する、尻尾とも触手とも付かない巨大な"鞭"が飛び出して来たのだ。

 蒼治はこの"鞭"をめがけて、術式の弾丸を連射、連射、連射。着弾した弾丸は閃光の爆発と共に強烈な衝撃を発生させ、"鞭"を大きく揺るがすが…後退させるには至らない。"鞭"は蒼治の跳躍速度よりも数段速い動きで、彼の脚を捕まえようとする。

 「ちぃっ!」

 蒼治が『宙地』用の方術陣の足場を作って飛び跳ねるが――時は既に遅し。足首の高度まで達した鞭が、(ツル)のように彼の足首にまとわりつく――。

 「させるかってンだよっ!」

 直前、漆黒の影が高速で降り注ぎ、蒼治のすぐ隣を過ぎる。転瞬、"ガァンッと重厚な金属がへし曲がる音が響き、"鞭"は大きくたわんで地上へと押しのけられる。

 蒼治を救った影の正体は、ロイだ。ハヤブサのように翼を絞って急降下した彼は、速度と重力を味方にして全体重を掛けた一撃を喰らわせたのだ。

 "鞭"が土煙の中に消えるのを見届けずに、ロイは蒼治の手をガッシリと掴むと、竜翼を羽ばたかせて急上昇する。

 「ありがとう、助かったよ、ロイ!」

 「お礼なんか後回しだ、空は空でヤバ過ぎるんだよっ!」

 男子生徒2人が言葉のやり取りをするすぐ(そば)から、"羽虫"の群れや”長脚”の術式砲弾が迫る。蒼治は芽生え掛けた安堵の雰囲気をかなぐり捨てると、ロイに捕まったまま自由な左手一本で掃射を行い、"羽虫"の迎撃や術式砲弾の破壊を行う。

 そんな慌ただしい攻防の切り替わりの最中…ロイ達からかなり離れた位置まで押し込まれていた紫が、悲鳴とも怒号とも付かない絶叫を張り上げる。

 「ちょっと、先輩っ! 何、連れて来たんですかっ!」

 "連れて来た"? 何を言っているのか呑み込めない男子生徒2人が、チラリと眼下に視線を走らせて瞬間。思わず身体が固まりそうになる。

 ギョロリ――土煙の中から、成人の身長に匹敵する直径を持つ巨大な真紅の眼球が、こちらを見上げているのだ。

 「おいおい、なんだ、あのデカい奴はぁっ!?」

 ロイが思わず問いをぶつけた、その瞬間。眼球に続いて土煙の中から、巨大なヘビにも見える長大な胴体の一部がズルリと姿を表す。その体表の至るところで、装甲がカパカパと蓋のように開いて、"何か"が詰まった穴を開く。まるで、ハスの花を思わせる、身震いを喚起させる光景だ。

 次の瞬間、穴という穴が爆炎の赫々(かっかく)に染まると共に、ゴォッ、と大気を吹き飛ばすような轟音を発する。そして穴に詰まっていた"何か"が、盛大な濃灰色の爆円煙と共に射出される。その"何か"の正体とは――対人兵器としては豪勢なほどに大きな、ミサイルだ。

 「ちょっ、なんだこりゃっ!?」

 「ロイ、速く避けろ!」

 「うっわぁっ、私のことも補足してンじゃないっ! こっち来てる、来てるぅっ!」

 叫びまくる3者に対して、静寂を貫いているのはノーラだ。とは言え、その態度は沈着冷静とはとても言えない状態だ。褐色の顔にはサッと蒼白が差し、大粒の冷や汗がブワリと噴き出す。

 勿論、ノーラも即座に回避行動を取っている。だが、翼のあるロイや、バーニア推進機関を持つ紫に比べて、『宙地』による連続跳躍でしか空中移動が出来ない彼女にとって、高速で自在に空中を飛び回るこの攻撃への対処は、かなり辛い。

 (それでも…なんとかしないと…やられちゃうっ!)

 もはや、背に腹は変えられない、のっぴきならない状況だ。ノーラは敵の解析を捨て、防御に徹するべく迅速に定義変換(コンヴァージョン)を実行。刀身をシェルター状の装甲へと変化させる。生成した装甲の表面は、もちろん、防御用の術式が高密度に展開され、ミサイル着弾時の爆炎や衝撃、その他の魔術的効果を減じるための準備が構されている。

 装甲で身体全体を覆った、まさにその瞬間。ミサイルが次々に着弾。シェルターの内側は鼓膜を聾する轟音が暴れ回り、ノーラは思わず両耳の穴を塞いだ。

 その後、シェルターは防御用術式で相殺しきれなかった衝撃に吹き飛ばされたようだ。全方位の視界を装甲で塞いでしまったノーラは、鉛直方向への強烈な加速を感じる。そして瞬きもする間もなく、ガゴンッ! という堅い悲鳴と共に激しい激突の衝撃を身に受け、シェルターの中で身体が浮き上がる。どうやら、シェルターは地面に激突してしまったらしい。

 脳天を突き抜けた衝撃にフラフラするが、このまま殻に閉じこもっていては癌様獣(キャンサー)どもに囲まれて、身動きがとれなくなってしまう。その事態を避けるべく、ノーラは身体に鞭打って定義変換(コンヴァージョン)を実行し、シェルターをコンパクトな剣へと変化させる。途端に開けた視界は、土煙の及んでいない路上だ。どうやら、ミサイルの爆発によってかなりの距離を吹き飛ばされてしまったらしい。

 「ロイ君や、相川さん…それに、蒼治先輩は!?」

 急いで土煙の方向へと視線を投げて、彼らの姿を探す。土煙の上空にはもうもうたる黒煙が上がっており、飛行していたはずの3人の姿は全く見えない。無事なのか、はたまた不幸にもやられてしまったのか、伺い知ることは出来ない。

 だが、ノーラもいつまでも仲間たちの心配ばかりしてはいられなかった。土煙や黒煙の中から"羽虫"や"長脚"が飛び出し、ノーラをめがけて急接近してきたのだ。彼らはどうやら、特徴的な巨大な赤眼による視覚だけでなく、音響定位などの非視覚的手段でも周囲の状況を鮮明に把握できるようだ。

 「…っ!」

 もはや、口にする言葉も、頭に浮かぶ言葉も、ない。黒い雲霞のごとき物量で迫る癌様獣(キャンサー)どもを眼前に、しっかと立っていられるのは悲壮な決意でも、窮地ゆえの奇妙な高揚感によるものでもない。ただ単に、生存本能の叫ぶままに、生きながらえるための抵抗をせんとしているだけ。

 しかし、ノーラの理性は生存本能の下敷きになりながら、必死に訴える。――これは無理だ、敵うわけがない、逃げるしかない――と。

 弱気な理性に対して、ノーラはこう問い返す。――"逃げるしかない"とすれば、一体どこへ、どうやって逃げれるのか!?

 その疑問への返答の代わりに、脚が巨木の根本のごとく大地に張り付いてしまう。

 構えた剣が、プルプルと震えている。それは恐怖か、怯懦か、それとも悲壮感か。確実に言えることは、武者震いではない、と云うことだけだ。

 正に、絶望が具現化したような戦況。

 それを眼前にしたノーラは、遙か上空にぼんやりとそびえる、小さい奇妙な『天国』に…その中にひょっとしたら住まっているのかも知れない、全知全能にして慈悲深い絶対神なる存在に、祈りを捧げたくて仕方がなくなった。

 

 そんな悲劇に見舞われた乙女の祈りが、天に通じたのか――。

 突然、ノーラの頭上を、巨大な影がスゥーッと土煙の方へ向かって過ぎる。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Borderland - Part 3

 雲にしては、あまりに速い移動速度だ。そして、影の過ぎ去った後には、巨大質量の移動に引きずれて生じた烈風がビュウビュウと吹きすさぶ。

 (…何…?)

 ノーラが疑問符を浮かべながら視線を上げた頃、迫り来ていた癌様獣(キャンサー)どもも赤眼でギョロリと見上げて、突如戦場に介入してきた影の正体を見極めようとする。

 しかし、癌様獣(キャンサー)たちはおそらく、影の正体を正確に把握できはしなかっただろう。

 何故ならば――。影が過ぎりがてらに置いていった、巨大にして明星のごとき目映(まばゆ)さを持つ純術式製の弾丸に激突。真球形に広がる魔術励起光の爆発と共に、重金属製の身体を泡立て過ぎた石鹸のようにブクブクと膨張させると…風船のようにパァンとはじけて、真紅の血液と肉塊の花火となったからだ。さすがにここまで破壊されると、癌様獣(キャンサー)も再生は出来ずに、命の灯火が消えるのである。

 窮地を救ってくれた"影"を、そのまま視線で追い続ける、ノーラ。その視界の中で"影"は放物線を描きながら黒煙、そして土煙の中へと降り立つと。着地の衝撃で烈風が巻き起こり、積乱雲が足早に消え去るように地表がスッキリと晴れ渡る。

 ここに来て、ようやく"影"の鮮明な正体を目にすることができたノーラは、その姿を視認すると同時に、不意にこんな言葉を口にした。

 「機械の…巨人…?」

 そう、彼女が言うとおり――十数メートル先に着地した"影"の正体は、全高が5メートルほどもある人型の機動兵器だ。もっとくだけた表現で言えば、"巨大ロボット"である。

 角張った金属の鎧を全身にまとったような外観をした、シンプルにして機動性を重視したデザイン。その右肩部には巨大な砲身が設置されており、その開口部からは硝煙のように薄い魔力励起光が立ち上っている。先に癌様獣(キャンサー)を撃破した一連の魔術砲撃は、この武装から連射されたものらしい。頭部はヘルメットのようになっており、目にあたるゴーグルのような部位は認められるものの、花や口にあたる部分は見受けられない。背中には天に鋭角を向けた細長い二等辺三角形状の装備が設置されている。その底面には複数の円形の噴出口が覗いていることから、飛行用の推進機関であることが想像される。

 少々くすんだ白一色で染まったこの機体においてひどく目立つのが、左胸装甲部にデカデカと張り付いているマークだ。蛍光色に近い黄色を呈した稲妻を握り込む拳の図柄をしたそれは、果たしてこの機体の個性なのか、それとも所属組織のトレードマークなのか。

 マークの真相はともかく、ロボットはチラリとノーラにゴーグルの視線を投げかけると。即座に転身し、姿が露わになったもう1つの存在――土煙の中に隠れていた、巨大癌様獣(キャンサー)に向き直る。

 

 ノーラもロボットに倣い、露わになった癌様獣(キャンサー)へと視線を向けると…思わず、ひっ、と悲鳴のような声と共に息を飲む。

 大地震の跡のように路面に一直線に走る、巨大な亀裂。その中から山のように姿を浮き上がらせている"そいつ"は、おおよそ胎児へならんとする胚の姿に似る。しかし、その体積があまりに巨大過ぎて、胚というよりは長大な尾を持つ恐竜のようにも見える。それに、胚が絶対に持たぬ強靱な手足があるのも、恐竜のような印象を与える大きな要因だ。しかし口吻部は恐竜と呼ぶにはあまりに小さく、噛みつきなどの攻撃には全く向いていない。

 この巨大癌様獣(キャンサー)は、充血した目に更に血液を集め、燃え盛るような赤を作り出してロボットを()めつける。その色に裏打ちする憤怒を、ロボットの装甲に叩きつけんとするかのように。

 

 2体の巨大存在が対峙している、その最中。

 「っとぉっ、どこの誰だか知らねーけど、助かったぜっ!」

 ノーラのやや左後方から軽い声と共に、羽ばたきの音がする。振り返ってみれば、蒼治を引っ張り上げながら飛んでいたロイが、ゆっくりと着地するところであった。

 「ロイ君…! 蒼治先輩…! 無事だったんですね!」

 ノーラが歓声を上げた、その直後。頭上から推進器のゴオォッという音が近寄ってくる。

 「ちょっと待った、私も無事だよ」

 「相川さんも…!」

 魔装(イクウィップメント)の背部のバーニア推進器を巧く調整しながら、紫がふんわりと着地する。

 合流した3人は、制服や装甲はボロボロ、頭髪の一部もチリチリと焦げているものの、大事に至るような損害を被ってはいないようだ。流石は『天使』や『士師』と渡り合う星撒部の部員たち、窮地をそれぞれの実力で切り抜けていたようだ。

 ノーラは全員の無事を純粋に喜んでパァッと輝かしい笑顔を満面に浮かべたが。安堵と祝いに彩られた言葉がその唇から滑り出すよりも早く、危機感を全く失っていない紫が眉をグッとつり上げながらロボットにジロリと視線を走らせる。

 「確かに助かったけどさ。あいつ、一体何者なワケ?

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)って感じじゃないわよね。第一、トレードマークが見あたらないし」

 「うーむ…」

 蒼治が腕を組んで首を傾げて、曇りの目立つ眼鏡のレンズ越しにロボットを注視しながら唸る。

 「あの胸のマーク…何処かで見た覚えがあるんだけど…。思い出せないな…」

 「あいつがどこの誰だって、関係ねーだろ!」

 ロイが背中の竜翼を体内に仕舞い込みながら、牙だらけの口から盛大に唾を飛ばしながら叫ぶ。

 「あの暴れムシども、オレ達よりあいつの方を気にしてるみたいだぜ!

 それなら、さっさとここから離れようぜ! 分が悪すぎだってんだ!」

 言うが早いか、ロイは即座に足踏みを始める。その様子を見て、即座に首を縦に振ったのは蒼治だ。

 「そうだね、離れた方が良さそうだ。お礼を言うなら、別の機会があるはずさ」

 「そうと決まれば、さっさとトンズラしちゃおうか!

 ホラ、ノーラちゃんも! ぼーっとしてない!」

 紫も同意すると、ロボットや巨大癌様獣(キャンサー)を視界にいれたまま呆然と立ち尽くしているノーラの手をガッシリと掴み、引きずる勢いで走り出す。

 「あ…うん。そうだね…一時撤退しないと、分が悪すぎるよね…」

 初めこそキョトンとしたまま紫に引きずられっぱなしだったノーラだったが、すぐに思考を切り替えて、紫と並ぶ歩幅で走り出す。

 目的地はともかく、道路に沿って撤退を始めた星撒部一同。その背中に突如、地の底から沸き上がるような低い、そしてくぐもった電子音声のような声がかけられる――いや、頭の中に直接響いてくる。

 「絶対に逃がすな」

 いきなりの声にギョッとした一同がチラリと後ろを振り返ると。ロボットの巨体越しにこちらを睨みつけている巨大癌様獣(キャンサー)の姿が見える。発声どころか採餌(さいじ)すら困難そうな小さな円形の口は微動だにしてはいなかったが、一同は声の主がこの巨大癌様獣(キャンサー)であることを確信する。

 そして、それを裏付けるように、ロボットの股をかいくぐって"羽虫"や"長脚"が背後から迫ってくる。これをチラリと見やったロボットであったが、脇見の隙に巨大癌様獣(キャンサー)が一気に肉薄、ロボットに体当たりを喰らわす。倒れまいと踏ん張るロボットは、巨大癌様獣(キャンサー)への対処に追われて星撒部一同の援護には回ってくれることはない。

 「やべぇっ! 追ってきてるぞ! 早く走れっ!」

 ロイの号令を受けて、一同は疾走に全力を集中。もはや後ろを振り向かず、前だけを見て、瓦礫だらけで足場の悪い路上をひたすら走る、走る、走る――だが。

 「げっ…!」

 真っ先に苦言を吐いたのは、紫だ。そして他の3人も胸中では、彼女と全く同じ気持ちに陥ったことだろう。

 何せ、目の前に立ち並ぶ左右合わせて4つの高層建築物が、例によって油粘土のようにドロリと形状を変化。その上半分からは"長脚"の群れ、下半分は背後の巨大癌様獣(キャンサー)ほどではないが、かなりの体積を誇るムカデのような大型癌様獣(キャンサー)が、それぞれ出現したのだ。

 「ちょっと、まさか、この通り全部がヤツらの擬態だったりするワケ!?

 勘弁してよぉっ!」

 涙を噴水のように噴き出して泣き出したくなる衝動に駆られながら、紫は悲鳴とも罵声ともとれる大声を張り上げる。

 「くそっ! 脇の道路に逃げ込むぞっ!」

 蒼治が素早く指示を出しつつ、先頭を切って方向転換。右方向へほぼ直角に曲がると、そのまま比較的背の低いビルの隙間にある幅の狭い道路の方へと向かう。3人の後輩たちも有無を言わず、蒼治に続く。

 脇道の入り口に達するまで、誰も背後を振り向かない。振り返ってもどうせ、気が滅入るような魑魅魍魎の大群が迫り来ているだけだ。そんなものを見物して呼吸や脈拍を乱すよりも、ひたすら走ることに専念したほうが有意義だ。

 無言のまま全力疾走を続け、ついに脇道の入り口へと差し掛かった――その時。

 「ちょっ、もぉ勘弁してよぉっ!」

 悲鳴を上げたのは、またもや紫だ。そして彼女のみならず、4人は動かし続けていた脚に急ブレーキを掛けて、ピタリとその場に止まってしまう。

 何故ならば…脇道を囲む建物の影からヒョコヒョコと、巨大なコオロギにも似た形態の癌様獣(キャンサー)が2匹、現れたからだ。

 前も後ろも、塞がれた。

 「くっ…!

 だが、前は2匹だけだ! これなら、突破できる…はず…」

 先輩として後輩たちを鼓舞しようと声を上げていた蒼治であるが、その勢いが言葉尻に向かうに連れて急激に衰えてゆく。当然のことだ、何故ならば…コオロギ型の足下からはゾロゾロと"凶蟲"どもが背部装甲から機銃を構えて現れたからだ。

 まさに、絶体絶命。

 「もう、やるしかねーだろっ! 覚悟決めンぜっ!」

 「そうだね…! 突破するしか、道はないもんね…!」

 意気消沈して速度の落ちた蒼治と紫を追い越したロイとノーラが、鋼の決意に満ちた表情をつきあわせて頷き合い、脇道の中へと飛び込んでゆく。つい昨日、長丁場の修羅場をくぐり抜けた経験が影響しているのか、この2人は追い込まれても状況の打開を考えることを優先しているようだ。

 ガガガガガッ! 2人の怯まぬ突撃を拒絶するように、"凶蟲"の群が機銃の掃射を放ってくる。ロイは竜鱗が黒々と輝く腕で弾き飛ばし、ノーラは硬度に重点をおいた刀身へと定義変換(コンヴァージョン)した愛剣を振るって、弾丸の豪雨をかいくぐりつつ速度を殺さずに前進。ついに"凶蟲"の群の真っ直中へと到達する。

 ギュイイィィッ! そこら中で沸き上がる、蟲たちの叫び。同士討ちを嫌ったらしく、掃射を停止した"凶蟲"たちは、高周波振動ブレードと化した脚部を操りながら2人を迎撃すべく襲いかかる。

 今の星撒部は、癌様獣(キャンサー)の霊核を解析出来ていないため、彼らを根本的に無力化する手段がない。しかし、ノーラが先刻やってみせたような解析を行うには、敵の密度は多すぎるし状況も煩雑すぎる。そこで2人は、癌様獣(キャンサー)の排除ではなく、行動の阻害に取りかかる。すなわち、前にロイが見せたように、特殊な打撃によって内臓器官に負担を与え、意識を寸断させるのである。

 ノーラは始めての試みになるにも関わらず、チラリ、チラリと数度ロイの行動を観察すると、すぐにその行動のコツをつかむ。幸いなことに、現在の彼女の愛剣は図らずも、この攻撃に向いた構造になっているようだ。銀閃が空を走り、重金属の装甲にガィンッ、と音叉のような響きを奏でて激突すると、"凶蟲"の眼球から充血の色がスゥーッと失せて脚が脱力して倒れる。

 こうして2人は次々と"凶蟲"を打ち倒し、屍ならぬ気絶の道を作り出す。

 この勇壮な光景に勇気づけられた蒼治と紫は、脚にまとわりついていた失意を吹き飛ばすと、素早くロイたちの後に続く。

 そもそも、このまま呆然と立ち尽くしていたところで、背後に迫る癌様獣(キャンサー)の群れに捕まってしまうだけなのだ。もしもロイたち2人の旗色が悪かろうと、どの道前進する以外に有効な選択肢は取れなかったであろう。

 「よっしゃぁっ! そろそろ、突破できる――」

 立ち回りに更に勢いが乗ったロイが、身を震わす興奮のままに声を上げた、その時。打ち倒した"凶蟲"の身体の影からヌッと、コオロギ型癌様獣(キャンサー)の巨大な顔が現れ、ギョッとして言葉を飲み込む。

 ロイもノーラも、勿論蒼治も紫だって、このタイプとの交戦は未経験だ。これまでの攻撃がそのまま通じるのか? 通じなかった時のリスクをどう予測するべきか? 一同の間に逡巡の時が走る。

 それを隙と見たらしい、コオロギ型は腹部を高く持ち上げると、その全体を(まばゆ)いほどの青白い魔術励起光に包む。その輝きが肌に触れると、チリチリと突っ張るような痛痒いような刺激が神経に刺さる。どうやら、相当の威力のある攻撃術式を練り上げているらしい。

 「気をつけてください…! 詳細は分からないですけど…かなり、危ない術式を練ってます…!」

 「そんなン、ブッ放される前に、こっちがブッ倒すしかねーだろっ!」

 逡巡を振り払ったロイが両足、そして強靱な竜尾で大地を打ち、高く飛び上がってコオロギ型の顔面に飛びかかる。

 固めた竜腕の拳を打ち下ろす――その直前。事態は再び、急展開を見せる。

 

 (ゴウ)ッ――それは、鋼の烈風が吹き荒れたかのような轟音。

 そしてその印象は、決して間違ってはいない。

 ロイたちの眼前にいたコオロギ型癌様獣(キャンサー)を横倒しにするかのように、視界の中で霞むほどの高速で、鈍い黄土色の"何か"が過ぎる。"何か"の激突を受けたコオロギ型どもは、餅のようにグンニャリと(たわ)みながら、巨体を宙に浮かせるとクルクルクルと回転しながら吹き飛んでゆく。

 脇道の両側に潜んでいた2体ともを一掃した"何か"が、中空にピタリと停止する。星撒部一同が"何か"に視線を集中し、正体を見極めると――それは、金属製の長い腕である。太さは、先刻現れたロボットよりもずっと細く、まるで鉄骨の建材のように不格好であるが、癌様獣(キャンサー)どもの重金属の装甲を歪曲させてなお無事な様子を見ると、相当の硬度を誇るようだ。

 腕に続いて、ズザァッ、と擦過音を縦ながら本体が脇道の陰から姿を現す。そこに現れたのは、これまた人型の機動兵器だ。腕の印象をそのまま受け継いだような細身のシルエットに、二足歩行の脚には大きなオフロード用の巨大なタイヤがついている。丸、というよりも多角形の形をした顔は、辛うじて人の顔にも見えなくはない1対の眼状のセンサーが見えるが、アリかハチの顔にも見える。胴体の割に長い腕は、ヒトというよりもチンパンジーを思わせる姿だ。

 そして、この機動兵器の胸元にも、稲妻を握り込んだ拳のマーク。

 「おおっ、さっきのロボットの仲間っぽいな! また助けられちまったな!」

 ロイが歓声を上げる中、長腕のロボットは視線を星撒部一同の背後に投じる。それからすぐに、両肩部に負った大口径ガトリングガンをキュインと音を立てながら方向修正し、星撒部一同に迫る癌様獣(キャンサー)の群れへと照準。

 転瞬――ズガガガガガッ! 鼓膜を聾する雷鳴の連続の如き爆音を放ちながら、長腕ロボットは掃射を開始。離れた弾丸は太陽のように激しく(まばゆ)い魔術励起光を放ちながら、高速かつ繊細なカーブを描きながら癌様獣(キャンサー)の身体の中心へと吸い込まれてゆく。ガゴンッ! と悲痛な金属の悲鳴を振り撒きながら体内に潜り込んだ弾丸は、付加された術式を解放。癌様獣(キャンサー)の霊核を大きく発狂させ、器官の異常増殖を誘発し、血肉の花火をビシャッ! と爆ぜさせる。

 「ぐわあぁっ! メッチャうるせーっ! 耳が、やられるッ!」

 「文句言わないッ、助けてくれるんだからッ!」

 耳を塞いで騒ぐロイを、後ろから追い付いた紫がピシャリとたしなめると、グイッとロイの腕を掴んで更に前進する。

 「今のうちに、このロボの股をくぐって、向こう側に逃げるわよっ!

 ね、行きましょうっ、蒼治先輩、ノーラちゃん!」

 「ああ、そうだなっ! この好機を逃す手はないっ!」

 「うん…! ここはこの方の好意に、甘えよう…!」

 大気を激震させるほどの掃射の騒音の中、長腕ロボットの細い足――といっても、比較的な表現であり、実際は星撒部一同の身体の幅ほどもある――の間をくぐり抜ける。完全にロボットの背後へと通り抜けた際、ノーラがチラリと視線を背後に向けると…戦況に更なる変化が起こったことを認識した。

 脇道に入り込んで来た癌様獣(キャンサー)を挟み込むような形で、大通りからクモを想わせる形状の多足歩行戦車が2台出現。腹部に当たる部分を持ち上げて主砲を癌様獣(キャンサー)たちの群れへ向けると、巨大な術式の砲弾を連射。機銃のように連続とは言えないが、戦車の実弾砲に比べるとマシンガン並とも言える砲撃の連続に、癌様獣(キャンサー)たちは青白い閃光の爆発にブッ飛ばされながら、血肉の火花を散らす。

 戦場の面積が狭い脇道に2台も戦力を投入したということは、大通りにも何台か同型の多足歩行戦車は投入されているかも知れない。

 ノーラは視界を更にグルリと後ろに向けると、建築物越しに激しい魔術励起光の爆光やら爆煙が上がっている光景が認められる。大通りはかなり激しい戦闘が展開されているようだ。

 視界を前に戻しがてら、もう一度チラリと脇道の砲を眺める。長腕ロボットの脚の向こう側に見える戦車の腹部に、ロボット達と同じく稲妻を握り込んだ拳のマークが見て取れる。一連の機動兵器群は、同じ組織に所属しているものだということが明白だ。

 (この都市国家(まち)の市軍のマークなのかな…?)

 ちょっとした疑問符を浮かべたものの、今はこれ以上詮索している場合ではない。まずは、落ち着ける場所まで退避するのが肝要だ。

 ノーラは視線をようやく前に戻す――その視界の端で、長腕ロボットがクルリと敏捷な動きでこちらに向き直ったように見えた。その行動に何か…背筋のざわつく予感を得るものの、他3人に遅れないようにと疾走に集中することにする。

 

 だが――ノーラは予感に従って背後を気にするべきであったと、後悔する瞬間がすぐにやってくる。

 

 ズザァッ――長腕ロボットの疾走音が、背後から耳障りに上がったかと想うと、タイヤの駆動音がグングンとこちらに近づいてくる。

 「なんだぁ? あのロボット、護衛について来てくれるってのかぁ?」

 紫に手を引かれたままのロイが軽口を叩きながら、背後を振り向き――直後、表情がギクリ固まり、青白い色がサッと差す。

 長腕ロボットの肩部のガトリングガンが、背部へと格納された…と同時に、肩部装甲が展開。その内側から単発式の大口径砲身が姿を表す。その砲口は小刻みに上下左右に動きつつ、照準を定める――明らかに、ロイ達の方へと。

 「おい、おいおい…! まさか…っ!

 絶対ヤバいっ! みんな、後ろに気をつけろ!」

 ロイがグッと地を踏みしめて方向転換を計ろうとすると、それがブレーキとなって紫の速度がガクンと落ち、彼女は思わず前のめりになって体勢を崩しそうになる。

 「ちょっと! いきなり立ち止まらない…で…」

 非難を浴びせるべく威勢良く振り向いた紫であったが、彼女もまた、長腕ロボットの砲身の照準に気付き、顔色を青く変える。

 2人の異変に気づいた蒼治とノーラも思わず足を止め、振り向きざまに事情を問い(ただ)そうと口を開きかけるが――。

 その時には、長腕ロボットの砲身が、(ドウ)ッ! という轟音とともに火を噴き、恒星にも負けない閃光を放つ巨大な砲丸を発射した。――勿論、星撒部一同に向けて。

 「くっそぉっ!」

 舌打ちと共に罵声を上げたロイは、素早くヒュッと吸気。吸い上げた大気を呼吸器の中で魔化(エンチャント)すると、大口を開いて噴出。大口の前面に展開された小型の方術陣を通った大気は、青白いプラズマの塊となって砲丸を貫く。プラズマの中に高密度に圧縮された破壊の術式が砲丸の術式を一気に破砕し、空中で派手な爆発が巻き起こる。

 狭い脇道に強烈な爆風が吹き(すさ)び、ノーラたちは体勢を崩さないようにと足を踏ん張るが。

 「今だっ! 走るんだよっ!」

 爆風に乗せて叫びを上げたロイが、背中に漆黒の竜翼を大きく展開。まるで帆船のように爆風を受けて加速しながら、手を握りっぱなしの紫と、もう一方の手でノーラを、そして強靱な竜尾で蒼治を捕まえると、正に爆発的な勢いで前進する。

 「なんで!? なんで、あのロボットが、こっちに攻撃してくるワケよ!?」

 癌様獣(キャンサー)に次いで巨大機動兵器までが襲いかかってくる事態に、紫は目を白黒させて騒ぐ。他の3人も騒ぎはしないものの、彼女と同じ気持ちであろう。

 しかし、状況の背後関係を考察する間もなく、窮地は更に続く。爆風の向こう側から長腕ロボットが飛び出し、巨大なオフロードタイヤをまるでローラースケートのように華麗に操りながら迫ってくるのだ。道の左右から飛び出る、傾いた建造物は腕で叩き飛ばしながら、鋼の疾風となって追ってくる。

 そして道中、ロボットはしっかりと大口径砲の照準を定め、第二射を準備として砲口に製鉄炉の中のような魔術励起光を灯すと――数瞬と待たずに発射する。

 「のっわああぁぁっ! 来た、来たぁぁっ!」

 正にパニックに陥った紫が泡を吹くカニのような有様で喚き立てる。

 その隣で、ロイの尾に腰を捕まえられている蒼治が、グルリと転身して長腕ロボット――ひいては迫り来る砲丸と対峙すると、双銃を構える。そして2つの銃口に同時に方術陣を展開し、また銃口の内部にも強力な魔化(エンチャント)を付与すると、同時に引き金を引く。

 (ドン)ッ! (ドン)ッ! 少し時間差をつけて2発連続で射出されたのは、双銃の銃口より遙かに大きな断面積を持つ術式製の巨大弾丸だ。おそらく、銃口に展開した方術陣が弾丸の体積を増加させたのだろう。

 1発目の弾丸は砲丸に激突し、先のロイのプラズマの竜息吹(ドラゴンブレス)と同様に爆発。狭い道にまたもや烈風が巻き起こる。その暴風の中を2発目の弾丸がややカーブを描きながら驀進し、ロボットの顔面に肉薄する。

 「行けっ!」

 着弾するか、という直前で蒼治が懇願を込めて叫ぶ――が、彼の想いは結実せず。長腕ロボットは器用に身を屈めて弾丸を頭上にやり過ごすと、背部から瞬時に出現させたガトリングガンを掃射。蒼治の弾丸を下方から蜂の巣にし、爆破処理する。

 そして何事もなかったかのようにガトリングガンを背部に仕舞い込んだ後、長腕ロボットはズザァッズザァッと地を蹴って着実に距離を縮めて来る。

 「畜生ッ! しつこいなッ!

 一体、オレ達が何したってンだよっ!」

 後ろを振り向いて毒づくロイであるが、その言葉をかき消すようにノーラの声が重なる。

 「ロイ君! 前方の上からも…! カミナリマークの戦車が2台…!」

 そう、彼女の言う通りだ。道の前方、高層建築物が林立する地帯が広がる一帯。そこの高層建築物の壁を伝い、ハエトリグモのように素早く跳び回りながらこちらに近づいてくる、2台のクモ型多足歩行戦車の姿がある。その腹部には、ノーラが言った通り、稲妻を握り込んだ拳のマークがある。

 背後に迫る長腕ロボットの仲間だ。

 「ムシの挟み撃ちの次は、ロボと戦車の挟み撃ちかよぉっ!」

 ロイは毒づいた言葉の語尾に跳ね上がるような力を入れると、それに同調したように竜翼を力強く羽ばたかせて、より一層の加速を試みる。だが…自分の身のほかの3人も連れている状態では、思うような効果は得られない。一瞬、ヒュウッと距離を伸ばしたものの、すぐに減速してしまう。

 そこへ、グンッ! と長腕ロボットが加速してロイの背後へ一気に肉薄。その差は残り5メートルを切るほどの至近距離まで迫る。

 「ロイ! 僕だけでも離せっ!」

 蒼治がジタバタと暴れながら叫ぶものの、ロイはガッシリと彼を掴んで絶対に離さない。

 「バカ言うなよっ! ロクに対策もねぇくせに、自己犠牲しても無駄なだけだってンだよっ!」

 「だがっ! このままみんな、やれるのは…っ!」

 そんな会話をしている最中にも長腕ロボットは更に距離を詰め、先端が槍先のように尖った五指を持つ腕を伸ばして、ロイたちを捕まえようとする。

 「くそっ!」

 蒼治はロイが離してくれないと悟るや、双銃でロボットの掌に掃射を浴びせる。しかし、ロボットの装甲は癌様獣(キャンサー)の重金属外骨格以上の硬度を誇るようだ。術式製弾丸を砂礫のようにカンカンと弾き飛ばしてしまう。

 ロボットの掌が、ロイたち一行のすぐ頭上に迫り、その陰が彼らを覆い尽くす。

 

 万事休す――その時、思わぬ救いの手が横合いから勢い良く入り込む。

 長腕ロボットのすぐ隣に位置していた6階建てのビルディングが突如、瓦解して破裂。噴石のごとく宙を飛翔する大小の瓦礫に混じって、ハチの群れのごとくワラワラとロボットに覆い被さる大群がある。それは、癌様獣(キャンサー)どもだ。先のお返しとばかりに、生きた獲物に群れて容赦なく集団攻撃を加えるアリの軍隊のごとく、長腕ロボットの体中に高周波振動ブレードの脚を突き立てたり、何らかの有毒化学物質と思われる粘液をたれ流す(あぎと)で噛みついたり、重金属装甲から解放した機銃で連続掃射を加えたりする。

 グラリ――突如として降って沸いた大量の荷重に、長腕ロボットが大きくバランスを崩し、癌様獣(キャンサー)たちが襲いかかってきたのとは反対方向に大きく進路を逸れると。ガゴコンッ、と硬質物体の悲鳴を上げながら、ビルディング群の中に突っ込み、驀進が停止する。

 『クソッ、このムシどもっ! 邪魔すンじゃねぇよっ!』

 エコー掛かった毒づきを張り上げたのは、長腕ロボットだ。顔面には口器に類する機関はなかったものの、何処かにスピーカーがあるらしい。

 『ディンベル、ロウベルッ! 逃がすンじゃねぇ! そして、ムシどもにも遅れを取るンじゃねぇぞっ!』

 張り上げた大声は、逃げる星撒部一同の前方から建物の壁面伝いに跳び迫ってくる多足歩行戦車たちに向けたものだ。叫んだ名前は、果たして戦車のパイロットの名前か、コードネームか、はたまた戦車自身の個体識別名称か。

 何にせよ、星撒部部員たちは、ロボットが喋れたことを気にする余裕などない。追っ手が減った今こそ、逃走を優位に進める好機だ。

 「ロイ、僕達を解放していいぞっ! おまえの体力が持たなくなるぞっ!」

 「オッケー! 実はそろそろ、腕も尻尾もキツくなってきたところだっ!」

 蒼治の一声にロイは抱えていた3人を解放。当然、女子部員2人も解放されたことには文句は言わない。ロイが運んでくれた勢いのままに、4人はそのまま道を疾走して長腕ロボットから距離を取る。

 とは言え、前方からは多足歩行戦車が着実に距離を詰めてくる。それに、背後からもゾロゾロと大量の足音が聞こえてくる。長腕ロボットを踏み越えて追ってきた、癌様獣(キャンサー)どもの一群だ。

 このままでは、またも挟み撃ちに遭う。折角脱した窮地にまた逆戻りすることだけは避けたい一同は、それぞれが視線と思考を巡らし、打開策を練る。

 「あそこ…!」

 真っ先に声を上げたのは、ノーラだ。彼女が指差す方向にあるのは、アーケード商店街に合流する入り口だ。

 「あそこに入れば少しの間、戦車たちの眼を(くら)ませられます…! その間に、建物の中を通りながら逃げれば、経路は探知されないと思います…!」

 「でも、あの戦車、視覚以外のセンサーを搭載している可能性だって充分あるわよ!」

 紫の突っ込みに、ノーラはハッと口を噤むが、そこへすかさず蒼治がフォローする。

 「あんな機動性に優れた奴らを相手にするのに、開けたところを逃げ回るのは不利だ!

 攻めてくる方向が限定される場所に逃げ込んだ方が、対策も練りやすい!」

 「でもっ! あのムシどもも追って来てるんですよ!? 袋のネズミになっちゃったら、どうするんですかぁっ!」

 「癌様獣(キャンサー)のことなら、心配ありません…!」

 なおも不安に喚く紫の隣で、ノーラが剣呑にして自信に満ちた表情で力強く答える。

 「さっきのロボット達の戦闘を見ながら、癌様獣(キャンサー)たちの霊核の構造を解析しましたから…! 無力化は可能です…!

 たとえ霊核を多少補正されても…! 解析のコツは掴みましたから、すぐに対応できます…っ!」

 「でもさっ、でもさっ!」

 紫がしつこく食い下がるが、ロイがすかさず彼女の頭を拳で軽く小突き、狼狽を無理矢理に押し込める。

 「不安がってばかりじゃ、成るものも成らねーだろっ! とにかく、打開の可能性があるならやってみるしかねーだろっ!」

 「…っ! も、もうっ! 分かったわよ、でもこれでダメだったら、みんなの所為(せい)だかんねっ! 私は、止めたん…」

 「お喋りは良いからッ! ホラ、曲がンぞっ!」

 ロイが紫の手をグッと引いた頃、一同はアーケード商店街の入り口正面に差し掛かっていた。

 商店街は屋根部分が所々破壊されて鉄骨が剥き出しになり、清々しい蒼空からの陽光が光の柱のように降り注いでいる。周囲の飛散な瓦解の様子さえなければなかなかに神々しい光景だが、これを楽しむ余裕など爪の先ほどもない。

 「取り合えず、あのビルの中に入るぞっ!」

 蒼治が顎で指し示したのは、表面上の破壊の程度が比較的少ないビルだ。入り口の自動ドアは爆風にやられたらしく、ひしゃげて無惨に口を開いている。

 ビルの入り口へ目指す道中、ノーランは定義変換(コンヴァージョン)を実行し、愛剣を刀身が砲身を兼ね備えた大剣へと変形させた。来るべき屋内戦闘の際、癌様獣(キャンサー)に対抗するための遠距離攻撃手段を準備したのだ。この砲口からは高密度に圧縮した術式がビーム状に発射され、癌様獣(キャンサー)どもを貫いて攻撃できるようにと想定したものである。

 この武器の有用性を確かめようとするかのように、ノーラがチラリと背後を振り向く。もうすぐ、アーケード商店街内に癌様獣(キャンサー)が雪崩込んで来るはずだが…どういうワケか、カーブの向こうからゴチャゴチャとした群が現れる気配が一向にない。

 それどころか…耳を澄ませてみると、癌様獣(キャンサー)たちのゾロゾロとした足音がピタリと止んでいるのが確認出来る。

 (…どういう、こと…?)

 この状況を素直に、そして楽天的に解釈するのならば、癌様獣(キャンサー)たちが追撃を諦めてくれた、と言えるのだが…。

 ノーラは即座に、そうではない、という事実の一部を垣間見る。

 カーブからアーケード商店街の砲へと伸びる影。その中に、微動だにせぬ瓦礫の影に混じって、モゾモゾと蠢く姿が見える。見えるのは影だけなので、本体の詳細な姿は確認できないが、状況から鑑みれば癌様獣(キャンサー)である判断するのが妥当だ。そんな彼が、足音も立てず、その場で激しくもがいているのだ。

 まるで、その場に突然、底なし沼でも出現したかのように。

 (…どういう…こと…?)

 浮かんだ疑問符によって集中が殺がれ、思わず駆け足の速度が緩まる、ノーラ。そこを過敏に察知したのは、さっきからパニック状態に陥りながら逃走に全神経を集中している紫だ。

 「ノーラちゃん、何ボーッとしてンのよっ! 追い付かれちゃうじゃないっ!」

 「う、うん…」

 ノーラは小首を傾げながら視線を前方に戻す。一行から2足ほど遅れてしまっていたが、開いた距離を詰めるほど全力疾走してスタミナを浪費する真似はせず、これ以上距離が離されないようにペースを合わせて駆け続ける。

 

 こうして、一行はようやく目的のビルの内部へと到達した。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Borderland - Part 4

 ビルの内部は、当然電力や魔力が通っていないため、照明器具が作用しておらず薄暗い。光源と言えば、分厚いコンクリート壁の所々に開いた、ガラスが無惨に割れ散った窓からの陽光くらいのものだ。その陽光も、アーケードの屋根に遮られているため、スッキリしないぼんやりした薄明かりになっている。

 「ロビーのような広い場所があるはずだ! そこに展開して、入り口通路から進入してくるムシ達を迎撃するぞ!」

 蒼治の指示に従い、一行は瓦礫と土埃が散らばる通路を1列になって駆け抜けると、長椅子が並ぶロビーに到達する。走り続けて疲労した足が、埃まみれとは言え体重を支える安定感に満ちた椅子を求めて(うず)きを訴えてくる。その求めに応じてゆっくりと腰を落ち着けたいのはヤマヤマだが、生憎(あいにく)と交戦は今だに気を抜けない状況が続いている。安楽の誘惑を振り捨てて、一同は一人として欠けることなく(きびす)を返すと、元来た通路を睨んで左右に広く展開する。

 「散ッ々追い回してくれてさッ! 今度はこっちの番だって、思い知らせてやるっ!」

 紫が苛立ちを込めながら、潜めた声で小さく叫ぶ。魔装(イクウィップメント)で作り上げた機動大剣を横に構え、針のように眉をつり上げたその威勢は、やる気満々だ。

 他の3人も彼女の同様の気概を見せて、分厚いコンクリートを貫通するような強い眼差しで通路の方を睨みつけている…が。

 数秒…十数秒…と経過しても、通路の向こう側から騒がしい足音は全く聞こえない。

 折角、疲労の中から振り絞った威勢を全身に満たして待ち受けているというのに。これでは、あまりにも拍子抜けだ。

 「…なんで、来ねーンだ…?」

 溜まらなくなったロイが、構えは解かずとも眉だけは怪訝に跳ね上げながら、疑問を口にする。

 そんな彼の言葉を耳にしたノーラは、さっき目にしたカーブの向こう側から伸びる影の光景を思い返す。

 「あの…さっき、私たちがアーケード商店街に入って来た後…癌様獣(キャンサー)達のだと思うんですが…ゴチャゴチャした影が、その場で暴れているのが見えたんです…。

 もしかして、それが原因かも知れません…」

 「前方から迫ってきていた多足歩行戦車と交戦状態に陥ってしまい、僕達を追撃するどころではなくなった…とかかな?」

 「まぁ、考えられなくはないです話ですけど…」

 蒼治の考えに、紫は今一納得していない同意の言葉を述べる。

 もしも蒼治の考えが正解ならば、ビルへと逃げ込む一同の背後では激しい戦闘が起こっていたはずであろうが…そんな気配は全く感じなかったし、間近な銃声も爆音も聞こえなかった。

 そして今も、ビルの壁越しに聞こえてくるのは、遠距離の戦闘の音ばかりだ。

 何か、想定を越えた異様な事象が発生している。そんなイヤな予感が一同の間に――蒼治にすらも――立ちこめ、ジットリした深いな冷や汗が皮膚の上に噴き出す。

 ペロリ――口元に伝ってきた汗粒を、ロイが舌を伸ばして舐めとった、その直後のこと。

 ゾワリ――ロイの真紅の髪が、危機を前にしたハリネズミの針のごとく逆立つ。

 「ロイ君…? どうしたの…?」

 と口にしたノーラの言葉と、ロイが暴風の勢いで転身し、背後を振り向いたのは、ほぼ同時。

 「伏せろッ!」

 雷撃のごとき咆哮を口にしながら、黒い疾風となって、ロビーの奥へと飛び出してゆく、ロイ。賢竜(ワイズ・ドラゴン)の鋭敏な野生の感覚が捉えた危機的状況を全く飲み込めず、疑問符を浮かべながらノーラたちが3人が首を回すだけで背後を振り向いた…その時。

 一同は、異様な光景を目の当たりにする。

 ロビーを覆う、濃淡の入り交じった影。奥の壁沿いに広がる、より一層濃い影の一帯に、"異変"は起きていた。真闇に近い特濃の漆黒が、音もなく、餅のようにプックリと膨らんでいるのだ。

 飛び出したロイが膨らんだ黒の一団に肉薄するよりも早く。黒はぼやけた輪郭を持ちながらも、明確な形状を確立する。その姿は――旧時代の中世に登場した単発式長銃に似た銃を構えて屈む、黒一色の人型だ。総勢十数名の彼らは横一列にズラリと並び、こちらに照準を合わせている。

 (ガァ)ッ――ロイが爆裂のような咆哮を上げて、黒竜の拳を烈風のように放つのと…ババババァンッ、と連続する銃声が木霊したのは、ほぼ同時である。

 発射された弾丸は、射手と同じく輪郭のぼやけた黒一色の実弾(?)である。至近距離で発砲されたロイは回避する間もないが、それは想定済だ。彼は予め、全身の皮膚に強靱な竜鱗を張り巡らせ、弾丸への対応策としていたのだ。

 ロイの拳が黒一色の人々に抉り込まれるより早く、弾丸は彼の身体に着弾する。ロイの想定では、弾丸はカキンと虚しい金属音を上げてあらぬ方向へと弾き跳ぶはずであった。しかし、実際は…微風ほどの衝撃もなく着弾した弾丸どもは、まるで砂地に落ちた雨滴のように、ロイの体内へと吸収されてゆく。

 ゾワリ――着弾地点から、凍り付くような不快な冷気が広がり、脊椎へとジワジワと浸透してゆく。竜鱗で覆われていない顔面や脚部の皮膚に、思わず寒疣(さむいぼ)が粟立つ。

 (なんだ…この攻撃!?)

 疑問が脳裏に過ぎるものの、今はそれを振り捨てて、拳への集中を再開する。黒い烈風となった拳は、ぼやけた黒一色の人型の無貌(むぼう)の顔面へあっと言う間に吸い込まれる。

 避ける間もなく、人型の顔へと拳は直撃した――のだが、ロイの眉が即座に怪訝にしかめられる。

 手応えが、全くない。

 それどころか…拳が直撃した途端、人型の顔が煙のようにユラユラと霧散したのだ。

 「な…!?」

 予想だにしなかった光景に驚愕の声を上げた瞬間、黒一色の人型どもが一斉に全身を煙状に変化させ、蒸発した。――と思った矢先、ロビーの中のバラけた位置に、突出したロイを含めて星撒部一行を包囲するような形で出現する。しかも、彼らの足場は床だけではない。壁や天井に接地して出現し、三次元的に包囲しているのだ。まるで、重力の影響を受けていないかのように。

 「ま、また新手ぇ!?」

 本日、パニックになりっぱなしの紫が騒ぐ。ロイ以外の3人は蒼治の防御用方術陣で銃弾を防御しており、ロイが感じたような冷気には苛まれてはいなかった。

 「気をつけろよ、みんなっ!

 こいつら、ブン殴っても手応えないどころか、身体が」

 ロイが仲間たちへ警告の言葉を語っている最中(さなか)のこと。突然、彼の舌が無惨なほどにもつれ出す。

 「へむりのひょうになっひまいひゃやっへ…っへ、なんらろ、こへは…」

 言葉のもつれにも負けじと言葉を口にし続けていたロイだが、段々と口の動きが鈍くなってゆく…どころか、体中に微弱な電流が流れているようなチクチクした不快感と共に、全身から力が抜けてゆく。脚が体重を支えきれなくなり、こんにゃくのように間接がクニャリと曲がると、瓦礫と土埃まみれの床に倒れ込んでしまった。

 先に彼の体内に潜り込んだ弾丸の影響であることは、間違いないだろう。

 「ロイ君…!!」

 防御手段もなく、孤立状態で無力化してしまったロイを回収するべく、ノーラが駆け出した、その瞬間。

 ババババァンッ! ロビー中に銃声が響き、ありとあらゆる角度から漆黒の弾丸が3人へと襲いかかる。

 「ノーラさん、待って!」

 蒼治がノーラの腕を掴むのと同時に、再び防御用方術陣を展開。青白い魔力励起光で構成された、小さな真円形の方術陣たちは3人の周囲を半球状に取り囲み、弾丸を受け止める。方術陣に接触した弾丸は、バチっ! と静電気が弾けるような音を立てながら、ボロボロと小片に砕けたかと思うと宙に蒸発してゆく。

 一方、防御の外側にいたロイの方には、幸いにも弾丸は飛んでいなかった。単に、黒一色の人型どもは無力化したロイにこれ以上攻撃をしても無意味だと判断しただけかも知れない。

 しかし、弾丸の雨が止んだ直後、1人の人型がシュワァッ、と旋風が立つような有様でロイのすぐ隣に立つと、うつ伏せに倒れている彼の制服の襟をグイッと引っ張る。そしてそのまま小走りで進み始める…より一層黒色の濃い影で覆われている、ロビーの隅を目掛けて。

 旧時代的な常識で考えれば、自ら行き止まりに進む愚かな行為にしか見えないが…。魔法科学に登場によって、物理法則までもが覆されかねない現代に生きるノーラは、目にした光景に対して多大な不安を確信する。

 あの黒い人型は、ロイごと壁の中に入り込み、彼を(さら)ってゆくだろう…と。

 何が目的でロイを欲しているのか、その背景は想像できないものの…。

 (そんなことは、させないっ!)

 理屈など考える(いとま)もなく、ノーラは蒼治の腕を振りきって、方術陣の防御の中から弾丸のように飛び出す!

 「ノーラさん!? 考えなしに動いちゃ…!」

 背後から投げかけられる蒼治の(いさ)めなど露ほども気にかけず、ノーラは一気に黒い人型の元へ肉薄する。

 道中、幸いにもロビー中を取り囲む人型どもからの射撃はなかった。銃身の外観通り、連射には向かず、次弾の準備まで時間がかかるようだ。

 これを絶好の好機とばかりに、全力で疾走して褐色の疾風となったノーラは、かけ声も口にせず問答無用で大剣を横薙ぎに一閃。人型の首から上を斬り飛ばした。

 …いや、刀身が通り抜けた顔面は弾けるには弾けたものの、やはり煙のようにフワリと揺らぐだけだ。そのまま人型はロイを取り残して、全身を蒸発させて姿を(くら)ます。

 「ロイ君、大丈夫!?」

 ノーラは脇目も振らずに(うつぶ)せで大の字に倒れるロイを、素早く肩に担ぐ。今だ全身の痺れが抜けないロイは、(くび)とガックリとうなだれたまま、全く呂律の回らない舌でノロノロと謝罪らしき言葉を口にする。

 「ふまへぇ…へま、はへはへちまっは…」

 何を言っているのか聞き取れなかったこともあり、ノーラは特に返事を返すことをせず、代わりに素早く転身して蒼治たちの方へと足を急がせる。

 ロイの症状はじっくりと解析すれば、ノーラならば確実に快癒させられることだろう。だが、余裕に乏しい交戦の中では、もっと治療に長けた人物に任せたほうが安心だ。

 (相川さんの治療技術なら…私なんかよりずっと早く、ロイ君を治せるはず…!)

 昨日、アオイデュアで天使と交戦した後に見せた、紫の優秀極まりない治療術を思い出す。

 その紫の元へと、有らん限りの力を振り絞って疾走するノーラであるが…蒼治の防御用方術陣の障壁に至るより早く、ロビー中からババババァンッ! と発砲音が響く。

 ノーラの足が先か。それとも、黒一色の人型どもの弾丸が先か。怖々と目を細めたくなるような緊張が、空間を駆けめぐる。

 その緊張の拮抗状態を大きく崩したのは、パニック状態ばかりが目についていた紫だ。

 「早くっ!」

 そんなかけ声は、紫自身の背に装備されたバーニア推進機関の駆動音にかき消された。土埃をもうもうと上げながら、青白いバーニアの噴射の軌跡を残しつつ、紫はまさに一瞬でノーラのすぐ隣へと至る。

 この時にはすでに、弾丸は3人の身体まであと十数センチほどまで迫っている状況だ。

 この窮地に対して紫が取った行動。それは、右拳部の装甲内部から3本の電極様機関を解放すると、即座にバチバチと明黄色の電流を放ちながら、地面に「砕け散れ!」とばかりに叩きつける。

 転瞬、紫の拳を中心に、半球状の明黄色の電流の爆発が起きる。激しい電場の奔流にノーラやロイはおろか、紫自身の髪もブワッと盛大に逆立つ。とは言え、細胞内の電子が狂乱して肉体を灼き焦がすような悲惨な現象は起こらない。体毛がチリチリと逆立つ不快感に襲われる程度の影響しかない。

 だが…この電流の爆発は、黒一色の人型どもに対しては、全く異なる影響をもたらす。

 電流に飲み込まれた弾丸は、風船が弾けるような有様でプクッと膨れてパァンと爆ぜる。そして電流の放つ光明に晒された人型達は、砂嵐にでも襲われたような有様で全身を縮こめて腕で顔を覆い、完全な防御態勢を取る。そんな彼らの輪郭のぼやけた体表では、重度の火傷のような水疱様の傷がブクブクと発生する。

 「よっしゃっ!

 先輩っ、ノーラちゃんっ! この間に、早くロビーを抜けるよっ!」

 紫はノーラをグイッと引っ張り、背部のバーニア推進機関を全開にして、暴風の勢いでロビーを突き抜ける。蒼治は紫に見向きもされずに残されてしまっていたが、そんな状況に苦笑を浮かべつつも不満を表情に張り付けることなく、サッサと足を動かしてロビーから脱出する。

 ロビーを抜けたには短い通路が続いており、その突き当たりには元来た方向とは別の出入り口がある。この出入り口は強化プラスチック製の引き戸になっており、表面には激しい亀裂が幾筋も走っている。

 この引き戸の手前で、紫たち3人は蒼治の到着を待っていた。ロイはまだ治療されておらず、ノーラの肩にすがりついている状態だ。紫はそんな支え合う2人を背後に匿い、ロビーの方を向いて身構えている。

 合流した蒼治は紫と並んで立つと、ロビーの方向に視線を投じたまま、彼女に感心を含めた言葉をかける。

 「さっきの状況下でよくも、アイツらの弱点を割り出せたな…!」

 「別に、あの場でアイツらの存在定義を解析したワケじゃないですよ。

 思い出したんですよ、アイツらのこと」

 「思い出した…?」

 「はい。以前、人類分類学の授業で習ったんですよ。

 アイツら、『影様霊(シャドウ・ピープル)』ですよ。つまり、死霊です」

 影様霊(シャドウ・ピープル)。それは、旧時代の地球から知られている死霊の一種である。当時は肉眼で知覚されるよりも、画像の中に不鮮明な人間状の影として捉えられることが多く、心霊写真の有名なパターンとしてよく知られていた。

 魔法科学が登場した現代では、死霊たちは人類審査委員会が定めた基準さえ満たしていれば、人類として認定され人権を耐えられる立派な種族として確立している。旧時代的な思考の持ち主は"死霊"という名前の響きから彼らにあまり良い印象を持たないが、彼ら自体は多くの種族と同様、良いも悪いもない世界の住人である。

 …しかしながら、今回星撒部一同に襲いかかってきた一団は、間違いなく危険な存在と断定できよう。

 「癌様獣(キャンサー)とか言う化け物に、大型機動兵器に、今度死霊か…。

 この都市国家(まち)は、一体どうなってるんだ…。戦争は終わったんじゃないのか…?」

 うんざりした様子で言葉を吐く蒼治に乗っかり、紫がチラリと背後のノーラに視線を走らせながら、普段の毒を取り戻してトゲトゲしく語る。

 「誰かさんが向こう見ずな仕事さえ取ってこなければ、今頃私たちも子供たちとぬくぬく折り紙して過ごせてたのにねー!」

 「ご…ごめんなさい…」

 しゅん、と肩を落としたノーラがたまらずに謝罪を口にすると、未だ麻痺が取れないロイが下がった肩を伝って床にズルリと落ちてしまう。

 「ぶへぇ!」

 倒れざまに顎を強打してしまったロイが間抜けな声を上げると、ノーラは慌ててしゃがみ込んでロイを持ち上げる。

 「ご、ごめんなさいっ!」

 「あーあ! "霧の優等生"なんて名前が、笑わせてくれるわー!」

 紫がハンッ、と鼻で笑いながら、キツい調子で責めてくる。再びこちらに走らせた視線に、烈火のような怒りがチラついているところを見ると、ロイを(ないがし)ろに扱ったことに相当怒っているようだ。

 「ひょ、ひょんにゃに…」

 「そんなに責めるな、相川。今はそんな場合じゃないだろう」

 呂律の回らない舌でフォローしようとしたロイの言葉を引き継いで、蒼治がヤレヤレと言ったため息を含ませながら紫を諫める。紫はベッと舌を出して悪びれる。

 

 そんな紫の意地悪な仕草が引き金になってしまった…というのは言い過ぎであろうが…。

 丁度良いというか、不幸にもというべきか、このタイミングで星撒部一行の命運をまたまたも揺るがす事態が起きてしまう。

 

 ガァンッ! すぐ間近で雷が落ちたかのような、轟音。そして、ビル全体に響きわたる、激震。

 何事か!? 音のした背後へと一斉に振り向く、星撒部部員たち。視界一杯に映る、激しく亀裂の走る強化プラスチック製引き戸の向こう側…そこに在るのは、こちらに砲口を向けた多足歩行戦車。

 「くそっ! こんな所で!」

 蒼治が罵声を上げるのと、多足歩行戦車の砲口の奥に魔術励起光がぼうっと灯るのは、ほぼ同時だ。なんとか逃げ出さねばならないが、唯一の退路である背後の通路の奥には、影様霊(シャドウ・ピープル)どもが待ち受けているはずだ。

 「突破するしかないですね…っ!」

 ノーラが右手に大剣を構え、左腕でしっかりとロイを負った状態で、引き戸の向こう側へと跳び出そうと前傾姿勢を取る。多足歩行戦車の砲撃は恐ろしいが、図体のデカい相手はこちらほど機敏には動けないし、死角も多い。特に、脚部に持ち上げられた腹部の下に潜り込めれば、砲撃は確実に回避できる。

 ノーラの判断を瞬時にくみ取った蒼治も紫も文句は言わず、彼女に従って跳び出そうと一歩踏み出す――。

 そして、一同は一斉に――盛大に、その場にすっ転んだ。

 「えっ!?」

 「なっ!?」

 「ちょっ!?」

 呂律の回らぬロイ以外の3人が、状況を把握できずに声を上げる。彼の見に起きたことは、皆同じだ。駆け出そうとした足が、全く上がらなかったのだ。

 慌てて足下を見やると…影に覆われた床が忌々しい沼地のように、彼らの足首までスッポリと掴まえている!

 「ま、まさか…!」

 この状況を目にして、いち早く事象の原因に思い当たった紫が、表情に焦燥の蒼白と苛立ちの赤味を同居させながら、眉値に深い(しわ)を寄せて床を睨みつける。

 そして紫は、色濃い影の闇の中に溶け込むようにして存在する、まるで餅のように丸々と膨らんだ幾つかの"それ"を見つける。その正体は、床から生首のように生えた、影様霊(シャドウ・ピープル)(くび)だ。

 (そうだ、こいつらってば…影を自在に利用できるんだっ!)

 影様霊(シャドウ・ピープル)はその名に(シャドウ)と言う言葉を冠しているように、影と密接な関係を持つ。彼らは影を、ある時は影同士を繋ぐ扉のように、ある時は自在に形状を変えられる粘土のように、そしてある時は自分の身体の延長として利用することが出来る。

 今、彼らが星撒部一同に対して行っている攻撃は、"扉"と"身体の延長"の合わせ技だ。床に広がる影を巨大な掌のように使って一同の身体を拘束し、何処(いずこ)かへと引きずり込もうとしている。

 それとも、多足歩行戦車と結託し、砲撃の確実な餌食となるように拘束しているのかも知れない。

 どんな真意があるにせよ、この状況が非常にマズいことには変わりない。

 (砲撃が来るまでに、間に合うかしら…!)

 紫はギリリと歯噛みしながら、まだ影の中に飲まれていない右手を振り上げ、装甲から突出した3本の電極様機関に電流を宿す。ついさっきやってのけたように、電磁場の炸裂で影様霊(シャドウ・ピープル)たちを振り払うつもりだ。

 影様霊(シャドウ・ピープル)のみならず、死霊という種族は電磁場の塊である。故に、周波数をうまく調整した電磁場を作用させることで、彼らに多大な影響を与えることが可能だ。

 ヴウン…と大気を電離させる鈍い音が響き、電極の間に蛍光灯の照明のごとき輝きが宿る頃。多足歩行戦車の砲口の中でも、魔術励起光が真夏の陽光のような激しい輝きを放つ。互いに、行動を起こすのに十分な準備が整ったのだ。

 (イチかバチかってトコかな!? でも、これ以外に選択肢なんて、ないっ!)

 容易に脳裏を過ぎる最悪の未来にジットリとした冷や汗を噴き出しながらも、紫は意を決して目を見開き、帯電した拳を影の広がる床に叩きつけにかかる。

 一方で、多足歩行戦車の砲口の奥から、膨張するように魔術の輝きがせり上がってくる…その最中(さなか)のこと。ガゴンッ、ガゴンッ! と甲高く、重く、そして痛々しい金属の衝突音が響きわたり、多足歩行戦車が大きくバランスを崩す。砲口が大きく逸れてすぐ間近に地面に向かってしまい、発射済の砲弾は停止しようもなくそのまま大地に激突。盛大な爆炎の柱を上げる。

 「何だ!? 何が起きたんだ!?」

 蒼治が眼鏡の向こう側で瞼をパチパチさせながら、もうもうたる炎と煙の合間に視線を投げる。すると、多足歩行戦車の車体に群がる、"凶蟲"タイプの癌様獣(キャンサー)の姿が見えた。どうやら、横合いから多足歩行戦車に激しく体当たりして絡みついたらしい。

 事態はますます混迷の色を深めたが、紫にとっては紛れもない好機だ。後ろ髪を引く不安要素は片づいた。これで心置きなく、影様霊(シャドウ・ピープル)への攻撃に専念できる!

 ドンッ! ビルごと揺るがせ、と言わんばかりに拳を叩きつけると、バチバチバチッ! と派手な電離音を響かせて、明星のような電磁場の爆発が起こる。影様霊(シャドウ・ピープル)どもはたまらず床に広がる影の中から飛び出して、疾風のように通路の奥へと退避するが、その背中は重度の火傷を負ったように無惨な水疱だらけになっている。

 影様霊(シャドウ・ピープル)が去ったお(かげ)で、影の拘束から解放された星撒部一同は一斉に立ち上がると、視線を交わし合って互いの状態に変化がないことを確認。そして、出入り口に一番近い位置にいるノーラがロイを負っていない右肩から強化プラスチック製の扉に体当たりし、扉をガゴンッ! という無惨な音と共に吹き飛ばしながら、通りへと身を躍らす。そのすぐ後ろを紫、蒼治の順序で続く。

 通りは片側ずつ2車線になっている、道幅が結構広い道路になっている。そのほぼど真ん中に倒れ込んでいる多足歩行戦車を横目に、4人は未だ晴れぬ爆煙の中を掻き分け、混戦の場から早々に離脱するべく、またもや全力疾走する。

 『あ…っ! この…逃がさないわよっ!』

 背後から、エコーの掛かった女性の声が投げつけられる。どうやら、多足歩行戦車のスピーカーが発声したものらしい。この戦車の搭乗者が女性なのか、それとも戦車に搭載されたAIが女性格なのかは、判断出来かねるが。

 それはともかくとして、戦車の行動は叫ぶだけに留まらない。車体上部装甲の幾部分かをカパリと開き、機銃を出現させると、逃げる4人に向けて掃射を開始する。

 しかし、今だに車体に取り付いて離れない癌様獣(キャンサー)どもに(さいな)まれ、うまく照準が合わせられないようだ。銃弾はかなり滅茶苦茶に4人の足下や頭上などを通り過ぎてゆく。とは言え、中には直撃コースで驀進してくる弾丸もあるので、決して油断はできない。

 危うい弾丸はしんがりの蒼治が小規模の防御用方術陣を都度展開して弾き返し、事なきを得ている。が、安心するどころか、蒼治は眼鏡の向こう側で目をギョッと見開く。というのも、戦車に取り付いていた癌様獣(キャンサー)の一部がギョロリとこちらに充血した眼球を向けると、一目散に追撃を始めたからだ。

 弾丸の雨と癌様獣(キャンサー)、その凶悪な二重奏が不協和音の木霊(こだま)のように迫り来る。

 「くそっ、なんだって言うんだ!

 なんで僕達を、ここまで執拗に追い回すんだ、こいつらは!」

 これまでの散々な逃避行に溢れんばかりの嫌気を抱きながら、蒼治は唾棄する。方術陣を展開しながら、癌様獣(キャンサー)に対抗すべく後ろ走りをしながら、双銃の銃口を向ける。

 彼が引き金を引くより早く…今度は、先頭のノーラから慌てた声が上がる。

 「そんな…先回りされた!?」

 そう、4人の進路上…盛大に傾いて道路の向かい側の建造物にのしかかっているビルが作り出す太い影の中で。大地を染める黒色の中から、餅が膨らむようにプクプクと丸みを帯びた隆起が出現し…数瞬後には、膝を立てて屈み、長銃を構えた影様霊(シャドウ・ピープル)の縦列陣が出現する。

 「もぉっ!! 今日は挟み撃ちのバーゲンセールでもやってるワケぇ!?」

 紫が自暴自棄気味に泣き笑いながら叫ぶ。彼女のみならず、星撒部の間に暗澹とした失意と疲労感が漂い出す。

 今回は横に脇道もなく、左右には入り口部分が完全に潰れた建物ばかりが並ぶため、屋内へ逃げ込むことも出来ない。前後は言わずもがな、敵勢によって塞がれてしまっている。この状況で見いだせる唯一の逃走経路は…上空だけだ。

 紫なら魔装(イクウィップメント)のバーニア推進機関で飛行することが可能だし、ノーラも蒼治も『宙地』による空中歩行が可能だ。ロイが健在ならば、竜翼で軽快に飛行出来たであろうが、彼の麻痺は一向に回復する兆しを見せない。ノーラが担いだまま、空へ歩き出すことになるだろう。

 3人は一瞬だけ顔を見合わせ、無言ながら以心伝心並の意識合わせを行うと、一斉に空へと視線を向ける。

 逃走経路を上空に取ることを、決意した瞬間だ。

 

 だが、折角決意した、その直後。彼らの眼は一斉にギクリと丸く見開かれ、プルプルと震える。

 何故ならば…ヴォンヴォンヴォン、と浮遊感のある鈍い電子音と共に、積雲のような影が3つ、上空を塞いだからだ。

 唯一の逃走経路も潰されてしまった…水が凍り付き、そのまま破裂してしまうかのような冷えついた絶望感が一行の中に広がる…が。

 冷たい時間は、束の間のこと。焦燥で開ききっていた瞳孔がスゥッと収縮し、パチクリと瞬きをすると…彼らの眼に、安堵の光明が灯る。

 上空に現れた、積雲のごとき3つの影。その正体は、風霊エンジンで飛行する、3隻の小型飛行戦艦だ。これが全く見知らぬ戦艦ならば、多足歩行戦車の勢力の増援、または新手かと疑って絶望の深淵にたたき込まれたことだろう。しかし、幸いにも、戦艦の船底中央に張り付いている所属組織のトレードマークは、この窮地においてなお一行に綿毛のような安堵感を与えてくれた。

 地球と、それを囲むハトの翼を持つ輪っかのマーク。地球の治安維持を謳う世界的機関、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のものだ。軍団ごとに定められている輪っかのカラーは、深い紫色である。

 星撒部部員の顔が、歓迎の色に(ほころ)ぶ。彼らの知る通りならば、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の職務は民間人である彼らを襲撃している、その他勢力の成敗にある。星撒部の一同は、心強い援軍を得たのだ。

 「なんとか、助かったみたいだな…!」

 一同の気持ちを代表して、蒼治が安堵の吐息と共に小さく叫んだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 一方。星撒部一同の交戦地点から、かなり離れた距離にある、とある場所で…。

 デスクと椅子、そして壁にデカデカと掲示されたアルカインテールの地図以外に全く飾り気のない、ガランとした一室にて。デスクの上に組んだ両足を乗せ、腰かけた椅子をギィギィ鳴らしながら体重を掛けて揺らしている、1人の男がいる。

 深い紫色のコートに身を包んだ大柄な男だ。目深に被った軍帽の中央には、深い紫色の輪を持つ地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のトレードマークがついている。

 コートの胸元には様々な徽章がゴチャゴチャと着いており、組織内でまとまった権能を持つ地位と、見栄えをあまり気にしない性格が伺い知れる。

 男は、暇を持て余している。とは言え、業務を放棄して権力を振りかざしているだけで済むような身分と云うワケではない。彼の現在の職務が単に、待機することなだけなのだ。

 くかー、くかー、と寝息のような規則正しい、脱力した呼吸を繰り返すこと、もう数十分。本当に寝入ってしまいそうになる一歩手前で、どうにか意識と格闘していると…。トントントン、と部屋の扉が早いテンポで叩かれる。

 ピクン、と男は身体を小さく揺らして椅子の動きを止めると、太くて大きな唇をニィッと笑みの形に歪める。不本意な退屈が破られたことを、心底喜んでいる表情だ。

 「おう、入ってこいよ!」

 姿勢を正すことなく、扉の向こう側にいるノックの主へ叫ぶ。すると即座に、扉はキュイン、と小さな駆動音を上げて自動でスライドする。

 開ききった部屋の出入り口からキビキビした足取りで入ってきたのは、これまた深い紫色のコートに身を包んだ、オオカミの顔と尻尾を持つ獣人属(ライカンスロープ)の軍人である。

 「ラングファー中佐。クラウスの部隊から報告が入りました」

 「今頃かよ。予定時刻よりずいぶんと(おせ)ぇじゃねぇか」

 男――地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の"パープルコート"軍団所属の中佐、ゼオギルド・グラーフ・ラングファーは、下士官からの丁寧な報告に対して荒々しい言葉遣いで返答する。別段、機嫌が悪いというワケではなく、この男の粗野な性格の現れだ。

 「で? 合流は出来たのかよ、イミューンの部隊とはよ?」

 足でデスク面をグッと踏みつけると、椅子はガタンッ、と軋む音を大きく立てながら、倒れ込みそうなほどに傾く。そこでゼオギルドは非常にうまく体重移動を行って体勢を立て直し、両足を地につけた形で座り直す。

 転瞬、着地の勢いのままに上体を起こし、デスクの上に肘を立てて、下士官の眼前へと上半身をグイッと突き出す。

 餌を前にして長時間耐え続けた末、ついにありつけた肉食獣の凄絶なしたり顔にも似た表情が、彼の顔に浮かぶ。その威圧感に、オオカミ面の下士官はギクリと身体を硬直させ、やり場に困った視線を両手に掴んだタブレット端末に落とす。

 「そ、それが、その…」

 「あぁん? なんか問題でも起きたってのか? それならそれで、サッサと報告しやがれ」

 「え、えぇと…。

 と、ともかく、この映像をご覧下さい」

 下士官は獣毛で覆われた指をギクシャク動かしながらタブレット端末を操作すると、彼とゼオギルドの間に平面型のホログラムディスプレイが出現する。

 ディスプレイが表示しているのは、瓦解した街並みの俯瞰アングルでのフルカラー映像である。その中央には、安堵した表情でカメラ目線を送っている、同じようなデザインの制服を着込んだ一団――星撒部の部員4人が映っている。

 つまり、この映像はノーラたちの上空に現れた飛行戦艦が撮影しているものだ。

 また、ディスプレイの中には、体勢を崩してもがいている多足歩行戦車や、それにアリのごとく群がる癌様獣(キャンサー)の群も鮮明に写っている。ただし、倒れたビルの影に潜む影様霊(シャドウ・ピープル)の一団だけは、ビルに邪魔されて映像には映らない。

 この光景を目にしたゼオギルドは、太い金色の眉毛を思い切りしかめる。

 「なんだぁ、おい!? こいつら、イミューンどもじゃねーぞ!?

 ったく、クラウスども、何を経費浪費して追跡してんだよ!」

 「イミューンの部隊の到着予定時刻に、この都市国家(まち)に進入しては、派手に交戦していたとのことで…。てっきり、イミューンの部隊が"いずれかの勢力"の襲撃を受けたものと考えたようです…」

 下士官の説明は筋が通っている。事前に通知された情報のタイミングで事態が発生したのだから、まさか全く尾別の事態が偶然発生していたなどと夢にも思わなかったことには、同情できるはずだ。

 しかしゼオギルドは、露骨に露わにした非難を引っ込めることなく、映像に噛みつかんばかりの粗暴な勢いで、ハァー! と溜め息を吐く。

 その後、興味を失ったように脱力し、椅子に一気に全体重をかけて座りこむ。椅子はギシギシッ、と破壊されそうな悲鳴を上げて、大きく後ろ方へ倒れ込む。そこですかさずゼオギルドは両足をバッと上げたかと思うと、ドッカとデスクの上に振り下ろして、組む。そして、下士官が入室する前の、やる気のない待機体勢へ戻る。

 これに面食らった下士官は、数瞬の間、視線をディスプレイとゼオギルドの顔の間で交互に行き来させていたが。やがて、()()ずと声を掛ける。

 「あの…如何しましょうか?

 大佐に、ご判断を仰いだ方が良いのではないでしょうか…? 相手は、事情を知らない民間人です…それに、オペレーターによれば、制服から判断するに彼らは自由学園都市ユーテリアの生徒のようですから…」

 「あーあー、知ってるっての。有名な話じゃねーか。

 つーか、てめぇ、尉官にもなってオペレーターに聞かねーと、そんなことも分かんねーのかよ?」

 「す、すみません…勉強不足なもので…」

 「大方、成績点稼ぎに空間汚染された戦地の観察にでも来てたんだろうよ。で、小賢しくもカラクリに気付いて、こっち側に足を踏み入れちまったってトコだろうな。

 運が悪ぃっつーか、余計なことに頸を突っ込むバカっつーか…。まぁ、オレ達にとっちゃ、ただのメンドクセー異物でしかねーけどな」

 帽子の内側に手をつっこみ、くすんだ金髪の茂る頭をボリボリと掻きむしる。目にした状況に向けてか、それともそんな情報をもってきた下士官に向けてか、心底面倒臭そうな態度だ。

 「は、はぁ…。

 そ、それで、大佐には指示を仰がなくてよろしいのですか…?

 ユーテリアは、我々(エグリゴリ)とは非常に良好な関係にありますし…"英雄の卵"と称される彼らも、一介の民間人ですから…その…邪見に扱うのは得策ではないと思いますし…。かと言って、我々が抱える事情を鑑みますと、全面的に保護するというワケにもいかないかと思いますし…。

 難しい判断かと思いますので、大佐にお伝えするのが定石だと思うのですが…」

 ゼオギルドの不服そうな態度を刺激しないよう、精一杯気を遣って怖ず怖ずと提案すると。ゼオギルドは一考することもなく、瞬時に「バァーカ!」と声を上げる。

 「何にも難しいことなんてねーだろ。

 オレ達がこの都市国家(まち)で何をしてンのか、少し考えりゃソッコーで答えが出るだろーが。

 大佐殿に指示を仰ぐほどのものじゃないっつーの」

 「そ、それでは…ど、どのような対処を…?」

 (いぶか)しむオオカミ面の下士官の様子を、ハッ、と鼻で笑ってゼオギルドはサラリと答える。

 「目撃者は、消せ。事情を知らねーヤツなら、尚更のこと、速やかにブッ殺せ」

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Borderland - Part 5

 ◆ ◆ ◆

 

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の登場により、星撒部一同は安堵するものの、その他の勢力の尖兵たちはギクリとしたように硬直し、ジットリと上空の戦艦に視線を注ぐ。

 流石は地球圏最大の戦力を持つ組織、睨みを効かせるだけでも相当の威圧感を与えるようだ。

 「おーいっ! こっち、こっちだよーっ! 多勢に無勢で困ってたのよーっ!

 すぐにコイツら、蹴散らしちゃってよーっ!」

 紫がバタバタと大きく腕を振って叫ぶ最中も、多足歩行戦車も癌様獣(キャンサー)も、影様霊(シャドウ・ピープル)も微動だにしない。紫の行動などより、飛行戦艦の動向が気になるようだ。

 星撒部一同の周囲以外、凍り付いたような緊張の空気が支配する中で。ついに飛行戦艦が動きを見せる。船底の装甲を数カ所開いて、砲門を出現させる。穴の開いてない、魔術篆刻(カーヴィング)がビッシリと刻まれた判子面のような砲口がキュインキュイン、と小さな駆動音を立てながら細かく射撃方向を微調整する。

 その砲口が星撒部一行の方にも向いていても、部員たちは誰一人として表情に不安を張り付けたりしない。発射されるのは、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)お得意の暫定精霊(スペクター)を利用した"意志ある砲弾"であろう。彼らならば保護対象をキチンと識別し、敵勢力だけを的確に捉えて攻撃するはずだ――そう、星撒部部員たちは確信していた。

 そして遂に――飛行戦艦の砲口が、連続で盛大な火を吹く。

 (ゴウ)ッ! (ゴウ)ッ! (ゴウ)(ゴウ)(ゴウ)――! 連続する爆音と共に、赤、青、そして白い火炎状の砲弾が判子面のような砲口から飛び出す。砲弾は星撒部一同が予想した通り、暫定精霊(スペクター)を利用したものだ。燃えさかる巨大な火球の表面には、肉食獣というよりホラー映画に出てくる怪物のような、剣山のような牙を林立させた凶悪な顔が張り付き、ゲラゲラゲラと嗤いながら空を(はし)る。

 暫定精霊(スペクター)の弾丸は宙に自らの魔術励起光の尾を長く引きながら、グルリと宙に大きな円を描く。その最中で、黒々とした双眸で眼下の標的を補足すると、一気に急降下。多足歩行戦車を放り出して、慌てて回避行動を取り始めた癌様獣(キャンサー)どもを執拗に追い詰め、ついに着弾して爆裂する。(ドウ)、と激震する大気を振りまきながら盛大な積乱雲状の炎塵を巻き上げて自爆した暫定精霊(スペクター)に、癌様獣(キャンサー)どもの大半が完全に炭化した身体が思い切り蹴り飛ばされた小石のように吹っ飛ぶ。当然、体勢の立て直しなど出来るはずもなく、無造作に大地に落下した癌様獣(キャンサー)どもは、中途半端に踏みつけられた昆虫のようにピクピクと身体を小刻みに震わす。再生が始まらないところを見ると、暫定精霊(スペクター)を構成していた術式は的確に癌様獣(キャンサー)の霊核構造を欠損させているようだ。

 暫定精霊(スペクター)の弾丸は、癌様獣(キャンサー)の群から解放されて間もない多足歩行戦車の上にも容赦なく降り注ぐ。慌てて跳び退こうと脚を踏ん張ったところで、車体上面に数匹の暫定精霊(スペクター)が直撃。(ドウ)(ドウ)(ドウ)、と鈍く痛々しい激突音が響き、多足歩行戦車は激しい衝撃にガクンガクンと身体を揺らして大地に腹部を擦り付ける。

 『畜生…っ! このままじゃ、このボディが持たな…』

 爆音の中、女性の声で口汚く状況を罵っていた多足歩行戦車であるが、その言葉が突然プッツリと停止。直後、キィン、と(やかま)しい耳鳴りのような音を立てたかと思うと、空気を入れすぎた風船のように内部から破裂。派手に金属片をブチ撒けながら、真紅の火柱を上げて大破した。

 さて、暫定精霊(スペクター)たちの一部は地面スレスレまで降下して超低空飛行しながら、星撒部の一行の方にも迫る。しかし初めは、一行のうちの誰もこの光景に対して危機感を抱かなかった。

 地球圏の平和を維持する地球圏治安監視集団(エグリゴリ)にとって、自分たちは保護されるべき民間人。攻撃される理由など、全く見あたらない。暫定精霊(スペクター)が狙っているのは、自分たちを越えた向こう側にいる影様霊(シャドウ・ピープル)の一団であり、うまく自分たちを避けて進んでくれることだろう…そう、確信していたのだ。

 だが…やがて、彼の顔に一筋、二筋、と不安の冷や汗が伝い始める。暫定精霊(スペクター)たちはなかなか進路を変えず、ゲラゲラ嗤う大口の中の炎の牙を見せつけて、ズンズン迫ってくるのだ。

 「ねぇ…ま、まさか…あの暫定精霊(スペクター)って…」

 紫がギクシャクと、誰ともなしに呟いた、その時。暫定精霊(スペクター)はキュンッ、と急激に方向転換して3メートルほど上昇した。そのまま放物線を描いて背後に突撃してくれれば、万々歳だったのだが…あろうことか、暫定精霊(スペクター)の険悪な嗤い顔はグルリとこちらを見下したのだ。

 ――ヤバい。星撒部一同の胸中に、一斉に焦燥が沸き上がる。

 「みんな、避けろっ!」

 と、蒼治が叫ぶまでもなく。一同は慌ててその場から跳び出した。ノーラはロイも抱えているので急な動きを起こすのは非常に辛かったが、自身の太股に鞭打って大地を蹴り、麻痺したままのロイを庇って彼の上に覆い被さった状態で跳び、地に伏せる。

 その場を跳び出した一同の背後で――(ドウ)ッ! と耳を労する爆音が発生し、チリチリする攻撃術式の残滓が乗った烈風が吹き抜けてゆく。

 「くぅ…っ!」

 制服越しですら背中の皮膚に灼熱を近づけたような疼痛(とうつう)を覚えたがノーラが、必死に歯噛みして悲鳴を押し殺す。

 「ひゃ、ひゃいびょぶひゃ…!?」

 ロイが気遣いらしき声を上げるものの、呂律の周り口では間抜けな言葉しか形作ることが出来ない。

 それでも、彼の心遣いはノーラには十分に通じた。烈風が止んだところですかさず上体を起こしたノーラは、未だに(うず)く背中の痛みに表情をひきつらせながらも、出来るだけ穏やかな笑みを浮かべる。

 「うん…ロイ君こそ、怪我はない…?」

 ロイは喋らずに首を縦に振って肯定の意を表す。そんな彼の表情には、今にも泣き出しそうな幼子のような、非常に申し訳なさそうな表情が浮かんでいた。

 2人が視線を絡み合わせていると、背後から雷鳴のような叫びが飛んでくる。

 「2人とも、早くそこから逃げて!

 また来てるって!」

 それは、紫の悲鳴だ。そして彼女の言葉の通り、2人の頭上には青と白の輝きを呈した暫定精霊(スペクター)の砲弾が急降下して来ている。

 「ロイ君、行こう…っ!」

 ノーラはロイを左肩に負って立ち上がろうとしたが…途端に、左足にズキンッ、と激痛を感じ、その場にくずおれてしまう。何事かと痛みの元へと視線を向けると…尖った瓦礫が、ふくらはぎをザックリと貫通していた。

 痛々しい事実を認識した途端…滝のような大量の冷や汗が顔中にブワリと噴き上がり、焼け付くような痛みがふくらはぎから脊椎を通って脳天へと突き抜ける。これでは、とてもではないが素早い行動など取れない。

 そんな無惨な状況にもお構いなく、暫定精霊(スペクター)はグングン距離を詰め、炎の牙で2人を貪ろうと大口をグワァッと開ける。

 「ノーラちゃぁんっ!」

 紫の悲鳴が、鼓舞するものから最悪の事態の拒絶へと色彩を変える。残酷な結末が、すぐ目の前まで近づいてきている。

 だが――残酷の牙が2人に食い込むような事態は、幸いにも、起こりはしあかった。

 悲劇を回避した功労者は、蒼治だ。急降下する暫定精霊(スペクター)に双銃の銃口を向け、フルオートで術式弾丸を連射。魔術の扱いに長ける彼は、極短時間の間に暫定精霊(スペクター)の定義構造を解析し、それを消滅させる対抗術式を練り上げたのだ。次々に着弾する弾丸は、まるで波に波をぶつけて凪を作るように、暫定精霊(スペクター)の激しい術式構造を鎮め、最終的には霞のような無反応性の術式へと蒸発させた。一気に術式構造を破壊して爆裂させる方が遙かに手っ取り早いのだが、直下にいる2人への影響を考えて、一手間加えた形である。

 おかげでノーラ達は新たな損害を被ることなく危機を回避することが出来た。

 しかし…それで問題が片づいたワケではない。ノーラもロイも怪我や麻痺でろくに身動きが取れない。そして、頭上には殺意に満ちた砲口を向ける飛行戦艦が健在である。連続した砲撃のために魔力を大きく消耗したためか、飛行戦艦は攻撃の手を休めているものの、また何時攻撃を加えてくるか分からない。

 この僅かな平穏の時間の間に、出来るだけの対策を取らなくては。

 真っ先に行動を起こしたのは、紫だ。背中のバーニア推進器を全開にしてノーラたちの元へ接近すると、ノーラが左肩に担いでいたロイをひったくるように抱き寄せる。

 「いつまで休んでんのよ! そろそろ働きなさいってのっ!」

 毒づきながら、紫は左手をロイの額にかざすと、掌に魔力を集中。すると、掌からは春の日差しを思わせるような暖かな光が放たれ、ロイの額の中へスゥー…と染み込んでゆく。紫が魔装(イクウィップメント)と並んで特技としている、回復魔術だ。影様霊(シャドウ・ピープル)のことを知っていた彼女は、彼らがロイの身体に植え付けた症状のこともよく知っているらしい。ロイの身体の中から、症状の原因であるらしい黒い影がモワモワと飛びだして行く。

 この治療を施しながら、紫は電撃のような叫びを上げる。

 「先輩っ! 早く来てくださいよっ!

 女の子のノーラちゃんにロイなんか背負わせてたから、こんなことになってんですからっ! 責任取って、ノーラちゃんのことを、お願いしますねっ!」

 「ぼ、僕が悪いのか…!?」

 ()われのない非難へ困惑したような声を上げた蒼治は、すでにノーラの背後に接近している。そして瓦礫が貫通した痛々しい患部と向き合うと、真っ先に瓦礫を引き抜く。栓が外れた傷口からは、ドクドクと真紅の血液が噴き上がってくるところへ、すかさず方術陣を塗布。回復魔術ではないため、患部周辺の組織が高速再生することはないが、強力な鎮痛と止血の効果が発揮され、ノーラの冷や汗だらけの顔に少し安堵の表情が浮かぶ。

 「ノーラさんの応急処置は、なんとかしたよ! ロイの方は…」

 蒼治が首を回して紫の方へ向き直りつつ、確認の言葉を口にしている最中。頭上に色彩豊かな強烈な輝きが出現する。確認もそこそこに蒼治が視線を上げると、そこには…遂に砲口から射出された、暫定精霊(スペクター)の砲弾が数発、まっすぐこちらへ向けて急降下してくる。

 「くそっ…!」

 蒼治が慌てて双銃を構えるが、暫定精霊(スペクター)の術式構造の解析が間に合わない。(いたずら)に引き金を引いても虚しい抵抗に終わることを理解している彼は、引き金を引くのを躊躇ってしまう。

 (早く…早く解析しろ、僕の頭…! あの術式は火霊と水霊が不連続結合したもので、あっちの術式は火霊と雷霊が相乗混合したものだから…!

 くそっ、やっぱり、間に合わないっ!)

 虚しくとも、発砲するしかない!――決意して、引き金に触れる指先に力込めた、その時。

 「蒼治ッ、防御の方をよろしくっ!

 あの火の玉どもは、オレがぶっ飛ばすッ!」

 噴火のごとき絶叫が聞こえた、その転瞬。ヒュウゥッ、と風を切る吸気の音が響いたかと思うと――。

 (ゴウ)ッ! 大気を破裂させる轟音とともに、真紅の火炎の奔流が点へと向かって驀進する。その激烈なる暴力は、降下してくる暫定精霊(スペクター)を一直線に貫き、その術式構造を一瞬にして歪曲、破壊。不安定化した魔力は暴発し、激しい爆発と衝撃波を大気中にブチ撒ける。

 「くっ!」

 蒼治は頼まれた通り、大型の防御方術陣を展開。(いびつ)な球状に広がった爆炎と衝撃を堅固に受け止める。

 受け止めながら、蒼治は苦笑い――と言っても、つり上がった広角には安堵の緩みが見て取れる――を浮かべながら、窮地を過激に回避した功労者に文句を語る。

 「お前、今まで動けなかった分のウサ払しのつもりなんだろうけどな、こっちは怪我人を抱えているんだぞ? もう少し、静かでスマートな方法で対応できなかったのか?」

 「うるせーな、蒼治! お前がやれそうになかったから、オレがやってやったってのに! 文句言うンじゃねーよ!」

 返事の主は語気こそ荒いものの、本気で怒っているワケではなく、牙をゾロリと見せる口元を爽快にニンマリと笑みの形にしている。

 やがて、頭上の爆炎が収まると…。寄り添う星撒部一同の中央で、凛とした活力に満ちた態度で直立する、一人の少年が目立つ。拳と掌をパァンッ! と豪快に打ち合わせ、剣呑な嗤いを浮かべて頭上の飛行戦艦を睨みつける彼こそ、麻痺から完全に立ち直ったロイである。

 「よっしゃあっ! 完全復活だぜ!

 サンキューな、紫!」

 足下で内股でへたり込む紫にニカッと太陽の笑みを浮かべて感謝を述べると、彼女は力なく広角をつり上げて薄く笑ってみせる。彼女の出来うる最速にして最高の回復魔術を使用したために、かなりの精神疲労を得たようだ。普段なら、感謝の言葉に乗っかってチクリとする減らず口の一つも叩いてくるところだが、言葉は一言たりとも口から滑り出ることはなかった。

 その代わりと言うべきなのだろうか、紫の浮かべた薄い笑みには、とても誇らしげな輝きに満ちていた。

 その表情を見て満足げに首を縦に振った、ロイ。直後、グルリと首を回して視線を前後、そして上空に満ちる敵勢に走らせると――視線だけで相手を燃え上がらせるような、烈火のごとき憤怒の表情を浮かべる。

 「てめぇら、オレがロクに動けねぇ間に、よくも仲間たちを好き勝手にしてくれやがったな!」

 そして大股を開き、竜尾をビタンッと大地に叩きつけ、竜翼を夜の帳のように広々と展開して身構えると、それは竜というよりも漆黒の戦神を思わせる出で立ちとなる。

 「蟲ども(キャンサー)だろうが、影ども(シャドウ・ピープル)だろうが、[[rb:飛行戦艦:エグリゴリ]]だろうがっ! ついでに、粘着ロボットどもも!

 まとめて相手して、ブッ飛ばしてやんよ! 掛かってこいよっ!」

 鋭い牙の合間から放たれた、業火のごとき絶叫。混沌とした戦場の大気をビリビリと震わせると共に、仲間たちすら皮膚が泡立つような闘気を烈風として周囲に振り撒く。

 ロイは、本気で激怒している。

 彼の激情に、よもや臆したのではるまいか…。

 大破した多足歩行戦車の周囲に群がり、こちらに充血した視線を送っていた癌様獣(キャンサー)どもが、突如、クルリと方向転換。蜘蛛の子を散らすように、一斉に退散して行ったのだ。未練がましくチラリとでもこちらに一瞥をくれる個体は、1匹もいない。ものの数秒で、アリの大群にも似た重金属の蟲たちは瓦礫の街並みの中に完全に姿を消したのだった。

 変化があったのは、癌様獣(キャンサー)だけではない。星撒部一同挟んで向かい側に位置していた、影様霊(シャドウ・ピープル)にも動きが現れる。と言っても、初め彼らは、飛行戦艦からの砲撃を免れていたこともあり、この状況でさらに星撒部一同を追いつめようと漆黒の銃を構えていたのだが。突然、縦列の中央の個体が、通信でも受けたようにハッと首を動かす。そして、その直後…。

 「…退却…せよ…」

 地の底から沸き上がるような低音と、微風にもかき消されそうな(かす)れが同居した、いかにも亡霊らしい声があがると。影様霊(シャドウ・ピープル)どもは溶けたアイスクリームのようにドロリと形を失って、大地に広がる影の中へ沈み込んで、消えてしまった。

 「おいおい、なんだなんだぁ? これから反撃しようって時に、こぞって逃げ出しやがって…」

 突然の光景に拍子抜けしたロイが、キョトンとした様子で声を上げる。折角、全身に充満していた激怒の活力が、冷や水にジワジワ浸食されたように見る見るうちに[[rb;萎>しぼ]]んで行く。

 しかし、完全に脱力するには、まだ早い。

 頭上にはまだ、殺意を(みなぎ)らせた飛行戦艦が浮かんでいるのだから。

 ロイも当然、その存在を忘れるワケがない。

 「まぁー、やり場が減っちまったモンは、仕方がねぇ。

 それならそれで…逃げ出したヤツらにお返しする分まで、てめぇらに思いっ切りぶつけさせてもらうだけだっ!」

 ギロリと頭上を睨みつけるロイの顔には、萎んだはずの激情が油が注がれた炎のように激しく猛る。

 全身に燃え上がる激情に突き動かされるままに、ロイは広げた竜翼をバサリと大きく羽ばたかせると、急降下するハヤブサを逆さまにしたような姿で急上昇。一気に飛行戦艦へと肉薄する。

 飛行戦艦のサイズは、"船"ではなく"艦"であるだけあって、かなりの大きさを誇る。全長は100メートル単位あるし、幅だって優に数十メートルを有する。ロイと比べると、ネズミとゾウにも等しいサイズ差がある。

 それでもロイは、一片の怯懦も見せることなく、その顔には凶悪な[[rb:嗤>わら]]いすらギラリと浮かべて、鋼の巨体へと立ち向かって行く。

 そんな様子を地上から見送る蒼治は、心配そうな表情を顔に張り付けていたが…それはゾウに踏み潰されるネズミを気遣うものではなく、威厳あるゾウを叩き伏せてしまうネズミを(いさ)める種類の心配だ。

 「おいっ! 相手は地球圏治安監視集団(エグリゴリ)なんだぞっ! 下手に手を挙げると、星撒部どころか、ユーテリアそのものが睨まれることに…!」

 「散々やられて、命まで取られそうになって、実際に仲間まで傷つけられてんだっ! 黙ってられるか…よっ!!」

 ロイの反論の語尾は、艦底への拳撃と共に轟然と響き渡る。空を暴風のごとき速度で(はし)る漆黒の竜拳は、瞬く間もない刹那の間に艦底に激突した…と思いきや、艦の装甲板に接触するほんの数センチ手前の地点で、正六角形のタイル状の方術陣が密集した防壁に阻まれる。弾力性のある強化プラスチックを強打した時のような、ガイィンッ、と云う揺らめきを伴う衝突音が大気に響きわたる。

 流石は、『戴天惑星』地球を狙う侵略者と激しい戦闘を繰り広げている地球圏治安監視集団(エグリゴリ)。その装備は、敵勢力に無力感を植え付けるほどの強力さを誇っている。

 しかし、ロイの戦意は挫けない。竜翼をバサリと翻し、拳撃の動作で生まれた勢いを更に加速させながら転身すると、今度は竜脚による激しい蹴りを浴びせる。が、この2連撃をもってしても、飛行戦艦の鉄壁の方術陣は破れない。

 それでもロイは諦めことはなく、更に竜翼をはためかせて加速すると、今度は竜尾による一撃を見舞う。今やロイは、漆黒の旋風――いや、漆黒の竜巻だ。

 そして、この3度目の攻撃が、ついに功を奏する。方術陣が無惨に破砕したガラスのようにバリバリという音を立てて粉砕されたのだ。

 この結果を可能にしたのは、ロイが単なる打撃を繰り返していたからではない。これまでの彼の一撃一撃には全て、爆発的な魔力と闘気が帯びていたのだ。そしてロイは一撃をぶつける度に、理屈ではなく野獣的な勘で魔力と闘気の構成を修正し、方術陣の術式構成の突破を試みていたのだ。

 端から眺めるだけの解析にはてんで向かないロイだが、実戦の中での洞察では超絶的と言っても差し支えないセンスを発揮する。

 「行っけぇっ!」

 方術陣を突破した勢いのまま、ロイは竜尾を飛行戦艦の金属製の艦底に叩きつける。対する飛行戦艦は、防御用方術陣が突破される事態も想定した設計がなされており、重金属製の装甲の表面には魔術篆刻(カーヴィング)がビッシリと刻み込まれており、その物理的強度を飛躍的に高めている。砲撃を食らったとしても、装甲は貫通されるどころか、凹むことすらないだろう。

 ロイの一撃も、残念ながら、飛行戦艦の装甲に損傷を与えるには至らなかった。だが…彼の渾身の一撃が与えた衝撃は、巨大な艦体をグラリと大きくグラつかせることに成功した!

 「ついでにこいつも…おまけだっ!」

 ロイは更に転瞬、今度は裏拳で艦底をブッ叩くと。艦体はゴギンッ、と悲痛な金属の悲鳴をあげながら、上方へと数メートル吹き飛ばされる。

 賢竜(ワイズドラゴン)の暴力、まさに恐るべし、だ。

 その一部始終を見守っていた蒼治は、前髪をクシャクシャとかきむしりながら、自棄気味の苦笑を浮かべて呟く。

 「全く、あいつは…いつもいつも、後先考えないで、無茶苦茶なことばっかりする…!

 後で尻拭いさせられる僕のことも、考えてほしいものだね…!」

 そう文句を語る蒼治の態度からは、隠しきれない爽快感がにじみ出ている。先には世間体を考慮してロイのことを(いさ)めたものの、個人的には今回の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の暴挙に不満を募らせていたようだ。

 そんな蒼治の態度に応えるかのように、ロイは更なる攻撃行動を取る。吹き飛ばした飛行戦艦を見上げると、ヒュウゥッと素早く、そして力強く吸気。吸い込んだ大気に呼吸器内で暴力的な魔力を付与すると、牙だらけの大口をガバッと全開にして、息吹の奔流を噴き出す。

 (ゴウ)ッ! 網膜を灼き焦がさんばかりの(まばゆ)い青白の奔流が、破壊された防御方術陣を隙間を驀進し、艦底に激突。飛行戦艦は光の飛沫を撒き散らしながらガタガタッと、まるで巨人の手に(もてあそ)ばれたかのように激震する。

 やがて竜息吹(ドラゴンブレス)の火線が消滅すると…露わになった艦体は、魔術篆刻(カーヴィング)の有効限度を越えた加撃によって、酸化を呈する黒々とした大きな班と、ベッコリと凹んだ歪みを植え付けられていた。凹みをよく見やると、小規模の亀裂が走っており、その内側からは風霊エネルギーがシュウシュウと音を立てながら薄緑色の上記となって漏れ出している。

 一方、竜息吹(ドラゴンブレス)発射の反作用で一気に地上まで押しやられていたロイは、損傷を被った飛行戦艦に"してやったり"の意を含んだ凄絶な笑みをニヤリと浮かべると、グッとガッツポーズを取って勝ち鬨を上げる。

 「思い知ったかってんだよッ、(めくら)戦艦ッ!」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 一方、こちらは地球圏治安監視集団(エグリゴリ)所属のゼオギルド中佐の執務室。

 相変わらず入室したまま、現地の交戦の様子を眺めていたオオカミ顔の下士官は、あんぐりと大口を開き、そして滝のように冷や汗をブワリと噴き出す。

 「ちゅ、中佐…! あの猛攻の中で、彼ら、抵抗して来ましたよ…!

 そ、それどころか、我々の飛行戦艦(ふね)に反撃まで加えてきて…! なんの戦術装備も用いずに、防御魔化(エンチャント)を突破して、損傷まで与えてきましたよ…!

 流石は、ユーテリアの学生…というところなんですかね…! 我々の兵力にも引けを取らない、凄まじい実力者です…!」

 この下士官は、自身の部隊の飛行戦艦に生身で損傷を与えてくるような存在を全く想定していなかったようだ。英雄譚の超人がそのまま飛び出してきた姿を目撃したような激しい動揺と驚愕を露わにしている。

 しかし、デスクの上に足を置いてだらしなく座ったままのゼオギルドは、特に驚いた様子もなく、ただただ面白そうに「ハッ」と短い笑い声を漏らす。

 「いやいや、ユーテリアの学生(ガキ)どもがいくら、英雄の卵だか何だかだと言っても、ここまでの実力者はそうそう居ねぇだろ。

 紛れ込んで来たネズミはネズミでも、鋼鉄の壁もブッ壊すような化け物ネズミだったってワケか!」

 それから、ふといかつい(あご)に手を置くと、大仰な動作で眉をしかめつつ視線を額の上へギョロリと向ける。

 「そう言やぁ、聞いたことがあるな。ユーテリアにゃ、やたらバカ強ぇ実力者ばかりが集まって、お節介にも色んな事件に首を突っ込んでは引っ掻き回してる部活動があるってな。

 名前は…なんだっけな…ナンタラマキ部、だと思ったんだが…あーっ、あそこの部活動の名前はややこしいのが多過ぎンだよっ!」

 独りで騒ぐゼオギルドの滑稽な様子を見た下士官の胸中から、映像から受けた動揺が減じる。少し落ち着きを取り戻した彼は、自身の精神状態を確かめるようにコホンと咳払いをしてから、尋ねる。

 「それで…いかがしますか?

 暫定精霊砲弾(スペクター・シェル)による攻撃はあまり意味を成さないようですし…これ以上、彼ら4人だけとの交戦に戦力を投入するのは、得策ではないかと思いますが…。

 どうせ、彼らは我々の"真の目的"を知りませんし、ここは他勢力への攻撃に巻き込んでしまったという体裁を取って、引き上げてはいかがでしょうか…?」

 「いや! いやいやいや! その選択肢だけは、絶対にあり得ねぇ!」

 下士官からの提案を、ゼオギルドは即座に一蹴する。

 「ヤツらが噂通りのナンタラマキ部だとすりゃ、絶対に、オレたちの事情に首を突っ込んでくるぞ!

 そうなりゃ当然、あの目障りな"マチネズミ"どもと接触することになるだろうな。そんなことになって、ヤツらがオレたちの事情を聞き知ってみろ。声を大にして、喚き立てるに違いないっつーの!

 そうなっちまったら、オレもお前も、それどころかこの隊全部が消されちまうぞ! それはマズすぎるだろ!」

 「そ、それでは…?」

 ゼオギルドは目深に被った帽子の下から火を吹くような激しい視線を向けながら、雷撃のような激しい号令を飛ばす。

 「クラウス隊が搭載している全戦力を投入して構わねぇ! ネズミどもを速やかに、塵すら残さねぇ勢いで殲滅しろ!

 機動装甲歩兵(MASS)だろうが、"ガルフィッシュ"だろうが、何を使っても構わねぇ! ともかく、一秒でも早く、死人に口無しを実現しろ!」

 その威勢に脊椎が焦げるほどの衝撃を受け、ビクッと身体をすくませた下士官は、慌てて3Dディスプレイの通信先を変更し、飛行戦艦内のオペレーターへとつなげようと、手にしたタブレット端末の操作を始める。そこへ、勢いのベクトルを急転換したゼオギルドが、ごつい顎を撫でながらぼんやりと呟く。

 「そういやぁ、イミューンの部隊はどうなったンだよ? あいつら、結局この都市国家(まち)に入都したのか? 連絡、来てねぇのか?」

 下士官はタブレット端末の操作をピタリと中断すると、怖ず怖ずと答える。

 「はい…今のところ、イミューンたちからも連絡は来ていないようです…。何か、あったんでしょうか…?」

 「人目が厳しくて、なかなかこっち来れないでいるのか。それとも、実は入都したが、敵勢力(ガイチュウ)どもに速攻でやられちまったのか…。

 まぁー、いいや! どうせ、それほど宛にしてない、予備戦力だ! 連絡が来るまで、迎えの部隊は一切出さなくていいぜ!

 …それよりも、問題はユーテリアのクソネズミどもだ! 必ず、ぶっ殺せ、ぶっ殺せ、ぶっ殺せッ!」

 「は、はいっ!」

 ゼオギルドの殺意満々の語気に当てられ、心臓をギュウッと鷲掴みにされたような緊張を得ながら、下士官は必死になってタブレット端末を操作し始める。

 一方でゼオギルドは、叫びに癇癪(かんしゃく)を思い切り乗せて解き放ってスッキリしたのか、目深に被った帽子の下で夢見心地にも見える笑みをニヤリと浮かべる。

 そして、厚い唇の合間から、弾むような愉快さと、骨をも噛み砕くような険悪さを交えた呟きを漏らす。

 「いざって時には、オレ自らが動かなきゃならんか。

 まぁ、それもいいな。

 あの、賢竜(ワイズドラゴン)らしい、活きの良い小僧…あいつをブッ倒して顔踏みつけたら、さぞかしキモチイイこったろうなぁ!」

 "地球圏の守護者"という肩書きとは全く相容れない、好戦的にして狂戦士的な言葉であった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ゼオギルドとその下士官のやり取りがあってから、ものの数秒の後のこと。

 星撒部の上空に展開していた3隻の飛行戦艦は、ゼオギルドの希望通り、搭載している全戦力の解放を始めた。

 艦底に設置された大型ハッチを一斉に開くと、そこからまず現れたのは、飛蝗(ひこう)の群のごとき飛び回る小型兵器だ。"ガルフィッシュ"と命名されているそれは、"(フィッシュ)"の名前を冠している割には、形状は鳥に似る。1対の翼を兼ね備えた赤子ほどの大きさを有する、総金属製の小型飛行攻撃機だ。操者は魔力で増幅した脳波を用いて、同時に複数機を遠隔操作できるというものだ。同時に操作可能な機数は、操者の技量による。

 "ガルフィッシュ"の群に紛れて、ハッチから続々と自由落下する人間サイズの兵器の姿も見て取れる。――いや"人間サイズの兵器"ではなく、人間そのものだ。兵器のように見えるのは、全身に装着した物々しい機動装甲服(MAS)()る。パラシュート無しで降下する彼らは、着地寸前で背部バーニア推進器を噴射し、ほぼ衝撃ゼロで着地を終える。直後、バーニア推進器と脚部のホバー機関を組み合わせた、摩擦係数がほぼゼロの滑らかにして高速の動きで、星撒部の部員たちの方へ接近してくる。もちろん、その道中で手にした機銃を構えることも忘れない。

 大群で攻め寄せる地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の戦力を目にした蒼治は、ズレた眼鏡を直すこともせず、グシャグシャと前髪を掻き(むし)る。

 「くっ…なんてことだっ!

 ロイ、お前が向こう見ずに突撃した所為で、彼らを怒らせてしまったじゃないかっ!」

 「怒るってレベルじゃねーだろっ!」

 蒼治の動揺に満ちた非難を、ロイの怒声が塗り潰す。

 「あいつら、オレたちのことを()る気満々じゃねーかっ!

 最初の砲撃も、絶対に間違いとかじゃねぇ! オレたちを本気でぶっ殺すつもりで撃って来てたんだよっ!」

 「そ、そんな…! でも、僕たちが彼らに何をしたって言うんだ!? 全然、思い当たる節がないぞっ!」

 「オレたちが思い当たらなくても、あいつらにはあいつらの事情があるみたいだなっ! この都市国家(まち)に、見られちゃ困るものでもあるかも知れねぇ。

 ンな理由はともかく! 今は、この状況を切り抜けることを考えねーと! ボヤボヤしてると、殺されちまうぞっ!」

 「…な、納得できないけど…! 切り抜けることを考えなきゃならないのは、確かだな!」

 男子部員2人は口早のやりとりを終えると、即座に迫り来る敵勢に向かって突撃する。背後に残した2人の女子部員は、疲労と怪我でまともに動けそうにない。彼女らを庇いながら多勢に対抗するのは困難と判断し、突撃することで敵を引きつける算段だ。

 双銃による精密な遠距離攻撃が出来る蒼治は、ツバメのごとく高速にして自由自在に飛び回る"ガルフィッシュ"へ。圧倒的な破壊力の肉弾攻撃を得意とするロイは、機動装甲歩兵(MASS)へ。それぞれ示し合わせたように役割分担すると、嵐のごとく絶え間なく動き回り、敵の撃破に勤しむ。

 "ガルフィッシュ"は術式を収束させた高出力魔力のビームで、蒼治の身体を蜂の巣にせんと、雨霰と打ちまくってくる。蒼治は身につけた純白のマントに対ビーム用の魔化(エンチャント)を付与した上で、マントをヒラリヒラリと烈風の中でも華麗に舞う蝶のように(ひるがえ)して確実に攻撃を回避しつつ、双銃をフルオート射撃でガンガンぶっ放して"ガルフィッシュ"を撃ち落としてゆく。あるものは黒煙を上げながら、あるものは急所を破壊されてその場で小規模の爆発を起こして、路上に転がる瓦礫の一員となってゆく。しかし、数が減っている感じは、まったくない。飛行戦艦の内部でリアルタイムに製造されているのか、と疑いたくなるほどに、次から次へとハッチの中から"ガルフィッシュ"が湧いてくる。

 「くそっ! 数が多すぎるっ!」

 普段から悲観的な立場で戦闘をこなしている蒼治であるが、終わりが全く見えない戦況にその表情が霜がつくほどの蒼白に染まっている。

 一方、ロイは飛行戦艦をもぶっ飛ばした拳足を漆黒の烈風のように動かしながら、機動装甲歩兵(MASS)の射撃や腕部ビームブレードを潜り抜け、強烈な一撃を見舞い続ける。拳や蹴り、または尾撃を食らった機動装甲歩兵(MASS)どもは、総重量200キロ近い身体を小石のように空高く浮かび上がって吹き飛んでゆく。中には、通りの左右にそびえる建築物の壁に激突する者まで出るほどだ。

 だが、彼らは装甲がベッコリと凹むほどの衝撃を受けたにも関わらず、吹き飛んだ直後からムクリと起き上がり、機動装甲服(MAS)を巧み操ってすぐに戦線に復帰してくる。ロイが相手の命を奪わないよう、手加減しながら戦っていることも一因なのかも知れないが、それにしても回復が早すぎる。機動装甲服(MAS)の内部に痛覚を遮断したり、意識を覚醒しやすくする薬物を注入する装備でも存在するのかも知れない。

 「さっきの(ムシ)どもよりは、手応えもあるし、だいぶマシだけど…よっ!」

 ビームブレードを携えて左右から急接近してきた2人の機動装甲歩兵(MASS)の斬撃を身を屈めて交わしつつ、転身しての強かな蹴りと尾撃で吹き飛ばしながら、誰ともなしに文句を告げる。

 「ゾンビみてぇに起きあがってくるのは、気持ち(わり)ぃな…!」

 そう語る傍から、吹き飛んだ機動装甲歩兵(MASS)がムクリと立ち上がると、何事もなかったかのように地を滑るようにしてこちらへと接近してくる。

 そんな彼らがロイの間近に迫るより早く、別の方向に展開していた機動装甲歩兵(MASS)どもからの射撃に()い、ロイは下手なダンスを無理に踊り狂うような格好でワタワタと足を動かして射撃を避ける。

 「ったく、調子付きやがって…ッ!」

 こめかみに青筋をビクリと盛り上げたロイは、胸の内に生じた苛立ちが膨らむ様を体現したように、思い切り吸気。呼吸器内で魔力を練り上げ、竜息吹(ドラゴンブレス)を放とうとするが…。ハッと思い直し、吸気のために全開にした大口をガシッと閉ざして、魔力を体内深くへと飲み下した。

 相手が単なるテロリストなら、相手を殺傷することも(いと)わずに暴力的を一撃をブッ放したであろうが…。相手が地球圏の平和を守る職務も持つ組織の人間だと思うと、さすがに気が引ける。

 しかし、敵はロイの躊躇(ためら)いを汲んではくれない。容赦ない機銃掃射と近接斬撃の攻撃で、着実にこちらを追いつめてくる。

 「くっそーっ! どうすりゃ良いってんだよっ!」

 男子2人が激闘を繰り広げている後方で…。彼らの戦う様を寄り添って眺めていた女子部員2人であったが、やがてノーラが堅い声を紫に投げかける。

 「相川さん…お疲れのところ、悪いんですけど…お願いがあるんです」

 「…あ、うん? 何?」

 男子2人の苦戦の様子を心に在らずといった深い心配を抱いて眺めていた紫は、ノーラの声でようやく我に返り、慌てて尋ね返す。

 「私の脚の怪我、治してくれないかな…。

 このままじゃ私、単なるお荷物だし…。

 それに、怪我さえ治れば…すぐにでも、ロイ君たちのことを助けに行ける…!」

 蒼治に鎮痛と止血の魔術を付与されていたとは言え、ノーラの怪我は物理的に回復したワケではない。仲間を助けに行きたくとも、深く傷ついた脚の筋肉が言うことを聞いてくれないのだ。

 「だ、大丈夫なの? ノーラちゃんだって、ずっとロイを背負いっぱなしで歩いてたし、かなり疲れてるんじゃ…」

 ロイ達の苦戦の様子を目の当たりにして弱気になってしまったのか、普段の毒袋はどこへやら、純粋な気遣いを口にしてくれる、紫。そんな彼女に、ノーラは一瞬だけ薄く笑みを浮かべてみせてから、顔を引き締めて語る。

 「大丈夫、休ませてもらったから…。それに、疲れてるのは皆同じだし…。

 何より…このまま黙って、みんなの辛い姿を眺めてる方が、イヤだもの…!」

 怪我人には到底似つかわしくない気丈で真摯な言葉に、紫はハァー、とため息混じりの苦笑いを浮かべて答える。

 「オッケー、オッケー。

 確かに、あの男子2人だけには任せてられそうにないしね。

 よっし、ここは私ら女子2人で、一丁助けに行きますか!」

 そして紫は早速、ノーラの貫通傷に手をかざすと、小春日和の陽光にも似た爽やかで暖かな回復魔術の励起光を当ててやる。見た目もさることながら、光の触感は上等な絹のように滑らかで心地良く、ちょっとジンジンとした(うず)きを呈しながらノーラの組織を急速に再生してゆく。

 治療は、時間にして数十秒で完遂する。傷の突っ張りも微塵もなく吹き飛んだノーラは、即座にスクッと両足を踏みしめて大地に立つ。すぐさま黄金の刀身を持つ愛剣を構えて敵勢を睥睨する有様は、気力充分だ。

 対して、高速治療を終えた紫は…穴が開いた風船のようにへたり込み、肩で息をしている。ただでさえ高等技術であり、なおかつ膨大な魔力を消費する回復魔術を、ほぼ立て続けに行ってみせたのだ。疲れ果てるのは当然と言える。

 それでも彼女は、魔装(イクウィップメント)の大剣を杖代わりにしてググッと立ち上がると、光る汗にまみれた顔を敵勢に向けて、やや疲れが残るものの剣呑な表情を浮かべる。

 「相川さんは、無理しなくていいんだよ…? 魔力を、相当消費してるんだから…」

 ノーラが少し顔を曇らせてそう制するが、紫は首を左右に振る。

 「私だけのんびり、ってのは性に合わないからね!

 大丈夫、心配しないで。ノーラちゃんよりは、修羅場潜り抜けてきたつもりだからさ」

 こうして2人の女子が、意気揚々と戦場へ飛び込もうかと言う、その時。

 状況を一気にかき乱す、まさに"一石"が戦場に投じられる。

 

 ヒュン――甲高い風切り音を立てながら、女子2人の頭上を飛び越えてゆく、小さな影。

 何事か、と2人が視線を注ぐと、その影の正体が握り拳より2回りほど大きな金属球であることが確認される。球の表面中央にはグルリと小さな溝が走っており、まるで2つの半球を合わせて球を作ったかのような印象を受ける。それ以外にも球の表面には、円形の穴がポコポコと開いている。

 砲弾にしては、形状が奇妙だ――そんな感想を女子2人が抱いているうちに、球はゆるい放物線を描きながら、ロイと蒼治が激闘を繰り広げる戦場の真っ只中へと進入してゆき――。

 ポンッ! 圧縮された空気が噴出した時のような音が、球から発されたかと思った、その瞬間。

 ギュミイイイィィィンッ! 突如、耳障りな金属音が空間に木霊する。鼓膜を痛めるような種類の音ではないが、思わず顔をしかめてしまうような音だ。

 「なんだよっ、うるせーぞっ!

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)どもの新兵器か何かか!?」

 ロイが、眼前の機動装甲歩兵(MASS)の斬撃を跳び退(すさ)りながら、音の発生源の方へ険悪な視線を向ける。

 今、ロイの視界のど真ん中には、中空で停止し、表面の穴から淡い黄色の光を放つ、(くだん)の球体がある。面倒ごとになる前に破壊してしまおうと、ロイがヒュッと吸気をして竜息吹(ドラゴンブレス)に備える。

 が、咽喉(のど)の奥で練り上げた暴力的な魔力の奔流は、日の目を見ることなく飲み下された。

 というのは、突如身の回りの視界に、壊れたモニターがそうなるようにモザイク状のノイズが走り始めたのだ。ノイズの数は時と共に増してゆき…遂には、視界全てが放送のないテレビチャンネルのノイズのようなモノクロの砂嵐模様に変わる。

 「うわっ、うわっ!? な、なんだこりゃ!?」

 突然の変化にワタワタと視線を巡らせる、ロイ。視界の大部分は混沌としているが、その中で明確な輪郭を伴って浮き上がって見えるものがある。それは、同じ星撒部の仲間たちや、機動装甲歩兵(MASS)や"ガルフィッシュ"ども、そして相変わらず上空に位置する飛行戦艦だ。

 そして、この異様な視界を眺め続けていると、異常が発生したのは視覚だけに留まらないことを(さと)る。と言っても、ロイ自身は"異常"の被害が及んではないし、彼とおなじように困惑してキョロキョロしている仲間たちにも同様のようだ。

 被害に遭っているのは、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の機械兵器どもである。

 "ガルフィッシュ"は寿命を終えた羽虫のようにボトボトと大地に落下し、ピクリとも動かない。機動装甲歩兵(MASS)どもも、これまでの軽快かつ力強いはどこへやら、木偶のようにくずおれて運動を停止している。その身体が小さくビクッビクッと震動しているのは、どうやら内部で装着者が暴れているかららしい。

 そして、頭上の飛行戦艦にも影響を免れない。風霊エンジンが魔力励起光を発しておらず、機能していないことを示している。このために浮遊のためのエネルギーを失った飛行戦艦どもは、重力がなすままにゆっくりと加速しながら、瓦解した建築物群の中へと落下してゆくのだ。

 「あん…? ヤツらの新兵器じゃ、ないのか?」

 突如、(ことごと)く無力化してしまった敵勢を前に、キョトンと肩を落として立ち尽くしたロイが、ポツリと疑問を口にする。

 その言葉が風に紛れて消えてゆくより早く…。

 「おーっしゃっ! 今度こそ、大・成・功ぉっ!

 見たか、見たかッ! ユーテリアの学生の底力ッ!」

 空高くまで弾み上がるような威勢の良い声が、戦場に張り上がる。その声音は、男勝りな若い女性のそれであった。

 次いで、女性の声に覆い被さるかのように、生真面目な低い男の声が響き渡る。

 「自慢は後だ!

 民間人の救助を最優先にするぞっ!」

 男の声が終わらぬうちに、エンジンが焼き切れるのではないか、という急激な自動車の加速音が響く。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 一方、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)所属の中佐、ゼオギルドの執務室。

 突如、3Dディスプレイの映像が途絶え、モノクロのノイズだらけになったことを受けて、オオカミ顔の下士官がワタワタとタブレット端末を操作している。

 そんな彼の様子を見て、ゼオギルドはバカバカしそうに「ハッ」と声を出して鼻で笑ってから、誰ともなしに付け加える。

 「とうとう、"マチネズミ"どものお出ましか…。

 大佐に報告せにゃいかなくなっちまたなぁ…!」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 視覚的ノイズまみれの光景の中、ギュルルルッ、と無茶に駆動するタイヤの急回転音が、ザリザリと音を立てながら戦場へと接近してくる。

 まず真っ先に、駆動音が迫ってゆくのは…戦場の最外縁に位置するノーラと紫の元だ。

 「今度は一体、何だってのよ?

 もうここまできたら、何でもござれ、って言いたくなるわねー」

 毒と共に諦めモードで両手を上げながら、フゥーとため息を吐いた紫が、ゆっくりと振り向く。その頃には、いち早く生真面目に状況確認を試みたノーラはとっくに駆動音の方へ振り向いている。

 モノクロの、網膜に全く優しくない激しい砂嵐模様の中、鈍い地味な色の色彩を伴って浮いて見えるのは…1台の装甲車両である。明らかに軍用で、大きなタイヤは完全なオフロード仕様のゴツい作り。砂地の色を呈する表面装甲には、よくよく目を凝らすと、ビッシリと魔術篆刻(カーヴィング)が施されている。装甲の防御性能強化のほか、ステルス機能や光学迷彩機能も有していそうだ。

 そんな万全な防御構造の割に、そのコンセプトに全くそぐわない点が1つ、明らかに見て取れる。それは、操縦席も、後部の収納部位も、屋根のないオープン仕様になっていることだ。これでは折角の防御仕様も台無しである。

 それとも…意図があって、わざとオープンにしているのか。

 この車両については、どうやら、後者の事情のようだ。

 ()き殺しに来たのか、と思えるほど減速もせずに接近してくる装甲車両に、紫とノーラはそれぞれの武器を構えて、いつでも迎撃行動が取れるようにと備えていたところ…。

 「オレ達はあんたらの敵じゃねーよ、お嬢ちゃん達!

 さっさと乗りな! ズラかるぜっ!」

 後部の収納スペースから顔を出した、青灰色の軍服を着込んだガタイの良い中年軍人男性が叫ぶ。

 彼の声がノーラたちの耳にすっかり届く頃には、車両は彼女らのすぐ隣に来ていた。すると、叫んでいた軍人のほか、もう1人乗っていた若い女性もこちらに手を伸ばして"こっちへ来い!"と誘う。

 紫は逡巡してノーラに相談の視線を送ると、ノーラは即座に首を縦に振る。"彼らの招きに応じよう"という合図だ。

 冷静に状況を鑑みれば、連戦の疲れも溜まり、多勢に無勢の状況で苦戦を強いられ続けるよりも、とにかくこの場を離れて体勢を立て直す方が余程良い。

 ノーラら2人の間近に迫って、少し減速してくれた装甲車両に対し、2人の少女は伸ばされた手を掴むでなく、軽やかに跳躍して車両の後部に乗り込む。

 重度の疲労の中、連戦に跳びこまなくて済んだ紫が安堵のため息を吐いている頃。ノーラは座り込むまもなく、先の中年男性の軍人に詰め寄り、頼み込む。

 「向こうに、私たちの仲間がいるんです…! 彼ら2人も、回収していただきたいんですけど…!」

 すると中年男性は、ノーラの気概を落ち着かせるように、ゴツくて大きな手を外観に似合わなぬ優しげな動作でポン、と肩を叩くと、首を立てに振る。

 「大丈夫だ、把握してる」

 ノーラに言い聞かせるが早いか、彼はオープンな運転席に向き直ると、素晴らしい反射速度で運転を行っている、肌の黒いドレッドヘアの男に声をかける。彼もまた、青灰色の軍服に身を包んでおり、軍人であることが分かる。

 「レッゾ、恐竜っぽい兄ちゃんと、銃使いの兄ちゃんを回収するぞ!」

 「言われなくても分かってるっての。 すぐに向かうから、ちょっと待ってろ」

 レッゾと呼ばれたドレッドヘアの軍人は、厚い唇から冷静な言葉を紡ぎながら、ハンドルをグルグルと急回転させながらアクセルを目一杯踏む。

 再び、ギュルルルッ、と瓦礫を激しく擦過するタイヤ音が響いたかと思うと、装甲車は車体後部を大きく振り回しながら急激に方向転換。搭乗してすぐのノーラや紫は、状況の急変に目の色を変えて慌てて収納スペースのにしがみつき、吹き飛ばされないようにする。

 「ちょっ! 運転、荒過ぎ!

 これなら、うちの大和の運転の方が数万倍もマシよっ!」

 救出してもらった感謝もそこそこに、紫は毒気たっぷりに非難を叫ぶ。すると、運転席のドレッドヘアの軍人はこちらを振り向くことなく、淡々と返事する。

 「悪かったな、お嬢ちゃん。その大和ってヤツは余程腕の良い運転手らしいが、オレは凡人なモンでな。勘弁してくれよ」

 そんなやり取りをしている内に、車両は戦場の真っ直中、ロイと蒼治が奮戦している地点の近くへと向かう。

 車両はどちらかというと、蒼治に近い位置へと前進していた。ロイの竜系の体型を見て、彼なら多少距離が在ろうとも強靱な足腰や翼を駆使して車両と合流できるだろう、と考えたようだ。

 そして、運転手の判断は全く(もっ)て正しい。

 「乗れ、野郎どもっ!」

 ゴツい体格の中年軍人が叫ぶと、ロイは無力化している敵勢に一分の未練も残さず、サッサと転身すると烈風のごとく瓦礫の大地を疾走。勢いをつけたところで、竜尾をビダンッ! と大地に叩きつけると共に、宙に跳び上がる。この跳躍だけでも、一瞬にして優に5メートルの距離を前進したが、ここで更に翼を打って一気に車両へと到達する。

 「スゲェな、兄ちゃん!

 その姿、まさか賢竜(ワイズ・ドラゴン)ってヤツなのか?」

 着地したロイを目の前にした中年軍人が興奮気味に尋ねると、ロイはケラケラと笑って胸を叩き、肯定する。

 「まぁ、そういうこった。

 …ンなことより、蒼治のヤツを拾わねーと。あいつ、見かけ通りにスタミナないヤツだからなぁ」

 そう語ったロイと共に中年軍人は、車両の進行方向の先で必死にこちらへ向かって走っている蒼治へと視線を向ける。彼のヒョロリとした長身痩躯は、ロイの言う通り、激しい運動には向かないらしい。身体(フィジカル・)魔化(エンチャント)を使用して身体能力の底上げはしているようだが、それでもこれまでの連戦で底上げした体力もギリギリのようだ。顔は滝のように汗が流れ、眼鏡は蒸気で曇っている。

 このままでは、ある程度減速しようとも、疾走したままの車両に飛び乗るどころか、よじ登るのもままならなそうだ。

 そこでロイは体を車両から乗り出すと、両腕を目一杯伸ばして蒼治に叫ぶ。

 「蒼治、オレに掴まれ! 引き上げてやるから!」

 蒼治は肯定の(うなづ)きを見せる余裕もないほど疲れているようで、ひたすらこちらに走り続けている。ほんの数瞬の後、車両は蒼治のすぐ傍を通り抜ける――瞬間、蒼治が力を振り絞り、脱力寸前に間接を曲げた腕をダラリと上げると、そこをすかさずロイがガッシリと掴む。蒼治の腕は大量の汗で(ぬめ)っていたが、ロイは掌に細かな竜鱗の凹凸を生成することで摩擦係数を引き上げていた。お陰で蒼治はズルリとロイの手から滑り落ちることなく、グイッと思い切り引き上げられて、無事に車両に乗り込むことが出来た。

 「た…助かりましたよ…。

 このままじゃ…量に押されて…危ないところでした…」

 金属製の床に尻餅をつき、脚を投げ出してハァハァと荒い息を吐きながら、蒼治が礼を述べる。すると中年軍人はフフッと得意げに笑って答える。

 「民間人を救助するのは、オレ達、市軍警察の立派な職務だからな。気にするこたぁないさ」

 「…約一名、市軍警察じゃないのがいるけどね」

 そう名乗ったのは、車両の奥の隅に位置する女性だ。彼女は車両から身を乗り出し、肩に無反動砲を担いで地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の戦力が怨嗟を上げながら転がっている方へ体を向けている。そのため、顔立ちや体格を明確に見ては取れないが、1点、あまりにも明快な特徴が見て取れる。それは、彼女が身につけている上着は、星撒部の一同が身につけているユーテリアの制服と同じそれだということだ。

 そんな彼女は、こちらを振り向くより早く、かなり攻撃的な口調で喚く。

 「ほぉーらっ、ダメ押しだっ!

 喰らいやがれ、不良軍人どもっ!」

 叫びと同時に無反動砲の引き金を退くと、ドシュンッ! と大気を激震させる轟音と共に砲弾が飛び出した。旧時代の無反動砲のように砲身の後部から激しい爆煙が出ることはないので、同乗者はなにかしらの害を被ることなく、無力化した地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の頭上へと飛行する砲弾を見送ることが出来た。

 放物線を描く砲弾がちょうど頂点へ達した、その瞬間。丸い弾丸はパァッと真夏の太陽のような閃光を上げとかと思うと、ドズンッ! と巨象が足踏みしたような鈍い轟音を上げる。一見すると、大気ごと大地が激震して、灰色のノイズまみれの背景に浮かびあがる地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の戦力達の輪郭を大きくブレさせたように見える。この現象を形而上相から術式方面で確認すると、生体神経および機械センサーを含めた"知覚器官/機関"の信号を激しく掻き乱す魔法現象が観察されることだろう。

 「よっしゃっ、これも大・成・功ぉっ!

 レッゾのおっさん、もう屋根閉じていいぜっ!」

 叫びながら振り返る、女性――いや、女子生徒。カールがかった柔らかな栗色の毛が美しいその顔立ちは、ともすれば餓えたオオカミのようにも見える激しい気性が剥き出しになっている。女の子、と云う言葉を使うのが躊躇(ためら)われるような、凄絶な面構えだ。

 そんな少女の凄絶な表情をみた蒼治は、声は出さなかったものの"あっ"と言わんばかりに目を見開いて彼女の見つめる。

 どうやら蒼治は、この女子生徒のことを知っているようだ。

 しかし、彼が女子生徒に何か言葉を語りかけるより早く。車両からパタパタパタパタ、とドミノ倒しの音をバカデカくしたような耳障りな音が響く。同時に、オープン仕様の装甲車の縁から正方形のタイル状の金属が展開し、あっと言うまに運転席を、そして後部の人員収納スペースを包んで、屋根を形成する。今や装甲車は、軍務でよく見かけるような四方上下をガッシリとした装甲で覆われた姿となった。

 「よし、それじゃこのまま術式迷彩しつつ、"潜って"ヤツらを一気()くぜ」

 運転手の黒い肌の男は、相変わらず冷静な調子で語りながら、ハンドル近くにある魔術装置のスイッチを幾つか操作する。すると、後部の人員収納スペースの壁が一瞬、モザイク状に彩り豊かになったかと思うと、今度は壁など存在しないかのように外の光景が映し出される。装甲外部に設置されたカメラによる映像を投影しているのか、はたまた装甲自体が外の光を透過しているのかもしれない。辛うじて、四隅に壁のつなぎ目が見て取れるので、ここが閉鎖空間であることを思い出させてくれる。

 外の様子がスケスケに見て取れる一方で、運転手の男の言葉によれば、この装甲車は様々な迷彩によって視覚のみならずその他の五感でも認識困難な状態になったことだろう。加えて、先に女子生徒が放ったあらゆる感覚を混乱させる攻撃によって、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の戦力は完全にこちらの足取りを見失ったことだろう。

 車両は女子生徒の魔術攻撃の範囲を突破したらしく、外界の様子を映す壁には無惨に瓦解した街並みが映っている。動いているものの姿は殆ど見えず、見えたとすれば風に吹かれて転がる紙屑やビニールの破片といった程度である。

 哀愁をそそるような無惨は光景がどこまで続くように見えたが、突如、外界の風景が一変する。視界が灰色一色の壁で遮られ、頭上も同様の無機質な色の天井で閉ざされる。どうやら、トンネルに入ったようだ。とは言え、暗さを感じないどころか、かなり視界が明るく見えるのは、天井スレスレに設置されている細長い長方形状の照明のお(かげ)だ。光は疑似太陽光らしい、蛍光灯のような無機質な感じではなく、もっと自然な柔らかみのある光が降り注いでいる。

 トンネルの中は結構急な下り坂になっており、角度のキツいカーブと相まって、なんだかジェットコースターにでも乗っているような気分になる。

 しかし、車両に乗る者は誰一人としてスリルを感じたりはしない。それどころか、中年男性の軍人などはフゥー、と大きな安堵のため息をついて脚をダランと広げ、くつろいでみせる。

 「ここまで来りゃ、一段落だな。

 …それにしてもよぉ…ったく、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)どもの増援が来るって情報を掴んだもんだから、遠巻きに観察するだけの予定だったのによぉ…。

 まさか、お前さんの同輩が来て、しかも役者総出に襲われてると来たもんだ…!

 いやぁ…さすがのオレ達も肝が潰れたぜ」

 語る中年軍人の言葉中の"お前さん"とは、ユーテリアの制服を着込んだ少女の呼びかけだ。そして呼びかけられた当人は、頬をぷっくりと膨らませながら、微妙な表情を作って口を一文字に結んでいる。こうしてみると、先の凄絶な表情とは全く異なった、柔らかさと活気の良さが同居した愛嬌のある顔立ちが見て取れる。

 「いやー、あたしだってビックリしたっての。あたしの他に、見た目がクッソ詰まらないこんな都市国家(まち)に足を運ぶ生徒なんて居るわけないって、確信してたかんね。

 でも…こいつらの顔ぶれ見て、あり得ないことも起こるモンだなって、納得したよ」

 そして女子生徒は、深い海のような色濃い碧眼を細めて、蒼治、そしてロイの順に視線を走らせて言葉を続ける。

 「我らが秀才同級生の蒼治・リューベインに、学園名物の"暴走君"ロイ・ファーブニルに組み合わせと言ったら、もう暴走部しかないっしょ」

 「暴走部じゃなくて星撒部だよ、レナ・ウォルスキー」

 蒼治が疲れの残る顔で出来るだけ平然を装いながら、眼鏡をクイッと直して訂正する。

 すると女子生徒――レナと呼ばれた――は、"はいはい"とおざなりに返事するように両手を挙げてヒラヒラさせた。

 「ん? なんだ、レナお嬢さん。やっぱり、この民間人と知り合いなのか? 同じ制服を着てるから、まさかとは思ったんだけどな」

 中年男性の軍人が尋ねると、肩をすくめてみせたレナに代わって、蒼治が彼の問いに答える。

 「ええ。僕、蒼治・リューベインは彼女、レナ・ウォルスキーとはユーテリアの2年F組の学友です。

 とは言っても、同じ授業に出席したことは、あまりないですけどね」

 「それで、君の他の3人もみんな、ユーテリアの生徒なんだよな?

 地球が誇る"英雄の卵"達が、こんな狭い装甲車の中にひしめているなんて、スゲェ話だ!」

 「いやいや、ユーテリアは確かに有名ですけど、僕らは単なる一生徒に過ぎませんよ」

 「いーやいやいやいや! さっき戦いを見せてもらったが、魂消(たまげ)たぜ! 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の大群相手にガチンコ勝負してるんだからな!

 そっちの髪の赤い兄ちゃんなんて、素手で飛行戦艦をブッ叩いて吹き飛ばしちまうもんだから、ビビったの何のって!」

 中年男性の軍人がロイを褒め称えると、ロイは得意げにニヤリと笑って見せた。ちなみに彼は、戦闘形態をすでに解いており、賢竜(ワイズ・ドラゴン)の証は臀部から生えた尻尾だけが明らかとなっているのみとなっている。狭い装甲車の人員収納スペースに竜翼だのゴツい竜腕だのを納めるのは他の人々の迷惑になると思ったようだ。

 「ホント、流石は"暴走君"だよ。あたしはアレを見て驚くより、呆れちまったけどな」

 レナは得意げなロイをジト目で制しながら語ったが、ロイはどこ吹く風という様子で満面の笑顔を消すことはなかった。

 そんな様子を見て小さなため息を吐いたレナは、視線をロイから()らして2人の女子部員の方へ向ける。

 「ところで蒼治ー、そっちのカワイイ女の子2人も暴走部のメンバーなワケ?

 暴走部って立花と暴走君ばっか目立ちすぎて、他のメンバーの影が薄くてさー、把握出来ないんだよねー」

 「暴走部じゃなくて、星撒部な」

 蒼治は再び訂正しながらも、その顔はレナの言葉に同意する苦笑を浮かべていた。

 「そう。彼女らは、星撒部の後輩だよ。1年生の相川紫と、ノーラ・ストラヴァリさん。

 ノーラさんは昨日入部したばかりの新人さんだ」

 「うっそ!? もう年度も終わりそうなこの時期に、よりにもよって暴走部に入部するなんて!?

 おとなしそうな顔して、実は"暴走君"顔負けの爆弾抱えてたりするワケ!?」

 「…君は僕らの部活を何だと思ってるんだ、失礼だな…」

 蒼治がハァー、とため息を吐くと、ノーラがアハハ、と小さく笑ってみせる。

 そんな和気藹々(あいあい)とした学生達の語らいの中に、グイッと割り込むようにして中年男性が声をねじ込む。

 「お若い人たち同士の紹介が終わったみたいだから、オレたちオジサン勢の紹介もさせてもらうぜ。

 まず、オレは倉縞(くらしま)蘇芳(すおう)この都市国家(アルカインテール)で市軍警察をやってる。所属は防災部だ。

 で、」

 中年男性――倉島蘇芳は、背にした運転席の方に親指を指し、運転手を紹介する。

 「こいつが、レッゾ・バイラバン。同じく市軍警察だが、オレの同僚ってワケじゃない。こいつは軍の花形、衛戦部の所属で、そこで見ての通り運転手をやってたんだ。

 オレたちが2人がこうやって組んで働くようになったのは、今回の戦争が始まって、行政部が機能停止して都市機能がオシャカになった頃からさ」

 「オッサンの自己紹介なんか、興味ないっつーの」

 レナがパタパタを手を振って嫌みを垂れると、「うるせーよ、不良ギャル!」と蘇芳は食ってかかる。一見するとウマが合ってないようにも見えるが、実際はその逆である。深い信頼関係が築いてあるからこその悪ふざけだ。

 レナ、蘇芳、そしてレッゾの3人は、かなり長い時間を共有して行動を共にしているようである。

 一体どれほどの時間を過ごしているのか、という疑問を含め、蒼治はこの都市国家(アルカインテール)の実状についてレナに尋ねる。

 「レナ、君は一体何時からこの都市国家(まち)に居るんだ?

 それに、外の話じゃこの都市国家(まち)の戦争は終わってるって聞いたんだが…物騒な輩が暗躍しているどころか暴れ回ってるけど、これはどういうワケなんだ?」

 すると、レナが彼女自身のことを説明するより早く、蘇芳が口を挟んでこの都市国家(アルカインテール)の状況について答える。

 「戦争が終わってる!? トンでもない話だよ! この都市国家(まち)の戦争状態は、もう1ヶ月半以上もずーっと続いてやがるよ!

 殺し合いたいなら、"奴ら"だけでやってりゃ良いものを…オレたちにまで言いがかりを付けて、ちょっかいかけて来やがる!

 オレ達はホント、何も知らねーってのによ!」

 「"知らない"ってのは、正しくないな」

 運転席で淡々とハンドルを(さば)きながら、振り向きもしないレッゾが相変わらず冷静に、安定感のある太い声で訂正する。

 「オレ達は、"奴ら"が狙ってる"アレ"の存在を認知しているし、その概要も把握している。

 ただ、"アレ"の本質や所在の情報に限って言えば、何も知らないというのは正解だがな」

 「レッゾ、お前さんはホント、細かいよなぁ。軍人なんかより、国語の先生でもやった方が良いんじゃないのか?」

 蘇芳がケラケラと笑いながら茶化すが、レッゾは気を悪くした様子を一切見せず、淡々と運転を続けるだけだ。

 今の軍人2人の会話に、レナだけはついていっているようだが、アルカインテールに入都してまだ大した時間を過ごしていない星撒部一同にはサッパリだ。"奴ら"というのは、自分たちを襲ってきた勢力のことを指す言葉であると何となく想像はつくが、"アレ"という言葉が一体何を示すのかは全然思い至らない。

 眉根を寄せて顔を付き合わせる部員たちの様子を傍で見ていたレナは、先に自分に振られた質問の中から彼らが取っつきやすそうなものを選んで答える。

 「蒼治、アンタさっき、あたしが何時からこの都市国家(まち)に居るかって、聞いたよな?

 大体、1ヶ月前からだよ。外じゃ丁度、この都市国家(アルカインテール)の戦争が空間干渉兵器の使用によって終結した、って話が流れ始めた頃さ。

 あたしがこの都市国家(アルカインテール)に来たのは、戦争行為と空間汚染に関する実体験レポートを作成して、成績点をもらう為だったんだよ。あたしは卒業後、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)か、どこぞの都市国家の軍警察で防災関係の仕事に就きたいと思ってたからね。それに有利になるような体験をして起きたかったのさ。

 そんで、この都市国家(まち)に来てみたワケだけどさ――そこで、運悪く、見ちゃったんだよなぁ…」

 レナはうんざりした様子で顔をしかめながら、腕を組んで視線を宙に泳がしつつ、言葉を続ける。

 「さっき、星撒部(あんたら)を襲ってた地球圏治安監視集団(エグリゴリ)。あいつら、"パープルコート"って部隊の一部らしいけどさ。あいつらの一派が、空間汚染の中を潜り抜けて、この都市国家(まち)に入都して行くのを見ちまったんだよ。

 あたし、てっきりあいつらが空間汚染の除染作業か、もしくは取り残された戦災被害者の救助にでも来てるんだろうと思って、コッソリ便乗して入都したんだよ。

 そしたら、空間汚染は偽装だったわ、入都先で合流した部隊とは救助活動どころか、バリッバリの戦闘用兵器の物資を受け渡ししてるわで、どうにもきな臭い気配がプンプンして来たワケよ。

 あっ、こりゃマズい、早いトコずらかろうとしたら、偽装障壁は破れないわ、"パープルコート"には見つかるわで、大目玉くらったのサ。この都市国家(まち)には見ちゃいけないものでもあるみたいでさ。目の色変えて、"目撃者を消せー!"って勢いで全力で襲いかかってくるんだよ。

 あたしはもう、必死で逃げまくったね…アレは一生のトラウマものだわ…」

 「で、こいつが騒ぎを起こしてるのを聞きつけたオレ達が、助けてやったワケさ」

 レナの言葉を継いで、蘇芳がドンッ! と得意げに胸を叩きながら語る。

 しかし、レナはそんな蘇芳に感謝の意を表すどころか、避難がましいジト目を送る。

 「確かに、助けちゃもらったけどさ…。

 そのお蔭で、この1ヶ月間、外に出らず仕舞の地下生活を送る羽目になっちまったじゃんか…」

 「なんだよ、文句あるのか? 命在っての物種だろーが。

 それとも、あそこでお前を放っといて、瓦礫の中に墓を立ててやりゃ良かったか?」

 「いや…そりゃ勘弁だけどよ…」

 話が再び、アルカインテール勢の内輪話へ方向が進んで来た頃。会話への興味が薄れたロイがトンネルの光景に視線をやりながら、誰ともなしに問いを掛ける。

 「なぁ、レナ。さっき"地下生活"って言ってたけどよ、このトンネルは地下に続いてるよな? この先に居住区でも在ンのか?」

 これに対して答えたのは、運転席のレッゾである。相変わらずチラリと一瞥すらくれず、運転に集中しながら淡々と返す。

 「その通りさ。

 この都市国家(アルカインテール)は元々、居住区の約半分は地下にあるんだ。

 この都市国家(まち)は険峻な山地に囲まれてるから、横方向に拡張するのが難しい。だから開発の方向は常に下へ向かってるんだ。

 地下居住区には鉱業労働者として受け入れられた難民たちが住んでたんだが、今じゃ地上の戦災を逃れた正規住民たちも混ざって暮らしてるよ」

 「へー。

 じゃ、地下はあのムシどもとか、裏切りロボットどもとか、影人間どもとかから手は出されてないんだ?」

 ロイが確認の意を込めて聞き返したが、ルッゾは首を横に振って否定する。

 「いや。"奴ら"はいつでも、オレ達住人を狙ってるよ。

 "奴ら"はオレ達が"アレ"の在処(ありか)を知ってると思いこんでるのさ。だから、度々地下にも侵攻してくる。

 だからオレ達、軍警察の居残り組はトンネル内にトラップや警報装置をつけて"奴ら"を攪乱しながら、定期的に避難場所を移動して、"奴ら"の手が届かないようにしてる」

 「その…さっきから"奴ら"とか"アレ"とか言ってますが…」

 蒼治が不明瞭な言葉に(たま)らなくなったらしく、身を乗り出しながら問い質す。

 「一体、何のことなんですか?

 "奴ら"というのは、僕達を襲ってきた勢力のことを指していることだと分かりますが、彼らが狙ってる"アレ"っていうのは、全然検討が着かないんですが…?」

 「そこントコを説明するなら、ちょっと順序立てて説明しねーといけねぇな」

 そう前置きをして、蒼治の質問に答え始めたのは蘇芳である。

 蘇芳は、長い話になることを示唆するように[[rrb:胡座>あぐら]]をかいて身を落ち着けると、ゆっくりと話し始める。

 「まず、この都市国家(まち)の戦況について説明するぜ。

 現在、この都市国家(まち)の中じゃ、4つの勢力が互いに競い合って争ってる。

 1つは、君らも知っての通り、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)。そのうちの"パープルコート"って軍団が、この都市国家(まち)で暴れ回ってる。

 元々、"パープルコート"はこの都市国家(アルカインテール)に常駐部隊を置いている軍団だったんだ。難民が多く流入してくるこの都市国家(まち)の治安を監視するため、って名目で部隊が配置されてたんだが…実は、別の目的があったんだよ。

 その目的については、また後で話すとして…まずは、他の勢力について言及しておくぜ。

 2つ目の勢力は、癌様獣の巣窟(キャンサーズ・ネスト)。あんたらが入都した際に真っ先に出会った、気持ち(わり)(ムシ)どもの集まりさ。

 ちなみにこいつらは、真っ先にこの都市国家(アルカインテール)に侵攻してきた勢力でもある。ある意味、今回の戦争の口火を切った勢力と言えるな」

 癌様獣の巣窟(キャンサーズ・ネスト)という呼び名は、厳密には組織の名称ではない。本来の意味は、彼らが根城としている星雲領域のことを指す言葉である。この星雲は地球とは別の宇宙に存在しており、超絶的なエネルギーを持つ高密度の素粒子の雲の中では、癌様獣(キャンサー)達が生体洞窟にも似た天文単位規模の巨大構造を作り上げて生活している…と"言われている"。

 "言われている"と云う言い方をしているのは、癌様獣の巣窟(キャンサーズ・ネスト)を明確に観測したデータが存在せず、断片的な情報から導き出された結論だからである。

 癌様獣(キャンサー)がいくら貪欲な存在であるとは言え、彼らの所属する宇宙はまだまだエネルギーで溢れている。しかしながら、彼らが多大なエネルギーを消費してわざわざ地球圏に来訪する理由は、不明だ。有力な説は、彼らもまた地球の持つ『天国』を狙っていると言うものだ。しかしその説においては、史上においては侵攻という形で地球人類と初遭遇した彼らが、どうやって『天国』の存在を認知したのか、という点が問題として挙げられている。

 …しかしながら、今は癌様獣(キャンサー)についての言及はこの程度にしておいて…。蘇芳の言葉の続きに話を戻すとしよう。

 「3つ目は、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーの連中だ。

 機体にカミナリを掴んだ拳のマークを張り付けた機動兵器を見かけただろ?」

 そこまで蘇芳が話した時、蒼治が雷光にでも打たれたように「あっ!」と声を上げる。

 「そうか、『インダストリー』か! 思い出したぞっ!

 道理で、どこかで見たことがあるマークだと思ったんだ!」

 「知ってるんですか…蒼治先輩?」

 尋ねるノーラに対し、眼鏡を直しながら顔を向けて蒼治が(うなづ)く。だが、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリー――通称、『インダストリー』――についての解説は、収納スペースの隅に立て膝を付いて座るレナが引き受ける。

 「優等生クンの蒼治が忘れてるってのは意外だけどよ…ともかく、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーってのは、間違いなくこの異相世界中で最大の軍事企業だよ。

 なにせ、規模が半端ねーんだよな。社員数が億単位だしよ。ここまで来ると、会社っつーより、もはや国だぜ」

 レナの説明をもう少し補足しておく。

 サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーは、地球とは別宇宙に本社を置く超巨大軍事企業である。元々は宇宙航行・軍事技術の開発を担っている企業で、宇宙船開発のために小惑星上に建築した工場からスタートした。順調に業績を伸ばしながら少しずつ規模を拡大していたこの企業は、[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]による異相世界交錯以降、魔法技術開発分野で大成功を納め、爆発的に躍進。本社の規模は今や小惑星を全て飲み込んだ、"機械仕掛けの惑星"といった外観をしている。

 サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーは"死の商人"として兵器の供給を行っているだけでなく、自社商品のデモンストレーションを兼ねた傭兵兼私設軍隊"ブルータル・エレクトロンズ"を運用しているのも特徴である。

 「僕は、」

 と、蒼治が言葉を挟む。

 「彼ら、"インダストリー"とは1年生の頃、バウアーと渚と一緒にやった課外授業の時に知り合ったんだ。その時は、彼らの開発部と人間と協力し合っていたんだけどね。

 まさか…昨日の友は今日の敵、っていう関係になるなんてね…」

 「あの…その、"インダストリー"って組織が軍事企業…ということは…」

 ノーラが顎に手を置きながら、発言する。

 「この都市国家(アルカインテール)の持つ鉱物資源を狙って、侵攻をしかけて来た…ということなんでしょうか?」

 「違う」

 運転席から、相変わらずチラリとも振り向かないレッゾがノーラの意見を一蹴する。

 「ヤツらの狙いも、他の勢力と同じ、"アレ"だ。"アレ"の開発技術を手に入れようとしてる」

 またもや出てきた"アレ"という言葉だが、星撒部たちはやがて必ず来る蘇芳の説明を待ち、その解説をせがむことはしない。

 そして蘇芳は、最後の勢力の正体について言及する。

 「最後の一派、それが『冥骸(めいがい)』さ。

 影様霊(シャドウ・ピープル)その他、死霊どもばかりで構成された過激派集団だよ。

 ヤツら、元々はこの地球で暮らしていたらしいが、今はその過激な思想を危険視されて、エッジワース・カイパーベルト宙域の準惑星に追いやられてる。で、いつの日か、母なる地球に大手を振って帰還するために、日々決して褒められない努力を続けてるって話だ」

 地球圏の最外縁宙域、冥王星をはじめとした準惑星が密集するエッジワース・カイパーベルト宙域には、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)その他の地球統治系組織から地球に降り立つこと禁じられた勢力達の太陽系内拠点がひしめいている。先に出てきた癌様獣の巣窟(キャンサーズ・ネスト)も、その飛び地とも言うべき巣がとある準惑星内に存在している。

 ――と、これで蘇芳によるアルカインテール内で抗争を繰り広げている組織の紹介は全て終わった。残るは、戦争の引き金となった存在wを示す代名詞、"アレ"のみ。

 蘇芳の色の薄い、荒れた厚い唇が、満を持してその言葉について言及する。

 「そんではお待ちかね、"アレ"について説明するぜ。

 "アレ"とは、"パープルコート"どもとこの都市国家(まち)の公営研究機関が共同で開発した、胸糞悪くなる半生体機関。

 そして、おそらくは、史上初の『握天計画』の成功事例の立役者。

 その名は…」

 蘇芳が芝居がかった口調で語る、その最中のこと…。

 運転手のレッゾが、視界に入ってきた"()る物"を見つけると、身につけたゴーグル状の眼鏡の上で眉毛をひそめる。

 

 トンネル壁に寄り添うように、1つの物体――いや、人影だ――がポツンと立っている。

 人影は、虫食い穴が無数に開いてボロボロになったような、褐色がかかった白い外套を羽織って、(うつむ)いた状態で、立ち尽くしている。その様子だけを見ていると、物乞いする浮浪者か、自失呆然とした亡霊のようにも見える。

 (なんだ、あいつは…? なんでたった独りで、こんなところにいる…?)

 レッゾの脳裏に真っ先に過ぎったのは、そんな疑問である。

 人間(ヒト)の姿をしているからといって、この都市国家(アルカインテール)の避難民であるとは限らない。人型の人員ならば"パープルコート"に数多く存在するし、亡霊ならば『冥骸』の構成員であることも考えられる。つまり、この人物が敵である可能性も充分に考えられるのだ。

 その可能性を加味した上でなお、レッゾは疑問を頭に浮かべていたあ。アルカインテールを蹂躙する敵勢力の一員だとしても、単体行動しているとは考えにくいからだ。敵勢力同士は決して協力関係を結んでいない、むしろ4つ巴の敵対関係となっている。単体でフラフラ出歩いていた場合、避難民たちに対しては脅威になり得としても、他の勢力と遭遇した場合には苦戦を強いられることだろう。

 ――では一体、この浮浪者然とした人物は、何なのか?

 その疑問に答えが出るより早く――と言っても、答えは出そうになかったが――レッゾの運転する装甲車は、この人物のすぐ真横まで到る。

 このまま何事もなく、通過できるか――と思いきや。

 レッゾの視界の中から、人影の姿がパッと消える。

 装甲車が急加速して、人影を後方へと引き離した…というワケではない。確かに人物の存在にイヤな予感を感じてアクセルを思い切り踏みつけたが、人影は視界の端へと流れてゆくより早く、その姿を消したのだ。

 (な…!?)

 困惑した、その直後。

 ガゴンッ! 巨大なハンマーででも横から殴りつけられたような衝撃が、装甲車を襲う。大きくブレた車体を必死になって立て直そうと、必死にハンドルを(さば)いたものの、努力は空しく車両はトンネルの左側の壁に激突。ザリザリザリッ! と耳障りな音を立てて壁を激しく擦りながら、数秒間、走り続ける。その最中、ドアミラーがメキリと破壊されて、トンネルの後方へとすっ飛んでしまった。

 運転席の後ろ、人員収納スペースからは、「うわあああっ!」とか「きゃあああっ!」と云った阿鼻叫喚の怨嗟が上がる。そこに搭乗する蘇芳やレナ、そして星撒部の4人は派手に吹っ飛び転がって、もみくちゃになっている。

 「い、いってぇーっ! 頭、壁にブツけちまった…!」

 「う、うわっ、どこ触ってンだよ、"暴走君"!」

 「おわっ! す、すまねぇっ、レナ! 不可抗力なんだっ!」

 「ってぇか、"暴走君"よ! おまえさっきから先輩に対してタメ口過ぎだろ! ちゃんとレナ先輩、って言えよ、コラッ!」

 「今はそんな細かいことにこだわってる場合じゃないと思うんですけど、レナ先輩様…!」

 「えーと、紫とか言ったか? おまえは嫌みったらしく"様"まで付けなくて良いっつーの!」

 「一々突っ込むなよ、レナ!

 そんなことより…みんな、この車両の上に、何か乗ってるぞ…!」

 騒ぎの中、大きくズレた眼鏡を直しながら場を諫めつつ、頭上を指差した蒼治。彼の伸ばした人差し指の先には…そう、1人の人物が車両のブレにも動じず、平然と直立している。

 「くそっ…!」

 それまで冷静でいたレッゾが、初めて不快感を露わにしながら唾棄しつつ、ようやく車体のコントロールを取り戻すと。蒼治の言葉を確かめるべくチラリと頭上に視線を走らせた途端、目を丸くして、ギリリと歯噛みした。

 「おいおい、なんてこった…!

 こいつは…この野郎は…! 畜生、だから悠々と単体行動してたってワケか!」

 レッゾが恨み言を語る頃、アルカインテールの事情に通じる蘇芳もレナも、体勢を立て直しながら、頬にジットリと剣呑な冷たい汗を走らせる。

 

 車両の上に取り付いた"そいつ"は、さっきレッゾが見たトンネル端に立っていた人物そのものである。

 その姿を間近にしたことで、"そいつ"の異様なディテールが衆目に晒される。

 まず第一に、"そいつ"は浮浪者ではない。羽織った外套は確かにボロボロで汚らしいが、その下にあるのは汚れが(ほとん)ど見当たらない、軍服に似たデザインのシンプルな衣服である。それに、露わになっている頭部の色白の皮膚も、濃い色の金髪も、汚れが全く見当たらずツルリとしている。

 第二に、"そいつ"は亡霊でもない。亡霊ならば重力や慣性の作用を受けずに走行中の車両に取り付くことが可能だが、"そいつ"の場合、直立体勢を維持しているのは足だけでなく、装甲車の上部装甲に深々と突き出さした2本の金属製の尻尾である。刺さった尻尾の周囲では、外界の風景を投影する能力を失った壁が、無機質な漆黒を映していた。

 ――そう、"そいつ"は単なる人間種族ではない。臀部から飛び出した、先端が四角錐の槍のようになった2本の尻尾が、そのことを物語っている。しかし、それ以上に雄弁に"そいつ"の種族を物語るのは、色白の顔面にはりついた大きな左眼だ。上下の瞼を持たず、剥き出しになった眼球は、真っ赤に充血してブヨブヨと腫れ上がっている。ちなみに右目は、旧時代の地球人類にも珍しくない濃いブラウンの瞳である。

 癌様獣(キャンサー)――その単語がアルカインテール勢のみならず、過酷な交戦をくぐり抜けてきた星撒部の脳裏にも駆けめぐる。

 

 車両内の一同が慌てて体勢を立て直し続けている一方、"そいつ"は車両に突き立てた尻尾の表面から、何か小さな物体を十数個、解き放つ。一見するとそれは、尻尾に巣くっていたノミが一斉に飛び出したようにも見えなくはない。

 だが、それらは決してノミでないことが、すぐに明らかになる。

 飛び出した物体は無駄のない曲線を描きながら、6つ1組で円陣を組んで飛翔すると…コツッ! コツッ! コツッ! と、堅い金属に軽く釘を突き刺すような音と共に、車両の装甲に取り付く。直後、円陣の内部にぼんやりと雷光の黄色が灯った…その瞬間。

 (ガン)ッ! (ガン)ッ! (ガン)ッ! ――缶を思い切り捻り切るような強烈な音が響き渡ったかと思うと、装甲が内部に向かって膨張、破裂し、トゲトゲしい花弁のような金属片で縁取った穴が幾つも幾つも開く。

 しかも、円陣を組んだ飛翔物体は、単に接触部分に穴を開いただけではない。

 「(あぶ)ねぇっ!」

 ロイが叫びながら、開いた穴の延長線状で体勢を立て直していたノーラを、乱暴に突き飛ばす。咄嗟のこと、且つ、予想だにできなかったロイの行動に、受け身を取る間もなく肩から強かに壁にぶつかる、ノーラ。

 「ちょっと、ロイ! 女の子には優しく…」

 紫が早口に抗議を口にしかけた、その途端。

 ボゴンッ! 大質量のハンマーで思い切り装甲をブッ叩いたような音が響き、ノーラがついさっきまで立っていた床に大きな凹みが生じる。この暴虐的な現象を引き起こした不可視の力によって、車両はガタンッ! と大きく震動する。

 「お、おいっ!? なんだ、なんだよ、こりゃっ!?

 装甲上の高密度魔術篆刻(カーヴィング)の作用を突き破るってのは、どんなパワーだよっ!?」

 蘇芳が眼を白黒させながら驚愕と困惑の混じった叫びを上げていると…。(ガン)ッ! (ガン)ッ! (ガン)ッ! 次々に悲惨な重金属の悲鳴が上がり、装甲に穴が開くと共に、その延長線上の床や壁に大きな凹みが生じる。

 「うひぃっ! なんだよ、こりゃっ!」

 「くそっ…! 皆、気を付けろ! 当たったら、只じゃ済まないっ!」

 レナと蒼治の2年生組が声を上げる一方で、一同は身を屈めたり、身体を反らしたり妙な方向に曲げたりして、装甲を突き破る不可視の暴力を回避する。しかしながら、その最中、不可視故に完全に避けきれずに、髪や制服の一部を抉り取られることもある。特に蒼治においては、身につけたマントの端が何度も暴力に曝され、ズタボロの無惨な姿となってしまっている。

 「あの野郎っ! 調子に乗りやがってぇっ!」

 突然の暴挙を前に、こめかみに青筋を立てたロイが、固めた拳を漆黒の竜腕に変化させ、臨戦態勢に入った頃。装甲車の外では、飛翔物体が新たな動きを見せる。

 6つ1組の編成で動き回っていた物体たちが、円陣の編隊を解散したと思えば、装甲車の側面のほぼ中央ラインに沿って、一定間隔を保って取り付いたのである。

 ジジジッ…。漏電するような小さな雑音が、装甲車の内部にわき上がる。同時に、装甲車内部に飛翔物体を結んで作った平面に沿って、淡い電光色の(もや)めいた発光が出現する。

 「みんなっ! 運転手のオッサンもっ! 伏せろっ!」

 賢竜(ワイズ・ドラゴン)の持つ獣性の勘とでも言うのか、危険を察知したロイが鋭く叫びながら、自らが率先してうずくまるようにして身を屈める。ロイの尋常でない様子の勧告に突き動かされた一同が、彼を真似て一斉にうずくまる。運転手のレッゾはうずくまれなかったものの、ハンドルから手を離して出来るだけ頭を低くした。

 転瞬――(ドン)ッ! 車両を全体を揺るがす、激震が発生。次いで、メキメキメキッ! と重金属がひしゃげる悲鳴。

 うずくまった体勢のまま、ノーラがチラリと視線を上に向ける。すると、そこから見て取れた光景は――まるで強靱な紐で締め上げられたかのように、内部に向かって沈み込む、装甲車の側面中央ライン。やがて、ミシッ…と言う雑音と共に、沈み込んだラインが展性の限界を越えて破壊。その後は席を切ったようにミシミシミシッと音を立てて亀裂が大きく、そして装甲車をグルリと囲み…そして遂には。

 ガゴオォンッ! 盛大な断末魔と共に、装甲車の上半分がフワリと浮き上がり、慣性と気流に翻弄されてゆっくりと回転を始める。しかしすぐに、トンネル天井に接触すると、ギャリギャリギャリッ! と耳障りな音を立てながら火花を散らしつつ、天井の摩擦に手を引かれるがままに車両の後方へと流されてゆく。

 今や装甲車は、缶切りで力任せに剪断(せんだん)されてしまったような、不格好なオープンカーに成り果ててしまった。

 「うっは…尋常じゃねー…」

 恐る恐るといった動作で頭を上げる一同の中、レナが装甲車の惨状を前に震え声を絞り出す。

 そんな最中、オープンになった人員収納スペースのほぼ中央に、フワリと白い外套を(ひるがえ)して降り立つ、人影。たなびく外套は、ともすると、悠々と羽ばたく天使の翼に見えなくもない。ただし、"そいつ"が天使だとすれば、神の計画のためには無実な民をも無慈悲に虐殺してのける、非情の天使に違いない。

 ストン、と着地した"そいつ"は、装甲車に取り付く直前、トンネルの端に突っ立っていた時のような、脱力したような出で立ちをしている。その姿はやはり、浮浪者を連想させるに相応しいものであるが…。手の届く範囲にまで接近した"そいつ"から放たれる気迫が、その印象を一気に打ち消す。

 亡霊のように脱力した姿をしているというのに、まるで巨大な岩石を目にしているかのような、強烈な重量感。

 「『十一時』…!」

 苦々しく呟いた、蘇芳の言葉。それは、時刻について言及したものではない。事実、現在は正午をとっくに過ぎた時間だし、日付が変わるような深夜の時間帯でもない。

 星撒部の一同は、一瞬の間を置いた後に理解する。"十一時"とは、眼前にした白い外套を羽織った人型癌様獣(キャンサー)の個体識別名称なのだ、ということを。

 "十一時"は瞼のない充血した眼球でギョロリと一同を睥睨した後、皮膚の色と見分けが付かないほど色の薄い唇から、無機質にして冷酷な響きの言葉を紡ぎ出す。

 「()く答えろ。

 "バベル"は、何処に在る?」

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ANGER/ANGER - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 "バベル"。人型の癌様獣(キャンサー)、『十一時』が口にしたその単語が、一体何を示すのか。星撒部の誰1人として、そのことを理解している者はいない。

 しかし、彼らは直ぐに感づいた。その単語が示す存在こそ、現在のアルカインテールの戦争の元凶となった存在――蘇芳たちの言う"アレ"であることを。

 それを裏付けるかのように、レナを含めたアルカインテール勢の3人は、表情に一様にギクリとしたような、困惑したような奇妙な表情を浮かべている。

 そんな一同の様子を、充血し腫れ上がった左眼で一望した『十一時』は、殊更(ことさら)動揺の大きい蘇芳の方へ向き直り、ブラウンの右眼をギロリと細め、再び尋問を口にする。

 「"バベル"は何処に在る?

 語れ、この都市国家(まち)を治める軍警察の一員よ」

 対して蘇芳は、ダラリダラリと額から噴き出す汗をそのままに、引きつった笑みを浮かべてみせる。

 「お前さんも毎度毎度しつこいな、『十一時』よぉ。

 だから言ってるだろ、オレ達は知らないし、もしも知ってたとしても…てめぇらには教えない、ってな」

 「語らぬならば、それでも構わん」

 蘇芳の拒否に、あっさりと応じる『十一時』であるが。微動だにしない表情や無機質な語り口とは裏腹に、苛立ったように臀部から生えた2本の金属製の尾をヒュンッ、と素早く振るう。

 「お前の大脳皮質を直接スキャンするだけだ」

 そう語る『十一時』の語調が、ほんの少しだけ堅く、鋭く…そして、鋼のように冷たく重い殺気に満ちているように聞こえた…その直後。

 ガキュィンッ! 金属と、高い硬度を誇る物体が衝突する、甲高い耳障りな音が発生する。その音と共に、蘇芳は眼前で起きたコマ落ちフィルムのような高速の現象に、眼を白黒させる。

 蘇芳の眼前には今、背からは漆黒の竜翼を、両足先を太い鍵爪を携えた竜脚に変えたロイが立ちふさがっている。彼が顔の高さまで上げた、人工太陽光の照明を受けてヌラリと輝く竜鱗に覆われた腕は、『十一時』の鋭利で強靱な尻尾をガッシリと受け止めている。

 どうやら『十一時』は単に尻尾を振るっただけでなく、その鋭利な先端で蘇芳の顔面を横薙ぎに狙ったらしい。対してロイは、野性的とも言える反射神経で彼の攻撃に対応したのだ。

 「テメェッ、いきなり…!」

 鋭利な牙の林立したロイの口腔から、避難の言葉を吐き出される最中のこと。『十一時』の身体が突如、輪郭を霞ませて掻き消える。ロイの背越しにその光景を見送っていた蘇芳は、何が起こったのか理解できず、パチクリと瞬きをした。

 直後、再びトンネル内に響く、ガキュインッ! という激突音。同時にロイの身体が沈み込み、まるで低い軌道のボールを受け止めたゴールキーパーのような格好をしている。そんな彼の開いた竜掌は、装甲車の床スレスレの位置から突撃してきた『十一時』の突き出した腕を掴んでいる。その腕の先には、ギラリと輝く凶悪な金属の円錐状突起が数個突き出しており、ロイの竜鱗に覆われた掌に数ミリ食い込んで細かな鮮血の流れを作り出していた。

 痛々しい防御行動を取ったロイであるが、その表情は苦痛に歪んではいない。それどころか、血に飢え、獲物を狩ることを愉しむ猛獣のような凄絶な笑みを浮かべている。

 「オッケェッ!」

 叫びつつ、ロイは握った『十一時』の突起をブンッと上方向に振り回し、トンネルの天井目掛けて投げ飛ばす。一方、『十一時』は超人的な反応速度でヒラリと体勢を立て直すと、天井に着地し、ロイの次なる行動に備えて刺すような視線を眼下に向ける。

 癌様獣(キャンサー)の神経は、光ファイバーによって構築されている。故に、通電神経を有する並の人間に比べると、理論的には何十倍も素早い反射行動を取ることが可能だ。

 しかし、そんな優秀な神経ネットワークを持つ『十一時』をしても、視界に度アップで映る光景には驚愕を隠せず、充血した左眼の瞳孔を思い切り開く。眼前に、間近にまで迫ったロイの姿があるのだ。しかも、筋肉のバネを極限まで引き絞った竜脚で、万全の蹴撃の準備を整えている。

 「!!」

 『十一時』は声にならない怒号を上げながら、胸部から顔面にかけて両腕を交差させて防御態勢をとる。更に、空中に待機させていた円錐状の飛翔物体を腕の手前に引き戻し、円陣を作ろうとするが――遅い。

 (言葉なんていらねーよなっ! 不満をぶつけ合うなら、ブン殴り合いで充分だよなっ!!)

 胸中で叫びつつ、ロイが竜脚を漆黒の烈風に変え、『十一時』の体軸中央目掛けて解き放つ。トンネルの人工太陽光の照明を受け、ギラリと凶悪に輝く鉤爪が、巨大な三日月を描いて『十一時』の飛翔物体を吹き飛ばしながら、交差した両腕に深い斬撃を与える。

 (ザン)ッ! (ドン)ッ! "斬る"と"叩く"を同時に喰らった『十一時』は、両腕に荒々しい渓谷のような傷跡を刻まれ、無色透明な電解質の体液を大量に撒き散らしつつ、トンネルの天井に激突。そのまま一度、小さめにバウンドして後方へと吹き飛んでゆく。

 「おっしゃっ、やったか!?」

 早くもガッツポーズを取り、ニィッと歯茎を見せて笑ってみせるレナであるが…。

 「伏せてろ、レナ先輩サンよっ!」

 間髪入れずにロイが雷鳴のごとき鋭い声を残し、背中の竜翼を大きくバサリと羽ばたかせて、車両の後方へ――『十一時』を叩き飛ばした方向へと、一直線に飛翔する。

 対して、吹き飛んだはずの『十一時』は、白い外套の下、背部に装備した4機の小型バーニア推進機関を稼働させ、空中の姿勢を立て直すと共に、ミサイルのような猛スピードで装甲車へと追いすがってくる。常人なら骨格が剥き出しになるほどの深手を負った両腕は、癌様獣(キャンサー)特有の再生力で、すでに泡状の組織再生が始まっている。

 (追いつかせねぇよっ、マント野郎ッ!)

 ロイは右の拳を岩のように固め、もう一羽ばたきして加速を得ると、ブワッと円状に広がる衝撃波を残して一気に『十一時』の眼前へと接近する。

 「うぉわっ! こっちのことも考えろよ、"暴走君"!」

 眼下ではレナが、荒々しくはためく長髪を必死に押さえながら叫んでいるが、そんな事は一切お構いなし。

 ロイは烈風のような加速度に拳撃を乗せて、『十一時』の顔面ど真ん中を目掛けて一撃を放つ。

 一方、『十一時』は再生途中の両腕を上げてブロックするような素振りは全く見せない。甘んじてロイの一撃を受けるかと思いきや、飛翔物体が超小型のツバメの群のように急旋回しながら顔面手前に飛来。6つ1組の円陣が縦に3つ並ぶように配置する。

 (何だ!?)

 疑問符を浮かべるロイだが、解き放った暴力を今更引っ込めることは出来ない。強烈な竜拳は、飛翔物体が作り出した円柱の領域の内部を通過してゆく。

 途中、飛翔物体の円陣の中央に、淡い電光色が灯る。すると、ロイの腕の表面にパリパリと皮膚が粟立つような感覚が生じる。

 その感覚が生じたのと、ほぼ同時に…。突如、ロイの拳撃が急激に減速する。まるで、不可視の弾性ネットに捉えられてしまったかのような有様だ。

 更に、飛翔物体の円陣の内部で、電光色が強まった。転瞬、ロイの右腕にグンッ! と強烈な押し戻す力が発生。――いや、押し戻すどころの話ではない。体表の竜鱗をバリバリと剥ぎ取り、筋組織をビキビキと分解させるような、砲撃のような剛力が加わったのだ。

 (ゴウ)ッ! まるでそれは、不可視の槍にでも強打されたかのような一撃。ロイは、右腕から剥離した竜鱗をパラパラとまき散らしながら、全身で吹き飛んでトンネルの天井に激突。そのまま横方向に回転しながら一度バウンドしたが…それ以上体勢を崩れることを、天井にグッサリと突き出した竜尾で食い止める。

 (やってくれるじゃねーかっ!)

 激突時に顔面を強打したらしい、派手な鮮血が滴る鼻孔と口の端を荒々しく拭う。そして素早く金色の瞳で敵の姿を探すと…背部のバーニア推進機関を巧みに扱い、装甲車の方へ急降下する『十一時』の姿を発見する。

 「させるかっ!」

 ロイは竜脚と竜尾を天井に叩きつけ、その反動を得て烈風となって飛び出す。彼を送り出した天井には、悲痛な亀裂のクレーターがクッキリと残っている。

 「おああっ!」

 わざと叫びを上げながら『十一時』へと急降下するのは、彼の注意をこちらに向けるためだ。その思惑にうまくハマってくれたのか、それともロイの脅威度を鑑みてのことか、『十一時』はすぐにロイの方へと向き直ると、完璧に再生を終えた右腕を向ける。すると右腕の表面が4カ所、カパッと展開すると、その内側からは1つずつ機銃が姿を現す。そして間髪入れずに、狙いを定めることもなく掃射を開始する。

 (ンな程度ッ!)

 ロイはギラリと牙を輝かせながら剣呑に嗤うと、羽ばたく竜翼と、竜鱗が健在な左腕で弾丸を弾き飛ばしながら、さらに接近する。

 ロイの方はこの対処で実害を被りはしなかったが、別のところで脅威を叫ぶ怨嗟が上がる。装甲車の乗員たちだ。

 「うおわっ! 跳弾来るッ! 来るッ!」

 叫ぶ蘇芳の言う通り、ロイが弾き飛ばした弾丸を含め、トンネルの壁に激突した弾丸が跳ね返り、装甲車上へ飛び込んでゆくのだ。この跳弾のことを見越して、『十一時』は掃射を術式弾丸ではなく実弾で行っているようだ。

 「うひぃっ! 今、足下掠った!

 ちょっ、誰か、どーにかしてくれよぉっ! 星撒部、おまえ達の撒いた種だろぉっ!」

 レナが自棄(やけ)気味の涙声を上げた、その直後。危険な跳弾の音があちこちからすれど、装甲車上に一発も着弾しなくなる。

 この歓迎すべき状況を実現したのは、蒼治だ。装甲車の上部に防御用方術陣を大きく展開して、弾丸を防いでいるのだ。

 「流石は、蒼治先輩。地味なサポート作業は馴れていらっしゃる」

 蒼治の足下でへたり込んでいた紫が、ニヤリと陰を帯びた笑みを浮かべて語る。彼女が立ち上がっていないのは、先に連続行使した回復魔術による疲労から立ち直っていないためだ。そのため、魔装(イクウィップメント)の維持もできなくなったらしく、今は汚れた制服姿に戻っている。

 「こんな時にも毒舌か、相川…。

 僕も疲れてるんだから、もっと英気を養えるような言葉の一つもかけてくれよ…」

 直せぬズレた眼鏡越しに苦笑を浮かべながら、ため息混じりに蒼治は呟くのだった。

 一方、上空では『十一時』に再肉薄したロイが鉤爪の輝く竜脚で、疾風のような回し蹴り、そして踵落としを連続で放っていた。

 この攻撃に『十一時』の外套には大きな切り傷を刻むことは出来たものの、彼自身はバーニア推進機関を細かく調整しながら、二撃ともに無駄のない動きで回避する。

 回避しながら、『十一時』はロイの視界が及ばぬ自身の体の陰で、8つの飛翔物体を一列に並べていた。その列の手前数センチのところに淡い電光色が縦長に灯った頃、『十一時』は飛翔物体の列をグルリと回してロイの方へと向ける。

 その道すがら――ザリザリザリッ! と険悪な擦過音が響き渡る。一列に並んだ飛翔物体の延長線上にあるトンネルの壁が、不可視の大剣で削られたように、痛々しい亀裂を作り出しているのだ。

 ――いや、"ように"ではない。『十一時』は飛翔物体の一列によって、正に不可視の大剣を作りだしのだ。そして、その刃を用いて下方から、装甲車を通過するルートを用いてロイの体を両断せんとしているのだ。

 (ヤベェッ!)

 ロイは胸中で毒づきながら、竜翼を力強く一羽ばたきさせると、自ら不可視の大剣の目の前へと飛び込んでゆく。

 自分一人だけならば、不可視とは言え線状にしか攻撃できない『十一時』の斬撃を飛び回って回避することは出来る。だが、装甲車は狭いトンネルの中、回避行動が出来る範囲が極々限られている。今回の一撃を防ぎ切るのは、無理だ。蒼治の防御用方術陣を頼ることも難しい、彼は跳弾の処理で忙しいし、また疲労の色も濃い。無理に方術陣の数を増やせば質が急激に低下し、攻撃を防ぎ切れなくなる可能性が高い。

 (それなら…オレが受け止めるしかねぇだろうがっ!)

 ロイは装甲車の前に立ちはだかるようにして空中に停止すると、竜翼を体の前で合わせて閉じ、更に両腕両足を亀のように縮めて完全な防御態勢を取る。

 転瞬…ガガギギギュィィンッ! 鱗、そして肉を激しく削り取る、悲痛な騒音がトンネル内に木霊(こだま)する。

 「ぐうぅっ!」

 ギリギリと歯噛みしながら、翼を深く抉る不可視の一撃に耐える、ロイ。焼け付くような激痛に、咽喉(のど)の奥では手負いの獣の咆哮が嵐のように渦巻いている。

 数瞬の後。不可視の大剣はロイの竜翼の防御域を通過。再び、ザリザリザリッ、とトンネルの壁を削り斬り始める。途中、トンネルの照明器具が斬撃に晒され、バキバキと痛々しい音を立てて破砕、発光を停止した。

 一方、身を呈したロイの行動は、見事に功を奏した。彼の背後では、装甲車が健在で全速力驀進(ばくしん)を続けている。

 しかし、ロイの払った代償は大きい。重ねた竜翼は切断されるに及ばなかったものの、クレバスのごとく深々とした裂傷が一文字に走っている。はぎ取られた竜鱗の合間には、健康的なピンク色を呈した筋肉が露わになっていたが、それもすぐにドクリと吹き上がる鮮血に埋もれる。

 だがロイは、悲惨な裂傷に心を折られたりしない。

 「()ァッ!」

 激痛を振り切るようにして叫び、そして漆黒の竜翼を烈風と共に力強く展開する。鮮血がビシャビシャと雨粒のように吹き飛んだ。

 (こンの野郎ッ! 今度は、こっちが…)

 一転、攻勢に転じるべく、傷ついた翼を羽ばたかせるが――ロイの眼からは攻撃的な光が、途絶えてしまう。何故ならば、視界で敵の姿が捉えられないからだ。

 (…!? まさか、後ろにッ!?)

 竜翼による防御行動で視界が塞がった好きに、後方に回り込まれて装甲車への接近を許してしまったのか? 脳裏に過ぎる焦燥に誘われるまま、素早く首を後ろへと振り向けた――その時。

 視界の端、下方から…突如現れた、『十一時』。彼は装甲車を狙うではなく、ロイを確実に仕留めるため、彼の死角からの襲撃に備えていたのだ。

 (マズッ!)

 ロイが再び振り向き直る間にも、『十一時』はロイの胴体真正面に肉薄。腹部に、6つの飛翔物体で構成した円陣をグイッと食い込ませるほどに接触させる。

 パリパリッ、と皮膚を帯電物質で撫でられるようなむず痒い感覚が腹部に生じたのを認識した、その直後。

 (ドン)ッ! 腹部を貫く、強烈な一撃! 装甲車の装甲を穴だらけにした不可視の一撃が、ロイの腹部で炸裂したのだ。メキメキ、と筋組織が暴力的に後方へ引っ張られて盛大な内出血を起こし、内臓がもぎ取られるような勢いでブルリと揺さぶられる。

 「ッゲハァッ!」

 鋭利な牙が並ぶ口腔を大きく開き、バケツを逆さにしたような大量の吐血をブチ撒けながら、隕石のごとき勢いで吹き飛ぶ、ロイ。不可視の一撃を喰らった腹部は貫通寸前なほどにボッコリと陥没している。この陥没に引きずられるようにして宙を一直線に飛んだロイは、激しく回転する装甲車の後輪すぐ隣の路面に激突する。

 「ちょっ、だから"暴走君"、こっち来ンなってッ!」

 ロイの着地地点の直ぐ傍に居たレナが、ビクッと体を後退させながら喚く。

 その一方で『十一時』は、8つの飛翔物体を一列に並べ、不可視の大剣を生成。ロイという楯を失った装甲車を狙い、今度は上方向からやや袈裟切りに斬撃を繰り出す。再び響くザリザリザリッ、というトンネル壁の擦過音が、痛々しく乗員の鼓膜を震わせる。

 「チィッ!」

 舌打ちしたのは、蒼治だ。跳弾の対処された彼は、ズレた眼鏡を直す間もなく『十一時』へ向き直り、双銃を素早く構えて速攻で連射する。『十一時』に回避行動を取らせて、斬撃の軌跡を乱す算段だ。

 しかし、蒼治の策の通りに事は進まない。

 『十一時』は身体の周囲に、不可視の大剣の形成に使用していない飛翔物体を6つ1組の円陣にして、数グループ展開。飛来する蒼治の術式弾丸を、円陣内部の雲状雷光に捕らえる。すると、弾丸は先のロイの拳撃同様、不可視の弾性ネットに捕らわれたように急減速した後、弾け飛ぶように進行方向を逆転。一路、蒼治に向かって飛翔する。

 「なっ!?」

 『十一時』の使用した防御の原理が解析できず、困惑する蒼治であったが、ともかく跳ね返って来る攻撃を防がねばならない。あわてて方術陣を展開し、術式弾丸を受け止める。と言っても、蒼治が本気で魔力を込めて形成した術式弾丸だ、着弾時の威力は凄まじく、方術陣越しの衝撃波が装甲車の車体を大きく揺るがすほどだ。

 「バカヤロッ、状況を更に悪くしてどうするンだよっ!」

 またもレナが喚く一方で、不可視の大剣は進路を微動だにせず、着実に装甲車を運転席から収納スペースにかけて斜め一直線に切断するコースで降りてくる。

 (くそっ! 自業自得ながら、方術陣をあっちに回すだけの余裕がないっ!)

 ザリザリザリッ、という耳障りな擦過音が近寄るのを耳に入れ、蒼治がギリリと奥歯を噛みしめる。だが、不可視の大剣が迫り来る様子にチラリとも視線を向けるほどの余裕もない。

 そんな最中、『十一時』の所業に対抗すべく立ち上がったのは、ノーラだ。華麗な装飾が施された黄金の愛剣を定義変換(コンヴァージョン)によって変質、パネルがめくれるような変換過程を経て雷光色に輝くビームブレードを形成し、不可視の大剣の到着を待ち受けて身構える。

 そんなノーラの姿を見た『十一時』の充血した左目が、ピクッ、と不愉快そうに蠢く。

 どうやらノーラの行動の中に、彼が懸念を抱くような"何か"があったようだ。

 その懸念に気を取られていた、ほんの一瞬の隙。そこを見逃さずに突いて来たのは…先刻、路面に吹き飛ばされたロイである。

 「おああっ!」

 激痛の悲鳴を上げる全身を絶叫でむち打ちながら、竜翼を全力で羽ばたかせ、『十一時』の背後下方に追いすがった彼は、『十一時』の無防備に垂れた双尾のうちの右側を掴む。

 「…」

 転瞬、『十一時』はノーラの行動にひるんだ充血の左眼を無表情に戻す。同時に、ロイが掴む尾の表面が瞬時に変質。鋭い円錐の棘が幾つも伸び、ロイの掌を串刺しにする。

 「ぐうぅっ!」

 掌から脳天へ突き抜ける激痛に(さいな)まれつつも、ロイは決して『十一時』の尾を離さない。それどころか、腕の筋肉に鋼のような剛力を込めると、一気に『十一時』の身体を振り回し、路面へと叩きつけた。

 (ドン)ッ! 鈍い激突音と共に、路面に派手な陥没が生じる。ロイの腕を通して、『十一時』の骨格が確実にひしゃげた感触が伝わってくる。

 『十一時』を叩きつけた反作用を利用して、ロイは竜翼を一羽ばたきさせて急上昇。五体を投じたまま体勢を崩した『十一時』に眼下に見下ろしながら、ヒュッと鋭く吸気。そして牙の林立する口腔を開いた時には、口の手前に六角形の方術陣が展開する。この中心へ向けて、ロイは(ガァ)ッ! と咆哮。方術陣を突き抜けた絶叫を伴う呼気は、細く、しかし威力を針の先端のように収束した強烈な熱線と化して、『十一時』の身体の中心へと吸い込まれてゆく。

 普段のロイならば、もっと広範囲に広がる竜息吹(ドラゴン・ブレス)を放っているところであるが、今回は勿論、装甲車のことを考慮して余分な衝撃が拡散しないよう、ただし敵には深手を与えるよう配慮してある。

 体勢を充分立て直していない『十一時』であるが、五体が動かなくとも、彼には迅速且つ精密に動き回る体外器官たる飛翔物体がある。今回も飛翔物体は瞬時にロイの攻撃に対応し、『十一時』の手前に10個1組の大きな円陣を組む。ロイの熱線の竜息吹(ドラゴン・ブレス)が到達する直前、円陣の中央には例のごとく電光色が灯った――転瞬、熱線は円陣より数十センチ奥へと進み、『十一時』の胸の一部を炭化させたものの…急激に運動を反転。一路、ロイを目掛けて跳ね返る。

 (おいっ、竜息吹(ドラゴン・ブレス)まで跳ね返しちまうのかよ、アレは!?

 どういう原理してんだ!?)

 ロイが頭上で疑問符を浮かべている間にも、跳ね返った竜息吹(ドラゴン・ブレス)がロイの顔面目掛けて接近してくる。ロイは今一度、ヒュッと鋭く吸気すると、今度は絶叫と共に氷雪の奔流を発射。熱線との中和を狙う。

 (ゴウ)ッ! トンネル内部を激震させる激しい爆音、そしても立ちこめる濛々(もうもう)たる水蒸気。特にロイの目前の水蒸気は濃く、視界が殆ど利かない状態だ。

 それでもロイは耳を澄まし、鼻をヒクつかせて、爆発の隙に体勢を立て直したと考えられる『十一時』の所在を探る。

 と、その時。ロイの眼前の水蒸気がポフッと掻き乱れたと思うと、その向こう側から鍵爪のようにとがった指先を持つ、重金属製の五指が現れる。器官を変質させた、『十一時』の腕だ!

 ガシッ! ロイが回避する間もなく、『十一時』の腕は彼の顔面を掴む。そのまま『十一時』は背部のバーニア推進機関を全開にして飛翔。ロイの顔面をトンネルの壁に思い切り叩きつける。

 ゴギンッ! 頭蓋骨の上げる痛々しい悲鳴が、トンネル内に響きわたる。

 『十一時』の暴虐は、ここで止まらない。ロイを壁に押しつけたまま『十一時』はバーニア推進機関を引き続き全開にして全身。ザリザリザリッ! とロイの顔面をトンネルの壁に引きずりながら、前を行く装甲車の方へと接近してゆく。

 「マズいッ!」

 車上の蒼治がロイを救出すべく、双銃を構えて『十一時』を狙う。だが…この時の蒼治は、どうしたことか、指や腕の筋肉がブルブルと震えて止まらない。謝ってロイを撃ってしまうことに対する不安による生理活動だと解釈することも出来るかもしれないが、蒼治自身は納得しない。なぜならば…。

 (なんだ…!? いつの間にか、僕の指や腕が、冷たくなってる…!

 これも、あの『十一時』とか云う癌様獣(キャンサー)の能力なのか…!?)

 そう考えている側から、蒼治の吐く息が…いや、彼だけではない、装甲車に搭乗している者達全員の息が白く染まり、後方へとたなびいてゆく。

 しかしこの時、この冷気の異変に不自由を感じたのは蒼治ぐらいなもの。他の者達は皆、固唾を飲んでロイと『十一時』の戦いに集中するばかりであった。

 さて、蒼治が狙いを定め(あぐ)ねているうちに、ロイを引きずった『十一時』はとうとう、装甲車の真横に到達する。

 『十一時』はロイを掴む腕に剛力を込めると、ロイを壁から引き剥がし、装甲車の方へと放り投げようと試みる。

 ――が、その試みが実行されるより早く、引きずられたままのロイが動く。大鎌のように鉤爪がギラリと閃く脚を思い切り動かし、自らの顔面を掴み上げる『十一時』の腕へと叩き込む。

 (ザン)ッ! 大気ごと切り裂いたような激しい切断音と共に、『十一時』の腕がちょうど腕間接を境にして両断。派手に電解質の体液を振り撒きながら、力を失った右腕がポイッと宙を舞う。

 自由を得たロイは、更なる加撃行動に出る。壁に対して逆立ちするような格好を取りつつ、残るもう一方の脚で『十一時』の腹部を強打。『十一時』は飛翔物体による防御をする間も取れずに直撃を食らい、腹部に痛々しい深々とした鉤爪の刺し痕を3つ得ながら、流星のごとき勢いで反対側の壁へと吹き飛んでゆく。

 「ップハァッ!」

 『十一時』を引き離したロイは、水を張った洗面器から顔を上げたように大きく呼吸すると、壁に接した両腕を弾くようにして跳び上がり、装甲車の人員収納スペースへと着地。大きく肩で息をしながら、『十一時』が吹き飛んだ方向へと吊り上げた視線を投じる。

 「ちょっと、"暴走君"よぉっ! こっち来られると、『十一時』(アノヤロー)がこっちに向かって来ちゃうじゃんかぁっ!」

 悲鳴のような非難の叫びを上げるレナに、ロイはニヤリと苦笑を浮かべて応じるが、一瞥をくれる余裕はなかった。何故ならば、吹き飛んだ『十一時』が砲弾のように激突地点から飛び上がると、背部バーニア推進機関を全開にして即座に装甲車に追いすがって来たからだ。彼の切断された右腕、および重傷を負った腹部は、早くも泡状の組織に覆われて再生を始めている。

 (高速再生に、ワケ分かンねー見えない攻撃…! そして、竜息吹(ドラゴン・ブレス)さえ跳ね返す防御力かよ…!

 なんて面倒な野郎だッ!)

 胸中で毒付きながらも、ロイの顔はギラリと輝くナイフのような笑みが浮かんでいる。

 (だけど、面白ぇっ!

 こっちを見下すばっかで油断しまくりの『士師』どもに比べりゃ、よっぽど面白ぇヤツだっ!)

 (むご)い擦過傷でボロボロになり、染みのようにジワリと噴き出す鮮血を右腕で拭い取りながら、ロイは両脚と両翼に力を入れ、『十一時』の迎撃への爆炎のごとき意欲を見せる。

 …しかし、ロイ個人は戦闘を楽しめるとは言え、装甲車の乗員のことを鑑みると、ロイの状況は笑みを浮かべられるような楽観的なものではない。むしろ、不可解な攻撃および防御に対する有効な対策を見いだせていない分、(いたずら)な試行錯誤に労力を費やしてしまう不利点の方が大きいと言える。

 それでもロイは、星撒部の掲げるスローガンの通り、絶望に抱えることなく根拠のない希望の躍動と共に、装甲車を飛び出そうとした。

 その時だ。素早く接近して来たノーラに、トン、と肩を叩かれたのは。

 「なんだよっ、ノーラ!」

 ロイは噛みつくような勢いで言葉を吐き出しながら、憤怒に燃える視線でノーラの方を振り向く。ノーラが、彼の行動を引き留めようとするかと考えたらしい。

 しかし、ノーラの表情を、輝きに満ちた美しい碧眼の双眸を見たロイは、その表情から怒りの炎をただちに消した。

 彼女の顔に浮かんでいたのは、気弱な心配の表情ではない。少し悪戯っぽい、強気に背中を押す笑み。

 「ロイ君、耳を貸して!

 あの癌様獣(キャンサー)の打開策、教えてあげる…!」

 そしてノーラは、ロイの耳元に桜色の唇を近づけ、柔らかな微風のような言葉を紡ぐ。

 鼓膜にくすぐったい(ささや)きを得たロイは、転瞬、雷光に打たれ、その力を得た魔神のごとく凄絶な嗤い浮かべた。

 「なぁるほどなっ!

 サンキューッ、ノーラ!

 そんじゃ…ッ! これまで散々やられた分、お返しして来らぁっ!」

 「うん…っ! ロイ君なら、絶対に負けないよ…!」

 ノーラの言葉に背を押されたロイは、烈風と言うよりも漆黒の光のごとき猛スピードで、『十一時』へ真っ正面から接近する。

 対する『十一時』は、急に活力に満ちたロイへ怪訝な表情を見せることもせず、冷淡な無表情を崩さない。そして、ロイごと装甲車を両断すべく、8つの飛翔物体を1列に並べた不可視の大剣を作り出し、天井から振り下ろす。

 ザリザリザリッ、とコンクリートを無惨な削り断つ耳障りな凶音が間近に接近して来るにも関わらず、ロイは嗤いを崩さず、防御態勢も取らずに『十一時』に接近する。

 ――いや、それどころか、自ら不可視の大剣の方へと飛び込んで行くのだ。

 と言っても、ロイは何も無防備に飛び込んで行くワケではない。ギリリと握り固めた竜拳を脇で引き絞っている。まるで、その拳で不可視の大剣を叩き折ろうとでも言うかのように。

 一見して無謀に見えるロイの行動あが…それを目にした『十一時』は、充血した左眼の瞳孔をギュッと収縮させた。動揺、とまでは行かないかもしれないが、明らかにロイの行動を警戒している。

 『十一時』の収縮した瞳孔が特に見つめているのは、ロイの握り締めた拳だ。その拳は、単に漆黒の竜鱗の鈍い輝きで彩られるだけではない。拳の周囲を電光色の(いびつ)な輪が幾重にも取り巻いている。

 ザリザリザリッ、という凶音がロイの直ぐ耳元でざわめき始める。不可視の斬撃を受けたロイの真紅の髪がジジジッ、と焦げたような音を立て――いや、実際に焦げて煙を上げている――ハラハラとその破片が舞い始めた頃。

 「ッラアァッ!」

 咆哮と共に、電光色の輪をまとった竜拳を、不可視の大剣の領域へと疾風の速度で叩きつける。

 転瞬、不可視の大剣に異変が起こる。バチバチバチッ、と盛大な静電気が爆ぜるような音と共に、ロイの拳の周りにチカチカとした火花が散る。すると、不可視の大剣の軌道が急激にへし曲がり、あらぬ方向へグニョリと反れたのだ。これではロイや装甲車を一直線に両断することは出来ない。

 「よっしゃぁっ!」

 自らの所業の成功に凄絶な歓喜の声を上げながら、ロイは拳を不可視の大剣の領域の中に潜り込ませたまま、『十一時』へと更に接近する。

 「…ッ!」

 『十一時』の冷淡な無表情に亀裂が入る。堅く結んでいた一文字の口の端を歪ませ、ギリリと噛みしめる牙を覗かせる。だが、激情に思考を支配されてはいない。素早く12個の飛翔物体を己の身体の前方に展開し、6つ一組の円陣を2つ縦列に並べて、ロイの拳をその内部に取り込もうとする。先刻やってみせたように、ロイの一撃を弾き飛ばすつもりだ。

 (でもなぁ、その手品のタネは、もう…ッ!)

 しかしロイは先刻の経験を気にせず、あろう事か自ら『十一時』の飛翔物体の二重の輪の中へと竜拳を突っ込む。

 この時、『十一時』の顔が交戦後初めて、明確な驚愕と怨嗟の表情に歪む。

 二重の輪の中をくぐったロイの拳は、バチバチバチッ! と酷い漏電の騒音を奏でながら、一気に『十一時』の胸元へと肉薄。その最中、一切の減速も運動の反転も見受けられない。

 ビキッ! ビキッ! 砂礫が()り潰れるような音を立てて、飛翔物体が1つ、2つと破裂してゆく。どうやらロイの拳撃が生み出す"何か"が、飛翔物体の内部機構の負荷限界を突破し、破壊を引き起こしているのだ。

 そして遂に、ロイの拳は『十一時』の不可視の楯を突き抜け、胸板を捉えた――!

 ゴキゴキッ! 硬度のある金属が軋む悲鳴は、『十一時』のチタン合金の脊椎が竜拳の剛力でへし曲がる音だ。そして『十一時』の身体は、"く"の字より更に深く…()で上がったエビのごとく大きくグルリと身体を丸めると、彼自身の身体が砲弾にでもなったように吹っ飛ぶ。

 「ッカハァッ!」

 呼吸器か、はたまた消化器か、そのいずれの器官から逆流した呼気を口腔から思い切り吐き出しつつ、逆流してきた内容物をぶちまけながら、『十一時』はトンネルの壁へと強かに叩きつけられる。その衝撃たるや、壁に大きなクレーター状の凹みが形成されるほどだ。

 そこまでやっておいても、ロイは決して攻撃の手を休めない。ヒュウゥッ、と深く、じっくりと大気を肺一杯に吸い込むと――牙のぎらつく口腔の手前に六角形の方術陣を展開。(ガア)ッ! と息吹を吐き出せば、方術陣を突き抜けた息吹は電光色の輪を幾重にも(まと)った、真夏の太陽のごとくギラつく輝線の奔流となって、トンネルの壁に沈む『十一時』へと驀進する。

 「…ッ!」

 『十一時』は噛み殺した叫びを上げつつ、迫り来る輝線の奔流を受け止めようとするかのように右腕を伸ばす。すると、伸ばした右腕の先に、飛翔物体の円陣が3つ縦列で展開。ロイの竜息吹(ドラゴンブレス)を阻み、押し返そうとする…が。

 バチンッ! バチンッ! バチンッ! 一気に3連続で発生する、風船が割れるような悲痛な音。その音が響くと共に、円陣の中心をロイの放った輝線がちっとも減速せずに堂々と通過。同時に、飛翔物体がまたもや何らかの外力を受けて負荷限界を超過してしまい、ボンッ! ボンッ! ボンッ! と小爆発を起こして破砕する。

 今や『十一時』の不可視の楯は、ロイを困惑させることも、手こずらせることも出来ない。塗れた和紙のごとく脆弱な敷居となってしまった。

 その現実を前に、『十一時』が憎らしげに充血した左眼を歪ませた、その直後。ロイの竜息吹(ドラゴンブレス)が彼の真っ正面に直撃する。

 (ゴウ)ッ! 抉れたトンネルの壁が更に沈み込み、破砕を拡大させる中、網膜を()くほどの(まばゆ)い光の爆発が発生。トンネルに激震が爆走し、盛大な亀裂が走ると共にパラパラとコンクリート片を(あられ)のように降らす。

 その盛大な光景を眼にしていた装甲車上の乗員たちは、唖然とするよりも畏怖を交えた驚愕に苦笑いを浮かべてしまう。

 「…うっわ、すっげぇ…」

 蘇芳がただ1人、シンプルな感想を咽喉(のど)から絞り出す。

 そのすぐ隣では、ロイに助言していたノーラが、"してやったり"と物語る得意げな表情を薄く浮かべて、()んでいる。

 

 先刻――。

 ノーラがロイに耳打ちした、『十一時』攻略の足がかり。その内容は、次の通りである。

 「あの癌様獣(ヒト)の技…あれは、魔化(エンチャント)された電磁場だよ…!」

 解析を得意とするノーラは、ロイの交戦中、『十一時』の性質および行動を形而上相からしっかりと、そして、緻密に情報を収集していた。その成果の一つが、『十一時』の扱う不可視の攻撃および防御の正体の判明である。

 『十一時』の尾部から射出される飛翔物体は、編隊を組むことで魔化(エンチャント)された電磁場を生成する。編隊を組んだ飛翔物体の近傍に発生する電光色は、電磁場の作用によって電離した大気が呈する発色である。

 不可視の槍および楯は、電磁場が発するローレンツ力による加撃および物体の押し戻し。不可視の大剣は、電磁場を魔化(エンチャント)された照射した地点の物体を異常荷電させて内部で強大な電流を引き起こし、その熱や運動エネルギーを用いた自壊の誘発である。

 これに対抗する方法は、至って単純だ。『十一時』の発する電磁場を減衰させる電磁場を、こちらも生成すればよい。

 ロイの拳や竜息吹(ドラゴンブレス)がまとった電光色の輪は、彼が急(ごしら)えした電磁場生成の魔化(エンチャント)である。

 そしてノーラの導き出した打開策は、見事に功を奏した。ロイの電磁場を纏った攻撃は、『十一時』の電磁場の楯を無効化し、強烈な直撃を与えたのである。

 

 凄絶に陥没した壁の中に埋もれた『十一時』は、重篤なダメージを受けていた。彼の腹部から下は、ロイの竜息吹(ドラゴンブレス)によってゴッソリと欠損し、焦げた金属筋繊維が痛々しく剥き出しになった断面からは、大量の電解質体液がダバダバと流れ出ている。

 癌様獣(キャンサー)がいかに強力な再生能力を持っていようと、これほどの大きな身体欠損を短時間に復旧することはできない。

 これが常人ならば、行動不能どころか、間違いなく再起不能であろう。

 しかし、『十一時』の眼光からは、戦意が全く失われていない。

 それどころか、充血した左眼が更に赤みを増して腫れ上がり、憎悪の業炎を灯す。

 泡状に再生を始めた半身をそのままに、『十一時』は盛大にひび割れたトンネルの壁にガリリッと指を突き立て、身を起こす。そして背部に内蔵されたバーニア推進機関を解放し、稼働具合を試すようにバフッ、バフッと短い噴射を繰り返す。

 『十一時』は、戦意を失っていない。

 確かに、彼の魔化(エンチャンテッド)電磁場を用いた攻撃および防御の絡繰(からく)りは露呈してしまった。しかし、それらの攻撃が完全に機能しなくなったワケではない。

 それに、『十一時』の武器は魔化(エンチャンテッド)電磁場だけではない。体内に内蔵された重火器をはじめとする数々の武装がある。そして、状況に応じて変質させることが出来る体組織がある。

 これだけの武器があれば、戦うには充分だ。

 ゴオォッ! 『十一時』がついに、背部バーニア推進機関を全開にして噴射。高速飛翔を開始する。凶をもたらす彗星のごとき勢いで一路目指すは、憎き仇敵たるロイだ。

 もはや、装甲車は二の次だ。まずは、脅威度の高い賢竜(ワイズ・ドラゴン)を打ち(たお)す!

 殺意を剥き出しにした『十一時』の顔は、凶獣のごとく凄絶に歪む。大きく開いた口腔の内側では、血肉に飢え、唾液が貪欲に糸引く牙がギラギラと輝いている。

 この凶悪な出で立ちを目にしたロイは、臆するどころか、顔に張り付けた嗤いをますます大きくする。

 (まだまだ、やる気満々ってか!

 そういう形振(なりふ)り構わねぇ姿勢、嫌いじゃないぜっ!)

 ロイは漆黒の竜翼をバサリッ、と力強く羽ばたくと、殺意の彗星と化した『十一時』へと一直線に接近する。

 

 一瞬の後、両者は再び中空で、激突する。

 

 (ゴウ)ッ! 激突と同時に発生した轟音は、ロイの魔化(エンチャント)された竜拳と、『十一時』の衝撃砲を搭載した拳とが打ち合った音だ。同時に、両者を中心にして球状に伝播した衝撃波がトンネルを大きく震わせ、壁や天井に細かなクラックを幾筋も走らせる。

 「のぉわっ!」

 衝撃波に晒され、大きく震えた装甲車の上では、誰ともなしに驚愕の叫びが上がる。

 そんな彼らの叫びなど、両者の爆発のごとき打撃の連続の前には、強風の前に一瞬にして吹き消された蝋燭(ろうそく)の灯火も同然だ。ロイは仲間が翻弄され、狼狽する姿を眼中に入れず、純粋とも言える殺意の塊と化した『十一時』の嵐のような攻撃への応戦にのみ集中する。

 ある時は中空で、ある時は壁や天井に激突しながら…繰り返される打撃、銃撃、竜息吹(ドラゴンブレス)の応酬。装甲車の後ろの様相は正に、暴発する積乱雲だ。

 「…"暴走君"じゃなくて、"爆発君"に改名するべきじゃないのか…」

 レナが頬をヒクつかせながら、苦々しく呟いていたが、その言葉はすぐに剛拳の激突音に掻き消された。

 

 ロイと『十一時』の戦闘は激化の一途を辿るものの、一時的にでも『十一時』の標的から解放された装甲車には、奇妙な平穏の時間が訪れていた。

 そして、この瞬間に至って初めて、乗員たちは気づいた。自分たちの吐く息が、真冬の深夜のごとく真っ白く染まっていることを。

 この場所がユーテリアならば、この状況に対して疑問が沸くことはなかっただろう。現在は2月、ユーテリアが位置する北半球では真冬なのだから。

 しかし、南半球に位置する在る下院テールでは、この時期は真夏である。魔法的な異常気象でも起こらない限り、大寒波が到来することなどあり得ない。そして今日この日の天気は、異常気象どころか、蒼天が遠く広がる穏やかな快晴だ。

 地下に潜ったことで気温が下がっている、という理由も考えられなくはない。しかし、この都市国家(アルカインテール)を知り尽くしている蘇芳やレッゾも、この光景には眉間に深い(しわ)を刻んでいる。

 何か、異様な事態が起こっている。

 そんな最中、(ゆかり)が我が身をギュッと抱きしめると、ブルブルと震えながら疑問を口にする。

 「ねぇ…さっきから、すごく寒いよね…? 軍警察の2人の様子からすると、このトンネルの仕様ってことは、なさそうなんだけど…」

 すると蘇芳が、ゴツい両手をすり合わせつつ、ハァーと息をかけながら言葉を出す。

 「この都市国家(まち)がこんなに寒くなるなんてこと…少なくともオレが生まれてから今までは、無かったぞ…。

 それに、トンネル内は温度を一定に保つように調整されてるから、寒くなるなんてあり得ねぇ…。

 一体、何が起こって…」

 

 蘇芳が言葉の続きを言い掛けた、その瞬間。急激な変化が、装甲車に発生する。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 その時、装甲車は丁度、Y字路に差し掛かっていた。

 とは言え、進行方向が分岐しているワケではない。地上からの道が1つの下り坂に合流しているのである。今、一同は地下の居住区を目指しているのだから、進むべき道は進行方向の下り坂一択である…はずだった。

 しかし、運転手のレッゾはブレーキングもそこそこに、急激にハンドルを切って急転回すると、地上へ続く上り坂の方へ向かったのだ。

 ギュギュギュギュッ! とタイヤが激しく磨耗する音が響き、装甲車は暴力的な慣性に(さら)されて、乗員たちは危うく車内から放り出されそうになる。いや実際、立ったままロイ達の交戦を見守っていたノーラは身体が浮いてしまい、そのままトンネルの壁へと吹き飛ぶところであった。それを止めてくれたのが、蘇芳と蒼治の男二人掛かりである。

 「ありがとうございます、蘇芳さん、蒼治先輩…」

 なんとか人員収納スペースに踏み留まったノーラが、ペコリと頭を下げて感謝の意を告げる。対して蒼治が"気にするな"と言わんばかりに両手をヒラヒラさせる一方で、蘇芳はノーラの様子の確認もそこそこに、ヒビ割れた(いわお)のような激怒の表情を浮かべながら、レッゾに振り向いて怒鳴りつける。

 「何やってンだよ、ポンコツ運転手ッ!

 道が違うだろ! 下だよっ、オレ達が向かってンのは、下ッ!」

 人差し指で下方向を差しながら叫ぶ、蘇芳。それを黙って聞いていたルッゾは、焦燥の冷や汗をビッシリと額に浮かべながら、唾棄するように返事する。

 「ああっ、分かってるっ! やってる"つもり"なんだよっ!

 つもりなんだが…くそっ! 身体が、言う事を聞かねぇっ! "取り()かれ"ちまったっ!」

 "取り憑かれた"――その言葉を耳にした途端、蘇芳の表情から激怒の炎が一瞬にして消えた。そして、入れ替わるようにして現れた次なる表情は――燃え盛る激怒とは真逆の、凍り付くような怯懦。

 「おい…取り憑かれたって、まさか…っ!」

 蘇芳は素早く運転席に身を乗り出し、アクセルを目一杯踏んで加速し続けるルッゾの身体へと視線を見やると…その表情が、更に青味を帯びる。

 冷や汗をブッ垂らしながら、ギリギリと歯を食いしばり、両腕に血管が浮き上がるほど力入れている、ルッゾ。彼の努力とは裏腹に、岩石のごとく微動だにせず、ハンドルを真っ直ぐに保ち続ける両腕のうちの、左側…そこに、生理的な恐怖を喚起する不気味な存在が浮かび上がっている。ゴツゴツとして黒々としているルッゾの無骨な左の上に、まるで恋人に寄り添うかのように重なる、真っ白い左手が見える。その白さは、ホルマリン溶液に浸かってふやけた生物模型のような、全く生気を感じない気味の悪い白さだ。その中で唯一、彩りを添えているのは五指の先端、爪である。それは一つ残らず、覚めるような青一色で塗りつぶされている。

 白い手は、手首から先が(もや)のように霞み、宙に消えている。非常に曖昧な消滅境界をよくよく見やると、ヌラリとしたビニール質の光沢を持つ黒い衣装の袖がチラリと見える。手の主はそれなりに派手なファッションを身に纏っていることが想像されるが、肝心の本体は蘇芳の視界には全く映らない。

 しかし、蘇芳の脳裏には、この手の主の姿がまざまざと浮かび上がっていた。と言うのは…彼は、この手の主のことを、よく知っているからだ。

 「おいっ、レナ! いや、他の学生さん達でも良いっ!」

 蘇芳は疾風のように身体をひねって振り向くと、その烈しい勢いのまま言葉を飛ばす。

 「誰か、呪詛に詳しい奴、いないかっ! すぐに、レッゾの奴を浄化してやってくれっ!

 このままじゃ…」

 言い掛けた、その瞬間。装甲車を全体を包む、ゾワリと皮膚を粟立てる悪寒。同時に、蘇芳は――いや、彼だけでなく、装甲車上に居るほぼ全ての乗員が、頭蓋内で脳を激しく揺さぶられたような強烈な目眩(めまい)と嘔吐感に駆られる。

 「ぐっ…な、なんだ…これは…っ」

 蒼治はこみ上げる胃の内容物を押し留めようと口元に手を置きながら、口の中に広がる苦く酸っぱい味と共に苦しげに声を上げ、膝を付く。

 「ちょっ…疲れ切った身に、これ…キツすぎ…おぇっ…」

 紫は顔を真っ青にして俯くと、己を鼓舞しようと精一杯揶揄を込めた呟きの語尾でついに耐えきれなくなり、少量ながら胃の内容物を吐き戻してしまった。

 「ゲホゲホッ…やっべぇ…まさか、この強烈な神経介入は…っ!」

 レナが吐き戻しそうな咳を繰り返しながら、何かに思い当たったらしく声をあげようとしたが、「うぉえっ!」と酷い咳を上げながら、素早く口元に手のひらを当てる。男勝りなほどに気丈だった彼女の顔は今や、弱り果てた病人のような苦渋の表情をしている。

 この散々たる状況の中、たった1人だけ、比較的平然と立ち尽くしている者がいる。ノーラである。しかし彼女も、何もせずに平静を保っているワケではない。彼女の身体の輪郭には、淡い蛍光色を呈した魔術励起光が灯っている。彼女は素早い身体魔化(フィジカル・エンチャント)によって、三半規管を中心とした神経系統の外的介入を阻止したのだ。

 (これって…強力な、"怨場"だ…!)

 ノーラは装甲車が悪寒に包まれた直後、自分たちを襲った事象の正体を瞬時に理解していた。彼らは、言わば、"呪われた"のである。

 今、装甲車を包む悪寒を作り出しているのは、"怨場"と呼ばれる魔法科学的ゲージ場の一種である。電磁場と非常によく似た性質を持つ力場であり、実際に電流や磁束を発生させる性質も持つが、電磁場との明確な相違点は魂魄との相互作用を持つ点にある。すなわち、非生命物質よりも生命体に対してより強力に作用し、形而下においては生体電磁場に対して『狂化』と呼ばれる異常を引き起こす。その結果、生物は体温の低下や激しい嘔吐感といった不快な現象に曝されることとなる。

 この怨場を発生源として有名なもの。それは、存在定義の大半を形而上相に依存し、魂魄に対して容易にアクセスできる存在――すなわち、死後生命(アンデッド)達である。

 そして、ルッゾの左腕に重なる、真っ白い手。それは明らかに、手の主が幽霊(ゴースト)の類の種族であることを示している。

 更に言えば、このアルカインテールで、軍警察であるルッゾ達に危害を加えてくる死後生命(アンデッド)となれば、思い当たるのは1つしかない。先刻、蘇芳が言及していた戦争荷担勢力の一派である、『冥骸』だ。

 (この車の近くに、『冥骸』の一員がいる…! それも、怨場の強度から見て、相当の実力者…!)

 ノーラは脳裏でそう分析はするものの、直ちに怨場の発生主を探すような真似はしない。確かに、発生主を撃破すれば怨場の発生は停止するだろうが、撃破までにどれほどの時間を費やすことになるか、見当が付かない。…それほどに、敵は厄介な相手だ。

 そこでノーラはひとまず、怨場の影響を緩和すべく、装甲車に中心とした浄化方術陣の展開を試みようと、意識を集中し始めたのだが…。

 ノーラの行動開始とほぼ同時に、装甲車上に漆黒の煙が幾つも出現する。気配を伴うそれらは、トンネルの天井まで達することなくモコモコと幾つかの塊にまとまると…人型の形状を取った。のっぺりとした漆黒一色で塗りつぶされた、軍服を着込んだらしき10余りの存在の正体は…影様霊(シャドウ・ピープル)だ! その手には、銃剣を差した単発式の長銃を携えている。

 「嘘…! なんで、こんなとこに影様霊(シャドウ・ピープル)がでるワケ…!?

 こんなに、明るい所なのに…!?」

 相変わらず口元に手を当てながら、えずくようにして紫が驚きの声を上げる。

 彼女が驚くのも無理はない。影様霊(シャドウ・ピープル)は通常、影に依存して生活する存在である。しかし、このトンネル内は照明が多く、影は正午の時間帯の外界ほどの小さく、延びるほどの大きさもない。しかし、装甲車上に現れた影様霊(シャドウ・ピープル)どもは、光溢れる床にしっかりと両足をつけて、堂々たる臨戦態勢を整えている!

 この異様な状況が成立するということは、この場に影と同様の定義が形而上相上に存在することを意味する。それを可能にするものの一つが、正に怨場なのであるが、10を越える数の影様霊(シャドウ・ピープル)を固着させるほどの強さとなると、電磁場で例えるならば大気分子を電離させるほどの強度に等しい。

 ルッゾの手を掴み、彼の生体電流を支配して身体を操作する『冥骸』の戦闘員の実力たるや、正に恐るべし、だ!

 装甲車上には、更にもう1つ、人型の存在が床下からズズゥ…と粘りけの強いマグマのようにせり上がってくる。初めこそ、影様霊(シャドウ・ピープル)と同様に漆黒一色を呈する不定形であったそれは、やがて人型の形を取ると共に、色彩を(まと)って具現化する。

 こうして現れた、新たなる『冥骸』の戦士とは…くすんだ赤い色に染まった、所々に破損が目立つ武士の鎧兜を着込んだ、背丈の高い男…のようだ。

 "ようだ"と表現したのは、この戦士の顔や体格から性別が判断できないからだ。何故ならば、鎧兜の合間から垣間見えるこいつの身体は、皮膚も筋肉も内臓も全く(まと)わぬ、風化してやや褐色掛かった色合いを見せる骸骨であったからだ。単なる屍と異なるのは、眼窩の奥にゆらめく青白い光が瞳孔のように存在することと、骨と骨の合間には椎間板や筋といった緩衝組織の代わりに、眼窩の輝きと同じ色の炎が詰まっていることだ。

 「ハァイヤァッ!」

 骸骨武士は舌も頬もない口を開き、野太い中年男性的な声を上げると、両手に掴んだ長槍をグルリと振りかざし、手近にいた蒼治へ突き刺す。

 「なっ…このっ!」

 未だ嘔吐感に苛まれ続けている蒼治は、手にした双銃を胸元で交差させ、突き出された槍先を受け止める。ガキィンッ! と堅く力強い衝突音が響いた直後、体調不良の蒼治の腕は槍の一撃によって跳ね上げられてしまい、且つ、全身を巡る痺れのような衝撃に体勢が崩れる。骸骨武士は一切の筋肉を持たぬというのに、凄まじい剛力の持ち主のようだ。

 「エイッ!」

 骸骨武士が、流れるように動く。疾風の勢いで槍を引き戻しつつ、防御が崩れた蒼治の方向へ、ダンッ! と云う激しい音を立てながら踏み込む。そして、がら空きの胸にもう一度、槍先を繰り出す。

 この有様を見送っていたレナや紫が、一瞬後に訪れるであろう惨劇を予測して、ゾワリと皮膚を粟立てる。

 しかし、彼女らの悪夢は、現実のものとはならなかった。

 ガギィンッ! 激しく金属が打ち合う音が響き、骸骨武者の槍がビリビリと打ち震えながら停止する。この防御を見事成し遂げたのは、蒼治の前に素早く立ち塞がった、ノーラだ。愛用の黄金の大剣の腹で、槍先をしっかりと受け止めている。

 大丈夫ですか? とノーラが背後の蒼治に気遣いの言葉をかけようと口を開きかけた、その時。

 「小癪なッ! 者共、やれぃっ!」

 骸骨武士が稲妻のごとく声を上げる。転瞬、装甲車上の全ての影様霊(シャドウ・ピープル)たちが一斉にガサガサと動き始める。銃剣を振り回し、弱った蒼治に、紫に、レナに、蘇芳に、襲いかかり出したのだ。

 「ンもうッ! こっちが弱ってるからって、いい気になってぇっ!」

 燃え盛らんばかりの怒気をはらんで叫んだのは、疲労と嘔吐感の二重災厄に苛まれている紫だ。彼女は素早く右腕だけに魔装(イクウィップメント)を発現させると、籠手状の装甲に内蔵された電極を解放。バチバチと青白い電光を放つそれを、握り締めた拳と共に思い切り装甲車の床に叩きつける。

 「ヘナチョコ影ども、さっさと失せろぉっ!」

 叫びと共に、電極から(まばゆ)い青白色の輝きの爆発が発生する。先刻、ビル内部で影様霊(シャドウ・ピープル)どもに襲われた際に用いた、電磁場による攻撃だ。

 「ヌゥッ!」

 骸骨武士が眩しげに両の眼窩を籠手で覆われた腕を覆う。その一方で、輝きに曝された影様霊(シャドウ・ピープル)どもも()け反ったり自らの身体を掻き抱いたりと、激しい反応を見せる。

 紫の攻撃は、確かに、一定の成果を上げた。影様霊(シャドウ・ピープル)どもは先刻と同様、体表に水(ぶく)れのような()れを幾つも得ると、痛々しくもがいて苦しんだ。その有様に、紫は痛快そうにニヤリとほくそ笑んだのだが…。

 直後、彼女の笑みが凍り付く。

 ゾワッ…! 装甲車を包み込む、さざ波のような不快感の衝撃。それは、強烈な怨場による波動が走り抜けたことによる知覚現象である。

 「うぐぅっ!」

 紫は、天地が逆さにグルリと回転したかのような酷い目眩(めまい)と共に、食道の入り口まで一気にこみ上げてきた吐瀉物に苛まれ、口元をしっかりと押さえてうずくまる。

 苦悶を得たのは、紫だけではない。影様霊(シャドウ・ピープル)達に睨みをきかせていた蒼治とレナも、顔を真っ青にして思わずその場に膝を吐く。彼らの口の中にも、苦くて酸っぱい不快な味が一杯に広がっている。

 運転席のレッゾに至っては、不快感に耐えきれず、ハンドルへと盛大に吐瀉物を吐き戻してしまったくらいだ。しかし、不気味な白い左手に身体を操作されている彼は、不快感で意識が混濁しかけようとも、脚はしっかりとアクセルを踏み続け、キビキビとハンドルを切っている。

 怨場の波動の影響を比較的逃れたのは、予め身体魔化(フィジカル・エンチャント)で防御を整えたいたノーラと、そして意外なことに蘇芳である。蘇芳は身体魔化(フィジカル・エンチャント)こそ使用してはいないものの、怨場による波動で自立神経が狂化した瞬間に、上着の胸ポケットに忍ばせていた錠剤を口に含み、噛み砕いたのだ。この錠剤は神経電流を正常にする霊薬(エリクサ)である。それでも怨場の影響を完全に免れることはできず、軽い船酔いのような感覚に襲われている。

 さて、この怨場の波動が駆け抜けた直後、紫が得た驚愕は己の身体の異変に関するものだけではない。影様霊(シャドウ・ピープル)達の身体に起こった変化もまた、彼女の目を丸く見開かせた。何せ、相反する電磁場によって重度の火傷にも似た症状を受けた影様霊達(かれら)の身体が、高速で逆再生するかのようにあっと言う間に快癒してしまったのだから。

 影様霊(シャドウ・ピープル)達は何事も無かったように即座に体勢を立て直すと、銃剣を鋭く振りかざして紫に、蒼治に、レナに、容赦なく襲いかかる。

 「く…そぉ…っ!」

 症状が一番重篤な紫は、相変わらず口元を押さえながら、倒れ込むようにしてグルリと身体を回転させ、3人の影様霊(シャドウ・ピープル)の斬撃からなんとか逃れる。しかし、目眩のような不快感を得た最中に回転運動をしたものだから、彼女はますます強烈な嘔吐感に苛まれてしまう。腿をペタンと床に着けたまま、ガックリとうなだれたまま、動けなくなってしまった。

 この致命的な隙を影様霊(シャドウ・ピープル)達は見逃さない。空振った銃剣を巧みに(ひるがえ)すと、素早く踏み込みながら紫の身体へと突き立てに向かう。3つの漆黒の凶刃が、ヒュッと禍々しい風切り音を立てて、紫の柔らかな肉へと接近する。

 ノロノロとした動かした視線で、凶刃を見送ることしか出来ない紫が、非業の最期を終えるかと思われた、その瞬間。

 ガガガガッ! 鼓膜をつんざく連続射撃音が響いたかと思うと、カキュン! カキュン! カキュン! と鋼の悲鳴が上がり、影様霊(シャドウ・ピープル)の銃剣があらぬ方向へと大きく逸れる。

 何事かと慌てた影様霊(シャドウ・ピープル)が、掃射音の発生源へと無貌の視線を向けると。そこには、顔面を蒼白にしながらも気丈に双銃を構える、蒼治の姿がある。

 加えて、彼のすぐ隣では…。

 「とぉりゃっ! うざってーンだよ、この影野郎どもっ!」

 同じ顔面を蒼白に染めながらも、何処から取り出したのか丈の長い刀を振り回して闘犬のように威嚇する、レナの姿がある。

 「相川っ! こっちに来れるかっ!? 僕がサポートするから、ゆっくりで良い、こっちに来いっ!」

 蒼治はそう叫ぶが早いか、早くも紫および蒼治に向かって銃剣を構えた影様霊(シャドウ・ピープル)に銃弾を浴びせ、牽制する。彼の術式銃弾は、対霊体用にカスタマイズしたものらしく、銃剣のみならず影のような身体に着弾しても、彼らの身体に大きな衝撃を与えて体勢を崩させている。しかし残念ながら、霊体の定義構造そのものを撃破するには至らない。

 とは言え、完全な撃破に至らなかろうが、紫にとっての貴重な逃走の機会が生まれたことは事実だ。四つん這いになってノロノロ、ズルズルと這いずって、蒼治やレナが居る方へと確実に逃れてゆくのであった。

 

 一方、ノーラは骸骨武士との交戦を続けていた。

 「エイヤァッ!」

 稲妻のごとき激しいかけ声と共に、強大な槍を渦潮のようにグルグルと操りながら、流れるような動作で薙ぎ払い、突き、そして叩きつけてくる。

 対するノーラは、フゥッ、と小さく呼吸する音を立てる以外は、至って無言で対応している。愛剣には特に定義変換(コンヴァージョン)を作用させず、デフォルト状態とも言える美麗な装飾のついた金色の投身を華麗に振り回し、重く鋭い槍の一撃一撃を受け止めてはいなす。

 ノーラは骸骨武士とは異なり、殆ど攻撃に転じることをせず、もっぱら防戦一方である。それは骸骨武士の攻めが反撃の隙を与えぬほどに激しいから、と言うワケではない。ノーラのお家芸とも言える、戦闘を通じた敵の性質分析に集中しているためだ。

 (この場を支配してる怨場の発生源は…どうやら、この死後生命(ヒト)じゃないみたい…。

 怨場の発生源を叩きたいところだけど…このこの死後生命(ヒト)を放っておくと、蒼治先輩たちの状況が苦しくなる…!)

 この骸骨武士は、影様霊(シャドウ・ピープル)に比べて格段の実力を有している。それは、ノーラが形而上相を通して認識した骸骨武士(かれ)の魔力の大きさや、長槍を軽々と振り回す体裁きからも容易に知れる。体調不良な蒼治達が相手をするには、かなり厳しいだろうと、ノーラは判断していた。

 「防いでばかりかっ、女子(おなご)!」

 ノーラの防戦の意図を介さぬ骸骨武士は、舌があれば大きな舌打ちでもするような苛立った声を上げる。

 「やはり女子(おなご)女子(おなご)じゃなっ! いくら時代が移ろおうとも、力無き事は変わらぬなっ!

 つまらぬ相手じゃっ、速やかに葬り去るべしっ!」

 長槍をグルングルンと身の回りで振り回しながら、饒舌に豪語する骸骨武士。その間接をつなぐ青い炎がゴォッと音を立てて大きく燃え上がると、骸骨武士の鎧兜は溶け込むように炎と同化する。今、骸骨武士は血肉の代わりに炎を全身に纏った姿へ成り果てる。炎は長槍にも伝わり、ビンと直立していた柄がクニャリと湾曲すると、先端の槍先を残した炎の鞭と化す。

 「ハァイヤァァァッ!」

 骸骨武士は歯が剥き出しの口を大きく開いて叫びながら、炎の鞭をビュンビュンと大きく振るう。その勢いで発生した烈風もまた、青い炎をまとって周囲に焦熱をばらまく。誘発する炎も交えた炎の鞭は今や、線ではなく(いびつ)な球状の面となる。

 炎の輝きが華やかなほどに派手な攻撃の演出であるが、ノーラは目を白黒させることもなく、落ち着いて愛剣を構えたまま、骸骨武士と対峙する。そして、彼の一挙一動を形而上相から分析し、着実に彼の性質を脳裏で(あば)き出してゆく。

 (この死後生命(ヒト)骨霊(スケルトン)かと思ったけど、違う…。骨格部分は確かに物質だけど、あれを叩き折っても、この死後生命(ヒト)のダメージにはならない…。

 そうか…この死後生命(ヒト)、自我が芽生えるほどの強力な残留思念を持った、地縛霊だ…! 多分、大昔に城攻めにあって、炎に撒かれて命を落としてる…)

 そこまで分析してから、ノーラは少し小首を傾げる。相手が"地縛霊"であるという事実に、違和感を感じたからだ。

 "地縛霊"は霊体生命の中でも、自我を持ちやすい種族であるが、存在定義を特定の土地や物体に強力に依存するという弱点的性質も持ち合わせている。彼らは依存土地・物体から遠く離れて活動できない、というのは通説であるのだが…。この骸骨武士に関して言えば、一見して、彼の存在依存対象である土地および物体が見当たらない。

 (怨場を発生させている"誰か"が、この死後生命(ヒト)の存在定義の確立に助力しているんだろうけど…。

 そんな事が出来る死後生命(アンデッド)なんて…どれだけの魔力を有してるって言うの…!?)

 目の前の骸骨武士よりも、目に見えぬ怨場の発生主への危機感を強める、ノーラ。

 その移り気を覚ったようだ、骸骨武士はこめかみの骨に青筋を立てんばかりの怒声を上げる。

 「わしを目の前にして興を殺ぐとはっ! このわしを愚弄するか、小娘がっ!」

 怒り心頭になった骸骨武士の眼窩がギュッと険悪につり上がり、額には小指ほどの長さの角が1対、ニュウッと飛び出す。表情筋は無くとも、頭蓋骨を形成している霊体を巧みに操作することで、ある程度の表情を形作れるようだ。

 激しい表情と連動して、鞭と化した長槍を振るう腕の動きもまた、一段と激しくなる。正に竜巻を連想させる動きを見せたかと思えば、バシンッ! と装甲車の床を鞭身で強かに打つ。転瞬、骸骨武士の周囲を囲っていた半球状の炎流が解け、コウモリの群のように四方八方へとザワザワと飛び散る。こうして大気を(あぶ)って風景に歪みを生じさせる焦熱を振り撒く一方で、床に叩きつけた鞭身を激しくも器用に操り、獲物へ迅速に襲いかかる大蛇の動きでノーラの下半身を狙う。

 骸骨武士のこの攻撃を目の前にして、ノーラは回避に転じるどころか果敢に前進しつつ、愛剣に対してようやく定義変換(コンヴァージョン)を発動させる。パネルがめくれあがるような動きで刀身の所々が回転しながら、体積と形状を急変させた挙げ句に、愛剣が成した新たな姿とは…カタツムリの群が密集したかのような曲がりくねったパイプが集まった、奇妙な大剣である。パイプの先端からゴウゴウと音を立てて勢い良く噴き出しているのは…水、ではなく、なんと真紅に輝く炎である。

 ノーラはこの奇妙な大剣を無駄のない洗練された動きで振るい、迫り来るコウモリの如き炎波を斬り払った後に、装甲車の床へ刺突。鎌首をもたげるようにして槍先を上げ、ノーラの腹部へと迫っていた炎の鞭を叩き払う。

 「むぅっ!」

 骸骨武士が、感心と焦燥を交えた声を上げる。ノーラが叩き払った鞭は、見た目以上に大きな衝撃を受けて派手に吹き飛びながら、纏っていた炎の大半を消火されてしまう。

 骸骨武士は、まさか自らの炎が別の炎によって打ち消されるとは、夢にも思っていなかったらしい。

 この好機を見逃さず、ノーラは素早く床から剣先を引き抜くと、クルリと転身しながら骸骨武士へと肉薄。大きな横振りの斬撃を放ち、骸骨武士の胸部を狙う。

 「なんのぉっ!」

 骸骨武士は鋭い息吹と共に声を上げながら、あらぬ方向へ逸れた鞭を引き戻しつつ、素早く後退する。しかし、ノーラの剣は刀身のパイプから一斉に大きな火柱を噴射。ギラつく真紅は、青い炎に包まれた肋骨を(あぶ)る。

 その直後…。

 「んぐあぁっ!」

 骸骨武士が、顎間接が外れるほどに大口を上げて絶叫した。ノーラの愛剣から噴射された炎に炙られた肋骨が、ビキビキと細かくひび割れたかと思うと、細かい砂礫状の粒子へと分解して中空へ流れ出し消えていったのだ。この現象は、物質として骨組織が破壊されたことを意味するものではない。地縛霊たる彼の体は霊体で構成されているゆえ、胸部を定義している霊体の術式の定義が崩壊してしまったことを意味する。

 ノーラの炎を纏った攻撃は、炎の霊体である骸骨武士に対して、的確にして抜群の効果を上げたのだ。

 

 実は地縛霊は、自らが得意として操る要素を、存在定義の弱点としている場合が多々ある。この矛盾した事情は、地縛霊の発生プロセスに起因している。

 地縛霊とは、非業の死への強烈な拒絶反応を拠り所として、死すべき魂魄が再定義されて生まれた生命体である。これゆえに、彼らは非業の死の要因となった事象を忌み嫌いながらも、生まれながらにしても最もよく慣れ親しんでいるという、奇妙な構図が生まれる。

 例えば、海で溺死した者から発生した地縛霊は、文字通り嫌と言うほど海水を経験している。そのため、彼の魂魄は形而下相・形而上相問わず海水の情報に精通することになる。ゆえに、彼は海水に関する魔法現象を操作するのに長けることになる。一方で、彼を一度死に至らしめた海水は、彼の魂魄に深い心傷(トラウマ)を刻んでいる。そのため、自身の手が及ばない海水に対しては全く安心できず、魂魄の構造が不安定化してしまう…といった具合だ。

 ノーラが相対している骸骨武士は、火災による焼死を悔やんで地縛霊化したものだ。ゆえに炎の扱いに長けながらも、炎が存在定義を脅かすほどの弱点となっているのである。

 

 「おのれっ! 小娘ごときが、武士(もののふ)たるわしに…っ!」

 悔恨と憎悪の恨み言を口にしながら、体勢を立て直そうとする骸骨武士。対してノーラは、一言の無駄口も発することなく、厳しく引き続いての攻勢に出る。身を低くしながら、ダンッ! と床を蹴りつけて骸骨武士に負いすがり、炎を纏った奇剣を烈風の勢いで突き出す。

 「おお…っ!」

 骸骨武士は恨み言の続きを驚きの声で塗り潰しながら、腰椎に甘んじて刺突を受ける…と思いきや。彼の顎骨がニヤリと歪み、"してやったり"といった表情を作る。同時に、腰椎のほぼ中央が上下に分離すると、ノーラの剣撃は空しく虚空を突き出すだけとなる。

 肉体を持たぬ霊体が具現化した存在である骸骨武士は、通常の形而下生物のような肉体の制約を受けることなく、身体の脱着すらも自在に操ることが出来る。

 「バカめがっ、わしとお前では戦いの年季が断然違うわっ!」

 分離し、宙を舞う骸骨武士の上半身で、頭蓋骨がケタケタと笑う。その一方で、炎を失った鞭を引き戻して元の長槍へと変化させると、思い切り上段に振りかぶり、

 「カァッ!」

 気合いと共に、ノーラの頭上めがけて一気に振り下ろす。

 しかし、素早い反射速度で骸骨武士へと視線を上げたノーラの顔は、一片の驚愕も恐慌に浮かんでおらず、凪いだ海原のように静かだ。そして怜悧(れいり)に長槍の動きを見切りながら、突き出した大剣を振り上げて骸骨武士の上半身を狙う。

 その最中、骸骨武士が更なる攻めの一手を投じる。分離した下半身がモゾリと動いて丸く固まると、獲物に飛びかかるトラの如き獰猛さでノーラへ襲撃をかけたのだ。

 ノーラの意識が頭上に集中している今こそ、下方への意識が(おろそ)かになっているだろうと判断しての奇襲だ。

 しかし、ノーラは"霧の優等生"と賞されるだけの機転と慎重さを持ち合わせる人物である。視界の端でしっかりと骸骨武士の下半身の動きを察知すると、脚部に身体魔化(フィジカル・エンチャント)を発動。襲いかかる炎塊を、文字通り一蹴する腹積もりだ。

 だが…ノーラが機転を効かせて対応するまでもなく、骸骨武士の奇襲は立ち消える。

 それを実現したのは、炎塊の横合いから猛獣のごとく突っ込んで来た、蘇芳だ。

 「(セイ)ッ!」

 炎塊に肉薄した蘇芳は呼気一閃、突進の脚を止めたかと思うと、その勢いを右腕に乗せて、回転を効かせた掌底を突き出す。同時に、突き出された腕は旋風を引き起こす魔力を(まと)うと、炎塊にインパクトした瞬間、ドンッ! と純白に輝く光の小爆発を引き起こす。

 「ぐあっはぁっ!」

 分離していた下半身を爆発と共に吹き飛んだと同時に、骸骨武士の浮遊する上半身も大槌に思い切りブッ叩かれたように縦回転しながら吹き飛び、トンネルの壁に激突する。

 「フゥ…」

 掌底を突きだした蘇芳は、ゆっくりと息を吐きながら、舞い踊るようにユルリと手足を回しながら体勢を立て直し、ダンッ! と云う激しい足踏みと共に構えを取る。その途端、彼の身体からビュウゥッ! と吹雪のような魔力の波動が吹き出し、ノーラの薄紫の髪を掻き乱した。

 蘇芳が使った、骸骨武士を吹き飛ばした攻撃および構えの動作――それは、"練気"と呼ばれる身体動作を使った魔力錬成技術である。この技術で以て構築された魔力は特に"気力"と呼ばれ、形而下から魂魄に対して直接作用することが可能だ。これ故に、形而下では分離していた骸骨武士も、魂魄に直接打撃を叩き込まれたために、形而上相では密接な位置関係にある上半身も吹き飛んだのである。

 「大丈夫かい、大剣女子ちゃん!」

 ノーラの眼前で力強く身構える蘇芳は、チラリとノーラにウインクを伴った視線を投げる。これに対してノーラは、キョトンと拍子抜けした間抜けな表情で、ぼんやりと首を縦に振る。

 相対していた骸骨武士は、影様霊(シャドウ・ピープル)に比べれば段違いの実力を有するが、怨場の影響をうまくかいくぐったノーラにしてみれば、恐るべき強敵と言うほどの相手ではなかった。特に苦戦を強いられているワケでも無いところへ加勢が来たものだから、とっさに喜びがこみ上げるワケでもなく、どう反応して良いか戸惑ってしまったのだ。

 だが、ノーラが蘇芳に感謝の念を抱かなかったのは、正解の反応と言える。何故ならば、蘇芳はノーラを助ける意図で戦闘に介入したワケではなかったのだから。先に彼女にかけた"大丈夫かい"という言葉も、骸骨武士を相手したことへの気遣いというワケではなく、単にノーラの状態が万全であるかを確かめる意味が強い。

 戸惑えるほどの余裕のあるノーラの様子を見た蘇芳は、満足げに首を縦に振ると、続けてこう語る。

 「怨場の影響がないようなら、一つ頼まれてくれないか? 代わり、あの"じいさん"の相手はオレがやるからさ」

 蘇芳の言う所の"じいさん"とは、骸骨武士のことである。確かに彼は、年老いてなお盛んな老雄の声音を持っていた。

 「見ている限り、君は相当の実力の持ち主だ。その腕を見込んで、あの"お姫様"の相手を…この怨場の作り手の相手をしてほしい」

 語り口からして、蘇芳はこの怨場の作り手のことを見知っているようだ。"お姫様"と呼ぶからには、その死後生命(アンデッド)は女性らしい。…そういえば、ルッゾの腕に重なっていた白い手は、女性のそれであった。

 「このままじゃ、車は地上に引きずり出されちまうし、君の仲間もレナも力尽きちまう。

 怨場さえ無くしちまえば、『冥骸』の兵力は存在を維持できなくなって、すぐに撤退するはずだ、だから…」

 蘇芳が頼みの言葉を重ねるよりも早く、ノーラは表情をキュッと引き締めると、素早くコクンと首を縦に振って了承する。直後、愛剣の定義変換(コンヴァージョン)を解除し、魔力を怨場の解析へと集中させながら、その場から駆け出す。

 そこへ…!

 「カアァッ! 何処へ行くかっ、アバズレがッ!」

 吹き飛んだ骸骨武士が上下半身を合体させ、巨大な炎の塊となってトンネルの壁から飛び出し、ノーラへと突撃してくる。

 ノーラはそれをほんの一瞬だけ、横目でチラリと見やったが、身構えることなく駆け続ける。このそっけない対応に、骸骨武士は更に怒りを(たぎ)らせると、再び長槍に青い炎を纏わせて鞭と化して振り回す。

 再びバラ撒かられる、コウモリの群の如き炎の飛沫。そして、その合間を稲妻のように迅速なジグザグ動作で駆け抜ける、炎の鞭。その槍先が、凶暴な炎の輝きを受けて禍々しくギラリと輝く。

 見る見るうちにノーラの背中へと肉薄する槍先だが…それが少女の柔肌に食い込むことは、なかった。

 槍先の前には、鋼のごとき肉体を持つ蘇芳が疾風のように現れると、練気によって堅固な気力を(まと)った腕で裏拳を繰り出すと、岩のように固めた手の甲で槍先をガキンッと跳ね返したのだ。

 蘇芳の助力を気配で感じたノーラはチラリと視線を走らせて、目の動きで感謝の意を表するが、蘇芳はそんな彼女のことを見てはいない。東洋武術的な独特の構えを取って、骸骨武士に全神経を傾けている。

 「あんたの相手はオレが勤めるぜ、涼月(りょうげつ)のじいさんよぉ!」

 …そう、この骸骨武士の姿をした地縛霊には、涼月という個体識別名がある。ただし、この名が彼の生前の名と同一であるかどうかは不明だ。死後生命(アンデッド)達は自身の無念に関する記憶は生前から強く引き継いでるものの、その他の記憶は…例え自分の名前や家族構成さえ…すっかりと忘れてしまいがちである。

 名を呼ばれた涼月は、鞭から炎を払って長槍に戻し、(いささ)か大仰な構えを取ると、憎らしげに顎骨を動かす。

 「またも貴様か、小童(こわっぱ)っ! 幾度も幾度も、わしらの悲願を(くじ)きおって…! 此度こそは、その首頂戴ししてしんぜようっ!」

 怒れる涼月に対して、蘇芳はクックッと心底愉快そうに笑う。

 「この歳になっても小童なんて呼んでくれるたぁ、嬉しいねぇ。オレもまだまだ若いんだなぁって気になれるわ」

 蘇芳の茶化した台詞に、涼月は律儀にも反応を返す。フフン、と誇らしげに鼻で笑いながら、構えを少し崩して胸を張り、得意そうに語る。

 「このわしからすれば、(よわい)を百や二百重ねたところで、皆小童よ!」

 その台詞に、蘇芳はますます笑みを深める。その表情には、純粋にやり取りを面白がる意味も勿論込められていたが、それ以上に"思う壷だぜ"と云う安堵の想いが強い。

 市軍警察の一員ではあるものの、純粋な戦闘員ではない蘇芳が、実力者たる涼月との交戦を自ら申し出た理由が、ここにある。――涼月は、非常にノリが良いのだ。言葉をかければ、打たれた鐘が音を響かすように、一々反応を返してくれる。そこに、付け入る隙が見い出せる。

 蘇芳の練気の実力は、防災部内で護身用に教わった基本の型に、彼独自の鍛錬を加えた程度のものに過ぎない。強烈な怨場の中で多大なアドバンテージを得た涼月を斃しきることは、不可能であろう。

 だが、足止めをするだけならば、役割を十分に果たせるはず。

 蘇芳は今一度、その場で床をバシンッ! と踏みつけながら、東洋武術的な構えを取ると、涼月の方へと伸ばした右腕の先端で"掛かって来い"という風にクイクイと指を動かす。

 「何はともあれ、じーさんよ。女の子は女の子同士に任せておいて、俺たち野郎どもは野郎同士、むさ苦しくヤり合おうじゃねぇか!」

 そんな蘇芳の言葉を涼月はハンッと笑い飛ばすと、腰を低く落としながら長槍を真っ直ぐ蘇芳の顔面へ向けながら、やはり律儀に返事する。

 「あの小娘が、"御方様"とやり合うだと?

 それこそ滑稽の極みよっ! "御方様"に適う生物だと、この世には…ッ!」

 涼月が、無い肺に対してヒュッと鋭い呼気を送り込みながら、蘇芳へと踏み込むと。

 「おらぬわっ!」

 叫び声と共に、烈風のように長槍を突き出す。

 「それはどうか…ねっ!?」

 蘇芳は身をよじり、鼻先ギリギリで長槍をやり過ごした後、気力が鎧のように充実した体躯で驀進し、涼月の懐へと潜り込む。

 「若い()のピッチピチの生命力ってのも、バカにゃあ…」

 語りつつ、気力を岩のように凝固させた拳を握り込むと。

 「出来ねぇぜっ!」

 稲妻のような叫びと共に、全力で涼月の腹部にめり込ませる。

 「ふっぐうぅっ!」」

 インパクトの瞬間、爆発的に吹き抜けた気力の奔流に、涼月は思わず身体をくの字に曲げるが…半歩後退するだけで踏み留まる。

 「良い気になるでないわっ、小童ぁっ!」

 涼月は耐え抜いた胆力を誇るように叫び上げつつ、退いた後ろ足を引き戻しつつ、膝蹴りで蘇芳の腹部へ反撃を放つ。

 「小童だからこそ、良い気になるんだよっ!」

 対する蘇芳も、先の一撃とは反対の拳を握り締めて、涼月の頭蓋骨の頬を狙った二撃目を放つ。

 ――こうして、騒がしい叫びのノリの応酬を伴った肉弾戦が幕を開けた。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ANGER/ANGER - Part 2

 さて、涼月の相手を止めたノーラは、装甲車の縁に沿って足早に駆け回っていた。

 わざわざ隅を走っているのは、蘇芳や蒼治達が比較的中央に近い位置で戦っているので邪魔にならないように、という事情もある。

 加えて、ノーラは形而上相の解析によって、怨場の発生源が装甲車の縁の方に存在することを突き止めたからである。

 装甲車の外装に視線を注ぎながら走り続ける、ノーラ。途中、彼女に気づいた影様霊(シャドウ・ピープル)が総じて2体、蒼治たちの攻撃をかいくぐって襲いかかってきたが、ノーラは相手にせずにヒラリと身を交わし、発生源の特定に勤めた。

 もしも発生源が存在の重きを形而下相に置いたモノ――つまり、通常の物体――であるならば、体積がよほど小さくない限り、外装の一辺に対して一瞥するだけで見つけることができるだろう。しかし、相手は霊体である。旧時代の地球において彼らの存在が認識されなかったように、彼らは形而下のみならず魔術的な迷彩や偽装が得意である。常によくよく感覚を研ぎ澄まさねば、発見は極めて困難であろう。

 そして、ノーラがついに――蘇芳が"お姫様"と、涼月が"御方様"と呼ぶ死後生命(アンデッド)を見つける瞬間がやってきた。

 それは、非常に唐突なものであった。ほんの一歩、足を踏み入れたその瞬間。ノーラの目先僅か2、3メートルの距離に、まるでコマ落ちフィルムを再生した時のように、"そいつ"の姿がパッと視界内に描画された。

 もしも"そいつ"が一切の迷彩・偽装を用いていなければ、その姿は遠目からでもすぐに目についたであろう。それほどに、人工太陽光の照明に溢れるこのトンネルの内部において、"そいつ"の姿は異様な程に目立つ。何故ならば、"そいつ"は全身の大半は、ヌラリとしたビニール系の光沢に輝く漆黒の衣装に身を(まと)っているのだから。

 "そいつ"――いや、その姿はある意味、"お姫様"という言葉が相応しい――の外観は、150センチにも満たない身長の小柄な痩躯を、漆黒のゴシック・パンク系の衣装で身を包んだ少女の姿をしている。衣装の合間から見える肌の色は、ホルマリン漬けの生物標本のような病的に過ぎる気味の悪い白色だ。左手首から先が徐々に霞がかったように薄れて消失している点を鑑みると、レッゾの左腕に重なっている左手が彼女のものであることが確実視される。

 確証を更に裏付けるのは、彼女の右手だ。消失しておらず、ビニール製「のゴシック・パンク・ジャケットの裾から延びたほっそりとした手の五指の爪は、全てが覚めるような青のマニュキアで塗られている。この点も、レッゾを(さいな)む左手の特徴と一致する。

 白い肌を彩る青は、爪だけのものではない。髑髏にコウモリの翼の骨が生えたトレードマークを中央に張り付けた漆黒のベレー帽をかぶった頭部、その蒼白にして恨みがましいような、面倒臭そうな表情を作った顔面において、薄い唇もまた青一色で塗りつぶされている。黒一色の虹彩や、濡れて乱れたようなボブカットの黒髪と合わせると、病的な顔立ちがますます暗く陰って見える。

 そんな少女が、まるで重力を無視したように、装甲車の外装を足場にして、路面に対して水平方向に直立しているのだ。服も髪の毛も路面の方へ垂れ下がることがないものの、風を受けてパサパサと揺れている様子はあまりにも奇妙な光景であった。

 (…この死後生命(ヒト)が、怨場の発生源だ…間違いない…っ!)

 "お姫様"の姿を目にしたノーラは、桜色の唇をキュッと結んで、緊迫の表情を作る。"お姫様"の姿を見るに、その歳の頃はノーラより年下のように見える。しかし、安堵や憐憫といった気の緩みを誘発する感情は全くわき上がってこない。何故ならば――この"お姫様"が発する気迫は、まるで空間ごと穴を開けて奈落に引きずり込むような、強烈な重苦しさを伴っているのだから。

 それは単に感覚的な問題だけでなく、形而上相に描かれる魔法科学的要素からも客観的に認識される事実だ。"お姫様"を包み込むように、並の脳処理では詳細が知り得ないほどに高密度の怨場および関連の術式が嵐のように渦巻いている。

 (すぐに対処しないと…みんなが、本気で危ない…!)

 漆黒の瞳でこちらをじっと見つめている"お姫様"が、何らかの迎撃行動に出るよりも早く、ノーラはタンッ! と装甲車の床を蹴って車外へと身を踊らす。

 次いでノーラは、自らの両足裏に方術陣を展開。蛍光色に輝く、足のサイズより2周りほど大きな2つの方術陣が出現したのと同時に、ノーラは宙で身体をクルリと回転させる。そして体勢を立て直すと、"お姫様"と同じく装甲車の外装を床にして立っていた。彼女もまた、身につけた制服も髪の毛も路面の方向へと垂れ下がってはいない。重力の方向が大地に対して水平になったかのようだ。

 方術による重力方向制御術、『崩天』。それが、ノーラが使用した方術である。空間中に単に個体の定義を強制的に生成する『宙地』よりも、事象の制御範囲も広く難度も高い、中級に分類される方術である。

 こうして、ノーラは黄金に輝く愛剣を油断なく両手で構えながら、"お姫様"と対峙する。身体魔化(フィジカル・エンチャント)によって怨場への耐性を強化しているというのに、発生主を間近にすると、体表近くの神経電流がピリピリと影響を受け、厳冬の吹雪の中に叩き落とされたような酷い寒気に襲われる。――いや、実際、物理的な冷気に襲われているのだ。その証拠に、ノーラの吐く息は綿飴のように真っ白である。

 どう攻めるか? ――凍えて震えそうになる両の五指をギュッと握り締めて愛剣の柄を握り直しつつ、形而上相から"お姫様"の存在定義を解析しながら策を練らんと頭を捻らす…その時。

 「あなたは…部外者」

 ボソボソ、とパン屑でも落ちるような繊細で不気味な声を、真っ青に塗られた唇から漏らす、"お姫様"。

 「退いて」

 続いての"お姫様"の台詞と共に、彼女の右手がフラリ、と上がる。緩慢なその動きは、旧時代に描かれた幽霊に相応しい儚さとぎこちなさを兼ね備えている。

 しかし、その行動によって引き起こされた現象は、不可視ながら恐ろしく激しい。

 ノーラは突如、重力とは逆方向にグイッと引き上げられる浮遊感を得る。実際、彼女の身体は数センチ浮いていた。同時に、無重力状態に曝されたように三半規管が機能不全に陥り、ノーラは本能的な焦燥に駆られて足をバタつかせる。

 次いで、三半規管が急激な加速を検知した、と思いきや、視界の端に高速で過ぎゆく路面が映る。浮き上がったノーラの身体は、そのまま路面へと叩きつけられようとしているのだ。

 (マズい…っ!)

 ノーラは即座に自身に発生した現象を形而上相から解析。それが、人体を対象とした騒霊(ポルターガイスト)現象であることを瞬時に覚ると、急いで三半規管に対して身体魔化(フィジカル・エンチャント)。三半規管に直接作用する怨場由来の電磁波を打ち消し、三半規管の機能を取り戻すと、間近に迫った路面に深々と愛剣を突き刺す。そして剣を支えにグルリと回転するように体勢を立て直すと、弾けるようにして大剣ごと路面から跳躍。装甲車の外装へと帰還する。

 帰還しながら、黄金に輝く大剣の刀身を大きく振りかぶり、"お姫様"のベレー帽を被った頭部へと振り下ろす。

 (ザン)ッ! 鋭い風切り音と共に、大剣は装甲車の外装に切っ先をズブリと埋める。この結果だけを鑑みれば、"お姫様"を一刀両断したかのようだが…そうではない。

 手応えが、全くない。

 事実、ノーラの眼前では、砂細工が風に吹かれて土埃となって舞い散るかのように、水蒸気様の粒子群となってその場から消えゆく"お姫様"の姿がある。

 とは言え、"お姫様"に斬撃が効かないことは、ノーラの予想の範疇である。形而上相に存在の重きを置き、電磁場的性質を持つ体構造をした霊体には、単純な物理攻撃は通じない。それでもノーラが敢えて一撃を加えたのは、"お姫様"の反応から、彼女の存在定義の解析を行うためだ。

 装甲車の外装にめり込んだ愛剣を引き脱ぎながら視線を巡らせ、消えた"お姫様"の行方を追う――居た! 丁度ノーラの背後に、蚊柱が立つような有様で飛散した霊体が集合し、元の小柄な女性の形態を取ろうとしている。

 (とりあえずは…セオリー通りに!)

 ノーラは愛剣に魔力を込めて、定義変換(コンヴァージョン)を発動。パタパタとパネルがめくれるような変形過程を経て形成された愛剣の新たな姿は、蛍光色の過電粒子ビームの刀身を持つ、騎馬槍(ランス)にも似た長剣である。

 電磁場性生命に対抗するには、電磁場を発する武器を用いる。対霊体戦闘の基本である。

 「ハッ!」

 鋭く短い息吹と共に、ノーラは大地を蹴って"お姫様"へと突進。ビーム刀身の切っ先を、敵の中心めがけて突き出そうとする。

 対して、上半身の実像化を完了した"お姫様"は慌てる様子もなく、刀身を受け入れるように静かに立ち尽くしている。その表情も焦燥を押し殺している様子はなく、鏡のように凪いだ海面のように閑寂だ。

 ゾクッ…ノーラの背筋に悪寒が走る。しかし、今から方向転換しようにも切っ先は"お姫様"の腹部まで僅か数センチにまで迫っている。

 (…! とりあえず、やってみるしかない…!)

 背筋を走る悪寒を振り払いながら、ノーラは更に踏み込みを速め、切っ先を"お姫様"の腹部に突き立てた――。

 転瞬…グニャリ、とビームの刀身が大きくカーブを描いて大きく湾曲し、"お姫様"の体から逸れてしまう! "お姫様"が発する強烈な怨場、それが誘発する電磁場によって、過電粒子があらぬ方向へ誘導されてしまったのだ。

 「!!」

 受け止めるでも、回避するでもない対応を、ノーラは想像だにしていなかった。ゆえに、彼女の顔には雷に打たれたような純粋な驚愕が浮かぶ。

 その感情の衝撃が作り出した決定的な隙を、"お姫様"は見逃さない。涼月のようにノリの良い無駄口を叩くこともなく、静かに、そして迅速にノーラの懐深くへと潜り込むと…貫手(ぬきて)にしてはあまりにも五指がダラリと脱力した手先で、ヒュウッと不気味な風を切りながらノーラの首を狙う。

 勢いはさほど感じられない攻撃だが、ノーラの氷水を背筋に垂らされたような悪寒を感じ、バッと体を(ひるがえ)して回避行動に出る。だが、"お姫様"の手先は突然加速し、ノーラの肩の端にチッと(かす)った。

 その途端――。

 「んぐぅっ!」

 ノーラはブワリと冷や汗を吹き出しながら、眉間に思い切り(しわ)を寄せて顔をゆがめる。同時に、パチンッ、と電撃が爆ぜるような音が響き、ノーラの肩を覆う制服が風船が割れるように破裂する。そして剥き出しになったノーラの肩には…強く鷲掴みしたような赤黒い手の痕がクッキリと浮かび上がっている。

 怨場を駆使した生体器官損傷現象『霊障』の一種、『(うら)(あざ)』。手や足、歯などを媒体とし、それらの攻撃的な定義を対象の魂魄へと投影させ、体組織を壊死させる。

 壊死の規模や、壊死の際に引き起こされる痛みの度合いは霊体の発する怨場の強度に比例する。ノーラの受けた激痛は、大型獣の剛力でもって肩がもぎ取られるかと思うほどであった。そして、痣を刻まれた肩はひどく痺れて、うまく腕が動かない。壊死は相当深くまで浸透しているようだ。

 この時、ノーラは"お姫様"が単なる霊体でない事を覚る。

 (この死後生命(ヒト)怨霊(レイス)だ…!)

 霊体の中でも最も自我が強く、強大な怨場を伴い、兵器的な破壊力を持つ危険種族。それが、怨霊(レイス)

 (下手な電磁場や過電粒子の攻撃は、無意味…! だったら…!)

 ノーラは肩の痛みを押して"お姫様"から距離をとりつつ、愛剣に対して再び定義変換。またもやパタパタと音を立ててパネルがめくれるような変形過程を辿ると…今度作り上げたのは、シンプルな形をした、白銀に輝く片刃の大剣である。

 一見すると何の機構も備えていないようであるが、形而上相からこの剣を見れば、真っ黒に塗り潰れるほどに高密度の術式を(まと)っていることが分かるだろう。怨霊(レイス)の形而上相的定義に損傷を与えるために、形而上相に重きを置いた剣を作り出したのである。高密度の術式は、操者であるノーラの意識をくみ取って、状況に応じた術式構造を作り上げるための、いわばパズルのピースである。

 (性質を解析するにも…まずは、剣を交えないと!)

 定義変換(コンヴァージョン)の完了後、ノーラは左右に体を振りながら、"お姫様"へ肉薄。ゆっくりと貫手を下ろして、呆然と立ち尽くす彼女の胴をめがけて、横薙ぎに剣を繰り出そうとする…が。

 「あ…ううっ!」

 ノーラの足が突如、止まったかと思うと、再びその顔に冷や汗がブワリと吹き出した。そしてやはり眉間に深い皺を刻み、ギリリと歯噛みをする。何か強烈な力に対して、力で抗うかのように。

 実際、ノーラは剛力に対して抗っている。彼女の右腕は、ギチギチと筋肉繊維の悲鳴を上げながら、ねじ曲がりながら背中の方へひねり上げられている。この剛力に捕まったが故に、ノーラは足は止まってしまったのだ。

 ひねり上げられた右腕の手首をみると、そこには爪を青一色に塗りつぶした白い手がある。対して、"お姫様"の右手は、左手同様に霞んで消失している。ルッゾにやってみせているように、ノーラにも手を重ねて生体電流を操り、筋肉に自滅的な無茶な運動を取らせているのだ。

 「くうぅ…っ! こ、こんなもの…!」

 苦々しく抵抗の言葉を口にしながら、ノーラは残る左手を右腕にかざすと、方術陣を作り出す。"お姫様"の手の霊体を害して引き剥がす魔術を発動しようと試みているのだ。

 しかし、魔術が十分な発動を見せるよりも早く、"お姫様"が静かな、しかし凶悪な攻撃行動に出る。彼女の漆黒の瞳がキラリと青い輝きを灯したかと思うと…装甲車の後部で、未だに繰り広げられているロイと『十一時』の爆発的激戦によって瓦解し、剥離されたトンネル壁の破片の群れに、ビリビリッと青い電流が走る。直後、破片の群れは弾丸の速度で飛翔し、ノーラへと肉薄してゆく。"お姫様"による、物体に対して騒霊(ポルターガイスト)である。

 「っ!!」

 もはや、方術陣の完成を待つ余裕はない。ノーラはひねり上げられた右手からポロリと大剣を落とし、その柄を左手でキャッチすると、宙に痛々しく固定された右腕をそのままに飛来する瓦礫群に対峙。同時に、両脚に体表組織硬化の身体魔化(フィジカル・エンチャント)を付加すると、剣撃と蹴撃で(もっ)て瓦礫の迎撃に当たる。

 ガンッ! ガキィッ! ガゴンッ! 雨霰と絶え間なく飛来する瓦礫を、不自由な右腕を抱えながらも、竜巻のような動きで次々と撃破してゆく、ノーラ。窮地は技術と気迫で乗り越えたかに見えたが…そこに、新たな危機が襲いかかる。

 グギギッ…! 再び骨と肉が軋む音が響き、ノーラの顔が更なる苦痛と苦悩で歪む。今度は左脚が蹴りを放った形のまま停止したと思うと、ひねり上げられたのだ。そんなノーラの左脚の足首には、ラメの入ったヒールの高い漆黒の靴を履いた左足が重なっている。"お姫様"の左足だ。

 (そんな…っ!)

 身体の自由を大幅に奪われたノーラは、辛うじて自由の効く左腕一本で高速で飛来する瓦礫群に対処せねばならなくなる。

 ノーラは右利きであるが、幼い頃より利き腕が傷ついた時の対応を叩き込まれていた経験が幸いした。左手一本で非常に器用に大剣を振り回し、瓦礫群を次々に切断したり、叩き伏せたりと奮闘する。

 だが、その努力も徐々に苦しみの色が濃くなる。"お姫様"はノーラが破壊した瓦礫に再び騒霊(ポルターガイスト)を作用させつつ、ロイ達が新たに作り出す瓦礫と加えて、攻撃の手を一行に(ゆる)めない。

 それでも必死の抵抗で瓦礫を振り払い続ける、ノーラ。その有様を遠巻きに眺めていた"お姫様"が、氷のような無表情にひび割れるような不快感を浮かび上がらせる。

 「…部外者のくせに…ウザ過ぎ…」

 毒づいた直後、先っぽが霞んで消えた右腕をスゥッと上げ、ノーラの固定された右腕へと向ける。そして、まるで腕にギュッと力を込めるかのように、眉間に皺を刻んで力む。

 同時に、ノーラは右腕に異変を感じた。無理矢理にひねり上げられた筋肉の悲鳴とはまた別の、熱い不快感を得たのだ。――そう、形容ではなく、物理的に"熱い"。まるで、筋肉の内部が直接炎で(あぶ)られているような、そんな感覚。

 (…マズいっ!)

 ノーラは左腕を振るい続けながらも、顔をギクリと引きつらせる。そして、チラリと右腕に視線を走らせると、直ちに形而上相の解析を開始。その直後…彼女の表情の歪みは、更に大きくなる。

 形而上相が彼女にもたらした情報によれば、彼女の右腕の生体電流が異様な信号を成して、細胞を刺激している…エネルギーを過剰燃焼させろ、と細胞に促している!

 (これは…霊的人体発火(インフレイム)…!)

 旧時代の地球において、"人体自然発火"と呼ばれた祟り現象だ。細胞を異常刺激し、ATP燃焼回路を過剰機能させて不自然な高温状態を作り出し、発火を引き起こす。

 ノーラは慌てて、右腕の細胞活動を沈める身体魔化(フィジカル・エンチャント)を練り上げようとするが、その行動が仇になった。瓦礫への集中が(おろそ)かになってしまい、非情にもその間隙に殺意に満ちた瓦礫が滑り込んでくる。

 (あ…っ!)

 気づいて視線を戻した時には、額の間近にまで瓦礫が迫っていた。当然回避など間に合うワケなく、ガツンッ! と頭蓋を震わす直撃を受ける。大幹を大きく崩す一撃が脊椎を揺るがすが、右腕と左脚が固定されているために、その場にくずおれることはなかった。しかし、首がもげるそうなほどに大きく反り返り、額からはドバッと鮮血が噴き出す。

 (痛…っ!)

 打撃への呻きを胸中で漏らすのも束の間。今度は右腕の温度が急激に上昇。溶鉱炉の中に突っ込んだかのような灼熱を感じた…と思ったその直後、ジリジリとした激痛と、ゴウゴウと顔を炙る熱気に苛まれる。衝撃と鮮血で混濁する視界を巡らせて見れば、そこには赤々とした火を噴く右腕の姿がある。――ついに、狂乱した細胞がエネルギーを過剰に燃焼させて、発火したのだ。

 (そんな…っ! なんとか、しないと…っ!)

 高熱を伴う痛みも()ることながら、視界の中で見る見るうちに水(ぶく)れが形成され、それが破けると共に黒々と炭化してめくれ上がってゆく皮膚を目にして、ノーラの胸中の焦燥がはちきれんばかりに膨らみ上がる。このままでは、右腕はますます炎上し、骨も残らずに炭化してしまうかも知れない!

 一刻も早い身体魔化(フィジカル・エンチャント)による細胞機能の回復が必要だが、そこにいざ集中しようとすれば、今度は高速で飛来する瓦礫が彼女の集中を阻む。瓦礫もまた、ご丁寧に切っ先の鋭い方向をノーラの方へ向けて肉薄してくるのだから、激突されるがままに無視して魔術への集中を行うのは困難だ。そんな事をすれば、下手をすれば瓦礫が身体を貫通するかも知れない…!

 なんとか脳裏で術式を組み立てながらも、左腕で大剣を操って瓦礫を打ち落とし続けるノーラであるが…時間が経てば経つほど、酷使する左腕は筋肉がパンパンになるほど疲労するし、右腕の燃焼も激化してゆく。それゆえに、折角苦労して汲み上げた術式も煙のようにかき乱されて消えてしまい、体勢の回復は遅々として進まない。

 (なんとか…なんとか…っ!)

 それでも粘り続けるノーラの身体に、再び異変が起こる。フワリとした浮遊感を得たかと思うと、無重力下に置かれたように三半規管の機能が不全になり、上下の感覚が失せる。半ば反射的にバタバタと四肢を動かすと、固定されていた右腕も左脚も解放され、自由に動かすことが出来るようになっていた。――ただし勿論、右腕は相変わらず、我が身から噴き出す炎に包まれているが。

 身体の自由を取り戻したノーラだが、これを好機ととらえることは出来ない。方向感覚も平衡感覚も完全に消失した為に、酷い船酔いにあったような不快感が消化器を駆けめぐる。加えて、理性を振り絞って状況確認のために足下を見やれば、床であった装甲車の外壁からグングンと離れてゆく自分の身体を知覚する。

 "お姫様"が再び、ノーラの全身を対象にした騒霊(ポルターガイスト)を実行したのだ。

 今度はどこに激突させられるのか!? 狂った方向感覚の中、ノーラは必死に視界を巡らせると、トンネルの壁がグングンと近づいてくるのが見えた。これに対処すべく、身体を縮こめて受け身の体勢を取り、衝撃に備える…が、衝撃はなかなか来ない。

 と、思った矢先、全く予想だにしなかった頭頂にゴツリッ! と頭蓋を砕かんばかりの堅く重い衝撃が走る。"お姫様"はノーラの運動方向を巧みに変化させると、トンネルの天井にノーラの頭を叩きつけたのだ。

 「あぅ…っ!」

 鼻血を噴き出しながら、たまらず苦悶の声を上げる、ノーラ。視界にチカチカと星が回り、意識に必死にしがみついていた理性が脳裏から吹き飛んでしまう。

 この直後から、ノーラの凄惨な悲劇が本格的に始まる。

 一体、自分の身体の何処を、トンネルの何処にぶつけられているのか、全く把握できない。まるで、渦潮の中に叩き込まれたかのように、方向感覚がグルグルと回り、全身のどこもかしかにも激痛と衝撃が走る。

 ノーラは今、"お姫様"の騒霊(ポルターガイスト)によって、滅茶苦茶にトンネル内を吹き飛ばされては激突して跳ね返り、またあらぬ方向へ吹き飛ばされる…という、絶え間ない暴力に曝されていた。時折、炎上している右腕以外の体部にも熱い激痛が走るのを感じるが、それは壁に押しつけられてザリザリと(こす)られている時の摩擦熱のようだ。

 そんな厳しい状況の中でも、ノーラは愛剣を唯一の拠り所だと言わんばかりに決して手放さず、そして衝撃が身体に走る度に体勢を立て直そうと身体を回転させることを試みる。だが、何度も、何度も、何度も…吹き飛ばされては叩きつけられているうちに、全身の筋肉が厳しい打撲による悲鳴を上げて動かなくなり、狂った平衡感覚が激しい嘔吐感を誘発する。

 (…もう…やめ…て…)

 ついに、ノーラの気丈な精神が折れ、全身の筋肉がグッタリと脱力した頃。振り回され続けてきたノーラの身体が、ピタリとその動きを止めた。同時に、三半規管も機能不全を脱し、方向感覚が取り戻される。重力を右手方向に感じながらも、装甲車の外装が足下に見えることから鑑みるに、重力制御方術『崩天』の効果が切れた状態で、路面と平行に直立させられているようだ。

 身体が、一指たりともピクリとも動かない。筋肉が痛みで疲れ切っているから、というのも理由の一因であろうが、それよりも全身をくまなく巡るビリビリした痺れが要因として強い。――これは間違いなく、怨場による金縛りだ。全身の運動神経を走る電気信号が遮断されてしまっている状態である。

 「あ…あうぅ…」

 舌も唇も動かず、半開きになった口から、苦悶の呻きを漏らしていると。腫れた瞼によって狭くなった視界の中で、滑るようにしてスゥーッと近寄ってくる"お姫様"の姿が見える。彼女は相変わらずルッゾの元に置いているらしい左手以外の体部が定位置に戻っているところを見ると、ノーラの体を霊体で直接抑えつける行為は止めたようだ。

 呼吸がかかる顔にかかるほどの距離にまで詰め寄った"お姫様"は、相変わらずの氷のように冷たい無表情に、漆黒の瞳の奥にだけ気怠(けだる)げな怒りの輝きを(たた)えると、真っ青な唇を無愛想に動かす。

 「在処も知らない、無価値な異物」

 そして、怒りに輝く瞳をスッと動かすと、ノーラの胸元で視線をピタリと止める。そして、ゆっくりと右腕を引き上げて、くだけた貫手を作る。"お姫様"の目と指先が狙っているもの、それは…ノーラの、心臓だ。

 心臓に霊障を引き起こし、ノーラを死に至らしめるつもりなのだ。

 「排除」

 青い唇が無情な言葉を紡ぎ、"お姫様"の手先がユルリと加速しながら、ノーラの心臓を目指す。

 

 一方。装甲車の後方の宙空にて。

 ロイと人型癌様獣(キャンサー)『十一時』の交戦は、苛烈さを全く失わぬ爆発的な衝突を繰り返していた。

 ロイが竜の拳や脚、尾、または鉤爪で『十一時』の体を叩き壊し引き裂けば、『十一時』は傷を高速再生に任せると痛みも衝撃も感じないかのように、即座に反撃に転じてくる。体の各部に内蔵された銃火気や金属製の拳を振るうだけでなく、ロイの死角から飛翔物体を密着させると、至近距離でのローレンツ力の槍を炸裂させたりもする。『十一時』と違って再生能力を持たないロイは、ダメージを受ける度に一々表情に苦悶が浮かぶが、すぐに凄絶な嗤いで上書きすると、翼を強く打ち振るって体勢を立て直し、再び打撃や斬撃を叩きつける。もしくは、竜息吹(ドラゴンブレス)をビーム砲のごとく吐き出し、発生させた強烈な電磁場で飛翔物体を破壊しながら、『十一時』の身体を欠損させたりもする。

 まるで、装甲車のすぐ後ろに巨大な積乱雲が存在し、爆発的な雲内放電を繰り返しているかのような、目まぐるしい激戦である。

 しかし…時を経るにつれて、徐々に分が悪いなってゆくのは、ロイの方だ。彼は行動すればするほど疲労とダメージが蓄積してゆくが、一方で『十一時』は再生能力のほか、異相次元に存在する癌様獣(キャンサー)共有のエネルギー貯蓄空間からエネルギーをたぐり寄せることで、疲労すらも回復することが出来る。

 この激しい攻防の中で、『十一時』は今やロイの放った[[rb:竜息吹]]によってゴッソリと失った下半身を大凡(おおよそ)取り戻し、2本の尻尾や脚部からの銃撃を攻撃の手段に用いている。

 (戦ってて、スゲー面白ぇ相手だけどよ…!)

 嗤いの裏側で、ロイは熱い汗の中に冷たい焦燥の汗を交えながら、胸中で呟く。

 (いつまでもこうやって戦いっ放しってワケには、いかねぇよな…!)

 ロイが抱いた危機感。それは確かに、『十一時』の無尽蔵の体力と回復力にも向けられている。しかし同時に、ロイは目まぐるしく動き回る交戦の最中に、視界の端にチラリチラリと映る、仲間の苦戦の様子を苦々しく思い、ギリリと奥歯を噛みしめている。

 影様霊(シャドウ・ピープル)を相手にしている蒼治、紫、レナの3人は、怨場による体調不良が酷く、思うように敵を蹴散らすことが出来ずに押し込まれ気味だ。地縛霊の涼月(れいげつ)と戦う蘇芳は舌戦でなんとか相手の隙を突いているものの、怨場の中で霊体の損傷を即座に回復してしまう涼月を前に、滝のような汗を流して荒い息を吐いている。

 そして何より、怨霊(レイス)と戦うノーラの、無惨な有様――その光景がロイの胸を深く刺し貫いて、たまらない。

 瓦礫の群に防戦一方になったかと思いきや、霊的人体発火(インフレイム)騒霊(ポルターガイスト)に曝されて、見る見るうちにズタボロになってゆく姿に、ロイの黄金の瞳が曇る。

 (あのままじゃ、ノーラ、マジで命に関わっちまうぞ!)

 激しい交戦の最中にも、おもわずチラチラと視線を走らせしまう、ロイ。その隙を見逃すような『十一時』ではない。

 ピトッ――ロイの脇腹に、6つの突起物が接触した感覚が芽生える。円陣を組んだ飛翔物体に触れられたと知覚した時には、もう遅い。ゼロ距離からのローレンツ力の槍が筋肉を、内臓を(ドン)ッ! と貫き、ロイはまっすぐにトンネルの天井に叩きつけられる。

 「ぐはっ!」

 吐血と共に肺の中の空気が全て押し出され、ロイの呼吸が停止する。窒息状態に陥ったロイは口をパクパクさせながら、痙攣して麻痺してしまったらしいい横隔膜を回復させようとするが…そこへ、バーニア推進機関を全開にした『十一時』が一気に肉薄。表面に十数センチ程度の鋭利な針状突起を生やした2本の尻尾で、ロイの身体にまとわりつく。

 「…ッ!」

 呼吸が止まったままのロイは無言の悲鳴をギリリと噛み殺しながら、全身を貫く激痛に抗い、尻尾を振り払おうと全筋肉を総動員させて力む。

 しかし、ロイの努力が功を奏するよりも早く、『十一時』は尻尾をブンッ! と思い切り振り回すと、ロイの身体を今度はトンネルの壁に叩きつける。衝突地点には丁度証明器具があった為、破砕した強化ガラスの破片や電気回路のスパークがロイの身体を苛む。

 「ごほ…っ! ちっ…くしょう…っ!」

 衝撃によって横隔膜の麻痺が回復し、呼吸を取り戻したロイは黄金の瞳に爛々と憤怒を灯すと、鉤爪が輝く竜脚を思い切り蹴り上げて、『十一時』の尻尾を両断。透明な電解質の体液がボタボタと噴き出す中、『十一時』は体勢を万全に整えるためかバーニア推進機関を巧みに扱って後退する。

 だが、ロイの激情はみすみす『十一時』を逃す真似はしない。ヒュッと素早く深く吸気すると、(ガァ)ッ! と短く叫び上げながら電撃を主体とした竜息吹(ドラゴンブレス)を射出。今度は『十一時』の方が防御できずにまともに直撃を喰らい、反対側のトンネルの壁へと吹き飛ばされ、派手に瓦礫を巻き上げながらめり込んだ。

 僅かながら余裕を得たロイは、壁にめり込んだ身体を即座に引き起こすと、『十一時』への追撃へ…は、出ない。代わりに、気掛かりなノーラへと視線をチラリと走らせた。

 そして、彼の黄金の瞳が丸くなり、漆黒の瞳孔が縮みあがるようにギュッと収縮する。

 彼が見たのは、ボロボロになって脱力しきったノーラが宙に固定された姿。そして、"お姫様"が彼女の元へスーッと近寄ってゆく場面である。

 ロイの胸中に、即座に最悪のケースが思い浮かぶ。彼は"お姫様"がやっかいな霊体種族である怨霊(レイス)だということを、感覚的に覚っていた。故に、彼女が恐ろしいまでに強力な霊障を操るであろうことにも予想をつけていた。

 組織を壊死させる霊障によって、心臓や肺、脳といった重要期間が壊死させられたてしまったら。ノーラの命の炎は、強風の前に儚く消え去る蝋燭の火も同然となる。

 (助けに行かねーとっ!)

 思うが早いか、ロイの体はすぐにノーラの方向へ飛び出そうとするが、その行動に理性が急激なブレーキをかける。視界の端に、体勢を立て直した『十一時』が急速接近してくる姿を捉えたからだ。

 ノーラにばかり気を取られては、自分の命が危うい。かといってノーラに手を貸さなければ、彼女はほぼ確実に命を落とすだろう。

 どうする!? と、疑問符を浮かべた、数瞬の後。物事をあまり深く思案しないロイに対しては奇妙な表現であるが――ともかく彼は、一計を案じた。

 そして、自案を一瞬たりとも不安視するような躊躇(ちゅうちょ)を一切抱くことなく、ロイは竜翼を羽ばたかせて、『十一時』に真っ向から接近する。

 ――もとより、躊躇するだけの余裕など有りはしないのだが。

 「ッオラァッ!」

 ロイはトンネルの隅々にまで響き渡れと言わんばかりに雄叫びをあげながら、大きく右腕を振りかぶって『十一時』に肉薄する。

 その所作を一見した実力者は概して、無駄の多い大振りであると判断することだろう。『十一時』もまた、その例に漏れない。

 ――疲労とダメージの蓄積を、気力で振り払おうと言うワケか。ロイの嗤いを浮かべながらも満身創痍の姿を見れば、『十一時』でなくともそのような意見が頭に浮かぶことだろう。

 そして『十一時』は、この隙を相手を叩き伏せる好機と見て取り、迅速にして無駄のない動きで攻撃行動に出る。飛翔物体を死角から素早くロイの腹部に潜り込ませ、接触させると。ロイの顔が"しまった"と歪む間もなく、ローレンツ力の槍をぶっ放す。

 (ドン)ッ! 賢竜(ワイズ・ドラゴン)の強靱な肉体が、激しい衝突音を奏でる。転瞬、ロイは上下の半身が分断されるかと思うほどに体を深い"く"の字に曲げて、流星のように吹き飛ぶ。

 「げはぁ…っ!」

 内臓を揺さぶる強烈な一撃に、たまらず苦悶の声と共に吐血する、ロイ。だが…その苦しげに歪んだ表情の端で、口元がニヤリと釣り上がる。

 

 これこそが、ロイの骨身を削る一計である。

 

 ロイが吹き飛んでゆく先…そこにはノーラと、彼女に凶手を向ける"お姫様"の姿がある。

 ロイはわざと翼を羽ばたかせて吹き飛ぶ速度を加速すると、巨大な砲弾となって"お姫様"の頭上へと降下してゆく。

 ノーラの心臓めがけて手先を突き出していた"お姫様"は、頭上にかかる影にピクリと反応すると、ギラリと嗤いながらぶつかってくるロイの姿に漆黒の瞳をまん丸くすると。激突を嫌って、慌てて身体を煙のように散らして姿を消し、ノーラより十数歩離れた地点へ転移する。

 霊体には生物体の体内に潜り込む『憑依』という現象を扱うことが出来るが、この行動を行う直前に彼らは入念な準備を行う。でなければ、生物体と元々リンクしている魂魄の間に存在する強固な免疫的構造に阻まれ、霊体がダメージを被るからだ。その事情ゆえに、"お姫様"はロイと体が重なることを避けたのである。

 "お姫様"が転移した直後、ロイは超人的な反射神経と運動能力で旋風のように体勢を立て直すと、装甲車の外装に両足の鉤爪を深く立てて、無理矢理水平方向に立つ。

 一方、"お姫様"が慌てた回避行動を取ったことで、ノーラの金縛りは解除された。しかし方術『崩天』の効果が切れてしまった彼女は、重力のなすがままに路面へと落下してゆく…そこをすかさずロイがしっかりと抱き止め、力強く自分の身近に引き寄せる。

 ノーラの疲れ果てた、そしてキョトンとした表情をのぞき込みながら、ロイはニカッと意地悪げな太陽の笑みを浮かべる。

 「だいぶ苦戦してるようじゃねーか」

 ノーラが何か答えようと口をパクパクさせるものの、疲労と激痛でうまく言葉が出てこない。ロイはそんな彼女を急かすでなく、笑みをまっすぐに向けたまま、炎上するノーラの右腕に己の左手を置いてさすった。身体魔化(フィジカル・エンチャント)によって電磁場を纏ったロイの竜掌は、ノーラの細胞を害する異常な生体電気信号を沈めながら、炎を握りつぶしてゆく。

 炎がようやく収まり、ノーラはハァ…と安堵のため息を吐いた頃。ロイはノーラの右腕にチラリと視線を走らせた。そこには、表皮が黒焦げになってめくれあがった、無惨な重傷がある。それを目にしたロイは思わず笑みを消し、剣呑な激怒と曇天のような憂慮が同居する表情を浮かべる。

 「くそ…っ! あの怨霊(レイス)の女、ひでぇ事しやがるな…っ!」

 「わ…」

 ここでようやくノーラが、咳き込むようにか細い声を上げる。

 「わ…たしが、悠長にぶ…んせきなんてしなが…ら、戦ってた…から…」

 「それがノーラのスタイルなんだろ。悠長ってワケじゃねーさ。

 むしろ、オレが考えなしに突っ込み過ぎるんだろーな」

 ロイは笑みをちょっと取り戻して優しくフォローする。その直後、表情をキュッと引き締めると、怨恨を込めてこちらを睨みつけ"お姫様"に真っ向から視線をぶつけながら、磨き抜かれたナイフのような堅く鋭い言葉を口にする。

 「とにかく、この怨霊(オンナ)と…」

 語りながら、チラリと背後上空に視線を向ける。そこには、早くもこちらに向かって飛行する『十一時』の姿がある。

 「『十一時』(アノヤロー)の両方をブッ倒さねーと、オレたちの方が参っちまう。

 …そこでオレ、1つ考えたんだ。あの2人をまとめてブッ倒す方法を、さ。

 ノーラにも…こんな状態でキツいだろうけど…手伝って欲しいんだけどサ…大丈夫か?」

 ノーラは両足先に『崩天』を再付与しながら、苦々しく微笑む。

 「やる以外に…選択肢は、ないもんね…」

 答えながらノーラは、重度の火傷を負った右手を愛剣の柄に置くと、左手と共にギュッと握りしめる。右腕の筋肉は幸いにも、物をつかめるほどには熱変成が進んでいなかったようだ。

 その気丈な姿を見たロイはニッコリと微笑むと、ノーラの耳に牙が生え揃った口を近づけ、ゴニョゴニョと自案を伝える。

 それを効いたノーラは、一瞬眉を八の字にひそめて、気難しい表情を作る。聞いたロイの策は、決して不可能というワケではないが…。

 「こんな状態の私に…そんな器用なことが、出来るかな…?

 ロイ君とも知り合って、まだまだ日も浅いのに…」

 桜色の唇を頼りなさげに震わせて語ると、ロイはノーラの薄紫の髪の中にポンと竜掌を置き、ワシャワシャシャと撫でて再び笑む。

 「大丈夫、大丈夫。ノーラなら出来るって。

 それに、オレのことを"絶対に負けない"って言ってくれたのは、ノーラだろ? そのオレが自信満々で考え出した策なんだぜ? 負けるワケねーよ。

 オレの事が信じられないなら、オレを信じてくれたノーラ自身を信じろよ」

 「で、でも…」

 ノーラはまだ何か言い返そうとしたが…すぐに言葉を飲み込んだ。視界の端で、奈落の深淵のように暗い憎悪を(たぎ)らせた"お姫様"が、身にまとうゴシック・パンクの衣装をなびかせながら、滑るように急接近して来たからだ。

 それに、"お姫様"と丁度反対側の上空には、飛翔物体を攻撃用陣形に万全に整えた『十一時』が迫ってくる姿がある。

 ――自分に有効な案がない以上は、ロイの策に乗る以外に選択の余地などない。

 それに、ロイの案を実行する際に一番の障害と成りうるのは、敵より何より、ノーラ自身の度胸だけだ。

 「…うん、分かった」

 ノーラは遂に、腹を(くく)った。力強く、素早く首を縦に振った。

 するとロイは、ギラリと牙を見せて凄絶に、そして満足げに嗤うと。クルリと踵を返してノーラに背を向け、『十一時』に対峙する。

 そして、ノーラに視線を走らせることはないものの、軽く拳でノーラの肩を小突く。

 「それじゃ、頼むぜ…相棒ッ!」

 そしてロイは、(ダン)ッ! と装甲車を揺るがす足踏みすると、翼で颶風(ぐふう)を巻き起こしながら、漆黒の砲弾となって飛び立った。

 一方でノーラは、万全に発動した『崩天』によって完璧に重力を制御すると、軽やかに、そして力強く外装を蹴って疾走。両手でギッチリと掴んだ愛剣を突撃槍のごとく切っ先を正面に向けて構え、"お姫様"に真っ向から立ち向かう。

 

 かくて、戦闘は壮絶な決意に彩られた佳境へと入る。

 

 装甲車上では、誰も彼もがうんざりと疲れ切った中で、半ば自棄になりながらそれぞれの戦いを繰り広げている。

 「くっそーっ! キリがねぇってのっ! いい加減、くたばりやがれよっ!」

 口汚く罵りながら、腰だめに機銃を構えて魔化(エンチャント)した弾丸を掃射しているのは、レナである。一応、弾丸には対霊体用に調整した術式を付与しているのだが、強烈な怨場の中での影様霊(シャドウ・ピープル)にはほぼ功を奏さず、霧に向かって(いたずら)に発砲して弾丸を無駄にしているに等しい、虚しい行動と化している。

 「もう相手はくたばってますって、レナ先輩さん」

 心底ダルそうな声を上げるのは、レナの足下でうずくまりながらも、右手にだけ纏った魔装(イクウィップメント)の電極様武装から、荷電粒子の弾丸を細々と撃っている紫だ。彼女の攻撃は影様霊(シャドウ・ピープル)に着弾すると、ほんの一瞬だけ、酷い水疱状の損傷を与えるのだが、怨場がすぐに傷を回復してしまう。そんな虚しい努力の空回りを見て、紫は蒼白の顔に弱々しい苦笑を浮かべて、鼻で笑っている。

 「無駄口なんか叩いてるな! 諦めずに、抵抗を続けるんだ! きっと道が開ける!」

 蒼治は字面だけ見れば楽観的とも言える言葉を喚き立てているが、その表情は寄り集まった3人の中で一番悲壮感に満ちている。濃紺の髪は冷や汗でグッショリと濡れているし、それがピッタリと張り付く面長の顔は、死人のように蒼白で、失意の影に満ちている。女子に囲まれている中、男子の面目を保とうと気丈に振る舞おうとしているようだが、星撒部部長の渚が評価する通りの悲観的な性格は、薄っぺらい言葉だけで塗りつぶせるものではないようだ。

 蒼治は説得力に欠ける励ましを口にしつつも、双銃を重機関銃のように激しく連射しているが、彼の攻撃もまた女子2人と同様、(かんば)しい効果をあげているとは言えない。

 それでも3人の精一杯の抵抗は、影様霊(シャドウ・ピープル)の行動の牽制と言う点では十分な効果を上げていると言えよう。事実、影様霊(シャドウ・ピープル)は手にした銃剣を存分に振るう機会をなかなか手に出来ないでいる。

 しかし、このまま怨場に曝され続けて自律神経失調が続けば、体力を加速的に消耗し、腕も上がらないほどにへたり込んでしまうことだろう。そんな悲惨な結果に陥るのも、時間の問題だ。

 

 一方、蘇芳の方では…。相変わらず、骸骨武士の形状をした地縛霊、涼月(れいげつ)と舌戦を交えた激闘を続けている。

 蘇芳の練気の技術は、独学要素が強いものの相当なレベルを誇り、下手な軍警察衛戦部の戦闘員よりも余程高い戦闘能力を発揮している。巧みな会話によって隙を誘い、すかさず気力を込めた一撃を叩き込むと、涼月は何度も「うお!」だの「ぬう!」だの声を上げて、無様に吹き飛ぶのだった。

 だが、いくら涼月の魂魄に直接打撃を与えようとも、"お姫様"の強力な怨場が健在である限り、影様霊(シャドウ・ピープル)の戦闘員同様、損傷も疲労も即座に回復してしまう。

 「やりおるなっ、流石はこの都市国家を背負う武士(もののふ)よっ!

 じゃが、わしらが郎党の悲願を背負うわしとて、負けてはおれぬわぁっ!」

 涼月は何度も何度も立ち上がると、炎に包まれた全身やら、炎と鞭と化した長槍を嵐のように振り回し、蘇芳の体を叩きのめしてゆく。打撃と焦熱を同時に喰らう蘇芳の体では、程なく軍服が焼け焦げてボロボロに引き裂かれ、露出した皮膚は火傷による真っ赤な水(ぶく)れを呈する。

 怨場による体調不良こそ免れている蘇芳であるが、即座には回復できない体に、時が経つほど蓄積する疲労の(かせ)からは逃れられない。攻める動きも避ける動きも段々と勢いを失い、心臓は爆発しそうなほどに荒れ狂った鼓動を打つし、肺は酸素を渇望して肩を大きく上下させる。

 (くっそ…! 早く何とかしてくれねぇかな、あの女子学生…!)

 "お姫様"の対処を任せたノーラの顔が脳裏を過ぎるが、彼は自身の戦いに精一杯で、彼女の苦戦の様など知ろうはずがなかった。

 (このままだと、持たねぇぞ…!)

 滝のようにビッショリと汗をかいて、身構えたまま遂に動きを止めてしまった蘇芳。それを見た涼月が、顎骨をニヤリと歪め、長槍を肩に担いで優越感に満ちた出で立ちを取ると、ケラケラ笑いながら挑発してくる。

 「なんじゃ、こんなもんか!

 若く、活き活きとした肉体を持っておるというのに、枯れ木同然の体をしたこのわし相手に、もう息が上がってしもうたか!

 情けない小童じゃのう!」

 「ぬかせってんだ…!」

 蘇芳は強がった笑みを浮かべて答えつつ、胸中で苦言を付け加える。

 (こっちは、てめぇと違ってスタミナも何もかも有限だってンだよ!)

 その苦言が涼月に届いたワケではなかろうが、涼月は蘇芳の苦悩を再びケラケラと笑うと、長槍の切っ先を蘇芳の心臓に向けて身を低く構える。

 「ならば、強がりが口先だけでないことを、見せてみよ。

 見せられねば、わしの槍に魂ごと貫かれて、死ぬぞい?」

 「上等…! かかって来やがれってんだ…!」

 威勢良く叫んで見せる蘇芳だが、自分から動かず涼月に"かかって来い"と語ったのは、走る体力すら惜しんでいるためだ。

 (マジでなんとかしてくれよ…!)

 他力本願な自分の態度を情けないと思いながらも、強く願わずにはいられない、追い込まれた蘇芳であった。

 

 そして、装甲車の運転席では。未だにレッゾが"お姫様"の左腕による支配に抗おうと、こめかみに青筋を浮き上がらせながら全身に力を入れていた。

 「動けっ、動けってんだよ…! このクソッタレな腕めが、脚めが…よっ!」

 罵声を受ける腕や脚は、注がれた力を受けてプルプルと震えるものの、アクセルを全開に踏みつける脚も、ハンドルを握る手も、根が張ったように微動だにしない。

 奮闘中の最中、レッゾは視界の上端を過ぎってゆく"とある物体"を発見し、ハッと視線を上げた。そうして視界のど真ん中に飛び込んできたのは…トンネルの天井に設置された、標識である。

 "第57区画出口まで、残り…"と書かれてある標識の表面を見たレッゾは、ドレッドヘアが総毛立つような感覚を得た。

 地上が、近いのだ。

 「やべぇ…もうこんな所まで来ちまったのかよ…っ!」

 額からダラダラと湧き出し流れる、冷たい汗。第57区画と言えば、『冥骸』所属の死語生命(アンデッド)達が拠点を設けている地域である。そこに飛び出してしまえば、現状より遥かに強烈な怨場の中で、現在の十倍以上の戦力を相手にする羽目になる。

 間違いなく、助からない。

 「クソッ、クソッ、クソッ! 動け、動け、動けってんだよぉ、オレの腐れ腕めっ! 腐れ脚めぇっ!」

 烈火のごとく叫べども、手足はプルプル震える程度で、全く聞く耳を持たずに淡々と全速力前進を維持するだけ。

 

 誰も彼もが、胸の内に重苦しい絶望を抱え、奇跡のような希望を渇望している。

 そんな最中、瞳に遙か彼方の希望の星の輝きを映し、それを手繰(たぐ)り寄せんと奮闘するのは、2人の男女。

 ロイと、ノーラである。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ANGER/ANGER - Part 3

 「来やがれ、全身武器野郎!」

 「来なさい…怨霊(レイス)のヒト!」

 2人は示し合わせたように、ほぼ同時に各の相手に向かって啖呵(たんか)を切り、互いの敵に向かって更に接近する。

 これを受けて『十一時』も"お姫様"も表情に激情を浮かべたが…より表情を激しくさせたのは、"お姫様"である。

 彼女にしてみれば、今まで全く手も足も出ずにやられっ放しだった相手が、急に気力を取り戻して挑発してきたのだから、苛立ちを感じずにはいられなかったのだ。

 "お姫様"は体の輪郭を蚊柱のように朧に揺らしながら、霊体を激流のように変化させて急接近する。その全身には勿論、霊障を引き起こすための強力な怨場を纏っている。かすっただけでも、皮膚や筋肉がどす黒く(ただ)れ、場合によっては腐り落ちる可能性もあるだろう。

 対するノーラは、右腕には重度の火傷、そして全身は酷い打撲と擦過傷に覆われてボロボロだ。疾走する一歩ごとに、電撃のような疼痛が脊椎から脳天へと突き抜けてゆく。

 それでも、今のノーラは決して挫けはしない。激痛を気丈に噛み殺しながら、翠の瞳を不安で揺らめかすこともなく、真っ正面から一直線に"お姫様"と相対する。

 ここで挫けては悲惨な最期を迎えてしまう、それだけは避けたい…という決意も勿論ある。しかしそれ以上に、ノーラの魂を支えるのは…ロイの存在だ。

 彼がかけてくれた、力強い言葉。それがノーラの冷えかけた魂に、爽やかな真夏の太陽の暖かみを伴った勇気と希望をくれた。

 (そうだ…ロイ君は、本当に希望の星を撒くヒトだ…!

 ロイ君がくれた星の輝きが、こんなにも私に力をくれる!)

 "お姫様"との距離、わずか十数センチ。ここで"お姫様"は、青い爪がギラつく貫手(ぬきて)で、ノーラの顔面をねらって疾風のような一撃を放つ。

 対してノーラは、身を屈めて貫手をやり過ごしながら、クルリと体を回転。"お姫様"の下に潜り込み、その病的で憎悪に満ちた顔と向き合いながら、愛剣を振るって"お姫様"の腹部に叩きつける。

 "お姫様"はすかさず、腹部周辺の霊体を霧散させて、斬撃をやり過ごそうと試みるが…突如、彼女の漆黒の瞳が真ん丸く見開かれる。

 グニュリ――霧散したはずの腹部が、綿飴が潰されるような衝撃を得る。そして"お姫様"は、あらぬ方向への急加速をもらい、全身を錐揉(きりも)みに回転しながら横手に吹き飛ぶ。

 (…!? どういう…ことだ…!?)

 これまでほぼ余裕で受け流す――もとい、"突き抜け流し"てきたノーラの攻撃だと言うのに、明確な回避行動を取った上で、直撃を受けたのだ。一体何が起こったのか、"お姫様"は理解出来ない。

 しかし"お姫様"は何時までも戸惑いに捕らわれることなく、体勢を立て直すと、再びノーラへと飛びかかりに向かう…が、その時にはすでに、ノーラの方から"お姫様"の方へ肉薄している。

 「はぁっ!」

 気合一閃、ノーラはコンパクトに振りかぶった愛剣を"お姫様"の中心線に向かって振り下ろす。満身創痍ながらも果敢な闘志と素早さで攻め続けるノーラに多少ならぬ驚愕を覚えながら、"お姫様"は全身を霧散化させながら急激に後退――する途中で、今度は右半身に叩き下ろされる強烈な衝撃を覚える。

 慌てて状況を確認のために視線を走らせると…中途半端に霧散化した右肩から先が、ゴッソリと体からもぎ取られて、装甲車の外装に叩きつけられていた。

 (何故…!? 何故、私の霊体(からだ)が、こうも捉えられる…!?)

 "お姫様"を襲う、困惑と動揺の衝撃。それが生み出した隙に、ノーラはすかさず滑り込む。一歩踏み出した左足で、装甲車の外装に叩きつけた"お姫様"の右腕を踏みつける。左足を覆う靴の裏には、『崩天』と共に対霊体用の[rb:魔化>エンチャント]]を施しており、足の裏は霊体を通常の物体と動揺に押さえ込んで固定する。

 "お姫様"の右腕を左足に任せたのと入れ替わりに、ノーラの愛剣が跳ね上がる。ギラリと輝く銀閃は、"お姫様"の頭部を狙い、横薙ぎの斬風となって肉薄する。

 対する"お姫様"も、いつまでも動揺に捕らわれてはいない。丸くした漆黒の瞳を剣呑に細めると、上体全部で仰け反って斬撃をやり過ごす。大気を引きずりながら吹き抜けてゆく斬風に、"お姫様"のベレー帽および奈落のような黒髪が、ユラユラと揺らめく。

 直撃を受けずとも、霊体の端が揺らめく様を見て取った"お姫様"は、細めた瞳の内で怨恨を目一杯込めた呟きを漏らす。

 (この()…ここに来て、私への対霊体対応が的確になってきた。しかも…私の攻撃に、おどおどしなくなってる…)

 先刻、さほど長い時間を費やしているワケでもなかった、仲間の男子生徒との対話が、娘の魂魄を強靱にしたようだ。向精神剤や感情操作魔術でなく、仲間同士の絆と云うヤツで、満身創痍の身体と精神のコンディションを整えてしまうのだから、人類というものは面白くも恐ろしいものだ。

 (だが…自ら突っ込んで来るのならば、それはそれで好都合)

 "お姫様"は、仰け反った鼻先を通過するノーラの左腕に目を付けると、自らの左手を延ばし、その手首をガッシリと握り込む。

 掌には当然、霊障のための術式を練り込んである。握られたノーラの手首から、怨場と生体電流が干渉するパチパチと云う雑音が発生し、"お姫様"の掌の周囲の皮膚組織が墨汁よりなお暗い漆黒で染まる。皮膚組織の壊死が早速始まったのだ。

 ノーラは骨の随にまで貫くジクジクした不快な鈍痛を覚え、眉根に深い皺を刻む。しかし、彼女の動きは止まらない。右足を跳ね上げ、"お姫様"の背中めがけて蹴撃を放つ。脚は蛍光色の魔術励起光を帯びており、僅かな時間に高速で対霊体用の身体魔化(フィジカル・エンチャント)を施しているようだ。

 対する"お姫様"も負けじと動く。蹴りが自分の背中に突き刺さるよりも早く、掴んだノーラの左腕をグイッと引っ張り、その勢いに騒霊(ポルターガイスト)の力を乗せて、ノーラの身体をいなしながら宙に浮かせる。ノーラの蹴りは虚しく虚空を切るのみとなった。

 次いで"お姫様"は、ノーラの体を一気に振り下ろし、装甲車の外装へと頭から叩きつける。

 途中、交錯する"お姫様"とノーラの視線。その時、"お姫様"はノーラの目つきに苛立ちを覚え、漆黒の瞳に憎悪の炎を灯す。攻撃を受けている最中だというのに、ノーラの翠の瞳はタカのように鋭く、怯えもなく、"お姫様"を捉えているのだ。

 (…何故、そんな忌々しい眼を…!)

 "お姫様"が胸中で叫んだ、その直後。ゴツンッ! と堅い一撃が脳天から突き抜け、"お姫様"の体がグラリと前傾する。ノーラが、身体魔化(フィジカル・エンチャント)済の右足を巧みに操り、蹴りをベレー帽の中央に叩き込んだのだ。

 (…!!)

 思わぬ反撃で、"お姫様"の力が緩み、ノーラの体が解放される。逆さまの状態で宙空中で自由になったノーラは、すかさずネコのように体を回し、背中から装甲車の外装に落下。出来るだけ受け身ととって衝撃を減らすと、すかさずクルリと体を回して立ち上がる。

 数メートルの距離を開け、対峙する2人。"お姫様"はややゆっくりと体を引き起こし、猫背の体勢でノーラを睨みつけると…その眉がピクリ、と跳ね上がる。

 ノーラが手にする大剣の形状に、少なからぬ警戒を抱いたのだ。

 彼女が定義変換(コンヴァージョン)で生成した刀身、それはシンプルながらも刀剣としては奇妙な形をしている。表面には機械機関の類は一切見えず、磨き抜かれたようにツルリとした平面をしている。一方で、刀身の幅は分厚く、まるで柄から金属の角材でも生えているようだ。斬るよりも、叩くことに向いた鈍器である。そして刀身全体は、一本の真っ直ぐ延びた刀身に、長さの異なる3本の金属製角材が平行に交差するような形状をしている。

 旧時代の地球を席巻した宗教の1つ、キリスト教の十字架にも見えるし、原始的なアンテナにも見える。

 刀剣としては奇妙な形状であるが、対霊体としては非情に合理的と言える。アンテナ状の形状は、電磁場性の身体を持つ怨霊(レイス)を捉えるのには都合が良い。それに、宗教的神聖色の強い形状は、霊の魂魄に脅威を喚起しやすい。

 ただし、形状は合理的ではあるが、相手にとって致命的な性能を備えているとは言い難い。先に述べた合理性は一般論的なものであり、霊体の個性によってはアンテナの形状も十字の形状も、さほど大きな効果をもたらさないこともある。

 それでもノーラが、"お姫様"への克明な解析を捨てて、一般論的な形状を具現化させたのは、先刻に解析を重んじるばかりに後手に回った反省のためだ。

 「最初(ハナ)っからゴチャゴチャ考えるより、まずはやってみりゃ良いんじゃね? で、うまくいかなけりゃ、そん時に考えりゃいいじゃねーか。

 オレはいつも、それで乗り切ってるぜ?」

 そんな言葉は、さっきロイと会話した時に耳にしたものの1つだ。

 ――そう、空回る考えよりも、まずはやってみる…! 足踏みなんてしてる暇なんて、ないんだから…!

 ノーラは対峙もそこそこに、大剣を水平に構えると、一気に加速して"お姫様"へと接近する。右腕は重度の火傷を追っているし、左腕には壊死した細胞が呈する"お姫様"の手の痕がクッキリと浮かび上がっている。両腕共に、それぞれが激痛を訴えるものの、ノーラは身体魔化(フィジカル・エンチャント)で痛覚を遮断。傷ついた筋細胞に鞭打ち、ギリリと大剣の柄を握り込む。

 ブンッ! "お姫様"の間近まで迫ったノーラは、再び"お姫様"の白い顔面めがけて、横薙の一閃を振るう。烈風のような一撃を"お姫様"は身を屈めて回避する…が、彼女の頭上で、ベレー帽や黒髪がフルフルと震えながら、斬風に引きずられる。

 (…この()の対霊体能力が、確実に上昇してる…!)

 "お姫様"は憎悪の冷気で表情を強ばらせながら、斬閃をくぐり抜けてノーラの腹部へと肉薄。貫手を作って、ノーラの腹腔内の内臓めがけて突き出す。

 一方、ノーラは闘牛士のように身を半回転させながら、振るった大剣の軌道を巧みに急変。両腕の筋肉がビリビリとした麻痺で悲鳴を上げるのも気にせずに、ほぼ垂直に大剣を打ち下ろす。

 「ぅあう…っ!」

 "お姫様"の青い唇の合間から、凍えたような呻きが漏れる。大剣に生えた横棒の一端が、"お姫様"の背中にゴツリとめり込んだのだ。

 霊体には内臓も骨格もないものの、対霊体用の打撃を喰らえば、その身には身体にさざ波立つような激痛の衝撃が走る。その不快感に"お姫様"は片目をギュッと閉じて、表情を酷く歪める。

 更にノーラは身体魔化(フィジカル・エンチャント)済の右脚で"お姫様"の顔面をねらって蹴りを放つが、"お姫様"は間一髪、霊体を蒸発させながら転移。ノーラより数メートル手前の地点へと移動する。

 「…殺すぅっ…!」

 "お姫様"は身を屈めた格好のまま、憎悪の炎がギラつく漆黒の瞳でノーラを射抜きながら、虚空を掴み込むように五指を曲げた右手を素早く振り上げる。転瞬、ノーラの体にゾワリと総毛立つような悪寒と痺れが走ったかと思うと、三半規管の狂いと共に身体がフワリと浮き上がった。騒霊(ポルターガイスト)の標的にされたのだ。

 そのまま"お姫様"は腕を大きく振るうと、その動きに合わせてノーラの身体がブンッ! と振り回され、トンネルの壁へと叩きつけられる。

 ゴギンッ! 盛大な衝突音と共に、破砕されたトンネル壁の破片と土煙がもうもうと発生する。しかし"お姫様"はこれで満足せず、再び右腕を振るい、土煙の中からノーラの身体を引きずり出す。

 そのまま今度は路面に叩きつけようとしたが…途端に、"お姫様"の漆黒の瞳が憎悪を忘れ、驚愕に見開かれる。土煙から現れたノーラが、騒霊(ポルターガイスト)の力に引きずられながらも、"お姫様"の方へと飛び込んで来たのだ!

 「ハァッ!」

 気合一閃、ノーラは飛び出した勢いに騒霊(ポルターガイスト)の力を乗せて、雷撃のような斬撃を"お姫様"の上にたたき落とす。

 (くそ…っ! また、この娘の対霊体能力が上がってる…!)

 "お姫様"は騒霊(ポルターガイスト)発動のための集中を放棄し、即座に体を捻って斬撃をギリギリで回避する。

 しかし、回避したノーラの大剣は装甲車の外装に激突することなく、その軌跡が急に跳ね上がる。腹部へと吸い込まれてゆく斬撃に対し、"お姫様"は霊体を蒸発させて逃れようとしたが…間に合わない。輪郭が大きくブレた腹部に大剣が突き刺さると、"お姫様"は大きく体を"く"の字に曲げた。

 「っくあぅっ!」

 青い唇から悲鳴を上げる"お姫様"を、ノーラの剣の横棒で引っかけて、まるで一本釣りのように持ち上げる。

 「…セイッ…!」

 そして換え声と共に、そのまま大円の弧を描いて、装甲車の外装に叩きつけた。

 グニュリッ! 大剣の横棒の先端が霊体の奥深くまで沈み込んだ、鈍い粘度のような感触が腕を伝ってくる。これは相当こたえたようで、"お姫様"は漆黒の瞳をチカチカさせて、呆然と虚空を見つめている。

 (…そろそろ…っ!)

 ノーラは意を決して半歩後ずさりながら、空中で激戦を繰り広げているロイへチラリと視線を走らせる。

 

 一方、ロイは『十一時』と爆発的な接近戦を繰り広げていた。

 そう、絡み合うほどの間近での打撃や銃撃の応酬である。『十一時』は時折、体勢を立て直そうと後退することもあるが、ロイはガンガン前に出て、絶対に『十一時』の目前から離れない。

 (こいつ…しつこい過ぎるぞ…!)

 『十一時』はギリリと噛み合わせた口の中で毒づくと、ロイの背後に飛翔物体を回り込ませて接触させると、ローレンツ力による打撃を発生させたり、電磁場による不可視の斬撃を与えたりする。

 それらの一撃一撃を浴びたロイは、その表情に苦々しい色を浮かべる。しかし、すぐに牙がゾロリと生え揃う口で凄絶な嗤いを浮かべると、血反吐を吐き出しながらも竜翼を力強く打って至近距離へともぐり込み、竜拳や竜脚、そして竜尾で嵐のような連撃を見舞う。

 『十一時』は連撃をほぼ直撃で受けているものの、無色透明な電解質体液がドバドバ流れ出す傷口は、即座に泡状の増殖組織によって塞がる。よって、彼には致命的なダメージは刻まれていないものの…ロイの決して退かない、激流のような攻撃には精神が音を上げそうになる。

 (なんなんだ、なんなんだ、こいつは…! 我々のように体組織を高速で再生できるワケでもない、着実に損傷を刻まれているというのに…! 何故、こいつの意志は折れずに、前進を続ける!?)

 『十一時』の疑問符が消えきらない内に、ロイの拳が彼の頬面を捉える。ゴキリッ、と鈍く響く音は、『十一時』の重金属性の脊椎が脱臼する音だ。脊椎内を走る光ファイバー繊維がミチミチと裂断し、『十一時』の全身が一瞬ビクンッと痙攣を呈すると、直後に麻痺が駆けめぐる。

 それでも癌様獣(キャンサー)の高速再生性質は、即座に脊椎の快癒へ向けて組織再生を始めるが、それが完了するよりも早く、ロイの強烈な竜拳が左右に激しく振り回り、ゴキリゴキリと『十一時』の首を揺さぶり回す。

 そのまま続ければ、『十一時』の脊椎がねじ切れ、首から上が吹き飛びそうにも見えるが…光ファイバー神経の回復を最優先にした『十一時』は、振り回される首をそのままに、臀部から飛び出した鋭利な2本の尻尾で、ロイの両脇を同時に刺し貫いた。

 「ぎぅ…っ!」

 たまらずロイは苦痛の呻きを上げるが、すぐに牙を噛み合わせ噛み殺すと。腹筋に力を入れて(いわお)のごとく頑強にして、尻尾がそれ以上体内に侵入することを拒む。それだけでなく、収縮した筋肉で尻尾の動きをギッチリと押さえ込んだ。

 「へ…っ! これで、離れられなくなったなぁっ、ボロマント!」

 ロイはダラリと口元から吐血の幾筋も流しながら凄絶に嗤うと、『十一時』のくすんだ金髪をガッシリと掴み上げ、引き寄せる。そこへ自身の額を激しくぶつけると、ガキュンッ! と重厚な金属板が大きく凹んだような痛々しい音が響く。

 衝撃に『十一時』が大きくよろめき、グラリと仰け反る。が、その直後、『十一時』の脊椎内光ファイバー神経が快癒。麻痺が解けた『十一時』は憤怒の炎を充血した左眼に灯すと、跳ね上がるように体勢を引き戻し、重金属の拳を振りかぶってロイの顔面をねらう。

 対するロイも堅く握りしめた竜拳を突き出すと、両者の拳が壮絶な衝突を引き起こした。

 (ガン)ッ! 重厚な激突音と共に、爆発的な衝撃波が両者へ強風となって吹き付ける。

 その最中、ロイの五指がパラリと形を崩した。見れば、竜鱗に覆われた手の甲は酷くひび割れ、激しい出血がドクドクと噴き出している。拳の衝突勝負は『十一時』の方に軍配が上がり、ロイの拳は無惨に砕けてしまった――一見すると、そのようにも見えただろう。

 そして『十一時』もそのように考え、優越と侮蔑の嗤いをギラリと浮かべながら、拳を再加速。ロイの顔面を狙う…が。

 ロイの体が、突然沈み込む。そして、砕けたように見えた拳で『十一時』の手首を捻り上げながら掴むと、そのまま肘間接を自身の肩の上に乗せて、背負う。

 ズボリ…ロイの両脇から『十一時』の2本の尾が引き抜かれ、ポッカリと開いた脇腹の傷口からドバリと真紅の血液が噴き出す。しかしロイは苦痛を意に介することもせず、そのまま『十一時』の肘間接をゴキリと折り曲げながら、投げ飛ばした。

 ビュウ――! 風を切りながら吹き飛んでゆく『十一時』は、眼下の装甲車の方へ向かって落下してゆく。しかし、『十一時』の快癒した光ファイバー神経は異常なほどの高速の反射速度で体勢を立て直しつつ、背部のバーニア推進機関を噴射して、ロイの元へ最接近を試みる。

 が、その試行が実行に移されるよりも早く。ロイがヒュッと鋭く吸気すると…。

 「行けえっ!」

 咽喉(のど)よ裂けよと言わんばかりの絶叫を張り上げながら、爆発的な衝撃波と共に、極太の輝線の形状を呈する竜息吹(ドラゴンブレス)を噴き出す。輝線の周囲には、もちろん、電磁場を宿すこと示す電光の輪が幾重にも取り巻いている。

 対して『十一時』は、飛翔物体を尾から幾十個も射出すると、自身の眼前で5重の円陣を形成し、その1つ1つに電磁場の障壁を作り出す。これまで散々ロイに破られてきた電磁場障壁であるが、『十一時』とて馬鹿ではない。電磁場の周波数や魔化(エンチャント)のパターンを調整し、ロイの竜息吹(ドラゴンブレス)を封殺する陣容を整える。

 それでも、ロイの竜息吹(ドラゴンブレス)は軽々と3枚の電磁場障壁を打ち破り、4枚目でようやく、激しい電光の火花を飛ばしながら奔流がせき止められた。とは言え、激突によって生じた衝撃波は尋常ならざる爆風を生みだし、『十一時』の全開にしたバーニア推進機関の推力を持ってしても、ジリジリと後退してしまうほどだ。

 しかし、『十一時』は決して諦めない。真紅の左眼で竜息吹(ドラゴンブレス)()めつけながら、その術式構造の解析。その結果を4枚目、そして5枚目の電磁場障壁に反映し、竜息吹(ドラゴンブレス)の影響を徐々に減衰させてゆくと、遂に後退が停止した。

 ――この調子で竜息吹(ドラゴンブレス)を凌駕し、反撃に転じてやる。『十一時』の真紅の左眼の瞳孔がギュッと収縮し、輝線の奔流の向こうに居るはずのロイを視線で射抜く。

 今度は『十一時』がジリジリと、奔流に逆らって前進を始めた頃のこと…。彼のセンサーが、背後から急接近する存在を検知し、警告信号を訴える。

 ――何だ? 思わず浮かんだ疑問符に突き動かされるまま、首を小さく回して、常人と変わらぬ右眼で背後の様子をチラリと伺った…その途端、彼の体がギクリと強ばる。

 流星のような勢いで、こちらへと上昇してくるもの。それは、体を"く"の字に大きく曲げた、"お姫様"である。

 

 「行けえっ!」

 ロイはほんの数瞬前、そう叫んで竜息吹(ドラゴンブレス)を吐き出した。叫びは、竜息吹(ドラゴンブレス)に気合いを込めるための、いわば"儀式的な行為"であると、『十一時』は考えていた。

 しかし、それは間違いである。

 ロイが真に叫びを届かせたかったのは、竜息吹(ドラゴンブレス)などではなく――装甲車の外装で戦う、ノーラであったのだ。

 "お姫様"を意識混濁状態に追い込んだノーラが、チラリと上空のロイに視線を走らせたのは、ロイへ準備が整ったことを知らせたかったからだ。

 先にロイが持ちかけた"作戦"を、実行するために。

 その"作戦"の内容とは、次のようなものだ――。

 「オレが戦ってる癌様獣(キャンサー)と、ノーラが戦ってる怨霊(レイス)。そいつらの共通して、なおかつ、オレ達が利用できそうなもの。それは、どっちも強烈な電磁場を操るってことだ。

 そこで、こいつら2人をぶつけてやるのさ。

 そうすりゃ、電磁場同士が干渉して、ヤツらはお互いにダメージを受けるはずさ。

 …まぁ、実際にどれくらいの結果が望めるのかは、よく分かンねーけど…試さずにジリ貧になるよりは、マシだろ?」

 そしてロイは自案に沿って、ノーラに…もとい、ノーラが放り投げてくれるはずの"お姫様"に向けて『十一時』を竜息吹(ドラゴンブレス)で押し出したのだ。

 一方、地上では、眼を回していた"お姫様"が素早く意識を回復し、前進を蒸発させながら体勢を立て直し、ノーラに向けて更なる憎悪と憤怒の眼差しを向けて身構えた。

 が、この時ノーラは、"お姫様"からの反撃を警戒するよりも何よりも、ロイの叫びに応じることだけに集中していた。振り下ろしたままの大剣をクルリと回し、アンテナのように水平な横棒が3本広がる面を"お姫様"に向けて、烈風のように一歩踏み込みながら、大きく振り上げたのだ。

 グニュリ…大剣の異様な刀身が、"お姫様"の霊体に沈み込み、圧縮した綿の塊のような手応えを伝える。この瞬間、ノーラは魔力を大剣へと一気に注ぎ込んだ。

 ブゥン…古い電子機器が起動時に上げる電子的な雑音のような音が、静かに響く。と、同時に、大剣の刀身全体が電光色に包まれる。この色彩は、刀身が魔化(エンチャント)された強烈な電磁場を宿した事を意味している。

 この電磁場が"お姫様"の霊体を構築する電磁場に干渉し、彼女の体をすくい上げると、まるでゴルフショットのように急な放物線の軌跡を描きつつ吹き飛ばしたのだ。

 宙空でグルグルと激しく縦回転しながら上昇してゆく"お姫様"であるが、早くも自身の霊体を構築する電磁場を操作し、回転運動に急ブレーキをかける。そのまま上昇もピタリと停止させると、宙からノーラを見下ろして青に染まった唇を憎悪に歪める。

 だが、憎悪は表情を突き動かす以上の事象を誘発することはなかった。と言うより、"出来なかった"。

 何故ならば。ノーラの横薙ぎの一撃によって、大剣から飛び出した横棒が、"お姫様"の腹部深くに潜り込んだからだ。

 「がは…ぁう…っ!」

 魔化(エンチャント)された電磁場の鋭い衝撃が、"お姫様"の腹部を貫き、その向こう側へと烈風を振り撒く。この強力な一撃によって"お姫様"の霊体は壊れたモニターが映す映像のようにノイズまみれになりながら、大きく"く"の字に曲げる。そして衝撃に誘われるまま、"お姫様"の体は砲弾のごとく急上昇してゆく。

 ――丁度、ロイの竜息吹(ドラゴンブレス)を耐え続ける『十一時』の背中へと目掛けて。

 

 そして、視線を走らせたものの会費運動が追いつかぬ『十一時』と、"お姫様"の霊体が、遂に激突する。

 

 パァンッ!

 まるで、風船を叩き割った時のような甲高い破裂音が、トンネル中に響き渡った。

 同時に、音の伝搬と共に全身の総毛を逆立てるホワホワしたような電磁場のさざ波が、青白い電光の球面を伴って広がる。

 「うっわっ、なんだこりゃっ! ビリッときやがったっ!」

 [[rb:涼月]]と対峙していた蘇芳が、軍服と皮膚の間で生じた静電気に苛まれて、ビクッと体を震わせながら声を上げた、その時。

 「ぬおおおぉぉぉっ!?」

 蘇芳の声を大きく塗り潰す絶叫が発される。その声の主は、蘇芳と相対していた涼月だ。

 彼の体を覆う蒼い炎が一瞬にして消滅したかと思うと、むき出しになった鎧兜、そして骸骨の身体が膨大な年月を経て風化したかのように、ボロボロと小片へと砕けながら砂状に、更には霧状に細かくなって、足下から徐々に消えてゆく。

 変化が起きたのは、涼月だけではない。装甲車上に広く分布していた影様霊(シャドウ・ピープル)達にもまた、異変が生じる。突如を激しく身をよじって悶える一方で、輪郭が激しくさざ波立つ。そして、塩をかけられたナメクジのようにジュクジュクとその体積を縮めてゆく。

 涼月にせよ影様霊(シャドウ・ピープル)にせよ、彼らの異変の引き金となったのは、この場を支配していた怨場の突如とした欠落である。怨場の発生源である"お姫様"が『十一時』と激突した途端、ロイの狙い通りに電磁場の干渉が発生。それによって"お姫様"の形而下体を構築する電磁場が激しくかき乱されることで、存在定義にダメージを受け、怨場を維持するための集中を失ったのである。これにより、怨場の恩恵を受けて存在定義の依存対象が無くとも活動が可能であった『冥骸』の兵員達は、この場での存在の確立が困難になったのである。

 「おぉのぉれえぇっ!」

 涼月は怨場が消えた状況の中でも、なお存在を確立せんと、霊体に魔力を注ぎ込んで身体の崩壊をくい止めようと努める。が、その抵抗を行うだけで手一杯で、一歩たりとも動けない。

 そこを見逃す蘇芳ではない。身構えながら一気に涼月との距離を詰めると、爆発的に気力が充実した掌底を突き出し、涼月の顎骨の付け根の辺りを強打した。

 「オラッ、さっさと成仏しちまいなっ、枯れ木じいさんよぉっ!」

 暴風のように突き抜ける気力の奔流が頭蓋を突き抜けると、打撃箇所を中心にして涼月の身体が砂塵へ、そして霧霞へと粉砕されてゆく。

 「ぬううぅぅっ、わかぞぉぉぉっ!」

 地縛霊に似つかわしい恨み言を残しながら、涼月の全身がついに霧散する。これによって彼は、蘇芳が言うように成仏を遂げた――つまり、魂魄が変質した――のか、または単に存在依存対象物の元へ引き戻されただけなのか、それは分からない。しかし、やっかいな戦力が1つ、確実にこの場から消え去ったのは確かである。

 一方、怨場の消失によって蒼治、紫、レナの3人は体調不良が瞬時に快癒。蒼治とレナが互いの状況を確かめ合うように視線を交わす最中、紫はニヤリと嫌みを宿した嗤いを浮かべる。

 「よーくもやってくれたわね、影法師風情がっ! お礼に、私から一発…!」

 快癒によって気迫が充実した紫は、全身に魔装(イクウィップメント)を発現させ、勇ましいフル装備を見せつけると。右腕部に装着された電極様機関にバスケットボールほどもある、苛烈な電撃の球体を作り出す。周囲の塵や大気を電離させてバチバチと雑音を立てるこれを、力一杯装甲車の床に叩きつけた。

 「強ッ烈なヤツ、お見舞いしてあげるわっ!」

 紫の怒声と共に、(まばゆ)い電光の爆発が発生。これに包み込まれた影様霊(シャドウ・ピープル)は全身をブドウのようなボコボコの瘤だらけになると、さらにそのまま風船のように膨らみ…音もなく破裂し、消滅した。

 

 さて、装甲車上の脅威が駆逐された一方で、宙空で衝突した『十一時』と"お姫様"は、互いの電磁場の干渉によって発生した大蛇のような極太の電流に雁字搦(がんじがらめ)めになり、身動きが出来ない状態になっていた。どうやら、互いに異なる磁極を強烈に帯びてしまい、発生した引力によって絡め取られてしまっているらしい。

 そこで両者は、各々の電磁場を調整して離脱を試みるのだが、呼吸が全く合わず、却って電流が激化するばかりだ。やがて電流は大気分子を電離させ、生成されたオゾンによる生臭い匂いが辺りに立ちこめ始めた。

 両者の絡み合いを近場の宙空で確認したロイは、こちらにも伸びてくる電流の腕の回避を兼ねて、装甲車の方へと急降下。運転席のルッゾの元へ訪れる。

 「なぁ! 運転手のオッサン!」

 ルッゾの真横に並んだロイは、鼓膜を聾するバチバチという凄絶な雑音に負けないよう、声を張り上げる。

 「あぁ!? なんだ、ドラゴンの兄ちゃん!?」

 ルッゾは大きく首を回してロイの方へ向き直ると…ハッと驚愕と歓喜が混じった表情を顔に浮かべる。つい数瞬まで、"お姫様"の生体電流操作によって自由を失っていた身体が、思い通りに動くようになっているのだ!

 念のため、と云った様子で、ルッゾは自身の左手に素早く視線を走らせる。すると、そこの上に覆い被さっていた青い爪を持つ白い手が消失しているの確認した。

 そう、"お姫様"は自身の霊体(からだ)を脅かす電磁場に対処するのに精一杯で、身体の一部を分離させて遠隔操作するだけの余裕を失ったのだ。

 「おおっ! 動く、動くぜ! オレの身体!」

 少し前までは沈着冷静そのものだったルッゾだが、爽快な解放感を身に受けて、両手をハンドルから放してガッツポーズを取ってはしゃいで見せる。直後、制御を失った装甲車がキュキュキュッ、と激しいタイヤの擦過音を立てながら蛇行を始めたので、慌ててハンドルを握り直した。

 「危ねーなぁ、オッサン」

 蛇行の際に装甲車にぶつかりそうになっていたロイは、額に冷や汗を浮かべながら安堵のため息を吐きつつ語る。

 「ああ…済まない。つい…な」

 心底申し訳なさそうに謝罪するルッゾの声音は、少し興奮の余韻が残るものの、元の冷静さを取り戻したといえる落ち着きようである。

 「ともかくオッサン、身体の自由は戻ったみてーだな?

 それじゃ、サッサとズラかっちまおうぜ! あの厄介なヤツらが、回復しないうちに、さ!」

 「あ…ああ、その通りだ! 今がチャンスだなっ!」

 ロイの言葉に同調するや早いか、レッゾは素早くギアをバックに入れると、思いっきりアクセルペダルを踏みつけて、全速力で後進(バック)を実行する。

 屋根が吹き飛んだ人員収納スペースや、外装の側面では、急に逆方向に向いた加速度によって、乗員たちが吹っ飛びそうなほどにつんのめって体勢を崩す。

 「バッカヤロー! バックするならするって、ちゃんと言いやがれッ! ブッ飛んじまう所だったじゃねーかっ!」

 人員収納スペースでは、丁度車両の端っこに立っていたレナが、噛みつくような怒声を上げて抗議している。そこへレッゾは、片手を上げて謝罪の意を示した。

 一方、ロイは装甲車の前面の方に回り込みながら、牙の生え揃った大口を開いて叫ぶ。

 「蒼治ッ、ノーラッ! なんでも良い、出来る限りのありったけの迷彩方術を使ってくれっ!

 紫ッ! 動けるなら、お前の剣についてる推進器で、車のバックを加速させてくれっ!

 オレも、車を押してバックの加速を手伝うッ!」

 言うが早いか、ロイは一気に急加速して装甲車のバンパーの辺りに激突。そのまま竜翼をバサバサバサッ! と激しく連続で羽ばたかせて、車の後進に更なる加速を加える。

 一方、人員収納スペースでは、ロイの言葉に突き動かされて星撒部員達が素早く動く。

 外装に居たノーラは、一度軽くジャンプして『宙地』を使うと同時に『崩天』を解除。重力方向に元に戻すと、もう一度『宙地』を使って人員収納スペースに飛び乗る。

 ノーラが着地した地点は、丁度手近な位置に蒼治が立っていた。2人は視線を交わして小さく頷き合うと、各々手を突き出し、複雑怪奇な幾何学模様が描かれた方術陣を周囲にデタラメに展開。その1つ1つが、空間に様々な偽装クオリアをバラ撒いて、五感への欺瞞を施す。

 他方、紫の方は魔装(イクウィップメント)でフル装備のまま、運転席の方へ全力疾走。ルッゾの隣、助手席の座席に飛び乗ると、身を乗り出して刀身の背を前に向けた機械仕掛けの大剣を突き出す。転瞬、刀身の背に並んだ推進器が青白い魔力励起光を放ちながら、周囲の大気を吸い込んで爆発的に噴出。ロイと共に、装甲車のバックの加速に助勢する。

 エンジン以外の力も得た装甲車は、砲撃のような加速を得ると、宙空で電流と共に絡み合う2人の脅威を残して、トンネルを地下方向に向けて一気に下ってゆく。

 やがて、装甲車上から絡み合う2人が豆粒ほどの大きさに見えるほど距離が開いた、その時。

 ピカッ! 強烈な閃光が、2人を中心にして発生する。どうやらようやく、『十一時』と"お姫様"が互いの電磁場が相反するように調整することができたらしい。ただ、互いに相当の焦燥と苛立ちを抱えていたらしく、電磁場は過剰なほどの強度を有していたようだ。そのため、『十一時』と"お姫様"は互いが同極になった瞬間、電光のような速度で真逆方向に弾け飛び、トンネルの壁に強かに激突したのだ。

 これを見ていたレナが、中指を立てた右腕を大きく振るって、ゲラゲラと笑う。

 「バーカ、バーカ、バケモノどもっ!

 そんじゃサヨナラだぜっ、出来ることなら永遠に、なっ!」

 そしてレナは制服の内側に両手を突っ込んでゴソゴソと漁ると、取り(いだ)したるは、大量の紙束。その表面には、黒紫色の墨で東洋風の書体で漢字と複雑な模様が描かれている。

 この種の紙は、術符と呼ばれている。魔術発動媒体の1つで、黒紫色の墨を構成するフラーレンの分子構造の内部に封入された術式が、発動者の魔力集中を受けて、魔術現象を発現させるものである。工業用に大量生産されているものは、魔術の訓練を受けていない一般人向けに商店で売り出されているものもある。

 レナの持ち出した術符は、彼女の手製のオリジナルだ。その効果は紙面に描かれた模様によって異なるが、概ね蒼治やノーラが現在発動させている方術陣同様、知覚に対する迷彩を空間に展開するものである。

 方術陣と術符、この双方が入り乱れたトンネル内では、風景が壊れたモニターのように砂嵐状のノイズに覆われる。空間汚染ならぬ知覚汚染が発現しており、視覚がデタラメになっているのだ。この迷彩地点に入り込んでしまうと、突然底の見えない奈落の穴に延々と落下し続けたり、目の前に壁が現れたりといった、生々しい幻覚に苛まれることだろう。

 こうして2人の敵の知覚を欺いた星撒部とその他の一同は、あっと言う間にその場を離れ、トンネルの奥深くへと消えてゆくのであった。

 

 一方、その場に取り残された『十一時』と"お姫様"の2人は、それぞれほぼ同時に、叩きつけられたトンネルの壁から身体を引き起こす。

 『十一時』は質量ある身体を重力に乗せてサッと落下し、"お姫様"は質量のない身体でフワリと舞うように路面に着地すると。またもや2人してほぼ同時に、装甲車が走り去った方向へと視線を向ける。

 しかし、癌様獣(キャンサー)怨霊(レイス)の知覚を(もっ)てしても、クオリアからして狂乱した空間を正常に捉えることが出来ない。双方は悔しがるように勢いづけてフイッと首を振り、視線を道の向こう側から視線を外した。

 こうなっては、追跡を諦めざるを得ない。

 目的を果たせなくなった2人であるが、彼らの緊張はすぐに解けるような事はなかった。と言うのも、視線を正面に戻した2人は、味方どころか目的遂行の競合相手と対峙することになったのだから。

 両者の視線が紫電のように絡み合い、その中央に火花が散るかのような錯覚さえ覚えるような殺伐とした雰囲気が生じる。

 剣呑な視線がぶつかり合うこと、たっぷり十数秒。先に動いたのは――"お姫様"である。

 しかし、彼女は『十一時』に襲いかかったワケではない。ナイフのように鋭く細めた眼をそのままに、全身でプイッとそっぽを向くと。全身の輪郭をかき乱された煙のように大きく波打たせたかと思うと、蚊柱が霧散するように姿を消した。

 彼女にしてみれば、『十一時』は確かに競合相手ではあるが、(たお)すべき仇敵というワケではない。彼女ら『冥骸』の悲願――"バベル"の奪取のためには、ここで収穫のない交戦に労力を使って兵力を損なうのは得策でないと判断したらしい。

 さて、1人残された『十一時』は、知覚汚染された空間とは逆方向に向き直ると、背部のバーニア推進機関を起動させて、一気にトンネルを脱しようとするが…その動きが、ピタリと止まった。

 丁度その時、トンネルが地震に襲われたようにゴトゴトと震え出す。そして天井に大きく蛇行する亀裂が生じたかと思うと、その隙間がメキメキと押し広げられてゆく。隙間の向こう側に見えるのは、暗い土ではなく…真紅に充血した巨大な眼球と、重金属の体表面。

 「『胎動』か、何の用か?」

 『十一時』は頭上に出現した巨大な癌様獣(キャンサー)へ、個体識別名で呼びかける。『胎動』と呼ばれた巨大癌様獣(キャンサー)は、先刻に星撒部が地上で戦闘を繰り広げていた際に出現した、胚と恐竜の(あい)の子のような個体である。

 「助勢…のはずだった」

 『胎動』は亀裂の隙間から覗かせた小さな口をモグモグさせながら、大気を揺るがすような低いくぐもった声を出す。

 「だが、遅かったか。

 標的は、逃亡したようだな」

 『胎動』は、星撒部と軍警察の一同が残した知覚迷彩由来のノイズまみれの空間へと真紅の眼球をギョロリと向ける。

 「しかし、奇妙なことだ」

 『胎動』は再びギョロリと眼球を動かし、『十一時』の真上に視線を戻す。

 「あの知覚迷彩は彼等(ひょうてき)による目(くら)ましであることは理解できるが…。

 何故、ここに怨場の形跡が残っている?

 まさか、『冥骸』と軍警察どもが手を組んだとでも言うのか?」

 「いや」

 『十一時』は(かぶり)を振り、否定する。

 「『冥骸』は、俺と彼らの交戦に便乗し、入り込んできただけだ。

 ()わば、俺と『冥骸』は彼ら相手に"並闘"した、というところだ。

 『冥骸』は相当の戦力を引き連れて来ていた。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)を中心に、涼月、そして影様霊(シャドウ・ピープル)の兵員を十数引き連れていた」

 「…その物量の戦力を相手にしておきながら、彼らは逃げおおせたと言うのか」

 『胎動』の巨大な真紅の瞳が、驚愕と動揺でギュッと収縮する。同じ目的を狙って競合する間柄、癌様獣(キャンサー)と『冥骸』の死後生命(アンデッド)は幾度も交戦しており、互いの実力は痛いほど身に沁みている。特に、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)――"お姫様"の正式個体識別名である――の脅威は、強力な再生能力とエネルギー充填能力を持つ癌様獣(キャンサー)(もっ)てしても、苦々しく歯噛みするほどのものである。

 驚く『胎動』は、図体の割に小さな口でゴニョゴニョと呟く。

 「私も今日、闖入者たちと交戦し、彼らが一筋縄ではいかない相手だとは痛感したが…まさか、それほどの実力者だとは…」

 「皆、高い能力を有する個体ばかりだが、特に恐るべきは、賢竜(ワイズ・ドラゴン)の少年だ」

 『十一時』は剥き出しになった真紅の左眼にロイの姿を回想すると、ギリリと牙が擦れる音を立てて歯噛みする。

 「彼らの中では、正直、一番思慮は欠けている。だがそれ故に迷いはなく、本能的な抜群の戦闘センスと、強靱なメンタルを兼ね備えている。

 彼の存在が、心が折れ欠けていた仲間のメンタルを快癒させ、損傷で低下したはずポテンシャルを引き上げさせた。その結果、優位であったはずの亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は失態を犯し、俺も無様をさらす羽目になった」

 『十一時』が言及しているのは、ロイのこと、そして彼が勇気づけて満身創痍の状態から戦意を取り戻したノーラの事だ。

 「確かに、賢竜(ワイズ・ドラゴン)の少年の脅威度は高い。

 だが、私としては定義変換(コンヴァージョン)を操る少女も(あなど)れないと考えている。

 彼女は、数量で圧倒的に勝る我々を前にして冷静に霊核の術式構造を解析し、一時は我々を追い込んだ」

 「なるほど。あの少女、手より頭が回るが故に亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)相手には後手に回り、メンタルも相当衰弱していたが…ペースが噛み合えさえすれば、彼女自身だけでなく、彼女の仲間の戦力さえ引き上げる起爆剤となるワケか。

 今後の交戦においては、考慮せねばならんな」

 『十一時』は独り(うなづ)いて納得しながら、思考に忠告を刻みつける。

 そして、すぐに視線を『胎動』に戻すと、彼に問いを投げかける。

 「『胎動』よ、君がここに来たということは、地上の戦闘は終了したということだな?

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)が呼び寄せた外部人員の捕縛は、どうなった?」

 すると『胎動』は、苦々しげに巨大な眼球を細める。

 「捕縛は失敗した。

 彼らを取得したのは、『インダストリー』の連中だ。

 我らの敗因は、闖入者たちへの対処に戦力を裂きすぎたことだ」

 「まさか闖入者が介入してくれるなど、誰しも予想できなかったことだ。君が気に病むことではない」

 『十一時』は至って無表情に、極めて抑揚の少ない言葉を放っていたが、その内容は『胎動』への気遣いに満ち溢れている。こういった感情に配慮した知性的行動を鑑みると、超異層世界人権委員会(アドラステア)がなんと言おうが、彼らには十分"人類"と定義されるに相応しい資質を有しているように思われる。

 「…ともかく、これ以上ここで待機するのは無意味だ。帰投するとしよう。

 『インダストリー』に遅れを取ったのは残念だったが、情報収集の手間を彼らが負ってくれたと思えば、さほど悔しくもない。彼らが新たな情報を得たならば、必ず何らかの行動に出る。そこに便乗して動けば、十分に巻き返しは出来る。

 我々の目標はあくまで"バベル"の入手でありり、『インダストリー』その他の勢力の殲滅ではないのだから」

 『十一時』はそう告げると、背部のバーニア推進機関を緩やかに噴射させると、『胎動』が覗く割れ目の中へと入り込む。そして『胎動』の恐竜のような重金属製の腹に掴まると、『胎動』は嫌な顔一つせず、身体をくねらせながら地中へ…いや、彼が作り出した転移用亜空間の中へと潜行する。

 転移用亜空間を自作し、空間の瞬間転移を行うのは、『胎動』固有の能力の1つである。この能力を使用することで、『胎動』は己の巨大な体積を苦にすることなく、あらゆる場所に移動することが可能である。

 …こうして『胎動』と『十一時』はトンネル内から離脱。アルカインテール地上部の地区まるごと一画を占拠して作り上げた、生体洞穴様の巣窟拠点へと帰投した。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ANGER/ANGER - Part 4

 ◆ ◆ ◆

 

 一方。アルカインテールの地上部の、これまたとある一画に設けられた地球圏治安監視集団(エグリゴリ)"パープルコート"軍団アルカインテール駐在軍の暫定指令拠点にて。

 中枢の司令部に至る金属製の回廊を、ゼオギルド・グラーフ・ラングファー中尉は非常に不機嫌な様子で早足に歩いていた。

 彼は紫色に染め抜かれた"パープルコート"の正式礼装を身につけながらも、装束に見合わぬ非常にガラの悪い姿で、トゲトゲしい威圧感をバラ撒きながらノッシノッシと大股で歩く。礼装のコートのポケットに両手を突っ込み、背筋を猫背に曲げてある様は、さながらチンピラである。

 そんなゼオギルドが回廊のど真ん中を歩くものだから、すれ違う"パープルコート"の下士官や事務官は間違っても肩などに触れて要らぬ刺激を与えぬよう、壁に張り付くようにして彼を避ける。本物のチンピラなら、そんな有様に優越感を感じるか、はたまた(あま)邪鬼(じゃく)的に癇癪を起こして喧嘩をふっかけてくるかのどちらかであろうが、幸いにもゼオギルドの人格はそこまで落ちてはいないようだ。すれ違う者たちのことなど眼中にいれず、苛立ちに燃える視線で虚空を睨みつけながら、ひたすら早足で歩を進める。

 やがて、他の部屋のものとは造りの立派さが違う自動ドアの前まで来たゼオギルドは、白い手袋をまとった右手で拳を作ると、ガンガンと乱暴にドアを叩き、そして叫ぶ。

 「大佐ぁっ! 大佐殿ぉっ!

 ご報告がありますンで、失礼しますぜ!」

 上官に対する発言にも関わらず、粗野にして不躾な言葉遣いを口にすると、自動ドアがウィンと音を立ててスライドする。部屋の主が入室を許可した証拠だ。

 ゼオギルドが遠慮など一切感じさせない大股の歩みでノッシノッシと入室すると、部屋の奥に設置された広いデスクに陣取った人物がため息混じりにボソリと毒づく。

 「やれやれ。五月蠅(うるさ)いヤツが、また増えたか」

 この言葉の主は、アルカインテール駐在部隊を指揮する壮年の大佐、ヘイグマン・ドラグワースである。鮮やかな紫色に染め抜かれた礼服にそぐわぬ、皺だらけの黒ずんだ皮膚は病的な虚弱さを印象づける一方で、光を捕らえて決して離さぬような邪悪とも感じられる老獪さをも(かれ)し出している。

 ヘイグマンが"五月蠅い"とうんざりした言葉を口にしたのには、勿論理由がある。ヘイグマンの執務室には、先客が居たのだ。そしてその先客が、狂った鼻歌を歌うようにブツブツと何かを呟いたり、小躍りしてみせたりと、落ち着かぬ様子を見せていたのだ。

 この先客は、厳密に言えば客とは言えないだろう。何故なら、彼は立体映像であるからだ。青みがかった彼の姿には、時々横縞模様のノイズが走ったりする。

 「ああ~、我が愛しの天使よ! 正に天国からの使いよ! ほんの赤子であったかと思ったお前は今や、これほどまでに雄々しく、強靱に育った!」

 そんな事を語っては、ヘイグマンのデスクの前を不格好なフィギュアスケートのように踊り歩く先客の脳天気さを見て、ゼオギルドの胸中に灯った苛立ちがいよいよ火焔(かえん)となって燃え盛る。

 「ウルッセェぞ、変態ドクターッ!

 オレぁ、大佐殿に重要な報告があるんだよっ! 踊って遊ンでるだけなら、テメェのクッソ汚ぇ研究室の中で独りでやってろよっ!」

 ゼオギルドは相手が立体映像であることも忘れてズカズカと近寄り、先客が身にまとう白衣の襟首を掴もうとして…スカッと宙を虚しく掴んでしまう。これにますます激昂したゼオギルドは、(いわお)を彫り込んだような顔立ちを真っ赤に染め上げる。

 そこへ再び、ヘイグマンの深いため息が割って入る。

 「ゼオギルド、一々頭に血を昇らして喚くな。こちらの頭が痛くなる。

 ドクター・ツァーイン、あなたもいい加減したまえ。あなたがこの異相世界中においても非凡なる才能の持ち主であることは認めるが、だからと言って気の狂った子供のようなその振る舞いをいつまでも許容できるほど、私も寛容ではない」

 ヘイグマンが"ドクター・ツァーイン"と呼んだ先客の本名は、ツァーイン・テッヒャー。白に極めて近い灰色の髪を噴火のようにボサボサと持ち上げたヘアスタイルの、これまた壮年に差し掛かった年齢の男性である。"ドクター"との呼称と言い、身にまとった白衣と言い、右目につけた解析用術式を練り込んだ片眼鏡と言い、いかにも科学者然とした風貌である。事実、彼は医師であり、また同時に魂魄の研究分野においてはこの異相世界中においても屈指の研究者である。

 ツァーインとヘイグマンは年の頃が非常に近いものの、前者の方が若々しく見える。自身の興味分野にのめり込める職業であるが故に、常に自身の部隊について神経を尖らせねばならぬ管理職たる後者に比べると、気苦労が少ないのが要因なのかも知れない。

 ツァーインはニィッと幼子のような笑みを浮かべると、ヘラヘラ笑いながら答える。

 「失敬、失敬。いやはや、私は君たち軍人のように感情と職務を切り離すという行為とは全くの無縁なのでね。

 まー、無邪気にチョウチョを追いかける子供だと思って、気にしないでくれたまえ」

 そう答えたツァーインは声や動作を潜めたものの、「ラララ~」と小さく歌ってみたり、空気相手に静かな動作のダンスを踊ったりする。

 ヘイグマンはそんな様子に心底嫌気が差したようで、深いため息を吐いたが、ツァーインとの通信を切断することはない。これからゼオギルドと交わす言葉を聞かれることを忌避していないどころか、敢えて会話を聞いてもらおうとしているかのようだ。

 「…ゼオギルド、ドクター・ツァーインの存在は気にせず、私への用件を伝えたまえ」

 ゼオギルドは目深に被った軍帽の向こう側でこめかみに青筋を立てながら、ツァーインに今にも噛みつきそうな憎悪の眼差しを向けていたが。上官の指示を受けると、ズカズカとヘイグマンのデスクへと近寄る。そして、両腕を振り上げたかと思うと、デスクをブッ壊すような勢いで一気に振り下ろした。ガァンッ、と落雷のような音が室内に響く。

 威圧的な轟音にビクともせず、静かに座したままのヘイグマンに、ゼオギルドは顔をズイッと近寄せると烈火のごとき勢いで語り始める。

 「最ッ悪の報告です!

 本日、補給物資を運搬してくるはずのイミューン・デルバゲウ率いる中隊が、『インダストリー』のヤツらに捕縛されちまいました!

 捕まりやがったイミューンどももマヌケなんですがっ! それ以上にクソなのは、待機部隊のヤツらですよ!

 いくら想定外の侵入者が騒動を起こしてるからって、そっちばかりに目をやってイミューンどものことをキレイさっぱり頭の外に出してやがったワケですからねぇっ! 捜索隊が急遽別任務に当たることになったってンなら、別部隊が元の任務のフォローに回るのが常識ってモンじゃないですかねぇ!?

 つきましては、待機部隊のクソ部隊長どもに制裁を加えたく思いますっ! 大佐殿、許可をいただけませんかねぇ!? 自分のバカさ加減を魂魄レベルで後悔させてやりますよっ!」

 息巻くゼオギルドに対し、やはりヘイグマンは微動だにしない。苔生(こけむ)した巨石のように静かにゼオギルドの言葉の嵐を聞き流すと、数瞬の間をあけた後に、皺と一体化したような薄い唇を開く。

 「イミューンの部隊については、既に別官から報告を受けている。

 確かに、待機部隊には落ち度があったとは思うが、彼らを指揮すべきゼオギルド、君自身もユーテリアの学生たちにばかり入れ込んでいたのだろう?

 彼らに制裁が必要だとすれば、上官である君も制裁を受けるべきではないかね?」

 するとゼオギルドは、痛いところを突かれたように表情をグッと歪める。

 「た、確かに、オレもユーテリアのネズミどもに入れ込んじまったのは事実ですけど…!

 でもそれは、あのネズミどもがオレたちと"バベル"の情報を部外に持ち出しやがることを懸念したが故です!

 対して、イミューンどもは"バベル"についての情報は殆ど持ってませんでしたから、対応の優先度は低いと判断したまでで…!

 …あーっ! クッソ!」

 語りながらゼオギルドは、目深に被った軍帽を吹き飛ばし、堅い金髪に両の五指を突き立ててグシャグシャと掻き乱す。

 「どれもこれも、元を辿れば、あのユーテリアのネズミども所為だ!

 ヤツらがかき回しさえしなけりゃ、すんなり事は運んだっつーのに…!

 あああああっ!」

 喚き散らすゼオギルドをヘイグマンは冷ややかな視線で見つめながら、デスクの上に両肘を乗せて手を組み、口元を覆って淡々と語る。

 「ゼオギルド、お前の要望は待機部隊への粛正というよりも、招かれざる客どもへの苛立ちをどう解消すべきか、という点に重きがあるようだな」

 燃え盛る炎をも一瞬にして鎮めてしまいそうなほどに冷徹にして冷静なヘイグマンの言葉に、ゼオギルドは右手でガシガシと頭を掻き乱し続けながら、左掌をバンッとデスクに叩きつけてバツが悪そうに言う。

 「あー、そうですよ、そうなんですよっ!

 待機部隊のヘボどものマヌケっぷりにイラついてンのも確かなんですがね! それ以上にムカつくのが、ぽっと出て派手に暴れまくりやがった、ユーテリアのガキどもですよっ!

 オレたちの空間迷彩結界を易々と突破してきやがったんですぜ、あいつら! そのままオレたちの情報を持ち出して、本隊に告げ口されたらどうなります!? めんどくせぇどころの話じゃねぇ、オレたち懲戒処分どころか、重罪人として地獄発電炉にブチ込まれて一生魂魄ごと搾取されちまいますよ!」

 「確かに、ゼオギルド、お前の懸念は尤もだ。我らの計画が本隊、いや、他のどの部隊に漏れても、我らの命運は尽きることになるだろう」

 自らの悲劇的な未来に言及する時でも、ヘイグマンは冷徹且つ冷静な口調を決して乱さない。だが、それは彼の単なる強がりが見栄ではない。

 「だがね」

 言葉を続けるヘイグマンは、その皺だらけの顔を初めてニヤリと薄い笑みの形に歪める。

 彼には、絶望的な未来を覆すだけの、"確固"と表現できるほどに自信に満ちた勝算がある。

 「ユーテリアの学生たち、彼らが我々に運んできたのは難題だけではない。

 むしろ、それを遙かに上回るメリットをもたらしてくれたのだよ。

 …そうだろう、ドクター?」

 ヘイグマンは、未だに歌いながら独り踊り続けているツァーインの立体映像にチラリと視線を走らせて、言葉を投げる。するとツァーインは、"待ってました"と言わんばかりニンマリと大きな笑みを浮かべると、大仰な動作で両腕を広げ、熱狂的に喚き散らす。

 「そうだ! そうだ! その通り、その通り、大佐殿の言う通りだよ、ゼオギルド君!

 彼らは、ユーテリアの学生諸君は、文字通りこの都市国家(まち)の状況を掻き回してくれた! そう、物理的にも、情報的にも、魂魄活動的にも、グッチャグチャに掻き回しまくってくれた!

 だが、だが! それこそが、ああ素晴らしい、それこそが鍵だったのだ、次なるステップへの扉だったのだ!

 この一月半の間、泥沼の交戦を繰り広げ続けて来たというのに、頭打ちになり一向に増加しなかったエントロピーが! 今日この日に、彼らという因子を得て、急激に増大したのだよ!」

 「エントロピーだぁ?」

 ゼオギルドは眉根に深い皺を寄せ、ガラ悪くツァーインを睨みつけていたが。すぐに「あっ」と声を上げて、手を叩き合わせて閃きを表現する。

 「つまり、アレだな!

 "バベル"のヤツ、ようやっとこさ、マトモに動けるようになったってことか!? そうだよな!?」

 「左様、左様、左様!」

 ツァーインは熱狂に浮かされるがままに、口から唾を飛ばしながら喚き散らした…が、ふと、表情をピタリと固めると、反り返った筆のような顎髭(あごひげ)の生えた顎に手を置いて首を捻り、虚空を見つめて訂正を始める。彼の正確さを求める科学者根性が、自らの言い回しの不適切さを許せなかったようだ。

 「いやいや、"左様"とは全くの不適切だな。

 "バベル"の万全な起動まで大きな一歩を踏み出したのは確かだが、まだ十分ではない。

 "バベル"の混合魂魄塊を呼び覚ますには、もう少々のエントロピーの増大が必要だ」

 「つまり、ユーテリアのガキどもに、もう一暴れしてもらわにゃダメってことかよ?」

 そう確認の言葉を口にするが早いか、ゼオギルドは白い手袋に包まれた両手をバシンッと叩き合わせて、凄絶に嗤う。

 「そんなら、今からでもアイツら引きずり出して、オレたち含めてこの都市国家(アルカインテール)で顔を切かせてる勢力のオールスターで乱闘騒ぎを起こせば良いじゃねーかっ!

 どうせ、ユーテリアのガキどもは、地下に潜った残留市民(ネズミ)どもと合流してるんだ。地下に猛毒でもまき散らす暫定精霊(スペクター)を大量にブチ込めば、巣穴に水をブチ込まれたアリどもみてぇにワラワラ慌てて這い出てくるだろ!」

 ゼオギルドの暴虐な提案を、「いやいや、いやいや」と手を振りながらツァーインは跳ね退ける。

 「それではダメだ、それでは全くの失策だ!

 草花に水を注ぎ過ぎれば根が腐れるように、赤子に過剰に栄養を与えれば内臓に負担をかけるばかりの駄肉が増えるように! "バベル"にエントロピーを与え過ぎるのは、まことに宜しくない!

 むしろ、危険でさえある!

 過剰に肥大化した混合魂魄塊が形而上相上でエネルギーを持て余して暴走し、自壊どころか、我々の魂魄をも巻き込んで定義崩壊を起こす可能性すらある!

 今日とて私は、あまりに急激な"バベル"の成長に、実は内心ビクビクしていたものだよ! 結果として良い方向に転んだからこそ、こうやって無邪気に騒いでいられるのだがね! 万が一天秤が逆の方向に傾いたらと思うと、ゾッとしてならないね!

 ダメだ、ダメだ! 私とて、"バベル"の万全なる起動をこの眼にしたくてたまらないのだ! だが、急いては事を仕損じる、という言葉の通りだ!

 本日の"バベル"への給餌は、これにてお開き! 赤子も食うばかりでなく睡眠が必要なように、"バベル"にも休眠は必要なのだよ、ゼオギルド君!」

 早口にまくしたてる喚き声を、ゼオギルドは五月蠅(うるさ)そうに肩を(すく)めながら聞き流していた。

 が、ふと、ツァーインの喚きの中に琴線に触れる言葉を胸中で拾い上げると、意地悪げにニヤリと笑って問い返す。

 「なぁ、ドクターさんよ。"本日は"、っつったよな? ってぇことは、明日なら問題ねぇってことだよな? そうなんだよな!?」

 するとツァーインは、喜びに総毛を逆立てて身体を震わすネコのように、大きく息を吸い込んで胸を膨らまして背を反らせると、ゲラゲラと笑う。彼の濁ったブラウンの瞳には、正に発狂した感情の輝きが乱舞している。

 「その通り、その通りだよ、ゼオギルド君!

 とは言え、明日の朝一番というワケに行くかどうかは、ここでは断言できんがね。 今の"バベル"がどれほどの休息が必要か、私でも正確には分かりかねるのだから。だが、これまでの傾向を鑑みれば、大きく見積もっても丸一日あれば問題なかろう!

 だから、すべては明日だ! 明日になれば、更なる成長を遂げたバベルは、完成に至るために本日より更に多大なエントロピーを必要とするだろう!

 つまりは、本日より更に! 更に酷い、それこそこの都市国家(まち)が吹き飛ぶほどの混沌騒ぎが必要だ!

 それゆえに私は、ヘイグマン大佐の元にこうやって目通りしているのだ! 明日! 来るべき明日に、如何様にして本日を越える混沌騒ぎを! 乱闘を! 引き起こすべきか、作戦会議のために!」

 激しい興奮ゆえに多分に冗長を含むツァーインの言葉をあまり快く思っていなかったらしい、皺だらけの顔に多少ムッとした気配を張り付けたヘイグマンが、ツァーインの言葉の続きを引き取って語る。

 「明日、ドクター・ツァーインからの報告があり次第、地下区画に対人暫定精霊(スペクター)を放ち、残留市民および本日の侵入者たるユーテリアの学生たちを地上に(おび)き出す。

 また、『インダストリー』、癌様獣(キャンサー)、『冥骸』の各勢力に対しても、彼らの拠点に向けて攻撃を開始。残留市民どもと引き合わせ、四つ巴の混戦を引き起こしてもらう。

 我らが部隊は、混戦の趨勢を見ながらエントロピーが増大する方向に手を加える。間接的な攻撃によって各勢力のバランスを整えるつもりであるが、場合によっては直接交戦現場に一部の戦力を派兵することもあり得る」

 その言葉を聞いたゼオギルドは、先のツァーインのように身を震わせながら胸を膨らませると、ニンマリと凄絶な嗤いに顔を歪める。

 「そぉりゃあ、楽しそうじゃないですかぁっ! 祭だ、祭! 戦争祭の大開催じゃないッスかぁっ!

 大佐ぁっ、その祭、オレは現地で暴れさせてもらいますぜっ!

 最近は小競り合いばっかだし、執務室に()もらされてばっかで、身体がナマってたところだったからなあ!

 ちょうど、ユーテリアのガキども…特に、あの賢竜(ワイズ・ドラゴン)のガキをブッ飛ばしてぇと思ってましたし! スカした『十一時』のヤローも、根暗な亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)のクソアマも、図体ばっかのプロテウスのブリキ人形も、全部! ぜーんぶっ、この手でブッ叩き伏せたくてウズウズしてたんですよっ!」

 ゼオギルドの台詞中に現れた"プロテウス"という名前は、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーの施設軍隊所属のエースパイロットのことだ。大型の人型機動兵器の操縦を得意とし、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)を含めた競合勢力を苦しめている、『インダストリー』の屈指の実力者である。

 ゼオギルドは言葉に宿した興奮の炎がそのまま自身にフィードバックしたように、その場で激しく地団駄を踏む。

 「かぁーっ、(たぎ)るぜぇっ! (みなぎ)るぜぇっ!

 今すぐにでも、この衝動をブッ放してぇっ!」

 そしてゼオギルドは、自らを焼く興奮の熱に(あぶ)られて不快感を感じたかのように、両手を包む白い手袋を乱暴に外し、正方形の金属パネルが整然と並ぶ床に無造作に投げ捨てる。

 露わになったゼオギルドの両手は、手袋で保護しているのに見合わぬほどに無骨だ。ゴワゴワになった厚い皮膚が、見る者に殴り慣れているような印象を植え付ける。しかし、それ以上に、見る者を引きつけるのは、どちらの手の甲にも埋め込まれている、澄み切ったガラス玉のような機関だ。

 ――いや、埋め込まれているのではない。これはれっきとした、ゼオギルドの体組織の一部なのである。

 ゼオギルドが握り締めた両の拳を胸の前でガチンと打ち合わせると、ガラス玉様の器官にパッと輝きが灯る。右側は赤に、左側は青にそれぞれピカリと光ったかと思うと、火花のように炎と水の飛沫がブワリと吹き出した。

 これらの飛沫は、宙で幾つかの塊にまとまると、火は小さな鳥状の、水は小さな蛇状の形態を取り、ゼオギルドの拳の周りを飛び回る。これらは、暫定精霊(スペクター)だ。呪言(チャント)の詠唱を初めとした儀式を行うことなく、一瞬にして暫定精霊(スペクター)を作り出したのだ。

 乱暴なほどに(はや)るゼオギルドを、細く鋭い眼差しで眺めていたヘイグマンは、皺のような口を割って「そうだな…」と呟く。

 「ゼオギルド、お前とその直属の部隊には、地下居住区への攻撃の任を与えるとしよう。お前の能力を鑑みれば、それが適任だな。

 お前のその暴力で、存分に残留市民どもを掻き回し、エントロピーを上昇させろ」

 「おっしゃっ!」

 ゼオギルドは打ち合わせた両拳でガッツポーズを取ると、無意識のうちにヘイグマンのデスクに放り投げていた軍帽を取り、目深にかぶり直すと、ご満悦の笑みを顔一杯に浮かべる。

 「そんじゃ、大佐ぁっ!

 明日の号令、首を長くして待ってますぜ!

 さーて! この熱くなった体、冷やしちまわないように、いっちょ走り込みでもしてくるかぁっ!」

 ゼオギルドは大声を張り上げながら、キビキビと踵を返し、ヘイグマンの部屋を退室しようとしたが…。ドアの直前まで来て、ふと、足を止めると興奮を疑問符で塗りつぶした表情をヘイグマンに向ける。

 「あ、そうだ、大佐。今、2つ気掛かりなことが頭に浮かんだんですがね」

 「なんだ?」

 「1つは、明日の作戦までの間に、ユーテリアのガキどもが外部に連絡を取る可能性があるんじゃねーかな、と。

 オレたちの結界を破って侵入してくるような連中だ、結界の通信妨害の術式も破る可能性、考えられますよねぇ?

 そんでもって、オレたちのたくらみが本隊にバレちまったら…どうします?」

 「その心配は無用だ」

 ヘイグマンはつまらなそうに手を振って、ゼオギルドの頭上の疑問符を消しにかかる。

 「本隊がこの都市国家(アルカインテール)に到着するまでには、"バベル"を必ずや起動させる。

 その成果を目にすれば、本隊は私らにとやかく言えないどころか、偉大なる結果を認めざるを得ないだろう」

 その言葉を聞いて、ツァーインは苦笑いを浮かべる。

 「大佐殿、起動させるのは私ですよ? 可能かどうかの判断は、私に尋ねてから口にしてほしいですな。

 まぁ…絶対に、やり遂げてみせますがね。ここまで来て計画を潰されるなど、たまったものじゃない!」

 ゼオギルドもヘイグマンも、ツァーインの言葉が終わるまで次の言葉を口にはしなかったが、両者ともにツァーインにはチラリとも一瞥をくれることはなかった。尋ねるまでもなくツァーインの可能性を信じてるのか、はたまた、無理と言われようが選択肢には"やる"しかないからハナから意見を耳にするつもりがなかったのか、伺い知ることはできないが。

 1つ目の疑問への回答に納得したゼオギルドは、もう1つの疑問を口にする。

 「それと、イミューンのマヌケどものことなんですがね。あいつら、どーします? 明日、『インダストリー』にけしかけるついでに、救出する予定ですか?」

 「いや。捨て置く」

 ヘイグマンは全く思案することなく、冷酷な即答を口にする。

 それを耳にしたゼオギルドは、「ホッ…!」と声を上げて鼻で笑う。そこへヘイグマンは、続けて自身の腹積もりを口にする。

 「増援が得られなかったからとは言え、むざむざ捕まるのは無能だ。

 とは言え、奴らが捕まったからと言って、我々が被る不利益はちょっとした物資が手に入らなくなってしまった程度だ。奴らは肝心の"バベル"については単語程度に知るだけで、その所在はおろか、実現理論など微塵も知らん。脳をスキャンされようが魂魄を解析されようが、『インダストリー』の連中は何一つ有益な情報を手に入れることは出来んだろう。故に、我々が手を煩わせ、積極的に制裁を加える間でもない。

 明日の乱戦の中、生き残ればそれはそれで良し。死んだとしても、それはそれで構わん。彼らの命運は、彼らの努力と天運に任せておく」

 部下の命を預かる上官としてはあまりにも冷淡な言葉に、ゼオギルドは肩を(すく)めて見せたが、だからといってその表情に非難の色が混じることはない。それどころか、ヘイグマンに同調するように冷たい笑いをハッ、と鼻から吐き出す。

 「それ聞いて、安心しましたわ。

 折角の乱闘祭だってのに、マヌケどもの尻拭いなんて興冷めを背負わされちゃあ、たまったモンじゃねぇですからね。

 じゃ、オレは奴らのことなんてほっといて、ユーテリアのガキどもと楽しく遊ばせてもらいますわ」

 「…お前の相手は、ユーテリアの学生だけでなく、残留市民たちもだ。それを忘れるなよ」

 釘を刺すヘイグマンであるが、ゼオギルドは肝に命じたような様子を見せず、クルリと踵を返すと、手袋を脱ぎ捨てたままの右手を高く上げて退室の挨拶を見せる。

 そのまま、開いたドアの向こう側へと姿を消してゆく、その時。ゼオギルドの背中に、ツァーインが興奮した笑い声をかけてくる。

 「ゼオギルド君、それでは明日、明日! お互い目一杯楽しもうではないかっ!

 君はチンケなネズミどもを小突き回して!

 私は偉大なる"バベル"の完全なる産声を耳にして!

 それでは明日、楽しもう! そして!」

 閉まりゆくドアの(わず)かな隙間に、ツァーインは目一杯の張り上げた声を滑り込ませる。

 「我らが偉業の産物たる、『天国』を片手に、祝杯を上げようではないか!」

 その声を耳にしたゼオギルドが、上げたままの手を左右に軽く振ったように見えたが――直後、ドアはプシュンッ、と音を上げて堅く閉ざされたのであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 所変わって――アルカインテールの地下居住区へ向かう、トンネルの中。

 強烈な追っ手から逃れた星撒部一同と、アルカインテール市軍警察たち(と、プラスアルファ…これはレナ・ウォルスキーのことである)は、屋根の吹き飛んだ装甲車に乗って一路真っ直ぐに坂道を下っていた。

 装甲車は途中で転回し、今はきちんと前進している。追っ手から逃れる際に加速の補助をしていたロイや紫も役目を終え、もはやトラックの荷台と大差がなくなってしまった人員収納スペースで腰を下ろしていた。

 とは言え、まるっきり力を抜いて憩っているのは、2人のうちではロイだけである。残る紫は一体何に従事しているかと言うと、治療魔術を用いてノーラの治療に当たっていた。

 『冥骸』の実力者、"お姫様"こと亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)との死闘をくぐり抜けたノーラの体は、かなりの重傷であった。霊的人体発火(インフレイム)による重度の火傷を負った右腕は勿論のこと、騒霊(ポルターガイスト)による激しい打撲を受けた身体には、鬱血(うっけつ)だけでなく骨にヒビが入っている箇所が何箇所もあった。それどころ、なんと肋骨の一部が折れて、内臓に軽く突き刺さってすら居たのである。

 「なんて言うかさ…怨場を大人しく食らってオエオエしてた方が、マシだったんじゃないの…?」

 紫が心底痛々しい表情を作りながら、暖かな魔術励起光を放つ掌をかざして、ゆっくりとだが着実に損傷した体組織を治癒してゆく。

 紫もまた、先の戦闘でかなり疲労をしたため、普段の彼女と比べれば治療魔術の効力は薄い。それでも、装甲車が向かう先にあるだろう、軍警察の拠点でノーラの治療を任せなかったのは、治療魔術の使い手としてノーラの重篤な症状の放置はマズいことを痛感したからだ。

 魔術は旧時代の科学よりも可能性を大きく広げはしたが、万能ではない。旧時代の医療技術では不可能とされていたレベルの重篤な怪我の治療も、後遺症も傷跡もなく快癒させることは出来るが、それには時間制限がある。傷を負ったままある程度の時間――"程度"は傷の深さや種類による――放置してしまうと、その体部の定義に傷の定義が染み着いてしまうからだ。

 その観点から言えば、ノーラの深い傷は非常に厄介な部類に入る。だから紫は、疲れた体に鞭打ってでも、ノーラの治療に当たるのだ。

 「…ごめんね、相川さん。私がもっと、うまく立ち回れていれば…」

 「ノーラちゃんも頑張ってくれなきゃ、私たちみんな、そのうちに疲れ果ててやられてたわよ。

 そんな命の恩人をほっぽり出しておくなんて、いくら毒袋持ちの私でも目覚め悪いわよ」

 「…本当に、ありがとうね、相川さん…」

 ところで、治療を受けているのはノーラだけではない。ロイもまた、蘇芳とレナの2人掛かりによる治療を受けている。しかしながら、ロイの治療は紫がやってみせるような高度な治療魔術によるものではなく、練気や術符による、水準の劣る治療である。

 しかしロイは、別段文句を口にすることなく、治療者2人と共にヘラヘラとだべりながら憩いを満喫している。

 「うっひゃー…このわき腹の傷、スゲェ深いっての…。これ、もしかして、モツが見えてるんじゃない…?」

 「お、そうなのか? そういや、なーんか両脇がスースーするなーって思ってたんだ。

 そういや、スゲー腹減ってンだけどさ、これも腹に穴が開いたからなのかな?」

 「いや…スースーするって…。普通はズキズキするとか、焼かれるような激痛がするとか、そう感じるンじゃねーのか…?」

 「つーか、空腹を感じるのって、脳の空腹神経じゃんか…。胃袋が破けても、腹なんか減らないっての…。

 腹減ってるのは、治療魔術で暴走君の代謝がスゲェ加速してるから、消耗したエネルギーを体が欲してるからでしょーが…」

 「まぁ、理由なんてどーでもいいや。とりあえず、なんか食いてーな。大盛りのカレーライスとかありゃ、最高だなぁ!」

 「…オレ達のキャンプまで戻れば、なんかご馳走してやるよ。今日の献立がカレーライスだったかどうかは、覚えてねぇけど…」

 治療者2人は、満身創痍の激闘をくぐり抜けたとは到底思えないほど暢気(のんき)なロイの様子に、ただただ呆れ果てた様子で苦笑を浮かべるのであった。

 そんなロイ達の様子を横目で見ていた紫は、ノーラの方へ視線を戻し、その重傷具合を見ると、思わずプッと吹き出す。

 「…どうかしたの?」

 キョトンとしてノーラが尋ねると、紫はケラケラとした笑いに震える声で答える。

 「いやね…朱に染まれば赤くなるって言葉は、ホントだなぁってしみじみ思ってさぁ…。

 だって、ノーラちゃんって、クラスじゃホントに霧みたいに静かだってのに…昨日今日ですっかりロイに染められちゃって、今や我が部の立派な突撃要員になっちゃったなぁって…。なんか、可愛いメダカを育ててたつもりが、サメになっちゃったようなアベコベな感じがしちゃってね。可笑しくなっちゃったワケ」

 対してノーラは、紫のからかい混じりの言葉に気を悪くするどころか、キョトンとした表情を崩さずに首を傾げる。

 「突撃…要員…? そうかな…?

 私はただ…自分にやれることをやろうと思ってるだけだし…」

 「いやいやいや! 自覚がないだけで、素質在るって! 星撒部突撃隊の立派な一員になれる!」

 「突撃班…? そんな集まり、この部にあったんだね…?」

 本気で紫の言葉を鵜呑みにして聞き返すノーラに、紫の笑いはますます大きくなる。勿論、"突撃隊"というのは、ロイのように部員の中でも特に過激な行動派を一括りした表現に過ぎない。

 しかし紫は、そこを指摘することなく、実際に存在する集団といった感じで話を進める。

 「そうそう! ロイはそこの筆頭隊員ってワケ!」

 「…それじゃ、隊長さんは…?」

 「勿論、立花渚副部長に決まってるじゃん!

 まー、昨日は相手との兼ね合いもあったから大人しかったからねー、あんまり突撃隊長って感じを受けなかったかもしれないけどね。

 普段の副部長は、あんなんじゃないから!」

 この言葉を聞いて、ようやくノーラの表情が変わり、引きつった苦笑が張り付く。と言っても、からかわれた事に気づいたというワケではない。昨日の立花渚が"大人しかった"という言葉に、苦笑を禁じ得なかったのだ。

 昨日――都市国家アオイデュアでの一件では、初めこそ渚は静かであったが。結果的にはたった1人で山のような莫大な物量の天使達を蹴散らすと云う、恐るべき成果を上げている。これで"大人しい"となれば…普段の彼女は、山一つどころか山地を丸ごと吹き飛ばすような真似でもしているのだろうか?

 やはり、"暴走部"と噂されている星撒部、それを率いる副部長だな、と感心する反面、畏怖の念が湧くのであった。

 

 さて、星撒部の残る1人、蒼治・リューベインは、運転手のレッゾの隣の助手席に座り、粛々とした様子で彼と会話を交わしていた。

 「…良いのか、兄ちゃん? 傷ついたお仲間の側にいてやらなくとも…?」

 盛り上がっている後部の様子にチラリと視線を走らせながらレッゾが尋ねると、蒼治はハァー、とため息を吐いて目を伏せると、眼鏡を外して眉間を指で揉む。

 「僕らは、学園の他の生徒達には"暴走部"なんて呼ばれてましてね。不名誉な呼ばれ方ですけど、部員の活気について言えば的を得た表現ですよ。

 彼らなら、胴体を分断されても、上半身だけでも這いずり回るでしょうね」

 「…マジかよ、ユーテリアの"英雄の卵"ってのは、マジでハンパじゃねぇなぁ…。

 まぁ、レナを見てて、ハンパじゃねぇ人材が揃ってるんだろうなって実感はしてたんだが…。アンタらはレナどころじゃない、本物のバケモノだぜ…」

 その言葉に蒼治は、ナハハ、と声を上げて苦い笑い声を上げた。

 …直後、蒼治はキュッと顔を引き締め、眼鏡をかけ直すと、ガラスをキラリと輝かせながらレッゾに問う。

 「ところでレッゾさん、一つ訊いても良いですか?

 戦闘の前に、蘇芳さんが言っていた件について」

 「ああ、"バベル"のことだな」

 レッゾの厚い唇が紡いだ言葉に、蒼治は深く頷く。

 「さっきの戦闘の前、蘇芳さんは言ってましたよね。それが、史上初の『握天計画』の成功例だと。

 一体、どんな代物なんです? この都市国家(まち)の上空に、奇妙なほどに小さな天国がありましたが、それはその"バベル"が召喚したものということですか?

 それに、そもそも――もし不快に感じたのなら、すみません――魔法科学研究を主体としているワケでない、鉱業主体のこの都市国家が、なんでそんな代物を持ってるんです?」

 蒼治の言葉に含まれる複数の疑問に対して、レッゾはまず、"バベル"という代物の概要について答える。

 「"バベル"ってのは、さっきの戦闘の前に蘇芳がチラッと言った通り、半生体で構築された『天国』召喚用の機関さ。

 "半生体"って言う通り、機械機関部品と生体部品を混ぜ合わせて出来てる。この生体部品が、単に培養された人工細胞だとかなら、"パープルコート"の連中も存在を隠匿しなかっただろうが…蘇芳が"胸糞悪い"と言ったのは、その生体部品が多種多様の種族の人体によって構築されていることだ」

 「…!!」

 蒼治が息を飲み、全身の毛を逆立てるような激情に表情を歪める。

 人体を使った実験装置の類は、しばしば魔法科学の研究者――とりわけ、『天国』や魂魄、定義論の研究者の垂涎の的となっているが、人道的な理由によって勿論作成は禁止されている。仮にそれを作成したことが世間に知れれば、死罪を賜っても文句を言えない重罪を課せられる。

 「人体を使った、『握天計画』の実現装置というワケですか…! そんなものを、本来規制する側の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)が製造していたなんて…!」

 「ああ、ホントびっくりさ。

 俺たちだって、あの日…このアルカインテールが崩壊しちまった約1ヶ月半前、実際に起動した"バベル"を目にするまで、全くの寝耳に水だったからな。

 アレが実は、秘密裏に数年前から製造が進められていたって知ったのは、避難民の中に混じっていた"バベル"プロジェクトの関係者から教えられてからさ。

 …全く、今思い出しても身震いするぜ、アレの構造がどうなっているのかって話を思い出すとよぉ…」

 レッゾは左手をハンドルから離すと、鳥肌立っている右腕をギュッと抱き締める。そのまま数瞬の間、ブルリと震えて無言を保っていたが…やがて再び、厚い唇を重苦しげに開く。

 「兄ちゃんが言った通り、この都市国家(まち)の上空にある『天国』は、"バベル"が呼び出したものさ。

 オレは専門知識なんて持ち合わせてないんで、プロジェクト関係者のヤツからの話も大半聞き流しちまっててよく覚えてないんだが…。"バベル"ってのは、魂魄を集めて認識の力を強めることによって、『天国』を呼び出すんだそうだ。

 その"魂魄を集めて認識の力を強める"手段ってのが…クッソ忌々しい、生きた人体の癒合なんだそうだ。

 "バベル"ってのはな、生きた人間の脊椎を繋いで作った、デッカい塔みたいな装置なんだよ」

 ルッゾの言葉に、蒼治は苦々しい表情を浮かべたまま、無言を貫いて耳を傾けていたが…やがて眼鏡をグイッと直しながら「なるほど…」と呟いた。

 魔法技術に対して造詣の深い蒼治は、詳細を欠いたルッゾの説明でも、自らの知識で内容を補うことで"バベル"の理論を理解したのである。

 

 視認出来るものの、触れるのみならず、如何なる手段を(もっ)てしても干渉することの出来ない、超異層世界的存在『天国』。その正体を解き明かそうとする理論の1つに、"阿頼耶識(あらやしき)的天国論"がある。

 "阿頼耶識(あらやしき)"とは、旧時代の地球を席巻していた宗教の1つ、仏教の用語に由来する仮想的な(フェイズ)の1つである。阿頼耶識(あらやしき)相を認める理論によれば、現在"形而上相"として単一に扱われている形而上の存在定義は、実際は複数の(フェイズ)を持つ複雑な構造を持つ…としている。

 世界構造における阿頼耶識(あらやしき)相の役割は、事象の定義式を更に定義づける"動機"を記述することである。この動機は"種子(しゅうじ)"と名付けられた仮想の事象因子である。そしてこの種子(しゅうじ)は、現在の魔法科学の形而上相解析をもってしても微細構造が全く未解明である魂魄においても、その構造を担う因子であるとされている。

 阿頼耶識(あらやしき)相を認める理論における、魂魄…すなわち、生物における知性が世界を認識するプロセスとは、次のようなものだ。

 まず前提として、魂魄には自身を存続させようとする原始的欲求があるとする。この欲求に従い、魂魄は種子(しゅうじ)を使い、自己の定義をより強固にしようと活動する。

 定義は自己による自己認識によっても形作られるが、その場合の強度は非常に脆い。五感の効かぬ真闇の中に1人放り込まれた時のように、魂魄は自己の存在に不安を覚える。

 そこで魂魄は、他の魂魄の種子(しゅうじ)からの自己の定義を集めることで、自身をより強固にする行動を取る。完全な孤独の中では、自分の生死すら疑問視してしまうものの、触れ合える相手がいることで客観性を得て、自己の存在をより強く認識できるように。

 つまり魂魄は、感覚器が捉え脳が解釈した事象を得ることを起点とする受動的な認知を行うのではなく、まず自身が種子(しゅうじ)に動機付けられた認知を広げ、それに反響するようにして他存在の種子(しゅうじ)からなる定義をエコロケーションのように捉える能動的な認知を行っている、というワケである。

 この能動的な認知を行っているとする理論は、同質の神経および脳構造を持っている同一種の別個体が、同一の事象から異なるクオリアを受ける事実の説明を記述していると言える。魂魄の個性によって認知の起点の環境が異なるために、跳ね返ってきた認知への刺激すなわちクオリアが異なるのは当然と言える。

 では、この理論と『天国』がどう結びつくというのか。

 阿頼耶識(あらやしき)相を認める理論では、『天国』とは魔法科学を得た人類の魂魄が求める究極の客観性の具現化であるとされる。そのため、多数の魂魄の種子(しゅうじ)が発した究極の客観性への願望的認識が重なり合い干渉することで、阿頼耶識(あらやしき)相に描画された、いわば"人類の願望が投射された存在"が生成されたという。それこそが、戴天惑星・地球で人類が目にすることの出来る『天国』であるということだ。

 "人類の願望が投射された存在"であるために、『天国』は形而下的な性質を持たない。それがゆえに粒子性も波動性も持つことがなく、"触れる"ことが出来ないことも説明可能となる。

 "阿頼耶識(あらやしき)的天国論"には、以上のように、『天国』の性質の一部を合理的に説明できる理論である。しかし、欠点がないワケではない。

 『天国』が認知に端を発する存在ならば、知性生物の個体ごとによって受けるクオリアが異なり、全く別の外観として捉えられることは十分に考えられるが、実際には人類は共通して同じ外観の『天国』を持つ。それは何故なのか?

 そもそも、莫大な数の並列した異相世界の中、『天国』が描画されるのは何故、地球だけなのか?

 これらの疑問に対し、"阿頼耶識(あらやしき)的天国論"の支持者は、魂魄の構造と、地球が戴天惑星となった原因事象[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]の全容解明が進むことで、必要な修正を得て理論が完全になると主張している。

 …"阿頼耶識(あらやしき)的天国論"の妥当性はともあれ、魂魄を用いた半生体機関である"バベル"が『天国』を人工的に呼び出したとすると、この理論は全く的を得ていない駄論ではないということを証明していると言えよう。

 

 魔法技術に長ける蒼治は、ユーテリアでの授業で"阿頼耶識(あらやしき)的天国論"の知識を身につけていた。阿頼耶識(あらやしき)相の考え方は、方術を初めとした術式の構築において非常に有益で柔軟な思考や方法をもたらしてくれるからだ。

 その知識を持つが故に、蒼治は"バベル"の理論を理解した一方で、"バベル"実現の困難性も瞬時に理解する。顎に手を置き、眼鏡越しの細い目をさらに伏し目がちしながら、誰ともなしに呟く。

 「魂魄を混合させて強大な認知機構を作り出し、その投射として『天国』を呼び出す…という理論は理解できる。

 できるけど…人体において最も魂魄との干渉性が高い中枢神経部を接合したところで、魂魄自体を混合させることは出来ないんじゃないか?

 シャム双生児や胎児内胎児の例のように、異なる魂魄を有する生物個体が中枢神経部で結合していても、魂魄はあくまで別個体として独立で存在している。もしも脊椎を接合する程度で魂魄混合が実現されるなら、シャム双生児はより強大な認知機構を持つ単一の魂魄を有する一生物個体とならなければいけないはず。でも実際にはそうなってはいないということは…」

 蒼治の言葉は、同じく魔法技術に長け、且つ、魂魄に関する知識が深い者には理解されたかも知れない。しかし少なくとも、研究者でもなければ魔法科学の知識に長けるワケでもないルッゾにすれば、意味不明な言葉の羅列でしかない。ドレッドヘアの頭上に、大きな疑問符が浮かぶ。

 「…兄ちゃん、何言ってンのか、全くチンプンカンプンなんだが…」

 困ったようなルッゾの発言に、蒼治は複雑怪奇な思考の殻の中からハッと我に返る。

 「すみません、興味のある分野の話題だったもので、つい深く考え込んでしまいました…」

 バツの悪い笑みを浮かべながら、蒼治は紺色の混じる黒髪に覆われた後頭部をポリポリと掻いてみせる。

 しかしすぐに顔を引き締めると、眼鏡をクイッと直しながら再び顎に手を置くと、虚空に視線を見上げて考え込む。

 「"バベル"という装置の実現理論の詳細はともかく…。

 そんな非常に高等な魂魄理論を根本に持つ装置が、どうしてこの鉱業都市で研究開発されたのか…やはり、どうも腑に落ちないですね。

 鉱業と魂魄理論、その接点が殆ど見えませんし…」

 「それを説明する為には、この都市国家(まち)の変遷について少し語らにゃならんね」

 突如、ルッゾと蒼治の合間からニュッと顔を出して語ったのは、ロイの治療に当たっていたはずの蘇芳である。

 「なんだ、蘇芳。賢竜(ワイズ・ドラゴン)の兄ちゃんの治療、もう終わったのか?」

 「いやいや」

 蘇芳はゴツい掌を左右にヒラヒラさせて否定する。

 「レナが後は引き受けるって言うからさ、任せて来た」

 「おいおい、防災部の本職が部外者に職務を丸投げしちゃいかんだろ」

 ルッゾが眉間に皺を寄せて文句を語っていると、「良いンだよ、運転手のオッサン」と言う言葉が投げかけられる。

 ルッゾがチラリと視線を後ろに向ければ、レナがこちらを見てヒラヒラと手を振っている様子が見えた。

 「あたしが蘇芳のオッサンにやらせてくれって言ったんだ。

 あたし、将来は地球圏治安監視集団(エグリゴリ)で救助か福祉関係の仕事に就きたいと思ってるからさ。そのための実践練習ってことさ。

 …とは言え、この都市国家(まち)の"パープルコート"の様子を見てるとよ、ホントに地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に就職するのが良いのか、疑問になってきたンだけどよ…」

 「大丈夫だって、レナ」

 ニカッと笑ってそう言葉をかけたのは、治療を受けて体中術符だらけになっているロイだ。彼はレナの頭に手を置いてポンポンと軽く叩きながら、言葉を続ける。

 「今日、難民キャンプで見た"オレンジコート"の連中はマトモだったぜ。みんながみんな、この都市国家(まち)の連中みたいなヤツじゃねーだろ。

 この都市国家(まち)の連中は…まぁ、言って見りゃ…不良みたいなもんだろ?

 天下の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)サマサマが不良ばっかってことはないだろうぜ。だから安心しろって!」

 するとレナは、ちょっと安堵したような笑みを見せたが…すぐに顔を不機嫌にむくれさせて、ロイの手を払い退ける。

 「暴走君よー、何度言ったら分かンだよ!?

 あたしはアンタの先輩なんだっての! あんまり気安くすんなよ! 先輩には経緯を払えってンだよ!」

 「ンな堅苦しい事言うなよ、旧時代の古臭ぇ匂いがしてくるぜ?

 同じ死線を潜り抜けてきた仲間じゃねーか、年上も年下もねーだろ」

 「それはそれ、これはこれだっての! 礼儀知らずはこの先、社会を渡り歩くのに酷い目に遭うぜ!」

 ワーワー騒いで言い合う2人を後ろ目に、蘇芳が肩を竦めてボソッと呟く。

 「礼儀知らずで言えば、レナも大して変わらんだろ」

 蘇芳の言葉はレナの耳には届かなかったらしく、レナは相変わらずロイにギャーギャーと噛みついている。

 その様子に蘇芳は再び肩を竦めたが、これ以上レナ達の騒ぎに反応することは止めて、蒼治の方に視線を向ける。

 「あーっと、"バベル"なんて代物がどうしてこんな鉱業都市なんかにあるのか、その経緯の説明だったな。

 それについてはまず、どうしてこの都市国家(アルカインテール)がほぼ無制限に難民を受け入れ始めたか、から語らせてもらうぜ」

 

 そして蘇芳は、次のような説明を語り始める。

 

 アルカインテールは元来、周囲を囲むプロアニエス山脈が産する多種多様な魔法性質を有する鉱物――魔性鉱物と呼ばれる――に一攫千金を夢見る者達が集結して建設された都市国家であった。ゆえに当初、直接採掘に当たる鉱員は市民たちが担っており、難民などが入り込む隙などなかった。

 鉱員は常に落盤や粉塵爆発といった命の危険に晒されてはいたが、彼らの鉱物資源採掘に賭ける熱は決して冷めることはなかった。と言うのも、鉱業は命の危険に見合うような莫大な富をもたらしてくれたからである。

 アルカインテールが産する鉱物資源には、この宇宙のみならず、様々な異相世界で高い需要を持つ種類のものが数多く含まれていたのだ。金などには比べものにならないほどの価値を持つ鉱物資源が続々と取引され、アルカインテールは莫大な富を得るようになり、徐々にその勢力を増していった。

 また、魔法科学技術に発達により、落盤や粉塵爆発といった従来の鉱業のリスクがほぼ完全と言っても差し支えないほどに回避できるようになっていったことも、鉱業熱が冷めやらぬ理由の1つであった。

 しかし…永遠に続く繁栄など存在しない。隆盛の極みを迎えていたアルカインテールにも、ついに陰りが生まれる。

 落盤を初めとしたリスクが消えた代わりと言わんばかりに、新たな、そしてより致命的なリスクが生まれたのだ。

 それは、魔性鉱物――そのものが有する、いわゆる"毒性"である。

 旧時代における放射性鉱物による放射能汚染が鉱員達の体を蝕んだように、特定種類の魔性鉱物が発する有毒の魔法性質が鉱員たちを(さいな)み始めたのである。

 魔法科学技術がこの問題の解決に乗り出したものの、次々と新種の、そして新しい毒性の魔法性質が発見されるため、リスクの発生と回避はイタチごっこの様相を呈してきた。

 だが、今更莫大な富をもたらす鉱業を手放すことなど、アルカインテールの住人たちにはもはや考えられない。それでは、自分たちが危険に晒されず、且つ、富を得る方法はないか。

 その解決策としてアルカインテールが打ち出した方策が、鉱業作業員として難民を使うことである。そして自分たちは鉱業企業の経営や、鉱業の関連の貿易や加工業を担う役割に転じたのである。

 

 「…つまり、アルカインテールは『難民たちの楽園』なんて言われてましたけど、別に善意や人道的観点から難民を受け入れていたワケではなく、リスクを肩代わりしてくれる使い捨ての労働力と見なしていたワケですか…。

 酷い話だと思います」

 蒼治が不愉快そうに眉をひそめて苦々しく語ると、蘇芳はバツが悪そうに苦笑いしながら、やんわりと反論する。

 「確かに、誉められた動機じゃないのは認めるがね。

 でもな、難民たちの中には、そのリスクを認めた上で、自ら望んでこの都市国家(まち)で働くことを選んだ者も多いんだ。同じく命に関わるリスクを負うなら、成果が一攫千金になる可能性に賭けようとする気持ちは分からなくない。

 それに、『楽園』ってのはあながち間違いってワケじゃない。採掘作業に従事する難民たちは十分な報酬を得ているし、生活水準だって一般市民とそれほど見劣りするものじゃない。そして万が一、鉱物による身体障害が発生した場合は、公営の医療機関が医療費を取らずに手厚く看護してくれる。この点を考慮すりゃさ、戦場や環境汚染地域に比べりゃ、十分『楽園』と言っても差し支えないと思うがね」

 蘇芳の説明に、蒼治はそれでも納得しきっていない顔をしていたが、遂には首を縦に振って受け入れざるを得なかった。難民自体が事前をリスクを承知の上で、自分の意志で選択をしているのならば、蒼治がどうのこうの言える問題ではない。

 蘇芳はそんな蒼治の態度に深入りすることなく、あくまでアルカインテールについての説明をひょうきんな様子で続ける。

 「まぁ、次々に発見される新種の魔法障害への治療研究を常に行ってきたってことを考えると、このアルカインテールは研究都市の要素も持ち合わせていたワケだ。だから、何らかの魔法科学的な新発見や新発明がこの都市国家(まち)から発表されても、それほど不思議なことはないのさ。

 …んである時、異相世界中の魔法科学界を揺るがしかねない大発見が、この都市国家(まち)で見つかったのさ」

 こう前置きして、蘇芳は更に説明を続ける――。

 

 発見の発端は、新種の魔法障害であった。

 鉱員たちの身体が周囲の物体と融合してしまうという症状が報告されたのである。

 この症状には、いくつか奇妙な点があった。1つ、患者は融合の際に生体器官の形状や機能を著しく損なっているにも関わらず、命に別状もなく、苦痛すら訴えることがないということ。2つ、患者の人格が融合前後で明確な差異が認められること。人格の変化には多種のバリエーションがあった、1つの共通点と大まかに2つの傾向が認められた。共通点としては魔法科学に対する知識や技術が劇的に豊富になること。傾向としては、自閉症のように単一の物事にのみ強烈な執着を見せて黙々と魔法科学的な観察や考察を続けるか、非常に世捨て人の賢者のように穏やかで落ち着きのある人格となるか、である。

 この奇病は当初、形態が異形と化す以外には、致命的な症状が認められないことから、研究対象としての優先度は非常に低く設定されていた。しかし、患者数は日を追うごとに指数関数的に増加。さすがに看過ができなくなったアルカインテール政府は、この奇病を最優先の研究対象に認定することにした。

 この奇病の解明を行うにあたり、1人の人物に白羽の矢が立った。当時からアルカインテールに駐留していた地球圏治安監視集団(エグリゴリ)"パープルコート"軍団の駐在部隊指揮官ヘイグマン・ドラグワースによって推挙されたその人物の名は、ツァーイン・テッヒャー。敏腕の魔術医師にして、魂魄研究の全異相世界的権威を持つ人物である。

 ツァーインが推挙された理由のとして、今回の奇病が人間個体の定義、ひいてはその形而上相での要素である魂魄が強く関わっていることが上げられた。ツァーインは申し出に快諾し、アルカインテールの公営医療機関で医師を勤めながら、この奇病――後に彼によって『D3S』、すなわち定義歪曲型形態変質症候群(Definition Distorting and Disfiguring Syndrome)と名付けられた――の研究に取り組むことなった。

 ツァーインという逸材は、アルカインテールに多大な成果をもたらした。彼はこれまで有効な治療法が全く発見されていなかった数々の致命的な難病の原理を次々と解き明かし、絶望の淵に立たされていた数多くの患者を救った。その功績ゆえに、鉱員として働く難民たちは彼のことを『聖人』と呼び、敬うどころか崇める者さえ現れた。

 しかしその一方で、『D3S』の研究は難航していたようで、芳しい成果は上がっていなかった。…少なくとも、ニュースなどの情報媒体は成果を報じることはなかったし、市民や難民たちも天才的科学者と言えども『D3S』という難題は手に余る代物なのだと認識していた。

 

 「ところが、その認識は誤りだったのさ。

 いや、『D3S』の治療法は確立されなかったらしいから、その点で言えば成果は上がらなかった、というのもあながち間違いじゃないかも知れねぇ。

 だが、『D3S』の研究でドクター・ツァーインは、別方向の多大な成果を上げていたんだ。彼の専門分野、魂魄研究において、な。

 しかしドクター・ツァーイン、そして彼のスポンサーである"パープルコート"は、その成果を公表しなかった。その成果を基盤にした研究プロジェクトを秘密裏に進めたかったからさ。

 そのプロジェクトってのが――そう、"バベル"なんだよ」

 蘇芳はそう言葉を挟み、更に物語を続ける――。

 

 ある時を境にして、突如ツァーインが表舞台から姿を消した。この出来事についてアルカインテールの報道機関どもは、相当の歳月と費用を費やしても肝心の『D3S』の治療法が発見できなかったことを苦にして、失意からのスランプ…または、鬱病のようなストレス性の精神疾患を得たのではないか、という無責任な憶測を語っていた。

 一方、同時期のアルカインテールでは、魔性鉱物の毒性による殉職者や回復の見込みの立たない重篤な患者に対する接し方に変化が起こった。

 殉職者については、これまでの方針では、その遺体を献体として治療法の研究に役立てるかどうか、家族に選択権が与えられていたのだが…それが補償金と引き替えに強制的に献体として接収されるようになった。また、重篤な患者は、強力な感染性が確認されない限りは、少なくとも強化ガラス越しに面会が出来たのだが…彼らは皆、強制的に事実上の隔離施設に移送され、面会は一切謝絶となった。

 この方針についてアルカインテールは、症状研究によって患者の肉体が周囲の人間や環境に二次的被害をもたらす危険性が確認されたためだ、と説明している。

 しかし、実際には…。

 ツァーインの『D3S』の研究より極秘裏に得られた成果、"魂魄混合"の実験体として、彼らの肉体が使用されていたのである。

 

 「ドクター・ツァーインが『D3S』からどうやって"魂魄混合"なんつー上等な技術を導き出せたのか、オレにはよく分からねぇし、説明されても多分理解出来ねぇだろうさ。

 ともかく、ここで問題なのは、ドクター・ツァーインの"魂魄混合"研究が順調な成果を上げ続け、その研究手法が更にエスカレートしていったってことさ。

 献体の対象を、魔性鉱物の殉職者や重篤な魔法障害患者だけで飽き足らず、一般の病死者や事故死者、末期の致死性疫病の患者にまで広げていったのさ。

 …オレの嫁も病死したんだがさ、その体は献体にされちまって、墓の中は空っぽさ。とは言っても、当時は嫁がそんな実験の献体にされているなんて思っちゃいなかったけどな」

 蘇芳が悲哀に満ちた苦々しさ力のない笑いに乗せながら、最後の言葉を語ると。蒼治はいたたまれない気持ちを覚えながらも、なんと反応して良いか分からずに、眉をひそめて小さく唸った。

 そんな様子を見てとった蘇芳は、苦々しい悲哀を吹き飛ばした笑いでハハッと笑い、蒼治の肩をバシンッと強く叩く。それによって蒼治が思わず瞼を閉じて顔を歪めた所へ、勢いを取り戻した言葉を滑り込ませる。

 「アンタにゃちっとも責任のない話なんだからさ、そんなに気に病むなよ。むしろ、辛気臭くしちまったオレの方こそ謝らねぇとな。

 ――ともかく、そうやって献体を集めて作り出したのが、人体を接合して作り出した、魂魄混合による『天国』召喚装置、"バベル"さ」

 「なるほど…。アルカインテールが"バベル"と云う装置を持つに至った経緯はよく分かりました」

 頷きながら蘇芳に言葉を返した時には、蒼治の顔からは悲哀の歪みは消え、普段の沈着冷静な、研究者のごとき客観性を併せ持つ表情に戻っている。

 「となると、"パープルコート"はツァーイン・テッヒャーという科学者を推挙した時点で、"バベル"の構想を持っていたということになるのでしょうか?

 そうなると、"パープルコート"の内部には、魔法科学――もっと言えば、魂魄分野に関する知識に長けた人物が存在するということになりますよね?」

 「いやー、そこまでは分かんねーな」

 蒼治の質問に、蘇芳は戦闘でグシャグシャになった髪を更に掻きむしりながら答える。

 「プロジェクト関係者からは、そんな話は特に聞かなかったなぁ。まぁ、あいつらも"パープルコート"に召集された、いわば外部の研究者だからな、内部事情が分からないのは仕方ないことさ。

 ただ、ツァーインによる『D3S』研究プロジェクト時代から働いていたヤツによれば、現場の雰囲気は少なくとも、純粋に患者を救おうって熱意に満ちていたようだぜ。

 まぁー、ドラマとか映画とかでよくあるアレじゃねーかな。偶々(たまたま)上がった成果に欲をかいて、悪の道に進んじまうってヤツ。特にこの都市国家(まち)のケースじゃ、異相世界中の人間が咽喉(のど)から手が出るほど欲しがってる『天国』が手に入るかも知れないんだ、欲をかくなってのが難しいんじゃねーかなぁ」

 「しかしですね…『天国』の扱いに秩序をもたらすはずの地球圏治安監視集団(エグリゴリ)が、自ら秩序を破って、非人道的な『握天計画』に走るなんて、全く以て理解し難い話ですよ」

 「いや、常日頃『天国』に近い地球圏治安監視集団(エグリゴリ)だからこそ、道を踏み外したんだろう」

 黙々と運転を続けていたルッゾが、突如として口を挟む。

 「ヤツらは言わば、好物を目の前にちらつかされたまま、じっと耐え続けているイヌみたいなもんだ。いくら躾られてても、腹が減り過ぎたら、好物にかぶりついちまうのは当たり前ってもんさ」

 「…そこを自制してこその地球圏治安監視集団(エグリゴリ)、ひいては人間だと思うんですけどね…」

 蒼治は眼鏡越しの細い眼に不快感と怒りの炎を揺らめかせながら、感情を必死に押さえ込んだ低い声で暗く呟く。

 「…今回の件は必ず、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)本隊や、関連する超異相世界間組織に報告してやります。彼らは、厳正な罰を受けるべきです」

 そんな台詞に対して、蘇芳やルッゾは期待か、はたまた諦観の言葉を語ろうと口を開いたが…直後、2人はその言葉を飲み込んでしまう。

 と言うのも、屋根の吹き飛んだ人員収容スペースから、ロイの馬鹿に明るい声が張り上がったからだ。

 「おっ! あれって、出口じゃねーか!?

 ようやく、この狭っ苦しい所から出られそうだぜ!」

 その言葉に反応した蒼治が視線を真っ直ぐ前方に向けると、確かに、四方を囲むコンクリートが途切れて、その向こう側に広がる開けた空間の片鱗が見える。

 「おう! その通りだぜ、ドラゴンの兄ちゃん!」

 蘇芳はグルリと首を回してロイの方へ向き直ると、ゴツい顔にニカッと大輪の笑みを浮かべる。

 「あの先にあるのが、アルカインテールの地下居住区の1つさ!

 そして、オレ達の今の住処でもある!」

 そんな蘇芳の言葉と共に、装甲車はトンネルを抜け、開けた空間へと躍り出る。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ANGER/ANGER - Part 5

 ◆ ◆ ◆

 

 アルカインテールの地下居住区は、通称"ホール"と呼ばれている。地下に円筒状にくり抜かれた巨大な(ホール)に設立されていることと、バカデカい広間(ホール)であることを掛けた呼び名である。

 この"ホール"を眼にした星撒部の一同は、歓声を上げたり、眼を丸くしたりすることを禁じ得なかった。

 何故ならばそこは、オフィス街然とした地上部――今は瓦礫の山となっているが――に比べて、穏やかな山野の自然が呈する優しい緑や青といった色彩が広がっていたからだ。

 頭上には、ここは地下だというのに、深い青色の中に(まば)らな白雲の混じる天空が広がっている。地上には瑞々しい緑色を呈する田畑や山林が広がっており、住宅地はその光景の中に点々と配置されている。住宅地は1つ1つがさほど大きくない集落のようで、集落ごとに建物の規格はほぼ統一されていて、長閑(のどか)ながらも非常に整然とした印象を見る者に与える。

 この光景の中には、歓楽街もしくは商店街のような地域も見て取れる。そこは地上のオフィス街に比べると、ずいぶんと階層の低いビルで構成されており、文明色があまり強調されていない。

 「どうだ、結構いい眺めだろ?」

 胡座(あぐら)をかいて座った蘇芳は、ケラケラと笑いながら星撒部の誰ともなしに、自慢げな言葉を掛ける。

 「"ホール"は大抵、難民たちの居住区になってるんだがな、この光景を見ているとこの都市国家(まち)が『難民の楽園』って呼ばれる理由が実感出来るってモンだろ?

 彼らは職務中はずっと狭っ苦しい坑道の中だからな、プライベートな時間は心身を保養してもらうために、こんな風に自然美が満喫できる空間を作り出しているのさ。

 空は3Dホログラム画像で作り出した人工のものだが、結構精度が良いだろ? 時間帯に合わせて空の色や光が変わるのは勿論、状況に合わせて天気だって変わるんだぜ。

 ただ、雪の再現だけは住民からの賛否両論があってな、実現されていないんだ」

 「いや…雪が無くても、これだけ再現されていれば十分ですよ。

 むしろ僕は雪は何かと不便なので、不要派に一票を投じますね」

 蒼治がそう返すと、蘇芳は「そっか、そっか」とケラケラ笑う。

 「あの…」

 おずおずと声を上げて、蘇芳らの会話に割り込んだのは、ノーラである。彼女の傷はまだ完治してはいないが、紫の懸命な治療魔術のお陰で炭化していた右腕は随分と見れる有様へ変じていた。

 「ここは、地上のように破壊された痕が全く見受けられませんけど…。今回のように後をつけられるようなことさえなければ、癌様獣(キャンサー)を始めとした勢力は、積極的な襲撃はしてこないんですか…?

 トンネルに設置してる迷彩用魔化の効果はてきめん、と言うことでしょうか…?」

 「いや…残念ながら、そうじゃない」

 蘇芳は笑みを消して、(かぶり)を振る。

 「地球圏治安監視集団(エグリゴリ)以外の連中は、結構地下に侵入してくるぜ。オレ達の頭ン中に、"バベル"の所在だの理論だの情報が詰まってると思っていてな、捕獲しようと躍起になってるのさ。

 幾つかのホールは、地上と同じように完全にブッ壊されちまった所もある。

 オレ達も何度か襲撃にあっては、"ホール"を移動して来たけどな、今の"ホール"はかなり長く使ってるな。

 その辺りは(ひとえ)に、レナが来てくれたお陰だな。レナの迷彩用魔術はかなり優秀でな、ヤツらはなかなか突破できないようなんだ」

 己の好評を耳にしたレナは、ロイの治療に使う術符を作る手を止め、得意げに腕を組むとフフンと荒い鼻息を吐く。

 「あたしったら、かなり優秀だかンねー。だからこそ、単身で空間汚染地域に乗り込める自信もあったってモンよ。

 だから"暴走君"は、あたしのことをもっと敬えよ!」

 「…確かに、レナが方術に対して良いセンスをしているのは、僕も認めるよ」

 レナに思いっきり肩を叩かれたロイが非難めいた言葉を口にするより早く、蒼治が肩を(すく)めながら小さく笑って同意する。

 …しかし、その蒼治の態度は、レナの眼には小馬鹿にしたように映ったようだ。

 「…ンだよ、蒼治。いかにも"でも、ボクの方が優秀なんでーす"って言いたそうな態度だな」

 ギロリとした半眼を作って睨みつけるレナに、蒼治は慌てて両手を振って否定する。

 「いや、いやいや、そんな、僕の言葉に他意なんてないって!」

 その一方で、レナに叩かれた肩をさすりながら、ロイがボソリと漏らす。

 「…そんなガサツな態度取ってるから、優秀さの欠片も感じられねーンだろ…」

 「…おい、"暴走君"。何か言ったか?」

 蒼治に向けていた鋭い視線をロイに向け直したレナだが、ロイは怖じ気付くことなく、それどころか彼もまた金色の瞳を怒らせてレナと睨み合う。

 そんな光景を(はた)から見ていた紫が、フッと鼻で笑いながら、ヤレヤレと言った様子で両手を肩の高さまで上げて首を左右に振る。

 「類を類を呼ぶって言うけど、正にこのことねー」

 「なんだとぉっ!?」

 対して、レナとロイは見事に怒声をハモらせて、紫を睨みつけるのだった。

 一気に賑やかになった雰囲気を、純粋に和やかな微笑みを浮かべて傍観していた蘇芳であったが、ふと進路前方を指差して声を上げた。

 「おっと、そろそろだな。

 ようこそ、ユーテリアの学生諸君! 我が街へ!」

 

 ロイ達が会話している間、装甲車は比較的ゆったりとしたスピードで"ホール"の中の道路を進み続けていた。

 "ホール"の道路は地上のようにアスファルトで構成されたものではなく、煉瓦(レンガ)に似たタイルが敷き詰められて出来た、風情のある路面で構築されている。後に蘇芳らが言及するには、これも"ホール"の景観に彩りを添えるためのアルカインテールの方針なのだそうだ。

 風情のある道路の両隣には、野菜が整然と栽培されている畑が広がっていた。作業をしている人の姿もチラホラと見える。こんな時勢でも畑の手入れをしているのは、純粋に食料の確保のためとのことだ。

 畑の光景はやがて、街路樹によって遮られる。そして前方には、旧時代地球の中世の西洋様式とモダンな造詣が融合した、彩り豊かにして穏やかな街並が見えてくる。この"ホール"でも最も栄えていた商店街の1つなのだそうだ。

 「今、俺達はあの街の中で固まって暮らしてるのさ。

 いざ何か問題が起きた時――つまりは、敵が攻めてきた時に――素早い集団行動が出来るように、ってな。

 避難してきたヤツらは、そこら辺の店やビルの中により集まって暮らしてる。一応、家庭間のプライバシーを守るために、街ン中にあったダンボールだのボードだの使って生活スペースは区切った上で防音だのの魔化(エンチャント)は掛けてるんだけどよ、やっぱり狭い空間に1ヶ月以上も詰め込まれてると、ストレスが溜まっちまうもんさ。それでしょっちゅうトラブルが起きてるんだよ。

 まぁ、"ホール"にゃ見ての通り、キレイなまま放棄された家がゴロゴロしてはいるんだけどな、他人の家に勝手に転がり込むのはさすがに気が退けるみたいだし、さっき言った通り、いざと言う時の対応もあるから、文句は言えどもここから離れるヤツは居ないんだ」

 蘇芳がそんな解説をしているうちに、装甲車は商店街の名前が愉快なフォントで刻まれたアーチを潜り、町中へと進入する。

 美しくも機能的な景観の街並みの中には、チラホラと人の姿が見える。遊び回っている子供たち、立ち話をしている成人たち、ゆったりと散歩をしている老人たち、などだ。彼らは装甲車の車影を認めると、すぐにこちらに振り向いては――上半分がすっかりなくなった装甲車の姿を見てギョッとするのであった。

 驚いた後の人々は、その後車上の蘇芳に視線を向けてくる。中には、手を挙げて振りながら、彼に声をかける者も居る。

 「うっわ、倉縞隊長さん、なんだいこの有様はっ!?

 "きゃんさー"とか言うバケモノにでもかじりつかれたのかい!?」

 「そうそう、癌様獣(キャンサー)のヤツに派手にやられちまったよ! まぁ、かじりつかれちゃいないが、もっとヒデェ目に遭ったよ」

 「ひえぇ、やっぱ地上はおっかねぇなぁ!

 あのバケモノだのユーレイだのが、こっちまで攻めてこないのを祈るばかりだよ!」

 蘇芳に声をかけてくるのは大半が成人だが、中には子供もいる。今も、ボールを抱えて装甲車と並んで歩く、獣の耳がピンと生えた小学生低学年程度の男の子が声を掛ける。

 「ねー、倉縞のおじさん! 今日はどんなのと戦ってきたのー!?」

 「ああーもう、お祭り騒ぎみたいに色んなヤツらとやりあったぜー!

 飛行船だろ、機械の鎧を来たオッサンどもだろ、機械じかけの空飛ぶ魚だろ、それにユーレイと、癌様獣(キャンサー)どもだな!

 特に、ガイコツの顔をした侍のじーさんが面倒だったな! 枯れ木になるまで年食ってンだからよ、もうちょっと大人しく…そうだな、テレビにでもかじりついてお茶でも飲んでてほしかったなー。

 …てぇか、こうやって振り返ると、俺たちよく帰ってこれたなぁ…」

 「倉縞のおじさん、スゲーつえーじゃん! だからだよ、ユーレイも"きゃんさー"も、デッカいロボットも、みんなブっ倒せて当然じゃんか!」

 英雄でも見るような羨望と興奮の混じった眼差しをキラキラさせながら男の子が語ると、蘇芳はアッハッハ、と豪快に笑う。

 「いやー、そんな絶対無敵のヒーローみたいに言ってくれると、小っ恥ずかしいけど、嬉しいねぇ!

 でも、今回の功労者はオレじゃねーんだ。こっちいるお兄さんとお姉さんたちさ」

 蘇芳は親指で星撒部一同を指し示してから、視線をチラリとロイとノーラにそれぞれ向けつつ、更に語る。

 「特に、あっちの髪の赤いお兄さんと、小麦色の肌のお姉さん! あの2人が、『十一時』のヤローと亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)のヤバ姫様を迎撃してくれたんだぜ。拍手するなら、あの2人にしてやりな」

 「マジで!? スッゲー! 強過ぎーっ!」

 男の子は目を丸くして、更に輝きを増した羨望の瞳をロイとノーラに向ける。子供たちの間にも、『十一時』や亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)と云った、脅威度の高い敵個体の知名度は高いらしい。

 男の子の反応に対し、ロイは術符だらけの腕で力こぶをモリッと作りながら、ニカッとヒマワリのような笑みを浮かべて見せる。

 「まぁー、倒し切ったワケじゃねーけどさ。思いっきり、ブッ叩いてやったぜ! お前らを怖がらせた分を上乗せしてな!」

 ロイは"オレンジコート"の難民キャンプでもそうであったが、本当に子供の扱いに慣れているようだ。心底、子供の事が好きなのだろう。

 そんなロイの態度に感心しながらも、ノーラはなかなか子供への接し方が分からず、男の子の羨望の眼差しには薄い微笑みを浮かべて小さく手を振ってみせるだけで精一杯であった。

 男の子と分かれてからも後、蘇芳は何人かの人々から声を掛けられていた。この街の中では、彼らは相当知名度があるらしい。

 

 =====

 

 一方で装甲車は、風情のある美しい街並みの中を、タイルで出来た道路をゆっくりと走りながら、どんどん奥の方へと進んでゆく。

 やがて、一際背の大きなビル――といっても、地上6階ほどだ――に見下ろされた、広い公園に辿り着く。

 公園はほぼ正方形の敷地を持ち、周囲を広葉樹でグルリと囲んでいる。この木々は、花期が長くなるように品種改良されたサクラの木とのことだ。残念ながらこの時期は花期が終わってしまい、代わりに若々しい新緑と小さなサクランボ状の果実に彩られている。

 公園の中は大部分が芝生に覆われており、所々には大理石に似た模様のタイルで覆われた箇所が見える。タイル張りの箇所には岩石製の彫刻があったり、噴水があったりする。中でも、公園の中央に位置するタイル張りの箇所の造詣は立派で、花盛りのツツジの植え込みに囲まれた、一際大きな噴水が見る者の目を引いた。

 平時ならば、この公園は子連れの親や、学校帰りの学生たちが遊ぶ穏やかで賑やかな光景が広がっていたことだろう。

 しかし、この戦時下では、公園の光景は全く印象を変えていた。

 芝生の上には幾つもの無機質な大型テントが配置され、ゴツい外観の装甲車や輸送車の姿が駐車している有様もチラホラと見える。その合間には、制服を着込んだ軍警察官の姿があり、立ったまままとまって何らかのミーティングをしたり、物資を運んだり、職務か日課かは判断できないが筋力トレーニングに所為を入れたりと、キビキビした雰囲気が漂っている。

 運転手のルッゾは、車両進入禁止柵が撤去された入り口から公園の中へと徐行で進入し、軍警察官の元へと向かう。

 「ここは、この"ホール"の地域役所前に作られた公園さ。オレ達、市軍警察はここを拠点にさせてもらってる。

 さすがに、商店街内部の道路に、車幅の広い装甲車を並べて駐車したりするのは、邪魔臭いからな」

 蘇芳が星撒部の一同に説明しているうちに、装甲車は拠点の受付事務所と云わんばかりに設置されている、横長の直方体の形状をしたテントの前に停車する。すぐにテントの中から3人の軍警察官が飛び出してくると、上半分が吹き飛んだ装甲車の姿を見てギョッとする。

 それから3人は、運転手のルッゾの方に目を向ける。視線を受けたルッゾは、ちょっと外に出て遊んで帰ってました、と言わんばかりの軽い態度で手を挙げる。

 「よおっ、なんとか帰ってきたぜ。

 車はこのザマだが、全員五体満足だ。

 それと、客を連れてきた。詳しいことは…」

 ルッゾが話している最中のこと。突如、横合いから次々に歓声にも似た騒ぎ声が投げかけられる。

 「倉縞中佐、おかえりなさい!」

 「倉縞中佐、うっわ、なんですかこの車の有様はっ!」

 「倉縞中佐、お怪我があるようですが、大丈夫ですか!?」

 小走りでゾロゾロと集まってくる軍警察官が、次々に「倉縞中佐!」「倉島中佐!」と答えを待たずに言葉の雨(あられ)をぶつけてくる。

 「んんー…まぁー、その、なんだー…」

 蘇芳が困ったように苦笑いを浮かべて頬を掻いていると。轟雷のような絶叫が、賑やかに浮ついた場の雰囲気を抑え込む。

 「コォラッ、お前たち! 倉縞中佐がお困りだっ!

 文民が平静を保てなくなる有事にこそ冷静さを発揮するのが、我ら軍警察官だぞ! お前のこの有様は、正にその名折れだな!」

 鋭く語りながら、人山の中をかき分けてくるのは、これまた制服に身を包んだ、女性の軍警察官だ。頭に乗せた青色のベレー帽とは対照的な、くすんだ赤色のセミロングヘアを持ち、張り上げた大声や男性隊員をも恐れぬ気概に見合わぬ小柄な背丈をしている。だが、ナチュラルなメイクが施された顔には男勝りな勝ち気な性格が見て取れる。

 女性軍人は停車した車の前まで進み出ると、ビシッとした敬礼を蘇芳にして見せてから、スクッと身を屈めて立て膝を付く。これに倣って他の軍警察官たちも、慌ててバラバラに敬礼をとっては、即座に立て膝を付いた。このスタイルが、アルカインテールの軍警察の上官に対する正式な敬礼作法のようだ。

 「ようこそご無事で帰還下さいました、倉縞中佐。

 御自らの偵察任務、ご苦労様でした」

 堅苦しい態度の中に、(かたく)なな敬意をふんだんに匂わせて語る、女性軍警察官。その態度に蘇芳は困り果てたような苦笑を浮かべて、頬をポリポリと掻く。

 「いやー、珠姫(たまき)大尉、そんなに改まンなって、いっつも言ってるじゃねーか。息苦しいっての。

 他のヤツらもみんな、そんなポーズ止めて、楽な姿勢を取ってくれよ」

 「それが倉縞中佐のお望みなのでしたら…。

 全員、"休め"の姿勢を取れ!」

 女性軍警察官が雷鳴のようにキビキビした号令を掛けると、軍警察官たちは今度はタイミングを揃えてザッと立ち上がり、肩幅に両足を開いて腰の後ろで腕を組む。

 そんな一連の動作から、珠姫(たまき)大尉と呼ばれた女性軍警察官は、この"ホール"の駐在部隊では上等な地位を持っていることが容易に想像できる。

 蘇芳は軍警察官たちへ早速言葉をかけようと口を動かしたが、ハッと星撒部たちのことを思い返すと、彼らの方に視線を向けると、女性軍警察官に(てのひら)を向けて紹介する。

 「彼女は、竹囃(たけばやし)珠姫(たまき)。ルッゾと同じく、この都市国家(まち)で衛戦部に所属していて、中隊長をやってたんだ。

 今は、不肖なオレの副官みたいな役を買って出てくれてな、色々助かってるんだ」

 「倉縞中佐は、不肖なんかじゃありません!」

 珠姫(たまき)がズイッと車上の星撒部一同に顔を寄せ、眉根を寄せた険しい顔立ちで鋭い抗議を吐く。

 「倉縞中佐こそ、類い希なる素晴らしい上官です!

 先日の"バベル"事件発生時に、真っ先に現場から離脱した、我々の元上官とは比べものにならなりません!」

 珠姫(たまき)の瞳は非常に真摯な光をたたえていたが、その中には先に声をかけてきた男の子ような尊敬の煌めきが(まぶ)しいほどに見て取れた。

 蘇芳はその眼差しに気づき、恥ずかしそうな苦笑を浮かべたが、敢えて言及はせずに別の話を振る。――下手に刺激すると、珠姫(たまき)は必死になって蘇芳を担ぎ上げようとムキになることが分かり切っていたからだ。

 「オレ達が留守の間、変わったことはなかったか?」

 「大きなトラブルはありませんでした。避難民同士のいざこざが3件あり、一部の隊員が仲裁のために出動しましたが、すべて話し合いによる解決済です。

 今は、予定通り定刻のメンテナンスや状況確認の周知などを行っていました。また、本日の炊事当番の部隊が、夕餉(ゆうげ)の支度を始めています」

 「メシ!?」

 屋根の吹き飛んだ人員収納スペースで胡座(あぐら)をかいて座り込んでいたロイが跳ねるように立ち上がって身を乗り出す。

 「献立は何なんだ!? カレーライスか!? 軍隊っていやぁ、カレーライスだよな? な!?」

 いきなりの質問に珠姫は"なんなんだ、この人は?"といった怪訝と驚愕を交えた表情で、思わず身を退ける。そこへ更にロイが食い下がろうと言うかのようにズズイッと体を乗り出して――その真紅の頭の上に、ゴチンッ! と鈍い音を立てて堅く握りしめた拳が落ちる。拳の主は、紫だ。

 「いってぇっ! な、なにすんだよ!」

 「飢えたケダモノみたいにガッついてんじゃないわよ。

 …すみません、こいつったら、本能の勢いだけで生きてるようなヤツなんで…気にしないで下さい」

 コロリと表情を変えて余所(よそ)向きの笑みを浮かべた紫は、ロイの制服の襟をグッと掴んで引き戻す。その滑稽な様子に、珠姫はキョトンとした表情を浮かべる。

 「は、はぁ…。

 ちなみに、今日の夕餉の献立は、残念ながらカレーライスではなく、肉じゃがだ」

 キョトンとしつつも、律儀に質問に答える珠姫。その回答を聞いたロイは紫の腕を振り払って、再び身を乗り出す。

 「肉じゃが!? それでも全然問題ねーや! 腹減って仕方ねーんだ!

 早く喰わせて…」

 そこへすかさず再び落ちる、紫の拳。前回よりも勢いのある一撃は、更に痛々しいゴギンッ! という音を立てる。ロイはたまらず頭を両手で押さえて、その場にうずくまる。

 「はいはい、大人しくしましょーねー、ケダモノくーん」

 紫は再びロイの襟首をギリリと引っ張って、今度は珠姫よりかなり離れた所まで引っ張っていった。

 珠姫は再びキョトンとして、パチクリと瞬きを1つ。そして蘇芳に向き直ると、頭上の浮かべた疑問符を言葉にして投げかけた。

 「あの…彼らは?

 制服は、ユーテリアのもののようですけど…。ひょっとして、レナ氏のお友達か何かですか?」

 「いやいや、こんな暴走生物どもとあたしを一緒にしないでくれよーっ!」

 レナが両手を挙げるどころか、素早く立ち上がって抗議する。そんな様子を目の端で認めた蘇芳は、苦笑を浮かべっぱなしのまま説明する。

 「彼らは、ユーテリアの星撒部っていう部活動グループの部員たちだそうだ。レナとは同じ学園の生徒って共通点はあるものの、出自は全く違うそうだ。

 今回の地上偵察で、4勢力全部から追いかけ回されてた所を見つけてな、救助したんだ。

 ――まぁ、その後、帰還する途中では逆に助けられたがね。『十一時』と亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)率いる愉快な仲間たちを相手にして、撃退してくれたんだ」

 「…!?

 それはそれは…私たちの中佐を助けて頂き、ありがとうございます」

 素直に深々と礼をする珠姫に反応したのは、蒼治だ。パタパタと両手を振って、珠姫の態度を止めてくれるように訴える。

 「いや…この都市国家の事情をろくに調べもせずに入都して、状況を掻き回してしまったからこそ、蘇芳さんたちの手を煩わせてしまったんです。

 非難されることはあっても、決して感謝されるようなことしてませんよ」

 「いやいや、マジで助かったって。

 地上に出りゃ、4勢力のうちのバケモノクラスの実力者に当たる可能性はいつでもつきまとうからな。

 オレ達は、君たちを拾えてホントに幸いだったよ」

 そんな謙遜の応酬をひとしきり終えた直後。珠姫は表情を引き締めて尋ねる。

 「ところで、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の通信を傍受して掴んだあの情報――入都予定の"パープルコート"補給部隊は、見つけることができましたか?

 通信班によれば、結果的にはサヴェッジ・エレクトロン・インダストリーの連中が彼らを捕獲したようですけど…。倉縞中佐は、彼らの同行調査をある程度でも行えたのでしょうか?」

 「いいや。全っ然、影も発見出来ずに終わっちまった。

 "インダストリー"の連中が彼らを捕縛したってのも、今が初耳だ」

 蘇芳は装甲車から飛び降りると、珠姫の周りに集まって待機しているままの隊員たちに手振りで解散を伝える。それを受けてキビキビと踵を返し、それぞれの持ち場へと戻ってゆく隊員たちの背中を見ながら、蘇芳は太い腕を組んだ。

 「地上に出てみたら、戦闘が始まってたからな。だからてっきり、"パープルコート"の補給部隊が他勢力に補足されたのかと思ったんだが…。結果は、この通り、ユーテリアの学生諸君だったワケだ。

 本命の補給部隊は、学生諸君が状況を掻き回してる間に、別の入り口から入都しちまったんだろうな」

 蘇芳の推測に、珠姫は(うなづ)

 「"インダストリー"どもの通信内容からすると、そのようでした。

 更に、彼らが"パープルコート"の補給部隊を捕縛したようです」

 「ふーむ、"インダストリー"の奴ら、冷静だと言うか、頭が回るというか…ともかく、うまいことやったな。

 そういやぁ、癌様獣(キャンサー)や『冥骸』の連中の姿はやたらと見かけたが、"インダストリー"の連中の姿は比較的少なかったな。プロテウスの奴も姿を見かけなかったしな。

 本命が別にあると早期に判断して、学生諸君の起こした騒ぎには最低限の戦力だけ投入して様子見した上で、本命の探索に力を入れてたワケか」

 「あの…横合いから失礼しますが、質問良いですか?」

 装甲車上の蒼治が身を乗り出して手を挙げて質問を口にすると、蘇芳と珠姫の2人は首を巡らして彼に注目する。

 「ああ、良いぜ。何だい?」

 「蘇芳さん達は何故、今回の騒ぎで地上に進出したんですか?

 騒ぎを起こしているのは僕たちではなく、外部から入都した"パープルコート"の補給部隊だと思っていたんですよね? 彼らと接触して、何かするつもりだったんですか?」

 「勿論さ」

 蘇芳は頷いて答えた直後、バツの悪い苦笑を浮かべて頬をポリポリと掻く。

 「あんまり誉められた話じゃないんだがさ…。実は、補給部隊の奴らをオレ達で捕縛して、彼らを人質にした上でアルカインテールからの脱出を"パープルコート"に交渉しようと思ってたんだよ。

 "パープルコート"の連中は、"バベル"の目撃者であるオレたちが外部に情報を漏らすのを嫌って、ここに足止めしてやがるからな。

 だがオレたちとしては、"バベル"なんて気味悪いモノは、欲しい奴らだけで喧嘩して奪い合ってもらいたいんだよ。事情も実現理論もよく知らねーオレたちまで巻き込まないでよ、さっさと解放して欲しいワケさ。どうせ"バベル"の話を外部に語ったところで、戦中のPTSDか何かを(わずら)っての妄想的な絵空事としか思われないだろうしよ」

 「なるほど…。

 でも、実際に補給部隊を捕縛していたとしても、"パープルコート"の駐留部隊が蘇芳さんたちの要求を飲むとは思えないですけどね…。

 『握天計画』のためには人民の命を部品として扱うような連中です。補給部隊を見捨てる可能性は高いんじゃないですかね…」

 「うーん、それはオレ達も想定はしてたんだがね…。何もやらないよりはやってみるか、って感じのダメ元でチャレンジして見たんだがね。

 補給部隊が"インダストリー"の手の内に落ちたってのに、"パープルコート"が大した動きを見せていないことを鑑みると、オレ達が捕縛したところで、君が懸念してる通り、あんまり意味なかったかも知れないな」

 蘇芳が首の付け根をトントンと叩きながら、さぞ無念そうに語る。そんな様子を見ていた珠姫は、彼を気遣うような悲哀に満ちた表情を浮かべると…直後、蒼治に向けてナイフのような剣呑な視線をギロリと向ける。

 「貴様、世間知らずの学生の身の上だからと言って、中佐に失礼なことをズケズケと言うな!

 ならばお前は、中佐よりも余程優れた案を捻り出せるとでも言うのか!」

 火を吹くような珠姫の発言に対し、蒼治はビビるよりも、眼鏡をクイッと直して顎に手を置き、真剣に考え込み始める。

 この姿は予想外だった珠姫は、思わずポカンとして蒼治を見つめるばかりだ。

 そんな最中、グゥ~ッ! と緊張感の欠片もない間抜けな音が響く。

 ロイの、腹の音である。…そういえば彼は、激闘が終わってすぐに空腹を訴えていた。

 「反省会で反省するような内容は、もうねーだろぉ!? 補給部隊は捕まえられませんでした、他の方法をみんなで考えようぜ、で結論出てるじゃねーか!

 そんな事よりよぉっ! 何か喰うもの! 喰うものねーのかぁ!? さっきから腹減って仕方ねーんだよ!」

 ロイの子供のような喚きに、隣に座っていた紫がヤレヤレといった様子で両手を挙げて首を振る。

 「あんたは、ホーント、脳天気でいいわねー。

 …まぁ、確かに、クタクタの頭と体で知恵を絞ろうとしたところで、成果なんて期待出来ないってのは確かだろうけど」

 「まっ、確かにそうだな。

 オレも実は、直ぐにでもへたり込みたいぐらいにクッタクタだよ!」

 蘇芳がケラケラと豪快に笑いながら反応する。

 「珠姫、学生諸君に休憩場所と、食べ物を提供してやってくれ。

 …っと、夕飯の肉じゃが作ってる最中だったんだっけか? まぁ、肉じゃが出来るまでの間、多少腹に入るもの…缶詰とか、菓子とか、ふるまってやってくれ。

 あと、怪我が直りきってないのも居ると思うから、手当も忘れずにお願いな」

 珠姫は承諾すると、まるで先導の教師のようにキビキビした態度を取って星撒部一同、加えてレナの方を見やると、降車してついてくるようにと手を振る。

 「中佐の温情を噛み締めて、深く感謝するんだな!

 さあ、こっちだ! 着いてこい!」

 珠姫のかけ声に突き動かされたユーテリアの学生たちは、軽々と装甲車から飛び降りると、崩れた直列を作って珠姫の後ろをついてゆく。

 …その途中。最後尾に位置したノーラは、蘇芳の真横に着くと、「…あ…」と小さく声を挙げて足を止めた。

 ノーラは、間近な蘇芳の顔をまじまじと見やる。彼女の澄んだ翠色の瞳に映った自分の顔を認めた蘇芳は、キョトンとした声を挙げる。

 「ん? どうしたんだ、お嬢ちゃん? オレの顔に、何かついてンのか?」

 「いえ…そうではないんですけど…今更になって、気付いたことがあって…」

 ノーラはまじまじと蘇芳を見つめたまま答える。

 ――先刻までノーラは、蘇芳やロイたちとの会話にあまり混ざっていなかった。それは話すことがなかったワケではなく、胸中にひっかかった疑問――というか、好奇心に近い疑念が気になって仕方がなかったからだ。

 アレコレと会話を続けていた蘇芳が一段落した今、ノーラはその疑問符をぶつけずにはいられない。

 一方で、早くも数メートル先まで歩き出していた珠姫が、足を止めているノーラに気付くと、不機嫌そうに眉根にしわを寄せ、銃撃のように鋭い声を投げかけてくる。

 「そこ、何してる! 早くこっちに来ないか!

 私は、いつまでもお前たちの相手をしてる暇はないんだからな!」

 「まぁ、そうカッカすんなよ、珠姫大尉。せっかくの美人顔が台無しだぜ」

 「え…、び、びじ…!」

 蘇芳にからかい半分の世辞を口にすると、珠姫は(おだ)てられた少女のように、今にも火を吹きそうなほどに顔を真っ赤にして、ぎこちなくはにかむ。

 どうやら珠姫は蘇芳のことを、職務上の上官としてだけでなく、個人的にも気を寄せているようだ。

 そんな顔を真っ赤にした珠姫をケラケラ笑いながら、蘇芳は付け加える。

 「そっか、大尉は今日は炊事当番だもんな。得意の料理の手を抜いちまうことになるのが悔しいのかも知れないが、なーに心配ねーって。当番はお前だけじゃないんだからよ。

 大丈夫、お前のレシピの肉じゃがは最高の出来になるさ」

 「は、はぁ…。あの…その…中佐がそこまで言って下さるなら…はい、少し、落ち着きます…」

 登場時と比べて随分としおらしくなった態度に、毒袋持ちの紫やレナはニマニマと意地の悪い笑みを浮かべていた。

 それはともかくと、蘇芳はノーラに向き直って、言葉の続きを促す。

 「んで、気付いたことってのは? 何か、オレに関係することなのか?」

 「はい…。あの…蘇芳さんって、苗字を"倉縞"って云うんですよね…?」

 「ああ、そうだが…それがどうしたんだ?」

 「あの…栞ちゃんって名前の娘さんが、居ませんか?」

 ノーラがこの疑問を口にした途端、ロイがほぼ同時に「あっ!」と声を上げた。

 「そういや、あの()の名前、倉縞栞だったよな!

 ってぇと、まさか、あの()の親父って…」

 ロイが視線を蘇芳に向けた、その時。蘇芳は目の前のノーラの両肩をガバッと掴み、興奮で震わせながら、熱の籠もった声を上げる。

 「栞の事、知ってるのか!?

 アイツと会ったのか!? 今、どこに居るんだ!? 無事なのか!?」

 ガクガクと揺らされてノーラは若干目が回って気持ち悪くなったが、なるべく穏やかな笑みを浮かべて答える。

 「は、はい…。"オレンジコート"の部隊が運営してるキャンプで、他のアルカインテールからの避難民の子供たちと一緒に過ごしてました。無事でしたよ…ただ、お父さんと離れてしまって、少し元気を失ってましたけど…」

 「そうか、そうか…!

 栞、無事だったんだな…!

 あの状況で、栞だけを救助車両に乗せちまったのが、ずっと心残りでな…。あの時、"パープルコート"と癌様獣(キャンサー)の交戦に巻き込まれて、大破しちまった車両がいくつもあったからな…。無事に脱出出来たのか、心配してたんだが…。

 これで、一安心ってモンだぜ!」

 それから蘇芳はノーラの両肩を解放したかと思いきや、即座に両手で彼女の右手をガッチリと握ると、ブンブンと上下に振り、激しい握手を交わす。

 「ありがとうな、ユーテリアの学生さんよ! 栞のこと、教えてくれて!」

 「い、いえ…」

 腕が痛くなるほどの勢いに晒されて、ノーラの笑みには苦しそうな表情がジワリとにじみ出てしまう。

 が、なんとかそれを噛み殺すと、ノーラは栞と今回の入都の関係について言及する。

 「今回…私たち、星撒部がこのアルカインテールを訪問したのは、栞ちゃんからの依頼があったからなんですよ。

 避難する時に無くしてしまった、お父さん手製のクマのヌイグルミを見つけて欲しい、とお願いされたものですから…」

 「おいおい、あいつ、そんなモンのことを気にかけてやがったのか。

 あんなの、ただの物じゃねーか。自分の命の方をよっぽど気にかけろってんだよ…」

 蘇芳は語気強く、離れたところにいる娘に叱るような調子で語ってはいたが、その目尻には安堵の涙が光っていた。

 思わず鼻をすすってしまった蘇芳は、自分の涙に気付くと慌ててグシグシと目尻を擦って家族愛溢れる父親の表情を打ち消すと。

 「しっかしなぁ、学生さんよ。アンタら、無茶な依頼を引き受けたモンだなぁ」

 苦笑いと共にそう語りながら、頭をボリボリと掻きむしる。

 「それは、わたしも激しく同意なんだよね」

 ちょっと離れたところから紫が影のある笑いと共に語りながら、嫌みをふんだんに含んだ視線をノーラに向ける。それに気付いたノーラは、一瞬ハッと姿勢を正した直後、モジモジと身をすくめてしまう。

 入都直前から無茶を指摘されていた上に、入都後には命を落としかねない状況に巻き込んでしまったのだ。優等生にして生真面目な気質のノーラは、その責任感を無視するなど、とても出来るものではない。

 そんなノーラの態度を更に萎縮させかねない懸念を抱いた蘇芳は、苦笑いを更に大きくさせながらも、軍人らしく現実を突きつける。

 「こーんなバカ広い都市国家の中で、子供が脇に抱えられるようなサイズのヌイグルミを探すってのも無茶だけどよ。

 栞と別れた辺りは、かなり戦闘が激しい地域だったからな。建物もなにもかも原型を留めていないような状態だ。きっと、ヌイグルミも消し炭になってるだろうぜ。

 栞の願いは、残念ながら、叶わねーだろうな」

 「…そ、そうですよね…。こんな状況じゃ、どうにもならないですよね…」

 しゅん、としてノーラは頭を垂れる。強く約束を交わしてしまった栞にも申し訳ないが、星撒部の実績にも泥を塗ってしまうことにも大いに責任を感じずにはいられない。

 

 しかし、そんなノーラの失意を軽々と吹き飛ばすような勢いを持つ、楽天的な声が滑り込んでくる。

 声の主は――今回の作業のもう1人の発起人である、ロイだ。

 

 「いやいや、あの()の願い、もう叶う寸前じゃねーかよ」

 「はぁ? 何言ってンのよ、あんた? とうとう脳まで暴走しちゃったワケ?」

 紫が嫌みと呆れをたっぷり含んだ流し目でロイを睨むが、ロイは全く動じない。

 どころか、真夏の太陽のような得意げな笑みをニカッと浮かべると、蘇芳を指差す。

 「ホラ、そこにあるじゃねーか。

 デッカいクマのヌイグルミが、よ!」

 その言葉の意図を計りかねた一同は皆、キョトンとして言葉を失ったが。いち早く、ノーラはその意図を理解すると、厚い雲から姿を現した太陽のように笑みを浮かべた。

 「…うん、うん! そうだね!

 これ以上ないほどに大きくて、立派な、クマのヌイグルミだね!」

 ――そう、今回の依頼は、単に物を揃えることが重要なのではない。

 真に重要なのは、栞の曇ってしまった眼に、再び輝きを灯すことだ。

 それに必要なキーを"クマのヌイグルミ"と称するのならば、キーはとっくにここに揃っている! しかも、ヌイグルミ以上に効果てきめんなキーが!

 しかし、ロイとノーラの2人からの視線を受ける蘇芳は、未だに意図を理解できず、それどころか頭上の疑問符を大きくして、自分のことを指差して言う。

 「…オレ、そんなにクマに似てるか?

 まぁ、確かに、ヒトよりゃ図体はデカいかも知れねーが…」

 そんな的外れな指摘をロイとノーラは愉快げに受け止めると、ケラケラ、クスクスと小さく声を上げて笑うのだった。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Drastic My Soul - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 アルカインテールが夕刻にさしかかると、"ホール"上空の3Dホログラムは時間帯に合わせて、茜色の空を演出する。

 市軍警察の拠点では、夕餉の支度がいよいよ佳境を迎えており、街中に食欲をそそる肉じゃがの香りが微風に乗って充満していた。

 そろそろ夕食にありつけると覚った避難民たちは、自分たちの暫定的な住処からポツポツと姿を表すと、市軍警察の拠点の方へ、夕餉の香りに誘われるままに歩き出すのであった。

 この人群の中に、星撒部一同の姿は紛れ込んではいない。

 女性陣のノーラと紫、そして同じくユーテリア出身の来訪者レナは、市軍警察に混じって夕餉の支度に荷担している。

 元々は、ノーラが重度の損傷から回復した右腕の調子を確かめるために、作業への参加を表明したのだったが。そこに紫とレナも加わったのである。

 2人が参加したのは、自分が女性であるが故に、家事的な作業をするべきだという義務感に突き動かされた――というワケでは、全くない。そもそも、現在の地球においては、性別で家事への参加の有無を決めようというのが、全くの荒唐無稽なのである。2人の少女の参加の理由は、単に手持ち無沙汰な時間を潰すため、というだけである。

 「ノーラちゃんの右腕、だいぶ調子が戻ってきたみたいねー」

 紫が肉じゃがを茹でている大型の野外炊事器具をかき回しながら、防菌マスク越しのモゴついた声で語る。ちなみに、防菌マスクをかけているのは紫のみならず、調理作業をしている全員だ。加えて、頭には防菌キャップを、全身は防菌エプロンで足首の辺りまで包んでいる。さながら、食品加工工場の作業員だ。

 「うん…。ジャガイモの皮剥きも、うまくやれたし…」

 「ノーラちゃんって、結構料理得意そうだよね? 自室では、専ら自炊してるワケ?」

 「うん…。昔から、料理はやってたから…。お父さん達から、仕込まれててね…」

 ノーラの出身地では、現在の地球とは違い、今もっても家事をこなすことが女性らしさの証の1つである、とする思考が強い。故に、親族のみならず一族全体から『現女神』になることを望まれたノーラは、より女神らしさ――つまり女性らしさを持つために、料理を初めとした家事全般を幼い頃から叩き込まれていたのである。

 「まぁ、ノーラちゃんが上手なのは、なんとなく予想の範疇内だったんだけど…」

 紫はキャップとマスクの合間にある蠱惑的な赤みを帯びたブラウンの瞳でジト目を作ると、レナに視線を走らせる。

 「ガサツな感じのレナ先輩が、あんなに料理がうまいとは思いませんでしたよ」

 いつものごとく、毒を含んだ言い方で紫が語る。するとレナは、悪びれるどころか素直に誉められたと喜んだ様子で、マスク越しにケラケラと笑う。

 「あたしは、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)で人命救助職に就くのを目標にしてるからな。料理くらい出来て当然なんだよ」

 「でも、レナ先輩って人命救助ってより、ショットガンとかバズーカが似合いそうですよねー。

 私たちを助けた時も、なんか弾をブッ放してしましたしー」

 するとレナは、ピクリと眉を動かして表情をムッとさせる。

 「…まぁよ、如何に人命救助職だからっても、無防備ってワケにゃいかんんから、自衛用の戦闘技術くらいは見に付けてるけどよ…。

 なんだよ、その物騒なイメージはよー!? まるであたしが、重火器振り回すの方が得意みたいな言い方じゃねーか!」

 「あれ、違うんですかー?

 いやー、だってノリノリでブッ放してるように見えましたよー?」

 「…暴走君と言いテメェと言い、暴走部の下級生どもは、礼儀作法を叩き込まにゃならん奴が多いみてーだな…!」

 そんな紫とレナのじゃれ合い――もしかすると、レナは本気かも知れないが――を、ノーラは苦笑に近い微笑みを浮かべて眺めるのであった。

 

 …と、星撒部の女性陣の所在が分かったところで。姿の見えない男性陣――ロイと蒼治――は、一体何処に行ったのだろうか?

 それを言及するには、ノーラ達のいる"ホール"からかなり離れる必要がある。

 

 アルカインテール地上部から"ホール"へとつながる、いくつものトンネル。そのうちの1つの最中に、2人は居た。

 市軍警察から借り受けた車両を走らせ、レナ達が予め設置しておいた感覚迷彩の魔化(エンチャント)が効く領域への境界ギリギリまで着た2人は、ナビットを用いて星撒部副部長の立花(たちばな)[(なぎさ)との通信を行っている。

 "ホール"内でなく、わざわざトンネルの迷彩箇所近くで通信を行っているのは、万が一通信を傍受されて避難箇所が地上部に巣喰ういずれかの勢力に特定されることを回避するためである。ユーテリアから学生に支給されている通信端末"ナビット"は非常に高度な暗号化技術を用いているものの、念には念を入れた対応だ。

 ナビットによって宙空に描画されたディスプレイには、ハチミツ色の金髪に澄んだ碧眼の小柄な美少女、立花渚の腕を組んだ上半身が見える。

 「ふーむ、なるほどのう」

 蒼治からアルカインテール入都後から現在までの状況報告を聞いた渚は、コクリと頷いた。

 「そんな大事に巻き込まれておったとはな。

 どうりで、おぬしらから一向に連絡が入らぬワケじゃ」

 「連絡入れる暇なんて全然なかったっつーの。ようやく一息入れられたのも、ついさっきって所だかンなー」

 ロイがパタパタと手を振りながら、うんざりしたように語る。そんな彼の出で立ちを見た渚は、同情するような苦々しい笑いを浮かべて、「違いない」と同意する。

 何せ、ロイの身につけている制服は『十一時』と交戦を経たままのズタボロな有様だし、露出した体表の所々には治療用術符が幾つも覗いているのだ。彼の多大な苦労が偲ばれるというものだ。

 「そういうワケだから」と、蒼治が会話に割って入る、「僕たちは今日、帰れない。そっちは、僕たちのことは気にせずに、仕事が終わり次第学園の方へ戻ってくれ」

 「言われずとも、ちょうど撤収に向けて作業をしておったところじゃよ。

 一応、おぬしらを待とうと夕餉を振る舞ったりして時間は稼いでおったのじゃがな。こちらの時計では、そろそろ幼子(おさなご)達が床に就くような時間じゃ。わしらもこれ以上、この施設に留まるワケにはいかぬからな」

 「そっちはもう、夕飯食ったのかー、いいなー。

 オレたちはこれからだからさー、もう腹減って腹減って仕方なくてさー」

 ロイがオーバー気味に表情をゲンナリさせながら、腹をさすってみせる。

 「ところでさ、そっちの献立って、何だったんだ?

 …まさか、アリエッタのカレーライスだったりしないよな…?」

 続けて尋ねるロイに、渚はパチクリと瞬きを一つすると、何気なく首を縦に振る。

 「いや、そのまさかじゃよ。

 お客に振る舞うのじゃからな、やはり出来るだけ喜んでもらいたいからのう、定番にして安心のレシピにしたのじゃが。

 それがどう…」

 渚の問いが終わらぬうちに、ロイは真紅の髪をグシャグシャに掻き回しながら、「あああああ!!」と絶叫する。目尻には、うっすらと涙すら浮かんでいる。

 「なんだよっ! オレが居ない時に限って、アリエッタのカレーライスかよっ!

 くっそ、オレにも喰わせろってんだよーっ! ご馳走の中のご馳走じゃねーかよっ!

 こっちなんか、肉じゃがだぞ、肉じゃがっ!」

 ロイがここまで悔しがるのには、彼がカレーライスが大好物であるのに加え、プロの料理人並みの腕前とまで絶賛されるアリエッタの料理が味わえなかった悔しさがある。ロイは彼女のカレーライスを片手で数えるほどしか味わったことがなかったが、記憶にガッシリと刻み込まれるほどの至福の時間を過ごしていた。

 渚はロイの暴れる姿を滑稽そうに見やって、ハッ、と鼻で笑ってから後にたしなめる。

 「肉じゃがだって良いではないか。

 あのジャガイモのホクホク感に、肉の旨味が合わさったあの味わいは、素晴らしいものではないか。

 それに、カレーも肉じゃがも似たような材料で出来ておるじゃろう?」

 「全ッ然違うねっ!

 そりゃもう、山と川ほどに違うねっ!」

 「…ふーむ、そんなに隔たりがあるとは思えぬがのう…」

 渚が顎を当てて真剣に考え込む風だったので、蒼治はこれ以上話が脱線するのを防ぐため、ロイを押しやってナビットのカメラの真正面に出る。

 「まぁ、息抜きの話題はこれくらいにしておいて、だね」

 「息抜きってなんだよっ! オレは真剣…モガッ!」

 「ロイ、ちょっと黙ってろ。話がいつまで経っても進まない」

 蒼治は無理をしてもカメラの中に入ろうとするロイを羽交い締めにして口を塞ぐと、一瞬苦笑いを浮かべてから表情を真顔に引き締める。

 「それで、明日以降のことなんだけど。

 正直、僕たちだけの力じゃ、この都市(アルカインテール)の現状を明日中にどうのこうの出来るとは思えない。

 とは言え、逃げ遅れた市民の皆さんのためにも、出来るだけ早めに事態の収拾を行いたい。

 それに、"パープルコート"が今も所有していると思われる『握天計画』の産物"バベル"についても、嫌な予感がする。万が一、"バベル"を再起動させて術失態禍(ファンブル)が起こりでもしたら、空間汚染どころじゃ済まない騒ぎになるだろうしね。

 そこで渚には、話の分かりそうな地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の軍団に、この状況を伝えて欲しい。そっちの"オレンジコート"でも全然構わない。なるべく早く動いてくれるように、働きかけてくれないか?

 説得力のある証拠が欲しいなら、僕が交戦の合間に記録した動画や解析データがあるから、それを転送するよ」

 「うむ、相分かった。

 "オレンジコート"の連中には、直ぐに伝えておこう。

 それと、わしからは、明日そちらへ応援を向かわせよう。おぬしらの実力を疑っているワケではないのじゃが、いかんせん多勢に無勢であろう。

 人選は、そっちで暴れ回っておる勢力の性質を考慮してじゃな…そうじゃな、大和にイェルグ、そしてナミトを送るとしよう」

 「分かった。はっきり言って、人手が足りなすぎる状態だからね。応援を出してくれるのは、純粋に有り難いよ」

 蒼治が微笑んで答えた、その瞬間。表情の緩みと共に体の力も抜けたらしい、そこをすかさずロイが蒼治の拘束から脱出する。そして、仕返しとばかりに蒼治の前に割り込んでナビットのカメラの視界一杯に顔を近寄せると、渚に尋ねる。

 「あれ、副部長はこっちに来ないのかよ?

 いつもなら、他の誰よりも真っ先に突っ込んでくるところだろ?」

 「おいおい、そんな言い方をされると、まるでわしが血気盛んな暴れ好きのようではないか」

 渚が眉根を寄せて苦笑しながら異議を唱えると、ロイの背後で蒼治がポツリと、「…当たりだろ…」と呟く。すると渚は即座に眉を跳ね上げて、ロイ越しに怒りに燃える視線を投げかける。

 「そ・う・じぃ~! しっかりと聞こえておったぞっ!

 帰投したら、きっつい折檻(せっかん)を見舞ってやるから、覚悟しておくがよいっ!」

 と、ひとしきり怒声を上げると。コホン、と小さく咳払いを挟んだ後、感情を鎮めて渚が語る。

 「まぁ、確かに、罪無き人々に苦行を強いるような輩は、わし自らの手で成敗してやりたいのは本音じゃがな。

 しかし、明日は明日で、別な予定が入っておってのう。部長のバウアーも居なければ、代表代理の蒼治も居らぬと来れば、副部長たるわしまで不在にして依頼者の元に顔を出すのは失礼じゃろう?」

 「そんなモンなのか?

 別に、アリエッタとかヴァネッサあたりに代表代理をしてもらえば良い気もするんだけどなぁ」

 ロイの台詞に、蒼治もしみじみと首を縦に振って同意する。

 「確かに、彼女らなら理性的で常識もある。誰かさんみたいに、衝動で事を大きくするような真似はしないだろうな」

 「…おぬしはつくづく、わしを無駄に刺激して止まぬ男じゃな、蒼治よ…!」

 握り拳を作ってプルプル震わせつつ、こめかみに青筋を立てて渚が怒りを吐くが。彼女の手が遙かに及ばぬ距離にいる蒼治は、何の恐れも抱くことなく、口笛を吹かんばかりのしれっとした態度を見せている。

 渚も益のない怒りはエネルギーの浪費どころかストレスの源だと覚りきり、ハァ~、と深い溜息を吐いて心を落ち着かせると。まだムッとした態度が抜けきれないものの、事務的な無機質な態度で今回の報告をまとめる。

 「とりあえず、おぬしらの要望は十分に相分かった。

 部員には、おぬしらが今日は戻らぬことを伝えておくし、"オレンジコート"にはこのキャンプの責任者宛にアルカインテールの現状を報告するとしよう。蒼治、録画などの資料はわしのナビットの方に送信しておいてくれ。

 大和、イェルグ、そしてナミトには、明日のアルカインテール行きを頼んでおく。異論は…まぁ、ものぐさの大和からは出るかも知れんが…まず出ぬじゃろうから、安心して応援を待っておれ」

 「ああ、頼むぞ。

 それじゃ、僕たちはそろそろ夕食の手伝いに…」

 そう語りながら、ナビットの通信を切断する操作に取りかかろうとする蒼治を、慌ててロイが引き留める。

 「ちょっとタンマ!

 なぁ、副部長、一つ頼まれて欲しいことがあるんだけど」

 「ふむ、言うてみよ」

 「そっちの施設の子供たち、もう寝る頃だって言ってたけどさ、まだ間に合うならオレ達の依頼人、倉縞栞って()を呼んで来てくれねーか?

 報告1つも届けられないまま、副部長たちも引き上げちまったら、依頼人も気分悪いじゃんか」

 「ふむ、それは一理あるのう。

 では、すぐに…」

 語るが早いか、首を巡らせた渚は、誰かを見つけたらしく手を振って呼びかける。

 「おーい、アリエッタ! 悪いが、倉縞栞という娘を呼んで来てはくれぬか? ロイが依頼の進捗報告をしたいそうじゃ」

 すると、アリエッタの穏やかな声で「分かったわ」と云う快諾の言葉が聞こえ、パタパタという足音が遠ざかってゆく。

 アリエッタが栞を呼んでくる間、蒼治は渚と軽く世間話を交わす。

 「今、何してたんだ?」

 「夕食の後片付けじゃよ。大量にカレーを作ったからのう、洗う鍋が多くて地味に大変じゃぞ」

 「その割にはお前、エプロン付けてないようだけど…カレーが制服に飛び跳ねて汚れないのか?」

 「いやー、わしは拭くの専門じゃから、問題ないぞい。

 鍋はアリエッタとヴァネッサの料理達者組に任せておる」

 「…やっぱりお前って、あんまり代表って威厳を感じないなぁ…」

 「いやいや、責任を預かる者こそ、常に前線に立つのではなく、ここぞという時のために後方で力を温存するものじゃろう。

 それに、わしは家事全般は苦手じゃからな。得手な者にやらせる方が効率的じゃろう」

 「…それが本音か…。胸を張って言うことじゃないだろ…」

 「――っと、待ち人来たるようじゃ。

 ロイ、今替わるぞい」

 そう言い残してヒョイとディスプレイから姿を消した渚の代わりに、燃えるような赤紫の髪にツリ目をした少女――倉縞栞が現れる。

 それを見た蒼治もヒョイと奥へと身を退き、ロイを前面に出して、栞と向かい合わせる。

 ロイはニカッと笑って手を挙げ、挨拶を口にする。

 「よっ! そっちじゃ、こんばんわ、だよな?

 元気してたか!?」

 「元気も何も…見ての通り、そろそろ寝るところだよ」

 ムッとしたような言い方をするのは、眠気が混じっているからだろうか。そんな不機嫌そうな声を出した栞は、自身の言葉通り、全身をパジャマで包んでいる。濃い紺色地に、沢山のディフォルメ化されたコウモリと、月をバックにして崖っぷちに立つおどろおどろしくもコミカルな城が建っている柄のものだ。

 「そっか、(ねみ)ぃところ、(わり)ぃな。

 こっちでも日が暮れちまうところだからさ、今の状況を教えておきたいと思ってさ」

 「…ふーん。

 どうせ、見つかんなかったでしょ、パパのヌイグルミ。ただでさえあんなに広いのにさ、ゴタゴタしてた所に落としちゃったんだもん。燃えちゃったりしたと思うよ」

 毒づくように鋭く抉り込むような調子で言葉を発した、栞。実際、ロイは依頼されたクマのヌイグルミを見つけてはいない。

 しかし、ロイはフッフッフッと強気に、そして不適に笑ってみせる。

 「いーや、見つけたぜ。特大のヤツをな!」

 ロイが両手をグルリと回しながら語ると、栞は一瞬瞳をパァッと輝かせたが…すぐに、怪訝そうに眉を寄せる。

 「…あたいのヌイグルミ、そんなにデッカくないよ。こんなモンだもん」

 栞は両手でサイズを示す。栞の両手より少し大きいくらいだ。

 「それ、違うよ」

 「いーや、これで良いんだよ!」

 ムスッと言い返す栞に、ロイは相変わらず太陽のような笑みを浮かべたまま、意見を通す。

 「…それじゃ、見せてよ。見つけたんでしょ? あたいが見れば、本物かどうかすぐに分かるから」

 「いや、コイツは直で見なきゃ意味ないからな。もうちょっとの間、お預けだ」

 そう言われて栞は、ますます怪訝な顔色を濃くする。

 「…ホントは見つけてないんでしょ? 約束守れなかったから、言い訳しようとしてるんでしょ?」

 「そんな事ねーって! お前が大満足すること間違いなしだぜ! オレが保証する!」

 胸元に握り拳を作って熱弁する、ロイ。栞の眼にも彼の動作は演技とは見えなかったようで、怪訝さは多少残るものの、面持ちは幾分和らいだ。

 「…ただな、すまねーけど、すぐにそっちに持っていける状態じゃねぇんだ」

 ロイは申し訳なさそうに後頭部を掻いた。しかし、栞の顔色が再び曇るより前に、彼は再び顔にギラつく太陽の笑みを浮かべる。

 「だけど、なるべく早くそっちに連れてくからな!

 楽しみに待っててくれ!」

 "持ってく"ではなく"連れてく"という言葉に疑問符を浮かべた栞ではあったが、ロイの溢れんばかりの自信に気圧されたようで、疑問を口にすることはなかった。

 「…と、まぁ、オレから栞への報告は以上だ。

 寝るところ、時間取らせちまって悪かったな」

 「…別に良いよ、部屋に戻っても、すぐに眠れないからさ。

 でもそろそろ、施設(ここ)の人がうるさくなりそうだから、部屋に戻るね」

 「ああ、分かった。

 それじゃ、栞、オヤスミな!」

 「うん、オヤスミ」

 "すぐに眠れない"と言った割には、眠そうに眼をこすった栞は、トボトボとディスプレイの視界の外へと退出したのであった。

 おそして、即座に入れ替わるように、渚がピョッコリと顔を出す。

 「用は済んだじゃろ?

 では、そろそろわしも片付けの助力の方へ戻るとするわい。

 おぬしらの成功を祈っておるぞ」

 ヒラヒラと手を振りながら、渚がディスプレイの視覚外にあるナビットへと腕を伸ばす――その時、蒼治が引き留めるように声をかける。

 「なあ、ちょっと訊いても良いか?」

 「うむ?」

 ピタリと動きを止めた渚へ、蒼治は苦笑いを交えながら質問を口にする。

 「今回の依頼、普通に考えればかなり無茶な内容だし、成果を出せるとしても今日中には難しいんじゃないかって判断がつくと思うんだけどさ…。

 渚は、その辺を鑑みた上で、今回の依頼を承諾したのか? それとも、いつもの勢い任せの行き当たりばったりだったのか?」

 蒼治の言葉尻を耳にした渚は、あからさまにムッと頬を膨らます。

 「"いつもの勢い任せ"とは何じゃ、失礼極まりないヤツじゃな。

 ちゃんと算段があったからこそ、蒼治、おぬしと紫を同行させたんじゃい」

 「そうなのか? …てっきり僕は、僕も紫も子供の扱いが苦手だから、戦力外ってことでこっちの仕事に回されたと思ってたんだけど…」

 「まぁ、確かに、そういう要素がなかったワケではないが…。

 それを抜きにしても、わしはおぬしら2人を選んだじゃろうよ」

 「へえ…どんな算段があったのか、聞かせてもらって良いか?」

 すると渚は、己の思慮深さを自慢するかのように、小振りながら形の良い胸を突き出し、鼻の舌を人差し指で擦りながら語る。

 「まぁ、マトモにやっては絶対に達成できぬ仕事なのは、明白じゃ。

 そこで、蒼治、普段女々しく悲観的なおぬしなら、唯一の取り柄である方術を駆使して必死に解決の糸口を探すであろうし。

 紫は、基本的に自分の興味以外にはとんと面倒臭がりだが、頭は回るからのう。裏口的な解決策をポッと思いついて、サッサと帰ってくるじゃろうと思ったワケじゃよ。

 しかしのう、そっちの状況がそんな大事になっておるとは思わなんだからのう、算段が狂ってしもうたがな。ハッハッハ!」

 "算段"というより、楽観的な他力本願の思考に、蒼治は苦笑いをますます大きくしながら、ハァーと深い溜息を吐いたのだった。

 

 ――こうして渚たちへの連絡を終えた蒼治とロイは、すぐに"ホール"へと引き返すと。丁度支度の終わった夕餉に参加したのだった。

 その最中、肉じゃがを一番多く平らげたのは、遠くの空の下にいるアリエッタのカレーライスを求めて悔しがっていたロイであったことに、蒼治は苦笑を禁じ得なかったのであった。

 

 こうして星撒部一同は、予想だにしなかったアルカインテールでの過酷な一日の終わりを、穏やかな時間を堪能しながら過ごすのであった。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Drastic My Soul - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 ――一方。星撒部一同が穏やかな時間を過ごしている最中、剣呑と言っても差し支えないほどに張り詰めた一夜を迎えている集団が在る。

 

 戦災前、"パラダイス・ザ・18(エイティーン)"と呼ばれていた一大歓楽街を中心とした円状の広範囲地域を丸ごと工場地帯に改造し、そこを拠点に"バベル"の奪取を狙っている勢力。『サヴェッジ・エレクトロン・インダストリー』の一団である。

 彼らは本日の混戦の中、他の勢力を出し抜いて"パープルコート"の輸送部隊を捕縛したことで、アドバンテージを得た…はずだった。

 しかし実際は、夕食の時間を返上して緊急会議を召集するほどに、彼らは焦燥に苛まれていた。

 

 拠点地域の中央に位置する、"インダストリー"のアルカインテール支部本棟とも言うべき施設。その一画にある大会議室に、"バベル"奪取プロジェクトの交戦チーム総勢16名が集められていた。

 彼らは様々な種族で構成されているが、共通することが1つある。それは、大なり小なり身体を機械化していることだ。彼らは操縦適応者(クラダー)と呼ばれる、機動兵器の操縦に特化したサイボーグである。機動兵器の制御系と自身の神経系を直接リンクさせることで、生体反射反応と変わらぬフィードバック速度で機体を操ることが出来る、()わば"生きた兵器部品"である。

 整然と並べられたデスクに思い思いの格好で座した彼らの正面には、大型のホログラム・ディスプレイを背にした1人の女性が立っている。彼女は操縦適応者(クラダー)ではない、生身の人間だ。厳冬の深雪を思わせるような真っ白のロングヘアに、その色彩に合わせたような純白のベレー帽と白衣様のコートを身につけた、悪戯っぽい笑みを浮かべた少女――実際、彼女はまだ二十歳(はたち)を迎えていない。しかし彼女は本社から"バベル"奪取プロジェクトの指揮を任せられた才女であり、1つの都市国家並みの人員がひしめく開発部の中で名を轟かせる超絶技巧のエンジニア。名を、イルマータ・ラウザーブと言う。

 イルマータが鼻歌を交えながら会議用のデータを取りまとめている間、操縦適応者(クラダー)の大半がヘラヘラと緊張感のない駄弁(だべ)りに興じていた。普段は分散して任務に当たっており、コミュニケーションと言えばウェブによる遠隔通信ばかりな彼らにとって、リアルで顔を付き合わせる機会はかなりの新鮮な刺激であるようだ。

 会議室を満たす喧噪が耳障りなほどに膨れ上がった頃。ようやく準備を終えたイルマータは、パンパン、と手を叩いて操縦適応者(クラダー)を制しにかかる。

 「はーい、皆さん! ちょっとお待たせしちゃいましたけど、緊急会議を始めますよー!」

 "緊急"の接頭語が霞むほどの軽い言葉遣いでイルマータが大声を張り上げると。最前列に座る1人の操縦適応者(クラダー)がだらしなく挙手しながら文句を語る。

 「なあ、緊急だってンならよ、なんでこんなアナクロな会議を開かにゃならんのさ。

 ウェブでチャットルーム作って、思考データ共有しながらやり取りした方が断然速いじゃねーかよ」

 文句を語ったのは、16名のうちでももっとも機械化の激しい男性の操縦適応者(クラダー)である。人間らしい部分と言えば、ヘルメット状の頭部から申し訳程度に露出した口元くらいなものだ。

 この重度に機械化した、粗暴な言葉遣いの人物の名は、エンゲッター・リックオン。彼は実は、星撒部と面識のある人物である。

 癌様獣(キャンサー)と共に星撒部一同を執拗に追跡していた、腕長のロボット兵器を操縦していたのが、彼だ。

 エンゲッターの言葉に、イルマータは場違いな場所に咲いたタンポポのような笑みをニンマリと浮かべて、反論する。

 「だって私、皆さんのように身体を機械化していませんもの」

 「だからよ、オレはお前さんも機械化すべきだって言ってんだよ。

 頭脳労働専門の開発部だって、神経を光ファイバー化して思考速度を高速化すりゃ、仕事の効率も上がるってモンじゃねーか」

 嫌味混じりで食い下がるエンゲッターに、イルマータは相変わらずニマニマとした笑みを浮かべたまま、更に反論する。

 「私が機械化だなんて、冗談にも程がありますよぉ。

 私は、他人(ひと)をいじくり回すのが好きでも、他人(ひと)にいじくり回されるのは大嫌いですもん。医者だってさえ、私の身体はいじられたくないですから」

 そして、人差し指を立てて「それに、ホラ」と前置きをして、イルマータは続ける。

 「人体で言えば、皆さんは泥の中に突っ込む手足であって、私は脳ミソです。

 脳ミソは頭蓋骨に守れた不可侵の領域で仕事をするのであって、欠損の危険と常に向き合いながら単純労働をこなす手足とは、定義レベルで異なる存在です。

 同じ立場になんて、到底立てませんし、立つべきじゃありませんよぉ」

 この言葉に、エンゲッターは唯一露出した口元を思い切り歪めると、ガタンッ! と椅子を強かに跳ね飛ばしながら立ち上がる。彼の顔面がヘルメット状の器具で覆われてさえいなければ、間違いなくこめかみに浮き出た青筋が見えたことだろう。

 「なンだと、ゴルァッ!? テメェのその物言い、オレ達のことをバカにしてのか、おいゴルァッ!?」

 巻き舌気味にドスの効いた低い声を出して迫るエンゲッターだが、イルマータのニマニマ笑いは一向に崩れない。

 「いえいえ、バカにしているワケじゃありませんよぉ。

 ただ私は、全く異なる立場を、あなたの視野狭窄的な偏見によって一緒くたにされたのが不愉快だったので、反論してるだけです」

 「…テンメェ、マジでケンカ売ってンのかよ!?」

 エンゲッターが大股でイルマータの元へと進もうとする所を、慌てて隣の席に座る女性操縦適応者(クラダー)が引き留める。

 「ちょっと止めなって! そんな無駄なことに時間使うために集まったんじゃないでしょ!」

 「うるせぇッ! オレは、前々開発部の頭デッカチどもを一発ブン殴ってやりたかったんだよッ!

 現場の実状をデータ共有ですら体感しねぇで、都合の良いことばっか並べ立ててきやがるコイツらを、よぉッ!

 そこに、減らず口まで叩いて来やがると来たモンだッ! 黙ってられっかってンだよっ!」

 女性操縦適応者(クラダー)の腕を乱暴に振りほどき、イルマータへ更に接近しようとした、その時。

 「待て、と言っている」

 2列目のデスクの列の中央から、平静ながらも、巨大な鋼鉄の塊のごとき重圧を伴う声が、エンゲッターにぶつけられる。その途端、エンゲッターは身体の動きをピタリと止め、声の主の方へと身体ごと向き直る。

 「…ンだよ、プロテウス…! テメェも、こいつの肩を持つのかよ…!」

 プロテウスと呼ばれた声の主は、16名の操縦適応者(クラダー)の内でもっとも全身の機械化率が低い男性である。実際に彼はデータ共有と思考速度の加速、および記憶力強化のために脳髄とその周辺のみを機械化しただけで、胴体も手足も生身だ。

 しかし、彼――プロテウス・クロールスは、"バベル"奪取チームの中どころか、"インダストリー"全体でもトップクラスの実力を有する操縦適応者(クラダー)である。

 ちなみに、先刻"パープルコート"のゼオギルドが言及した"インダストリー"の代表的人物が、彼である。

 「別に、肩を持っているワケではない。

 私とて、イルマータ女史の不適切な挑発的表現には不快感を覚えているし、女史はこの点については謝罪する必要があると思う」

 プロテウスはデスクの上に肘を乗せて、組んだ手の近くに口元を寄せた格好で、淡々と語る。彼は頭部や頸部にうっすらと走る人工皮膚の接合面さえ無ければ、青い瞳に金色の短髪を蓄え、健康的に身体を鍛え込んだ一白色人種の青年としか見えない。しかし、彼の全身から立ち上る重苦しい存在感は、粗暴な勢いに任せてわめき散らしていたエンゲッターをピタリと押さえ込むほどの迫力を持っている。

 その気迫は、エンゲッターの激怒を受けてもニマニマし続けていたイルマータの笑みをも、乾ききった紙粘土のように硬直させてしまう。ぎこちない歪んだ表情を張り付けたイルマータは、そのままギクシャクと深く頭を下げると。

 「スミマセン、プロテウス主任…」

 と叱られた子猫のように謝罪する。プロジェクト・チームの組織図上ではプロテウスに対する指揮権を持つイルマータであるが、彼の凄みのある客観性にはどうにも頭が上がらない。

 イルマータが頭を下げたことで、ニヤリと口の端をつり上げたエンゲッターであったが。その笑みが存続できたのは、ほんの一瞬のことだ。

 「しかし」

 と前置きをおいて、ギロリと睨んでくるプロテウスに、エンゲッターは固唾と共に笑みを咽喉(のど)の奥へと流し込んでしまう。

 「元を辿れば、この無用な(いさか)いの発端を作ったのはエンゲッター、貴殿の軽口に原因がある。

 我々が召集されたのは、リアルの接触によるリラクゼーションを行うためではない。その事を理解した上で、適切で効率的な行動を取るように努めるべきだ」

 中世の欧州地域における騎士のような堅苦しい物言いは、プロテウスの個性である。その言い方が一向に滑稽に聞こえないのは、彼が常に纏っている気迫と、音に聞こえる実力のためである。

 エンゲッターはガクンと肩を落とすと、ゴテゴテした後頭部を指の太いマニピュレーターで撫でながら、「…すまねぇ」と素直に謝罪を口にした。

 この一連のやり取りで、会議室内の喧噪はすっかりと鳴りを潜め、堅くて重い沈黙の(とばり)が降りた。

 そのまま事態が進行せずに数秒経過したところで、プロテウスが再び声を上げる。

 「イルマータ女史、速やかにブリーフィングを開始してもらいたい。

 事態は急を要するが故に、我々は夕食の時間を潰してまでここに集まったのだろう?」

 するとイルマータは、雷に打たれたようにビクッと身体を震わせながら、ぎこちない吃音を交えて答える。

 「は、はいっ、その通りです、プロテウス主任!

 そ、それでは、早速ブリーフィングを開始させていただきますっ!」

 直後、イルマータはホログラム・ディスプレイをいじりながらブリーフィング用の映像ファイルの展開作業に取りかかると、次第に表情にニマニマとした笑みが戻ってくる。

 遂には、ディスプレイ中に所狭しと映像を広げ切ると、イルマータは態度はすっかり元通りになる。大仰な動作で指示棒を鞭のようにピシャリと自分の手のひらに打ち付けると、それが合図であったかのようにペラペラと語り始める。

 「皆さん、既にデータ共有によって周知のことでしょーが、"パープルコート"の補給部隊とは別に、このアルカインテールに入都した闖入者がありました。

 はい、この4人がその闖入者ですねー」

 イルマータはディスプレイの一画にある、癌様獣(キャンサー)達と入り乱れて交戦する星撒部の一同が撮影された画像を指示棒で示す。

 「彼らが状況をかき回しまくってくれたお陰で、まぁ、わたしらも多少翻弄されてしまいましたが、結果的には"パープルコート"の隊員を捕縛できたワケです。

 …が! ハッキシ言って…うーん、人力頂いた皆さんには申し訳ないんですけど…これ、あんまり意味が無かったんですよねー。

 今も解析班が彼らに記憶搾取機(メモリ・リーダー)を使用していますが、有益な新規情報が得られる見通しはハッキシ言って…ゼロ、です」

 嘆息をついて肩を(すく)めながら、自身の無益な労苦を労うようにイルマータは指示棒で自分の肩を叩く。

 ――ちなみに記憶搾取機(メモリ・リーダー)とは、神経系を有する知的生物から強制的に記憶を搾取するための機械である。脊椎や脳を初めとする中枢神経に魔化(エンチャント)を施した電極を突き刺し、術式を練り込んだ大電流を流すことによって、末梢神経細胞だけでなく全ての体細胞に蓄積された感覚記憶を取り出す。

 それは紫が入都時に見せた植物読(プラント・リーディング)の動物版とも言える所作だが、しばしば死に至る致命的な刺激を与え続ける本作業は非人道行為とされ、数々の公的機関が禁止を訴えている。

 しかしながら死の商人たる"インダストリー"においては、社の発展のためには社員や、時には顧客の生死すらネジのごとき消耗部品としか認識されない。彼らの辞書には、"人道"などという言葉は記されていないのである。

 …さて、イルマータは更に話を続ける。

 「そんで、ですね。私たちが綿密にして無益な"パープルコート"の捕縛作戦を展開している間、"パープルコート"の駐留部隊を含めた他勢力は、こぞって彼ら(と、言いながら指示棒で星撒部4人の映像を示す)を追い回していたワケですね。

 "パープルコート"からは3個空中戦艦部隊が、癌様獣(キャンサー)からは『十一時』が、そして『冥骸』からは亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)涼月(れいげつ)を含めた中隊が出撃し、彼らを攻撃しました。

 これだけの戦力が揃っていたならば、いくら名高いユーテリアの学生と言えどもあの世行きだろー! ってことで、わたし達は彼らを敢えて放置していたのですが…ハッキシ言って、見通しが甘すぎました。

 彼らは今も健在で、どうやら残留市民と合流しているようです」

 「どの勢力も、そんだけの戦力を雁首(ガンクビ)揃えたってのに、学生どももブッ斃せねーなんて、情けねぇ話だな」

 鼻で笑いながらエンゲッターが言うと、その隣に座る女性操縦適応者(クラダー)が、先に受けたとばっちりのお返しとばかりに鋭く泣き所を突く。

 「だけどエンゲッター、あんたもヤツらと遭遇しながら、まんまと逃してるじゃないか」

 「ま、まぁ、そりゃそうだけどよ」

 エンゲッターは唯一の生身である口元をタジタジと歪めてから、口早に反論する。

 「あの時は、癌様獣(キャンサー)どもが足を引っ張ってきたこともあって、なかなかうまく事を運べなかったんだよ。

 それに…あの学生ども、まぁまぁヤるヤツらだったしよ…」

 「そーです! エンゲッターさんの言う通り、彼らは非凡な実力の持ち主です!」

 イルマータが"うんうん"と首を縦に振りながら同意する。

 「それも今回、わたし達が直面している脅威の一環ではありますが、重要なのは彼らの非凡な実力という点ではありません!

 彼らが健在でいること、それ自体がプロジェクトに取っての最大の障害なのです!」

 「…全然ピンと来ないわね。

 彼らが"バベル"の所在や実現理論を得たというなら、分かるけど」

 エンゲッターの隣の女性操縦適応者(クラダー)が腕を組みながら、薄紅色のルージュで彩られた唇で疑問を紡ぐと。イルマータは彼女に注目するでなく、静かに傾聴に専念しているプロテウスの方へ視線を注ぐ。

 「プロテウスさーん、どうです? 彼らの中にあなたが、そしてわたしもまた見知っている顔がありませんかー?」

 そう話を振ると、プロテウスは即座に(うなづ)いて、(よど)みのない言葉を口にする。

 「青みがかった黒髪の少年、彼とはイルマータ女史と共に、とある新規技術の開発プロジェクトで一緒に活動した。

 ユーテリアの2年生で、名は蒼治・リューベイン。星撒部という名の部活動に所属している。出身はアルギニア世界の惑星セーレムと言っていた。

 当時は、この映像とは別のメンバーと行動を共にしていたな」

 プロテウスの詳細な回答に、イルマータは至極満足げに数度首を縦に振ってみせる。

 一方で、プロテウスの言葉を聞いたエンゲッターは、拳で手のひらを打って得心したように「なるほどな!」と声を上げる。

 「アルギニア世界って言やぁ、方術系魔法科学を地球圏に持ち込んだ異相世界じゃねぇか。

 道理(どうり)で、あんなに方術の扱いに長けているワケだ」

 「いや、単に出身地による恩恵では、あれほどの実力は発揮できない。

 彼個人の鍛錬の積み重ねによって得た技量の賜物(たまもの)だ」

 プロテウスがそのように蒼治を評価すると、エンゲッターは「あ、そう」とどうでも良さげにサバサバと返事をした。

 プロテウスからの返答が一段落したところで、イルマータは言葉を続ける。

 「そう、彼らはユーテリアの星撒部の一団なのですよー。

 そんな彼らが、少し前に外部へ通信を行っていたと、監視班から報告がありました。通信の内容は、ユーテリア独自の通信端末の高度な暗号化が、彼らの魔術によって更にアレンジされていたため、判然とはしないんですけれども。

 状況から鑑みて、この都市国家(まち)の現状を記録した各種データの送信と、それを証拠にして地球圏治安監視集団(エグリゴリ)本隊に通報するよう指示したものと考えられますねー。

 これは、ヒッジョーに由々しき事態ですよー!」

 するとエンゲッターが、ヘッ、と鼻で笑って反論する。

 「ユーテリア所属とは言え、高々学生の通報だろ?

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)本隊が真に受けて、即座に行動に移すとは思えんね。

 現に、ユーテリアの学生は今日のヤツらが入都する以前にも一匹、入り込んでいやがる。ヤツだって、ユーテリアの通信端末を使えば、外部への通信が可能なはずだろう? なのに、外部の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)どもはピクリとも動いていねぇじゃんか。

 まぁ、ヤツが通報していない可能性もあるがよ」

 エンゲッターの突っ込みに、イルマータは素直に(うなづ)く。

 「確かに、以前に入都した学生――たしかレナとか言う個体識別名の持ち主だったと思いますけどー――彼女が通報したところで、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)はそうそう腰を上げないでしょうねー。

 でもでも、今回の星撒部の場合は違います。

 彼らの場合、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に対して太いコネクションを持っているのですー!」

 「あぁん? OBが地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の上層部に入り込んでるとか、かよ?」

 エンゲッターの考察に、イルマータは白い髪をブンブンと振り乱して首を左右に振る。

 「いえ、星撒部が結成されたのは今年のことです。卒業生は存在しません。

 ですが、彼らはこの約1年の間に、非常に多数の複雑な世界情勢に携わり、問題の解決に寄与してきた実績があります。その経過の中で、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)と共に活動をし、成果を残してもいます。

 そんな彼らが、詳細な状況証拠を御揃えて、内部の不穏分子について通報するワケですよ? 動かない道理がありませんよー!」

 この解説の内容に、会議室内からは複数の苦笑が上る。

 「おいおい、いくら"英雄の卵"だとか言われるからって、学生の身分で地球圏治安監視集団(エグリゴリ)と活動を共にするなんて、いったいどんな部活だよ…。

 身体動かしたいなら、球蹴り(サッカー)やってりゃいいいだろ…」

 そんな旨の苦言を吐いた操縦適応者(クラダー)も居たが、イルマータもまた同意を示す苦笑を浮かべつつも、首を左右に振る。

 「開発部の同僚の卒業に寄れば、ユーテリアの学生は在学中でも、かなりガチで世界情勢に関わるような活動をしている人物がチラホラいるそうですよー。

 他校と違って、与えられたカリキュラムをこなすでなく、自分たちで活動を組み立てて実践することで、成績評価されるというシステムなんだそうですから。バケモノみたいな天才…というかトラブルメーカーというべきか…そんな人物がいれば、学生身分なんてかなぐり捨てて即座に世界と関わろうとするでしょうよ」

 「末恐ろしい"卵"もあったもんだ…」

 「全くですよー。

 私も、ケチケチした地元の進学校なんて通わずに、ユーテリアに入学してれば良かったと、本気で後悔してますよー」

 そう反応してから、イルマータは突き刺すようなプロテウスからの視線を感じて、ハッとすると。コホン、と芝居がかった咳払いをして脱線した話を締める。

 「…とにかく、ですねー。彼ら星撒部が通報した以上、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)は迅速に行動を起こして、この都市国家(まち)に査察団を派兵してくることでしょー。

 そうなれば、この都市国家(まち)に駐留している"パープルコート"の不良軍団は、すぐに"バベル"を取り上げられてしまう。そして、明らかに各種公法に違反した存在である"バベル"は、その実現理論ごと即時に廃棄されてしまいますー。

 こうなってしまっては、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)本隊による我々への制裁を除いても、我々のプロジェクトはアウトとなりますー」

 「元よりオレ達は、地球圏のヤローどもの公的機構の枠組みにゃ入ってねーからよ、制裁なんざ怖くもねーけどよ。

 ここまで出張(デバ)って約1月も従事してきたプロジェクトがオジャンになるのは、気に喰わねーな」

 エンゲッターが頭の後ろで手を組んで体重を椅子の背に預けると、ギコギコと椅子を鳴らしながら揺らして語る。

 「ということは、」

 別のデスクに座る操縦適応者(クラダー)が、重金属マニュピュレーター状の右手で(あご)を触りながら言葉を口にする。

 「地球圏治安監視集団(エグリゴリ)本隊がこのアルカインテールに到着するまでが、勝負というわけだな?」

 対してイルマータは、眉根に(しわ)を寄せて(かぶり)を振る。

 「いえいえ、事態はもっと緊迫しているのですよー。

 可能ならば、今すぐにでも行動を起こしたいくらいですー」

 「それって、どういうこと?」

 赤褐色の髪を2本の三つ編みにした女性操縦適応者(クラダー)が問うと、イルマータは眉根に皺を寄せたまま、指示棒で肩をトントンと叩きながら答える。

 「"パープルコート"駐留軍は立場上、私たち以上に情報が外部へ漏れることを恐れているはずですー。今回の星撒部の方々の通信だって、当然ながら、察知しているでしょうねー。

 とは言え、通信の内容は私たち同様、解析できてはいないでしょうけどー。…まぁ、それはともかく。

 彼らがこのまま黙って、数年の歳月をかけて結実した成果を手放すような真似をするなんて、ほぼ確実にありえないでしょーね。

 それでは今後、彼らは自分たちの成果を守るために、どのような行動を取るでしょーか?

 ボトルネックとなるのは、本隊の意向です。逆に言えば、本隊を取り込みさえすれば、彼らが幾つもの公法に違反していたとしても、本隊がありとあらゆる手段で正当化してくれることでしょー。

 つまり、彼らは本隊に成果を封殺される前に、本隊を納得させる成果を出そうとするワケです。

 そのために彼らは、出来るだけ速く行動に出ることでしょーね。もう、明日の朝一にでも、ですー」

 「そして、"パープルコート"の駐留部隊どもが着実な成果をあげてしまった時点でも、我々のプロジェクトがアウトになってしまうワケだな」

 黙ってイルマータの言葉に耳を傾けていたプロテウスが、腕を組みながらそう言葉を挟むと。

 「その通りです!」

 とイルマータは指示棒でプロテウスをビシッと指し示して肯定する。

 そこにエンゲッターが首を傾げながら疑問を差し挟む。

 「なんで、そのタイミングでアウトになる?

 いや、そのタイミングで地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の本隊が到着してたってンなら、分かるけどよ。到着してないなら、横からカッ(さら)っちまえばいいだけじゃねーか。

 "バベル"の起動チェックを"パープルコート"どもがやってくれる形にもなるし、一石二鳥だと思うんだがなぁ」

 するとイルマータは、深い考えのない子供を(いさ)めるような困った苦笑を浮かべる。

 「まぁ、確かに、そういう手段を取る方法はありますけど、それは最悪の中の最悪の手段ですよ…。

 成果が出た時点で、"パープルコート"はほぼリアルタイムで本隊に報告を入れますよ。そして"本隊"が、これはスバラシー! と喝采してる時に、わたし達がドロボーなんてしてみたら、どうなります?

 怒り狂った地球圏治安監視集団(エグリゴリ)と、わたし達サヴェッジ・エレクトロン・インダスとリーの間で全面戦争が起きてしまいますよー!

 "バベル"を手に入れても、我らが会社が無くなってしまっては、全く意味ないじゃないですかー!」

 するとエンゲッターは、露出した口元をニヤリと険悪な笑みの形に歪める。

 「何、オレ達が負ける前提で話してンだよ。

 オレ達は地球圏治安監視集団(エグリゴリ)どもにも武器一式を提供してる、大兵器メーカー様だぜ?

 ヤツらへの供給をストップして戦力を激減させて、オレ達の全戦力を叩き込めば、白旗上げてくるだろ?」

 「いや、エンゲッター、それは大きな見誤りというものだ」

 プロテウスが静かにエンゲッターを(いさ)める。それによって、肩を怒らせて反論しようとしていたイルマータは、気の抜けた風船のようにチョコンと気迫を抜いてしまう。

 プロテウスは抑揚すら抑えた、極めた冷静な声音で続ける。

 「客観的に見て、物量、戦力規模ともに地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に軍配は上がる。

 それに、我々が武器供給を停止したところで、彼らに対しては致命的な痛手とはならない。彼らへの武器供給を我々が独占しているならばいざ知らず、彼らは他にも十数の兵器メーカーとの取引を持っている。

 更に言えば、仮に首尾良く戦争に勝利したとしても、我々は甚大な被害を被ることになる。その状態から、現在の規模にまで復興するには、相当の歳月が必要となろう。加えて、他の顧客からは同情を得難い理由で戦争を行ったことで、市場は我々への不信感を抱くことになる。復興の道のりは更に遠いものになる」

 理知的な理由を並べ立てられたエンゲッターは、面白くなさそうにチッ、と舌打ちをして肩を(すく)める。

 「はいはい、オレの考えが浅はか過ぎましたよーっと。

 …んで、そうなると、理想としては、オレ達"はパープルコート"が"バベル"を起動させるより速く、"バベル"を奪取しなきゃならんってこったよな?」

 「はい、そーゆーことです」

 イルマータはあっさり頷いたが、エンゲッターはゴテゴテした後頭部をガリガリと掻きむしって見せる。

 「現時点でさえ、所在が掴めてねー"バベル"を、どうやったら起動前にカッ(さら)えるってんだよ…?」

 「その点については、ちょっとした保証がありますので、ご心配なくー」

 イルマータはディスプレイに投影された、1つの動画データを指し示す。それは、過去に"インダストリー"が捕縛した残留市民から摘出した、約1ヶ月前に"バベル"が初めて起動した時の記憶の光景である。

 林立する摩天楼の中、上空には神の光臨を讃えるかのように輪を描いて旋回する"パープルコート"の飛行艦が幾つも見える。その眼下で、摩天楼の合間の道路に濛々(もうもう)たる土煙が火砕流のごとく噴出し、その褐色の帳の合間には死人よりなお色白な体表を持つ巨大な人型の生体機関の姿がある。この生体機関こそ、初起動した"バベル"だ。

 記憶摘出された対象者は、当時全力疾走でもしていたのか…激しく上下に揺れる視界の中、"バベル"はナマケモノのようにゆったりとした動きで摩天楼の合間をノソノソと四つん這いで這い回っている。その光景は、現代の魔法科学の最先端を駆使した、地獄のような戦場を経験したことのない一般市民ならば、即座に発狂してしまう程の恐慌状態を引き起こすであろう。

 しかし、記憶をじっくりと観察する"インダストリー"のプロジェクト・チームのメンバーは、誰一人顔色を変えることなく、肉眼または高度な機能を備えた義眼で、冷徹なほどに静かな眼差しで光景を見やっている。

 そして、戦闘に参加しないイルマータもまた、顔色を変えるどころか、相変わらずの幼子のようなニコニコ顔を見せながら、ディスプレイの操作パネルに手を伸ばすのだった。

 「あー、ここから長いので、早送りしますね」

 イルマータの言葉通り、動画は急加速を始める。加速の最中、ノイズに由来する縞やモザイクの模様が現れないのは、"インダストリー"の技術力の高さを示唆している。

 現実の時間で数分、動画内の時間で約50分が経過。ここでイルマータは早送りを停止した。

 視界の提供者は車に搭乗しており、かなりの早さで"バベル"から遠のいている。その最中、"バベル"の身体が網膜を()くような(まばゆ)い青白色の魔術励起光を放つ。周囲の土煙と合わせると、巨大な積乱雲の雲内放電を思わせる光景だ。

 直後、"バベル"を中心として、波状に青白色の衝撃波様の光が空間を疾駆する。危険な輝きを秘めた輝きは幸いにも、視界の提供者の居たところまでは到達しなかったものの、搭乗していた車より十数台後方までの地点では、奇妙な異変が起こる。疾走していた車たちが急にコントロールを失って次々に玉突き事故を起こしたかと思うと、その中から濃密な水蒸気に似た外観をした不定形――いや、どことなく翼の生えた人型に見える――の気体が浮かび上がったのだ。まるで、玉突き事故で失われた命が、一斉に昇天するかのように。

 事実、この不定形の気体は、形而下で物質化した魂魄である。

 これらの魂魄は、一路、"バベル"に向かって一斉に飛び集まってゆく――その光景が表示されたところで、イルマータは動画を停止した。

 「えーと、これでお分かりですか?」

 「いや、分かんねーよ!」

 イルマータの確認に即座に突っ込みを返す、エンゲッター。するとイルマータは、出来の悪い学生に呆れたような態度で、ハァー、と溜息を吐くと、動画を指示棒でトントンと指し示しながら語る。

 「"バベル"は、家電製品のようにスイッチを捻れば即座に起動するワケではなく、ある程度の予備動作を経てからでなければ起動しない、というワケですー。

 この情報は、この記憶の提供者たる一般の残留市民たちから搾取した情報からのみならず、今まで捕縛した"パープルコート"隊員からの記憶からも導き出された、確実な情報ですー。

 というのも、"バベル"は起動のために莫大な事象的エントロピーを必要とするのですよー。ですから、この動画の中でも"パープルコート"は、無防備な"バベル"が露出する危険性を冒しながらも、敢えて"バベル"を衆目に触れるようにして、エントロピーの更なる増大、および極力減衰しない状態でのエントロピーの供給を狙っているワケですねー」

 イルマータの説明は、生体電子頭脳を持つものの科学者向きに最適化しているワケではないエンゲッターには理解し難い内容であったようだ。腕を組んで見せたものの、彼は口元を歪めると。

 「ああん? つまり、何が言いてぇんだ?」

 と、尋ね返した。

 その回答を示したのは、イルマータではなくプロテウスである。

 「つまり、我々があくせくと"バベル"を捜索せずとも、"パープルコート"の方から"バベル"を我々の目に見える形で出現させてくれる、というワケだ」

 イルマータはプロテウスに意見について肯定を示して(うなづ)くが、こう付け加える。

 「ただし、"バベル"が出現したと言うことは、起動までの時間的余裕が非常に切迫した、ということでもありますよー。

 従って我々は、速やかに他勢力を排除し、"バベル"を奪取しなくてはなりませんー」

 「で、そんな難度がクッソ高過ぎる任務を、オレ達現場の努力で完遂してくれってことで、リーダー殿が激励の音頭を取りに来たワケか?」

 エンゲッターが嫌味タラタラで毒づくと、イルマータは機嫌を損ねることなく、アハハ、と笑い飛ばす。

 「そーんな成果に寄与しない根性論の周知に、徹底的実益主義の我らが本社が無駄に時間を費やすワケがないじゃないですかー」

 そしてイルマータは、虫をいたぶって楽しむ残酷な幼子のような(わら)いを、白い歯をニィッと覗かせて浮かべる。

 「本社からの言伝(ことづて)は、こうです――。

 "タイプD"装備を用いて、対抗勢力を着実に排除し、"バベル"を絶対に入手すること」

 "タイプD"。その単語がイルマータの可憐にして陰惨な唇から漏れると、会議室内でざわめきが沸き起こる。

 "タイプD"とは、"インダストリー"の私設軍隊中において、最大戦力装備のことを示す。"D"は破壊(destruction)や歪曲(distortion)、次元兵器(dimensional arms)と云った物騒な単語の総称である。そんな忌まわしい名称を持つ"タイプD"が通常用いられるのは、天文学規模の戦場である。惑星内で用いられるなど、常識的には考えられない。

 「…この地球ごと、ブッ飛ばせっての!? そんなことしたら、有機体装置である"バベル"まで破壊しちゃうじゃない!」

 とある女性操縦適応者(クラダー)が、ガタッと席を立ってまで興奮しながら訴えると、イルマータは彼女の激情を冷まそうとするかのようにヒラヒラと掌で(あお)ぐ。

 「いえいえ、さすがにそれじゃマズいですからね。

 現在、整備班が急ピッチで、惑星内戦闘用に"タイプD"装備の各種兵器の出力を調整しています。

 とは言え、各種次元兵器も一式使用可能ですから、皆さん、思いっきり暴れられますよー。

 本社は、"バベル"以外のものは素粒子分解してしまって構わない、と言ってます。

 どーせ、この都市国家(アルカインテール)は対外的には空間汚染によって壊滅してるんですー。誰も問題にしないですよー。

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)だって、我々を非難しようとすれば、自らの醜聞を世間にさらすことになりますからねー。汚点が素粒子レベルで消滅したとなれば、黙認してくれるでしょーから」

 イルマータの恐ろしい言葉に呼応するように、それまで彼女に対して嫌味を浴びせてきたエンゲッターが、ゲラゲラと小気味良さげに嗤い悶え始める。

 「おーおー、良いね、良いねーっ! 惑星内での"タイプD"たぁっ、痺れるねぇっ!

 この一月(ひとつき)の間、こンッな狭ッ苦しい場所でチマチマ小競り合いを繰り返しまくっててよぉ、息が詰まりそうだったんだよっ!

 いっちょ、派手にブッ放して、こんなゴミ溜めからはオサラバかッ! あーっ、スッキリするねぇっ!」

 ガンガンッ! と機械製の両手を叩き合わせて、早くも戦場での武働きに逸る、エンゲッター。そんな彼を、相変わらず沈着冷静なるエース・操縦適応者(クラダー)、プロテウスが(いさ)める。

 「あくまで目標は、"バベル"の確保だ。排敵は二次的な目的に過ぎないことを忘れるな」

 「分かってるっつーの!

 つーか、そもそもオレは、確保だの奪取だのっていう繊細な作業にゃ向かないからな、そういうのはプロテウス様々に任せるぜ。

 オレは、奪取を邪魔する虫ケラどもを排除しまくる役を買ってやるぜ!」

 そう語るエンゲッターに、イルマータは同意するように、うんうん、と首を縦に振る。

 「役割分担したチームプレイは、今回の任務では非常に重要ですよー。16名の"タイプD"でみんな一斉に"バベル"確保、みたいな非効率極まりないことは絶対に止めてくださいねー。

 戦闘部隊の統制は、プロテウス主任に一任します。くれぐれも最善の適材適所をお願いしますねー」

 「了解した」

 プロテウスは静かに頷き、承諾する。

 それを確認したイルマータは、続けてこう語る。

 「それでは皆さん、整備班から搭乗機体の調整完了の報告が届きましたら、随時機体とのマッチングを行ってくださいー!

 特に、今回は人型(ドロイド・タイプ)しか使用されませんから、これまでの任務で多足歩行戦車を操縦してきた方々は、制御ルーチンの調整を徹底して下さいねー!

 それと、明日は何時、"パープルコート"が活動開始するか分かりかねますから、皆さんにはマッチングの完了後からコクピット内で待機してもらいますー。窮屈で申し訳ありませんけど、これもプロジェクト完遂のためですー! 我慢して下さいねー!」

 この指示に対して、操縦適応者(クラダー)達からは一切の不満は漏れない。彼らにとって、任務遂行のために、何日でも機体に搭乗したまま時間を過ごすことなど、ザラにあることケースなのだから。

 「それでは皆さん! 後日、本社でプロジェクト成功パーティーを笑顔で迎えられることを願いまして!

 今回の会議は解散といたしますー! 皆さん、夕食の時間を潰してのご参加、ありがとうございましたー!」

 底抜けに明るい声でイルマータが会議終了を告げると、操縦適応者(クラダー)達はゾロゾロと立ち上がり、会議室を後にする。この後、彼らは食べ損ねた夕食を取りに食堂へ向かうであろうが、その後は大半の操縦適応者(クラダー)達が整備班からの報告を待たずに自機の元へと足を運ぶことだろう。彼らにとって、機械化した自身の運動神経と直接連結して動作させる自機は、自分の身体も同然である。自分達の目が届かないところで、予期せぬカスタマイズを施されては気に障るのだから。

 さて、会議室を満たす人々の姿が続々と消え、室内には片付け作業を行うイルマータの鼻歌だけが残った頃。彼女はふと、未だにデスクに残っている1人の操縦適応者(クラダー)に気付く。"インダストリー"が誇るエース、プロテウスである。

 プロテウスは座したまま腕を組んでイルマータに視線を投げていたが、その眼差しには特に不平不満が混じっているワケではない。もっと無機質で、無感情なものである。しかし、彼の瞳孔は着実にイルマータを追っているので、彼女に何用かあるには間違いないようだ。

 「どうしたんですかー、プロテウスさん? 夕食、採らなくていいんですかー?

 あまり遅く食堂に行くと、食事を温めてもらえなくなりますよー?」

 「用事というほどではないのだが、君と話したかった。

 今回の任務において、交戦の対象になり得る相手に、以前職務で行動をともにした蒼治君が含まれている。その事について、君は何か思うところはないのかと思ったのだ」

 プロテウスの問いを、イルマータはアハハと軽く笑い飛ばしながら、手をパタパタと振る。

 「つまり、彼らに対して何らかの感慨を感じないか、ということですよね?

 まっさかー、感じるワケないじゃないですかー。

 わたしたち商人にとっては、昨日の協力者が今日の敵に成ることは十分あり得ますからねー。その辺はドライにやらないと、特に兵器メーカーなんてやってられませんってばー。

 それにー」

 イルマータは人差し指をピンと立てて、続ける。

 「わたしは、今回のプロジェクトのリーダーに選出されるような身ですよー?

 リーダー足りえるための資質というのは、人情だの感情だのに流されず、数学のように淡々とした客観性で物事を判断する、合理的な思考ですよー。

 昨日の友達が今日には敵になっているのなら、敵としての対応を考慮するだけですってばー。他の思考は一切無駄なだけですよー」

 そう語り終えると、イルマータは可笑しそうに口元を抑えて、フフフ、と笑い声を上げる。

 「いやー、それにしても、なんか皮肉な感じですよねー。

 頭脳を初めとした中枢神経系を機械化したプロテウスさんが感傷的になっていて、全くの生身のわたしは徹底的に感情を排除出来ている。

 本来なら、逆じゃないですかー」

 「別に感傷的になっているというワケではない」

 プロテウスは反論を口にしたが、別にイルマータの口振りに不快感を感じたワケではなく、単に事実を告げたという感じだ。

 「しかし、たまに感情に重きを置きたくなることがあるのは確かだ。

 魂魄と肉体のフィードバックを行う器官を機械化したが故に、自分が単なる物体ではなく、生命体であることを確認したいのかも知れない」

 プロテウスは腕組みを解き、感触を確かめるように右手を握ったり開いたりしながら、そう語る。するとイルマータは、再びアハハ、と軽く笑い飛ばしながら手をパタパタと振る。

 「形而上相が科学として全面的に認められた時勢に、そんなことを確認したがるなんて、プロテウスさんは面白い人ですねー!

 でも、こんなプライベートな接触時には、そういう感傷的な部分も面白がれますけど…」

 直後、イルマータの表情がガラリと変わる。会議中も終始、幼子のようにニマニマしていたというのに、能面のような無表情へと急変したのだ。

 彼女にとって、ヘラヘラとした態度はプロジェクトのメンバーと円滑に物事を進めるための"ツール"に過ぎない。本来の彼女は、身体を機械化した操縦適応者(クラダー)よりも遙かに機械的にして数値的な人物なのである。

 「明日の任務には、そんな余分は交えないで下さいね。

 そんなことしたら、いくらプロテウスさんでも、懲戒措置を取ります」

 するとプロテウスは、イルマータの本来の顔を引っ張り出したことに優越感でも感じたように、薄い笑いを顔に張り付けながら、やんわりと断りを入れる。

 「心配するな。

 我とて、職務として戦士であることを選んだ身だ。公私の区別は付く。

 彼らが"バベル"の前で立ち塞がるなら、コンマ数秒も逡巡せずに、次元歪曲砲(ディストーダー)の引き金を引く」

 「はい、そう言ってくれると思いました」

 そう返事するイルマータの顔には、再びいつものニマニマした大輪の笑みが戻っている。

 「それでは、我も失礼するとしよう。

 夕食のメニューは…なんだったか」

 プロテウスがデスクから立ち上がりながら語ると、イルマータが人差し指をピンと立てて指摘する。

 「ビーフシチューですよー。

 冷めちゃうと、せっかくのトロトロの牛肉がブヨブヨのゼラチンプリンになっちゃいますからねー。食堂に急いだ方が良いですよー!」

 「そのようだな」

 プロテウスは手を挙げてイルマータに別れの挨拶を示すと、踵を返して一直線に会議室の出入り口へ早足で進むのだった。

 

 ――以後、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーでは、一部の用務員を除く全ての人員が、激動が予測される翌日に向けての絶え間ない準備行動に勤しむことになる。

 しかし、この一夜を一睡もせずに過ごすのは、何も"インダストリー"だけに限った話ではなかった。

 翌日に本当に一大行動を起こす算段である"パープルコート"は勿論、万全に事を運ぶために万全の準備を尽くしている。

 加えて、癌様獣(キャンサー)達も『冥骸』の連中もまた、"インダストリー"ほどの理論的分析と合理的コミュニケーションは取らずとも、各々が星撒部の外部への通信を検知し、それが極近日中に大きな渦を作り出すであろうことを予測していた。どちらの勢力もこの事態を決して楽観しすることなく、迅速にして大規模な戦力増強に勤しむのであった。

 …こうしてこの夜、アルカインテールの地上部は、不夜城と化したのであった。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Drastic My Soul - Part 3

 ◆ ◆ ◆

 

 機械整備音やら大群の蠢く喧噪に彩られた一夜が過ぎ、アルカインテールに朝がやってきた。

 

 アルカインテールの早朝は、影で満ちている。

 この都市国家を囲む険峻なプロアニエス山脈が、早朝の高度の低い太陽の光を遮ってしまうために、長く延びた山々の影が都市国家を覆ってしまうからである。これが冬の季節ともなると、正午近くになっても太陽が山脈から抜け出せず、地上は密度の高い摩天楼と相まって薄暗い状態が続いてしまう。故に、アルカインテールでは午前中も、そこかしこで人工照明が灯ることになる。

 しかし、約1月も続く戦争状態によって瓦解してしまった街並みでは、そんな人工の光は望むべくもない状態だ。灯りがあるとすれば、地上を蹂躙して止まぬ"パープルコート"を初めとした勢力の拠点くらいのものだ。しかし彼らの照明の使い方は、戦争前の都市国家の状況に比べれば非常に慎ましいもので、都市を覆う影をはね飛ばすほどの明かりには到底至らない。

 また、一夜明けたアルカインテールでは、夜間には絶えなかった雑音がピタリと止み、不気味な静寂に支配されている。正に、"嵐の前の静けさ"という言葉がピッタリな状況だ。

 この静寂は、地上部を占領している各勢力が夜通しの作業で疲弊したための沈黙…というワケでは、決してない。そもそも、常に実戦に身を晒している人員達が、一晩程度の徹夜で(こた)えるワケがない。

 彼らは夜の内に準備を完全に終えた後は、来るべき口火が切られる瞬間を虎視眈々と待っているのだ。まるで、号令を待ってスタートラインに一列に並び、いつでも走り出せるように万全の体勢を取るマラソンランナーのように。

 沈黙は重苦しくはあったが、滲み出る号令への渇望によって、ジリジリとした熱を帯びていた。

 

 ――一方、地上部とはありとあらゆる意味で対極の状態になるのは、地下の"ホール"である。

 まず、"ホール"の早朝は爽やかな人工の陽光に満ちている。人工気象を司るシステムが曇りや雨を選択しない限り、険峻な山もなければ、超高層と呼べる建築物も皆無な"ホール"には、隅々にまで優しい明かりが届くのだ。

 アルカインテールの真なる住民である市民よりも、地下に追いやられている難民の方が爽やかな朝を迎えられるというのは可怪(おか)しな状況であるが、こういった要素もこの都市国家が『難民の楽園』と呼ばれる一端なのかも知れない。

 また、沈黙に閉ざされている地上部とは対照的に、"ホール"は忙しないざわめきに満ちていた。

 夜間は避難民、市軍警察ともに穏やかな安眠を享受していたのだが。市軍警察は朝日が昇ると同時に行動を開始。普段よりも数段も早い朝食の準備と平行して、(たた)めるものから次々にテントを解体したり、車両を整列させて資材を積み込む作業に打ち込んでいた。

 一方、避難民たちは軍警察官に叩き起こされるような真似はされずに普段通りの時間帯に起床したものの、朝食の場で軍警察官たちに鋭く急かされるような調子でこう指示される。

 「朝食が終わったら、すぐに荷物をまとめて、車両へと積み込んで下さい!

 今日は、拠点を移動します!

 移動の開始は状況に応じて行うので、何時から始めるかは今の段階では名言できませんが、正午よりずっと前に開始する可能性もあります!

 今回の移動は、急を要する致命的なものになるでしょう! 迅速に移動が開始できないと、我々みんなが危険に晒される可能性があります!

 皆さん、落ち着いた上で、手早い作業をお願いします!」

 就寝の前には、繁忙の予兆などみじんも感じられなかったというのに、急で重大な指示に避難民たちは勿論、困惑する。

 「一体、どうしたって言うんだ?

 まさか、地上の奴らが攻めてくるって言うのか!?」

 そんな風に尋ねる避難民たちに対し、軍警察官は極力刺激を与えぬよう、可能な限り抑揚を殺した物言いで返事する。

 「その通りです。特に、"パープルコート"が我々を脅かす可能性が高いです。しかも、徹底的に、です。

 ですから、皆さん、真剣に指示に従って、混乱のないように作業を行って下さい」

 "混乱のないように"とは言うものの、非常に物騒な返事の内容に、危機的状況に対する精神的鍛錬を行っていない避難民たちが動揺しないはずがない。彼らはサーッと顔に青色を浮かべ、朝食を口に運ぶ動きを早めたのであった。

 

 そして、"ホール"の指揮系統の中枢と言える、市軍警察拠点の指揮官用テントの中では。倉縞(くらしま)蘇芳(すおう)を初めとした市軍警察の指揮官クラス数名とと、星撒部の代表格である蒼治・リューベインが、サンドイッチを口に放り込みながら気難しい顔を付き合わせている。

 彼らがこの場で語り合っている内容は、勿論、今日の拠点移動作戦と、襲撃が予想される"パープルコート"への対策だ。

 この会議には、幽霊のように朧気な輪郭と半透明の身体をした、3つのグループが参加している。蘇芳らと同様の制服に身を包んだ彼らは、他の"ホール"で避難生活を送っているグループの指揮官クラスの者たちである。こういったグループは実際には、蘇芳たちを含めて軽く20を超える規模で存在しているはずだが…マトモに通信できたのが、このたった3グループだけだったのである。

 蘇芳と蒼治は彼らに対し、今この場で初めて外部への通信を行ったこと、そしてその刺激によって地上部の勢力が激しい行動に出るであろう予測を、彼らに打ち明けたのであった。

 「…そういうこったからな。

 一番マークされてるのは、彼らユーテリアの学生と合流したオレ達のグループだろうが、アンタらの方に手を伸ばさないとは限らない。

 警戒するに越したことはねぇ。アンタらもいつ、変事が起こってもいいように、拠点移動の準備は整えておいた方が良い」

 蘇芳の言葉を聞いた他"ホール"のグループの代表たちは、皆一様に気難しく表情をしかめた。特に、グループでも最上位の指揮権を持つリーダー格は、腕を組んだり、口元に手を当てたりして、極力感情を排して蘇芳の言葉を飲み込もうとしているようであった。

 そんな最中、幅広で背丈の低い体格をした壮年間近の軍警察官が、こめかみにクッキリと青筋を立て、戦慄(わなな)く拳を胸元に当てながら、憤って喚き出す。彼はこの場に居る者達の中で一番年齢が高いものの、組織の中での立場は蘇芳たちより低いため、グループの中でのリーダー格とはなっていない。組織のサイズが小さくなった今、その歯がゆさが益々自覚された為に、感情的になりやすくなっているのかも知れない。

 「そんな大事を招く行為を! 蘇芳君! 君は何故、我々に一言も相談せずに独断で実行したのかね!

 十分に議論してからでも、遅くはなかっただろうに!」

 そんな壮年軍警察官の物言いに、隣に立つ彼の年下の上官は、目を伏せてゆっくりと頷く。面長で厳つい顔をした彼は、蘇芳と同じく防災部所属の中佐で、険が読みとれるような顔立ちに反して非常な慎重派であった。

 彼はよく通る低い力強い声で、言葉を継ぐ。

 「影響が君たちだけに出るのならば、我々とて文句はない。

 しかし、寝耳に水の状態で、そのような大事を突如知らされ、即時対応せよと言われる我々の身の上も察してもらいたかった。

 何らかの理由で事前の議論が出来ないのならば、事後に即座に情報を共有することも出来ただろうに」

 「…いや、私は蘇芳中佐の行動を支持する」

 防災部の中佐に対して、蘇芳を擁護する言葉を口にしたのは、別のグループを率いる衛戦部に所属する女性中佐である。ナイフのように鋭い目つきに、パッチリとしたメイクが合わさって、氷で出来た花を思わせる女性である。

 「どうせ、事前に議論をしたところで、結論はまとまらず無駄に時間を費やした結果になったことだろう。

 ならば、遠くない将来に資源的にも頭打ちになってしまう現状を、いち早く打開できる可能性に賭ける方が有意義だ。

 我々は既に、1月もの間耐え(しの)いできた。あと数日耐えるだけで現状から脱出できるのならば、安い話だろう?」

 「マリエーナ中佐の言う事は、僕も理解出来る。けどねぇ…」

 3つ目のグループのリーダーである、地域部(所謂"おまわりさん"の任務を統括している部門である)の男性中佐が、癖のついた前髪をクルクルといじりながら語る。

 「事後の報告くらいは、欲しかったなぁ。デンゼウ中佐が言うように、いきなり急遽準備に取りかかれと言われても、心構えってモンが整わないからねぇ。部下たちも避難民の皆さんも、うまくモチベーションを持てずに、(いたずら)に作業をすることになっちゃうからねぇ。

 そもそもさ、何故地上の連中が僕らにちょっかい出してくるのさ?

 "パープルコート"はもう、外部に情報が漏れることを恐れる必要なく、堂々と"バベル"を起動させるだけだ。それに"インダストリー"その他の勢力だって、目的は"バベル"の奪取であって、僕たちの排除じゃないだろう?

 このまま地下でジッとして、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の本隊の救助を待ってれば良いんじゃないの?」

 「確かに、オレもそう思ったんだがよ…。それが、そうもいかねぇらしいんだわ。

 なぁ、ユーテリアの兄ちゃん?」

 蘇芳が首を傾げながら、隣に立つ蒼治の肩をポンと叩く。蘇芳は事前に、蒼治から事情の説明を受けていたのだが、あまり内容を理解できていない風である。

 だから蒼治は、蘇芳に託されたままに理由について解説する。

 「地上の勢力、特に"パープルコート"が僕たちを引きずり出そうとする理由。それは、場の混乱を更に増幅させるためです」

 「…なんだね、その理由はぁ!?」

 最年長の幅広低身長の軍人が、こめかみの青筋を引っ込めぬまま、怒気をはらんで抗議する。

 「君は、ユーテリアの学生だったね!? あの学校では、"英雄の卵"を育てていると言うわりには、戦場での実践的判断などを授業では全く取り扱わんらしいな!

 戦場が混乱するということは、自軍も危険に晒すということだ! だから、戦場でこそ厳格な規律や指揮系統の下で、整然とした対応が必要なのだ!

 自軍に破滅を手繰り寄せるような真似をしてどうする!」

 自分個人ではなく、学校の悪口まで言われて蒼治はカチンと来たのだが、フゥー、と長い吐息と共に不快感の熱を吐き出して気を落ち着かせる。

 (この場にロイが居たら、間違いなく喧嘩になって、話が滞っただろうな)

 そんな想像をしてクスリと苦笑いを浮かべられるまで落ち着いた蒼治は、眼鏡をクイッと直して雰囲気を堅くすると、キビキビと答える。

 「"パープルコート"の目的は、他勢力を打ち倒すことではありません。あくまで、"バベル"を正常に機能させることです。

 しかし、彼らはこの1月という長い期間の中、"バベル"を一度も起動させていません。部隊全員が懲戒処分になるリスクを負った身の上で、本隊を納得させられるような成果を残したいのであれば、"バベル"を何度か試験的に起動させて調整する方が合理的なはず。ですが、彼らはそれをしなかった。何故でしょうか?

 その答えとして予想できるのは、彼らは起動しなかったのではなく、"起動"できなかったから、ということです」

 「…なるほど、君に言うことには一理あるな」

 厳つい面長の慎重派の中佐が顎に手を置いて、ゆっくりと首を縦に振る。

 「あんな巨大で、しかも『天国』を呼び出すような代物だ。電力を使っているか何かは分からないが、その起動には相当のエネルギーが必要なはず。

 公的なインフラがほぼ壊滅し、その扱い手も激減した今の状況では、"バベル"に巨大なエネルギーを供給するのは、難しいだろう」

 これに対して蒼治は首を縦に振るが、彼の微妙に眉をしかめた表情は、全面的に発言を肯定したワケでないっことを物語っている。

 「あなたの言葉はほぼ的を得ています。そう、今の状況では、"バベル"は起動のためのエネルギーを得られない。

 ですが、そのエネルギーとは電力や精霊力のような、発電装置で生成する代物ではありません。その程度なら、暫定精霊(スペクター)の生成と操作を得意とする地球圏治安監視集団(エグリゴリ)なら、暫定精霊(スペクター)達を人手代わりにして作業させ、エネルギーを作ることができますからね。

 僕が思うに――これは、蘇芳中佐から聞いた話から"バベル"の性質から予想したことですが――"バベル"を作動させるのに必要なエネルギーとは、事象的エントロピー…つまり、この都市国家がどれだけ混乱に満ちているか、という形而上的エネルギーが必要だと思うんです」

 この言葉を聞いて、立体映像で参加している3グループの人々は、皆一様にキョトンとしていた。中には蘇芳に説明を要求する視線を投げかける者のいたが、蘇芳は肩を(すく)めて、蒼治に視線を走らせるばかりである。

 混合魂魄を実現した生体機関"バベル"を起動させる…つまり、混合魂魄を"生誕"状態に励起させるためには、事象的エネルギーが必要である――この結論を導き出すには、"阿頼耶識(あらやしき)的天国論"の観点に基づいた魂魄物理学の知識が必要となる。しかしこれを理論的に説明したところで、この場に居る人々に理解させるのは困難だろう。

 いかにして、この内容をうまく解説するべきか。蒼治は眼鏡をクイッと直して暫し思案すると、こう切り出す。

 「"バベル"というのは、赤ん坊に似た機械だと思って下さい。

 赤ん坊は母親の胎内で、外部からの情報からほぼ遮断された状態においては、あまり激しい動作を行いません。五感への大量の情報に溢れる外界に産み落とされて初めて、大きな産声を上げて激しく動き回ります。

 これと同様のことが"バベル"にも言えます。"バベル"は外部からの情報刺激が多くないと、動き出すためのモチベーションが上がらないんです」

 この説明は、魂魄物理学的には非常に乱暴な内容であるが、この場にいる者達はそこを指摘するだけの知識などあるワケもなく。"はぁ、そういうものなのか"という態度で、蒼治の言葉を半ば聞き流していた。

 そんな中、癖のある髪の毛をいじっている中佐が首を傾げながら尋ねてくる。

 「…えーと、ということは、我々を戦場に引きずり出してワーワー騒がせる方が、エントロピーが増大して"バベル"を起動させやすくなる…という事情で、良いのかな?」

 「はい、そういうことです」

 蒼治が頷くと、発言主の中佐はちょっといい気になって笑みを浮かべると、手を挙げて"理解しきった"と言う意志を表明する。

 この中佐の発言で、他2つのグループの参加者たちも、原理はともかく自分たちにまで火の粉が降りかかる事情を理解したようだ。怪訝な表情がスッキリと晴れ渡ったかと思うと、厳格な指揮官の表情に引き締まる。

 直後、発言したのは最年長の軍人だ。勿論、こめかみに青筋を立てて、憤りを露わにした状態である。彼は怒りながらでないと発言できないのではないか、と蒼治は勘ぐって、思わず吹きだしそうになるのをグッと堪えた。

 さて、最年長の軍人はこう喚き立てる。

 「ならば、なおのこと! 昨晩のうちに我らに事情を説明するべきであっただろう!

 "パープルコート"どもが何時襲ってくるのか、分からないのだろう!? 襲撃されてから逃げ出す算段を整えていては、遅すぎるであろう! 昨晩一夜を押してでも、退去の準備をするべきであったろうに!」

 これに対して蘇芳が反論するより先に、女性中佐が語る。

 「我々が抱えているのは、訓練された軍警察官だけではない。文民も含まれている。彼らに馴れぬ徹夜作業を強いても、作業効率が芳しくないだけでなく、必要以上に不安と恐怖を煽り、精神的な負担まで抱え込ませることになる。そんな状態で、いざ行動に出る時になって体が動かなくなってしまっては、元も子もないだろう」

 「そ、それはそうだが…」

 女性中佐の正論に、最年長の軍警察官は悔しげに一言吐くと、口を一文字に結んで黙ってしまう。やはり彼は、自身の憤りで(もっ)て会話の主導権を握りたがっているようだ。その証拠に、(つぐ)んだ口の中をモゴモゴさせ、なんとか反論を形にしようと必死になっている。

 そんな彼の意志を汲んだというワケではないだろうが、彼の上官たる面長の中佐が切り返す。

 「なるほど、昨夜の内に情報を共有しなかった理由は理解できた。

 が、やはり部下のみならず文民の命を預かる身としては、蘇芳中佐の方法を最善策としては受け入れ難い。

 もはや結果は巻き戻せないゆえ、直ぐに退避の準備を取らせると共に、こちらから通信可能な"ホール"の避難チームにも連絡を入れよう。

 しかし、我々が準備を終えぬ間に、"パープルコート"が我々に手を出して来る可能性は考えられよう? 君らの話を鑑みれば、彼らが夜通しで今日の為に準備を整えたことは自明だろう。

 十分な対策を立てられぬまま襲われては、我らは甚大な被害を被ることになるだろう。多くの命が失われることになった場合、蘇芳中佐、君にどう責任が取れるのだね?」

 「…責任を取る以前に、命を失わせやしないさ」

 蘇芳は不適に笑って、頭を振って見せる。その様子に、面長の中佐は凛々しい眉をピクリと跳ね上げ、挑むような調子で蘇芳を睨む。

 「…ほう。何か具体的な策でもあるのだろうね?」

 すると蘇芳は、ブイサインを作るように人差し指と中指を立てて、立体映像の参加者たちに突きつける。

 「まぁ取り敢えず、2つ、考えてることがある。

 って行っても、1つはこの兄ちゃんの受け売りで、策と言うよりは予測だけどな。だが、もう1つは正真正銘、体を張った作戦さ」

 「…聞かせてもらおう」

 面長の中佐が、眉根に(しわ)を寄せて、問うてくる。その表情からは、"ロクでもない策だったら、ブン殴る"とでも言いたげな凄みがある。

 額から鬼の角でも生えてきそうな気迫に対し、まず答えを口にしたのは、蒼治である。蘇芳の語った"策と言うよりは予測"についての解説だ。

 「まず、"パープルコート"の活動、つまり"バベル"起動のためのエントロピー稼ぎですが、これが開始されるのは、早くとも正午近くではないかと考えています。

 ですから、皆さんが準備に使える時間は十分に取れるのではないかと思います」

 「勿論、根拠があるんだよね?」

 癖毛の中佐が挑むようにして蒼治を指差して問うと、蒼治は臆することなく、しっかりと首を縦に振って頷く。

 「なぜなら、"バベル"に早々とエントロピーを与えてしまっては、"バベル"の魂魄構造が崩壊してしまう可能性が高いからです。

 僕はさっき、"バベル"は赤ん坊のようだと言いました。外界からの多くの情報に刺激されることで、産声を上げることが出来る、と。

 しかし、外界からの情報があまりに多すぎると、赤ん坊の脳が情報を処理を仕切れずにパンクしてしまうように、"バベル"の混合魂魄もエントロピーに過剰に引きずられて、離散してしまうからです。

 機能、この都市国家(まち)は…僕の口から言うのは(はばか)られますが…僕ら星撒部が入都し、それを口火とした混戦が発生したことで、大きなエントロピーを得ました。"バベル"にとっても、かなり大きな刺激になったはずです。

 僕は"バベル"の詳細は魂魄構造を知りませんので、予測的な概算でしかありませんが、昨日得たエントロピーの刺激が落ち着くまでには、もう少し時間がかかると見ています」

 「なるほど。それは確かに、策ではなく、単なる予測だな」

 面長の中佐が、見下した苦笑を浮かべて吐き捨てる。その言い方に蒼治は内心、カチンと感じるのを禁じ得なかったが、正論ではあるので言い返せない。

 その渦巻く無念さをぶつけるように、蒼治は次の策――蘇芳の言った"正真正銘、体を張った作戦"について、声高らかに語る。

 「もう1つ、僕たちが皆さんに対して出来ること。それは、端的に言えば(おとり)です。

 外部通信を行った当人として、僕には皆さんの命を背負う責任と義務があります。

 僕自身と、部員をもう1人、それと蘇芳さんから運転出来る方を1人お借りして、斥候として地上に出ます。"パープルコート"が動くとすれば、地上を拠点にしている他勢力に対しても睨みを利かせるでしょうから、目視できる大規模な戦力を動かすはずです。地上で変化が起こったら、僕達がすぐに蘇芳さんを通じて、皆さんに連絡を入れます。同時に、僕達で地上の戦力をなるべく引きつけて、地下への侵攻を遅らせます。

 今日は、外部から僕たちの仲間が加勢に駆けつける予定になっていますから、十分皆さんのお役に立てると思います」

 勇壮に語る蒼治の様子に、立体映像の軍警察官たちは多少なりとも感心した様子であったが。代わりにとでも言うように、蘇芳に対して非難めいた苦笑を向ける。

 そこで真っ先に声を上げたのは、やはり最年長の軍警察官である。

 「蘇芳君、君は動かないのかね?

 学生ばかりを矢面に立てて、君は後方に隠れているつもりかね?」

 そんな嫌味にも、蘇芳は自嘲の笑みを浮かべてすら見せながら、軽々と答える。

 「ホントは、オレも斥候で出たいって言ったんですがね。周りにスゲェ引き留められちまったんで、渋々後方に残ることにしたんですよ。

 要となる指揮官が不在になっては、不足の事態に対面した時にどうするだって、部下に怒られちまったんですよ」

 「それは、正論だな。

 頭が無くては、身体はうまく動けないのは道理だ」

 フッと笑って頷くのは、女性中佐である。彼女は他の2人の中佐と違い、慎重さや責任論よりも実益と現実性を第一に考える性格の人物のようだ。

 「まぁ、そういうワケでさ」

 蘇芳は浮かべた自嘲の笑みを消すと、会議の締めだと宣言するようにパァン! と小気味よく手を打ち合わせる。

 「皆さんにゃ、朝食が終わり次第、文民の皆さんに指示を出してもらいたい。それと、通信可能な他のグループへも状況を説明して欲しい。

 決して楽な道じゃないが、うまく行けば今日中にも事態を打開できるかも知れない。そう希望を持って、ここは一つ、お願いされてくれないか!?」

 合わせた手をそのままに、蘇芳は頭を下げて懇願してみせる。

 これに対して真っ先に声をかけたのは、面長の中佐である。

 「成ってしまったを、これ以上文句を言ったところで変えようはない。君の言う通りに動くとしよう。

 "願う"という行為は、私はあまり好きではないが――今回は、君の言う希望が見事に実現するよう、願わせてもらうよ」

 「それじゃ、解散ってことでいいかな? 早く仕事に取りかかりたいんでね」

 癖毛の中佐の問いに、蘇芳は「ああ、解散だ」と答えると、彼は片手を上げて別れを示すと、立体映像を消去した。

 続いて面長の中佐が、別れの挨拶もなしに消え去ると。最後に残った女性中佐は、蘇芳に向けて敬礼を取る。

 「検討を祈るぞ、蘇芳中佐」

 そう語った直後、彼女らの立体映像も消え去り、テントの中の緊張感は一気に霧散した。

 圧迫感から解放された蘇芳は、ふぅー、と溜息を吐くと、隣に立つ蒼治に疲れ切った半眼の視線を向ける。

 「兄ちゃん、頭の固い軍警察官(ポリコー)ども相手の解説、お疲れさん」

 すると蒼治は苦笑しながらクイッと眼鏡を直しながら、「蘇芳さんこそ、お疲れさまでした」と(ねぎら)うのであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 蘇芳の指揮する"ホール"で朝食が終わってから、暫く経った頃。

 避難民居住地区と化した繁華街の郊外に整列した装甲車両に、避難民たちがアリのように列を成して、次々に荷物を運び込んでいる一方で。

 ほぼ手ぶらで入都した星撒部のロイは、繁華街のとあるビルの屋上に寝っ転がって、白い雲がゆっくりと流れる人工の青空を眺めながら、大きな欠伸を上げていた。

 「んあ~ぁ、ツマンネーなぁ…」

 欠伸によって零れ出た涙を人差し指で拭きながら、ぼんやりとぼやいていると。不意に影が、彼の上に多い被さる。

 「そんなにヒマなら、下の皆の手伝いでもしたらどうなのよ?」

 影の招待は、紫だ。両腰に手を置いて仁王立ちし、刺すようなジト目でロイを見下している。

 そんな紫の顔に視線を向けたロイは、気怠そうな動きで上体を起こすと、眠たげとも不愉快そうとも取れる半眼を作って、紫に視線を走らせる。

 「手伝おうはしたさ。

 だけどよ、皆"いいよ、いいよ、自分の荷物だし、何処に置いたか分からなくなると困るから"って言うからさ、やることなくなってさ。

 お前だって、こんな所にいるってことは、何もすることなくて暇なんだろ?」

 すると紫は、フッ、と優越感に満ちた笑いを浮かべ、両手を肩の高さまで持ち上げて反論する。

 「わたしは、ちゃんと手伝いしてたわよ? レナ先輩と一緒に、応急処置用だとか緊急避難用だとかの術符を作ってたもーん。今は先輩と一緒に休憩中なだけよ。

 アンタみたいなナマケモノと一緒にしないで欲しいわね」

 「…術符造りは得意じゃねーって、知ってンだろ? 下手に造って、術失態禍(ファンブル)なんか起こしちまったら、それこそヤバいじゃんか」

 ロイがふてくされたように答えると、紫は笑みに皮肉の陰をたっぷり込めて諫める。

 「術符造りが出来なくとも、なんか自分でやれること見つけなきゃ。ただ指示を待ってることしか出来ないんじゃ、ロクな社会人になれないわよ?」

 「…だから、オレは自分のやれることとして、斥候の役割をさせろって蒼治に頼んだんだよ。

 だってのに…蒼治のヤツ、オレを置いて、ノーラと地上に行っちまうし…」

 口を尖らせて零す、ロイ。斥候として地上に行けなかったことが、余程気に食わないようだ。

 そんな彼の様子を見た紫は、腰においた手を胸元で組むと、皮肉の陰りを消して真面目な表情を作って言い聞かせる。

 「蒼治先輩がアンタを守備としてこっち側に置いたのは、アンタの実力を高く評価してのことよ?

 戦いってのは、自分の身一つだけ守るだけより、多くの命を守りながら行う方が、段違いに難しいんだから。そんな難しい役割にアンタは選ばれたなんだから、信用を得てると思って胸を張りなさいよ」

 そう言われても、ロイの気怠げな表情は晴れない。またゴロリと寝転がり、(いびき)でもかくような調子でボソリと呟く。

 「信用されようが何だろうが良いけどさ、今がツマンネーってことには変わらねーじゃんか。

 このままじゃかったるくて、身体が鈍りきっちまうよ…」

 そして、過ぎゆく白雲の映像を眺めながら、こんな物騒な呟きまで漏らす。

 「あーあ…攻めて来るンなら、サッサと攻めてこねーかなぁ…」

 「…アンタね、不謹慎もいい加減にしないさいよ」

 紫がうっすらとこめかみに青筋を縦ながら、苛立ちを交えて(いさ)める。

 「私たちは、希望の星を振り撒く星撒部でしょーが。

 絶望を振り撒かれるような事態を願っちゃダメでしょ!

 アンタは暴れられて満足かも知れないけど、避難民の方々には命に関わるような迷惑なんだからね!」

 それに対してロイは、別に何か反論を口にするでなく、独りごちるように不機嫌そうな言葉を口にする。

 「後方に残るなら、ノーラの方が断然適任だったじゃねーか。あいつは強いし、気が利くし、術符造りだって得意そうだしさ。

 なのに、オレと来たら、こんな口うるさい毒袋と一緒に後方かよ…」

 これには紫は、こめかみに浮かんだ青筋をビキビキとクッキリ浮き上がらせると、火が噴き出すような怒気に満ちた低い呻きを漏らす。

 「…そっか。わたしと一緒に居るってのが、アンタの最大の不満なワケか…」

 そんな怒気にロイは注意を払うでなく、過ぎ行く白雲を注視しながら、ぼんやりとした調子のまま続ける。

 「まぁ、毒を吐かれていい気分はしねーからな。けど、最大の不満ってヤツは別だ。

 昨日、トンネルでオレやノーラをボコってきやがった、癌様獣(キャンサー)だの死後生命(アンデッド)だのに、オレがキッチリと引導を渡してやれそうにないってのが、心残りっつーか、そんな感じなワケで…」

 と、語っている矢先のこと。ロイは突如、右腕に走った強烈な激痛に「いっ!」と噛み殺した悲鳴を上げた。反射的に激痛の発生点を見やれば、彼の右腕を思いきり踏みつけている紫のスニーカーが見える。

 「な、なんだよっ! いきなり…!」

 何故紫に踏まれる結果になったのか、ロイは全く理解できずに抗議の声を上げると。紫はますます怒気を強め、怪獣のようにギロリとロイを見下したまま、グリグリと踏みつけた右腕を痛めつける。

 「こンの…ッ! おっ()ね、バカァッ!」

 そう叫んだ同時に、弾けるようにロイから脚をどけた紫は、素早く踵を返して走り去って行く。その挙動の最中、ロイは紫の目尻に涙が光っているのを見逃さなかった。

 「お、おい…」

 痛む右腕をさすりながら上体を起こしたロイは、急速に小さくなる紫の背中におずおずとした声をかけたが、紫は足を止めることなく屋内へのドアを激しく開け閉めして、姿を消してしまった。バタンッ、という扉の激突音が雷鳴のように辺りに響く。

 一人残されたロイは、ポリポリと頬掻きながら、大きな疑問符を頭上に浮かべる。

 「…なんだってんだ、あいつ…?

 オレ、そんなに気に障るような事、言ったか…?」

 その間の抜けた疑問は、真紅の髪を揺らす微風の中に即座に溶け込んで消えてしまった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Drastic My Soul - Part 4

 ◆ ◆ ◆

 

 一方、こちらはアルカインテールの地上部。

 プロアニエス山脈と高層建築物の陰に覆われて薄暗い、瓦解した街並みの中を、一台の装甲車が砂煙を上げながら走っている。この車両は、蘇芳らの避難民グループに所属しているものだ。

 この車両に乗っているのは、星撒部の蒼治・リューベインにノーラ・ストラヴァリ、そして市軍警察の衛戦部所属の運転手、レッゾ・バイラバンである。蒼治が乗り込んでいることから、この車両が今朝の会議で言及された斥候であることは自明である。

 ガラガラの人員収納スペースに乗り込んだ蒼治とノーラの2人は、軍警察官から借り受けた魔化(エンチャント)が施された双眼鏡を用いて、覗き穴から各々逆方向の様子を眺めていた。

 蒼治においては、勿論、双眼鏡だけに頼らず、探索用方術陣を密かに展開して広範囲に探査も行っている。

 一方、ノーラは双眼鏡を使うだけでなく、自前のナビットの回線を開きっぱなしにして、地下からの通信、または本日加勢に来る予定のイェルグ、大和、ナミトらとの相互連絡を行う役割も担っていた。

 しかしながら、双眼鏡からも方術陣からも、都市国家(まち)中で何らかの動きが起こっているような状況は探知できず。地下からも連絡はないので、装甲車内は静寂に満ちた街並みに飲み込まれたかのような沈黙に満ちていた。――とは言え、完全な沈黙ではなく、装甲車のエンジン駆動音は絶えず響いているが。

 ともすれば"退屈"と形容できる状況に陥ったことに音を上げたのかも知れない、蒼治がポツリと運転席に向けて声を上げる。

 「…すみません、レッゾさん。

 昨日も大変な目に遭わせてしまったというのに、今日も斥候に付き合わせてしまって…」

 するとレッゾは、外ばかりを眺めている蒼治に見えるワケもないのに、パタパタと手を振って答える。

 「気にするな。

 オレの考えも、蘇芳と同じだ。学生さんたちばかりに今回の事態の打開を押しつけたくはないし、第一、オレ達の都市国家(まち)での問題だ。オレ達がケリを付けるのがスジってもんだろう」

 語るレッゾの調子は、相変わらず沈着冷静だ。どんな状況でも人の命を運ぶ職務が為に精神的に鍛え抜かれているのか、それとも単に本人の性格なのか。出会ってまだ丸一日と経っていない程度の付き合いでは、蒼治もノーラもそれを推し量ることは出来ない。

 何はともあれ、渋々という様子でなく、進んでこの役目を買ってくれた事実だけはよく分かるので、蒼治もノーラもその点だけは安心出来る。

 「…それにしても、本当に静かだな。気味が悪いくらいだぜ」

 先に言葉で堰が切られたように、レッゾは太い唇から言葉を紡ぐ。実は彼は沈着冷静な態度を取りながらも、静まりかえった沈黙は苦手なのかも知れない。

 そんなレッゾの言葉に、今回返答を返したのはノーラである。

 「昨日、私たちが入都した時も、遠くから砲撃か爆音かの音がしていましたけど…。この都市国家(まち)では、交戦状態下にあるのが、普通なんですか…?」

 レッゾは質問に対して、ドレッドヘアをワサワサと揺らしながら首を縦に振る。

 「概ね、そうだな。

 "パープルコート"どもの拠点、特に"バベル"の格納場所はオレ達含めて、知られてなくてな。それを探しだそうと、他の勢力が躍起になって探索してるんだが、その最中に衝突が起きることはしょっちゅうだな。

 それに、昨日みたいに"パープルコート"の外部からの物資輸送部隊が入都してきたり、何らかの任務で小隊もしくは中隊規模の部隊がこの都市国家(まち)に姿を現した時なんかは、奴らを捕縛して情報を搾取しようと必死になる。

 おかげで、"バベル"起動時には極一部といっても差し支えない範囲だけだった壊滅地域が、今じゃ都市国家(まち)中さ。

 例え、首尾良く今日明日に地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の本隊が事態を収拾してくれたとしても、この都市国家(まち)で暮らすのは難しいだろうな…」

 「でも…地球圏治安監視集団(エグリゴリ)は優秀な復旧用の暫定精霊(スペクター)を持ってますから…案外早く、復興が終わるかも知れませんよ…。

 私、一昨日別の都市国家で、その過程を実際に目にしたんです…。無から有を作り出してるんじゃないか、って思えるくらいの勢いで…凄かったですよ…」

 ノーラが言及しているのは、一昨日"獄炎の女神"による求心活動で壊滅的被害を被った都市国家、アオイデュアのことである。あの時、復興作業に(いそ)しんでいたのは、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の中でも"ビリジアンコート"と呼ばれる軍団であった。

 「へぇ…。そりゃあ、心強いこった…と、言いたい所だがな…。

 ウチの"パープルコート"どもを見ていると、今一信用とか期待とか寄せられないんだよな…」

 率直で実に訴えるレッゾの言葉に対し、ノーラは苦笑を浮かべて、「そういう気持ち、分かります…」と同情を含んだ同意を口にするのだった。

 こうして会話が一段落を迎えた、その直後。待ち受けていたかのように、ノーラのナビットがコールを立てる。ノーラは双眼鏡を片手に持ったまま、ぎこちなく右手一本でナビットを操って応答しようとすると、向かい側から蒼治が「良いよ、通信に集中して」と語る。そこでノーラは言葉に甘えて、双眼鏡を置いて顔を車内に引っ込め、ナビットを操作した。

 すると、ナビットからホログラム・ディスプレイが展開され、そこにドデカく映ったのは…制服越しにも山のようなボリューム感が分かる、豊満な胸である。

 「あれ…? あれれ…? 変なトコにカメラ行ってる気がする…。

 おーい、ノーラちゃーん、見えてるー?」

 緊張感に欠いた明るい声の主は、星撒部のキツネ型獣人(ライカンスロープ)の少女、ナミト・ヴァーグナである。

 ノーラは見せつけられるようにカメラに迫り、プルプルと揺れるバストを苦笑いで見やりながら、指摘してやる。

 「ナミトちゃん…胸しか映ってないよ…」

 「おわっ! マジで!?

 うっわー、蒼治先輩、鼻の下延ばしてガン見してたでしょ!?」

 「…そんな事してないよ。そもそも、ディスプレイすら見てないってば…」

 蒼治が双眼鏡を覗いたまま、やるせなく苦笑しながら言い返していた。

 一方でナミトはナビットをいじって、カメラの位置を調整する。ガチャガチャゴトゴト、という音をナビットのマイクが拾い、やたらと大きな騒音となって装甲車内に響き渡ること数秒の後。ようやくディスプレイには、キツネの耳が髪の毛の中からピンと立った、童顔の少女を映し出す。

 「あー、これで大丈夫そう?」

 「うん…ちゃんと顔が見えてるよ」

 「よっしよしよし!

 それじゃ、改めまして、ノーラちゃん、ヤッホー! 元気してるー?」

 ナミトは、アルカインテールが置かれている深刻な状況には全くそぐわない、底抜けに明るい調子で手をパタパタ振ってくる。

 「今の所、何も問題はないし…綿は元気かな。

 でも、都市国家(まち)の様子は…嵐の前の静けさって感じで…不気味な雰囲気だよ」

 「それじゃ、まだドンパチは始まってないワケだねー!

 良かったー! 朝一番で出発するはずだったんけどねー、色々あって遅れちゃってさー。今、ようやくプロアニエス山脈の上空に入った所だよー」

 ナミト達、星撒部の加勢一同は、大和が定義拡張(エクステンション)で作り上げた飛行艦による空路でアルカインテールを目指すことになっている。

 「遅くなったのは、お前が朝寝坊したからじゃんかよ…」

 ディスプレイの視界の外側から、苦笑いを交えた突っ込みを入れたのは、イェルグである。ナミトはその言葉にツツーッと頬に一筋の汗を垂らして固まったが、すぐにぎこちない笑い声を「ナハハ…」と上げて誤魔化すのであった。

 そんなナミトをフォローするつもりではないようだが、蒼治が結果的にはそうなる言葉を告げる。

 「まぁ、あまり早くこちらに入都してしまって、好戦的な勢力を刺激するのは得策じゃないし、結果的にはオーライじゃないかな」

 「ですよね!? ですよね!」

 ナミトは頬の汗を吹き飛ばす勢いで首を上下にブンブンと振ってみせる。蒼治はその有様を目にしているワケではないが、音声だけでも様子が如実に想像できたらしい、"やれやれ"といった溜息を吐いてみせた。

 それから蒼治は声を真剣さで固めて、別の話題を振る。

 「今、プロアニエスに入ったばかりって話だけど、アルカインテールまではどれくらい掛かりそうなんだ?

 それに、アルカインテールの周囲には空間汚染を装った結界がある。これをどう突破して入都するんだ? 一度降りて、僕達と同じように結界の一部を解除するつもりかい?」

 その問いに対する答えを何も持っていないナミトが視線を泳がせながら「えーと、えーと」と答えあぐねていると。ディスプレイの端からヌッと黒のロングヘアに民族衣装的な布を身体の各所に纏った青年が顔を見せる。星撒部2年生のイェルグ・ディープアーである。

 「そうだな、今の速度のまま進めば、15分足らずで到着ってところだろうな。

 それと、入都はこのまま入るつもりだ。オレが、こっち側の空とそっち側の空を直接繋げて、回廊を作るよ。

 せっかく空を飛んでるってのに、無駄に陸に降りるなんて、勿体(もったい)なくて仕方ない」

 「そういえば、イェルグ、君が居たんだね。進入方法の確認なんか、愚問だったか」

 「そうでもないさ。何にせよ、確認は必要だろうよ」

 肩をすくめて答えるイェルグに、蒼治は双眼鏡を覗いたまま、初めて苦さを含まない微笑みを浮かべたのだった。

 だが蒼治はすぐに表情を引き締めると、入都後の手筈についての確認を始める。

 「さて、入都後の君たちの仕事だけど。事が起こるまでは、上空から様子を探っていてくれ。何か見つけても、何もなくても、5分置きに連絡を取り合おう。

 それで、事が起こってからだけど、僕らは地下に居る避難民の皆さんが移動するまでの間、地上の勢力を引きつける囮の役割を担うことになる。

 そこで、誰がどの勢力にぶつかるか、なんだけど。個人の能力を鑑みて、こんな風に考えてみた」

 蒼治は一息置いてから、続ける。

 「まず、ナミトは『冥骸』の連中に当たってくれ。君の卓越した練気技術は、霊体にも有効だしね」

 「オッケー! 死後生命(アンデッド)のじっちゃんばっちゃんは、ボクが懲らしめてやるよー!」

 豊かな胸に固めた拳をグッと寄せて、ナミトは元気一杯に了承する。

 「次に、イェルグには"パープルコート"の駐留軍を抑えて欲しい。

 彼らは地上戦力として機動装甲歩兵(MASS)も有しているけど、昨日交戦してみた様子から鑑みると、飛行戦艦や『ガルフィッシュ』と言った空中戦力の方に重きを置いているみたいだ。

 だから、空中戦が得意な君に、是非とも抑えてほしいんだ」

 その依頼に、イェルグは眉をひそめるどころか、(たの)しげとも余裕綽々(しゃくしゃく)とも取れる薄ら笑いを浮かべながら、首を縦に振る。

 「空が舞台だってンなら、異論はないさ。

 何なら、機動装甲歩兵(MASS)の方も引き受けるぜ。どうせ、大和には一機、オレ用の戦闘機を造ってもらうつもりだったからな。地上を爆撃できる装備を搭載するように、調整してもらうよ。

 なぁ、頼むぜ、大和」

 イェルグは画面外に居るはずの大和の方へ顔を向けて声をかけたが…相手からの返事は、ない。操縦に集中でもしているのだろうか。

 しかしイェルグは、返事がないことを大して気にした様子はなく、ちょっと肩を(すく)めて見せただけだった。

 次に蒼治が指示を出した相手は、そんな返事のない大和である。

 「大和、君には"インダストリー"の連中の相手をしてもらいたい。

 君の定義拡張(エクステンション)なら、彼らの機動兵器に対抗できる兵器を作れるだろうからね。

 出来るだけ、派手な大型の兵器を造ってもらえると、相手の目をひきつけやすくなるから、有り難いんだけど。それで頼めるかな?」

 そう問いかけるものの、大和はイェルグの時と同様、一言たりとも返事を返さない。これに対し、蒼治はイェルグのように気にせずに見過ごすことはできなかったようだ。怪訝そうに眉根を寄せながら、思わず双眼鏡を眼から離してノーラのナビットのディスプレイに視線を向ける。

 「大和、聴いてるのか?

 これは多くの人の命が懸かってる仕事なんだ、身を入れて動いてくれないと困るぞ!」

 ちょっと怒気を絡めた強い語気をぶつけると、ディスプレイの向こうからようやく大和の声が返ってくる…が、その声ときたら…。

 「はい…ちゃんと聴いてましたよ…了解ッスよ…。

 大型の兵器ッスね、はいはい…」

 徹夜明けでボロボロになり、やる気が尽き果てたサラリーマンを思わせるような、惨め極まりない声であった。

 これには蒼治も怒りを崩して、ギョッとした態度を取る。

 「大和、どうしたんだ? 体調でも悪いのか?」

 その質問に対して大和は、「はぁ~…」と深く、長い溜息を前置きにしてから、ウジウジと答える。

 「いえ…病理学的には健康そのものッスよ。

 いや…唯物論時代から、精神衛生って医学の範囲ッスよね…? だとすれば、不健康だって言っても間違いじゃないッスかね…。

 ………ハハハ、何独りで妙に深淵で無駄な事を語ってるンスかね、オレ…。相当キてるな、こりゃあ…」

 画面外で独りで語り、独りで突っ込む彼の有様は、道化と表現するにはあまりにも荒み(すす)けていた。

 「…どうしたの、大和君…? 何かあったの…?」

 ノーラが本気で心配して、眉を寄せながら尋ねる。それに対して、ナミトやイェルグは白々しいジト目を作ると、ほぼ同時に気の入っていない薄ら笑いを浮かべて、「…フッ」と鼻で笑う。そんな冷徹と形容できる反応にノーラが首を傾げていると、岩の隙間からナメクジが這い出してきたかのようなジト~っとした声を、大和が咽喉(のど)の奥から絞り出す。

 「…ノーラちゃんは、新入部員だって言うのに、平気なんスか…?」

 「え? な、何が、ですか…?」

 聞き返した、その瞬間。ドタドタドタッ! と激しい足音を立ててディスプレイの視界外から大和が全力疾走で登場。ナミトとイェルグを押しのけ、度アップでカメラに顔を寄せてきた。その表情は、今にも大粒の雨がこぼれそうな黒雲に似た、暗く、悲哀に満ちたものである。

 「お、おい、大和、操縦放り出して平気なのかよ…!」

 大和の背後でイェルグが突っ込むが、大和は答えない。大和が彼自身の定義拡張(エクステンション)で作り出したはずの飛行艦には、オートパイロットも完備されているのかも知れない。

 それはともかく、大和はディスプレイに噛みつかんばかりの勢いで、目尻に涙を溜めながら叫ぶ。

 「一昨日も、ほぼ一日中、『現女神』の戦力相手に過酷な労働を強いられたンスよ!? そして今日すぐに、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)だの"インダストリー"だの、物騒な連中がワンサカしてる戦場の中に叩き込まれるンスよ!?

 何が悲しくて、オレの青春、こんな重労働ばっかりに塗りつぶされなきゃならないンスか!!」

 大和がずっと暗かったのは、短期間で立て続けに物騒な任務に十時させられた事に対して不満を感じていたからのようだ。

 蒼治が苦笑いを浮かべながら踵を返し、双眼鏡を手にとって再び外界の様子の監視作業に戻った頃。大和は更にカメラに顔を近寄せ、ボロボロと涙を零しながら訴える。

 「星撒部って言ったら、レベルの高い女の子の巣窟じゃないッスかぁ!

 オレはそこで、女の子に囲まれてキャッキャウフフなバラ色の青春時代を謳歌するつもりだったのに…!

 来る日も来る日も、泥臭い仕事ばっかり…! オレは便利屋として、ひったすら機械だの車両だの作らされまくって…! オレは工場の作業ロボットじゃないンスよ!?

 理不尽だーっ! 理不尽過ぎるーっ! 今からでも改善を要求してやるーっ!」

 喚く大和の肩を、背後からポンと叩いたのは、イェルグだ。えっぐえっぐと嗚咽(演技ならばまだ救いようがあるが、これが本気ならばドン退きだ、とノーラは密かに思った)を漏らしながらイェルグの方を振り向く、大和。するとイェルグは、爽やかな笑いをニコッと浮かべながら、こう語った。

 「そんなにふてくされるモンじゃないさ。

 オレだって、お前と同じだろ。一昨日はアオイデュア、今日はアルカインテール。同じじゃないか。

 それに、ノーラなんて、一昨日から昨日、今日にかけてずーっと物騒な中に居るんだぜ?

 お前だけが、理不尽な状況に陥ってるワケじゃないさ」

 「…イェルグ先輩とオレは、状況が全然違うッスよ…!」

 大和は強く肩を振るって、イェルグの手を肩から弾き飛ばすと、両の拳を握りしめて腕をプルプルさせながらイェルグに向き直り、言葉で噛みつく。

 「先輩は、ヴァ姐さんっていう心の支えがあったじゃないスかぁっ! アオイデュアの時、始終一緒に任務に就いてッスよね!?」

 「いや…始終ってのは違うだろ。

 オレは地元の防災部と一緒に消火活動で走り回ってたし、ヴァネッサのヤツは避難場所の確保で待機してたじゃんか。

 それに、同じ任務に就いてるからこそ、気が休まらないってこともあるんだぜ? 現にオレは、ノーラと一緒に居たってだけで、睨まれまくったしな。あいつの変な嫉妬深さにゃ、参ったモンだよ」

 苦笑いを浮かべて(さと)すが、大和は全く納得した様子はなく、イェルグを恨めしそうに睨みつけ続けている。

 「嫉妬される時点で、オレには羨ましすぎるッスよっ! 女の子の嫉妬なんて、構って欲してすり寄ってくる子犬みたいなモンッスよ、可愛いモンじゃないスかぁっ!」

 そして大和は、イェルグが更に何か諭すより早く、ナミトにわっと抱きついた。これが並の女子なら、気のない男子からこんな事をされれば気を悪くしてふりほどく所だろうが、ナミトはちょっとビックリした顔を作った程度で拒絶的な反応は示さない。それどころか、よしよし、と大和のハリハリしたブラウンヘアーが繁る頭を撫でてさえ見せた。

 アリエッタも物腰柔らかだが、彼女らのように豊満なバストを持つ女子は、母性が高い傾向にあるのかも知れない。

 「ナミちゃあああん! ナミちゃんだけだよ、今のオレには!

 ナミちゃんがいなけりゃ、オレは今頃、任務の過酷さに干されて、とっくにミイラになってたよーっ!

 ああ、オレの大天使、ナミちゃーん!」

 「おおー、よしよしー、可哀想にねー」

 そう言いながら撫で撫でするナミトの顔は、本気で同情してる顔ではなく、どう見てもからかいの色の濃い、含みのある笑顔である。

 そして、笑顔が含んでいた"毒"を、ナミトは吐き出した。

 「でもねー、大和くーん。

 星撒部の活動は、ナンパでもイチャイチャでもないからねー。

 ボク達の活動は、困ってる人たちに希望を与えるために奮闘することだからねー。

 そういうヨコシマな考えばっかり、四六時中考えてるようならー…副部長に、注意してもらうよ?」

 最後の一言は、笑顔のままながら、全く笑っていない鋭くて堅いトドメである。

 すると大和は、ビクン、と身体を震わせたかと思うと、身の危険を感じた昆虫のようにサササッ! と素早い動作でナミトから離れる。

 「ちょっ…いやいやいやいや、副部長だけは勘弁!

 あの人、ハンパじゃないから…! ホント勘弁ね、お願いだよ、お願いします、本当にお頼み申し上げます!」

 語るにつれて徐々に頭を低くした大和は、最後には土下座をする形になってしまった。それほど彼にとっては、副部長の渚からの注意は恐ろしいものらしい。

 ナミトとのやりとりで徐々にいつものテンション――女の子の尻に敷かれがちな情けない部分も含めて――に戻ってきた大和の様子に、蒼治は双眼鏡を覗いたまま苦笑いを浮かべながら小さく嘆息すると。笑いが尾を引く声音で大和に確認する。

 「それで、大和、頼めるんだろうな? "インダストリー"の相手。

 僕は君を立派な戦力として認めた上で、今回の戦略を立てたんだけどね。もしも本当に無理だって言うなら、戦略を直ぐに修正しなきゃいけないからね」

 すると大和は、眉根に皺を寄せて、顎に手を置き、ムムム、と唸りながら難しい表情を造る。とは言え、その表情は真剣というには、かなり演技臭い。

 「いやー、簡単に言ってくれますけどね、実際はヒッジョーに手強いですよ、"インダストリー"は。

 蒼治先輩の話では、今回は短期決戦で一気に"バベル"ってヤツを奪取しに来るって話ッスよね? ってことは、奴ら、惑星内戦闘とは言え"タイプD"装備で根こそぎ敵勢力を沈黙させて、戦況を一気に自分たちの優位に傾ける可能性が高いッスよ。

 "タイプD"装備は本来、宇宙空間に用いられる空間歪曲兵器を初めとした、超大威力兵器ッスからね。ただデカくて堅いだけの(おとり)を造っても、ソッコーで素粒子分解されちゃうのがオチってことになるッスから…」

 「――つまり、大和。冗談抜きで、君では"インダストリー"の相手は無理だと?」

 そう尋ねる蒼治は、弱気に聞こえる大和の言葉を聞いた割には、心配の色など一片も混じっていない。それどころか、結論を含まぬ答えに、少々苛立ちさえ含んでいた程だ。手にした双眼鏡を放して今一度ディスプレイの方に振り向くなど、全くしない。

 何故そこまでぞんざいな対応を取るかと言えば…蒼治は、大和の性格から今後の展開を読み切っているからである。

 そして、蒼治の心配のない態度を肯定するように、大和はニヤリと得意げな笑みを浮かべてみせた。

 「いや、無理だ、なんて一言も言ってないッスよ。

 ただ、相手が一筋縄じゃいかないどころじゃないって事を、知っておいて欲しかっただけッスよ。

 そんでもって…」

 大和は親指を立てて自身の顔を指さし、これ以上ないほど得意極まりないドヤ顔を作って、強気に言い放つ。

 「正義の"機械工学の求道者"たるオレが、外道な"インダストリー"の連中に負けるワケないッスよ!

 任せといて下さいッス! その役目、見事果たして見せるッスよ!

 だから…」

 更に大和は、精一杯恰好をつけた、歯から今にも星形の輝きが放たれそうな表情を作ると、姫に対して騎士がやるようなうやうやしい礼を見せて、こう語ってみせる。

 「ナミちゃん、そして、ノーラちゃん。

 この作戦が終わったら、オレの事、物凄く()めちぎって、抱きついてくれて良いんだよ?」

 この台詞にナミトとノーラの女子勢はきょとんとする一方、イェルグと蒼治はどちらも"やれやれ"といった苦笑を浮かべる。特に蒼治はそこに加えて、大和の得意げな鼻面をへし折ろうとするかのように、ボソリと付け加える。

 「それじゃあ、紫にもそう伝えておくよ。花は2つより3つの方が良いだろう?」

 すると大和は、笑みを一転、青ざめた顔を作って「うげっ…!」と声を上げる。

 「あ、そっか…! あの小姑(こじゅうと)も、昨日からこっちに居るンスよね…!」

 「ああ。今はロイと一緒に、僕らとは別に動いてるけどね」

 蒼治がそう答えると、大和は恐ろしい怪物に遭った記憶をフラッシュバックさせたように、額に掌を置いて、戦慄き始める。

 「うっわ…なんでいつもいつも、あの小姑はオレの楽園を邪魔するようにチームに入り込んでくるンスかね…!

 …はっ! まさか、副部長、それを見越してオレをナミちゃんやノーラちゃんの元に…!?

 あああああ! 鬼だっ! 副部長は女神なんかじゃないっ! 鬼そのものッスよぉっ!」

 大和は一人で頭を抱えてくずおれ、グネグネと身体を揺らして叫び動くのだった。その有様は、熱々のたこ焼きの上に載せられたカツオブシが揺らめく様に似ていて、ノーラもナミトも笑わずにはいられなかった。

 さて、蒼治は大和との無用な時間を食ったやり取りがようやく終わったことに溜息を吐いた後に。最後にノーラへと役割を告げる。

 「最後に、ノーラさんだけど、君には癌様獣(キャンサー)の対処をお願いしたいんだ」

 そう告げられた瞬間、大和のことを笑っていたノーラの表情がギクリと強ばる。

 「え…私が、癌様獣(キャンサー)の相手…ですか…!?」

 非常に心許ない様子で聞き返すノーラであるが、それは彼女の性格上無理からぬことと言える。彼女は自分に対する自信がない故に、自分のことに対して悲観的なのだから。

 蒼治もそんな彼女の性格のことは、この2日間の行動から読みとってはいる。しかし、同時に、彼はノーラの本番に強い性格も知っている。だからこそ、入都時に癌様獣(キャンサー)と交戦した際に真っ先に打開方法を見つけたり、トンネル内でロイに『十一時』の攻略法を伝授したり出来たのだ。

 だから蒼治は、今回の役割をノーラに任せることに一片の不安も感じていない。強いて弱点を上げるとすれば、自身に対する自信のなさであるが、これを出来るだけ解消するべく、蒼治は双眼鏡を目から離してノーラに向き合うと、微笑みを携えて勇気づける。

 「大丈夫。ノーラさんには、事態に臨機応変に対応出来る機転があるし、卓越した魔法技術もある。そして、定義変換(コンヴァージョン)という力強い武器(のうりょく)もある。

 君のその力を活かせば、定義が変わる霊核を相手にしても、十分に渡り合えるはずさ。

 それに僕は、君に癌様獣(キャンサー)の殲滅をお願いしてるワケじゃないよ。足止めしてくれさえすれば良いんだ。

 それでも大変な仕事だっていうことも、十分知ってるつもりだけど…その上で、この役割の適任者は、君だと思う。頼まれてくれるかな?」

 そうまで説得されては、ノーラは相変わらず自信を持てずとも、首を縦に振らざるを得なかった。

 「…分かりました。出来るだけ、やってみます…」

 「うん。お願いするよ」

 ひとしきり役割を伝え終えたところで、大和が演技ぶって挙手しながら声を上げる。

 「ところで、蒼治先輩は、何をするンスか?

 まさか、オレらの戦いを見物してるだけ、ってワケじゃないッスよね?」

 「勿論だよ」

 蒼治は肩を竦めて笑うと、双眼鏡を眼に当ててディスプレイに背を向けて外界の監視を再開しつつ、答える。

 「僕は、ルッゾさんと一緒にみんなのところを回りながら、蘇芳さん達の方に状況を逐次報告するよ。それと、危なそうな場所にはヘルプに入るつもりさ」

 その言葉に、ノーラが目をパチクリとさせて、背を向けたままの蒼治に心配と同情を交えた視線を向ける。

 「…凄く、忙しそうですけど…大丈夫なんですか…?」

 蒼治の語った仕事の内容は、離散している現場の状況把握と指揮に勤めながら、必要に応じて現場の手助けすらしてみせるということに他ならない。通常は指揮だけで手一杯になるところを、他の役割までこなそうと言うのだから、その気苦労は大変なものだ。

 しかし蒼治は、ノーラの心配に視線を返すでなく、肩を竦めてみせるだけだ。

 「仕方ないさ。僕の外部通信で、今回の状況を作ってしまったんだからね。責任は取らないとね」

 「…別に兄ちゃん1人が背負い込む責任じゃないってのに…。

 外部への通信に賛同して兄ちゃんに頼んだのは、蘇芳やオレを初めとした、市軍警察官一同だぜ。責任があるとすれば、オレ達の方にこそあるってモンじゃないか?」

 レッゾがそうフォローするものの、蒼治は反論するでも賛同するでもなく、背中で笑いながら有り難く言葉を受け取るだけであった。

 「…とにかく。作戦の内容は、皆把握したかな?」

 蒼治の問いに、ノーラおよびディスプレイ越しの加勢一同が肯定の返事をすると。蒼治は続けてこう語って、作戦伝達を締める。

 「それじゃあ、イェルグ達はアルカインテールに入都したら、ノーラさんのナビットに連絡を入れてくれ。僕達と一度合流するか、それともそのまま現場に向かってもらうかは、その時の状況を見て指示するよ。

 今回の外部通信も、十中八九、地上の勢力に関知されているはずだ。これがどれだけの影響を生むかは分からないけど、あまりに変化が激しかったら、その時もノーラさんに頼んでイェルグ達に連絡を入れることにする。

 入都して早々に撃墜された、とか洒落にならないからね」

 「当たり前ッスよッ!

 ちゃんと連絡入れてくださいよッ! マジで死活問題ですからッ!」

 大和がそう喚きを残すと、そのまま小走りでディスプレイの視界外に消えていった。操縦の方に戻ったようである。

 残ったイェルグとナミトは、ちょっとおどけた様子で敬礼の真似事をし、「そっちも気をつけて!」と言葉を残すと、映像通信を切断した。

 途端に、車両の中に静寂が広がる。

 すると、これまでの騒がしさを惜しむように、レッゾがすかさず声を上げた。

 「援軍の連中、賑やかな奴らばっかりだな。あんたらの部活って言うのは、ああ云う賑やかな奴らが揃ってるのか?」

 「まぁ…そうですね…。

 副部長の立花渚先輩からして、凄いですから…」

 ノーラは語りながらナビットを制服の上着のポケットにしまい込むと、手早く双眼鏡を目に当てて、外界の監視任務に戻るのであった。

 レッゾの愉快そうとも苦々しいとも取れる笑いが、小さく短く、車両の中に響きわたった。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Drastic My Soul - Part 5

 ◆ ◆ ◆

 

 蒼治達が斥候任務を初めて暫く時間が経過して。都市(まち)を覆うプロアニエス山脈の影が徐々に晴れてゆく、正午近くの時間帯に差し掛かった頃…。

 蒼治達の乗るものとは全く別の車両が、瓦解した街並みを疾駆していた。

 車両は蒼治達のものと似た人員輸送用の装甲車であるが、デザインやカラーリングは異なる。何より、装甲のみならず車両のいかなる場所の表面にもビッシリと刻まれた魔術篆刻(カーヴィング)が、アルカインテールの市軍警察のものより実戦的で高価な車種である事を物語っている。

 そして何より特徴的なのは、車両側面の市街戦向け迷彩模様に()もれるように張り付けられた、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のマークである。――そう、これは"パープルコート"の車両なのだ。

 "パープルコート"の装甲車は、瓦礫を踏みつけて土煙は上げるものの、何一つ音を立てない。徹底的した無音の魔化(エンチャント)を施しているようである。

 この車両の人員収納スペースには、暗緑色の軍服を身につけた戦闘員たちが十数名、肩身を寄せ合って座り込んで居る。実戦に(おもむ)くが故に、紫色に染められた礼服のコートは身につけていない。

 彼らの中には緊張した面もちでジッと黙しているものの数名いたが、それは極少数派だ。大半の人員達は、無音の魔化を良いことに、下卑た話題を語り合ってはゲラゲラと下品な笑い声を上げていた。

 その中でも最も騒がしいのは、人員収納スペースの戦闘に座り込んだ、巨躯の厳つい男。アルカインテール駐留の"パープルコート"の中佐、ゼオギルド・グラーフ・ラングファーである。

 彼は隣に緊張した様子で座り込むオオカミ顔の下士官の肩をガッシリと抱えながら、掘りの深い顔をニンマリとした嫌らしい笑みで歪めながら、騒ぐ。

 「なぁ、オルトロン(オオカミ顔の下士官の名前である)。クモの糸ってよぉ、スゲェ強度があるじゃん? あれってなんでだか知ってっか?」

 「は、はい…。掛かった獲物が暴れても壊れないように…ですよね?」

 「そうそう! 大当たりだ!

 あれってよ、束ねると同じ太さの鋼鉄線より何十倍も強いだってな!

 …まぁ、それはそれとして。おれが言いてぇのは、つまりクモの糸ってのは、攻撃のためであって、防御だの警戒のためのものじゃねーってことなんだよ。

 それと比較するとな、今、オレ達を囲んでるこの"糸"は、クモの糸の真逆の役割を担ってるってぇことになるワケだよ」

 「我々を囲んでる…"糸"、でありますか? そんなものが、どこに…」

 尋ねようと言葉を口にするものの、その結びが口から飛び出すより前に、ゼオギルドの固めた拳がオルトロンの軍帽をかぶった脳天にガツンと突き刺さる。星が飛び散りそうな強烈な一撃を不意に喰らったオルトロンは、「ぎゃうっ」と尻尾を踏まれた子犬のような間抜けな声を上げながら、思わず瞼をギュッと閉じる。

 そんなか弱いオルトロンの有様を「ハッ」と鼻で笑ったゼオギルドは、叱りつけた子供を宥めるように、軍帽の上からポンポンポン、と掌で頭を軽く叩く。

 「おいおいおい、オルトロン君よー。お前さー、一応精霊魔術技官で大尉殿だろー?

 魔術体系は違えども、術式って根っこは一緒なんだからよー、この程度の方術結界くらい感じ取れよなー。

 これが"女神戦争"地域の最前線で、魂魄作用系のトラップ結界だったら、お前とその部下は一瞬で無駄死にだってぇの」

 「え…、け、結界ですか…!?

 そんなもの、どこに…」

 慌ててキョロキョロと視界を巡らせるオルトロンに、ゼオギルドは再び鉄拳を叩き落とす。「ぐぎゃんっ」と叫んだオルトロンは、鉄拳の勢いで舌を噛んでしまったらしく、長い舌を出して炎症を冷ますように息を吐く。その様子に、今度はゼオギルドのみならず、ゼオギルド直属の部下達もゲラゲラと下卑た笑いを漏らす。

 「ホントに感知できねーのか? オオカミ面してるくせに、鼻の効かねーヤツだなぁ。

 とは言ってもよ、この結界は実際、相当緻密で上等な技術で出来てやがるからな。ちょっと腕に覚えがある程度の魔術師じゃあ、何も感じねぇだろうよ」

 そしてゼオギルドは、見えない糸を絡め取るように、白い手袋に包まれた太い人差し指を立ててクルクルと回す。

 「もう十数分も前からだな。ここら辺一帯に、息を吹きかけただけでも千切れそうなくらいに細くて弱い糸状の感知用結界が、ウジャウジャと張り巡らされてやがる。

 まぁ、糸って形容はしたがよ、形而下的に言やぁ、忍者ってヤツが使うアラーム…えーとなんだっけ…そう、鳴子(なるこ)だ! アレに近いな。この結界の中じゃあ、ネズミどころかムシケラ程度のモノが動いても、術者にゃその存在を検知するだろうよ」

 「そ、そんな代物が!? 形而上相を視認してみましたが、私には全く認識できませんでした…! 流石は、"術式暴君"の異名を持つゼオギルド中佐、お見事です…!

 それにしても、そんな高等な結界の中を、いくら魔化(エンチャント)による迷彩済だからといって、こんな速度で車両を驀進させては、術者に検知されてしまうのでは…?」

 この疑問を口にし終えた途端、オルトロンは3度目の鉄拳を頭上に喰らう。そしてゼオギルドは、ハァー、と深い溜息を吐きながらやるせなく首を左右に振ると、呆れたように両手を上げる。

 「お前なー、オレがこんなに余裕ブッこいてる時点で察しろよ。

 勿論、オレが結界の作用を中和する術式を展開して、検知されないようにしてるに決まってンだろーが。そうじゃなきゃ、こんなにヘラヘラしてられっかよ。

 それによぉ…お前、オレのこと"術式暴君"とか言いやがったが、それ、褒め言葉じゃねーからな?」

 「も、申し訳ありません、中佐…」

 オルトロンはヒリヒリする頭をうなだれて、謝罪を口にする。

 「それにしても中佐、こんな上等な結界を設置したのは、一体どこの勢力なのでしょうか?

 能力の傾向から鑑みて、『冥骸』でしょうかね…?」

 「いーや」

 オルトロンの意見を、ゼオギルドは即座に否定する。

 「こいつは、避難民(マチネズミ)どもの仕業…もっと言やぁ、昨日乱入してきやがったユーテリアのガキどもの仕業だろうよ。

 ヤツら、自分たちの外部通信が傍受されてる事を承知してただろうからな。オレ達がコトを起こすだろうと予測した上で、自分たちに火の粉が飛ばんで来ないように…飛んできたとしたら、ソッコーで逃げられるように、この仕掛けを設置したんだろうさ。

 こんな技術が市軍警察どもにあるなら、この約1ヶ月間、もっとうまく立ち振る舞ってただろうからな。こいつぁ、昨日のガキどもの仕業と見て間違いねぇぜ」

 「聞きしに勝るユーテリア、という所ですかね…」

 オルトロンが感心したように語ると、珍しくゼオギルドも顎に手を置いて深く頷き、「全くだぜ」と同意してみせる。

 「飛行戦艦を素手でブッ叩くようなヤツらだからな、ハンパねぇ力を持ってるのは確かだろうよ」

 しかし直後、ギラリと獣のような獰猛な笑みを浮かべると、炎を息を吐くような凄んだ声を漏らす。

 「そうは言っても、ガキはガキだ。

 (タマ)ぁ賭けたやり取りの経験じゃ、オレ達の方が断然上だ。

 どう足掻こうと、この糸を潜るみてぇに無駄だって足蹴にしてやった上で、こっちの思惑の舞台に引きずり上げてやるぜ…!」

 

 ゼオギルド達を乗せた装甲車は、それから暫し驀進を続けると…。やがて、瓦解した街中にポッカリと開いた穴のようなトンネルの前に到着する。

 このトンネルこそ、アルカインテールの地下居住区である"ホール"への入り口である。都市にはこのようなトンネルが優に百を超える数で存在しているワケだが、その中でゼオギルドがこのトンネルを選んだのは無作為と云うわけではなく、キチンとした理由がある。

 もしもこの場に星撒部の一同が居れば、彼らは「あっ」と気付いたかも知れない。

 そう、ここは昨日、蘇芳たちに連れられて逃走した入り口なのだ。

 装甲車が人員収納スペースのハッチを開くと、"パープルコート"の人員がゾロゾロと流れ出す。そのうち、ゼオギルドは最後尾であったが、2列に並んで待つ部下達の間をオルトロン大尉を連れて悠々と歩いた先頭に立つと、腕を振って"着いてこい"と指示する。

 一同がトンネルの目の前で集合すると、ゼオギルドは掌を立てて"全体止まれ"と指示。"休め"の体勢で待機する部下達を後目(しりめ)に、ゼオギルドはしゃがみ込むと、白い手袋に包まれた右手で、大小の瓦礫でゴツゴツザラザラとした瓦解した路面を撫でると、心底愉しげにニヤニヤとした笑みを浮かべながら独りごちる。

 「いやぁ~、やっぱり戦場(シャバ)は良いよなぁ~!

 二酸化炭素の籠もる狭ッ苦しい士官室に押し込められてるとよ、なーんの刺激もなくて身体が鈍っちまって仕方ねぇんだよ。

 それもこれも、前任のボケ中佐殿がマヌケな殉職しやがった所為で、オレが中佐職に就くハメになったのが原因なんだよなぁ。あのクソボケ中佐、今頃地獄でヒィヒィ喚き回ってりゃ、良い気味なんだがよ」

 「ゼオギルド中佐、ファイナー中佐のことをそう(さげす)むのは…その…宜しくないと思いますよ…?

 ファイナー中佐は、我らを庇って殉職なさったワケですから…」

 オルトロンがゼオギルドに気圧されながらも、すかさず反論を口にする。

 ファイナーというのは、元ゼオギルドの上司である中佐だ。彼が存命の頃、ゼオギルドは少佐職にあり、現場での指揮および対応を担うのを主な職務としていた。交戦を好むゼオギルドは当時の立場にひどく満足しており、彼の無骨なる直属の部下以外の隊員が目を覆いたくなるような凄惨にして多大な戦果を上げていたものだった。

 しかし、とある作戦において前線近くにて指揮を執ることになったファイナー中佐は、『冥骸』の策略に陥れられ、部下の大部分に痛手を負う大敗を喫する。この時、ファイナー中佐は自責の念からか、自ら殿(しんがり)を勤めて部下達の撤退を援助したのだが、その結果帰らぬ人となったのである。

 オルトロン大尉はその時の戦いで、九死に一生を得た隊員の一人であり、亡きファイナー中佐に対して未だに敬意を払っている。

 しかし…ゼオギルドは「ハッ!」と鼻で笑い、文字通り唾棄して見せる。吐いた唾は、まるで亡きファイナー中佐の顔にでも吐きつけたような凶悪さである。

 「自分でヘマって、自分で死んでやがるんだからよ、世話ねぇってンだよ。おまけに、あいつの抱えてた面倒事一式、全部オレにおっ被せやがってよ! おかげでオレぁ、ここントコ一週間ほど、部屋に籠もりっぱなしの、欠伸が出るような指揮三昧だったっての!

 生きてる頃から、ヤレお前はやり過ぎだとか、ヤレ部下の礼節を整えろだ、うるせーンで気に食わなかったンだよなぁ! 死んでくれたことだけは、清々してよかったがな!」

 「で、ですからゼオギルド中佐、殉職者を悪し様に言うのは、軍規違反にもなりますから…その辺で…!」

 オルトロン大尉は憤り半分、ビビり半分でオオカミ面を冷たい汗でダラダラと濡らしながら訴えると。ゼオギルドは、「ふぅー」と長い息を吐いて落ち着く素振りを見せる。

 「まっ、ここでガミガミ言ったところで、一利にもならねーのは確かだな。

 んじゃ、ちゃっちゃと仕事に取りかかるとするかよ」

 そう言い捨てると、ゼオギルドは一度立ち上がり、左手を覆う手袋を乱暴に外し、瓦礫が(うずたか)く積もる路面に投げ捨てる。露わになった、殴り馴れをした無骨な掌――その甲には、ガラス玉に似た体組織が、摩天楼の合間に伸び始めた陽光を反射して輝いている。

 ゼオギルドは、この掌の五指をピンと広げて路面に置くと。

 「(フン)ッ!」

 鋭い掛け声を摩天楼に響かせると共に、大地を握り込むように五指に力を込めた――その直後。甲のガラス玉様の体組織に異変が生じる。

 ジュワリッ…ガラス玉の表面から、濡れたスポンジを握り込んだように、水が溢れ出す。水はそのままゼオギルドの無骨な手の甲を流れ、土埃と瓦礫に満ちた路面へと零れ落ちて、周囲を黒っぽい染み状に濡らす。

 染みはジワジワと範囲を拡大させつつ、いびつな楕円を描きながらトンネルの入り口の方へと延びてゆく。この現象はゼオギルドが意図的に操作しているワケではなく、トンネルに向かう緩やかな傾斜に導かれた極々自然な水流の動作に過ぎない。

 やがて、染みがトンネルに達した頃のこと。トンネルを下るのは染みではなく、チョロチョロと音を立てる、雪解け水のような水流となっていた。

 ――そう、ゼオギルドのガラス玉状の体組織から生じる水の量は、時間と共に増加しているのだ。

 その証拠に、ガラス玉状の体組織から噴出する水は、今では軽く蛇口を捻った程度の流量へと変化している。

 「ン~、ンン~、ンンンン~」

 陽気で調子っぱずれな鼻歌を口ずさみながら、徐々に水量を増やしてゆくゼオギルド。その隣でオルトロン大尉がおずおずと口を挟む。

 「あの…中佐。ちょっと悠長過ぎではありませんか…?」

 オルトロンは知っている。"術式暴君"と呼ばれるゼオギルドが操る現象が、この程度の大人しいものなどでは決してないということを。

 対してゼオギルドは、ニヤリと意地悪げに笑って、悠々と答える。

 「まぁまぁ、久しぶりの現地任務なんだからよ。ちったぁ情緒深く楽しませろっての。

 てめぇに心配されるまでもなく、やる事ぁちゃんとやるからよ。ホラ…ホラ…ホラよっ!」

 語尾に行くに連れて、語気が強くなるゼオギルドの言葉。それに呼応するように、ガラス玉状の体組織から噴出水の量が激変する。シュワワワ…という涼やかな程度の水音が、ジャブジャブと言う強い音へ…さらにはゴボッゴボッと噴水のような勢いで、大量の水が溢れ出す。

 トンネルへと流れ込む水の量は今や、幅は狭いものの急流の川と呼べるような有様である。

 激しい水の流れが、人工照明で満ちるトンネルの奥深くへと消えて行くのを眺めていたゼオギルドは、厚い唇をペロリと一舐めして独りごちる。

 「さぁて、避難民(マチネズミ)ども、一網打尽に釣り上げやるぜ…!

 釣りって言っても、糸と針でやるんじゃなくて、水で追い立ててやるんだけどな!」

 

 さて、トンネルの奥に向けて水を流し込むゼオギルドの狙いとは何か。――ゼオギルドは水に、2つの役割を背負わせて、避難民の炙り出しを実現しようとしているのである。

 1つ目の役割、それは避難民たちを存在を検知する神経の働きをさせることだ。

 トンネルの奥、ひいては"ホール"に潜んでいるはずの避難民たちを探し出す最も単純な方法は、"ホール"に向けて探索隊を派遣することである。実際に"パープルコート"は、この試みを何度か実践しているが、今まで功を奏して来なかったのは、トンネル内にやたらと仕掛けられた認識発狂結界のためである。避難民たち自身も解除のことを考えずに仕掛けたその結界は、無闇やたらに難解な術式構成を持っており、まともに解除するには相当な時間と労力を要する。かと言って、結界を無視しようとすれば、認識機構がただちに発狂し、前進することが出来なくなってしまう。これは生物だけでなく、機械だろうが暫定精霊(スペクター)だろうが、"認識"という事象処理能力を持つ存在ならば同じことが言える。

 これらの厄介な結界をうまくやり過ごして、トンネルの最奥、"ホール"に潜む避難民を検出する方法はないか。そこでゼオギルドは、一計を講じた。

 結界が認識機構に作用するのならば、認識機構を持たない存在を用いてトンネル内を探索すればよい。

 そこでゼオギルドが思い当たったのが、水、である。水は勿論、認識機構など持たない物質である。重力に引かれるがまま、高きから低きへと単純に流れるだけの存在だ。その性質が、今回の作戦に適合したのである。"ホール"に続くトンネルに流し込めば、自然の摂理に従って下へ下へと流れ行き、最後には必ず"ホール"に行き当たるのだから。

 そしてゼオギルドは、水が"ホール"に行き当たったかどうかを定期的に検知すれば良い。全く以て単純で、労力の掛からない手段である。

 また、ゼオギルドが水に負わせた2つ目の役割。それは、避難民たちを地上に引きずり出す"災厄"と為すことである。

 水が"ホール"に行き当たったならば、ゼオギルドは"ホール"の水源を目指して水を動かす。そして、水源と合流した時点で、ゼオギルドは魔力を注ぎ込み、水をまるごと莫大な数量の暫定精霊(スペクター)へと変化。"ホール"内を走り回らせて避難民の探索を行い、避難民を見つけ次第彼らを襲撃して、"ホール"から無理矢理追い出すつもりなのである。

 

 この凶悪な計画の実現を胸を躍らせて待ち焦がれながら、ゼオギルドは鼻歌を口ずさみ続け、水が"ホール"へと至るのを待ち続ける――。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 一方。蘇芳が指揮をとる"ホール"では。

 ゼオギルドの計画など露ほども認識できるはずもなく。移動準備がほぼ終了したのと、時間帯が丁度良いことも相まって、昼食の準備に取りかかっていた。

 とは言え、大半の物資や器具は車両に詰め込んだので、いつもより質素な献立だ。予め炊いていたお米と、こまれた予め準備していた数種の具材を用いて、ひたすらにおにぎりを作っているのである。

 紫とレナ、そしてロイのユーテリア勢も、市軍警察が主導している昼食準備に荷担し、3人並んで作業を進めていたが…。

 「ちょっ…なにそれっ!? バレーボールっ!? いや、バスケットボールのつもりなの、それ…っ!」

 腹を抱えて爆笑し、作業の手を止めてしまっているのは、レナである。荒い過ぎの涙がジワリと滲む視線で彼女が眺めているのは、ロイの手元である。

 そこには、掌サイズを遙かに越えた、ひどく大きくて(いびつ)な球形をしたご飯の塊があった。

 レナの大爆笑に、ロイは顔をムスッとさせ、竜尾を不機嫌げにビタンッ! と大地に打ち付けると、唇を尖らせて語る。

 「…なんだよ、文句あンのかよ。

 だから初めに言っただろーが、オレはこういうの苦手だって。それでも手伝ってやってンだからよ、文句言うなよな」

 「いや、文句っつーかさ…ヒャハハ! どこをどーすりゃ、おにぎりがそんなサイズになるってンだよーっ!

 不器用とかそういうレベルじゃないだろーっ!」

 レナに笑い転げられながらも、ロイは作業の手を止めず、さらにご飯を手にとって巨大なライスボールにあてがって体積を増大させると。ロイを挟んでレナと反対側に作業する紫に視線を向ける。

 「おい、紫。この失礼すぎるセンパイに、なんか毒吐いてやってくれよ。

 ムカついて、作業に集中出来ねえっての」

 ところが、紫の方はと言えば、笑い転げることはないもの、ロイに対する反応が非常に淡白である。ひどく鋭く細めた目つきで淡々とおにぎりを作りながら、「あっそ」と一言漏らすだけだ。

 紫のこの態度は今に始まったことではない。おにぎり作りが始まった時点からすでに、彼女の態度はこんな感じであった。

 「…なぁ、紫。ひょっとして、機嫌(わり)ぃのか?」

 ロイが尋ねると、紫はジロリと視線を走らせたかと思うと、プイッと顔を背ける。

 「何でも良いでしょ。ほっといてよ」

 「…何でも良いって言われてもよ、そんな態度で隣に居られたら、嫌でも気になるっての…」

 更にライスボールにご飯を重ねつつ、ロイがブチブチと呟くが。紫はやはり、ロイの意志に応えることなく、淡々とおにぎりを作り続けるのであった。

 ――大雑把な性格のロイは、絶対に知る由もない。先刻、ビルの屋上で寝っ転がっていた時に、訪ねてきた紫の機嫌を損ねてからというもの、その尾が今尚根深く引いている…と云う、繊細な事実を。

 その気の回らない朴念仁気質が、紫の不機嫌さに更なる拍車をかけていることも、理解できるワケがない。

 故にロイは、不可解な少女の機微に対して、ひたすらに居心地の悪さを感じ続け、そして首を捻ることしか出来ないのであった。

 「…ワケ分かんねーなぁ…」

 ロイが溜息混じりに呟きながら、ライスボールに更なるご飯を加えようと腕を伸ばした、その時。

 「おい、そこ! 一体、何を作ってるんだ!!」

 鋭い女性の声と共に、足早にロイの方へと近寄る足音。それらの音声の主は、料理が得意な女性士官、竹囃(たけばやし)珠姫(たまき)である。

 珠姫はご飯へ至る直前のロイの手をガッシリと掴むと、ギョッとした(てい)でロイの左手の上に乗る巨大なライスボールを眺める。

 「神聖と表現しても過言ではない、重要なる食料を(もてあそ)ぶとは…! しかも、こんな忙しい時分に…!

 社会的責任感の薄い学生の身分とは言え、恥を知れ、恥をっ!」

 真っ赤に燃えるような勢いで(まなこ)を怒らせて睨みつける珠姫に、ロイは慌てて反論する。

 「いや、遊んでねーよ! おにぎり作ってるだけだっつーの!」

 「お、おにぎり…!? そ、その…無様で、無駄に体積のある物体が、おにぎりだと言うのか…?」

 珠姫が呆けた様子で聞き返していた、その時。たまたま暇を持て余してフラフラ歩き回っていた子供の一団がロイの近くを通り過ぎようとして、その巨大なライスボールを認識。一同は一斉に目を丸くしたかと思うと、半分は「すっげ~…」と関心したように呟き、もう半分は「なんだよあれ! おにぎり!? おにぎりなのあれ!? ウッソだろおい!」等と喚きながらゲラゲラ笑い転げるのだった。

 勿論、この時もレナはずーっと腹を抱えてゲラゲラゲラゲラと笑いっぱなしである。

 四方八方から響いてくる笑い声で、さすがに居心地の悪さを感じたロイは、むくれたような、それでいて恥ずかしがっているような表情を作り、どもり気味におずおずと語る。

 「…仕方ねーだろ、料理なんて普段やらねーし…こういう細かい手作業ってのは、得意じゃねーんだよ…」

 「いや…細かい手作業というほどのものではないだろう…いやいや、そもそも、得意不得意の以前の問題ではないか…。お前は、"程度"という言葉を知らんのか…」

 「こ、これでも一生懸命やってンだからよ! そんな変な目で見ないでくれよ…なんつーか、胸が苦しくなってくるぜ…」

 「…胸が苦しいのは、こっちの方よ…」

 ポツリ、と漏らした紫の台詞が誰の耳にも入らなかったのは、幸いと言うべきか不幸と言うべきだろうか。

 

 …と、まぁ、星撒部に限らず、"ホール"の各所では人々による軋轢は生じているものの、その様子は概ね牧歌的と表現出来るよう。実際、危急の事態に晒されながらも、殴り合いにまで発展するような険悪な雰囲気は"ホール"のどこを探しても見られない。

 そんな穏やかな雰囲気ゆえに、誰もが油断していたのだ、と言うことも出来なくはない。だが、仮に彼らがピリピリと張りつめていたとしても、今芽吹こうとしている"災厄"の種に気付くことはできなかったであろう。

 

 蘇芳が指揮する避難民たちが集合している箇所から、随分と距離が離れたところにある、地上から続くトンネルの出口において…。初めはポタポタ、と滴程度に――徐々にチョロチョロとした雪解け水程度から、最後はジャバジャバとプールの出水口のように派手な音を立てて、水流が侵入してきていた。

 この水流は勿論、地上のゼオギルドが左手から作り出したものである。

 水は誰にも知られることなく、ジワジワと"ホール"の路面を流れ、草木の生い茂る土壌へと広がると。そのまま自然の摂理のままに、土壌の内部へと侵入してゆく。

 "ホール"の土壌は、そのまま大地につながっているワケではない。地下十数メートルのところに設置されている排水路を通り、浄水施設へと向かうのだ。本来ならば、そのまま魔術的浄化を受けた水は"ホール"内を循環し、人工の雨の元となるのである。

 しかし、ゼオギルドが生み出した水の一滴が、土壌をユルリと突き抜けて、ポタリと排水路に至った瞬間。排水路を満たしていた水が、水面の揺らめきをピタリと止めた。その後、ポタポタポタ、といくつもの水滴が落下してくるにつれて、今度は水面がザワザワとさざ波立つ。水滴の落下による波面が生じているというより、地震にでも遭ったかのような振動によって突き動かされているような様子だ。

 やがて、水がジョロロロ、と糸を引くような有様で土壌から排水路へと流れ込むようになった、その時――。

 

 「繋がったぜ…!」

 地上にて、ゼオギルドが大声を上げると、ギラリと剣呑な笑みを掘りの深い顔に刻む。

 「そ、それでは早速…!」

 声を受けたオルトロン大尉が素早く手を伸ばし、ゼオギルドが生み出す水流の中へ毛深い手を突っ込もうとした…が。

 「おいおい、待てよ待てよ、せっかちなヤツだな、おい!」

 ゼオギルドは小さく鋭く諫めて、オルトロンの動きを止める。

 「"ホール"の水の流れとは繋がったが、避難民(マチネズミ)がいるかどうか、まだ探してねーよ。

 さぁて、ちょっくら見てみるぜ…お祭り騒ぎは、その後までとっておけよ」

 ゼオギルドは分厚い唇を一舐めしてから、左手のガラス玉状の体組織に対して魔力を集中。するとガラス玉状の組織がボンヤリと青白く輝いたかと思うと、同様の輝きを持つ可視化した術式の大群が沸き上がり、水の中へと次々に溶け込んでゆく。

 

 ゼオギルドの作り出した術式は、光速で水流内を伝搬し、"ホール"の地下排水路を満たす水へと至る。

 すると、光の差さぬ排水路の中で、水がボンヤリと青白い魔力励起光を放ったかと思うと、まるで氷柱(つらら)が逆さに延びるように、いくつもの細い円錐状となってニュルニュルと土壌へ昇って行く。

 肥沃な土と草木の根をかき分けて地上へと這い出た水の群は、各所で小さな小さな水たまりを作ると、そのままユルユルと立体的な形状を(かたど)り始める。こうして出来上がったのは…赤ん坊の掌程度の大きさを持つ、カタツムリ状の暫定精霊(スペクター)である。

 通称『ビホルダー』と呼ばれる彼らは、触覚に相当する視覚期間をニュウッと伸ばし、草むらからギリギリ顔を出す程度まで至らせると。そのまま、周辺の状況を視認する。

 彼らの視覚情報は、水を通じてゼオギルドへと全て流れ込む。いくつも視覚が脳に直接流れ込むため、彼の視覚は万華鏡の中のごとく混沌とした様相を呈している。これがあまり慣れぬ術者であれば、脳の感覚負荷過多によって頭痛およびひどい嘔吐感を覚えたことであろう。しかし、実戦において暫定精霊(スペクター)の多数の使用経験を持つ彼にとっては、この程度の情報整理は朝飯前である。

 そしてゼオギルドは、万華鏡のごとく展開された視覚の中のいくつかに、避難民たちの集団の姿を認める。

 一方で、避難民たちは――百戦錬磨の軍警察官も、星撒部のロイも紫も、見られていることに全く気付かない。そもそも、仮にここに魔術に長けた蒼治が居たとしても、『ビホルダー』の存在には気付けなかったかもしれない。『ビホルダー』は暫定精霊(スペクター)であるとは言え、実物のカタツムリと同様に、さほど存在感を持ち合わせていないのだから。

 だから彼らは、多少の緊張感が混じるものの、賑やかな牧歌的な時間を無邪気に過ごし続けるのであった。

 

 そんな避難民の姿を認識したゼオギルドの顔が、白痴なヒツジの群れを見つけたオオカミのごとく、張り付けた笑みをますます凄絶に歪める。

 

 =====

 

 「おっしゃあっ、居たぁっ! 居た居た居たぁっ! 避難民(マチネズミ)ども、見~っけっ!」

 待望のカブトムシを見つけ出した幼子のようにはしゃいだゼオギルドは、首だけをグルリと回して背後に並ぶ部下達を見つけると、手袋に包まれたままの右手を大きく振って、集合の指示を出す。

 「てめぇら、ホラ、やるぞやるぞ!

 一斉に、盛大に! やるぞやるぞ!」

 興奮し切った号令を耳にしたゼオギルド直属の武骨でガラの悪い部下達は、一斉に小走りでゼオギルドの作り出した川へと駆け寄る。

 ゼオギルドの隣にいたオルトロンは、いざという時に至って緊張したのか困惑したのか、キョロキョロと周囲を見回すばかりだ。しかしようやく思い直して、ゼオギルドの川へと向き直った…直後、駆け寄ってきた部下に強かにぶつかり、無様に地に転んでしまう。

 「退けよっ、ノロマッ!」

 そう唾棄するゼオギルド直属の部下は、オルトロンより組織的地位は低いはずであるが、一片の気遣いも含まぬ激しいばかりの叱責をぶつけるのであった。

 オルトロンがモゾモゾと立ち上がろうとしながらも、次々に駆け抜けてゆく部下の脚に翻弄されて、なかなかうまく動けないでいる一方で。川にたどり着いた部下達は、次々と利き手を水の中へと突っ込んでゆく。そして、眼を閉じたり、眉根に皺を寄せたりして魔力を集中させると、練り上げた術式を水の流れの中へと解放する。

 数瞬後、水は励起光を放つ術式で満たされて、(まばゆ)いまでの青白い輝きを放つようになる。化学的には単なる水のはずが、見た目では怪しげで如何にも有害な工業廃水の様を呈している。

 ゼオギルドの部下が全員、水の中に手を入れた頃。オルトロンが、ようやく彼自身の部下に手を貸してもらいながら体勢を立て直し、ヨロヨロと川へと近寄って毛深い手を輝く水の中に入れた。

 するとオルトロンのすぐ隣に居た、顔面を縦断する派手な切り傷をつけた厳つい面持ちのゼオギルド直属の部下が、下卑た意地の悪い笑いを浮かべてバカにする。

 「オレ達の術式は暴れん坊ですからねぇ、手を食いちぎられないで下さいよ、大尉殿」

 「…私だって魔術技官です。心得てますよ」

 ムスッとしながらも、律儀に真面目な返答をするオルトロンの有様には、彼の部下も苦笑を浮かべずにはいられない様子であった。

 …さて、人員輸送車の運転手以外が全員、水の中に手を突っ込んで術式を流し込む作業に従事するようになると。ズラッと一列に並んだ部下達を壮観そうに眺めたゼオギルドは、「ヒャハッ!」と一騒ぎしてから、号令をかける。

 「さぁ、てめぇら! 暴れるぞ、いや…"暴れさせる"ぞ!

 さぁ、次々に作れよ、作れ作れ…! てめぇらの、最高に危ねぇ"形"をよぉっ!」

 

 輝く水は迅速にトンネルを下り、数分の過程を経て、蘇芳たちが潜む"ホール"にダバダバと流れ込む。

 しかし避難民たちは、全く気付く気配がない。彼らの人種の中には、聴覚に優れた者も居るかもしれないが、彼らとて目の前のことに集中するばかりなのか、それとも水が異変の鍵となるなど考えも及ばないためか、水音が聴覚に入り込んでいても気に留める様子はない。

 しかし――流れ込んだ術式が、"ホール"の土壌下の排水路に至り、一気に効果を発揮した瞬間――ポォンッ! と激しい音を立てて、遠方の排水口の金属蓋が跳ね飛んだ音には、さすがに眉をひそめて怪訝な顔をする。

 「…なんか、変な音がしたぞ…? 遠くで…何かが跳ね飛んだ音が…」

 排水口の金属蓋が跳ね飛ぶ現象は、トンネルの出口から次第に避難民たちの拠点へと向かって行く。やがて、高層ビル並の高さまで噴出する水と、それに持ち上げられて宙を舞う金属蓋の有様が目視できるようになると、避難民の間でざわめきが波紋のように広がり出す。そして軍警察官は、即座に指揮官である蘇芳の元へ報告しに駆ける。

 「…ああ、オレにも見えてるよ。

 まさか、これが"パープルコート"どもの、」

 語り終えるより早く。金属蓋が跳ね飛ぶ現象が避難民たちが潜む繁華街まで到達。ポォンッ! ポォンッ! と鼓膜をつんざく高音を奏でながら、高い水の噴出と、金属蓋が宙に舞う光景がそこかしこで見られるようになる。

 この異変を前に、星撒部たち(と、ユーテリアの学生のレナ)も当然、反応しないワケがない。

 「おい、なんだってんだよ、これ!? 何が起きてるってんだ!?」

 「考えるまでもねーだろ、尻尾つきの後輩ちゃんよっ!

 "パープルコート"どもが、やらかしに来たんだろうがっ!」

 ロイの驚愕混じりの疑問にレナが噛みつくように答えた、その直後。

 ザアァァァ…という、強い波が押し寄せるような水音が、周囲から発生したかと思うと。拠点の外縁の方から、人々の悲鳴が上がる。

 「バケモノッ!」

 悲鳴に混じって、その言葉がロイの耳に届いた、その瞬間。彼は手にしていた巨大なライスボールを隣の紫に手渡した。

 「え、あ、何よ、いきなり!?

 わたしはまだ、アンタのこと…!」

 「とにかく、預かっててくれよっ!

 ちょっと、様子見て来るっ!」

 狼狽(うろた)える紫を後目(しりめ)に、ロイは一目散に悲鳴が上がる方へと駆け出す。

 途中、ロイは逆方向に逃れてくる人波とかち合い、うまく前進できなくなってしまう。そこでロイはダンッと大地を蹴って人の頭より遙かに高い位置まで跳び上がると共に、背中から黒い繊維状の奔流を出現させて竜翼を具現化。翼膜を大きく広げて滑空しながら、上空から周囲の様子を見回して――目を開き、息を呑む。

 「おいおい…なんだってんだよ、こいつぁ…!」

 ギリリと歯噛みする隙間から、狼狽の混じった言葉の炎を吐き出す。

 

 ロイが金色の瞳に映した光景――それは、土壌を崩壊させながら地下から沸き上がり、街の中へと流れ込む大量の水である。

 その流れ込む水は、単なる液体ではない。先刻誰が叫んだ「バケモノッ」と言う言葉に相応しい存在となっていた。

 即ち――大量の水は、単なる津波となっているのではない。1つ1つが不雑な形状をした立体になっている。それらは、細部のディテールこそ液体的にぼんやりとしているものの、何を象っているのかは十分に理解出来る。鎧兜を着込んだ戦士や、力強い四肢で大地に爪を立てる魔獣、そして渦巻く水がそのまま痩躯の亜人になったものなどだ。彼らの体を構築する水は青白い魔力励起光を放っているために、まるで濃い水色の水飴で形成された飴細工のようにも見える。ただし、爛々(らんらん)と輝く真紅の瞳が、彼らが単なる置物ではなく、殺意を持つ意識体であることを一目瞭然としている。

 彼らの正体とは、一体何か。…それは単純明白である、ゼオギルドらの魔力によって具現化した、水霊系の攻撃用暫定精霊(スペクター)である。

 ギィオオオッ! 水にそぐわぬ低く鈍い叫び声を上げながら、手にした武器を振るったり、剥き出しの牙をガチガチ云わせながら避難民たちを襲撃する、暫定精霊(スペクター)ども。そんな光景を、"暴走君"とまで称される熱血漢であるロイが、ただ上空から見下ろせるワケがなかった。

 「何してやがるンだよ、この危険どもっ!」

 今や口腔内の歯並びをすっかりと鋭い牙へと変じたロイは、鋭く怒声を上げながら、雷光のように一直線に着地。凶悪な水の精霊達の前に立ちはだかり、身構える。

 「てめぇら、蒼治が言ってた"パープルコート"の奴らだろうが…!

 オレが居るからにゃ、好き勝手にはさせねぜっ!」

 轟雷のごとく叫んだ、直後。ロイの体は漆黒の繊維状の魔力に包まれたかと思うと…魔力が一気に霧散した後に現れたのは、長い竜角に、漆黒の竜拳に竜脚を露わにした、賢竜(ワイズ・ドラゴン)の戦闘態勢を整えたロイの姿である。

 「不良軍人どもに、この街に住む皆の希望を、ぶち壊させやしねぇっ!」

 叫びとともにロイはヒュッと鋭く呼気すると。口の手前に六芒星型の魔力陣を展開し、それに向けて強烈な息吹を発射。魔力陣を通り抜けた息吹は、一気に体積を増すとともに煌めく純白の吹雪となって、水霊達に激突。群れの一画を、氷のオブジェと化す。

 先手を打ったロイは、鉤爪の延びた親指で自身の胸を指し示して、威圧の言葉を水霊どもに叩きつける。

 「オレが相手だ、掛かって来いよ、水どもっ!」

 

 同時刻――。

 水霊の真紅の眼を通して、威勢の良いロイの姿を認めたゼオギルドは、ニイィッと思い切り口角を釣り上げて、獣のように凄絶に嗤った。

 「ようこそ、おいでませ、賢竜(ワイズ・ドラゴン)のクソガキ!

 さぁて、派手に遊ぼうじゃねぇかっ!」

 

 こうして、アルカインテールにおける最終決戦の火蓋が落とされた。

 

  - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

War In The Dance Floor - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 「てめぇら、いい加減にっ! しやがれぇっ!」

 火を吹くような怒号が響き渡った、その直後。叫びは大気に寒々しい白い蒸気を生じさせる冷気の奔流と化し、一直前に驀進(ばくしん)する。

 冷気は一瞬の間を開けた後に、眼前に扇状に展開する大群を――水霊系の兵器系暫定精霊(ガイスト)の一軍に激突。派手な氷粒の飛沫を爆発的にブチ撒けながら、強烈な冷気を叩き込む。騎士や暴獣の姿をしていた暫定精霊たちは一瞬の内に凍り付き、(きら)めき透き通った大規模な氷の彫像と化す。

 「よっし、今だ! 前進させろ!」

 叫びと共に氷結の竜息吹(ドラゴンブレス)を吐き出した主、ロイ・ファーブニルは、首だけ背後に振り返りながら号令をかけ、同時に自らも両脚と竜尾で地を叩いて後方へ跳躍。彫像の群れから一気に数メートルの距離を作る。

 「心配すんなっ! もう前進してンぜ!」

 そう叫んだのは、輸送車の荷台の上で無反動砲を担ぎ、いつでも発射できるようにスコープを覗いてトリガーに指を置いているユーテリアの女生徒、レナ・ウォルスキーだ。

 ロイとレナの2人は、"ホール"より脱出する避難民の一団の殿(しんがり)として、"パープルコート"が操る暫定精霊(スペクター)の大群の足止めを努めているのであった。

 「それにしてもよ…!

 オレは確かに、"相手になってやる、掛かってこい"とは言ったがよ…!」

 疾駆する輸送車の荷台に手をかけ、離れて行く氷の彫像どもを()めつけながら、ロイは唾棄するように呟く。

 「こんなにシツケーの相手に、護りながらの戦闘をやらされ続けるのは、勘弁だぜ!」

 そんな文句を口にしている一方で。氷の彫像からピキピキと音が立ち、細かい亀裂が幾筋も走る。そして、ゆで卵の殻を荒く剥いた時のような有様で、氷の表面がピンッ! ピンッ! と吹き飛び、直後に細い水流がプシューッ! と噴出する。

 変化はそれだけに止まらない。氷の彫像のすぐ目前の地面にも、異変が生じる。まるでスポンジを絞ったかのように、ジワジワと水が土壌の中から染み出して来ると…。やがて土壌は泥から濁流へと代わり、グニャリと硬度を失って陥落。その場に巨大な穴を出現させる。

 穴の向こう側には、"ホール"の地下に広がる排水路が剥き出しになっている。多量の泥が混じって濁った水流は、ザザザッ、と耳障りな音を立てながら渦巻くと…。そのまま水飴細工のように竜巻型に持ち上がり、鎌首を上げた大蛇が獲物に急襲するが如き勢いで大地に急降下。派手な水飛沫を上げながら、小規模な津波を引き起こす。

 同時に、津波の向こう側では氷の彫像がバキンッ! と音を立てて破砕。その内側からゾワゾワと大量の水が溢れ出し、津波に合流。ここに、大地の上に蜷局(とぐろ)巻く大蛇のごとく渦巻く水の奔流が現れる。

 そして奔流は、重力に逆らっていくつもの突起を作り出すと…その一つ一つが騎士や獣の形を取り、殺意に満ちた爛々たる真紅の眼でロイやレナ、そして彼らの追い越した先に位置する避難民の車両一団を睨み付ける。

 「…クッソ、まだ懲りずに来やがるのか、あの水どもっ!」

 ロイが牙だらけの口から辟易の悪態を吐きつつ、輸送車の荷台の側面を蹴って竜翼を広げ、一気に暴水の群れへと肉薄する。

 一方で、暴水の群れは(しずく)が滴る牙の生え揃った口腔を大きく開き、ギオオオッ! と絶叫すると。ロイを目掛けて一斉に溢れ襲い掛かる。

 (観念しろってンだよっ、水どもっ!)

 ロイが胸中で叫びながら、鉤爪輝く両足を振るい、三日月状の斬撃の衝撃波を十字に放つ。斬撃は水の群れに巨大なバツ印が刻むが、液体に物理的な加撃は役に立たない。分断された部位はすぐに合流してしまう…はずだが。

 いくら本能的な戦い方をするロイと言えども、劇場に駆られて無為な攻撃を放つほど愚かではない。先の斬撃には、しっかりと術式が練り込んである。

 分断された水は、合流するより早く、断面からピキピキと音を立てて凍結を始める。――そう、斬撃には凍結事象を発現させる術式が練り込まれていたのだ。

 「おっしゃ、レナ! 一緒に吹っ飛ばしてくれっ!」

 ロイは振り向かずに後方のレナへ指示を飛ばしながら、竜翼を思い切り一羽ばたき。直後、強烈に渦巻く颶風(ぐふう)が出現。分断されて凍り付いてゆく水の群れに激突すると、特に大地に接していない部分を一気に後方へ吹き飛ばす。

 「だから、目上の私にゃ"先輩"って付けろって言ってンだろーがっ!」

 指示を受けたレナはそう非難しながらも、担いだ無反動砲のトリガーを引き、砲撃を実行。射出されたのは、緑色の魔術励起光の尾を引く砲弾だ。それは水の群れが接地している大地に着弾すると爆音と共に、業火の代わりに烈風を振りまく。ロイの斬撃によって氷結した部分は粉砕されて吹き飛ばされるし、氷結していない液体の部分も激しくさざ波立って、薄く広く後方に散らされて行く。

 一瞬にして視界に映る敵影が一掃されたことに、レナは片手でガッツポーズを取って、凄絶にニヤリと微笑む。

 「おっしゃあっ、ざまぁみやがれっ!

 これで当分の時間は稼げ…」

 勝ち(どき)を上げていたレナだが、その言葉がピタリと止まる。と言うのも…吹き散らした水が急速にザザザッ、と音を立てて集結し、山のような塊を作り出したからだ。

 「おいおい…! さっきの術式、風霊の離散属性を思いっきり高めてたんだぞ…! なんでこんなに早く、集結出来ンだよっ!」

 驚愕混じりの悪態を吐いている間にも、山状に集結した水は形状を変えると…再び小規模な山、というか突起に分かれ、何事も無かったかのように暫定精霊(ガイスト)の形を取る。

 この有様には、宙を舞い飛んで状況観察していたロイも苦笑い。

 (レナの術式は、決して弱くねぇ。それをこんなにアッサリと凌駕するなんてな…! "パープルコート"ってヤツにゃ、相当の実力を持った魔術師が居るのか、それとも莫大な数の魔術師で力任せに事象をねじ伏せてンのか…。

 まぁ、どっちにせよ、もっと本腰据えて足止めしなきゃならんって事かっ!)

 ロイは黄金色の瞳をギュッと収縮させ、眼下の蠢く水塊を睨みつけると…胸が風船のように膨らむほどに、大きく息を吸い込む。同時に、竜翼を限界まで引っ張ったバネのように後ろへと引いて…!

 (ゴウ)ッ! 体を"く"の字に曲げ、暴風の如く純白の冷気の竜息吹(ドラゴンブレス)を吐き出すとともに、翼を一気に羽ばたかせて烈風を作る。烈風は一瞬にして、(きら)めく霧氷が舞うブリザードと化して、冷気の息吹と合流。暴力的な凍気の乱流となり、水の塊に激突する。

 (ドウ)ッ! 大地を揺るがす轟音が鳴り響き、一帯に真っ白な凝結した霧と、肌を粟立てる冷風を振り撒く。

 この強烈な冷気の奔流によって、水塊はもちろん、周辺の大地も派手な霜柱がザクザクと立つほどに凍り付き、周囲は冬の世界と化す。

 (これでどうだってンだよっ!)

 挑むような笑みを浮かべて、再び両足と竜尾で地面を叩いて飛び退(すさ)った…が。十分に距離を稼がぬまま、予想以上に早い段階で背中にガツンッと衝撃を感じ、ギョッとする。

 慌てて振り返れば、そこにはピタリと動きを止めた輸送車両がある。

 「お、おい、レナ! なんで止まってンだよっ!」

 噛みつくような勢いで問い質すロイに、レナの方も噛みつき返すような激しい勢いで答える。

 「あたしが知るかよっ! 前の方が詰まってンだよっ!

 クソッ、こんな時に何やってんだがさ…っ!」

 そしてレナは、制服の上着からナビットを取り出して、音声通信のための操作を行う。連絡先は、避難民の一団の先頭に居るはずの相川紫だ。

 コール音は、たっぷり十数回も続いた。その間、レナのイラ立ちは時と共に募り、眉は鬼のごとくつり上がって、歯軋りせんばかりの勢いで歯茎を見せながら、なんとか無言を保って待っていた。

 ようやくコール音が終わり、小さなプツッという電子音が通信開始を告げると。レナは稲光の如く怒声を上げる。

 「おい、何ですぐに出ねーんだよっ! 車は止まっちまってるしよっ!

 何かあったのかよっ!」

 しかし、スピーカーから直ちに紫の回答が返ってくることは、なかった。ザザザッ、とか、ビシビシッ、と言ったノイズばかりが流れ込んでくる。レナは釣り上げた眉を思わずひそめる。

 深く考えなくとも、何かトラブルが発生しているのは明らかだ。

 とは言え、先頭で起こっているトラブルを把握せずに通信を終えるのは、レナとしても不本意だ。怒鳴り声を抑え、「おーい、どーしたんだー!? 何が起こってンだー!?」と尋ねた、その直後。

 「あーもぉっ!」

 マイクから離れた位置からの発言と思われる、少々ぼやけた叫び声が返ってくる。声の主は、明らかに紫だ。ただし、先刻のレナと同じか、それ以上にイラ立ちを募らせているのが明白な口調である。

 「おっ、無事だったンだな! 今、先頭じゃ何が…」

 レナが言い終えぬ内に。

 「説明は後っ! こいつだけっ! 何とか…っ!

 そぉりゃああっ!」

 マイク越しに、大気を派手に分断する(ブン)、という轟音。そして、派手に飛沫(しぶき)()ぜるビシャビシャッ! という音。

 これらの音声は、レナが現状を把握するのに十分な材料となった。先頭でも、水の暫定精霊(スペクター)を相手にした戦闘が行われている!

 

 そう、紫は今、避難民を乗せた車列の先頭で、装甲車の上に立ち、巨大な腕型の暫定精霊(スペクター)を相手に立ち回っていた。

 彼女は既に全身を魔装(イクウィップメント)による紅白の鎧で覆い、両手には生成した機械機関付きの大剣を握り締めて、烈風のごとく振るっている。

 巨大な水の腕が大きく仰け反ったのを確認している最中、彼女の耳の穴に埋まった通信機から激しい動揺が聞き取れる男の叫び声が聞こえてくる。

 「おいっ、どっちなんだ! どっちに向かえばいいっ!?」

 叫び声の主は、先頭の車両を運転している市軍警察の男性隊員である。

 

 職業軍人である彼が、"英雄の卵"とは言え学生に指示を仰ぐような恐慌状態にあるのは、情けないながらも、無理のないことである。

 アルカインテールのような地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の庇護下にある都市国家では、交戦専門である衛戦部を設けてはいるものの、圧倒的な戦力を持つ地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に依存している場合が多い。それでは衛戦部はどんな任務をこなしているかと言えば、都市隔壁の近傍に現れた危険性の高い野性生物の討伐が主であったりする。

 そんな彼らは、明確な殺意を持つ兵器系暫定精霊(スペクター)との交戦など想定しておらず、この隊員のように恐慌状態に陥ってしまうことは多々あることであった。

 (まぁさ、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に頼り切ってるバカ都市国家じゃよくある事だって分かってたつもりだけどさー。実際足を引っ張られると、ムカついて仕方ないわねーっ!)

 紫は小さく舌打ちしながら、車上から素早く視界を巡らし、地上を覆う暫定精霊(スペクター)の群れの切れ目を探し出そうとすると。

 「左だ、左っ! オラオラ、アクセル踏み込んで、一気に突っ込めっ!」

 紫が回答を返すより早く、通信機越しに別の男の声が進路を指示する。声の主は、この避難車列の指揮官である、倉縞蘇芳(すおう)だ。

 彼が冷静である理由としては、指揮官の責を負っていることも勿論であるが、アルカインテールの場合は採掘場所における事故への対応を彼が所属する防災部が一手に引き受けている、という事情も大きい。過酷な状況下での活動なら、圧倒的に防災部の方がこなしている。

 「で、でも、左にもかなりの数が…」

 オロオロと口答えする、運転手。今にも泣き出しそうなその声に、紫は破裂させんばかりに青筋を立てながら、手にした大剣を大振りに横薙ぎに構えると。そのまま巨大なブーメランを投擲するように、吹き飛ばす。大剣は峰の部分に接地されたブースト推進機関から炎を噴出させながら、高速で回転しながら地上へと降下。そのまま水の大群をバッシャバッシャとブッた斬り、ずぶ濡れの道を作り出す。

 「ホラ、さっさと行った、行った!」

 紫は耳に手を当てて運転手へと声をかける。同時に、地上から飛び上がってきた大剣をガッシリと右手で握り締め、再び水の腕の方を向く。

 余分な行動を取って隙を作った分、水の腕が体勢を立て直し、即座に追撃してくると考えたのだが…。向き直った視界には、水の腕の姿は消え去っていた。穴の奥、排水路の中へと引っ込んだらしい。

 (…今の隙、わたしらを叩き伏せる絶好のチャンスだってのに…退却した?

 なーんか、ヤな感じね…!)

 ともかく、正面の窮状を打開した紫は、背後で闇雲に暫定精霊(スペクター)魔化(エンチャント)された弾丸をブッ放している衛戦部隊員の肩をグイッと掴み、ギョッとしている彼の耳元で怒鳴る。

 「わたし、ちょっと連絡するから! この場はお願いするからね!

 どうしても手に負えなかった時だけ、呼んでよ!

 大丈夫、すぐ終わらせるつもりから!」

 隊員の是非も聞かずに踵を返した紫は、通信状態のまましまい込んでいたナビットを取り出すと、マイクの向こう側に居るレナへ声をかける。

 「お待たせしました!

 えーと、何の用でしたっけ!?」

 イラ立ちの勢いのまま、怒鳴り声でマイクに語りかけると。スピーカーからレナのギクシャクした声が返ってくる。

 「あ、いや、いきなり車列の前進が止まったから、先頭で何があった聞いてみようと思ったンだけどさ…うん、もういいや。今ので大体分かったから」

 「あ、そうですか! そんじゃ!」

 紫は即座に通信を切り上げようとするが、レナが慌てて言葉を滑り込ませてくる。

 「ちょっ、ちょっと待てよ!

 確認してーことが有ンだけどよ!」

 「手短にお願いします!」

 イラ立ち全開の紫の態度に、スピーカーからレナの苦笑い混じりのため息が一瞬、滑り込む。

 「…えーと、確かよ、こっちに攻撃されないようにするために、蒼治たちは地上に行ったんだよな?

 どうして、こんな事になってんだよ?」

 「わたしが知るワケないじゃないですかっ!」

 紫は噴石のごとく唾をマイクに叩きつけながら、本気で怒鳴りつける。

 先輩であるレナに対して失礼極まりない対応ではあるが、実際、紫は戦闘状況が始まってから蒼治とは連絡していない――する暇が全くない――ので、正論ではある。

 「そんなに聞きたいのなら…!

 先輩、ロイと一緒に居るんですよね!?」

 「ああ。今、ほんのちょっと余裕が出たから、暴走君に任せてお前に連絡、」

 言い終わらぬうちに、紫が怒鳴りつける。

 「だったら、ロイにもう少し踏ん張ってもらって、自分で蒼治先輩に訊いて下さい!

 私は余裕が、」

 ――と、語っている側から、紫は先程持ち場を任せた隊員から思いっきり肩を叩かれる。彼はギャーギャー騒ぎながら宙空に群れを成して飛び回る、鳥とも蝙蝠(コウモリ)とも似つかぬ暫定精霊(スペクター)を指差している。群れの密度は、確かに、戦闘が始まって以来の酷く高いもので、恐慌状態の人間の精神を辛く抉るような光景を作り出している。

 紫は思いっきり、チィッ! と舌打ちすると。

 「通信終わります! そんじゃ!」

 と口早に叫ぶが早いか、ナビットの通信切断。暫定精霊(スペクター)の群れへ向き直りつつ、大剣を横薙ぎに構える。

 「ったくっ! 量は増えてるけどさっ、牽制してるだけじゃんっ!

 これくらいなら、掃射で蹴散らすだけで十分じゃんかっ!」

 紫は涙目な隊員を叱責しながら、イラ立ちをぶつけるように紫は大剣をブーメランのように飛ばして、暫定精霊(スペクター)どもを叩き斬りに掛かる。

 

 さて、車列の殿(しんがり)の方では。

 「…うっわー、あのお嬢ちゃん、おっかないわー…」

 紫の剣幕に驚きを隠せないレナが、通信が切断したナビットに向かってポツリと呟いていた。

 (まぁ、それはそうと…)

 レナはパチパチと数度瞬きながら気持ちを切り替えると。紫から言われた事を客観的に鑑みて、彼女の意見に同意し独り頷く。

 (そうだな、蒼治のヤツに訊いてみっか。

 自信満々で囮を引き受けやがった割りに、こんな体たらくに陥れやがったことへの文句も言いてーしな)

 「おい、暴走君!」

 レナがクルリとロイの方へ振り返ると。そこには、早くも大部分の形状を取り戻した暫定精霊(スペクター)の軍団と、停止した車列に押し寄せようとする彼らを孤軍奮闘して押し留めるロイの姿があった。

 「あ!? 何か用か!?」

 ロイは紫のようにイラ立って荒げた声を上げはしなかったものの、余裕のなさがヒシヒシと感じられる声を返してくる。口早な返答の最中、チラリともレナの方に視線を走らせなかったのもその片鱗と言えよう。

 (うっわ、頼みづら…)

 レナは苦々しくひきつった笑みを浮かべたが。一瞬考え直した上でも、現状打開の糸口を見つけるためにも現状把握は必要と結論付けると、後ろ髪引かれる思いを振り切って叫ぶ。

 「忙しいところすまねーけど、あたし、今から蒼治に連絡するぜ! 任せて大丈夫か!?」

 「ああ!」

 ロイは、迫ってきた水の騎士どもに冷気の烈風をまとった大振りの拳撃を見舞いながら、即答する。次いで、凍結した敵どもが吹き飛んで、後方に控える水の獣の群れに盛大に突っ込み、派手な飛沫が上がったのを確認すると、ロイはチラリとレナを振り返り、こう付け加える。

 「下手にあんたに手を出されると、やりにくいからな! 独りにさせてもらえるなら、願ったりだぜ!」

 「…あ、そ…」

 ロイの言葉は、レナにとって完全に余計な一言であり、カチンとせずにはいられなかったが。怒鳴りつけたくなる衝動を何とか抑えると、ロイの(ムカつくが)頼もしい言葉に甘え、ナビットによる音声通信を開始する。

 耳障りなコール音が、紫の時より倍以上続く。

 (何してんだよ、あの野郎…! 居眠りこいてんじゃねーだろうな!)

 ロイへのイラ立ちをも、中々連絡の付かない蒼治にぶつける、レナ。そのまま執拗に、無機質なコール音を耐え続けていると…ようやくプツッ、という小さな電子音が発生し、通信が開始されたことを物語る。

 スピーカーから蒼治の声が入り込む余地なく、レナは速攻で怒鳴りつける。

 「おい、蒼治ッ! 何やってンだよッ! 地上の状況把握はどうなってンだよッ!

 こちとら、暫定精霊(スペクター)どもに襲われててんてこ舞いだってンだよッ!」

 対して蒼治は、暫く答えを返さない。どころか、スピーカーからは静かなサーッ、というノイズが漏れるばかりだ。

 ――いや、よくよく耳を澄ますと、ノイズに紛れるように、鈍く低い、多種多様の雑音が聞こえてくる。

 とは言え、この音声から把握できる情報など、殆どないに等しい。レナは怪訝げに眉を跳ね上げると、少し声を抑えて、もう一度呼びかける。

 「おい、蒼治! マジで居眠りこいてんじゃねーだろうな!?

 おい、なんか一言…」

 そう語った瞬間。

 「黙ってくれッ!」

 恐ろしいほどの剣幕で、蒼治が鋭い声を上げる。声をぶつけられたレナは、思わずビクッと体をすくませたほどだ。レナが授業の範疇で知る限り、蒼治がここまで剣呑になっていたところを見たことがない。

 そして同時に、レナは瞬時に(さと)る。地上も、地下に劣らぬトラブルに見舞われているということを。

 暫し沈黙が続いた後。スピーカーが、離れた位置に立っているらしきノーラの「来ましたッ! 8時の方角です!」と言う声を拾う。そして、転瞬。

 「レッゾさん、側の路地に入るように回避して下さいッ! 僕が相殺に乗じて攪乱しますからッ!」

 その後、スピーカーはレッゾの了解の声を拾うことなく、急駆動するエンジンの騒音を拾う。それから、蒼治のものらしき舌打ちに似た音を拾ったかと思えば、続いて鼓膜を痛めるような銃撃音の連続が響く。レナは驚きのあまり、手にしたナビットを取り落としそうになったほどだ。

 (おいおい…! この都市国家(アルカインテール)に来て、ヤバい状況は飽きるほど見てきたつもりだったけどよ…! こりゃ、ヤバ過ぎにも程があるんじゃねーの!?)

 レナが生唾を飲み込みながら、頬に冷たい汗を数筋垂らす。

 そのうちに、銃撃音は止み、スピーカーはデコボコ道を走るエンジン音と振動音を拾うばかりになった。

 「…先輩、クリアです…! 迷彩の方術陣、もう一度掛けますね…!」

 「ああ、お願いするよ。

 僕はレナから通信が入ってるから、対応させてもらうよ」

 そんなノーラとのやり取りの後、蒼治は通信のタイプを音声から映像へと切り替える。突如、宙空に展開したホログラム・ディスプレイの中には、中央にデンと立つ蒼治の姿が見える。

 この時、レナは蒼治の姿を見て、酷くギョッとする。爆発の近傍にでも立っていたかのように、身につけた白いローブは激しく(すす)にまみれ、髪の毛は突風に乱されたようにグチャグチャになっていたからだ。この状況下で眼鏡のレンズが割れていないのが不思議なくらいだ。

 「お、おい、どうしたってんだよ!

 こっちもヤベーことになってるけどよ、そっちもかなりヤベーことになってンのか!?」

 蒼治は眼鏡をクイッと直しながら、苦々しく呟く。

 「ああ、端的に言えばそんな感じだ。

 それにしても…やっぱり、そっちも襲撃されていたか…。

 すまない、僕の技量不足によるものだ。大きな口を叩いておいて、こんなザマになってしまうなんて…クソッ!」

 蒼治は拳をギュッと握り、唇を噛み切らんばかりに歯噛みしてみせる。

 蒼治は自身に落ち度があると信じて疑っていないようだが、レナはその詳細を知る由もないので、オドオドしながらも頭上に疑問符を浮かべる。

 「いや…何をそんなにミスったのか、分かんねーんだけどさ…。一体、何が起こってンだ?」

 この質問を耳にした蒼治は、ハァー、と深く息を吐いて胸の内を冷やすと。態度を幾分落ち着けて、薄い唇から普段の冷静さが読みとれる言葉を発する。

 「順立てて話したい。

 レナは、僕の話を聞いてて平気なのか? やらなきゃならない任務とか、特に無いのか?」

 「いや、任務っつーかさ…あたしも世話になった恩もあるし、バリバリ手伝うつもりだったんだけどさ…」

 レナは語りながら、ムッとした様子で立てた親指を背後に向ける。蒼治がカメラ越しに視認出来ているかは分からないが、指差した先には孤軍奮闘するロイの姿がある。

 「暴走君のヤツがさ、あたしは邪魔だっつーからよ。文句言いがてら、アンタからの状況報告を聞こうと思ったところさ」

 そんなレナの言葉に、蒼治は呆れたような苦笑い浮かべる。

 「ワンマンプレイはロイの得意スタイルだからな…。あいつも悪気はないんだ、あんまり気にしないでやってくれ。

 …それはそうと…」

 蒼治は眼鏡をクイッと直すと同時に表情を引き締めると、堅く、そして苦々しい言葉を吐き出す。

 「早速、地上の状況と、今に至る経過について話すよ」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 所は変わり――こちらは、蒼治が乗り込んでいる装甲車。

 人員収納スペースに居るのは蒼治だけで、ノーラの姿はない。彼女は装甲車のルーフに上がり、片膝をついて大剣を構えている。大剣は既に定義変換(コンヴァージョン)済で、ペン先を長くしたような、一対の細長い直角三角形が向き合ったような形状になっている。この剣は接近戦では大剣として斬撃を繰り出せる一方、対になった刃の間に術式の弾丸を作り出し、射撃を行うことも出来る優れ物だ。

 何時、敵に襲撃されても対応出来るように、神経を研ぎ澄ませて待機しているノーラに対して…装甲車は、倒壊した高層建築物が作り上げた狭く薄暗い路地の中でエンジンを切り、息を殺して潜んでいる。運転手のレッゾは装甲車の気持ちを代弁するように、時折息を止めながら、ハンドルを掴んだままジッと静止している。

 この中で沈黙を破っているのは唯一、映像通信中の蒼治だけである。

 蒼治は、ホログラム・ディスプレイに映るレナに対して、(こうべ)を深々と下げる。

 「まず、地下(そちら)への襲撃をまんまと許してしまった、僕の至らなさを謝罪したい。

 言い訳するつもりじゃないけど…僕は、出来る限り繊細な検知用方術陣を張り巡らせていたんだけど…敵は、僕の方術陣を易々と潜り抜けていたらしい。

 気付いた時には、二十人以上の魔術師と思われる人員が、暫定精霊(スペクター)構築用の術式を次々に生成しているところだった…」

 この言葉を聞いて、レナがギョッと目を丸くする。

 「アンタの方術陣を、二十人以上もの団体様が易々と凌駕したって…!? それマジか!?」

 レナは蒼治とクラスメートであるだけでなく、同じ魔術系の授業を受けたことが多々ある。それゆえ、蒼治の非凡な実力は重々承知している。だからこその反応だ。

 蒼治はレナの激しい反応を目にしても謙虚な態度を崩さず、苦々しい表情のまま悔しげに頷く。

 「決して舐めて掛かったつもりはないんだけどね…流石は地球圏を背負うと自称する地球圏治安監視集団(エグリゴリ)というところだね。

 やはり僕ら学生風情が、職業として実戦に従事している人々を相手にするのは荷が重いのかも知れない」

 「…いや、そうとは限らねーって。

 事実、この都市国家(まち)の軍警察のヤツらと来たら…申し訳程度に銃をぶっ放す程度で、パニクりまくってるったらありゃしねーよ」

 レナはガックリと肩を落としながら、頬をヒクつかせて苦笑いする。彼女も紫と同様、アルカインテールの市軍警察衛戦部の腰抜け加減には呆れ果てているのだ。

 「…すまんな」

 レッゾが恥ずかしそうに、運転席からボソリと謝罪するが、それは果たしてレナの耳に届いたかどうか。

 「まぁ、つまり、敵さんの方が一枚上手だったってことだろ? それはそうとして、だ」

 調子を取り戻したレナは、ちょっと責めるような調子で唇を尖らせて尋ねる。

 「敵さんのこと見つけたンなら、なんでソッコーで叩きに行かねーんだよ? あたしら、そいつらの暫定精霊(スペクター)どもにひでぇ目に遭わされてンぞ!」

 すると蒼治は、「本当にすまない」と頭を下げながら前置きしてから、事情を説明する。

 「端的に言えば、手が回らなくなってしまったんだ。

 彼らが僕の検知方術陣にひっかかった――恐らく、意図的に迷彩を解いたんだと思うんだけど――それとほぼ同時に、地上(こっち)の状況が急変したんだ。

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の空中戦艦が次々に空間転移して来たんだ。空はあっと言う間に、戦艦だらけさ。そして、戦艦は手当たり次第に…恐らくは、他勢力を引きずり出すためだろうけど…空爆を開始したんだ。

 僕らも空爆の標的にされてね、逃げ回るので手一杯だったんだ。

 流石は地球圏治安監視集団(エグリゴリ)、空爆の弾頭は暫定精霊(スペクター)で構築された疑似意志弾頭ばかりでね。お陰で装甲車の防御能力が全然当てに出来なくてさ、僕とノーラさんで全力で対応しているところさ」

 「それじゃ今は、地上じゃ"インダストリー"だの『冥骸』だの癌様獣(キャンサー)だので溢れかえってる感じなのか?」

 レナの問いに、蒼治は嫌気が差したようにフッ、と自棄(やけ)気味に鼻で笑い、首を左右に振ってから答える。

 「溢れかえってるって言うか…そうだな…週末戦争みたいな様相だよ。

 これは話すより、実際見てもらった方が良いな」

 そう語るが早いか、蒼治はレッゾに外に出る旨を口早に伝え、装甲車の人員収納スペースから飛び出す。そして瓦礫で満ちた狭い路面を掻き分けて小走りに進み、傾いたビルディングの物陰からソッと半身を出して、ナビットのカメラを空に向ける。

 こんな感じだ、と蒼治が話しかけるより早く。ナビット越しにレナの「げっ!」という驚愕の声が出る。

 

 この日のアルカインテールの天気は、快晴とは言わないまでも、青空の広がる晴れである…そのはずだった。

 しかし今、空には黒々とした濃密な煙が幾つも漂っており、曇天のような有様だ。

 この煙の正体は、一概には言えない。空中戦艦の砲撃から発生した煙であったり、攻撃を受けた空中戦艦その他の存在から噴き出す炎のものであったり…実に様々だ。

 そして、煙の合間には空中戦艦の他に、蚊柱のように見えるほど群れて飛び回る一団――恐らくは癌様獣(キャンサー)であろう――や、ポツリと浮かび上がる巨大な点――恐らくは"インダストリー"の機動兵器だ――の姿もある。彼らは激しく交錯したり、大小多様な術式で構成されたビームを放ったりして、空を所狭しと暴れ回っている。

 煙に映える術式ビームの鮮やかなフラッシュを見ていると、まるで自然科学系ドキュメンタリー番組が見せる、原始惑星の濃密で苛烈な大気を思わせる。

 

 「うっわ…こりゃ、何の終末戦争だよ…」

 レナが呟いた直後、蒼治はサッとナビットを引くと共に、元来た道を足早に戻って装甲車の中へ入り込む。

 装甲車の床に尻餅をついて座った蒼治は、ナビットに越しにレナと相対すると、眼鏡を直しながら気難しく眉をしかめる。

 「"パープルコート"は『バベル』を確実に叩き起こすために、かなりのエントロピーを集めるつもりだろうとは思ったけど…ここまでやらかすとはね。予想外、ってワケじゃないけど、こっちも色々と目論見が崩されちゃったからね。対応に四苦八苦してるところさ」

 「あんたら暴走部がいくら実力者揃いっつっても、たった2人じゃ流石に手が回らないってのは、十分理解したぜ。

 だけどよ…」

 レナは頷いてみせたものの、怪訝そうに片眉を跳ね上げる。

 「アンタらが呼び出したって言う加勢は、まだ来ねーのか!?

 地上も地下もてんてこ舞いですー、じゃあたしらジリ貧のまんま、『バベル』って野郎のお目覚めのスイーツにされちまうじゃねーか!

 どこで何してンだよ、お仲間どもはよぉ!?」

 非難じみた物言いで迫るレナに対して、蒼治自身も首を傾げる。

 「数分前に連絡した時には、そろそろ到着するって言ってたんだけどな…」

 「もしかして、この都市国家(まち)を囲んでる空間隔壁が突破出来ないってオチじゃねーだろな!?」

 「いや、それはあり得ない。イェルグが同行してるんだ、彼が居るなら絶対に…」

 蒼治が言い終わるよりも先に。突如、装甲車の上からノーラの声が会話に割り込んでくる。

 「先輩…! 暫定精霊(スペクター)の弾頭が2発、こっちに来ます…!」

 蒼治は言葉を引っ込めて、小さく舌打ち。そしてレナへ一方的に、口早にこう告げる。

 「すまないが、話はここまでだ!

 加勢を確認したら、出来るだけ早く連絡する!

 それじゃあ!」

 「あ、おいっ!」

 レナが叫ぶも、蒼治はナビットの通信を即座に終了したのであった。

 

 一方的に通信を切断されてしまったレナは、ノイズまみれになったホログラム・ディスプレイを暫く呆然と眺めた後、苦笑を浮かべてポツリと呟く。

 「(せわ)しねーっつーか、なんつーか…。相当キてるみてーだな、あっちの方も…。

 なんか…あたしも頑張んねーと相当ヤバい気がしてきたわ…」

 そしてレナはナビットを制服のポケットに仕舞い込むと。脇に置いた無反動を肩に担ぐと、差し当たっては近場で激闘を繰り広げているロイヤルに加勢への加勢を試みるのであった。

 

 さて、蒼治達の方へ視点を戻す。

 「くそっ、また2発かっ!」

 蒼治は舌打ちしながら苦言を吐くと。レッゾが座る運転席へと振り向くが早いか、稲妻のような早口で指示を出す。

 「後部ハッチ、開けて下さい! 僕も出ます!」

 「ああ! そういうだろうと思って、もうスイッチは入れておいた!」

 レッゾの言う通り、蒼治が指示を口にしている最中には、重厚な駆動音を立てながら後部ハッチが開いて行く。

 「それにしてもよぉっ!」

 レッゾが振り向き、忙しない様子で早くもハッチへと足を運ぶ蒼治の背中に声を飛ばす。

 「もう何度目だっけなぁ、こっちに暫定精霊(たま)が飛んで来るのは!」

 「8回目です!」

 振り向かずに答えた蒼治に、レッゾは自嘲とも自暴とも取れる苦笑を、ハッ、と漏らす。

 「もうそんなに来てンのか!

 こりゃマジで、兄ちゃんの言う通りみたいだな!

 流れ弾じゃねぇ、ピンポイントにオレ達を狙ってやがる!」

 この言葉に対して、蒼治は何のコメントも返さない。ハッチが人1人が抜け出すのに十分な隙間を開けたからだ。全開を待たずに蒼治は隙間の中に身を入り込ませ、走行中の装甲車から外へと飛び出す。

 ちょっと無茶な体勢で飛び出したので綺麗に着地…とは行かなかったが、崩し気味のバランスを前転して整えると。即座に身体魔化(フィジカル・エンチャント)を付与して、速度を落とさず疾駆を続ける装甲車に全力疾走して追いすがり、跳躍。背の高い装甲車の車高を悠然と跳び越え、車上に着地する。

 車上には、片膝を付いた状態で身体を固定し、定義変換(コンヴァージョン)済みの大剣を大砲のように構えたノーラの姿がある。

 ちなみに今回のノーラの大剣は、細長い直角三角形が直角部を向き合わせた、中央に一筋の空隙が走る鋭角三角形の刃を持つものである。この刃は両刃になっており、接近戦では苛烈な斬撃を見舞うことが出来る。一方、空隙は術式を弾丸様に成形して形而下に具現化させると共に、弾丸を加速させる銃口の役割を担っている。つまり、この武器は近・遠距離両用の武器になっているワケだ。

 蒼治の登場に、ノーラはチラリと視線を走らせたが…すぐに視線を元の場所へと戻す。その先に在る――いや、居るのは、勿論、先に彼女が報告した2体の暫定精霊(スペクター)である。

 蒼治はノーラの視線に合わせて振り向きながら、身につけた白いコートの内側から双銃を取り出しつつ、口早に尋ねる。

 「どうだい、同じ術者のものかい?」

 「はい…間違いないです。

 解析は、気を付けて下さい…例によって、"罠"が仕掛けられてますから」

 蒼治は頷きながら、焦点を暫定精霊(スペクター)に合わせる。

 

 卓越した魔法技術を有する蒼治に対して、たったの2体の暫定精霊(スペクター)を差し向けるというのは、通常の感覚で考えると少な過ぎる。ノーラ1人でも、十分対処出来る数量であろう。

 しかし、わざわざ2人で対応に当たるのには、当然ながら理由がある。

 飛来してくる暫定精霊(スペクター)の構造がとんでもなく複雑かつ強靱で、非常に厄介な性能を持つものばかりなのだ。

 今回の2体も、その例に漏れない。色彩こそ、一方は赤、他方は紫の一色と単調なものであるが、形状は悪夢に出るようなほど凶悪にして奇っ怪、そして複雑だ。

 赤色の方は、巨大な鳥…もっと言えば、鳳凰のように見える。翼を広げた幅が優に3メートルを超えるその怪鳥には、翼や銅に戦闘機を思わせるような小型ミサイルやミニガンを思わせる器官が備わっている。まるで、戦闘機と鳥のハイブリッドだ。

 紫色の方は、胴長の東洋の龍を思わせる姿をしている。赤色のように機械的な器官は有していないものの、際立って目立つのは巨大な棘のように発達した大きな鱗である。これらの鱗の一つ一つが、まるで魚のヒレのようにさざ波立つような有様で蠢いており、大気中を水中のごとく泳いでるような有様である。

 この2体は装甲車から約10メートルほど手前まで接近すると、攻撃を開始する。赤い鳳凰は翼に装着されたミニガン様器官から堅固な塊とかした火霊の術式の弾丸を、強烈な騒音と共に掃射。他方、紫の龍は鱗をハリセンボンのように逆立てたかと思うと、それら一つ一つを体から切り離した。宙に解き放たれた鱗は瞬時に形状を返ると、球形に猛獣の如き険悪な顔を張り付かせた小型の暫定精霊(スペクター)の群れとなり、雨霰と装甲車へと降り注ぐ。

 「僕が防御するっ! ノーラさんは、狙撃してっ!」

 蒼治は言うが早いか、即座に対抗術式を解析して構築し、防御用方術陣を展開。装甲車は六角形のパーツが集合したドーム状の方術陣に囲まれた――直後、赤い鳳凰の掃射弾丸と紫の龍の小型暫定精霊(スペクター)群が激突する。

 ガギギギギィィィンッ! ドドドドドドドドドッ! 連続する耳障りな跳弾音と爆音。方術陣は強烈に揺さぶられ、みるみる間に術式構造が歪んでゆく。そのままでは数瞬のうちに方術陣は破壊されてしまうところだが、そこは魔法技術に長けた蒼治。片っ端から術式構造を修復し、防御力を保ち続ける。

 とは言え、敵の攻撃の速度と威力は非常に大きく、修復のための魔力錬成作業は脳に大きな負担をかける。蒼治も気付かぬうちに、脳へと急激に流れ込む血液の衝撃に耐えられずに鼻孔の血管が破裂し、彼の右鼻からツツーと赤い筋が流れる。

 一方、ノーラは炎と煙、そして飛び散る激しい火花の合間を覗き見るようにして、2体の暫定精霊(スペクター)の運動を瞬きせずに追跡。そのうち、頭上を通過してゆく赤い鳳凰を標的として定めると、手にした大剣の切っ先を鳳凰の未来位置へ素早く向けて、術式弾丸を構築。蒼治の作り出した方術陣を破壊せずに透過すると共に、鳳凰に打撃を与えられる"であろう"構造を作り上げる。

 ――"であろう"、と云う消極的な表現に留まってしまったのは、何を隠そう、ノーラは2体の暫定精霊(スペクター)の構造を十分に解析出来ていないからだ。

 彼女は車上でずっと索敵に当たっており、今回の2体を確認した時点ですでに、解析作業自体は行ったのだが…ここで、彼女が前述した"罠"が作業を阻んだ。

 2体の暫定精霊(スペクター)を形而上相で視認した瞬間、ノーラは激しい頭痛に襲われた。何せ、脳の認識処理を遙かに超過する勢いで、超高密度の術式が滅茶苦茶に動き回っていたからだ。その個々の術式は大した意味を持たないものであるが、それを過密に編み込むことによって解析者の脳活動にダメージを与えるという"罠"なのである。俗に『コンフューザー』と呼ばれる措置である。

 それでもノーラは、ある程度の構造をなんとか把握した上で、術式弾丸を形成し、そして発射したのである。

 発射したのは、たった1発の弾丸である――数多く作るには時間が掛かりすぎるのだ――が、射撃は見事に鳳凰の胴体に命中する。鳳凰は赤い色をしているものの、その属性はなんと氷霊寄りである。故にノーラは火霊をメインとした弾丸を叩き込み、派手な爆炎で鳳凰の体をぐらつかせた。鳳凰は憎々しげに、ギィアアッ、と甲高く鳴いた――しかし、すぐに体勢を立て直して回頭。装甲車へと再び肉薄する。

 (今の手応えから、術式をちょっと修正して…もう1発!)

 ノーラが再び術式を大剣の刃の中で生成を始めた…その時。急に視界が、(まばゆ)い紫に染まった。

 (何…!?)

 思わず術式構築を中断し、視界を巡らせた、ノーラ。ほぼ真逆の方向に視線を向けた時、彼女は視界を閉ざした紫色の正体を知る。紫の龍が、サメのように多重に牙が生えた口腔から、自身の体色と同じ色彩の龍息吹(ドラゴン・ブレス)は吐き出したのだ! その威力は蒼治の方術陣が防いでくれたものの、龍息吹(ドラゴン・ブレス)はその表面を滑って全方位を包み込んでしまったのである。

 (これじゃあ、未来位置の予測が…出来ない…!)

 焦燥でブワッと冷や汗が顔面から吹き出したのと、ほぼ同時に…! ズドォンッ! ズドォンッ! 雷鳴のような爆音が頭上で2発、発生した。爆発の衝撃によって一瞬、吹き散らされた龍息吹(ドラゴン・ブレス)の合間から見えたのは、既に頭上を通り過ぎようとしている鳳凰だ。恐らく、胴部のミサイルによる爆撃を行ったのだ。

 蒼治の鉄壁の方術陣により、装甲車およびノーラたちは鼓膜をつんざく轟音に(さいな)まれた程度で、そよ風ほどの打撃も被らなかったが。状況は好転したワケではない。すぐに方術陣の周囲は紫の龍の龍息吹(ドラゴン・ブレス)に覆われ、再び視界は閉ざされてしまう。まるで首を引っ込めたまま、手も足も出なくなってしまったカメのような状態だ。

 (だからと言って…手をこまねいていても、仕方ない…!)

 ノーラは小さく首を振って気持ちを切り替えると。完全に輝きに帳の向こうを飛び回る鳳凰を追うことを止め、帳を作り出す龍の撃破に取りかかることにした。

 方術陣の周囲はほぼ完全に龍息吹(ドラゴン・ブレス)によって覆い尽くされているが、ただ1点、異質なものが見えている箇所がある。それは、龍の口腔だ。

 ロイの例に寄れば、(ドラゴン)は強烈な魔力の奔流である龍息吹(ドラゴン・ブレス)を体内から直接吐き出さない。体内では術式を十分に練り上げるだけで、実際に破壊事象へ転化するのは体外に吐き出してからである。さもなくば、自身の内臓を傷つけかねないからだ。つまるところ、口腔の近傍は龍息吹(ドラゴン・ブレス)が具現化していない領域なのである。

 暫定精霊(スペクター)の龍にもこの事情が当てはまるのか、はたまた別の事情があるのかは、ノーラには判断できない。ともかく、龍の口腔が露わであることは、この場合において幸いと言えよう。

 しかし、初めから龍の口をめがけて攻撃しなかったことにも理由はある。具現化はしていなくとも、口腔の近傍は強烈な術式が存在する。それは非常に強力な魔力の結界として作用することになるため、突破するのが大変困難であるのだ。実際、ノーラは一度解析した上で、その手間をかけるよりは鳳凰を追撃する方が容易(たやす)いと判断していた。

 (…でも、この状況で私が出来ることは、これくらいしかない…!)

 ノーラは、ゆっくりと動き回る龍の口腔にめがけてピタリと剣先を向けると、龍の口腔近傍の形而上相を解析しながら、術式を練り上げてゆく。やはり龍の口元の術式は非常に厄介で、突破を実現するためには十分時間をかけて、着実且つ堅固な構造を作り上げねばならないようだ。その間に再び鳳凰が爆撃に戻ってくる可能性はあるが、それを防ぐ手だてはノーラにはない。この懸念は、蒼治の実力に頼るしかない。

 (龍を破壊できなくとも…せめて、竜息吹(ドラゴン・ブレス)を途絶えさせることが出来れば…!)

 ギリリと奥歯を噛みしめ、先行しがちな焦燥を抑え込みながら、注意深く、そして緻密に術式を錬成してゆく…。

 その最中…ノーラ達を襲ったアクシデントは、鳳凰による爆撃ではなかった。

 ガゴゴゴゴ…! 突如、真下から響く地鳴り。そして、装甲車を激しく揺らす振動。

 (え…!? なんで、下から…!?)

 思わず術式を練り上げる作業を中断して、ノーラが車上から地面に視線を投げた、その時。

 ガゴォンッ! 岩盤が激しく軋み動いた音と共に、大地が隆起。装甲車はボコンッ! と小高い丘の上に盛り上げられた…かと思うと、丘がメキメキメキ、と岩を掻き分ける音を立てながら猛スピードで動き出したのだ。

 こうして装甲車は丘によって運ばれて、路地の中を元来た方向へと連れ戻されてしまうのであった。

 当然、操縦者のレッゾはこの状況を黙って指を咥えて見過ごすワケがない。アクセルを目一杯踏んで丘から脱出しようと試みる…のだが。

 「クッソッ! 車輪が…回らねぇっ!」

 レッゾは分厚い唇を歪めて唾棄し、ハンドルを両拳でドンッ! と強打する。

 ――そう、装甲車の車輪は丘の一部が形成した岩石の(トゲ)によってガッチリと捕縛され、全く動けなくなってしまったのだ。

 一体、何が起こったというのか? その経過を冷静に把握しているのは、この場ではただ1人…蒼治だけである。

 (さっきの爆撃だ!

 あれで、地霊系の暫定精霊(スペクター)を生成したんだっ!)

 蒼治は方術陣を制御していることもあり、防いだ攻撃の特性をかなり詳しく把握している。鳳凰による先刻の爆撃は、激しい爆発を伴ったものの、爆発の性質としてはさほど注目すべきものがなかった。ただし、妙だったのは衝撃の伝わり方だ。2発の爆発によって生まれた衝撃波は、塊のように纏まって大地に伝搬したのだ――非常に高密度の術式を伴って。

 (竜の鱗と言い、怪鳥の爆撃と言い…! 暫定精霊(スペクター)を介して暫定精霊(スペクター)を作り出すなんて…! 術者は、相当の技術力を持った手練れだっ!)

 蒼治は舌打ちを漏らすほどの悪態の混じった感心を覚える一方、即座に状況の打開策を考える。

 そして思い浮かんだのは…"悲観主義者"と評されやすい彼にしては非常に無茶な作戦だ。だが、他に即効性のある手段は、考えつきそうにない。

 蒼治は独りで小さく頷いて決心すると、流れ続ける鼻血を右袖で乱暴に拭い取ってから、鋭く叫ぶ。

 「ノーラさん!

 そのまま龍を狙って、氷1、雷3、火4、風7の比率で、幾何学パターンA63で術式を構築! 僕が合図したら、射撃して!

 それから、レッゾさん!

 そのままアクセル全開で踏み続けてください! そして、ノーラさんと同じ合図のタイミングで、無音の魔化(エンチャント)を切って、全魔力を注いでタイヤの修繕を行って下さい!」

 指示を受けた2人は、各々が即座に了解の声を上げる。蒼治の意図は明白であるため、問い質すような無駄な真似はしない。

 蒼治は2人の声を背に受けながら、車上から飛び降り、驀進する丘の形をした暫定精霊(スペクター)の背に着地する。瓦礫まみれだけでなく、いくつもの鋭い岩石の(トゲ)にまみれたその部位は、激しく身をよじらせるイモムシのように絶えず蠕動を続けており、非常に足場が悪い。蒼治は片膝を立てた他に、左手に持った拳銃を、銃口を接地させる形を取り、ようやく身を支える。

 続いて蒼治は、右手に持った拳銃をやや上方に構える。とは言え、銃口が向いた先には、特に何があるワケでもない。龍の口腔はかなり離れた位置にあるし、鳳凰の位置は相変わらず不明だ。強いて言えば、彼自身が作り出した方術陣があるだけだ。

 この状態で蒼治は、術式の錬成に取りかかる。この作業は、並の魔術師にとって極めて困難なものであろう。何せ、防御用の方術陣を維持したまま、ノーラの術式弾丸の構築の進行状況も把握しながらの作業だ。脳や魂魄への負担は多大なものになる。事実、蒼治は鼻血のみならず、眼は真っ赤に充血して視界がぼやけるし、脳が直接締め付けられるような鈍くて強烈な頭痛に(さいな)まれることになった。

 加えて、彼に更なる辛苦が襲いかかる。足下の暫定精霊(スペクター)の自衛のためか、蒼治の存在を認識すると、(トゲ)を生成して蒼治の脚を数カ所、貫いたのだ。

 「ぐあ…っ!」

 思わず言葉を吐き出す、蒼治。しかし彼は、痛覚遮断の身体魔化(フィジカル・エンチャント)を施すことなく、歯茎が血が(にじ)む程に歯を食いしばって、ひたすら耐える。そもそも、身体魔化(フィジカル・エンチャント)にまで魔力を回す余裕がないのだ。

 焼け付くような激痛も加わった地獄の中でも、蒼治は決して挫けない。混濁する意識の中で、氷のように研ぎ澄ませた精神でひたすらに術式を構築し続ける。

 拭った鼻血が再びダラダラと零れて顔に一筋の川を作り、足下には脚の傷口からの出血が薄い真紅の水溜まりとなって広がった頃。蒼治は合図するように、ギリリッ、と激しい歯軋りを鳴らし、行動に出る。

 ガチンッ! 響いた引き金の音はたった1つであったが、それは蒼治が同時に双銃を発砲したからである。――そう、彼は結界に向けた右手の銃だけでなく、体の支えに使っているように見えた左手の銃にも、強力な術式弾丸を装填していたのだ。

 ガォンッ! と大気を震わせる音と、ガギュィンッ! と大地を轟かせる音が同時に響く。

 結界に向けて発射されたのは、透明度の高い薄黄色の、大人が一抱えするような大きさの弾丸である。それは弾丸にしては非常にゆっくりした速度で、高速回転しながら結界の方へ一直線に進んでゆく。

 一方、蒼治の足下では(まばゆ)い緑色の閃光が爆発的に発生していた。射出された弾丸が即座に丘型の暫定精霊(スペクター)に着弾したのである。

 転瞬、丘型の暫定精霊(スペクター)に異変が発生する。まるで強打されたイモムシのようにブルリと全身を揺るがしたかと思うと…次いで、堅固な岩盤の体が、水っぽいゼリーのようにグンニョリと歪む。同時に、装甲車のタイヤや蒼治の脚を貫いていた(トゲ)が、気の抜けた風船のようにクニャンとしなだれながら、ズルリと傷口から抜けてゆく。解放された蒼治の脚からは、栓の抜けた血管からバシュッと真紅が噴き出し、アクセル全開のまま捕まっていたタイヤは急回転を始め、タイヤを派手に破裂させた。

 こうして自由になった装甲車が、パンク状態でガタガタになりながら前進を始めた――その瞬間。

 「今だっ!」

 蒼治が雷鳴のように合図を口にする。

 その叫びに当てられたレッゾとノーラは、各々雷光に当てられたように、迅速な行動に出る。

 レッゾは流れるような手つきでスイッチをいじり、無音の魔化(エンチャント)を停止させ、タイヤ修繕用の術式を起動させる。ガタガタのタイヤがブヨブヨになった岩盤を擦過するギュルギュルギュル、と言う耳障りな音が響きわたる中、タイヤが青白い魔力励起光に包まれて再生を始める。

 そしてノーラは、刃の中で電光様の励起光が飛び散るほど魔力を充足させた術式弾丸を、ギュゥンッ! と言う大気を切り裂く音と共に射出した。

 ノーラの弾丸が方術陣に到達するより早く、蒼治の球形弾が着弾を果たす。すると、球形弾は(とろ)けたゼリーのようにフニョリと形を崩して、方術陣と同化してゆく。そして、完全に形が消滅した瞬間――ヴィィィンッ! と鼓膜を聾する甲高い振動音が発生。同時に方術陣が霞むような有様で激震すると――バシャァンッ! と大量の水をぶちまけたような音と共に、龍の吐き出す竜息吹(ドラゴン・ブレス)を一気に弾き飛ばしたのだ。

 今、結界の向こう側に見えるのは――ガラスのように輝く紫色の魔力片と、竜息吹(ドラゴン・ブレス)を吹き飛ばされてなお、虚しく口を開いてこちらを睨みつける紫色の龍、そして高空で位置を知らせるように旋回している鳳凰である。

 (…そっか、あの鳥、あんな場所に…)

 ノーラが薄紫色の見開いて、クルリクルリと円を描く鳳凰に視線を注いだ頃。彼女が射出した弾丸が、龍の口腔の中に潜り込んだ。

 先の蒼治の術式による方術陣の激震は、具現化した竜息吹(ドラゴン・ブレス)だけでなく、口腔近傍の魔力も吹き飛ばしたらしい。

 多重の牙の列の上をすんなりと通過し、咽喉(のど)の奥へと達した弾丸は、何の抵抗もなく竜の術式で出来た体の中に潜り込み――爆裂する。

 (ゴウ)ッ! 爆音と共に、龍が長大な体を仰け反らせる――いや、勢いがつきすぎて、その場で2、3度激しく回転する。その遠心力の当てられたかのように、龍の体から鈍い紫色に輝く大量の破片が吹き散らされる。それらをよくよく見ると、奇妙な形状をした文字の群であることが分かる。龍を構築していた術式が、弾丸の爆裂に当てられて安定を失い、暴走気味に具現化したものだ。

 こうして破片をぶち撒けた龍は、1周りも2周りも体積が縮み、剥き立てのゆで卵を思わせるようなツルリとした体表を呈する姿となる。凶悪さを失い、美麗さと共に脆弱さが強調された姿である。

 この姿を、射抜くような強烈な視線で()めつけている者が居る。蒼治だ!

 彼は双銃を龍に向けて照準を定めながら、"神速"と評しても過言でない速度で術式構造の解析を始める。先には『コンフューザー』によって保護されていた術式構造であるが、ノーラの加撃によって保護をほぼ完全に剥ぎ取られていた。――そう、先程宙にぶち撒けられた魔力片は、『コンフューザー』のものだったのである。

 丸裸同然の龍の構造を完全に把握した蒼治は、銃身内部に次々に術式弾丸を形成して装填。そして片っ端からトリガーを引き、フルオートで連射を開始。ガガガガガッ! と騒々しい銃声が連続し、多様な色彩のマズルフラッシュが閃くと、色とりどりの魔術励起光の尾を引いた術式弾丸が龍の身体に接近。次々に着弾すると、ドォンッ! ドォンッ! と小爆発を起こす。

 龍の身体に突き刺さる弾丸は、それぞれが構造を緻密に調整された術式であり、同じものは1つして存在しない。それらが順繰りに龍の身体に突き刺さることで、発動した魔法現象の効果は雪だるま式に強化されてゆく。爆発に翻弄され、焼けた鉄板の上に放り込まれたミミズのごとく激しく身をくねらせる龍は、身じろぎ1度ごとにバラバラと術式の破片を振り撒きながら、崩壊してゆく。

 そして、遂に――。蒼治の掃射音が止まり、最後の術式弾丸が龍の身体に抉り込まれると。龍は断末魔を上げるように、顎が外れるほどに口腔がガバァッと開いたかと思うと、全身にパルスのようなノイズが走り――直後、強烈な静電気が()ぜるようなバチンッ! という音を立てながら、紫色の術式片の花火となって、散華した。

 

 厄介な暫定精霊(スペクター)をようやく1体、葬った瞬間である。

 

 「ぃやったぜっ!」

 装甲車の操縦席でレッゾがガッツポーズして叫んだ…が。

 「レッゾさん! アクセルを踏み続けて!」

 蒼治が雷光のように指示を飛ばす。厄介者を撃破した歓喜に加え、蒼治をその場に放置することを気にしたレッゾは、車体下の丘型暫定精霊(スペクター)がしぼんだ時点でアクセルから足を離していたのだ。蒼治はこれを諫めたのである。

 「だ、だがよ、兄ちゃん! それじゃアンタが…」

 レッゾが懸念をそのまま口に出すが、蒼治は皆まで言い終えぬうちに叫ぶ。

 「良いから! 前進してっ!」

 有無を言わせぬ勢いにレッゾは遂に屈し、分厚い唇を一文字に引き結びながらアクセルを目一杯踏み込む。タイヤは既に完全に修復されており、装甲車は急加速を得てグニャグニャになった暫定精霊(スペクター)の上を走り出す。

 これを認めた蒼治は、去ってゆく装甲車への餞別とでも云うかのように、今度はノーラに向かって叫ぶ。

 「鳥に向かって、雷、気持ち氷と土! 幾何学パターンB27、微量属性はオルトに配列!」

 それが新たな術式弾丸の構造であることを悟ったノーラは、即座に刃の間隙に魔力を集結させる。

 一方、上空を旋回しているばかりであった鳳凰は、龍の撃破を検知すると行動パターンを変更。急旋回して装甲車の方に頭を向け、一目散に接近。同時に、翼に装着された機銃様器官が小さく駆動音を上げて回転し、発射準備に入る――。

 (やらせるか!)

 蒼治は方術陣を解除すると、重傷の両脚に対して全意識を集中して痛覚遮断と筋力強化の身体魔化(フィジカル・エンチャント)を付加する。今や魔術を多重同時操作する必要がなくなった彼の意識は既に冴え渡っており、この程度の魔術発動ならば造作がない。

 1秒も掛からず強化された脚を駆使し、蒼治は跳躍。急降下しつつ装甲車に肉薄する鳳凰の進路上に浮かび上がると、双銃を真っ直ぐに構えて鳳凰の顔面に照準を合わせる。

 暫定精霊(スペクター)は感情を持たぬ疑似魂魄ゆえに、蒼治の行動に対して動揺しない。冷静に迎撃ルーチンを起動させ、輝く嘴を開いて何らかの攻撃を放とうとする。

 しかし、攻撃ならば蒼治の方が早かった。

 双銃を同時斉謝すると、ドドォンッ、と大砲が炸裂したような音が轟く。次いで、赤と青の魔力励起光をまとった術式弾丸が互いに絡み合う螺旋を描きながら一直線に鳳凰の顔面に肉薄し、着弾。

 (ドウ)ッ! 純白の閃光が爆ぜたかと思うと、鳳凰の(クビ)が大きく仰け反り、赤い魔力片を派手に吹き散らす。『コンフューザー』の術式が瓦解したのだ。

 この瞬間を、地上のノーラは決して見逃さない。

 (今ッ!!)

 刃の中に形成した弾丸を射出すると、電光をまとった黄色の魔力励起光の尾を引いて弾丸が高速で飛翔。そのまま、仰け反った鳳凰の顔面を寸分違わず打ち抜いた。

 ビクン、と鳳凰が身震いしたかと思うと。砂の建造物に水をぶっかけたように、形状がグシャリと崩壊。粉雪のような赤い魔力片と化して、瓦解し街並みにフワリフワリと降り注いだ。

 同時に、装甲車が足蹴にした丘型の暫定精霊(スペクター)も、融解したアイスクリームのようにベシャリと広がって崩壊。瓦礫と土の混合物となって、路地の上を覆うばかりとなった。

 

 この時点を以て、ようやく蒼治達の激闘の幕が下りた。

 

 「フゥ…ハァー…」

 ゆっくりとした深呼吸しながら自由落下する、蒼治。意識の混濁や激痛に耐えながらの術式構築作業は相当な負担であったことだろう。その疲弊からか、彼は落下速度を減じる魔化(エンチャント)も施さず、四肢をグッタリと脱力させた状態で、重力の為すがままに瓦礫の大地へ吸い込まれてゆく。

 もし、このまま何の助けも来なければ、彼はどうなっていたであろうか。無慈悲な大地に受け止められ、無惨に骨格や内臓が破砕してしまっただろうか。それとも、そこは実戦経験豊富な蒼治のこと、間一髪で気力を取り戻し、何らかの対策を取っただろうか。

 しかし、その結果を確かめる術はもはやない。と言うのも、レッゾが慌てて装甲車をバックさせて蒼治の真下で待機し、車上のノーラが刃の間隙で作り上げた浮遊の効果をもたらす"優しい弾丸"で蒼治を撃ち抜いたのだ。蒼治は羽毛のようにフワリフワリと落下して、音もなく装甲車の上に仰向けの体勢で着地した。

 「大丈夫ですか…!」

 ノーラが慌てて蒼治の元に駆け寄り、即座に鎮痛と回復促進の魔術を使おうとする。…が、蒼治はフラフラと掌をノーラの顔に向け、その動きを制する。

 「大丈夫…とは、正直、言えないけどね…。

 でも、僕のことは…気にしないで。装甲車の救助キットで、自分で治療出来るから…。

 ノーラさんは、魔力の回復に勤めながら、引き続き索敵を続けてほしい」

 そう言うが早いか、重傷のためにおぼつかない足取りで装甲車の最後部、ハッチへと向かう、蒼治。ノーラは咽喉(のど)元まで引き留めの言葉がこみ上げて来たが、それをグッと飲み下すと、代わりにこう尋ねる。

 「また…今回みたいなのが、襲ってくるんでしょうか…?」

 「イェルグ達の加勢が来ない限りは…ほぼ確実、だろうね」

 そう即答した蒼治は、そのままズルズルと装甲車の最後部に到着すると、鈍い動きでトントン、とハッチとの接合部分の近傍を叩く。レッゾへ"ハッチを開けてほしい"という合図だ。音は周辺に内蔵されたマイクを通して操縦席に伝わり、レッゾは蒼治の意志を通りにハッチを開く操作を行う。

 人1人が転がって入れるほどの隙間が開いた途端、蒼治は倒れ込むような動作でその隙間に身体を滑り込ませる。傾斜がまだまだ急角度なハッチの蓋の上を転げ落ちた蒼治は、着地の寸前で浮遊の魔術を発動させ、人員収納スペースの床にフワリと落下。大の字になって五体を投げて倒れたまま、暫く浅い呼吸を続けるばかりであった。

 「…大丈夫か? もう少し、車、止めとくか?」

 数秒の後、レッゾが気遣いの言葉をかけると。その言葉に突き動かされたように、蒼治はユルユルとした動作で四つん這いになり、ズルズルと操縦席側へと進み始める。救助キットが設置されているのが、その辺りだからだ。

 道すがら、蒼治は浅く荒い呼吸の合間に、レッゾへの返答を口にする。

 「いえ…進んで下さい。

 あまり留まっていると、また攻撃されてしまいますから…。

 迷彩はすぐに施せませんけど…回復し次第、出来るだけ早く方術陣を展開します…」

 「いや、そんなに急がなくていいから、ゆっくり休んでくれよ」

 レッゾの気遣いに、自嘲にも似た乾いた笑いを返しながら、救助キットが入った金属製の箱を開く。

 救助キットの中身は、魔術的な治療器具が大半を占めている。体組織回復の高等魔術を込めた液体触媒の入ったアンプルや、鎮痛などの魔化(エンチャント)が施された包帯などである。非魔術的な道具は、包帯などを止めるテープくらいなものだ。

 ちなみに、世間一般的な治療器具は、非魔術的な器具や薬品も多数ある。いくら異相世界と結合した現在とは言え、魔術を扱えない一般人は多数存在するのだから。

 さて蒼治は、ボロボロの制服のズボンを恥ずかしげもなく脱ぐ――もとより、恥ずかしいなど言っている場合ではない――と、体組織回復のアンプルの中身を両脚に振りかける。アンプルの中身はドロリとした粘性の液体で、ゆっくりと脚の表面を滑って広がってゆく。その上に手をかざした蒼治は、液体に向かって魔力を集中、液体に込められた魔術効果の解放と効果の促進を行う。

 出血はピタリと止まったものの、悲惨な傷口は"見る見る間に回復する"とはいかないが、徐々ながらも着実に体組織が再生を始める。回復魔術に長ける紫ならば、もっと高速で確実な体組織再生が見込めたであろうが、居ない者強請(ねだ)りは出来ない。

 「フゥ…」

 蒼治は一息吐いて背中を操縦席との間を隔てる壁に預け、冷たくなった汗で塗れた暗紺色の髪を掻き上げた、その時。操縦席の方からレッゾの声が遠慮気味に滑り込んでくる。

 「…備え付けの救助セット程度で、大丈夫なのか…その傷?」

 「ああ…はい。もうちょっと時間を掛ければ、大丈夫ですよ」

 掻き上げた髪からポタポタとこぼれた汗の滴で塗れた眼鏡を外し、コートの内ポケットから取り出したハンカチで拭きながら、蒼治が答えた。

 蒼治の声の調子は疲労の色が濃いものの、苦痛を耐えているような苦々しい響きではない。その事に安堵したレッゾは、戦闘後の重い雰囲気を和らげる目的か、軽口を叩く。

 「兄ちゃんの部活、結構こういう状況に巻き込まれてるんだろ? …学生があんまりこんな状況に首突っ込むのは、感心できないが…それはともかく、よくもまぁ眼鏡なんて愛用してるな。壊れたり、破裂して顔に突き刺さったりしたら大変だろ?

 視力に不安があるなら、矯正の術式を刻み込む手術すりゃ良いんじゃないのか?」

 この問いに蒼治は、薄い笑みを伴って返答する。

 「実はこの眼鏡、伊達なんですよ。

 身に着けてなきゃならないってことは、無いんですけどね…。

 なんていうか、これは僕のスイッチみたいなものなんですよ。願掛けの鉢巻(ハチマキ)みたいなもの、ですかね」

 「兄ちゃんほどの使い手でも、願掛けに頼りたくなることがあるのか?」

 レッゾが意外そうな声を上げると、蒼治はアハハ、と声を上げて小さく笑う。

 「僕は、部の仲間たちから言わせれば、悲観主義者だそうですからね。何かに(すが)ってないと、不安なんじゃないですかね」

 「あんな戦い方、悲観主義者がやるモンかよ」

 レッゾは白い歯を見せて笑う。そう、さっきの暫定精霊(スペクター)2体を相手にした戦い方は、いかなる艱難辛苦にもめげずに活路を見い出す者の姿そのものだ。

 「まぁ、僕も"希望の星を撒く"をスローガンにしてる部活の一員ですからね」

 レンズを吹き終わった眼鏡を掛け、クイッと直しながら蒼治は語る。

 「戦闘と言えば、だがよ」

 レッゾが口調を固くして、蒼治に尋ねる。

 「今回はまた、一段と恐ろしい暫定精霊(スペクター)に襲われたモンだがよ…。競合勢力が4つ巴になってる前線じゃ、あのレベルの暫定精霊(スペクター)がゴロゴロしてるってことなのか?

 今はオレ達、逃げ回ってるけどよ…兄ちゃんのお仲間が加勢に来たら、戦闘の中に突っ込むんだろ? かなりヤバくねーか?」

 対して蒼治は、首を横に振る。

 「いえ…さっきのも含めて、今まで8回襲撃してきた暫定精霊(スペクター)は全部、間違いなく僕ら用に特別生成したものでしょうね」

 この答えを聞いて、レッゾはギクリとして思わず人員収納スペースを振り返る。

 「何ぃ!? あれは、流れ弾がたまたまこっちに反応してたワケじゃねーってのか!?」

 レッゾは振り返ったものの、人員収納スペースへの覗き窓には蒼治の姿は見えない。彼は覗き窓のすぐ下に座り込んでいたからだ。しかしレッゾはすぐに視線を戻さず、姿の見えぬ蒼治を探すように人員収納スペースを見つめ続ける。

 蒼治はそんなレッゾの視線に答えるように、首を縦に振りながら答える。

 「初めに攻撃を受けた時から、ほぼ確信していたんですけどね。さっきの戦いで『コンフューザー』は剥ぎ取って、確信が100%になりました。

 あいつらの索敵ルーチンは、僕らに特化したものを使っていました。術者が所属している"パープルコート"は、昨日僕たちが混戦を切り抜けた実力を鑑みて、非常に強力な暫定精霊(スペクター)をぶつけて来ています。

 恐らく、僕らを混戦の場に引きずり出して、『バベル』へのエントロピーの足しにするつもりでしょうね」

 ゴトンッ! と大きく荒い振動が装甲車を襲う。タイヤが大きな瓦礫を踏みつけたらしい。そこでハッとしたレッゾは、視線を進行方向に戻しながらも、更に蒼治への問いを掘り下げる。

 「こっちは、たった装甲車一台分の戦力なんだぞ!? なんでそんな特別製を、直近の敵がウジャウジャしてる前線でなく、ちっぽけなオレ達にぶつける必要がある!?

 それなりの威力の暫定精霊(スペクター)で煽った方が効率的だろう!

 そもそも、前線の状況を見ていないのにあれが特別製だと、どうして判断出来るんだ!? 天下の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の戦力なんだ、さっきのレベルが標準でもおかしくないだろ!?」

 「地球圏治安監視集団(エグリゴリ)だって、万能の部隊ってワケじゃありませんよ。

 全隊員の練度が怪物並、ってことはありません」

 かなり回復してきた脚の具合を確かめるようにさすりながら、蒼治は語る。

 「さっきの暫定精霊(スペクター)を作り出した術者は、はっきり言って、怪物並の練度の持ち主です。暫定精霊(スペクター)をトリガーにして、別の高度な暫定精霊(スペクター)を生成するだけのロジックを編み出すなんて、恐ろしい労力です。並の術者なら、脳に負荷が掛かりすぎて失神するかも知れません。そんな代物を2体同時に創り出すんですからね、怪物と言って差し支えないですよ。

 とは言え、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)もそんなレベルの怪物をゴロゴロ抱え込む必要がある部隊もあるでしょう。『女神戦争』に介入してる部隊なんて、その良い例だと思います。

 ですが、一都市国家に常駐してる部隊にそんなレベルの隊員を多数配属するのは、宝の持ち腐れです。ましてや、このアルカインテールは情勢がさほど差し迫っていたワケじゃありませんからね。強力な戦力が配備されていたとは考えにくいです。

 もしも配備されていたとしたら、アルカインテールの混戦はここまで長引くことなく、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の圧勝で幕を閉じているはずです。

 恐らく、たまたま部隊が擁した隊員の中に、突出した実力の持ち主が居たんでしょうね。僕たちが相手にしているのは、間違いなく、その人物でしょうね」

 レッゾがゴクリと固唾を飲み込む。

 「そんな厄介なヤツが、なんでオレ達なんかにそんなに目を付けるのか…ますます分からねーぜ」

 「レッゾさんは、貧乏クジを引いてしまったんですよ」

 蒼治がバツの悪い笑みを浮かべながら、肩を竦める。その動作はレッゾには見えていないが、気配は伝わったようだ。彼が怪訝そうな声を上げる。

 「貧乏クジ?」

 「はい。

 昨日、僕たちは4人だけでも、この都市国家(まち)の状況を滅茶苦茶に掻き回した事実がありますからね。『バベル』の開発者にとっては、僕らくらいコストパフォーマンスの良いエントロピー供給材料はないと判断したことでしょう。

 ましてや今回、"パープルコート"は限られた時間の中で確実な成果を上げなければ後がない状態です。何ともしても僕らを引きずり出したいと思っても当然でしょう。

 レッゾさんは、僕らと行動を共にしたが故に、その被害に巻き込まれてしまっているワケです」

 「…なるほどな。そう解説されると、貧乏くじ、って言葉も納得出来るな」

 レッゾは短く苦笑したが…すぐに、声を固くする。

 「ってことは、9回目の攻撃も来るってことだよな…!?

 今までの傾向から見て、暫定精霊(スペクター)の力は確実に強化されてるし…今回、兄ちゃんがこんな被害を受けてるってことは、次は相当ヤバいんじゃねーのか!?」

 「確かに、今回も僕らが状況を打開しましたからね。術者がもっと強力な[[rb:暫定精霊]]を用いてくるのは、当然でしょう。

 ですが」

 蒼治はようやく傷が気にならない程度まで脚が回復したのを確認すると、ズボンを穿()きながら言葉を続ける。

 「さっきの戦闘で、ノーラさんの的確な協力のお陰で、僕は暫定精霊(スペクター)の構造をしっかり把握出来ました。

 加えて、今までの戦闘で得たデータがありますからね。この2つを併せて鑑みることで、術者の傾向がある程度予測できました。今回よりは優位に戦えると思いますし、迷彩ももっと的確なものが構築できます」

 「もし、相手が今までの傾向とガラッと変わった暫定精霊(スペクター)を仕掛けてきたら、どうするんだ?」

 衛戦部の人間らしく、決して無責任な楽観視をせずに問うてくるレッゾに対して、蒼治は眼鏡をクイッと直しながら答える。

 「確かに、その可能性も考えられます。しかし、それを実現するとなると、術者は相当な手間を強いられますからね。次の攻撃まで、かなりの時間が開くことでしょう。その間、僕らは身を隠す時間も迷彩を多重に張り巡らす時間も十分に取れますから、そうそう簡単に発見はされないと思います。

 まぁ、発見されてしまったその時は…」

 蒼治は肩を竦める。

 「その時、ですね。

 それまでには、僕らの仲間が加勢に来てくれるとは信じてますけどね。不幸にも間に合わなかったら…また根性入れて対応するしかないですよ」

 正論ではあるものの、最終的に根性論に落ち着いてしまった結論に、レッゾは不快感を隠せぬ苦笑いを浮かべる。

 「不幸にならないことを、カミサマだかメガミサマに祈ることにするよ」

 ――ここで会話が一息ついたところで、蒼治は早速迷彩を施し直し、次回の暫定精霊(スペクター)の襲撃に備える。一方レッゾは、アクセルを強く踏んで、入り組んだ瓦解した街並みの更に奥へと装甲車の姿を隠すのであった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

War In The Dance Floor - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 一方――。

 アルカインテール上空に数十と浮遊する、"パープルコート"の飛行戦艦群。そのうちの1つ、砲撃戦用の戦艦に焦点を当てる。

 

 砲撃戦用戦艦には、大きく2つのタイプの砲が装備されている。

 1つは、自動術式錬成砲と呼ばれるタイプのもの。"自動"の名を関している通り、機械仕掛けの装置一式が予めプログラミングされたロジックに沿って魔化(エンチャント)された弾丸や術式弾丸を生成し、砲撃を行うものである。このタイプの砲の利点は、なんと言っても、機械制御によって砲手の手間が大幅に減ることだ。更に、砲手が魔法技術にさほど長けていない、もしくは全く修得していなくとも、操作1つである程度の威力の魔術攻撃を行えることである。

 反面、デメリットとしてはプログラミングされた範囲でしか魔術を生成できないために、砲のシステムが持てる以上のポテンシャルを発揮することが出来ない点だ。これはつまり、敵がこちらのシステムでは対応できないような耐魔術特性または技術を持っていた場合、砲は単なる飾りになってしまうことを意味する。

 このデメリットを克服する砲として、もう1つのタイプである、術者弾倉砲と呼ばれる代物がある。魔術を使用できる砲手が自らの手で砲弾を魔化(エンチャント)、もしくは術式弾丸を生成し、これを用いて砲撃を行うというものだ。このタイプならば、術者の技量に応じて、非常に高いポテンシャルを発揮することが出来る。

 このタイプの砲にとっての課題は、照準だ。機械によって自動照準するものもあるが、術者以外の事象が砲の制御に介入することで術式が減衰してしまう、『余事象干渉』と呼ばれる現象が起きてしまう。ゆえに、卓越した砲手は、この現象を嫌って照準を完全に手動で行うことに(こだわ)ることが多い。

 

 術者弾倉砲の砲手が集まる艦内施設は、人海弾倉と呼ばれる。その場所は重力下環境での行動を目的とした飛行艦の場合、ほぼ確実に艦底に位置している。それは対空および対地攻撃の両方の利便性を計った結果である。

 今回、焦点を当てている艦でも例外なく、人海弾倉は艦底に設置されていた。その内部は同心楕円に設置された砲座が5段に重なった構造をしている。その有様は、楕円形の競技場の観客席のミニチュアと形容出来よう。

 砲座には漏れなく、魔術師達が席を埋めている。彼らは視力倍加の魔化(エンチャント)が施されたスコープを覗きながら、術式触媒がギッシリと詰まった弾丸を一度に複数個装填し、じっくりと術式を練り上げながら標的を定めては、発砲と共に攻撃用暫定精霊(スペクター)を放つ。鳥や翅蟲(はむし)や魚、はたまたは龍の形状を取る暫定精霊(スペクター)が空を高速で飛んだり泳いだりしながら、各々に内包された索敵ルーチンに従って標的を追い回し、激突しては噛みついたり、火を吹いたり、自爆したりと暴れ狂う。

 魔術師達の砲撃は、初めこそタイミングにバラつきがあるものの、次第に個々人ごとに一定の単純なリズムを刻むようになる。ある程度調整を終えた術者は、ある程度の微調整を含むとしても、術式を構築するまでの時間はほぼ一定に収束するからだ。なので、臨界を迎えた人海弾倉は、眠気を誘うほどに規則正しい射撃音の演奏会場と化す。

 しかし…この中で唯一、いつまで経ってもリズムが一定にならない砲手が居る。

 彼女――そう、この砲手は女性だ――の刻むリズムは、厳密には全くのカオスと云うワケではない。規則正しい間隔で5、6発を連射する、と云う点は始終変わらない。しかし、その合間には、準備時間が非常にバラついた――傾向としては、時間が経つほどに準備が長くなる――砲撃が1、2発混じっている。

 これらの砲撃のうち、前者の連射は非常にすばらしい戦果を上げている。一度の砲撃によって生み出された暫定精霊(スペクター)は、一気に10体もの癌様獣(キャンサー)やら死後生命(アンデッド)を戦闘不能に追いやるのだ。

 しかし、一方で…術式構築にたっぷり時間を掛けた砲撃は、激戦が繰り広げられている地域とはまるで見当違いの方向に撃ち放たれている。それが方向を急変させて、敵に奇襲を掛けるのならば理解もされようが――そのまま反応が消失してしまう事が多い。

 「あれ…ちょっとヤバいかな…?

 絶対に、見られたよね…?」

 術者は8度目のじっくりとした砲撃を終えてから数分後、桜色に彩られた唇からポツリとそう漏らしたが。

 「でも、まぁ…別に良いかな。目的は撃破じゃないし」

 すぐに楽天的な調子で語ると、砲座の近くに山と盛ったチョコレートから1つを掴むと、口の中に放り込む。

 そして、コロコロと口の中で弄びながら舐めつつ、スコープから目を離し、腕を組んで視線を殺風景な金属製の天井に向ける。

 「と言っても…索敵ルーチンは練り直さないといけないか。もう対策を始めてるみたいだったし。

 さて、今度はどうやって…」

 彼女がブツブツと独りごちていると。急に背後から、憤りを抑え込みまくった震え声が投げつけられる。

 「…さっきから一体何をしてるんだね、チルキス中尉?」

 彼女――チルキス・アルヴァンシェ中尉は、悪気なくチョコレートをコロコロと転がしながら、声の主へと振り向くと。やる気なさげなボンヤリとした敬礼をしてみせる。

 「どーも、少佐。

 見ての通り、砲撃ですよ」

 チルキスは、闇夜のような漆黒の髪に、小麦色よりなお濃いブラウンの肌をした、尖った耳を持つ種族――黒長耳(ダークエルフ)族の女性隊員である。ちなみに黒長耳(ダークエルフ)族は旧時代の地球における創作物語のように成長の遅い長命な存在ではなく、旧来の地球人とほぼ同等の寿命を持つ種族である。ただし、出身世界は地球に魔術をもたらす要因の1つとなった場所であることから、彼ら自身も先天的に卓越した魔法技術を扱える素質を有している。

 そしてチルキスは、種族の中でも非凡な実力の持ち主であり、"パープルコート"のアルカインテール駐留部隊の中でも突出した実力を持つ狙撃手且つ砲手である。

 そんな彼女が、時間を掛けて精魂を込めた攻撃を、わざとあらぬ方向へと撃ち放しているのだ。上官である"少佐"と呼ばれた男性にしてみれば、彼女が実力を鼻にかけて任務を軽んじ、遊びに興じているように思えたことだろう。

 事実、上官は不愉快そうにこう指摘する。

 「砲撃してるというのは、見れば分かる。が、さっきから君は、どこを狙って撃ってるのかね?

 時間を掛けて作り出した暫定精霊(スペクター)に限って、おかしな方向へ撃ち出しているようだが?」

 対してチルキスは、口の中で溶けかかったチョコレートを、歯を立てて噛み砕く。不快感を訴える行動だ。

 そしてチルキスは、黒く見えるほどに濃いブラウンの瞳を半眼にして、噛みつくような視線を上官に向ける。

 「検知できないんですか?

 昨日入都してきたユーテリアの学生の一派が潜んでますよ」

 生意気極まりない態度の返答に、上官はこめかみに青筋を立てながらも、平静を努めて問い返す。

 「ほぉ、ユーテリアの学生ね。確かに昨日、彼らは驚異的な戦力を見せつけているね。

 だが、今の戦況において、彼らを重要視する必要はあるかね? 彼らは戦闘に加担しているワケでなく、おそらくは保身のために状況を観察しているだけだろう。そんな彼らの撃破を最優先に行動するのは、合理的とは言い難いのではないかね?

 目の前で我々に迫る脅威を排除することこそ、重要ではないのかな?」

 するとチルキスは、新しいチョコレートを口の中に放り込んでから、悪びれもせずにしれっと語る。

 「でもこれ、大佐から直々に最優先任務として指示されていますから」

 「ヘイグマン大佐から!?」

 上官は驚愕と狼狽で目を見開きながら問い返すと、チルキスの返答を待たずに言葉を次ぐ、「私は聞いてないぞ!」

 「大佐は私しか呼び出していませんでしたし。私も少佐に報告してませんでしたから。直属の上官に話を通せ、とは言われていなかったもので」

 「…それでも報告するのが、組織というものだろうがっ!」

 「はぁ、そうですか。

 てっきり大佐が少佐に話を通しているものだと思っていましたよ」

 チルキスが反省の色も狼狽も見せずに淡々と――むしろ、時間の無駄とでも言いたそうな無機質な態度で言い返す有様に、上官のこめかみに青筋が浮かび上がる。

 怒声が咽喉(のど)元までせり上がってきたが、上官はグッとそれを飲み下した。上官である彼が下士官であるチルキスに遠慮する形でストレスを溜め込む選択を採ったのには、勿論、理由がある。

 第一に、アルカインテール内の組織の最上位であるヘイグマン大佐からの直々の任務を(ないがし)ろにしろ、とは言えないこと。第二に、大佐の任務をこなしながらも、片手間ほどの時間に彼の指示にも従って敵勢力の攻撃をし、この人海弾倉内で最大の戦果を上げているのがチルキス中尉であること。そんな彼女を叱りつけては、彼女自身の志気が下がる可能性が高い。

 そして第三に、部隊内では隊長である彼よりも、多大な戦果に寄与しながらも、結果を誇示せず静かに実績を出し続けるチルキス中尉の方が人望があること。中尉への悪態は、彼女自身だけでなく、周りの志気にも関わってしまうのだ。

 だから上官は、怒声を出したくて震える舌を必死に抑えながら、一つ咳払いをして気持ちを更に鎮めると。事務的な口調になるように努めながら尋ねる。

 「…大佐から直接受けた任務とは、どのようなものだ? 君の直属の上官として、把握しておきたいのだが」

 任務を受けた状況から鑑みると、機密性が高いものの可能性も十分考えられたのだが。チルキスはチョコレートを舐め転がしながらスコープに接眼し、淡々と率直に答える。

 「地下の避難民が地上に送り出した偵察部隊を、撃破するのではなく、戦地に引きずり出せ…というものです。偵察部隊には間違いなく、昨日入都したユーテリアの学生たちが含まれているので、彼らを引きずり出すことで『バベル』の(エントロピー)を確保したいんだそうです。

 ただし、『バベル』が起動後は速やかに撃破し、『バベル』の活動の障害にならないようにしろ…との命令も受けてます。

 生かさず殺さず、という部分が正直、面倒な任務ですよ」

 「…その内容をすぐに私に伝えてくれれば、君がその任務に集中できるよう取り計らったものを」

 上官は頬をピクピクさせながら語る。大佐の命令にも敬意を払わず、あっけらかんと"面倒"と言い放つチルキスが気にくわなかったのだ。

 しかしチルキスはそんな上官のことを意に返さず、スコープで蒼治達の装甲車が走っている方向をしっかりと追う。スコープには光学視認の他にも、大気振動や重力移動を視覚化する機能もついているので、単純に建物の陰に隠れるだけでは視認から逃れることは出来ない。

 チルキスは蒼治が展開する迷彩の方術陣を解析しながら、上官にぼんやりと言葉を返す。

 「いえ。あからさまに避難民(ひょうてき)にばかり攻撃していると、すぐに怪しまれて迷彩を使われてしまいますからね。

 流れ弾に見せかけることも兼ねて、気晴らしと艦の防御のため、そして上官殿の顔も立てるために、敵勢力の排除にも従事していたところです」

 "顔を立てる"という言葉にどことなく皮肉を感じたが、上官は素直に親切と受け取るよう自分に言い聞かせ、更に口を開こうとした、その時。

 気配を感じたのか、チルキスが口早に釘を刺す。

 「少佐、すみませんが黙っててください。相手はかなりの方術の使い手なので、気が散ると迷彩に負けて見失ってしまいます」

 「あ…」

 上官は間の抜けた口の開き方をして、そう言葉を絞り出してから…顔を真っ赤にする。いくら自分に言い聞かせても、中尉の敬意のない態度には苛立ちを覚えずにはいられない。

 もはや上官の存在など全く気にせず、新しいチョコレートを口に放り込んでは、無言のままスコープを覗き続けるチルキスを、拳を震わせながら火を吹くような視線で睨みつけている…と。突如、上官の耳に装着された通信機に、艦橋のオペレーターから緊張した声が入る。

 「ラウヌ少佐。哨戒部隊からの報告です。未確認の飛行鑑が一隻、入都してきた…とのことです」

 「何!?」

 対する上官は、オンにした口元のマイクに対して、マイクが壊れるほどの大声をぶつける。

 (ま、まさか…もう別部隊が、この都市国家(アルカインテール)に入都したのか!?)

 上官はゾッと冷や汗を吹き出すと、静かにスコープ越しに索敵を続けているチルキスの肩を、トントントントン! と素早く(したた)かに数度叩く。

 術式解析の集中を乱されたチルキスは、ガリッ! とチョコレートを噛み砕くと。スコープを覗く眼を不快そうにギロリと細めて、冷淡に言い放つ。

 「今、標的のマーカー中です。集中させてください」

 「それどころの話じゃない! 今回の作戦そのものが、ここで終了になるかも知れないんだぞ!」

 動揺しきって叫ぶ上官の様子に、人海弾倉の砲手の大半が思わず視線を彼に向ける。が、当のチルキスはチラリとも視線を向けずに、

 「はぁ、そうですか」

 と口早に語るに留める。

 そんな彼女の無関心さが更に上官の焦燥を煽り、彼はチルキスの方をユッサユッサと激しく揺らす。

 「マーカーなんぞ後でも良い! 今はともかく、3時の方向を見てみろ! そして映像を、私の方にも送れ!」

 狼狽混じりに命令を下すが、チルキスの反応はやはり冷淡である。口の中でほぼ溶けかけたチョコレートをガリガリ噛み砕きながら、肩を揺さぶる上官の手を乱暴に弾き飛ばす。

 「だから、集中させて下さい。相手は相当の手練れなんですから、ここで見失ったら発見は極めて困難になります。大佐に任務完遂できなかったのは少佐がバカやらかした所為だった、って言いつけますよ」

 そう釘を刺されても、上官は狼狽の色を消さず、激しく唾を飛ばしながら叫ぶ。

 「所属不明の飛行艦が入都してきたんだ! ユーテリアの学生どもの通報で駆けつけた、どこかの部隊の可能性が高い!」

 この言葉に、ギクッと体を強ばらせた砲手が何人も表れる。上官の言葉が本当ならば、本作戦は成果を上げないうちに中止となり、非道な行為を秘密裏に続けてきた部隊は丸ごと制裁を受けることになるからだ。部隊責任者ではない一兵卒がどれほどの罰を受けるかは皆目検討がつかないが、それ故に胸中で不安が大きく膨らむ。

 しかし…チルキスは飽くまでも非常に冷静だ。桜色に彩られた唇から、はぁー、と落胆の暗い色に染まったため息を吐くと。スコープから全く目を反らさぬまま、こう尋ねる。

 「それ、たった1隻なんですよね? 少佐は、艦隊って言ってませんでしたし」

 「ああ、そうだが…」

 「それじゃ、決まりじゃないですか。

 相手は、お仲間(エグリゴリ)じゃありません。おそらく、ユーテリアの学生の援軍でしょう」

 「確認せずに、何故そんな事が言えるんだ!?」

 上官は口の端に唾液の泡を作りながら、相変わらず唾を飛ばしまくって叫ぶ。その飛沫が艶やかな黒髪に接触することに不快感を隠せぬチルキスは、ピクピクと片眉を震わせながら、再度、はぁー、と深いため息を吐く。

 「我々(エグリゴリ)に籍を置く戦力は、個人の技量の如何に関わらず、戦場下においては例外なく個体行動は取らない。それは大鉄則じゃないですか。

 例えそれが、哨戒任務中の飛行艦だろうと、斥候だろうと変わりませんよ。だって、我々(エグリゴリ)は戦闘の勝利は勿論ですが、貴重な人材の浪費を極めて嫌いますから。

 単独任務なんかで先行して、逆上した私たちにみすみす轟沈されてしまうようなリスクは、絶対に取りません。

 士官教育課程で徹底的に叩き込まれたルールだと思うんですが、少佐はあの厳しいカリキュラムの内容をポンと忘れられるようなお気楽な頭の持ち主なんですか?」

 「あ…」

 上官は、生意気な態度のチルキスを叱りつけることもできず、単に口をパクパクさせるばかりだ。彼女の言葉は、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に籍を置く士官ならば、ぐうの音も出ないほどの正論であった。

 そんな少佐の無様な姿を見た砲手たちは、失笑を隠さずに、各々砲撃任務に戻る。

 そんな時、チルキスが、チィッ、と思い切り舌打ちした。蒼治達の装甲車をトレースするマーカー術式が不十分なまま、蒼治の迷彩方術陣が完成してしまったのだ。だいたいの居場所は検知出来るものの、精度は非常に低くなるため、生成した暫定精霊(スペクター)が標的を発見できずに消滅してしまう"空撃ち"になってしまう可能性が高まってしまった。

 「…少佐のバカ話の所為で、大佐の任務の遂行の難度が上がっちゃったじゃないですか。

 今回のこと、大佐には絶対に報告させてもらいますから」

 「あ…そ、その…す、すまない…」

 少佐はオロオロと謝罪する。そして、この失態をどう埋め合わせるべきかと考えあぐねているようで、その場でソワソワと視線を巡らせたり身を揺すったりしている。

 この所作がとんでもなく気に障るので、チルキスは刃のような鋭く口調で彼を(いさ)める。

 「所属不明艦が気になるなら、艦橋に戻って情報収集に勤しんでくださいよ。もしくは、大佐に指示を仰ぐとか。

 ここでオロオロされると気が散って仕方ないです。

 それとも、また私の脚を引っ張って大佐の任務の邪魔をしたいんですか?」

 少佐は「あ…」とか「ぐ…」とか呟きながら言葉を探していたが。やがてガックリとうなだれると、トボトボとした足取りで人海弾倉から艦橋方面へと向かうエレベーターへと去って行った。

 上官の姿がすっかり見えなくなると、いずこかの砲手が失笑混じりで、

 「中尉、ご苦労様でした」

 と(ねぎら)いを述べる。これにはチルキスはニヤリと口角を釣り上げずにはいられなかった。

 …が、すぐに口を一文字に引き結ぶと。脳裏におぼろげに描画される標的付近の形而上相のマップに集中する。

 (…どうしようかな。バカ少佐にちょっと脚を引っ張られてる間に、かなり厄介な迷彩を立てられちゃってるな…。

 様子見を兼ねて、簡単な暫定精霊(スペクター)を放ってみる? それとも、もう相手はこっちの意図を知ってるんだし、派手に広範囲用の攻撃で(あぶ)り出してみようか…?)

 そんな思索をあれこれ巡らせている最中…チルキスの顔が、次第にニンマリと緩んでゆく。そして遂には、ケーキを前にして(よだれ)を垂らして興奮する幼子のような、凄絶な嗤いが浮かび上がる。

 そう、今この瞬間、チルキスは興奮している。

 いや――彼女の興奮は、今に始まったことではない。スコープで覗く先に居る蒼治達との狙撃戦の間ずっと、彼女の顔には嗤いが浮かんで絶えないのだ。

 チルキスには、蒼治達との攻防が(たの)しくて堪らないのだ。

 (あのバカ上官の所属下になった時には、私の技術は飼い殺しになるんだと思ってたけど…! こんな機会に巡り会うなんて…!)

 チルキスが砲手、ひいては狙撃手と云う兵種を選択した理由は単純明快である。銃を扱うのが好きだからだ。

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に所属する前、彼女は故郷で狩猟に携わって暮らしてきた。幼い頃は弓矢を使っており、狩りの楽しみは覚えることができたものの、常々物足りなさを感じ続けてきた。だが、成人と認められる15歳になり、銃の使用を許可された彼女は――即座に銃の虜となった。

 最初は、弓矢より格段に強烈な手応えに興奮を覚えたものだが。次第に、弾丸に込める術式の構築方法や、いかに余事象干渉の影響を減じるか、といった課題にのめり込んで行った。気が付けば彼女は、一族で最も腕の立つ猟師となっていた。

 やがて野生動物では物足りなくなった彼女は、もっと強い獲物を求めて、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)へ入隊する。彼女の動機は不純と言えるだろうが、天下の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)とて優等生ばかり飼っているワケではない。むしろ、チルキスのように自分の興味や技術を活かそうと入隊する連中の方が大半を占めているのが実状である。

 チルキスは尉官を与えられる前は、様々な戦場の前線で狙撃手としての腕を遺憾なく振るっていたのだが…尉官となり、配属が都市国家の駐留軍となってからは、実戦の中で自身の力を存分に発揮する機会を中々得られず、腐っていた。チョコレートを湯水のように食べ始めたのも、この頃からである。

 だが今…彼女の不満は、一気に吹き飛んでいる。むしろ、これまでの我慢は今この瞬間のための"じらし"だったのだと、ポジティブな考えさえ浮かぶ。

 (ゼオギルド中佐の部隊での配属だったら、地上で直接交戦出来て楽しめたかも知れないけど…。あの中佐、ネジが吹っ飛んでるから、あんまりお近づきになりたくないんだよねぇ…。

 そう考えると、この距離感での戦闘がベストなのかも)

 興奮に突き動かされるがまま、胸中で独りごち続けながらも、スコープ越しの形而上相視認では、蒼治達の居場所を探り続けている。脳裏に浮かぶ術式がワイヤーフレームのように3次元的に立体化した形而上相では、装甲車は極めてファジーな輪郭を持つ大きな半球として描画されている。この半球内のいずこかに装甲車の本体が存在するのだ。

 (…よっし、(あぶ)り出すことにしよう。迷彩の突破は無理そうだし)

 心に決めたチルキスは、スコープを覗いたまま、右手で弾丸を一気に銃数個掴むと、砲座の装填口に次々と放り込む。暫定精霊(スペクター)を生成して行う砲撃では、一発の射撃が一発の弾丸で行われるとは限らない。弾丸にこめられた術式溶媒を一気に数発分消費することで、より強力で複雑な性能を持つ暫定精霊(スペクター)を生成することが出来るのだ。

 (今度は3匹で、行ってみようか。

 さぁて、どんな風に(さば)くのかな? それとも、白旗揚げちゃうのかな?)

 チルキスはチョコレートの味がまとわりついた甘い舌で桜色の唇をペロリと舐めると。砲身に魔力を集結し、術式の構築を開始する――。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 "パープルコート"の名狙撃手であるチルキスは無視を決め込んだものの…"パープルコート"の飛行戦艦の大部分は、突如入都してきた所属不明の飛行艦に注目していた。

 この行動は、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)ならずとも、如何なる軍隊においても合理性に欠けたものと言える。すでに交戦が繰り広げられている戦場で、戦闘用艦が戦闘よりも情報収集に力を入れるなどという愚行は、戦艦本隊のみならず支援対象の兵士たちにとっても致命的な事態を招きかねない。

 それでも所属不明艦への注視をやめられないのは、"パープルコート"の士官達は本隊の登場を酷く恐れているからだ。彼らは自分たちが携わっている『バベル』計画の非人道性を重々承知している。非難を覆せるだけの成果を上げられていない今、本隊にやってこられては、(すべから)く除隊処分となるに加えて、厳罰を与えられることだろう。

 厳罰として課せられる処分を想像するだに、士官達は足を震わせる。生命の尊厳を弄ぶような不当行為への罰は、同様に生命の尊厳を剥奪させるような類の処分を課せられることが多い。死ぬことも許されず、苦痛と怨嗟を与えられ続け、生じるネガティブな精神力をエネルギーに転換する"地獄炉"にブチこまれるか。はたまたは、クオリアを剥奪させられた"哲学的ゾンビ"として、延々とした社会貢献に従事させられ続けるか。その他の考えられる懲罰にしても、恐ろしい類には違いない!

 所属不明艦は果たして、本隊の所属なのか!? 哨戒艦からの報告も待てず、戦闘用艦までもがセンサーを総動員して所属不明艦の正体を探る。

 

 さて、注目を浴びる所属不明艦とは、一体どのようなものなのか。哨戒艦が分析中のデータを述べていこう。

 まず、形状。胴体部は巨大なコンテナのように四角い。丸みを帯びているのは、艦首から突き出しているコクピット部分だけだ。そして、幅広の巨大な翼を持っており、翼には推進機関として精霊式ジェットエンジンが搭載されている。

 この形状を確認した士官達は、まずはホッと胸を撫で下ろす。明らかに、戦闘用艦の形状ではないからだ。むしろ、民間企業の大型輸送機に似た形状をしている。

 次に、装備。哨戒艦が搭載している哲学識センサーによれば、"武装"と認識される装備は検知されなかった。その事実に士官達の安堵が大きくなった…のも、束の間のこと。直後、エンジンに関する解析結果を耳にして、彼らの顔がギクリと引きつる。

 翼に装備された精霊式ジェットエンジンは、形状のみに着目すると、民間企業で広く使用されている極々一般的な代物に見える。しかし、エンジンの機構を形而上相から確認した結果、民間企業では考えられないほどの高性能を誇ることが解明されたのだ。風霊を主体としながらも、絶妙の配合でその他の属性の精霊を機構に取り込んだこのエンジンは、高いエネルギー効率と推進力を実現しているだけでなく、副次的に機体のバランス制御や空気抵抗制御を非常に緻密に調整出来る機能を持っていたのである。

 (やはり、本隊の艦が非常に巧妙に擬態化したものなのか!?)

 士官達がゴクリと固唾を飲んでいると、更なる奇妙な報告が為される。

 「コクピット部のところに、人が座っています!

 高高度対策の装備や魔化(エンチャント)の反応は見当たりません…丸腰の状態のまま、です…!」

 このような旨の報告を受けた士官達はすかさず、対象の人物をスクリーンに映すように指示する。

 魔法技術が普及したこの世界において、戦場で最も警戒される人物は、"丸腰に見える者"である。このような人物は、2種類に大別される。単なる命知らずのバカか。それとも、下手の装備が(かえ)って足手まといになるほどに、高い能力や技術を持つ"危険物"か、だ。

 本隊の影に怯えて臆病になっている士官達は、当然、後者である可能性を考えたのである。

 (まさか、本隊所属の特殊戦闘員では…!?)

 胸から飛び出しそうなほどに暴れ回る鼓動を必死に抑えながら、人物がスクリーンに拡大表示されるのを待つ。ほんの数秒ほどの待機時間であるが、士官達にはひどく長い時間に思えたかも知れない。そうしてようやく、スクリーンに人物の拡大映像が表示された瞬間…彼らは一様に、困惑した。

 対象の人物は、確かに報告された通りに、丸腰である。身に着けているのは、赤が目立つ裾長のコートであるが…地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の礼服のコートとは、明らかに作りが違う。洒落(しゃれ)た作りのカジュアルなコートで、戦闘には大凡(おおよそ)向かないものだ。加えて、コートの隙間や顔面には、民族衣装を思わせる彩り鮮やかな布が巻かれている。その有様は一見すると、カラフルな包帯を想起させる。

 そんな出で立ちをしたこの人物は、若い男性である。長く延ばした黒髪を風になびかせるままにし、風の愛撫を歓迎するように微笑みを浮かべている男。

 懲罰に来た、と云う割には、覇気が無さ過ぎる。

 (それとも、罰を与えるのを楽しむような、問題児的性格の持ち主なのか…?)

 なんとも判断できず、拍子抜けと緊張が入り交じった感情を抱いた士官達は、ジットリと冷や汗を流しながら首を傾げるのであった。

 

 一方。士官達の好奇の視線が注がれる所属不明艦では。

 「うわぁ」という男女1組の声が操縦席に漏れた。

 しかしこの声の質は、男と女の声で随分と違う。男の方はほとほと困ったような声音であったのに対して、女の方の声は面白いものを見つけた幼子のような興奮が混じっていた。

 男――星撒部1年生の神崎大和が、己の額をピシャリと叩いて呟く。

 「"事が起こるまでは上空からの状況監視"って、蒼治サンに言われてたけどさ…もう、随分と本格的にドンパチやっちゃってるじゃないッスか…」

 大和の感想は、前方のパノラマモニターに写るアルカインテール上空の光景を受けてのものだ。結界によって外部から遮断された空には雲一つなく、大和の飛行艦からはアルカインテールのほぼ全域が一望できる。そんな空の3分の1ほどが、黒々とした羽虫の群のような蠢く点によって塗りつぶされていた。望遠倍率を上げなくとも何が起こっているのかは用意に想像がつく――"パープルコート"とその他の競合勢力が入り乱れての乱戦が展開されているのだ。

 「ドンパチ、上等じゃんっ!」

 操縦席のすぐ後ろ、背もたれに体を預けてモニターに見入っていた女の子――キツネ型獣人属のナミト・ヴァーグナが、胸の踊るような歓声とともに、威勢良く拳と掌をバチンッと打ち合わせる。

 「あたし、何か起きるのを待って、ただひらすら待つだけ、って苦手だからさー! もうドンパチやってくれてる方が気楽だよーっ!

 よーっし、早速出撃の準備をっ!」

 「ちょっ、ナミちゃん、待って待って!」

 早速操縦室から飛び出して行こうとするナミトの気配を察して、大和が慌てて振り返りながら引き留める。

 「まずは、蒼治先輩に連絡するのが先決ッスよ! 予定が狂っちゃってるンスから、ちゃんと意識合わせしないと、援護に来たはずのオレ達が足を引っ張りかねないッスよ!」

 大和は普段の軽薄でだらしない態度とは一転した、思慮深い正論を口にする。彼は戦闘の有無に関わらず、任務の中では常に能力を使い続けるような重労働に就くことが多い。その経験から思慮深くならざるを得なかった、という一面を持っているのだ。

 ナミトも、今回は自分の寝坊で足を引っ張っていることを反省しているらしく、しぶしぶと言った様子で大和の言葉に従って足を止める。

 「…むー、仕方ないなぁ。今回は、おとなしくぼーっとして待ってるよ」

 「いやいや、ナミちゃん、ぼーっとしてる暇は無いッスよ。

 蒼治先輩に予定より遅い到着になったことのお詫びを兼ねて、今からの指示を仰いで欲しいッス」

 するとナミトは、露骨に顔を不機嫌にゆがめて、「えーっ!」と反抗的な声を上げる。

 「なんで私が、お詫びしなきゃならないのー!?

 蒼治先輩は、あたしの寝坊のことはとっくに許してくれたよ!?

 今回予定以上に遅くなったのは、大和っちの所為じゃんよーっ! お詫びなら、大和っちが言うべきだよーっ!」

 すると大和は、苛立ちと申し訳なさが反目するように眉をピクピクと動かしながら、ぎこちない笑みを浮かべて反論する。

 「いや…確かに、そうなんだけどさ…でもね…」

 大和がナミトの指摘に苛立ちだけでなく"申し訳なさ"を感じているのは、彼自身も今回の到着の遅れに後ろめたさを感じているためである。

 蒼治と最後に連絡をとった時は、「あと15分ほどで到着予定」と告げていたが…実際にアルカインテールに入都したのは、実に40分以上も経過してからのことだった。

 この間にかかった手間と言えば、アルカインテールを覆う結界の突破がある。しかしそれは、イェルグによる空と空を繋ぐ行動によって、ほんの数秒で成し遂げられていた。それでは、一体何が大幅に時間をかけていたのか。

 それに関して、艦の操縦パネルに埋め込まれた大和のナビットから、穏やかな口調のフォローが響く。

 「いやいや、ナミト、そう大和を責めてやるなよ。

 今回を失態と言うなら、その元凶はオレにある。

 大和が時間かかっちまったのは、オレのために最善中を最善を尽くした結果なんだからな。だから、責めるなら、オレを責めるのが真っ当ってもんさ」

 そう語るのは、艦の上で丸腰同然ながら目につく派手な格好をした2人の先輩、イェルグ・ディープアーである。

 「いや、イェルグサンの所為じゃ無いッスよ! オレがこだわりにこだわりまくっちまったのは、事実ッスから…!」

 映像通信でもない相手に対して、大和がオタオタと手を振りながら擁護の言葉を漏らす。

 2人の男子生徒がフォローし合う、入都の際に生じた長時間の手間。その真相は、大和によるイェルグ用の戦闘機の作成作業である。

 先刻、イェルグが蒼治との通信の中で言った通り、彼は大和に戦闘機の製作を依頼していた。そして大和が実際に製作作業に入ったのは、アルカインテールが目と鼻の先にまで迫った時であった。

 大和が移動の道中で戦闘機の製作に取り組まなかったのには、勿論、彼なりの合理的な理由がある。予め製作した機体が万が一、現場の状況にそぐわない性能を持っていた場合、改修作業は一から製作するよりも手間になる可能性があるからだ。その手間で蒼治達に迷惑をかけるよりは、手間が最も少なくて済むように、目と鼻の先で現場を確認できる場所で製作を行う方が効率的だと判断したからである。

 とは言え、現場は結界を隔てた向こう側。蒼治のように広い分野の魔法技術に長けてはいない大和には、自力で現場の状況を把握するのは難しかった。そこでイェルグに力を借りて、結界の向こうの勢力にい悟られない程度の頻度で、アルカインテールの内外の空をつなぐ小さな穴を作ってもらい、それを通して状況の把握をして製作に取り組んでいたのだ。小さな穴ではなかなか状況把握が進まず、普段に比べて数段の手間と時間がかかってしまったのである。

 それでも大和は、人の命を預かる機体の製作のため、そして『機械工学の求道者』を自称するプライドのため、手抜かりして時短することを嫌ったのである。

 そのこだわりの甲斐あって、大和の作り上げた機体はイェルグと戦場の双方に非常にマッチした、"最高"の贈り名が恥じないような傑作に仕上がっている。

 その事を認めているイェルグは、責任を一手に引き受けようとする大和に、再びにこやかなフォローを入れる。

 「お前は必要なことをやったんだ、蒼治の奴はチョイと面倒を被ったかも知れんが、お前を責めたりはしないさ。

 むしろ、責められるべきは、まーた居眠りこいでたナミト、お前の方だろ?」

 その言及に、ナミトの体がギクリと固まり、顔色に青みが差す。

 大和とイェルグが機体製作に汗水流している間、ナミトはその横で堂々と体を大の字に延ばして、穏やかな惰眠を貪っていたのである。

 「寝坊して懲りたかと思いきや、現場の目と鼻の先で緊張の欠片もなく居眠り出来るってのは、肝っ玉が太いと言うか、なんというか…楽天家、ここに極まれり、って感じだな」

 「だ、だって…!」

 イェルグの苦言に、ナミトはナビットの方へ身を乗り出しながら反論する。

 「ボク、機械なんてサッパリだし、先輩みたいに結界に穴開けたりも出来ないし、解析もそれほど得意じゃないから、下手に手伝うと足を引っ張っちゃうかも知れないし…!

 だから、その…その…」

 ナミトは何かうまい言い回しはないかと額に指を当てながら、暫く言葉を空回すと…。突然、ポンッ! と拳と手のひらを打ち合わせる。

 「そう! 英気! 英気を養ってたんだよ!

 ホラ、ボクは2人と違って、生身で交戦するじゃん? だから、今のうちにしっかりと体調を整えることも必要だったワケだよ!」

 ナミトはこの言い回しを傑作とでも考えているらしく、自信満々でウインクしながら、親指を立てて見せる。しかし大和は当然ながら納得などせず、むしろ表情に張り付けた呆れを大きくして、ヒクヒクと苦笑いする。

 そんな最中、表情の見えないイェルグが先ほどまでの穏やかな口調を崩さずに、すかさず反撃に転じる。

 「それじゃ、その十分に養った英気の具合を確かめがてら、蒼治たちに連絡を入れてもらおうか。

 オレも大和も作業に次ぐ作業で疲れ果てちまっててさ。体調万全なお前なら、容易(たやす)いことだろ?」

 この反撃を予想だにしていなかったナミトは、親指を立てた格好のまま絶句して硬直する。しかし、言い合いが得意ではないナミトはイェルグの言葉を超える反撃を見つけることが出来ない。

 だから彼女は、ガックリと肩をおろすと、しぶしぶながらも素直に自身のナビットを取り出し、タッチディスプレイをいじって蒼治への連絡を行うのだった。

 「あ、もしもし、蒼治先輩ですか? ボクです、ナミトです…」

 ナミトの会話が大和のナビット越しにイェルグの耳に届いた頃。彼は大和へ話かける。

 「しっかしよ、この都市国家の部隊…"パープルコート"だっけ? こいつら、ホントに地球圏治安監視集団(エグリゴリ)なのかね?

 オレ達がいきなり登場したからビビってる、ってのは分からんでもないがさ、戦闘用艦まで任務を放棄してこっちの様子伺いってのは、どーにも感心できんぜ。

 …あーっと、だからホラ」

 音声通信なので大和は確認できないが、声の調子からイェルグが指差しをしたであろう事を覚る。

 「あそこに見える2艦、まんまと癌様獣(キャンサー)と『冥骸』だかの死後生命(アンデッド)に群がれてやがんの」

 イェルグの言う通り、空に浮かぶ"パープルコート"の飛行戦艦のうちの2つが、餌に(たか)るアリの大群のような黒い群に襲われて、黒煙を上げながらゆっくりと高度を下げている。この黒い群が癌様獣(キャンサー)死後生命(アンデッド)のようだが、大和は特に望遠しなかったので詳細は分からない。しかし、わざわざ確かめる気にもならない。

 「駐留任務が長すぎて、練度が下がってるンスかね?

 まぁ、この乱戦の中、全部が全部ガチ勢ってよりは、少しくらいマヌケが混じってくれてた方が、こっちとしては助かるッスよ」

 「ま、確かにな。

 どうせ飛ぶなら、雷雨よりゃ晴天の方が気持ちいいわな」

 そんなやり取りをしていると、早々と連絡を終えたナミトが大和たちの方を振り返り、声をかける。

 「蒼治先輩に連絡したよ!

 先輩の方も攻撃を受けたり大変なんだってさ! 地下にいるロイ達の方も、大きなトラブルになっているみたい!

 すぐに手を貸して欲しいって!」

 その言葉を耳にしたイェルグは即座に返答する、

 「そんじゃ、出撃の準備でもしますかね。

 大和、ハッチ開けてくれ」

 「了解ッス! そんじゃ、機体格納室(そっち)に向かうッスね!

 ナミちゃんも一緒に来て、先輩と一緒に出撃ッスよ!」

 「オッケー! これでようやく、暴れられるぅっ!」

 ナミトは可愛らしい童顔にニヤリと剣呑な笑みを浮かべて、拳と手のひらをバシンッ! と打ち合わせる。その有様をみた大和は、頼もしさより苦笑いがこみ上げてきて仕方ない。

 「ナミちゃん、なんかロイみたいッスよ…。そのうち『暴走ちゃん』なんて呼ばれちゃうようにならないようにね…」

 そう言い置くと、大和は操縦をオートに切り替え、操縦室を小走りで脱する。ナミトもまたその後に続く。

 操縦室の向こう側は、すぐに広々とした空間が広がっている。輸送機で言うところの格納スペースだ。その中央には、丸みを帯びたキャノピーが特徴的な戦闘機がデンと配置されている。

 『混沌の曙(カオティック・ドーン)』後の時代に入ってからも、戦闘機の基本的な形状はさほど変わっていない。流体力学的な効率を考慮した、おおそそ二等変三角形の形状をしている。旧時代との代表的な違いと言えば、エンジンが化石燃料を使用した内燃機関よりも精霊式発電機関の方が断然主流になっている事、機体表面を魔術篆刻(カーヴィング)を初めとした永続式魔化(エンチャント)による加護が施されている点だ。

 ちなみに大和が作り出したこの機体は、エンジンは風霊と水霊の混合式で、パイロットの操作でその比重を調整することが出来る。飛行用の乗り物で水霊式というのは珍しいが、これはイェルグの希望によるものだ。なんでも彼曰く、「豪雨の中で飛び回ることになるから」とのことだ。しかしながら、アルカインテールは結界に囲まれているため、自然の天候による降雨は弾かれてしまう。とすれば、局所的な天候を操る能力を持つイェルグが豪雨を実現させるつもりのようだ。

 そんな腹積もりのイェルグは、大和とナミトが格納室に入った時には、すでに戦闘機のキャノピーに手を置いて体重を預ける形で立っていた。艦上のハッチはこの格納室の真上に通じているので、彼がいち早く姿を見せていても何ら不思議ではない。

 …が、大和はイェルグの派手な真っ赤なコートを目にして、苦いとも愉快とも取れない、曖昧な笑いを思わず浮かべる。こうして間近に見ると、金色に輝く肩当てやら、胸元を飾る豪奢な刺繍やらが目に入り、さながら一軍の総司令官の礼服のようだ。他方、大和はナミトはこざっぱりとしたユーテリアの制服姿なので、彼の衣装は余計に目立つ。

 「先輩のその衣装、ホント派手ッスねー。

 それってやっぱり、ヴァ姐さんの見繕い物ッスか?」

 するとイェルグも、困ったようにピシャリと額を叩いて笑みを浮かべる。

 「それ以外にないだろ。

 空はどんな雲を纏おうが頓着(とんちゃく)しないもんなんだがさ。あいつったら、ムキになってやたらと気合いを入れて特注してたんだよ。

 たかだか、あいつの親御さんに会う程度だってのに」

 「…え」

 大和とナミトの声が、見事にハモる。2人して冷たい汗をツツーッと頬に伝わせたまま(もだ)していたが…やがて、ナミトがぎこちなく声をかける。

 「イェルグ先輩、とうとうヴァネッサ先輩とのご結婚を決意したんですね! それで、ヴァネッサ先輩のご両親にご挨拶を…!」

 「いやいやいや、違う違う」

 イェルグは困ったように歯を見せて笑いながら、手をパタパタ振って否定する。

 「そもそも、オレがあいつの実家に押し掛けてるんじゃない。あいつの実家が、やたらとオレを招待するんだよ。

 ホラ、あいつン()って、現地の軍のお偉いさんの家系だろ? その見栄につき合わされて、こんなヘンテコな格好させられるんだよ。

 動きにくいわ、暑苦しいわで、持て余してたんだけどさ。今回、囮をやるって聞いたから、目立つと思って持って来たワケさ」

 ハッハッハ、と笑って語るイェルグであるが。大和とナミトの驚愕は、更に色を深める。

 「ヴァ姐さんからの実家からのお招きって…先輩、もうあちらのご両親の公認じゃないスか…!」

 「先輩、結婚まで秒読み段階ですね! おめでとうございます!」

 「おいおい、なんでそうなるんだよ。ただ飯食わせてもらってるだけだっての。結婚だとかそういうんじゃないって」

 イェルグはそう言うものの、端から見ればただの食事会で済まぬ意図が介在しているのは見え見えだ。しかしながらイェルグは、そういった機微には非常に疎い性格の持ち主であった。

 「そんなことで騒いでるより、だ」

 イェルグが大仰に手をパァン! と叩き、色めき立つ2人の思考を揺さぶり引き締める。

 「今は、早々に蒼治たちに手を貸してやらにゃならんだろ。相当ヤバいことになってるんだろ? ここでおふざけ話に花を咲かせてる場合じゃないさ」

 そう言いながらイェルグは、いち早く機体のキャノピーを開くと、フワリと羽のように軽やかに高く跳躍すると、コクピットに乗り込んだ。

 「大和、一通りテスト起動させてみるから、チェック頼むぜ。

 ナミト、降下用のバックパックかパラシュートか分からんが、準備しとけよ」

 イェルグの言葉を受けて小走りで戦闘機へ向かう大和に対し、その場に留まるナミトはニヒッと幼く笑うと、ガッツポーズを取る。

 「ボクはこのままでダイジョブ!

 フリーダイビングで、現場直行だよっ!」

 ナミトはキツネ型の獣人属であり、飛行能力は生来備わってはいない。が、イェルグも大和も彼女の言葉を聞いて、「あー…」と声を上げるものの、納得する。

 「そっか、ナミちゃんなら確かに平気ッスね。

 叩いても潰しても、ニコニコ笑いならが復活しそうな感じするッスから」

 イェルグの座るコクピットに顔を突っ込みながら指差し点検しつつ、大和がそんな事を語ると。ナミトは言葉に含まれた皮肉に悪い顔をせず、ナハハハハ、と純粋に楽しげに笑い飛ばす。

 「うん、確かにボクは、叩かれても潰されても、簡単にはヘバらないよー!」

 「…ホント、羨ましいくらいオメデタい気概の持ち主だよな、お前って」

 コクピットでイェルグが苦笑する。

 ――さて、数分のチェックの後、大和はコクピットから飛び出すと、イェルグに向かって親指を立ててウインクする。最終点検の結果は問題なし、ということだ。

 「さすがはオレ、異常は全く無し! いつでも行ける状態ッスよ!

 …でも、ホントに慣性制御機能は要らなかったンスか?」

 言葉尻で、大和は眉をひそめて尋ねる。現代の戦闘機は急激な加減速や方向転換を加味して、魔法技術による慣性制御機能が施されていることが大半である。機体をスムーズに動かせるだけでなく、パイロットの身体への負担軽減も実現できるからだ。

 しかし、イェルグは一拍もおかずに、大和の質問に対して首を縦に振る。

 「風も感じられない空なんざ、面白くもなんともないからな。

 風や雲とうまく対話しながら飛ぶのが、醍醐味ってもんだ」

 「はぁ…そんなもんスか」

 イェルグのように空に対して特別の愛着のない大和は、そんな気のない返事を返すことしかできなかった。

 「それはそうと、どうします? ここからすぐに出撃しちゃいますか?」

 次いで大和が任務について尋ねると、イェルグはコクピットから手を振って否定する。

 「いやいや、それじゃ地味過ぎて、蒼治の狙いにゃそぐわないだろ。

 どうせなら、"パープルコート"の艦隊のど真ん中に全速力で派手に突っ込んでから出撃するほうが良いな。それなら相手さんの目をバッチリこちらに引きつけられる。

 それに、ナミトが降下するにしても、現場が近くて済むしな」

 「なーるほど」

 大和は手を打ちながら、イェルグの提案を受け入れる。

 「それじゃ早速、エンジンを高速仕様に改修して、突撃しちゃうッスよ。

 だからナミちゃん、一度操縦室に待避してほしいッス。この格納室には慣性制御は施してないから、吹っ飛ばされちゃうよ?」

 そう説かれたナミトであるが、彼女は元気良く首を左右に振る。

 「ダイジョブ、へーきへーき!

 イェルグ先輩の晴れの出撃姿、見ておきたいからさ! ここのままで良いよ!

 それに、出たい時にすぐに降りられるじゃん?」

 大和は一瞬怪訝な顔を作ったが…すぐに、表情を緩める。というのも、ナミトが得意とする能力の性質を鑑みた結果、特に問題はないと判断したからだ。

 「じゃ、一応気をつけといてねー」

 大和はそう言葉を残すと、単身で小走りに操縦室へと戻る。

 イェルグの戦闘機のチェックに際して、決して少なくない時間を費やしたにも関わらず、モニターに見える"パープルコート"の飛行艦隊の動きは非常に緩慢だ。あれから更に3隻が競合勢力に襲われて黒煙を上げており、その対応に追われてオタオタと疎らに近距離用の迎撃射撃を行っている次第である。中には、襲われている仲間よりもこちらの方が気になっているようで、じーっと監視を続けてばかりいる戦闘用艦すら見える。

 そんな"パープルコート"の艦隊の中で合理性が見て取れるのは、艦底から突き出た砲身――人海弾倉が操る砲だけだ。彼らだけは的確かつコンスタントに対地攻撃を行ったり、迎撃を行ったりと、活躍している。彼らがこちらを砲撃するような事態に陥っていたら、大和たちも[暢気(のんき)に雑談を交えながらの戦闘機の最終チェックなど行えなかった事だろう。

 「末端の兵員は優秀だが、頭が全く状況について来れてない…ってトコッスね…。腐った組織の典型例だなぁ…」

 大和は苦笑しながら、操縦パネルに開いた両手を置くと、定義拡張(エキスパンション)を発動。彼の魔力は機体を伝わって両翼のエンジンにたどり着くと、その内部構造を変質。表面積の大きな艦体でも高速飛行が可能なようなエンジンへ、極々短時間の内に調整する。

 作業を終了した大和は、収納室に通じるマイクを通して合図する、

 「これより当機は、相手サンのど真ん中へ直行しまース! シートベルトはありませんので、特にナミちゃん、吹っ飛ばされないように踏ん張りを宜しくぅっ!」

 そして返事を待たずに、大和はパネルを操作してエンジンを最大出力に設定する。

 転瞬――(ドン)ッ! と言う空気の震える音と共に、機体に強烈な過重がかかる。モニターに写る風景は一瞬の内に後方へと流れ去り、羽虫の群のような"パープルコート"艦隊その他が見る見るうちに接近してくる。艦でさえ黒い点で見えていたのが、次第に体積を増し、威圧感を帯びた丸みのある巨大なフォルムがいくつもモニターに投影される。

 大和の操る艦はまず、最前列を組む5隻の哨戒艦の合間を一瞬にしてすり抜ける。この時、哨戒艦から特に妨害の砲撃や魔術が発動されなかったのは、大和達の急な行動に対処が全く追いつかなかったからだろう。

 その後、激しい攻防の応酬が繰り広げられる空域へと到着する。戦闘用艦の内の何隻かは、こちらの動きにあわせて回頭していたが、対艦砲撃を行う艦は一隻も現れなかった。艦の司令官はこの状況に至っても、大和達の艦に対する疑心暗鬼を拭い切れずにいるようだ。

 まんまと"パープルコート"の艦隊のど真ん中まで進入した、大和たちの艦。ここで大和はすかさず、収納室へのマイク越しに合図を口にする。

 「行くッスよ、先輩ッ! 艦底ハッチ、展開ッス!」

 直後、大和が操縦パネルのとあるボタンをタッチすると…収納室では直ちに変化が起こる。イェルグを乗せた戦闘機を乗せた円形の範囲が、重厚な駆動音と共に素早く降下。空中に引き下ろされる。

 収納室内には烈風が一気に流れ込み、取り残されたナミトは栗色の髪の毛やフサフサの尻尾を暴力的なまでに掻き乱される。しかしながら、彼女は烈風に対して踏ん張る様子は一切見せず、両手を上げては暢気(のんき)に「先輩、行ってらっしゃーい!」と語っている有様だ。

 彼女が烈風にも全く動じないのは、得意とする練気のお陰である。自身の重心と重さを操作する"躯重功"と呼ばれる練気技術によって、抜群の安定感を実現しているのだ。

 ちなみに、練気技術において"功"とは術者本人に作用するものを、"勁"とは本人以外に作用するもののことを指す。

 …さて、空に姿をさらしたイェルグの戦闘機は、エンジンを風霊式に比重を置いた状態にして起動。炎の代わりに鮮やかな緑色の魔力励起光を後方に噴出しながら、ヘリコプターの離陸のようにフワリと垂直に浮遊する。風霊式エンジンの場合は、離陸の際の揚力を推進力から得るのではなく、機体にかかる浮力を直接制御して作り出すので、滑走路の必要がない。

 「それじゃ、暴れてくるぜ」

 イェルグはマイク越しに大和に通信を入れるが早いか、キャノピーを閉じるとエンジンの推進力を一気に全開にする。風霊式エンジンのお陰で空気抵抗を極限まで抑えた機体は、強力なカタパルトで押し出されたミサイルのように鋼の矢となって、"パープルコート"の艦隊の中へ進入する。

 そして、ほんの十数メートルを一瞬のうちに移動した転瞬、戦闘機の進路が激変する。まるで慣性の影響など全くうけていないかのように、クキッと直角に曲がった。――いや、その曲芸飛行は一度限りのものではない。まるで水平に走る稲妻のように、戦闘機はクキックキッと鋭角を描いて急激な進路転換を連続させながら、艦隊の中を巡り回って見せる。まるで、艦一隻一隻に挨拶して回っているかのような有様だ。

 この様子に、"パープルコート"の士官達だけでなく、彼らの艦を攻撃している競合勢力たちも目を丸くする。闖入者の不可思議な行動に困惑を感じているのも一因だが、それ以上に慣性を殺す技術に舌を巻いているのだ。魔化(エンチャント)でならばある程度慣性を殺す事は可能だが、完全に無効化するのは至難の業と言われている。ましてや、魔化(エンチャント)の効果なしにそれを実現しているのだから、瞠目(どうもく)するのも無理はない。

 (一体、こいつは何だ!?)

 誰もがその疑問符を頭に浮かべていた、その時。戦闘機を中心にした(いびつ)な円形範囲が、急に黒々とした雲に覆われる。と、次の瞬間に、まるでバケツをひっくり返したような大粒の豪雨が降り始めたのだ。その雨滴の大きさといったら、破裂する前の散弾のように大きく、速度も弾丸に恥じないほどに素早い。そんな雨滴が高密度に、ひっきりなしに艦やその他の飛行物体にぶつかるのだ。瀑布の水に打たれるがごとく、飛行物は強烈な衝撃にグラグラと揺れ動き、中には明確に高度を下げてゆくものまで現れる。

 この豪雨を作り出したのは、勿論、天候操作の魔術を得意とするイェルグである。

 (派手に足止めしろって言われてるからな。アンタらにゃ悪いが、存分に慌ててもらうぜ)

 そう胸中で呟きながらイェルグは、この豪雨の中を巧みに戦闘機を操り、グラリとバランスを崩すこともなく相変わらず慣性を無視した動きで飛び回る。そんな芸当が出来るのはイェルグの卓越した操縦技術もさることながら、大和に特注した水霊式エンジンによる貢献も大きい。通常は船や潜水艦に使われるそれを風霊と混ぜることによって、高密度の雨を動力や機体制御エネルギーに転化し、大海を自在におよぐ魚のように優雅に素早く豪雨の中を突き進めるのだ。

 この豪雨は、"パープルコート"の艦隊には非常に手痛い足止めとなった。まず、視界が大凡(おおよそ)効かないので、目視による状況把握が困難だ。とは言え、戦艦は夜間戦闘やその他の異常環境を考慮して、音波探知、重力探知、熱源探知といったセンサーがある。しかしながらこの豪雨では音波や重力は雨滴によって攪乱されるし、あまり熱を放たない水霊式エンジンではイェルグの戦闘機の位置を掴むことが出来ない。

 また、戦艦には"虎の子"と言える形而上相センサーも備わってはいるが…このセンサーは予め目標にマーキングをすることで、初めて効力を発揮するものだ。逆に行えば、マーキングがない状態で索敵を行おうとすると、周囲の大量の情報に押しつぶされてセンサーの認知機構がパンクしてしまうのだ。戦艦の大半は大和の飛行艦の登場時、軍属にあるまじき狼狽に満ちた虚無の時間を過ごしたために、マーキングを行わず仕舞いでいた。

 ゆえに、彼らはイェルグを"危険な迎撃対象"と認めながらも、十分な狙いを定めずに闇雲な滞空掃射を行ったり、小型迎撃機『ガルフィッシュ』を投入したりする。その結果、艦隊の密度が高かったことも災いし、同士討ちが頻発する大混乱が起こった。

 そんな事態を目にしたイェルグは、操縦桿をバッタバッタと倒して無茶な方向転換を繰り返しながら、胸中でほくそ笑む。

 (地球圏治安監視集団(エグリゴリ)を相手にしろっつーから、大和にゃ大量の弾薬をこさえてもらったってのに…。こりゃ、一発も撃たなくとも、雨だけで十分かな?)

 しかし、イェルグの思惑は、すぐに頭打ちになる。とは言え、"パープルコート"が果敢にも体勢を建て直し出した…というワケではない。

 イェルグの豪雨の機に乗じて、他の競合勢力たちが、"パープルコート"の撃破に乗り出したのだ。

 競合勢力の戦力は、癌様獣(キャンサー)にせよ、『冥骸』の死後生命(アンデッド)にせよ、"インダスとリー"のパイロット直結型機動兵器にせよ、個体の魂魄による形而上相視認が可能な者達がそろっている。そんな彼らは豪雨の中でも形状相の状況を的確に把握し、身体魔化(フィジカル・エンチャント)を初めとした環境適応を行いながら、"パープルコート"の艦に肉薄しては打撃を与える。『ガルフィッシュ』は殺虫剤の前の羽虫の群のごとくバタバタと撃破されるし、艦は砲門を破壊されて無力化されたに加え、エンジン部まで損傷を受けて派手に炎上しながら自由落下を始めるものまで現れる。

 この有様に、イェルグの苦笑いがピクリと歪んで硬直する。

 (こりゃヤバいな。引きつけるだけのはずが、他勢力に肩入れしちまってる形じゃないか。

 このまま"パープルコート"の飛行部隊が全滅すりゃ、それはそれで蒼治たちが助かるのかも知れんが…。いずれかの1勢力が抜きん出てちまって、勢い付き過ぎで手がつけられなくなるのは、いかんよな。

 …ここはバランスを考えて、と…)

 イェルグは操縦桿の頂上に設置された発砲用トリガーボタンのケースを外し、親指をそっと乗せながら、操縦桿をグイッと倒して方向転換。"パープルコート"の艦回りをやめて、とりあえずは近くを飛んでいた"インダストリー"の機動兵器に目を付ける。

 機動兵器は体高が10メートルほどもある人型兵器で、手には射撃も近接戦闘も出来る槍状武器、背中には次元歪曲系の爆裂効果を引き起こす弾頭を満載している。こいつはイェルグのことなど無視して、槍先に空間振動を纏わせながら、戦艦の艦底をねらって突進していた。

 そのままならば、機動兵器は槍によって戦艦の装甲を素粒子分解させつつ、まんまと巨大な艦体に大穴をブチ開けたであろうが。その暴行は実現されることはなかった。槍先が艦底に接触するまさに直前、機動兵器は横殴りの衝撃によって瞬時に弾き飛ばされる。

 (おいクソッ、なんだ!?)

 機動兵器の搭乗者(クラダー)は、めまぐるしく回転する天地を推進バーニアでブレーキをかけてなんとか制御すると、妨害をかけてきた元凶を形而上相視認で検知を試みる。

 定石で考えるならば、撃墜を目的として追撃をかけてくるならばともかく、そうでない場合ならば攻撃者は報復を恐れて早々に離脱しているものだ。が、相手は――イェルグはあくまで囮となる指示を律儀に遵守している。機動兵器に検知されるまで、わざわざその場でホバリングして待機してみせると、憤怒の視線を十分に堪能した後に悠々とその場を離脱する。

 (なんなんだ、あの乱入ヤロー!? バカにしてンのか!?)

 搭乗者(クラダー)はますます頭に血を昇らせると、バーニア推進機関を全開にしてイェルグの戦闘機への報復に向かう。

 (おーおー、見事に釣れたなぁ。

 "インダストリー"の連中は頭ン中まで機械化してるって話をよく聞くがよ、意外と感情に押し流されやすいんだな)

 コクピットでイェルグは胸中で暢気(のんき)に煽りつつも、回頭しての迎撃行動は行わない。それどころか、今度は生きた獲物に群がるアリの大群のような有様になっている、艦体にとりついた癌様獣(キャンサー)の山へと向かう。

 (はいはい、アンタらも少し大人しくしてくれよー)

 イェルグはのほほんと胸中で声をかけながら、癌様獣(キャンサー)の大群の近傍へと急接近する。同時に、天候操作能力を駆使して戦闘機の周囲に強烈な乱流を発生。巨岩をも吹き飛ばせそうな勢いの待機の渦は、重金属の爪を立てて艦体にとりつく癌様獣(キャンサー)を片っ端から引き剥がしまくる。

 この行動は当然、癌様獣(キャンサー)からの反感を買う。群は"パープルコート"の艦体に完全に背を向けると、一目散にイェルグの機体を追う。

 一方、癌様獣(キャンサー)から解放された艦体は、豪雨の中でも太い帯のように連なって去ってゆく癌様獣(キャンサー)どもを容易に視認したようだ。加えて、その中に混じる"インダストリー"の機動兵器も認めると、これは反撃の好機だと判断した。即座に回頭し、主砲の斜線軸を彼らの経路に向け、術式エネルギーの充填を始める。

 イェルグは逃げながらも、戦闘用艦のこの行動もしっかりと把握していた。

 (それをやれるのも、こっちとしちゃ具合が悪いんだよな。

 折角の所で悪いが、潰させてもらうぜ)

 イェルグはヘアピンカーブを描く急展開を行うと、全速力で戦闘用艦の元へ肉薄。癌様獣(キャンサー)の群が光ファイバー神経によって瞬時に反応、帯状からバラリと崩れて黒い雪崩のようにイェルグの機体へと方向転換してくるが、イェルグは気に留めずに艦の主砲の近傍まで接近する。そして…。

 「ほい、お疲れさん」

 独りごちながら、キャノピー越しに人差し指を主砲に向けてみせた。その直後、バリバリッ、と大気を破裂させる轟音と共に、網膜を焼き焦がすような閃光が爆発的に広がる。一瞬の凄絶なフラッシュの後、視界が戻るとそこには…真っ黒に消し炭になり、グニャグニャに変形した主砲の姿が見える。落雷によって破壊されたのだ。

 この結果に満足げな笑みを浮かべるイェルグであるが、ぐずぐずしてはいられない。背後には怒り心頭の癌様獣(キャンサー)の群れに、"インダストリー"の槍持ち機動兵器もいる。

 そしてこの空の中には、一方的な苦戦を強いられている"パープルコート"の飛行戦艦がうようよしている。

 (本来ならオレ、"パープルコート"の空中戦力を主体に抑えにかかるはずだったんだがなぁ…。却ってオレ、"パープルコート"の手助けをしてる形になっちまってるな。

 ま、開戦後に入都しちまった時点で、予定が狂うのは必然か)

 皮肉な状況に陥ってることに独り苦笑を浮かべながら、イェルグは大群を引き連れたまま、次なる戦艦へと救いの手(正確には、そうとも言い切れないのだが)を向けに行く。

 

 さて、イェルグがたった一機ながらも戦場に多大な影響を与えている事態に、"パープルコート"のみならず全ての勢力が困惑と危機感を抱く。

 ――一体何が狙いなのかは分からないが、ともかく、邪魔なのは確かだ。

 その見解が現れると、危惧の矛先は当然、イェルグを出撃させた大和の艦の方にも向けられる。

 ――これ以上、あんな厄介な性能の戦力を投入されたくはない! 早々に排除すべきだ!

 その意見は競合勢力同士で意志共有せずとも、見事に一致したようだ。飛行戦艦は主砲を向けてくるし、他の勢力は群れや小隊を向かわせてくる。

 この光景を目にした大和は、頬に冷たい汗を一筋流しながら、ひきつった笑みを浮かべる。

 「うっわー、こんなに来るなんて、当初の予定にはないッスよ…!

 この艦じゃ戦闘できないから、早々に定義拡張(エキスパンション)して機動兵器にならなりたいところなんだけど…!」

 その独り言は、開いた操縦室のドアの向こう側に立つナミトの耳に届いたようだ。さほど大きな声を出したつもりではなかったのだが、ナミトのキツネの耳の聴力は非常に敏感なのだ。

 「ゴメンネー、大和っち。ボクが居るから、暴れられないんだよね?」

 開いたドアからヒョッコリと顔だけをのぞかせ、バツの悪いを笑みを浮かべて語る、ナミト。それに対して大和が首を縦に振るワケがない。ブンブンと両手を振って、ナミトの気負いを払拭しようとする。

 実際には、予定外の到着による状況悪化を責めるのならば、寝坊によってその原因を作ったナミトには責任があるだろう。しかし、その事をいつまでも根に持つほど、大和も器量の狭い人間ではない。

 だから彼は、現状とナミトのやるべき任務を天秤にかけた合理的な判断をした上で、彼女をフォローする。

 「ナミちゃんが気に病む必要はないッスよ。効果的に相手を引きつけるのには、機ってものがあるんだからさ。

 ナミちゃんは、ベストなパフォーマンスを実現することにだけ専念しておいてよ。オレはイェルグ先輩ほど操縦は達者じゃないッスけど、そう簡単に撃墜はされないからね!」

 力強く親指を立てて見せると、ナミトはその態度にひとまずの安心を抱いたようだ。その証拠に、バツの悪い笑みを浮かべたままながらも、こんな事を語る。

 「それじゃ…ベストなパフォーマンスの実現のために、ちょーっと頼まれて欲しいんだけど…?

 やってくれれば、すぐに降りるからさ…!」

 手を合わせて、首をカクカクと上下に動かすナミトの姿に、大和は苦笑を浮かべる。そんな表情を作ったのには、ナミトの行動の滑稽さや、頼みごとへの不安も要因ではある。が、それ以上に、ナミトを邪魔者扱いしているような態度を取ってしまったのかも知れない、という疑念や後悔が大きい。

 その贖罪のつもりも兼ねて、大和は笑みから出来るだけ苦々しさを排除してから、快諾の言葉を告げる。

 「何でも言ってみてよ! みんなにとってプラスになることかも知れないし、それだったら大歓迎ッスから!」

 「…たぶん、プラスになることだと思うんだけどね…。

 じゃ、言わせてもらうと…」

 ここでナミトは笑みを消すと、揶揄など全く含まぬ至極真剣な表情を作る。そして、足早に大和の隣に立つと、モニターに映るアルカインテールの街並みの一画を指差す。

 「あのポイントの上空を通過してくれないかナ?

 滞空する必要はないよ! ホントに通り過ぎるだけで良いんだ! そしたらボクは、すぐに降りるから!」

 ナミトが差したのは、周囲と比べて格段に目立つ高さを持つ、超高層建築物である。今となっては鉄骨の骨組みが剥き出しになっており、巨大な骸骨の怪物か、呪われた墓標のように見える。

 どうしてここに? と大和が尋ねるまでもなく、ナミトは真剣な表情を崩さぬまま言葉を次ぐ。

 「あのポイントからね、ものすっごい霊力をビンビン感じるんだよね…。

 ちょっと前から、尻尾の毛がバリバリに逆立ってるんだ」

 言いながらクルリと(きびす)を返して背中を見せると、彼女のフサフサの尻尾の気がウニのようにボワボワに膨らんでいる。

 ナミトの種族は、尻尾は気力に関与する器官として役目を果たしている。先にアオイデュアで見せたように気を増幅させたり、蓄積したり、今のように気力やそれに近しい霊力を感知する能力もある。

 尻尾の有様をみた大和は、顎に手を置いて尋ねる。

 「この距離で、そんなに感じるってことは…まさか、蒼治先輩たちが報告してきたっていう、(くだん)怨霊(レイス)だったりするンスかね…!?」

 大和の語尾には、ちょっと怯懦の色が滲んでいた。と言うのは、事前に渚の口からロイやノーラと交戦した強力な怨霊(レイス)亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)のことを聞いていたからだ。

 そして大和は、『怨場』への抵抗など、練気に関する技術はほぼからっきしである。ゆえに、彼は死後生命(アンデッド)との戦闘を非常に苦手としている。

 しかし、大和の態度に反して、ナミトと来たら…。

 「この距離だから、この感覚が怨霊(レイス)の『怨場』によるものか、他のものかは、はっきりと判断できないンだけどさ…」

 そう語りながら、ナミトの顔はマタタビを前にしたネコのようにニンマリと、はちきれんばかりに愉快そうに笑っている。

 「もしもその怨霊(レイス)だったら、面白いじゃーん!

 超一流の霊力を扱う怨霊(レイス)との戦闘…うーん、考えただけで楽しくて燃えるぅー!」

 ナミトのポジティブさは、戦闘行為でへし折れることはないようだ。

 「良いッスねぇ、ナミちゃんは。ホント、なんでも楽しめるんだからさ…。ちょっと、羨ましいッス」

 苦笑いを浮かべながら語った大和だが、すぐに表情を引き締めて、モニターに視線を戻す。

 相手が件の怨霊(レイス)であろうとなかろうと、大和自身が相手に出来る代物ではないし、イェルグとて空戦で手一杯の状態だ。厄介な対象だけに、やる気満々なナミトには是非対処してもらいたいところだ。

 しかし、ナミトが指差したポイントまで進行するには、少々厄介な状況である。進路状に戦艦の数は少ないものの、羽虫の群れのような黒い点々が物凄い速度で空域内を右往左往している様子が見て取れる。これらの点は一つ一つが癌様獣(キャンサー)であったり、浮遊霊(ゴースト)であったり、『ガルフィッシュ』であったりする。この中に武装のない飛行艦を突撃させるのは、ヤブ蚊の群れの中に生身の腕を突っ込むにも等しい行為だ。

 (だからと言って、手をこまねいていても、何の解決にもならないッスからね…!)

 胸中で独りごちた後、大和は眉を険しくしかめながら、ブラウンの瞳の奥に炎を灯す。

 「えーいっ、何とでもなれ、だっ!

 そんじゃ、ナミちゃん、突っ込むッスよ!

 一気に全速力まで加速して突っ込むから、吹っ飛ばされないように気をつけてっ!」

 そして大和は、ナミトからの返答を聞くまでもなく、加速ペダルを一気に踏み込んで急加速する。

 (ゴウ)ッ! 空気を切り裂く爆音が、装甲を通して艦内に鈍く響き渡る。飛行艦は急降下するような角度のキツい下がりの傾斜を描きながら、重力を味方につけつつ、高層建築物の(むくろ)へと突進する。

 途中、競合勢力の飛行戦力の乱戦の中に幾度も突っ込んでしまう。最初の1、2回目程度は、相手も何が起こったのか把握出来なかった風で、為すすべもなく艦体に激突して吹き飛んだり、キョトンとした様子で見送るばかりであったが。やがて情報共有した癌様獣(キャンサー)から巧みな回避行動やら、艦体に取り付いて繁劇に出るものも現れる。遂には浮遊霊(ゴースト)も取り付いたり、『ガルフィッシュ』がコバエのように(まと)わりついたりと、艦は盛大にカビだらけになったパンのような有様になる。

 「うっわ、大和っち! すんごいウヨウヨしてるよっ!? 墜ちちゃったりしないよね!? よね!?」

 流石に不安になったのか、ナミトがオロオロと尋ねる。が、今度笑みを浮かべるのは、大和だ。

 「墜ちるワケ…! ないッスよッ!」

 大和はギラリと輝く歯を見せながら嗤う口から鋭い叫びを漏らしながら、操縦桿を通して定義拡張(エキスパンション)を発動。艦体を覆う装甲全域に、即興での高振動発生装置を生成。一気に起動させると、大量に(たか)(ムシ)の如き邪魔者どもを激震でビシバシと引き剥がす。

 「おおーっ! すごいすごい!」

 見る見るうちに敵を振り払い、自由を得る艦体に、ナミトが手を叩いて感心の声をあげるが。操縦席に座る大和は、表情を崩さないどころか、苦々しく歪めている。確かに、彼の策は功を奏してはいるのだが…それが全く通用せず、ますます艦体に取り付く数を増やしている勢力がいる。――浮遊霊(ゴースト)達である。

 死後生命(アンデッド)は元来、物性との関連が薄い存在である。岩石をも粉砕するような超高振動を受けたところで、質量もなければ硬度もない純霊体である浮遊霊(ゴースト)には全く効果を為さない。

 更に数を増してた浮遊霊(ゴースト)達は、金属製の装甲の合間にジワジワと浸透しては、内部の電子部品へ干渉を行う。ある箇所では盛大な火花を散らして、ある箇所では糸が切れた操り人形のように停止し、艦体は正常な機能を失って行く。

 (ヤバッ! このままじゃ、操縦の制御が効かなくなって、ホントに墜落しちゃうッスよ!)

 小さく舌打ちしながらも、大和は現状打破のために思考をめぐらす。…対霊体用の機械装置…強力な電磁場を発生させる装置…しかしそれでは、艦自体の電子回路も蝕んでしまう…電子回路の周波数と干渉しない程度の微調整を…しかし、それには時間が…。

 思考が次第に焦燥に塗りつぶされてゆき、額にジットリと冷たい汗が滲んできた、その頃。操縦席の背後で、ナミトが何やら動きを見せる。

 まるで水面下の魚をじっくりと覗き込むように腰を低く構えて顔を下げ、床をジッと見つめる体勢を取る。そして、水中を泳ぐ魚を素手で捕まえようかと言う勢いで右腕を引いて構えたまま、微動だにしていない。

 そう、身体は微動だにしていないのだが。彼女を形而上相を通して見れば、彼女の内部でガソリンエンジンをより強烈にしたような、爆発的なエネルギー発生事象が見て取れるであろう。

 ナミトは今、正に体内で強力な気を練り上げている。

 そのまま体勢を崩さずに数秒の後。彼女の尻尾が(ほうき)を逆立てたようにボワッと直立し、見事な毛並みの合間にバチバチッ! と派手な静電気のスパーク音がした…その転瞬。

 「(セイ)ッ!」

 気合一閃、ナミトは掌打を操縦席の床に向けて思い切り叩きつける。

 轟雷の槌を思わせるような凄まじい速度の打撃であったにも関わらず、操縦席に衝撃が伝播することはない。が、何も起こらなかったワケではない。実際、端で見ていた大和は、体表を駆け巡るムズ痒いような痺れに身体をゾクリと震わせる。

 ナミトの掌打は、インパクトの瞬間、艦体に伝わる強烈な気を放出したのだ。

 気は艦体の表面を電流よりやや遅い速度で駆けめぐると、艦体に取り付いている浮遊霊(ゴースト)達にも伝播。接触された霊体は、まるで高圧の電流でも喰らったかのようにビクンッと跳ね上がり、艦体から思わず体を引き剥がす。浮遊霊(ゴースト)の群れは散らされた子蜘蛛のように、ゾワワッとさざ波立ちながら艦体から数メートルの距離を取る。

 霊体による電子回路の侵食が止み、艦がコントロールを取り戻したことを操縦桿を通して知った大和は、思わず指を鳴らして歓声を上げる。

 「ナイスッスよっ、ナミちゃん!

 流石はダイナマイトなだけじゃない、出来る女ッ!」

 「ダイナマイトなだけじゃないって…大和っち、普段ボクのどこを見てるのさ…」

 ナミトは苦笑いを浮かべながら突っ込んだが、すぐに表情をコロリと変えて、ニヒヒッと楽しげな笑みで塗り潰す。

 「ともかく、大和っち、ここまで運んでくれてありがとーっ!

 ボク、そろそろ出撃()るね!」

 フリフリと右手を振ると、急降下の為に酷い傾斜がついている床にも関わらず、相変わらずスイスイと操縦室のドアまで小走りでたどり着く、ナミト。そのまま操縦室から飛び出した――かと思いきや、ピョッコリと顔だけ出すと、口元に人差し指を置いて言い残す。

 「そうだ、大和っち。ボクが降りたら、すぐに機首を上げてここから離脱してね。

 多分…大和っちだと…物凄いことになっちゃうから」

 「え…何のことッスか?」

 そう問い返しながら振り向いた時には、もうナミトはフリフリと振る掌を残して、姿を消してしまっていた。

 その後ナミトは、事前に大和から言い渡されていた手筈通り、格納室の床の一角にある小型ハッチのロックを解除。吹き込む烈風と共に開いた正方形の穴の中に、迷わず体を滑り込ませた。

 「うっわ、ナミちゃん! ドア閉めて欲しかったッス!!」

 吹き込む烈風が開けっ放しのドアの中に流入し、操縦室を翻弄しまくるので、大和がグチャグチャに髪を掻き乱されながら叫ぶ。とは言え、すぐに操縦パネルを操作し、ハッチを封鎖したので、風に吹き曝しになる事態は防げた。

 が――一難去ったかと思えば、更に大きな一難が大和を遅う。ナミトが艦から飛び降りて数瞬後、臓器をグリュリと揺さぶるような不快感が大和を襲ったのだ。

 「うえぇっ!」

 吐き戻しそうな咳をして、操縦パネルに突っ伏しそうになる、大和。彼の体に一体何が起こったのか。それはナミトが言い残した言葉を鑑みて、的確に判断することが出来た。

 (これ…怨場の影響か!

 ナミちゃん、艦の中に居る間、練気でずっと怨場を打ち消してくれてたんだ!)

 そうと分かれば、大和は吐き気をこらえながら操縦桿をグイッと動かし、機首を急激に上げて上昇を開始する。ナミトが曰くには、強烈な怨場は眼前の高層建築物から発されているとのことだ。ここから距離を取りさえすれば、影響は急激に減じるはずだ。

 (それじゃナミちゃん! 独り生身で戦わせちゃうけど、武運を祈るッスよ!)

 大和は胸中で呟きながら、ナミトの効果地点よりグングンと距離を取ってゆく。

 

 一方。パラシュートや飛行用バックパックと云った装備を付けず、自由落下するナミトは。

 「ひゃっほぉぉぉぉいっ!」

 絶叫マシーンを楽しんでいる時のような歓声をけたたましく上げながら、耳の側をゴウゴウと過ぎ行く風の中を切って、足から地面へと落ちてゆく。

 眼下に見えるのは、大量の死後生命(アンデッド)の兵士たちと、その中に混じって暴れ回る癌様獣(キャンサー)機動装甲歩兵(MASS)の連中である。後者は、生体に悪影響を及ぼす怨場を嫌って、発生地点を制圧するつもりで攻めているのだろう。が、怨場は非常に協力で機動装甲服(MAS)魔化(エンチャント)癌様獣(キャンサー)の霊核調整でも中々無効化できないらしく、苦戦を強いられている状態だ。

 その様子を見たナミトは、再びニヒヒッ、と弾むような楽しげな笑みを浮かべる。

 (よーっし、これなら、ボクが皆を押しのけて、お手柄独り占めだよんっ!)

 やる気満々に気合いを充填するのは良いものの――着地までの短時間にも、ナミトには気の抜けない試練が襲いかかる。浮遊霊(ゴースト)達がナミトに向けて群がって来たのだ。奴らはどうやら、ナミトの形而上相を認識した上で、死後生命(アンデッド)への対応能力が高い事を知り、自由の利かぬ落下中に始末することを考えたようだ。

 霊体で出来た、透き通った剣や槍を構えて飛来してくる、浮遊霊(ゴースト)達。武器は物理的性質を伴わないものの、切断系の武器という定義は立派に兼ね備えている。触れれば細胞は斬られた事を自覚して壊死してしまう。

 これに対してナミトは、四肢と手足を大きく振って空中で体をクルクルと素早く回転。まるでモミジの実のように華麗に舞いながら、手足を延ばして宙空に手刀や蹴りを放つ。それらの一撃一撃は練気を(まと)っており、高い硬度を持ちながらも、魂魄に直接刻み込まれる斬撃として四方八方に吹き飛ばされる。"風刃勁"と呼ばれる、練気の中では初歩の部類に入る攻撃技術だが、それだけに高い技術力を誇る者が使用すると、その威力は凄まじい。

 現に、ナミトの放った風刃勁の斬撃は浮遊霊(ゴースト)の武器ごと霊本体をスパスパと切り裂き、霊構造を分解して黒い影のような粒子へと蒸発させる。

 こうして無事に、乱戦状態の地上へと迫る、ナミト。もちろん、このまま大地に激突しては全身の筋骨が破壊されて生命の危機に晒されるだろう。しかしナミトは、無策で自由落下したワケではない。

 (とりあえずは…3本ってことかな?)

 思考と同時に、ナミトは臀部に集中すると。今露出している立派な尾に加えて、ボワッ、ボワッ! と新たに2本の尾が生え出す。

 合計3つとなった尾の毛を逆立てながら、ナミトは腕を大きく回すような動作を取りながら深呼吸し、体内で気を練り上げる。その気を両の掌に集めると、掌は真夏の太陽のような目映(まばゆ)い輝きに包まれる。

 この強烈な光に気付いた地上の戦士達の一部がチラリと視線を上を向けた時には…意地悪というより、凶暴と云った方がシックリ来る凄絶な笑みを浮かべたナミトが、頭から大地へとダイブしてくる姿がある。

 (なんだっ!?)

 地上の戦士たちが疑問を口にするより早く。ナミトは両の掌を突き出すと、輝きが更に膨張し、輪郭も影も光の中へと消えて――!

 (ドウ)ッ! 大地を揺るがす轟音と共に、閃光と爆風が半球状に拡散する。光の中では、影様霊(シャドウ・ピープル)や骸骨型の霊体は構造を分解されて黒い粒子へと蒸発し、癌様獣(キャンサー)機動装甲歩兵(MASS)は内部機関の電子装置が不具合を起こし、間接を溶接されたブリキの人形のように重々しく大地に転がる。

 "裂光勁"と呼ばれる、練気の上級技術の一つだ。己の生体電流を増幅し、魂魄的および電子的の両面から対象を攻める業である。

 一方、ナミトは業の炸裂の反作用でフワリと浮き上がると、風の中を柔らかに舞う木の葉のように、自由落下より断然緩やかな速度でフワフワと大地に落下する。軽気功の一種で、"浮葉功"とよばれる浮力と体重を操作する業である。

 ナミトには上記のような巧みな練気の技術があるために、無装備状態で高高度からの自由落下を行っても無傷で着地する自信があったのだ。

 さて、乱戦の地に足を着けたナミトが最初に取った行動とは。両腰に手を置いて堂々と仁王立ちしながら、上空から一際目立っていた高層建築物を見やることである。

 「ふむふむ、なーるほど。それで、この強烈な怨場ってワケか」

 独りごちながら納得し、首を上下に振る、ナミト。その背後から、霊体で出来た大鎌や大鋏を持った浮遊霊(ゴースト)が音も立てずに速やかに迫り来る。先刻に"裂光勁"を使用して敵を薙ぎ倒したからと云って、瞬時に戦闘状態が解消されたワケではない。むしろ、戦闘はまだ続行している。

 透き通った鋭い刃が、ナミトの柔らかな首筋に肉薄し、その薄皮に届く――かと思った、その転瞬。ナミトは軽やかな風のように体を反転させながら浮遊霊(ゴースト)達の隙間に入り込むと、回転の体重を乗せた裏拳で彼らの布で覆われたような顔面をブッ叩く。拳はもちろん練り上げた気でコーティングされており、物理体を持たない浮遊霊(ゴースト)でも派手に吹き飛んでゆく。

 これが合図になったかのように、死後生命(アンデッド)はもとより、癌様獣(キャンサー)や[[rb;機動装甲歩兵>MASS]]達までもナミトに向かって津波のように押し寄せてくる。突如戦闘に乱入しては、無差別の攻撃を繰り出した彼女を、競合勢力達は共通の排除すべき敵として認識したようだ。

 魔化(エンチャント)された弾丸やら霊体および実体の武器による斬撃の雨霰(あめあられ)に晒されるナミトであるが…手に余るほどの大量の敵を前にしても、彼女の顔に浮かぶ笑みは消えない。

 その笑みに裏打ちされたように、ナミトは早回しにした舞踏の如く軽やかな体裁きを繰り返しながら、ことごとく攻撃を(さば)いてゆく。――いや、単に回避しているだけではない。敵の密度を利用して、巧みに同士討ちを誘っている!

 弾丸はナミトの体を捕らえぬ代わりに、射線軸上にいる他の標的に着弾する。浮遊霊(ゴースト)の大振りな霊体武器攻撃は、空振った勢い余って隣の者に突き立てられる。

 そんな同士討ちが連続するに連れて、ナミトを狙うはずの大群はオロオロと色めき立つ。途端に動きが鈍くなる大群に対し、ナミトはニヒヒッ、と意地の悪い笑みを上げる。

 (はーい、隙だらけだよーん!)

 身を低くすると、回転しながら周囲の者達の足を払うように蹴りを見舞う。その回転が止まぬ内に逆立ちすると、まるで大地から沸き立つ颶風のような蹴りとなる。…いや、事実、ナミトの一挙手一投足は風刃勁によって烈風の刃を生み、ナミトは斬撃を伴う旋風と化している。

 オロオロしていた戦士たちは斬られながら吹き飛ばされると、ナミトの周囲にはガランとした空間が出来る。ここで一息を入れたくなるのが並みの兵士であろうが、『星撒部』として幾多の実戦を潜り抜けてきたナミトはすかさず次の行動に移る。(すなわ)ち、前転するように身を低くして跳ぶと、自ら群れの中へと突入。再び颶風を作り出し、敵対戦力を斬ってはブッ飛ばすのだ。

 ナミトが敵を薙ぎ倒して作り出した隙に甘んじず、自ら群れの中へと飛び込んで乱戦を誘発するには、彼女なりの合理的な理由がある。隙に甘んじてしまうと、相手にも冷静さを取り戻す時間を与えてしまい、体勢を立て直されてしまう。更には、空間が広がることによって同士討ちが誘いにくくなるだけでなく、相手の攻め手の選択肢を広げることになる。だからこそナミトは、混乱に乗じる事を好むのだ。

 ――まぁ、そっちの方が派手で楽しめる、というあまり感心できない理由も含まれているが。

 乱戦においては常に動き続けなくてならないというデメリットがあるものの、スタミナ面には相当の自信を持っているナミトは一片の不安も抱かずに次々と攻撃の颶風を巻き起こし続ける。

 その一方でナミトは、攻撃の合間にチラリと視線を走らせて、高層建築物を見やる。そこに彼女が先刻、"なるほど"と語った、怨場に関する特殊な機構が存在していた。

 骸骨のように剥き出しになった鉄骨の中に紛れ込むように、いくつもの骸骨系統の死後生命(アンデッド)達が組み合わさって絡みついているのだ。その多くは、眼窩の奥に禍々しい赤の光を立てる人骨であるが、その中で一際目を引く巨大な骨格がある。それは、長大な首を持つ古代生物――ブロントサウルスに代表される、首長の竜盤目に属する恐竜の死後生命(アンデッド)である。彼らが組み合わさって一つの機械のように作用するのに加え、鉄骨の金属の物性をも味方にし、強烈な怨場の発生装置となっているのである。

 この"骸骨機械"の要になっているのは、なんといっても恐竜の死後生命(アンデッド)である。地球人類より遙かに長い歴史の中を死者として過ごした彼(または彼女)に蓄積された怨場は非常に強烈であるし、種々の心霊的現象の制御も巧みだ。人骨たちの霊力を一気に引き受け、一意的な力にまとめ上げているのも彼である。

 そんな彼の存在を視認したナミトが真っ先に抱いた感想は、畏怖や感心より何より、驚愕である。

 (生前が人類でない死後生命(アンデッド)なんて、珍しいなぁ~)

 死後生命(アンデッド)とは、生前の未練が死後も続くことによって存在が定義づけられる意識体である。死後も続くほどの強烈な未練を抱くためには、高度な知性――つまりは、複雑な思考を実現しうる脳構造が必要となる。それ故に、脳構造が単純な原生生物や昆虫、魚介類といった背生物の死後生命(アンデッド)は極めて成立しにくい。

 恐竜も脳の発達の観点から見れば、死後生命(アンデッド)が成立しにくい種族ではあるのだが。希に動物霊が成立するように、彼にはよほど強烈なトラウマが魂魄に刻み込まれているようだ。

 その事情はともかく。恐竜が核を成しているこの怨場発生装置をどうにかしないと、やがては他勢力の電子機器のみならず魂魄が打撃を受け、『冥骸』の1人勝ち状態が成立し、『バベル』はまんまと彼らの手中に収まることになるだろう。

 その事態は、なんとしても避けたい。

 (相手はスッゲーデカブツだけど、やるっきゃないっしょ!)

 ナミトは絶え間なく乱戦の颶風をまき散らしながら、少しずつ高層建築物の元へと進路を取る。その狙いに気付いたのか、"パープルコート"や『癌様獣>キャンサー]]の戦力達は『冥骸』を牽制しつつも後退を始める。彼らとて強烈の怨場の中での戦闘は、正直多大な苦痛を強いられていたのだ。それをどことも知れぬ乱入者とは言え、一手に引き受けてくれる者が現れたのだから、それを利用しない手はない。

 対して、『冥骸』達は怨場発生装置を護ろうと、(眼があるのならば)血眼になる勢いでナミトに襲いかかる…が。ナミトの戦闘能力は、並みの死後生命(アンデッド)の群れでは抑えきれはしない。

 至極当たり前のことだ――独自の世界法則『神法(ロウ)で構築された存在、『天使』を撃破する技量の持ち主なのだ。単なる幽霊や骸骨風情が、そうそう(かな)う相手ではない。

 そんな実力差を『冥骸』はようやく認めたらしい。ここで彼らは、ナミトという実力者に対抗し得る、強力な一手を出す。

 「フンヌァッ!」

 突如、上空から響く気合一閃。そして、ブンッ! という大気を切り裂く音と共に打ち下ろされる、高速の火鞭。

 「おっと!」

 ナミトは頭上からの一撃に対して素早い反応を見せると、後ろ回し蹴りで背後の霊体達を吹き飛ばしながら後退。炎の鞭の一撃をやり過ごす。

 鞭から数瞬遅れて落下してきた"人物"は、ダンッ! と轟雷のごとき音を立てつつ、両足を屈した格好で着地。直後、間髪入れず鞭を引き戻しながら一歩を踏み込むと、鞭を硬化させて槍と成してナミトの胸部を狙う。

 「ハイヤァッ!」

 けたたましい気合いと共に、赫々(かっかく)の残像を残して突出する一撃は、しかし、ヒラリと半転したナミトを前に虚しく宙を切る。

 この回避行動を利用したナミトは却って反撃に転じ、素早い蹴りで炎に包まれた槍の柄を弾き飛ばそうとしたが…。

 ゴボリ…! 足下から発する鈍い音を鋭敏に検知すると、片足のまま横に跳んでその場から離れる。その直後――。

 ヴォッ! 岩をも叩き伏せるような突風が、大地から天上向けて斜めに打ち上がる。――いや、突風ではない。それは、先端がギザついた巨大な丸太…というか、破城槌だ。

 (おわっ、2人目かっ!)

 トン、と穏やかに着地したナミトは、大地から突き出した破城槌を見やる。するとその場所の地面がさらにメリメリと盛り上がると、まるで呪術で土の巨人でも形成されるように、鈍い輝きを放つ西洋風の甲冑に身を包んだ大柄な"人物"が登場した。

 「フンッ!」

 甲冑の人物は空振った攻撃に不安を漏らすように荒い鼻息を吐きながら、手にした巨大な破城槌をグルングルンと回し、肩に乗せてこちらを見やる。

 「『破塞』殿ッ、こやつを見かけで判断してはならぬぞッ!

 市軍警察の筋肉小僧より、よほどやりおるわい!」

 初めに登場した炎の鞭槍を扱う"人物"――真紅の和風鎧甲(よろいかぶと)に身を包んだ骸骨面が叫ぶ。

 この骸骨面は、先にロイ達がトンネル内で交戦した地縛霊の戦士、『涼月』だ。

 そして『破塞』と呼ばれた甲冑男は、『涼月』と同じく『冥骸』に籍を置く地縛霊である。

 『破塞』はもう一度、「フンッ」と不機嫌に吐息してから、『涼月』に言葉を返す。

 「先の戦いと、今の感覚で骨身に染みている。いちいち言われんでも分かるわ」

 2体の死後生命(アンデッド)は、ナミトが薙ぎ倒した者達よりも段違いの実力の持ち主だ。それをナミトは3本になった尻尾を通して、ひしひしと感じている。

 だが、彼女の顔は笑みを崩さない。むしろ、更に口角をニンマリと突き上げている。

 (無駄なお喋りが過ぎるのが、ちょーっと玉に(きず)だけど…面白くなって来たじゃん、この戦いッ!)

 大抵の苦境も楽しみに転化してしまうナミトは、この状況に胸を弾ませながら、ギリリと拳を握り直す。そして、更に会話を続けようとする2体の隙につけ込んで、ダンッ! と強く大地を蹴って突進した。

 ――が。ナミトはすぐに稲妻のような速度で後退する羽目に陥る。

 と言うのも、突如、彼女に向けて重機関銃の掃射がブッ放されたのだ。ガガガガッ! と鼓膜を聾する爆音と共に、黒々とした呪詛でコーティングされた金属の弾丸が雨霰と降り注ぐ。

 (うっわ、もう一体出てきたのかっ!

 こいつの居所は――! そう、上ッ!)

 ナミトは早回しでダンスするようにステップを踏みながら掃射を潜り抜けつつ、骸骨どもが巣くう高層建築物の中腹に視線を向ける。ナミトの想定通り、そこには発砲を示すマズルフラッシュが忙しない星のごとくチカチカと明滅している。

 (そんな所で高見の見物していないで――! 降りて来いってのぉっ!)

 ナミトは回避しながらも握り締めた両拳に気を練り上げ、目映い青白の輝きを灯すと。両拳を合わせながら突き出し、射手めがけて練り上げた気の弾丸を飛ばす。気の弾丸は呪詛の掃射に激突されて徐々に減衰するものの、十分な威力を保ったまま射手へと激突。ゴウッ、と爆音を立てて青白い閃光を灯す。

 しかし――射手へ激突した、というのは嘘だ。奴は着弾より素早く自由落下して弾丸を回避したのだ。ズドンッ、と鉛の塊でも落としたような鈍く重い音が響き、大地に小さな震動が発生する。

 第三の敵の登場に、驚愕の声を上げたのは、あろうことか『涼月』であった。

 「『藻影(もかげ)』! この小童(こわっぱ)が、何しに来よったっ!!」

 『涼月』の叱責に対して、『藻影』と呼ばれた死後生命(アンデッド)は、くぐもった声でくつくつと(わら)う。

 「お喋りなじー様達だ。そんなんだから、ひよっこの生者につけ込まれるんだっつの」

 『藻影』は『涼月』や『破塞』に比べると、数段若々しい印象を受ける死後生命(アンデッド)である。その姿も古めかしい鎧甲姿ではなく、近代的な金属装甲服と、それに一体化した重火器であり、比較的歴史の浅い個体と言える。とは言え、着込んだ装甲服は現代の機動装甲服(MAS)に比べると小型推進機関もない鈍重な造りをしているし、その表面は名前にもある通り緑色の藻やら苔やらで覆われている。

 ――先に『冥骸』が強力な一手を出したと述べたが、それは間違いだ。彼らが出したのは、三手もの(つわもの)である。

 並みの浮遊霊(ゴースト)影様霊(シャドウ・ピープル)とは比べものにならないほどの、総毛が逆立ちそうなほどの霊波を立っているだけでも放つ、3体の亡霊達。彼らを前にすれば、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の戦士と言えども顔を歪めることであろう。

 しかし、ナミトの表情は歪むことには歪むが、それは苦々しい表情ではなく、やはり笑みだ。

 表情筋がドロリと(トロ)けそうなほどにニンマリと(わら)いながら、一片も臆することなく、それどころか昂揚を全身に(たぎ)らせるままに力強く構えを取る。

 (来た、来た、来たよーっ!

 スッゴい実力者3人! 相手にとって不足なんて全ッ然無し!

 手加減無し、気兼ね完全ゼロで、思いっきり暴れ回れるッ!)

 こんな状況下においても、ナミトの享楽主義は全く折れない。むしろ、その炎を大きくする。

 そんなナミトの様子に気付いた3体の亡霊は――『涼月』は激怒して眼窩に烈火を灯し、『破塞』は不愉快そうに破城槌を大地に打ち立て、『藻影』は首を回しながら左手と一体化したチェーンガンを無感情に向ける。

 「何を笑うか、メギヅネがぁっ!」

 『涼月』が叫んだ瞬間、『藻影』はチェーンガンの掃射を開始。『破塞』は重厚な巨躯に見合わぬ素早い動きで跳び上がると、上空からナミトの脳天へと破城槌を叩き落とす。

 対してナミトは、怒号にも掃射にも落下にも臆することなく、拳を小さく構えて身を低くしながら一気に加速。機銃掃射の合間を巧みにすり抜けながら『藻影』の眼前に接近すると、突進の勢いを乗せた掌底で『藻影』の顎を思いっきり突き上げる。この一撃にはもちろん、練気による"勁"が込められており、『藻影』は頭部に青白い蛇のような電流を浴びながら数メートルを浮き上がる。

 「なにクソ、小癪なメギツネッ!」

 浮き上がった『藻影』の後ろから、『涼月』が縛炎を纏った槍の一刺しを烈風のように突き込んでくる。対してナミトは、ゴウゴウと音を立てて燃えさかる柄を、あろうことか素手で掴み取ると、『涼月』を槍ごとグイッと持ち上げた。

 「ぬおお!?」

 一々声を上げる『涼月』を、ナミトは加速をつけて振り回すと、背後から迫り来る『破塞』に思い切りぶつける。両者はもみくちゃになりながら転がりつつ、数メートルを吹っ飛ぶ。

 業火に包まれた槍の柄を掴んだというのに、ナミトの掌はケロリとして無事だ。これは彼女が間髪入れずに耐火効果のある"功"を掌に宿したお陰である。

 「ぐぅっ…小癪な…!」

 「…生者の分際で…」

 「生意気なメスガキだなぁっ!」

 唾棄しながら体勢を立て直す3体の亡霊を前に、ナミトは笑みを崩さず、それどころか右手の4指を"かかってこい"と言わんばかりにクイクイと曲げて見せる。

 「さあ、死後生命(アンデッド)のおじーちゃん達! 本気で、必死になって、掛かって来なよーっ!

 じゃないとボク、おじーちゃん達の大切なガイコツ装置、ボッコボコに壊しちゃうからねー!」

 …本来ナミトがすべきなのは、"ガイコツ装置"こと、高層建築物を利用した怨場発生装置の破壊なのだが…。彼女は完全に、強者と戦うことへの愉悦に捕らわれてしまったようだ。

 目的を見失ってしまった感はあるものの、『冥骸』の強力な戦力の足止めをするという意味では、蒼治の作戦の意にギリギリ沿っていると言えなくもない。

 「殺すッ! 亡者になる暇すら与えずに、命を奪ってくれるッ!」

 3体の亡霊が吠え、各々の獲物を振るってナミトへと再び襲いかかる。

 「おっしゃーッ! その意気だよっ、おじーちゃん達!」

 ナミトはその殺意を真っ向から受け止めた上で、更に昂揚と気力を充実させると、亡霊達へと向かって突進してゆく。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

War In The Dance Floor - Part 3

 さて、イェルグもナミトも手元から去った大和の方では。

 「うぅっぷ…っ! こんなに距離稼いだってのに、まだこんなに怨場の影響があるなんて…!

 『冥骸』の連中、トンでもない装置を作ってくれたモンッスねぇ…!」

 ナミトの効果地点から全速力で離脱し、もはや数キロもの距離を離したというのに、彼の感覚神経は悪寒を伴う不快感に晒され続け、消化器はモゴモゴと暴れっぱなしであった。

 「死後生命(アンデッド)のこと、甘く見過ぎてたッス…。あいつらなんて、所詮は個体的執念の産物、統率の取れた集団行動なんて出来っこないなんて、高をくくってのが甘かったッスね…。

 こんなことになるなら、ヴァ姐さんの勧めに甘えて、霊薬(エリクサ)(もら)っておけば良かったッス…」

 大和の脳裏に、ユーテリアを出発する直前の光景が思い返される。大和が製作した艦に3人が乗り込む直前、星撒部2年生のヴァネッサが今にも泣き出しそうな曇り顔を作って、駆け寄って来たのだ。その表情は特に、恋人であるイェルグに向けたものであったろうが、とにかく彼女は3人の身を案じてお手製の怨場対策の霊薬(エリクサ)が入った(ピン)を渡してきたのである。

 大和がこの好意を受け取らなかったのは、彼が独りごちていたように、死後生命(アンデッド)を軽んじていたからと言うのも理由の1つだ。しかし一番の理由は、恥ずかしながら、幼稚な意地によるものだった。

 ナミトとイェルグの2人が、ヴァネッサの好意をやんわりと断ったのである。練気技術に長け、怨場への抵抗力が高いナミトが受け取らない、というのは話が分かる。しかし、イェルグが受け取らないというのは、大和にとっても予想外の出来事であった。この事についてイェルグが曰くには。

 「今回のオレの仕事は空ン中で忙しなく飛び回ることだからな。怨場の領域に入っても、すぐに飛び出しちまうだろうから、大した影響を受けることはないだろうぜ。

 その瓶は、オレやナミトの分まで含めて、大和にやってくれよ」

 この台詞は、今思い返せば、大型の機体を操縦するために鈍重にならざるを得ないだろう大和を純粋に気遣っての発言だったかも知れない。しかし、当時の大和はそんな気遣いを露ほども理解せず、"1人だけノコノコと薬に頼る真似は格好悪いだろう"などと愚考した上で、こんな事を語ってみせた。

 「ヴァ姐さん、バカにしないで欲しいッスね。オレも『星撒部』の一員ッス。逆境の1つや2つ軽ーく跳ね返してみせるッスよ。

 だから、その気持ちだけで充分ッス!」

 そして、歯を輝かせながら、力強く親指を立てて見せたのだ。

 今その光景を思い返すと…穴があったら頭のてっぺんまで埋まってしまいたいほど恥ずかしく、そして愚かしい。

 「あーもーっ! 新たな黒歴史の誕生の瞬間が、オレの心に突き刺さるぅーっ!」

 思い返してしまった愚行に文字通り頭を抱えて、操縦席の上で思い切り仰け反って叫んだ、その瞬間。

 ドォンッ! 爆音と共に、激しい衝撃が艦体を襲う。あやうく席ごと床に倒れるところだった大和は、手足をバタつかせながらなんとかバランスを取り戻すと。ブンブンと頭を左右に振って、思考を現実に引き戻す。

 「そ、そうッス! 騒いでる場合じゃなかったッスよ!

 今のオレってば…!」

 大和は操縦パネルを素早く操作し、パネルの上に球状の全方位センサーのホログラム画像を表示する。

 そして、画像に視線を向けた大和は…再び怨場に消化器をやられたかのように、顔色を真っ青にする。

 「大、大、大の、大ピンチだったッスよ…!」

 そう。センサーの中心部、大和が操る飛行艦に向かって、進路前方右側と左側、そして後方から漏斗(じょうご)状に収束しながら接近してくる大軍勢が見える。艦は、大量の殺意に包囲されていたのだ。

 3つの軍勢の内訳は、それぞれ以下の通りだ。後方からは怨場発生装置周辺から飛び立った、飛行可能な死後生命(アンデッド)達。前方右側からは癌様獣(キャンサー)の群れ。左側には、"パープルコート"の戦艦数隻と、それらから出撃した蚊柱の如き大量の『ガルフィッシュ』達である。

 非武装の艦でありながら、これほどの大軍勢から危険視されて追い回されている現状は、大和にとっては残念ながら、道理である。彼の艦から出撃したたった2個体の戦力は、多大な戦果と混乱を与えている。これ以上戦力を投入されては好ましくないと、どの勢力も判断したのだろう。真っ先に排除するべき対象であると無言の合意をしたようだ。

 勢力の目を引きつけるという役割の観点からすれば、大和は大成功したと言えるが…。

 「オレが引きつける相手は、"インダストリー"どもだけのはずッスよね…! それが、"インダストリー"意外の全勢力から敵視されて追われるって、オーバーワークにも程があるッスよ!!」

 大和が独りでやるせない絶叫をしている間にも、背後の死後生命(アンデッド)達は距離を詰めてくるし、前方の2勢力からは砲撃の嵐が押し寄せる。今の飛行艦の性能では、近い内に轟沈の憂き目に遭うだろう。

 ――一刻も早く、戦闘可能な機体へと定義拡張(エキスパンション)しなくては。大和は胸中でゾワゾワと焦燥に炙られるが…その解決策をおいそれと実行に移せない事情があった。

 定義拡張(エキスパンション)によって、現状の形態から戦闘の形態へと変形するには、かなり大掛かりな過程を要する。その間は大きな隙となり、場合によっては加速も進路変更も効かない完全なノーガード状態となってしまう。

 この課題を克服するための策は、幸運にも大和の頭の中にある。しかし、それを実現するためには、タイミングが重要だ。そしてそのタイミングが到来するためには、もっと我慢をしなければならない。

 「なんでオレだけ、こんなハイパーベリーハードモードになってるンスかねぇッ!」

 泣き出したい気分で叫びながら、大和は操縦桿やらエンジン出力調整ペダルをひっきりなしに操作し、砲撃を避けながら背後の死後生命(アンデッド)に掴まらないよう…かと言って、距離を離しすぎないよう、絶妙の速度で飛行を続ける。

 やがて…胸中を炭化し尽くすような焦燥と我慢の果てに…"その時"が来る。

 中型の癌様獣(キャンサー)や『ガルフィッシュ』達が、モニターで倍率を操作せずとも、目視でも細部まで見えるほどに接近している。そして後方には、鎌やら剣やらといった物騒な武器を振り回す死後生命(アンデッド)達が尾翼の間近に接近し、実際に艦体に損傷を与えてる事態も発生している。

 正に絶対絶命、逃げ場のない挟み撃ちの状況だ。並みの神経の持ち主ならば、ここで最悪の悲劇を覚悟して、顔を覆って観念するところであろう。

 しかし、無茶を日常茶飯事としている『星撒部』の一員たる大和は、顔を覆おうどころか、双眸(そうぼう)にギラリと決意の炎を灯す。彼の心は折れるどころか、この窮地で息を吹き返したのだ。

 「これで勝ったと思ってンだろうけどな…! 度肝抜かれるのは、お前らの方ッスよ!」

 大和は操縦桿を限界までグイッと引っ張ると同時に、加速ペダルを踏み潰さんばかりの勢いでダンッ! と踏み込む。

 この操作からほんの一瞬遅れて、艦体が急激な進路変更を行う。風霊エンジンが増大した雷霊と相まって激しい電流のヘビを走らせながら、ゴウゴウと耳を聾する駆動音を立てつつ、その場で風車のように回転。瞬きほどの間に、艦首が天上向けて垂直に立ち上がった――と、同時に、そのまま打ち上げ花火の如く高空へと急上昇してゆく。

 この時、眼下では艦体に突撃しようとしていた3つの勢力の先陣が、艦体の急激な進路変更に対応出来ずに次々と激突。まるで、羽虫の大群で作った大渦のような有様になり、もみくちゃになって思うように動けずにいる。

 これこそが、大和の策だ。彼は周囲を囲まれた時点で、退避先は上空しかないと判断していた。しかし、最初からユルユルと上空を目指しては、敵にも進路変更に対応されてしまい、総攻撃の的になってしまう。そこで、相手を進路変更が困難になる距離にまで引きつけてお互い同士を激突させ、その隙に上空に逃げる戦略に出たワケだ。

 「おっしゃッ、大成功ッ!

 どんなもンッス!」

 ガッツポーズを作って見せる大和であるが、とは言え、艦は完全に安全になったワケではない。敵勢力の後続になればなるほど、こちらが仕掛けた罠を把握して対応を取ってくる。実際、"パープルコート"の戦艦達は艦首をこちらに向けて砲撃を開始して来たし、死後生命(アンデッド)癌様獣(キャンサー)の中にもこちらをめがけて上昇してくる個体がチラホラと現れてくる。

 だが、大和は構わずに加速ペダルを踏み込み続け、最大速で上昇を続ける。砲撃が何度か艦体に激突するが、決して気にはしない。どうせ定義拡張(エキスパンション)をかければ、破壊された部位は新品の機関へと生まれ変わるのだから。

 今はともかく、距離を稼いで定義拡張(エキスパンション)を行うのに充分な隙を稼ぐことが先決だ。

 操作パネル上の球状全方位レーダーが、敵勢力との距離がグングン開いてゆくのを大和に通知する頃。彼は額に吹き出た焦燥と興奮の汗を制服の袖で拭いながら、ニヤリと笑う。

 「さぁーて、ここからがオレの見せ場! いざ、変形――」

 この時、誰の目にも触れていないというのに、ノリで格好つけて腕を振り上げて見せたのが、神か悪魔かをせせら笑わせてしまったらしい。――不幸にも、大和には全くの想定外のトラブルが起こる。

 突如、レーダーが進路上…つまりさらなる上空に…3つの反応を捕らえたのだ。

 「え…!?」

 ぱちくりと間の抜けた瞬きをした、その直後。操縦室にけたたましい警告音が鳴り響く。何らかの攻撃が、直撃コースで迫っているのだ。

 「うえ!? え!? え!?

 ちょ、ちょっとぉっ!?」

 困惑した声を上げながら、状況の把握と解決策を慌てて模索する、大和。(いたずら)に速度を落としては、折角引き離した3つの勢力の追いつかれてしまう危険があるので、加速ペダルを踏む力を緩めるワケにはいかない。しかし、このまままっすぐ進んでは、正体不明の攻撃に打ち抜かれて、最悪轟沈だ。回避するためにも、いずれかの方向に舵を切らねばならないが…進路変更をしたところで、相対速度の問題から充分にその成果を発揮できず、結局は攻撃の餌食になってしまう可能性が高い。

 手持ちの性能で、なんとか攻撃を振り切るしかない。それには、相手の攻撃の正体を見極める必要がある。焦りでウロウロしがちな眼を必死に抑えながら、レーダーの反応を元にモニターの倍率を操作し、接近する攻撃の空域を映し出すことを試みる。

 パッ、パッ、パッと連続で3つ開くワイプ映像――それを見た大和は、「ンゲェ!」と潰れたカエルのような情けない悲鳴を上げる。

 映像の中には、攻撃の正体は露わになってはいなかった。どうやら、震動や力場といった不可視の攻撃らしい。しかし大和が声を上げたのは、不可視の攻撃を嫌ったからではない。映像の中に映る、3体の敵影を発見したからだ。

 それらは、人型の機動兵器である。各々の形状はかなり異なるものの、共通しているのはサイズと、そして肩や胸の装甲に張り付いているマークだ。前者は体高10メートルほどと、地上での活動を鑑みるとかなり大きい印象を受ける。そして後者は、雷を握り込んだ拳がハッキリとした色遣いで描かれたものである。

 マークの段階だけで、大和は瞬時に相手が何者なのかを知る。サヴェッジ・エレクトロン・インダストリー所属の私兵団の機動兵器だ。そして、サイズおよび推進機として使用している空間泳子(エーテル)蠕動型エンジンから、悪名高い次元戦闘兵装"D装備"で固めた機体であることも一目瞭然だ。

 (ってことは、つまり…接近してる危険って、次元歪曲兵器か…!!)

 D装備が繰り出す不可視の攻撃と言えば、空間の歪みを物体の破壊に用いる次元歪曲兵器が代表格だ。実際、モニターをよくよく見れば、周囲の風景がグニャリと湾曲しているし、バチバチと電離した大気の電火も確認出来る。間違いは、なさそうだ。

 この事実を知ったところで、大和は安堵するどころか、余計に冷や汗が全身が噴き出してしまう。非武装の高速移動に特化しただけの飛行艦では区間自体の破壊を防ぐ手立ては…普通、思いつかない。

 万事休す。あと十数秒もすれば空間の湾曲は艦を包み込み、大和もろとも素粒子雲へと分解されてしまうことだろう。

 (ああ…こんなことになるんだったら…。ナミちゃんのたわわな胸、揉ませてもらうんだった…)

 清々しいまでの諦観に達した大和が、静かに涙を流しながら、妄想の中の優しさを堪能し始めた…その直後。

 大和の妄想が、烈火のごとき激情に包まれる。同時に、涙を流していた情けない大和の瞳がギラリと鋭く(とが)る。

 大和もまた、『星撒部』の一員。軽薄な態度が目立つ彼もまた、幾度もの修羅場を潜り抜けている。

 そして今、己の希望を妄想のままに終えようとしている自身の絶望感に猛り狂うほどの怒りを覚えた大和は、窮鼠(きゅうそ)のごとく生への執念と絶望への反抗に覚醒する。

 「こンなトコで、女の子にキスの一つも受けないで、死んでたまるかってんだぁぁぁっ!」

 叫びの言葉はお世辞にも格好良くはないが、以後の彼の働きは、どんな少女も目を見張ったことだろう。

 死を運ぶ不可視の攻撃へ激突するまで、もはや十秒を切ったそのタイミングで。大和は方向転換のために操縦桿を倒すことなく真っ直ぐな進路を保ったまま、推進ペダルを踏み続ける。ペダルはすでに床と接触し、これ以上踏み込むことは出来ない状態だ。

 しかし――大和の操る飛行艦は、更に更に、音速に挑むかのように速度を上げて天上めがけて飛び上がる。

 推進ペダルを限界まで踏んでいるにも関わらず更なる加速を得ているのは、大和がエンジンに対して定義拡張(エキスパンション)を行い、その性能を急激に変化させているがゆえだ。そうやって加速を得ることで、次元歪曲兵器の間をすり抜けるつもり算段なのか?

 いや、それは不幸にも無理だ。今のままの進路では、もしも音速の倍以上の速度に達したとしても、次元歪曲兵器の魔手からは逃れられない。

 それでも大和は、もはや諦観など微塵もない、爛々(らんらん)と燃え盛る眼で行き先を見つめたまま、突っ込む、突っ込む、突っ込む――!

 「行けぇぇぇぇぇっ!」

 そして――遂に、艦体が次元歪曲兵器と接触。高密度の金属と激突した次元歪曲の渦は、ギィィィン、と耳障りな音を立てながら、大岩を投げ込んだ水面のごとく周囲数百メートルの範囲を空間の蠕動で包み込む。バチバチバチッ、と派手な明るい紫色の電光は、金属原子がプラズマ化した発色であろうか。

 こうして大和は、自らが製作した艦と共に、所属部の名にある星へと姿を変え――"なかった"。

 この直後の風景を見た"インダストリー"の搭乗者(クラダー)達は、コクピットの中で目を丸くしたり、口をあんぐりと開いたことだろう。

 何せ、激しいプラズマの渦の中から、ボロボロになりながらも飛行艦が巡航ミサイルのような勢いで飛び出して来たのだから。

 「いぃやっほぉぉぉぉっ!」

 操縦席の中で思い切り叫ぶ大和は、そのまま更に加速して、呆然と立ち尽くす"インダストリー"の機動兵器どもを追い抜いて、高高度の上空へと飛び出した。

 

 ――さて、大和は一体どんな手段を使って窮地を脱したのか。その答えは、最期の足掻きとばかりに実行したエンジンへの定義拡張(エキスパンション)にある。

 次元歪曲兵器の効能を無力化させるためには、こちらも空間に干渉する必要がある。しかし、大和の飛行艦には空間に干渉するための機能は存在しない。ならば定義拡張(エキスパンション)を用いて新規に空間干渉用の機関を作成する方法が考えられるが、10秒足らずの極短時間でそれを実現させるのは無理があった。

 一方で、大和の飛行艦のエンジンは風霊を主体とした精霊式エンジンである。このエンジンの駆動機構を空間泳子(エーテル)蠕動式に変化させられれば、次元歪曲兵器との干渉をある程度引き起こせる算段がつくのだが、残念ながら10秒足らずの時間ではそれも無理だ。この極短時間で出来ることと言えば、エンジンに使用されている精霊の属性を変更したり、追加したりすること程度である。

 だが、"その程度"こそ、大和の死地回生の糸口であった。

 唯物論的科学下において、空間とは単なる器でしかない。しかし、魔法科学下においては、実に様々な要素を内包している存在である。そこには、精霊に関連する要素も含まれている。この要素を突くことで、空間干渉を引き起こすことを試みたのだ。

 多種類の精霊を大出力で一気に混ぜ合わせることで、空間格子に回転的歪曲を生み出す"精霊乱流"と呼ばれる現象がある。大和はエンジンに対して定義拡張(エキスパンション)をひっきりなしに実行し、精霊乱流の出力を微調整して次元歪曲兵器と絶妙に干渉することで、素粒子分解の憂き目を見事に脱したのだ。

 この作業を行うには、非常に卓越した魔法と工学の技術が必要となるし、何より目まぐるしく変化する状況に寸分も遅れずに対応できる判断力も求められる。通常ならば、天才的と賞されるような技術者が数人掛かりでやってのけるような水準の作業だ。

 それを大和は、たった独りでやってのけたのである。

 

 唖然と見送る"インダストリー"の機動兵器たちの視線を受けながら、大和は"してやったり"と言わんばかりの笑みをニンマリと浮かべて見せる。

 が、すぐにその笑みは消え失せ、剣呑な表情へと取って代わる。針の穴を潜り抜けるような難度に打ち()って手に入れた、絶好の機会なのだ。胸を張ってみせるだけで費やすのは、死んでも直らないような愚者だけだ。

 「さぁてと…団体様方、好き勝手にやりまくってくれたッスねぇ!

 今度は、こっちの番ッスよ!」

 そして大和は、操縦パネルの上に五指を開いた両掌をバァンッ! と叩き付けながら乗せると、爆発的な魔力を一気に注ぎ込んで定義拡張(エキスパンション)を実行する。

 転瞬、艦体が巨人の手で弄ばれた年度のようにグンニョリと形状を歪める。流線型はみる間にスライムのように波打つ不定形へと変じ、艦であった面影を微塵も残さない。

 この激変にハッと我に返った"インダストリー"の戦力達が、各々の腕部に内蔵された次元歪曲砲の砲口を"元艦"に向け、ゾルリッ! と粘性のある発砲音と共に、大気をプラズマ化させる電光を放つ空間歪曲を射出する。大和の艦の激変が何らかの成果を出さないうちに、撃墜してしまおうという魂胆だ。

 ゴキゴキ、グニョグニョを激しく形状を変える"元艦"は、まるで卵の中で活発に細胞分裂する胚のような印象を与え、無防備に見える。しかし…射出された空間歪曲は、"元艦"に着弾するより数十メートル手前で、バチッ! と音を立てて相殺され、消滅した。

 ――一見無防備に見える"元艦"だが、もはや防御能力を備えている!

 「やっとこさ、ピンチを潜り抜けたンスよ? またピンチを呼び込むようなノーガードを晒すワケ、ないじゃないッスかぁ!」

 粘土細工のように変形してゆく操縦席の中、未だ機能しているモニター越しに大和は"あっかんべー"をして見せる。彼は形状の変化に先んじて、対空間歪曲用の防御フィールド発生機関を生成していたのだ。

 それでも諦め悪く、難度も難度も砲撃を行ってくる、"インダストリー"の機動兵器達。それらの攻撃を悠々と弾く"元艦"は、やがて降下を始める。エンジン部も加工中の粘土のように溶融し機能を失った今、惰性による上昇の推進力が重力に打ち負け、自由落下が始まったのだ。

 落下するにつれて、"元艦"は急激に肥大化する細胞のようにブクブクと体積を膨張させながら、急速に形状を整えてゆく。

 まず、一気に出来上がったのは胴体部とそれに繋がる2本の腕だ。この時点で、"元艦"は人型の機動兵器へと変形しようとしていることが分かる。それにしても、その体積たるや、尋常ではない。胴体部だけでも"インダストリー"の機動兵器どころか、"パープルコート"の戦艦を凌駕するほどの巨体を誇るのだ。

 下半身部分を樹木が逆さに生えるような有様で形成してゆきながら、更に体積を膨らませつつ落下してゆく、"元艦"。これには、眼下に群がっていた3つの勢力たちも慌て出す。最初は砲撃を加えていた"パープルコート"や癌様獣(キャンサー)であったが、防御フィールドによってことごとく阻止されると、迫り来る超重量の巨体との激突を恐れてにわかに退避を始める。しかし、間に合わずに巨体に激突しては大破・轟沈する戦艦や癌様獣(キャンサー)が後を絶たず、爆発の憂き目を呈する無惨な赤と黒がいくつも空を彩る。

 そしてついに…弩噸(ドドン)ッ! r[[b:霹靂>へきれき]]が耳元間近で落ちたような強烈な轟音と共に、"元艦"が戦場の大地に着地する。

 いや――"元艦"とはもう呼べまい。しかし、"巨人"というにはあまりにもデカ過ぎる。体高が100メートルを優に超える、規格外の体積。いくら人型をしていようとも、誰の頭にも"要塞"という言葉過ぎずには居られない、あまりにも圧倒的な威圧感と重量感。

 そう、こいつは"要塞"だ。その体は、数多くの兵装によって埋め尽くされている。右腕には、体高の2倍近くある刃渡りを持つ、巨大な(ブレード)を携える。指先には、何らかの射撃武器を射出するためものと思われる砲口が開く。背中には、長大な砲身が上下2門ずつ備わっている。腰には巨大な回転式機銃が左右に1門ずつ装着されている。

 そして、これらに加えて、"要塞"たる表現に相応しい装備がある――それは、体表の装甲の大半に設置された、ハッチだ。

 "要塞"は大地にしっかと両足をつけた事実を世界に知らしめるように、五体を堂々と広げて直立した…その直後。全ハッチが一斉にカパカパと展開する。

 同時刻。"元艦"の時に比べてずいぶんとコンパクトな容積となった、球状の全方位モニターに囲まれている"要塞"の操縦室において。両手両足を操縦用モジュールで覆われた大和は、全方位モニター中に写る、たたらを踏んで困惑している敵どもを一通り見回すと、フッフッフッ、と笑う。

 「これまでよくも散々、オレがノーガードなのを良いことに、好き勝手にやらかしてくれたッスねぇ…!

 そのお返し…たっぷりとさせてやるッスよっ!」

 大和は両手を覆うモジュール内で、とあるトリガーを一斉に、思い切り引いた。

 転瞬、外界では――。()()()()()()ッ! 大気どころか空間そのものが激震しているかと思うほどの勢いで轟音を滅茶苦茶に振り撒きながら、全ハッチの内部から大型のミサイルが一斉に発射。もうもうたる白煙が入道雲のように"要塞"を包む中、ミサイルは飛行昆虫並みの機動力と精度で全周囲の敵めがけて突撃を始める。

 このミサイルは、単なる物理兵器ではない。霊体である『冥骸』の浮遊霊(ゴースト)にも反応し、容赦なく追尾を始める。恐らくは、"敵意"に反応する哲学性センサーが内蔵されているのだろう。

 そして、ミサイルがもたらす破壊もまた、単なる物理兵器の所業ではありえない類のものだ。ミサイルは着弾すると、派手な爆発ではなく、影よりなお暗い、光を捕らえて放さぬ奈落の闇色の炸裂を呈する。この闇に捕らわれた存在は、"パープルコート"の戦艦のような機械だろうが、浮遊霊(ゴースト)のような霊体だろうが、ゴッソリとその体躯を削り取られる。闇霊が司る根元事象の一つ、"消滅"を利用した攻撃だ。

 この攻撃は、強力な再生能力を持つ癌様獣(キャンサー)にも大きな被害をもたらす。体を丸ごと闇霊に喰われて消滅させられては、再生しようがないのだから。

 更にこの闇霊の攻撃には、別の利点がある。それは、"インダストリー"のD装備機動兵器のように、次元歪曲防御フィールドを持つ相手の防御能力を無視できることだ。空間の曲率に多大な作用を受ける光と真逆の性質を持つ闇は、空間の歪曲に関わらず、絶対的な前進が可能である。故に、次元歪曲防御フィールドをすんなりと突破し、機動兵器の体躯をゴッソリと削ったのだ。

 この闇霊の魔手から逃れられた"インダストリー"の機動兵器は、3体のうちで(わず)か1体だけだ。戦闘を生業としている彼らでも、無防備であったはずの艦が、まさかこんなバケモノのような機動兵器に化けるとは想像もしていなかったようだ。

 この苛烈な全方位攻撃に晒されて、右往左往する大群を眺めている大和は、操縦席の中でアッハッハッ! と痛快に大笑いする。

 「元々、蒼治先輩から指示されてたのは、"インダストリー"の戦力の足止めだったッスけど! こんな乱戦じゃ、もうどうでも良いッスよ!

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の不良部隊だろうが! 死後生命(アンデッド)だろうが! 癌様獣(キャンサー)だろうが! まとめて相手してブッ倒しまくってやるッスよッ!

 アーッハッハッ!」

 そんなバカ高笑いをしているのも束の間、外では闇霊爆発を潜り抜けた敵どもが、早くも体勢を立て直し始めていた。彼らとて、生半可な覚悟で1月以上もこの地で戦闘を続けているワケではない。正に生死を賭すほどに、必死なのだ。

 真っ先に勇猛果敢に"要塞"へと反撃の突撃をしてきたのは、癌様獣(キャンサー)達だ。彼らは思考共有ネットワークを使い、個々の感情を沈静化する信号によって怯懦を克服したのだ。そして、再生能力から派生した急進化能力で闇霊に対抗するための器官を生成しながら、砲撃を繰り出しつつ、"要塞"の懐へと潜り込もうとする。癌様獣(キャンサー)と"要塞"のサイズ差にはあまりにも開きがあるが、それ故に癌様獣(キャンサー)は小回りが利き、死角を突いた攻撃を繰り出せる。

 ――はず、だった。

 しかし、大和はそんな事態など想定済みである。

 「フッフッフッ…デカブツは鈍重で精密動作に向かないなんて、誰が決めたンスかねぇっ!?」

 大和は不敵に勝ち誇った笑みを浮かべながら、両手足の操縦モジュールを駆使し、"要塞"を作動させる。

 すると、外界では"要塞"を囲む敵達が、こぞって顔色を青くするような事態が発生する。"要塞"は超重量級の巨体に見合わぬ、軽やかな動きで体躯を捻り、巨大な(ブレード)を横薙ぎに一閃。台風のような烈風を生み出しながら、迫り来た癌様獣(キャンサー)の一群を叩き斬り捨てる。

 (こいつは、ヤバい! 規格外のバケモノだ!)

 覚った"パープルコート"の艦隊が真っ先に戦意を喪失し、早々と回頭して撤退を始める。…が、それをみすっみす見送るような大和ではない。

 「何処行くつもりなンスかねー、不良軍人のご一行様…!」

 大和はニンマリ笑いながら"要塞"を操作。"要塞"は足の裏と背に装備された超巨大ブースト推進機関を爆発的に動作させると、一っ飛びに艦隊の前方に回り込む。そして、戦艦を指揮する士官達がオロオロする間も与えずに、クルリと転身しながら回し蹴り。これで、手近にいた戦艦を一隻、ガゴンッ! 盛大にへこませながら蹴り飛ばすと、別の一隻にもぶつかって乱雑なビリヤードのようにあらぬ方向へと吹き飛んでゆく。そしてもう一隻、慌ててエンジンを全開にふかして飛び去ろうとする戦艦には、ブースト推進機関を水平に噴射して一気に肉薄すると、そのまま肩で体当たり。この一隻もまた、盛大に艦体をひしゃげさせながら、グルグルとカオス的に回転しながら遙か遠方へと吹き飛んでゆく。

 あっと言う間に片づけられた"パープルコート"の艦たちの一方で…。死後生命(アンデッド)達もまた、サイズ差が有利に働かないと見るや、拠点である怨場発生装置のもとへと蜘蛛の子を散らすようにゾワゾワ逃げてゆく。これを認めた大和は、ギラリと意地悪く眼を細めて輝かせる。

 「…さっきはよーくも、気持ち悪い思いさせてくれた上に、追い回しまってくれたッスねぇ…!

 たーっぷりと、お返ししてやるッスよッ!」

 ここで両手の操作モジュールのトリガーを引くと、"要塞"の背部の砲身がゴゴンッ! と重苦しい音を立てながら、砲口を死後生命(アンデッド)の一団に向ける。照準の精度はさほど高くない、かなり大雑把(おおざっぱ)なものだ。しかし、それで充分だ。

 何せ、ブッ放された砲撃は、死後生命(アンデッド)の退却行列を包み込んでなお有り余るほどの、膨大な幅を持つエネルギーの奔流なのだから。

 大和がブッ放した砲撃は、闇霊と風霊をミックスした、闇色に僅かな緑色の輝線が螺旋状に練り込まれた、4本の奔流である。闇霊は"消滅"という強力な事象を司る反面、光溢れる昼間の世界では非常に不安定で、その力はたやすく減衰する。昼間に闇霊の力を維持するためには、存在定義を堅固なものとする高等な術式を用いるのがセオリーだが、さほど魔法技術に長けていない大和には出来ない芸当だ。そこで、風霊の力を借りることで闇霊の飛行速度を上げ、力が減衰しないうちに標的に届かせるつもりなのである。

 闇色の奔流は遠方に進むに連れて先細りになってゆくが、それでも死後生命(アンデッド)の一団の物量をゴッソリと削減するには充分な体積と力を発揮し、彼らに甚大な被害をもたらす。蚊柱ほどもあった彼らの物量は、今やバニラビーンズほどの点々とした希薄な状況にまで陥った。

 大和の操りし"要塞"、その力は正に無双と称しても決して恥じることはないだろう。その事実を自覚した大和は、操縦席で天を仰いでケラケラと大口開いて笑う。

 「この神崎大和、女の子を追いかけてばっかりのナンパ野郎じゃあないンスよ!

 やれば出来る! そして、やる時はやる! ユーテリアの英雄の卵の一員ッスからね!」

 そんな風にいい気に浸っている隙のこと。"要塞"の全方位モニターが、サッと巨大な影に覆われる。大和はイェルグの雨雲がこちらにまで及んだのかと(いぶか)しんだが、魔術現象による天候とは言え、出現があまりにも唐突過ぎる。

 (何だ…!?)

 笑みの余韻が残るままに、頭上に目を向ける、大和。転瞬、彼の笑みがサッと消え、ポカンとした表情に急変する。

 全方位モニターがとらえた、上空の影の正体。それは、"要塞"と同様に長大な(ブレード)を両手で掴んで振りかぶり、自由落下の何倍もの加速度で落下してくる、超大型の人型機動兵器である。そのサイズと来たら、"要塞"と同様、いや、それに勝るほどの莫大な体積を誇る。

 「うおっとぉっ!」

 大和は思わず声を上げながら、"要塞"を素早く操縦。手にした(ブレード)を頭上に構えて防御態勢をとりつつ、足裏のホバー機関を使って滑るように機体を転身さえる。最中、落下してきた機動兵器が"要塞"の元に到達。真夏の太陽のごとく目映い黄金色の輝きを帯びた刀身を、霹靂のごとく一気に叩きつける。

 ゴギィィンッ、と云う耳障りな金属の軋轢音。同時に、バチバチッビビビッ、と騒がしい誘蛾灯の音をバカでかくしたようなノイズ。金属刀身を芯として、プラズマを纏った刃同士が激突し、電磁的干渉を起こした音だ。

 「クッソ、いきなり襲いかかってくるなんて、感じ悪い奴ッスねぇっ!」

 大和は足を覆う操縦モジュールの中でとあるペダルを踏み込むと、"要塞"の腰に装着された超特大チェーンガンが爆発的に火を吹く。特に術式を込めていない、単純な質量兵器が連続して空を走り、敵機の腰に次々と命中。敵機はグラリとバランスを崩しながら後ろに後ずさる。

 ここですかさず大和はブースト推進機関を全開にして追いすがり、(ブレード)を腰だめにして敵機の胴体を刺し貫こうと試みる。…が、敵機はブースト推進機関をふかしてうまくバランスを戻しながら転身して大和をやり過ごす。

 それだけでなく、虚しく空を刺して過ぎる大和の機体の腹部に、強烈な蹴りを浴びせる。

 山のようにも見える"要塞"が、恐るべきことにブワリと天高く吹き飛んだ。だが、大和はそのまま重力に機体を委ねるような真似はしない。素早い操作で軽業師のように機体をクルリと宙空で一回転させると、軽やかに両足を揃えて着地。同時に、着地点付近の廃墟がメキメキと倒壊する。

 「いってて…ったく、ポッと出の割に、どこまでも生意気なヤローッスね!」

 蹴られた時の衝撃で激しく揺さぶられ、操縦席に頭をぶつけた大和が首を振りながら呟くと、怒りに燃える眼差しで敵機を睨みつける。

 突如現れた、同等のサイズに機動力を持つ強敵。その形状には、見覚えがある――先ほど撃退した"インダストリー"の機体のうち、逃した1体だ。

実際、この機体の胸部には、稲妻を握り込んだ拳のマークがバカデカく張り付けられている。

 ただし、以前に比べるとそのサイズは増大しているし、ディテールも変化している。サイズ増大前に比べるとゴテゴテしていながらも、どこか有機的な印象を与えるカーブと間接が幾つも見える。

 こうして敵機とじっくり対峙したことで、大和はコイツが一体何なのかを覚る。

 (オレの機体に対抗するため、換装してきやがったのか…!)

 機動兵器の換装と言えば、通常は整備工場で行うものだ。サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーでも基本的にはそうしているが、他の組織と明らかに違う点がある。それは、"転移換装"と呼ばれる高度な技術の実現である。――つまり、戦闘中に必要に迫られたら、遠方にある工場からいつでも換装パーツを取り寄せ、リアルタイムに装備変更や機体調整を行うのである。

 目の前の"インダストリー"の機体は、正にその行為によって生まれた兵器である。

 「こいつら、どんだけ『バベル』とか云うワケの分からんものに必死になってるンスか…!」

 大和は苦笑しながらも、敵機を排除すべく"要塞"を前進させる。

 しかし――その瞬間、"要塞"の行き足がガクンと止まり、機体の上半身が大地に倒れ込みそうになる。

 (な、なンスか!?)

 驚愕に眼を見開いた大和が、慌てて機体を制御してなんとか踏みとどまる。そこで安堵する間もなく、すぐに足下へ視線を投げて、一体なにが起こったのか確かめる。

 全方位モニター越しに見えた"要塞"の足には、ワイヤーがグルグルに巻き付いていた。"インダストリー"による攻撃であるとすぐに判断できたが、一体何時の間にやられたのか? 思い当たらずに頭上に疑問符が浮かぶ。

 が、疑問符はすぐに真っ赤な感嘆符に変わる。モニター一杯に、体高10メートルほど――100メートルサイズの"要塞"に比べると小人のようだ――の人型機動兵器が現れたのだ。腰だめに、エネルギーが充填されて魔力励起光で輝く砲口を携えて。

 「うへぇっ! こんなハエみたいな奴、いつの間に寄って来てたンスか!」

 辟易しながらも、腕を振って追い払おうとするが――今度は腕も動かない。見てみれば、そこには"インダストリー"の別の人型兵器が、両腕からワイヤーを飛ばしてこちらの腕を絡め取っている姿が見える。

 「ちょっ! マジ邪魔…」

 悪態を吐いている間に、眼前に迫る機体が至近距離での砲撃を発射。着弾するまでの一瞬、真っ赤な色が見えたことから、恐らく火霊を主体とする攻撃であろう。それがモニターの視界一杯を包み込んだかと思うと、映像が激しいノイズに変わる。同時に、激しい震動がコクピットを襲い、大和は後頭部を何度も操縦席にぶつける羽目になった。

 「いってぇっ!

 よくもやりやがった…」

 怒りの言葉を吐き出しながら、すぐに回復したモニター越しに敵機を睨みつける大和であるが…怒りは即座に驚愕に塗りつぶされる。今度モニターの視界に一杯に映し出されているのは、"インダストリー"の巨大機動兵器である。

 突進して来たのだ!

 センサーが、ひっきりなしに警告のアラームを鳴らしている。眼前の敵機は、(ブレード)を横薙ぎに振ってどうやら、こちらを一刀両断にするつもりようだ。

 (ンなこと、させるかっ!)

 大和は両足の操縦モジュールを操作し、"要塞"を一気に加速。敵機の(ブレード)が自機の胴やら首やらを斬り飛ばすより早く懐に潜り込み、思い切り前蹴りを放つ。ガゴンッ、と重く痛々しい音を立てた敵機はたまらずバランスを崩して倒れ、(ブレード)は虚しく空を切る。

 「よっしゃ、チャーンッス!」

 大和はギラリと瞳を輝かせ、敵機へと更に肉薄、追撃をかけようとした――が。ブースト推進機関の出力全開で突進を初めて、数十メートルと進まぬ内に、急に行き足がガクンッ! と止まる。操縦モジュール越しに、両足と(ブレード)を握る腕が極端に重くなり、背後に思い切り引っ張られている感覚を覚える。

 一体何事かと後ろを振り向いた大和が見たのは、3機の10メートル級のD装備機動兵器が、ワイヤーで以てそれぞれ一つずつの[[rb肢>あし]]をギリギリと締め上げ、拘束している姿である。彼らは更に、腕部に収納されていた次元歪曲兵装を開放し、空間圧縮弾丸を連発してきた。

 (こンの…ッ! "こいつ"でワイヤーごと、ブった斬ってやるッ!)

 大和はすかさず両手の操縦モジュールを操作し、"要塞"の周囲に空間断層による防御フィールドを展開する。ワイヤーは鋭利な刃物で両断されたようにプツン、プツン、プツン、と弾けながら吹き飛び、連射される空間圧縮弾丸は黒電を纏う歪みに激突した瞬間、音もなくグンニョリと変形して消滅してゆく。

 この間は大和にとって好機だ。邪魔な(比較的)小型機動兵器群を一掃するための準備時間が出来たのだから。即座に定義拡張(エキスパンション)を実行し、"要塞"に新たな武装を施そうと試みる。

 ――が、その試みが実を結ぶより早く。大和に異変が襲いかかる。

 まず、彼が眼にしたのは、視界の端に写る巨大な触手状の物体である。それを認識した瞬間、大和は見間違いかと自分に言い聞かせようとした。空間断層フィールドの構造を解析して突破するにしても、あまりにも時間が短すぎるからだ。それに、空間断層フィールドは無効化された形跡はなく、むしろ触手は断層の内部から生えてきたいたからだ。

 だが、その触手が胴に絡みつき、先端にある超高震動ブレードを突き立てて来た途端、大和はこの事態が紛れもない現実であり、危機であることを認識する。

 「な、なンスかぁ!? "インダストリー"の連中、こんな実力高い搭乗者(クラダー)まで投入してたンスかぁ!?」

 悲鳴に近い罵声を上げつつ、絡みついた触手を見た大和は、ハッとして自身の認識の誤りに気づく。この触手は、"インダストリー"の機動兵器のものではない。重金属と有機物が混合した、バケモノじみたその器官――そう、"機関"ではなく"器官"――は、機動兵器ではなく一個体の生物に由来するものだ。

 やがて、空間断層の中からズズズズ…と、大和の"要塞"を引きずり込みつつ、ゆっくりと"そいつ"がゆっくりと姿を現す。胎児とも恐竜ともつかぬ不気味な形状に、頭部に張り付いた巨大な真紅の双眸。

 巨大癌様獣(キャンサー)、『胎動』である。

 「ンゲェ!? なんで癌様獣(キャンサー)が、"インダストリー"の肩を持つような真似をするンスかぁ!?」

 "インダストリー"と癌様獣(キャンサー)は、このアルカインテールのみならず、大抵の戦場で競合勢力として相争っている。宇宙空間を主な活動域とし、資源を求める目的を持つ両者は、しばしば衝突し合っており、和解は未来永劫無理ではないかと言われているほどだ

 そんな両者が無言のまま手を組んだのは、大和――というか『星撒部』の戦力に脅威を感じたがゆえの同調であったのだろう。

 すっかりと全身を露わにした『胎動』は、尾の付け根を泡立たせて細胞を活性化し、急速にもう一本の尾を生成する。先端に超高震動の刃がついたそれを、"要塞"背後の空間断層へ向けて円を描くように引っ掻くと。黒電を纏う空間にスッポリと穴が開き、穏やかな漆黒が現れる。空間断層を更に引き裂いて、穏やかな虚無が口を開く侵入口を作り出したのだ。

 "インダストリー"の機動兵器たちは、仇敵である癌様獣(キャンサー)の所作であろうとも、全くひるむことなく侵入口へと突入。手に槍状のプラズマブレードを持ち、"要塞"の脚に突き立てては、ビリビリビリ、と金属装甲を溶融させながら引き裂いてゆく。

 コクピットの大和は、機能不全に陥った脚部のフィードバックを受けて、ピリピリした痛みを感じて顔を歪める。

 「クッソッ! このヤローども、やりたい放題にやってくれてぇっ!

 いつまでもこのままだと、思うなッスよ!」

 大和は憤怒と共に、膨大な魔力をそそぎ込んで定義拡張(エキスパンション)。"要塞"の表面にあるハッチ全ての内部に超推進力を有する質量兵器を装填すると、準備完了と同時に一気に発射した。

 ()()()()()()()()()ッ! 入道雲のような白煙を上げながら一斉発射された質量兵器は、角錐形の非爆発ミサイルだ。"要塞"を掴む『胎動』は逃れることができず、胴体中にザクザクザクッ! と鋭い先端を突き立てられ、電解質性の透明の血液を派手にばらまきながら身をよじらす。

 それでも『胎動』は"要塞"に巻き付けた尾を離さない。それどころか、数瞬にしてピタリと身悶えを止めると、体にミサイルが突き刺さったまま、ギリギリと締め付けを強める。恐らく、痛覚神経を遮断したのだ。更には、尾の表面の組織を変形させ、超高震動のブレードがチェーンソーのように蠢動(しゅんどう)する武器を作り出し、"要塞"を両断をしようとする。

 だが、大和も指を咥えてされるがままではいない。『胎動』が身をよじらせていた数瞬の間に、左腕部を定義拡張(エキスパンション)によって変形させ、回転ノコギリ状の高出力プラズマブレードを作り出していた。そして、メリメリと機体に沈み込み始めた『胎動』の尾をズッパリと両断。ビチビチと悶えながら宙を舞う尾が着地するより早く転身した"要塞"は、右手に持った(ブレード)を横薙ぎに一閃する。

 素早い一撃は、『胎動』の胴体を半ばまで深々と切り裂いたものの、両断するには至らない。『胎動』はすかさず背後に退避用の空間断裂を作り出し、その黒々とした裂け目の中に巨体を沈み込ませて転移。その場を逃れる。

 決定打とはならなかったものの、着実な打撃を与えることが出来た大和であったが、安心などしている暇はない。まだ"インダストリー"の連中がどうなったのか、確認していない。

 再びすかさず転身し、小型の機動兵器を、そして吹き飛ばした巨大機動兵器の様子を確認する。前者は大和がブッ放したミサイルの雨を回避しきったようだが、反撃に転じるほどの余裕は得られなかったようだ。総勢5機で編隊を組んで後方へと飛び退き、体勢を立て直した巨大機動兵器の元に合流している。密に集合してこちらを睨みつけている有様は、まるで頭を寄せ合って作戦会議をしているかのようだ。――実際には、体部を機械化した"インダストリー"の搭乗者(クラダー)達には物理的距離など関係なく、ネットワーク上において光速のコミュニケーションを行っているのだろうが。

 何にせよ、ようやく敵の規模と編成をじっくりと確認した大和は、ハッ、と鼻で笑いながら苦々しく顔を歪める。

 「まぁ、"インダストリー"の戦力をこんなに引きつけたンスからね。蒼治先輩に与えられた指示のノルマは達成したってことで良いッスよね?」

 独りごちながら、大和は"さて、次の攻め手はどうするべきか"と頭を捻りつつ、操縦モジュールの内側で拳をギュッと握る。

 その緊張感を横合いから(くじ)かんとするように、"インダストリー"の機体どもに寄り添うにして空間の断裂が生成。その中から、ズズズッ、と『胎動』が悠々と姿を現す。重傷を追ったはずの胴体は早くも再生が始まっており、電解質の体液の流出は停止している。

 これを見た大和は、苦笑を更に大きくし、フフフッ、と乾いた声を上げる。

 「…んで、オマケのプラスアルファもまだまだ元気一杯ってところッスか。

 正直、メチャメチャ気が滅入って投げ出したくなるッスけど…」

 大和は唇をペロリと舐めると、笑みから苦々しさを消して、餌を前にした肉食獣のような、冷静ながらも凄絶な表情を作る。

 「みんな、踏ん張ってるンスからね。

 オレだけ逃げ出すなんてカッコ悪い真似、出来るはずないッスよ!」

 その勇壮な声が、敵の耳元まで届いたとでも言うのか。言葉にした大和の決意を潰さんとするように、"インダストリー"の機体が、そして『胎動』が動きを見せる。

 対して大和は怯まず、代わりにコクピット中を震わすような大声を張り上げる。

 「さあ、いくらでも来いッス!

 まとめて片付けてやらぁっ!」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 網膜を()くビーム砲。轟々たる雷雨。入道雲のようなミサイルの爆煙。視界がグニョリとゆがむ空間歪曲兵器。

 アルカインテールの空をひっきりなしに駆けめぐる、物騒な事象。それらを瓦解した廃墟群の中から眺めていた蒼治達一行は今、搭乗している装甲車の中で今後の方針に関するミーティングを行っている。

 「イェルグ達、随分と派手に暴れてくれてるようだ」

 蒼治は眼鏡をクイッと直す。

 「それじゃあ、ここからは僕たちも彼らに乗じて、逃げから攻めに転じるとしようか。

 最初の打ち合わせ通り、ノーラさんは癌様獣(キャンサー)を、そしてレッゾさんと僕は"パープルコート"の地上戦力を抑える」

 「…あの…」

 蒼治が確認した直後、ノーラがおずおずと手を挙げて語る。

 「別に、役割には不満はないんですけど…。

 ただ、気になるんです…私たち、本当に当初の予定通りに動いて良いんでしょうか…?」

 その疑問に、レッゾがドレッドヘアを揺さぶりながら同意する。

 「お嬢さんの懸念は(もっと)もだな。

 当初のオレたちの作戦は、先手を取る事を前提にしたものだ。だが今オレ達は、完全に後手に回ってる。

 蘇芳達は既に"パープルコート"に襲われちまってるってのに、今更オレ達が囮になった所で意味があるのか?」

 「レッゾさんの指摘も、そうですけど…。もう一つ、気掛かりなことがあります…」

 「エントロピーについて…ひいては、『バベル』について、だよね?」

 蒼治の確認に、ノーランはコクリと首を縦に振る。

 「イェルグ先輩達が参戦したことで…ここから見える空でも確認できる通り…状況がかなり混沌としてきています。確実に…事象的エントロピーは増大しているはずです…。

 そこに更に、私たちが参戦して場を掻き回せば…『バベル』にたっぷりと(エントロピー)を与えることになりませんか…?」

 この問いに蒼治は腕を組んで眼鏡をクイッと直すと。熟慮するまでもなく、彼は即答する。

 「僕もそれについては懸念していた。そして、考えた上で、やはり当初の計画通りに動くのが最善だと結論付けたんだ。

 レッゾさん、囮の件については、今からでも充分意味はあると思います。

 確かに蘇芳さん達は交戦状態にあり、脱出路の中で奮闘しているようですが、あっちにはロイや紫といった戦力が居ます。相手(パープルコート)にも、僕の結界をくぐり抜けた実力者が居るようですが、彼らの実力と機転なら、うまいこと拮抗状態に――いや、それ以上の状況を作り出せると信じています。

 ですが、拮抗状態に痺れを切らした"パープルコート"が増援を要請したり、他の競合勢力が漁夫の利を狙って介入してくるとなると、状況がややこしくなり、為せるものも為らなくなってしまうかも知れませんからね。

 そして、『バベル』についてですが…」

 蒼治は一息を入れてから、言葉を続ける。

 「確かに、僕たちが参戦することで事象的エントロピーは増大することになると思います。でも、それは一時的なことです。僕らが囮以上の働きを見せ、事態の収拾を行えば、エントロピーは減していきます。そうすれば、『バベル』へのエントロピー供給はうまく行かなくなり、起動は難しくなるでしょう」

 その言葉に、レッゾは首を振りながら、ハッ、と苦々しく鼻で笑う。

 「確かに、事態を収拾できりゃ、万々歳だろうがよ。

 だが、オレたちはたった3人だ。しかも、オレは運転専門で、戦力として数えられない。実質、2人しか居ないぜ。

 そして、兄ちゃん達が呼んだ援軍は、たった3人だ。つまり、事態の収拾に当たるのは、合わせても5人しか居ないってことだ。

 対して、相手は軍勢を引き連れた4つの勢力。その規模は当然、千を超えるだろうよ。

 普通に考えて、多勢に無勢に過ぎるってもんだ。それで勝算があると思うのかよ?」

 すると蒼治は、眼鏡のレンズをキラリと輝かせながら、「はい、あります」と即答する。

 何を根拠に…とレッゾが反論するより早く、蒼治は告げる。

 「多勢に対して寡兵で当たる、というのが今回の肝です。

 もっと言えば、寡兵でも着実な戦果を挙げること、が真の目的になります。

 ここで言う"着実な戦果"というのは、多数の兵力を殺ぐことでも、指揮官を倒すことでも構いません。とにかく、相手が寡兵であるはずの僕たちの力に戦々恐々し、勇み足を止めること。この状況を作り出せれば、戦況は緩慢になり、事象的エントロピーを減らすことが出来ます。

 そして僕たちには、それだけの戦果を叩き出せるだけの力があります。

 何せ、"英雄の卵"と呼ばれるユーテリアの学生なんですからね」

 最後には薄ら笑いを浮かべて語ってみせる蒼治に、レッゾはやれやれ、といった感じで首を振りながら苦笑する。

 「その満々の自信、一体何処から来るんだかな。昨日、入都した時は、逃げ回るので精一杯って感じだったってのによ」

 嫌味とも取れる言葉にも、蒼治は動じず、にこやかに答える。

 「昨日の乱戦の経験があってこその、今回の勝算です。

 確かに、全くの想定外のことだったので、後手後手に回ったのは事実ですけどね。でも、一度骨身に染み着けば、その対策はいくらでも立てられますよ」

 「…まぁ、兄ちゃんが自信満々ってことはよく分かったがよ…。

 だけど、同じ"英雄の卵"であるお嬢ちゃんは、そうでもないみたいぜ?」

 レッゾは、彼と蒼治の間に座るノーラを顎で指し示す。彼の言う通り、ノーラは浮かない顔で俯き、翠色の瞳を怯えているようにも見えるように潤ませている。

 それを見た蒼治は、申し訳なさげに乾いた笑みを浮かべる。

 「…ああ…ノーラさんは、一昨日入部したばかりだしね…。実戦経験も少なくて、色々心配なことはあるよね。

 でも、昨日のトンネル内での立ち回りを見るに、ノーラさんにも充分な実力はあるから、もっと自信を持って…」

 「いえ…。あの…自信がないとか、そういうのでは…あっ、確かに、少しありますけど…。

 それよりも、やっぱりどうしても気に掛かるんです…。『バベル』のことが…」

 その言葉を聞いた蒼治は、乾いた笑みを消して眼鏡をクイッと直すと、堅い口調で語る。

 「エントロピーが充分に減じるまでの間に、『バベル』が起動してしまったらどうするか…それを懸念している、そうでしょう?」

 蒼治の言葉に、ノーラはややゆっくりコクンと首を縦に振る。

 「先輩の言葉に、ダメ出しするようで申し訳ないんですけど…正直、楽天的な発想だと思います…。

 先輩の作戦は、『バベル』が起動しないことを前提にしたものです。そして先輩の作戦の中には、確かに起動させないための対策も盛り込まれています…。

 でも、その対策が万全であるとは、言えませんよね…?

 私たちの参戦によってエントロピーが激増した時点で、『バベル』が起動してしまうことも、充分考えられます…。

 先輩は…すみません、生意気な風に聞こえるかも知れませんが…『バベル』起動後の対応についての方策は、考えてますか…?

 まさか、完全にぶっつけ本番、アドリブで切り抜けようとは、思っていませんよね…? もしもそうだとしたら…私は、今回の戦いに勝算はない…と判断します…」

 ノーラの意見は確かに辛辣な部分が含まれているが、蒼治は決して気を悪くはしない。彼は自論こそ唯一最善だなど考えるような愚者ではないのだから。

 (かえ)って蒼治は、真摯な表情を更に鋭くして、ノーラの意見の正当性を認めて頷いてみせる。

 「確かに、ノーラさんの言う通りだ。戦況が収束するより早く、『バベル』が起動してしまう可能性は充分にある。

 ただ、それを勘案しても、僕たちは戦況は収束に向かわせるべきだと思うんだ。

 何もしないところで、結局は事象的エントロピーは増大し、『バベル』の起動に結びついてしまう。その時に僕たちは、蘇芳さん達避難民を守るために、『バベル』に加えて、まだまだ元気の有り余っている4つの勢力を相手に立ち回る羽目になるような、最悪の事態に陥ることも考えられる。

 そうならないようにするためにも、抑止力として釘を刺しておくことは必要だと思うんだ」

 それから蒼治は、眼鏡のレンズ越しに眉根に皺を寄せると、申し訳なさそうに言葉を続ける。

 「『バベル』については…現時点では具体的な対策の立てようがない、というのが正直なところなんだ。

 今朝の映像で『バベル』を見せてもらって、性質を多少予測することは出来たけど…確証とまではいかない段階なんだ。

 はっきり言ってしまえば、『バベル』は正体不明の怪物さ。

 そんな代物を相手にするのに、余計な勢力から茶々入れられるのは困るだろう?

 起動後の『バベル』への対応に出来るだけ集中するためにも、今出来ることはやっておく必要があると思う」

 その言葉にノーラは、力のない笑みを浮かべる。

 「…つまり、起動後の『バベル』への対策は、アドリブ任せってことには変わらないんですよね…。

 正直、厳しいなぁ…」

 援軍として来てくれたイェルグ達には申し訳ないが、何もかにも放り出して逃げたくなる衝動に駆られる、ノーラである。

 しかし…胸中が怯懦に塗り潰されてしまう寸前に、ポッと脳裏から飛び出してくる記憶がある。

 その記憶は、訴える――この状況に陥る引き金を引いたのは一体誰か、と。

 それは勿論――。

 (はい、私…です)

 難民キャンプにて、暗い感情に閉ざされてしまった少女、栞から託された依頼。それを胸を叩いて引き受けたのは、誰でもない、ノーラ自身だ。

 逃げるなんて真似、絶対に出来ない。

 それともう一つ。怯懦に抗う言葉が、胸の奥から飛び出してくる。

 (今の私は、希望の星を振り撒く『星撒部』の一員なんだ…。その私が、絶望に塗り潰されてどうするの…!)

 そして最後に目の前に浮かんだのは、彼女の手を取って『星撒部』に引き込んだロイの、真夏の太陽のような笑みだ。彼がこの場に居たら、何と言うだろうか。それは容易に想像できる。

 「正体不明の怪物? だからなんだってンだよ!

 ブッ倒しちまえば問題ねーさ!」

 慎重な万策の鎖に脚を絡め取られて動けなくなるより、無策のまま気持ちよく突撃した方が、ずっとずっと生産的だ。

 ノーラは、フフッ、と小さく声を出して笑う。突然のことに蒼治もレッゾもキョトンとしたかと思うと、余りに考え過ぎて可怪(おか)しくなってしまったのかとオロオロし始めたが。ノーラは更に表情を花咲かせて、彼らの疑念を払い飛ばす。

 「…そうですね。とにかくやってみなくちゃ、何の結果も出ないですよね…!

 やりましょう…相手が何であれ、進むしか道はないんですから…!」

 こうしてノーラが吹っ切れたの機に、同じく渋い顔をしていたレッゾもまた、己の胸中にわだかまる不安を揉みくちゃにするようにドレッドヘアをボリボリと掻きむしると。「ええい、くそっ!」と前置きして、とうとう吹っ切る。

 「どうせ、逃げる場所なんてねぇんだ! むしろ、逃げ回ってる方が、背中から刺されかねない状況だ!

 だったら、兄ちゃんたちについていいくしか、選択肢はねぇだろ! 良いぜ、地獄の果てだろうが何だろうが、トコトン付き合ってやろうじゃねーか!」

 こうして3人が参戦の意志を固めたところで、各々が早速出撃の準備を始める。レッゾは装甲車の運転席にもぐり込み、エンジンを掛けていつでも全速力で発進できるように整える。蒼治は収納スペースから飛び出して装甲車の上に飛び乗ると、双銃を構えて迎撃に備える。

 そしてノーラは、蒼治と同じく収納スペースから飛び出すと、手にした黄金の大剣に魔力を集中して定義変換(コンヴァージョン)を実行。剣はパタパタとタイルがめくれるような有様を見せつけながら、体積――というよりも面積を広げ…ついには、サーフィンのようにも見える、浮遊する平べったい大剣と化した。刃の部分と一体化している(つば)の部分には、青白い魔力励起光と共に気流を噴き出す推進機関が備わっている。

 己の武器を乗り物としてしまったノーラであるが、彼女自身が扱う武器はどうするのか? その調達にもまた、彼女特有の能力である定義変換(コンヴァージョン)が一役買う。彼女の力は愛剣の姿形を変えるだけでなく、あらゆる存在から剣を作り出すことが出来るのだ。

 ノーラは手近なところにあったコンクリート片と金属の骨組みを片手ずつで持ち上げると、魔力を集中して定義変換(コンヴァージョン)を開始する。愛剣でない存在を剣に変える場合、元の素材の性質から外れない程度の機能を持つ剣しか作れない。それでもやりようによっては、先日"士師"を倒してのけたような成果を上げることが出来る。

 今、ノーラの左右の手には、一振りずつのシンプルな外観の剣が握りしめられている。これをヒュッと軽く振って感触を確かめると、ノーラはヒラリとサーフィン状の大剣に飛び乗る。

 これで、3人の出撃準備は整った。

 「それじゃあ、ノーラさん。無茶しない程度に自信を持って、ね」

 「先輩も…あの暫定精霊(スペクター)を扱う砲手が、確実に狙ってくると思いますから…くれぐれも、気をつけてください…!」

 言葉が交錯した、その直後。装甲車は猛牛のようにエンジンを唸らせてタイヤを急回転させ、ノーラは推進機関を一気にふかして疾風のごとく飛び出す。両者は各々が全く別方向の路地に入り込み、混沌とした戦場へと突入するのであった。

 

 蒼治がレッゾの装甲車と共に戦場に現れた瞬間のこと。

 飛行戦艦から蒼治達をつけねらっていた"パープルコート"の砲手チルキスは、スコープ越しに見つけた蒼治達を見つけて「およ?」と声を上げる。その声は疑問符と共に、小躍りしそうな歓喜も混じっている。

 歓喜はすぐにチルキスの身体中を巡り、桜色に彩られた唇をニィッとつり上げる。

 『星撒部』の援軍が現れてからというもの、指揮系統が混乱した艦隊は操縦が無駄に荒くなり、迷彩結界の中に雲隠れした蒼治達を見つける行為になかなか集中出来ず、苛立ちをためていたのだ。その憂さを晴らすように癌様獣(キャンサー)浮遊霊(ゴースト)どもをバンバン撃墜していたところだったのだが。

 急にマーキングの術式が標的発見の信号を脳にピリピリと走らせたので、慌ててそちらに視線を向けたところ…この有様になったというワケだ。

 「おーおーおー!」

 チルキスの歓喜は表情筋を緩めるに留まらず、熱気を帯びた歓声をも上げさせる。歯茎が(うず)き出しそうな刺激が口内を駆け回るので、側に置いていたチョコレートの山からザラリと数個を取り出すと、口の中に放り込んでボリボリと咀嚼する。

 口一杯に広がる熱いほどの甘さを嚥下(えんか)しないうちに、モゴモゴと独りごちる。

 「お仲間が駆けつけてくれた事に勇気づけられたのかな? 何にせよ、自分から戦場に出て来てくれるなんてね!

 これで、中佐からの指示は労せずに達成できたワケだ!

 それなら…」

 ゴクンッ、と甘味を咽喉(のど)の奥に押し込むと。大好物を前にした幼子のような、上気した凄絶な笑みを浮かべる。

 「今度は、私の用事に付き合ってよね?

 遊びましょ、遊びましょ! 手強くて面白い、獲物さんっ!」

 チルキスは一気に5つの弾丸を取り出すと、砲身にぶち込んで早速術式を練り上げる。事象的エントロピーの増大のために戦場に引きずり出せ、との指示は出されているが、それを達成した後の指示は特に出されていない。

 ならば、事象的エントロピーが増大するように――彼女自身が面白可笑しく楽しめるように――この希有な獲物と死闘を繰り広げることこそが、自分に課せられた使命だと、自己解釈する。

 チルキスが術式を練っている間にも、蒼治は稲妻のように疾駆する装甲車の上で双銃を嵐のようにブッ放し,着実に『ガルフィッシュ』を破壊したり機動装甲歩兵(MASS)を牽制したりしている。逃げ回っていた時には想像も出来ないアグレシッブな行動にチルキスの興奮は更に高まる。

 たっぷり数分を費やした後。チルキスは「ドーンッ!」と幼子のように擬音を口にしながら、砲のトリガーを引いた。

 瞬間、装填した5発の弾丸が一斉に射出される。それは砲口から飛び出した途端に玉突きのように激突、衝撃でグニャリとひしゃげながら1つの固まりなると…泡のようにブクブクと体積を増しながら、明るい赤紫色のエネルギー体へと変じてゆく。暫定精霊(スペクター)の誕生である。

 こうして生まれたのが…クマのように強靱な4つ足の巨躯を誇り、巨大な竜状の翼を2対持つ、3つ首の禍々しい怪物だ。首はそれぞれ猛禽、オオカミ、そしてヘビに似た形を取っている。

 火霊、闇霊、電霊、風霊、氷霊を混ぜ合わせ、闘争本能を極大まで特化させた、まさに戦闘機械(マシーン)ならぬ戦闘精霊(スペクター)である。

 「さあ、行って!」

 作り出した暫定精霊(スペクター)は遠隔操作できるタイプのものではない。しかし、チルキスの一言に呼応するように、暫定精霊(スペクター)は4つの翼を力強くバサリと打つ。そして、半透明な体をタオルでも絞るようにギュルリと捻ってドリル状の槍と化すと、投げ槍というよりミサイルと云う勢いで宙を疾駆。一路、車上の蒼治へと目掛けてゆく。

 「さっきまで一緒に居た女の子は別行動取ってるみたいだけど…! まさか、さっきの一戦で、私の魔力の傾向を読み切ったと勘違いしてるのかなぁ!?

 それならそれで、試してみたら良いじゃん! 私があの程度で、読み切られる程度の狩人なのかどうか!」

 チルキスは自身の作り出した意志持つ砲弾と蒼治の戦いの有様を想像して興奮し、再びチョコレートを一掴みすると、口の中にザラリと放り込んでボリボリと咀嚼する。その間に、彼女のガンサイトの中に数体の癌様獣(キャンサー)どもが現れていた。スコープを覗いたチルキスは、急に無表情になって激しく舌打ちすると、ひどく無機質な動作でザラザラと弾丸を装填し、景気付けとばかりに連射。癌様獣(キャンサー)達の特徴的な真紅に腫れ上がった眼球を見事に貫き、破裂させた。

 汚らわしい肉と金属の花火の中、再び蒼治へと視線を戻したチルキスは、暫定精霊(スペクター)が到達する瞬間をニマニマと(わら)いながら待つ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

War In The Dance Floor - Part 4

 ◆ ◆ ◆

 

 星撒部の援軍の登場により、地上の乱戦の様相がますます混沌の色を深めてゆく最中…。

 アルカインテールの地下における、避難民達の逃亡劇もまた、苛烈な様相を呈していた。

 倉縞蘇芳が指揮する避難民の一団と、"パープルコート"の魔術部隊が生成した水霊との軋轢は、"ホール"内部から地上へ向かうトンネルの中へと舞台を移していた。

 人工の太陽光のライトが点る閉鎖空間の中、装甲車を始めとした車列は全速力で地上への上り坂を驀進している。そのすぐ後ろでは、車列の尻を追い立てるように、トンネルの天井一杯まで至るような体積の水霊の群が、津波のように押し寄せている。

 最後尾の車両の上には、ロイとレナを主力とし、市軍警察官達が遠巻きに援護を行う防衛線が築かれている。と行っても、市軍警察官達はロイ達の激しい動きに対して誤射してしまうことを恐れて、手にした機銃をなかなか発砲できないでいる。故に、防衛線を実質的に死守しているのは、前線で激闘を繰り広げるたったの2人である、と行っても過言ではない。

 「ホンット、しつこい水どもだなぁっ!」

 ロイは津波の中から飛び出してきた騎士型の水霊に対して転身、尻尾で叩き飛ばすと、そのままクルリと正面を向き直って氷と風の混じりあった竜息吹(ドラゴン・ブレス)を吐き出す。極寒の地の冬に吹き荒れる吹雪のような、光すら飲み込むようなブリザードが水霊たちの下部を凍り付かせる。

 しかし、水霊の後続は凍り付いた部分を即座に乗り越えて溢れると、何事もなかったように車列の真後ろに迫ってくる。

 そこで、レナが無反動砲を担いで飛び出すと、即座に屈んで発射。狙いはロクに定めていないが、この閉鎖空間で近距離では、どこに向けてぶっ放そうが当たる。

 ズンッ! トンネルを揺るがすような爆音と共に、無反動砲から飛び出した氷霊をたっぷり含んだ弾頭が暴れ回り、水霊による津波の土手っ腹に放射状の氷結を作り出す。しかし、水霊の動きはロイの攻撃を受けた時と同様だ。氷を砕くより早く、氷結の及ばぬ隙間からゴボゴボと一気に流れ込むと、やはり何事もなかったように追い立ててくるのだ。

 「チックショウ、全然キリがねぇじゃん!」

 レナが舌打ちして喚きながら、間近に迫った獣型の水霊を砲身でブッ叩く。砲身には対暫定精霊(スペクター)用の物理系魔化(エンチャント)が施されており、純然たる液体の性質を持つ水霊も堅くなった餅のようにベシャンと潰れながら吹っ飛ぶ。

 「なぁ、『暴走君』よっ!」

 レナがチラリとロイに視線を走らせて叫ぶ。

 「ああ!? なんだ…よっ!」

 ロイはなだれ込んできた騎士型や獣型の数匹の水霊を、竜の鉤爪が生えた脚の斬撃で斬り飛ばしながら、大声で聞き返す。

 「この戦い、不毛過ぎだと思わねーか!? 術者…いや、術者"ども"だな! 奴らをハッ倒さねーと、いつまで立ってもキリなんてねーよな!?」

 言葉尻と同時に無反動砲をぶっ放し、再び水霊を氷結させるものの、やはり水霊は隙間をついて一気に押し寄せてくる。

 そこに合わせてロイが竜息吹(ドラゴン・ブレス)によって極寒のブリザードを吐き出し、水霊達を横倒しになった極太の氷柱(つらら)のような形で凍結させることに成功する。水霊の前進が一時的に止まり、2人は「ふぅ」と一息を吐くものの、座り込むような真似は絶対にしない。水霊がすぐに凍結を解除して追いすがってくることを知っているからだ。

 現に、固まった水霊はブルブルと激しく揺れ動き、凍結した表面に亀裂を走らせている。長く()って十数秒、その後はまたも何事もなかったように津波となって押し寄せてくるだろう。

 しかし、前線を支えて動き続けている2人には、貴重な休憩の機会だ。ゆっくりと深呼吸して息を整えながら、会話を続ける。

 「まぁ、それが正論だってのはよくわかるンだけどよ」

 ロイが先のレナの質問に答える。

 「術者(ヤツら)をぶん殴るにしても、此処(トンネル)の外に出ねーと手の打ちようがねーよ」

 そう言ってから、ロイは視線を宙に泳がせながら「あ、そういやぁ」と言葉を続ける。

 「蒼治やノーラなら、暫定精霊(スペクター)の魔力供給を逆進して、呪詛返し出来るかも知れねーな。

 なぁ、レナ、あんたも魔術得意じゃねーか? そういうこと、出来ないのか?」

 レナはまたも年下のロイに呼び捨てされたことに眉を曇らせながらも、その突っ込みを入れる余裕はないので、質問にだけ答える。

 「出来るなら、とっととやってるっての。

 それに、この水霊は複数の術者によるものだからさ、魔力供給を逆進しようにも、こんがらがってどうしようもねーって。

 蒼治ならどうか分かんねーけど、ノーラって一年女子には無理だろ」

 そしてレナは、「それはそうとよ」と話題を変える。

 「水霊達(あいつら)の動き、なんか妙だと思わねぇか?

 "パープルコート"の奴らは、あたしらが地球圏治安監視集団(エグリゴリ)本隊に駆け込まれるのを嫌がってるんだろ? それなら、ここであたしらを一気に仕留めて口封じをすりゃ良いはずだ。

 こっちの戦力は、はっきし言って、[[rrb:芳>かんば]]しくない。市軍警察官どもの練度は低くて、あたしらじゃとてもじゃないがカバーしきれねぇ。相手(パープルコート)がその気を出しゃあ、すぐに捻り潰せるだろうぜ」

 「そんな事、オレが絶対にさせねぇけどなっ!」

 バシンッ! と拳と手のひらを打ち合わせ、ロイが牙をギリリと噛みしめながら即座に反論する。が、レナはすぐにパタパタと手を振って、"そういう事を言いたいんじゃない"と意志表示する。

 「まぁ聞けって、暴走君よ。

 あたしが何を妙だと思ってるかと言えば、相手(パープルコート)が仕留めに掛からずに、あたしらを地上に追い立ててるような動きを見せてることだ。

 あたしらが地上に出て、てんで散り散りバラバラに逃げたら、捕まえようったって簡単にはいかなくなるだろ? そしたら立場が悪くなるのは、"パープルコート"の方じゃねーか?」

 と、同意を求める言葉を口にしたレナだが、すぐに発言を撤回するように口を(つぐ)むと、両手を肩の高さに上げてヤレヤレと首を左右に振る。と言うのは、同意を求めるロイが、理解が追いつかないようにポカンとした表情を見せているからだ。

 「ゴメンな、暴走君。そういやおまえ、見るからに脳筋だもんな。物事の裏を考察するより、とにかく殴ってブッ倒すことしか考えてねーよな」

 毒舌の紫に劣らぬ言い方をしたレナであるが。ロイは頭にカチンとすることなく、平然と聞き流した…だけでなく、飄々(ひょうひょう)とこんな事を言ってみせる。

 「やっこさんたち、オレ達の排除よりも『バベル』って奴の起動を重視してンだろ?

 オレ達も地上の戦場に引きずり出して、エントロピーを上げたいって魂胆なんじゃねーの?」

 この発言に、レナはパチクリと何度か瞬きをしてみせる。

 "暴走君"として有名なロイの口から、知的な正論が飛び出すなどと、レナは予想だにして居なかったのだ。

 「…おまえ、ちゃんと物事を理論的に考えられるんだな…。

 てっきり、行き当たりばったりを力業で押し通ってるモンだと思ったぜ」

 その台詞にロイは、ちょっとムクれながら苦笑いを浮かべる。

 「オレだってユーテリアで勉強してる身だっての。

 確かに座学って奴は退屈だし苦手だけどよ、それでも筆記試験で赤点取ったことはねーンだよ、オレは」

 「へぇ…そりゃ素直に感心したぜ。

 おまえ、どー考えても体で成績稼いでるタイプ――」

 そう語ってる最中、ヒュッ! と鋭い風切り音が会話に割り込んで来る。レナはその音に反応できず、胸中で何の音かと疑問符を浮かべることしかできなかった。

 しかしロイは銃撃もかくやと云うほどの速度で握りしめた拳を放ち、レナの眼前に烈風を起こす。レナがギョッとするより早く、バシャンッ! と盛大な破裂音。同時に、レナの顔に冷たい飛沫が降りかかってくる。

 飛沫の正体は――水だ。

 そして風切り音の正体は、水が弾丸のように打ち出された音だったのだ。

 それをロイは会話しながらも機敏に察知し、拳を竜鱗で固めた上で水の弾丸を叩き壊してみせたのだ。

 「お…おわぁ…」

 ようやく声を絞り出し、現実を確かめるように何度も瞬きする、レナ。そんな彼女に対して早々と(きびす)を返したロイは、レナの前で身構えては手足を烈風のように振るい、バシャンバシャンと水の爆ぜる音を発生させながら語る。

 「お(しゃべ)りはいいけどよ、今は戦闘中ってこと、忘れンなよ。

 いつでも神経研ぎ澄ませておかなねーと、冗談じゃなく、命を無くしちまうぜ?」

 水の弾丸を次々と破壊するロイの背越しに見ると、凍り付いていた水霊に幾つもの亀裂が盛大に走り、その合間から消防自動車の放水を思わせるような激しい水流が吹き出ている。この水流が小さな槍のような形状となって、こちらに飛来してくるのだ。

 この有様を暫く呆然と眺めていたレナであるが、視線の先で凍結した水霊の彫刻がいよいよバキバキと砕け、小さな激流が溢れ出て来るところを目にした瞬間、電撃的に体が動く。無反動方を構え、再び氷霊と風霊をミックスした術式砲弾を形成すると、ズドンッ! という轟音と共に撃ち放つ。

 流れ出たばかりの激流と激突した術式砲弾は、早速激流を凍結させたが…。氷の塊は即座にブルブルと大きく震えて、今にも砕けそうになる。大した時間稼ぎにはなりそうもない。

 「チックショウ! つまり、暴走君が言うことが正しけりゃ! あたしらはこのままうまく進んでも、ヤバヤバな戦場の真っ只中に放り込まれちまうってワケかよ!」

 その悲鳴にダメ押しをするかのように、氷結した水霊が一気に瓦解。津波のような有様で車列へ即座に追いすがって来る。

 「無駄口叩いてる暇あるなら、とにかく水霊(あいつら)を吹っ飛ばせ!

 "パープルコート"どもはオレ達を地上に引きずり出したがってるみてーだが、全員無事に出してくれるとは限らねーからな! 何人か殺して発破をかけてやろう、なんて思ってるかも知れねー!」

 「分かった、分かった! 何はともあれ、ここを切り抜けねーとどうしようもねーよな!」

 ――この後、ロイとレナの2人はロクに会話も交わさず…かと言っててんでバラバラに動くでなく、むしろ更に連携を取り合って、水霊の猛攻を凌いでゆく。

 

 一方。車列の先頭でも、現状について疑問を抱いている者がいる。先頭車両の上に立って前方の確認および誘導の指示を出している、紫である。

 運転手の動揺が手に取るように分かるようなグラグラとした横揺れに苛まれる他、通信機のスピーカーからひっきりなしに聞こえる運転手の恨み言や祈りの言葉にウンザリしながらも、彼女は冷静さを保って現状を分析していた。

 (私たち…完全に誘導されてるわね…)

 そのように考える根拠を紫は、最後尾に居るロイ達以上に、確信として実感している。

 その理由は、主に2つ。

 1つは、分岐路についてだ。アルカインテールの地上部と地下の"ホール"をつなぐトンネルには、幾つもの分岐がある。この分岐地点に差し掛かると必ず、一方のみの通路を残して、全ての通路が幾重もの岩盤の壁によって閉鎖されてしまうのだ。上下左右からせり上がる直方体の形をした岩盤が重なりあって形成された行き止まりは、おそらく数メートル単位の厚みを持っているだろう。時間を掛ければ穴が開けられないワケではなさそうだが、全速力で走る車をスムーズに通過させることは不可能だ。むしろ、行き止まりに激突して惨事を招くことになるだろう。

 そこで、塞がれていない唯一の経路を選択する以外に道はなくなるのだが、ここに第2の根拠の理由がある。唯一口を開いている経路の路上には必ず、小川のような水流がチョロチョロと一直線に走っているのだ。

 この水流は、形而上相から視認せずとも、はっきりと異様が認められる。トンネル内の照明の反射とは明らかに異なる、青白い魔力励起光が見て取れるのだ。そして実際に形而上相から視認を行うと、高密度の術式で満たされていることが分かる。

 (私たちを襲撃している暫定精霊(スペクター)の、発生源ね)

 その結論はトンネル内部に入った瞬間から、紫の胸中に刻まれている。

 同時に紫は、疑問符を頭に浮かべている。

 (もしも私たちを倒すつもりなら、車列をトンネル内に誘導した時点で、車の真下を流れるこの水でスパイクみたいなトラップを作って、行き足を止めるはず。

 なのに、ひたすら暫定精霊(スペクター)を操って、煽るだけ煽りまくってる。

 つまり、私たちを地上に出したがってる)

 その思考まで辿りついた紫は、ロイと同様の答えを導き出す。

 (私たちも戦場に引きずり出して、『バベル』ってヤツの(エントロピー)に荷担させるつもりか…!

 …でも、地上に出た私たちが一気に散り散りになったら、"パープルコート"は分が悪くなるはず。

 それでも敢えて地上に誘導してるってことは…地上には、私たちを確実に逃がさないための罠を張ってるってことか…!

 一体、どんな手を使ってくるつもり…?)

 紫が頭を捻って考えていると、スピーカーから運転手の「今度はどっちに行けば良いんだよーっ!」という情けない叫び声が響いてくる。まるで思考を頭に張り付けるように、皺を寄せた眉間に親指をグリグリと押しつけた紫は、運転手から見えやしないのに腕を大きく右に振って喚く。

 「右よ、右! 左は塞がって来てるじゃん、見て分かんないの!?」

 今、紫たちはちょうど分岐地点に差し掛かるところであった。前方の左側の道は、紫が言う通り、岩盤の壁がメキメキと上下左右から幾つも飛び出して、道を塞いでしまっている。どう考えても右にハンドルを切るしかないのだが、運転手のパニックは正常な思考を完全に奪うほど酷いようだ。

 「…ホントにアンタ、職業軍人なの!? いい加減覚悟決めてさ、学生なんかに指図されてる身を恥ずかしいと思わないワケ!?」

 もう何度も口にしている悪態であるが、運転手は「こんな経験ないんだよっ! パニクっても仕方ないだろ!」とお決まりの言い訳をするだけだ。こんなやり取りするのは精神健康を害するばかりで虚しいばかりだと理解しているが、グッと(こら)えられるほどに紫は大人びてはいなかった。

 (…どんな罠が待ってても良いや、とりあえず外に出れば閉塞感が消える分、少しはマシになるわよね…)

 そう考え直した後、車列が驀進を続けること十数分。分岐路を一つ経た後に、前方にトンネル照明とは異なる色彩豊かな光が見て取れる。

 ――トンネルの出口だ!

 (鬼が出るか、蛇が出るか!)

 両手に握った魔装(イクウィップメント)の大剣を柄をギュッと握り直すと、ヒィヒィと泣きじゃくる声を上げている運転手を怒鳴りつけながら励ます。

 「ホラッ、前見て! もうちょっとで外だから! アクセル全開にして、一気に突き抜けるわよ!」

 運転手からは何の返答もなく、装甲車も速度が上がった様子はない。おそらく既にアクセルを一杯一杯に踏んでいるのだろう。紫はそんな事は見越してはいたが、今にも(くじ)けそうな運転手をどうしても鼓舞せずには居られなかったのだ。

 

 出口の光はだんだんと大きくなり、やがて灰色の瓦解した建造物や、その合間に見える青空などが見えてくる。不気味な魔力励起光に輝く水流は相変わらず路上を流れているものの、何の妨害もなく、すんなりと出口が近づいてゆく。

 最後の最後で岩盤の壁に阻まれるかとも覚悟していた紫であったが…その心配は杞憂に終わり、ついに車列の先頭は都市(アルカインテール)の地上部に飛び出す。

 

 アクセル全開の勢いに乗り、紫を乗せた装甲車はトンネルを出たと同時にビョンと宙に飛び出した。

 疾走感と浮遊感を同時に得る中で、都市(アルカインテール)を取り巻く結界越しの自然光に満ちる世界を五感で目一杯享受する。空間歪曲によってひしゃげたレンズのような有様になりながらも、深く吸い込まれそうな蒼穹を呈する快晴の空。そのど真ん中に、上から下へ向かってそびえ立つ無機質な細長い直方体が数個集まって構築された、小さな天国。その下に広々と広がるのは、爽やかな天空とは打って変わった瓦解した建築物群。そして、その合間から垣間見える、彩り豊かながら禍々しい術式ビーム砲や爆炎などの交戦の要素たち。

 (うっわ、ホントに派手にやらかしてるんだなぁ…!

 蒼治先輩もノーラちゃんも、そしてイェルグ先輩たちも、この中で必死に戦ってるんだろうなぁ…!)

 そんな思考を胸中に過ぎらせていた、束の間のこと。ふいに浮遊感は激しい震動へと取って変わる。装甲車が着地したのだ。

 運転手はアクセルを踏みっぱなしなので、着地後は多少のバウンドしながらも、即座に一直線に前進する。

 「おい、ここからどっちへ向かえばいいんだ!?」

 そんな運転手の叫びがスピーカー越しに耳をつんざくが、紫は自らを包む開放的な光景に暫し見とれてしまっていた。

 紫が無反応に間にも、後続の車両が次々とトンネルから飛び出し、ドスン! バウン! と着地音を響かせてから、キュルキュル! とタイヤを急回転させて紫達のすぐ後ろを追って来る。瓦礫を踏みつけるゴトゴトと言うタイヤの音に混じって、ガサガサと草むらが掻き乱される葉音がそこから中から発せられる。

 (――葉音…!?)

 紫は、ハッとして装甲車上から眼下を見下ろす。そして、丸く見開いていた赤みがかったブラウンの瞳が、驚きとも困惑ともつかぬ感情によってギュッと収縮する。

 トンネルの外は、元々は資源運搬車用の主幹道路だったのか、かなり広々とした平らな土地が広がっている。しかしその土地を覆う色は、アスファルトの呈する黒や灰色ではない。土地中をみっちりと覆う、膝ほどの高さもある草々が呈する新緑一色に染まっていたのだ。

 「何…これ!?」

 紫は思わず声を上げて、眼に宿った驚きと困惑が混じった感情を露わにする。

 植物読(プラント・リーディング)などの環境系技術や知識に長けた彼女は、この状況の異常さを瞬時に理解したのだ。

 まず、瓦解して人の手が入らなくなり荒野と化しとは言え、人工物がまだまだ大地を覆っている元市街地が、長くて一ヶ月放置されたからと言って、ここまでの草むらになることなど有り得ない。そして、草むらを構築する植植生もまた可怪(おか)しい。単一の植物しか生えていないのだ。自然に生成された草むらならば、多種多様な野草が入り乱れているのが当たり前だと言うのに。

 ――明らかに、人工的な光景。

 その感想を抱くと同時に、紫は頭を捻る。この光景を作り出したのは、自分たちをおびき寄せた"パープルコート"に違いない。しかし、この光景が彼らにとって、どんなメリットがあると言うのだ?

 (普通に考えるなら、この草の性質に戦略的なメリットがあるんだろうけど…。

 見たところ、何の変哲もないタケ科の植物よね…。魔法的性質は、特に感じられないし…)

 相変わらず耳元では運転手が叫びまくっているが、紫は頑としてそれを鼓膜で跳ね返しながら、考えを巡らす。

 

 そうこうしている内に、車列はやがてロイ達を乗せた最後尾が地上に姿を表し、蘇芳の率いる"ホール"の避難民たちは全員地上に到着したことになった。

 地上に飛び出した瞬間、ロイは真っ先に眼下の光景に反応し、

 「おお!? なんだなんだ、このモッサモサの草は!?」

 と声を上げた。

 最後尾の装甲車が姿を現した直後、トンネルの中からは津波のような暫定精霊(スペクター)がドバドバと雪崩込み、姿を現した…その直後。

 緑一色の大地に、異変が起こる。

 

 異変の引き金は、水の暫定精霊(スペクター)によって起こされる。

 それまで百鬼夜行を思わせる複雑怪奇な様相を呈していた津波であったが、トンネルを出た途端、灼熱した鉄板の上に置かれた氷のごとく、直ちに形状をドロリと溶融すると、静かに薄く広がって緑一色の大地に浸透してゆく。

 「なんだってんだ、いきなり…?」

 ロイが首を傾げた、その途端。大地がゴゴゴ、と重低音を上げながら激震。全速力で突っ走り続けていた車列は、突然の横揺れによって大きくバランスを崩されてグラグラと激しく揺れ動く。

 「水の次は、土かよ!?」

 ロイの隣でレナが叫ぶが、彼女の言葉は全くの的外れであった。その証はすぐに、ロイ達の眼前に呈される。

 ゴガガガッ! 土と瓦礫を割る轟音が響いたかと思うと、車列に所属する者達は皆、天を衝く急激な浮遊感に襲われる。

 「わあ…っ!」

 車上にいた市軍警察官の幾人かは突き上げる衝撃に踏ん張りきれず、車の上から吹き飛ばされる。そのまま緑一色の大地に激突するかと思いきや――着地するより早く、彼らは節くれだち、曲がりくねった"柱"に激突する。

 ――いや、"柱"ではない。深い緑色の表面をしたそれは、植物の幹だ。これらが突如としてそびえ立った為に、車列は上に突き飛ばされたのだ。

 「な、なんだってんだぁ!? こいつぁ!?」

 車列のほぼ中央、通信用装甲車の中で待機していた蘇芳が、人員収納スペースの壁に描画された外界の様子を目にしながら叫んだ、その時。運転席の方から悲鳴が上がる。何事かと思って振り返ったその時、彼が目にしたのは、大蛇のようにくねりながらこちらに延びてくる、植物の幹だ。

 「おおおっ!?」

 驚愕の声と共に屈み込み、植物の幹を頭上にやり過ごした、蘇芳。植物の幹はそのまま収納スペースの壁に激突すると、幹から沢山の枝を伸ばしながら、メキメキと音を立てながら太さを急激に増加させる。

 「うっわ、なんだってんだ!

 ベッ! ベッ! 葉っぱが口ン中に…!」

 蘇芳が騒ぐ通り、延びた枝からはワサワサと細長い形をしたタケ科の葉が延びる。その密度たるや、手つかずのまま数年もの間放置された藪の中のようで、うまく身動きが取れない。

 「ヤメロ…この…いい加減にしろ…!」

 全身を荒々しく撫で回す不快感に対して、反射的に身を揺する蘇芳であるが、葉の密度はますます増すばかり。それどころか、鋭い葉の縁が手の皮膚をザックリと切りつけて、出血してしまったほどだ。

 「こんなんじゃ、指揮するどころか…!」

 悪態を吐いてる最中、収納スペースをギチギチに満たすほど成長した植物は、車体にメリメリと悲鳴を言わせながら、ゴゴンッ! という音と云う音と共に激しく傾ける。フロントが重力方向に向いた今、装甲車は逆立ちするように有様になっているようだ。

 加えて、上昇する緩やかな加速度も感じられる。――つまり装甲車は、まるでこの植物の果実であるかのように幹に捕らえられ、空中に持ち上げられていることになる!

 この状況は、蘇芳の乗る車両に限った事ではない。車列に属する全ての車が幹に押し上げられては隙間から侵入され、宙に持ち上げられてゆくのだ。

 ここの今、車を実として持つ果樹園が誕生しつつあった。

 「おわわわっ!」

 車上では市軍警察官達が傾きに対応できず、装甲の表面を滑ってそのまま眼下へと落下してゆくばかりだ。落下の途中に幹に捕まって事なきを得るものも居たが、そのまま瓦礫の大地に激突して悲惨な目に遭う者も続出する。

 車内では運転手も避難民も、わーわーぎゃーぎゃーと喚き声を嵐のように巻き上げ、阿鼻叫喚の有様を呈している。

 この混乱の中、車列先頭の紫はうまくバランスを取って落下を免れながら、彼女を捕らえるように延びてくる幹を大剣でもってことごとく斬り飛ばしている。

 (これか! このための布石が、さっきの草か…!)

 紫は顔面めがけて迫る幹の先端を両断しながら、舌打ちして胸中で毒づく。

 車列を絡め取った樹木は、先刻トンネルの外の大地を覆っていたタケ科の植物が急成長したものだ。幼年期は草の形状を取り、成熟すると樹木の体を成すこの植物は、本来ならば通常のタケ科に(なら)い、天上めがけて真っ直ぐの延びる。現状のように蛇のごとく曲がりくねることなど有り得ないのだが、それを成したのは植物を急成長させた水霊系の魔術によるらしい。

 そして、その魔術は植物の形状を歪めるだけでなく、その物性強度も高めている。紫が自らの魔装(イクウィップメント)で作った大剣が幹をザクザクと斬り捨てられるのは、刃が熱震動を帯びているためだ。これ無しに単なる刀剣で幹の切断を試みたのならば、間違いなく刃こぼれするどころか、刀身がへし折れてしまうことだろう。

 (全く! 面倒なことやってくれるわねっ!)

 空間を埋め尽くす植物は、毒を帯びているワケでも、先端が鋭利になっているワケでもないので、ぶつかっても打ち所が悪くない限りは命取りにはなり得ない。だが、視界内に多数の死角を作り出し、密度によって動きを制限してくるのは困り者だ。

 この緑の混沌の中に紛れて、"パープルコート"の兵力が襲いかかって来たらどうなるか。練度の低い市軍警察官達は、あっと言う間に全滅の憂き目を見ても可笑しくはない。

 (…とりあえず、動けるように空間を確保しないと!)

 取り急ぎ自分の周囲の木々を斬り捨てた紫は、次に自らが乗る装甲車を木々から開放すべく、運転席から内部へと侵入している太い幹へと向かう。

 この幹を切断したところで、車内に充満した枝葉が直ちに枯死することはないだろうが、成長を食い止められる。後は紫の腕部装甲に格納された電極様武装でうまく電撃を流せば、枝葉を炭化させて車内の者達を解放することが出来るはず。

 その目論見を実行に移すべく、車上から跳び出した紫は、大剣の切っ先を真下に向けて、未だに太さを増大させている幹へと刃を突き立てるために落下する。

 熱震動によって(まばゆ)い橙色に染まる刃が、節くれた幹へと潜り込む――その直前。

 「やらせんっ!」

 突如、木々の間に木霊(こだま)する、生真面目な叫び。同時に、紫の着地点に小さな独楽(コマ)にも見える空気の渦が生じる。直後、渦は急激に体積を増し、空気中の砂塵を取り込んでか帯電しながら紫の全身を包み込む。

 (なっ!)

 体に激突する烈風のみならず、皮膚上でバチバチ小さく爆ぜる電光の痛みに苛まれる紫は、大剣を抱えたまま顔面を守るように腕を引き上げて防御態勢をとる。そんな紫の体を、渦はグンッと持ち上げて、車両より数段高い位置へと放る。

 (なんだっての!?)

 ようやく颶風(ぐふう)から解放され、頭を下にして自由落下する紫は、即座に体勢を立て直しながら周囲の状況を確認する…と!

 ドドドドンッ! 連続する発砲音と共に、魔力励起光の尾を引く弾丸が四方八方から紫の元へと迫り来る。

 「ああっ、もう!」

 紫は声を荒げながら、大剣の峰に内蔵されたバーニア推進機関をふかし、高速で落下。弾丸をやり過ごしながら、木々の幹が乱立する大地へ着地する。

 文字通り地に足が着いたところで、改めて周囲の状況を確認した紫は…思わず額や頬をジットリと冷たい汗で濡らす。

 木々の合間から、魔化(エンチャント)の気配がバリバリする外套を羽織り、軍服と軍帽に身を包んだ者達がゾロゾロと顔を出していたのだ。彼らの手には銃剣があり、先ほどの銃撃はこの武器によるもののようだ。

 軍服や軍帽のデザインは、市軍警察のものと全く異なる。そして、胸元にハトの翼を持つ紫色の輪をまとった地球のマーク…地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のマークである。

 避難民の一団を地上に誘い出した"パープルコート"の部隊が、交戦をしかけて来たのだ!

 しかも、単にこちらを殲滅しようとしている気配は全くない。それが真意ならば、トンネル内でとっくにやらかしているはずだ。加えて、彼らの面立ちもまた、それを否定している。理由もなくやたらに他人(ヒト)に因縁を仕掛けて楽しむような、粗暴で下卑た(わら)いが張り付いている。

 地球の守護者というよりも、ならず者の集まり、と云った表現がしっくりくるような連中だ。

 "パープルコート"の連中は、紫に銃口を向けてニヤニヤと威嚇している者も居れば、木々に捕らわれた装甲車に弾丸を当てて、中で身動きが取れないでいる避難民たちの恐怖を煽り立てて悲鳴を耳にしては、ヒャハハ、と下品な爆笑を上げている者もいる。正に、外道の所行である。

 (こいつら…!)

 紫は大剣の柄をギリリと握りしめ、火を吹き出しそうな視線で"パープルコート"の不良部隊を睨みつけると、彼らを撃破すべく跳び出した。

 ――が、その瞬間。ドンッ! と発砲音と共に、紫に体に的確に迫る弾丸。紫は即座に反応して大剣の腹で弾丸を防いだが、着弾の瞬間、弾丸は強烈な衝撃波と騒音をまき散らす。紫の体は宙を転がりながら吹き飛び、脊椎反射的に両手が大剣を離れて耳を塞いでしまう。

 こうして大剣を取りこぼした数瞬の後、紫は"しまった"と目をハッとさせた…直後、背中が木の幹に激突。

 「カハッ!」

 肺から絞り出される空気が咳となって飛び出し、紫の体は瓦礫の大地に転がる。

 それでも紫は、豊富な戦闘経験の賜物か、思考はほんの一瞬の寸断をもってすぐに回復する。

 (早く剣を…!)

 衝撃がまだ背骨を軋ませる中、紫は体に鞭打って四肢を踏ん張り、立ち上がろうとする。

 しかし、その試みは激痛と、彼女自身の絶叫と共に阻止されてしまう。

 「ぐぅあああぁぁぁ…!」

 思い切り叫びながら、激痛の源である右手を見れば…手のひらにグッサリと刺さった銃剣の切っ先がある。

 そして、銃剣を辿って視線を上げれば…そこには、"パープルコート"の軍服に身を包んだ1人の兵士が仁王立ちしている。その顔はオオカミのそれで、彼が獣人属であることを物語る。その表情はほかの"パープルコート"隊員とは異なり、(いわお)のように堅苦しい生真面目面だ。

 

 彼こそ、ゼオギルド・グラーフ・ラングファー中佐の副官であるオルトロン・ラゴット大尉である。

 

 「恨みは、ない」

 オルトロンは犬歯ばかりの口を動かして、面持ちに見合った堅苦しい声を出す。

 「だが、これが命令だ。

 私はこれから、君を思いきり痛めつける」

 「あっそ…!」

 紫が脂汗まみれの顔でニヤリと反抗的な笑みを浮かべて答えた、その瞬間。オルトロンの靴底が紫の顔面をめがけて振り下ろされる。

 右手を固定されながらも、紫は痛みを(こら)えて体を動かし、オルトロンの足をなんとかやり過ごす。しかし、その行動は(かえ)って彼女に悲劇をもたらすことになってしまう。

 虚しく地を踏んだと見えたオルトロンの足が、滑るように動くと。固い革靴の先端が、紫の鼻の辺りにドガッ! と突き刺さったのだ。

 「あうっ!」

 悲鳴と共に宙を舞う、痛々しい鮮血。反射的に瞼をギュッと閉じたまま動きを止めてしまった紫の顔面に、再びオルトロンの靴底が襲う。今度は回避できず、紫は焦土の匂いがこびりついた靴底で頬を踏みつけられ、グリグリと(こす)られる。

 「私とて、女子にこんな行為をするのは本意ではないが…」

 語るオルトロンの表情は鏡面のように無表情だが、黒々としたオオカミの瞳の奥には苦々しげな輝きが鈍く灯っている。

 「命までは取らない。君には、エントロピーの足しになってもらえれば、それで良い」

 このような屈辱的暴力を身に受けながらも…しかし紫は、彼女の強靱な精神力は、決して折れない。

 「命までは取らないから…黙って足蹴にされてろ…っての!?」

 靴底で頬を抉られているが為に声をモゴモゴとくぐもらせながら、紫は反抗的な声を上げた…その言葉尻にて、紫は左手で拳を作ると、足蹴をするオルトロンの足首を殴りつける。

 体勢が十分でない拳撃など、屈強な地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の士官には脅威となり得ない…はずであった。

 しかしオルトロンは、拳撃ギョッとすると、思わず後方に大きく跳び退(すさ)る。

 直後、紫の顔面の上、オルトロンの足が置いてあった空間に、烈風の勢いで銀閃が走る。紫の右腕部の装甲に内蔵されていたパイルバンカーが炸裂したのだ。オルトロンは跳び去られねば、足首から先をゴッソリと抉り取られていただろう。

 「こいつっ…」

 紫の起死回生の一撃を回避したオルトロンは、反撃すべく右手に魔力を集中。黒味がかった青色の魔力励起光を放つエネルギー体を作り出し、それをぶつけるべく紫へと再び接近する。

 一方、紫も自らの力でこじ開けた好機をみすみす逃しはしない。ギュッと唇と閉じて決心すると、銃剣の刃が刺さる右手を一息に動かし、骨肉を切り裂かれながらも引き抜く。中指と人差し指の間から掌まで至る深い斬り傷が刻まれ、鮮血と共に激痛が走るが、悶えている(いとま)などない。左手で右手の傷口を合わせるように握り込み、得意の治療魔術を発動させながら地面を転がる。そして3転したところで、勢いのまま跳び出すように立ち上がった。

 その時には既に、オルトロンが肉薄しており、暗く輝く右拳を紫の脇腹へと放っていた。が、紫は左脚を振り上げて応戦、オルトロンの肘をピンポイントに蹴りつけて、その軌道を逸らしながら自らも転身。まるで闘牛士のようにオルトロンの攻撃をかわす。

 傷つきながらも見事な身のこなしに、傍観している"パープルコート"の部下たちから口笛が漏れる。

 「くそっ…!」

 オルトロンの唾棄は紫に対してだけでなく、自分を(ないがし)ろにする部下達――性格にはオルトロンの直属ではなく、ゼオギルド直属の部下達だ――への苛立ちも含まれている。

 一方で紫は、握りしめた右手にいまだ治療魔術を発動させながら、脂汗の絶えない顔に精一杯の強がった笑みを浮かべる。

 「ったく! こんな美少女になんて仕打ちすンのよ! 右手に(あと)が残ったら、どうしてくれるワケ!?」

 「…そんな心配、二度としなくても良いようにしてやろう…!」

 苛立つオルトロンは、素早く右腕をサッと上げる。その合図で、下卑た笑いを浮かべていた部下達が次々とと、木々の枝から跳び出して着地したり、幹の裏側から姿を現したりし、紫をあっという間に囲んでしまう。彼らの手には漏れなく機銃が握られており、指はトリガーに置かれていて、いつでも射撃が出来る状態だ。

 「ユーテリアの女子学生君、元気が無駄なくらいに有り余っているようだね。少し、大人しくなってもらうよ」

 そんなオルトロンの台詞に、紫は脂汗を浮かべたままながら、プクク…と笑いを漏らして…ついには、アハハハ! と声を上げて笑う。

 「今時聞かないよ、そんなテンプレな悪役の台詞!

 まぁでも、女の子一人に寄って(たか)るような腰抜けには、そんな台詞で十分かー! 下手に決まった台詞言われてもさー、間抜けさが際立つだけだもんねー!」

 そんな減らず口を叩かれたオルトロンは、黒々とした眼に憤怒の炎を(たた)え、牙を剥き出しにしてグルルル、と唸る。オオカミの毛並みに覆われているお陰で顔色は分からないが、毛並みの下では皮膚が烈火の如き真紅に覆われていることだろう。

 部下達にすらヘラヘラと笑われる中、オルトロンは耳元まで避けた口で叫ぶ。

 「徹底的にやれっ!」

 その瞬間、減らず口を叩き続けていた紫であったが、正直に言って脳裏では焦燥に駆られていた。武器の大剣は手元にないし、有ったとしても右手の状態は万全とはいえないので扱えない。この窮地を打破するには防御と回避に専念する必要があるが、治癒魔術と防御魔術を併用出来るほど紫は魔術に長けてはいない。となると、魔装(イクウィップメント)の装甲強度と自らの身のこなしに頼るしかないが、向けられた20を越える銃口を前にどこまで耐えられるであろうか。

 (…んもうっ! 強がったっちゃんだからさ、やるしかないって!)

 覚悟を固めた、その時。彼女の意志が天に届いたとでも言うのか、好機が訪れる。

 ズガガガガガッ! 甲高く響く掃射音に対して、弾道を見極めるべく神経を尖らせた紫であったが…転瞬、集中はポカンとした弛緩が取って代わる。何せ、掃射音の生み出した魔力励起光を帯びた弾道が襲ったのは、オルトロン達"パープルコート"隊員なのだから。

 「!?」

 オルトロンだけでなく、その部下たちも流石に笑みを消して掃射音の方へと一斉に振り向くと…そこに居たのは。

 「地球の守護者を(うた)う男達が、なんとも卑劣で情けない姿だな!」

 そんな鋭い台詞を発したアルカインテール市軍警察官、竹囃(たけばなし)珠姫(たまき)だ! そして彼女の周囲には、多少緊張した面持ちをした、同僚および部下の市軍警察衛戦部の隊員達が機銃を構えて、"パープルコート"の部隊を牽制している。

 

 車列が木々の異常成長による混乱が発生した当時、珠姫は状況に驚きながらも、すぐに思考を切り替えて状況の打破に頭を巡らせた。

 "パープルコート"の隊員の仕業であると即座に理解した彼女は、急成長する木々の間を駆けめぐる"パープルコート"隊員を見つけては、得意とする射撃で次々に撃破。成長し切った木の幹を切り倒して車を解放することは出来なかったが、車内の避難民たちを勇気付けた上で、車上から振り落とされて混乱している衛戦部の隊員たちを片っ端から引っ叩いて冷静さを植え付け、統制を持ち直した。

 その後、蘇芳の乗る指揮車両に来訪。蘇芳が無事ながら、身動きが取れない状態を確認すると、数人の衛戦部の隊員を護衛に残し、車列先頭の紫の元に向かった。職業軍人としては悔しいが、経験も技術も豊富なユーテリアの学生なら、うまく蘇芳を解放出来ると考えたからだ。

 蘇芳を解放さえ出来れば、彼のカリスマ的な指揮能力によって、避難民たち全体の統制を取ることが可能になるだろう。

 そう判断した珠姫は部下達と全力疾走し、今こうして紫の窮地に駆けつけたのである。

 

 (市軍警察官(アヒル)風情が…!)

 オルトロンはこめかみに青筋を浮かべると、チラリと周囲を見回して部下達に目配せする。ガラの悪い部下達も自らより遙かに練度に劣る市軍警察の兵力に裏をかかれて苛立っており、オルトロンの号令なしにも彼らに弾丸をぶっ放す寸前の有様だ。

 (なんとか指揮系統を取り戻したところで、分はこちらにある!

 全員まとめて、『バベル』の(エントロピー)にしてくれる!)

 オルトロンが号令を出すべく右腕を上げた――その瞬間。ゴキリッ! と痛々しい打撃音が響く。同時にオルトロンは舌をダラリと出して白目を剥き、派手に吹き飛んだ。

 なにが起きたのかと言えば――"パープルコート"の意識から完全に外れた紫が、いまだ右手が治療中にも関わらずオルトロンの背後へと驀進すると、跳び膝蹴りを後頭部に抉り込んだのだ。

 「な…!?」

 予想だにしなかった奇襲に、"パープルコート"隊員が目を剥いて紫に視線を向ける。

 ――この瞬間こそ、市軍警察達の絶好の好機だ。

 「行けっ!」

 珠姫の号令が響くよりも早く、市軍警察官たちは手にした機銃を発砲。"パープルコート"達に弾丸を雨霰と浴びせる。

 「クソッ!」

 "パープルコート"達は魔化(エンチャント)によって強化された軍服のお陰で、直ちに落命するようなことはなかったが、後手に回って木々の間を逃げまどう。そこを珠姫が自らも機銃を構えて走り回りながら鋭く指示を飛ばし、"パープルコート"の追撃に出る。

 さて、白目を剥いて意識を寸断されていたオルトロンであったが、案外早く覚醒すると、思考の調子を(うかが)うように首を左右に振り、モゾモゾと起き上がる。

 …が、その途中で、彼の目の前に、ドスッ! と巨大な刃が壁のように立ちはだかる。ギョッと目を剥いたオルトロンが視線を上げると…そこには、右手の治療を終えた紫が、奈落のような悪意の陰を帯びた嫌味ったらしい嗤いを浮かべて、仁王立ちしている。

 「よくもやってくれたわねぇ…ワンちゃん…。

 この借りは、倍返しじゃ済まないからねぇ…!」

 数瞬の前に立場が入れ替わってしまったオルトロンであるが、彼は職務に忠実で生真面目な軍人だ。任務の放棄は毛頭考慮に入れず、最後まで戦い抜く決意を瞳の奥に灯す。

 「我々(エグリゴリ)がこの程度で終わると…!」

 語りながら両手に一気に魔力を集中。エネルギー体をまとった拳を振り上げて紫の顎を狙う。

 そこを紫は大剣を大地から引き抜きながらヒラリと転身し、華麗に拳撃をかわすと、その勢いのまま後ろ回し蹴りをオルトロンに見舞う。

 しかし、オルトロンも一度奇襲を受けて学習している。拳撃のモーションもそこそこに跳び退(すさ)り、紫の蹴りを鼻先でかわしてみせる。

 ――こうして両者は対峙すると、周囲で銃声が木霊(こだま)する中、改めて一対一の交戦を開始する。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

War In The Dance Floor - Part 5

 ◆ ◆ ◆

 

 さて、避難民たちの車列の最後尾に視線を向けると――そこに広がる光景は、先頭とは真逆とも言えるほどに、"秩序"という言葉が相応しい。

 とは言え、動きがないワケではない。むしろ、先頭部よりも激しい動きが目立つ。網膜を()くような鮮やかに過ぎる真紅の斬撃が宙を過ぎり、木の幹を炭化させながら派手に両断すると、木々に捕まった車両ごと地面に落下させる。ズズゥンッ! と大地を揺るがすような轟音と共に、もうもうたる土煙が上がる。

 「なんだ、クソッ!」

 「これでもう、3本目かよ…ッ!」

 「なんて野郎どもだ…! ただの市軍警察官(アヒル)どもじゃねぇぞ!」

 煙の内外でそのように毒づくのは、"パープルコート"の隊員達だ。彼らは全く以て"秩序"という言葉は似合わないほど混乱し切っており、吹き出した冷や汗を撒き散らしながら無駄に首を振って視線を動かしている。

 その一方で…ザッザッザッザッ! と統制の取れた疾走の足音が響いたと思いきや――土煙の中から次々と現れる、機銃を構えた市軍警察の衛戦部の隊員達。

 彼らの目には緊張の光が見え隠れしてはいるものの、怯懦の感情は全く見受けられない。そして敵たる"パープルコート"を視認すると、戸惑うことなく銃口を向けて、即座に射撃。彼らの手足や機銃を撃ち抜き、命を奪うことはしないが無力化する。

 しかし、基本的に練度が高い"パープルコート"達。市軍警察官の奇襲を受け、多少狼狽しても即座に体勢を立て直し、反撃して来る者も居る。そんな者達を真っ向に相手にする市軍警察官は、練度の低さから直ぐに苦戦を強いられるが。

 そこで土煙の中から新たな人影が1つ、颯爽と登場する。軍服ではなく学生服に身を包み、肩から無反動砲を下げ、手には小型拳銃を握りしめた少女――ユーテリア学生のレナ・ウォルスキーである。

 「せやあぁっ!」

 疾風のように現れたレナは"パープルコート"の顔面へと跳んで両膝をぶつけると、そのまま倒れ込みつつ肩に拳銃を一発ブチ込む。"パープルコート"隊員の体内に潜り込んだ術式弾丸は即座に効力を発行、神経を軽く焼き焦がす電流をビリビリビリッと流し、痛みに呻く暇も与えずに悶絶させる。

 その後もレナは即座に立ち上がると、洗練された体術で健在な"パープルコート"隊員を蹴り倒し、投げ飛ばし、撃ち抜く。地球圏の守護者を名乗る者達を相手に圧倒してみせるその動きは、まるで激流だ――滑らかに流れゆく柔らかさと、岩をも削るような荒々しさとを併せ持っている。

 そんなレナの姿は、"英雄の卵"というよりも、戦士を導く戦乙女そのものだ。

 しかし、そんな彼女も万能というワケではない。

 「レナさんッ! 上ッ!」

 市軍警察官の1人が叫んだ、その時。林立する木々の枝から飛び降りてきた、1人の"パープルコート"隊員が現れる。機銃を背に担いだ代わりに、両手にナイフを手にした彼は、肉体を強化・変質させる魔化(エンチャント)を施しているようだ。紫色に染まった、筋肉を岩石のように異様に盛り上げた巨躯で、レナの体に刃を突き立てようと落下してくる。

 レナはチラリと視線を上に向けたが、それ以上の対応はしなかった。いや、"出来なかった"のだ。というのも、彼女は別の"パープルコート"隊員と拮抗状態にあり、手が離せないからだ。

 このままレナは、無惨にも凶刃の前に倒れてしまうのか…と思いきや。彼女は全く焦ることなく、目の前の敵に集中をし続ける。まるで、頭上の相手など全くの脅威として見ていないように。

 その姿に少なからず苛立ちを覚えた頭上の相手は、こめかみに青筋を浮き上がらせ、威圧するかのように叫びを上げようと、歯が延びて牙と化した口腔を開き――。

 叫ぶより先に、まるでコマ切れのフィルムをつなぎ合わせたような感じで、いきなり吹っ飛んだ。

 この現象に、レナはニヤリと笑い、彼女と拮抗状態にある"パープルコート"隊員はゾッと顔色を青くする。

 直後、青く染まった顔色は頭上から踏みつけられ、地面に盛大にめり込む。一見すると死んでしまったのではないか、と思うほどの凄絶な有様ではあるが、ピクピクと体が痙攣しているところを見ると、とりあえずは命に別状はなさそうだ。

 一瞬にしてレナの窮地を救った"彼"は、倒れた"パープルコート"隊員の隣にスタッと清々しく着地する。その彼をみたレナは、笑いをそのまま歪めて、ちょっと不機嫌そうな表情を作る。

 「木を切り倒すだけだってのに、随分と時間が掛かったじゃねーか。

 アンタの鉤爪なら楽勝だって言ってたくせによ、『暴走君』」

 「悪ぃ、悪ぃ。野暮用が出来てよ、十人ばかしブッ倒してきたンだよ」

 レナとは反対に、特にムッとした表情を作っていないどころか、バツの悪そうな笑みを作って答えるのは、星撒部において『暴走君』と呼ばれる名人物、ロイ・ファーブニルである。

 「まっ、結果オーライだから許してやるよ。

 グズグズしてると、前のヤツらがこっちに来ちまうからな」

 レナは再びニヤリと笑みを浮かべると、周囲で油断なく状況確認している市軍警察官達に向けて、右手を高く差し上げながら叫ぶ。

 「よーっし! ここはこれでクリアだぜ!

 ここの守備は、車に乗ってた奴らに任せて! さっさと次の車両、解放しに行くぜ!」

 これに対して衛戦部の隊員達は、静かに同僚同士で視線を交わして頷くと、並んで走り出したレナとロイの後を、2列の隊列を組んで整然と追いかける。

 

 トンネルから地上に出てからと言うもの、異様な木々の急襲によって混乱の渦に叩き込まれて右往左往しているばかりの印象がある市軍警察官たちであったが。車列最後尾に居た彼らの有様は、一味違う。

 とは言え、トンネルから出たての頃は彼らとて狼狽するばかりで、職業軍人の名が泣くような取り乱しようであった。

 そんな彼らの背筋を正し、凛然たる勇気を取り戻させたのが、ロイとレナである。

 彼ら2人は同じ学校に所属しているとは言え、さほど接点があったワケではない。それでも混沌とした戦場の中、互いに為すべき事、補い合う事を把握し、一瞬たりともたたらを踏む事なく、迅速に状況を打開してきた。

 賢竜(ワイズ・ドラゴン)たるロイはその手足を禍々しいほど鋭い鉤爪を備えた竜脚と化し、木々をブッた斬り、枝に捕らえられた車両を解放。そしてすかさずに炎や雷撃の竜息吹(ドラゴンブレス)を幹の内部に叩き込み、枝葉を消し炭に変えて車内の人々を解放する。

 一方でレナは、手にした機銃と体術を駆使し、"パープルコート"の連中を打倒してゆく。将来を地球圏治安監視集団(エグリゴリ)での人命救助に当てたいと考えている彼女であるが、陸戦部隊に所属しても遜色ないほどに戦闘能力が高い。魔法技術は蒼治には及ばないし、接近戦闘もロイには及ばないものの、地の利や好機を巧みに味方につける戦い方は見事なものである。

 この2人の戦いぶりに魅せられた市軍警察の衛戦部の隊員達は、彼らに付いてゆくことで折れた心を取り戻したのである。年下の学生達に統率を預けていることになるが、それについて彼らは決して恥じてなどいない。死が直ぐ隣り合わせになっている戦場においては、老いも若きも関係ない。生き残れる力を持つ者こそが尊ばれて当然なのだ。そして現に、2人の学生に率いられることで、彼らは命を拾うだけでなく、仲間の救助まで実現している。

 こうして、ロイとレナを中心にした秩序が出来上がり、"パープルコート"と互角以上に渡り合っているのだ。

 

 ロイとレナに率いられた一団は疾風のように前進し、最後尾から4両目の車両の元に到達する。

 今回の車両は、ねじくれた枝にほぼ真っ直ぐに貫かれ、まるで丸焼きにされているブタのように屋根を逆さにしてブラ下がっている。避難民たちは人員収納スペースに押し込まれているが、窓がないために中の様子は分からない。しかし、高密度の葉や小枝に絡め取られて、身動きが出来ない状態に陥っていることだろう。

 「そんじゃ、またちょっくら行ってくるぜ!」

 ロイは車両を見るなりそう言い残すと、漆黒の竜脚で大地を蹴り、一気に数メートルの高度を跳躍。車両が捕まっている枝のところまで到達すると、そのまま右脚を半月を描くようにグルンッ! と回転させる。同時に、足先から飛び出した五指の鉤爪が空を裂いて鋭い衝撃の刃を作り出すと、ねじくれた木の枝に激突。ギャリギャリギャリッ! と耳障りな音を立てて、術式によって硬度が強化された樹皮が惨たらしくささくれながら深々と切り刻まれ――遂には、自重と車両の重量に負けて、メキメキボギンッ! と折れ曲がって落下する。

 (ドン)ッ! 大地を揺るがす轟音と共に、車両を絡めた大樹の枝が地面に激突する。車内からは人々の悲鳴が漏れるが、皮肉にも彼らを絡め取る枝葉がクッションになり、怪我をした者は居ないだろう。

 一方、車外では激突と共にもうもうたる土煙が衝撃的な烈風と共に爆発的に噴き上がり、異様のを土色の帳で覆う。

 この盛大な事象もさることながら、これを引き起こしたのがたった一撃の蹴りであることに、練度が高いはずの"パープルコート"も驚きの色を隠せない。

 この隙を見逃すレナではない。即座に、背後で隊列を組んでいる衛戦部の戦士達に合図すると、土煙に紛れて迅速かつ静かに散開。呆然とする"パープルコート"の隊員たちに魔化(エンチャント)された弾丸を浴びせ、次々に無力化してゆく。

 所々で響く銃声に"パープルコート"隊員達が次第に我を取り戻し、慌てて対応に回ろうとするが、時すでに遅しだ。

 「何をのほほんと呆けてンだよ、不良軍人ども!」

 土煙の中から"パープルコート"隊員の眼前に現れたレナは、思い切り顎を蹴り上げて一発で意識を奪い去ると。再び土煙の中に紛れながら、周囲の"パープルコート"達を次々と体術で叩きのめしてゆく。

 (よっしゃ、今回もいい調子だな!)

 流れるように事がうまく運んで行く様子に、レナは思わず口角を釣り上げてみせる。

 一方でロイは、車両に潜り込んだ大枝を排除すべく、切断した切り口と対峙すると、大きく息を吸い込む。炎と雷を混合し、出力を調整した竜息吹(ドラゴンブレス)を用いて、車内の人々を傷つけずに枝葉だけを消し炭にするつもりだ。

 吸い込む息を止め、胸を大きく膨らませたロイは、そのまま体内で生成した魔力を吐き出そうと、反った体を振り下げようとした――。

 

 ――その時だ。

 (ゴウ)ッ! 大気を盛大に切り裂く轟音が、ロイの耳に入る。何事かと視線を向けたロイ――竜息吹(ドラゴンブレス)を吐き出すことも忘れ、ポカンと大口を開いて煙のような術式を吐き出してしまう。

 何せ、眼前に巨大な――ロイの身長をスッポリと覆ってなお余りあるような断面積を誇る、金属の柱が砲撃のような勢いで迫っていたのだから。

 

 ゴギィンッ!

 金属同士が激しく激突した時のような、強烈な衝突音。そして、土煙を一気に振り散らすような突風。

 一気に晴れ渡った視界に、驚愕を禁じ得ないレナは、音のした方へと首を回すと。

 「ちょっ、ロイッ!」

 思わず、悲鳴が口を吐いて出る。

 彼女の視界に映ったのは、長大な金属柱に激突し、まるで丸めた紙屑のように宙を舞って吹き飛ぶロイの姿だ。

 こうして集中が途切れたレナに、"パープルコート"の隊員が好機とばかりに攻撃をしかけてくるが。彼女は苦々しい表情を作ったまま敵に向き直り、体術と機銃掃射で彼らを一蹴する。それから改めて、体ごとロイの方に向き直って、吹き飛んでゆく彼の姿を見やる。

 (もしかして――死にやしてないだろうけどよ、気絶しちまってるンじゃ――!)

 レナがゾワリと総毛立ってロイを見送っていたが、間もなく彼女の不安が杞憂であったことが分かる。ロイが背中から黒々とした竜翼を広げて羽ばたき、空中での姿勢を制御してみせたのだ。

 「なんだ、脅かしやがって…」

 思わず言葉を口に出しながら安堵するレナであったが、彼女の胸中は直ちに晴れ渡ったワケではない。むしろ、(イヤ)なざわつきが水に落とした絵の具の滴のように広がって行く。

 枝葉を取り除く作業の最中でも、奇襲に(うま)く対応していたはずのロイが、あんな巨大な攻撃をどうしてまんまと食らってしまったのか。そもそも、あの巨大な金属柱はどこから飛んで来たと言うのか?

 これまでは、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の一員というだけあって練度は高いものの、魔術を使えるゴロツキの集まりといった感が強かった"パープルコート"の兵力であったが…その中に、何かとんでもない隠し玉が潜んでいるのではないか?

 そんな不安のさざ波に翻弄されている中…彼女の(イヤ)な予感は、不幸にも、的中してしまう。

 空中で体勢を立て直したロイが、竜翼を大きく羽ばたかせてこちらへと帰還しに向かい始めた、その途端。なにやらキラリと銀色に輝く物体が、異形の林の中からロイを目掛けて飛び出してきた――と思いきや、銀色が急激に体積を膨張。巨大な半月上の金属塊と化すと、ギロチンのようにロイの体に叩き込まれる。

 「!!」

 声にならない悲鳴をあげたのは、レナだけではない。彼女の周囲で状況を鎮圧しつつあった市軍警察官達も、この光景を目にして足を止め、顔色を青くする。

 驚愕と不安の入り交じった視線に見守られる中、ロイは奇襲をうまく裁けずに金属塊をまともに食らい、黒い流星のように異形の林の中へと降下してゆく。

 (やべぇ! あいつ、助けてやらねぇと!)

 本日の混戦が始まってから今までというもの、時には背中を合わせるほどにごく身近に共闘してきた、相棒と評しても何の抵抗も感じない存在。そんなロイが一気に窮地に陥ったのを見て、レナは人情的にも、市軍警察を指揮する身としても焦燥に駆られる。

 これまで市軍警察の連中に指揮を出してきたのは、レナばかりであった。が、それはロイという強力な後ろ盾があってこそだ。それ失うことは、文字通り利き腕を失うに等しい危機である。

 周囲の軍警察官達にも声をかけて、ロイの元へと馳せ参じようとするレナであるが…そこを、土煙という邪魔立てが無くなった"パープルコート"達が、ここぞとばかりに押し寄せて反撃を加えてくる。

 (クソ…! こっちはこっちで、手一杯になっちまうか…!)

 ロイの元へ駆けつけたい気持ちは膨らんでゆくものの、レナはギリリと歯噛みをして衝動を噛み殺し、必死に冷静さを取り戻す。そして、後ろ髪を引く懸念を振り切るようにロイから視線をプイッと逸らすと、ありったけの声を張り上げて市軍警察達に指示を与える。

 「あいつなら、すぐ帰ってくる!

 それまでのちょっとの辛抱だ! まずは、不良(パープルコート)どもをブッ倒すぜ!」

 語り終えるが早いか、自ら"パープルコート"の人波の中へと突進してゆく。迷いを見せては、折角ここまで盛り立てて来た志気に関わる。鉄は熱い内に打たなくては。

 レナの目論見は幸いにも功を奏し、市軍警察官はロイのことを一旦意識の外へと追いやると、目の前に迫る窮地の打開へと駆け出す。

 こうして、ほぼ小細工の無い正面きっての衝突が始まる。

 体術と機銃を振り回して獅子奮迅するレナは、胸中でポツリとこんなこと呟く。

 (そうだよな、『暴走君』。

 1年坊主のくせして、学園内で滅茶苦茶な伝説を打ち立てて来たアンタのことだ。

 例え相手が"士師"だろうが『現女神』だろうが、笑いながら帰ってくるんだよな…!)

 

 ――そして、銀色の奇襲によって吹き飛ばされた、当のロイは。

 巨大なギロチンのような一撃は彼の首筋を狙っていたが、すんでのところで竜翼で頭部をかばったものの、強大な重量と衝撃によってゴギンッ! と吹き飛ばされ、異形の林の樹幹の中へガサガサと突入した。

 固く鋭いタケ科の葉が竜鱗をゴワゴワと撫でる中、ロイは翼をたたんで両手足と尻尾で(もっ)て周囲の枝葉を捕まえながらブレーキング。そしてなんとか体勢を立て直すと、屈み込むような格好で林の中へ着地する。

 直後、ロイはすぐに頭上に視線を向けると、牙を剥き出しにしながら金色の瞳に怒りの炎を灯す。

 ("あの野郎"――! いきなりブチかましてくれやがって――!)

 ロイは突如登場した銀色の存在を"あの野郎"と称する。――そう、あの金属塊を出現させた存在の正体は、人類(ヒト)だ!

 ロイが密な葉に覆われた樹幹を()めつけていると。樹幹が激しくガサガサッ! を立てて揺れ動き――。

 「ヒャッハァッ!」

 樹幹の中を降下して出現した"あの野郎"は、狂気じみた高いテンションで叫び声を上げながら、ロイの頭上めがけて飛び込んで来る。

 

 突如として姿を表した"あの野郎"――その正体は、着込んだ軍服の上からでも鍛え抜かれた筋骨隆々の肉体が見て取れる巨漢。厳つい顔を子供ように興奮の色に染める彼こそ、アルカインテール駐留の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)で中佐を勤める、ゼオギルド・グラーフ・ラングファーである。

 彼の両手足の先は、手袋にも靴にも覆われていない。蹴り殴り慣れたゴツゴツとした素手素足の甲の中央には、水晶玉のようにも見える特徴的な器官が露わになっており、人目を引く。

 

 「てンめぇッ!」

 ロイはこめかみに青筋を立てながら、漆黒の竜拳をギリリと握りしめ、ゼオギルドの足先めがけて放つ。拳は途中で紅蓮の炎をまとい、ゼオギルドを迎撃するばかりか、燃やし尽くすそうと試みる。

 一方ゼオギルドはグルリと宙で体を回転させと、左拳を握りしめてロイの炎拳へと叩きつける。途中、拳の甲に埋め込まれた水晶玉が眩い青に輝くと、その周囲から渦巻く水流が出現。拳は水の塊となって、炎拳と激突する。

 (ゴウ)ッ! 激しい炎が水を[[rb:炙>あぶ]り、一気に水蒸気爆発が起こる。真っ白い蒸気の帳が烈風と共に2人の男の体を激しく撫でて去る。

 帳が消滅した後に露わになったのは、今や炎も水もまとわぬ拳を突き合わせて対峙すると、ロイとゼオギルドだ。

 次の瞬間、ロイが体を沈めると、ゼオギルドの懐に潜り込もうとする。肘を突き出して、ゼオギルドの鳩尾周辺を狙う魂胆だ。

 対するゼオギルドは、ダンッ! と右足で大地を激しく蹴りつける。転瞬、ロイの眼前の地面がゴボッと音を立てて盛り上がると、鈍い錐のような形状をした岩盤が隆起。ロイの顔面めがけて先端を突きつけてくる。

 「!!」

 ロイは獣じみた反射神経で反応、両足だけでなく尻尾をも使って後ろに跳び退(すさ)り、この奇襲をなんとか回避する。

 しかし、ゼオギルドは黙ってロイを見逃さない。巨躯に見合わぬような軽やかで素早い動きで岩盤の脇をすり抜け、未だ宙に浮くロイに追いすがると。左脚を烈風の勢いで蹴り出し、ロイの胴体を狙う。

 ロイはとっさに両腕を交差させてゼオギルドの蹴撃を防御した――が、インパクトの瞬間、ロイの眼が驚愕に見開かれる。突然、ゼオギルドの素足からゴリゴリゴリ、と音を立てながら芽吹くように金属の塊が出現。そのまま体積を急増させて巨大な刃を形成すると、ロイを腕ごと叩き斬らんばかりの勢いで激突したのだ。

 ロイの両腕は漆黒の竜鱗に覆われており、金属にも引けを取らない強度を誇っている。しかしそれでも、ゼオギルドの重い金属の一撃は竜鱗をメキメキと引き剥がし、柔らかな皮膚を露出させた上で深々とした裂傷を刻みつけたのだ。

 肉ばかりか、骨までへし折られたような衝撃がロイを襲い、彼の体は砲弾のように激しく吹っ飛んでねじくれた木の幹に強かに叩きつけられる。

 「グハ…ッ!」

 血の混じった呼気を吐き出すも束の間、口元を汚した真紅を乱暴に拭う。

 「てンめぇ…ッ!」

 憤怒で爛々と輝く瞳を上げて、ゼオギルドを睨みつけんとした、その矢先。その相手が、ほんの少し手を伸ばせば届かんばかりの距離にまで肉薄していた! ロイは思わず勢いのみ、目を丸くする。

 ゼオギルドは接近の勢いのまま、腰だめに構えていた右拳を突き出す。瞬間、彼の右腕がゴウゴウと燃え盛る炎に包まれる。逃げ場のないロイを殴りつけるだけでなく、消し炭にするつもりだ。

 対するロイは、素早くヒュッと息を吸い込み、そしてガァッ! と叫びながら呼気。すると、微細な氷の結晶がキラめく吹雪の竜息吹(ドラゴン・ブレス)となり、ゼオギルドの体を包み込む。

 「おおおっ!?」

 一歩踏み込むほどの短時間の間に出現した盛大の吹雪の奔流に、今度はゼオギルドが驚愕する番である。なんとか横っ跳びに回避をするものの、炎に包まれた右腕が吹雪の奔流をまともに食らってしまった。吹雪の中から抜き出した時には、右腕を包む炎は完全に消え去っていただけでなく、腕自体がガッチリとした氷の結晶に閉じこめられている。

 こうしてロイは、ゼオギルドとの距離を稼ぐだけでなく、攻め込む隙さえも得たのであるが…彼の脚が動かなかったのは、激突の衝撃が未だ体に残っているためだ。竜息吹(ドラゴン・ブレス)も無茶を通して発現させたものだったので、呼吸も激しく乱れている。酸素を求めて暴れ回る肺になされるがまま、大きく肩で息をして呼吸を整えようとする。

 対してゼオギルドは、凍結した右腕を目にしてあんぐりと口を開けていたが。すぐにギラリと猛獣の笑みを浮かべ、筋骨隆々の腕に力を込める。すると氷の結晶は、ビキビキッ! と痛々しい音を立てて破砕される。

 自由を得たゼオギルドは、腕の具合を確かめるように手を握っては開く動作を繰り返していたが。やがて、肩を揺らしてクックック…と嗤い出し、ついには背を仰け反らせて「ギャーハッハッハッ!」と爆笑する。

 「いやぁー、スゲェスゲェ! ホントにスゲェ! 映像で見るのと、実際に()り合うのじゃ、段違いだぜ!

 面白ぇガキだとは思ってたがよ! こんなに楽しませてくれるたぁ、正直思わなかったぜ!」

 ゼオギルドは厚い唇から唾を飛ばし、バンバン! と拍手しながら饒舌に、そして上機嫌に喋る。

 普段のロイならば、この隙に付け込んで奇襲の一つも仕掛けているところだ。しかし、未だ調子が戻らない彼は、下手に仕掛けて返り討ちに合う可能性を嫌い、呼吸を整えることを優先することにした。

 そのためにロイは時間稼ぎも兼ねて、ゼオギルドのお喋りに付き合ってみせる。

 「そりゃどーも、"エグリゴリ"のおっさん。

 だけどよ、オレとしちゃあ、アンタの方がよっぽど面白い魔術(ちから)を持ってると思うぜ。

 賢竜(ワイズ・ドラゴン)でも()ぇのに、体中から火だの水だの金属だの岩盤だの出しやがって。

 ここら一帯の林を作ったのも、アンタの仕業だろ?」

 「ああ、その通りさ!

 "コイツ"のお陰でな、オレは戦場でやりたい放題なのさ!」

 ゼオギルドは両の拳と足をガツンッ! と合わせて見せる。すると、両手足の甲に埋め込まれた水晶玉様の器官が、それぞれ別の色に輝いて存在を主張する。左手は青、右手は赤、左足は黄、そして右足は茶色である。

 ゼオギルドのこんな大仰な動作を見せつけられなくとも、ロイは交戦の最中でこれらの器官の存在と動作をしっかりと見知っていた。そればかりが、これらの器官の正体や効能についても把握している。

 「それ、"行玉"ってヤツだろ?

 アンタ、五行体系の魔術師なんだな。今時分に、珍しいな」

 するとゼオギルドは厳つい顔を不格好な花のようにパッと輝かせて、「ハッ!」と笑う。

 「へぇー! テメェ、暴れっぷりから脳筋だと思ってたんだけどよ、意外と物知りなんだな!

 そうさ! オレは生粋の地球人だからよ、生粋の地球生まれの魔術体系を扱ってンのさ!」

 五行とは、『混沌の曙(カオティック・ドーン)』より遙か昔から、地球の極東地域で体系化された魔法技術および理論である。形而下の事象を火、水、土、金、木の五つの基底因子の関係によって説明づけると共に、それらを制御して万物を自在に操ることを目的としたものだ。

 五行は長らく(まじな)いの類としてのみ扱われてきたが、『混沌の曙(カオティック・ドーン)』によって魔法がもたらされた黎明期には、魔法現象を制御する体系の1つとして地球人の注目を浴びていた。しかしながら現在では、利便性や汎用性等の観点から、さほど支持を受けてはいない。

 そして"行玉"とは、五行体系において、魔力を増幅させる為の装置である。哲学的に魔力に好影響を与えるとされる水晶玉を模した、有機体で出来た球体だ。有機体として生物体を使用することで効果が高まることが知られており、黎明期には倫理的観点から食用肉を用いて生成されていた。しかし、倫理観よりも魔法科学の発展に理性の天秤が傾いた者達は、野生動物から次第に人体へと生成材料を変えてゆく。そして遂には、生きたままの人体で作り出すこと――即ち、術者自身の肉体の一部を変質させることで、最大限の効果を得ることに成功した。故に、五行体系の魔術師はゼオギルドのように、手足の一部を行玉と成すしていることが常である。

 「行玉ってよ、確か1つについて1属性が対応してるんだよな?」

 ロイが続けて問うと、ゼオギルドは律儀なのか余裕なのか、ニヤリと凄絶な笑みを浮かべたまま耳を傾けている。

 「アンタにゃ、4つしか見当たらないけどよ…もう一個って、どこにあるんだ?

 その軍帽の中に在ったりして?」

 ロイがゼオギルドの被る軍帽を指差す。するとゼオギルドは、ブンブンと掌を左右に振りながら、ゲラゲラと笑って否定する。

 「それじゃ、カッパみてぇじゃねぇか!

 …まぁ、頭に着けるような間抜けも、実際にゃ居るけどよ。オレ様はンな間抜けな姿はゴメンだからな。

 最後の一個は、ココに作ったのさ」

 言いながらゼオギルドは軍服のボタンを乱暴に外し、ガバッと胸板を露わにする。鋼のように鍛え込まれた筋肉に覆われたその中央に、緑色の光をたたえる行玉が存在している。

 ゼオギルドはそれをコンコンと叩いて見せる。

 「理論的にゃ、頭につける方が他の行玉との干渉やら何やらの影響が小さくて済むらしいけどよ。

 オレとしちゃあ、見た目もあるけどよ、機能性の面でもこっちの方が都合良いのさ。

 なんか、ガキ向け番組のヒーローっぽくてカッコ良いだろ?」

 「オレはテレビなんざあんまり見ねーからな、なんとも言えねーな。

 だけどよ、これだけは言わせてもらうぜ。全ッ然ヒーローってガラじゃねぇよ、アンタはさ」

 憎まれ口を叩きながら、ロイはニヤリと笑ってみせる。

 ――呼吸は、整った。

 「ガラだとかそうじゃねぇとか関係ねーよ。

 この現実世界じゃ、強くて勝つ奴こそが、ヒー…」

 上機嫌に語る、ゼオギルドの言葉がふいに途切れる。ロイが前振りなどなく、無言で一気に距離を詰めて、ゼオギルドの懐に飛び込んだのだ。

 「そんならよ…っ!」

 途切れたゼオギルドの言葉に返事をしながら、ロイは身を低くして飛び込んだ格好のまま転身し、ゼオギルドの足を蹴りと尾で刈る。

 「ぬおっ!?」

 声を上げて宙に浮き上がる、ゼオギルド。そこへロイが烈風の勢いで立ち上がる。

 「オレの方がヒーローって事になるなッ!」

 叫びながらロイは、宙に浮くゼオギルドの顔面めがけて、思い切り蹴りを放つ。

 鉤爪を備えた竜の足が、ゼオギルドの驚愕に染まった顔面に吸い込まれる――と、その直前。ゼオギルドがニヤァッと笑みを浮かべたと同時に、ロイの蹴りを掴むと、クルリと体を回して逆立ちするように体勢を立て直す。

 「バァーカッ! それで奇襲のつもりかよッ!」

 そのままゼオギルドは空中へと飛び上がり、クルリと体を回転させると。左脚を突き出し、踵落としをする格好でロイの頭上へと落下する。

 半歩距離をとってゼオギルドの攻撃を回避しにかかるロイであったが、その目論見は即座に崩れてしまう。ぜおぎるどの左足の行玉が黄色の閃光を灯したと思うと、巨大な金属塊を作り出したのだ。ゼオギルドの踵より早くロイの頭上へと伸びた金属塊は、彼の頭を、全身を押し潰しにかかる。

 目論見が崩れたロイだが、慌てふためくことはない。すぐに足を止めると、右拳を握って業火を灯すと、落下してくる巨大な金属塊に激突させる。

 ガァンッ! と金属が打ち震える音。そして、ジュウゥッ! と金属が灼熱する騒音。

 一見、位置関係的にも重量的にもロイに部が悪いように見える。しかし、それでも足を止めて撃ち合いをしたのには、ロイなりの算段がある。

 (火剋金…五行体系じゃ、火は金に勝るからなッ!

 一気に溶融してやるぜッ!)

 実際、ロイの業火の拳が突き刺さった金属塊は、真っ赤に輝いてグニャリと歪み、ポタポタと灼熱の滴を零し始めている。このまま、ロイの算段に沿って、撃ち合いはロイに軍配があがる…かと思いきや。

 (バァーカッ! 火剋金ってのは確かにあるがよ…!

 こういうのもあるんだよっ!)

 「金侮火ッ!」

 ゼオギルドは絶叫と共に、脚に全力を込めて振り下ろす。と、金属塊は溶融し切らぬうちにロイの体を、その巨大な重量と体積で以て押し潰してしまう。

 五行においては、火は金に()つとされる。しかし、金が十分に強ければ、火を侮り逆に打ち剋ってしまう。それが、相侮と呼ばれる関係だ。

 メキィッ! 痛々しい音は、ロイの骨が軋む音か。岩盤に悲鳴を上げる音か。どちらにせよ、ロイの奇襲が失敗し、大きなダメージを負ったのには変わらないようだ。

 しかし、ゼオギルドはここで満足しない。残虐な笑みを浮かべながら、青の輝きが行玉に灯る左手で金属塊に触れると、金属塊の表面にブワリと汗を掻くように大量の水滴が現れる。五行で言う、金生水の様相だ。

 この水滴で刃を作り出したゼオギルドは、金属表面を高速で伝わせ、下敷きになっているロイにダメ押しを与えようとする。

 ――しかし、ロイは為すがままにされるようなタマではない。

 (ドウ)ッ! 大気を引き裂く轟音が響き、金属塊を伝って天へと上る大電流が生じる。その衝撃で金属塊はボンッ! と音を立てて天空へと打ち上げられる。

 そしてゼオギルドの眼前に立ち上がったのは、叩き潰されていたロイだ。やはりダメージは大きく、体の至るところには打撲の内出血が目立ち、口元には吐血の筋が見える。

 それでもロイはボロボロの体勢を感じさせない、力強く素早い動きで鉤爪のギラつく脚を振り、斬撃と化した蹴りを放つ。

 ゼオギルドは素早くバックステップ、蹴りの回避を試みる。しかし、ロイの斬撃の蹴りは帯電した烈風の刃を纏っており、脚より遙かに長いリーチを持つ。ゼオギルドの腹部に一直線の深い傷がザックリと走り、鮮血がパッと宙を舞う。

 「ぐぅっ!」

 苦悶に顔を歪める、ゼオギルド。その隙にロイは追いすがり、固めた拳でゼオギルドの顔面を殴りに向かう。

 一方、ゼオギルドは顔面を防御する素振りを見せない。黒い疾風のような拳撃を、冷や汗の噴き出す(くび)を動かしてかわす。…しかし、ロイの激しい拳風は回避しきれず、ゼオギルドの頬に痛々しい擦過傷が刻まれ、ジワリと血液の鮮紅が浮かび上がる。

 ロイは拳撃を回避されたことも構わず、更に肉薄。今度は膝を突き出して、ゼオギルドの腹部の裂傷に追撃を与えようと試みる。

 無防備に吸い込まれる、膝。ゼオギルドは窮地に陥った…かに見えたが、彼の顔が、ニヤリと歪む。その不気味で凄絶な表情に、ロイの背筋にゾクリと冷たいものが走る。

 ゼオギルドの腹部の裂傷は今、(ツル)とも極細い樹幹とも見えるような植物で覆われ、止血と共に防御が施されている。これは、ゼオギルドの胸板に埋め込まれた木行の行玉の効果によるものだ。

 傷口を覆った植物は、強靱で柔軟な蔓を更に延ばし、ロイの膝を絡めとる。まるで強力なバネに突っ込んだように勢いが殺がれたロイは、脚を回して蔓を解こうとするが…蔓は更なる成長と急激に遂げながら、ロイの体を這い上がってくる。

 「な、な、な…ッ!?」

 極数瞬の間に、蔓によって体の大半を覆われたロイは、そのまま体をグググッと持ち上げられてしまう。まだ若干動ける手足をバタバタと暴れさせて逃れようとするが、蔓は柔軟に力吸収するばかりで、引きちぎれやしない。

 とうとうゼオギルドの頭より高く持ち上げられてしまった、ロイ。それを見上げるゼオギルドは、腹部から伸びた蔓をガッシリと掴むと、ブチブチと引きちぎった。その直後、右手の行玉が真っ赤に輝いたかと思うと、蔓が激しく発火。そのまま導火線を思わせる有様で蔓を伝ってロイの身体へと向かってゆく。――そして。

 「じゃあなッ!」

 ゼオギルドがおどけ半分で敬礼をしてみせた、その直後。炎がロイに到達すると、彼の身体を縛る蔓が爆発的に発火――いや、"爆発的"ではない、実際に爆発したのだ。

 五行における木生火の概念により、ゼオギルドの炎は強烈な爆炎と化して、ロイの身体を襲ったのである。

 全身を縛る蔓が一気に焼失したことで、自由を得たロイ。しかし、爆発の瞬間に吹き飛ぶことが叶わなかった彼は、衝撃のほぼ100パーセントを全身に受けてしまった。激しく揺さぶられた内臓の損傷は相当なものであろう、自由落下するロイの身体はダラリと脱力し、ピクリとも動かない。

 この無惨な有様を目にしたゼオギルドは、獰猛で残虐な笑みをギラリと浮かべて、ゲラゲラと大笑い。

 「どーよッ! 火を吹いて回るドラゴンが、火を食らってブッ斃れるってのは! シャレが利いてるだろぉ!?」

 更にゼオギルドは拳を固め、落ちてくるロイの頭部にダメ押しの一撃を与えようとする。

 ――しかしロイは、これほどの損傷を身に受けても、意識を失っていなかった。そして実際には、身体の力すらも失っていなかった。

 ズンッ! 風を切り、大地を削る鋭い音。突如として鼓膜を振るわせたその音の正体は何事かと、ゼオギルドが視線を投げる。それは、ロイの尾が落雷のように大地に一直線に突き立った音だ。

 この音にほんの一瞬、気を奪われたゼオギルド。その隙にロイは尾に一気に力を込めて落下速度を速めると、ゼオギルドの顔面に己の額をガツンとブチ当てる。

 「ブッ…!」

 鼻血を吹いてよろめくゼオギルドに、ロイが逆に拳を頬に見舞ってやる。頬肉が大きく歪んだゼオギルドは、巨躯を弾丸のように吹き飛ばされながら飛び、背後数メートルの地点に直立する樹幹に強かに激突する。

 ここが、絶好の反撃の機会! ロイは衝撃の抜けない全身に鞭打って駆け出すが…ふらついた脚がもつれて、あやうく倒れそうになる。なんとかこらえて歩みを止めたが…その僅かな間に、彼の好機は足早に去ってしまった。

 ゼオギルドは早くも体勢を立て直し、血の混じった唾をブッ! と吐き出して、ニカニカ笑いながらこちらを()めつけていたのだ。

 「ホント面白ぇわ、お前!

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に入って初めてだぜ、お前みてぇな強者(てき)を相手にするのは、よぉっ!」

 「そりゃ良かったな…だけどよ…ッ!」

 ロイは返答しながら、今度は脚がもつれぬよう気合いを込め、力強く大地を蹴ってゼオギルドのへと突撃する。

 「直ぐに面白ぇってより、やらなきゃ良かったって後悔させてやるよ!」

 「そうかよッ、ンじゃやってみろってンだッ!」

 ゼオギルドもまた大地を蹴ると、竜と五行遣いは互いに魔術をまとわせた拳を打ち合わせ、激闘を再開する。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

War In The Dance Floor - Part 6

 ◆ ◆ ◆

 

 ロイとゼオギルドが大地を揺るがし、木々を薙ぎ倒す激闘を繰り広げる、その頭上では――。

 蒼穹の天空を歪ませ、毒々しいまでに鮮やかな雷光を走らせながら衝突を繰り返す、もう一つの激闘が繰り広げられている。

 この交戦を構築しているのは、主に2人。

 1人は、人型をした癌様獣(キャンサー)の実力者、『十一時』。

 昨日ロイと交戦した時と同様、ボロボロの白い外套に身を包み、真紅に腫れ上がった左眼球を特徴としている。一方で、昨日とは明らかに異なる体部がある。それは、尾、だ。

 ロイと交戦した際は、先端が尖った金属質の2本の尾であった。今も2本在るという点では変わらないが、その形質は大きく異なる。まるで巨大なムカデのようにトゲトゲしい"脚"が生え、長さは優に3メートルを越える長大なものだ。その間接一つ一つは自在に脱着し、巨大な円を作って防御フィールドを生成したり、不可視の(ブレード)や衝撃波を幾つも作って空を裂いたりしている。

 『十一時』は此度の総力戦のために、一晩をかけて体構造を戦闘に最適化してきたのだ。それは見た目にも変化が分かりやすい尾部だけでなく、全身の体器官にも施されているが、形而下においてその差は顕著ではない。

 さて、その『十一時』を相手にしているのは、彼よりサイズで十数倍も勝る機動兵器。薄く銀色がかった白色の装甲を持ち、スマートな形状(フォルム)を持つ人型兵器。サヴェッジ・エレクトロン・インダストリー所属のD装備機動兵器である。

 そして、この機体の搭乗者(クラダー)は、"インダストリー"屈指の実力者、プロテウス・クロールスである。

 プロテウスは先述した通り、頭脳部以外は機械化していない。それはつまり、機動兵器と直結した場合、種々の運動制御の演算においては生身の人間よりもアドバンテージがあるものの、手足を使ったマニュピレータの操作は生身の人間とほぼ変わらないことを意味する。

 しかし、彼の操縦技術は、そんなデメリットを露ほども感じさせない。全身機械化した搭乗者(クラダー)よりほど滑らかで繊細な動作で、十数メートルある金属の体躯を軽やかに扱う。光を受けて輝きながら宙を駆けるその有様は、巨体にも関わらず妖精すら思わせる。

 プロテウスは一晩掛けて換装された局所次元兵器を用いて、『十一時』を果敢に攻める。手にした空間断裂槍を振るって蒼穹に発狂した色彩が覗く亜空間を作り出したり、風景がグンニャリと歪曲して見える次元破砕砲を頭部や肩部から轟雷のように発射したりと、空間を広く汚染しながら『十一時』を素粒子へと分解しようと攻め続ける。

 正に一撃必殺のはずの攻撃の雨霰(あめあられ)であるが、『十一時』は全く屈しない。それどころか、恐るべき空間汚染攻撃を真っ向から受け止め、耐えきると、サイズ差を活かした小回りの利く行動でプロテウス死角を突き、美しい光沢のある装甲をベコッ! ベコッ! と破壊してゆく。

 『十一時』の尾は、今や単に電磁場を操るだけの代物ではない。"インダストリー"の機動兵器にはやや劣るものの、空間の歪曲率をも操作する器官として作用している。

 そもそも、癌様獣(キャンサー)と"インダストリー"は、資源や活動域を巡って宇宙空間において幾度となく争いを繰り返してきた、いわば仇敵である。癌様獣(キャンサー)である『十一時』が、"インダストリー"の最上位兵器であるD装備に対して何の対策も持たないワケがない。

 2体は大小の彗星のように蒼穹を巡り、激突しては離れ、離れては不可視の射撃を撃ち合いプラズマの爆発の花を咲かせ、その合間を再び駆けめぐって激突する事を繰り返す。その戦いは、果てのない永劫の円環としていつまでも繰り広げられるかのように見えた。

 

 ――が、彼らは認識していない。その暇がないのも事実だが、しかし"そいつ"は巧妙に存在を隠匿して、2体の激闘を眺めている。

 ヌラリと粘り着くような暗い視線が、虚空にコッソリと生じた黒い一点から放たれている。

 その黒い一点は、宙に生じた円形の平面である。そして、その中から逆さまにピョコンと飛び出す、丸みを帯びた存在。

 それは、女の顔の眼から上である。頭んは、白骨化したコウモリの翼を持つドクロのトレードマークをつけたベレー帽を乗せているが、奇妙なことに重力に引かれて落下することはない。そもそも、漆黒の髪も、重力が逆転したかのように上向きに"垂れ下がっている"のだ。

 この異様な顔は、病的な敵意を無機質に張り付けた視線でジッ…と2体の衝突を眺めていたが。やがて、チラリと眼下に広がる木々の中、ロイとゼオギルドの激闘に由来する大破壊の土煙を眺めると、ゆっくりと瞬きをする。

 そして、顔の横からヌッと青く塗られた爪を持つ、色白の細い指を露わにすると…『十一時』とプロテウスの方に指先をクイッと曲げる。

 そして、(まじな)いでもかけるかのように、ゆっくりとした動作でクルクルと、指先を回し始める。

 

 すると、『十一時』とプロテウスの双方に、異変が訪れる。

 彼らがまず感じたのは、グニャリと歪むような意識の混濁と不快感である。

 当初、彼らは互いに相手が神経系または魂魄系に干渉する何らかの攻撃を繰り出してきたことを疑った。どちらの勢力もあまり使わない攻撃手段であるため、新兵器かと警戒し合い、攻撃の手が思わず緩む。

 その直後、内臓を鷲掴んで揺さぶるような強烈な不快感に襲われ、双方は思わず動きを止める。『十一時』は体の"く"の字に曲げ、口元を押さえて消化器の内容物を吐瀉しないように必死に抑える。一方、プロテウスの機体は四肢ダラリと脱力させたまま棒立ちのままホバリングするばかりだ。そのコクピットの中では、機械化した頭脳部を襲う激しい疼痛に文字通り頭を抱えて冷や汗を吹いてうずくまる、プロテウスの姿がある。

 彼らの悲劇は、ここで終わらない。『十一時』の肉体とプロテウスの機体の双方から、バチンッバチンッ! と激しい電気の爆ぜるような音が発せられると、動きが極端に重苦しくなる。プロテウスに関しては機体の動きだけでなく、自身の体の自由も極端に制限されてしまい、まるで鉛になってしまったかのようだ。

 この強烈な肉体干渉の正体は、一体何なのか。その答えを2人はほぼ同時に思いつく。

 (『冥骸』の、怨場…!)

 そうと分かれば、彼らは早速、魂魄干渉を振り切るために精神集中を始めるが――一足遅かったようだ。

 2人の体はまるで見えない巨人の手に掴み取られたように、グンッと加速して眼下の林へと急降下を始める。プロテウスの機動兵器のサイズすら軽々と振り回す、強力な騒霊(ポルターガイスト)だ。

 2人は体の自由を取り戻すべく、精神にて奮闘するが…残念ながら、その努力が功を奏するより早く、折れて焦げた木々と瓦礫の散らばる土壌が広がる大地が目前に迫ってくる。

 

 そして、2人の着地点上には――激しく激突を繰り返す、もう1組の人影がある。

 ロイとゼオギルドだ。

 

 「ガアアァァッ!」

 「ウッリャアァァッ!」

 気合一閃、固めた拳に燃え(たぎ)る炎を乗せた2人は、互いの顔面を激しく殴り合う。インパクトの瞬間に生じた爆発が全身を振るわすが、どちらも一歩の後ずらさない。ロイは大地に差した尾と足の鉤爪で踏ん張り、ゼオギルドは足から伸ばした大地に深々と差し込んだ金属の(くさび)で身体を固定する。逃げ場のない衝撃によって内臓や骨格が直接揺さぶられるのも構わず、2人は仰け反った身体をほぼ同時に起こすと、再び拳を固めて殴り合う――。

 その直前、突如頭上を覆う巨大な影。そして、耳にゴウゴウと響く、鈍重な風切り音。

 何事かとチラリと視線を上げた2人は、思わず口をあんぐりと開く。『十一時』とプロテウスの機体が全くの不意に、彗星のように落下してくるのだ。驚愕を禁じ得ないのも無理はない。

 「クソッ、なんだってんだよ!」

 「おいおいッ、飛び入りかぁ!?」

 ロイとゼオギルドの2人は驚きの声をあげながら、ほぼ同時に大地を蹴って大きく跳び退(とび)る。転瞬、2人が居た地点をプロテウスの機体が激震と共に埋めた。その傍らには『十一時』の姿もあるが、機動兵器に比べてサイズ的にも重量的にも小さい彼は、見るものにプロテウスほどの印象は与えない。

 (相打ちして、落ちて来たのか?)

 ロイは目の前に倒れ伏す2人の有様を見てそんな感想を抱いたが、納得仕切れずに眉根をひそめる。どちらも損傷は決して軽くはないが、かと言って飛翔可能な2人を撃墜するほどの外力が加わったような形跡が見当たらなかったからだ。

 倒れ伏す2人のうち、『十一時』がいち早く身を起こそうと四肢を持ち上げる。彼の充血した左目は心なしか腫れが引いており、色も随分と薄くなっている。血の巡りが悪くなっているような塩梅だ。その瞳の有様に対応するように、彼の顔色は病的な土気色に染まっているし、口元は苦いものを口一杯に頬張ったように歪めている。

 明らかに、体調を崩しているのが見て取れる。だが、ロイもゼオギルドも事の経緯を見守っていたワケではないので、まさか怨場が関わっているとは思い至らない。

 しかしすぐに、ロイ達も怨場――もとい、強力な死後生命(アンデッド)の関与を(さと)る。

 きっかけは、プロテウスの機体も身を起こそうと上体を持ち上げた、その時である。『十一時』、プロテウスの双方の影の中からヌルリと、崩れた腐肉を纏った骸骨の腕が無数に伸び、彼らの身体を捕まえたのだ。

 腕は細いし、頼りなく震えてもいる。常人程度のサイズを持つ『十一時』にならば兎も角、プロテウスの巨大な機体を前にしては、いくら集まろうが動きを抑えることは到底無理のように思える。だが、死者の腕がソッ…と彼らに触れた途端、まるで巨大な重力源によって押し潰されたかのように、四肢が伸びきって大地に張り付いたのだ。

 この光景に、ロイとゼオギルドも傍観者としてポカンと驚愕してばかりは居られない。彼ら自身の影や、周りの木々や倒木、瓦礫の影の中からも次々と死者の腕が出現。彼らの足首を幾重にも掴んだのだ。

 「うわっ! いきなりなんだっ、気持ち悪ぃ…!」

 ヌルリと(ぬめ)るような触感に、ゾクリと背筋から脳天を突き抜けるような冷気。その不快感に声を上げたかと思った転瞬、ロイの全身から急激に体力が奪われ、泥人形が熱射によって砂に崩壊するように、その場にヘニャリとへたり込んでしまう。

 (おいおい、なんだよ…!)

 悪態を吐こうと舌を回そうとするが、声が上手く出せない。舌の筋肉が――いや、舌だけでなく、全身の筋肉が痙攣し、身動きが取れない!

 この状況はゼオギルドも同様で、巨躯を大地になげうって無様な"大"の字を描いている。なんとか起き上がろうとこめかみに青筋を立てて首をもたげようするが、激しく寝違えたような激痛が筋肉に走り、どうにもならない。

 4人の実力者がもがくことすら出来ず倒れる中で――。倒木と木々の影が重なり一際濃い黒色を作る地点から、ズズズ…と粘りけの強い溶岩がせり上がるような様相で姿を現す、1つの人影がある。

 闇夜のような漆黒を呈する、病的なゴシック・パンクの衣装に身を包み、青く塗られた唇と爪が陶磁器のような白い肌に生える、生気のない少女。見る者に怯懦を与えてそのまま石にしてしまうのではないか、と思えるほどの恨みがましい眼光を放つその人物を、ロイは見知っている。

 いや、ロイでなく、この場に居るすべての者が見知っている。

 『冥骸』における屈指の実力を持つ怨霊(レイス)亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)だ。

 厚底の革靴を履いた足先まですっかりと姿を現した彼女は、光のない黒々とした視線で4人を見回すと、白い歯を見せてニイッと(わら)う。獲物を前にいたぶり貪ることを喜ぶ、狂気に侵された凶獣の笑みだ。

 そして彼女は、鉤爪のように五指を曲げた右手をゆっくりと胸の高さまで持ってくると、掌中に握り込んだトマトを握り潰すかのように、指を閉じてゆく。

 同時に、倒れ伏す4人の顔色が一斉に真っ青になる。彼らは――機動兵器のコクピットに座すプロテウスまでもが――心臓に強烈な圧迫感を感じたのだ。怨霊(レイス)特有の強烈な怨場による生体の遠隔操作によって、心臓の筋肉が機能不全に陥ったのだ。

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、こうして競合勢力の実力者を一同に集め、一掃する機会を虎視眈々と狙っていたのだ。

 (や、ヤベェ…クソッ!)

 ロイが苦しげに浅く早い呼吸を繰り返していると、泡状になった唾液が口の端から流れ出す。血液の循環が極端に悪くなったこと脳への酸素供給も不足に陥り、意識が暗い影に閉ざされてゆく。このまま混濁の漆黒に落とされてしまったら、閉じた瞼は二度と開くことはなくなるだろう。

 (いきなり現れやがって…人の身体を好き放題にしてくれて…! そんなふざけたマネ、いつまでも許しておけるかよッ!)

 視界の殆どが霞んだ闇によって覆われた頃。死が目の前にチラつき始めたの頭に過ぎったのは怯懦や平穏ではなく、理不尽さへの憤怒であった。

 その憤怒が、彼の魂魄を励起させ、尽きつつある魔力を最後の力とばかりに集結させたのだろうか…ロイの全身に燃え盛るような強烈な魔力が充満し、身体が真紅の色の魔力励起光で包まれる。

 その魔力は、ロイの体組織内で幅を利かせていた亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)の怨場と激突し、ついにはねじ伏せる。

 転瞬、ロイの視界の闇が一気に晴れ渡る。機能を取り戻した心臓が速いテンポで脈動を始め、一気に脳へと流れ込む血液で若干の目眩が起こる。しかし、そんな事は問題にせず、憤怒に突き動かされるがままにロイは跳ね起きると、漆黒の竜翼を力強く一打ちして、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)へと一気に肉薄する。

 完全な不意打ちを決めて優越感にひたっていたらしい亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、ロイの反抗に驚きを隠せない。黒々とした瞳に困惑の鈍い光をたたえて、眼を丸くする。その隙にロイは彼女の眼前に迫ると、電撃を纏わせた竜拳で彼女の腹を深く抉る。

 「うぐ…ッ!」

 怨霊(レイス)たる亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は体内に物理構造を持たないゆえ、打撃によって体液や消化物が噴き出すことはあり得ない。代わりに、霊体である身体は大きくかき乱され、乱れた蚊柱のような有様となって宙を舞い、大地に転がる。

 この瞬間、他の3人の身体を縛る怨場も消滅。ゼオギルドや『十一時』はバネのように跳ね起きるし、プロテウスは背部のバーニア推進機関を爆風と共に宙に浮き上がり、体勢を立て直す。

 頬を撫でる烈風によって、他の敵が再起したことを知ったロイは、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)へ追撃を掛けようとした足を止め、身構えて視線を巡らして3人を牽制する。

 いや――4人だ。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)が早くも体勢を立て直し、静かに燃える木炭を思わせるような面構えで仕留め損ねた相手を睥睨する。

 

 ――ここに、アルカインテールを席巻する全ての勢力に属する実力者が一同に会した。

 

 5人は(しば)しの間、黙したまま殺気立った視線を交わし合っていたが。ついに、ゼオギルドが都市中に響き渡るような爆笑でもって沈黙を破る。

 「良いじゃねぇか、良いじゃねぇか!

 オレが殴り飛ばしてやりてぇと思ってた相手が、全員ここにガン首揃えて集まってやがる!

 一々チマチマと会いに行く手間が省けたってモンだ!」

 そして、掌を伸ばすと、クイクイと指を振って他の4人を挑発する。

 「さぁ、始めようぜ、祭りをよ!

 殴り合い、蹴り合い、そして殺し合いの、乱痴気騒ぎをよッ!」

 その声が終わるか終わらないかという内に、他の4人が地を蹴り、翼を打ち、バーニア推進機関をふかし、動き出す。

 一瞬遅れてゼオギルドも、両足の行玉を輝かせながら、烈風のように走り出す。

 ――ここに、凄絶なる五巴の死闘が開幕した。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 アルカインテールの戦場から、遠く離れた場所にて…。

 いや、"遠く"というのは語弊がある。魔法科学における平行世界の理論からすれば、"この場所"はアルカインテールには至極近い。しかし、旧時代の物理学からしてみれば、そこは言わば"ねじれの位置"に在り、決して交わることのない場所である。

 "この場所"は、人工的に作成された空間の内部である。空間の構造は完成度が高く、自然下の空間と同様に穏やかな"透明色"で満ちている。ちなみに完成度の低い人工空間では、対称性に歪みが生じて常にエネルギーの乱流が介在し、空間は発狂した極彩色に満たされてしまうものである。

 さて、大地すらも存在しないこの空間において、ポツンと――とは言うものの、体積は"ポツン"と云う形容がそぐわないほどに巨大であるが――浮かぶ、無機質な灰色の物体がある。カクカクとした直線と直角によって形作られたそれは、窓のない巨大な縦長の建造物だ。

 そしてこの建造物こそが、アルカインテールにおける"パープルコート"の駐留拠点だ。そして同時に、『バベル』の研究開発施設も兼ねている。

 『バベル』が安置されているのは、この建造物のほぼ中央部。高さ数百メートルを誇る建造物の上下を目一杯に貫く、巨大な開発実験室である。

 並の高層ビルならスッポリと収まってしまうような大空間の中には、生物の循環器系ネットワークを思わせるような有機的なケーブルや器具が溢れかえっている。その間には、白衣を着込んだ研究者やら、稀に軍服を着込んだ軍人などがヒョコヒョコと姿を見せている。

 彼らの態度は、大きく2つに分類することが出来る。1つは、狂気にもにた興奮と自信に満ちたもの。そしてもう1つは、ビクビクと始終体を(すく)めた恐怖に満ちたもの、である。その中間の態度を取る者は、殆ど見当たらない。

 この両極端の態度を態度を作り出す原因と成っているのが、この大空間の容積の大半を占める、超巨大な培養槽だ。

 気味の悪い水色の輝きを放つ、粘度の高いドロリとした溶媒に満ちる槽の中には、巨大な楕円形の物体が浮かんでいる。

 正確には、この物体は楕円形をしてはいない。幼子のように膝を抱えてうずくまるような姿をしているために、楕円形に見えているだけだ――そう、この物体は、幼子のような体勢を取れるような"人型"をしている。

 そしてこの"人型"の詳細を捉えようと眼を細めると――人は、先に述べたこの空間の住人達のように、狂気か恐怖のどちらかを喚起されるのを禁じ得ないだろう。

 そいつは、ホルマリン漬けにされた生物標本のような、不気味に濁った白い体表を持っている。体表の質感も、ホルマリン標本のようにブヨブヨとした印象だ。その時点で十分に生理的嫌悪を喚起させるが、真の問題はこの点で収まらない。

 体表をもっとよく観察する――すると、それは滑らかな平面ではなく、やたらと突起物が多いことに気付く。まるで、小腸の内面を覆う絨毛(じゅうもう)が肥大化したような姿だ。そしてこの突起物は、所々でビクンッ! と電撃でも走ったような痙攣を見せたり、ユラユラとさざ波に揺られるような動作を見せている。

 この物体を覆う媒質は粘度が高い上、魚介類の飼育水槽のように流れの循環が起きているワケではない。ゆえに、この物体の体表で起きている動作は、この物体自身に由来するものだ。

 更にこの突起物に対して眼を凝らし、その正体を知ると――大抵の人々は、狂気や恐怖を感じる前に、驚愕に身を打ち振るわせるだろう。

 それは――人体だ。あるものは首を切り捨てられ、あるものは下半身を切り捨てられ…といった具合に、いずれの人体も完全ではなく、どこか欠損している。しかし共通するのは、切断面の脊椎同士が繋ぎ合わさっている、ということだ。

 このおぞましき人体結合の産物こそ、『バベル』なのである。

 今、『バベル』は眠っている。他の体部同様、大量の人体で形成された顔面には、巨大な3つの眼と裂けた口が張り付いている。眼は3つ共に赤子のように穏やかに伏せられ、口は安眠を物語るような浅く緩やかな呼吸を刻んでいる。

 胎児にしてはあまりにも怪物じみたその寝顔を正面にして、一際狂気を帯びた大(わら)いを浮かべている者がいる。

 白に極めて近い灰色の髪を噴火のごとく持ち上げたヘアスタイルの、壮年の研究者。彼こそ『バベル』の開発プロジェクトのリーダーであり、『バベル』の生みの親たる魂魄魔法物理学者。ツァーイン・テッヒャーである。

 彼の手前には、『バベル』の様々な状態を3次元グラフ化して中空の投影している観測器のコンソールデスクがある。しかしツァーインはこのグラフを一切参照せず、直接形而上相視認することで『バベル』の状態を確認している。

 『バベル』の形而上的構造は非常に複雑で、構成要素である術式の密度はまるで天文学単位で集結したアリの群れを思わせる。こんなものを脳に描画するとなれば、どれほど認識格子の程度を下げようとも、脳の認識機構がパンクしてしまうであろう。しかしながらツァーインは、すでに脳のネジが外れてしまっているのか、ギラギラした視線で『バベル』を舐め回し、時を首を縦に振っては独り言を大きく叫ぶ。

 「おお、おお! 我が大いなる子よ!

 見える、見えるぞ! お前の興奮が! 期待が! 衝動が!

 形而下のみのお前を捉えて、惰眠を貪っている等と思うのは、原生動物にも劣る愚か者だ! 今のお前は、超新星爆発に向かって膨張する巨星に等しい!

 ああ、ああ! そんなに急くな、急くな! 私とて、完全になったお前を再びこの世の光に当てたくて仕方がないのだ!

 しかし、しかしながらな、我が大いなる子よ! 天才とは言え、高々ヒトでしかない私は、様々な鎖に捕らわれているのだ! しかしその鎖におとなしく捕まっていることこそが、今のお前を更に盤石にすることにつながるのだ! この親心を分かって欲しい、我が大いなる子よ!」

 舞台俳優にも劣らぬ大仰な仕草で腕を振り、ステップを踏み、恍惚と台詞を叫ぶ、ツァーイン。この光景は『バベル』の研究開発室の住人達には同じみのものだが、バカでかい室内にも木霊する大声にいつまで経っても慣れることが出来ず、眉を潜めたり苦笑を漏らしたりする者達が少なからず居る。

 さて、ツァーインの一人芝居が更に続くかと思われた、その時。彼の背後にビクビクした様子の下級兵士が立った。ツァーインの狂人の有様を初めて目にした彼は、(けが)れたものを触れるのを(イヤ)がるように、暫く逡巡していたが。やがて、恐る恐る腕を伸ばし、ツァーインの右肩をトントン、と叩く。

 転瞬、はっと我に返ったツァーインは電撃でも浴びたように激しい勢いで振り返ると、血走った目で下級兵士を睨みつけ、非難を浴びせる。

 「なんじゃ、なんじゃ、なんじゃ!

 私と、我が大いなる子との、かけがえのない時間を邪魔しおって!

 何用だというのだ、この駄肉がっ!」

 あまりの言いように、周囲ではクスクスと笑いが漏れる中、罵声を浴びせられた下級兵士はカチンと来て眉を曇らせたが。ツァーインの背後に控える『バベル』の巨体にチラリと視線を走らせてしまうと、ブルリと怯懦の身震いすると共に頭が冷える。そして、さっさとこの不快な空間から退出するべく、用件を済ませにかかる。

 「ヘイグマン大佐から伝言を預かっております。

 先ほどから何度かコールを入れているのですが、通信に出てくれませんか、とのことです」

 その言葉を耳にした時のツァーインの有様を、なんと例えようか。花が咲く様子を早回しにしたような、とでも言うべきだろうか。ともかく、彼は苛立ちの表情を一変させると、下級兵士に礼も謝罪も述べずにグルッと転身し、コンソールデスクに設置されている通信機を操る。

 もはや振り向く気配が微塵も見て取れないと(さと)った下級兵士は、一応ツァーインの背に向けて虚しい敬礼を向けると。こちらもクルリと踵を返して足早に研究開発室の出口へと向かった。

 さて、ツァーインは司令室へ通信を入れると、コール音が途切れた瞬間に口角泡飛ばす勢いで叫ぶ。

 「出撃ですか、大佐殿、出撃ですか!!?

 我が『バベル』、その晴れ舞台が遂に回ってきましたかッ!」

 これに対し、スピーカーからは小さく短い呻き声が漏れる。おそらく、突然の叫び声は司令室の通信機のスピーカーに不快なハウリングでも起こしたのだろう。

 「大佐殿!? どうなのですか!? ヘイグマン大佐殿!?」

 答えが返るまで、執拗に間断なく問いを入れる、ツァーイン。やがて、ため息と共にヘイグマンの低い掠れた声が割り込んでくる。

 「…少し落ち着いてくれないかね、ドクター・ツァーイン。

 これでは起動の際に逸りすぎて、重大なミスを侵してしまうのではないかと、要らぬ心配を抱いてしまう」

 「そんな事はありませんぞ! この後に及んで、単純なオペレーションミスで我が大いなる子が破滅するような間の抜けた事態など、起こりようがありません!

 そんなことよりも大佐、大佐、大佐! 我が子は、我が子は、我が子は!?」

 ツァーインの狂気じみた有様に、ヘイグマンはマイク越しに深いため息を吐く。その前振りの後、地の底から沸き上がるような声を絞り出す。

 「…そうだ」

 「!!」

 ツァーインはバァン! と両手を打ち鳴らす。

 「…ドクター、あなたの希望の通りだ。

 起動準備が整っているのなら、『バベル』を起動して欲しい。

 役者はすでに、舞台に集結した」

 するとツァーインは天を仰ぎ、天空のない人工空間であることも忘れ、蒼穹におわす神に向けて感謝の祈り――いや、挑発の罵りを叫び上げる。

 「ああ、ああ、ああっ!

 この時をもたらした(あなた)に私は感謝すると共に、ほくそ笑もう!

 (あなた)が我らに賜れた、残酷なるタンタロスの泉を! 果実を! 我らは(あなた)の意図を根底から覆し、まんまと手にする瞬間が、ついに訪れたのだから!

 この至高の時を! 超越の瞬間を! 私はどうして嗤わずに過ごせようか!

 ああ、ああ、ああっ! 我らが神よ! あなたはもうすぐ、我らの頭上から転がり落ち、我らと同じ肩の高さに並ぶのだ――この、私の、手によって!」

 憑き物に侵されたように、詩を吟ずるような口調で高らかに叫んだツァーインは、言葉尻で口を噤むと同時に、演奏を止めるオーケストラの指揮者のように腕を振るって手を握る。そのまま暫し訪れた静寂を堪能したツァーインは、スピーカー越しのヘイグマンのため息によって沈黙が破かれたと同時に、血走った目を見開く。

 ヘイグマンが何か急かすような言葉を口にしようと、息を吸った音がした――その時。ツァーインは高く、高く右腕を上げると。

 「目覚めよ、我が大いなる子ッ!」

 絶叫と共に、突き出した人差し指を振り下ろし、コンソールデスク上にある大きな赤いスイッチを押下する。

 

 このスイッチこそ、休眠状態にある『バベル』を叩き起こす引き金だ。

 

 押下の直後、『バベル』の脊椎にあたるラインに沿って一定間隔に設置されたケーブルへ、ビクンッ! と、強烈なパルスが走る。それは、魔術によって強制的に相転位され、液状になった自称エントロピーの塊だ。

 転瞬、巨大培養槽の中の溶媒がゴボゴボッ! と騒々しい音を立てる。たちまち槽内を満たす大量の(あぶく)の中、浮かび上がっていた『バベル』のシルエットが胎児様の楕円から、成人様の縦長に変化する。

 「おお、おお、おおおっ!」

 ツァーインが気違いじみた感涙をにじませながら、瞬き一つせずに立ち上がった『バベル』の雄姿に視線を注いでいると。それに答えるように、『バベル』の3つの眼が、ゆっくりと瞼の帳を開いてゆく。

 死者よりなお不気味な汚れた白の瞼の内側から現れたのは――腐りかけた魚を思わせる、濁りきった輝きを湛え、それぞれがあらぬ方向を向く、生気のない眼球だ。

 しかし、死に絶えたような眼球に反して、大きく裂けた口は雄弁なほどに感情を露わにする。解き放たれた赤子のようにニンマリと口を歪め、人骨が癒合して形成されたゴツゴツの牙をゾロリと見せて、嗤う。

 

 『バベル』は今、完全に覚醒した。

 

 「さあ、さあ、さあ! 行け、行くのだ、我が大いなる子よ!

 陰険なる神がちらつかせる『天国』を、我らの元に手繰り寄せるのだ!」

 そしてツァーインは、『バベル』をこの人工空間から地球上の自然空間へと転移させるためのスイッチへと、歓喜で震える指を伸ばす。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Dead Eyes See No Future - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 ――その日は、倉縞(くらしま)(しおり)にとって、人生でも一、二を争うほどの最良の日となるはずであった。

 

 職責上、あまり休暇の取れない父親の蘇芳(すおう)であるが、その日を含む三連休に完全なオフが与えらていた。曰く、「働き過ぎだって言われてな、無理矢理休暇を取らされたンだよ。たっぷり家族サービスを楽しんで来いだってさ」とのことだ。

 こうして親子水入らずの連休を過ごすことになった2人は、昨今リニューアルしたという動物公園へ遊びに出掛けたのだ。

 久しぶりの完全なオフということもあり、蘇芳は気が緩んだのだろう。盛大に寝坊をし、栞が何度揺すろうとも間抜けな寝顔でいびきをかき、これ以上ないほどに熟睡していた。そんな蘇芳がようやく目覚めたのは、お昼頃になってからであった。

 2人――というか蘇芳は――大慌てで車を出して目的地に向かったものの…動物公園を含む『行楽地区』と呼ばれる一帯へ向かう道路は、既に大変な渋滞に陥っていた。

 「もぉ~! パパったら、あたいが何度起こしてもグースカしてるんだもん!

 このままじゃあ、動物公園に着く頃には夕方になっちゃうよ~!」

 「ああーっ! スマン、マジスマン!

 ホンット久しぶりの休みだったからよぉ! 何も考えず眠れると思ったら、気が抜けちまってさー!」

 蘇芳はバツの悪い笑いを浮かべて、助手席でむくれている栞にヘコヘコと頭を揺すって謝罪すると。両手で髪の毛を掴むと、グシャグシャと掻きむしる。

 「かぁーっ! なんなんだよ、この車の数はぁっ! この都市国家(まち)って、こんなにヒトがいたのかよぉ!?」

 「難民さんを受け入れ続けてるから、人口は年々ものすごい勢いで増え続けてるって、学校の先生言ってたよ」

 むくれたまま栞が指摘すると、蘇芳はゴツい掌で彼女の頭をワシャワシャと撫でる。

 「おっ、栞! ちゃんと学校で勉強してンだな! 父ちゃん、安心したぜ!

 オレ、あんまり栞のこと見てやれてないからよー…正直さ、グレかけてるんじゃねーかって、心配してたんだよ。だってお前、話し言葉が男の子っぽいっていうか…乱暴な感じ、するかよー」

 すると栞はさらにむくれて、プイッと窓の外の方へと顔を逸らす。

 「男らしさだとか、女らしさだとか…そんな旧時代的で抽象的な考え方でヒトを判断するのって、とっても失礼なことだって、学校でもテレビでも言われてるよ!

 パパったら、職場だと管理職なんでしょー!? そういうデリカシー持たないと、部下の皆さんに嫌われるよ!」

 「ず、ずいぶん難しい事知ってるんだな、栞…。

 分かった、分かった、父ちゃんが悪かった! どんな言葉遣いでも、栞はオレの大事な娘ってことには変わらねーんだ! もう言葉遣いのことは言わないようにするよ!」

 「…全く…!」

 車窓の風景を睨んだまま、栞は怒りの言葉を漏らしたが…その一方で、彼女の紫がかった瞳は、窓の反射越しに父親のことを見つめ、目の端をニヤリと緩ませていた。

 父は日頃から栞の事を考えてくれるが、直接関われる時間は至極限られている。だから、面と向かってこんな風に言い合いをするなんて、とても久しぶりだ。そして自分の言葉に振り回されて、心底困った表情でオロオロしている父親の有様が可愛くて仕方がなくなり、思わず微笑んでしまったのだ。

 「もぉー、仕方ないなぁ!

 今回は許してあげる! だけど、また変なこと言ったら…!」

 「言ったら…?」

 まだむくれた表情を作ったまま振り返る栞を、蘇芳は上目遣いで見つめ返しながら怖ず怖ずと聞き返す。すると栞は、ピンと人差し指を立て、表情をガラリと変えて悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 「パパには、去年の誕生日に着くってもらった、特製ケーキを作ってもらうかンね!」

 「うげ…っ! あのクッソ面倒なヤツをか…!?

 うっわ、そりゃキツすぎるだろ…! せめて、ホットケーキ5段重ねくらいで勘弁しろよぉ!」

 「ダーメ! ホットケーキなんて、パパのペナルティーになんてならないじゃん! やっぱ、あのケーキくらいやらないとさー!」

 「オレはパティシエじゃねーっての! ムキムキマッチョの軍警察官様だぞー!」

 次第に親子2人の会話はじゃれ合いになり、互いに大笑いするのだった。

 こんな愉快で穏やかな時間を過ごせるのなら、渋滞に巻き込まれるのも悪くはないかも――そんな想いが栞の胸中を過ぎる。しかし、それは栞だけの想いではなかっただろう。彼女の父親たる蘇芳とて、同じ想いを抱いていたことだろう。

 

 ――ここまでの時間を抜き出すのならば、この日を最良の休日と称しても良かっただろうに。

 しかし、ここより程なくして、栞の最良は最悪の地獄へと転落する。

 

 前触れは、ブルリと体を震わす悪寒であった。

 その日は少々汗ばむくらいの陽気だったので、風が吹いても涼しく感じることこそあれ、寒さを感じることなどあり得ない。

 せっかく親子水入らずで過ごせる連休だというのに、風邪気味になってしまったのだろうか? などと首を傾げながら、父親に何か語りかけようとした時のことだ。

 前を見る父の横顔が、まるで氷にでも閉じ込められていたかのように、真っ青になっていたのだ。

 それだけではない。父は血に飢えた猛獣を目の前にして身構えるように、歯を剥き出しにして食いしばりながら、鬼気迫る光を湛えた瞳を刃のように尖らせ、虚空を見つめていた。

 それまで栞が見たことのない、険しい表情。それが、父の苛烈な仕事場における表情と同一のものであるとは、夢にも思っていなかった。

 「…なんだ…おい…なんだよ…このヤバい感覚…!」

 父はブツブツと呟きながら、額を拭う。そこには、玉のような冷たい汗がビッシリと浮かび上がっていた。

 (ひるがえ)って、栞もハッと自分の身体に起きている異変に気付く。父親ほどではないものの、自分も額に、そして首にジットリと冷たい汗を噴き出している。

 ――さっき感じた悪寒は、自分個人の問題じゃない! 何かが…客観的な災厄が、起ころうとしている!

 「栞…! ここに居るのはヤバい…早く――」

 蘇芳が言い掛けて…ピタリと、言葉を止めた。

 いや、止まったのは蘇芳だけではない。栞も同じだ。瞬きさえ出来ない重苦しい痺れが全身を(むしば)んでいる。身体だけではない、思考すらも見えざる巨大な手によって脳ごと握り潰されたかのように停止してしまった。

 今や魂魄の石棺となった肉体と精神の中で、唯一、栞の思考に描画される光景がある。

 それは、車外の街並みの風景ではない。虚無の漆黒を背景にした中、クッキリと浮かび上がる3つの丸い輪郭。それはゆっくりと瞼を開いてゆく…そう、その3つ輪郭の正体は、"眼"なのだ。

 瞼が半分まで開いた時、栞のなけなしの感情がビクンッ! と戦慄(おのの)いた。瞼の下から現れたのは、それぞれが全く異なる方向を向いた、死んだ魚のように濁りきった漆黒の瞳だ。

 そして、3つの瞼が完全に開き切った瞬間。死んだ眼からドロリと、真紅の液体が溢れて流れ出す。それが血の涙なのか、それとも別の何かなのか、栞は今もって理解はできない。

 ただ、その眼が己の魂魄に訴えてきた、ということだけは分かる。

 ――我が更なる高みに至るため、お前達の全て寄越(よこ)せ!

 その意志は言葉というより、共感のように思考に強烈に焼き付いた。同時に、漆黒の風景の中、不可視ながらも何か暴力的なまでに力強い"腕"がこちらに伸びてくる感覚を覚える。

 ――逃げないと、危ない…!

 栞のなけなしの思考は叫ぶが、肉体と精神の束縛は益々(ますます)強度を増し、とてもではないが振り解くことなどできない。

 (やられる…!)

 栞が精一杯の思考を振り絞って、胸中で悲鳴を上げた、その時だ。

 ふいに、肉体と精神に暖かな光がもたらされた。それと共に、思考に描画された戦慄の3つの眼の姿は、まるで帳を思いっきり後ろに引っ張ったような有様で光の中に吸い込まれ消えてゆく。

 (あ…!? え…!?)

 不意に軽くなった肉体と精神に戸惑い、どぎまぎと思考を転がしていると。

 パァン! と鼓膜をつんざく快音と共に、頬に電撃のような疼痛が走る。

 ――転瞬、栞の視界が一変。光一色の世界から、今度は色彩と形状に溢れる世界へ――網膜が物理的に認識する形而下の現実へと、引き戻される。

 場所は、父の車の中のままだ。ただ、目の前にあるのは、怒っているようにも泣きそうなようにも見える父の顔だ。振り抜いたような右腕の格好を見ていると、さっきの音と痛みは父が栞の頬を思いっきり張った音らしい。

 「あれ…パパ…?」

 パチクリと瞬きをしながらそう呟くと、父は大輪の花がこぼれ咲くような笑みを浮かべた。が、すぐに顔を引き締めると、栞をギュッと腕の中に抱える。

 「え、あ…ぱ、パパ!?」

 状況が飲み込めない栞がオロオロと尋ねるが、父は細かいことを伝えるでなく、ただ短くこう告げる。

 「ここは、ヤバ過ぎる…逃げるぞ!」

 そして蘇芳は、運転席側のドアを蹴り開けると、転がるようにして車外へ脱出。栞を胸にギュッと抱えたまま、車道を元来た方向に向かって走り出した。

 先に悪寒は感じたものの、現状の本質を理解していない栞は、父の唐突な行動に後ろめたい焦燥を感じた。渋滞の中、車を捨てて走り出したのだから、後続車に迷惑がかかると思ったし、何より周りから変な目で見られるのではないかと恐れたからだ。

 しかし、栞の不安は全くの杞憂であった。

 親子が車を捨てた瞬間、クラクションを鳴らして抗議したり、車窓越しに非難を浴びせたり好奇の視線を向けて来る者は一人もいなかったのだ。

 それどころか、渋滞に加わるほぼ全て車両から、ゾロゾロと搭乗者達が降りて来たのだ。

 とは言え、彼らの行動は蘇芳のそれとは全く違う。彼らは蘇芳のように危機感を抱き、それに突き動かされている感じが全くない。夢遊病患者のようにボンヤリと、そしてフラフラとした体勢と足取りで、車の合間をゆっくりと歩き始める――蘇芳とは真逆の方向へと。

 「ねぇ、パパ! みんな、あっちの方に行くよ! あたい達だけだよ、戻ってるの!」

 栞が不安の声を上げると、蘇芳は彼女の声をかき消すように「良いんだッ!」と強い語気で吐き捨てた。

 ――そう、蘇芳は言葉と共に、心もまでも"捨てた"のだ。

 この時、栞は父が何故、苦々しくも鬼気迫る表情を作っていたのか、全く理解出来ていなかった。だが、今は痛いほど分かる。父は、人命救助に関わる防災部所属だというのに、その職務を果たせず人々を見殺しにして、己の娘だけを救出するのに精一杯であることに自責と悔恨の念を抱いていたのだ。

 しかし、相変わらず状況が飲み込めていなかった栞は、父の顔から視線を外して、もう一度人々の方に視線を向け――パチクリと、困惑の瞬きをする。

 渋滞の車列の合間に、餌に(たか)るアリの群ほどもゾロゾロと歩いていた人々の姿が、忽然と消えていたのだから。

 一体、どこへ行ってしまったのか? と栞が視界を巡らせて光景の細部の視認に努めた時のこと。彼女は、"あるモノ"を発見して、眼を丸くする。同時に、彼女は現状がいかに危険であるか、人々がどうなってしまったのか、理解して戦慄(おのの)いた。

 路面の上に、落として割れた卵のような汚い有様でベッチャリと広がる液体が見える。濁った白色をしたその液体の中には、固形物がいくつか浮かび上がっている。それが何であるかは、眼を凝らすまでもなく分かった――人体の一部だ! 腕や、眼球や、髪の毛や内臓の一部である――つまり、この液体は――!

 「ひ…ヒト、なの…!?」

 掠れた声で独りごちると、父親から叱責に近い声が飛ぶ。

 「見るなッ! 眼をギュッと(つぶ)ってろッ!」

 父親の反応から、栞は自らの感想が正解であることを知ってしまった。

 そして、ヒトが溶けてしまう異常な状況の中、栞達親子だけが健在でいられるのは、どうやら父親のお陰らしいと言うことも理解する。栞の身体はは、意識の混濁の闇から解き放れた時に感じた暖かで穏やかな感覚に包まれている。これは、父親の身体と密着している部分で顕著に感じられる。これらの事実を鑑みることで、父親が何らかの魔術で栞を悲劇から保護しているのだろうと直感できた。

 さて、栞は父親の言いつけをすぐに守らず、溶けたヒトの動向を見やる。――そう、溶けたヒトは、単にその場に広がっているだけではない。森の中を彷徨(さまよ)う粘菌のごとく、路面に濡れた跡すら残さず、ジュクジュクと流れ蠢いているのだ。彼らがヒトであった時に向かっていたのと全く同じ方向――すなわち、蘇芳らが進むと真逆の方向に。

 その先に、一体何が在るというのか?

 疑問を抱かずには居られない栞が。渋滞の車列の先の方へと視線を投げた――。

 転瞬、栞は見た。こちらの道路に合流している十字路の左側から大小幾台もの車両が、蹴飛ばされた小石のようにビョンビョンと吹き飛ばされた光景を。車両は中空を激しくグルグルと回りながら、高層建造物に突っ込んだり、車列の突っ込んで他の車両を巻き込みながら大きくバウンドしたりと、激しい有様となっている。中には当たりどころが悪かったらしく、爆破炎上する車両もある。

 路上は一瞬にして、大破の轟音に満ちる地獄の光景に変わる。しかし、摩天楼の中に木霊する悲鳴は、無機質な車両のものばかりで、ヒトの声は一切聞こえない。当たり前だ、ヒトは栞が先に見たとおり、元の存在とか全く似つかぬ気味の悪い液体へと変わり果ててしまったのだから。脳すらも溶融してしまった彼らは、思考すら行うこともできないことだろう。

 車両の雨霰が次第に頻度と密度を増すにつれて、車両の大破とは別の轟音が大地を揺るがし始めた。巨大地震のようなその音は、次第にこちらに近づいて来る――それに従って、路上を襲う振動も激しさを増し、蘇芳は激しくよろめきながらも、なんとか前進を続けている状態だ。

 やがて、振動は路上の車両をポップコーンのようにボンボンッ! と跳ね上げるほどになった頃。蘇芳が思わずつんのめりそうになって足を踏ん張り、歩みを止めた――その時。

 栞は、人生最悪に"物体"を網膜に焼き付けてしまった。

 交差点の向こうから、突然、"巨躯"が驀進しながら現れ、そのまま高層建築物の中に突っ込んだのである。ゴガガガッ! と鉄筋コンクリートの歪み砕ける音が響き、高層建築物が数棟、ドミノ倒しのように次々と傾いて砂煙を上げた。

 もうもうたる砂煙ですら隠しきれない巨大な体積を持つ、"巨躯"。その姿を、栞は絶対に忘れることなどできはしない。ホルマリン漬けになった生物標本に似た、濁った白色の体表。その体表を覆おう、触手とも体毛とも似つかぬ幾つもの突起。赤子のように四つん這いになりながらも、赤子にしては長すぎる手足を持つ、アンバランスな体つき。

 そして、ゆっくりとした動作で、突っ込んだビルの中から引き抜いた、その顔。まるで栞を認識したかのようにこちらを向いたその面もちに、栞は激しい怯懦と動揺と共に、ハッと記憶を喚起させられる。

 先程、意識が暗転した際に、思考の中に描かれた3つの死んだ眼。それがそっくりそのまま、この"巨躯"の顔面に張り付いてのだ。

 3つの眼はそれぞれがあらぬ方向を向いており、視線など特定できようがない。それでも、"巨躯"が耳元まで裂けた――と言っても、こいつには耳に当たる器官は見当たらない――口をニンマリと歪めた表情を見た瞬間、栞はこいつに「睨まれた!」と感じた。

 心臓を、氷の掌によってギュウッと握り締められたような、恐怖と衝撃。

 栞は慌てて、父親に言われた通りに瞼をギュッと閉じた。

 (見るんじゃなかった、見るんじゃなかった、見るんじゃなかった――!)

 網膜にしっかりと焼き付いてしまった光景を拒絶するように、何度も何度も胸中で絶叫を繰り返した。

 ――一方、栞は閉じゆく瞼の合間から、この光景に更に加わる2つの要素を見て取った。

 1つは、"巨躯"の後ろを追うようにして現れた、幾つも飛行戦艦。その側面にはデカデカと、ハトの翼を持つ紫色の輪を纏った地球のマークが張り付いており、アルカインテールの駐留している地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のものだと瞬時に理解できた。

 もう1つは、"巨躯"の周囲の空間を幾つも球状に歪めながら出現する、蟲にも似た兵器様の存在。栞は、それが癌様獣(キャンサー)と呼ばれる存在であると云う知識を持ち合わせてはいなかったが、その禍々しく攻撃的なフォルムから、尋常でない存在であることを読み取った。

 これらの2つを瞼の闇の中に押し込めながら、栞は、自分の生まれ育った都市国家が恐るべき災厄の渦中に放り込まれてしまったことを知ったのだった。

 

 ――瞼の闇を開くと、そこは凄惨な街並みではなく、穏やかな机上の光景であった。

 教科書やノートが綺麗に納められた本立て。主に色ペンが疎らに納められているペン立て。そして、デスク面には、開いたままの算数の問題集とノート、そして筆記用具が散らばっている。

 「あたい、居眠りしちゃってた…」

 栞は、枕にしていて重ねた両手から顔をゆっくりと持ち上げると、眠気が尾を引くトロンとした眼差しを数度(しばたた)かせる。

 机のすぐ向こうには、曇空が広がる難民キャンプの街並みがある。空を覆う雲はかなり厚いようで、街並みは夕暮れのように薄暗い。この薄暗さに誘われて、うとうとしてしまったようだ。

 栞は椅子に座ったまま、「う~ん」と伸びをすると。転がっていたシャープペンを手に取り、問題集とノートに向かう。今は、難民キャンプで開かれている臨時学校の宿題に取り組んでいる最中だったのだ。

 しかし、問題に取りかかろうとしても、なかなか意識が集中できない。

 どうしても、思考の中に、あの"巨躯"が――『バベル』の姿が焼き付いて離れない。

 (…最近、やっとあの夢を見なくなってきたのにな…)

 栞はシャープペンを軽く放り投げると、両手の上に顎を乗せて窓の外を見やりながら、ふぅ、とため息を吐く。

 ――あの悪夢を見てしまったのは、きっと、昨日自分の故郷(アルカインテール)へと向かって行った学生たちの影響に違いない。

 そんな事を思い浮かべてムッとする一方で、栞の背中にゾワリとした不安が駆け巡る。

 (もしかして…あたいの故郷(アルカインテール)で、ヤバい事が起きてるのかな…?

 だから、あの人達も、昨日中に帰って来れなかったんじゃあ…?)

 栞はふと、視線を曇天へと上向ける。

 重く厚い雲は雨粒の涙こそ流さないものの、晴れやかな陽光を覗かせる気配は、全くない。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 栞が居眠りから覚めたのと、ほぼ同時刻。アルカインテールにおいては、栞の夢と呼応したかのような異様な現象が発生していた。

 

 ドクンッ――アルカインテールの混戦の渦中に居る、(すべから)く全ての者達がまず感じたのは、その鼓動とも胎動とも似つかない震動だ。

 いや、震動といっても、地面も大気も、人類が感覚神経を介して近くする大凡の物体が物理的に揺れ動いたワケではない。現に、路上の瓦礫も、瓦解した廃墟に申し訳程度に残る割れたガラスも、"パープルコート"が作り出した(ねじ)くれた木々の葉も、ピクリとも動いてはいない。

 揺れたのは、ヒトビトの精神――もっと正確の言えば、魂魄だ。形而上からの強烈な刺激に、魂魄の定義が大きく揺らぎ、それが身体へフィードバックされて、"揺れている"と知覚されたのである。

 この形而上的な震動は、アルカインテールに存在するほぼ全ての存在に多大な影響を与える。震動はドクンッドクンッと絶え間なく発生し、次第に強度を増してゆく。それにつれて、神経へのフィードバックによる負荷も増加してゆき、脳に知覚される刺激は単なる揺れから、肉体のみならず意識までもが渦巻き歪んでかき乱されてゆくような酷い不快感を生み出す。

 

 「うぉえっ…ぷっ!」

 巨大な機動兵器を操り、癌様獣(キャンサー)の巨大個体『胎動』と、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーの複数の機動兵器を相手にしていた神崎大和は、胃袋そのものが咽喉(のど)にせり上がって来たような感覚を覚え、コクピットで身体をエビのように曲げて口元を抑えた。

 こうなる直前までの大和は、組織間の対立を越えて、見事としか言いようのない連携を見せて立ち回る『胎動』と"インダストリー"の機体を相手に孤軍奮戦。途中、沸き出すように現れた小型癌様獣(キャンサー)の群をことごとく撃破したり、"インダストリー"の機体数機を大破させたりと、獅子奮迅の活躍を見せていた。大和の操る巨大な機体は、まるで軽やかな妖精がダンスするかのように緻密に動き回りながらも、大噴火した火山のような苛烈な火力で相手を圧倒していた。

 残った相手は性質的にも能力的にも数段レベルが高く、苦戦は必至ではあったが、これまでの着実な戦果で自信をつけていた大和は、臆することなく彼らを相手に堂々と立ち振る舞っていたのだが。

 先刻苦しめられた怨場よりなお酷い不快感に襲われ、全く動くことができなくなってしまった。英雄的な活躍を見せていた巨大な機体は、今や単なる鋼の山となり、その場に立ち尽くすばかりだ。

 (くっそぉ…こんな肝心な時にぃ…!

 一体、何なンスかぁ、このヤバいのはぁ…ッ!)

 舌の付け根まで沸き上がってきた苦酸っぱい吐瀉物をグッと飲み下し、焦点定まらない視線で全方位モニターを見やる。この致命的な隙につけ込んで、敵どもが攻め込んで来ることを恐れたのだ。

 だが、大和の感じている苦痛は、"インダストリー"の操縦適応者(クラダー)だろうが、癌様獣(キャンサー)だろうが同様であるらしい。

 "インダストリー"の機体は大和の機体動揺、ダラリと四肢を脱力させ、重金属の木偶となって立ち尽くしている。そして『胎動』の方は、ビクビクと身体を痙攣させながら、不快感を身体の外に吹っ飛ばそうとするかのように、時折頭や尻尾を大きく揺すってみせる。

 相手も同じ境遇に陥っていることに、大和はひとまず安堵したのだが。すぐに首をブンブンと振って、その甘い考えを捨て去る。

 "インダストリー"の操縦適応者(クラダー)は、本社の魂魄演算型量子コンピューターと常にリンクしており、体調不良などは遠隔で調整して克服してしまうだろう。癌様獣(キャンサー)も種族内に存在するクラウド的な意識共有空間にて瞬時に対策を議論し、解決策を導き出してしまうだろう。

 その点、独りで敵を相手にしなくてはならず、且つ、魂魄分野には(うと)い大和は、非常に不利な立場に置かれている。

 (こんな事なら、蒼治先輩と一緒に高等魔術の授業を受けておくべきだったッス…!)

 不快感と共に激しい後悔の念に苛まれながらも、大和はとにかく今回の現象に抗うべく、精神干渉に対する基礎的な抵抗技術を実践するのだった。

 

 地上で乱戦を繰り広げるナミトと、その相手をしている『冥骸』の戦士たちもまた、この魂魄震動現象に少なからぬ影響を受けている。

 「ぐぬぅわっ! なんじゃっ、この気持ち悪さはっ!」

 真っ先に叫んだ『涼月』の侍の身体は、悪質な映像のように激しい横縞のノイズが走り、輪郭が荒々しく歪む。

 この現象は、『涼月』にのみ発生しているのではない。共闘している甲冑姿の『破塞』や軌道走行服姿の『藻影』にも同様の現象が起こっている。更には、怨場発生装置と化した建造物の骸骨の内側でも、白骨化した身体を晒す死後生命(アンデッド)達が糸の絡まった操り人形のようにカクカクと痙攣している。中には、間接間の結合力を失い、体部がガラガラと崩れている者もいる。

 そしてナミトも、脳を鷲掴みにされて直接揺さぶられたような強烈な不快感にくず折れると、文字通り頭を抱えて悶えていた…が。流石は魂魄の直接操作を得意とする練気技術の使い手、混濁した意識の中でも着実に呼吸を整えて体内の術式を整えて混乱を押さえ込むと。終いに、ヒュッ! という鋭い呼気と共に身を襲っていた魂魄干渉を体外へと弾き飛ばした。

 (あっぶな~!

 いきなりなんだってのかなー、こんな魂魄干渉! 魂魄の定義がすっ飛ぶところだったじゃんか!)

 胸中で文句を語った、その直後。自分の文句の中身にハッとして、思い直す。

 (これ、相当ヤバくない!? 避難民の人達、トンでもないことになっちゃってるんじゃあ!?)

 ナミトの任務は、『冥骸』達の足止めをすること。しかし、避難民と一緒に居るのがロイや紫だということを鑑みると、魂魄操作技術に長けた自分がフォローに回らなければいけないのでは、という衝動に駆られる。

 (幸い、『冥骸』のおじーちゃん達は、相当参ってそうだし!

 この状況じゃ、怨場発生装置も意味ないようだし!

 こんな所に居ても仕方ない、ボクはさっさと人命救助に――!)

 踵を返して2、3歩と走り出した、その時だ。

 背後から迫る殺気を感じて、ナミトはヒョイと首を傾ける。すると、ナミトの後頭部があった虚空を、炎に包まれた鞭状の槍が鋭く貫く。

 更に槍は獲物を執拗に狙うヘビのように方向を変えて、ナミトの顔を絡めに来る。ナミトは表情を歪めて舌打ちし、とっさに屈み込みながら転身。背後に向き直る。

 「わしらに背を向けて何処へ行く、小娘ッ!」

 そんな罵声と、ナミトの視線が交錯する。見れば、苦しんでいたはずの3人の霊体の戦士が完全に復活し、万全の戦闘態勢を整えてこちらを凝視している。

 ナミトの頬がヒクッと動く。

 「おじーちゃん達、この魂魄干渉の中でも平気なんだ?」

 「いきなりのことでびっくりはしたがよ、オレ達霊体は魂魄そのものみてぇなモンだからな。生きた肉体(おまえら)以上に、こういう状況への適応力はあるつもりだぜ?」

 ナミトに答えた『藻影』は直後、構えた錆び付いたチェーンガンをぶっ放す。

 (くっそぉっ! 霊体だからって、この魂魄干渉に対してこんなに簡単に適応出来るなんて!

 結構厄介なおじーちゃん達だなぁ!)

 ナミトは左右に素早く動き回りながら『藻影』の元に迫りつつ、右拳に練り上げた気を込める。そしてついに肉薄し、チェーンガンの銃身の内側へと入り込んだナミトは、拳を掌打の形に変かさせて、『藻影』の腹部を狙う――。

 が、そこでナミトに野生動物的な勘が働き、彼女は素早くバックステップする。直後、『藻影』とナミトに間に割って入ったのは、『破塞』の破城槌である。退くのが一瞬でも遅ければ、槌に激突していたところだ。

 そして更に――。

 「ハイヤァァァッ! もらったぁぁぁッ!」

 耳をつんざくかけ声とナミトの頭上から落下してくる、『涼月』。叩き下ろされた槍を、ナミトは半歩横に退()いてかわすと。3本のキツネの尻尾をなびかせながら『涼月』の懐に入ると、不発に終わっていた右掌打を胸に浴びせる。

 転瞬、(ゴウ)、と響く爆音。そして、『涼月』は背中に突き抜ける雷光色の爆発と共に、「ぬおおおおお!?」と絶叫しながら吹き飛ぶ。

 発勁による高等攻撃技術の一つ、『鋼爆勁』が炸裂した瞬間だ。呼んで時の如く、鋼をも爆して破壊する威力を持つ、強力な練気打撃である。

 この打撃によって『涼月』の霊体は激しく歪み、そのまま掻き消えてしっまうのではないかと思えたが…すかさず2体の霊体が彼を両脇から抱えて受け止めると、『涼月』は縦縞のノイズにまみれながらも、なんとか形を取り戻して立ち上がる。

 「あんなテレホン攻撃すっから、そんな目に遭うんだっつーの、じーさまや」

 『藻影』がフルフェイスの向こうでくっくっと笑いながら指摘する。

 すると『涼月』は、頭をブルブルと振って霊体を震わせた爆撃を追い出すと、2人の手を振り払ってしっかりとした足取りで立ち上がる。

 「黙れい、若造がッ! 気合一閃こそ、鋼をも断つ力を呼び覚ますのじゃ! 古来よりの謂われであろうッ!」

 「…そんな謂われ、私は耳にしたことはないがな…」

 『破塞』がボソリと呟くと、『涼月』は骸骨面の眼窩に怒りの炎を灯して睨めつける。

 自分そっちのけでワイワイと騒ぐ3人の霊体に、ナミトは呆れた苦笑いを浮かべると共に、内心で舌を巻く。

 (このじーちゃん達、なんかのほほんとして危機感薄いけど、やっぱり結構な実力者だなぁ…。

 ボクの『鋼爆勁』受けても、すぐにあんなに元気になってるし…)

 それもこれも怨場発生装置の寄与によるものかと訝しみ、視線をチラリと高層建築物の亡骸に走らせたが…。鉄骨の中にギッシリと詰まった白骨の死後生命(アンデッド)達は、まだガクガク震えていたり、崩壊が続いたりしている状況だ。並の霊体にとっては、現在の魂魄干渉は相当堪えるものらしい。

 その一方で、適応するのが当たり前のような口振りをしていた眼前の3人は、やはり常軌を逸した存在と言えよう。

 (こんな状況じゃなかったら、戦うのも存分に楽しみたかったけどさ…!

 今は、そんな事言ってられる時じゃないから…!)

 ナミトは苦笑いを噛み殺すと、大きく円を描くように腕を回しながらゆっくりと深呼吸をし、体内で気を練り上げる。そして、震脚と呼ばれる強烈な足踏みと共に、練り上げた気を全身に稲妻のように(まと)い、身構える。

 (悪いケド、さっさと終わらせてもらうかンね!)

 ナミトの力強い練気を感知した3人の霊体は、わいわいとふざけ騒ぐのをピタリと止める。そして、それぞれの奈落のような眼窩に暗く烈しい殺意の炎を灯し、ナミトを睨めつける。

 「――まぁ、騒ぐのは、このキツネのお嬢ちゃんを血祭りにしてからだ――なッ!」

 『藻影』が叩きつけるような言葉尻と共にチェーンガンを連射し、戦闘の第二幕の開始を告げる。

 ――この戦い、まだまだ厳しく続くようだ。

 

 局地的にして異常な豪雨と雷鳴が点在する空中では、イェルグと"パープルコート"の艦隊を主体とした航空戦力のぶつかり合いが、まだまだ続いてる。

 それまで圧倒的な優位に立っていたのは、孤軍ながらも天候を自由に操作するイェルグであったが…。あの異様な"鼓動"が発生した後、その立場は一気に逆転する。

 「おいおい…海王星の嵐ン中でも、目を回さない自信があるってのによ…こりゃあ、きっついな…!」

 大和が精魂込めて作った戦闘機のコクピットで、イェルグは操縦桿を握る両手に額を乗せて、苦々しく呟く。彼の額は脂汗でジットリと濡れるばかりか、ポタポタと滴までもが垂れている。

 天候を自在に操り、どんな状況下でも飄々(ひょうひょう)とした思考の持ち主である彼でも、この魂魄干渉には手を焼いているようだ。

 一方で、豪雨や雷撃に晒されて右往左往していた"パープルコート"の艦隊は、"鼓動"の発生して後、その行動が機敏で冷静なものへと変わる。狂乱している天候の中をうまい具合に切り抜け、整然とした隊列を組み、巣をつついた時に飛び出すハチの群のように『ガルフィッシュ』の大群を繰り出してくる。

 「こんな時に急に元気になるってのは、一体どんな絡繰りだってんだよ…」

 脂汗をダラダラと垂らしながら、なんとか上体を起こしたイェルグは、ふらつきながら操縦桿を(さば)きつつ、『ガルフィッシュ』の魔化弾丸(エンチャンテッド・ブリッド)の雨霰をなんとか回避する。

 イェルグはナミト程に魂魄制御技術に長けてはいないが、並の職業軍人よりはうまくやれるという自負がある。そんな彼が苦しんでいるというのに、"パープルコート"の艦の(ことごと)くが健在であるのは、一体どういう所以(ゆえん)なのか。

 それは、この魂魄干渉を引き起こしているのが"パープルコート"であり、隊員たちはその事前対策として魂魄の定義安定度を高める霊薬(エリクサー)を投与したためである。その副作用として精神の沈静化がもたらされた為に、彼らは冷静さを取り戻したのだ。

 ちなみに、この過大な魂魄干渉が及ばない場所でこの霊薬(エリクサー)を投与した場合、常人の精神構造は過剰な沈静化のために抑鬱状態に陥ってしまう。

 何にせよ、イェルグはただでさえ苦境に陥っている中で、大量の兵器を相手に休むことも許されず立ち振る舞い続けねばならない。

 僅かながらの光明と言えば、"インダストリー"や癌様獣(キャンサー)の空中戦力も魂魄干渉の影響によって、動きが明らかにおかしくなっており、こちらの脅威になり得ないことだ。しかしそれも、気休め程度の光明でしかないが。

 「全く…! 空自体を歪ませてくるなんてな、無粋にも過ぎる奴らだよ…!」

 イェルグは唾棄しながら、厳しい戦いを続ける。

 

 そして、何処よりも深刻な影響が及んだのは――避難民が捕縛されている異形の林の中である。

 車列の先頭では(ゆかり)珠姫(たまき)、後方ではレナがそれぞれ獅子奮迅の活躍を見せ、ゼオギルド率いる"パープルコート"の不良部隊と互角以上の戦いを演じていたのだが。

 先の"鼓動"の発現により、難敵を相手にしても士気を高く保ち、統制の取れた行動で奮戦していた市軍警察官達のほぼ全員が、魂魄干渉によってダウンしてしまったのだ。

 「みんな、気をしっかり保って…!」

 「お前ら、気合い入れろよッ! 職業軍人なんだろうがよッ!」

 車列の先頭・後方で紫とレナがそれぞれ鼓舞の言葉を叫んでいる。しかし、当人達も強烈な魂魄干渉によって体調不良を引き起こされており、クラクラと暗転しそうになる意識をつなぎ止めるように頭を抑えている。

 しかし、彼女らの言葉も、市軍警察官達の鼓膜をただ単に虚しく震わせるに留まってしまう。何せ、魂魄干渉に対するロクな対抗技術を持たぬ彼らは、即時に意識障害に陥ってしまったのだから。

 それまで精悍な顔立ちで疾風の如く動き回っていた彼らは、今では焦点の合っていない目つきでポカンとだらしなく口を半開きにし、四肢をダラリと脱力させて立ち尽くすばかりだ。1つ奇妙なのは、どう見ても思考停止しているようにしか見えない彼らが、皆一様に同じ地点を眺めていることである。

 対して、"パープルコート"の隊員は残虐な笑みを浮かべ、無抵抗な市軍警察官達を容赦なく無力化して回る。脇腹を打ち抜いたり、手や足を吹き飛ばしたりと、やりたい放題だ。紫やレナは体調不良によってすっかり動きが緩慢になってしまい、彼らを救出しようにも、自分たちに襲いかかってくる"パープルコート"どもを(さば)くのがやっとだ。

 この時、紫やレナは気づいていない――いや、単に気づく暇がないだけかも知れないが――。"パープルコート"達の行為は残虐そのものであるが、彼らは決して市軍警察官を即死させるような攻撃を取っていないことを。

 一体、この行動に何の意味があるのか。"パープルコート"という部隊に周知されている指示によるものなのか。それを問い(ただ)せる者は、不幸にも、この場には存在し得ない。

 さて、車外の林の中では市軍警察官達が機能不全に陥ってる中、車内に残されている避難民たちにも同様の異変が起こっていた。

 ロイによって救助され、自由を得た者達は、フラフラとゾンビのように車両の外に歩き出すと、軍警察官と同様に同じ地点へと視線を投げる。

 未だ車両内で木々の葉と枝にからめ取られている者達は、自らの身体が(いた)むのも構わず、無理矢理にでも転身し、やはり車外の者達と同様、車両の壁や床越しに同一の地点へと視線を投げかける。

 車列のほぼ中央、指揮車両にのっている蘇芳は、練気の技術によって魂魄干渉をかわしていたものの、同じ車両内に居る者達がギチギチと骨身を軋ませる音を立てながら、夢遊病患者のように身体を回す様子を眺める羽目に陥っていた。と言うのも、彼自身も葉や枝に阻まれて身動きが取れずに居るからである。

 「おい、おい! 誰でも良い、俺の声に耳を傾けてくれッ!

 頼む、気を確かに持ってくれよッ!」

 身動きが取れない中、クラクラする意識の中で、咽喉(のど)が痛くなるほどの勢いで叫びまくる蘇芳であるが――。彼の胸中は、行動に反して、絶望的な諦観に満ち満ちている。

 蘇芳は、知っているのだ。この行動が意味するもの。そして、訪れるべき結末を――。

 そして早くも、彼は"それ"を目にする。

 視界に入る全ての意識障害者たちが皆一様に、灼熱の太陽光によって一斉に炙られた氷の彫像群のように、肉体がトロリと溶融し始めて、濁った白色を呈するサラサラとした液体へと変化してゆく。

 蘇芳はこの光景を目にして、歯茎から血が噴き出るほどに歯噛みをし、胸中で呻く。

 (クソッ! またかよッ! んでもって、ついに来やがっちまったのかよ!

 あの最凶最悪の"問題児"がよッ!)

 同時に、蘇芳の脳裏に過ぎるのは――娘の栞と別離することとなった日の情景。

 「くそぉぉぉっ! 今回もどうにもできねーのかよぉぉぉっ!」

 過去の悔恨にも襲われた蘇芳は、火を吹くような勢いで絶叫したのだった。

 

 蘇芳の絶叫が天にも響こうかと言う頃のこと。アルカインテール全土を覆う現象が、新たなる段階に入る。

 都市国家内に居る全ての者達が――今回の魂魄干渉への事前対策を講じていた"パープルコート"の隊員も、『星撒部』の部員達を初めとした"パープルコート"競合勢力の内、自力で魂魄干渉に抵抗している者も、あえなく屈して意識障害を起こしている者も、その全てが――等しく、同じ光景を見たのだ。

 突如、漆黒に暗転する、視界。戸惑う間もなく、漆黒の中に正三角形を描くように浮かび上がる、3つの球形の輪郭。それらは月の満ちを早回しにしたような有様で、一様に下から上へと開いてゆく――やがて、満月のように開ききると、そこに現れたのは、眼球だ。各々があらぬ方向を向いた、生気の光が全く見えない、死に絶えた眼。

 眼はギョロンギョロンと激しく、素早く動き回る。通常の生物では筋肉を痛めるほどの勢いで動き回るそれは、実際組織を傷めたらしく、眼からは真紅を呈する血の涙がドロリと溢れ出す。

 それでも眼は、無明の世界にも関わらず興奮するようにギョロンギョロンと眼球を回し続けると――突如、ピタッと動きを止める。

 次いで、視界に現れるのは、3つの眼球の直下に一文字に現れた亀裂だ。それは穢らわしく粘液の糸を引きながら、狂乱した肉塊で覆われた内部を見せつけるように半月状に開いてゆく。それが"口"であることを理解できたのは、亀裂が精神疾患を(わずら)った幼子のような(わら)いの形を取って見せたからだ。

 そしてそいつは、開ききった口をこちらに――視認者へとゆっくりと近づけてゆく。飢え切った状態で、大好物を頬張ろうとするかのように。

 この恐るべき光景に、魂魄干渉の事前対策の副作用で精神が沈静化していた"パープルコート"隊員たちも、その思考に荒波が起きる。彼らは魂魄干渉を完全に回避出来ると説明を受けた上で、抗体となる霊薬(エリクサー)を受け取り、そして使用したのだ。それにも関わらず、霊薬(エリクサー)の効果を打ち破っての意識への侵入が起こったことに、純粋な混乱をおこしていた。

 (ちょっと、やめろ、なんだよ、おまえ、やめろって、どっか行けよッ!)

 "パープルコート"のとある隊員は、恐怖に染まりつつある思考から激情を振り絞ると、精一杯の集中と感情を込めて眼前の"眼と口"を罵る。魂魄干渉を振り切る方法として自前で出来ることは、魂魄の定義安定性を高めるために、自己存在を肯定すること。怒りという感情は、自己存在の否定を払拭する効果を持ち、定義安定性を即興的に高めてくれる効用がある。

 この方法がうまく行って、晴れて魂魄干渉から抜け出し、視界を現実の物質世界へと戻すことに成功した者は多数いたが。それと同数程度、運悪くも魂魄干渉を免れず、"眼と口"に捉えられてしまった者もいる。

 その末路は、せっかく自己定義の安定性を高めて魂魄干渉から脱した者達を、再び自己定義不安定の憂き目に引きずり込むほどに凄惨なものである。

 フラフラと揺れ動きながら呆然と立ち尽くしていた機動装甲歩兵(MASS)は、その顔色が濁った白色に変化したかと思うと、まるで氷像が高火力で一気に加熱させられたように、ドロリとその形を失う。眼も、鼻も、口も、頭蓋骨の一片までもが一様に濁った白色の液体へと化したのだ。人体が溶融した液体は水のように粘度が低く、バケツをひっくり返した時のようにバシャンと音と建てて機動装甲服(MAS)の中を流れ落ち、大地に白い水溜まりを作り出す。同時に、もはや装着者が消えてしまった機動装甲服(MAS)が、ガランと重い音を立てて大地に落下する。

 この恐るべき変化は、"パープルコート"のみならず、癌様獣(キャンサー)にも発生していた。"インダストリー"の操縦適応者(クラダー)は機動兵器のコクピットに籠もっているので人目に付かないが、同様に溶けてしまった者もいる。

 特に酷いのは、避難民および市軍警察官たちである。彼らの大半が液化し、林の中や車両の中は白色の液体で満たされてしまう。

 「な、なんだよ…これぇ…!!」

 車列の後方でのレナは、こういった手合いの災厄に慣れていないため、魂魄干渉を免れはしたものの、次々と溶融して大地に広がってゆく仲間の市軍警察官や"パープルコート"の隊員を見て、過呼吸気味に呟いている。

 一方、身体を霊体で構成されている『冥骸』の死後生命(アンデッド)達は、変化の様相が違う。溶融こそしないものの、強風の中で翻弄される煙のように形状がかき乱されて渦巻き、しまいには体積が収縮して鬼火のような小さな塊と化す。

 液体と鬼火。その形状は違えども、両者は同様の行動を起こす。すなわち、液体は濡れた跡すら残さずに素早く大地を滑り、鬼火は弾丸のごとく空を高速で飛び、とある地点を目指すのだ。

 

 この現象の最中、魂魄干渉を見事に免れていたノーラは、停止した乱戦の中で攻撃の手を取め、滑ったり飛んだりして行く液体や鬼火にキョロキョロと視線を送っていた。

 定義変換(コンヴァージョン)の使い手である彼女は存在定義へのアクセスのエキスパートである。『星撒部』の中でも――いや、もしかするとこの戦場の中でも、と表現しても過言でないかも知れない――最もスマートにこの魂魄干渉を乗り切っていた。だから彼女は、意識障害に視覚を邪魔されることなく、今回の現象のほぼ一部始終を目にしていた。

 (これは…破壊再生型の現象による、魂魄定義の強制的な書き換え…!)

 周囲で次々に起こる肉体と霊体の溶融現象を形而上相から分析し、その本質を覚ったノーラは、途端に背中から冷たい汗を噴き出す。

 今回の作戦に先だって、蘇芳達からもたらされた『バベル』についての情報。それに多くの点で合致する現象が起こっていることに、多大な焦燥を感じたのだ。

 (…私の悪い予感通り…! やっぱり、封じるよりも先に…! 間に合わなかったんだ…!)

 ノーラは視線を、液体と鬼火が集結する地点へと向ける。そこは一見すると、瓦解した摩天楼に囲まれた単なる虚空に見える。…が、よくよく目を凝らすと、瓦礫が形成する輪郭が徐々に膨らむように歪んでゆくのが確認出来る。

 瓦礫が膨張しているワケでないことを、ノーラは一目で理解する。単なる体積の膨張ならば、輪郭がぼやけることはあり得ない。

 この膨張は、空間の歪曲によるものだ。

 (何かが…次元回廊を形成して…物質世界(こちら)側に出ようとしてる…!)

 ノーラは"何か"と称したが、実際にはその答えをほぼ言い当てている。しかし、その根拠を盤石にするためにか、形而上相の視認を行って"何か"の存在定義を確かめとする――と。

 「あうっ!」

 脳内を直接殴りつけられるような衝撃と、眉間を抉られるような鋭い激痛に、ノーラは頭を抱えて体を曲げる。通常の感覚で捉えるには、あまりにも高密度にして複雑過ぎる術式構造に、脳の処理速度に多大な負荷がかかったのだ。

 ズキズキと痛む頭を抱えながらも、ノーラはチラリと脳裏に描画された"何か"の形状を(かえり)みる。体表はザラザラと云うかグニャグニャとした突起に覆われた、膨満したようなプックリした四つん這いの形状。それはまるで、生まれて暫くの月日が経ち、這い回れるまでに成長した赤子を思わせる。

 ノーラは認識格子の密度を思いっきり低くして――まるで、地球上から望遠鏡で多惑星を眺めるほどに――もう一度"何か"を見やろうとする。

 しかし――ノーラの試みよりも早く、"何か"は膨張した空間の向こう側から、その恐るべき姿を曝し出す。

 

 丁度この頃、魂魄干渉から自力で脱した蒼治が、頭を左右に振りながら感覚を取り戻し、周囲の状況を確認していた。

 彼はまず、周囲に広がる濁った溶融物や、装着者を失った機動装甲服(MAS)が転がっている事に驚く。そして次に、機動装甲歩兵(MASS)癌様獣(キャンサー)達が魂魄干渉を受けた意識障害に陥って自失呆然としていたり、恐慌状態に陥って暴れ回っている様子に眉を潜める。

 しかし、その直後、自らの魂魄をチリチリと焦がすような強烈な魔力に気づき、その発生源――ノーラが見つめている地点――へと視線を向けると。初め驚愕で目を見開き、すぐに苦々しい悔恨でギリリと歯噛みをする。

 「クソッ…! ノーラさんの懸念が的中したのか…!

 僕らのエントロピー対策は、完全に失敗したんだ…!」

 苦言を吐きながら見つめるその先には――膨張した空間歪曲がバチンッ! と風船のように割れ、出現した直径2メートルほど平面円だ。その向こう側は、次元回廊を形成する魔力と空間の干渉を物語る、発狂した色彩の乱舞が見える。

 その穴の中から濁った白色の5対の物体――それは、指だ――が現れる。指は穴から出て物質世界(こちら)の宙空をガッチリと掴むと、グググッと力を込めて穴を広げてゆく。

 広がった穴の向こう側からは、ブワッと烈風が吹き出す。体内にまで浸透する微熱のような生温かさを呈するその病風は、蒼治やノーラを始めとした定義未崩壊者達には、神経をグルグルと掻き回されるような生理的不快感を植え付ける。これに当てられて、意識障害を受けながらも派手に嘔吐する者は何人も現れる。

 一方、液化したり鬼火化した定義崩壊者達は、この風に誘われるように移動速度を速めると、穴の中へと次々と飛び込んでゆく。吹いている風の方向が逆ならば、強烈な渦巻きによって吸い込まれている光景そのものだ。

 やがて、穴をギチギチと広げて巨大な出口と化した"何か"は、物質世界(こちら)側にヒョッコリと巨大な顔を突き出す。

 そこに現れたのは――蒼治その他の者達が意識の暗転の中で見た、3つの死んだ眼。そして、半月のような多くな口を持つ、濁った白色の頭部だ。その輪郭は乳児のように丸みを帯びてはいる。ただし、鼻や耳がないこと、そして体表上をワサワサとさざ波立って動く突起に覆われている点が、乳児と著しく異なる点だ。

 そして蒼治もノーラも、この突起の正体何であるか――そもそも、この"何か"を形成している物体が何であるか、即座に認識し、顔色を更に青ざめさせる。

 それは――脊椎で連結された、人体だ!

 (肉眼でこうやって見ると…! おぞましさだけで、僕の魂魄が押し潰されそうだ…!

 こいつが…! この非人道性の塊が…!)

 蒼治が胸中で叫ぶ間にも、"何か"は穴の内側で四肢をズリズリと動かし、頭部に次いで胴体を露わにする。この胴体も頭部と同様、白く濁った人体の連結によって構成されている。

 そして、吸い込まれていった液化または鬼火化した魂魄達は、この"何か"の体表に手当たり次第に接触すると、粘土をこねるような有様で形状を変え、"何か"の体構造の一部としてその中に取り込まれてゆく。首や下半身のない体が列に加わり、"何か"はブクブクとその体積を膨らませてゆく。

 やがて――"何か"はすっかりと穴の中から抜け出すと。穴が伸びきったバネが縮むようにキュッと収縮して消滅するとほぼ同時に、四つん這いの"何か"は自由落下。眼下に広がる瓦礫の街並みや、その合間に存在する機動装甲歩兵(MAS)やら癌様獣(キャンサー)達を押し潰し、ズゥンッ! と大地を揺るがしながら着地する。

 こうして全容が明らかになった"何か"は、長大な尻尾を備えた、腕や脚といった突起物で覆われた、巨大な奇形の乳幼児。

 「こいつが――『バベル』――!!」

 蒼治が名を呼ぶと、その言葉に呼応したかのように、"何か"――いや、『バベル』は、巨大な口を大きく開いて粘つく唾液まみれの白い口腔を見せて、ニヤリと嗤う。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Dead Eyes See No Future - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 『バベル』が顕現したのと同時刻。

 人工空間内に存在する"パープルコート"の拠点、その『バベル』研究開発棟では、ツァーイン・テッヒャーが指揮官ヘイグマン・ドラグワーズ大佐に通信を入れていた。

 ツァーインは、眼前にあるコンソールデスクに投影された3Dディスプレイに向けて、血走った眼を注ぎながらヘラヘラ笑いを交えつつ問う。

 「いかがですかな、いかがですかな、大佐殿! 我が偉大なる子、その感触は!? 刺激は!? 威光は!?」

 興奮して喚くツァーインに対して、ディスプレイ越しのヘイグマンはデスクに座し、組んだ両手に顎を押しつけて俯き加減の姿のまま、静かに答える。

 「…"前回"とは比べものにならないほど、快適だ。感覚へのフィードバックもすんなりしている。

 2つの全く異なる視界を同時に並行して知覚しているのには、やはり妙な感じがするがね。

 …しかし、快適過ぎて、『バベル』の定義構造が虚弱になったのではないかと、多少心配しているよ」

 「いえいえ、いえいえ! 虚弱になったなどと! そんな事はありません、あり得ません!」

 ツァーインは()けた頬の肉がブルンブルンと(たる)むほど首を左右に振り、目一杯否定する。

 「むしろ、むしろ! 此度の我が子(バベル)は、それこそ神と並ぶほどに! いや、神そのものを名乗って恥じぬほどに! その存在を盤石に! 完璧に! 構築しておりますぞ!

 故に、大佐殿、ホラ、ホラ! ご覧ください! この光景を!」

 ツァーインはコンソールデスクのカメラをひっ掴むと、周囲の光景をそのレンズに映す。

 巨大生物の体内に機械を混ぜたようなおぞましい研究開発棟の内部。その広大な敷地内には、数百単位の研究者や技術者がひしめいていたはずだが。今や、ツァーインを除いて、誰一人と姿を認めることが出来ない。

 いや――人の存在を匂わす形跡はある。床やデスクや器具の上に無造作に捨てられた白衣や作業着、軍服がそれだ。

 ということは、着ていた者達は、その衣服を脱ぎ捨てて、この研究開発棟から退室したということだろうか。

 ――いや、違う。

 彼らは皆、アルカインテールの戦場で起こっている現象の如く、皆『バベル』の魂魄干渉に当てられて溶融し、『バベル』の身体に吸収されてしまったのだ。

 「どうです、どうです! この凄まじい光景! これこそが、我が偉大なる(バベル)が正に! 真に! 盤石なる存在と化した証!

 この場に居た下劣にして愚かなる子羊達は皆! 『バベル』の完璧に魅入られ、己の醜い姿を打ち捨て! 完璧の一員となるべく、その身体を! 精神を! 魂魄を! (ことごと)く捧げたのです!」

 ツァーインは『バベル』の魂魄干渉や、それがもたらす存在定義の破壊のメカニズムについては何も言及せず、抽象的な言葉ばかり並べた。しかしヘイグマンは特に聞き直さず、納得したようにゆっくりと首を縦に振る。

 「なるほど。それ故か、対策を講じているはずの我が兵達すら、魂魄干渉に当てられているのは。その点を鑑みれば、此度の『バベル』の完成度が上がっているのは理解出来る」

 この言葉に、ツァーインは不愉快げに片眉をつり上げる。

 「完成度が上がったのでありません!

 完成! 正に! 真に! 完成したのです!」

 「…失礼、ドクター。完成したのだな」

 ヘイグマンはツァーインの狂気の興奮に抗う無益を避けて、あっさりと言い直す。

 「…しかし、やはりこの快適さは不思議だな。前回の起動より構造は遙かに複雑化している、だと言うのに、私は脳に全く負荷を感じない。

 それほどの演算能力を持っているということか、"これ"は」

 ヘイグマンは語りながら、軍帽を外してみせる。

 露わになったのは、白味がかった短い金髪に覆われた頭。そして、その左側に巨大な腫瘍のようにブックリと膨れ上がった、"これ"。『バベル』と同様に濁った白色を呈するそれは、溶けかけた胎児のような物体である。それがヘイグマンの頭部に癒合しているのだ。

 ツァーインはそれを見て、何度も何度も大仰に首を縦に振って肯定する。

 「それこそが、大佐と我が(バベル)を繋ぐ肝!

 胎児とは、形而上事象への適用能力が極めて高い生体器官! これに『バベル』と同等の定義強化を施すことによって! コンパクトにして超光速級の演算能力を可能していますからな!

 前回の起動時はこの装置もまだまだ未完成でしたがな、今回は厳選に厳選を重ねましたぞ! 何人の女の(はら)を裂いて、最適の胎児を探し出したことか!」

 人道にあまりにも(もと)る忌むべき事柄を平然と述べる、ツァーイン。『バベル』という生体装置の構想を持ち、それを実行に映した時点で、彼の倫理観は狂い切っているのだ。

 そして、そんなツァーインの狂気の言葉を平然と聞き入れているヘイグマンもまた、狂っていると言って過言ではない。

 ――事実、彼には他人に語らぬ妄執がある。

 「――ドクター、あなたの偉業はよく理解出来た。

 しかし、1つ問いたい。『バベル』の魂魄干渉によって、その場に居る(ことごと)くの者達が定義崩壊したというのに、何故あなたはだけはそんなにピンピンとしているのかね?

 もしかして、『バベル』にはその影響を免れるための抜け道でもあるのかね? それでは、我々が目指す盤石にして完璧な存在とは言えないではないか?」

 するとツァーインは露骨にムッと顔をしかめ、再びブンブンと首を左右に振る。

 「いやいや、いやいや! 馬鹿にしないで頂きたいな、我が子『バベル』を、そして、私自身を!

 『バベル』は(まが)いようもなく、盤石にして完璧だ! その影響から免れ得る抜け道など存在しない!

 私がこうして健在で居られる理由は単純明白! 私が魂魄物理学の天才であるからだよ!

 私はあなた方軍人のように戦闘に魔術を用いることには、全く長けてはいない。しかしながら、私は魂魄分野に関して魔術を扱うことには、この世界において最も長けていると! そう、この地球のみならず、全異相世界を通しても最も長けていると! 自負しておりますからな! 『バベル』の厳しい魂魄干渉に何とか抵抗することが可能だったワケですな!

 しかしながら…」

 ツァーインは己の両手を掲げ、カメラに映して見せる。そこに現れたのは、濁った白色と肌色が混合した色を呈し、形状がドロリと崩れた肘から先が見える。

 「それでも、我が腕はご覧の有様でしてな! やはり、間近での『バベル』の魂魄干渉に抗するには、私の天才的技量を(もっ)てしても足りないほどでしたわい!」

 「なるほど。

 私の懸念は失礼極まりないものだったようだ。非礼は詫びよう」

 するとツァーインはニンマリと笑ってヘイグマンの言葉を喜んで受け入れながらも、"大して気にしていない"と訴える風に溶けた腕をパタパタと振るう。

 「もしも私への負い目を感じたというのならば、その払拭は『バベル』を思い切り操ってみせることで実行して頂きたい!

 大佐殿、大佐殿、都市(アルカインテール)の上空をご覧になりましたかな? ただ顕現するだけでは、我らが『天国』は手中に下りては来ませぬ!

 呼びつけ! 掴み取り! 引きずり下ろさねば! 『天国』は我らの元には来ませぬぞ!」

 ヘイグマンは自身の視覚と同時に、『バベル』の視覚をも並列的に認識していたが、ツァーインとの会話に集中するあまりにアルカインテールの様子をさほど眺めていなかった。今、ツァーインの言葉に誘われてようやく、彼は『バベル』に首を上げるよう、頭部に癒合した胎児様生体機関を通して指示信号を与える。

 アルカインテールの地上では、未だ意識障害に冒されている者達に囲まれた『バベル』は、ゆっくりと頭をもたげて視線を天空に向ける。空間歪曲結界越しに見える蒼穹には、長大にして無機質な形状をした数個の直方体がせせこましく集結した『天国』が見える。それは、ロイやノーラ達が昨日、アルカインテール到着時に見たのと全く同じ有様だ。

 「…なるほど、ドクターの指摘の通りだ。いくら生物どもに(あまね)く魂魄干渉を与えようとも、高次の存在たる『天国』には痛痒も与えぬらしい。

 それでは、動作同期の試験も兼ねて…」

 ヘイグマンはゆっくりと瞼を閉じ、深く息を吸い込むと。亀裂のような唇から一言、ポツリと呟く。

 「まずは、呼んでみるか」

 

 ヘイグマンの口調は微風の様に穏やかであったが…。

 彼の指示信号によって動き出した『バベル』の有様は、真逆と言って良いほどに烈しい。

 四つん這いの格好から両腕を急激に延ばし、オオカミが遠吠えをするような姿へと変じる。この勢いによって発生した烈風が、瓦解した街並みから盛大に土埃を巻き上げながら、路上を吹き荒れる。それに(さら)されたノーラや蒼治は腕を眼の辺りにまで引き上げて、砂塵から視界を守る。

 (突然…何をするつもり…!?)

 狭い視界の中でも『バベル』をしっかり捉えているノーラが疑問符を浮かべた、その時。『バベル』は巨大な口腔をカエルのようにあんぐりと開いてみせる。口の端からは、粘度の高い唾液が巨大な滴を作って、ボタンッ! ボタンッ! と瓦礫の大地を叩く。

 それから数瞬の間、『バベル』は呼吸を整えるように胸を浅く早く上下させたまま動きを止めていたが…やがて、咽喉(のど)がブクンと膨れ上がったかと思うと――。

 ぎぃぃいいやああぁぁぁぁっ!

 大気をのみならず、空間そのものを震動させるような轟声を張り上げた!

 (!!)

 ノーラはその音量に鼓膜が痛み、脊椎反射的に耳を両手で閉ざし、目をギュッと潰る。それは離れた位置にいる蒼治を初めとする他の星撒部部員達だけでなく、『バベル』顕現時の魂魄干渉を免れた"パープルコート"隊員や死後生命(アンデッド)でも同じことだ。"インダストリー"の操縦適応者(クラダー)も、コクピットの中で同じことをやっていることだろう。癌様獣(キャンサー)は人型でないものは聴覚を遮断して、この轟声に対抗しようとしている。

 瓦解した高層建築物が震撼し、窓に僅かに残ったガラスが更に細かく砕け、頑強に立ち尽くす鉄骨がグラリグラリと激震して倒れてゆく最中において。アルカインテール全土を、新たな2つの異変が席巻する。

 1つは、地上を中心にあらゆる生物――いや、それだけに留まらず、無機質にまで及ぶ凶悪なまでに強烈な定義崩壊だ。

 先の魂魄干渉に抗いながらも、意識障害に陥ってしまった者達は勿論のこと。意識障害を脱した者達までも、『バベル』の音叉のように鳴り響く轟声の中で、まるで強酸を大量に浴びせかけられたようにバシャンと身体の輪郭が弾けて、濁った白色の液体と化す。この有様だけを注視すれば、先の魂魄干渉が増強された現象であると言えるが、明らかに異なる点がある。それは、機動走行服(MAS)や衣類を始め、飛行戦艦や機動兵器までもがバシャンと弾けて液化してしまうことだ。それどころか、路上に転がる瓦礫や無惨な姿で立ち尽くす高層建築物の骸までもが、定義を崩壊させられて弾けるように融解してしまう。

 この現象の結果、『バベル』を中心とした半径数キロの領域で大量の物体が溶融し、まるで核の超高熱の炎に曝されたかのような悲惨な光景が広がる。核兵器と異なるのは、大地いっぱいに濁った白色の液体が洪水のように広がっていることだ。

 この液体は(ことごと)くが、先の光景の通り、『バベル』を目指して激流と化し、流れ込んでゆく。そして『バベル』は激流を全身に受けると、砂に水を注いだ時のようにグングンと吸収し、更に、更にと体積を膨張させてゆく。

 一方、轟声が引き起こした定義崩壊を運か実力かによって免れた者達も散見されるが――彼らもまた、少なからず悪しき影響に苛まれている。

 例えば、星撒部員のナミトと、彼女と交戦を繰り広げていた『冥骸』の戦士達。

 前者は定義崩壊を全力で防ぐため、練気の効果を促進する尻尾を九つ全て出現させて対抗し、なんとか五体満足で乗り切ったが。あまりの負担に体組織が悲鳴を上げ、尻餅をついて荒く呼吸を繰り返すばかりで、一歩も動けないでいる。

 (な…何だったの、今の声…!?

 てゆーか、声だけで、この影響力なワケ!? 冗談じゃないヨ!)

 気力が底を着いて声も出せないナミトは、せめて胸中でとばかりに心で叫びながら、パクパクと口を開閉して暴れる肺に酸素をひたすら詰め込む。

 そんな彼女の眼前では、つい数瞬前まで交戦していた霊体達の悶え苦しむ様が見て取れる。

 『涼月(れいげつ)』および『破塞(はさい)』の両名は、酷くノイズの走った立体映像のように体を透き通らせ、その場にうずくまって「おおおおお…っ!」と悲鳴を上げている。残る『藻影(もかげ)』に関しては、轟声の烈風が接触した瞬間に、断末魔さえ上げる暇もなく霊体をプラズマ雲のように分解され、『バベル』の元へと飛び去ってしまった。

 『冥骸』への影響はこれに留まらない。『涼月』達が守護する怨場発生装置も、内部を構成する骸骨様の死後生命(アンデッド)達の大半が定義分解されてしまった。故に、突如として支えを失った骨組みだけの高層建築物は大きく傾くと、地響きを立てながら大地に横たわって崩壊してしまう。これに巻き込まれて押し潰された癌様獣(キャンサー)や"パープルコート"隊員達もいたが、彼らは絶命するより早くに定義分解されて液化し、『バベル』へと押し寄せる津波の一員となっていった。

 定義分解の影響は航空戦力にも甚大な被害を与える。

 "パープルコート"の飛行戦艦の大半が機能を停止し、重力の為すがままに地上へと降下。高層建築物の骸を押し潰しながら、土手っ腹を見せて次々と転がってゆく。

 飛行戦艦が機能を停止した理由としては、定義分解によってエンジンを始めとする飛行機関が破壊されてしまったことも一因である。しかし、それよりも大きな要因は、乗員の大半が溶融してしまい、操縦が放置されてしまったことだ。

 魔術に優れた兵員達の中には、定義崩壊はなんとか免れたものの、戦艦の墜落やら、溶融した壁や床にポッカリと開いた大穴に吸い込まれるやらの惨事に見まわれてしまう者も数多く居る。

 駐留軍でも随一と言える技量を持つ砲手、チルキスもまた、その惨事に見回れていた。

 蒼治を執拗に狙い、暫定精霊(スペクター)による砲撃を続けてきた彼女は、『バベル』出現時に同僚達が溶融しても顔色一つ変えず、己の役割を全うし続けていた。そもそも彼女はヘイグマン個人から今回の任務を言い渡されていた際に、『バベル』起動後の現象について説明を受けていたのだ。加えて、彼女は同僚に対して特段仲間意識を持ってはいなかったというのも、冷徹に任務を遂行し続けられた理由と言える。

 しかし、『バベル』の轟声が響いた途端、彼女が乗る戦艦は前方半分が完全に溶融してしまい、彼女は空中に放り出されてしまったのだ。

 (な、何なのよ…ッ!

 敵味方お構いなしだっては聞いてたけど…ここまでなんて、思わないわよ…ッ!)

 チルキスは脳を鷲掴みにされたような意識障害に苛まれながらも、手近に置いていた愛用の銃器だけを半ば本能的に抱きかかえ、自由落下に身を投じていた。

 定まらない焦点の中で、必死に深呼吸と身体魔化(エンチャント)を繰り返し、なんとか意識をクリアにしたが――その時にはもう、瓦礫の大地は眼前に迫っていた。

 「クソ…ッ!」

 チルキスは桜色に染めた唇を歪めて罵声を上げながら、抱えた愛銃を布にくるんだまま構え、大地にぶっ放す。転瞬、鼓膜を聾する爆音とともに衝撃波が発生。その反作用でチルキスはフワリと宙に浮かんで緩やかな放物線を描いた後、背中から強かに着地する。

 「んぐぅ…!」

 瓦礫の尖った箇所が突き刺さったのか、鋭い痛みが駆け巡り、チルキスはくぐもった悲鳴を上げる。

 しかし、いつまでも寝ているワケには行かない。空を仰ぐ視界には、落下してくる戦艦の巨体が移っている。チルキスは痛みをかみ殺し、愛銃を杖代わりにして立ち上がると、小走りでその場を立ち去る。数秒の後、怒噸(ドドン)と轟音を立てて戦艦が着地。烈風と土煙を盛大に巻き上げる。

 この光景を見送った後、チルキスは自身を襲った惨事を呪って憤りに顔色を変える。しかしすぐに、激情の矛先を惨事という概念的なものではなく、獲物である蒼治に対して向ける。

 (あいつは…! あいつ、これで分解されたりしてないでしょうね!?

 私が狩るんだからさ! 仕留めるんだからさ! 死なれてたから困るっての!)

 チルキスは形而上相を視認し、未だにマーキングが健在か確認を急ぐ。…と、その途端にこの場を未だに支配する定義崩壊の狂乱した術式を直視してしまい、眉間から後頭部に突き抜けるような激痛を覚えて、その場にしゃがみ込む。

 (クソッ…! クソッ…! クソッ…!

 何なのよ、何なのよ、何なのよ! 私の楽しみを取り上げやがって、あの大佐(じじい)! こんなこと、全然聞いてないっての!!)

 胸中で一(しき)り罵りながら、頭痛が引くまで待つと。再び愛銃を杖代わりに立ち上がると、激情の炎が吹く眼で、もう一度形而上相の視認を試みる。

 認識格子を思いっ切り広く取ったため、精度は非常に粗くはなってしまったものの、今度は頭痛が喚起されることはなかった。そして、輪郭のぼやけたマーキングが健在であることを認識すると、チルキスは獲物を前にした猛獣の笑みを浮かべ、彩られた唇を舐める。部隊が壊滅的状況に陥り、指揮系統も存在しなくなった今、彼女は自身の興味と衝動の赴くまま、狩りを楽しむ残酷な猟師と化す。

 即座にマーキングの元へ――蒼治の元へと向かおうと一歩踏み出した、その時。チルキスはハッと気付き、途端に滝のような汗を噴き出しながらピタリと歩みを止める。

 彼女が視認する形而上相、その粗い認識格子の中において尚、クッキリとした強烈な定義を見せつける巨大な存在を見つけたのだ。

 チルキスは形而上相視認を止める――これほど強烈な定義を持つ事象ならば、必ずや形而下に何らかの痕跡を出現させていると判断したのだ――と、存在を認識した方角へ…すなわち、頭上へと視線を向ける。

 直後、チルキスのブラウンの瞳が、大きく見開かれ、桜色に彩られた唇がポカンと開く。

 

 チルキスが――いや、彼女のみならず天空に視線を向けた者達は皆、その視界に『バベル』が作り出した第二の異変を見つける。

 

 それは、アルカインテールの上空に存在する『天国』の変貌である。

 元々は、数個の無機質な直方体が寄り集まって、天上から地上へめがけて延びているだけの代物であった。

 しかし、今の『天国』は大いに様相を変えた。元の直方体を中心にして、巨大な氷柱(つらら)とも水晶の刃とも見える結晶状の存在が、幾つも幾つも生え出してきたのだ。

 そう、"生えた"という過去形ではなく、現在進行形である。水晶は天上から次々とそびえ立ち、大地を貫かんとするように長大に延びてゆくのだ。

 その面積はロイ達が初めて見たときの優に数十倍に拡大し、蒼穹の空は見る間に巨大な氷柱に埋め尽くされてゆく。これほどの規模にまで成長すると、『天国』の名を戴くのに何者も語尾に疑問符を付けることはないだろう。

 そしてこの光景は、史上初めて人類が『現女神(あらめがみ)』の力無くして、人為的に『天国』を創造した瞬間の構図でもある。

 

 「やりましたなぁ! やりましたなぁ!」

 人工空間内の研究開発棟で、ツァーインが崩れた両手をバタバタと打ち合わせながら、興奮の声を上げる。

 そして、ツァーインのコンソールデスクに投影されるヘイグマンも、珍しく口の端に笑みを浮かべ、歓喜を隠せぬ震え声を絞り出す。

 「これか…この感触か…これが、あの女どもの世界か…!

 私は遂に、そこに並んだというワケか…! 遂に、遂に…!」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 あらゆる人々が定義崩壊し、或いは何とか生き延びてもその深い傷跡に苛まれている一方で…。

 『バベル』の登場の前後も、アルカインテール内で恐らく最も激しい動きを見せる一画がある。

 今や定義崩壊によって無惨に枯れ、散り果てた異形の林の中。積乱雲内の雷光のごとく激闘の衝突を繰り返す5人が居る。

 星撒部の『暴走君』と呼ばれる賢竜(ワイズ・ドラゴン)、ロイ・ファーブニル。"パープルコート"の中佐にして五行魔術体系の使い手、ゼオギルド・グラーフ・ラングファー。癌様獣(キャンサー)の人型個体にして、電磁場および空間制御能力に長ける『十一時』。サヴェッジ・エレクトロン・インダストリー屈指の人型機動兵器の操縦適応者(クラダー)、プロテウス・クロールス。そして、『冥骸』屈指の女性型怨霊(レイス)亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)

 嵐を思わせる暴力の応酬を絶え間なく続けていた彼らであるが、『バベル』の出現および轟声を受けた際には、実力者揃いの彼らとて流石に影響を免れなかった。定義崩壊を引き起こされることこそなかれ、魂魄干渉に対する事前対策を施しているはずのゼオギルドさえ、意識障害に陥ったのである。

 しかし、意識障害が彼らに足枷をはめたのは、ほんの数瞬のことだ。

 (こんな干渉に足止めを食らっていては、他の奴らに寝首を掻かれる!

 むしろ、他の奴らよりも一瞬でも早く意識を復帰させ、寝首を掻いてやらねば!)

 その強烈な戦意と危機感は、意識障害など一瞬で叩き伏せてしまう。

 5人が我を取り戻したのは、ほぼ同時だ。しかし他の者の状況など詳しく確認する暇など持たず、彼らは隙につけ込んで叩き伏せようと早速、戦闘を再開する。

 ――しかし、その中で1人だけ、前進するでなく後退し、「ちょっと待てよッ!」と声を上げた者がいる。ロイだ。

 「さっきの魂魄干渉やら! 気持ち悪ぃ叫び声やら! この空の様子やら! どう考えてもおかしいだろ!

 お前らの仲間だって、こっぴくどくやられたに違いないだろ!

 ここで()り合ってる場合じゃ――」

 ロイは別に、アルカインテールが擁する『バベル』だとか握天計画だのには微塵も興味はない。こうして5つ巴の戦いに身を投じているのも、避難民達を守るために行っていることだ。そんな彼らからすれば、戦場全体が混乱に陥った今、これ以上いがみ合うよりも助け合って状況を打開する方が有意義なのだ。

 しかし…他の4人は、違う。彼らの目的は『バベル』であり、握天計画を所属組織に持ち帰る(ゼオギルドの場合は、それを守り通す)ことだ。その目的のためには、脆弱な仲間の命がいくら消滅したところで何の痛痒もない。

 どのような状況に陥ったところで、邪魔者を排除するのが最優先事項であることに変わりない。

 その意志をロイにぶつけるように、まず動いたのはゼオギルドだ。行玉が黄金に輝く左足でダンッ! と大地を踏みつけると、地中から巨大な金属板を幾つも出現させ、競合者達を一気に巻き込もうとする。

 「おいっ!」

 ロイも体をひねりながら宙を跳んで金属板の乱立を回避し、とあると一つの金属板を掴んで壁面に立ち、もう一度声を上げる。

 「だから、こんなことしてる場合じゃ…!」

 このロイの言葉も、即座に暴力によって打ち消される。金属板の表面にバチバチッと電流が走ったかと思うと、(ことごと)くがメキメキと音を立てながら地中から引き抜かれ、宙へと飛び出したのだ。

 「うわっ! なんだよっ!」

 ロイが金属板を蹴って降下し、着地をしてすぐに上を向くと。浮き上がった無数の金属板の中央に、黒い点のように浮かび上がる人影を見い出す。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)だ。彼女が強力な騒霊(ポルターガイスト)を駆使し、操作したのである。

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は肩の高さまで持ち上げた右腕をフッと振り下ろすと。金属板が一斉にビュッ! と激しい風切り音を立てながら、流星のように大地に降り注ぐ。

 「おいおいっ! お前ら…!」

 ロイは歯噛みしながら金属板の合間を潜り抜ける。

 一方、空中では亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)に悉く操られていたはずの金属板の一部が、彼女自身をめがけて飛び出して来ていた。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は片眉をピクリと動かすと、霊体の物質的密度を下げ、透過してやり過ごそうとするが。間近に迫ったタイミングで、更にハッと眼を見開くと、体を影の塊のようにドロリと変形させて、素早く回避する。

 しかし、回避した先に待ち受けていたのは、『十一時』である。金属板の一部を操って見せたのは、彼だ。長大な腕のような尻尾を体節ごとに分解し、巨大な円陣を空中に作って局所的魔化(エンチャンテッド)電磁場を作りだし、金属を操って見せたのだ。

 そして、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)を挑発した『十一時』は、まずは彼女を始末しようと目論み、体の前に展開した3重の円陣から電磁場による不可視のブレードを作り出す。

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は反応しきれず、まんまとブレードに巻き込まれてしまう。霊体をザックリと貫かれ、そのまま大地に激突。紙にもない質量のはずが、ゴギンッと言う重音と共に小規模なクレーターを作り、めり込む。

 「…っ!」

 声にならない悲鳴を上げ、輪郭を大きくブレさせる亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)。だが、彼女の苦難はここで留まらない。

 『十一時』は更に3組の3重電磁場形成リングを作り出し、不可視のブレードを計4本作り出すと。そのまま金属が林立する大地に突き立て、高速にして無闇(むやみ)矢鱈(やたら)に引っ掻き回す。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)はブレードと共に引きずり回され、金属板や瓦礫などに何度も何度も叩きつけられてしまう。

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)のみならず、ブレードは金属板の合間を駆け巡るロイやゼオギルドにも容赦なく襲いかかる。

 「わわっ! クソッ! 少しは話しを聞けよッ!」

 跳んだり身を屈めたりしてブレードを回避しつつ、ロイは未だに何とか説得しようと声を上げる。

 対してゼオギルドは青く輝く行玉が着いた左手を大きく振りかざし、巨大な球状の水塊を作り、不可視のブレードの盾とする。五行魔術体系では不可視のブレードが所属する電磁場、すなわち木行は、水行とは"水生木"の関係にある。つまり、ブレードの効果は水塊を通して強化されて、ゼオギルドは自らの首を締めてしまうように見えるが。ゼオギルドは一般物理法則を利用し、導電体である水で電磁場を絡め取ると、帯電したままの状態で砲弾のように『十一時』へと吹き飛ばす。この時勿論、水の帯電は水生木の関係で劇的に強化してある。

 『十一時』はこの反撃に背中のブースト推進器をふかし、流星のような勢いで水塊をやり過ごす。そしてそのまま軌道をグルリと変えると、お返しとばかりにゼオギルドへと突撃。電磁場のブレードが効かぬならと、腕部や腹部から重火器を出現させ、掃射を開始する。

 ゼオギルドもこれに負けず、今度は赤く輝く行玉を持つ右手を突き出して灼熱の防壁を作り、銃弾を溶融させてしのぐ。

 互いに決定打を放てぬまま、急速に距離を縮めてゆく両者。そして遂に、彼らが接触しようとした、その瞬間のこと。

 「だぁーっ! だ・か・らッ!」

 両者の間に突如飛び出したのは、ロイだ。まさか激突の中央に飛び込んでくるとは思わなかった『十一時』とゼオギルドが思わず目を見開く中、ロイは漆黒の竜翼を打って素早く転身しつつ、尾と拳で以て両者の顔面を強打。来た方向へとブッ飛ばす。

 派手に転がって行く両者を横目に、着地したロイは両腕を腰に当てて居丈高(いたけだか)な様子で直立する。

 「こんな事してる場合じゃねーだろッ! 都市国家(まち)の様子が相当おかしいんだぜ! 何とかしようとは…」

 語る最中、ロイは背後からヌッと現われた影に全身を覆われる。同時にビリビリと全身を震わすような殺気を感じると、続く言葉を飲み込んで素早く振り返る。

 するとそこに見たのは――プロテウスが操る人型機動兵器の巨体である。

 (こいつ…! あの図体で、今まで何処に隠れてやがったんだよ!?)

 ロイは思い返す…亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)や『十一時』の攻撃を前に、桁違いの巨体を誇るはずのプロテウスの姿が、全く見当たらなかった事実を。

 実際にはプロテウスはD装備の特性を活かして異相空間内へ退避していたのだ。加えて、その間に本社から局地戦用の装備を転移・換装してもらっていたのだ。

 故に、現在のプロテウスの機体には、全身に小型空間歪曲弾頭を装備し、その銃口は今にも火を吹かんと魔力励起光を放っている。

 「この野郎ッ!」

 ロイは攻撃されてから逃げ回るより、先手をとって攻撃を仕掛けてプロテウスの行動を阻害することを選択する。両脚と竜尾で大地を叩き、砲弾のようにプロテウスの機体の胸部へと接近しながら、固めた右拳に爆発的な業火を灯す。

 しかし、放たれたロイの拳がプロテウスに激突するより一瞬早く。プロテウスの全身から小型の球形をした空間歪曲弾頭が雨霰と解き放たれてしまう。

 空を切ってズドドドドッ! と大地に突き刺さり、発狂した色彩の空間爆裂を起こし、大地を綺麗な真球状に幾つも幾つも抉る、プロテウスの攻撃。そのうちの1団は、ロイの腹部にメキリッとめり込み、彼の体をくの字に曲げる。

 しかし、同時にロイの拳はプロテウスの胸部装甲を捉えていた。転瞬、(ゴウ)と大気を打ち震わす爆音と閃光、そして衝撃が暴れ回り、プロテウスの超重量の機体が空中に吹き飛ばされる。

 一方、腹部に弾頭を食らったロイは、まだ爆発せぬ弾頭と共に一直線に大地へと吹き飛ばされる。このままでは空間歪曲の発生と共に素粒子レベルに分解されてしまうだろう。そんな悲惨な結末を望むはずのないロイは、漆黒の竜翼を全力を打ち、弾頭の進行方向に対してほぼ直角の方向へと体をずらす。そのまま空に逃れたロイは、口腔に溜まった吐血を唾棄しながら、急上昇する。

 それから数瞬後。ロイの背後では弾頭が爆裂し、大地に真球のクレーターを作り出した。

 そんな悲惨な末路を辿らずに済んだ事に安堵する暇もなく、ロイはそのまま宙に浮くプロテウスへと飛行。今度は左拳を握り込み、業火に加えて電光を帯びさせ、追撃に出る。

 だが、ここでロイの想定していなかった事態が発生する。プロテウスの機体がガクンッと急降下を始めたのだ。推進機関を操って体勢を立て直したのかとも思ったが、機体の両腕が慌てた様子で宙を掻いている様子を見ると、彼の意志ではないようだ。

 迫り来る巨大重量を前に、ロイは進路を急転して低く飛ぼうとするが。そんな彼の背中に、ドンッ! と強かにぶつかる重量がある。

 「いでっ! な、なんだよっ!」

 ロイが思わず声を上げると、ぶつかってきた"重量"達もまた、声を上げる。

 「我の意志ではないっ!」

 「クソッ、オレだってテメェらと密着する趣味なんてないっつーの!」

 ロイが首を回してみれば、そこには『十一時』とゼオギルドの姿がある。彼らは互いが磁石同士であるように、もみくちゃにひっついてしまったのだ。そして、人体で出来た砲弾のような有様で、落下してくるプロテウスへと引かれて行く。

 その道程でロイは、しかと視界に捉えた…穴だらけの地上に立ち尽くし、(いや)らしい(わら)いを浮かべる黒い人影を。その正体は、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)だ。

 プロテウスの攻撃による混乱の中、『十一時』から解放された彼女は、絶妙のタイミングで騒霊(ポルターガイスト)を使い、4人をまとめて片づけようとしているのだ。

 「ちぃっ! 邪魔だっつーの! お前ら、早くどけよッ!」

 「出来るならやってンだよ、ドラゴン小僧ッ!」

 「…バーニアの推力が安定しない…! あの怨霊(レイス)の怨場か…!」

 絡まった3人が喚いていると、ついにプロテウスの機体と激突。ガァンッ! と金属がひしゃげる悲鳴が響き渡る。

 更に亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は4つ巴となった塊を騒霊(ポルターガイスト)で操ると、穴だらけの大地へ叩き落としたのだ。

 (ドン)ッ! 岩盤に幾つもの亀裂が入るほどの衝撃と共に、プロテウスが3人を押しつぶす格好で着地する。この有様に亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)の青い唇が残虐な愉悦でニィッと釣り上がる。

 ――しかし、その笑みも一瞬のこと。即座に(ガン)ッ! と金属のひしゃげる悲鳴が再び響き渡ると、プロテウスの巨大な機体が空中に高く打ち上げられる。

 丸くなった黒い眼で亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)がプロテウスの眼下に視線を投じると。そこには、血と埃にまみれたロイ、ゼオギルド、『十一時』がそれぞれ拳を突き上げて立っている。互いに助け合うつもりはなかった(ロイに関しては、そうとも言えないかも知れない)だろうが、窮地を脱する為の選択肢は彼らの中で一致したということだろう。

 3人の中で真っ先に口を開いたのは、ロイである。口にした己の言葉すら噛み砕くような勢いで苛立ちを露わにしている。

 「ったくよぉ…! さっきから、オレが待てよ、待てよ、って言ってるってのに…ッ! お前らと来たら、『暴走君』なんて呼ばれてるオレよりも人の話なんて全ッ然聞かねぇで…ッ!」

 と、文句を言ってる(そば)から、ロイの隣に立っていたゼオギルドと『十一時』の両名がほぼ同時に飛び出す。ゼオギルドは両手に渦巻く業火と水塊を纏わせながら走り、『十一時』は背部のバーニア推進機関を全開にし、体の前方に3重の電磁場発生リングを2つ作って亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)に迫る。

 対する亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は青い唇を苦々しく歪めながら、フワリと後方へと跳び退(すさ)りつつ、人差し指を軽く曲げて伸ばした右腕で迫る2人を指差す。すると、青く塗られた爪の先から、禍々しい漆黒の球体が出現。それは爆発的に体積を増しながら、内部から白骨化した、或いは、腐乱した人間を始めとした動物の手足やら、百足(ムカデ)や蛇といった毒蟲やらを生やす。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は自らを発生源とした強力な怨場から、謂わば人工の悪霊を作り出し、両名の迎撃行動に出たのだ。

 ロイは、自分のことを完全に無視した上に、相も変わらず敵意を剥き出しにして交戦を続ける3人に、呆れた風体であんぐりと口を開くが。ちょっと考え直すと、3人にクルリと背を向けて駆け足を始める。目指す先は、レナと別れた避難民の車列だ。

 (無視されンのはあんまり良い気分じゃないがさ、今は好都合だ。

 何が起こったのか確かめがてら、レナ達の加勢にも行かねぇと…)

 しかし――2、3歩と走らぬうちに、ロイは足を止めるどころか、顔を驚愕と焦燥に歪めながら、回れ右をしてしまう。というのは、先にロイ達3人によって叩き上げられたプロテウスが体勢を立て直し、再び戦闘に戻ってきたのだ。その際に、両手に空間切断ブレードを装備した槍を一本ずつ携え、大地に突き立てて虚無のクレバスを作りながら突撃してくる。

 そしてロイは、プロテウスの槍の軌道上にいる――プロテウスは未だに、ロイも攻撃対象として認識している!

 「ンだよッ、クソッ!」

 ロイは両脚と竜尾、そして竜翼をも総動員し、高速で迫る虚無のクレバスを横っ飛びにかわす。空間歪曲に由来するプラズマの放電がヂリヂリと竜尾の先を刺激し、ロイは片眉をひそめる。

 ロイに回避されてもプロテウスは突撃を止めず、そのままゼオギルド、『十一時』、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)の乱戦の中へと刃を突き立てにゆく。3名は流石にこの致命的な攻撃を無視できず、それぞれの攻撃行動もそこそこになげうって、飛んだり跳ねたりして何とか攻撃をかわす。

 その最中、ゼオギルドは1人戦線離脱をしようとしているロイを見つけると、こめかみに青筋を浮かび上がらせながら、右足で宙を思い切り蹴りつける。同時に、足の甲の行玉が茶色に輝き、足の裏に岩盤を作り出す。これを蹴ったゼオギルドは、弾丸のような勢いでロイの元へと肉薄する。

 「何コソコソ逃げてンだよ、ガキッ! 楽しもうぜぇッ!」

 そのゼオギルドを追うように、『十一時』がバーニア推進機関をふかして飛翔するし、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)も大地を滑るようにして追いすがってくる。更には、行き過ぎたプロテウスもグルリと方向転換して、こちらを目掛けて飛翔を始める。

 この有様を見てロイはギリリと牙を噛みしめると共に、胸中で唾棄する。

 (クソッ! レナ達を助けるにせよ、こいつらに聞く耳を持たせるにせよ! 全員叩きのめさねーことには、どうにもならねーってっことかッ!)

 ロイは歯噛みを解いて、ハァー! と強くため息を吐く。その間、軽く伏せていた瞼を再び開いた時には、剣呑な眼光をギラリとたたえて、向かいくる4人を見据える。

 ロイは、決心した。もう、手抜かりなどしない。

 「まとめて叩き伏せてやるぜッ! こいつよ、この戦闘狂いどもがっ!」

 ロイは自ら大地を蹴ると、迫り来る4人を迎え撃ちに出る。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Dead Eyes See No Future - Part 3

 ◆ ◆ ◆

 

 ロイが気にする、避難民の車列では。悲惨と云うには、あまりにもシュールな光景が広がっていた。

 車両を絡め取る木々の下に湖のように広がる、濁った白色の液体。それが人体に由来するものであると知らされれば、人は生理的嫌悪感を喚起させられ、嘔吐を催すかも知れない。しかし、何も知らされなければ、妙な光景が広がっているな、という感想の範疇を出ないことだろう。

 静まりかえったこの光景の中を、ピチャ、ピチャ、と粘った水音を立てる足音がある。その主は、星撒部の相川(あいかわ)(ゆかり)と、アルカインテール市軍警察の竹囃(たけばやし)珠姫(たまき)である。

 珠姫は紫の肩に掴まり、2人はゆっくりした足取りで粘水の中を歩いている。粘水が元は人であったことへの抵抗も含まれてはいるだろうが、それ以上に珠姫の片足が溶融しかかっていて歩行が困難になっていることが足取りの遅さの最大の要因だろう。

 『バベル』の咆哮によって、この異形の林の中で交戦していた市軍警察官たちも"パープルコート"の隊員達も、大部分が溶融してしまった。それだけでなく、車両内に取り残されていた避難民達も溶けてしまったらしい。その根拠に、車窓を始めとする隙間からドロドロと粘水が絶え間なく漏れている。

 珠姫が片足の溶融程度で助かったのは、丁度近くに紫が居たからに他ならない。彼女の巧みな防御術式がなければ、彼女もこの粘水の一部と成り果てていたことだろう。

 助かったとは言え、珠姫の顔色は今にも脱力してくずおれそうな程に真っ青だ。やはり、眼前で人々が次々に定義崩壊を起こして溶けてしまった光景は、精神に相当な負担をかけている。

 「…凄いわね、あなたって…」

 珠姫は力のない笑みをぎこちなく浮かべながら、紫に語りかける。

 珠姫とは違い、紫の顔色はさほど悪くはない。表情は多少険しいものの、一見すると何事もないかのようにケロッとしている。

 そして、珠姫からの問いへも、苦々しくはあるは割と自然な笑みを浮かべて、スラスラと答える。

 「学生の身の上で、あんまり褒められたものじゃないと思いますけど…私たち、結構キツい状況を経験してるので。耐性が付いちゃったみたいです」

 「職業軍人の私がこんな体たらくを曝してると…情けなくて仕方なくなるわ…」

 珠姫は気持ちを入れ替えるようにニヤリと笑みを浮かべてみせたが…すぐに表情を堅くして、口をギュッと閉ざす。どうやら、胃の内容物がせり上がって来たのを必死に押し込めたようだ。

 ――さて、この2人がどこへ向かい、何をしようとしているかといえば。まずは指揮車両に赴き、この車列の指揮官たる蘇芳が無事かどうかを確かめること。そして、最後尾へ赴き、ロイやレナ達の様子を伺うことである。

 まず、前者についてだが…2人は大樹の枝から転がり落ちている指揮車両を見つけて、ドキリとする。その車両の大半は定義崩壊によって溶融しており、その所為で枝からずり落ちたようだ。もしも中に定義崩壊から逃れた者が居ようとも、落下のショックで大怪我をしている可能性が考えられる。

 しかし、2人の不安は程なくして安堵に変わる。というのは、大樹の幹の影から、ヒョッコリと蘇芳の巨躯が現れたからだ。後ろで手を組み、俯いて歩く姿は、物思いに沈む賢者のようにも見える。

 「蘇芳隊長…!」

 珠姫が手を挙げてブンブン振り回し、声をかける。すると蘇芳はハッと顔を上げてこちら向くと、力のない笑みを浮かべながら、手を挙げ返す。

 蘇芳の元へ近寄った2人は、無事だった指揮官の姿を間近にして笑みが浮かびかかった…が。蘇芳の笑みの裏から露骨に見て取れる虚脱と悲壮の感情に、笑みも歓声も飲み込んでしまう。

 「お前達、無事だったんだな。

 ってか、ユーテリアの学生さんにゃ、当たり前ってところか」

 「いや、そういうワケでもないですよ。

 私も、この部活で実戦経験を積んでなかったら、みなさんのように…」

 紫は足下に広がる粘水に視線を投げると、言葉の続きを濁す。

 すると、蘇芳はギリリと歯ぎしりをし、鬼面のような険しい顔を作ると、爪が食い込み血が滲むほど握りしめた拳を顔の前まで上げて、灼熱の激情を込めた声を吐き出す。

 「…また、オレは何も出来なかった…!

 目の前で、助けるべき市民がとんでもねぇ状況に陥っていくのに、何もできずに居た…!

 それで、オレ一人が助かっちまった…!」

 蘇芳の拳は今にも何処かへ叩きつけられそうではあったが、やがてはプルプルと震えながらゆっくりと拳を下ろし、最後には脱力して五指を開く。爪の先が、食い込んだ手のひらの血液で赤く染まっている。

 きっと、拳は自らの頭上に落としたかったに違いない。

 「…それでも…」

 俯いたままの蘇芳に声をかけたのは、珠姫だ。彼女の浮かべた表情は、彼に寄せる同情ではなく、叱咤するような厳しいものだ。

 「それでも、要の指揮官が健在なのは、重畳と言えます。

 まだここには、定義崩壊を免れた人々が居るかも知れません。そんな彼らは、あなたが健在であることで、この状況の中でも(すが)れる()り所を持つことが出来る。

 それだけで、あなたは立派に役割を果たせます。決して、何も出来ないワケではありません」

 珠姫の言葉に、蘇芳は苦笑いを浮かべながら、自らのクセ毛をいじる。その手つきは、震えていた。

 「…正直、オレはこの状況にブルっちまってる。前回の『バベル』騒動の比じゃねぇ。こんな状況、乗り切れる自信なんて、とてもじゃないがオレにゃない。

 …そんなオレが、拠り所になれるモンかね…?」

 「なれる、なれない、じゃないわよ…!」

 ここで口を挟んだのは、紫だ。彼女の蠱惑的な赤茶の瞳は、怒りの色で赤みが増したように見える。

 「"なる"のよ!

 ブルったから、何なのよ! 何になるってのよ! 誰かが助けてくれるっての!?

 誰も何もしてくれないっての!

 ましてや、悲観に浸ってれば、誰かがアンタの罪悪感を慰めてくるってワケじゃないし! 勿論、褒めてくれるワケでもないわ!

 やることをやる、それしか打開の道はないでしょうが!」

 紫の叱責にも、蘇芳は心が奮い立つことはなく。それどころか、厳しい言葉に心がベシャンと叩き潰れてしまったようにも見える。彼の苦笑いは、ますます乾きの色を帯びる。

 「打開っつってもよ、お嬢さんさ…。もう、助けるべき奴らの大半を失っちまったんだ。本当に生き残ってる奴がいるかどうかも、怪しいもんさ。

 そんなところで、リーダーシップ発揮して、何になるんだよ。葬儀屋でも立ち上げろ、ってのかよ?」

 すると、紫は呆れたように、ハァー、と深い溜息を吐いたが。次いで口から出た言葉は叱責ではなく、激情を抑えて力強さのみを宿した、淡々とした告知である。

 「…あのさ、"葬儀屋"なんて言って勘違いしてるみたいだけどさ。

 生きてるよ、みんな」

 紫は足下の粘水を指差し、ジロリと半眼を作って蘇芳を睨む。

 その言葉と視線に驚きを隠せない蘇芳は、紫の顔と足下の粘水を交互に見比べること、何往復かした後に。紫の肩にすがる珠姫に問い(ただ)すような狼狽の視線を投げる。すると珠姫は、一切の冗談も含まぬ真剣な表情を作り、首を縦に振る。

 「私も、聞いた時には信じられませんでしたが…この()の言う通りに形而上相視認をして、確かめました。

 本当です。みんな、"生きて"います。人類としての物性や精神の定義は解けてしまってますが、本当に、生命活動が確認できました」

 「…うっそだろ、おい…」

 蘇芳は悪夢に浮かされたかのようにジットリと汗をかきながら、再び視線を広がる粘水に投じて呟く。

 「だってよ…こうなっちまった奴らはみんな、あの『バベル』の怪物に吸収されて、同化されちまうんだぜ…?

 それって、オレ達で言うところの、食物(メシ)食って肉体(からだ)を作るのと同じことじゃねぇのか…? オレ達の体からは、元の食物(メシ)を切り離すことは出来ねぇ…それと同じで、『バベル』からみんなを取り戻すことなんて…」

 「恐らく――いや、必ず、出来ます」

 紫はニヤリと勝ち気に笑ってみせる。その表情には、苦々しさは一片もなく、自信ばかり目立つ。

 「私は、星撒部の中じゃ魂魄とか存在定義については詳しい方じゃないですけど…そんな私でも、自信を持って言えます。

 絶対に、取り戻せます!」

 紫の自信の前にも、蘇芳の狼狽と不安は容易に払拭されない。

 「何の根拠があって…いや、お嬢ちゃん達はユーテリアの学生さんだ、オレ達よりよっぽど魔法科学の見識はあるだろうからな、そう質問したところで、理解出来ねぇ答えが返ってくるだけなんだろうな…。

 だけどよ、1つ、ちゃんと聞かせてくれ。

 あの化け物野郎の『バベル』のデカブツから、、どうやって市民(みんな)を取り戻せるってんだ? どうやって、肉体(からだ)から食物(メシ)を切り離すんだ?」

 「『バベル』と定義崩壊してしまったみなさんとの関係は、肉体と食物の関係じゃありません。

 蒼治先輩やノーラちゃんが聞いたらダメ出しするでしょうけど…簡単に言えば、パズルとそのピースの関係とお言えます。ただ、そのパズルが超難解な知恵の輪みたいに入り組んでいる感じです。

 でも、その知恵の輪をうまく(ひね)ってやれば、ピースは元の通りに分解出来るんです」

 「…超難解な知恵の輪、なんつってるけどよ、お嬢ちゃんさ…」

 蘇芳の不安は未だ解けず、怪訝な視線が鋭く紫に刺さる。

 「そんな物を解ける奴、此処に居るのかよ? その、蒼治先輩やらノーラちゃんやらなら、やれるってのか?」

 その質問に、紫はあっさりと首を縦に振る。

 「一番見込みがあるのは、ノーラちゃんですね。あの()がうまく定義変換(コンヴァージョン)を扱えば…!

 決して簡単な仕事じゃないです。むしろ地球圏治安監視集団(エグリゴリ)であろうとも、そうそう実行は出来ないでしょう。

 ですが…」

 紫は珠姫を抱えていない左腕で自らの胸をドンッと叩き、悪足掻きでななく純粋に不敵に笑ってみせる。

 「私たちは、ユーテリアの星撒部。どんな絶望的状況でも、希望の星を撒いてみせるのが、その役目ですから。

 それに…」

 言葉を次ぐ前に、紫は胸を叩いて左腕を伸ばし、蘇芳の背後を指差す。

 「早速、蘇芳指揮官殿の手腕が必要となりましたよ」

 その言葉と同時に、紫の顔の隣で珠姫の表情が花咲くようにパッと明るくなる。

 彼女の表情につられるように蘇芳は体を捻って背後を振り向くと――その眼が丸くなり、そして口が驚愕で丸く開いた後に、喜びに緩んで横に伸びる。

 蘇芳が見たもの。それは、粘水の広がる大地の向こうからこちらに歩いてくる、肩を寄せ合った幾つかの集団。彼らが身につけている服装の大半は、蘇芳がよく見知ったアルカインテール市軍警察のものだ。

 それだけに留まらない。集団の中には、ヨレた私服を着込んだ老若男女もちらほらと混じっている。一目で一般市民と分かる者達だ。

 そして、集団の先頭には、両脇に大の男を抱え、ニヤリと気丈な笑みを浮かべて大股で歩く、レナ・ウォルスキーの姿がある。

 自分を除く全員が溶融してしまった光景を目の当たりにしている蘇芳は、それなりにまとまった数の健常者が居る事実に驚きを隠せない。

 「…こんなに…あの、『バベル』の影響から逃れられたのか…?

 一体どうやって…信じられねぇ…」

 喜ぶよりも疑念が先に立つ蘇芳がブツブツと呟いていると、レナが間近まで歩み寄ってきた。そして、太陽のような若干のバツの悪さを交えた大きな笑みを浮かべつつ、安堵の溜息と共に言葉を吐く。

 「いやー、マジしんどかったわー!

 いきなりの魂魄干渉に、定義崩壊だろ? こればっかりは、あたしも足下の水溜まりの仲間入りになるかと思ったけどよぉ。

 『暴走君』と一緒に、それなりに落ち着いて対処出来てたのが良かったンかな? 魂魄干渉を受けても、比較的平静を保ててさ、あたしも一緒にいた隊員のみんなも、比較的素早く意識を取り戻せたんだよ。

 んで、無事そうな奴らを片っ端からひっ(ぱた)いて正気に戻して回ったのさ。

 それでも…まぁ、全員をなんとかするワケにゃ、いかなかったけどさ…」

 言葉尻に告げた事柄が、レナの笑いにバツの悪さを含めているようだ。しかし、蘇芳はここに来てようやく事実を純粋に受け入れ、顔をパッと綻ばせる。

 「いや…いやいや! お前、十分スゲーよ! あの『バベル』から、こんなに救い出せるなんてな!

 しかも、訓練受けてない一般市民まで助けられるなんてな! やっぱり、ユーテリアの"英雄の卵"はスゲェなぁ!」

 紫もまた、蘇芳の言葉に同調する。

 「やっぱり、先輩ってだけはあるんですね。私なんか余裕が全然なくて、自力で抵抗してた珠姫さん以外救えなかったですよ」

 2人の褒め言葉にレナは鼻を高くして笑っていたが、そこへ紫の普段の毒袋が炸裂する。

 「亀の甲より年の功ってホントなんだって、初めて実感しましたよ。

 やっぱり年長者は違いますねー」

 「…おい、何だよ、その含んだ言い方。あたしをオバンとでも言いたそうじゃねぇか…?

 お前ンとこの渚だって、あたしと同い年だろうが! あたしがオバンなら、あいつだってオバンだろ!」

 「な…っ!」

 毒袋を返された紫は、弱気な蘇芳に対しても見せなかった、燃え上がらんばかりの真っ赤な顔を見せると、激しく唾を飛ばして反論する。

 「副部長は別格よ、別格!

 アンタみたいな年取っただけが取り柄の、粗暴女と一緒にしないでくれる!?

 その男口調、どんなキャラ作りなワケよ!? まさか副部長に対抗して、個性を出してみせたつもりなワケ!? 残念だったわね、アンタみたいな奴がやると、傍目で見てて痛々しいだけなのよ!」

 「ンだと、あたしの個性があの暴走厨二病野郎のリスペクトだってのか!? ンなワケあるか! これはあたしの純然たる個性だっつーの!

 つーか、てめぇも『暴走君』と同じく、年長者に対する敬意ってモンがねぇなぁ!」

 世界の終末に見えてもおかしくない光景の中、暢気(のんき)に口喧嘩する2人に、蘇芳も珠姫も他の者達も、眼を点にするばかりだ。

 しかし、やがて蘇芳が大きく咳払いをして2人の口喧嘩に割り込むと。2人の少女はハッとして口を噤む…ただし、お互いに交わし合う視線だけは切れそうなほどに鋭いが。

 「えーと、とりあえず、確認だ。

 レナ、一緒に居た『暴走君』のヤツはどうしたんだ?

 まさか、あの威勢の良いにーちゃんが、デロデロに解けちまったってこたぁ、ないよな?」

 「あ、それ、私も聞きたかった。

 なんで今、一緒じゃないのよ?」

 ロイについて言及されると、レナは露骨に顔をしかめて気難しい表情を作る。そして、一度屈み込み、両脇に抱えていた男隊員2人をその場に座り込ませてから再び立ち上がると。親指で背後の方を指差す。

 「あそこだよ。見えるか? さっきから土煙だの爆発だの起きてるトコ。

 "パープルコート"のアゴ野郎に連れてかれた。

 今は、"インダストリー"の機動兵器も混じってるみたいだけどな。もしかすると、『冥骸』どもや癌様獣(キャンサー)も混じってるかも知れねぇ」

 その返答に、紫は苦笑いを浮かべて頬を掻く。

 「うっわ…相変わらず元気いっぱいねぇ、あいつは…。『暴走君』の面目躍如ねぇ…」

 「…なぁ…」

 レナはちょっと俯いてから、躊躇(ためら)いがちに声を上げる。

 「助けに行ってやりてぇんだけどさ…。かなり、苦戦してたしよ…。その…死なれたりすると、困るしさ…」

 レナの躊躇(ためら)いは、羞恥によるもののようだ。いつも勝ち気な振る舞いをしている分、しおらしく誰かを心配する有様を見られるのが恥ずかしいのだろう。

 しかし、ロイとは部活の同僚の仲である紫は、即刻手をブンブンと振って否定する。

 「いやいや、ホントにお構いなく。

 あいつを心配するンなら、空が落ちてくるかどうか心配した方が断然マシってモンよ。

 なんだって、あいつってばさ…」

 紫は珠姫を抱えていない方の腕で力こぶを作って見せるような格好を取り、ニヒッと笑ってウインクする。その表情には、肉親の偉業を自慢するような誇らしさがありありと見て取れる。

 「相手が『士師』の群れだろうが『現女神』だろうが平気で突っ込んで、ケロッとした顔で帰ってくるようなヤツなんだから。

 相手が地球圏治安監視集団(エグリゴリ)だろうが、癌様獣(キャンサー)だろうが、怨霊(レイス)だろうが、機動兵器だろうが、ゴリ押しでなんとかして、ニカニカ笑いながら帰ってくるわよ」

 「…いや、でも、あいつ、結構やられてたぜ…"パープルコート"のアゴ野郎にさ…。

 そんなんで、大丈夫だって言われてもよ…」

 レナは尚も食い下がって心配するが、相変わらず紫は笑い飛ばす。

 「あいつ、プロレスラーみたいなモンだから。

 相手の技を受け切った上で逆転する、みたいなところあるからね。

 …まぁ、実際は自覚的にやってるワケじゃなくて、ただ単にスロースターターなだけなんだろうけどさ」

 「その、スローな時にやられちまってたら…!」

 レナがどうしても食い下がる中、「まぁ待てよ、落ち着けよ」と冷静な声を掛けながら割り込む者がいる。その人物は、蘇芳だ。

 レナを制する彼の表情は、先刻見せていた気弱さが一片も見いだせない。余裕めいた微笑を浮かべながらも、眼には怜悧な光を宿しているその姿は、まさに苦境に当たっても冷静さを見失わぬ指揮官そのものである。

 先の紫とレナの自然体にして、時折バカバカしさを交えたやり取りによって、過剰な気の張りが解けたのか。はたまた、ロイ一人の奮闘の話に触発され、彼もまた奮起せねばならないと感じたのか。どちらにせよ、彼の精神は良き方向に転じ、絶望の奈落から理性がしっかりと這い上がって来れたようだ。

 そんな蘇芳は手振りを使いながらレナを宥めると、彼女はまだ何か言いたげながらも、震える唇を一文字に結ぶ。その有様を見届けてから、蘇芳は紫に向き直って問う。

 「あんたの言うこと、本当に信じて良いんだよな? あの賢竜(ワイズ・ドラゴン)のにーちゃんのことは心配いらずだって?」

 紫は即座に、そしてしっかりと首を縦に振る。

 「もう1年近く、一緒に活動してる間柄だからね。お墨付きできるわ」

 蘇芳はその言葉に頷き返すと、太い両腕を胸元で組む。

 「それじゃ、今オレ達が考えるべきは、オレ達自信の身の安全の確保、そして状況打開に向けて出来る限りのことをすること。その2つに絞れるワケだな」

 蘇芳は瞼を伏せ、静かに物思いに耽ること、数秒間。再び眼を開くと、まずはレナに向き直る。

 「なぁ、さっきの魂魄崩壊を見に受けた上で対抗できたってことは、術式構造をある程度は体感してるんだよな?」

 「ま、まぁ…ある程度、だけどよ…」

 レナは自信なさげに視線を泳がせ、頬を掻きながら応える。

 「ああ、完璧じゃなくて良い。そおりゃ、完璧ならベストだけどさ」

 そう語りながら頷いた蘇芳は、言葉を次いでレナにこう頼み込む。

 「ねーちゃんは、魔術を用いた工作、得意だよな? 方術陣とか作れんじゃないか?

 別に眼鏡のにーちゃんみたいに、純粋に術式で構築されたものを作らなくてもいい。地面に図形を書いて作れる程度で十分なんだ。出来ないか?」

 魔術篆刻(カーヴィング)に代表されるように、魔法科学においては形状が有する"意味"が形而上・形而下問わず事象に関与する場合が多々見いだされる。この一連の現象を研究する"意味学"と呼ばれる分野が確立されているほど、魔法科学においては重要な概念である。

 地面に書いた、所謂"魔法陣"も意味学においては十分な魔法現象の触媒足り得る。

 「まぁ…出来ることは出来るけどさ、ホントに蒼治のヤツに比べりゃ子供騙しみたいなモンだぜ?」

 「それでも、無いよりは断然マシなはずだ。

 ねーちゃんに頼みたいのは、定義崩壊に対抗する結界作りだ。

 『バベル』はまだまだ健在だ、あの『天国』が未だに成長してるのを見りゃ分かる通りに、な。だから、あいつがまた叫ぶなり何なりして、定義崩壊を誘ってくる可能性は十分に考えられる。

 その被害を出来るだけ食い止めておきたい。」

 蘇芳の至って真剣な表情を前にしては、あまり自信のないレナとて断れない。溜息を吐いて、うなだれるように頷く。

 「オッケー。やるだけの事はやってみるわ。

 それでダメだったら、まぁ、ゴメンナサイとしか言いようないけど…あ、溶けちまったら、ゴメンナサイを言う口も無ぇか」

 ちょっとしたおどけを交えて返事すると、早速クルリと踵を返して作業に取りかかる。こんなに素直に働き出すのには、心の中で未だにロイに対して抱いている感情を、別の物に向けたいからかも知れない。

 さて、次に蘇芳は紫に向き直っては歩み寄ると、「珠姫を、オレの方に」と言って両腕を差し出す。

 これに対して珠姫は、「え…」と困惑の声を上げながら頬を赤く染め、ニヤけているようにも困っているようにも見える表情を作って固まる。が、彼女の感情など余所に、紫は担いでいた珠姫をヒョイと蘇芳に引き渡す。

 「え…、え…」

 蘇芳のガッシリと逞しい胸板と腕に包まれた珠姫は、未だに困惑の声を上げ続けながら、頭の上から湯気が出そうなほどに顔を真紅に染めている。しかし、蘇芳もまたそんな彼女の感情など余所に、父親然とした優しい声で尋ねる。

 「脚、片方溶けちまってるみたいだが、大丈夫か? 痛みとか、ないか?」

 「え、あ、あ…は、はい。

 動かなくてもどかしい以外は、特に何も感じません…」

 「そりゃ良かった。

 …つーか、どうした、顔が真っ赤だぜ? 『バベル』にやられた影響で、熱でも出てるのか?」

 「い、いや! そうじゃありません!

 これは、これは…あの、えと…と、とにかく、問題ありませんので、お構いなく!」

 「体調悪いなら、遠慮なく言えよ? お前も軍人だから心得てはいると思うがよ、手遅れになった頃に助けを求められても困るからな」

 そんなやり取りを間近で見ていた紫は、毒というか嫌味をタップリ含んだ笑みを浮かべてニヤニヤする。

 (どこの筋肉野郎も、脳ミソまで筋肉になってるのか、ニブいのねー)

 さて、蘇芳は紫に代わって珠姫を肩に担ぐと、紫に真摯な眼差しを投じて頼む。

 「で、こっちのお嬢ちゃんにも頼みたいことがある。

 仲間のノーラちゃんって()なら、『バベル』から市民(みんな)を取り戻せるんだよな? それを信じての頼みだ。

 その()に、『バベル』との交戦をお願いしてくれないか? あんな怪物相手に、無茶苦茶なお願いだってのは分かるが…最善の選択肢がそれだって言うなら、是非とも頼みたい」

 紫はうっすらと微笑みながら、快諾の頷きをしたものの。すぐに視線を宙に泳がせ、顎に手を置いて頭を捻る。

 「ただ、問題なのは、ノーラちゃんって、入部してからまだまだ日が浅いってことなんだよねー。

 ほんのちょっと前に、『現女神』絡みの国家レベル災厄を経験してるけど、今回みたいに大量に人がどうにかなっちゃうような状況って、初めてだからさー。

 芯は強い()なんだけど、それが却って災いして、心がポッキリ折れちゃってるかも…」

 そんな事を言いながら制服の上着の内ポケットを漁る紫に、蘇芳は折角キリリと締まっていた表情に一抹の不安を漂わせる。

 「…おいおい。さっきはノーラちゃんに任せりゃ絶対大丈夫だって啖呵(たんか)切っておいて、そりゃねぇだろ…」

 「いやいや、ホント大丈夫ですって。初っぱなに地獄のような経験をした上で、入部を決めたような()ですから。

 万が一ポッキリ折れちゃってても、立ち直れば百人力になってくれますよ」

 そう語り終えた同時に、紫はナビットを取り出して操作し、ノーラとの通信を試みる。…が、コール音ばかりが虚しく響くばかりだ。

 「…ポッキリ折れるどころか、テンパりまくって手が離せないのかなぁ…?」

 紫は眉を曇らせて呟き、なおも粘ってみる。その様子を(はた)で不安げに見つめる蘇芳と珠姫であったが、紫はそんな彼らの様子に気づくと、"しっしっ"と追い払うように手を振る。

 「こっちはなんとか連絡付けるんで。

 指揮官殿は、自分の為すべきことに専念しててください。

 そうやって見つめられても、ノーラちゃんが出てくれるワケじゃありませんし」

 身も蓋もない正論をケロリと突きつけられた蘇芳は、至極尤もと首を縦に振ると。

 「そんじゃ、任せたぜ!」

 そう言い残し、珠姫を連れて定義崩壊を逃れた隊員や市民達の集まっている所のど真ん中へと歩く。

 その威厳を感じさせる堂々たる足取りに、隊員はおろか、不安げに(うつむ)いていた市民も顔を上げ、蘇芳の顔に注目する。

 期待に満ちた彼ら視線を一身に受ける蘇芳は、少し緊張したのか、スゥーと音を立てて深く息を吸い込むと。背筋をビッと直し、着込んだ軍服の上着の裾を(ひるがえ)しながら、珠姫を抱えていない左腕を大きく振るう。

 「さて! ユーテリアの学生さん達にゃそれぞれ頑張ってもらうとして!

 オレ達は、ほかに形が残ってる者がいないか、手分けして探すぞ!

 相手が"パープルコート"だって構わねぇ! 奴らもこの状況においては、オレ達と同じく被害者だ。この後に及んで、まだ戦いを仕掛けてくることはねぇだろうからな。

 一頻(ひとしき)り探し終えたら、レナ嬢ちゃんの所に集合だ。魔法陣、出来てるだろうからな!」

 いきなり言及されたレナは、粘水に満ちた大地に銃身で魔法陣を描く作業をギクリと止めると、腰を上げて蘇芳に喚く。

 「おいおい、急かすような事言うなよ! あたしは得意じゃねーって、言っただろーが!」

 蘇芳は笑うだけで、レナに何も答えない。言葉の形にはならなくとも押し寄せてくる信頼の重みに、レナはチッと舌打ちすると、再び魔法陣を作成する作業に戻る。

 「そんじゃまぁ、班分けだが…」

 蘇芳が指示を出そうとすると、隊員の一人がさかさず挙手して質問する。

 「あの…蘇芳少佐。

 先ほど、足下に広がってるこの液体は、元に戻せる人間なのだとお聞きしたんですが…。

 我々も今更こう言うのは何ですが…その、踏みつけてしまっても、問題ないのでしょうか…?」

 その質問に、蘇芳は「あ」と声を上げて、慌てて視線を落として脚を上げる。液体は靴底にへばりつくことなく、一滴も残さずにサラリと流れて落ちてゆくので、元が人間だとしてその体の一部を引きずり回すということにはならないようだが…確かに、踏みつけていることには変わりないので、(にわか)に気が退けてくる。

 隊員の質問に答えあぐねる蘇芳の代わりに、未だ通信の繋がらない紫が声を上げる。

 「あ、気にしなくていいですよ。この状態だと、神経も感覚も何もないですから。踏まれてるなんて、全然感じてないですよ。後で文句言われることはありません。

 どーしても気になるなら、浮くか飛ぶかの魔術を使えば良いでしょうけど…そこまで労力掛けます?」

 浮いたり飛んだりといった魔術は、ありきたりな発想ではあるものの、実際には中々骨が折れる代物である。重力制御や浮力制御、慣性制御といった様々な物理法則への干渉が必要となるからだ。マンガのように楽々空を飛ぶには、相当の技術力が必要である。

 今、ここに集合している市軍警察官達は、蘇芳や珠姫含め、そこまでの技術力を持つ者はいないようだ。躊躇(ためら)いがちに呻き声を上げ、足下の粘水をジッと見つめていたが、やがて諦めの溜息を吐く音がそこかしこから聞こえた。

 「…まぁとにかく、今は形の残ってる者を救うことに集中しておこうぜ。

 んで、班分けだが…」

 蘇芳がとりあえずその場をまとめ、探索活動に関する指示をテキパキと与える始めた頃。紫はいまだ繋がらない連絡に再び首を傾げると、一度通信を切断する。

 「うーん…やっぱり、テンパってるのかなぁ…。定義崩壊しちゃった、ってことはないだろうし…。

 仕方ない、蒼治先輩に連絡取ってみようか。ノーラちゃんの比較的近場にいるはずだし」

 そう独りごちると、早速蒼治へと通信を向ける。

 

 「あ、どーも、蒼治先輩。やっぱり無事だったんですね」

 「やあ、紫。…"やっぱり"って言い方、なんか失礼な響きに聞こえるけど…まぁ、良いや。

 紫も無事だったんだな、何よりだ」

 2人は見事に映像通信で繋がると、挨拶を交わして無事を確認し合う。

 「それで、蒼治先輩。早速用件なんですけど」

 「ちょっと待って。イェルグと大和からも連絡入ってるからさ、皆を交えて情報共有し合おう」

 蒼治の提案の後、映像通信の参加者にイェルグと大和が加わる。

 イェルグは紫を認めると、ニコリと微笑む。

 「よっ、紫。流石は魔装(イクウィップメント)の使い手だな。全然被害なさそうじゃないか」

 「まぁー、私は大丈夫なんですけどね。一緒に居た市軍警察の皆さんとか、避難民の皆さんとかは、ほぼ全滅しちゃいましたから…正直、結構凹んでますよ」

 「仕方ないさ。あそこまでのバケモノだとは、オレも蒼治も予想外だったしな。

 こっちも酷かったぜ。戦艦は次々に溶けて落下してな、世界の終わりみたいな光景だったな。大和に折角作ってもらったオレの機体も壊れちまって、今はドロドロに溶けちまった皆さんが広がる地べたを這い回ってるワケさ。

 幸い、定義崩壊を免れた奴らも戦意を喪失しててな。続けて白兵戦に突入、なんて事態に至らずに済んでる」

 結構余裕があるのか、ペラペラと語るイェルグ。それに対して、会話の雰囲気に全く溶け込まず――というか、"溶け込めない"と表現した方が正しそうだ――一心不乱に集中しているのが、大和だ。

 蒼治やイェルグも定義崩壊に付随する破壊やら、それ以前の交戦の影響で身なりが崩れてはいる。が、大和の有様は一番酷い。紙はグチャグチャだし、顔面は遠目で見てもハッキリ分かるほど冷や汗にまみれている。

 「大和は…取り込み中?」

 「そうッ!」

 紫の問いに大和は、至極短く、鋭く答える。

 「そんなら、わざわざ通信に参加しなくても…」

 「いやッ! 状況把握したいんでッ!

 …クッソ、こいつッ、暴れんなってのッ!」

 大和の口振りからすると、彼は未だに交戦の真っ只中にあるらしい。この惨状の中でも、戦意を喪失しない剛胆な相手も少数ながら存在するようだ。

 「あれ、そういえば、ナミちゃんは? あの()も、手が離せない感じなんですかね?」

 紫が尋ねると、蒼治が頷く。

 「戦闘は停止したみたいなんだけどね。『冥骸』その他の連中の救助で手一杯なんだそうだ」

 そう聞いて紫は苦笑いを浮かべる。

 「流石はナミちゃん、ポジティブの権化だなぁ。さっきまで殴り合ってた相手だっていうのに、すぐに手を取り合おうと出来るんだからさー」

 「この場に居ないと言えば、ロイもそうじゃないか。あいつも救助活動に必死になってるところかい?」

 「いやいや。救助じゃなくて、あいつはバリバリの戦闘中ですよ。

 "パープルコート"の実力者に連れてかれたみたいで。今は"インダストリー"の機動兵器も混じってるみたいですけど、とにかくいつものようにドンパチやってますよ」

 「ま、予定調和ってところだな」

 蒼治は肩を竦めながら語る。

 「それで、先輩。最後にもう一人、この場に出てない人のことで、聞きたかったんですけど」

 「ああ、ノーラさんだね」

 ノーラの名を口にした蒼治は、目つきを鋭くして眼鏡をクイッと直す。

 「紫も、僕と同じことを考えたみたいだね。

 今回の状況の打開、単に『バベル』を機能停止に追い込むだけじゃなく、その中に取り込まれたヒトやモノを取り戻す方法」

 紫も真摯な表情を作り、首を盾に振る。

 「定義が崩壊したなら、定義を再構築させれば良い。それを一番うまく出来るとするなら、定義変換(コンヴァージョン)の使い手のノーラちゃんだろうと思ったんですけどね。

 連絡してみても、繋がらなくて。

 蒼治先輩なら、比較的ノーラちゃんの近場に居ると思ったので、何か知ってるんじゃないと訊いてみたんです」

 蒼治は腕を組み、うーん、と唸りながら視線を宙に泳がせる。

 「確かに、ノーラさんと最後まで一緒に居たのは僕なんだけどね…。

 イェルグ達が参戦したタイミングで別行動を取ってからは、特に連絡を取り合ってなくてね。詳しいことは分からないんだ。

 『バベル』起動後に連絡を入れてみたんだけど、僕も繋がらなかったよ。正常なコール音だけは流れてたから、ナビットの故障だとか術式による通信障害だとかは、なさそうだね。」

 「もしかして、定義崩壊して溶けちゃった…とか、ないですよね?」

 紫が乾いた苦笑いを浮かべて問うが、蒼治も苦笑いを浮かべて頬を掻く。

 「うーん…"反応"をみる限り、大丈夫だとは思うんだけど…確実な事は言えないかな…」

 蒼治と紫のやり取りに、イェルグが言葉を挟む。

 「なぁ、蒼治。さっきから"詳しいことは分からない"とか"反応"だとか言ってるがさ。お前、ノーラについてある程度のことなら把握してるってっことか?」

 蒼治は首を縦に振る。

 「ノーラさんはアオイデュアの一件でよくやってくれたとは言え、入部して日も浅いし、実戦経験が少ないからね。何かあった時の為に、マーキングをしておいたんだ。

 …勿論、彼女自身の許可は取ってあるよ。コッソリ仕掛けるような犯罪的な真似はしてないから、勘違いしないように」

 紫が陰を含む嫌味たらしい笑みを浮かべたのを目敏(めざと)く見つけた蒼治は、毒を吐かれる前に釘を刺す。紫は不発に終わった毒をやり場無く吐くように、チロリと舌を出す。

 蒼治は言葉を続ける。

 「ただ、『バベル』起動時の術式干渉によって、マーキングの術式構成がかなり損壊してしまったようでね。反王がすごくぼやけてしまってるんだよ。

 方向や位置だって…なんて例えようかな…そうだ、水槽の中に垂らした1、2滴の墨汁の位置を特定するみたいな感じだよ。あまりにも反応が薄く広がっちゃってね、大まかというにしても過ぎるような状態さ」

 「つまり、ノーラの無事を確かめるにせよ、連絡をつけるにせよ、脚を使って直接会いに行かにゃならんってことか」

 イェルグは"厄介だ"と言わんばかりに、前髪が垂れる額をポリポリと掻く。

 その直後――。

 「オレは、無理ッスからねッ!」

 それまで会話を聞いているばかりだった大和が、鋭く短い声を上げる。半ば存在を忘れかけていた一同が大和が映る3Dディスプレイに視線を向けると。そこには、相変わらず余裕なさげに歯を食いしばって操縦する彼の姿が見える。

 そんな彼に、イェルグがのほほんとした様子で尋ねる。

 「さっきから何がそんなに忙しいんだ、お前? ずっと余裕なさそうだけどよ?」

 すると大和は、火を吹くような視線をナビットのカメラにチラリと走らせると。直後、再び彼が操る起動兵器のモニターに自然を戻し、歯噛みしながら怒声に近い言葉を放つ。

 「このヤロウ…っつーのは、デカい癌様獣(キャンサー)なンスけどね! そいつ、『バベル』からの干渉を乗り切ったと思ったら、ほっとする素振りも見せないで、ソッコーで『バベル』に向かおうとしたンスよ!

 こりゃ、ヤバいなと思って! オレも機体をだいぶ定義崩壊でやられたンスけど、ロクに修理もできないまま、必死に引き留めてるンスよ!」

 大和が言及している癌様獣(キャンサー)とは、『胎動』のことだ。

 癌様獣(キャンサー)の即決的な行動は、何も『胎動』に限ったことではない。光ファイバー神経による高速思考に加え、クラウド化された共有思考ネットワークを持つ彼らは、非常に客観的且つ合理的に物事を判断できる。アルカインテールという限られた地域における戦々恐々とした状況よりも、種族全体の利益を優先した結果の行動だろう。

 ちなみに、大和と交戦していた"インダストリー"の機動兵器達は、大和の機体よりも激しい損傷を受けたり、そもそも定義崩壊によって完全に溶融してしまい、戦意を喪失している。この状況を大和は幸運と喜ぶべきか、それとも(いた)(あわ)れむべきか、星撒部の部員として何とも言えないことだろう。

 とにかく、大和の状況を知ったイェルグは(うなづ)いて納得する。

 「なるほど。ロイの相手もそうみたいだが、こんな状況に陥っても、まだまだ初志貫徹しようと奮闘している奴らも居るってことか。

 オッケー、大和はそのまま必死に相手しててくれ。負担になるなら、通信切断しても構わないぜ」

 「いや…! 戦場じゃ情報は命綱ッスからね…! ラジオでも聞いてるつもりで、敢えてこのまま参加させてもらうッス!

 オレのことは気にしないで良いんで! キーパーソンのノーラちゃんについて、語り合っててくださいッス!

 …クッソ、ホント言うこと聞かないヤツだな、このデカブツ!!」

 大和に言われた通り、3人は話題をノーラに関することへ戻す。まず初めに発言したのは、蒼治だ。

 「ノーラさんに関しては、イェルグが言った通り、直接無事を確認しないといけなそうだな。

 紫にはそのまま、避難民の皆さんへの支援に従事してもらうとして。

 マーキングも使えて、比較的近場に居るはずの僕がノーラさんを探しに行くべきだね。

 それじゃ、早速――」

 言い掛けた、その途端。蒼治のナビットのマイクが、殺気を帯びた銃声を拾う。次の瞬間、蒼治の表情がゾワリと鬼気迫るものに代わり、彼を移す3Dディスプレイの視界が大きくブレる。直後、至近距離での連続する銃声がナビットのマイクを聾し、紫とイェルグはその爆音に眉根をしかめる。

 「あの、蒼治先輩――」

 思わず耳を塞いだ指を少し離し、紫が状況を問おうとするが。その答えを口にするより早く、今度は強烈な爆音がナビットのスピーカーから轟く。

 3Dディスプレイに映る蒼治は、もはやナビットのカメラを見つめてはいない。刃のように鋭く細めた眼で別の一点を見据えると、小さな舌打ちをしてから独りごちる。

 「今の魔力の波長…! そうか、ずっと僕にちょっかいを掛けてた、狙撃手かッ!

 まさか、女性だったなんて…!」

 イェルグと紫は状況について行けずに眉根の(しわ)を更に深く刻むばかりだ。しかし、ここにもしもノーラが居たのなら、彼女ならばピンと来たことだろう。

 蒼治が、暫定精霊(スペクター)による攻撃をしかけて来た"パープルコート"の狙撃手…すなわち、チルキス・アルヴァンシェ中尉と遭遇。交戦が開始されたのだ。

 「私の獲物ォッ! 大佐(じじい)の気分如何(いかん)程度で、生殺しのまま取り上げられて溜まるかぁッ!」

 鬼女の(ごと)き怨恨をたっぷりと含んだ叫びを、ナビットのマイクが捕らえる。それを耳にしたイェルグは、状況が飲み込めない故に、意地の悪い笑みを浮かべておどけて見せる。

 「なんだ、蒼治。そんなに想われるくらい女の子の気を引いてたなんてな。お前も隅に置けないねぇ」

 しかし蒼治はおどけに対して力一杯反論する余裕もなく、視線をチラリともナビットに向けず、大和と同様に余裕なさげに短く語る。

 「すまないが、通信を続けられる状況じゃない!

 ノーラさんのことは、他の皆に任せる!

 僕はここで、失礼する!」

 言うが早いか、蒼治はナビットの通信を切断する。

 砲手や狙撃手としても優秀なチルキスであるが、その原点は狩人だ。彼女が余事象干渉を極限まで排除した愛銃を存分に振るい、卓越した野性的感覚で戦闘をしかけてくるとなれば、状況を悲観視する傾向にある蒼治でなくとも他に気を取られながら相手をするのは無理であろう。

 残る3人のうち、大和は時折独り言を吐き出すくらいなので、会話は実質的に紫とイェルグの2人きりでの進行となる。

 いきなりの状況変化に戸惑ったようにイェルグが再び頬をポリポリと掻いたが。すぐに提案を口にする。

 「蒼治が動けなくなった以上、ノーラ探しはオレがやるよ。

 紫よりは近場に居るだろうし、幸いオレの周りにゃ戦意旺盛なヤツは居ないから、手空(てす)きなんだ。空飛んで回りながら、ノーラの魔力の波長を感知して回れば、そのうち見つかるだろ」

 「"そのうち"って言うのが、手遅れになるほど遅くならなければ良いですけど…。

 とにかく、イェルグ先輩、お願いします」

 「ん、分かった。

 で、通信はどうする? このまま続けといた方が良いか?

 オレはともかく、紫は忙しくなるだろうし。大和も発言しないだろうし。続けてても意味はない気がするんだがな」

 「いや、続けててほしいッス!

 紫ちゃんが無理なら、イェルグ先輩だけでも良いッス!」

 大和がカメラにチラリとも視線を向けぬものの、即座に答える。イェルグは困ったような苦笑いを浮かべて、垂れた前髪をクシャクシャといじる。

 「いや、お前、独り言くらいしか喋らないだろうが」

 「でも、この硬直状態がいつまで続くか分かんないんで…! 一度切ったら、なかなか通信を再開できないと思うンスよ!

 情報は欲しいし、それに…!」

 大和が表情をグニャリと泣き顔へと歪める。

 「こんなバケモノのデカブツを孤独に相手するの、正直、精神的にキツいンスよーッ!

 女の子と話せなくても! せめて気心知れた先輩とだけでも! 繋がっているって安心感が欲しいンスよー!

 先輩、昔話とか語りながら飛んでくれると、スゲー助かるッス!」

 「…いや、それ、絵的にオレが間抜けっつーか、頭おかしそうじゃんかよ…」

 イェルグと大和の間の会話が雑談めいてきた所で、紫は通信ではこれ以上重要な情報は望めないと判断。大和の間抜けな言葉に小さく嘆息してから、退席の挨拶を口にする。

 「それじゃ、私はこっちの作業に戻るので。

 先輩、ノーラちゃん見つけたら、一報くれると嬉しいです」

 「あいよ」

 イェルグが手を挙げて答えたところで、紫は通信を切断した。

 あとに残った男2人は――と言うより、大和が、だが――再び雑談を再開する。

 「桃太郎で良いッスからー! 喋ってくださいよー!」

 「お前、手が離せないんだから、静かに目の前の事に集中してろよ…」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「ホーラ、出ておいでぇ、眼鏡クンッ!」

 言葉尻と共に響くのは、発砲音が1つ。しかし、宙を駆ける魔力励起光の輝線は3つ。

 一度の発射で3発分射出された術式弾丸は、カクカクと鋭角に曲がりながら飛び回り、出来損ないのプリンのように溶けかけた大きな瓦礫の裏側へと急降下する。

 「…チッ!」

 舌打ちしたのは、瓦礫の裏側で屈んでいた蒼治だ。手にした双銃のうち右手のものを振るい、打撃用に強化された銃の背で弾丸をキンキンキンッ、と弾く。

 (もう位置を知られた! 早く移動しないと…!)

 スッと腰を上げて走り出そうとした、その時。蒼治の頭上を影が覆う。眼鏡のレンズ越しに影の主を捕らえると、そこには軍服の上着を翻しながら宙に身を踊らせ、長銃を構える褐色肌の長耳族(エルフ)の女性の姿。チルキス・アルヴァンシェだ。

 チルキスの獲物は、蒼治の双銃に比べると、非常にみすぼらしい姿形をしている。『混沌の曙(カオティック・ドーン)』以前というより、史跡から見出されるような木製部位の混じった長銃だ。

 しかしながら、その単純な構造こそが余事象干渉を極限まで殺し、変幻自在な術式弾丸を成形する絶好の凶器となっている。

 チルキスは桜色に彩られた唇に禍々しい笑みを浮かべ、赤い舌でペロリと舐め回すと。蒼治の顔面めがけて、引き金を引く。

 ズドンッ、という銃声はまたもや一度きり。しかし、銃口から飛び出したのは、今度は5発もの術式弾丸。それら1つ1つをよく見れば、獣のような顔が浮かんでいるのが見える。弾丸の正体は、小型の暫定精霊(スペクター)だ。

 (クッ…! なんて女性(ひと)だッ!

 あの砲撃、装置で補整していたものと思っていたけど…! 地力だったのか!)

 蒼治は間近で体感するチルキスの力に驚嘆を覚える。が、その感情に流されるままでは、卓越した狩人であるチルキスに隙を見出され、やられてしまうだけだ。

 蒼治は右手で持つ銃で宙に幾何学模様を描き、防御用方術陣を形成。肉薄する小型暫定精霊(スペクター)弾丸達を蜘蛛の巣のごとく絡め取る。しかし、暫定精霊(スペクター)達は活きの良い羽虫のごとく、方術陣を破かんばかりに暴れ回る。

 それでも、蒼治には反撃に転じる絶好の機会だ。

 双銃の銃口をチルキスに向けると、引き金を引いてフルオートで連写。方術陣に絡め取られた暫定精霊(スペクター)を打ち砕きつつ、チルキスの脇腹めがけて術式弾丸を射出する。

 対するチルキスは宙に躍る足下に方術陣を形成する。足場を形成する方術陣、『宙地』だ。即座にこれを蹴りつけて跳び退(すさ)り弾丸をやり過ごしながら、自らの腰元を漁る。数瞬の後、チルキスの手から放たれる2つの銀閃。それは、2振りの投擲用ナイフだ。柄にはワイヤーが取り付けてあり、これを通して淡い蛍光色の魔力励起光がナイフの刀身に注いでいる。

 ナイフは蒼治の防御方術陣に接触すると、蜘蛛の巣を切り裂くように易々と貫通し、蒼治の顔面へと向かう。蒼治はすかさず横っ飛びにかわすと、ナイフは虚しくトストスッと音を立て、瓦礫の合間に見える土に突き刺さる。

 回避行動の最中、ブレることなく双銃をチルキスの脇腹に向けていた蒼治は、着地と同時に引き金を引こうとする――が、その途端。

 「うぐっ!」

 蒼治は呻き声を上げてガクンと身を崩し、眉根をしかめて歯噛みする。突如、着地した足に鈍い激痛が走ったのだ。

 視線を走らせれば、蒼治の両足を靴ごと貫く、錐状の土の塊がある。そこには嫌らしい笑みを浮かべた顔がついており、してやったりとばかりにシシシ、と笑い声を上げている。構造は単純だが、暫定精霊(スペクター)だ!

 チルキスが大地に刺さったナイフを通して暫定精霊(スペクター)を作りだし、蒼治に奇襲をかけたのである。

 (なんてことだッ!)

 蒼治は慌てて錐から足を引き抜こうとすると、錐は先端を枝を広げた樹木のように展開すると、足の甲からも刺し貫く。これで蒼治は更なる激痛を受けただけでなく、足の動きを封じられてしまった。

 こうして万全の罠をかけたチルキスは、残酷な嗤いを浮かべて着地すると、蒼治の額に向けて銃口を向け、躊躇(ためら)うことなく射撃する。

 バウンッ! 乾いた銃声と共に飛び出したのは、今度はただ1発の弾丸だ。しかし、これまでよりも体積が大きい。射出された銃口より2回りも3回りも大きいのだ。そして、ワニような大きな口を広げ、魚のように空中を高速で泳ぎ肉薄してくる。

 蒼治は一瞬、対応に逡巡する。方術陣を展開するべきか、それとも銃撃で相殺を狙うべきか。

 (――いや、どちらでもないっ!)

 蒼治は決断すると、双銃の銃口をどちらも自らの足下に向け、発砲。足を掴まえていた暫定精霊(スペクター)を破壊するが、その衝撃で自らの両足に更なる負荷がかかってしまう。蒼治が顔の歪みが、ますます深まる。

 その間に蒼治の眼前に迫る、チルキスの弾丸。その鋭い牙が蒼治の額に突き立てられようと言う、その時。彼はなんと、自ら額を差し出した。――いや、額に小型の方術陣を張り付け、頭突きしたのだ。

 暫定精霊(スペクター)の弾丸はガキンッと金属的な音を立てて弾け飛んだものの、構造を破壊するには至らない。クルクルと宙を2、3回転した後に体勢を立て直すと、再び蒼治めがけて突進してくる。

 一方、この間にチルキスも動いている。蒼治の視界の外に出ようと大きく横に跳び、今度は蒼治の心臓目掛けて発砲。直後、再び横に跳んで別方向からの射撃を狙う。

 もしも蒼治が先のワニ型暫定精霊(スペクター)への防御にのみこだわっていたら、死角からのチルキスの攻撃にやられていたことだろう。

 だが、肉を切らせて自由になった足に痛覚遮断の魔化(エンチャント)をかけて動き出した蒼治は、迫り来る2発の暫定精霊(スペクター)弾丸を後目(しりめ)に、一気にチルキスへと肉薄する。

 「…チッ!」

 今度舌打ちしたのは、チルキスだ。射撃への体勢が整っていない中で接近されることを嫌った彼女は、先に飛ばしたナイフをワイヤーを引っ張って引き戻しつつ、蒼治の体を狙うが。その攻撃を想定していた蒼治は、銃身でナイフを弾き落としながらも、速度を殺さずチルキスの長銃の内側に潜り込む。

 「その程度で…ッ!」

 チルキスは足掻くような叫びを上げると、腰元から3つめのナイフを抜いて、蒼治の腹部へ放つ。が、これも蒼治は銃身で弾いて防いだ。戦いに対して慎重な彼は、相手の隠し武器も想定済みだ。

 ついに鼻息がかかるような距離まで接近した蒼治は、打撃用に強化された銃の背でチルキスの腹部を深く叩く。

 「あう…っ!」

 勇猛なる狩人である彼女も、痛みを耐える時まで勇ましくはいられない。悲痛ながら、女性らしい細い呻きを上げる。

 (女性相手に可哀想だけど…! そんな事を言ってられる状況じゃないッ!)

 蒼治は後ろめたさを振り切り、もう一つの銃身でチルキスの顎を下から思い切り殴りつける。ガキンッ、と痛々しい音が響き、チルキスが仰け反って宙に体を躍らす。

 そこへ蒼治は体当たりを食らわし、自らも倒れ込んでチルキスの上になると。痛みで涙が滲みつつも、火を吹くような視線でこちらを睨むチルキスの額に銃口を突きつける。

 この時、蒼治はチルキスが放った先の2発の暫定精霊(スペクター)の弾丸を警戒し、背中に方術陣を張り付ける準備を整えていたが。チルキスは顎を強打した時に、どうやら一時的に意識が寸断されたらしく、魔力の制御をうしなった弾丸は分解されて宙空に蒸発したようだ。

 視線を交わし合い、荒い呼吸を繰り返す、男女2人。その呼吸は偶然にもほぼ同じサイクルで胸を上下させている。

 「…なんで、この状況下で僕を狙うんですか」

 蒼治がチルキスに問う。彼は星撒部としてこの都市国家(アルカインテール)の混乱に収拾をつけたいのであって、敵対者といえども命を奪うつもりはない。だから彼は、勝利を収める絶好の機会だからと言って、無情に引き金を引くことはしない。

 蒼治の問いに、チルキスはしばらく無言で睨みつけるばかりであったが。やがて、眼を弧月のように歪めると、艶やかに桜色に彩られた唇をペロリと舐めて、語る。

 「私は、狩人。そしてあなたは、私の子鹿ちゃんだから」

 答えにしては、要領を得ない言葉。それに眉をひそめた蒼治は、「それは、どういう…」と聞き返そうとした、その時。

 チルキスは接吻を誘うように口をすぼめたかと思うと、ヒュッ、と口の中から矢のごとく"何か"を吐き出す。

 「!!」

 蒼治は驚愕と共に、反射神経に任せて首を動かし、弾丸を右耳スレスレでやり過ごす。過ぎ行く最中、蒼治がチラリと視線を走らせて捕らえた"何か"の正体は、溶けかけたチョコレートだ。しかし、鈍く輝くその表面は唾液に由来するだけでなく、蛍光色の魔力励起光が見える。まんまと顔面に当たっていれば、頭蓋に潜り込んだかも知れない。

 しかし、チルキスの本命は、この攻撃ではない。

 彼女はグイッと手を引き、飛ばしたワイヤー付きナイフを手元に手繰(たぐ)り寄せると。蒼治の視線が戻らぬ隙に、逆手で力強く握り込むと、その刃を脇腹に深々と差し込む。

 「っ!!」

 ナイフの刀身には切れ味を増すための魔化(エンチャント)が施されていたらしい。刃は易々と蒼治の脇腹に筋肉にズブリと潜り込むと、内蔵にまでその切っ先が達する。声にならない激痛を蒼治の全身を駆けめぐり、全身か冷たい汗がブワリと吹き出す。

 チルキスは更に、ナイフをグリリッと抉り、蒼治の脇腹の傷を広げると。ドクドクッと盛大な湧水のように鮮血が流れ出し、濁った白の粘水の大地に真紅を添える。しかしながら粘水と血液は水と油のように全く混ざり合わず、粘水は血液を弄びながら一定の方向へとゆっくり流れるのであった。

 「…ぐっ…はぁっ!」

 蒼治は激痛に脱力し、体のくの字に折ってうずくまる。これを幸いとチルキスは、脚を己と蒼治の間に滑り込ませると、巴投げのような動作で蒼治を投げ飛ばし、自由を得る。

 「げふっ!」

 後頭部を地面に強打した蒼治は、ガンガンと脳髄に響く衝撃の中、こみ上げて来た血反吐を呼気と共に吐き出す。

 しかし、そんな惨状の中でも、蒼治は必死に思考を平静に保つと、傷口からズキズキと広がる灼熱の激痛と微熱に抗い、素早く四つん這いになってから立ち上がる。予想されるチルキスからの致命的な追撃に、なんとか対抗せんがためだ。

 だが、蒼治の予想に反して、チルキスはトドメを差しては来ない。蒼治がフラつく足取りで何とか立ち上がると、彼女はすでに万全の体勢で立ち尽くしている。右手には槍のように愛用の長銃を携え、左手には3振りのワイヤー付きナイフを指の間に挟んで構えている。いつでも蒼治を仕留められるはずなのに、何故に彼女は蒼治の行動を見守っているのか。

 「ホラ、傷口を止血してさ、痛覚遮断しないよ、甘々な子鹿ちゃん。

 回復魔術使えるなら、心ゆくまで治療しても良いわ」

 先の容赦ない攻撃とは余りに似つかわしくない、温情の言葉。蒼治は感謝の言葉を述べず、即座に方術陣を傷口を経由して体内に展開しつつ、尋ねる。

 「…あなたの目的は、なんだ。

 理由は、正直、よく分からないけど、僕の、命が欲しい、んじゃないのか?」

 痛みに喘ぐ途切れ途切れの言葉に、チルキスは赤い舌をチロリと覗かせてクックッと(わら)う。

 「確かに、あなたを殺すことは、結果的に最終目標よ。でもそれは、副次的な目的に過ぎない。

 私の目的は、狩人として、獲物であるあなたと楽しむこと。

 でも、あなたったらさ…」

 チルキスは呆れた微笑を浮かべて小さく鼻息を吹き出す。

 「興醒(きょうざ)めなおふざけするんだもの。

 あそこまで狩人(わたし)を出し抜き、組み敷いたなら、鹿だって角を突き立てるのに。あなたったら、ホント角のない子鹿みたいにしてるんだもの。

 あのまま私があなたを刺し殺しちゃうって選択肢もあったんだけどね。それじゃあ、楽しくないでしょう?」

 チルキスは、頬を桃色に上気させ、興奮に息を弾ませながら言葉を続ける。

 「狩人なら、獲物を仕留めるならやっぱり、脳天か心臓をズドン!

 暴れて抗う相手なら、なおのこと、楽しめるもの!

 …だからさ、これでイーブンでしょ? 振り出しに戻るでしょう?」

 チルキスの言葉に、蒼治は固唾を飲みながら、覚る。

 ――この相手は、マトモな職業軍人じゃない。組織や体制のために命を賭けるような人物ではない。

 戦いを楽しむ為に戦士になった、戦闘狂。

 「さぁ、早く早く、ちゃっちゃと治療しちゃって。

 そして、もう一度遊びましょう! 今度はあなたも、子鹿では居られないでしょう? 虎にならなきゃ、私を退けられないわよ?」

 チルキスの長い言葉の最中、蒼治の傷への対処は随分と進んだ。今は完全に止血しているし、痛みもない。広げられた傷口は代替組織の役割をする方術陣で塞ぎ、多少突っ張るものの、行動するのには支障がない。

 ほぼ万全の状態に戻っている。だが、蒼治の顔に噴き出た汗は、全く引かない。

 眼前の、戦闘に取り付かれた女性の姿をした猛獣――そう、狩人というより、猛獣の方が似つかわしいと蒼治は思っている――に、吐き気を催すような悪寒を感じて止まない。

 (…とんでもない相手に、目をつけられてしまったな…)

 怯懦を含んだ苦々しい視線と、興奮と喚起に沸き立つ艶やかな視線。その双方の交錯は、2人の交戦の第二幕の開始を告げる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Dead Eyes See No Future - Part 4

 ◆ ◆ ◆

 

 「…あ、ナミト見っけ」

 下半身に雲をまとい、フワリと上空を飛ぶイェルグは、眼下に認めた光景に声を出す。

 「あいつ、ホントに『冥骸』の連中と助け合いしてんだな。旧時代の赤十字って組織も真っ青な慈善活動だ。

 渚が見たら、ベタ褒め間違いなしの光景だぜ」

 イェルグが言う通り、眼下に広がる光景の中では、九つの尻尾を出したナミトが『冥骸』の死後生命(アンデッド)の中を奔走し、ノイズが走って今にも崩れそうな者たちを練気でもって救助している様子が見える。また、彼女の側には、錆びた西洋風の鎧に身を包んだ地縛霊――『要塞』の姿もあり、ナミトの補助を行っている。

 この光景からは、先刻まで壮絶な死闘を繰り広げていたなどとはとてもでないが想像できない。

 「快晴の空にぴったりの、微笑ましい光景だな。

 他の勢力どももこれを見習って、こんな状況になっちまったんだから、当初の殺伐とした目的なんか捨てちまえば良いのにな」

 「激しく、同感ッス…!」

 イェルグに返事するのは、彼の上着のポケットにしまい込まれたナビット越しの大和である。現在、2人は音声通信を行っているので、3Dディスプレイは展開されていない。

 「その牧歌的な光景、オレの目の前のこのデカブツに見せつけてやりたいッスよ…!」

 大和は未だに大型癌様獣(キャンサー)、『胎動』を食い止めるのに必死である。声音には余裕のなさと苛立ち、そして疲弊が露わになっている。

 「いやいや、癌様獣(キャンサー)にゃそういう感情論は通じんぜ。あいつらは共有思考ネットワークを持ってるからな、個よりも種全体の利益を合理的に判断する傾向にある。他の百万人が右を向いても、種全体がそうしろと判断すれば、たった1個体であろうとも躊躇(ためら)いなく左を向くような奴らだぜ」

 「…ってことは、オレ、貧乏くじ引いちゃったってワケッスかぁ…!

 初めの話じゃ、"インダストリー"の機動兵器をメインに相手するはずだったのに…!

 誰ッスかぁ、癌様獣(キャンサー)の相手をするはずだったのはぁッ! 職務怠慢ッスよぉっ!」

 「件のノーラだよ、癌様獣(キャンサー)担当は」

 イェルグが答えると、ナビットのスピーカー越しからでも分かるほど、大和がギクリと強ばって息を飲む。

 良く言えばフェミニストを気取っている彼が、女子のノーラを悪く言う結果になったことにショックを感じたようだ。

 そんな彼をフォローするかのように、イェルグが小さく笑いながら語る。

 「そうは言ってもな、あんな乱戦じゃ誰がどれを担当だって言っても、専念なんて出来ないもんさ。

 オレなんざ、全勢力の空中戦力を相手にするハメになって、てんてこまいだったぜ」

 「それじゃ、先輩にとって『バベル』ってヤツは、救いのカミサマなんじゃないッスか?」

 そんな大和の言葉は、彼自身のきつい現状に比べて悠々としているイェルグに対して、純粋に羨望を抱いたがゆえのものであったが。

 イェルグはスッと笑みを消すと、「バカ」と短く、鋭く語る。

 「こんな胸糞悪い地獄を作り出したバケモノになんか、感謝するワケあるか。

 こんな気味悪い光景を見ながら空飛ぶなら、追いかけ回されて飛び回る方が気楽だってンだよ」

 全く冗談のない、刃のように鋭い真摯な言葉に、大和はグッと息を飲み込むと。ションボリと声をしならせて、「…スミマセン…」と答える。

 するとイェルグは再び笑いを取り戻すと、彼自身を運ぶ雲のように軽い調子で語る。

 「オレこそスマン、お前も悪気あったワケじゃないだろ。

 そんなことより、しょげた拍子に相手さんに力負けしたりすんなよ?」

 そう語り終えるとほぼ同時に、スピーカー越しに「うおおおお!?」と大和の叫びが聞こえる。イェルグの懸念は的中したようで、『胎動』に見事に出し抜かれてしまったらしい。

 そんな大和を苦笑しながら、「しっかりやってくれよ」と声を上げたイェルグは、しばらく口を噤んでノーラ探しに集中することにする。

 ナミトと『破塞』を中心に群がる『冥骸』の黒い群れを後目に、イェルグが前進する先に見えるのは、瓦礫と化した摩天楼の中から沿った背を見せる巨大な白色のデカブツ。街並みを破壊しながら這い歩く、『バベル』だ。

 イェルグはノーラを探すことになった際、すぐに『バベル』の事が頭を過ぎった。すなわち、ノーラは『バベル』の近くに居るのではないか、と(いぶか)しんだのである。

 その根拠は、蒼治のマーキングだ。マーキングという魔術は、こだわり次第で幾らでも緻密に組み上げることが出来るが、基本的には単純な構造をしている。故に、蒼治ほどの卓越した、そして悲観的な使い手ならば、不測の事態を考慮して相当な強度を実現したことだろう。それが易々と損傷を被ったと言うからには、正にとんでもない規模の術式効果がもたらされたのではないかと推測できる。

 アルカインテール全土に影響を及ぼした『バベル』の魂魄干渉は、ちょうどその条件に当てはまる一大魔法現象だ。

 (定義崩壊していないと仮定して、居場所として妥当なのは、『バベル』の後方だな)

 イェルグも紫と同様、ノーラが『バベル』のもたらした惨状に精神的に参ってしまったのだろう、と云う予想を立てている。だから彼は、『バベル』が通り道としたであろう後方へと進路を取る。

 ナミトと『冥骸』の集団を過ぎてからと云うもの、眼下の光景には特に目立つものはない。定義崩壊によって溶けかけた建築物の残骸と、その合間をゆっくりと『バベル』へと向けて流れる濁った白い液体が見えるばかりだ。ザッと見たところ、人影は見あたらない。『バベル』の近場なので、魂魄干渉によって皆溶けてしまったのか。はたまた、生き延びたとしてもすっかり戦意を失って惨状に臆し、傾いた建造物の中に身を潜めたのか。何にせよ、不気味ではあるが退屈な光景だ。

 かと言って、イェルグはのほほんと欠伸(あくび)するワケにも行かない。この退屈で変わり映えのしない膨大な面積で、ノーラと言う人物独りを魔力の波長だけを頼りに探し出すのだから。だだっ広い真闇を飛ぶコウモリのように、感覚を研ぎ澄ませながら飛ぶ。

 やがてイェルグは、『バベル』の長大な尾と巨大な臀部を一望出来る位置へと到達する。『バベル』の背後には、一段と融解の度合いの激しい、背の低い瓦礫がズラリと左右に並ぶ"路"が出来ていた。『バベル』の足踏みに押しつぶされたのか、はまたは間近の術式影響によって溶融したのか、起伏の見えぬツルリとした路面には、白い液体はほとんど見えない。『バベル』は通りすがりにそれらを片っ端から吸収し、己が肉体へと転化したことだろう。

 『バベル』はイェルグに背を向けたまま、脇目も振らずにひたすら直線の進路を取って、這い進む。その向かう先にあるのは、成長が止まり、今や水晶の林立と化した『天国』の中心部だ。そこには成長と前と同様に、天から地へと伸びる無機質な直方体が見えるが、その数は二十を越えるほどに増加している。

 『天国』の中心に至ることで、『バベル』は史上初めて『天国』と物理的に接触することが出来るのだろうか。それはイェルグには分からないし、そもそもそれを考えても詮無きことだ。

 (今はとにかく、ノーラだな。

 さぁてと、この路に沿って、飛んでみますかね)

 制服のポケットの中から漏れる大和の独り罵声を聞き流しながら、イェルグは高度を下げて『バベル』の作り出した路を(さかのぼ)る。

 不気味ながら退屈な光景をひたすら進むこと、10分程経過しただろうか。周囲に漂う濃厚な魂魄干渉の残滓の中、見逃しそうになる微かな見知った魔力の波長を感じ取る。

 (これは…)

 イェルグは飛行速度を落とし、キョロキョロと視界を巡らせると。どこまでも続く似たような破滅的光景の中に、埋もれるようにうずくまる人影を見出す。

 折った膝を抱え込み、顔を膝の間に埋めて微動だにしない、人影。唯一動きが見て取れるのは、微風に揺れる薄紫色の頭髪だけだ。

 ――探し人、見つけたり。

 イェルグは下半身を包む雲を霧消させて着地すると、ニッと笑みを浮かべて大股に歩み寄る。

 「こんなトコでお休みかい、ノーラ?」

 うずくまった人影――ノーラの間近に接近したイェルグが声をかけると。ノーラはゆっくりと膝の合間から顔を抜き、顔を上げる。

 こうしてイェルグの眼に映ったノーラの表情といえば――浮かべた笑いが思わず苦く歪みそうになるような、酷い有様だ。

 普段ならば新緑のような輝きを[(たた)えている碧眼は、木枯らしに当てられたように濁り切って陰に覆われている。陰は下瞼をも黒く塗り込め、(くま)でも出来たかのようだ。頬は()けたように見えるくらい脱力し、顔色は真っ青だ。

 まるで、世界の破滅を体験し、ただ独り生き残ったかのような有様だ。

 「…あ…イェルグ、先輩…」

 ノーラの色の薄くなった唇から漏れた声は、長年声帯を使ったことがないかのように(かす)れていた。

 そんなノーラを前にして、イェルグは対応に苦慮して頭を掻きたくなる衝動に駆られたが。すぐに思い直し、有り体に、普段通りの彼の態度で接することにする。

 「よっ、ノーラ。随分とお疲れの様子だな。

 蒼治と紫が全然連絡が繋がらねぇって、心配してたぜ?」

 「あ…連絡、ですか…?」

 ノーラはノロノロと制服の内側に手を入れて、ナビットを取り出す。そのタッチディスプレイを操作する動作も、画面を見やる眼球の動きも、非常にのっそりとしている。

 ようやく着信履歴を見たノーラは、自嘲にしてはあまりに乾いた笑みを浮かべて、ポツリと呟く。

 「あ…ホントですね…。

 連絡、来てたんだ…そっか…全然、気づかなかった…」

 「まぁ、疲れてりゃ気付かないことくらいあるさ。気にすんな。

 兎にも角にも、お前さんが無事で一安心だよ。

 万が一にも溶けちまってたらどうしようかって、みんな心配してたんだぜ」

 「溶けて…」

 イェルグの言葉の一部を繰り返したノーラは、途端に無表情の顔をワナワナと震わせ、瞳をギュッと収縮させると。ナビットを地面に放って、両手で顔を覆う。

 「いや…いや…あんなの…あんな光景…いや…いや…なんで、あんな酷いこと…いや…っ!」

 ブツブツと拒絶の言葉を繰り返す、ノーラ。その有様は、PTSDを患った戦傷兵の姿そのものだ。

 紫の悪い予想は、残念なことに的中したのだ。『バベル』の所業を間近に目にしたノーラは、自身はその影響から免れたものの、凄絶な光景に心がすっかり折れてしまったのだ。

 ブツブツと呟き続けるノーラを目の前にして、イェルグは今度こそ本当に頭を掻いて困り顔になる。彼はヴァネッサという恋人がいるものの、普段の関係では彼のマイペースにヴァネッサが合わせてくれているために、気遣いというものに慣れていない。心が折れてしまった女の子を相手に、一体何と声をかけて慰めるべきか。言葉が見つからない。

 (こういう時、大和のヤツが羨ましくなるな)

 イェルグはチラリとナビットの入ったポケットに視線を投げ、苦笑する。確かに、女の子に声をかけて回ることを苦にしない彼ならば、口説き文句にも繋がりそうな上手い言葉を紡ぐのだろう。しかし彼は今、色気もへったくれもない大型癌様獣(キャンサー)と必死に交戦中である。

 イェルグのナビットも多少の雑音ばかりで、大和の独り言も聞こえなくなっていたため、ノーラの呟きの他は無言の時間が(しばら)く続く。

 (…とにかく、フォローになりそうな事、何か言っておかないとな)

 イェルグは頭の中で言葉を色々と巡らした挙げ句、ポンと手を叩いて、こんな事を口にする。

 「あー、なんだ。ノーラ、さっきの定義崩壊の光景だけどさ、気にすることはないんだぜ。

 ドロドロに溶けちまってはいるが、あいつら、みんな死んじゃいない。ちゃんと生きてる、ただ存在定義がグチャグチャになっちまっただけだ。

 存在定義さえ復元できれば、傷一つなく元に戻るんだ。

 そして、それは定義変換(コンヴァージョン)を操れるノーラ、お前になら可能なんだぜ」

 この時、ノーラがビクッと体を震わせたのを、イェルグの無神経さは全く気付いてはくれなかった。

 イェルグは調子づいて来たように、更に言葉を続ける。

 「確かに、オレ達は出鼻をくじかれちまった。

 だけど、世の中には"終わり良ければ全て良し"って良い言葉があるもんさ。

 これからお前が『バベル』を個々の人々に切り離してくれりゃ、オレ達は充分に失態を取り戻――」

 「できませんッ!」

 イェルグが語っている最中のことだ。突如、顔を両手で覆ったままのノーラが、激しく首を左右に振って拒絶の叫びを上げる。

 その声は甲高い雷鳴のようで、イェルグの体をビクッと(すく)ませる。しかし、それ以上に彼の身体を縛ったのは、開いた指の隙間からこちらを睨みつける、ノーラの眼光だ。

 溢れる涙に滲む碧眼には、燃え上がる激情の炎が灯りながらも、射抜く者の背筋を凍らせる冷たさを併せ持っている。

 口を半開きにしたまま固まったイェルグに、ノーラは今度は声のトーンをずっかり落とし、掠れ声を絞り出す。

 「出来るワケ、ないじゃないですか…。

 あんな怪物…あれだけ大量の魂魄を結合しながら、岩みたいに安定している化け物…あれを、どうやって崩せって言うんですか…。

 実戦経験なんて、皆さんより断然少なくて…戦争も、生死に触れるのも、ほんの一昨日に初めて関わったばかりの私が…こんなに大量の人々の命を、引き受けるなんて、出来るワケないじゃないですか…」

 そしてノーラは再び顔を膝の合間に埋めて、口を閉ざす。

 対してイェルグは、歪みのない事実を述べているノーラの言葉を強く否定することも出来ず、垂れた前髪をクシャクシャと乱しながら額を掻くばかり。説得するにしても、言葉に(きゅう)して舌も唇も動けぬまま、虚しく時間ばかり費やすのであった。

 

 イェルグとノーラが虚無の時間を過ごしている一方…。

 半ば溶融した高層建築物の中に埋もれるようにして倒れている、一体の"インダストリー"の大型機動兵器が、ハッと目覚めたように重苦しい駆動音を立てながら上体を起こした。

 この機動兵器は、人型にしては異様に長い、ムカデかヤスデのようにツルリと輝く重厚な装甲に覆われていた両腕を持っている。脚にはホバー機関が装備されており、地上を浮遊して滑るように移動することが可能である。頭部は人よりもクモを思わせる形状をしており、3対の黒々とした眼球型のセンサーが円に近い正多角形の顔面に埋め込まれている。

 この機体を、蒼治を初めとした昨日のうちにアルカインテールに入都した部員達が見れば、ピンと琴線に触れたことであろう。昨日とは細部がだいぶ異なるものの、雰囲気はさほど変わらない。癌様獣(キャンサー)の群れに混じって、部員達を追い回した腕長の機動兵器だ。

 この機体の操縦適応者(クラダー)は、"インダストリー"のアルカインテール・プロジェクトチームの中でも特に好戦的な武闘派。エンゲッター・リックオンである。

 先に"ハッと目覚めたように"と述べたが、これは単なる形容ではない。実際、エンゲッターは『バベル』の魂魄干渉による意識障害に陥り、今の今まで漆黒の視界の中で、『バベル』の死した眼の凝視に曝されていたのである。それでも怯懦に陥ることなく、定義崩壊に至らなかったのは、意識障害の最中でも変わらぬ不屈の好戦的意志のお陰であろう。エンゲッターは視界が回復するまで、凝視に対してありたっけの罵声をぶつけまくり、決して白旗を上げなかったのである。

 エンゲッターはコクピットの中で、口元だけが露出したヘルメット状の顔を左右に振ると、チェックシステムを機動。重度に機械化した身体の各種機関や制御システムにエラーが生じていないか、確認を急ぐ。補助インターフェースの表示が重なる彼の視界には、次々に"OK"の文字を浮かべるグリーンの表示が浮かび上がってゆき、彼は安堵の吐息をフゥと吐く。

 チェックシステムの処理が終わり切るより早く、コクピット内の通信機がコール音を響かせる。

 「…はいはいよ。起きたばっかりだっつーのに、(せわ)しねぇ限りだぜ」

 エンゲッターは金属製のカクカクした指でコンソールパネルを操作すると、眼前に3Dディスプレイが展開する。その映像の中央にデンとアップで描画されているのは、プロジェクトのリーダーである若き才女、イルマータ・ラウザーブである。

 「あっ、やっと繋がりましたよー!

 もぉ、何してたンですかぁ、エンゲッターさぁん!

 こんな大事な時に、お昼寝ですかぁ!」

 イルマータは揺れる純白のロングヘアの下で、ぷくっと頬を膨らませる。一見するとふざけて見えるような仕草だが、その瞳はナイフのように鋭く、冷たい。本気怒っているのが見て取れる。

 しかしエンゲッターは気圧されることなく、持ち前の強気に押されるまま、唇を(とが)らせて反論する。

 「何してるも何も、てめぇら後方(バックヤード)なら把握してンだろ。

 メッチャクチャな規模の魂魄干渉が起きたんだよ。ラリッちまっても仕方ねぇだろうが。

 てめぇだって、アホ面見せて寝こけてたくせによッ!」

 「ざんね~ん! 私たちには魂魄干渉は効きませんでした~!」

 イルマータは指で右目の下瞼をペロッと延ばして舌を出してみせる。

 「被験者から抽出した『バベル』の記録から、魂魄干渉が発生するのは分かり切ってましたからねー。魂魄干渉対策はやり過ぎるほどに実装してましたもーん。それでもまぁ、頭がクラクラするくらいの影響は出ましたけどねー」

 あまりに気軽く、そして小馬鹿にしたような言い様に、前線を駆けずり回っていたエンゲッターはギリリと歯噛みする。頭部を機械化していなければ、間違いなく、血管が破裂するほどの青筋を立てていたことだろう。

 「てめぇ…そんな予測が出来てンなら、オレ達の機体にも、その対策とやらを施しやがれってンだッ!

 オレは時間のロス程度で済んだものの! ドロドロに溶けちったメンバーも居るんだぞ!」

 「ええ、把握してますよー」

 イルマータはサラリと答える。まるで、リンゴは木の上に成るものだと教えられ、当たり前だろうと一蹴する時のように。

 そしてイルマータは、完全に小馬鹿にした態度でハッと鼻で笑い、両手を肩の高さに上げて"ヤレヤレ"と言った感じで首を左右に振る。

 「元々、操縦適応者(あなたがた)の機体は、魂魄と密接にリンクし、状況に応じてその定義や構造に修正を加えるシステムが備わってますよー。だから皆さんは、大半の戦闘において、大したストレスを感じることなく任務に集中出来るんですー。

 皆さんの"資質"なんて言う不確定なものにばかり頼るような非合理的な思想は、我が社には存在し得ませんよー? エンゲッターさんの電子の脳髄には、その情報は焼き付いていませんでしたかー?」

 イルマータの煽りにエンゲッターはますます激情を募らせる。しかし、イルマータは反撃の隙を与えず、口早に言葉を次ぐ。

 「とにかく、魂魄の安定システムが備わっているのですからー、これを上手く利用することで今回の魂魄干渉は充分乗り切れたはずなんですー。

 実際、エンゲッターさんは乗り切ってますよねー? お昼寝はしてしまったようですけどー。

 定義崩壊すら乗り切れなかった方々というのは、単に我が社の要求するレベルには届かない無能ちゃんだった、っという程度ですよー。

 良かったですねー、エンゲッターさん。あなたは見事、我が社の眼鏡に適う優秀な人材であると、この場で認定されましたー!」

 ニッコリと笑い、両腕を高く上げてお祝いするように語る、イルマータ。その動作の一々がエンゲッターの琴線に触れ、コクピットの中を暴れ回りたくなる衝動に駆られる。しかし、現場は未だ事態が収拾していないことを(おもんぱか)れない程、エンゲッターは愚かではない。血が滲むほど歯噛みしていた口から炎のようなため息を深く、長く吐くと。激情を無理矢理押さえ込んだ固い、そして低い声を漏らす。

 「…そんで、オレに何の用があるってんだ? 合理的極まりないイルマータ様なら、さぞや高尚な用件があるんでしょうな?」

 問いに対し、イルマータは笑みを一瞬にしてスッと消し、氷のような無表情を作る。この機械のように無機質な姿こそ、イルマータの本性だ。鈍い光を(たた)える眼には、高速で演算を行う数字がミッチリと泳ぎ回っているようにも見える。

 「現在、『バベル』に最も近い位置に居るのは、あなたです。

 至急、確保に向かって下さい」

 「オレ一人に、あのバケモノを確保させるつもりかよ」

 エンゲッターが失笑して語るが、イルマータは氷の表情を緩めずに、抑揚のない機械音声的な言い方で語る。

 「いえ。

 プロテウスさんを覗く全てのメンバーには、連絡がつながり次第、そちらに向かわせます。

 ただし、あなたは位置的に最も近く、そして意識障害からも回復している。だからあなたには至急、標的に向かってもらいたいです。

 今すぐ、出発してください。今すぐ、です」

 「ちょ、ちょっと待てよ。オレは『バベル』の位置を把握してなんか…」

 いきなり急かされて戸惑うエンゲッターの元に、イルマータからデータが送信される。それは、アルカインテールのマップ情報だ。その上に表示されている青い点には"自機(ME)"の表記が、赤い点には"標的(BABEL)"の表記がある。

 「出発してください」

 イルマータはマップデータの詳しい説明もせず、繰り返し急かす。逆らっても益はないので、エンゲッターは自機を立ち上がらせると、ホバー機関をふかして瓦礫の大地を滑って走り出す。

 「ほいほい、エンゲッター機、発進。標的へと急行中…と。

 ところで、イルマータさんよ。なんでそんなに急いでんだ? こんな状況じゃ、オレら以外の勢力もロクに動けねーんじゃないのか?

 あと、ついでに、プロテウス以外にゃ召集かけるって言ってたが、プロテウスの奴がどうしたのかも聞いておくか」

 するとイルマータは、エンゲッターの機体の上体をチェックするためか、数瞬の間視線を落としたまま(もだ)す。やがて視線を上げたイルマータは、まずエンゲッターの後者の質問から答える。

 「プロテウスさんは現在、複数の勢力と交戦中です。手が離せません」

 「オホッ!」

 エンゲッターは甲高い声を上げる。

 「この状況下でも、まだまだ意気揚々な奴がいるたぁ、恐れ入ったぜ!

 この御時勢下、どこにでも戦闘狂って奴は居るんだなぁ! まぁ、魔法科学なんてオモチャが手に入っちまったからなぁ、戦闘が楽しくて仕方なくなっちまう気持ちは分からんでもねぇな!」

 「無駄口は結構ですから、急いで下さい」

 イルマータが無機質な言葉の中に、苛立ちを含ませて釘を刺す。

 「癌様獣(キャンサー)どもの群れがこちらに向かって次元転移してくるのを補足しています。

 迅速な確保を要します」

 イルマータの苛立ちに対し、エンゲッターは面白がるようにヘラヘラと語る。――移動中なので、他にすることがないという余裕意識も手伝っての行動かも知れない。

 「流石は全異相世界中でも最高クラスの合理性を持ち合わせる生物様だな! 同族の数千体くらい定義崩壊したところで、種族全体から見りゃ大した損害じゃないってワケか!」

 「奴らの合理性は、我が社の社員全員が徹底的に見習うべきですね」

 イルマータの同意に、エンゲッターは更なる苦笑を浮かべる。

 (それじゃオレ達は、会社の消耗品かよ。そんな社畜根性、お断りだっつーの!

 オレは戦闘を楽しみてぇから、この会社にブラ下がってるってンのによ。

 …本気で転職、考えた方が良いのかねぇ…)

 そんな事を内心で呟くエンゲッターは、自身の視覚に投影した機体の視界の中に、小さく映る『バベル』の姿を見出す。イルマータはエンゲッターが一番近いと言っていたが、距離としては決して"近い"と表現できない。『バベル』が白子(アルビノ)の乳幼児のように見える。

 「おっし、『バベル』を視認した! これから、捕獲に…」

 イルマータに報告している、その最中。エンゲッターの視界の中、ごく低高度の天空に、球形をした空間の歪曲が無数に現れる。機体のセンサーは次元転移を確認したとして、アラームや警告表示を行う。

 イルマータが通信越しに溜息を吐く。その有様にエンゲッターは舌打ちし、そして覚る。

 癌様獣(キャンサー)の群れが、次元転移して来たのだ。

 「ダイジョブ、ダイジョブだっつーの、リーダー様よぉっ!」

 刺し貫かんばかりの非難の視線を投じるイルマータに、エンゲッターは手振りを交えながら気を鎮めにかかる。…とは言え、エンゲッターは確かに初動が遅かったかも知れないが、彼だけに責があるワケではないのだが。

 「終わり良けりゃ全て良し、だろぉ!?

 誰彼が雨(あられ)と来ようが、オレ達が『バベル』をかっさらっちまえば良いンだろう!?

 宙域じゃカトンボほども癌様獣(ムシケラ)どもブッ殺しまくったオレだぜ! 負けるワケねーだろッ!」

 エンゲッターは長大な腕の装甲から2列に並んだ無数の機銃を展開し、また背部には次元歪曲弾頭を満載と積んだミサイルランチャーを転移換装しながら、一直線に『バベル』に向かう。

 「オレが勝ったら、今月の給与に特別ボーナスをたんまり上乗せしてもらうぜぇ!」

 「分かりましたから、くれぐれも有言実行を頼みますよ」

 イルマータは冷たく言い放つと、通信を切断する。

 独りのこったエンゲッターは、生身の口元を舌でベロリと舐め回すと、戦意に高鳴る胸に導かれるまま、空間歪曲の向こう側から出現する癌様獣(キャンサー)達の直下へと(おど)り出るのであった。

 

 イェルグは、急に大気に険の含んだ気配を感じ取り、ノーラに背を向けて『バベル』の方へと向き直る。

 彼がそこに見たのは、前より幾分か小さく見えるほど距離が放たれた『バベル』の後ろ姿。そして、『バベル』の前方に次々に現れる、蟲の大群のそのものである癌様獣(キャンサー)。そして、一際大きな高層建築物の残骸の陰から飛び出した、腕の長い人型機動兵器――エンゲッターの機体である。

 「おっと、こいつはぐずぐずしてらンないな」

 イェルグは困った風体で独りごちると、屈んだまま動かないノーラと視線を合わせるようにしゃがみ込む。

 「すまんね、ノーラ。時間切れだ。お前の失意に、これ以上つき合えなくなった。

 ちょっくら、行ってくるわ」

 そう言い残してスッと立ち上がり、再びノーラに背を向ける、イェルグ。その気配に剣呑なものを感じ取ったノーラは、思わず膝の合間から顔を上げ、イェルグの黒髪がなびく背中に視線を投じる。

 「行く、って…どこへ…?」

 「決まってるだろ」

 イェルグは振り返りもせず両肩を(すく)めると、"今からコンビニに行く"と言わんばかりの何でもない態度で言葉を次ぐ。

 「『バベル』のとこさ」

 「…無茶ですよ…っ!」

 ノーラが立ち上がって叫ぶが、イェルグはやはり声に振り返らない。『バベル』に(なら)された路をスタスタと歩き始めながら、再び語る。

 「無茶ね、まぁ、そうかも知れんね。叫び声だけで定義崩壊を起こすような怪物を相手にしに行くんだからな。すんなりと事が運ぶなんて、あり得ないだろうさ。

 だけどな、渚の奴曰く、オレ達は無茶と言われるような絶望も希望に変える存在でなきゃならんのだとよ」

 「そんな…それこそ、無茶苦茶な理由で…! 先輩は、命を賭けに行くって言うんですか…!?」

 「半分は、な」

 ここでイェルグはようやくノーラを振り向く。まるで、この時にノーラが浮かべた困惑の表情を待ち受けていたかのように。

 「半分…ですか?」

 「ああ。オレが星撒部の部員だから。それが理由の半分。

 んで、残りの半分はな…危機感さ」

 「危機感…?」

 ノーラはイェルグの胸中を察せずに、問い返してばかりいる。そんな彼女を面白がるようにイェルグは笑みを浮かべると、「そう」と首を縦に振る。

 「危機感っつーより、本能的な恐怖感、って言った方がより正確かも知れん。

 ともかく、オレは星撒部の部員である以前に、オレ個人という一生物として、『バベル』とその取り巻きの(やから)が心底嫌になった。あんな物、そして、あんな奴ら、放ってなんか置けない。全異相世界中でも、最も素晴らしい地球様の空を楽しめなくなっちまう。

 だから、誰も、ノーラもやれないってンなら、オレが『バベル』をブッ壊すことにした」

 「…出来るん、ですか…?」

 その質問に、イェルグは笑みを消すと、普段の飄々(ひょうひょう)とした態度からは想像もつかぬ、鋭く厳しい表情を浮かべて、叱りつけるように言い放つ。

 「やらなきゃならねぇだろうが」

 ノーラが思わずビクッと身体を震わす。しかし、イェルグは気に留めず、鋭いままの態度で、やや口早に言葉を次ぐ。

 「『バベル』って奴は、人様の迷惑どころか命までそっちのけで、ひたすら『天国』を握ることしか考えてねー代物だ。魔法科学の歴史においては快挙かも知れないがよ、あいつがホントに『天国』を手にしたら、どうなると思うよ?

 今更、全人類の幸福のために慈善活動をすると思うかよ?

 『天国』の持つ力が、噂通りに全異相世界に影響を及ぼすものだと仮定して、『バベル』を作った奴は真っ先に私利私欲を満たそうとするに違いねーだろ。

 かと言って、あそこに見える"インダストリー"だの癌様獣(キャンサー)だのの手に渡りゃうまく行くかって言えば、そうもならねーに決まってる。一つの都市国家を巻き込んで、1月以上も殺し合い続けてたような連中だ。世界平和だの、全人類幸福だのの為に使うなんて考えられねーよ。

 それどころか、誰も知らねー『天国』の性質に振り回されて、史上最悪規模の術失態禍(ファンブル)起こして、この惑星丸ごと定義崩壊させかねないぜ。

 そんな事になっちまったら、正に絶望の中の絶望さ。この青空だって、二度と味わえなくなるしな。

 オレは、そんな事態に陥るのは嫌だ。だから、出来る出来ないの話じゃない。

 やる。

 それしか最善の選択肢はない」

 「…先輩は、『バベル』に取り込まれた皆さんを、助け出せる算段があるんですか…?」

 ノーラがそう尋ねたのには、やり遂げる自信は持てないものの、目にした惨劇をどうにか――他力本願でも構わない――打開したい、という願いがあるからこそだ。それ故に、彼女は失意に苦しんでいたのだから。

 しかし――ノーラの願いを、イェルグは至極短く、そしてキッパリとした言葉で一蹴する。

 「いんや」

 「え…あ、あの、それじゃあ…」

 オロオロと問い返すノーラに、イェルグは冗談めいた微笑みを浮かべたかと思うと。『バベル』へと向き直ってノーラに背を見せ、両腕を肩の位置に持ち上げて(すく)めた。

 「オレは空を取り柄としてる男だぜ?

 まぁ、それでもユーテリアに通ってる身だからな。魂魄についての知識は、そこら辺の奴らよりは豊富だろうさ。

 だからと言って、魂魄の定義をどーのこーの出来るような技術なんか持ち合わせちゃいない。

 だから、オレが『バベル』にすることは、そのままの意味さ。

 "ブッ壊す"。

 救うじゃない。あのヤバいバケモノを構築している魂魄どもごと、文字通り、ブッ壊すのさ」

 「そ、そんな事をしたら…『バベル』に(とら)われてしまった、沢山の人々は…」

 「当然、本当の意味で、死ぬさ」

 イェルグの言葉は、物は手を離せば地面に落ちる、ということを淡々と語るほどに、軽々しい。

 そんな軽い口調で、大量の命を奪うと云う重過ぎる事実を語るイェルグに、ノーラは半ば悲鳴のように声を上げる。

 「そんな…! それじゃあ…そんなんじゃあ…希望の星を振り撒く、私たちの部のポリシーに、(そむ)くじゃないですか…!」

 イェルグは持ち上げた両腕を下ろしたものの、肩を竦めたまま、背越しに答える。

 「渚の奴はカンカンに怒るだろうな。ベストな形でこの都市国家(まち)に希望を与えられないワケだし。それ以前に、希望を与えるはずのオレ達が、希望を奪う真似をしちまうんだからな。

 それでも、この惑星がまるごとブッ壊れちまうよりは、もたらされる絶望は遙かに小さくて済む。消える希望は、たかだか千人のオーダーだものな」

 「そんな…そんな…そんな…!」

 ノーラは拒絶の意志を込めて、同じ言葉を繰り返す。そんな彼女に、イェルグはチラリと振り向いて視線を投げて、冗談でも語るような穏やかな口調で、こんな事を語る。

 「この機会に、覚えておくと良いぜ。

 オレは、この部活で一番のシビアな思考の持ち主さ。

 舐めたら死ぬ空を"飼ってる"んだからな、そうなっちまうのは当たり前のことなんだろうな。

 それでも、ヌルいまでの理想を語るこの部活に身を置いてるのは、シビアであるよりも、まったりと空を飛ぶ方が好きだからさ」

 空を"飼ってる"という表現の意味は分からなかったが、それを考えるような余裕などノーラにはなかった。

 イェルグが視線を前に戻すと、手を振って歩き出す。

 「おっと、もう"インダストリー"の奴らも癌様獣(キャンサー)どもも、随分と近づいて来ちまった。

 これ以上、無駄なお喋りは出来ないし、するつもりもない。

 それじゃあな」

 「あ…」

 ノーラはなんとか引き留めようとイェルグに手を伸ばしながらも、何と言葉をかけるべきか分からず、意味のない短い声を漏らす。

 そんなノーラの態度を、何も出来ずに傍観者になることを決め込んでしまった罪悪感であると思ったのか。イェルグはこんな事を言い残す。

 「気にするな。やるのはオレさ。お前さんじゃない。

 罪をおっ被るのは、オレだけさ」

 そしてイェルグは、トン、と足音を立てると、宙に大きく弧を描いて跳び出す――『バベル』へと向かって。

 

 ノーラは、苦悩する。

 己の頭蓋を抱え込み、そのまま押し潰してしまうのではないか、という程に、苦悩する。

 このままイェルグに全て任せて、自分は傍観者を決め込んでしまって、果たして本当に良いのだろうか?

 イェルグは気にすることはないと言っていた。確かに、直接手を下すのはイェルグであり、ノーラではない。…しかし、その理屈に甘んじて、大量の魂魄が失われても、のうのうと生きて行くのは、本当に正しいことなのだろうか?

 イェルグは…いや、彼だけでなく、恐らくは蒼治を初めとした全ての星撒部の部員達は…『バベル』から人々を救い出せるのはノーラしか居ないと言っている。確かに、自分の能力を至極客観的に鑑みれば、一番可能性が高いのは自分だろう。実際に先日、アオイデュアはその力を振るい、無情なる『現女神(あらめがみ)』の神霊圧から魂魄を救出することに成功した。

 今回のケースは、アオイデュアの時はスケールも難易度も違う。しかし、成功確率が1パーセントに満たなかろうが、可能性があることは確かだ。

 そんな自分が、傍観者を決め込むことは、人々を見殺しにすることに他ならないのではないか?

 …しかし。ノーラが『バベル』の相手をし、その結果として魂魄を救出できなかったとしたら。果たして"みんな"は(すべから)く、彼女の労をねぎらった上で、「仕方のないことだよ。あなたは充分にやってくれたのだから」と慰めてくれるだろうか?

 星撒部の部員達は、きっと慰めてくれるに違いない。この仕事の困難さを正確に理解してくれるだろうし、努力も認めてくれるだろう。アルカインテールの市軍警察官達も、認めてくれることだろう。…だが、一般の市民はどうだろうか。

 救えるかも知れなかった家族や知人を、失敗によってみすみす失ってしまった悲しみを振り切った上で、ノーラに微笑んでくれるだろうか?

 ――怖い。ノーラは自身の両腕で、自身を抱え込む。凍った刃のように冷たい視線、または、燃え盛る火山のような憤怒視線…それに囲まれる光景が目の前に浮かび、脚が(すく)んで戦慄(わなな)いてしまう。怖い。

 脳裏に浮かぶ重苦しい光景の中に、人々の先頭に立ってこちらを睨みつける、一人の少女の姿が浮かび上がる。ノーラがこの都市国家(アルカインテール)に来るきっかけを作った少女、倉縞栞だ。

 ノーラの脳裏の世界で、彼女は大粒の涙をボロボロと(こぼ)しながら、全身を悲哀と憤怒で震わせながら絶叫する。

 「やっぱりだ! 約束なんて、守ってくれなかった!

 あたいのヌイグルミも、パパも! みんな、お前のせいで壊れちゃったんだ、居なくなっちゃったんだ!」

 そんな言葉をぶつけられたら、ノーラの心はポッキリと折れたまま、二度と蘇れないかも知れない。

 ――しかし。『バベル』に手を下さず、傍観を決め込んだとして。ノーラは栞の責めを逃れることが出来るだろうか。栞の怒りを受けずに居られるだろうか。

 そんなワケがない。『バベル』への対応を放棄した時点で、ノーラは約束を反故(ほご)にした事になる。責められて、当然だ。

 やるもやらぬも、待つのは地獄。この状況下で、ノーラも栞も、誰も彼もが幸せになれる選択肢はないのか。

 ――たった一つだけある。ノーラが『バベル』にうまく対処し、全ての魂魄を救出することだ。

 しかし、それが出来る自信なんてない。

 だが、それ以外にみんなが救われる道なんて、ない。

 グルグルと堂々巡りする、思考。その間にもイェルグは、一度着地して再び大地を蹴ると、『バベル』へ向けて更に跳躍し前進する。

 最早こちらに一瞥もくれずに『バベル』へ向かう彼の背中を見て、思う。

 (イェルグ先輩なら…本当に…『バベル』を撃破出来るの?)

 先日、アオイデュアで行動を共にした時、間近で見せつけられた彼の戦闘能力。あの凄まじい力があれば、可能かも知れない。

 しかし…イェルグが相手にせねばならない相手は『バベル』だけではない。"インダストリー"のD装備機体もあれば、癌様獣(キャンサー)の大群もいる。これらをも相手にして、彼に勝機はあり得るのだろうか?

 その疑問は、ひょっとすれば、実戦経験が断然豊富なイェルグにとっては侮辱にあたるかも知れない。だが、このシビアな状況下においては、希望的観測は不適切だ。だからノーラは、ユーテリア所属の"英雄の卵"だとか、イェルグの未だ見たことのない力だとか、そういう可能性は全て排除した上で、極々常識的に判断を下す。

 答えは、即座に脳裏に浮かぶ。――無謀だ。

 では、『バベル』の撃破に失敗したイェルグは、どうなってしまうのか。それも極々常識的に考えれば――悲惨な、取り返しの付かない末路を迎えることになるだろう。

 そして、イェルグの残酷な末路をただただ傍観していただけのノーラは、皆にどう扱われるか。考えるまでもない。仲間を見殺しにした薄情者…いや、裏切り者とさえ見なされるかも知れない…として、(とが)を一つ多く背負うことになるのだ。

 得られるはずの部員達からの同情すらも失い、ノーラの周囲は鋭い(トゲ)のついた真闇に覆われる。

 大量の死と怨恨を背負い歩み続ける人生は、生き地獄と称して差し支えないことであろう。

 (――嫌だ)

 ノーラは身を震わす。若い彼女の人生は未だ80年以上の時を残しているだろう。その長い時間、決して消えない重い(とが)を背負い続けねばならないなんて、考えるだけでもゾッとする…!

 (そんなの…嫌だ!)

 彼女は、はじめはゆっくりと、段々と加速しながら、イェルグの背中を追って駆け出す。彼女の魂魄を揺るがす恐怖を、払拭せんがために。

 彼女を突き動かす恐怖は、浅ましい保身であるだけかも知れない。事実、彼女の恐れは、誰にも同情されぬことだ。この都市国家(まち)の人々を救いたいと願う以前に、その事態を避けたいが為に駆け出したその姿は、他者から冷たい視線を向けられるかも知れない。

 (それでも、構わない…! 私は怖い、それは真実だもの…! 浅ましいと罵られても、構わない…!)

 ようやくグルグルとした躊躇の円環から飛び出したノーラを勇気づけるように、鼓動を早めた心臓が彼女の脳裏にこんな言葉を送る。

 ――偽善も、立派な善。いくら善意を抱えようとも、それを振りまかねば、その者は善人とは見なされやしない。

 ――走り出したお前は、立派に善人だ。

 ノーラの碧眼に、輝きが戻る。灯った明るい炎は暗く冷たい恐怖を(あぶ)ると、恐怖が焦げすぎた肉のように(しぼ)んでゆく。

 ノーラは両脚に加速の身体魔化(フィジカル・エンチャント)を付加すると、相変わらず跳びながら前進するイェルグの元へと急接近。腕を高く上げて、叫ぶ。

 「先輩っ! イェルグ先輩っ!」

 ノーラのほぼ真上を跳ぶイェルグが、顔面に疑問符を張り付けたような表情を作り、こちらを見下ろしてくる。そこでノーラは、両手で口元を囲んでメガホンを作ると、続けてイェルグに叫ぶ。

 「私も…! 私も、連れて行ってください…!

 私が…私が…!」

 一呼吸おいてから、ノーラは一際大きな声を上げる。眼に残ったカスのような恐怖を、吹き飛ばさんとするかのように。

 「『バベル』を、やっつけます!」

 

 先刻とは全く打って変わった、力強い堂々たる宣言。

 その余りに変わりように、却って不安を抱く者も居るかも知れない。雰囲気に押されたがゆえの、自棄(やけ)になった行動ではないか、と。

 しかし――ノーラを見下ろすイェルグは、「本当に大丈夫なのか?」とか「やれるのか?」と云った言葉を一切口にしなかった。

 それどころか、疑問符を張り付けていた表情を一変、愉快そうにニッと笑うと、ノーラの元に急降下。そして、戦いへと誘う右手を、一片の躊躇(ためら)いもなく、スッと伸ばす。

 「そんじゃ、行こうぜ」

 「…はい!」

 ノーラが誘う手をしっかりと握り返した、その瞬間。イェルグはグイッとノーラを引っ張り上げて、両腕で抱え込んだかと思うと、一気に急加速。急角度で上昇しながら、疾風そのものの勢いで飛翔する。

 「しっかり捕まってな。一気に運んでやるよ」

 語る最中にも、イェルグは更に加速し、瓦解した上に溶融した街並みをグングンと過ぎって行く。"空の男"を自称する彼は、飛翔の魔術には非常に長けているようだ。

 ゴウゴウと耳元を過ぎゆく風の音にちょっとビックリしたノーラは、イェルグの首の辺りに腕を回してしっかりとしがみつく。そして、イェルグの崩れぬ微笑みを間近に見ながら…ふと、その頭上に疑問符が浮かぶ。

 (先輩、鳥のようにこんなに速く飛べるのに…さっきまでは、フワフワと浮かぶ雲みたいに飛び跳ねてたよね…?

 時間切れとか言ってのに…なんでそんな事を?)

 眉根を寄せるノーラの表情から察したのかも知れないが、イェルグがナハハ、と笑いながら、彼女の疑問の答えを口にする。

 「いやー、良かった良かった。ノーラがやる気になってくれて。

 中々動かないからさ、正直焦っちまったよ。本気で『バベル』も"インダストリー"も癌様獣(キャンサー)も、全部相手にする羽目になっちまうのか、ってな」

 それを聞いたノーラは、目が点になる。

 ――つまり。シビアだの何だの散々語っておきながら、イェルグの言動は全てが"振り"だったのだ。失意に沈んでいたノーラを、その気にさせるために。

 高速飛翔が可能なのに、わざわざフワフワと飛び跳ねて見せていたのは、ノーラの逡巡する思考を煽りたてるためだったワケだ。

 そしてノーラは、まんまとイェルグの計略にハマってしまったワケだ。

 その余りにも見事な演技力と計算高さに、憤りを通り越して呆れるというか、感心してしまう。

 しかしながら、胸の内にはチクリと苛立ちのトゲが刺さったので、ノーラは精一杯に慣れない半眼ジト目を作り、イェルグを睨みつけてボソリと呟いてみせる。

 「…先輩。ヴァネッサ先輩に、人が悪いって言われること、ありませんか?」

 普段、イェルグと多くの時間を過ごしているヴァネッサならば、自分以上にその被害に遭っているに違いない。

 そんなノーラの予測は、図星だったようだ。イェルグは苦々しさを滲ませながらも、それが勲章であるかのようにちょっと誇らしげに語る。

 「たまに、"砂糖の代わりに塩を入れたチョコレートケーキを食わせたくなる"とは言われるな」

 「…先輩は一度、食べた方が良いと思います」

 ノーラが語ると、イェルグは舌をベーッと出す。

 「そんなモン、食ってられるかよ。全力で遠慮するね」

 その余りの悪ぶれなさぶりに、ノーラは呆れて小さく溜息を吐く。そして直後、クスクス、と笑い出した。

 眼前には、正真正銘の怪物たる『バベル』が急速で迫り来ているというのに。イェルグの冗談めいているほどの裏表の無さは、あまりに滑稽で笑いを催さずにはいられなかった。

 小さくだが声を上げて笑うと、それまで胸中にズーンとのし掛かっていた諸々の不安や緊張感が、緩んだ頬の肉と共に柔らかくなり、そのまま(とろ)けてサラサラと流れるように消え去っていった。

 …もしも、イェルグがここまで計算した上で行動していたとしたら、彼は非常な大物に違いないことだろう。

 その事を確かめてみたい気になったノーラであるが。彼女が疑問を口にするよりも速く、イェルグが和やかな口調のままながら、気を引き締めさせる言葉を口にする。

 「さぁーて、そろそろ接触するぜ、怪物さんによ」

 言われて、ノーラは視線を前方に向けると。その巨大さが重量感を伴って認識されるほどに眼前に迫った『バベル』の俯瞰(ふかん)による全貌が視界の大半を埋め尽くす。脊椎によって結合した人体から伸びた手足が、水に揺れるイソギンチャックの触手のようにワサワサとゆっくり(うごめ)いている様がよく見える。

 『バベル』の体表には、手足の他に顔が突出している箇所もある。その顔は性別が分からないほどノッペリとして、ツルリとした無毛の、仮面にも似た様相を呈している。眼は白一色で瞳が見えず、どこを向いているか分からない。しかし、青白く輝く体液を垂れ流しながらパクパク動く口や、伸ばしたまま揺れ動かす手足と相まって、救いを求めているかのようにも見える。

 ノーラがただ独りで対峙した時には、多大な生理的嫌悪に嘔吐感、そして涙を誘う恐怖感に満ちていた、おぞましい姿。

 しかし、今は――勇気を奮い(おこ)してくれた仲間と一緒に行る今ならば。嫌悪や嘔吐や恐怖よりも、憐憫(れんびん)と[[rb:憤怒]]に眼が燃え上がる。

 ――人道にもとる欲望のために、理不尽な惨劇に晒された者達を救い出してあげたい。

 ――そして、人道にもとる欲望を恥ずかしげなく押し進め、犠牲と言うなの梯子を踏みつけて『天国』を手中に収めんとする者を、思いっ切り()らしめてやりたい!

 「さぁて、どうするよ、ノーラ?」

 『バベル』の臀部上空に達したイェルグが問うと。ノーラは桜色の唇をキリリと引き結んだ後に、口早に要望を伝える――。

 

 『バベル』、いや、ヘイグマンは、笑っていた。

 『バベル』を起動し、魂魄干渉を引き起こす叫びを上げてからというもの、ヘイグマンの顔にはギラギラとした笑みが灯りっぱなしであった。普段は枯れ木のように表情に乏しい彼が、『バベル』という水を得て活き活きとした魚の(ごと)くであった。

 ヘイグマンの頭部に埋め込まれた胎児様生体共振器官により、ヘイグマンの感情が伝搬した『バベル』もまた、死んだ眼をギョロギョロと動かしながら、巨大な口をニタァリと歪めて開き、狂気を(はら)んだ凄絶な笑みを浮かべ続けている。

 そして、ヘイグマンは笑うと同時に、興奮してもいた。着込んだ軍服越しにでも分かるほど、高鳴る鼓動の振動が分かるほどに、興奮していた。

 「素晴らしい…ああ、素晴らしい…!

 これが、これがそうなのか…!

 これが、『天国』を手にする権利者が体感する世界なのか…!」

 独りごちるヘイグマンの視界に描画されるのは、もはや単なる物質世界ではない。『バベル』の有する認識能力のフィードバックを受けた彼の感覚は、(あまね)く存在――物質、事象、そして、概念さえも――の詳細な定義が超高精度の術式として捉えている。

 "それ"は一体何物なのか。世界の中でどんな役割を与えられ、存在しているのか。何を考え、何を感じ、そして何をしようとしているのか。現在という主観の全てが、"真理"と表現しても差し支えない情報を差し出してくれる、全知の世界。人類の領域を超越した領域に踏み込んだという優越感に、ヘイグマンは垂涎の笑みを浮かべっぱなしだ。

 そして何より彼を興奮させたのは、『バベル』を通して()た『天国』の姿である。

 形而下においては、何者も触れるおとの出来ない存在である『天国』。その形而上相における姿は、ブラックボックス――つまり、たったの一行の術式も認識出来ぬ、虚無の塊なのである。

 もしも『天国』を形而上相上で正しく認識することが出来るのならば、接触できなくとも『天国』の研究に魔法科学者たちが頭を抱えることも無かったであろう。

 視界で捉えることが出来る『天国』が、何故形而上相では何一つ捉えることが出来ないのか。その理由として魔法科学者達は、人類をはじめとする生物達の認識の水準が低いために、『天国』の発するクオリアをうまく解釈できないためだと言う仮説を立てている。

 そして今、ヘイグマンは科学者達の仮説は正しいと確信する。

 『バベル』と言う高等な魂魄機構を持つ存在は、アルカインテール上に存在する『天国』の形而上相における姿――つまりはその存在定義を、遂に捉えたのだ。

 それを認識したヘイグマンは、意図せずもボロボロと感涙し、ひび割れた唇には余りに似つかわしくない、恍惚に潤んだ声を漏らす。

 「美しい…なんと、美しいことか…!

 これが、高々人類では、自然界の枠に囚われた生物では認識できぬ、『天国』の姿か…!」

 そんな彼の言葉をスピーカー越しに聞いていたドクター・ツァーインは、マイクに噛みつくような勢いで尋ねる。

 「大佐殿、大佐殿! 美しいとは!? 一体どのように、美しいとおっしゃるのか!?

 せめて、せめて言葉だけでも! 私にもたらしてはくれませぬか!!」

 しかしヘイグマンは、人の領域を越えた領域に至って初めて認識したその美しさを、人の言葉で表現する術を持たない。

 美しい。その言葉だけが、魂魄の奥底から湧き出て来る。美しい。それが色彩的なのか、形態的なのか、幾何学的なのか、数学的なのか――判断など出来ない。ただひたすらに、美しい、それだけだ。

 "美しい"という言葉の純然たる、そして唯一絶対なる定義があるとすれば、今目にしているものが正にそれなのだと、思うほどに。

 「…それに比べて…」

 ガラリと口調を変え、ヘイグマンは口角を歪んだ形につり上げながら、怨嗟の言葉を吐く。

 ツァーインが執拗に『天国』の感想を問う言葉を聞き流しながら、ヘイグマンが見たのは、こちらに迫り来る大群。"インダストリー"の操縦適応者(クラダー)、エンゲッターが操る機動兵器と、彼の手足を引っ張りながらワラワラと怒濤のように走る癌様獣(キャンサー)どもである。

 高等にして美麗なる『天国』の定義と比肩して、彼らの定義のなんと(けが)らわしいことか。狭量たる我欲に染まりきった精神(こころ)身体(からだ)がギトギトと(うごめ)く有様は、糞に(たか)る蛆蠅のように見えてくる。

 こんな下劣な存在に、至高の美たる『天国』を握らせるなど、もってのほかだ。

 「消え去れ、ゴミ蟲どもが…!」

 ヘイグマンは歪んだ口から憤怒の炎を吐く。同時に、頭に埋め込まれた生体共振器官を通して、『バベル』に命令を下す。

 (たか)る蛆蠅どもを、完膚なまでに叩き伏せろ、と。

 その信号を受けた『バベル』は、赤ん坊と言うよりも暴れ牛のような有様で四肢をバタつかせ、迫り来る大群へと自ら突進。同時に、人類の魂魄の処理速度では到底実現不可能な高速度にして緻密な破壊的術式を練り上げ、それを右拳に集束させると、大きく振り上げる。

 そして、天よりの使いからの鉄槌だと言わんばかりに、(ゴウ)ッ、と風切り音を伴いながら、凶悪な威力を持つ拳を叩き下ろす

 ――その時だ。

 ガリガリガリガリガリッ! 『バベル』の聴覚を(ろう)する、耳障りで盛大な擦過音が発生。同時にヘイグマンは、生体共振器官を経由して『バベル』の背中の中心線に沿って一直線に駆ける鋭い一撃を覚える。

 (何事だ…ッ!)

 ヘイグマンは恍惚の表情を一転、燃える憤怒による渋面を作る。枯れ木のようであった彼の顔面にようやく活気の潤いが灯ったかと思いきや、普段以上に(しわ)が深々と刻み込まれる。

 ヘイグマンは『バベル』の顔を巡らせ、背中に茶々を入れた憎き相手を視認しようとする。『バベル』の形而上感覚をもってすれば、全方位の状況を術式の形で詳細に把握することは出来る。しかし、『バベル』に接続したとは言え、ヘイグマン個人は高々人間の一個体に過ぎない。故に彼は我欲的な激情に駆られ、"憎き相手"の面を拝まねば気が済まなくなったのだ。

 "憎き相手"は非常にすばしっこい動作の持ち主であった。その姿を捉えるために『バベル』は、首をほぼ180度回す羽目となり、結局眼前に視線を戻すこととなった。

 『バベル』の3つの死んだ眼に移る、"憎き相手"の姿。それは、一人の少女だ。猛々しい真夏を思わせる瑞々しい褐色の肌に、透き通るような薄紫色の髪を持つ、凛々しき少女。その手には、彼女の身長とほぼ同じ位の長さを有する、幅広で複雑な形状した大剣が握られている。

 一片の怯懦の曇りも見えぬ、勇ましく引き締まった表情に、堂々と両足で大地を踏みしめて立つ、その姿。それを知覚したヘイグマンは、歯茎を噛み砕かんばかりにギリギリと歯噛みをしながら、重い怨嗟の呻きを漏らす。

 「女か…ッ!

 ここに来て、また私の前に立ちふさがるのは、女なのか…ッ!」

 

 ノーラが『バベル』の眼前に着地してから一拍ほど遅れて、イェルグがヒュンと風を切りながら急降下。ノーラと背中合わせになる形で着地する。

 ノーラが『バベル』を睨むならば、イェルグが睨むべきはこちらに迫り来るエンゲッターや癌様獣(キャンサー)の大群だ。しかし、彼は敵をチラリと目にすると、すぐに視線を背後のノーラに向けて走らせる。

 「どうだい、一撃喰らわしてやった感想は?」

 イェルグの問いが示す通り、『バベル』の背中を襲った一撃を放ったのはノーラである。

 イェルグと共に飛翔していた彼女は、『バベル』の臀部に到達するとイェルグの手を離れた。そして『宙地』によって中空を思い切り、全身を弾丸のようにして『バベル』の背中をめがけて跳躍。同時に定義変換(コンヴァージョン)した愛剣で以て、『バベル』の背の上を飛びながら斬りつけたのだ。

 その感想として、ノーラが口にしたのは。

 「…固い、です。とても」

 味も素っ気もない、手短で淡々とした言葉。それを耳にしたイェルグは、苦笑を浮かべて、これから戦闘だという緊張感のない軽い言葉を口にする。

 「いやいや、そうじゃなくてよ。

 ムカつく奴に一撃入れられてスカッとしたとか、やっぱり相手にするのを後悔したとかさ。そういう感想はないのか、って訊いてンだよ」

 「特に、ありません」

 ノーラはやはり無味乾燥な返答を口にし、イェルグは苦笑を浮かべたままヤレヤレと言った感じで頬を掻く。

 …そう、ノーラという少女は、こういう人物なのだ。

 普段はどこか引っ込み思案で、語り口もどこか一歩退いたような物言いをする。自分に対しては悲観的な過小評価をし、それ故に惨状を目にした時の虚無感が凄まじく、先刻のように激しく落ち込むようなきらいがある。

 しかし、一度決意のスイッチが入ると、その態度は一変。ダイヤモンドで作ったナイフのように固く、鋭い意志と行動を示すようになる。先日、士師と交戦した時の彼女の態度が、それだ。"シビア"という言葉は、窮地に置いてもそうそう笑みを崩さぬイェルグよりも、ノーラにこそ相応しいと言えよう。

 しかし、"固い"と言うことは、無茶な力を加えらてしまうと、ポキンと折れて元に戻すことは困難であるということ。

 難敵という一言ではとても片づけられない『バベル』を相手に、固いまま苦戦必死の交戦に飛び込むのは、危うい。

 そう考えたイェルグは、スイッチが入ったノーラにも絶対に通じる、軟化の呪文を唱える。

 「背中を守るのがロイでなくて、申し訳なかったな」

 転瞬。ノーラの顔が湯気立つほどにボッと真っ赤に染まる。その熱気に(あぶ)られて暴れ回るように、ノーラはワタワタと身体を(よじ)らせながら、首を巡らせてイェルグに視線を投じる。

 「な、なんでロイ君のことが、話に出るんですか!」

 「いや、何となくだよ、何となく」

 と答えつつも、イェルグは意地悪く舌をベーッと出すが、幸か不幸かノーラには見えなかった。

 …さて、ノーラが柔らかくなったところで。イェルグは相変わらず軽い口調のまま手短に打ち合わせる。

 「そんじゃ、『バベル』のことは任せたぜ。

 オレは、お前さんに邪魔が入らないように露払いさ。絶対に抜かせやしないから、安心して『バベル』に集中しな」

 「…大丈夫ですか? あの物量を、生身一人で?」

 イェルグは苦々しさを交えず、屈託なく笑う。

 「オレは"空"だぜ? 何百、何千程度の数量、軽く包み込んでみせるさ」

 そういうイェルグの眼前には、常人がただ独りで向かい合ったのならば、あまりの絶望感で笑ってしまうような、黒々とした敵意の津波が迫っている。

 飄々としたイェルグの語りぶりに対しても、ノーラはなかなか心配を払拭出来なかったが。ズルリ、ズルリ、と云う連続した重低音を耳にし、ハッと前を向き直る。

 イェルグも大変だが、自分もまた大変な怪物を相手にせねばならないのだ。気を抜いていたら、命を落とすだけでなく、この都市国家、ひいては地球そのものに惨劇がもたらされるかも知れないのだ。

 それに、自分より実戦経験豊富な先輩を心配するなど、イェルグを侮辱しているようにも思えてきた。

 ――ノーラは、自分の中のスイッチを完全に、目前の怪物の方へと倒す。

 「それでは、先輩、お任せします。

 ――行ってきます」

 「ああ。やっつけちまってくれ」

 2人は言葉を交わすと、ほぼ同時に大地を蹴り、真逆方向から迫る難敵へと突撃する。

 

 大剣を横だめに構え、迷いも恐怖もない凛々しい表情で、態度で、駆け寄ってくる、ノーラ。

 その姿を『バベル』を通して知覚したヘイグマンは、こめかみにボッコリと青筋を立てて、火炎のような怨嗟を吐く。

 「女、女、女、女ッ!

 私の前に立ちふさがるのは、いつでも、このような女ばかりだッ!」

 "女"という言葉に呪いを込めるヘイグマンであるが、彼は別に女性全般を嫌悪しているワケではない。老齢の母のことは尊敬こそすれ、侮蔑の感情を抱いたことなどない。部隊における女性部下に対して差別的な言動を取ったこともない。道行く女性を目にしたからと言って、虫酸が走るなどとなく、気にも留めないのがほとんどだ。

 彼が女性に対して激情を抱くのは、極々限定的な条件下でしかない。

 それは――今、『バベル』の前に立つノーラのように――見目麗しいながら、地獄のような状況にあっても勇ましく、誇り高く、凛然と在るような女性だ。

 丁度、"女神"と云う言葉が相応しい女性像である。

 常人からは尊敬や羨望、時には崇拝の眼差しを集めこそすれ、憎悪などひねくれ者からしか送られないような女性達。そんな彼女らを嫌悪するヘイグマンも、"ひねくれ者"の一員なのだろうか。

 ある意味、彼は正に"ひねくれ者"であろう。しかし、彼にはそうなるだけの理由が――心傷(トラウマ)がある。

 

 時を(さかのぼ)ること、数年前。ヘイグマンがアルカインテールの駐在軍司令になる前、前線に足を運んでは勇猛果敢に指揮を振るっていた頃のこと。

 彼の率いる部隊に、『女神戦争』に関わる任務が言い渡された。

 戦場は、旧時代にアフリカ大陸と呼ばれた、過酷な環境が支配する大地。その中に広漠と横たわる、灼熱地獄を想わせる赫々(かっかく)の岩沙漠のほぼ中央に位置する、消して途絶えぬ業火で彩れた都市国家…いや、要塞国家。その名を、『炎麗宮』。

 そこは、『女神戦争』の勝利者候補と目される強大なる『現女神』、『獄炎の女神』の本拠地である。

 ヘイグマンをはじめとする、大規模の戦力に課せられた任務は、『獄炎の女神』の求心活動によって掠奪された、とある都市国家の市民達を救い出すこと。この任務は同時に、当時から頭角を表し、苛烈な求心活動を繰り返していた『獄炎の女神』に釘を刺す目的も兼ねていた。

 当時のヘイグマンは、今ほど枯れた姿をしていなかった。むしろ、年齢より若く見えるほど瑞々(みずみず)しく、活力に満ち溢れていた。指揮官という立場上、前線で一兵卒として交戦する機会はほぼ無かったが、自己研鑽を怠らぬ彼は部隊の中でもトップクラスの戦力として知られていた。

 当時から部下であったゼオギルドやチルキスは、そんな彼を慕い、望んで麾下となったのだった。

 そんなヘイグマンは自分の能力に絶対の自信を持っていた。そして彼は、次のような持論を振りかざしていた。

 「『現女神』は、真の神ではない。天賦の才は与えられているものの、初戦はヒトの肉体を持つ生物だ。

 我々は、例え男の身であろうとも、絶え間ない厳しい自己研鑽を重ねることで、必ずや『現女神(かのじょ)』らを凌駕することが出来るだろう!」

 ――さて、ヘイグマンはその他50を越える部隊と共に進軍、炎麗宮に至る。道程の岩沙漠では、魔法体質の野生動物に襲われることはあれども、人為的な妨害には一切遭わなかった。

 その状況を『獄炎の女神』の見下した余裕と見なしたヘイグマンであったが、決して怒りを感じはしなかった。むしろ、鼻で笑うような興奮さえ覚えていた。

 (今のうちに見下しているが良い、『現女神(クソアマ)』!

 貴様のその鼻、私がまんまと明かしてみせよう!)

 炎麗宮に近づくにつれ、岩沙漠の気温は徐々に上昇してゆく。涼感の魔術を駆使してなお、屈強の兵士達を汗だくにして膝を折らせる熱気の中、ヘイグマンはますます意気揚々として目的地に向かった。

 そして、炎麗宮到達後。地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の軍団混成部隊の先制攻撃によって火蓋を落とされた激戦は――ヘイグマンの精神に霹靂を落とすような戦禍となった。

 炎麗宮から出撃した敵対戦力は、たったの8名。その寡勢に、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の戦力は壊滅的な被害を受けたのだった。

 敵対勢力8名のうち、7名は『獄炎の女神』選りすぐりの士師達。その中には、士師でも最強と叫ばれて名だたる"炎星の士師"レヴェイン・モーセの姿も在った。7名は正に怪物的な戦力を存分に発揮し、大量の兵士が業火の中に消えていった。

 そして、残りの1名は――あろうことか、『獄炎の女神』その人…いや、その"神"が、直々に降臨していた。

 ヘイグマンは幸か不幸か――今となっては、不幸極まりないと断言できる――『獄炎の女神』と対峙する戦力の一端を担っていた。

 8恒星の表面のような姿と化した『天国』を背にし、4対の真紅の翼で以て中に浮かぶ女神の姿を見ても、ヘイグマンは(おそ)れを感じなかった。むしろ、神殺しの機会を与えられたのだと、顔がニヤケっ放しになるような興奮に襲われ、武者震いが止まらなかったほどだ。

 しかし――交戦を開始して程なく、ヘイグマンの武者震いは、恐怖――いや、畏怖の震撼(しんかん)へと取って代わる。

 女神は細く、美しい指を伸ばし、宙に一筋の直線を描くと。その延長線上に存在する兵士達が、突如ブクブクと音を上げて沸騰する。まるで、バーニャカウダのソースか、熱せられたハンダのような有様であった。彼らは火を吹くことも煙を放つこともなく、そのままドロリと溶けて灼熱の液体と化したのだ。

 この攻撃の前に、ヘイグマンは必死に対抗術式による防壁を形成し、その中に篭もるしかなかった。防壁の術式構造が組み上がったパズルのピースがボロボロと(こぼ)れるように壊れ始めると、ヘイグマンは防壁越しに及ぶ灼熱に当てられる以上に、冷たい汗を滝のようにブワリと噴き出したものだ。

 ――気付けば、防壁を襲う『現女神』の攻撃が止んでいた。その事実をようやく悟ったのは、『獄炎の女神』とその士師達が攻撃を停止してから、時間が大分経過した後のようだ。汗で滲むヘイグマンの視界には、『獄炎の女神』の左右を固める、錚々(そうそう)たる士師達がズラリと並んでいた。

 士師達の表情は様々であったが、そこには共通の感情がある。それは、嘲笑、である。どんなに固い表情をしていようが、晴れ晴れとした表情をしていようが、悲哀を浮かべた表情をしていようが、彼らは皆、ゾウの巨脚に挑んだアリの群れを見るような表情を浮かべている。

 『現女神』もまた、同様の表情を浮かべているだけであったならば。ヘイグマンは誇示していたはずの己の力の矮小さに恥じたり、無謀な作戦を企てた本部へ憤りを向けたり、無力な己に対する絶対的な強者の力に恐怖したりすることで済んだであろう。そして、今後はなんとしてもこの記憶を封じて、心の穏やかさを貪ることを望んだことだろう。

 しかし、『現女神』の表情は、ヘイグマンにそんな感情を抱くことを許さなかった。

 彼女は、嘲ってはいなかった。

 彼女は、(わら)ってもいなかった。

 彼女は、憐れむこともなければ、讃えることもなかった。

 彼女は、ひたすらに威厳のある美しさで、ヘイグマンを眺めていた。

 ――いや、実際には彼のことを眺めていたワケではないかも知れない。ヘイグマンが単に、『現女神』の視線が己の注がれているのだと、特別視したかっただけかも知れない。

 真実はどうあれ、ヘイグマンの記憶には、『獄炎の女神』の表情が鮮明に、深々と刻まれたのだ。

 燃えるような真紅の髪に、瞳に、唇を持つ、若々しくも力強い、まるで神話の存在をそのまま現実に削りだしたかのような姿。部下達を虐殺する行為などせずとも、その姿だけで見る者の息を詰まらせるほどの威厳と美貌。

 (…ああ、素晴らしい…)

 ヘイグマンは大量に命を奪われた部下への憐憫も忘れ、呆然と賞賛するばかりであった。

 …かと思えば、その顔を美しき天使を憎悪する悪鬼の如く歪ませ、皮膚を焼き焦がすほどに灼熱した岩沙漠の大地にギリリと爪を立てた。その全身から噴き出す感情は、憎悪ではなく…嫉妬、だ。

 そう、ヘイグマンは『現女神』の絶対的な力と美しさ、そして全異相世界を支配し得ると云われる『天国』を得る権利を…そして、女性の身に生まれたが故に、それらを手にする可能性を得た者達を強く、強く妬んだ。ゴリゴリと盛大に音を立てる歯噛みは、歯を擦り減らしてしまうのではないか、と思うほど烈しかった。

 (何故、私は"男"に生まれたのだ!?

 いや、何故この世界は、男に『天国』を得る権利を与えなかったのか!?

 魔法科学により可能性が格段に広がったこの時代においても、私が『神』の名を関する高々の生物と肩を並べることも、到底適わないと云うのか!)

 ヘイグマンの視線を、しばらく為すがままに受けていた『獄炎の女神』であったが。やがて彼女は、ふいと踵を返し、士師達と共に燃えさかる要塞の中へと姿を消してゆく。その挙動は、ヘイグマンの視線を拒絶するどころか、歯牙にも欠けぬ絶対的自信に満ち溢れていた。

 ヘイグマンは彼女の後ろ姿が業火の城壁の向こうへと消えるまで、いつまでもいつまでも、睨み続けていた。しかし、『現女神』は最後まで、こちらに一瞥もくれることなく、炎の帳の向こうへと堂々と歩き去って行ったのだった。

 ――炎麗宮の戦いが終わってからの後。ヘイグマンとその残存部隊は、人員の補充を受けると共に、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の庇護都市国家であるアルカインテールの防衛任務を与えられ、駐留軍として派兵されることになった。

 この部隊配置に関して本部は、優秀な資源採掘拠点であるアルカインテールは様々な悪質な勢力に目を付けられやすい故に、実力者揃いの部隊を派兵する必要性があると説明していた…が。実際のところは、肉体的にも精神的にも疲弊したヘイグマンの部隊の慰労と保養の為に、危険度の低い現場を与えたという意味合いが強かった。

 事実、大抵の隊員はこの任務に安堵して大歓迎していたが、ゼオギルドやチルキスのような地獄を経験して尚、血の気が余る連中にとっては退屈極まりない役回りとなった。

 そしてヘイグマンには、ゆるりと時間が増えたが故に、炎麗宮での『現女神』との邂逅(かいこう)を悶々と思い出しては、羨んだり、(ある)いは妬んだりを繰り返していた。そのグルグルとした非生産的な思考の渦に、心ばかりがギラギラとした興奮ともトキメキとも着かぬ衝動に駆られる一方で、やり場のない肉体は強大なストレスを抱え、急激に老け込んで行った。

 ――そんな最中、魂魄魔法科学の先駆者にして、『天国』の求道者たるツァーインと知り合ったのは、本当にい偶然のことだ。

 『現女神』との邂逅の記憶を、ニンジンを目の前に吊されたウマのようにせがむツァーインに対し、ぼちぼちと体験を口にしていたヘイグマンであったが。ついポロリと、悶々としていた思いを口に出していた。

 「何故、この世界においては、我々男は『天国』を手にできないのだろうか。

 何故、凛々しき女どもばかりが『現女神』として『天国』を手にする権利を与えられ、我ら男は高々"士師"として、彼女らの下に甘んじることしかできないのであろうか」

 すると、ツァーインはゲラゲラと笑い、そしてヘイグマンの肩をバンバンッ! と強く叩いてみせた。それは、ヘイグマンを元気づける為だったのか、それとも魔法科学者としてヘイグマンの言葉が稚拙に聞こえたのを嘲っていたのかも知れない。

 何にせよ、ツァーインはこんなことを口にした。

 「確かに、この世には『現女神』は存在し、男が『現男神(あらおがみ)』になった例はございませんな!

 しかし、だからと言って、自然が女性だけに『天国』を掌中に収める権利を与えたとは限りませんぞ! そのような法則、魔法科学は証明などしておりませんからな!

 それならば、ですぞ、大佐殿! あなたが、男の身で『天国』を握る第一例となっては如何ですかな!?

 私には、それを実現し得るだけの思慮と理論が在る! そしてあなたには、その身を焦がして止まぬほどの『天国』への、そして『力』への情熱が! そして一声かければ山と動く人員と資金があるではありませんか!

 我らの要素が合わされば、史上において類を見ぬ、最大最高の『握天計画』を実現できましょうぞ!」

 このツァーインの言葉に押され、始まったのが『バベル』計画。

 そして実行に移った計画は、実際に、『天国』をこの地に降臨せしめた。

 ヘイグマンは今、『天国』を掌中に収めんと――全異相世界の支配権を手に入れようとしているのだ。

 地獄から得た暗い欲望が今、結実しようとしている。

 

 しかし、その前に立ちはだかったのは、またもや女。

 若く、凛々しく、美しい、戦乙女という名を冠するに相応しい少女。

 「また私を虚仮(こけ)にするのか!?

 灼熱の大地に這いつくばらせるのか!?

 ――いや、いや! 今度は! 『現女神』でない貴様は! この私の『天国』の礎としてくれるぞ、女ァッ!」

 ヘイグマンの最後の叫びに同調して、『バベル』が巨大な唾液塊をベチャベチャと飛沫(しぶ)かせながら、オオオッ! と叫ぶ。

 大気を震わす烈風に、立ちふさがる少女――ノーラの薄紫の髪がバサバサとはためくが。彼女は目を細めることなく、風に身を竦ませることもなく。泰然と大剣を構えたまま、微動だにしない。

 その勇ましき(たたず)まいが、ますますヘイグマンの感情を逆撫でする。

 「生まれながらにして、権利を持つ者めッ! 消え失せろッ!」

 ヘイグマン――いや、『バベル』は、一度は消滅させた右手の集束術式を再構築。鉄槌のように振り上げると、拳の周囲には輪郭のぼやけた漆黒の、憤怒の表情を呈する塊が幾つも生ずる。それが単なる暫定精霊(スペクター)でないことは、形而上相を視認することで明白だ。『現女神』で云うところの"天使"に類する存在なのかも知れない。

 禍々しい顔の張り付いた鉄拳に対し、ノーラは手にした愛剣をやや上段に構えながら、定義変換(コンヴァージョン)を開始。パタパタとパネルがひっくり返るような過程を経て体積と形状が激変すると、ノーラの身長よりもずっと長大な、そして白銀の輝きが目を引くシンプルなデザインの大剣と化す。

 大剣の変化を待っていたというワケではないだろうが、丁度そのタイミングで漆黒の鉄拳が轟音と共に振り下ろされる。一方、ノーラは大地を蹴ると、自ら鉄拳へと飛び込み、大剣を鋭い銀閃と化して、鉄拳を縦一文字に斬り付ける。

 

 ――こうして、アルカインテールの命運を左右する、異形の神モドキと戦乙女(ノーラ)の戦いの幕が上がる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Dead Eyes See No Future - Part 4

 ◆ ◆ ◆

 

 「…あ、ナミト見っけ」

 下半身に雲をまとい、フワリと上空を飛ぶイェルグは、眼下に認めた光景に声を出す。

 「あいつ、ホントに『冥骸』の連中と助け合いしてんだな。旧時代の赤十字って組織も真っ青な慈善活動だ。

 渚が見たら、ベタ褒め間違いなしの光景だぜ」

 イェルグが言う通り、眼下に広がる光景の中では、九つの尻尾を出したナミトが『冥骸』の死後生命(アンデッド)の中を奔走し、ノイズが走って今にも崩れそうな者たちを練気でもって救助している様子が見える。また、彼女の側には、錆びた西洋風の鎧に身を包んだ地縛霊――『要塞』の姿もあり、ナミトの補助を行っている。

 この光景からは、先刻まで壮絶な死闘を繰り広げていたなどとはとてもでないが想像できない。

 「快晴の空にぴったりの、微笑ましい光景だな。

 他の勢力どももこれを見習って、こんな状況になっちまったんだから、当初の殺伐とした目的なんか捨てちまえば良いのにな」

 「激しく、同感ッス…!」

 イェルグに返事するのは、彼の上着のポケットにしまい込まれたナビット越しの大和である。現在、2人は音声通信を行っているので、3Dディスプレイは展開されていない。

 「その牧歌的な光景、オレの目の前のこのデカブツに見せつけてやりたいッスよ…!」

 大和は未だに大型癌様獣(キャンサー)、『胎動』を食い止めるのに必死である。声音には余裕のなさと苛立ち、そして疲弊が露わになっている。

 「いやいや、癌様獣(キャンサー)にゃそういう感情論は通じんぜ。あいつらは共有思考ネットワークを持ってるからな、個よりも種全体の利益を合理的に判断する傾向にある。他の百万人が右を向いても、種全体がそうしろと判断すれば、たった1個体であろうとも躊躇(ためら)いなく左を向くような奴らだぜ」

 「…ってことは、オレ、貧乏くじ引いちゃったってワケッスかぁ…!

 初めの話じゃ、"インダストリー"の機動兵器をメインに相手するはずだったのに…!

 誰ッスかぁ、癌様獣(キャンサー)の相手をするはずだったのはぁッ! 職務怠慢ッスよぉっ!」

 「件のノーラだよ、癌様獣(キャンサー)担当は」

 イェルグが答えると、ナビットのスピーカー越しからでも分かるほど、大和がギクリと強ばって息を飲む。

 良く言えばフェミニストを気取っている彼が、女子のノーラを悪く言う結果になったことにショックを感じたようだ。

 そんな彼をフォローするかのように、イェルグが小さく笑いながら語る。

 「そうは言ってもな、あんな乱戦じゃ誰がどれを担当だって言っても、専念なんて出来ないもんさ。

 オレなんざ、全勢力の空中戦力を相手にするハメになって、てんてこまいだったぜ」

 「それじゃ、先輩にとって『バベル』ってヤツは、救いのカミサマなんじゃないッスか?」

 そんな大和の言葉は、彼自身のきつい現状に比べて悠々としているイェルグに対して、純粋に羨望を抱いたがゆえのものであったが。

 イェルグはスッと笑みを消すと、「バカ」と短く、鋭く語る。

 「こんな胸糞悪い地獄を作り出したバケモノになんか、感謝するワケあるか。

 こんな気味悪い光景を見ながら空飛ぶなら、追いかけ回されて飛び回る方が気楽だってンだよ」

 全く冗談のない、刃のように鋭い真摯な言葉に、大和はグッと息を飲み込むと。ションボリと声をしならせて、「…スミマセン…」と答える。

 するとイェルグは再び笑いを取り戻すと、彼自身を運ぶ雲のように軽い調子で語る。

 「オレこそスマン、お前も悪気あったワケじゃないだろ。

 そんなことより、しょげた拍子に相手さんに力負けしたりすんなよ?」

 そう語り終えるとほぼ同時に、スピーカー越しに「うおおおお!?」と大和の叫びが聞こえる。イェルグの懸念は的中したようで、『胎動』に見事に出し抜かれてしまったらしい。

 そんな大和を苦笑しながら、「しっかりやってくれよ」と声を上げたイェルグは、しばらく口を噤んでノーラ探しに集中することにする。

 ナミトと『破塞』を中心に群がる『冥骸』の黒い群れを後目に、イェルグが前進する先に見えるのは、瓦礫と化した摩天楼の中から沿った背を見せる巨大な白色のデカブツ。街並みを破壊しながら這い歩く、『バベル』だ。

 イェルグはノーラを探すことになった際、すぐに『バベル』の事が頭を過ぎった。すなわち、ノーラは『バベル』の近くに居るのではないか、と(いぶか)しんだのである。

 その根拠は、蒼治のマーキングだ。マーキングという魔術は、こだわり次第で幾らでも緻密に組み上げることが出来るが、基本的には単純な構造をしている。故に、蒼治ほどの卓越した、そして悲観的な使い手ならば、不測の事態を考慮して相当な強度を実現したことだろう。それが易々と損傷を被ったと言うからには、正にとんでもない規模の術式効果がもたらされたのではないかと推測できる。

 アルカインテール全土に影響を及ぼした『バベル』の魂魄干渉は、ちょうどその条件に当てはまる一大魔法現象だ。

 (定義崩壊していないと仮定して、居場所として妥当なのは、『バベル』の後方だな)

 イェルグも紫と同様、ノーラが『バベル』のもたらした惨状に精神的に参ってしまったのだろう、と云う予想を立てている。だから彼は、『バベル』が通り道としたであろう後方へと進路を取る。

 ナミトと『冥骸』の集団を過ぎてからと云うもの、眼下の光景には特に目立つものはない。定義崩壊によって溶けかけた建築物の残骸と、その合間をゆっくりと『バベル』へと向けて流れる濁った白い液体が見えるばかりだ。ザッと見たところ、人影は見あたらない。『バベル』の近場なので、魂魄干渉によって皆溶けてしまったのか。はたまた、生き延びたとしてもすっかり戦意を失って惨状に臆し、傾いた建造物の中に身を潜めたのか。何にせよ、不気味ではあるが退屈な光景だ。

 かと言って、イェルグはのほほんと欠伸(あくび)するワケにも行かない。この退屈で変わり映えのしない膨大な面積で、ノーラと言う人物独りを魔力の波長だけを頼りに探し出すのだから。だだっ広い真闇を飛ぶコウモリのように、感覚を研ぎ澄ませながら飛ぶ。

 やがてイェルグは、『バベル』の長大な尾と巨大な臀部を一望出来る位置へと到達する。『バベル』の背後には、一段と融解の度合いの激しい、背の低い瓦礫がズラリと左右に並ぶ"路"が出来ていた。『バベル』の足踏みに押しつぶされたのか、はまたは間近の術式影響によって溶融したのか、起伏の見えぬツルリとした路面には、白い液体はほとんど見えない。『バベル』は通りすがりにそれらを片っ端から吸収し、己が肉体へと転化したことだろう。

 『バベル』はイェルグに背を向けたまま、脇目も振らずにひたすら直線の進路を取って、這い進む。その向かう先にあるのは、成長が止まり、今や水晶の林立と化した『天国』の中心部だ。そこには成長と前と同様に、天から地へと伸びる無機質な直方体が見えるが、その数は二十を越えるほどに増加している。

 『天国』の中心に至ることで、『バベル』は史上初めて『天国』と物理的に接触することが出来るのだろうか。それはイェルグには分からないし、そもそもそれを考えても詮無きことだ。

 (今はとにかく、ノーラだな。

 さぁてと、この路に沿って、飛んでみますかね)

 制服のポケットの中から漏れる大和の独り罵声を聞き流しながら、イェルグは高度を下げて『バベル』の作り出した路を(さかのぼ)る。

 不気味ながら退屈な光景をひたすら進むこと、10分程経過しただろうか。周囲に漂う濃厚な魂魄干渉の残滓の中、見逃しそうになる微かな見知った魔力の波長を感じ取る。

 (これは…)

 イェルグは飛行速度を落とし、キョロキョロと視界を巡らせると。どこまでも続く似たような破滅的光景の中に、埋もれるようにうずくまる人影を見出す。

 折った膝を抱え込み、顔を膝の間に埋めて微動だにしない、人影。唯一動きが見て取れるのは、微風に揺れる薄紫色の頭髪だけだ。

 ――探し人、見つけたり。

 イェルグは下半身を包む雲を霧消させて着地すると、ニッと笑みを浮かべて大股に歩み寄る。

 「こんなトコでお休みかい、ノーラ?」

 うずくまった人影――ノーラの間近に接近したイェルグが声をかけると。ノーラはゆっくりと膝の合間から顔を抜き、顔を上げる。

 こうしてイェルグの眼に映ったノーラの表情といえば――浮かべた笑いが思わず苦く歪みそうになるような、酷い有様だ。

 普段ならば新緑のような輝きを[(たた)えている碧眼は、木枯らしに当てられたように濁り切って陰に覆われている。陰は下瞼をも黒く塗り込め、(くま)でも出来たかのようだ。頬は()けたように見えるくらい脱力し、顔色は真っ青だ。

 まるで、世界の破滅を体験し、ただ独り生き残ったかのような有様だ。

 「…あ…イェルグ、先輩…」

 ノーラの色の薄くなった唇から漏れた声は、長年声帯を使ったことがないかのように(かす)れていた。

 そんなノーラを前にして、イェルグは対応に苦慮して頭を掻きたくなる衝動に駆られたが。すぐに思い直し、有り体に、普段通りの彼の態度で接することにする。

 「よっ、ノーラ。随分とお疲れの様子だな。

 蒼治と紫が全然連絡が繋がらねぇって、心配してたぜ?」

 「あ…連絡、ですか…?」

 ノーラはノロノロと制服の内側に手を入れて、ナビットを取り出す。そのタッチディスプレイを操作する動作も、画面を見やる眼球の動きも、非常にのっそりとしている。

 ようやく着信履歴を見たノーラは、自嘲にしてはあまりに乾いた笑みを浮かべて、ポツリと呟く。

 「あ…ホントですね…。

 連絡、来てたんだ…そっか…全然、気づかなかった…」

 「まぁ、疲れてりゃ気付かないことくらいあるさ。気にすんな。

 兎にも角にも、お前さんが無事で一安心だよ。

 万が一にも溶けちまってたらどうしようかって、みんな心配してたんだぜ」

 「溶けて…」

 イェルグの言葉の一部を繰り返したノーラは、途端に無表情の顔をワナワナと震わせ、瞳をギュッと収縮させると。ナビットを地面に放って、両手で顔を覆う。

 「いや…いや…あんなの…あんな光景…いや…いや…なんで、あんな酷いこと…いや…っ!」

 ブツブツと拒絶の言葉を繰り返す、ノーラ。その有様は、PTSDを患った戦傷兵の姿そのものだ。

 紫の悪い予想は、残念なことに的中したのだ。『バベル』の所業を間近に目にしたノーラは、自身はその影響から免れたものの、凄絶な光景に心がすっかり折れてしまったのだ。

 ブツブツと呟き続けるノーラを目の前にして、イェルグは今度こそ本当に頭を掻いて困り顔になる。彼はヴァネッサという恋人がいるものの、普段の関係では彼のマイペースにヴァネッサが合わせてくれているために、気遣いというものに慣れていない。心が折れてしまった女の子を相手に、一体何と声をかけて慰めるべきか。言葉が見つからない。

 (こういう時、大和のヤツが羨ましくなるな)

 イェルグはチラリとナビットの入ったポケットに視線を投げ、苦笑する。確かに、女の子に声をかけて回ることを苦にしない彼ならば、口説き文句にも繋がりそうな上手い言葉を紡ぐのだろう。しかし彼は今、色気もへったくれもない大型癌様獣(キャンサー)と必死に交戦中である。

 イェルグのナビットも多少の雑音ばかりで、大和の独り言も聞こえなくなっていたため、ノーラの呟きの他は無言の時間が(しばら)く続く。

 (…とにかく、フォローになりそうな事、何か言っておかないとな)

 イェルグは頭の中で言葉を色々と巡らした挙げ句、ポンと手を叩いて、こんな事を口にする。

 「あー、なんだ。ノーラ、さっきの定義崩壊の光景だけどさ、気にすることはないんだぜ。

 ドロドロに溶けちまってはいるが、あいつら、みんな死んじゃいない。ちゃんと生きてる、ただ存在定義がグチャグチャになっちまっただけだ。

 存在定義さえ復元できれば、傷一つなく元に戻るんだ。

 そして、それは定義変換(コンヴァージョン)を操れるノーラ、お前になら可能なんだぜ」

 この時、ノーラがビクッと体を震わせたのを、イェルグの無神経さは全く気付いてはくれなかった。

 イェルグは調子づいて来たように、更に言葉を続ける。

 「確かに、オレ達は出鼻をくじかれちまった。

 だけど、世の中には"終わり良ければ全て良し"って良い言葉があるもんさ。

 これからお前が『バベル』を個々の人々に切り離してくれりゃ、オレ達は充分に失態を取り戻――」

 「できませんッ!」

 イェルグが語っている最中のことだ。突如、顔を両手で覆ったままのノーラが、激しく首を左右に振って拒絶の叫びを上げる。

 その声は甲高い雷鳴のようで、イェルグの体をビクッと(すく)ませる。しかし、それ以上に彼の身体を縛ったのは、開いた指の隙間からこちらを睨みつける、ノーラの眼光だ。

 溢れる涙に滲む碧眼には、燃え上がる激情の炎が灯りながらも、射抜く者の背筋を凍らせる冷たさを併せ持っている。

 口を半開きにしたまま固まったイェルグに、ノーラは今度は声のトーンをずっかり落とし、掠れ声を絞り出す。

 「出来るワケ、ないじゃないですか…。

 あんな怪物…あれだけ大量の魂魄を結合しながら、岩みたいに安定している化け物…あれを、どうやって崩せって言うんですか…。

 実戦経験なんて、皆さんより断然少なくて…戦争も、生死に触れるのも、ほんの一昨日に初めて関わったばかりの私が…こんなに大量の人々の命を、引き受けるなんて、出来るワケないじゃないですか…」

 そしてノーラは再び顔を膝の合間に埋めて、口を閉ざす。

 対してイェルグは、歪みのない事実を述べているノーラの言葉を強く否定することも出来ず、垂れた前髪をクシャクシャと乱しながら額を掻くばかり。説得するにしても、言葉に(きゅう)して舌も唇も動けぬまま、虚しく時間ばかり費やすのであった。

 

 イェルグとノーラが虚無の時間を過ごしている一方…。

 半ば溶融した高層建築物の中に埋もれるようにして倒れている、一体の"インダストリー"の大型機動兵器が、ハッと目覚めたように重苦しい駆動音を立てながら上体を起こした。

 この機動兵器は、人型にしては異様に長い、ムカデかヤスデのようにツルリと輝く重厚な装甲に覆われていた両腕を持っている。脚にはホバー機関が装備されており、地上を浮遊して滑るように移動することが可能である。頭部は人よりもクモを思わせる形状をしており、3対の黒々とした眼球型のセンサーが円に近い正多角形の顔面に埋め込まれている。

 この機体を、蒼治を初めとした昨日のうちにアルカインテールに入都した部員達が見れば、ピンと琴線に触れたことであろう。昨日とは細部がだいぶ異なるものの、雰囲気はさほど変わらない。癌様獣(キャンサー)の群れに混じって、部員達を追い回した腕長の機動兵器だ。

 この機体の操縦適応者(クラダー)は、"インダストリー"のアルカインテール・プロジェクトチームの中でも特に好戦的な武闘派。エンゲッター・リックオンである。

 先に"ハッと目覚めたように"と述べたが、これは単なる形容ではない。実際、エンゲッターは『バベル』の魂魄干渉による意識障害に陥り、今の今まで漆黒の視界の中で、『バベル』の死した眼の凝視に曝されていたのである。それでも怯懦に陥ることなく、定義崩壊に至らなかったのは、意識障害の最中でも変わらぬ不屈の好戦的意志のお陰であろう。エンゲッターは視界が回復するまで、凝視に対してありたっけの罵声をぶつけまくり、決して白旗を上げなかったのである。

 エンゲッターはコクピットの中で、口元だけが露出したヘルメット状の顔を左右に振ると、チェックシステムを機動。重度に機械化した身体の各種機関や制御システムにエラーが生じていないか、確認を急ぐ。補助インターフェースの表示が重なる彼の視界には、次々に"OK"の文字を浮かべるグリーンの表示が浮かび上がってゆき、彼は安堵の吐息をフゥと吐く。

 チェックシステムの処理が終わり切るより早く、コクピット内の通信機がコール音を響かせる。

 「…はいはいよ。起きたばっかりだっつーのに、(せわ)しねぇ限りだぜ」

 エンゲッターは金属製のカクカクした指でコンソールパネルを操作すると、眼前に3Dディスプレイが展開する。その映像の中央にデンとアップで描画されているのは、プロジェクトのリーダーである若き才女、イルマータ・ラウザーブである。

 「あっ、やっと繋がりましたよー!

 もぉ、何してたンですかぁ、エンゲッターさぁん!

 こんな大事な時に、お昼寝ですかぁ!」

 イルマータは揺れる純白のロングヘアの下で、ぷくっと頬を膨らませる。一見するとふざけて見えるような仕草だが、その瞳はナイフのように鋭く、冷たい。本気怒っているのが見て取れる。

 しかしエンゲッターは気圧されることなく、持ち前の強気に押されるまま、唇を(とが)らせて反論する。

 「何してるも何も、てめぇら後方(バックヤード)なら把握してンだろ。

 メッチャクチャな規模の魂魄干渉が起きたんだよ。ラリッちまっても仕方ねぇだろうが。

 てめぇだって、アホ面見せて寝こけてたくせによッ!」

 「ざんね~ん! 私たちには魂魄干渉は効きませんでした~!」

 イルマータは指で右目の下瞼をペロッと延ばして舌を出してみせる。

 「被験者から抽出した『バベル』の記録から、魂魄干渉が発生するのは分かり切ってましたからねー。魂魄干渉対策はやり過ぎるほどに実装してましたもーん。それでもまぁ、頭がクラクラするくらいの影響は出ましたけどねー」

 あまりに気軽く、そして小馬鹿にしたような言い様に、前線を駆けずり回っていたエンゲッターはギリリと歯噛みする。頭部を機械化していなければ、間違いなく、血管が破裂するほどの青筋を立てていたことだろう。

 「てめぇ…そんな予測が出来てンなら、オレ達の機体にも、その対策とやらを施しやがれってンだッ!

 オレは時間のロス程度で済んだものの! ドロドロに溶けちったメンバーも居るんだぞ!」

 「ええ、把握してますよー」

 イルマータはサラリと答える。まるで、リンゴは木の上に成るものだと教えられ、当たり前だろうと一蹴する時のように。

 そしてイルマータは、完全に小馬鹿にした態度でハッと鼻で笑い、両手を肩の高さに上げて"ヤレヤレ"と言った感じで首を左右に振る。

 「元々、操縦適応者(あなたがた)の機体は、魂魄と密接にリンクし、状況に応じてその定義や構造に修正を加えるシステムが備わってますよー。だから皆さんは、大半の戦闘において、大したストレスを感じることなく任務に集中出来るんですー。

 皆さんの"資質"なんて言う不確定なものにばかり頼るような非合理的な思想は、我が社には存在し得ませんよー? エンゲッターさんの電子の脳髄には、その情報は焼き付いていませんでしたかー?」

 イルマータの煽りにエンゲッターはますます激情を募らせる。しかし、イルマータは反撃の隙を与えず、口早に言葉を次ぐ。

 「とにかく、魂魄の安定システムが備わっているのですからー、これを上手く利用することで今回の魂魄干渉は充分乗り切れたはずなんですー。

 実際、エンゲッターさんは乗り切ってますよねー? お昼寝はしてしまったようですけどー。

 定義崩壊すら乗り切れなかった方々というのは、単に我が社の要求するレベルには届かない無能ちゃんだった、っという程度ですよー。

 良かったですねー、エンゲッターさん。あなたは見事、我が社の眼鏡に適う優秀な人材であると、この場で認定されましたー!」

 ニッコリと笑い、両腕を高く上げてお祝いするように語る、イルマータ。その動作の一々がエンゲッターの琴線に触れ、コクピットの中を暴れ回りたくなる衝動に駆られる。しかし、現場は未だ事態が収拾していないことを(おもんぱか)れない程、エンゲッターは愚かではない。血が滲むほど歯噛みしていた口から炎のようなため息を深く、長く吐くと。激情を無理矢理押さえ込んだ固い、そして低い声を漏らす。

 「…そんで、オレに何の用があるってんだ? 合理的極まりないイルマータ様なら、さぞや高尚な用件があるんでしょうな?」

 問いに対し、イルマータは笑みを一瞬にしてスッと消し、氷のような無表情を作る。この機械のように無機質な姿こそ、イルマータの本性だ。鈍い光を(たた)える眼には、高速で演算を行う数字がミッチリと泳ぎ回っているようにも見える。

 「現在、『バベル』に最も近い位置に居るのは、あなたです。

 至急、確保に向かって下さい」

 「オレ一人に、あのバケモノを確保させるつもりかよ」

 エンゲッターが失笑して語るが、イルマータは氷の表情を緩めずに、抑揚のない機械音声的な言い方で語る。

 「いえ。

 プロテウスさんを覗く全てのメンバーには、連絡がつながり次第、そちらに向かわせます。

 ただし、あなたは位置的に最も近く、そして意識障害からも回復している。だからあなたには至急、標的に向かってもらいたいです。

 今すぐ、出発してください。今すぐ、です」

 「ちょ、ちょっと待てよ。オレは『バベル』の位置を把握してなんか…」

 いきなり急かされて戸惑うエンゲッターの元に、イルマータからデータが送信される。それは、アルカインテールのマップ情報だ。その上に表示されている青い点には"自機(ME)"の表記が、赤い点には"標的(BABEL)"の表記がある。

 「出発してください」

 イルマータはマップデータの詳しい説明もせず、繰り返し急かす。逆らっても益はないので、エンゲッターは自機を立ち上がらせると、ホバー機関をふかして瓦礫の大地を滑って走り出す。

 「ほいほい、エンゲッター機、発進。標的へと急行中…と。

 ところで、イルマータさんよ。なんでそんなに急いでんだ? こんな状況じゃ、オレら以外の勢力もロクに動けねーんじゃないのか?

 あと、ついでに、プロテウス以外にゃ召集かけるって言ってたが、プロテウスの奴がどうしたのかも聞いておくか」

 するとイルマータは、エンゲッターの機体の上体をチェックするためか、数瞬の間視線を落としたまま(もだ)す。やがて視線を上げたイルマータは、まずエンゲッターの後者の質問から答える。

 「プロテウスさんは現在、複数の勢力と交戦中です。手が離せません」

 「オホッ!」

 エンゲッターは甲高い声を上げる。

 「この状況下でも、まだまだ意気揚々な奴がいるたぁ、恐れ入ったぜ!

 この御時勢下、どこにでも戦闘狂って奴は居るんだなぁ! まぁ、魔法科学なんてオモチャが手に入っちまったからなぁ、戦闘が楽しくて仕方なくなっちまう気持ちは分からんでもねぇな!」

 「無駄口は結構ですから、急いで下さい」

 イルマータが無機質な言葉の中に、苛立ちを含ませて釘を刺す。

 「癌様獣(キャンサー)どもの群れがこちらに向かって次元転移してくるのを補足しています。

 迅速な確保を要します」

 イルマータの苛立ちに対し、エンゲッターは面白がるようにヘラヘラと語る。――移動中なので、他にすることがないという余裕意識も手伝っての行動かも知れない。

 「流石は全異相世界中でも最高クラスの合理性を持ち合わせる生物様だな! 同族の数千体くらい定義崩壊したところで、種族全体から見りゃ大した損害じゃないってワケか!」

 「奴らの合理性は、我が社の社員全員が徹底的に見習うべきですね」

 イルマータの同意に、エンゲッターは更なる苦笑を浮かべる。

 (それじゃオレ達は、会社の消耗品かよ。そんな社畜根性、お断りだっつーの!

 オレは戦闘を楽しみてぇから、この会社にブラ下がってるってンのによ。

 …本気で転職、考えた方が良いのかねぇ…)

 そんな事を内心で呟くエンゲッターは、自身の視覚に投影した機体の視界の中に、小さく映る『バベル』の姿を見出す。イルマータはエンゲッターが一番近いと言っていたが、距離としては決して"近い"と表現できない。『バベル』が白子(アルビノ)の乳幼児のように見える。

 「おっし、『バベル』を視認した! これから、捕獲に…」

 イルマータに報告している、その最中。エンゲッターの視界の中、ごく低高度の天空に、球形をした空間の歪曲が無数に現れる。機体のセンサーは次元転移を確認したとして、アラームや警告表示を行う。

 イルマータが通信越しに溜息を吐く。その有様にエンゲッターは舌打ちし、そして覚る。

 癌様獣(キャンサー)の群れが、次元転移して来たのだ。

 「ダイジョブ、ダイジョブだっつーの、リーダー様よぉっ!」

 刺し貫かんばかりの非難の視線を投じるイルマータに、エンゲッターは手振りを交えながら気を鎮めにかかる。…とは言え、エンゲッターは確かに初動が遅かったかも知れないが、彼だけに責があるワケではないのだが。

 「終わり良けりゃ全て良し、だろぉ!?

 誰彼が雨(あられ)と来ようが、オレ達が『バベル』をかっさらっちまえば良いンだろう!?

 宙域じゃカトンボほども癌様獣(ムシケラ)どもブッ殺しまくったオレだぜ! 負けるワケねーだろッ!」

 エンゲッターは長大な腕の装甲から2列に並んだ無数の機銃を展開し、また背部には次元歪曲弾頭を満載と積んだミサイルランチャーを転移換装しながら、一直線に『バベル』に向かう。

 「オレが勝ったら、今月の給与に特別ボーナスをたんまり上乗せしてもらうぜぇ!」

 「分かりましたから、くれぐれも有言実行を頼みますよ」

 イルマータは冷たく言い放つと、通信を切断する。

 独りのこったエンゲッターは、生身の口元を舌でベロリと舐め回すと、戦意に高鳴る胸に導かれるまま、空間歪曲の向こう側から出現する癌様獣(キャンサー)達の直下へと(おど)り出るのであった。

 

 イェルグは、急に大気に険の含んだ気配を感じ取り、ノーラに背を向けて『バベル』の方へと向き直る。

 彼がそこに見たのは、前より幾分か小さく見えるほど距離が放たれた『バベル』の後ろ姿。そして、『バベル』の前方に次々に現れる、蟲の大群のそのものである癌様獣(キャンサー)。そして、一際大きな高層建築物の残骸の陰から飛び出した、腕の長い人型機動兵器――エンゲッターの機体である。

 「おっと、こいつはぐずぐずしてらンないな」

 イェルグは困った風体で独りごちると、屈んだまま動かないノーラと視線を合わせるようにしゃがみ込む。

 「すまんね、ノーラ。時間切れだ。お前の失意に、これ以上つき合えなくなった。

 ちょっくら、行ってくるわ」

 そう言い残してスッと立ち上がり、再びノーラに背を向ける、イェルグ。その気配に剣呑なものを感じ取ったノーラは、思わず膝の合間から顔を上げ、イェルグの黒髪がなびく背中に視線を投じる。

 「行く、って…どこへ…?」

 「決まってるだろ」

 イェルグは振り返りもせず両肩を(すく)めると、"今からコンビニに行く"と言わんばかりの何でもない態度で言葉を次ぐ。

 「『バベル』のとこさ」

 「…無茶ですよ…っ!」

 ノーラが立ち上がって叫ぶが、イェルグはやはり声に振り返らない。『バベル』に(なら)された路をスタスタと歩き始めながら、再び語る。

 「無茶ね、まぁ、そうかも知れんね。叫び声だけで定義崩壊を起こすような怪物を相手にしに行くんだからな。すんなりと事が運ぶなんて、あり得ないだろうさ。

 だけどな、渚の奴曰く、オレ達は無茶と言われるような絶望も希望に変える存在でなきゃならんのだとよ」

 「そんな…それこそ、無茶苦茶な理由で…! 先輩は、命を賭けに行くって言うんですか…!?」

 「半分は、な」

 ここでイェルグはようやくノーラを振り向く。まるで、この時にノーラが浮かべた困惑の表情を待ち受けていたかのように。

 「半分…ですか?」

 「ああ。オレが星撒部の部員だから。それが理由の半分。

 んで、残りの半分はな…危機感さ」

 「危機感…?」

 ノーラはイェルグの胸中を察せずに、問い返してばかりいる。そんな彼女を面白がるようにイェルグは笑みを浮かべると、「そう」と首を縦に振る。

 「危機感っつーより、本能的な恐怖感、って言った方がより正確かも知れん。

 ともかく、オレは星撒部の部員である以前に、オレ個人という一生物として、『バベル』とその取り巻きの(やから)が心底嫌になった。あんな物、そして、あんな奴ら、放ってなんか置けない。全異相世界中でも、最も素晴らしい地球様の空を楽しめなくなっちまう。

 だから、誰も、ノーラもやれないってンなら、オレが『バベル』をブッ壊すことにした」

 「…出来るん、ですか…?」

 その質問に、イェルグは笑みを消すと、普段の飄々(ひょうひょう)とした態度からは想像もつかぬ、鋭く厳しい表情を浮かべて、叱りつけるように言い放つ。

 「やらなきゃならねぇだろうが」

 ノーラが思わずビクッと身体を震わす。しかし、イェルグは気に留めず、鋭いままの態度で、やや口早に言葉を次ぐ。

 「『バベル』って奴は、人様の迷惑どころか命までそっちのけで、ひたすら『天国』を握ることしか考えてねー代物だ。魔法科学の歴史においては快挙かも知れないがよ、あいつがホントに『天国』を手にしたら、どうなると思うよ?

 今更、全人類の幸福のために慈善活動をすると思うかよ?

 『天国』の持つ力が、噂通りに全異相世界に影響を及ぼすものだと仮定して、『バベル』を作った奴は真っ先に私利私欲を満たそうとするに違いねーだろ。

 かと言って、あそこに見える"インダストリー"だの癌様獣(キャンサー)だのの手に渡りゃうまく行くかって言えば、そうもならねーに決まってる。一つの都市国家を巻き込んで、1月以上も殺し合い続けてたような連中だ。世界平和だの、全人類幸福だのの為に使うなんて考えられねーよ。

 それどころか、誰も知らねー『天国』の性質に振り回されて、史上最悪規模の術失態禍(ファンブル)起こして、この惑星丸ごと定義崩壊させかねないぜ。

 そんな事になっちまったら、正に絶望の中の絶望さ。この青空だって、二度と味わえなくなるしな。

 オレは、そんな事態に陥るのは嫌だ。だから、出来る出来ないの話じゃない。

 やる。

 それしか最善の選択肢はない」

 「…先輩は、『バベル』に取り込まれた皆さんを、助け出せる算段があるんですか…?」

 ノーラがそう尋ねたのには、やり遂げる自信は持てないものの、目にした惨劇をどうにか――他力本願でも構わない――打開したい、という願いがあるからこそだ。それ故に、彼女は失意に苦しんでいたのだから。

 しかし――ノーラの願いを、イェルグは至極短く、そしてキッパリとした言葉で一蹴する。

 「いんや」

 「え…あ、あの、それじゃあ…」

 オロオロと問い返すノーラに、イェルグは冗談めいた微笑みを浮かべたかと思うと。『バベル』へと向き直ってノーラに背を見せ、両腕を肩の位置に持ち上げて(すく)めた。

 「オレは空を取り柄としてる男だぜ?

 まぁ、それでもユーテリアに通ってる身だからな。魂魄についての知識は、そこら辺の奴らよりは豊富だろうさ。

 だからと言って、魂魄の定義をどーのこーの出来るような技術なんか持ち合わせちゃいない。

 だから、オレが『バベル』にすることは、そのままの意味さ。

 "ブッ壊す"。

 救うじゃない。あのヤバいバケモノを構築している魂魄どもごと、文字通り、ブッ壊すのさ」

 「そ、そんな事をしたら…『バベル』に(とら)われてしまった、沢山の人々は…」

 「当然、本当の意味で、死ぬさ」

 イェルグの言葉は、物は手を離せば地面に落ちる、ということを淡々と語るほどに、軽々しい。

 そんな軽い口調で、大量の命を奪うと云う重過ぎる事実を語るイェルグに、ノーラは半ば悲鳴のように声を上げる。

 「そんな…! それじゃあ…そんなんじゃあ…希望の星を振り撒く、私たちの部のポリシーに、(そむ)くじゃないですか…!」

 イェルグは持ち上げた両腕を下ろしたものの、肩を竦めたまま、背越しに答える。

 「渚の奴はカンカンに怒るだろうな。ベストな形でこの都市国家(まち)に希望を与えられないワケだし。それ以前に、希望を与えるはずのオレ達が、希望を奪う真似をしちまうんだからな。

 それでも、この惑星がまるごとブッ壊れちまうよりは、もたらされる絶望は遙かに小さくて済む。消える希望は、たかだか千人のオーダーだものな」

 「そんな…そんな…そんな…!」

 ノーラは拒絶の意志を込めて、同じ言葉を繰り返す。そんな彼女に、イェルグはチラリと振り向いて視線を投げて、冗談でも語るような穏やかな口調で、こんな事を語る。

 「この機会に、覚えておくと良いぜ。

 オレは、この部活で一番のシビアな思考の持ち主さ。

 舐めたら死ぬ空を"飼ってる"んだからな、そうなっちまうのは当たり前のことなんだろうな。

 それでも、ヌルいまでの理想を語るこの部活に身を置いてるのは、シビアであるよりも、まったりと空を飛ぶ方が好きだからさ」

 空を"飼ってる"という表現の意味は分からなかったが、それを考えるような余裕などノーラにはなかった。

 イェルグが視線を前に戻すと、手を振って歩き出す。

 「おっと、もう"インダストリー"の奴らも癌様獣(キャンサー)どもも、随分と近づいて来ちまった。

 これ以上、無駄なお喋りは出来ないし、するつもりもない。

 それじゃあな」

 「あ…」

 ノーラはなんとか引き留めようとイェルグに手を伸ばしながらも、何と言葉をかけるべきか分からず、意味のない短い声を漏らす。

 そんなノーラの態度を、何も出来ずに傍観者になることを決め込んでしまった罪悪感であると思ったのか。イェルグはこんな事を言い残す。

 「気にするな。やるのはオレさ。お前さんじゃない。

 罪をおっ被るのは、オレだけさ」

 そしてイェルグは、トン、と足音を立てると、宙に大きく弧を描いて跳び出す――『バベル』へと向かって。

 

 ノーラは、苦悩する。

 己の頭蓋を抱え込み、そのまま押し潰してしまうのではないか、という程に、苦悩する。

 このままイェルグに全て任せて、自分は傍観者を決め込んでしまって、果たして本当に良いのだろうか?

 イェルグは気にすることはないと言っていた。確かに、直接手を下すのはイェルグであり、ノーラではない。…しかし、その理屈に甘んじて、大量の魂魄が失われても、のうのうと生きて行くのは、本当に正しいことなのだろうか?

 イェルグは…いや、彼だけでなく、恐らくは蒼治を初めとした全ての星撒部の部員達は…『バベル』から人々を救い出せるのはノーラしか居ないと言っている。確かに、自分の能力を至極客観的に鑑みれば、一番可能性が高いのは自分だろう。実際に先日、アオイデュアはその力を振るい、無情なる『現女神(あらめがみ)』の神霊圧から魂魄を救出することに成功した。

 今回のケースは、アオイデュアの時はスケールも難易度も違う。しかし、成功確率が1パーセントに満たなかろうが、可能性があることは確かだ。

 そんな自分が、傍観者を決め込むことは、人々を見殺しにすることに他ならないのではないか?

 …しかし。ノーラが『バベル』の相手をし、その結果として魂魄を救出できなかったとしたら。果たして"みんな"は(すべから)く、彼女の労をねぎらった上で、「仕方のないことだよ。あなたは充分にやってくれたのだから」と慰めてくれるだろうか?

 星撒部の部員達は、きっと慰めてくれるに違いない。この仕事の困難さを正確に理解してくれるだろうし、努力も認めてくれるだろう。アルカインテールの市軍警察官達も、認めてくれることだろう。…だが、一般の市民はどうだろうか。

 救えるかも知れなかった家族や知人を、失敗によってみすみす失ってしまった悲しみを振り切った上で、ノーラに微笑んでくれるだろうか?

 ――怖い。ノーラは自身の両腕で、自身を抱え込む。凍った刃のように冷たい視線、または、燃え盛る火山のような憤怒視線…それに囲まれる光景が目の前に浮かび、脚が(すく)んで戦慄(わなな)いてしまう。怖い。

 脳裏に浮かぶ重苦しい光景の中に、人々の先頭に立ってこちらを睨みつける、一人の少女の姿が浮かび上がる。ノーラがこの都市国家(アルカインテール)に来るきっかけを作った少女、倉縞栞だ。

 ノーラの脳裏の世界で、彼女は大粒の涙をボロボロと(こぼ)しながら、全身を悲哀と憤怒で震わせながら絶叫する。

 「やっぱりだ! 約束なんて、守ってくれなかった!

 あたいのヌイグルミも、パパも! みんな、お前のせいで壊れちゃったんだ、居なくなっちゃったんだ!」

 そんな言葉をぶつけられたら、ノーラの心はポッキリと折れたまま、二度と蘇れないかも知れない。

 ――しかし。『バベル』に手を下さず、傍観を決め込んだとして。ノーラは栞の責めを逃れることが出来るだろうか。栞の怒りを受けずに居られるだろうか。

 そんなワケがない。『バベル』への対応を放棄した時点で、ノーラは約束を反故(ほご)にした事になる。責められて、当然だ。

 やるもやらぬも、待つのは地獄。この状況下で、ノーラも栞も、誰も彼もが幸せになれる選択肢はないのか。

 ――たった一つだけある。ノーラが『バベル』にうまく対処し、全ての魂魄を救出することだ。

 しかし、それが出来る自信なんてない。

 だが、それ以外にみんなが救われる道なんて、ない。

 グルグルと堂々巡りする、思考。その間にもイェルグは、一度着地して再び大地を蹴ると、『バベル』へ向けて更に跳躍し前進する。

 最早こちらに一瞥もくれずに『バベル』へ向かう彼の背中を見て、思う。

 (イェルグ先輩なら…本当に…『バベル』を撃破出来るの?)

 先日、アオイデュアで行動を共にした時、間近で見せつけられた彼の戦闘能力。あの凄まじい力があれば、可能かも知れない。

 しかし…イェルグが相手にせねばならない相手は『バベル』だけではない。"インダストリー"のD装備機体もあれば、癌様獣(キャンサー)の大群もいる。これらをも相手にして、彼に勝機はあり得るのだろうか?

 その疑問は、ひょっとすれば、実戦経験が断然豊富なイェルグにとっては侮辱にあたるかも知れない。だが、このシビアな状況下においては、希望的観測は不適切だ。だからノーラは、ユーテリア所属の"英雄の卵"だとか、イェルグの未だ見たことのない力だとか、そういう可能性は全て排除した上で、極々常識的に判断を下す。

 答えは、即座に脳裏に浮かぶ。――無謀だ。

 では、『バベル』の撃破に失敗したイェルグは、どうなってしまうのか。それも極々常識的に考えれば――悲惨な、取り返しの付かない末路を迎えることになるだろう。

 そして、イェルグの残酷な末路をただただ傍観していただけのノーラは、皆にどう扱われるか。考えるまでもない。仲間を見殺しにした薄情者…いや、裏切り者とさえ見なされるかも知れない…として、(とが)を一つ多く背負うことになるのだ。

 得られるはずの部員達からの同情すらも失い、ノーラの周囲は鋭い(トゲ)のついた真闇に覆われる。

 大量の死と怨恨を背負い歩み続ける人生は、生き地獄と称して差し支えないことであろう。

 (――嫌だ)

 ノーラは身を震わす。若い彼女の人生は未だ80年以上の時を残しているだろう。その長い時間、決して消えない重い(とが)を背負い続けねばならないなんて、考えるだけでもゾッとする…!

 (そんなの…嫌だ!)

 彼女は、はじめはゆっくりと、段々と加速しながら、イェルグの背中を追って駆け出す。彼女の魂魄を揺るがす恐怖を、払拭せんがために。

 彼女を突き動かす恐怖は、浅ましい保身であるだけかも知れない。事実、彼女の恐れは、誰にも同情されぬことだ。この都市国家(まち)の人々を救いたいと願う以前に、その事態を避けたいが為に駆け出したその姿は、他者から冷たい視線を向けられるかも知れない。

 (それでも、構わない…! 私は怖い、それは真実だもの…! 浅ましいと罵られても、構わない…!)

 ようやくグルグルとした躊躇の円環から飛び出したノーラを勇気づけるように、鼓動を早めた心臓が彼女の脳裏にこんな言葉を送る。

 ――偽善も、立派な善。いくら善意を抱えようとも、それを振りまかねば、その者は善人とは見なされやしない。

 ――走り出したお前は、立派に善人だ。

 ノーラの碧眼に、輝きが戻る。灯った明るい炎は暗く冷たい恐怖を(あぶ)ると、恐怖が焦げすぎた肉のように(しぼ)んでゆく。

 ノーラは両脚に加速の身体魔化(フィジカル・エンチャント)を付加すると、相変わらず跳びながら前進するイェルグの元へと急接近。腕を高く上げて、叫ぶ。

 「先輩っ! イェルグ先輩っ!」

 ノーラのほぼ真上を跳ぶイェルグが、顔面に疑問符を張り付けたような表情を作り、こちらを見下ろしてくる。そこでノーラは、両手で口元を囲んでメガホンを作ると、続けてイェルグに叫ぶ。

 「私も…! 私も、連れて行ってください…!

 私が…私が…!」

 一呼吸おいてから、ノーラは一際大きな声を上げる。眼に残ったカスのような恐怖を、吹き飛ばさんとするかのように。

 「『バベル』を、やっつけます!」

 

 先刻とは全く打って変わった、力強い堂々たる宣言。

 その余りに変わりように、却って不安を抱く者も居るかも知れない。雰囲気に押されたがゆえの、自棄(やけ)になった行動ではないか、と。

 しかし――ノーラを見下ろすイェルグは、「本当に大丈夫なのか?」とか「やれるのか?」と云った言葉を一切口にしなかった。

 それどころか、疑問符を張り付けていた表情を一変、愉快そうにニッと笑うと、ノーラの元に急降下。そして、戦いへと誘う右手を、一片の躊躇(ためら)いもなく、スッと伸ばす。

 「そんじゃ、行こうぜ」

 「…はい!」

 ノーラが誘う手をしっかりと握り返した、その瞬間。イェルグはグイッとノーラを引っ張り上げて、両腕で抱え込んだかと思うと、一気に急加速。急角度で上昇しながら、疾風そのものの勢いで飛翔する。

 「しっかり捕まってな。一気に運んでやるよ」

 語る最中にも、イェルグは更に加速し、瓦解した上に溶融した街並みをグングンと過ぎって行く。"空の男"を自称する彼は、飛翔の魔術には非常に長けているようだ。

 ゴウゴウと耳元を過ぎゆく風の音にちょっとビックリしたノーラは、イェルグの首の辺りに腕を回してしっかりとしがみつく。そして、イェルグの崩れぬ微笑みを間近に見ながら…ふと、その頭上に疑問符が浮かぶ。

 (先輩、鳥のようにこんなに速く飛べるのに…さっきまでは、フワフワと浮かぶ雲みたいに飛び跳ねてたよね…?

 時間切れとか言ってのに…なんでそんな事を?)

 眉根を寄せるノーラの表情から察したのかも知れないが、イェルグがナハハ、と笑いながら、彼女の疑問の答えを口にする。

 「いやー、良かった良かった。ノーラがやる気になってくれて。

 中々動かないからさ、正直焦っちまったよ。本気で『バベル』も"インダストリー"も癌様獣(キャンサー)も、全部相手にする羽目になっちまうのか、ってな」

 それを聞いたノーラは、目が点になる。

 ――つまり。シビアだの何だの散々語っておきながら、イェルグの言動は全てが"振り"だったのだ。失意に沈んでいたノーラを、その気にさせるために。

 高速飛翔が可能なのに、わざわざフワフワと飛び跳ねて見せていたのは、ノーラの逡巡する思考を煽りたてるためだったワケだ。

 そしてノーラは、まんまとイェルグの計略にハマってしまったワケだ。

 その余りにも見事な演技力と計算高さに、憤りを通り越して呆れるというか、感心してしまう。

 しかしながら、胸の内にはチクリと苛立ちのトゲが刺さったので、ノーラは精一杯に慣れない半眼ジト目を作り、イェルグを睨みつけてボソリと呟いてみせる。

 「…先輩。ヴァネッサ先輩に、人が悪いって言われること、ありませんか?」

 普段、イェルグと多くの時間を過ごしているヴァネッサならば、自分以上にその被害に遭っているに違いない。

 そんなノーラの予測は、図星だったようだ。イェルグは苦々しさを滲ませながらも、それが勲章であるかのようにちょっと誇らしげに語る。

 「たまに、"砂糖の代わりに塩を入れたチョコレートケーキを食わせたくなる"とは言われるな」

 「…先輩は一度、食べた方が良いと思います」

 ノーラが語ると、イェルグは舌をベーッと出す。

 「そんなモン、食ってられるかよ。全力で遠慮するね」

 その余りの悪ぶれなさぶりに、ノーラは呆れて小さく溜息を吐く。そして直後、クスクス、と笑い出した。

 眼前には、正真正銘の怪物たる『バベル』が急速で迫り来ているというのに。イェルグの冗談めいているほどの裏表の無さは、あまりに滑稽で笑いを催さずにはいられなかった。

 小さくだが声を上げて笑うと、それまで胸中にズーンとのし掛かっていた諸々の不安や緊張感が、緩んだ頬の肉と共に柔らかくなり、そのまま(とろ)けてサラサラと流れるように消え去っていった。

 …もしも、イェルグがここまで計算した上で行動していたとしたら、彼は非常な大物に違いないことだろう。

 その事を確かめてみたい気になったノーラであるが。彼女が疑問を口にするよりも速く、イェルグが和やかな口調のままながら、気を引き締めさせる言葉を口にする。

 「さぁーて、そろそろ接触するぜ、怪物さんによ」

 言われて、ノーラは視線を前方に向けると。その巨大さが重量感を伴って認識されるほどに眼前に迫った『バベル』の俯瞰(ふかん)による全貌が視界の大半を埋め尽くす。脊椎によって結合した人体から伸びた手足が、水に揺れるイソギンチャックの触手のようにワサワサとゆっくり(うごめ)いている様がよく見える。

 『バベル』の体表には、手足の他に顔が突出している箇所もある。その顔は性別が分からないほどノッペリとして、ツルリとした無毛の、仮面にも似た様相を呈している。眼は白一色で瞳が見えず、どこを向いているか分からない。しかし、青白く輝く体液を垂れ流しながらパクパク動く口や、伸ばしたまま揺れ動かす手足と相まって、救いを求めているかのようにも見える。

 ノーラがただ独りで対峙した時には、多大な生理的嫌悪に嘔吐感、そして涙を誘う恐怖感に満ちていた、おぞましい姿。

 しかし、今は――勇気を奮い(おこ)してくれた仲間と一緒に行る今ならば。嫌悪や嘔吐や恐怖よりも、憐憫(れんびん)と[[rb:憤怒]]に眼が燃え上がる。

 ――人道にもとる欲望のために、理不尽な惨劇に晒された者達を救い出してあげたい。

 ――そして、人道にもとる欲望を恥ずかしげなく押し進め、犠牲と言うなの梯子を踏みつけて『天国』を手中に収めんとする者を、思いっ切り()らしめてやりたい!

 「さぁて、どうするよ、ノーラ?」

 『バベル』の臀部上空に達したイェルグが問うと。ノーラは桜色の唇をキリリと引き結んだ後に、口早に要望を伝える――。

 

 『バベル』、いや、ヘイグマンは、笑っていた。

 『バベル』を起動し、魂魄干渉を引き起こす叫びを上げてからというもの、ヘイグマンの顔にはギラギラとした笑みが灯りっぱなしであった。普段は枯れ木のように表情に乏しい彼が、『バベル』という水を得て活き活きとした魚の(ごと)くであった。

 ヘイグマンの頭部に埋め込まれた胎児様生体共振器官により、ヘイグマンの感情が伝搬した『バベル』もまた、死んだ眼をギョロギョロと動かしながら、巨大な口をニタァリと歪めて開き、狂気を(はら)んだ凄絶な笑みを浮かべ続けている。

 そして、ヘイグマンは笑うと同時に、興奮してもいた。着込んだ軍服越しにでも分かるほど、高鳴る鼓動の振動が分かるほどに、興奮していた。

 「素晴らしい…ああ、素晴らしい…!

 これが、これがそうなのか…!

 これが、『天国』を手にする権利者が体感する世界なのか…!」

 独りごちるヘイグマンの視界に描画されるのは、もはや単なる物質世界ではない。『バベル』の有する認識能力のフィードバックを受けた彼の感覚は、(あまね)く存在――物質、事象、そして、概念さえも――の詳細な定義が超高精度の術式として捉えている。

 "それ"は一体何物なのか。世界の中でどんな役割を与えられ、存在しているのか。何を考え、何を感じ、そして何をしようとしているのか。現在という主観の全てが、"真理"と表現しても差し支えない情報を差し出してくれる、全知の世界。人類の領域を超越した領域に踏み込んだという優越感に、ヘイグマンは垂涎の笑みを浮かべっぱなしだ。

 そして何より彼を興奮させたのは、『バベル』を通して()た『天国』の姿である。

 形而下においては、何者も触れるおとの出来ない存在である『天国』。その形而上相における姿は、ブラックボックス――つまり、たったの一行の術式も認識出来ぬ、虚無の塊なのである。

 もしも『天国』を形而上相上で正しく認識することが出来るのならば、接触できなくとも『天国』の研究に魔法科学者たちが頭を抱えることも無かったであろう。

 視界で捉えることが出来る『天国』が、何故形而上相では何一つ捉えることが出来ないのか。その理由として魔法科学者達は、人類をはじめとする生物達の認識の水準が低いために、『天国』の発するクオリアをうまく解釈できないためだと言う仮説を立てている。

 そして今、ヘイグマンは科学者達の仮説は正しいと確信する。

 『バベル』と言う高等な魂魄機構を持つ存在は、アルカインテール上に存在する『天国』の形而上相における姿――つまりはその存在定義を、遂に捉えたのだ。

 それを認識したヘイグマンは、意図せずもボロボロと感涙し、ひび割れた唇には余りに似つかわしくない、恍惚に潤んだ声を漏らす。

 「美しい…なんと、美しいことか…!

 これが、高々人類では、自然界の枠に囚われた生物では認識できぬ、『天国』の姿か…!」

 そんな彼の言葉をスピーカー越しに聞いていたドクター・ツァーインは、マイクに噛みつくような勢いで尋ねる。

 「大佐殿、大佐殿! 美しいとは!? 一体どのように、美しいとおっしゃるのか!?

 せめて、せめて言葉だけでも! 私にもたらしてはくれませぬか!!」

 しかしヘイグマンは、人の領域を越えた領域に至って初めて認識したその美しさを、人の言葉で表現する術を持たない。

 美しい。その言葉だけが、魂魄の奥底から湧き出て来る。美しい。それが色彩的なのか、形態的なのか、幾何学的なのか、数学的なのか――判断など出来ない。ただひたすらに、美しい、それだけだ。

 "美しい"という言葉の純然たる、そして唯一絶対なる定義があるとすれば、今目にしているものが正にそれなのだと、思うほどに。

 「…それに比べて…」

 ガラリと口調を変え、ヘイグマンは口角を歪んだ形につり上げながら、怨嗟の言葉を吐く。

 ツァーインが執拗に『天国』の感想を問う言葉を聞き流しながら、ヘイグマンが見たのは、こちらに迫り来る大群。"インダストリー"の操縦適応者(クラダー)、エンゲッターが操る機動兵器と、彼の手足を引っ張りながらワラワラと怒濤のように走る癌様獣(キャンサー)どもである。

 高等にして美麗なる『天国』の定義と比肩して、彼らの定義のなんと(けが)らわしいことか。狭量たる我欲に染まりきった精神(こころ)身体(からだ)がギトギトと(うごめ)く有様は、糞に(たか)る蛆蠅のように見えてくる。

 こんな下劣な存在に、至高の美たる『天国』を握らせるなど、もってのほかだ。

 「消え去れ、ゴミ蟲どもが…!」

 ヘイグマンは歪んだ口から憤怒の炎を吐く。同時に、頭に埋め込まれた生体共振器官を通して、『バベル』に命令を下す。

 (たか)る蛆蠅どもを、完膚なまでに叩き伏せろ、と。

 その信号を受けた『バベル』は、赤ん坊と言うよりも暴れ牛のような有様で四肢をバタつかせ、迫り来る大群へと自ら突進。同時に、人類の魂魄の処理速度では到底実現不可能な高速度にして緻密な破壊的術式を練り上げ、それを右拳に集束させると、大きく振り上げる。

 そして、天よりの使いからの鉄槌だと言わんばかりに、(ゴウ)ッ、と風切り音を伴いながら、凶悪な威力を持つ拳を叩き下ろす

 ――その時だ。

 ガリガリガリガリガリッ! 『バベル』の聴覚を(ろう)する、耳障りで盛大な擦過音が発生。同時にヘイグマンは、生体共振器官を経由して『バベル』の背中の中心線に沿って一直線に駆ける鋭い一撃を覚える。

 (何事だ…ッ!)

 ヘイグマンは恍惚の表情を一転、燃える憤怒による渋面を作る。枯れ木のようであった彼の顔面にようやく活気の潤いが灯ったかと思いきや、普段以上に(しわ)が深々と刻み込まれる。

 ヘイグマンは『バベル』の顔を巡らせ、背中に茶々を入れた憎き相手を視認しようとする。『バベル』の形而上感覚をもってすれば、全方位の状況を術式の形で詳細に把握することは出来る。しかし、『バベル』に接続したとは言え、ヘイグマン個人は高々人間の一個体に過ぎない。故に彼は我欲的な激情に駆られ、"憎き相手"の面を拝まねば気が済まなくなったのだ。

 "憎き相手"は非常にすばしっこい動作の持ち主であった。その姿を捉えるために『バベル』は、首をほぼ180度回す羽目となり、結局眼前に視線を戻すこととなった。

 『バベル』の3つの死んだ眼に移る、"憎き相手"の姿。それは、一人の少女だ。猛々しい真夏を思わせる瑞々しい褐色の肌に、透き通るような薄紫色の髪を持つ、凛々しき少女。その手には、彼女の身長とほぼ同じ位の長さを有する、幅広で複雑な形状した大剣が握られている。

 一片の怯懦の曇りも見えぬ、勇ましく引き締まった表情に、堂々と両足で大地を踏みしめて立つ、その姿。それを知覚したヘイグマンは、歯茎を噛み砕かんばかりにギリギリと歯噛みをしながら、重い怨嗟の呻きを漏らす。

 「女か…ッ!

 ここに来て、また私の前に立ちふさがるのは、女なのか…ッ!」

 

 ノーラが『バベル』の眼前に着地してから一拍ほど遅れて、イェルグがヒュンと風を切りながら急降下。ノーラと背中合わせになる形で着地する。

 ノーラが『バベル』を睨むならば、イェルグが睨むべきはこちらに迫り来るエンゲッターや癌様獣(キャンサー)の大群だ。しかし、彼は敵をチラリと目にすると、すぐに視線を背後のノーラに向けて走らせる。

 「どうだい、一撃喰らわしてやった感想は?」

 イェルグの問いが示す通り、『バベル』の背中を襲った一撃を放ったのはノーラである。

 イェルグと共に飛翔していた彼女は、『バベル』の臀部に到達するとイェルグの手を離れた。そして『宙地』によって中空を思い切り、全身を弾丸のようにして『バベル』の背中をめがけて跳躍。同時に定義変換(コンヴァージョン)した愛剣で以て、『バベル』の背の上を飛びながら斬りつけたのだ。

 その感想として、ノーラが口にしたのは。

 「…固い、です。とても」

 味も素っ気もない、手短で淡々とした言葉。それを耳にしたイェルグは、苦笑を浮かべて、これから戦闘だという緊張感のない軽い言葉を口にする。

 「いやいや、そうじゃなくてよ。

 ムカつく奴に一撃入れられてスカッとしたとか、やっぱり相手にするのを後悔したとかさ。そういう感想はないのか、って訊いてンだよ」

 「特に、ありません」

 ノーラはやはり無味乾燥な返答を口にし、イェルグは苦笑を浮かべたままヤレヤレと言った感じで頬を掻く。

 …そう、ノーラという少女は、こういう人物なのだ。

 普段はどこか引っ込み思案で、語り口もどこか一歩退いたような物言いをする。自分に対しては悲観的な過小評価をし、それ故に惨状を目にした時の虚無感が凄まじく、先刻のように激しく落ち込むようなきらいがある。

 しかし、一度決意のスイッチが入ると、その態度は一変。ダイヤモンドで作ったナイフのように固く、鋭い意志と行動を示すようになる。先日、士師と交戦した時の彼女の態度が、それだ。"シビア"という言葉は、窮地に置いてもそうそう笑みを崩さぬイェルグよりも、ノーラにこそ相応しいと言えよう。

 しかし、"固い"と言うことは、無茶な力を加えらてしまうと、ポキンと折れて元に戻すことは困難であるということ。

 難敵という一言ではとても片づけられない『バベル』を相手に、固いまま苦戦必死の交戦に飛び込むのは、危うい。

 そう考えたイェルグは、スイッチが入ったノーラにも絶対に通じる、軟化の呪文を唱える。

 「背中を守るのがロイでなくて、申し訳なかったな」

 転瞬。ノーラの顔が湯気立つほどにボッと真っ赤に染まる。その熱気に(あぶ)られて暴れ回るように、ノーラはワタワタと身体を(よじ)らせながら、首を巡らせてイェルグに視線を投じる。

 「な、なんでロイ君のことが、話に出るんですか!」

 「いや、何となくだよ、何となく」

 と答えつつも、イェルグは意地悪く舌をベーッと出すが、幸か不幸かノーラには見えなかった。

 …さて、ノーラが柔らかくなったところで。イェルグは相変わらず軽い口調のまま手短に打ち合わせる。

 「そんじゃ、『バベル』のことは任せたぜ。

 オレは、お前さんに邪魔が入らないように露払いさ。絶対に抜かせやしないから、安心して『バベル』に集中しな」

 「…大丈夫ですか? あの物量を、生身一人で?」

 イェルグは苦々しさを交えず、屈託なく笑う。

 「オレは"空"だぜ? 何百、何千程度の数量、軽く包み込んでみせるさ」

 そういうイェルグの眼前には、常人がただ独りで向かい合ったのならば、あまりの絶望感で笑ってしまうような、黒々とした敵意の津波が迫っている。

 飄々としたイェルグの語りぶりに対しても、ノーラはなかなか心配を払拭出来なかったが。ズルリ、ズルリ、と云う連続した重低音を耳にし、ハッと前を向き直る。

 イェルグも大変だが、自分もまた大変な怪物を相手にせねばならないのだ。気を抜いていたら、命を落とすだけでなく、この都市国家、ひいては地球そのものに惨劇がもたらされるかも知れないのだ。

 それに、自分より実戦経験豊富な先輩を心配するなど、イェルグを侮辱しているようにも思えてきた。

 ――ノーラは、自分の中のスイッチを完全に、目前の怪物の方へと倒す。

 「それでは、先輩、お任せします。

 ――行ってきます」

 「ああ。やっつけちまってくれ」

 2人は言葉を交わすと、ほぼ同時に大地を蹴り、真逆方向から迫る難敵へと突撃する。

 

 大剣を横だめに構え、迷いも恐怖もない凛々しい表情で、態度で、駆け寄ってくる、ノーラ。

 その姿を『バベル』を通して知覚したヘイグマンは、こめかみにボッコリと青筋を立てて、火炎のような怨嗟を吐く。

 「女、女、女、女ッ!

 私の前に立ちふさがるのは、いつでも、このような女ばかりだッ!」

 "女"という言葉に呪いを込めるヘイグマンであるが、彼は別に女性全般を嫌悪しているワケではない。老齢の母のことは尊敬こそすれ、侮蔑の感情を抱いたことなどない。部隊における女性部下に対して差別的な言動を取ったこともない。道行く女性を目にしたからと言って、虫酸が走るなどとなく、気にも留めないのがほとんどだ。

 彼が女性に対して激情を抱くのは、極々限定的な条件下でしかない。

 それは――今、『バベル』の前に立つノーラのように――見目麗しいながら、地獄のような状況にあっても勇ましく、誇り高く、凛然と在るような女性だ。

 丁度、"女神"と云う言葉が相応しい女性像である。

 常人からは尊敬や羨望、時には崇拝の眼差しを集めこそすれ、憎悪などひねくれ者からしか送られないような女性達。そんな彼女らを嫌悪するヘイグマンも、"ひねくれ者"の一員なのだろうか。

 ある意味、彼は正に"ひねくれ者"であろう。しかし、彼にはそうなるだけの理由が――心傷(トラウマ)がある。

 

 時を(さかのぼ)ること、数年前。ヘイグマンがアルカインテールの駐在軍司令になる前、前線に足を運んでは勇猛果敢に指揮を振るっていた頃のこと。

 彼の率いる部隊に、『女神戦争』に関わる任務が言い渡された。

 戦場は、旧時代にアフリカ大陸と呼ばれた、過酷な環境が支配する大地。その中に広漠と横たわる、灼熱地獄を想わせる赫々(かっかく)の岩沙漠のほぼ中央に位置する、消して途絶えぬ業火で彩れた都市国家…いや、要塞国家。その名を、『炎麗宮』。

 そこは、『女神戦争』の勝利者候補と目される強大なる『現女神』、『獄炎の女神』の本拠地である。

 ヘイグマンをはじめとする、大規模の戦力に課せられた任務は、『獄炎の女神』の求心活動によって掠奪された、とある都市国家の市民達を救い出すこと。この任務は同時に、当時から頭角を表し、苛烈な求心活動を繰り返していた『獄炎の女神』に釘を刺す目的も兼ねていた。

 当時のヘイグマンは、今ほど枯れた姿をしていなかった。むしろ、年齢より若く見えるほど瑞々(みずみず)しく、活力に満ち溢れていた。指揮官という立場上、前線で一兵卒として交戦する機会はほぼ無かったが、自己研鑽を怠らぬ彼は部隊の中でもトップクラスの戦力として知られていた。

 当時から部下であったゼオギルドやチルキスは、そんな彼を慕い、望んで麾下となったのだった。

 そんなヘイグマンは自分の能力に絶対の自信を持っていた。そして彼は、次のような持論を振りかざしていた。

 「『現女神』は、真の神ではない。天賦の才は与えられているものの、初戦はヒトの肉体を持つ生物だ。

 我々は、例え男の身であろうとも、絶え間ない厳しい自己研鑽を重ねることで、必ずや『現女神(かのじょ)』らを凌駕することが出来るだろう!」

 ――さて、ヘイグマンはその他50を越える部隊と共に進軍、炎麗宮に至る。道程の岩沙漠では、魔法体質の野生動物に襲われることはあれども、人為的な妨害には一切遭わなかった。

 その状況を『獄炎の女神』の見下した余裕と見なしたヘイグマンであったが、決して怒りを感じはしなかった。むしろ、鼻で笑うような興奮さえ覚えていた。

 (今のうちに見下しているが良い、『現女神(クソアマ)』!

 貴様のその鼻、私がまんまと明かしてみせよう!)

 炎麗宮に近づくにつれ、岩沙漠の気温は徐々に上昇してゆく。涼感の魔術を駆使してなお、屈強の兵士達を汗だくにして膝を折らせる熱気の中、ヘイグマンはますます意気揚々として目的地に向かった。

 そして、炎麗宮到達後。地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の軍団混成部隊の先制攻撃によって火蓋を落とされた激戦は――ヘイグマンの精神に霹靂を落とすような戦禍となった。

 炎麗宮から出撃した敵対戦力は、たったの8名。その寡勢に、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の戦力は壊滅的な被害を受けたのだった。

 敵対勢力8名のうち、7名は『獄炎の女神』選りすぐりの士師達。その中には、士師でも最強と叫ばれて名だたる"炎星の士師"レヴェイン・モーセの姿も在った。7名は正に怪物的な戦力を存分に発揮し、大量の兵士が業火の中に消えていった。

 そして、残りの1名は――あろうことか、『獄炎の女神』その人…いや、その"神"が、直々に降臨していた。

 ヘイグマンは幸か不幸か――今となっては、不幸極まりないと断言できる――『獄炎の女神』と対峙する戦力の一端を担っていた。

 8恒星の表面のような姿と化した『天国』を背にし、4対の真紅の翼で以て中に浮かぶ女神の姿を見ても、ヘイグマンは(おそ)れを感じなかった。むしろ、神殺しの機会を与えられたのだと、顔がニヤケっ放しになるような興奮に襲われ、武者震いが止まらなかったほどだ。

 しかし――交戦を開始して程なく、ヘイグマンの武者震いは、恐怖――いや、畏怖の震撼(しんかん)へと取って代わる。

 女神は細く、美しい指を伸ばし、宙に一筋の直線を描くと。その延長線上に存在する兵士達が、突如ブクブクと音を上げて沸騰する。まるで、バーニャカウダのソースか、熱せられたハンダのような有様であった。彼らは火を吹くことも煙を放つこともなく、そのままドロリと溶けて灼熱の液体と化したのだ。

 この攻撃の前に、ヘイグマンは必死に対抗術式による防壁を形成し、その中に篭もるしかなかった。防壁の術式構造が組み上がったパズルのピースがボロボロと(こぼ)れるように壊れ始めると、ヘイグマンは防壁越しに及ぶ灼熱に当てられる以上に、冷たい汗を滝のようにブワリと噴き出したものだ。

 ――気付けば、防壁を襲う『現女神』の攻撃が止んでいた。その事実をようやく悟ったのは、『獄炎の女神』とその士師達が攻撃を停止してから、時間が大分経過した後のようだ。汗で滲むヘイグマンの視界には、『獄炎の女神』の左右を固める、錚々(そうそう)たる士師達がズラリと並んでいた。

 士師達の表情は様々であったが、そこには共通の感情がある。それは、嘲笑、である。どんなに固い表情をしていようが、晴れ晴れとした表情をしていようが、悲哀を浮かべた表情をしていようが、彼らは皆、ゾウの巨脚に挑んだアリの群れを見るような表情を浮かべている。

 『現女神』もまた、同様の表情を浮かべているだけであったならば。ヘイグマンは誇示していたはずの己の力の矮小さに恥じたり、無謀な作戦を企てた本部へ憤りを向けたり、無力な己に対する絶対的な強者の力に恐怖したりすることで済んだであろう。そして、今後はなんとしてもこの記憶を封じて、心の穏やかさを貪ることを望んだことだろう。

 しかし、『現女神』の表情は、ヘイグマンにそんな感情を抱くことを許さなかった。

 彼女は、嘲ってはいなかった。

 彼女は、(わら)ってもいなかった。

 彼女は、憐れむこともなければ、讃えることもなかった。

 彼女は、ひたすらに威厳のある美しさで、ヘイグマンを眺めていた。

 ――いや、実際には彼のことを眺めていたワケではないかも知れない。ヘイグマンが単に、『現女神』の視線が己の注がれているのだと、特別視したかっただけかも知れない。

 真実はどうあれ、ヘイグマンの記憶には、『獄炎の女神』の表情が鮮明に、深々と刻まれたのだ。

 燃えるような真紅の髪に、瞳に、唇を持つ、若々しくも力強い、まるで神話の存在をそのまま現実に削りだしたかのような姿。部下達を虐殺する行為などせずとも、その姿だけで見る者の息を詰まらせるほどの威厳と美貌。

 (…ああ、素晴らしい…)

 ヘイグマンは大量に命を奪われた部下への憐憫も忘れ、呆然と賞賛するばかりであった。

 …かと思えば、その顔を美しき天使を憎悪する悪鬼の如く歪ませ、皮膚を焼き焦がすほどに灼熱した岩沙漠の大地にギリリと爪を立てた。その全身から噴き出す感情は、憎悪ではなく…嫉妬、だ。

 そう、ヘイグマンは『現女神』の絶対的な力と美しさ、そして全異相世界を支配し得ると云われる『天国』を得る権利を…そして、女性の身に生まれたが故に、それらを手にする可能性を得た者達を強く、強く妬んだ。ゴリゴリと盛大に音を立てる歯噛みは、歯を擦り減らしてしまうのではないか、と思うほど烈しかった。

 (何故、私は"男"に生まれたのだ!?

 いや、何故この世界は、男に『天国』を得る権利を与えなかったのか!?

 魔法科学により可能性が格段に広がったこの時代においても、私が『神』の名を関する高々の生物と肩を並べることも、到底適わないと云うのか!)

 ヘイグマンの視線を、しばらく為すがままに受けていた『獄炎の女神』であったが。やがて彼女は、ふいと踵を返し、士師達と共に燃えさかる要塞の中へと姿を消してゆく。その挙動は、ヘイグマンの視線を拒絶するどころか、歯牙にも欠けぬ絶対的自信に満ち溢れていた。

 ヘイグマンは彼女の後ろ姿が業火の城壁の向こうへと消えるまで、いつまでもいつまでも、睨み続けていた。しかし、『現女神』は最後まで、こちらに一瞥もくれることなく、炎の帳の向こうへと堂々と歩き去って行ったのだった。

 ――炎麗宮の戦いが終わってからの後。ヘイグマンとその残存部隊は、人員の補充を受けると共に、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の庇護都市国家であるアルカインテールの防衛任務を与えられ、駐留軍として派兵されることになった。

 この部隊配置に関して本部は、優秀な資源採掘拠点であるアルカインテールは様々な悪質な勢力に目を付けられやすい故に、実力者揃いの部隊を派兵する必要性があると説明していた…が。実際のところは、肉体的にも精神的にも疲弊したヘイグマンの部隊の慰労と保養の為に、危険度の低い現場を与えたという意味合いが強かった。

 事実、大抵の隊員はこの任務に安堵して大歓迎していたが、ゼオギルドやチルキスのような地獄を経験して尚、血の気が余る連中にとっては退屈極まりない役回りとなった。

 そしてヘイグマンには、ゆるりと時間が増えたが故に、炎麗宮での『現女神』との邂逅(かいこう)を悶々と思い出しては、羨んだり、(ある)いは妬んだりを繰り返していた。そのグルグルとした非生産的な思考の渦に、心ばかりがギラギラとした興奮ともトキメキとも着かぬ衝動に駆られる一方で、やり場のない肉体は強大なストレスを抱え、急激に老け込んで行った。

 ――そんな最中、魂魄魔法科学の先駆者にして、『天国』の求道者たるツァーインと知り合ったのは、本当にい偶然のことだ。

 『現女神』との邂逅の記憶を、ニンジンを目の前に吊されたウマのようにせがむツァーインに対し、ぼちぼちと体験を口にしていたヘイグマンであったが。ついポロリと、悶々としていた思いを口に出していた。

 「何故、この世界においては、我々男は『天国』を手にできないのだろうか。

 何故、凛々しき女どもばかりが『現女神』として『天国』を手にする権利を与えられ、我ら男は高々"士師"として、彼女らの下に甘んじることしかできないのであろうか」

 すると、ツァーインはゲラゲラと笑い、そしてヘイグマンの肩をバンバンッ! と強く叩いてみせた。それは、ヘイグマンを元気づける為だったのか、それとも魔法科学者としてヘイグマンの言葉が稚拙に聞こえたのを嘲っていたのかも知れない。

 何にせよ、ツァーインはこんなことを口にした。

 「確かに、この世には『現女神』は存在し、男が『現男神(あらおがみ)』になった例はございませんな!

 しかし、だからと言って、自然が女性だけに『天国』を掌中に収める権利を与えたとは限りませんぞ! そのような法則、魔法科学は証明などしておりませんからな!

 それならば、ですぞ、大佐殿! あなたが、男の身で『天国』を握る第一例となっては如何ですかな!?

 私には、それを実現し得るだけの思慮と理論が在る! そしてあなたには、その身を焦がして止まぬほどの『天国』への、そして『力』への情熱が! そして一声かければ山と動く人員と資金があるではありませんか!

 我らの要素が合わされば、史上において類を見ぬ、最大最高の『握天計画』を実現できましょうぞ!」

 このツァーインの言葉に押され、始まったのが『バベル』計画。

 そして実行に移った計画は、実際に、『天国』をこの地に降臨せしめた。

 ヘイグマンは今、『天国』を掌中に収めんと――全異相世界の支配権を手に入れようとしているのだ。

 地獄から得た暗い欲望が今、結実しようとしている。

 

 しかし、その前に立ちはだかったのは、またもや女。

 若く、凛々しく、美しい、戦乙女という名を冠するに相応しい少女。

 「また私を虚仮(こけ)にするのか!?

 灼熱の大地に這いつくばらせるのか!?

 ――いや、いや! 今度は! 『現女神』でない貴様は! この私の『天国』の礎としてくれるぞ、女ァッ!」

 ヘイグマンの最後の叫びに同調して、『バベル』が巨大な唾液塊をベチャベチャと飛沫(しぶ)かせながら、オオオッ! と叫ぶ。

 大気を震わす烈風に、立ちふさがる少女――ノーラの薄紫の髪がバサバサとはためくが。彼女は目を細めることなく、風に身を竦ませることもなく。泰然と大剣を構えたまま、微動だにしない。

 その勇ましき(たたず)まいが、ますますヘイグマンの感情を逆撫でする。

 「生まれながらにして、権利を持つ者めッ! 消え失せろッ!」

 ヘイグマン――いや、『バベル』は、一度は消滅させた右手の集束術式を再構築。鉄槌のように振り上げると、拳の周囲には輪郭のぼやけた漆黒の、憤怒の表情を呈する塊が幾つも生ずる。それが単なる暫定精霊(スペクター)でないことは、形而上相を視認することで明白だ。『現女神』で云うところの"天使"に類する存在なのかも知れない。

 禍々しい顔の張り付いた鉄拳に対し、ノーラは手にした愛剣をやや上段に構えながら、定義変換(コンヴァージョン)を開始。パタパタとパネルがひっくり返るような過程を経て体積と形状が激変すると、ノーラの身長よりもずっと長大な、そして白銀の輝きが目を引くシンプルなデザインの大剣と化す。

 大剣の変化を待っていたというワケではないだろうが、丁度そのタイミングで漆黒の鉄拳が轟音と共に振り下ろされる。一方、ノーラは大地を蹴ると、自ら鉄拳へと飛び込み、大剣を鋭い銀閃と化して、鉄拳を縦一文字に斬り付ける。

 

 ――こうして、アルカインテールの命運を左右する、異形の神モドキと戦乙女(ノーラ)の戦いの幕が上がる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Dead Eyes See No Future - Part 5

 ◆ ◆ ◆

 

 天空から逆さまにぶら下がる、凶悪とも見えるような鋭い水晶塊へと急激に成長した"それ"を、人々は果たして『天国』と呼ぶであろうか? …いや、そもそも、『天国』と認識出来るのであろうか。

 元は小さな寂れた公園程度の面積。今やアルカインテールを飲み込むほどに広大な存在と化した『天国』。

 そのあまりの豹変ぶりに驚きよりも(ほう)けの念が目立つナミトは、死後生命(アンデッド)達の定義崩壊をくい止める作業の手を思わず止めて見入り、「ほへぇ…」と間抜けな声を上げる。

 その数瞬後、眼下から昇る「うう…ううう…」というくぐもった呻きに、ナミトはハッと我を取り戻して視線を地に戻す。そこには、半透明な身体を持つ浮遊霊(ゴースト)が、ドロドロに溶けた墨絵の落書きのような顔を向けて、消えかかった両手をナミトに伸ばしている。

 「あっ、ゴメンゴメンッ! 苦しんでるところ、放置しちゃって!

 今治すからねー!」

 言葉の形になっていない浮遊霊(ゴースト)の呻きであっても、ナミトは的確に意志を読みとってバツの悪い笑みを浮かべて頭を下げると。練り上げた(けい)が青白い煙のように立ち上る両手で浮遊霊(ゴースト)の両手を包み込み、己の気力を更に強靱に練り上げる。すると、包んだ両手の中から春の太陽のように眩しくも優しい閃光が溢れ出る。

 同時に、浮遊霊(ゴースト)の崩れたような表情が、スマイルを象ったマスコットのような面持ちへと一変するのであった。

 

 浮遊霊(ゴースト)を始めとする多くの死後生命(アンデッド)は、表情や発声といった意志疎通能力に乏しい。

 彼らの肉体である霊体は、彼らが生前であった時に魂魄に刻んだ強い記憶を元に具現化が成されている。特に、生への執着を生む死の瞬間の記憶は非常に強い影響を与える。

 故に、死後生命(アンデッド)の多くの個体の霊体は、一見して肉体的に死亡していることが明白な形状をとることが多い。腐乱状態しかり、白骨化しかり、致命傷持ちしかり、である。

 故に、彼らの霊体は自身の元の肉体が死亡していることを前提に形成されるため、生体器官がうまく動かない、そもそも失われていることもある。筋肉は硬直したり腐敗したりして動かず、声帯も役目を果たさない状態に陥っている。

 己の霊体をある程度自由に操作出来るような、所謂"高等"な存在になれば上記のような不利を覆すことも可能だ。しかしながら、その領域に達することが出来る個体は決してありふれてはいないのだ。

 そんな彼らの意志をナミトが的確に読み取れるのは、魂魄に影響を与える練気技術の応用による。目にした魂魄、ひいては霊体の状態から、細やかな状況を読み解くことが出来るのだ。

 

 さて、ナミトの練気による治療により、両手が消滅の憂き目から快癒した浮遊霊(ゴースト)は。マスコットの墨絵のような顔を更ににこやかに緩ませると、ペコリと頭を下げる。その有様は旧時代に人を怖がらせた死者というより、面持ちの通りの愛らしいマスコットキャラクターを想起させ、ナミトの顔を(ほころ)ばせた。

 「よーっし! 次の方、じゃんじゃんどぞーッ!」

 快癒した患者の姿から元気を得たナミトは、パァン! と小気味よく手を叩いた音を響かせ、声を上げる。大規模な定義崩壊という惨状の中、希望の輝きを運ぶような活気ある言葉を運ぶ彼女の姿は、まさに星撒部の理念を擬人化したようであった。

 そんな彼女の、9本のしっぽがモフモフと生えた背中に、バツの悪そうな低い声が投げ掛けられる。

 「…申し訳ないな。敵対していた我らに対してまで、救いの手を差し伸べてくれるとは…」

 語った相手は、ナミトの直ぐ背後、と云っても良い距離で屈み、済んだ夜空の満月のような白銀の(けい)を用いて死後生命(アンデッド)の治療に当たる人物。錆びた西洋鎧に全身を包んだ地縛霊、『破塞』である。

 『バベル』の起動に伴う災厄によって甚大な被害を被った『冥骸』。ナミトと交戦していた3体の内、旧式機動装甲服に身を包んだ霊体『藻陰』が定義崩壊してしまった直後、『破塞』は戦闘行動をかなぐり捨てて仲間達の身を案じた。そこへナミトは、隙有りと攻撃を仕掛けるどころか、彼女もまた交戦の手を止めて彼に助力を申し出る言葉を掛けたのである。

 以後、2人は背中を預け合って死後生命(アンデッド)の救助に当たっていたのだった。

 「申し訳ない…?

 そんなの、気にしない、気にしない!

 確かにさ、一度は拳を交えた間柄だけど、ボクは別にキミ達を根絶やしにする仇敵ってワケじゃなかったんだし」

 ナミトが手の代わりにキツネの尻尾をユッサユッサと振って、『破塞』に返答する。

 「第一、ボク達、星撒部は困る人を殴るより、困ってる人を助けるのが目標………の、はずだから!」

 言葉にちょっと間が空いたのは、部の中でも好戦的とも言える態度を取るロイや副部長の渚の態度や所業が脳裏を過ぎったからである。…彼らの場合、困る人を嬉々として殴り倒すことに夢中になりそうだ。

 ナミトの言葉を聞いた『要塞』は、錆びたフルフェイスの向こう側で、愉快そうな、そして懐かしむような笑い声を上げる。

 「旧時代なら、あんたみたいな人は"天使"と呼ばれただろうけどな。

 今の世の中じゃ、"天使"と言えば『現女神』の使い走りの怪物だ。褒め言葉にならんよな。

 この時代、あんたのことを褒め称えるなら、なんて言うべきなんだろうな?」

 「褒め称えるとか、そんなの必要ないって!

 ボクにとって、これは当たり前の行動。みんなも、そしてボク自身も人生が楽しめるようにするために必要なことをやってるだけに過ぎないからね。

 人から褒められるようなことじゃないって」

 ナミトは『破塞』の方を振り返ることこそしなかったものの、顔には隠しきれぬ照れ笑いが浮かびあがっている。

 存在理論が全く異なる種族の間に芽生えた、穏やかな友情意識。その雰囲気によって、『冥骸』と言う禍々しい名を背負う死後生命(アンデッド)達は、一端癒しを得ると成仏を得たかのような極楽の表情を浮かべたり、ナミトが神仏の化身であるかのように手を合わせて拝んだりと、和やかな態度を取って行く。

 天空を覆う刺々しい存在よりも、地に在るこの場こそが天国であるとでも言わんばかりの暖かさが、ここに広がっていた。

 

 ――しかし。

 その暖かみに暗雲を差すように、1つの影がナミトの頭上を覆う。

 同時に、ナミトの頭についたキツネの耳がピクリと動いたかと思うと、治療の途中であった蠢骸骨(スケルトン)を抱き締めながら小さく跳び、落下してくる影をやり過ごす。

 直後、「チィッ!」と舌打ちする、壮健ながら掠れの混じった老体の声。そして、一瞬前までナミトが座していた大地を一文字に裂いて焦がす、殺意の一閃。

 周囲で死後生命(アンデッド)達が慌てふためいて距離を取る最中、体制を立て直したナミトが抱えた蠢骸骨(スケルトン)に優しく視線と声をかけて具合を確かめる。蠢骸骨(スケルトン)は"問題ない"と言いたげに力強く首を立てに振ったが、眼窩が不安そうに垂れ目の形状を取っている。

 「ごめん、ちょっと離れててね」

 ナミトが声をかけて腕から解放すると、蠢骸骨(スケルトン)はカシャカシャと間接を鳴らしながら、遠巻きに距離をとった死後生命(アンデッド)達の群に加わる。

 そんな彼の挙動の一部始終を見送ったナミトが、突然襲いかかって来た者へと鋭い非難の視線を投げる。そして何か言葉を放とうと、唇を動かした、その瞬間。彼女より早く怒号を上げたのは、『破塞』であった。

 「『涼月(れいげつ)』! 貴様、気でも狂ったか! 現状を把握出来ているのか!?

 お前の入れた横槍は、我らを破滅に導くものだぞ!」

 怒号をぶつけられた相手――東洋の武士の姿を取り、髑髏(どくろ)の顔面を持つ地縛霊、『涼月』は眼窩に爛々とした青白い炎を灯し、尖った犬歯だらけの口から唾の飛沫を吐き出さんばかりの勢いで喚き散らす。

 「気が狂うた、だと!? その言葉、そっくりそのまま貴様に返すわい、『破塞』よ!

 この都市国家(いくさば)が乱れに乱れ、邪魔立てする者どもがこぞって足並みを乱しておる今こそ、我らが悲願をこの手にする好機ではないかッ!

 しからばッ! のうのうと敵と手を取り合い、馴れ合う貴様の方こそ、気が狂っておるというもの!

 いや、単に気狂いどころか、わしらが一党の悲願を足蹴にする、とんだ裏切り者じゃわいッ!」

 炎に覆われた長槍の切っ先をピタリと『破塞』の心臓に向けたまま、『涼月』が一(しき)り語り終えると。今度は『破塞』が、着込んだ錆び鎧の下の総毛がワサワサと立つような気迫を孕み、両腕を大きく振って反撃する。

 「『涼月』よッ! 死してなお兵士たらんとする者ならば、機を計る慧眼を(もっ)てよくよく鑑みてみよッ!

 我らが欲した『バベル』は、もはや完全に起動した! 挙げ句、その気質は、とてもでないが我らが掠め取れるような代物ではないこと、貴様もその身で痛感したであろう!

 あれは悲願の達成の旗印などではないッ! 我ら一党を更なる地獄に叩き込む、災禍そのものだッ!

 この期に及んであんな代物に固執するのは、愚の骨頂ッ! それよりも、今この場で求められるのは、次なる機会のためにも今この場を如何に乗り切るかッ! それこそが大事ではないかッ!」

 すると『涼月』は、『破塞』の土星をハッ! と強い調子で鼻で笑い飛ばす。

 「腰抜けとは貴様のことッ! そして、そこで日和(ひよ)った雑魚(ざこ)どものことッ! 正にそのことを指すのだなッ!

 我らが長たる[[rb:亞吏簾零壱>ひめ]様は、今なお身を切って戦い続けておるというにッ!

 剣も拳も交えず、かと言って白旗も振らずに、敵と馴れ合うその姿を姫様が見たならば、どのように嘆くことかッ!

 いや、この星系の果てに待つ同朋も、貴様等のことを如何ほど腑抜けと思うことであろうかッ!」

 「腑抜けだとッ!? (いたずら)魂魄(たましい)を賭し、無益なる足掻きを賛美することが、どうして誉れと――」

 『破塞』が更なる舌戦に応じようとした、その時。彼の前に立ち、スッと一直線に伸ばした腕で彼を制した者がいる。ナミトだ。

 「これ以上は良いよ、鎧のじーちゃん。

 今のままじゃ、この槍のじーちゃんに何を言っても無駄だもん」

 …では、何をすれば良いと言うのか? そんな無言の問いかけをする『破塞』に答えるように、ナミトは右手で作った拳を左掌にパァンッ! と打ち合わせると。爛々としたアグレッシブな輝きを放つ、不適な笑みを浮かべる。

 「ねぇ、槍のじーちゃん。

 つまり、さっきの闘いの勝敗も有耶無耶(うやむや)だって言うのに、サクッと手を取り合えるほど吹っ切れた人間(ヤツ)じゃない…そう言いたいんだよね?」

 「…む…」

 『涼月』の口から漏れた小さな唸りには、膨らんだ怒気のやり場に困ったような震えが含まれている。ナミトの言ったことは、彼に図星だったようだ。

 この場に先日からアルカインテールに入都していた部員の誰かが居れば、その事情を直ぐに理解してくれたかも知れない。昨日から激しく敵意を剥き出しにして交戦して来た間柄だと言うのに、その過去をポンと忘れて手を取り合うなどと、過去の固執にこそ存在定義の重きを置く死後生命(アンデッド)には納得いかぬ話であろう。

 さて、ナミトは『涼月』の態度から肯定の意志を読み取ると、ややゆっくりとした動作で身構えて見せる。顔には相変わらず、不適な笑みが張り付いたままだ。

 構えた姿のまま、ナミトは拳を握っていた右手を開くと、そのまま掌を天に向けて、親指を除く4指をクイクイと泳がせ、『涼月』を挑発する。

 「じゃ、じーちゃんの望み通り、決着つけようよ。

 それなら勝っても負けても、満足行くでしょう?」

 「…ナミト殿、そんな事をしている場合では…」

 『破塞』がオロオロと両手を伸ばして抑えようとするが。そんな彼の挙動を吹き飛ばすように、『涼月』が剥き出しの歯をカタカタ鳴らしながら「カッカッカッ!」と笑う。

 「死してなお、戦を求める身のこのわしじゃ。それこそが本望よッ!」

 『涼月』は、ナミトの挑戦を受けた。

 「鎧のじーちゃん。ボクが()り合ってる間、みんなのことお願いするね」

 ナミトはチラリと背後の『破塞』に視線を向け、パチンとウインクして見せる。"今からちょっと一汗かいてくる"とでも云うような軽い調子に、『破塞』は2度目の制する言葉を口に出そうとしたが…結局、咽喉(のど)から声が出ることはなかった。

 『涼月』に向き直ったナミトが、9本のキツネの尻尾をビンッ! と逆立てた箒のように立たせると。同時に全身から立ち上る、岩のような険しく堅い気迫に、言葉を塞がれたのだ。

 『破塞』はそれでも、悪足掻きするように首を2、3度振ってみせると、踵を返して背後に集った死後生命(アンデッド)達と向かい合うことにした。『涼月』は勿論、ナミトにも最早何を言っても無駄であると悟ったのである。

 

 対峙するナミトと『涼月』は、不動のまま暫しの時間を過ごす。

 その静寂を破る口火になったのは何か、誰の目から見ても分からない。恐らくは、きっかけなど全く無かったのかも知れない。

 ともかく、初めに突き刺すような息吹(いぶき)を上げて動いたのは、『涼月』であった。切っ先を前に向けて構えたいた槍を大きく頭上に持ち上げると、そのまま旋風のようにグルグルと回転させる。

 やがて槍は、大袈裟にも大気の摩擦にやって発火した、とでも言わんばかりの勢いで、ボワッと膨れ上がるような業火をまとう。赤々とした熱光と共に回転するその有様は、炎風による竜巻を想起させる。

 十分に威圧的な代物を、『涼月』は頭上においたまま更に回転を続ける。威嚇によってナミトの意志を(くじ)く事が目的かと思いきや、そうではない。回る槍の炎が、ゴオッ! と激しい音を立てながら、爆発的に体積を増す。本当に竜巻と化した…という表現は、的を外れていない。回転する炎が勢いの余りに弾き跳ばされたかのように軌道を外れた、かと思うと、そのまま空中で巨大なとぐろを撒き、(しま)いには高々と鎌首を上げる。首の上に乗っているのは、太陽の中の黒点のように浮かび上がる黒い影で、それは耳まで口の避けた暴龍の表情を持つ。

 『涼月』が挙動と己の霊力から作り上げた、彼自身の霊体の延長であり、仇敵を激しく憎悪する凶暴なる炎の悪龍である。

 その高さ、優に5メートルは越える場所から、暗く鋭い[[rb:睥睨>へいげい]する、炎の龍。対してナミトは、臆した様子は全く見せない。風のない水面のように静閑に、構えを崩さずに対峙している。

 いや、全く動じていないというのは、2つの点を(もっ)て偽りだ。1つは、彼女の両拳が湯気立つような陽光を放つ練り上げた気に包まれていること。そしてもう1つは…彼女の表情だ。

 先刻、『涼月』を挑発していた時に表情に張り付けていた笑みが、更に大きくなっていたのだ。空腹の中、大好物を目の前にした時のような、舌舐め()りを伴いそうな明瞭にして凄絶な笑み。

 そんな彼女の表情を見て、怒りを覚えたのかも知れない。『涼月』が都市中に響き渡れ、と言わんばかりの気合を上げる。

 「とおぉりゃあああぁぁぁっ!」

 転瞬、『涼月』は槍の回転と共にクルリと体を半転させる。すると頭上でとぐろを撒いていた炎龍がバラリと身体を解いた。そして、『涼月』の振り回す槍の動きに連動して大きな円を描きつつ、ナミトへと横薙ぎに迫る。

 勢いと炎熱によって栗色の前髪がバサバサとはためくとも、ナミトは回避行動を取るどころか、ピクリとも動かない。その最中、炎龍は大口を開いて、ナミトの脇腹目掛けて肉薄する。

 制服の生地が激しい炎熱によってチリチリと小さな音を立てた始めた、その時だ。ナミトがようやく、動きを見せる。

 半歩横に身体をずらしたかと思うと、輝く右拳の甲で(もっ)て炎龍の顎を、コツン、と突いたのだ。それは疾風の速度ながらも、さほど激しさを伴わぬ、小さな行動である。

 しかし炎龍は、手の甲の一撃見回れた途端、巨大な槌で叩き返されたように大きく体を振って元来た方へと吹っ飛んでゆく。

 ナミトの放った(けい)は派手さは無いものの、その分釘の先端のように鋭く、無駄のない一撃となった炎龍の頭を捉えたのだ。

 「ぬうぅっ!?」

 予期せぬ挙動からの対処に、『涼月』が思わず声を漏らす。炎龍ごと大きく逸れた槍を構え直すさえ、一瞬忘れ呆けてしまったほどだ。

 その隙を付くように、ナミトが地を蹴ると、それまでの静閑とは打って変わった疾走を見せる。茶色のキツネの尻尾をはためかす一陣の風となった彼女は、身を低くして『涼月』の懐へと潜り込もうとする。

 「っ! させるかぁっ!」

 ナミトの疾走を見て戦意を取り戻した『涼月』は、骨だけで構成された手首をクルリと回して槍の動きを制すると、今度は迫るナミトの頭上やや斜め方向に槍先を振り下ろす。同時に炎龍も、ますます敵意を剥き出しにした表情を伴いながら、ナミトの頭を一呑みにしようと降下してくる。

 今回もまた、ナミトは炎龍の(あぎと)がキツネの耳が立つ頭の直ぐ(そば)に迫るまで放っておいたが。やがて、疾走の勢いを乗せたまま左腕を振り上げ、再び炎龍の顎下を捉える。

 今度、炎龍にぶつかったのは、中指を尖らせた拳骨だ。インパクトの瞬間、炎龍の輪郭の定まらぬ顔が明確にブワリと逆立った。尖らせた中指の関節を起点とした鋭い(けい)は、炎龍の頭部全てを震撼させる爆発的な衝撃を生み出したのだ。

 衝撃のまま炎龍はグンッ、と頭部を伸ばして天空へと吹き飛ぶ。『涼月』の持つ槍も連動してグイッと引っ張られると、彼の赤い鎧に包まれた腹部が無防備に晒される。

 その中へとまんまと滑り込もうとするナミトに、『涼月』は今度は呆けることなく、怒号をぶつける。

 「舐めるな、小娘ッ!」

 声と同時に振り上げる、左足。しかしそれはナミトの顎先を掠めるに過ぎなかった。彼女は疾走の勢いを殺さぬまま巧みに歩をずらし、蹴りを避けたのだ。

 そして遂に、ナミトは『涼月』を額を突き合わせんばかりに肉薄する。

 『涼月』の髑髏の顔が、憎々しさよりも驚嘆の色に染まって歪む。彼が生者であったならば、全身から冷たい汗が吹き出たことだろう。

 続いて、勢いに比べて、そっ…と静かに腹部に触れる、ナミトの右の掌。その優しげな感触を覚えた、その直後。

 (ドンッ)ッ! 響く爆音、そして渦巻く衝撃波。『涼月』がそれらの感覚に翻弄された時には、彼の視界は目まぐるしく回転する。身体は重力から解放された浮遊感を得ながらも、身体の芯を貫く激震によって、身体をバラバラに四散されるような不快感を覚える。これが生身であったならば、間違いなく三半規管をかき乱され、消化器の内容物を盛大に吐瀉したことだろう。

 「ぅぬお…っ!」

 牙の剥き出しになった口から漏れる苦悶の声は、あまりにくぐもっていて、微風の中に直ぐに溶け込んでしまう。まともに発声することが困難なほど、『涼月』はナミトの一撃によって激しい打撃に苛まれている。

 彼の身体は、太陽の輝きを放つナミトの(けい)にくるまれたまま、錐揉みに回転しながら宙を一直線に飛んでゆく。声すら出せない打撃を受けているがために、体勢を立て直すことも出来ず、そのまま十数メートルを飛び続けると。背中から細かな瓦礫が広がる大地に着地し、ズリズリッと音を立てながら更に数メートル地を擦って吹き飛んでゆく。

 『涼月』の身体がようやく停止したのは、赤い(かぶと)をかぶった頭が、輪郭のデロリと溶けた大きな瓦礫にぶつかったからだ。それでもピタリと止まることはなく、背中まで瓦礫に乗り上げて"L"字になり、臀部が瓦礫にぶつかったところで、完全に動きが止まった。

 それでも(けい)の衝撃は身体から抜けきらず、『涼月』は満足に身を動かすことが出来ない。座したまま、そして重力に引かれた後頭部がカクリと垂れたまま、輝きの小さくなった炎の灯る眼窩で天空をぼんやりと見上げる。

 視界に映るのは、白い小さな雲が(まば)らに散る蒼穹の中をデンと占める、トゲトゲしい水晶塊を四方八方に広げた『天国』の姿。

 ――ああ、わしは、負けたのだ。

 『涼月』は、胸中でポツリと言葉を漏らす。

 成長した『天国』をまともに目にしたことで、奪取すべき標的である『バベル』が暴れ回り、手中に収められるような状態でない事を痛感した…ということも事情の1つであろう。それに加えて、先の一連の戦いの流れを思い返したことも、彼の意固地な心を折った大きな要因になっている。

 (わしは、持てる全ての力を出し切った。魂魄干渉に苛まれていた、というのは言い訳にはならぬ。あの小娘もまた、その影響を受けておるであろうし、加えてわしと一戦交える直前まで、練気の力を振るい続けておったのだから。疲弊という点も含めれば、小娘の方が圧倒的に不利であったはずじゃ。

 だと言うのに、あの小娘はわしの全力を(ことごと)く小さな動きで(さば)いてのけ、まんまと懐へ潜り込み、息のかかる距離まで近づいたところでこの一撃を浴びせたのじゃ。

 これを完敗と言わず、どう言えば良いのじゃろうか)

 "完敗"と云う事実を受け入れた瞬間。妄念の塊である地縛霊の『涼月』の胸中に去来した感情は、憤怒や怨恨ではなく――目に映る晴れやかな蒼穹の如きスッキリとした清涼感。そして、頸椎のみで構成された咽喉(のど)からは、屈託のない笑いが高らかに上がった。

 「カッカッカッカッカッ!

 負けた、負けた! 見事なまでに、叩き伏せられたわい! わしの人生の三分の一も生きておらぬ小娘に、完膚なまでに叩き潰されたわい!」

 笑いを吐き出すと、身体に残っていた衝撃も不思議と一緒に吐き出されたようである。ふと身が軽くなり、軽快に両腕で身体を持ち上げると、そのまま胡座をかいてナミトと向き合う。

 「『破塞』」の言った通りじゃ。わしは駒としての兵士としては失格じゃ! 趨勢やら大局やらよりも、名誉やら面子やらの方を重んじる性質(さが)じゃからな!

 それ故に、死してなお幾星霜、戦士の身で在り続けられておるワケじゃがな!

 この人生、わしは決して嫌ってはおらぬ、むしろ気に入っておるくらいじゃがな! 生者には面倒な限りじゃろうて!」

 「我ら死者相手であろうとも、お前の面倒は変わらんぞ」

 ナミトの背越しに『破塞』がボソリと釘を刺すと、『涼月』はもう一度大笑い。

 次いで、骨のみで構成された指でナミトを差しながら、笑いの調子を継いだままに語る。

 「小娘、いや、嬢よ。わしはおぬしに負けた。死してなお戦士である身に誓って、その事実を覆しはせぬ。

 そして敗者は、勝者に屈するが勝負の定めじゃ。さぁ、如何様にでもするが良い!」

 「それじゃ、遠慮なく!」

 ナミトは連戦でボロボロになった制服の右腕を肘の上まで捲り上げると。腕をブンブンと回しながら、座したままの『涼月』の元へと歩を進める。

 如何にも右腕に力を込めているような素振りに、『破塞』の後ろに控える死後生命(アンデッド)達の乏しい表情が、こぞって悲痛そうな絵面へと変わる。『破塞』の言う通り、『涼月』は彼らにとっても融通の利きにくい厄介者かも知れない。それでも『冥骸』の一員として、同じ目的に向かって長き時を過ごしてきた間柄。同朋意識は深く根付いていることだろう。

 さて、『涼月』の間近にまで迫ったナミトは、握り拳を作って大きく振り上げる。そして、意地悪そうにニヤリと笑ってから、ブンッ! と風を切って振り下ろすと…。その拳は『涼月』の兜を被った頭頂を捉える――ことなく、彼の顔の手前を過ぎる。そして、『涼月』の胸元の辺りで、柔らかく五指を解いた形で突き出される。

 それは、握手を求める手付きである。

 トドメを刺されてると覚悟していたらしい『涼月』は、キョトンとナミトの顔に視線を上げる。するとナミトは、大輪のヒマワリを思わせる笑みを顔に(とも)す。

 「それじゃ、ボク達に手を貸してよ!

 あ、でも、槍のじーちゃんは治療の技に疎そうだから…周辺状況の確認と警護をしてもらうだけでも、助かるからさ!」

 「いや、まぁ、わしも霊体相手の治療術なら多少心得ておるわい。長けておる、とは言い難いのじゃが…」

 まだ困惑が混じっているものの、素で答える『涼月』。が、すぐに首を左右に振ると、眼窩をちょっと怒らせて騒ぐ。

 「いやいやッ! お嬢よ、わしはお前を全力を(もっ)て殺すつもりであったのだぞ! そこに(たむろ)する一党をも腑抜けと(さげす)み、切り捨てようとしたのだぞ!

 わしの意固地は、獅子身中の虫じゃ! 処断できぬならば、せめて拘束せねば…!」

 「そんな事して、何になるのさ?

 それより、今は猫の手も借りたいくらい人手が欲しいからね。槍じーちゃんが"如何様にもせよ!"というなら、手伝ってもらう方が、ボクだけでなく、ここに居るみんなにとっての得になると思うんだよね!」

 "如何様にもせよ"という台詞は低い声で『涼月』を真似ながら、それ以外は始終笑顔で以て語る。

 加えて、「それとさ」とナミトはウインクを投げて言葉を継ぐ。

 「槍じーちゃんは頑固なところ、止められないけど欠点だと思ってるみたいだけどさ。そのお陰で、ボクとじーちゃんは、遠慮なしの全力でぶつかれたんだ。

 ボクは…副部長とかロイほどは好戦的じゃないつもりだけど…戦うのも楽しんじゃう(たち)だからさ。手心のないじーちゃんと戦えて、とっても楽しかったよ!

 んで、手心のない本気だったからこそ、こうやってじーちゃんと知り合えたんだ。それもとっても嬉しいことだよ!」

 そんなナミトの言葉を、あんぐりと口を開いたまま聞き終えた『涼月』は、初めはクックックッと小さく、そして遂には「カーッハッハッハッハッ!」と大笑いする。

 そして、差し出されたナミトの手を取ると、骨だらけの指でギュッと力強く握り返す。

 「敵わぬ! 全く敵わぬな、お嬢には!」

 そして、ナミトがグイと力を入れたのに乗じて、『涼月』は腰を上げる。

 立ち上がって改めて向き合った2人。『涼月』は赤い鎧で覆われた胸板をドンッと叩く。

 「この『涼月』! お嬢の気心に応え! 我が同朋を全力で救い出そうぞ!」

 

 こうして『涼月』の手も得て、死後生命(アンデッド)達の救助は進んでゆく。

 その最中、『涼月』はこんな事をポツポツとナミトに語って聞かせる。

 「頑固を自負しておるわしは、こうも折れたワケじゃが…。しかし、お嬢の友と未だ戦い交わしておる我らが"姫"は、絶対に折れぬ。

 我らの万兵がこぞって諸手を上げようとも、"姫"だけはその霊の身が掻き消えるまで、絶対に止まらぬ」

 それを横で聞いていたナミトは、視線は患者の死後生命(アンデッド)に投じて手を動かしながら、口だけ動かして問い返す。

 「"姫"…って、ロイ達が言ってたゴスパンクの女の子の怨霊(レイス)か。

 その()って、じーちゃんより年季入ってるワケ? そんなに執着心が強いってことは、よっぽど凄い霊だと思うんだけど。旧時代でも有名な霊だったりして?」

 「いや、わしや『破塞』に比べれば、年浅いものじゃ。『藻陰』より若かったかも知れぬ。

 しかし、旧時代においても名を馳せておったのは確かじゃ。

 何せ"姫"は当時、とある大国に兵器として用いられておったからのう」

 「ああー、怨霊兵器ってヤツね。なんだっけ、アメダマとか云う国がニポンとか云う国から死後生命(アンデッド)を仕入れて、兵器にしたんだよね?」

 ナミトが語ったのは、ユーテリアの授業で聞きかじった昔話である。

 対して『涼月』は、首を縦に振る。

 「"姫"はその運用献体第壱号として、世界の軍隊を震撼させておったのじゃよ。名に『零壱(ゼロワン)」と付くのは、その名残じゃ。

 『混沌の曙(カオティック・ドーン)』以前、魔法科学なんぞ指先ほども認知されておらんかった時代じゃからな。対策どころか理論すら不明の兵器を登用され、被害国の軍隊はさぞかし泡を食ったことであろう。

 その間、"姫"は己が死を迎えた浴槽と共に、絶え間なく戦闘に投入された。"姫"としては、死後くらい穏やかに過ごしたかったと、漏らしておったよ。しかし"姫"は休む間もなく、騒々しい戦場に投入されては、兵士どもの心の臓の動きを止めていった。

 そうやって、幾年も幾年も、望まぬ所業を強いられ続け、その挙げ句に――」

 『涼月』は深く嘆息する。

 「この地球(ほし)を追い出され、深遠の闇が閉ざす辺境へと捨てられたのじゃよ」

 「うわ…それはキツいね…」

 ナミトが思わず『涼月』へと視線を向けて、顔を歪める。

 「地球じゃ昔から、"死者より生者の方がよほど怖い"なんて言われてたって聞くけど…それを痛感させられる話だなぁ…。

 生者の方が欲に際限ない分、何をしでかすか分からないから厄介だもんねぇ」

 「ゆえに、"姫"のこの地球(ほし)への執着は、ただ(いたずら)にぼんやりと時を過ごしていた我らよりも、よほど強いのじゃ。望まぬ酷使の挙げ句に、故郷を追い出された無念は相当に根深いのじゃ。

 わしらがお嬢と手を取り合っていようとも、"姫"の心の氷は溶けぬ。全身差し貫く(トゲ)となりて、執拗に友の命を狙うであろうよ」

 『涼月』の言葉には、申し訳なさげな響きが含まれている。敗北した上で、己を厚遇するだけでなく同朋をも助けているナミトは、恩人そのものである。そんな恩人の友の命を、己の同朋が奪うことになれば…。現時点からすでに、バツが悪いだけでは済まされない罪悪感に苛まれている。

 しかし、ナミトは患者に向き直りながら、フッと笑みを浮かべて『涼月』の不安を吹き飛ばす。

 「ダイジョブ、ダイジョブ!

 ロイのヤツ、バカだから、どんなに執着されようがお構いなしだから。

 むしろこっちこそ、バカが事情も考えずに、好き勝手にポカポカ"姫"さんのことを殴りまくっちゃうと思うから、謝らなきゃいけないよ!」

 「ふむ…」

 『涼月』は同意するでも否定するでもなく、単にそう返事すると、黙り込む。

 それから2人は、まだまだ長蛇の列を作る死後生命(アンデッド)達の治療に専念する。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「…『涼月』までも、日和(ひよ)ったか…!」

 青い唇が苦々しく歪み、火を吐くような苦言を漏らす。

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、未だに続く5つ巴の乱戦の中、死後生命(アンデッド)特有の感情性魂魄振動の知覚から、『涼月』の降参と和解を知り、苛立ったのである。

 その気の乱れが、彼女に窮地を招いてしまう。

 「ボサッとすンなよ、お姫様ッ!」

 急に眼前に飛び出したのは、"パープルコート"の猛者、ゼオギルド・グラーフ・ラングファーである。彼が身に(まと)う軍服は止まぬ激戦によってボロボロになり、上半身はほぼ裸で、緑色に輝く行玉が埋め込まれた筋肉質の胸板が露出している。

 「くっ!!」

 気が逸れていた亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、右腕を振り上げて慌てて迎撃行動を取るが…遅い。ゼオギルドの巨大な金属塊を生成した左足が、横殴りに彼女の身体に抉り込まれる。

 単なる金属塊の一撃だけならば、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は霊体の物質化を解いて対処することも出来ただろう。しかし、金属塊は、ゼオギルドの胸の行玉から延びる蔓状植物に覆われている。植物が属するは木行、そして木行が発するは雷…この理論に則って発された電撃が金属塊を包み込んでいる。電撃が生み出す電磁場は、霊体と干渉しやすい。故に、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)が物質化を解いても、電流と電磁場によってまんまと捉えられたことだろう。

 霊体への直撃によって、ゼオギルドの足は湿った綿を踏んだようなグンニョリとした力ない感触を得る。それに反して亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、体を横方向に"く"の字に曲げて回転しながら、流星のように宙を飛んで行く。

 (舐めるな…!)

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は青い唇をギュッと閉ざして霊体をコントロール。ヒラリと紙のように一回転して体勢を立て直し、ゼオギルドに向き直る。そして、青い爪が伸びた右手をゼオギルドに向け、局所性怨場の生成を試みる。そのまま騒霊(ポルタースペクター)によってゼオギルドを捉え、反撃に転じるつもりだ。

 しかしゼオギルドは、右足の行玉をブラウンに輝かせ、中空に岩盤を作り出すと、それを足場に思い切り蹴って跳び退く。怨場は虚しく岩盤に捉えたが、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は悔やむことなく、岩盤を操作してゼオギルドへぶつけようとする。

 …が、彼女の試みは叶う前に、文字通りに粉砕される。ガゴンッ、と鈍い音を立てて岩盤が砕け散ったかと思うと、その向こうから姿を見せてこちらに迫るのは、癌様獣(キャンサー)の勇、『十一時』だ。2本の長大な尻尾を関節単位で切り離した彼は、(トゲ)が延びる側面の各々に魔化(エンチャント)した電磁場で生成した刃を装備。その刃を高速で飛び回る羽虫の如く巧みに操り、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)の両手足を次々と切り裂く。

 「う…くっ!」

 苦悶の声を上げる亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)。霊体は電磁場による斬撃を食らっても、体部を切断されるという(ためし)はあまりない。彼女もその例に漏れなかったものの、鋭く響く激痛に両手足の霊体がノイズにまみれ、グチャグチャになるほど形状を失う。

 こうなってしまっては、空中のみならず地上もロクに動けない。肉体を持たぬ怨霊(レイス)とは言え、移動器官という定義を持つ手足が揃っていなければ行動に大きな支障をきたすのだ。

 (それでも…私は…!)

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は激痛の中でも爛々と両眼を輝かせ、死後生命(アンデッド)でも特上級の速度と精度で手足の再構築を始める。出来うる限り素早く反撃に転じるつもりなのだが…。

 (ヴン)ッ! 強烈な風切り音と共に彼女を貫いた一撃が、彼女の努力を水泡に帰す。

 「がぁ…はぁっ!」

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)が声を上げた頃には、彼女の霊体は身を貫く長大な武器と共に、大地に縫い止められている。

 武器を辿って視線を向ければ、そこには巨大な機体を誇るサヴェッジ・エレクトロン・インダストリーの操縦適応者、プロテウス・クロールスの人型機動兵器の姿がある。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)の体を貫いているのは、この機体が扱う次元歪曲用の槍状近接戦闘兵器だろう。貫かれた腹部が空間に沈み込み、抜け出せない状態になっている。

 「こんな…もの…っ!」

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は身を貫く槍の柄に手をのばし、引き抜こうと奮闘を始める。しかし、彼女の行動を黙って見守ってくれる程、敵は甘くはない。

 槍の柄に沿って、ゼオギルドと『十一時』が急接近してきている。

 ゼオギルドも、『十一時』も、プロテウスも、特に共謀して亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)を狙ったワケではない。5つ巴という面倒な拮抗状態を崩す機会を伺っていた彼らは、たまたま隙という"穴"を開けた亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)につけ込んだに過ぎない。その証拠に、迫り来る2人は互いの視線をチラリとも合わせず、我先に首級を上げんと競って飛び込んで来ている。それに彼らの後方では、迫る2人ごと撃滅しようと広範囲射撃攻撃の準備に入るプロテウスの機体の姿も見える。

 (おのれ…ッ! 腑抜けの日和が、私の足にまで枷を付けるとは…ッ!)

 槍を抜こうと必死に足掻く、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)。彼女も『冥骸』を代表する実力者、槍は強力な騒霊(ポルタースペクター)に引っ張られてズズズッとゆっくり抜けて行くが、迫り来る2人やプロテウスの攻撃への回避には間に合いそうにない。

 絶望的な万事休す場面に、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は青い唇の中でギリリッと歯噛みして、怨恨の中で敗北を覚悟する。

 だが――彼女の悲劇的な結末は、颯爽と横から飛び出した黒い翼を持つ影が、文字通り弾き跳ばす。

 「オオォラァァァッ!」

 怒号にも似た気合いと共に飛び込んで来たのは、背中から生えた黒い竜翼をはためかせ、流星のように降ってきたロイだ。彼の大剣ばりに太く、鋭い脚の鉤爪が、まず『十一時』の背中にめり込む。

 「ああん…!?」

 ロイの行動を予想だにしなかったらしい、ゼオギルドが困惑と驚嘆の入り交じった声を上げて目を見開いていると。ロイは脚に『十一時』を捉えたまま黒い烈風となって転身。強靱な竜尾をゼオギルドの腹部目掛けて叩き込む。

 「んげっ!」

 ゼオギルドは慌てて交差させた両腕で腹部を守ったものの、竜尾の激突によってその体は一気に後方へと吹っ飛ばされる。

 少し遅れてロイは、『十一時』も脚から振り離すと。『十一時』、ゼオギルド、そして未だ攻撃準備中のプロテウスがほぼ一直線に並ぶ。

 この機を逃すロイではない。肺を破かんばかりの肺活量で大気を吸い込むと、牙だらけの口元に正六角形の方術陣を展開し、その中に息吹を叩き込む。方術陣を通過した息吹は火花のような小さな煌めきが幾つも灯る、電撃の奔流となって3人を一直線に貫きに行く。

 (電撃ならば、いなせる…いや!)

 分離した尾部で電磁場の防御フィールドを形成しようとした、ロイに最も近い位置を吹き飛ぶ『十一時』。しかし彼はあることを悟り、慌てて背部のバーニア推進機関をふかして回避行動に出る。しかし、判断が一瞬遅れたために、右脚が奔流の中に巻き込まれてしまう。

 「があぁっ!」

 『十一時』が、真紅の左眼を更にブヨブヨに充血させながら絶叫する。直後、右脚を奔流から引き抜いたが…その惨状と来たら、目を覆わんばかりだ。金属筋肉繊維はゴッソリと抉られ、重金属の骨格が剥き出しになっている。しかも、癌様獣(キャンサー)十八番(おはこ)である超再生が始まらない!

 「クソッ、やべぇッ!」

 予め回避行動に入っていたゼオギルドであったが、『十一時』の惨状を目の当たりにし、更に危機感を募らせる。両脚の行玉で作り出した岩盤と金属の足場を全力で跳び回り、なんとか奔流の直撃を免れるものの――。

 「いってぇッ!

 なんだァッ、おい!?」

 ゼオギルドは、奔流に比較的近い右腕に、深々と刺さるような痛みを覚えて、さすりながら目を通す。するとそこには、真っ白い霜が体毛と皮膚を蝕んでいた。

 奔流はそのままプロテウスに迫るが、彼の機体の周囲には空間歪曲による防御フィールドが展開されている。単純な力押しでは、その進行方向がグニャリと歪曲されてしまうのだが。

 奔流は一瞬、捻れたように歪んだものの、ボッ! と大気の爆ぜる音と共にプロテウスの防御フィールドを突破。槍を持つ右腕部に直撃する。

 「なにをした!?」

 コクピットの中で叫ぶ、プロテウス。しかし彼は直ぐに、爆発せぬままもぎり取られた右腕部の状況をメンテナンスシステムで確認し、ロイの攻撃の正体を知る。

 「電流に、絶対零度の魔化(エンチャント)を上乗せしたのか!」

 絶対零度は極寒であると共に、分子を初めとしたあらゆる粒子の運動量が極小となった状態だ。すなわち、空間に粒子性を持たせることでエネルギーの暴走を引き起こしている空間歪曲の運動量も極小化し、それを収めてしまう作用を引き起こす。

 しかしながら、絶対零度はその性質上、魔法科学を以てしても――いや、哲学的定義が物理的事象となる魔法科学だからこそ――高速度との同居を嫌う。それを克服するには、自然則をねじ曲げるほどの強大な魔力を用いる必要が生じる。

 それは通常、多人数の術者や、強力にして巨大な魔力発生装置でようやく実現出来る技術だ。それを、体内での術式構築だけで実現して見せるとは――魔術の扱い非常に長ける希少人種、賢竜(ワイズ・ドラゴン)と言えども驚嘆の極みと言うべき芸当だ。

 「おンもしれぇ事、やってくれるじゃねぇか、ガキィッ!」

 荒々しく吐き捨てながらいち早く反撃に転じたのは、ゼオギルドだ。未だ脚のダメージが回復せず四苦八苦する『十一時』の背後に迫ると、凍てついたままの右腕を振るい、張り手をバシンッ! と叩きつける。同時に、右手の甲に埋め込まれた行玉が業火の如く真紅に輝くと、(ゴウ)ッ! と爆裂。『十一時』は衝撃に突き動かされるまま、肉体の砲弾となってロイの元へと吹き飛んで行く。

 (あの男…! 我を飛び道具として使い捨てるかッ!)

 『十一時』は反応の遅れを悔やみながらゼオギルドに怒りを燃やしたが、光速の思考でもってすぐに激情を押さえ込むと。爆裂で得た加速を利用してバーニア推進機関の噴射を交えてロイへと一気に肉薄すると、連結した二本の尻尾を思い切り振るう。

 「…痛ぅっ!」

 ロイは竜鱗で覆われて両腕で『十一時』の尻尾を防御するが、収束して単位面積当たりの加圧が激化したローレンツ力が深々と肉に食い込み、鱗と共に鮮血が舞う。

 だが、ロイの体は吹き飛ばず、その場に留まっている。ロイは牙だらけの口でヒュゥッ! と鋭く吸気を行い、竜息吹(ドラゴンブレス)の準備を行う――そこへ。

 「させるかよッ!」

 声と共に、ロイの頭上から落雷の如く襲いかかる、ゼオギルド。今度は左腕に巨大な槌の如き氷塊を付け、振り下ろして来たのだ。

 「こっちの台詞だってンだッ!」

 ロイも負けじと叫び返しながら、体を器用に捻り、鉤爪の光る竜脚でゼオギルドの氷塊を受け止める。いや、それに留まらず、強烈な衝撃で氷塊を撃ち返してみせた。

 「うおっ!」

 たまらず声を上げながら、グンッ! と宙に吹き飛ぶ、ゼオギルド。そこへロイが転身しつつ竜翼をはためかせ、さながら漆黒の竜巻のようになりながら『十一時』を振り切って上昇すると、ゼオギルドへと接近する。体勢の崩れた彼を叩くつもりだ。

 しかし、ロイの目論見は直ぐに、横殴りの衝撃と共に霧散する。

 (なンだッ!)

 メキメキと脇腹の骨肉を軋ませる衝撃に血反吐を吐きながらも、生気で爛々と輝く黄金の瞳で衝撃の方向を睨み付ける。するとそこには、片腕を失ったプロテウスの機体が数百メートル距離を取った上で、対人用の実弾兵器を連射している姿がある。

 「このデカブツッ!」

 ロイは転身すると、腹部に食い込んでなお押し進む弾丸をいなす。そして黒い竜翼をバサリと強く打つと、弾丸にも劣らぬ速度でプロテウスへ向かって突撃する。

 …が、十数メートルも進まぬうちにガクンッ! と速度が急減。何事かと振り返れば、ロイの両足首を掴む『十一時』の2本の尾がある。

 「テメェッ!」

 抗うロイは両脚を激しく動かしながら竜翼を羽ばたき続け、逃れようと足掻くが。『十一時』はロイごと2本の尻尾を大きく振り回すと、なぎ倒された木々が散乱する大地へと叩きつける。

 「グハァッ!」

 再び盛大に吐血するロイは、そのまま大きくバウンドする――いや、自ら跳び、『十一時』の拘束を何とか振り切ったのだ。

 宙空に躍るロイは、即座に竜翼を動かして体勢を立て直すと、鋭く短い吸気を経て、熱線の竜息吹(ドラゴンブレス)で『十一時』を牽制する。体内で短時間しか魔化(エンチャント)を行えなかったため、放った竜息吹(ドラゴンブレス)は見た目通りの高熱の奔流であり、それ以上の効果は持ち合わせていない。それでも『十一時』は先の例を警戒してか、電磁場のフィールドで受け止めることなく、大きく飛んで熱線を回避する。

 その隙にロイはプロテウスへ向けて飛行を続ける。対するプロテウスは飛び退(すさ)りながら、今度はプラズマの弾頭を撃ち続けてくる。ロイはその悉くを竜鱗で覆われた両腕を振るって弾き飛ばしながら、なおも接近を続ける。腕は先に『十一時』にやられた斬り傷のこともあり、一撃をもらう度に鱗と共に鮮血が舞うが、ロイは痛みでピクリとも眉を動かすことなく、一心不乱にプロテウスへと突進してゆく。

 ――しかし、またも入ってしまう、横やり。今度は、巨大な四角錐状の金属塊と共に降下してきた、ゼオギルドだ。

 「オラァッ、ブッ潰れやがれッ!」

 「チッ、クソッ、うぜぇなぁっ!」

 ――こうして集中攻撃の標的は、隙を作った亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)からロイへと完全に移行した。

 一瞬たりとも止まることない空中の激闘の一方で、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は己に突き刺さったプロテウスの槍をようやく引き抜くと、その場に座り込んで呆然と視線を向ける。

 集中攻撃の標的が変わるに至ったきっかけ。それは、窮地に陥った彼女を(かば)う形でロイが介入してくれたことだ。それが本当に彼の善意または同情によるものなのか、たまたま偶然なのか、それは分からない。

 もしも前者だとするならば、その理由は何だろうか。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は少し思案して、首を傾げる。

 …この激闘の中で、自分が唯一の女性個体だからだろうか?

 その思考した途端、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は青い唇の隙間から笑いを吹き出す。魔法科学によって性差によるハンディキャップはほぼ平らになったと言える時代に、旧時代の誇りを被ったフェミニズムを振りかざしているとするなら、滑稽極まりない。

 そして、笑い所はもう一つ。自分に向けられた善意や同情は、絶対に返りはしない。

 返るとするならば、(あだ)という悪意だけ。

 (お前が何を考えようが…私は私の悲願に突き進む…それだけだ!)

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は右腕を伸ばすと、宙空で3方向からの攻撃を受けて行き足を止めたロイを握り潰さんとするように、青い爪の五指をゆっくりと閉ざす。

 同刻、ロイは「ぐうっ!」とくぐもった声を上げ、攻撃を(さば)き続ける身動きが極端に鈍くなる。

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)騒霊(ポルタースペクター)による、運動神経障害だ。

 ロイはロクに動かない首を巡らせず、黄金の瞳で亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)へと視線を投じてくる。その視線を受けた亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、青い唇をニィッと吊り上げて、艶然と微笑む。

 (さぁ、あなたはここで退場よ。

 死ね)

 そんな亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)の胸中の声を、ロイは聞いたのかも知れない。突如、彼の顔に凄絶な笑みが浮かんだのだ。

 (何を笑う!?)

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)が困惑し、目を丸くしていると。ロイの竜翼と竜尾がブルン、グルリと大きく回ったのを口火に、彼は身体の自由を取り戻す。そして、左右から迫るゼオギルドと『十一時』に対し、グルリと身体を回すと、それぞれに拳と尾の先をブチ当て、吹き飛ばす。

 (まさか…! 完全に不意をついたのに…! こんなに簡単に破られるなんて…!)

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は思わずポカンと口を開いて、呆然としてしまう。そこへ、彼女の方へと完全に向き直ったロイが大きく吸気。そして、(ガァ)、と吠えると共に渦巻く烈風の竜息吹(ドラゴンブレス)で彼女を襲う。

 (!!)

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は攻撃を見て取るや否や、すぐに我を取り戻すと、大きく飛び退いて回避。一瞬後、彼女が立っていた地点に激突した颶風は、大地を大きく抉って木片やら礫を盛大に巻き上げる。

 (あの男、一体何を考えている…!?)

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)がロイを見上げると同時、他の3人の実力者もロイを睨みつける。

 左右にはゼオギルドと『十一時』。眼下には亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)。そして、頭上にはプロテウス。

 「前門の虎、後門の狼」どころか、四方を完全に災厄で囲まれている、字面の通りの四面楚歌。

 この場に居る5人は、誰も彼もが身体中ズタボロと言っても過言でない損傷を受けている。プロテウスの魔化重金属装甲の表面も、大気のない衛星表面のように大小の凹凸(おうとつ)に覆われている。肉体を持たぬ亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)も、その姿に時折激しい砂嵐状のノイズが走ったり、輪郭がぼやけたりと、不安定さを如実に物語る事象が見受けられる。

 しかし、中でも一番の損傷を受けているのは、つい先刻まで集中攻撃を受けていたロイに他ならない。身に纏うユーテリアの制服はボロ雑巾と見まがうほどで、真紅の鮮血を吸った染みが(まだら)模様を作っている。露出した漆黒の竜鱗混じりの皮膚は、裂傷もしくは赤黒くなった打撲にまみれ、見る者に背筋を凍らせるように激痛を想起させるほどだ。

 それでもロイは、窮地を嘆くでなく、疲弊や苦痛に顔色を青くするでなく。凝り固まった血液で汚れた口角をニヤリと吊り上げてみせる。

 「…狙い通りの、理想形だぜ…」

 ロイが漏らしたその言葉は、微風の中に(かす)れて消えそうなほど小さいものである。それを亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)が聞き取れたのは、肉体とは異なるメカニズムの感覚を持つ霊体であるが(ゆえ)かも知れない。実際、他の3人は――プロテウスはコクピットの中に居るため、顔を伺うことは出来ないが――特に眉を跳ね上げたりと、怪訝を露わにしたりしない。

 故に、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)だけが、ロイの言葉に眉をひそめる。

 ――狙い通り? 理想形? この窮地が? そんな馬鹿な!

 そんな叫びが胸中を満たした、その瞬間。ロイが天を仰いだかと思えば、牙がゾロリと並ぶ口をワニかと見紛うほどに大きく開き――!

 「()()()()()()ッ!

 吐き出した咆哮は、大気どころか空間までもビリビリと振動させ、肉体を持つ3者の体表および走行にビシビシッ! と切り傷を幾つも走らせる。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)も霊体の体がバラバラに引き裂かれそうな衝撃を覚え、身を縮めて歯を食いしばりながら耐え抜く。

 長い長い、地球よ揺らげとばかりの咆哮が、耳鳴りを残しながらようやく収まると。ロイは漆黒の竜拳に親指を立てて大地に向け、挑発の叫びを上げる。

 「大人数相手に個体で暴れるのは、ユーレイの役目じゃねぇ。

 そいつは、(ドラゴン)の特権だろ!」

 それからロイは挑発の手付きを翻し、両腕を広げ、先の咆哮にも劣らぬ音量で叫び上げる。

 「チマチマチマチマ、隙につけ込んでの足の引っ張り合いなんて、みみっちぃことしてンじゃねぇよッ!

 折角5人も集まったンだ、()るんならもっと堂々と! 全力全開でヤれってンだよ!

 その全部――」

 ロイは、露出した隆々たる胸板を拳でドンッ! と叩き――。

 「オレが、相手してやっからよッ!」

 威風堂々たる大口は、不敵にして凄絶なる笑みと共に放たれる。

 その様子を見た亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、目をパチクリと瞬かせつつ、思わず息を呑む。

 (バカなのか、あいつは…!

 これほど実力者を複数相手に、単身で挑むだなんて…!

 それとも、何か秘策でもあるのか…!?)

 彼女が独り、驚嘆している間に。3人が無言の内に各々が烈風と化し、一斉にロイへと襲いかかってゆく。

 「…それで良いンだよ」

 ロイはポツリと呟くと、四肢に尾、翼を広げて、意気揚々とした戦意を見せつける。

 「竜殺し、やれるモンならやってみせろッ!」

 ――こうして5つ巴の戦いも、終局へ向かう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Dead Eyes See No Future - Part 6

 ◆ ◆ ◆

 

 所変わって、『バベル』近辺。

 巨大にして凶悪な悪意を抱き、攻撃行動に出た『バベル』に対して、ノーラが大剣を手に突撃した一方で。イェルグもまた地を蹴ると、彼女とは正反対方向へと飛び出してゆく。

 目指す先には、大津波と見(まが)うほどに街路を満たして迫り来る癌様獣(キャンサー)の大群。そして、その中に揉まれて運ばれる大岩のごときエンゲッターが搭乗する人型機動兵器の姿がある。

 エンゲッターも癌様獣(キャンサー)も、たった一人で迎撃行動に走るイェルグについて、何の感想も抱いてはいないようだ。特に前者に関しては、癌様獣(キャンサー)の数量に押されっぱなしでイェルグに気を回すどころではないようだ。

 「スッ込んでろよッ、クソムシどもがッ!」

 スピーカーでがなり立てながら、長大な腕を振るって叩き潰したりブッ飛ばしたりと奮闘するものの…。次から次へと雪崩込む癌様獣(キャンサー)にホバー移動する足下をすくわれたり、機体を踏み越えられたりして、グラグラとバランスを崩しまくっている。

 一方で癌様獣(キャンサー)はと言えば、エンゲッターに同朋がやられていることにも全く無関心で、真紅に腫れ上がった眼球の視線をまっすぐに固定し、昆虫を思わせる脚部やら(はね)を始めとする飛行推進機関を動かして、ひたすらに前進を続けるばかりだ。大群を前にたった独り立ち向かわんとするイェルグのことなど、露ほども気にかけていないような立ち振る舞いである。

 いや――イェルグまで数メートルの距離に迫った十数の個体が、至極無機質な動作で体内から機銃器官を露出させると、眼球は動かさぬままに銃口だけをイェルグに向け、魔化(エンチャント)された弾丸を連射してくる。

 さほどの脅威としてみなしていないが、目うるさいので排除しておこう、というおざなりな態度が見え見えだ。

 それに関してイェルグは、思わず苦笑を浮かべる。

 (おいおい、この"空の男"を相手に、そういう態度はどうなんだよ。

 まぁ、(もっと)も、舐めてくれる方が――)

 イェルグは体を左右に振って掃射をかわしながら前進を続けつつ、制服の上着の下、背側のベルトの辺りに右手を伸ばす。そして取り出したのは、包丁ほどの大きさを持つ幅広のナイフだ。

 (やりやすくて、気が楽だがね)

 胸中で呟きながら、クモともカニとも付かぬ姿をした個体に肉薄すると。小さく跳び上がってその背中に乗り上げると同時に、両手で握ったナイフで滑らかな重金属の装甲に刃を立てる。

 ナイフの切っ先は、すんなりと装甲の中へと潜り込んでゆく。魔化(エンチャント)されているのか、それとも余程の業物なのか。…しかし、真に驚くべきなのは、この後だ。

 ブシュッ、と無色の電解質の体液が飛沫(しぶき)を上げた、その直後。突如、刃を立てられた個体が、網膜を()くような激しい閃光に包まれる。

 ――何だ!? そう疑問符を浮かべたように、周囲の癌様獣(キャンサー)達の視線が、イェルグの襲った個体に集まる。そして彼らは、何が起こったのかを光速の認知によって悟る。

 落雷だ! 結界によって閉ざされた上に、積乱雲の姿も全く見えぬ天上から、龍を想起させるような極太の電流が降り注いだのだ。

 強烈な電流によって、個体は身体中から焦げ臭い黒煙を上げながら、激しく酸化した金属と消し炭になった炭水化物の塊となり、その場に転がる。

 ――あの男、何をした!? 癌様獣(キャンサー)達は、単身で突っ込んで来たイェルグの姿を慌てて探す。しかし、落雷の閃光の中で姿を眩ませたらしい彼を認めることが出来ず、真紅の瞳がキョロキョロと虚しく動くばかりだ。

 そんな最中、バァンッ! と大気の破裂する音。そして、再びの閃光。そして、震撼する瓦礫の大地。再びの落雷が、癌様獣(キャンサー)の個体を捕らえ、消し炭に変えたのだ。

 致命傷を与える凶悪な不意打ちに、癌様獣(キャンサー)達は共有思考ネットワーク上で対応を協議する。光速の神経伝達速度を持つ彼らではあるが、電子速度を上回るほどの回復能力は持ち合わせていない。相手は単独とは言え、放置していれば着実に数を減らされる。

 地球から遠く離れた巣窟(ネスト)からは、"相手は単独なのだから、多少犠牲を払おうが勢いで押し切れる"、と指令と受ける。だが戦場に立つ個体達は、落雷と言う攻撃手段に不安を覚え、指令に真っ向から反対する。

 落雷から連想されるのは、気象制御である。そして気象とは本来、超広範囲に影響を及ぼす代物だ。落雷は相手にとって威嚇行動かウォーミングアップの意味であり、更なる厄介な攻撃が控えている可能性が考えれる。

 そんな現場からの意見に、巣窟(ネスト)の連中が是やら非やらと騒がしく議論を喚き立てている頃。現場の個体達の危惧が、現実のものとなる。

 初め、彼らの眼に移ったのは、ナイフを逆手に持って走るイェルグの姿。彼の疾走速度は風の如く速いが、癌様獣(キャンサー)の光ファイバー神経にとってはさほど脅威とはならない――が。

 一瞬の後、視界が急に濁った青一色に染まる。何事か、と感覚器官を総動員して分析を始めるのも束の間。癌様獣(キャンサー)達の身体は砲撃にも勝る激しい衝撃に襲われ、重金属の体が錐揉(きりも)みながら紙切れのように空中高くに舞い上がる。

 現状確認はともかく、姿勢制御に尽力するものの、光速の神経に反して肉体の運動が極端に鈍くなる。自由の効かぬ手足に視線を投じようと真紅の眼球を動かせば…いきなり視界が漆黒に閉ざされる。

 眼球がビキビキとひび割れたかと思うと、ボロリと崩れ落ちたのだ。

 崩壊は眼球だけに留まらない。手足もビキビキと音を立てながら崩壊し、ついには細かな破片群と化して青い暴風の中に溶け込んでしまう。

 こうして死を迎えた癌様獣(キャンサー)達が、光速の知覚の中でじっくりと味わったであろう感覚。それは、亀裂が走る直前、濁った青い暴風に巻き込まれた直後から盛大な霜が全身に走り、柔軟な金属筋肉繊維が軽石のように硬く、そして脆く凍結してゆく、拷問にも似た不快感。そこへ暴風がぶつかり、彼らの体は削り取られるようにして崩壊していったのだ。

 癌様獣(キャンサー)の津波で覆われた街路をあっと言う間に飲み込んでゆく、濁った青い暴風の渦。それは次々に同胞を失ってゆく癌様獣(キャンサー)に留まらず、エンゲッターにも大きな衝撃を与える。

 「外気温…53ケルビンだぁ!?」

 搭乗する腕長の機体の外部センサーがもたらした情報に、コクピット内でエンゲッターは唯一生身の口で絶叫した。

 「どういうこったよ、おい!?

 しかも、大気組成の大半が水素とヘリウムって、なんだよこりゃ!?」

 落雷による攻撃をしっかりと眼にしていたエンゲッターは癌様獣(キャンサー)達同様、イェルグが気象制御の魔術を操るであろうことは予測していた。しかし、この異様な大気組成と極端な低温は、地球では絶対にあり得ない天候だ。

 この現象の正体は何か。機械化脳髄のネットワーク回線を通じて、開発部へ調査を依頼しようとする間に…。エンゲッターの機体の全身が、濁った青い暴風にスッポリと覆われてしまう。機体は宇宙戦闘用に換装されたD装備なので直ちに凍結して崩壊することはないが、それでも装甲が一瞬にして霜で覆われ、センサー類は暴風の衝撃に翻弄されて正常な機能を失う。

 エンゲッターは現象の調査だけでなく、機体装備をD装備から極低温および暴風圏用へと転移換装するよう、開発部へと要請を行うが。通信はノイズにまみれており、正しく相手に伝わったか判断が付かない状態だ。

 「なんだってンだよ、クソッ、なんだってンだよ、あの学生(ガキ)ッ!」

 エンゲッターがフルフルと唇を振るわせながら罵声を放っている頃。暴風の中では幾度も幾度もパパッと閃光が走り、水素の爆発を伴った轟音が重く響き渡る。この凶暴な気象の中でも、イェルグはナイフを片手に落雷を落とし、運良く暴風や冷気に耐性を持つ癌様獣(キャンサー)達にトドメを与えているのだ。

 「尋常じゃねぇぞ、あのガキ…!

 単独のくせしやがって、オレも癌様獣(クソムシ)の両方とも、一個体たりとも『バベル』の所に行かせねぇつもりか…!

 なんてぇ野郎だッ、クソッ、ユーテリアって所は学校じゃなくて、怪物どもの飼い(かご)かよ!」

 エンゲッターは転移換装を待たずに、機体を動かそうと奮闘するが。各種の関節が凍りついた今、機体はガクンガクンと揺れ動くばかりで、一歩たりとも動いてはくれない。

 

 さて、ここでイェルグが作り出した気象の正体を開かそう。

 エンゲッターが推測した通り、これは地球の気象ではない。

 それは、地球より遠く離れた惑星の気象。太陽系の中において最速の、音速すら越える暴風を持つ極寒の惑星――海王星の気象である。

 

 イェルグはこの凶暴な吹雪の中を、薄ら笑いさえ浮かべながら縦横無尽に疾走し、癌様獣(キャンサー)を片っ端から葬ってゆく。

 吹雪は彼の制服の内側からドンドンと湧き出している。彼自身の体が凍り付かないどころか、暴風にも翻弄されることがないのは、身の内から生まれたものだからという理由では説明の付かぬものだ。体表面の半分ほどを民族衣装のような布地で覆った肉体に宿る、特別な性質があるらしい。

 (まっ、癌様獣(キャンサー)相手は順調だな。

 光速の神経ネットワークを持つとは言え、困惑もするし、肉体は光のようには動けない。凍らせて粉々に砕いたり、全身の細胞を完全に焼き尽くしてやれば、超再生能力も形無しってところだな)

 逆手に持ったナイフを大振りに一閃すると、周囲に立つ3匹の癌様獣(キャンサー)達に一辺に深い斬撃を与える。転瞬、ほぼ同時に暴風の中を切って龍の如き落雷が降下。3匹は水素の爆発を起こしながら、消し炭になった体を爆散させて、暴風の中に消えてゆく。

 ここでイェルグは足を止めて、周囲にチラリと視線を走らせる。暴風の中、足を止めずに戦い続け、どれほどの時間が経過しただろうか。10分に満たない程度の短時間であろう。しかし、彼の作り出した凶暴なる気象と落雷を伴うナイフ格闘術によって、津波のように湧いていた癌様獣(キャンサー)達は、随分の数量が屍も残さず姿を消していた。それでもまだ生き延びている個体がチラホラと確認出来るが、イェルグはそちらへと足を運ばない。

 彼らを過小評価しているワケではない。しかし現状において、彼らより脅威となる存在が極寒の嵐の中、ギシギシと音を立てて巨体を持ち上げてきた。

 その巨体の正体は、エンゲッターの機体である。

 この過酷な状況に適応すべく、転移換装を急かしていたエンゲッター。その結果として、凍り付いた関節を振り切り、活動可能とはなったものの、すの外観は殆ど変化がない。装甲表面を覆っていた霜が取れた程度で、『バベル』による定義崩壊で溶融した部分はそのままだ。

 「なんで装甲を取り替えねぇンだよッ!」

 コクピットの中で唾棄するエンゲッターに対し、3Dディスプレイに映ったエンゲッター機の整備責任者は、分厚い眼鏡越しに苦笑を浮かべて反論する。

 「バカ言わないでくださいよ。大量の物質が高速で荒れ狂ってる空間に部品なんか転移させたら、周囲の物質もろとも融合しちゃって、バカデカいゴミ屑になっちゃいますよ。

 装甲下の器具の換装で精一杯です」

 整備責任者が言う通り、エンゲッターの機体は外観こそ変わらぬが、その内部は大きな変容を遂げている。超低温下でも各種機関が凍結しないように発熱の魔化(エンチャント)を分子構造に織り込んだ装置を全身に採用すると共に、暴風に翻弄されないようバランサーのシステムを大幅にアップデートしている。

 これらの改修は事前に用意されたものではなく、エンゲッターの要請を受けてから初めて作り上げられたものだ。

 そんな急ごしらえ故か、機体からのフィードバックに疼き似た不快感を覚えるエンゲッターは、苦々しく口元を歪めて文句を付ける。

 「しかもこれ、チクチクして気持ち悪ぃぞ! 後衛でヌクヌク過ごしてる身の上なんだ、現場で血反吐(へど)吐いてるオレらのことにもっと親身になって対応しろよッ!」

 「そんな事言われましてもねぇ…そんな巨大氷惑星(アイス・ジャイアント)みたいな環境下での戦闘なんて、想定してませんからねぇ…。

 そんな場所で戦闘するメリットなんて、皆無じゃないですか」

 「現に今! オレが体験してンだからよッ!

 次からはケースとして考慮しとけ! 役所仕事じゃねーんだぞッ、オレらは儲けてナンボの企業なんだからよぉッ!」

 「…その儲けに繋がらないから、今まで見向きもされなかったんですよ。

 需要があっても、相当な物好きによる滅茶苦茶ニッチな需要でしかないでしょうよ」

 「…ったく、ヘラヘラヘラヘラ、言い繕いやがってッ!」

 そんなやり取りを経て立ち上がったエンゲッター機は、暴風の中をバランサーが強化されたホバー機関で軽やかに滑りながら、周囲を見回す。

 「あの学生(ガキ)、面倒なことしてくれやがったが、お陰で癌様獣(クソムシ)どもは大分(だいぶ)数が減ったみてぇだな。

 そんじゃ、お礼参りしてやらにゃ行かんよな!」

 エンゲッターは己の視覚とリンクする機体のセンサーを総動員して、イェルグの姿を探査する。

 「オラオラオラオラァッ、何処に潜んでやがるんだ、学生(ガキ)

 かくれんぼが得意――」

 エンゲッターはそんな挑発を、機体のスピーカーを使って外部に豪語したワケではない。しかしながら…彼の言葉に呼応するように、濁った青い暴風の中からナイフの刃を閃かせたイェルグが、跳び出して来た!

 「んおッ!?」

 急な出来事に戸惑いと驚愕の声を上げる、エンゲッター。その間にもイェルグは、エンゲッター機の胸部のど真ん中へと肉薄。逆手に持ったナイフの切っ先がギラリと輝いたかと思うと、溶けた装甲にズブリと潜り込み――。

 (バン)ッ! 大気の破裂する音とともに雷光が閃く。落雷がエンゲッター機に直撃したのだ。転瞬、周囲の極低温の水素が文字通り爆発し、エンゲッター機の巨体が嵐の中に巻き上げられる紙切れのようにブッ飛んでゆく。

 「チックショウッ!

 なんだって今の学生(ガキ)どもは、生身で機動兵器相手にするくらい無駄に活きが良いンだよッ!」

 吹き飛びながらもエンゲッターは搭乗機全体のバランサーを総動員し、姿勢の制御を試みる。背中や腕間接、脚部に装備された小型推進機関が高圧ガスを噴出し、エンゲッター機は横倒しの独楽(コマ)のように体勢を立て直すと、両脚と長い両腕で大地を掴みで静止する。

 随分な距離を飛んだが、暴風圏から抜け出してはいない。イェルグが非常な広範囲に対して気象操作を行っているのか、あるいは彼がエンゲッターへ向かっているが為なのか。エンゲッターは後者であると判断し、機体の損傷具合をモニターしながら、イェルグの姿を再び探す。

 「近寄ってンだろォ!? 何処に居やがるンだよォッ!?

 クッソ、なんでサーモセンサーに引っかからねぇんだッ! 癌様獣(クソムシ)どもばかり検出されやがるッ!

 あのガキ、体温も操作出来るってのかぁ!?」

 罵声を上げていると、機体の右腕部に対する加圧をセンサーが検出した。慌ててカメラを向ければ、そこには暴風と一体化したかのような激烈な加速で斬撃を与える、イェルグの姿。デコボコの装甲表面に沿って一直線に引かれた斬跡は、内部機関に達する深い損傷を与える。

 「そこに居たのかよッ、クソガキッ!」

 エンゲッターはイェルグが離れるより一瞬速く右腕を振り上げると、彼の体を中に巻き上げる。そして胸部に数十内蔵された次元掘削弾丸を雨霰と叩き込む。空間格子に沿って直進する性質を持つ次元掘削弾丸は、暴風の影響を受けることなく一直線にイェルグの体を削り取りにゆく。

 対するイェルグは、制服の内側から高圧の気流を吹き出して飛翔。複雑な弧を描きながら次元掘削弾丸を回避しつつ、再びエンゲッター機へと接近する。

 「羽虫の癖して、ゾウより偉大なオレ様に立ち向かってくるンじゃねぇよ!」

 エンゲッターは長大な両腕を鞭の様にしならせながら、接近するイェルグを叩き落としにかかる。

 エンゲッターの目論見は、見事に成功する。左腕がイェルグの頭上を捉え、激突したのだ。エンゲッターは生身の口元をニィッと歪める。

 …しかし、歪みは直ぐに強ばりに変わる。

 左腕が――巨大な質量と甚大な加速をともった左腕が、振り抜けずに中空で停止したのだ。慌てて腕部のカメラを確認すると、左腕の真下には頭上で両腕を交差させた防御姿勢を取った、イェルグの姿がある。

 「おいおい…機動兵器の一撃だぞ、生身の腕で受け止めるなんざ…」

 バカバカしい程にあり得ない、とでも言いたかったかもしれない。しかし言葉の終わりまで紡ぐ前に、イェルグがその場でクルリと縦に回転して見せると、両脚を同時に突き出して左腕にドロップキックを浴びせる。その衝撃に、エンゲッター機の左腕の方がバカァンッ! と音を立てて上に吹き飛ぶ。

 そしてエンゲッターの前に、何の障害もなく姿を表したイェルグは、普段の和やかさとは全く違う、凄絶な笑みを満面に浮かべていた。

 「こンの、バケモノが…ッ!」

 エンゲッターは歯肉から血液が噴出するほど強く歯噛みして、機械化された眼球でイェルグを()め付ける。

 

 ――イェルグによる足止め行動は、"足止め"以上の効果をもたらしながら、佳境に差し掛かる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 激闘するイェルグの背後では、ノーラ単身による『バベル』打倒が展開されていた。

 両者のサイズ差は、イェルグとエンゲッター機の差よりも更に大きい。エンゲッターは自身をゾウ、イェルグを羽虫と例えていたが…同様に、『バベル』をゾウと例えるのならば、ノーラはダニになってしまうかも知れない。

 極端なサイズ差は基本的に、小さい方に圧倒的な不利を押しつける。人が米粒程度の砂礫に単純にぶつかっても痛痒を感じないように、サイズの小さい方は大きい方に打撃を与えるには相当の工夫が必要だ。それこそ、一噛みで高熱を発する病毒を送り込む毒アリのように。

 ノーラにとってサイズ差とは、苦い経験を想起させる代物だ。アオイデュアで巨大な士師に打ちのめされた記憶が、彼女の精神にストレスを与える。――あの時は満身創痍で且つ、奇襲を受けるという不遇が重なっていたのだが、それでもノーラの心に心傷(トラウマ)を刻むには十分な経験であった。

 今、『バベル』と相対するノーラも、正直、精神状態は穏やかではない。額や頬には吹き出した冷たい汗が幾筋も伝い、鼓動は運動性だけに起因しない不快な動悸に(さいな)まれている。

 それでもヒトとは、意志の力によって己の弱さを克服出来る生物だ。その例に漏れず、"やらねばならぬ"という強い信念と覚悟を持ったノーラは、大剣を握る手にも地を蹴る足にも震えを起こすことなく、気丈に、機敏に、そして果敢に巨大な仇敵に立ち向かう。

 幸いにして、ノーラは工夫のない砂礫ではなく、毒アリの類に形容される技量の持ち主である。定義変換(コンヴァージョン)を巧みに繰り返しながら、『バベル』の巨大な暴行を(ことごと)くかいくぐり、不気味な白い肌を何度も何度も斬りつける。

 この交戦において、ノーラ側に有利な点がある。それは、『バベル』の鈍重さだ。

 赤子のように四つん這いの格好で這い回る、『バベル』。その姿に見合った通り、その行動は赤子のように粗雑で荒々しいばかりである。攻撃と使う体部も大半が腕に限られ、脚は時折立ち上がることがあろうとも、終始『バベル』の体重を支えるだけで蹴りの1つも放つこともない。

 ゆえに、質量の観点では脅威である『バベル』だが、その攻撃は単調すぎる。サイズ差に脅えず、落ち着いて攻撃を見極めれば、ノーラの反射神経と体術を以てすれば当りはしない。

 今も、『バベル』が放った横殴りの拳撃を、ノーラはヒョイと跳んでかわすと。そのまま宙でクルリと回転し、手にした大剣で『バベル』の腕を横一文字に斬りつける。ギイイィィィッ! と岩石にでもぶつかったような耳障りな音が、拳風の中で痛々しく響き渡る。

 文句もつけようのない直撃。…そのはずが、ノーラの表情には晴れやかな感情は一片も見て取れない。それどころか、彼女は眉をひそめて唇をギュッと閉ざし、表情を曇らせる。

 (やっぱり…これも、ダメ…!)

 胸中で舌打ちでもしたくなるような一言を漏らしながら、すかさず『宙地』を使用。空中に小型の方術陣を作りだして足場を作ると、それを蹴って横っ飛びにその場を離れる。直後、『バベル』の半開きにした左手が、一瞬前までノーラの居た位置を通過してゆく。

 ノーラは過ぎゆく『バベル』の腕をしばらく見送る。遠ざかってゆく『バベル』の手は、輪郭のぼやけた漆黒で覆われている。この漆黒は幾つかの煙状の歪な球形の寄せ集めであり、その1つ1つに獣とも鬼とも取れぬ凄絶な形相の顔が付いていて、ノーラの事を始終凝視している。

 ノーラはこの手に2、3度と斬撃を与えながら、得意とする分析を行って攻撃の正体を見極めようと試みていた。しかし、それは功を奏するどころか、触れた瞬間に大剣の定義が歪んで変質しそうになったのが続いたため、断念した。持てる定義変換(コンヴァージョン)技術の随を結集し、定義強度を極めて強化した大剣を用いてもみたが、同様の結果を得るに留まっている。とにかく、あの拳に触れるのは非常にマズい、ということだけは理解できた。

 『バベル』に関してはもう1つ、未解明な点がある。それは同時に、『バベル』打倒における致命的な要でもある。

 それは、『バベル』を傷つける方法、だ。

 宙空の方向転換によってやり過ごした『バベル』の腕。ノーラの視界の中で、その二の腕が肩口にまで差し掛かった所で、ノーラは大剣を思い切り振り上げると、落雷にも劣らぬ勢いで銀閃を叩き下ろす。

 今、ノーラが扱っている大剣は、定義変換(コンヴァージョン)によって作り出した、硬度に特化した逸品である。機械的な構造は特に持たないものの、刀身を形成する金属の格子構造は圧力が掛かるほどに硬度を増すよう絶妙に配置されている。更に、刃の幅は5センチメートルもの分厚さを誇る。もはや刃物というよりは鈍器と言うべき代物だ。

 その極めて強靱な刃が、『バベル』の体表に激突すると。先にも響き渡った、ギイイィィィッ! という岩石が上げるような耳障りな騒音が生じる。

 ――いや、岩石的なのは、音だけではない。『バベル』の身体自体が、岩石的な――いや、それどころではない、究極的と言って過言ではない硬度を誇っているのだ。

 『バベル』の体表は、ホルマリン漬けになった生物標本のような人体およびその他の生物の身体の結合で構築されている。体表から体毛のように飛び出ている手足は、さざ波に揺れる海草のように緩慢に柔らかく動いている。その様相からは、硬さなど微塵も感じられない。

 だと言うのに、ノーラが精魂込めて作り上げた硬度に特化した大剣は、一撃を与える度に分厚い刃がボロボロと刃(こぼ)れを起こしてしまうのだ。都度、ノーラが定義変換(コンヴァージョン)を繰り返して刃を再構築していなければ、大剣はとっくにポキンとへし折れていたことだろう。

 一方で、ノーラの斬撃をあらゆる場所に何十回と食らい続けている『バベル』ときたら、柔らかそうな印象に反して(かす)り傷の1つも受けていないのだ。

 (ここでも…やっぱり、同じ結果…!)

 刃を再生させながら『宙地』で空を蹴り、急降下して着地する、ノーラ。そして次なる攻撃に備え、身構えながら見上げると。死した三つの眼を張り付けた『バベル』の顔が、裂けた口でニンマリと(わら)いを浮かべながら、ゆっくりと首を巡らせてこちらを見下ろしてくる。

 ノーラのあらゆる行動を、"無駄だ"、と嘲笑(あざわ)うかのように。

 (だけど…! 真に"神"と成ったワケじゃないはずだもの…! 絶対に、付け入る所は…ある!)

 『バベル』がゆっくりとした動作で、天空を握らんばかりに拳を振り上げる。その動作の完了を待たずしてノーラは『バベル』の腹部に潜り込むと、大剣を高く差し上げて切っ先を腹部の表面に突き立てる。そのまま疾走すると、大剣の斬跡は左脇腹から股間へと抜けるコースで曲線を描く。

 走り抜ける最中、大剣は例のごとく耳障りな音を立てると共に、パラパラと銀色の破片を振りまく。折れて零れた刀身の破片である。それを片っ端から再生しながら、腿の間を走り抜けて『バベル』の腹下から脱出する。

 この攻撃の最中、ノーラは終始『バベル』の硬さを突破する術を見い出すべく、分析を行っていた。刃から伝わる衝撃や振動を元に、『バベル』の形而下および形而上的な物性を把握するのが目的だ。

 しかし――得られた情報は、これまでも繰り返して来た分析と全く同じ内容である。即ち――『絶対安定』である。

 (眼球も…ダメだった。その上…局部までも、同じ結果だったなんて…)

 ノーラは直ぐに『バベル』に向き直って身構え直しつつも、その表情には隠し切れぬ苦々しさが浮かぶ。

 

 『絶対安定』。

 その特性を敵に回した者は、大抵が絶望に陥ることであろう。

 万物は、より安定な状態を求め、機会があれば即座に状態を遷移する。それはちょうど、手放されたリンゴが即座に地面に落下することと等しい。

 これを物理学的に表現すれば、"ポテンシャルがより小さくなる状態へと遷移した"、となる。

 この説明により、この世において"変化"と称される現象の大部分を説明することが出来る。炎を上げて燃焼した木材が二酸化炭素と炭へと変化することも、大きな原子量を持つ原子核が核分裂を起こすことも、すべてはポテンシャルの極小を求める万物の性質に起因する。

 それでは、『絶対安定』とは何を意味するのか。答えは、ポテンシャルの値が絶対的に小さいということである。つまり――その値は0どころか、負の無限大である、ということだ。

 この状態では、あらゆる変化は絶対に起こりはしない。分子間の結合エネルギーは正の無限大となり、切断することも圧壊させることも不可能。化学変化を起こすにも正の無限大のエネルギーを必要とするため、燃焼が発生することもない。放射線を浴びたところで原子核は励起状態に遷移せず、核分裂も核融合も起こさない。

 完全なる鉄壁。それが、『絶対安定』である。

 自然下において――いや、人工の条件下においてさえも――『絶対安定』の実現は不可能とされてきた。絶対零度においてもなお、零点振動と呼ばれる現象によって存在が完全に停止することがないように。あらゆる変化を受け付けない存在など、机上の妄想のみの存在であると言われてきた。

 だが。『天国』を握らんと…"神"に至らんとする『バベル』ならば、自然法則を足蹴にしても見せるのだろう。

 

 神聖なまでに凶悪な性質を持つ敵を相手にせねばならない、ノーラ。しかし、彼女は今、絶望などしない。

 絶望ならば宣告、肺と眼から絞り出して来た。

 今の彼女は、星撒部の理念に適う、どんな小さな希望でも足掻いて手に収めんとする、果敢なる猛者だ。

 

 (『絶対安定』だとは言え…辻褄が合わない部分が、あるっ!)

 四つん這いの体勢でグルリと身体を回し、ノーラに向き直りつつある『バベル』に対して。ノーラは行動の終わりを待たずに突撃すると、『バベル』の脚部に刃を突き立て、回り込みながら斬撃を与える。

 例によって大剣の刃は盛大に刃零れし、『バベル』の体表には傷一つ付かない。腕を伝わってくる衝撃からは、真っ先に『絶対安定』という情報がもたらされる。

 それでもノーラは『バベル』の緩慢な動きにつけ込み、素早さで圧倒しながら駆け回り飛び跳ね、ありとあらゆる場所に刃を叩きつけ続ける。

 こうした一連の所作によって、ノーラは勿論、『絶対安定』でない部分を探し出そうともしている。だが、それだけのための努力ではない。形而上相の視認では余りに複雑過ぎて解析不能な『バベル』のあらゆる性質を、地道な一撃一撃で(もっ)て暴き出そうとしているのだ。

 (絶対に…"穴"は、在る…!

 そうでなければ…『バベル』は存在しえないもの…!)

 ノーラの絶え間ない努力を支える信念。その源は、『絶対安定』と『バベル』の実態における、科学的性質の齟齬(そご)による。

 先に、『絶対安定』とはあらゆる変化を起こさないと言及した。それを真とするならば、『バベル』は不動でなければならない、という結論が導き出される。

 肉体における動作とは、肉体を構成する分子の配列が変化することに他ならない。しかし、『絶対安定』ならば、分子配列を変化させるためには正の無限大のエネルギーが必要と言うことになる。――つまりバベルは、腕どころか、体表から生える体毛の如き人体を揺れ動かすにも逐次、無限大のエネルギーを量産しなければならないということだ。

 それは全く(もっ)て、荒唐無稽な話である。連続的に無限大のエネルギーを生産出来る術が在るならば、『天国』を手中に収めるまでもなく、全異相世界を意のままにすることが出来るであろう。

 それを実行に移していないということは、『バベル』を動かすのに何らかのトリックを使っている、という事だ。

 そのトリックの正体を掴むべく、ノーラは持てる体術と解析能力を駆使し続けているのだが…その成果は、未だ得られていない。

 『絶対安定』以外で得られた形而下的情報は、『天国』を掴む為の存在という割には、あまりにも平々凡々としたものばかりである。巨大な体を構築しているのは、タンパク質を主体とした有機物であり、動物細胞と同様の微細構造を持っている――即ち、通常の人体と同一のものである。細胞はATPを生産し、その消費によって筋組織を初めとする各種器官が機能し、行動を起こす――即ち、通常の生物と同一のプロセスである。

 とは言え、形而上相的な情報は、流石に複雑で難解である。ATPの生産から燃焼までの1プロセス毎に、脳を処理能力を凌駕するような超高密度の術式が関わっていることは解明した。しかし、この術式には莫大な量のパターンが存在する。ノーラがいくら分析能力に長けていても、腰を据えて取り組んだとしても、理解には途方もない労力が必要である。これを常に定義変換(コンヴァージョン)を行うのと並行にこなしているのだから、その労苦は計り知れない。

 (それでも…やらなきゃ、この怪物(バベル)には勝てない…! 皆を、解放できない…!)

 追い込むように自身を鼓舞し、ノーラは乱流のように『バベル』の周囲を駆け回り、銀閃を浴びせ続ける。どんなに刃零れが起きようが、どんなに得られる情報が無為のものであろうが、彼女の美しい翠の瞳は決して曇らない。

 ギイイィィッ! ギイイィィッ! と連続する激突音は、ノーラの信念が歯を食いしばっている音のようであった。

 

 一方。『バベル』を操者であるヘイグマン・ドラグワーズ大佐は、『バベル』の視覚越しに眺めるノーラの奮闘を、せせら(わら)っている。

 「素晴らしい戦乙女だ。

 超人であろうとも心が折れるような状況を前にしても、決して絶望せず、ひたむきに立ち向かってくる。

 さぞかし強く、美しく、神々しい魂魄の持ち主であることだろう」

 ヘイグマンの枯れた唇が赤みを取り戻し、恍惚さえ混じる感嘆の声を漏らしていると。3Dディスプレイ越しにツァーイン・テッヒャーから焦燥の露わな言葉をぶつけられる。

 「大佐どの、何を感心しておられるのか!

 我らの大義は、『天国』を掌中に収めることに他なりませんぞ!

 そんなノミの如き少女を相手にするなど、愚行以前の無駄の極みですぞ!

 どうせ『バベル』は無敵なのです! そんなノミは捨て置き! さぁ! 『天国』の高みに至ろうではありませんか!」

 "早く、早く!"という急かし文句が今にも聞こえてきそうな早口でまくしたてるツァーインに対して、嗤いを浮かべたままのヘイグマンは殊更(ことさら)悠然とした動作で、首を横に振って見せる。

 「博士。あなたは優秀な科学者であるがゆえに、結果第一主義に陥って、過程の持つ意義を軽んじ過ぎている。

 あなたが『バベル』とリンクし、"(バベル)"が目にする光景や、去来する願望に一時でも触れられるのならば、理解出来るだろう。

 これは、『天国』に至る為に必要不可欠なプロセスなのだ」

 「あんな矮小な少女と(たわむ)れることが、必要不可欠ですと!?」

 目を見開いて疑問の声を上げるツァーインに、ヘイグマンは嘲りをも交えたせせら嗤いをクックッと漏らす。

 (そう、これは必要であり、そして極めて重要なプロセスだ。

 『バベル』にとってだけでなく、私にとっても…だ)

 ヘイグマンは、記憶の中の"獄炎の女神"を連想させるような女性に対し、嫉妬と憎悪の炎を燃やしている。勇猛なる戦乙女の如きその姿を見せつけられては、その凛々しさを絶望色に汚したいという欲求に無性に駆り立てられる。この衝動を悶々と抑えるでなく、スッキリと発散させねば、『バベル』へのフィードバックに悪影響を及ぼし、『天国』との接触の障害になり得る…と言うのが、ヘイグマンが"必要であり重要"だと考える理由の1つ。

 そして、もう1つ…女神にも匹敵するような清廉にして頑強なノーラの魂魄を、『バベル』に取り込もうとする目論見がある。

 (聖女を生け贄に神の奇跡を手繰り寄せるが如くに…!

 彼女の素晴らしき魂魄を『バベル』に加担させれば、その定義は更に高貴にして盤石なものとなり、『天国』へとより迫ることが出来るであろう…!)

 そう、ヘイグマンにとって奮戦するノーラは、(はりつけ)台上においてなお足掻(あが)く、生け贄に他ならない。

 故にヘイグマンは、絶対的な防御力を誇りながらも、執拗なノーラを律儀に相手し続けているのだ。絶好のタイミングで彼女を絶望に(けが)すと共に、交戦の中で幾何(いくばく)かの成長を遂げた彼女の魂魄をまんまと呑み込むために。

 とは言え…ノーラを相手にするのは、ヘイグマンというよりも『バベル』にとって非常に骨の折れる手間である。

 『バベル』は元来、『握天計画』を成し遂げる装置として製作されたものであり、戦闘への配慮は全く為されていない。巨大な図体と質量、そして魂魄定義に干渉する能力を持つ程度であり、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーが所有する人型機動兵器のような武装は一切保有しない。絶対的な防御力がなければ、これまでの戦闘の流れを鑑みて、『バベル』はとっくに巨大なボロ肉塊へと変わり果てたことだろう。故に、『バベル』はひたすら拳を振るうばかりなのだ――例え、直撃はあり得ないと確信していても、だ。

 だが、ヘイグマンは私怨に駆られて(いたずら)に攻撃を繰り返してばかりいるワケではない。

 全異相世界中から逸材と呼ばれる人物が集まる、実力主義の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)においては、単純な年功だけで"大佐"という地位に収まることは出来ない。逆に言えば、大佐の地位に居る人物は皆例外なく、武力的もしくは知略的に相当な功績を残せる能力を有する、非凡な実力者であると言える。

 ヘイグマンとて、"獄炎の女神"に敗北して気落ちしてなお、大佐の地位から降格されなかったのには、理由がある。彼の武力が勢いを失ったのに反比例するように、彼の頭脳労働的能力が開花したのだ。

 そして今、『バベル』越しにノーラと交戦する彼は、開花した能力を惜しみなく使い、自身の理想とする結末を実現するための"罠"を着実に張り巡らせている。

 …ノーラとて、『絶対安定』の攻略に集中の重きを置いていなければ、とっくに気取って警戒したかも知れない。

 ノーラの大剣にぶつかった時には、大剣の定義を暴力的なまでに揺るがす、漆黒の拳の一撃。それが空振りして大地に激突した時には、大地は定義崩壊による溶融は発生していない。単に大質量が激突しただけのように、瓦礫が粉砕されたり地面にヒビが入る程度である。…つまり、空振りした逐次、ヘイグマンは『バベル』の能力を意図的に抑え込む手間をかけていることになる。

 それは、一体何故なのか。

 その答えを、ヘイグマンはもうすぐノーラに見つけようとしている。

 (もう少しだ…もう少しの間、踊り続けてもらおうか。勇敢ながらも愚かしい戦乙女よ)

 下卑てさえ見える影の深い(わら)いを浮かべるヘイグマンは、ノーラの素早さには敵わぬと悟り切っていながらも、執拗に『バベル』の拳を振るい続ける。

 対するノーラは、逐次回避行動を取っては、様々なタイミングで斬撃を与えてくる。衝撃の瞬間、彼女の刀身からエコロケーションにも似た走査術式が『バベル』の全身に駆け巡ることを、ヘイグマンは把握している。ノーラが必死になって絶対的な防御を突破しようと奮戦していることを、認知しているのだ。

 それでもヘイグマンは、対策など講じず、為されるままに走査術式を受け入れるばかりだ。むしろ、空を切るばかりの拳を差し出し、"どうぞ傷つけてくれよ"と言わんばかりである。

 「大佐殿! 大佐殿! 聞いておられるのですか、大佐殿!」

 ツァーインが3Dディスプレイ越しに、『握天計画』の障害を排除せよと、急かし続ける。しかしヘイグマンの聞く耳持たぬ様は、鳴き声が(やかま)しいものの気に留める程でもないヒヨドリを相手にしているかの如くである。

 ヘイグマンはただ、(わら)いを浮かべながら、ひたすらに期を待ち続けている。拳撃の空振りと言う罠の一手一手を地道に、そして着実にこなしながら。

 そして…ツァーインの喚き声を聞き流しながら、ノーラの相手をすること、どれほどの時間が経過しただろうか。実際には10分も経過していなかったかも知れないが、興奮に晒され続けるヘイグマンには1時間もの長きを待たされたように感じていた。

 『バベル』越しの視界の中では、ノーラが未だに気丈に大剣を振るい、絶え間なく絶対的な防御に立ち向かい続けている。

 とは言え、ノーラはユーテリアに属する"英雄の卵"であるが、ヒトの枠を越える存在ではない。常人より遙かに優秀ではあるものの、体力も集中力も無限ではない。攻撃と分析を高いレベルで同時に実施し続けて来た彼女は、息が上がって肩で呼吸し、健康的な褐色の肌は赤みが差して汗でベットリと濡れている。翠色の眼が痙攣するようにピクリとブレているのを見ると、視覚にも何らかの支障が出ているようだ。

 明らかに、疲労の色が見て取れる。

 そんなノーラの苦しげな姿のみならず、ヘイグマンが交戦の最中にずっと気にかけていた"ある要因"の状況を鑑みて…彼は、極上の肉に噛みつかんとするほどの大口を開いて、嗤う。

 ――機は、熟した。

 「さあ、戦乙女よ。我らが『天国』への扉の鍵と成れい!」

 

 ヘイグマンが叫んだ、丁度その時。

 ノーラは疲労で重くなった肉体に鞭打って、『バベル』の足首に大振りの斬撃を横薙ぎにぶつけていた。

 相変わらず上がる、ギイイィィィッ! という硬く耳障りな音に、ノーラの顔に隠し切れぬ焦燥と苛立ちが浮かぶ。自身の体力と精神力の限界が迫っている事と、それでも『バベル』打倒の糸口が全く見えてこない事が、怜悧な彼女の心にも流石にストレスを芽生えさせていたのだ。

 (一体どんな技術が…こんな厄介な存在を…作り出したと言うの…!)

 思わず胸中に苦言が浮かぶが、ノーラはすぐに首を小さく振り、心を落ち着かせる事に努める。疲労困憊でも、彼女の理性は自棄になる事の危険性を正しく説いているのだ。

 しかし、理性は(さと)くあろうとも、肉体にはそうは行かないようだ。

 とっくに身体魔化(フィジカル・エンチャント)を用いて体力を底上げした状態で尚、蓄積した疲労に重く[rb:伸>の]]し掛かられては、理性で幾ら鞭打とうが肉体はもはや言うことを聞いてはくれない。攻撃を繰り出したノーランは、大剣を振り抜いた格好のまま動けずに、そのまま深呼吸2回分の時間を過ごす。

 とは言え、鈍重な『バベル』相手においては、その程度の時間が直ちに致命的な窮地を招くことなどなかった――そのはずであった。事実、ノーラがようやく体勢を立て直しながら振り向いた時点でも、『バベル』は四つん這いの身体をこちらに向けて回転している最中であった。

 (まだまだ、隙はあっちの方が大きい…! まだ私は、戦える…!)

 身構えた上でもう一呼吸し、身体を調子を整えると。重くなった脚で力強く大地を蹴り、もう何十度目の突進を『バベル』にぶつけに行く。

 その2歩目を踏み出した――その時であった。

 

 ヘイグマンの"罠"が、発現した。

 

 ズクン――身体中の細胞が震撼したような不快感の強襲。ノーラは片脚を上げた格好のまま、突如の異変に目を丸くしながら、倒れ込むようにバランスを崩す。

 地に両手をついて、崩れたクラウチングスタートの姿勢のような姿を取ったノーラは、そのまま身動き出来なくなってしまう。

 (何…この…感覚…!

 身体の内側で…何かが暴れているような…!)

 そんな物思いを胸中に過ぎらせるノーラの眼に、数滴の汗が流れ落ち、視界を滲ませる。同時に、視界に映る光景がうっすらとした赤色に染まる。

 (…赤…?)

 ノーラは瞬きして眼に溜まった汗を流し、再び視界を確かめる。すると、視界を染めた赤は消えていた。――つまり、これは視覚の障害ではなく、汗そのものに混じる色ということだ。

 再び汗が眼に入り込むより早く、ノーラは自らの手の甲を見やる。するとそこには、湧き水かと言うほどの勢いで玉の汗が吹き出している様子が見て取れる。そして汗は、うっすらとした赤の色を帯びている。

 この赤は即ち――血液の色。

 (一体…何が…)

 自らの肉体に対して形而上相視認を行おうとした、その瞬間。

 「っ…あああああぁぁぁぁぁっ!」

 内部から爆ぜてしまうかのような衝撃と、それに伴う激痛が全身を駆けめぐり、ノーラは大地にうずくまって悲鳴を上げる。身体を巡る衝撃は、単なる感覚の問題ではない。実際に皮膚や筋肉がビリビリと激しく振動し、地表を薄く覆う土煙を巻き上げるほどだ。

 (どうなってるの…!!)

 開いた大口を悲鳴の上がるままにしながら、ノーラは激痛に塗りつぶされそうになる理性を振り絞り、形而上相視認を敢行。自らの肉体に起こっている異変の正体を探ると――。

 (私…ハメられたんだ…ッ!)

 ヘイグマンの"罠"を認識し、憤怒と後悔の暗い炎が灯る眼差しで『バベル』を睨みつける。

 対して『バベル』は、"ようやく気づいたのか、愚か者め"と侮蔑せんが如く、裂けた口でニヤニヤと笑みを浮かべている。

 

 『バベル』――いや、ヘイグマンの空振りの拳撃は、実の所、空振りなどではなかったのだ。

 その漆黒の拳は、勿論ノーラをも標的にしていたが、それは"当たれば万々歳"程度の副次的なものである。

 真の目的は、大地自体、そして――大気だ。

 『バベル』の能力は、単に存在を定義崩壊させるだけではない。その上で、自らの存在の一部として引き込む、という能力がある。

 "引き込む"と言う能力を正確に表現すれば――任意のタイミングで『バベル』の肉体へ集結・融合するように支配する、というものである。

 ヘイグマンが利用したのは、正にこの能力である。

 『バベル』の漆黒の拳撃を受けた大地や大気は、実際には定義崩壊を引き起こすだけの干渉を受け、『バベル』――ひいてはヘイグマンの支配下に入っている。しかし、ヘイグマンは敢えて、直ちに定義崩壊を引き起す真似をしなかった。そして、ノーラへの攻撃を行う度に、支配する大地や大気の分子の規模を増やしていった。

 それらの分子――特に大気にまつわる酸素や水蒸気といった物質は、呼吸の度にノーラの体内に取り込まれ、赤血球を初めとする細胞と癒合する。時間の経過と共に、『バベル』の支配する分子がノーラの体組織を担う部位が増えてゆく。

 そして、その割合がノーラの活動に必要不可欠なまでに高まる頃合いを『バベル』の知覚で認識したヘイグマンは今、ノーラの体内に取り込まれた全ての支配分子に指令を下したのだ。『バベル』へと集結せよ、と。

 故に今、ノーラの細胞の各部からは、支配分子どもが分子構造を振り切って、次々と飛び出している状況だ。そして分子構造に欠損が生じた細胞は、機能に障害をきたし、壊死へと向かうのである。

 

 「うぐっ…ううう…あああぁぁぁ…っ!」

 ノーラは、自らの体を強く掻き抱きながら、必死に悲鳴を噛み殺していたのだが。全身の細胞が激しい振動と共に上げる激痛の悲鳴に耐えかねて、ついに絶叫を上げる。

 中途半端に踏みつけられた芋虫のようにゴロリと地面に転がったまま、もがくことも出来ずに、ひたすら悲鳴を上げる、ノーラ。その皮膚はみるみる内に擦過傷を受けたようにズタズタに傷ついてゆき、にじみ出した血液は宙に浮き上がって『バベル』へと吸い込まれて行く。途中、血液の鮮紅は濁った白色へと変わり、完全に『バベル』の支配下に入った事を物語る。

 ノーラの悲惨な姿を『バベル』越しに見ていたヘイグマンは、嗜虐的な笑みを浮かべ、枯れた体に全く似つかわない興奮にたぎる声を漏らす。

 「戦乙女よ、もう終わりか!?

 さっきまでの威勢は、ここでもう終わるのか!?

 それとも、もっと足掻いて、その輝きを増して見せるか!?

 え、どうなんだ、戦乙女(メスガキ)ッ!」

 興奮の(おもむ)くまま、ヘイグマンは『バベル』に大きく腕を振り上げさせると、例によって漆黒を纏った拳を雷撃のように振り下ろす。

 この拳の一撃には、先ほどまでの加減はない。触れた大気が片っ端から白濁色の粘液へと代わり、『バベル』の拳の中へ飛び込んで行く。これをまともに食らえば、激痛で苦しむノーラの肉体は一瞬にして定義崩壊の憂き目を見ることであろう。

 だが――ヘイグマンの煽り文句がノーラの鼓膜に届いたのか。はたまたは、ノーラの生存本能が死を拒絶したのか。とにかくノーラは、迫り来る拳を前に、縮んだバネが戻るように跳ね起きると、横っ飛びに跳んで拳撃を回避する。漆黒の拳は容赦なく大地を溶融し、抉り、濁った白がグズグズと散らばる穴を空ける。

 回避したノーラは、気丈にもそのまま立ち上がると、両腕で大剣を握って構え、『バベル』と相対してみせる。

 この短時間で、『バベル』の分子支配に対抗する身体魔化(フィジカル・エンチャント)を編み出したワケではない。…実際には、在る程度の対抗術式を編み上げてはいたが、万全にはほど遠い。ノーラの体表は今なお振動を続け、ズタズタに崩壊し、血液が虚空へと飛び出してゆく状態だ。振動と激痛の影響で足下はふらついており、立っているだけでも労苦を強いられている状態であることが見て取れる。

 それでも、ノーラの翠色の――内出血によって少し赤に染まっている――瞳は、果敢なる戦意を失っていない。見るものの心臓を射抜いて抉るような鋭い眼差しが、そこにはしっかりと輝いている。

 その有様を見て、ヘイグマンの顔が妙な風に歪む。妬み狂うようでもあり、面白がるかのようでもある、凄絶にして暗澹とした表情だ。

 「あれでも倒れないのか、あの少女は!! どういう事だ、どういう事なのだ!! これは想定外の障害を呼び込むのではないかッ!?」

 ツァーインが3Dディスプレイの向こう側で、口元で両手の指を戦慄(わなな)かせながら驚嘆している。対してヘイグマンは彼を完全に無視し、自分の世界に入り込んで独り言を喚く。

 「それでこそだ、それでこそだぞ、戦乙女!

 ()きの良いエサであればあるほど、優れた滋養になるというものだ!

 ――さあ、もっともっと、成長してみせろ!」

 ヘイグマンは『バベル』を操作し、満身創痍のノーラに容赦のない両拳を振るう、振るう、振るう…!

 それまでは体力を消耗してなお、『バベル』に対しては軽やかな羽の如く立ち回っていたノーラであるが、今ではその面影は全くない。不格好な鉛の塊のように、体軸のブレた不安定な構えをやっとこ保ちながら、足を止めて拳撃を大剣で斬り払うばかりだ。

 拳撃を受け止める度に、ノーラの顔が苦渋に歪み、桜色の唇の合間からギリリと噛み合わせた歯が覗く。もはや定義崩壊の加減をしなくなった『バベル』の一撃一撃は、触れた物体の定義を容易に奪い去り、濁った白の粘液へと溶かしてしまう。それらの攻撃に莫大な魔力を消費して抵抗しながら、自らの肉体の異変が生み出す苦痛にも耐えねばならない。加えて、『バベル』自体の単純に巨大な質量も、ノーラの骨肉に多大な負担を与える。そんな状況に陥った上で、一片でも余裕を見せてみろ、というのが土台無理な話だ。

 それでもノーラは、(うま)く無駄のない体(さば)きを実践し、『バベル』の攻撃を(ことごと)く受け流す。技量も勿論のこと、意志力も並々ならぬ強靱さを持ち合わせている。

 そんな彼女の姿に、ヘイグマンはますます顔に張り付けた(わら)いに残酷の色を塗り込め、鼻息を荒くしてゆく。

 「そうだ、そうだ! 素晴らしいぞ、戦乙女! そうだ、もっと抗え、もっと強く、美しく在れ!」

 そう叫んだヘイグマンは、更なる攻めの一手を投じる。すなわち、(あらかじ)め拳で触れた大地を定義崩壊ささせ、ノーラの足場を崩す"罠"を発動させたのだ。

 「!!」

 只でさえ、やっと体を支えている状態のノーラ。それが、足場がドロリと溶融したり、溶融せずとも岩塊のまま『バベル』目掛けてフワリと浮き上がったりと翻弄されるのだ。窮状は更に悪化し、ノーラの顔を染める苦痛の色がいよいよ濃くなってゆく。

 それでも、ノーラは音を上げて絶望し、『バベル』にその身を捧げるように落ちぶれはしない。フラフラの足を必死に動かし、足場を探りながら過酷な『バベル』の拳撃を耐え続ける。

 その姿を目にするヘイグマンは、ノーラのしぶとさに苛立ちを覚えるどころか、デスクをバンバンと叩きまくるほど興奮極まり、唾を飛沫(しぶ)かせて独りで騒ぎ立てる。

 「本当に素晴らしい! これほどなのか! 魂魄とは、これほどまでに芳醇で味わい深くなるほど、肥え太ることが出来るのか!」

 ヘイグマンは今――いや、実のところ、交戦が始まって以降ずっと――物体としてのノーラを見てはいない。『バベル』の知覚を通して、形而上相における魂魄定義としてのみ、彼女を視認している。

 そして、窮地の奈落へと転げ落ち続けながらも、なおも意志を燃やして立ち向かうノーラの魂魄の成長を眺めては、うっとりとした恍惚に浸っている。まるで、己で肥え太らせた上等なウシかブタでもみるように、今にも(よだれ)を垂らしそうな雰囲気をまとって。

 『バベル』の結合魂魄の最後の1ピースに相応しい、極上の魂魄へと成長してゆく過程を見て、勃起するまでに興奮している。

 「あの戦乙女の魂魄と繋がったのならば、私はどれほどの快感を! 清々しさを! 得られるのであろうか!!」

 ――もういいだろうか、これ以上は成長は望めないだろうか、いや、まだ太らせことが出来るのではないだろうか。ヘイグマンは地団駄を踏みたくなるような葛藤に身を焦がしながら、ノーラを攻める、攻める、攻める…!

 ヘイグマンの(たかぶ)りに同調するように、『バベル』の動きが荒々しく、そして加速してゆく。動きの鈍ったノーラにしてみれば豪雨に等しい拳撃が絶え間なく繰り出され、ノーラは剣(さば)きに集中しがちになり、足下が(おろそ)かになってしまう。それまでは衝撃を受けてもその場を殆ど動かなかったノーラが、吹き飛んだり、すんでのところで尻餅をつくまでに体勢を崩す場面が増えてきた。

 赤の混じった冷や汗だらけのノーラの顔に、苦痛とは別の青い色がじんわりと満ちて行く。その色の正体は――怯懦、だ。

 万全の状態でも攻略の一手は見つからなかった。この窮地においては、もはや解析する余裕もない。手を出せずに果てのない攻撃に耐え続けるのは、強風の中に放置されたロウソクの火のように心細いばかり。

 そこには既に、意志力を盛り返せるような希望は存在しない。

 ノーラの魂魄に、意志力の収縮の兆しを見て取ったヘイグマンは…嗤いをピタリと止め、刃のように目を細めて無表情を作る。そして、興奮の色が一気に消えた枯れた表情の元で、ひび割れた薄い唇からボソリと言葉を漏らす。

 「そうか、これで終わりかね。

 では――頂こう」

 ヘイグマンは『バベル』を通して、ノーラの足場を一気に溶融させつつ、急上昇させる。ノーラは支えを失って足をバタつかせながら、中空に放り上げられてしまう。鉄壁であった気丈さに怯懦が混じってしまったノーラは、頑強な防御を忘れ、不安定な己の身を焦るばかりになってしまう。

 この隙を、ヘイグマンが見逃すはずがない。『バベル』の身を押し込められたバネのように縮めさせると、全身で立ち上がる勢いを全て右拳に込めて、ノーラへと突き出す。

 激突の寸前、ノーラは拳撃を認識して防御行動を取ったが…定義崩壊への対抗術式も、『バベル』の質量を踏ん張る気力も、十分には準備できなかったようだ。拳に触れた愛剣は、熱せられたハンダのようにドロリと溶けるし、大質量を受けた両腕は大きく弾かれて天高く伸びきってしまった。

 今、ノーラの顔も銅も、無防備そのものだ。

 そこへヘイグマンは――『バベル』は、左の人差し指を伸ばして、静かに着実に、ノーラの胸に触れる。

 

 音にしてみれば、トン、とでも奏でるようなタッチ。しかし、実際に上がった音は、バシャン、という弾ける粘水音。

 ノーラの胸部の皮膚が、そして表層筋が、『バベル』の接触によって定義崩壊を起こし、溶融して飛沫(しぶ)いた音だ。

 ノーラは慌てて術式を練り上げ、足下に『宙地』の方術陣を形成するが――遅い。彼女の足の裏が方術陣で形成された足場を蹴るよりも早く、『バベル』の指先が更に体内へと潜り込む。

 まるで、豆腐の中に指を突っ込んでいるかのような光景だ。『バベル』の不気味な白い指は、()したる抵抗も受けずにズブズブとノーラの体内に侵入する。胸骨は役目を為さない、皮膚と同様に『バベル』に触れられた瞬間にドロリと溶融してしまった。

 指はそのまま肺や心臓へ達し、これらの器官も(ことごと)く定義崩壊させる。同時に上がる粘性の高い飛沫は、磁石に吸い寄せられる砂鉄のような風体で『バベル』の指に吸い上げられ、一体化してしまう。

 指は胸腔に収まった内臓をドロリ、ズルリと全て飲み干してしまうと。更に侵入して脊椎へ触れ、これも例外なく溶融させてしまう。

 結果、『バベル』の指はノーラの胸を貫通し、ノーラは胸にぽっかりとした穴を空けられてしまった。

 心肺という致命的な器官を失ったものの、ノーラは声一つ上げなかった。胸部の神経は定義崩壊によって機能不全に陥っており、痛覚を初めとしたあらゆる感覚が遮断されてしまっている。おまけに、心身に重く[rb:伸>の]]しかかる疲労によって、感受性が鉛のように鈍くなってしまい、激痛のような劇的な刺激がない限りは感情が暴れ回りそうにない。現にノーラは、自身の惨状を目にして、双眸をギュッと収縮させるに留まっていた。

 その鈍い感受性こそが、消えゆく命の灯火を物語っているのかも知れない。

 

 「アハァーッハッハッハッハァッ!」

 亜空間に浮かぶ"パープルコート"の拠点では、ヘイグマンが基地全体を揺るがすような哄笑を上げている。

 「遂に! 遂に! 遂に!

 妬ましき戦乙女を! いや…!」

 ブンブンと首を左右に振り、そしてこう言い直す。

 「凛々しく! 美しく! 気高く! そして絶対の権利を持つ女神をッ!

 権利からあぶれた雄の身であるこの私がッ!

 ここに、仕留めてやったぞおおぉぉっ!」

 その絶叫に同調した『バベル』は、痙攣するような大仰な動きでノーラを貫く指を振るい、彼女の体をズルリと引き抜いて投げ飛ばす。

 ノーラの体は風に舞う紙切れのようにフニャリと手足を脱力させたまま、ピクリとも動かずに、抉れた大地にビダンッ! と叩きつけられる。

 瞳孔の収縮した翠色の眼は瞬きもせず、ぼんやりとした陰をまとった視線で『バベル』を見上げたまま、動かない。

 

 ノーラは無惨にも、無力化された。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Dead Eyes See No Future - Part 7

 ◆ ◆ ◆

 

 相川(ゆかり)、レナ・ウォルスキー、そして倉縞蘇芳(すおう)を中心とした、避難民達の集まりでは。幸運にも定義崩壊を免れた市民に加えて、"パープルコート"の生き残りまでもが身を寄せて、レナの作り出した防御方術陣の中に座り込んでいた。その数、ざっと50名を数える。

 「全く…! 私たちの命を弄ぼうとして馬鹿者(パープルコート)まで、泣きついてくるとは…!

 それをまんまと受け入れている私たちもまた、馬鹿者と言うべきなんだろうな…!」

 明らかに苛立った口調で文句を唱えているのは、アルカインテール市軍警察官にして蘇芳の片腕のような立場にいる女性、竹囃(たけばやし)珠姫(たまき)である。

 彼女のギラつく半眼もまた、"パープルコート"の隊員達を刺し貫いている。その視線の先では、交戦時に浮かべていた残忍な笑みを薄っぺらいヘラヘラした愛想笑いに置き換えて、ペコペコとお辞儀したり、自らの所業への言い訳を語ったりしている"パープルコート"隊員の浅ましい姿がある。

 「あんな奴ら、尻でも蹴っ飛ばして、『バベル』の餌にしてやれば良かったものを…!」

 ブツブツと文句を言う珠姫の頭に、ヌッと大きな掌が乗ると、ワシャワシャと髪を撫でしだき始める。珠姫が慌てて掌の主へと視線を向ければ、そこにはニカッした笑いを浮かべた蘇芳の顔がある。

 「確かに、オレ達は敵対していたが、だからといってオレ達は奴ら(パープルコート)をブッ(たお)すのが目的なワケじゃない。

 いがみ合わずに済むようになるなら、それに越したことはないさ。

 それに、この状況じゃオレ達だろうが"パープルコート"だろうが、他の勢力だろうが、皆等しく避難民みたいなモンさ。それなら、防災部のオレとしちゃ、助けてやるのが本筋さ」

 「…私は、白黒つける衛戦部の所属ですから。そういうどっち付かずな考えは、気持ち悪くて理解しかねます…」

 唇を尖らせながら反論する珠姫だが、激情がさほど目立たないのは、相手が蘇芳だからであろう。これが別の防災部の人間であったなら、烈火のごとく食ってかかったはずだ。

 「そんじゃ、衛戦部的な利害主義に則って言えばだな、」

 蘇芳は納得いかぬ様子の珠姫に、更なる説得を試みる。

 「奴ら(パープルコート)を蹴っ飛ばして『バベル』に突っ込んだところで、『バベル』の力が増すだけさ。オレ達の立場は更に厳しいものになっちまうし、戦ってるユーテリアの学生にも負担になっちまう。

 それなら、目の届くところに置いといて、居心地悪い思いをさせてやる方が、気も晴れるってモンさ」

 それでも珠姫は完全に納得していない様子だったが、やがて大きな溜息を一つ吐き、両手を上げて観念した。

 「…それにしても、話に出てきた『バベル』ですけど。随分と大人しいですよね?

 さっきまでは、あんなに体中がビシビシ言ってたのに、今じゃ何にも感じませんし。

 ユーテリアの学生が、斃してしまったとか?」

 「いやいや、流石にそれはないだろ」

 蘇芳は手を振って否定する。

 「天災規模の定義崩壊を引き起こすような代物だぜ? 破壊されたなら、余波による結構な規模の魔法現象が目視でも確認出来ると思うぜ。

 単に、レナの作った結界が優秀ってことなんじゃねーのか?

 なぁ、レナ!」

 突如話題を振られたレナだが、蘇芳と珠姫の会話に耳を傾けていたらしい。狼狽することなく、至極自然な動作で2人に向き直ると、首を傾げる。

 「まぁー、確かによ、あたしの結界は一級品だぜ。ちょっとやそっとの定義崩壊なら、完全に遮断してみせるぜ。

 それはそうなんだけどよ…さっきから全然、結界に引っかかるような魔法現象が検出されないんだよな」

 「つまり、定義崩壊自体がこっちに及んでないってことか?」

 蘇芳の問いにレナは(うなづ)いてから、Vの字に人差し指と中指を立てた右手を見せる。

 「考えられることは2つだ。

 1つは竹囃大尉さんが言う通り、『バベル』がブッ斃されて機能が停止している。だけど、あたしも蘇芳さんに同意見さ。外的に破壊されたなら、その痕跡を形而上・形而下問わずに派手にブチ()けるだろうぜ。

 それがないってことは、もう1つの可能性に該当するだろうな。

 つまりは、誰彼構わずに定義崩壊を振りまく余裕がないほど立て込んでる、ってことさ」

 「あの化け物相手に、良い勝負をしてるってことか。

 流石はユーテリアの学生さん、ってところか。もはや"卵"じゃなく、本物の英雄だな」

 「と言うより、『バベル』と同じく化け物、と言った方が適切ではないですかね」

 珠姫がちょっと苦々しく語る。本来なら都市国家を守るのは自分達の役目であるのに、そこに加担できず他人に――しかも未成年に任せっ放しにしていることに心苦しさと、妬みをも感じてのことだろう。

 蘇芳はそんな珠姫の胸中を推し量ったのか、今度は諫めるような言葉を口にしなかった。代わりに、結界の端に独り座り込んだまま、黙然と外界に眺めている紫に向き直る。

 「なぁ、星撒部のお嬢さん?

 あんたのお仲間さんが善戦してるって思って良いんだよな?」

 紫は静かな動作で振り返ると、「恐らくは」と答える。

 「戦ってるのって、えーと、名前はノーラって言ったっけ? 肌の色の濃い、物静かな感じの()だったよな?」

 レナの問いに紫が首を縦に振ると。レナは怪訝そうに眉根に(しわ)を寄せて問いを次ぐ。

 「あの()、ホントに大丈夫なのかよ? あんたら暴走部には珍しく、覇気がないじゃねーか。

 昨日のトンネルの中での戦いは、結構スゴかったけどよ。でもあれは、暴走君の熱に当てられたからなんじゃねーの?」

 すると紫は、普段の部活で見せる陰を含んだ嫌味な笑みをニヤリと浮かべて反論する。

 「見た目で能力を判断するなんて、先輩って旧時代的なんですね。

 あの()、確かに物静かですけど、初の実戦で士師を倒す実力の持ち主ですよ。私たちのクラスじゃ、『霧の優等生』って呼ばれていて、一目置かれてます。

 先輩より、ノーラちゃんの方がよっぽど強いと思いますよ?」

 毒を含んだ物言いに、レナはあからさまにカチンと来て表情に険を(はら)むと、拳を震わせながら反撃する。

 「暴走君と言い、お前と言い…星撒部の奴らは、目上の人間に対する接し方ってのが分かってない奴らが目白押しらしいな…」

 すると紫は、ますます自身が含む毒を強め、口元に手を当てて、プププ、と笑う。

 「そういう物言いが旧時代的だって言うんですよ。

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)を始め、現代の主たる有力組織は年功序列なんて言うバカバカしいシステムは放棄して、実力主義が主流ですよ? 1年早く生まれた程度でデカい顔するなんて、旧時代でも通じないんじゃないですかね?」

 「ンだと、この…ッ!」

 レナの激情の琴線がプツンと切れ、勢いよく立ち上がった、その時。すかさず蘇芳が両腕を広げて彼女の前に立ちはだかり、「まあまあ、落ち着けって」と(なだ)める。

 続いて、紫の方にも視線を向けて苦笑いを浮かべると、そちらにも宥めの言葉を口にする。

 「アンタも、いい加減にしろよ。

 同じ部活の仲間の事を心配してピリピリしてンのは分かるけどよ、だからってこっちの仲間に八つ当たりするってのは感心しねーな」

 「…っ!」

 紫が笑みを消し、怪物に出会ってパンパンに総毛立ったネコのように、目を丸くして顔を強ばらせると共に、赤く染める。蘇芳の言葉は図星だったようだ。

 とは言え、蘇芳でなくとも、よっぽど鈍感な者でなければ、紫の心の内は容易に知り得ただろう。紫と来たら、視線を向けている方角が決まりきっているのだから――即ち、ロイの激戦によって盛大な土煙が上がっている方角、である。

 「まぁー、気になる男子が文字通りに命を懸けて戦ってるンだものな。心配しない方がおかしいさ」

 「なっ…! なっ…! なっ…なんですか、それ…っ!」

 蘇芳の言葉に、紫はますます顔を真っ赤にし、そんな顔を隠すように両腕を上げて、しどろもどろに語る。そんな様子に蘇芳はハッハッハッ、と大きく笑い、レナは険を解いた代わりにニヤニヤとした(いや)らしい笑みを浮かべる。

 「へぇ~、なるほどなるほど。

 確かにぃ~、動物的に考えればさぁ~、引く手数多でも可笑しくないようなぁ~、暴走君って」

 「い…っ! いや、いやいや、いやいやいやいや! そ、そんなんじゃないからっ!」

 紫は真っ赤に火照った顔を慌てて冷まそうとブンブン左右に振りながら、強く否定する。

 「た、確かに、ロイの事は気に掛かるけど! 同じ部活の仲間って意味以上のことはないから!

 そ、それに! 苦戦してるのはロイだけじゃなから! イェルグ先輩も蒼治先輩も、大和のバカも、『バベル』と交戦中のノーラちゃんだって勿論! 気に掛けてるわよっ!」

 その言葉を耳にした蘇芳は、ピクリと眉を跳ね上げて笑みを消し、一変して堅い真剣な表情を作ると、おどけを一切含まぬ調子で尋ねる。

 「あの物静かな()が、ホントに戦ってるってのか?

 ってか、アンタ、この位置から部活の仲間の状況が把握出来てるのか?」

 紫はこれ以上からかわれない事に安堵して首を止めると、まだ赤みの取れない顔で唇を尖らせながらゴニョゴニョと語る。

 「まぁ…大まかに、ですけど…。

 魔力のぶつかり合いが少ない所は流石に、なんかやってる、程度しか把握できないですけどね…」

 植物読(プラント・リーディング)を初めとした、環境からの状況把握能力に優れる紫には、そんな特技もある。

 そんな紫に、蘇芳は掴みかからんばかりの勢いで迫り、質問をぶつける。

 「教えてくれ! 『バベル』との交戦の首尾は!? 他の勢力の動きは!? この状況、なんとか収まりが付きそうなのか!?」

 「え、えーと…。収拾が付くのかどうかは、私たちより、市軍のみなさん次第のような気もしますけど…。

 と、取り敢えず…『バベル』とノーラちゃんの戦いは、結構な拮抗状態にあるようですね。定義崩壊を無差別に振り撒かなくなったのは、蘇芳さんの予想通り、『バベル』はノーラちゃんの相手に手一杯だからのようです。とは言え…『バベル』由来の術式の強度は下がっていないので、ノーラちゃんは有効な一手を下せていないみたいですね…。むしろ、ノーラちゃんの術式強度が弱まってるので…苦戦してるかも…」

 「助けに入る方が良いか!? 今なら、結界の外に出ても定義崩壊に晒される心配はないんだろ!? それなら、人手が多いに越したことは…!」

 「いや…下手に割って入っても、足引っ張る結果になるだけですよ。市軍のみなさんのフォローをノーラちゃんがやる羽目になってしまって、(かえ)って戦力が落ちるのは目に見えてますから。

 それに…近くでイェルグ先輩が加減なしに能力をブチ撒いてますので、巻き込まれたらたまったモンじゃないですよ」

 イェルグを知らぬ蘇芳が、一体どんな能力なのか、と追求するより早く。レナが苦笑いを浮かべて語る。

 「うっわ、そういえば、あいつもこの都市(まち)に来てるんだけっか…。援軍ってより、国家破壊(ネイション・ブレイク)しに来てる感じじゃねーか…。

 蘇芳のおっちゃん、無理無理、絶対近寄っちゃいけねーよ。つか、そもそも、近寄れねーと思うけどさ。

 イェルグって奴は、どういう仕組みか分からねーけど、自分の体の中から自由に天候を取り出せンだよ。しかも、地球上のものとは限らねー、あらゆる惑星環境の天候を使役出来るンだ。

 音速を超える風速の嵐だの、絶対零度近くまで冷え込む寒波だの、放射線バリバリの太陽光線だの、浴びたくねーだろ?」

 その話を聞いて、蘇芳はゴクリと固唾を飲む。しかし、怯懦よりも職務への責任感が勝ったようだ。「し、しかしよ…」と怖ず怖ずと声を上げる。

 「そのイェルグって奴がスゲェ力を使えるのは分かったが、相手にゃ癌様獣(キャンサー)も"インダストリー"の機動兵器も居る。あいつらは地球外環境でも活動可能なんだぜ?

 そいつらの群れとたった1人で()り合うなんてよ、無謀にも程があるだろうが…!

 指(くわ)えてここでのほほんとしてるより、ほんの些細な事でも助けに行くべきだろ…!」

 「いえいえ、ご心配なく。

 それむしろ、厳しい言い方しますけど、要らないお節介ですから」

 紫がパタパタと手を振って、蘇芳の決意を蹴る。

 「イェルグ先輩、単に強力な能力を操れるだけの人物じゃないですよ。一時期は、学園(ウチ)で最強の一角を争っていたほどの実力の持ち主ですから。一対多の非正規戦闘も、ウチの怪物部長に負けないくらい得意なんです。

 それに、先輩の能力で、地球外環境でもへっちゃらだって言う癌様獣(キャンサー)がバッタバッタ[[rb:斃>たお]]れまくってるみたいですよ? そんな所にノコノコ出掛けて、無事に帰って来れると本気で思います?」

 紫の言い方は毒を含んではいないものの、あまりにも素っ気も容赦もないものである。その口調から内容が真実であると覚った蘇芳は、再びゴクリと固唾を飲むと、もはや援軍の申し出を口にはしない。代わり、ただ一言、苦々しくこう漏らす。

 「…ユーテリアってのは、英雄ってより、化け物育成機関じゃねぇかよ…」

 その言葉に紫は苦笑いを浮かべるだけだったが、レナが噛みつくように言葉を割り込ませる。

 「いーやいやいや! 暴走部の連中と、あたしら一般生徒を一緒にすンなって!

 化け物なのはほんの一部の例外だっつーの、れ・い・が・い!」

 「…そうかぁ? オレにしてみりゃ、レナ、お前も十分化け物だぜ? その歳で、オレら市軍じゃ及びも付かない方術陣をサラッと作っちまえるんだからよ」

 「あたしは暴走部の連中と違って、人を助けて()かす技術を磨いてンだよ!

 "化け物"なんて人聞き悪い言い方すンなよなッ!」

 蘇芳とレナが2人でギャーギャー騒ぎ始めたところで、紫はフッと小さく笑みを残すと、すぐに視線を逸らす。そして見つめた先は、会話に加わる前に眺めて方角…ゼオギルドの能力によって生み出された異形のタケ科樹木の林の向こう、盛大な轟音と土煙を上げる一画である。

 紫の感覚は、そこにロイの存在を明白に感じ取っている。同時に、そこに入り乱れるその他4つの強大な魔力も。

 (助けが欲しいのは、ノーラよりイェルグ先輩より、アンタの方でしょ…。

 分かってンだからね、アンタったら5つ巴の状況を利用するどころか、他の4人を一手に引き受けてるでしょ…? それってもう、暴走じゃないわよ、無謀って言うのよ…!)

 正直に言えば、紫はロイの事を多大に気に掛けている。彼女は普段、ロイに毒をぶつけては居るが、その実はいつでも恩義の念を抱いているのだ。――ロイには恐らく、その意識は全くないだろうが。

 そんなロイが単身で苦境に立ち向かっている一方で、自分は安全地帯でぬくぬくと座り込んでいる。そんな事で良いのか、と何度も自問している。

 しかし、約1年間、部活を通じてロイと行動を共にして来たからこそ、気持ちを素直に脚に伝えることが出来ない。

 (私が割って入って、ピンチを救ったとしても、アンタは怒るだけなんでしょうね…。

 無謀だって言われれば言われるほど、独りで乗り越えることを楽しむような馬鹿なんだからさ…)

 ――それに、自分にはいざと言う時に避難民を守り抜く最後の砦になるという、大事な役目がある。そう自分に言い聞かせ、唇をキュッと堅く結ぶと、駆け出したくなる衝動を必死に抑え込む。

 もしもそのまま放っておかれたのなら、紫の思考は苦悩に食い荒らされて、多大な心労を抱く羽目になった事だろう。

 そんな事態を回避してくれたのは、紫のナビットが高らかに奏でる着信音だ。女性ヴォーカルが(うた)うテンポの早いその曲は、部員の誰かから映像通信が入った事を示している。

 ――通信に集中すれば、気持ちも切り替えられるだろう。そう判断した紫は、すぐに制服のポケットに手を突っ込んでナビットを取り出す。タッチディスプレイに浮かぶ発信相手の名前は…神崎大和だ。

 「はぁ…? なんで、大和が…?」

 予想していなかった名前を目にして、眉根に皺を寄せながら紫は映像通信を開始する。

 宙空に展開された3Dディスプレイには、ゴミゴミした機械で上下左右を囲んだ狭い空間――コクピットだ――と、その中央に座す大和の姿がある。

 大和は紫の顔を見た瞬間、泣き出すとも笑い出すともつかない表情で破顔し、諸手を上げて騒ぐ。

 「あーっ! 良かった、紫ちゃんが出てくれてーっ!

 これで寂しくないーっ!」

 「寂しいって…何情けない事言ってンのよ。

 自分の役目はどうしたのよ? ちゃんとやってるワケ?

 それにアンタ、イェルグ先輩と話してたンじゃないの? 先輩はどうしたのよ?」

 紫の問いに、大和は顔の前でパタパタと手を振りながら、まず後者の質問に対して答える。

 「先輩がどうしてるかって、オレより紫ちゃんの方が把握してるでしょ!?

 もう、オレは先輩と会話なんてムリムリ! 首尾よくノーラちゃんと会って、なんとか説得して、2人して『バベル』とか癌様獣(キャンサー)と戦うってところまでは把握してたンだけどさ!

 先輩ったら、癌様獣(キャンサー)の大群を独りで引き受ける役目を買って出たモンだから、相当なお天気を作り出したみたいで! もぉー、鼓膜破れるかと思うくらいの騒音鳴りっぱなし!

 ラジオどころなんて話じゃない! 反射的に通信切っちゃったよ!

 でもさ、独りでシーンとしてるのって、オレの性分じゃないじゃん? そこで、会話できそうな人は居ないかなーと思って、消去法で考えたら、紫ちゃんがベストってことになったワケ!

 そしてら案の定、紫ちゃんがすぐ通信に応じてくれたってワケだよ! いや~、ホント良かったー!」

 「…消去法って…。それって、私が一番暇人だって言いたいワケ?」

 眉を跳ね上げ、露骨にイラ付きながら問う紫は、大和は慌てて手を振る。

 「いやいやいや! そういうつもりじゃなくて!

 えーと、その…他はみんな、戦闘中だしさ、ナミちゃんは以前の通信にも混じってなかったしさ。それなら、紫ちゃんしかいないって判断しただけで…!

 別に他意が有ってのことじゃないんだよっ! ホントホント!」

 「…フーン」

 半眼で睨みつけながら、素っ気のない返事をする、紫。

 しかしその表情とは裏腹に、胸中では舌とチロリと出していた。

 (まぁ、確かに…こっちは一段落着いてるし、実際に私は補欠であること以外に抱えてる作業はないんだけどね…)

 ただ、いつでも軽いノリでいる大和を真摯に相手するのは、なんだか癪に障るので、意地悪をしてみたのである。

 そんな事情を知らぬ大和は、バツの悪い会話の流れを変えようと、残るもう1つの質問に答える。

 「ところで、役目はどうしたのか、って質問だけどさ。

 も・ち・ろ・ん! 完遂さっ!」

 大和は態度を一変し、鼻を高くして胸を張って叩くと、足下を指差して言葉を続ける。

 「前回の通信の時、相撲取ってた癌様獣(キャンサー)のデカブツだけどさ、今はオレのケツの下に敷いてるよ!

 他にも、デカブツを助けるためなのか、癌様獣(キャンサー)がちょいちょい現れてたけどさ…みーんな、空間に張り付けてやったのさ!」

 

 大和の言葉は、強がりでも見栄でもない。全く(もっ)ての真実である。

 彼が操縦する巨大な人型機動兵器は、定義崩壊によってほぼ平坦になった大地の上で、癌様獣(キャンサー)の巨大個体である『胎動』を完全に組み敷いている。『胎動』は大和の機動兵器の重量に()し掛かれているほか、その身の半ばが地中にめり込んで身動きが取れない状況である。

 『胎動』と大地の接地面を見ると、輪郭をなぞるように極細の輝線が見える。明滅する銀色のそれは、人工の亜空間が呈する色彩だ。つまり『胎動』は、大和が作り出した亜空間の落とし穴にはめ込まれた格好になっているのである。

 そして、両者の周りには、大和の言の通り、『胎動』に比べてスケールの随分小さな――大体、地球人類の成人程度のサイズである――蟲型の癌様獣(キャンサー)が30を超える数で姿を見せている。しかし、彼らも皆、『胎動』と同様に体の半ば以上を亜空間に呑み込まれおり、身動きが出来ない状態に陥っている。

 なんだかんだとウダウダと文句を語る大和であるが、星撒部に籍を置いた上で、めげずに約1年を過ごしてきた身。その実力は確かなものである。

 

 紫は大和の所業を目にしたワケではないが、彼の言を疑うことはしない。同じ星撒部として時間を共有してきた身同士ゆえ、どれほどの事なら成し遂げられるか、理解しているつもりである。

 代わりに紫は両腕を組むと、普段の陰を含んだ笑みをニヤリと浮かべると、フッと鼻で笑って語る。

 「それじゃ、一番暇人なのは、アンタなんじゃん。

 一仕事終わったならさ、他の人のヘルプに行こうとか思わないワケ? 特に、ノーラとかさ。入部して日が浅いのに、今度は『バベル』なんて代物を任されてるンだから」

 すると大和は、バツが悪そうに後頭部をポリポリ掻きながら答える。

 「いやー、そうしたいのは山々なんだよね。ノーラちゃんが大変だってのはよく分かってるしさ、オレなら定義拡張(エキスパンション)でイェルグ先輩の強烈な天候に対抗出来る機体を作れるだろうしね。

 でもねぇ…一見暇して見えるとは思うんだけど、実は今も、結構気を遣ってンだよ。

 癌様獣(キャンサー)の奴等って、多少なりとも空間操作能力を持ってるからさ。放っておくと、脱出されちゃうワケ。そうならないように、亜空間の構成をちょくちょく微調整してるワケだよ」

 「そんな(てい)の良いこと言ってさ、ただ単にこれ以上戦闘に関わりたくないだけでしょー?

 ホントにやる気なら、癌様獣(キャンサー)達をチャッチャと(たお)して、駆けつけることだって出来るでしょ?

 あんたが怠けてる間にも、ノーラは勿論、ロイだって苦戦してるンだからさ…」

 紫は語尾をゴニョゴニョと小さく語っていたが、大和の耳にははっきりと聞こえたようだ。

 「紫ちゃん、まさか、ロイのことなんて心配してンの?」

 「そ、そりゃあ、さ…。私たちの避難所の近くで、各勢力のトップクラスの実力者相手にしてるし…。負けられると、こっちが大変なことになるから…」

 紫は顔に熱が帯びるのを感じながら、赤みが差したであろう顔を大和に見られないよう、(うつむ)いて答える。

 すると大和は、紫の顔色については言及しなかったものの、プッ! と吹き出して語る。

 「いやいや! ロイが負けるのを心配するとか、有り得ないって!

 紫ちゃんだってよく分かってるはずじゃんか! あいつがどんな奴なのか!」

 そして大和は、頭の後ろに手を組んで、鼻歌でも歌うような調子で言葉を継ぐ。

 「"暴走君"の呼び名に恥じない、副部長にも匹敵する勝負バカ! 苦境になればなるほど燃えるタイプの、究極的命知らず!

 それでいて、無茶を覆して勝ちをもぎ取る、無敗のバカ野郎!

 そんな奴を心配したって、損するだけだって!

 それならノーラちゃんか、慎重な割に意外と詰めの甘い蒼治先輩を心配した方が、千倍もマシだと思うよ!」

 「…無敗じゃ、ないわよ」

 大和の軽さとは真逆に、紫は苦々しく、重苦しく反論する。

 「あいつ、前に言ってたもん…よくボコボコに負けてたって。

 確かに、部活での仕事本番では今まで一度負けたことはないけどさ…訓練中だと、部長にはいつも負けてるし…。

 賢竜(ワイズ・ドラゴン)なんて大層担がれてる人種でも、万能ってワケじゃないよ…」

 普段の毒気がすっかりと消えて、しおらしくなった紫を見て、大和はきょとんとして表情を作ると2、3度パチクリと瞬きする。それから、ニヤッと笑うと、瞼を閉じて声高らかに語る。

 「いやー、紫ちゃんにもそんな可愛らしい一面があるンスね~! そんなレアな紫ちゃんの想いをもらえるなんて、ロイの奴、妬けるッスね~!」

 その物言いに、紫は一気に真紅に染め上げ、何事か叫ぼうと口をパクパクさせると。大和は瞼を開き、身を乗り出して、紫より早く発言する。

 「確かに紫ちゃんの言う通り、あいつは万能じゃないさ。

 でも、ここでむざむざボコボコにやられる姿ってのは、オレには想像できないね。

 仲間を残して、独りだけ敗北に埋もれて甘んじるような、無責任な奴じゃないって、オレは知ってるからね。

 紫ちゃんだって、知ってるでしょ?」

 「そ、そりゃあ…うん…」

 そう語った紫が、「でも」と言葉を継ごうとするのを、大和は先回りして言葉を挟む。

 「だったら、紫が知ってる無責任なんかじゃないロイの奴を信じてやればいいじゃんか。

 魔術が普及してるこの時代、精神は物理に影響を与えることを科学が保証してるんだ。祈りや願いだって、実質的な力に繋がるのさ。

 紫ちゃんの信じる力が、ロイを助ける力になってくれるはずだって!」

 そう語られてもなお、紫はしばらく反論のために頭を巡らせ、言葉を探していたが…。やがて観念し、フッと笑みを浮かべる。

 「…大和、アンタって案外イイ男なんだね」

 「そりゃ、勿論! 今頃気付くなんて、遅いなぁ!」

 素直に照れ笑いを浮かべて、賑やかな笑みを浮かべて後頭部を掻く、大和。

 そんな彼を見て安心したのだろうか、紫に普段の毒気が戻る。紫は浮かべた笑みに(いや)らしい陰を含ませると、今までの話題とは全く方向を異にする意地悪を口にする。

 「ところでさー、アンタのそのコクピット、すんごいキモさねー!

 機械工学の求道者だとか、数学的な美しさがどーのこーのと言っておきながら、なんなのそれ?

 それとも、アンタの言うところの美しさって、そーゆーグロさに行き着くワケ?」

 すると大和は、「な…っ!」と何事か叫ぼうとして絶句したかと思うと。バンッ! と――恐らくはナビットを置いているであろう、デスク型コンソールだろう――叩きながら、身を乗り出して3Dディスプレイに顔をドアップに近づけて言い訳する。

 「こ、これは、不可抗力と現実主義の賜物なの!

 『バベル』のヤツの定義崩壊で、オレの機体も大、大、大の大ダメージを受けてさぁ! 力押しするくらいしか出来なくなかったんだよ! だから、この巨大癌様獣(デカブツ)と相撲取ることになってたワケ!

 それじゃあサッパリ(らち)が明かないからさ! 急(ごしら)えで装備を調えたら、こうなっちゃったワケ!

 そりゃあ、手間暇掛けられる時間さえあればさ、もっともっと美しいものが出来たさ! 理論は数学的に美しく、器具は幾何学的に美しく! それがオレのモットーであることには変わりないッスよ!

 でも、何よりも成果が優先される時は、そんな事言ってられない事もあるでしょ!?」

 すると紫は口元を押さえて、プププ、と笑って更に意地悪する。

 「何だかんだ言って、結局アンタの実力はその程度ってワケよね。

 本当の実力者なら、手間暇かけられないなんて見苦しい言い訳、死んでも口にしないでしょうしね」

 「いやいやいやいや! 本当の実力者だろうがなんだろうが、出来ないものは出来ないって!

 紫ちゃんは機械工学のことをよく知らないから、そんな事言えるんであってさー! どんな実力者でも、カミサマじゃないんだから、真の意味での完璧なんて実現できるワケが…」

 あれこれと身振りを加えて言い繕う大和は、紫は相変わらず笑いながら眺めつつ、幾分も軽くなった心をロイを始めとする、未だ戦い続ける仲間達へと投げかける。

 (私たち星撒部は、これまでどんな状況だって、()れなく打開して来たんだもの!

 今回だって、きっとやれる!

 そうだよね、ロイ! イェルグ先輩! 蒼治先輩! そして…ノーラちゃん!)

 紫の赤みがかったブラウンの瞳は、禍々しく成長を遂げる『天国』を挑戦的に睨みつけるのだった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「テンメェッ! ノミ屑の分際でヨォッ、しつこいにも程があるンだよッ!」

 口角泡飛ばして独り叫ぶのは、口元だけが生身で残りの全身を機械化した"インダストリー"の操縦適応者(クラダー)、エンゲッターである。

 イェルグの作り出した海王星の極寒嵐の地獄の環境の中、なんとか転移換装を完了した機体を鬼のように操り、サイズで遙かに下回るイェルグを滅多打ちに追い詰めようと躍起になっている。

 エンゲッターの機体の特徴である長大な腕が金属の鞭となって濁った青の嵐を引き裂きながら、イェルグの体を執拗に捕らえ続ける。一撃一撃が生み出す激突の感触は、機体からのフィードバックによって把握している。しかし、決定打たる、骨身を抉る痛快な感触は全く得られない。

 重金属装甲に覆われた両腕に響くのは、乾いた金属の感触ばかり――つまりは、イェルグが手にしたナイフの刀身の感触である。

 しかも、ナイフの刀身がポキンと折れたような手応えは、全くない。硬化の魔化(エンチャント)が施されていたにしても、数十度もの絶え間ない大質量攻撃に晒されて無事でいられるナイフなど、よほど異相世界中に名の知れた職人による逸品でも無い限り存在しない。――つまり、攻撃を(さば)き切っているのは、純然たるイェルグの技量(うで)によるものだ。

 しかもイェルグは、攻撃を防御するだけに留まらない。ほんの数瞬の隙があれば、その間にナイフの斬撃を腕部の間接に確実に滑り込ませて来る。極寒の環境に適応するため発熱しているエンゲッター機の内部機関は、その熱ゆえに多少なりとも硬度が下がっている。万が一の可能性とは言え、ナイフによってスッパリと斬り捨てられてしまうことも考え得る。

 「アリの顎で、象の骨が噛み砕かれちまうってのかぁッ!? ふざけんじゃねぇよッ!」

 コクピットに怒声を響かせながら、その威勢を機体への暴力的なフィードバックに乗せ、イェルグを更に攻める、攻める、攻める。精度が若干下がりはしたものの攻撃は加速したが…それでもイェルグの骨身には、届かない。イラつくほどに、乾いたナイフの刀身の感触を覚えるばかりだ。

 そして何よりエンゲッターを苛立たせるのは…イェルグの表情である。

 その顔は、普段の彼に比べて幾分か凄みを含んではいるものの、和やかな雰囲気を(かも)して笑っていた。

 「余裕だってンのか、ええッ!? これくらいの攻撃、幾らぶつけられても、そよ風程度だって言いてぇのかよッ!?

 だがよ、だがよ、だがよ…! その余裕ブッこいた態度、もうすぐグッチャグチャに吹き飛ばしてやるぜ!」

 独りごちた直後、エンゲッターは通信で繋がっているアルカインテール拠点の整備班に連絡を取り、噛みつくように尋ねる。

 「"まだ"なのかッ!? オイッ、そんなにめんどくせぇ細工じゃねぇだろうがッ! ガキでも出来る工作だぞッ!

 いつまで手間取ってンだよッ、オイッ!」

 すると、エンゲッターの顔の右隣に小さく浮かび上がった3Dディスプレイ越しに、汚れた作業着を着込んだ整備責任者がボリボリと頭を掻きながら答える。

 「あなたが思うほど、簡単な作業じゃないですよ。そっちの極端の環境下で正常に動作するかとか、あなたの機体自身に損害が出ないかとか、色々考慮することがありますから」

 「ンなのテキトーで良いだろッ、テキトーでッ! テメェらプロなんだから、職人の勘ってヤツでなんとかしてみせろよッ!」

 「そんな不確定要素に頼るなんて、我が社の理念に反しますよ。

 それに、テキトーやってあなたに死なれでもしたら、責任取らされるのは私なんですからね。地獄に落ちたいなら、独りで落ちて下さいよ」

 「それが現場で命削って戦ってるオレらに言うことかよッ!?」

 整備責任者の飄々とした態度に、エンゲッターはこめかみに青筋でも浮き上げたいところだ。…ただし、大半が機械化した彼には無理な話であるが。

 "インダストリー"の整備班の人間が飄々としているのは、今エンゲッターと会話している人物に限った話ではない。"インダストリー"は有機的な倫理観よりも、無機質な成果主義を尊ぶ。自社の同僚ですら、開発実験のための試料と割り切るような人物揃いである。

 エンゲッターもそんな事情は、理性において十分承知済みではある。しかし、個人の性格として感情に走りやすいがために、無駄だと分かりながらがなり立てないと気が済まないのだ。

 「あああぁぁぁっ! ちっくしょうッ! 御託(ごたく)は分かったからよぉッ! 全速力で"準備"を整えやがれッ!」

 「言われなくとも」

 整備責任者は極短く返答すると、サッサと通信を切ってしまう。成果のみに勝ちを見出す彼にとっては、この会話自体が無駄であると感じていたことであろう。

 それはともかくとして。エンゲッターには、しぶとく(しの)ぐイェルグを完膚なまでに叩き伏せる――いや、"爆散"させるための一案がある。そのために、いけ好かない開発責任者とは今回のような確認を何度か続けてきたのだ。

 そして、その策を見事に成し遂げるためには、イェルグを十分に引きつけておかねばならない。

 その点を鑑みれば、イェルグが接近戦に律儀につき合ってくれるのは好都合と言える。このまま近い間合いを保ってくれるのならば――絶対に、逃げられない。

 この拮抗状態を続けていれば、イェルグは自動的に悲惨な結末に陥ってくれる。…そう認識している一方で、エンゲッターは機械の体に似合わぬ不安を抱いて止まない。

 (なんであいつ、落雷を使わなくなった…?)

 超絶的な再生能力を有する癌様獣(キャンサー)すら一瞬にして灰燼に帰す、イェルグの落雷。ナイフを突き立てるという行動をトリガーにして発動させているようだが、だとすれば何度もナイフを浴びせられているエンゲッター機は、何度落雷に見舞われても不思議ではない。

 なのに、イェルグは接近戦を始めてからというもの、全く落雷を使わない。

 (使う余裕がねぇんだと判断してぇところだが…あの薄ら笑い、気に入らねぇ…!)

 もしかすると、余裕がないところを強気に笑って見せてエンゲッターの心を攻め、隙やミスを誘おうとしているのかも知れない。

 それとも、純粋なる余裕を見せつけて、こちらを見下しているのかも知れない。

 はたまたは、何らかの機を待っているのか。

 電子化した頭脳の高速演算能力を以てしても答えは導けないが、ただただ分かることは、目の前の青年がどこまでもイラつく存在であるということだ。

 (早く、早く、早く――消し飛ばしてぇッ!)

 そんなエンゲッターの気持ちが通じたのだろうか。彼の頭の右隣に小さく3Dディスプレイが出現すると、見慣れた整備責任者の感情に乏しい顔が現れる。

 何事か、とエンゲッターがまくし立てるより早く、整備責任者は手身近に用件を伝える。

 「準備完了です。第一陣、いつでも転移可能です」

 「おっしゃぁっ!」

 エンゲッターは思わず金属製の拳を打ち合わせてガチンと鳴らすと、間髪入れずに続ける。

 「すぐ転移換装始めろ!

 第二陣は、オレが信号で合図する! そしたら、確認なんざ要らねぇから、ソッコーで転移換装しろ!」

 「はい」

 整備責任者が短く返事をする。

 折しも、イェルグはエンゲッターの両腕をナイフの刀身で受け止め、そのまま滑るようにかいくぐり、機体の懐に飛び込んで来たところである。これが普段の戦闘ならば、エンゲッターは焦燥と苛立ちで舌打ちをしたことだろうが、今は違う。

 ニンマリと、白い歯を見せて(いや)らしく笑う。

 「残念ッ! 終わりだッ、ガキッ!」

 エンゲッターは、装甲下に"罠の種"が転移されて仕込まれたことをフィードバックで確認すると、トリガーを引くイメージと共に起動信号を発信する。

 

 転瞬、エンゲッター機が膨張。同時に、嵐の音を掻き消すような爆音が響き渡る。

 …いや、"膨張"という表現は正しくない。正確には、エンゲッター機の装甲が一斉に爆発的に飛び出し、体積が膨張したように見えただけである。

 飛び出した装甲はそのまま、砲撃もかくやという勢いで極寒の嵐の中を一直線に飛翔。その直ぐ後ろを追うように広がるのは…紅蓮の爆炎である。

 エンゲッターが整備班に転移換装させたもの。その正体は、爆薬だ。氷点を遙かに下回る極寒の環境でも化学反応可能な起爆物質および着火機構を一式作らせたのだ。

 この爆炎によって、イェルグの作り出した海王星の大気は直ちに紅蓮を帯びると、連鎖的に大爆発を起こす。海王星の大気の大半を構成する水素が、爆薬に含まれる酸素と反応し、強烈な爆鳴を引き起こしたのである。

 鼓膜を聾する爆音と、網膜を焼き尽くすような閃光。その中にイェルグの小さな姿が一瞬に飲み込まれる様子をしっかりと確認したエンゲッターは、ゲラゲラと哄笑する。

 「バァーカッ! バカバカバァァァカッ!

 大気組成に水素が含まれてる時点で思い付くっつーの!

 ここは巨大氷惑星(アイス・ジャイアント)じゃなくて、地球なんだよッ! 反応は止まらねぇぜ!

 ド派手に自爆して、月まで吹っ飛んで死ね! いや、吹っ飛ぶ前に消し炭になっちまうか!? まぁいいや、とにかく死ねッ!」

 ところで、水素はエンゲッター機の周囲に濃密に満ちていたのだから、爆発が起これば機体も衝撃と爆炎に晒されるはずだ。しかも、起爆時にエンゲッター機は装甲を投げ捨てており、今や内部機関が剥き出しになっている。自爆であるとイェルグを罵っているが、エンゲッターもまたその例外ではないのではないか?

 その疑問に、否、と回答を与えるのは、エンゲッターの起爆機構に仕組まれた"安全装置"にある。起爆直後、機構はエンゲッター機の周囲に高圧の不燃性ガスを展開し、爆炎とその衝撃を相殺しているのだ。これで彼は自爆の憂き目から逃れられるという寸法だ。

 とは言え、いつまでも内部機関を剥き出しのままに甘んじるのは危険である。そこでエンゲッターは、信号を発して整備班に第二陣の転移換装を行うように指示する。

 エンゲッター機の周囲に、空間転移反応が発生する。そしてパーツ単位に分解された新たな装甲と武装が、虹色に輝く転移ゲートを潜ってエンゲッター機へと吸い込まれながら、次々と形状を組み上げてゆく。その作業の速度は非常に高速で、2分もすればエンゲッター機は新品同様の外観に生まれ変わることだろう。

 ――まるで、仕立て卸したばかりのスーツを清々しい早朝に纏うような気分だ! エンゲッターは機械化する前の記憶を掘り起こしながら、今の自身を楽しませる快感をそのように形容した。

 

 …しかし、エンゲッターの快感は、一瞬にして驚愕へと取って変わる。

 ニヤケた口元が脱力し、ポカンと呆けた半開きへと変わる。

 「…冗談だろ…」

 絞り出すように(かす)れた声を上げる、エンゲッター。彼の完全機械化された視覚が機体のセンサーを通して捕らえたのは…轟々たる爆炎の中から飛び出してくる、1人の男。

 イェルグ・ディープアーである。

 (何で、焼け死なねぇッ!? 水素はあいつの体から出てただろうがッ! なんで、爆散しねぇッ!?)

 瞼があればパチパチと瞬きを繰り返したくなる衝動に駆られながら、ちっとも焦げの見当たらぬイェルグの身体に見入る。

 その時、エンゲッターは気付く。イェルグの身から出て、彼自身を纏う大気が、もはや海王星のそれではない事を。同じく青色を呈してはいるが、うっすらと透き通った静かなもので、嵐どころか完全なる凪のように見える。その大気が爆炎を掻き分け、イェルグを守っているのだ。

 エンゲッターの視覚には、大気組成の分析結果が速やかに表示される。その実に9割を構成するのは、不燃性機体である窒素。その温度は、海王星よりも更に低い、40ケルビン程度。

 その大気組成を持つ環境は、旧時代のさらに古き時節、太陽系最遠の惑星と扱われていた天体のものである。

 その天体とは――冥王星、だ。

 「この、ゴキブリ野郎がぁぁぁッ!」

 水素の爆鳴をも乗り越えた憎き相手を前に、エンゲッターは顎が外れるほど大口を開き、叫ぶ。

 同時に、中途半端に装甲を纏った両腕を動かし、イェルグの身体を叩き落とす事を試みる。転移換装中に激しい動作を行うことは、作業を失敗に追い込む愚行である。しかし、機体を大破させられ敗北するよりも、断然にマシだ。

 装甲が剥がれている分、間接を担う機関の見事な動作を露見させながら、両腕は上下から挟み込むようにイェルグに肉薄する。

 対するイェルグは、まずは逆手に持ったナイフの刀身で上から振り下ろされた腕を受け止める。直後、下から持ち上がってきた腕に両足をトンと乗せると、腕が延びる方向へ沿うように蹴り出す。ナイフが腕の表面をカリカリと音を立てつつ這い、それに導かれるようにしてイェルグが更にエンゲッター機の胸部へ接近する。

 「だからッ! 生身の分際で、機動兵器とガチンコ勝負すんじゃねぇよ、クソガキィッ!」

 巧みに過ぎるイェルグの戦いぶりに、エンゲッターは声帯を痛めんばかりの絶叫を上げる。

 一方でエンゲッターは、電子化された頭脳で、イェルグの行動を阻止する策を捻出するべく奮闘する。転移換装が終わりきっていない今、十分な武装は備わっていない。それでも何かないかと自機を走査しまくると、丁度イェルグの真正面に当たる位置に、実弾兵器である重機銃が備え付けられている事を把握する。

 この武器は、装備としては完全ではない。魔化(エンチャント)を施すための機関が一式不足している。しかし、弾丸を発射するだけならば、十分にその機能を果たせる状態だ。

 ――こいつだ! エンゲッターは即座に制御信号をこの重機銃に送り込み、起動させる。照準は大体で良い、標的は自分からこちらに飛び込んで来ている。そして射出される弾丸は、成人でも一抱えするような巨大なものだ。撃てば、よほどの奇跡がない限り、絶対に命中する。

 「死ねやッ!」

 短い怒号と共に、エンゲッターは弾丸を発射。射出された凶器の鋼鉄は、疾風の速度で迫り来るイェルグの胸のド真ん中へと吸い込まれ――。

 貫く。

 弾丸の螺旋運動によってイェルグの制服は暴力的にねじ曲がり、引き裂かれ、無惨な布屑となって宙に吹き散らされる。その様たるや、満開の桜が暴風によって花びらを(さら)われるが如し、だ。

 直撃を確認したエンゲッターは、怒号を吐き出した大口をそのままに、してやったりと勝利の哄笑を上げる――はずであった。

 しかし、彼の咽喉(のど)からは、笑い声どころか掠れ声すら出てこなかった。

 代わりに大口が、顎が外れそうなほどに更に大きく開く。同時に、胸中に広がるのは、電撃的な驚愕。

 (なんだよ…そりゃ!?)

 機体のセンサー越しにエンゲッターが認識した視界の中で。胸に痛々しい大穴を開かれたイェルグは、着弾の衝撃で吹き飛ぶことがなかった。それどころか、まるで煙か幽霊であるとでも言わんばかりに、ポッカリと穴を残す以外は微動だにせず、何事もなかったかのようにエンゲッターへ接近を続ける。

 凄惨に飛び散るはずの肉片は、砂粒程度すら見受けられない。

 代わりに、エンゲッターはイェルグの身体に未曾有の構造を見出す。

 胸に開いた大穴。そして、弾丸によって巻き散らされた制服と、顔面の半分を初めとした体部を包帯のように覆う民族衣装的な布がはだけた向こう側。そこにあるのは――空虚ながらも澄み渡った、青一色である。

 それは、地球上で快晴を謳歌している時に、天上を仰いだ時に目に映る色そのものだ。

 つまりは――イェルグの体には、"空"そのものが人の輪郭に沿ってはめ込まれているのだ。

 そして弾丸は、イェルグの胸に位置する青空を虚しく貫いただけなのだ。

 

 "空の男"を自称する青年、イェルグ・ディープアー。

 その呼称は、単に彼の趣向を表しただけではない。彼自身の体構造を正しく表現した言葉でもあったのだ。

 

 (どういう生き物なんだよ、こいつ…!? こんな構造した人種、オレは聞いたことねぇぞ!?)

 狼狽を隠せぬ、エンゲッター。その表情がまるで見えているかのように、顔半分を青空で埋めたイェルグが、大きくニッコリと笑う。

 直後、イェルグが五指を広げた右手を真っ直ぐにエンゲッター機に向ける。その右腕も、人の形をした輪郭に縁取られた青一色の快晴空である。

 その空模様が、転瞬、澄んだ水に絵の具をドバリとブチ込んだように、濁った黄色の雲に閉ざされてゆく。それは右腕だけでなく、胸の穴、そして顔半分を占める空にも広がってゆく。

 雲は、イェルグの体中の空に広がり切ると、その程度の体積ではまだ足りぬとばかりに、勢いよく右掌から奔流となって放出される。

 

 イェルグの天候を操る能力の要は、彼自身の体に埋め込まれた空だ。

 その空こそが、彼に世界中のあらゆる気象を運んでくれる。

 そして今、イェルグの空を満たした気象は、やはり地球外の天候である。

 太陽系中で最高の気温を持ち、その温度は約800ケルビンと水の沸点を遙かに超える。地球上の90倍という莫大な気圧を持ち、大気の主成分を温室効果によって高熱を(はら)んだ二酸化炭素を占める。そして濁った黄色を呈する分厚い雲は、腐食性の高い二酸化硫黄で構成されている。

 硫酸の雨が降りしきる、灼熱地獄の惑星――金星の天候である。

 

 ()ッ!

 莫大な気圧が地球の大気中で爆発的に膨張した爆音を轟かせながら、灼熱地獄の奔流がエンゲッター機を一瞬にして包み込む。

 装甲が不完全なエンゲッター機は濃密な二酸化硫黄の雲に晒されると、見る見るうちに内部機関がボロボロと腐食し、暴風に煽られてボキンと折れては吹き飛ばされてゆく。

 大破し、機能不全に陥りゆく、エンゲッター機。そのフィードバックを一身に受けるエンゲッターは、ガクガクと痙攣しながら生身の口元から血の混じった唾液の泡を吹き出しつつ、言葉にならない絶叫を上げる。

 激痛のノイズまみれの思考の中、エンゲッターは消え入りそうな理性をなんとか振り絞り、機体との神経ネットワーク接続を遮断した。これによって脳活動による機体の操縦は出来なくなってしまうが、損傷のフィードバックによる激痛の豪雨から逃れられる。危うくショック死するところであった。

 「チクショウッ! チクショウッ!

 やられたのかよッ! ゾウがアリ風情に、やれたってのかよッ!」

 口元に残る唾液の泡をそのままに、エンゲッターはコクピットで地団駄を踏んで悔しがる。そんな彼の心中を更に煽るように、コクピットの全周囲を囲むディスプレイはぶつかり続ける雲の嵐を捕らえ続け――やがて、ノイズにまみれたかと思うと、プッツリと映像が途絶える。

 そして、コクピットは漆黒の闇に閉ざされる。機体の送電系統もやられたらしく、コクピット内は照明すら作動しない。

 エンゲッターは直ぐに視覚を赤外線視モードに切り替えながら、整備班に信号で通信。コクピット内に人用の銃器と、耐極限環境用の防御装備一式を要求する。そんなものを何に使うのか、と言う旨の信号が整備班から帰ってくるが、

 「早くしろッ!」

 自らも叫びながら、整備班に信号で返答すると。目前に護身用の小型低反動機銃と、結界を発生させるベルト状の装置が転送された。

 これらをいそいそと身に(まと)ったエンゲッターは、黒と緑の二種類で配色された暗闇の世界を素早く歩き、コクピットのハッチまでたどり着く。

 外に出て、イェルグに一矢報いる構えなのだ。

 冷静に考えれば、機動兵器を使わぬ交戦などエンゲッターにとって圧倒的に不利なだけだ。彼の全身は機械化されているとは言え、機動兵器の操縦用に特化されているのであり、白兵戦は考慮されていない。対してイェルグは、生身でも機動兵器と渡り合うほどの戦闘能力を持つ。

 それでも、自機を沈黙させられて激情に荒れ狂うエンゲッターは、理性などかなぐり捨てて、復讐の怨恨に突き動かされるままに行動するばかりである。

 慣れない手動でのハッチ開放を舌打ちしながら行い、格闘すること約2分程度。ガタン、という無機質な音と立てながらハッチが全開になると、エンゲッターは結界を発動させ、(つたな)いフォームで機銃を構えながら外に飛び出す。

 「オラァッ! どこに居やがるッ、クソガキッ!」

 叫びながら視界を激しく巡らせ、索敵する。

 機体の外の様子は、既に穏やかな凪に包まれている。金星の灼熱地獄も、海王星の極寒地獄も、そこにはない。済んだ大気は視界を阻むことなく、イェルグの所作によって更に破壊の進んだ街の残骸をクリアに映し出す。空は疎らな白雲と、禍々しく成長した『天国』が浮かんだ深い蒼穹が広がるだけだ。

 そんな光景の中でも、イェルグの姿をなかなか見つけられないのは、彼が隠れているからか。それとも、エンゲッターの吹っ飛んだ理性が眼を曇らせているのか。

 「何処だッてンだよッ、クソガキャァッ!」

 もう一度叫び、胸中でますます膨らむ激情を解放するように機銃を一発、ぶっ放した――その直後。

 「ここだよ」

 和やかな若々しい男の声は、エンゲッターのほぼ真後ろから聞こえた。慌てて振り向くエンゲッターだが…その動作が突如、ピタリと止まる。

 (な、なんだっ!?)

 疑問を口にしようとするが、口までもまともに動かない。必死に動かそうとおするとプルプル震えてはくれるものの、それ以上の動きは全く起こらない。

 ――またも異様な天候操作による影響か!? その可能性が頭を過ぎると、エンゲッターの激情は冷たい不安へと転落する。ようやく(もっ])て、体一つで外に飛び出したことへの危機感が鎌首をもたげたのだ。

 「またお天気の操作と思ってるようだが、違うぜ。

 あんたの影を縫い付けさせてもらっただけだ」

 エンゲッターの胸中の疑問に答えながらスタスタとした足取りで現れたのは、イェルグである。間近にして見ると、彼の体を蝕む青空の異様さがますます際立つ。

 ――ところで、"影を縫い付けた"と言っていたが、これは『影縫い』と呼ばれる有名な魔術の一つで、その名の通り、影を固定させることで影の発生元の動きを縛るというものだ。行動の動機を影に転化するという一種の定義変換を行うため、名の通りに反して高度な技術である。

 イェルグの言葉の通り、エンゲッターから延びる影の丁度頸に当たる部分に、ナイフがスッパリと突き刺さっている。

 「それにしてもアンタ」

 イェルグはエンゲッターの真正面で立ち止まると、鼻で笑いながら首を傾げて肩を(すく)める。

 「体をそんなに機械化してる割には、脳だの中枢神経の管理機関は生身の時と同じ所に配置してるんだな。

 試しに頸椎を縫ってみたンだけどさ、まんまと全身麻痺になってくれたもんだ」

 「…ど………す…!」

 エンゲッターが気力を振り絞り、咽喉の奥から言葉を絞り出す。"オレをどうするつもりだ"を尋ねるつもりであったのだが、口の麻痺の所為でうまく発声できない。

 しかしイェルグはエンゲッターの意志を汲み取ると、屈託ない笑みを浮かべる。

 「大丈夫。取って食いやしねーし、処刑だのもしねーよ。

 この事件が解決するまで、そのまま静かに待っててもらうだけさ。

 オレは殺し屋でも兵士でもない。希望を振り撒く星撒部の部員だからな」

 その台詞に、エンゲッターは生身の口を吊り上げ――少なくとも、そうしたいと努力した――また何事か言い掛ける。

 「おま………よ………た……」

 「"お前、よくもそんなことが言えるもんだな"ってところか?」

 イェルグが聞き直すが、エンゲッターは肯定したくとも首を縦に振ることすらできない。

 「だとすりゃ、あー、そっか、癌様獣(キャンサー)達のことを言ってンのか。

 あいつらを粉々にブッ壊しておいて、今度は良い子ちゃんぶってンじゃねーよ、ってな。

 大丈夫、オレは1人も、いや、1匹も殺してやしねーよ」

 イェルグは手をヒラヒラさせながら語る。

 エンゲッターは"何ふざけたことヌかしてンだよ!"と反論したくてたまらぬ衝動を覚えるが、麻痺した体は動いてくれない。しかしながら、イェルグはまたもその意志を汲み取ったようで、早々と答えを返す。

 「ビジネス柄、癌様獣(キャンサー)とは接点が多いって聞く"インダストリー"だけど、ビジネス(がたき)の生態にゃ興味ないのかね?

 あいつらの本体、つまり魂魄は、本拠である巣窟(ネスト)のクラウドサーバーと常にリンクしていてね。肉体が破壊されても、魂魄だけは巣窟(ネスト)に待避することが出来るって寸法さ。

 超再生能力の他、そんな延命システムを持ってるもんだから、"不死身"なんて呼ばれることもあるくらいさ。

 …まぁ、(もっと)も」

 そこでイェルグは笑みに凄絶な険を宿して、言い切る。

 「殺す方法がないワケじゃない。

 オレだって、殺す気ならそれなりの方法を()っていたさ」

 そんなイェルグの剣呑な姿を見たエンゲッターは、苦笑の一つも浮かべたい気分になる。――お前、殺し屋でも兵士でもないなんて台詞、よく吐けたモンだな――と。

 今回ばかりはイェルグはエンゲッターの意志を汲み取らず、すぐに笑みを普段の穏やかなものに戻し、独り言葉を続ける。

 「何はともあれ、オレの仕事はこれで終わりさ。

 アンタが水素爆鳴を起こしてくれたお陰で、最後まで踏ん張ってた癌様獣(キャンサー)の皆さんも一匹残らず吹っ飛んでくれたしな。

 男と2人きりになる趣味はないが、この際は仕方ない。ノーラが『バベル』をブッ倒すところを、アンタと一緒に見物と洒落込みますかね」

 イェルグは踵を返して、視線を投じる。

 大群を相手にしたひっきりなしの戦闘行為の挙げ句、ノーラと分かれた地点からは随分と離れてしまったようだ。『バベル』の巨体が親指程度の大きさにしか見えない。勿論、ノーラの姿は視認できない。この距離で彼女らの戦闘状況の詳細を把握するためには、紫のように魔力の余波から解析するしかないだろう。

 しかしイェルグは、特に検知行為を行わず、微妙な格好のまま固まるエンゲッターの直ぐそばにどっかと腰を下ろし、ぼんやりと『バベル』の巨体を眺めるばかりだ。

 『バベル』が(たお)れたなら、相当の魔法現象が発生するはず。それが起こる瞬間を見届ければいい。

 そんな事を思うイェルグの胸中には、ノーラの敗北など考慮に入っていない。

 (なぁ、ノーラ。

 お前になら、出来るよな。

 …見せてもらうぜ)

 そしてイェルグは、瓦解した街を走る微風に長い黒髪をたなびかせながら、ノーラの勝利の瞬間を待つ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Dead Eyes See No Future - Part 8

 ◆ ◆ ◆

 

 (どうなってる…!?)

 (まなこ)を見開き、驚愕に打ちひしがれるまま、胸中で疑問を叫んだのは、『冥骸』の勇である亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)だ。

 彼女が視線を投ずる宙空では、禍々しい『天国』をバックにして、4人――正しくは3人と1機と数えるべきであろう――が入り乱れて戦う光景がある。

 乱戦は、決して4つ巴の戦いではない。2人と1機が一方的に、たった1人を標的に執拗なまでに攻撃を繰り出していた。とは言え、その3体は手を組んでいるワケではない。時折は連携行動のようなものを見せはするが、基本的には各々の勝手で攻め続けているだけだ。故に、攻撃が噛み合わず、互いの足を引っ張り合ってしまう場面も見受けられる。

 しかし、標的となっている1体が有利になるような展開は、とてもでないが望めない。何より、彼が時間の経過と共に被る被害は尋常ではない。まるで、瓦礫を多分に含んだ渦潮の中に投じた布きれのように、見る間にズタボロになってゆく。

 標的になっている青年――ロイ・ファーブニルは、その肉体の大半を強靱な漆黒の竜と化しているが、竜鱗は無惨に剥ぎ取られ、鮮血が飛沫(しぶ)く裂傷や、青黒い重度の打撲傷を幾つも与えられている。そして今なお、傷の数は増えている。

 常人ならば――いや、常人で無かろうとも、その圧倒的不利な状況では、心が折れてしかるべきだ。虐待とも見えるような残酷な暴力よりも速やかな死を求め、眼を閉じて首を差し出すかも知れない。

 しかし、このロイという男は違う。

 どんなに叩かれ、斬られ、焼かれ、吹き飛ばされようとも――彼の金色の眼は、決して光を濁らせない。

 それどころか、更に爛々たる輝きを(たた)えて、すかさず反撃へと転じるのだ。

 そして、傷口が増えているはずなのに、疲労が蓄積しているはずなのに、痛みが激しさを増しているはずなのに――ロイの動きは加速し、振るう拳や脚、尾は鋭さを増してゆくのだ。

 (なんなのだ、あの男は…!?

 巴の戦を拒み、狙いを一身に引き受ける自殺願望者のようでいながら――その実は、真逆だ…!

 あれは、どんな絶望であろうと生命にしがみ付く者の姿だ!)

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)が地上から視線を投ずるばかりの一方で。宙空では、ロイを標的にする3体――ゼオギルド、『十一時』、そしてプロテウスが、しぶとい生命を刈り取ろうと躍起になっている。

 「早くくたばれってンだよ、ガキッ!」

 ゼオギルドが脚から巨大な金属塊と岩盤を生成し、ロイへと蹴り飛ばす。しかしロイはズタボロの体に似合わぬ鋭い烈風の動きでヒラリ、ヒラリとかわすと。竜翼をはためかせて加速し、ゼオギルドへと肉薄する。

 そんなロイの体が突如、激しくブレて急降下する。彼の頭上からバーニア推進機関を全開にして飛び込んできた『十一時』が、加速に全体重をかけた蹴りを叩き込んだのだ。

 しかも、『十一時』の攻撃は単なる物理的衝突に留まらない。彼が得意とする電磁場操作により、足からは槍のように鋭いローレンツ力が放出される。

 「ぐが…ッ!」

 身体を逆"く"の字に曲げ、鮮血を吐き出すロイ。彼の背中に新たなる黒痣が痛々しく浮かび上がる。

 しかし、ロイもやられっ放しではいない。竜尾で(もっ)て『十一時』の脚を絡め取ると、身体を突き抜ける衝動を利用してグルリと転身。『十一時』をブン回す。

 バーニア推進機関をふかして姿勢制御しながら、竜尾から抜け出そうと奮闘する『十一時』。その努力が功を奏するより早く、彼はガギンッ! と重い激突音を立てて、盛大にバウンド。その途端、ロイは竜尾の力を解いたものだから、『十一時』は弾丸のように上空へと吹き飛んでゆく。

 『十一時』がぶつかった相手。それは、眼下からプラズマの刃を備えた槍を持って飛び上がってくる、プロテウス機である。刃の直撃を免れたことは幸いと言えるが、その代わりに槍の柄に激突したのである。お陰で、プロテウス機の進路がブレて、ロイに向けられていた槍先が大きく逸れる。

 ここぞ好機とばかりにロイは羽ばたいてプロテウス機の懐を目掛けて飛び込んでゆく…が。プロテウス機は肩部装甲を展開し、複数の魔化(エンチャント)が施された重機銃を乱射する。彩り様々な輝線を残しながら空を切る、一抱えもあるような弾丸の雨がロイを襲う。

 しかし、ロイは回避に専念したりはしない。更に加速しながら、最小限の軌道修正で弾丸をすり抜けて、プロテウス機に確実に迫ってゆく。満身創痍とはとても思えない軽やかにして迅速、そして冷静な行動だ。

 遂にロイの近接の間合いにまで両者が迫ると。ロイは竜拳を堅く握りしめ、同時に爆発的な火炎を纏うと、黒い烈風としてプロテウス機の開放された肩部装甲の下を狙って拳撃を繰り出す。

 (ゴウ)ッ! 鼓膜を聾する爆音と共に赤い閃光が走る。同時に、プロテウス機は盛大な黒煙を上げながら急降下してゆく。大きなサイズ差にも関わらず、ロイの小さな拳は大きいな人型機動兵器を脅かしたのだ。

 爆煙の中、拳を繰り出した姿のまま、ロイの動きが数瞬止まる。やはりダメージは見た目通り蓄積されているようで、肩で呼吸して息を整えている。

 そんな彼を地上から見つめるばかりだった亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、ハッと思い直し、五指の爪を青く縫った両手をロイに向けて伸ばす。

 (…ド肝を抜かれている暇など、私にはない…!

 私は、悲願のために、この戦いを制しなけばならないのだから…!)

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)騒霊(ポルターガイスト)を発動。転瞬、一息吐いていたロイが顔色を青くして、身体を硬直させる――いや、金縛りに襲われて身動きが取れなくなったのだ。

 ――さて、霊的人体発火(インフレイム)で消し炭にでもしてやろうか。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)が青い唇に嗜虐的な笑みを浮かべ、術式を練り上げた、その時。

 「おっしゃあっ、サンドバッグだぜぇっ!」

 騒がしく喚きながらロイに向かってゆくのは、ゼオギルドである。今度は各々の拳に爆炎と渦潮を纏い、まずはロイの顔面を上から殴り降ろすと、流れるような動きで今度は下から腹部を抉る。無防備なロイは木偶(でく)のように喰らい、開いた口の中から血反吐をドロリと吐き出す。

 ゼオギルドがそこへもう一撃、蹴りを放とうとするところで、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)霊的人体発火(インフレイム)を発動。ロイの右脚が一瞬にして業火に包まれる。焦熱が生む激痛にロイは顔を歪めるものの、身体は悶え回ることすら許されず、鉛のような麻痺の前にブルブルと震えるばかりだ。

 生じた致命的な隙に一早く反応したのは、プロテウスだ。先の損傷による黒煙をそのままに、バーニア推進機関を全開にして素早く体勢を立て直すと、手にした槍の形状を変化。柄であった部分を展開し、幅広の歪曲次元の刀身を持つ許田な剣と成して、横薙ぎにロイの胴体を切断にかかる。

 死が目前に迫る窮地。それを前にして、正に窮鼠(きゅうそ)がネコを噛むような衝動がロイの身の内に起こったかと言うのか――ロイの左腕が、騒霊(ポルターガイスト)の金縛りを振り払ってブンブンと動き回る。筋肉の支配を強引に振り払った為に、体表から糸のような出血が幾筋が飛び出すが、もはやその程度で顔を歪めるようなロイではない。

 左腕が自由になったのを口火にして身体の硬直を一気に振り払う、ロイ。目前に迫る空間をも断する刃を螺旋を描きながら急上昇して回避する。

 しかし、プロテウス機の腕間接の機構は慣性を感じさせない鋭い動きで方向転換。上昇するロイを下から両断しようと迫る。

 対するロイは、あろうことか竜翼をいっぱいに広げてブレーキを掛け、上昇を急停止。大気分子を電離させながら接近する刃を鋭い視線で見下しながら、ヒュウッと大気を吸気。そして、牙がゾロリと並ぶ口腔を大きく開き――。

 「(ガァ)ッ!」

 叫びと共に吐き出したのは、青白い雷撃だ。しかし、ただの雷撃ではないようだ。電光の周囲はゆらぐ水面のように揺れている。

 雷撃の竜息吹(ドラゴン・ブレス)と歪曲次元の刃が衝突する。常識的に考えれば、空間に依存する物理的存在である電子の奔流は、歪曲した次元に呑まれて消えてしまうところである。しかし、電撃は刃に激突すると激しい青白の電光となって弾けたと思いきや、大剣を激しい勢いで弾き飛ばす。

 ロイの竜息吹(ドラゴン・ブレス)は、空間の歪曲をも吐き出す応用力を有しているようだ。

 竜息吹(ドラゴン・ブレス)はプロテウスの大剣を弾くだけでは勢いが死なない。そのまま広く四散すると、プロテウス機自体を撃ったり、近づこうと試みていたゼオギルドや『十一時』にも襲いかかる。

 勿論、地上に留まる亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)とて、その牙から逃れられない。なんとか回避行動を繰り返していたが、一本の電流を避けきれずにまんまと直撃を喰らってしまった。

 「あ…あ…あ…ッ!」

 怨霊(レイス)である彼女は、さほど発声に力を入れておらず、叫んだりするような行動は苦手である。それでも彼女は、全身を揺るがす激痛の前に、掠れ声ながらも、死後生命(アンデッド)となって以降最大の絶叫を上げて、地に膝を付く。

 (ここに至って、まだこんな力が…!)

 胸中に驚愕が満ちるのを振り払い、慌てて視線をロイに戻す、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)。隙を見せては、真っ先にやられてしまう可能性があるために、いつまでも激痛に打ちひしがれてはいられない。

 しかし、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)が慌てなくとも、ロイは彼女に次の一撃を与えることはなかったであろう。と言うのは、電磁場と空間歪曲のフィールドを巧みに利用して竜息吹(ドラゴン・ブレス)を乗り切った『十一時』が、ロイの眼前に接近していたからだ。

 『十一時』は、腕の周囲に離散させた尾の部位を3重の円状に纏わせた右拳を握り、ロイの顔面へと叩き込む。ロイは神懸かったと言っても過言ではない反射速度で直撃をやり過ごしたものの、『十一時』はローレンツ力による不可視の槍も発動していた。それ故に、ロイの頬の表皮がバシャンと爆ぜ、盛大な鮮血を噴き出す。

 しかしロイもやらてばかりではない。握りしめ、そして暴力的な旋風を纏った竜拳で『十一時』の頬にカウンターを直撃させる。『十一時』の頸椎がゴキリ、と悲鳴を上げて、妙な方向に折れ曲がる。

 ロイは更に『十一時』の腹部へと脚の鍵爪で斬撃を放つ。癌様獣(キャンサー)の超回復能力を見越して、攻め手を緩めないのだ。ボロを纏った『十一時』の胸部に凄惨な3筋の爪痕が走り、透明な電解質の体液がビシャリ、と宙を舞う。

 更に駄目押しとばかりに、ロイは蹴った脚の方向を転換して、後ろ回し蹴りで『十一時』を狙う――が、これは功を奏さない。

 「何無視してンだよ、ガキッ!」

 叫び、そしてロイの腕を掴んで行動を止めたのは、ゼオギルドである。声に振り向いたロイの額に自身の額をブチ当てると、激流が渦巻く拳で出血したロイの頬を抉る。

 ロイの身体がその場でグルリと回るが、ゼオギルドは掴んだ手を離さない。そのまま翻弄されるロイに次なる一撃を加えようと、行玉を輝かせる。

 しかし、やはりロイは足掻く。ゼオギルドの拳撃の衝撃を活かし、回転する力を脚に乗せて、ゼオギルドの後頭部に踵をめり込ませる。

 「んお…ッ!」

 苦悶の声を上げたゼオギルドは、たまらずロイを掴む手を離す。

 一転してロイにチャンスが到来するが、そこへ弾丸の雨霰がゼオギルド、『十一時』ごと包み込むように放たれる。プロテウス機の魔化(エンチャント)された機銃掃射だ。

 ロイはゼオギルドや『十一時』を放っておき、弾丸の雨をかいくぐってプロテウス機へと向かう。

 ――そして激闘は、途絶える気配など微塵も見せず、延々と続くかのように進んでゆく。

 

 一方で亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、再び傍観者に徹して、空中の激闘を眺めるばかり。騒霊(ポルターガイスト)等の遠隔作用を及ぼす攻撃を駆使してロイを窮地に陥れてやろう…と云う思考が、まったく芽生えないで居る。

 もしかして、複数の実力者を相手に一歩も引かないロイの気概に、後込(しりご)みを感じてしまったのだろうか?

 ――そうかも知れない。

 どんなに傷つこうとも、どんなに激痛を被ろうとも、どんなに窮地に陥ろうとも――。鮮血の紅を浴びた漆黒の竜は、絶対に眼の輝きを曇らせず、疲労に負けて肩を落とすこともせず、嵐のように手脚や尾、牙を振るい続けるのだ。

 底なしのように見える気力と体力は、不死身の超常生物を思わせる脅威を呈し、魂魄を震え上がらせる。その震撼は決して亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)だけでなく、他の3人の心にも植え付けられていることだろう。

 だからこそ、彼らは躍起となってロイという存在を拒絶しようと、絶え間なく暴力を振るうのだ。

 その拒絶行為に亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)がなかなか荷担できずにいるのは、ロイの姿からもう一つ、魂魄を震え上がらせる印象を得たからである。

 それは――ロイの、表情だ。

 傷つき、腫れ上がり、出血の絶えぬ痛々しい顔は、ずっと(わら)いを浮かべていた。

 苦痛を得て歪むとしても、ほんの一瞬のこと。すぐに嗤いを取り戻すと、翼を打って宙を掛け、拳やら蹴りやら、はたまた竜息吹(ドラゴン・ブレス)やらをブチかますのだ。

 その姿に、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は『冥骸』の同胞たる、古き死後生命(アンデッド)の口にしていた言葉を思い出す。

 「旧時代のある宗教では、地獄を6種に定義していたのだ。

 その1つに、絶え間なき闘争が渦巻く場所がある。そこを修羅界と呼ぶ。

 そして、修羅界には、永劫の闘争を(たの)しみ続ける魂魄どもがひしめているのだ。その魂魄は、修羅、と名付けられている」

 その死後生命(アンデッド)は言葉の最後に、"成仏した後に地獄に行くにしても、修羅界だけは勘弁だ。闘争なら、この現世で飽きるほど続けているのだから"と言って苦笑していた。

 視界に移るロイと言う男こそ、竜ではなく、修羅そのものではないか。

 5つ巴の足引っ張り合いであった闘争を、己1人を標的にした多対一戦を展開し、その上でなお嗤ってみせる。修羅でなくて、一体何だというのだ?

 (それにしても…)

 そこまで思考した亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、ロイの一心不乱な激闘に固唾を飲み込みつつ、胸中でポツリと呟く。

 (なぜあの男は、修羅である事に徹することが出来るのだ…?

 どんな理念があって、修羅であり続けようとしているのだ…?)

 単に闘争が好きなのだ、と答えづけも出来るだろう。だが、それでは説明の付かないことは多い。

 単なる戦闘狂ならば、昨日この都市(アルカインテール)に来た時点で、どのような相手であっても退くことなく戦いを続けていたはずだ。

 先刻、集中攻撃を受けるはずだった彼女のことなど眼中に入れず、己の闘争のみを続けていたはずだ。

 修羅は修羅でも、彼は修羅界の掟に従うだけの亡者ではない。浮かべた嗤いの裏には、燃え盛る理念がある。

 ――それはもしかして、策謀ではないか? 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は一瞬、そんな事を考えた。相反する関係の敵を一手に引き受けることで、相手が足を引っ張り合う事を見越し、隙を突いて一網打尽にする目論見があったのではないかと、訝しんだのだが。ロイの戦闘は隙を(うかが)うような小賢しいものではなく、真っ直ぐな正面突破ばかりだ。そもそも、彼が相手にする実力者は簡単に足の引っ張り合いを起こすほど間抜けではない。

 策謀でないとしたら…脳裏に浮かぶ答えは限られてくるが、有り得ない、認めることなどとても出来ない、と亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)の思考は叫ぶ。

 (あの男は、この都市国家(まち)の住人でもない。故郷だというワケでもない。

 "英雄の卵"だの呼ばれているが、突き詰めれば学生であって、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のように世界の秩序を守護する職務を背負っているワケでもない…!

 それでも…それでも、あの男が戦う理由は…!)

 ――ただ単に、護りたいのだ。もしくは、取り返したいのだ。

 路頭に迷った幼子に声を掛け、親元へと手を引いて連れてゆくように。疲れ切った老人をおぶって、代わりに家路へと歩むように。

 誰かの苦痛を己の身で受け止め、あるいは肩代わりし、笑顔を護る。護れなかったのならば、取り返す。

 その挙げ句の果てに、感謝の言葉すらも(もら)えぬかも知れない。それでも全く構わないのだ。彼自身が満足すれば、それで構わないのだ。

 ――その受け入れ難き、合理性に全く欠けた事実を覚ったと同時に。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、ロイの嗤いに込められた真の感情をも覚る。

 確かに彼は、戦闘を楽しんではいる。

 しかしそれ以上に、彼が楽しんでいるもの――いや、これから楽しもうとしているものがある。

 己の拳が(ひら)いた先に花開く、満開の笑顔。

 それを絶対に手中に収めてやる――それこそが、(かれ)の理念なのだ。

 

 懐も暖まらねば、腹も膨れぬ、ささやかに過ぎる望み。

 それを得るために必死になるロイを、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は決して笑えない。

 むしろ、霊体が大きく揺らぐほどの畏怖を覚える。

 彼女もまた、望み――悲願のために身も心も、魂魄すらも捧げた者ゆえに。

 故郷である地球の民に請われるがまま、汚れた行為をも厭わずに尽くしてきたというのに。その挙げ句の果てに、故郷を追放され、陽の光も満足に届かぬ太陽系の辺境へと追いやられた。

 その無念と憤怒を安穏と暮らす裏切り者の末裔にぶつけること。そして再び地球(こきょう)を己の大地として、堂々と足を踏み入れること。その悲願を掌中に納める執念を燃やし、血も涙も捨てて戦い続けてきた。

 戦い続けてきた、はずだった。

 ――だが。と、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、文字通り血を吐きながら戦い続けるロイの姿を見て、胸中で漏らす。

 悲願だ執念だと叫んではいるものの、自分は本当に死力を尽くして戦いに臨んで居たのか、と。

 本当に死力を尽くしていたのならば。がむしゃらに臨みにしがみついていたのならば。地球から追放されたあの日、追い立てられるがままに太陽系の外縁へと逃れたのではなく。魂魄を燃やし尽くす覚悟で自分たちの居場所を護るために、徹底的に抗戦したのではないか?

 それをせずに、今頃になって怨恨を吐き、地球に横槍を入れている姿は――眼前の賢竜(ワイズ・ドラゴン)と比べて、あまりにも卑小だ。

 そんな意気のない自分が――理論的に生命に限りがないくせに、影でコソコソ動くばかりの自分が、太陽のように意気を輝かせる相手(ロイ)に、果たして(かな)うのだろうか?

 ――亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、未だ動けない。青い唇を悔しそうにも、羨ましそうにも歪めながら、ひたすら死闘に視線を投じているばかりだ。

 

 そんな彼女の目の前で――。

 ロイの文字通り血の滲む努力が、遂に実を結ぶ瞬間が到来する。

 

 (ゴウ)ッ! 激しい閃光と共に爆音が響き渡ったその時、黒煙に紛れてパラパラと破片が降り注ぐ。雹にしては大きすぎるその破片は、金属製の装甲や機械が破砕したものである。

 もうもうたる黒煙の中、飛び出して来たのは、プロテウスの機体である。その右腕はゴッソリと消滅し、無惨な破壊の断面からは電光と黒煙が巻き上がっている。

 直後、プロテウス機を追って黒煙から飛び出したのは、ロイだ。彼は右拳を繰り出した格好のまま、翼の推力で前進している。

 この光景から亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は瞬時に覚る。ロイの攻撃が遂に、プロテウスの機体の腕をもぎ取り、爆砕したのだ。

 プロテウス機は距離を取るべく、全身の推進機関を全開にして逃走を続ける。"インダストリー"には、転移換装の技術がある。十分な時間が稼げれば、失った腕を付け替えて修理することが可能だ。

 ロイは、プロテウスの目論見を十分に理解している。故に彼はすかさず空を駆けて、追いすがるのだ。

 その途中、横合いから飛び込んでくる者がいる。不可視の電磁場のブレードを携えた『十一時』だ。プロテウスに気を取られているところを斬り払いに来たのだ!

 離散させて2本の尾から形成した、3つのブレード発生器が空を薙ぐ。同時に、不可視の刃がロイの首やら胸やら腹部やらの細胞を抉り、みるみる裂傷を創り出す…が。

 「退けよッ!」

 ロイは苦痛に立ち止まることなく、それどころか翼を打って更に加速し、『十一時』の懐に飛び込むと。鉤爪の輝く脚を振るい、『十一時』の身体に逆袈裟の斬撃を与える。

 電解質の体液だけでなく、金属細胞の破片もブチ撒いた『十一時』は、思わずブレードを解除してその場で大きく仰け反る。

 ロイはそんな『十一時』の腹に竜拳抉り込むと、『十一時』の身体ごと突進を継続。逃げるプロテウス機へと追いすがる。

 プロテウスは装甲のあらゆる部分から弾丸やビームを発し、ロイに対抗する。が、ロイは速度を殺さず巧みに身体を左右に振ってやり過ごしながら、確実にプロテウスへと肉薄し――。

 遂に、プロテウスのもぎ取られた右腕の付け根へと到達する。

 プロテウスも、諦めない。残る左腕を振るって、ロイへ一撃を喰らわそうと動くが――。

 もしもプロテウスが、逃げを第一の念頭におかず、ロイを迎撃するつもりであったならば、左腕は間に合ったかもしれない。

 しかし、及び腰になってしまった彼は、一途に打破へ向かい続けたロイに比べて、遙かに鈍くて遅かった。

 だから、ロイが『十一時』ごと抉り込んで来た拳を、まんまと傷口にブチ込まれてしまった。

 「あああああッ!」

 激しく漏電する機械回路に埋め込まれた『十一時』が、苦悶の声を上げて悶える。するとプロテウス機の傷口は更に掻き回され、ボロボロと部品を(こぼ)しつつ広がってゆく。

 そんな両者から、距離にして2歩ほど飛び退いたロイは、牙の生え揃った口で凄絶にニヤリと嗤い、そしてスゥー、と大きく意気を吸い込む。そして、

 「寝てろッ!」

 怒号と共に、大きく開いた口腔から飛び出したのは、電撃を(まと)った業火の巨大な奔流である。

 電流は一瞬にして『十一時』、そしてプロテウス機の全身を駆けめぐり、その構成分子をイオン化させる。直後、灼熱のエネルギーがダメ押しとばかりに押し寄せ、構成物質は溶融あるいは昇華すらお越し、両者を激しく破壊する。

 ついには、プロテウス機の動力機関である精霊式/核融合混合型エンジンを蝕むと、火霊と雷霊が暴走。生み出された巨大過ぎるエネルギーに絶えきれなくなったエンジンは、大爆発を起こす。

 (ドウ)ッ! 衝撃波が空間を揺るがし、火霊の赤と雷霊の黄が混じり合いながら大気を暴れ回る、凶悪な花火が空を彩る。

 

 これでロイの相手の内、二角が一片に消し飛んだ。

 だが、戦いは終わりを迎えていない。

 

 「ヒャアッハァッ!」

 脳の血管が沸騰しているようなハイテンションな声を上げて、爆発の中から飛び出してくる者がいる。ゼオギルドだ。

 彼は右手の火行の行玉を限界まで酷使し、爆発で生じた火霊を支配すると。巨大な業火の拳を作り出して、ロイに迫る。

 対するロイは――爆風にも翻弄され、更に傷を増した身体ながらも、しっかりとゼオギルドを見据えていた。

 そして、翼を打つと、真っ直ぐにゼオギルド目掛けて突撃する。

 「遅ぇッ!」

 ゼオギルドはロイに罵声をぶつけて、右拳と共に業火の巨拳を振り下ろす。彼の言葉通り、如何に満身創痍のロイが素晴らしい身体能力を発揮して高速で飛翔しても、業火の巨拳をすり抜けることは不可能だ。

 間違いなく、頭から直撃を受けてしまう。

 その程度の状況判断は、ロイとて把握しているに違いない。それでも彼は、怯むことなく、真っ直ぐに…ひたすら真っ直ぐに、業火の巨拳を――その向こうに(たたず)むゼオギルドを目掛け、突進する。

 故に、ロイは防御体勢を取る(いとま)もなく、業火の中へと突っ込み――完全に、飲み込まれてしまった。

 「バァーーーカッ!」

 炎の中に消滅したロイを嘲り、ゼオギルドがベロリと舌を見せて叫ぶ。"インダストリー"の機体ごと、超回復能力を有する癌様獣(キャンサー)を打破した爆炎の直撃だ。賢竜(ワイズ・ドラゴン)がいくら先天的に魔力に秀でた稀少人種と言えども、骨まで消し炭になったはずだ――そう確信し、勝利に色めき立つ。

 ――だからこそ、業火の中に人影が浮かび上がったのを目にした時は、顎が外れそうな程の驚愕に襲われ、絶句する。

 そう――ロイは、生きている。

 見事に、巨拳の業火を潜り抜けて見せて、だ。

 とは言え、ロイの身体は無事とは程遠い。ところどころで竜鱗が無惨に剥がれた体表は、炭化したり、今なお炎を上げて燃えている部位すらある。ロイは業火の中を進む最中、何らかの身体魔化(フィジカル・エンチャント)を使ってはいただろうが、殆ど気休め程度であったことだろう。

 彼は、己の身体と力を信じて、がむしゃらに業火を突っ切ったのだ。

 そして今、驚愕するゼオギルドの前に、"してやったり"と訴える嗤いを浮かべて、肉薄する。牙がゾロリと輝く凄絶なその表情は、(ドラゴン)の名に恥じぬ迫力を持つ。

 「ちっくしょ――」

 ゼオギルドは慌てて足の行玉を黄色に輝かせる。金属塊を生成して、ロイを迎撃するつもりだ。

 しかし、今度遅かったのは、ゼオギルドの方であった。

 ロイは、金属塊の生成が始まったばかりの行玉に、業火を纏った拳をブチ当てる。その業火は、先に突っ切った巨拳の魔力を拝借し、更に増幅したものだ。

 「火剋金、だったけなッ!?」

 ロイが叫んだ、その瞬間。ゼオギルドの金行の行玉がバキンッ! と痛々しい音を立てて破砕。硝子(ガラス)質の破片と共に、噴水のような血の奔出が宙に躍る。

 「ああああぁぁぁあああッ!?」

 ゼオギルドがビクンッ! と身体を硬直させて、叫ぶ。彼の身を(さいな)むのは、行玉という器官を完全破壊された激痛だけではない。その身に五つの強力な行玉を宿していた彼は、五つの属性の均衡を保つ事で身の内の魔力を制御していたに違いない。その均衡が崩れたことで、体内の魔力が暴走を始めている。その衝撃もまた、ゼオギルドの身に強烈な負担を掛けている。

 「そんでもって――」

 叫ぶゼオギルドの真正面に到達したロイは、業火の拳を再度構えると――。

 「木生火、だったよなぁッ!」

 (ひね)り込みながらの拳撃を、露出したゼオギルドの胸部に埋め込まれた木行の行玉に直撃させる。

 転瞬、(ゴウ)、と爆音が響く。同時にゼオギルドの身体はジェットエンジンに炙られたような炎の奔流に包まれた。暴走した木行が火霊を受け入れ、その勢いを際限なく増加し、ゼオギルドの身を焼いたのだ。

 もはや、ゼオギルドは声も出せない。

 胸の行玉も破砕され、胸腔に収まる内臓の一部までも殴り潰され、更には体表を黒煙が上がるほど焦がし尽くされた彼は、白目を剥いて糸の切れた操り人形のようにダラリと五体を投げ、重力の為すがままに大地へと落下した。

 

 遂に三角目が、崩れる。

 残るはただ一角――亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)、ただ1人。

 

 倒れて動かぬ3体が散る大地に、ロイは黒い稲妻の如く急降下して降臨した。

 その身体の惨状は、見る者が息を呑むほどの有様だ。立っているのが不思議に思えるほどの満身創痍。翼には大きな穴が開いているし、焦げて縮れた紅の髪の中から生えた角は2本ともポッキリと折れている。

 それでもロイは、脚を振るわすどころか、猫背にすらならず、堂々と大地に直立する。

 そして、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)に向き直り、剣呑な限りの眼を鋭く吊り上げて、視線を投じてくる。それに触れただけで、肉体も魂魄も貫き通されてしまうような、凄みを含んだ視線だ。

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、震撼する。どう見ても瀕死とすら形容できそうな姿をしたロイに、魂魄がさざ波立つ怯懦を覚える。

 ロイが、折れて不揃いになった鉤爪の並んだ両足をゆっくりと、だがしっかりと交互に動かし、歩み寄ってくる。一歩ごとに地面が揺らぐような威圧が、その姿から沸き上がっているかのようだ。

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、青い唇が歪むのを抑えきれない。霊体の輪郭がぼやけるのを抑えきれない。

 しかし彼女は、胸中で怯懦を必死に押し込めるべく、自身を奮い立たせる。

 (こいつにも理念があるように…!

 私とて、叶えたい悲願がある…!

 その口火が私自身の惰弱から生まれたものであろうとも…!

 今の私にとっては、紛れもなく悲願そのものだっ!)

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、歪めた青い唇を堅く引き結ぶ。

 同時に、ありったけの霊力を練り上げると、大気中に漂う思念を強制的に実体化。彼女を中心に漆黒の影が円形に広がり、粘っこい溶岩が噴き出すようにヌラリと持ち上がると、各々が骸骨やら腐乱死体の姿を持ち、手に手に武器を構える悪霊と化す。その数量は、優に20を越える。

 (こいつは、ボロボロだ…!

 畳み掛ければ、必ず、(たお)せる!)

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は大きく口を開くと、金切り声を上げて号令と成す。転瞬、悪霊達は滑るようにロイへと一斉に接近する。

 悪霊が夜の帳の如くバッと広がり、ロイを包み込むようにして各々の武器を振るう。

 ――その光景と、ほぼ同時だった。ロイが動いたのは。

 彼は、声を上げなかった。駆け出しもしなかった。拳も握らなかった。むしろ、その場で歩を止めてみせた。

 そして、漆黒の竜翼だけをバサリと大きく広げると、力強く一羽ばたきしてみせた。

 瞬時に巻き起こった、一陣の颶風(ぐふう)。それは瓦礫やプロテウス機のバラ撒いた部品を激しく巻き上げながら進み、悪霊の群に激突する。

 悪霊の群ははじめ、颶風に絶えて拮抗状態を成していた。だがやがて、悪霊達の体が紙きれのようにメリメリと翻弄されながら持ち上がると、颶風の渦に飲み込まれて吹き散らされてゆく。

 遂には、悪霊達は一陣の煙も残さず、大気の奔流の中に消滅してしまった。

 ――翼のたった一打ちで、攻撃を無効化してみせた。

 その愕然とした事実に、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)の表情が色を失い、五体がダラリと脱力する。

 思わず作り出してしまった隙に滑り込むように、ロイが大地を蹴って一気に加速。「あ」と言う声を発する間もなく、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)の眼前まで接近する。

 彼女が本能的な抵抗を見せるより早く、ロイは彼女の霊体の顔面をガッシリと掴むと、後頭部から大地に叩き伏せる。

 形而下に実体化した霊体の感触や質量は、真綿に似ている。故に、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)の体の激突によってだけでは、大地は抉れない。だから、ロイの腕が生み出した衝撃によって、彼女の頭の周囲の大地がガゴンッ! と派手に陥没し、その頭をめり込ませる。

 霊体に食い込む竜掌の合間から、ロイの紅に染まった凄む表情が見える。

 「どうすンだ?」

 ロイが、尋ねる。

 「もっとやり合うか?

 もしも、やり合うってンなら――」

 ロイは牙の合間から、熱い呼気と共に強く言い切る。

 「オレは、絶対に負けねェ」

 

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)は、逡巡する。

 怯懦に飲み込まれながらも、彼女の理性が遠く叫んでいる。

 悲願はどうするのか、と。

 お前だけの悲願ではない。『冥骸』に所属する全ての死後生命(ものたち)の悲願なのだ、と。

 手強い競合相手は、もはや(ことごと)く沈んだ。目の前にいる相手も、弱り切っているはずだ。

 あっと一歩で、手が届くはずだ!

 …それでも、彼女は動けなかった。

 遠く叫ぶ理性の声を聞いてはいても、そちらに向かうことは出来なかった。

 ――もう終わりだ。

 いや、既に終わっていたのだ。

 彼女は、理性の――いや、妄念の声に静かに蓋をする。

 目前に居るこの賢竜(ワイズ・ドラゴン)の青年の姿に、理念に、衝撃を受けたその瞬間には、既に終わっていたのだ。

 彼女は、ロイ・ファーブニルに感服していたのだ。

 その事実を受けれた瞬間、亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)のこわばった青い唇が、柔らかさを取り戻す――。

 

 「私の、負けだ」

 蝋燭(ともしび)の灯火のようでありながら、いかなる風の中にも紛れて消えてしまうことのない、小さいながらもはっきりとした声。

 それが世界にポツリと漏れた瞬間。最後の一角がポッキリと折れると共に、壮絶な五つ巴の激闘に幕が降りる。

 

 ロイ・ファーブニルは、堂々たる勝者となった。

 

 亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)の言葉を耳に入れたロイの顔は、凄みの表情から一転して向日葵のような笑顔が咲くと。竜掌から彼女の顔面をすんなり解き放つと、真っ直ぐに立ち上がる。

 激闘の終結に気が緩んで脱力することなく、あくまで満身相違の体をビシリと正し、真っ直ぐに天を()いて立つ。

 そして、握った拳を高く、高く持ち上げると。

 「ッシャアァッ!!

 終わったぜェッ!」

 未だ牙の収まらぬ口を大きく開き、都市国家(まち)中に響き渡るような轟声を張り上げた。

 まるで、都市国家中に散らばった己の仲間達の耳と届けと言わんばかりである。

 それからロイは、拳を引いて脇腹に置くと、視線をとある方向に向ける。

 ゼオギルドが完全に沈黙するも、未だ青々と茂る異形の林が広がっているが、ロイの視線が見つめるのはその先に広がっている光景だ。

 その方向には丁度、ノーラと『バベル』が居る。

 賢竜(ワイズ・ドラゴン)という種族は、先天的に魔力の扱いに秀でるのみならず、魔力の感知についても鋭敏であるようだ。ロイは戦闘の最中でも、『バベル』とその膝元で戦うノーラの魔力を感じ取っていたようだ。

 (今度はお前の番だぜ、ノーラ)

 ロイは胸中で、視線の向こうに居るはずのノーラに語りかける。

 彼は今、ノーラの魔力が急激に萎んだことも感知している。それが十中八九、彼女にとって良からぬ事態が起きたことを示すだろうことも把握している。

 それでもロイは、表情を曇らせることなく、むしろ清々しい表情さえ見せている。

 (お前なら、絶対にやれるさ。

 同じ戦いを潜り抜けて仲だからな、それくらい分かる。

 だから――)

 ロイは、遠いノーラを鼓舞するかのように、胸元の高さまで拳を持ち上げる。

 (勝て!)

 

 ――と、一通りノーラを応援したところで。

 ロイは乱れた紅の髪をボリボリ掻きながら、地に倒れたまま動けずに居る亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)へと、まず視線を向ける。

 続いて、ゼオギルドや肉塊のようになった『十一時』、ゴミの山となったプロテウスの機体と視線を巡らして、再び亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)に視線を戻す。

 そして、ポツリと呟く。

 「また暴れられると、厄介だもんな…。

 紫のヤツ、近くに居るみたいだからな。コイツらを確保するの、手伝ってもらうとするか」

 そう独りごちると、もはやボロ布になった上着に辛うじて残った内ポケットの中からナビットを取り出したのであった。

 

 ロイからの通信を受けた紫は、レナと共に大騒ぎを起こしたことは言うまでもないことである。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Dead Eyes See No Future - Part 9

 ◆ ◆ ◆

 

 死。それは人類をはじめとする生物達に、どのような感覚をもたらすのであろうか。

 唯物論が席巻していた旧時代においては、この疑問はナンセンスの極みであった。脳の活動が停止した時点で意識は失われるので、感覚など存在し得ない。完全なる無に帰すだけであると、科学者たちは結論づけていた。

 存在の形而上相が科学的に実証された現在においては、脳とは魂魄と肉体をリンクさせる器官として定義されている。旧時代での所謂"死"――つまり肉体の活動停止が起こっても、魂魄は健在である。つまり、感覚が無に帰すとは限らないワケである。

 肉体とのリンクを絶たれた魂魄には、複数の選択肢が与えられることを魔法科学は実証している。それを大別するれば、選択肢は2つのタイプに分類される。

 すなわち、人生を継続するか否か、だ。

 継続することを選んだ者は、死後生命(アンデッド)として世界にもう一度生を受ける。つまり、"死"が同時に第二の誕生の場となるワケだ。

 対して、人生を終えることを選んだ者は、一体どうなるのか。

 観察によれば、魂魄は様々な変化を行うことが知られている。定義を維持したまま、何処かへと転移する。定義を変化させて、何処かへと転移する。もちろん、そのまま消滅してしまうこともある。

 転移した魂魄が向かう先は何処か。また、魂魄の定義が変化したり消滅したりした場合、感覚はどうなるのか。この問いについて、魔法科学はまだ解答を手にしておらず、科学者たちは躍起となってその答えを探している。

 特に、後者の疑問は"感覚の喪失"という生物の本能的恐怖に関わる可能性があるだけに、研究の熱意は非常に高い。

 

 ――さて。心肺の臓器を欠損したノーラは、旧時代で言うところの"死"に直面している。

 彼女は己の魂魄の現状がどうなっているのか――維持されているのか、変化しているのか、それとも消滅に向かっているのか――把握してはいない。それどころか、まともに思考を巡らせることすら出来ない。

 強烈な眠気に襲われた時のように、思考が鈍重だ。

 その一方で、彼女は"視覚"を知覚している。

 眼球に依存した視覚ではないらしく、全方位がくまなく視界に描画される。しかし、描かれた世界像は酷く曖昧だ。眩しいほどの白色が広漠と続き、その中を何らかの黒い模様のパターンが蠢いている。模様は水に溶けて(にじ)んだ墨字のように詳細が全く把握出来ない。

 そんな光景の中、ノーラの鈍重な思考は、暢気(のんき)にぼんやりと呟く。

 「死んでも、感覚ってあるんだね…」

 その時だ。彼女の言葉に合わせるように、『声』が現れる。

 (まだ君は、死んでないよ)

 『声』の音色を、ノーラは知覚できない。子供のようにも老人のようにも、男性のようにも女性のようにも聞こえる。音色は視覚と同様にぼやけていながらも、言葉の意味だけはしっかりと思考に刻み込まれる。

 しかし奇妙なことは、『声』はすれどもその主の気配が全くないことだ。

 「誰…?」

 ぼんやりと素直に尋ねると、『声』はクスリと笑う。肩があるならば、(すく)めているだろう響きだ。

 ("誰"という言葉は適切ではない。

 だから、その質問には答えられない)

 なぞなぞのような回答にノーラは思考を巡らそうとするが――鈍重さに阻まれたので、すぐに止める。気力が、全く湧かない。

 ノーラが『声』を聞き流していると、『声』が勝手に言葉を次ぐ。

 (君に、"権利"を引き渡す時が来た。

 受け取りなさい)

 そう告げられた直後、ノーラの鈍重な思考に鋭敏な刺激が入り込んでくる。

 「!!」

 肉体があるのならば、彼女は顔を上気させ、体を大きく仰け反らせたことだろう。それは甘美と激痛の両面を備えた、暴力的官能とも云える刺激である。

 (君に名前も返さなくては。役割を思い出してもらうためにも。

 君の名前は、)

 「止めてッ!」

 ノーラは、一方的な刺激を拒絶すると、思考で叫ぶ。肉体があれば転げ回っているところだが、どうやら魂魄だけとなっているらしい彼女も、"暴れる"と似た事象を起こしたらしい。

 『声』はピタリと刺激の挿入を停止すると、言葉を告げる。その時の『声』からは、はっきりとした驚愕と失意が聞き取れる。

 (万人が羨む権利だよ。何故、拒むんだい?)

 『声』の語る通り、それはノーラの本能――肉体を離脱している今、それが魂魄に起因するものか、それとも更に上位の定義に起因するものか、判断はつかない――は、刺激に対して諸手を上げて歓迎していた。それでもノーラの理性が本能を振り切って拒絶したのには、もちろん理由がある。

 ノーラの自己が、完全な他意によって無理矢理に書き換えられてしまう不快感。

 その電撃的な衝撃と共に、鈍重なノーラの思考が晴れ渡る。夢の世界に完全に没入している時はどんなに無茶な舞台設定でもすんなりと受け入れているのが、はっと我に帰って異様さを知覚する――丁度そのように、ノーラは自身の人生を、課せられた使命を取り戻す。

 (こんな所で呆然としてる場合じゃない…!

 戻らないと…! やらなきゃいけないことがある…!)

 意識が冴えると、夢の世界は急激に遠のき、知覚は現実世界へと引き戻される。それと同じく、このぼんやりした世界が急速にドロリと融解し、暗転こそしているものの明快な感触が存在する世界へと、ノーラの意識は帰順してゆく。

 『声』は己の世界から去ってゆくノーラを名残惜しむように語る。

 「君が"権利"の卓に付けば、もっと面白くなっただろうに。本当に残念だ。

 だがね、"権利"の椅子は永遠の存在だ。君は何時か必ず、そこに座る。君たち人類の言葉で言えば、それが運命と言うものだ。

 それまで1世紀程度待とうが、問題はない。もはや数億年を歩んだ身だ。待つのは慣れている」

 『声』が言及しているものは何か? "権利"とは何のことだ? そもそも、『声』の正体は何なのか?

 疑問は尽きないものの、ノーラは今この場で追求することはしない。一刻も早く、不快感を与えてきた『声』から離れたい…そんな激しい嫌悪感のままに、現実へと戻る。

 ――そう、今はやらねばならない事がある…! その種を撒いたのは、自分自身だ…!

 こうしてノーラは、不快なる死の世界から、現実へと舞い戻る。

 

 『バベル』、そしてそれを操るヘイグマンは、(よだれ)が垂れんばかりの卑猥は笑みを浮かべて、地に倒れたノーラの体を眺めていた。

 仰向けになり、五体が全く脱力した、美しい褐色の肌を持つ少女。その表情は捨てられた人形のように呆然とした失意に染まり、白目を剥いてる。そして何より目を引くのは、胸にポッカリと開いた大穴。

 背中にまで貫通する穴の断面からは、全く出血が見受けられない。傷口が中途半端な定義崩壊によりドロリと融解しているため、血管が塞がれているようだ。

 殺人鬼ならば、そんなノーラの肢体を詰まらなく感じたかもしれない。しかしヘイグマンは、勃起が止まらぬほどの興奮と共に満足していた。

 この凛然とした美しい少女が、血液などに汚れては(はなは)だ残念なだけだ。

 「凛々しく、美しい姿のまま、私に屈服するのだよ。戦乙女」

 ヘイグマンは唾液の糸を引きながらねっとりと語り、『バベル』の腕をノーラへと伸ばす。

 遂に、気高き女という存在を、偉大なる『バベル』の一部へと組み込む瞬間がやってきたのだ。

 ヘイグマンの枯れた胸を突き破らんばかりに、心臓が興奮で暴れ狂う。

 「いよいよですな! いよいよなんですな! 我が(バベル)が『天国』を手にするのですな!」

 3Dディスプレイ越しに、ツァーインが溶けた両腕を狂ったようにバサバサ振り動かしながら叫んでいる。しかし、ヘイグマンは彼の声を雑音としてすら認識していない。

 ヘイグマン、そして『バベル』が求めるのは、ノーラの肉体と魂魄のみ。

 (さあ、さあ、さあ…! 来るが良い、我が力の一部となるが良い、戦乙女!)

 震える『バベル』の手が徐々に加速し、ノーラに覆い被さってゆく。その巨大な掌がノーラの姿を完全に隠し、ヘイグマンはあと数瞬で触れるだろう甘美な感覚を想像し、はぁ…、と深いため息を吐く。

 

 ――もしもヘイグマンが、"凛々しく美しい戦乙女"という存在に執着を持たず、淡々と目的遂行のために動いていたのならば。思春期の少年のような興奮の衝動に駆られていなければ。

 『バベル』の中に起こり始めた異変を感じ取り、警戒することもできたかもしれない。

 しかし彼の眼は、思考は今、『バベル』の死んだ眼と同じように濁り曇っている。

 ――故に、まんまと『反撃』を喰らった。

 

 「は…?」

 ヘイグマンは、笑みのまま表情を固めて、間の抜けた声を上げる。

 同時に、3Dディスプレイの向こうでは、ツァーインが騒ぐのを止めて、顎が外れそうな程に大口を開けている。

 2人が見る先にあるのは…宙を舞う、『バベル』の巨大な五指。

 『絶対安定』という完璧な防御に護れているはずのそれが、見た目通りの病的に脆弱な肉塊として、易々と切断されている!

 そして、舞う指の影から飛び出した人物に、ヘイグマンもツァーインも更なる驚愕を喚起させられる。

 「馬鹿な…っ!」

 3Dディスプレイを隔てた二人が、見事に声をハモらせて、その人物を見入る。

 溶融して抉られた大地の上を、(かす)かな土埃を舞い上げながら、閃く銀の斬跡と共に現れたのは――ほんの数瞬前まで遺体同然の姿で地面に転がっていた、ノーラその人である!

 しかも、彼女の胸にはポッカリとした大穴が開いたままだ。

 「馬鹿な!? 何故だ!? 何が起きた!?」

 恍惚とした恍惚から一変、困惑の奈落に突き落とされたヘイグマンは、ブワリと冷や汗の噴き出る顔を両手で抑え、叫ぶ。

 彼の頭の中には、疑問がグルグルと激しく渦巻いている。――どうして『絶対安定』が破られたのか? 何故、心肺を失った戦乙女(ノーラ)が動き回っているのか?

 答えを見つけられず、ひたすら困惑に翻弄され続けるヘイグマン。そんな彼に同調した『バベル』が、ぼんやりと切断された掌を見つめるばかりでいる間に…ノーラが更に動く。

 身を翻しながら、手にした大剣を大きく、素早く振るう。今度彼女が狙ったのは、『バベル』の手首だ。

 濁った白色に染まった人体の接合で出来た禍々しい肉塊は、鋭い銀閃をすんなりと身の内へと受け入れる。斬撃は太い手首を切り落とすには至らなかったものの、パックリと深い谷間のような傷口を与える。

 一瞬の後、傷口から真紅の体液が間欠泉のように噴出する。

 この頃に至って、ヘイグマンはようやく『バベル』からの痛覚のフィードバックを知覚。切り裂かれた激痛そのものを味わい、絶叫すら出来ず歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、腕を押さえてうずくまる。

 その腕の手首と五指には『バベル』の傷口と全くの同位置に、真っ赤な蚯蚓(ミミズ)腫れがクッキリと一直線に走っている。特に五指は、腫れから指先にかけた部分が屍を想わせるほど病的な白色に染まっている。『バベル』からのフィードバックが感覚のみならず肉体にまで影響を与えているのだ。

 絶句して悶えるヘイグマンと『バベル』を交互に見比べていたツァーインは、やがてハッと思い出したようにコンソールに向き直る。『バベル』の状態のモニタリングと状態の微調整を行えるその器具に、溶融して動きのままならぬ手でぎこちなくポチポチとコマンドを入力。『バベル』に何が起こっているのか、解析に取りかかる。

 ヘイグマンを映す3Dディスプレイの隣に、『バベル』の形而上相の構造を描画する3Dディスプレイを表示する。この情報は、『バベル』の体内に予め設置していた生体計器からの情報を視覚化したものだ。この計器もまた非人道的行為の賜物であり、数人の新生児の脳を連結して形而上相の認知演算能力を極大化したものである。

 その計器の"眼"を(もっ)てしても、『バベル』の形而上相の構造は高密度に過ぎる術式によって、点が面に見えるような有様だ。

 「我らながら素晴らしいものを作り出したと自分を誉めたくなる反面、個々の部位を紐解く手間にはうんざりするものだな…ッ!

 クソッ、せめて手が自由ならばッ!」

 ツァーインは舌打ちしながらコンソールと数分間、奮闘を繰り広げる。ようやく認識格子(グリッド)を非常に細分化し、集合および融合している魂魄間の結合の状態を目にしたツァーインは。

 「な…なんだ、これはッ!」

 個人的感情から起因する予想だけでない、魂魄物理学の観点からも予想だにしていなかった事象が、そこに存在する。

 その様相を例えるのならば…一つの動物を形作る細胞の一つ一つが多細胞生物として群体を形成する事を放棄し、単細胞生物の一個体として遊離を始めている…そんな光景である。

 「どうして、こんな綻びが出る!? 何が引き金(トリガー)になっている!? こんな自然則の定理に外れた事象が、存在し得るワケが…!」

 ツァーインは魂魄融合の破綻が激しさを増す方向へと計器の視点をスライドさせる。

 やがてツァーインが見つけたのは、よほど神経を尖らせて居なければ見過ごしそうなほどに小さな"発生源"である。

 それは、魂魄にしては小さな体積(形而上相で形而下相的な表現をするのはナンセンスであるが、人間の視覚的には"体積"と云う表現が一番しっくりくる)を持つものである。周囲の魂魄を成人とすれば、この魂魄は新生児ほどもないくらいだ。

 しかし、体積の小ささに見合わず、この魂魄は非常に強烈な主張を行っている。それが引き起こす干渉によって、群体として従順な魂魄が次々に遊離してゆく。そして遊離は伝搬し、緩やかなドミノ倒しのように『バベル』の全体へと波及してゆく。

 「なんだ、なんだというのだ、この魂魄は!? ちっぽけなサイズのくせに、これほどの大事を引き起こ――」

 ツァーインの罵声はピタリと止まったかと思うと、突然彼は「あっ! あっ! ああっ!」と声を上げて、(まなこ)を震わせる。

 ちっぽけなくせに、主張の強い魂魄。そして、『バベル』を傷つけた、胸に穴を開けた少女。その2つ、彼の中でしっかりとした線に繋がったのだ。

 「そうか、そうか、そうかぁっ!

 なんてヤツだッ! あれは戦乙女でも、女神でもないッ!

 あれは、鬼子だッ!

 こんなの正気の沙汰じゃないッ! 賭けにも程があるッ! ヒトの選択肢であるものかッ!

 鬼子でもなければ、成し遂げられるはずがないッ! 成し遂げようと決断できようはずもないッ!」

 

 ツァーインが慌て喚く間にも、ノーラは胸に穴を開けたまま、『バベル』の周囲を機敏に動き回っては、大剣を振るって斬撃を繰り出す。

 ノーラが手にする大剣は、士師と戦った時のようにゴテゴテと機関で武装したものでもなければ、分析に使っていた時のような分厚い刃を持つものでもない。肉切り包丁を巨大化したような、斬撃に特化しただけで内部機関など存在しない、シンプルな構造の逸品である。

 その刃が『バベル』の白い肉をスゥーッとなぞる度に、無抵抗にパックリと傷口が開き、真紅の体液が噴出する。その度にヘイグマンは歯噛みしたり、口角から泡を吹き出しながら無音の絶叫に大口を開いて悶えたりする。

 ノーラは心肺を失っているはずにも関わらず、風や雷のように『バベル』の周りを飛び回っては、呼吸を整える素振りさえしてみせる。まるで、穴の開いた胸部に、今も心肺が健在であるかのように。

 ――いや、"あるかのように"ではない。

 見た目通り、胸部には収まっては居ないが…ノーラの心肺は事実、健在であり、正常にガス交換および全身への血液循環を行っている。

 そんな彼女の心肺が何処にあるかと云えば――『バベル』の体内だ。

 先刻、『バベル』の指先に突かれて定義崩壊し、吸収されたはずの胸部。実際は吸収されたワケではなく、『バベル』の体内に"侵入"し、ノーラの体の"飛び地"として機能しているのだ。

 物理的距離としては離れていようとも、形而上相における定義としては両者の間に距離などない。ノーラが呼吸した空気は『バベル』の体内にある彼女の肺へと転送され、酸素をたっぷり含んだ血液は心臓からノーラの体へと転送される。そんな人体分断の手品のような事象が起こっているのだ。

 故に、ノーラの穴の断面からは血液が漏れることなどない。定義崩壊による溶融で傷口が塞がっているのではなく、形而上相の観点で言えば"傷口は存在しない"のだから。

 そして、このノーラの体の飛び地こそが、彼女が『バベル』に仕掛けた罠であり、絶対安定の防御を覆す鍵なのである。

 

 ノーラがこの方法を思いついたのは、『バベル』によって体細胞や血液を操作された時である。

 ヘイグマンは、その攻撃をノーラを絶望と矜持の葛藤に追いやる最適の手段として見なしていたが。彼にとって最大の不幸だったのは、ノーラが定義変換(コンヴァージョン)に非常に長けた戦士であったことだ。

 ノーラは、体内に送り込まれた『バベル』に操作された分子達が、如何にして自身の細胞――ひいては、それを構築するタンパク質分子に干渉するか、よくよく観察していたのだ。

 更には、自身の分子の魂魄強度を巧みに制御することで、『バベル』の体内に吸収された分子を"スパイ"として潜伏させることに成功。内部から『バベル』の形而上相的構造を――特に、絶対安定に関連する構造を探っていたのだ。

 その結果、ノーラは『バベル』の魂魄結合構造をほぼ完璧に把握したと同時に、胸中でこう評価した。

 (まるで…熱狂的信者で溢れる新興宗教だね…!)

 ノーラの言の詳細を説明するに先だって、魂魄のみならず万物に共通する"安定への志向"というものについて言及せねばならない。

 自然界において、原子が単独で存在し得るのは希ガス元素のみである。その他の原子は複数個が組み合わさった分子としてしか存在し得ない。それは何故か。

 希ガス以外の元素は、単独では量子力学的な安定を得られないからである。原子は最外殻軌道に電子が基本的に8つ存在せねば安定になりえないことを、旧時代の時点で量子力学が明らかにしている。しかし、希ガス以外の元素は最外殻軌道の電子数が安定個数を満たしていない。

 では、希ガス以外の元素は如何にして安定を得るか。答えは単純明快である、足りない原子(もの)同士が電子を共有し、最外殻軌道の電子数が8つになるように調整するのである。

 この事情はより小さなスケールである重粒子(ハドロン)の世界にも当てはまる。こちらは電子数の代わりにカラーと呼ばれる量子数が関わるが、それを補い合うことで安定となる規定値を実現する。

 『バベル』とは、これらのモデルを魂魄に当てはめた有機的装置である。

 魂魄もまた、原子や重粒子(ハドロン)と同様に、常に安定状態を求めて止まぬ不安定な存在である。この事実は高度な魔法科学が数学的に導くまでもなく、経験則から容易に理解出来る事実である。外的な刺激、つまり経験という名の事象を得ることにより、ヒトを初めとするあらゆる生物が感受性や思考パターンと言った魂魄由来の形而上的性質を変化させるからだ。もしも魂魄が安定した存在であるならば、いかなる刺激を受けようともこれらの性質は不変でなければならない。

 この観点に立つと、生物体とは魂魄をより安定なレベルに導くために経験を取り込むためのデバイスに過ぎない、と言うことが出来る。

 さて、完全に安定した魂魄とは何であろうか。経験を得ることでより安定に近づくというのであれば、それはありとあらゆる経験を得た存在――つまり、全知であると言えよう。全知からは直ちに全能を導き出すことが出来る――全知があらゆる手段の実現方法を導くからである。

 つまり、完全に安定した魂魄とは、全知全能の存在――つまり、"神"に他ならない。この結論を逆に辿(たど)れば、ヒトを初めとするあらゆる生物は"神"に至る事を生の目的としていると言える。

 魔法科学において、この理論を基底にして生命および魂魄の深淵を探求する一派は、"至天派"と呼ばれている。

 さて、これらの理論から、『バベル』の定義崩壊からの魂魄吸収および絶対安定の絡繰りを解き明かすことが出来る。

 『バベル』は人体を魔術的に結合することによって、魂魄の融合を実現した存在である。個々の魂魄は異なる経験を持つ。それらが、原子が分子構造内にて電子を共有するように、互いの経験を共有することで全知に近づき、安定性が増す。融合する魂魄の数が増えるほど共有される経験の数は増加し、安定性は高まってゆく。

 生物の魂魄よりも遙かに高い安定を実現したところで、『バベル』は自身の安定性を世界に主張する。すると、不完全な魂魄は安定を求め、『バベル』との結合を望むようになる。

 『バベル』が降臨した時に叫びや、ノーラとの戦いの際に巨拳にまとった漆黒の顔。それらは、『バベル』による世界への安定主張の手段に他ならない。

 新興宗教の教義に救いを見出し、盲信を始める純朴な白痴のごとく――(いたずら)に安定を求める魂魄は『バベル』に言いくるめられ、自らも安定の一員となるために形状を――つまりは、定義を変化させる。これが『バベル』による定義崩壊である。つまり、厳密には崩壊しているワケではなく、融合に適した構造へと変質しているワケである。

 こうして『バベル』は大量の魂魄をその身に集め、安定性を激増させる。その量がとある莫大な閾値を超過した時、『バベル』は烏滸(おこ)がましい主張を世界にぶつける。

 個の魂魄に対して、圧倒的な安定を誇るという事実。これを(もっ)て、絶対安定である、と主張したのだ。

 その強烈な主張は、知識の浅い幼子に百戦錬磨の弁護士が怒濤の理屈をぶつける有様に似る。『バベル』に比べて余りに脆弱な個々の魂魄は主張に反論することが出来ず、こぞって"絶対安定"を認めるようになる。

 やがて、世界もまた『バベル』の絶対安定の主張に屈してしまう。世界とは、魂魄の認識によって定義付けられた相対的な入れ子である。つまり、定義の根幹である魂魄がこぞって認識を固めてしまえば、世界はそれに従うざるを得なくなる。

 こうして、絶対安定という鉄壁の防御が実現したワケだ。

 この絡繰りを文字通りに身を削ることで知り得たノーラは、己の定義変換(コンヴァージョン)の技術を頼みに、即座と言っても過言でないタイミングで打開策を見出した。

 (『バベル』が魂魄の結合と同調によって絶対安定を生み出しているなら…!

 個々の魂魄の足並みを乱してしまえば良い…!)

 即ち、ノーラの魂魄の一部を『バベル』に送り込み、『バベル』の主張を内部から論破するという策略である。

 その実践は、ツァーインが言う通り、賭けとしては余りに分の悪いものである。『バベル』に送り込んだ魂魄が主張に取り込まれてしまうのではないか? そもそも…魂魄の一部を送り込むということは、体の一部を『バベル』へと差し出す必要がある。しかも、どこでも良いワケではない、生命を確立させるに重要な器官を含む部分でなければ、有効な魂魄の働きは期待できない――例えば、脳や心肺がそれだ。これらを身体から切り離した上で、ノーラ自身の身体であるという定義を維持したまま、生命活動を維持出来るのか? 想定されるリスクは致命的である。

 実際、心肺を差し出す結果となったノーラは、"死"を体感した――少なくとも彼女はあの白い世界での体験がそうであると考えている。

 しかし、あの不快な"死"の世界のやり取りが、ノーラに幸として働いた。

 『バベル』の主張に埋もれ欠けていた彼女の魂魄は強く自我を取り戻した。『バベル』内部に送り込まれた心肺はノーラの一部であるという認識を取り戻し、力強く機能を再開した。

 そしてノーラはすかさず、『バベル』内部の魂魄に向けて説得を始める。胡散臭い新興宗教にのめり込む者達に教義の矛盾や無為を突きつけ、目を覚まさせようと奮戦するが如くに。大量の盲信者の中、孤独に説得の声を張り上げた。

 それは、『バベル』にとっては小さな、小さな針に刺された程度の不快感であっただろう。

 だが、開けた穴がどれほど小さかろうと、針の傷口は出血を伴う。丁度そのように、ノーラの小さな働きは、確実な突破口として機能した。

 (やかま)しいノーラの説得に耳を傾ける魂魄が現れてゆく。その数は初めは、たった1つであったかも知れない。しかし、その魂魄は説得を受け入れたのだ。これを口火に、ノーラの説得の声は徐々に『バベル』へと波及してゆく。

 こうして結合した魂魄の足並みが乱れた『バベル』は、安定を失ってしまう。もはや世界も、絶対安定など認めたりしない。

 

 今や『バベル』は、見た目通りのグズグズに柔らかくなった肉の巨塊と成り果てた。

 

 (ザン)ッ! 鋭い銀閃が天へと向けて一直線に走ると、『バベル』の四つん這いになった右腿に深々とした裂傷が刻まれる。血液の噴出と共に腿は力を失い、『バベル』は倒れ込んで惨めな(うつぶ)せの姿を晒す。

 「んぬぅあああぁぁぁッ!」

 ヘイグマンは腿に走った激痛に青筋を浮かべて絶叫し、デスクチェアから文字通り転げ落ちて悶えて回る。軍服越しにはうっすらと塗れた赤色が滲んでゆく様子が見て取れる。『バベル』からのフィードバックが、遂に肉体的な実損傷として現れるまでになったのだ。

 「クソッ、クソッ、クソッ!

 あの小娘、小娘、小娘ェッ!」

 悶え回りながらもヘイグマンは罵声を上げつつ、『バベル』に指令。ノーラを捕らえて捻り殺すよう、暴れさせる。

 『バベル』はなんとか四つん這いの姿勢を取り戻すと、ノーラを探して死した3つの眼をカメレオンのようにギョロギョロ動かし、ズルズルと這い回っては視界に入ったノーラに拳を振り下ろす。

 しかし、悲しいかな――元々鈍重な『バベル』は、傷ついたとは言え機敏な動作を見せるノーラに、拳を(かす)らせることさえ出来ない。(かえ)って無茶な攻撃によって生まれた隙を突かれて、斬撃を食らうのが落ちだ。

 「クゥゥソォォォッ! アバズレがッ、アバズレがッ、アバズレがぁッ!」

 時と共に増してゆく激痛を燃料に、ヘイグマンは脳が湯立つほどに怒り狂い、やたらめたらに『バベル』を暴れさせる。

 そんな彼に、3Dディスプレイ越しのツァーインが慌てた声を上げる。

 「気をしっかり持って下さい、大佐殿! 核となる大佐殿が安定を欠いては、『バベル』の崩壊はますます進みますぞ!

 …ああっ、なんということだッ! 我が子よ、なんと痛ましい姿にッ!」

 ツァーインが嘆く『バベル』の姿は、安定などという言葉とは余りにほど遠いものへと成り果てていた。その姿を例えるならば、腐り切ったプリンとでも言うべきだろうか。新生児様の姿は溶けたアイスのようにグニャリと歪み、大振りに動く度に身体の端からビチャビチャと濁った白色の滴が零れ落ちる。『バベル』の存在定義が大きく揺らぎ、形而下的にも崩壊が始まったのだ。

 しかし、ノーラの攻撃の手は休まない。あくまでも苛烈に、絶え間なく、容赦なく、隙や死角を手厳しく突いては斬撃を嵐のように浴びせる。

 (まだ…! もっともっと…! 徹底的に…! 心が完全に折れるまで…! "痛めつける"…っ!)

 彼女が胸に抱く意志は凶暴とも言えるものだが、とは言え決して加虐的快楽だとか怨恨のためだとか云った理由に[[rb:因よ]]るものではない。そんなものは元より、眼中にない。

 彼女の行動理念は、単に『バベル』を(たお)すことを目的としていない。『バベル』に屈してしまった魂魄達を正常に解放すること…それだけが、彼女の真っ直ぐに向かう目的なのだ。

 ノーラの"殺さず"に"痛めつけ"続ける行動は、傍目からは陰惨な(いじ)めに見えることだろう。実際、彼女自身も己の行為に表情が歪む想いだ。それでも彼女は心を鬼にして、斬る、斬る、斬る――斬り続ける!

 その痛みに、不快感に、恐怖に、『バベル』を構築する魂魄達が現状を(うと)んじると共に、ささやかな安定を謳歌していた元の姿を求めるようにするために。その衝動こそ、魂魄達を『バベル』から解放し、元の姿へと戻すための鍵だ。

 「アバズレェェェッ!」

 ヘイグマンが痛みを噛み殺すように絶叫すると、『バベル』もまた歪んだ大口を開いて咆哮を放つ。しかし、その轟声はもはや、定義崩壊を呼ぶことはない。万物はすでに、『バベル』に羨望を寄せてはいない。

 『バベル』は未だに拳を振るい続ける。しかし、それは真闇の中を無闇に怖がる幼子が腕を振る舞わして強がるのと全く同様の行動だ。拳はもはや、ノーラを追っていない。

 むしろ、ヘイグマンはすでに、ノーラを『バベル』の感覚で追うことが出来なくなっているのだ。

 『バベル』の崩壊は更に進み、子供が作った泥人形のような醜悪な姿を晒している。先刻には体表を覆っていた不気味にして繊細は人体を模した突起物は、もはや影も形も見当たらない。崩れ果ててしまったのだ。体表の崩壊と同様に、『バベル』の体内の器官もドロドロに崩れ、正常に機能などしていない。

 辛うじて形を保っている眼球は、一斉にダラリと脱力して地面へと瞳を落としたまま、ピクリとも動かなくなる。死した眼は、本当の意味で、死に閉ざされたのだ。

 更に更にと、苛烈に斬撃を繰り出し続ける、ノーラ。その辛苦に耐えかねた『バベル』が――遂に、その身を小さく小さく縮めてうずくまり、動かなくなる。それは、崩れたババロアを無理矢理集めて山にしたような姿だ。

 一方で、ヘイグマンは床にうずくまり、ブルブルと震えながら「ひっ…ひっ…」嗚咽を漏らしている。腕で囲んだ顔は涙と(はな)でグッショリと濡れ、元は英雄だとか鬼だとか称された兵士とは思えないほど情けない泣き顔を浮かべている。

 「大佐殿…大佐殿ぉ…!

 もはや、もはや、もはや…その体たらくでは、我が子(バベル)はぁ…!」

 3Dディスプレイ越しに、ツァーインもまた泣き声を上げてつつ、デスクを叩いている。『バベル』と云う自身の最高傑作が、どうすることも出来ないほどに壊れ果ててしまった悔恨。そして、『バベル』を任せられると信じたヘイグマンが挫折した幼子のように惨めに縮んだ情けなさへの憤怒と怨恨。かと言って、いくら強く感情を向けたところで、どうにもならないという虚脱感。それが混じったツァーインの声も動きも、気怠く緩慢なものになっている。

 やがて、『バベル』の身体から――斬撃を受けてもいない部分から、ポトリポトリと白い巨大な滴が垂れて、地面をユルユルと滑り、『バベル』から遠のいてゆく有様が散見されるようになる。『バベル』という集合体を嫌い、個としての魂魄が自身の意志で逃げ出し始めた瞬間である。

 ――遂に、『バベル』は完全に安定とは無縁の、魂魄が混沌と蠢くばかりの塊へと成り果てたのである。

 

 ノーラが目指した、"トドメ"を与える瞬間が、遂にやってきた!

 

 ノーラは『バベル』の真正面へと飛び出すと、仁王立ち。表情が完全に死に絶えた『バベル』の顔面へ――力を失い、濁っただけの3つの眼に、鋭い視線を向ける。

 (そんな眼で、『天国』なんか…! 可能性溢れる未来なんか…掴めやしない…!)

 ノーラは愛剣を両手持ちすると、天を衝くように真っ直ぐに持ち上げる。その銀色の刀身が陽光を浴びて黄金の輝きを放った…その時、彼女は満を持して定義変換(コンヴァージョン)を行う。

 シンプルな銀色の大剣は、刀身がタイルをめくるようにパタパタと折り畳まれて姿を消してゆく。それに反して(つか)(つば)の部分の体積が膨れ上がり、複雑な機関を擁する機械部品へと変貌を遂げる。

 最後に、完全に姿を消した金属の刀身に代わって、太陽の如く(きら)めく黄金の炎柱が天高く延びる。その全長は、溶融してなお優に10メートルを越える体高を誇る『バベル』を悠然と越えるほどだ。

 揺らめきながら輝く刀身を"炎柱"と称したが、これは実際には炎ではない。形而下相的には高密度の電磁場の収束であり、荷電粒子によるビームブレードに似る。しかし、形而上相的構造は、ビームブレードよりも断然に複雑だ。そこには、物体を焼き切るための術式や定義は一切存在しない。代わりにあるのは、力強い"言葉"の渦だ。

 今や地獄の混沌と化した『バベル』から、個々の魂魄達を完全に説き伏せて解放へと引き上げるための万語のエネルギーが、形而下的には光熱の形で描画されているに過ぎない。

 (『天国』を…未来を手に入れたいなら…ッ!)

 ノーラはヒュッと鋭く呼気して後、続く言葉を声の(いかずち)と化して、叫ぶ。

 「曇った(まなこ)なんて、必要ないッ!」

 そしてノーラは、煌々たる巨大な刀身を『バベル』の脳天目掛けて一直線に振り下ろす。

 

 「やめろォッ!」

 声すら出せぬヘイグマンに代わり、ツァーインが拒絶の声を上げる。彼は溶けた手先で必死にコンソールをいじり続け、『バベル』の健在化に尽力していたが…。

 その甲斐は、全くなかった。

 『バベル』の濁った白いブヨブヨの肉は、すんなりと輝きの刀身を受け入れた。

 転瞬――まるで、堅い(つぼみ)が春の日差しを浴びて綻ぶように――刀身が沈んで斬り分けられた傷口から、フワリフワリと花弁のような白が浮き上がる。

 この白こそ、『バベル』に組み込まれていた魂魄達だ。彼らはノーラの万語の剣をすんなりと受け入れ、息苦しい『バベル』を次々と離れてゆくのだ。

 音もなく、輝きの刀身は『バベル』を切り裂いてしてゆく。同時に『バベル』は次々と肉体を散らし、その体積を激減させてゆく。頭が消え、胸が消え、腹が消え――。

 遂に『バベル』が完全に両断されると。残った股間から足先までの部分が渦巻きながら膨張したかと思うと、弾けて魂魄の花弁を盛大に散らした。

 『バベル』の結合が、完全に消滅した瞬間である。

 すると――『バベル』を維持するために内在していた形而上相的エネルギーが行き場を失い、爆発的に解放される。それは直径数キロもの半径を有する巨大な光の柱となり、天空を――蒼天を鷲掴みにするように覆う禍々しい『天国』へと至り、貫く。

 『天国』に、光の柱の色が乗り移ってゆく。それは真夏の太陽にも劣らぬ煌々たる(まばゆ)い光を放ち、蒼天を黄金に染めぬく。

 そして――輝く『天国』は音もなく、大小の細やかな亀裂に覆われてゆく。まるで、薄氷の上に一石を投じた時のように。やがて亀裂によって分断された『天国』の破片は光の滴となってゆっくりと地へ下りながら、宙空へと蒸発してゆく。

 『混沌の曙(カオティック・ドーン)』以後の史上では、全く観測されない事象だ。『天国』が消滅したという記録はあるが、それは蜃気楼のように不意に消え去ったと伝わる。今のように、破片へと砕け散ったという話は全く聞かない。

 もしかすると、この『天国』は、本当の意味では『天国』ではなかったのかも知れない。『バベル』が世界に主張することで絶対安定を実現したように、この天空の存在もまた、『バベル』の主張によって作り出された紛い物の『天国』であったのかも知れない。

 その真相はやがて、いずこかの世界的研究機関の手によって解明されることであろう。しかし今は、誰もその答えを得ることは出来なかった。

 大抵の者は真相を得るよりも先に、『バベル』と『天国』の崩壊に、感激やら感嘆、或いは悲泣の念を抱くばかりで、空を染める輝きに見入るのであった。

 

 「やっぱ、やってくれたよなッ、ノーラ!」

 ねじくれた林の中、5つ巴の戦いを制してなお、満身創痍で立つロイが、天空の輝きにも負けぬ満面の笑みを浮かべながら拳を打ち合わせ、光の柱の元に居るノーラを称えた。

 「ご苦労さん、その一言しか言えないよな。なぁ、"インダストリー"のロボットおっさん」

 空の身体を露わにしたままのイェルグが、身動きのとれぬエンゲッターのツルリとした機械の頭頂をポンポンと叩きながら、物言えぬ相手に同意を求めた。

 「うっひょー! 眩しいなぁっ!

 ノーラちゃんってばホント、太陽にも負けないくらい輝いてるぜッ!」

 巨大癌様獣(キャンサー)、『胎動』の上に完全にのしかかった巨大機動兵器のコクピットの中で、大和が眼の上に掌で(ひさし)を作りながら、瞼を半分閉じながら叫んだ。

 「ふぅー! これでもう、ケンカをする理由は完全になくなったね! じーちゃん、ばーちゃん!」

 呆然と空を仰ぐ死後生命(アンデッド)の群の中、ナミトが花のような笑顔を振り撒きながら語り掛けた。

 「まさか…ホントに、ブッ壊しちまうなんてな…!」

 定義崩壊を免れた者が寄せ集まる方術陣の中で、蘇芳が驚愕に引きつったような、小躍りしたくなる衝動に震えるような、微妙な表情でポツリと呟いた。

 「我々、市軍衛戦部の総力を以てしても敵わなかった相手を――更に盤石なった状態になったアイツを、たった独りの少女が撃破したなんて…」

 珠姫が地面にへたり込んだまま、呆然と呟く。

 「あんな大人しい雰囲気してても、やっぱり暴走部の一員ってワケか…! ハンパねぇなぁ! 化物(バベル)どころか、『天国』までバラバラにしちまいやがった…!」

 レナが、口角をヒクヒクと痙攣させながら、驚愕や賞賛よりも困惑といった様子で独りごちた。

 そんな3名の発言を一通り耳にした紫は、普段の嫌味を利かせた笑みをニヤリと浮かべてみせる。

 「ただブッ壊しただけじゃないわよ。

 あの娘は、救って、そして解放してみせたのよ。

 その証拠に、ホラ」

 紫は、珠姫の足首の方を指差す。

 珠姫の足首は、『バベル』の定義崩壊によって溶融し、失われていた…はずだった。しかし今、そこには何事もなかったかのように靴も衣服もまとまった脚が、しっかりとついている。

 それはつまり、『バベル』に囚われていた魂魄が、あるべき場所へと全く以て正常に還った事を意味していた。

 

 解放された魂魄の喜びに都市国家(アルカインテール)中が輝く一方で――。

 身内すら我欲のための駒として使い捨ててみせた元凶の2人――ヘイグマン大佐とドクター・ツァーインは、その報いを受けることとなった。

 まず、ツァーインの方である。彼は『バベル』の微調整および状況のモニタリングを行っていた計器を通して、『バベル』崩壊時のエネルギーの逆流を一気に浴びることとなった。

 計器は黒煙を上げる(いとま)もなく爆裂し、激しい勢いで部品を四方八方に吹き飛ばす。それらの物体はツァーインの肉体にめり込んだり貫いたりと、彼を散々に傷つけたが…ツァーインはその一々に悲鳴を上げる余裕などなかった。

 彼の身には、更に凄まじい障害が起こっていたのだ。

 太陽光の色彩を呈するエネルギーが、ダムの放水と見紛うような勢いで彼の身体に衝突した瞬間。彼の全身の皮膚、そして表層筋の一部が一気に溶融した。

 「あああああぁぁぁぁぁッ!」

 損傷した神経が剥き出しになったツァーインは、体表中の筋繊維の隙間からジンワリと染み出してくる血液を眺めながら、ジクジクと脈打つような激しいい疼痛に絶叫し、転げ回る。

 すると床に擦れる刺激が更に疼痛を煽り、ツァーインを更なる苦獄に陥れるのだ。

 「あああああッ! あああああッ! ああああああああああッ!」

 瞼が消え去り、ギョロリと盛り上がった眼球をビクビクと痙攣させながら、唇を失った口が顎の外れるくらい開いて、絶叫を垂れ流し続ける。

 その叫びが止まるのは、脳が疼痛に屈して意識が遮断される時か。はたまた、声帯が完全に破壊された時であろう。

 …しかし、ツァーインよりも惨憺(さんたん)たる被害を(こうむ)ったのは、『バベル』と生体器官でリンクしていたヘイグマンである。

 彼は、ツァーインのように絶叫する暇すら与えられなかった。

 『バベル』の崩壊と同時に、頭に埋め込まれた生体共振器官がピカッと激しく輝いたかと思うと。光の爆発は一瞬にしてヘイグマンを飲み込んだのだ。

 余りにも(まばゆ)い光によって網膜の細胞が死滅するのは、ほんの一瞬のことであった。その最期の瞬間、ヘイグマンが目にしたのは、溶けるどころか水の中で攪乱されて消えてゆくトイレットペーパーのように宙空に蒸発する、己の両腕であった。

 視覚が暗転したヘイグマンであったが、その一瞬後には酷く眩い世界に放り込まれていた。その場所が一体何なのか――旧時代から言われている"あの世"というものなのか。それとも、魂魄が属する形而上相の一層が知覚されたものなのか。それを知る術は、ヘイグマンにはない。

 そもそも、知ろうとする暇すら与えられなかった。

 彼は、全身を押さえつけるような、はたまた引っ張って引き裂こうとするような、激しい拘束感と激痛に苛まれたのだ。

 (なんなのだッ! なんだと言うのだッ!)

 叫ぼうにも、ヘイグマンから声は出ない。それもそのはずだ。彼は今、魂魄として形而上相の一層を漂う存在となり果てている。発声すべき肉体は、形而下世界においては煮凝(にこご)りのような姿となり果てて、床に薄く広がり染みのようになっているのである。

 今、ヘイグマンの身――というか魂魄に起こっていること。それは、真の意味での魂魄の破壊である。

 『バベル』という人為的存在を使い、超常的存在である『天国』を掌中に納めようとした事に、"神"なる存在の怒りを買ったのだろうか? その真相を解明することは出来ないが、とにかくヘイグマンの魂魄は世界によって八つ裂きにされようとしていた。

 (なるものか…ッ! やらせるものか…ッ!)

 ヘイグマンは必死で足掻く。魂魄だけになるという経験は初めてのことだが、自身の存在の消滅という危機に瀕しては、形而上的な本能が働いているようだ。彼は世界の腕を必死に振り払い、かい潜り、逃げまどう。

 (何か…ッ! 何か、逃げ込めるものは…ッ!)

 ヘイグマンは魂魄の視界で、形而上相の世界を見回す。そこには『バベル』から解放された多数の魂魄達が見受けられる。しかし、彼らの助けを求めることは出来ない。『バベル』に憎悪と拒絶を抱いた彼らは、『バベル』の気配をプンプンさせているヘイグマンを嫌悪している。彼らに近づけば、世界と同様にヘイグマンの魂魄を引き裂くことであろう。

 『バベル』にさほど負の感情を抱くことのない存在。出来れば、壮健な肉体という砦を持った、強靱な存在。そいつを探し出して、その身に(すが)らなくては…!

 ヘイグマンは必死に形而上相を飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ――!

 その足掻きが、彼に幸いを運んだらしい。彼の視界は、そして嗅覚は遂に、美しくも(かぐわ)しい、それでいて敵対心の薄い存在を見出したのだ。

 (寄らせろ、寄らせろ、寄らせろ――ッ!)

 ヘイグマンは、その存在へと一息に飛び込む。

 

 アルカインテールで奮闘していた星撒部の部員達の大半は、それぞれが勝利や勤めを果たし、輝きを謳歌していたが――。

 ただ1人、輝きを謳歌するどころか、暗澹たる敗北に屈する寸前に追い込まれている者が居る。

 蒼治・リューベインだ。

 『パープルコート』の凶暴なる狩人、チルキス・アルヴァンシェ中尉と文字通りの死闘を繰り広げていた彼だが、その戦果は全く(かんば)しいものではない。

 むしろ、惨死に(ひん)するほどに、窮地に陥っていた。

 (なんて…ことだ…ッ!)

 咽喉>(のど)がヒューヒューと鳴るほどに荒れた呼吸を繰り返しながら、重篤な披露と失血で朦朧とした思考の中で苦言を呈する。

 彼の身体は、至る所に深々とした刺し傷やら銃創やらに満ち満ちており、制服はパリパリに乾いた、もしくはネットリと塗れた赤黒い血で汚れきっている。紺色の混じった黒髪も血糊と脂汗でボサボサに固まっている。

 そして、顔も血糊や傷にまみれてボロボロの状態だ。特に酷いのは右眼である。上瞼がザックリと切れて腫れ上がり、視界が閉ざされてしまっている。

 蒼治は片膝を付いた格好のまま、動けずに居る。左腿の傷が大きすぎて、止血や痛覚遮断の身体魔化(フィジカル・エンチャント)を使ったところで、筋肉が言う事を聴いてくれない状態だ。一度は筋肉の強制活性化を試してもみたが、壊死が加速するばかりで益がないのを感じ取り、慌てて解除している。

 一方、蒼治の死闘の相手であるチルキスと言えば…。彼女もまた、数々の傷を得てはいるものの、蒼治に比べれば軽傷と言える。琥珀のような褐色の肌は疲労にくすむどころか興奮の紅潮を呈し、浅く早い呼吸を繰り返す唇からは甘い息が吐かれている。瞳は艶然と潤んで輝き、蒼治のような破滅的な印象は微塵も見えない。

 蒼治とチルキスの差。それは、チルキスの狡猾な戦闘技術が蒼治を上回ったということもある。しかしそれ以上に、蒼治の心に時代錯誤的なフェミニズムに近い感情がこびり付いていることが決め手となっていた。

 蒼治の相手が癌様獣(キャンサー)や"インダストリー"の機動兵器だったならば。彼は悲観的な表情を(たた)えながらも、もっと(うま)く立ち回ることが出来たはずだろう。

 しかし、蒼治の銃口はチルキスの頭や胸をまともに狙うことなど出来ず。戸惑いの隠せぬ弾道は、狂った肉食獣のように闘争を楽しむチルキスを捉えるには、あまりにも不甲斐がなかった。

 (動け…ッ! 動かなければ…ッ!)

 蒼治は辛うじて双銃を掴んではいるっものの、ダラリと垂れ下がったまま動かぬ腕に気合いの鞭を入れる。しかし、腕はプルプルと震える程度に動くばかりで、数センチも持ち上がってはくれない。

 そんな彼の脆弱な姿を嘲笑(あざわら)いながら、チルキスは赤い舌で返り血に染まる親指をペロリと舐めると。甘く熱い吐息の混じった上気した声を漏らす。

 「イノシシとしては物足りなかったけど…子鹿と思えば、結構楽しめたよ…眼鏡クン。

 命のやり取りをするのは最高だけど…いたぶるって云うのも、また一興だよね…」

 チルキスは手にした、手製のカスタマイズを重ねた猟銃の銃口を蒼治の額にポイントしたまま、軍服のズボン越しに股間をさする。

 それからチルキスは、銃口をそのままに、視線だけを輝きに染まる天空へ、そして天空を貫く巨大な光の柱に向けると。ふぅー、と冷たいため息を吐く。

 「あの枯れ木のじじい、ザマ無い程目論見を叩き潰されて、ご愁傷様だよねぇ。

 でも、退屈で死にそうだった私にこんな余興を()れたんだもの。感謝はしておこうかしら。

 …ま、死んじゃったかも知れないけど」

 独りごちた後、再び視線を蒼治に戻すと、彩りが剥げたものの艶やかなピンク色を呈する唇をペロリと舐め回しながら、引き金にゆっくりと力を込める。

 「お祭りはお開きみたいだからさ。

 こっちもお開きにしよっか。

 それじゃ、バイ――」

 チルキスが死出への送別の文句を言い終えようとした、その時。彼女の身に、突如異変が起きる。

 「…あ…?」

 間の抜けた疑問符が口から漏れた、その直後。チルキスの全身が一気に脱力する。全ての糸を一片に切り取られた、操り人形のように。

 それまで濡れるほどに[[r:昂>たかぶ]]っていたチルキスであったが。電気ショックを延髄に浴びたように瞳孔が収縮して見開かれ、手足が重力の為すがままにくずおれる。

 何が起きたのか見当が付かず、見送るばかりの蒼治の目の前に、チルキスの驚き惚けたような表情が降ってくる。そればかりか、チルキスは更に蒼治よりも頭を低く落とすと…そのまま瓦礫の大地に倒れ伏す。…そして。

 「あ…あ…あ…っ、ああ…あああ…っ!

 あああああああああああああっ!」

 初めは途切れ途切れでぎこちなく、徐々に拷問でも受けた時のようにハッキリと騒々しく、チルキスは喚き叫び始める。生理的な神経もおかしくなっているようで、涙やら鼻水やら唾液、果てには股間からは尿までもが(あふ)れ出している。

 「な、なんなんだ…」

 あまりの激変に思わず声を出してしまう、蒼治。

 彼が壮健ならば、形而上相を視認して解析することで、チルキスの異変を正確に読み解いたことであろうが。そんな気力も集中力もない彼は、ただただチルキスの無様な姿を見下すばかりである。

 

 チルキスの身に起こった惨事。それは、肉体に他者の魂魄が無理矢理侵入してきた事である。

 その"他者"とは、世界の罰を必死に逃れて来た、ヘイグマンだ。

 彼にとってチルキスは、『バベル』を退屈しのぎとして歓迎していた事に加え、意識が蒼治にばかり集中していた第三者の介入を警戒していなかったと云う都合の良い存在である。

 更に言えば、ヘイグマンが男性の身であるが故に『現女神』となる権利を先天的に失っていた事への不満を覆すための、恰好の的でもある。つまり、チルキスの肉体と適合する事により、女性としての二度目の生を授かろうとしているのだ。

 しかし、その実現は決して容易ではない。むしろ、困難を極めると評して過言ではない。

 元来、生物の脳とは、肉体に対応する固有の魂魄に特化したニューロン・ネットワークを形而下的には勿論、形而上的にも構築する。それは先天的多魂魄性多重人格者においても同様のことだ。

 そこに、非適合な魂魄が混入することは、壊れやすい容器の中に形の合わない物を無理矢理詰め込む様子に似ている。

 それは当然、拒絶反応を引き起こす。チルキスが留めなく体液を漏らし、体中が痙攣しているのはそのためだ。

 最悪、事態は更に悪化し、脳が破壊されて生命活動が停止することさえ有り得る。

 肉体を失ったヘイグマンにとっては、万が一のチャンスとしてメリットが有るだろうが…侵入された方のチルキスとはしては、破滅的なデメリットを背負うばかりの良い迷惑でしかない。

 

 「やめ…わたし…わ…し…このからだ…やめ…っ!」

 ブクブクと泡立つ唾液の合間から苦しげに譫言(うわごと)を呟く、チルキス。その様子を見下すばかりの蒼治は、自身の危機を脱した喜びよりも、把握できない状況に困惑した様子で立ち尽くしている。

 そんな時だ。蒼治の耳にエンジンの音と瓦礫をかき分けるゴトゴトというタイヤの音。そして、呼び声が聞こえてきたのは。

 「おーいッ、眼鏡の兄ちゃんよッ!

 無事かぁッ!」

 蒼治が鈍い身体に鞭打って首を回すよりも早く。彼の側に土煙を上げながら、金属の塊が驀進して来て横付けする。それは、アルカインテールの市軍の装甲車だ。

 そして、運転席の扉を開いて顔を出したのは、黒い肌にドレッドヘアが特徴的な運転手。レッゾ・バイラバンだ。

 彼は『バベル』起動後、蒼治がチルキスとの交戦に入った際に、蒼治からの指示で場を離脱していたのだ。実際、場に留まっても足手まといになるのが目に見えていたので、後ろ髪引かれる想いを振り切ってレッゾは退避したのである。

 それでも、蒼治のことは気にかけていたようで、装甲車のセンサーを使って逐一モニタリングしていたようだ。そして、交戦が停止したのを確認し次第、すぐに車を走らせたらしい。

 レッゾは蒼治の満身創痍を見るなり、「うっわ! よく立ってられるなッ!」と声を掛けながら駆け寄ると、すぐに肩を貸す。そして、装甲車の人員収納スペースへと運び入れると。備え付けの簡易ベッドを手早く組み立て、蒼治をその上に寝せた。

 「相当ヤバい相手だったンだな、あのねーちゃん…。

 癌様獣(キャンサー)だって楽々撃破してた兄ちゃんが、こんなザマになるなんてな…!」

 「楽々じゃ…ありませんよ…」

 蒼治は苦笑を浮かべようとしたが、顔中に走る痛みの所為(せい)で表情が酷く歪んでしまった。

 そんな蒼治の謙遜をレッゾが笑い飛ばした、その直後。運転席に向かおうと転身した彼は、地面に転がるチルキスを見つけて、ギョッとする。

 「げッ…あのねーちゃん、ピクピクしてるが生きてるじゃねーか…!

 さっさとトドメ刺してくるぜ!」

 レッゾは舌打ちしながらポケットの中から拳銃を取り出し、踏まれたイモムシのように気怠く悶えるチルキスへと歩み寄ろうとする。

 「い、いえ…! 待って…下さい!」

 蒼治が精一杯掠れた声を上げると、レッゾは顔だけで振り向き、太い唇を歪めて唾棄する。

 「おいおい、にーちゃん! そんなに若い身空で、時代錯誤のフェニミズム満開か!?

 このねーちゃんは確かに女だし、こんなにイカれてなきゃ相当可愛い顔してるンだろうよ!

 だがな、こいつは癌様獣(キャンサー)よりもずっとヤバい怪物だ! 野放しにしておいて、後ろから刺されたらたまったモンじゃねぇ!

 オレはただの運転手じゃねぇ、都市国家(まち)の戦闘を担う衛戦部の一員だ! その嗅覚が騒ぐんだよっ、トドメ刺せってよッ!」

 レッゾが更に歩を進め、チルキスへの距離を狭めようとすると。蒼治が「だったら、尚更の事です…ッ!」と傷を押して精一杯の騒ぎ声を上げる。

 「正直に言えば、僕はその女性(ひと)を倒してはいません…ッ! どんな理由かわかりませんが、彼女は勝手に倒れた…!

 でもそれは、もしかしするとあなたの接近を予感して、不意打ちするための演技かも知れません…!

 ここは余計な手を出さずに、この場を立ち去る方が賢明です…! もしも彼女が本当に傷ついているとしても…! 演技だとして暴れ回ったとしても…! 近い内にやってくる地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の部隊が適切に対処してくれるはずです…!

 少なくとも、怪我人を抱えたレッゾさんよりも、断然安全に対応してくれるはずです…!」

 レッゾは蒼治の言葉を受けて、蒼治とチルキスを間を数度に渡って視線を行き来させる。挙げ句、レッゾはハァー、とやるせなく吐息すると、ジリジリと後ずさって装甲車の中へと乗り込んだ。

 幸いにも、チルキスは復活する兆しが全く見えず、何かブツブツと呟きながら、ゴロリゴロリと緩慢に転げ回っている。

 装甲車のドアを締めて密封したレッゾは、人員収納スペースで寝転ぶ蒼治にボソリと、棘のある言葉を吐く。

 「にーちゃん、あんたそんな目に遭っても、甘いんだな」

 すると蒼治は、咳込みながら笑う。

 「レッゾさんと違って、僕は戦闘なんて二の次以下の人間ですからね…。

 流血沙汰にならず問題が解決すれば、それが一番なんですよ…。例えそこが、戦場だとしても、です…」

 「…長生きできねぇ考え方だな」

 レッゾが肩をすくめながらアクセルを踏み込むと、蒼治はケホケホケホ、と盛大に咳き込んでから返事する。

 「それをポリシーにする部活に入ってしまったものですからね…。僕も死なないと直らないバカの類なんでしょうね…」

 そしてレッゾの装甲車は、踏まれたイモムシのようなチルキスを残して走り出す。向かう先は、天を貫く光の柱の根本。そこにならば、星撒部の者達が居るはずと確信してのことだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Dead Eyes See No Future - Part 10

 ◆ ◆ ◆

 

 天空を覆う太陽色の輝き、および天を貫く光の柱が消えたのは、『バベル』が完全に破壊されて10分ほども経過した後のことだろうか。

 柱が虹のように静かに掠れてながら姿を消す一方で、天空の輝きは曇天が幾つもの切れ目を得て晴れ渡るように、徐々に蒼穹に蝕まれながら消えていった。

 アルカインテールから魂魄解放の魔術現象が完全に収まると。もはや天空には、『天国』の姿はなかった。

 ノーラ達が入都した頃にみた、小さな小さな『天国』すら、見い出すことはできなかった。

 『バベル』の消滅とともに『天国』が完全に消えてしまった事を鑑みると、あれは真の意味での『天国』ではなく、『バベル』の絶対安定と同様に世界に暗示をかけて作り出したものだったのかも知れない。

 アルカインテールに、一陣の微風が駆け抜ける。土埃と煤の匂いを孕んだそれは、都市国家(まち)が受けた災厄の記憶を人々の鼻孔に届ける。

 だが、その匂いはすぐに消える。そして風が止むと、天に冴え冴えと広がる蒼穹が運ぶ清々しさが、陽光とともに都市中に満ちてゆく。

 その気配を深呼吸して肺一杯に飲み込んだのは、ノーラである。

 彼女の大穴が開いた胸は、『バベル』の崩壊と共に心肺を取り戻し、塞がっていた。しかし、制服の方は戦闘中の激しい損傷もあったためか完全には復元せず、胸元にはそのまま穴が残り、(すべ)らかな褐色の皮膚をさらけ出していた。

 (終わった…んだよね?)

 ノーラは大きく息を吐き出すと、周囲に視線を巡らす。先刻まで対峙していた巨大でグロテスクな怪物の姿は、もうどこにもない。

 その代わりとでも云うかのように、彼女の周囲には大小様々の姿が満ちている。あるものは旧来の地球人と同様の二足歩行体だし、別のものは蟲型をしていたり、体の透けた霊体であったりする。

 姿形は違えども、彼らの行動は(おおむ)ね同じだ。即ち、現状が飲み込めずに、頭をキョロキョロと巡らせている。その動きがゆっくりしているのは、魂魄が解放されて元の定義へと回帰した際、脳を初めとする神経系に一種の:"酔い"のようなものが発生したからかも知れない。

 初めは言葉も出なかった彼らだが、徐々に「ここは…?」「オレは何をしてた…?」「何がどうなったんだ…?」「『バベル』は、どうしたんだ…?」など口々に呻きながら、澄んだ都市国家(まち)の空気を吸い、徐々に眼に活力を灯してゆく。

 その様子をみたノーラは、思わず顔を綻ばせながら、今度は確信を(もっ)て胸中で呟く。

 (終わったんだ…!)

 

 ――そう、終わった。それは間違いない。

 アルカインテールという都市国家を舞台にした『バベル』を巡る騒動は、その完全な破壊によって終結を見たのだ。それは誰の目から見ても明白な事実である。

 だが――アルカインテールの抱く混乱の全ての終結という意味では、まだ"終わり"は迎えていなかった。

 激闘の果てに得たノーラの安堵を踏みにじり、その混乱は(にわか)に巻き起こる。

 

 『バベル』から解放された人々は、まず、『バベル』の姿が消滅したこと、そして蒼空を覆う『天国』が消滅したことに目を丸くする。

 直後、喜びに沸いたのは避難民達や、元々『バベル』に検体として融合させられていた人々である。彼らは『バベル』によって災厄を呼び込まれているので、その仇が消滅したことは素直に喜ばしい事実として受け入れた。中には、検体だった人物が顔見知りの避難民と久しぶりの再開を果たし、抱き合う姿もチラホラ見られた。

 一方――『パープルコート』と初めとした戦闘部隊の一派は。護るべき、あるいは奪取すべき目標を見失い、途方に暮れたように呆然としていたが。自分たちのすぐ隣に敵対勢力が呆然と立ち尽くしているのを見ると、ハッと顔を危機の色に染めて、身構える。

 戦闘の目的を見失った今、彼らの心にわだかまるのは、交戦時の応酬によって得た負の感情――憎悪や、憤怒や、怨恨といった衝動であった。

 「なんだッ! なんで貴様等、こんな所にッ!」

 そんな事を口々に叫びながら、彼らは手にした、あるいは内蔵された武器を構えると、早々と戦闘を開始した。

 その発砲音は初め、喜びに沸く者達には祭りの爆竹のようにも聞こえていたかも知れない。さしたる混乱もなく、それどころか歓声がどっと沸いた程だ。

 だが――逸れた凶弾や凶刃が無防備な彼らを傷つけ出すと。彼らの顔色はたちまちに青ざめ、歓声は悲鳴へと一変する。

 瓦礫の街並みの中、人々は右往左往して遮蔽物を求めたり標的に躍り掛かったりと、大混乱が生じる。丁度、餓えたネズミの群の中に肉でも放り込んだような悲惨な有様だ。

 

 ノーラの安堵は、一瞬にして消滅した。

 青ざめ、冷や汗がドッと噴き出した顔は、ひたすら人々の混乱の様子を追うばかり。震える唇は、語るべき言葉を紡ぐことが出来ず、「あ…あ…」と力ない呟きを漏らすばかりだ。

 やがて、ノーラの体に一人の中年女性の避難民(または検体かも知れない)がぶつかる。尻餅をついたノーラを、中年女性が構わずに四つん這いで踏み越えてゆく頃になって、ようやくノーラは言葉を取り戻す。

 「や、やめてください…ッ!

 落ち着いて下さい…ッ!」

 しかし、彼女の声は乱戦の騒動の中に即座に消えてしまう。

 それでも、行動を起こすきっかけを得たノーラは、立ち上がって駆け出すと、戦闘を始める者達に取り(すが)って説得する。

 「やめてください!

 もう終わったんです! 戦う必要なんてないんです!」

 しかし戦士たちはノーラを乱暴に振り払ったり、もしくはノーラの事を見つめた直後に体を打ち抜かれて地に倒れたりする。

 ノーラは思案する。力付くで以て、この混乱を制するべきだろうか、と。

 彼女の状態が万全ならば、その方法も悪くなかったかも知れない。しかし、『バベル』を初めとした幾多の激闘をくぐり抜けた彼女は、疲れ切っている。取り縋って叫ぶくらいの勇気は振り絞れるが、混乱した多人数をねじ伏せるような戦力を発揮することは到底出来そうにない。

 (なんで…なんで…!

 終わったのに…! もう戦う理由なんてないのに…!)

 ノーラたった一人の理性は、怒濤となって荒れ狂う混乱には届かない。

 彼女は、無力に打ちひしがれる。

 そんな時、ノーラが天を仰いだのは、"神"なるものに救いを求めようとしたからかも知れない。彼女は故郷を席巻する精霊信仰の信徒ではあるが、さほど熱心ではない。だが、自力が頼れないとなった今、彼女は天に願いを向けるしかできなかった。

 高すぎて、願いが届くことなどなさそうな、天に。

 

 しかし――ノーラの願いは、結果論的には実を結んだのだ。

 とは言え、願いを聞き入れたのは"神"ではない。ヒトだ。

 未だ結界に覆われた蒼空の一部に、巨大な蛍光色の転移方術陣が出現する。同時に結界がグニャリと渦を巻いて歪むと、その内側から巨大な塊が侵入してくる。

 その第一印象は、"城"である。西洋の堅固な城塞を思わせる、巨大な直方体。その側面には、上空の風にたなびく真紅の垂れ幕が存在を主張している。

 その垂れ幕の中央に堂々と描かれているのは、地球とそれを取り巻くハトの翼を持つリング。そのリングの色は、垂れ幕と同じく真紅を呈している。

 そのマークを見て、ノーラは混乱で痺れる思考の中、出現したのが地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に所属するいずれかの――輪の色から鑑みるに『パープルコート』ではない――軍団の空中艦であることを理解する。また、規模からすると、旗艦等といった高位の軍務に就いている一隻であるだろうことも想像できる。

 同時に、ノーラは目をパチクリさせながら疑問を呈する。

 (真っ先に戦場に入ってきたのが、斥候や偵察じゃなくて…旗艦?)

 その自問に対する答えを見つけるよりも早く、艦から何か小さなモノがフワリと落下するのを目撃する。目を凝らすと、それは爆弾といった兵器ではなく――人物である。トレードマークのリングと同じ真紅一色に染められたコートを着込んだ、小柄な人影。たなびく2本の金色の髪束に、それを結びつけるこれまた真紅色のリボンを見る限り、この人物が女性であることが想像出来る。

 いくら地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に所属する人員とは言え、この混乱の中に唯一人降り立って何をすると言うのか? ノーラが届くはずのない疑問を人物に向けて投げかけた、その瞬間。

 『鎮まりなさい』

 直接意識に割り込む、静かながらも力強い女性の声。同時に、視界に浮かび上がる真紅の瞳を(たた)えた双眸。

 その現象は、『バベル』出現時の魂魄干渉に多少似るところはある。しかし、その眼差しは『バベル』のように死に絶えたものではない。心を射抜くような生気と威厳に満ちた眼差しであり、『バベル』とは根本的に違う存在に由来するものであることを物語っている。

 声と眼差し。その2つがノーラを含めた人々に浸透した、その瞬間。混乱の喧噪がピタリと止んだ。いや、喧噪という聴覚レベルでの静寂だけに留まらない。人々が皆、石に変えられてしまったように、動きを止めたのだ。

 ただし、彼らは瞬きや呼吸による胸の上下だけは難なく行えている。つまり、この拘束を実行した人物――恐らくは空中艦から落下した女性――は、大規模な標的を一度に支配下に置くだけでなく、緻密な調整をも行える超絶的技能の持ち主ということになる。

 (…た、助かったけど…。

 私まで動けないのは…困るなぁ…)

 ノーラが苦笑いの1つも浮かべたい衝動に刈られている一方で、羽毛のようにゆっくりと落下した女性が遂に着地する。

 直後、アルカインテールの上空の状況が激変する。

 結界下の蒼空に次々と転移方術陣が出現したかと思うと、先に現れた旗艦とよく似てデザインの、城を思わせる飛行艦が大量に出現したのだ。そして艦からは、崖から転げ落ちる岩のようにワラワラと鋼色を呈する者達が群れて落下してくる。

 落下した鋼色は、土煙を上げながら瓦礫の大地を滑るように移動。動きを停止した人々の合間に入り込む一方で、先に落下した女性を始点にして一直線に続く、人の壁でできた通路を形成する。

 その通路が至る先は――なんと、ノーラの目前である。

 この時、ノーラは鋼色の人物の正体をも知る。彼らは西洋甲冑のような外観を呈する機動装甲服(MAS)を着込んだ兵士達だ。彼らが手にしているのは、馬上槍(ランス)に似た武器である。細長い円錐形の槍先の根本には4つの開口部があるが、ここは銃口のようだ。

 ノーラへ至る通路を開いた兵士達が、一糸乱れぬ動作で槍を真っ直ぐ天に向けて胸元に引き寄せ、(ひざまづ)く。旧時代の地球における中世ヨーロッパの騎士道を思わせる動作だ。

 (…映画の撮影みたい…)

 壮大ながらも、どこか滑稽な光景にノーラは頬を歪めて苦笑する――そして、はっと気づく。身体の自由が戻っている!

 パタパタと手足を動かしたり、キョロキョロと首を回したりしてひとしきり自由を確かめると。他の者達はどうでなのかと視線を投じるが、彼らは相変わらず石のように動けない状態だ。ただし、表情を作ることは許されたようで、不安がったり怒ったりしている面持ちを作っているものの、声は出ない。術者は発声を禁止しているらしい。

 やがて、通路の向こうから悠然と、真紅のコートをまとった女性がやってくる。彼女の両脇には、そこら中に散らばる機動装甲歩兵(MASS)とは格好が全く違う、真紅の礼服に身を包んだ人影が控えている。女性を姫君とするならば、彼らは近衛兵と言えよう。

 この3者を見た時、ノーラの胸中に困惑と驚嘆が同時にわき起こる。中央の女性は両脇の人物に比べて、明らかに背丈が低い。両親に両脇を囲まれた子供だと説明を受けても違和感がないようなサイズ比である。両脇の人物がデカいのか、それともこの女性が小さいのか。

 3者が間近にまで迫った時、ノーラは後者が正解だと覚り、そして絶句する。

 身長は140センチもなく、非常に小さい。ノーラも小柄な方ではあるが、彼女をしても首を傾けねば顔を見ることができないほどだ。

 加えて肌の色は、白磁にさっと赤みを差したような、深窓の令嬢を想わせる(はかな)さを呈している。

 ――まるで、和紙だ。美しくも、ちょっと粗末に扱っただけでも千切れてしまうような印象。

 そんなイメージの女性が、大量にひしめく混乱し切った人々を一瞬にして鎮圧してみせたのだ。そのギャップにノーラは目が白黒する思いである。

 やがて、女性はノーラのすぐ手前でピタリと足を止めると。動脈の鮮紅をそのまま映したような赤の双眸でノーラの翠の瞳を真っ直ぐ射抜くと、フッ、と息を漏らしてバツが悪そうに微笑む。そして、コートの裾をスカートのようにつまみ上げながら、貴族然とした優雅な動作で頭を深く下げる。

 「申し訳なかったわ。功労者である貴方まで拘束してしまうなんて。

 聞き苦しいとは思うけれど、言い訳させて頂戴。いくら私の眼が『魔眼』と呼ばれていても、あんなにごった返していた人々の中から、瞬時にあなたを見つけだすなんて芸当は無理だったのよ。だから、一度全ての動きを止めさせてもらったのよ」

 「そ、そうだったんですか…。

 仕方ないですよね、あんな混乱ですから…」

 王族の風格にも捉えられるような雰囲気をまとう人物に頭を下げられたノーラは、困惑しながらそう言葉を返していると。ふと、女性の両脇から自分に注がれる、痛々しいほどの鋭い視線を感じて身を(すく)ませる。

 女性の両脇に居るのは、いずれも旧来の地球人とはほど遠い姿をした人物である。

 右に居るのは、爬虫類然とした岩石質の顔面を持つ、幅の広い体格を持つ男。コートの下にある身体も、岩石質であろうと容易に想像できる。

 左に居るのは、陽光を受けて鏡のように眩しく輝く髪と翼を持つ女性。顔立ちは端麗だが、凍り付いたナイフのような凄みのある表情が美貌を台無しにしている。

 彼らの内、左の女性が(たま)らない、と言った様子で唇を震わせた後、声を張り上げる。

 「いつまで頭を高くしている、学生風情がッ!

 ユーテリアの学生ならば、名を耳にしたこともあるだろう!

 こちらの御方は、我らが『クリムゾンコート』軍団総司令、ルミナリア・エルテシアス中将であらせられるぞ!」

 女性の言葉に反して、ユーテリアの学生であるノーラはその名を耳にしたことはなかった。が、天下の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の頂点に立つ者の一人であると知り、眼をパチクリとさせた後。慌てて跪こうとする。

 「良いから、そのままで」

 ルミナリアは即座に手で制すると、声を上げた左の女性に鋭い視線を向けて諫める。

 「功労者に酷く無礼な物言いをするような指針を打ち出した覚えはないのだけど?」

 「す、すみません…中将」

 女性は腰ごと深々と折る礼で謝罪すると、チラリとノーラに避難めいた視線を送りつけてから、無表情に真っ直ぐ前を向いた。

 ルミナリアは女性の振るまいを見届けてから嘆息すると。再び微笑みを浮かべてノーラに向き直る。

 「出遅れてしまった責については、返す言葉もないわ。立花渚からの要請は昨日の段階で認識していたのだけれども。こちらも多少込み入った事情があってね。結果として、出遅れるどころか、お開きになった後の登場になってしまったわ。

 重ねて、お詫びするわ」

 「い、いえ…。

 このタイミングで来て頂けたのは、幸いでした…。

 私一人の力では、どうにもならなくて…。こちらこそ、混乱を収めて頂いた事に感謝いたします」

 「この程度、本当に"ついで"よ。

 『バベル』とか云う怪物を(たお)す役割は、本来私たちがすべき処だったのに。貴女一人で成し遂げてしまったのですもの。

 その功績に比べれば、本当にちっぽけな助力よ。

 …ところで…」

 ノーラが更に身を退く言葉を重ねようとする気配を嗅ぎ取ったルミナリアは、すかさず話題を変える。

 「この場での星撒部の責任者は、貴女…で良いのかしら? 『バベル』打倒なんて大役を果たしたのだもの。そうとしか思えないのだけれど?」

 「いやいや、ハズレだぜ。吸血鬼の姫将軍閣下殿」

 突然、横から入り込んで来たひょうきんな声。そして、機動装甲歩兵(MASS)達の間から無理矢理ヒョッコリと姿を現したのは、空色と肌色の混じった身体を持つ青年――イェルグである。

 『クリムゾンコート』の兵員達がアルカインテールを制圧したのに乗じたようだ。『影縫い』で拘束したエンゲッターのことは兵士に任せて、自分はノーラの元へやって来たのだ。

 いつもは布で覆われて見えなかった空そのものの体部を目にしたノーラは、思わず目を見開いて、とっさに疑問を口にする。

 「先輩…!? その体…!?」

 「ああ、これ?」

 当のイェルグは普段通りの笑みを浮かべたまま、黒髪の中に手を突っ込んでポリポリと掻く。

 「そっか、ノーラにゃ初めて見せるのか。

 まぁ、詳しい話は後でするとして。今は、アンタの肌の色が褐色なのと同じく個性だと考えといてくれ」

 そうサラリとノーラの質問をいなすと、ルミナリアに向き直り、折れた話の腰を戻す。

 「んで、責任者の件だが。蒼治・リューベインのこと、知ってるよな? 眼鏡かけた、辛気臭いヤロー。あいつってことになるはずだ。

 この都市国家(まち)に入都した第一陣の中で、唯一の2年生だったからな。

 ちなみにその()、ノーラ・ストラヴァリは一昨日入部したばかりの新人で、1年生だ」

 「あら」

 そう返すルミナリアの口調は"意外"という意志を現してはいるものの、さほど感情の起伏が大きくはない。元々、感情を露わにするような性格ではないらしい。

 「見たことない顔だったから、新しく入った()だとは思ったけれど。まさか1年生で、しかも一昨日入部したばかりとは思わなかったわ。

 そんな娘を単身、あの怪物(バベル)にぶつけるような采配を取るなんて…流石は貴方達だと、呆れるべきか驚くべきか…」

 「ウチは徹底した適材適所がモットーなんだよ」

 「それなら、年功序列なんかで活動上の立場の序列も決めずに、適材適所でやる方が良いのではなくて?

 果たした重責から言って、この()を責任者と呼ぶのが適切じゃないかしら?」

 「いやいや、戦闘技術だけで優劣を決めるモンじゃないだろ。

 まぁ、ノーラがこの都市国家(まち)における勢力の相関関係を把握していたり、市軍とのパイプ役になってるってなら、アンタの言う通りだろうがね。

 そこんとこ、どーなんだ、ノーラ?」

 いきなり話題を振られたノーラは、ビクッと肩を竦ませてから、慌てて手をパタパタ振る。

 「あの…重責を果たしたというより…私が単に『バベル』と相性が良かっただけで…。

 全体的な取りまとめは、やっぱり蒼治先輩が束ねていますから…!」

 「ふーん…」

 ルミナリアは腕を組んで、伏し目を作る。

 イェルグはルミナリアに対してかなり砕けた態度で接しているし、ルミナリアの方もそれを怒るでない。ただし、彼女のお付きは怒りの視線を向けていたが、かと言って文句を言うでもない。その様子からすると、2人は顔見知りのようだ。

 そもそも、話によれば立花渚はルミナリアを名指しして連絡したようなので、星撒部自体が『クリムゾンコート』にコネを持っているのだろう。

 さて、ルミナリアは数瞬(もだ)した後、イェルグに向き直る。

 「イェルグ、あなたじゃダメなのかしら?

 私、正直言うと、蒼治って子が苦手なのよ。具体的にどうとは言いづらいんだけど…なんていうか、オドオドしたような雰囲気を感じちゃうから、気を遣うのよね。

 あなたも2年生なのだし、あなたで済むなら話を進めたいのだけれど」

 するとイェルグは舌をベーッと出して拒否する。

 「残念、オレは今日ここに来たばっかりで、市軍にもコネなんか無いぜ。

 素直に蒼治が来るのを待つんだな」

 と…噂をすれば影が差す、という(ことわざ)が具現化したように…蒼治の声が弱々しく響く。

 「僕なら…ここにいますよ…」

 声の方に顔を向けると、そこから現れたのは、ナミトに肩を預けた満身創痍の蒼治が機動装甲歩兵(MASS)の合間を抜け出てくる。

 「あら、『バベル』相手でもないのに、こっぴどくやられてるわね」

 ルミナリアは毒を含んだ声を上げると、蒼治は痙攣するような苦笑いを浮かべてから、何か言葉を吐こうとする。…が、うまく発声できないようで、金魚のように弱々しく口をパクパクするばかりだ。

 そんな時、ナミトが蒼治を抱えていない方の腕で頼み込むポーズを作って語る。

 「スミマセン、先輩は中将さんの魔眼にやられちゃって、うまく動けないんです。

 解除してもらえません…?」

 「あら、それは申し訳なかったわ」

 ルミナリアはそう発言するだけで、特に何するワケでもなかったが。蒼治の拘束は解けたようで、彼は糸が途切れたように体をグニャリと動かすと、大きく肩で呼吸する。

 その様子を見たルミナリアは嘆息すると、ジト目で睨みつける。

 「全く…一昨日入ったばかり、そして『バベル』を相手にしたノーラさんならまだしも。2年生でそれなりの経験を積んだあなたが、この程度の魔眼の影響も振り払えないなんて。恥を知りなさい」

 「…そりゃあ…体調が万全なら、余裕だったでしょうけれども…。

 この体を見て、察して頂きたいところです…」

 「…いいえ、察せないわね。

 だって、体調の万全だの不調だのは関係ないってことを証明する子が、すぐにここに来るもの」

 と、ルミナリアが語った直後。ナミト達が現れたのとは別の方向を掻き分けて、小規模な集団が現れる。その先頭に現れたのは、避難民の長を努めていた市軍の蘇芳。そして、彼を両側から支えるユーテリアの学生レナと、もう1人はなんと満身創痍のロイである。

 「おっ、ノーラもイェルグも蒼治達も! あと、吸血鬼のおばちゃんも此処に居たのか!」

 ロイが声を上げて更に歩を進めると。3人の後ろには珠姫を肩に支えた紫の姿が続く。

 蘇芳と珠姫はルミナリアの"魔眼"と呼ばれる力に完全に束縛されており、表情はぎこちなく動くものの、手足も動かなければ声も出せない状態だ。

 ルミナリアはそんな2人を解放するより早く、蒼治を睨みながらロイを指差す。

 「ホラ。こんなに傷ついても、私の魔眼の影響を跳ね返せてるわ。

 貴方の力量が、単純に低いだけなのではなくて?」

 そう問われた蒼治は、反論することも苦笑いすることもなく。気落ちした堅い表情を作ると、「…そうですね…」と認めてしまう。

 先のチルキスとの戦闘を振り返り、思うところが色々とあったのだろう。

 「そんなことより、おばさんよー」

 気落ちする蒼治など気にも止めず、ロイが責めるように口を出す。

 「こっちのおっちゃんとねーちゃんの方も、解放してやってくれねーかな?

 用事あるはずだぜ?」

 と、蘇芳と珠姫を親指で指差して促すと。彼に反応したルミナリアではなく、その脇に控えた岩石質の男である。

 堅いこめかみにビキビキと青筋を浮かべ、鬼面のような憤怒面を作って怒号する。

 「毎度毎度、無礼極まりないガキだな、貴様はッ!

 そこの空男と言い、口の利き方を全く学習せん奴らだなッ!」

 「ンだよ、岩面!? ヤるってのかよッ!?」

 岩男とロイの間に視線の火花が散り始めると、その合間にすかさず、そして優雅にルミナリアが割って入ると。嘆息して岩男に向き直り、背をツッと伸ばして軽く小突く。

 「器が小さいわよ、ギースロック。

 私たちがすべき仕事を寡勢で成し遂げた功労者なのだから、もう少し敬意を払って、多少のやんちゃには目を瞑りなさい」

 「し、しかし閣下! こいつは閣下のことを、"おばさん"などと呼び捨てに!」

 「別に気にないわよ、私は。

 吸血鬼種族である私は肉体成熟速度が遅いだけで、時間年齢で言えば"おばさん"、いえ、"おばあさん"と言われても仕方ないもの。もう慣れっこよ。

 むしろ、外観で判断されて小娘扱いされるよりは、ずっとずっとマシだわ」

 イェルグもロイもルミナリアのことを"吸血鬼"と呼んでいたが、それは事実だったようだ。彼女が言う通り、吸血鬼種族は肉体における加齢が酷く遅い。かと言って、代謝全般が遅いワケではないので、怪我や病気の治りが遅いワケではない。若さを求める者達からすれば、生まれながら夢のような能力を持つ者達である。

 とは言え、旧時代の地球の伝承が伝えるように、吸血鬼種族には弱点も多く、訓練無しには昼間の地球をまともに歩くのも難しいという欠点もある。

 そんな弱点だらけの種族でありながら地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の一軍団を統べる立場に就くルミナリアの努力と実力は、計り知れないものがある。

 …それはさておき。ルミナリアはギースロックと呼んだ岩男を黙らせると、ロイ、そして蘇芳達に視線を向ける。そして、発言も無しに蘇芳と珠姫の拘束を解除すると、彼らは呼吸を我慢していたのを止めたように、大きく息を吐いて、グニャリとその場に倒れ込みそうになる。

 「あら、申し訳ないわ。放置してしまって。

 男性の方は、避難民のリーダーを勤めている倉縞蘇芳さんとお見受けするわ。

 女性の方は…ちょっと思いつかないけれども、彼の副官かしら?」

 「竹囃珠姫って…言います…。

 副官…かどうか言われると…なんとも言えませんけど…」

 珠姫が自己紹介していると、レナが「あれっ」と声を上げる。

 「あたしの認識だと、サブリーダーなんだけど…あれ、違った?

 じゃ、この場に連れてこなかった方が良かったかな…?」

 「いや…珠姫に居てもらった方が、オレとしても心強い。

 何せ、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の一軍団の総司令様だって言うじゃねぇか…。市軍のトップってワケでもねぇオレなんか相手するんだ、独りだったら身が保たねぇよ。

 気心知れる珠姫が居てくれるなら、一安心さ」

 蘇芳が微笑んでレナ、そして珠姫をフォローする。すると珠姫は、顔を赤くしながらポツリと「勿体ないお言葉です」と呟いた。

 ――さて、これで星撒部とアルカインテール市の現在の責任者がこの場に集ったことになる。

 ルミナリアはこれ以上の雑談を(つぐ)み、テキパキと業務連絡的な内容を語り出す。

 「二人にはまず、私たちの初動が遅れたことについて謝罪するわ。

 星撒部――つまり、蒼治・リューベイン達の所属する部活動の、現時点での長である立花渚から直接助力を請われたのだけれども。だからと言って、同じ地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の他軍団においそれと干渉することは出来なくてね。

 渚のもたらした情報の真偽の確認は勿論、『パープルコート』に対処する立場として『クリムゾンコート』は適切に中立かどうか、会議が開かれてね。それで手間取ってしまったのよ。

 大規模組織の呪われた宿命よね。だけれども、現地で苦しむ貴方達を横目に放置してしまったことは事実だわ。素直に、申し訳ないと、謝らせて頂きたい」

 ルミナリアが深々と頭を下げると、蘇芳は「い、いやいやいやいや!」と手をパタパタ振る。1ヶ月の混乱の中、どっしり構えていた彼のイメージが崩れるような行動である。案外、権力差というものに弱いのかも知れない。

 ルミナリアは頭を起こすと、切り替えてテキパキと話題を進める。

 「まず、アルカインテールで暴れ回った『パープルコート』を始め、『冥骸』、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリー、そして癌様獣(キャンサー)達だけれども。

 身柄は私達、『クリムゾンコート』が預からせて頂くわ。

 星撒部にしてみれば、功績を掠め取られるようで気分が悪いかも知れないけれど。現実的な情勢を鑑みて、私達の方でそれぞれへの処置を行うのが適切だと判断したの。

 異論が在れば、勿論聞くわ。罵声も甘んじて受け入れるわ。貴方達には、その権利があるもの」

 その言葉に対し、顔を曇らせた星撒部の部員は誰も居ない。その代表として、蒼治が(うなづ)きながら答える。

 「いえ、異論も何も在りません。

 むしろ、こちらからお願いするつもりでした。

 こんな大量の人々を(さば)くのは、いくら僕らでも手が余りに過ぎますから」

 「ただし、無理、ってワケじゃねーからな」

 蒼治の言葉の直後、ロイが言葉を挟む。

 「オレ達、星撒部に不可能の文字は無ぇ。

 だけど、今回は…面倒だからな! 任せるだけなんだぜ!」

 そんな減らず口を毒を含めて鼻で笑い飛ばしたのは紫だったが、ロイは反論することなく口を(つぐ)む。普段の彼なら騒ぎの一つも起こしたかも知れないが、『暴走君』と云えども場の空気を読めるようだ。

 蒼治の理解にルミナリアはコクリと首を縦に振ると。今度は蘇芳に顔を向ける。

 「アルカインテールの復興、および避難民の今後の処遇についてです。

 アルカインテールの復興については、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のいずれかの軍団が主導し、アルカインテール市民と密に連携しながら推し進める方針です。

 ただし、現時点ではどの軍団が主導を担うか、決まってはいません。決まり次第、軍団総司令から挨拶に伺うと思います。

 一つ言えることは、『パープルコート』が主導する可能性は無い、ということです。他の、恐らくは地球近傍で活動している軍団が従事することになるでしょう。

 私が任せられる可能性もありますので、その際にはお見知り置きいただきたいです」

 「『パープルコート』みたいな不良部隊がやって来ないなら、どこでも良いぜ。キチンとやってくれりゃ、オレは勿論、住民のみんなも納得してくれるはずさ」

 蘇芳が答えると、ルミナリアは「ありがとう」と理解への感謝を伝えた上で、話を更に進める。

 「それで、避難民…正しくは、残留市民と言うべきかしら? その皆さんには、現在『オレンジコート』が運営している難民キャンプに合流して頂きたいわ。

 そこには、今回の騒動でアルカインテールから脱出できた住民が暮らしているの。家族が離散してしまっている家庭も、一緒に暮らすことが出来るわ。

 ただし…中には、あくまで愛着にある故郷に住み続けたいという住民もいるでしょうけど…。今回の戦争では単に都市機能が停止しただけでなく、何らかの術式的な汚染も有り得るでしょうから。除染が完了し、復興が進んで来たタイミングで、希望者の帰還を認めて行くつもりです」

 「それについては、オレからは異論は無ぇよ。なんたって…」

 蘇芳は後頭部を掻きながら、今まで見せたことのない、蕩けるような満面の笑みをニヘラと浮かべる。

 「そこには、オレの娘も居るからな。

 いい加減、会いたくて仕方ねぇんだわ」

 それからすぐに顔を引き締めると、蘇芳の方から頭を下げる。

 「こちらこそ、よろしく頼みたい。

 移送を反対する者については、オレ達の方で説得する」

 「素早いご理解、感謝の至りだわ」

 ルミナリアが微笑む。

 そこで会話が途切れそうな気配が漂ったが、いきなり蘇芳が言葉を滑り込ませる。

 「ただ、ちょっと訊いていいか!?」

 「何かしら?」

 「『パープルコート』どもは今後、どうなるんだ? 何らかの処分が下されるのは、確実なのか?

 そしてオレ達は、アンタらの決定や、奴らの末路について見聞きすることが出来るのか?

 …いや、出来なきゃおかしいだろ。オレ達は当事者で被害者なんだ。ブラックボックスのまま事が運んで行くだけなんて、オレだけじゃねぇ、アルカインテールの全住民の理解が得られないと考えて構わないぜ」

 途中から質問よりも脅迫の(てい)を成して言葉であったが。ルミナリアは決して不快感を匂わせず、静かに耳を傾けていた。

 かと言って、彼女の返答はすぐに得られるワケではなかった。

 ルミナリアは暫し黙り込む。そして再び口を開くと、先の沈黙は悪い報せを言い渡すのを躊躇っていたワケではなく、純粋に考え込んでいたのだと云う事実が聞き手に伝わる。

 「まず、初めの質問だけれども…。

 『パープルコート』軍団全体について尋ねているのかしら? それとも、アルカインテール駐留部隊についてかしら?

 それによって、返答は変わり得るわ」

 「…場合によっては、全体も、だ。

 今回の件、『パープルコート』という組織自体が企んだ事だってなら、全体に処罰が成されて然るべきだと、オレは思う」

 蘇芳の言葉に、ルミナリアは小さく呼吸をしてから、答える。

 「アルカインテール駐留部隊については、処罰は確実でしょうね。ただ、部隊所属人員の全てに懲戒が下されるとは限らないわ。今回の件について、誰がどれだけ関与していたか。それを客観的に明らかにした上で、各人へ処遇が通達されるでしょうね。

 ただ、確実に言えることは、司令官であり首謀者であったヘイグマン・ドラグワーズ大佐は懲戒の上、除隊処分となるでしょうね。

 懲戒の程度も、あまりここでは口にしたくない類の重刑になることは間違いないでしょう」

 「そうか…」

 蘇芳はひとまず、安堵の表情を見せる。彼自身のみならず大多数の家族を離散させた上に、非人道にも魂魄を利用してまで己の欲望を成し遂げようとした人物に確実な厳罰が約束された事は、単純に喜ばしいことである。それが客観的に見て不謹慎であると断じられても、身を切られた当事者としては当たり前の感情であろう。

 「ただし」

 ルミナリアの続く言葉に、蘇芳は安堵の表情を引っ込めて、真剣に耳を傾ける。

 「『パープルコート』そのものが今回の計画に関与していたかどうかは、現時点では何とも言えないわ。今後の早い時期に、査問会議が開かれるでしょうから、その中で事実関係が明らかにされるでしょう。

 『パープルコート』が解散となるかは、その会議の成り行き次第だけれども…。

 私個人的には、『パープルコート』総司令の人物の性格的に、有り得ないと思っているわ。

 万が一にも何か関与が認められたとしても、軍団所属の個々人全ての関与は有り得ないでしょうからね。よほどの事が無い限り、『パープルコート』の解散というのは有り得ないと思うわ。

 有ってならば、総司令職の入れ替えでしょうね。ただし、本当に万が一、でしょうけれども」

 「…アンタは、『パープルコート』には非はない、って立場ってことか」

 ルミナリアは苦笑いして肩を(すく)める。

 「同じく組織を指揮する身としては、全く非がない、とは言えないけれどね。監督不届きということで、何らかの咎めはあるでしょうけれども。

 それでも、軍団自体に大きな非はないと云う立場であることは認めるわ。

 悪く思わないで頂戴。貴方達の感情はよく分かるけれども、私にも私個人の感情があるわ。

 それに、最終的な判断を下すのは、査問委員会だわ。私でもなく、貴方でもなく、ね」

 そのルミナリアの言葉に蘇芳が食い下がって文句を言わなかったのは、判断を下す"査問委員会"について異論がないからに他ならない。

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の査問委員会は、複数の外部機関から構成される客観的組織だ。しかも、会議ごとに参加が認められる機関はランダムに選出される。そのシステムおよび、被害者感情を最大限に尊重する姿勢は、世に広く知られているところである。

 …さて、ルミナリアは蘇芳の2つ目の質問についても答える。

 「『パープルコート』および、アルカインテール駐留部隊への処遇については、通常通り、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の広報部から一般に公開されるわ。

 それ以上の詳細な情報が、貴方達に対して特にもたらされるかどうかについても、査問委員会が決めるところよ。

 私はそれについて、何も確約できないわ。

 ただ、貴方達の苦渋を鑑みれば、貴方達には詳細を知る権利があると、私は思っているわ。

 その実現のために、私個人として出来る範囲で努力する程度なら、約束できます」

 「軍団総司令から、そんな言葉をもらえるだけで、心強いよ。

 とにかく…この事件が、アンタらの汚点として闇に葬られることないように…それだけは、最低限、貫いて欲しい」

 その蘇芳の言葉については、ルミナリアは極めて真摯な表情を作り、軽く開いた手をそっと突き出す。

 「ええ。それは、地球圏の防衛を謳う組織に責を持つ者として、確約するわ」

 その言葉に蘇芳は、トラにも似た凄みのある笑みを浮かべながら、ルミナリアの小さな掌をしっかりと握る。蘇芳としては脅しも込めてかなり力強く握ったものの、ルミナリアは顔色を変えることなく、真紅の瞳で真っ直ぐに蘇芳を見返すばかりであった。

 蘇芳とのアルカインテールの今後についての話に一段落が着いたところで。ルミナリアは踵を返し、蒼治に向き直る。

 「ところで、星撒部の神崎大和君は何処かしら? 姿が見当たらないのだけれども?」

 「そう言えば…」

 蒼治は眼鏡を直しながら、キョロキョロと周囲を見回す。

 「あの軟弱チャラ男のことですから。中将さんの魔眼にやられて、動けなくなってるンじゃないですか?」

 紫が毒をたらふく含めた陰のある笑いを浮かべて語ると、蒼治は苦笑い。

 「いや…あいつだって、この約1年間、僕らと激務をこなして来た身だよ。

 ズタボロに疲れ果ててるならともかく、そうでないなら、うまく抵抗してると思うけどね…」

 「じゃ、ちょっと呼んでみよー」

 ナミトが制服のポケットの内側からナビットを取り出し、大和に映像通信を入れる。

 コール音を数回と待たずに、3Dディスプレイが展開。そして表示されたのは…頭の後ろで腕を組み、コクピットの座席をリクライニングチェアよろしくのほほんと(くつろ)いで寝そべる、大和の姿である。

 「あ、ナミちゃん。どーしたの?」

 何事もないように訊いてくる大和に、蒼治と紫が同時に、ハァー、と深い溜息を吐く。

 そしてジト目で文句を吐いたのは、紫である。

 「あんたねー。みんな集合してるってのに、なーに独りで余裕ぶっこいでンのよ。

 部員の仲間のこととか、今回の騒動の結末とか、気にならないワケ?」

 すると大和は、ハリハリとしたブラウンの髪の中に手を突っ込んで、ポリポリ掻きながら、ぼんやりと呟く。

 「いやー、マズい事になってたら、連絡来るだろうからさ。何も無かったって事は問題無いって事なんだろーなーって、確信してたし。

 実際、うまく行ってンでしょ?

 もしうまく行ってないとしても、どーせオレじゃー、何ともしようがないしさー」

 無責任にして、開き直り切った情けない発言に、紫は拳を握ってプルプルと震わせたが。怒鳴りつけそうな気迫を大きな溜息と共に吐き出すと、精一杯の苦々しい笑いを浮かべて、毒をぶつける。

 「そんなんだから、アンタってば女の子から相手にされないのよ。頼りないっていう言葉は、アンタのためにあるような言葉よねー」

 すると大和は縮めたバネのように跳ね起きて、3Dディスプレイに顔をドアップに近寄せる。

 「いやいや、頼りないってのはないっしょ!

 オレ、今回もちゃんと努めは果たしてるよ!? 前回のアオイデュアの件だってさ、初めから終わりまでしっかり面倒見たよ!?

 ただオレが言いたいのはさ、世の中適材適所が肝心だってことだよ! 成果の上がらない事に無駄に力を尽くしたところで、手放しで喜ばれることなんてないわけで! 下手に同情されても、悲しくなるだけだし!」

 「あー、はいはい。つまり…」

 紫が更に突っ込もうとしたところで、ルミナリアがスッと手で紫の口元を覆って制する。

 そして大和を正面に見据えて、語り出す。

 「お久しぶりね、大和君。

 今回は、紳士である貴方にお願い事があるのよ。

 貴方にしか出来ない、貴方だからこそ頼みたいお願いよ」

 外観には見合わぬ歳月を経験している吸血鬼種族のルミナリアは、男の心を手玉に取る方法にも詳しいらしい。大和と顔見知りらしいことも手伝ってか、彼女の言葉は絶大な効果を上げる。

 大和は慌てて(たたず)まいを直し、背筋を伸ばして座席に座ると。足を組み、髪を撫で上げると、紫の時とはまるで違うキリリとした表情を作り出す。

 「何でしょうか、姫将軍様。

 貴女の麾下(きか)という立場で無くとも、心の中では貴女様の騎士。この神崎大和めに、何なりとお申し付け下さい」

 「良い子ね」

 ルミナリアが姫の名に相応しい、宝玉の輝きのような笑みを見せると。大和は一瞬、顔をニヘラと崩してしまう。が、すぐに顔を戻し、ルミナリアの願いに耳を傾けるのであった。

 彼らが話し合いをしている間のこと。蘇芳はずっと肩を貸してくれていたロイに目を向けると、慌てて飛ぶように彼から体を離す。

 「おっと、スマンスマン! いつまでも肩を借りちまって!

 …そんなズタボロの身でよ、本来ならオレの方でにーちゃんに肩を貸さなきゃならんってのに!」

 ロイの満身創痍は、確かに、人々の目にかなり痛々しく映っている。『クリムゾンコート』の機動装甲歩兵(MASS)の中にも、彼の姿を見た途端に息を飲んだ者が居たほどだ。

 それでもロイは体をふらつかせることなどなく、腫れた顔でニッコリとヒマワリの笑みを浮かべて見せる。

 「こんなのへーき、へーき! いつものことさ!

 この程度で音を上げてたら、副部長にどやされちまうよ!」

 その言葉に蘇芳は笑みを全く含まぬ苦い表情を作ると、レナの方を向いて尋ねる。

 「…なぁ、ユーテリアって教育機関は、どんな教育してンだよ…」

 するとレナは肩を(すく)めて苦笑いしながら、手をパタパタと振る。

 「至極真っ当な教育機関だよ。戦闘訓練だって、安全にゃ十分配慮してるんだぜ。

 こいつら、暴走部が特に別で過激なだけだ。こいつらの異常な常識をあたし達にまで当てはめんなよ…」

 さて、もう一方では。イェルグがノーラに近寄り、(ねぎら)いの言葉をかけている。

 「大役、ご苦労さん。

 そして、無理矢理引っ張り込んじまって、悪かったな。

 でも、ベストな結果になったからさ、チャラにしてくれると助かる」

 「え、あ、はい…。

 正直、戦いは厳しかったですけど…。あのまま泣き寝入りしたままで、最悪の結果になっていたら…とても後悔したと思いますから。あの時の私に必要だったのは、頬を叩いてくれる人だったと思います…。

 先輩には、感謝の気持ちで一杯です…!」

 「そりゃ、良かった。

 ところで…それ、大丈夫なのか?」

 「イェルグは空色に染まった腕で、ノーラの胸を差す。そこは丁度、『バベル』によって大穴を開かれた部分だ。未だに制服は穴が開いたままになっている。

 ノーラはニコリと微笑むと、首を縦に振る。

 「はい…。『バベル』の壊滅と一緒に、私の体もちゃんと元に戻りましたから。問題はありません」

 「いやー、それだけじゃなくてな…。

 その、言いにくいんだけどさ…」

 「?」

 首を傾げるノーラに、イェルグはコホンと咳払いを前置いてから、ポツリと語る。

 「…恥ずかしくないのかな、ってな。

 ヴァネッサなら、顔から火を吹いてると思うからよ…」

 そう指摘されて、ノーラは改めて胸を見て…顔が、真っ赤になる。

 制服に開いた大穴には、小振りな乳房の付け根辺りの部分が剥き出しになっている。

 「あ…! あ…! ああ…!」

 慌てて胸を隠すノーラの挙動に、イェルグはアハハ、と声を上げて笑うと。自分のボロボロの上着の一部を引き裂いて、ノーラに投げて渡す。

 「そいつで隠しておきな」

 「あ、ありがとうございますっ!」

 早口に感謝の言葉を述べたノーラは、貰った布でそそくさと胸を隠すのであった。

 ノーラの作業が終わった頃、丁度ルミナリアと大和の会話も終わったようだ。大和が上機嫌に声を張り上げる。

 「いやー、そんな美味しい役目、もらっちゃって良いンスかねー!

 なんだか、照れるなぁ!」

 「勿論よ。

 貴方達こそが功労者なのだもの。その権利は貴方達のものだわ。

 それを(かす)め取っては、私の『クリムゾンコート』の名を貶めることになるわ」

 そう語りながらウインクして見せるルミナリアは、外観の通りのお茶目な少女そのものであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)所属『オレンジコート』が運営する、アルカインテール避難民キャンプ。

 そこでは丁度、陽が西の空に姿の大半を沈めている時間帯である。空は曇りがちなことも相まって、燃えるように赤い西空と濃い色の大理石のような灰色で染まっている。大火事の後の黒煙漂う空にも見えなくはない。

 不気味にも神秘的にも見えるこの空の下に、キャンプで暮らす避難民達が集いって人混みを為している。

 夕餉の準備に忙しくなる時間帯だというのに、何故に居宅を飛び出して集まらねばならないのか。その理由は、彼ら自身も知らない。彼らはただ、運営者である『オレンジコート』の者達に誘われるがまま、キャンプ郊外の平原地帯に集まったのである。

 状況が飲み込めず、不安げであったり苛立った様子であったりする人々は、口々に疑問や不満を吐き合って落ち着かない。しかし、人混みの周囲に立つ、見守るというより威圧しているような『オレンジコート』の兵士に楯突く真似をする者はいない。アルカインテールを退去してから後、ほぼ不自由ない生活を営めたのは彼らのお陰であると理解しているからだ。だから、質問程度はすれども、食ってかかるような行動は見られない。

 「なぁ…こんなに人を集めたってことは、何か大事があったってことだろう?

 ヤバい事なら、さっさと教えてくれよ…神経をすり減らすような経験は、もう二度とごめんなんだ…」

 そんな言葉を投げかけられた『オレンジコート』の隊員は、にこやかな微笑み――営業スマイルとも取れなくはない――を浮かべて、穏やかに語る。

 「安心してください。悪いようにはなりません。

 ただ、少々お待ち下さい」

 隊員達はその一点張りで、避難民の中には首を振って諦める者がチラホラ現れていた。

 そんな人だかりの先頭に、高さはデコボコながら綺麗に一直線に並んだ1団が居る。

 その中央に居るのは、一際背丈の小さく、そして背丈に見合って年齢も幼い少女。倉縞栞である。

 彼女の両脇に立つのは、『オレンジコート』隊員にしてキャンプの戦災孤児収容施設の責任者であるルニティ・エンケラドゥス。そしてもう1人は、星撒部の部長である立花渚だ。

 「…いつまで立ちっぱなしでいないといけないワケ?

 あたい、足が痛くなってきたんだけどさぁ」

 輝きの曇った不満げな鋭い眼差しで交互に両脇の2人を睨みつけつつ、文句を口にする。

 対して渚は、星が瞬くようなウインクを投げる。

 「案山子(かかし)は立ちっぱなしであるが、黄金の実りを真っ先に目にする特権の持ち主じゃ。

 おぬしもその足の疲れに見合った…いや、それ以上の実りを必ずや手に入れることが出来るのじゃ。

 まぁ、もう暫しの辛抱じゃから、少し我慢せいよ」

 「…ってゆーかさ、なんでおねーちゃん達、また此処に来たの?

 慰問って、一日で終わるようなモンじゃないの?」

 栞が相変わらずのジト目で睨みつけながら渚に問う。彼女が「おねーちゃん"達"」と言った通り、このキャンプには渚だけでなく、アリエッタとヴァネッサも来ている。つまり、星撒部は今、総出の状態だ。

 渚は栞のチクリと刺すような問いにも顔をしかめたりせず、飄々(ひょうひょう)とした微笑みを浮かべて(さば)く。

 「うむ、慰問は確かに昨日で終わりじゃ。

 今回こっちに来たのは、別件じゃ。まぁ、なんというか、お膳立てした身の上として、此度の祭りの貴賓として参加しに来た、というところじゃな」

 「…祭りぃ?」

 栞は濁った輝きを浮かべる瞳を怪訝な陰で閉ざして訊き返す。これに答えるのは、ルニティだ。

 「そう、お祭りだよ。

 このキャンプに居る皆にとっての、とっても嬉しいお祭り。

 勿論、栞ちゃんにとっても、ね」

 「とっても嬉しいって…。みんな、文句ばっかり言ってるじゃん。

 祭りは祭りでも、クレーム祭りなんじゃないの?」

 そんな鋭い指摘にルニティは苦笑いを浮かべていると。そんな彼女に助け船が来る。

 真っ赤な夕日の中から、ぼんやりと蜃気楼のように、幾つかの点が現れたのだ。

 「うむ! ようやく来たようじゃな!

 あやつらと来たら、たっぷり待たせおって!」

 渚の言葉は文句を紡いでいるものの、その顔は清々しくも不敵な笑みだ。

 夕日の中から現れた点は、やがて大きさを増して行き、栞を含めた人々の視界に映るようになる。

 「あれ、なんだ…?」

 「なんか、光ってるよな…?」

 「飛行艦(ふね)…みたいだぞ?」

 人々が口々に言い合っている中に、点は更に大きさを増して、詳細が露わになってゆく。初めは丸かと思われていた形状は、徐々に四角くなってゆく。誰かが言ったとおり、その正面には幾つかの光源が張り付いている。

 更に時間が経過すると、他の誰かが指摘した通り、点の正体が飛行艦であることが判明する。つまり、複数の点々の正体は、総勢20隻を越える大型飛行艦による艦隊である。

 飛行艦の造形は、中世の西洋文化の砦や城を連想させるような凝ったものだ。その側面には、推力に(なび)く真紅の垂れ幕が見える。視力の良い者は、その垂れ幕の中央にデカデカと描かれた、地球とそれを取り巻くハトの翼を持つ輪のマークを見つけたことであろう。

 この艦隊はつまり、アルカインテールから移動してきた『クリムゾンコート』のものである。

 この艦隊の先頭には、他の艦とは明らかにサイズも造形も違う一隻がある。形は概ね四角であるが、もっと飛行機らしい姿をしたものだ。造形は流体力学に適うようなツルリとしたシンプルなもので、大きな翼を持っている。

 「何…あれ…?」

 文句を垂れていた栞も、思わず目を見開いて呆然と疑問を口にすると。その隣で渚がケラケラと声を立てて笑う。

 「ビックリ箱じゃよ」

 渚の言葉の真意を図りかねるどころか、考える暇もなく、大規模な艦隊の姿に圧倒される、栞。

 そんな彼女に構うことなく、艦隊は粛々とキャンプへと接近。やがて人々の集い平原に至ると、微風と共に静かに着陸する。飛行艦はすべて風霊を主体とした精霊式エンジンを採用しているようで、静音と自在な昇降運動を見事に両立させている。

 視界をあっと言う間に埋め尽くす、巨大な飛行艦の林立。その外観も相まって、まるで巨大な城塞都市の門前に立つ気分になった栞を始めとする避難民達は、目を白黒させるばかりだ。

 そんな時、不意に渚が栞の背中を軽く、ポン、と押しやる。光景に呆然とするばかりだった栞は、「お…っとっと!」と口に出して転がりそうになる。なんとか踏ん張り、恨めしそうに振り向いた彼女に対して、渚とルニティのどちらもにこやかな笑みと共に艦隊の先頭にある飛行機型の艦を指差す。

 「栞ちゃん、行ってみてごらん!

 栞ちゃんが頼んだもの、運んで来てくれたんだよ!」

 ルニティの声がけに栞はハッと目を見開いて飛行艦の方を振り向く。

 彼女が頼んだもの。それは、彼女の父が作ってくれたクマのヌイグルミだ。

 どうせ見つかりっこないと決めつけながらも、星撒部の2人――ノーラとロイに託した願い。それが実現され、こんな大規模な艦隊まで持ち出して運んで来たというのか!?

 願いが叶ったという喜びよりも、大袈裟に過ぎる演出に、栞は再び目を白黒させながらも、ゆっくりと艦の方へと歩み寄る。

 丁度その頃、先頭の艦の乗降口が開いてタラップが降りてくる。そして姿を現したのは――。

 「よーう、元気だったか、栞ッ!」

 右手を挙げて声高に挨拶するロイと、そのすぐ後ろに続くノーラである。

 タラップをスタスタと降りて、栞の目の前に並んだ2人。彼らの格好をみた栞は、三度目を白黒させる。

 身につけている制服が、ボロ雑巾と変わらないほどに損傷しているのだから。彼らの事情について何も知らない者からすれば、驚きを隠せずとも仕方ないであろう。

 とは言え、ロイもノーラも交戦の傷は殆ど癒えており、激闘を物語るのは壊れた制服だけとなっている。移動中に『クリムゾンコート』の衛生班に治療してもらったのだ。髪型もそれなりに直している。流石に、体までズタボロの状態で会うのは気が退けたようだ。

 「どうしたの、その格好…!?」

 栞の問いは当然と言える。それをロイは大笑いして飛ばす。

 「まぁー、細かい事は良いじゃねーか。階段でずっこけたようなもんだ」

 「階段で転んでも、そこまでにはなんないよ…」

 「まっ、気にすンなってことさ。

 それよりも、だ。お前の願い、ちゃーんと叶えて届けに来たぜ!」

 すると、ロイの後ろからノーラがスッと前に出ると、背中に回していた栞へ向ける。合わせた掌の上に置いてあるのは、ノーラの片手に収まる程度の小さなクマのヌイグルミだ。

 「はい、栞ちゃん」

 「え…っ」

 栞の返答には嬉しさはなく、怪訝さばかりが目立つ。事実、彼女はすぐにジト目を作ると、ノーラの顔を睨みつける。

 「…これ、あたいの無くしたヤツじゃないよ。大きさが全然違うもん。

 それに、デッカいにヌイグルミを持ってくるって言ってたじゃん。話が全然違う」

 鋭い突っ込みにノーラは苦笑いを浮かべてから、続ける。

 「取りあえず、手に取ってみてくれないかな…。それでも気に入らなかったら、返してくれていいから…」

 「…こんなヌイグルミ…。どうせ本物が見つからなかったから、どこかのお店で買ってきた…」

 そこまで語った栞の口が、ピタリと止まる。そして、ジト目が一変して真ん丸に見開かれる。

 それから栞は、引ったくるようにノーラの手からヌイグルミを取り上げると。両手で掴んで顔の高さまであげて、マジマジと見つめる。

 顔とお腹が同じくらいの大きさの、ほぼ2頭身。手足は薄くてペラペラで、立つ事は出来なそうだ。目は黒いビーズを埋め込んで作ってある。

 出来はあまり良くはない。むしろ、玩具屋に並ぶ商品としては失格だ。

 それでも栞の目を引いたのは、ヌイグルミから漂う雰囲気、デザイン、そして縫い方だ。

 そのどれもが、見慣れた懐かしさを喚起させる。いや、呼び起こすだけに留まらない…これは、懐かしい記憶そのものの具現化だ!

 「これ…これ…!」

 感極まり、吃音を交えながら栞が呟いていると。

 「すまんなぁ。時間無ぇってのに、作れって言われたからよ。急いで作ったら、そんなのしか出来なかったンだよ」

 「!!」

 聞き慣れた声。低くて逞しい声。どこか間の抜けたような声。暖かくて優しい声。そして――望み焦がれながらも、もう二度と聴けないのだと諦めていた、声。

 その声の主をタラップの上に認めた瞬間、栞はヌイグルミをポトリと落とすと、電撃にでも撃たれたような勢いで叫びながら走り出す。

 「…パパ…ッ!!」

 そう。そこには騒乱の中で別離した父親――倉縞蘇芳の姿があった。

 「久しぶりだなぁ、栞ッ!」

 蘇芳も叫び、タラップを一気に駆け下りると、駆け寄る娘へと一直線に向かう。

 そして両者は、艦隊の陰から覗く夕日を背にして、しっかりと抱き締め合う。

 「な? デッカいクマ持って行くって言ったろ?」

 ロイがニカッと笑って語った言葉は、2人の耳に届いてはいないだろう。

 栞は涙をボロボロと流しながらわんわんと泣き叫び出し、蘇芳も鼻をすすりながら(にじ)んでは止まらぬ涙に目を赤くする。

 絶望的な別離から、1ヶ月余り。互いを求め合いながらも、諦めの奈落に落ちかけていた末の、再会である。

 どうして感極まらずにいられようか。

 親子の再会を遠巻きに見ていた人々の顔に、笑いとも泣きとも付かない表情が浮かんでゆく。良い場面に巡り会えたという嬉しさのある一方で、自分もあの親子のように不本意に別離した親愛なる者と再会したいという羨望がこみ上げてきたのだろう。

 このまま、彼らが傍観者となるだけならば、この集いはただの見世物で終わるだろう。

 しかし、渚はこの集いを"祭り"と呼んだ。

 親子の再会だけでは、終わりはしない。

 「さーて! アンタみんなにも、クマのヌイグルミの大盤振る舞いだ!」

 ロイの叫びを合図に、艦隊が次々にハッチを開いてゆく。その中からゾロゾロと津波のように現れたのは…人、人、人だ。

 彼らはすぐさま駆け出して、平原に待つ人(だか)りの中へと入り込んでゆく。

 突然現れた大量の人々に、キャンプの避難民達はちょっと身を(すく)めたが。やがて、駆け寄ってくる人々の中に見知った者の顔を見つけると、一気に破顔して、自らも彼らの元へと駆け寄ってゆく。

 そして、栞と蘇芳が見せた劇的な再会が、所々で巻き起こる。

 『クリムゾンコート』の艦隊が運んで来たアルカインテールの残留市民、および『バベル』から解放された人々が、身内の元へ(ことごと)く帰った瞬間である。

 ただ別れたのみならず、死別したとばかり思っていた者とも再会を果たした彼らは、熱い涙と抱擁なしに喜びを分かち合うことが出来ない状態である。

 こうして、沈みゆく夕日に照らされる大地は、歓喜の輝きに満ち溢れるのであった。

 

 「んんー、特等席からの良い眺め!

 こういう場面に立ち会えると、この部に入って良かったなー、って心底思えるッスよ!」

 艦隊先頭の飛行艦の操縦席に座る大和が、滲んだ涙を拭いながら笑う。彼は良い意味でも悪い意味でも表情に出やすい人間なのだ。

 「それに、こんな大艦隊の先頭を飛べるなんて! 軍団長になった気分で、最高に気持ち良かったッスよー!」

 そんな感想を張り上げながら、操縦席に五体を投げる、大和。その後ろに立つ『クリムゾンコート』軍団長のルミナリアは、クスクスと上品に笑いながら語る。

 「普通、指揮官を乗せた旗艦は矢面に立たないものよ。

 貴方の位置は、斥候か盾役が良いところね」

 「え…!

 ちょ、姫将軍様、良い気分のところ、腰を折らないで下さいよぉッ!」

 大和が顔を歪めながらルミナリアに振り向くと。彼女は鼻で笑い飛ばした後、人差し指を立てて胸を張り、「ただし」と付け加える。

 「凱旋飛行では、旗艦が先頭に立つものよ」

 その言葉を聞いて、大和は歪めた顔に満面の笑顔を取り戻す。

 「そりゃ、そうでしょうとも!

 だから姫将軍様だって、ここに乗艦なさってるわけッスよね!」

 

 大地に満ちる歓喜のざわめきに、栞と蘇芳の親子はハッと顔を上げると、首位を見渡す。自分たちの再会にばかり気が入っていて、周りのことは見えなくなっていたようだ。

 だが、周りの人々の晴れ晴れとした涙や笑顔を見て、栞と蘇芳は顔を輝かせる。そして再び顔を見合わせると、こぼれるような笑顔を見せつけ合う。

 「な? 約束、守ったろ?」

 そんな2人の合間に滑り込んだのは、ロイの言葉だ。栞はバッと振り向いてロイ、そして彼の隣に立つノーラを見やると、興奮に突き動かされるままに首をブンブンと縦に振る。

 「スゴい! スゴいね、お兄ちゃん、お姉ちゃん!

 あたいの約束を守ってくれた…ううん、それ以上のことをやってくれた! しかも、それだけじゃない! みんなにも嬉しい事を運んでくれたなんて…!

 スゴいよッ!」

 するとロイは両腰に手を置いてエヘンと胸を張り、得意げな表情で語る。

 「なんたって、オレ達は希望の星を撒く星撒部だぜ?

 星ってのは、1つだけじゃねぇ。空を埋め尽くすくらいあるんだからな! これくらい運んで来て、当然だぜ!」

 「いやはや…マジでアンタらスゲーよ。もう絶句するくらいにな。

 これで学生だってンだから、職業軍属のオレ達はお手上げするしかないっつーの」

 蘇芳が苦笑を交えて語るが、その苦々しさは照れ隠しの意味合いが強そうだ。何せ、人前で涙を晒してしまったのだから。

 「気にすンなって、おっちゃん!

 オレ達は天使だろうが士師だろうが殴り倒すのが日常茶飯事だからな!」

 「…その話、最初は眉唾だと思ってたんだがな…。もう信じるしかねーぜ」

 そんな風にロイと蘇芳が会話を交わしている最中のこと。ノーラは言葉を口にしなかったが、その代わりに栞の顔を見つめていた。

 もとい、栞の瞳を覗き込んでいた。

 そして、胸中でホッと一言、こう呟いていた。

 (曇り…取れたね…!)

 初めて会った時には、世界の輝きを恨みで塗り潰すような曇りに濁っていた、栞の瞳。

 今では気配は微塵も感じられない。初夏の快晴を思わせるような、瑞々(みずみず)しく爽やかな輝きに満ちている。

 空はこれから、陽が沈んで闇に閉ざされると共に、広がる雲によって星の輝きさえ奪われてしまうだろう。

 それでも、栞の瞳に灯った輝きは、決して消えることはないだろう。

 その活き活きとした瞳こそ、宵闇も曇天も突き抜けた向こうにある、これから彼女に訪れる未来や希望を映すことが出来る。

 

 ――死した(まなこ)では、決して未来を見ることは出来ないのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Epilogue - Part 1

 エスニック風の内装をした店内には、胃袋を刺激して止まないスパイスの香りに満ち(あふ)れている。

 その香りに誘われて、指がついつい皿の上に山と盛られた料理に延びてしまう。普段の食事ならもうとっくに満腹になる量を胃袋に放り込んでいる気がするのに、指は止まらないし、空腹神経がもっともっと料理を寄越せと叫んでいる。

 (今夜…体重計に乗るが、怖いなぁ…)

 そんな事を胸中で呟いて苦笑を浮かべた次の瞬間。ノーラは口に鶏の皮をフライしたものを運んでいた。そのパリッとした歯触りと、噛むほどに口の中一杯に広がる脂の乗った旨みを味わってしまうと、笑みに含まれていたはずの苦みは何処へと消え去ってしまう。

 「のう、言った通りじゃろ!」

 向かいの席に座す渚が、ウインクを交えて語る。彼女の澄み渡った紺碧の瞳には、今にも(こぼ)れ落ちそうな程に頬を(ゆる)ませ、至福に(とろ)けたノーラの表情が映っている。

 自身の面持ちを目にして、恥ずかしいという気持ちが鎌首をもたげたものの…。舌から脳を侵略する極上の味の嵐の前には、ちり紙のように一瞬で吹き飛んでしまう。

 「はい…!」

 ゴクン、と口の中のものを飲み下したノーラは、すかさず渚に同意する。

 「学園の食堂も、とても美味しいとは思いますけど…!

 ここの料理は、本当に、段違いですね…!

 いくらでも、食べられちゃいます…!」

 すると渚は、かっかっかっ、と大きく声を立てて笑う。

 「うむうむ、いくらでも食べて飲むが良い! と言っても、わしら未成年じゃからな、酒はダメいかんぞ!

 此度は、おぬしら2人が主賓の宴なのじゃからな! 遠慮などするでない!」

 

 アルカインテールの騒動が終わって、2日が経っていた。

 世は、人々が憩いに湧く日曜日。この日に星撒部の副部長、立花渚はアルカインテールの騒動を無事終結させた祝いの打ち上げを催したのである。ちなみに騒動終了後の翌日土曜日に開催しなかったのは、当事者たちに休みを与えるためだ。

 渚が主賓として上げた2人とは、ノーラとロイである。彼らが依頼者の栞と接触したのが事の始まりであったので、当然と言える。

 しかしながら、これに関して紫は異論を唱えてもいた。

 「私と蒼治先輩は、2人と一緒に初日からアルカインテールに入ってたんですけど…。私たちも、主賓として扱われる権利があると思うんですが…」

 対して渚はパタパタと手を振って否定する。

 「おぬしらの参加態度は消極的じゃったからな、その分で減点じゃ!

 まぁ、タダでたらふく食えるのには変わらんのじゃから、それで良しとせい!」

 「…タダで食べるのは、全然参加してなかった渚先輩も、アリエッタ先輩も、ヴァネッサ先輩も同じじゃないですか…」

 そう語った紫ではあったが、渚は言ったところで何ら功を奏することもないと分かりきっていたので、口調は溜息混じりだ。とは言え、口にしたことで少し気は晴れたようだ。

 さて、この打ち上げ宴会の会場は、ユーテリアの居住区の中でひっそりと営業しているエスニック料理――もっと言えば、カレー料理店だ。渚はこの店を貸し切りにして、どんちゃん騒ぎをやっている。

 休日のランチタイムと言えば書き入れ時であるが、店主は喜んで渚の頼みを受け入れていた。何でも、この店を開く際に星撒部に世話になったとのことで、その恩義に報いたということである。

 とは言え、渚達の金に糸目をつけない注文っぷりは、普段のランチタイムよりも相当の利益が出ていることだろう。

 カレー料理店が会場に選ばれたのは、ロイが「カレーを食いたい!」と強く切望したからである。アルカインテールで一夜を過ごした際に食べ損ねたアリエッタのカレーライスに酷く執心していたらしい。そこで渚は、顔見知り且つ行きつけになっているこの店を選んだというワケだ。

 

 鶏の皮のフライをパクパクと数枚平らげたノーラは、今度はジョッキ型のコップに入った白い飲み物――ラッシーに手を伸ばす。

 旧時代の地球においてインドと呼ばれる国家があった地方に伝わる飲み物で、ノーラは今回が初体験であったが、これがいたく気に入ってしまった。爽やかな甘みとヨーグルトの酸味が舌の上で奏でるハーモニーが、脂の乗った料理によく合う。これを飲みながらなら、いくらでもフライ料理が胃袋に入りそうだ。

 加えて、同じ地方の伝統的なパンであるナンも気に入った。カレーはご飯と一緒に食べるものだと思いこんでいたノーラは、ナンの存在に衝撃を受けたと共に、虜になってしまった。モチモチとした歯ごたえに、小麦に由来するほんのり甘い味。これがトロトロの緩いカレーとあまりにもマッチしている。あまりの感激に、一口目に「ほぅ…」と恍惚の声を上げてしまった程だ。

 「ほれ、ノーラよ、こっちのほうれん草とチーズのカレーも食べてみんか。

 緑色のカレーというと、抵抗を感じて忌避する者も居るようじゃが、それは人生の損に他ならんわい!」

 「はい…頂きます!」

 ノーラは3枚目になるナンを手に取って千切り、渚から寄越された緑一色のカレーの中にドップリとつけ込んで、桜色の唇に放り込む。

 …なるほど、渚の言う通り。この味を忌避するなど、人生の損だ! ほうれん草由来の甘みとチーズのコクの相乗効果は、まさに至高の組み合わせである。

 「あっ、オレにもオレにもっ!」

 口早に割り込んできたのは、ノーラの隣に座るロイだ。彼の頬には詰め込まれた食べ物がまだ残っているというのに、豪快に半分に割ったナンでゴッソリとカレーを救うと、一口で頬張ってしまう。モコモコに膨れ上がった頬を見ていると、ドラゴンというよりリスを想起させる。

 「あ、ボクもボクもー! ロイ、食べたら回してー!」

 「その次、オレ達の方に回してくれよな」

 ちょっと離れた位置に座るナミトとイェルグが手を挙げて頼むが、ロイはもう半分のナンもカレーの中に突っ込もうとしている。彼らに回るより先に、カレーは(つい)えてしまいそうだ。

 そんな旺盛に過ぎるロイの食べっぷりを見ていたノーラは、食事の楽しみの中に泡のように浮かんだ不安――というか遠慮にハッとすると、渚に問う。

 「あの…こんなにご馳走になってしまって、大丈夫なんですか…? 先輩、お財布が…マズいことになりませんか?」

 すると渚は、ハッハッハッ、と笑い飛ばしながらパタパタと手を振る。

 「気にせんで良い! わしが言った"タダ"という意味は、おぬしらだけでなく、わしにも適用されるからのう! わしの懐には何らダメージはないぞい!

 今回の金はぜーんぶ、『パープルコート』持ちじゃからな!」

 そう語りながら制服の上着の裏ポケットから取り出したのは、一枚のカード。表にデカデカと地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のシンボルマークが描かれたそれは、彼らが業務上の決済用に使う特殊なクレジットカードである。

 「しかもこのカード、『パープルコート』総司令直々のお墨付きカードじゃからな! 支払額に際限無し、じゃ!

 迷惑料ということで、あのワカメ男、わしに渡してきおったのじゃ」

 渚はカードをピラピラさせる。彼女は『オレンジコート』の総司令を"ガマガエル"とも呼んでいたが、権力者に対しても物怖じしない、それどころか彼らの向こう(ずね)を蹴飛ばすのを面白がるような性格のようだ。

 そんな向こう見ずな程に豪胆な渚に苦笑してから、彼女の口から出た『パープルコート』の言葉に琴線が引っかかったノーラは尋ねる。

 「そう言えば…どうなったんでしょうね、『パープルコート』の責任問題って…。査問委員会って、開かれたんでしょうか…?」

 「うむ、昨日の中に開かれたぞい。

 地球圏治安監視集団(あやつら)は大規模な組織の割に、結構フットワークが軽いんじゃよ。まぁ、地球圏住民からの信頼を損なわぬための努力なのじゃろうがな」

 「流石は地球圏の守護者を名乗るだけのことはありますね…。

 それで、『パープルコート』はどうなったんですか?」

 「まっ、予定調和じゃよ」

 渚はマンゴージュースとラッシーを混ぜたジョッキ型カップをグビリと仰いでから、言葉を続ける。

 「軍団総司令は監督不届きということで減給ペナルティが為されたようじゃが、軍団が揺らぐようなお咎めはなし。

 アルカインテールの事件に関しては、純然たる駐留部隊の暴走として結論されておる。

 んで、駐留部隊は解体。所属員は基本的に、責に応じて一階級以上降格した上で別軍団の部隊に配属されるとのことじゃ」

 「つまり、『パープルコート』という組織自体の責任ではない…と結論されたということですね…」

 「うむ。

 『クリムゾン』の吸血女も言っておったが、あのワカメ男を見てよう分かったわい。

 『握天計画』を秘密裏に進めることなど絶対に出来ぬ。もしも進めておったとしたら、ストレスで胃袋がドロドロに溶けてしまうじゃろうな」

 ノーラは"ワカメ男"と呼ばれる『パープルコート』の軍団総司令の姿を目にしていないので何とも言えないが、渚の滑稽な言い方に苦笑いを隠せない。

 一体どんな顔をした男だったのだろうか。よほど辛気臭い顔をした人物だったに違いないと考えたノーラは、眉間に谷のような皺を寄せた、病的に痩せぎすの男を想像して、笑みの苦みを更に増したのであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ノーラの想像は当たらずとも遠からず、と言ったところである。

 『パープルコート』総司令であるドミデウス・マクナスの眉間には、いつでも深い皺が刻まれている。その青白い顔色と相まって、病的な神経質に悩まされているような印象を覚える。

 しかしながら、紫色に染め抜かれた礼服に包んだ肉体は、服の上からも分かるほどにガッシリとした壮健なものだ。その点はノーラの想像とは全く異なっている。

 渚が"ワカメ男"と称している要因は、彼の髪型にある。強いウェーブのかかった長めの黒髪は、確かにワカメに印象が近い。

 そんな彼に対して開かれた査問会は、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の本拠地のある巨大都市国家アルベルの大法廷の場を借りて行われた。

 出席者は、外部組織に身を置く査問委員達と、各軍団の総司令、そして軍団を束ねる大本営に所属する大将クラスの最上層部員達である。

 出席者の中、軍団総司令は全員が出席しているワケではない。絶対に外すことの出来ない作戦に従事している軍団総司令は、最上層部の許可を得た上で委員会を欠席している。その他、時間的または距離的にアルベルに直接訪問することの出来ないものは、映像通信によって参加している。故に、軍団総司令の席には、3Dホログラムの姿がちらほらと見える。

 「――以上。では、委員会を解散とする」

 今回の会議の議長を勤めた委員の言葉が広々とした法廷に響きわたると。ドミデウスは腰をほぼ直角になるほど曲げて語る。

 「我が輩の不祥事のために皆々様のお時間を奪いし事、誠に申し訳なく思う」

 その謝罪の言葉で以て会議は締めとなり、法廷内には所々から溜息が響く。ホログラムで参加していた軍団総司令の中には、早々に姿を消した者が数多くいた。

 参加者がバラバラと法廷から退出してゆく最中のこと。青白い顔色に見合った幽霊のようにフラリとした動きで踵を返したドミデウスが、法廷中央からゆっくりと出口へと足を運んでいると。

 「とんだ災難だったわね」

 そう横から声をかけて来たのは、『クリムゾンコート』を率いる吸血鬼族の女性中将、ルミナリアである。

 「災難…?

 いいや、全く違う。この件は明らかに、我が輩の落ち度。失態である」

 しかめ面に相応しい自責的な物言いに、ルミナリアは呆れたような、慰めるような笑みを浮かべる。

 「確かに委員会が言う通り、軍団総司令という役職を担う以上、側近だけでなく末端にまで(くま)無く目を行き届かせることが理想なのでしょうね。

 でも、十万単位の人員全てを把握するのは至難の業よ。

 まして、『現女神』の次に『天国』に近い場所に陣取っている私たちだもの。手の届く場所に誘惑がぶら下がっているのだから、ちょっとした弾みで欲望に負けてしまう者が出ても、仕方がないと言えるわ。

 ほんの二週間前にも、『ネイビーコート』が問題を起こしたじゃない? あれも今回の件も、根は同じもの。悪いのは、誘惑に負けてしまった脆弱な心よ」

 二週間前、とある『現女神』の監視をしていたはずの『ネイビーコート』の一部隊が、『現女神』と結託して求心活動を行っていた問題が露見した。この時にも査問委員会が開かれ、『ネイビーコート』の総司令が今回のドミデウスのように法廷の中央に立たされた。

 その例を持ち出して慰めたつもりのルミナリアであったが、逆効果だったようだ。ドミデウスはますます眉間に皺を寄せ、睨みつけるようにしてルミナリアを凝視する。

 「他がやっているとならば、例ええ失態であろうとも(なら)っても問題はない、と言いたいのか、貴女は。

 我が輩を慰めての言葉であったとしても、聞き捨てならない言葉である。それの考えは改めになられよ」

 表情通りの堅い言葉に苦笑いを浮かべたルミナリアは、弁解しようと唇を開きかけた…が。

 彼女よりも早く、別の方向から言葉が割り込む。

 「ルミナリアさんは悪気が有ってそういう言い方をしたんじゃないですよ。純粋にドミデウスさんを気遣っただけです。悪く取らないであげてください」

 割り込んで来た男は、鮮やかなオレンジ色のコートに身を包んだ、柔和さの(にじ)む雰囲気の持ち主である。ニコニコと細めた目に丸い縁の眼鏡を掛け、コートに似合う黄色味の強い緑色の髪はサラリとした綺麗なストレートのヘアスタイルである。

 彼の名は、鬼邑(きむら)蛙戦(あせん)。『オレンジコート』の総司令を勤める人物である。

 ちなみに、渚は彼のことを"ガマガエル"と評していたが、その印象は全く見受けられない。名前に"(カエル)"の字が含まれているものの、これはアマガエルなどの意の字であり、こちらの点からも渚の評価は的外れのように聞こえる。

 「蛙戦殿。貴殿には多大な迷惑をかけた」

 ドミデウスは深々と礼をする。彼の部下の暴走によって、蛙戦の率いる『オレンジコート』は難民キャンプを営むことになったのだから、それについての詫びである。

 「いやいや。気にしないで下さいよ。

 僕は人道支援が性に合う(たち)ですから。戦闘任務を割り当てられる機会が減ったので、内心ホッとしてますよ」

 それについて更にドミデウスが下手に出て発言しそうになったところを、蛙戦はすかさず「それにしても」と言葉を繋ぐ。

 「ドミデウスさんのような責任感の強い総司令に率いられる『パープルコート』は幸せですよ。

 僕たちは、顔も覚え切れないほどの部下を抱えているというのに、部下一人一人に対して責任を背負わされる立場にある。前の『ネイビーコート』のゴルバスさんのように、末端まで目を届かせるなんて無理、なんて頭から責任放棄されるよりも、部下は格段に救われますよ」

 「責を背負う者として、救うのは当然のこと。

 真にせねばならないのは、救うほどの奈落に落ちるのを未然に阻止することであろう。

 それが出来なんだ我が輩は、指揮官としてまだまだ未熟の身である」

 「それはあなただけの課題ではないよ、ドミデウス君。

 私たち皆の、そして恐らくは永劫の時間を掛けても完璧な改善策が見いだされ得ない超難題だよ」

 ここで、更に別の人物からの発言が割り込む。

 この発言者の姿を初めて見る者は、『[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]』を経て様々な人種が混在するようになった現代においてなお、目を疑うことだろう。何せ、それは荷台の上に置かれた、小さなクリスマスツリーを思わせる針葉樹の植木なのだから。彼の植物の体には発言の為の体組織がないために、植木鉢の土の中から延びるケーブルで繋がれた、古びたラジカセを声帯代わりにしてノイズ混じりの言葉を発している。

 このような異様な姿をした彼もまた、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)を率いる中将なのである。名は、エルジィ・プラン。先日、星撒部がアオイデュアで接触した『ビリジアン・コート』を率いる者である。

 「まず、いかなる種族であっても人類は神ではなく、全知全能でないという事が絶対の障害になってしまう。

 近しい家族や友人に対してすら、我々は行動や心中は完全に把握することが出来ないのだ。一の体に複数の脳を持つシャム双生児ですら、互いの完全な理解は実現できないという。

 どんなに優れた監視システムを作ろうとも、"優れた"が"完璧"になることが出来ない以上、事後判断は必須のことだよ」

 「しかし、事後判断を減らすための不断の努力はせねばなりません、エルジィ殿」

 ドミデウスはあくまで堅く語ると、エルジィは「うん」と肯定する。

 「その努力の手段として、我々は自身の評価を第三者機関に委託し、定期的に客観視してもらうようにしているワケだ。また、一部の機密情報以外はなるべく公開し、意見だけならば査問委員会以外からも広く募ることで、多様な価値観を取り込むようにもしている。

 この手法は、概ね成功していると思うよ。地球圏の住民皆様の私たちに対する印象は概ね良好だからね。

 それにしても、[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]から30年、そして地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の歴史は高々15年。その短期間に、異相世界を(また)ぐ影響力を持つ怪物組織に急成長したのだもの。私たちがさらなる盤石を目指すならば、ドミデウス君の言う通り、私たちはこれからも絶えず努力をせねばならないね」

 「その努力をどの方向へ持って行くか、その舵取りが真に大変なんですけどね」

 蛙戦がピシャリと額を叩きながら、自嘲の笑みを浮かべて語ると、ルミナリアが同意の失笑を浮かべる。

 「そういった事は、上層部に任せることにしましょう。彼らが直属の軍団を持たないのは、そういった組織的問題を常に俯瞰(ふかん)するためですもの。

 私たちが足を突っ込んでも、オーバーワークになるだけだわ」

 「部下の俯瞰だけで精一杯ですものね」

 そんな風に交わされる蛙戦とルミナリアの会話に、ドミデウスは始終暗く堅い表情を見せっ放しだ。責任感が強くて神経質な彼にしてみれば、組織運営に対する消極性とも取れる発言が気に食わなかったのだろう。

 そんな彼の元に、またも別の人物からの発言が届く。

 「まぁ、そんなに気難しい顔を作り続ける必要はないぞ、ドミデウス。

 君には失態かも知れないが、得をした者も居るのだからね。この私のように」

 その人物は、白に極近い灰色の頭髪と髭を蓄えた、壮年の男性だ。肌の色は毛髪とは対照的に、長年陽に焼け続けた浅黒さを見せている。そして彼の右目は、黒い眼帯によって塞がれている。

 その歴戦の英雄然とした姿は、アルカインテール駐留部隊のヘイグマン中佐と同じ類の匂いが感じられる。しかし、この男とヘイグマンとの間には、圧倒的な差異がある。それは、クマやトラ、いや(ドラゴン)にも匹敵するような迫力だ。体は年齢を感じさせない、瑞々しく屈強なもので、宵闇よりも更に黒いコート越しにも筋肉の盛り上がりがよく見て取れる。彼は決して、現役を退いて知恵を絞るだけの老獪ではない。今なお現役の戦士なのだ。

 彼の名は、ゼイン・クルーガー。地球圏治安監視集団(エグリゴリ)において最も苛烈な軍団の一つと言われる、『エボニーコート』を率いる人物である。

 ゼインは白いライオンのような凄絶な笑みを浮かべて語る。

 「君のところから転属して来た者達…ゼオギルドとか云う元中佐の部隊だな。彼らの活きの良さは、正に我が部隊に相応しい」

 「…いえいえ、ただただ跳ねっ返りが強く、どの軍団も御しかねる問題児ばかりです。

 貴殿が引き取ってくれねば、免職やむなしのところでした。

 ご迷惑をおかけします」

 またも深く礼をするドミデウスは、ガッハッハッ、とゼインは笑い飛ばす。

 「問題児結構! 跳ねっ返れる根性こそ、地獄の戦場で活路を見出す力の源になるものだ! 我が軍団では理詰めだけのもやしっ子では生き残れん!」

 『エボニーコート』が主に従事する任務は戦闘である。人道支援に代表される後方任務は両手で数えるほどしかこなしていないだろう。彼らは戦場を選ばない。地球上だろうが他惑星上だろうが宇宙空間だろうが亜空間だろうが、お構いなし。ひたすら地球圏にとっての害悪を殲滅して来た。

 「ところで、ルミナリアよ。

 ユーテリアの学生に会ったとのことだったな?」

 突然話題を変えたゼインの質問に、ルミナリアが(うなづ)く。

 「ええ。話題沸騰中の星撒部の連中よ。

 彼らが私達の仕事の大半をこなしてしまったものだから、折角足を運んだというのに、手持ち無沙汰になってしまって肩身の狭い思いをしたわ」

 ゼインが、ガッハッハッ、と再び豪快に笑う。

 「星撒部! 『英雄の卵』にして、すでに牙が生え揃っておる小僧どもか! 毎度毎度、愉快な事をしでかしてくれる!

 その気概、是非とも我が部隊に欲しいものだ!」

 「そういえば、ゼインさん。あなたのところでブイブイ言わせている超スゴ腕の新人2人って、昨年度のユーテリアの卒業生でしたよね?」

 蛙戦の問いに、ゼインは「ああ」と頷く。

 「あやつらは、すでに新人とは呼べんよ。ユーテリアは英雄どころか、とんだ化け物を育ててくれよった。

 近日中には、我が軍団の顔になることだろう」

 「そんな怪物を得ても、まだまだ満足しないなんて。どこまで欲深いのかしら、あなたは」

 ルミナリアが溜息を吐きながら語る。

 「でも、星撒部には私が白羽の矢を立てている子がいるのよ。その子以外なら、あなたが総取りしても私個人としては文句はないわ」

 「ちなみに、その目当ての小僧とは誰だ? バウアーか? 渚か?」

 星撒部の部長と副部長は本当に地球圏治安監視集団(エグリゴリ)内でも名の通っている存在であると証明された瞬間である。

 ゼインの問いに、ルミナリアは首を左右に振る。

 「いいえ。あの子達はそもそも、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)(なび)いてはくれないでしょうからね。

 私が気にしてるのは、『暴走君』…ロイ・ファーブニルよ。丁度、旧時代地球人類以外の種族だものね」

 『クリムゾンコート』は旧時代地球人類以外の種族でのみ構成されている部隊である。生まれながらにして地球を客観視できる者達の観点から地球圏を評価する、という意味合いを兼ねての配慮である。

 それはさておき、ロイの名が出された途端、ゼインは隻眼を険しくひそめて「バカな」と低く唸る。

 「あの跳ねっ返りこそ、我が軍団向きであろう。

 お前のお上品ぶった毛色の軍団では、浮いて見えるだけだぞ。

 他はお前にやっても、あの小僧だけは俺に寄越せ」

 「もう怪物的な人材を抱えているのですもの、良しとしなさいな。強すぎる我欲は身を滅ぼすわよ」

 ドミデウスそっちのけで2人の話題が進む中、更なる新たな人物が口を挟む。

 「人員の話でしたら、僕も黙ってませんよ」

 一同が振り向いた先に居た――いや、在ったのは、3Dホログラムによる映像である。

 映像が描画しているのは、冴えない風貌の男性である。長身痩躯を猫背気味に丸め、ボサボサの頭に(クマ)がクッキリと浮かんだ目元。着込んだ鈍い銀色を放つコートだけがパリッとしているものの、その雰囲気にあまりにも似合わない人物。

 彼もまた、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の軍団を率いる人物である。名は、リンデン・ヴィッケハーウト。総司令の中でも特に"鬼才"且つ"奇才"として名高い人物である。率いる軍団は『シルバーコート』で、太陽系外縁宙域エッジワース・カイパーベルトを主な活動の場としている。

 「ウチと来たら、万年人員不足ですから。高々十万オーダーの人員で、広大にすぎるカイパーベルトをカバーするなんて無茶な仕事を押しつけられていますからね。活きの良い優秀な人材は1人でも欲しいところです。

 ですが、有望な即戦力は皆、『エボニーコート』さんが持って行ってしまいますから。ゼインさんには少し遠慮して頂きたいものですよ」

 その言葉をゼインは、ハンッ、と笑い飛ばす。その顔に浮かんでいるのは、悪戯(いたずら)に成功して誇らしげにしている悪ガキのような嫌らしい笑みだ。

 「我ら(エグリゴリ)は地球圏の矛と盾だ。自らその役を担おうとする者は、常に血の湧き躍る戦場を求める戦士だ。

 将棋のような味気ない戦い方をするお前の部隊では物足りんのだろうさ」

 「将棋…ですか」

 リンデンは顎に手をおいて少し首を捻る。

 「まぁ、艦隊による戦闘というのは、(はた)で見れば確かにそういう印象を覚えるのかもしれませんね。

 でも、僕らの部隊も白兵戦はしますよ。ゼインさんのところのように常日頃行うというワケではありませんけど。

 そもそも、常日頃から白兵戦をさせるような真似は僕が認めません。リスクと結果が釣り合いません」

 ゼインの指針に真っ向から抗うような物言いだが、ゼインは獣のように笑っていなす。別に不機嫌を押し込めているワケではない。むしろ彼ら2人は思想は真逆でも、ウマの合う仲である。

 しかし、蛙戦はそうは取らなかったらしい。ゼインの表情を不満爆発の前触れと見て取り、慌てて話題を変える。蛙戦は率いる『オレンジコート』が人道支援に重きを置いているように、争いを好まぬ性格だ。

 「ところで、リンデンさん。立体映像での参加ですけど、お忙しいのではないのですか?

 あなたの方術でしたら、こちらまで来るのにさほど掛かりませんものね。

 何か重大な作戦を抱えているのではないですか?」

 「はい、正しくその通りです」

 リンデンはあっさりと首を縦に振り、「ですが」と眉に皺を寄せながら続ける。

 「ウチの副官がですね、この機会にコミュニケーションを取っておけとうるさいんですよ。それで、指揮そっちのけで会話に参加です」

 「また宙泳莫獣(オケアノス)でも飛来してきてるのかい?」

 ノイズ混じりのエルジィの言葉に、リンデンは「ビンゴです」と指差しして答える。

 「システムが内オールト雲領域に進入した3個体を検知しましてね。その対応中です」

 「システムって、リンデンさんご自慢の『トランペット』ですね」

 ノイズ混じりの声でエルジィが言葉を挟む。

 『トランペット』は『シルバーコート』のリンデンが設計・開発した、太陽系外縁宙域内に蜘蛛の巣のように張り巡らされた天文学規模の方術ネットワークである。形に見合わずに楽器の名称で呼ばれているのは、旧時代の地球の神話における世界の終末を告げる天使の吹く楽器にちなんでいるとのことだ。ちなみに、この名称はリンデンの発案ではなく、彼の部下によるものらしい。リンデン自身は単に"警報システム"と呼んでいたようだ。

 「内オールト雲領域とは、また随分と範囲を広げたものですね。あの宙域は我々の管轄ではないのに、思い切った投資をしましたね」

 「思い切りでなく、必然です」

 映像の中でリンデンは、ティーカップを手にとって一口吹くんでから、続ける。

 「先手を取れるかどうかは、死活問題ですよ。僕らが相手にするのは、天文学単位の体積や物量だったりしますからね。水際でなんとかなるレベルじゃありませんから。

 それでも、エルジィさんが先ほどおっしゃったように、システムも万全ではない。相手が惑星規模の体積を持っていても、検知されないなんてことも結構ありますから。

 だからこそ、目や手や頭となってくれる人員は咽喉(のど)から手が出るほど欲しいです。

 その点については…」

 リンデンは、先ほどから黙したままのドミデウスに視線を投げる。

 「ドミデウスさんには感謝しています。あなた自身には手痛い損失なのでしょうけれども。

 アルカインテール駐留部隊の一部をこちらに回して頂けるなんて、僕には思いもよらぬ幸運でした。

 …とは言え、組織を俯瞰する身としては、今回の異動で『パープルコート』に大きな穴が開いてしまうと言う点については、好ましくはありませんよね」

 「上層部とて、そこは考慮しているはずだわ。すぐに補充のための公募を掛けるでしょうね。

 だから、ドミデウス、貴方はそんなに悲観に暮れる必要はないわ」

 ルミナリアがそう慰めを含めた言葉を告げた頃。ドミデウスはゆっくりと歩き出し、法廷の出口を目指す。

 「我が輩は悲観に暮れているワケではない。ただ、補充が来るよりも何よりも真っ先にやっておかねばならない事がある。

 諸君らとの会話を楽しみたい気持ちもあるが、我が輩は行かねばならない。

 ケジメの、ために」

 そしてドミデウスは、「さらば」と言い残すと、歩調を早めて法廷を後にする。

 残された軍団総司令達は、顔を見合わせると。場の主役たる人物が退場したこともあって、解散の意志で同意すると、それぞれ別れの言葉を告げて別々の出口へと足を運ぶ。

 ただ一人、リンデンだけは一瞬にして映像を消滅させて、その場から消えたのだった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「…それで、『パープルコート』自体は無くならないようですけど…アルカインテールからは完全退去するんですよね?」

 ノーラの問いと言うよりも確認に、渚は「うむ」と首を縦に振る。

 「それじゃあ…『パープルコート』の後釜になる軍団は、どこになるんですか…? アルカインテールは地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の庇護にある都市国家ですから…退去して終わり、だと住民の方々、不安ですよね…?

 それに、復興の件もありますし…」

 「復興は、『クリムゾンコート』が担当するとのことじゃ。アルカインテールの問題の終結に携わっておるからの、その繋がりのようじゃ。

 何より、アルカインテールの住民達が指名したとのことじゃ。

 まぁ、全く見知らぬ軍団よりも、総司令が顔を出した軍団の方が安心できるのじゃろうな」

 そう語り終えると同時に、渚は腕を伸ばして大きなタンドリーチキンをヒョイと掴むと、一口に頬張る。仰山木の実を頬袋に詰めたリスのように片頬をふくらませて咀嚼(そしゃく)しながら、行儀悪くも言葉を続ける。

 「ただ、復興後に駐留部隊の後釜を継ぐ軍団は、まだ決まって居らぬようじゃ。

 住民としては、気心知れた『オレンジ』か『クリムゾン』を希望しておるようじゃが。上層部としては、親密になり過ぎての癒着を嫌うじゃろうから、別部隊を送り込みそうじゃな、とわしは睨んでおる」

 「そうですか…。

 コロコロ人が変わると、住民の方々も落ち着かないですよね…。

 蘇芳さんや栞ちゃんも、一山終わってまた一山…という気分かも知れませんね…」

 「そうじゃ、蘇芳殿と聞いて思い出したわい」

 渚はゴクリと口の中のものを飲み下すと、ナンを千切りながら言葉を続ける。

 「蘇芳殿は今回の功労やら何やらが評価されてな。アルカインテール政府が新設した復興推進部署のトップに任命されたとのことじゃ。

 まだ走り立てでロクに人員の配備もしておらん状態じゃから、立ち上げ作業に大忙しなんじゃと。

 娘さんと再会できたものの、中々一緒に居られる時間がなくて涙を飲んでいるそうじゃ」

 「それは…お祝いするべきか、同情するべきか…悩みますね…」

 ノーラが苦笑していると、渚は千切ったナンを緑色のカレーに浸して頬張りつつ、うんうんと頷く。

 「世の中、白黒とキッパリ言えるものが少なくて困るのう。

 それじゃから人生は面白い、と述べておる先達もおるが、手放しに頷ける言葉ではないのう」

 そして口の中をゴクリと飲み込み、一瞬言葉を途切れさせた、その合間。渚の隣に座る紫が、嫌らしくニヤリと笑みながら口を挟む。

 「蘇芳さんと言えばさ。珠姫さん、うまくやれてると思う?」

 「え…うまくって…お仕事、ですか?

 市軍の方ですから、キャンプ内でも何かと役割はあると思いますし…。しっかりした方ですから、新しい環境でも…」

 「違う違う、そうじゃなくてさ」

 ノーラの答えが終わるより早く、紫はパタパタと手を振りながら割り込む。

 「珠姫さん、蘇芳さんとの関係が進んだのかな、ってこと。

 ストレートに言えば、恋仲になれてヨロシクやれてるかな、ってこと」

 「え…!」

 ノーラの顔が、ボッ、と真っ赤に染まる。学園の授業や実戦ではうまく立ち回れても、恋愛話となると途端に苦しくなるのだ。

 「え…、珠姫さん、蘇芳さんのことを…!? そ、そうなの…!?

 珠姫さんから、聞いたの…!?」

 「聞かなくても、見てりゃ分かるでしょ」

 紫が口に手を当てて、プププ、と笑う。

 「あー、でもなぁ、珠姫さんは分が悪いからなー。相手は死別とは言えバツイチの子持ちで、その子供も結構大きくなってるからなぁー。うまくくっつけたとしても、栞ちゃんが拒絶反応起こしそうだよねぇー」

 「あ、あの、紫ちゃん、ちょっと待って…!

 本人には、聞いてないんだよね…? なのに、そんな風に決めつけちゃっうのは…」

 ノーラがオロオロと語ると、紫は苦笑いしながら溜息を吐き、肩を(すく)めて首を左右に振る。

 「ノーラはホント、こういうのには鼻が全然利かないわよねー。

 じゃ、レナ先輩来たらさ、訊いてみれば良いよ。あの人なら、私たちよりも2人と過ごした時間が断然長いからさ。色々面白い話も聞けるかも」

 そんな事を言っていると、噂をすればなんとやら、という言葉の通りに出来事が起こる。店のドアについた呼び鈴がチリンチリンと鳴ったかと思うと、蒼治に連れられたレナが現れた。

 レナは星撒部の人間ではないが、アルカインテールの騒動に足を突っ込んだ仲ゆえに、渚がこの打ち上げに呼んだのだ。

 「へぇー、こんな洒落た店が、こんな所にあるなんてな! 案内されなきゃ、絶対見つけられねーって!」

 レナは感嘆の声を上げつつ、渚の元へ向かう。

 「今回のタダ飯、たっぷりとゴチになるぜ!」

 「おう、食えい食えい! 『パープルコート』の(おご)りじゃからな! 腹がはちきれるまで食えい!」

 2人は挨拶を交わすと、レナは空いている長テーブルの隅の席へと向かおうとする。そこにすかさず紫が名前を呼んで引き留める。

 「ね、レナ先輩。

 珠姫さん、蘇芳さんとの関係、どうなんでしょうね? 進むと思います?」

 「そ、それ以前に…そもそも、本当に珠姫さんって、蘇芳さんの事を…?」

 ノーラも便乗して質問すると、レナはアッサリと答える。

 「んだよ。珠姫さん、蘇芳さんにベタ惚れだぜ」

 その答えに紫が"それ聞いたことか"という視線をノーラに向ける。一方でノーラは、燃えそうな赤い顔を輝かんばかりにする。

 「つっても、珠姫さんは元々から蘇芳さんのこと意識してたワケじゃねーけどな。部署が違くて接点が殆どないからよ、知らない同士だったんだぜ。

 『バベル』騒動が起きてから2人が合流した当初は、あまりウマが合わなくて、常々ぶつかり合ってたらしいんだけどさ。

 そのぶつかり合いが良かったのかもな。珠姫さん、気づいたら蘇芳さんに夢中になっていたそうだぜ」

 「そ、その話、誰から…」

 尋ねるノーラに、レナはまたもアッサリと答える。

 「珠姫さん本人から聞いた」

 厳然たる事実を突きつけられたノーラは、思わず両手で顔を覆う。とは言え、目だけは指の先からチラリと覗かせていいたが。

 レナは苦笑を浮かべて続ける。

 「いやさー、珠姫さんったら、キツく見えて意外と乙女でさー。事あるごとにあたしに相談してくるんだわ。

 あたしなんて、恋愛なんざトンと興味ないし、経験もないからさー。相談されても困るだけだってのによ」

 「そうでしょうねー。先輩っていかにも、そういうのダメって雰囲気、醸し出してますもんねー」

 ジト目を作りながら嫌味を含めて語る、紫。上下関係にうるさいレナならば、そんな紫を叱りつけるかと思いきや。彼女は紫にも負けぬ嫌味な笑みをニィッと浮かべる。

 「そういうのに敏感な割に、素直になれないでウジウジしてる奴よりゃ、よっぽど健全だと思うけどよ?」

 すると紫は、ノーラのように顔を真っ赤にさせ、「そ、それ、どういう意味、ですか!」とオタオタ語る。

 そんな紫やノーラを横目に、料理をガツガツと胃袋に詰め込んでいたロイが、ふと手を止めて指に付いた油を舐めながらキョトンと語る。

 「ノーラも紫も、何でそんな()でダコみたいな顔してンだ?

 そんなに辛いカレーあったか?」

 「辛いっつーより、甘すぎンだよ。

 な、お二人さん」

 ニヤニヤ語るレナに、ノーラは更に身を縮めるし、紫は「あ、いや、その…!」と言い訳をしようとするが、うまく言葉にできない。そんな2人の様子にロイは疑問符を浮かべたが、さほど重要でもなければ、考えても答えにたどり着けないと早々に判断したらしい。

 「ふーん。甘すぎても、顔って赤くなるもんなんだな。覚えとく」

 そう言い残すと、更に山と盛った料理をガツガツと口に放り込む行動に戻る。そんなロイの様子をレナはケラケラと笑う。

 「花より団子ってのは、ホントこういう事言うもんだなー。

 色々と苦労するねー、誰かさんは」

 紫をジトッと見つめて語れば、紫は顔をブンブンと左右に振り、顔の熱を冷まそうとする。そして、「あ、そう言えば!」と不必要に大声を出して話題を変えることを試みる。

 紫は人に毒をぶつけるのは得意でも、ぶつけられた毒をうまく扱うことは苦手らしい。

 「ですから、先輩!

 どう思います、珠姫さんと蘇芳さんのこと! 2人、無事にくっつけると思います!? 栞ちゃんが障害になりそうじゃないですか!?」

 「んー、そうでもないみてーだぜ」

 レナは紫の話題転換にアッサリと乗り、素直に答える。

 「珠姫さん、今でもあたしに連絡くれるんだけどさ。恋愛相談も勿論あるんだけど、[[rb:惚気>のろけ]話が増えてきたさー。ちょっとウザくなって来てンだよなー。

 なんでも昨日、蘇芳さんが珠姫さん誘って、栞ちゃんと一緒に出掛けたんだってよ。そしたら栞ちゃん、珠姫さんにスゲー懐いたんだとよ。3人で手を繋いで、"家族みたいだね"、なんて言われてよ。珠姫さん、最高に舞い上がったんだとよ。

 その手の話のメールが、夜通しあたしに届くワケよ。ウゼェと思うのも分かるだろ?」

 「なるほどなるほど」

 レナの話を聞いて平静を取り戻した紫は、腕を組んで大仰に首を縦に振る。

 「でもさ、先輩。珠姫さんは浮かれてるから楽観的に捉えてるかも知れないけど、栞ちゃんとしては気を遣っての発言だったかも知れないじゃないですか。

 その辺りの事、指摘してあげないと、いざと云う時に珠姫さん、凹んで立ち直れなくなっちゃうんじゃないですか?」

 「いやー、そうでもないみたいだぜ」

 レナがニヤリと笑う。

 「珠姫さんと栞ちゃんが仲良い所を見て、蘇芳さんが珠姫さんに家に戻れない時は面倒見てもらいたい、って言ったらしいんだよ。ま蘇芳さんとしては、冗談半分だったかも知れないんだがよ。

 栞ちゃんがそれにOKしたそうでさ、今夜早速泊まりに行くそうだぜ。

 意外と上手く行くのかも知れないぜ。どっちも気が強く見えて実は小心者、って所が共通して気が合うのかも知れねーし。

 …まっ、再婚って話になりゃ、栞ちゃんも考え変わるかも知れねーけどさ。それでも、全員がハッピーになれるってンなら、あたしは珠姫さんを応援するぜ」

 「うむ! その心構え、実に良いものじゃ!」

 いつの間に耳を傾けていたのか、うんうんと(うなづ)く。そして、人差し指を立ててレナに向けると、こう切り出す。

 「どうじゃ、レナよ。今回の件で、人に希望の星を撒く楽しさというものが実感出来たであろう?

 ならば、わしらと共に、世界中に星を撒かんか? おぬしの人生、もっともっと有意義なものになること間違いなしじゃぞ!」

 「いやいや、冗談だろ!」

 レナは即答してパタパタと手を振る。

 「今回、あたしは巻き込まれちまったから手伝ったけどよ! アルカインテールがあんな面倒事に巻き込まれてるって知ってたら、初めから行かなかったっつーの!

 それに、今回の一件だけでもコリゴリだっつーのに、お前らと来たら、いつでもこういう面倒事に首突っ込ンでんだろ? あたしは死んじまうよ!」

 「しかしレナよ、おぬしは地球圏治安監視集団(エグリゴリ)志望じゃろ? 首尾良く入団したら、面倒事に関わってナンボになるのじゃぞ?

 それならば、今の内に慣れておった方が得ではないかのう? しかも、成績点もガッポリじゃぞ!」

 そんな誘いに対しても、レナは即座に首を横に振る。

 「学生の時分から、そんなに苦労したくねーよ。それにお前らは単なる部活だからよ、労災も何も利かねーじゃんか。そんなリスキーな事にスリルを感じたいワケじゃねーんだよ、あたしは」

 「むう、残念じゃのう」

 渚は眉を曇らせたものの、アッサリと引き下がる。昼食を奢る(実際には、渚の金ではないのだが)事をダシにして入部を迫るような真似は決してしない。彼女は無理矢理活動に参加させることこそすれ、入部についてはあくまでも本人の意志を尊ぶのがポリシーである。そうでなければ、星撒部の部員はとっくにもっともっと増えているはずである。

 「…あ、そうだ。

 あたし、『暴走君』に用事があるんだよ」

 「…ん? オレに?」

 今度はナンをガツガツと噛んでいたロイは、キョトンとした表情を作って自分の顔を指差す。そんなロイを余所にレナはスタスタと歩いて、ロイの隣へと回り込む。

 どんな用事なのか見当が付かないロイのみならず、ノーラも紫もレナの行動を注視している。そんな3者の視線を受けながらレナはしゃがみ込み、ロイと同じ目の高さをになる。

 「ちょっと、前向いてろ」

 「?」

 ロイが言われるままに正面を向き、他面する紫と視線を合わせた、その直後。

 ロイの左頬に、柔らかく暖かい感触が軽く押し付けられる。

 ロイ本人はその感触に動じることもなく、キョトンとしていたが。ノーラと紫は、まるで目の前に稲妻でも落ちたかのような凄絶な驚愕の表情を作る。

 レナは、ロイの左頬にキスをしたのだ。

 唇を離したレナは立ち上がると、ちょっと照れくさそうに微笑む。

 「『暴走君』ってよ、あたしら2年の中じゃ結構人気あンだよ。あたしは正直、何処が良いのか全然理解できなかったンだけどよ。今回の一件で、よく理解できたぜ。

 お前、スゲー男前だぜ」

 「ああ? そりゃ、どーも」

 ロイは興味無さげに語り、再び料理に向かう。彼は本当に色恋関連に微塵の興味もないのだ。

 しかし、ノーラと紫は心穏やかでは居られない。特に紫はバンッとテーブルを叩いて立ち上がってすらいる。

 「せ、先輩…! な、なんなんですか、いきなり…ッ!」

 身を乗り出して噛みつかんばかりの勢いで問う紫の一方で、ノーラは呪文のようにブツブツと「そんな…先輩が…まさか…そんな…」などと繰り返している。

 レナはそんな2人をカッカッカッ、と笑い飛ばす。

 「心配すんなって。挨拶みたいなもんでよ、それ以上の深い意味はないっつーの!

 ちょっとトキメいたのは確かだけどよ、常日頃一緒に居るってのはヤッパゴメンだわ! 命縮みっ放しになるっつーの!」

 そしてレナは、ロイの隣に座る蒼治の隣にドカッと座り、「ここ、どんなメニューあんの?」と蒼治やその対面にいるアリエッタに問うのであった。

 渚はそんな一連の様子を見てから、至極余裕を見せつける不適な笑みを浮かべながら、悠々と語る。

 「全く、芽吹きの有様とは見ていて愉快なものじゃのう。

 絆がシッカリと根を下ろしておれば、その程度の事で動じることもないと言うに。

 まっ、若さという奴じゃな」

 1年しか歳が変わらないというのに、長き経験を経て高齢に至った者の含蓄ある台詞のように語る渚であったが…。

 「そう言やぁよ、渚。

 バウアーの奴、なんで此処にいねーんだ?」

 レナがメニューを眺めながら問うてくるのに、渚はサラリと答える。

 「あやつは今、任務で大忙しじゃよ。銀河間の抗争に宙泳莫獣(オケアノス)が干渉するような面倒な問題で手一杯のはずじゃ。当分、ユーテリアには戻って来ぬじゃろ」

 「…あれ、そうなのか?

 可笑しいな…?」

 レナは芝居掛かった動作で首を捻ると、紫のような嫌味を含む笑みを浮かべる。

 「昨日、ちょいと用事で学園地区の方に顔を出したんだけどよ。あいつの事、見かけたぜ? 学食で飯食ってたぜ?」

 「な、なんじゃと!?」

 渚がガタンッ! と椅子を倒しながら稲妻の如き勢いで立ち上がる。

 そんな渚の様子を楽しむようにレナはニヤニヤしながら言い加える。

 「いやー、見間違いじゃないとは言い切れないけどよー。あたしも暫く見てなかったからさー。

 でも、バウアーだと思うんだよなー。飯作るの面倒だから学食来てンのかなって思ってたんだけどよ、今の話を聞くとそうとも思えねーよな。別銀河系からわざわざ飯のためだけに学食に来るってのは…」

 レナが言い終えるより先に、渚は「こうしては居れぬッ!」と声を上げたかと思うと。ナビットを取り出して恐ろしい素早さで操作しながら、大股の小走りで店の外へと向かってゆく。

 「あやつ、何故にわしに一言もなく…!? まさか、あやつ…!!」

 などと呟きながら出て行く渚の顔は、鬼のような形相をしている。

 バタンッ! と強烈な勢いで閉じた扉の向こうへと渚が姿を消すと。レナは厭らしく、シシシ、と笑う。

 「良い気になってっからよ、そのバツだぜ」

 「…なぁ、本当にバウアーだったのか? 嘘()いたんじゃないだろうな?」

 蒼治の質問に、レナは悪びれもせずに肩を(すく)めて答える。

 「いやー、だから見間違えかもって言ってンじゃねーか。

 バウアーじゃないとしても、あたしにゃ責任はねーよ」

 そんなレナの台詞に、蒼治とアリエッタは苦笑するばかりであった。

 

 ――一方。ノーラ達を挟んで蒼治達と逆側では。妙な雰囲気の中で宴が進んでいた。

 雰囲気の中心は、テーブルの端に座る大和である。彼を取り囲むイェルグ、ヴァネッサ、ナミトは皆、苦笑を浮かべて慰めとも揶揄とも取れない視線を投げている。

 レナのキスに動揺しっぱなしのノーラは、彼らの光景に意識を集中して未だ頭を席巻する衝撃を弾き飛ばそうとする。

 視界の中央に見据えた大和は、まるで日頃の鬱憤を酒にぶつけてふてくされ、酔い潰れている会社員のように見える。未成年の彼らは当然ながら飲酒はしないので、酔い潰れているということは有り得ない。とすれば、この華々しい宴の席に居ながら、なんらかのストレスに苛まれている事に他ならないだろう。

 そんな彼を囲む3人は、口々に慰めの言葉をかけている。

 「良いじゃねーか。バカにされたワケでも、コキ下ろされたワケでもないんだからよ。むしろ、働きぶりを評価してくれたんだぜ? 素直に喜んでもバチは当たらないぜ」

 「そうだよ、そうだよ! あの短時間で、大和のことをよく見てくれて、そして褒めてくれてるんだよ!

 ボクなら素直に嬉しいよ!」

 「そうですわ! 悪い事ではないのですから、落ち込む方が筋違いというものですわよ!」

 しかし、大和は大きく溜息を吐く。

 「…いやね、褒められてるッスからね、悪い気ばかりじゃないッスよ。

 でもね、悪党から褒められて、しかも袖を引っ張られるってのは…人として、どうなんスかね?」

 「悪党って決めつけちゃダメだよ!」

 隣に座るナミトが手を振って反論する。

 「確かに、アルカインテールではボク達、対立してたけどさ! 相手は立派な大企業さんだよ! 有名だし、地球圏でもキチンとした取引をしていて、評判も悪くないし!

 今回は、包丁で事故が起きちゃった、みたいなものでさ! あちらも悪気があったとは…!」

 「ナミちゃんはよく知らないから、そういう事言えるンスよ…」

 大和は慰めの言葉にも大きな溜息を吐くばかりである。

 「オレ達みたいな工学志望連中の間じゃ有名なんスよ…。勤務内容だけでなく、取引実態も企業倫理も真っ黒々の超ブラック企業。

 それが、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーって実験施設ッスよ…」

 大和が落ち込んでいる理由。それは、サヴェッジ・エレクトロン・インダストリーから彼個人宛にスカウトのメッセージが届いたからである。

 経過は次の通りだ――全面的な休暇であった昨日、学園からメッセージの転送があったと思えば、その送り主は"インダストリー"。そして、アルカインテールの現場指揮を取っていたと言う女性、イルマータ・ラウザーブによる3D映像の肉声メッセージと、企業案内の資料が一式添付されていた。

 映像の中でイルマータは、愛想の良い子供のようなニコニコ笑顔で、独特の間延びした言葉遣いで次のように曰いた。

 「不躾ながら、あなたの事を調べさせていただいた上でメッセージを送信いたしましたー!

 あの壮絶な状況の中、定義崩壊にも負けずに自機を調整して立て直す、冷静にして卓越した機転! 私のバカ部下どもにも是非見習わせたいところですよー!

 ところで! 大和さん、ご卒業の暁には、是非とも我がサヴェッジ・エレクトロン・インダストリーにお越し頂けませんか!? あなたの機転と発送、そして技術力を全面的に活かせるのは、全異相世界をおいても我が社だけであると自負しておりますー!

 まだ1年生とのことですから、進路についてまだまだ意識がないかも知れませんー。でも、3年生になり、巣立ちを意識し始めた際には、是非とも我が社の名前を思い出して頂けると幸いでーす!

 是非ご一緒に、全異相世界に轟くような製品の開発して、楽しみましょー!」

 大和はこのメッセージを3人に見せると、イェルグとヴァネッサは苦笑していたが、ナミトはケラケラと大笑いであった。"インダストリー"程の大企業に所属する人間が、イルマータのような変わり者であるというイメージギャップがツボに入ったらしい。

 真剣にとってもらえなかったのが余程(こた)えた大和はひどく落ち込んでしまい、今のような有様に至ったというワケである。

 「まっ、ブラック企業からメッセージが来たからって、お前の将来がそこに決まりきっちまったワケじゃなし。

 良いところ取りして、後は捨てちまえば良いじゃないか。

 そんな事で一々気にするンならよ、お前」

 慰める途中でイェルグはトントンと自分の頭を指で叩いて、こう続ける、「ハゲるぜ」

 「…良いッスよね、イェルグ先輩は。

 いつでも大らかに余裕綽々(しゃくしゃく)でいられて」

 大和の恨みがましい言葉に、イェルグはハッハッハッと笑う。

 「オレは空だからな。広くてデカくてナンボだ」

 そんなやり取りを聞いていたノーラは、ふと思い出す――。

 

 アルカインテールから難民キャンプへ引き上げる道中、大和の作り出した飛行艦の中でのイェルグとのやり取りを。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Epilogue - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 アルカインテールから難民キャンプに向かう飛行艦隊において、避難民の大半は『クリムゾンコート』の艦に乗り込んでいた。艦隊の先頭を飾る大和の艦には蘇芳や珠姫、レッゾと云った避難民も乗り合わせていたものの、『クリムゾンコート』の飛行艦に比べて容積がずっと小さいため、さほど人を乗せてはいなかった。

 大和の艦におけるメインの乗客と言えば、星撒部自身に加えてレナ、そして『クルムゾンコート』総司令のルミナリアと、部員の治療に当たる衛生班である。

 衛生班は実に手厚い治療をしてくれた。ノーラは治療魔術の過剰被曝(オーバードース)によって体組織に異常が起きるのではないかと冷や冷やしてしまったくらいだ。

 治療において特に物凄かったのは、やはりロイであった。アルカインテールを蹂躙する各組織きっての実力者との巴戦は、彼の体に重篤なダメージをもたらしていたのだ。そんな状態で苦痛をチラリとも顔に出さず、ヒョコヒョコと歩き回っていた事に、治療術士達は驚きを隠せないでいた。

 「骨、折れてるじゃないか…! 痛くないのか…!?」

 「いてっ! いてててっ!

 そりゃ、押されりゃ(いて)ぇに決まってるだろ!」

 「おいおい、こっち内臓破裂を起こしてるぞ…! よく失血ショック起こさなかったな…!」

 「あー、なるほど! 内臓、破裂してたのか!

 なんか滅茶苦茶(いて)ぇと思ってたンだけどよ、そうかそうか! 分かってスッキリしたぜ!」

 「…笑い事じゃないぞ。下手すりゃ命に関わるんだぞ…」

 治療術士にブツブツと諫められながら処置を施されている間中、ロイはたまに悲鳴を上げることこそあれ、大抵はケラケラと笑って過ごしていた。

 流石は『暴走君』と称されるロイ。こんな怪我は日常茶飯事なのかも知れない。

 何はともあれ、元気一杯なロイに安堵したノーラは、彼の次に気にかかる相手…イェルグに視線を向ける。

 イェルグは癌様獣(キャンサー)の大群に加えて"インダストリー"の機動兵器と交戦したにも関わらず、怪我の度合いは重篤ではなかった。衣類は派手に破けていたものの、それに比べて体の異常は驚くほど少なかった。

 ――いや、体に元から潜む異常のお陰で、重篤な傷を負わずに済んだ…と言うのが正確な表現であろう。

 イェルグの体のあちこちには青々とした蒼空が埋め込まれている。この部位を触診しようとした治療術士の指が、スルリと通り抜けたところを見る限り、イェルグの体の"空"は本物の空に違いないようである。

 そんなイェルグの体は、百戦錬磨のはずの地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の衛生班もたじろがせていた。[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]によって多数の異相世界が入り交じったと言えども、体に空を埋め込んでいるような種族の存在は耳にしたことがない。

 (ロイ君のように、稀少種族(レア・レイス)なのかな…?)

 そんな疑問を胸中で転がしているレナの目の前で、イェルグは衛生班の人間に包帯を所望していた。空の体部を隠す布は壊れてしまったため、その代わりとして使うとのことだ。

 「私が、巻きますよ」

 そう申し出た女性人員に対し、イェルグはやんわりと固辞する。

 「大丈夫、慣れてるんでね。

 自分とやらないと、しっくりこないんだ」

 そんなやり取りを経て包帯だけを受け取ったイェルグは、術式を付加した後に右の二の腕にクルクルと巻き付け始めた。…と、彼の視線がふと、ノーラの顔に向けられる。ノーラの視線に気が付いたらしい。

 イェルグは初め、見つめられている理由が見当たらないと言った風体でキョトンとしていたが。やがて、「ああ、そういやぁ…」と声を出して、ニッと笑った。

 「後でこの体の事を話すって、言ってたよな。

 今でも聞きたい?」

 ノーラは失礼かも知れないと理性で分かっていながら、欲求に負けて首を縦に振る。

 「…先輩の気に障らないのでしたら…是非、お聞きしたいです」

 するとイェルグは包帯を巻く手を止めて、微笑みを浮かべたまま飄々(ひょうひょう)と語り出した。

 「それなりに面白い話だからな。何かの際の話のタネすると良いぜ」

 

 「オレのこの体は、故郷じゃそれほど珍しいものじゃない。

 ただ、珍しくないのはオレの故郷だけの話だ。故郷を出ちまえば、同じ世界の中だってビックリされるだろうよ」

 「…つまり…地域個体差とか、風土病…みたいなものなんですか…?」

 ノーラの問いに、イェルグは首を横に振る。

 「いや。別に故郷自体にゃ原因はないんだ。実際、新生児にゃオレ達みたいな異変は認められてないからな」

 「つまり、その特徴は…後天的なもの、ということですか?」

 「その通り」

 イェルグはノーラの顔を指差して肯定する。

 「これは、事故の後遺症なのさ」

 そしてイェルグは、"事故"について語り始めた。

 曰く――。彼の出身世界エバーブルーは、空が大半を占めている。この構造は世界創世時からのものではなく、後天的にして、なんと人為的な要因によるものであるという。

 エバーブルーの歴史を紐解くと、過去に魔法科学が非常に発達した文明の存在に行き当たる。しかしこの文明は、世界規模の致命的な術失態禍(ファンブル)を引き起こしてしまった。その結果、元々は惑星の体を成していた世界の構造が破綻し、大地や大海の大部分が失われ、蒼空が広漠と広がる世界と成り果てた。この世界で陸地と言えば、蒼空の中を雲に混じって点々と浮かぶ浮遊島のことを指す。

 人類の生活の拠点は勿論、浮遊島である。しかし、その(わず)かな体積から採取できるエネルギーや資源は余りにも少ない。

 そこで人類は、広漠たる蒼空に満ちあふれる強大な風霊と旧文明から引き継いだ魔法科学技術を利用し、発電や物質精製を行うことで、文明を存続させてきた。

 イェルグの故郷であった浮遊島も、その例に漏れない。巨大な風霊発電所と物質精製プラントを中心にした都市が築かれた、エバーブルーでは典型的な生活圏が構築されていた。産業の面では、プラントで数種の稀少金属を精製できた為に、他島から頻繁に飛行船が来訪するほど賑わいを見せていた。都市の生活水準も、エバーブルーの中では高い方であった。

 「空ばっかりの世界だってのに、空に飽きるどころか興味を持っちまったのは、飛行船で賑わう港の光景が根底にあるのかもな。

 実際、オレの小さい頃の夢は、飛行船の船長だったしな」

 イェルグはそう言葉を挟んで、更に話を続けた――。

 "事故"は別に、プラントがフル稼働していたために術失態禍(ファンブル)が誘発された…というワケではない。何時かはそんな事態が訪れる可能性もあっただろうが、本件では関係がない。

 原因は、正に不運と言って差し支えないものであった。

 エバーブルー観測史上でも類を見ない勢力を持つ嵐が、イェルグの故郷に直撃したのである。

 蒼空ばかりとなったことで風霊の力が強大に過ぎるエバーブルーでは、嵐の勢力は自ずと強くなりがちである。地球の各種台風など可愛い部類に見えるほどだ。

 そんな嵐が常在する世界のことであるから、人類は魔法技術を駆使した対策を講じてはいた。しかしながら、その時の嵐は対策を根こそぎひっくり返してしまうようなものであった。

 都市を防衛する結界は崩壊。岩をも穿(うが)つ勢いの氷雪と風雨が都市を飲み込み、暴れ狂った。

 結果、風霊発電機に過剰な風霊が供給されてしまい、術失態禍(ファンブル)が発生してしまったのだ。

 暴走し、牙を剥いた風霊達が、(ただ)でさえ逃げ場を失っていた人々に襲いかかった。発電所近くの住民達は瞬時に肉体を気化され、分子の欠片も残さずに嵐空の中へと溶け込んでしまった。

 しかし、彼らは苦痛を感じなかった分、幸運と言うことも出来よう。真に不幸であったのは、中途半端に風霊達の毒牙に掛かってしまった者達かも知れない。

 全身の気化を免れたものの、イェルグのように体部が空と化してしまったのである。

 今のイェルグの振る舞いを見ていると、その症状に一体どんな弊害があるのかと疑いたくなってくるだろう。しかしながらこの症状、実際に非常に厄介であり、残酷なまでに致命的な事態を引き起こすものであった。

 定義が"空"と化した体組織は、そのままでは元の機能を発揮出来ない。ただ"空"として体にはめ込まれているに過ぎない。つまり…心肺や中枢神経が空に浸食されてしまった場合、血液循環や呼吸を初めとする生命維持活動が停止してしまうのだ。これにより人々は、新陳代謝の停止や窒息の症状を呈し、多大な苦痛に苛まれながらゆるゆると死に向かっていった。

 空による浸食が運良く致命的な体部に起こらなかったとしても、暴走した風霊に襲いかかれて殺害されることも多々あった。

 こうしてイェルグの故郷は、地獄と化した。

 「オレは七人家族だったんだけどな。この事故っつーか災厄で、オレ以外みんな死んじまったよ。

 親父は発電所の作業員だったから、一瞬で気化しちまったらしいし。お袋やじーさんにばーさん、弟と妹は体を蝕んだ空にやられちまったのさ」

 「…すみません…辛い事、思い出させてしまって…」

 ノーラが目を伏せて語ると、イェルグは悲哀を含まずに、純粋に微笑んでみせる。

 「いやいや、気にしちゃいない。この話はもう、オレの語り草だからな。

 さすがに大笑いしながらってワケにゃいかんが、ヘコむことはないよ」

 そんなやり取りを挟み、話は続く――。

 イェルグも見ての通り、体の大半を空に蝕まれた。心肺を初めとした重要器官が欠損したために、彼もまた地獄の苦しみを味わった。

 しかし、どんな幸運が彼に微笑んだのか。それとも、先天的な才能でもあったのか。イェルグは空と化した器官の定義を取り戻し、虫の息で生き延びたのである。

 その後。故郷の浮遊島に救助の手がさしのべられたのは、嵐が過ぎ去ってから2日が経過してのことだった。島は風霊によって荒らされ、穴開けパンチを滅茶苦茶に使ったように酷く抉れてしまっていた。

 生き残った住人の大半は、故郷を捨てる事を望んだ。絶望的な破壊を目にしたショックに加え、島内を凶悪な風霊達が未だに闊歩しており、命の危険があるからだ。

 しかしながら、どこの浮遊島の都市も救助を差し向けることはあっても、住人を引き取ることは決してしなかった。体を空に蝕まれた不気味な姿を嫌ったのかも知れないし、彼らを引き入れることで同じ災害を呼び込んでしまうのではないかというジンクスを恐れたのかも知れない。

 とにかくイェルグは、家族を失った故郷から離れることなく、少年時代を過ごした。

 「空には家族を奪われ、故郷を滅茶苦茶にされたってのに…我ながらどんな神経してンのか、オレはどうにも空を憎めなくてね。

 毎日空だの飛行船だの眺めて過ごしてたし、飛行船の船長になるって夢も嫌気が差すどころか、膨らみっぱなしだったんだ。

 所詮は、自分の欲望にしか興味がない利己主義者ってことなのかも知れん」

 「いえ…そんなこと、ないですよ…!」

 イェルグの自嘲を、ノーラがすかさずフォローした。するとイェルグは一瞬、笑みに照れくさそうな色を交えて鼻の頭を掻いた。

 彼の話は続く――。

 空や飛行船ばかり眺めて過ごしていたとは言うものの、実際にはそんな気楽な時間ばかりを過ごしていたワケではなかった。島内は相変わらず風霊が闊歩しており、避難居住区が襲撃を受けることは多々あった。

 イェルグは居住区の衛兵の目を潜り抜けて独りで出歩いていたこともあり、単身で風霊と遭遇することも珍しくなかった。

 そんな時、イェルグは勿論、一目散に逃げ出していたものだが。やがて、思い通りに散策すら出来ない状況に嫌気が差し、風霊達に一泡吹かせてやりたいと考えるようになった。

 少年時代のイェルグは武器の扱いなどは知らず、衛兵達も彼に武器を預けてはくれない。かと言って、肉体を鍛え上げるだけでは、存在の重きを形而上相に置いている精霊を撃退することは出来ない。では、他に何か手段はないだろうか?

 そこでイェルグが着目したのが、自分の体を蝕む空である。

 彼は被災者の中では、体部の空との調和が最も取れている人物である。そこで彼は、体の空を利用して何か出来ないかと、コッソリと当てもない訓練を繰り返すようになった。

 その結果として手に入れたのが、体部の天候を操作し、外部にまで影響を与える能力である。

 そしてイェルグは、見事に風霊を撃退するまでの力を得ることに成功した。

 「んで、戦力になると分かった途端、故郷のヤツらだの他島から来た衛兵だのが、こぞってオレを当てにし始めたんだ。

 オレも悪い気はしなかったんでね、礼も貰えたことだし、頑張るまではしなくてもソコソコ働いてたんだよ。

 そしたらある日、ユーテリアからのスカウトが来たのさ。

 エバーブルーは異相世界とはあまり交流がないってのに、どこから話を聞きつけたのやら。本人に聞いても、いまだにはぐらかして教えてくれないんだよ」

 「本人…? スカウトの方って、ことですよね…? 今でも交流があるんですか…?」

 「そりゃ、勿論。何せ、我らが部活の顧問でいらっしゃるヴェズ・ガードナー先生だからな」

 その名前を耳にしたノーラは、「あっ…」と小さく呟いて納得した。アルカインテールに赴く前のこと、ノーラの前に姿を見せたヴェズは、スカウトで走り回っていると言っていた。

 「ウチの部にゃ、ヴェズ先生にスカウトされたヤツらが多いんだ。

 バウアーも渚も、ロイもだな。特にバウアーとロイは、ユーテリアの準生徒としてヴェズ先生にミッチリと基礎教養を教わった身だからな。恩師と言っても過言じゃないはずだ」

 「じゃあ、星撒部って…ヴェズ先生のスカウトしてきた生徒が集まる部活なんですか…? だから、先生自身が顧問に収まってるんですか…?」

 「いや、それはたまたまだよ」

 イェルグは手を左右に振って否定した。

 「まっ、バウアーと渚が立ち上げたからな。身近な教師と言えば、ヴェズ先生が真っ先に思い浮かんだってだけだろうよ」

 「それじゃあ…イェルグ先輩が、ヴァネッサ先輩と知り合うきっかけになったのも、ヴェズ先生のスカウト繋がりだったりするんですか…?」

 この質問にもイェルグは手をパタパタと振って「いやいや」と否定した。

 「ヴァネッサはノーラと同じ、正面からの入学だよ。

 あいつは名門軍人の家系でね、箔を付ける意味に加えて、名門に相応しい未来の旦那を見つけるためにも、ユーテリアに入学させられたらしい。ヴァネッサ自身は正直、ユーテリアへの入学は乗り気じゃなかったそうだぜ」

 「…それじゃあ、ヴァネッサ先輩とはどうやって、お知り合いに…?」

 イェルグは宙に目を泳がせて、暫し言葉を選んだ後に。ノーラへと視線を戻すと同時にこう答える。

 「まっ、所謂"ひょんな事から"ってヤツだな。

 ちょっとした小競り合いがあってな。その仲裁に入ったのが、オレとヴァネッサだったってだけだ」

 "小競り合い"と聞いて、ノーラはすぐにピンと来る。

 ユーテリアは"英雄の卵"と呼ばれるような優秀な生徒を擁する教育機関として有名であるが、その入り口は広い。望みさえすれば、よほどの問題がない限りは入学を拒否されることはない。

 故に、入学時点では能力差による淘汰が存在しない。すると、生徒の中には"英雄の卵"と称するには余りにも見合わぬ能力の持ち主が現れる。

 そして、彼ら"落第生"と"英雄の卵"の差は、時間の経過と共に顕著に増大してゆく。こうして生じた格差により、実力の有る者が無い者を卑下する事態も生まれてくる。または、血の滲むような努力を重ねて"英雄の卵"に相応しい力を付けた者が、努力もせずにのうのうと学籍を謳歌する生徒に不満を抱くことも少なくない。

 このギャップが衝突して、所謂"いじめ"のような行為が起こってしまう。

 ユーテリア側はこの問題が発覚し次第、速やかな対処を行ってはいるものの、相当の非がなければいじめた側に退学などの処罰を行うことはしない。"いじめ"の事実は決して褒められたことではないが、彼らの主張する不満が一理あることも多々ある。こういった事情も込み合って、能力格差による衝突の問題はユーテリアが抱える大きな問題の一つとなっている。

 ノーラもこうした"いじめ"の場面を目撃した事が数度あるが、仲裁に入った事は一度しかない。しかもその一度では、いじめられる側が持つ問題点を突きつけられ、何も言えなくなってしまったという苦い経験がある。それからは、心が痛むとも口出しすることはなくなってしまった。

 そんな難しい問題に取り組んだイェルグとヴァネッサには、敬意の念を抱かずにはいられない。

 「仲裁の方は、なんとか上手くいったんだ。そしたら、ヴァネッサのヤツ、オレのことを妙に気に入ったようでな。それからボチボチ一緒に行動するようになったり、あいつがウチの部に入ったりしたんだよ。

 そんで…まぁ、ある時に…その、な…」

 イェルグはボサボサになった黒髪をやたらと掻きむしりながら、はにかみ笑いを浮かべつつ舌の上で言葉を転がす。明らかに、照れている。

 何を言わんとしているか、ノーラも大体想像がつき、顔がほんのり赤く染まったのとほぼ同時。イェルグがようやく言葉を形にする。

 「あいつが、オレにコクってくれた」

 「…お、おめでとう、ございます…」

 ノーラはぎこちなく、とっさに頭に浮かんだ祝いの言葉を口にすると。イェルグは照れたまま、「あー、ありがとう」と答える。

 「それじゃ、ヴァネッサ先輩も、イェルグ先輩の体の事は当然、知ってるんですよね…?」

 「勿論。ウチの部で知らなかったのは、ノーラ、アンタだけだよ。

 でも、別に隠してたワケじゃない。ノーラは入部してからやたらと忙しかったからな、教える機会がなかっただけだ」

 面と向かって指摘されたノーラは、ここ3日のことを振り返り、イェルグの言葉を痛感して思わず苦笑いがこみ上げる。ただただ授業をこなすだけの毎日から、都市国家の危機の救助に参加したり、士師だの『バベル』だのといった化け物じみた存在と交戦したり…。客観的に考えると、とんでもない日々だったなと心底実感する。

 それはそれとして…ノーラの頭の片隅には、ヴァネッサがイェルグの体を初めて知ってどんな反応を示したのか。体の事を知った上で、付き合いを決心したのか。そんな乙女らしい恋愛事情への興味がムクムクと鎌首をもたげていた。

 その疑問を口にするより早く…もしかして、表情に出ていたのかも知れないが…イェルグから話題を振ってくれた。

 「ヴァネッサのヤツがオレの体の事を初めて知った時、そりゃあ、ちょっとはビックリしてたさ。

 だから、オレもこう言っておいたんだよ――オレは詰まるところ、身体障害持ちだし、身寄りもないような身の上だ。対してお前は、五体満足だし名家のお嬢様だ。釣り合わないから、恋仲になるはよそうぜ――ってな。

 そしたら、ヴァネッサのヤツにスゲェ叱られたよ。

 生まれだとか、身体がどうだとか、身寄りがどうだとか、そんな事で決めたんじゃない。オレという人間そのものが気に入ったんだ…ってな。その気持ちは例え、自分の親兄弟になんと言われようとも、曲げるつもりは無い…ってよ。

 そんな言葉、真っ正面から恥ずかしげもなく言われてみろよ」

 イェルグはちょっと照れくさそうに笑ってから間を置いて、そしてポツリと漏らした。

 「()れるしかないだろうが」

 そんな惚気(のろけ)話を耳にしても、ノーラは気を悪くすることも恥ずかしくなることもなかった。むしろ、胸の中を快晴の空を走る爽やかな風が吹いたような気分を感じていた。

 なにせ、イェルグときたら身体に張り付いた蒼空よりもなお爽やかな笑顔を見せていたのだから。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ノーラは思考を回想から現実に戻す。

 現実のイェルグは、ヴァネッサの隣に座って、未だに向かいの席の大和をからかいながらフォローしている。

 イェルグとヴァネッサは部内でも公然の恋仲であるが、目のやり場に困るようなベタベタした行為は決して見せない。今も隣の席同士ながら、手を握り合ったり肩に腕を回したりといったスキンシップを見せない。他の部員に接する時と同じように、極々自然な態度で喋ったり笑ったりするだけだ。

 見る者が見れば、ドライな関係と評するかも知れない。

 しかし、これこそが彼らの絆の体現なのだ…と、ノーラは今、はっきりと理解した。

 スキンシップによる物理的な接触を得なければ安心できないような、脆い絆ではないのだ。離れていれば多少の心配はするだろうが、それでも絆に対する信頼が揺らぐことなどない。そんな強固な絆が、2人の間に確実に根付いているのだ。

 ヴァネッサがイェルグに詰め寄っている場面はよくよく見かけるものの、それは決して絆の亀裂の具現ではないのだ。それは、ヴァネッサのイェルグに対する甘えの形なのだ。

 イェルグはそれを百も承知なのだ。彼にとってヴァネッサのそういう行動は、絆を料理に例えるならばスパイスのようなものに過ぎないのだ。それで絆の"味"や"風味"が良くなることはあれ、ひび割れて壊れてしまうことはないのだ。

 (もしも…私にも想いを共有できる人が出来たら…お2人みたいな絆が築けると良いなぁ…)

 春の日差しを視界に入れた時のように、ノーラは微笑みに目を細めて大和を中心とした騒ぎを見つめている。

 

 そんな最中。

 店内に、落雷を思わせるような勢いでバンッ! と大きな音が轟く。

 テーブルに座す部員およびレナ一同だけでなく、料理を運んで来たウェイトレスまでがビクッと身体を(すく)めて、音の方を向く。

 音の主は、店内に入ってきた渚である。先ほどの音は、店の扉を力任せに思い切り開いた音のようだ。

 ドスドスと大股で席へと進む渚の顔は、ムスッと頬が膨らんでいる。バウアー本人にレナの話の真偽を直接問い(ただ)していたようだが、この様子からすると不幸にも真実であったらしい。

 叩き壊さんばかりの勢いで椅子を引き、そしてドカッと腰を下ろす、渚。そんな彼女に柔和な微笑みを浮かべながら(なだ)めるのは、隣に差す紫を越した先に居るアリエッタである。――ちなみに紫は、渚の事を尊敬しているとは言え、爆弾のような状態の彼女を刺激する勇気はないようで、ぎこちなく身を(すく)ませているばかりだ。

 「あらあら、渚ちゃん。どうしたのかしら?

 せっかくの打ち上げの席なのに、そんな顔をするなんて、勿体ないわ。ほら、スマイルで楽しみましょう」

 「こんな顔、したくてしてるワケではないわい!

 悪いのは、ぜーんぶっ! バウアーのバカタレの所為(せい)じゃ!」

 そして、フライドポテトや鶏の皮の唐揚げをザラザラと皿の上に山と盛ると、口いっぱいに頬張る。冬眠前のリスのように膨らんだ口腔の隙間から、プンスカネチネチとした調子で文句が漏れる。

 「全く…っ! 何じゃ、何じゃ! わしと会えば時間が掛かるから、それを避けておったじゃと…!

 別銀河と学園とを行き来する方が、よっぽど手間暇掛かるじゃろうが…っ!

 ならば、わしと一言二言話すくらい、なんの事があろうか…!」

 渚の全身から溢れ出すトゲトゲしい感情に、宴の雰囲気が黒く染まってゆく。ロイだけは持ち前の鈍感さで、何事もないように料理を胃袋に詰め込み続けているが、それ以外のメンバーは雰囲気に当てられて気まずい感じになる。

 事の発端となったレナすら、"やらなきゃ良かった"という後悔の言葉が顔に張り付いている。(なだ)めていたアリエッタも、微笑みに苦いものが混じってしまう。

 渚とバウアーは星撒部を立ち上げた者同士であるが、それ以上の深い仲――例えば、イェルグとヴァネッサのような男女の仲にあるのかも知れない。部員達の口からはそんな話が出たことは無いが、それが事実だとすれば、渚もヴァネッサのごとくヤキモチを抱きやすいタイプなのかも知れない。

 その事実はどうあれ、場が険悪になるのは、宴の主賓たるノーラとしても好ましいことではない。そこで彼女は、雰囲気を変えるべく、バウアーから離れる話題を振ることにする。

 「あ、あの、副部長…。

 アルカインテールの件なんですけど、『パープルコート』以外の勢力は、どうなったんですか…? 何かペナルティを課せられたんですか…?」

 すると渚は、「ああん!?」と不良少女が因縁付けるような有様で訊き返してくる。ノーラはビクッとして身構えたが、転瞬、渚は険悪さを引っ込め、腕を組んで答える。

 「うむ、一応課せられたのじゃが…。

 癌様獣(キャンサー)と"インダストリー"は、実質何の不利益にもなっておらんじゃろうよ」

 渚の様子にホッと胸をなで下ろしたノーラは、この流れを続けるため、そして自身の好奇心を満たすために続けて(たず)ねる。

 「それって、どういうことですか…?」

 「まず、癌様獣(キャンサー)についてじゃが」

 「渚は手にしたポテトで目の前のトマトソースをグルグルかき混ぜながら語る。

 「あやつらには、原則として向こう30年間は人類として認可せず、また地球圏との一切の交流を認めない、とのペナルティを課したようじゃがな…。

 あやつらは元々、地球圏のみならず、他種族とも交流が非常に薄い。誰に咎められようが構わずに、侵略しては蹂躙し、資源とエネルギーを奪取して自活しておる。

 今回のペナルティが課せられたとしても、何の影響もないじゃろう。あやつらには人類として認可されたいという欲求もないじゃろうしのう」

 「…そう考えると、なんだか不思議な生き物ですね…」

 ノーラが素直に胸中に浮かんだ疑問を口にすると、渚は眉根に(しわ)を寄せて「むうぅ?」と食いつく。

 「癌様獣(かれら)は元々、自活出来る能力がある種族ですよね…? それなら、面倒な敵対行動を取って報復の危険性を(おか)してまで、地球圏に(こだわ)る必要はないじゃないですか…?

 どうしてカイパーベルトに巣窟の飛び地を置いてまで、地球圏…というか、地球に拘るんですかね…? 数量で攻めきることもしませんし…」

 「あやつらについては、交流もないことじゃし、未知の部分が多い。わしは専門家でないから、稚拙な予想程度しか立てられぬが…。

 『冥骸』の[[rb:死語生命]]のように、あやつらのルーツに地球が関係しておるのかも知れぬな」

 「ルーツに地球、ですか…。

 でも、[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]以前の地球って、魔法科学は概念すら存在しませんでしたし、宇宙航空技術も生まれたての赤ちゃんみたいなものでしたよね…?

 そんな状況下で、癌様獣(キャンサー)のように高度な魔法科学技術を体質に取り入れた生物とどんな接点を持てるんでしょうね…?」

 ノーラの問い返しに、渚は苦笑いを浮かべる。

 「じゃから、わしの稚拙な予想と言ったじゃろうが。専門家ですら言い当てておらぬ事実を、専門外のわしが言い当てられるワケが無かろう」

 「あ…すみません。つい…考えてみると、結構面白くて…」

 「ならば、詳しそうな教諭を捕まえて話を聞いてみると良いじゃろう。種族分類学の教諭で詳しいのは…さて、誰じゃったかのう…?」

 首を捻る渚に対し、ノーラはパタパタと手を振る。

 「すみません…、今は良いです。後で自分で調べてみますから。

 それよりも、"インダストリー"と『冥骸』について、聞かせてくれませんか…?」

 渚は「ふむ」と(うなづ)いてから、ノーラの問いに答える。

 「"インダストリー"には現状、罰金のペナルティが課せられたが、それ以上の処罰――例えば、地球圏文化と一定期間の取引中止などじゃな――については、議論中とのことじゃ」

 「つまり…場合によっては、罰金だけで済んでしまう…ということですか?」

 ノーラの問いに、渚は即座に首を縦に振る。

 「しかも、罰金のみの処罰に留まる線が濃厚のようじゃ。

 罰金も、"インダストリー"の規模からすれば会社が傾く程の金額ではないようじゃしのう。

 そんな余裕ある状況故に、いけしゃあしゃあと大和にスカウトのメッセージを送りつけて来たりしておるのじゃろう」

 「ホント、迷惑千万な話ッスよ…」

 渚の話を耳にした大和が、ガックリとうなだれながら言葉を挟む。

 「オレはアルカインテールの避難民の皆さんを助けた立場なのに…(はた)から見ると、"インダストリー"の片棒を担いでいたように見えるじゃないッスかぁ…。

 あんなドス黒企業となんか、絶対関わりたくないって思ってたのにぃ…」

 大和の怨嗟(えんさ)の声にノーラは思わず苦笑いを浮かべながら、渚に問い返す。

 「癌様獣(キャンサー)と比べると、随分と軽い処罰ですよね…? どういう事なんでしょうか…?」

 「まっ、簡単な理屈じゃよ」

 渚はラッシーをゴクゴクと飲み下すのを挟んでから、言葉を続ける。

 「地球圏の国家や組織には、"インダストリー"と取引を持つ者が多い。あやつらは兵器だけでなく、私設軍隊を派兵しての戦力貸与だの訓練請負もビジネスとしておるからのう。

 それが打ち切られてしまえば、国家や組織としての力が如実に減じてしまう。それを危惧しておるのじゃよ。

 それ故、アルカインテールの一件は利潤追求という一般的な企業理念に適うものであり、『バベル』自体を作り出したワケではないのだから、倫理観の欠落もさほど認められず罪状は軽度だ、と主張する者まで出ている始末らしい」

 「まさに、他人の庭での出来事は他人事、って態度ですねー…何か嫌な感じですよね」

 紫が、次第に平静を取り戻してゆく渚に安心して言葉を挟む。渚はそれに同意し、溜息を吐きながら首を縦に振る。

 「個人レベルですら、他人と意識を完全に共有できないが故に、印象の齟齬(そご)やら、過大または過小の評価が起こる。そんな個人が大量に集まった国家となれば、推して知るべし、というところじゃな。

 どんなに時代が進み、科学が劇的な進歩を遂げようとも、こういった感情面の進歩は何万年経とうが横這いなのじゃろうな…としみじみ思うわい」

 「お前のその言葉遣いでそんな事言われると、実際に時代を見てきたように感じちまうな。

 よっ、おばあちゃん!」

 レナが横からからかうと、渚は「黙らんかい、闖入者めが」とからかい半分で返す。"おばあちゃん"の言葉に怒らないのは、彼女が見た目通りのティーンエイジャーであるが故の余裕であろう。

 「まぁ、兎に角じゃ。

 反省の色もなく、のうのうとのさばっとる両者は、是非にも『冥骸』の態度を見習ってほしいものじゃな」

 渚が話題を戻して、言葉を続ける。

 「今回の件で一番まともに反省しておるのは、『冥骸』だけじゃよ。

 ペナルティの裁定が下るより早く、アルカインテールの復興の援助を申し出ておった。他にも、死後生命(アンデッド)ならではの国際的援助を無償で行うことまで約束してのう。

 これまでの経緯から地球圏住民からの風当たりは厳しいと言うに、それを甘んじて受け入れた上で、自ら罰を背負うことを選んだのじゃ。

 立派な心がけじゃわい」

 「うんうん、立派だよねっ! じーちゃん達、よく頑張った!」

 渚の言葉の直後に、すかさずナミトが口を挟むと。渚は意外そうに数度パチクリと瞬きしてから問う。

 「むうぅ? ナミト、『冥骸』の現状を把握しておったのか?」

 「うん!

 アルカインテールで仲良くなってから、じーちゃん達とは連絡取り合ってたんだ!」

 そしてナミトは、頭の後ろに両手を回して、感慨深げに眼を閉じながら言葉を続ける。

 「ホント、地球側との和解が進んで良かったよぉ!

 そもそも、じーちゃん達がグレちゃったのって、地球側にも責任があるじゃん? それなのに、一方的にじーちゃん達だけが悪い扱いを受けてたんだからねー。不公平だったと思うよー」

 ナミトの言う通り、『冥骸』には悲劇と評して過言でない結成背景がある。

 『冥骸』所属の古参の死後生命(アンデッド)達は、地球の旧時代末期において『怨霊兵器』と称されて国家に利用されていた者達である。[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]以前の魔法科学が確立していない時期、地球上の死後生命(アンデッド)は自我の乏しい存在であった。そこにつけ込んで、地球人類は機械的な方法で彼らを操作し、損傷しない兵器として利用してきたのである。

 しかし、[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]勃発後に、死後生命(アンデッド)達が自我を確立していった事から、地球人類は彼らに危惧を抱いた。何らかの理由で反抗心を抱き、その結果として反乱などを起こされることを恐れたのである。そこで地球人類は『怨霊兵器』達を太陽系外縁宙域へと追いやったのだ。

 『怨霊兵器』達からすれば、貢献に貢献を重ねてきた挙げ句に、その報酬として手酷い仇を返されたワケだから、憤るのは当然と言える。

 「[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]勃発直後の時期の地球は、まだまだ悪名高き米帝が幅を利かせておったがのう。今とは名前が残るばかりの存在と成り果てたというに、米帝の定めた『怨霊兵器』追放宣言が惰性で効力を発しておった状況を是正せんかった地球にも、大きな非はある。

 地球側としてはこの非を素直に認めた上で、今回の『冥骸』の働き如何によっては、彼らのための都市国家の建造を認めるつもりのようじゃ。

 『冥骸』に煮え湯を飲まされていた連中からは、当然反発の声が上がっておる。とは言え、『冥骸』の背景に同情する勢力の方が圧倒的多数らしいからのう、都市国家は近い将来実現するじゃろうて」

 ナミトは渚の言葉を嬉しそうに(うなず)きながら聞き終えると、人差し指を立てて、今度はロイに視線をやりながら語る。

 「それにしても、ビックリしたなぁ! 今回の和解の話を発案したのが、『破塞』のじーちゃんでも『涼月』のじーちゃんでもなくてさ。亞吏簾零壱(アリス・ゼロワン)おば…おっと、お姫様だって云うんだもん!

 ねぇ、ロイ! ビックリだよねぇ!」

 話を振られたロイは「うん?」と聞き返しながら料理を口に運ぶ手を止めると。視線を宙に泳がせてから、あっけらかんと語る。

 「…誰だ、そいつ?」

 「ちょ…っ!

 戦ったじゃんかッ! ゴスロリがビシッと決まった、怨霊(レイス)のお姫様!」

 「…ああー、はいはい!

 あいつか、あいつね!

 へぇー、あの強情そうなヤツがねぇ! そりゃ、ビックリだ!」

 「なんでも、ロイと負けてから考えが変わったんだってさ!

 ロイの拳はひたすらに殴るしか芸がないと思ってたんだけど、心を真っ直ぐにも出来るんだねぇ! ボク、見直したよ!」

 「…その言い方、バカにされてるように聞こえるンだけどよ…?」

 ロイが半眼で睨むが、ナミトは悪びれもせずニコニコとするばかりである。

 そして『冥骸』に関する話題の締めくくりとして、渚の言葉が場に響く。

 「怨嗟のぶつけ合いだけでは、問題の解決なぞ決して望めぬ。時には信念を見直し、誤謬(ごびゅう)を正して進むべき方向を修正することも必要じゃ。

 おぬしらも、己の信念を盲信してはならぬぞ」

 響きの良い言葉であるが、すかさずレナが横やりを入れる。

 「そういう言い方してると、お前が『冥骸』の連中以上に歳食ったばーちゃんに見えるぞ」

 すると渚はケラケラと笑いながら、言葉のトゲをいなす。

 「成熟した心の持ち主と言ってもらおうかのう!」

 ――どうやら、バウアー関係によって悪くなった機嫌はすっかり良くなったらしい。(はた)から彼女を眺めるノーラは、ホッと一息を吐く。

 そんな渚が、急に眉根に(しわ)を寄せたのは、バウアーの事を思い出したからではない。頭を過ぎる別の話題によるものだ。

 「しっかし…今回の件、『冥骸』は勿論除外として、癌様獣(キャンサー)よりも"インダストリー"よりも、気に食わぬ者どもがおる。

 肝心の、事件の首謀者どもじゃ」

 その言葉に、ノーラはキョトンとして問い返す。

 「首謀者って…『パープルコート』のアルカインテール駐留部隊のことじゃないんですか…?

 彼らへの処遇は決定したって、言ってましたよね…?」

 渚は(かぶり)を振る。

 「駐留部隊の全人員が首謀者ではないじゃろう。大半の者は、上からの命令に従っただけじゃ。まぁ、悪事に荷担したことには変わりないからのう、ペナルティを課せられたワケじゃが、彼ら全員が軍法会議に掛けられるワケではない。

 真に非難せねばならぬのは、『バベル』計画を構想して指揮し、実行の総責任者として働いていた者共。

 具体的に言えば、アルカインテール駐留部隊の総指揮官であるヘイグマン・ドラグワーズ大佐。そして、彼に同調して『バベル』の研究開発を押し進めたツァーイン・テッヒャー博士じゃ」

 「その人達が、どうしたんですか…? 文民も含まれているようですし、国際法廷の場で罪を裁かれるんじゃないんですか…?

 罪状は数多いでしょうし、判決…というか処罰の決定までには、時間がかかるんじゃないでしょうか…?」

 「うむ、そういう話は百も承知なのじゃが…。

 法廷を開こうにも、肝心の2人が姿を消しておってのう。地球圏治安監視集団(エグリゴリ)にしてもアルカインテールにしても、しっくりこない状態になっておるのじゃ」

 「そう…なんですか?」

 ノーラはちょっとした驚きと共に聞き返す。

 『バベル』事件終息後は、直ちに入都した『クリムゾンコート』によって都市は完全に制圧されたはずだ。その中から、実力主義の元で大佐の地位にまで上り詰めたヘイグマンが居るとは言え、たった2人で『クリムゾンコート』を潜り抜けて脱出出来るとは到底思えない。

 まして、『バベル』破壊時の魔術的フィードバックにより、彼ら2人が定義的な損傷を受けたであろうことは想像に難くない。そんな手負いの状態では、まともに身体すら動かせないかも知れない。

 そんなノーラの思考に同調するように、渚は首を縦に振る。

 「2人の失踪については、不明な点が多々あるのじゃ。

 まず、ヘイグマン大佐については、『パープルコート』の拠点基地内で彼の崩壊した肉体が見つかっておる。しかしながら、現場の記憶走査によれば、大佐は魂魄だけの状態で肉体を抜け出しておることが確認されているそうじゃ。

 大佐は肉体的には死んだかも知れぬが、死後生命(アンデッド)として存在を保持し続けている可能性が高い。

 そして、ツァーイン博士については、崩壊した肉体の一部と、移動して出来た血痕が複数見つかっておるそうじゃ。彼の生存は確実じゃろうな。

 何にせよ、2人は手負いの状態じゃ。だというのに、大量の兵員が投入されている状況下で、閉鎖された亜空間中にある拠点から、おめおめと逃走しておる。

 しかも、投入された兵員には死傷者まで出ておるのじゃ。

 誠にきな臭い話じゃろう?」

 「…誰かが2人の逃走を手引きした、という可能性はないんですか…?」

 そう訊いた矢先、ノーラはハッと口を(つぐ)んでから、付け加える。

 「『クリムゾンコート』の兵員だらけのアルカインテールに潜入していたり、ましてや侵入した…というのも、考えにくい話ですけど…」

 しかし渚は、ラッシーを飲み下しながら、酷く真摯な面持ちで首を縦に振る。

 「いや、その可能性が大有りなんじゃよ。

 拠点での死傷者のうち、生存者はほとんどが意識不明の重体に陥っておるのじゃがな。極(わず)かな話の聞ける者達から聞いた話には、男女の2人組を見かけた、ということなのじゃ」

 「男女…ですか」

 言葉を返しながらノーラは頭中で思考を転がすが。星撒部の中で一番の新参者である彼女が外界の事情に詳しいワケがなく、すぐに考えは頭打ちになる。

 「うむ。その2人組が一体誰なのかについても記憶走査が行われたそうじゃが…記憶の定義が滅茶苦茶に破壊されておってのう。髪の毛一本程度の情報も得られぬようじゃ」

 「そうですか…」

 ノーラが相づちを打った直後、渚は「しかし」と続ける。その表情は、酷く苦々しい。

 「わしは…いや、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)もそうじゃろうが…大体の見当がついておる。

 これが確かならば…厄介極まりない話じゃよ」

 「…その誰かって、一体…」

 尋ねるノーラを、渚はピタリと手のひらを向けて制する。

 「その内、時がくれば嫌でも分かる。

 じゃが、今は知らん方が良い。

 …意地悪しておるようで申し訳ないのじゃが、今はそれで納得しておいてくれい」

 ノーラの刺激された好奇心は暴れ出さんばかりであったが、渚の刃のように冷たく険しい表情に押されたこともあり、食い下がりたい気持ちをグッと飲み下す。

 そんなノーラの気を逸らそうというのか、渚は別の話題を振る。

 「それで、事件に関する裁判については、2人の代わりにヘイグマン大佐に一番近しいとされていたゼオギルド・グラーフ・ラングファー中佐を被告として開廷する方向で検討されておるようじゃ。

 ロイ、おぬしのよく知るラングファー中佐じゃぞ」

 いきなり話を振られたロイは、左頬を一杯に膨らませながら咀嚼(そしゃく)しつつ、(しば)し視線を宙に泳がせると。ゴクリッ、と飲み込んでからキョトンと語る。

 「…誰だっけ、そいつ?」

 再びのとぼけた発言に、渚のみならず、彼女の隣の紫までも思わず苦笑い。

 「おぬし、健忘症のきらいがあるのではないか…?

 おぬしが5つ巴の戦いを繰り広げていた時の、『パープルコート』側の相手じゃ。五行系統の魔術を使う男じゃよ」

 「…ああーっ! あのアゴ野郎か!」

 ロイは心底納得し、ポン、と手を打つ。どうやらロイは、5つ巴の乱戦の中で戦った相手を印象でしか覚えていないらしい。まぁ、乱戦の中では名前を訊いたり覚えたりする暇などないのも事実であろう。

 「開廷予定ってことは、まだ裁判は開かれてないのか。

 迅速な対応を売りにしてる地球圏治安監視集団(エグリゴリ)しちゃ、珍しいンじゃねーか?」

 食事にばかり集中しているかと思いきや、話はしっかり耳に入れていたらしい。ロイが続けてそう尋ねると、渚は(うなず)いてから答える。

 「ラングファー中佐は重傷を負っており、現状では法廷に立たせるのは酷と判断したらしいのじゃ。

 十分回復させた後に、しっかりと経緯を聴取するつもりとのことじゃ」

 「いっつもの事だけどさ、ロイはやり過ぎンのよ」

 紫が毒を含んだ笑みをニマリと浮かべてロイを刺す。しかし当のロイは苛立ちもせず、ポリポリと頬を掻く。

 「確かに、足腰立たなくなる程度にゃブッ叩いたけどよ。

 あいつのガタイなら、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の治療を受けりゃ直ぐにピンピンするだろうさ」

 「うーむ、それならば良いのじゃが…。

 聞くところに寄れば、治療経過はあまり(かんば)しくないらしいのじゃ。

 怪我の程度も()ることながら、精神的なダメージも大きいようでな。マトモに問答するには、結構時間がかかりそうとの話じゃ」

 「そう…なんですか…」

 渚に答えたのはロイではなく、ノーラである。

 「そうなると…確かに、スッキリしないですよね。

 本当の首謀者は居ない。及第点の当事者も深手の為に治療しなくてはならず、法廷がなかなか開けない…。

 私がアルカインテールの住民だったら…あまり良い気分じゃないですね…」

 渚は、うむ、と同意しながら頷く。

 「ベストが叶わなくとも、なるべくベストに近いベターな結果になることを祈るばかりじゃ」

 遠い目をして語る渚に、ノーラも頷いて同調するのだった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の本拠地のある都市国家アルベルは、他の都市国家には見られない特徴がいくつも存在する。

 その1つが、形状である。

 普通の都市国家は市壁に囲まれた円形のものだ。発展する場合も同心円状に面積を広げるので、余程の地理的な問題がない限りは円形が崩れることはない。

 しかし、アルベルは円形が7つ、丁度北斗七星の形に連なった形状をしている。発展に際しては北斗七星の形を壊さぬよう、上に向かって延びてゆく。故にアルベルはしばしば、"積層都市群"と呼び慣わされる。

 一方で、発展は絶対に地下方向には及ばない。とは言え、岩盤が堅すぎるといった要因で地下に構造物を建設できないというワケではない。単にアルベルの地下は、正に"日の当たらない場所"――いや、"日を当ててはいけない場所"として確保されているからだ。

 廃棄物や下水の処理施設は勿論のこと。各軍団の任務で回収された危険物を保管す施設などが存在する。

 その類の1つとして、"フィフス"と呼ばれる子都市の地下には、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)より生じた犯罪者達を専門的に収容する刑務所が存在する。

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に所属する者達は、例外なく高い水準の魔法技術を有している。そんな彼らを収監するのに通常の刑務所では全くの役不足である。檻のみならず壁までも一瞬で破壊され、脱走されかねない。

 故に"フィフス"地下の刑務所には、他の刑務所には見られない非常に高い拘束機能が備わっている。例えば、収監者にあてがわれる独房には窓どころか出入り口さえ見当たらない。加えて、独房内は(すべから)く耐魔術用の魔化(エンチャント)を施している上に、収監者の体内にも魔術使用を禁じる身体魔化(フィジカル・エンチャント)を施している。この為、転移魔術を使っても収監者が脱獄できないようにしてある。

 一方、看守等の職員が見回り等のために移動を行う際には、存在定義認証と暗号キーを用いた魔術使用許可を取った上で、転移魔術を用いるのである。

 

 さて、こんな鉄壁にして孤独な刑務所の一画に、元アルカインテール駐留部隊のゼオギルド・グラーフ・ラングファー中佐は収監されていた。

 彼の独房は、他の者に比べて少し賑やかだ。テーブルやトイレこそ他の独房と全く同一だが、ベッドは医療用のものだし、治療用の薬剤を投与する点滴のスタンドというインテリアもある。これらの待遇は収監時に酷く負傷していた彼に配慮してのものである。

 収監されて2日目。ゼオギルドの肉体的損傷は1日目に施された手厚い治療の甲斐もあって、ほぼ全快している。実際に彼は痛みもだるさも感じていない。

 これが普段の彼ならば、殺風景すぎるこの部屋での膨大な退屈時間をしのぐためにも、身体トレーニングを行っていたことだろう。猪突猛進な性格の彼は何度も営倉送りになったことがある。場所がアルベルの独房に移ったからと言って、へこたれるような彼ではないはずだが…。

 2日目に入った彼は、筋骨隆々の巨躯をベッドに横たえたまま、白一色の壁と向かい合ってジッとして動かない。…いや、時折僅かに肩やら足先やらがプルプルと震えることはある。が、目立った動きは何一つ見受けられない。

 そんな彼の独房内に、突如、転移と防御結界の両面を備えた方術陣が音もなく現れる。直後、その中に3人の人物が現れる。

 一人は、医療用の白衣を身につけた中年の男。この刑務所に常勤医である。そして彼の手前には、機動装甲服(MAS)とはいかないまでも、全身を完全武装した蛍光緑色のコートを来た兵士達。刑務所の運営に携わっている3軍団の1つ、『ライムコート』に所属する看守である。

 「ゼオギルド。検診の時間だ。

 起きろ」

 看守の1人が命令するが、ゼオギルドはピクリとも動かない。看守は舌打ちして、明らかに苛立った語気でもう一度命令する。

 「起きろ…! おい、耳付いてンのか! 起きろと言っている!」

 それでもゼオギルドは(だんま)りを貫き、微動だにしない。

 するともう一人の看守が、マスク越しに目を刃のように怒らせて、火を吐くような怒声を上げる。

 「いい加減にしろよッ、恥(さら)しッ!

 そうやって腑抜けたフリしてりゃ、正しくも優しい法廷様が待っててくれて、実刑が遠のくと思ってるんだろうがッ!

 そうは行かねぇぞッ!

 テメェの病人の化けの皮なんざ、すぐにひっぺ返されるんだよッ!

 何がストレス性の精神衰弱だぁ!? 好き勝手暴れ回って来たテメェが、そんなモンにドップリ浸かるタマかよッ!」

 収監2日目にして、ここまで看守の怒りを買うにはワケがある。アルカインテールの一件で地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の信用を(おとし)めた事への怒りも勿論ある。加えて、昨日の治療後に五体満足になったものの、今のように(だんま)りを決め込んで動かず、食事さえも摂らないのだ。これでは看守が収監者を(いじ)めているかのような構図になってしまい、看守は苦々しい想いを抱いているのである。

 「テメェ…!

 トイレに行く時はモゾモゾ動くくせによぉッ!

 ちょっと起きるくらい、もっと簡単だろうがッ!」

 最初に声をかけた看守が怒りを爆発させ、ズカズカとゼオギルドに近寄ろうとするが。それの肩をとっさに掴んで制したのは、常勤医である。

 いきり立って睨みつける看守の眼光にも怯まず、常勤医は静かに首を左右に振ってみせる。彼の(かげ)りを帯びた憂いの視線は、看守の熱くなった思考に冷や水を浴びせる。バツが悪そうに、チッと舌打ちした看守はプイッとそっぽを向いてゼオギルドから大きく視線を逸らす。

 看守とは対照的に、常勤医はスタスタと2、3歩ゼオギルドへと近寄ると、出来る限りの柔らかさで声を掛ける。

 「中佐。食べずに寝てばかりでは、身体にも心にも毒です。その勇ましい身体が(みじ)めになってしまいますよ。

 今日の夕食はカツレツですから、是非とも味わって下さい。この刑務所、娯楽の類は全くありませんが、その分食事だけは刑務所とは思えないほど絶品ですよ」

 しかし、ゼオギルドは常勤医の温かな声にもピクリとも反応せず、背を向けて寝ころんだままである。

 その様子に看守2人は再び頭に血が昇り始めるが。常勤医はクルリと踵を返すと同時に片腕ずつ彼らの肩をポンと抱くと。

 「行きましょう。

 私の用事は済みました」

 そうボソリと呟く。

 常勤医の用事とは、勿論、ゼオギルドの治療とその経過の観察である。その目的は無論、一刻も早い裁判開廷を実現させるためだ。しかし、常勤医は治療と呼べるような処置もしなければ、具合を計るための診察すらもしていない。それでも彼は、"用事は済んだ"と言い、退室を促している。

 看守達は常勤医が患者であるゼオギルドに情が移ったのではないかと(いぶか)しみ、再度刃のような視線で睨みつけたが。常勤医の(かげ)った(まなこ)に宿る冷気に、同情とは全く異なる奈落のような負の感情を見い出すと、ハッと息を飲む。

 それから直ぐに看守は暗号キーを使うと、3人は一瞬にしてゼオギルドの独房から姿を消す。

 

 3人が転移した先は、刑務所内の通路である。

 各独房へと移動するには転移魔術を使わねばならないにも関わらず通路が存在するのは、何処からでも独房へと転移出来るワケではないからである。通路の壁に扉の代わり設置された転移触媒の方術陣を使うことで、対応する独房へと移動することが出来るのだ。

 このセキュリティは、万が一収監者が看守などを人質に取って脱獄を試みた場合に、逃走経路を限定させる目的がある。

 それはともかくとして。触媒方術陣だけが唯一の装飾となっている殺風景な通路に到着して直ぐに、看守は常勤医に噛みつくような非難がましい言葉を投げつける。

 「対応が甘すぎやしないか!?

 いつまでもあんな生活を許してたら、裁判なんて開けやしない。あいつはバツも受けずに、のうのうとタダ飯食っては寝る生活を謳歌するばかりじゃないか!

 自分が担当する患者だから情が湧くってのは分かるがよ、もっと大きい視点で物を見て対応してくれよ!」

 「情が湧く…ですか」

 常勤医は看守の言葉を繰り返し、肩を(すく)める。

 「確かに、医者としては折角治療した患者が壊されてしまうというのは、やるせないね。

 裁判を受ければ、彼はヘイグマン大佐達に代わって重罰を受けるに違いないからね。

 最悪、"地獄炉"に叩き込まれて心身ともに定義が崩壊するほどに酷使される可能性もある。それを考えると、いたたまれない気持ちになるというのも、本音だ」

 それに対して看守が反論を述べようと息を吸って胸を膨らませた矢先。常勤医は「しかしね、」と言葉を続ける。

 「地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に所属する者の立場として、地球圏住民の信頼を裏切って行動した彼らは罰されるべきだ、という怒りもある。

 その点を踏まえて、私は敢えて彼をこのままにしておくことにしたんだ。

 ――彼は今、正に罰を受けているのだから」

 「罰?

 食っちゃ寝生活で、罰?」

 看守が非難がましく繰り返すが、常勤医は氷のように冷え切った眼差しを作り、淡々と語る。

 「彼は精神的な苦痛に苛まれ続けている。寝食をまともにこなすことができないくらいに。

 彼は、口を開いたヘビを目の前にしたカエルのように、怯えきっている」

 「怯えてる…だって!?」

 看守が思わず、ハッ! と鼻で笑い飛ばす。

 「おいおい、センセ! あいつがどんなヤツか知ってンのかよ!?

 "獄炎の女神"の本拠地『炎麗宮』での地獄のような戦闘の中、ガキの遊びみたいに笑いながら戦い抜いたような男だぞ!?

 そんなヤツが、怯えてる!? 冗談にしても笑えなさ過ぎだろ!」

 ゲラゲラと笑い飛ばす看守達だが、常勤医はあくまでも冷淡さを崩さない。

 「間違いないよ。彼は怯えてる。

 魂魄系の医学を(かじ)った者なら、誰でもハッキリ分かる。

 世が旧時代でも、彼の発汗状態や心拍数、血圧を測定すれば明白だろう」

 そのヒンヤリとした石のような物言いに、流石の看守達も笑いを引っ込める。代わりに、マスクの越しに怪訝そうな表情を作る。

 「それじゃあ…あいつがホントに怯えまくってるンなら、そのまま放置しちまっていいのかよ?

 精神疾患に陥っていよいよ引きこもるなんてことになれば、裁判は遅れるだけだぜ?」

 「確かに、向精神薬を投与するなりして、治療するのが医者として正しいあり方なのでしょうね。

 …でも、敢えてそれをしないことが、彼への罰です」

 「…?」

 看守2人は顔を見合わせて首を傾げる。常勤医は言葉を続ける。

 「彼は怯え続ける。寝食忘れて、身体が細るほどに。その状態は(しばら)く続くでしょうし、それによって開廷が遅れるのも違いないでしょう。

 でも、最後は必ず、彼の方から口を割り、法廷でも何でも良いので外界に出してくれ、と懇願することになるでしょうね。

 彼の精神傾向的に、このまま抑鬱や統合失調と云った症状に至るほど我慢を続けられるとは思わない。

 そして、彼は法廷の場で、怯えから逃れるために…その方法が罰を受けることであろうとも…知る限り包み隠さず、洗いざらい全てを告白してくれるでしょう。

 そうなることで、アルカインテールの住民も心底納得してくれるのではないでしょうか」

 「…センセ、地味にスゲェ(ワル)だな…」

 看守がマスクの下で頬をヒクつかせながら語ると、常勤医はようやく冷淡さを脱ぎ捨てると、バツが悪そうな笑みを浮かべて後頭部を掻く。

 「私も医者である前に、人間ですからね。職務よりも感情が表立つことが多々ありましてね、開業医なんてサービス業に従事してたら、すぐに胃袋が溶けちゃうでしょうね。

 だからこそ、この地下で医療に携わっているワケですけども」

 「確かに、患者を選ぶ医者がやってる病院にゃ、行きたくないわな」

 「全く同感だ。

 センセ、アンタは天性の地下(アングラ)向きだよ」

 3人はそう語り合って軽く笑うと。ふと、一人の看守が話題をゼオギルドに戻す。

 「それにしても、ゼオギルドの野郎。何にも怖いものなんか無さそうなデカい顔してる癖して、一体がそんなに怖いんだかね?」

 するともう一人の看守が、ピンと人差し指を立てて思いつきを口にする。

 「あいつ、アルカインテールでユーテリアの学生にボッコボコにやられたんだよな? しかもその戦闘で、学生は1対4の圧倒的な不利な状況だってらしいじゃないか。それを覆しての大勝利だったらしい。

 そんな怪物みたいな芸当を目の当たりにして、プライドがポッキリ折れちまったンじゃねーの?

 ホラ、お高くとまってるヤツって、一度自信を無くすと、トコトンまで(しぼ)んじまうって言うじゃんか?」

 「なるほどね、そりゃ一理あるわ。

 で、センセの見解としては、どーよ? やっぱりユーテリアの学生が原因かねぇ?」

 質問を振られた常勤医は、困ったような笑みを浮かべて首を傾げる。

 「どうだろうね…。いくら魂魄の形而上相視認から心身の状態を量れると言っても、万能じゃないからねぇ…。彼の怯懦の原因が何かは、彼の口から聞くしかないね。

 ただ…私は、ユーテリアの学生も確かに原因には一枚噛んでいるとは思うんだけど、主たる要因はそれとはまた別じゃないかと思ってる」

 「ほ…? 何か根拠あるンですか?」

 看守が尋ねると、常勤医はうっすらと青みがかったアゴに手を置き、視線を宙に泳がせながら語る。

 「彼が拘束されたのは、アルカインテール近傍の亜空間に設置された駐留軍の本部でしょう?

 対して、彼がユーテリアの学生と戦ったのは、アルカインテールの市内だ。

 とすると、彼は学生と交戦して敗北した後、移動したということになる。

 学生が怯懦の原因だとしたら、果たして重傷を負った身を押してまで長い距離を移動出来るだろうか? 『クリムゾンコート』の機動装甲歩兵(MASS)部隊をかわしながら?

 私としては、学生との敗北は彼に憤怒や悔恨といった激情を生みこそすれ、怯懦にはつながらなかったと思う。

 彼が怯懦を患ったのは、駐留軍本部にたどり着いてからだと考えているよ」

 「んー…言われてみりゃ、センセの言う事にも一理あるなぁ…」

 先ほど、相棒の言葉にも"一理ある"と言っていた看守が、常勤医に(なら)ってアゴに手を置く。

 「あいつ、捕まった時に瀕死の状態だったって話ですからねぇ…。その状態で市内から亜空間内の本部へ移動ってのは…まぁ、あのガタイなんで無理とも言い切れないスけど…難しいでしょうねぇ…」

 「それに…本部内で『クリムゾンコート』が見かけたって言う、男女の二人組。あれも引っかかるよなぁ…。

 そいつに何かやられた…ってことも考えられるだろうけど…そもそもそんな奴らが本当に居たのかどうか、実証できてないからなぁ…」

 もう一人の看守も腕を組んで首を傾げる。

 3人は暫しその場に留まって首を捻り合っていたが。

 「…やめましょうか」

 真っ先に発言したのは、常勤医である。

 「そういう事実関係を検証するのは私たちの仕事じゃありませんし。

 目撃情報のある男女2人組が本当に存在したからといって、彼の罪状や処遇には影響ないでしょうし。

 何より、ここで井戸端会議しているところを見(とが)められて私たちが罰を受けるような羽目に陥るのは嫌ですからね」

 「ああ、違いねぇ!」

 看守2人は声を揃えて同意して(うなず)く。

 「私たちが担当しなければならないのは、(ゼオギルド)だけではありませんからね。

 さっさと次を回って、お仕事を済ませちゃいましょう」

 常勤医の言葉を期に、3人は通路をスタスタを歩き出し、次の独房へと向かう。

 

 一方。独房の中のゼオギルドは、3人が去った後も壁を向いて寝ころんだまま、微動だにしていなかった。

 3人に決して見せなかった彼の顔は、真っ青な怯えの色に染まりきっており、冷たい汗がジットリと噴き出し続けている。汗は顔のみならず、青白い囚人服を羽織った体中から絶え間なく噴き出ていた。故に、彼のベッドはジットリと湿り気を帯びている。

 ゼオギルドの右手は、ベッドのシーツをギュッと握り締めている。まるで、それが怯懦の苦獄から救い出してくれる、天から垂れたロープであるかのように。だが、シーツは手のひらから噴き出す玉の汗でビッショリと濡れるばかりで、不快感を喚起することこそあれ、安堵をもたらすことはない。

 それでも、何かを握り締めておかねば、頭の中から勇気やら正気やらが吹き飛んでしまうような気がしてならない。

 (クソッ…! クソッ…!)

 唾棄の台詞で一杯の胸中を過ぎるのは、彼に怯懦をチラつかせて止まぬ恐怖の記憶。

 その記憶の主たる要因は、常勤医が推測した通り、ロイに関するものではない。

 とは言え、ロイに敗北した事実が彼に影響を及ぼしていることも事実である。ロイに砕かれた手の甲と胸の行玉の痕跡――クレーターのように綺麗にポッカリと開き、くすんだ赤色を呈する筋組織が露わになったその部位を見ていると、憤怒とも怨嗟ともつかぬ激情の炎が燃え上がる。

 部隊の中で、実力に絶対の自信を持っていたというのに、4対1の状況下でむざむざ惨めな敗北を喫したという事実は、やはり大きな衝撃となっている。

 ――しかし、それよりも余程大きな衝撃が、ゼオギルドを苛んでいる。

 

 ゼオギルドは、もう何十度目かの記憶の想起を行う。

 本当はやりたくないのに、傷を更に痛めつけることで体を鍛える苦行でも行っているかのように、思い出さずにはいられない。

 ――"あいつら"に遭遇した時のことを。

 

 ロイに敗北したゼオギルドは暫く意識を失っていたが。やがて意識を取り戻すと、空に『クリムゾンコート』の艦隊が展開している光景を目にして、自分達の野望が潰えた事を理解した。

 しかしながらゼオギルドは、いつまでも敗北に呆然としているほど大人しい性分の持ち主ではなかった。

 (このままぼーっとしてたら、『クリムゾンコート』どもに捕まって、アルベルの地下送りになるだけだ…!

 ンなクソ詰まんねぇ時間、ゴメンだぜ!)

 (きた)るべき処罰からなんとか逃れる(すべ)は無いものだろうか? そう考えて真っ先に頭に浮かんだのは、ヘイグマン大佐である。

 "獄炎の女神"との戦闘で潰走し、肉体は衰えたものの、新たな野望に燃えるだけの気力を持ち合わせた人物。大凡(おおよそ)人を敬うという感情を持ち合わせぬ自分が唯一、上官として心底認めている男。

 彼ならば、この野望が潰えても、新たな野望を抱いて再起するだろう。そして、自分の暴力を再び存分に振るえる場所を提供してくれるに違いないだろう。

 そう考えるが早いが、ゼオギルドは即座に移動を開始。満身創痍ではあったが、常人と比べれば十分過ぎるほどの体力が残っている。本営のある亜空間に繋がりやすい地点を探し出し、あらかじめ支給されている術符を用いて転移を行った。

 転移した先は、本営のエントランスフロア。殺風景にしてだだっ広い空間のほぼ中央に到着したゼオギルドは、即座にハッと目を見開く。

 フロアの床や壁のあちこちに、ドデカい鉄球でも叩き込んだような破壊の痕跡がある! そして、床には五体を投げて倒れ、微動だにしない西洋騎士様の機動装甲服(MAS)を着込んだ兵士達の姿が見える!

 (『クリムゾンコート』!

 もう入り込んでやがンのか!)

 驚愕するものの、冷静に考えれば(もっと)もな事だ。『クリムゾンコート』は駐留部隊を制圧しに来ているのだから、真っ先にその指揮中枢を掌握しようと試みるのはセオリーだ。そして、駐留部隊の本営の位置は『パープルコート』本隊が把握している。面倒な探査など行う必要もなく、『クリムゾンコート』はダイレクトに本営に攻め込めるワケだ。

 (クッソッ! 大佐は!? どうなってやがンだ!? 捕まっちまったとか!?)

 ゼオギルドはヘイグマンが居るであろう司令室へ、一目散に駆け出した。

 その道中の光景は、エントランスフロアと同様であった。破壊の痕、そして倒れて動かぬ『クリムゾンコート』の隊員。隊員についてはジックリ観察していないので生死のほどは分からない。が、深海に放り込まれた空き缶のようにつぶれた機動装甲服(MAS)やら、間接部から踏み潰されたトマトのように流れ出る赤黒い血液を見ていると、致命的であるようには思える。

 (一体誰だ…? こんな事しでかせる奴ぁ?)

 ゼオギルドは頭を巡らす。部隊の人員の大半は、今回の作戦のために出払っている。とは言え、さすがに本営をもぬけの殻にするワケにはいかないので、最低限の人員を配置して防衛に当たらせてはいた。しかしながら、彼らの実力はさほど高くはない。実力が高い者達ならば、決戦のために都市へと投入している。

 そんな彼らが、量的に絶対的優位な『クリムゾンコート』の兵員達を、ここまでの圧倒的な戦力でねじ伏せられるものなのか? その自問に、ゼオギルドは即座に"否"と答える。

 (ってことは…まさか、大佐が!?)

 炎麗宮の戦い以前のヘイグマンなら、十分にあり得る話だ。だが、今の彼が単体でここまでの戦力を有しているだろうか? 危機に瀕して普段以上の実力が出るという話は往々にして存在するが、枯れ果てたような肉体となった彼が一瞬にして全盛期の実力に戻れるだろうか?

 (そんな事が出来るンなら、後衛に収まってるような人じゃねぇ。自分から最前線に立つはずだ)

 では、一体誰がこの所業を? 疑問が一巡りした頃、ゼオギルドはピタリと足を止めた。

 ヘイグマンが居るであろう指令室に到着したワケではない。ゼオギルドは、突然降って湧いたように出現した魔力を感知し、思わず足を止めたのだ。その強度ときたら、魔力の余波に神経が干渉を起こしてチリチリとした感覚を呼び覚ますほどだ。

 「なんだぁ…!? この力…!?」

 疑問を口にしつつ、ゼオギルドはこの魔力の主こそ『クリムゾンコート』を叩き伏せた犯人であると確信する。

 この事象を見過ごせるワケがない。この魔力の主がヘイグマンでないとしたら、今でさえ死にかけの部隊に一瞬でトドメを刺されてしまう可能性がある。

 (クッソ、こちとら怪我人だっつーのにッ! ややこしい事に首突っ込んじまったなぁッ!)

 胸中で唾棄しつつ、ゼオギルドは魔力を感知した方角へと駆け足を向けた。

 目的地までは、かなりの距離を駆ける必要があった。魔力の強度から見て近い位置に主が居るものと判断していたが、どこまで行っても立ち歩いている人の気配を感じない。行けども行けども、床に叩き伏せられた『クリムゾンコート』の兵士達と破壊の痕ばかりだ。

 それの光景がようやく一変した時には、ゼオギルドは『バベル』の研究開発棟の中心部、巨大培養漕のあるエリアに辿り着いていた。

 このエリアも他の場所同様の破壊やら『クリムゾンコート』の倒れた体が見受けられる。だが違うのは、その合間に泡を立ててドロリと溶融した肌色の物体――おそらくは『バベル』破壊時のフィードバックの影響によって定義崩壊した研究員達の姿だろう――が広がっていること。そして、『クリムゾンコート』の機動装甲服(MAS)から漏れ出す血液が鮮やかな赤をしていて、ダラダラと流れ広がっていること。彼らが倒れたのは、ほんのつい今し方のようだ。

 そして何よりも違う点は、エリアの中央にある『バベル』の監視制御コンソール付近に、はっきりとした動きを見せる人物が数人存在することだ。

 その人物の中で特に目立つのは、1組の男女だ。彼らのどちらもが、この雑然とした光景に全く見合わぬ、瑞々(みずみず)しいほどに傷一つない身体を晒していた。

 男の方は、研究者の白衣と見まがうような裾の長い上着を身に着けている。体格は貧弱ではないが、恵まれているという程ではない。筋肉量は明らかにゼオギルドの方が上であろう。白い上着に映える輝くばかりの黄金の頭髪と、真夏の快晴を思わせるような蒼穹の瞳を持っている。その他には特に装飾品を身につけておらず、白々としたばかりの地味な印象を受けかねない。それでも彼が強烈な存在感を放っているのは、その表情だ。まるでネズミをいたぶるネコのような、残虐にして凄絶な愉悦の表情を剥き出しにしている。

 彼の隣に立つ女もまた、白っぽい印象を受ける。早春に咲く上品なサクラを思わせる頭髪を三つ編みにして、後頭部から胸元へと垂らしている。身につけているのはややベージュがかった厚手のコートで、男の衣装とは異なり細部にうるさくない程度の可愛らしい意匠が加えられている。頭の上にはフンワリと焼き上がったパンを思わせるような、コートの色と合わせた帽子を被っている。

 この女――少女と称した方が良いだろう――は、コートの上からでも分かる小柄で華奢な体格をしている。加えてその顔立ちは、どんなに神懸かった腕前を持つ人形師でも作り出せないような、正に玉のような美貌を呈していた。隣に立つ男よりも余程、この血(なまぐさ)い光景に不釣り合いだ。彼女は、大理石で四方を囲まれた荘厳な教会に描かれた宗教画の中の世界こそ相応しいであろう。

 この2人の他に、別に2人の人物がゼオギルドの目につく。

 1人は、白衣の男の肩に担がれて、褐色の肌の女性だ。身に着けているのは『パープルコート』の軍服であることから、ゼオギルド同様にアルカインテール駐留部隊の人員であると即座に分かる。加えて、彼女のメイクが崩れきった、焦点の合わない顔立ちは見覚えがある。

 (あいつ…チルキスじゃねぇか!)

 ゼオギルド同様、アルカインテール駐留になるより前からヘイグマンに付き従っていた武闘派としてよく覚えている。獣じみた感性と体術を有する優秀な狩人であると、ゼオギルドも評価していた女性隊員だ。

 戦場においても――願掛けなのか、あるいは趣味か――メイクを決めて出で立ちを綺麗に保っていた彼女であるが、今は男の肩の上で(よだれ)を垂らしながらブツブツと何事か呟いているばかりだ。そんな状態に陥ったのは『バベル』の破壊によるものか、それともこの男女の所業か、ゼオギルドは判断がつかないが――この男女がチルキスに何事かの用があり、何処(いずこ)かへ連れ行こうとしている事は確かだ。

 一方、最後の1人は男の足下にうずくまっている。男はその人物の背中を無慈悲にも足蹴にし、グリグリと弄り回している。その苦痛にうずくまる人物は、押し殺した悲鳴と嗚咽の混じった呻きを漏らしていた。

 この人物を見据えたゼオギルドは、ギョッとする。彼の身体は大部分を占める赤と所々に散らばる白で彩られていたが、それは衣服ではなかった。彼は衣服を身につけてはいなかった。それどころか、皮膚さえも身につけていなかった。赤と白の色は、剥き出しになった筋肉と腱の色であった。

 うずくまった筋組織剥き出しの人物は白衣の男に足蹴にされながらも、神にすがりつく盲信者のように足にガッシリとしがみついていた。そして、悲鳴と嗚咽の混じった震える声で懇願するように叫ぶ。

 「わしは…ッ! 成し遂げたではないか…ッ!

 『天国』を…ッ! 人の手によって…ッ! この地に、降誕させたではないか…ッ! それは、確実な実績ではないか…ッ!

 我が子(バベル)が破壊されたのは…ッ! わしの意志ではない…ッ! 大佐の私情が…ッ! 最短最善の選択肢を採らなかったことによる…ッ! わしの所為ではないではないか…ッ!

 わしは、成果を上げた…ッ! 不可抗力によって破壊されはしたが…ッ! 存在は世界によって記憶された…ッ! わしは、歴史に大きな足跡を残したではないか…ッ!

 だとうのに…だというのに…ッ! 何故(なにゆえ)貴方様は…ッ! わしを足蹴にするのか…ッ!」

 すると白衣の男は、ハッ、と鼻で笑い飛ばしながら、うずくまる男の背を足の裏でグリグリと踏みにじった。皮膚のない背中は用意に筋繊維が損傷し、ジワリと真紅の血液を滲み出した。

 白衣の男は語った、

 「確かに、お前の成果は興味深いものだったさ。人間、ひいては、意識が世界そのものに及ぼす影響力の可能性を広げたンだからな。

 出来たものが『天国』の紛い物だったってのは残念だが、オレはそこを気にしちゃいない。むしろ、あのエセ『天国』が世界のどのような性質を反映したものなのか? 他の異相世界においても実現し()るものなのか? そういった新たな議題を魔法科学に提示したという時点で、十分に評価に値するさ」

 「エセ…!? エセ『天国』…だとぉッ!?」

 うずくまる男が、声帯を壊さんばかりの音量で以て、驚愕の叫びを上げた。

 この声を聞いた時、ゼオギルドはうずくまる男の正体を(さと)った。

 (あいつ、ツァーイン・テッヒャーか!

 そうか、『バベル』破壊のフィードバックにやられて、あんなザマになったワケか!

 定義崩壊が皮膚程度で済んだってのは、流石に天才魂魄学者と呼ばれるだけのことはあるってことか)

 ゼオギルドの理解を余所に、うずくまる男――ツァーインと白衣の男の会話は続いた。ツァーインの叫びに、白衣の男が嘲りをたっぷりと含んだ声高の非難を浴びせる。

 「そう、それだ! エセ『天国』だと見抜けずに、無闇に研究開発を進めていた間抜け!

 それだよ、オレがお前を足蹴にしてバカにしてる理由は。

 天才魂魄学者なんて評価されてるなんざ、聞いて呆れるぜ。科学者たる者、先入観を捨て、事実を厳密に受け止めねばならない。それが大前提だってのに、お前ときたらまるで(めくら)だ。

 中途半端に結果が出ちまったもんだから、大成功だと勘違いしたってのか? それは理解できんでもないさ、人間なんだから興奮の一つもするわな。

 だがよ、興奮のみを原動力にして突進して大ポカやらかした理論家なんざ五万と居る。唯物論なんざその最たるものじゃねーか。

 そんな化石(くせ)ぇ脳ミソに投資しちまった腹いせなんだよ、この仕打ちはよ」

 「あら、腹いせだったんですか」

 隣でほほえむ美少女が、鈴の音のような美しい声でやんわりと言葉を挟んだ。

 「てっきり、失敗への制裁だと思いましたよ」

 「制裁なら、とっくにブッ殺してるさ。

 だが、今回は結構良い戦争になったし、オマケで面白いモンも見れたからな。失敗と切り捨てるには、惜しいさ」

 "面白いモン"と語ったタイミング出、白衣の男は担いでいたチルキスを振ってみせた。その間もチルキスは相変わらず焦点の合っていない視線で虚空を眺め、ブツブツと何かを呟くばかりであった。

 その次の瞬間――ゼオギルドは予期せぬ事態に驚愕し、硬直した。

 「なぁ、ゼオギルド中佐よ。

 お前もそう思うだろ、良い戦争だったってさ?」

 白衣の男が視線をゼオギルドに向け、話しかけてきたのだ。

 この時、ゼオギルドの胸中に真っ先に過ぎったのは、今更ながらの"あいつは何者だ?"という疑問であった。

 自分の名や階級が知られてることについては、特に疑問は覚えなかった。彼は『パープルコート』では結構名が通っているので、組織外の人間に知られていても驚くには当たらない。

 ゼオギルドが疑問を口にする前に、白衣の男が語る。

 「オレは、今回の戦争の出資者でプロデューサーってところだ。

 ヘイグマンのじじいと、このバカ博士を引き合わせたのは、オレだよ。

 で、昨日から今日にかけて派手な祭りやってたからな。出資者としてその出来を見に来たってワケさ」

 ヘイグマン。その名を聞いたゼオギルドは、白衣の男の名を訊くよりも、自身の上官について尋ねる。

 「…大佐はどうしたンだよ?」

 「質問に質問で返すのかよ」

 白衣の男はクックッと笑ったが、拒否することなく答えた。

 「ここに居るじゃねぇか」

 そして、肩に担いだチルキスを揺らして見せた。ゼオギルドはバカにされたと感じ、生来の血の気の早さに急かされるままにこめかみに青筋を浮かべた。

 「はぁ!? てめぇ、眼付いてンのか!? そいつ、女じゃねぇかよ!」

 「いやいや、別にバカにしてるワケじゃねぇんだよ、中佐。

 見てくれじゃねぇのさ。問題は中身さ、中身。

 形而上相から魂魄を視認してみな。オレの言った事が嘘かどうか、直ぐに分かるはずさ」

 形而上相を通しての魂魄の識別はかなり集中力を使う。魂魄の定義は非常に微細で複雑であるため、細部を照らし合わせるとなると脳の処理に多大な負荷をかけてしまうのだ。

 今のゼオギルドの体調では万全な識別は望めないものの、並の魔術使いに比べれば断然精度の高い識別が可能であるはず。そう判断したゼオギルドは、疑心暗鬼に半眼を作りながら形而上相視認を行った。

 そして――すぐに異常を見出すと、思わず「おいおい…なんだ、こりゃ?」と声を上げた。

 チルキスの身体の中に、ゴチャゴチャに絡み合った2つの魂魄を認識したのだ。混合によって細部がさらに複雑化しているために、個々の魂魄が何者であるかを断定することは出来なかった。しかし、容易に想像することは出来た――一方、身体の生来の持ち主であるチルキス。そしてもう1つは…白衣の男が言った通りに、ヘイグマンであろう。

 「枯れ木みてぇな見てくれだったクセに、業の深いじじいだよな、ヘイグマンって野郎はよ」

 白衣の男がせせら笑った。

 「"獄炎の女神"を憎んでる、なんて言ってやがったがさ。憎むどころか、憧れてたってのが本音だったのさ。

 そんで、"獄炎の女神"のようになりたくて、女への変身願望を抱き続けていたってワケさ。

 救いようのない変態野郎さ。

 だが、『バベル』の崩壊のお(かげ)で肉体が壊れた代わりに、この女の身体にまんまと潜り込んだのさ。見事に変態的願望を叶えられたってことさ。

 よく見てみなよ、中佐。変態野郎、男の身体のままだったら勃起じゃ済まねぇくらい興奮してンだろ?」

 ゼオギルドは感情まで確認できなかったので眼を(しばたた)かせたが、それの意図を読みとった白衣の男が言葉を次いだ。

 「あー、見えてねぇのか。残念だな。

 まぁ、とにかく、変態大佐殿はこの女の中で健在ってことだ。

 可愛そうなのは、この女の方さ。変態野郎に魂魄ごと犯されてンだ。必死に拒絶し続けてての、この有様だ。

 可愛く飾った顔が、この通りの酷い有様だ」

 「あら、チルキスちゃんはメイクしてなくても十分に可愛いですよ」

 白衣の男の隣で美少女が柔らかく言葉を挟んだ。それは同じ女性を(かば)う気遣い…という感じではなかった。化粧を施しているかと見紛うほどに可愛らしい桜色の唇を一舐めしてみせたその顔は、情欲に飢える雌豹(めひょう)そのものだ。

 そんな美少女の有様を白衣の男は呆れたように笑い飛ばした。

 「お前、見境無さ過ぎなンだよ」

 「そう言われましても…事実ですし。本能的欲求に正直なのが、私の取り柄ですし」

 「それ、取り柄なのかよ?」

 白衣の男はくっくっと笑った。

 (なんなんだよ、こいつらは…?)

 この2人のやり取りを見ていたゼオギルドは、まるで居ないもののように扱われた事に憤りを感じていた。普段の彼ならば、部隊の内外から尊敬だの畏怖だのの眼差しで見つめられ、それだけで気分の良さを味わっていたというのに。この時の彼は、まるで路傍に転がる小石のような扱いだ。

 だから彼は、無理矢理にでも2人の意識をこちらに釘付けにしようと、必要以上に気迫を込めて叫んだ。

 「オイッ!!」

 「ん?」

 白衣の男が、キョトンとして振り向いた。

 その間抜けなまでに無関心な表情に、ゼオギルドは(かえ)って憤りが萎えてしまいそうになった。加えて、叫んで呼びかけたものの、何を言うべきか咄嗟(とっさ)に頭に浮かばず、まごついてしまった。

 そんな緩慢な思考を叩き直すように、大仰に頭を左右に振ったゼオギルドは、真っ先に抱いていたはずの疑問を口にする。

 「テメェら、何者なんだよ!?」

 「だからさっき言っただろ、この戦争の出資者でプロデューサーだっつーの。耳ついてんのか」

 「違ぇッ、オレが訊いてンのはそういうことじゃなくッ!

 テメェの名前と所属だよッ!」

 「名前?」

 白衣の男は、心底意外と云った表情でキョトンとし、隣の美少女と顔を見合わせた。美少女もまた、不可思議なものでも見聞きしたかのように、キョトンとした表情を浮かべていた。

 一瞬、無言で視線を交わし合った後。2人は同時に破裂するように笑い出した。

 「アァンッ!? 何が可笑しいンだよッ!?」

 ゼオギルドがクッキリと青筋を立ててがなり問うと、白衣の男はヘラヘラ笑ったまま答えた。

 「地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の佐官が、オレの名を存じ上げないなんてな! お前、モグリじゃねーの?

 それとも…あー、そうかそうか。 聞いたはずが、スッポリと脳ミソから抜け落ちちまってンだろな。

 カビ臭ぇお前の事だ、その筋肉脳ミソにゃビッシリと青カビが生えてンだろ?」

 あからさまの侮辱に、ゼオギルドが青筋をはちきれんばかりに盛り上げて、噛みついた。

 「ンだと、コラッ!

 オレの頭ン中に青カビだぁ!? なんでオレが、テメェなんざにそんな口叩かれなきゃなンネーだよッ!」

 「いやいや、スマンスマン」

 白衣の男は笑い続けたまま、手をヒラヒラと振って小馬鹿にするように(なだ)める。

 「別にお前をイジるつもりはなかったンだけどよ。あまりに期待外れだったモンだからさ、その腹いせについつい、毒を吐いちまった。

 オレは全くおべっかが使えねーからよ、勘弁してくれ」

 "期待外れ"!? その言葉に、ゼオギルドの憤りはマグマの爆発の如く(たかぶ)り、顔が烈火の真紅に染まる。

 「一々イラつく野郎だな、テメェはッ!

 初対面だってのに、ヒトの事を散々コキ下ろしやがって! 挙げ句の果てに、"期待外れ"だぁ!?

 何を勝手に期待してたンだか知らねぇが、ンナ事一方的に言われて気分良いワケねぇんだよ、ボケッ!

 出資者だかプロデューサーだか知らねぇが、この都市国家(まち)の祭りは終わったンだ! テメェのお楽しみは終わったンだからよ、とっとどっかに失せやがれよッ!

 それと、その女が大佐だってンなら、置いて行ってもらうぜ! 大佐はオレ達の上官だ、この先も指揮を取ってもらわにゃならねぇ! お前なんざにどうこうされる筋合いはねぇからよッ!」

 白衣の男は、ゼオギルドの口汚い台詞に全く動じず、笑いを張り付けたまま耳に入れていたが。やがて鼻で笑ってから、答えた。

 「ああ、もう失せるよ。

 もう見たいモンは全部見たからな、引き上げるさ。

 ただ、この()は連れてくぜ。これは立派な報酬だからな」

 「報酬だぁ?」

 聞き返すゼオギルドに、白衣の男はチルキスの身体を振るいながら答えた。

 「変態大佐との約束さ。今回の一件が終わったら、この()をダチにするってな。

 本人も同意済みだから、人(さら)いじゃねぇぜ? むしろ、オレらの所に来ることを大喜びしてたからな。

 ホントは、お前ともダチになる予定だったンだが…。ヤメだヤメだ。この娘と違って、お前は完璧な負け犬で期待外れだ。例えるなら…そうだな、青カビが生えて食えなくなったパン?」

 「ッザケンナッ!」

 白衣の男の最後の一言で、ゼオギルドの衝動の導火線が着火した。それまでよくも我慢に徹していた理性が吹っ飛び、胸中も思考も真っ赤な憤怒と憎悪に染まった。

 満身創痍であったゼオギルドだが、憤怒の力の助けも借りて、その身に負った怪我に全く似合わぬ機敏で暴力的な動作を見せる。大地を震わさんばかりの勢いで床を蹴り、左手を拳に握りしめて大きく振りかぶりながら、健在な水行の行玉を作動。他のいくつかの行玉が破壊されて五行の均衡が保てなくなっていたが、それが却って今回の攻撃には幸運に向いた。リミットの外れた機能で大気中の水霊を、瞬時に莫大な数量で集めると、巨大な津波を思わせる激流の渦を作り出した。

 (ブッ殺すッ!)

 五行的不均衡の所為で、左腕の神経にノイズが走って不快な鈍痛が走るが、意に返さなかった。激情の赴くままに白衣の男へと、一気に肉薄していった。

 一方で白衣の男は、浮かべた笑いを消しはしなかった。目の前で相変わらず足にしがみついていたツァーインをサッカーボールのように蹴り飛ばして退()け、何の障害物もなくゼオギルドと対峙した。

 彼の隣で、美少女が動き出しそうな気配を見せた…が。白衣の男は即座に手を出して、すさかず彼女を制した。すると美少女は寂しげに顔を曇らせたものの、素直にフワリと羽毛のように跳び退いた。

 

 こうして、2人の男は何の障害も挟むことなく、交戦へと移った。

 

 (ブッ飛べッ!)

 白衣の男の懐に潜り込んだゼオギルドは、激流をまとった拳を振るい、白衣の男の胸元に叩き込んだ。

 ――が。

 (…なんだァ!?)

 腕を伸ばしきっても、一向に拳から手応えが帰ってこなかった。

 白衣の男が身体が霊体で、攻撃がすり抜けた…というワケではなかった。

 単純に、"届いていない"のだ。

 白衣の男のゆらめく金髪も、悪戯(いたずら)の輝きを放つ碧眼も、目前の距離にあった。ならば首で繋がっている胸だって、すぐ目の前にあるはずなのだ。

 なのに…腕を伸ばそうが、拳にまとった激流を解き放とうが、一向に届かないのだ。

 (なんだァ!? おい、なんで…こんなに目の前にあるってのによッ!?)

 ゼオギルドは困惑した。その有様を嘲るように、白衣の男の笑みがギラリと歪む。

 その表情は、まんまと懐に飛び込んだ脆弱な餌にかぶりつかんとする肉食獣を思わせる、凄絶なものだ。

 同時に、白衣の男の外観が代わる。輝く金髪は、闇よりもなお暗い漆黒に。澄んだ碧眼は、凶悪な眼力を湛えるブラウンに。まるで水の中に絵の具を溶かし込んだような有様で、配色が一変する。

 2度目の驚愕がゼオギルドの胸中に沸き上がるよりも早く。彼の腹部に、爆発的な衝撃が深く、深く抉り込まれた。

 それが白衣の男による拳の一撃であると、ゼオギルドは(にわか)には認識できなかった。超強力な爆発物を至近距離で使用されたとしか思えなかった。

 何せ、ゼオギルドの巨躯は軽石のように吹き飛び、一瞬にして研究開発室の壁にめり込んだのだから。

 その間、内臓に突き刺さった衝撃でゼオギルドは盛大の吐血をしていたが。吐き戻した吐瀉物は、まるで爆風に煽られたようにゼオギルドの顔面やら胸部やらに浴びせかかった。

 ゼオギルドがクレーターのような亀裂にめり込んでようやく停止した時。彼は尋常ならざる腹部の激痛を得て、ようやく自分の身に何が起きたか覚った。が、彼は声を上げることも、ジェスチャーのために身動きを取ることもできなかった。満身創痍に加えて激痛を得たというのもあるが、最大の理由は激突の衝撃によって脊椎を損傷したためだ。

 ――もしも彼が身動きが取れたとしたら…白衣の男の暴力に対し、即座に反撃へと転じただろうか。

 …いや、できなかっただろう。

 何せ彼は、深く抉り込まれた拳の一撃によって、それまで持ち合わせていた傲岸不遜なまでの矜持(きょうじ)が、根(こそ)ぎ叩き折れてしまったのだから。

 

 白衣の男の拳撃は、あまりにも雄弁な一撃であった。

 とは言え、その一撃は、ゼオギルドの獅子のような気概を否定するものではなかった。

 ただ、獅子を野兎(のうさぎ)のように扱う怪物がこの世には居るのだと、文字通り痛感させたのだ。

 ネコが(まり)を扱うように獅子を片手で転がし、その戯れの力だけで、全身の骨を砕いてしまう――そんな強大で、強靱で、凶悪な怪物が存在するのだ、と。

 

 (…ヤベェ…)

 麻痺した全身がもたらす気だるさの中、ゼオギルドは全身の毛穴から全ての水分が奪い去られてしまうような怖気(おぞけ)を抱いて、胸中でポツリと呟いた。もはや、胸中とは言え叫ぶ気力は、なかった。

 対して白衣の男は、吹き飛ばしたゼオギルドに一瞥もくれず、殴りつけた拳を解いてプラプラと振りながら、清々しく語る。

 「やっぱり、この配色の方がシックリ来るな。

 金髪ってのはどうにも、印象が軽くてビミョーだ」

 「どちらも素敵ですよ。気になさらないで下さいな」

 隣で美少女がニッコリとフォローすると、彼女は続けてこう語る。

 「それにしても、この程度の男にわざわざお手を汚すことなんてありませんでしたのに。

 私に任せていただいて良かったんですよ?」

 「いやいや、それじゃツマランだろ。

 お前は加減ってモンを知らないからな。一撃で殺しちまうだろ」

 白衣の男が肩を竦めながら語ると、美少女は微笑みの中に血生臭い妖艶さを漂わせて、ペロリと赤い舌を出す。

 「だって、ご友人じゃなくて、カビなんでしょう? 駆除すべきですよ」

 「確かに、今は単なる青カビだ。

 だが、この先絶品のチーズに化ける可能性も捨てきれないぜ?」

 「もしも、チーズになれずにカビのままなら、どうするんですか?」

 白衣の男は、再度肩を竦める。

 「別に、何も。捨て置くだけだ。

 この程度で腐り切るような輩が、オレ達に楯突けるワケねーだろ?」

 「まぁ、それもそうですね」

 美少女がクスクスと笑う。

 ゼオギルドはこのやり取りを呆然と聞くばかりであったが、普段のように話に取り残されている事を怒ることはなかった。

 そもそも、取り残されていることについて、何ら意識は向いていなかった。

 ただただひたすら、今も体に麻痺を伴う鈍痛として駆けめぐる拳撃の雄弁さに怯え続けていた。

 だから、いきなり白衣の男が声をかけてきた時には、体中が雷撃に打たれたような衝撃を覚えた。ただし、脊椎損傷のために体はピクリとも動かなかったが。

 「まぁ、そういう事さ、ゼオギルド中佐。

 オレ達は、今のお前には全く興味がない。

 正確に言えば"あった"ンだがよ、ガッカリし過ぎちまって、興味が微塵も失せちまった。

 オレは、今の世においても五行なんてスタイルを貫くお前を面白いと感じてたんだぜ。そんな古い技術を駆使しながらも、敗死を(さら)す事なく戦争を生き抜いてきた矜持。お前は芳醇なワインとして熟成された技術の結晶体かと思ってたンだがよ。

 4人掛かりであの賢竜(ワイズ・ドラゴン)のガキにぶつかったってのに、見事なまでにボコボコされて気を失うなんてな。

 あの交戦は、オレの中でのあのガキの株を上げただけ。他に何も目新しい発見は無し。あのガキがスゲェってのは分かり切ってるっての。ホント、ガッカリだ。」

 ゼオギルドの意気が消沈していなければ、この男と賢竜(ワイズ・ドラゴン)のガキ――ロイとにどんな関係があるのか。ひいては、ユーテリアの星撒部とどんな関係があるのか、噛みついていたことだろう。だが、そんな余裕は毛ほども残ってはいなかった。

 白衣の男は「だからよ、」と続ける。

 「今、オレがお前の心に"種"を植え付けてやった。

 その種が見事に強靱な芽を吹いて、恐怖を越えてオレを憎み、立ちはだかるほどの大樹に育ったンなら。その時は、今みたいな加減なんてせず、全力で遊ぼう。

 そのまま腐るンなら、それはそれで良し。オレはお前の名前を未来永劫、忘れ去るだけさ」

 そして白衣の男は美少女に目配せすると。2人はほぼ同時に踵を返した。

 怪物どもは、ようやくこの場を去ってくれるようだ。

 そんな一抹の安心感を抱いたのもつかの間。踵を返す動作とともに(ひるがえ)る、白衣の男と美少女の上着にデカデカと描かれたマークに、ハッと息を飲んだ。

 そのマークとは、赤い円の縁を持つ、大きなハートであった。ハートの上下には円周に合わせて横延びした"I"と"W

AR"の字が配置されていた。このハートを"LOVE"に置換するとなると、このように読める――。

 「私は戦争が大好きです(I Love War)

 その言葉と男女2人組という光景がゼオギルドの意識の中にガッチリと組み合わさった瞬間。彼は全身から噴き出す冷や汗と共に、軽んじていた記憶を思い起こした。

 ――ある日の佐官級士官の研修において。地球圏における要注意人物について情報共有する話題で、進行役の将官が特に念を入れて紹介していた人物たち。

 「遭遇したら、単独では勿論のこと。貴官らの手持ちの部隊のみでの交戦も絶対に避けること!

 軍団司令部に指示を仰いだ上、対処するように!」

 当時、自身の力に絶対の自信を抱いていたゼオギルドは生欠伸(あくび)をしながら聞き流していた内容。その涙に滲んだ視界の中に映った、男女の顔。

 そいつらの顔が、丁度この2人だ!

 「じゃ、帰るぜ。紫音(しおん)

 「はい、賢人(セージ)さん」

 2人は肩を寄せ合って、気馴れたカップルといった塩梅(あんばい)で歩を進め、この場を去っていた。

 その背中を皮膚の剥がれたツァーインが慌てて、相変わらずの四つん這いで白衣の男の足にすがりつくように追った。

 「おお…おお…我が友よ…!

 ただの一度の失敗ではないか…! しかも、不可抗力による失敗ではないか…!

 だと言うのに、貴方は私を見捨てるのか…! おお、友よ…!」

 「うるせぇな。不可抗力じゃねぇだろ、お前が(めくら)で先見がなかったンじゃねーか。

 ただ、皮膚をヒン剥かれても付きまとえるその執念は、認めてやるよ。

 だからな…」

 「おお、友よ…!」

 「だから、そのままの格好でオレ達に着いて来れたら、友達でいることを続けてやるよ」

 そんなやり取りをしながら、白衣の男の一同はゼオギルドの視界から消えていった。

 ゼオギルドは脊椎損傷に加えて失意に閉ざされた視界をゆっくりと閉じてゆき――仕舞いには、意識と共に暗転した。

 

 ――その後、幾何(いくばく)の時間が過ぎたかは分からないが…ゼオギルドは『クリムゾンコート』によって捕縛という形で救出され、今に至る。

 

 (クソ、クソ…ッ!

 オレは、井の中の(かわず)だってのか…ッ!

 『現女神』との戦場にも立ったこのオレが…クソッ!)

 意識が現実に回帰したゼオギルドは、ベッドのシーツを(むし)り取る勢いでギュウッと握り締める。

 彼の体には今なお、白衣の男の一撃によって呼び起こされた怯懦が暴れ回っている。それは彼の憤りの感情を冷や汗で凍てつかせてしまう。

 ゼオギルドの没落した気迫は、元の姿を取り戻す(きざ)しが全く見えない。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 場はユーテリアのカレーレストランへと戻る。

 「何はともあれ、アルカインテールで任務に着いた皆は、ご苦労じゃったわい。

 特にノーラは、入部間もないというのに、先日に引き続いての重責の完遂! "よくやった"という誉め言葉は足りぬほどじゃ!」

 渚が声を張り上げると、ノーラは手にタンドリーチキンをそのままに、大きくはにかむ。

 「いえ…。むしろ私は、皆に迷惑をかけてしまった立場です…。

 栞ちゃんからの頼みを引き受けたものの、ほとんど何も考えてなかったですから…」

 「ホント、無計画にも程があったわよねー」

 紫が鶏の皮をパリポリ噛み砕きながら、ノーラをジト眼で睨む。

 「蘇芳さんに出会えたから良かったもののさ。アルカインテールが本当に廃墟ばっかりで、戦争も何もなかったとしたら、一体どうするつもりだったんだか…。

 蒼治先輩は策があるはず、とか言ってましたけど、今ならその策って浮かぶんですか?」

 いきなり話題を振られた蒼治は、苦笑いしながら眼鏡を直す。アルカインテールに到着したばかりの頃の彼の台詞であるが、あれは具体的な策があるというよりも、年長者として後輩の気を殺がないための方便に過ぎなかったようだ。

 その事実を口にするのが(はばか)られたらしい蒼治は、慌てて話題を変える。

 「そ、そういえば!

 今回の活動、何気に1年生勢ぞろいだったな!」

 「…あっ、ホントだっ!」

 蒼治から結構距離のあるナミトが指折り数えてから、声を上げた。加えて、彼女は続けてこうも告げる。

 「それに、部長が居れば男子部員全員集合だったんだ!

 なんか凄い! 何が凄いか分からないけど、とにかく凄い!」

 「まぁ、バウアーが居りゃ、1日で終わっただろうな」

 イェルグはそう語ってから、「つーか…」と前置いて渚に向き直る。

 「お前ら、オレたち後発組がアルカインテールに出てから、何してたんだ?

 難民キャンプで待機しっ放し、ってことはないだろな?」

 それについては渚ではなく、アリエッタが人差し指を立てて説明する。

 「勿論よ。

 明日、私とヴァネッサで訪問するつもりの介護施設用に、折り紙だとか歌の練習とかしてたのよ」

 「あれ、じゃ、渚は何してたんだ?

 っつーかお前、フリーならアルカインテールに来いよ。お前が居りゃ、ノーラ達も苦労しなかったろうが」

 「何を言っておる!」

 渚は腕を組んで居丈高な態度を取ると、キッパリと言い放つ。

 「要の指揮官は、ホイホイと前線に立つものではないじゃろうが!」

 「…指揮官…?」

 イェルグが首を傾げる。

 「まぁ、バウアーならそんな感じもするけどな…。

 お前が指揮官って云うのは…トンでもない爆弾に聞こえるぞ」

 「な、なんじゃとッ!」

 渚がイェルグに飛びかからんばかりの勢いで立ち上がった、その時。見計らったようにレストランの店主が口を挟む。恩義のある者達とは云え、店内で暴れられては困るようだ。

 「皆さん、おかわりはありますか?」

 すると渚はピタリと動きを止めると、ビシッと手を挙げる。

 「あ、わし、ハチミツナン一つ。

 あと、ほうれん草チーズカレー追加」

 そんな渚を口火に、部員が次々とオーダーを行う。その誰も彼もが口にしたのは、「ナン」というキーワードだ。ロイなど、「ナン5枚追加」とオーダーし、底知れぬ食欲を主張していた。

 そんな彼らの様子に、店主は思わず呆れの混じった苦笑いを浮かべて漏らす。

 「いやはや、よく食うね、あんたら…」

 

 宴はまだ、終わらない。

 

 - over -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

星撒 -I.H.A.-
Disorder - Part 1


◆ ◆ ◆

 

 ――これは、冒涜だ。

 "慰めの都市国家(まち)"と呼ばれる都市国家。その雑踏の中に身を投じる度に、"彼"は胸中に暗澹とした感情を抱く。

 それは憤怒であり、呻吟(しんぎん)であり、殺意ですらある。

 往来の足音や(ささや)き声ならば、蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)であろうとも、"彼"の聴覚を刺激することはない。

 だが――"あれ"だけは、例え小石を踏みしめた程度の小声であろうが、苛立ちを覚えずにはいられない。

 全くのスカスカで中身がなく、虫歯になりそうな甘ったるい音色で、上辺だけで真心など一片も籠もっていない言葉だけを並べた駄作。"ヤツら"はこれを芸術であり慰めであると言い張るのだから、笑わせる。

 (我らの英霊だけではない。

 偉大にして真なる真心を我らの心に授けた"第一の者"をも(はずかし)めている。

 これを冒涜と言わず、なんと称せようか?)

 "彼"は足を止めると、行き交う人混みの向こうに視線を投じる。そこには、数人の取り巻きを囲った、1人の男がいる。折り畳みの椅子に座し、ゆっくりしたペースでギターを弾く男がいる。

 男は恍惚とした有様で少し天を仰ぎ、パクパクと口を動かして声を上げている。その声こそ、"彼"が(いと)って止まぬ"冒涜"である。

 (この咎人(とがびと)めが…!

 貴様らの下劣な行為が、我らの傷を(えぐ)ると理解できぬ、罪深き白痴(はくち)めがッ!)

 "彼"は拳をギュウッと握る。その力強さと来たら、爪で掌の皮膚を引き裂かんばかりである。

 だが、"彼"は深呼吸をし、ひとまず激情を抑え込むと。フゥッと力を抜いて拳を顔の高さにまで上げ、歌う男へと向ける。

 そして、歌う男の顔を五指で(もてあそ)ぶかのように動かす。

 その動作を為したからと云って、歌う男に何らかの変化が起こったワケではない。それでも、"彼"は満足した(てい)で、小さく残虐な(わら)いを浮かべる。

 そして身につけていた裾の長い、汚れた黒いローブを軽く(ひるがえ)すと、自らの雑踏に同化して歌う男に背を向ける。

 2、3歩と足を進めたところで…。

 突如、背後から酷く(しわが)れたがなり声が上がったかと思うと。混乱の騒動がワァワァキャァキャァと鼓膜を震わす。

 その不吉な騒ぎを耳にした"彼"は、まるで爽やかな小鳥の声でも耳にしたかのように、涼やかに胸一杯に空気を吸い込む。

 膨らんだ胸腔の奥底で、"彼"はほくそ笑みながらポツリと漏らす。

 ――これは、断罪だ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 異様な室内である。

 元々は、駆け出しミュージシャンに相応しい、騒がしくも希望と熱意に満ちあふれた風景だったに違いない。壁中には敬愛する大物の歌手や奏者、バンドのポスターが埋め尽くされている。窓際に設置された机の上には、自らが書き殴った楽譜やら作詞を載せた紙が山と重なっている。楽器をはじめとした音楽器機が雑然としながらも、ピカピカに手入れされた状態で保管されていたことだろう。

 だが、今のこの部屋と来たら…なんと称するべきだろうか。

 「むうぅ、まるで幽霊屋敷じゃのう」

 電灯が点いておらず、陰に覆われた室内においても、なお輝きを放つハチミツ色の金髪と地球のような碧眼を持つ美少女、立花渚は桜色の唇を"へ"の字に曲げながら、そんな評価を下した。

 「まっ、実際人が一人死んでますしね」

 渚に同意しながら言葉を返すのは、ボブカットに霧添えた艶やかな黒髪に、神秘的な輝きを(たた)えたレッドブラウンの瞳を持つ少女。相川(あいかわ)(ゆかり)である。

 少女2人が評したように、この散々たる有様の室内は、旧時代的に言うところの"怨霊に取り憑かれた場所"の様相を呈している。

 壁中のポスターは生々しい引っ掻き傷によって引き裂かれているし、床中に散乱している楽譜や作詞の書き殴りは陰惨にも破り捨てられて紙片の山と化している。高価と思われる音楽器機は、何でブン殴ったのか、ボコボコにひしゃげて中身の機械が飛び出しているような有様だ。

 先に"電灯が点いていない"と言及したが、別に渚達が好んで照明のスイッチを入れていないワケではない。旧時代ながらの安価な蛍光灯は、ガラス管が無惨に破砕され、機能を放棄している状態である。

 この荒涼たる空間の主は、しかしながら、怨霊などではない。

 部屋の中央よりやや窓際に置かれた木製の椅子。そこに座した――いや、"座れされた"部屋の主は、超異層世界人権委員会(アドラステア)の手を借りるまでもなく、人類だ。しかも、死後生命(アンデッド)ではない。有機的生体活動が機能している、旧時代の生物学的にも申し分のない生物である。

 とは言え、その姿は幽鬼かと見紛うほどに見窄(みすぼ)らしい有様だ。

 スラリとしたスレンダーなシルエットのシャツやズボンがダボダボになる程に()せ細り、皮膚からは血の気が失せて青白く、カサカサに乾燥している。頬はこけ、眼窩は落ちくぼみ、唇は真っ青で、何度もひび割れを起こして出血した痕が見て取れる。国旗のように鮮やかに染め上げられた頭髪は、所々に痛々しい禿(はげ)が見て取れる。強引に毛髪を引っこ抜いたらしく、ブツブツに腫れ上がったり、皮膚まで破けて痛々しいかさぶたが出来ていたりする。

 彼には、額に1対の小さな角がある。目尻周りや頬の一部に石灰質の鱗片が見て取れることから、彼がゴブリン属と呼ばれる人種であることが見て取れる。壮健であれば、椅子に座してなお渚の背丈を越えるような長身と相まって、さぞや威圧的な印象を与えたことであろうが…今や角は小指で叩いただけでもポッキリと折れそうなほどに、(しわ)だらけで脆弱になっている。

 彼の黒一色の瞳には怯えきった暗い輝きが灯り、眼球は怯懦に急かされてか、蠅のように素早くキョロキョロと周囲を見回している。

 この姿だけでも十分に異様だが、これらに輪をかけて異質な点が2つある。

 1つは、彼の声だ。

 「グルゥ…ゴヴォ…グヴォヴォ…」

 奈落から響く地鳴りのような、あまりにも低い声。不鮮明過ぎて言葉の(てい)を為していないが、くぼんだ眼窩からポタリポタリと流れる涙を鑑みるに、救いを求めているのではないかと想像出来る。

 そしてもう1つは、彼が付き出している舌だ。

 青黒く変色した粘膜塊の中央には、定規で丁寧に線引きして切り取ったかのような、クッキリした十字の穴がスッポリと開いている。

 …そんな異様な部屋の主を前に、渚と紫を含めた少女4人がズラリと並んで、「う~ん…?」と疑問符を添えた唸りを上げていた。

 「やっぱり一番怪しいのは、この傷口ですわね」

 ちょっと高飛車な印象を与えるお嬢様口調で言葉を漏らしながら、4人の中から一等ズイッと顔を舌の傷口に寄せ、マジマジと見つめるのは、水晶のように青から緑へとグラデーションの掛かったロングポニーテールヘアの持ち主。ヴァネッサ・アネッサ・ガネッサ・ラリッサ・テッサ・アーネシュヴァインである。

 ちなみに、彼女の長ったらしく、同じような発音が並んだ名前は、彼女の出身地の貴族階級における文化である。実際、ヴァネッサの実家は名門軍家の家系であり、父や兄は軍上層部に入り込むような肩書きの持ち主である。

 「この傷口、よく見ていただきたいわ。

 筋組織も血管もスッパリと切断されているのに、出血した様子が全くない。それどころか、血が通っていないかのように、血管の内部が空洞になっていますわ。

 明らかに、魔術的ですわね」

 「でも、魔法性質を持つ細菌やウイルスも居ますからね。魔術的――つまり、人為的だとは、断言できないですよね?」

 紫がツッコミを入れると、ヴァネッサは腕組みをしながら、舌から顔を離して、胸を張るように直立する。

 「まぁ、確かに、そうですわね。

 でも、環境や生態系に通じてる紫さんならお分かりかと思いますが…こんな奇怪な傷口を顕現させて、細菌やウイルスに何のメリットがありますの?

 もしもこれが腫瘍なら、細菌やウイルスのコロニーが何らかの事情で独特の集合形態を持っていると判断しても良いと思いますが。これは、組織がスッポリと抜け落ちている傷口ですわよ?」

 「方術陣のように、幾何学的な文様から意味学的にエネルギーを取り出しているのかも知れませんよ?」

 と、紫は反論したが、すぐにため息と共に言葉の説得力を打ち消す。

 「とは言え…傷穴の中に何ら術式的構造が認められないので、可能性は低そうですけど…」

 「精神に作用するタイプの病原体なんじゃないかしら?」

 少女のうち、最後の1人が、荒涼とした室内に全くそぐわぬ花壇のようなのほほんとした声を上げる。

 「精神…ですか、アリエッタ先輩?」

 紫が聞き返す相手――アリエッタ・エル・マーベリーは、満開の桜を思わせるような端正で美しい顔をニコニコとさせたまま、(うなづ)く。その優雅な動作に伴い、ボリュームのある桜色のロングヘアからは花束のようなかぐわしさがフンワリと漂い、豊かな乳房がポヨヨンと揺れる。

 アリエッタは少女達が所属する星撒部の中でも、トップクラスのプロポーションの持ち主である。その悩殺的な破壊力に魅せられた紫は、胸中で舌打ちする。プロポーションにさほど自身のない紫は、時折アリエッタに嫉妬心を向けてしまうことがある。

 ちなみに、星撒部におけるもう1人の悩殺ボディの持ち主、ナミト・ヴァーグナについては、紫はあまり気にしていない。アリエッタのような"華"が無いことが、ボーダーラインなのかも知れない。

 紫がジト目で胸元を見つめていることも気にせず、アリエッタは人差し指を唇の近くに寄せて答える。

 「精神というより、脳…かしら。

 病原体の干渉によって、何らかのホルモンか信号が発信されて、それが舌の組織に作用したとか。

 この人からは重度の抑鬱状態が見てとれるし、矛盾はないと思うの」

 「うむ。

 わしも、アリエッタと同意見じゃ」

 渚が首を数度縦に振り、力強く賛成する。

 「それにのう、紫よ。

 傷穴の中に何も見えぬと言っておったが、そうではないぞ。

 よく目を凝らしてみよ。空間格子に擬態した構造が、ユウレイグモの巣のように疎らに走っておる」

 「え…!? ホントですか!?」

 今度は紫がズイッと部屋の主の舌に顔を寄せ、近視の者が遠くを見やるように(まなこ)を細めて凝視する。

 形而上相に依存する術式構造の把握に関しては、形而下の視覚――つまり、眼球を媒介とした光学的視覚の優劣は余り意を為さない。とは言え、"形から入る"という言葉が意を為すのが、魔法科学というもの。行為が魂魄に影響を及ぼしたのか、紫の脳裏に描かれる形而上相の風景の精度がぼんやりと少しずつ、高まって行く。

 そして、遂に…。

 「あっ、ホントだ…!

 何これ…こんなの初見で見つけろって言われても、絶対無理ですよ…!

 よく見つけましたね…さすがは副部長です…!」

 心底の感心を込めて語る紫の隣に、ヴァネッサも顔をズイッと割り込んでくる。彼女もまた、傷穴の中の術式構造を読み取れなかった身の上だ。

 ヴァネッサは眉間に皺を寄せて、「う~ん?」と唸りながら傷穴を睨みつけると。程なく、「ホントですわ!」と声を上げる。紫よりも発見までの時間が短かったのは、流石に先輩だけのことはあるということだろう。

 クッキリした十字の傷穴に関する新たな事実が周知されたことで、少女達の議論は更に活発に――そして、(かしま)しいものになる。

 「この構造なら…」「いいえ、それよりも…」「むうぅ、この可能性は…」等と交わされる会話の内容は、10代の学生が口にするには余りにも難解で深淵なものである。

 

 そんな少女達から少し離れた所。引き裂かれたポスターが痛々しい木製の出入り扉の手前に、2人の男が並んで立ち、少女達を黙然と見やっている。

 この2人、(たたず)まいこそ類似点はあるものの、実際の印象は太陽と月ほどの相違がある。

 まずは、扉のほぼ正面に立っている男。強化繊維で出来た紺色の制服と制帽を身に着けており、それらの随所に縫いつけられたトレードマークから警察関係者である事が読み取れる。顔は旧時代ながらも地球人のもので、年の頃は20代中半と言ったところだ。直立してはいるものの、ソワソワと落ち着きのない雰囲気が醸し出されている。それが顕著に見て取れるのは、彼の表情と、腰のあたりで組んだ指である。

 面持ちは不安げで、少女達を移す瞳はフルフルと揺れ動きっ放しだ。組んだ指は絶えずモジモジと動き、掌にはうっすらと汗を(にじ)ませてさえいる。

 ともすれば、全力で駆け出して少女達の肩をグイッと掴み引き留めそうな気配がピリピリと漂っている。

 一方で、彼の隣に立つ男は、全くの対照的に泰然自若とした態度を見せつけている。年の頃は30代半ばといったところだが、その落ち着いた(いわお)のような風格からは、豊富な経験を積んだベテランの印象が漂う。

 身につけた丈の長い黒のコートには、やはり警察機関を連想させるトレードマークが縫いつけられている。しかし、それは先の男とデザインが全く違う。制帽を被った3つ首の犬と云う、ちょっとトゲトゲしい印象を受けるものだ。

 男は身の丈が優に180センチを越える長身だが、コートの上から分かる程には筋肉質ではない(とは言え、痩躯というワケではない)。制帽を被っていない頭には、後頭部で結んだ漆黒の黒髪が(うなじ)の辺りまで伸びている。

 彼に関してもう一つ特徴を言及すれば、腰に差した"獲物"である。警官の腰にあるものと言えば警棒か拳銃のイメージであるが、彼が下げているのは刀である。刀身は短めだが、コートの裾先から赤黒い鞘の先端がチラリと覗いている。

 帯刀した警官男性がじっくりと、興味深げに――それこそ、鑑識官の調査行動を眺めているかのように――見つめていると。オドオドした警官男性がコートの裾をチョイチョイと引っ張り、顔を寄せてくる。背丈が同じ程度ならば耳元に口を寄せるところであろうが、頭一つ分も高低差があるので、肩に語りかけるような(てい)になってしまう。

 「あの…ホントに大丈夫なんですか、蓮矢さん?」

 「何が?」

 帯刀した警官男性――暮禰(くれない)蓮矢(れんや)は、ちょっと眉をしかめて返す。

 するとオドオドした警官男性――ウォルフ・ガルデンは、甲高くなったコショコショ声で語る。

 「彼女ら、学生ですよ!?

 いくらユーテリア所属の"英雄の卵"だからって、公認された専門家じゃないんですよ!?

 現場を荒らされたりしませんか!?」

 「大丈夫、大丈夫」

 蓮矢は、ハァ、と小さく溜息を吐きながら、視線は少女達の方へ向けたままに、手だけをウォルフに向けて制する動作をする。

 「戦災復興でてんてこ舞いになってる都市国家の市軍警察に比べりゃ、数倍役に立つ。

 黙ってみてろ」

 「で、ですが…」

 ウォルフは反論を口にしかけたまま、視線を蓮矢と反対の方へとチラリと走らせる。

 彼の視線の先にあるのはやはり、引き裂かれたポスターがプラプラと下がった壁だ。しかし、他の箇所と明らかに違う点がある――それは、血痕だ。時間経過によって黒っぽく変色したそれは、巨大なトマトを握り潰したような、盛大な飛沫(しぶき)の形跡が見て取れる。

 先刻、紫が"人が一人死んでる"と言及した。その痕跡が、この血痕だ。

 2日前、その位置で顔面が落としたスイカのように破裂した状態の男性の遺体が発見されている。

 状況から考えれば、加害者は部屋の主だ。しかし、彼が留置場ではなく自身の部屋に放置されているのには、理由がある。――それは後ほど述べるとしよう。

 …とにかく、ウォルフは惨死の印である血痕を気味悪がりながら、また語る。

 「こんな場所でボーッと突っ立ってるよりも、我々が手短に現場検証した後に、一時的に留置すれば、」

 「黙ってろ」

 言葉の途中のウォルフに割り込んで、蓮矢が少々怒気をはらんだ物言いで黙り込ませる。

 それからしばらく、男共は鳴りを潜め、幽霊屋敷同然の内装には余りに似つかわない少女達の明るい議論の声ばかりが響く。…その挙げ句。

 「むうぅ、ここで雁首揃えて言い合っていても、埒が明かんわい。

 のう、アリエッタ」

 腕を組んで思慮を続けていた渚は、アリエッタの方に顔を向けると。視線の先のアリエッタは、腰に下げた刀を鞘ごと取り外したところである。

 「分かっているわ。私も丁度、提案しようと思っていた所なの」

 「うむ、話が早くて助かるのう。

 では、ちょいと"斬って"みてくれ」

 「ええ」

 アリエッタはニッコリと微笑むと、壮麗な装飾が施された鞘と柄を片手ずつで掴み持つと、部屋の主の顔の高さで水平にしてピタリと止める。

 

 少女達の広報で、ウォルフの顔がギョッと色めく。

 「ちょっと、蓮矢さん!?

 あの娘達、"斬る"とか言ってますよ!?」

 少女達のことをよく知らぬ者であるならば、"斬る"と聞けば、文字通りに人体の切断を想像することだろう。しかも、4人は脳や精神活動についての議論を交わしていた。ということは…その刀で頭を切り開いて、直接脳の状態を確かめようとしているのではないか? そう考えるのは極自然なことかも知れない。

 「彼女ら、いくらユーテリアの学生とは言え、医師免許は持ってないですよね!? しかも、刀だなんて、医療器具ですらないですよ!?

 止めましょうよ! これじゃあ単なる傷害事件、いや、殺人事件になります!」

 息巻いたウォルフが大股で駆け出そうとするところを、蓮矢がすかさず腕を延ばして彼の胸を抑え、動きを制する。

 「大丈夫、大丈夫。

 悪いようにはならんさ。

 特に、あのお姉ちゃんが"斬る"ってんなら、安心だ」

 「医師免許持ってるんですか、あの娘!? でも、執刀するとは言え、本当に刀でやるなんて、バカげて…」

 声を荒げて騒ぐウォルフを、蓮矢は高い身長から握り拳を振り下ろし、多少強めに小突く。

 「静かにしてろ。

 あのお姉ちゃんの邪魔になる」

 「…不祥事になったら、責任取ってくださいよ」

 ウォルフはまだまだ納得はしておらず、ハラハラオドオドしながら、視線を少女達の方に向き直して固唾を飲む。

 

 アリエッタは静かに、深く深呼吸しつつ、眼を細めて部屋の主を見やる。

 その視線は睨みつけるではなく、鋭くも穏やかなもの――例えるならば、患者を救う為に必死になって患部を見やる医師と同じ視線である。

 部屋の主はアリエッタの視線の変化などどこ吹く風と言った様子で、ゴヒュゥゴヒュゥと荒々しく乱れた呼吸を繰り返し、ボタボタと涙の滴を(こぼ)しながら、キョロキョロと周囲を見回している。

 そんな最中。アリエッタがヒュッ、と鋭く息を吸い込みながら、ゆっくりと鞘から刀身を露わにする。

 鞘を滑らせた距離は、わずか3センチほど。(つば)と鞘の間には、厳冬の早朝に照り輝く雪原を思わせる銀光を思わせる、刃引きされた刃がチラリと覗く。

 刃は窓から差し込む僅かな光を反射し、(まばゆ)い輝きをキラリと放って、部屋の主の眼に()き付ける。

 闇夜から姿を表した暁光のような輝きを網膜に入れた主の(まなこ)が、眩しそうに細まる。そして、絶え間なく動き回っていた眼球が、ピタリと輝きに釘付けになる。

 その瞬間。アリエッタが鞘と柄を素早くを動かし、刃を鞘の下に完全に納める。

 キイィィィンッ! 部屋に響き渡る、澄んだ鍔鳴り。それは刀という殺傷兵器を想起させるような、冷たい音ではない。むしろ、凍り付いた世界を破砕して春を呼び覚ますような、鋭くも穏やかな玉の楽器を想起させる、美しい音であった。

 

 静から動へと一気に転じる、アリエッタの動作。そして、雑然とした世界に心地よく響き渡る、鍔鳴りの音。

 その一挙一動は、ほんの1分にも満たないものである。しかしウォルフは、その極短い時間の振る舞いに魅せられ、それまでのギャアギャアとした騒々しさを忘却し、キョトンとアリエッタを見つめるばかりだ。

 「斬っ…た?」

 ウォルフが、小さく呟く。先のアリエッタの動作には斬撃を匂わせる要素は何もなかったはずなのに、彼は確実に何かが"両断"されたことを(さと)る。

 しかしながら彼は、五感の何が――それとも、第六感と言われる形而上的知覚がか――その印象を訴えたのか、理解できていないが。

 だがウォルフの隣では、蓮矢がニヤリと笑いながら小さく(うなず)く。

 「ああ、"斬った"な」

 

 アリエッタが扱うアルテリア流剣舞術は、刃引きされた儀式用刀を用いた演舞術であり、殺傷のための技術ではない。故に彼女は、いかなる戦闘状況下においても、自身の獲物を用いて敵を直接斬りつける(刃引きなので、"叩きつける"という方が正確かも知れない)ような行動は取らない。

 だが、彼女の刃は――アルテリア流剣舞術は、肉体を斬る代わりに、その魅力で(もっ)て心を斬る。

 

 そして今、アリエッタは正にこの技術を存分に発揮し、部屋の主の心を魅入らすと同時に、暗澹に閉ざされた心を澄んだ輝きと鍔鳴りで斬り開いたのだ。

 

 転瞬――鍔鳴りの残響が消えぬ内に。

 ゴヴォゴヴォゴヴォゴヴォ…まるで粘性の強い下水が泡立ち渦巻くような濁水音と共に、異変――いや、"怪異"が姿を現す。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Disorder - Part 2

 "怪異"は、間接が外れそうなほどに大きく開かれた(あご)の中から現れる。

 もっと詳しく言及すれば――"怪異"は食道や気道、または唾液腺と言った体腔部から現れたのではない。

 それは、舌の中央に痛々しく開かれた、クッキリした十字の傷穴の中から現れてくる。

 掌程の大きさもなく、内部構造も存在しない筈の傷穴の中から、土砂降りの日にマンホールから溢れ出す下水のように、黒く濁った粘水がゴヴォゴヴォと不快な音を立てながら大量に沸き出す。

 「な、なんなんだよ、こりゃあ…!?」

 ウォルフが目を白黒させながら指差している間にも、舌の傷穴から吹き出した汚水はベトリベトリと部屋の主の口から零れ落ち、ブルブルと震える粘水の塊を形成してゆく。

 この間、部屋の主と言えば。沸き出す粘水に呼吸を阻害されたのか、はたまた嘔吐感を催したのか、ダラダラと涙を滝のように流しながら白目を剥いている。

 しかしながら、口の中は汚水で一杯だというのに、部屋の主は(しわが)れたような潰れたような人外の濁声で、大声で喚き立てる。

 「嗚呼、嗚呼、嗚呼! 呼び声よ、呼び声よ、嗚呼!

 (さいな)むな、苛むな! 我が才無きとて、苛むな!

 我はただひたすらに脆弱なりけり! 蟻に運ばれ()まれし餌食なり!

 苛むな、苛むな! 我を苛むなかれ!

 暗き天使よ、救い(たま)え!」

 それは、まるで何某かの宗教の聖句のようにも聞こえる。しかしその内容は、人に道を説く有り難い説教というよりは、聞く者を呪う怨嗟と呼ぶに相応しい。

 この声を聞くなり、4人の少女は瞬時に地を蹴り、部屋の主から数歩の距離を取って身構える。溢れ出した濁水が有害物質であるかのような反応だ。

 そして実際に、濁水は人に害を為す存在である。

 ゴポゴポ…泡立つ音を立てながら集合する、濁水。遂に1つの大きな塊となり、ニュウ~と大福でも伸ばすように縦長に立ち上がった、転瞬。

 ビリビリビリッ! 荒廃した室内に突如、震動するような圧力が生じる。

 この圧力は実際には、物理的な事象ではない。それは室内の物体や己の皮膚の表面を見れば明らかだ。埃が飛び跳ねたり、皮膚が震えたり、輪郭がブレたりするような光景は見られない。

 この圧力は、生物の魂魄に直接働きかけるものだ。

 「あああああッ!?」

 突如、ウォルフが声を上げて額を抑える。圧力の発生と共に、彼の思考に凶悪な情報が暴力的に雪崩込んで来たのだ。

 それは、不安や失意や卑下、そして失意や絶望といった負の感情の奔流である。

 加えて、奔流の中に溶け込むようにして、恨めしい"歌声"が聴覚を支配する。

 ――お前は何だお前に価値はあるかお前は認められているかお前は誰だお前は必要とされているかお前はお前はお前は――。

 「ひいいぃぃぃっ!」

 ウォルフは自身が情けない絶叫を上げていることも自覚できぬまま、その場にくずおれ、意味なく両耳を塞いで縮こまる。

 その隣で蓮矢は右手で側頭部を抑え、思考に入り込んでくる奔流を意志の力で抑え込みながら、胸中で呟く。

 (こいつは…神霊圧!?)

 『現女神(あらめがみ)』を筆頭に、その配下である天使や士師が発する形而上的圧力。思考を塗り潰すように、感情や言葉の奔流を叩き込んでくるところがそっくりだ。

 蓮矢は所属している組織の性質上、神霊圧に対抗する訓練を受けているために、ウォルフのように簡単には屈しない。だが、平然と動き回れるほどに回復するためには、暫く時間を要する。

 一方で――4人の少女達は、この魂魄性圧力の中を、顔色を青くすることなく、臨戦態勢の鋭さを保ったまま、盛り上がりながら形態を変化させる濁水を油断なく見つめている。

 (流石はユーテリアの"英雄の卵"、いや、星撒部ってところか…!)

 蓮矢は苦しげにニヤリと笑い、胸中で少女達に賛辞を送る。

 

 さて――変形する濁水が最終的に成り果てたのは、次のような奇妙な姿である。

 メンダコと云う海洋生物がいる。皿の上に載せたプリンのような姿に、膜に包まれた短い触手と、耳と翼の中間物のような小さな一対のヒレを頭に持っている。ちょうどこの生物を、黒い濁水を一杯に詰めたクラゲで形成したような姿だ。加えて、ヒレの代わりに小さなコウモリの翼が生えているのも特徴である。

 体高は、椅子に座す部屋の主と同じほど。ブヨブヨに肥大化した体つきを見る限り、体積は部屋の主よりも大きいかも知れない。そんなものが、掌サイズにも満たない傷穴の中から現れたのだ。

 メンダコには体表に1対の眼を持つが、"こいつ"にはそんなものはない。ブルブルと震える体表は、綺麗なゼリーのようにツルリとしている。

 但し――眼の代わりとでも言うのか、濁水の詰まった体内には、いくつもの"筒"が漂っている。

 筒をよくよく観察すると、それは暗い色調の装飾が施された、かなり古い時代の長銃であることが分かる。装飾は錆びた金属で施されており、オオカミに追われて逃げまどう人々や、磔刑(たっけい)の様子など云った、陰惨な光景が描かれている。

 この筒がフワフワと――しかしながら、かなり素早く――"こいつ"の頭部にたどり着くと。円状に並び、さながら長銃で作った冠のような有様となる。

 

 ブヂュン、ブヂュン、ブヂュン…"こいつ"の頭から粘水の爆ぜる音が続々と響いた――その瞬間。

 「ヴァネッサッ!」

 渚が雷鳴のような声を上げると同時に、身を低くして"こいつ"へと突撃する。

 「言われなくともッ!」

 応えるヴァネッサは掌を素早く前に突き出し、魔力を集中。掌が青白い励起光に包まれたかと思うと、その中心から緩やかな螺旋を描いて、正六角形の結晶が幾つも出現する。結晶は凍てつくような深い青色を呈しており、その表面は荒削りの氷壁のようにザラザラだ。

 これらの結晶はパキパキと音を立てながら急成長し、やがて成人の上半身をスッポリ覆うほどのサイズに至る。そしてスィーッと素早く宙を走り、メンダコ状の"こいつ"の周囲を檻のように囲む。

 宙に浮く結晶の壁が隙間なくミッチリと"こいつ"を囲み終えた、その転瞬――!

 (ドン)(ドン)(ドン)(ドン)ッ――! 連続する、鼓膜をつんざく発砲音。"こいつ"の体内を漂っていた長銃が、先の爆ぜた粘水音と共に体外へと銃口を露出させ、一斉射撃したのだ。

 射出された弾丸は、術式のみで構築された漆黒の真球である。死を運ぶ魔風と化した弾丸は、高速で一直線に飛翔。ヴァネッサの作り出した結晶の表面に激突すると、ビシッ! とガラスにヒビが入るような耳障りな音を立て、実際に結晶に放射状の亀裂を生じさせてながら内部にめり込み、停止。直後、術式は即座に構造が分解され、黒紫色の煙と化して宙空へと昇華される。

 ヴァネッサの素早い対処のお陰で銃撃による負傷者は、幸いにもゼロだ。

 しかし、メンダコ状の"こいつ"は諦めない。

 弾丸が消滅するのとほぼ同時に――カチャン、と乾いた音がメンダコ状の"こいつ"から発される。体内から飛び出た長銃の撃鉄を起こし、次弾を装填した音だ。

 だが、2度目の発射を許すような渚ではない。

 飛来する弾丸を頭上にやり過ごした渚は、"こいつ"の眼前へと肉薄。発砲よりも早く体を起こしながら、右脚による蹴りを見舞う。

 (ザン)ッ! 剣撃のような鋭い一撃が逆袈裟に"こいつ"の体を引き裂く。ブチュンッ、と濁った音が立ち、盛大な切断痕を刻まれた"こいつ"。

 しかし、"こいつ"の水ような体は、その外観のごとく、物理的攻撃が無効である。渚の脚が吹き抜けた直後、早くもズプズプと傷痕が塞がってゆく――丁度、水を切ったものの、その傷が閉じるのをスロー再生するかのような光景だ。

 とは言え、星撒部の副部長たる渚は、詮無き行動を取るような人物ではない。先の一撃は、本命の攻撃への布石だ。

 この一撃で――自身の脚を通しての"こいつ"の感触の認識によって、瞬時にその定義を解析したのだ。

 "こいつ"の頭上に吹き抜けた渚の脚が、転瞬、淡い太陽光の色に染まる。肉体活動に依存した術式構築技術、練気による魔力励起光の輝きだ。

 そして渚は、落雷の勢いで"こいつ"の脳天に、輝く脚を――その凶悪な(かかと)を叩きつける。

 (ダン)ッ! "こいつ"の柔らかな体を両断して、床を踏みしめる激突音。部屋を揺るがすような強烈な響きは、正に轟雷を想起させるものである。

 ニヒッ、と渚が勝ち誇った笑みを浮かべた、その瞬間。"こいつ"の濁り切った漆黒の体が一変、真夏の太陽のような輝きを発したかと思うと、音は立てぬものの一気に沸騰して蒸発してゆく水滴のように、その身が術式へと分解されて昇華する。

 

 瞬く間に(しずく)の一つも残さずに"こいつ"が消滅すると。室内に充満していた圧力がフッと消滅し、思考への干渉も停止。

 うずくまっていたウォルフは、急に消えてしまった不快感に戸惑い、立ち上がらぬままの格好で周囲をキョロキョロと見回すのであった。

 

 「流石は、星撒部。

 ってよりは――流石は立花渚、と言うべきか?」

 蓮矢がパチパチパチパチ、と拍手しながら語る。その行動に呼応したワケではないだろうが、ヴァネッサの作り出した結晶がボロボロと崩壊し、粉雪のような有様になって宙空に溶けて消える。

 「まっ、この程度のこと、わしでなくとも星撒部の部員ならば誰でもやり遂げてみせるわい」

 腰を捻って振り向いた渚が、ニカッとヒマワリのように笑って応じる。

 対する蓮矢は「いやはや」と首を左右に振りながら、両手を肩の高さに上げる。

 「相変わらず、学生の域を越えてンなぁ。

 足蹴二発で消されちまったら、天使も形無しだろうによ」

 その言い振りに、渚は眉を顰めて「むうぅ?」と唸る。とは言え、蓮矢の誉め言葉に悪い気を感じたワケではない。彼の言葉の中身に、誤解というか違和感を感じたという(てい)だ。

 職業柄、小さな疑惑にも鋭く反応する蓮矢はちょっと首を捻り、渚が何を可怪(おか)しく感じたのかと問い(ただ)そうと口を動かそうとした――その矢先。

 「な、なんだったンです、あれ…!?」

 ようやく現状に適用したウォルフが立ち上がって、疑問の声を上げたのと。

 「ふぎゃあああぁぁぁっ! ふ、ふちぃぃぃっ!」

 椅子に座していた部屋の主が床に転がり込んで、呂律の覚束(おぼつか)ない悲鳴を上げるのとは、ほぼ同時であった。

 散らばった床に背を丸めてうずくまった部屋の主は、両手で口元を抑えて「ふごふごっ!」と気の抜けたブタのような嗚咽を繰り返している。手の隙間からはドクドクボタボタと鮮血が(あふ)れ出している。きっと、舌の傷穴から噴き出したものだ。

 メンダコ状の"存在"が破壊されたのと同時に、異様な止血状態にあった傷穴が真っ当に戻ったらしい。

 「ヴァネッサ! 紫!

 治療を頼むぞい!」

 渚がキビキビとした口調で号令すると、呼ばれた2人は即座に部屋の主の元へと駆け寄る。霊薬(エリクサ)の生成に定評のあるヴァネッサと、治療魔術に長じている紫にかかれば、今やただの裂傷となった(はず)の舌の傷穴の処置は造作もないことだろう。

 …さて渚は、アリエッタと共に警官2人に向き直ると、「あれが病原体じゃよ」と語ってみせる。先のウォルフの疑問への答えだ。

 「つまり…"あれ"に取り憑かれていた所為で、舌に傷が出来たり、抑鬱症状が出ていた…ってことなのか?」

 ウォルフの確認に、渚は首を縦に振る。

 「うむ。

 あやつは魂魄と云うより、脳に寄生してその活動を制御しておるようじゃ。

 抑鬱症状や舌の独特の傷は、その一例じゃ。特に舌の傷は、なんらかのホルモンの働きを使って細胞自殺(アポトーシス)を起こして作ったものじゃと思う。

 それにしても、十字の傷とは洒落(しゃれ)ておると言うか、手が込んでおると言うべきか…のう」

 渚は苦笑しつつ、豊かな金髪に指を突っ込んでポリポリと掻く。

 「やっぱりこの現象は、人為的なものってワケだな?」

 蓮矢が尋ねると、渚は「うーむ」と唸って首を捻る。

 「可能性は高いが、そうとも限らぬじゃろう。

 "ああ云う存在(モノ)"というのは、社会的環境から泡のように発生することもあるかのう。

 ただし、傷穴内部の緻密(ちみつ)過ぎる術式構造を鑑みると、自然発生だと特に認めづらいがのう」

 「へぇ、なるほど。

 天使ってのは、『現女神(あらめがみ)』だけじゃなく、環境からも発生することがあるのか」

 蓮矢が興味深げに首を縦に振ると。渚とアリエッタは顔を見合わせてから蓮矢に向き直り、「はぁ…?」「何を言っておられるんですか?」と聞き返す。

 蓮矢は「え」と戸惑いの声を上げる。

 「なんかオレ、変な事言ったか?」

 「もしかして、蓮矢刑事。さっきの"あれ"が天使だと勘違いなさってるんじゃありませんか?」

 アリエッタが蓮矢に尋ねるというより、渚に言い聞かせるように言葉を口にする。すると蓮矢や渚が口を開くより早く、ウォルフが言葉を挟む。

 「どう考えても、"あれ"って天使だろ!? 神霊圧だって発生してた!

 オレは"あの女神戦争"の時に嫌ってほど経験したからな、絶対間違いようがない! 確かに神霊圧だ!

 それが天使でなくて、何なんだよ!?」

 「ありゃ、『呪詛』じゃよ」

 渚があっさりと訂正する。その隣ではアリエッタも首を縦に振っている。

 「は…? じゅ、『呪詛』…?」

 「嘘…? マジで…?」

 ウォルフ、蓮矢の順で訊き返してくるのを、渚はしっかりした(うなず)きで(もっ)て受け止める。

 「うむ。

 確かに、神霊圧によく似せておったようじゃがな。あれは[[死後生命>アンデッド]]の怨場と同類の力場じゃよ。

 …そもそものう」

 渚は嘆息してからジト眼を作り、キョトンとした顔を作る警官2人を頼り無さげに睨みつける。

 「天使ならば『神法(ロウ)』で構築されておるじゃろうが。対して、"あれ"の体を構築しておったのは単なる術式じゃ。

 大した偽装をしておったワケでなし、ちょっと注意して確認すれば明白じゃろ。

 怨場にやられて確認できなかったとしても、"あれ"が消滅する際の現象を見れば分かるじゃろうが。

 それに勿論、天使は環境によって自然発生することなど、有り得ぬ」

 すると蓮矢が苦笑しながら自らの後頭部を撫でつつ、言い訳する。

 「いやあ…だってよ、先入観に捕らわれざるを得ないだろ?

 この都市国家(まち)は元々、女神庇護下型の都市国家だったんだからよ。天使の生き残りが居ても可笑しくないだろうなって、思っちまうじゃねぇか。常人は、よ」

 「天下の『チェルベロ』の一員が"常人"などとヌかすでないわ」

 渚は再び嘆息する。

 「そもそも、『現女神』がその座を退けば、その天使は(すべから)く消滅するのが(ことわり)じゃ。

 わしが言うのじゃから、間違いない」

 「当の本人がそう言うからには、そうなんだろうな。

 今後、肝に命じておくとするよ」

 蓮矢は右手を挙げて、渚の言葉を受け取る。

 

 暮禰(くれない)蓮矢は立花渚を筆頭とした星撒部とは面識があるし、彼女が『現女神』であることも承知している。

 

 さて、天使もどきの呪詛の話が一区切りついたところで。丁度ヴァネッサと紫の治療が終了した。

 部屋の主は再び椅子に座らされ、2人の少女に囲まれて最終的なチェックを受けている。

 「どうです? 痛みとかありますか?」

 紫の問いに対して、部屋の主は何度か舌を出し入れしたり、表面を指でなぞったりしている。

 今や舌の表面に在った傷穴は見事に塞がっている。但し、傷穴が在った部分だけ周囲より淡い色を呈していたり、少し凹んでいたりする。これは、魔術的治療によって急激な組織再生を行った代償のようなものだ。時間の経過と共に馴染んでゆくことだろう。

 「痛みは…うん、大丈夫みたいだ。ちょっと突っ張る感じはするけど…喋るのに支障はないね」

 「それは良かったです」

 紫が部内ではなかなか見せない、純然たる笑みをニッコリと浮かべる。同僚のロイが見たら、間違いなくからかったことだろう。

 「痛みがなくなったのは良いんだけどよ…。

 なんかスゲェ、腹減ったよ…体もダルいしな…」

 部屋の主は、ハァー、と重い溜め息を吐いて背を丸め、両手で顔を拭う。そんな様子にヴァネッサが相槌を打つように首を縦に振る。

 「寝食共に充分でない状態で、治療魔術による代謝促進を行ったんですもの。疲れた体に、更に鞭を打ったようなものですわ」

 そしてヴァネッサは上着の内ポケットを漁ると、濁ったハチミツのようなドロリとした液体の入った瓶を取り出し、部屋の主の()けた顔の手前に突きつける。

 「これは、わたくしが調整した栄養補給用の霊薬(エリクサ)ですわ。

 こちらを飲んで、少し落ち着いてみなさいな」

 「…苦くない?」

 部屋の主は怪しみつつ瓶を受け取り、中身をマジマジと見つめる。

 するとヴァネッサは、薬を渋る幼子の面影を見て取ったのか、苦笑する。

 「大丈夫ですわ。胃が弱ってるかも知れない方に、刺激物なんて与えませんわよ。

 あっさりしたチーズケーキ風味なので、飲みやすいはずですわ」

 部屋の主は説明を受けても納得していない様子で、首を傾げながら恐る恐る瓶の蓋を開ける。

 途端に漂うのは、弱った胃袋さえ刺激しそうな、柔らかく優しい甘い香りだ。薬品を想起させるような要素は一片もない。

 これに安堵した部屋の主は警戒心を解き、何の抵抗もなく瓶の中身を口の中に含める。すると…。

 「うおっ、マジ美味(うま)ッ!」

 (くぼ)んだ眼をパチッと見開き、歓声を上げる。そして一気に天を向き、一滴すらも惜しいと言った感じで瓶の中身を咽喉(のど)に流し込む。

 そのキビキビした挙動を見ていると、痩けたり皺だらけになった体が、すぐにでも瑞々(みずみず)しさを取り戻すような印象さえ受ける。

 部屋の主が瓶の中身をスッカリ平らげ、腕を口元を拭い去った、その時。外野からウォルフが彼の名前を呼ぶ。

 「グエン・ロシュエフ」

 「あん?」

 美味い霊薬(エリクサ)を口にして元気を取り戻した部屋の主――グエンは、奇抜な髪色を写し取ったような、ちょっと柄の悪い態度で返事する。が、直ぐにギョッと瞳孔を縮めると、椅子に座したままの体をビィンッと硬直させる。

 「げっ…! ち、治安部の警官!?

 なんでそんなヤツが、オレの部屋に…!?

 ってか、なんだ、こりゃ!? オレの部屋、どうなっちまってンだ!?」

 グエンはついぞ今まで部屋の内装やウォルフらの事を認識していなかったらしい。取り憑いていた呪詛の影響で、認知傷害が起きていたのだろうか。

 「訊きたいことがある。

 察しの事だとは思うが…お前のバンドのメンバーで、ドラマーのヤハブ・シャーサインについてのことだ」

 「ヤハブ…?」

 眉根を曇らせて訊き返す、グエン。しかし、ウォルフの直ぐ隣の壁を染める凄惨な血痕を見つけると。

 「そうだ…! ヤハブ!

 あいつ、どうなんだ!? 無事なのか!?」

 グエンはヴァネッサや紫を押し退けながら勢いよく立ち上がり、ウォルフへ詰め寄ろうとする。が、霊薬(エリクサ)を口にしたとは言え、万全な状態でない彼は直ぐにバランスを崩し、フラフラと倒れ込む。すかさず紫が捕まえてくれなければ、受け身もとれずに床に激突したことだろう。

 「無事も何もあるか。

 目の前で見てるだろう」

 ウォルフは威圧的に、ゆっくりと大きな動作で腕組みすると、警帽の下の顔を仁王像のように烈しくしかめる。

 「即死だよ、即死!

 頭に1発、左胸の心臓付近に2発! 派手にぶっ放しやがって! ホトケさん、酷い有様だったぞ!」

 苛烈に非難されたグエンは、途端に顔をクシャクシャに歪める。それは向けられた憎悪に対する恐怖ではなく、自らに対する深い懺悔(ざんかい)に駆られてのものだ。

 補給した霊薬(エリクサ)の水分をそのまま絞り出したかのように、グエンの両眼からダバダバと涙の滝が流れる。

 「そんな…! ありゃ、夢じゃなかったのか…! クソッ! クソッ!

 なんでだ、なんでこんな事に…! なんでオレは、止められなかったんだッ!」

 「止められないも何も、お前が――」

 ウォルフが苛烈な追求に出始めた途端。渚がスッと腕を伸ばしてウォルフを制する。

 渚はウォルフに対して指揮権限など持ち合わせていない。だが、渚の凛然たる態度は、ウォルフの口を塞いでしまう。

 まるで、我が子を背にして艱難辛苦(かんなんしんく)を引き留めんとする、母親のような貫禄である。

 気圧されたウォルフが固唾と共に続く言葉をゴクンと飲み下すと。渚はフッと表情を和らげ、我が子を慈しむ母親の笑顔をグエンに向ける。

 「そう自分を責めるでない。

 確かに、おぬしの仲間はこの部屋で命を落としておる。じゃが、その責はおぬしにはない。

 全ては、おぬしに取り憑いておった、性悪な呪詛の所為なのじゃからな」

 「…だ、だけどよ…」

 グエンは嗚咽を漏らしながら、()けた顔を拳で殴りつけるようにして覆いながら、自ら反論する。

 「お、オレの記憶には、し、しっかりとよ、の、残ってるンだよ…ッ!

 オレ、何だか知らねぇけど…ライブの後、急に何もかも嫌になって、ひ、引きこもっちまって…! それから何日かして、ヤハブのヤツ、オレを励ましに来てくれて…!

 なのに、お、オレと来たら、あ、あいつの言葉が余計に苦しくて…! もうそれ以上言わないで欲しい、放っておいて欲しい…って、胸が張り裂けそうになって…!

 そしたら、そしたら…あいつの顔がブッ飛んだんだよ…ッ!

 他の事は(ぼう)っとしか覚えてないってのに…! 飯を食ってたのか、トイレに行ってたのかさえ、覚えてないってのに…! この記憶だけは、写真でも目の前に突きつけられてるように、ハッキリ覚えてやがるんだ…!

 お、オレの他に、誰が、誰がそんな事出来るってンだよ…ッ!」

 自責の念に駆られ、自らの体を引き裂かんばかりの様子で自虐的に叫ぶ、グエン。そんな彼に対して言葉を差し伸べるのは、渚の隣に百合(ゆり)の花のように微笑み立つアリエッタである。

 「先ほど言った通り、呪詛の所為ですよ。

 あなたには何の責任もありません。

 ですから、気に病まず、何よりもご自分の体の回復に努めてくださいな」

 「で、でもよ…!

 じゅ、じゅそ…ってモンのことは、詳しく知らねぇがよ…! それが悪いったって、それに憑かれた原因はオレ自身にあるんじゃねぇのか!?

 き、聞いたことあるぜ…! 怨霊(レイス)の類は、憑かれる側の人間の悪い心の状態が呼び寄せるって…! その、じゅそ、ってのも、そういうモンじゃないのか…!?」

 この言葉に、渚に押し黙らされたウォルフは、小さく(うなず)く。グエンの言う通り、呪詛は強力な負の感情によって自発する場合がある。

 典型的な例は、誰かを強く(ねた)む場合だ。『混沌の曙(カオティック・ドーン)』以前、旧時代の地球においては怪談話として(ささや)かれていた現象。しかし、心という形而上的存在が物理的作用を及ぼしうる魔法科学が席巻する現在においては、ただの話ではなく現実の脅威として確立している。実際、この手の現象による刑事事件は度々世間を騒がせている。

 この観点に立てば、グエンとて例に当てはまり得るかも知れない。…が。

 「それは、考えにくいことですよ」

 アリエッタが人差し指を立てて、幼子を(さと)すように語る。

 「私たちがこの部屋に入った時のグエンさんは、明らかに抑鬱症状を呈していました。

 抑鬱症状というのは、非常に自責的、そして自傷的です。だからこそ、グエンさんは自分自身の体を酷く痛めつけています。

 そんな状況で生まれる呪詛でしたら、グエンさん自身を傷つけるはずです」

 「この部屋の有様は、どうなんだ!?」

 横から口を挟んだのは、渚の威圧をようやく振り切ったウォルフである。

 「この荒れっぷりは、自傷的というより他傷じゃないのか!? 傷つけたい誰が居ないから、手近な物に当たり散らしたんじゃないのか!?」

 「いえいえ。それも抑鬱症状から説明可能ですよ、警官殿」

 小さく手を挙げて反論するのは、紫である。口調に毒が含まれているのは、ウォルフを物知らずと判じて見下しているからだ。実際、彼女のつり上がった口角には意地悪い卑下の笑みが浮かんでいる。

 「自室だとか、自身の創作物――そこら中に散らばってる楽譜や歌詞の書き殴りとかですね――これらは、自身の性質が具現化したものと判じることが出来ます。

 つまり、自身の延長、と言えるワケですね。

 それを壊す行為は、自傷行為の延長と見ることが出来ますよ」

 "基本中の基本の知識ですよ"と言わんばかりの紫の態度に、ウォルフは流石にムッと顔をしかめる。

 「だが、恐慌(パニック)症状って可能性だって考えられるだろうが!」

 「だとしたら、私たちや警官の皆さんが入室した時点で、この人は暴れ回るんじゃないですか?

 恐慌(パニック)症状の方は、ほんのちょっとの変化にも敏感に反応しますからね。見知らぬ人間が部屋に踏み込んで来たら、絶対に暴れますよ。

 でも、この人は誰が入室しようとも反応は薄いし、極めて受動的で鬱々と泣き通しているばかり。恐慌(パニック)と断じるには、あまりにも不整合ですよねー?」

 紫は隣のヴァネッサに同意を求めて首を傾げながら、煽るように語る。この嫌みったらしい動作にはヴァネッサも気の毒さを感じたのか、ひきつった苦笑を浮かべるばかりである。

 とは言え、ウォルフをフォローするような真似をしなかったのは、紫の言葉が全くの正論であったからだ。

 「で、でもよ…!

 躁鬱みたいに、感情に起伏があるような…!」

 頑張るウォルフの言葉が終わらぬうちに、渚は小さく溜め息を吐きながら言葉を挟む。

 「ここで机上の可能性の議論を続けたところで、進展せぬじゃろうて。

 ウォルフとやら、鑑識を呼んで今回の事象と、落命時の事象との記録照合を駆ければ良いじゃろうが。

 特に今回は、事象が発生してまだ間もないじゃろう? 部屋から記憶を読み出すのに絶好の機会じゃろうが。時を無駄にしては、どんどん情報が失われてしまうぞい?」

 記憶照合は、現在の刑事課における非常にポピュラーな鑑識方法である。様々な物体や非人類生物から記憶を読みとる魔術を行使出来る鑑識官を呼んで、事象を構成する形而上的要素を解明し照合する捜査方法である。鑑識官の技術レベルが問われるが、充分卓越した技術の持ち主ならば非常に良い精度の結果を得ることが出来、事件解明までの時間を劇的に短縮することが出来る。

 ちなみに、紫が用いる植物読(プラントリーディング)も記憶照合の一種に数えられる。が、この部屋には目立った生きた植物がないため、彼女の技術を役立てることは出来ない。

 ――ともかく。学生相手に次々とやりこめられるウォルフは顔を真っ赤にして体をプルプルと戦慄(わなな)かせていたが。やがて、蓮矢が"降参"と言わんばかりに大笑いを上げる。

 「確かに、単なる時間の無駄だわな!

 ウォルフ君、彼女らの言う通り、さっさと鑑識を呼んで捜査してもらえ。

 それでもしも、このグエン氏の呪詛が彼自身に由来するものであり、他の件とも一致するなら、グエン氏を一連の事件の犯人(ホシ)と断じることが出来るだろうし。そうでないとしても、貴重な捜査資料が作れるだろうよ?」

 ウォルフはまだ何か反論したげであったが、蓮矢の言葉には弱いようだ。ガックリと肩を落として降参を認めると、腰ベルトのホルダーに差した通信機を使い、本部と連絡を取り始める。

 その様子を見た蓮矢は満足そうに頷き、パン、と小さく両手を叩くと。

 「そんじゃ、この場はウォルフ君に任せてっと。

 オレは…」

 「ちょ、ちょっと待ってくださいッ!」

 蓮矢の台詞に対して、または通信相手に対してか――恐らくはその両方に対してだろう――ウォルフが慌てて声を上げると、蓮矢に青くなった顔を向ける。

 「蓮矢さん、何処行くんですか!

 容疑者を確保したら、必ず2名以上で現場を維持する事って言うのが鉄則じゃないですか!

 コイツ(グエンを指した)が逃げたら、どうするんですか! あなたもオレも始末書じゃ済まないですよ!?」

 「大丈夫、逃げたりしないって。

 なぁ、グエンさん?」

 蓮矢が同意を求めると、グエンはえらく真剣な顔を作って首を縦に振る。

 「ああ、ああ! 絶対に、オレは逃げたりしないぜ!

 本当にオレの所為でヤハブが死んだってンなら、オレはこの罪をキチンと償いたい…!

 あいつはオレの大切な仲間なんだ! ケジメは付ける!」

 病的ではあるものの、奇抜な髪型がチャラチャラして見えるグエンであるものの、その根っこは義理堅く真面目である。

 そんなグエンの台詞に満足して頷いた蓮矢は。

 「そう言うワケだから、後よろしくな!」

 と語ると、まだ反論して騒ぐウォルフを[[rb:後目>しりめ」]に渚に向き直る。

 「ところでよ、渚ちゃん。 そろそろ小腹が空いてくる時間だよな?」

 正午を過ぎた時間帯を指す腕時計を見せてニッカリと笑った蓮矢に、渚もニヤリと笑って応じる。

 「もう2、3件回ってみるつもりじゃったんだがのう。確かに、腹の虫が騒いでおるわい」

 「それじゃ、ランチタイムと洒落込もうぜ。勿論、オレの(おご)りだ」

 そう言うと渚は一つ、荒い鼻息を居丈高に吹き出す。

 「当然じゃわい。

 本来はお主等がすべき仕事、わしらがやり遂げてみせたのじゃからのう!

 それに、成人(おとな)学生(こども)に驕らんでどうする?」

 「相変わらず、遠慮もクソもないこって。

 …じゃ、話がまとまったところで、行くとするか!」

 ウォルフが「ま、待ってくださいよ! ちょっと! 本気ですか!?」と喚くのも構わず、背を向けた蓮矢は右手を挙げると。

 「いつもの所に居るから。

 終わったら来てくれや」

 と言葉を残し、蓮矢は美少女4人を(はべ)らせて荒涼たる部屋から出て行った。

 

 「…"チェルベロ"の捜査官だからって、こんなの横暴過ぎるだろ…!」

 残されたウォルフは小さく叫んで舌打ちすると、ちょっと泣きそうな顔を作って、通信機を相手にするのだった。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Disorder - Part 3

 ◆ ◆ ◆

 

 都市国家プロジェス。そこは、取り立てて肥沃な土地があるワケでも、目を見張るような土地があるワケでもない。約30年前の地球に起こった『混沌の曙(カオティック・ドーン)』の際、近隣の住人達が寄り集まって作った集落が地道に発展を遂げて成立した、というだけの都市国家である。

 プロジェスのような成り立ちを持つ都市国家は珍しくない。むしろ、地球上では多数派である。アオイデュアやアルカインテールと言った強烈な個性を持つ都市国家はそうそう多くはない。

 ちなみに、星撒部は両都市国家のような個性的な都市国家ばかりを活躍の舞台に選んでいるワケではない。短期間に両都市国家と関わりを持ったのは、純粋に偶然の賜物だ。

 さて、プロジェスのような都市国家は普通、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の庇護の元に入る。『現女神(あらめがみ)』達の苛烈な求心活動に対抗する為の合理的判断と言える。

 しかしながら、プロジェスは居率から現在まで、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の傘下に入ったことはない。その理由は、単純にして意地っ張りな自尊心である。

 "艱難辛苦を乗り越えてようやく掴み取った都市国家(くに)だと云うのに、大きいばかりの勢力に飲まれたくない"――そんな反骨的な気概を約30年来持ち続けて来たのである。

 そんなこの都市国家(まち)は今、"慰めの都市国家(まち)"などと言う、生来の気概に真っ向から反するような二つ名で知られようになった。

 その経緯の概略を言えば、2ヶ月前にようやく終結した『女神戦争』に()るのだが――より詳細な背景については、後に述べるとしよう。

 

 プロジェスの街並みを表現するならば――良く言えば"田舎情緒の暖かみに(あふ)れている"、悪く言えば"発展不十分な古くさい街"である。

 オフィス街だろうが繁華街だろうが、5階を越えるような高層建築物は(まれ)だ。多くは2、3階建ての石造りの建物で、電飾も光霊飾も極乏しい。まるで、西部劇の舞台にちょっと近代化の毛を生やしたような光景である。

 行政中枢区は流石にもっと高い、ピカピカの高層建築物が林立しているようだが…如何せん、地区の面積が狭いため、波が静かな大海原にポツンと現れる絶壁の小島のように見える。

 そんな都市国家(まち)の活気はどうかと言えば…シンプルな光景にそぐわぬ程の騒々しい賑わいに満ちている。

 「むうぅ…祭りでもやっておるような(やかま)しさじゃな…」

 繁華街の端の方、ビルの日陰が濃い所で、壁を這うようにして進む渚が、肩耳を塞ぎながらうんざりと語る。

 渚の前を進む蓮矢がケラケラと笑い、首だけ回して答える。

 「ここ最近じゃ、この都市国家(まち)のどの通りもこんな感じだぜ。

 戦災復興の真っ最中に、しかも地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の援助無しでこれほどの賑わいなんだ。結構な事じゃないか」

 「むうぅ…まぁ、それはそうなんじゃが…。賑わいようにも程があるのではないかのう…?」

 渚がこめかみを抑えながら、心底キツそうに半眼になりながら、ブチブチと文句を口にする。

 彼女が先に"祭"と形容したように、通りの賑わいは人混みと喧噪でごった返している。通りの中央に出ようものなら、高密度の人混みの波に(さら)われて、何処とも知れぬ場所に流されてしまいそうだ。

 街並みを活気付けているのは、通りを囲む数々の店舗…ではない。賑わいの真の立役者は、路傍を埋め尽くしている大量のパフォーマー達である。

 装飾系の魔術を用いて派手な大道芸を行う者。似顔絵を初めとした絵画を実演販売している者。自作の小物やアクセサリーを広げて、けたたましい呼び声を上げている露店商など、パフォーマーの種類は様々だ。

 しかし、何より数が多く目――と言うか"耳を引く"のは、ストリートミュージシャンの存在である。

 彼らは流石に爆音を流すことはないが、甘い声のラブソングやら家族や友人との絆を歌い上げるラップなどを、喧噪に負けじと声高らかに歌い上げている。

 歌が盛んな都市国家と言えば"音楽の都"アオイデュアが想起されるが、あそこではストリートミュージシャンを見かけることはない。特に許可されたストリートライブでない限り、野外での音楽活動は原則禁止されているからである。故に、ライブ会場の外では物静かな雰囲気を楽しむことが可能だ。

 それに比べると、このプロジェスの有様の何と混沌たることか!

 「…別に喧噪だけならば、なんとか耐えられるがのう…。

 背筋がムズ痒くなるような"歌崩れ"ばかりは、どうにも辛抱ならぬ。

 はよう物静かな店に引っ込みたいわい…」

 「なんだ、渚ちゃんよ。若いくせにこういう場所が苦手だなんて、年寄り臭いじゃないか。

 そんな物言いしてるから、心が老け込んじまったんじゃないか?」

 蓮矢がニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて語ると、渚はムッと頬を膨らませて反論する。

 「不愉快に思っておるのは、わしだけではないはずじゃぞい!

 のう、おぬしら! ムズ痒くて溜まらんじゃろう!?」

 渚は後ろに着いて回る3人の少女に同意を求める。すると…。

 「同感です。

 ラブソングとかラップだとか、うんざりですよ。耳が腐ります」

 真っ先に小さく手を挙げて同意を示し、猛毒たっぷりの小言を口にしたのは紫であったが…。

 「良いじゃありませんか。こんなに活気に満ちていると、こっちまで胸がワクワクして来ますよ」

 とニコニコ笑って、拳をソワソワ動かして返事するのはアリエッタである。

 残るヴァネッサと言えば…アリエッタ以上に、この状況を楽しみまくっている様子だ。キラキラと眼を輝かせながら露店を見やっては、興奮の色に染まった独り言を口にしている。

 「あのネックレスなんて、イェルグに似合いそうですわ!

 あ、あの生地の模様も素敵ですわね! わたくしもスカーフを作って、イェルグとお揃いにしようかしら!」

 更には、ラブソングに耳を傾けて、その歌詞を味わい尽くすように深呼吸すると、夢見る少女のようにうっとりしながら独りごちる。

 「…ああ、今の歌詞…! あの切なさ…! 共感できますわぁ…!

 わたくしも不安になっておりましたもの…。でも、そういう不安の山を乗り越えて、愛する二人の絆は強くなってゆくのですわぁ…!」

 渚は特にヴァネッサの様子に眉をヒクつかせ、嘆息する。

 「…ここでは、どうやらわしが少数派のようじゃな。

 しかし…」

 と、渚は語りつつ、人混みの中にチラリと視線を走らせる。その半眼はうんざりとした疲労感に加えて、キラリとした鋭い知性の輝きが見て取れる。

 「少数派は、わしや紫だけではないようじゃがな」

 …そう、渚の鋭い観察眼が捉えたように、彼女らと似た――いや、それ以上にトゲトゲしい反発的な雰囲気が、人混みの中からヒシヒシと漂っている。

 往来の人々をよくよく観察すると…祭騒ぎの賑わいに眼を輝かせている人々の合間にポツポツと、世を恨むような暗澹とした表情をした者達の姿が見て取れる。その有様は、賑やかに咲き誇る花畑の中に、厳つい石が見え隠れしながらゴロゴロと転がり回っている光景を想起させる。

 彼らと祭騒ぎを楽しむ者達との差は、特に見受けられない。どちらも人種は多様で偏りはない。戦傷者はどちらの側にも含まれているが、強いて言えば、暗澹とした岩勢に比率が多いように思える。…とは言え、都市国家(まち)全体を()べて観察したワケではないので、特徴と断じることは出来ない。

 「単に騒がしいのが迷惑だ…って風じゃないようね。

 何て言うか…都市国家(まち)の様子そのものが気に食わなくて、恨んでるような…」

 アリエッタが頬に人差し指を置いて首を傾げていると。蓮矢がそれ以上はここで口にしないよう、掌でアリエッタのみならず星撒部の少女達を制する。

 「その話は、ここじゃマズい。

 メシを食いながら、コッソリ教えてやるよ。

 場合によっては…」

 蓮矢は一段と声を潜めて語る。

 「今回の一件と、関係があるかも知れん」

 

 蓮矢が少女達を導いたのは、"ココット・ダイニング"と言う名のレストランである。

 建物の外観は他の店同様に質素で、控えめな色彩ながら大きな看板だけが特徴的である。ただし、看板には電飾や光霊飾は一切施されておらず、ライトアップ用のスポットライトが数個設置されているだけだ。

 比べて内装は、目五月蠅(うるさ)い程ではないが、結構凝ったものになっている。細やかな装飾とすり減った傷が着いた木製の家財は、暖かみのあるレトロな感覚を想起させる。天井で回っている扇風機も羽が木製で、元は建材か何かの板を加工したもののようだ。

 「店主の趣味なんだとさ」

 蓮矢は紹介しながら、客が疎らな店内を我が者顔で歩き、窓際の一席を占拠する。対して店員は素知らぬ顔をしているので、もう常連の域に達しているのかも知れない。

 少女達が席に着くと、店員が来るより早く、蓮矢はメニューを開いてオススメについて言及する。

 「まだ全部制覇してないが、地雷はないぜ。

 特に肉の煮込み料理が美味い。舌の上で(とろ)けるぜ」

 「ふむ。それではのう…」

 渚は数瞬指と視線をメニューの上に走らせた後、ピタッと一つのメニューを指し示す。

 それは、メニューの中で一番値の高い、牛の上等な肉を使ったトマトソース煮込みをメインに据えた定食である。

 「こやつを貰おうか」

 ニヤリと笑うと、蓮矢は嫌な顔をするでなく、楽しげに声を上げる。

 「おっ、流石は立花渚! お目が高いな!

 そいつは、値段が裏切らない絶品だぜ。オレも大のお気に入りだ」

 すると紫やヴァネッサも遠慮なく同じものを指差した。

 その一方で、アリエッタだけは別の料理――白身魚のマスタードソース和えをメインに据えた定食を指差す。値段は、この店のメニューでは中の上、といったところだ。

 「アリエッタよ、遠慮なぞする必要ないんじゃぞ?

 こやつはどうせ、このランチの代金も経費で落とすつもりなのじゃろうから」

 渚が諭すが、アリエッタはニコニコ笑って語る。

 「気にしないで。私って、こういう時は(あま)邪鬼(じゃく)なのよ。

 お肉の料理が良いってお店なら、魚料理はどんな味なのかなって、気になるのよね」

 すると蓮矢はパタパタと手を振って、やはり楽しげな様子で口を挟む。

 「大丈夫、心配することないぜ。

 肉の煮込み料理が美味い店ってのは本当だがよ、肉だけが取り柄ってワケじゃないからな。

 そいつも結構美味いぜ。ソースの味が病みつきになってな、皿まで舐めたくなるんだよ」

 「あら、それは楽しみです」

 アリエッタは一層ニッコリと微笑む。その上品で清楚な微笑みは、学生とは思えぬ大人の色気と抱擁力を醸し出す極上の表情である。

 蓮矢はその笑みの虜になり、一瞬我を忘れて頬を染め、アリエッタを呆然と見つめるばかりであったが。隣に座る紫に肘で(したた)かに突かれ、ハッと我に返る。

 「天下の"チェルベロ"の捜査員とは言え、所詮(さが)悲しき男よねー」

 毒気たっぷりの紫の一撃に、蓮矢は咳払いをしてなんとか気を変えると。手を挙げて店員を呼びつけるのであった。

 ちなみに、蓮矢が頼んだのは、白身魚をアーモンドとスパイスで風味付けしたソテーである。彼がまだ試したことのないメニューとのことだ。

 さて、料理が運ばれてくるまでの間。渚は机の上に両肘を着いて手を組み、その上に(あご)を乗せると、ちょっと警戒するように半眼を作って蓮矢を睨む。

 「さて…こんな大盤振る舞いをしおるからには、何らの腹積もりがあるのじゃろう?

 また捜査に協力しろ、とな?」

 対して蓮矢は屈託なく笑う。

 「気前が良いのは、生来の性格だ。お陰様で、後輩からの評価は上々なんだぜ。

 ちなみに、いくら"チェルベロ"所属だからって、ランチ代は経費じゃ落ちないさ。純然たるオレのポケットマネーだよ」

 「なんじゃ、規模の割にケチ臭い組織じゃな。

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)なんぞ、協力者への接待費用は経費で落ちるそうじゃぞ?」

 「ウチらは地球圏治安監視集団(エグリゴリ)みたいな収益モデルはないんでね。儲からないどころか、タダ働きだってザラさ。

 有り難~い支援者(パトロン)の方々が居なきゃ、とっくに破綻しちまってるね」

 「でも、あなたは沈む泥船と理解した上で、乗り続けてるんでしょう?」

 紫が嫌味ったらしく言うが、蓮矢は悪びれずにアッハハハ、と笑い飛ばして頭の後ろを掻く。

 「金なんて代物より、正義と信念に生きるのを(たっと)ぶバカだからな、オレは。

 でも、そんなバカも超異層世界集合(オムニバース)中から掻き集めると、結構な人数になるワケさ。だからこそ、我らが"チェルベロ"は存続できてるんだよ」

 

 ――ところで、先から"チェルベロ"という言葉が行き交っているが、その意について解説する。

 "チェルベロ"は話の内容から容易に推測できるように、組織の名称――正確には通称である。

 正式名称は『異相世界際刑事警察機構』。その名が示す通り、地球圏のみならず数多(あまた)の異相世界を股に掛けて活動する警察機関である。

 "チェルベロ"の通称は、この組織のトレードマークから来ている。制帽を被った3つ首の犬は、地獄において罪人を監視し罰する番犬"ケルベロス"をモチーフにしている。"チェルベロ"とは、旧時代の地球のとある地方における"ケルベロス"の古語の発音である。

 "チェルベロ"の主たる活動は正式名称が示す通り、犯罪の捜査と犯人の逮捕である。

 この職務自体は、大抵の都市国家に備わっている。市軍警察の刑事課がそれだ。しかも、市軍警察ならば軍事戦力を有する為、テロのような有事の自体に実行的な武力を(もっ)て速やかに対処することが出来る(部署間の縦割りが極端でない限りは、だが)。

 一方で"チェルベロ"は純粋な警察組織である。故に、軍事力は当然、それに準ずるような武力を有していない。

 それでも都市国家が"チェルベロ"を頼みにするには、幾つか理由がある。

 1つは、"チェルベロ"の有する極めて広大な情報ネットワークである。地球圏のみならず、加盟地域ならばどんな異相世界にも支部を持つ"チェルベロ"の情報網は、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)を遙かに(しの)ぐ。

 また、超異層世界集合(オムニバース)においてトップと称しても偽りのない捜査技術にも熱い視線が注がれている。軍事技術に一切関わりを持たない代わりに、ひたすら捜査技術の向上に尽力しているため、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)すら思いも寄らぬような魔術で事件の全容を速やかに解明することも多い。

 加えて、ハズレがないと評価して過言でない程のハイレベルな捜査官も大きな魅力だ。"チェルベロ"は軍事力を持たないが、捜査官自身は凶悪事件にも対応するため、高い自衛能力――というか、戦闘能力――を有する。彼らにテロ組織の摘発を頼めば、犯罪の詳細な流れ図とともに、勝手に組織の壊滅してくれることも大いにあり得る。

 暮禰(くれない)蓮矢は、"チェルベロ"の中でもベテランに分類される実力者だ。そして、渚達の対応からも分かる通り、星撒部と何度か接点を持つ人物でもある。

 

 「で、じゃ」

 渚が半眼になって、テーブルを人差し指でコツコツと叩きながら、逸れた話題を戻しに掛かる。

 「おぬしの気前の良さは充分分かったから、早よう本題を言わんかい。

 捜査協力の依頼なんじゃろ?」

 「いやいや。それは頼むまでも無さそうだからな。

 オレも渚ちゃん達も、目的は一緒だろうから。今回の事件の解決…そうだろ?

 だったら、自然と互いに協力し合う事になるだろうさ」

 渚は「むうぅ」と唸るものの、反論しない。事実、蓮矢の話は図星だし、合理性を考えれば協力する方が得な事は分かり切っている。

 「今回の用件は、情報交換さ。

 別に、渚ちゃん達から一方的に情報をもらうつもりはない。オレの方からも知ってる事は全部提供するよ。

 ランチの驕りは、まっ、オレの気前の良さのアピールって事にしておいてくれ」

 すると渚は、一瞬キョトンとした表情を作った後に。抗議するように表情を曇らせて、「はぁ!?」と声を上げる。

 怪訝な顔を作ったのは渚だけではない。他の3人の少女達も、顔を見合わせたり、眉根を寄せたりしている。

 その事情を、渚が代表して口にする。

 「情報交換も何も、わしらは今日入都したばかりじゃぞ!?

 症状を目にしたもの、さっきグエンと言う男を相手にしたのが最初じゃよ!?

 何を話すことがあると言うのじゃ!?」

 渚の劇的な表情変化を面白がるように蓮矢はクックッと笑い、それから咳払いを挟んで続ける。

 「何でも良いのさ。

 依頼者(クライアント)は何処の誰だとか、依頼内容の詳細だとか。今回の事件について知ってる事ととか。更には、さっき治療した時に感じた事、理解した事とか。

 どんな情報であろうと、事件の全容を形作るパズルのピースに成り得るからね」

 「ならば、おぬしから話すのが道理じゃろう?

 人から何かを聞き出す時には、まずは自分から手の内を明かす、というのは鉄則じゃ」

 渚にジト目で睨まれるが、蓮矢は両の掌をパタパタと振って断る。

 「オレの話を先に聞いて、変な先入観が吹き込まれちゃ困るんでね。

 すまないが、そっちから話してくれ。

 大丈夫、大丈夫。オレは聞き逃げなんてしないよ。もしもやったら、"チェルベロ"に名指しで抗議してもらって構わない」

 渚はジト目のまま、暫く蓮矢を睨み続けていたが。やがて、手前に置いてあった水の入ったコップに口を付けてから、ため息を接頭語にして語り始める。

 「依頼主は、プランツワルド・レコード。先の被害者――グエンとか言ったのう――あやつが所属しておる音楽レーベル会社じゃよ」

 今回の一件について、星撒部は依頼主から特に守秘を言い渡されていない。故に"蓮矢の言葉を信じる"以上に、情報提供に対する(しきい)は存在しなかった。さもなければ、渚は正式な令状無しには蓮矢の願いに応えなかっただろう。

 「プランツワルド? 聞いたことないレーベルだな」

 「そうじゃろうとも。

 地球圏には進出したばかりじゃし、そもそも企業の規模も小さいからのう。所属世界においても、さほど名は知れておらぬ」

 「わたくしの出身世界と同じ宇宙に属しておりますわ」

 ヴァネッサが口を挟む。

 「但し、所属する銀河系が違いますけど。名前は今回の件で初めて聞いたくらい、無名の企業ですわ」

 「ほぉー。

 ってことは、アレか、"フリージア効果"への便乗を狙ってるクチってことか」

 蓮矢の言葉に渚が「ま、そういう事じゃ」と同意する。

 

 "フリージア効果"とは、プロジェスにおける都市国家規模の祭騒ぎの根幹を成している社会的現象のことだ。

 "フリージア"とは、女性ヴォーカリストを添えたゴシック・メタルのバンドの名称である。

 このバンドは当初、地球圏では"知る人ぞ知る"程度の認知度であり、評価は高いものの無名同然の状態であった。

 そんな彼女らを一躍有名にしたのは、女神戦争によって荒廃したプロジェスで開催した慰問ライブである。

 フリージアのメンバーが売名を目的としていたかどうかは、分からない。しかしながらライブは女神戦争で傷ついた者達の心に(ことごと)く響き、絶大な成果を上げた。

 同時に、フリージアが所属する音楽レーベル、シャンデリア・ミューズが地球圏に進出する足掛かりともなったのである。

 そんなフリージアにあやかって、慰問活動を足掛かりとした地球圏進出をする音楽レーベルを初めとしたクリエイター系企業の一連の動きは、"フリージア効果"と呼ばれるようになった。

 そして"フリージア効果"の聖地ともなっているのが、フリージアが地球圏で初めてライブを開催したプロジェスである。この都市国家には今や、毎日のように地球圏外からのクリエイターが訪れている。

 この効果がプロジェスに大量の外貨をもたらし、未だに地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の庇護下に入っていないにも関わらず、急速な復旧を遂げられる原動力を生み出している。

 

 「依頼主の企業から、このプロジェスに入都した音楽家およびバンドの数は57。

 その内、グエンと同じ症状に陥った者は36人。

 で、依頼内容と云うのは、患者全員を治療すると共に、これ以上発症する者が増えないようにして欲しい、というものじゃ」

 「そんで、君らが最初に訪問したのがグエン氏、ということで良いのかな?」

 「うむ。

 発症した36人の中でただ1人、殺人罪の嫌疑が掛けられておったからな。一番重篤な症状じゃろうと思うて、真っ先に()る事にしたワケじゃ」

 「警察が動いているとは思ったけど、まさか蓮矢のオジサマが居るとは想定外だったわ」

 紫が陰を含めた笑いを浮かべて毒づくが、蓮矢は微笑んでみせるだけで抗議したりしない。紫とも何度か面識があるためか、馴れている様子である。

 「で、看てみての感想は?」

 「部屋(あそこ)で話したじゃろ? あの通りじゃよ」

 渚は両肩を(すく)める。これ以上何を話せばいいのか、と云わんばかりの態度だ。

 しかし蓮矢は、テーブルの上で手を組んで身を乗り出し、促す。

 「情報を整理するつもりでさ、もう一度話してみてくれ」

 「むうぅ…」

 渚は唸りつつ、3人の同僚の顔を見回しながら、ポツポツと語り出す。

 ――症状の原因は、呪詛であること。呪詛の発生源は不明だが、緻密な構成から鑑みて、人為的である可能性が高いのではないか、ということ。グエンに見られた抑鬱症状や自傷行為、舌に開いた傷穴は全て呪詛に起因すること。そして、バンドメンバーの殺害に関しては、鑑識の結果待ちだが、呪詛によって行われたものであってグエンの意志が介在していないこと。

 「人為的である可能性が高いって話だがさ、もし術者が居るとすれば、どんな奴だと思う?」

 一通り聞き終えた蓮矢が口を開くと、星撒部の少女達は互いに顔を見合わせる。

 その内、真っ先に手を挙げて意見を出したのは、グエンの体から呪詛を引きずり出して見せたアリエッタである。

 「まず言えることは、相当に強い憎悪を持った人物だろう…という事ですね。

 ただし、憎悪は抱いているものの、殺意にまで繋がっているとは限らないと思います。

 むしろ、殺意は無いのかも知れません」

 「その意見には、わたくしも同意ですわ」

 ヴァネッサが小さく手を挙げて同意する。

 「犯人がもしも被害者に対して殺意を抱いているのなら、呪詛を掛けた時点で生命活動を停止させる事を試みるでしょう。

 あれだけの技術力を持った術者ですもの。術を掛けた時点で即死を成し遂げることは不可能じゃありませんわ。

 また、仮に殺意の対象が被害者だけでなく、不特定多数の人々だとしたら、やはり呪詛を用いて被害者の心理状態を操り、自爆テロを起こさせることも出来たはずです。

 なのに、それをしない…ということは、()えてやらなかった、ということだと思いますわ」

 「かと言って、殺意の無さは誉められたことじゃないですけどね。

 …むしろ逆に、もっと(たち)が悪いでしょうね」

 そう言葉を次いだのは、水を一口飲み下した紫である。

 「術者の抱いている憎悪というのは、"相手は憎いけど、殺すのは怖い"という類の腰抜けな思想じゃない。

 多分、"楽に死なれては困る、死ぬより酷い苦痛を与えてやる"…って云う、酷く性悪な思考でしょうね」

 3人の少女の意見に、副部長の渚は首をコクリとゆっくり(うなづ)けて、全面的に同意する。

 「うむ、わしも3人の意見に対して異論はない。

 ただ、わし個人の見解を加えるのなら…事象を()せる技術力と、性悪な思想との間に、どうにも齟齬(そご)と云うか…違和感があるのじゃ」

 「と言うのは?」

 蓮矢が興味深げにズイッと上半身を乗り出す。渚は腕を組み、むうぅ、と唸ってから語る。

 「率直に云えば…事件の首謀者と呪詛の術者は、別人かも知れぬ」

 「へぇー?

 そう考える根拠は?」

 蓮矢が聞き返すと、渚は鼻で苦笑し、腕組みを解いて肩の高さに手を挙げて首を左右に振る。

 「まぁ、女の(かん)というヤツの範疇を出ないのじゃがな。

 あれだけ天使に似せられる技術力を持ちながら、チマチマと病気に偽装させて陰険にいたぶる…と云うのが、どーにも繋がらんのじゃ。

 わしが術者且つ犯人ならば、パーッと派手に呪詛を都市国家(くに)中に振りまいて、行政部の尻にまで冷や汗かかせてやるところじゃからのう」

 「…お前さんが犯罪の道に進まなくて良かったと、心底思うよ」

 蓮矢は苦笑しながらコップを揺らし、大分小さくなった氷をカラカラと鳴らす。

 それが話題転換の合図だとでも言うように、アリエッタが事件に関する新たな感想を述べる。

 「もう一つ印象深いことがあります。

 それは、術者…もしくは、渚ちゃんが言うように首謀者…が、『現女神』に対して深い思い入れがある…ということですね」

 「そう考える根拠は?」

 一々突っ込む蓮矢に、発言者でもない紫がうざったそうに「チッ…」と舌打ちする。が、アリエッタは特に気にする様子なく、ほんわりにこやかとした態度を崩さずに答える。

 「『女神戦争』の経験者さえ誤解させるほど再現度の高い、神霊圧を模した怨場。それに、天使のように見える呪詛本体の姿形。

 ただ人を呪うだけなら、こんな凝った真似をしないと思うんです。再現するだけで手間もコストも相当掛かると思いますから」

 「なるほどね。

 じゃあ、アリエッタちゃんは、術者…もしくは、首謀者…は、『現女神』に対してどんな思い入れを持っていると思う?」

 アリエッタは下顎に拳の端を乗せて、「う~ん」と少し考え込んでから、視線を蓮矢に戻して答える。

 「2つのパターンが考えられると思います。

 1つは、『現女神』――いや、今回の場合は"元"と言うべきですかね――に対する、復讐心です。

 『女神戦争』の引き金になったのは、元々この都市国家(くに)を統治していた"夢戯の女神"である事には変わりませんから。彼女に罪を押しつけることで困らせてやりたい…と言うものです。

 …でも、これは可能性が低いでしょうね」

 「なんでだい?」

 蓮矢の問いに答えるのは、退屈げにコップの中身をチビチビ飲んでいたヴァネッサである。

 「やり口が回りくど過ぎますもの。

 わたくし達の知る限り、この件が発生したのは3週間前。それから今日に至るまで、全容が不明の状態ですもの。

 元『現女神』の方は最早、この都市国家(まち)の運営に携わっていないのでしょう?」

 「まぁ、その通りだ。

 …と言っても、『女神戦争』前から、傀儡みたいなもんだったらしいがね」

 蓮矢の答えにヴァネッサは頷きながら、言葉を続ける。

 「でしたら、彼女が今回の件の詳細なんて把握していないのではないかしら?

 すると、彼女が今回の件が自分を模した犯行であることすら把握していない可能性がありますわ」

 「…但し、わざと把握させないように策謀していない、という可能性を外した上での話じゃがな。

 まぁ、そんな策謀にどんな意味があるかは、分からぬがな」

 渚が補足として付け加えておく。

 蓮矢は「なるほど」と同意してから、再びアリエッタに振り返り、「で、もう1つのパターンってのは?」と尋ねる。

 アリエッタが可憐な桜色の唇を開く。

 「さっきのパターンとは真逆に、『現女神』に対して多大な敬意(リスペクト)を持っている、という可能性です。

 元『現女神』の方は力を失っていますが、犯人はそれを認めず…または、認めているものの、彼女の再起を求めて…神霊圧や天使といった『現女神』に(ゆかり)のあるものを用いているのかも知れません」

 「なるほどね。

 だが、それもさっきのパターンと同じ壁にぶつかるんじゃないか?

 やり口が回りくど過ぎる、って壁にさ」

 蓮矢の言葉に「いや、」と答えるのは、待つのに億劫(おっくう)な体を伸ばしてストレッチしながらの紫である。

 「もしも犯人の目的が『現女神』の再起を都市国家(くに)に――いや、世に知らしめるものだとすれば、今後規模を広げて起こす"お披露目"のテストを兼ねている事も考えられますよ。

 もしくは――被害者自体を呪詛で操作するなりして、一斉に何かをやらせるつもりだとか。

 こうなってくると、復讐ってよりは、『現女神』のリスペクトして再起を知らしめるという意味の効果が高いじゃないですか?」

 「なるほどなるほど。なるほどねー」

 蓮矢は数度頷くと、ニカッと笑う。

 「やっぱり、若くて頭の柔らかい学生は良いねー。常識だのセオリーだのと云った"根拠のない経験則"を根底にして考えを進めるような、都市国家(ちほう)の刑事に比べりゃ、随分と面白い見方をしてくれるねー」

 「…それって、"的外れをベラベラ喋ってんじゃねーよ"って云う皮肉ですか?」

 紫が険悪な顔つきでトゲトゲしい言葉をぶつける。すると蓮矢は両手をパタパタ振って言い訳する。

 「いやいや、トンでもない! 純粋に誉めてるのさ、君たちの事!

 お(かげ)様で、オレも自論に自信が持てて来たよ」

 そう語る蓮矢に、渚が片眉をピクリと上げて、半眼で睨みつける。

 「それで? もうわしらの話は充分じゃろう?

 今度はそっちが話す番じゃと思うのじゃがな?」

 「ああ、そりゃそうだな!」

 蓮矢はやはり悪びれず、自らの額をピシャリと叩く。

 「すまんすまん! 仕事柄、根堀り葉掘り話を聞くって態度が染み着いちまってね。こりゃ、魂魄まで染まりきっちまってるみたいだな! すまんすまん!」

 「謝罪は良いですから、早く話を聞かせて下さい。誤魔化して有耶無耶(うやむや)にしようとしてるみたいに見えますよ?」

 紫が渚以上に鋭いジト目で蓮矢を睨みつけると。流石の蓮矢もバツの悪そうな、苦笑とも苦悩とも取れるような奇妙な表情を浮かべる。

 それから、水の入ったグラスをヒョイと持ち上げて、かなり溶けた氷をカラカラと鳴らしながら、語り出す。

 「――まず、オレ達が知る限りでの発症者の数は、561人。ただ、調査が及んでいない箇所も多いため、その倍…いや、下手すると3倍もの発症者が居ると思われる。

 また、発症者の傾向だが、君たちが今さっき見たようなミュージシャンの他にも、ダンサーや大道芸のパフォーマー、手品師なんかも居てな…」

 

 …と、語りかけた矢先。キュルキュルキュル、と軋む金属の音と共に、木製のワゴンを引いたウェイトレスが渚達のテーブルの前にやってくる。

 「お待たせしました~!」

 大輪のタンポポを思わせるような元気で明るい笑顔をニッコリと浮かべて、ウェイトレスは挨拶するが早いか、テキパキとワゴンの上に乗せられた料理をテーブルの上に並べてゆく。

 思慮深く繊細な話題を続けるにはそぐわない、綿毛に包まれたようなマッタリした和みの雰囲気が辺りに漂う。

 その雰囲気はウェイトレスの間延びした可愛らしい声だけでなく、テーブルの上に並べられてゆく料理から発せられる、湯気と共に立つ香しい旨味からも文字通り漂ってくる。

 「こちら(牛肉のトマトソース煮込みを差す)、大変お熱くなっております。お気をつけてお召し上がり下さい~」

 ウェイトレスは歌うように注意を口にすると、キュルキュルキュル、とワゴンを引いて奥へと引っ込んでゆく。

 残されたテーブルの上の料理に対して、ゴクリ、と大きな音で固唾を飲んだのは、渚だ。

 「…ちょ、ちょっと腹ごしらえしてから、続きを聞こうではないか?

 のう?」

 今にも(よだれ)が溢れんばかりの唇を動かして、3人の同僚に同意を求めると。アリエッタと紫は即座に、ヴァネッサは溜息を挟んでからゆっくりと、首を縦に振る。

 すると蓮矢もニッコリと笑って首を縦に振り、便乗して同意する。

 「だな!

 これからまた、頭脳労働する事になるからな! 脳ミソにたっぷり栄養をやっておかなくちゃな!」

 

 かくして4人の美少女と"チェルベロ"は、声を合わせて「いただきますっ!」と語ると、各々の料理に向かうのだった。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Disorder - Part 4

 レストラン"ココット・ダイニング"が提供する料理は、暮禰(くれない)蓮矢(れんや)が評価する通り、どれもが素晴らしい逸品であった。

 まず――渚、ヴァネッサ、紫が頼んだ最高値の料理である、上等な牛肉のトマトソース煮込み。トマトの甘酸っぱさが最大限に生かされたソースと、最早ゼラチンかと見紛うほどに柔らかく(とろ)ける牛肉が絶妙に絡み合い、芸術の域の旨味を引き出している。ソースの中に隠し味として混ぜ込まれた、バジルを初めとした香草がまた、肉の脂臭さを初夏の野原のような爽快さに代えてくれる。

 値が裏切らない、贅沢そのものの絶品!

 「なにこれ…!? レストランの域を超えてるって、この料理…!」

 紫が感激の余りに、ジト目気味で通していた(まなこ)をバッチリと開いて、未だにグツグツと煮出っているトマトソースに浸かった牛肉の塊を見つめる。

 本家のお嬢様であるヴァネッサすらも、この料理には手放しで賞賛する。

 「料理としてのバランスも素晴らしいですけれど、素材そのもののとても上品なものを使用していますわね!

 脂の旨味で誤魔化している安物の肉ではなく、赤身の味がシッカリとした、ヘルシーで繊細なお肉ですわ…!

 故郷で王族関係のパーティーにお呼ばれされた事がありましたが、あそこで食べたステーキよりも余程美味しいですわ!」

 「…先輩、金持ちアピール止めて下さいね…」

 紫が輝かしい表情から一転、眉根をピクリと動かしながら制する。しかしヴァネッサは耳に入っていないようで、美味しい美味しいと連呼しながら、貴族然とした優雅な手つきで肉を切り分け、口に運んでいる。

 一方、渚の食べ方はヴァネッサとは真逆に豪快――悪く云えば、粗暴だ。ナイフなど殆ど使わずフォークで肉を切り分けては、ヒョイヒョイと口に放り込み、頬一杯に肉を頬張ってガツガツと噛み砕く。

 「…うむ!」

 ゴクリ、と大きな音と共に逸品を嚥下(えんか)したすると、ソースがベッタリと着いた口元を拭わぬまま、ヒマワリのような笑顔を見せる。

 「実に素晴らしい一皿じゃのう!

 食べるほどに、腹が空いてゆくのう!

 蓮矢よ、当然おかわりもOKじゃろうな!?」

 「…却下に決まってンだろ。

 少しは遠慮する態度ってモンを見せろよ…」

 蓮矢はジト目で渚を眺めつつ、手元の白身魚のソテーを切り分ける。渚らの料理のような派手さは無いが、香草やスパイス、そしてスライスアーモンドが彩る外観は、配色を魅せる絵画を思わせる清々しさがある。

 フォークに切り分けた魚の身と香草、そしてアーモンドを突き刺し、一緒に口の中に放り込むと…。

 「おっ! これも当たりじゃんか!

 いやー、やっぱこの店にゃハズレはないな!」

 ジト目から一転、パッと笑顔の花を咲かせる、蓮矢。口に中に広がる絶妙の塩味と辛味。そして備考に突き抜けてゆく、手入れされた花壇のような芳醇な香り。それらの刺激は、どんな凄惨で難解な事件で悩む脳の緊張も解いてしまいそうだ。

 「そんなに美味いなら、わしにも一口…!」

 渚は語るが早いか、疾風のような動きでフォークを動かし、蓮矢の皿から魚の身をゴッソリと切り取り、口に放り込む。

 「お、おいっ! そいつはオレの!」

 抗議する蓮矢を後目(しりめ)に、渚は油でキラキラ輝く魚の身をパクリと、と口に中に放り込む。…そして。

 「うむっ!

 これもまた美味じゃわい!

 魚の身が焼かれた上でなお、口の中で躍り泳ぎ出すようじゃ…!」

 頬に手を当て、にこやかに享楽の世界に浸る渚を見て、蓮矢はもう抗議する気力を失う。苦笑して渚を見送ると、これ以上取られまいと手早くナイフとフォークを動かして料理を口に運ぶのであった。

 さて、残るアリエッタと言えば。カスタードクリームよりも少し薄い色をした、ドロリとしたマスタードソースがタップリ掛けられた魚の身を、ヴァネッサに引けを取らぬ上品な手つきで切り分ける。

 口に頬張る前に、アリエッタは切り取った身の香りを楽しむ。小さく鼻から息を吸い込むと、ニッコリ笑って感想を漏らす。

 「ツンとしたスパイシーな香りと…オリーブオイルね、この芳醇な香りは。

 食欲をそそられるわね~」

 それから艶やかに唇を開き、舌の上に載せてから、目を閉じて咀嚼すること暫く。

 絵になるような彼女の姿を、ヴァネッサと紫がある種の緊張感を持ってジッと見つめ続ける。

 たっぷ10秒ほどの時間を掛けた後。コクン、と口の中のものを飲み下したアリエッタは、ナプキンで口元を吹いてから、再びニッコリと笑う。

 「うん、楽しい味ね~!

 魚の身の持つ甘みと、マスタードソースの酸味の効いたスパイシーさが、互いを良く引き立ててるわ~!

 このお店、本当に肉だけでなく、魚料理も得手にしているのね!」

 アリエッタの口振りに、ヴァネッサも紫もゴクリ、と唾を咽喉(のど)の奥に飲み下す。アリエッタの感想のみならず、トマトソースの香りの中でなお引き立つスパイシーなマスタードの香りに誘惑されているのだ。

 そして、誘惑に真っ先に負けて音を上げたのは、紫である。

 「あ、アリエッタ先輩…!

 私のお肉、少しあげますから…お魚一切れ、貰っても良いですか!?」

 するとヴァネッサも、貴族然とした上品さをかなぐり捨て、がっつくように語る。

 「わ、わたくしも!

 こちらも美味しいですわよ! ですから…!」

 対してアリエッタは、学生の身の上ながらも包容力のある母性を満開にして、ニッコリと微笑む。

 「ええ、良いわよ。

 交換しましょう」

 紫とヴァネッサは同時に顔をパァッと明るくすると、自らの肉を切り分けてアリエッタに捧げる準備をするのであった。

 

 ――こうして一通り食事が終わった。

 蓮矢は腹ごなしにコーヒーをオーダーして、満足げな顔をしていたが。星撒部の少女達はアリエッタを除いて、物足りなげな雰囲気を(あらわ)にし、蓮矢を睨んでいる。

 「な、何も出ないぞ!

 ホント、これはポケットマネーなんだからな!

 そ、それに! おまえ達だって、小遣い持ってるだろうし! 他の事件を解決しての謝礼だってたんまり持ってるんだろう!? オレより金持ちなんじゃないのか!?」

 そう言われた事が(こた)えたワケではなさそうが、渚はヤレヤレ、といった表情を作って首を左右に振ると。

 「仕方ないのう。今回はこの辺で勘弁しておくのじゃ。

 ま、食い足りない部分は、3時のおやつにでも取り戻すとするわい」

 (…女の子にあるまじき食い意地だな…)

 蓮矢は笑みに浮かんだ苦みを、ブラックコーヒーの苦みと共に胃袋へと飲み下す。

 「…それでは、さっきの話の続きとゆくかのう。

 蓮矢、聞かせてもらうぞい」

 渚が本格的に話題を変えた事に心底安心しながら、蓮矢は承諾の意を込めて首を縦に振った。

 

 「…どこまで喋ったかな?」

 「把握している被害者数が561と言うこと。そして、被害者の傾向は歌手のみにあらず、広いジャンルに渡ってのパフォーマーであること。

 と、言ったところじゃたな」

 「さすがはユーテリアの学生だ。ばぁさんみたいな口振りにゃ似合わない、バッチリの記憶力だな」

 「当然じゃ! わしは正真正銘のうら若き十代じゃぞ!

 それに、"ばぁさん"ではない! この話し方は、おじい様へのリスペクトを込めてのものじゃ!」

 渚が眉を鋭くしかめ、頬を膨らませてプンプンと憤り叫ぶ。どうやら、この話は渚にとっての地雷であったようだ。外野で紫も掌で顔を多い、"あちゃ~"とでも言いたげである。

 「すまんすまん。そうか、じいちゃんっ子なのか、渚ちゃんは」

 蓮矢もこれには苦笑しながらも、ペコペコ頭を下げる。

 渚は、フンッ! と不機嫌そうに荒い鼻息を吹いたが。いつまでも脇道の逸れた話に頓着することはしない。すぐに(ただず)まいを直して、蓮矢に話の先を求める。

 「それで? 話の続きは何なのじゃ?」

 「あー、そうだな。続けるか。

 えーとだな。さっきは被害者の傾向についての話の途中だったが、その前に、症状についての説明しても良いか?」

 「うむ、異存はない。

 わしらはまだ、たった1人の被害者しか()ておらぬからな。

 今回見た症状の内、どこまでが汎用的な症状なのか、知っておきたい」

 蓮矢は(うなづ)いてから、語り出す。

 「どの被害者にも共通している顕著な症状は、やっぱり、舌の傷だな。

 こちらで把握している561人は例外なく、舌に定規でキッチリ測って切り取ったような、十字の傷穴が開いている。

 十字の形状は、舌先に向かって延びている直線が他の3本に比べて長い。つまるところ、キリスト教の十字架の形ってワケだ」

 [[混沌の曙>カオティック・ドーン]]を経た現在も、地球には旧時代の三大宗教――(すなわ)ち、キリスト教、イスラム教、仏教――は存在している。数億単位の信者を抱える宗教が、30年そこいらで存在が潰えるワケはないのだ。とは言え、異相世界から流入した新しい宗教や、もっと直接的な信仰対象である『現女神』の存在に押され、人気は旧時代よりは随分と下火になっている。

 「んで、」蓮矢が続ける、「君らが見た通り、傷穴の断面は出血もなく化膿もなく、血抜きした生物標本のような感じさ。ただし、標本とは違って、被害者の舌にはキチンと血が通ってるがな。

 ただ、傷穴の中に術式が存在した、というのは君らによる発見だ。他の被害者も同じかどうかは、是非とも調査したいと思うが…普通の形而上相視認(みかた)じゃダメなんだろ?

 コツとか教えてもらえれば、助かるんだが?」

 「コツと言っても、注意深く繊細に意識を集中させるとしか言いようが無いのじゃが…。

 まっ、この都市国家(くに)の鑑識課と肩を並べる機会があるのならば、教えてやらぬでもない。減るものではないからのう」

 「そん時はまた、驕らせてもらうぜ。

 ただし…おかわりだけは、勘弁願うがね」

 渚は"了解じゃ"と言わんばかりに肩を(すく)めて、苦笑する。

 蓮矢の症状に関する話は更に続く。

 「次に、精神症状の方だが。こっちは大きく2パターンある。

 1つは、今回のグエン氏のように、抑鬱状態を呈するパターンだ。自責的にして自傷的、そして極度に無気力というものさ。

 そしてもう1つは、強迫観念と統合失調の混合とも言うべきパターンだ。自責的で自傷的なところは同じだが、創作活動に関して病的に情熱を注ぐんだよ。それこそ、寝食忘れて、瞬きすら惜しむくらいに、机だのキャンバスだのにガツガツのめり込むのさ。

 ただし、そうやって打ち込んで出来る作品ってのは、例外なく、病的な作風のものばかりだ。

 ラブソングばかり歌っていた歌手が、いきなりB級ホラーも真っ青なゴアグランドを作曲してみたり。ポップな画風の似顔絵イラストレーターが、鑑識の連中すら目を背けたくなるようなグロテスクなイラストばかり描いたり…ってな具合さ。

 ちなみに、被害者がどのパターンになるか、って点には傾向はない。そもそも、両方のパターンが躁鬱病のように代わる代わる発現する事も珍しくない」

 蓮矢はここまで語ると、コーヒーを一口飲み下す。その合間に、アリエッタが言葉を挟む。

 「そこまで聞くと、呪詛が人為的なものかどうかに関わらず、厄介な病気として"アスクレピオス"の方々が動きそうですけれども。

 彼らは動いていないのですか?」

 "アスクレピオス"は、『異相世界際保険機関』の通称である。"チェルベロ"同様、地球圏に限らず広大な超異層世界集合(オムニバース)を股にかけ、保険衛生の普及と向上に従事している機関である。

 「いや、動いたんだよ。最初はな」

 蓮矢はパタパタと手を振りながら答える。

 「だが、職員が被害者に殺害されたんんだよ。

 …まぁ、今回のケースを鑑みるに、呪詛による犯行っていうのが真相だろうがな。

 とにかく、同僚を殺されたことにショックを受けちまってな。入都したままでは居るんだが、自分達で調査はせず、市軍警察(ポリ)の鑑識課のヘルプみたいな扱いになっちまってる。

 腑抜けた話さ。ま、交戦なんて一部たりとも考慮してない組織だからな、仕方ないのかも知れんがね」

 「"アスクレピオス"にだけは、どんなに落ちぶれても、就職しないようにしておくわ。

 ま、最初(ハナ)から眼中に無いけど」

 紫が頭の後ろに手を回して、椅子をキイキイ鳴らして揺らしながら毒づく。

 蓮矢はケラケラと乾いた笑いを上げてから、再び続ける。

 「んで、被害者の傾向についての話に戻るんだがさ。

 さっき言った通り、ミュージシャンを初め、絵描きやら大道芸人やらと、パフォーマーなら種類を問わず広く罹患(りかん)してる。まぁ、割合的にはミュージシャンが多いんだが、プロジェスに入都したパフォーマーの内訳として最大の割合を占めてるからな。特別視する必要はないかも知れん。

 …で、ここからがちょっと重要なんだが。

 発症対象の条件には、パフォーマーであるって他にもう一つ、共通する条件があるんだよ」

 「奇抜な格好をしている、とかですの?」

 ヴァネッサが人差し指を顎に当てて呟く。

 「こちらの都市国家(くに)に入都したプランツワルドの方々は、例外なく、奇抜な格好なさっておりましたわ。

 グエン氏もそうですけれども、派手な国旗のように髪を染めている方ばかりでしたし、ライブの際の衣装も際どいと言うか…」

 ヴァネッサは適切な言葉を見つけられず、どぎまぎしながら視線を左右に動かしてから言葉を次ぐ。

 「浮浪者のような、不良少年のような格好しておりましたし…」

 「むうぅ…あの成りでベッタベタなラブソングだの、家族感謝だのを歌うのじゃからな。寒疣(さむいぼ)が立って仕方ないわい」

 渚が本当に冷気に襲われたかのように、己の両腕を掻き抱いてブルリと身震いしながら語る。

 (渚ちゃんって、普段どういう歌聴いてんだろうな…? おじい様リスペクトだって言ってたし、演歌とかか…?)

 蓮矢の脳裏に好奇の疑問が湧いたが、一々口にしていたら話題が進まない。なので、咳払いを挟んでから、正解を語る。

 「折角、意見してくれた処で申し訳ないが、見てくれは関係ない。

 正解は、被害者は全て路上でパフォーマンスをしていた者に限る、と言うことさ」

 「ほほぅ。それはちと、興味深いのう」

 渚が同調して、腕を組みながら声を上げる。蓮矢は「だろ?」と同意を返してから、言葉を次ぐ。

 「そして、この点こそが、オレが今回の件が人為的な"犯罪"だと断じてる根拠でもある」

 「出る杭を目の敵にして、打っている者が居る…というワケじゃな?」

 渚がサラリと言ってのけると、蓮矢はポンと拳と掌を叩き合わせてから、ちょっと興奮気味に渚を指差す。

 「ご明察! 流石はユーテリアの学生だな!」

 対して渚はフフンと鼻を鳴らしながら、上から目線で悠々とこう言ってのける。

 「そここそ、"流石は立花渚"、と誉めるところじゃろうが」

 2人の飛び石の羅列のような会話に、外野の3人の少女達はそれぞれの個性を出しながらも、頭上に疑問符を浮かべている。それに気づいた蓮矢と渚は、3人に対して解説を始める。

 

 2人の解説の内容は、次のようなものだ――。

 『女神戦争』により傷ついた都市国家(くに)。そこの住人は、大きく2つのタイプに分けることが出来る。暗澹とした気持ちを払拭したいと奔走する者と、暗澹とした気持ちに飲まれたままを良しとする者…である。

 前者は凄惨な過去を忘れ去る事を願い、輝かしい未来を求める"前向き"な者。後者は凄惨な過去を同情されることで安堵や快感を得ようとする"後ろ向き"な者…と、言うことが出来よう。

 この両者が同時に存在してしまうことは、ヒトの十人十色の個性ゆえの必然である。

 さて、この2タイプのヒトビトの中に、ポッと出の余所者(よそもの)達が入り込むとする。

 彼らは都市国家(くに)の凄惨な過去を知らない――ニュースなどから情報を聞き知っているかも知れないが、実体験をしていない以上、本当の意味で"知っている"と言うことは出来ないだろう。

 そんな彼らが――無知な彼らが、前向きさを賛美する活動を始めたのならば、どうなるであろうか。

 彼らが何処か区切られた場所――例えばライブハウスを初めとした、参加者が限定される施設――で活動する分には、さほど問題は起きないであろう。彼らの活動に同調したい"前向き"な住人達だけが足を運ぶであろうし、彼らの活動とは真逆の性格を持つ"後ろ向き"な住人達は足を運ばなければ済む話だ。

 だが、無知なパフォーマー達が、不特定多数を無差別に巻き込むような形で活動する――最たる例として、路上でのパフォーマンスがある――した場合は、どうか。

 "後ろ向き"な住人達は、聞きたくもない、無責任な励ましに晒され続けることになる。そこに加えて、同調する"前向き"な住人達の騒ぎが、彼らに更なる不快感を与えることだろう。

 この状態が長く続けば、無知なパフォーマー達を路上から駆逐したくなる"後ろ向き"な住人が現れてもおかしくはない。

 渚は、"後ろ向き"な住人の視点から、路上で無責任な励ましを流すパフォーマーを"出る杭"に例えたワケである。

 そして"出る杭(パフォーマー)を打つ者"と云う言葉が指すのは、勿論、今回の事件の犯人である。

 

 「なるほど」

 紫が口元に手を置いて(うなず)く。

 「そういう事なら、確かに、人為的である可能性が強まりますね。

 犯人ならライブハウスに行くワケないですから、路上の無節操なヤツらばかりを呪う事にも納得です」

 「それに、『現女神』に対する思い入れの点とも、整合性が取れますわね」

 今度はヴァネッサが頷きながら語る。

 「崇めるべきは『現女神』であるはずが、路上のパフォーマーが人目を(さら)って行くワケですから、『現女神』を差し置いて求心活動されているように感じているのでしょうね」

 すると蓮矢は、ニカッと片方の口角だけを上げて笑う。

 「人為的である事を裏付ける、もう一つの物証がある。それは発症時、被害者が活動していた場所だよ」

 蓮矢は上着の中から情報端末を取り出すと、3Dホログラム映像をテーブルの上に広げる。そこに描かれているのは、プロジェスの一部を描いた平面の地図だ。その中に点々と赤い点が記されているのは、被害者の活動場所である。

 「見ての通りさ。

 多少バラ付いちゃいるが…ココとココの通りに、特に被害が集中している」

 「そこが単に、パフォーマーの方々がより多く集まっているからではないのですか?」

 アリエッタが尋ねると、蓮矢は即座に「いや」と否定する。

 「まぁ、確かに、パフォーマー達が多く集まる場所ではある。

 だが、多くのパフォーマーが活動している通りは他にもいくつもある。

 例えばな…」

 蓮矢は「ココとか」と言いつつ、素早く5、6地点を指差す。そこでも確かに発症を示す印は付いているが、さほど多い数ではない。

 「なるほどのう。

 確かにこれでは、自然的な発生という意見は肯定しにくいわい。

 とは言え、完全に否定出来るワケではないがのう」

 「それでな、どうだ?」

 蓮矢は渚の方に身を乗り出すと、上目遣いのニヤニヤした笑みを浮かべる。

 その表情を見た渚は、即座にジト目を作って警戒する。彼女の経験則から言って、蓮矢がこの表情をする時は、厄介事を押し付けようとしているか、勝ち馬に乗せてもらおうとしている時か…あるいは、その両方である。

 「君らだって、もっと被害者を()て、解決の糸口を探りたいだろ?

 オレなら凡庸から極端なケースの被害者の所在を把握してる。

 ってことで、どうだ? 午後は一緒に、被害者達を回ってみないか?」

 渚はジト目のまま溜息を吐く。

 (結局、"協力してくれ"、と云う事に集約されるワケではないか)

 そんな文句を胸中で漏らすものの、蓮矢の提案に対しては気が乗らないワケではない。確かに彼の情報や協力があれば、調査の足しに十分成り得る。

 観念したように、もう一度溜息を吐くと。同意するにしても、さて、どんな風に"譲歩してやったのだぞ"と上から目線の言葉をかけてやろうかと逡巡(しゅんじゅん)する――その最中。

 

 バンッ! と、落雷でも落ちたような勢いの音を立てて、店の扉が全開になる。

 渚達のみならず、他の客も店員も皆が入り口を見つめると。そこに居るのは――大きく肩で息をして立ち尽くす、1人の若手警察官。

 蓮矢と行動を共にしている、ウォルフ・ガルデンである。

 

 ウォルフは暴れる肺を鎮めるように早く深い呼吸を数度繰り返しながら、店内を見回す。そして、渚達――取り分け蓮矢を見つけると、汗まみれの顔にニヤリと笑みを浮かべる。

 「…よっしゃっ!」

 そう呟いたの口火に、ウォルフは大股でズンズンと蓮矢の方に歩み寄りながら、「よっしゃ、よっしゃ、よっしゃ…!」とブツブツ呟く。

 そして、蓮矢の真ん前でピタリと足を止めると。

 「よっしゃっ! ギリギリ、蓮矢さんのランチタイムに間に合ったッ!」

 その声は、店内を揺るがすような轟声である。蓮矢は苦笑しながら、唇に人差し指を当てて、"もう少し声を落とせ"と訴える。

 が、ウォルフは構わずに、疲れた状態を倒れ込ませながらバンッ! とテーブルを両手で叩くと。噛みつくような視線で蓮矢を見つめ、そして訴える。

 「鑑識との現場検証、終わりましたよッ!

 はいっ、残念ながら、ユーテリアの学生さん達が言った通り! グエン氏の同僚の殺害は、純粋に、呪詛による犯行でしたッ!」

 気合いを入れているように一々声が大きいのは、まだ暴れている肺を抑え込みながら喋っているからだ。彼の汗にまみれ、そして紅潮した顔を見ると、仕事が終わって直ぐ現場からこの店まで全力疾走してきたらしい事が読み取れる。

 「…呪詛はヒトじゃないから、"犯行"とは言わんぜ、ウォルフ君…」

 ウォルフの態度に気圧されながら、蓮矢が静かに突っ込む。

 しかしウォルフは意に返さず、再び両腕で机をドンッ! と叩いて熱弁する。

 「蓮矢さんッ! いくら"チェルベロ"からの応援だからと言って、1人だけ良い思いなんてさせませんよッ!

 (渚ら星撒部の少女達を眺めながら語る、)ちょっと変わってますけど、こんな可愛い()達を独り占めして、優雅にランチタイムを楽しむなんてッ!

 僕を除け者にしようだなんて、させませんよッ!」

 「いや…別にそんな気はないってば。

 これは純粋に情報収集目的の行動だし、お前と別行動を取ったのは適材適所を考えてのことだよ…。

 そもそも、この店を待ち合わせにしてたんだ、1人でどっかに行ったりしねーよ…」

 蓮矢の台詞を聞き入れてのことかどうかは分からないが、ウォルフは疲れた体に見合わぬ速い足取りで、空いている席――ヴァネッサとアリエッタの間にドッカと腰を下ろす。

 そんな行動にヴァネッサはドン退きの表情を浮かべたが。アリエッタは相変わらず柔和な態度のまま、ウォルフにメニューを勧めさえする。

 「どうぞ」

 「ありがとうッ!

 いやー、本当に綺麗な()は、心まで綺麗なんだねーッ!」

 汗まみれの顔で精一杯眩しい笑顔を浮かべると、メニューに視線を注ぎ真剣に吟味を始める。

 そこへ、蓮矢が申し訳なさそうに、怖ず怖ずと声を上げる。

 「あのな…ウォルフ君。

 今日は…自分で支払ってくれな」

 「はぁ!?」

 ウォルフは顔を上げて、絶望と憤怒が入り交じった凄絶な表情で、見開いた(まなこ)を蓮矢に投じる。

 「1人だけ良い想いしたくせに!? 今日に限って、僕だけ除け者ですか!?」

 「いや、だってな…。オレにも財布の事情ってモンがあるからさ…」

 ウォルフが更なる抗議を叩きつけようと口を動かすが、機先を制して蓮矢が言葉を続ける。

 「そ、それと…オレ達、もう食い終わったからさ…。そろそろ、捜査に戻ろうと思うんだ…。

 お前が食ってる姿を見ながら待ってても、時間が勿体ないだけだし…」

 「ちょ、ちょっと!? 蓮矢さん!?

 それは勝手に過ぎるんじゃないですか!? 何ですか、その連れない態度!!

 硬派で知的な方だと思って、今日まで一緒に付いて回ってきたのに!! それが、本来の姿なんですか!? 女の子にデレデレして尻尾を振るのが、暮禰(くれない)蓮矢(れんや)という男なんですか!?

 うっわ、幻滅ッ! ドン退きッ! 最悪ッ!」

 「いや…そうじゃなくてな…!

 純粋に、効率を考えた結果であって…」

 たじたじと言いくるめようとする蓮矢と、更に噛みつくウォルフの姿。それを見て、ハァー、と深い溜息を吐いたのは渚である。

 彼女は蓮矢の肩をポンと叩き、語る。

 「この場合は、おぬしが悪いじゃろ。

 いくら捜査活動とは言え、うまい飯を食うばかりか、こんな可憐な乙女達に囲まれておったのじゃ。良い想いに他ならぬではないか。

 今の今まで、散々な部屋の中で仕事をしておったこやつに、少しは報いてやれい。

 それに、無駄な時間ではないぞい」

 渚は両腰に手を置いて、小振りながら形の良い胸を張ってみせる。

 「食い足りんところじゃったからな! デザートの1つや2つ、頼もうかと思っておったところじゃ!

 デザート分は自分で払うからのう、安心せい!」

 「あ…そうですか…」

 蓮矢はくたびれたように苦笑いすると、テーブルの上に倒れ込みながら、溜息を吐く。

 「分かったよ…。ウォルフ、払ってやるから、サッサと食ってくれ…。お嬢さん方も付き合ってくれるとさ…」

 するとウォルフは表情を一変。曇天が強風によって一瞬によって快晴へと吹き散らされるように、暗い表情から眩しい笑顔がパッと浮かぶ。

 「ゴチになります!

 それじゃあ…!」

 ウォルフがやたら元気にメニューをめくり出す一方で、蓮矢は渚に半眼を向ける。

 「…君らは、食べ終わったらどうするつもりなんだ? 一度ユーテリアに帰るのか?」

 「いや、あと2、3人の様子を()て回るつもりじゃよ。

 流石にたった1人診ただけでは、何とも判断出来んからのう」

 「そっか…。

 じゃ、オレも一緒に連れてってくれ。

 オレは既存の情報を君らに提供出来るし、君らはオレに新しい発見を提供してくれる、両方にとって得な話だと思うんだが?」

 「うむ、わしは構わんよ。好きにせい」

 …それから、ウォルフがメニューを決めたのは、たっぷり数分掛けた後のことであった。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Enigmatic Feeling - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 その部屋は、御殿の一室のような広さを有するものの、非常に質素な内装をしていた。

 色調は無難な白っぽいベージュ色で占められている。ベッドのような大きさのソファや、会議テーブルのように大きなテーブルも、特に凝った意匠はなく極めてシンプルな造りだ。

 この室内において、色彩の点から異彩を放っているものがある。それは、部屋の出入り口――これもまたベージュ色で染められたドアだ――と正反対の位置に配置されている、黒い箱上の家財である。その正体は、テレビラックである。とは言え、その上にはモニターがデンと据えられたテレビ機器は設置されていない。代わりに在るのは、掌より少し大きいサイズの3Dディスプレイ投影装置だ。そしてテレビラックの内側には、これまた黒一色で染められたゲーム機が配置されている。

 テレビラックの手前には、非常に広いサイズの3Dディスプレイが展開されている。その高さは成人男性の身長を優に超えているし、幅はキングサイズのベッドよりも広い。巨大ショッピングモールの待合いロビーに設置されているモニターを彷彿とさせる代物だ。

 3Dディスプレイが映しているのは、アクションRPGタイプのゲームである。世界観は如何にも"剣と魔法"のファンタジー世界で、緻密なCGで構築された林の中を、戦うにはポップ過ぎる格好の女性戦士が、マスコットのように可愛らしいモンスター達とひたすら戦闘を繰り広げている様子が描画されている。

 このゲームをプレイしているのは、ベッドのようなソファの上にゴロリと寝そべっている、1人の少女である。

 歳の頃は、(ゆかり)(なぎさ)と同じくらいか。身につけているのはセーラー服タイプの制服で、彼女が学生であり、学校から帰宅してから着替えもせずにゲームにのめり込んだ事を示している。

 その顔立ちは、男子学生の大半が「可愛い」と評するようなものだ。しかし、校内の注目の的になれるかと問えば、彼らは「否」と即答するだろう。

 彼女は確かに可愛い。しかし、その魅力を減ずる欠点があるのだ。

 瑞々しさや元気の良さと云った"(きら)めき"が、全く感じられない。

 むしろ、乾ききったスポンジのような無機質感が漂っている。

 明るい栗色の髪をショートツインテールに纏めた頭を時折ボリボリと掻き、その手を拭わずに手元にある菓子入れからクッキーを取り出し、モシャモシャと頬張る。そして、ゲームのコントローラーを慣れた手付きでスイスイ操り、3Dディスプレイ内のマイキャラクターによるモンスター退治を作業のように繰り返す。

 "時間潰し"と呼ぶに相応しい、無為の時間が流れ続ける。室内は低く押さえられたゲームの効果音と、コントローラーのボタンを叩く音、クッキーを咀嚼(そしゃく)する音が、耳障りな不協和音を奏でている。

 

 そんな無為の空間に、コンコン、とノックがハッキリと大きく響く。

 「ひゃーい」

 クッキーを頬張ったままの少女は、モゴモゴと口を動かして返事をし、入室を許可する。

 

 「失礼します、ニファーナ様」

 磨かれた宝石のように至極丁寧な言葉と共にドアの向こうから現れたのは、1人の成人男性である。

 ソファで寝転がる少女――ニファーナ・金虹(かなにじ)とは対極的な雰囲気の人物である。ピンと伸ばした背筋や手足は定規で整えたように整然としていて、どんな強風に(あお)られようと揺らぐ様が想像できない。身を包む漆黒の牧師服には皺一つ見当たらず、クリーニングしたてのものを身に着けたようにも見える。

 男は、年の頃は20代半ばである。しかし、厳ついまでに鋭い表情が、もっと年上のような感覚を抱かせる。音を立てて凍り付いたような表情は、冗談など全く通じない、効率と理詰めばかりを重んじる無機質な性格を想起させる。

 「エノクさん、お帰りなさい」

 ニファーナが男――エノク・アルディブラに声を掛けると。エノクは室内に一歩踏み入った位置に留まったまま、ニファーナ様へと言葉を返す。

 「今日は、お早い帰宅だったのですね。体調でも崩されましたか?」

 ニファーナはエノクにチラリとも視線を投じることなく、ゲームばかり見つめながら…ただし、パタパタと手を振ってみせて答える。

 「いやいや、学校側の都合。復興工事作業で騒音が酷くなるから、授業が切り上げになったワケ」

 すると、エノクの難儀な顔が曇り、険すら纏ったような有様となる。

 「まさか、ニファーナ様に何か…」

 「いやいや、それはもっとないって」

 ニファーナが再び手をパタパタと振って即答する。そして続けて、ゲームに一時停止(ポーズ)を掛けると、口にクッキーを咥えたぼんやりした表情をエノクに向ける。

 「ところで、エノクさん。もう"様"って敬称を付けるのは、止めてくれない?

 わたしはもう、"座"を失った身なんだし。エノクさんから見れば、私は単なる若輩の女子学生ってだけだよ?」

 「理解してはおります」

 とエノクは答えたものの、「しかし」と即座に付け加える。

 「"座"を失っておいでであろうとも、私がニファーナ様を敬愛し、崇めたいという気持ちには変わりはありません。

 敬意を込めてお名前を呼びたいというのも、純然たる私の意志です」

 「…ふーん」

 とニファーナは気のない返事を返したものの。一時停止(ポーズ)を解いたゲーム画面に向き直りながら、

 「堅いなぁ…色んな意味で」

 苦笑と溜息の混じった呟きをポツリと漏らす。一方でエノクは、嘲笑にすら繋がりかねぬその言葉を、ゆっくりと閉ざす瞼の内に閉じ込め、押し潰す。

 再び(まなこ)を開くと共に、エノクは問う。

 「本日の学校生活は如何でしたか?

 気を悪くされるような扱いなどは、ありませんでしたか?」

 ニファーナは振り返らぬものの、即座にパタパタと手を振って答える。

 「さっきも言った通り、エノクさんが心配するような事は何もないよ。

 いつも通り――そう、『女神戦争』が始まる前と変わらないよ。

 友達と他愛のないお喋りしたり。面白い先生をからかってみたり。通学路ですれ違った知り合いの人に声を掛けたり、掛けられたり。

 なーんにも変わらない。平々凡々な時間を過ごしただけだよ。

 強いて言えば…肉屋のおじさんから揚げ立てのコロッケを貰ったくらいかな。ゴメンね、エノクさん、1個しかないからお土産にしないでその場で食べちゃった」

 「お気になさらず」

 そう答えた後、エノクは氷の彫像のような無表情をようやく崩し、聖人像のように上品で、そして薄い微笑みを浮かべる。

 「肉屋の店主を初め、今なおこの都市国家(まち)の住人に慕われているのは、"座"の有無に関係なく、ニファーナ様自身の徳のお蔭でありましょう」

 「徳、ねぇ…」

 ニファーナはクッキーをボリボリと噛みながら、ぼんやりと語る。

 「成績も素行も特筆するような事はない。部活も頑張っているどころか、帰宅部だし。趣味と言えばゴロゴロ寝転んでゲームをするだけ。

 こんな人間に、どんな徳があるって言うんだろうねぇ?」

 「見せつけるような徳は真の徳ではない、とは旧時代の地球(このほし)の宗教の言葉です。

 勤勉な態度を見せつければ徳を得られる、というものではありません」

 ニファーナは「ふーん」と詰まらなそうに答える。それから一瞬の間を空けて、「ところでさ」と話題を転換したのは、これ以上自分の身の上について言及されたくないからであろう。

 「エノクさんは、今日もこの都市国家(まち)の見回り?」

 「はい。それが『士師』の努めですから」

 "士師"の言葉を聞いた途端、ニファーナの呼吸に苦笑が混じる。

 「エノクさんはもう『士師』じゃないよ。"『士師』の努め"なんてものが存在するとしても、それをする義務も責任もないじゃん。

 この都市国家(くに)には立派な警察組織があるんだから、彼らに任せて置けば良いのに」

 エノクは決して気を悪くせず、眉をピクリとも動かさずに、涼やかに答える。

 「染み着いた習慣というものは、中々抜けきらないものです。

 それに、私は何事も自分で確かめねば気が済まない性分でありますから。

 "チェルベロ"などと言う部外者に蔓延(はびこ)られては、尚の事です。この都市国家(くに)の気概を軽んじるような警察組織は、信頼するに値しない…と確信しております」

 ニファーナははっきりと、ハァー、と溜息を吐いて「ホンット、岩石みたいに堅い…」と呟く。勿論、エノクの耳には入ったが、やはり彼は顔色を変えたりしない。

 「それで?」先の失言を塗り潰すかのように、ニファーナが声を上げる、「エノクさんの目から見て、この都市国家(まち)の様子はどうだったの?」

 「こちらも、変わりは有りません」

 エノクは牧師というよりも、平時における軍の伝令のように淡々と答える。

 「どこもかしこも賑やかで、活気に満ちています。多くの民草は、現在の都市国家(まち)の姿に対して概ね好意を抱いているようです。

 勿論、気に入らぬ様子の者も居りますが。特に衝突する様子はありません。今日もプロジェスは平和であると言えましょう」

 「そっか、そっか」

 相変わらずゲーム画面を眺めてばかりのニファーナだったが、この時の口調は弾むような、ポンポンと花が咲き乱れゆくような愉快げなものであった。

 その言葉の最後にニファーナは、こう付け加える。

 「これも"鋼電"さんのお蔭だね~!」

 

 "鋼電"――(すなわ)ち、"鋼電の女神"は、プロジェスの『女神戦争』を集結させた『現女神(あらめがみ)』である。

 

 その名を聞いた途端――氷のようであったエノクの顔が、亀裂が走るかのように急変する。眉根に渓谷のような深い(しわ)が刻まれ、眼はナイフのように鋭くなる。薄い色の唇は右の口角が(いびつ)に釣り上がり、唇の間から除いた歯はギリリと音を立てる。

 明らかな不快感を露わにした、鬼気迫る表情だ。

 ゲーム画面ばかりを見つめているニファーナは、エノクの表情に気付かない。それどころか、更に気を良くしたのか、「フンフフン♪」と鼻歌まで口ずさんでみせる。

 その間、エノクは暫く無言のまま、歯肉を引き裂くような歯噛みと、血の滲むような力を込めて拳をギリギリと握り込んでいた…が。

 「エノクさん?」

 流石にエノクの雰囲気に気付いたのか。それとも、単に無言の時間が続いたのを不審に思ったのか。ニファーナがゲームを一時停止(ポーズ)して振り返り、声を掛ける。

 すると…その頃にはエノクの表情は、さざ波だった水面が静まり返ったかのような、元の表情の乏しい面持ちに戻っている。

 「どうか致しましたか?」

 「いや…急に黙り込んじゃったから、どうしたのかな…と。

 わたし、なんか気に掛かるような事、言っちゃったのかなー、って…。わたし、そういうのに鈍いから」

 「…いえ、問題ありません」

 エノクはそう語るものの、その雰囲気の何処かに先の激情の気配が残っていたのだろうか。ニファーナはちょっと視線を泳がせて素早く何かを考え込むと、ポン、と手を合わせる。

 「あ、そうだ、エノクさん。

 今日はわたしも早くに帰宅したことだし、一緒に昼食しませんか?

 クラスの女子の間で話題になってるレストランがあって、そこに行ってみたいなー…って」

 するとエノクは、両の瞼を閉じて、(うやうや)しく礼をして辞する。

 「すみません、ニファーナ様。

 昼食につきましては、先約がありまして。それに伴いまして2、3、片づけねばならない事もございます。そのため、ご一緒出来かねます。

 ご友人の方と行かれてはいかがでしょうか」

 するとニファーナは、非難の半眼を作ってエノクを睨む。

 「またヴィラードさん達とコソコソ何かやってるんでしょ?」

 するとエノクは、ちょっと口角を上げて微笑む。

 「…まぁ、そうですね。

 元『士師』同士の親睦会と言いますか、なんと言いますか」

 「まぁ、仲が良いだけなら、問題ないんだけど」

 ニファーナは釘を刺しながらも、興味を失ったようにゲーム画面に向き直り、プレイを再開する。

 そんなニファーナの寝込んだ背後に、エノクは丁寧に、深々とした礼をする。

 「それでは、失礼いたします」

 そして彼は、静かにドアを開くと、広大な部屋を後にする。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「嘆かわしい…」

 ニファーナがくつろぐ室内と似た、白っぽいベージュ色の壁紙に囲まれた廊下。エノクはその場を大股の早足で歩きながら、呟く。

 その姿は赫々(かっかく)に熱した石炭を放り込み、今にも走り出さんとする蒸気機関車のようでもあり、ジェット流のような水蒸気を上げて今にも噴火しそうな火口のようでもある。

 エノクの顔は、爆発せんばかりの不満によって険しい(しか)めっ面を作っている。その有様は発言にあるような悲観に暮れたものではなく、胸中が嵐のように渦巻く憤怒を示唆している。

 ――そう、彼は憤っている。

 そして、彼が真に口にしたい言葉は、"嘆かわしい"などと言うオブラートに包まれた言葉ではなく…。

 (憎らしい…ッ! 恨めしい…ッ!)

 今、彼の眼前に無抵抗にして殺傷自由の肉塊が存在したとすれば。彼は身に着けた牧師の衣服に見合わぬ残虐な暴力を振るって引き裂き、悲惨な肉片へと砕き散らしたことだろう。それほどに、彼の感情の嵐は(はげ)しい。

 大股の早足ながら、足音を静かに廊下を進み、階段を一気に昇る。足音を響かせないのは、館の主であるニファーナに配慮してのためだ。

 それに第一、彼の憤怒や憎悪はニファーナに向けられたものではない。彼女を威嚇したところで、心を痛めるのはエノク自身である。

 エノクは2階の広い廊下を迷わずに進み、とある一室に辿り着く。そのドアには、鈍い銀色を放つ筆記体の"エックス"に似た装飾がはめ込まれている。装飾の表面には、やや荒い手(さば)きで刻まれた文字があり、4隅には小さなガラス製の玉が埋め込まれている。

 これはエノクの故郷である異相世界バルカーウで広く信仰されている宗教のシンボルだ。そしてこの館の中においては、エノクの部屋である事を示すシンボルでもある。

 エノクは数瞬、扉の前で立ち止まってシンボルを見つめる。

 (これは主神たる貴方が、我らの女神に貸せた試練なのですか?

 もしくは、私から貴方への信仰を奪った我らの女神を嫉妬しての暴挙なのですか?)

 溜息と共に共通で呟いた後、ドアノブを回して部屋の中へと身を入れる。

 

 エノクの部屋は、ニファーナの部屋とは対極的な嗜好に満ちている。

 まず、室内の色が暗い。壁紙の色こそ、廊下と同一の明るいベージュ色であるが…家財は黒が多く、壁にも黒い壁掛けが広げられている。

 そして、所々に家財道具とはまた違う、鈍い銀色を放つ装飾品がインテリアのように配置されている。大きな(さかずき)やら燭台やら、細やかな装飾が施された鏡やら、様々な物が置かれている。

 これらはドアに掲げられていたシンボル同様、エノクの故郷の宗教に由来する品々だ。

 ――これらの点や、エノクの姿から分かるように、彼は故郷においてこの宗教の神父を勤めていた人物である。

 今なお、故郷の宗教への敬意の念は忘れていない。だからこそ、これら数々の品が部屋に保管されているのだ。

 しかしながら、彼の信仰の対象はこの宗教の主神――多神教である――ではない。今なお彼が崇拝して止まぬのは、この都市国家(くに)に君臨していた『現女神』。"夢戯の女神"ニファーナだけである。

 

 そう、1階で寝転がって遊びほうけている少女ニファーナは、元『現女神』なのだ。

 "元"であるのは、先に渚達が言及しているように、このプロジェスを舞台にした『女神戦争』に()る。

 この戦いでニファーナは敗北し、『現女神』の座を失ったのだ。

 

 「黄金時代とは常に過去の時代に在り…だな」

 エノクは壁際に配置された背の低いタンスへと歩みを進めると。その上に置かれた一つのデジタル写真立てを手に取る。

 十数秒感覚で切り替わる表示映像には、エノクやニファーナは勿論、その他多数の人物が写り込んでいる。()る物は皆がカメラ目線でポーズを取っていたり、別のものはカメラなど微塵も気にせず躍動感の溢れる様子が捉えられていたりする。

 その全てに共通するものは、皆賑やかで楽しげで、そして優しい時間を切り取った光景であると云うことだ。

 そしてこれらの光景は、エノクとニファーナがこれまで歩んで来た過去――エノクが先に口にしたように、正に"黄金時代"と呼べる時間のものだ。

 フェードインとフェードアウトを繰り返して切り替わってゆく画像を幾つか眺めた後に。エノクは、ハァ、と溜息を吐く。その吐息に混じっているのは、遠き昔を懐かしむ老人のような、追慕(ついぼ)哀愁(あいしゅう)だ。

 エノクは写真立てを右手で胸に抱き、両の眼を閉じると。赤暗い(まぶた)の内に、己の"黄金時代"の盛衰を回想する。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「とてもやりがいのある仕事だよ。一緒にやってみないか?」

 恩師である老神父から誘われたその言葉は、エノクがプロジェスへ足を運ぶ切っ掛けである。

 それは約10年前のこと。当時のエノクは10代半ば。神学校を卒業する直前のことで、家族に勧められて進学を考えていた頃のことだ。

 エノクは学内でも成績は優秀で、教団の幹部として将来を嘱望されていた。一方でエノク自身は、幹部として組織を切り盛りするよりも、教義に(のっと)り働く一信者でありたいと考えていた。

 故に、エノクは恩師の誘いには即座に首を縦に振り、失望する家族を背に一人故郷を飛び出して、地球へとやって来た。

 

 当時の――いや、厳密に言うならば現在も――エノクが信ずる宗教は、"メジャナの瞳"と云う。男性格の主神メジャナを中心とした多神教であり、エノクの出身世界バルカーウでは最も信者の多い宗教の一つである。

 その教義は、良い言い方をすれば"器が大きい"――悪く言えば"いい加減"だ。"来る者拒まず、去る者追わず"のスタンスであり、且つ、表だった布教活動には非常に消極的である。これは、"メジャナの瞳"の原則として、"真の信仰とは、強制されるものでも誘われるものでもなく、自然と身の内から生じるものである"と云う教義がある為である。故に、手を出さず口を出さず見つめるのみ、という意味を込めて"瞳"という名が冠されている。

 そんな"メジャナの瞳"に所属するエノクや彼の恩師が、地球で成し遂げようとする"やりがい"とは何か。勿論、布教ではない――これは原則に反する。では何かと云えば、純然たる"人助け"である。

 主神メジャナ曰く、"弱きや貧しきは救うべし。さすれば、我が恩寵は汝に降り注ぎ、汝の足は永劫の楽園への階段の第一歩を踏む。ここに金は要らぬ、楽園への階段においては鉛の如き重荷である"。

 当時のバルカーウでは、教団は利潤を追求し、"器の大きな"原則を曲げようとしていた。これに反発したエノクの恩師は、教団の(たもと)を遠く離れた地球に敢えて足を運び、教義を全うしようとしていたのである。

 

 地球では史上最悪の災厄である[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]を経て、約20年が経過していた。しかしながら、約10年を経た今(なお)そうであるように、問題は山積していた。

 特にプロジェスのような小さく、そして規模の大きな組織の援助を受けていない都市国家(くに)においては、その傾向は顕著である。

 日を追う毎に魔法が生み出す新たな災害や凶悪な生物に対応し続けなければならないと云うのに、情報や技術を共有するべき相手が極々限られてしまうという弱み。加えて、プロジェスのような都市国家(くに)に対してトラブルを起こすことでビジネスを成立させている連中――盗賊団のような単純や輩から、不十分な都市国家機能を突く悪徳企業まで――にも、毅然と相対し続けなければならない。自立心旺盛なのは結構だが、それを全うするためには必ずや巨大なリスクと対面する羽目になるのである。

 

 エノクは恩師と共に、貧弱なプロジェスの魔法技術をカバーする技術者として、および魔法技術を伝授する指導者として、忙しい日々を送ることとなった。

 プロジェスに比べて、バルカーウにおける魔法技術の教育水準は非常に高い。故に、神学校を卒業したての若いエノクでも、プロジェスの成人より余程卓越した技術者兼指導者として活躍できたし、人々も多大な敬意を示してくれた。

 こなした数々の業績の内で、エノクの名を広くプロジェスに知らしめたのは、とある魔法性感染症を駆逐したことである。これを機にエノクは、プロジェス中の人々から、

 「若神父様」

 と呼び慣わされるようになった。

 

 多大な信頼を得たエノクは、恩師と共に度々行政に呼び出されては、有識者として意見や助言を求められたり、国外勢力との様々な交渉事にも携わった。

 特に、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)や『[現女神』の勢力からの「傘下に下れ」と言う要求――後者の場合は脅迫の場合もある――を突っ張る際には、知識人としてだけでなく、卓越した魔法技術を操る護衛としても必ず用いられた。

 時には荒波のような、時には厳冬の真夜中のような応酬を何とか潜り抜けると。同席していた行政機関の幹部――もはやエノクの顔馴染(なじ)みである――は、ホッと安堵の息を吐きながら決まってこんな台詞を口にした。

 「ウチから、『現女神』様が現れてくれないモンかねぇ。

 そしたら、女神庇護下の都市国家として、堂々と構えてられるだろう?

 魔術を(もっ)てしても破るに容易でない『神法(ロウ)』に、『天使』に『士師』と云う強大な戦力! それらが手に入りさえすれば、やれ盗賊団だの、やれ魔法性質動物だのって程度で慌てることもなくなる。それどころか、場合によっちゃ"獄炎の女神"の統べる『炎麗宮』ともタメを張れるかも知れなくなるんだぜ!」

 「そうなれば、確かに、この都市国家(プロジェス)にとって喜ばしい限りですね」

 エノクが純粋に同意し、微笑んでそう答えると。行政機関の人間は夢から醒めたようにハッと顔色を変えると、バツの悪い笑みを浮かべて語る。

 「…すみませんね、若神父様。

 あんたにゃあんたが仕える神様が居るってのに。『現女神』なんて余所(よそ)の神様の話をされても、困っちゃいますよねぇ?」

 するとエノクは、微笑みを浮かべたまま首を左右に振り、「いいえ」と答える。

 「我らの主神メジャナは、こんな言葉を(たまわ)れました。

 "何処の世に住まう、正道を(たっと)ぶ神々は皆、我が朋友である。彼らを拒む無かれ、(さげす)む無かれ。手を取り合いて歌い踊ることこそ、我が心に適いし行い(なり)"。

 人道に(もと)らず、あなた方を幸福に導く『現女神』ならば、私は彼女を快く迎え、喜んで助けましょう」

 この言葉を初めて耳にする地球の住民は皆、驚いて目を丸くする。信仰の違いは往々にして対立を生み出し、しばしば凄惨な争乱さえ引き起こすというのに。"メジャナの瞳"のいい加減とさえ映る器の大きさが、彼らに困惑と感服の念を抱かせるのだ。

 この器の大きさこそが、エノクの出身世界で"メジャナの瞳"を人気たらしめている最大の要因である。いかなる異教とも親交を求める平和主義であり、教義的制約は非常に緩い。加えて、死後に極楽浄土へ入る条件も、他教に比べれば非常に容易い。一般人にとってみれば、教団からの加護が受けられるメリットを得られる一方でリスクが極端に少ないので、軽い気持ちで入信出来てしまうのだ。

 「…それじゃあ、もしも本当にこの都市国家(くに)に『現女神』が降臨したとしてさ。これまでの業績を鑑みて、若神父様を『士師』に召し抱えたいと仰られたら…なっちまうのかい?」

 当時のエノクは流石に即答できず、暫し黙考すると。最後には微笑みを浮かべて返す。

 「それが我が主神の曰く正道に悖らぬならば、喜んでお引き受けしますよ」

 すると行政機関の者は、ニッカリと笑ってエノクの方をバンバンと叩いた。

 「そりゃ良かった、良かった!

 若神父様が『士師』になって『現女神』様を支えてくれりゃ、百人力だ!」

 直後、行政機関の者ははにかみながら、「とは言ってもさ…」と続ける。

 「『現女神』様が降臨してくれないことにゃ、何を言ったところで、始まらないんだけどな…」

 

 『現女神』に対する需要は極めて多い。その事情は地球上に限らず、超異層世界集合(オムニバース)中のどこでも当てはまる。

 プロジェスの行政機関の者が語るように、強大な武力を所有出来ると言うのも大きな魅力である。だが、それ以上に超異層世界集合(オムニバース)を支配し得ると言われる『天国』の所有権を持つという性質――ただし、この性質には学術的な根拠はない――が人々の欲望を掴んで離さない。

 では、『現女神』を得る――または"成る"――条件とは何か。対象者の性別が女性である、という他に解明されていることは何もない。

 傾向的には、何らかの突出した"強み"を持つ女性が成っているようだ。確かに、名の通った『現女神』達は、神格を得る前より才能または能力に秀でていた…と言う話を聞く。だからこそ『現女神』を目指す若き女性達は、数々の英雄を輩出している"自由学園都市"ユーテリアに身を置いて、修練や実績を積んでいるワケである。

 (ただ)し、勿論、努力すれば皆が『現女神』に成れるワケではない。そんなに易々と成れるのならば、ユーテリアの女性卒業生の大半は『現女神』として降臨していることだろう。

 …さて、プロジェスには『現女神』の候補と成りうるような才女は存在したのだろうか。

 勿論、天才だの秀才だのと呼ばれるような女性は居る。しかし、それはプロジェス内の――もっと言えば、近隣地域内の範疇での話だ。建国以降、プロジェは世界レベルで活躍するような女性を輩出してはいない。

 「オレたちゃどうせ、石頭な田舎者の集まりだからなぁ」

 『現女神』降臨の可能性について話をするとき、プロジェスの住民はそんな自嘲の句を口にしては、決まって諦観するのであった。

 

 ――だが。

 エノクがプロジェスに入都して約8年の月日が流れた時の事。

 プロジェスに、『現女神』が降臨した。

 彼女こそ、言わずもがな、"夢戯の女神"ニファーナ・金虹である。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Enigmatic Feeling - Part 2

 ニファーナ・金虹。

 彼女に『現女神』の可能性を見出して人物が、果たしてプロジェスに存在しただろうか? ――家族も友人も、誰もが想像していなかったに違いない。

 例え場所がプロジェスで無かろうとも、"ニファーナ"という少女を知った者ならば、誰でも笑って「いや、あり得ないでしょ」と断言したことだろう。

 

 それ程にニファーナとは、平々凡々な――いやむしろ、"落第生である"とさえ認識され得る少女だ。

 

 「それで良いよ。皆が楽しいなら、それで問題ないじゃん」

 それがニファーナの口癖であり、彼女の為人(ひととなり)を端的に表現した言葉でもある。

 性格は悪くない。いつでも穏和だ――悪く言えば、"ぼーっとしている"。怒ることは滅多にない。何か嫌な事があった時には、近寄らなくなるか、とことん無視を決め込むか、のどちらかだ。"反抗する"という選択肢は、生来から脳内に存在しないかのようにも感じる。

 学校内での立場も悪くない。どの科目においても成績は中の上。なんでもそつなくこなすことが出来る。宿題は余程のことがない限りは忘れない。教師とも友人とも関係は良好だ。しかし、"天才"ともてはやされることはないし、人気者という程でもない。

 そんな彼女の最大の特徴は、極めて受動的にして向上心が皆無である、ということだ。

 どんな環境であろうとも、水を受ける砂のように順応してしまう。加えて、意見やら反論やらは陰でも絶対に口にしない。そして何より、"今よりも上に、より良く"と云う気概が全くない。

 プロジェスで一番"努力"という言葉が似合わないのは、恐らく、彼女である――そう断言しても(はばか)れない程に、ニファーナとは暢気(のんき)極まりない少女である。

 

 向上心もなくひたすら受動的なニファーナは、好奇心というアクティブな感情は勿論、持ち合わせてなどいない。

 そんな彼女でも、趣味を持ち合わせている。…とは言え、それはあまり誇れるような代物ではない。

 なにせそれは、"ゲームをすること"なのだから。

 それでももしも、彼女がゲームの制作に興味を持っていたり、ゲームのハイスコアの更新を目標にしてたならば、少なくとも同好の者から敬意を払われたかも知れない。しかし、そんな生産的だったり積極的だったりする目標など一切ない。

 ただただ、楽しむだけ。ひたすらマイペースに、プレイをするだけ。しかも、ゲームの要素を全て遊び尽くすような"やり込み"にも特別興味はない。満足したら、新しいゲームに手を伸ばすだけ。

 「良いじゃん。楽しいんだし。それで私は満足してるし。誰かに迷惑を掛けてるワケでもない。

 別に学校の課題まで放り投げて打ち込んでるワケじゃないし。誰にもとやかく言われる筋合いはないと思うよ」

 その台詞は、彼女の家に遊びに来た友人に向けて放った言葉だ。友人をもてなすどころか、放置気味にひたすらゲームをしているニファーナに、「そんなに面白い?」と尋ねた時の返答である。

 「そういう図太いって言うか…ニブい神経は、神レベルだよねー」

 友人がからかいながら語ると、ニファーナはゲーム画面を見つめたまま、フッ、と鼻で笑う。

 「図太いでもニブいでもないよ。

 ただ私は、のーんびりと、楽しく生きたいだけ。

 それだけだから、神サマなんて引き合いに出すようなモンじゃないよ。神サマに失礼じゃん」

 

 そんな問答をした翌日のことだ。

 ニファーナが、『現女神』と成ったのは。

 

 授業中。頬杖を突きながら、液晶ディスプレイの黒板の内容を眺めていた時のこと。

 ニファーナは全くの不意に、妙な感覚に苛まれた。

 その時の感覚を、彼女はこう述懐する。

 「頭の中で、卵が電子レンジの中で爆発したような…火鉢の中で栗がバチンッ! って爆ぜてバラバラになったような…。

 そんな、爆発的なんだけど、どこか気持ち良いって言うか…爽快な感じだね」

 ニファーナが感覚を得たと同時に、教室…いや、学校全域を襲う振動。それは地震ではなく、空間格子が蠕動(ぜんどう)することによって生み出される、激しい圧力推移による震動。

 『神霊圧』である。

 或る者は頭を抱えてうずくまり、或る者は天を仰いで涙を流し、何事かを賛歌のような口調で呟く。そんな激変の中、ニファーナだけは状況が飲み込めず、キョロキョロと周囲を見回す。

 「え…みんな、どうしたの…?」

 誰に対してと云うワケでなく、怖ず怖ずと疑問を口に出した、その時。ニファーナの目の前、机の上に雪よりもなお輝かしい純白をした"存在"が一つ、蜘蛛が降りるようにスーッと下りてくる。

 それは、6枚の翼にフルフェイスの兜と重装甲のフルプレートアーマーを着込んだ存在。頭上には真夏の太陽にも負けぬ眩しい輝きを放つ輪を冠している。

 この存在を見た時、ニファーナは本能的に(さと)る。

 (あ…『天使』だ)

 すると『天使』は、ニファーナの胸中を見透かしたようにゆっくりと首を縦に振ると、(うた)い唱える。

 「幸いなるかな、汝、生み育む権利を持つ者よ。

 汝は今、育まれて生まれ、そして"座"を得たのだ」

 その言葉は謎掛けのようにも聞こえるものであったが、ニファーナは再び本能で覚る。言葉の意味と、その意味に合致する自身が得た――いや、与えられたと云うべきか――現状を。

 「…私、『現女神』になっちゃったんだ…」

 

 『現女神』として降臨すると云う事象について、世間一般における解釈。それは多神教的に云うところの、主神が何らかの理由によって――主神は男性格とされることが多いので、専ら恋愛的感情で――気に入られ、神として召し上げられたのだろう…と云うものだ。

 苛烈な行為で名高い"獄炎の女神"や"月影の女神"も、その美貌や教養、身体能力や信念といった面は卓越している。故に、主神の目に留まったことが事実だとしても、世間の大部分は納得して然るべきと言える。

 対して、ニファーナの場合はどうだろうか。主神は――それが存在するなら、の話だが――彼女の何を一体気に入ったと言うのだろうか。

 プロジェスの住民は皆――ニファーナの友人や家族であろうとも――その疑問には首を傾げるばかりである。

 中には、こんな事を言う輩まで存在した。

 「あんな「[rb:娘>こ]]が『現女神』になれるんなら、地球上の女の子の大半は女神になっちまうだろうよ!」

 そんな嫉妬や批判は存在するものの…ニファーナの神化に対するプロジェスの反応は、概ね好評であった。

 待望の『現女神』の降臨が現実となった! その事実だけでも十分に、彼らの満足を呼び覚ますことが出来た。どんな少女であろうが、『現女神』である事に間違いないのだ。住民が必要としているのは、『現女神』という象徴であり、具現化された力なのだ。

 

 ここより、プロジェスの――そして"若神父様"エノクの黄金時代が始まる。

 

 大半の住民に歓迎されたニファーナは、あっと言う間に信心を集め、数個大隊規模の『天使』を誕生させた。これによりプロジェスは、『現女神』取得から1週間足らずにして、巨大都市国家と肩を並べるほどの戦力を有するに至ったのである。

 同時にニファーナの存在は、それまで幾度となく強要的な交渉でちょっかいを掛けてきた地球圏治安監視集団(エグリゴリ)や他の『現女神』達に対して強気に、そして優位に望む原動力となった。交渉の場にニファーナを置くだけで、彼女が発する強烈な神霊圧が交渉人達の膝を(ことごと)く折らせたのである。

 ニファーナは正に都市国家の守護神として、一気に(まつ)り上げられていった。

 彼女の為に、城と見紛うような家――現在の彼女の自宅である――が建てられ、連日様々な貢ぎ物が担ぎ込まれるようになった。

 民草の頂点に君臨するに至ったニファーナであったが。『現女神』になろうと、彼女の性質(さが)は変わることはなかった。

 相変わらず暢気(のんき)で、偉ぶるどころか、何かを望むでなく、のほほんと日々を送るばかり。普段通りに学校へ行き、帰宅してはお菓子を頬張りながらゲームを楽しむだけ。

 交渉の場に同席すると言っても、彼女は何をするワケでもなく、神霊圧やら『天使』をチラ付かせるだけ。会議の内容は半分も頭に入っておらず、時には盛大な欠伸を見せたり、コクリコクリと舟を漕いだりもしている。

 一方で、家の改築や貢ぎ物に関しては、非常に頭を悩ませていた。

 「いや…『現女神』になったって言っても、何してるワケでもないし。

 普段通りにしてくれれば、それで良いワケでさ。人並みに楽しめれば、それで良いだけなんだけど…」

 そう言って、頼んでもいない善意の数々を固持し続けていたのだが…それが却って、住民達の心を捉えたらしい。

 「等身大で接してくれる女神様!」

 そんな好印象が人々の中に芽生え、ニファーナへの奉仕はますます加熱していった。

 人々の熱意に負けたと云うか、断り続けるのは流石に悪いと思ったらしく…ニファーナは遂に折れて、人々の善意を受け入れることにした。

 しかし、一人ではどうにも出来ない量の貢ぎ物にニファーナは常に途方に暮れており、直ぐに下層労働階級の人々へ寄付する事を繰り返していた。

 別に求心活動のつもりは無かったのだが…その活動がますますニファーナの好印象を強め、彼女への信心は集まるのであった。

 

 ニファーナの神化は、プロジェスの経済にも潤いを与えた。

 プロジェスの独立を支持しさえすれば、求心活動をしない事を始め、全く口五月蠅(うるさ)くない『現女神』の存在を、外部の企業連中は好意的に受け止めた。

 地球圏のみに留まらぬ多数の企業がプロジェスに拠点を設け、就業率は高まり、外貨を爆発的に稼ぐことが出来るようになった。

 一方で、加熱しすぎた鍋が盛大に吹き(こぼ)れて調理場を汚すように、様々な軋轢が生じて社会問題を作り出すこともしばしばとなった。

 そこで行政機関の者達は、ニファーナに人間(ヒト)にして最も神に近しい信徒である『士師』を有することを懇願した。

 ――この時、ニファーナはまだ、ただの1人も『士師』を得てはいなかった。

 「いや…私、人の上に立つような器じゃないし…」

 とは、『士師』の所持を薦められる旅にニファーナが決まって放つ固辞の言葉であったが。度重なる軋轢の末、遂に血を見る激突が起きてしまった事を機に、ニファーナは溜息と共に渋々『士師』を持つ事を決意した。

 彼女が初めて得た『士師』は、名をクルツ・ウェーニガーと言う。ニファーナとは幼馴染みで5つ年上。小さい頃からよく面倒を見てくれた、実の兄のような存在である。当時のクルツは行政機関の一員となるべく大学で勉学に励んでいたところであった。しかし、ニファーナの助けになりたいと云う願いに加え、故郷に貢献出来る立場を望み、大学を中退して志願したのだ。

 ニファーナが彼をすんなり受け入れたのは、気心知れた人物が近しい所に居てくれる安心だけでなく、クルツの身をも捨てる覚悟を無碍(むげ)に出来なかった事も一因であろう。

 第一の『士師』たるクルツは、"近衛"の号を得て、強靭俊敏な身体能力と、"鉄壁"と云う言葉すら霞むような防御能力を有する『神法(ロウ)』の鎧を手に入れた。

 2人目の士師は行政機関の一員で、ニファーナとも面識が深い壮年の男、アルビド・レイシス。仕事の際には沈着冷静にして苛烈な狡知(こうち)を振るう老獪の知恵者。しかし仕事の外側では、ニファーナを実の孫のように溺愛する気の良い"おじいちゃん"である。

 ニファーナが彼を『士師』に迎えたのは、今にして思えば、単に親しいからというワケでなく、明確にバランスを考えての事だったに違いない…エノクはそう確信している。行政機関に面目を立たせると共に、コネ兼監視役に据えようと云う計算だった…と云う事だ。

 そして3人目の士師として選ばれたのが、エノクである。

 彼を慕う都民達からの熱い推挙に応えた…と云う事情も本当であろう。しかし今考えれば、これもアルビドと同様、バランスを考えての事であろうとエノクは確信する。都民を満足させると共に、彼らとの太いパイプを得る算段であったのだろう…と。

 

 「喜んでお引き受け致します」

 エノクは、ニファーナ直々の訪問勧誘に際して、そう即答して(こうべ)を垂れた。そして彼は、"僧侶"の号を持つ『士師』と成った。

 恩師はエノクの即断を高く評価すると共に、祝福した。

 「君は、我らの主神の朋友を助ける、真の聖職者となったのだ。同時に、惑える人々へ正道を説く指針となったのだ。

 素晴らしい責務に身を捧げる同胞が私の教え子から出るとは、誠に喜ばしいことだ」

 「有り難うございます」

 エノクは微笑みながら恩師の賛辞を一礼と共に受けたが。当時の彼は内心、ニファーナに対して敬意よりも強い疑念を抱いていた。

 "神殿"と呼ばれるようになったニファーナの邸宅に護衛も兼ねて同居するようになったエノクは、近しい位置で彼女を見つめる程に、失望を募らせていった。

 (これが"女神"を冠する存在の在り方なのか…?)

 来る日も来る日も、そこら辺の少女と同じく学校に通い、部活にせずに真っ直ぐ帰宅したかと思えば、ちょっと宿題をしてゲーム三昧。行政機関からの呼び出しの際には中々応じようとせず、頭を下げられて渋々足を運ぶ始末。

 単なる怠惰で享楽的な少女にしか見えない。女神であるにしても、地下深い冥界で惰眠を貪る低俗な邪神としか思えない。

 (こんな女神の為に、人々は汗水を捧げていると云うのか…!?)

 苛立ちを越えて呆れにすら至った感情を持て余しながら、エノクはニファーナの姿を見つめ続けた。

 そんなエノクの暗澹としてゆく胸中とは反比例するように、ニファーナの評価はますます熱を帯び、祀り上げられてゆく。

 その評価を得る至った成果を作り上げたのは『士師』達であり、ニファーナは殆ど何もしていない。交渉の際に『神霊圧』やら『天使』をチラつかせる程度の勤めを果たすに留まっている。今後の都市国家の在り方だとか、都民の秩序を守る規範だとかを提案することもない。

 ゴロゴロとソファに寝ころび、ボリボリとお菓子を頬張りながら、カチャカチャとコントローラーを弄っている姿ばかりが目に浮かぶ。

 (私の力は、こんな神――いや、神紛いにために尽くすものではないはずだ…!)

 エノクは募る不満を微笑みで押し込めながら、日々の責務を果たして行った。

 

 エノクの悶々たる日々が約1年程続いた、ある日のこと。彼の心中に転機が訪れる。

 その頃には『士師』の数は12名にまで増えていた。『天使』は更なる信心を得て強大になり、彼らが隊列を組んで空を賭ける姿は、勇壮な軍隊の行進を思わせた。プロジェスの経済はますます潤い、移住民が増え、国土の拡張が真剣に検討されるまでに至っていた。

 「資源も肥沃な土壌もない土地だったってのに! こんなにも煌びやかに発展しちまうとはね!

 『現女神』様々、正に黄金時代の到来だな!」

 都民が口々にそう唱える中でも、エノクは怠惰にも見えるニファーナに対してどうしても敬意を払うことが出来ないでいた。

 (『士師』と云う身の上でも、主たる『現女神』に不満を抱くことが出来るのだな。

 地球の古典文学『失楽園』は正しい指摘であると云うことか)

 全知全能である唯一神に天使が反逆する文学の事を思い返しながら、エノクはコッソリ苦笑し、そして溜息を吐いていた。

 ――その日は、プロジェスと或る大企業との間に素晴らしい契約が締結し、盛大な祝いの席が開かれていた。

 行政機関の人間や交渉に携わった有識人は勿論、『現女神』ニファーナや彼女が持てる全ての『士師』が一同に会し、絶品の料理と談笑に花を咲かせていた。

 エノクは祝いの席というのが苦手である。下戸なので酒を楽しめないというのも一因ではあるが、何よりもポリシーとして"自分が楽しむよりも、他人(ひと)を喜ばせる方が幸福である"と云う考え方があるためである。とは言え、誘ってくれた者達の好意を無碍(むげ)にすることは出来ず、参加したのだ。

 しかしながら、宴の席におけるエノクは孤立しがちであった。他の者達――『士師』も含めて――のようにバカ騒ぎに混じる気にはなれない。話掛けられることは多分にあったが、酔っ払いとの会話を楽しむことなど、とてもではないが出来ない。当たり障りのない2、3語を口にして、その場を凌ぐばかりだ。

 (…何度経験しても、この雰囲気だけにはなれないものだ…)

 誰にも(さと)られぬように小さく溜息を吐いていると。ふと、視界にニファーナの姿が入る。

 この場における最年少の参加者であるニファーナもまた、エノク同様、ポツンと孤立していた。『現女神』として主賓席に座らされている姿が却って、彼女の孤独感を浮き上がらせていた。

 (クルツ君は…? いつもならば、彼が気を利かせてくれるはずだが…?)

 エノクが視線を泳がせると、そこには酔っ払いに混じって子供のように騒ぐクルツの姿がある。『士師』とは言え元が人間という性質(さが)故か、主よりも自分の価値を優先してしまうことはままあるようだ。

 ――エノクも他人(ひと)の事は言えないが。

 (…全く、仕方のないことだ)

 そう胸中で呟きながら、エノクが席を立ちニファーナの元へと歩を進めたのは、一体どんな意図が有ってのことだろうか。相手は日々の苛立ちの元凶であると云うのに。

 "他人を喜ばせる"というポリシーが個人的な感情に打ち勝ったのかも知れないし、単に場に馴染めない者同士で共感したからかも知れない。

 ――しかし、今のエノクならばこう考えた事であろう。"これぞ天啓であった"と。

 「ニファーナ様、楽しんでおいでですか?」

 ニファーナの間近に立ったエノクが薄く微笑みながら問うと。ニファーナは困ったように苦笑し、頬を掻きながら応える。

 「まぁまぁ、楽しんでるよ。

 料理美味しいし。賑やかなのも嫌いじゃないし。

 …話相手がいないのは、ちょっと退屈だけどね」

 それからニファーナは、頬杖をついてエノクを見上げながら問い返す。

 「エノクさんはどうなの?

 個人的に言わせてもらうと…すんごい、ツマンなさそうなンだけど?」

 エノクは、ハハ、と声を出しながら自らの額をピシャリと叩く。

 「流石は私の主。あなた様は私の胸の内を手に取るように把握していらっしゃる」

 「…いや、『現女神』だとかそう言うンじゃなくても、誰でも分かるよ。

 酔っ払い連中が、アルコールで頭が回らないだけだよ」

 ニファーナがジト目でエノクを見つめて語ると。エノクは笑いを徐々に引っ込めて、肩を(すく)める。

 「こういう場は、生来苦手なんです。酒も(たしな)めない身ですし。賑やかな場所は、居心地が悪くて適いません」

 「お祭りは? エノクさんの故郷でも、お祭りはあったでしょ? どうしてたの?

 まさか、あまり盛り上がらないお祭りだとか? 教会で集団で瞑想して終わり、みたいな」

 「いえ。賑やかな祭りは季節毎にありましたよ。

 ただ、私は祭りを取り仕切る教団に身を置く立場でしたからね。裏方に回ってばかり居ましたら、賑やかな事とは無縁で居られました」

 「…エノクさんは、お祝いって嫌いなの?」

 ニファーナがふと笑みを消して語る。まるで血の通っていない生き物と相対し、警戒しているかのような有様だ。

 エノクはこれまた微笑みを浮かべて首を左右に振り、「いいえ」と否定する。

 「人々が心から笑い、楽しんでいる姿を見られるのは、とても嬉しいものです。

 彼らの喜びに私の働きが少しでも寄与しているのならば、それに勝る幸せはありません。

 信徒であるとか『士師』であるとか云う前に、私という人間(ヒト)としての純粋な意見です。

 賑やかさが嫌いなのは…そうですね、例えるなら…子供がニンジンを嫌うようなもので、他意はありません」

 「…なるほどねー。そっかそっかー」

 エノクの言葉に、ニファーナはホッと警戒心を解くと。心地よい枕に頭を(うず)めた時のような、微睡(まどろ)みにも似た微笑みを浮かべる。

 そして、こう言葉を続ける。

 「私もね、お祝いは大好きだよ」

 「ニファーナは『現女神』でいらっしゃいます。民草の喜びを我がものとするのは、当然でございましょう」

 エノクが嫌みにならないよう気を使いながら世辞を込めて語ると、ニファーナは、

 「『現女神』…『現女神』かぁ…」

 と舌の上で言葉を転がす。

 何度か独りで呟き続け、エノクが怪訝になって片眉を吊り上げると。ニファーナはゆっくりと語り出す。

 「そうだね…。『現女神』って立場になってから、お祝いが物凄く楽しく感じるようになったんだよね…。

 エノクさんみたいに頭を捻って貢献してるワケでもない身の上なのに、こんな事言う筋合いなんてないんだけどね…」

 「そんな事はありません。

 ニファーナ様はその存在だけで、この都市国家(くに)の希望です」

 エノクが即答でフォローしたのは、不満は有れども己の主であるからには、ちっぽけな存在ではないのだと彼女にも自分自身にも言い聞かせるつもりだったのかも知れない。

 そんなエノクに、ニファーナは微睡みの微笑みのまま、桜色の唇から言葉を漏らす。

 「気を遣ってくれてありがとう」

 その言葉を聞いた途端、エノクは思わず赤面しそうになる。本当にニファーナに、不満に満ちた胸中を読まれたように感じたからだ。

 「いや、その…」

 エノクが口ごもりながら言い訳を始めようとするものの、ニファーナは意に介せず。視線をエノクよりも、パーティー会場の壁よりも向こうに投げかけながら、語り出す。

 「私さ、『現女神』になる気なんてなかったし、なりたいとも思わなかった。

 むしろ、成りたくなかったかな。ヒトの上に立つなんて柄じゃないし、そんな責任を背負える自信なんてなかったし。

 だから、『現女神』になった時は…勿論、驚いてもいたけど…悪い意味で、ショックだったよ。

 何処の誰が――それとも、何が、かも知れないけど――どうして私なんかに、ってね」

 ニファーナの独白を、エノクは黙って聞き届ける。神父である彼は、懺悔を聞く事には慣れている。

 ニファーナは続ける。

 「皆から急に色々してもらえるようになって、すごく苦しかったよ。

 "神"なんて大層な名前を貰ったけど、私が急に聖人君主になったワケじゃない。のんべんだらりなままの変わらない私でしかない。

 そんな私に、どんどん信心が集まってきてさ…。とっても怖かったよ。

 大量の希望が鉛の山みたいに、私の背中にドーンとのし掛かったみたいでさ。これをどうやって(さば)けば良いんだろうって、目が回ったよ」

 その言葉は、エノクの胸中に満ちていた不満を氷解するだけでなく。(トゲ)と成して彼をズキンと(さいな)んだ。

 "神"と云う言葉に目が眩み、理想の影を追い求めていた自分の身勝手をハッキリと覚った。同時に、ニファーナは"神"である前に少女であり、彼女には彼女なりの苦悩がある事を痛感した。

 (…"メジャナの瞳"(我が信教)の神々とて、過ちを犯しもすれば、悔やみ泣くこともあるではないか…!

 その神々を慰めるのも、信徒の努めではないか…!

 私は理想という糸で瞼を縫い合わされた、(めくら)ではないか!)

 エノクは自責の念に拳をギリギリと握り固め、閉ざした唇の内側では歯肉から出血せんばかりにギリリと強く歯噛みする。

 そんな彼を余所に、ニファーナは言葉を続ける。この時の彼女は、これまでの発言の時は打って変わった、吹っ切れたような爽やかさに満ちている。

 「もう耐えられなくなったてさ、だから背伸びを止めたんだ。

 クルツ兄さんに見透かされて、説得されたから…って云う理由も大きいんだけどね。とにかく、出来ない事をやろうとするのは止めにしたんだ。

 無理にやっても、皆にもっともっと迷惑かけるだけだろうしね。

 だから…クルツ兄さんにもエノクさんにも、その他の沢山の人達を巻き込むにことになったけど…悪くなるよりマシってことで、みんなの力を借りることにしたんだ」

 「…貴女は今も、心苦しくいらっしゃるのですか?」

 「まぁ、やっぱり、ね」

 ニファーナは苦笑する。

 「私がさ、"獄炎"とか"月影"とか…ユーテリアの"慈母"とか、そんな有能な『現女神』になれたら良かったのに…って事は、散々思うよ。

 なんでこんな私が選ばれたんだろうって、何処かの誰かさんを恨みもしたよ。

 …でもね…」

 ニファーナは浮かべた笑みから苦みを消すと、はにかみながら笑顔の花を満開にする。

 「こんな私が居ることで、みんなが幸せになってくれるなら、それはそれで嬉しいんだ。

 これから先も、私は何の力にもなれないかも知れないけど…この平和で楽しい日々が、私をきっかけにして続くなら、それで良いなって思ってるんだ」

 ――この時、エノクの脳裏には、古代の地球で知られていた、とある女神の事を思い起こした。

 名をヘスティアーと云うその女神は、家の(かなめ)たる(かまど)を司る重要な存在である。しかしながら、彼女にまつわる神話の数は極少ない。そして、数少ない神話も彼女の勇ましさや烈しさといったものを殆ど伝えていない。

 ただ知られていたことは、彼女はどんな時でも暢気(のんき)にニコニコ笑っていたという事だ。

 彼女が属する多神教においては、神々はしばしば激しく争う事もあれば、情愛の炎に魂を焦がした事もある。人間や国家の運命に携わり、大きな転機を与えたこともある。

 そんな事績には一切手を出さず、暢気に構えてばかりいた彼女だというのに、人々は家中の要として信仰を注いだ。

 エノクは、そんなヘスティアーの姿をニファーナに重ねた。

 同時に、彼女らの無為な暢気こそが、信仰を集める仁徳なのだと(さと)った。

 躍起となる神の行動には、必ず人の賛否が付きまとう。偶発の事故にも関わらず男を射殺した古代の月の女神アルテミスのように、讃える者と首を傾げる者とが生じる。

 だが、暢気であるならば。それでいて、幸福が享受されるのならば。勝手に幸福を呼び込む置物を手に入れたかのように、歓迎して大事にすることはあれ、不満を抱くことなどない。

 加えてニファーナに関して云えば、単に無為でいたワケではない。表に見せぬ努力に頭を捻っていたのだ。

 無力である自分が、如何にして己を立ててくれる都市国家(くに)に貢献するか。その結果が、慎重な『士師』の選定である。

 プロジェスにおいて絶大な人気を誇るニファーナに対し、『士師』に志願する者は多かった。だが、ニファーナはようやく12名までその数を増やしただけであった。

 ニファーナは、都市国家(くに)に貢献出来て、且つ、アルビドやエノクのように民草のバランスを保てる者を選んでいたのだろう。実際、その場で『士師』を即断する場面を、エノクは見たことがなかった。

 そして、神化後も人で在った頃と同じ生活様式を送っていることもまた、人心を掴む術であろうと(さと)る。人の上に立つ威圧的な何かでなく、等身大の親しみやすい存在。どちらが人の心を掴むかと言えば、明白だ。

 これらの思考に思い当たったエノクは、心底得心すると、自然とニファーナに(こうべ)を垂れた。

 懺悔且つ感服の礼だ。

 「ちょっと…! エノクさん…!?」

 事情が飲み込めずに困惑する、ニファーナ。そんな彼女の前で、頭を下げたままのエノクは、厳かに宣言する。

 「我が主よ、誓います。

 この身滅び、魂と成り果てようとも、私は為せる全てを(もっ)て貴女様に尽くしましょう」

 「い、いや、そんな事…! もう十分頑張ってもらってますから…! これ以上無理しなくていいですよ…!」

 慌ててパタパタと手を振るニファーナにも構わず、エノクは暫く頭を下げ続けた。

 

 こうしてエノクは、真の意味で"夢戯の女神"ニファーナの『士師』と成った。

 同時に、彼の黄金時代の始まりでもあった。

 

 他の『士師』達や都民と共に、何の疑念もなく、日々の職務に打ち込んだ。

 都市国家(くに)を更に豊かにすべく交渉に望み、都民の不満を解消するために現場へと足を運び、魔法現象による災害が迫るとなれば『神法(ロウ)』の力を振るって立ち向かう。

 前にも増して忙しく立ち回って居たが、それでもエノクは不満など微塵も感じなかった。

 むしろ、胸の内は常に晴れやかであった。

 どんな仕事をこなすにしても、楽しさとやりがいを感じずにはいられなかった。厄介な事件にも時折立ち向かう必要はあったものの、『士師』を始めとするプロジェスの志高い仲間達と苦難を乗り越える事は、その過程であろうが結果であろうがエノクに充実感を与えてくれた。

 『士師』の職務を全うしてゆく中で、彼は次第に人々からこのように評されることが多くなった。

 「若神父様――いや、今は"僧侶の士師"様と呼んだ方がいいですかね?

 とにかく、すごく丸くなりましたよねー!

 前から良い人だとは思ってましたよ、でも堅いなぁって印象が否めなかったんですがね。近頃の貴方様は、すごく爽やかで、一緒に居るとこちらも楽しい気分になってくるんですよ」

 「そうでしょうか?」

 エノクは問い返し、そして暫し自身を(かえり)みると、にこやかに笑う。その笑顔は、凜としながらも決してトゲトゲしくない、丸みを帯びた菊の花のようである。

 「…確かに、変わりましたね。

 それはきっと、我らが主、"夢戯の女神"のお(かげ)でしょう。

 私の胸の内は、あの方によって清められましたから」

 同時に、エノクのニファーナに対する態度も一変した。

 よく声をかけるようになり、興味が無さそうでも仕事の内容を教えたり、成果の報告をこまめに行うようになった。

 そして何より、お祝いの席ではニファーナの背中を押しながら、積極的に仲間に溶け込んで談笑するようになった。

 「エノクさんって、賑やかなの苦手だったよね?」

 ジト目で語るエノクは、屈託のない笑みを浮かべて応じる。

 「心変わりと言うものです。

 そこに受け入れてくれる和が在ると言うのに、見送るだけでは勿体ないと、思うようになっただけですよ」

 それからのエノクは、ニファーナや仲間達と共によく写真に映るようになった。

 それらの写真は正しく、現在の彼の部屋に飾ってあるものだ。

 エノクにとって、仲間達と賑やかに過ごした時間は、掛け替えのない宝物なのだ。

 

 エノクの心が晴れた事に連動するように、プロジェスもますます繁栄を極めていった。

 事件は相変わらず起こるものの、その(ことごと)くは解決に至り、都市国家(としこっか)は楽園のような平和を謳歌していた。

 正に黄金時代の到来であった。

 

 ――だが。如何なる神話や歴史においても黄金時代が永久に続くことはない。

 プロジェスもまた、その例に漏れなかった。

 黄金の輝かしい日常を曇らせた暗雲は、前振りもなく突如として、飛蝗(ひこう)を思わせる大勢力で押し寄せた。

 それこそが、プロジェスを蹂躙した『女神戦争』の始まり。

 "陰流の女神"による侵攻である。

 

- To be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Enigmatic Feeling - Part 3

 莫大な信心を集める『現女神』に、空を埋めるほどの『天使』。絆の堅い『士師』に、志高い都民の存在。

 建国当時では想像も出来なかった程に強固な都市国家となったプロジェスであったが、大きな器具を抱えていた。

 それが、強大な力を持つ『現女神(あらめがみ)』による侵攻である。

 

 ちなみに、異相世界からの侵攻については、相手が天文学的規模であろうとも、リスクとして勘定してはいなかった。と云うのも、そんな勢力に対しては地球圏の守護者たる地球圏治安監視集団(エグリゴリ)が必ず対応する。攻撃対象が彼らの庇護の元に無くとも、地球圏を揺るがすに必至な事態を放って置くワケがないからだ。プロジェスが戦わずとも、これ以上ないプロフェッショナル集団が勝手に相対してくれるという算段である。

 だが、『現女神』については、そうは行かない。

 『女神戦争』も地球圏を揺るがす事態に繋がり兼ねない事はあり、その際には勿論地球圏治安監視集団(エグリゴリ)は動く。だが、その時の彼らの行動は"喧嘩両成敗"だ。侵攻する側だろうが、される側だろうが、お構いなしだ。どちらの『現女神』も殴りつける。

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)にとっては、独自の道を突き進む『現女神』はリスクでしかないのだから。

 酷い時になると、両女神が疲弊した頃に最大の力で殴りつけてくることすらあり得る。

 

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)は頼れない。『現女神』の侵攻に際しては、プロジェスが自力で当たるしかない。

 その際に最大の懸念事項となるのが、『士師』の数と質である。

 ニファーナの持てる『士師』の数は、15。都市国家を統べる『現女神』としては少ない方である。更に、『士師』は都市国家の運営を念頭に置いた人員が多いため、戦闘向きとは言えない。

 対して、苛烈な求心活動で有名な"獄炎"や"月影"の『士師』は凄まじい。前者の持つ"炎星の士師"レヴェイン・モーセを始めとして、化け物として名高い士師を何人も擁している。

 彼女らと交戦するとして、果たして勝ち抜くことが出来るのだろうか? "否"と即答はせぬにしても、しっかりと首を縦に振ることは、ニファーナにせよ彼女の『士師』にせよ出来なかった。

 故に、プロジェスは何処かにおわす、強大ながらも穏和な『現女神』――"清水の女神"や"叡賢の女神"が名高い――と協力関係を結ぼうかと画策しているところであった。

 

 "陰流の女神"の侵攻は、その実行に先んじた奇襲であった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (ドン)ッ!

 白雲が増えてきた晴天の下に、霹靂(へきれき)が大地を穿ったかのような轟音が突如、プロジェスを揺るがした。

 ――何事か?

 都民達が顔を見合わせている最中。プロジェスの最外縁地区では、国境警備に当たっていた市軍警察衛戦部は、滝のような冷や汗を噴き出しながら眼を見開いていた。

 都市国家の国境を守る堅固な防衛線、市壁。ニファーナの『天使』を織り込むことによって格段に強度を増したはずのそれが、紙屑でも握り潰すようにひしゃげたのだ。

 (『神法(ロウ)』が効いてるってのに…!? 嘘だろ、おい!!)

 衛戦部の部隊員は激しく動揺し、狼狽した。たっぷり十数秒の後、市壁の歪みが更に激化したところで、誰かがハッと我に帰り『士師』への連絡を繋いだ。

 「侵攻です! 市壁が紙みたいにブッ壊れそうです! 至急、応援――」

 その隊員が全てを伝え終えるよりも早く。バキバキメキメキッ、と無機質の断末魔が響いたかと思うと、決壊する堤防と同様の有様で市壁が大破した。

 直後、津波のように雪崩込んで来たのは――外界の大地を埋め尽くす程の莫大な量の、"バケモノ"達。

 "バケモノ"達は皆、一様のデザインを有している。体長は2メートル半程でズングリした体格。一対の腕は大地に届くほど長く、体格に対して短い足と相まって四足歩行しているように見える。首が無く、胴体と一体化している顔面には、福笑いのように目鼻口が出鱈目(デタラメ)に配置されている。

 そして、"バケモノ"達の頭上には、太陽のように眩しく輝く輪と、背中には体格に比べて非常に小さいものの、3対の翼がチョコンと生えている。

 衛戦部の者達は数度瞬きして"バケモノ"を眺める内に、ハッと思い至った――そいつらの正体を。

 ニファーナの持つ勇壮で美麗な"それ"とは対極的なデザインであるものの、間違いない。

 ――『天使』だ!

 「クソッ! 『現女神』の侵攻だッ!」

 誰かの叫びは、衛戦部による防衛戦闘の口火となり、大気を破裂させるような魔化(エンチャッテッド・)銃器(アームズ)の掃射音に掻き消された。

 虹よりも尚、目に五月蠅(うるさ)い極彩色の輝戦を引いて、無数の弾丸が雨霰と『天使』に注がれた。着弾の際に起きる破壊現象は非常に多様で、発する爆音は音そのものが発狂したかのような様相を呈していた。

 何千、何万と云う弾丸が費やされたことだろうか。視界はもうもうたる爆塵の帳に阻まれ、『天使』の姿は消えた。

 視界が教える通り、これで『天使』達が消えてくれれば、プロジェスの黄金時代は終焉を迎えることもなかったであろう。

 ――しかし、悲しいかな。帳は数瞬の内に爆ぜるように吹き散らされると、その向こう側から奇抜な『天使』の群が一気に雪崩込んで来た。

 単なる量産型魔化(エンチャント)では、『天使』を傷つけることは極めて困難である。

 事実、攻め入って来た『天使』はどれもこれもが無傷であった。彼らは飢えた狂獣が餌食を求めるかのように驀進(ばくしん)すると、衛戦部の隊員の悉くを破壊の津波の中に飲み込んだ。

 

 『士師』の到着を待つ間もなく、市壁防衛任務に当たっていた部隊員は全滅。

 侵入した大量の『天使』達は何物にも阻まれることなく、外縁の居住区に到達。だが、直ちに蹂躙を開始することはなかった。

 逃げ惑う都民を前に、突如として岩と化したように動きを止めた『天使』達。その合間を無人の野を行くが如く、悠々たる足取りで歩み出てきた1人の人物。

 彼女――そう、女性である――は、"女神"という言葉に正しく相応しい美貌とプロポーションを兼ね備えた、妙齢の美女であった。モデルと比肩して劣らぬ、スラリと長い頭身。無駄な肉がないものの、柔らかな印象を与える輪郭に、性的魅力を引き出す部分の肉は(こぼ)れんばかりに盛られていた。その絶妙のプロポーションを見せつけるかのように、輪郭にフィットしたピッチリした衣装に身を包んでいた。

 美女は朱に染めた唇で、スゥーッ、と深呼吸した。まるで、プロジェスの空気を確かめ味わうかのようであった。

 「…ンフフ」

 大半の男ならコロリと落ちるような艶やかな声を漏らすと。彼女は空を仰ぎ見る。

 浮いた白雲の合間、青空に覆うように広がる蜃気楼――『天国』。プロジェスは女神庇護下型都市国家であるため、勿論、その上空に『天国』を頂いていた。

 プロジェスにおける『天国』は、地上と対面した巨大な島であった。

 それは、"牧歌的"という言葉がこれ以上ない程に似つかわしい、長閑(のどか)な風景であった。険峻とまでは行かない山が在り、それを囲む青々と茂る森林が在り、更にその外側を明るい緑色を呈した平原が広がる。平原の中には、砂や岩や煉瓦(れんが)の色を呈した街道が幾筋も伸びる。街道沿いには点々と集落が見える。集落は無人だが、今にも収穫祭の賑わいが聞こえてくるような活気が見て取れる。

 その風景はまるで、ファンタジーRPGの地図をそのまま写し取ったかのようであった。

 プロジェスの人々は、この穏やかな天国を見ては、不安や失意を慰める事を習慣にしていたと云うのに。この美女は、男を(もてあそ)ぶような濡れた甘い吐息と共に、鼻で笑う声を漏らした。

 「…詰まらない『天国』。欠伸(あくび)が出てしまうわ。

 『天国』って、もっとパァーッとした、見ていても心躍るような光景でなくては…ねぇ?」

 「それでは」

 美女の言葉に応え、背後から男の声が現れる。口調からして気障(きざ)が透けて見えるような言葉の主は、その姿も気障(キザ)である。

 コミックの世界で、女性読者から黄色い声を上げられるキャラクターのように、片目を漆黒の髪で隠した、細い輪郭の整った顔立ち。男性モデルだと紹介されても誰も違和感を覚えないような長身にして細身の体格。体を包むのは戦場に見合う鎧ではなく、埃一つ見出させない、吸い込まれるような黒の燕尾服。

 「貴女色に染め上げればよろしいではないですか、ヌゥル様」

 男は美女の背後に寄り、(くび)れた腰に手を回すと、噛める程に耳に寄せた薄い色の唇で囁いた。

 美女――ヌゥルは男の方に顔を向けると、朱色の唇をペロリと舐めて上げてから答えた。

 「勿論、そのつもりよ、エルビザ」

 そしてヌゥルは、口づけするようにエルビザの唇へと顔を寄せたが――その寸前で顔の向きを変えて、プロジェスの街並みを見据えると。細く長い腕を高々と上げて、高々と一声を上げた。

 「さぁ、わたしの可愛い力達!」

 そして、腕をゆっくりと降ろながら、掌を指差しの形に変えると。眼をナイフのように鋭く細め、長い睫毛(まつげ)の下にある赤茶の瞳孔を妖しくも残酷に輝かせて、吐息するようにポツリと号令する。

 「蹂躙してしまいなさいな」

 転瞬。不気味な形を『天使』達が、ザッ! と一斉に足音を立てて体を構えると、獣のように猛進を始めた。莫大な数の『天使』の突撃に大地は震え、街並みの窓ガラスは(ことごと)くガタガタと音を立てる。

 そんな『天使』の津波の中から、山のような放物線を描いて飛び出す影が現れる。『天使』とは全く異なる姿形をした彼らは、真っ当な人類のそれをしている。但し、強烈な跳躍力からも推し量れるように、尋常ではない身体能力を有している。彼らに近寄ったならば、『天使』と同じように、脳を直接鷲掴みにされるような『神霊圧』を覚えることだろう。

 飛び出した影の正体は、『士師』だ。総勢、82を数える。

 そして、ヌゥルと呼ばれた美女こそ、この『天使』と『士師』を従える『現女神』。"陰流の女神"ヌゥルだ。

 そして彼女の側に控えるのは、83人目の『士師』にして彼女の右腕であり愛人である筆頭の部下。"黒麗の士師"エルビザ・フローゼンである。

 『天使』と『士師』の群が街並みを覆い尽くし、方々から人々と建築物の上げる阿鼻叫喚が轟く中。ヌゥルとエルビザは官能的に唇と舌を絡め合わせて、妖艶な接吻を交わした。

 戦場には余りにも似つかわしくない、その扇情的行為が『女神戦争』の始まりを告げた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 "夢戯の女神"対"陰流の女神"。

 その戦況は初め、"夢戯の女神"の優勢で進んで行った。

 これは当然の事態と言える。『現女神』の力の源である信心は、信徒との心的距離が遠くなるほどに減衰する。戦場であるプロジェスはニファーナのお膝元だ。信心は露ほども減衰せずに、彼女に力添えしていたことだろう。

 対してヌゥルは、信徒の大半を自身の支配下にある都市国家に置き去りのままである。且つ、彼女は苛烈な求心活動によって強引に信徒を増やしたクチであるから、信徒との心的距離はかなり遠い。信仰力を比較した場合ならば、ニファーナに圧倒的な軍配が上がっていた。

 故に、ニファーナの有する勇壮たる騎士状の『天使』達は、中世地球時代の怪物退治物語よろしく、ヌゥルの不気味な『天使』達を圧倒し次々と討ち果たして行った。

 また、市軍警察の衛戦部と『士師』達の連携も素晴らしかった。『神法(ロウ)』を持ち合わせぬ"常人"が『天使』を撃破するのは、不可能ではないが(現に星撒部の面々がアオイデュアでやってのけたように、卓越した技量を用いることで可能である)困難を極める。しかし、『士師』の絶妙なフォローが衛部の人員に打倒『天使』の魔術的方策を与え、戦闘を優位に進めて行った。

 「我らがニファーナ様に敵うワケがない! 身の程を知れ、不良女神がッ!」

 情勢に安堵した都民は、避難所内で"陰流の女神"の撃破するニュースを見聞きする度に、握り締めた拳を振り上げて口々に声援と歓声を(とどろ)かせた。

 ――しかし。プロジェスの盛況も、やがて曇り掛かってゆく。

 その最大の要因は、ヌゥルが所持する『士師』の質だ。彼女の『士師』は総勢83とニファーナの5倍以上の数を誇る。加えて、その大半が戦闘に念頭に置いた性質を持つ。

 対するニファーナの『士師』達は、プロジェスの繁栄を念頭に置いて志願した者達ばかりのため、戦闘向きでない性質を持つ者も多い。

 故に、『天使』は圧倒出来ても、『士師』と相対するとなると十中八九は苦戦を強いられる。

 戦車や飛行戦艦は幼児の玩具のように投げ飛ばされ、捻り潰されて行った。悲壮な白兵戦を挑む兵員達は、『神霊圧』によって魂魄障害を引き起こした挙げ句、無抵抗のまま首を()ねられていった。

 金属と動力用霊薬(エリクサ)が散らばる崩壊の光景の中、無惨な肉片や鮮血が鮮やかにしておぞましい彩りを与えてゆく最中。衛戦部の指揮官も『士師』達も、唇を噛み破きながら苦渋の決断を下し続けた。

 「――撤退ッ! 体勢を立て直す!」

 しかし、何処まで後ろに下がろうとも、体勢を立て直せたのは指折り数えるくらいの回数しかなく。戦線はヌゥルの戦力によって徐々に国土の中心へと迫って行った。

 

 「…さっさと白旗を振っちゃたら、ダメなのかな?」

 行政区の中心にある、豪勢な城を思わせる国会議事堂。その最奥にある会議室で、ニファーナがそんな事をポツリと漏らした。

 途端に、室内に居る『士師』も議員達も、(ことごと)く烈火のように顔色を赤に染めて喚き上げた。

 「何たる愚かな事をッ!

 それでは、父祖が血と汗を流し、揺るぎない独立を勝ち得たこのプロジェスの歴史に、怯懦(きょうだ)極まりない汚点の終止符が打たれてしまうのですぞ!

 何としても、勝ち抜かねばなりませんッ! 我ら自身の、そして父祖達の誇りの為にもッ!」

 「でも、状況はあちらの方が優勢でしょう? 全然ひっくり返せないじゃん。

 勝てる見込みなんてない。そうでしょう? そこに、兵隊さんをドンドン投入して、どうなるの?

 兵隊さん達は覚悟の上に戦ってるってことは、言葉として理解してるつもり。でも、兵隊さん達だって、私からすればかけがえのない都民で信徒なんだよ。見込みのない戦いに徒に突撃させて…命を落とさせるなんて…ダメだよ。

 命有っての物種じゃない?」

 「ニファーナ様は、誇り高く戦い散るよりも、慚愧(ざんき)の生を繋げと(おっしゃ)るのか!?」

 「"ざんき"なんて難しい言葉は分かンないけどさ…」

 ニファーナは卓の上に山と置かれたクッキーを一つ取り、ポリポリと頬張りながら言葉を続ける。

 「生きてさえ居れば、何かは出来るじゃん? 慣れることだって、努力することだって出来る。

 今回の戦いで白旗振ったら、そりゃあ初めは、大変な想いをするだろうね。上に立つ人…いや、女神か…が変わるんだもの、これまでとはガラリと変わった生活を強いられるんだろうね。

 でも、それって本当に悪いことかな? 不幸なことかな?

 住めば都、って事になるかも知れないよ?」

 あくまで穏便且つ消極的な打開策を提示するニファーナに、議員達は皆が皆、首を横に振った。中には、失望の混じった深い溜息を吐く者も居た。

 議員の内の1人が語った、

 「ニファーナ様。失礼ですが、貴女はこの都市国家(くに)の血汗を理解するには、余りにも若過ぎます。

 貴女や、貴女に近しい世代は、苦役を知らずして平穏を手に入れておりますからね。事無かれで今回の件が収まれば万事解決であると、納得する事でしょう。

 しかし、我らはそうは行きません。手放しの降伏、手放しの従属など、死よりも恨めしい恥辱として我らを生涯、一瞬たりとも休むことなく(さいな)むことになりましょう」

 「…だからって、死んでも何の解決にもならないじゃん。

 それこそむしろ、無責任な放棄なんじゃない? 生き残った人達や問題を顧みない、逃避なんじゃない?

 それよりも…」

 ニファーナが未だ続けようとすると、議員の1人がダンッ! と両手で卓を(したか)かに叩いた。そして、白に限りなく近い灰色の頭髪と髭の合間を炎のように真っ赤に染め、青筋を浮かべながら叫んだ。

 「もう沢山ですッ! もううんざりだッ!

 無礼は承知の上ですが、此度の戦争に付きましては、ニファーナ様には口出しせんで頂きたいッ!

 我らは我らで、戦い続けますッ!」

 そして議員達は、叫んだ者を先頭にして大股でサッサと会議室を後にして行った。

 後に残ったのは、クッキーをポリポリと食べ続けるニファーナ。そして、彼女の両隣に立つクルツとエノクである。

 エノクが議員達の去る姿を無言で見送り続ける一方、クルツは小さく、ハァ、と溜息を吐くと。議員の姿が全て見えなくなった頃を計らって、ニファーナに声を掛ける。

 「ニファーナ。君の言わんとしている事も分かるよ。

 君自身が望むと望まざると構わずに、君はこの都市国家(くに)を擁する『現女神』だ。しかも、民草と同じ目線を持ち、彼らの事を一心に考えている善神だ。

 そんな君からすれば、一刻一刻と民が命を散らしてゆくこの状況は心底苦しいだろうさ。

 君はいつも何食わぬ顔をしてみせるが、その心内では繊細に物事のバランスを取ろうと必死になっている事を、僕はよく知ってるよ。幼馴染みなんだからね。

 …でもね」

 クルツは笑みを浮かべていた顔をキッと険しく引き締めて、言葉を続ける。

 「今回は、君のやり方じゃダメだ。穏便だけでは、絶対に済まされない。

 "陰流の女神"は完全な悪神だ。君も今までの報告で聞き知っただろう? 恐怖で人の心を(むし)り取る暴君だ。彼女はいくつもの都市国家を暴力で従わせ、頭を垂れる事を強要しているんだ。

 そんな彼女に白旗を上げた所で、どうなる? 無抵抗は何の解決にもならない。惰弱な獲物としか認識しない。ただただ彼女らを図に乗らせ、横暴な振る舞いを引き出すだけだ。

 待つのは、陰惨な未来だけだ。

 議員達の言う通り――僕らは勝利を、自由と独立を、勝ち取らねばならない」

 クルツは言葉を切った。ニファーナの納得の言葉を待ったのかも知れない。

 ニファーナはポリッとクッキーの端を噛んだが、そのまま舌の上で弄ぶようにゆっくり咀嚼すると。音を立てずに静かに飲み込んでから、ポツリと語る。

 「…勝ち取れる見込み、ないじゃん…。

 戦力が違い過ぎるもん…。

 徹底抗戦したところで、皆が殺されるだけじゃん…そんなの…そんなの…」

 するとクルツは、ニッコリと笑ってポンッとニファーナの肩に手を置くと。膝を折ってニファーナと目線の高さを同じにして対面し、ゆっくりと、しかし力強く語った。

 「大丈夫。

 この都市国家(プロジェス)は歴史的に、何度も分の悪い戦いを強いられてきた。…まぁ、戦いって行っても、本格的な戦争はこれが初めてだけどね。

 でも、その度に必ず乗り越えて来たんだ。

 僕らは"陰流の女神"からすれば、アリの群なのかも知れない。でも、アリは寄り集まり、工夫を凝らす事で、巨大な蟲をも打ち(たお)す事が出来る。

 "一寸の虫にも五分の魂"――その事を、奴らに痛いほど教え込んでやるさ。

 それに、僕は――」

 クルツは立ち上がり、自らの胸とドンと叩いた。

 「アリじゃない。

 君から絶大な力を授かった、『士師』さ」

 そしてクルツは、踵を返して会議室の扉へと向かった。

 「クルツ兄さん…!」

 ニファーナは思わず席を立ち、クルツの背中に向けて名を呼び掛ける。その時の表情は、これまでエノクが見たことのない、余りにも烈しい感情――クシャクシャに潰れて、ボロボロに零れ落ちそうそうな泣き顔であった。

 だがクルツは、一瞬たりとも足を止めず、扉の向こうへと姿を消した。

 2人だけとなった会議室に暫し、沈黙の帳が降りた。

 やがて、ニファーナは鼻を(すす)る音をさせてから、(もだ)したままのエノクに顔を向けた。その時のニファーナの顔は、嗚咽がよく漏れなかったものだと感心するほどに、涙でグシャグシャに濡れ崩れていた。

 「ねぇ、エノクさん…! あなたはどう思うの…!?

 わたしは、間違ってるの…!? とっくに過ぎ去った昔の誇りの為に、命を懸ける方が正しいの…!? どうにでも出来る未来を捨てるべきだって言うの…!?」

 エノクは、逡巡(しゅんじゅん)した。今まで黙し続けていたのは、純粋に、何を語るべきか判断しかねたからだ。

 自分はプロジェスの出身者ではない。プロジェスが背負ってきた歴史の重みを真の意味では理解していないし、そもそも理解出来るのは可怪(おか)しいと思う。

 客観的に合理的な意見なら述べられたかも知れない。だが、感情が圧倒的な渦を巻く空間で、無機質な言葉どんな力を持ち得ようか?

 エノクはたっぷりと逡巡した。ニファーナの泣き顔が痛い程に網膜に突き刺さっていたが、かと言って気休めを口にするのは間違いだと確信した。それはニファーナを、自らの主を(おとし)める行為に他ならない。

 故にエノクは、痛む心を抱えたまま、考えに考え抜き――ようやく、震える唇から言葉を紡いだ。

 ――その言葉は、今も尚エノクを(さいな)む、彼の人生最大の汚点であった。

 「…私には、判断いたしかねます」

 それは、純然たる素直な意見であった。

 「ニファーナ様の意見にも、多分に一理は有ります。

 "命さえ有れば"…その言葉の通りです。人はどんな過酷な状況に置かれようとも、生きて行くことが出来ます。そうでなければ、砂漠や氷原を住処とする者達は存在し得なかったことでしょう。そして彼らは不幸かと言えば、そうではありません。彼らには彼らの幸福がある。

 この度の戦で例え我々が白旗を上げ、歴史が蹂躙されて書き換わろうとも、我々は何としてでも生きて行くことができましょう。

 その日々は、今までに比べれば苦渋となることでしょう。それでも、幸せを感じる瞬間とてありましょう。

 …しかしながら、クルツ殿方の意見にも一理有ります」

 ニファーナは黙って聞いていた。嗚咽を漏らすこともなく、エノクの意見と向き合っていた。

 エノクは続けた、

 「彼らの言う通り、"陰流の女神"の苛烈さは酷なものがあります。負けた先に強いられる苦渋がどの程度のものとなるか、全く予想が付きません。

 日々が生き地獄になってしまうのだとすれば、心弱い者達は小さな幸福など目にも入れず、ひたすらに絶望して命を絶つことにもなりましょう。

 同じく死を受け入れるのならば、せめて憎き敵に一矢報いて…と考える者も居ることも、私は十分に理解できます」

 「…じゃあ、わたしはどうすれば良いの…?」

 こんな曖昧な言葉を連ねるばかりならば、そう聞き返されるだろうことをエノクは十分に覚っていた。だが、答えなど用意出来るワケも無かった。

 当時の彼自身、その答えを知りたかったのだから。

 故に、最悪に愚かな答えを口にしてしまった。

 「…分かりません」

 毒にこそなれ、何の益も生まぬ一言であった。

 

 今のエノクはこの場面を回想する度に、己の身を掻き(むし)り、引き裂きたくなる衝動に駆られる。

 (我が主に寄り添い助ける『士師』として選ばれて置いて、なんたる失言かッ!)

 そして今のエノクならば、当時のエノクにこう即答するのだ。

 (私が、全ての敵を討ち滅ぼしてみせる…そう叫び、駆け出すべきだったのだッ!)

 

 ◆ ◆ ◆

 

 『女神戦争』の開始から、はや5日が経過した。

 プロジェスの国土は7割方が"陰流の女神"に蹂躙されてしまった。市軍警察は衛戦部に止まらず、総勢を以て敵と当たっていたものの…結果は散々たるものであった。悲壮な決意を秘めた愛国者――同時に篤信者――達は、惨たらしい血肉と臓物の破片となって、瓦解した大地に飛散して行った。

 壊走、壊滅、全滅――そんな言葉が日に何度も何度も会議場を行き交い、苦言や溜息が途切れることはなかった。

 「…いっそ、耳なんて無くしてしまいたい…」

 そんな事を漏らして塞ぎ込んでいたニファーナであったが、彼女の顔を輝かせる唯一の報告があった。それは、彼女の『士師』達の活躍であった。

 戦闘には不向きな性質を持つ彼らであったが、苦難を工夫と努力で乗り切ってきたプロジェスの血の成せる(わざ)であろうか、良く戦い抜いていた。これまで誰1人として欠ける事なく、『天使』の大群を討ち果たしたり、敵『士師』を撃破したりといった大成果を上げていた。

 特に目覚ましい働きをしていたのは、"近衛の士師"クルツであった。

 彼の働きは、正に獅子奮迅であった。ニファーナから賜った『神法(ロウ)』で出来た輝かしい鎧で駆け巡り、『天使』達を紙切れのようにバッタバッタと両断してゆく…とのことだ。彼は常に先頭に立ち、背後に控える市軍警察の者達を誰1人脱落させることなく、指揮に交戦にと激しく立ち回り続けていた。

 「流石は、クルツ兄さんだね。

 昔から、何でも出来た人だもんね」

 クルツの活躍の報告を耳に入れる度、ニファーナは笑顔を見せて、隣に付いて回るエノクに言葉を掛けていた。

 ――一方でエノクは、先述した通り、戦場には足を運ばず、常にニファーナの傍に居た。

 別に戦闘がこなせないワケではない。現に、以前は市壁付近で暴れ回っていた魔法性質動物の対処に当たることなど日常茶飯事であったほどだ。

 それでも彼がニファーナな傍に居るのは、クルツやアルビドと言った『士師』仲間からの願いの為であった。

 「ニファーナ様の不安は、重々承知だ。

 だからこそ、誰か安堵させられる者が傍に居る必要がある」

 2人からその役目を請われたエノクは快諾し、この役割に甘んじていた。

 加えて――今回の戦いに対して己はどんな立場で、どう振る舞うべきなのか。相も変わらずその疑問に答えを出す事が出来ない事も、エノクの足を戦場から遠ざけている要因にもなっていた。

 元来の職務である牧師と言う役柄、人の――この場合は神であるが――話に耳を傾け、相槌を打つのは得意中の得意だ。

 「見込みが無いなんて言っちゃったけどさ…もしものもしもの、またもしもの事かも知れないけど、勝負をひっくり返せたりして!

 ねぇ、エノクさん!? そう思えてこない?」

 問われたエノクは、神に仕え諭す者の微笑みを浮かべて、首を縦に振って答えた。

 「可能性は否定できません。

 生来、ヒトとは創造主より無限の可能性を賜れた生物。加えて、今やヒトは無限の可能性を単なる可能性でなく、実現化する魔法科学を手に入れいました。

 不可能を断じる事は、今の世では滑稽ですらありましょう」

 「だよね、だよね!

 クルツ兄さんもアルビドじいちゃんも、他の皆も凄く頑張ってる!

 "陰流の女神"が沢山の『士師』を率いても、よく張り合ってる!

 それなら、『現女神』であるわたしがキチンと力を貸せば、もっと対等に――ううん! 優位にすら立てるかも!」

 「民草に愛されておられるニファーナ様です。その信仰の力は、"陰流"より強大でありましょう。

 問題は力の使い方でしょうか、私で宜しければ幾らでも頭をお貸し致します。我々は、我々の出来る戦いを始めようではありませんか」

 ニファーナのはしゃぐ姿を見ていると、エノクは段々と気乗りがしてきていた。『士師』は仕える主の状態に影響を受けるのであろうか? それとも単に、ニファーナとの会話を通して、2方向から引っ張り(さいな)懊悩(おうのう)に、第3の道を見つけられそうな気がしてきたからかも知れない。

 どちらが真にせよ、この時のエノクには些細な事であった。

 「うん、やろう!」

 ニファーナの、今まで見せたことの無い活き活きとした笑顔の(うなず)きの前には、どんな細やかな考察も吹き飛んでしまった。

 

 さて、2人が方策を練ろうと意気込んんだ――その時。

 出鼻を(くじ)く凶報が、2人の下に舞い込んで来た。

 それは、(つまづ)いて転ぶ程度の小石ではない。頬面を殴りつけ、眼底までも砕くような、余りに強烈な衝撃であった。

 

 「ニファーナ様ッ!」

 『現女神』の名を呼ぶ声と共に、部屋の扉がバンッ! と勢いよく開いた。そして室内に飛び込んで来たのは、大きく肩で息をする1人の青年であった。

 灰色系統の迷彩柄の衣服を着込んでいるところを鑑みると、彼は市軍警察の衛戦部の兵員のようだ。若さから考えて、見習いの使い走りと言うところだろうか。

 相当急いで走って来たようで、全身から湯気が噴き出しそうな程に大量の汗をドバドバと流していた。しかし、その割には顔は上気しておらず、それどころか真冬の冷気に当てられたように青ざめていた。

 「ど、どうしたの?」

 ニファーナが尋ねると…青年は夢から醒めたようにハッとして、それから急に俯いた。そして、声にならぬ言葉を舌の上で転がし、ゴニョゴニョと呟きながら、チラチラとニファーナに視線を投じた。

 「な、なんなの…?」

 ニファーナが尋ねても、青年は入って来た勢いの割には、スッパリとした行動を起こそうとしなかった。そこでエノクは、少し苛立ちを露わにしながら首を左右に振り、語気強く命じた。

 「我らが『現女神』の御前である。

 無駄なお時間の浪費を強いるばかりか、そのような態度は無礼千万であろう。

 ()く、答えよ。君は何を伝えに来たのか?」

 エノクの語気のみならず、鋭い視線に当てられた青年は、ゴクリと固唾を飲み下すと。意を決したように瞼を閉じて深呼吸し、そしてクワッと目を見開いて、語った。

 ――残酷なる事実を。

 「『士師』クルツが、戦死しました」

 

 エノクはクルツの最期の様子について、語れる情報を殆ど持ち合わせていない。

 彼の訃報を携えた伝令の青年はクルツと共に戦場で働いていたワケではなく、彼もまた人伝(ひとづて)に命令と状況の説明を受けただけだった。

 彼は聞き知ったクルツの最期を、こう伝えた。

 「複数の『士師』による奇襲によって、命を落とされたとのことです」

 ――この結果は、十分に予測し得るものであった。

 プロジェスの『士師』の内、最も目覚ましい活躍を遂げているクルツ。彼が敵の目に留まらないはずがない。むしろ、彼を打ち(たお)し、プロジェスの意気を(くじ)く事を考えるのは当然と言える。

 クルツの遺体は、残っていない。プロジェスには彼を惜しみ、功績を讃える荘厳な墓標があるものの、その下に埋められているのは彼の遺品ばかりである。

 『神法(ロウ)』によって体を神聖物へと"作り変えられた"彼らは、死すると肉体は神霊力へと分解され、宙空に蒸発してしまうのだ。

 彼の遺体を辱められるような真似をされなかったのは幸いと言えるが。戦後に行われた彼の葬儀は、主役を欠いた何とも味気ないものになっていた。ニファーナは親しい故人の死に顔にも対面出来ず、泣くことも出来ずに、参席の始終は何とも奇妙な表情を浮かべ続けていた事を、エノクはよく覚えている。

 

 場面は戦時の回想に戻る――。

 実の兄妹のように育ってきたヒトを亡くしたニファーナは、折角盛り上がって来た意気を急激に(しぼ)ませると、塞ぎ込んで自室に()もってしまった。

 エノクはそんな彼女に、何の言葉も掛けられはしなかった。

 ニファーナが悲しみを打ち明け、慰めを求めて来たのならば。エノクは万語を尽くして優しい言葉を掛け、彼女を諭したことだろう。だが、他人(ひと)の温もりを求めず、ひたすらに塞いだ相手に何を語れると言うのか。如何に牧師だと言えども、この繊細な問題を難解極まりなかった。

 ニファーナが部屋から出ぬまま、日が暮れる時刻が到来すると。彼女に追い打ちを掛けるように、さらなる悲報が届いた。

 

 今度は――第二の『士師』であったアルビドの訃報であった。

 

 老齢である彼はクルツのように前線で腕を振るうことは無かった。代わりに、後方において生来の老獪さを活かし、指揮官として働いていた。

 そんな彼は、本営ごと部隊を殲滅させられてしまい――彼自身も命を失ったのであった。

 ――この時、エノクにも悲報が届いた。

 彼をプロジェスに招いた恩師の訃報であった。

 恩師は人々を避難誘導している際に、避難民と共に"陰流"の一勢によって薙ぎ倒され、落命していた。

 彼の遺体は無惨にも四散し、飢えた狂獣に食い散らかされたような痕のような現場では、肉片が一体誰の物なのか区別が付けられないような状態になっていた。

 

 (私が…私が、戦場(いくさば)に立っていれば…ッ!

 迷いなど()て、主のためのみ戦う武器に徹してさえ居れば…!)

 ギリリと歯噛みして後悔するものの、彼のなけなしの理性がポツリと語りかけた。

 (『士師』とは言え、お前1人が立ち上がったところで、果たして戦況に如何ほどの影響を与えられると言うのか?)

 その問いに対して、実利的な答えを導き出すことが出来ず、エノクはますます押し黙ると共に、情けなさに五体を引き裂きたくなる程の衝動を得るばかりだった。

 

 人々の苦悩に暗い質量を与えるような、重苦しい夜の帳が降りた。

 プロジェスの行政機関の者達は軒並み頭を抱え、目の前にちらつく破滅的未来に怨嗟の唸りを上げていた。

 都内では夜に入っても、戦闘はまだまだ続いていた。"陰流の女神"の勢力は、号に"陰"と付くだけあって、夜戦を意気揚々とこなしてきていた。プロジェスの防衛戦力は休むことも許されぬまま、決死の交戦を続けていた。

 エノクが議事堂の窓からプロジェスの夜を眺めると。火薬や魔法に由来する色とりどりの光の爆裂が雷光のように瞬く様が何度も見て取れた。

 (この瞬きが起こる度に、民は命を落としているのだろうか)

 エノクは深い溜息を出さずにはいられなかった。

 ふと、空を見上げてみた。

 雲が少なく、真円に近い月がクッキリと見える、美しい夜空だった。そこには勿論『天国』も見て取れるが、その姿は随分と様変わりしてしまった。

 長閑(のどか)な風景は半分より尚多い面積が、別の風景に侵食されていた。侵食しているのは、ネオンサインが喧しく輝く猥雑な摩天楼の風景であった。"陰流の女神"に由来する『天国』である。

 (流れは、変えられない…か)

 再びエノクが深い溜息を吐いた、その時。議事堂内に突如、放送が響く。

 「皆、大会議堂に集まって」

 マイクに不慣れなのか、音割れしながら響く声の主は…ニファーナであった。

 「大事な話があるの」

 

 状況を覆す事に乗り気でない『現女神』に、今更何を頼れると言うのか?

 行政機関の者達の胸中には、そんな想いが去来していたことだろう。故に、大会議堂に集まる彼らの動作からは渋々の(てい)が見て取れたし、席に着いても顔をしかめてばかりであった。

 不満は隠すこともないほど膨らんでいたと言うのに、誰1人として欠けることなく議事堂に集まったのは、何だかんだ言っても都市国家(くに)の要である『現女神』への義理であろうか。

 (ニファーナ様の人望が為せる光景だ…と思いたいが)

 すり鉢状になった大会議堂の中心、演壇の傍に立つエノクは、席に座す者達野顔を視線だけで見回しながら、そう願った。

 議事堂で努めを果たしている者達は全員集まったが、大会議堂は満席にはならなかった。行政機関の者の中には、議事堂を飛び出して、現場で直接指示を取りに行った者も多数居る。議事堂の席が埋まっているのは半分と云ったところだ。

 皆が席に座し、大会議堂への人の入りがなくなっても、演壇を前にして立つニファーナは約5分程(もだ)したままであった。他に誰も入る者が居ない事を確かめているかのようであった。

 ――やがて。沈黙のまま無為の時間が流れる事に不満を覚えた者達が、ザワザワとどよめき出した頃。

 ニファーナは、桜色の唇を演壇のマイクに近づけ、そして語り始めた。

 「…皆が貴重な時間を削ってくれていることは、分かってる。

 だから、単刀直入に言うね」

 ニファーナは深呼吸を一つ挟むと。これまでののんびりした様子から想像も出来ないほどに凜とした表情を作り、そして言葉を続けた。

 「この戦争は、私が終わらせる!」

 ――この時のニファーナは、岩の如く堅く凍り付いた巨大な氷塊の如きであったが。

 エノクには、それ故に今にも脆く亀裂が入りそうに思えて、仕方が無かった。

 

 - To Be Contiued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Enigmatic Feeling - Part 4

 "私が終わらせる"。

 その言葉の意味を、行政機関の者達は図りかねた。或る者は首を傾げ、或る者は眉根に(しわ)を寄せた。

 (ただでさえ抗戦に消極的だったニファーナ様だ。クルツ様を失ったことで更に消沈し、我々の意志を()みせずに勝手に幸福してしまうのでは?)

 (いや、クルツ様を失った事でようやく憤りが芽生え、民の上に立つ『現女神』としてようやく戦う意志を固めてくれたのではないか?)

 大会議堂の衆目が思い思い頭を巡らせていると。ニファーナは手短に言葉を継いだ。

 「これは、『女神戦争』なんだよね? 『現女神』同士の問題なんだよね?

 それなら、『現女神』であるわたしが決着を付けるべきなんだ。

 他の誰かに押しつけるようなものじゃなかったんだ」

 その言葉に、ニファーナの奮起を望んでいた者達の口から、「おおっ!」と歓声が上がった。

 「それでは、ニファーナ様が戦場に立たれると言うことですか!?」

 誰かの言葉に、ニファーナは迷うことなく首を縦に振り、そして答えた。

 「うん。

 そして、"他の誰も立たせない"」

 その言葉に誰よりも早く反応したのは、エノクであった。この場に置いてはひたすらにニファーナの支えに徹しようと考えていたのだが。反射的に言葉が口の中から滑り出た。

 「ニファーナ様、"他の誰も"とは?

 …まさか、お一人で"陰流"の全勢力を相手にするつもりではありませんよね?」

 『士師』および衛戦部の働きによって、"陰流"の勢力には少なからぬ損害を与えていることだろう。だが、未だ60を越える数の『士師』を擁する"陰流の女神"の勢力を単独で打破出来るとは、到底思えなかった。

 "獄炎"や"月影"と言った、苛烈勇猛で知られる『現女神』ならば、いざ知らず。暢気な(かまど)の女神のように暮らして来た"夢戯"が彼女らと肩を並べるなど、全く想像できなかった。

 だから、ニファーナが首を縦に振った時は、エノクは心臓が(とろ)ける程に安堵した。

 「勿論、そんな事はしないし、出来っこない。分かり切ってるよ。

 だからね…」

 続く言葉は、エノクを含め、その場に居る何者もの眼を見開かせた。

 「わたしが、"陰流の女神"と一対一で勝負を付けるよ」

 「そんな…馬鹿なッ!」

 即座にそんな声を上げたのは、唯一人ではなかった。声は上げずとも、顔を青ざめさせて、顔の下半分を覆ったり、冷や汗が吹き出した額を撫でたり叩いたりする者が続出した。

 当たり前の反応だ。相手は、自らも戦場に立ち、自力で排敵出来るだけの卓越した戦闘能力を持つ『現女神』。対してニファーナは、戦闘の経験など皆無であった。それどころか、『現女神』として降臨して後、神としての姿を現す事も自ら能力を振るった事さえなかったのだ。

 どう考えても、分が悪過ぎた。

 「無茶です! 考え直してください!」

 人々は口々に叫んで引き留めようとしたが。ニファーナは頑として首を横に振り、彼らの切望を(ことごと)く拒んだ。

 「わたしは、今まで暢気に過ごすばかりだったけど、確かに、この都市国家(プロジェス)に座す『現女神』なんだ。そのわたしからすれば、こんなわたしでも信心を抱いてくれる皆がこれ以上、命を散らして行くのは耐えられないの…!

 これは、『女神戦争』なんだよ! それなら、当事者同士が決着を付けるべきなんだよ!

 だって、『女神戦争』なんて詰まるところ、『天国』を欲しがる『現女神』どもの事情に()るんだから!

 『士師』だって誰だって、関係ない! 巻き込まれる必要なんてない!

 『現女神』同士で戦えば、それで済む話なんだ!」

 「ですが、ニファーナ様!

 キングの駒だけを用いてチェスをする者が、この世の何処におりましょうか!

 確かに、戦の勝敗は大将の勝敗を以て決まりましょう! だからと言って、大将だけで殴り合うなど言う話はありますまい!

 如何に自分たちの大将を守るか、如何に敵大将に逃げ場を与えず(たお)すか、それを念頭においているからこその戦争なのです!

 子供の喧嘩とは違います!」

 「同じだよ」

 ニファーナはピシャリと反論した。

 「自分が負けたくないから、他人を巻き込んで盾にしてるだけ。それが戦争だよ」

 「その認識は間違っています!

 勝敗によって命運が左右されるのは、『現女神(あなたがた)』だけではないのですよ!

 貴女様の敗北は、我々全てを巻き込むのです! それ故に、我々は貴女様に命じられなくとも、必死で戦いに挑んでいるのです!」

 この発言の他にも、莫大な数の発言が大会議堂に渦巻いた。言葉の力で、演壇が根こそぎ吹き飛ばされてしまうのではないか、と云う勢いで非難やら野次が飛んだ。

 エノクはなんとか平静を保とうとしていたが、肝はヒヤリと冷え切りっ放しであった。

 (ニファーナ様は、身内を亡くされて感情に走り過ぎている…!

 お止めしなければ、破滅は明白だ…!)

 エノクは(はや)る心を極力抑え、出来うる限り穏便な振る舞いでニファーナを引き留めようと、肩に手を掛けようとしたが。

 その動きがピタリと止まってしまったのは――そればかりか、大会議堂の雑言の渦がシンと凪いだのは、ニファーナが不敵な笑みを浮かべたからだ。

 その笑みは、(はらわた)深くに刃を(えぐ)り込まれてもなお、強がってみせる時のような凄絶なものであった。

 「みんながどう言おうと、もう引き返せないよ…!

 もう、わたしの言葉は"陰流の女神"に届いてるもの!

 ――ねぇ!」

 ニファーナが堂内を(ろう)さんばかりの声を上げると。演壇の手前に、3Dホログラムによる巨大映像が投影されたかのように、巨大な艶女の姿が(にわか)に現れた。

 朱色に塗られた唇を吊り上げ、三日月よりなお細めた(まなこ)で見下した笑みを浮かべたその女は、紛れもなく"陰流の女神"ヌゥルであった。

 「聞いたでしょう、"陰流の女神"!

 決闘よ! 一対一、正々堂々の決闘よ!」

 この映像を作った力は、ニファーナのものか、それともヌゥルのものか。エノクは今なおその判断が付かない。だが、当時にその判断が付いたとしても、何の実益も生まなかった事だろう。

 ニファーナがヌゥルに宣言して尚、堂内に居る者達はニファーナを引き留めようと、口をパクパクさせたり、プルプルと震える指を伸ばしたりしたが。突如、堂内を支配した『現女神』2柱分の神霊圧が、彼らの動きと思考を止めてしまった。

 有無を言わさぬ空間の中で、ヌゥルはペロリと舌舐めずりし、明らかに卑下と[揶揄(やゆ)の混じった言葉を放った。

 「私は構わないわ。

 雑魚(ザコ)のクセして、アリのようにホコホコ湧くバカ達を一々潰して回るのにも、うんざりしてきたところだし。

 一発勝負で決まるなら、私としてもスッキリするわ。

 だけど…」

 ヌゥルは長く細い指で自らの片頬を包み、クスクスと笑った。

 「あなたこそ、本当に良いのかしら?

 後悔するのではなくて?」

 「しないわ」

 ニファーナは一瞬たりとも間を置かず、ピシャリと言い返した。

 「後悔なんて、絶対にしない」

 「それは、自信満々ってことかしら?

 あら、怖いわねぇ」

 言葉に見合わぬ、余りにも相手を見下した言い様。"自信満々なのは、むしろこちらの方だ"と言う声が聞こえてきそうだった。

 「それじゃあ、"夢戯"ちゃん。決闘は何時にするのかしら?」

 「明日よ。時間は午後2時。

 場所は東3番入都ゲート前」

 「東3番って、場所が分からないのだけど?」

 「最初にあなた達が侵入してきた箇所のすぐ傍にある入都ゲートよ」

 ニファーナがそんな辺鄙(へんぴ)な場所を選んだのは、他でもない、これ以上の被害を出さない目論見だからだ。

 つまり、ニファーナは本気で、全能力を以てヌゥルと一戦交えるつもりなのだ。

 …それが2柱の女神は2、3語言葉を交わすと、連絡を途切った。

 同時に、堂内の神霊圧がプツリと消滅。気圧されて動けなくなっていた者達は、呼吸をも殺していたらしく、皆大きく息を吐いて喘いだ。

 「…ニファーナ様! 本気ですか…!」

 「明日とは、余りに性急ではありませんか!?」

 「ニファーナ様に、戦いのお心得はあるのですか!?」

 喘ぎの合間にそんな言葉が続々と投入されるが、ニファーナは答えることなく、はや演台からスタスタと離れて行った。

 「わたしの用事は終わったよ。

 以上、解散っ!」

 ニファーナの一声に対し、堂内の者達は慌てて席を立ってニファーナに詰め寄るべく、ゴミゴミと通路に殺到したが。転瞬、彼らの動きを神霊圧で停止させたのは、エノクであった。

 「ニファーナ様がご自身で決意なされたことだ。

 信徒である貴方(あなた)がたが、何を口出しすると言うのか」

 エノクは鋭い視線で彼らを威嚇しながら、普段より足音を大きくして歩くニファーナの(かたわ)らに沿った。

 そして1柱と1人は、混迷の大会議堂を後にした。

 

 "何を口出しすると言うのか"。

 そんな台詞を吐いたエノクであったものの、彼もまたニファーナの言動に納得しているワケではなかった。

 むしろ…。

 (一体、何をお考えなのだ…?)

 エノクは首を傾げたくなる衝動に駆られて仕方がなかった。

 そんな最中、エノクはニファーナの後を付いて、彼女の部屋へと入った。大会議堂での決闘宣言の前には独りで塞ぎ込んでいた彼女だが、エノクの事を留めたりせず、すんなりと中に受け入れた。

 「…馬鹿な事をしたな、って思ったでしょ?」

 自室に入るなり、大きなソファに身を(うず)めたニファーナは、苦笑いを浮かべながらエノクに問うた。

 エノクはやんわりと世辞を口にするべきかと思ったが、すぐに考え直し、ありのままを伝えるべきだと決意した。

 優しい毒を飲ませるよりも、苦い良薬を飲ませる方が、真に主の(ため)である。

 「正直に言えば、無謀の極み、かと思います」

 厳しい表情のエノクの言葉に、ニファーナはますます苦々しさを大きくして、バツが悪そうに頬をポリポリと掻いた。

 「だよねぇ。無理無茶無謀以外の、なんでも無いよねぇ」

 『現女神』同士が直接対決する、と言うのはままある話だ。『天使』や『士師』では(らち)が開かないだとか、そもそもそれらの保有数が極めて少ないという場合もある――ユーテリアの学長であるアルティミアや、星撒部副部長の渚のように。

 『現女神』による決闘において勝敗を分ける要因は、大きく2つだ。彼女らに集まる信心の量、そして彼女ら自身の技量である。

 『現女神』は絶大なる力『神法(ロウ)を授けることは出来るが、彼女らの身一つで勝手に行使することは出来ない。『天使』と云う媒介を通さねばならない、という奇妙な制約がある。――何故そのような制約が存在するかは、『現女神』達を含め、知る者は居ない。

 『現女神』が所有出来る『天使』の数は、彼女らに捧げられる信心の量に比例する。故に、信心が多ければ『天使』の数は多くなり、『神法(ロウ)』を行使出来る機会は増えることとなる。

 一方、『現女神』の戦闘手段は『神法(ロウ)』に限らない。拳や蹴り、そして武器を使うことで物体を傷つける事も出来るし、魔術だって使う事も出来る。数量的な問題を初めとして、『天使』を当てに出来ない場合は、『現女神』自身が(つちか)った種々の技量で切り抜けるしかない。

 …さて、ニファーナがヌゥルと戦う上で、これらの点を評価するとどうであろうか。

 『天使』の数については、問題ない。プロジェスが大きな打撃を受けて居るこの時でも尚、都民はニファーナへの信仰を捨てることはなかった。これまでの交戦で数は減ってるとは言え、それはヌゥルとて同じ事だ。ならば、信仰の本拠に身を置くニファーナが有利のはずだ。

 …ただし、ニファーナは恐らく、『天使』を使役しての『神法(ロウ)』の行使を行ったことは無いだろう。少なくとも、エノクは見たことがない。増してや、戦闘での使用など(もっ)ての(ほか)だ。

 では、技量の方はどうかと言えば――日々ゲームに向き合ってゴロゴロ暮らしているだけの彼女なのだ。推し量れども、散々たる有様しか頭に浮かばない。

 ニファーナ自身が言う通り、自身で戦場に立って戦績を上げているヌゥルを相手にするなど、無理無茶無謀以外の何でもない。

 その事実を率直に同意することにエノクが躊躇(ためら)っていると。ニファーナが苦笑いを消して、凛とした、そして何処か興奮しているようにも見える表情を浮かべて言葉を続けた。

 「…でもさ、わたしはこの都市国家(プロジェス)の『現女神』だもん。

 このまま指を咥えてるワケには行かない。

 だから、勝てそうになくても、やらなくちゃ」

 「…身を捨ててでも勝ちを拾う…と云うおつもりで?」

 エノクが聞き返と、ニファーナは首を左右に振って否定した。

 「身を捨てても、勝てそうにないよ。正直なところね。

 ただ…あの女神に――その心に、刻みつけてやりたいの」

 「刻む…?」

 何を、と問い返す前にニファーナが答えた。

 「この都市国家(プロジェス)の心。そして、わたしの心を、だよ」

 「つまりは…ニファーナ様が敗北し、このプロジェスが"陰流の女神"に飲み込まれて消えてしまったとしても、その記憶を彼らに刻み付けて置きたい…と?」

 「違う違う!

 そこまで後ろ向きじゃないよ!」

 ニファーナはパタパタと手を振った。

 「と言っても、負けた後の事を考えているのは、本当だけどね。

 でも、最初(ハナ)っから負けるつもりじゃないよ。やるからには、勝つために挑むつもり。

 でも、負けちゃったら、その時点でこの都市国家(くに)が全面的にあの『現女神(ヌゥル)』の支配下に置かれる…ってことだけは、避けたいんだよ。

 出来る限り、都民(みんな)にはこれまで通りの生活を送ってほしい。

 だからね…」

 ニファーナは一度瞼を閉じると。ギュッと拳を握り締めてから、再び(まなこ)を開いてエノクに見つめた。その面もちには、悲壮が見て取れる微笑みが浮かんでいた。

 「『現女神』であるわたしが自ら、見せつけてやるんだ。

 わたし達はこんなに強い絆があるんだぞ、こんなに力強く戦えるんだぞ、って!

 そうして力を見せつけておけば、あの『現女神(ヌゥル)』だって自分の我を通してわたし達に押しつけるのはヤバいって痛感するでしょう? 反感を買ったら厄介な事になるって、危機感を持つでしょう?

 負けても、その後の展開で出来るだけ有利に事を運ぶ――そのための布石として、そしてこれ以上犠牲を出さないための、一騎打ちだよ」

 ニファーナはただ、暢気でいるだけの『現女神』ではない。

 エノクが彼女に感服した時に思わせたように、自身が暢気でいるために――そして、信民が安寧を享受し続けるために何をするべきか。外見は遊んでいるようでも、胸中では常にそれを考えている『現女神』であった。

 だから、エノクはもう彼女の決意に口出ししない事にした。

 (やはり貴女様は、この都市国家(くに)を束ねるに相応しい『現女神』だ)

 エノクは胸中で讃辞を送ると共に、その場で(ひざまづ)く。

 ニファーナがびっくりして慌てているところへ、彼は語った。

 「私に出来ることならば、なんなりとお手伝い致します。

 決闘は明日と期間は極短いですが、戦い方や魔術などは、気休め程度かも知れませんが、お教えすることが出来ます。

 勝てば良し、もし負けるにしても、あの陰険な『現女神』の目に物を見せつけてやりましょう」

 「ありがとう、エノクさん」

 ――こうしてエノクは、ニファーナが休息を取る時以外は、作戦を練ったり基礎的な戦い方を教えたりしながら、決戦までの時を共に過ごした。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 日が昇り、南中から少し西へ傾いた時刻に至った。

 空は2柱の『現女神』の戦いを一瞬たりとも見逃さぬつもりのように晴れ渡っていた。"夢戯"と"陰流"のそれぞれの勢力が半々になった『天国』も、クッキリと姿を見せていた。

 決闘の場である東3番入都ゲート前は、瓦礫と成れ果てて、とてもでないがヒトが息づくような場所ではなかったが。この時は多くの人々の姿でごった返していた。

 人混みの中には双方の『士師』の姿も勿論あったが、それ以上にプロジェスの都民の姿が圧倒的大多数をほこり、決闘の場にヒトの壁を築いていた。

 この見物人たちは、ニファーナやプロジェス行政機関の者が呼んだワケではない。後にエノクが聞き知った事には、"陰流"の勢力が『天使』を用いて、プロジェス中に喧伝したとの事だった。

 信奉する『現女神』が敗北する姿を見せて、我ら都民の心を(くじ)く算段であったワケだ。

 「…大丈夫なのか、ニファーナ様は。この衆目の中で…その…お力を使い、戦えるのか…?」

 エノクの隣に立つ壮年の議員が呟いた。彼は言葉を大分オブラートに包んでいたが、結局は"都民の前で醜態を晒すことにならないか?"と心配しているのだ。

 そんな彼をエノクは殴りつけたくなる衝動に駆られたが、深呼吸を伴った笑いで一瞬間を置いて、答えた。

 「信じなさい。貴方もニファーナ様の信徒でしょう」

 人(だか)りの中心、まるで決闘場の舞台のように広く円形に開けた大地の中心では、ニファーナとヌゥルが睨み合っていた。

 ヌゥルの姿は、プロジェス侵攻の初日と変わらない、豊満な体型にフィットした扇情的な衣装であった。これは戦場下で彼女が目撃された時と同一の格好であった。つまりは、この姿こそが『現女神』として格好なのだ。

 (何といかがわしく、禍々しい姿か…!)

 エノクは唾棄せんばかりの顔をしかめて、ヌゥルを睨んだ。

 そんなエノクの気など露ほども鑑みず、ヌゥルは嫌味な程に艶然として笑みをニヤニヤと浮かべ、ニファーナを見詰めていた。

 さて、ニファーナの姿と言えば。動きやすさが目立つものの、可愛らしい造形した軽装の洋服――つまりは、『現女神』としての姿を見せてはいなかった。

 この時点で既に、都民の間には不安のざわめきが広がっていた。

 「いつものお姿だぞ、ニファーナ様は!?」

 「あの姿のままで、挑むと言うのか!? 『天使』をも(ほふ)る『現女神』を相手に!?」

 「考えてみれば、ニファーナ様の『現女神』姿は一度もお見かけしていない!

 まさか、ニファーナ様は神の御姿(みすがた)に成れぬのでは…!?」

 悲痛な憶測が飛び交う中、ヌゥルは朱色の唇を割って、クスクスと笑った。

 「そんな有様で、よくもこの私とヤり合う気になったものね。

 旧時代の地球で言うところの、"カミカゼ"ってヤツかしら? 女神だけに、ね」

 対するニファーナは、気(おく)れするどころか、不敵にさえ笑い飛ばしてみせた。

 「わたしは暢気が信条なんだ。だから、玉砕なんて堅ッ苦しい真似なんてしないよ。

 第一、私は風の女神じゃないよ」

 冗談さえ飛ばしてみせるニファーナは、一見すると強気な余裕が見て取れた。

 だが…ヌゥルはニファーナの有様を見てなお、クスクスと笑い続けた。

 「暢気の割には、随分と吹かせるわね。

 まるで、震えている脚を隠しているみたいに、ね」

 ここで人集りはニファーナの足に視線を投じたが。ニファーナは臆することなく、そして自身の足を見やるような愚行もせず、笑みに剣呑な気配を交えて口を開いた。

 「あなたこそ、私が何処か震えていないか、粗探しに必死になってるみたいに見えるよ。

 よっぽど、余裕がないのかしら?」

 「言ってくれるわね」

 ヌゥルは相変わらず微笑みを絶やさなかったが、その直後の一挙手一投足は表情とは相容れぬ、険しいものであった。

 ヌゥルが、恋人でも誘うかのようにゆるりとした動作で腕を伸ばすと。手の真下から、出鱈目な顔にズングリとした体格を持つ『天使』が出現。転瞬、幼子に(もてあそ)ばれる粘土のようにグニョリと縦長に延びて、ヌゥルの掌に到達した。ヌゥルがほっそりとした指でそれを掴むと、『天使』は純白の巨大な薙刀と化した。

 その大きさは、およそ戦士の体型には全く見えぬヌゥルに対して、あまりにも武骨で強大であった。長さは5メートル余りもあり、枝の先についた刃は斬馬刀のように幅広く長く、そして禍々しかった。刃とは反対側には、ウニのように棘が幾つも生えた分銅(ぶんどう)の付いた、長大な鎖が生えていた。

 己の『天使』を武器化する――『現女神』の戦術としては常套手段だ。

 ヌゥルはこの長大な武器を一振り。刃は大気を切り裂き烈風を巻き起こし、鎖分銅は純白の凶風と化して瓦礫の大地をゴリゴリと削り、痛ましい円弧状の深い傷跡を残した。ヌゥルの体格では信じられない武器捌きであった。それとも、『天使』が武器化したこともあり、『現女神』には扱いやすい重量や慣性が調整されているのかも知れない。

 「あなたが震えていなかろうと、私に余裕が無かろうと、関係ないわ」

 ヌゥルは朱色の唇をペロリと舐めて、そして釘を刺すように鋭く語った。

 「やる事は変わらない。あなたを叩き伏せるだけだもの」

 「…そうだね、どんな状況であろうと、やる事は変わらないね」

 ニファーナはヌゥルの威嚇に動じず、ただゆっくりと目を伏せて語った。

 「私も、あなたを叩き伏せる。それだけだよ」

 ニファーナは眼を閉じたまま、小振りな胸元の中央に両の掌を重ねて置いた。

 

 ――そして。都民達の知らない、そしてクルツやアルビドが拝むことなく逝ってしまった…但し、エノクだけは昨夜目にした…ニファーナの神なる姿が現れた。

 

 リィン、と澄んだ鈴のような音が小さく、しかしはっきりと場に響き渡った。

 転瞬、ニファーナの姿が太陽よりもなお(まばゆ)い純白の閃光に包まれた。

 閃光はやがて、雪とも羽根とも付かぬ朧気な形状で剥離し、宙空へ吹き散らされるように昇華してゆくと…。

 消え去った閃光の後に現れたのは、正に"女神"の姿であった。

 明るい栗色だったショートツインテールは、桜よりも尚色鮮やかなピンク色へと変わった。可愛らしい洋服は、純白を基調とした、露出を押さえていやらしくない程度に体の輪郭にフィットした衣装へと変じた。背中からは蒼天の陽光を受けてキラキラと輝く、一対の純白の大翼が生えた。翼の合間には、"金虹"の姓が示すような色濃い虹が橋を架けていた。

 大翼の周囲には、後光のように6体の騎士状の天使が規則正しく円状に並び、ニファーナの神々しさを引き立てた。

 

 ――ここに"夢戯の女神"が、真の意味で降誕した。

 ヌゥルと違い、清廉な美しさと神々しさを伴うその姿に、都民はひたすらに溜息混じりで「おおお…!」と歓声を漏らした。

 先刻、彼らの口から上っていた不安の言葉の数々は、感激の念によってすっかりと塗り込められたようであった。

 

 「さぁ、それじゃあ――」

 ヌゥルが語り始めたのと同時に。いきなりニファーナが機先を制し、無言のままに行動を起こした。

 カッと眼を開いたと同時に、ヌゥルを刺し貫く勢いで指指したニファーナは、「行けッ!」と号令を掛けた。

 転瞬、背後に並ぶ天使達が輪郭を失い、光の塊へと転変。その後、幾つもの小さな光の塊へと分化すると、慣性を振り払った戦闘機のような鋭角的な動きでヌゥルへと肉薄。

 「な…っ!」

 突如の襲撃にヌゥルが思わず声を上げる中、光の塊は輝きを失うと、戦闘機を思わせるような小さな飛翔体へと変形。

 直後――()()()()()ッ! 連続する耳障りな爆音。同時に、飛翔体から光の弾丸が豪雨のように発射され、ヌゥルへと迫った。その高密度にして広範囲を飲み込む莫大な数量は、正に"弾幕"の言葉が相応しい。

 「…ッ!」

 ヌゥルは呼気を噛み殺し、薙刀と鎖分銅を振り回して弾丸を(さば)く。戦い慣れした見事な武器捌きであるが、大量の弾丸を己の柔肌に届かぬようにするだけで精一杯のようだ。余裕のある艶然とした表情は一転、唇を噛み締めた険しい表情と化した。

 だが、ヌゥルは単にやられるばかりではない。

 武器を振るう動きをピタリと止めて、迫り来る弾幕を受け入れるように真正面を向いて立った。人集りはそれを降参の証と見受けれて歓声を上げたが、その程度で音を上げるようでは侵略者として失格だ。

 着弾より素早く左手を延ばして掌を開くと、そこに2匹のズングリした『天使』が出現。そいつらは叩き潰されたように薄く広がって癒合し、紫がかかった黒色を呈する巨大な円形を成した。

 そこへ弾幕が雨霰と着弾したが――それらは音もなく、黒色に吸い込まれるようにして(ことごと)く消滅してしまった。

 

 "陰流"の号の通り、ヌゥルが司るのは陰。そして、漆黒だ。

 黒は全てを包括する色であり、虚無の色。あらゆる物質も概念も、彼女の『神法(ロウ)』に飲まれ、虚無へと消えてゆく。

 

 強力な盾を作り出した事で、攻撃への余裕が生まれたヌゥル。

 飢えた雌豹のように唇を一舐めし、凄絶な艶笑を浮かべると、流れるような動きで体を回転させた。その力は薙刀と鎖分銅に伝わり、白色の凶風となって広く斬撃と打撃の渦を巻き起こした。

 だが――手応えは、なかった。

 ヌゥルは訝しげに(まなこ)を見開き、周囲を索敵。ニファーナの姿を探した。

 弾幕に紛れて身を隠したのであろうと云うことは想像が付いたはずである。しかし、見るからに戦闘経験の無いニファーナがそんな器用な真似をして見せるとは、ヌゥルには想定外であったことだろう。

 ましてや――大胆不敵にも、よりにもよって己の懐に飛び込んで来るとは、思わなかったことだろう。

 「ッ!!」

 ヌゥルが振り抜いた腕越しに視線を下げた時には、低い体勢から鋭い視線でヌゥルを睨むニファーナの姿があった。

 そして、ニファーナの手に握られていたのは、(つば)に四枚の翼の造形を持つ、純白の長剣。『天使』が変化した武器だ。

 「ハァッ!」

 ニファーナは身を起こしつつ、手にした剣の切っ先をヌゥルの喉元へと押し突けた。背中の翼の羽ばたきと相まった、"純白の疾風"と云う表現でもなお足りぬほどの、高速の一撃であった。

 

 この一連の動作こそが、ニファーナがエノクと共に一晩で編み出した策であった。

 「戦闘経験が皆無であるニファーナ様が、戦闘経験豊富な"陰流の女神"とまともに正面から挑んでも、相手にはなりますまい。

 ですから、奇襲を仕掛けます」

 「奇襲かぁ…卑怯な響きがするから、気が退けるなぁ…」

 エノクの前で初めて神の姿となったニファーナは、ポリポリと頬を掻きながら答えた。

 エノクは首を横に振りながら、「卑怯でも構いません」と付け加えた。

 「ニファーナ様が挑まれるのは、スポーツの試合ではありません。

 戦闘です。

 努力も過程も姿勢も、何の意味も持たない。勝敗のみが成果として存在する、残酷な程にシンプルで言い訳の利かない、戦闘です。

 要は、勝ちさえ拾えれば良いのです」

 「ヒトの上に立つ『現女神』として、その姿勢はどうなのかな、なんて思うけど…。

 確かに、この一発勝負で都市国家(プロジェス)の行く末が決まっちゃうんだもんね。綺麗事なんて四の五の言ってられないか」

 エノクは(うなづ)くと、裏技を披露する教師のように、(おごそ)かな声を上げた。

 「ニファーナ様の『神法(ロウ)』は、"陰流"よりも用途が広く、融通が利きます。

 貴女の号、"夢戯"とはその名の通り"夢で戯れる"事。その夢とは、ゲームの世界の事です」

 「…あ、そうなんだ?」

 ニファーナは自身の両の掌を見つめてパチパチと目を瞬かせながら、他人事(ひとごと)のように語った。エノクはちょっと溜息を吐きたくなったが、飲み下して首を縦に振った。

 「『士師』にして頂いた際に理解いたしました。

 騎士のような姿をした『天使』。"近衛"や"賢者"、"僧侶"に"闘拳"に"義賊"と云った号を持つ『士師』達。これらは皆、ファンタジーゲームの登場人物を模したものです。

 そして、プロジェス上空に座す、自然と集落が融合した『天国』。あれは正に、ファンタジーゲームの世界です。

 貴女様の力は、ゲームの世界を具現化させることなのです」

 「うっわ…神としては、酷い能力だねぇ…」

 ニファーナは再び頬を掻いた。対してエノクは、首を横に振ってニファーナの自虐を否定した。

 「神の能力に貴賤などありません。輝かしい光の神も、汚らわしい汚物の神も、どちらも崇拝される神に変わり有りません。

 まして、ゲームは決して(いや)しくはありません。ヒトの想像力と技術力が高い水準で混じり合い、創造された世界です。社会は余暇として側面ばかりを言及しがちですが、客観的に見れば、人類の英知の結晶の一つと評して過言ではありません。

 そして貴女様の力は、ヒトの創造せし世界の頂点に君臨する、偉大なるものです」

 「偉大ってのは、ちょっと実感湧かないけど…。

 とにかく、ヒトを脅かす以上の事は出来るって認識で良いんだよね?」

 「具体的にどれほどの事が出来るかは、この後に確かめるとしまして。

 まずは、"陰流の女神"に対抗するための奇襲…その指針を定めましょう」

 ニファーナがコクリ、とゆっくり頷くと。エノクは衣装のポケットから情報端末を取り出しながら、言葉を続けた。

 「"陰流の女神"に付け入る隙。それは、彼女の高慢な自信。そして、彼女が獲物として好んで使う長大な武器におけるデメリット。この2点に絞られるでしょう」

 語りながら、エノクは情報端末を操作。すると、宙空に3Dディスプレイが展開。そこには、戦場における"陰流の女神"の振る舞いが再生されていた。

 ニファーナの騎士状の『天使』の大群を相手取る"陰流の女神"ヌゥルは、丁度今の決闘で用いている鎖分銅付きの長大な薙刀を手に、踊る竜巻のように優雅ながら苛烈に動き回り、『天使』を光の粒子へと(ほふ)ってゆく。その一挙手一投足は全て、艶やかな笑みの元で行われていた。

 「うっわ…勝てなそう…」

 ニファーナが頬に冷たい汗の滴をツツーッと一筋流した。そこへエノクは、一喝するように語気を強めて否定の言葉を挟んだ。

 「いいえ、そんな事はありません。

 確かに、"陰流の女神"はニファーナ様よりも戦闘経験があります。しかし、戦闘の専門家と言うワケではありません。

 一見、強烈に見える派手な立ち振る舞いですが。見る者が見れば、(いたずら)に力を誇って見せびらかし、自分を大きく見せようとしているに過ぎない…と覚ることでしょう。

 そして、歴戦の戦士ならば必ず、この欠点を突くこと第一に考えます」

 「私でも突けるかな?」

 「勿論ですとも。

 そもそも、奇襲とは本来、力無き者が強大な敵を(くじ)くための手段なのですから」

 エノクは咳払いを挟み、奇襲の策を述べ始めた。

 「まず、"陰流の女神"の高慢さに張り合って下さい。無責任な見栄で構いません。

 (ヌゥル)の高慢さに火を付けるのが目的です」

 高慢なる者は、如何なる相手であろうと、自分が優位である事を誇示しようと躍起になる傾向がある。そして、その無為な躍起こそが、ヒトであろうと『現女神』であろうと眼を(くら)ます帳となる。

 「高慢さに散々張り合い、自信満々で正々堂々と戦う気配を見せておいて…有無を言わさず、すかさず攻撃を仕掛けててください」

 ヒトも『現女神』も、物事の解釈は自身の脳でしか行えない。そこには、自身の経験や信念、性質が根付いた思考しか芽吹かない。

 "陰流の女神"と張り合って見せれば、ニファーナを自身と同じ性質を持つ存在であると見誤ることだろう。自信を見せつけるために、派手で格好の付けた行動に出るものと、勝手に想像してくれるだろう。

 それを、まるっきり裏切ってやるのだ。

 「攻撃は、全力で構いません。

 むしろ、この一手で終わらせる、という位の勢いの手厳しいものが良いでしょう」

 余裕を見せると思いきや、(なり)振り構わぬ苛烈な攻撃に出たニファーナを、ヌゥルは驚愕し呆気に取られるに違いない。

 「そして、一気にトドメを刺してやるのです」

 エノクは、まるで手中に"陰流の女神"の心臓でも掴んでいるかのように、ギュッと力一杯に右手を握り込んでみせた。

 

 エノクと共に立てた作戦通りだ。

 弾幕は、ニファーナのゲームの現実化する力で生み出した、シューティングゲームの戦闘機による攻撃。ファンタジーロールプレイングゲームだけしか再現出来ないかと思いきや、あらゆるジャンルを現実化出来たのは多いなる収穫であった。

 そして手にした剣は、ファンタジーロールプレイングゲームで言うところの、"最強の聖剣"。

 加えて、戦闘経験がないはずのニファーナが凄まじい運動能力を発揮できたのは、アクションゲームのキャラクターの性能を『天使』に再現させ、魔化(エンチャント)のように自身の体に溶け込ませた結果である。

 聖剣の切っ先が、ヌゥルの滑らかな首筋に届く。ツプリ、と柔肌を押し、そのまま皮膚を破いて筋肉を裂く――はずであった。

 ――しかし。

 (あれ…!?)

 驚愕に目を見開いたのは、ニファーナである。対してヌゥルは、"してやったり"と言った嫌味満々の嘲笑。

 聖剣の動きが、ピタリと止まったのだ。剣先は皮膚を破くに至らず、小さな血の玉さえも作れずに、その場に張り付いてしまったのだ。

 ――いや、止まったのではない。性格には、"止められた"のだ。

 ヌゥルの首は、当然ながら、顎に由来する陰で覆われている。その陰の中から、不気味な造形の巨大な口が現れ、聖剣に噛みついて捕まえているのだ。

 この巨大な口の正体は勿論、ヌゥルの『天使』である。

 "陰流"の号を持つヌゥルは、陰の中に『天使』を潜ませることも容易い。

 (でも、剣が使えなくとも…!

 この至近距離なら、あのデカい武器は振り回せないっ!)

 ニファーナは戦闘の素人にあるまじく、柔軟にも武器への(こだわ)りを捨て去った。(つか)を手放すと同時に体を沈み込ませ、更にヌゥルの懐深くへと潜り込んだ。

 視線の先にあるのは、無防備なヌゥルの腹部。

 ここぞ好機とばかりに、ニファーナは無手の右手に小さな『天使』を召喚すると。形状を過電粒子の刃を付けた光の剣へと転変。陰を蹴散らす閃光と共に、プラズマの刃をヌゥルの腹部へ突き込んだ。

 ((うま)い…!)

 (はた)で見ていたエノクは、粟立つ興奮と共に讃辞を送った。丸っきりの素人とは思えぬ発想と機転だ。暢気が信条の"夢戯の女神"も、数多の信民の為ならば、持てる以上の力を出し切って彼らに応えるということか。

 大気を電離させ、青白い火花と散らすプラズマの刃は、今度こそヌゥルの腹部を焦がして貫――。

 「けねぇ、だと!?」

 転瞬。エノクの背後に控えていた"拳闘の士師"が、粗野な口調で驚愕の声を上げた。

 エノクは声こそ出せなかったものの、彼と同じ気持ちで眼を見開き、ポカンと口を開いた。

 戦場を囲む民達は、もとより戦闘の速度に付いて行けず、息を呑んでばかりだったが。この瞬間、動きが止まった2人の姿を見ると、「ヒィッ!」と失意と動揺の声を漏らした。

 

 ヌゥルの腹の薄皮に、あと数ミリで到達する――その地点で、プラズマの刃が止まっていた。

 止まっていたのは刃だけでなく、ニファーナの体自身もであった。

 腹部を覆う陰は電光で消したため、そこから『天使』を呼び出して防御をすることは無理なはずだ。事実、ヌゥルの腹には何の変化もなかった。

 変化があったのは、ニファーナの全身であった。

 彼女の体の直下、自身の陰の中から、無数の純白の鎖が出現していた。これらはヌゥルの『天使』が変じたものであろうことは、想像に難くない。そしてこれらの鎖はニファーナの全身にグルグルと絡みつき、先端に装着されたゴツい鉤でニファーナの体を抉り刺さっていた。

 鎖による束縛と、鉤による激痛。加えてこの時、ニファーナは影縫いの原理によっても体を硬直させられていたそうだ。

 「あぅ…くぅっ」

 脂汗まみれになったニファーナが呻き声を上げた。その声を爽やかな小鳥の(さえず)りであるかのように、ヌゥルは恍惚とした笑みで受け止めた。

 「貴女、凄く良くヤッてくれたわ。

 今まで奥に引っ込んでばかりいた割には、巧みな心理戦に機転があって。私、驚いたわぁ。

 …でもね、ざ・ん・ね・ん」

 ヌゥルは肉感的な唇を強調するような動きでゆっくりと声を上げると。身動き出来ぬニファーナの腹部に、無慈悲な蹴りを見舞った。

 「がふっ!」

 ニファーナが大きく口を開き、唾液と血が混じった吐瀉物を吐き出した。同時にヌゥルは束縛を解くと、ニファーナはフラフラと後退してしまった。

 そこへ、ヌゥルは手にした巨大な薙刀を思い切り振るい、ニファーナの胸部にザックリと叩き込んだ。

 幸いにも、ニファーナの『神法(ロウ)』は致命的な裂傷を抑えるほどの防御力を発してくれたが。ニファーナの体を軽々と飛び、何度も大地をもんどり打って転がった。

 純白の衣装も翼も、土埃に(っまみ)れて惨めに乱れてしまった。ごほっごほっと唾液と共に咳き込むニファーナを、ヌゥルは嗜虐的な眼差しで見つめながら、言葉を紡いだ。

 「幾ら信心が集まろうと、それを充分に扱える器がなければ、宝の持ち腐れよね。

 驚きはしたけど、正直、怖くはなかったわ。その程度の神格なのよ、暢気さん」

 

 都民が口元に手を当てて、失意の嘆息やら、奇跡を願って拳を握るやらしている最中。

 エノクは、目を伏せて首を左右にゆっくり振ると、そのまま俯いてしまった。

 ――授けた万策は、尽きてしまったのだ。

 戦いの不慣れどころでないニファーナの正気は、万に一つも無くなってしまった。

 戦いは、もう終わりだ。

 

 終わりの、はずだった――のだが。

 

 ゆらり――咳き込み、体を"く"の字に折ったニファーナが、立ち上がったのだ。

 もはや勝機など絞り出せるはずもないニファーナが、立ち上がったのだ。

 ニファーナは数度、荒く大きな呼吸を繰り返した後に。キッと険しい眼光をヌゥルに向けると、己の歯を噛み砕かんばかりの強い語気で言い放った。

 「まだ、終わりじゃない…!」

 その言葉に、都民を失意は爆発的な熱気によって振り払われ、大地と大気は張り裂けんばかりの歓声で埋め尽くされた。

 都民は立ち上がったニファーナの中に、希望やら奇跡やらを見い出したに違いない。

 しかし、エノクを始めとする『士師』は分かっていた。恐らくは、ニファーナを相手にするヌゥルも分かり切っていたことだろう。

 ――もう、終わってしまったのだ。終わり切っていなかろうと、終焉への一本道しか残されていないのだ。

 「そのままお寝んねして、降参した方が賢かったでしょうに」

 ヌゥルが勝ち誇った余裕で言い放つと、ニファーナはピクリとも笑みを浮かべず、鬼気迫る余裕のない表情で言葉を返した。

 「終わってない…!

 ここでなんて、終わらせない…!」

 そしてニファーナは、悲壮な決意と共に、重い足に鞭打ってヌゥルへと駆け出した。

 

 エノクは、そんな彼女の肩を強く引いて止めたくなる衝動に駆られたが。(かぶり)を振って衝動を払いのけると、ニファーナの姿を見届けることを決意した。

 何も覚らぬ都民達だけが、無責任な歓声を上げていた。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Enigmatic Feeling - Part 5

 ◆ ◆ ◆

 

 (なんと、勇猛果敢であることか…!)

 エノクは胸中は、純然たる畏敬の念で溢れていた。

 その想いは勿論、ニファーナに向けたものだ。

 授けた策を打破され、打つ手を失ってしまったはずのニファーナ。しかし彼女は、屈して終わることはなかった。

 策が無くとも、満身創痍にして疲労困憊であろうとも。彼女は立ち上がり、"陰流の女神"に挑み続けていた。

 戦闘未経験者であるはずのニファーナだが、その実、非常に良く立ち回っていた。

 先の奇襲において自らの力を扱う感覚を覚えたのだろうか。存分に『神法(ロウ)』を発揮し、嵐のように"陰流の女神"を攻め続けた。

 召喚された数多の『天使』達は騎士のみならず、魔術師や弓兵や暗殺者、果てには戦闘ロボット等へと転化し、軍勢となって"陰流の女神"へ津波のように襲いかかった。その上空では幾つもの小さな戦闘機や翼龍が飛び回り、苛烈な空爆を加えていた。

 その合間をニファーナは対戦格闘ゲームのインチキじみた最終ボスのような身体能力で駆け回り、様々な武器を作り出しては"陰流の女神"に叩き込んでいた。

 その眼に映える攻撃の光景は都民に興奮と希望をもたらし、歓声は豪雨のように沸き起こっニファーナの背中を押した。

 ――だが。

 (それでも…届かないのか!)

 エノクはギリリと歯噛みした。

 非凡なる兵士でも手を焼くであろうこの乱戦を、"陰流の女神"ヌゥルは艶笑を以て(ことごと)く一蹴し続けた。

 踊るような優雅な回転の動きに合わせた薙刀と鎖分銅は、一撃一撃が確実に『天使』を打ちのめして消滅させた。または、大地に巨大な陰を這わせると、そこから数十を数える『天使』の鉤鎖を触手のように作り出し、『天使』の大群を縛り付けては(えぐ)り、ポイポイと吹き飛ばした。

 ニファーナ自身の攻撃はかわされるか、『天使』によって受け止められてしまうと。ヌゥルの蹴りや武器が彼女を叩きのめし、吹き飛ばした。

 時が経つほどに、神々しかったニファーナの姿は、過酷な現実に翻弄された貧者のようにボロボロに薄汚れた姿へと変わっていった。

 …やがて。『天使』の召喚すら覚束(おぼつか)ない程に憔悴(しょうすい)し切ったニファーナは、立つのがやっとと言った風体で、震える足で棒立ちになると。都民の口から歓声が消え、「あああ…」という悲惨な呻きやら、息を止める気配ばかりが感じられるようになった。

 「あら、まだ立てるの?

 凄いわね。こんなに痛めつけられても、音を上げないどころか、『現女神』の座も手放さない。

 流石は都市国家を率いるだけの風格はあると言うことかしら?」

 余裕綽々で言葉をかけるヌゥルは、ニファーナとは全くの対照的に、ほぼ無傷であった。息も全く上がっておらず、むしろ退屈そうに体を伸ばしてみせたほどだ。

 「でも、私…そろそろ、飽きたわ」

 ヌゥルが、残酷な笑みを浮かべた。手にした虫を痛めつけて享楽を覚える幼子が重なる、凄絶な表情であった。

 ニファーナは、フラフラしながらもヌゥルを睨みつけ、充分に上がらない手を必死で持ち上げて、『天使』で作った武器を握ろうとした。が、その試みが実を結ぶよりも早く、ヌゥルが疾風となって肉薄した。

 「終わりましょう。この戦いも、そして、"神"としてのあなたの人生も」

 その囁きがニファーナの耳をくすぐったと同時に。戦場を囲む者達の口から、悲観の絶叫が一斉に上がった。

 

 恐らく、音は上がったはずだ。

 肉を断ち、血飛沫が撒き散った無惨な音がしたはずだ。

 しかし、その音が人々の鼓膜を震わそうとも。眼に飛び込んだ凄惨な光景が、聴覚を奪い去ってしまった。

 鮮やかな紅が吹き出した。それは、ニファーナの右脇の背中から飛び出した。

 同時に、赤に塗れた純白の巨大な刃が肉を貫いて姿を現していた。

 ヌゥルの薙刀の刃が、ニファーナの右脇腹を深く、深く貫いたのだ。

 「あ…」

 ニファーナが小さく声を上げたのは、一瞬の間に起こったこの変事をうまく飲み込めなかったからかも知れない。

 しかし、思考で理解が及ばずとも、すぐに彼女の本能が危機を覚ってくれた。

 大火のような猛烈な激痛が、彼女の脊椎を電撃のように襲ったのだから。

 「ぅあああぁぁぁっ!」

 ニファーナは、叫んだ。顎が外れそうな程に口を開き、咽喉(のど)が裂けるような声量で、絶叫した。

 同時に、彼女の全身から力が失われた。両膝がガクリと折れ、重力に引かれるままに、瓦礫の大地へと五体を投げた。

 倒れゆく間に、腹を貫いた刃がズルリと抜けると。塞ぐものの無くなった傷口から、ドクリドクリと湧水のように鮮血が噴き上がった。

 "夢戯の女神"は、瓦解の大地に墜ちてしまった。

 

 「五月蠅(うるさ)いわぁ」

 ヌゥルが肩耳を人差し指で塞ぎながら、残酷な悦楽に震える声を漏らした。

 そして、ヒールの高い足の裏を持ち上げたかと思うと、倒れたニファーナの腹の傷口を思い切り踏みつけた。

 「あああああああうううぅぅぅっ!」

 ニファーナが壮絶な悲鳴を上げ、それを耳にした都民が眼を(つぶ)ったり背けたり、覆ったりしている間に――更なる残酷な変化が、彼女を襲った。

 ニファーナの全身から、純白の輝きの粒子がフワフワと発散し始めたのだ。そして鮮やかな髪色は元の栗色へとくすみ、翼は溶けるように崩れて昇華し、衣装は焼け溶けるようににして消えていった。

 そして残ったのは、ボロボロの布切れを纏い、痛々しい鮮血を口から吐き出す、平凡で無力な少女であった。

 

 ニファーナが『現女神』の座を失った瞬間であった。

 

 同時に、プロジェスの上空にも変化が起こった。

 "夢戯"の浮遊島と"陰流"の猥雑な街並みが半々で拮抗していた状況が一転。"夢戯"の浮遊島が激しい亀裂に覆われたかと思うと、細かな土塊(つちくれ)へと粉砕され、雨のように降り注いだ。とは言え、如何なる存在も触れることの出来ない『天国』に由来する土塊であるため、かなりの高度で蜃気楼のように消えてしまった。

 失われた浮遊島の代わりに、猥雑な街並みが堰を失った奔流のように流れ込み、プロジェスの上空を占拠した。

 これにより、ニファーナは見た目だけでなく、定義的に『現女神』の座を失ったことを衆目に晒すこととなった。

 

 「そんなっ!」

 「ニファーナ様が…!」

 「こんな事、認められるか…!」

 都民が絶望的な嘆息を交えて拒絶を口にするも、現実がひっくり返ることはなかった。

 "夢戯"と"陰流"の女神戦争は、"陰流"に軍配が上がったのだった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 腹を抉られたまま神格を失ったニファーナであったが、幸いにも一命は取り留め、傷痕が残ることもなかった。

 都民の手厚い治療もあって、一騎打ちの翌日には出歩けるようになったニファーナは、その足でヌゥルの元を訪れると。頭を下げて、敗北を認めた。

 「負けた身の上ですが、お願いがあります。

 この都市国家(くに)を…プロジェスを、どうか宜しくお願いします」

 その言葉にヌゥルは、豊満な胸の柔らかさを誇示するように腕組みをして乳房を潰して見せながら、ニッコリと笑った。

 「勿論よ。私の大事な大事な信徒になる者達が住む場所ですもの。

 悪いようになんてしないわよ」

 その言葉は甘く柔らかで、人々の耳には触りよく聞こえたかも知れない。ニファーナもまた、その言葉にホッと安堵を吐いてもいた。

 しかし、ニファーナの付き人としてその場に同席していたエノクは、全身の毛穴から火を噴き出さんばかりの勢いで憤り、顔を険しくしかめていた。

 ヌゥルの眼光には、表情から読みとれるような穏やかな優しさなど、微塵も読みとれなかったのだ。

 在るのは、アリの巣に水を流し込んで慌てる様を見て(よろこ)ぶような、見下した嘲笑だ。

 

 そして、エノクの憤りの念は的中した。

 ニファーナとの席巻を終えて、ほんの数時間足らずの間に、ヌゥルは『天使』達をプロジェス中に配置。それで瓦解した街並みの復興に当てれば、都民は新たな『現女神』を喜んで受け入れたであろうが…実際は、その真逆が起こった。

 『天使』は、目敏(めざと)く残酷な監視者であった。

 『天使』を通してヌゥルは都民に自分を崇めるよう通達すると共に、"治安を守る"と勝手に豪語して用心棒代を奪い取るヤクザのように、都民達から信奉の証として贈り物を誅求(ちゅうきゅう)した。

 都民が復興について問えば、ヌゥルは鼻で笑ってこんな事を返した。

 「貴方達の都市国家(まち)でしょう? 勝手に直しなさいな」

 

 独立気質の高いプロジェスの民が不満を爆発させるまでには、数日と掛からなかった。

 彼らは『現女神』を欠いた状況であろうと構わずに、反逆を始めたのだ。

 その戦いにおいては、エノクを始めとした元『士師』達も一人残らず参加し、『士師』であった経験を活かしてリーダー格として働くのであった。

 

 「戦争は終わったのに。わざわざもう一度起こさなくても良いんじゃないの?」

 そんな台詞を吐いたのは、ニファーナであった。

 『女神戦争』の敗北の後、神の座を失った彼女は、神殿のような自宅の部屋でソファに寝転がり、ゲームばかりをする毎日を過ごしていた。

 ちなみに戦況はすぐに激化したため、プロジェス中の学校は休校に陥っていた。ニファーナの通う高校もその例に漏れなかった。

 ニファーナが台詞を投げかける相手は、神殿に同居する『士師』達である。彼らの大半はその言葉を聞くなり、烈火の如く怒り狂って(わめ)いた。

 「戦争に負けたどころか、奴隷みてぇな扱いを受けてンだぞ! こんな生活、認められるかってんだ! 受け入れられるかってんだ!

 都民も皆、戦う気満々なんだ!

 『士師』だった俺たちが先頭に立たないで、どうすんだよッ!」

 (ある)いは、『女神戦争』集結以後、ゲームにばかり興じるようになったニファーナを責める者もいた。

 「都民の信心を集めておられた貴女様だと言うのに、その体たらくはなんなのですか!?

 民草の信心あってこその貴女様であった事情もありましょうに! 神の座を失おうとも…いや、失った今だからこそ、その恩に報いるべきなのでは!?」

 するとニファーナは、ゲーム画面から目を離さずに、ボーッとした口調でこう答えたのだ。

 「なりたくてなったワケじゃないし。

 欲しくて信心集めたワケじゃないし」

 すると元『士師』達はニファーナに殴りかかろうと拳を固めるのだが、その労力を反抗に使おうと思い直し、憤然と踵を返すのであった。

 その一方でニファーナは、エノク唯一人と会う時だけは、言葉数多く色々と語った。…但し、視線は大抵、ゲーム画面に釘付けのままであったが。

 「エノクさんも、戦いに行くんだ?」

 「はい。

 私はこの都市国家(くに)の生まれではありませんが、第二の祖国であると心から認めています。

 祖国が余りの不条理に蹂躙されるては、心苦しい限りです。

 そして私は、嵐が過ぎるのを待つばかりという性分ではありません」

 「…でも、『女神戦争』の頃は、ずっとわたしと一緒に居てくれたよね? 嵐の中でも、暴れたりしなかったよね?」

 「あの時は、ニファーナ様と同じく、何が最善の選択であるか判断出来ず、動けなかったのです。

 …今となっては、あの無為なる時間は人生最大の後悔です」

 「戦えば良かった…ってこと?」

 「はい。

 これは自惚れかも知れませんが…私が前線に立つことで、救われた命もあったかも知れません。戦況に少しでも優勢を運べたかも知れません」

 ニファーナがコントローラーをいじる手をピタリと止めて、チラリと視線をエノクに走らせる。

 「それで死んじゃっても、後悔しないの?

 自分が何も出来ないだけじゃなくて、都市国家(くに)都民(みんな)にも何もしてあげられなくなる。

 それで、エノクさんは良いの? 本当に満足なの? 本当は助けたかったヒト達を、そのまま置き去りにしても心残りじゃないの?」

 ニファーナの問いはエノクにとって厳しいものだ。彼女の言う通り、死んでしまえばもう、何も出来ない。後悔を挽回することも出来ない。責任を放棄する最高の言い訳でしかない。

 それでも…。

 「それでも、この現状に甘んじるよりは余程マシでしょう」

 エノクはチラリとこちらを覗くニファーナに、真っ向から眼光をぶつける。それは聖職者らしからぬ、ドス黒い殺意にも似た負の感情が込められた、険悪な眼光だ。

 「『士師』クルツやアルビド、そして多数の軍人達が命を張り、ニファーナ様も神格の座を失う覚悟を(もっ)て臨まれた結果が、これです。

 "陰流"は我々の力を脆弱無力と一蹴した。ニファーナ様の覚悟を衰えた羽虫のようにすりつぶした。

 我々は頭上に『天国』を(いただ)くものの、得たのは"地獄"の現実であった。

 ――私の無為がこの理不尽を一因を成したのだとすれば、私は自分が許せない。この状況を放ってはおけない。

 どのような手段を使おうが、この状況は転覆させる。

 さもなれば、命を散らした者達や、神の座を失ったニファーナ様に申し訳が立たない」

 ニファーナはエノクの険悪な眼光の前にビクリと体を震わせて強ばらせた。

 「わ、わたしは、別に、エノクさんを責めてないよ…」

 怖ず怖ずと答えるニファーナの様子に、ハッと気付いたエノクはすかさず笑みを浮かべた。しかしそれは、歪んだぎこちのない、出来損ないの微笑みであった。

 この笑みを隠すようにエノクは深々と一礼してみせた。

 「それでは、失礼いたします。

 ニファーナ様は、心安けくお過ごし下さいませ」

 そして踵を返したエノクは、やや早足で戦場へと向かった。

 ニファーナは遂にゲーム画面から完全に顔を逸らして、引き留めるように虚空に腕を伸ばしたが。その時にはもはや、エノクの姿は視界から消え去っていた。

 「…どうして、こんな事に…!」

 ポツリと呟くニファーナの言葉は、ゲームの(やかま)しい音に溶けて消えてしまった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 『女神戦争』は終結したが、プロジェスの戦況は更なる混迷の色を深めた。

 ニファーナの神格が健在だった時には、都市国家の防衛と侵略の構図が確率した正規戦の様相を呈していたが。今では、憤れる都民が無秩序に組織した大小多数のゲリラ部隊が都市国家中を駆け巡る、泥沼化した非正規戦が展開されていた。

 各々のゲリラ部隊は、『女神戦争』状況下で知り合った単位での繋がりこそあるものの、大抵は独立していて統制が無く、ただただ激情に突き動かされるままに"陰流"の勢力に反抗していた。

 元『士師』達もニファーナと云う要が無力化した事で、離散してしまった。

 「ニファーナ様は生温かったンだよッ! どんな手を使っても勝ちゃいいのさ、勝ちゃあよぉっ!」

 「ニファーナ様の大義は未だ健在だ! 恥ずかしい勝利となっては都市国家(くに)が乱れるだけだ! このような時こそ、正道を貫くべきだ!」

 そんな対立意見が衝突を繰り返した挙げ句、元『士師』達は協力体制を放棄し、各々のやり方で勝手なゲリラ戦を展開するばかりであった。

 ちなみにエノクはと言えば、元より他の『士師』達の緩衝材の役割を果たしていたことも有り、この状況下においても元『士師』達の大半とは接触を続けてはいたが。戦闘で部隊を率いるとなると、彼らを束ねる事は捨て、自身が率いる独自のゲリラを組織していた。ただ、共同作戦の算段を整えたり、同士討ちを避けるための情報共有を行ったり、と言う裏方作業には始終従事していた。

 ゲリラ戦は一定の効果を呈した。都民の誰もが兵士になりうると云う状況は"陰流"の勢力にそれなりのプレッシャーを与えられたし、元『士師』達が発案する『天使』攻略作戦も概ね功を奏した。そもそも『天使』は『神法(ロウ)』さえ突破出来れば、(複雑さは兼ね備えているものの)ルーチンに忠実なロボットと同様であった。死者を極少なく抑えた上で、『天使』の部隊を殲滅させるような戦果を上げることすら出来た。

 だが、『士師』が相手となると、話は全く別であった。

 『天使』が破れれば破れる程、彼らは警戒を強め、苛烈で巧みな迎撃を展開した。微塵の手心もなく、持ち得る最大の『神法(ロウ)』を陰険な知性で以て振るう――その結果、一戦にして部隊殲滅の憂き目に遭うゲリラ部隊の数は知れなかった。

 "陰流"の勢力は、ゲリラ部隊の数が減ってゆくのを確認すると、『士師』を中心に編成した部隊ばかりを配置し、反抗勢力の確実な壊滅に当たった。

 プロジェスの反抗勢力は、徐々ながらも確実に、その勢いを殺がれていった。

 

 プロジェスはこのまま、残酷無比なる陰の流れの中に飲み込まれ、その歴史を閉じる――かに、思われたが。

 そこに、都民の誰もが思いもよらぬ転機が訪れた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 それは、パラパラと小雨が降りしきる深夜のことであった。

 "雨が降りしきる"とは言うものの、天空には時折雲間が垣間見え、真円に近い月がぼんやりとした輝きを地上に届けていた。その月光にホッとため息を吐くが早いか、月に被さる透けた猥雑なる"陰流"の天国の街並みも現れ、人々の表情をも曇らせていた。

 エノクは自身が率いるゲリラ部隊を率いて、奈落のような暗闇に覆われた、破壊された繁華街の中に息を潜めていた。

 エノク達は日が沈む頃からこの場に隠匿の方術陣を展開し、数時間もの間この場に待機し続けていた。そんな長時間を費やしていたのは、方術陣が放出する魔術励起光や魔力が充分に減衰し、"陰流"の勢力に気取られないようにするためである。

 エノク達の目論見は、身を潜めている点から充分想定できる通り、待ち伏せである。

 では、誰がここに敵を誘い込むのかと言えば。元の"武闘の士師"、ヴィラード・ネイザーが率いるゲリラ部隊である。

 この夜の作戦は、エノクとヴィラードの両者の部隊による共同作戦だ。狙うは、"陰流"の勢力でも屈指の直情型な性格を持つ"黒拳の士師"ボルクランテである。

 元『士師』が2人掛かりで相手をしても、正面切っての勝負ではボルクランテの撃破は相当困難である。『士師』の『神法(ロウ)』は生身でも打破し得るが、その労力は並々ならぬものだ。ましてや、複数の足手まといを抱えながらとなると、勝ち目は絶望的に薄くなる。

 そこで2人の元『士師』は、奇襲を用いてボルクランテを討つ算段を整えた。

 直情型の性格の持ち主であるボルクランテならば、ちょっとした挑発にも過敏に反応し、脇目も振らず猪突猛進してくるはずだ。そこを罠に()め、大火力で以て『神法(ロウ)』を量がすることで叩き伏せる――それが作戦だ。

 ヴィラードの部隊は囮役として、ボルクランテの元に向かった。そしてエノクの部隊は、ボルクランテを捕縛して叩く罠の役割を負った。

 時折月光と『天国』の電飾光が降りる宵闇の中は、小雨が大地を叩くパラパラとした音ばかりが響いていた。ヴィラードはまだボルクランテと遭遇していないか、交戦が開始されていても距離が酷く開いているようだ。

 エノクの部隊は雨に(さいな)まれながら長時間を費やした疲労感からか、ポツポツと呟きを交わしていた。

 「…なぁ、今回は成功すると思うか?」

 「成功は…どうだろうな。

 ただ、大失敗にゃならないんじゃないか。"若神父様"の部隊じゃ、まだ死人は出てないしな。

 クソ『士師』を討てなくとも、命在って退却出来るなら、それで良しじゃねーの?」

 「でもよぉ、そろそろ一人位ブッ(たお)してやりたいよな、クソ『士師』のヤツ。

 んで、"陰流"のオバサンに冷や汗かかせてやりたいもんさ」

 その言葉に対し、誰かがハッと鼻で笑いながら同意を口にしようとした、その時。彼の後ろから「静かに」と言う小さな小さな、しかし力強い呟きが聞こえた。

 振り返ればそこに居たのは、エノクであった。口元に人差し指を当てているが、表情は怒るでなく、淡々とした冷静なものだ。

 「あ…すみません、"若神父様"」

 部隊員が声を更に潜めて、バツが悪そうに頭を下げながら語ると。エノクは反省の態度に何か語ることはせず、ただ闇の帳の濃い街路の先に顔を向けて、口を開いた。

 「敵が、近づいています」

 「!!」

 部隊員達の間に電撃のような緊張が走った。同時に彼らは耳を澄まし、交戦の音を拾おうとしたが…鼓膜を震わすのは雨音ばかりであった。

 「ま、まだ、何も…!」

 誰かが思わず語気を強めて語ると、エノクは口元に人差し指を当てて(いさ)めながら語った。

 「聴覚ではまだ、捕らえられないでしょう。余程聴覚に優れた種族の方が居るならば、別でしょうが。

 形而上相で確認することで、明白になります」

 部隊員達は顔を見合わせた。エノクの率いる隊員の中には形而上相視認を巧み操れる者は居ないし、聴覚に特に優れた者も居ない。だから彼らは、エノクの言葉だけを現状の判断材料に用いることしかできなかった。

 エノクの言葉を信じる以外に何の手だてもない部隊員達は、ザワザワとエノクに質問を投げつけた。

 「か、数はどれくらいですか!?」

 「『天使』の数が予想より少し多いです。が、計画に支障をきたすほどではないでしょう」

 「ヴィラードさん達は、大丈夫なんですか!?」

 「少なくとも、ヴィラードさんは健在です。よく戦っています。ボルクランテは見事に、ヴィラードさんに吊られて直進しています」

 そんなやりとりをしている内に、街路の向こう側にパパッと発砲の輝きが見て取れた。少し遅れて、鈍く滲んだ発砲音がエノクの部隊の鼓膜を小さく震わせ始めた。

 ――獲物が、やってきた。

 「ホ、ホントに来やがった…!

 と、とりあえずは、どうすれば!?」

 「慌てず、手筈通りに事を進めましょう。各自、持ち場に身を隠して静かにすること。

 私が捕縛の方術陣を起動させ、ボルクランテの動きを止め次第、皆さんが手にした武器のありったけの火力を注ぎ込むこと。

 それだけです」

 「今更ですけど…ヴィラードさん達、巻き込まれないですかね!?」

 「それは彼らの働きに掛かっています。我々が考慮することではありません。

 繰り返しますが、我々は手筈通りに事を進めるだけです」

 「…うまく、行きますよね…?」

 誰かの震えた声音の質問が宵闇に溶け込むと。エノクは数瞬黙した後に、力強く答えた。

 「行かせるんです。

 我々には、それしか道はない」

 この言葉に部隊員が一斉にハッと息を飲んだ、直後。

 ズズンッ…! 地鳴りと震動、闇の街路を駆け抜けた。どうやらボルクランテの"黒拳"が容赦なく暴れ狂っているらしい。

 「では、以後私語は慎むように」

 エノクはそう言い残すと、自らも街並みの影へと姿を隠した。

 部隊員も彼に続き、息を止めるように潜めて身を隠した。

 

 「ハエがッ! ウゼェんだよっ!」

 くぐもった低い怒声は、ボルクランテのものであった。

 地鳴りと震動は、彼が嵐のように繰り出す拳撃の衝撃や余波に由来するものだ。"黒拳"の由来である、彼の漆黒に染まった拳は、ダイヤモンド並に凝縮された炭素の硬度で以て、対象を粉砕する。

 彼の凶拳に対して、まるで嵐の中を舞う木の葉のように、巧みに身を(ひるがえ)しながら戦っているのは、元"武闘の士師"ヴィラードだ。鍛え抜かれた筋骨隆々な長身の体躯は、彼が優れた格闘技能者である事を物語っている。実際、『士師』時代の彼の力は格闘術に特化したものであった。

 "黒拳"と"武闘"――激闘は、奇しくも格闘技能者同士による衝突で展開していた。

 「死ねってンだよッ!」

 ボルクランテが、漆黒の巨拳を烈風と成してヴィラードの頭上に叩き降ろした。身長2メートルを越えるヴィラードであるが、ボルクランテの筋肉で肥大化した体躯は4メートルを優に越える高さを持つ。跳び上がらなくとも、ヴィラードの頭上をいつでも狙えるワケだ。

 「死ぬかボケッ!」

 対するヴィラードは、やや距離を開けてサイドステップし、一撃をかわした。彼の見切りならば"黒拳"をギリギリの距離でかわすことも可能だが、"黒拳"には硬度の他にもう一つ、厄介な性質があった。

 それは、強烈な毒素を分泌していることだ。毒素は揮発性が高いため、拳の直撃を受けずとも気化したそれに触れてしまうだけで、肉体に酷い損傷を負うことになる。

 「死ぬのはテメェだよ、デカブツッ!」

 ヴィラードは金属光沢を放つ小さな角の生えた禿頭にビキビキと血管を浮かび上がらせて力みつつ、ボルクランテの懐へと飛び込んだ。ちなみにヴィラードは、"オーガ属"と呼ばれる人種に所属している。この人種は頭に生える金属質の角と、天性の強靱な身体能力が特徴である。

 ヴィラードは鉄甲を装備した右拳で、ボルクランテの岩盤のような腹筋に、回転を加えた打撃をブチ当てた。突き抜ける衝撃がボルクランテの堅固な皮膚と筋肉をブルリと揺らし、体を少しよじらせた。

 が、『士師』ボルクランテがこの程度で膝を折るワケがなかった。

 「フゥッ!」

 鋭い呼気と共に体軸を固定すると、ヴィラードめがけて右拳によるフックを放った。ボッ、と大気の破裂する騒音が響き渡り、凄絶な破壊力を主張した。

 「おっと!」

 ヴィラードはすかさず後方へとピョンと跳び退き、激情のフックを悠々と回避。同時に、距離を大きく稼いだ――エノク達が潜む、"罠"の方へと。

 「アンタは確かに固いがよぉ! ノロマなのは致命的だなぁ!

 いくらスゲェ拳でも、当たらなきゃ意味ないぜぇ?」

 「ほざけェッ!」

 ヴィラードの挑発にボルクランテは顔を真っ赤にして激怒すると、巨体に見合わぬ素早いステップで、ヴィラードとの距離を一瞬で詰めて来た。

 ――そんなやり取りを物陰から見ていたエノクの一団は、ヴィラードの大胆さと共に、その計略に目を見張った。

 (うまい…!)

 直情型のボルクランテを煽りに煽りながら、自然な形で目標地点に誘導している。しかも、目立った外傷は無いと来たものだ。彼を『士師』に選んだニファーナは、暢気なようで居ても、その目は確かであるということが証明された瞬間であった。

 ヴィラードが"危険な鬼ごっこ"を悠々とこなしている一方で。彼の部下達は、虫の息で『天使』を必死にいなしながら、全力で後退していた。

 対『天使』戦での立ち振る舞い方については、ヴィラードは勿論、弁に長けるエノクも充分に説明し、体得させていた。しかしながら、『天使』の数はヴィラードの部隊の数の倍を優に上回るほどだ。

 『天使』を撃破することもまま在るものの、1体を斃すまでに相当の時間を要していた。その間にも他の『天使』達が怯懦なく無機質に攻めてくるのだ。すぐにでも背を向けて逃げ出したくなるところだが、作戦の性質に加え、部隊長ヴィラードを一人放置することも出来ず、彼が後退するまではその場で踏みとどまらねばならなかった。不気味な崩れた顔が奔流のように襲いかかってくるのを、部隊員達は泣きそうな顔をしながら必死に捌き、ヴィラードが後退すれば、待ってましたとばかりに敵に背を向けて全力疾走して後退していた。

 大胆不敵なヴィラードが長だからと言って、部下の練度や胆力も彼に(なら)っているワケではないらしい。むしろ、根が惰弱だからこそ、揺るぎないほど強い長の元に集まったとも言えよう。

 

 ――さて、退き足のちぐはぐな後退劇がジリジリとエノク達の元へと迫り…遂に、作戦実行地点へと到達した。

 

 その頃には雨は更に弱くなって霧雨の体を成し、天を覆う雲は薄くなり、月光と『天国』の猥雑な輝きが雲を抜けて闇空をぼんやりと彩っていた。

 「チョロチョロとしぶてぇ野郎だなぁッ! 早く死ねよ、直ぐ死ねよッ!」

 そんな罵声と共にボルクランテがヴィラードを追って驀進し、その巨体をエノクの部隊員達の網膜にまざまざと焼きついた。

 エノクが張った方術陣は、正にボルクランテの直下に位置していた。

 ヴィラードは特に合図などしなかった。作戦の成功に万全を期すためにも、一瞬でも綻びが生じることを嫌ったのかも知れない。とにかくヴィラードは、物陰に潜むエノクの部隊達にチラリとも視線を向けることなく、相も変わらずボルクランテと烈風のような拳撃の応酬を展開していた。

 エノクの部隊員達は、このまま本当に仕掛けを発動させて良いものかと、固唾を飲み込んで逡巡していたが。

 部隊の長であるエノクは、微塵の迷いも無く、冷徹にして怜悧に、算段を実行に移した。

 (縛るッ!!)

 叫びはエノクの胸中に留まり、街路には響かなかった。エノクもまた、ヴィラードと同じく綻びを嫌ったのだ。

 無言のままに意識を集中し、術言(チャント)ではなく身振りの儀式で方術陣を発動させた。右の人差し指を方術陣から延びる"導火線"のような線分に突き立て、左手で右腕をガッシリと掴み込みながら、グルリと右腕を回した。

 その儀式によって、エノクが形而上相で練り上げた魔力は"導火線"を伝って、方術陣の中へと流れ込んだ。

 転瞬、大地に(まばゆ)い赤橙色の魔力励起光が爆発的に灯った。

 「あぁっ!?」

 ボルクランテが、間抜けな驚愕の声を上げた。罠が張り巡らせれていることなど、微塵も予想していなかったに違いない。

 大地に落とした視線をキョロキョロと巡らすボルクランテへと、赫々(かっかく)の鎖が無数に生えて延びた。それらはミイラでも作るかのように、一瞬にしてボルクランテの体を幾重にも取り巻いて動きを止めた。

 鎖は同様に、ボルクランテの背後に殺到する『天使』達をも捕縛。ルーチン化された思考しか持たない彼らは、図太い手足を無闇にバタバタさせながら、鎖の餌食となって赫々の球となり、滑稽にも大地にゴロゴロと転がった。

 この捕縛の方術陣の発動に際して、ヴィラード以下囮役の者達は、一人も餌食の憂き目を見ることはなかった。エノクは巧みな魔法技術で(もっ)て、"陰流"の神霊力のパターンにのみ拘束力を発揮する捕縛機構を作り出したのだ。

 「スッゲ、やっぱ"若神父"! 上手に敵だけ捕らえちまいやがったッ!」

 ヴィラードが思わず感嘆の声を上げ、指をパチンと鳴らした。直後、誰からの反応も待たずに、憤怒の唸り声を上げながらゴロゴロと無様に転がるボルクランテに中指を突き立て、舌をベロリと出して見せた。

 「そんじゃな、バカ丸出しのプッツン『士師』さんよぉっ! 永遠に、お別れだ!

 ――てめぇら、巻き添え食う前に退けッ!」

 ヴィラードは指示を叫びつつ、自らも街路の陰へと身を躍らせて潜めた。彼の部下も叫びに急かされるように、慌てて物陰に身を隠していった。

 彼らとは対照的に、ここぞとばかりにい姿を現したのはエノクの部隊の者達であった。彼らの手には(すべから)魔化(エンチャント)された弾丸をぶっ放すための重火器が握られていた。

 勿論、魔化(エンチャント)はエノクによって対『士師』および『天使』用に絶妙な調整が施されてあった。

 エノクもまた手に拳銃――形は小さくとも、肩に背負う重火器と同等の物理的破壊力を備えるよう調整された魔化(エンチャンテッド)武器(アーム)だ――を手にしながら物陰から姿を現すと。

 「撃てッ!」

 号令と共に、自らも引き金を引いた。

 ()()()()()…ッ! 瀑布の水音よりも尚恐ろしい轟音が大気を揺るがし、暗色系の魔力励起光の尾を引いた弾丸が宵闇を暗く彩った。

 『士師』と『天使』が、ヒトの手によって刈り取られる瞬間であった。

 

 …そのはず、であった。

 

 エノク達が異変に気付くまで、たっぷり数分の時間を要した。

 爆音も励起光の爆発もみな、『士師』や『天使』を叩いたことに起因するものであり、確実な打撃を与えているものだと確信していたからだ。

 だが――"止め"の合図もなし、爆音や励起光が明らかに減衰した事を覚った時には、エノクは全身の毛穴から冷たい汗が噴き出すほどの失意と怯懦に陥った。

 恐らくは、出番を終えて物陰で様子を見守っていたヴィラード達も、同じ気分を味わったことだろう。

 何せ、『士師』や『天使』ども目掛けて掃射したはずの弾丸が、いつの間にか『士師』達を覆う黒い靄に阻まれたかと思いきや、跳ね返っていたのだ。そして弾丸は、発砲者の体へと着弾し、彼らは彼ら自身を殺傷したのだ。

 「な…何が…ッ!?」

 停止の号令よりも先に、驚愕の言葉が口から漏れてしまった、エノク。そんな彼の言葉を嘲笑する回答が、ヘラヘラと靄の中から上がった。

 「オレらの『現女神(めがみさま)』が、経験豊富なご主人様が、直情バカをたった一人で野放しにするワケねーだろうが」

 言葉と共に、靄の中からヌルリと腕が上がった。"陰流"の勢力に相応しい、漆黒の色を呈した革製品に包まれた、小柄な腕だ。

 これを見た瞬間に、エノクはギクリと顔を(こわ)ばらせた。

 現れた腕は、記憶に強く触れるものがあった――しかも、酷く悪い形で琴線に触れてきた。そうだ、こいつは――いや、こいつ"も"『士師』だ!

 黒い靄の中から現れた手は、風呂の縁を掴むように靄の端を掴んで、内部に隠れている本体を引きずり出していった。やがて、短い黒髪に漆黒のゴーグルを付けた丸い顔が現れ、次いでやはり漆黒の色を呈した革製のピッチリしたジャケットに身を包んだ身体が現れた。体表は口の周り程度が露わになっているだけで、後は漆黒一色に染まっている。その姿は、シュノーケルは無い者の海のダイバーを想起させた。

 この新手の『士師』は、"冥泳の士師"ピラス。黒い靄状の亜空間を作り出し、その中に潜んで泳ぎ回ったり、アザラシに襲いかかるサメのように飛び出したりする戦法を取る。黒い靄状の亜空間は空間転移ゲートの役割も持ち、この能力を使って弾丸を反転させたのだ。

 靄からスッカリと身体を引きずり出したピラスは、巨大な鞠のように転がるボルクランテの上に玉乗り師のように乗っかり、フラフラとバランスを取って戯れてみせた。彼もまた方術陣の効果範囲に居るはずなのに、捕縛効果は彼を襲わない。

 この光景に、エノクはピクリと眉を動かした。――ピラスは、ノーモーションで方術陣の効果を回避するような能力をお持ってはいない。とすれば…。

 (ヤツを手引きした者が、他に居る!)

 同士討ちに困惑する部下を余所に、エノクが視界を巡らせていると。ピラスはボルクランテの上にしゃがみ込むと、ピシピシと顔を叩いた。

 「言ったろうが、性格変えないとお前は直ぐ死ぬってよぉ。毒の拳骨振り回すだけじゃ、『士師』としてどころか、兵士としても質が低すぎるんだよ」

 「うるせぇ…ッ!

 小言はいいから、早くなんとしろってンだッ!

 クソッ、ただのヒト風情にしてやられたなんてッ! なんて赤っ恥だッ!」

 「おっと、お前をなんとかするのはオレの役目じゃねぇ。

 なぁ、ヘルベルト!」

 ピラスの言葉の最後、その場で認知されない人名が声高に街並みに響き渡ると。返事の代わりに、陰の広がる大地から大小多数の漆黒の(きり)が剣山として現れた。

 (やはり、もう一人かッ!)

 エノクは突如として出現した黒錐を巧みに回避し続けながら、思わず舌打ちした。この錐は大地そのものが変化したものらしく、アスファルトや土壌の堅さを成していた。錐は反応出来ずにいた人員達を容赦なく脳天まで貫き、一瞬にして部隊を全滅の寸前まで追いつめてしまった。

 この惨状はエノクの部隊だけのものではなかった。役目を終えて事の行く末を見守っていたヴィラードの部隊にも、容赦なく襲いかかった。

 「チックショウッ! 痛ぇッ!」

 ヴィラードの罵声が物陰から轟いた。抜群の身体能力を持つ彼であるが、あまりにも不意の出来事にどこかに怪我を負ってしまったようだ。

 長である彼ですら損傷を負ったのだ、彼の部下となれば死傷者が多数出たのは必然である。くぐもった断末魔が幾つも街路に木霊(こだま)し、血肉の飛沫が宵闇に不気味な赤を加えた。

 エノクも外部の状況を気にかけている暇などなかった。ヴィラードの声に気を取られた瞬間、避けきれなかった錐に右足を貫かれ、身動きが取れなくなってしまったのだ。

 幸いにも、黒い剣山の生成は丁度終わり、エノクは九死に一生を得たことになるが。しかし、安堵などしていられるワケがなかった。

 ボルクランテが来た方から、コツコツと杖で大地を叩きながら、異様な出で立ちの人物が現れた。漆黒の外套をスッポリと被り、荒削りの獣の面で顔をも隠した、旧時代の魔術師然とした人物。

 "影地の士師"ヘルベルトであった。

 ヘルベルトの能力である、陰や闇の降りた大地を変質させる業は、黒い剣山を作ると共に方術陣を崩壊させた。途端に、ボルクランテや『天使』を捕縛していた赫々の鎖は赤橙色の魔術励起光へと溶けて無くなり、彼らは自由を得た。

 

 こちらは、敗走を選ぶ他のないほどの寡勢となってしまった。対して相手は、3人の『士師』に、多数の『天使』達。

 絶望的な戦力差が、絶壁となってエノク達の前に立ちはだかった。

 

 「よくもまぁ、ヒトの分際でハメやがってくれたもんだ!

 今度はこっちが、じっくりと可愛がりまくってやっからなぁ!」

 「まぁ、オレは補助向きの能力だからねぇ、戦いはボルクランテに任せとくよ。それに、いたぶるのはあんまり好きじゃないんだよ、仕事なら仕方ねぇけどさ。

 ヘルベルトは、どうすンだ?」

 「この状態なら、ボルクランテ一人でも良かろう。

 ただ、油断はせぬ。不審あれば、ボルクランテの楽しみがどうなろうと、皆串刺しにする」

 3人の『士師』が悠々と言葉を交わすものの、エノクもヴィラードも手負い故に隙を突くことも出来ず、彼らの苦々しい言葉に耳を晒すばかりだ。

 「そんじゃ、お楽しみタイムと行かせてもらうぜ」

 ボルクランテは黒い拳をポキポキと鳴らしながら、手近に転がっている、左脚を大きく欠いた人員の元へ近寄って行った。人員は激痛に命乞いの声も出せず、暴れ狂う呼吸と涙まみれの瞳で必死に生にしがみつこうとするが…悲惨な最期は、もう十数センチまで接近していた。

 

 策は断たれ、希望は費えた。

 惨たらしい終末に身を甘んじるほか、取り得る方法などあるワケがなかった。

 

 …だが、状況の転覆は一度のみならず、二度までも起こったのだ。

 そしてそれは、エノク達の窮地を好転させる"奇跡"であった。

 

 ボルクランテが黒拳を振り上げ、左脚を欠いた人員にトドメを刺さんとした、その時のことだ。

 空を覆う薄い雨雲が晴れ上がり、霧状の雨粒がピタリと止んだ。夜空からは月光と『天国』の街灯が降り注ぎ、瓦解の傷痕の深いプロジェスの街並みを照らした。

 エノクやヴィラードは初め、"陰流"の『天国』が反抗勢力の最期を見届けようと雲散らしたのか、と暗い心持ちで天を呪ったのだが。

 ボルクランテの拳が振り降りるより早く、天に稲光のような眩い青白色の閃光が走ると、"陰流"の『士師』達含めて、その場の者達は皆、反射的に視線を天に注いだ。

 雲がないというのに、(いなずま)が走ったと云うのは、如何なる事情が在ってのことか?

 誰の胸にも去来した疑問の答えは、天がすんなりと明らかにしてくれた。

 閃光の正体は、稲光ではなかった。

 "陰流"の猥雑な街並み状の『天国』の端にかじり付くように、閃光を放つ球状が現れていた。

 「…なんだ、ありゃあ?」

 ポカンと声を上げたのは、"冥泳の士師"ピラスであった。『士師』が疑問符を口にすると云うことは、球は"陰流"とは異なる神霊力に由来する現象らしい。

 「ヌゥル様の『天国』が、浸食され――」

 ピラスが言葉を繋いだ、その直後。

 「ドーンッ!」

 突然、底抜けに陽気で、天に閃いた雷光の如く力強い、子供じみた掛け声が響き渡った――かと思うと。

 (ドン)ッ! 大地を揺るがす、衝撃。同時に、天へと昇る巨大な円柱状の雷光。

 大気がイオン化した、気分の悪くなる異臭が漂うと共に、大気が爆砕したような衝撃が駆け巡った。

 (な、何が!?)

 その疑問を抱いたのは、エノクだけではあるまい。網膜を()いた閃光に視界が朧気になる中、雷光が昇った方へと視線を巡らすと――そこに見たのは、壮絶な光景であった。

 "冥泳の士師"ピラスが、盛大に抉れた大地の中央で倒れ伏していた。その身体からは純白の光の粒子が立ち上っているのが見えた――つまり彼は命を失い、肉体の昇華が起こっているのだ。

 雷光と共に、一撃で『士師』を撃破した"者"。それは、消えゆくピラスの直ぐ隣で、跳び蹴りから着地した格好のまま、その場に硬直していた。

 「悪、即、雷!」

 彼女――そう、その"者"は女性、しかもニファーナと同じくらいの少女だ――は、大輪の笑みをニカッと浮かべて立ち上がると、形の良い双丘をプルリと揺らして胸を張った。

 「神の名の元にいい気になって暴虐を働く不良『天使』、そして不良『士師』どもは! この世界が許しても、あたしが許さないっての!」

 月光を照り返す、醒めるような明るい青の長髪。市軍警察の警察官を思わせるような、清々しいデザインながら可愛らしくも精悍なアクセントが施された衣装。そして、手足を覆う、グローブや靴にしては巨大過ぎる、丸みを帯びた純白の装備品。

 健康的な外観を持つその美少女からは、エノク達を励ますような雰囲気が漂っていた――いや、"雰囲気"などと云う抽象的なものではない。これは、れっきとした実体を持つ力、『神霊力』だ!

 少女はポカンと見つめるボルクランテに巨大な人差し指を向けると、笑みを厳格な怒りの表情に変えて叫んだ。

 「このあたし、"鋼電の女神"レーテ様の! 目が青い内は! 不良女神どもの好き勝手になんか、させないよッ!」

 

 ここに、プロジェスの『女神戦争』を担うもう一役が登場した。

 "鋼電の女神"レーテ・シャンティルヴァインである。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Enigmatic Feeling - Part 6

 ◆ ◆ ◆

 

 『現女神』の傾向は、大きく3つに分類出来る。

 1つは、"獄炎"や"月影"、そして"陰流"ヌゥルのように、多くの信者を集めることで勢力を成し、積極的に『女神戦争』をこなすタイプである。『天国』を求める『現女神』の本能に忠実な者達と言えよう。

 2つには、"清水"や"叡賢"、"夢戯"ニファーナなどのように、積極的な求心活動を行わないものの、来る者拒まずの姿勢で勢力を維持するタイプである。彼女らは『現女神』の神格的部分に責任を負い、神としての役目を果たそうと努める者達である。

 そして最後の1つは、"はぐれ女神"とでも云うべきタイプである。前述2タイプのように大規模な徒党は組まない。信者は全く持たないことが多く、『士師』を持つにしても指折り数える程度しか持たない。『天国』への興味関心も極めて薄く、本能に則さぬ独自の行動理念で活動する。

 著名ながらも『士師』も信者も一切持たず、世界を担う若者の育成に力を上げる"慈母"アルティミア。同じく『士師』も信者も一切持たず、一介の学生として学ぶ一方で、世界の混沌が運ぶ絶望と対決することに注力する"解縛"ナギサ。彼女らが、この3タイプ目に該当する。

 

 "陰流"の蹂躙されたプロジェスに、電光と共に颯爽と現れた"鋼電"レーテもまた、3タイプ目に該当する『現女神(あらめがみ)』である。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 "冥泳の士師"ピラスを、一瞬にして屠ってみせたレーテ。彼女の堂々たる口上をポカンと聞いていた一同であったが。

 「…おい、このクソアマッ!」

 忘我の驚愕から真っ先に醒めたのは、"黒拳の士師"ボルクランテである。自身の陰惨な快楽行為を邪魔されたばかりか、仲間を殺された憤りが彼の大きな頭をガツンと殴りつけ、盛大な青筋をこめかみに浮かべた。

 「何すンだよッ!」

 言葉と同時に、握り込んだ黒拳を烈風のように振るい、レーテの脳天へと叩きつけた――が、瘴気を纏った拳は、虚しく空を切るだけ。

 コンクリートを破砕する音が盛大に轟く一方で、レーテの「フフン」と言う鼻で笑った声は、なんとボルクランテの背後から聞こえた。

 この一連行動を(はた)から見ていたエノク達は、驚天動地のレーテの"動き"に網膜を叩かれ、ようやく忘我の境地から醒めた。

 レーテの両手両足に装着された、大きなグローブと靴。これらが青白の激しい閃光と化したかと思うと、レーテの身体全体が(いなずま)と化し、電子の速度でボルクランテの後ろへと回り込んだのだ。

 尋常の力ではない。

 (そうか…あの両手足の白い装備は、『天使』が変じたものか!)

 エノクが理解して息を飲んだ。レーテが降臨した時に見えた雷光も、彼女が装着した『天使』を媒介にして、雷電となって移動と攻撃を同時に行った結果なのだ。

 「なンだ、ちょこまか…」

 ボルクランテが驚愕半分、苛立ち半分で語りながらレーテの方に振り向いた、その瞬間。バチンッ! と大気の破裂する音が響き渡ったかと思うと、ボルクランテの巨躯がビクンと震えて、言葉が途切れた。

 直後、彼の目と鼻と言わず、焦げ臭い匂いを放つ黒煙が立ち上った。そして、糸の切れた操り人形のようにグラリと身体が倒れ込んだ。

 彼の胴体に視線を向けると、そこには炭化した肉体が輪郭を縁取った巨大な穴がポッカリと開いていた。レーテが、電子化した右拳を叩きつけてブチ開けた致命傷だ。

 レーテの方に倒れ込むボルクランテの顎を、彼女は電子化した左拳によるアッパーで思い切り殴りつけた。バチンッ! という原子の悲鳴と共に、彼の頭が落としたスイカのように破砕。2つの致命傷を負ったボルクランテは、体中から純白の光の粒子を立ち上らせて、空間へと昇華して行った。

 

 10分にも見たぬ時間の中で、"鋼電の女神"は『士師』2人を楽々と(たお)してしまった。

 

 「…!!」

 残った"影地の士師"ヘルベルトは、分が悪いと判断するや、後ろに跳び退(すさ)って逃走を試みた。敵に背を見せずに退く手際は『士師』に相応しき妥当な行動であった。

 だが、彼の行為も実を成さずに(つい)えてしまった。

 ピュンッ、と小さく鋭い音が空を過ぎった。転瞬、ヘルベルトの体が衝撃にビクンと震えたかと思うと、全身が脱力。大地を踏みしめることなく力なく倒れ伏せると、そのまま光の粒子と化して昇華し始めた。――(たお)されたのだ。

 だが、それをやったのはレーテではなかった。

 「お嬢、要の本命がそんなに前に出るものじゃありません」

 揶揄の混じった、青年の精悍な声が介入した。声の方へと視線を向ければ、そこは元々『天使』が殺到していた場所だ。しかし『天使』はただの1体とて見当たらず、代わりに4人の男達の姿があった。

 「ダイジョブ! これから目一杯働いてもらうからさ、"四天王"!」

 「その"四天王"と云うの、いい加減に止めて頂けません? 子供っぽいというより、お馬鹿っぽいですよ」

 「えー!? 4人居るんだからさ、"四天王"って言った方が燃えるじゃーん!」

 レーテは両腕を目一杯上げて熱弁する。その有様は幼児のようで、可愛いを通り越して滑稽にも見える。

 

 レーテが"四天王"と呼ぶ4人の『士師』の顔ぶれは、次の通りだ。

 "撃弾の士師"レガース・ヴァン。4人の『士師』のリーダー格にして、リボルバータイプの拳銃を武器にしている『士師』の青年。一見スレンダーに見える体格は引き締まった筋肉で出来ており、鍛え抜かれた刀のような印象を受ける。一方で、長身の上に乗った顔は優しげで、静かな微笑みがよく似合う。その微笑みは、敵の目には却って見下すような険しく不快なものとして映ることだろう。

 "岳機の士師"エリオ・モルザール。レガースとは対照的に子供のように背が低い男性――実際、声変わりしていないような高い声を聞くと、見た目通りに諸9宇年なのかも知れない。両の眼が隠れるほどに伸ばした前髪の所為で、口元からしか感情が読みとれないが、長閑(のどか)な田舎で伸び伸びと育ったような剛胆で活発な性格が伺える。彼の(あざな)である"岳機"とは山のように巨大な機動兵器を指し、『神法(ロウ)』によってそれらを瞬時に生成し、手足のように操る事を得意とする。

 "脳朧の士師"ガンマ。霊体タイプの死後生命(アンデッド)を思わせる、半透明でノイズの走る不安定な体構造をしている。しかしながら彼の種族は死後生命(アンデッド)ではなく、付喪神(アーティファティー)である。彼のノイズの走る体は、彼の源であるコンピューターゲームに由来するものだ。(よわい)は二百に迫るが、描画されている実体は迷彩柄の軍服を着込み双剣を持つ、20代前半の青年の姿を取っている。

 "帝蜂の士師"ヴァルジューラ。アンドロイドから『士師』になった"男"(彼は男性格である)で、角のないツルリとした形状の機体は常に磨き込まれており、芸術品のようにも見える。彼は自己改造を繰り返すことによって完全な戦闘特化の存在と化しており、多数の兵器が内蔵されている。だが、それよりも何よりも彼を特徴づけているのは、その数が億単位を数える遠隔操作兵器"ビット"を自在に操作することだ。彼は正に、一機で万兵に値する戦士である。

 

 「まぁ、オラは呼び名なんてどーでも良いんだけンども」

 一番背の低いエリオが頭の後ろで手を組みながら、訛の強い言葉を口にした。

 「"陰流"のオバサン達ゃ、3人も『士師』が一気に消えた事ぐれぇ直ぐに分かったべよ?

 オラ達ゃ何とでもなるけンども、この都市国家(くに)のみんなの事考えたら、早く動かねぇとマズいンでねが?」

 「報復、してくるでしょうな」

 ガンマが透けた顎の下に手を置き、頷いてエリオに同意した。

 「しかも、今は"陰流"の得手たる夜分です。朝を待ってくれるワケがない」

 「なら、直ぐ動くだけだぜ!」

 ヴァルジューラがガツン、と鋼の拳を合わせて語った。

 「オレの遠隔操作兵器(ビット)は、もうこの都市国家(くに)中に展開済みですよ!

 ゴミ『天使』も『士師』も、残さずブッ斃してやりますぜ!

 早ぇところやっちまいましょう!」

 3人の『士師』の言葉に、レーテは同意の頷きを返した。

 「そうだね、さっさと終わらせちゃおうか!」

 そして、グローブをつけたままの拳を夜空高くに振り上げて宣言した。

 「悪神退治の、始まり始まり!」

 

 そうレーテが声高に叫んだと同時の事。プロジェス中で『神霊圧』の発生が相次いだ。

 都市国家(くに)中に散っていた『士師』や『天使』達が、レーテの『士師』の読み通り、報復に向けて早速全力を解放して(うごめ)き始めたのだ。

 ――こうして、プロジェスにおける『女神戦争』の第二幕が始まった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (夢でも…見ているのか…?)

 ボルクランテを撃破する作戦を決行した夜を経て、一睡もせずに朝を迎えたエノクは。ヴィラードや部下達と共に、プロジェスを舞台に再び始まった『女神戦争』を、今度は傍観者として見つめていた。

 そして、消極的ながら参加者であった第一次の『女神戦争』とは様相が全く異なる戦況に、唖然とするばかりであった。

 

 新たにやってきた"鋼電"の勢力は、たたの5人。『現女神』レーテが1柱と"四天王"という顔ぶれだけだ。信者は一人も居らず、独立闊歩する『天使』の姿も見えなかった。『天使』はレーテの両手両足を包む武器に始終徹し、唯でさえ寡勢の戦力の(かさ)を増すことはなかった。

 対して"陰流"の勢力は、"夢戯"と戦った際に多少損害を出しているとは言え、まだまだ莫大だ。50を越える『士師』を擁し、視界を埋め尽くすほどの『天使』の群れを飼い慣らしていた。

 常識的に考えれば、"鋼電"の圧倒的不利…の、はずであった。

 だが、実際は驚くべき事に、真逆であった。

 "陰流"の大規模な勢力が――"夢戯"の勢力が本拠において(なお)、山河を染めるような血汗を流して戦っても勝てなかった、残酷なまでに協力な勢力が。たった5人の戦力によって、まるで殺虫剤を前に(たか)って落ちる羽虫どものように、軽々と撃破されていった。

 "四天王"が一人、"帝蜂の士師"ヴァルジューラは空を埋め尽くす程の遠隔操作兵器(ビット)を一つ一つ緻密に操り、"陰流"の『天使』どもに高出力の荷電粒子の雨を降らせた。イオン化した大気の生臭い香りが充満する大地の中、命辛々(からがら)逃げ延びた『天使』達を、ヴァルジューラはまた体内に格納した種々の戦闘兵器で一閃。一気に数を減らしていた。

 "四天王"が一人、"脳朧の士師"ガンマは悠々と『天使』や『士師』で構成された軍隊の中へと単身乗り込んだ。当然彼には苛烈な数々の攻撃が浴びせられたが、半透明でノイズの走る彼の体は(ことごと)くの攻撃を透過した。それはまるで、石を投げ込んでも波紋を立てない不思議で閑寂な水面のようであった。しかし同時に、彼と言う水面は暴力的でもあった――透過する物体は『神法(ロウ)』で保護された『天使』の体だろうが、電火が走り無惨な焦げと化したのだ。そしてガンマの手にする双剣は一振りする度に『天使』や『士師』の体を豆腐のようにスッパリと切り捨てていった。

 "四天王"が一人、"岳機の士師"エリオの行動は最も派手であった。彼は何処からともなく山のように巨大な機動兵器を作り出すと、『天使』と問わず『士師』と問わず甚大な火力で焼き尽くした。そんな苛烈な仕打ちを成す一方で、彼のプロジェスに対する振る舞いは極めて優しいものであった。己を初め、"鋼電"の勢力の攻撃によって傷ついた街並みを、これまた何処からか作り出した復興ロボットの大群で、あっと言う間に修復してしまった。逃げ遅れたり、傷つき隠れていた都民を救い出していたのもまた、彼であった。

 "四天王"が最後の一人、"撃弾の士師"レガースの戦いのスタイルは最もシンプルで、地味だ。武器は手にしたリボルバー拳銃一丁のみ。"鋼電の女神"から授かった『神法(ロウ)』が有ろうとも、残りは彼自身の身体能力が物を言う。…その身体能力が、あまりにも異様であった。予知能力でも備わっているかのような反応速度、風と形容するにしても余りにも軽やかな体裁き。そして、一見ひ弱なとも見えるような発砲の火線が、一撃で『天使』を数体串刺しにして破壊したり、体長が5メートルを越すような巨大な『士師』の頭を吹き飛ばしたりと、凄まじい戦果を上げていた。その一連の所作を寒気のする微笑みを伴って行うのだから、心強いを通り越して不気味ですらあった。

 そして、『現女神』自身であるレーテ。勢力の要であると云うのに前線に立つ彼女には、当たり前ながら分厚い戦力がぶつけられた。

 これがニファーナならば、いくら覚悟を決めようとも、後込みした事であろう。怯懦の態度を押し殺しても、脚の震えが露呈したことだろう。

 だが、レーテと来たら。

 「オラオラオラーッ!

 不良『天使』どもーっ、いくらでも掛かってこいやーっ!」

 一騎当千の爽快感を味わう戦争ゲームでも楽しむかのように声を張り上げ、電光の輝きと共に戦場を駆け巡り、次々と『天使』を屠って昇華させた。

 彼女の首級を取ろうと3人の『士師』が共謀して襲いかかってきたこともあったが。

 「死ねぇ!」

 という口上もまともに口出来ず、彼らはレーテの電流の拳と蹴りの前に体が爆ぜ、瞬時に命を失った。

 たったの5人が、数千余の戦力を圧倒する、恐ろしくも爽快な様相がプロジェスを接見した。

 

 そして日が南中にさしかかる頃には。

 "夢戯"の牧歌的な島を蝕んで台頭した猥雑なる"陰流"の『天国』は、"鋼電"の電光の球体のような『天国』にその大半を食い潰されたのであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 "鋼電"の快進撃に、"陰流の女神"ヌゥルが黙って指を咥えているワケがなかった。

 憤った彼女は、ニファーナのように堂々とした一騎打ちを申し込むこともなく、最も信頼を置くエルビザ・フローゼンを初めとした6人の『士師』を率いて、完全な不意打ちでレーテに勝負を挑んだ。

 『天使』の群れとの乱戦の中、突如として飛びかかって来た1柱と7人を前にしても、レーテは特に慌てることはなかった。

 むしろ、"相手の頭の方から出て来てくれて都合が良い"とでも言いたげに、ニンマリと笑いながら迎撃を開始した。

 プロジェスを舞台にした二度目の『現女神』同士の直接対決。これを耳に入れたマスメディアはヘリコプター等を飛ばし、テレビやラジオは『女神戦争』の実況一色に染まった。

 都民達は当然ながら、"鋼電"の勢力を応援した。入都してまだ1日も経過しておらず、人柄――いや、"神柄"と称すべきか――も知らないレーテであるが、陰惨さを痛感するヌゥルよりはどの『現女神』であってもマシだと考えたのだろう。

 都民の期待に応えるように、天空に座す"鋼電"の『天国』はますます輝きを増し、"陰流"の猥雑な街を蝕んだ。だがレーテは、都民からの"期待"を信心として『天使』を増産することを決してしなかった。

 あくまでも『天使』は両手足を覆う武器として用いるのみ。戦力は彼女と四天王の5人のみ。

 この真っ直ぐな気質もまた、独立の志高く頑固な気質のプロジェスの都民の共感を呼んだかも知れない。

 

 ニファーナはテレビでこの様子を見ていただろうか? それは分からない。

 だが、エノクは肉眼で以て、レーテとヌゥル達の激闘を目にした。

 

 そしてエノクは、終始肌の粟立ちを抑えることが出来なかった。

 

 「格が違うとは…この事なのか…?」

 エノクが思わずポツリと漏らすと、隣で棒立ちになっているヴィラードが冷や汗のまみれの苦笑を浮かべながら応じた。

 「まぁ、オレの故郷の宗教でもよぉ、神さんにゃ上下関係だのは有ったからな。『現女神』だって例外じゃなくても可怪(おか)しくはないが…。

 それにしたって、この差はなんだよ…」

 "夢戯"の元『士師』の目の前で、"鋼電"レーテの荒ぶる様は、まるで巨木も意に介さず根(こそ)ぎ叩き倒す嵐のようであった。

 群がる『天使』は一挙手一投足が呼ぶ激しい電流によって、次々と昇華していった。陰にまつわる特殊な能力を駆使し、厳しい連携で以て襲い来る『士師』達の合間を、レーテは電光を伴って加速しながら回避しつつ、爆発的な勢いの拳撃で反撃を繰り出した。バチンッ! と大気の破裂する音と共に生じた衝撃は、『士師』達の防御を軽々と凌駕し、腕やら盾やらといった遮蔽物ごと大電流で穿(うが)ち、多大なる損害を着実に与えていった。

 四方八方、地面の下からも『天使』や『士師』が襲いかかろうと、レーテは全く動じなかった。沈着冷静に、四肢にまとった『天使』から電磁場のフィールドを球状に展開して彼らを絡め取り、吹き飛ばしてしまった。そして彼らが着地して転がるよりも早く電子の動きで追いすがり、容赦のない拳足を見舞って彼らを叩き伏せた。

 あまりに壮絶で速い展開を、マスメディアのレポーター達はどのように伝えているのだろうか? …そんな妙で他愛のない疑問が頭を過ぎるほどに、レーテの戦いは安心して見守ることができた。

 

 ニファーナとヌゥルが交戦した時に述べたように、『現女神』同士の戦いの勝敗は、集まる信心と彼女ら自身の技術や身体能力で決まる。

 『天使』の数だけで比較すれば、信心の面ではヌゥルが圧倒的に有利である。だが、そのアドバンテージが全く利かないのは、レーテ自身の能力が高すぎるからだ。

 レーテは同じ年頃のニファーナと違い、神格を自覚した上で、自身の力を練りに練り上げたのであろう。それこそ、人を超える程に。

 それ故の戦果が、エノクが目にした光景だ。

 

 気付けば、レーテの周りからは『天使』も『士師』も消え去り、敵はヌゥルだけとなっていた。

 ヌゥルは正面切っての攻撃をせず、奇襲に徹していたために、レーテからの反撃を貰う機会は少なかったが。それでも息は上がり、完璧なプロポーションを誇る肉体は疲弊に蝕まれて崩れ、妖艶なる顔立ちは荒い木彫りの面のように影を(たた)えた焦燥と失意で満ちていた。

 一方のレーテは、大量の『天使』と『士師』を相手にしたというのに、涼しい顔をしていた。とは言え流石に汗はかいたようで、右腕で額を拭ってみせた。

 「…この、バケモノ…!」

 ヌゥルが荒い呼吸に溶け込ませるように怨嗟を吐くと。レーテはニンマリと嫌みったらしく笑いながら、『天使』のグローブに包まれた右手で首を掻く仕草をして見せた。

 「うんうん、的を得た言い方だね。

 今から神をブッ(たお)そうって云うんだからね! そういうの、バケモノの所業じゃん?

 まぁ、でもわたしは神の身だから、神獣って言うのが――」

 レーテが余裕でペラペラと語る間に、ヌゥルが動いた。影を伴い黒い疾風と化し、巨大な薙刀を振るってレーテの可愛らしい笑顔に一閃を浴びせた。

 …が、ヌゥルの一撃は虚しく空を切った。レーテは例によって電光を伴う高速移動で以て、ヌゥルの薙刀の下に潜り込んで斬撃をやり過ごすと。立ち上がりながら、『天使』のグローブによるアッパーを薙刀の柄にガツンと食らわせた。

 (バン)ッ! 轟く悲鳴は、大気ばかりか薙刀を形成する神聖化された分子をも破壊した電流による暴力によるものだ。ニファーナとの交戦の際にはピクリとも(たわ)むことの無かった薙刀が、酷暑の元でヘニャリと溶けた棒アイスキャンディーのように盛大にひしゃげ、天上へと大きく弾き飛ばされた。

 「なっ!?」

 奇襲に(うま)く対応されたことに加え、予想外の力に驚愕を隠せないヌゥル。その無防備な横顔に、青白の電光が尾を引くレーテの一蹴がまともにめり込んだ。

 (ガン)ッ! まるで巨岩同士がぶつかり合ったような重音! 同時に、ヌゥルの体が旋風に巻き込まれた紙切れのように軽々と吹き飛んだ。優に6メートル程の距離を一気に飛んだヌゥルの体は、着地してもなお衝撃が収まらず、何度も大地をバウンドして更に転がった。

 ヌゥルが『現女神』でなかったのならば、間違いなく頸椎がねじ切れたであろう、容赦のない一撃であった。

 倒れ伏したヌゥルが起き上がるまで、たっぷり数分の時間が費やされた。その間レーテは追撃することもなく、軽く身構えてヌゥルの復活を待っていた。

 それは一見すると余裕とも取れるが、エノクはそうではない事を看破していた。レーテの剣呑な表情が、堅固な眼光が、それを如実に物語っていた。

 レーテは、ヌゥルの全力を奥の底まで(しぼ)り尽くした上で、全てを覆して勝つつもりなのだ。ヌゥルと云う神格を、一片たりとも残さず否定し切るつもりなのだ。

 (なんと苛烈な女神であることか…!)

 エノクが固唾を飲んで胸中で感嘆の念をもたげていると。ようやく立ち上がったヌゥルが、これまで見せていた艶然たる態度をかなぐり捨て、美貌を鬼面の如く歪めて、憤怒をレーテにぶつけた。

 「…絶対に、殺すッ!」

 

 それからのヌゥルの攻撃は、凄まじいの一言に尽きた。

 遠く離れた地に置いた信者達から搾り取った信心で作ったのだろうか、『天使』を数匹作り出すと、武器やら影やらに転化させて、正に千差万別に攻めを続けた。

 大地に湖のように広がった影から百を超える腕が伸び、拳撃や捕縛を見舞った。形を整えた薙刀の一撃から黒い刃が無数に跳び、大地と云わず空間と云わず、あらゆるものに凄絶な傷跡を残した。舞いと云うよりは嵐のような勢いで軽やかながら暴力的に身を躍らせ、斬撃や蹴りを浴びせ続けた。影の中から悪魔のような存在を召喚し、竜息吹(ドラゴン・ブレス)もかくやと云う闇の奔流で世界を震撼させた。

 だが…どの攻撃も、レーテに有効な打撃を与えるには至らなかった。

 それどころか、レーテは全ての攻撃に対して、巧みに隙を付いてはヌゥルに電流の拳や蹴りを浴びせ続けた。

 派手に攻めているのはヌゥルだと云うのに、時と共にその美貌は泥と血の混じった無惨な醜態へと化していった。

 「なんでよ、なんでよ、なんでなのよッ!

 何なの、何なの、何なの何なの何なの何なの何なのッ!」

 ヌゥルは火を吐くような勢いで怨嗟を唱え続けた。が、その隙がまたレーテに利用され、情け容赦のない固い拳の一撃がヌゥルの頬を(えぐ)った。

 ――やがてヌゥルは、腫れ上がって台無しになった美貌を両腕で覆ったまま、転を仰いだまま倒れ込み、動かなくなってしまった。

 ニファーナを散々に追いつめた実力の持ち主が、今度は子犬に(もてあそ)ばれる(まり)のように、為されるがままに滅茶苦茶にやられたのだ。どんなに力を振り絞ろうと、手を変え品を変え行動を起こそうとも、何一つ通用しなかったのだ。

 そして、彼女を存在ごと拒絶するような容赦ない一撃が、着実に彼女を打ちのめし続けたのだ。

 万策尽きたヌゥルは、もはや立ち上がる気力さえ失っていた。

 そんな彼女の間近に、レーテは悠々と歩み寄った。だが、何一つ言葉を掛けることはしなかった。溜息一つ吐くこともしなかった。

 ただ、水面越しに泳ぐ魚を狙う水鳥のように、腰を曲げてヌゥルを覗き込むと。ゆっくりした動作で平手を持ち上げ――。

 「せいっ!」

 掛け声と共に、電流を纏った平手をヌゥルの無防備な腹部に叩き込んだ。

 パァンッ! 響いた音は、単に皮膚を叩いた音だけだけでなかった。鼓膜をつんざくような、大気の悲鳴が街並みに響き渡ると同時に、人々の産毛を逆立てる帯電のさざ波が弱い閃光と共に走った。

 この平手打ちがどれだけの威力を秘めたものかは、エノクは分からない。ただヌゥルが、「ひゃう…!」と脱力し切った情けない声を上げた事だけはしっかりと耳に入れた。

 平手を食らったヌゥルの体から、純白の輝きが(あふ)れ出した。それは大小の粒子となって宙空へと昇り、(かす)れて消えていった。

 この光景を目にしたヌゥルは、ハッと目覚めたように上体を起こして両腕を伸ばすと。バタバタと無闇に腕を泳がせ、消えてゆく光の粒子を掻き抱こうと必死になった。

 「そんな…! 嘘…! 冗談よ…! どうして…! まだ私は…!」

 譫言(うわごと)を繰り返しながら腕を動かし続けるが、光の粒子は無情にも指や掌を透けてしまうばかりであった。

 この光の粒子は、ヌゥルに神格を与えていた神聖力に他ならない。

 

 ――つまり、この瞬間。ヌゥルは己がニファーナに為したのと同様、レーテによって神格の座を奪われたのであった。

 

 天空では、電飾が目(うるさ)い猥雑な"陰流"の『天国』は固着していない煉瓦(れんが)細工のように完全に瓦解した。一方で、"鋼電"の雷球がプロジェスの全天を覆い、オーロラのような光を都市国家(くに)中に降り注いだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 神格を失った『現女神』はニファーナに見る通り、単なるヒトへと戻ってしまう。ヌゥルもまた、例外ではなかった。

 いや、ヌゥルに関して云えば、ニファーナより状況が悪いと言えた。ニファーナは付き従ってくれた『士師』達が残ってくれた一方で、ヌゥルは彼らの全てを『女神戦争』で失った。

 益あるものは全て失い、得たものと云えば満身創痍ばかり。そんなヌゥルに対しても、プロジェスの都民達はこれまでの仕打ちに対する怒りを収めることはしなかった。

 ヌゥルの神格が消えたことをマスメディア経由で見聞きして認識した都民は、彼女の元に殺到し、拳の一つまたは石の一つもぶつけてやろうと殺気立ったが。

 そんな彼らを押し留めたのは、"鋼電の女神"レーテであった。

 「彼女はもう、報いを受けてるよ。

 そしてこれからも、報いを受け続けるんだ。

 彼女が神の座に胡座(あぐら)かいて好き放題にして来た信民達から、常に敵意に晒されてながら生きていかねばならないんだからね。

 ここでみんなが怒りに身を任せて彼女を傷つけたところで、みんなの手が罪に汚れるだけだよ。

 みんなの思いは、わたしが拳に込めてお腹一杯になるまで喰らわせてやったからさ。それで満足してあげてよ」

 このレーテの言葉に、都民は黙って従った。逆らって手痛過ぎる反撃を喰らうのが怖かったのかも知れないし、純粋に器の大きな言葉に感服したからかも知れない。

 どちらにせよ、ヌゥルはプロジェスを後にするまでは、傷つき疲れ切った体を動かす労力にのみ集中することが出来た。

 都民は拳や石といった物理的な暴力は働かなかったものの、ヌゥルがプロジェスの市壁をくぐるまでは、怨恨のこもった視線をじっと送り続けた。

 

 ――以後のヌゥルの消息を、エノクは知らない。

 彼が知らないのだから、恐らく都民の誰もが知らないだろう。そもそも、知ろうともしていないのかも知れない。

 『現女神』の座から転落したヌゥルのことを報じるマスメディアも無ければ、騒ぎ立てる国際組織もない。衰退して消えた台風を何処までも注目する気象台が存在しないのと同様、超異層世界集合(オムニバース)への影響が皆無である一介の妙齢の女性に興味を抱く存在は、もはや存在しない。

 エノクが気にかかったのは、ヌゥルよりも、彼女が擁していたはずの多数の信徒の動向であったが。国際ニュースの中で特に話題の上らないと云うことは、何とかよろしくやっていると云うことだろう。

 

 さて、"陰流の女神"という驚異が排除され、お祭りムードに沸くプロジェスであったが…。

 初めこそ、"鋼電の女神"を救世主のように扱っていた都民達であったが。彼女らがプロジェスに一晩滞在することを決めてから、歓迎ムードが一気に曇り始めた。

 ――プロジェスの支配者が、"陰流"から"鋼電"にすり変わったと云うだけなのではないか?

 ――本当に"鋼電"は一晩のみの滞在を決めたのだろうか? 何日も居座り続けて、そのままプロジェスの神の座に収まってしまうのではないだろうか?

 そんな懸念がポツポツと口に上がるものの、レーテに問い(ただ)そうと云う者も、悪い芽が出る前に摘み取ってしまおうと行動に出る者も、全く現れなかった。

 ヌゥルとの戦いで疲れ切っていたと云うのも勿論、大きな理由だ。だが何より恐れたのは、レーテ一派の有するあまりにも強大な力であった。

 "夢戯の女神"が健在な時でさえ手を焼き続けた"陰流"を、一日経ずして叩き潰して追い出してしまった"鋼電"。そんな相手を、『現女神』の加護もなく、どうやって叩きのめせると言うのか?

 その疑問に答えを出せる者は、元『士師』も含めて誰一人存在しなかった。

 

 …だが、都民の懸念は、幸いにも杞憂で終わった。

 明くる日の昼過ぎ、"鋼電"の一派はあっさりと、都民に何某(なにがし)か言葉を残すでなく、飄々とした足取りで去って行った。

 

 とは言え、"鋼電の女神"レーテは、本当の意味で何もせずに帰ったワケではなかった。

 彼女は朝早く、ニファーナの神殿――神の座を退いた今は、"御殿"と言うのが相応しいだろう――を訪れていた。

 現在と変わらず、御殿を(ねぐら)にして居たエノクは、彼女ら訪問の際には驚愕と震撼を隠せなかった。力ある『現女神』が、神の座を失っても未だに支持のある元『現女神』を訪れる理由など、ロクなものが思い浮かばなかったからだ。

 (ニファーナ様の口を通して、この都市国家(プロジェス)の統治者となったことを知らしめるつもりか!?)

 疑念の余り、身構えてしまったエノクに対して、幸いにして女神も四天王も全く悪気を覚えなかった。四天王はキョトンとして顔を見合わせるだけで、女神に至っては"滑稽だ"と言わんばかりにケラケラと笑った。

 「うんうん、警戒する気持ちは分かるよ。わたしがアナタの立場なら、同じ反応をしただろうからね。

 でも、大丈夫。悪いようにはしないよ。

 ただ、ちょっと話がしてみたいんだよ。今なお人心を集めて離さない、元『現女神』様と2人きりでね」

 「え、2人きりでっかぁ?」

 "岳機の士師"エリオが初耳だと言わんばかりの声を上げると、レーテは首を縦に振った。

 「あれ、言わなかったっけ?

 あ、言ってないから、みんなゾロゾロとわたしの後をついて来ちゃったんだよね?

 えーと…うん、2人きりで話したいんだ。

 だから皆は、この神父さんと世間話でもしといて」

 そう語るなり、レーテはひょこひょこと御殿に上がると、「元『現女神(めがみ)』ちゃーん、居るー?」と叫びながら廊下の奥へと進んで行った。まるで、勝手知ったる友人の家に遊びに来たかのような態度であった。

 「突然来られて、それは…!」

 エノクは慌ててレーテを引き留めようとしたが。その前に、一番奥の一室からニファーナが現れると、レーテをひょいひょいと手招きした。

 「エノクさん、大丈夫。心配しないで。

 "鋼電の女神"さん、初めまして。もう力なんかないけど、そんな私で良ければ、お話付き合うよ」

 「うんうん!

 そこがあなたのお部屋? お邪魔させてもらうねー!」

 小走りで廊下を駆けてニファーナの元に行くレーテの姿は、"陰流"を叩きのめした神格とは思えない、どこにでも居そうな脳天気な女子学生にしか見えなかった。

 …ニファーナの部屋に入った2人が、一体どんな会話を交わしたのか。エノクは知らない。ニファーナも特に口にすることはなかった。

 ただ、20分程すると、部屋に入ったのと同じ様子でレーテが出て来て、いつもと変わりない様子のニファーナがヒラヒラと手を振って別れを告げるだけだった。

 この機を境にしてニファーナの様子が変わったと云う事もないので、エノクの懸念は全くの杞憂だったようだ。2人は同世代なので、戦いの束の間に取り留めのないガールズトークを楽しんだだけなのかも知れない。

 真相はどうであれ、ニファーナに何らかの打撃を受けた様子が無かった事に、エノクは深く安堵したのであった。

 

 …むしろエノクとしては、"鋼電"の四天王達との時間潰しの方に肝を冷やしていた。

 主であるレーテに言いつけられた事を忠実に守ったつもりなのか、彼ら4人は本当にどうでも良い事ばかりで会話を繋いできた。

 「エノクさんは、ニファーナさんとはこの建物で今も同居なさっているんですよね?」

 「はい。

 元は『士師』達皆が、護衛も兼ねて同居していたのですが。ニファーナ様が神格を失ってからは、私一人になりました」

 「食事って、どっちが担当してんだ? 当番制か?

 ちなみにうちらは、レーテ様を含めて当番制だ。ただし、俺(ヴァルジューラ)だけは免除されてる、ヒト並の味覚がないもんだから、どうしても無機質な調理になっちまうもんで、不評だからな」

 「はあ、そうですか…。

 食事は、(もっぱ)ら私の仕事です。ニファーナ様は、たまにお菓子を作りますが、基本的にはキッチンに立ちません」

 「へぇー。

 ちなみに、今日の夕飯は何の予定ずら?」

 「え…? あ、はい、そうですね…。

 カレーライスにしようかと、考えていました。昨夜から…その…働きづめでしたので、手軽に作れるもので済ませたいと思いまして」

 「分かります。カレーライスは素晴らしい食事ですよね。

 手間が掛からず、作り置きも出来て、栄養価も高く、そして美味しい。

 レシピに窮した時の救世主です」

 「そ、そうですか…」

 …その他、洗濯だの掃除だのと言った世間話ばかりが飛び交った。エノクは自分を懐柔して、プロジェス支配の足掛かりにするつもりかと警戒し続けていたが。

 結局四天王は世間話を楽しむだけ楽しんで、レーテと合流するとあっさりと御殿を引き上げて行った。

 

 "鋼電"の一行の見送りについたのは、エノクと彼が連絡を取った数名の元『士師』と行政機関の人間。そして道中、レーテを見かけた都民数十名であった。

 彼女ら一方は入都時には、"陰流"が侵攻に使った穴を通ってきたらしい。が、変える時はきちんと入都ゲートを使った。

 「そんじゃね」

 そうエノクにだけ語って、ヒラヒラと手を振ったレーテは、行く先へと(きびす)を返すと。四天王を両側に(はべ)らせた状態で、拳を力強く天へと突き上げて叫んだ。

 「いざ、次なる悪神を成敗せん!

 行っくわよ~、皆の者ッ!」

 その号令と共に、1柱と4人はプロジェスを一顧だにせず、草原というよりは荒野に近い風景の中に真っ直ぐに延びる道路に沿って歩き出した。

 

 ――以後、"鋼電"は全くプロジェスと関わりを持っていない。ニファーナに連絡を取っている様子もない。

 だが、プロジェス都民の中では「悪神から自分達の自由を取り戻してくれた英雄」として、彼らの事を話題に出す時がしばしばあるようだ。

 その証拠に、レーテが去った同時に『天国』が消えてしまった天空に、時折電光を放つ光の爆発が生じる事がある。"鋼電"の『天国』が極短い時間、プロジェス上に出現しているらしい。

 

 何にせよ、プロジェスは"鋼電"の一派によって"陰流"の圧政から解放されたワケだが。

 かと言って、プロジェスが直ちに自由を謳歌して幸福を得たワケではなかった。

 2度に渡る『女神戦争』によって深く刻まれた傷跡が、都民の前に立ちはだかった。

 真なる幸福を得るためには、"復興"と言う名の山を登らねばならなかった。

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Enigmatic Feeling - Part 7

 プロジェスの復興は、苦難の道のりであった。

 そもそも、女神庇護下型都市国家の『女神戦争』敗北による荒廃からの復興は、得てして厳しいものになる。

 まず、地球圏の復興においての最大の頼みの綱である地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の支援が、極端に受けにくい。

 『現女神』による統治は、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)のポリシーと相反する部分が多々ある。『現女神』が健在な時から余程の友好関係を築いていなければ、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)は"それ見たことか、俺達に従っておけば良かっただろう?"と言う台詞を叩きつけるが如くに、介入してこない。

 信者の動向や、接触した軍団の性格にも因るが、例え『現女神』を失ってから直ぐに地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に尻尾を振っても、"諸々の手続きがある"として中々腰を上げてくれない。

 ましてや、プロジェスのように女神庇護下型都市国家になる以前から地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に反発していたような独立気質の強い都市国家となれば、尚更のことである。

 

 よってプロジェスは、荒廃した国土の中、都民達が憔悴した身体に鞭を入れて、復興を進める事となった。

 

 復興に際しては、エノクを初めとした元『士師』達は残らず積極的に関わった。元々プロジェスに大きな愛着を持っていた者達であるから、当然の行動であるとも言える。

 一方で元『現女神』であったニファーナはと言えば、元『士師』に比べると関わり方は消極的であった。

 その理由として、青空教室ながらも学校が所々で再開していたことも関わっていた。神格の座にある時も学生を続けていたニファーナは、再開した学校にも平然と通っていたからである。

 「大丈夫、なのですか?」

 エノクは何度か心配になり、ニファーナに尋ねたことがあった。

 「ん? 大丈夫だよ?

 何で? 何か心配事でもあるの、エノクさん?」

 ニファーナがキョトンと問い返してくると、エノクは"やれやれ"と言った感をたっぷり滲ませた溜息を吐いて答えた。

 「ニファーナ様は神格を失ってしまわれると云う、大きな変化があったのですよ?

 先生や生徒からの接し方も大きく変わってしまったのではないですか?」

 「いや、全然?

 いつも通りだよ。

 なんでそんな事、気にするの?」

 「何故って、それは…」

 エノクは言葉を濁したが、心配の理由は明白である。ニファーナが『女神戦争』に敗北したことで、"陰流"によってプロジェスは荒廃の憂き目を見たのだ。神格を失い、ただのヒトの身となった今、ニファーナに責任を取らせようという冷たい風が吹いているのではないか、と危惧していたのだ。

 だが、ニファーナの答えは決して強がりではなく、エノクの危惧は本当に杞憂であった。

 ニファーナは冷たい風に晒されるどころか、尚も都民からの信頼を集めていた。

 プロジェスの独立を確固たるものにした功績に加え、勝算の目の薄さにも関わらず、都市国家(くに)を背負う者として"陰流の女神"と正々堂々と戦った姿が好評価されたらしい。

 実際に学校の内情を探ったこともあったが、ニファーナは本当に(いじ)められる事もなく、教室内――いや、学内のマスコットキャラクター的存在として愛されていた。

 さて、学生の大半は授業が終わると家族と共に復興の手伝いをすることが日常となっていた。しかしながらニファーナと来たら、手伝いをすることが稀であった。

 (たま)にフラリと何処かの現場に姿を現すことこそあれ、その作業は得てして長続きしなかった。

 初めこそ「よーし、やるぞぉ!」と気合い満タンで腕まくりして作業に取りかかるのだが。すぐに音を上げて、「ゴメン、後ヨロシク…」と言い残して御殿に変えってしまうのだ。

 そんな情けない姿も、現場の作業者の反感を買うどころか、マスコット的な笑いを取るのに一役買っていた。

 「仕方ねぇなぁ、ニファーナちゃんは!」

 「気をつけて帰れよー!

 疲れたからって、コケたりすんなよー!」

 そんな温かい言葉を掛けられてるのは、ニファーナの才能であると言えよう。

 

 ニファーナに関する懸念は鳴りを潜めた一方で。復興の進捗はエノクの懊悩(おうのう)の種となり、深く根付いていた。

 『現女神』を失った事実を知った外資系企業は次々と撤退した為に、復興の中核を成せるような技術者や指揮者が激減してしまった。外貨も入らなくなったために財源は減り、有用な魔法技術の導入や開発も困難になってしまった。

 そんな状況にも関わらず、行政機関の独立気質は曲がらず、相変わらず地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に頭を下げることはなかった。

 (このままでは、都民の心が折れてゆくばかりだ。

 何か起爆剤に成りうるものが欲しい。だが、それを持ってくる体力も知恵も、今のこの都市国家(くに)には不足りな過ぎる…)

 エノクが口惜しみながら、スコップや一輪車と云った原始的な道具を手に、地道にな作業に明け暮れていた…その時だ。

 

 プロジェスの精神を盛り上げる転機が、やってきた。

 ――ゴシックメタルバンド、フリージアの来訪である。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「ねぇ、エノクさん。

 今日はお仕事お休みしてさ、一緒にライブ見に行かない?」

 『女神戦争』が終結してからの二度目の土曜日の朝。自室で作業の準備に取りかかっていたエノクの元に、ニファーナがひょっこりと顔を出して誘って来た。

 「ライブ…ですか?」

 エノクは眼をパチクリとさせた。言葉の意味が分からなかったワケではない。ニファーナの発言が、プロジェスの現状に余りにも似つかわしくない単語――"ライブ"――を含んでいたからだ。

 外部の助力が得られず、疲弊した身の上であっても自力で復興に取り組まなねばならないプロジェス。娯楽に時間や費用を掛ける余裕など、到底持てるワケがなかった。だと云うのに、ライブを開催しようとする酔狂な――いや、愚かな者が居ようとは!

 エノクは眉根を(ひそ)めると、溜息を吐いて作業準備に戻りながら、毒を口にした。

 「一体どこの誰ですか、そんな脳天気な事をする馬鹿者は。

 ニファーナ様も、そんな馬鹿者の愚行に乗るのはお止めください。都民からの非難を集めてしまいます」

 「そんな事無いよ、大丈夫だって」

 ニファーナはパタパタと手を振って否定し、ニヒッと笑って言葉を次いだ。

 「だって、ライブの主催者はプロジェス自身だもん。

 …って、あれ、エノクさんは知らなかった? 行政機関にコネがあるエノクさんの事だから、絶対知ってると思ったんだけど?」

 「は…?」

 エノクはキョトンとして、思わず間の抜けた声を上げてしまった。

 この様子から見て取れるように、ニファーナがもたらした情報は初耳である。

 それに、『女神戦争』終結後は、ニファーナやプロジェスを救済できず、後手後手に回ってしまった自分に責任を感じて、行政機関に関わることはピタリと止めていた。…とは言え、行政機関側からは度々「もう一度一緒に仕事をしないか?」と誘われているが、その度に断固として拒否していた。

 故に、エノクはマスメディアにも疎いため、復興作業現場で聞こえてくる噂話しか有力な情報収集源がなかったのだ。そして、作業現場ではライブの話など耳に入れたことはなかった。

 …(ある)いは、耳に入っていても、気に留められる程の余裕なく、作業に熱中して勤しんでいたのか。

 「プロジェスが? 何の為に? 都民は反対しなかったのですか?」

 「復興作業ばっかりの毎日への息抜きだってよ。

 そして、都民の反応は概ね良好だよ。ライブに掛かる費用だとか作業負荷だとかは、音楽レーベル側が全面的に負担するって言うからね。

 わたしたちプロジェス都民は参加無料だっし、外部からの一般参加者から得た売り上げは全部寄付してくれるって言うしね。貴重な外貨獲得手段だってことで、喜んでるヒトの方が多いかな」

 エノクは目を白黒させた。

 ニファーナの話を聞けば、なるほど、都民の苦情が無いのも頷けた。しかし、ライブの主催者側が何を考えているか、全く分からない。費用も作業も負担し、その上売り上げまで全て手放すと言う。つまりは、利益ゼロで赤字だけを背負うワケだ。そんなデメリットを好き好んで背負うような事業者が居るなど、全く信じられない。

 信じられないが…そんな酔狂ながら人道を真っ当に歩む者達に興味が出てきた。

 エノクは作業の手を止めると、ニファーナに尋ねた。

 「ライブの開催者は、何処の誰なのですか?」

 「フリージアってバンドさん。ゴシックメタルとか言う音楽やってるヒト達なんだって。

 ここ地球圏じゃ無名だけど、出身世界だとそこそこ人気があるんだってさ」

 そこでエノクは少し納得した――一見デメリットばかりの行動を敢えて取る理由を。

 つまり、フリージア並びに彼らが所属する音楽レーベルは、今回の慈善ライブを足がかりに地球圏への進出を目論んでいるワケだ。

 しかし、それでも成功の算段は五分と云ったところではなかろうか。フリージアがどれほど稼いでいるバンドかは分からないが、高々音楽産業界の儲けだ。ライブ会場を作るほどの資金はポンと出せるものではないだろう。今回の資金は、今後の成功を前提に、随分と無茶をした先行投資に違いない。

 それに、中途半端な成功では失った分を取り戻すのは難しいだろう。地球圏を騒がす程の大成功でなければ、元を取るどころかレーベル自体が傾く。

 一方で、バンドは「売り上げ全額寄付」を掲げているものの、プロジェスが密かに謝礼を払っている可能性も考えられるが…エノクはこの考えを却下した。現状のプロジェスを鑑みれば、フリージアのイベントに見合う謝礼を払えば、都市国家(くに)が確実に崩壊してしまう。

 となると、フリージアは正に、果敢に困難へ挑んでいる…ということになる。

 困難に挑んでいると云う点では、エノクも同じだ。『女神戦争』で瓦解した街を、疲弊した身体と精神を鞭打ち、自力で再び立ち上がろうと云う困難に面しているのだから。

 分野は違えど、同じベクトルを持つもの同士として、エノクはフリージアに強い興味を抱くようになった。

 「…折角、ニファーナ様にお誘い頂いた事ですし。何より、私が会ってみたくなりました。

 ライブ、ご一緒させて頂きます」

 作業道具を完全に放棄し、立ち上がって一礼したエノクに対して、ニファーナはニッコリと微笑んで頷いた。

 

 「ライブの話が出たのって、ほんの三日前だったんだってさ。フリージア側から是非にって、プロジェスに申し込んだんだって」

 ライブ会場への道中、手を繋いで歩きながら、この件については全く無知なエノクにニファーナは知る限りの経緯を説明した。

 「行政機関側は、凄く怪しんだみたいだよ。本当にライブだけ目的なのか、実は何処かの『現女神』とかの手先で、現状を視察してるんじゃないか、ってね」

 …そう言えば、3日前と言えば行政機関の使いが凄い剣幕でエノクに同行を要請していた。この件だったのか、と得心した。

 「でもまぁ、さっき言った通りの条件を出されて…悪く言えば、お金に目が(くら)んだってことなんだろうけど…ライブの開催を承諾したってワケなんだ」

 そんな説明が終わる頃、2人はライブ会場の目の前にやってきた。

 そして、2人して眼前の光景に唖然とした。

 会場は、国際的な一大イベントが開催されるかのような巨大な体積を誇る、立派なドームであった。しかも、急(ごしら)えにありがちな、無愛想なほどのシンプルな造りではない。見る者に暖かみと躍動感を感じさせる、幾重にも折り重なったさざ波を思わせる優美な天蓋を誇る、非常に凝った造形をしていた。

 こんな代物、『女神戦争』を経る前のプロジェスにも無かった。

 「これ程の建造物を…たったの3日で造り上げたのですか!?」

 エノクは驚嘆の溜息を尽きながら、言葉を絞り出した。

 魔法科学が席巻する時代になり、建築技術も飛躍的に進歩した。地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の復興部隊が暫定精霊(スペクター)の大群を用い、一夜にして視界一面の光景を劇的に変化させる事は有名だ。しかし、その所業は地球圏治安監視集団(エグリゴリ)と云う超巨大で優秀な人材が揃った組織だからこそ可能なものだ。

 一般の建築系企業ならば、デザインの行程も含めて1月は掛かるであろう。

 それを大幅に行程を縮めて存在させた力とは、如何ほどのものなのか。

 「…この音楽レーベルさん、軍事企業並の資産を持ってたりして…って、あり得ないないよね…」

 ニファーナもひきつり笑いを浮かべて、頬をポリポリと掻いた。圧巻の実績の前には、驚きを通り越して、もう笑うしかない。

 一頻(ひとしき)り感嘆の念を抱いてから、2人は入場口を探してドームの周りを歩き始めた。

 ドームの周りには、ライブに便乗して多数の出店が出ていた。出店のテントは立派なものとボロ屋のような粗末なものとが混在していたが、前者はフリージアと共に入都した外部の業者、後者はプロジェス都民によるもののようだ。

 テントで提供されている品物の質は、勿論、立派な外部業者の物の方が断然良い。しかし、並んでいる列の長さは、テントの品質に関わらず同程度だ。

 とは言え、並んでいる客層には明確な違いが見て取れた。

 外部業者のテントに並ぶのは、娯楽を求めるも着飾る余裕のない物達――即ち、プロジェス都民ばかりだ。対してプロジェス都民のテントに並ぶのは、身なりを整えた者達ばかり――つまりは、フリージアを追って来た外部からの訪問客である。

 "身なりを整えた"と言及したが――勿論、スーツ姿であったり、カジュアルながらも格好付けた姿をした"普通に"余所行きの格好した者も居るが――中には、人形かお化け屋敷の仮装をしたような姿の"奇天烈な"者も沢山見受けられた。

 「ヘビメタのヒトって、凄い格好してるってイメージはあったけど…ホントにこういう格好してるんだね…」

 ニファーナが苦笑い半分、感心半分で言葉を漏らした。

 しかしながら、"奇天烈な"者達が問題児かと云えば、そうではない。彼らは秩序を守って温和(おとな)しく整列していた。それに、"一般"と書かれたダサい下げ札を嫌がりもせずに身に着けていたし、プロジェス都民が提供する貧相なくせに割高な料理にケチを付けることなく、素直に金銭を払っていた。

 外部の客達については、格好に差異は有れども、"素行が良い"と言う点は共通しているようだ。

 その事実を実証するかのような出来事が起こった。

 エノク達2人が不意に呼び止められると、そこには男女のカップルが1組居た。彼らは"奇天烈な"者で、女性の方は黒を基調としたゴシックロリータ調の強いドレスと人形のような分厚い化粧を、男性の方はニワトリの鶏冠(とさか)のような奇抜なヘアスタイルとやたらと(びょう)の打ってある漆黒のジャケットを、それぞれ身に着けていた。

 襲ってくるのではないか? エノクら2人はギクリとしたが、様子がどうも見合わなかった。カップルはどちらもニコニコと優しげに微笑んでおり、危害を加えてくるようにはとても見えなかった。

 戸惑う2人に対して、カップルはそれぞれが手に持っていた、大きなアメリカンドッグを突き出して来た。

 「プロジェス都民の方ですよね?

 良かったら、これをどうぞ。美味しかったですよ」

 見た目にそぐわぬ柔和な声音は、近所で「良いヒト」と賞される人物のそれであった。

 「あ…ありがとうございます」

 ニファーナは戸惑いの色を濃くしながらも、好意を無駄にすることなく、アメリカンドッグを受け取り、1つをエノクに渡した。

 「代金、お支払いしますよ」

 エノクが慌ててポケットを漁るが、即座に男が手を挙げて制した。

 「ここでは、プロジェスの方であれば、プロジェスの方の屋台を除く全てのお店を無料で利用することができるんですよ。

 ですから、代金は必要ありません」

 「そうなんですか」

 エノクは驚きを滲ませながら、ポケットから手を引き抜いた。

 今のプロジェスは物資が足りず、食料とて例外でない。そこで無料で食事が提供されるとなれば、腹を空かせた都民が津波のように押し寄せて平らげしまうであろう。ライブ会場の建設だけでも莫大な資金を(なげう)っていると云うのに、食料までもホイホイ引き渡すとは…どれだけバケモノじみた資金の持ち主であることか!

 「ご親切頂いたついでと言っては何ですが、お聞きしてもよろしいですか?」

 エノクは胸中に膨らむ疑問を押し込められず、遂に口に出した。カップルは当然のように、快諾してくれた。

 「今回のライブですが、資金の出所はどうなっているのでしょうか?

 ファンの方には誠に失礼な言い方になり、申し訳ないのですが…音楽レーベルがこれほどの財力を持ち合わせているとは、どうしても思えないのです」

 「確かに、凄いですよね!

 僕らも話には聞いていましたが、実際に此処に来てビックリしてますよ!」

 男性が機嫌を損ねることなく応じると。次いで女性がエノクの疑問に答えてくれた。

 「あたし達も詳しくは知らないんですけど、支援者が居るみたいですよ。工事や物資の調達は、その方が都合してくれたとのことです。

 まぁ正直、フリージアやレーベルの知名度だけじゃあ、こんなイベントを短期間で用意できませんから」

 「支援者ですか」

 エノクは言葉を繰り返して舌の上で転がした。この広大過ぎる超異層世界集合(オムニバース)においては、国家をも揺るがしかねないレベルの資金をポンと出して慈善活動に打ち込むような酔狂な"善人"も存在しても可笑しくないだろうが…実際に目の当たりにすると、どうにも驚嘆の念を拭えなかった。

 「そうだ、」突然、男性が声を上げた、「皆さん、勿論フリージアのライブは初めてですよね? 宜しければ、一緒に楽しみませんか?」

 「え、でも、お2人の邪魔じゃないですか?」

 ニファーナの言葉に、女性が首を左右に振った。

 「あたし達のデートなら、いつでも出来ますから。

 それよりも、ここでお2人を放っておいたら、フリージアのファン失格ですよ!」

 非常に乗り気で目を輝かせるカップルを前に、エノク達は顔を見合わせて逡巡したが。結局は好意に甘えることにした。

 

 こうして4人はライブ開始までの間、出店を回りながらフリージアと云うバンドについて語り合った。

 

 ライブ開幕の5分前。エノクら4人はドームの中の、中腹にある座席に一列に並んで座っていた。

 ドームへの入場の際も、フリージアのファン達は非常に行儀良く振る舞っていた。駆け込んだり横入りするなど、(もっ)ての(ほか)。整然と列を作り、有る程度ガヤガヤしているものの、バカ騒ぎすることはない。そして、プロジェス都民に順番を譲ることさえしていた。

 ファンの素晴らしい行動の根底には、フリージアというバンドが掲げる理念が多大に影響を与えている…と云うことを、エノクは知った。

 「フリージアは、慈善活動に熱心な事で有名なんです。

 フリージアのメンバー自身、戦争や天災の被害者なんですよ。今だにトラウマを抱えているヒトも居ます。

 そんな辛い思いをさせたくない。無くせなくても、少しでも減らして行きたい。それが彼女らの理念なんですよ」

 「勿論、フリージアの行為にも批判はありますよ。結局は売名行為だろうとか、歌程度でヒトの傷を癒すなど烏滸(おこ)がましいとか、結構散々な事を言われてますよ。

 でも僕らは、裏の目的が何であろうとも、実際の行動で慈善を具現化するヒト達に共感するんですよ。いくら志が高くとも、批判を並べるばかりのヤツは、耳の毒にこそなれ何の益も生み出さないですからね。

 だから僕らは、兎に角出来ることを一生懸命にやるフリージアを敬愛しているんです。そして僕らも、フリージアと共に、どんな小さな事でも良いから、何かに貢献したいと願い、そして行動するようになったんです」

 席に座って開幕を待つ間、カップルはフリージアの理念と、それが人々に与えた影響について熱く語ってくれた。

 「なるほど、なるほどー!

 凄いヒト達なんだね、フリージアってバンドは!」

 ニファーナがうんうんと頷いて得心した。

 「ヘビメタのヒト達だって聞いたから、もっと怖々したイメージがあったんだよね。なんか、金切り声上げて、呪いの歌を歌っている感じでさ。

 でも、そんな優しい感じのバンドさんも居るんだね! ヘビメタの事、ちょっと見直したよ!」

 ニファーナの言葉を聞いた女性が、アハハ、と苦笑いした。

 「まぁ、確かにアナタのイメージ通りのバンドも五万と在るけどね。

 メタルって、音楽界の中でも特にバリエーションが豊富なジャンルなんだよ。オペラみたいなクラシック音楽ばりの綺麗な曲を創るバンドも居れば、世界最低とまで言われるきったない曲を創るバンドも居るんだ。

 フリージアは、綺麗な音楽の方のバンドだから、メタル初心者でも聞きやすいよ」

 「それと」

 女性の言葉が途切れた瞬間、男性がずいっと身を乗り出し、真顔でニファーナを凝視して、少し堅い口調で語った。

 「ヘビメタ、って言い方はしないでくれるかな。

 ヘヴィメタル、もしくはメタルって呼んで欲しいな」

 その気迫にニファーナは苦笑いを更にひきつらせながら、「あ、すみません…」と返した。

 メタル信奉者達は、偏見的な意味合いの強い"ヘビメタ"と云う言葉を嫌う傾向にある。

 「なるほど、お2人のお陰で、私もメタルと云う音楽に対して、より正しい認識が出来るようになりました」

 微妙に堅くなった雰囲気を取り戻すように、エノクが絶妙のタイミングで言葉を挟んだ。

 「そして、お2人のその格好は、フリージア様方の理念への共感を態度で示したもの、と言うワケですね?」

 エノクに真顔で言われたカップルは、互いに顔を見合わせると、恥ずかしそうに顔を赤らめた。そして、女性がモジモジと指を動かしながら、控えめな声でボソボソと漏らした。

 「あの…その…これは…特に深い意味はなくて…。

 単に、趣味です…」

 (…マズい事を聞いてしまったか)

 エノクが額をピシャリと叩きたくなる衝動に駆られながらも、フォローの言葉を探して頭を巡らせていると。広大なドーム内に盛大なブザーが鳴り響き、客席を照らしていた照明がバツンッ! と音を立てて一斉に消えた。

 光を浴びているのは、ドーム中央のステージただ一つだ。

 そのステージの頭上に、深海からクラゲが浮かび上がるように、8角形の形状をしたホログラム・モニターが出現する。ドームの端の座席に居る観客にもステージの様子を拡大して見せるための配慮だ。

 「…おっ、始まりましたよ!」

 男が静かな声で語った、その直後。ドーム内のざわめきは台風の眼に入ったようにシンと静まり返った。ただ、空気だけが観客の興奮と期待を受けて、破裂せんばかりの熱を帯びていた。

 ――ライブが、始まるのだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 フリージアのファン達の中に凝った衣装で着飾った者が居るように、フリージアのステージもまた、奇抜で凝った造りをしていた。

 そこはまるで、時計の中を拡大した空間のようであった。巨大な歯車が一定のリズムを刻んで回転していた。その歯車の一つ一つには、青い薔薇の花を咲かせた(いばら)が絡み合っていた。

 奇抜ながらも、繊細な美麗さが見て取れる光景であった。

 歯車ばかりが動くだけの無人の光景の中に、静かにストリングスの音色が響いてきた。同時に、ステージの上空からは、(恐らくは魔術による映像であろう)巨大な雪の結晶がチラチラと降り始めた。その青白い色彩は、歯車に絡む薔薇の色とよくマッチしていて、閑寂ながらも清潔感のある青を世界に主張した。

 

 ――そして、遂に姿を現したフリージアのメンバーも、この世界の色彩に更なる青を加えた。

 

 彼女らは――メンバーは全て女性だ――は、ステージ中央で地下からせり上がって来たリフトに乗って登場した。

 中央にヴォーカルが立ち、その左右にツインギター、後ろにドラムとベース、そしてキーボードを据えた6人編成である。

 彼女らの衣装は、エノク達を案内したカップル達の如く――いや、メンバーによってはそれよりも凄い――バリバリのゴシック調を呈していた。ギターやベースのメンバーは左右に走り回りやすいように配慮してか、ゴスパンク調の比較的動きやすい衣装をしていたが。ドラムやキーボードは、どこぞの城に座すお姫様かと見紛うような、山のように裾の広がったスカートをしたドレスに身を包んでいた。その色彩は青または白を基調としており、ステージの風景と相まって、時計に組み込まれた絡繰(からく)り人形のように見えた。

 ただ一人、ヴォーカルだけはラメの利いたゴスパンク調の真紅の衣装に身を包んでいたが。それでも彼女を一見して"青"と云う印象を抱てしまうのは、彼女の雰囲気に()る。病的なほどに透き通った青白い肌、希薄なハチミツ色の髪、そして青を基調としたメイク。アイシャドウだけでなく、ルージュまでもが澄み渡った海を思わせるような青色であった。この雰囲気の中では衣装の真紅は、青を引き立てる脇役に過ぎなかった。

 ストリングスの音色に併せて、楽器が美しい旋律を奏で始めた。ヘヴィメタルの重み(ヘヴィ)が強調される、重低にチューニングされたギターやベースがミドルテンポのメロディを刻んだ。そこへキーボードが、ステージに降り注ぐ雪に同調したような、結晶の音を思わせる澄んだ音色を響かせた。

 まるで、雪の世界を聴覚として表現したような曲だ。ただし、そこには厳冬の冷酷さではなく、蒼穹と純白が彩る優美さが広がっていた。

 やがてヴォーカルが、薄いシアン色の唇の近くにマイクを寄せて、歌い始めた。

 その声音と来たら…! 初めて耳にするエノクもニファーナも、美しい冬に当てられて肌が粟立つような――いや、実際に肌がキュンと粟立った――感覚に(とら)われると。その他一切の感覚を失い、五感はフリージアと云う芸術作品の虜となった。

 

 硝子細工のように繊細で美麗な、それでいて岩石のように堅固で力強い女声が、ドームの中の人々に…いや、プロジェス全域に訴えた。寂しくも悲しくもありながら、しかし決して絶望することなく、前を向き続ける意志の物語を。

 ――世界に雪が舞う

  幾万、幾億の冷気が降り積もる

  私の吐息で、溶かせようか?

  いえ、私だけでは力が足りない。

  では、あなたとなら?

  2人でなら、世界の雪を溶かせようか?

  2人で足りなければ、幾千、幾万ならば足りようか?

  私とあなた達で手を取り合い、吐息をかければ

  世界に春は訪れようか?

  雪は花びらに変わろうか?

  きっと、そうなる事に違いない――

 クラシック音楽だろうとオペラだろうと、これほどの美しさを醸し出すには相当な才能と技量が必要ではないか? そう確信出来るほどの、寒気立つような興奮と感激を呼ぶ歌が、そこに在った。

 「…すっごい…」

 「全く、そうですね…」

 ニファーナとエノクは共に忘我の境地を漂いながら、溜息に溶け込んだ言葉を掛け合うばかりであった。

 

 フリージアのライブはたっぷり2時間を超えて行われた。

 彼女らを初めて眼にする都民がドームの3分の2は占めていたと云うのに、規定の2時間を終えてもアンコールが鳴り止まなかった。フリージアは結局、3度もアンコールに答えて曲を披露することとなった。

 どの曲も、"ガチャガチャとしてウルサい"と云うヘヴィッメタルのイメージを払拭するような、美しい曲ばかりであった。中には疾走感のあるハイテンポな曲もあったが、ヴォーカルであるシエナ・フローズレンスは単に声を荒げるでない、"これぞ声楽"と評論家を唸らせるような表現力豊かな力強さで丁寧に歌い上げていた。

 歌の素晴らしさが胸を打つのも当然だが、エノクは曲の合間に入る彼女らのMCの言葉も心に深く刻み込んでいた。

 「チャリティーだとは言っても、結局は私達の我が(まま)を通しているだけなのでしょう」

 ライブ開始から約1時間後、シエナがMCの中でそんな風に語り出した。

 「支援と云う面だけを考慮するなら、黙って資金だけを援助する方が良いのかも知れません。ライブなんて脳天気な真似は、皆さんの貴重な時間を奪うだけなのかも知れません。

 それでも私は、皆さんに単に無機質なお金だけでなく、別の何かを届けたいと思ったのです。

 その"何か"とは、安らぎであったり、真心であったり、強さであったり…と言ったものです。

 でも、本当はそのような精神的なものは、"私たちが与える"ものではないでしょう。そんな事が出来るというのは、本当に烏滸(おこ)がましい考えでしょう。

 それらはあくまで、皆さんがご自身でしか掴み取れないものでしょう。

 私たちの歌が、そのきっかけになれば…と言うのが、私の願いです。

 それが結局は、私たちの押しつけなのかも知れませんが…何かせずには居られない。何かすることで、例え私たちが非難されようとも、皆さんの中の何かを変えるきっかけになるのなら。それが私たちにとっての幸いです」

 その言葉も結局は、フリージアが人受けが良いように予め調整した、上辺だけのものなのかも知れない。それでもエノクは、彼女らの理念に同調せずにはいられなかった。

 そう、この世は結局、行動が無ければ何事も成し遂げられないのだから。

 例え上辺だけであろうと、根底に商業的戦略があろうとも、フリージアの貢献の姿勢は確実にプロジェスに良い影響を与えたのだ。

 「素晴らしい方々だ」

 エノクは心からフリージアの存在を歓迎し、精一杯の拍手を彼女らに送った。

 

 フリージアの一歩は、プロジェスに『現女神』や地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の枠組みに因らない外貨獲得の方向性をもたらした。

 荒廃した都市国家が潤い、陰惨とした街並みが整然と復活を遂げ、人々の生活に笑顔が戻ってきたことは、エノクにとって素直に歓迎できる状況であった。

 …だが。今のプロジェスの有り様とっきたら、何たるザマだ。

 フリージアの自己犠牲的な貢献の理念は、単なる踏み台にされてしまった。彼女らとは正反対の、自己欲求にばかり素直な喧しい輩が流れ込み、耳障りなだけの傲慢な自己表現を垂れ流している。

 そして都民も、"朱に交われば赤になる"の言葉の通り、この(よこしま)な喧噪に染まり始めている。

 そんな頃からだ。ニファーナが積極性を失い、学校生活を抜きにすれば日々を無為なゲームに費やすようになったのは。

 「みんな平和に、楽しく過ごせるようになったんだもの。それでいいじゃん」

 ニファーナはすっかり積極性を失い、流されるがままの落ち葉のような存在に成り果ててしまった。

 …全ては、崇高な犠牲と理念の理解せず――いや、しようともせず――乗っかるばかりの愚者どもの所為で。

 そして、愚者どもに骨抜きにされ、背負って来たはずの重みを捨てて、考えなしにはしゃぎ回る愚民どもの所為で。

 

 このままで良いワケがない。

 正さねばならぬ。

 しかし、思うだけでは世を動かすことは出来ない。

 だから、実を伴った行動に出ることにしたのだ。

 ――否! 行動ならば、すでにしている!

 

 ◆ ◆ ◆

 

 エノクが過去の写真を眺めながら長い回想に浸っていたら。気が付けば窓から入る光は真っ赤な斜陽となっていた。

 「…私ともあろうものが、無為の時間を過ごしてしまったな」

 ニファーナ様の事は言えないな…と胸中でも呟きながら、苦笑を浮かべた。その直後のこと。

 「まぁ、思い出に浸るってのは、そう(わり)ぃことじゃねぇさ。

 ヒトってのは生きてりゃ、良きにせよ悪きにせよ、必ず記憶に触れにゃならんのだからさ」

 「!」

 独りで居たはずの自室。そこに、予想だにしない事に、ヘラヘラとした若い男の言葉が割り込んだ。

 エノクが慌てて声の方へと向き直ると。そこには、黒いソファにドッカリと座り込んだ奇抜な姿の男が居る。

 身に着けている衣服は、宵闇のような黒を貴重としたもの。エノクの着込む神父服と共通する部分ではあるが、決定的に違うのは所々に目五月蠅いほどの銀細工が散りばめられいること。フリージアのファンを想起させるような派手さだ。

 派手なのは服だけではない。両の五指には全て、武器かと見紛うほどにゴツい指輪をはめている。両耳には幾つも穴を開け、リング状を初めとした種々のピアスがジャラジャラと付けている。

 そして何より目を引くのは、腰まで到達する長い髪だ。それは夕空よりもなお濃い、今にも燃え上がりそうな真紅を呈している。

 神父とは余りにも釣り合いの取れない男。だが、エノクは彼のことをよく見知っている。

 咳払いと共に驚愕を振り払ったエノクは、平静を取り戻し、少し堅い口調の抗議を交えて語る。

 「ヒトの部屋に入る時には、何か一声かけていただけませんか。失礼ですよ、ザイサードさん」

 男――ザイサードと呼ばれた男は口の端を歪めて笑う。

 「すまんねぇ。

 でもよぉ、なんだかスゲェ真剣に物思いしてたからさぁ。声掛けづらかったんだよぉ。邪魔しちゃ(わり)ぃじゃんか?」

 謝罪の言葉を含むものの、全く反省の見られないヘラヘラした態度は、エノクの生真面目な心にグサリと突き刺さる。が、エノクはこれ以上抗議の言葉を上げない。

 彼の知るザイサードの性格上、何をどう諫めようと、何の功も奏さない。

 だからエノクは、別の話を進めることにする。

 「突然私の元に来ると言うことは、何か在ったのですね?

 会合は明日の予定でしたが、ほんの1日も待てないほどの重要なことが起こったのですか?」

 エノクとしては、"それほどの急な事態は有り得ない"と確信し、語気に半ば揶揄を含めて語ったのだが。

 「"まさか、そんなワケねーだろ"と思ってンだろうけどさ。

 残念ながら、その"まさか"さ。

 面倒な事になった」

 ザイサードはそうは語りながらも、あまり緊張感の感じられない動作で服の裾を漁り、トマトを1つ取り出す。それをポーンとボール遊びするように上に飛ばしてキャッチしてから、はちきれんばかりの瑞々しいそれにかぶりつく。

 盛大に飛沫(しぶ)く赤い果肉と果汁にエノクは顔をしかめるが、特に抗議はしない。前述した通り、彼への抗議は馬の耳に念仏そのものだ。

 「オレとアンタらでセコセコ仕込んで来た"毒"だがよ。今日になった、いきなり3つ、ブッ壊された。

 …あ、違う。今さっき、4つ目が壊されちまった」

 「そうですか」

 応えるエノクは、無感動に言い放つ。

 「都市国家(くに)疲れて腐っているとは言え、流石に志高い頭脳の集団ということですか。

 "チェルベロ"も入都していましたしね。

 ただもう少し、時間が稼げると思ったんですが…」

 「いやいや、勘違い勘違い。アンタ、勘違いしてるよ」

 ザイサードは口一杯に頬張ったトマトを咀嚼しながら、立てた人差し指を左右に振って指摘する。

 「確かに"チェルベロ"は侮れない嗅覚してるけどよ、今回の件はヤツの手柄じゃない。

 面倒臭ぇ闖入者が現れたんだよ」

 「闖入者?」

 エノクは目をパチクリとさせる。

 昨今のプロジェスを騒がせている事態。これに事件性を見いだして首を突っ込むとすれば、"チェルベロ"以外に考え付かない。一体何処のどんな物好きが現れたと言うのか?

 「ユーテリアって知ってるよな?」

 残したヘタをポーンと口に放り込んで飲み下しながら尋ねるザイサードに、エノクは首を縦に振る。

 「訪ねたことはありませんが、"英雄の卵"と評されるような才能溢れる若者が集まる学び舎のある都市国家…と云う程度なら、知っています」

 「そうそう。

 そこの部活ってのは、(ことごと)くミョーなネーミングセンスしてるんだけどよぉ。中でも分かりにくい名前してる物好き集団、『星撒部』ってのがあってな。

 そこの連中が、入都してきた」

 「…はあ」

 エノクは生返事を返す。その部活と自分達の"計画"の危機がどう関連するのか、まだ想像出来ていないのだ。

 そこでザイサードは、エノクの方に身を乗り出しながら、袖の中から今度は真っ赤なリンゴを取り出してお手玉のように弄びながら、とうとうと説明する。

 「『星撒部』って連中は、云って見りゃ、ボランティア部さ。

 見返りを求めず、世のためヒトのため、お困り事を解決して回るお人好しの集団さ。

 それがユーテリア程度の場所となると、"お困り事"の対象を戦争にまでのばしちまう。そんな滅茶苦茶なヤツらなのさ。

 実際、ヤツらと来たら、いくつかの戦争に首を突っ込んでは、解決してやがる」

 そこでエノクはようやく危機感を抱き、頬に冷たい汗を伝わせる。学生の身の上で、戦争すら黙らせるような集団。そんな無茶苦茶な相手が、自分達の"計画"の敵に回ったという危惧が胸に突き刺さる。

 「どんな経緯でヤツらがこの都市国家(くに)に首を突っ込むことになったのか、オレは知らネ。

 ホントにアホらしい程些細な理由で動くようなヤツらしいからな、都市国家(プロジェス)の依頼でなくとも、被害者の家族か知人からの訴え程度で動いたかも知らんね。

 まぁ、何せよ、ヤツらと来たら今日入都したと思ったら、1日も立たない内にオレのギミックを見破って、ブッ壊してくれやがった」

 一頻(ひとしき)り語り終えると、ザイサードはリンゴにガブリとかぶりついて、シャクシャクと味わい出す。

 その様子を見たエノクが、ピクリと片眉を跳ね上げる。

 「…面倒臭い、と言った割には、随分と楽しそうな顔をしていますね」

 「ああ?」

 ザイサードはキョトンとしてエノクを見返し、頬の緩みを確かめるように指を這わす。そして、リンゴを飲み下してからニヤリと笑う。

 その笑みは、(トラ)獅子(シシ)を思わす、凄絶に過ぎる表情だ。

 「まぁな。

 こちとら、戦争を商売にしてる身だからよぉ。楽しめる相手が介入してくれると、張り合いも出るし、嬉しくなっちまうんだよ。

 職業病ってところだからよ、あまり気にしないでくれ」

 ザイサードはパタパタを手を振る。

 一方でエノクは、ザイサードの見せた表情に背筋が凍り付き、棒立ちになる。

 そう――この男はこんな軽薄な(なり)をしていようと、規格外の怪物だ。

 「…それで、」エノクが話題を変え、会合について尋ねる、「会合を今日に早めて、何を語るつもりなのですか?」

 「勿論、計画の進行を早めるのさ。

 今のスケジュールのままじゃ、せっかくの計画が台無しになっちまう。

 星撒部の連中とヤり合うのは楽しそうだがよ、育てて来た戦争が水泡に帰すのは、オレとしてもアンタらとしても望むところじゃないからねぇ」

 「勿論です」

 エノクは拳をギュッと握り込んで答える。

 ――そう、ここで終わるワケには行かない。終われるワケがない。自分達のためのみならず、この都市国家(プロジェス)の為にも。

 「まぁ、そういうことだからよ…っと!」

 ザイサードは反動を付けてソファから立ち上がると、真っ赤な斜陽に染まる窓へと大股に歩き出す。

 「アンタらの一味によろしく伝えといてくれ。

 頼むぜー」

 そしてザイサードは、長い紅髪をサラリと掻き上げる。

 バラリと崩れた髪の隙間から、着込んだ黒いコートの肩が露わになる。そこには、鮮烈なピンク色で彩られたマークが在る。

 ハートマークと、その上下を挟む「I」と「WAR」の文字。ハートを「LOVE」と読めば、「私は戦争が大好きです」と読める。

 「んじゃ、今夜、例の場所で」

 ザイサードがエノクをヒョイと振り返って手を振った、その転瞬。紅髪が更にゾワリと延びて彼自身の前進を包むと。突如、サイレンランプのような目映(まばゆ)い閃光と化す。エノクが一瞬目を細めた、その内に、ザイサードの姿は部屋の中からすっかりと消え去った。

 斜陽の中、ただ独り残されたエノクは、唇を堅く閉ざして息を止めてから、大きな吐息と共に呟く。

 「"戦争屋"、か」

 

- To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ordinary Story - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 所は変わり、ユーテリアに移る。

 

 ユーテリアの美麗な街並みは、一般市民居住区にも及ぶ。ヒビ一つ入っていないアスファルトで舗装された車道の他は、機械的な人工物というのものは余り見受けられない。パッと見で煉瓦(れんが)や木造に見える、ハンドメイドの暖かみが漂う住宅が、デコレーションケーキの上に並ぶ砂糖菓子のように、人々の目を楽しませつつ並んでいる。

 この光景の中で異様に浮いて見えるのは、チェーン展開されているコンビニエンスストアの存在である。これらの建物の造りは世界共通の規格になるよう、そして建築と維持のコストが低く押さえられるように配慮されてある。故に、周囲に並ぶ住宅に比べると、無機質で面白味のない機械質な部分が目立ってしまうのだ。

 だからと言って、住民達はコンビニを忌避するワケではない。年間通して24時間不休で開店しているコンビニの存在は、"利便性(コンビニエンス)"の冠詞が示すように、住民達にとって利用しやすい有り難い存在として、他の都市国家と同様に親しまれている。

 そんなコンビニの中から、小さなビニール袋を手に()げて現れたのは――薄紫がかった銀髪の褐色肌の持ち主、ノーラ・ストラヴァリである。

 ユーテリアの学生と言えども、コンビニを利用するのは当たり前の光景だ。しかしながら、ノーラの姿には妙な違和感が漂う。

 身に着けているのは制服のままだし、背中には臨戦体勢を示すかのように、黄金の輝きを放つ豪奢な大剣を背負っている。そして(みどり)の瞳に浮かぶのは、なんとも苦々しそうな表情だ。

 "私用でコンビニに来た"…と言う感じではなさそうである。

 「ハハハ…まさかね…」

 ノーラは()げたビニール袋の中身――オニギリにサンドイッチ、そして紙パックに入った牛乳である――を眺めて、乾いた笑いを独りごちる。

 「ホントに、"コンビニへの買い出し"なんて仕事を受けるなんて…」

 

 …そう、ノーラの言葉が示す通り。彼女のコンビニでの買い物は私用ではない。れっきとした『星撒部』の活動の一環なのである。

 『星撒部』と言えば、都市国家や『現女神』などを相手にするような、"暴走部"と称されるような活躍が目立つのだが…。

 よくよく考えてみれば、ノーラが初めて『星撒部』と関わった日。渚はしっかりと"コンビニへの買い物から、戦争の停戦まで!"と言う文句を(うた)っていた。

 詰まるところ、『星撒部』の性質はボランティアというよりも、何でも屋に近いのだ。ただ、その"何でも"の言葉の範囲が、あまりにも広すぎるのだ。――部長のバウアーが、宇宙戦争に首を突っ込んでいる事からも想像出来るように。

 

 「…まぁでも…いつもいつも"あんな風な"交戦続きでも困るもんね…たまには息抜きもしないと…身が保たないもんね」

 ノーラは自分に言い聞かせると、スタスタと歩き出す。

 ユーテリアの領域内には、学園へと通じるテレポートスポット『ポータル』が幾つも存在している。しかし、一般家庭へ訪問する場合は『ポータル』は役に立たない。自分の足や、公共交通機関を始めとした乗り物に頼るしかない。

 ――ちなみに"あんな風な"の指示語が示すのは、アオイデュアでの『現女神』勢力との交戦や、アルカインテールでの混戦を示している。

 さて、ノーラはアスファルトで舗装された車道を避け、煉瓦調の彩り豊かなタイルが敷き詰められた歩道に沿って、依頼人宅へと進んでゆく。

 途中、何度か(まば)らに住民達とすれ違う。彼らの姿は街並みに溶け込んだ様相そのもので、のほほんと平穏を享受している。

 時には、公共物のメンテナンス用に起動している暫定精霊(スペクター)と出会う事もある。昼間に起動している彼らは機能以上に装飾に趣向が凝らされており、やはり街並みにしっくり来る。その姿は、足首ほどまでの高さしかない、のっぺら坊のメイドや執事、騎士と云ったものが多い。彼らのチョコチョコとした小動物めいた動作は、人々の胸中に愛らしさを想起させることだろう――少なくとも、ノーラはそうだし、彼らの存在を歓迎している。

 美しい街並みと可愛らしい暫定精霊(スペクター)を眺めながら足を運ぶこと、十数分。ノーラは依頼人宅に到着する。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 バラを初めとした色濃く鮮やかな花々が丹念に手入れされた庭を誇る、西洋風の牧歌的な住宅。その主は、白髪を綺麗に整え、丸縁眼鏡をかけた老齢の淑女である。

 「ありがとう! 助かったわ!」

 扉口でノーラを迎えた淑女は、少女めいた素振りで手を叩き、ノーラからビニール袋を受け取る。

 「お釣りは、袋の中に入れておきました。ご確認をお願いします」

 そんなノーラの言葉をあまり気にしない淑女は、杖を付きながら不自由なプルプルした足取りで踵を返しながら、手招きする。

 「今日はヘルパーさんが急に休んでしまってねぇ。どうしたものかしら、とお友達に相談したら、あなた達ボランティアさんの事を聞いたのよ!

 こんなに親切で、可愛らしい方が来てくれるなんて、思わなかったわ!

 お礼がしたいの、さあさあ、お上がりなさい、お茶でも飲んで行って!」

 対してノーラはパタパタと両手を振って辞退する。

 「すみません、この後も予定があるものですから。別の機会に、ご一緒させて頂きます」

 ノーラの言葉はあながち間違いではない。『星撒部』は今、出張中の渚達の他にも、もう一つ大きな仕事――とは言え、出張に比べれば規模は断然小さい――があり、それはまだ終わっていないはずだ。仕事が片づいたのなら、早く合流して手伝う方が、部の為になる。

 しかし、そんな理由よりもノーラとしては、一人暮らしの高齢者の世間話の相手になることを避けたかった…と言うのが、本音である。ロイやナミトのように元気良く愛想良く振る舞うのには自信がないし、話を聞くだけなのは肌に合わず疲れてしまう。

 「あらまぁ、そうなの。残念ね。

 それなら、何かお土産を…」

 更に食い下がる淑女に対し、ノーラは更に強く両手をバタバタと振って辞退する。

 「お気遣いなく…!

 こちらとしては、学園における学習単位取得の一環になりますから…! それだけで、十分なお土産を頂いています!」

 「あら、こういうのでも単位っていただけるのね!

 やはり『慈母の女神』の教育方針は面白いわねぇ。

 この前ね、お友達と孫の事で…」

 ――マズい。淑女はどうあっても自分のペースに引き込むつもりだ。

 ノーラはギクリと引きつりそうになる頬を何とか食い止めながら、早々と、そして深々と頭を下げて礼する。

 「す、すみません!

 予定が押していますので…! お気持ちだけ頂きます! 失礼します!」

 そう挨拶を残すと、ノーラは扉をゆっくりと閉める。閉じてゆく隙間の向こうから、淑女の残念そうな顔が滑り出し、ノーラの網膜に強く灼き付く。

 扉を完全に閉めたノーラは、余り音を立てないように努めて小走りになると、依頼人の住宅を後にする。

 

 (感じ…悪かったよね…)

 学園へ通じる『ポータル』へと向かいながら、(うつむ)いたノーラは溜息と共に胸中で独りごちる。交互に前へ出す足取りは、鉛のように重い。

 淑女への強引な対応、そして別れ際に網膜に灼き付いた表情が、どうしてもノーラの胸をチクチクと(さいな)む。

 (ロイ君やナミトちゃんなら…どう対応したんだろう…?)

 『星撒部』の同年代で、愛想の良い2人の事を思い浮かべる。…どちらも子供っぽい一面があるので、無邪気にお茶に釣られて話し相手になっていそうだ。しかも、高齢者の言葉に一々オーバー気味なリアクションを取り、彼らを気を良くさせもするだろう。

 『星撒部』の中で最高の対応をする人物は誰だろうか。それを考えて真っ先に思い浮かんだのは、出張中のアリエッタである。

 (アリエッタ先輩は…なんと言うか…カリスマなヘルパーさん並に対応しそう…)

 あの淑女の自宅にあった、美しい庭にテーブルと茶器を広げ、優雅なティータイムに興じる光景がありありと思い浮かぶ。…何とマッチした風景だろうか!

 ふと、ここで一番ダメそうな対応をする人物の事を思い浮かべてみる。――アルカインテールの件の際、難民の子供達の対応に苦しんでいた(ゆかり)蒼治(そうじ)が思い浮かんだが。蒼治は成人相手にはキッチリした対応をしそうな印象があるので、紫に軍配が上がる。

 さて、紫はどんな対応をするだろうか。

 …コンビニに出掛ける際にも、露骨にかったるそうな表情を浮かべながら出発。帰ってきた時は、詰まらなそうな仏頂面で依頼人と対面し、「ホラ!」程度の短い言葉と共に品物を渡す。そして、有無を言わさず、「もう終わりよね? それじゃ、帰るから」と言って踵を返す。――もしも直ぐに立ち去らないとしても、あまりの無愛想さに依頼人はお茶に誘うことなどしないことだろう。

 これはこれで対応は楽そうだが…参考にしてはいけないな、と首を左右に振って苦笑いを浮かべる。

 (後で皆に意見を聞いてみようかな)

 そんな事を考えている間に、ノーラの足は『ポータル』の直ぐ手前にまで彼女を運んでいた。

 真円の外周を持つ幾何学模様が刻まれた移動用魔術施設の中へと入ったノーラは、軽く魔力を集中し、方術陣の機能を作動。(まばゆ)い純白の光の柱に包まれながら、学園敷地内へと転移する。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 学園に戻ったノーラが真っ先に向かったのは、仮の部室として使っている教室である。

 今、そこには誰も人は居ないはずである。と言うのも、ノーラ以外の部員達は別の依頼を請け負い、そちらの作業に従事しているからだ。その作業とは、とある国営公園の清掃と美化である。作業面積を考えると、まだ終わっていないはずだと予測を立てる。

 ノーラも今回の仕事が終わり次第、参加しに行くつもりではあるのだが。その前に、仕事を無事に達成したことを記録するため、無人の部室に向かったのである。

 さて、引き戸を開いて部室へと入ると…そこには、予想に反して、一人の部員が居る。

 「あれ…蒼治先輩?」

 そこには、紺色の髪と眼鏡、そして白いローブが印象的な長身痩躯の青年が、電子黒板の間近の席に座って居る。

 「やあ、ノーラさん。

 お仕事は、首尾良く終わったみたいだね」

 蒼治はニコリと微笑む。対してノーラは、苦笑いを浮かべて後頭部を掻きながら応える。

 「まぁ…コンビニへの買い出しですから…」

 「それでもロイだったら、何かしら物凄いトラブルを持ち込んでくるのが日常茶飯事だからね…。

 道すがら、術失態禍(ファンブル)で暴走した暫定精霊(スペクター)に遭遇したりとか…」

 「いや…そんな事、滅多に起こらないですよ。いくらロイ君が…その…ちょっと滅茶苦茶でも、流石に…」

 すると今度苦笑するのは蒼治である。

 「いやいや、実際に在ったんだよ…。

 ペットの散歩するだけだったはずが、街中でガチンコの交戦を始めてね…。

 区長から文句を言われてしまったよ」

 溜息を吐きながら語る蒼治に、ノーラは返す言葉が見つからない。ただ、それはロイ自身が悪いと言うより、運が悪いという話のような気もする。

 …とは言え、ロイなら確かに、街への被害を考えずに、無闇(むやみ)矢鱈(やたら)に戦闘を繰り広げそうだ。

 「…ま、まぁ、ともかく、ですね…。

 私は、記録をつけに来たんですけど…蒼治先輩は、どうしてここに…? 公園の美化活動に行ったはずじゃないんですか…?」

 すると蒼治は、席に着いた机の上に山と広げていた折り紙を指差す。

 「またまた、慰問系の依頼が来てね。折り紙のストックが心許(こころもと)ないから、補充してたんだ」

 『星撒部』は、その(やかま)しい程に元気で(ほが)らかな雰囲気がウケているらしく、児童施設や高齢者養護施設からの慰問依頼が多い。新参者のノーラもその辺りの事情は理解しているはずだが…。

 ノーラは顔を引きつらせ、青くなりながら語る。

 「だ、大丈夫なんですか…!?」

 「え、どうして? どうかした?」

 ノーラの驚き様に、蒼治の方こそビックリして尋ね返す。するとノーラは悲鳴を上げるような有様で言葉を返す。

 「だって…ブレーキ役が、誰も居ないじゃないですか…!

 ロイ君はもちろん、ナミトちゃんも(はじ)けてるところが有りますよ…! 大和君じゃ、あの2人相手にブレーキ役は荷が重いでしょうし…! イェルグ先輩だけが頼みですけど、文字通りにお天気屋ですから…! ロイ君達に荷担するかもしれないですよ…!

 公園、美化どころか、滅茶苦茶になっちゃうんじゃ…!」

 すると蒼治は、ノーラの不安を杞憂と笑い飛ばす。

 「大丈夫だよ。

 現場にはヴェズ先生が居て、監督してくれてるからね。僕よりよっぽど安心した手綱捌きをしてくれるよ」

 ヴェズ先生――本名、ヴェズ・ガードナー――は、『星撒部』の顧問を勤める教師である。彼は教鞭を取る傍ら、学園に生徒をスカウトする役目も負っている。スカウトの対象となる生徒は、大抵、社会常識の枠から外れているような"才能(あふ)れる問題児"だ。世間から煙たがれる彼らを手懐ける事に長ける彼ならば、多くの"暴走児"がひしめく『星撒部』の手綱を握るに相応しいと言える。

 「それにね…もう一人、凄い助っ人が居るからね。

 ロイ達なら、"彼女"に関心しっぱなしで、暴走するような余裕はないんじゃないかな」

 「凄い助っ人…ですか?」

 聞き返すノーラに、蒼治は眼鏡越しにニッコリと微笑んでみせる。

 「来年度は、ノーラさん達の後輩になる()だよ。本人は『星撒部』に入部希望とは言ってたけど…実際にどうなるかは、わからないけどね」

 そう言いながら蒼治は、ウインクをしてみせる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 所変わって、とある国営公園。

 アスレチックな遊具が散在する、緑豊かな木々が林立するその中で、『星撒部』の面々は美化活動に徹している。

 美化活動の内容は詰まるところ、ゴミ掃除に雑草駆除だ。面積の広さを差し引けば平凡な仕事である。高い能力を持つ『星撒部』を利用するのは(はなは)だ勿体ないが、"何でも屋"と"慈善ボランティア"の側面を持つ彼らの領分ではある。

 しかし、メンバーの皆が納得して働いているというワケでは無いようだ。特に、戦時下においても不満を漏らして"この男"は、露骨に不平たらたらである。

 「あーーーっ、もぉーーーっ、めんどーッスねーーーっ」

 無駄に間延びした棒読みな叫びを上げながら、大きな草刈り機を振り回して雑草を駆逐している青年。ハリハリした茶髪にゴーグルをアクセントに被った彼は、神崎大和である。

 手にした草刈り機は、彼お得意の定義拡張(エキスパンション)を利用して作り出した特性品だ。市販の量産向け魔化(エンチャント)が施された代物よりは、余程性能が良い。刃零れを起こさず、スイスイと雑草を切り払い、微風の中に吹き散らす。

 並の庭師よりも断然作業が速いのだが、軽薄な性格の彼はこの単調作業が心底気に食わないようだ。眠たげにも見える表情で眉間に皺を寄せながら、渋々と作業を進める。

 「ねぇーーー、イェルグせんぱーーーい」

 大和が声を掛けるのは、彼の後ろの方で作業をしている、長い黒髪に身に包帯のように纏った民族衣装的な布地が特徴の青年。イェルグ・ディープアーである。

 彼の得意な技術は、天候を操ること。その力で袖の中から小さな雷雲を作り出し、小規模な落雷を起こして周囲の雑草を焼却。発火しそうになると、局所的に雨を降らせて即座に消火する…そんな作業を繰り返して、スイスイと雑草を除去している。

 「なんだ、大和? もう飽きて来たのかよ?

 そんなに堪え性が無いと、女の子にモテないぜ」

 「こんなんで女の子にモテるモテないは関係ねーーーッスよ」

 大和は表情を崩さず、棒読みで返す。

 そして続けて、欠伸(あくび)でもするような言い方で言葉を続ける。

 「こんなチマチマしたやり方、ウチら"暴走部"には似合わないッスよ。

 先輩、どうスかね。ここは一つ、超協力な除草の霊薬(エリクサ)を溶け込ませた豪雨でも降らせて、公園の雑草を一掃しちゃいましょうよー。それなら数分で済むじゃないスかー」

 対してイェルグは、苦笑で応じる。

 「ンなことしたら、ちゃんとした草花も木もダメンなるだろうが。

 野球場作るワケじゃないんだからよ」

 「ええー。もう野球場でも良いじゃないッスかー。子供達、喜ぶッスよー?」

 「それで依頼人が満点くれるワケないだろ。

 それに、そんなバカな事言ってると…また"お嬢さん"に叱られるぜ」

 すると大和は、気怠げに頬をひきつらせて苦笑する。

 「あー、"お嬢さん"ね。

 あんなおチビちゃんに怒られても、こちとら全然痛くも痒くも…」

 言い掛けた、その瞬間。

 「こらぁっ! 全部聞きましたよっ、大和さんっ!」

 大和の横手、巨木の陰から鋭い…しかし、甲高くて可愛らしい怒声が響く。途端に、大和がビクッと体を震わせ、思わず草刈り機を停止して投げ出し、ビシッと気をつけの姿勢を取る。

 そして、ぎこちなく首を声の方へと向けると…そこに居たのは、イェルグが"お嬢さん"と呼んだ人物である。

 身長は130センチに満たないほどの、小柄というよりも"ちっちゃい"体格。栗色の髪の毛を長く伸ばし、キラキラ輝く紺の瞳を持つ女の子。体には土にまみれたピンク色のジャージを身に着けている。

 「痛くも痒くも無かったんじゃないのかよ?」

 イェルグがクックッと笑う中、女の子は赤い長靴を履いた足で大股に――といっても、身長が小さいので歩幅はさほど大きくない――大和へ詰め寄る。

 「不誠実極まりない考え方ですね!

 それでホントに、この()えある『星撒部』の一員なんですか!? 情けないですよ!」

 「な、ナディおぢょうさま…」

 大和が咽喉(のど)に芋でも詰まらせたような様子で、言葉を絞り出す。

 大和を叱りつける、年の頃10歳くらいのこの少女の名は、ナディ・ゲルティア。彼女こそ、蒼治がノーラに語った"助っ人"であり、来年度の新入生である。

 "おぢょうさま"と呼ばれたものの、ナディはヴァネッサのような貴族でもなければ、裕福な家庭の育ちでもない。単に、大和が畏怖を込めて敬称しただけである。

 「で、でもですね、おぢょうさま…!

 考えても見てくださいッスよ!」

 大和はたっぷりと身振りを加えながら、半眼で睨みつけるナディに言い訳する。

 「作業面積は、広大極まりないンスよ! 本来なら、ニュースとかでやってるように、数十人規模のボランティアが1日掛かりでやるような仕事なンスよ!

 それを、十人にも満たない人数で1日で片づけようと思うなら、こっちもそれなりの事をしないとッスねぇ…!」

 「それなら、自然との調和を謳っている公園を丸裸にしても良い…と言うワケですか?

 そんな道理、通じるワケがないじゃないですか! 私が依頼人なら、怒りますよ! 私でなくても、誰だろうと怒りますよ!

 そういう不誠実な態度で、『星撒部』の顧客満足度100パーセントの実績を潰すんですか!? 部長さんも副部長さんも居ないからって、気を緩ませ過ぎです!

 他の誰が許しても、私が許しません!」

 大和はなおも反論しようとパクパクと口を動かしたが。ナディの誠実なる意志の牙城を崩すのは無理と悟ったらしい。ガックリと(こうべ)を垂れると。

 「…スンマセンでした…」

 と言葉を絞り出す。ナディは、"うん、よろしい!"と納得するように、腕を組んで大きく首を縦に振る。

 直後、今度はイェルグの方へ向き直り、鋭い声を上げる。

 「イェルグ先輩も! そんなやり方はダメですよ! 全然なってないです!」

 「え?」

 イェルグがキョトンと聞き返すと。ナディは左手を腰に当て、右手で人差し指を立ててチッチッと振りながら、指摘する。

 「雷を落とすなんて乱暴なやり方、美しくないですよ!

 ホラ、後ろを見てください! 土がコゲコゲになってるじゃないですか!

 良いですか、今回の私たちの仕事は美化なんです! ただ草を取り除けば良いってだけじゃないんです! ちゃんと考えて下さい!」

 イェルグは魔力の集中を解いて小型の雷雲を散らすと、ポリポリと頭を掻く。

 「いや、最後に蒼治を呼んで、方術でまとめて土の状態を整えてもらうつもりだったんだけどな。

 それでも、ダメなのか?」

 「ダメですよ!!」

 ナディは即答し、プクッと頬を膨らませて乱暴に腕を組む。

 「もぉー! 部長さんや副部長さんのような意識の高い方が居ないと、皆さんホンットにダラけまくりですね!

 確かに、終わり良ければ全て良し、ですよ。それは私も認めます!

 でも、こんな広い範囲で方術を使うということは、術失態禍(ファンブル)の可能性が高くなるじゃないですか! それに、関係のない樹木や草花にも変な影響が出るかも知れませんし! 何より、蒼治さんに酷い負担と責任を()いることになります!

 他人(たにん)任せの後回し、ではなく! 手直しの必要のないベストを尽くすべきです!」

 「いや…蒼治なら、この程度の方術で失敗するなんてことないぜ?

 ナディちゃんは、オレ達の事をよく知らないからそんな心配するんだろうけどさ、それはオレ達を舐め過ぎってもんで…」

 イェルグの反論に耳を貸さず、ナディは腕を解いたかと思えば、そのまま背後の方を指し示す。

 「ホラ、見て下さい!

 ベストというのは、こういう事を指すんです!」

 ナディが指した方向にあるのは…数本の木々を挟んだ向こう側に居る、ロイとナミトである。

 ロイは竜の尻尾を大地に突き刺しており、ナミトは練気で輝く掌を地面にかざしてゆっくりと歩き回っている。そして時折、二人から「おお~!」と言う歓声を上がる。

 「なるほど! スゲェな、こりゃ!

 こんな発想は無かったぜ!」

 「いやー、ナントカとハサミは使いようとは言うけど…正に今、それを実感してるよ、ボクは!」

 そんな2人の間には、青々とした緑が絨毯のように生い茂っている。一見すると、雑草がそのまま放置されているようでもあるが…すぐに、様子が全く違う事が明白になる。

 雑草と言えば、無愛想で飾り気のない、無駄にしつこい生命力がそのまま形を成したような姿をしているが。そこに生い茂る草々の姿と来たら、どうだろう!

 葉や茎の緑は、初夏の新緑をそのまま写し取ったような、鮮やかな色彩。その合間から転々と顔を出す白や黄色や赤は、小さな小さな花だ。それらは緑の中のアクセントとなって、高貴な絨毯のような有様を呈している。

 「え…花、植えてンの?」

 イェルグが指差して聞くと、ナディは「違いますよ!」と即答する。

 「ちゃんと見て下さい!

 あれは、2人が無闇に命を刈り取った野草の皆さんです!」

 「…はぁ!?」

 驚愕の声を上げたのは、大和である。イェルグも驚きの表情は見せたが、声は出さず、口を"(オー)"の形にしただけだ。

 「ウッソ!? ちょ…!? マジで!?

 急(ごしら)えの品種改良!? わざわざ!?」

 「品種改良なんてしませんよ!」

 ナディは噛みつくように反論しながら、立てた人差し指をチッチッと左右に振る。

 「そんな自然をねじ曲げるような真似、するワケないじゃないですか! そんなことじゃあ、自然とヒトの調和を目的としている公園の理念に反しますよ!」

 「でも、明らかに雑草じゃないッスよ!

 ホラ! この辺のと比べて見なって!(大和はちょっと移動して、足下に茂る無精な緑を指す)コレとアレ、どう見ても全然別物(ベツモン)じゃないッスかぁ!」

 するとナディは、まだ膨らみのない胸を誇らしげに張り、立てた人差し指をチッチッと左右に振って見せる。

 「大切なのは、第一に、"雑草"という概念を捨てる事です!

 彼らに目を掛ける研究者の皆さんは、彼らの事を"雑多な存在"なんて見てません。野生生物として力強く生きる存在であると認めた上で、"野草"と呼んでいるんです!

 その敬意を持った上で、彼らの立場になって考えること! それが第二にして、最重要! そして、最終の答えを導き出すんです!」

 「えーと、つまり…」

 大和は首を傾げながら、皺を寄せた眉根をトントンと叩きながら答える。

 「草の立場になって、何をどうしたら、こんな悲惨にねじ曲がった姿からイケてる姿になれるか、考えるって…こと?」

 ナディは鼻息を荒くしながら首を縦に振ったが、大和は深い溜息を吐きながらパッパッと手を振って意見を却下する。

 「おぢょうさまー。まだまだ若いっつーか、ぶっちゃけ幼いから知識が足りずにそんな考えに行き着いたんでしょうけど。

 オレらと草、生物界のレベルで定義が異なる存在の気持ちなんて、推し量れるワケないッスよ?

 そもそも、植物にゃ脳に当たる思考器官が存在してないンスよ? そんなんで、即物的な欲求があるワケないじゃないッスか」

 大和の言葉にムッとしたナディは、すかさず反論しようと頬に空気をため込んだが。彼女の言葉より速く、彼女に助け船を出したのは、なんとイェルグである。

 「いや、短絡的な考えなのは大和、お前の方だぜ?

 機械いじりばっかりしてる所為(せい)だな、なんでもかんでも機械を基盤にしてアナロジーしちまってる。

 旧時代の脳科学なら、それで一定の成果は出ただろうがよ。魔法科学の現代じゃ、そんな意見は通用しないぜ」

 「どういう事ッスか?」

 今度は大和がムッとして訊くと。イェルグは悪気なく、柔和な笑みを浮かべながら答える。

 「網膜が捉えられるもの…つまりは、形而下の事象が物事の全てじゃないってことさ。魔法科学の基本的な立場だぜ?

 もしも形而下事象だけで全てが成り立つ世界なら、脳は最適化を求める方向に一意的に成長するだけのコンピューターでしかない…って話は有名だろが?

 ヒトだって、形而上相における魂魄構造が存在することで、初めて個性が獲得されるじゃないか。

 そういう事情が植物だけには適応されないって言う特別視的思考は、それこそ非科学的だろ?」

 大和は反論しようと唇を尖らせたが、「それにな」とイェルグがいち早く反論する。

 「現に、ナディちゃんの理論を実施した結果が、揺るぎない成果を残してる」

 イェルグはロイとナミトが世話する花畑を指差す。形而下の事象を重んじる立場を取るからこそ、目にした結果を否定するワケには行かない。

 「ぐぬぬぬ…!」

 大和は悔しげに唸り、ナディは論破を誇ってフフンと得意げに鼻を鳴らす。

 が、イェルグはナディに向き直ると、意地の悪い笑みを浮かべて言葉を続ける。

 「とは言え、別にオレはナディちゃんの完全な味方ってワケじゃない。

 キミの考えにゃ、ツッコミどころが結構あるからな」

 「え…?」

 ナディの態度は一転。今にも崩れ落ちそうな吊り橋でも歩いているような、不安極まりない表情を作る。

 イェルグは笑みを浮かべたまま、続ける。

 「ロイの地脈操作とナミトの(けい)を使って、野草の体内環境を整えることで、彼らの姿形を美麗なものへと変える。なるほど、品種改良のように生物学的定義を改変してるワケじゃないから、一見すりゃ、自然をねじ曲げちゃいなさそうだ。

 けど、本当にそうなのかね?」

 「ど、どういう事ですか…」

 ナディはイェルグの言わんとすることを(さと)れず、不安を露わにしながら尋ねる。イェルグは肩を竦めて指摘する。

 「ここに()んでる野草達は、長年ここの環境に適応すべく、試行錯誤を重ねてきた。その結果としての姿が、ここに見える"雑草"的な姿なワケさ」

 イェルグはしゃがみ込み、足下に生える草を指差す。

 「だが、ナディちゃん、キミはこの姿が気に食わないと思った。彼らの長年の試行錯誤の結果を、一蹴しちまったワケだ。

 んで、キミが思うところの"素晴らしい姿"こそ正しいと決めつけて、彼らに押し付けたワケだ。

 それってさ、キミって言う高々一人の人物の我を通すだけの、立派な自然改変じゃないのかな?」

 「うう…」

 ナディはすっかりと自信を失い、今にも白旗を上げそうなほど表情をクシャクシャにして唸る。そして、素早く後ろを振り返り、助け舟を求める視線を"ある人物"に投じる。

 その人物とは、ナディから数歩退いた所に立ち、クックッと笑いながら巨躯を揺らしている中年の男性である。服の上からでも分かる筋骨隆々とした体格に、無精髭と癖の強い髪が目立つ彼は、『星撒部』の顧問であるヴェズ・ガードナー教諭である。

 

 ヴェズは基本的に、『星撒部』の活動に対して自主的に顔を出すことはない。アオイデュアやアルカインテールのような事態に首を突っ込もうとも、部員からの要請が無い限りは、静観を決め込むだけだ。

 そんな彼がこの場にいる理由は、ナディである。

 学園のスカウトとしても働いているヴェズが来年度の新入生として引っ張って来て、保護者として面倒を見ている"準学生"の1人が、ナディなのだ。

 そのナディがヴェズその他の者達の話を聞いている内に、『星撒部』に対して忌避どころか好感を持って興味を抱いてしまったのである。そして彼女は、ヴェズに兼ねてから「活動に参加してみたい!」と強請(ねだ)っていたのだ。

 そこでヴェズは、今回の危険の少ない仕事にナディを参加させ、彼女の気を満たすことにしたワケだ。

 とは言え、"暴走君"と呼ばれるロイを初めとした、クセの強い者達が揃っている『星撒部』である。幼い身の上ながら学園にスカウトされる程の才能を持つナディとは言え、年相応の過敏な感受性を持つ少女である。悪い意味での妙な影響を受けないようにと、ヴェズは保護者として彼女を見守りに来たのである。

 

 「確かに、イェルグの指摘は正しい」

 ヴェズは大股でナディの元に歩み寄ると、栗色の髪をクシャクシャと撫でる。

 「だがな、ナディ。お前のやってるこたぁ、別に不正解じゃない」

 「そう…ですか? 本当に…?

 押し付けがましい偽善には…なってない…?」

 泣きそうな上目遣いで見つめるナディに、ヴェズは無骨なウインクを返す。

 「まぁ、野草どもの考える事を完全に把握するなんて事はできんがよ。それを差し引いても、大丈夫と思うぞ。

 都市域は人類の占有物じゃないって議論は置いといて。とりあえず、公園っての場所は、ヒトにとっての快適さを追求してる場所だ。そこに見てくれの悪い野草が有るのは、好ましい事じゃない。公園の理念からすりゃ、排除されるべき存在と見なされちまう。

 お前さんは、そんな摘み取れるはずの命を守ったワケだ。当の野草にとってはベストな選択肢じゃないかも知れんが、排除されて命を落とすよりゃ全然マシなはずさ」

 ヴェズの後ろ盾を得たナディは、気概一転、不安を瞬時に捨てて鼻息荒く復活すると、"どうだ、参ったか"と言わんばかりの態度で胸を張ってイェルグを見つめる。

 イェルグは苦笑すると、手を振って降参する。

 「はいはい、オレの負けだよ。

 キミの言う所の"自然との調和"を目指す事にするから、ロイ達にやったみたいに指示をくれよ。オレの独断でやらかして、またキミに文句に言われたくないんでね」

 するとナディはイェルグの方へと大股で歩み寄りながら、

 「そうですねぇ…イェルグさんはお天気を扱えますから…」

 と思案する。

 そんな2人を見送る大和は、ヴェズの元へと寄ると、ナディに聞こえないようコショコショと小さく言葉をかける。

 「いやはや、なんとも凄い()ッスねー…。あの幼さで、スゲー堂々としてるし。口も回るし、ロイ達に指示を出す位に機転も回る。

 どこで見つけて来たンスか、先生? 戦災孤児か何かですか?」

 「いや、孤児じゃねぇよ。両親も実家も健在だしな。

 ただし…」

 ヴェズは肩を(すく)めると共に、眉根に皺を寄せる。

 「両親どもは、あの()に対して親の責任を果たしちゃいなかった。

 あの()がどんなに努力しようが、頭を撫でるどころか、拳を叩きつけるような輩だったんだよ。

 そこでオレが拾ったってワケだ」

 「へぇー…。

 先生にしちゃ、比較的大人しいパターンッスねぇ。

 オレはてっきり、戦災の影響で世界でも憎んで、テロってたような()かと思ってたッスよ」

 「おいおい、オレが問題児ばっかり連れてくるような言い方すんなよ?

 オレは基本、人情のヒトだぜ? 実力を発揮しても認めらるどころか(そし)られるような若人(わこうど)が居りゃ、支援してやりたくなるってもんだ」

 そんなやり取りをしていると、ナディが大和の方を向き、眉を怒らせて叫ぶ。

 「大和さん! 何をだべっているんですか!

 ちゃんと仕事しないと、『星撒部』の面汚しのままですよ!」

 「…オレ、何時から面汚しって肩書きになったンスかね…」

 溜息と共に言葉を吐くと、重い足取りながら小走りでナディとイェルグの元へと向かう。

 そんな大和の背中を見ながら、ヴェズはクスクスと巨躯を震わせて笑う。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 場所は、ユーテリアの学園の『星撒部』仮部室に戻る。

 「ともかく」

 蒼治は少しを間を空けてから、ノーラに語る。

 「公園のことは心配いらないんだ。

 だから安心して部室に戻って来たんだけどね。折り紙の補充の他に、もう一つ理由があるんだ」

 目をパチクリさせて続きを促すノーラに、蒼治は続けて語る。

 「ノーラさん。君を待っていたんだよ」

 「私を…ですか?」

 思わず自身を指さして尋ね返す、ノーラ。蒼治はゆっくり[[rb:頷>うなず」]くと、表情は微笑みながらも瞳に鋭い光を宿し、眼鏡をクイッと直しながら語る。

 「一緒に来てほしいところがあるんだ」

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ordinary Story - Part 2

 「第2屋内演習場に行こう。ちょうど補充も終わるところだったからね。

 用件は、道すがら話すよ」

 蒼治はそう言ったものの、校舎から演習場まで向かう道中、蒼治は中々(しゃべ)ってこない。

 用件とは何なのか、ノーランは1人で頭を巡らせていると。不意に、"妙な思考"がポンと湧き出てしまい、顔が火を吹くようにボッと赤く染まる。

 (そう言えば…! ナミトちゃんや紫ちゃんが言ってたよね…!)

 ノーラの脳内で再生されるのは、ほんの数日前のランチタイムの光景である。紫に誘われ、ナミトと共に学食で過ごした正午過ぎの時間帯――。

 

 「嘘ぉーっ! ノーラちゃん、マンガって読んだこと無いのぉーっ!?」

 話題がマンガに関することになった最中、話に付いていけず黙りこくっていたノーラを気遣い、2人が声をかけてくれた時の事。

 「マンガって、読んだことないんだよね…。だから、全然分からなくて…」

 と答えたら、ナミトが即座に驚愕の声を上げたのだった。

 「それ、マジなワケ?」

 紫が驚愕を込めたジト目で睨みながら確認してきた。

 「まぁ…ノーラちゃんの故郷は娯楽が乏しいって事は聞いたよ。だから、小さい頃は読んだ事無いって言われても、驚きはしないわ。

 でも…このユーテリアに来て、娯楽の幅が一気に広がったって言うのに! マンガすらも手を着けてないってワケ!? どんだけ禁欲的なワケ!? それとも、好奇心とか興味って感情がスッポリ抜け落ちちゃってるワケ!?」

 言葉の最後は早口で責め立てるようにまくしたてる紫に、ノーラは困った笑みを浮かべて答えた。

 「いや…興味がないワケじゃないよ…。表紙を見て、面白そうだな、中身はどんなだろうなって、気にはなってるよ…。

 でも…私、学園(ユーテリア)には勉強しに来たから…遊びに手を出すのは、送り出してくれた故郷の皆に申し訳ないなって、どうしても気に掛かって…」

 すると紫はブンブンと首を左右に振り、ピシャリと自身の顔を平手で叩いてみせた。

 「うっわぁ、"霧の優等生"ちゃんなんて言われてたけどさ! 何処までオカタイ優等生ちゃんなのよ!

 四六時中、生真面目な事にばっかり頭を使ってばかりだと、堅くて狭~い考えしか思い浮かばなくなるよ!?

 柔軟で発想豊かになるためには、遊びも覚えなくちゃ!」

 …と、言う流れから、ノーラは遊びを覚える第一歩として"強制的にマンガを貸される"事になったワケだ。

 マンガを持って来たのは、部内でも結構なマンガ好きとして知られるナミトである。"何でも楽しむ"のが信条の彼女らしく、マンガという娯楽も当然楽しんでいるようだ。

 彼女がマンガ初心者のノーラの為にと選んだのは、少女マンガジャンルの中では五本指に入る程に有名で、王道の展開を堂々と繰り広げる恋愛漫画の聖典(バイブル)。タイトルを『虹色金魚』と云い、全23巻の長編作品である。

 「これを読むとね、マンガの楽しさだけじゃなく! 甘酸っぱい恋の楽しさまでも存分に味わえる! 正に一石二鳥の名作なんだよっ!」

 ナミトは息巻きながら、高く積んだ23冊の単行本をデンとノーラの前に突きつけたのだった。

 好意を無下(むげ)にするのは悪いと思う一方、興味を満たせる機会を得もしたノーラは、自室に帰って読み始めると…。

 大いに、ハマってしまった。

 思春期の少女の心の機微を細やかに描く描写や、"王道"とは云われるものの丁寧に伏線を生かすストーリーが、ノーラの心を深く打ちまくった。

 それからと云うもの、ノーラはナミトと紫に出会えば、『虹色金魚』の話題で大いに盛り上がるようになった。

 そんな最中、ノーラが特に気に入った告白のシーンについて熱く語っていると。ナミトが頷きながら、こんな事を語ってきた。

 「シチュエーション自体は王道、ってか、在り来たり過ぎるんだよねー。体育館裏で2人きりなんて、古典文学かよーってレベルだもん。

 でもさ、そういう在り来たりを憧れのレベルに引き上げちゃうのが、『虹色金魚』の凄い所なんだよねー!

 ボクもそんなシチュエーションで告白したり、されたり、したいなーって本気で思ってるもんね!

 でも、残念な事に、この学園(ユーテリア)には体育館ってモンがないからねー」

 「屋内演習場で代替えすりゃ良いじゃん。他校で言うところの体育館だって言っても、おかしくないっしょ? 屋内で運動――まぁ、大抵は運動ってレベル超えてるけど――するところには、違いないしさ」

 紫がフォローすると、ナミトはポンと手を叩いて「なるほど、名案だ!」と同意した。そして満面の笑みを浮かべると、拳を突き上げて声を上げた。

 「よーしっ! 素敵な"フラグ"、立てちゃうぞー!」

 「…"(フラグ)"?」

 ノーラが小首を傾げながら語ると、紫が"え、それも知らないの?"と呆れた顔をしながら解説してくれる。

 「えーとね、とある状況を実現するための条件のスイッチ…って感じの意味かな。目的地にたどり着いた軍隊が旗を立て目的達成を知らせるように、条件達成のことを"フラグを立てる"って言うワケ。

 例えば、『虹色金魚』のように体育館裏に呼び出すって行動は、恋愛成就のためのフラグを立ててるワケ」

 「体育館裏に呼び出すって事が、恋愛成就の条件になるって事…?」

 「ま、フィクションではお決まりのパターンなワケよ。

 でも、それにあやかって、現実でも同じ行動を取るような男女も沢山いるよ。

 ノーラちゃんも体育館裏――まぁ、ウチらの場合は屋内演習場の裏かな――に呼び出されたら、恋愛フラグと思うと良いかもよー?」

 「はあ…」

 この時のノーラは、実感ゼロで生返事を返すだけであった。故郷ではそんな行動が恋愛成就のための"おまじない"になるような文化は無かったのだから。

 (地球って、妙な文化があるんだなぁ…)

 そんな事を独りごちていると、ナミトが紫に余計な質問をしていた。

 「紫はさ、中学の時とか体育館裏に呼び出されたこと無いのー?

 ちなみにボクは、知っての通り、此処(ユーテリア)に入る前はストリート暮らしだったからねー、そんな経験はゼロだよー」

 すると紫は、ヒクヒクと眉を動かしながら、地の底から響いてくるような低い怨嗟を口にした。

 「…呼び出されたわよ、ただし、ボコられる方のフラグでね…!

 ああ、そうよ! 中学までの私はボッチだったわよっ! 恋愛するどころか、避けられてナンボの人生だったわよっ!」

 「…な、なんてか、ゴメン…」

 紫の渾身の自暴自棄の叫びに、ナミトは心底済まなそうに謝罪したのだった。

 

 ――このやり取りを思い出したノーラは、屋内演習場へ誘った蒼治の行動が気になってしまって仕方がないのだ。

 (もしかして…もしかして…これが、恋愛フラグ…!?)

 ドクドクと駆け足な鼓動を打つ心臓の熱に当てられ、ノーラの赤く染まった顔からは汗までジットリと浮かんでくるほどだ。

 そんなノーラの気配に気付いたと云うワケではなさそうだが、蒼治がふとノーラの方を振り向き、驚いて目を見開く。

 「え…どうしたの? 具合でも悪くなった?」

 「い、いえっ! なんでもっ!」

 ノーラは"顔の熱よ、冷めろ!"と言わんばかりの激しい勢いで首を左右に振る。そんな様子に蒼治を首を傾げ、再び前を向く。

 それからまた暫く、2人は無言で屋内演習場へと足を進める。

 道中のグラウンドには、様々な授業や部活動に従事する生徒達の姿が点在している。学校らしく、基礎体力作りのためのトレーニングやスポーツを行っている者の姿もあるが、それは少数派だ。多数派はやはり、"英雄の卵"と称されるユーテリア学生に相応しく、戦闘技術に関する訓練に従事している。

 グラウンドと云う障害の少ない"理想状態の戦場"においては、初歩的な訓練ばかりが目立つ。実践的な訓練は普通、リアリティが追求された教習用フィールドか屋内演習場で行われる。

 とは言え、しっかりした基礎が在ってこその応用だ。授業や自主トレーニングに従事している学生達は誰もが皆、健全な汗を輝かせて真摯に課題に取り組んでいる。

 そんな学生達の姿を(はた)で眺めているノーラは、バツの悪い思いを抱いて苦笑が浮かんでしまう。

 (この部に入る前の私なら…選り好みなんてしないで脇目も振らずに、皆みたいに授業をしてたんだろうけど…。

 すっかり、この部のペースに染まって来ちゃったなぁ…。

 今日なんて、授業に1度しか出ていないし…)

 今日のノーラは朝一の授業に出たっきり、部の仕事に取り掛かりきりであった。コンビニの買い出しの前にも、幾つかの細かい雑務をこなしている。

 (ユーテリアでの学業単位は、授業のみに寄らないとは言うけど…。これでホントに、大丈夫なのかな…)

 会話のない暇にかまけて、不安なんぞ頭の中に持ち出して思考を巡らせていると。目的の屋内演習場が間近に見えて来た頃に、蒼治がようやく口を開く。

 「ノーラさんへの用件って言うのはね…恥ずかしい話なんだけどさ…。

 でも、凄く気になってしまってね。是非、付き合って欲しかったんだよ」

 蒼治が如何にも恥ずかしげに頬をポリポリ掻きながら、ぎこちなさげに発言すると。ノーラの顔に再び火が灯る。

 「え…っ!」

 再び思い出される、マンガを巡るナミト達とのやり取り。そして、恋愛フラグなる概念。

 そして、"気になってしまう"だの"付き合って欲しい"だのと云う蒼治の発言。

 これは…やはり!?

 「以前から気にはしていたんだけど、今回は流石に痛感したと言うか…」

 と、蒼治が話を続けている最中に、ノーラは顔から蒸気でも吹き出さんばかりの勢いで、吃音混じりに言葉を割り込ませる。

 「あ、あ、あのっ! 私達、まだ、お互いのこと、よ、よ、よく知りませんし! 急にそ、そ、そんな事言われても…!」

 「…?」

 蒼治は小首を傾げたが。転瞬、自分の発言を振り返り、直ぐにノーラの胸中を覚る。そして、自らも顔を真っ赤に染めて足を止めると、ワタワタと慌ただしく両手を振る。

 「い、いや、そういう意味、その、恋愛感情的な意味じゃないんだよっ!

 いや、でも、ノーラさんに魅力を感じないって事じゃなくて! むしろ、ノーラさんみたいな真面目な()には凄く好感持てるけど! でも、そういう話じゃなくて!

 付き合って欲しいって言うのは、模擬戦に付き合って欲しいって事なんだ!」

 蒼治は言葉尻に最も力を入れて叫ぶと。ノーラはキョトンとなって、顔の赤色がスーッと抜けて行く。

 これが恋愛の機微に敏感な少女なら、"期待させてるなよ!"と怒るのかも知れないが。ノーラは純粋に、面倒な事に成らずに済んだ事にホッと胸を撫で下ろす。

 ノーラの落ち着いた様子を見て、蒼治は苦笑いを浮かべながら眼鏡をクイッと直し、気を取り直して事情を打ち明ける。

 「気にしてるって言うはね、先日のアルカインテールでの件なんだ」

 「あの時は…凄く大変でしたね…。

 三つ巴どころじゃない混戦でしたし…。あの『バベル』って怪物にも、相当手を焼きましたし…。

 でも、蒼治先輩は一体何を気に病む必要があるんですか…? 先輩自身も戦闘で立ち回りながら、的確な指示を出してたじゃないんですか…?

 反省すべきなのは、むしろ私の方です…。皆が全力を尽くしてる中で、諦めを感じてしまったんですから…。もっと心を鍛えないと…」

 「いや、ノーラさんは充分にやってくれたよ。

 『バベル』を最善で、且つ穏便に打ち破るには、ノーラさんしか頼れなかったんだ。まだ部に入って日も浅い君が、たった一人で重責を負う事になってしまい、プレッシャーを感じてしまうのは自然な事だと思うよ。

 それに、君が最善の結果を出したのは事実なんだ。誇ることはあっても、気に病む必要なんてないよ」

 「でも…次は、自信を持って、諦めるより万策で当たれるようにします」

 そう答えるノーラの口調には、普段の一歩退いたような響きはない。石のように堅い決意が、しっかりと声に込められている。

 その言葉に、ますます蒼治は立つ瀬がないと云った感じに苦笑する。

 「ノーラさんは偉いよ。自分の立場に甘えることなく、しっかりと改善点を見据えてる。そして次回は実際に、確実に改善するんだろうね」

 「いえ…! 言葉だけですから、実際にはどうなるか分かりませんけど…!」

 ノーラがパタパタと手を振りながら答えるが、蒼治はノーラに言葉を返すでなく、視線を遠くの方に投げながら、独りごちるように呟く。

 「僕なんて、いつもいつも、同じ事の繰り返しをしてばかりだよ」

 「何をそんなに…気に掛けてるんですか?」

 蒼治は遠くに視線を投げたまま、語り始める。彼の視界にはおそらく、アルカインテールでの光景が広がっていることだろう。

 「ノーラさんは『バベル』を、ロイは4勢力の実力者達を一遍(いっぺん)に打ち破って見せた。

 イェルグは…あいつの力を考慮すれば当然の事だけど…癌様獣(キャンサー)や"パープルコート"を一人で引き受けたし、ナミトは『冥骸』の連中を叩き伏せるだけでなく、心まで入れ替えさせた。大和も紫も、バックアップとして申し分のない働きをしてくれた。

 でも僕は…ただ一人、無様に負けたんだ…」

 

 蒼治が思い返すのは、"パープルコート"の実力者である女性砲兵、チルキス・アルヴァンシェ中尉との交戦だ。

 自分と同程度かそれ以下の年齢に見えた、可憐な容貌を持つ少女。その外観に見合わぬ獰猛で執拗な暴力性に、蒼治は始終振り回され続けた。

 彼女が原因不明の意識障害に陥らなければ、蒼治は命を奪われていた事だろう。

 

 「もしも相手が、女の子じゃなくて男相手だったら…僕はもっと、冷静に、そして冷徹に立ち回れていたと思う。

 でも僕は…時代錯誤(アナクロ)極まりない話だけど…女性が相手だと、どうしても気を遣ってしまう。

 別に故郷の文化がそうなってるワケじゃない。家庭だって、女社会だったワケじゃない。だから環境の所為には出来ない、僕と云う人格の問題なんだ」

 「でも…女性に優しくしようって考えは、現代でも歓迎されますよ…? 短所だと言い捨てられないと思いますけど…」

 「確かに、日常生活下なら、女性受けは良いんだろうね。

 でも僕の問題は、状況に関わらず――戦闘状況下であっても――その考えが捨てきれない事にあるんだ」

 蒼治は歯噛みし、珍しく嫌悪の感情を露わにして言葉を続ける。

 「僕一人だったから良かったものの…あの場に守らなきゃいけない人達が居たとしたら…! 僕はみすみす、見殺しにしてしまったかも知れない…」

 そんな悲観的な仮定は考えればキリがないのではないか、と言いたくなるノーラであったが。グッと口を(つぐ)むことにする。

 他人がどう言おうと、蒼治自身が納得しなければ、彼の問題は解決しないのだから。

 「そこで、ノーラさんに付き合ってもらいたいんだよ。模擬戦をね」

 蒼治はノーラに視線を戻す。

 つまり彼は、女性と戦闘することで欠点を克服しようとしているワケだが…。

 「私で…良いんですか?

 ナミトちゃんの方が、良いんじゃないですか…? 私より実戦経験が豊富ですし…」

 すると蒼治は(かぶり)を振る。

 「ナミトが強いのは充分承知だからね。今更、気遣いが僕の足に絡んでくることはないよ。

 そもそも、ただ強い女の子を相手にするんだったら、渚に頼んでるさ。

 組み手の経験がないノーラさんだからこそ、頼みたいんだ」

 「…そう言う事でしたら…お役に立てるかどうか、分かりませんけど…」

 蒼治は頷いて薄く笑うと、(きびす)を返して眼前の演習場へと足を運ぶ。ノーラもすかさず、その後ろに続く。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 屋内演習場は、"体育館"という言葉を当てはめるにしては、あまりにも広すぎる。"スタジアム"と言う呼び方の方が相応しいかも知れない。

 そもそも、ユーテリアは地球上でも最多の生徒を要する学園だ。彼らを一同に集めようとすれば、必然的に超広大な空間が求められる。

 特にこの第2屋内演習場は、他の演習場と違ってギミックを擁する区画分けがされておらず、何処に立っても広大な空間を一望することが出来る。視界における邪魔者を()いて上げるとするならば、疎らに立ち並ぶ柱ぐらいなものだ。

 このギミックを持たないひたすらな広大さ故に、第2屋内演習場は基礎トレーニングの場としてだけでなく、集会やスポーツ系部活動の拠点ともなっている。

 ノーラ達がこの場所に入ると、既に数多くの生徒が大部分の場所を占有している。この状況下で模擬戦を行うには、手狭なように感じる。

 それでも蒼治は気にすることなく、キョロキョロと見回して空いている場所を見つけると。

 「よし、あそこにしよう」

 と語るが早いか、小走りで目的地に向かう。ノーラもすぐさまその後に続く。

 さて、到着した場所は、壁際のスペースである。思い切り動き回るのには不利だとノーラが断じる一方で。蒼治はやはり気にすることなく、スッとしゃがみ込むと、明るい木目調のフローリングの床に指で大きな円形の図形を描く。青白い魔力励起光を放ち、複雑な幾何学模様を円周の内側に持つそれは、蒼治が得意とする方術陣である。

 ノーラはその構造を見、そして形而上相の定義をチラリと確認すると、すぐにその機能を把握する。

 「空間拡張…ですか」

 「そうだよ。

 こうでもしなきゃ、思い切って模擬戦なんて出来ないからね」

 「それなら…第5演習場の方が良かったんじゃないですか…? あそこなら、空間拡張済みの個室が多数ありますし…」

 ノーラの言う第5演習場は、細かい部屋で仕切られまくった屋内演習場である。部屋の内部は一つ一つが空間拡張の[[b:魔化>エンチャント]]が施されているだけでなく、市街地や森林、砂漠や氷原などの局地環境なども再現した様々な環境が用意されている。

 思い切り模擬戦をするなら、正にうってつけの場所なのだが。蒼治は首を左右に振る。

 「人目に着きたいんだ。先入観なしの客観的な意見が欲しくてね。

 ここで()りあってれば、観客(ギャラリー)は集まってくれるしね」

 言ってる(そば)から、2人の周囲には好奇の視線を放つ生徒達が集まってくる。何を始めようとしているのか楽しんでいる…と言うより、これから起こる事を理解した上で、観客になる事を望んでいるようだ。

 ザワザワとした喧噪に耳を傾けると、「あれ、"暴走部"の蒼治・リューベインだろ?」「何かやらかすみたいだな…」等の台詞が聞こえてくる。部内では常識人である蒼治だが、外部の生徒達からは『星撒部』に入っている時点で"目立つ変わり者"として扱われているようだ。

 一方、ノーラにも注文は集まる。ただ、蒼治とは異なり好意的――但し、鼻の下を伸ばすような類のものだが――だ。

 「なんだ、あの()? この時期に新入部員か?」

 「かなり可愛いじゃん…オレ、肌が小麦色なのってストライクなんだよ…!」

 「"暴走部"の女子って、レベル高いよなぁ…!」

 気にしないようにと努めるノーラだが、聴覚に滑り込んでくる偏った評価に、恥ずかしげな苦笑が浮かぶのを禁じ得ない。

 さて、蒼治は大きな方術陣を描き終わると。スタスタと中に入って、ノーラを誘う。

 「狙い通り観客(ギャラリー)も増えたことだし、始めようか」

 「…それでは、お願いします…」

 ノーラは注目を浴びる事に居心地悪そうにしながら、歩幅の狭い小走りで放縦陣の中へと進入する。

 

 転瞬、方術陣の円周からドーム状に半透明の薄い水色のフィールドが展開される。同時に蒼治やノーラは、ドームの外側の光景がグングンと巨大化してゆくのを認める。

 対してドームの外側にいる観客からすると、2人の姿はどんどん小さくなってゆくように見えている。

 この現象は、ノーラ達が実際に縮小している事を物語っているのではない。ドーム内の空間が拡張したものの、ドーム外の縮尺に影響がないために、見かけ上縮んで見えているだけだ。

 もしも観客がドームの中に腕を突っ込むと、薄い水色の境界を境して急激に先細ってゆくように見えることだろう。

 

 ノーラは巨人達に囲まれて監視されているようで居心地の悪さを感じるが。蒼治は慣れっこらしく、極々自然な動作で白いマントの下から愛用の双銃を取り出して握る。

 「ノーラさん、準備出来たらいつでも掛かって来て構わないよ」

 「…分かりました…」

 返事をしながら、背中に負った金色の大剣を取り出し、両手でしっかりと握り締めて構える。

 「…行きますね…!」

 一声掛けたのは、模擬戦であると言う意識があってのことだ。これがロイなどの実戦主義者なら、無言で一気に全速力で襲いかかったことだろう。

 「いつでもどうぞ!」

 と蒼治が返事した時には、ノーラは大剣を横へ引いて構えながら、突撃する。

 (…礼儀めいた、真面目で堅い行動だなぁ…)

 蒼治は胸中で呟きながら、跳び退(すさ)って距離を保ちながら、双銃を構える。すぐに引き金を引かなかったのは、ノーラのステレオタイプな動きを気にしてのことだ。

 渚が横で見ていたら、"甘いのう!"と怒ったかも知れない。

 距離を取られたノーラがもう一歩踏み出して蒼治に向かったタイミングで、ようやく蒼治は双銃を発砲する。特に魔化(エンチャント)されていない金属の弾丸は、真っ直ぐにノーラの体へと吸い込まれてゆく。

 ノーラは当然、構えた大剣を振って弾丸を弾く。

 蒼治は予測する――自分はこのまま発砲し続ける。すると、ノーラは大剣で弾丸を防ぎ続けるだろう、と。この硬直状態が暫く続き、その内ノーラは状況を打破せんと焦燥に駆られて、何らかの行動に出る。

 (そこが狙い目だな…)

 などと蒼治が一人で模範解答を出していた、その直後だ。

 蒼治の目が、見開かれる。――眼前の光景は、彼が予測しなかった方向へと展開する。

 ノーラは大剣で弾丸を弾くも、それはたった一振りだけのことだ。そのまま大剣の勢いに任せてその場で一回転する、ノーラ。

 その間にも弾丸は容赦なくノーラに迫る。実戦ならこれは、致命的な隙だ。

 (何のつもり――)

 胸中の言葉が終わるより早く、素早く正面に向き直るノーラ。その手に持っているのは、もはや黄金の輝きを放つ大剣ではない。回転の間に、ノーラが得意とする定義変換(コンヴァージョン)によって、大剣の構造を変化させたのだ。

 ノーラは今、右手一本で"それ"を掴んでいる。ギラつく刃の銀色を呈する、大きな十字型の物体。一方だけ一際長い"足"には、複雑な管楽器にも似た機関が埋め込まれ、その先端にはポッカリと穴が開いている。

 (銃口だ…!)

 蒼治が把握した時には、ノーラは大剣を変化させた大型機銃による掃射を開始する。

 ()()()()()()ッ! 爆音のような盛大な発砲音と共に、大型の術式製弾丸が雨霰と飛び出す。蒼治の放った単なる金属弾は術式製弾丸に飲み込まれると、フライパンの上で跳ねるポップコーンのように破砕してしまう。

 安易に隙を見せて自ら窮地を作ってしまったと思われたノーラが、一気に形成逆転。蒼治の攻撃を一掃し、優位にたった瞬間である。

 (まさか…僕を、誘ったのか!)

 蒼治は額をピシャリと叩きたくなる衝動に駆られる。

 "アルカインテールのような甘い考えを無くしたい"…そう決意して、ノーラに声をかけた筈だった。しかしその実、決意は全く実を伴っていない絵空事だったのだ。

 結局蒼治は、ノーラと云う人物像を"か弱くて実戦経験のない少女"として捉えてしまい、厳しい見方など出来なかった。

 対してノーラは、蒼治の欠点が表面化するように陥れたのだ。そして蒼治は、まんまとノーラの罠に掛かった。

 (クソ…! 何の為の訓練だ…!)

 ギリリと歯噛みしている内にも、ノーラの術式製弾丸は蒼治の間近へと肉薄する。蒼治は舌打ちと共に、胸中を埋め尽くす後悔を無理矢理に塗り潰すと、素早く方術陣を展開する。

 ノーラの術式製弾丸は方術陣に触れると、一気に空気が抜けた風船のように、滅茶苦茶な弾道を描いて吹き飛んでゆく。蒼治は術式製弾丸の進行性能定義に介入し、狂わせたのだ。

 身をよじることなく弾丸をやり過ごした蒼治は、双銃を正面に構えてノーラに肉薄しつつ、交互に引き金を引く。今度発砲したのは、術式製弾丸だ。方術にも得意なノーラに防御用方術陣を展開されても、並大抵のものならば破砕するほどの威力を秘めている。

 対するノーラは慌てた様子もなく、跳び退り続けながら術式製弾丸をフルオートで射出する。

 (フルオート…!?)

 蒼治は眉を(ひそ)める。

 フルオート掃射は機械が介入するために、術式製弾丸は余事象干渉を受けて能力を削減されてしまう。蒼治の手厳しい弾丸を相殺させるには、威力不足である…はずだった。

 しかしノーラが掃射した色彩豊かな軌跡を描く弾丸達は、蒼治の弾丸に2、3発ずつ突き刺さると。パァンッ、と電光のような破裂を残して見事に相殺してしまう。

 「何ッ…!」

 思わず声を上げる、蒼治。ノーラのフルオート弾丸は未だ数十を数える数で、蒼治の元へと迫る。

 「クッ…!」

 蒼治は身体(フィジカル)魔化(エンチャント)と"宙地"を使い、高速で上空に跳び逃げる。幸い、ノーラの掃射弾丸は追尾機能は持っておらず、虚しく宙を直進してゆくのみだ。

 蒼治は宙でクルリと体を回すと、弾性を思い切り強化した"宙地"の方術陣を足下に展開。足を止めてこちらに銃口を向けるノーラめがけて飛び降りるべく、バネのように身を縮める。

 その一瞬の行動停止の合間のことだ。いきなり、蒼治の背中にドンッ! ドンッ! と衝撃と激痛が走る。

 (!?)

 慌てて振り返れば、背後から迫る術式製弾丸の姿がある。先に方術陣で経路を狂わせたはずの弾丸達だ!

 (なんでだ!? 進行を狂わせたんだ、追尾機能を持っていても…)

 そこで蒼治は、ハッとする。

 蒼治が弾丸を狂わせたのではない。ノーラが弾丸が狂ったように偽って、蒼治の背後に待機させていたのだ!

 (凄い戦術だ…!)

 驚嘆に舌を巻くものの、このまま白旗を上げては、この訓練の収穫は後悔ばかりになってしまう。

 ――そうなってたまるか! 蒼治はギリリと歯噛みすると、"宙地"の方術陣を蹴り、ノーラに向かって砲弾のように突撃する。背後には未だにノーラの弾丸が追尾して迫るが、構わない。

 (あれだけ大きな銃身の獲物だ! 接近すれば、小回りの利く僕の銃の方が有利だ!)

 蒼治は牽制の意味も込めて双銃を交互に発砲する。しかしノーラは回避行動をとらず、じっと銃口を蒼治に向けたまま足を止めていた――と思った矢先。銃口に赤紫色の(まばゆ)い魔力励起光が灯ったかと思うと。

 (ゴウ)ッ! 大気を震わす爆音と共に、大気分子を電離させつつ驀進する魔力を帯びた荷電粒子砲が蒼治に向かう。

 (ノーラさんって、これほど射撃に長けてたのか…!)

 蒼治は感心するものの、すぐに納得に変わる。

 アルカインテールでは、ノーラは今のように定義変換(コンヴァージョン)した大剣の狙撃銃で、飛行してくる暫定精霊(スペクター)を撃墜していたのだから。

 例えこの事実を思い出さなくとも、蒼治の次の行動には迷いはなかった。

 赤紫の粒子砲を、皮膚がチリチリするほどに引きつけた直後。"宙地"を使って真下に跳び、粒子砲をやり過ごしながら地面すれすれへと迫る。蒼治の上空では、粒子砲と追尾弾が激突し、盛大な相殺の爆炎を上げる。

 蒼治はそのまま"宙地"の要領で大地に弾性の強いカタパルト様の方術陣を形成すると。それを一気に踏みしめて、ノーラの懐めがけて突撃する。

 (よく戦ったけど、これで…!)

 蒼治はノーラの顔面と心臓へと銃口を向け、長銃身の内側へと入り込んだ。

 …が。(ガン)ッ! 重い衝撃が蒼治の横っ腹を叩き、彼の体が宙に浮いて吹き飛ぶ。

 「ガハッ!」

 乱れた呼気と共に血の混じった唾液を吐き出しながら、蹴飛ばされた小石のように浮いては大地を跳ね転がる。2、3転してようやく衝撃に(あらが)えるようになると、蒼治は片腕を地に付けて逆立ちするようにクルリと体を回して、なんとか体勢を立て直す。

 (クソッ、牽制を…!)

 吹き飛ばされて距離を取らされた事で、射撃の恰好の的になってしまった! そう判断した蒼治は、フラつく視界の中で大体の見当だけで双銃を構え、射撃体勢に入っているはずのノーラへ威嚇射撃を行う。

 …はずであった、が。

 ガギィンッ! 構えた双銃を打ち上げる、重い衝撃。蒼治の両腕が無様な万歳をするように弾かれる。

 がら空きになってしまった胴体の所に潜り込んできたのは、ノーラだ。

 (接近戦だって!?)

 またも裏を掛かれて焦る蒼治に、ノーラは手にした十字の巨銃を片手で器用に回転させると。巨大なトンファーでも扱うかのように、蒼治の腹に銃身を叩き込む。

 内臓を突き抜けて、脊椎をへし折ろうかと云う衝撃! しかし蒼治は、今度は吹き飛ばない。

 「グ…ッ!」

 肺から逆流する空気を歯を食いしばって堪え、数歩吹き飛ばされただけで踏み留まる。

 蒼治とて、『星撒部』として幾多の実戦を経験した身。瞬時に身体(フィジカル)魔化(エンチャント)をして腹筋を硬化させ、耐えたのだ。

 (そうか…! 見落としてた…!)

 なおも接近して叩きつけてようと巨銃身を(ひるがえ)すノーラを見て、蒼治はある感想を抱く。

 (ノーラさんのあの"銃"は…"剣"なんだ!)

 ノーラが操る高等魔術定義変換(コンヴァージョン)は、2つの性質面がある。1つは、手にした剣に新たなる機能をいくらでも付与すること。もう1つは、あらゆる素材から剣を作り出すこと。ノーラが今駆使しているのは、前者の性質だ。

 そして、前者は機能を付与しても、"剣"という根幹的定義自体は変わらない。銃身が埋め込まれていようと、ノーラが扱うのは"剣"なのだ。

 そうしてよく見やれば、銃身が埋め込まれている刃の銀色は、刀身そのものだと云うことが分かる。

 遠距離も近距離もお手の物。そんな武器をノーラは作り出していたのだ。

 (だけど…その武器には、弱点があるッ!)

 蒼治は衝撃も抜けぬ身の上で、肉薄するノーラの方へと自らも飛び出してゆく。

 ノーラが、巨銃身を(ひるがえ)して蒼治の顔面を狙う。そこで蒼治は、ようやく持ち前の冷静な判断力を発揮する。

 突進の速度を殺さずに身を低くして一撃を頭上にやり過ごすと、更にノーラの懐へと飛び込んでゆく。

 (リーチが長すぎる故に、至近距離では扱い辛い!)

 ノーラに触れる程まで接近した蒼治は、ダンッ! と強烈な足踏みと共に立ち上がり、双銃の銃口をノーラの腹部へと向け…。

 「はぁっ!」

 ノーラの気合い一閃が鼓膜を震わせた、かと思った転瞬。ズンッ! と重く鋭い一撃が蒼治の鳩尾(みずおち)に突き刺さる。

 弾丸のように飛び出したノーラの膝が、蒼治の銅の急所を抉ったのだ。

 (な…っ)

 生理的反射に引かれるまま、よろめきながら半歩後退する、蒼治。そこへ更に、(あご)を直撃する堅い一撃がガツン! と叩きつけられる。

 ノーラが膝蹴りの姿勢から回し蹴りへと移行し、蒼治の顔面を蹴り飛ばしたのだ。身体(フィジカル)魔化(エンチャント)もしっかり掛けているらしく、顎骨が砕けそうな程の強烈な衝撃が頭蓋にまで突き抜ける。

 (こ…この戦い方…)

 派手に吹っ飛んだ蒼治は、クラクラした方向感覚を小さく首を振って立て直し、"宙地"を使って空中で姿勢制御。大地に降り立つ。

 運良くもノーラと正面を向く事ができたが、ノーラは早くも隙なく銃口を蒼治に向けて構えている。

 (この、出せるものは何でも出すような戦い方は…!)

 双銃を構えながら見据えるノーラに、蒼治はとある人物の姿を重ねる。

 

 "彼女"は、いつも自信満々な笑みを浮かべ、ハチミツ色の金色の髪を堂々とたなびかせ、澄み渡った蒼穹の瞳に不敵な笑みを浮かべている。

 "英雄の卵"が集まるユーテリアにおいて、"最強"と称される人物の一人に数えられる少女。それは、蒼治がよく見知る人物。

 『星撒部』副部長、立花渚。

 彼女と組み手をした時に似た感覚だ!

 

 (中途半端じゃ、やられる…!)

 蒼治はギリリと歯噛みすると。苛烈にも銃口から掃射を開始したノーラに向かい、自らも双銃を連射して対抗する。

 ――凄絶な組み手は、まだ開幕したばかりだ。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ordinary Story - Part 3

 蒼治とノーラによる組み手が行われている拡張空間の外側では。数が増えた観客(ギャラリー)の生徒達が、口々に感嘆の声を上げてざわめいている。

 「うっわ…流石は"暴走部"の連中…!

 やる事がえげつねぇ…!」

 「蒼治のヤツがスゲェのは知ってたけど…あの女の子、それどころじゃなくスゲェな! 蒼治のヤツを押してるじゃねーか!」

 「あれ、Q組のノーラさんだよね? "暴走部"に入部してたんだ…一番縁遠いと思ってたんだけど。でも、これ見ちゃうと、なんか納得しちゃう…」

 観客(ギャラリー)は肉眼で戦闘の様子を眺める者も入れば、拡大鏡の作用を起こす方術陣を使って中継する者もチラホラ居る。彼らは大事な国際試合でも見守るかのように、手に汗を握り締めて、瞬きすらも惜しみながら、2人の凄絶な対決を注視する。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 組み手の流れは、ノーラの優勢で進んでゆく。

 ノーラは蒼治に一息吐かせる間も与えない勢いで攻め続ける。互いの撃ち合いによってもうもうたる爆煙が上がる中、ノーラは蒼治に一気に接近。大剣を定義変換(コンヴァージョン)して2刀のビームブレードを作り出すと、至近距離で颶風のように蒼治に襲いかかる。

 (動きは速いし…攻撃が一々、厳しい!)

 蒼治はずっと歯噛みしっ放しの状態で、(まばゆ)い蛍光色を放つ荷電粒子の刀身をかわしながら、双銃の銃身と蹴りとでノーラに対抗する。だがノーラと来たら、ひたすら密着する程に距離を積めては、蹴りや銃身の打撃のヒットポイントがズレる事を良い事に衝撃を無視しして、肘や膝をガンガン叩き込んで来る。

 仕舞には、頭突きをまで繰り出す始末だ。肘や膝、斬撃にばかり気を取られていた蒼治は、まんまと鼻に額の直撃を食らうと、鼻血を吹き出しながらグラリと後方へとよろめき倒れ込む。

 (あんな()が…こんなアグレッシヴな攻めをするなんて…!)

 胸中で驚嘆する間にも、ノーラは脱力した蒼治の右腕を掴むと、そのまま背負って大地に投げ叩きつける。

 「ガハッ!」

 蒼治が肺の空気を苦鳴と共に吐き出す。と同時に、ノーラは踏み付けで蒼治の首を狙う。

 息を吸う間もなく慌てて転がって回避し、大事を免れたものの。背中に焼け付くような鋭い痛みがジリリと走る。ノーラのビームブレードが、背中を襲ったのだ。

 (殺す気じゃないのか!?)

 蒼治が冷たい汗をブワリと噴き出しながら何とか膝立ちになり、ノーラに反撃すべく双銃を構える。

 しかし、ノーラの方が一手速い! 手にしていた2刀のビームブレードがタイルをめくるような過程を経て定義変化(コンヴァージョン)し、長大な刀身を持つ大剣と化す。その間の時間、わずか1、2秒と言ったところだ。

 (以前より、ずっと速くなってる…!)

 蒼治は賞賛混じりの焦燥を覚えたところへ、ノーラは大剣を振り下ろして蒼治を頭から両断しようとする。すかさず横に飛び、なんとか斬撃をかわした蒼治は、双銃の引き金をようやく引いて反撃する。

 対するノーラはクルリと身を回しながら大剣を横薙ぎに(ひるがえ)し、バットでボールを打ち返すかのように術式製弾丸を一気にブッ叩いて破壊すると。その回転の勢いを殺さずに、蒼治へ追撃する。

 (それなら…!)

 蒼治は斬撃をギリギリまで引きつけ、絶妙のタイミングで跳ぶと。大剣を眼下にノーラへと接近しながら、双銃を連射する。

 ここでようやくノーラの顔にハッとした警戒の表情が浮かぶ。だがノーラの体には防御行動が染み着いてるのか、すかさず大剣の柄から片手を離し、防御様方術陣を素早く描いて小さな結界を作り、蒼治の弾丸を受け止める。

 その隙に蒼治は大剣の上に着地し、その上を走ってノーラに接近すると。彼女の顔面めがけて蹴りを放つ。

 (加減出来るような相手じゃない!

 そもそも、加減してたら、この組み手の意味はない!)

 蒼治は思い切りノーラのこめかみへと足先を叩き込むが。ノーラは顔を仰け反らせて、なんとかやり過ごす。

 それのみならず、ノーラは蒼治ごと大剣を持ち上げ、蒼治を空中へと吹き飛ばして体勢を崩すことを試みる。

 だが、ここでの蒼治は冷静だ。慌てず大剣に運ばれるまま持ち上げられ、絶好の角度を得ると。刀身を蹴ってノーラめがけて降下する…突き出した膝付きで。

 「あ…っ!」

 ノーラが初めて焦燥の声を上げる。大剣を素早く定義変換(コンヴァージョン)させて体積を畳みながら、後方に退()くものの…遅い。蒼治の膝は、ノーラの首元に(したた)かに激突する。

 「あぐ…っ!」

 気道を詰まらせると共に、グラリと後方へと倒れ掛かる、ノーラ。そこへ蒼治はトドメとばかりに銃口を額に向け、引き金に掛ける指に力を込める。

 「…!!」

 しかし、ノーラは降参しない。呼吸が回復する間も待たずにグンと体を起こすと。掌底で蒼治の銃を叩いて銃口を弾き、あらぬ方向へと術式製弾丸を射出させてやり過ごす。

 (まだ、そんな気力が!?)

 覚悟を決めたはずが驚嘆を隠せぬ、蒼治。その僅かな隙を逃さず、ノーラは額を突き出して蒼治の胸にぶつける。そのまま体を伸ばすようにして頭を突き上げ、蒼治の体を宙に跳ばすと。

 「せいっ!」

 気道の詰まりを払うような鋭い気合いと共に、手にした剣を蒼治に叩きつける。

 「くっ!」

 蒼治は双銃を交差させて剣の一撃を受け止める。だが、ノーラの重い斬撃に蒼治の体は弾かれた小石のように吹き飛んでゆく。

 それでも蒼治は今度はクルリと余裕を以て体勢を立て直して着地。同時にすかさず銃口を構える。

 案の定、ノーラは既に地を蹴り、蒼治へ向かって突進している。

 蒼治は容赦なく引き金を引き、セミオートで術式製弾丸を連射。ノーラの迎撃に出る――。

 

 こうして組み手の流れは、ようやく蒼治にも形勢が(なび)くようになったのだが。それでもノーラの方がまだまだ手数は多い。

 素早い定義変換(コンヴァージョン)の連続による、多種多様な斬撃。斬撃を回避されようとも絶妙なフォローが光る、蹴りや頭突きを始めとした肉弾攻撃。息つく間もないような苛烈な攻めの嵐は、観客(ギャラリー)の方にこそ呼吸を忘れさせるような激しさであった。

 だが、蒼治も年長の経験者としての意地を見せる。どんなに予想外の攻撃に(さら)されようと、驚愕することもあれども、時を追うごとに感情の切り替えが早くなる。一撃、二撃と浴びせられようとも耐えて(しの)ぎ、反撃の手数も増えてゆく。

 一進一退の攻防は永遠に続くかに見えたが…遂に、その均衡が破れる時がやってくる。

 その兆しは、勢いの良かったノーラの動きに現れる。連続攻撃の激流のようなテンポが、徐々に(かげ)りを見せてきたのだ。

 「せいっ!」

 「やぁっ!」

 「はぁっ!」

 以前よりも気合の声を上げる頻度が増える、ノーラ。その力強い声出しに反して、剣を振る腕が、宙を薙ぐ蹴りが、鈍さを見せてくる。

 (はた)から見ると、気合いの声は動かぬ自身の体に鞭を入れているようだ。

 そして実際…ノーラの体力は限界を迎えようとしている。

 身体(フィジカル)魔化(エンチャント)による体力強化は既に施している。だが、魔術とて万能ではない。無尽蔵のエネルギーを作り出すことは出来ないのだ。

 激しい行動を絶え間なく連続すれば、それだけ体力の消耗は激しい。故に、ノーラは短期決戦を目指して苛烈な攻撃を続けていたのだが…(ことごと)(しの)がれてしまっている。

 蒼治とて、連続で行動している事には変わらない。しかし、彼には『星撒部』で過酷な任務を果たし続けて来た一日の長がある。体力はノーラよりも優れている。

 故に、攻め続けていた方のノーラが、今度は時間と言う過重によって喘ぐ番になってしまう。

 

 (好機!)

 蒼治は年下の少女が相手であるという構図をすっかりと意識の外に出し、どん欲に勝利へと手を伸ばす。

 剣の振りが荒く乱れてきたノーラの隙を的確に突き、ある時は射撃で、ある時は至近距離での格闘を織り交ぜ、ノーラの体力に更に着実に削り取ってゆく。

 ノーラの褐色の肌には玉の汗が浮かび、精悍だった面立ちは重い披露に歪む。

 そして遂に、ノーラは不用意で大振りな、鈍い一撃を放ってしまう。

 この時、ノーラが手にしていたのは大剣だ。その重量とモーメントに自らが振り回されてしまい、足がグラリとよろめいてしまった。

 そこへ蒼治がすかさず距離を詰めると。まず、ノーラの足を踵で踏み抜く。

 「っ!」

 ノーラは苦痛で露骨に顔を歪める。が、彼女は降参などしない。邪魔になった大剣から手を離すと、拳で(もっ)て蒼治の顔面を迎撃に向かう。

 しかし、蒼治は左に手にした方の銃身でノーラの肘を叩き、勢いを殺ぐ。

 そして、ガラ空きになったノーラの腹に右の銃口を接触させると。強力に魔力を集積させた術式製弾丸をブッ放す。

 (ドン)ッ! 大気の激震と共に、ビクンとノーラの身体が痙攣する。それは、神経に作用する麻痺術式が発動して、筋肉が一気に弛緩した証である。

 苦痛に負けじとしかめていたノーラの顔から力が抜け、眠たげな表情が作られる。それを確認した蒼治が踏みつけていた足を放すと、ノーラの身体は完全に支えを失ってフラフラと尻餅を付き、そして完全に四肢を投げて倒れる。

 「…あぁう…」

 舌の筋肉も弛緩しているのか、ノーラが呂律の回らない言葉を出す。それは、ようやく彼女が掲げた白旗である。

 蒼治は、はぁー…と長く深く息を吐くと。ゴクリと固唾を飲み込んでから、今度は穏やかにホッと一息吐く。

 

 組み手が、蒼治の勝利で幕を閉じた瞬間であった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 蒼治が空間拡張の方術陣を解くと。薄い青白の境界がフェードアウトするに連れて、中の2人の姿がグングンと大きくなってゆく。実際には彼らの体積は変わっておらず、縮尺が戻っているだけだ。

 こうして元の見かけ上のサイズに戻った2人は…周りを囲む観客(ギャラリー)達からの歓声と拍手で迎えられる。

 「流石は"暴走部"ね! 組み手と言え、見応えが十分過ぎるわ!」

 「マジに殺し合いしてんじゃねーかと思って、ハラハラしちまったぜ!」

 「その1年生の()、凄いねー! 前半、完全に蒼治を押してたじゃん!」

 蒼治は恥ずかしさに苦笑いを浮かべながら、寝転んだままのノーラに対してしゃがみ込むと。小さな治療用方術陣を使い、彼女の神経の麻痺を取り除いてやる。

 すぐにムクリと起きあがったノーラは、手放した大剣を手にして定義変換(コンヴァージョン)を解き、元の黄金の大剣に戻して背負うと。残念そうに溜め息を吐く。

 「負けちゃいました…ね」

 すると蒼治は、ハハハ、と小さく声を上げて笑う。

 「一応、先輩だからね。入部して日も浅い下級生に、楽々にやりこめられちゃったら、僕が凹んだまま立ち直れなくなるよ」

 と言った直後、蒼治は汗にまみれた頭をポリポリと掻きながら、恥ずかしそうに語る。

 「でも、僕も今回の勝利は誇れるものじゃないなぁ。

 何とか勝ちは拾えたけど、最初の内は完全に君のペースに飲まれてたからね。

 甘さを取り除くための今回の組み手だったのに、ダメダメだったよ」

 すると、蒼治の言葉によって(せき)を外されたように、観客(ギャラリー)がこぞって蒼治にダメ出しを始める。

 「そうそう! あの態度は無いでしょ!

 幾ら"暴走部"で経験積んでるからって、敵を侮るのは最低でしょ!」

 「下級生ちゃんに失礼だったぜ!

 オレは、あのまま下級生ちゃんがオマエの事をボッコボコしてくりゃ良いのに、って拳握っちまったよ!」

 「蒼治って、戦闘訓練系の授業に出ると、絶対に男子としか組まないから、ソッチの気があるのかなーって思ってたんだよねー。

 でも、ソッチの気は無いって分かったけど、女子としては余計に腹立つわねー、見下されてるみたいで!」

 蒼治は、ナハハ…、と力なく笑うことしか出来ない。

 そんな最中、観客(ギャラリー)の誰かがふと、こんな事をノーラに尋ねる。

 「さっきの戦い方、"暴走厨二"の渚に似てたようだけどさ。ひょっとして、あいつに戦い方を教わったりした?」

 その点については、蒼治も興味がある。アルカインテールで共闘した時とは全く違う、素早い決断力と大胆な行動力。まだまだ改善の余地はあるものの、学園内でも"最強"と評価される一角である立花渚を想起させるに十分な立ち振る舞いであった。

 だから蒼治も、「そうなの…?」と尋ねてみると。ノーラは、コクリ、とゆっくり(うなず)く。

 うおっ! とざわめく観客(ギャラリー)の面々。それを賞賛されたと捉えたノーラは、恥ずかしげに顔を真っ赤にして(うつむ)きながら、ポツポツと事情を語る。

 「先日のアルカインテールの件で…私、凄く危機感を感じたんです…。

 追い込まれてしまうと、すぐに諦めちゃって、自力では立ち直れなくなってしまうし…。『バベル』を相手にした時も、結果としてはなんとか勝てましたけど…賭けみたいな方法でしたから…。

 もっともっと、うまく立ち回りたいと思って…時間を作ってもらって、何度か組み手の相手をしてもらっていました…」

 "組み手"の言葉を聞いて、「マジかよ!?」との驚嘆の声が方々から聞こえる。渚が学園内で有名なのは、その目立つ言動だけでなく、確かな実力も注目されているからだ。

 「なるほどね…通りで、一皮どころか、十皮くらい剥けていたワケだよ」

 蒼治は呆れ半分、賞賛半分に苦笑する。

 「それで、どうだった? 渚とやってみて?

 一本くらい、取れたかい?」

 蒼治の質問の答えを、観客(ギャラリー)も耳を澄まして待ち望む。するとノーラは、バツが悪そうな微笑みを浮かべる。

 「一応…4、5本くらい…ただ、わざと取らせてくれたようなものでしたけど…。

 はっきり言って、全然歯が立ちませんでした…」

 その言葉に、観客(ギャラリー)は「あー…」と残念そうながらも"仕方ないよな"と云う風に声を上げ、蒼治も「なるほどね」と呟くに留まる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ノーラは、渚との組み手の事を思い出す…。

 「アルカインテールの時のような、情けない自分には二度となりたくないんです!

 もっと自信を付けて、確かな実力で障害を乗り越えたいんです!

 練習に…組み手に、付き合っていただけませんか!?」

 授業の合間、偶々訪れた仮部室で出会った、机の上に寝ころんでマンガ本を読んでいた渚。他に部員の姿は無かったので、思い切って言ってみたのがきっかけだ。

 渚はニンマリと笑って起き上がると。

 「わしは別に構わぬが、潰れるなよ?」

 と前置きし、ノーラを区画の分かれた屋内演習場へと連れて行った。

 そこで組み手を始めたワケだが…。

 「いつでも掛かって来んか」

 と余裕な台詞を語り、身構えもせず、徒手空拳で突っ立っているだけの渚に、ノーラはやや気(おく)れしながら立ち向かい始めたのだが…。

 どんなに剣技を駆使しようと、体術を織り交ぜてみようとも、魔術を使おうとも、定義変換(コンヴァージョン)すら用いようとも――渚に傷一つ負わせる事も出来なかった。

 ノーラの一挙手一投足は(ことごと)く回避されるか受け止められしまった。逆に渚の一挙手一投足ときたら、烈風もかくやと云う程の速度と衝撃で嵐のようにノーラを襲い、ノーラはあっと言う間に()されてしまった。

 早くも20を数える程の挑戦をしたが、投げ飛ばされて腕の関節を極められてしまい、沸き上がる苦鳴を必死でかみ殺していた頃。渚は涼しげな顔でポツリとこう漏らす。

 「おぬしの動きは悪くない。体術も戦術も魔術もキチンと基礎を踏まえておるし、応用も利く。

 そんなおぬしに足りないのは、まずは経験じゃが、これは仕方がない事じゃからパスするとして。

 もう一つ、おぬしには"意地の悪さ"が足りぬ」

 そう語り、関節技を解いてノーラに手を差し伸べて立たせた。

 「…意地の悪さ…ですか?」

 汗(あせ)れで荒く息を吐きながら尋ねるノーラに、渚は首を縦に振った。

 「おぬしの生真面目な思考風に言い直せば、"型破り"と言うところかのう? ちょっとニュアンスが違う気もするが、まぁ、気にせんでいいだろう。

 おぬしの戦い方は、あまりに真っ直ぐ過ぎるのじゃ。基本に忠実、セオリー通り、作法に則った綺麗な戦い方じゃ。

 それ自体が悪いと言うワケはないのじゃが…綺麗、悪く言えば"バカ正直"と云うものは損をする事もあるのじゃよ」

 「損…ですか?」

 人生の多くの時間を真面目一辺倒の姿勢で過ごして来たノーラは、胸にチクリと痛みを覚えながら聞き直した。

 "真面目にコツコツと努力を続ければ、必ずや成果は伴う"と云うスローガンの元で身を粉にしてきた日々が一気に否定された気がして、嫌な感じがしたのだ。

 渚もそれを感じ取っていたらしく、バツが悪そうにしながら、例を挙げた。

 「例えば、柔道と云うスポーツについて語ってみようかのう。柔道って、分かるよな?(ノーラは首を縦に振った)。

 あの競技において美学とされるのは、しっかりと組み合って技をぶつけることじゃ。その美学に則って、技を磨き続けた選手が居るとする。

 しかしながら、実際の大会においては、美学に則る選手は少ない。美学に則って練習に打ち込んだ姿勢は、間違いなく実力に繋がっては居る。しかし、実際の勝敗を分けるのは美学云々ではない。如何にポイントを稼ぐか、じゃ。

 だから、組み合いなど眼中にせず、如何に相手の腕から逃げて自分の攻撃のみを当てるようにするか。ポイントを稼いだ後は、減点にならない範囲で如何に逃げ回るか。そんな"意地の悪い"技術に打ち込んで秀でる者も出る。

 そして実際に、そんな"意地の悪い"選手が美学を尊ぶ選手を打ち負かすことも往々にして在るのじゃよ」

 「そう言う真似をしろと…私に言うんですか?

 そんな気分の悪くなるような技術を体得しろと…?」

 真面目なノーラは露骨に不快感を顔に出して、渚に言葉で噛みついた。渚はノーラの生真面目さを苦々しく鼻で笑いながら、続きを語る。

 「別に、そんな技術一辺倒に転向せよ、と言いたいワケではない。

 ただ、正道だけでなく、もっと広く視野を持って、時には脇道も使え、ということじゃ。

 スポーツですら、ルール違反にさえならなければ、美学なんぞかなぐり捨てて勝ちに走れるのじゃ。

 ましてや、ルールなぞない戦争状況下ならば、なおのこと、使えるものは何でも使って勝ちに走るべきじゃ。

 綺麗でなくても構わぬ、泥臭くて問題ない。要は勝ちさえ拾えれば、誰が文句を言おうと結果はひっくり返らぬ」

 「何でも使う…ですか」

 渚は首を縦に振る。

 「正面からやっても勝てぬと分かっている相手に、敢えて正面から挑んでも、やはり敵わなかったと言う無駄な証明にしかならぬ。

 それよりも、打開するためのあらゆる努力を考え、実戦してみる方が効果的じゃ。

 小石を拾って投げてみるでも良い。砂埃で目潰ししてみるでも良い。些細な事で、案外道が開けるやも知れんからのう」

 「…そう云うのって、とても気が引けるんですが…。その…卑怯な感じがして…カッコ悪いです…」

 渚はやれやれ、と云った感じで笑った。

 「ホントに生真面目で、頭が固いのう、おぬしは。

 "卑怯"などと云う言葉を使うから悪いのじゃ。"戦術"と云う言葉に置き換えてみよ。途端にカッコ良く思えるじゃろ?」

 「戦術…ですか?」

 どうしても抵抗感が拭い切れないノーラが聞き返せば、渚は相変わらず苦笑を浮かべたまま言い聞かせた。

 「戦術なんぞ、突き詰めて考えれば卑怯の塊じゃぞ?

 待ち伏せや夜襲といった奇襲作戦なんぞ、正面から張り合う度胸がないからと編み出されておる。

 もっと突き詰めれば、武器の技術とは、素手で張り合っては分が悪いからと道具を使うことにした、ということになる。

 どれもこれも、見方次第じゃよ。カッコ良く、都合の良い方に捉えれば良いのじゃ。

 それを使わず非難するようなバカには、"おぬしも使えば良かろう"と指差しして叫んでやれば良いのじゃ」

 この渚の説明には、なるほど、と納得できた。かと言って、完全に抵抗感が拭い取れたワケではなかったが。

 そんなノーラの胸中を察したのか、渚はコホンと咳払いを挟み、そして提案した。

 「では、ちょいと体験してみれば良いじゃろう。

 1本、組み合おうか。

 わしは脚しか使わぬ。おぬしは全力で掛かってくれば良い」

 「…分かりました…」

 この時のノーラは、渚相手に遠慮など一片も感じなかった。むしろ、そんな子供(だま)しの卑怯に引っかかってたまるか、と言う意気込みが胸中を満たしていた。

 だから、彼女はそれまで以上の気合いを入れて踏み込み、大剣を振るって渚に立ち向かったが。渚が蹴りと同時に足下にあった小石を飛ばし、眉間を狙って来たところを反射的に腕で庇うと。一瞬の視界の掩蔽(えんぺい)の間を付き、渚はまんまとノーラの側部に回り込むと、後頭部めがけて回し蹴りを見舞った。

 吹っ飛んだノーラは、しばらく何が起きたか理解出来ずに倒れたままであったが。小石から続くあまりにも見事な連携だけは理解し、渚の言葉に抱いていた嫌悪感が畏敬の念に変わった。

 そうだ! これなら立派な戦術だ!

 転瞬、ノーラの生真面目と云うより貪欲な向上心が鎌首をもたげて来た。彼女は跳ねるように立ち上がると、興奮を滲ませる真顔で渚を真っ直ぐ見つめると。

 「…教えてください!

 私に足りない、その"意地の悪さ"…!

 いえ、戦術を…!」

 それからノーラと快諾した渚は、何本も手合わせをした。途中、渚は「ちょい待ち!」と声を上げて停止の号令を掛けては、「ここじゃが、こうするとな…」と彼女の云う"戦術"を講釈した。

 そして、この日の最後の組み手において、渚はノーラに対して総仕上げ的な攻撃を行い…それが仕組まれた内容とは云え、ノーラは確かに一本を取った。

 「うむ!

 流石はわしが見込んだ者じゃな! 吸収が速くて、感心じゃわい!」

 地に倒れた渚は、ムクリと何事も無かったかのように立ち上がり、ポンポンと身体に着いた土埃を叩きながら満足げに話した。

 そして、ふと、「ああ、そうじゃ」と人差し指をピンと立てて、ノーラに指摘した。

 「もう一つ、おぬしには足りぬと云うか…むしろ、過ぎるが為に足枷になっておるものがある。

 それは、分析じゃ」

 「分析…ですか?」

 「うむ。

 おぬし、戦う際に相手の性質を十分に探ってから、本格的に戦法を組み立てるようじゃのう。

 それ自体は悪いことではないのじゃが、それが為に攻め手が遅くなっておる。これでは一気に攻め込まれた時に、勝ち目が摘み取られてしまうぞい。

 1から100まで把握してからではなく、ある程度仮説を立てる事。そして勿論、分析の技術を高めて加速させる事。

 その鍛錬も行った方が良いぞ」

 これにはノーラは、(もっと)もだ、と異論なく首を縦に振った。

 アオイデュアでもアルカインテールでも、戦闘が始まって間もなくは防戦一方になってしまう場面があった。どうにか(さば)き切れたから良かったものの、そうでなければ命を落としたかも知れない…とは反省していた。

 先の"戦術"と云い、今の分析と云い、どちらももっと高めたいと云う意識から、ノーラはピシリと背筋を伸ばした上で渚に頭を下げて頼み込んだ。

 「渚先輩! 時間が有りましたら、是非、また鍛錬のお付き合い願えますか!?」

 今度浮かべた渚の笑みには、苦々しいものは全く無かった。そして、小振りながら形の良い胸を張ってドンと拳で叩き、ウインクして快諾した。

 「勿論じゃとも!

 先輩とは、後輩にモノを教えてナンボじゃしな!

 それに、人にモノを教えることは、何よりの訓練でもあるからのう! 断る道理はないぞい!」

 

 ――それからノーラは、ナビットで渚と連絡を取っては、毎日ちょくちょくと訓練に付き合ってもらっていたのだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「しかし、やっぱり渚が指導しただけの事はあるね」

 蒼治のその一言で、ノーラの思考は回想から現実に引き戻される。

 「渚は面倒見も良いし、教えるのが旨いからね。だからこそ、副部長の座に留まっていても文句を言われないんだ。

 あれで、メチャクチャな言動さえなければ、良い先輩なんだけどね…」

 蒼治は言葉尻で苦笑する。

 ノーラは…"メチャクチャな言動さえなければ"と云う言葉も、申し訳ないながらも含めて…完全に同意する。確かに、組み手の際の渚の指導は、並の教官などより余程分かりやすかった。

 「それじゃあ…部長のバウアー先輩は、もっと指導力が高いんでしょうか…?」

 ノーラの疑問符に、蒼治は即座にパタパタと手を左右に振って否定する。

 「いやいや! アイツにモノを教わっちゃ駄目だ!

 アイツは本能で理解するようなタイプだから、渚みたいに上手く言葉で表現するのは苦手なんだ。

 組み手なんてした日には、一方的に叩きのめされ続けるだけだよ。

 だから、ウチの部でもアイツと組み手をしたがるのは、バカのロイとお気楽家のナミトだけさ」

 「…それなら…失礼ですけど…渚先輩が部長になれば良かったんじゃあ…?」

 この疑問符についても、蒼治は手を左右にパタパタ振る。

 「渚は指導力は在っても、根っこはハチャメチャだからね。責任能力に致命的に欠けてるんだ。

 ホラ、アオイデュアの時の折り紙だって、自分で言っておいて達成できなかったろう? そういう残念なヤツなんだよ。

 比べて、バウアーは責任能力はだけはキッチリしてる。約束は頑として守るし、この学園()に居なくとも、いつでも部の事は把握してバランスを考えてる。

 やっぱり、上に立つ器があるのはバウアーなんだ。

 まぁ、一長一短ってヤツだよ」

 「なるほど…」

 ノーラとの話が一段落したところで。蒼治はパン、とワザと大きな音を立てて手を叩き、観客(ギャラリー)の注目を集める。

 「さて、僕らの組み手を楽しんで観戦してくれた皆。

 良かったら、感想を…もとい、評価をくれないかな? 厳しい意見も大歓迎さ!

 日頃、星撒部へ溜めてる鬱憤を晴らせる機会だよ!」

 そう語れば、観客(ギャラリー)達は真剣な顔をして隣の学友と意見をまとめ始める。彼らは星撒部への鬱憤をぶつけようとしているよりも、純粋な向上心で(もっ)て蒼治の与えた課題に取り組もうとしているようだ。

 数分の後、彼らの意見がまとまり始め、意見を語る為に息を整える気配が所々で生じ始めた…その時。

 突如、鋭い声が空間を切り裂くようにして割り込む。

 「練りが足りん。圧倒的に、だ」

 まるで雷鳴のような轟々たる力強さを持ったその声に、場の雰囲気は怯懦に支配されたように静まり返る。

 緊張の静寂の中、観客(ギャラリー)を無造作に掻き分けながら、声の主が姿を表し、蒼治の目前までやってくる。

 "彼"を目にした蒼治は、一瞬苦笑いを浮かべた後、眼鏡をクイッと直して真顔になった。

 「レビド・ジェノン…か」

 蒼治が声の主の名を呼んでも、彼――レビドは、頬をピクリとも動かさず、蒼治を凄みを(たた)えた沈黙で(もっ)て睨みつける。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ordinary Story - Part 4

 レビド・ジェノンと呼ばれた青年。その一番の身体的特徴は、耳の後ろの辺りから後頭部に掛けて生えた、見事な牡山羊の如き角である。

 この角は哺乳類に見られるような単なる硬化した皮膚とは異なる。ナミトの尻尾のようにある種のエネルギーを発生・蓄積する器官らしい。その証拠に、バチバチと小さな電火が灯っている。

 レビドの体格は、この見事な角と実に見合った立派なものだ。身長は星撒部内で最も高い蒼治よりも拳2つ分は多い。加えて、肉体は制服がミチミチに張り詰めて見えるほどの筋骨隆々としているが、決して無駄な肥大化を起こしてはいない。"大きくてコンパクト"という、一見矛盾した表現がしっくりくるような姿である。

 彼は汗で塗れた短い漆黒の髪の下、灰青色の瞳に蒼治を映すと。深い褐色の皮膚に溶け込むような赤みの薄い唇を割って、声音も内容も鋭利な評価を叩きつける。

 「貴様は相変わらず、戦士として心構えが致命的に欠けている。

 戦場では、幼子が爆弾を運んでくることもある。女子供だからとての情けや安堵は、命取りだ。

 精神の練りが甘過ぎるから、そんな惰弱になるのだ」

 「相も変わらず厳しいね、君は」

 蒼治は苦笑いを浮かべながら、頬をポリポリと掻いてみせる。

 「でも、全くのその通りだから、言い返せないな。

 つい先日、それで痛い目を見たのに懲りてないのは相当マズいって、自覚したからね。キッチリ修正するよ」

 するとレビドは、フン、と鼻で笑う。

 「幾度か同じ言葉を聞いた覚えがあるがな。

 貴様等のような滅茶苦茶なやり方で、果たしてどこまで修正なぞ利くものかな」

 レビドの台詞は終始、挑発的で傲慢だ。ノーラはムッと来たのだが…周囲を見て、ふと疑問符を浮かべる。

 蒼治こそ苦笑いしてはいるが、その他の者達――観客(ギャラリー)だった学生達――は、猛獣の檻に放り込まれた子供のように、ガチガチに緊張して息を殺しているのだ。

 (この人…何なんだろう…?)

 そう胸中で呟いた矢先。レビドは灰青色の視線をギロリとノーラに向けて、厳しい声音をぶつける。

 「貴様もだ、下級生、練りが足りな過ぎる」

 「は、はあ…」

 ノーラがやや呆気に取られてぼんやりと返事をするが、レビドは気にせず、傲慢な態度を崩さずに評価を口にする。

 「あれだけ攻めておいて、決定打に欠ける。挙げ句の果てに、スタミナが切れるなど、無様にも程がある。

 試合ですらない、子供の喧嘩のつもりか」

 「こ…!」

 "子供の喧嘩"と言い捨てるのは、あまりにも失礼ではないか。そう抗議しようと声を挟むものの、レビドは塗り潰して言葉を続ける。

 「貴様に足りんのは、一撃の重さと持久力だ。それらが不足しているという事は、基礎が甘い証拠だ。

 こんな(たわむ)れに(うつつ)を抜かす暇があるなら、筋肉強化を行うべきだ」

 「で、でもよ、レビド…」

 生徒の内の1人が、おずおずと挙手しながら抗議する。

 「その()は、1年生なんだ。俺たち2年とは、経験が違うんだし…同じレベルで物を語るのは、」

 「阿呆」

 言葉が終わるより早く、レビドは灰青色の瞳を刃のように細めて生徒を睨み、重苦しい非難の声を飛ばす。

 「戦場は、年の上下も経験の多寡も(おもんぱか)ってはくれんぞ。学園(ここ)に身を置く者として、当然の見地のはずだ。

 貴様のような阿呆は、初戦で慙死(ざんし)するのが落ちだ」

 そんな言われ方をした生徒はムカッと毛を逆立てたが。レビドが目を見開き、角と瞳を青白く輝かせながら大きな電火はバチンと弾かせると。生徒はビクッと身体を(すく)ませ、大人しくなる。

 「腰抜けが」

 鼻で笑いながら輝きを抑えたレビドは、ノーラに向き直ると。引き締まった腕を組み、威風堂々たる態度を取って、説教じみた言葉を語る。

 「星撒部なぞ、所詮は児戯(じぎ)だ。戦場に身を置きながら、そこの青瓢箪(蒼治の事を指差した)のような甘い阿呆を無駄にのさばらせている、張り子の(むくろ)だ。

 そんな悪地では、出る芽も根腐れるばかりだ。時間の無駄であること、極まりない」

 そこまで言ったレビドは、フッ、と高慢に一笑すると、少し態度を和らげてノーラに続けて語る。

 「貴様は未熟極まりない。鍛錬が圧倒的に足りん。

 だが、光る原石ではある。

 貴様のその才、オレが伸ばしてやる。だから、オレの元へ――"殲術(せんじゅつ)部"の元へ来い。

 星撒なんぞの甘く腐った時間より、千倍もの有意義な時間と、確かな実力をくれてやる。

 貴様の才ならば、あのロイ・ファーブニルをも凌駕する実力を手に入れられることだろう!」

 この台詞を耳にしたノーラは、滑稽さを感じずにはいられず、妙な笑みが浮かんでしまう。

 (なんなんだろう、この人…偉そうだたり、誉めてくれたり…。

 って言うか…いきなりヘッドハンティングし始めてる…)

 ノーラがどう対応すべきか――主に、波風立たせずにお断りする事について――考えあぐねていると。蒼治が、プハハ、と屈託なく笑って助け船を出す。

 「忌憚のない評価をくれた事には感謝するけどね、レビド。脈絡もない青田買いは、感心しないね。

 ほら、ノーラさん、困ってるじゃないか。

 それに、部の先輩である僕の目があるって云うのに、事を起こすなんてね。何をそんなに焦ってるんだい?

 …ひょっとして…」

 蒼治はスッと目を細めると、部内ではあまり見せない、意地悪な表情を作ってレビドを(つつ)く。

 「まだ根に持ってるのかい、あの事?

 だとするなら、お門違いも(はなは)だしいね。

 そもそも彼は、自分からウチの部の門を叩いたワケだし…」

 「別にッ!」

 レビドが語気を強めて否定する。

 「"根に持つ"などのような、狭量にしがみついているワケではないッ!

 オレは純粋に、才ある者の芽が貴様等に毒されて腐れるのを嘆いているだけだッ!」

 否定はするものの、ムキになったその語気を鑑みると、どうしても図星のようにしか思えない。

 そのやり取りに、蒼治だけでなく、観客達の顔にも思わず苦笑いが浮かぶ。

 バカにされている気配を感じ取ったレビドは、流石に暴れるような幼稚な真似はしなかったが。

 「ところで、だッ!」

 と鋭く、強く言い放って話題を変える。蒼治との舌戦には、白旗こそ振らぬものの、"戦術的撤退"と言い張るような潔さのない敗走を喫したようだ。

 レビドは灰青色の瞳でギロリギロリと周囲を見回してから、苛立ちを露わにする口調で()く。

 「渚は!? バウアーはどうした!?

 姿が見えぬが、また怠惰な空虚を貪っているのか!?

 折角の機会だ、一戦交えて我が"殲術部"の優位を知らしめんと思うたのだが…!」

 蒼治は眼鏡をクイッと直しながら答える。

 「残念、どっちも仕事に勤しんでるよ。

 渚はプロジェスって都市国家に、奇病問題の解決のために出張中。バウアーは、ここ1ヶ月は別宇宙の方の仕事で手一杯で、僕たちも通信くらいでしか顔を見てないよ」

 部内では慎重派で通っている蒼治だが、このレビドの相手は得意なのか、始終挑発的な態度が目立つ。

 レビドは岩のような両拳をガツンと打ち合わせ、派手に電火を散らせながら、牙を剥き出しにして唸る。

 「チィッ…!

 肝心な時に姿がないとはな…!

 オレの存在を感知して、逃げ回っているのではなかろうな…!」

 「いやいや、逆じゃないのか?」

 「…何?」

 蒼治が濃紺の髪を揺らして首を振ると、レビドを指差してズバリと指摘する。

 「君の方が、渚やバウアーの居ないタイミングを計って、体裁ばかりの喧嘩を売ってるんじゃないのか?」

 ――瞬間。レビドのこめかみにビキビキと血管が浮き上がったかと思うと。

 (バン)ッ! 大気を割るような音と共に、屋内演習場の床が揺れる。

 同時に、(ゴウ)ッ! と爆音が響き、爆発的な烈風が発生する。

 「うおっ!」「ひっ!」「やべぇっ!」と言った悲鳴を上げて、烈風に転ばされないよう足を踏ん張る、観客達。

 一方で、レビドの姿は消えている――いや、微かに視認出来るが、余りに速くて見え難いのだ! レビドは角と瞳から放つ電光の尾を引きながら、黒い烈風となって蒼治に肉薄する。

 「侮るなァッ!」

 怒号と共に、レビドの電火を纏った拳が蒼治の顔面めがけて急接近する。

 これには流石に蒼治も笑みを消すと。絶妙の反射速度で双銃を取り出し、顔面手前で交差させてレビドの拳を阻む。

 (ガン)ッ! 堅い衝撃音が響き渡り、蒼治の防御は見事に成功したかに見えた。が、レビドの拳撃のインパクトから生じた黒い(いかずち)が銃身内を潜行。そのまま蒼治の顔に向かって飛び出す。

 「!!」

 蒼治が目を見開き、首を動かして回避しようとするものの…間に合わない! そのまま蒼治の顔は、黒い(いかずち)穿(うが)たれて焼き尽くされる…かに見えた。

 そこへ、横から援助に割って入ったのは、ノーラの大剣の刀身である。

 ガキィンッ! 鼓膜をつんざく破裂音が響き渡り、黒い(いかずち)は細かな電火となって大気中に散らされる。蒼治の顔面は、刀身に守られて無事だ。

 「…いきなり暴力に訴えるのが…先輩のやり方なんですか…?」

 ノーラが目を怒らせてレビドを睨みつける。

 レビドは蒼治の無事とノーラの行動に対し、不愉快げに「チィッ!」と舌打ちをすると。謝罪の言葉もなく、勢いよく(きびす)を返す。

 そして、観客の一画に視線を投げると、ゾロリと歯を剥き出しにして、怒号を上げる。

 「何時まで星撒のバカどもに目を遣ってる!

 早く鍛錬に戻れッ!」

 どうやら、観客の中にレビドの同輩か後輩らしき"殲術部"の部員が紛れていたらしい。彼らはビクッと床を動かすほどに身を震わせると、「はいッ!」と叱られた軍人のように大声で返事し、いそいそと人混みの中から抜け出してゆく。

 レビドは全身から怒気を放ったまま、のっしのっしと大股で観客の中を掻き分けて進む。いや…観客の方でレビドを恐れ、海が割れるような有様で道を開けている。

 レビドの姿が遠く小さくなるまで、観客も蒼治もノーラも、誰1人声を上げずに静寂を貫いていた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 レビドの去った後、蒼治がコホンと咳払いを挟み、改めて組み手の感想を観客達に伺ったのだが。彼らはレビドの迫力にすっかり気圧されてしまい、言葉を濁しながらポツポツとその場を離れて行ってしまった。

 蒼治はやれやれと肩を(すく)めると、ノーラを見やって言葉をかける。

 「仕方ないね。仮部室の方に戻ろうか」

 ノーラは承諾するほかなく、2人はトボトボと校舎へと歩き出す。

 道中、ノーラはレビドについて尋ねる。

 「あの…レビドって人、何なんですか…?

 凄く態度が悪くて…正直、不愉快なんですけど…」

 蒼治はちょっとビックリして目を小さくする。

 「あれ、知らないのかい?

 "殲術部"の部長、レビド・ジェノン。通称、"虚雷"。学園最強候補として名が上がっている1人だよ。ちなみに、僕達と同じく2年生だ」

 「あんな人が…学園最強の候補として評価されているんですか…?」

 ノーラが眉をしかめると、蒼治は肩を(すく)めて語る。

 「"学園最強"の基準は、戦闘技術を尺度にしてるからね。人格や精神は加味されないよ。

 その基準で言えば、レビドは確かに怪物並に強いからね。間違った評価じゃないよ」

 「でも…蒼治先輩は、あまり怖がってませんでしたよね…?

 むしろ…慎重な先輩らしからぬ、挑発的な物言いをしていましたよね…?」

 蒼治は、ナハハ、と愉快と恥ずかしさの狭間で笑う。

 「レビドは、ああ言う性格だからさ、人には好かれないんだよ。かく言う僕も、あまり好きじゃないよ。

 でも、彼の強さを恐れて、面と向かって抗議する生徒が少ないからね。せめて僕ぐらいは、皆の声を代表しようと思ってね。

 それに…からかうと直ぐムキになるから、面白いんだ。彼には、渚みたいなクセモノっ気が全然なくて、真っ直ぐなばっかりだからね」

 「…そうなんですか…。

 それにしても、なんでレビド先輩は、星撒部の事を目の敵にしてるんですか…?

 先ほど、"あの事"って言ってましたけど…因縁とか、あるんですか?」

 「ああー…因縁というかな…アイツの一方的な逆恨みなんだけどさ」

 蒼治は頬を掻きながら言葉を続ける。

 「あいつ、自分の部に見所のある生徒を集めまくっていたんだよ。

 声をかけられた生徒の大半は、レビドの気迫に気圧されたり、中には彼の方向性に同意する者もいてね。みんな入部して行ったんだけどね…。

 ロイとナミトにも目を付けていて、スカウトしたんだけどさ。彼らは星撒部に入っちゃったからね。その事が面白くなくて、今でも恨んでるってワケさ…」

 「物凄く…器が小さい人なんですね…」

 ノーラが不愉快げに目を細めて言い捨てると、蒼治は、ハハハ、と笑って同意する。

 「全くだよね。

 どれだけ筋力や魔力が強くとも、それだけで世界を思い通りには出来ない…その現実を、レビドは知るべきだよね」

 レビドの話がここで一区切り付くと。ノーラが以前から胸の内に抱えていた疑問を口に出す。

 「そういえば…私たちの星撒部って、3年生が居ませんよね…? それ、どうしてなのかなって…不思議だったんです…。

 もしかして…2年生が立ち上げた部活だから、上級生を平部員として扱うのを敬遠したんですか…?」

 「いや。バウアーも渚も、そういう所に頓着するような器量の狭い人間じゃないよ。

 問題は、3年生の方にあるね」

 「2年生の下に付くのは、嫌だ…って云う矜持でもあるんでしょうか…?」

 蒼治はあっさりと首を縦に振る。

 「この学園はどんな生徒でも受け入れる器量の広さがあるけど、結局集まってくるのは、世界や地方において神童だの天才だのと持て(はや)された人が多いからね。プライドは並々ならぬところがあるよ。

 加えて、ウチのバウアーも渚も、大抵の3年生じゃ敵わない実力の持ち主だからね。何もかもにおいて優れてる若輩の下には、付きたくないんだろうね。

 でも、今のユーテリアには、最上級性が2年生だって云う部活は結構あるよ。さっきのレビドの殲術部もそうだけどね」

 そこまで聞いてノーラは、そういえば、と首を傾げる。"学年最強"の候補は2年生が多くを占めており、3年生の名前は殆ど出てこない。

 「あの…今のユーテリアの3年生って…実力はあまり高くない方なんでしょうか?」

 ()かれたと蒼治は、うーん、と唸る。

 「全体を()べて見れば、そうでもないと思うよ。ただ、突出するような人材は居ないかな。

 去年の3年生に、鼻っぱしを折られちゃってるから…その所為もあって、いじけてるのかも知れないね」

 「去年の3年生…ですか。

 凄い人が多かったんですか…?」

 この質問に対し、蒼治は目を細めて遠くを見つめながら暫し黙すると。「うん…」と前置きして、言葉を続ける。

 「かなり個性的で、突出してる人が多かったからね。

 僕らの世代は、そんな当時の3年生に憧れたり、対抗意識を燃やしたりして、いまだに色々と励んでいる人が多いんだけどね。

 2年生は、3年生に恐縮してたというか…ぶら下がったままというか…あまり覇気がなかったんだよね。組み手とか敬遠しまくってたし。

 特に、首席卒業の"あの2人"と絡む人は、2年生だと皆無だったんじゃないかな。僕らの世代でも、バウアーと渚くらいだったけどね、突っかかってたのは」

 「"2人"…? どんな人たちだったんですか…?」

 蒼治は妙な苦笑を浮かべる。

 「男女2人組で、性格は真逆って云ってもいいくらいなのに、凄く仲が良くてね。卒業後も、仲良く地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に入ったよ。しかも、最強と評判の"エボニーコート"さ。

 あの人たちは…正に怪物だったね。渚もバウアーも、結局は1本も取れないままだったしね」

 「そんな人達が…!」

 ノーラは目を白黒させる。バウアーの実力は目にしていないが、渚ならばアオイデュアでの活躍が今も網膜に焼き付いている。

 現女神(あらめがみ)であり、千を数えるような天使の大群を1人で打ち破ってしまうような絶大な戦闘能力の持ち主。そんな彼女でも敵わないとは、一体どんなバケモノだと云うのか!?

 「今のバウアーや渚なら、違う結果になるのかも知れないけど。でも、あの人達も更に実力を付けてるだろうからなぁ…やっぱり、敵わないかも知れないね」

 そんな蒼治の言葉に耳を傾け、相槌を打ちながら、ノーラは校舎へと歩みを続ける。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 仮部室に戻った後のノーラと蒼治の活動は、極めて和やかなものだ。

 「組み手で疲れたし、ちょっと休憩しようか。

 ちょうど、ナミトが持ってきたお菓子の山があるしね」

 蒼治は準備室の方から菓子を山と抱えて持ってくる。

 「勝手に食べちゃって…大丈夫でしょうか?

 それに…皆まだ、戻ってませんし…応援に行った方が良いんじゃないですか…?」

 生真面目な回答を返すノーラに、蒼治はウインクして見せる。

 「日頃は部のハチャメチャの尻拭いに奔走されてるんだ。今日くらい休んでもバチは当たらないよ」

 「でも…」

 あくまで固辞する姿勢のノーラであったが、蒼治が手早くお茶会の準備を整えてしまうと、断るのも悪い気がしてしまう。

 結局、ノーラは。

 「…それじゃあ、ちょっとだけ…」

 と苦笑いしつつ、早々と席に着いた蒼治の向かい側に座ったのだった。

 それからの2人は、組み手についての反省会やらアルカインテールでの思い出、果てには蒼治の苦労話などで盛り上がる。"ちょっと"どころではない時間を費やしてしまっているが、話にのめり込んでしまったノーラは最早、時間を気にかけることなく談笑する。

 更に2人の話題は変わり、"慰問系の仕事を受けた時に、折り紙以外で目新しい出し物はないか?"と云う事について、真剣に頭を捻り始める。

 「…油粘土とか、どうでしょうか?

 折り紙みたいに自由な発想で遊べますよ…?

 折り紙ほどには、変化に対する驚きは少ないかも知れませんが…。折り紙以上の立体感が出せる利点で、十分カバー出来ると思うんですけど…?」

 ノーラが提案すると、蒼治は苦笑しながら(かぶり)を振る。

 「実は、試した事あるんだけどね。上手くいかなかったんだ。

 折り紙は1枚の紙という制約があるから、形を作った後の意味を具現化しやすいんだけどね。

 粘土は、折り紙よりも自由度が高いから、意味の具現化が凄く厄介でね。千切ったりくっつけたりしている内に、魔化(エンチャント)が崩壊したり相殺したりして、うまく動かなくなっちゃうんだよ」

 「…その試みは、蒼治先輩だけでやっていたんですか…?

 渚副部長とか、バウアー部長は…? 他の皆は…?」

 「渚はそういう見た目地味な研究には興味ないし、バウアーはそもそも部室にじっとしていられるほど暇じゃないし。

 他の皆も、方術にそれほど自信がないってことだったから、僕が1人でやってることが多かったね。

 たまに、アリエッタが手伝ってくれたけど…うまくは行かなかったね」

 「…それじゃあ、私ともう一度、考えてみませんか…?」

 ノーラが提案すると、蒼治はパチクリと瞬きしてから反応する。

 「ノーラさんと?」

 ノーラは(うなず)いて、言葉を続ける。

 「私は、方術は…蒼治先輩ほどじゃないですけど…得意な方ですし…。

 何より…実現したら面白そうな事を…無理かも知れないって諦めたままって言うのが…勿体ないと云うか…悔しいです…」

 消極的な印象が強かったノーラも、二度の修羅場をくぐり抜け、すっかり星撒部のアクティブな色に染まってしまっているようだ。"悔しい"と語るノーラの瞳には、力強い輝きが宿っている。

 それを見た蒼治は、初めは困ったような表情を作って鼻の上を掻いていたが。ノーラの眼孔が衰えないのを見て取ると、眼鏡をクイッと直して微笑む。

 「どうせ今日は、活動のノルマは終わってるからね。

 皆が戻ってくるまで、研究してみようか」

 「…はい! やってみましょうよ!」

 

 こうして2人は、ティーセットやお菓子の山を仕舞いもせず、購買部に油粘土を買いに行き、研究を始めたのである。

 

 そして、茜色に染まった空から、赤みの強い斜陽が窓から差し込むような時間帯になった頃…。

 

 バタバタバタ、と複数の足音が仮部室の外でざわめいたと思うと。ガラッと大きな音を立て、引き戸が開く。

 公園の美化に行っていた部員達が帰って来たようだ。

 開いた扉の向こうから、真っ先に姿を現したのは――顧問のヴェズではなく、"暴走君"たるロイでもなく、意外な事に部内では最も積極性に欠ける大和であった。

 「ただい…ぐはぁっ…」

 腰を曲げ、げんなりと疲労の影に染まった表情をして、倒れ込むようにして入室する、大和。そんな彼の背の上には、小さな人影がある。

 その人影は片手を振り上げて拳を作り、力のこもった声を上げる。

 「なんですか、その情けない有様は!

 大和さんは、栄えある星撒部の自覚が無さ過ぎます!

 この程度で疲れ果てるような体力で、よくここまでやってこれましたね!」

 「いや、いやいやいや…ね、ナディさん」

 大和は倒れ込みそうになるのを、壁に手を付いて抑えながら、(くま)の浮かんだ半眼で背負った人物――ナディ・ゲルティアを見つめながら反論する。

 「散々力を使わせておいて…もうオレ、魔力スッカラカン寸前だってのに…そんな仰りようは、鬼過ぎるッスよ…?」

 「言い訳無用ですっ!」

 ナディはピシャリと大和を言葉で叩く。

 「そもそも、あの程度の力を使う程度でヘバる事が大問題です!

 ロイさんやナミトさん、イェルグさんを見習って下さい! 全然余裕じゃないですか!」

 そう名を続けて唱えた直後。ロイ、ナミト、イェルグがニカニカ笑いながら部室に入ってくる。そんな仲間達の姿を見た大和は、情けない泣き顔を作って同情を訴えるが…反応は彼にとって(かんば)しくないものばかりだ。

 「実際、ヒョロ過ぎるんだよ。

 機械弄りばっかりじゃなく、体力も付けないといけないぜ?」

 「うんうん!

 ナディちゃんを10人は乗せて、笑顔でスクワットこなせるくらいにならないとねー! その内、もやしって呼ばれるようになっちゃうよー?」

 「ま、手抜き思考にばっかり走りがちなお前には、良い薬じゃないか?」

 「そ、そんなぁ…!」

 大和が涙を浮かべて――作り涙だが――訴えるが。ロイ達の注目の的はもはや大和ではなく、仮部室の中央で幾つも机を合わせ、油粘土を囲んで真剣な議論を交わすノーラと蒼治の方へと移る。

 「おっ、ノーラ、帰ってたのか。

 何してんだ? 粘土なんて囲んでよ?」

 ロイがいち早く反応して2人の元にゆくと、ノーラは今気づいた、と云う(てい)でヒョッコリと顔を上げると、微笑む。

 「慰問系のお仕事で使えるような、折り紙以外の遊びはないかなって…油粘土を試してみてたんだ」

 「ん? 粘土は無理だったって話じゃなかったのか?」

 イェルグが蒼治に尋ねると、蒼治は粘土から視線を逸らさぬまま、「以前は、ね」と前置きして言葉を返す。

 「でも、ノーラさんともう一度チャレンジしてみたら…結構、良い線に行ったんだ。

 流石はノーラさんだ、あんな術式構造、僕は考え付かなかったよ」

 「いえ…蒼治先輩こそ、流石です…!

 私の思い付き程度の事を、理論立てて実現してしまうんですから…!」

 机の上を見れば、幾つもの動物の形にこね上げられた油粘土が、恐る恐るといった有様で四肢を動かしている姿がある。

 「ちょっと見せていただいても良いですか!?」

 そう声を上げたのはナディで、大和の背の上でバタバタと足を動かすと。大和は「はいはい…」と溜息をつきながら彼女を静かに降ろす。すると、ナディは最早大和に目もくれず、一目散にノーラ達が作業する机に向かい、その上の光景に視線を向ける。

 そして、キラキラと瞳を輝かせながら、歓声を上げる。

 「わぁ…凄いです、凄いです!

 折り紙は見せていただきましたけど…! 粘土でも同じ事が出来るんですね!

 凄く面白いです!」

 蒼治は照れ笑いを浮かべて、ナディに視線を向ける。

 「いやいや、まだ試作段階で、人様に見せられるレベルじゃないけれど…。

 でも、一度は諦めた事がこうして実現の目前にまで迫れるのは、嬉しいね」

 「やはり星撒部は、文武両道でこそ輝きますね…!

 蒼治先輩は、まさにその(かがみ)です!」

 ナディの絶賛に対して、ロイが首を傾げて「そうかぁ?」と声を上げる。

 「確かに文は強いけどよ、武は結構甘いと思うぜ。

 なぁ、ナミト?」

 「うーん…正直言って、先輩は頭デッカチって感じだね」

 2人の下級生からの厳しい評価に、蒼治はガックリを肩を下ろす。

 「…まぁ、言い返せないけど…。

 何の遠慮もなく云われると、流石に凹むなぁ…」

 その言葉に、公園から帰ってきた部員達の間に笑いが生じる。

 一方で…ノーラは、初めて目にするかなり年下の少女――ナディにちょっと戸惑い、目をパチクリとさせている。それに気付いた蒼治が、すかさずフォローを入れる。

 「そうか、ノーラさんは顔を合わせるのが今が初めてなんだよね。

 彼女は、ナディ・ゲルティア。前に言ってた、"強力な助っ人"だよ。

 今は準学生としてヴェズ先生の指導を受けてるんだ。来年からは学園に正式入学して、ノーラさんの後輩になるよ」

 蒼治から紹介されたナディは、ノーラに向き直り、ニッコリと大輪の花のような笑顔を見せて、礼儀正しくお辞儀する。

 「お初にお目にかかります、ご紹介を受けた通り、ナディ・ゲルティアと言います。

 来年は星撒部に入部致しますので、後輩となります。

 よろしくお願いいたします」

 年に見合わぬ大人っぽい仕草の挨拶にノーラはどぎまぎしながら、自らも立ち上がってペコリと頭を下げる。

 「ノーラ・ストラヴァリです…。

 最近入部した身なので、先輩とか、そんな大層なものじゃありません…。

 よろしくお願いします…」

 2人が挨拶を交わしている間に、蒼治がイェルグへと確認をとる。

 「それで、仕事の方はどうだったんだい?」

 「いやいや、ナディお嬢さんのお陰で、依頼人は大喜びさ。

 もうあそこは公園じゃない、庭園だね。雑草…いや、野草すら、踏むのが躊躇(ためら)われるレベルだよ」

 「いやー…末恐ろしい後輩が出来たモンッスよ。

 …オレ、尻に敷かれっぱなしになってる来年の姿が目に浮かぶようッスよ…」

 大和が目尻に作り涙を輝かせながら語る。公園では始終、ナディに散々に指導されて小言を受けていたので、随分と堪えていたらしい。

 大和の姿を見て苦笑した蒼治は、次いで入り口の辺りをキョロリと見回してから、誰ともなしに尋ねる。

 「あれ、ヴェズ先生は?

 一緒じゃ無かったのか?」

 「用事があるってよ。途中で分かれたんだ。

 後でナディお嬢さんを迎えに来るって言ってたから、それまでは部室でのんびりさせてもらうさ」

 と、イェルグが言った矢先。仮部室の隅の机の上にお菓子の山を見つけたナミトは、指差しながら「あーっ!」と声を上げる。

 ノーラは思わずビクリとする。蒼治が持ってきたとは言え、お菓子はナミトの私物だ。それを勝手に食べてしまった事への罪悪感が一挙に生じてしまったのだ…が。

 ナミトは表情を曇らせることなく、むしろ瞳を輝かせながら机に突撃し、菓子の袋を一つ掴んで騒ぐ。

 「ナイスターイミング!

 一仕事終わった事だし、お茶にしよーよっ! お菓子食べよーよっ!」

 「おっ、良いねぇ!」

 と、即座に乗ったのはロイである。

 「やっぱ、肉体労働した後は、脳ミソが糖分を欲しがるからな!

 しっかり補給しとかないと、体に毒だもんな!」

 そう言ってナミトの後を追うロイの背後に向けて、イェルグがクックッと笑う。

 「そりゃ、頭脳労働した時の話だっつーの。

 脳筋のお前にゃ、縁遠い話だ」

 「んだほ、イェルフッ!」

 早々と菓子を口一杯に頬張ったロイが、耳(ざと)くイェルグに反応して反論する。

 「ほおみへてもな、おへはあはまふはっへるんだへ!

 テフトだって、おほしたほとないんだかんな!」

 「あーあー、分かった分かった。

 取り敢えず、飲み込んでから(しゃべ)ってくれ」

 イェルグが手をパタパタと振ってロイを鎮める。

 これを機に、ノーラと蒼治以外の者達は一気に脱力。一気に遊びモードに突入する…のだが。ここに1人、眉間に皺を寄せてダラけた部員達を睨みつける者が居る。

 ナディである。

 「皆さん!

 ダラける前に、やることがありますよ! 今回のお仕事の反省会です!」

 「えー…。

 そんなの、後回しで良いじゃないッスかぁ。取り敢えず今は、体を(いたわ)るべきッスよー」

 いつの間にかナミトの隣に座していた大和が、モグモグとケーキ菓子を食べながら、ゲンナリしたジト目で反論すると。ナディは顔を真っ赤にし、握り拳をブンブンと振り回して憤る。

 「何言ってるんですか!

 今回のお仕事は、反省点が山ほどあるんですよ! それを忘れない内に振り返っておかないと! 星撒部の名を汚してしまいますよっ!

 特に大和さんは! 人一倍反省する必要があるんですから! 幼稚園児みたいな事を言わずに! キチンと反省するべきですっ!」

 対しては大和は、頑として休憩を放棄せず、新たな菓子に手を伸ばしては、反論しようと口を動かした…その時。

 「うむ! 若いながら、立派な心掛けじゃな!

 大和は少し、爪の垢を煎じて飲んだ方が良いかも知れんのう」

 仮部室の入り口から、独特の口調が聞こえてくる。

 この声に、ナディも、休憩に入った4人も、粘土と格闘している2人も、一斉に視線を向ける。

 そこには、壁にもたれて腕を組み、斜陽にハチミツ色の金髪を輝かせる1人の美少女の姿がある。その正体は、勿論…。

 「渚副部長!」

 ナディがパァッと顔を輝かせて歓声に近い声を上げると。渚はニヤリと笑って手を挙げ、そしてウインクしてみせる。

 「うむ!

 立花渚、ここに参上じゃ!」

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Ordinary Story - Part 5

 「渚副部長!」

 ナディは渚の方へと一目散に駆け寄ると、ブラウンの瞳をキラキラさせて、渚の澄んだ碧眼を見上げる。

 「おお、ナディや! どうじゃった、体験入部は?」

 渚は馴染んだ様子でしゃがみ込み、ナディの頭を撫でながら尋ねる。2人は今日出会っては居ないのだが、この様子をみる限り、以前からの知り合いらしい。

 (もっと)も、顧問のヴェズが指導している準学生と云うことだから、副部長の渚が把握していてもおかしくはない。

 ナディは渚の問いに頬を膨らませて答える。

 「皆さん、確かに技術は素晴らしいんですけど、心掛けがあまりよくありませんね!

 調和する事より、排除する事ばかり念頭に置いてしまうんです! これでは"暴走部"などと不本意な呼ばれ方をされても仕方ありませんよ!

 世界に希望の星を撒く、真の英雄たる星撒部としては、文武両道に秀でなくてはなりません!」

 「うむうむ! 確かに、ウチには脳筋どもが多いからのう。特に男連中は、殴れば何とかなると思っておる者ばかりじゃからな」

 「…お前が言うなよ…」

 粘土に向かいながらも、蒼治はボソリと反論せずには居られない。

 "暴走部"と呼ばれている原因の半分は、渚のハチャメチャな言動の所為なのだが。渚はナディと面識がある事を良いことに、何か都合の良い事でも吹き込んだらしく、ナディは渚を純粋に敬愛して止まない。

 「じゃがな、ナディよ」

 渚はポンポンとナディの頭を優しく叩きながら言って聞かせる。

 「文武両道、真面目一本の心意気は素晴らしいものじゃが、四六時中それでは身が持たんぞい。

 健全な心身あってこその、心意気じゃからな。

 力を抜く時には、思い切り抜いた方が良いのじゃ」

 するとナディは、バツが悪そうに怖ず怖ずと言った感じで反論する。

 「でも…ダラけてしまっては…反省すべき点も忘れてしまいませんか…?」

 「大丈夫、大丈夫!」

 渚はニパッと笑って答える。

 「部員どもは確かに頼りないところもあるが、地べたを這う程には落ちぶれてはおらん。

 また力を入れるべき時には、キチンと心を切り替えられる奴らじゃ。一息入れてから反省会をしても、問題はないぞい。

 それより、おぬしも一仕事して来て、くたびれておろう? 菓子と茶で、少しホッコリすると良い」

 「副部長が、そう仰るなら…」

 と言うナディの顔は、嬉しそうに緩んでいる。強気に生真面目な事を語っていたナディであったが、本音では他の部員と同様、お茶を飲んで落ち着きたかったらしい。

 小走りでナミト達に混ざると、隣に座るロイに早速ココアを所望する。ロイも気を悪くせず、席を立ってココアを用意する。アルカインテールでの慰問で見せたように、子供の相手を得意としている彼は、ナディがどんな評価を下そうとも邪険に扱うような真似はしないよう心得ているようだ。

 

 公園での美化活動組が全員ティータイムに興じ始めた一方で。蒼治が粘土を[()ねる手を止めて、渚に尋ねる。

 「仕事、もう終わった…ってワケじゃなさそうだな。

 お前しか帰って来ていないワケだし」

 「うむ」

 渚は(うなず)いてから、頭をポリポリと掻く。

 「ただの病だとは思っておらんかったが、首を突っ込むほどに厄介な面が見えて来てのう。

 わしら、数日は学園に帰って来れぬかも知れぬ」

 「ま、いつもの事だよな…って割り切れてしまうのは、逞しいような悲しいような感じだな」

 この言葉には発言者の蒼治のみならず、ノーラもまた苦笑い。アルカインテールでの一件では、ちょっとした子供の依頼から都市国家を丸ごと一つ巻き込むような大騒動に巻き込まれてしまっている。星撒部にはよくよく、厄介事を引き寄せてしまう性質か運命があるようだ。

 「それで、どんなところが厄介なんだ?

 女神戦争の舞台になった都市国家の事だし、信仰に関する住民同士の確執や対立がある…って事くらいは、パッと思いつくんだけどな」

 「確かに、住民の間に少し違和感はあるが、確執や対立と呼べるほどに炎上してはおらぬ。

 真に厄介なのは…」

 渚は蒼治に、解決に取り組んでいる病の正体が呪詛である事。呪詛であるからには、人為的な悪意が存在している事。そして、術者は相当な実力を有している事などを、ざっと説明する。

 「…なるほど、呪詛か。

 単体ながら"チェルベロ"の人員も動いていると云うことは、一筋縄じゃないかないな」

 「うむ。その"チェルベロ"からも協力を要請されておるからな。無下に断れんし、何より死傷者が出るような事態を黙って見過ごすなど出来ぬ。

 早期解決のため、呪詛使いの正体を暴く調査のためにも、学園長にちょっとした頼みをしに、こうしてわしだけ帰ってきたワケなんじゃが…。

 ヴェズ先生は、不在なのじゃな? 学園長に会う前に、順序として部の顧問教師に会っておきたかったのじゃが」

 「用事があるそうで…ここには姿を見せていません…。

 いつ来るかも、分かりません…」

 ノーラが答えると、渚は顎に手を置いて「ふむ」と一言漏らす。少し考え事をしたようだが、即断したようで、すぐに顎から手をどける。

 「仕方ない。学園長に会ってくる事にするわい。

 ヴェズ先生には、事後連絡で申し訳ないが、後でわしから話すとしよう」

 そして渚は挨拶もそこそこに、サッサと部室を後にしようと歩き出す。その背中に、ノーラが「あの…!」と声をかけた。

 「なんじゃ?」

 「…4人で、大丈夫ですか?

 アルカインテールの時みたいな騒動になったら、人手が足りなくなるんじゃありませんか…?」

 ノーラの申し出に、渚は不適な笑みを浮かべると。ドン、と自分の胸を叩いてウインクする。

 「何を心配しておるんじゃ?

 このわしが居るんじゃぞ? 4人でも多すぎるくらいじゃわい!」

 渚の言葉は『現女神』である前に、"立花渚"という存在を自負した、傲慢とも取れる自信の現れである。

 一般的には不安を煽るばかりの言葉のはずだが。ノーラが妙に納得してしまったのは、短期間ながら渚の偉業を目にしてしまったからこそである。

 「では、行ってくるわい」

 渚は手をヒラヒラと振って、仮部室を後にしたのだった。

 

 渚の姿が見えなくなってすぐに。

 「あ…」

 蒼治がぼんやりと声を上げる。

 「レビドが突っかかって来た事、伝え忘れたな…。

 まぁ、毎度の事だから、どうでも良いか。むしろ、伝えた方が厄介になりそうだし…渚のヤツ、乗り込んで行きそうだからな…」

 こうして無視されてしまったレビドについて、ノーラは同情を禁じ得ず、苦笑を浮かべる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ユーテリアの学園敷地内の中心部。その最頂点に位置し、学園内で最も美麗な空間と言われる場所、"眺天の通路"。学園の敷地とともに、学園上空も広く眺める事の出来るこの場において、渚は茜色に染まった天空を真っ直ぐに見上げる。

 空には、学園の主たる"慈母の女神"二由来する、蜃気楼のような美しい城塞様建造物群――『天国』が見える。

 「"母"と付く割には、いつ見ても厳つい天国じゃのう」

 渚はポツリと呟いて苦笑いすると、気(おく)れなど微塵もない、堂々たる大股の歩みで学園長室の木製の扉の前に到る。そして、少し強めにコンコン、とノックすると、キビキビした声を上げる。

 「アルティミア学園長、立花渚です。

 入室してもよろしいですか?」

 渚は流石に普段の独特な口調を封じ、丁寧な標準語を口にする。ただし、口調は堅いと云うよりも、ちょっとトゲトゲしい。

 「ええ、どうぞ。いらっしゃいな」

 扉越しに聞こえる、"慈母の女神"アルティミアの母性溢れる物腰柔らかな言葉。対する渚は堅い態度を崩さず、軍人でもあるかのような口振りで「失礼します!」と言い放ち、扉の向こうへと入る。

 落ち着いた木製家財が並べられた、心地よい空気に満ちた学園長室。その最奥にあるデスクに座るのは、白磁の肌と真紅の唇、そして渚に勝るとも劣らぬ金色の髪と紺碧の瞳を持つ絶世の美女、"慈母の女神"アルティミアの御姿(みすがた)がある。

 学園の治める長たる立場にあるアルティミアであるが。この時間帯がたまたまなのかは分からないが、特に何かの職務に専念している様子はない。それどころか、机の上に転がる暫定精霊(スペクター)達を(つつ)いて(いじ)り回している。

 莫大な数の生徒を要する学園を束ねる身の上だと云うのに、何ともお気楽な姿である。全ての職務を職員に分配して任せているのか、それとも目に見えないところで一気にバリバリと仕事をこなしているのだろうか。

 アルティミアは暫定精霊(スペクター)達を弄り回したまま、視線を渚に向けて微笑む。それは、真紅のカーネーションを想起させる美麗で艶然たる笑みだ。

 「珍しいわね、立花渚さん。あなたがこの部屋に来るなんて。

 問題事が起きた時には、決まってヴェズ先生か蒼治・リューベイン君が見えているのだけれども。

 それとも、部活動絡みでない相談事かしら?」

 「いえ、部活絡みです」

 渚はキッパリと即答する。そのキビキビした姿は、普段の学園生活では決して見ることの出来ない、希有な有様である。

 「しかしながら、私の都合のことですので。私が自らの口で伝えるのが筋だと思い、参上した次第です」

 ここでアルティミアは暫定精霊(スペクター)弄りを放棄すると。デスクに両肘を置き、組んだ手の甲の上に顎を乗せて笑う。

 「そんなに(かしこ)まらなくて良いわよ。普段の貴女(あなた)らしく振る舞ってくれて構わないわ。

 学園長と生徒、ではなくて、同じ『現女神』の仲間と思って、打ち解けてほしいわ」

 そう言われた渚は、ふぅー、と息を吐いて肩の力を抜くと。普段通りの有様で頬を掻きながら語る。

 「それでは、お言葉に甘えてるとするかのう。

 こういうお堅い口調は、どうにも肩肘張ってしまって、疲れるのじゃ」

 アルティミアは、フフフ、と和毛(にこげ)のような笑い声を漏らす。

 「それで、用件とは何かしら?

 また"おいた"してしまった事へのフォロー?」

 渚はパタパタと手を振って否定する。

 「そんな使い走りならば、蒼治のヤツにやらせるわい。

 ちょいと、留学の手続きを取ってほしくてのう。都市国家プロジェスの高等学校なのじゃが」

 「プロジェス…ふうん」

 アルティミアは都市国家の名前を舌の上で転がすと、目を細めて尋ねる。

 「目的は、元"夢戯の女神"であるニファーナ・金虹かしら?」

 「ご明察じゃ」

 「フフ…それ以外に、思い当たる節が無かっただけよ」

 アルティミアは組んだ手を解いて、椅子の背もたれにもたれ掛かりながら語った。

 「プロジェス、ね。最近まで『女神戦争』をしていたそうだけど、ようやく落ち着いて、活気が出てると聞いてるわ。

 そんな所で、元『現女神』と何をやらかすつもりなのかしら?」

 「やらかすなど、人聞きの悪い言い方じゃな」

 渚は眉を曇らせると、咳払いをして言葉を続ける。

 「ただ、ニファーナとやらに接触して、どんな人物なのか確かめてみたいだけじゃ。

 それが今回の件の解決に結びつくかどうかは、五分五分と言ったところじゃが。何もせぬよりは良いかと思うてな。学生らしいやり方でアプローチしてみる事にしたワケじゃ」

 「今回の件…プロジェスでの奇病騒動の事ね?」

 渚は目を細めてアルティミアを睨む。

 「おぬし、ホントに耳が早いのう。

 "慈母"と言うより、"情報"だの"把握"だのと名乗る方が良いのではないか?」

 アルティミアは、フフフ、と笑う。

 「そんなんじゃないわ。

 生徒達の母として、皆の状況が自然と把握出来るだけよ。完全な情報、とは行かないのだけれど。

 私の『現女神』の性質なのでしょうね。」

 「おぬしも信者を持たぬ身だと聞くが、実質大量の信者を抱えておるようなものじゃな」

 渚が突っ込むと、アルティミアはニッコリ笑むだけで、何も言葉を返さない。

 代わりに、話題を留学の件に戻す。

 「留学の話、早速ニファーナさんが通う高等学校の方へ通しておくわ。

 先方さえ呑んでくれるなら、明日から始められるようにしておくわね。この時間で、明日の今日だから、難しいとは思うけれど…このユーテリアのネームバリューなら、どうにかなるかも知れないわ」

 「うむ、それは有り難い!」

 「先方からの返事が来たら、あなたのナビットに連絡を入れるわ。

 少し、待っててくれるかしら」

 「相分かった!」

 景気よく返事をした渚は、用件はもうないと早速(きびす)を返す。その背中へ、アルティミアが声をかける。

 「そういえば、渚さん。

 最近入部したノーラさん、様子はどうかしら? うまく打ち解けてるかしら?」

 渚は小首を傾げながら振り返る。

 「おぬし、生徒の事は把握出来ておるのではないか?」

 「さっきも言った通り、完全とは行かないのよ。

 それに、貴女の目から見た感想を聞きたいのよ」

 「ふむ」

 渚は腕を組むと、すぐにニヤリと笑う。

 「よくやっておるよ。

 流石はこの時期に快く入部してくれた者じゃ。元来の才や能力も申し分ない事に加え、向上心も高い。

 初めは引っ込み思案なところが少々心配じゃったが、うまく打ち解けておる。まぁ、ウチの連中が人当たり良すぎるお調子者が多いだけかも知れんがのう」

 「そう…」

 アルティミアは満足げにしては何か思惑のあるような、伏し目がちな笑みを浮かべる。そして、更に突っ込んで尋ねる。

 「アルカインテールの一件については、どうかしら? 貴女の評価と、ノーラさんが受けた影響について、聞かせてもらえるかしら?」

 「成果は上出来じゃよ」

 渚はウインクしてみせる。

 「『バベル』とか言う、外道極まりない『握天計画』の代物を潰しただけでなく、人命も損なう事なかった。

 入部して日も浅く、実戦経験も乏しい状態でこれだけの成果を出したのじゃ。上出来以外に何の評価があろうか。

 ノーラが受けた影響と言うのは…うーむ、自分なりに反省点を見つけ、今後に活かすべく更なる鍛錬に励んでおる…と言う具合かのう?」

 「何か…言っていなかったかしら?

 『バベル』や偽の『天国』と接触した際に、何か感じたとか…?」

 渚はキョトンとしながら(かぶり)を振る。

 「特に聞いてはおらんぞ?

 …何か、気になることでもあるのかや?」

 渚が聞き返すと、アルティミアは真紅の唇を薄い笑みの形に歪ませながら、答える。

 「いえ…ちょっとした、興味があるだけよ…」

 その表情に渚は疑問を禁じ得なかったが。突っ込んで尋ねた所で益は無いと判断すると、改めて(きびす)を返す。そして、今度は挨拶を口にせず、ただ手をヒラヒラさせて、今度こそ退室した。

 

 後に残ったアルティミアは、真紅の唇をペロリと艶然に一舐めしてから、独りごちる。

 「奥手なだけなのかしら…?

 それとも、天然なのかしら…?

 どちらにしても、可愛い()…」

 アルティミアは暫くその妖艶な雰囲気を纏っていたが。パッと切り替えると、麗しい動作で机上の通信機に手を伸ばし、渚からの頼み事を成就すべく行動に出る。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 学園長室から退室した渚は、すぐに仮部室にでも向かうと思いきや…"眺天の通路"を歩きながらナビットを弄る。そして、茜色が濃くなった空に囲まれた通路の端にたどり着くと、そこにしゃがみ込む。

 同時に、ナビットがコール音を奏で始める。何者と通信を行うつもりのようだ。

 数コールの後、ナビットから3D映像が飛び出したかと思うと。

 「はいはいー! 久しぶりだねー、ナギー!」

 底抜けに明るい声を上げながら立体映像として現れたのは、醒めるような青の髪が瞳に灼き付く1人の少女。

 その少女の正体は、プロジェス市民ならば即座に言い当てることだろう。

 彼女こそ、プロジェスを"陰流の女神"から解放して姿を消した"鋼電の女神"。レーテ・シャンティルヴァインである。

 レーテと渚は、個人的な連絡先を把握し合っているほどに、旧知の仲らしい。

 「レーテ、久しぶりじゃのう。

 今、大丈夫かや?」

 「うん、良いよ。

 何の用かな?

 まさか! ようやく、あたしと君との"獄炎の女神"大討伐ツアーに参加を決めてくれたのかな!? かな!?」

 「残念じゃが、そうではなくてな」

 「ちぇ、なーんだ…」

 レーテはジト目を作って唇を尖らせて抗議する。渚は強引なレーテのペースに苦笑を浮かべながら、尋ねる。

 「おぬしに、プロジェスの件について尋ねたくてのう。

 聞けば、プロジェスの『女神戦争』を終結させたのはおぬしじゃと言うではないか」

 「うん、そうだよ!

 あの陰湿色気オバサンをフルボッコにしてやったよ!」

 レーテはガッツポーズを作り、ニッコリ笑ってみせる。

 「ああ、"陰流の女神"じゃったか。"女神"である身の上を利用して、淫蕩三昧に(ふけ)る阿呆じゃったそうだな。その件については、おぬしはよくやったと思う。

 …が、そやつの話ではなくてのう。そやつに負けてしもうた"夢戯の女神"の事を聞いてみたかったのじゃ」

 「ニファーナちゃんの事だね。

 一回だけだったけど、直接会って話してみたよ」

 「それは好都合じゃ。

 今、プロジェスではちょいとしたトラブルが発生しておってな。その元『現女神』であったニファーナが、何らかの形で関わっておるようなんじゃ」

 「トラブル? その犯人候補として、ニファーナちゃんが挙がっていると?」

 レーテは眉を(ひそ)める。渚の話の内容に対して、明らかに不満を抱いている(てい)だ。

 対して渚は、レーテの不満を払拭せんとするように、パタパタと両手を振る。

 「いや、そうではない。まるっきり白と断言は出来ぬが、限りなく白に近い灰色じゃ。

 しかし、ニファーナ自身に落ち度は無くとも、犯人の動機にニファーナは深く関わっておるようじゃ」

 「…? どーゆー事?」

 渚は、プロジェスで起こっている呪詛騒ぎについて話して聞かせる。一連の内容を聞いたレーテは、腕を組んで「ふむふむ」と(うなず)いてから、はぁー、と溜息を吐く。

 「なるほどねー。ニファーナちゃんも大変だ。

 犯人のヤツったら、あの()を崇拝してるつもりらしいけど、あの娘の事を全ッ然理解してないねー。手前勝手に解釈して、人様に迷惑掛けまくるなんて。一発ブン殴ってやりたくなるねー」

 「犯人は理解しておらぬと云うが。それでは、おぬしが理解している"ニファーナ・金虹"とはどんな人物なのじゃ?」

 レーテは腕を組んだまま、右手の人差し指をピンと立てて語る。

 「運命に翻弄され続けた、悲劇のヒロイン…ってところかな」

 「ほう? そのつまりは?」

 「…ちょっと待った」

 レーテは腕を解いて手のひらを突き出すと、ジト目になって見詰めてくる。

 「むうぅ…?」

 渚が首を傾げると、レーテはそのままの格好のまま、唇を尖らせて語り始める。

 「プロジェスの"陰流"からの解放は、私の勝手とは云え、汗水流した成果によるものなんだよ。

 プロジェス市民に対して恩を着せる気なんて全然ないけどさ。この件についての第三者であるナギーは、別だよ。

 あたしが勝ち取ったを成果を、タダで引き渡して欲しいって言うのは、虫が良すぎる話だよねぇ?」

 渚は言わんとする事を察し、溜息と共に聞き返す。

 「分かっておる。親しき仲にも礼儀あり、じゃからな。ギブ・アンド・テイクは初めから覚悟の上じゃ。

 で、今度は何が望みなんじゃ?」

 渚はレーテと顔見知りの上、情報提供などの協力を何度か仰いでいるようだ。

 レーテは渚の言葉に気をよくすると、一つ瞬きしてジト目をニンマリとした笑みに変えると。突き出した手を人差し指だけを立てた形にして指を左右に振り、語る。

 「スイーツバイキング、時間無制限のヤツ! 同席の上、(おご)る事!」

 すると渚は、"またか"といった風体でゲンナリと両肩を落とす。

 「奢るのは問題ないが…毎度思うのじゃが、わしの同席は必要か?

 1人で好きな分、食べれば良かろうて。わし、甘いものばかりひたすら食べるのは、キツくて敵わんぞい」

 「えー」

 レーテは唇を尖らせる。

 「1人でバイキングを黙々食べるなんて寂しい事、罰ゲーム以外の何物でもないよ!

 誰かとワイワイ感想を言い合いながら食べるのが、醍醐味ってものでしょ!」

 「ならば、おぬし自慢の四天王と行けば良かろうて」

 「えー、それもなぁ…」

 レーテは目を半眼にして、再び抗議する。

 「あたしの四天王って、男ばっかりじゃん。スイーツってあんまり食べてくれないんだよねー。早々脱落しちゃうし。甘過ぎるー、とか文句言いまくるし。楽しくないんだよねー。

 やっぱり、女の子同士でワイワイしたいじゃん? スイーツなんだしさ!」

 「むうぅ…」

 渚は大食いではあるが、今回の話はかなり気乗りがしない。とは言え、レーテの機嫌を損ね、最悪敵対する事になってしまっては面白くない。

 スイーツばかり食べるのはキツいが、かと言って2、3個でダウンしてしまう程(やわ)な胃袋ではない。…そう思案した渚は、決意するように首を縦に振り、そして溜息を吐く。

 「…分かった、分かった。この件が無事に終わったのなら、一緒に行くとしよう。

 じゃから、ニファーナなる娘の事、詳しく教えてくれんか」

 「よっし、約束だかんね!

 ちなみにこの動画、録画してるから! 言い逃れは出来ないから!」

 「…そんな卑劣な真似、せんってば」

 渚がウンザリしながら手をパタパタ振る。その直後、レーテは息を吸い込むと、ニファーナについて語り始める。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「ニファーナちゃんは、望まずにして『現女神』になってしまった。そこがまず、悲劇の始まりだね」

 レーテの話に、渚はパチクリと目を開閉させる。

 「それが、悲劇の始まりじゃと?

 望まずにして『現女神』になった例など、幾らでもあるではないか。

 "叡賢"のヤツが著名な例じゃろう?」

 『現女神』は、なろうとしてなれるものではない。その逆も然りで、なりたくなくとも、何の因果か、『現女神』の座を手に入れてしまう者も居る。

 「まぁ、それはそうなんだけど」

 レーテは同意するものの、続けて反論する。

 「でも、そういう『現女神』ってば『神法(ロウ)に『天使』に『士師』、そして信徒の存在に利点を見出して、立場に満足するじゃん?

 "叡賢"だって、今じゃノリノリで都市国家の統治に乗り出してるし」

 「あやつの場合、"他のバカどもより、自分が直接手を下す方が確実で安心だ"とでも思ってるだけじゃろうがな」

 渚は肩を(すく)めながら反論する。彼女は"叡賢の女神"とも少なからぬ面識があるようだ。

 「まぁ、そうだとしても、取り敢えずは立場に満足してると言えるじゃん?

 でも、ニファーナちゃんは違うんだ。『現女神』の座を手に入れてもなお、その立場を(うと)んじてたんだよ。

 いや…苦しんでいた、と言っても良いね」

 「ふむ」

 渚は頷いて、レーテの言葉の続きを促す。レーテは勿体ぶらずに応じる。

 「ニファーナちゃんが乗り気じゃなかった一番の理由は、責任が重荷になるとか、他の『現女神』と争う事になってしまうとか、そういう以前の問題でさ。

 単純に、自分は『現女神』なんて立場に収まるような器じゃないって思っていたからなんだ。

 ニファーナちゃんを悪く言うワケじゃないけど…他人(ひと)より突出した点が在るワケじゃなし、高い志が在るワケでもない。そんな自分が『現女神』になるなんてあり得ない、と思ってたんだね。

 …なのに、もっと相応しかろう誰をも差し置いて、『現女神』の座を得てしまった」

 「なるほど、それで後ろめたさを感じ続けてしもうたワケか。それは気の毒じゃな。

 しかし、それほど辛いのならば、さっさと何処ぞの『現女神(どうるい)』に頼んで、座から転落させてもらえば良かったろうに。"叡賢"や"清水"、ウチの"慈母"なんかに言えば、優しくやってくれたろうて」

 『現女神』の座を自身の力のみで放棄できた例は、過去に報告がない。(すべから)く屈服など、他の力の介入によって"座から転落する"しか無いらしい。

 何故、そのような法になっているのか。それは当の『現女神』達も知り得ない。

 …さて、レーテは渚の疑問に答える。

 「ニファーナちゃんは、優しい心の持ち主でね。

 プロジェスはその成り立ち柄、独立心が旺盛でね。他の『現女神』は勿論、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の庇護に入ることも良しとしなかった。自前の『現女神』が降臨してくれる事を望み続けていたんだよ。

 その望みがようやく叶ったワケさ。ニファーナちゃんには重荷以外の何物でもないけど、皆の長年の望みを放棄なんて出来なかったんだよ。

 それで、常に気(おく)れと隣合わせになりながら、『現女神』としてプロジェスを率いていたワケ。

 …まぁ、率いると言っても、ニファーナちゃん自体が手を下すと言うより、周りの"士師"が()()りしていたみたいだけどね」

 「…優しいと言うより、臆病なだけじゃないかや? 『現女神』の座を捨てて、市民(ひと)に睨まれるのが怖かっただけじゃないんかのう?」

 「まぁ、そういう見方も出来るね。

 でも、皆が皆、ナギーみたいにスッパリ割り切れるワケじゃないからね。あたしは、ニファーナちゃんが優しかった、と云う事にしてあげたいな」

 「むうぅ…」

 渚は納得いかなそうに眉をしかめたが。話が逸れるのを嫌い、ニファーナに言葉の続きを促して(もだ)す。

 「ともかく、ニファーナちゃんは終始乗り気じゃなかったにしても、周囲の熱は凄かったワケだよ。

 ニファーナちゃんは都市国家の運営についてアレコレ口出ししなかったから、それも受けたんだろうね。プロジェスの気概をそのまま受け入れてくれる、独立のシンボルたる『現女神』として、人気は非常に高かったんだよ。

 自ら"士師"になりたがるヒトの数もハンパなかったって話だしね」

 ここでレーテは一呼吸してから、「…だから」と続ける。

 「"陰流"と戦って…戦ってた時は、流石に全力を尽くしただろうけど…負けて『現女神』の座を失った時には、正直ホッとしたと思うよ。ようやく見合わない役割から解放されるー、ってね。

 でも、"陰流"の極悪な三日天下の元で、市民はニファーナちゃんへの敬愛を再確認した事だろうね。特に、"陰流"に対抗してた勢力の面々は、そうだったろうね。

 だから、未だにニファーナちゃんは、『現女神』時代にあてがわれた屋敷を追い出されることなく、一目置かれて過ごしているワケだよ。

 それはそれで、ニファーナちゃんには苦しいんだろうけど。ナギーの言ってたプロジェスの復興具合とか、あたしの偉業も手伝って、大分ニファーナちゃんへの注目は減ったみたいだから、心的負担はずっとマシになったんじゃないかな」

 「なるほどのう…」

 渚は腕を組み、うんうん、と深く首を縦に振る。

 「おぬしの話を聞いて、得心したわい。やはり、呪詛はニファーナそのものではなく、ニファーナに強い思い入れを抱いておる者の所業のようじゃな。

 問題は、その者が一体誰か、と言う点じゃな…」

 「あたしは、元"士師"あたりが怪しいと思うね」

 レーテは両腰に手を置いて語る。

 「『現女神』ニファーナに対する思い入れが一番強かったのは、間違いなく、彼らだろうからね。

 "陰流"への抵抗勢力の先頭に立っていたのも、彼らが多かったしさ」

 「ふむ…。

 その辺りも含めて、探りを入れてみるとしようかのう」

 渚は腕を組んで一つ頷くと。用件は済んだ事への感謝として、ニッコリと笑みを浮かべる。

 「ありがとう。かなり参考になったわい。

 約束のスイーツバイキング、必ずや果たすからのう!

 それでは…」

 通信を切ろうとする渚であったが、レーテが「ちょい待ったッ!」と鋭く声を上げて制する。

 ナビットへ腕を伸ばした格好のまま、パチクリと瞬きする渚へ、レーテが問う。

 「ねぇ、ナギー。

 いつまで、"慈母"なんかの下についてるワケよ?」

 渚はもう一度、パチクリと瞬きすると。頬をポリポリ掻きながら答える。

 「…いや、わしとあやつとは、単なる生徒と学園長の関係であってな。別に主従関係が有るワケではないぞい?」

 「でも、"慈母"が頂点に君臨している組織の中に甘んじている事には変わりないじゃん?」

 「まぁ…確かに、そうとも言えるかのう。

 じゃが、」

 渚が次の言葉を口にするより早く。レーテはビシッと人差し指を渚に突きつけて語る。

 「それって、『現女神』としても! それ以前に、士師も信徒も持たずに孤高のソロプレイを貫いてるはずの立花渚という存在としても! どうなのよ!?

 (はた)から見たら、"慈母"の従属女神にしか見えないよ!?」

 「ふむ…そうかのう?」

 渚は腕を組んで小首を傾げる。

 「わしは、学生の身の上が適当な年頃じゃし。わし自身の能力の向上にしても、信徒ではない純然たる友を得るにしても、環境として最善じゃと思ったのが、このユーテリアじゃったと言うだけじゃ。

 その学園長が、たまたまアルティミアであった、と云うだけに過ぎぬのでな。特に、違和感を覚えぬのじゃが。

 むしろ」

 渚は目を細めてレーテに反撃する。

 「同じ年の頃じゃと云うのに、学業にも打ち込まず、放蕩の限りを尽くしておるおぬしの方が、客観的に見てどうかと思うのじゃが?」

 するとレーテは顔を真っ赤にして反論する。

 「あたしの事は良いの! こう見えても、通信教育でちゃんと教養は身につけてるし! そもそも放蕩じゃなくて、正義の世直しだし! 遊びみたいに言われるのは心外だよ!

 それはともかくとして! 今はナギーの事だよ!」

 「…前々から思っておったのじゃが」

 渚は嘆息しながら語る。

 「おぬし、アルティミアの事を毛嫌いしておるようじゃが。あやつとの間に何かあったのかや?」

 「…別に、何もないけどさ…。

 ただね…」

 レーテは真顔を作って語る。

 「なんか、胡散臭さをビンビン感じるんだよね…。

 『現女神』を目指す()達も受け入れて育ててるけどさ、それって成功しちゃったら、自分の敵を作ることになり得るじゃん? なんでそんなリスクを冒しているのか、フツーは気になるじゃん? 何か企んでるって、思うじゃん?」

 「ふむ。まぁ、一理ある話じゃがさ」

 渚は腕を組んだまま言い返す。

 「あやつは自分の口で、"慈母"としての性質柄か、『天国』の覇権などよりもヒトを育てる方に興味が向くと言っておった。わしもその言葉は、直接耳にしておる。

 それで別に、筋が通っておるとは思うのじゃが。

 仮に企みがあるとして、士師や信徒を得ることもせず、自らの敵とならないような予防線を張る事もせずに、どんな算段が有って何を無そうとしておるのか。サッパリ分からんぞ。

 わしは、単なる脳天気と見ておるがのう」

 「…ナギーの目は、絶対に節穴になってるよ。

 絶対に」

 レーテは堅い口調で語る。しかし渚は、柔らかい一笑を(もっ)てレーテの懸念を拭う。

 「もしも、本当に腹にイチモツ抱えておるのならば。その時は…わしが、ブッ潰す」

 言葉尻で、渚の笑みはギラリとした刃のものに変わる。

 その気概を以ても、レーテは完全には納得していないようだが。一言、こう忠告を残す。

 「取り敢えず、手放しに信用するのは止めた方が良いよ!

 都合の良いところを利用する分には問題ないけどさ! それに浸かり過ぎて腑抜けになっちゃダメだからね!」

 「分かった、分かったわい」

 渚は苦笑しながら答える。レーテと話すと、必ずしつこいくらいにこの話題が出てしまうので、少しウンザリしているのであった。

 

 …それから2人は、別れの挨拶を交わしあうと、通信を切断したのであった。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 時刻は、日付が変わった直後の頃の深夜。

 他の都市国家に対して、比較的に光害の少ないプロジェス――急激に復興が進んでいると云っても、インフラがまだまだ整っていない被害地域は多いのだ――であるが、空には雲が多い所為で星の光は(ほとん)ど見えない。月も雲完全に覆われており、その宵闇の中の希望のようなその輝きは失われている。

 この情景には、怪異達の百鬼夜行が相応しく見える。

 そして実際、この閑寂として時刻下にも関わらず、ざわめき動く者共が集う集会が行われている。

 しかし、そこに集うのは怪異などではない。かと言って、深夜を寄る辺とするような怪しげな黒ローブの集団と云うワケでもない。

 彼らの格好は、さすがに地味な寒色を貴重として衣装であるが、街ですれ違っても何ら違和感を覚えないような"ヒトビト"である。

 

 彼らが集う場所は、プロジェスの最外縁地域。市壁に非常に近い地域にある、都市国家(としこっか)の発展に取り残されたような、古くて閑散とした"元開拓村"と評するに相応しい住宅地。その中心部にある、教会の中である。

 この住宅地、"陰流の女神"が侵攻を開始した箇所とは、ほぼ真逆の方向にある。故に、『女神戦争』の被害は殆ど受けていない。それにも関わらず古びた町並みをしているのは、そこに住む住人達がわざと"愛着ゆえに"再開発を拒んでいるからだ。

 一体、この場所が何なのか。何故(なにゆえ)愛着を注がれているのかと言えば。ここはプロジェスに"夢戯の女神"が降臨する以前、エノクとその恩師が活動の拠点としていた住宅地なのである。

 この教会は、エノクの元の宗教である"メジャナの瞳"のものである。

 元々はエノクとその恩師の2人で建てた()()て小屋であった。そこへ、彼ら2人の貢献に心を打たれた有志によって建て替えられたものである。

 内装は質素なものだ。建築に関わったものに、芸術的なセンスを持つような設計者や技術者は居なかったのだから。窓は一般の住宅と同じようなものだし、壁紙も質素な白色無地のものである。

 辛うじて飾りと呼べるものは、簡素な祭壇の後ろに立つ、"メジャナの瞳"のシンボルだ。と言っても、打ち立てた柱の頭の方に、ポツンと眼のマークを描いただけのものである。他宗教との混合に極めて寛容な"メジャナの瞳"らしい、主張の大人しい(たたず)まいである。

 内装は簡素と言っても、清掃はキッチリと行き届いている。近隣住民が未だにエノクらへの敬意を払い、綺麗に手入れを続けているのだ。この教会は今では、この地域の集会場として親しまれている。

 

 この集会場に現在、集まるヒトビトは近隣地域の住民ばかりではない。プロジェス中から集まってきた者達も多分に含まれている。

 彼らの眼は皆、暗くて鋭い。その眼差しだけで、飛ぶ鳥を刺し殺しそうな程に険しい。

 彼らが視線を注ぐ祭壇の隣には、元々の主であったエノクが立っている。集まった人々の険悪はエノクに刺さっているかと思いきや…そうではない。そもそも、視線は彼に集まってはいない。

 真に痛々しい視線を集めているのは、祭壇の上。不敬にも、その上にゴロリと寝転んでいる、教会にはあまりにも不釣り合いな派手な格好の男。

 燃えるような真紅の髪を長く伸ばし、髪からのチラリと除く耳にはジャラジャラとピアスが並んでいる。着込んだ衣装は漆黒を基調としているものの、ヴィジュアル系バンドのミュージシャンのように騒がしい金具飾りが、耳に勝るとも劣らぬ密度で散りばめられている。

 「ふぁーあ~…」

 男は険しい視線もどこ吹く風、暢気(のんき)に大きく欠伸(あくび)をすると。(にじ)み出た涙を人差し指で擦り拭いながら、眠たげに語る。

 「もうこれ以上ヒトも増えないようだしよ。

 ちゃっちゃと始めますかね」

 男がそう口を開いた、直後。

 「その前に…だッ!」

 集まったヒトビトの中から、露骨な怒気を孕んだ声が響いたかと思うと。ヒトビトを掻き分けて、1人の人物がズカズカと大股で現れる。

 濃いダークブラウンのジャケットにグレーのジーンズを身に着けた、大柄な男である。衣服の上からでも分かる筋骨隆々の体格に、それに見合うような厳つい顔立ち。(もだ)しているだけでも鉛のような圧力を持つその顔が、今は灼熱を帯びたかのような憤怒に満ちている。

 この男の名は、マキシス・ミールガン。市軍警察の衛戦部の現役軍人であり、元は"竜騎の士師"として名を馳せた人物である。

 「佇まいを直せ、ザイサードッ!

 貴様がこの都市国家(プロジェス)の者でないことは十二分に承知している…だがッ!

 これより神聖なる計画を話し合おうと言うのに、何たる不敬な態度かッ!

 状況を鑑みて、行動しろッ!」

 ザイサードと呼ばれた赤の長髪の男は、マキシスの噴火の如き叱咤(しった)を受けても、全く動じない。眠たげに瞼を半分閉じて、ヒラヒラと手を動かしながら、(なだ)めるよりも(あお)るような調子で語る。

 「大丈夫、大丈夫。気にしなさんなって。態度と成果は比例しねぇモンさ。

 仮にオレが七三分けのブランドスーツに身を包んだド真面目ビジネスマンを演じた所で、結果が良くなるワケじゃなし。

 いや…むしろ、無駄な所で気を遣う分、成果が悪くなるんじゃねぇかなぁ?」

 「そういう事を言わんとしてるワケじゃないッ!」

 マキシスは血が滲むのではないかと言うほど拳を握り込みながら抗議する。

 「別にそこまでの事を求めているワケではないッ!

 単にオレが言いたいのはッ! ここに居る皆が、神聖なる我らがニファーナ様の事を想い集っていると言うのにッ! 貴様の不敬な態度で気概が()がれてならんと言うことだッ!

 貴様もプロフェッショナルなら、時と場合を考えて行動しろッ!」

 するとザイサードは、言葉が耳五月蠅(うるさ)かった事を主張するように、人差し指で耳の穴をほじくり回すと。爪先にフッと息を吹きかけてから、ニヤリと笑ってマキシスの憤怒の表情を見上げる。

 「プロだからこそ、力抜く時に抜いてるだけだ。ここで気張ったところで、何のメリットもねぇじゃんか。

 …それによぉー?」

 ザイサードは目を細め、マキシスに刺々しい反撃の視線を送る。

 「神聖だ、神聖だと言ってる割にゃあ、呪詛なんてモンに頼ってンじゃねぇか。

 そっちの方が、よっぽど不敬なんじゃねーの?」

 この煽りに、マキシスがキレる。肉食獣のように歯茎を剥き出しにして全身に力を込めると、大きな拳を握り締めてザイサードの顔面目掛けて繰り出す。

 軍人として戦闘訓練を受けているマキシスは、身体(フィジカル)魔化(エンチャント)の技術を相当な水準で身に着けている。術言(チャント)無しで一瞬にして全身の筋力を強化した彼の一撃は、暴風を(まと)う凶悪な一撃だ。

 対するザイサードは、祭壇の上で寝転んだままだ。しかも、ニヤニヤした笑みを消しもせず、慌てもせず、防御行動すら取ろうとしない。マキシスの一撃は常人では反応不可能であるが、このザイサードも単に反応できないのか。それとも…余裕綽々なのか。

 魔化(エンチャント)によってチリチリと電光を纏う拳が、もうすぐザイサードの腹部深くに刺さる――その直前。

 バシィッ! 空気が破裂するような音が響き渡り、教会を空気をかき乱す。集った者達が、頬を吹き抜けてゆく烈風に目を見開く。

 拳は、ザイサードの体に激突してはいない。代わりに、横から介入したエノクの掌に激突している。

 凶悪な一撃を受け止めたエノクの素手であるが、内出血も腫れも見いだせない。昔から力作業を繰り返してきたゴツゴツの掌は、嵐にも動じぬ岩石のようにマキシスの一撃を静かに受け止めている。

 エノクは士師になる以前から、発展途上のプロジェスにおいて、魔法性質を持つ野生生物との戦闘をこなしていた人物である。彼の戦闘技術は、職業軍人に引けを取らないであろう。

 「落ち着いて下さい、マキシスさん」

 エノクは怒るでも呆れるでもなく、ただただ真摯な視線を向けて、淡々と語る。

 「ここで争って傷ついては、本当に何の益も生みません。

 我々は、これから待った無しの大事な仕事が待ち受けているのです。

 些事(さじ)は捨ておいてください」

 「些事だと!?」

 マキシスは火を噴く視線でエノクを睨む。

 「我らが『現女神(あらめがみ)』に対する敬意を、些事と言い捨てるのか!?」

 「はい。敬意やら態度など、砂礫に等しいものです」

 エノクの神父らしからぬ発言に、衝撃を受けたのはマキシスだけではないだろう。

 続けてエノクは、こう語る。

 「いくら敬意や態度を改めたとて、我らの『現女神』は再臨しません。

 どんな手段であろうとも――それが呪詛であろうと生贄であろうとも、確実なる再臨という結果を得る。それこそが、我らの唯一の大義です。

 だからこそ我々は、人道に(もと)る事も(いと)わず、行動しているのではないですか?」

 エノクの言葉は、マキシスに反論を与えぬ正論であったようだ。マキシスは口角を引き締めると、それ以上は言葉も重ねず暴力も振るわず、ただ強い足音を響かせて(きびす)を返して元の位置へと戻る。

 彼が集団の中に分け入ったのを見送ったエノクは、今度は寝転ぶザイサードを(いさ)める。

 「"戦争屋"殿。私達は確かに、あなたの力を頼りにしている。しかし、どうかそれを(おご)って、我らを刺激し和を乱すような真似はなさらないで頂きたい。

 これから控える大事を前にして、無為な遺恨をもたらしては、あなたの描いた計略とて瓦解してしまいましょう?」

 するとザイサードはヒョイと起きあがって伸びをしてから、祭壇から降りる。そして、ニマリと笑いながら片手で謝罪の格好を作る。

 「悪ぃ、悪ぃ。

 どうもオレは、性根が悪いもんだからよ。だからこそ、呪詛なんてモンの扱いに長けてるんだろうがな。

 確かに、"本来の戦争"前に依頼人と戦争しちまったら、元も子もないわな。反省、反省!」

 「ご理解頂き、ありがとうございます」

 エノクは礼をし、そしてこう付け加える。

 「あなたに暴れられては、我々は大事の前に全滅の憂き目を見てしまう」

 その言葉に、ザイサードはケラケラと笑うばかりだ。

 

 エノクとしては、笑い事ではない。

 このザイサードと云う男、エノクが例え士師であった頃に出会ったとしても、打破出来る自信は全くないのだから。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「さーて、ちょいと回り道しちまったけれど、サクサク本題行きますかね」

 ザイサードは軽快に語り始める。

 「結論から言うと、計画を早める。

 "拡散"作業はこれにて終了だ。で、第2段階の"転変"を、明日の…いや、もう今日か…の、昼過ぎに起こしまうことにする」

 ザイサードの言葉に、場がざわつく。その代表とでも言うように、1人の男が手を挙げる。禿頭に、短く鋭い金属製の角を2本生やした、粗野な雰囲気を持つオーガ種族の男性。元"武闘の士師"であるヴィラード・ネイザーである。

 「ニファーナ様へ集める信仰心は、どうすンだよ!? ニファーナ様には自発的に"再臨"して頂くってのが、本筋だったろうが!」

 「ゴメンなー、それ待ってる余裕ねぇンだわ」

 ザイサードは舌を出して肩を竦める。どこまでも軽薄な雰囲気の男である。

 「そりゃ、ニファーナちゃんが自発的に"再臨"してくれるのがベストだってのは、重々承知してるぜ?

 でもな、それを待ってる内に、折角"拡散"した信者どもが、みんなダメにされちまうんだわ」

 「…まさか、"チェルベロ"の奴らが、本格的に介入を始めたのか…!?」

 ヴィラードが苦々しく尋ねるが、ザイサードはヒラヒラと手を振って、「イヤ」と否定する。

 それでは何故に、とヴィラードは眉をしかめるが。ザイサードは頬を掻きながら言葉を続ける。

 「不幸にも、"チェルベロ"よりもっと面倒な相手がやって来ちまったのさ」

 名高い超異相世界間組織よりも面倒な相手とは何だ? 思い付かぬヴィラード、そしてその他の者達は首を捻ったり顔を見合わせたりする。

 そしてザイサードは、一拍ほど間を置いてから正体を口にする。

 「ユーテリアの学生どもで、『星撒部』って奴らさ」

 …学生? その言葉を耳にした者達は、表情をキョトンとさせたり、更に眉をしかめたりする。

 その中の代表格とでも云うように、1人の男が高く手を挙げる。

 地味な色の衣服に似合わぬ美しい金色の長髪を誇る、顔立ちの整った長身の男。色白の肌と先の尖った耳が、エルフ種族である事を物語っている。

 彼の名は、パバル・ナジカ。かつて"吟遊の士師"であった、プロジェスでも五本指に入る人気を誇る歌手である。

 ザイサードが発言を求めるよりも早く、パバルはよく通る澄んだ声で問う。

 「ユーテリアは聞いた事あるよ。"英雄の卵"を排出してる、地球有数の名門校だろう? 所属してる学生は文武に置いて非常に高い水準を有する事、並みの成人よりも余程高い能力を有する事も把握してるつもりだよ。

 でもさ、高々学生だよね? プロ中のプロの"戦争屋"である君が、危惧するような相手なのかい?」

 ザイサードはニヤリと笑う。それが余裕の表れかと思いきや…続く言葉に、皆が耳を疑う。

 「勿論、全力で軽快すべき相手だね」

 「それって…君が悲観的なだけなんじゃないのかい? そんな軽薄な態度には、すごく似合わないけど」

 パバルがヴィラードの無念を晴らすとばかりに毒を含めながら語る。しかしザイサードは全く機嫌を損ねずに、肩を(すく)めて嘆息する。

 「いやーさ、これが単なるユーテリアの学生だってだけなら、オレだって歯牙にもかけないよ?

 でもな、『星撒部』と来たら、別格さ。ありゃあ、ユーテリアのバケモノ部分を寄り合わせたようなモンだ。

 実はオレは、まだ接触したことがないんだがよ。同僚から聞いてンだわ、ヤバさをさ。

 何せよ…」

 ザイサードは溜めを作ってから、片眉を跳ね上げて凄みのある(わら)いを作り、続ける。

 「『現女神(あらめがみ)』とヤり合って、勝ちをもぎ取るような相手なんだぜ? それも、一度や二度の話じゃない。運だの偶然だのに助けられてなんちゃいない、純粋に地力がハンパないのさ」

 その話を耳にして、パバルは苦笑を浮かべて口を一文字に閉ざす。常識的に考えて、『現女神』を相手に勝ちをもぎ取れるような相手は、同じ『現女神』か、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の超武闘派かのいずれかだ。そこに、部活単位の学生の集まりが名を加えるなど、絶句しかない。

 「実際、『星撒部』どもには既にヤラかされちまってる。

 "チェルベロ"もほぼ手を離してたオレの呪詛を、1日掛けずに看破して、5つもぶっ壊されちまった。

 コツ捕まれちまったら、1日に百を越える呪詛が壊れちまうだろうし、"チェルベロ"に報告されたら本腰入れて捜査官の大群を派遣してこられちまう。

 そうなっちゃあ、今回の戦争はメインに入る前にオジャンってワケさ」

 集まった者達が、いよいよざわつき始める。顔には動揺と焦燥が浮かび、交わされる言葉には失意の調子が(にじ)む。

 「だーかーらーよーッ!」

 ざわめきを握り潰すかのように、ザイサードが声を張り上げる。集まった者達はピタリと言葉を止め、一斉にザイサードへと視線を注ぐ。

 「計画を早めンのさ!

 おっぱじめる前から戦争が終わっちまうなんて、依頼を受けた身として、何より"戦争屋"として! 我慢ならねぇからなぁッ!」

 「具体的には、どうすると言うのだ?」

 元"竜騎の士師"マキシスが堅い調子で尋ねると。ザイサードは嗤うように目を細めて語る。

 「ニファーナちゃんにゃ、今日明日中に、"再臨"してもらう」

 「!!」

 者共に衝撃が走る。彼ら悲願の達成が、なんと、すぐ目の前まで迫って来たのだから。

 しかし…手放しで喜べるほど、楽観的な者はこの中には存在しない。

 「大丈夫なのか!?

 万全を期す為に、ここまで足踏みのような地道な"拡散"を続けてきたのではないのか!?

 それを放り出して、今日明日などと云う短期間で、成功の見込みがあるのか!?」

 「勿論さ」

 ザイサードはケロリと答えてみせる。

 「ちょいと捻った方法だし、アンタら皆の力を借りなきゃいかんから、こうして集まってもらったワケだがさ。

 オレのプラン通りに動いてもらえりゃ、問題なく、ニファーナちゃんは"再臨"出来るぜ」

 「それほど早く実現出来るならば、何故、その方法を取らなかった!」

 マキシスが正論で責めるが、ザイサードは臆することなく、ヒラヒラと手を動かしながら弁解する。

 「まず、アンタの考えるところのベストを満たせない、ってのが1点だ。これは強制的にニファーナちゃんを"再臨"させちまう。その副作用で、ニファーナちゃんの性質がソックリそのまま変わっちまって、"ニファーナちゃんではない誰か"になっちまうリスクが大きいのさ。

 アンタらは、ニファーナちゃんだからこそ、信心を捧げて来たんだろ? ニファーナちゃんじゃなくなったら、本末転倒だろ?」

 確かに、元"士師"を初めとするニファーナ信奉者達は、昨今のニファーナの有様だからこそ、(した)い崇めているのだ。呪詛の影響で性格が改変されてしまい、もはや"ニファーナ"と呼べなくなれば…彼らの信奉がこれまで通りに存続するのか、彼ら自身でも保証できない。

 「それに、この方法を使うのには、起爆剤として予め、ある程度の量の呪詛を集めておく必要がある、ってのが2点目だ。

 アンタらの草の根的に"拡散"してくれたお陰で、ようやく最近になって、この方法が実行可能になったのさ」

 呪詛とは、人の負の感情から生まれるエネルギーと、それを蓄積して利用する技術の両方を指す。後者はより正確な用語として、"呪詛術"と呼ばれることもある。

 ザイサードは肩を(すく)めながら、言葉を次ぐ。

 「今に至っても、ニファーナちゃんの人格が改変されちまうリスクはまだまだ大きい。だが、折角ここまでお膳立てしておいて、放銃する前から瓦解されちまうとなれば、オレよりもアンタらがやるせないんじゃねーの?

 だから、ベストとは行かずとも、ベターで実現しようと思ったワケだよ。

 勿論、依頼人であるアンタらに主導権があるからな、オレの提案を突っぱねる事も出来る。だが、この状況に至ってはベストの実現は不可能だ、って事はハッキリ言っておくぜ」

 教会内に、沈黙が訪れる。誰もが葛藤を感じずには居られない――"再臨"に(こだわ)るか、慕うニファーナの人格に(こだわ)るか。

 「…一つ」

 ザイサードの隣で沈黙を貫き、立ち続けていたエノクが挙手して発言する。

 「貴方は、"リスクは大きい"と言っていた。しかし、"リスクが確実である"とは言っていない。

 ニファーナ様が強制的に"再臨"しても、そのままのニファーナ様で在り続けられる可能性は存在する、と云う風に解釈してよろしいのかな?」

 ザイサードは明快に首を縦に振ったが、苦笑を浮かべる。

 「それを期待しちゃいかんがね。

 まっ、呪いを頼みにしてる時点で、リスクは覚悟しなきゃならんよな」

 エノクは、ふむ、と呟いて顎に手を置き、数瞬考えた挙げ句。すぐに顔を上げて、キッパリと答える。

 「私は、ザイサードさんの案に従いましょう」

 「おい、そんなにアッサリ決めて良いのかよッ!?」

 ヴィラードが声を上げるが、エノクは躊躇(ためら)いなく首を縦に振る。

 「ここで諦めれば、皆の努力が水泡に帰しますから。何もやらないよりは、断然マシです。

 人格改変が起ころうとも、場合によっては矯正する手だてが在るかも知れません。

 そして何より」

 エノクの表情がピクリと動く。その一瞬、彼の表情に浮かんだのは、凍り付くような陰惨冷酷である。

 「今のままのプロジェスが存続して行くことを、私は絶対に許せない」

 その凄みに当てられたのか、はたまた、単に彼らも同じ意見を持っていたのか。どちらにせよ、一瞬の静寂を挟んだ後、教会内に「わぁっ」と叫びが響く。

 「やらないよりは、やる方が良い!」

 「ニファーナ様なら、きっと応えて下さる!」

 「惰弱な安寧にのさばるプロジェスを、殴りつけろ!」

 元"士師"達は誰一人として、その熱狂の渦に安易に飲まれはしなかったが。静かな態度で笑いを浮かべたり、首を縦に振ったり、腕を組んだりして、エノクの意見への同意を示す。

 話は満場一致で、ザイサードの提案の受諾で結論づけられた。

 途端にザイサードはニヤリと嗤うと、祭壇の後ろに回り込み、演説する如くに祭壇を両手で掴んで前のめりになり、大きく言葉を響かせる。

 「よっし!

 そんじゃーよぉ、これからのプランを伝えるぜ」

 ザイサードの妙に軽快な掛け声の元、集った崇拝者達は息を殺して、耳を傾ける…。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 明くる日のプロジェス。

 空は陽光が乱反射して白く輝く曇天だが、雨粒は降っていない。湿気を(はら)んだ生暖かい風が時折吹く、少々不快な天気である。

 とは言え、プロジェスの様子は、昨日とさほど変わったところはない。朝早い時間帯なので、流石にパフォーマー達が路上でどんちゃん騒ぎをしていることはないが、せっせと準備に取りかかっている者達は大勢居る。その合間を、通勤や通学に向かう人々が足早に通過してゆく。そんな光景は、現状のプロジェスでは日常茶飯事のものである。

 

 さて、星撒部の面々は、と言うと。

 学園から戻ってきた渚を含め、4人でソコソコのランクのビジネスホテルで一夜を過ごした後、朝から早速呪詛討伐に向かっている。

 ただし、討伐に臨むのは、(ゆかり)、ヴァネッサ、アリエッタの3人だけだ。渚だけは別行動である。

 昨日は呪詛の発見と対処に少々手間取っていた3人であったが。今日に至ってはすっかり手慣れたもので、蓮矢から情報提供された呪詛罹患(りかん)者達の元を次々に回り、スイスイと呪詛を無力化してゆく。

 アリエッタが流麗な剣舞で以て罹患者の精神を浄化して呪詛を引きずり出し、魔装(イクウィップメント)した紫が1、2撃を与えて呪詛を分解。呪詛から解放され、舌の傷が活性化して激しい流血が始まったところを、ヴァネッサが自作の霊薬(エリクサ)で快癒させる。

 この一連の行動が、まるで大量生産を行う工場の流れ作業のようにポンポンと進んで行く。

 「こうしてると、鎌鼬(カマイタチ)って妖怪の事を思い出しますねー」

 7件目の仕事を終え、罹患者の住むマンションの通路を歩く一同の中、紫が嘆息混じりで呟く。

 「カマイタチ…? ヨウカイ…? なんですの、それ?」

 ヴァネッサが目をパチクリと瞬かせて尋ねると、紫は悪気なく答える。

 「妖怪って云うのは、旧時代の地球におけるアジア件、とりわけ私の故郷における超自然知的生命体の迷信のことですよ。ほとんどは、自然現象や不幸な出来事、恐怖の対象などを生物化したものですけど。

 鎌鼬は、鎌を持ったイタチって云うそのまんまの姿をした妖怪です。3匹1組で、初めの1匹が人を転ばせ、2匹目が鎌で人の体を傷つけ、3匹目が薬を塗って痛みと出血を止める。そんなヤツです」

 「わざわざ傷つけるのに、治療するんですの?」

 ヴァネッサが眉をしかめて疑問符を浮かべる。紫は苦笑しながら嘆息する。

 「辻褄(つじつま)合わせですよ。

 鎌鼬って云うのは、認知しない内に痛みも出血もない切り傷が出来てしまう現象を説明するために出来た、架空の存在ですから。痛みと出血がない事を説明するための3匹目です。

 ちなみに、元となった現象は真空による肉体の切断だとか言われてますけど、私は恐らく皮膚のヒビ割れの事だろうな、って考えてますよ。真空であろうとも、血が出ないと言うのは可笑しいですから。

 …まっ、何にせよ、高々架空の存在ですから、生態についてなんて深く真剣に考えても無駄ですよ」

 その説明にヴァネッサが首を縦に振って納得していると。アリエッタがニッコリ笑いながら、「なるほどね」と同意する。

 「私が呪詛を転ばす…と云うか、引きずり出して、紫ちゃんが傷つける役で、ヴァネッサちゃんが治療の役って事ね。

 そう考えると、確かに、私達はその妖怪に似てるわね」

 「それで、そのカマイタチに似てるから、どうなんですの?」

 そう問われて紫はフッと(かげ)った薄い笑みを浮かべる。

 「特に、何ってワケじゃないですけど…。

 なんて言うか、あんまりにも流れ作業過ぎて…味気なさ過ぎると言うか…。ちょっとしたお遊びの想像でもしてないと、気が滅入るんですよね。陰気臭いところばっかり回らされてる、って云うのも一因なんでしょうけど」

 「確かに…天気もあまり良くありませんし…良い気分ではありませんわね」

 ヴァネッサが苦笑しながら同意する。

 呪詛の罹患者は(すべから)く、見るも無惨な程に荒れ果てた場所に潜んでいる。罹患者自身も自傷が激しい事が多く、目を覆いたくなるほどに痛々しい姿をしていることも多い。そんな有様を続けて7度も目にしていると、流石に心が苦しくなってくる。

 「まぁ、でも、私達がそんな皆さんを助けて――渚ちゃんの言うところの"希望の星を与えている"んですもの。堂々と誇らしく、清々しく考えた方が良いわよ」

 アリエッタが普段通りのニコニコ顔で語ると、紫は感心と呆気の混じったため息を、ハァー、と吐く。

 「先輩は凄いですよね、どんな状況でもそんなににこやかに対処出来て。

 …どうせなら、私よりナミトを連れて来て欲しかったですよ。あの()なら、どんなに陰気臭くても、ポジティブさを忘れないですからねー」

 「でも、調査と治療の両立の面から考えれば、紫ちゃんでベストだと思うわ。

 ナミトちゃんは、調査みたいな細々(こまごま)したものは不得手だもの」

 「調査、ですか…」

 紫は、ハァー、ともう一度ため息を吐くと、半眼の視線を遠くに投げて語る。

 「調査と言えば、それが本分の職務であるはずの蓮矢のおっさんはどうしたんでしょうね?

 学生の私達に対処を押しつけて、自分はデスクでヌクヌクしてるってワケですか?」

 アリエッタが紫の毒に苦笑しながら、答える。

 「蓮矢さんは、"チェルベロ"本部に報告がてら、増員要請をしてるはずよ。

 昨日の事で、この都市国家を騒がせている現象が人為的なものだと分かったワケだしね。

 "チェルベロ"が乗り出してくれれば呪詛への対処もしてくれるでしょうから、紫ちゃんの負担は減るわよ。それまで少し、頑張りましょう?」

 「…アリエッタさんって、素で優等生出来て、良いですね。

 私は育ちがひねくれてるモンですから、すぐ愚痴が零れちゃいますよ」

 「そんな、優等生ってワケじゃないわよ。私はただ、鈍感なだけよ。故郷でもよく"のんびり屋"って言われていたし」

 「…それにしても…」

 紫とアリエッタに、ヴァネッサがちょっと頬を膨らませながら入り込む。

 「役得なのは、渚ですわよね。

 1人だけ陰気臭いのから外れて、楽しく学校生活を溶け込めるんですから。

 わたくしも、興味ありましたのに…」

 すると紫は、間髪入れずにヴァネッサに堅く反論する。

 「役得なんかじゃないですよ」

 その紫の表情は、苦虫を噛み潰したような、嫌悪感がありありと見て取れる。

 「私は、感心してますよ。

 渚先輩みたいな偉大な方が、凡愚の集団と関わって無為の時間を過ごさないといけないワケですから。

 私なら、こうやって呪詛掃除してる方が何倍もマシです」

 「凡愚って…」

 アリエッタが苦々しい笑みを浮かべて、(いさ)めるように語る。しかし、紫はトゲトゲしい嫌悪感を引っ込めず、(しばら)く虚空をニラ見続ける。

 ――どうやら紫は、一般の学校に対して憎悪にも似た感情を抱いているらしい。

 その事に気づいたアリエッタは、ハッと口に手を置くと。慌てて笑みを作り直し、そして話題を変えるべくパンと手を叩いて話題を変える。

 アリエッタは、紫の抱えている事情について理解しているようだ。

 「えーと、早く次に回りましょう!

 苦しんでる方々がまだ居るワケですし! 呪詛をサクサクと退治して、この都市国家(まち)を明るくしましょう!

 そして、清々しくなったところで、おいしいランチをいただきましょう!」

 そしてアリエッタは紫の肩にポンと手を置き、彼女の足を進ませる。

 「さぁ、いきましょう、紫ちゃん。

 渚ちゃんは確かに、1人で頑張っているものね。私達も負けないように、頑張りましょう!」

 「…そうですね」

 紫は素直にアリエッタに従って歩き出すものの、その表情は暗いままである。

 2人の背中を見送るヴァネッサ、嘆息を吐いて、胸中でポツリと呟く。

 (仕方無い()ですわね…。

 と言っても、そうそう簡単に癒えませんものね…トラウマ、ってヤツは)

 そして数秒遅れて、ヴァネッサは早足で先行する2人を追った。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 バキンッ!

 響いた音は、黒板に接触したチョークが盛大に折れた事を示すものだ。

 「あ」

 渚はちょっと驚いて目を丸くしながら(つぶや)くが。すぐに気を取り直すと、折れて短くなった方のチョークを手に取り、チョークの腹を使ってわざと太い筆跡を作りながら、バシバシと盛大な音を立てつつバカデカい文字を描く。

 こうして黒板には、"立花渚"と云う名前が、盲目でない限りは誰の目にも飛び込んでくるような勢いで場を占領する。

 書き終えた渚はパンパンと手を叩き合わせてチョークの粉を払うと、黒板を背にして両脇腹に腕を置き、小振りながらも形の良い胸を突き出した姿勢を取って、声を張り上げる。

 「立花渚じゃ!

 先生の紹介通り、ユーテリアから交流留学しに来た!

 (しばら)くは世話になるゆえ、よろしく頼むぞい!」

 堂々と響きわたるお爺さんのような口調に、教室内の一同は――担任の教師を含め――苦笑を浮かべる。

 

 今、渚が居るのはプロジェスの都立高等学校、セラルド学院。その2年3組の教室である。

 プロジェスは歴史の浅い都市国家だが、このセラルド学院はその中でもかなり若い施設である。歴史や謂われに深みはない代わりに、設備はプロジェスの中でも比較的新しいものが揃っており、所謂"偏差値の高い高等学校"として知られている。

 とは言え、"怪物学校"であるユーテリアに比べれば、設備は非常に見劣りする。例えば、ユーテリアの教室には黒板はない。代わりに、2Dおよび3D表示が自在である液晶モニターが全教室に完備されている。また、成績面も全異相世界中から志高い"英雄の卵"が終結してくる時点で言わずもがな、である。

 校内および教室の造りは、かなり綺麗だ。コンクリート製の校舎は内外において壁にヒビは目立たない。床はよく掃除されてワックス掛けもされており、作業用暫定精霊(スペクター)を配備していなくとも清潔感に(あふ)れている。自国に対する愛着が強いプロジェスの気風が、こんなところにも現れているのかも知れない。

 教室の風景は、生徒の人種の多様性にさえ目を(つぶ)れば、旧時代の地球の光景がそのまま再現されたような感じだ。正面と背面に陣取った黒板。木製の引き戸で出来た出入り口の扉。これまた木製の面と、金属製の骨組みで出来たレトロな雰囲気の椅子。地味な緑色の壁紙で覆われた壁には、学校行事や委員会などの周知事項や勧誘などのプリントが、所狭しと画鋲(がびょう)で貼り付けられている。

 一方のユーテリアは、生徒は教室に対する帰属意識がないため、周知や勧誘のプリントが貼られていることなどない。周知事項や勧誘ならば優秀な通信端末、ナビットを介して共有されるだけだ。

 たまにアナログに(こだわ)った部活が勧誘ポスターを教室に貼ることはある。が、悲しいかな、ポスターは紙の日焼けが始まった頃、清掃用暫定精霊(スペクター)がゴミと判断して処分してしまうのだ。そんな有様なので、ユーテリアの教室は無味乾燥なまでに非常に清潔である。

 さて――渚はこんなレトロな教室にグルリと視線を巡らすと、(かぐわ)しい薫製(くんせい)の香りを胸一杯に吸い込むように、思い切り空気を吸い込む。

 但し、渚の胸中を満たしたのは、教室に充満する木の香りではない。

 (んー、懐かしいのう…!)

 渚はユーテリアに入学する前、出生の地である都市国家(くに)の中等学校を想い出に浸っている。

 渚の出身地はプロジェスより煌びやかに繁栄しており、学校の設備ももっと進んでいる。だが、生徒達から感じられる教室への帰属意識や、雑多な情報の乗った紙媒体に溢れている様などは、彼女の記憶の琴線に深く触れた。

 (ほんの2年程前の話じゃったはずが、何十年も昔のように思えてならんのう)

 まるで口調に見合うような年老いた者のような思考である。それほどまでに現在の渚は、ユーテリアの環境に適応しきっているのだった。

 

 朝のホームルームの終了から1時限目の開始までの間に設けられた、極々短い休み時間――学校は"準備時間"と呼んでいる――の間のこと。渚は即座にワッと生徒の大群に囲まれた。

 一般の学生の間でも"英雄を輩出する超エリート校"として名高く、非常に独特なカリキュラムが組まれている事も広く伝わっている、ユーテリア。憧憬と羨望の的たるその地から留学生が来たのだから、生徒達の好奇と興味が集中するのは無理からぬことである。

 地面に落とした飴に()くアリの大群のように、ひしめき合う生徒達は、てんでバラバラに口を開いて次から次へと質問を浴びせる。

 「立花さんって、地球出身なの!?」

 「どんな授業受けてるの!?」

 「どうやって入学したの!? 入学試験ってどんな感じ!?」

 「得意科目って何!?」

 「なんでウチの学校来たの!? 勉強のレベル低すぎて、ツマんなくない!?」

 「それ、ユーテリアの制服!? そもそもさ、ユーテリアって制服あるの!?」

 「面白い話し方だよね!? ユーテリアで流行ってるの!?」

 …等々。答える間もなく次々に雪崩(なだれ)込む大量の質問に、渚は口をモゴモゴさせながら苦笑することしかできない。

 (むうぅ…園児に囲まれた希少動物とは、こんな気分やも知れぬな…)

 渚は困って、胸中で刺々しい言葉を吐く。

 渚は元来、注目されているのには慣れている。『星撒部』として超国家規模の騒動にも首を突っ込んでいる身の上なのだ、好奇どころか嫌悪や嫉妬の視線を受けても動じない。しかし…こんな風に大量の同年代から質問攻めに合うのは、これが初めてである。

 (どうしようかのう…)

 黒板の上、天井近くにぶら下がった時計をチラチラ眺めながら、この混沌とした時間が過ぎ去るのを待っていると。

 「ちょっとちょっと、みんな落ち着くこう。立花さん、困ってるじゃないか」

 そう語りながら、人混みを掻き分けて渚の手前に立つ男子生徒が居る。やや線の細い体格に、眼鏡をかけた、生真面目そうな顔の男子である。その雰囲気に、渚はどことなく蒼治を思い起こす。

 その想起は的外れでなかったようだ。『星撒部』で常識的なまとめ役を買って出ている蒼治よろしく、男子生徒はクラスメイトのまとめ役のようだ。彼の登場に、生徒達は――不満は多少なりとも見受けられるものの――口を(つぐ)む。

 男子生徒は言葉を続ける。

 「そんなに一遍に質問したら、例え相手が旧時代の聖人、聖徳太子でも、返答できなくて困っちゃうよ。

 それに、1時限目はすぐに始まっちゃうからね。後の休み時間に、順番を決めて質問しようよ」

 「そんな事言ってさ、(しゅう)ー!」

 人(だか)りの中、明るい栗色のボブカットヘアの少女がジト目に意地悪な笑みを貼り付けて反撃する。

 「学級委員の特権だとか思って、立花さんと一番に仲良くなるつもりでしょー?

 この美樹ちゃんには、お見通しだよー!」

 美樹と自称した女子生徒に対し、秀と呼ばれた男子は悪びれなく微笑みながら答える。

 「仲良くなりたい、って気持ちがあるのは確かだよ。僕が目標にしてるユーテリアの現役学生さんだからね、色々話を聞きたいってのが本音さ。

 でも、今の言葉は、抜け駆けしたいとかじゃないよ。常識的に考えての話さ」

 「常識的、ねぇ~」

 更に食ってかかろうと言う気配を満々に漂わせる美樹であったが。彼女の肩にポンと手を乗せて制する、長身の女子生徒が居る。艶やかな黒髪を長く伸ばした彼女は、『星撒部』で言えばアリエッタのような落ち着きがあるものの、彼女と違ってどことなく男性的な雰囲気がある。

 「美樹、秀の言う通りだよ。

 こんな短時間にがっついても、立花さんには迷惑だし、次の授業で先生に迷惑をかけるだけだ」

 「ナセラちゃんはホント、優等生だよねー」

 美樹は肩を(すく)めて嘆息したものの、ナセラと呼んだ女子に楯突くことなく、大人しく言動を慎む。

 「仕方ない、次の休み時間にたっぷりと! 立花さんの事、聞かせてもらうからねー! 覚悟しなよー!」

 「う、うむ。一遍に質問されなければ、大丈夫じゃ…変な質問はNGじゃがな」

 「変なって…例えば、えっちぃ質問とか?」

 美樹が言った途端、ナセラが軽い握り拳を作ってポカリと頭を叩く。さほど力を込めてはいなかったようだが、中指の間接を立たせていたので、鋭い痛みが走ったようだ。美樹は頭を抱えて「おおお…」と呻きながら、屈み込む。

 そんな彼女の襟首を掴んでズルズル引っ張りながら、ナセラは渚に苦笑を投げる。

 「すまない、この美樹はゴシップ屋だからな。放っておくと、下着の数まで聞いてくるんだ。

 根は悪い娘じゃないから、ひねくれた愛情表現だと思って、勘弁してあげて欲しい」

 「うむ、心遣い感謝するぞい。わしは気にしておらぬから、気にせんでくれい。

 …ところで…」

 渚は席から立ち上がり、キョロキョロと教室内を見回しながら語る。

 「この教室に、ニファーナ・金虹と云う娘は居らぬか?」

 「ニファーナ!」

 その名を聞いた途端、美樹が復活する。ナセラの手を素早く逃れると、渚の間近に寄って、嬉しそうに声を上げる。

 「流石はユーテリアの生徒! やっぱり気になるのは、ニファっちのことかぁ!

 そーだよねぇ、ニファっちでも居なけりゃ、こんな片田舎の都市国家(まち)になんて来るワケないよねぇ!」

 「いや、そんな事は…」

 渚がフォローするよりも早く。美樹は人混みを掻き分けて隙間を作ると。

 「ホラ、あそこだよ!」

 と、指を差す。

 美樹の細い指先が差す先に居るのは――机に座ったまま、突っ伏して寝ている1人の女子生徒である。但し、次の授業の準備はしっかりしてあり、顔の横には教科書とノート、そして筆記用具がキチンとまとめられている。

 寝ているので顔は見えないものの、細くて運動的でない体つきや、気の抜けた風船のような雰囲気は人目で伝わってくる。

 「ほほー。あの娘が、のう」

 渚は落胆するでもなく、淡々と納得して首を縦に振る。

 渚は女神の座を失った者を幾度も見たことがある。彼女らの有様と比較して、ニファーナの姿には目を見張るものは特にない。

 強いて言えば、"比較的元気そうだ"、と評せられる。なんたって、女神の座を失った者は、強大な力を喪失したショックで(ふさ)ぎ込んだり、女神時代の鼻高な態度を妬まれて、ここぞとばかりに仕返しされてしまい失意の底に陥っている者が多いのだから。

 対してニファーナの寝姿からは、暢気(のんき)な気配しか感じ取れない。早朝の眠気をそのまま引きずって、今にも夢の世界に入りそうな、無防備そのものの背中である。

 「呼んで来ようか?」

 美樹が渚の返事を待たず、ニファーナへと小走りで駆け寄ろうとした、その瞬間。教室内に間延びしたような音のチャイムが流れる。1時限目開始のチャイムだ。

 同時に、扉のすぐ外で待ち構えていたとしか思えないタイミングで、グレーのスーツをキッチリと着こなした、眼鏡をギラリと輝かせた男性教諭が入室してくる。

 「早く席に着けー、留学生が来ていようが何だろうが、授業は平常通りなんだぞー」

 外観に比べて案外フレンドリーな言い方で教諭が声をかけると。美樹を始め、渚の周囲に集まっていた生徒達は蜘蛛(くも)の子を散らすようにそれぞれの座席に着く。

 一方でニファーナは…ぐっすりと眠りこけていたらしい。隣の女子生徒に肩をトントンと叩かれると、のっそりと顔を上げて授業に参加するのだった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 魔法科学は地球に様々な恩恵をもたらしたが…一方で、学生達は大きな負担に苛まれることとなった。

 その負担とは、理系科目の必修事項の激増である。

 魔法科学は"科学"の名を冠する通り、教育の場においては理科として扱われる。その理論体系は非常に複雑であり、その理解には高等数学が不可欠である。

 例えば、暫定精霊(スペクター)が有する疑似魂魄の成長システムは、数列や総和、積分を用いなければ設計の第一歩すら踏み出せない。疑似魂魄の定義自体を自由にデザインするとなると、旧時代では存在し得なかった"独立した計算体系を結合した異形の数式"『複素則式』と云う極めて難解な定義式を理解しなければならない。

 根元の理解を棚上げにし、"主要な"現象の暗記を行うだけの教育にしても、その"主要"にしても莫大な量がある。大抵の生徒達は、絶望のどん底に叩き落とされてしまう。

 そんな地球の教育事情なものだから、都市国家によっては理系学科を選んだ生徒達が文系科目を丸々カットしてしまうようなカリキュラムを組まれるような事もある。

 このプロジェスの場合、教育課程における文系科目の比率は小さい。都市国家の発展を方針においてきただけに、発展に直接関わる魔法科学への理解を優先するようにしているのである。

 お(かげ)で、セラルド学院を初めとする高等学校では、時間割の8割を理系科目が占有している。

 そしてこの日の1時限目の授業は、学生からの不人気度ナンバー1科目である、"複素則式学"である。

 

 複素則式学の普段の授業風景は、(おおむ)ね気怠いものである。

 理解のみならず実践も出来れば、将来有望な学問であるにも関わらず、その難度故に生徒の大半が理解を捨てている。その気配を察知している教諭はやりがいを持てず、"如何にテストで何とか点数を取らせるか"と云う点のみに終始気を使う、消極的な授業を展開する。

 とは言え、生徒の中にはこの学問にしっかりと食いつく者達も居る。彼らはこの授業時間になると、"待ってました"と言わんばかりに得意げな態度を取る。そして、"今の魔法科学の時代の適応者なのだ!"と誇らしげな態度を取りつつ、教諭に質問を繰り返し、優位性をアピールしてみせる。

 教諭はやりがいを引き出してくれるこの手の生徒を、勿論歓迎する。だから、他の"一般的な"生徒を置いて、一部の生徒との質疑応答に授業時間の大半を裂くこともある。この間、置いて行かれた生徒達は、睡魔と戦うか、別の科目の勉強に励むばかりである。

 このような授業風景は、プロジェスだけでなく、地球上の大抵の都市国家で問題視されているものである。

 

 …それはさておき。今日の複素則式学の授業の光景は、一風変わっている。

 その特異点はやはり、地球最高のエリート学校ユーテリアからの留学生、立花渚の存在である。

 生徒のみならず、教諭も彼女に好奇の視線を注ぐ。

 (…"英雄の卵"たる英才教育を受けているユーテリアの生徒が、一体どれほどの実力を持っているのか?)

 渚はそんな好奇の気配を感じ取っているのかも知れないが…緊張する様子は全くない。むしろ、暢気(のんき)そのものだ。

 留学に際して昨日から今日までしか準備時間が無かった彼女は、セラルド学院での教科書一式を揃えることが出来なかった。そこで、隣に座る女子生徒―― 凛然とした態度が目を引く黒髪ロングの女子生徒、ナセラである――と机を合わせ、教科書を見せてもらっている。

 ナセラは美樹から"優等生"と呼ばれているだけあって、この授業を捨てるような真似はしていない。ただ、得意ではないようで、渚に教科書を見せる時に頭を掻きながら恥ずかしがっていた。

 「この教科、私には難しくてね…見苦しい態度を、見せてしまうかも知れないから…恥ずかしいな」

 そんなナセラに渚はニカッと笑い、ヒラヒラと手を振っていた。

 「気にせんで良い良い!

 手を焼かせる学問じゃと云うことは、わしも充分しっておる。

 それに、ウチの学校でもこの教科を嫌う生徒は多いものじゃ」

 「へぇ…そうなんだ…」

 ユーテリアであっても、一般の学校と同じくこの教科を嫌う生徒が多い事に意外性と安堵を感じ、目を丸くしながらも微笑みを浮かべる、ナセラであったが…。

 すぐに、その表情はソワソワとした好奇心に変わってしまう。

 渚は、"ユーテリアでも嫌う生徒は多い"と言及したが、"自分もそうだ"とは言っていない。となると、むしろ得意としている可能性すらある。

 "非常に高度"と聞くユーテリアの授業ですら得意としているのならば…凡庸な高等学校であるこのセラルド学院では、一体どんな態度で授業を受けるのだろうか。

 (気になっちゃうな…)

 ナセラは渚の机にチラチラと視線を走らせ、開かれたノートの中身を眺めてしまう。純白のページには、一体どれほど丹念なメモが記されるのであろうか?

 「それでは、今日は一昨日の続きから。火霊のような攻撃的本能の強い魂魄定義を持つ暫定精霊(スペクター)を、如何にして作業用のように穏やかな性質へと変化させるかについて…」

 教諭が黒板に向かい、コツコツと音を立ててチョークを操りながら、式を描いていく。その挙動の最中、教諭の顔が難度もチラチラと教室の方へと向けられる。

 彼の視線が向かう先には、勿論、渚が居る。

 (ユーテリアは下手な大学より、よっぽど高度な授業を行ってると言うからな…ミスった教え方して、指摘されるのは勘弁だな…)

 そんな緊張感を抱える教諭は、肩に鉄の竿でも入っているかのような、ぎこちない動きで記述を進める。

 一方で、彼の胸中には、渚に対する好奇心も同居している。

 (授業の後半で、小テストでもして、実力を計ってみようかな…)

 そんな事を考えながら、授業はぎこちなく進んでゆく。しかし、大まかな進行は普段と変わりない。問題について生徒を指名し、その場に立たせる、もしくは黒板まで来させて回答させる。そんな事を難度か繰り返す。

 "生徒を指名"とは言うものの、教諭が選ぶ生徒はほぼ決まっている。明らかに気怠く授業を受けている者を指名しても、「分かりません」と即答されるに決まっている。なので、頑張って理解しようと努めている者か、得意げに授業を受けている者しか選ばない。

 この2年3組において、この授業を得意としているのは、男子の学級委員長たる秀。そしてもう1人、明るい青の短めに切り揃えた髪を持つ女子生徒、(ジエ)凜明(リンミン)である。

 特に凜明は、教諭のお気に入りらしい。かなり難解な問題について、3、4人の"かませ犬"を指名した後、満を持したかのように凜明を指名すると。彼女は自信満々にスクッと立ち上がり、黒板に向かう。そして、長大で複雑な複素則式を綺麗な字体でスラスラと描いて見せる。

 「どうでしょうか?」

 と教諭に尋ねる時の彼女の表情は、"間違ってるワケがないんですけど"と露骨に訴えている。その自信の通り、教諭は深く(うなず)いて、力強く「よく出来たな、正解だ」と語るのであった。

 そんな授業の中を、ナセラは口をへの字に曲げながら、必死にノートを取り続ける。その合間に、チラリと渚の方へと視線を向けると…ギョッとして、絶句する。

 渚は、開いたノートに1文字を描いていない。ただ腕組みをして、黒板に視線を注いでいるだけだ。

 (まさか…苦手なのか…?

 いや…それにしては自信満々だな…。そすると…やっぱり、レベルが低過ぎるのか…?)

 ナセラの疑問は、彼女だけのものではなかったようだ。教室を一望する教諭も渚の真っ白いままのノートを確認し、眼鏡の縁に一筋の汗を垂らす。

 (ユーテリアの生徒とは言え…今は私の生徒だからな。学力把握の為にも…ちょっと、試してみるか)

 そこで教諭は、今度の問題について渚を指名する。

 「えーと、立花さん。

 次のページの演習問題B、黒板に来て解いてもらえるかな?」

 「分かりました」

 渚は普段の独特の口調を捨てて、スッと起立すると。そのままスタスタと黒板へと向かう。

 「あの、立花さん…教科書…」

 ナセラが背中に向けて言葉をかけると。振り向いた渚はニッと笑ってこめかみをトントンと叩き、「覚えとるから大丈夫」と答える。

 この振る舞いに、生徒のみならず教師もグッと固唾を飲む。

 複素則式学の教科書に記載されている問題文は、難度を考慮して、非常にシンプルな文章である事が多い。"云々という機能を実現する暫定精霊(スペクター)の定義式を示せ"と云うものが大半で、国語的にいじわるな文章が使われることも少ない。故に、丸暗記するのに大した労力を使うことはないだろう。

 しかし、問題文はシンプルと云えども、解法は難解である。優等生であっても、解法のヒントがふんだんに記載されている教科書が片手にないと、不安を覚えるような科目だ。それなのに渚は、手ぶらの身一つで黒板に向かうのだ。

 勇敢と云うよりも、無謀と云う言葉が生徒達の頭の中に浮かぶ。

 生徒達の好奇と不安の視線を背に受けながら、渚は飄々(ひょうひょう)とチョークを掴み、黒板と向き合うと。ふと、動きを止めて数秒間固まる。

 ("やっぱり解けません"、とかだったりして…)

 そんな事を脳裏に浮かべたのは、お喋り屋の美樹である。そして、それがもしも本当ならば滑稽に過ぎると、思わず苦笑を漏らす。

 しかし、美樹の予想は大いに的外れとなる。

 「先生」

 渚は教諭の方へ向き直り、尋ねる。

 「教科書を見た限り、精度は第3項までのようですが。それで回答すると云うことで、よろしいんですね?」

 生徒達は眉を(ひそ)めて胸中で呟く。

 ("精度"? …それって、何?)

 一方、教諭は"ほぉ"と歓声をあげそうになる。

 大学にて複素則式学を収めた身の上、高等学校の教科書に記載されている式が非常に粗い近似でしかない事を理解している。

 そして、可能な限り厳密な定義を記載するには、恐ろしく難解な記述を用いる必要があることも、重々理解している。

 (流石はユーテリアの学生、大学進学していなくても、その辺りの事情は理解しているのか…)

 ここで教諭は、更に渚を試してみることにする。

 「じゃあ、立花さん。あなたが出来る限りの高い精度で、この定義式を記載してみて下さい」

 これで、彼女の実力が分かろうと云うものだ。

 要求された渚は、黒板に視線を戻して暫し睨めっこした後。もう一度教諭の方へ振り返る。

 「後ろの黒板を使っても良いですか?

 全部書くには、黒板消さないといけないので…まだノートを取り終えていない人には迷惑でしょうから」

 「ええ、どうぞ」

 教諭はニッコリして語る。確かに、厳密な定義を記載するには、かなり長い式を記述する必要がある。

 渚は生徒達の驚愕の視線を受けながら、スタスタと後ろの黒板に歩み寄ると。今度はボキンとチョークを折ることなく、綺麗な筆跡でコツコツと音を立てながら定義式の記述を始める。

 

 …やがて、教諭は自身の提案を後悔することになる。

 

 教諭は初め、暗闇の中でようやく同士に巡り会えた深海魚のような笑みを浮かべて、渚の様子を見守っていた。

 一般の高等学校で教えている第3項を軽々と超え、8項目に差し掛かった際に平行四辺形を描くように4叉に分岐した時など、大きく(うなず)いてしまう。一般の高等学校では初歩にして比較的簡単である2叉分岐までしか扱わない複素則式学独特の式記法にして難関の1つ、"眺望(サイテッド)"である。これをサラリと書いてのけた手腕に、思わず舌を巻いたのだ。

 (流石はユーテリア。高等学校の枠ではとてもじゃないが収まらないな)

 さて、教諭が収めた学士過程において把握している、この問題における式の項の数は15である。渚はそこまで迷うことなくスラリと書いてみせる。

 しかし、そこでチョークの動きは終わらない。スラスラと、16項目へと突入する。

 途端、教諭は眉を(ひそ)め、こめかみに一筋の冷や汗を流す。

 完全に未知の領域である。ここから先の項が何を表すのか、全く把握出来ない。

 (え…何、これ…大学時代の研究室でも、こんな事やってないぞ…)

 学院内における複素則式学の権威として、面子が丸潰れになる事態に直面し、教諭はソワソワし出す。

 渚は20項において、もう1つの複素則式学の独自記法、"凝態(フォームド)"を使用する。これは演算子を複数の式を用いて描画するもので、演算の過程において構成因子たる式が干渉し続ける事を示すものだ。高等学校では普通習うことのない、超絶複雑な公式である。

 これを経て、渚の指がようやく終わったのは、第23項を書き終えた時のことである。これによって、黒板の大半が埋め尽くされてしまった。

 「ふぅー、チョークで黒板に書くなど久しぶりじゃからのう。ちょいと疲れたわい」

 パンパンと手を叩いてチョークの粉を落としながら、渚はそう呟いた後。クルリと(きびす)を返し、ニカッと教諭に笑みを向ける。

 「どうですかね?」

 "どう"と問われて、教諭は答えに窮する。完全に未知の部分が含まれている式について、正しいかどうかの判断を下せるワケがない。

 かと言って、生徒達の前で「分かりません」と答えるのは沽券(こけん)に関わる。

 しかしながら、知ったかぶりをして渚から何らかの同意、もしくは議論など求められてしまったのなら…恥(さら)しの上、生徒の信頼まで失ってしまうことだろう。

 そこで教諭は、はぁー、と深く溜息を吐いた後に、白旗を示す諸手を挙げる。

 「…すまないね、16項目以降に見識がなくてね、正解かどうか判断できないんだ…。

 申し訳ないけれど、ちょっと解説してもらえるかな…?」

 情けない台詞だな、と教諭は凹んだが。生徒達は教諭のことを嘲るよりも、渚の書き出した壮絶な式に圧倒され、ポカンとするばかりである。

 さて渚も、教諭を"力不足"と(さげす)むこともなく、屈託ない笑いを見せる。

 「16項以降の部分は、最近5年程に追加されたとの話ですからね。研究者でない先生が分からないのも、無理はないと思いますよ。

 それじゃあ、解説しますけど…3項より先から話します? それとも、16項目以降からで良いですか?」

 「えっと…生徒(みんな)の後学のためにも、4項以降からで、お願いするよ…」

 「分かりました」

 ここまで敬語口調だった渚であったが、その先は普段の独特の口調に戻って語る。

 「3項目までは、教科書に書いておる通りじゃな。暫定精霊(スペクター)の構成因子を基本的な4元素であると云う前提で出発した場合の、諸々の制御式がある。

 さて、4項目から先は、4元素構成では考慮できず、精度が著しく低下してしまう部位の要素を補うものじゃ。

 補うと云っても、それは言葉通りの"補助"の意味ではない。例えば、8項における4叉の眺望(サイテッド)は、低精度を求めるにしても非常に重要な部分じゃ。この4体系における平衡がなければ、予め補正されていない、まっさらな火霊においては容易に術失態禍(ファンブル)を起こしてしまう。

 おぬしらが実技で使用しておる暫定精霊(スペクター)の雛形は、この8項目を考慮せずとも良いように加工されておるわけじゃ。

 さて――」

 渚はスラスラとつっかえることなく解説を行うが――生徒達の大半は理解を放棄し、渚の実力に呆然としたり、睡魔に襲われたり、周囲を見回したりするばかりだ。

 超高等学校級の桁外れの知識は、一般生徒にすれば正に馬の耳に念仏である。

 たっぷり10分ほどかけて式の内容の説明を終えた時…付いてこれたのは、教諭に秀、凜明と他3名ほどだ。後は白旗を挙げてグッタリしている。

 「――ところで先生。この問題なんですけど」

 説明が終わってなお、渚は教諭に話す。教諭は学士の知識で以ても理解仕切れぬ部分に眉を(ひそ)めていたが、ハッと我に返り、裏声になりながら返事する。

 その実に情けない姿にも特に反応を示すことなく、渚は言葉を続ける。

 「高等学校教育では広く練習問題として使われていますが、複素則式学に詳しい友人曰くには、3項目の時点で重大な欠陥があるため問題として不適切だと言うことなんです」

 「あ、そうなんですか?」

 教諭は返事するものの、大学時代にはそんな議論を聞いたこともないので、寝耳に水と言った感じで聞き返す。

 渚は首を縦に振ってから、話を続ける。

 「ここの乗算演算子なんですが、凝態(フォームド)とするべきらしいんです。こんな感じで…」

 渚は黒板の残り少ないスペースに、式を書いてみせる。

 ここで教諭は少し元気を取り戻す。3項目までの議論ならば、研究職でなくとも学士の知識で充分判断が出来る。

 「その式では、プレゲトン面が非常に不安定になりますよね? 術失態禍(ファンブル)につながるエネルギーの急激な不連続起伏が不規則に分布してしまうと思います。

 そもそも、初めの式でいけない理由が分からないのですが」

 「単純な乗算の式の場合、どうも火霊の振る舞いの一部が説明つかないそうなんです。

 この式だと、確率的なエラー行動と思われていた火霊による一時的な急性休眠が説明付きます。不規則分布するエネルギーの不連続起伏と、急性休眠が重なります。

 実際、急性休眠後に術失態禍(ファンブル)が発生する事例の報告もありますしね。

 これを吸収するためには、24項と25項による補正が不可欠だそうです」

 「それが本当だとしたら…学会に発表すべき内容ですよね…?」

 「はい」

 渚は首を縦に振り、そして苦笑を浮かべる。

 「論文は公開済みで、いくつかの学会で議論になっています。旗色は良いようですけどね。

 …ただ、この事象を指摘した友人なんですが、どーにもぐーたらなヤツでしてね。論文も説得しまくった果てに、ようやく発表したんですよ。

 あやつはもう少し、自分の才能を表現すべきですよ」

 「は、はぁ、そうなんですか…」

 教諭は生返事することしか出来ない。学会を揺るがすような論文を提出するような学生さえ在籍しているとは、想像は出来ても、こうして実例を聞かされると雷を撃たれたような衝撃を受けるのを避けられなかった。

 さて、教諭まで呆けてしまった今、渚は教室全体を覆う茫然たる雰囲気にハッとして、後頭部を掻きながらヘラヘラと苦笑いを浮かべる。

 「あ、と、とにかく、この問題はこれで終わり…じゃな!

 せ、席に戻りますゆえ!」

 渚は逃げるように小走りで席に戻る。

 (…やり過ぎてしもうたか)

 そう後悔する間、教室内はしばらくポカンとした空気のまま無為の時間が過ぎてゆくのであった。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 3

 ◆ ◆ ◆

 

 1時限目の後も、渚の過剰なまでの快進撃は続く。

 どの科目においても教諭達は渚の実力に好奇を抱き、機会とあらば難しい問題へ挑戦させるのであるが。渚はいつでも涼しい顔でスラスラと答える。

 時には、1時限目の時のように超高等学校級の知識を駆使して、教諭が目を丸くするような解法で問題を解決してみせる。

 それを目の当たりにした教諭達は、誰もが肩を縮こませながら苦笑し、胸中で呟くのである。

 (…こりゃ、英雄の卵ってより、孵化(ふか)した怪物だな…)

 彼らの学校における面目は、渚によって少しずつ凹まされてゆくのであった。

 

 一方で、生徒達は。授業時間中こそ、渚に付いてゆけず、自失茫然とする者が続出していたが。休み時間となると、渚を怖がるどころか、1時限目前の準備時間の時よりも更に大きな好奇心を胸に膨らませて、ワッと群がるのであった。

 ここにすかさず学級委員の秀が割って入り、混沌としがちな生徒達の衝動をなんとか制御し、渚への質問を順序よく整理していた。

 常識的なタイミングで質問が来るのならば、渚は何も臆することはない。堂々たる余裕の表情で、次々と質問に答えてゆく。

 「この服は、その通り、ユーテリアでの制服じゃよ。ただ、制服とは言え、着用の義務があるワケではないのじゃ。私服で通学しておる者も多数居る。

 ただ、機能面では非常に優れておるからな。わしのように好んで着る者は多いぞい。

 ちなみに、カスタマイズも自由に認められておるのじゃ。故に、思う存分個性をブチ撒ける者も居る。メタルのミュージシャンのような格好になっておる者とか見たことあるぞい」

 「得意科目のう…。机上論より、実技の方が好きじゃな。研究者志望ではない故、現場で活かせる技術の方が興味あるのじゃ。

 ただ、実技取得のための基礎として知識が欲しいとなれば、机上論的な科目を受けることも(いと)わぬぞい。

 苦手な科目となると…あー、歴史関連の授業かのう。過去の教訓が大事というのは分かるのじゃが、どうしても、後ろを振り返るという態度が好かぬのじゃ」

 「出身は、その通り、地球じゃよ。

 岱仙(だいせん)と云う、しがない小さな都市国家じゃ。対外的には、"自然との調和が取れた田園都市国家"なぞと(のたま)っておるようじゃがな、わしに言わせればド田舎じゃよ。

 ド田舎らしく、頭が固くてのう。魔法科学の世の中だと言うのに、魔法科学に抵抗感を持つ市民が多くてな。教育なんぞ、(カビ)の生えたような古くさくてツマラン教科ばっかりじゃった。

 生まれ故郷ではあるが、正直愛着は湧かぬなぁ」

 「ユーテリアへの入学の経緯とな?

 元々、ユーテリアは行ってみたいと思っておったのじゃ。じゃが、いかんせん、故郷の教育制度ではユーテリアどころか、時代にすらついて行けなくてのう。独学で勉強したもんじゃ。

 まぁ、その際に色々と悶着があったり、奇遇があったりとしたんじゃが…結果、ユーテリアから誘いがきてのう。喜んで首を縦に振った、と言うワケじゃ。

 なので、通常の入学試験は受けておらぬから、難度や出題傾向なんぞはよく分からぬ。ただ、戸口は広いと聞くからな、さほど難しくはないのではないかのう?」

 「この口調?

 これは、わしが敬愛するお祖父様の影響じゃ。

 我が家は都市国家同様、古くて(カビ)の生えた思考の持ち主ばかりなのじゃがな。お祖父様だけは、無為な大勢に流されることなく、己の意志を貫いて先見の明を発揮しておったのじゃ。

 ちなみにお祖父様は、言語学の学者じゃ。今は教職の身を引いておるが、研究は続けとるよ。"何故に超異層世界集合(オムニバース)に統一言語が発生し、あまねく魂魄に根付いたのか"という難問について、現役で探求しておる」

 …と、様々な疑問に答えている中で、一番盛り上がったのが部活に関する話題である。

 「部活は、星撒部じゃよ。

 …あー、おぬしらの概念で言えば、ボランティア部、というのが近いかのう。

 そこで副部長を努めておる」

 この言葉に、群がる生徒達は感心の声を上げる。

 「へぇー! ユーテリアのボランティア部とか、面白そうだねぇ!

 出来る事が多いだろうからさ、凄い引っ張りだこになってそう! 募金活動とか介護奉仕とか、そんな程度じゃなくてさ!

 公共工事をそのまま請け負っちゃたりとか、企業の新製品開発に携わったりとかさ!」

 渚は腕を組み、むうぅ、と唸る。

 「公共工事は請け負ったことあるが、企業の新製品開発はないのう。そういう利潤追求主義は、引き受けぬことにしておるのじゃ。金儲けなど、企業が好き勝手にやれば良い」

 「じゃ、どんな活動が多いのかな?」

 すると渚は、待ってました、とばかりに満面の得意げな笑みを浮かべて語る。

 「そうじゃなあ…戦争難民への炊き出し援助だとか、災害救助や復興だとか。

 中でも多いのは、戦争の仲裁もしくは終結のための介入じゃな」

 「せ、戦争!?」

 生徒達は目を丸くする。当然である。学ぶのが本分のはずの学生が、生死を賭して兵士の働きをするとは、夢にも思わないのだから。

 生徒達の驚く顔を見て、存分にケラケラと笑うと。渚は制服の上着のポケットから通信端末『ナビット』を取り出し、そのディスプレイをタッチ操作する。

 数秒後、中空には3Dホログラム映像で、集合写真の画像が表示される。それは、先日のアルカインテール事件終結を記念した打ち上げの様子を撮ったものだ。

 「ちなみに、これがわしらの部活の面子じゃ。

 ただ、全部員ではなく2人足りなくてのう。代わりに、1人余分な者が写って居る」

 足りない2人のうち、1人は部長のバウアー・シュヴァールのことだ。そして余分な1人とはアルカインテール事件で合流したユーテリアの生徒、レナ・ウォルスキーのことである。

 では、もう1人の"足りない者"とは誰なのか。…その人物については、今後言及することになるだろう。

 それはともかく。セラルド学院の生徒達は、星撒部の面々を興味津々で眺めては、口々に感想やら評価やらを放言する。

 男子勢から「プロポーション、最高じゃん!」「胸デケェ!」「モデルの間違いじゃねぇの!?」と好評なのは、アリエッタとナミトである。特にアリエッタは「超美人!」とも評されるし、対するナミトは「スゲェカワイイ! 健康的さがたまんねぇ!」などと評される。

 そんな男子どもに、渚はニヤリと意地悪な笑みを浮かべる。

 「アリエッタにナミトじゃな。前者が2年生でわしと同学年、ナミトは1年生の後輩じゃ。

 確かに、どっちも体型に容姿も恵まれとるからのう、ユーテリアでも人気じゃが…手を出そうと言う男は、中々居らぬな」

 「ウッソ!? 絶対告られまくりじゃん!?

 多少性格悪くても、これは狙うだろ!?」

 「まぁ、確かにどちらも、入学したての頃はよくラブレターとか貰っておったようじゃが…。どっちも"美女で野獣"じゃぞ。

 特に、ナミトはそうじゃな。あやつは兎も角、肉体鍛錬が好きでのう。練気使いとしては、学園でもトップレベルじゃ。並の男が手を出しても、全身の骨を砕かれてご愁傷様、じゃ。

 アリエッタは、そこまででは無いが…良いところ見せようとあやつと組み手した男は、大抵顔が青ざめるぞい。何せ、どんな攻撃をしても当たらぬし、どんどん気力が殺がれてしまうからのう。あやつの場合、野獣というより妖女、と言うべきかのう」

 そんな説明を聞いた男子どもは、顔を引きつらせる。

 「うっわ…流石はユーテリアか…。綺麗な花にトゲ、どころか、チェーンソーが付いてる感じだな…」

 一方、女性陣は男子4人に万遍なく人気が広がる。

 「ねぇ、この子さ、ワイルドな感じで可愛くない? 一緒に居て、楽しそうー!」

 「うーむ、ロイか…。苦労するぞい?

 そやつは学園でも"暴走君"で名高いヤツじゃからな。生身で地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の空中戦艦をブン殴って撃墜するような、怪物じゃしな。無茶苦茶し過ぎるからのう、精神的に持たぬと思うぞい?」

 「…う…そ、それは、ちょっとパスかな…。ハンパないね…」

 「この眼鏡の人、カッコ良くない!? 優しそうだし、知的だし! 大人っぽくて、ステキー!」

 「蒼治のヤツかぁ? 黙っとると、そう見えるのか…。

 あやつはとんでもないヘタレじゃわい。すぐに屁理屈()ねるわ、石橋が腐るほど叩くような疲れる性格しておるわ…!

 何より、外観ですぐに油断するところが悪い! 女子供が被害者に徹するような時代は、もうとっくの過去の話じゃと言うのに…! それ前の件も、命を落とすところじゃったからな! 阿呆じゃわい!」

 「立花さん…厳しいね…」

 「優しそうと言えば、このロングヘアの人も良い人そう! 笑顔可愛いし!」

 「イェルグじゃな。

 まぁ、ウチの部では一番バランスの取れた男じゃが…残念ながら、彼女持ちじゃ。

 ホレ、隣にピッタリくっついておる青い髪の女子がおるじゃろ? ヴァネッサと言うのじゃが、あやつと恋愛関係じゃよ」

 「えー! やっぱり、良い男にはすぐに女が付いちゃうんだー! ざんねーん!」

 「ヴァネッサも、実力は勿論じゃが、良いところのお嬢様じゃしな。イェルグとしても、何やかんや行っておるが、悪い気はしておらんじゃろうな。家族公認らしいしのう。

 と言うワケで、諦めい」

 「じゃ、このハリハリ頭にゴーグル付けた子は!? なんか、母性をくすぐられるなぁ、この満面の笑顔!」

 「大和のヤツ、写真映りだけは良いんじゃよなぁ…。

 こやつは、ロイ以上の曲者じゃぞ。ぐーたらじゃし、文句はタラタラじゃし、根性は無いしのう。おまけに、女を口説くことしか考えておらん。

 ダメ男の典型じゃな!」

 「…立花さんって、ホント男の子に厳しいね…」

 「まさか、立花さんってさ…女の子の方が好きだったりして?」

 言われた瞬間、渚は電撃的に「はぁ!?」と反論し、ブンブンと首を横に振る。

 「変な事を言うもんではないわい!

 確かにわしは、まだ恋人関係におる異性は居らぬが、れっきとした異性愛者じゃわい!

 同性愛者を否定する気はないが…その…自分がその立場となると、やはり…むうぅ…気持ち悪いわい」

 「でも、部活の女の子って、基本的にみんな可愛いじゃん!

 こんな()達に囲まれてたら、私もちょっと、クラクラしそうー!」

 「そ、そうかのう…むうぅ」

 渚が腕を組んで唸る。自分の立場に置き換えて想像してみたようだが…やはり、親身にはなれなかったようだ。今にもベッと舌を出すような顔つきになる。

 そんな最中、質問を取りまとめるばかりだった秀の口から質問が飛び出す。

 「立花さんは、副部長なんだよね? それじゃ、部長って誰なのかな? この写真に映ってる人じゃないのかな?」

 この質問をされた途端。渚は"よくぞ聞いてくれました"と言った態度で鼻から息を吹きながら、ナビットをいじって別の画像を表示する。

 「こやつが、部長のバウアー・シュヴァールじゃよ!

 さっきの写真を撮った時には、残念ながら、別の仕事中でのう。帰ってこれんかったのじゃ。

 わしとのツーショットで、さほど花がなくて申し訳ないが、まぁ見てくれい」

 表示された画像には、バウアーの肩にガッシリと腕を回し、満面の笑顔でピースサインを作る渚の姿がある。そしてバウアーは、特に嫌がる風でなく、軽く微笑みながら、こちらもピースサインを作って映っている。

 写真を映した場所は、どうやら宇宙区間のようだ。夜よりもなお黒い空間が映る小さな丸窓が1つだけ在る銀色の壁を背に、2人は宙に浮いて映っている。

 この写真を見た生徒達は…誰もが皆一様の感想を胸中に抱く。

 (なんだ…立花さん、恋人居るんじゃないか…)

 にこやかに、"幸せそう"と評しても過言ではない様子で笑い合い、体を密着させている2人の姿は、どう見ても長年付き添って理解し合った男女の仲である。

 生徒達の胸中は暫くツッコミで(あふ)れていたが。次第に冷静になってバウアーの姿を眺めると、眉をひそめたり、首を傾げたりする。

 バウアーは決して悪い顔立ちではないし、むしろ褐色の肌に意志の強そうな真紅の瞳には野性的な強靱さが感じられる。しかし、"美男"や"ハンサム"と評するような優れた顔立ちではない。それに、身長もさほど高くはなく、筋骨隆々としているワケでもない。

 堂々たるほど自信と、それに見劣りしない優れた実力を持つ渚が、どうしてこんな男子に肩入れするのか。疑問が湧いたのである。

 その胸中を素直に口に出したのは、聞きたがり屋の美樹である。

 「ねぇねぇ、立花さんはこのバウアーさんのどこら辺が好きなのよ?」

 "好き"と直球と訊いたが、渚は顔を赤くしたり慌てたりする様子もなく、落ち着きを払った態度で、ただニマニマと惚気(のろけ)た笑みを浮かべながら、顎に手を置く。完全に、熟年を迎えながらも互いに気持ちが冷めやらぬ夫婦の雰囲気である。

 「そうじゃなあ…。

 まず第一に、意志が強い。万人が右を向こうが、己が良しと信ずるならば躊躇(ためら)いなく左を向く、流されない自己意志!

 第二に、その強い意志に裏打ちされた、責任感! わしは男兄弟ばかりの家庭に育ったが、お祖父様以外であれほど頼りになる男はおらん!

 第三に、責任感は強くても決して意固地でない柔軟性! 判断力に優れておってな、どんな状況であろうと覆してやり遂げ、納得させてしまう実力がある!

 そして何より! その実力じゃな! 流石は、学園の最強候補と云われるだけはある、化け物と云う言葉でもまだ足りぬ能力じゃな! とは言え、わしには劣るがのう!」

 (うわ…なにその完璧超人…)

 尋ねた美樹含め、生徒達はあまりの評価に苦笑いを浮かべるしかできない。全く以て、酷い惚気(のろけ)具合である。

 そんな問答をしている最中のこと。生徒達を掻き分けて、1人の少女が別の少女を引っ張って渚の前に出て来る。前者は2年3組の才女である(ジエ)凜明(リンミン)。そして後者は、朝のホームルームの時には眠そうにしてばかりだった、ニファーナ・金虹である。

 「ほら、ニファ!

 あなたも聞かせてあげなさいよ! ユーテリアの"英雄の卵"とだって張り合える、あなたの実績を!」

 凜明(リンミン)がポン、とニファーナの背中を叩いて促す。どうやら彼女は、元『現女神』であったニファーナに対して尊敬、またはそれに近い感情を抱いているらしい。

 しかし、凜明の想いに反してニファーナは、全く覇気のない様子である。

 熟睡していたところを叩き起こされたような、(ぼう)っとした態度だ。背は丸まっているし、目は寝ぼけ(まなこ)そのものと云った風の半眼だ。短いツインテールにした髪に指を突っ込んでポリポリと掻いている仕草など、"だらしない"の言葉がピッタリすぎる。

 これが元の『現女神』であるとは、到底信じられない。

 「えー、喋ることなんて何も無いよー」

 ニファーナが頭を掻いたまま語ると、凜明は大げさに溜息を吐いてから、食ってかかるように詰め寄って語る。

 「あるじゃんかーっ! もう語り尽くせないほど、あるじゃんかーっ!」

 凜明は続けて、芝居掛かった動作を伴いながら語る。

 「周辺都市国家や『現女神』に冷たく睨まれ続け、風前の灯火だった、このプロジェス…それを情熱の烈火に変えてみせた偉業!

 優秀なる『士師』達と共に国家レベルの会合に(おもむ)いては、必ず利益を生む成果を携えて帰ってきた、天才的手腕!

 そして! あの外道女神"陰流"に威風堂々と挑んだ勇ましさッ!

 本になってるくらい、大人気なんだよッ!? そんな活躍を本人の口から語るワケじゃない!? ファン垂涎、それどころか失神の大イベントよ!?」

 騒ぐ凜明が台風ならば、ニファーナはその風にヒラヒラ(なび)いていなす野草である。茫っとした様子を改めることなく、ぼんやりと答える。

 「そういうのは大抵、『士師』のみんなが頑張ってくれてたんであって。私はお飾りだったし。

 "陰流"の時は…自分では結構頑張ったつもりだけど…結局、負けてるし。

 誇れるものなんて、何もないよ」

 「そんな、ニファ!」

 凜明が泣きそうな顔で(いさ)める一方で、ニファーナは渚に視線を注ぐ。

 「立花さんの方が、よっぽど凄いよ。

 本当の意味で、自分の力でなんでもこなせるんだから。その力も、誰かに与えられたものじゃなくて、自分で努力して鍛え抜いて手に入れたものなんだもの。

 おこぼれで力と立場を得た私なんかと比べるのは、立花さんに凄く失礼だよ」

 ニファーナの言葉は、覇気がないだけでなく、酷く卑屈なものであった。

 そんなニファーナの言葉に、凜明を初めとする生徒達は苦々しい笑みやしかめ面を作る。中でも一番、露骨に片眉を跳ね上げて不快感を示しているのは…ニファーナと知り合って間もない渚である。

 渚は、"元"とは言え同じ『現女神』であったニファーナの今の態度が、自分とは全く真逆である事に苛立ちを感じているのだ。渚は『現女神』の立場をとても歓迎しているし、誇らしいと感じている。それに比べてニファーナと来たら、ひたすら重く身を(さいな)むだけの鉛の衣のように(いと)っているのだから。

 「おぬしのう…」

 渚は遂に、溜息を吐きながら、ニファーナの肩に手を置いてしみじみと語り出す。

 「そんなに自分の事を低く見るものではないぞい。

 『現女神』の立場とは、確かに、自助努力では得られず、運頼みとしか言いようがない。しかしのう、傾向としては、どんな人間でもなれると言うワケではない。良かれ悪しかれ、他人(ヒト)より強く高い(こころざし)と力を持った者に限られると聞く。

 おぬしは世界に、そんな人間であると認められたのじゃぞ? もっと誇って良いではないか」

 「…それじゃあ、私が初めての例外なんだよ」

 ニファーナはなおも卑屈に食い下がる。渚は片眉をピクンと跳ね上げて苛立ちを露わにしたが…深呼吸1つして気を沈めると、なるべく穏やかになるよう努めながら語り聞かせる。

 「それに、『現女神』の座を失った今も、こうして沢山の者達の人心を得ておるのじゃ。

 これは『現女神』という要素抜きに、純粋におぬし自身の力…人徳のなせるものではないか!

 『現女神』と言っても、(ロク)でもない者は山ほど居るのじゃぞ? おぬしが抗戦した"陰流"が然りじゃ。ああやって力を誇示し、暴力で以て人心をねじ伏せる不届きな輩は五万と居る。わしも部活動を通してそういう輩を2、3柱ブン殴ってやったが、そんな輩と比べれば、おぬしは正に信心を集めるに相応しい女神じゃよ!

 だから、もっと自信と誇りを持てい!」

 「そうかなぁ…」

 ニファーナが首を傾げて語った直後。

 「立花さんの言う通りだよ」

 そう即答したのは、渚の隣の席に座ったまま事の成り行きを静観していたナセラである。

 「少なくとも私は、ニファーナが『現女神』だったからこそ、力を貸したくなったんだ。

 だから士師に志願したんだけどね…断られてしまったけどさ」

 ナセラも凜明同様――いや、士師に志願するまでの行動を見る限り、凜明以上かも知れない――に、ニファーナを敬い慕う者の1人なのだ。

 ちなみに、士師は『現女神』に対して男性であるイメージが強いが、女性でも成る事は可能だ。ただし、女性は士師に対する存在定義レベルの抵抗があるため、男性ようにすんなり成れない。この"抵抗"が何故存在するか、については現在の魔法科学は目下研究中である。

 さて、ナセラに続いて美樹までも、人混みを掻き分けてニファーナにガッシリと飛びつくと、頬ずりしながら上機嫌に語る。

 「うんうん!

 私も応援してるし、尊敬もしてるよ! ニファーナの事!

 『現女神』だった時も、今もさ!」

 「…みんな、買いかぶり過ぎだよ…」

 ニファーナは照れるでなく、心底迷惑そうな苦々しい表情を浮かべる。今にも溜息を吐き、ふてくされてしゃがみ込みそうな程だ。

 そんな不快感を敏感に悟った学級委員の秀は、ハッと表情を改めると、なるべくぎこちないように努めて微笑みを浮かべながら話題を変える。

 「ところで、ニファーナさん。

 さっき、立花さんがユーテリアの部活のメンバーを見せてくれたんだけどね。ニファーナさんは、誰か気になる人居ないかな?

 …ねぇ、立花さん、さっきの集合の画像、表示してもらっていいかな?」

 渚は(うなず)く間もなく同意し、ナビットの表示画像を切り替える。再度表示された賑やかな集合画像に、ニファーナは眩しそうに目を細めながら視線を走らせる。

 ダウナーな雰囲気のニファーナは、賑やかな雰囲気は苦手のようだ。

 数秒間、ジロジロとメンバーの顔を眺めたニファーナは…遂にスッと、人差し指で静かに1人の少女を指差す。

 「この()…大人しそうだから、良いかな」

 「ふむ、ノーラか。なるほどのう、確かに静かなヤツじゃがな…」

 渚は腕組みして首を縦に振った後、ニヤリと悪戯めいた笑みを浮かべる。

 「相当な肝っ玉の持ち主じゃぞ?

 最近入ってきた1年生の新入部員なのじゃが、この打ち上げの元になった『握天計画』の根幹を見事に叩き潰したヤツじゃからな!

 物静かながら、胸の内に太陽のような熱い炎を抱いている娘じゃぞ」

 「うっそッ!?」

 声を挙げたのはニファーナでなく、周囲の生徒達である。

 彼とて『握天計画』と云う言葉は聞き知っているのだ。それが都市国家を丸ごと1つ飲み込むような騒動を引き起こすと云う事も、歴史の授業などを通じて認識している。…ちなみに『握天計画』は、その殆どが地球史に名を刻む事件を引き起こしている。

 そんな大事件を学生の身で集結させる事がどれほどの偉業か、分からない生徒達ではないのだ。

 対してニファーナは、目を丸くしこそすれ、声を挙げることはしない。すぐに眠たげな半眼に戻ると、ぼんやりと答える。

 「えー…それじゃあ、パスかなあ…。そんな凄い人、私には釣り合わないし…」

 「だーかーらー、ニファーナだって充分凄いってー!」

 美樹が両腕を挙げて強く言い聞かせる。

 ――こうして賑やかな休み時間は過ぎてゆく。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 一方で、彼らの騒がしいやり取りから距離を置いて、冷たい視線を注いでいる1グループがある。

 このグループの構成は、男子3人に女子1人だ。彼らに共通するのは、面立ちを初めとした雰囲気から突き刺さるように(にじ)み出るガラの悪さだ。所謂、"不良グループ"というヤツである。

 「バッカじゃね? 英雄サマ囲めば、自分たちにも御利益あるってのかよ?」

 校則違反ながら、耳や(まぶた)にピアスを付けた、痩せぎすの男子生徒が唾棄する。

 「でも、あたしはちょっと興味あるなー。あの英雄サマのじーさんみたいな言葉遣い、結構カワイイと思うんだよねー」

 そう語るのは、濃い褐色の肌にコントラストを付けた濃いメイク(校則違反である)をした女子生徒だ。

 「言葉遣いがカワイイとか、どーでも良いんだろうがッ!

 あのチヤホヤもてはやす感じがウゼェんだよッ!

 小学生のガキかってんだ!」

 そう叫ぶのは、奇抜な極彩色に染めたロングヘアをした男子生徒である。彼はさらに息巻いて続ける。

 「オベンキョウは出来るみてぇだけどよ、それがなんだって云うんだよ!?

 頭デカかろうがよ、腕っぷしで負けたらどうにもならねーだろうがッ!

 『現女神(カミアマ)』どもだって、最後は殺し合いのケンカで勝ち負け決めてんだ! 魔法解禁になった地球は、力が物を言う世界になったんだよッ!

 だからよぉっ!」

 ロングヘアの男子生徒は、3人が取り巻く机にドッカリと座った主に視線を向けて、教室中を震わそうとするかのように叫ぶ。

 「この教室で一番スゲェのは、カッちゃんなんだよッ!」

 その叫びに、教室の数名が何事かと視線を向けたが。それが不良グループの発端であること、そして何より"カッちゃん"と呼ばれた人物の事を示している事を知ると、慌てて知らない振りをして視線を()らす。その視線には須く、怯懦(きょうだ)の揺らめきが宿っている。

 この"カッちゃん"と呼ばれる人物は、不良グループ以外の生徒達にとって目の上の瘤であるどころか、悪性腫瘍のような恐怖の対象であるらしい。

 「…そんなに騒ぐなよ、シグ。ようやく気持ち良く眠れそうになってたってのによ」

 "カッちゃん"と呼ばれた人物は、開いた教科書をアイマスク代わりに顔の上に置いたまま、ダルそうに低い声を出す。

 今日のところ、彼はマトモに授業を受けておらず、顔に複素則式学の教科書を乗せたまま、居眠りを決め込んでいる。

 「あ…ゴメンよ、カッちゃん」

 シグと呼ばれたロングヘアの男は、ギクリと体を強ばらせながら、歩くハトのようにヘコヘコと頭を下げながら謝罪する。

 「あ、起きてたんだ、カッちゃん。珍しいー」

 色黒の女子が声をかけると、"カッちゃん"はズルリと顔の上から教科書を退かせて、藪睨みの視線を投げる。その先には、渚とニファーナを中心とした集団がある。

 「眠れっかよ、ギャーギャーうるせぇのが続いてんだからよ。

 お蔭で、首が凝っちまった」

 「揉もうか、カッちゃん?」

 ピアスをつけまくった男がすかさず背後に回り込もうとするのを、"カッちゃん"は素早く手で制する。

 「いらねぇよ。そんなにジジィじゃねぇ」

 

 "カッちゃん"と呼ばれる、2年3組の不良グループを束ねる男子生徒の名は、室国(むろくに)灰児(かいじ)と云う。

 彼は2年3組だけでなく、セラルド学院全体――それのみならず、近隣の学校の生徒達にとっても恐怖の対象となっている。

 とは言え、古臭い概念で言うところの"総番長"と云う存在ではない。2年3組内でこそ3人の男女の取り巻きが居るものの、それ以上の取り巻きや下っ端を(はべ)らす事を嫌っている。一匹狼のアウトロー…と云うイメージの方がしっくり来る。

 灰児が怖がられる理由は、幾つか在る。いつでも不機嫌そうで、爆発しそうな厳つい面持ち。岩石を削って作られたかのような、筋骨隆々としたゴツい体付き。そして、常に上から目線のガラの悪い態度…等々だ。

 中でも同じ不良グループや、市軍警察の生活環境部からも一目置かれているのは、プロジェス内の学生としては群を抜いている身体および戦闘の能力である。

 彼は、たった1人で数十人構成の不良グループ3つをまとめて相手し、勝利を収めてグループを壊滅に追いやった…と云う凶悪な武勇伝を持っているのだ。更には不確定ながら、市軍警察ともやり合い、職業軍人であるはずの彼らを病床に送ったと云う噂もある。

 そんな灰児に対し、生徒達はいつでも不機嫌そうに見える彼を無闇に刺激して爆発させないよう、徹底的に関わらないようにしているのだ。

 

 「…しっかしまぁ、目障りなのは確かだな」

 灰児は生徒達の群の中心、表情豊かに談笑する渚に冷たい視線を送りながら言い放つ。

 「静かに昼寝も楽しめねぇ」

 灰児は多くの不良と同じく、大抵の授業は真面目に参加していない。但し、無闇に騒いで学級崩壊させるような真似はせず、大抵は寝て過ごしている。お金に余裕がある時は、サボって繁華街に遊びにいくことが多い。

 「じゃ、今日はもうフケようか?」

 痩せぎすの提案に、灰児は「いや」と即答して首を横に振る。

 「それじゃあ、オレ様が逃げたみてぇじゃねーか。そんなヘタレた事はしねぇ」

 そして、(たたず)まいを直して椅子に座り直すと。ガラの悪い目つきを更に鋭く細めて、渚を刺し貫くように睨みつける。

 「なぁ、次の授業は体育だよな?」

 「ああ、そうだけど」

 と、痩せぎすが答えた直後。3人の取り巻きはハッとする。

 注がれる見開かれた3つの視線の先には、絶好の獲物を前にした猛獣のような笑みを浮かべた灰児の表情がある。

 「ま、まさか、カッちゃん…」

 ロングヘアの呻き声を塗り潰すように、灰児がドスの利いた低い声を響かせる。

 「丁度良いぜ。

 大勢の前で、大恥(さら)させてやる…!」

 語りながら灰児は、岩のようにゴツゴツした右手をギュッと握りしめてみせる。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 4

 ◆ ◆ ◆

 

 魔法科学によって人類の可能性が、"莫大"と表現しても過大でない程に拡がった現在において。何度か言及している通り、性差と云うものは職業選択を初めとする場合において、全くと云って良いほど無意味なものとなり果てた。

 それは、学校教育のカリキュラムにおいても当てはまる。

 旧時代の地球においては、体育の科目は男女別に組まれることが普通であったが。『戴天惑星』と化した今となっては、決して普通と言えるものではなくなった。

 多くの都市国家において、体育の科目に武術――ひいては、戦闘技術が採用されている。これは、『女神戦争』や『握天計画』といった混乱によって戦争に巻き込まれる可能性が高い地球においては、男女を問わず、故郷の市軍警察や地球圏治安監視集団(エグリゴリ)への入隊を希望する者が多くなっているからである。入隊を希望していなくとも、いざ戦闘に巻き込まれたのならば、生死を隔てる要素に男女は関係ない。…そんな事情から、男女の壁を取る事が望ましいと考えている都市国家は数多い。

 プロジェスは正に、そんな都市国家の一例である。ここでは特に、歴史的に外部からの干渉を多く受けてきた事もあり、"体育"と云う科目は"戦闘技術"と言い換えても良いくらいの内容になっている。

 

 セラルド学院の2年3組のこの日の4時限目の授業は、そんな体育の時間である。生徒達は男女の隔てなく、広々としたグラウンドに集合させられ、同じ内容の授業を受ける。

 生徒達は軍人ばりにキリリとした態度で直立して整列し、教諭を真正面から見据えている。…ただし、灰児を初めとする不良グループの者達は、見苦しく大勢を崩してぼんやりと突っ立っている。

 筋骨隆々としたトカゲ型獣人の教諭は、生徒達の顔をグルリと視線で撫で回す。灰児達の姿を視界に入れると、牙がゾロリと生えた口が苦々しげに歪むが、抗議の声は上げない。言っても無駄だと諦めきっているのだ。

 その口直しと言っては何だが、渚の姿を目に入れた時には、思わず小さく「ほぉ…」と漏らして、口角を上げる。長年、戦闘技術の教諭を勤め続けて磨かれた慧眼が、渚の立ち姿から(にじ)み出す実力を認知したのだ。

 (流石は、ユーテリアの"英雄の卵"。頭でっかちなだけじゃない)

 渚は他の生徒達と同じく直立してはいるが、かなりリラックスした雰囲気が見て取れる。面持ちには緊張感は無く、余裕とも興奮とも好奇とも取れる柔らかな微笑が浮かんでいる。小柄な体格は決してか弱さを想起させない、むしろ高性能をコンパクトに凝縮したミサイル兵器のような機能美と、仕舞い込んだ爆発力がひしひしと伝わってくる。

 ((たたず)まいだけで、これだけビシビシと実力を感じるなんてな…正に、姿"勢"ってヤツだ)

 教諭は不良グループへの不満を渚の態度ですっかりと塗り潰すと。上機嫌な表情で、大声を張り上げて号令する。

 「今日は、ユーテリアからの留学生も居ることだしな! 一丁派手に、実戦を想定した自由組み手を行う!

 形式は自由だ! これまでの授業で得た技術を使うも良し! コッソリと練習していた秘密の必殺技を使うも良し!

 命に関わるような危険な事は流石に禁止するが、思いっ切り自分の持てる力を発揮してみろ!」

 こんな授業内容にしたのは、他の教諭と同じく、渚の実力を見てみたかったからである。基礎練習でも怪物じみた成績を残してくれるかも知れないが、それでは少々物足りない。だから、組み手で暴れてもらおう、と言うワケだ。

 生徒達の大半も、教諭の意図を汲み取って眼を(きら)めかせるも…数瞬後、眉をしかめてしまう。そんな彼らの胸中には、こんな不安が過ぎっている。

 (…一体誰が、立花さんの相手をするって言うんだ…?)

 3時限目までの授業で、渚が超高等学校級のレベルの存在であることは痛感している。戦闘技術の方も相当なものだと云うことも、容易に想像が付く。

 生徒達は、渚に対抗できそうな生徒を探して視線を彷徨(さまよ)わせる。結果、視線が集うのは3人だ――学級委員の秀、成績優秀な凜明(リンミン)、そして技の見事さで名高いナセラである。

 ちなみに、ニファーナには視線は集まらない。『現女神』の座を失い、『神法(ロウ)』を持たない普通の少女になった彼女は、文武の両面において優等生でない事を重々承知しているからだ。人心は集める人徳は有していても、渚に打ち勝つような戦力は有していいない。

 さて、期待を受ける3人だが、彼らの表情は微妙だ――むしろ、(かげ)ってさえ居る。

 期待を受けていることは、彼らも自覚しているのだが。その期待に応えられる自信が全くないのだ――彼らも教諭と同じ、渚の実力を推し量れるが故の悲劇である。

 自分がトラだとしても、渚は空を飛び火を吹くリュウであろう――そう痛感してしまい、足が(すく)むのだ。

 そんな3人の胸中を知ってか知らずか、教諭は指示を続ける。

 「それじゃあ、2人組を作れー! いつもの通り、異性同士でも構わんぞー! 時間が惜しいから、ちゃっちゃと…」

 その話の最中、「なぁ、センセイよぉ!」と低い声を上げて真っ直ぐ掌を天に向けた者が居る。

 不良グループの要にして、学内でも指折りの実力者。室国(むろくに)灰児(かいじ)である。

 「む、室国か。どうした?」

 教諭はビックリして目を見開きながら尋ねる。灰児は他の授業に比べると、体育は真面目に受けている方だが…こんな風に積極的に発言することなど、今まで無かったのだから。

 灰児はニヤリと口角を大きく釣り上げ、荒く鼻息を吹いてから答える。

 「センセイもよぉ、他の先公(センコー)どもと同じでさ、ホントは留学生チャンの実力ってのがどんなもんか、見てみてぇだけなんだろ?

 天下のユーテリアの生徒だもんなぁ!」

 教諭はギクリと顔を引きつらせたが、慌てて平静を装って言い返す。

 「い、いや、そういうワケじゃないぞ。

 ただ、折角留学生が来てるからな、このセラルドのレベルというものを知ってもらうにしても、良い機会だと思ってな…」

 「ウソウソ! 本音で構わねーよ! 別に責めてるとか、弱み握ろうとしてるってワケじゃねーよ」

 灰児はクックッと笑う。

 「ただよぉ、留学生チャンの実力に興味があるのは、センセイだけじゃねーってこと、言いたかったのさ。クラス全員が、興味あることだろう?

 天下のユーテリアの生徒が! 休み時間に堂々と武勇伝を言い聞かせてた留学生チャンが! 実際、どれほどのモンかってよ!

 そんなお楽しみを、センセイだけがジックリ見るってのは、クラスメートとして可哀想だなって思っただけさ!」

 「…だから、何なんだ?」

 教諭は、灰児の狙いが分からず、内心で首を傾げながら尋ねる。

 灰児は鼻でハッ、と笑うと、親指の先で渚を指しながら語る。

 「こうしようじゃないッスか?

 留学生チャンとクラスで一番の実力者が、模範組み手をする。

 そうすりゃ、センセイもクラスのみんなも、留学生チャンの実力をジックリ楽しめるってワケだ!

 留学生チャンの技術は相当スゲェらしから、見てるだけでも勉強になるだろうしよ。センセイとしても、授業の体裁を整えられる。一石三鳥じゃないッスかぁ!?」

 「う、うむ…」

 教諭は異論を唱えず、素直に肯定する。確かに、他の生徒も一斉に組み手をするとなると、授業担当として全員に目を配る義務が出てくるから、渚ばかりをじっくりと見ているワケには行かない。しかし、灰児の提案を飲めば、その問題点は解決する。

 「しかし、そうなると、誰が立花と立ち会うか、になるが…」

 「そりゃあ、当然ッ!」

 灰児が鼻息荒く声を上げ、渚に向けていた親指の先を自分の胸へと(ひるがえ)す。

 「言い出しっぺでもあるし、オレっしょ!」

 「異議あり、だ!」

 即時に反論したのは、ナセラである。その鋭い視線には、怒りの色すら垣間見える。

 灰児は不良らしい藪睨みで表情を歪め、ナセラを威圧する。

 「あぁん!? 文句あんのかよ!?」

 「クラスの代表が貴様だと!? 一番の実力者だと!? 笑わせるな!

 真の強さとは、健全なる心技体が揃ってこそのもの! まずもって"心"が歪みきっている貴様に、そんな称号を名乗る筋合いはないッ!」

 「ウルセェぞ、クソアマ?」

 灰児は威圧の表情のまま、叫ぶでなく重く押さえつけるような声音で反論する。

 「今回の授業、センセイはよぉ、"実戦を想定した"って言ってンだよ?

 実戦、つまりゃあ、戦場ってこった。

 戦場に、健全な心技体もクソもあるかよ? あぁん? 騎士道だの武士道だのの精神に乗っ取って戦死するヤツよりゃ、泣き喚いても構わず銃弾ぶっ放して皆殺しにするヤツの方が強ぇって評価されんだよ?

 テメェのカビの生えた精神論なんて、戦場じゃクソの役にも立たねえんだよ!

 それによぉ…」

 灰児は顔を更に歪め、見下し切った嗤いを張り付ける。

 「ちょいと前に、この授業でオレがテメェをボッコボコに締めてやったじゃねぇか? 忘れたのかぁ?

 センセイに止めてもらわなきゃ、テメェ死んでたんじゃねぇか?

 その時点で、テメェよりオレが強ぇことは確定してンだよ!」

 この言葉に、ナセラはギリリと歯噛みする。灰児の話は事実なのだ。力ばかりを誇るばかりの素行不良に嫌気が差したナセラは、懲らしめようと授業で勝負を申し込み…散々に、負けた。

 「…それは3週間も前の話だ。

 今は実力が違う…!」

 ナセラの言葉を、灰児はゲラゲラと笑い飛ばす。

 「そんじゃあよ、3週間も時間あったんだ、実力が更に上がってンじゃねーの?

 それで勝てるつもりなのかよ、このオレによぉ!? あぁん!?」

 「この…ッ!」

 ナセラは顔を真っ赤にし、何やら叫ぼうとした、その時。

 「ストーップ! じゃよ!」

 声を上げて(いさか)いを止めたのは、渚である。

 渚はまず、キョトンとしてしまったナセラの方を向いて語る。

 「まぁまぁ、そう熱くなるでない。こういうのは血が頭に昇って、冷静さを失った方が負けじゃわい。

 おぬしもわしと一戦交えてみたいのならば、模範組み手とやらが終わってからやれば良かろう。わしは逃げも隠れもせんからのう」

 その言葉を聞いた灰児が、ピクリと片眉を跳ね上げる。

 「…そう言うってことは、オレとの組み手受けるってことだよな…?」

 「うむ、その通りじゃ」

 渚は灰児に振り返って、あっさりと首を縦に振る。しかし、思い通りの展開になったと言うのに、灰児の怪訝な――と言うより、不機嫌な表情は消えない。

 「そりゃ、うれしいんだがよ…一つ引っかかるんだよな。

 今の言い方、オレを軽く捻ってやってから、そのクソアマの相手をしてやろう…みたいに聞こえたんだがよ」

 「クソアマと云う言い方は気に喰わんが…まぁ、そういう事じゃよ」

 これまたあっさりと即答する渚に、クラスメイト達の間でザワリと空気が(うごめ)く。

 特に空気が変わったのは、勿論、灰児だ。その雰囲気の変わりようといったら、蠢くどころか、爆発したかのように震えている。

 灰児はこめかみに青筋をクッキリと浮かべながら、吐き捨てる。

 「調子こいてくれるじゃねぇか…!」

 「そういう性質(たち)じゃからな、許せ」

 渚はケラケラと笑って応じる。

 一触即発の火山と、そこへ更に油を注ぐ道化。そんな構図に、クラスの生徒達も教諭も固唾を飲み、オロオロとした気配を醸し出すものの…一方では、怯懦に混じって湧き出した興奮に、胸を高まらせている。

 灰児は素行は悪いが、実力は本物だ。戦闘技術のセンスも――ダーティな戦法が目立つが――クラス、いや、学院でもトップクラスのものがある。そんな彼が、ユーテリアの"英雄の卵"にどれほどまで通じるのか。

 はたまた、"英雄の卵"は暴力的な拳によって叩き割られてしまうのか。

 (これは…面白いぞ…)

 生徒達の顔に少しひきつった期待の表情が浮かぶ。

 一方で、悔しげな顔をしているのは、ナセラを初め、秀や凜明といった実力者達である。特に秀や凜明は、ナセラと同じく、灰児がクラスの代表となる事に対して露骨な不満と異議を表していたが。

 「文句ねぇよな、秀も(ジエ)もよぉッ! 留学生チャンは、オレをサクッと倒して、ミナサマのお相手をして下さるそうだからよぉ!

 少し待ってりゃ良いんだよ!」

 そうは叫ぶものの、灰児の胸中には残虐な本音が去来する。

 (…まっ、オレがこんな"卵"、ブッ叩き割っちまうがなッ!)

 

 ――こうして体育の時限が盛り上がりを見せる一方で。全く雰囲気に飲まれず、極めてマイペースに事の成り行きを眺めている者が只1人、いる。

 ニファーナである。

 彼女は不安がることも興奮することもなく、つまらない路上の大道芸を暇つぶしに眺めるような半眼の視線で、2人のやり取りを見送っているばかりだ。

 「…ちょっと、どうなっちゃうと思う、ニファーナ!?」

 隣でコショコショと尋ねて来るのは、クラス一のおしゃべり娘の美樹である。しかしニファーナは、欠伸でもするような眠たげな力のない声で、ぼんやりと答える。

 「さあ? 見てれば分かるでしょ」

 「そんな、こんな時でも…!」

 美樹が非難めいた言葉を吐きながらニファーナの顔を正面からのぞき込むと…続くはずの言葉は、咽喉(のど)の奥で萎んで消えてしまう。

 ニファーナと来たら、その表情にあまりにも虚脱した本音を張り付けているのだから。

 即ち――"こんな面倒な事、よくやるなぁ。サッサと終わらせて、元の何事もない時間を返して欲しい"――そんな旨だ。

 美樹は大きく溜息を吐いて語る。

 「ニファってさ、何か楽しい事とか興奮することとか、ないワケ?」

 するとニファーナは、ぼんやりと答える。

 「楽しいのは…ゲームだね。マイペースにでるRPGなんか、最高」

 その言葉に、美樹は苦笑いを浮かべるばかりで返す言葉が見つからなかった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 クラスメイトの大半の者達の意志を汲み、何より自分の興味とも一致する事から、トカゲ面の体育教諭は灰児の提案を承諾した。

 今、2年3組の生徒は渚と灰児を残して、皆グラウンドに座り込んでいる。その端の方で腕組んで立つのは、教諭である。

 彼らの視線が注がれる正面には、十数歩の距離を開けて対峙する、渚と灰児の姿がある。

 2人は同じく防御用魔化(エンチャント)が施されたジャージを身に着けているが、その(たたず)まいは非常に対照的である。

 灰児の方は、闘争心に満ち満ちた臨戦態勢を取っている。隙のない身構えと、顔に浮かべた凄絶な笑みは、全身の筋肉は張りつめて獲物に狙いを定めた、飢えた猛獣を想起させる。

 灰児の構えは、一般高等学校で教えている戦闘技術のものとしては、かなり変わっている。上半身はボクシングのように握った拳をコンパクトに構えているものの、下半身の方はボクシングにしてはかなり両足の感覚を広げている。旧時代の東洋武術の構えを思わせるものだ。

 しかしこの構えについて、体育教諭は内心で舌を巻く評価を下している。

 (なるほど、考えたな。

 こう構えられると、どんな攻撃が来るのか、読みにくい)

 上半身のボクシング――引いては、西洋武術的な要素は、身体(フィジカル)魔化(エンチャント)を用いることを想起させる。反面、下半身の東洋武術的な要素は、練気を用いることを連想させる。

 このどちらを使って攻撃をしかけてくるのか。それとも厄介な事に、どちらも得意だと云うことか。そんな疑念を相手に抱かせる構えである。

 一方で、渚の構えと来たら――"構えていない"。

 肩幅程に両足を広げ、両腕を腰に当てた仁王立ち――これは構えと云うより、"偉そうに立っている"だけだ。とてもではないが、臨戦態勢には見えない。

 だと云うのに、顔には自信に満ち(あふ)れた不適な笑みが満面に浮かんでいる。

 (見下してる…ってことなのか?)

 教諭は(いぶか)しむと共に、渚に非難めいた警告を与えたい気分になる。

 (確かにユーテリアの生徒は、一般の高等学校の生徒よりは優れているだろうが…かと言って、油断は大敵だろうに…!)

 獅子のネズミの対決であろうと、獅子が油断することはない。この世は単純な実力比較だけで成果を断じれやしない。何時でも何処でも"不慮"と云う要素は付きまとうのだ。

 ネズミの噛み傷から毒が回り、死に至る獅子も居るかも知れない。

 (それに…あれでは、室国に気力の炎に油を注ぐようなものだ…! 敵を強くしてしまうだけだぞ…!)

 教諭が胸中で評する通り――灰児は渚の様子を見つめると、ただでさえはちきれんばかり充実していた気力を爆発的に膨らませている。

 とは言え、彼は激情に刈られているワケではない。実戦の際における冷静さが、灰児の強さの一端を担っているのだ。

 (バカにしてんのか…上等さ。

 せいぜい、バカにしてりゃ良い。

 いざ転んだ時、よりバカにされるのはテメェなんだからよ)

 灰児は小さく舌舐めずりをしながら、渚をじっと見つめたまま、油断なく構えを続ける。

 そのまま対峙するだけの時間が続くこと十数秒後。痺れを切らした、というほどの態度ではないが、渚が言葉をかけてくる。

 「むうぅ?

 あれだけ騒いでおった割には、かかって来んのかや?」

 対する灰児は答えを口に出さず、胸中で応じる。

 (分かるぜ、待ってンだろ?

 オレがムカついて、牛みてぇに突っ込んで来るところを、よ?

 そうは行かねえぜ)

 流石に数々の武勇伝を語られる灰児である。実戦における相手の心理をかなり的確に読み取れる。

 ("後の先"が狙いってワケだろ?

 突っ込んで行ったところをうまくいなして、オレに更に(いら)立ちを植え付ける。

 それを繰り返して、オレの動きを荒くさせ、あしらいやすくしたところで、一気に仕掛けてくるってワケか。

 …その手には乗らねぇが…)

 灰児はコッソリと口角を釣り上げ、ギラリと眼光を輝かせる。

 (その貧弱な戦法、利用させてもらうとするぜ!)

 灰児は表情を一転。ギリリと歯噛みしてこめかみに青筋を立てると、ダンッ! と大きく音を立てて大地を蹴り、一気に渚の方へと肉薄する。

 大地を蹴った際、観客たる生徒達は灰児の足に青白く輝く電流が走ったのを見て取る。練気の歩法によって、ステップと同時に気力を充填したのだ。

 一瞬にして間合いが一歩に満たない距離に縮んでも、渚は依然として笑みを浮かべたままだ。そんな彼女の顔面を目掛け、灰児はやや大振りな拳撃を見舞う。

 「ッリヤァッ!」

 気合いと共に放たれた堅い拳には、先に充填した気力が籠もり、眩い金色の光を放っている。何らかの対外用練気攻撃――"(けい)"を使用した証だ。

 対する渚は、浮かべた笑みに恥じず、悠然と半歩退きながら上半身を少し仰け反らせ、拳撃をやり過ごす。

 灰児は目を丸くして見せたが――胸中には、真逆の感情が渦巻いている。

 (知ってンだよ、そうするって事はッ!)

 ここまでの灰児の一撃は、全て迫真の"演技"だ。激情を灯した表情も、気力を充填し、全力と共に感情まで込めたような大振りを繰り出したのも、全ては"振り"だ。

 そして渚は、灰児の攻撃の空振りによって生じた隙に滑り込もうと、右手を握り込んで反撃への布石を見せる。

 ――全て、灰児の狙い通りだ。

 渚はモーションの小さいコンパクトな動作で、半歩すら動かぬ踏み込みを用い、灰児の脇腹に素早い拳撃を放つ。

 それは防御されることなく、すんなりと灰児の脇腹へと吸い込まれ――ゴキンッ! と岩石がヒビ入るような音を奏でる。拳撃がまともに灰児の脇腹に激突したのだ。

 この音を耳にした生徒達と教諭は、素早い決着が付いたと判断し、息を呑む。音から察するに、渚の一撃は酷く強烈で、その衝撃は灰児の筋肉のみならず内臓深くまで痛めつけたであろう…と。

 だが…そんな衝撃を食らったはずの灰児が一向に膝を付かないので、彼らは眉根に皺を寄せて(いぶか)しむ。

 そんな頃、攻撃を繰り出したはずの渚が眉を寄せて「むうぅ…」と唸る。

 渚が拳撃を叩き込んだ脇腹には、拳大ほどの小さな、しかし眩く輝く円形の方術陣が展開されている。灰児が密かに組み上げた、防御用の方術陣である。

 こいつは単に、高い硬度を誇る"盾"を作るだけの作用に止まらない。受け止めたものに対して、堅い餅のように絡みついて動きを束縛するものだ。

 渚が素早く拳を引こうとするも、体がピクリと震えるように動くだけで、腕は全くと言って良いほど動かない。

 この状態に至り、初めて灰児は胸中に灯した残虐なる本音を顔に張り付ける。

 「ド間抜けがッ!」

 嘲笑を拭くんだ気合いと共に、灰児は渚のハチミツ色の金髪をギリリと掴み上げ、グイッと顔を上げさせると。無防備な頬に練気を込めた拳を叩き込む。

 (ドウ)ッ! 大気の破裂する音が響く。同時に、渚の頬に叩き込まれた衝撃は爆発的に伝播すると、逆側の頬から烈風となって突き抜ける。練気においてポピュラーにして高い威力を誇る技、『鋼爆勁』だ!

 「ひぃ…ッ!」

 生徒の内から、悲鳴が漏れる。顔面への『鋼爆勁』は、凄惨な見た目からも推し量れるように、非常に危険だ。強烈な衝撃は歯をへし折り、眼球を破裂させ、脳に深刻な影響を及ぼしかねない。

 「室国ッ!」

 教諭がすかさず声を上げ、2人の組み手を止めようと駆け出す――が。その足が、即座にピタリと止まる。

 灰児の脇腹に手を絡め取られたまま、強大な衝撃を受けてその場で回転した渚が――気を失うどころか、その衝撃を利用して後ろ回し蹴りを灰児の顔面に叩き込んだのだ。

 (ドン)ッ! 鈍い音と共に、今度は灰児の体が吹き飛ぶ。方術陣は集中が途切れた為か崩壊し、渚を道連れにすることもなく、嵐の中の紙きれのように吹き飛ぶ。

 これで灰児が(かえ)って不利な形勢になったかと思いきや。吹き飛ばされながらも、灰児はニヤリと凄絶に(わら)っている。

 (スンゲェアマだな…!

 『鋼爆勁』を食らって反撃してくる根性もスゲェが、この蹴り――ハンパじゃねぇ!)

 実戦で鍛え抜いた太い腕が、ビリビリとした衝撃に痺れを覚えている。骨の随にまで衝撃は伝播し、肘に電撃的な痛みを走らせる。

 その強烈な体験が、灰児の心に火を灯す。

 (久しぶりに、面白れぇ相手と()れるなぁッ!)

 灰児は空中に足場を作る方術――『宙地』を使うと、勢いよく飛び出して渚へと跳び蹴りを放つ。

 対する渚は――『鋼爆勁』をまともに顔面に食らったと言うのに、少し片方の鼻から少し血を流す程度で、不敵に笑みを浮かべている。そして、迫り来る灰児の脚の(すね)を裏拳で叩き、迎撃する。

 …はずだったが。

 (ガン)ッ! 金属の衝突音のような激しい音と共に、渚の腕は強烈な衝撃を受けて弾き飛ばされる。灰児は己の腕に、練気による『功』か方術陣かは定かでないが、防御の魔術を付与していたのだ。

 「むうぅ…!」

 少し目を丸くしている所へ、灰児はもう一度『宙地』を実行。空中で縦方向に颶風の如く回転し、その勢いで踵を渚の脳天へと落とす。

 (だから、余裕ぶっこいてンじゃねぇよ、クソアマッ!)

 (ドン)ッ! 踵は見事に渚の頭頂に命中。同時に、練気による『鋼爆勁』が再び炸裂。爆発的な衝撃と共に、渚の体がビダンッと正面から砂地のグラウンドに叩きつけられる。

 灰児はそのまま渚の上に落下し、無防備な後頭部を両足で踏み潰そうとするが…響いた、ズドンッ、と言う音は乾いた砂土を抉る音である。

 渚はすかさず転がり、灰児の一撃を回避したのだ。そして、跳び上がるような動作で瞬時に立ち上がる。

 そんな渚を、灰児は見下した嗤笑(ししょう)を浮かべ、挑発を口にする。

 「なんだ、なんだよ? ユーテリアの優等生チャンと言っても、お勉強出来るだけの頭デッカチってだけみてぇだな? おい?

 一般人(パンピー)のオレに押されてンじゃねぇかよ」

 そんな言葉を叩きつけられた渚であるが…ムスッとすることもなければ、激情に駆られることもない。ただ静かに、パンパンと体に付いた砂埃を(はた)き、ハチミツ色の金髪をサラリと掻き上げて乱れを軽く整えると。灰児に向き直り、満面の笑みを浮かべて頷く。

 「うむ、上出来な男じゃな!

 少々暴力を覚えて粋がっておる不良風情かと踏んで居ったが、どうしてなかなか、やりおるのう。

 練気に方術、そして腕に仕込んだのは[身体(フィジカル)魔化(エンチャント)じゃな?

 教養はサッパリやも知れぬが、技術は実戦向きで、心理戦にも使いこなせる。

 感心したぞい」

 そんな誉め言葉を、灰児はハッと鼻で笑い飛ばす。

 「ユーテリアの優等生チャンにお褒めいただいて、光栄だねぇ。

 で、それはつまり、こういう意味ってことで良いンだよな? "ワタシはアナタサマには勝てませんー"、ってな?」

 すると渚はケラケラ笑って、即答する。

 「いやいや。別に裏の意味などない、単純に褒めただけじゃ。おぬしならば、頭デッカチなだけの優等生として入学してくるウチの学校の新入生より、余程強いと思ってのう。

 これならば、"()る程度暴れても大丈夫そう"じゃな」

 「…あん?」

 灰児は藪睨みしながら、露骨に不愉快さをまとわせて聞き返す。

 渚の語った、"或る程度暴れても大丈夫そう"との言葉。つまりは、全然暴れてなかった――本気どころか、小手調べすらやっていなかった――そういう意味なのだろう。

 「おい、アマ…これは模範の組み手だって言われてンの、覚えてるよなぁ!?

 なのに、手ぇ抜いてるってぇのかぁ!? ふざけてンじゃねぇぞおい! どこまで見下してンだよ!」

 「いやいや、見下しておるワケではない」

 渚はパタパタと手を左右に振って否定する。その後、後頭部を掻きながら苦笑いを浮かべる。

 「しかしのう、わしはここ最近、ウチの学校の結構な実力者としか手合わせしておらんかったからな。下手に暴れて、大事に関わる怪我を負わせてはマズいからのう。

 おぬしの実力、(はか)らせてもらった次第じゃ」

 「…それが見下してるってンだよッ、ウゼェアマだなぁッ!」

 灰児が叫ぶものの、渚は動じずに苦笑いを浮かべたままだ。

 「うーむ、真剣勝負だというのなら、確かに礼を失した行為であったのう。

 じゃが、安心せい。今度は"キチンとやる"からのう」

 渚はそうは語るものの…構えを取ったりするどころか、観客に徹している生徒達の方に視線を投げてキョロキョロと見回す。

 何かを探しているようだが…その行動があまりにも琴線に触れた灰児は、元よりの冷静さをかなぐり捨てて、全力疾走。全力で気力を練り、拳に莫大な量の電撃を蓄えて、渚に肉薄する。

 「何処見てンだよ、クソアマッ!」

 灰児が拳を電流と化し、渚の横向きの頬面に叩き込む――転瞬、渚の姿が灰児の視界からフッと消える。瞬きもしていないと言うのに、コマ切れのフィルムのように、姿が消えたのだ。

 (な…!?)

 驚いて目を見開いた、直後。ガクン、と脚に衝撃が走り、視界が回転する。

 (…はぁ?)

 何が起きたのか理解できない灰児に、更に追い打ちの現象が襲いかかる。背中にドンッ、と痛みを伴わぬ衝撃が走ったかと思うと、今度は視界が急速に前方へ向かって、激しく流れてゆくのだ。

 ――否、視界が流れているワケではない。灰児の方が、激流に巻き込まれた丸太のように、吹き飛ばされているのだ。

 灰児がその事実をようやく認識したのは、(したた)かに大地に叩きつけられ、激流の勢い余って岸に打ち上げられた大木の如く、砂土の上を激しくもんどり打って転がった時である。

 「痛ぇ…」

 気の抜けた呻き声が反射的に漏れるものの、彼の胸中を埋め尽くすのは、冷や汗が全身から噴き出すような怯懦だ。

 (オレは何時、どんな攻撃をされたんだ…!?)

 その問いに答えられる者は、このグラウンドに殆ど居ないだろう。教諭に秀、凜明、そしてナセラの4人が辛うじて見えた程度だ。他の者達は灰児同様、一体何が起きたのか理解できずに、ポカンと口を開いて眺めているばかりである。

 

 (体を沈めて拳をかわしながら、流れるような動作で脚払いをした…)

 ナセラが固唾を呑みながら、渚の反撃の流れを脳裏で再生する。

 (そして、灰児の体が浮き上がった所に、もう一度蹴りを叩き込んだ。

 あの様子だと、おそらくは『勁』の一種を使ってる。でも、威力を高めるために付与したんじゃない…)

 ナセラの頬に、冷たい汗が伝う。

 (灰児を紙にみたいに吹き飛ばすだけのため…つまりは、手加減のために、使ったんだ…!)

 ――それでは、手加減なしの、純粋に相手を叩き伏せるための威力へと転化した『勁』を使ったのならば。灰児の身体は一体、どんな事になっていただろうか。

 それを想像すると、ナセラの額にブワリと玉のような汗が幾つも噴き上げる。

 (恐るべし…ユーテリア、いや、"英雄の卵")

 

 「くそ…なんだってンだ…」

 灰児が四つ脚になって体勢を立て直し、ノロノロと立ち上がる。

 その様子を遠くなった間合いから見つめた渚は、ケラケラ笑う。

 「ちょいとそこで、頭を冷やしておけい。

 激情は、荒くて粗末な技しか生まぬ。折角、激情の振りをするくらいに冷静だったおぬしの利点が、台無しになってしもうておるからのう。

 そんな状態のおぬしを相手にしても、わしにもクラスの皆の衆にも、何の益にもならぬわい」

 渚の達観したような言い草に、灰児の青筋は再び浮き上がりそうになるが。彼を勝利に導き続けてきた理性が、その激情を必死に抑え込む。

 (あいつの言っていることは事実だ。

 考え無しに闇雲に突っ込むだけで勝てる相手じゃねぇ…!)

 灰児はムスッと不機嫌な表情を作りはしたものの、普段のガラの悪さには似つかわしくない殊勝な心意気で、静かに深呼吸を始める。

 渚との戦いは、終わってはいない。これからが本番なのだ――渚自身が、そう言っている。

 灰児が身体を整えている一方で、渚は再び生徒達の中に視線を巡らせると。

 「お、居た居た!

 凜明に、秀と言ったかのう? ちょいと来てはくれんかのう?

 頼み事があるんじゃ」

 渚の言葉に、凜明と秀はキョトンと顔を合わせたが。ともかく従ってみようと、2人はほぼ同時に立ち上がって渚の元へと小走りに近寄ってゆく。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 渚の"頼み事"に応じた2人であったが…それを終えた直後、罪悪感とも呆れとも取れる感情に、表情を複雑に歪める。

 そして、彼ら2人が何か言うよりも早く――激しい言葉を発したのは、息を整え続けていた灰児である。

 「おい、テメェ!

 オレに心を落ち着かせろ、とか言っておいてよぉッ! それは何の当て擦りだよ!?

 挑発のつもりか!? それとも、オレがクソ雑魚だからって憐れんでるつもりなのかよッ!?」

 灰児が不満に思うのも無理はない。渚の"頼み事"は、これから挑む本番に向けて気合いを入れ直した灰児を愚弄するかのように見えるのだから。

 今、渚は両手を背中に回している。その手首には、縄跳びが何重にも巻き付き、縛り上げている。

 縄跳びはただ絡みついているだけではない。凜明と秀、クラス内でも秀でた術者による魔化(エンチャント)によって硬度や重量、束縛の度合いが劇的に高められているのだ。

 渚は、自らの意志で自らの両腕を封じたのだ。

 「うむ、流石は学級委員サマに、優等生じゃな! 良い仕事をしおる!」

 渚は灰児の不満には答えず、満足そうに2人の術者を(ねぎら)う。

 だが、術者達の顔から複雑な表情が消えることはない。

 「本当に…この状態で、戦うのかい…?」

 尋ねる秀は、渚への気遣いを(にじ)ませる一方で、灰児への同情を(はら)んでいる。渚に挑戦したかった身として、これほどのハンデを見せつけられては、あまり良い気がしないからだ。

 しかし渚は、あくまでケラケラと軽く笑ってみせる。

 「下手に五体満足じゃと、思わず手を抜きそうになるからのう。

 制約がある程度の方が、必死になれるというものじゃ。

 それに、実戦を想定した組み手じゃろう? 実戦では体部の故障などザラじゃからな。両腕が使えなくなった状態の訓練として有意義じゃろ?」

 「…その台詞、つまりはよぉ…」

 灰児が再び激情に駆られながら、火を吐くような凄みを込めて語る。

 「五体満足の状態じゃあ、オレは完全に役不足って事だろぉ…!?」

 「じゃーかーらー、頭は冷やしておけと言っておるじゃろう?

 別にバカにしておるワケではないのじゃが、結果として、そう見えてしまうかも知れんのう。

 じゃが、想像してみよ。こんなに余裕をブッこいたユーテリアの生徒を敗北させる場面を。わしなら穴に入りたくなるほど恥ずかしくなるし、おぬしはそんな間抜けを笑えるワケじゃ」

 その台詞を聞いても、灰児の不機嫌は一向に収まる気配はない。そこで渚は、"やれやれ"と云った感じに嘆息しながら軽く首を左右に振ると。一転、ギラリとした獰猛な表情を見せる。

 (わら)いながらも鋭い眼光を放ち、見る者の背筋を凍り付かせるような凄絶な表情は――正に、理性という武器を手に入れた、嵐のように凶暴なる怪物。

 「おぬしがその気にならぬと言うのならば――わしが、その気にさせるまでじゃ」

 言うが早いか、渚はトン、と云う軽い足音を残して姿を消す。それまで存在していた大木が、微風となって消えてしまったかのような展開に、クラスメイトも教諭も、そして灰児すらも目を見開く。

 

 転瞬、灰児の眼前に現れる、(わら)いを張り付かせたままの渚。

 そんな渚が、ゾロリと牙を剥く獅子のような表情で、灰児に(ささや)く。

 「ここからのわしは、本気じゃからな。

 気を抜くと…死ぬぞい?」

 言葉と共に放たれる、渚の蹴り。それは灰児の右脚の(すね)を狙ったローキックだ。

 疾風を伴ったその一撃の余波が、灰児の脚に迫り来る時。彼の動物的本能がゾワリと全身の毛を逆立たせ、冷や汗が噴き出す。

 (なんか知らねぇが、やべぇ気がする…ッ!)

 万全の直撃を免れようと、灰児も蹴りを放ち、渚の勢いを殺ごうとする…が。2人の脚が交錯した、その瞬間。

 「…っぐぎぃぁっ!」

 響く、灰児の悲鳴。遅れて、ゴウ、と吹き抜ける爆風のような衝撃。

 灰児の脚は高速で接近してきた金属塊にでも激突したような様子で弾き飛ばされる。そればかりか、彼の巨躯が独楽(コマ)のようにその場で回転してしまう。

 (…な、なんだ、このパワー…!)

 冷や汗を飛び散らせながら、回る視界の中で必死に渚の姿を追うと。そこには、逆側の脚で灰児の顔面を狙ってハイキックを放つ姿がある。その速度たるや、弾丸にも比肩する程だ。

 ――あれの直撃を食らったら、顔が破裂する…! そんな予感に突き動かされた灰児が腕を交差させてハイキックをブロックすると。インパクトの瞬間、鋭い衝撃が骨を突き抜け、烈風となって灰児の顔に直撃する。――それは単なる風ではない、思い切り鼻面に掌底を食らったような、確かな打撃だ。

 ((けい)かよ…ッ! しかも、予備動作なしで、この威力…ッ!

 腕が折れたかと………ッ!?)

 灰児にそれ以上、思考する余裕などない。渚は苛烈に灰児に肉薄し、更に蹴る、蹴る、蹴る――!

 その動作は、"舞い"と評するには余りに激しすぎる。岩をも砕く、激しい颶風だ。

 完全に機先を制された灰児は、ひたすらに防御に回ってしまう。だが、渚の一撃はその防御を突き抜ける強烈な(けい)を纏い、確実に灰児の体を抉ってくる。

 (こいつぁ…ッ! クソッ!

 マジにやらねぇと…負ける程度じゃ済まねぇッ!)

 ギリリ、と歯噛みする灰児の胸中に、反抗の意志の炎が赤々と灯る。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 5

 ヒュンッ! 風切り音は、渚の鋭い蹴りが灰児のこめかみ目掛けて、スニーカーを履いたつま先を叩き込んで来る音だ。

 灰児はすかさず踏み込んでヒッティングポイントをずらし、両腕で渚の蹴りを防ぐ。(すね)による強打はゴキンッ、と強烈な音を響かせ、灰児の腕をビリビリと震わせる。

 (なんてぇ一撃だッ! 砲丸かよッ!)

 吹き飛びそうになる所を、歯を食いしばって踏み留まる。これを凌いだら、すぐに肉薄して渚に反撃を食らわせる算段だ――が。

 渚の動きは止まらない。灰児に叩き込んだ蹴りを支点にしてフワリと宙を舞い、グルリと回転すると。無防備な灰児の頭頂めがけて踵を落とす。

 後退して回避しようにも、渚の動きが早すぎる。最善でも、踵が鼻面に直撃し、削ぎ取られてしまう可能性がある。

 (間に合えッ!)

 灰児は先に防御につかった腕を頭の上へと向け、交差させる。直後、渚の踵が灰児の腕へと振り落とされる。

 (ドン)ッ! 巨大な岩が天空から落ちて来たかのような、強烈な音! 音だけでなく、その衝撃も非常に凄まじい。何せ、灰児の足下が巨大な重量によって押し潰れて抉れ、砂地にいくつものヒビ割れを走らせたのだから。

 (クッソ痛ぇ…ッ!

 だがよぉッ!)

 灰児はビリビリと痺れる腕を酷使し、激突した渚の脚を掴む。

 (その姿勢じゃあ、逃げ場は無ぇよなぁッ!)

 灰児はそのまま渚の脚を背負い、グランドに投げて叩きつけようと試みる。

 果たして、渚を担ぎ、回転させることには成功したが。渚はただ、投げられるがままでいるような素直な根性の持ち主ではない。

 地面へと落とされる、その最中。捕まれていないもう一方の脚を振るい、灰児の顔面に真正面から蹴りを放つ。

 「わぶっ!」

 メキリと鼻面が歪み、ドバッと鮮血が両の穴から(あふ)れ出す。柔らかな鼻の軟骨から頭蓋へと突き抜ける衝撃に、視界が一瞬真っ白になり、全身が脱力する。

 結果、灰児は渚を掴む腕を離してしまったが。それでも渚は背中から地面へと高速で叩きつけられる。

 「ぐ…ッ」

 渚が小さく呻き声を上げる。その声に灰児の白くなった意識は引き戻される。

 (よっしゃッ、効いてやがるッ!)

 これぞ好機と、灰児は無様な顔面の痺れを振り切り、足下に転がる渚へと足の裏を叩き込みに行く。

 渚はそれをクルリと身を回して回避。同時に低く起きあがると、空しくグラウンドの土を踏み抜いた灰児の足を疾風のように払う。

 「ぬぉ…ッ!」

 ステン、とその場で宙に浮いて転がる所へ、渚は素早く立ち上がると。灰児の体めがけてハイキックを放つ。その速度たるや、脚が霞んで見えるほどだ。

 (やらせるかッ!)

 灰児も負けてはいられない。まだ三半規管が悲鳴を上げている最中、野性的な勘を頼りに闇雲に『宙地』を使用。空を蹴ると、渚の胸元へと肉薄する。

 ドンッ! 渚の腿が、灰児の脇腹に叩き込まれる。蹴りの常識で考えてみれば、モーメントの小さな腿の攻撃はさほど強くはない。それでも、灰児の巨躯がビクンッ! と震える程の一撃である。

 だが、灰児も一矢報いている。体ごとぶつかった灰児の右手は、中指の間接をつきだした拳の形を取り、渚の鎖骨の辺りに突き刺さっている。

 当然、この拳はただの拳骨ではない。つきだした中指の間接に一点集中した強烈な(けい)を鋭く長い針のように撃ち出す練気の技を放っている。『黒点針』と呼ばれるその技は、名が差すとおり、皮膚に黒々とした点状の(あざ)を残す強烈な一撃だ。極めれば、鋼板にすら穴を開けるほどの威力を持つ。

 渚の体が、ピクッ、と震える。さすがにダメージがあったようだが…彼女よりも、攻撃を放った本人である灰児の方が酷い驚愕に表情を青ざめさせている。

 (なんだ…こいつの体!)

 渚の体が小柄だと云うのに、(けい)を当てた時には、巨大な岩盤でもそこにあるかのような、重く硬い手応えが返ってきた!

 驚愕しているところへ、渚のハチミツ色の髪がフワリと揺れる。一瞬、倒れ込むのかと思えるほど仰け反った――直後、極限まで引き絞られたバネが返ってくるような高速で戻り、灰児の後頭部に額を叩き込む。

 インパクトの瞬間、灰児は大口を開いて、絶叫する。

 「ッガアアアァァァッ!」

 叩き込まれた額から、恐ろしく長く鋭い釘を突き込まれたような激痛が走ったのだ! それは頭蓋から背骨へと抜け、全身に電流のような衝撃を伝播させる。

 その衝撃は、先に灰児が渚に叩き込んだはずの『黒点針』と同類の――いや、同一のものだ。ただし、灰児が放ったものよりも、何倍も威力は上だ。

 (『衝鏡功』かッ!)

 意識が飛ぶような痛みに(むしば)まれながらも、灰児は(さと)る。

 『衝鏡功』は練気の技術の一つ。自らの体を伝導体とし、加えられた外力を任意の方向へと誘導、そして弾き出す業だ。多くの場合、相手の攻撃を鏡の如くそのまま相手に返す反撃の業として使われるため、"鏡"の文字が名に冠されている。

 一見して無敵のような業であるが、弱点がある。自らの体を伝導体とするために、外力が体内を通る際、筋肉や骨格、内臓といった組織に負荷が生じてしまうことだ。

 だが、この技術の熟練者は体内を伝導する事を逆に利用し、取り込んだ外力に自らの気を上乗せし、倍返しを行う事をやってのける。

 そして渚は正に、その倍返し――いや、正確には2倍で効かぬ、4か5倍の返し――をやってのけたのだ。

 (全く、飛んでもねぇアマだ…ッ!

 だがよ…ッ!)

 灰児はギリリと歯噛みすると、体の中心軸を貫いて大地に押しつける『黒点針』の力を利用し、地に亀裂を入れるほどの激しい踏み込みを行う。大地から気を取り込む動作、『震脚』である。

 そして、渚の腹部に一度めり込ませた拳を少し引くと、再び気力を拳に蓄積する。ただし、今度は立てた中指の間接は引っ込めている。正真正銘の正拳だ。

 (これは、返せねぇだろッ!)

 灰児は体を起こしながら、渚の腹部に拳撃を叩き込む。腹をブチ抜く気概で激突した拳が、渚の小柄な体を緩い"く"の字に曲げた――その直後。

 (ゴウ)ッ! 轟く爆音に、広がる衝撃波。グラウンドを覆う砂礫を舞い上げ、噴煙がもうもうと広がり漂うような光景を作り出す。

 灰児が繰り出した、渾身の『鋼爆勁』だ!

 この勁は『黒点針』とは違い、気力が相手の体内に広く分散する。その為、『衝鏡功』による外力の任意誘導は極めて困難だ。

 そして実際に、渚の実力を以てしても実現できず、彼女の体はブワリと宙に浮く。まるで風に舞い上げられた木の葉のように、軽々と。

 (――木の葉!?)

 灰児は眉を(ひそ)める。

 渚の体は、優に地上5メートルは吹き飛んでいる。灰児は確かに渾身の力で勁を放ったが――それにしては、余りにも飛びすぎる。

 それに、インパクトした際の手応えが妙だった。相変わらず岩のように強靱な筋肉の手応えだったが、その割に重みが余りに足りなかった。まるで、紙でも殴っているような。

 (まさか――ッ)

 灰児はハッと思い当たるものの――少し、遅い。

 渚はキュンと高速で身を回して体勢を整え、眼下に灰児を捉えると。『宙地』を使って、流星のような高速で一気に落下してくる。

 その時の渚の顔と来たら、全くダメージを受けた気配がない。ただ凄みの効いた(わら)いを張り付けているだけだ。内臓を思い切り揺さぶってやったはずが、口元から血の一筋すらも流れていない。

 (『葉身功』!)

 灰児は渚の防御術を(さと)る。練気によって自身の質量を軽くする功であり、それ故に衝撃による影響は極端に軽減される。その代わりに、紙のように空高く浮き上がったのだ。

 今、降下する渚は『葉身功』を解除し、質量を取り戻した状態だ。『宙地』による加速も加わっているので、激突すれば相当の衝撃が来る。だが、灰児の反射速度で避けきれるような動きではない。

 灰児はすかさず右の二の腕を思い切り力み、功と共に筋肉を硬化させる。そして、渚が繰り出した跳び蹴りをそれに当てて、防御する。

 あわよくば――渚ほど巧くは行かないが――『衝鏡功』で衝撃を跳ね返してやろうと言う算段であったが。そんな理性など吹き飛ぶような絶大な打撃――いや、"刺"撃が灰児の体を貫く。

 「………ッ!」

 声が出ない。痛みに耐えるだけで、精一杯だ。まるで巨大な釘が身を貫き通したような衝撃に、灰児はのたうち回りたくなる。『衝鏡功』を使うような余裕など、微塵もない!

 実際、灰児を貫いた衝撃は彼の背中を突き抜け、グラウンドに突き刺さって砂煙を上げ、拳3つは入るような窪みを作り出す。

 渚が繰り出したのは、足による『黒点針』だ。その威力たるや、先に描写した通りの凄絶なものだ。灰児が繰り出した、中指の間接を立てた拳によるものなど比べ物にならない程の、"針"と言うより"槍"のような一撃。

 もしも灰児の服を脱がせば、そこには腕を貫き、銅をも貫く黒々とした大きな丸い痣がクッキリと出来ているに違いない。

 渚は『黒点針』の反動を利用してヒラリと後方に飛び、数メートルの間を開けてスタッと降り立つ。そして、立ったまま泡となった唾液を吐き出しつつ歯噛みして悶える灰児を、(わら)いながら眺める。

 「どうじゃ、この辺でギブアップかのう?」

 凄みをフッと消し、ウインクしながら語った渚だが。すぐに再び、その表情に凄んだ嗤いが浮かぶ。

 「…ふむ、詰まらぬ不良少年のままにしておくには惜しい根性じゃな」

 灰児が泡と唾液を吐き飛ばすと。再び身構えたのだ――『黒点針』によって深々と打撃を受けた右腕をも持ち上げ、大きく肩で息をしながら。

 彼の顔は、いや、全身は冷たい汗でビッショリと濡れている。筋肉や骨格は疲弊の為か怯懦の為か、小刻みに震えている。

 それでも彼は顔を上げて、渚を真っ直ぐに見つめ…そして、"嗤っている"。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 何がどうなってるのか、分からない――そんな感想を抱くクラスメイトが大半であろう。それほどまでに、2人の戦いは高速であった。

 だが、彼らは皆、大気の振動やら、魔力や気力の膨張と収縮を感じ取り、授業どころではない凄絶な事態が起きていることを理解している。

 ようやく動きが一度止まった今、彼らはフゥーと息を抜きながら、コショコショと感嘆の声を上げる。

 中でも多いのは、渚に対する賞賛だ。

 「流石、ユーテリア…! 動きがもう、人間離れしてる…!」

 「早送りでも見てるみたいに早ぇ…! 目が全然、追いつかねえ…」

 「あの灰児君が…あんなにズタボロじゃん…!」

 「それでも、腕を使ってないってのかよ…! 本物の怪物じゃねぇか…!」

 一方で、教諭や秀を初めとするクラスの実力者、そして灰児の取り巻き3人組は、灰児に対して敬意と驚愕を向けている。

 「あんな圧倒的な動きを見せられて…」

 「あんなに傷ついているって言うのに…」

 「ここで、嗤うのかよ!?」

 加えて、教諭は固唾を飲みながら思案する。

 (…止めるべきじゃないのか!?)

 模範演技としては、十分過ぎた…いや、あまりにも行き過ぎだ。

 実戦を想定した組み手をすれば怪我が出るのはよくあることだ。それでも、治療用の魔術を受けて、しっかりと栄養を取れば直ぐに治る事が大半だ。

 しかし、今回は違う。このまま進めば最悪、命に関わる可能性がある。特に、圧されている灰児はそうだ。

 だが同時に、教諭は灰児の(わら)いを、入学してから初めて見せる、やる気と清々しさがはっきりと見て取れるその表情を見ていると。"止め"の言葉が、咽喉の奥に引っかかって出てこない。

 (何にでも反発して、主体性なくダラダラしてるばかりのあいつが、ここまで魂に火を付けてるだ。それを、オレが消してしまっていいのか…!?)

 教諭が気を揉んで葛藤している一方で。二ファーナはただ一人だけ、周囲の雰囲気に全く染まらず、ぼんやりと事の成り行きを見守っている。

 そんな彼女の袖をクイクイと引っ張るのは、隣に座る美樹である。

 「ねぇ…ヤバくない、これ…?

 先生、なんで止めないの…?

 なんで誰も、止めないの…?」

 美樹が戦慄(わなな)きながら、震えの混じる言葉で尋ねてくる。…いや、二ファーナが答えなど知るワケもないので、単に自身の怯懦や困惑を共有したいだけだろう。

 だが、ニファーナはぼんやりとした態度を崩さず、眠たげとも面倒臭げとも取れる、欠伸のような声を出す。

 「当人達が良くてやってるんだもの。

 やらせておけば良いよ」

 「ええー…それで良いの…?」

 「でも、他にやりようなんて無いじゃん?

 先生だって、今のあの2人の間に割って入るのは、難しいでしょ?」

 「そりゃあ…そうかも知れないけど…」

 美樹がゴニョゴニョと反論が崩れたような言葉を舌の上で転がす中、ニファーナは縮めた膝の上に顎を乗せて、完全な観戦ムードでぼんやりと視線を2人に向ける。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (楽しいなぁ…ッ!)

 対峙する2人の内、先に動いたのは灰児だ。

 これまでと違い、(ろく)に構えも取らず、亡霊のように脱力した姿勢ながらも、大地を蹴った加速はこれまで以上に速い。その肉体は烈風となり、一瞬にして渚の懐へと肉薄する。

 渚はそこへ(すか)さず膝を叩き込む。膝は『黒点針』を(まと)い、灰児が迎撃に繰り出した肘と激突した瞬間、五指の先まで貫く激痛と衝撃が走る。

 今までの灰児ならば、そこで歯噛みの一つもして、体を強ばらせて耐えたであろうが。灰児は腕を弾かれるままに任せつつ、鋭い蹴りを渚の腹部に叩き込む。

 (オレ、イカれちまったのかも知れねぇな。

 この痛みすら、楽しくなってきやがる…!)

 蹴りは風の刃を生み出す『風刃勁』を纏う。その一撃は渚の腹部に一筋の荒々しい斬撃を刻み、身につけた体育着の生地をバッサリと切り取る。

 露わになる渚の腹は、血を噴くどころか裂傷も生じていない。しかし、風の刃による激しい擦過により、赤黒い痕が残っている。

 (痛みを潜り抜けて、一撃をブチ込むのは、もっと楽しい…!)

 灰児の蹴りの一撃を受けた渚は、その衝撃を利用してグルリと一回転すると、後ろ回し蹴りを灰児の頭に炸裂させる。その一撃にも何らかの勁が掛かっていたはずだ、事実、灰児は手のひらで受け止めても、手の甲から衝撃が突き抜けて灰児の頭を揺らしたほどだ。

 (そして、叩けば鐘のように響いてくれるこの女の存在が、スゲェ楽しい…!)

 灰児の腕はビリビリと震えているが、渚の足を掴んで離さない。そのまま灰児は半歩前に出ながら渚のもう一方の足を払うと、自らの体重を掛けて倒れ込む。

 「ぐふ…ッ!」

 ドン、と背中から大地に倒れ込んだ渚が、くぐもった声を上げる。灰児は彼女の鳩尾(みぞおち)に膝を当て、全体重を掛けたのだ。手を封じてしまった渚には、防ぎようのない攻撃だ。

 渚を下に敷いた灰児は賺さず拳を握ると、渚の顔面めがけて砲撃のような勢いで拳撃を放つ。

 対する渚は、迎え打つかのように頭を振り上げ、額を当てて来る。小柄な体に見合わぬ強い力で、灰児の体を持ち上げながらの反撃だ。

 拳と額の撃ち合いは、五分に終わる。灰児の拳は弾き返されるし、起きあがった渚の上体もガクンと倒れ込む。――いや、盛大に鼻血を噴いた分、渚の方が分が悪いと言えるかも知れない。

 だが、渚は額を当てたとは言え、意識が飛ぶことはなかった。この撃ち合いで生じた僅かな隙を付いて掴まれていない足を動かし、灰児の下腹部に当てると。『鋼爆勁』と共に一気に押し出す。

 (ゴウ)ッ! 爆発的な砂煙と共に、灰児の体が浮き上がる。性器を含む臓器を強烈に揺すられた灰児は、口角に唾液の(あぶく)を漏らしたが――苦悶の顔は一瞬のこと。すぐに再び、嗤いが顔に張り付く。

 (やっぱりコイツ、面白ぇ…ッ!

 あの状況も、平気で抜け出しやがる…ッ!)

 灰児は渚の脚を掴む手を離し、吹き飛ばされるがままに任せる――と思いきや、すぐに『宙地』を発動。衝撃が抜け切れない体に鞭打ち、回転しながら跳ね返り、渚に回し蹴りを放つ――。

 それからの2人は、近距離での激しい打ち合いを始める。

 灰児は両腕両足を駆使し、嵐のような乱打で渚に攻め続ける。当然、一撃一撃には勁やら身体(フィジカル)魔化(エンチャント)が課せられ、渚の内臓までも(えぐ)れとばかりに拳や蹴りを叩きつける。

 対する渚は、腕を封じているために、蹴りでしか対応が出来ない――しかし、その動きと来たら尋常ではない。灰児が嵐ならば、渚は乱気流か竜巻とでも形容しようか。灰児の四肢を駆使する連撃に、身が霞むような速度で蹴りを合わせ、防ぐだけでなく、弾き飛ばすどころか、苛烈な一撃すら叩き込んで来る。

 (こいつ、"英雄"どころか…"怪物"だよな…!)

 攻め続けているはずが、体中に激痛を刻まれてゆく、灰児。反面、ますます大きくなる、顔に張り付いた(わら)い。

 その嗤いが大きくなるに従い、彼の体の周りにチカチカと、冬の晴れの日に舞い上がる雪の粉が見せる輝きのようなものが、現れてくる。

 それを目にした観戦者達は、初めは目にゴミが入ったのかと目を(しばたた)かせり、ゴシゴシと腕で擦ったりしたが。輝きがドンドン大きくなり、ガラス片が反射する真夏の陽光のような激しさとなると、これがゴミが見間違えではない事を(さと)る。

 同時に、教諭を初めとする実力者達は、この輝きから強大で破壊的な魔力を感じ、表情を青ざめさせる。

 (あんなものを、授業で使うのか…!?

 そもそも、あんな代物を、あの室国が使えたのか…!?)

 トカゲの顔をした教諭がゴクリと固唾を呑んだ一方で。灰児は、ヘヘッ、と小さく嗤い声を漏らす。

 (テメェなら…オレの全部、受け止めてくれるよなぁ…!!)

 ――そして灰児は、身を震わす恐怖と歓喜の絶頂に至る。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 灰児は如何にして"不良"のレッテルが貼られるような存在となってしまったのか。

 彼自身に訊けば、「よく覚えていない、成り行きだ」と答えるに違いない。実際、彼は本当に忘れてしまっているのかも知れない。

 いや、そもそも、それがきっかけだと意識していないのかも知れない。

 

 ――原点を探れば、彼が初等学校の低学年の生徒だった頃に遡る。

 

 当時のプロジェスは、都市国家としての矜持だけを柱に建っているだけで、周囲の列強都市国家や組織の言葉に(なぶ)られては、強がりつつも背中で怯え震える日々を送っていた。

 エノクもその恩師すらも姿を見せていなければ、勿論、『現女神』も持っていない。

 山や森から魔法性質を持った生物がヒョッコリと顔を出すだけで、国家的な甚大な被害が出かねないような時代だった。

 [[混沌の曙>カオティック・ドーン]]以前の時代を知る年経た者達は、地球を席巻した魔法を呪うばかりで、環境変化の中に取り残されて滅び行く種族のように、ゆるゆると力が()がれていた。

 若者達は、他の都市国家の成功を眺めては、魔法との共存の方向を模索し始め、他の都市国家より遅れること十数年を経た頃、ようやく教育の中に"魔法科学"がポツポツと取り入れられ始めた。

 

 灰児は初めて魔法科学の教科書を眺めた時、その胸中に抱いた感情は――。

 (カッコイイ!)

 …であった。

 灰児は別に、神童と呼ばれるような天才児では無かったし、勉強よりも断然遊びを採る、やんちゃな少年であった。一見しただけで教科書の内容を理解するなど、到底できなかった。

 それでも彼は、教科書の内容を埋め尽くす不思議な図形や式の数々、色彩豊かに描画された図表の数々に、心を奪われた。

 「この内容をキチンと分かるようになれば、手品なんて言葉は忘れてしまうでしょう」

 初めての授業の日、教師の口から出たその言葉を聞いて、灰児の心には興奮の炎が赤々と灯ったものだ。

 そして灰児は、他の教科を放っておいても、魔法科学の勉強だけは沼の中に頭までどっぷりと浸かったように、のめり込んだ。

 当時の担任の教師が若手で、且つ、魔法科学の普及に対する熱意のある人物である事も幸いした。灰児の質問に教師はなるべく丁寧に答え、教師自身も答えられない疑問については、2人で一緒に調べ物をしたりと、非常に有意義な時間を過ごした。

 こうして灰児は、今の"不良"の姿が想像出来ない程に、純真無垢な瞳を真摯な好奇心で輝かせながら、遊びのように魔法科学に没頭する"優等生"となった。

 実際、彼の持つ子供特有の自由な発想は魔法科学の理解と応用を助け、当時のプロジェスの並の成人魔法技術者よりも、余程幅広い事象を実現出来た。

 「こりゃあ、将来はユーテリアに行きだな! こんな田舎に留めておくにゃ、勿体ねぇ!」

 灰児の父は誇らしそうに大笑いし、灰児の頭をクシャクシャに撫で回してくれたものだ。

 

 そんな灰児の人生に暗雲が掛かったのは、初等学校の高学年に至り、恩師たる若手教師が転勤してしまった事に()る。

 若手教師にとっては、この転勤の話は万々歳であったことだろう。彼の功績が認められ、上の立場として中枢区に近い学校に迎えられたのだから。

 だが――この教師を去った後、灰児の周囲には魔法科学に対する情熱を持つ者は居なくなってしまった。

 授業は非常につまらなくなった。魔法科学の授業自体は存在しているものの、教師は教科書以上の内容を決して教えようとはしなかった。――否、"教えることが出来なかった"のだろう。

 灰児が質問しに行くと、その壮年の担任は決まって不愉快そうに眉を(ひそ)めた。

 「そんなの、今のお前が覚えてどうするんだ? 必要ないことだろう?

 今はまず、目の前のことだけに集中しろ。魔法科学以外の教科の成績を上げることとか、な!」

 この担任の意見は正論かも知れない。だが、折角の生徒の興味を()ぐような発言は、初等学校の教師としては失格であろう。

 この担任は単に、不得手な魔法科学に関する面倒事を避けたいために、こんな風に言い繕っただけだったのだろう。

 真相はどうあれ、灰児は子供心ながら教育に対して深い失望を得た。

 だからと言って、彼は抱いた興味を軽々しく捨てることはなかった。

 

 彼は必死に、独学での勉強を始めたのだ。

 魔法科学の授業を人一倍熱心に取り組む一方で、他の興味のない授業をサボっては図書室に籠もり、魔法科学に関する本を読み漁り始めた。

 すると学校は、大半の授業を(ないがし)ろにする灰児の態度を問題視し、図書館への出入りを禁止にした。

 それでも灰児は、諦めなかった。むしろ、その制約が彼に次なるステップへ進む為の決意に踏み切らせた。

 灰児は学校をサボるようになり、図書館に通い出した。どうせ学校では、自分の知りたい事を教えてくれるヒトは居ない。だから、理想とする師を外部に求める方向としても、合理的な判断であった。

 幸いにして灰児は、図書館によく通う大学生や研究生らと交流を持つことが出来、彼らから教えを()うことが出来た。彼らは灰児が虐めに合っている不登校児だと解釈して深く同情してくれて、親身になって勉強を教えてくれた。

 彼らは初等学校では到底教えてくれないような実技についても、大学の敷地の一画を演習場にして教えてくれた。灰児は砂が水を吸い込むように次々と技術を体得して行った。その様子が痛快だったのか、大学生たちは夢中になって次へ次へと技術を教えてくれた。

 

 そのまま進むことが出来れば、灰児は初等学校の不登校児として扱われようとも、その性根は真っ当なままで居られたかも知れない。

 だが、彼の特殊な境遇に、火の粉が降りかからないワケがない。

 彼の不登校に目を付けた高学年の不良少年達が、何かと因縁を付けて来るようになったのだ。

 灰児は極力関わらないよう、遭遇しないように努めて図書館への経路をいつも変えたり、万が一遭遇しても無視を決め込んで人の多い場所に紛れ込むようにしていた。

 …だが、彼の不断の努力も、遂に崩れてしまう時が来た。

 中等学校の生徒を引き連れた不良少年のグループに、出会い頭に暴行を受け、人気のない場所に連行された。

 「お前、魔法なんてムズカシイ事出来るからって、いい気になって学校に行かねーって話じゃねーか? で、大人に混じってお勉強してるんだって?

 こういう、"オレサマはテンサイなんですー"って奴、気に食わねぇんだよなぁッ!」

 謂われのない理由で灰児は、本格的な集団暴行を受けることになってしまった。

 しかし、灰児は気質はただでやられる事を良しとしなかった。世間体まで捨てて自らの意志を貫く彼が、不良の暴力程度に屈するワケがなかった。

 彼は集団暴行を打開するため、身につけた魔法技術をふんだんに駆使し、思い切り抗った――。

 その喧嘩…いや、戦いが終わった時、灰児は恩師たる担任の言葉を思い出した。

 「手品なんて言葉は忘れてしまうでしょう」

 ――そう、それは手品と評されても違和感のない光景であった。

 10歳にも満たぬ少年が、中等学校生徒を含む十数人の少年達を、素手で――それと、魔法技術で――難なく叩きのめしてしまったのだから。

 これぞ、マンガやゲームの世界で目にするような、魔法の光景であった。

 白目を剥き、唾液の泡を吐いて悶絶する少年達が(むくろ)のように転がる光景を目にして、灰児は一瞬己の所業に怯懦を覚えるものの――すぐに、それは嗤いに塗り潰された。

 (本当に、すごい力じゃん…!)

 返り血に染まった拳を誇らしげに見つめ、鼻息荒く興奮する灰児は、少年達の目覚めも待たず、堂々と自宅に引き返したのだった。

 これが灰児の人生において、初めて世に名高く広がった武勇伝である。

 

 ――以後、灰児の周辺の環境が一変してしまう。

 灰児の暴行の話は地域に広く知られることとなった。しかしながら、当時の市軍警察生活環境部はその話を誇大と扱ったため、灰児は幸いにも被害者として少し情報を提供するだけで済んだ。

 「あいつらが、勝手に仲間割れを始めたんです」

 灰児はいけしゃあしゃあと虚偽を口にしたが、市軍警察の人員は疑うことはなかった。ただ、「学校には行きなさい」と微笑みながら注意を受けるのみで済んだ。

 だが…図書館を通じて灰児を知る者達は、灰児の所業を疑わず、灰児と距離を取るようになった。

 「魔法は人を幸せにするもので、傷つけるためのものではない。

 魔法は確かに、戦争の道具にも使われることもある。だけどそれは、人道に(もと)る利用方法だ。

 君は、それと同等のことをやってしまったんだ」

 特に親しかった大学生からそう諭されると、灰児は首を左右に振った。

 「だけど、あの時のオレは大人数を相手にしなきゃならなかったんだよ! 黙ってやられてたら、オレが殺されたかも知れないじゃん!

 オレはオレ自身の幸せのためにも、魔法を使ったんだよ!」

 「それは、独り善がりじゃないか」

 「でも、殺されたら、幸せもクソもないじゃんか!」

 灰児は必死に訴えたものの、この学生は首を左右に振るばかりだった。以後、彼が灰児の前に姿を現すことはなかった。

 他の学生や研究者も、灰児が声をかけても苦笑いをしては「今、忙しいんだ」と語るに留め、更なる知識や技術の提供を拒んだ。

 一方で灰児は、複数の不良少年のグループに目を付けられるようになり、喧嘩を挑まれる機会も増えて行った。

 導いてくれる師の喪失に、煩わしい(ふりょう)達の増加。この状況に、灰児は酷く不満を覚えると共に、他人を頼ることを止めた。

 (誰も何もしてくれねぇなら、自分の力で進むまでだッ!)

 灰児は本当の意味で独学で魔法科学を体得し、その実技演習として喧嘩をこなす日々を送るようになった。実戦経験と共に彼の戦闘魔法技術はメキメキと向上し、相手がバイクや車、時には刃物や銃なんて代物を持ちだそうとも、その(ことごと)く打破し続けた。

 灰児の知識と実力は、実戦の中で着実に成長を続けて行った。殊に戦闘技術においては、初等学校を卒業する頃には、並の高等学校生徒でも手出し出来ない程の強さを発揮した。

 しかしながら、灰児の心は満ちるどころか、もうもうたる不満の煙によって暗く、暗く(くす)ぶっていった。

 (ツマんねえ…!

 全然、修練にならねぇ…!)

 灰児にとって不良達は、吠えるしか脳のない駄犬でしかなかった。ちょっと身体(フィジカル)魔化(エンチャント)や練気を使って殴ってみると、黙るどころか白目を剥いて昏倒する始末だ。そんな仲間の惨状を目にした不良グループ達は、顔を真っ青にして蜘蛛の子を散らすように逃げ出すばかり。

 灰児なりの必死さで掴み取った実力の全てを思い切りぶつける機会など、全く到来することはなかった。

 欲求不満に駆られ続けた灰児は、やがて不良少年よりも強い猛者を求めて、路上で派手に拳足を売り出していった。成人向けのゲームセンターで暴れ回ったり、暴走族を病院送りにするような乱闘騒ぎを起こして、ヤクザ連中を引っ張り出して戦うこともしばしばだった。補導に来た市軍警察の生活環境部の人員と正面切って交戦したこともあった。

 そうこうしている内に、灰児はすっかりと"不良少年"――しかも、"極悪"の枕詞が付く――のレッテルを貼られた。一方で、意図してはいないものの、結果的に不良グループに目を付けられていた少年少女を助けることもあり、人望をも勝ち取っていった。

 今、セラルド学院で交友関係のある3人の少年少女も、そんな出会いの一例である。

 話を戻す――ヤクザ連中や市軍警察を相手にし始めたにも関わらず、灰児の心が決して満ちることはなかった。

 灰児が少年ながら高い実力を誇ると云う情報を得ているはずなのに、大人達は彼と対峙すると、決まって(あなど)った態度を取った。そうすることで、大人としての威厳を保ちながら、負けた際の言い訳にもしようとしていたのかも知れない。

 だから灰児は、ここでも実力を存分に発揮することなく、不本意な勝利を収め続けるばかりだった。勿論、戦闘には勝っても、後には補導と云う形で制裁が加えられてはいたが。

 

 修練は今なお、独学で続けている。

 だが、幾ら岩を砕こうとも、金属を叩き潰そうとも、それは単なる破壊力の誇示に過ぎない事を認識している。

 自分がどれほど強いのか? どれだけの相手に通用するのか?

 それを推し量る為に、ニファーナが"夢戯の女神"立った頃、『士師』に志願した事があったが。"若神父"と呼ばれて名高い『士師』にあっさりと却下されてしまった事は、今も人生最大の屈辱として記憶に刻まれている。

 

 何をしても、全力を発揮出来ずに(くす)ぶり続けて来た、灰児。

 だが今――目の前に、彼の全力をぶつけて余りある程の実力の持ち主が、ここに居る。

 一見して小柄で可憐な姿をしていながら、(いわお)のように堂々たる態度を取り、鬼のような強さを兼ね備えた英雄の卵(ユーテリア)の怪物――立花渚が!

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「な、なんだよ、あれ…!」

 灰児の取り巻きの一人、耳と瞼にジャラジャラとピアスを付けた痩せぎすが、視界の中央に捉えた灰児の姿に呆然と声を上げる。

 否、彼のみならず、このグラウンドに居る誰もが…そればかりか、校舎からヒョイとグラウンドに視線を投げた者までもが、目を丸くした事だろう。

 粉雪のように宙を舞う(きら)めきに囲まれた灰児の背中から、虹色に輝く一対の翼が現れたのだから。

 その翼は、美しい色彩を呈するにも関わらず、蝶や極楽鳥と云った動物達を全く想起させない。鍛え抜かれた腕のように分厚く、強靱な印象を与えるその存在を想起させる動物を強いて上げるならば…獅子すらも(ついば)む荒々しさを持った怪物級の不死鳥(フェニックス)であろう。

 事実、この虹色の翼は、空を飛ぶものではない。"鍛え抜かれた腕のよう"と形容したが、それは例えではなく、的を得た表現なのだ。

 翼は一つ、力強い羽ばたきを見せると。灰児の肩の上で、握り拳を作るように硬く丸まる。

 …いや、それは実際に、握り拳なのだ。

 この翼拳こそ、灰児が長年(つちか)ってきた魔法技術の結晶だ。彼自身はこの業を、"虹拳の翼"と名付けている。

 「ほぉ。それがおぬしのとっておき、というワケじゃな?」

 渚が楽しげに、しかしながら凄絶に嗤いながら問うて来る。

 だが灰児は無言だ。代わりに、右腕と共に右の翼拳を大きく振るって見せる。

 (今のオレ達に、お喋りなんざ不純物だろう?)

 そう言わんばかりの、素っ気ない素振りである。

 同時に、灰児の周囲を舞う光片が一層輝きを増しながら、暴風と化して渚へと接近する。渚がその光片をチラリと見やり、様子を伺おうとした――直後。

 ()()()()()ッ! 光片はその輝きを大きく膨らませたかと思いきや、激しい爆発を引き起こす。その威力たるや、グラウンドを揺るがし、学院の校舎の窓を[[rb"悉>ことごと]]くビリビリと成らす程だ。

 何事かと、校舎の教室の窓が次々と開き、生徒達の視線がグラウンドに注がれる。そして、もうもうたる爆煙が広がる光景に、息を飲んで呆然とする。

 一方で体育の教諭は、この光景に唖然と大口を開いたまま、胸中でざわつく声を上げる。

 (これは…さすがにマズい!

 こんなの模擬戦じゃないッ! 本物の戦闘だッ!

 早く、止めないと――)

 教諭が震える、石のように硬くなった足で、なんとか一歩を踏み出そうとした、その時。

 爆煙がブワリと真っ二つに割れる。その割れ目の中から現れたのは、土煙で激しく汚れたものの、壮健そうな渚の姿だ。

 彼女は身を低くし、地を這う衝撃波のように灰児の元へと一瞬で肉薄し、コンパクトな動作ながら鋭く重い蹴りの一撃を灰児の顔面に放つ。

 ゴギンッ、と激しい打撃音が響いたものの…灰児の顔面はひしゃげない。彼の目の前に、虹色の翼拳が立ちはだかり、渚の蹴りを防いだのだ。

 渚の蹴りは(けい)によって威力を増してあったが、翼拳はそれに打ち消されることも揺らぐこともなく、毅然と弾いている。

 (さぁて、"英雄の卵"よぉ…。

 オレを全力で、楽しませてくれよぉっ!)

 灰児は左拳と共に左側の翼拳を握ると。渚へと烈風のような拳撃を繰り出す。

 対する渚はすぐに体勢を立て直すと。後退することなく、その場にしっかりと足を据えると、灰児の拳撃を蹴りで弾き飛ばしに掛かる。

 

 2人の戦闘は、驚愕の視線に晒されながら、尚も激しさを増して続いてゆく。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 6

 ◆ ◆ ◆

 

 2本の腕に、1対の虹色の翼拳。

 …いや、今や翼拳は刻まれた葉のようにバラリと幾本にも分かれ、触手のような有様にと化し、8対の拳と化している。

 この計10本の拳を用いる灰児は、息を()間も無い怒濤の勢い、ひたすらに連撃を渚にブチかまし続ける。

 翼拳は、その鮮やかで美麗な外観とは裏腹に、致命的な厄介さを孕んでいる。一撃における単純な物理的威力だけでも、砲弾に勝るとも劣らぬ衝撃と重量を炸裂させる。加えて、インパクトの際に、チョウの(はね)から(こぼ)れ落ちる鱗粉のように光片を渚の体に擦り付けたかと思うと。それは激しい轟音を立てて爆発し、大地を揺るがすような衝撃波をばらまく。

 光片は、灰児の魔力を結晶のように具現化させた爆薬のような代物なのだ。渚が距離を取ると、この光片をばらまき、空間を爆裂で満たして渚を攻撃すると共に翻弄するのだ。

 虹拳も非常に厄介だが、灰児自身の拳も、見た目には変化はないものの、速度も威力も魔力も段違いに上昇している。『黒点針』を放つ際に突き出した中指の間接など、並の人間が喰らえば筋肉をゴッソリと削り取られるかも知れない。

 今の灰児は正に、暴力の権化だ。

 (ホラよッ! お前も出してみせろよッ!)

 絶え間ない連撃を繰り出す最中、灰児は歯を剥き出しにした凄絶な笑みを浮かべつつ、胸中で渚に誘いの言葉をぶつける。

 (その身体(からだ)に宿してる全てを、ぶつけて来いよッ!

 そんな手の封印なんて捨てちまえよッ!

 お前の本当の本気やってヤツを、みせてくれよッ!)

 灰児はその一語一語を刻みつけるかのように、渚の小柄な身体に打撃を叩きつけ続ける。

 だが――渚と来たら、そんな灰児の意志をあざ笑うかのように、相変わらずの余裕が宿る笑みを浮かべている。

 そして、その性質上、攻撃や防御ばかりに専念出来ぬ脚だと云うのに、灰児の攻撃を(ことごと)く跳ね返して見せる。

 音や光を凌駕せんばかりの高速の蹴撃は、翼拳や正拳を的確に捉えて弾き返す。光片による爆裂は、『鋼爆勁』をアレンジした蹴りの衝撃で相殺してみせる。

 その高速にして繊細、そして豪快なる業の数々は、正に"神業"の名が相応しい。

 しかし、渚は流石に反撃にまでは手が――いや脚が回らないらしい。灰児の攻撃をかい潜って一撃を与えることは叶わない。

 一進一退の激闘が、延々と続けられる。

 

 交戦当事者の2人は意気揚々であるが、観戦者達が被る迷惑は溜まったものではない。

 灰児が放った光片の一部が観戦者達の方へと飛び散り、爆裂を起こしたり。渚の生む衝撃波による烈風や砂塵が荒れ狂ったり。もう授業における模擬戦などと言っていられない自体だ。

 攻撃の余波に関しては、秀や凜明、ナセラに教諭といった面々が対応し、クラスメイトや校舎に被害が出ないよう防御に回り続けているが。容赦の無い攻撃の応酬の連続は、彼ら4人の手に余りつつある。

 「な、何事なんですか…!」

 見かねた他の教諭が応援に駆けつけるものの、2人の交戦の間に割って入ることは出来ない。暴力の嵐の中へ飛び込めるような猛禽の如き実力者は、残念ながら、この場には居合わせていないのだ。

 (もう充分だ! 実力は充分に分かったから…!

 もう、終わらせてくれ…!)

 体育教諭は涙目になりながら、戦い続ける2人に視線を投じて訴える。

 

 もしかしたら、その視線こそが運命の天秤を(つつ)いたのかも知れない。

 2人の応酬に、大きな動きが現れる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 そのきっかけは、灰児であった。

 渚の蹴りがほんの少しばかり、大振りになった瞬間を、目敏(めざと)く覚ると。8本の翼腕を、まるで花がパッと開くように、大きく展開させる。

 同時に、粉雪どころか、飛蝗(ひこう)の群のごとく高密度に光片を展開すると。

 「ウラァッ!」

 気合一閃、まるでタコが思い切り触手で水を掻いて進む時のように、展開した翼腕を一気にすぼめながら、光片の大群を渚へと解き放つ。

 天の川も()くや、と云う程の光の大河と化した光片は、渚の隙に入り込み、連続の爆裂を引き起こす。

 その轟音と来たら、グラウンドの観戦者の鼓膜を破かんばかりだ。

 これに対して渚は、素早く体勢を立て直すと、『鋼爆勁』の蹴りで以て、爆裂の衝撃の相殺を試みる。恐るべきことに、渚のこの試行は功を奏する。放った烈風の如き一発の蹴りが、爆裂を(とごと)く歪めて弾き飛ばすのだ。

 渦巻く濃密な爆煙と砂埃。その中から突如、姿を現したのは――灰児だ!

 彼は右腕を、大きく振りかぶっている。その腕は、異様な有様を呈している。まるで、虹を固めて作った巨腕だ。

 8つの翼拳を右腕に絡めて凝固させ、この巨腕を作り上げたのだ。

 そしてこの巨腕こそ、灰児の最大の攻撃となる。

 「イッちまいなァッ!」

 灰児は叫びつつ、巨腕を虹の奔流と化して、渚の身体に叩きつける。

 渚は先の甚大な『鋼爆勁』を生み出した大きなモーションが災いし、充分な防御態勢を整えることが出来ない。

 

 結果――灰児の虹の巨腕は、渚の無防備な顔面に――その頬面に、メキリッ、と容赦なく抉り込まれる。

 その衝撃に渚の(くび)がゴキンッ、と音を立てる。同時に、衝撃が頭のみならず全身に伝播し、渚の身体はその場で独楽(コマ)のようにグルグルと回転する。

 その間、灰児は半歩踏み込んで更に渚に詰め寄りながら、左拳を固めると。右腕に絡めていた8本の翼拳を展開し、合計9つの拳で渚の身体を下から上へと突き上げる。左拳は渚の顎をガッチリと捉え、翼拳は渚の鳩尾を初めとする急所へ確実に叩き込まれる。

 (ドン)ッ! 一斉に轟く直撃音が、痛々しくグラウンドを駆けめぐる。そして渚の身体は、射出された砲弾のように高速で宙へ舞い、吹き飛ぶ。

 

 この組み手――いや、激闘の結果は、灰児の勝利で幕を閉じた。…そう、誰もが思っていた。

 灰児自身すら、それを確信し、解放感と達成感に昂揚する満面の(わら)いを張り付けていた。

 だが――百戦錬磨の『星撒部』副部長の渚が、ここで終わるワケはない。

 

 灰児は、気付いていない。いくら9つの拳を叩きつけようとも、渚が吹き飛ぶ速度が余りに速すぎることを。

 会心の一撃の結果であると、確信して疑わなかったのであろうが。それが灰児の致命的な隙を生む。

 渚の身体が、灰児から受けた衝撃に、宙でクルンと一回転した――その時。渚が伸ばした足先から、盛大な風状の刃が解き放たれる。『風刃勁』であるが、その大きさたるや家屋を潰すような大きさの三日月のようだ。

 灰児は嗤いをひきつらせながら、脊椎反射を総動員して防御態勢を取ろうとするが――間に合わない!

 (ザン)ッ! 灰児の胴に袈裟斬りに傷が一直線に刻まれる。皮膚を裂き、肉をも断った一撃に、血飛沫が盛大に舞う。

 (おい…この期に及んで、まだこんな足掻きが出来ンのかよ…ッ!)

 (にわか)にジクジクと疼き出す痛みに、ギリリと歯噛みして耐える頃。渚は宙で体勢を立て直し、太陽にも退けを取らぬ魔力励起光を放つ方術陣による『宙地』を発動。吹き飛んだ時を断然上回る加速で以て、灰児へと飛びかかり、脚を突き出す。

 正に、乾坤一擲の跳び蹴りだ。

 勿論、何らかの身体(フィジカル)魔化(エンチャント)か練気を施し、灰児への逆転のトドメとするつもりだろう。

 (それなら…耐えきって、こっちがトドメを返して終わらせるッ!)

 ジクジクした痛みを歯噛みして耐えつつ、灰児は翼拳を1対に畳みながら、身体の前で貝のように閉ざす。虹色の鉄壁が、灰児の前に立ちふさがる形となった。

 渚の足が翼の壁に到達するまで、残り数センチへと迫る。その時、灰児の翼の壁に小さな、しかし奇妙な変化が現れる。

 虹色の鉄壁が[(とばり)を作る灰児の視界の中央に、ジワリと滲み出てくるかのように、純白の錠前が現れる。質感は金属と言うよりは陶器に近いが、何の物質であるとハッキリ言うことは出来ない。両端には純白の翼が付いており、ど真ん中には大きな鍵穴が開いている。

 (…なんだ、こりゃ…?)

 灰児が怪訝に思い、眉を(ひそ)めた、その瞬間。錠前はカチリ、と乾いた音を立てて勝手に解錠し、ツバキの花のようにポトリと落ちる。

 錠前の行方がどうなるか、灰児は視線で追おうとしたが…その好奇心は直ぐに、愕然とした衝撃に吹き飛ばされてしまう。

 虹の鉄壁が、アケビの実が熟したようにパックリと、左右に大きく開いたのだ。

 当然、灰児が防御を解除したワケではない。恐らくは、先の錠前が虹の鉄壁の"鍵"として機能し、解錠と共に開いてしまったのだ。

 (魔術!? だが、魔力なんて感じなかったッ! 一体、何をしやがったッ!?)

 灰児は、開けた視界の向こう、障害が排除されて真っ直ぐに飛び込んでくる渚に視線を向ける。あの錠前は、渚の業に違いない。だが、その原理が、理屈が全く分からない!

 困惑している間に、流星のような渚の蹴りは鉄壁を突破し、灰児の間近に到達する。

 (クソォォォッ!)

 灰児は胸中で叫びながら、反射神経を総動員して、固めた拳を渚の足の裏へと放ち、迎撃を試みる。

 

 2人の攻撃が衝突した瞬間。(ヴォン)ッ、と大気が悲鳴を上げて激震。2人を中心する空間が、激しく掻き乱される。

 この激震を発したのは、渚の脚だ。身体(フィジカル)魔化(エンチャント)で筋力強化し、加えて練気で作り出した気力で超高振動を作り出したのだ。

 彼女の足の裏に叩きつけた灰児の拳は、石畳の上に落としたリンゴのように、パシュッと鮮血をまき散らしながら四方八方に亀裂が入る。

 そればかりか、激震する皮膚が衣服ごとビキビキと弾け、これまた鮮血を煙のように掻き乱れる空間に撒き散る。

 損傷を受けるのは、皮膚だけではない。激震は灰児の体内を(くま)無く駆け回り、筋肉や血管、臓器や骨格を細かく破裂させ、無力化する。

 (…あ…?)

 揺さぶられる脳の中、朦朧とした思考で間抜けな声を上げた灰児は、全身の力がフッと抜けてしまう。

 痛みよりも強烈な痺れを感じ取りながら、灰児の身体は重力に引かれるまま、大の字にグラウンドに倒れ込む。

 倒れ込んだ先の地面は、半径2メートル程もある円状に窪んでいた。渚の放った"業"により、砂土が抉れてしまったのである。

 

 激震が止み、波紋を立てていた水面が静まるように空間が凪いだ時。

 灰児はキョトンとした顔で、大の字に寝ころんだまま、天空に視線を投じていた。

 天空は少し雲が多いものの、雲間から見える太陽が(まぶ)しく雲を輝かせ、まるで複雑な大理石の模様のような光景を作り出している。

 そんな天空を見つめたまま、灰児は2、3度と瞬きしてから、ぼんやりと胸中で呟く。

 (ああ…そっか、負けたのか)

 ――ここに、"模擬"の冠詞が霞むような激闘が、幕を閉じる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 灰児の視界を埋め尽くす空の端に、ひょっこりと顔が現れる。大理石の輝きを反射するハチミツ色の金髪を(たた)えた、渚である。

 彼女は交戦時とはガラリと変わった、雨上がりにひっそりと咲く花のような、にこやかな笑みを浮かべている。

 その済んだ蒼穹の瞳の奥には、"どうじゃ、参ったろう?"と云う自慢げな輝きがチラリと見て取れる。それを認めた灰児は、麻痺した身体を痙攣させるように、ククク、と笑う。

 「最後のアレ、何なんだよ。見たことねぇ業だったぜ」

 灰児の問いに、渚は自慢げな表情を露骨なものにして答える。

 「わしのオリジナルじゃからな。しかも、状況に合わせて即興でアレンジしておる。

 業の名は付けておらぬが…むうぅ、()いて付ければ、"超震動蹴り"、かのう?」

 「お前、ネーミングセンス無さ過ぎじゃねぇか。ただの説明だろ、それ」

 「わしは業に名前など付けぬ主義じゃからな。慣れておらぬのじゃ。

 名前を付ければ、その業への(こだわ)りが生まれ、融通が利かなくなってしまうからのう」

 ユーテリアでは"暴走厨二先輩"と呼ばれている割には、"厨二病"のようなゴテゴテと盛った名前を付けるような真似はしない。

 「…ま、これはわしの元来の主義と云うより、他人の受け売りなのじゃがな」

 渚はペロリと舌を出して笑う。灰児は咳き込むように笑って返し、そして続ける。

 「まぁ、その蹴りの事も知りたかったんだがよ。

 オレが訊きたかったのは、オレの翼にいきなり生えた錠前のことさ。

 ありゃ、なんだよ?」

 「あれは、わしの"とっておき"じゃよ」

 渚はウインクしながら答える。

 あの業こそ、渚の"解縛の女神"の力の一端を示したものなのだが。自分が『現女神』であることを説明していない渚は、ニファーナの存在のことも考慮して、敢えて深い言及はしない。

 灰児も渚の答えで満足すると。気怠(けだる)げに首だけ回して、赤のスプレーを振り撒いたように飛沫(しぶ)いた血で染まった自身の身体を確認し、再び咳き込むように笑う。

 「死ぬかと思ったぜ。

 つーか…半分死んでる気がするぜ。身体の感覚は無ぇし、指がピクリとも動かねぇ」

 「本気じゃったからな。

 おぬしの本気に応えるのに、半端では礼を失すると思うたのじゃ」

 「…何が本気だよ。両腕封じておいて、全く使いやしなかったくせによ」

 灰児はそう語ると、自分を敗った小柄な少女にジックリと視線を送ると。促されたようにポツリと漏らす。

 「お前は、もっとその身体に隠してるモンがあるんだろうな。

 …(へこ)むぜ。それなりに修練積んで来たつもりだったんだがよ。名高いユーテリアのレベルにゃ、全然敵わなかったぜ」

 「仕方ないではないか。わしは、ユーテリアで最強じゃからのう!」

 渚はケラケラと笑ったが、すぐに「じゃが」と言葉を続ける。

 「幾らユーテリアとは言え、並の生徒ならば、おぬしには及ぶまいよ。

 わしらの星撒部は実力者揃いじゃが…おぬしなら、大和は倒せるじゃろうよ」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ――同刻。ユーテリアのとある屋内演習場。

 空間拡張の魔化(エンチャント)が施された演習室の並びの一画から、情けない絶叫が上がる。

 「ちょおおおぉぉぉッ! タンマ、タンマっすよぉぉぉッ!」

 叫びの主は、『星撒部』における一番の軟弱者(と言っては本人に失礼とは思うが…)神崎大和である。

 彼の有様と来たら、叫び声からも判断出来るように、非常に情けないものだ。"く"の字になる程に退け腰になって、両手をブンブンを振っている。まるで、主役と決まった演劇において、開演直前になって主役を返上したいと駄々を()ねる役者のようだ。

 「早く構えなよー? 10数えたら、飛びかかるからねー?」

 そう語るのは、大和と対峙している女子生徒。狐の耳と9つのモフモフの尻尾、そして鍛え抜かれていながらグラマラスな体格が目を引く女子生徒、ナミト・ヴァーグナである。

 渚を欠いて2日目の星撒部は、昨日のノーラと蒼治の模擬戦を受けて、模擬戦による鍛錬を活動とすることにしたのだが。今はその一コマである。

 「だって、ナミちゃんの9本尻尾を相手にするなんて、無理ゲーじゃないッスかぁ!」

 大和はナミトの忠告など無視し、観戦者達に視線を向けながら、ナミトを非難するように指差す。

 大和が抗議を訴える観戦者達は、勿論、ユーテリアに残った星撒部の面々だ。

 「蒼治先輩やノーラちゃんみたいに、手加減ってものを知ってる常識人が相手ならまだしも!

 ナミちゃんみたいな化け物を相手にするなんて、後方支援が得意分野のオレには、荷が重すぎるッスよぉッ!」

 「何を情けない事を言ってるんですかッ!」

 大和に対して鋭い一喝をぶつけたのは、幼さが漂う甲高い女の子の声。その主は、昨日も星撒部に顔を出していた準生徒、ナディ・ゲルティアである。

 「後方支援だからこそ、不測の事態に対応出来るようにならないと! 物資その他、前線の支えが瓦解して、全戦局は一気に不利に転落してしまうんですよ!

 当然、敵だってそれを承知の上で、後方支援拠点を血眼になって探し回ってくるんです!

 それに対応できずに、ただただ白旗を上げてしまう事態になってしまっては! 偉大なる星撒部の恥(さら)しも良いところですよっ!」

 ナディの説教に対し、大和は身振りを加えながら早口で抗議する。早口なのは、ナミトが容赦なく「いーち、にーぃ、…」とカウントを始めたからだ。

 「でも、いきなりナミちゃんはハードル高いッスよ!

 せめて、蒼治先輩やノーラちゃんみたいに、加減が利くヒトで身体を慣らさせて欲しいッス!」

 しかしナディは、即座に語気の強い反論を浴びせる。

 「実戦において、敵さんが大和さんに合わせて手加減してくれるワケないじゃないですか!

 甘えてばかり居ないで、状況を打破する為に知恵と勇気を振り絞って下さい!」

 ナディの言葉に対し、大和は無言ながらも、蒼治とノーラに同情を求める視線を投げたが。2人とも苦笑するばかりで、その場から動こうとしない。

 中でも蒼治は、少々申し訳なさそうに、とは言っても楽しむような調子も交えながら、答える。

 「ナディさんの言う事は一理あるよ。 後方は決して楽な役回りじゃない。場合によっては、物資だけでなく、傷病人を抱えた上で、防衛戦を行う必要も出てくる。これは身一つで切り開ける前線任務よりも、よほど過酷なものだよ。

 大和は正直、同じく後方支援を得意としているヴァネッサや紫に比べると、覚悟が足りないからね。今の内に正して置かないと、いざと云う時に命取りにすらなる深刻な事態に陥るからね」

 「いや、いやいやいやいや!」

 大和は洗濯機に翻弄されるような具合で、首を左右にブルブルと振る。

 「オレ、確かに普段の言動は軽いかも知れないッスけど! そんな無責任なお気楽野郎じゃないッスから!

 オレだって、星撒部として何度も実戦潜り抜けて来てるンスよ!

 ノーラちゃんだって、ホラ! アオイデュアやアルカインテールで見たっしょ、オレの活躍!」

 ノーラは特に答えず、アハハ…、と笑うばかりである。

 一方で、ナミトのカウントダウンは「ごーぉ、ろぉーく…」と続いてゆく。

 そんな時、助け船のつもりなのだろう、ロイが頭の後ろで手を組みながら提案する。

 「そんなにナミトの相手が嫌なら、オレが代わろうか?」

 「いーや、いやいやいやいや!」

 大和はさっきよりも激しい勢いで首を左右に振る。

 「お前、ナミちゃんどころじゃなく手を抜かないじゃんッ! オレを殺す気かってのッ!」

 その返答に対して、ロイが詰まらなそう溜息を吐くと。今度はその隣に居るイェルグが、にこやかな表情で申し出る。

 「そんじゃ、オレとやるかい?」

 「何にこやかに言ってンスかッ! "最強"言われてる一角なんて相手にする方が、命縮むッスよぉッ!」

 情けなく叫びっ放しの大和に対して、ノーラがふと苦笑を消して、ボソリと呟く。

 「…私、渚先輩と組み手したけど、命なんて縮まなかったよ。とても勉強になっただけで…。

 大和君、ちょっと情けなさ過ぎるよ…」

 大和は慌てて言い返す。

 「いや、だって、ノーラちゃんは、ホラ、紫ちゃんにだって優等生言われてた身の上だし! オレとはレベルが違うって言うか!」

 「問答無用です! いい加減、覚悟決めて下さい! 格好悪い!」

 ナディが顔を思いっきり怒らせ、人差し指をビシッと大和に向けて声を張り上げたのと同時に。

 「じゅーうッ! はい、スタートッ!」

 ナミトのカウントダウンが終了し、電撃を(まと)った疾風となって大和へ迫り来る。

 「う、うぎゃああぁぁぁっ!」

 ――大和の悲鳴が、屋内演習場を震撼させる程に響きわたる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 場面は戻り、都市国家プロジェスのセラルド学院のグラウンド。

 大の字に寝転んだままの灰児が、ケホケホ、と咳き込むと、その眉根に深い皺が刻まれる。力ないものの歯噛みをするその表情は、苦痛を耐える姿だ。

 身体の麻痺が取れ始め、体組織の負荷が痛みに転化してきた証拠だ。

 「光栄な話してくれたところで、悪いんだがよ…クソ…! 体中、バキバキに痛くなって来やがった…。

 済まねぇが、治療を…」

 「うむ、心得ておる」

 灰児が語り終えるより早く、渚が答えると。両腕を後ろ手に縛って封印する、2人掛かりで魔化(エンチャント)した縄跳びを、まるでボロボロに腐食した鎖を引き千切るように、あっさりとパキンと破壊すると。着込んだジャージの上着の裏から、一枚の術符を取り出す。黒紫色のフラーレン墨で記号文字が描かれたそれは、工業用の治療術符だ。

 この光景にあんぐりと口を開いたのは、灰児だけではない。封印の魔化(エンチャント)を施した秀、凜明(リンミン)の両名も言葉を失う。

 (持てる最大の魔力と技術を結集したはずなのに…!)

 (あんなにあっさり、解術されるなんて…!)

 2人が衝撃を受けてる間に、渚は屈み込んで術符を灰児の額に貼り付け、精神を集中する。黒紫色の墨はぼんやりと蛍光の魔力励起光を放って内蔵された魔術を発動させ、灰児の体組織の回復を促す。

 魔術の効能によって、灰児の全身が蛍光色に包まれた頃。ようやく唖然とした意識から我に返った体育教諭や養護教諭が駆けつけるが…渚の間近にまで近寄ると、その足取りがピタリと止まってしまう。渚の発する魔力が彼らを遙かに越える莫大にして繊細なものであると認識してしまい、自分たちが取って代わろうと言い出せなくなってしまったのだ。

 今や激闘は、神話の黄金時代の小春日和とも(たと)えられるような、柔和な光景と化している。

 渚は灰児の頭を自らの膝の上に載せると、短く刈り揃えられた頭から術符が張り付いた額に掛けて、子供を慈しむような手付きで撫で回す。

 「わし相手に、あそこまで()うやったのう。偉い、偉い」

 「…負けたのは確かだがよ、小せぇガキみてぇに扱うのは止めろよ」

 灰児は恥ずかしさに顔を赤らめつつ、抗議の視線を渚の顔に送った…が。

 その時、灰児の視界に大きく飛び込んで来た渚の表情――大理石の輝きを放つ天空の陽光を受け、透き通った煌めきを放つハチミツ色の金髪に、雲の向こうに広がる蒼穹が映る紺碧の瞳。そして、聖母画を思わせる、優しく静かに(たた)えられた笑み。

 その神々しいまでの可憐さ――美麗さに、灰児の胸の奥で心臓が跳ね上がる。

 (…綺麗だな…)

 それは、ひねくれた人生を歩み続けた灰児の、余りにもストレートな感想であった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「すっごい戦いだったね、ニファ…。

 あたし、何が何だったのか、半分以上分かんなかったけど…兎に角、凄すぎたよぉ…」

 体育座りをして待機する2年3組のクラスメイト達の中で、美樹が隣に座るニファーナに声をかけて同意を求める。

 だが、ニファーナからは、何の言葉も――肯定の言葉も、普段よく聞く"どーでもいーよ"という言葉も――返って来ない。

 「…ニファ?」

 頭の上に疑問符を浮かべた美樹が、ニファーナに視線を向けると。そこには、普段の無関心さとは全くの真逆の、食い入るように2人を見つめるニファーナの姿がある。

 「さっきのって…まさか…立花さんって…」

 誰ともなしにブツブツ語るニファーナであるが。美樹はその意味を全く飲み込めず、首を傾げるばかりであった。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 7

 ◆ ◆ ◆

 

 4時限目の授業が終わったセラルド学院に訪れるのは、生徒達の大半が待ち焦がれているであろう時間。即ち、昼休みである。

 

 セラルド学院には学生食堂が設置されており、バイキング形式の食事が格安で提供されている。

 このような学生食堂は、現在のプロジェスでは至極一般的に見られる。『女神戦争』が終結してまだまだ日が浅い今、弁当を用意できるほど物資に余裕のない家庭を考慮して出来た制度である。

 勿論、用意出来るのならば弁当を持って来ても良い。だが、わざわざそれを行う学生は、ほぼ皆無である。

 

 渚は当然、弁当など用意していないので、学生食堂を利用することにしたワケだが。昼休みに入った瞬間に、ナセラや凜明(リンミン)、そして美樹に声を掛けられて、一緒に昼食を採ることになった。

 この一行の中には、美樹が半ば強制的に連れてきたニファーナも含まれている。

 各々がトレイに昼食を盛って席に着いた時、セラルドの学生達は渚のトレイを見て唖然とする。格安で食べ放題のバイキングとは言え、全てのメニューを山のように(うずたか)く積んだ光景に、驚愕を隠せないのだ。

 「…立花さん、それ、1人で食べきれるの…?」

 凜明が尋ねると、渚は幼児のような上機嫌な笑みを浮かべながら勢いよく首を縦に振り、舌なめずりする。

 「うむ、勿論じゃ! 残すような勿体ない真似は絶対にせんからな!」

 「…まさか、ユーテリアのヒトって、胃袋も超人級なワケ?」

 美樹がそう尋ねた時には、渚は早くもチョコを練り込んだクロワッサンを頬張っている。そして、咀嚼しながらフガフガと答える。

 「いひゃいひゃ。ひょうでもないひょい。ネズミのひょーに、ちびーっとしか食ふぇないやふも五万とおふ」

 「…飲み込んでから答えてくれて良いよ」

 ナセラが苦笑いしながら語ると、渚はゴクリと嚥下して、言葉を続ける。

 「いやー、わしだって少食にも慣れておるんじゃよ? 戦場関連の部活動に従事すれば、嫌でも物資の節約を心掛けねばならぬからな。

 じゃが、それが不要ならば、エネルギーをガッツリ蓄えないでいる理由がないのじゃ」

 「…そうか、つまりその小せぇ体には凝縮された脂肪が詰まってるワケか。

 道理(どうり)でお前、あんなに体が重たかったワケか」

 突然、割り込んで来た低い男の声に、渚はムッと眉間に皺を寄せて反論する。

 「その言い方、わしをデブだと言いたいワケかのう?

 しかし、お生憎(あいにく)様じゃったな、わしの体重は適正そのもの。おぬしが重いと感じたのは、わしが単に立っているワケではなかったからじゃよ。

 のう、室国(むろくに)灰児(かいじ)

 渚がチラリと肩越しに後ろを向くと。そこには、渚達と隣接したテーブルに座る、灰児を初めとする2年3組の問題児グループが居る。

 「うっわ、何で学食になんて来てンのよ、腐ったみかんどもッ!

 ニファが(けが)れるでしょッ、校舎裏でも屋上でも良いから、不良は不良らしく目の付かないところに(たむろ)ってなよッ!」

 美樹が"シッシッ"と手の甲を振って見せる。その様子に灰児の取り巻きの男2人はこめかみに青筋を立てるが、灰児苦笑いを浮かべるだけだ。

 「お前、結構ひでぇヤツだよな。ヒトの事、害虫みてぇに扱わないでくれよ。流石に凹むぜ。

 それに、俺はニファーナなんざに用は()ぇよ。そこの、ユーテリアの留学生…いや、立花渚と話したいだけさ。

 お前らだけで独占するのは、ズルいってモンだ」

 「まさか、さっきの授業でボッコボコにされた事を恨んで、ここで喧嘩ふっかけようってワケ!? うっわ、流石不良、器小さっ!」

 「いや…そんなつもりも()ぇよ。ホントひでぇな…」

 灰児は苦笑いを浮かべたまま、短い髪に指をつっこんでポリポリと掻くと。フッと笑みから苦みを消し、脳裏に刻まれた美しい風景でも思い出すような、爽やかで懐かしげな表情を浮かべる。

 「それに、恨むなんて()ぇよ。

 オレは全力で戦って、ブッ倒された。その結果に不満なんて()ぇ。それどころか、オレの全部を出し切れて、スッキリしたんだ。

 …アリガトよ、立花。面白かったぜ」

 「ひゃーに、わしのひょうも楽しかったひょい」

 そう答える渚の頬は、冬越し準備中のリスのように膨れ上がっている。その顔には、灰児だけでなく、こめかみに青筋を立てていた男子2人も、プハハ、と吹き出している。

 美樹は灰児の台詞を聞いても警戒心を解かなかったが。ナセラがにこやかに言い聞かせる。

 「今の室国なら、大丈夫だよ。

 眼が違うからね。前は何て言うか…誰かに雷を落としたくてたまらない、不機嫌な曇り空って感じの目つきだったけど。今は、快晴って感じの爽やかさがある」

 「人柄は、目つきだけじゃ分かり切らないってば!」

 美樹はそう力説するものの…灰児を横目でしげしげと見つめては、その屈託のない笑い顔を見て、眉の怒りの勢いが殺がれる。

 「…まぁ、確かに。前よりは、今の方がとっつきやすい感じだけどさ…」

 「うんうん! あたしも、今のカッちゃんの方が好きさ!」

 突如会話に割り込んで来たのは、灰児の取り巻きのガングロ厚化粧の少女である。

 少女は腕を組んで、1人でうんうんと(うなず)きながら、しみじみ語る。

 「いやね、前のワイルドでハードボイルドな感じもカッコイイんだけどさ。

 今はカッコイイだけじゃなくて…器の広さって言うか? 暖かみって言うか? そういう、じんわりと心に来る魅力が有るんだよねぇ…。

 ますます惚れちゃうなぁ…!」

 「えー…? 惚れるかなぁ?

 私はやっぱ、不良はパスだなぁー」

 美樹がそう語ると、ガングロ少女は聞き捨てならぬと眉根に皺を寄せて、美樹にズイッと詰め寄る。

 「カッちゃんは不良じゃないよッ!

 素行は不良かも知れないけどッ! そこらのチンピラと一緒にしないでよッ!」

 「えー、だって見分け付かないじゃーん! こんな(いか)つくて人相悪い男が彷徨(うろつ)いてたら、即座に通報ものだねー!」

 「なんですって、このゴシップ女ッ!

 あんたの眼はミーハー過ぎて、本当の男らしさを見る眼がないのよッ!」

 「はぁ!? リリナこそ、その顔みたいにねじくれた性格してるから、変な男にばっか興味が出るのよッ!」

 「な…っ!? この…ッ!」

 2人がガミガミと言い合いするのを、その間に丁度座るニファーナはぼんやりと見つめながら、目の前に置いたフライドポテトをひたすらモグモグと頬張るのであった。

 ――一方、灰児や凜明、ナセラと云った実力者の面々は、体育の時限の出来事を受けて、渚に質問を浴びせている。

 「そういやぁ、チラッと聞いたけどよ、お前って彼氏居るんだよな?」

 「彼氏とは違うんじゃが…バウアーの事じゃよな?」

 「そう、そいつ。確か、お前の部活の部長だったよな? で、お前が副部長なんだろ?

 ってことは、お前より強いって事なのか?」

 「いやいや! 先にも言った通り、あやつはわしに劣るわい! わしこそが、ユーテリアで最強じゃからな!」

 渚は胸を張って堂々と声を張り上げたのだが…一つ咳払いをして、苦笑いを浮かべる。

 「とは言え…本当の事を言えば、今はどちらが上か、よう分からぬ。

 組み手ならば、勿論するのじゃが、本気でのやり取りなんぞ、とてもではないがやれぬからのう。

 そんな事をすれば…どちらか、確実に、あの世逝きじゃろうからな」

 「そ、そんなに…!? 恋人同士なのに…!?」

 凜明が驚きの声を上げると、渚は苦笑いを浮かべたままパタパタと手を振る。

 「じゃから、恋人ではないというに。

 まぁ、兎も角、バウアーは絶対に手抜きをせぬ男なのじゃ。ちょいと隙を見せれば、本気で首を掻っ斬りに来おる。

 まぁ、その即決力がまた、あやつの長所でもあり、短所でもあり、魅力でもあるんじゃがな」

 (…やっぱり、恋人じゃん…)

 渚の言葉を聞く物達は、しみじみと胸中で呟き、苦笑する。

 「ところで、"今は"と言ってたけど…そのバウアー君とは、過去に本気で戦った事があるんだ?」

 「…うむ」

 凜明の問いに肯定の言葉を返した渚は、スッと目を細めて遠い日に視線を向ける。

 彼女の脳裏に投影されるのは、ユーテリアに入学する前の、とある日。バウアー・シュヴァールと初めて邂逅した、電撃的な瞬間。

 あの時、渚の中における世界のスケールが、爆発的に拡大した。

 「初めてあやつに会った時、"動く山"かと思うたよ」

 渚はナビットを取り出して、先刻2年3組で見せたバウアーとのツーショット映像を宙に投影しながら語る。

 「こうやって写真で見る限りには、体格はさほど大きくない、むしろチビとさえ(ののし)られても可笑しくない程度なのじゃがな。

 初めてあやつと相対した時には、大地がグラリと揺れたような感覚さえ覚えてもんじゃよ」

 「ハッタリがスゲェとかじゃねぇの?」

 灰児の取り巻きの1人、極彩色のロングヘアの男がヘラヘラ笑いながら突っ込むと。渚は(かぶり)を振る。

 「いやいや。

 あの時のあやつは、小さなナイフを一振りだけ持っておっただけじゃった。なのにも関わらず、バカでかい岩の塊でも振り回されているような、飛んでもない重さがあった。

 そのくせ、音かと思う程に速いわ、サルかと思う程に(うま)いわ、まさに化け物じゃったよ。

 あやつの真っ赤な眼が、芋虫をも無機質に殺して回る獅子か何かに見えてのう。怖気(おぞけ)に鳥肌が立ちっぱなしじゃったわい」

 「お前ですら、そんなに手を焼くのかよぉ!?」

 ピアスを付けまくった痩せぎす男が悲鳴のように騒ぐ。その後を次ぐように、灰児が口を開く。

 「だけど、今はそんな怪物と肩を並べる仲なんだろ? 学園じゃ怖いモノ無しだったんじゃねーか?」

 「わしら2人も、ようやく手を取り()うた時には、そんな事を考えておったわい。

 実際、1年生の身の上ながら、並の3年生など相手に成らんかったからのう。

 …じゃが、世界は広かったわい」

 「嘘…!? 立花さんでも勝てない相手が、学生のレベルで存在するの…!?」

 ナセラが眼を丸くして尋ねると、渚は悔しげに口を"へ"の字にして、嘆息しつつ首を縦に振る。

 「"あやつら"には、結局卒業までに一本も取れんかったわい。

 わしもバウアーも――別に、灰児のことを低く見とるワケじゃないぞい――四肢を総動員し、持てる技術を全て注ぎ込んだのじゃがなぁ…。

 "手も足も出ない"って程ではないかったぞい。じゃが、最後に負けるのは、いつもわしらじゃった。

 …むうぅ、思い出すと、かなり悔しいのう」

 「"あいつら"って…複数人いるワケ!?」

 凜明が問い返せば、渚は即座に首を縦に振る。

 「わしらと同様、"あやつら"も男女のペアじゃよ。

 当時のユーテリアにおいて、ダントツの最強じゃったな」

 「そいつらって、卒業後、どうなったんだ…!?」

 やせぎすの質問に、渚は(とり)の照り焼きを口に頬張りながら返答する。

 「2人揃って仲良く、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に就職したわい。それも、最"凶"で名高い『エボニーコート』にのう。

 あそこの情報はあまり公報されぬからな、今何をしておるか分からぬが…あやつらなら間違いなく、特進ものの活躍を繰り返しておるに違いない」

 「…なんか、凹むなぁ…」

 灰児が溜息を吐きながら、ガックリと肩を落としつつテーブルに突っ伏す。

 「こちとら、独学じゃあるが、汗水垂らして他人(ひと)の数倍の実力を付けたって自信があったのによぉ…。

 そんな、天井突き破るようなレベルのヤツらの話されると…オレの努力って何なんだろうな、って虚しくなるぜ…」

 そんな灰児の言葉を、渚はケラケラと笑い飛ばす。灰児は"笑うなよ、真剣なんだぞ"と睨んでくるが、渚はウインクして返す。

 「おぬしの力は、充分に立派なもんじゃよ。それだけの力があれば、並の危機くらい跳ね返して、守りたいモノを守り切ることが出来るじゃろうよ。

 現におぬしは、そうして勝ち得た信頼で持って、仲間を得ておるではないか?」

 渚が"仲間"と言及したのは、取り巻き3人のことだ。その言葉に恥ずかしくなった事もあり、灰児の顔はサッと赤みを帯びたが…それ以前に、渚のウインクした表情に胸が高鳴ってしまった。

 (ズルいヤツだよな…強ぇ上に…可愛いんだもんな…)

 そんな灰児の胸中など露ほども気にせず、渚はまだまだ山と積まれている料理と向き合い、頬張り始めるのだった。

 そんな時…食事を開始してから、ずーっとジト目気味で渚を見つめてばかり居たニファーナが、不意に声を漏らす。

 「…立花さんさ…」

 「むうぅ?」

 「"あの業"…もしかして…いや、絶対に、"座"を使ったものだよね?」

 周りの者はニファーナのこの発言の意味を理解出来ず、頭上に疑問符を浮かべたが。渚は直ぐに理解し、咀嚼を一瞬止める。

 "あの業"――灰児と交戦した際、彼の虹色の翼壁をこじ開けるのに使った、錠前を作り出した業。それが、『現女神(あらめがみ)』の『神法(ロウ)に因るものだと、ニファーナは認識したのだ。

 対して渚は、ニファーナへの信仰がまだ篤いこの都市国家において、要らぬ騒動の火種になる事を避けることにする。

 「いやー? 何の話かのう?」

 そうとぼけて見せるのだったが…ニファーナのジト目は、冷たく鋭く突き刺さるままであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 渚が昼休みを堪能している頃。

 アリエッタ、ヴァネッサ、紫の3人もまた、昼食がてらの息抜きにプロジェスの繁華街を歩き回っている。

 街は今日もお祭りのような賑わいである。ミュージックバンドを初めとするパフォーマー達が出店のようにズラリと道沿いに並び、ド派手に大音量で歌い踊る光景は、見聞きしていて頭がクラクラなってしまいそうな程だ。

 だが、観客――ひいてはプロジェスの市民達――による評判は上々だ。昼休みを利用して学校や会社を抜け出した者達が、昼食を片手にパフォーマーの周りを取り囲み、目や耳を楽しませながら舌鼓を打っている。

 多くの市民にとってパフォーマーの存在は、戦後の復興という陰鬱な雰囲気を払拭する花というだけでなく、無味乾燥に陥りがちな日常に非日常の刺激を与える炭酸水のような存在のようだ。

 …さて、星撒部の女子一行も、出店で買ったランチを片手に、一際大きな観客の集団が形成されている一画に参加している。

 集団の中心を担うミュージックバンドは、どうやらプロジェスにおける大物人気バンドのようである。以前にキチンとした会場でライブをしたことがあるのか、団扇(うちわ)やタオルといったグッズを手にしている観客の姿を結構見かける。

 観客達の会話によれば、このバンドの名前は"オーシャン・フォウ・アリス"と言うらしい。黒を基調とし、スタッズを散りばめた衣装に身を包み、派手な色合いに染めた髪と云う出で立ちは、なんとも奇抜なパンクバンドと云う印象であるが。サングラスを掛けたヴォーカルが歌い上げるのは、外観に似つかわぬしめやかなラブソングである。

 「中々良い歌ですわね! わたくしの胸にキュンと響いて…共感できますわぁ!」

 ヴァネッサは、手にした具一杯のホットドッグを胸に置いて、感激に浸り(とろ)けた表情を浮かべて聞き惚れている。

 その一方で…アリエッタを挟んで立つ紫は、とんでもなく詰まらない稚拙な寸劇を見せつけられているかのように、藪睨みのジト眼を作り、パクパクとタコスを頬張っている。

 「…そぉですか…?

 こんなの聞くより、昨日みたいにどこか美味しいレストランに腰を据えて、ゆっくりと食事を楽しんだ方が有意義だと思うんですけど…。

 それに、出店の料理なんて、チャチなくせに割高で、損するだけですしー」

 「紫ったら、ホントにお子様ですわねー」

 ヴァネッサがヤレヤレと首を振りながら溜息を吐く。

 「このほろ苦い大人の恋愛の世界の良さが理解できないなんて、甘いばかりのチョコレートばかり好んで食べるお子様そのものですわね。

 そんなんですから、あなたの"想い"の表現も、幼児並みの素直じゃない不器用なものになってしまうのですわ」

 ヴァネッサの言葉は、非常に抽象的なものであったが…紫には効果覿面(てきめん)だったようである。

 「な…っ!」

 紫は火が噴き出すほど顔を真っ赤に染める。明らかに動揺している表情だが…空気で熱を冷まそうとするかのように、直ぐに首を左右にブルブルと振る。

 "具体的なことを言われたワケではない"と気を取り直したのだ。

 「な、何ですか先輩、その話…?

 一体、何が言いたいのやら、私にはサッパリなんですけど…」

 ぎこちないが、精一杯余裕ぶった笑みを浮かべて見せるものの…。ヴァネッサは意地悪な半眼を作って語る。

 「皆、とっくに感づいていますのよ?

 あなたが、ロイに…」

 「わーッわーッわーッ!」

 紫は大声を上げて騒ぎ、ヴァネッサの言葉をかき消す。あまりにも大きな声は、アンプで増幅された楽器の音を上回ったらしく、近傍の聴衆達がビックリしたり非難を含めたりした視線で紫を睨んでくる。

 紫はそんな視線に構わず――構えるほどの余裕などないほど動揺しているというのが、真実である――アリエッタに話題を振って誤魔化す。

 「アリエッタ先輩は、どうなんですか、このライブ!?

 チョイ悪系を気取ったオッサン達が、ナヨナヨしたラブソングを歌うなんて、気持ち悪くないですか!? しかも、歌詞が女性視点ですよ!? 演歌かよってツッコミたくありません!?」

 アリエッタはヴァネッサの言わんとした事も理解しているし、紫がどうしても話題を逸らしたい事も理解している。しかし今回のアエリッタは、紫に肩入れして彼女の話題に乗ってあげた。元来、他人(ヒト)の弱みを面白がるような事を(いと)う性格の持ち主なので、このような方向になるのは必然であろう。

 「うーん、そうねぇ…。

 別に格好だとか、歌詞だとかは、私は気にしないわ。

 メロディーは結構良い感じね。バラード曲の魅力を十分に引き出していると思うわ」

 アリエッタもこのバンドに肩入れするような評価を口にした事で、紫は面白くなさげに唇を尖らせたが。

 「でもね…」

 と言葉を続けながら、ニッコリと紫の顔を覗き込むと。紫は表情をハッと改める。

 「個人的には、ヴォーカルの男性にもっと頑張って欲しいかな。声が優しいと云うよりも力がないから、楽器に負けちゃってるもの。だから紫ちゃんが"ナヨナヨしてる"って感じたんだと思うわ。

 それに、高い音階になると、すぐに裏声に頼ってしまうのも勿体ないわ。そこを一番感情豊かに歌い上げなきゃいけないはずなのに、残念よね。

 楽器の人達も皆、ちょっとずつ残念なところがあるわ。この都市国家では人気がある部類なんでしょうけど、超異層世界集合(オムニバース)レベルで売り出すとなると、かなり厳しいでしょうね」

 和やかな口調ながら、結構な辛口の評価に、手近な位置にいる聴衆が不機嫌そうに顔を歪める。しかし、反論して来なかったのは、アリエッタの意見が正論である事に加え、和やかながらも言葉の響きに何処か凄みを感じたからであろう。

 この意見に紫は顔をパッと輝かせると、両の拳を顎の下に揃えて…。

 「ですよね、ですよね!

 こんなレベルで粋がってるんじゃないわよ、って言いたくなりますよね!」

 と、力一杯に同意する。

 そんなアリエッタに、苦笑いを浮かべた視線を送るのはヴァネッサである。

 「貴女は相変わらず、芸事については厳しいですわね…」

 アリエッタはニッコリと笑ったまま答える。

 「同じく芸事で超異層世界集合(オムニバース)に挑もうとしている身の上だから、どうしてもお客様の満足度とか利益性だとか、考えてしまうのよね。

 もっと純粋に楽しむべきだって分かってるんだけど、これは性分なのよね」

 「…ユーテリアに籍を置いていると云うのに、軍や超異相世界組織への所属が目標でなく、故郷の観光に一役買うのが夢だなんて…本当に勿体ない人材ですわね、貴女ってヒトは」

 ヴァネッサの言う通り、アリエッタは故郷を超異層世界集合(オムニバース)でも有数の観光地とし、その文化を広く知らしめる事を目標としている。彼女が修めるアルテリア流剣舞術は、戦闘技術が本質ではなく、ヒトを楽しませるための伝統芸能なのだ。

 「超異層世界集合(オムニバース)での有名を目指すんですもの。色々な世界の価値観を取り入れて、伝統を更に進めて行きたいと思っていたの。

 その点、ユーテリアは超異層世界集合(オムニバース)中から人々が集まる場所だもの、勉強するのにピッタリの場所だわ」

 そんな事をアリエッタが語ると、ヴァネッサは勿体なさげに口を"へ"の字に曲げて語る。

 「地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に所属すれば、停戦の要として重宝されるでしょうに。得られる地位も名誉も、観光なんかよりよっぽど大きいでしょうに…本当に、勿体ない話ですわね…」

 「私、生まれ故郷が大好きなんだもの。今の自分の選択を勿体ないなんて、全然思わないわ」

 アリエッタは満面の笑みで、そう言い切って見せた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 星撒部の3人を含め、聴衆がそれぞれの立場で"オーシャン・フォウ・アリス"の演奏を楽しんでいる一方で…。

 聴衆に紛れて、"楽しむ"とは全く真逆の感情を抱いて立つ2人組の男の姿がある。

 1人は、派手なライブの中では水の中の油のように浮いて見える、神父服に身を包んだ男。"若神父"と呼ばれて慕われて"いた"エノク・アルディブラである。

 彼と並んで立つのは、質素な服ながら大きな(つば)広帽子が目立つ、痩身長躯の男。星のように(きら)めく長い金髪と尖った耳を持つエルフ属。エノクと同じく元『士師』である、パバル・ナジカである。

 エノクの表情は、露骨に堅く苦々しい。その(けわ)しさは、場の空気を切り裂き、奈落に通じる間隙を作るような気配を感じさせる。実際、彼の近傍の聴衆達はこの気迫に押され、居心地悪そうにすごすごと距離を取っている。

 一方のパバルは、エノクに比べれば随分と表情が柔らかい。笑みさえ浮かべているほどだ。だが、その瞳の奥から放たれる輝きは、冷たい嘲りである。彼の笑みは、踏まれて死にかけたアリがよろめく姿を見てあざ笑う時のそれに等しい。

 「同じく詩を吟ずる者として、この歌をどう思う?」

 エノクが語ると、パバルを肩を(すく)めて嘆息する。

 「"同じく"、と言われるのは心外だね。

 僕は"元"とは云え、"吟遊"の名を冠した『士師』だ。僕の作品は詩にせよ曲にせよ、キッチリとした芸術であると断言できる。

 こんな…」

 パバルは笑みをスッと消し、眼をナイフのように鋭く細めて、バンドメンバーに(さげす)みの視線を投げる。

 「児戯(じぎ)と一緒にしないで欲しいね。

 (いん)も比喩も何もない、幼児の感想文のようにダラダラと事柄を並べただけの詩。曲の差が分からない、没個性…いや、想像力が脳梗塞を引き起こしていると云うべきかな…詰まらない曲目。

 もっと云えば、このバンドとあそこ(ちょっと離れた所で演奏している、小規模なバンドを示した)のバンドで、曲の個性の差が分からない。

 これがトレンドってヤツなのかも知れないけど、右(なら)え主義で創造者(クリエイター)だと気取るなんて、(わら)わせてくれるよ」

 「やはり、私の感性が狂っているワケではない…と云うことか。安心したよ」

 エノクの言葉に対して吹き出したパバルの笑いは、バンドに対する冷笑とは違う、純粋な微笑みである。

 「今更、安心してるのかい?

 君と同じ感性の者が五万と居るからこそ、僕らはこうやって集って、行動を起こしているんじゃないか。

 変な事を気にしているんだね、君は」

 「…何度も何度も"植えて"はいるものの、狂った感性どもの中にぽつねんと(たたず)んでいると、私の方が可怪(おか)しいのではないだろうか、と自問してしまう事もある」

 「僕には余り理解できない悩みだなぁ。

 我が道行く創造者(クリエイター)だからこそ、そう割り切れるのかも知れないけどね。

 まぁ、それは兎も角…」

 笑っていたパバルが、再びスッと眼を細めて、バンドメンバーを睨む。そして、口角を不愉快そうに歪めると、奥歯で骨を噛み砕くように口を動かして、押し殺した声を出す。

 「もう、こんな糞みたいな児戯を耳に入れるのは、うんざりだ。

 機は熟したはずだ。さっさと――取り掛かろう」

 パバルの言葉に対して、エノクは即答せず、チラチラと視線を巡らせてバンドの集まり具合を確認する。

 自分達の近傍こそ、(うと)まれて間が生じているが…。ちょっと離れた所に視線を投ずれば、団扇(うちわ)やタオルを片手に振り回し、熱烈に黄色い声を上げる聴衆の姿がある。

 エノクもまた、パバルのように苦々しげに歯噛みを見せると。ゴクンと唾を飲み込むと同時に、真冬に凍り付いた池のようなのっぺりした表情を浮かべると、ポツリと返答する。

 「ああ、始めよう」

 

 その"異変"の発生を初めて知覚したのは、アリエッタである。

 「…何…かしら…?」

 手にした鯛焼きにかぶりついたタイミングで眉を(ひそ)めたので、ヴァネッサも紫も鯛焼きに落ち度が有ったのかと思っていた。

 しかし、アリエッタは彼女らの問いに対し、首を左右に振って否定する。

 「そうじゃないの…。

 妙な…なんだか粘りつくようなな…厭な感じの魔力を感じるの…」

 「魔力…ですの?」

 ヴァネッサが片眉を跳ね上げて聞き返す一方で、紫は黙って片目を瞼で閉ざし、この場に対して形而上視認を行う。

 だが、ヒト――ひいては魂魄が高密度に集まる場所では、形而上層に描画される定義式が入り組み過ぎて、詳細を把握しかねる。

 「う…ん、よく分からないですね…。

 もうちょっと、精度を上げてみれば…」

 「気を付けてね…いくら紫ちゃんでも、この混雑下での認識格子(グリッド)を細分化は、脳を痛めかねないわよ…」

 アリエッタが警告した時には、少し遅かった。紫は視覚野を埋め尽くした甚大な魂魄の定義式に頭痛を覚え、額を押さて(うつむ)き、苦鳴を漏らしてしまう。

 だが…形而上視認を解く、その寸前の事。紫の視覚野はチラリと、"異変"の定義を捉える事に成功する。

 まるで、カモの群が浮かぶ池において、一匹だけ浮かんでいる大きなハクチョウを狙って突き進む、腹を空かせた怪魚のように――人々の足元を素早く這って走る、平たいながらも重くドス黒い定義。

 見ているだけで、こちら側の魂魄にベットリと粘り着いてくるような、不快極まりない呪詛。

 「先輩…ッ!

 バンドの…ヴォーカル…!

 気を付けて…ッ!」

 紫が聴衆の迷惑などそっちのけで声を張り上げた時には…もう遅い。

 アリエッタとヴァネッサがバンドのヴォーカリストに視線を向けた時には、"異変"が彼を襲った直後であった。

 

 ビクンッ!

 ヴォーカリストの体が、大きく痙攣する。

 曲はサビに入り、演奏の盛り上がりも(たけなわ)と云う最高のタイミングに。ヴォーカリストは、まるでゼンマイの切れたブリキ人形のように、動きと歌声をピタリと止める。

 これには聴衆のみならず、バンドメンバー達も眉を寄せ、不審を覚える。

 (あいつ、どうしたんだ…?)

 近くに立つギタリストが、演奏を続けつつも、ヴォーカリストの歩み寄り、彼の俯いた顔に視線を送る。

 その瞬間、ギタリストの顔が驚愕と怯懦によって破裂したように激変する。

 ヴォーカリストの両眼を塞ぐサングラスが、ポンッと勢い良く吹き飛んだかと思うと。直後、深夜の闇より尚濃い漆黒の液体が、ゴボリゴボリと噴水のように両眼から沸き出す。

 「…なッ!?」

 ギタリストが声を上げて演奏を中止した、その直後。

 ヴォーカリストが闇の涙の滝のように流したまま、遠吠えする獣のように背を反らして点を向くと。

 「ヴィィィヴェェェエエエエッ!」

 ヒキガエルともブタとも付かぬ、不気味で歪んだ絶叫を張り上げる。

 それは、"異変"が悪夢として具現化する産声であった。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 8

 ◆ ◆ ◆

 

 「アアアヴァヴァヴァヴァアアアァァァ!」

 "オーシャン・フォウ・アリス"のヴォーカリストは顎が外れそうな程に大口を開き、背筋に悪寒を走らせる凶声を張り上げる。

 直前まで、乙女心をしとやかに歌い上げていた人物と同一とは、どうしても思えぬ。音楽ジャンルにおいて強いて語れば、ブルータル・デスメタルやグラインドコアと云った、下品で醜悪な曲を取り扱うバンドのヴォーカルと云われれば、納得できるかも知れない。

 「おい、どうしたッ!」

 ギタリストがヴォーカリストの肩を掴んだ、その瞬間。ギタリストは高熱を宿した鉄球でも掴んだように、反射的に手を離す。激痛と共に、汚泥に手を突っ込んだようなヌルリとした不快感、そして凍てつくような極寒を覚えて、脊髄反射が起こったのだ。

 路上ステージ上の様子に騒然となる、聴衆達。中には"これも何かの演出ではないか?"と苦笑いを浮かべつつ、震える足で棒立ちになっている者もいる。そんな彼に向けて、ヴォーカリストは熱に浮かされてフラフラする重病人のような振る舞いで、マイクスタンドを口元に引き寄せると。ダラリとトカゲのように舌を長く伸ばす。

 衆目に晒された舌は、静脈がビキビキに浮き出た青白い色を呈しており…その中央にはポッカリと、定規で測ってくり()いたような、十字の穴が開いている。

 (あの呪詛…!)

 ヴァネッサは十字の穴を確認すると、自らも紫と同様、片目を瞼で塞いで形而上視認を行い、素早く周囲を見渡す。

 既に(かか)った呪詛ならば、もう何度も浄化して来た。だが、目前で発生するのを目撃のは、これが初めてだ。

 そしてこの事象は、この近辺に術者が存在すると云う事を意味する。ヴァネッサの狙いは、形而上相から呪詛の発生源を特定し、術者を見つけ出す事にある。

 だが、ヴァネッサもまた、紫と同様に莫大な量にして高密度の魂魄定義式による激しいノイズに(さいな)まれ、眉間から頭蓋を貫くようなズキズキした頭痛に襲われる。

 (それでも…これは好機ですもの…!)

 ヴァネッサは痛みを誤魔化すように眉間に指をグリグリと押しつけながら、慎重に認識格子(グリッド)の精度を調整し、状況を確認を急ぐ。

 「大丈夫、ヴァネッサちゃん!?」

 アリエッタが未だに脳負荷から回復しない紫を抱えながら、ヴァネッサの意識を繋ぐように声を掛ける…が。

 「シッ!」

 ヴァネッサはピシャリと制し、脳の認識活動の大半を形而上視認に()てる。

 地面に沿って、黄昏時の陰のように延びる、ドス黒い定義式の塊――真っ直ぐ延びているようで、凹面鏡に映し出された虚像のように歪んだ形状――その先端は、何処にある!? 何処から発生している!?

 

 ヴァネッサが探る一方で――漆黒の涙を滝のように流すヴォーカリストが、凶事を告げる鳥のような金切り声を張り上げる。

 「不敬ッ! 不敬ッ! 不敬ィッ!

 不敬なるかな、駄民どもッ!」

 ヴォーカリストは我が身を引き裂かんばかりに"大"の字に四肢を広げて、叫び続ける。

 「我らが唄うべきは、空虚にして淫蕩惰弱なる快楽への賛美に非ず! 我らの舌は為に存在するに非ず!

 我らが唄うべきは! 我らの一にして全なる至高の、そして温情慈悲深き女神! その神聖なる賛歌のみであるッ!」

 そしてヴォーカリストは、先刻彼に触れて痛みを得てうずくまったギタリストの元へと駆け寄ると、激しく蹴り倒し、その胸をグリグリと踏みつける。そして、震える指先が剣の切っ先であると云わんばかりに勢いよく突きつけながら、口角泡飛ばして狂い叫び続ける。

 「神意を得た我に触れて痛みを覚えるとは、何事ぞッ! 何事ぞッ!?

 それこそ不敬の(けが)れを抱くが(ゆえ)! 浄化の炎に魂魄(たましい)を焼かれたが故!

 されどッ!」

 ヴォーカリストはギタリストを強かに蹴り飛ばすと、全身をプルプルと震わせながら、ギタリストの元へ大股に歩み寄る。

 「お前、何してンだよッ!」

 ベーシストとドラマー、そしてキーボーディストと云うバンドの全面子が楽器を放り出し、ヴォーカリストを止めるべく全力疾走する…が。あと2、3歩で彼に届くと云う距離になった途端、糸が切れた操り人形のようにその場に倒れ込む。

 倒れ込みながら3人は、眼を見開き口を大きく広げると――それらの(あな)の奥から、ヴォーカリスト同様、宵闇より尚暗い液体をバシャバシャドバドバと流し吐き出す。

 阿鼻叫喚の様相となった路上ステージにおいて、ただ独り、惨めに正気を保つギタリストは。血の混じった唾液が流れ出る口をワナワナと震わせながら、ノシノシと大股に近寄るヴォーカリストを怯懦極まりない視線で見つめるばかり。

 そこへ遂に接近したヴォーカリストは、ギタリストの長い黒髪を無造作にギリギリと掴み上げて立ち上がらせると。怯え切った彼の顔に、漆黒の液体でドロドロになった顔面を近づけ、歯肉を剥き出しにした粗暴な表情を作り、語る。

 「喇叭(ラッパ)を鳴らせ。

 神の讃える音色を奏でる楽器と成れ…!」

 瞬間、ヴォーカリストがゴキゴキと顎の間接を外して大口を開くと。その奥からバシャバシャと、大量の漆黒の液体を吐き出す。それはギタリストの顔に――その全身に容赦なく浴びせられ、その身体をグチャグチャに汚し尽くす。

 「わぷ…ッ! ぐえぇ…ッ!」

 漆黒の液体は強い粘性を持つだけでなく、悪臭などの不快な要素を合わせ持っているようだ。ギタリストは黒く染まった顔を嘔吐感一杯に歪めて、吐瀉するような悲鳴を上げる。

 

 …その悲鳴が、ボギン、と云う鈍い音と共にピタリと止む。

 

 その瞬間を目撃した聴衆達は狂騒を忘れてポカンとその場に立ち尽くす。一方でアリエッタ、そして頭痛からかなり回復した紫は、眉を怒らせてその光景を睨みつける。

 ギタリストの胴体から上が、スッパリと、失われていた。その断面は刃物で切断したような美しいものではなく、巨大な肉食獣が食い千切ったような、デコボコとした汚いものである。

 通常、体幹部がこのように大規模に損壊した場合、大動脈を初めとする重大な血管が切断された結果、噴水のように血液が吹き出すはずだ。しかしながら、ギタリストの断面からは露一滴程度の出血も吹き出さない。まるで血抜き処理された肉塊のように、砕けた骨の突出やらピンクに照る内臓がハッキリと露出しているだけだ。

 

 この残虐にして不可思議な所業を成し遂げた"存在"は、ヴォーカリストの外れた顎の奥底からニュルリと生え出していた。

 

 その"存在"の姿を現存する動物を用いて形容するならば、"支離滅裂な3対の翼を持つ、巨大なトカゲ"と言えよう。

 トカゲと言っても、似ているのは胴体と顔だけだ。手足は無い。その代わりとでも云うように、顔が3つ有る。その全てが巨大な牙をデタラメに生やしたバカデカい口しか持っておらず、眼も耳孔も鼻孔も見当たらない。

 エビのように丸まった背中から生える3対の翼は、正に毒々しく不気味である。カラスにコウモリ、翼竜、アゲハチョウ、魚のヒレ、そしてクジャク。それらが並んでユラユラと羽ばたく姿は、狂気に犯された芸術家の不気味な作品を思わせる。

 この"トカゲ"には、もう一つ、奇妙な特徴がある。それは、胴体の至る所から生えた、ラッパ状の器官である。――いや、それは実際にラッパなのかも知れない。膨張と収縮をヒクヒクと繰り返すその器官の孔の奥からは、プファーン、と間の抜けた管楽器の音色が微かに聞こえてくる。

 この"トカゲ"を吐き出したヴォーカリストは、脱力したかと思うと、ヘビの脱け殻のようにペシャリと平たくなって崩れてしまう。彼の中身が全てこの"トカゲ"と成ってしまったかのようだ。

 それにしても、この"トカゲ"の体積はヴォーカリストの体躯の容積には全く見合わない。体高は優に5メートルを超え、"トカゲ"と云うよりは"粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)"に比肩するほどのサイズを有している。

 

 「不敬ッ! 不敬ッ! 不敬ッ!」

 「敬虔たれッ! 敬虔たれッ! 敬虔たれッ!」

 「聖なるかなッ! 聖なるかなッ! 聖なるかなッ!」

 "トカゲ"が3つの口で、(やかま)しく騒ぎ立てた、その瞬間。聴衆達、そして星撒部の面々の身体に異常が起きる。

 まるで、細胞一つ一つが激しく揺さぶられるような、重苦しい威圧感が()し掛かって来たのだ。そして、脳を塗りつぶすかのように思考に介入してくる、「不敬ッ!」「敬虔たれッ!」「聖なるかなッ!」の連呼。

 (『神霊圧』!?)

 形而上視認を維持出来なくなったヴァネッサは、全身を襲う悪寒に耐えながら、胸中で呟くが。すぐに(かぶり)を振って自分の意見を否定する。

 (違う! これは、呪詛の生み出す"偽"の『神霊圧』ですわ!)

 ヴァネッサは歯噛みをし、精神を集中して自身の魂魄定義を堅く維持させる。この"偽"『神霊圧』対策はすぐに功を奏し、全身の不快感がパッと消え去る。

 「アリエッタ! 紫!」

 ヴァネッサがすぐに仲間の名を呼びながら振り返る。そこには、もう既に"偽"『神霊圧』の影響から立ち直った2人の姿がある。

 「何っ、あのバカデカい呪詛!

 どんだけ、人の恨みを…」

 紫が叫んでいる最中。路上ステージに更なる異変が起こる。

 まず、半身を失ったまま棒立ちしていたギタリストの下半身の断面から、ドバドバと、漆黒の粘つく液体が噴出する。下半身の容積を遙かに超える量の液体に混じって、ズルズルズル、と勢いよく長大な呪詛が立ち上がる。巨大な脊椎をつなぎ合わせたような体節に、ムカデのような足がわんさかと生えた姿は、ヒトの生理的嫌悪感を煽るに相応しい巨蟲である。

 この巨蟲を生み出したギタリストの下半身もまた、ヴォーカリストの体と同様、ペシャンコになって大地に伏してしまう。

 残る3人のバンドメンバー達は、皆背中を丸めて四つん這いになったかと思うと。セミの幼虫が羽化するように、背中がバクリと割れ、やはり漆黒の液体が莫大な量で噴出する。その流れに混じって現れるのは、一つ目を有するウマのように細長い顔をした、コウモリとも翼竜とも付かない、筋肉質の体を持つ怪物である。そして例によって、彼らを生み出したミュージシャンの体は、抜け殻となってペシャンとその場に潰れ伏した。

 怪物達はすっかりと姿を現すと、大理石の模様のような曇天を仰ぎながら、牙がデタラメに生えた口で(やかま)しく喚き立てる。

 「不敬ぞッ! 不敬極まりなしぞッ、賤民(せんみん)ども!

 駄芸で目を肥やすは、汚穢なるぞッ!」

 「賛美せよッ! 唱和せよッ! 一にして真なる女神の名のみをば、ひたすらに賛美して唱和せよッ!」

 「汝ら皆、罪人なり! 涜神の罪なれば、(きよ)め得るは地獄の業火なり! 汝ら、身の内に業苦の焔を焚けよッ!」

 「罪人よッ! 罪抱くからこそ、その不敬の重責を覚えし者よッ! 浄火に因りて(けが)らわしきを皮を捨てよッ!」

 そして最後に、"トカゲ"が左右の口でギャアギャアと(しわが)れた声を上げつつ、中央の口で呪われた福音の最終節を唱える。

 「一切の欲を捨てよッ! 一切の思考を捨てよッ!

 唱えるべき語句は、"聖なるかな"のみなりッ!

 さすれば汝、罪より転生し、我らが同士とならんッ!」

 

 怪物どもの唱和は、体細胞のみならず思考、そして魂魄までも揺るがす衝撃となり、聴衆の(ことごと)くに襲いかかる。

 星撒部の面々のように、高い魔法能力を有せぬ彼らは、衝撃に抗えはしない。叫喚から逃れるように耳を塞ぐと、ある者は体を"く"の字に曲げて(よじ)り、ある者はうずくまって縮こまり、ある者は地に転がってのた打ち回る。

 「洒落になんないわッ!」

 紫は唾棄するが早いか、全身に魔力を集中。彼女の得意とする魔装(イクウィップメント)を発動し、白と赤を基調とした鎧と、身の丈を超えるサイズを有するギミックの豊富な大剣を装備すると。即座に『宙地』を繰り返し、飛ぶように路上ステージ上の怪物達へと向かってゆく。

 怪物達を打破して、状況を算段だ。

 「紫ッ! あなた1人で突っ込んで…ッ!」

 ヴァネッサが非難めいた言葉を紫の背に投げつけるが、紫は振り向かない。"そんな余裕なんてない!"、と言い放つ気配が、背中からヒシヒシと伝わってくる。

 「全く…ッ!」

 ヴァネッサは毒づくと、アリエッタへと顔を向け、2人で紫の後を追おうと提案しようとした…が。

 「ヴァアアアァァァッ!」

 「ヴォオオオォォォッ!」

 「グルルルルゥゥゥッ!」

 汚泥の泡が弾けるような、あるいは、か病熱に浮かされた獣が騒ぐかのような…不気味な声が周囲から一斉に響き渡る。一体何事かと、ヴァネッサは周囲に視線を巡らせると…その視界一杯に、異様にして致命的な事態が映る。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 怪物どもの喚きが生み出す"偽"『神霊圧』に当てられた聴衆達に、(おぞ)ましい症状が現れる。

 老若男女問わず、顎が外れるほどの大口を開き、先の不吉な絶叫を上げている。その口腔の中、痙攣する舌の中央に黒紫色の十字架のマークが浮かび上がったかと思うと、発泡スチロールが溶ける時のようにズブズブと組織が崩れてゆく。そしてものの数秒の内に、十字の穴がポッカリと開く。その断面からは出血はなく、まるで血抜きされた肉を切り分けたようだ。

 この事象は、星撒部が対応し続けていた呪詛の症状そのものである。

 変化は、それだけに留まらない。穴の開いた舌を狂ったナメクジのようにグリングリンと踊らせていると、咽喉(のど)の奥からドバドバと漆黒の粘水が沸き出す。

 粘水は口から(あふ)れ出て、螺旋を描きながら鉛直方向に伸び上がると。高速で飴細工を整えるように形状を変化させ、その挙げ句に()った形状は…。

 (黒い…『天使!?』)

 ヴァネッサの胸中の叫びは、その姿を端的に表している。

 全身を重装備の鎧に包み、背中からは3対の翼を生やし、手には中世の騎士のごとく馬上槍(ランス)を構えている。その色彩を純白に置き換えれば、正に神に使える敬虔なる聖騎士だ。

 しかしながら、その頭部は色彩を置き換えようとも、余りにも奇っ怪だ。何故ならば、福笑いのように醜い目・鼻・耳・口が滅茶苦茶に張り付いているのだから。

 黒い『天使』達は形状を得ると、空を仰ぎ、大小入り乱れた歯が並ぶ口を開いて一言、

 「信を得たりッ!」

 と叫ぶ。その発声は、一音一音が濁音で構成されているような、畜生の唸りのような醜い声であった。

 続いて彼らのすることは、睥睨(へいげい)である。そして、"偽"『神霊圧』の影響下において思考の狂乱を得ながらも、黒い『天使』を生む症状を発しなかった者を見つけた瞬間。

 「不敬ッ!」

 と濁音の発声で声を上げると、3対の翼を力強く打って飛翔。1人に対して何体もの『天使』が群がり、手にした馬上槍(ランス)で滅多刺しにする。

 (なんてことッ!)

 その光景をまともに目撃したヴァネッサが、唇を噛みしめつつ、眉を怒らせて駆け寄ろうとした、その矢先。滅多刺しにされた人物の体にもまた、異変が現れる。

 馬上槍(ランス)が貫いた傷口から、ドバドバと液体が溢れ出す。しかしそれは、鮮紅を呈する血液ではない。(よど)んだ漆黒の粘水である。

 刺された人物は、まるで水を一杯に貯めた風船が弾けたかのように、弾けるようにして漆黒の粘水をばら撒いたかと思うと。粘水は鉛直に延びる螺旋の形状を取り、そしてまた黒い『天使』が生まれる。この天使もまた、すぐに天を仰ぐと、「信を得たりッ!」と濁音の発声で喚くのだ。

 

 黒い『天使』の発生は、伝染する。しかも、疫病よりも遙かに速く、だ。

 

 「信を得たりッ!」

 「不敬ッ!」

 汚い叫喚が至るところで上がり、鼓膜を狂乱させるような騒動と化した頃。黒い『天使』達の矛先は、アリエッタとヴァネッサに向く。

 「不敬ッ!」「不敬ッ!」「不敬ッ!」

 口々に喚きながら飛びかかってくる『天使』の数は、優に二十を超える団体だ。

 これに対し、いち早く反応したのはアリエッタである。腰に下げた、見事な装飾の刃引きの刀剣を引き抜くと、殺陣(たて)と云うよりも舞踏じみた優雅で大仰な動作で、『天使』達を一気に斬り払う。

 厳密に云えば、アリエッタの斬撃は『天使』の体に届いてはいない。それでも、『天使』達の重装甲の胴部に一文字の(きず)が走る。そして、創を中心に『天使』の体は砂の楼閣のようにドシャリと歪み、黒い粒子となって宙空に消える。

 アリエッタの扱うアルテリア流剣舞術による、"感性に干渉する"(わざ)だ。ヒトに対しては心を斬り、呪詛に対してはその怨恨を損なわせる。

 「ヴァネッサちゃんっ! 私が引き受けるからっ! 術師の探索をお願いっ!」

 アリエッタは次々を襲い来る『天使』を、舞い踊る太刀筋で斬り捨てながら、声を上げる。

 声を受けたヴァネッサは、一瞬だけ加勢を優先すべきか逡巡したが。すぐにアリエッタの言に従う事を決断する。呪詛を相手にするのならば、自分よりもアリエッタの方が優れている…そう断じたのだ。

 とは云っても、『天使』達は2人の都合に合わせてくれるワケがない。

 「不敬ッ!」

 喚きながら容赦なくヴァネッサの元にも『天使』は接近してくる。対してヴァネッサは、得意とする結晶を操作する魔術を発動。『天使』を丸ごと水晶に閉じこめると、それを盾として利用しながら、片瞼を閉じる。

 (早く見つけないと…っ! 感染が取り返しの付かないレベルに達する前に…っ!)

 魂魄に加えて呪詛までもが入り乱れる形而上相の中を、必死で認識格子(グリッド)を微調整しながら、術者の足跡と思われる術の定義の特定を急ぐ。

 ――その最中だ。ヴァネッサの体に、急に猛烈な悪寒が伸し掛かる。ブワリと吹き出す冷や汗が、まるで鉛のように感じられる。

 思考が突如、ネガティブな色に染め上げられる。漠然とした不安感や焦燥感が持ち上がり、これまでの人生で経験してきた大小の失敗、そして恥ずかしいと感じた出来事が、恐ろしく早い走馬燈となって視覚野を駆けめぐる。

 クニャン――ヴァネッサの両膝が力を失い、その場にへたり込んでしまう。

 (…わたくし、わたくし、わたくし、わたくし、わたくし…だめ、不敬よ、不敬なのよ、不敬だわ、わたくし、不敬、不敬、不敬、不敬不敬不敬不敬――)

 理性と云う(せき)が崩壊し、目を覆いたくなるような罪悪感が津波のように脳内を、そして魂魄を塗り潰す。ヒュゥヒュゥと過呼吸を繰り返し、ボタボタと大粒の涙と汗を土砂降りのように(こぼ)す。

 ――激しい自責と、脱力するほどの抑鬱症状。それは正に、彼女が戦ってきた呪詛の初期症状である。

 ヴァネッサの朱色の唇が力なく開かれ、その内からポタリポタリと漆黒の粘液が流れ出す。彼女もまた、黒い『天使』を生み出す無惨な源と化してしまうのか――。

 

 しかし、幸いにも、ヴァネッサの症状は直ぐに停止した。

 黒い『天使』を相手に立ち回っていたアリエッタが、目聡(めざと)くヴァネッサの異変を認識すると。制服の裾を金魚のヒレのようになびかせながら、クルリと回転しつつ、ヴァネッサの後ろ首の辺りを一閃する。

 途端に、ヴァネッサの(ふさ)ぎ込んだ思考が、晴天の如くパッと澄み渡る。ハッと一度、瞬きして現状を確かめたヴァネッサは、路上に零した汗と涙と黒い粘水を眺め、自身が症状に侵された事を認識。悔しげに歯噛みする。

 その途端――。

 「っつ…ッ!」

 ヴァネッサは眉をしかめて、表情を歪ませる。深く突き刺されたような鋭く痛みが、舌の中央付近に走ったのだ。同時に、錆びた鉄を舐めた時にような、不快な味が口内にジンワリと広がる。その味は…血の味だ。

 恐らくは、舌の組織が十字の穴を開けるために壊死を始め、血管が千切れた事による出血だ。呪詛の影響下にあれば出血も痛みも無かったろうが、アリエッタに叩き起こされた今、傷ついた舌は正常に不快な疼痛を覚える。

 (…不覚…っ! このわたくしが、まんまと呪詛に侵されるなんて…!)

 ヴァネッサは血の味を咽喉(のど)の奥に飲み込むと、眼に怒りの炎を灯して力強く立ち上がる。

 

 ヴァネッサが事態の打開に対して気を新たにした頃。

 「あああぁぁぁっ!」

 「痛いっ、痛い痛いっ!」

 「ぐえええぇぇぇっ!」

 黒い『天使』の喚きに混じって、ヒトビトの絶叫が響き渡る。アリエッタによって黒い『天使』を破壊されたヒトビトが、次々と呪詛から解放されると同時に、舌の十字の(きず)が正常に出血と激痛を訴え始めたのだ。

 口の中を真っ赤に染めながら、あるいは転げ回り、あるいはうずくまるヒトビト。ヴァネッサはその治療に得意の霊薬(エリクサ)を用いるべきだと判断はしたのだが…その行動を実行に移すことはできなかった。

 何せ、呪詛から解放されたヒトビトには、即座に「不敬ッ!」を叫ぶ黒い『天使』が群がるからだ。そして手にした馬上槍で、彼らの体を無情に刺し貫いてしまうのだ。

 すると、せっかく解放した者の体は無惨に破壊され、血液の代わりに吹き出した漆黒の液体により、再び黒い『天使』が生み出されてしまうのだ。

 (キリが無いですわ!

 術者を探す方が賢明そうですわね!)

 ヴァネッサは意を決すると、片瞼を閉じて形而上視認を開始。同時に、得意の決勝操作魔術を用いて両手に水晶で出来た剣を一本ずつ握りしめると、襲いかかる呪詛を薙払いながら走り出す。

 剣に使った水晶は、結晶格子内部に光素を宿した物質である。真っ白な輝きを放つそれは、呪詛を構築する闇素を打ち消し、浄化するのである。

 「わたくしは、術者を探しに行きますわ!」

 ヴァネッサは振り返らずに、後ろに残したアリエッタに声を掛ける。アリエッタならば、慌てたり拒否したりせず、黒い『天使』の浄化に努め続けてくれると確信して。

 実際、アリエッタはヴァネッサの声に対して、微笑で以て答えると。直ぐに顔を刃のような鋭いものへと改め、桜を散らす春一番の烈風のように、優雅にして激烈に舞い斬り回る。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「化けて出てるからって、いい気になってンじゃないわよッ!」

 路上ステージ上にて。完全武装した紫は、事態の発端となった"トカゲ"の呪詛へと『宙地』で突撃。加えて、大剣の峰に設置されたブースターを発動させると、流星のように飛翔。"トカゲ"の腹部に瞬時に激突する。

 (ドウ)ッ! 大気が炸裂する衝撃を振り撒いた激突であったが…"トカゲ"の腹部は、切断出来ない。それどころか、刃が表皮の中に潜り込めない!

 (まだまだッ!)

 紫は諦めない。大剣へと魔力を注ぎ込み、刃の形質を変化。単純な金属質から、霊体に近い(きら)めくエネルギー体へと転化させる。

 呪詛は物体よりも霊体に近い存在。物体による攻撃が功を奏さないのならば、霊体によって干渉を狙うまでだ。

 紫の目論見は、成功する。刃は"トカゲ"の腹部の内部へ、ズブズブとゆっくりと潜り込んでゆく。開いた傷口からは、漆黒の体液がはちきれた水風船のように噴き出す。

 しかし、"トカゲ"も黙って斬られはしない。体中から突出したラッパ状の器官を痙攣のように激しく振動させながら、孔内より低く太い音を発する。

 ヴォオオオンッ! 鼓膜の奥に粘りつくような太い音は、紫の全身を共振させる。全身に纏う赤白の鎧がビキビキと悲鳴を上げると、痛々しい亀裂が細かく走り、粉塵のような微細な破片を吹き上げる。鎧に覆われていない皮膚もブレるように激震すると、ビュシュッ、と破けて鮮血を噴出する。

 それでも、紫の方も戦意を喪失することはない。得意とする治癒魔術を自身の全身に発動、破けた皮膚を片っ端から回復しながら、大剣に付いたブースターの出力を更に上昇。"トカゲ"の腹部に更に食い込む。

 「アギャギャアアアァァァッ!」

 "トカゲ"が3つの首を振り回して、喚き散らす。それは激痛への悲鳴だったか、それとも――助力を乞う呼び声だったのか。

 真実は、後者だったのかも知れない。というのも、喚きに応じた一つ目の翼竜の内の一匹が、紫の脇に濁流のような漆黒の粘水の噴射をぶつけたからだ。

 「ガハッ!」

 鎧越しにも腹部を抉る衝撃を受けて、紫は錐揉(きりも)みに回転しながら宙空に弾き飛ばされる。そこへ別の翼竜が飛来、歯のデタラメに生えた口を大きく開くと、馬上槍(ランス)のような巨大な針を付けた太い触手を引きずり出し、紫の頭を目掛けて突き出す。

 (やられるかってのッ!)

 紫は大剣のブースターの噴射に加え、巧みに『宙地』を用いて、クルリと旋回するように空中で軌道修正。その勢いのままに大剣を振るい、突き出された触手を両断する。

 破裂したホースのようにダバダバと黒い粘水を噴出させる、触手の断面。一つ目の翼竜は悶えるように首を伸ばして仰け反り、ギィエエェェッ、と不吉な声を上げる。

 一方、紫の眼下からは、骨状のムカデが体を伸ばして接近。膨張するが如く大口を開き、紫を一口に噛み千切ろうとする。

 対して紫は、『宙地』でクルリと縦方向に回転。ムカデの口腔に対して真っ直ぐに相対すると――。

 「ッせいっ!」

 大剣の峰のバーニアをフル稼働。青白い魔力励起光を彗星の尾のように()きながら、鉛直方向に高速で降下する。

 大剣は一瞬にしてムカデの口腔に激突すると、ヴォンッ、と空気が――いや、空間自体が震えるような鈍い音が響く。同時に、紫を中心に放電する薄黒い球が広がる。

 転瞬、ムカデの体がメキメキと音を立てて横倒れになる。その体を更に押し潰すように、大剣を携えた紫の体が降下して――遂に着地したその時!

 (ドン)ッ! 大地を揺るがす強烈な打撃音! 同時に、路上ステージを構成するアスファルトが盛大に凹み、縦横に深い亀裂を走らせる。

 紫の大剣の一撃が、局地的な重力増強を行い、ムカデの体を圧壊しようとしているのだ。

 増強された重力の中、熱した鉄板の上に押しつけられたミミズのように、グネグネと蠢き回る、ムカデ。その骨質の体節のあらゆる箇所から、メリメリと張り裂けるような音が聞こえたかと思うと、そこに唾液の糸をたっぷりと引いた口が開裂。

 「不敬ッ! 不敬ッ! 不敬ッ!」

 濁音の発声による大合唱が始まると、先の"トカゲ"のラッパ演奏のように、紫の体を震動させて細胞を破壊し始める。

 (しつこいわねッ、このバケモノッ!)

 紫は大剣のブースター噴出を止めないままムカデを押し潰しつつ、左手でギュッと拳を固める。そして、鎧に内蔵された3本の放電電極を爪のように拳に装着すると、ムカデの体にめがけて何度も何度も振り下ろす。

 (ガン)ッ! (ガン)ッ! (ガン)ッ!

 (ガン)ッ! (ガン)ッ! ――激突音が響く度に、バチンッ! バチンッ! と破裂音が響き、目の(くら)む激しい放電が起きる。

 細胞を痛める叫喚と、大電流を纏う拳撃の応酬。互いに譲らぬ拮抗であったが――遂に天秤は、紫の方に傾く。

 ブヂンッ――液体を大量に(はら)んだ肉を切断した、不気味な音。それは、紫の大剣がムカデを両断した音だ。

 「不敬…の輩…呪われ…」

 ムカデがゴボゴボと液体の弾けるような声で断末魔の恨み言を語ると。

 「呪詛の分際で、"不敬"とか語るなッ!」

 (バン)ッ! もう一撃、電撃を纏った拳を叩き下ろすと。ムカデは、ギャアアアァァァッ、と不吉な絶叫と共に、全身を黒い粒子と化して中空に昇華し消え去る。

 呪詛を一体、滅ぼした紫だが。一息吐く間はない。

 「不敬ッ! 不敬ッ! 不敬ッ!」

 その叫びは、"トカゲ"のものだ。同時に、全身から突出したラッパを甲高く鳴らすと共に、(わず)かな空間の歪みとして目視できる弾丸を発射する。それは、空気を押し固めて形成したものだ。

 更に上空からは、3体の一つ目翼竜からの漆黒粘液の吐瀉奔流がビームとなって襲いかかる。

 (ったく、面倒な奴らねッ!)

 紫は舌打ちしながら、踊るように跳び周り、あるいは大剣を振り回して盾にしたり斬撃で空気の弾丸を切り裂いたりして、防御に専念する。

 

 その最中のこと――紫の背筋に、ギクリとした悪寒が走る。

 大きな"偽"『神霊圧』が2つ、新たに発生した事を知覚したのだ。

 (こんな時に、また!?)

 防御の立ち回りをこなしながら視線を走らせると――紫は、あやうく失意にグラリと傾きかけるような光景を網膜に映す。

 今や怪物と化した『オーシャン・フォウ・アリス』と隣接してパフォーマンスを繰り広げていた、小規模なロックバンドと大道芸人達。そのメンバーの1人ずつが、顔から漆黒の粘水をぶちまけたかと思うと、背中が割れて怪物が生まれ出たのだ。

 ロックバンドの方からは、『オーシャン・フォウ・アリス』のヴォーカリストが生み出したものとスッカリ同じ形態を持つ、3つ首の"トカゲ"。

 大道芸人の中から生まれたのは、百に迫る数の腕に、大きな口だけが縦に開いた顔を持つ、異様な巨人。

 その2体もまた、「ヒトよ、誠の信を捧げよ!」と云うような、強要性のある信託めいた言葉を叫ぶ。それに呼応して、パフォーマーのメンバーは勿論、観客達も次々に口から漆黒の粘水を吐き出し、黒い『天使』を生み出す。

 

 (こりゃあ、時間なんてかけてられないわ…! 全開で、短時間に、潰して回るッ!)

 紫は大剣のブースターを機動させると、魔力励起光の尾を引く彗星となって、怪物どもの打破すべく飛び回る。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (邪魔ですわっ!)

 (ザン)(ザン)(ザン)(ザン)(ザン)(ザン)ッ! 一歩踏み出す毎に、結晶の[[rb:煌<きら]]めきを放つ斬撃が幾つも空に走り、黒い『天使』達を両断しては昇華・消滅させる。

 それはヴァネッサの所業だ。多数の斬撃は、彼女の両手が手にした結晶の剣に因るのは勿論のこと、彼女が魔術で作り上げた水晶の巨人騎士達による攻撃も加勢されている。

 水晶の巨人騎士は、ヴァネッサの周囲を守護する"衛兵"が6体。その他、通過した箇所に配置してきた"自立行動"の騎士達が、数十体存在する。自動行動の騎士達は、ヴァネッサが黒い『天使』を破壊して呪詛から解放された者が、他の黒い『騎士』によって刺し貫かれ、再び呪詛を生み出す事を防ぐ役目を担っている。

 何度もの交戦を経て理解した事だが、この呪詛の厄介な点は伝染性も勿論のこと、黒い『天使』からの加害による再発がある。[[rb:馬上槍<ランス]]で貫かれた者は傷口から漆黒の粘液を噴き出させて、自らの黒い『天使』を生む。この黒い『天使』を再び撃破すると、加害された者は再び呪詛から解放されて我を取り戻すと同時に、体中に開いた傷口からの激痛に苦しみ悶えることとなる。中には、余りの傷口の多さにショック死を起こしてしまう者もいる。

 呪詛から解放したと云って、放置しておくワケには行かない。それがこの戦いの難点だ。

 (早く術者に辿り着かないと…ッ!)

 "見つけないと"とは焦っていないのは、ヴァネッサの激しい交戦と形而上視認の努力の果てに、呪詛の発生源の特定に成功したからだ。あとは術者へ接近し、撃破しさえすれば問題ないのだが…。

 術者は動いていないとは言え、そこまでの道程には彼を守護するように、一層量の多い『天使』達が立ちはだかる。

 『天使』を(たお)せば、呪詛から解放されたヒトビトを守る為に、水晶の騎士を新たに生成しなければならない。生成した騎士の行動は自動制御出来るとて、存在を維持するのには魔力の消費が伴う。数多く作れば、ヴァネッサが疲労で参ってしまう。

 力尽きるのが先か。憎き術者の頬面を水晶の剣でひっぱたくの先か。

 不安と憤りの葛藤の果てに――ヴァネッサが辿り着いたのは、幸いにも、後者であった。

 

 黒い『天使』が壁のように群がっている一群を薙払い、6体の水晶騎士と共に津波の如く雪崩込んだ先に、"そいつ"は居た。

 視界を覆う黒一色が少し晴れたような光景の中。エサを求めて円弧を描いて大気するトビの群のような黒い『天使』達が飛び交う真下で。その男は地獄の光景を微笑を浮かべて見やっていた。

 そして、ヴァネッサが到着したのに気付くと、表情を崩さずに向き直り、浮かべた笑みを大きくした。

 その人物――黒い『天使』どもの(かしら)にして、地獄を生んだ呪詛の術者――こそ、鍔広帽を被った、地球における中世時代の流浪者のような姿をした男。

 『吟遊』の名を(いただ)いた『士師』であった者、パバル・ナジカである。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 9

 ◆ ◆ ◆

 

 「やあ」

 パバル・ナジカは着古した質素な服を揺らしながら、手を挙げてヴァネッサに挨拶する。

 「初めまして、星撒――」

 語っている最中。ヴァネッサは言葉など耳に入れず、間髪入れずに素早く踏み込む。

 従えた6体の水晶騎士と併せて、大小8本の刀剣で(もっ)て、パバルを文字通り四方八方から襲いかかる。

 しかし――全ての斬撃の前に黒い疾風が吹き込むと、ガキィン、ゴキィン、と耳障りな金属音の発生と共に刀剣の受け止められる。

 黒い『天使』達がパバルを守るべく、立ちはだかってのだ。

 パバルが肩を(すく)めて苦笑する。

 「やれやれ、そんなに逸ったところでね――」

 パバルの薄い唇が、揶揄と呆れを交えた言葉を紡ぐ、その最中。ヴァネッサはギラリと瞳を輝かせると、6体の水晶騎士と共に『天使』どもの馬上槍(ランス)を切り払い、猛進。竜巻の怒濤と云った有様で、パバルへと斬り込んで行く。

 「おっとッ!」

 パバルがヒラリと跳び退けば、上空から降下して来た黒い『天使』がヴァネッサ達を阻む。だが、ヴァネッサ達の動きは止まらない。『天使』の馬上槍(ランス)ごと叩き斬る勢いで刀剣を振り下ろし、蹴りで『天使』を吹き飛ばしては、パバルへ執拗に斬撃を繰り出す。

 「うわわっ! ちょっとっ! おっとっ!」

 パバルはおっかなびっくりな声を上げながら、フラリフラリと身を動かす。その有様は間抜けにも見えるが、『天使』達の身を呈する防御を差し引いても、着実な回避行動としてヴァネッサ達の8振りの斬撃を(ことごと)く潜り抜ける。

 そんなパバルの行動に、ヴァネッサは歯噛みして胸中で毒づく。

 (この術者、早く斃さないと…被害の拡大が収まりせんわッ!)

 ヴァネッサ達の斬撃は嵐のように、回避を続けるパバルを追い詰めてゆく。次第に速く、巧みになってゆくヴァネッサの攻撃に、パバルは対応し切れなくなったらしい、表情に苦しさを浮かべる。

 そこでお手上げするかと思いきや――パバルは、"妙な業"を用い、初めて後退するでなくマトモにヴァネッサ達の攻撃を受け止める。

 パバルの身の周囲に、バケツの中に墨で注ぎ込んだように、粘り着くような漆黒で織り上げられた"外套"が発現すると。その端が幾つもの牙状の触手となり、ヴァネッサ達の刀剣に激突。グルグルと絡みついて、動きを止める。

 「くっ!」

 ヴァネッサは即座に水晶で作った双剣を手放し、一歩退いて距離を取りながら、新たな剣を右手に生成する。

 その(わず)かな(いとま)のこと。パバルの両肩の辺りから漆黒を呈する、ラッパ状の不気味な口がニュッと生えると。

 「ちょっと聴きなよ、凛然としたお嬢さん」

 エコーの掛かった、鼓膜を激しく振るわす言葉を発する。その声がヴァネッサの脳に到達した、その瞬間。

 (な、なんですの…!?)

 ドクン…ッ! ときめきを覚えたように胸が高鳴り、バクバクと心拍数が上昇する。顔を始め全身が火照り、筋肉が弛緩して水晶の剣を取り落としてしまう。

 ようやく隙を生んだヴァネッサに対し、パバルは満足げにニッコリと笑うと。今度は自らの口で言葉を紡ぐ。

 「良かったよ、君がマトモな感性の持ち主で。

 まぁ、僕らの呪詛に掛かりそうになってくれた時点で、確信してたことだけどね」

 「な、何をしたんですのっ!」

 ヴァネッサのドギマギした非難の言葉に、パバルは苦笑しながら頬を掻きながら答える。

 「僕が君にしたことより、君がもっと知りたいのは、この事態の現状と今後のことじゃないのかな?

 地球最強のお節介集団、星撒部の女子部員さん?」

 「………」

 ヴァネッサは精一杯の藪睨みを作り、無言で返答する。彼女の体は、まだ火照りと動悸で脱力が続いている。水晶の騎士は自立行動が健在であるものの、黒い『天使』の群れ相手に手一杯で、パバルへと剣を向けることが出来ない。

 そんな状況の中で、パバルは悠々と、教師が生徒をちょっと見下しながら語る時のようにして、言葉を続ける。

 「君や、君のお仲間達は、この状況を打破するために、とても頑張っている。そして、術者である僕さえ(たお)せば、被害は収まると思っている。

 …でも、それは違うんだなぁ。

 現時点でもう、遅いんだよ。例え僕を斃したところで――少しは事態の進行に影響が出るかも知れないけど――感染は止まらない。

 この"布教"は、もう都市国家(プロジェス)中に広まっているのさ。

 …ちょっと、耳を澄ませてごらん?」

 ヴァネッサは自分の身を縛る脱力感に必死で抗いながらも、パバルの語る言葉を受けて、耳を澄ます。

 相変わらず「不敬ッ!」だの「信を得たりッ!」と云う『天使』どもの喚きが周囲を取り巻く中で――微かに聞こえる、別の声。

 それは濁音の発声をする路上ステージ上に現れた怪物の声そのものだ。あのデタラメな翼を持つ"トカゲ"が出現した時と同じように、難解な言葉遣いで説教する声が聞こえる――。

 その声は、肉声ではなく――テレビかラジオか、はたまたスピーカーか、判別は付かないが――もしくは、その全てかも知れない――多少のエフェクトを伴って、都市国家中を駆け回る。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ヴァネッサ達が激戦を繰り広げているのとは、全く異なる地区にて――。

 パフォーマー達が路傍に集い、それを横目に住人が往来すると云う光景の中。最初の異変が起きたのは、通りに面したショーウインドウに設けられた宣伝用モニターである。

 多種多様の業種や商品の映像を流していたそれらが、一斉に灰色の砂嵐状のノイズに変わったかと思うと。次の瞬間、ドアップにデカデカと表示されたのは、3つ首の"トカゲ"の顔である。

 「…ん? 怪獣映画?」

 誰かがポツリと疑問を口にした、その直後。

 「ギイイイィィィアアアアァァァッ!」

 鼓膜を汚すような酷い濁音の絶叫が響き渡り、けたたましい路上ライブの演奏音すら掻き消してしまう。

 その叫びが発せられたのは、映像モニターだけではない。ラジオを初めとして、電子楽器のアンプや拡声器など、電子通信網とは関係ないはずのあらゆるスピーカーから一斉に発せられた。

 ヒトビトは聴覚を(つんざ)く絶叫に鼓膜を痛め、両手で耳孔を塞ぐ。しかし、続いて発せられる威圧的にして難解な説教は、鼓膜ではなく彼らの脳内へと直接浸透する。

 「駄人どもよ、汝等何故(なにゆえ)信を忘るるかッ!? 目先の快楽のみを貪り、永遠に位置する至福を手放すかッ!?

 不敬なり、不敬なり、不敬千万なりッ!

 汝等、(ことごと)く罪人なりッ! 地獄の業火にて身を焦がすべき罪人なりッ!

 されば、さればッ! 汝を救い(たま)えるわ、汝等が不敬にして忘れ去りし、我らが真なる主!

 さぁ、不敬の輩ッ! その身を浄火にて焼き、天使となりて唱和せよ! 主の再臨を求めよ! されば、さればこそ、汝等罪人救われんッ!」

 思考を塗り潰して介入する叫喚は、ヒトビトの魂魄に干渉すると、精神疾患を誘発する。(すなわ)ち、顔面を死人のように蒼白に染め、ボタボタと大粒の涙を(こぼ)しながら、これまでの人生のネガティブな部分ばかりを想起しては、「許してください、許してください、許してください…」とブツブツ繰り返す。

 その内に、呂律が回らなくなったかと思えば、口の中からドロリと大量の漆黒の粘液を吐き出す。粘液は飴細工のように捻れながら直立し、明確な形状を取ると――黒い『天使』と成り、3対の翼を打ち振るわせてカラスの群れの如く空を飛び回る。

 パフォーマー達の変化は、少し異なる。亀のように身を縮めてブルブル震えながら、「許してください」を繰り返した後――その丸めた背中がセミの幼虫のようにパックリ割れて、漆黒の粘水を噴水のように吹き上げる。その中から飛び出すのは、あのデタラメな翼を持つ3つ首の"トカゲ"であったり、一つ目の翼竜であったり…と怪物どもだ。そして怪物どもを生み出したパフォーマー達の体は、内容物をすっかり吐き出した袋のように、ペシャンコに潰れてしまうのだ。

 

 ――こうした地獄のような光景は、プロジェス各地で発生する。

 そして、幸いにも――いや、"不幸にも"と言うべきかも知れない――この異変から免れた者達は、黒い『天使』の持つ馬上槍(ランス)を追い回され、串刺しにされてしまうのだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 この地獄の状況は、勿論、プロジェスの市軍警察の把握するところとなる。

 何せ、組織が使用している通信機器も異変に干渉され、喚く"トカゲ"の姿を放映したり、濁音の発声による不気味な信託を垂れ流すのだ。

 この声に当てられて、呪詛に感染してしまう職員も現れる程だ。

 市軍警察の上層部は、治安部だけでは手が余ると即断。通常は対外勢力に対する抑止力として使用するはずの衛戦部に出撃の指示を出し、事態の収集を図る。

 

 プロジェスでも1、2を荒そう大規模な衛戦部基地である、ファンデリア第2地区基地。市壁に近い位置にあり、先の『女神戦争』は勿論、それ以前にも対外勢力との数々の先頭をこなして来た実力派の部隊が駐留している、プロジェス防衛の要の一つ。

 その最高司令官であるオルダール大佐は、中枢区の本部からの指令を2つ返事で受け入れると。自ら席を立ち、基地内の戦力をかき集める。

 人員輸送用のヘリコプターが次々に出庫し、続々と整列してゆく発着場に立ったオルダール大佐は、整然と集結してゆく基地人員を正面に見据え、堅い表情で集合の完了を待つ。

 集結する人員の大半は、戦争を始めるかのような装備で身を固めている。機動装甲歩兵(SAAS)を初め、スマートな長身の狙撃銃を手にした狙撃手達、ハエトリグモやコオロギの形態に酷似した"着る戦車"多目的戦闘鎧車(MPCBT)に搭乗して、ハッチからヒョッコリ顔を出している操縦主も居る。

 強靱な戦意が見て取れる精悍(せいかん)な表情をグルリと見回したオルダール大佐は、日焼けした壮年の顔に少し誇らしげな笑みを浮かべると。視界の大半を人員が黒々と埋めたところで、軍服の胸に付けた小型マイクを用いて号令を掛ける。

 「聞けいッ、戦士達ッ!」

 オルダール大佐の一声に、元より私語など交わしても居なかった屈強なる戦士達が、表情を更に引き締めて"気を付け"の姿勢を取り、不動となる。その姿は、躍動感(あふ)れながらもズッシリとした重量感を醸す、緻密な大理石の彫像を思わせる。

 「諸君らも知っての通りだ! 我が都市国家は現在、甚大な危機に瀕している!

 あの忌まわしき『女神戦争』にも匹敵する、正に呪わしい状況だ!」

 ここに集う隊員達は既に、都市国家中に呪詛が溢れ返りつつ在る事を認識している。故に、彼らの装備は対呪詛用に、神聖化された装甲や弾丸、刀剣などで固められている。

 「我々は一度、散々たる敗北を喫した!

 今、再び敗北を味わい、地べたに倒れ伏すか!?

 再び善意ある強き『現女神』の登場を待ち、ひたすらに祈るべきか!?

 否ッ! 断じて、否だッ!

 此度こそ、我らは我らの故郷を、我ら自身の手で守り通すのだッ!」

 熱を帯びたオルダール大佐の叫びに、感極まった隊員達が口々に「応ッ!」と叫んだ――その時。

 折角の熱意に横から水を差すように、遅れて集団に合流してくる一群がある。

 オルダール大佐は、灰色に染まった眉の片方を跳ね上げて、不愉快そうにその一群を見つめる。

 遅れて来たというのに、走りもせず、悠々と合流してくる一群は、なんともふざけた姿をしていた。何せ彼らは、軍服こそ身につけているものの、機動装甲服(SAA)多目的戦闘鎧車(MPCBT)も身につけていなければ、狙撃銃も持っていない。それどころか、白兵戦用のあらゆる武器も手にしていない、丸腰の状態だからだ。

 「貴様ら…ッ!」

 何のつもりか、と一喝しようとした瞬間。オルダール大佐の口は、続く言葉を飲み込んでしまう。

 この一群の戦闘に立つ人物の存在が、彼の憤怒を()いでしまったのだ。

 厚手の軍服の上からでも筋骨隆々とした体格が見て取れる、巨躯の男。飾り気などなく、無精に短く刈り込んだ髪に、荒々しい氷の彫像のような冷たい表情。

 元『士師』であり、プロジェス衛戦部でもトップクラスの実力の持ち主。マキシス・ミールガン少佐である。

 日常でも冗談すら好まぬ、生真面目を凝縮して岩石のように固めたような人物である彼が、何故遅刻し、それを恥じずに悠々としているのか? その驚きを交えた疑問がオルダール大佐の思考を塗り潰してしまったのだ。

 「…マキシス少佐。一体…」

 口ごもりながら質問を口にする間に、マキシスは引き連れた部下と共に、整然と並んだ人員を無造作に掻き分けながらオルダールの元へと進む。そして、オルダールの続く言葉を待たずに、色の薄い厚い唇を開く。

 「大佐。先ほど貴方は、"善意ある強き『現女神』"などと(のたま)われた。

 その意図は、如何なるものであるか? そこに込めたる感情は、如何なるもであるか?」

 少佐の身の上であるマキシスであるが、直属の上官であるオルダール大佐に、酷く尊大な口を叩く。その口振りに、大佐の思考から疑問は吹き飛び、こめかみに青筋が浮き上がる。

 「貴様、何だその口の聞き方はッ! 軍紀に――」

 「答えよ」

 オルダールの言葉を遮り、マキシスは剣のように言葉で斬り込む。

 オルダールは続く言葉を舌の上で転がし、パクパクと無言で口を開閉すると。マキシスの鋭利な威圧に当てられたのか、覇気を少し失った口振りで答える。

 「二、ニファーナ様が『現女神』の座を失ってしまわれ、我らの国家は屈辱極まりない征服の危機に陥ったことは、貴官も知っての通りであろう?

 その窮地を救ってくださったのが、『鋼電の女神』レーテ様ではないか。そのレーテ様に恩義を感じるのは、至極当然の事ではないか。

 それに留まらず…ニファーナ様が『現女神』の座を失った今、レーテ様に信義すら感ずる者も在ろう。しかしそれは、成り行きから見ても、無理からぬことで――」

 「このプロジェスを真なる独立に導き、支えてきたのは、紛れもなくニファーナ様だ。

 レーテなる輩は、一時の気紛れに我が国を訪れたに過ぎぬ。扱う暴力がニファーナ様よりも多少上回ろうと、この国への貢献はその点のみに過ぎぬ。

 しかし貴様は、その一時の貢献のみに目を見張り、偉大なるニファーナ様を差し置いて、レーテなる輩を危機に際する鼓舞の引き合いに出すか」

 「一時の貢献と言われれば、そうかも知れん。

 だがその貢献は、永く未来に続く独立の確固たる(いしずえ)ではないか! 通りがけに小銭を哀れむ行きすがりと十把(じっぱ)一絡(ひとから)げにすることは――」

 オルダールの反論を全て耳に入れることなく、マキシスは鬼面の如き憤怒の形相を作り出すと。

 「涜神者めがッ!」

 鋭く叫ぶが早いか、いきなり拳を固めて、オルダールの顔面に殴りかかる。

 オルダールは壮年とは言え、歴戦の強者だ。優れた反射神経で(もっ)て掌を頬の前に出し、拳を受け止める。

 しかし――インパクトの瞬間。オルダールの掌を貫くように、漆黒の流れがマキシスの拳からブワリと流れ出す。同時に、オルダールの掌の中央が、バシャンッ! と音を立てて破裂すると――十字の穴がポッカリと開く。

 「はぁ…!?」

 痛みもなく、出血もなく、ただただポッカリと開いた傷口を目を丸くして見つめる、オルダール。そんな彼に、マキシスは鬼面の形相のまま口角泡飛ばしながら非難する。

 「我らが真なる主を忘れ去った、不敬者ッ!

 そして、真なる主を差し置いて偽りの輩を賛美する、涜神者ッ!

 そんな駄徒(だと)が悠々と国民の上に立っておるから、この都市国家(プロジェス)は堕落の温床と化したのだッ!」

 オルダールは、マキシスの発狂めいた言動に困惑しつつも、身の危険を回避すべく号令をあげる。

 「マキシスを無力化せよッ! 殺傷の度合いは問わんッ!」

 この号令に、一連の流れをオロオロと見つめていた人員達は、キッと顔を引き締めると、マキシスおよび彼に従う部下達へと剣や銃を向ける――が。

 転瞬、彼らの体に震撼(しんかん)が走る。まるで魂魄ごと掴み取られて揺さぶられ、頭上から抑えつけられるような、不快感。そして、思考に強制的に介入する、「悔い改めよッ!」の連呼。

 (神霊圧!?)

 オルダールが驚愕と共に疑問符を頭上に浮かべた時には、全軍を包み込むように、煙とも水流とも付かぬ漆黒がゾワゾワと上空に立ち上り始める。

 すると――兵達が手にしている剣や銃から、ニュッと漆黒を呈した翼が生える。続いて、剣先や銃口がグニャリと変形しながら、持ち主の方へと曲がったかと思うと――これまた漆黒を呈する、小さな竜の顔が形成される。

 「え」

 兵の何人かが、眼前で起きた奇妙な現象に間の抜けた声を上げた――直後、竜の首は、続く刀身や銃身を竜の首や胴へ変形させながらサイズを増し、首を伸ばして顎を大きく開き――彼らの頭を(かじ)り、喰い潰し、咀嚼する。

 「おわっ!?」

 武器を手放したり、多目的戦闘鎧車(MPCBT)のハッチを閉めて、なんとか惨劇を回避した者も居る。すると、残された剣や銃はそのままサイズを増しながら変形を続けて――(しま)いには、灰と白の混じる天空に向けて漆黒の翼を広げる、比較小型の竜と化して、周囲を飛び回る。

 「有り得ない…!」

 視界を埋め尽くしてゆく竜の群を見やるオルダールは、ポツリと、しかし愕然とした様子で(つぶや)く。

 その言葉に対してマキシスは、真顔のまま鼻で、ハッ、とあざ笑う。

 「真なる主を信じられぬ涜神者は、己の(まなこ)すら信じられぬ愚者であるか」

 「私の眼が狂った…!?

 そんなワケがないッ! 仮に狂ったとして、これが現実なワケがないッ!

 何故なら、何故ならば…ッ!」

 オルダールは独りごちるように竜で満ちる光景を眺めたまま、冷や汗を噴き出し、眼球が転げ出すほど目を見開いて、マキシスの言葉を否定する。

 「最早、貴官にこの超常を与える"主"は、力を失ったのだから…!」

 「左様」

 マキシスは即答するものの、直ぐに「しかし」と続ける。

 「我らが真なる主は、今日(こんにち)、再臨する。

 その聖なる(いしずえ)を築く為、我ら『士師』は不敬と涜神を一掃し、汚穢(おわい)(はら)わねばならぬ」

 「馬鹿な! 馬鹿な…ッ!」

 オルダールはようやくマキシスを見つめると、胸倉に掴み掛かるように接近する――但し、マキシスが悠々と身を捌き、オルダールをかわしたが。

 「そんな(ためし)は聞いた事がないッ!

 力を失った『現女神』が、再び神威を取り戻すなどッ! そんな話は、聞いた事がないッ!」

 「不敬にして凡愚の見聞など、何の根拠となろうか。

 ヒトを超え、ヒトの上に君臨せし主の深淵なる真理を、高々のヒトが理解せしめようとするのが間違いなのだ。

 ――第一」

 マキシスは不快げにギリリと歯噛みし、オルダールを睨みつけると。転瞬、オルダールは背に山の如き鉛でも背負わされたかのように、くずおれて四つん這いになる。

 全身の神経が電気信号を発狂させる程の『神霊圧』が、オルダールに襲いかかったのだ。オルダールは『女神戦争』を戦い抜いた歴戦の勇士であるにも関わらず、マキシスの放つ『神霊圧』には為す術もなく屈したのだ。

 ――実際には、この『神霊圧』は真なる意味の『神霊圧』とは異なる。"神"とは真逆の呪わしい力によって、魂魄がネガティブな方向に干渉された結果の所業である。オルダールは通常の『神霊圧』を想定して精神を練り抵抗を構築したのだが、それが裏目に出てしまったのだ。

 四つん這いになったオルダールを冷たく見下ろすマキシスは、ゴミに唾棄するように言い放つ。

 「真なる"主"に仕えし我、『士師』を畏れて(こうべ)を垂れぬとは、何処まで不敬なのだ、貴様はッ!」

 「『士師』…『士師』…そんなワケがない…! 『夢戯の女神』はもう…ただのヒトへと…!」

 オルダールは尚も否定の言葉を口にする。それだけが、マキシスの神聖と云う暴力へ対抗し得る杖だとでも言わんばかりに。

 そこでマキシスは、火を吹くような深く、長い溜息を吐くと。憤怒の表情を潜め、凍り付くような無感情を張り付けると、死にかけの(ムシ)に対するような無愛想な声を掛ける。

 「理解する感性すら欠如した貴様に、明確に見せてやろう。

 我らが真なる"主"の再臨が迫る証、神威の顕現を…!」

 言い放った直後、マキシスの体に異変が生じる。その足下から粘性の高い墨汁のような漆黒の奔流が、竜巻状に発生する。奔流はマキシスの周囲を取り巻きながら、一部は自由意志を持つ帯のように幾重にも巻き付き、厚みを増しながら形を成してゆく。

 漆黒の竜巻の発生が終了するまで、ほんの数瞬の時間しか掛からない。そして、竜巻が螺旋が展開するようにバラリと解けながら宙空に溶け込んで消えると――。

 後に残ったのは、巨躯を竜を思わせる厳つい漆黒の重鎧で覆った、マキシスの姿。

 その鎧の造形は、オルダールの記憶に刻まれている。色彩こそ以前見た時とは違うが、牙か爪のように小さく飛び出た突起や、炎のように渦巻く模様など、一分も見紛おうはずがない。

 この姿こそ、ニファーナが『現女神』として健在だった頃の、マキシスの『士師』の形態。

 「刮目し、畏怖せよ、涜神者。

 我は"竜騎の士師"、マキシスなり」

 己が口でもハッキリと『士師』を名乗ったマキシスに、オルダールはますます顔色を青ざめさせる。

 (あり得ないッ! 『現女神』が失われた今、『士師』が顕現するなどあり得ないッ!)

 胸中で必死に現実を拒絶するものの、現実は塗り潰れることはない。

 マキシスは四つん這いのオルダールの胸倉を掴み、軽々と立ち上がらせて――いや、持ち上げて、視線を高さを合わせると。竜を思わせる面頬の目の穴から冷たい炎を吹くような視線を投じつつ、言い放つ。

 「凡愚よ、光栄に思え。

 貴様の不敬は今、(きよ)められる。

 この『士師』が自らの拳で以て、貴様の魂魄を『天使』へと転生させ、涜神の罪を(あがな)ってくれる」

 「!!」

 オルダールはマキシスの言葉に不吉の悪寒を感じ取り、目を見開くと、逃れようと四肢で足掻こうとする。しかし、"偽"の『心霊圧』によって束縛された彼の体は、プルプルと痙攣する程度だ。

 マキシスは一体、何をしようと言うのか? 子細は把握出来ないが、"拳"や"魂魄"、"転生"という言葉を鑑みる限り――生命(いのち)に関わることが予測できよう。

 そしてその予測は、不幸にも、妥当である。

 「祈れ」

 冷たい言葉と共に、厳つい籠手を装着したマキシスの拳が固められ、容赦なくオルダールのこめかみを打ち据える。

 ゴンッ! 頭蓋を砕く鈍い音が響いた、その直後。

 ブシュウウウゥゥゥッ! 打撃を加えたのとは逆側のこめかみに指先大の穴が開いたかと思うと、そこから噴水のように漆黒の粘水が噴出する。

 「ヴァアア…オオオ…ロロロ…」

 オルダールはグルリと白目を向いて、ベロリと舌を出し、言葉にならない濁音の発声で悲鳴を上げる。その舌から血の気が失われて赤紫へと変色すると共に、その中央がジュワジュワと泡立ちながら損壊。直線で区切られた十字の(きず)が現れる。

 この創と共に、目鼻耳の穴からも漆黒の粘水を大量に吹き出しながら、オルダールの体は内容物をスッカリと吐き出したようにペシャンコになってゆく。一方で粘水は飴細工のように螺旋を描きながら柱状に立ち上り、続いて体積を増して形状を作ると――離れた地で紫が交戦する、あの3つ首の"トカゲ"の姿を取る。

 「ギィィィヤアアアァァァッ!」

 "トカゲ"が3つの頭全てで天を仰ぎ、鼓膜を汚すような産声を上げた頃。オルダールの号令の元に集った人員達もまた、舌に十字の創を作りながら次々と倒れて悶え、漆黒の粘水を吐き出すと――黒い『天使』を続々と産出する。

 この地獄の光景の中、健在なのはマキシスの部下達だけだ。とは言え、彼らもただただ健在と云うワケではない。マキシスに比べれば小規模ながらも、黒い竜巻を発して身に纏い、漆黒の厳つい鎧騎士の姿へと変貌している。

 "トカゲ"と『天使』が基地上空をグルグルと飛び回る中。マキシスは変貌した部下へと向き直る。部下達は、ザッ、と規律正しい足音を立てて"気を付け"の姿勢を取り、マキシスの指示を待つ。

 マキシスは、直ぐに大地を揺るがすような、低くて力強く、そして重い口調の号令を発する。

 「行くぞ、真なる"主"の信仰を抱く、聖職者達よ。

 不敬涜神の情勢を敬虔盲信へと転じるため。

 そして――」

 マキシスは一呼吸置いてから、改めて、声を上げる。

 「我らが『夢戯の女神』の再臨をお迎えにあがるために!」

 

 ――その後。

 マキシスは、基地の発着場に集められたヘリコプターや小型輸送飛行機の(ことごと)くを、『士師』の能力を用いて、巨大な漆黒の竜の群れへと転変。

 部下達と共に竜の背に乗ると、"トカゲ"と黒い『天使』と共に、基地を後にして飛び去る。

 向かう先は、プロジェスの中枢区。

 彼らの群れて飛ぶ様は、さながら夕闇の空に(ねぐら)を目指して飛ぶカラスの大群のようにも見えた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 プロジェスから所は変わり――地球が存在しない別宇宙、"アーレリオン宇宙"と呼ばれる異相世界の片隅にある地球型居住可能惑星リバル・μ(ミュー)にて。

 惑星内でも屈指の巨大都市(地球と異なり、国家ではない)オラゴーンに、『異相世界際刑事警察機構』すなわち"チェルベロ"の本部が存在する。

 部署ごとに高層ビルディングがあてがわれているような本部オフィス街の一画、とあるフロアにて。プロジェスから一時離れた暮禰(くれない)蓮矢(れんや)捜査官は、上司のデスクを目の前にして、手にした通信端末が投影する立体映像を見せながら、火を吹く勢いの情熱と激情で訴える。

 立体映像に映っているのは、現在のプロジェスの様子だ。空を黒い『天使』やら怪物どもが飛び回り、或いはうずくまり或いは逃げ回る市民達を追い回し、地獄の様相が表示されている。

 「こいつを見ても、機動隊の1人すら出せないってンですかッ!」

 噛みつく剣幕で騒ぐ蓮矢であるが、上司は心苦しそうに(かげ)った表情を浮かべつつ返答する。

 「理解は出来る、出来るんだ。

 私だって平和と人道を守るためにこの道を選んだのだ、お前が見せるこの光景に心が痛まないワケではない。

 だがな、だがだぞ…」

 上司は[r[b:忙>せわ]]しく眼鏡の位置を直し、冷や汗がうっすらと浮かぶ灰色の禿頭を撫で上げてから、言葉を続ける。

 「我々の領分は、犯罪なのだ。戦争でも、病災でもないのだ」

 この言葉に、蓮矢はこめかみに青筋を立て、バンッ! とデスクを両手で叩く。ビルの一階層を丸ごと使ったオフィスフロア中に響くような、強烈な勢いだ。

 「だからッ! これは立派な犯罪だと言ってるでしょうッ!

 これは人為的に巧妙に仕組まれた呪詛による、テロリズムですッ!」

 「『天使』が飛んでいるぞ」

 上司が汗を浮かべながらも、精一杯冷徹を装って反論する。

 「『女神戦争』…いや、『現女神』は失われたというからな、求心活動と言う方が妥当か。

 何にせよ、『現女神』への対応は領分違いだ、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に任せろ」

 「『天使』だぁ!?

 何言ってやがるッ! 『天使』は純白色って決まってンだろうがッ! あんな黒いのが『天使』のワケねぇだろッ!

 あれは、呪詛で似せた『天使』モドキだッ!」

 「『天使』の色は純白である、とはどの学会においても証明されてはいないはずだぞ。

 黒い『天使』を産出する『現女神』も存在するかも知れん。

 そもそも、『現女神』に関しては、まだまだ未知の部分が多いのだぞ?」

 「なるほどなッ! だがよ、アンタの言葉を借りれば、こうも言える!

 あれが『天使』だって事を、確証することは出来ないッ!

 ってことは、犯罪である可能性だってあるワケだッ! しかも、国家レベルの大量の犠牲を出しつつある、最悪レベルの大犯罪だッ!

 それを見過ごして、事後に"犯罪でしたースミマセンー"って言い訳しても、理解なんざされないだろうがッ!

 可能性があるのならッ! 平和と人道を尊ぶ心があるんならッ! 行動するべきだろがよッ!」

 上司は再び、蓮矢に対して反論すべく口を動かし始めた――その時。

 「上司に対してのその態度は問題あるわよ、暮禰捜査官」

 凛とした女性の声が、蓮矢の背中に投げつけられる。

 蓮矢が舌打ちしながら振り向くと――そこには、"チェルベロ"の制服を生真面目そうにキッチリと着込んだ、黒髪三つ編みの女性捜査官の姿がある。蓮矢よりも若い、20代半ばと言ったところの、大人の魅力をそのまま凛然とした態度に転化したような人物。

 彼女の名は、四条ミディ。蓮矢と同僚の捜査官だ。

 「なんだよッ、お前もオレを止めに来たのかよッ!?」

 ミディを藪睨みしながら吐き捨てる蓮矢であるが、ミディは小さく嘆息すると、首を横に振る。

 「私が止めるとしたら、あなたのその失礼な態度だけよ。

 (むし)ろ私は、あなたの助けになりに来たのよ」

 「…はぁ?」

 蓮矢が表情を一転、キョトンとして聞き返す。ミディはそれを無視し、上司に向き直ると。両手に携えていたタブレット端末を操作し、宙空に3D映像を表示しながら語り出す。

 「スコーナー部長。暮禰捜査官が現地から得た呪詛のデータを解析してみましたところ、その定義式や魔力波長から、警戒リストに挙がっているある人物が術者である可能性が出てきました」

 「その人物とは?」

 上司は感情ばかり先走る蓮矢に対するものとは全く異なる、鋭い慧眼を光らせる真剣な態度を取って、先を促す。

 ミディは端末上に、ある映像を映し出す。そこに映っているのは、何処かの街頭カメラが捉えた映像の1コマらしい。情緒(あふ)れる、煉瓦造りの古風な建物に囲まれた広場の中、デモ集会を起こしているらしい人々が満ちている。

 ミディはその一部分を拡大する。するとそこには、集会の人々とは全く別の方向に視線を投じ、嘲るような薄ら笑いを浮かべている、一人の男の横顔がある。

 燃え盛るような真紅の長髪がよく目立つ。髪の合間からチラリと覗く耳には、ジャラジャラとピアスがくっついている。肩から下は人混みに隠されて見えないが、見える範囲で判断するに、ヘヴィメタルバンドのライブ用衣装のような、毒々しいスタッズの付いたゴシックパンクファッションに身を包んでいる。

 

 その男こそ、プロジェスの元『士師』エノク達と接触を持っていた人物である。

 

 「彼の名は、ザイサード・ザ・レッド。戦争屋です、しかも」

 そこでミディは一息吐いてから、続ける。

 「"ハートマーク"の一員です」

 その言葉を聞いた瞬間、上司が険しく眉を(ひそ)めて絶句する。

 「な…っ! マジかよ…ッ!」

 蓮矢は目を丸くし、まるで怪物に遭遇してギクリと強ばった時のような態度で声を絞り出す。

 "ハートマーク"――狭義の意味での戦争を初めとして、あらゆる(いさか)いや闘争・競争に首を突っ込む『戦争屋』どもの中で、最も警戒される"災厄"レベルの凶人集団。

 「…どうしてそいつに、行き着いた?」

 ふぅ、と一息吐いてからそう尋ねる上司に、ミディは端末を操作をし、次々と別の映像を表示しながら語る。

 「暮禰捜査官の捜査報告内容を踏まえた上で、プロジェスという地球の都市国家における第一の注目点は、音楽バンド『フリージア』によるライブです。

 今回の呪詛騒ぎは、フリージアによるライブの後、いわゆる"フリージア効果"の波及と共に始まっています。

 そこで、フリージアのライブについて調査し…気になる点がありましたので、洗いました」

 "気になる点"と聞いた直後、蓮矢が即答する。

 「フリージアのライブ会場の設営について、だろ?」

 ミディは首を縦に振り、「そうです」とアッサリと答える。

 だが、蓮矢は眉を曇らせて聞き返す。

 「その点についちゃ、オレだってとっくに調査済みだ。

 非常な短期間で大規模なライブ会場を設営できるだけの人材と技術力を擁するとなれば、相当デカい企業のはず。

 …だが、該当する業者の記録は全くなし。勿論、プロジェスの全建設業者を含めての話だ。

 材料の鉄骨一つの入手経路すら出てこないなんて、どうなってんだって話だ」

 「あなたには、捜し当てられっこないでしょうね。指操作だろうが思考操作だろうが、高々検索システムという枠の中でしか情報収集が出来ないあなたでは、ね」

 「…おい、何を言いたいんだよ!?」

 蓮矢がこめかみに青筋を浮かべながらミディを睨みつけると、上司が溜息混じりに割って入る。

 「喧嘩をしに来たワケじゃないだろう、四条。挑発は良いから、結果を語れ」

 「…すみません、部長。挑発するつもりではなく、単に私は…」

 語りながらミディは、右手を胸の高さに上げる。そして次の瞬間、右手が青白い光に包まれたかと思うと、立体パズルを崩すかのようにバラリと宙空に分解。フワフワと文字列が漂う姿を見せる。

 「種族が情報人(ミーマー)なものですから、皆さんよりも情報収集には優れている、という事実を伝えたかっただけです」

 「伝え方が悪い、挑発してるようにしか思えんぞ。注意しておけ。

 …それはそうと、先を続けろ」

 上司が注意しつつ促すと、四条は「すみませんでした」と謝罪を前置いてから、右手を元のヒトのものに戻しつつ、調査結果を告げる。

 「結論としまして、フリージアは"ハートマーク"の別のメンバーにライブ会場の設営を依頼していました。

 そのメンバーは、"調達屋"ツィリン・ベリエン」

 ミディは映像にフリージアのメンバー、プロジェスでのライブ会場などの表示した最後に、一人の少女の肖像写真を表示する。何かの免許証にでも使っているようなブルーバックで、うっすらと笑みを浮かべている、幼い印象を受ける少女の姿がある。獣人属らしく、濃いブラウンの髪に覆われた頭からはネコの耳がピョコンと出ている。

 このツィリンと言う少女の顔を見た蓮矢は、ピシャリと額を叩く。

 「反則だろ…そっちにも"ハートマーク"使ってたのかよ…! 道理(どうり)で痕跡が見つからないワケだ、このガキなら卸業者も生産業者もなしで、"何でも"揃えちまうじゃねぇか!」

 "チェルベロ"は"ハートマーク"をチェックしている。彼らは戦争屋として、数々の国家規模の犯罪を引き起こしているからだ。そしてこのツィリンという少女も勿論、注目の対象だ。

 特にツィリンは"調達屋"の二つ名が表す通り、契約者にあらゆる物品を調達してみせる事から、各国軍部やゲリラ、テロ組織の御用達として名高い。戦車や戦闘機は勿論、核兵器や次元兵器、そして莫大な量の人員そのものまで、どこからともなく調達してくる。

 「それで…」上司が口を挟む「ツィリンから辿り、"ハートマーク"を調査したところ、このザイサードが引っかかったワケか…」

 語り終えた上司は、もう何度目かになる溜息を吐いてから、自ら禿頭をピシャリと叩いて撫で回す。

 「…正直、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に引き受けてほしい相手だな。

 この男の事は聞いている。相当な国家破壊者(ネイション・ブレイカー)だ。惑星一つ、呪い狂わせた事もある怪物の中の怪物だ。

 暮禰、それに四条…お前達2人の実力は認めてはいる…が、それでも確実に手に余る相手だろう。

 動くのならば、慎重を期したいところだが…」

 「そんな事してる間はないでしょうッ!

 このハデ野郎が怪物だって事は理解しましたが! だからと言って、このまま指を咥えてるのが、俺ら正義と平和の守り手"チェルベロ"ですか!?

 逆に、今回は現行犯でハデ野郎をブタ箱にブチ込む好機ですッ! それが出来れば、あの凶人(ハートマーク)どもへの絶好の牽制にもなるじゃないですか!!

 弱腰になってちゃ、"チェルベロ"の名折れ! 犯罪組織どもから舐められるだけじゃないですかッ! 部長は何を、」

 「話は最後まで聞くものだ、暮禰」

 上司はピシャリと声高に蓮矢の言葉を封じる。蓮矢は口を中途半端に開いたまま、凍り付いたようにピタリと止まる。

 「私とて、"地獄の番犬(チェルベロ)"の名を関する者の端くれだ。地獄にこそ相応しい凶人が野放しになっている状況は、望ましくはない。

 増してそれが、現在進行形である国家規模の大犯罪となれば、見逃すワケにはいかない。

 ――そこでだ、暮禰。そして、四条、お前もここまで首を突っ込んだ以上、ここまでだとは言わんな?」

 「はい。市軍警察でも地球圏治安監視集団(エグリゴリ)でもなく、我々こそが"ハートマーク"を検挙し、法の裁きに掛ける絶好の機会です。

 望むところです」

 上司は、うむ、と(うなず)く。対して蓮矢が「それじゃあ…!?」と顔をパァッと明るくして問うと。上司は顎元で手を組んで(おごそ)かに語る。

 「お前達2人に、2個ずつの機動隊を預ける。

 現地の市軍警察は既に動いていることとは思うが、彼らと協力し、事態の収拾に当たれ。それを第一の優先事項としろ。

 "ハートマーク"の男、ザイサードの逮捕は第二目標としろ。くれぐれも無理だけはするな。無駄な殉職者は出したくない」

 「任せとけって、部長!」

 蓮矢は胸を張って、ドン、と握り拳で叩く。

 「現地には、ユーテリアの星撒部達もいる。彼らとの協力関係は既に構築済みです。

 彼らと連携すれば、必ずや! ザイサードのクソ野郎を逮捕出来ますよ!」

 この言葉に、上司は組んだ手を緩め、眉根を(ひそ)める。

 「学生に協力を仰ぐのは感心せんな」

 「いやいや、下手な刑事(デカ)より、よっぽど役に立つ連中ですよ」

 蓮矢はニッコリと笑って答える。

 

 「ありがとうな、四条」

 上司の元から去りながら、蓮矢は隣を歩くミディに語る。

 「あの石頭部長を動かせたのは、お前の機転のお陰だ」

 「別に、あなたの為にやったワケじゃないわ」

 前を向いたまま、チラリとも蓮矢に視線を向けずに、冷淡とも言える口調で淡々と話す。

 「部長の前で言った通りよ。私は、"ハートマーク"を検挙できる絶好の機会を逃したくないだけ」

 「…でも、自分の仕事の傍ら、わざわざオレの捜査資料も読んでくれたんだろ?」

 そう語られると、ミディの冷淡な顔は一転、サッと赤みが差して、恥ずかしいような苛立っているような表情へと崩れる。

 「あなたは、いつもいつも直感で動いてばっかりで、見てられないのよッ! もっと理論的に動いて欲しいわッ!

 あなたが部署を振り回した結果、どうにもならなくなるようなタイミングで私に尻拭いが来るのがイヤなだけよッ!」

 その言葉を聞いた蓮矢は、ニヤリと嫌らしい笑みを浮かべて、ポツリと語る。

 「四条さ、お前って所謂、ツンデレって奴?」

 「知らないわよ、そんなのッ!

 そんな事よりッ! 早く現地に入りましょう! 事態は今も進んでるんだからッ!」

 四条の顔を真っ赤にした叫びに、蓮矢はクックッと笑い声を漏らさずには居られなかった。

 

 - To Be Contineud -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 10

 ◆ ◆ ◆

 

 プロジェスを覆う呪詛現象は、渚が通うセラルド学院も例外なく、席巻する。

 

 昼休みも残り少々で終わる…という頃だ。渚の居る2年3組を初め、学院中に設置されたテレビやスピーカー、電話機などが電源の有無に関わらず一斉に作動すると。モニターには一つ残らず、でたらめな翼に3つ首を持つ"トカゲ"の姿が写り、あらゆるスピーカーからは鼓膜を汚すような濁音の発声で叫喚が響く。

 「ギィィィヤアアアァァァッ!」

 この騒音に、学生達の(ことごと)くが耳を塞ぎ、そして膝の力を失ってその場にへたり込む。椅子に座っている者は机に突っ伏したり、横に倒れて床に転げたりする。

 「いきなり、なんじゃッ!?」

 突然の事態に、事態は声を上げて席を立ち、教室中を見回す。渚は『現女神』である事に加え、その卓越した魔術能力と、今回の呪詛と接触していた経験から、かなり楽々と影響から免れていたが…。

 彼女の周囲では、お喋り屋の美樹も、生真面目なナセラも、優等生の凜明(リンミン)も――皆が耳を塞ぎ、瞼をギュッと閉じて力一杯うずくまり、体組織と思考を侵す"偽"『神霊圧』の干渉に悶えている。

 「こんなタイミングで、白昼堂々と大規模に呪詛をブチかましてくるとはのう!!

 何をやらかすつもりなんじゃ!?」

 渚は独りごちながら、手近で一番酷い症状が出ている者――灰児の取り巻き3人組の元へと駆け寄る。

 彼らは床にエビのように転がり、舌をダラリと出したまま口をパクパクさせている。その舌の中央がジュワジュワと溶けて凹み、十字の(きず)をポッカリと開けながら、咽喉(のど)の奥からモワモワと綿のような黒煙を吐き出す。

 渚はそんな彼らに手を伸べ、練気に方術を混ぜた解呪魔術を発動。症状の回復に努める。

 これを怠ると――彼らの内臓は呪詛によって定義変換され、黒い煙とあって全て口から抜け出し、ペラペラの皮だけになってしまうだろう。…丁度、アリエッタ達が遭遇したバンドメンバー達の変化のように。

 渚が目映い蛍光色の輝きを放つ右手を3人の口元に(かざ)し、呪詛の除去に専念する一方で。

 「え…!? え…!?

 な、何なの…これ!?」

 困惑しきった様子でキョロキョロと教室中を見回しているのは、ニファーナである。彼女は呪詛に対して、特別な抵抗策を講じたワケでもない。だが、彼女は呪詛の影響を全く受けず、悶える事もなければ、思考の浸食もない。非常にマトモでクリアな意識で状況を受け止めた上で、困惑するばかりなのである。

 そんなニファーナの様子をチラリと見た渚は、胸中で"やっぱり"と呟く。

 (呪詛の術者は確かに、『夢戯の女神』に対して思い入れが強いのう!

 ニファーナには、何の影響も出ないように緻密な細工をしておる!)

 渚の3人への治療は、極短時間が住む。3人は黒目を取り戻す一方、舌から盛大に出血し、激痛にヒィヒィと喚いてもがく。渚はすかさず回復の術式を練り上げ、彼女らに治療を施し始めると――。

 「クッソ…ッ! なんなんだよ、おいッ!」

 頭を振りながらムクリと立ち上がったのは、灰児である。彼もスピーカーの叫喚を聞いて呪詛に打ちのめされ、倒れ転がっていた身の上であったのだが…どうやら、自力で呪詛に対抗したらしい。

 「頭ン中を鷲掴みされて、意識をグチャグチャに掻き回された感じだぜ…!

 っぷぅっ、まだ気持ち悪ぃ、吐き気する…!

 一体、こりゃあ…」

 語りながら教室を見回した灰児は、絶句する。渚が3人の治療を何とか終えている間に、教室中の生徒達は呪詛にすっかりと犯されてしまったのだ。とは言え、皮だけになるような重症はなかったものの、目・鼻・口から黒い煙をモクモクと吐き出し、教室の中を暗い霧で覆う。

 「おいおい、これ何だぁ!?

 スゲェヤベェ気配がビンビンして――」

 「灰児ッ!」

 渚が別の生徒の治療に取り掛かりながら、鋭く叫ぶ。

 「少しの間、"相手を任せる"ッ!

 勝たなくて良いッ! ニファーナを守って、凌ぐのじゃッ!」

 「はぁ!? 何の――」

 "話だ?"、と聞き返すより早く。教室中に充満した煙は渦を巻き、ヌルリとした飴細工のように幾つもの螺旋の形状を取ると。次の瞬間、息を吹き込まれて膨らんだ硝子(ガラス)細工のように膨れ上がると――福笑いのように目・鼻・口が出鱈目についたフルフェイスの兜に6枚の翼を持つ、重武装の騎士の形をした黒い『天使』と化す。

 そして『天使』達は、呪詛に染まらなかった灰児を憎むように、手にした馬上槍(ランス)を振るって串刺しにしようと突進する。

 「なっ!」

 灰児は驚愕の叫びを口にするものの、戦い――と言うか、喧嘩――の経験の中で(つちか)った反射行動で、即座に迎撃に出る。練気を(まと)った手足で、突き出された4本の馬上槍(ランス)(はた)き、あるいは蹴り飛ばす。

 そうして攻撃は防いだはずなのだが――灰児の顔は、苦痛に歪む。

 (痛ぇッ! まるで、ドライアイスでも押しつけられたように――冷たくて、痛ぇッ!

 それに、何て硬さと重さだッ! 鉛の柱かってんだよッ!)

 真なる『天使』は『神法(ロウ)』による超常物理法則によって物質的にも堅固になっている為、灰児が抱いたような感想を得る者は多い。この黒い『天使』は、そんな部分まで再現しているようだ。

 手足の痺れが取れぬ内に、黒い『天使』の数人が疾風となって灰児の頭上を通過。ニファーナの元へと迫る。

 この時、黒い『天使』は馬上槍(ランス)を構えるでなく、誘うようにニファーナへと手を差し伸べていたが。灰児はそんな行動の差などお構いなしで、ニファーナの元へと疾駆すると、大振りの回し蹴りで以て『天使』達を吹き飛ばす。

 練気による衝撃を受けた『天使』達は吹き飛ぶものの、アリエッタ達の攻撃のようには功を奏することはない。天井に接触するより早く3対の翼を羽ばたかせて体勢を立て直し、すぐに馬上槍(ランス)を構えて突進。邪魔な灰児の排除に掛かる。

 「ちゃんとくっ付いてろッ、離れンなよッ!」

 灰児はニファーナの眼前に立ち、後ろ手で彼女を背にピッタリとくっつける。

 「灰児君…ッ! これって、一体…ッ!?」

 ニファーナが質問してくるが、答える暇など無い。『天使』が重く堅い一撃で、息吐く暇無く次々と攻めてくる。

 (やってやらぁッ!

 ユーテリアの怪物に頼み事される栄誉を受けたんだ、応えてやるさぁッ!)

 灰児は冷や汗を浮かべつつも、胸中に危機感に煽られた踊るような興奮を得る。その興奮が灰児の魔力を高め、彼の背中に虹色の翼を形成する。渚との戦いで見せた奥の手、"虹拳の翼"だ。

 虹色の翼をバラリと触手のように展開すると、己の二つの腕と合わせ、拳の雨を『天使』の群れに叩きつける。『天使』は(ことごと])く吹き飛びはするものの、悲しいかな、消滅には至らない。すぐに体勢を立て直し、襲い掛かってくる。

 (クソッ! 多勢に無勢、しかもハンパなく強くて堅いと来たッ!

 早く加勢に来いよ、ユーテリアの怪物ッ!)

 胸中で唾棄するように叫ぶものの、望む渚の加勢は一向に得られない。それどころか、灰児――もしくは、ニファーナ――に迫る『天使』はますます数を増して行く。

 (立花渚(あいつ)、治療してンじゃねぇのかよッ!

 どうなってんだ、おいッ!)

 焦燥に加え、超常的な硬度と強さを持つ存在への絶え間ない抵抗。その疲労は多大で、灰児の短い髪はみるみる内に、大雨にでも当たったように汗で濡れ、ビショビショの汗が額から顔に伝ってくる。

 その汗の滴の一滴が、灰児の瞬きの合間を縫い、眼球に達してしまう。チクリと走る疼痛に、脊椎反射的に眼をギュッと(つぶ)り、集中を途切れさせてしまった――その隙を、『天使』は見逃さない。

 動きが一瞬止まった触手の合間に、続々と『天使』達が滑り込み、「[rb:馬上槍>ランス]]を突き出してくる。

 「灰児君ッ!」

 ニファーナが悲鳴のような叫びを上げる。彼女は元は『現女神』であっても、その座を失った今は、ただの少女。しかも、灰児を初めとするような、優秀な魔法や戦闘の技術を有するワケでない。むしろ、成績に目を見張るものもなければ、向上心も薄い、落伍者に近い存在だ。

 灰児の危機を目の前にしようとも、動けやしない。叫ぶのが精々だ。

 しかし、その叫びが灰児の野生本能的な反射を刺激し、痛む眼を見開いて現状の把握を行うが…時は既に、遅すぎるようである。非情の馬上槍(ランス)の切っ先数本が、彼の胴体までほんの数センチにまで迫っている。

 もう数瞬もない内に、灰児は哀れな串刺しと化す――かに思われたが。その惨劇は、奇跡的とも言うべき援護によって、見事に回避される。

 黒い『天使』達の動きが、ピタリと止まったのだ。まるで、ゼンマイが切れたブリキの絡繰り人形のように。

 (な、なんだぁ…?)

 事態が飲み込めずに、2、3度と瞬きを繰り返す灰児。その視界にてようやく把握したのは、『天使』を背中から胴に駆けて貫く、刃付きの鎖。そして、胴と鎖の接合部分にぶら下がる、鍵の掛かった無骨な錠前。

 この錠前が、黒い『天使』達の動きを施錠(ロック)した…ということらしい。

 (一体、何の(わざ)だよ…!?)

 灰児の視線が、『天使』達を貫く鎖を辿ると…行き着く先には、呪詛の罹患者を抱えて治療を行いつつ、灰児の方を向いて険しい視線を放つ、渚の姿。そして彼女の傍らに立つ、輝くような純白をした異様の存在――のっぺら坊の顔に一対の翼、体中を覆うベルトや鎖といった拘束具、そして胸には大きな錠前を付けた、人型の異形。

 見れば、この異形は灰児の周囲だけでなく、教室中に(あふ)れた黒い『天使』の(ことごと)くを鎖で貫いて施錠(ロック)し、動きを停止させている。

 (こいつって…『天使』!? しかも、色合いから言って、本物か…!?

 これが立花の隣に居るってことは…あいつ、まさか…!)

 灰児は目を見開き、ゴクリと咽喉(のど)を鳴らして固唾を飲む。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (いやのう…使うつもりなど、無かったのじゃがな…)

 灰児の奇異と驚愕の視線を受ける渚は、苦笑を浮かべて胸中で独りごちる。

 (色々と面倒になるからのう、出来るだけヒトとして()()りしたかったのじゃが…。

 こんな状況では、そうも言っておれぬものなぁ…)

 渚は抱えていた男子生徒の治療を終え、スッと立ち上がる。

 とりあえずは、この黒い『天使』――いや、『天使』紛いの呪詛どもを手っ取り早く破壊し、教室内の状況を鎮圧しよう。それから、セラルド学院中で起こっているであろう、同様の現象を"全力"で片づけて行こう。

 ここで言う"全力"とは、勿論、彼女の『解縛の女神』の『神法(ロウ)』を惜しみなく駆使する事を意味する。

 (…問題は、事態を収拾した後じゃな。

 どう説明するべきかのう、わしの事…)

 もはや神の座を失ったとは言え、『夢戯の女神』に対する信仰が根強いプロジェスに、『鋼電の女神』に続く2柱目の『現女神』が干渉したとなると…国家を二分するような対立の禍根を導きかねないのではないか、との危惧が芽生える。

 

 しかし、渚はそんな危惧にいつまでも頭を捻り続ける事は出来なかった。

 ――『天使』紛いよりも断然厄介な"問題"が、突如として教室にヒョッコリと現れたからだ。

 

 渚は"問題(そいつ)"の姿を認識するより早く、己の『天使』に対する干渉を感知する。

 (なんじゃ!?)

 冷たく、粗暴な幾つもの腕が『天使』を掴み取り、何処かへと連れ去ろうと力付くで引っ張る力だ。

 だが、『天使』は『現女神』と定義レベルで結合している存在だ。形而下においてどれほど距離が離れていようと、形而上的な距離は0――と云うよりも、一体化している。故に、"問題(そいつ)"による『天使』の掠奪は、渚に不快感を与えるだけで失敗に終わる。

 むしろ、『天使』の放つ『神霊圧』による抵抗で、"問題(そいつ)"は魂魄に衝撃を受けたようだ。

 「うわっちッ!

 なんだよ、おいおいッ! "邪神"が紛れ込んでやがるって話、ホントだったのかよ、クソッ!

 よく似せた暫定精霊(スペクター)かと思ったら、本物かよッ!」

 "問題(そいつ)"は教室の入り口近くで悲鳴と苦言を上げながら、薄灰色の煙が上がる右手を必死に振っている。まるで、右手を占める激痛をいち早く振り落とそうとするように。

 声の方向へと素早く振り向いた渚は、蒼穹の瞳に怒りの炎を灯して、非難を叩きつける。

 「おぬし、何者じゃッ!

 何を企み、呪詛をバラ撒いておるッ!」

 この質問に"問題(そいつ)"は、右手を振り続けながらも、オレンジ色の短髪を左手で掻き上げてクックッと笑う。

 この男は、年の頃は二十代の後半あたり。体型はどちらかと云えば痩せ気味で、シンプルなジーンズにジャケットと云う地味な格好をしている。しかし、険と歪んだ揶揄が張り付く顔には、品性の欠片もない粗野で下品な印象がある。

 「いやいや、勘違いだぜ。

 バラ撒いてるのは、オレじゃない。

 オレはただ、真なる――」

 ペラペラと語る最中、渚が問答無用で動く。タイル貼りの床に亀裂を入れるような勢いで一歩踏み出すと、弾丸のような速度で"問題(そいつ)"へ肉薄。防具のない鳩尾を狙い、固めた拳を烈風のように放つ――。

 ガギィンッ! 響いたのは、骨肉が歪む音ではない。堅固な金属の音。

 "問題(そいつ)"の腹筋が強固であった…と云うワケではない。

 "問題(そいつ)"の腹部の目の前に、鈍い赤銅色の籠手を身につけた掌が差し出され、渚の拳を受け止めたのだ。

 「おいおい、人の話は最後まで聞けって、学校じゃ教わってねぇのかよ?」

 "問題(そいつ)"がヘラヘラ笑いながら語る言葉を聞き流しながら、渚は拳を受け止めた人物の正体へと視線を向ける。

 (仲間が居ったのか!)

 苛立ちに燃える渚の思考であったが…掌を差し出した人物の正体を認めると、その思考が思わず千々(ちぢ)に身あれ、瞳孔がワッと開く。

 そこに立っていたのは――2年3組の女子優等生、凜明(リンミン)だ!

 しかし、その姿は異様だ。ブレザータイプの制服を身につけていたはずが、今の格好は全く異なる。露出度の高い赤銅色の厳つい鎧で身を纏っている。背中には鎧と同じ色の、ドラゴンを思わせる1対の翼があり、臀部からはトゲが連結したような尻尾がある。ショートカットにした髪の中からは、悪魔のような角が両耳の少し上の方から(そび)えている。

 「おぬし…!」

 声を掛けるも、凜明は反応しない。光を全く放たぬ濁った瞳で、冷たく渚を見つめ返すだけだ。

 (ヒトの思考を支配し、使役する呪詛というワケか!)

 渚は即座に理解したものの――その思考を巡らせた直後、彼女の腹に強烈な一撃が叩き込まれる。

 「ぐふぅっ!」

 声を上げて吹き飛ぶ渚だが、即座に宙空で一回転。体勢を立て直し、"問題(そいつ)"と凜明の方を向いて着地を試みる――が。

 渚の視界一杯に突如現れたのは、刃のような険しい表情を見せる、新手だ。しかもその新手の顔も、見覚えがある…!

 (今度は、ナセラかや!)

 そう。セラルド学院の2年3組教室では渚の隣の席に座る、生真面目で意識高い女子生徒。ナセラ・リンだ。

 彼女もまた、凜明と同様に異様な出で立ちをしている。とは言え、凜民と同じデザインではない。

 身につけているのは、露出の少ない鎧だ。所々からゴツい突起がでているのが、鬼を思わせる。長い黒髪を(たた)える頭には、鬼の角を思わせるような鋭い3本の突起がそそり立つ髪飾りを付けている。そして手には、濁った瞳とは正反対の、禍々しいほどにギラつく輝きを放つ刀を握りしめている。

 ナセラは既に刀を大上段に構え、渚を両断すべく一気に振り下ろす。対する渚は即座に右の掌底で以て刀身を横から叩いて軌道をずらしつつ、前蹴りをナセラの胴へと叩き込む。衝撃重視の勁を纏った蹴りはナセラの体を葉のように吹き飛ばす…が、それも束の間。彼女もまた宙でクルリと回転して体勢を立て直すと、"問題(そいつ)"の横にスタリと着地する。

 左手に凜明、右手にナセラを(はべ)らせた"問題(そいつ)"は、馴れ馴れしく両腕を彼女らの方に回して引き寄せる。2人の少女は表情をピクリとも変えなかったが、"問題(そいつ)"はゲヘヘと表情を(いや)しく歪める。

 「女子高生ってのは、若くて可愛くて良いねぇ。

 こんなに可愛いのに、格好がこうもえげつないってギャップが、スゲェそそるねぇ」

 渚は"問題(そいつ)"には語るに任せ、すぐに片眼を閉じて形而上視認を開始。2人の少女に干渉する呪詛の正体を見定めに掛かる。

 (…厭らしい呪詛じゃのう…。魂魄に餅のようにベッタリと絡み付いておる。一部は、魂魄と癒合しておるな…。

 癒合した影響で、身体能力が強化されておる。体組織の構造の中に、触媒のように呪詛を入れておる。こいつを取り除くのは…わしの『神法(ロウ)』なら容易くはあるが…)

 渚はチラリと己の『天使』に眼をやる。『天使』は体中から錠前付きの鎖を放ち、教室内に(あふ)れる偽『天使』どもを足止めしている。この行動に手一杯で、凜明やナセラにまで手が回りそうにない。

 (…あの"問題(おとこ)"は術者でないと言い掛けておったが…それでもあやつを叩き伏せるのが先決じゃな。

 この事態にあやつの存在がどれほど関わっておるか、分からぬが…少なくとも、事態が好転すれど悪化はないじゃろう)

 渚は決断すると、灰児との交戦した4時限目には見せなかった、構えを取る。とは云え、相手との距離を詰めるために走り出しやすい姿勢を取った程度であり、攻撃の予備動作を作ったワケではない。

 方針を決めたからには、即行動だ――渚が足に力を込めた、その瞬間。

 「おおわっ!」

 驚愕の悲鳴と同時に、キュンッ、と風を切る音。そして轟く派手な爆音と衝撃波。

 (今度はなんじゃ!?)

 悲鳴が灰児のものであると覚った渚が、チラリとそちらへと視線を走らせると。思わず眼が丸くなる。

 視界に映った光景は、もうもうたる埃の中、跳び退(すさ)ったらしい灰児の姿。そして彼と数メートルの間を空けて立つのは、ビニールのような光沢を放つ鈍い赤色を呈する、露出の高い衣装に身を包んだ少女。輝きを失った濁った眼差しを放つ顔は紫色のアイシャドウやルージュに彩られ、妖しくも暴虐な笑みを浮かべている。そしてその手に持つのは、ゴツい形をした大弓だ。今さっき矢を放った、という姿勢を取っているところから、さっきの風切り音と爆音は彼女が放った攻撃らしい。

 この少女の正体は――2年3組のお喋り屋、美樹・ジェルフェロードである。

 (あやつも、呪詛に支配されておるのか!)

 渚がギリリと歯噛みした頃、"問題(そいつ)"がケラケラ笑いながら語る。

 「新しい『士師』が一気に3人も生まれるたぁ、さすがは我らが主が通うクラスだなぁ!

 感心しませんか、二ファーナ様ぁ?」

 "問題(そいつ)"の問いに対する答えが、"問題(そいつ)"のすぐ側から聞こえた事に、渚は驚愕を(もっ)て視線を戻す。

 「『士師』なんて…そんなはずない!

 私はもう、『現女神』なんかじゃないもの!」

 見れば、灰児の背の後ろに隠れていたはずのニファーナが、"問題(そいつ)"の右腕に捕まっている!?

 (馬鹿な!? 動いた様子はなかったぞい!?

 空間操作系の魔術にしても、術式の発動の様子も認識できんかった!?)

 驚愕するのは、渚だけではない。灰児もまた、何時の間にかニファーナが手元から居なくなった事に気付き、「あっ!」と声を上げている。

 そんな風に灰児が隙を作った瞬間。美樹が紫に染まった唇を残虐な笑みの形に曲げると、無骨な弓を引き絞る。転瞬、黒緑色に輝く矢が5本、炎が燃え上がるように生成される。

 「おい、クソ、待てよ…ッ!」

 灰児が声を上げるのに対し、美樹が容赦なく(つる)を離して5本の矢を放った――その時。

 「美樹さんッ!」

 声と共に、放たれた矢の前に飛び込む、1つの人影。その手には術式で生成した純白に輝く剣を持ち、やや大振りな動きで矢を叩く。

 これが単なる矢ならば、この助っ人は見事に矢を四方に散らせただろうが。生憎と矢は尋常でない術式――というより、『神法(ロウ)』にも近い事象である。剣とぶつかった瞬間、風船のように膨れ上がると、大きな口を(たた)えた嗤い顔へと変化。直後、(ゴウ)ッ! と大爆発を起こし、人影吹き飛ばし、灰児にぶつける。

 「が…っ!

 な、何だよ、おい! 横から入って来るのは良いがよ、足引っ張んなよ…!」

 灰児は、仰向けに転がった自身の上に倒れた"助っ人"に文句をぶつけながら、藪睨みの視線を送ると。そこには、彼の見知った顔がある。

 「…なんだよ、秀! お前か!」

 「ごめんな、室国君…!

 足を引っ張るつもりじゃなかったんだけど…予想外の威力だったものだから…」

 2年3組の男子の優等生、本樹(もとき)(しゅう)が、なんとか割れずに済んだ眼鏡を直しながら、苦笑いする。

 そんな2人に対し、苛烈にも弓矢を構え、残虐な笑みを浮かべる美樹。灰児はそれを認識すると、四肢で秀を横に突き飛ばして跳ねるように起き上がる。同時に、美樹が5本の矢を再び放てば、灰児は背に展開した虹色の翼で拳を作り、矢を思い切り殴り付ける。矢は派手に弾き飛び、美樹の近傍で、ゴウ、爆発を上げる。

 「シャアッ!」

 思わずガッツポーズを取ってみせる灰児であるが…転瞬、もうもうたる埃の中から無傷の美樹が出現。刃のように鋭い弓を振るい、灰児の首を狙う。

 (美樹のクセして、怯みもしねぇのかよッ!)

 胸中で毒づきながら、翼で弓の切っ先を防御しようとしたが…翼が、動かない!?

 「はぁ!?」

 一気に噴き出す、冷や汗。思わず視線を背中に向けると――翼が一枚、ゴッソリと背中から消えてなくなっている!

 この間にも美樹の弓の切っ先は灰児の首に迫る――が、鮮血舞う惨劇は、すんでの所で避けられた。輝く術式の剣を携えた秀が介入し、弓を受け止めたのだ。

 「室国君、あの"男"はマズい…!

 本物の『士師』だ!」

 秀が叫ぶ一方、美樹は攻撃が失敗したと見るや即座に後方へと跳び退りつつ、再び弓を構える。そこへ追撃を掛けるように駆け出した秀は、灰児にこう言葉を残す。

 「彼は、『義賊の士師』、狼坐(ろうざ)! 君の翼を盗むことなんて、造作もないことなんだよ!」

 『士師』!? 今のプロジェスには有り得ない単語を耳にした灰児が、渚と対峙する"問題(そいつ)"へと視線を向けると――ハッと、息を呑む。

 その背中には、確かに、灰児が背負っていた虹色の翼の片方がある!

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「面白ぇ力だろ?

 オレは『義賊』だからよ、我らが主に仇なすクソどもから、何でも失敬して、正しい用途にしちまうのさ」

 "問題(そいつ)"はクックッと笑って、背中の虹色の翼をはためかせてみせる。

 「おーおー、凡人の作った術式装備にしちゃあ、上出来なモンだなぁ!

 ちょいと使わせてもらいますかね、我らが主をお守りするために」

 「守る…!? そうじゃないよ、そんなんじゃないよ、狼坐さん!」

 ニファーナが声を上げて抗議すると、狼坐と呼ばれた"問題(そいつ)"は頬を掻く。

 「それは意見の相違っつーかな。まぁ、ニファーナ様にお知らせしてなかったワケだから、混乱するのも無理ないんですがね。

 納得してもらうにゃあ、まず…」

 狼坐が語る最中、ドンッ、ガキィンッ! と鈍い衝撃音が響く。渚が突進してきたのを、ナセラと凜明の2人が受け止めた音だ。

 渚は、2人に引き止められながらも、鋭く輝く眼で狼坐を射抜く。"その()に何をするつもりじゃ!" という怒声が聞こえてきそうな勢いだ。

 狼坐は渚の無言の問いに答えるように、ヘラヘラと語る。

 「エノクの旦那に会ってもらいますかね」

 「エノク…さん?」

 ニファーナが聞き返した、その途端。狼坐がトン、とニファーナの肩を叩いて押すと、彼女のすぐ隣の宙空に人を丸ごと飲み込むほどの巨大な穴が開く。その漆黒の虚穴は「あっ」と言う間もなくニファーナをアッサリと飲み込むと、早々にその口をすぼめて消滅してしまう。

 「どこへやったんじゃ!」

 渚は叫ぶものの、禍々しい鎧を来た2人の少女を振り払えない。言葉は烈しさを有するものの、実害が伴わなければ、交戦状況下においては微風も同然だ。

 それを象徴するように、狼坐は小指で耳の穴を掻き、指先にフッと息を吹きかけると。苦笑いしながら、渚に言葉を返す。

 「オレの話は聞かねーで手を出してくるくせに、自分の質問には答えて欲しいとか…邪神はやっぱ、器が小せぇなぁ。

 言った通りだよ、エノクさん所にやったんだよ。

 …って、お前はエノクさんの事、知らねぇか」

 狼坐はそう語るものの、渚はエノクのナを知っている。今回のプロジェスの騒動に関わった際に、様々な人々の口から尊敬の念と共に出た名前だ。プロジェスの発展に尽力した、元『士師』であり、その筆頭とも言うべき存在。

 (そやつが、呪詛で以て、ニファーナを『現女神』に()えようとしている…それが、此度の事件の筋書きか!)

 渚は胸中で叫ぶと共に、その勢いを手足に込めて、凜明とナセラを吹き飛ばす。練気によって爆発的な衝撃を伴った打撃は、2人の少女を一気に数メートル吹き飛ばした…が、次の瞬間、2人の姿がパッと、細切れのフィルムのように消える。

 しかし、渚は即座に2人の行き先を覚る。彼女の魔力感知覚が、2人の存在を素早く認識したのだ。

 すぐに視線をそちらへ向けると、狼坐に腰を抱かれた凜明とナセラの両名の姿がある。

 「さぁて、邪神さんよ」

 狼坐は2人の腰を撫で回しながら、ニヤニヤ笑って語る。

 「せっかく、この都市国家(くに)に真なる主が降臨するってのに、アンタの存在は邪魔過ぎだ。水を差すどころの話じゃない、泥を塗るくらいに邪魔だ。

 だからここで、引導を渡してやるぜ。俺たち、『夢戯の士師』達がよぉ」

 そして狼坐は2人の少女の肩に、ポン、と手を置くと。

 「主の為に立ち上がった、敬虔にして慈悲深き聖少女達よ。

 邪神に名乗ってやりな」

 狼坐の言葉に、2人のみならず、灰児と秀とに退治している美樹までもが声を上げる。

 「『魔舞の士師』、凜明」

 「『鬼侍の士師』、ナセラ」

 「『狩人の士師』、美樹よ」

 美樹だけは、元の性格が影響しているのか、紫のアイシャドウを付けて眼でウインクして見せる。他の2人は、仮面のように表情を動かさずに、無機質に名乗っただけだ。

 そして、残る狼坐は。

 「オレは、『義賊の士師』――」

 語りつつ顔を右手で撫でると…体の周囲から漆黒の煙が奔流のように沸き出す。それらは狼坐の体に髪の毛のように巻き付くと、やがて砂漠の民が身につけるようなユッタリしたローブ姿と化す。ただし、その色彩は宵闇のような漆黒一色だ。

 そして、撫でていた右手を顔からどけると――現れたのは、ねじくれた牙をむき出しにした蛮族の面だ。その面の口をガチガチと動かしながら、狼坐は名乗る。

 「(かがり)狼坐(ろうざ)

 ニファーナ様の腕にして、涜神者より万物を取り上げ、篤信者に分け与う者さ」

 「"姦賊"の間違いじゃろ、痴漢が」

 渚がジト目で応じると、狼坐はクックッと笑う。

 「いやいや、痴漢ってのは女の子に恨まれ――」

 語っている最中に、渚は烈風のように動く。地を這うような低い姿勢で一気に狼坐に肉薄する――そこへ、すかさず凜明が跳躍。籠手で固めた拳を叩き降ろす。

 渚は慣性を無視したかのような急速で半歩後ろに退くと、凜明の顎に中指の間接を突き出した拳を直撃。針のような練気を纏ったその一撃は『黒点針』として凜明の脳髄を貫き、彼女を大きくグラつかせる。

 だが、そこへナセラが刀を横薙ぎにして介入し、渚はそれ以上の攻め手を失ってさらに後退する。それからは、ナセラの嵐のような斬撃と、渚の烈風のような回避行動とが続く。

 そんな2人の交戦を見つめながら、狼坐は面の頬を掻きながら溜息を吐く。

 「人の話は最後まで聞けよ。

 これだから邪神は、手に負えねぇよ」

 

 こうしてセラルド学院2年3組は、鎖につなぎ止められた黒い"偽"『天使』が林立する中、禍々しい形態の『士師』達との激闘の舞台と化す。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 11

 ◆ ◆ ◆

 

 視点は、ヴァネッサとパバルが対峙する場所へと移る。

 

 不快にして奇っ怪な産声と、無惨なる悲鳴が四方八方から響く、黒い『天使』の群れの中。ヴァネッサは相変わらず四つん這いでうずくまり、鼓膜を(ろう)する絶叫の数々に身を晒しているばかりだ。

 (立て…ッ! 立つのよ、わたくし…ッ!)

 思考で鞭を打つ四肢は、相変わらず力が入らない。強烈な初恋でも覚えた時のようなトキメキに支配された心臓が狂ったように暴れるのに反して、筋肉は痺れるように弛緩している。四つん這いの体勢すら覚束(おぼつか])ず、今にも間接がクニャリと曲がってしまうようにプルプルと筋肉が戦慄(わなな)く。

 そんな彼女に視線を落とすパバルは、相変わらず微笑みを浮かべたまま、クスクスと笑い声をこぼすように言葉を漏らす。

 「どうだい、この都市国家(くに)を覆う"賛美歌"は?

 いや…でも、今の君には――単に声を、空気の振動を鼓膜で捉えているばかりの君には、賛美歌ではなく阿鼻叫喚に聞こえてしまっているかな?

 阿鼻叫喚と捉えても、正解だよ。これは不敬の汚穢に汚れた賤民(せんみん)による、煉獄(れんごく)の苦役の悲鳴でもあるからね」

 パバルの蕩々(とうとう)とした張りのある、そして艶やかな声は、感動的な歌声のようにヴァネッサの聴覚に滑り込んでは、脳を痺れさせてしまうようだ。彼の言葉を聞けば聞くほどに、体から力が抜けてゆく。

 そして反比例するように、高鳴る鼓動と同調した甘美な誘惑の声が、頭の中に響く。

 (懺悔せよ、盲信せよ、その身を全く捧げよ。それこそが唯一無二の浄化の道程、至福への歩みなり)

 ヴァネッサは必死で身体(フィジカル)魔化(エンチャント)を練り、己の脳への干渉を試みるも…誘惑の霧はベッタリと意識に張り付き、剥ぎ取れる気配はない。

 ついに腕がペタンと折り、ペシャンと地に伏せってしまう、ヴァネッサ。そんな彼女を見届けたパバルは、「さぁて」と欠伸(あくび)するように声を上げる。

 「マキシスや狼坐も動いているだろうし。僕も"チェルベロ"どもが動く前に、決着を付けないとな」

 独りごちるように言葉を滑らせたパバルは、右手で顔を覆う。直後、彼の掌から髪の毛のような漆黒の流れが出現、彼の顔を覆うと――右手をどかした時には、色白の整った顔は、不気味な仮面に覆われている。

 眼が三日月のように(いや)らしくつり上がって笑う、口髭を(たた)えた男の仮面だ。

 この仮面と、前進の身を覆う外套、そして被った(つば)広帽を総じて見れば、黒一色に染まった怪盗のようにも見える。

 パバルは更に、虚空に左手を伸ばす。すると、掌からは再び髪の毛のような流れがワサワサと上下に出現。それらは幾重にも重なり、捻れて伸びると――やがて大まかな半円弧と、その中を一直線に走る5本の弦が出現し、形を成す。――それは、パバルの長身と同等の高さを持つ、大きな竪琴だ。ただし、その装飾には髑髏(ドクロ)を初めとした人骨様の装具が散りばめられ、禍々しい。

 『現女神』に使える聖なる『士師』と云うより、地獄の底から這いだした罪人を(とが)める鬼…という表現が相応しい。

 パバルは竪琴を引き寄せると、右手で(なめ)らかに弦を弾く。その優雅な手付きとは裏腹に、響く音色は拷問に呻吟(しんぎん)する痩せ細った虜囚のそれだ。

 その音が響いた瞬間、ヴァネッサの脱力した体から、一気に血が飛沫(しぶ)く。

 「!!」

 舌さえも脱力し、苦鳴すら上げられぬヴァネッサが、眠たげに半閉じになっていた眼を見開く。

 ヴァネッサの血を噴いた体部には、身につけた衣服ごと抉った、綺麗な十字の(きず)がポッカリと開き、ダクダクと鮮血を噴き出している。

 この様子を見て、パバルは仮面の下で片眉を跳ね上げる。

 「うん?

 君の感性になら、必ず届くと思ったんだけどな。

 血が出るだなんて、まだ(けが)れた自我にしがみついているのか。

 でもね…」

 パバルは再び…いや、一度ならず、何らかの一曲を奏でるように何度も何度も、5本の弦をかき鳴らす。

 その度に禍々しい楽器は「ギィィヤアアァァッ!」「オオオアアアッ!」「ヒイイイィィィッ!」と不気味な絶叫を上げ、大気を震わす。同時に、ヴァネッサの体にさらなる十字の(きず)が刻まれ、ブシュッブシュッ、と鮮血が宙に赤を刻む。

 「抵抗してるだけじゃ、無理だよ。初戦は、大金槌の前に首を引っ込めた亀と同じ状況さ。

 殴られ続ければ、甲羅はその内壊れてしまうだけさ。

 さぁ、大人しく、僕らの賛歌の前に身を委ねるんだ。君の感性なら、きっと素晴らしい『天使』か、『士師』になれるはずだよ?」

 パバルの春の微風のような声とは裏腹に、竪琴の叫喚の音は鳴り響き続け、更にヴァネッサの体を苛み続ける。

 意識への介入に対して、自我にしがみつくように、強く歯噛みをしていたヴァネッサであるが。その口の中に、やがて、ジンワリと生暖かな鉄錆の味が広がってゆく。

 同時に、舌のど真ん中から発生する、力づくで引き千切られるような激痛が現れる。それは、この現象が発生した際にも彼女を苛んだ症状――舌に十字の創が出来る前触れだ。但し、先刻と違い、その変化は急激で、そして暴力的だ。まるで、舌を根こそぎ引っこ抜かれてしまうような勢いで、舌の組織が暴れながら壊死を始める。

 

 この激痛を受ければ、並の者ならば涙をボロボロと(こぼ)して悶え、己の不幸を呪うことだろう。

 ヴァネッサとて、激痛を受けた事に対しては勿論、不幸を覚えている。

 ――だが、その激しい不幸の念、そしいて舌の激痛は、毒が転じて薬と化すかのように、彼女にとって幸いの方向に転ぶ。

 ヴァネッサは覚えた不幸に対し、胸中に抱いたのは呪いの念よりも――激しい怒りの念である。

 (こんな呪詛に程度に、何を屈しているのかしら!

 呪詛を打ち(はら)う、それこそがわたくしの使命でしょうにっ!)

 そう言った負けん気に加えて、もう一つ――余りにも本能的で、シンプルで、自己本位な激情が爆発する。

 (それに、それにそれにそれにっ! なによりも――ッ!)

 

 「いッたぁいんですわよッ!」

 舌から零れた血を唾と共に吐き出しながら、ヴァネッサが思い切り叫ぶ。この都市国家(まち)を覆う叫喚の音色を払拭するかのように。

 屈服から一転、激烈な反抗へと態度を変えたヴァネッサの様子に、パバルが驚きを交えてピクリと体を揺すった――その瞬間!

 バリバリバリバリバリッ! アスファルトの大地が割ける悲鳴が耳を(つんざ)いたかと思うと、パバルとその周囲の地面がメキメキと盛り上がる。アスファルトの瓦礫を弾き飛ばし、土煙をボフンッ! と噴かしながら、土中より現れたのは――曇天の鈍い陽光の中でも尚、(まばゆ)く煌めく水晶の剣山だ。

 「おわっ!」

 パバルは声を上げ、高速で飛び出す水晶の切っ先を避けるべく、宙へと躍りながら身に纏った漆黒の外套様装備で(とばり)を張る。この外套様装備は高密度の物質化呪詛で編み上げられた代物で、柔軟に自在に動かせる一方、金属繊維にも勝る強度を誇る。水晶の切っ先はこれに阻まれてパバルを貫くことは出来なかったが、帳ごと彼の体を押し上げ、宙空高く舞い上げる。

 (うわ…計算違いだなぁ! 僕の歌で骨抜きにするつもりが、激情を煽っちゃうなんて…!)

 パバルが仮面の下で苦笑いをしていると。彼の上にサッと、影が掛かる。

 すぐに見上げれば、そこにはパバルを正面に捉えて、更に高い宙空を舞う、ヴァネッサの姿がある! その手には、水晶の剣山を出現させた時に持ち上げて回収したであろう、水晶で作り出した剣が握られている。

 そして、ヴァネッサの姿勢は剣を振るうのに万全の体勢だ。

 (あ、ヤバい…!)

 パバルが外套を操作するよりも早く。ヴァネッサは水晶が光線にでも変わるような速度で剣を一閃。烈風の斬撃は、落下する巨大な三日月のようにパバルの頭上へと高速で降下する。

 パバルは息を飲み、素早く竪琴を体の前に突き出し、斬撃を受け止める。ギイィィッ、と耳障りな激突音が、怨嗟(えんさ)躍る地獄の街並みに甲高く響く。

 直後、激突の音の質が次第に変化を始める。甲高い金属音から、ピキピキパキパキ、と結晶を削るような――もしくは、生ずるような、細かいざわめきだ。

 その時、パバルは眼前の光景に目を丸くする。斬撃の衝突部分から、音が現すように、氷よりも尚青味の濃い、粗い無骨な表面を持つ結晶が霜のように広がったと思うと。そこから巨大な氷柱(つらら)へと成長し、まるで多頭の蛇のようにパバルの元へ迫る。

 (おわっ! 流石は、この状況に抗うようなじゃじゃ馬ちゃんだっ!)

 パバルは苦笑しつつ、魔力を集中。すると、巨大な唇ように見える漆黒のラッパが4つ、滲み出すように空中に出現。その開口をブルブルと振るわせながら"音"を出すと、それは大地を振るわすような重低音と共に大気が激しく震動。それに共鳴した水晶は、キィィン、と耳鳴りのような音を立てながら激しくブレて震動すると、激しい亀裂がバキバキと走った後に、木っ端微塵に粉砕される。

 

 『吟遊の士師』パバルの能力(ちから)は、"演奏"と云う事象に根ざしたもの。

 "演奏"の要素の一つに、大気の震動がある。(すなわ)ち、奏でた音とは大気の震動無しには存在しえない。

 そんな大気震動を自在に発現させるに加えて、物体の放つ――もしくは"奏でる"と言い換えても良い――音から瞬時に固有周波数を知覚する性質を利用し、水晶に絶妙に干渉する周波数の音を"演奏"。結果、ヴァネッサの反撃の水晶を無力化したのだ。

 

 パバルが放った震動は、水晶を粉砕するに留まらない。微妙に音色を変えたかと思うと、今度はヴァネッサの肉体自体を粉砕しにかかる。

 「!!」

 体組織が細胞単位で揺さぶられ、バラバラにされるような衝撃がヴァネッサの全身に広がる。ただでさえ十字の(きず)が幾つも開いた痛々しい身体が、今度は震動に耐えかねて衣装ごと皮膚が弾け、更なる鮮血を宙に降り撒く。

 ヴァネッサは歯噛みして耐えながらも、左の掌を突き出して魔力を集中。すると宙空に小さな六角形の結晶片が生まれたかと思えば、それは急速に成長。翡翠色を呈する結晶の大楯となって、ヴァネッサの全身を(かくま)う。

 (素早い対応だ、頑張るねぇ!

 流石は噂に聞こえた百戦錬磨の星撒部さんってところか。

 でも…そんな楯、幾重張ろうが意味ないよ!)

 パバルは胸中で叫びつつ、ラッパの音色を更に調整。今度は翡翠の大楯の固有振動数を探り、破壊を試みる。大楯は形成してから数秒にして、早くも激しい亀裂に覆われ、(きら)めく粉塵様破片を雪のように降らせる。

 対するヴァネッサも、黙って楯にしがみつく真似はしない。翡翠の楯の後ろにもう一つ、結晶を成長させて楯を作り出す。今度は燃えるような赤色を呈しており、先の翡翠の結晶は物性の全く異なる代物だ。

 これだけでなく、ヴァネッサは琥珀色、雲母のような(きら)めきを放つ鉛色、透き通った紫色など、性質の違う結晶を次から次へと生成。強固な楯の重層を成す。

 しかし、パバルは時間さえ掛ければ、個々の固有振動数を割り当て、粉砕することが出来る。それはヴァネッサとて、百も承知だろう。

 となれば、これはヴァネッサが次の攻めの一手を準備するまでの時間稼ぎに過ぎないはずだ。

 (大人しくやらせるワケ、ないだろう!?)

 パバルは大気の慟哭の如きラッパの音を調整しながら、結晶の楯の粉砕に付き合う体裁をとるものの――狙いを、別に定める。

 彼は『士師』(正確には、その"(もど)き"である)の性質を使い、下位にして従属的存在である黒い『天使』達に指令。ヴァネッサの後方より攻めよ、と意志を通達する。

 黒い『天使』達は、速やかにパバルの意志に応じる。2人の眼下を飛び回っていた7体の『天使』が急上昇、ヴァネッサの後方に回り込むと。今度は「不敬!」などの無駄口を叩かず、無言のままに手にした馬上槍(ランス)を突き出して突進する。

 ヴァネッサはその気配を知覚しているものの――一顧だにしない。彼女には、振り返らずとも彼らの奇襲に対応出来る、確固たる自信がある。

 その自信の体現は、すぐに、7体の『天使』の前に飛び上がって立ち塞がる。

 「(えい)ッ!」「[[rb:応]]ッ!」「(とう)ッ!」

 そんな掛け声と共に現れたのは、曇天の陽光の中でも燦然(さんぜん)と輝く3つの巨躯。ゴキゴキと身体を鳴らしながらも、優に3メートルを越える幅広の体格には似つかわしくない、烈風のような動きで手にした斧槍(ハルバード)や大剣を振るい、『天使』達を一撃の下に両断する。

 彼らは、ヴァネッサが創り出した水晶製の守護騎士達だ。

 7体を掃討した彼らは、ゴキリゴキリと背中から音を発したかと思うと、これまた水晶で出来た大きな翼を展開。眼下から更に飛び上がってくる『天使』達へと真っ向から飛び込むと、(こごと)く斬り伏せてゆく。

 (ちょっと、ちょっと! この()、どんだけ魔力があるのさ!

 楯創って、自立駆動する使役物を創って、更に何か仕掛けようとしてる!

 元気過ぎにも程があるだろ!)

 パバルが仮面の下で歪んだ苦笑を浮かべている頃、ヴァネッサの楯は早くも6枚、粉砕されたが。ヴァネッサは更に片っ端から楯を創り出し、鉄壁の防御を崩さない。

 (見上げた根性だけど、守ってばかりじゃ――)

 そんな事を胸中で独りごちた、その瞬間。パバルは足下から立ち上る、微かにして鋭い魔力にハッと気付く。

 慌てて視界を眼下に向けると――そこには、己の身体まであと数十センチにまで迫った、土砂降りを反転させたような煌めきの群れが見える!

 群の(きら)めきに目を凝らせば――それは、翡翠や真紅、黒曜や鉛色など、これまで破壊した結晶の楯の色が混じり合って出来た、髪の毛のように細い針だ。

 

 ヴァネッサは楯を単なる防御に用いていたのではない。

 粉砕された微細な破片を再度操作し、異なる結晶同士を混合させた上で針と成し、パバルへの密かな反撃に再利用していたのだ。

 異なる結晶の混合体となった今、固有振動数は各々で多様に異なるようになってしまった。今や、ラッパの一吹きで一気に粉砕出来る代物ではない。

 

 (マズいなッ!)

 パバルは仮面の下で舌打ちすると、楯を破壊するためのラッパ演奏をひとまず停止。そして間髪入れずにラッパの向きを眼下方向へと転じると――。

 (ドウ)ッ! ラッパが吹き出したのは、叫喚の音色ではなく、激しい大気の奔流だ。

 "演奏"による大気干渉の力を振動ではなく流動に転化したのだ。

 大気の奔流は強烈な圧力を伴い、向かいくる水晶の針を吹き飛ばし、あるいは破砕する。その勢いは針を打破するだけに留まらず、眼下の大地に達すると颶風(ぐふう)を巻き起こしてアスファルトを削り取り、無惨な(えぐ)れを残す。

 パバルの激しい反撃が自身から逸れた事を好機とするヴァネッサは、眼前に生成した大楯に魔力を集中。楯の表面から、巨大な氷柱(つらら)を作り出し、パバルを貫くべく一気に伸ばす。

 (こっちもかッ!)

 パバルは横目で状況を確認すると、針を吹き飛ばしたラッパを、大気の奔流を吹き出すがままに方向転換。迫り来る氷柱(つらら)の横腹に大気を激突させ、叩き折ることを試みる。

 ガリガリガリッ! ビキビキビキッ! 結晶が悲鳴を上げ、バラバラボロボロと大小の破片を(こぼ)し、メキメキと激しい亀裂が走る。だが、破壊は簡単には行かず、氷柱(つらら)は方向をズラされつつも、着実にパバルの元へと肉薄する。

 (これで、どうだッ!)

 パバルは身にまとった漆黒の外套を操ると、氷柱(つらら)にまとわりつかせ、直接的にその動きを止めに掛かる。巨大な両手に掴まれたような形になった氷柱(つらら)は、メキメキと音を立てながら尚も前進を続けようとするが――大気の奔流の直撃も相まって、遂には亀裂がボギンッ! と音を立て、ガラガラと破片を大地に叩きつけながら真っ二つに折れる。

 それと同時だ。パバルの顔に再び影が掛かったかと思うと、そこには水晶の剣を大きく振りかぶって飛び込んでくる、ヴァネッサの姿がある!

 彼女は氷柱(つらら)の上を駆けてパバルに接近してきたのだ!

 「クソッ!」

 パバルの唾棄する声と。

 「ハァッ!」

 ヴァネッサの気合いの声が響き渡る。

 ヴァネッサが、剣をまっすぐに振り下ろす。その最中、水晶で出来た剣は、まるで大樹の成長を早回しにしたような有様で、ピキピキと音を立てながら体積を増加。パバルの頭上に迫る頃には、ヴァネッサの身長の優に3倍を超える、巨大な剣と化した。

 ラッパも外套も対応に間に合わないとみたパバルは、苦渋の歯噛みをしながら、手にしたハープを振り上げる。

 (ゴン)ッ! 両物体の直撃は鈍い轟音を響かせ、激しい衝撃を振りまく。部が悪いのは、パバルだ。ヴァネッサは手にした大質量と重力を味方に付けている一方、パバルの獲物は武具ではないし、そもそもとして彼自身が近接戦闘に向いていない。

 ヴァネッサの攻撃は即座に、パバルの抵抗を上回り、2人は流星のように大地へと落下する。

 その途上、パバルは部が悪いと云えども、何の手筈も打たないワケがない。彼は攻撃を受けとる竪琴を片手でかき鳴らしつつ、仮面越しに自らの口で歌い上げる。

 

 パバルの歌声は、"吟遊"の名を冠する『士師』に相応しく、美しく表現深い。聞く者の心に()みて、"芸術"の言葉を想起さえるようなもの――の、はずであった。

 しかし、彼の美声は仮面を通すと、恐るべき悪鬼の上げる金切り声へと変ずる。数匹の鬼が、惰弱な亡者を打ち据えて嗤い、あるいは勝ち(どき)を口々にしているような声だ。

 その不快な声は、ヴァネッサの鼓膜を震わすと――彼女の鼓動を大きく、狂ったように、ドクンッ! と跳ね上げる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 パバルの"吟遊"の能力(ちから)の醍醐味は、演奏による大気干渉ではない。

 演奏、引いては音楽が成す最大の効能――精神への干渉である。

 楽しげなワルツを奏でれば、聴衆はウキウキと踊り出す。悲しげなバラードを奏でれば、バカ笑いしていた酔っ払いも涙を流して嗚咽する。そんな精神への干渉を、確実と言えるレベルで強烈に引き起こすのが、彼の最大の武器である。

 先に黒い『天使』達を生み出した奇っ怪な"演奏"も、その効能の一環だ。聞いた者の精神に恐怖や悔恨といった強い負の感情を植え付け、それを音に呪詛を生み出す。

 

 そして今、パバルがヴァネッサに対して行った演奏は、"怒りを呼び起こす"ものだ。

 

 ヴァネッサは今、身に受けた数々の傷への治療や沈痛を一切行わず、鮮血が流れるままに行動を起こしている。その狙いは、痛みを引き金に精神の状態を"怒り"による興奮状態を起こすことにある。

 先刻、パバルの演奏によってヴァネッサが脱力したのは、彼女の筋肉を弛緩させるような精神への干渉――感激や喜びと云った感情の喚起――が行われたためである。これを払拭するための、"怒り"だ。

 パバルはそれを理解したと同時に、利用することにした。

 演奏によって干渉されたヴァネッサの精神は、脳髄に対してアドレナリンの更なる増産を指令。その神経電気信号は速やかに副腎へと伝わり、ヴァネッサの体内のアドレナリン濃度が急上昇する。

 結果――ヴァネッサの心拍数と血圧が激増。血流が異常な加速を見せ、血管を破かんばかりの速度で体内を駆けめぐり――。

 

 くらり――ヴァネッサは、視界の歪みと思考の混濁を感じる。こめかみの辺りが、狂ったように脈動する心臓と同期した鈍痛に襲われる。

 胸が、内側から張り裂けそうな膨満感を覚える。頭が、ドクドクと震えるほどに脈打ち、吐き気を催す熱っぽさが発生する。

 (何を、されたのかしら…っ!?)

 グニャグニャに歪む視界で、パバルを()め付ける、ヴァネッサ。その両眼の白目では、血管が破けて出血し、鮮血が染みのように広がっている。

 体中の(きず)からはドクンッ、と吹き出すように血液が溢れ出すものの、アドレナリンの持つ鎮痛作用によって、痛みの増加は感じない。ただ、燃えるような熱さばかりを感じる。

 意識の混濁は筋肉の弛緩を呼び起こし、ヴァネッサの指は痙攣しながら、巨大な水晶の剣の柄をポロリと取り落とす。

 

 この隙こそ、パバルの狙いだ。

 

 パバルは重力のみが手を引くばかりとなった水晶の大剣の下からスルリと這い出すと、ヴァネッサへ一気に肉薄。そして、外套や竪琴を構える間を惜しみ、足を振り上げると、ヴァネッサの顔面に叩き込む。

 「あうっ!」

 悲鳴を上げて吹き飛ぶ、ヴァネッサ。一方で、水晶の剣は魔力集中を失い、ボロボロと粉末状の結晶へと瓦解して、大気中へと昇華されてゆく。

 黒い『天使』を作り出した人々が転ぶ大地の上を、派手に転がって吹き飛んでゆくヴァネッサを見つめながら、パバルは仮面の下で苦々しく笑う。

 ("吟遊"の名に似つかわしくない、実に醜い行動だけど…)

 ――戦いには、美しいも醜いも無い。

 その思考を胸中に留めたパバルは、留めを指すべくヴァネッサの元へと、黒い疾風となって駆け出す。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 12

 ◆ ◆ ◆

 

 ――まだ、クラクラする。

 ヴァネッサは人々の身体に接触しながら派手に転がりつつも、熱っぽい思考をフルに稼働させて、状況の把握と打開を思案する。

 ――強烈な興奮状態の誘発と、沈痛の発生。明らかに、ホルモンによる肉体作用だ。…状態から(かんが)みるに、ほぼ間違いなく、アドレナリンの作用。

 この状況を作り出したのが、竪琴の不快な演奏であると認識すると――ヴァネッサは、パバルの能力(ちから)を理解する。

 (演奏による、感情への干渉…! それがあの『士師』(もど)きの能力…!)

 それならば…とヴァネッサは呼吸を整え、感情を沈静化。アドレナリン分泌を少しでも阻害しつつ、策を練る。

 パバル・ナジカを(たお)すための、攻略法…!

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「不敬ッ!」「涜神ッ!」「汚穢ッ!」

 方々から濁音の発声が、転がるヴァネッサを囲む。パバルに先んじて、黒い『天使』達が追撃に来たのだ。

 ヴァネッサは誰かの身体の上でワンバウンドをしたのを気に、宙空の足下に結晶による足場を形成。それをトンと軽く蹴りながら体勢を立て直すと、手の中に水晶で作り出した刺剣(レイピア)を生成。刀身の長いそれを器用に扱い、突き込まれる馬上槍(ランス)を絡めて弾きつつ、『天使』の甲冑の隙間にズブリと鋭い切っ先を刺し入れる。

 それは、"蝶のように舞い、蜂のように刺す"の形容があまりにも似合い過ぎる、美麗な行動だ。

 しかし、黒い『天使』の追撃は八方から襲い来る。彼女の刺剣(レイピア)捌きが如何に巧みでも、多勢に無勢に見える。しかも、呼吸を整えて感情の沈静化を計ったとは言え、アドレナリン過剰の影響から完全には脱していない。視界の歪曲、出血量の増加は未だに解決されていない。

 だが――ヴァネッサは、この状況を窮地と見なしてはいない。何故なら――黒い『天使』への対処は、もう"手配済み"だ。

 「()ねいッ!」

 ハモった太く(たくま)しい声と共に、上空から降下する複数の巨大な影。それは、ヴァネッサが作り出した水晶の騎士だ! ヴァネッサは思考が歪曲しようとも、自らが作り出した使役対象への魔力共有を(おろそ)かにすることはなかったのだ。

 巨大重量に加え、鋭利な剣や斧槍(ハルバード)の切っ先によって、黒い『天使』は害虫のように潰れ、体内深くにまで刃を抱く羽目に陥る。黒い『天使』は死に際の蟲のようにピクピクと鈍く四肢を動かした後、黒い煙へと昇華して蒸発する。

 (よくもまぁ、あの状況で集中を放棄しなかったものだね!)

 パバルは感心しながらも、手にした竪琴の弦に指を添える。同時に、身体の近傍を舞うラッパ達を一斉にヴァネッサへ向けて、攻撃態勢を整える。

 (でも、怒りの影響に抗えたと言うことは…逆の感情に頼ったということッ!)

 パバルは仮面の下でギラリと目を輝かせ、仮面と同じような(わら)いを浮かべる。

 パバルはヴァネッサとの交戦の初期を思い出す。彼は(いき)り立つヴァネッサを(なだ)めるべく、安息感や幸福感といった感情を喚起させる発声を放った。そしてヴァネッサは、まんまとその影響を受け、高揚や火照り、弛緩と云った身体症状を大きく引き起こされた。

 つまりヴァネッサは元来、怒りのような激情よりも、ポジティブで穏やかな感情を抱きやすい性質であると言える。

 今、ヴァネッサが怒りの感情を抑えたのも、これらの感情の力を利用していることが充分に考えられる。そうでなくとも、激情を遠ざけた分、これらの感情を呼び起こしやすい状況にあるであろう。

 ――なら、それを(くすぐ)ってやらない手はない。

 ポロロロン…パバルが、竪琴をゆっくりと弾く。すると竪琴は、骨で形成されたような禍々しい外観に見合わぬ、草原の中で小鳥達が好んで集うような美しい音色を発する。

 その平穏にして柔和な音がヴァネッサの鼓膜を震わせると…彼女の足がガクンと力を失い、動きが一瞬止まる。

 ――効果覿面(てきめん)だ。パバルは口角を大きく吊り上げ、(わら)う。

 (女の子を直接手に掛けるのは、良い気がしないけど…これは聖戦だからね。

 終わらせる…!)

 パバルはラッパを、ブオオォッ、と鳴らす。転瞬、ラッパの口から強烈に圧縮された空気の奔流が噴出、行き足の止まったヴァネッサへと容赦なく注いでゆく。

 「お嬢ッ!」

 水晶の騎士達がゴキゴキと音を立てながら声を上げ、ヴァネッサの前に躍り立つ。直後、大気の奔流は激しい渦を巻きながら騎士達の身体に激突。ガリガリガリッ、と酷く耳障りな掘削音が響き、騎士達の体表から水晶の破片がバラバラと砕け舞う。

 この轟音の中でも、竪琴の美しい音は掻き消されない。まるで割れた大海の中を進む聖者のように、音色は明確に空間に響き渡り、水晶の騎士の向こう側で辛うじて立っているであろうヴァネッサの耳に届く。

 その影響は、絶大だったのであろう――水晶の騎士達の声が、まるで舌が泥にでもなったようにモゴモゴと濁ると。石をぶつけられた薄い硝子のように派手な亀裂がビキビキと幾つも走ると――騎士たちは一斉に、輝く(れき)と化して粉々に砕け散った。ヴァネッサによる魔力供給が遂に不全となり、激しい大気の奔流に抗えなくなってしまったようだ。

 そして、煙る霧のような結晶の粉塵の向こうには――両膝を大地に着いて(くずお)れ、力なくうなだれるヴァネッサの姿。

 その余りに(はかな)く、(もろ)い姿へと、容赦のない大気の暴力が一瞬にして肉薄し――飲み込む。

 

 堅固な水晶すら砕いた奔流が、柔らかな肉体を貪ったのならば、どうなるか。嵐に散らされる花弁のように、血肉が無惨に舞い散る様は余りに明白である。

 …そのはずだったのだが。

 (手応えが…ない!?)

 パバルは予想だにしなかった感覚に、仮面の舌で眼を見開く。

 ヴァネッサの肉体は、まるで雲か霧かのようにフワリと渦巻く、そのまま吹き散れて消えてしまう。凄惨な血肉の舞いなど、全くない。

 ただ、虚しく、消えただけ。

 (どういう――)

 胸中の問いをスッカリと言葉にするより早く。パバルの周囲に、激しい異変が起こる。

 

 バキンッバキンッバキンッバキンッバキンッ! 連続する耳障りな音は、砕け散った水晶騎士の破片が生み出した粉塵を吹き散らせながら、巨大に鋭く林立する結晶の剣山が(そび)え出す音だ。

 (まばゆ)い純白の魔力励起光を放つ剣山は、黒い『天使』達を容赦なく貫くと、黒い煙へと昇華させる。そして剣山は、『天使』のみならずパバルに対しても例外なく厳しく襲いかかる。

 (おいおい、どういうことだッ!?)

 どう考えても、ヴァネッサの仕業だ。

 だが、演奏の影響を受け、精神が過剰に沈静化し、脱力したはずの彼女が…どうやって、こんな攻撃的な行動に出れたのだ!?

 パバルは跳び回りながら剣山の林立を回避し、あるいはラッパが放つ大気流で破壊しながら立ち回る。が、剣山の生成の勢いは全く緩まない。それどころか、速度増して、パバルの余裕を奪ってゆく。

 更には、空中に漂う結晶の粉塵もまた、厄介な存在と化す。ミリ単位にも満たないはずの結晶はみるみる内に成長すると、氷柱(つらら)状になって降り注いでくる。結晶は個々で見れば単色を呈しており、混合物ではなさそうだが、如何せん多種多様すぎる。固有振動による破壊では、捌ききれない。

 (クソッ、なんてこった、なんてこったッ!)

 パバルは胸中で毒づきながら、ラッパあらゆる方法へと滅茶苦茶に振り回しながら、飛来する氷柱(つらら)を粉砕し続ける。これを成せば成すほど、大気中には結晶の粉塵が充満し、それらは更なる大量の氷柱(つらら)を生み出してしまう。

 (クソッ、クソッ、クソッ!!)

 身につけた黒い外套も総動員し、滅茶苦茶に動き続ける、パバル。その時だ――。

 眼前の粉塵の(もや)がフラリと動いたかと思うと――突如、その向こう側から氷を思わせる美しいグラデーションの掛かった青色の髪が現れる。

 ――ヴァネッサだ。

 迫り来る彼女の表情を見やったパバルは、仮面の向こう側で表情をひきつらせる。

 (馬鹿な…ッ!)

 彼はそこに、紅潮して弛緩した――一見すると"だらしない"とも称せるような――笑顔か、それにしたにた表情を予測していた。だが、実際に在るのは――髪の色がそのまま顔面に伝わったような、閑寂が凄みを帯びたような、陰鬱なる堅い表情。

 ポジティブや穏やかといった言葉に全く見合わぬ、想像だにしなかった表情。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ヴァネッサはパバルを討つべく、一計を案じた。

 パバルが、怒りの抑え込みを利用して、感情に干渉してくることは読めた。だからそれを逆手に取って、致命的な隙と焦燥を与える策を講じた。

 パバルの演奏を耳にした際、脱力を起こしたのはフリではない。実際に彼女は感情へ干渉され、数々な過度の沈静反応に襲われた。

 だが、それは全て、パバルを策に陥れる為の布石であった。

 

 パバルが大気の奔流で(もっ)て水晶の騎士を粉砕した時には、ヴァネッサはもはや騎士の背に甘んじてはいなかった。

 それにも関わらずパバルが騎士の向こう側にヴァネッサの姿を見たのは、結晶の粉塵が映した映像である。ヴァネッサは水晶の騎士を形成する物質の構造を変化させ、ある種の魔力に応じて液晶のように映像を投影する結晶を仕込んでいたのだ。

 パバルがヴァネッサの幻影を大気の奔流で粉砕した頃。ヴァネッサ当人は結晶の粉塵に紛れて、パバルの隙を(うかが)い、懐に飛び込むタイミングを計っていた。

 

 感情の干渉に影響されているはずのヴァネッサが、身体への影響を振り切って自在に行動を取れた理由――それも、ヴァネッサの特有の能力である、結晶を操る力に起因する。

 感情への干渉により、ヴァネッサの脳内には鎮静効果のある種々のホルモンが分泌された。これが体内を巡るがままにしておけば、ヴァネッサの身体は未だに鎮静の檻の中に捕らわれていたことだろう。

 ――さて、ホルモンも所詮は化学物質。凝結させ、固体化する――つまり、結晶を作り出すことが出来る。

 これを利用し、ヴァネッサは自らの脳内で生産される鎮静系ホルモンを片っ端から結晶化し、体内へ循環するのを防いだのだ。

 これは勿論、リスクを伴う方策だ。

 脳内でホルモンを結晶化し、その循環をせき止めるという事は、脳内の血流を初めとする内分泌器官を栓塞させるということだ。脳は神経の塊である一方、痛覚などの感覚が存在しないため、頭痛などの劇的な刺激を受けることはない。だが、一歩間違えば脳血管の破裂を招き、意識の混濁も引き起こす致命的危険を孕んでいる。

 更に、セロトニンを初めとするホルモンが欠乏する形となるため、高揚感や幸福感とは真逆の感情――抑鬱症状が鎌首をもたげてくる。ヴァネッサの表情が陰鬱なのは、この症状が少なからず起因している。これも度が過ぎれば、彼女の思考の足枷となり、これまた致命的な事態を呼び込みかねない。

 

 正に、身を削る一計だ。

 だが、その甲斐は充分に在った。ヴァネッサは今、パバルの至近距離に迫っている。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「クソォッ!」

 パバルは思わず声を上げるものの、外套による防御も間に合わず、巨大な竪琴を振るう程の間もない。

 がら空きの懐に肉薄したヴァネッサは、宙舞う結晶の粉塵から、一振りの鋭い剣を作り出す。ギラリと剣呑な輝きを放つ鋭い輝きは、その切れ味の凄絶さを物語る。

 ヴァネッサは、この剣を容赦なく、パバルの脇腹に叩き込む。

 ゴキリッ、と云う音は肋骨が砕けた音。バシャンッ、と云う音は筋肉下の血管が破裂し、派手な血の噴出が起こった音。

 水晶の剣は、パバルの身体にズブリと潜り込み、背骨を目指して進む。

 (ああああああッ!)

 激痛に思考を支配されながら、パバルは歯を食いしばり、自らの体組織の隅々に行き渡る呪詛を総動員。細胞を硬化すると、水晶の剣がこれ以上体内へと潜り込むのを防ぐ。

 しかし、ヴァネッサは斬撃に(こだわ)りはしない。剣がこれ以上進まないと見るや、未練など一片も抱かず、パッと手を離す。

 とは言え、ただで剣を諦めたワケではない。ヴァネッサは手を離す際に剣の結晶を操作。巨大な毬栗(いがぐり)のように四方八方へ鋭い針状の結晶を成長させ、パバルの堅くなった体内に少しでも損傷を与える。

 (クソッ、クソッ、クソォォォッ!)

 パバルが脇腹の激痛に意識を向けている間に――ヴァネッサは右拳を握ると、再び中空の結晶粉塵から武器を生成。今度は刺剣(レイピア)を作り、逆手に構えると、パバルの眼球めがけて突き込む。

 仮面の向こう側で、パバルがブワリと冷たい汗を噴き出す。

 だが彼も、ただただ失意に陥って、悲惨な末路を待つだけではない。

 彼はこれが最期とばかりに、激痛を押し殺して鋭く短く吸気すると。最後に残った彼の武器――歌を、仮面越しに口ずさむ。

 

 それは、これまで彼が口にした歌の中で、最も麗しく、美しい旋律を持つ歌だ。まるで、早春を過ぎ、長閑(のどか)で眠気を誘うような陽気を運ぶ、桜の花びらをチラチラと舞わせる暖かな微風のような歌声。

 その渾身の歌は、ヴァネッサの鼓膜を震わせると――彼女の脳に、結晶化したホルモンを弾き飛ばす程の激烈な内分泌を促す。

 その結果、ヴァネッサの視界は純白に染まり――一瞬の後、とある光景を視覚野に描き出す。

 

 澄み渡った蒼穹の快晴の下、柔らかな新緑で満ちた草原が地平線の彼方まで広がっている。吹き抜けてゆく爽やかな涼しさの微風が、新緑をサラサラと静かに揺らして音を立てる。風に運ばれる新緑の放つ清々しい香りが、鼻孔を優しく(くすぐ)る。

 色彩は醒めるような鮮やかさを持ちながらも、決して目に五月蠅(うるさ)くはない。むしろ、鼓動すらも止めてしまいそうな穏やかさが、網膜を通して大脳や心臓にじんわりと()み込んでゆく。

 地上の楽園と形容してもおかしくない、平穏な光景の中。立っているのは、ただ2人のみである。

 1人は勿論、ヴァネッサだ。突如の視界の転変に戸惑いつつ、グラデーションの掛かった青髪を風に撫でられるまま、呆然とその場に立ち尽くす。

 彼女から数歩離れた距離に、もう1人の人物が立っている。穏やかな笑みを浮かべて、草原に(そび)える大樹のような安堵を喚起させる存在感を放つ"彼"を、ヴァネッサはよく知っている。

 彼女が恋い慕う星撒部の同僚、イェルグ・ディープアーだ。

 「やあ、ヴァネッサ」

 声をかけるイェルグが(こぼ)す笑みは、白いマーガレットの花のよう。爽やかで美しく、それで居て凛とした存在感を放っている。

 その笑みを見たヴァネッサは、まるで夢の世界を見ている時のように、全ての不連続や不整合を無視して、この光景にのめり込んでしまう。ついぞ先ほどまでパバルと死闘を繰り広げていたことなど、水泡と化して消えてしまったようだ。

 「イェ…ルグ…」

 ポツリと呟いたヴァネッサの元に、イェルグが静かに歩み寄る。そして、クリーニングしたてらしい、パリッとした制服姿の彼は、ヴァネッサの身体に覆い被さるようにして、優しく抱き締める。

 「イェルグ…! ちょっと…!」

 ヴァネッサは恥ずかしげに声を上げる。これが幻想の光景であることもすっかりと忘れて。

 何せ、イェルグの身体から伝わる体温や筋骨の質感は、全く以て現実の彼と変わらないのだから。

 イェルグはヴァネッサを抱き締めたまま、耳元に口を近づけると、悪戯っぽく息を吹きかけながら告げる。

 「愛してるよ」

 その言葉を聞いたヴァネッサの反応は――顔を真っ赤に染めるでも、心拍を激しく加速させるでも、息を飲むでも――無かった。

 ――彼女の顔が能面のように堅く、静まり返ったのだ。

 甘い恋人の(ささや)きに対しては、あまりにも不釣り合いな反応。

 そして、ヴァネッサの唇は冷徹に一言、言い捨てる。

 「誰ですの、あなた」

 

 転瞬、ヴァネッサを包む光景が一気に転変。

 モザイク工芸の表面が剥がれる様子が高速で再現されるような有様で風景が瓦解し、ヴァネッサの意識は現実に引き戻される。

 今、彼女の眼前に居るのは、距離を取るために跳び退くことを試みるパバルの姿だ。

 ヴァネッサはギリリと不愉快そうに歯噛みすると、逆手に持った刺剣(レイピア)を突き出し、パバルに突撃する。

 ズン…ッ! 鈍い感触は、パバルの肩口に結晶の刺剣(レイピア)が深く突き刺さったことを物語る。

 「ッ!!」

 パバルは仮面の下で息を呑んだと思いきや。

 「あああああああああッ!」

 声帯を破壊する程の絶叫を上げて、その場で悶え始める。

 同時に、肩口に刺さった刺剣(レイピア)の結晶はピキパキと(ささや)くような音を立てながら成長。やがては巨大な毬栗(いがぐり)のような姿となり、肩付近の肉体にもザクザクと(トゲ)を突き刺す。

 パバルが悶えるのは、脇腹に加えて肩口にまで深い傷を負った事も勿論、大きな理由である。しかしもう一つ、別の主たる要因がある。

 ヴァネッサの刺剣(レイピア)を形成していた物質は、塩だ。これがパバルの身体に融合し、影響を与え続けていた呪詛に対して激しい拒絶反応を起こしたのだ。

 ――塩は、魔法科学の一派、意味学において"清め"の定義を強く持つ。旧時代地球における東洋宗教で、塩が厄除けに用いられた事はその一例である。

 ヴァネッサの魔力によって"清め"の定義を更に強化された塩がパバルの身体に潜り込むことによって、彼の細胞内に蔓延していた呪詛はゴッソリと浄化された――つまりは、消滅したのだ。これにより、呪詛により物理的・化学的性質を引き上げられていた細胞達は、単に性質の強化を失うだけでなく、反動による損傷を引き起こされてしまった。

 故に、パバルの身体中の至る所で身体組織が激痛と云う悲鳴を上げているのだ。

 更に細胞は、呪詛という支援機構を失った事によって衰弱する。その為、パバルの種族に由来する痩躯は更に痩せ細り、ミイラを思わせる悲惨な体格へと変貌してしまう。唯一腹部だけがポッコリと膨らんでいるのは、内側に収まっている内臓の体積ゆえだ。

 軽くなった体重を支える力すら失ったパバルは、糸の切れた操り人形のようにクニャンと膝を折って、その場に倒れる。骨の組織も弱体化してしまっているため、倒れた衝撃で腕や足が骨折してしまい、パバルを苛む激痛が増加。パバルは落ち(くぼ)んだ眼下から、熱い涙を絞り出す。

 パバルが倒れたまま、四肢を動かすことも出来ず、歯を食いしばって苦悶すること数秒後。ようやく歯噛みを解き、浅く早い呼吸を繰り返すようになった彼は、冷たくこちらを見下すヴァネッサに汗にまみれた苦笑を浮かべる。

 もはやパバルには、ラッパも黒い外套もない。呪詛はスッカリと抜けてしまい、単なる衰弱し果てた病体が、折れた木の枝のように転がっているだけだ。

 「鬼…だなぁ、君は…」

 パバルは掠れ果てた声で(ささや)くように語る。

 「君が…求めて止まない…最愛を…喚起したはず…なのに…アッサリ…振り切るなんてさ…」

 するとヴァネッサは嘆息すると、眉を怒らせる。彼女はすでに脳内のホルモン結晶化を解いている。彼女の感性は普段通りの、高飛車ながら乙女心を大事にするものに戻っている。

 「あんなの、わたくしが慕うイェルグじゃありませんわよ。

 あのアマノジャクが、あんなに恋愛ドラマのような事をするワケがありませんもの」

 「…君の…理想を…投影したはず…だったのにねぇ…自分の理想…にも冷静に…突っ込みを入れるなんてね…恐れ入ったなぁ…」

 ヴァネッサはそんなパバルの言葉には答えずに、周囲を見回す。そして、黒い『天使』や、それに混じって少数姿を見せている、紫が交戦していた存在(もの)と同様の化け物どもが消滅していない事を確認すると、片眉を跳ね上げる。

 ただし、パバルを助けるべく『天使』がヴァネッサに向かってくるようなことはない。獲物を狙ってか、鳶のようにクルクルと上空を飛び回るばかりだ。もしくは、ヴァネッサが作り出しておいてきた水晶の騎士で交戦しているか、だ。

 ヴァネッサは視線を髑髏のような面持ちと化したパバルに戻す。

 「あの呪詛どもが消えないのは、どういうことですの!? 術者であるあなたを無力化したと言うのに!」

 するとパバルは、力無くクックッと笑い、そして席混じりの血飛沫(しぶき)を2、3度吐いてから答える。

 「僕は術者ではあるけど…厳密に言えば…この呪詛全体の…術者じゃない…。

 僕は…この状況の…引き金を引いた…だけさ…。

 だから…先に言ったじゃないか…"もう襲い、感染は止まらない"ってね…」

 ヴァネッサはなるほど、と納得すると同時に、ギリリと歯を噛み締める。

 パバルは、"真の術者"によって呪詛を与えられて作り出された"偽"の『士師』であり、呪詛使いというだけ。この都市国家に席巻しつつある呪詛を作り出したのは、何処かに隠れて居る"真の術者"であり、彼または彼女を(たお)さねば事態は終結しない。

 「一体どこに居ますの!? 貴方に呪詛を与えた、"真の術者"は!?」

 噛みつくように問うものの、パバルはケホケホと血混じりの咳をしながら笑みを浮かべて、答えと全く関係のない言葉を紡ぐ。

 「痛くて…死にそうだ…。僕は…我慢が苦手…なんだよ…。楽に…してくれないかな…?」

 「わたくしに人殺しになれって、言いますの?」

 ヴァネッサは聞き返すと、目をスッと細めて冷たく反論する。

 「いいえ。貴方には生きていただきますわ。

 これだけの事態、莫大な命を(もてあそ)び傷つけておいて、無責任な死で呵責から逃れようなんて、そうは行きませんわよ。

 貴方にはこの罪を悔いながら、生き続けていただきますわ。それが貴方への一生涯に渡る罰となるでしょうね。

 それに…貴方には、わたくしの質問に答えてもらわなくてはいけませんからね」

 「…喋るワケ…ないだろう…」

 パバルがニヤニヤしながら答えるが、ヴァネッサは苛立つことなく冷徹に答える。

 「いいえ、語ってもらいますわ。

 いえ――正確には、語らせますわよ。あなたがどんなに拒んでも、わたくし達側には、あなたの意思をこじ開ける能力(ちから)があるのですから!」

 「それが…君達を率いる…"邪神"の力かい…」

 "邪神"。その言葉にヴァネッサはピクリと眉を動かす。言い方は悪くても、"神"の名を冠する言葉を出したと云うことは――星撒部の中に、『現女神』が居る事を知っている、という事か。

 「まぁ…良いさ…。"邪神"が居ようとも…最後に笑うのは、僕らだからね…。

 僕らの真なる主が…万の超える信徒を擁する、真なる神が…独り歩きの邪神なんて…必ずや、踏み潰す…!」

 パバルは言葉尻で語気強く言い放ったが。その反動が痛んだ体組織に響いたらしく、顔を思いっきりしかめて歯を食いしばり、暫く無言でブルブルと小刻みに震える。

 そんな往生際の悪さにヴァネッサが呆れた嘆息を吐いていると…ふと、彼女の背筋にゾワリと悪寒が走る。

 脊椎を撫でるというより、鷲掴みされるような、強烈な不快感。それは、高密度にして堅固な、莫大な呪詛の気配。

 ヴァネッサが振り向くと、そこには――大理石の様相を呈する天空を漆黒に染めて迫り来る、"ざわつく"黒雲が在る。

 「さあ…真なる主を迎える…開闢(かいびゃく)の怒濤が…やってくるよ…」

 ヴァネッサの背後でパバルが掠れ声を出す頃。ヴァネッサは手っ取り早く魔術で高倍率の水晶のレンズを中空に作り出し、"ざわつく"黒雲の細部を確認する。

 ――そして、息を呑み、歯噛みする。

 黒雲の正体は、勿論、水蒸気の塊などではない。それは、飛蝗(ひこう)の如く天文学的とさえ思える密度で終結した、翼羽ばたかす異形の群れ。

 その異形は、闇夜のような漆黒を呈する色彩をしている。サイズは大小様々で、サイズ差にはかなりの落差があるものの、どれもが同様の種別に分類可能な生物であると瞬時に認識出来る。

 大型爬虫類を思わせる顔に、長い首。コウモリを更に屈強にしたような翼に、獅子より数段力強い鱗の生えた獅子。極太の鞭のようにしなる、長大な尾。

 (粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)!?)

 知性が低く、野生動物性の高い気性を持った、粗暴にして食物連鎖の頂点の一員を成す生物の大軍勢が、正に怒濤となって迫り来る。

 (一体…何を始めるつもりですの…!?)

 パバルの掠れた嗤い声を背中で受けつつ、ドラゴンの群れに剣呑な視線を注ぐ、ヴァネッサ。その頬には、凍りつくのではないかと疑うほどの冷たい汗が伝う。

 汗の滴が顎先に達した時のこと。ヴァネッサの制服の内ポケットで、通信端末ナビットが着信を示すバイブレーションとメロディーを発する。

 嗤い続けるパバルを後目(しりめ)に、ヴァネッサはドラゴンの群に視線を注いだまま、ナビットを取り出して通信を開始する。

 展開された3Dディスプレイの中、映し出された相手は――。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 13

 ◆ ◆ ◆

 

 場所は、セラルド学院の2年3組へと移る――。

 

 ヒュンヒュンヒュン――連続する風切り音を耳にした灰児は、片方だけとなった虹色の翼を目一杯頭上に広げて、防御態勢を取る。直後、ザクザクザク、と突き刺さる感触を得たかと思うと――。

 ()()()――ッ! 翼を揺るがす爆発が発生。灰児の体は衝撃に激しく揺さぶられ、しっかり足を踏みしめねば転倒しそうになるほどだ。

 (チックショウッ! ゴシップ屋風情のクセに、いきなり強くなりやがってッ!)

 爆発の連続が収まったと感ずるや否や、灰児は翼を展開し、攻撃の主を視界に捉えようとするが――。そこには、予測していた少女――呪詛によって"偽"の『士師』と化した美樹の姿は、ない。

 何処へ行ったのか、と視界を巡らせ始めた、転瞬。

 「危ないッ!」

 秀の鋭い警告が聞こえたかと思うと、()()、と2発の爆音が轟く。同時に、振り向きざまの灰児の背中に、ドン、と激突する重量感。爆発に吹き飛ばされた秀の身体だ。

 「おいクソ、てめぇッ! 足引っ張ンじゃねぇよッ!」

 「ごめん、そんなつもりじゃ――」

 もつれ合って倒れた2人が言い合いをしている途中、いきなり秀の身体がヒュンと、逆さまになって上空に浮き上がる。見れば、彼の右の足首には、黒々として油っぽい髪で()われたような綱が絡みつき、彼を吊り上げている。

 (弓矢だけが攻撃手段じゃねぇのかッ!)

 灰児は舌打ちしつつ、素早く起き上がって、無防備に宙空に吊された秀を助けるべく、一歩を踏み出す――が。

 「イテェッ!」

 突如、右足首を挟み込む衝撃が襲い、肉に食い込む金属の冷たさと鋭さが激痛を生む。見れば、錆だらけのトラバサミが彼の右足首に噛みついている!

 動きを止められた2人を見ていた、淫靡な姿をした美樹は紫で彩られた唇でクスクスと嗤うと。悠々と弓矢を構えて秀に狙いを付ける。

 ――"狩人"の名を冠した士師である美樹は、獲物を狩る弓矢の能を得ただけでない。獲物を陥れる罠を形成する能も得ている。

 美樹は弦を目一杯引いては、つがえた5本の矢を容赦なく放つ。秀は逃れようともがいていたが、矢が迫ると見るや、その試行を放棄。手にした術式の剣を振るい、矢を弾き返すことを試みる。

 直線的に飛来する矢は、秀によって(ことごと)く弾かれた――のだが、矢は今度は爆発せず、宙でクルリと向きを変えると、再び秀の方へと飛びかかってゆく。

 秀は眼を見開き、焦燥に駆られる。士師となった美樹は、自分で形成した矢の動作を自在に操れるようだ。今度もうまく弾き返せたとしても、何度も何度も襲われ続ければ、体力が持たない。加えて、逆さに宙吊りされているために、頭への血流が集中し過ぎて、意識がフラフラしてくる。

 「ッたくッ、クソ過ぎンだよォッ!」

 秀の窮地に叫びをあげたのは、灰児だ。彼は足が壊れるのを覚悟してトラバサミから無理矢理に足を引っこ抜いた。ミチミチと血肉が引き裂かれ、激痛が走るものの、身体(フィジカル)魔化(エンチャント)で痛覚を遮断。走り出すと、虹色の翼で巨大な拳を作って伸ばし、矢を強烈にブン殴る。

 この衝撃に耐えられなかったのか、矢は信管が割れた爆弾のようにその場で大爆発。烈風と閃光が教室中を駆けめぐる。

 灰児は閃光を避けて瞼を閉じていたが、うっすらと開いたその瞬間、眼前に嗤いを浮かべる美樹の姿を見る。そして、首元に吸い込まれてゆく、刃のような弓の切っ先を感じる。

 (激し過ぎンだよッ!)

 灰児は歯噛みしつつ、敢えて美樹への方へと踏み込む。そして、弓を振るう美樹の腕を己の肘で受け止めて攻撃を回避すると、固めた拳で美樹の顔面を殴りに向かう。

 しかし、灰児の拳が美樹の頬に到達するより前に。灰児の巨躯が、ドンッ、と云う鈍い音と共に宙を舞う。吐瀉するように大きく口を開き、眼は飛び出さんばかりに見開いている。

 美樹が疾風のような膝を灰児の胃の辺り当てたのだ。背中まで突き抜ける衝撃に灰児の身体は、軽々と浮き上がってしまったのだ。

 灰児は吐き気を(こら)えて口を閉ざすと、虹色の片翼を振るって、しつこく美樹に一撃を与えようとするが。美樹はその場でグルリと旋風のように回転し、灰児の腹部へ回し蹴り。円心力の利いた踵を(えぐ)り込ませる。

 「ガハァッ!」

 ダバッ、と噴き出す唾液と共に声を上げる、灰児。その巨躯は砲弾のように吹き飛び、壁に激突。壁は激しい亀裂を走らせて凹み、埋め込むように灰児の身体を抱き留める。

 (クソ…ッ! 美樹(あいつ)程度に、こんなザマでやられるたぁな…ッ!)

 背骨に走る衝撃に立ち上がれぬ灰児は、もどかしさを胸中の苦言へと転化させる。

 ――美樹は学生としては、決して成績の良い方ではない。むしろ、魔法科学系や運動系の教科は赤点がザラという有様であった。そんな少女が、問題児ながらも優れた魔法と戦闘の技術を持つ灰児を、幼子の相手をするように叩き潰そうとしている――!

 衝撃の抜けない灰児に向かい、美樹が4本の弓をつがえて狙いを定める。そこへ――。

 「やめるんだ、美樹さんッ!」

 叫びと共に割り込んできたのは、秀だ。足首を絡め取った罠を術式の剣でなんとか壊したらしい。美樹の攻撃を阻むべく、剣を振るいながら飛び込んで来たのだ。

 美樹の顔がピクリと不愉快そうに歪む。しかしすぐに、紫に染まった唇が艶然とした嘲笑を浮かべる。

 "何が可笑しい!?"と秀が眉を跳ね上げながらも、振り下ろした剣を逆袈裟に斬り上げようとする――瞬間、秀は空虚な手応えにハッと目を見開く。

 視線を落とせば、両手がしっかりと掴んでいた術式の剣が、何処かに消えている。

 「は?」とでも云うようにキョトンとした秀の顎に、美樹のつま先が突き刺さる。首が引っこ抜かれる勢いで飛び上がった秀は、そのまま天井に頭頂を激突。跳ね返って床に無様に落下した所に、美樹の高いヒールの足裏がグリグリと踏みつけてくる。

 美樹が浮かべるのは、嗜虐的な笑み。

 「美樹…さんッ!」

 ヒールに(えぐ)られる腕から鮮血を滲ませながら、秀が苦悶の声を上げる。だが美樹は、笑みを浮かべたまま、秀の苦痛を更に煽るように、ゲシゲシと蹴りつけながらグリグリ踏み続ける。

 その様子を(はた)から見る灰児は、舌打ちする。

 (2人掛かりで相手してるってのに…このザマとはよ…!

 『士師』ってのは…マジにとんでもねぇな…!)

 まだ衝撃が抜けない灰児が、鞭打って足を動かそうとするも、プルプルと震えるばかりで力が入らない。

 自身に対して罵声を浴びせたい衝動に駆られながら、ふと視線を上げた先に見えたのは――渚の戦う姿。

 

 灰児はその時、瞬きを忘れ、噴き出す冷や汗と共に心を奪われる。

 立花渚は、たった1人で、ナセラ、凜明(リンミン)、そして狼坐(ろうざ)の3人を相手に立ち回っている――!

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「()ッ!」

 気合い一閃の元、ギラリと輝く銀刃を横一文字に薙いだのは、鬼の如き鎧を身に纏ったナセラである。その銀閃は一瞬の内にドス黒い陰色へと変化したかと思うと、眼窩を爛々(らんらん)と輝かせた亡者の群と化して、渚の元へと迫る。

 『鬼侍』の号を得たナセラの能力(ちから)は、鬼の()まう地獄を想起させる事象を、一閃に込めることだ。

 体積を増しながら、自らの骨格を変化させた鎌や槍などを振るい迫る亡者の怒濤に対して。渚は床に陥没を作り出すほどの踏み込みで半歩前に出ると、もう一方の足と右腕を十字を描くように振るう。

 転瞬、純白に輝く魔力の刃が出現。亡者の怒濤に切り込むと、内に込められた浄化性質の術式が作用。亡者は閃光の中に消える影のように姿を蒸発する。

 その隙を突いて、渚の視覚に回り込んだのは、露出度の高い鎧を着込んだ凜明である。彼女はイカつい赤銅色の籠手を握り込んで堅い拳を作ると、渚の脇腹めがけて殴り込む。

 渚は凜明をチラリとだけ視認すると、即座に彼女の拳の甲へ目掛けて肘を落とす。ゴキンッ、と音を立てた一撃は正確に凜明の拳を打ち据えると、針のような衝撃は拳を突き抜けるでなく、腕を伝って肩を抜ける。

 「!!」

 凜明の顔が苦悶に歪むが、彼女は止まらない。臀部から生えた節棍に似た尻尾を振るい、渚の顔面を下から切り裂くように狙う――が。

 渚は即座に振り上げた足を叩き下ろして、尻尾を踏みつけて封じると。腰を落とした低い姿勢を作って半歩踏み出しつつ、今度は肘の一撃を肌の露出した腹部に叩き込む。

 (ガン)ッ! 鈍く堅い音が響くと同時に、凜明は苦悶の表情を更に深め、渚は「むっ」と唸る。

 (似非(えせ)とは云え、『士師』を名乗るだけの事はある。

 鎧で覆われていない肉体でも、体組織レベルで強度が増しておる…か。

 じゃが…!)

 渚は更に肘をグリッと回すと、凜明の面持ちが吐瀉するように大口を開いて、舌をだらりと垂らす。肘が叩き込まれた腹部の肌は、渦を巻くようにグルリと円を描いている。

 渚の扱う体術は、練気と身体(フィジカル)魔化(エンチャント)に独自のアレンジを加えた、独特の闘法だ。その特徴は、身体の運動や性質を極端なまでに倍加し、凄絶な事象を引き起こす。

 肘の回転だけで、腹部の筋肉および内臓に影響を及ぼす歪曲を引き起こす。その攻撃は間違いなく、並の人間には致命的な一撃だ。

 距離を取ろとする凜明であるが、尻尾を踏みつけられてうまく動けない。冷や汗がドバリと噴き出した、その途端。彼女の姿が渚の目の前からパッと消える。

 「!?」

 渚が眉をひそめて素早く視線を動かすと。数メートル下がった所で事態を見守っている狼坐(ろうざ)が、片腕に凜明を抱いている。

 「おいおい、ひでぇなぁ。

 こんな張りのある肌をブッ潰すような真似、オレにゃ耐えられねぇよ」

 笑いながら語る狼坐の言葉を聞き流しながら、渚は胸中で冷静に分析する。

 (灰児から翼の拳を奪った事と云い、ニファーナや凜明をいきなり腕の中に引き込んだ事と云い――『義賊』の名から鑑みるに、何かを奪い取ると云うのが奴の能力(ちから)か)

 そう思考する最中、目の前にナセラが肉薄。素早い刀の振り下ろしで渚の両断を狙う。

 渚は即座に半歩横に移動して、空を切って床に刺さった刀の峰を踏みつける。そして刀の動きを封じた上で、回し蹴りをナセラの顔面へと放つ。蹴りには風の刃がまとわりつき、大気を切り裂きながらナセラに迫る。

 一方、ナセラは回避行動を取らない。変わりに、突き刺さった剣を中心に床がガラガラと音を立てて亀裂を得ると、その内側から(まばゆ)いばかりの業炎が噴き出す。さしずめ、地獄に流れる炎の川の噴出、といったところだ。

 (熱ッ!)

 渚は目を丸くしながら、刀を峰を蹴って跳び退く。そこをナセラは地を蹴って追いすがり、噴出する業炎と共に刀を振り上げる。斬撃と共に溶岩に似た粘つく業炎が波飛沫を上げて、渚に襲いかかる。

 渚は即座に『宙地』を使うと、宙空で高速で大仰に旋回。烈風を振りまきながら虚空を裂く回し蹴りを放つ。

 回し蹴りが生んだ烈風は激しい涼風となってナセラの業炎に吹きつけると、炎は直ちに岩石へと冷え固まって動きを止める。

 今や、ただ刀の斬撃のみとなったナセラの攻撃に対し、渚は間髪入れずに何かを掴むような形に掌を軽く握ると。その内側に高密度の術式を構築する。そして生み出されたのは――真夏の太陽を彷彿させる、橙色がかった眩い閃光。

 術式で作り出した、高熱の砲弾だ。

 「(セイ)ッ!」

 気合い一閃、思い切り振り被って投げつける渚。砲弾は激しい熱を振りまきながらナセラの刀へと吸い込まれ――瞬間、消滅する。

 そして同時に上がるのは、「もーらいっ!」という、軽い声。

 声のする真上方向に視線をチラリと走らせれば、そこにはいつの間にかに、コウモリのように天井からぶら下がる狼坐の姿がある。その右手の中には、渚が形成したはずの炎熱の砲弾がある。

 狼坐がそれを解き放つと同時に、渚は即座に頭上に防御用方術陣を展開。砲弾は方術陣に直撃すると、激しい爆炎を振り撒く。

 …と、この方術陣もまた、コマ切れフィルムのようにパッと姿を消してしまう。遮るもののなくなった爆炎は渚へと容赦なく広がり、その身体を焼き尽くそうとする。

 即座に跳び退(すさ)って爆炎を回避する、渚。そこへ間髪入れず、頭上から高速で落下してくる、狼坐の姿。両足の裏には渚から奪い取った砲術陣が展開し、その硬度で渚を踏み潰そうとする。

 対する渚は、なんと足を止めると、中指の間接を突き立てて右の拳を握る。黒点針の構えだ。

 (おうおう、真っ向勝負ってことか!

 邪神にしちゃあ、堂々とした心構えだねぇ…だがッ!)

 上から迫る狼坐の一方で、凜明が渚の元へ飛び込んで来る。背中から生えた翼からはジェットエンジンのように魔力を噴出し、その勢いでミサイルのように渚へと突進してくる。

 (2方向からの同時攻撃じゃ、その黒点針(わざ)には集中出来ねぇだろ!?)

 狼坐は蛮族の仮面の下、舌舐めずりしながら胸中で叫ぶが――彼の興奮は、転瞬、冷たい驚愕へと変わる。

 まず渚は、凜明よりも早く己の頭上に到達した狼坐の足裏へと、黒点針を放つ。突き立てた間接から放たれた細く鋭い気の塊は、方術陣に穴を穿って狼坐の足裏に突き出る。これを仰け反って回避する狼坐であるが――飛び出した針状の気は宙でギュルルと螺旋を描くと、体積を膨張。8つ首の大蛇と化し、狼坐の身体に噛みついてくる。

 「おわっ!」

 狼坐は方術陣を足場に飛び上がり、大蛇の(あぎと)を逃れるが。大蛇は8つの首をうねらせながら伸ばし、執拗に狼坐を付け狙う。

 (暫定精霊(スペクター)かよッ!? 練気から生み出せるモンなのか、魔術体系が違うだろぉ!?)

 狼坐が驚愕している眼下では、凜明が渚に肉薄。黒点針を放った格好から体勢を戻せぬところへ、鳩尾(みずおち)に拳を叩き込む。

 ズムッ、と沈み込む拳に、渚の身体が"く"の字に曲がるが――凜明は眉をひそめる。手応えが、綿菓子でも殴りつけたように、軽すぎる!?

 転瞬、渚は凜明の腕を掴み、そこを支点にしてフワリと宙に身を躍らせると。そのまま円弧を描き、踵を凜明の頭頂と左肩に叩き込む。

 (ガン)(ガン)ッ! ほぼ同時に響く2発の打撃音。凜明の身体が衝撃に(くずお)れる一方で、渚の動きは更に止まらない。そのまま足を凜明の頸に絡めながら、『宙地』を両手に発生。宙を支点にしてグルリと反転し、凜明の頸を引っこ抜くようにして身体を回転させて、投げ飛ばす。凜明は天井に強かに激突し、バウンドして落下。机を叩き潰しながら、床に倒れ伏す。

 渚はすぐに体勢を立て直して着地すると、眼前にはナセラの姿がある。彼女の頸を狙った横薙の一閃に対して、間髪入れずに前に踏み込み、身体を密着させると、頭を沈めて一閃をやり過ごす。同時にクルリと身体を反転して背中をナセラに押しつけると、ナセラの腕を取って背負い、床に叩きつける。

 「ガハッ!」

 背中に強かな衝撃を受けたナセラは、鎧を着込んでいるにも関わらず、肺を押し潰す衝撃を内臓に受けて呼気を漏らす。

 更に渚は拳を固めると、仰向けに転がるナセラに向かって拳を固めて、彼女の腹を目掛けて殴り付けようとする――が。

 サワリ――痺れるような、こそばゆいような五指の感覚が拳を握る手首に感じる。途端に渚が振り切るようにして手を退()けて横に跳ぶと。

 「惜しいッ!」

 声を上げたのは、狼坐だ。彼を追っていた8つ首の大蛇の暫定精霊(スペクター)は、彼の足裏を支えて飛び回る乗り物と化している。狼坐の能力(ちから)は、暫定精霊(スペクター)の擬似意識すら屈服させて、支配権を奪取できるようだ。

 (…それに、今の感覚…!

 わしの腕の骨を直接、奪い掛かりに来おったな!)

 渚は手首に残る不快な感触を振り切るように手をプラプラ振りながら、小さく歯噛みする。

 

 体内に直接干渉する魔術と云うものは、非常に高度であり、そして厄介な存在だ。

 生物の体内を形而上相から眺めると、魂魄や意識といった自我定義で堅固に包装された要塞の内部に相当する。体内へと直接魔術を作用させるためには、要塞の持つ分厚く強固な壁を突破しなくてはならない。その突破の為のエネルギーは非常に高く、歴戦の地球圏治安監視集団(エグリゴリ)隊員であっても自在に実現することは不可能だ。

 狼坐はそれを軽口を叩きながらやってのけた。それも、『神法(ロウ)()る超常現象としてではなく、呪詛という高々人為的手段によって強化された程度で実現してみせたのだ。

 (流石に、完全自在とまでは行かぬようじゃがな)

 渚は歯噛みを解き、ふぅ、と息を吐いて熱を帯びた思考を冷ましながら、胸中で呟く。

 もしも狼坐の体内干渉能力が完璧ならば、腕の骨程度ではなく、直接心臓か脳幹を狙ってきたはずだ。

 …だが、それを楽観視するワケにはいかない。充分なエネルギーを確保しさえすれば、狼坐は非常に低い(しきい)を超えるだけで、体内干渉を完璧に行える可能性がある。

 (…やれやれ、ハードじゃのう!)

 渚は苦笑したくなる衝動をグッと堪える。

 

 「お返しするぜッ、邪神サマ!」

 狼坐は乗った8つ首の暫定精霊(スペクター)から飛び出すと、暫定精霊(スペクター)は牙を剥いて渚の元へと突進する。

 対する渚は人差し指を伸ばし、トンボを捕まえる時にするように、蛇の目の前でクルクルと回してみせる。すると蛇は目を回す――でなく、その体が溶けたゼリーのようにズルリと崩れ、蛍光色の定義式へと分解される。

 自身が即興で作り出した暫定精霊(スペクター)くらい、自分で解除できるのは当たり前。そんな言い分が聞こえてきそうな、アッサリとした動きだが――勿論、常人はこんな真似を軽々しく行えるものではない。

 蛇が消えた直後、渚の眼前に降ってくるのは狼坐だ。その手には輝く術式の剣――秀の手から奪取したものだ――を振りかぶり、渚の両断を試みる。

 渚は素早く半歩下がりながら、烈風のような回し蹴りを放つ。蹴りは強固な風の刃を生み出し、術式の剣と激突。すると術式の剣は、ポキン、とアッサリと両断されて中空に昇華する。

 「うわ、使えねぇ!」

 思わず叫ぶ狼坐の隙に、渚は厳しく入り込む。回し蹴りの流れから、その場で独楽(コマ)のように回転。逆方向の足でも風の刃を纏った蹴りを放つ。今度の蹴りは刃の範囲が広く、狼坐の胸をザクリと一閃。呪詛で強化された体組織を両断するまではいかないものの、鮮血を吹く一文字を刻むに至る。

 「痛ッ!」

 狼坐が顔を歪めても、渚の動きは止まらない。回転の勢いを殺さず、今度は拳を振りかぶり、旋風を纏う程に捻りを加えて、狼座の顔面を狙う。

 そんな渚の動きが突如、ガクンと止まったのは、背後に回った凜明に両脇を抱えられたからだ。

 (!!)

 渚が舌打ちの一つもしたくなった、その時。狼坐は背中に生やした、灰児から奪取した虹色の片翼を動かして巨大な握り拳を作ると、渚の頭上から凜明ごと叩き伏せる。

 「がふっ!」

 「あっ!」

 2人が苦鳴を上げるのも構わず、狼座は翼拳で執拗に2人をバンバンと叩き続ける。5、6度叩きつけたところで、高く翼拳を振り上げると、12本の触手へとバラリと展開。そして触手を絞り上げるように収束させて鋭い円錐形を形作ると、うつ伏せに倒れる凜明とその下に敷かれる渚に向けて、一気に振り下ろす。

 (こやつ、本気で外道じゃなッ!)

 渚はギリリと歯噛みすると、両手を踏ん張って凜明ごと自身の体を浮かすと、その加速を利用しつつ、下半身を思い切りバネのように動かして凜明を吹き飛ばすと。もう数センチという距離に迫る虹色の錐を素手で掴む。

 ギュルルルッ! 肉が(ひず)む凄惨な音と共に、渚の掌から鮮血が噴き出す。虹色の円錐は高速で回転しており、渚の掌の肉を抉っているのだ。

 渚は苦痛と圧迫に襲われながらも、歯を食いしばるどころか、唇を"(オウ)"の字に(すぼ)めると、ヒュッ、と呼気を円錐に吹き付ける。

 勿論、ただの呼気であるワケがない。それは、渚が肺の中で構築した術式を高密度に含んだ大気である。それが渚の掌から渋く鮮血に触れると、酸素と結合していない赤血球が術式を取り込んで魔化(エンチャント)される。

 術式をふんだんに取り込んだ血液は、自然の摂理に逆らい、スルスルと虹色の円錐を伝って登ってゆく。そして円錐を構築する触手の接合面に滑り込むと――。

 (バン)ッ! 大きな破裂音と共に、触手の接合面に閃光を伴わない爆裂が起こる。魔化(エンチャント)された血液が一斉に気化し、水蒸気爆発を起こしたのだ。途端に触手は弾け、円錐はバラリと解けて、細長い花弁を持つ大輪の花のように展開する。

 (おい、マジかよッ!?)

 想像だにしていなかった技の破り方に、蛮族の仮面の下で狼坐は苦笑するしかない。

 渚の動きは、止まらない。疾風の踏み込みで狼坐に肉薄すると、その勢いのまま、引っ掻くように五指を曲げた左手で掌底を放つ。指は純白に煌めく魔力励起光の尾を引いていることから、何らかの魔化(エンチャント)が施されているのは間違いない。

 触手を破裂させられた衝撃で体勢を崩している狼座は、この一撃から逃れられない…はずであった、が。

 (ヴォン)ッ! 大気を切り裂く音は、しかし、虚しく虚空を斬るだけだ。そして、一瞬前までそこに居たはずの狼坐の姿が、消え去っている。

 一体、何が起きたのか? ――その答えを、渚は既に把握している。

 (亜空間を作りだし、そこに逃げ込んだか!)

 ――義賊にせよ盗賊にせよ、彼らは元来、陰の中で(うごめ)くことを領分としている。そんな彼らが明るみに引きずり出されようとするならば、陰深き(ねぐら)へと逃げ隠れるのは当然のこと。

 『義賊の士師』狼坐は、奪取のほかに、この遁走すらも高い水準の能力として有しているらしい。

 (――動き回っておるのな。閉じこもるだけの能ではないと云うワケじゃな)

 渚は片目を(つぶ)り、形而上視認して狼坐の動きを確認する。教室内は、渚の『天使』が拘束している黒い『天使』を始めとする影響で、形而上相における事象定義式は非常に複雑化している。それでも渚は、頭痛を覚えることもなく、軽々と亜空間を移動する狼坐の姿を捕らえる。

 (一発かましてやりたいところじゃが…)

 虹色の円錐にやられ、未だに鮮血がポタリポタリと滴る右手をギュッと握り締めた、その矢先。ナセラと凜明の二人が、挟み撃ちするように渚の元へと肉薄してくる。

 (当然、休ませてはくれぬわな…!)

 渚は溜息の一つも吐きたくなりながらも、握った拳に蹴りを織り交ぜ、身を回して捌きながら、2人の少女士師を相手に激しく立ち回る。

 嵐のような渚の立ち回りを亜空間から眺める狼座は、ゴクリ、と固唾を呑んで呟く。

 「おいおい…あの邪神、スゲェな…。

 ニファーナ様も、クソ(にっく)きヌゥルの奴も、レーテって『現女神』も『天使』を媒介にして戦ってたっつーのによ…。

 『天使』無しの身一つでこんなに動けるなんてよ…! 恐れいったぜ…!」

 とは言うものの、感心してばかりの狼坐ではない。彼は卑劣にも亜空間に身を潜めながら、水面越しの魚を狙う釣り人のように、ジッと待つ。

 渚が一瞬でも、致命的な隙を晒す、その瞬間を。

 

 そして、その時は遂に到来してしまう。

 

 ナセラと凜明による激しい攻めを捌き続ける渚。彼女が風圧の刃を纏った回し蹴りを放ち、2人まとめて吹き飛ばす――または斬り払った、その瞬間だ。

 亜空間を経由して渚の足下に回り込んだ狼坐が、床から右手だけをニュッと出し、渚の軸足を掴む。

 「!!」

 渚がこれを知覚した時には、もう遅い。狼坐は能力を用いて、渚の足首から先をスッポリと奪取する。

 軸を失った渚が、回し蹴りの勢いに揺さぶられるがままグラリと重心を崩し、背中から倒れ込む。

 そこをすかさず狙う、ナセラと凜明。髑髏を象った鬼火を纏う刀と、赤銅色に照り輝く拳とが、雨霰となって渚の正面に降り注ぐ。

 この窮地に対抗した渚の行動は、3人の相手の目を一斉に丸くさせた。

 左手を後ろに回し、『宙地』の要領で取っ手となる方術陣を形成。それを掴んで回転軸とすると、渚は両脚を広げて旋回。ギュルリ、と轟音を聾する大気の渦を発生させて、ナセラと凜明の攻撃を飲み込み、弾き飛ばす。

 更に、渚は左手で方術陣を押し、自身の体を跳ね飛ばすと。全身で竜巻のような真空刃を纏い、凜明へと突撃。凜明を押し飛ばして、床に叩きつける。

 「んぐっ!」

 渚の下敷きになって苦鳴を上げる、凜明。その上に立つ渚は――左の足首から先を失っているはずなのに、バランスよくまっすぐに立ってナセラと、床下に潜る狼坐を()めつける。

 (どうなってやがんだ!?)

 狼坐が亜空間越しに渚の左足を見れば――そこには、青白く発光する術式で形成された足先が生えており、床――というか凜明の身体をしっかりと踏みしめている。

 (マジかよ…!

 咄嗟に身体の代替物を作り出す技術もスゲェが…肉体が欠損しても全然動じねぇ!

 神ってより、バケモノじゃねぇか!)

 感心と驚愕を覚える狼坐を、渚は形而上視認越しに憤怒の視線を叩きつけると。火を吹くような勢いで怒声を浴びせる。

 「『士師」だと立派に(のたま)いおって、何をコソコソしておるんじゃッ!」

 そして渚は凜明の身体から高速で跳び上がると、『宙地』による方向転換と加速を経て、狼坐が隠れる座標へと正確に流星のような跳び蹴りを叩き込む。すかさずナセラが刀を構えて立ちふさがるが、刀身で蹴撃を防御した途端、大規模な『鋼爆勁』が発動。雷光を放つ積乱雲のような爆発と共に、ナセラは蹴られた小石のように吹き飛ぶ。

 ナセラを囮にした隙に、狼坐は素早く亜空間中を移動する。が、渚は目敏く彼を隻眼で追い回し、烈風のように襲いかかるのであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 渚の奮戦の様子を眺めていた灰児は、その胸中をジクジクと興奮で(あぶ)られる。

 (スゲェ、スゲェぞ、あいつ…! ハンパねぇ!

 1人で『士師』3人相手とか、信じらンねぇ…!)

 この頃、美樹は狼坐達の苦境を感じ取り、身体ごと戦闘の方へと視線を向け、加勢すべきかと考えあぐねている様子だった。

 壁にめり込んだままの灰児や、足蹴にしている秀のことは、弱ったアリ相手のように、眼中に入れてはいない。

 普段は(うるさ)いばかりでロクな実力もない美樹の、あまりにも見下した視線。それが興奮に炙られる灰児の意志に、燃え盛る怒気と勇気を植え付ける。

 (このまま寝てられっかよッ!)

 身を[[rb:蝕<むしば]]む衝撃は、火が付いた感情が完全に払拭した。灰児は、バン、とワザと大きく音を立てながら弾けるように立ち上がり、柄の悪い表情を作って美樹の背中に罵声を投じる。

 「おいコラ、頭ユルユルのケバギャル!」

 「…は?」

 美樹は紫を基調にしたメイクを施した顔を険悪にしかめ、灰児の方に向き直る。

 美樹が挑発にまんまと乗ってくれた事に内心ほくそ笑みながら、灰児は軋んで痛む身体がぎこちなくならないよう鞭入れながら構えを取り、背中から生やした虹色の大翼を打ち振るう。

 ――オレはまだまだ元気だぞ、(たお)すつもりなら、もっともっと掛かってこい――そう言わんばかりの横柄な態度を取り、ニヤリと笑ってみせる。

 「『士師』の力を得たっつー割には、学生風情2人相手に、やたらと時間掛かってるじゃねぇか?

 怖そうにしてるのは、見てくれだけってことか? …いや、テメェの場合、怖いってよりゃ、ケバいってだけだがよ!

 そんなオバン臭いメイク、趣味悪すぎなんだよ!」

 美樹は秀を脚で軽く蹴り、数十センチ吹っ飛ばしてから、灰児に言い返す。

 「これがあたしの全力だと思ってるワケ? ハンッ!

 一般人(パンピー)のアンタら相手に本気出したら、瞬殺で詰まんないっつーの! だから遊んでやってるの、理解出来ないワケ?

 これだから脳無しの不良ってのは、ヤダヤダ!」

 美樹の嫌みにも、灰児は苛立ちを覚えない。それどころか、構えたまま余裕を感じさせる笑みを浮かべつつ、言葉を放つ。

 「その脳無しにやられちまうってのは、どんな気分なんだろうなぁ!? 『士師』サマよぉ!?」

 「…それ、本気で言ってるワケ?」

 美樹が笑みを消し、険悪な表情を作って睨みつける。美樹はやはり、『士師』になる以前の正確を受け継いでおり、会話には敏感に乗ってくれる。

 「ああ、本気も本気だっつーの!

 もうオレはお前の動きなんざ…」

 構えた拳を解、人差し指を立ててクイクイと曲げ、挑発してみせる。

 「いい加減、見切ったってンだよ」

 ――本音を言えば、見切ってなどいない。今まで受けたどの攻撃に関しても、優雅に無傷で捌き切れるような自身など、微塵もない。

 だが、灰児が大口を叩いているのは、自身を追い込むと共に、鼓舞しているのだ。

 それを触発したのは、眼前で見せつけられる、渚の凄絶な振る舞いだ。

 (あいつが1対3の状況下で、あんなに巧く立ち回ってるってのに…!

 美樹風情に2掛かりでボコられてるなんて、カッコ悪すぎだっつーの!)

 灰児の内心など推し量ることなく、美樹は大仰な動作で弓矢を構え、スッと目を細める。視線だけで灰児を射抜くような、冷たい眼差しだ。

 「アンタさ…」

 美樹が言い掛けた、その瞬間。灰児は大声を上げる、

 「秀ッ!」

 途端に、数瞬前まで足蹴にされていた秀が、再び手の内に術式の剣を作り出して立ち上がりつつ、美樹の背中に切り上げる刃を当てる。

 呪詛で強化されている美樹の体組織は、その一撃で致命傷を得るには至らなかったが。皮膚にスゥッと切り傷が走り、パッと鮮血が飛沫(しぶ)く。

 「!!」

 美樹は予想だにしなかった反撃に目を見開きながら、秀へと視線を向ける。その一方で――。

 「ッセイヤァッ!」

 一気に肉薄した灰児が虹色の翼を左腕に巻き付けると。巨大な虹色の腕を作り出し、美樹の頬面をブン殴る。

 美樹は非難の声を上げる間もなく、拳の直撃を受けて小石のように吹き飛んだ。

 

 ――どんなに卑怯だろうが、構わない。

 正面切ってまともに当たってはいかんともし難い実力差を埋めるためなら、どんな奇策だって労してみせる。

 勝って生き残らねば、何にもならないのだ。命の危機に晒されている自分たちは勿論、美樹を始めとする少女達もまた、呪詛に(そそのか)されて偽りの神意の名の元に罪を冒すことになるのだから――!

 そんな呻吟(しんぎん)の未来など、どんな手を使ってでも、ブッ潰してみせる――!

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Inside Identity - Part 14

 ◆ ◆ ◆

 

 ――ここで少し、セラルド学院2年3組の秀才男子、本樹(もとき)(しゅう)について語る。

 彼は幼い頃より、名に負けぬ文武に秀でた少年であった。とは言え、彼が"秀才"であって"天才"でないのは、彼の実績は(ひとえ)に地道にして素直な努力の賜物(たまもの)であり、天賦の才ではなかったからだ。

 生真面目に学び取り、復習し、苦手と向き合い、克服し、前進する。同年代の子供達に比べると、遊びよりも学問に打ち込む――いや、秀にとっては学問に打ち込むことこそが楽しみだったのかも知れない――ばかりであった。

 いつしか彼は、地元の者達から"神童"として一目置かれるようになる。その評価はこそばゆかったものの、悪い気は全くしなかった。むしろ、胸が高鳴り、誇らしい気分で胸が一杯になった。

 ――この事実を自覚した時、秀は自分が、他人から褒められて認められる事を渇望する性分であると理解した。

 この渇望に突き動かされるまま、秀は他の同年代の少年少女達の動向など気にせず、ひたすら我が道を進み続ける。そして何時しか彼は、地元だけでなく世界中から褒められることを望み、地球で最高峰の教育機関であるユーテリアへの入学を望むようになった。

 

 ユーテリアは、門口がだだっ広い学園である。入学を望む生徒は、余程の問題がない限り、入学を認められる。

 秀ならば入学は問題ないし、その後の高度な教育にも苦戦することなく、付いていけた事だろう。

 だが実際の彼は――中学校卒業後、ユーテリアの扉を叩くことをせず、生まれ故郷の高等学校に進学した。

 

 彼の渇望の足を留めたもの。それは、同世代の少年少女と組みせずに、独走を続けていた彼にとって、皮肉な要素――恋慕、だ。

 彼が渇望を捨ててまで心情の大半を向けるようになった相手――それが、現在の2年3組の"歩くスピーカー"美樹・ジェルフェロードである。

 

 美樹と秀とを比べると、そこには天と地ほどの大きな差がある。

 神童とまで称される秀才である秀に対して、美樹は赤点スレスレの常連だ。学問に打ち込む秀に対し、美樹が打ち込むのは交友関係ばかり。学校には友達に会い、そして遊ぶために来ているようなものだ。

 口を開けば、学校の内外問わず、ゴシップの事ばかり。薄っぺらい話題を情感たっぷりに込めてまくし立てる姿は、始めは失笑が漏れるほどに滑稽に見えたものだ。学業本分の学生らしく、そのよく回る舌と頭を学問に使えば、どれほど有益な人生を送れるものかと、小馬鹿にして鼻で笑っていたのに。

 薄っぺらい話題を振りまきながらも、その快活さ、愛嬌、ポジティブな思考でクラスメートのムードメーカーとして働く美樹に、秀は段々と好意を見い出していった。

 学問一本、生真面目一筋の狭くて深い井戸の中に居る自分にとって、美樹は地表を広く暖める太陽のような存在となっていった。

 そして――中学生活も終わりを迎えようかと云う時期に、秀が何気なく――そして初めて――美樹と言葉を交わした時。零れんばかりの笑顔を浮かべて、ケラケラ笑いながら応じてくれた美樹の姿は、今でも脳裏に焼き付いている。

 「お、優等生君! ようやくあたしのアリガタイ情報に耳を傾ける気になったかね!

 これでこのクラスメートの耳は全部、あたしのものになったワケだ!」

 それまでは、一度も言葉を交わしたことがなかったと云うのに。分け隔てなく、いつも通りの快活さで接してくれた美樹に、秀は井戸底にも眩しく注ぎ込む陽光を見た。

 

 秀にとって美樹は憧憬であり、恋慕の対象でもある。

 そんな彼女が今、呪詛なる(けが)らわしい物を植え付けられ、快活とも愛嬌とも無縁な淫靡な姿を(さら)し、罪に荷担しようとしている。

 そんな彼女に対し、暴力で(もっ)て対抗したところで、果たして彼女は救われるのだろうか? 深く傷つけるだけではないだろうか? そんな不安は、不快な風となって胸中を吹き荒れる。

 だが――手をこまねいているよりは、全然マシのはずだ。

 待っているだけで、眺めているだけでは、太陽は手に入らない。あの時、何気なく言葉を交わした時のように…例え相手が遠い星であろうとも、踏み込めば少なくとも、近寄ることくらい出来る…!

 

 ◆ ◆ ◆

 

 "合わせろよ、秀!"――そんな怒声が、灰児の鬼気迫る表情から聞こえて来そうだ。

 そして秀は、その意図を汲み取った。小さく頷いて同意を伝えると、激痛で軋む身体に鞭打ち、自身の能力(ちから)を精一杯振り絞って、灰児と共に怒濤の如く美樹を攻め続ける。

 2人は言葉を交わすこともなければ、視線を交わすことすら稀だ。それでも2人は、以心伝心しているかのように、キッチリと役割分担している。

 攻めの多くを担うのは、秀だ。術式で構築した剣を手に、美樹とは至近距離を保ちながら、剣をぶつけ続ける。

 単純な攻撃力ならば、灰児の方が断然上だ。それでも灰児がサポートに徹しているのは、戦闘経験の豊富さ故に、戦闘に関してはほぼ素人の秀では思いが及ばぬ盲点を潰すためだ。

 実際、灰児は秀の行動を阻まぬように攻撃を繰り出す一方で、美樹が密かに設置する罠を虹色の隻腕で(ことごと)く破壊し、懸念の払拭に努めていた。

 

 美樹の強みは、自由自在にして威力の高い矢による遠距離攻撃と、相手の行動を規制する巧みな罠だ。

 矢の遠距離攻撃は、秀のように至近距離を保ち、攻め続けることで防ぐことができる。いくら美樹が呪詛によって『士師』化していると言っても、矢を放つには常人と同じく、弓つがえる動作を経なければならない。この動作を阻害してしまえば、美樹は矢を放てない。

 遠距離攻撃を封じられても、美樹には刃のように鋭い切っ先を持つ弓を武器にした接近攻撃がある。その一撃一撃は、普段の美樹の実力では信じられないほど、重くて強烈だ。とは言え、防御の上から骨をブチ折られるほどの威力はない。歯を食い縛りさえすれば、どうにか耐えられる威力だ。

 一方、罠は2人が経験した通り、矢をも超える厄介な攻撃だ。強力な術式で形成された罠は、一度()まってしまうと中々抜け出せず、破壊しようにも酷く労力を要する。

 では、罠が完全に形成される前…術式構造が不完全な内に叩いてしまえば良いのではないか? そう思案した灰児は、美樹の行動を注視し、罠の形成過程を観察した。

 結果、美樹には完成された罠を自在に配置する程の能力(ちから)がないことを確認した。罠を作る際、美樹は形而上相において、影を伸ばすように足下から術式を伸ばして任意の箇所へ配置。それから術式を流し込みつつ組み上げることで、罠を完成させるのである。

 罠の完成までに要する時間は、非常に短い。しかし、ゼロではないのだ――しかも幸いにして、灰児が気合いを入れれば対応出来る程度である。

 これらの行動を可能にした理由に、もう一つ大きな要因がある。それは、美樹は『士師』ながらも、厳密には"(まが)いモノ"であるが故に、『神霊圧』を発する能力を持たぬことだ。この能力を有していたのならば、灰児も秀も魂魄を干渉され、ロクに歩くことすら出来なかっただろう。

 ――こうして灰児と秀は、巧みに連携することで、美樹の強みを見事に封殺してみせている。

 

 「ちぃっ! 何なのよ、一般人(パンピー)のくせにッ!」

 美樹が紫に彩られた唇を歪めて毒づきながら、眼前から離れぬ秀に蹴りをたたき込み、弓を振るう。

 蹴りは秀の脇腹に突き刺さり、弓は秀の術式の剣の刀身に突き刺さって刃零れを誘発する。秀は露骨に顔を苦痛に歪めたが、その両脚が(くずお)れることはない。すぐに術式の剣に魔力を注いで修復し、嵐のように振るう、振るう、振るう――!

 一方で、灰児は美樹の周囲を疾風のように動きながら虹色の隻腕で床やら壁やらを滅多叩きにし、罠の術式を打破。黒紫色の術式が分解されて宙空に昇華されてゆくのを後目(しりめ)に、美樹の背後に回り込んで拳や蹴りを叩き込む。

 「くそっ、くそっ、くそぉっ!」

 美樹は罵声を上げながら、秀と灰児の苛烈な攻めに手を焼く。体組織を強化している呪詛のお陰で外傷は殆どないものの、思うように身動き取れないことには相当苛立っている。

 対する灰児や秀は、蓄積されたダメージに疲労も加わり、全身の筋肉が悲鳴を上げている状態だ。少しでも動きを止めたら、筋肉は鉛のように重くなり、滝のような汗を流して倒れ込んでしまうことだろう。

 それに、今は身体に鞭打つことも出来るが、この動きも長くは保たないだろう。美樹より先にスタミナが底を尽き、2人は脱力することになるだろう。

 その前に2人が美樹を呪詛から解放できるかと言えば…それは期待できない。彼らは呪詛に関して知識は多くない。そもそも、都市国家(くに)全土に影響を及ぼすような強烈な魔術を相手にしては、あまりにも分が悪すぎる。

 ――そう、灰児と秀の2人が呪詛の解放を担うのであれば、分が悪い。

 だが、彼女なら――ユーテリアにおける最強を自称して恥じぬ立花渚なら、どうであろうか?

 灰児も秀も、他力本願な思考で情けないという事は、重々自認している。それでも、他人(たにん)を頼ることで実現の可能性が格段に高まるなら、是非にも任せたい。

 特に、生命(いのち)の掛かった現状下においては、だ。

 (頼んだぜ、ユーテリアの怪物!)

 (立花さん、僕らの不甲斐なさを罵ってくれて良い! でも…!)

 (何の落ち度もねぇヤツを利用して、罪に荷担させるような外道は、許せねぇ!)

 (倒すことで、美樹さん達の呪詛が解放されるのか、その保証はないのかも知れないけど…!)

 ――そのいけ好かない『士師』を、ブッ潰してくれ!

 

 2人の強い意志は重なり合い、渚へ託される。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 一方…立花渚との交戦を続ける『義賊の士師』狼坐(ろうざ)は、焦燥に駆られている。

 (何だってンだ、この邪神はよッ!

 力の媒介たる『天使』を封じてるってのによッ!)

 亜空間中に身を潜めたまま、黒い『天使』(もど)きを拘束する渚の『天使』をチラリと見やると。見比べるようにして、渚の方へと視線を戻す。

 渚は相変わらず、『士師』と化したナセラや凜明との交戦を続けている。呪詛によって超常的に身体能力を高められた2人を相手にしていると云うのに、渚の動きは一向に鈍らない。巧みに攻撃を回避し、(ある)いは同士討ちさえ誘いながら、爆発的な威力の拳足を叩き込んでくる。

 この時点に至るまで、狼坐は黙って少女2人の健闘を見守るだけではなかった。渚の隙をついては亜空間から接近し、渚の体部を盗み取っていた。その結果、今の渚は左足首のみならず、右腕の骨を抜かれ、左眼球を失っている。

 それでも、渚の動きは全く鈍らない。

 体部を失った事実にショックを受けることもなく、即座に術式で代替品を生成。右腕で思い切り鉄拳を放ってくるし、左眼側に移動しても死角にはならず、視覚に全く支障がないかのように反応してくる。

 

 その全能感は正に神を想起させるものだが…狼坐にしてみれば、途轍(とてつ)もない怪物を相手にしているようにしか思えない。

 

 (『神法(ロウ)』無しでここまでやるってのは、どういう化け物だよ…!)

 ナセラの幽鬼を用いた斬撃を潜り抜け、凜明の嵐のような拳撃を受け止めて、渚は凜明を素早く背負ってブン投げて、ナセラに叩きつける。もつれあって吹き飛ぶ2人を後目に、渚は迷うことなく狼坐の元へと疾駆する。

 (おいおいッ! なんだよその、決断力!)

 狼坐は亜空間に潜んでいるものの、構わずに渚が足を大きく振り上げて、烈風を伴う踵を落としてくる。狼坐は優位なはずの状況に甘んじることなく、跳び退(すさ)って距離を取ったが、それは正解であった。何せ、渚の身体(フィジカル)魔化(エンチャント)の一撃は、亜空間内へと易々と干渉してきたのだから。動かずにいたのなら、脳天を割られるどころか、身体を両断されていたかも知れない。

 (このアマ…ッ! ブッ殺されるまで、止まらねぇのかよッ!)

 尚も追い(すが)るべく疾走する渚の元に、ダメージから立ち直った凜明が背後から組み付こうとする。だが、渚は野生動物もかくやと云う反射速度を発揮し、振り向きざまに衝撃波を伴う回し蹴りを放つ。凜明はまともに腹部に直撃をくらい、数歩吹き飛ばされる。

 そんな凜明の陰からナセラが飛び出すものの、渚は驚愕することなく、怜悧(れいり)に状況へと対応。刀が振り降りるより早くナセラの懐に飛び込むと、肘で鎧越しに鳩尾を強打。この一撃には黒点針のような練気が伴い、ナセラの内臓を鋭い一撃が貫く。

 凜明もナセラもダメージは受けているものの、呪詛によって強化された身ゆえ、非常に早く立ち直って渚に立ち向かい、嵐のように攻め続ける。その全てに(ことごと)く対応する渚の顔には、灰児達のような疲労感は全く見受けられない。渚もまた、呪詛によって身体能力を底上げされているかのように感じる。

 …もしくは、ただ単に彼女の身体能力が化け物なのか。そんな化け物じみた能力を身につけるのに、『神法(ロウ)』無しで一体どれほどの修練を積んでいるのか。

 (こりゃあ、千日手になろうとも、投了しねぇんじゃねぇか!?)

 狼坐はギリリと歯噛みしながら、渚を仕留めるべく策を思案する。

 

 そして、ふと、ある考えに思い至る。

 それは至極自然な思考で、交戦時にはいつでも真っ先に思いつく考えだ。それでも渚に試さなかったのは、成功の見込みがあまりにも小さく感じたからだ。

 その考えとは、すなわち、心臓を直接奪い取ってしまう…というものだ。

 生命活動の要を担う心臓を奪うことが出来れば、相手が渚だろうと勿論、死を免れることは出来ない。即死に至らなくとも、至極短時間で生命活動は停止する。

 この単純明快な攻撃を行わない――いや、行えないと判断するには、魔法科学的な事情がある。

 生物の体内は、形而下の物質に対して免疫機能が備わっているように、形而上の術式においても干渉に対する堅固な耐性がある。その理由として、生物の魂魄に由来する高密度の定義式塊が持つ恒常性に起因すると説明される――すなわち、魂魄はその形を強固なまでに保とうする性質があり、外界からの変化を弾き返してしまうのだ。

 この事情が存在しないならば、狼坐でなくとも、魔術を使って直接内臓を攻撃する手段を真っ先に検討することであろう。

 一方、魂魄の恒常性がいくら強固であろうとも、充分な魔力(エネルギー)を与えることで突破することは可能である。その"充分"を満たすエネルギー量は往々にして甚大であり、相当の努力を費やしたところで成果を出せる見込みは極めて少ないのが現実だ。

 だから、魔術を用いようとも、超異層世界集合(オムニバース)中の術者の大半は内臓への直接干渉を現実的な攻撃手段として検討しない。

 一方、自然法則を超越する『神法(ロウ)』の加護のある『士師』ならば、魂魄の恒常性を打ち破れる――或いは、無視することが出来る。以前の狼坐がそうであったように。

 現在の狼坐は高々『士師』(もど)きだ。彼を加護するのは神聖なる『神法(ロウ)』ではなく、呪わしい呪詛である。

 それでも狼坐は、これまでの交戦において、渚の体内への干渉に成果を残している。

 彼女の右腕の骨、そして左の眼球。これらを奪取することが出来たことが、その証だ。

 その成果が、狼坐の呪詛が強まった事に因るものなのか。それとも、渚が疲労等の理由によって魂魄強度が低下した為なのか。その要因ははっきりとしないが…それは重要ではない。

 (もうそろそろ、オレの腕は…アイツの心臓に届くンじゃねぇのか!?)

 狼坐は亜空間の中で固唾を飲み下し、そしてニンマリと(よこしま)な嗤いを浮かべる。

 

 そして狼坐は、この非道なる策を実行に移さんと、蠢き始める。

 

 呪詛の依存関係上、ナセラと凜明は狼坐に従属している。そこで狼坐は彼女らの意識に直接接触し、指示する。

 (邪神(あいつ)を正面に引きつけろ!)

 ナセラも凜明も、素直に指示を受けては速やかに行動に移す。

 これまで挟み撃ちを定石としていた2人の攻めは一変し、渚の正面一方向となる。この変化に対して、渚は何かを感じ取った様子はない。――いや、通常の感覚で考えれば、感じ取れる余裕などないのだ。

 これまでも充分苛烈立った攻撃が、1方向に集中することで手数が激増。(さば)くのに手一杯で、余計な思案など出来ようもないのだ。

 その証に、拳と刀の嵐を前に、渚の顔はこれまで見せたことのない苦しげな歯噛みを見せている。2つずつの手足だけで、変幻自在、そして致命的な威力を持つ4つずつの手足に対応しなければならない。

 相手がいくら『現女神(あらめがみ)』であろうとも、『神法(ロウ)』を媒介する『天使』を動かせぬ状態では、ただの人間だ。ただし、技量が化け物並の人間ではあるが、それでも化け物並の攻め手に対しては、拮抗状態を保つしか出来ない。

 ――この拮抗状態の合間を、突く。

 

 狼坐は亜空間の中を疾風のように駆け、渚の懐に肉薄する。

 そして、ナセラと凜明の攻め手の嵐に(まぎ)れて、スルリと邪悪な腕を伸ばす。

 果実を掴み取るように、少し指を曲げた掌は、易々と渚の胸の中央へと至り――痛んだ制服の乾いた布を感触をカサリと掻き分けて、その中に入り込む。

 暖かく、(すべ)らかな少女の皮膚が指に染み込んでくる。(よこしま)な興奮に鼓動が跳ね上がるような想いを抱きながら、狼坐は更に腕を伸ばす。

 ズブリ――狼坐の指は遂に、皮膚、筋肉、そして肋骨を突き抜け、胸腔に入り込む。血肉の生暖かく、柔らかな感触に、狼坐の(ゆが)んだ口元から(よだれ)がダラリと滴る。

 血流がジクジクと皮膚を刺激する体内を更に進み――遂に狼坐は、熱く、そして力強く鼓動する、強壮なる生命の源にたどり着く。

 この臓器こそ――心臓だ!

 狼坐は暴力的に、この臓器をギュッと握り締める。

 転瞬、渚の身体がビクンと痙攣。一瞬で両眼が見開かれ、瞳孔がギュッと縮む。顔色が真っ青になり、冷たい汗がブワリと滝のように噴き出す。

 狼坐の目論見は、完全に、成功した!

 (さあ、頂くぜ…テメェの生命(いのち)、そのものをな!)

 狼坐は掴んだ心臓を、力任せに、思い切り掴みんで引っ張る――その時。

 

 (あ…れ?)

 興奮するほどに意気揚々としていた狼坐の顔が、嗤いの形のままグニャリと歪み、固まる。

 ――腕が、まるでコンクリートの中にでも手を突っ込んでしまったように、1ミリも動かない!!

 

 ◆ ◆ ◆

 

 グイッ――狼坐の伸ばした右腕を痛いくらいの力で掴む手がある。

 それは、渚の左手だ。

 (何…で?)

 現状をうまく把握できない狼坐が、亜空間越しにキョトンと渚の顔を見つめると。そこには、青ざめた顔色も、噴き出した冷や汗も、今や微塵も見えぬ凄絶な笑みを浮かべた、渚の顔がある。

 その表情が狼坐に、小馬鹿にしたような言葉を突きつけている。

 "大馬鹿者じゃのう"、と。

 (おいおい…あの2人は…!?)

 狼坐は渚を引き留めていたナセラと凜明の姿を視線で追う。今も苛烈に攻め続けていれば、渚のこんな行動など許さないはず!

 しかし狼坐は、現状を把握して、愕然とする。ナセラも凜明も、練気か身体(フィジカル)魔化(エンチャント)か…はたまたは、その両方か…を受けて、小石のように吹き飛び、床に倒れ伏している。

 呪詛の加護を受けている為、彼女らは常人よりは何倍も素早く復活することだろう。だが…そんな事実は、今の狼坐に対して何の救いにもならない。

 相手は――立花渚は、その短時間で確実に致命傷を与えてくる、化け物なのだから。

 (クソ、逃げ…)

 狼坐は腕を振りきって、亜空間の奥へと逃げ込もうとするが…渚の手はギリギリと万力のように狼坐の右腕を握り、決して逃さない。

 そればかりか、グイッと引っ張られたかと思うと、狼坐の身体は亜空間からズルリと引きずり出される。

 渚の小柄な体格からは想像も出来ない、山が動いたような、強大な筋力!

 (おいおいおい、待てよ、待てよ、待てよ…ッ!)

 今度は狼坐が顔を青ざめさせ、冷や汗でビッショリと濡れる番だ。上半身のほぼ全てを亜空間から引きずり出された狼坐は、無防備だ。体勢も崩れ、下半身の動きで抵抗することもままならない。

 (こいつ、こいつ、まさかよ…!)

 狼坐はオロオロと揺れる眼差しで、意地悪く、凄絶に嗤う渚の顔を直視し、動揺する。

 (誘ってたのかよ!? オレが直接内臓を掴みに来るのを!?

 ンな馬鹿な、そんなのリスキーにも程がある、割に合わねえだろッ!)

 

 狼坐の狼狽した憶測は、的中である――渚は、待ち受けていた。亜空間に潜む狼坐が、おいそれと逃げ出せないほどに接近してくる瞬間を。

 正直、ナセラや凜明、そして美樹を[[rb:斃>たお]す算段はある。だが、利用されているだけで何の非も無い彼女らを再起不能にする愚行を、渚は良しとしなかった。

 故に、形而上視認で従属関係を把握した渚は、3人の少女を狂わせた狼坐のみを標的にした。

 右腕の骨や左眼をくれてやったのは、全て仮初(かりそ)めの安堵を与える為の布石だ。その能力の性質上、必ず致命傷となり得る臓器を直接奪取に来ると予測した上での、策略だ。

 そして狼坐はまんまと渚の思惑通り、胸腔に手を伸ばし――渚は体内の恒常性を強化して、彼の腕を絡め取った。

 

 後は、憎きこの姦賊に鉄拳制裁を行うだけだ。

 

 左腕をバタバタ動かし、せめてもの抵抗と防御とする狼坐。対して渚は、右の拳をギリギリと固める。力が入った拳が青白く灯るのは、拳に体組織が身体(フィジカル)魔化(エンチャント)を受けて魔力励起光を放っている証だ。

 狼坐が泣き崩れそうな顔を作って、その瞬間。渚は拳を烈風と化し、狼坐の胸部に叩き込んだ。

 (ドン)(ドン)(ドン)(ドン)(ドン)――ッ! 連続で叩き込まれる拳は、インパクトの瞬間、狼坐の胸を構成する体組織――いや、そのタンパク質を構築する分子達に強烈なエネルギーを与え、強制的に過剰な励起状態を作り出す。結果、分子からは束縛エネルギーを振り切った電子が強烈なガンマ線と飛び出し、狼坐の胸腔とその内臓を灼き貫く。

 衝撃と共に突き抜ける荷電粒子が狼坐の背中から5つの光の柱となって噴出し、教室の天井に激突。天井には穴には至らぬものの、ベッコリと凹んだ窪みが5つ、作り出される。

 胸部を荷電粒子と放射線に灼かれた狼坐は、大口を開くものの、吐血することさえ出来ず、グラリと脱力。亜空間に潜行する能力を維持できなくなり、ズルリと全身を形而下へと引きずり出す。

 これと同時に、3つの事象が教室内で起こる。

 1つ目は、教室中を満たしていた黒い『天使』達の消滅だ。その(ことごと)くが黒紫色の煙へと昇華し、宙空へと溶けて無くなってしまう。

 2つ目は、狼坐が能力(ちから)を用いて奪取した体部などの解放だ。渚は左足首に右腕の骨、左眼を取り戻したし、灰児の虹色の翼は一対に戻った。

 そして最後に、ナセラ、凜明、そして美樹が『士師』"擬き"から解放された。彼女らは一斉に脱力してその場に倒れ伏すと、身を包んでいた鎧が消え去る。ただし、この鎧は元は衣服だったらしく、3人の少女は丸裸の状態でその場に倒れることになった。この光景を見た秀は、特に想いを寄せる美樹の全裸に、顔から火が出るほど赤面する。

 灰児は背中の両翼が戻った事よりも、目にした渚の壮絶な(わざ)に驚愕し、目を点にして呆然と呟く。

 「う…わ…、エゲつねぇし…スゴ過ぎだろ…!」

 

 こうして、『義賊の士師』"擬き"との戦いは、終わりを告げる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「さぁて、のう」

 渚は骨が戻ってきた右腕の調子を確かめるようにクルクルと動かしながら呟くと、スッとしゃがみ込む。そして、その場に倒れて白目を剥いている狼坐の胸倉を掴むと、グイッと引き起こして、容赦ない往復ビンタをパンパンッ! と浴びせる。

 「それ、起きんかいッ!

 まだ呪詛の影響があるじゃろ、この程度はくたばらぬ筈じゃ!」

 頬が赤く腫れる始めた頃、ようやく狼坐は眼球をグルリと回して黒目を戻すと。正面で眉をしかめて睨んでくる渚の顔を見つけ、ヒィッ、と声を上げて身体をビクリと震わす。

 しかし、逃げようにも狼坐の四肢は先の渚の攻撃を受けて、ボロ雑巾のようにダラリと脱力したまま動かない。

 もうどうにもならぬと(さと)り切った狼坐は、頬をひきつらせながら精一杯の嫌味を込めてニヤリと嗤って見せる。…そう、もう笑うしかない。

 「…ひ、ひでぇ神も居たもんだ…。

 や、やっぱりテメェは…邪神だ…。

 こんなに…ボロボロにしてくれやがって…さ、更に、無理矢理口を割らせようとしやがる…。血も涙あった…行動じゃねぇ」

 「無差別に呪詛をブチ撒けて、散々生命の尊厳を(もてあそ)んだ貴様に言われる筋合いなぞないわい」

 渚が怖いほどに強ばらせた表情で、押し殺すような無感情な声を投げつける。狼坐は尚もニヤニヤしながら、プルプルと震える唇で減らず口を叩く。

 「な、何も…喋らねぇぞ…。

 こんなオレでも…真なる主に捧げてる忠誠は…本物なのさ。絶対に…邪神の思い通りになんて…なってやらねぇ…!」

 「別に、おぬしの意志がどうであろうと、わしは構わぬ」

 言いながら渚は、左の人差し指で狼坐の胸をトントンと(つつ)く。すると、いつの間にか渚の背後に浮かんでいた渚の天使が、細い鎖を渚の左腕に絡ませながらスルスルと狼坐の胸へと伸ばす。そして、小さな鍵の形をした先端が狼坐の胸に触れた途端――狼坐の胸に音もなく直線的な亀裂が放射状に幾つも走り、その中央には鈍い鋼色の(たた)える錠前が現れる。

 「おぬしの心を直接開いて、調べるだけじゃからな。

 今回の大騒動、その首謀者と呪詛の術者の正体と居場所。そして、二ファーナを隠した場所も、洗いざらい全てな…!」

 狼坐は気怠げに自身の胸に視線を送り、そこに現れた錠前や亀裂を見つめると、もはや笑いすら消えて、顔を濡らす汗の冷たさに凍えたように青ざめる。

 渚の所業には痛みはないが、この事象が何を招くのか。そして、この事象を起こした力がどれほど強大か。身に染みて理解し、畏怖を抱いたのである。

 

 さて、渚が狼坐の胸の錠前をいじり始めた頃。

 美樹との戦いを終え、背中の虹色の拳翼を仕舞い込んだ灰児が、渚の方に呆然と視線を向けながら、ぼんやりと呟く。

 「お前…『現女神(あらめがみ)』だったのかよ…」

 『天使』を伴った今、渚の身体からは神霊圧が噴出している。それはヒトの動きを止めるような威圧ではなく、森林浴で得るような清々しさである。…何にせよ、超常の気配は常人であろうともひしひしと感じ取ることが出来るであろう。

 …とは言え、秀は美樹を介抱するので夢中になっており、渚のことなど全く見ていないが。

 「うむ…まぁ、そういう事じゃ」

 渚は錠前をいじくる手を止めると、頬を掻きながら苦笑いして答える。

 「『現女神』ってのも、学校生活するもんなんだな…」

 「"神"なんぞ言われておっても、ちょいと『神法(ロウ)』なんて代物が使えるくらいで、ヒトと変わりないもんじゃよ。

 学業に励もうが、仕事勤めしようが、わしらからすれば何も可笑(おか)しくはないんじゃ。

 …まぁ、そういう事をやっておる奴らの数が少ないのは、確かじゃがな」

 「…この都市国家(まち)に来たのは…やっぱり、『女神戦争』に関係してるから…なのか?」

 「違う違う」

 渚はヒラヒラと手のひらを振って否定する。

 「純粋に部活じゃよ。

 この都市国家(プロジェス)を悩ませている奇病を解決するのが目的じゃったんじゃがな。

 こんな大層な事になるとは、夢にも思わなんだよ」

 「部活で、そんな大層な事に首突っ込むってのは…やっぱり、ユーテリア通いの『現女神』ってのは、格が違うもんなんだな…」

 「いやいや、『現女神』かどうかなんて関係ないわい。

 わしの純然たる個人的な信条じゃよ」

 「…信条って…一言で片づけるにゃ、器がデカ過ぎだろ…」

 そんな灰児の言葉に、渚は応じて何か口にしようとした…が。

 その言葉は、突如の異変によって、咽喉の奥へと押し込まれてしまう。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ドォンッ! ドォンドォンッ!

 大気を震わし、窓のガラスをガタガタ鳴らす轟音が、空間に鳴り響く。

 同時に、教室に降り注いでいた曇天の陽光が一気に(かげ)り、積乱雲の真下に居る時よりも暗い――もはや陽が沈んだ時のような闇が訪れる。

 「な、なんだ!?」

 騒ぐ灰児と共に渚が窓の外へと視線を向ける。

 その一方で、狼坐が乾いた嗤い声をケラケラと上げている。

 「始まったなぁ…我らが主の再臨の儀式、いよいよ大詰めさ…!」

 渚達が注ぐ視線の先には、漆黒に塗り潰されゆく天空が広がっている。未だ漆黒に染まらず、大理石色を呈する曇天が覗く箇所も点在しているが…その箇所に、これまた漆黒の色を呈する小型の(ドラゴン)がツバメを思わせる姿勢で高速で飛来。直後、ドォンッ、と音を立てて弾け、"花火"を発する。その"花火"は祭りの夜空を彩る色彩豊かなものとは真逆の、墨のような真闇の炸裂である。そして広がった"花火"は、陽光を吸い込みながら、まるで翼を少しだけ広げ、ローブを着込んだ天使のような形状に広がりながら、空を漆黒に変えてゆくのだ。

 この漆黒を見つめる渚も灰児も、頭の中にズキン、とした衝撃を感じる。

 (あの"花火"も、呪詛じゃな!)

 渚は直感してギリリと歯噛み。そして即座に魔力を集中させ、呪詛からの干渉を魂魄から弾き出す。

 灰児も、そして美樹を介抱していた秀も、渚に習って呪詛の干渉を弾き出す。この"花火"の干渉は、先の濁声による干渉に比べると、影響力は数段劣るようだ。だが、充分な対抗手段を持ち合わせていない住民達には、影響はそれなりに深刻だ。

 「クソ! また何か始まるのかよッ!」

 灰児がウンザリした面もちで毒づいた――その時。

 

 渚の制服の内ポケットの中から、ナビットの着信を告げるメロディと振動が発生する。

 (何とも厄介な嵐に見舞われたものじゃわい)

 渚は苦笑しながら、制服の内側に手を突っ込み、ナビットを掴んだのだった。

 

 -To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

aLIEz

 ◆ ◆ ◆

 

 トンッ――"義賊の士師"狼坐(ロウザ)に背を押され、放り込まれた亜空間の中。

 網膜が痛くなるような鮮やかな極彩色が踊る光景が広がる中を、落下感を覚えながら、手足をバタつかせること、数秒の後。視界がパッと純白一色に染まり、眩しさの余りに瞼を閉じたかと思うと。うっすらと瞼を開けば――そこは、見知らぬ室内。

 狼坐に押された少女――ニファーナは突然の光景の移り変わりに困惑し、キョロキョロと視線を動かす。

 そこは、元は工場か何かだったのだろうか。金属製の壁と床、そして天井に囲まれている。所々に派手な錆が広がっているところを見ると、今ではヒトの手が殆ど入っていないらし事が見て取れる。

 ただし、床の状態や空気の匂いから感じる限り、清掃くらいの手入れはされているようだ。

 そしてこの空間に、ニファーナに視線を向ける男の姿が2つ、ある。

 彼らが何らかの目的でこの施設を手入れしているのだろうか…等と疑問を抱くより前に。男の内の1人の姿を認めたニファーナは、目を丸くして、わなわなと桜色の唇を震わせながら、茫然とした感じで呟く。

 「エノク…さん?」

 そう、そこにはニファーナがよく見知った神父姿の元士師が立っている。

 ニファーナの呟きにエノクは敏感に反応し、(うやうや)しく(ひざま)くと、嫌味など一片も見いだせない、真心のこもった一礼をする。

 「ニファーナ様。狼坐のような下郎にあなた様を迎えに行かせた非礼を、お許し下さい。

 しかしながら、神聖なる貴女様に、汚穢に満ちた餓鬼畜生の世界を歩ませるワケには行かぬと案じました」

 「な、何の話なんですか…?」

 ニファーナは全く事情が飲み込めず、目を白黒させながら聞き返す。

 何故、『女神戦争』後は全く姿も見せなかった狼坐が、急に教室に現れたのか。何故、狼坐はニファーナをこんな場所に連れて来たのか。何故、エノクがこんな場所で待ち受けていたのか。

 …そもそも、教室を地獄のような光景と化した、濁音の叫喚。あれは一体、何なのか。狼坐やエノクと繋がりがあるのか。だとしたら、一体何の為なのか。

 エノクが何か企んでいるとするならば…一体何をしようとしているのか。

 様々な疑問が胸中を次々と過ぎり、舌がどんな言葉を形にするべきかと惑う最中のこと。エノクから2、3歩離れた位置に立つもう1人の男が、後頭部に腕を回して手を組みながら、眠たげのような、愉悦に浸っているような微笑を浮かべてみせる。

 「"若神父"さんよ。このニブチン頭の娘が、いきなりこんな状況を突きつけられただけで事情が把握出来るワケねーだろ?

 ちゃんと言葉にしてやんなよ」

 この男は、ニファーナが全く見覚えのない人物である。燃えるように鮮やかな真紅の紙を長く伸ばし、ロックアーティストよろしく派手なスタッズで飾りまくった黒いジャケットを身につけた、エノクとは正反対の雰囲気を持つ男。耳のピアスを始め、指やら首やらにジャラジャラとシルバーアクセサリーをつけたその姿は、アーティストと云うよりチンピラのようだ。

 そして何より眼を引くのは、ジャケットの肩に張り付けられた、鮮明なピンク色のハートマークだ。その上下を囲む"I"と"WAR"の文字を繋げると、「私は戦争が大好きです」と読める。

 この男が"ニブチン"と云う雑言を口にしたのを耳にしたエノクは、こめかみに青筋を浮かせ、火を吹くような視線で睨みつける。

 「ニファーナ様への無礼は、絶対に許さん。

 お前は計画の要とは云え、巨大な歯車を回すドブネズミに過ぎない。対してこの方は、世に神聖なる光をもたらす偉大なるお方である。敬意を払い、口を慎め」

 派手な男は(ののし)られても平然とした笑みを浮かべてはいたが、内心はカチンと来ていたようだ。細めた視線に剣呑な輝きを宿し、ンベッと舌を出して嘲る。

 「ンな口聞いて、オレがヘソ曲げたらどうすんだよ?

 チェルベロも本腰入れて来ちまったってのに、せっかくここまで来た計画もメッチャクッチャに破綻しちまうぜぇ?」

 その言葉にエノクは奥歯をギリリと噛み締めたが。反論できない内容であったらしく、火が宿るような溜息を、ハァー、と吐いて気を鎮めると。

 「…口を慎むよう、気をつけてほしい」

 と、幾分か語気を弱めた言葉を赤髪の男に言い直せば、赤髪の男はクックッと楽しげに含み笑う。

 そんな2人のやり取りに、置いてけぼりを食らった感じがして我慢ならぬニファーナは、語気を強めて叫ぶように尋ねる。

 「何の話なのか、何をやってるのか、聞いてるのッ!

 エノクさん、何を企んでるの!? この都市国家(まち)の現状は、あなたが仕組んだ事なの!?

 それに、この派手なヒトは誰なの!? 見るからにヤバそうなチャラ男じゃない! あんなに真面目なエノクさんが、どうしてこんなヒトと(つる)んでるワケ!?

 全然、ワケ分かんない!」

 言葉の最後に、ニファーナは頭をブンブンと左右に振る。自身の疑問を払拭すると云うよりも、目の前の状況が暗示する凶事を拒絶するかのような仕草である。

 そんなニファーナの有様を見て、尚もクックッと笑う、派手な男。対してエノクは、岩にでもなったかのように表情をのっぺりと、しかし鋼を真正面に受けてもビクともしない無表情を作ると。跪いた姿勢のまま、他人行儀な[(うやうや)しさを込めて答える。

 「貴女様には再び、この都市国家(くに)の『現女神』となっていただく。

 この禍々しい男も、民草に膝付かせた阿鼻叫喚も、怒り狂える黒き『天使』の群れも――全ては、その目的を果たさんがための布石に過ぎません」

 「もう一度…『現女神』に…?」

 『現女神』の座は、ユーテリアに籍を置く者すら欲して止まぬ、超異層世界集合(オムニバース)における女性の最高位と云えるもの。幾ら欲して血の滲む研鑽を積もうとも、意図しては決して手に入らないその座を、人為的に与えようと云うのだ。これが並の女性であったのならば、小躍りして歓迎しても不思議ではあるまい。

 だが…ニファーナの反応は、それとは全くの真逆である。

 短剣の切っ先でも突きつけられたかのように、怯えて青ざめる。その足元は、フルフルと小刻み震えてすらいる。

 「そんなの…イヤだよ…!

 私、『現女神』になるなんて…もうコリゴリだよ…!」

 「あらあら」

 ニファーナの拒絶に、派手な男が口笛を吹きそうな勢いで、ちょっと驚いた声を上げる。

 「ホント、前評判の通りだねぇ。

 変わった娘だなぁ」

 派手な男が同意を求めるようにエノクに視線を向けながら語るが、エノクは答えない。ただひたすらにニファーナを見つめたまま、スクッと立ち上がりながら、堅い言葉を放つ。

 「いいえ。

 貴女様がどう思われようが、なんとしても成って頂く」

 「何の為…!?」

 ニファーナは怯えを顔に張り付けたまま、喚いて問う。その怯えは、憧憬の的であるはずの『現女神』の座が汚穢(おわい)であるかのような、激しい嫌悪の情を含んでいる。

 「『女神戦争』は、もう終わったんだよ…! あの時、私は確かに負けちゃったけど…それでも、別の『現女神』の娘が、あの怖い『現女神』をやっつけてくれた! だからといって、この都市国家(まち)に君臨するでなく、自治をそのままに、立ち去ってくれた…!

 このプロジェスは、平和になったんだよ! 昔から望んでいた独立だって、崩れたワケじゃない! むしろ、私が『現女神』だった頃よりも、今の方がよっぽど活気に(あふ)れてる!

 同盟を組んでくれる都市国家だって増えて、襲われるような事なんて殆ど考えられない!

 もう、戦うことなんてないんだよ! 求めていたものは、手に入ったんだよ!

 それなのに…これ以上、何を望んでるの!? エノクさんは、皆は!? 一体、何が欲しいの!?」

 「平和…? 独立…? 活気…?」

 エノクが尋ね返す。その有様に、怯えるニファーナは露骨にビクリと身体を震わせ、一歩後ずさる。

 その時のエノクと来たら…岩のようであった面持ちを崩したかと思うと、灼熱のマグマから噴き出す火焔のような怒気を孕んだ、鬼面の如き憤怒の表情を張り付けたからだ。

 ニファーナがエノクと知り合ってこの方、全く見たことのない激情である。

 「貴女様は、プロジェスの現状を見て、左様に()れた感想を抱きなさるのか…!」

 ニファーナは、全く分からない。エノクが一体、何に対してそこまで憤っているのか、微塵も理解出来ない。

 汗水流した努力の果てに掴む大きな実りよりも、平々凡々ながらも誰もが手に出来る小さな幸せこそ尊ぶニファーナには、理解できようはずがない。

 長きに渡るプロジェスの有刺鉄線の如き辛酸の味に染まり、その呻吟(しんぎん)の奈落を這いずり回りながら、夢や希望を掴み取り握り締める者達の激情など、理解できようはずがない。

 「貴女様は、感じられませんか!? それとも、(かまど)の女神の如き器が大き過ぎるが故に、把握し切れぬのでしょうか!?

 この都市国家(プロジェス)を蝕む堕落を、惰弱を、腐敗を、下劣を!

 貴女様が神の座を捨ててまで守り通そうとした誇りと秩序の、無惨なる瓦解を!」

 堕落? 惰弱? 腐敗? 下劣? 瓦解? ――何もかも、ニファーナにはピンと来ない言葉ばかりだ。むしろ、先に彼女自身が言った通り、現在のプロジェスに対する不満などないのだ。

 エノクの眼には一体、何が見えていると云うのか?

 ニファーナの戸惑いに応えるように、エノクは激しく頭を振りながら訴える。

 「これは、冒涜なのです! 神の座を失ってまでこの都市国家(プロジェス)を守り抜いた貴女様への、あまりに惨い冒涜だ!

 街並みの光景を振り返ってみてください! 下賤なる民草が何に現を抜かしているのか! 貴女様への恩義など、とうに頭の片隅からすら忘れている! 代わりに何に傾倒しているかと云えば、外入してきた数々の虚ろなる駄戯ばかり!

 貴女様を称えるでもない、都市国家(くに)を誇るでない、長きの労苦を慰めるでもない! 勝手気ままな独り善がりの押しつけ!

 偉大なる第一の慰問者、フリージア様方の意志を歪んで解釈し、自身の成り上がりの踏み台としか考えぬ糞の部外者ども!

 その糞を黄金のように有り難がる、眼の腐りきった蠅の如き民草!

 これを冒涜と言わず、何と形容できましょうか!?」

 エノクはプロジェスの出身者ではない。だが、プロジェスに尽くし、プロジェスの『現女神』を支える内に、その魂魄はすっかりとプロジェスの色に染めぬかれている。彼は"若神父"であるより、元の『士師』であるより、プロジェスの真摯なる市民なのだ。

 「…今回の事件のこと…狼坐さんや、あの喚き声を出していたのは恐らく、パバルさんじゃないかと思うけど…エノクさんと同じ考えのヒトって、沢山いるの…?」

 ニファーナが怯えつつも、震える唇でなんとか尋ねると。エノクはハッとして激情を露わにした面持ちを冷たい無表情に鎮めて、感情を押し殺した淡々たる言葉を告げる。

 「はい。

 我ら元『士師』ばかりではありません。現状を憂う真摯なる民草の数は、甚大です。

 彼らの内で、今この時に行動を起こしておらぬ者は居ません。皆、今こそがプロジェスの冒涜を打倒し、ニファーナ様を神の座と据えた、誇り高く気概溢れるプロジェスの姿を取り戻そうと血汗を流しております」

 この言葉を真正面から受け止めたニファーナは…申し訳なさそうな様子で、モジモジと指を合わせて動かしながら、(うつむ)いて黙り込む。そのまま数秒の時間が流れた後、ニファーナの桜色の唇が、恐る恐るに震えつつ言葉を紡ぐ。

 「…もう『現女神』でもない私を慕ってくれるヒト達が沢山いるって云うのは…嬉しい…んだと思う。『現女神』の座にあっても、大したこと出来てなかった私を必要としてくれて…すごく、有り難いと思う。

 …だけど…」

 ニファーナは震える身体を必死に動かし、キビキビと深く頭を下げる。

 「ごめんなさい。

 私、エノクさん達の想いには、応えられないです」

 その台詞を、エノクは無表情のまま、岩のように受け止める。怒っているのか、悲しんでいるのか、全く読み取れずに、ニファーナの脊椎を不安が這い回る。

 だが、彼女は不安に屈せず、言葉を続ける――エノクの意を(くじ)く為の言葉を。

 「私は…元々、『現女神』になりたいなんて思ってなかった人間です。

 ただただ…ダラダラとで良いから、平穏に、平凡にその日その日を暮らせたら良いとしか思っていなかった、そんなダメ人間です。

 正直…『現女神』になってしまった時は…ずっと重くて、苦しかったです。こんな座なんて、すぐにでも捨てたいと思ってました。

 エノクさん達が…言い方は悪いんだけど…勝手に盛り上げてくれたから、何とかなっていた…そういう人間です。

 そんな私が…もう一度『現女神』になったところで、この都市国家(プロジェス)に何が出来るワケでもないでしょうし…そもそも、なりたいと思わない。思えない。

 あんな重くて苦しい責任を背負うなんて、もう二度とやりたくない…」

 ニファーナがそう語ると、それまで成り行きを傍観していた派手な男が、不意にパンパンと大きく拍手を始めて、ケラケラと嗤う。

 「前評判と大分印象が違うねぇ。

 ぐーたら無責任、だなんて飛んでもない! スンゲェ真面目で良い娘じゃんか、お嬢さん!」

 ニファーナはその評価に対して、否定的な意見を述べようとした、その矢先。「だけどよぉ」と派手な男がニヤニヤと続ける。

 「残念ながらな、オレを雇ったこの神父サマはよ、君の真面目さを真っ直ぐに受け止めてくれるようなマトモな相手じゃねぇのさ。

 じゃなきゃ、オレみたいな凶人に声をかけるワケがねぇ」

 自らをして"凶人"と称してなお、恥じることも自虐することもなく、ただただ嗤ってみせる、派手な男。そんな彼の言葉の真偽を問うべく、ニファーナがエノクに視線を注ぐと…。

 エノクは慌てて否定する素振りなど微塵も見せず、ドッシリとした岩のような態度のまま、淡々と口を開き、ニファーナに答える。

 「ニファーナ様、貴女の想いは十二分に伝わりました。理解も出来るし、同情も出来る。

 しかしながら、この期に()いては、貴女様の意志は関係ない」

 バッサリと切り捨てるような無情な言葉に、ニファーナの表情が固まる。

 派手な男が言った通りだ。ニファーナの想いを、エノクは全く受け付けてはいない。

 「私は、貴女様に"女神になっていただく"と語った。"いただきたい"と云う願望ではなく、これは確定です。

 貴女様が歓喜しようが忌み嫌おうが、私達には問題ではありません。

 ただただ、私たちには『現女神』として貴女に再臨していただく事が必要なだけです」

 「そんな、そんな…! エノクさんは、そんな事を言うヒトなんかじゃ…!」

 ニファーナが衝撃と共に訴える一方で、派手な男が再びパンパンと手を叩く。しかし今度の音は感激の拍手ではなく、場を鎮めるための威嚇だ。

 「はいはい、ストップストップ。

 これ以上言い合いを続けたところで、堂々巡りするだけ。時間の無駄じゃねぇか、神父さんよ?

 それに、仕事を請け負った身の上のオレとしちゃあ、アンタに満足してもらった上でキッチリと仕事を果たしたいって気持ちもある。

 だからよ、鉄は熱い内に打て、だ。サッサと"やっちまおう"。星撒部だのチェルベロだのに、冷や水ぶっかけられちまう前にな!」

 一体何を"やっちまう"というのか。当然、ニファーナには理解出来ず、疑問が湧く。しかし、それを口にする暇は与えられない。

 派手な男の言葉に頷いたエノクが、即座にニファーナの手首を掴んで、グイと引っ張ったからだ。

 「痛…っ」

 ニファーナは小さく悲鳴を上げる。エノクときたら、無機質な人形をぞんざいに扱うかのように、容赦なく力を込めたのだから。

 「申し訳ありませんが、この期においてこれ以上貴女様の抵抗を間に受ける(いとま)が惜しいのです。非礼ではありますが、力づくでも従っていただく」

 「エノク…さん…! あなたは、そんなヒトじゃないよ…! どうして、そんなに…!」

 ニファーナは非難の言葉を続けるが、エノクは全く耳を傾けない。ただ派手な男に視線を投じて語る。

 「ザイサード」

 エノクがニファーナの前で、初めて派手な男の名を呼ぶ。

 「これよりニファーナ様を連れて行くが、そちらの準備は万全なのか? 私と共に来る必要はないのか?」

 「あー、ないはずだ。うん、ないない」

 ザイサードはパタパタと手を振りながら答える。

 「オレはそっちの装置を面倒見るよりも、そこのお嬢ちゃんの魂魄励起を引き起こすエネルギーを生成しなきゃならんからね。それが出来なきゃ、この計画はオジャンだ。

 つーワケで、アンタとはここで一端、お別れだ。

 カワイくなったその娘と一緒にもう一度会えることを、楽しみにしてるぜ」

 「了解した。

 それでは、そちらの作業はくれぐれもお願いする」

 ザイサードがヒラヒラと手を振る姿に背を向けて、エノクはニファーナを引きずりながら、錆びついた金属の回廊の奥へと歩み出す。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「何時(いつ)から…なの?」

 ポツリと呟いたニファーナの声は、錆びた金属で囲まれた狭い回廊に大きく響き渡る。

 エノクに手を引っ張られて歩くこと、およそ10分は経過しただろうか。心許ない電球がプラプラと天井からブラ下がり、薄暗く回廊を照らしている。数メートル先は真闇に近く、少しエコーがかった足音が吸い込まれてゆく。その向こう側に青白い顔をした亡霊が立っていても可怪しくないような、不気味な雰囲気だ。

 「何時から…とは?」

 エノクはニファーナを振り返らず、淡々とした無機質な声で問い返す。

 「そう…だね。今回の事件を起こそうと考えたというか…心に決めたのは、何時からなの…?」

 「善きフリージアの演奏会を覚えていますか? ニファーナ様が誘ってくれた、素晴らしい演奏会でした。」

 エノクは淡々と即答する。

 「あれが終わって、約1週間ほどでしょうか…このプロジェスに、彼女らの志を理解せずに、ただただ便乗する下賤の輩が跋扈(ばっこ)するようになった頃からです。

 我々はどうしても、この冒涜に耐えられませんでした。誇り高きプロジェスへと回帰…いや、変革する必要があると云う意識が、我々の中に共通で芽生えました」

 「我々…ってことは、その頃にはもう、狼坐さん達とも接触していたんですか…?」

 「はい」

 エノクはやはり振り向かぬまま、頷く。

 「ニファーナ様が『現女神』の座を失ったとしても…いえ、失ってしまったからこそ、このプロジェスの今後を如何に導くべきか。その事については、我ら『士師』は勿論、その他の志高い同志とはよく語り合っていました」

 「その結論が…今回の、この騒動って事…?」

 「そうです」

 エノクは振り向かぬまま、キッパリと肯定する。

 「これはプロジェスを(けが)す涜神者達への断罪であり、志高き真なる市民を選び出す淘汰です。

 下賤に染まり、堕落した卑民どもは、この先もプロジェスの仇となるだけでしょう。故に、その魂魄を『天使』へと転変させる。その点から考えれば、淘汰と云うよりは、浄化と表現するべきでしょうか」

 エノクの言葉に淀みは全く含まれていない。恐ろしいまでに独り善がりで偏執に満ちた内容を、平然と語ってのける。

 最早彼の心は、石のように堅強に凝り固まっている。どんなに(さか)しい言葉をかけたとて、水のように溶ける事はないだろう。――ましてや、今の惰弱なばかりのニファーナの言葉が、どんな功を奏せると云うのだろうか。

 何か語っていれば、エノクの雰囲気が普段のように和らぐのではないか、と希望を抱いていたのだが。それが到底叶いそうにない事を覚りきったニファーナは、小さな嘆息を挟むと、話題を別のものに切り替える。

 それは、純粋な疑問…というか、好奇心にも近い内容だ。

 「エノクさんと一緒に居た、派手な格好のヒト…あれは、誰? 見たことないヒトだから…プロジェスの外のヒトだよね?

 あのヒトは、エノクさんの言うところの"下賤な輩"じゃないの? あのヒトは、エノクさん達にとって、どんなヒトなの?」

 「彼は、この変革をコーディネートしてくれた、作戦の要。

 この地球――いや、超異層世界集合(オムニバース)でも屈指の『戦争屋』。"ハートマーク"の一員で、ザイサード・ザ・レッドと云う者です」

 「…!」

 ニファーナは『戦争屋』と云う忌むべき単語に衝撃を覚え、思わず足を止める。しかしエノクは構わずに彼女の手を引いて前に進むものだから、ニファーナはつんのめって前に倒れ込みそうになってしまう。

 周辺事情への関心が薄いニファーナであるが、『戦争屋』についてはよく知っている。『現女神』の座にあった頃、プロジェスを脅かす対外勢力の話題の中でチラホラと出てきた名前だ。

 人類の(いさか)いを餌に世界を蹂躙する事で利益を貪る、凶人ども――それが、ニファーナの中における『戦争屋』への評価だ。

 ただし、"ハートマーク"と云う『戦争屋』集団の名は、今回初めて耳にしている。

 「ニファーナ様が驚かれるのも無理はないでしょう。貴女様が『現女神』の座あった時分、我々と『戦争屋』は[(すべから)く敵同士として関わってきましたから。

 しかしながら、それはそのような情勢が続いたというだけの事。彼ら自体は絶対悪であり、人類の敵だと云うワケではありません。

 特に、此度の変革においては、彼らの姿勢と能力は無比の味方です」

 「でも…! あのヒト達が戦争に介入して、状況を引っ掻き回して、犠牲を広げているのは事実だよ…!」

 「確かに、その事は否定しません。

 しかしその事態を生んだのは、彼らの存在が直接の要因ではありません。

 彼らの存在を望む者達の思惑が在ってこそ、です。

 何せ彼らは、料理に用いる包丁のように、戦争を確実に進めるための道具なのですから」

 「分かった、分かったよ! 『戦争屋』は悪じゃないって事は、分かったよ!

 でも、"戦争"そのものは悪でしょう!? 他人の権利を力で蹂躙して、ねじ伏せて、時には有無を言わせず命すら奪う!

 いくらプロジェスの現状に不満が有るからって、そんな悲惨な"戦争"を変革の手段にするのは、可怪しいよ!」

 「果たして、"戦争"はそれほど悪いものでしょうか?」

 エノクの台詞は相変わらず淡々としていたが、ニファーナはこめかみを思い切り殴りつけられたような衝撃を覚える。

 ニファーナは自身のことを散々な出来損ないだと考えている。そんな自分ですから理解できる初歩的な倫理を、プロジェスの発展に貢献し続けてきた偉人が何故に疑問符を付けるのか。全く理解が出来ない!

 対するエノクは、振り向かずともニファーナの衝撃を理解したようで、彼女を諭す反論を口にする。

 「もしも戦争が悪ならば、ニファーナ様も感激なされた善きフリージアの方々も皆、悪となります」

 一体どういう理由から、そんな意見が出るのか。理解できずに眉をひそめるニファーナに、エノクは言葉を続ける。

 「彼女らがこの都市国家(まち)で行った演奏会。その功績の陰には、『戦争屋』が居るのですよ」

 「…! 嘘…!」

 ニファーナが目を見開く。エノクは失笑もせず、やはり淡々と言葉を続ける。

 「ニファーナ様、貴女の"戦争"に対する見識は余りに狭い。

 確かに、"戦争"は国家を始めとする大規模な組織間で行われる殺傷行為を意味する。しかしそれは、狭義の解釈に過ぎません。

 何らかの障害に対して戦い、争うこと。それこそが"戦争"の原義です。

 その障害の対象が国家であろうと、社会であろうと、市場であろうと構わないのです。

 そして善きフリージアにとっての障害は、困窮と疲弊です。自らが届けたい意志を阻むそれらの精神的な障害を取り除くために、彼女らは『戦争屋』を用い、人心を和ませるための状況を作り出したのです。あの会場も、会場に満ちる和やかな雰囲気も、『戦争屋』のコーディネートがあってこその実現だったのです」

 「そんな事、誰に…!」

 「直接聞きましたよ、善きフリージアの皆様に」

 エノクは即答し、ニファーナの否定の言葉を塞ぐ。

 「ザイサードと知り合ったのは、善きフリージアを支えた偉大なる『戦争屋』からの紹介です。同じく"ハートマーク"に属し、実績が確かで、我々の目的実現を叶える最高の手段となりえる者。それが、彼と云うワケです」

 ニファーナはエノクの言葉に不満を抱き――その中身がどんなものなのか、当人すらよく知り得なかったが――とにかく拒絶しようと息を吸い込んだが。その意気込みが言葉になるよりも早く、エノクが不意に歩みを止めたかと思うと、ようやくニファーナの方へ振り向く。

 「着きました。

 貴女様が再び『現女神』の座を得るための間――再臨の間とでも申しましょうか」

 そう語りながら軽く開いた右手で通路の壁を示す、エノク。手の先にあるのは、壁と同じく酷い錆びが広がる、金属製の扉だ。神々しさなど微塵も感じられない、薄汚い開き扉である。

 ニファーナが何か反応を示すより早く、エノクはサッとドアノブを握って回す。ギギィ、と耳障りな音を立てて扉が開くと――途端に、扉の隙間から猛烈な異臭がムワリと噴き出す。

 「う…っ!」

 ニファーナは思わず手のひらで鼻と口を覆う。胃袋が暴れるような、鼻孔をブチ壊すような、不健全な熱を帯びたような粘ついた悪臭。

 やはり、神々しさなど感じられない。むしろ、その真逆――罪人が煮られる地獄の池から立ち上る臭気を連想させる。

 ニファーナの反応など意に介さず、エノクはそのまま扉を開く。部屋の中は照明が無く、真闇に包まれている。回廊から差し込む薄暗い照明だけが心許ない一条の光線となって室内に入り込んでいるだけだ。

 その光は、キラキラと輝きながら宙を舞う埃と共に、何やら不格好な立体の姿をチラリと真闇の中に浮かび上がらせる。

 「さぁ、こちらの中へ」

 エノクは(うやうや)しい態度で礼をしながらニファーナを中へと誘う。ニファーナは露骨に顔を不快感に歪めながら、開いた入り口へと恐る恐る足を運ぶ。

 室内では、回廊にさえ濃密に漏れていた異臭が、更に濃度を増して充満している。ニファーナの胃袋はいよいよ暴れ狂い、酸っぱいものが食道にこみ上げてくる。酷い刺激が涙腺をツンと刺激し、思わず涙がボロリと滲み零れる。

 (一体…何なの!? 何が在るの、この場所に…!)

 その疑問の答えは――一瞬の後、真闇から一転して室内に満ち満ちる煌々たる輝きの元に露わになる。

 

 そして、それを目にしたニファーナは…絶句する。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 真闇をひっくり返したような眩しい輝きは、天井のみならず壁一覧にも設置された光源によるものだ。単なる電灯ではなく、光霊系の魔術による照明らしい。その証拠に、太陽を直接覗くような(まばゆ)さだと云うのに、明順応による網膜の負荷を殆ど感じない。輝きに眼球が痛むことも無ければ、反射的に瞼が降りてくることもない。

 …だが、それらの生態反応が起きた方が、ニファーナにとって幸いであったろう。

 何の覚悟もなく、室内を埋め尽くす"地獄"の光景を、網膜に()き付けねばならなくなったのだから。

 

 「ひぃ…っ!」

 ニファーナは息を飲み、涙腺から流れる涙を更に大粒にしながら、悲鳴を上げる。

 照明の元に晒されたのは、(うずたか)く積もり上がった、赤一色。それは夕日のような鮮やかで感動的な赤ではなく…凄惨な傷跡から流れ出し、濁り固まった黒々とした赤である。`

 その赤の正体は…結論から云えば、"血"と"肉"の色だ。

 真闇の中でもチラリと見えた、室内を満たす不格好な立体の正体。それは、"器械"だ。と言え、電力や魔力を源として工業的作業を生み出す"機械(マシーン)"ではない。そもそもこの代物は、電力や魔力を必要とするものではない。

 ハンドルやら紐など、手動を要する部位が幾つも見える。何と云うか…幼児の玩具を連結して巨大化した代物に見える。

 いや…そこにもう一つ、"凶悪化"という言葉を添えるべきだろう。

 この器械には、不穏な部品が多数見受けられる…いや、不穏な部品しかない、と評価しても過言ではない。

 トゲの着いた車輪やキャタピラ。火を吹く巨大な釜。険悪な凸凹(でこぼこ)が着いた鋳型のような部品。

 それらの全てに付着しているのは…酷く痛めつけられた、人体だ。皮膚を剥がされ、臓物(はらわた)をデロリと露出し、ポタリポタリと粘つく血液をワインのように滴らせる、無惨な体躯達。

 つまりこの器械は、巨大な拷問器具だ。

 ニファーナの衝撃を促進させたのは、この器械に取り込まれて傷ついた者達が皆(ことごと)く、存命であるということだ。虫の息であろうと、その胸は小さく上下し、四肢の先端はピクピクと動いている。だが、喘ぎの声すら聞こえないのは、その舌に大きな十字の傷がある為のようだ。この傷が発声の邪魔をしているらしい。

 この残酷に過ぎる光景に、ニファーナの胸中に様々な衝撃の感情が走り抜ける。困惑、嫌悪、恐怖、悲哀…それらがグルグルと混ざり合い、最終的に行き着いた感情は…憤怒である。

 ニファーナは眉を怒らせ、涙が溢れるままの眼でエノクを睨みつけると、火を吐く声をぶつける。

 「何なの、これ!? どういう事なの!?

 何してるの、早く手当してあげてよっ! こんな酷い事、どうして平気な顔してやれるのっ!」

 エノクはニファーナに評された通り、凍り付くような冷淡な表情で、淡々と答える。

 「貴女様に神の座を与える装置です。

 再び神に至るための信心を集結させ、賦与するためにザイサードが設計構築した逸品です」

 「信心…!? こんなもので、どうやって信心なんて集められるのっ!

 痛めつけるだけの器械で集められるものなんて、恨みでしかないじゃないっ! 信仰なんかじゃないよッ!」

 「その通りです」

 エノクはあっさりと肯定する。その反応にニファーナが絶句するよりも早く、エノクは言葉を継ぐ。

 「そして、それで何の問題もありません。

 所詮、信仰と怨恨は色が違うだけで、同一のベクトルです」

 そんな馬鹿な! ニファーナは大声を上げて否定したくて仕方ない。一方は敬う心であり、もう一方は憎む心だ。それが同一であるなど、一般的な感覚で捉えれば、相反する全く別の概念としか思えない!

 そんなニファーナの胸中を察したように、エノクは一般を超越した(ことわり)を口にする。

 「信仰も怨恨も、一なる対象への強い感情の投射です。心を注ぐことに代わりは在りません。

 また、怨恨は長期的に鑑みれば、信仰と同一になります。

 怨恨は最初、爆発的な拒絶反応であり、信仰とは色彩が全く異なります。故に、常人はそれを同一のものであると認識できません。

 しかし、爆発的な反応は永続しません。爆発的である期間内に状況を打開できなければ、心的エネルギーは減衰し、萎んでしまう。すると、拒絶への意志は衰弱し、代わりに諦観としての畏怖が芽生えます。丁度、暴動を苛烈に鎮圧され続けた市民達が、最終的に暴政に甘んじ、暴君に忠誠を誓うように。

 その境地に達してしまえば、課程がどうであろうと、信仰も怨恨も、"対象を自身の上に戴く"と云う点で等しいのです」

 ニファーナは、エノクの理屈を理解できない。彼女は理論的な思考の持ち主ではなく、直感に頼る落第生なのだから。だが、エノクの理屈が不愉快だと云うことだけは、心に深く刻まれる。

 「エノクさんの解説は正しいんだと思うよ、エノクさんは私と違って優秀なヒトだもん!

 でも、正しいとか間違ってるとか、そういう問題じゃないよ! こんなに沢山のヒトを…その…痛めつけてさ、何とも思わないワケ!?」

 「神の再臨に比べれば、賤民の苦悶など些事です」

 エノクは再びキッパリと言い切る。ニファーナはパクパクと口を動かして、エノクの冷酷な言葉を如何にしてねじ伏せるかと思案する…が。

 ニファーナの思考に幸いにして妙案が浮かぶよりも断然早く、エノクはニファーナの腕を掴み上げる。

 「痛…ッ!」

 ニファーナが声を上げるも、エノクは回廊を歩いてきた時と同様、彼女に見向きもせずに、(おぞ)ましい室内の奥へと彼女を引っ張り誘う。

 「止めてよ、止めてってば!」

 ニファーナがジタバタと手足を動かして抵抗しても、エノクの歩みの枷にはならない。プロジェスの繁栄の為に戦い続けてきた男の身体能力に、今や自堕落な落第生に過ぎない少女の体力が敵うワケがない。

 引きずられながら、少女は進むごとに密になる地獄の光景を網膜に灼き付ける事になり、ますます視界が涙で滲む。

 虫の息になった、凄惨な人々の暗澹たる表情がニファーナに向けられ、嘆願とも憤怒とも付かぬ激情を注がれる。その衝撃に、ニファーナの思考は猛獣の牙に食いちぎられたように蝕まれてゆく。

 

 やがて2人が達したのは…この広い室内の中央よりやや奥に位置する、小高くなった"台座"の上。

 血反吐で汚れた赤黒い台座の階段の上に、円形の床が室内を睥睨できるように設置されている。その床の中央に設置されているのは…地獄の様極まれり、と云った感のある、あまりにも惨たらしい玉座。

 それは、複数の壊滅的にひしゃげた人体を組み合わせて作った、残酷なる座席だ。苛まれ続けた苦悶によってゲッソリと()けた東部や、黒々として見えるほどの真紅を露出した骨や臓物が、奇っ怪なオブジェのように組み合わさっている。勿論、その1人1人が致命的な状態でありながらも、ヒィッヒィッとか細い呼吸音を上げて、なけなしの生にしがみついている。

 この異形の玉座には、ポタリ、ポタリと粘っこい糸を引く滴が一定にリズムを刻んで零れ落ちている。この滴の出元を辿って視線を上げれば、そこにはやはり赤色を呈する、十字架が天井から吊り下がっている。

 勿論、この十字架も人体によって生成されたものだ。他と少し(おもむき)が異なるのは、器械のような芯を中心にしてまとわりついているのではなく、煮凝(にこご)りのように血肉が癒合して生成されている点である。ゼラチン質を思わせる表面からは骨がアクセントのように飛び出し、その先端から赤の滴――溶解した肉と血の混じった汚滴が零れ落ちている。

 

 「さぁ、ニファーナ様。

 これが貴女様の新たな神の座です」

 エノクは言葉の響きこそ(うやうや)しいものの、粗暴とも言える動作でニファーナを椅子へと突き放す。

 ニファーナは凄惨な椅子にぶつからぬように、何とか足を踏ん張ってその場に留まると。涙が溢れる眼差しでエノクを射抜きながら、叫ぶ。

 「冗談じゃないよッ!

 こんな…こんな酷いものに、座れるワケないよッ!」

 「いいえ、貴女様は座りますよ」

 エノクはニファーナを椅子に追いつめるように歩み迫りながら、凍ったような無表情のまま両手を肩ほどの高さに上げると。そのまま、パチリ、と指を鳴らす。

 転瞬、部屋中の器械がゴキリゴキリと不気味な音を立てて駆動を始める。拷問が鈍く重い動作で無惨な人体を更に痛めつければ、部屋中に金切り声の絶叫が四方八方から響き渡る。

 余りにも惨い声音に、ニファーナは両耳を塞ぐ。しかし、手越しにも鼓膜を(ろう)する絶叫の怒濤は雪崩れ込み、ニファーナの精神を蝕む。

 …そう、声はニファーナの鼓膜だけでなく、精神――ひいては、魂魄に作用を及ぼし始める。

 彼女の胸中に渦巻く悲哀や憤怒の感情の中に、まるで花火が灯るように、なんだか心躍るような"興奮"が、心臓をドクンと突き動かす。

 (何…!? 何なの…!?

 私…何で、こんなにドキドキするワケ!? 何を興奮してるワケ!? 何で…(よろこ)んでるワケ!?)

 「貴女様を畏怖し称える"聖歌"に、歓喜を覚えているのですよ」

 エノクがニファーナの胸中を見透かしたように答える。

 「その反応こそが、貴女様が再び神の座に付くに相応しい証。

 貴女様は堕落した民草を罰し、導く、より強靱な神格として再臨する」

 ニファーナは拒絶しようと必死に意識を巡らす。だが、どうしても胸の興奮は収まらない。悲哀や憤怒が縮んでゆくのを、つなぎ止められない。

 (やだよ、やだよ、やだよ…!)

 必死の叫びも、胸中から外へと噴出することもない。

 ニファーナは、エノクを見つめる。無機質な表情から、次第に口角が上がり、薄い笑みへと変じてゆく彼の表情を、見つめる。

 (どうしてこんな風になっちゃったの、エノクさん…!)

 その叫びは、エノクの胸にも脳にも届かない。

 

 そして、ニファーナの魂魄は、阿鼻叫喚の色へと塗りつぶされてゆく。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Under The Serpent Hiss - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 渚やヴァネッサが、呪詛によって生まれ『士師』"(もど)き"と激闘を繰り広げていた一方で。都市国家プロジェスの状況は、二転三転と変化していた。

 

 最初の状況は、知っての通り、絶望的な窮地である。

 天を覆わん規模の数を有するばかりか、増殖さえしてゆく黒い『天使』達。彼らの感情無き苛烈な襲撃は、一般市民は勿論、戦闘訓練を受けているはずの市軍警察隊員達をも艱難辛苦のどん底に叩き落とした。

 残る星撒部の部員、紫とアリエッタの戦いは非常に過酷なものであった。ただ『天使』の撃滅に集中すれば良い云うものではない。人々に次々に感染してゆく呪詛の解呪や、避難指示、市軍警察隊員を見つけては彼らを鼓舞する…など、とてもではないが手が回らぬほどの多忙を抱えこむようになった。

 (これは…正直、辛いわね…)

 いつも笑みを絶やさないアリエッタも、その表情が思わず苦々しく歪んでしまった程だ。

 

 終わりの見えぬと思われたこの窮地であるが、幸いにして予想だにしなかった事に一転。状況の天秤がプロジェスの秩序側に大きく傾いた事があった。

 "チェルベロ"捜査官、暮禰(くれない)蓮矢率いる"チェルベロ"機動隊の介入である。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「クッソ、数多過ぎンのよ…ッ!」

 ヴァネッサがパバルと交戦を始めた頃。紫はアリエッタと別行動し、黒い『天使』達の軍勢の撃滅にひたすら(いそ)しんでいた。

 紫が主に狙うのは、トカゲ型を初めとする、路上パフォーマー達から生み出された大型で怪物的な姿の『天使』だ。大多数を占める騎士型の『天使』に比べると、定義術式の強度も複雑さも段違いの大きく、その分生体能力・戦闘能力・呪詛汚染能力も極めて高い。

 騎士型ならば、意気消沈したとは云えども、散在する市軍警察の衛戦部の人ならば何とか対応出来ることだろう。ならば、自分が厄介な相手を減らしさえすれば、状況は少しずつでも好転するはず…そう判断しての行動だ。

 茨の道である事は覚悟の上ではあるが…蓄積し続ける疲労の一方で、終わりが見えそうにない『天使』の増殖を目の当たりにすると、愚痴の一つも叩きたくなってくる。

 (こういう時、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の不良部隊なら! 市民の被害なんてお構いなしに、対呪詛浄化術式で絨毯爆撃するんだろうね! ムッチャ気持ち良さそうよねッ!)

 そんな物騒な事を胸で叫びながら、魔装(イクウィップメント)の能力で作り出した大剣を嵐のように振るい、電光の拳で盛大な閃光の爆発を起こす。胸中の苛立った激情を、そのまま暴力に転化して叩きつけているようだ。

 とは云え、紫は決して無闇な暴力に走っているワケではない。くぐり抜けた幾多の交戦の最中、彼女は敵を斃すだけでなく、しっかりと分析も行っていた。その結果、紫は怪物様の呪詛『天使』達に共通してみられる定義の傾向を把握した。その傾向から逆算し、『天使』達が苦手とする術式を見つけ出すと、初戦に比べれば随分と少ない労力で『天使』を破壊する事が可能となった。

 しかし、ハサミで紙を切るように――とまでは行かないのが実状だ。『天使』達は元となった人物の性質に()るのか、それぞれに性能差がある。中には呪詛と相性の良い性質だったのか、紙どころか岩石のように強固な個体も居る。そんなものを相手にすると、どれほど手慣れて来たと言っても、思わず舌打ちしたくなる程の手間が掛かる。

 ――そしてこの時、紫はそんな厄介な類の『天使』2体に加え、他にも4体の怪物様天使…計6体を同時に相手を勤めていた。

 (ああ、もうッ!

 ホント、面倒面倒面倒ッ!)

 紫は手にした大剣に魔力を込め、刃の術式構造を変化。真紅に燃えて輝く光の刃を作り出すと、周辺を囲む6体へ対してグルリと回転しながら横一文字の斬撃を与える。

 ギィィィンッ、と耳障りな金属的激突音が響いたかと思うと、翼が生えたイノシシに似た『天使』が黒紫色の蒸気と化して消滅する。だが、その隙間を埋めるように、すかさず新たな2体の怪物様『天使』が現れ、デタラメな牙を向いて襲いかかってくる。

 (いい加減、静かにしろってのッ!)

 紫は大剣の柄を握り直すと、(かかと)にギュッと力を込めて、逆方向に回転を始める。この一撃で何体か斃せれば御の字だ…と思った、その矢先。

 (ザン)(ザン)(ザン)(ザン)(ザン)(ザン)(ザン)ッ! 7度の連続する斬撃音が響いたかと思うと、周辺を囲む7体の『天使』達が(ことぼと)く黒紫色の蒸気へと昇華。紫の周囲は、一気に凪の空間へと転じる。

 「…は?」

 何が起きたのか理解できず、勢い余って空しく半回転する紫が、眉を(ひそ)めてキョトンと声を上げると。

 「加勢にしに来たぜ、女子学生!」

 耳に入る、ヘラヘラとした軽薄な物言い。その声音に、紫は聞き覚えがある。

 紫は声の主を脳裏に描くと、安堵の溜息を密かに吐いた後、陰のある笑みを浮かべて毒を吐く。

 「これだけの騒動が起きたってのに、どこにも姿が見えないから、本部に逃げ帰ったものかと思ってたんだけど。

 意外と根性あったのね、捜査官」

 「逃げるかよ! 自分から目をつけた現場だぜ!?」

 苦笑しながら律儀に真面目な回答をするのは、紫の想像通りの人物。"チェルベロ"捜査官の暮禰(くれない)蓮矢である。

 「本部に戻ってたのは本当だがよ、逃げるどころか、戦う為の布石だぜ?

 それで現に、アンタはオレに助けられたワケだろ?」

 そう語る蓮矢の姿は、紫が以前に見た格好とは大分違う。全身を機動隊隊員が着込むような魔化(エンチャント)されたジャケットを着込み、手には一振りの抜き身の刀を持っている。陽光の反射だけでは到底説明できない、目映いほどの純白の輝きを放つ刀身は、強力な術式を作動させて魔術励起光を発している事を物語っている。

 彼の装備一式を見て取った紫は、蓮矢の言う"戦う為の布石"が真実であると(さと)る。すべての装備が対呪詛用に(あつら)えられたものだと、一目で見抜いたからだ。

 (へえ…単独行動を取るような捜査官だから、ある程度の護身能力はあると思ったけど――結構戦えるんだ)

 紫は胸中で感心しながらも、口に出したのは厳しい突っ込みだ。

 「そんな恩着せがましい台詞ヘラヘラ吐いてる暇が在るなら、『天使』の一匹も斃したらどうなの?」

 「勿論、そのつもりさ。

 けどな、そんなに(せわ)しなく構えなくてもいいぜ。何故なら…」

 蓮矢が言葉を続けようとした矢先。怪物様と騎士型の入り交じった呪詛『天使』どもが津波の如く沸き上がり、会話を交わす2人の元へと怒濤の勢いで押し寄せる。

 「言わんこっちゃないッ!」

 紫は唾棄して大剣を構え、迅速に対応しようと一歩踏み出した――直後。

 

 

 (ドウ)ッ! 空気を破砕する轟音が轟いたかと思うと、曇天の空の下に一条の(まばゆ)い純白の輝線が走る。輝線はそのまま、長大な刀身のように空を薙ぎ、押し寄せる呪詛『天使』どもの体を一閃。すると『天使』達の体に綺麗な一直線の分断創が形成され、そこを中心に黒紫色の術式の蒸気がムワリと発生。そのまま一気に昇華してしまう。

 紫は気負いが空回りし、踏み込みの勢いを押し殺しきれずにつんのめって転びそうになる。

 何が起きたのか――その自問の答えは、背後から蓮矢に向けて投げ掛けれられる、生真面目な男の言葉が与えてくれる。

 「捜査官、この一帯は私がクリアします。

 敵を気にする必要はありません、その学生との話を進めてください」

 そう語るのは、紺と黒という昔ながらの機動隊員カラーに染められた機動装甲服(MAS)に身を固めた、一人の人物である。頭をスッカリとヘルメットとマスクで覆っているため、見た目だけでは性別の判断は出来ない。ツルリとしたヘルメットの額と、角張った肩部装甲には、どちらにも三首の犬のマークが張り付いている。"チェルベロ"所属の人員である事を示す証だ。

 この機動装甲歩兵(MASS)こそが、"チェルベロ"の機動部隊隊員である。機動装甲服(MAS)は"チェルベロ"ではオーソドックスにしてカスタマイズしやすい"聖騎士(パラディン)"と呼ばれるタイプのもので、両肩には中長距離攻撃用の砲が一門ずつ装備されている。

 「おう、じゃ任せるわ。

 丁度ミディとも連絡取りたかったしな」

 蓮矢は一緒にプロジェス入りした情報人(ミーマー)の同僚の事を引き合いに出しつつ応じる。すると機動隊員は素早く(うなづ)くと、腰部および脚部に装備された推進機関をふかし、砂埃を上げながら呪詛『天使』の群れへと単身で突入してゆく。

 「…良いの、あれ? 単独行動させるのって、マズいんじゃないの?」

 紫が訊けば、蓮矢はウインクして笑う。

 「近場にゃオレが居るから、"チェルベロ"基準じゃ単独ってことにはならんのさ。

 それに、捜索任務じゃなくて制圧だからな。しかも、こちとら指先一つで呪詛どもをノックダウン出来る戦力を用意して来てる。よっぽどの間抜けじゃなきゃ、怪我すらしねぇさ」

 蓮矢の言葉を"チェルベロ"の上層部が聞けば、間違いなく眉を(ひそ)める事だろう。しかし、戦力に関する言及は至極(もっと)もだ。現時、紫が手間を掛けて斃す『天使』を、斬撃の一閃、砲撃の一発で滅している。

 「腐っても、流石は武闘派公的機関って事ね。状況把握から最善装備の準備、現場介入までの手並みはお見事ねー」

 紫の言葉は一応賛辞であるが、"腐っても"の言葉にも見られるように、やはり毒を含んだものである。そんな軽口を叩けるようになったという事は、紫は"チェルベロ"の存在に少なからず安堵した証である。

 蓮矢は紫の毒に対して苦笑するに留めると、機動隊員がチラリと言及していた"話"を進める。

 「オレらは見ての通り、本気の戦力を投入してプロジェスの混乱の収束、およびテロ行為の犯行グループの制圧に当たってる。

 そこで、アンタら星撒部とも連携が取れれば、尚のことスムーズに事を進められると考えてる。

 ってことで、早速だが、先輩たちを集めてくれないか?」

 「現地の市軍警察戦力を差し置いて、一介の学生グループに協力を仰ぐワケかー」

 紫がそう毒を吐くと、蓮矢は慌ててパタパタと両手を振り、紫の言葉を打ち消す。

 「いやいや、そういうワケじゃない。市軍警察の方にも勿論、協力を取り付けてるさ。

 一緒に現地入りした情報人(ミーマー)の同僚が、中枢行政区の状況クリアがてら、指揮系統回復支援に当たってる。

 オレと違って、()えてる冷静なヤツだからな。もうとっくに、市軍警察の上層部と折り合いつけて――」

 語っている矢先に突如、蓮矢の眼前に平面的なホログラムディスプレイが出現する。通信機器が動作した様子はないので、魔術またはそれに準ずる通信のようだ。

 青緑色がかったディスプレイには、真っ黒ながら時折思い出したように砂嵐のようなノイズが走る光景を背に、一人の女性の上半身が映る。生真面目そうに"チェルベロ"の制服を着込んだ、黒髪三つ編みに凛々しくも大人の魅力に溢れた顔立ちを持つ人物。蓮矢の同僚である情報人(ミーマー)の捜査官、四条ミディだ。

 「蓮矢捜査官」

 ミディは外観をそのまま音声に置き換えたような、お堅い口調で単刀直入に状況報告を始める。

 「こちらは、プロジェス市軍警察の上層部との接触に成功しました。現在、私たちの機動隊と連携をとりながら、混乱している現場の統制を行っているところです。

 そちらは――見たところ、目的の人物と合流出来たようですが?」

 ミディは視線を蓮矢から一度も外さないのにも関わらず、彼女の視界に入らないはずの紫の事を把握し、言及する。これは形而上相に存在の重きを持つ情報人(ミーマー)では当たり前の知覚だ。彼女らにとって、形而下的な物質身体は他の生物とコミュニケーションを取りやすくするための媒体に過ぎない。目・鼻・耳といった一般的な感覚器官は()わば飾りに過ぎず、形而上相にある本体こそが真の感覚器官である。

 「ああ、その通りだ」

 蓮矢は簡潔に(うなず)くと、ミディは言葉を続ける。

 「それでは、当初の予定通り、主犯の逮捕はお願いします。

 私は引き続き、指揮系統と現場志気の回復に勤めます」

 それだけ語ると、ミディは一方的に通信を切断し、ホログラムディスプレイを消滅させる。

 蓮矢は肩を(すく)めると、紫に向き直って口を開く。

 「…ってなワケだ。君らの少数精鋭、しかも地球圏治安監視集団(エグリゴリ)にも匹敵する力を頼んで、今回のテロリズムの主犯逮捕に協力して欲しい。

 相手には、最悪の凶人『戦争屋』、"ハートマーク"も絡んでると思われる。頼んでおいて虫の良い言葉だが、十分気をつけた上で、事に当たって欲しい」

 「げっ、"ハートマーク"かぁ…」

 紫は舌をベロリを出しそうな程に嫌な顔を作り、頬を引きつらせる。紫を含めて星撒部の者達は――入部して日が浅いノーラを除いて――"チェルベロ"も警戒する最凶の『戦争屋』"ハートマーク"の存在は知っている。

 知っているどころか、部員の中には"ハートマーク"と直接関わりを持った――それが良きにせよ悪きにせよ――者も居る。

 紫は関わりを持った事はないが、話を聞いた限りでさえ、彼らの厄介さを痛感している。

 「なるほどね。道理で『女神戦争』集結直後の疲弊しているはずの都市国家で、ここまで盛大な呪詛騒ぎが起こるワケだわ。すんごい納得!

 ヤツらが関与してるってのなら、ヘラヘラしてられないわね。直ぐに先輩達に連絡入れるわ。…尤も、交戦中の可能性が高いから、直ぐに返事がもらえるとは限らないけどね」

 「流石はユーテリアの"英雄の卵"、理解が早くて助かるぜ!」

 蓮矢が賞賛を送っている最中にも、紫はナビットを取り出すと、早速通信を始める。

 

 紫は3人の先輩に対して一斉に通信を申し込んだが。この頃、『士師』"(もど)き"と激戦を繰り広げている渚とヴァネッサは通信を気に留めることなど無く、連絡は返ってこなかった。

 一方、アリエッタは3コールもしない内に3Dディスプレイで顔を見せる。彼女も『天使』と交戦を繰り広げていた身の上、いつもはふんわりとした穏やかな雰囲気ながらキッチリ整えている身なりも、埃にまみれて汚れ乱れている。しかし、その顔には普段通りのニコニコとした柔和な笑顔だ。

 「アリエッタ先輩、今大丈夫ですか?」

 「ええ。"チェルベロ"の方々のお陰で一区切り着いたところだったの。何の用かしら?」

 「あっ、もうそっちにも"チェルベロ"の機動隊が行ってるんですね。意外と手回し良いんですね、"チェルベロ"って」

 「当たり前だろ。こんな危急の時にノロノロしてられっかよ」

 紫の毒にすかさず蓮矢が反応してボソリと漏らすが、紫は無視して話を続ける。

 「こっち、あの蓮矢捜査官が来て居るんです。それで、今回の事態の犯人を逮捕したいから、私たち学生に手を貸して欲しいって依頼されました。

 そのミーティングをしたいようなので、こちらに来てもらえませんか?」

 「ええ、構わないわよ。

 こっちは"チェルベロ"と市軍警察の方に任せて大丈夫そうだし。

 すぐにそっちに向かうわね」

 そうアリエッタが語った、その直後。ナビットのスピーカー越しに、(やかま)しい男の声が介入する。

 「(あね)さん、何処かに行くんですか!? オレも絶対に着いて行きますよ! ここまで来て置いてけぼりなんてされたら、ガン泣きしますよ、オレ!」

 その声は、紫にも聞き覚えがある。ただ、声の主がどんな顔をしていたのか、どうにも思い出せず、眉をしかめる。

 そこへ、蓮矢がズイッと紫の隣に顔を並べると、男に声をかける。

 「おっ、ウォルフ君じゃねーか!

 お前みたいな調子だけは良い野郎が、よく生き残ってたな!」

 そう、声の主は蓮矢と共に奇病騒ぎの調査に回っていたプロジェスの若手治安部警官のウォルフ・ガルデンである。その名を耳にして、紫も"そう言えば、そんなヤツも居たっけ"と思い出して納得する。

 ウォルフは体育会系部活の後輩部員のように、やたらとハキハキした言葉遣いで語る。

 「はい、姐さんのお陰でなんとか!

 いや、スゲェやばかったんですよ ! 頭が割れそうに痛くなって、意識がグニャグニャに歪んで、ブッ倒れるかと思ったんですけどね!

 姐さんの素晴らしい剣舞のお陰で、この通り! ピンピンしてますよ!」

 アリエッタの背後に顔を出したウォルフは、二の腕の力瘤を作って見せつけながら語る。…とは云え、その力瘤は衛戦部の隊員が見たら鼻で笑われる程度のものである。

 一方、アリエッタはウォルフの言動に対して困った苦笑を作る。

 「ウォルフさん、私より年上なのに、"姐さん"なんて言うものだから…恥ずかしいような、窮屈なような感じがして。止めて欲しいんだけど…」

 紫に向けての言葉だったが、ウォルフは素早く反応して反論する。

 「年の上下なんて関係ないですッ! 尊敬すべき者は丁重に敬え、というのが我が家の教えですから!」

 アリエッタは言い聞かせても時間の無駄だと悟り切って、小さく肩を(すく)めてみせる。

 

 ともあれ、アリエッタは通信の後、直ぐに移動を開始。10分程して、息を切らして滝のように汗を流すウォルフを伴ったアリエッタが、小走りで姿を現した。

 アリエッタ単身ならば、もっと速く移動も出来たであろうが。ウォルフの歩調に合わせたのが目に見える。

 そんなゆっくりした行動が仇にならなかったのは、プロジェスの状況が大分落ち着いている証であると言えよう。

 ――実際、この時のプロジェスは平穏のピークを迎えていた。丁度この頃、ヴァネッサは『吟遊の士師』パバルを打破し、『天使』の生成能力を大きく奪っても居た。

 「そろそろ、副部長とヴァネッサ先輩にもう一度連絡を取ってるわ」

 アリエッタが間近に来るのを待たずに、紫はナビットの操作を始める。

 

 その動作が引き金になったとでも言うように――プロジェスの状況の天秤は、再び混沌側に大きく傾くこととなる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「…!?」

 プロジェスの一画にて。"チェルベロ"機動隊員が機動装甲服(MAS)の計器の反応に対して、眉をしかめる。

 「どうかしたのか?」

 二人一組(ツーマンセル)を組む別の隊員が、その様子を察して問いかける。

 「っこっちの形而上相のレーダーに、妙な存在定義が引っかかって来た。

 呪詛らしいんだが…今までのものと、パターンがかなり違う」

 「新手ってことか? 厄介だな…」

 機動隊員2人組は、揃って顔に苦渋の色を張り付ける。彼らの装備している機動装甲服(MAS)は、ある程度機能に柔軟性を持たせてはいるものの、基本的には蓮矢とミディが収集・解析してたロジェスの現状に合わせてカスタマイズされている。その範疇を大きく外れるような事象に直面した場合、最悪、カスタマイズが仇となって状況の打開が困難になることさえある。

 「ミディ捜査官なら把握済みかも既に知れんが、一応連絡入れておく」

 "チェルベロ"隊員の対応は、迅速且つ素直だ。本部に連絡しておけば、装備班による素早い換装が期待できる。

 「分かった、任せ――」

 隊員の一人の言葉の途中。彼の言葉をかき消して響く、鼓膜を聾する大音声。

 グワアアアァァァッ! その叫びは、これまで闘ってきた呪詛の発する濁声とは全く異なる。大樹を根こそぎ引っこ抜いて倒すような、強烈にしてある種の爽快感すら感じさせる、"咆哮"――そう、巨大な生物が大口を開いて発する絶叫そのものだ。

 "連絡する"と言っていた隊員も、この突然の絶叫の音圧に思考を吹き飛ばされ、忘我のままに目を見開き、立ち尽くしたまま声のした方へと視線を投じる。

 

 地上6、7階建ての背の低い摩天楼の間から、"そいつ"はヌルリと滑り出るようにして姿を現す。

 その体表の色彩は、2人が撃滅してきた呪詛『天使』どもと同様、漆黒である。少々違うのは、その表面が曇天の陽光を(わず)かに反射する金属光沢を呈するということだ。

 また、形態もこれまでの呪詛『天使』どもと明確な相違がある。これまでの『天使』と来たら、悪夢に出てくる異様な怪物じみた姿をしていた。しかし"そいつ"は、生物として非常に整った姿をしている。

 即ち――爛々と輝く双眸に、太い剣山を思わす密集した牙が生えた大口。太く長い首に続くのは、筋骨隆々とした3対の脚を持つ巨大な胴体。そして、背中には天空を覆わんばかりのコウモリに似た翼が存在する。鈍い金属光沢を呈する体表は見るからに堅固な巨大な鱗が重なり合ったものだ。そして、臀部には鞭と形容するには太すぎる、しかししなやかに動く長大な尾がある。

 翼に由来する烈風を伴って現れた"そいつ"の全容を視認した隊員2人は、全く同じ感想を胸に抱く――こいつは、"粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)"だ!

 (なんでこんな都市(まち)中に、こんな魔法体質生物が出てくる!?)

 地球圏治安監視集団(エグリゴリ)や市軍警察を初めとする公的組織が尽力して、居住地域から徹底的に遠ざけているはずの怪物どもが、何故この混乱に介入してきたのか!? 疑問符が頭上に浮かぶものの、隊員2人は直ぐに気持ちを切り替える。

 「新手と思われる個体を確認! 映像を送信する! 解析および換装の準備を求む!」

 連絡を買って出ていた隊員が機動装甲服(MAS)の計器のデータと共に粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)の姿を送信する。一方でもう一人の隊員は、この怪物をせめて足止めするためにも、推進機関をフル稼働させて烈風の勢いで接近する。

 粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)は、そんな"チェルベロ"機動隊の姿など目にもくれない。漆黒の中で不気味な黄色に輝く双眸で区画の奥へと視線を投じ、大きく羽ばたいて加速しては、一直線に進んでゆく。

 (マズいな!)

 迎撃というよりも追撃に泣ってしまった隊員は、機動装甲服(MAS)のマスクの舌で歯噛みする。

 漆黒の粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)の向かう先には、更に幾つかの中型のビルディングが建ち並んでいる。そこを抜けると、比較的大きな公園が広がっており、隊員達は市軍警察と協力して対呪詛用の結界を作って避難拠点にしていたのだ。

 万が一、結界がさほど役に立たなかったら…折角状況に収拾を付けたと言うのに、再び犠牲と混乱が生じてしまう。

 (クソッ、追いつけェッ!)

 隊員は推進機関を限界まで稼働させ、風の中を滑るように飛翔する粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)を追う。

 粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)が翼を畳んで魚雷のような形態となり、建築物の間に突入した頃。事態を嗅ぎ付けたプロジェス市軍警察の衛戦部が姿を現し、手にした魔化(エンチャンテッド)重火器から眩い魔力励起光を放つ弾丸による一斉掃射を行う。

 雨霰と注ぐ魔化された弾丸の雨だが――粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)は全く怯まない。それどころか、鱗に(さわ)る衝撃に憤ったのか、グワァッ、と牙を剥き出して威嚇の声を張り上げると。叫ぶままに牙の輝く大口を開き、市軍警察隊員へと突っ込んでゆく。

 ボキン、バキン――骨や肉が暴力的にひしゃげる音が鈍く響いたのは、ほんの一瞬の後だ。突進した粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)は、開いた大口で衛戦部隊員達を一気に(かじ)り咥える。魔化(エンチャント)されたジャケット等を着込んでいるとは言え、機動装甲服(MAS)のような耐久性を持たない装備は、竜の顎が作り出す絶大な力に耐え切れなかったのだ。彼らは悲痛な絶叫を上げて、竜の顎から飛び出した上半身やら下半身やらをバタつかせてもがく。

 (まだだ、まだチャンスは在るはずだ!)

 衛戦部の者達が齧られようとも、追撃に向かう機動隊隊員は決して救出を諦めない。今の状態で竜を(たお)しさえすれば、彼らの命が失われることはないはずだと信じて――。

 機動隊隊員は推進機関をジェットエンジン波にふかし、大きく跳躍。空中から竜の頸を狙おうとする。…が、竜はそんな隊員の動きを覚ってのことか、急激に頸を天に向けて回して方向転換。爆発的な烈風を巻き起こす羽ばたきを残して急上昇してゆく。

 ヒトを喰らう、または殺害するのが目的ならば、更に奥へと進んで避難民達を狙うはず。何故、ここで上昇という行動を取るのか、機動隊隊員には理解できない。

 竜の上昇は、空を覆う曇天に届くかと思われる程の高度まで至る。機動隊隊員は着込んだ機動装甲服(MAS)の性能では追いつけず、舌打ちして地上に降下するしかない。

 (換装の際には、飛行用装備も必須だな…チクショウッ!)

 隊員は胸糞悪い劇場で胸腔を満たしながら、竜の上昇を痛恨の思いで見届けていると――。

 (ドン)ッ! 響く爆音と、曇天の真下に水に溶いた墨汁のように広がる漆黒の爆裂。

 機動隊隊員は、マスクの下で思わずあんぐりと口を開く。予想だにしないことに…突然、竜が自爆したのだ。

 (一体、何だってんだ…?)

 天空で広がりゆく漆黒の爆煙を、呆然と見守っていると――(にわか)に、機動装甲服(MAS)のセンサーが(やかま)しく警告ブザーを鳴らす。

 モニターを兼ねるゴーグルが、警告の内容をメッセージ表示する。そこに書かれた文字は、"精神汚染警告"の文字。

 転瞬、機動隊隊員の思考にゾクリと、まるで冷や水を頭の中に直接注ぎ込まれたように、怯懦に似た衝撃が走る。神経が極度に緊張し、筋肉は岩と化したようにガッチリと硬直する。

 極端な恐怖反応だ。

 そんな隊員の微動だにせぬ視界の中では、漆黒の爆煙が散開しながら或る形状へと変じてゆく。左右と下方に長く尾を引きながら大きく広がる形は、鳥――いや、幅広く展開する下方を鑑みるに、尾翼というよりもスカートのようだ。とするとこの形は…黒い天使のそれだ。

 (これも、呪詛なのかよ…)

 理性は叫ぶものの、硬直した本能は隊員の肉体を指一本たりとも動かないし、ましてや連絡中の仲間に通信を行うことすら出来ない。

 訓練を受けているはずの自分ですらこの有様なのだ。何ら抵抗力を持たぬ避難民達への影響は計り知れないぞ…と、ジットリと冷や汗を掻きながら思考していた、その時。

 グイッと肩を引っ張られると同時に、暗黒の怯懦に塗り潰されていた思考にミントのような爽やかな感覚が差し込む。途端に隊員は、ハッ、と痙攣するように一呼吸して我に返る。

 振り向いて肩を引っ張ってくれた者を見れば、連絡の任に当たっていた相棒だ。

 「大丈夫か!? 反応出来るか!?」

 「あ、ああ。助かった。

 あの爆発、強烈な呪詛を放つらしい。呪詛耐性を強化しているはずの"パラディン"の防御をアッサリと突破しやがった…!

 お前、この短時間でよく抗体術式(ワクチン)を作り出せたな」

 「俺じゃない。四条捜査官から供給されたものを使っただけだ。

 ただ、完全な術式とはいかないらしい。爆発の直視は極力避けろ、との指示だ」

 相棒の話を鑑みて、隊員は直ぐに[r[b:都市国家>プロジェス]]の危機的な現状を(さと)る。

 「四条捜査官がわざわざ抗体術式(ワクチン)を作ったってことは、あの粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)の出現は此処だけに限らないってことか」

 「その通りだ。現在、あちこちで目撃と応戦の報告が入っているそうだ」

 相棒は尚も掴んだ情報を口にしようとするが、不意に口を(つぐ)むと舌打ちする。

 先に自爆した粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)が出現した方角から、多数の呪詛反応を検知したからだ。

 「来るぞ! 応戦だ!」

 「了解だ! 今度はそうそうやられて――」

 推進機関をフル稼働さえ、鋼鉄の疾風と化して迎撃に向かう2人。その烈火の如き戦意は、不幸にも数瞬の後に、忘我の驚愕にまんまと塗り潰されしまう。

 何せ、中型のビルディングの合間から出来たのは――先の個体よりもずっと小型ながら、両手の指の数ではとても足りないほどの数量を誇る粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)達がわんさかと現れたからだ。

 これらの竜も、先に自爆した個体と同様、爛々と輝く眼を除けば陽光を吸い込む漆黒一色だ。その禍々(まがまが)しさは、正に魂魄を喰らい呪いをタップリと蓄えた怪物の姿だ。

 「チックショウ、やるっきゃねぇだろうがッ!」

 機動隊隊員は一瞬の忘我の後、自棄(やけ)にも聞こえる叫びを上げて、竜の群に突撃する。

 竜は巧みに翼を操り、同士討ちしないよう絶妙の距離感を保つと、大口を開いて咽喉(のど)の奥より真紅の火炎を吹き出す。

 四方八方から迫り来る業火であるが、覚悟を決めた機動隊隊員を怯まない。機動装甲服(MAS)に付与された防御術式を起動しながら、極力炎の直撃を避けて潜り込みつつ、手近な一体に肉薄する。

 (さっきのお返しだッ!)

 隊員は腕部装甲に折り畳まれていた聖化された過電粒子の刃を持つブレードを展開。鱗が比較的少ない腹部へ、横薙ぎの一閃を浴びせる。

 (ザン)――重量感のある肉塊を切断した鈍い感触が、隊員の腕を伝わる。その感触に裏切らず、竜の腹部はパックリと大きく割れ、体内を露わにする。

 その傷口を見た隊員は、困惑に眉をしかめる。何せ、竜の体内は体表と同じ漆黒一色に塗り潰されていて、臓器や骨格と云った器官が全く見当たらないのだ。体液の噴出すら、見られない。

 (何なんだ、こいつは…!?)

 疑問符を頭上に浮かべたと同時に。竜の肉体が、まるで息を吹かけられた蝋燭の炎が渦巻いて消えるような有様で、黒紫色の術式の煙となって消滅する。だが、何も残らないワケではない。煙がスッカリ消えた後には、1つの物体が姿を現す。

 地味な灰色をした金属の表面を持つ、細長い棒状の物体。後部には十字状に尾翼を持ち、さらに後部には火霊術式によるジェット噴射が見て取れる。そして、丸みを帯びた全部には、隊員がブレードによって付けた真っ直ぐな(きず)が見て取れる。

 その物体の正体は――信管部が破壊された、ミサイルだ。

 「なっ!!」

 隊員は驚愕と共に防御術式を展開、結界を形成する。同時に――ミサイルは派手な轟音と閃光を振り撒き、暴風と凶悪な破片をバラ撒いて爆発する。

 「ッがぁッ!」

 隊員の結界術式は不完全のまま、爆発に飲み込まれる。隊員の体は蹴られた小石のように吹き飛び、何度ももんどり打って大地を転がる。

 「大丈夫か!」

 相棒が通信で無事を確認するものの、彼は支援に駆けつけてはくれない――いや、駆けつける余裕が()せてしまったのだ。

 

 何故ならば――この修羅場には竜に引き続いて、新たな"敵"が姿を現したからだ。

 

 初め、"そいつら"は竜の翼の羽ばたきと巻き起こる烈風が入り混じって見えた現象だと思い込んだ。

 野太い筆で豪快な絵文字を描くような、掠れを交えた黒々とした線が、滑る疾風のように大地を幾つも駆けるのだ。

 (新手の呪詛現象か!?)

 機動隊隊員は正体を解析すべく、ゴーグル越しに計器をフル稼働させた…その直後。突然、ゴーグル越しの視界が漆黒に閉ざされる。

 (!?)

 駆け抜ける漆黒の烈風の一陣が、隊員に激突する――と思った矢先、烈風は突如として停止。そして、爛々と輝く鋭い眼差しでこちらを射抜いてくる。

 ――そう、"そいつら"は風のような無機物ではない。そして、黒い『天使』のようなルーチンに沿って動く疑似魂魄存在でもない。双眸に燃えるような確固たる意志を宿した、れっきとした生物――ヒトだ。

 体格は隊員と同程度。着込んだ漆黒の鎧は機動装甲服(MAS)と違い機械構造を持たぬ古風な物で、禍々しいトゲに覆われている。顔はノッペリとしたフルフェイスで覆われ、眼に当たる部分だけに横一文字の細長い穴が開き、憎み怒れる双眸を覗かせている。

 (まさか、『士師』"(もど)き"を量産してるのか!?)

 隊員は中枢区で指揮をとる四条ミディに通信を取りたい気持ちに逸りながらも、腕部装甲から聖化荷電粒子のブレードを展開。まずは眼前の敵を打ち払うべく、横一文字に切りつける。

 転瞬――眼前の漆黒が、(かす)れて消える。まるで墨の塊を水に溶いたかのように、薄い黒色の残像を残して姿を消してしまったのだ。ブレードは虚しく空を切り裂くのみとなる。

 (何処だ!?)

 右へ首を巡らせた直後、隊員の全身から冷や汗が噴き出す。消えた"そいつ"が、そこに居る。もう十数センチも進めば密着、という距離にまで迫っている。

 隊員はブレードをもう一度と振るわんと逸り立ったが、行動は伴わなかった。"そいつ"の迅速な反撃を見に受けて、吹き飛んだからだ。

 "そいつ"はトゲの着いた漆黒の鉄甲で覆われた拳で裏拳を放ち、隊員の顔面を真正面から叩く。隊員の頭部はフルフェイスで守られているものの、"そいつ"の拳撃は魔化(エンチャント)をやすやすと潜り抜けて、高速射出した釘のような衝撃を隊員にブチ込む。隊員の頸はゴキリ、と骨の悲鳴を上げて、グリンと天を向く。そのまま全身が浮き上がると、砲弾のような勢いで吹き飛ぶ。

 一度目の盛大なバウンドをする頃には、隊員の意識は寸断され、指一本動かぬ状態となっている。

 残るは、爆発を間近に受けた隊員だが。彼は既に複数の漆黒の烈風――いや、鎧を着込んだ『士師』"擬き"に周囲を囲まれている。先の衝撃が抜けきっていない隊員は十分な抵抗を行う気力を失い、諸手を挙げて降参の意を示す。

 だが、『士師』"擬き"達は容赦しない。墨で描いた烈風のような拳撃を隊員の腹部に叩き込み、その意識を寸断させる。

 ――()くして、平穏を取り戻していたはずの都市国家(プロジェス)の一画は、再び呪詛の魔手によって蹂躙を開始される。

 

 先に四条ミディ捜査官が抗体術式(ワクチン)を供給した際に言及した通り、この危急の事態は此処一画のみ問題だけではない。

 見る間にプロジェスの天空は黒々とした翼を広げた粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)ども覆われてゆく。

 更に、その背に乗っていたと思わしき漆黒の鎧に身を包んだ『士師』"擬き"どもが、巨大な雹のように墨汁状の軌跡を残しながら次々と降下。『天使』を圧倒し、平穏を取り戻しつつある地上は、再び禍々しい暴力の暗黒の色に染まってゆく。

 プロジェスの天秤は大きく混沌に傾き、阿鼻叫喚の地獄が再燃する。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Under The Serpent Hiss - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 紫・蓮矢・アリエッタ達が集まる区画も、竜と『士師』"(もど)き"の群による苛烈な攻勢に晒されている。

 一際な大きな巨体を持て余す竜――そのサイズは、大型の人員輸送ヘリコプターよりも2回り以上デカい――が、巨体に見合わぬ敏捷さで天空をクルリクルリと旋回する間に、翼の下に控える小型の竜達が地上へと降下。牙のゾロリと並ぶ大口から火炎を吐いて人々に襲いかかる。

 区画に集合した衛戦部の隊員は竜どもへと対応するが、その動きは露骨にしどろもどろしたものだ。

 何せ、竜は打倒した瞬間に、ミサイルやら術式爆弾へと変化し、盛大な自爆を遂げるのだ。迂闊(うかつ)に手出しをすれば、自分だけでなく、周囲の一般避難民にまで被害を出しかねない。

 ――どう対応しろってんだ!? 手にした重火器に近接用の魔化(エンチャンテッド)ブレードを見つめて思案するが、不幸にも彼らの頭に妙案など浮かばない。

 そこで、彼らに救いの手を伸ばしたのは、蓮矢とアリエッタ。両者共に重火器を持たず、刀剣を獲物にする戦士だ。

 彼らは竜と向き合う際に、獲物を一度鞘に納める。そして、牙を剥いたり炎を吐いたりと攻め因る竜を真正面に捉えた状態で、抜刀。(かす)む銀閃が一瞬キラリと輝いたかと思うと、爆発的な衝撃波が発生。それが竜の腹部等にブチ当たると、竜は派手に傷口を破裂させて、きりきり舞いしながら宙に吹き飛び――肉体を黒煙へと昇華させ、ミサイルへと転化し、虚しく宙空での大爆発を起こす。

 この光景を見て感嘆の声を上げるのは、プロジェス市軍警察のウォルフである。彼は特に、"姐さん"と慕うアリエッタの力に見入っている。

 「姐さん! そんな力があるなら、わざわざ踊るなんてまどろっこしい真似しないで、直接叩き斬っちまえば良いじゃないですか!」

 対してアリエッタは、ニッコリした顔を崩さずに、次々と向かってくる竜から顔を背けずに答える。

 「私の刀は、戦うためのものじゃない。魅せるものだもの。どんな相手であろうとも、そのスタンスは貫くのが私のアイデンティティなの」

 「そ、そうッスか…」

 頷きながら、ウォルフは苦笑を浮かべて胸中で呟く。

 (それにしても、そのスタンスを貫いて、この状況下で立ち振るまえるんだもんな…人斬りなんかより、よっぽどの怪物じゃないか…)

 2人に襲いかかるのは、竜だけではない。地に落ちる竜の影の中に潜むようにして、漆黒の軌跡を(なび)かせながら、漆黒の鎧に身を包んだ『士師』"擬き"の軍勢も容赦なく迫り来る。

 『士師』"擬き"の最も厄介な点は、疾風を思わせる高速移動以上に、攻撃がすり抜けてしまう体構造だ。行動時に墨汁の蒸気のように変じる肉体は気体化しているらしく、斬撃も銃弾も突き抜けてしまう。これには各地で戦う"チェルベロ"機動隊もプロジェス衛戦部も頭を抱えている。

 この厄介な防御に対して、蓮矢は広く剣風の衝撃波を振り撒く斬撃で対抗する。全身を蒸気化さえされなければ、体の何処かに衝撃波が当たり、打撃を与えられるはず…その目論見は的を得ている。『士師』"擬き"達は蓮矢の斬撃に吹き飛び、大地や建造物の壁に強かに激突して、呻き声を上げる。

 だが、蓮矢の戦法には弱点がある。派手な動作を実現するために、一度の攻撃における消耗が激しいのだ。

 (くそっ、こんなのが何時までも続いたら、押し込まれる!

 早めに"頭"を押さえ込まねぇと!)

 逸る蓮矢の一方で、アリエッタの『士師』"擬き"対策は非常に静かでシンプルだ。即ち、居合い抜きの要領で抜刀した…かに見えた瞬間、刃の強い煌めきを放った直後、カキィン! と大きな鍔鳴りを響かせて刀を仕舞い込む。斬撃とは程遠い、正に演舞の域の動作だ。

 だが、この動作は『士師』"擬き"の肉体は斬らずとも、その心を斬る。どんなに加速して動き回ろうとも、鍔鳴りを耳にした"擬き"達は呆然とその場に立ち尽くすと、漆黒の鎧が滅多切りにされたかのように分解。黒紫色の煙と化して中空に消滅する。残る"擬き"の本体――今や単なる人間だ――は、支えを失った棒きれのように地面にへたり込み、呆然とする。

 アリエッタにとっては、無機質が変じている竜よりも、殺意であろうと心を宿す『士師』"擬き"の方がアルテリア流剣舞術の威力を存分に発揮出来るのだ。

 ウォルフはそんなアリエッタの行動に対して、勿論激しい尊敬の念を抱いて止まない。

 (姐さんが怪物であろうと無かろうと…この攻撃の理屈が全然理解できねぇ…!

 理解できねぇが、敵を確実に打ち倒しているのは事実なんだよな…!)

 …こうして蓮矢、アリエッタの2人が敵を引き受けていると。プロジェス衛戦部の人員達も負けじと気力を取り戻し、彼ら――特に実行可能そうな蓮矢を真似て、激しい抗戦を行うのであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 一方、紫は激闘する2人の後方、避難民達が集結する巨大な結界の手前の方で、連絡に奮闘している。

 片手にはナビット、もう一方には蓮矢から託された"チェルベロ"の通信端末を持ち、2人の人物の会話を取り持っている。

 1人は四条ミディ捜査官。もう1人は、通信に応じてくれたヴァネッサである。

 ヴァネッサはパバルとの激闘を終えたばかりで、3D映像で描画された彼女の姿は傷と汚れにまみれている。

 「渚からの連絡はないんですの?」

 「通信したんですけど、応答がなかったです。まだ交戦中なのかも」

 「折角こちらで、『士師』を一人拘束しましたのに。渚に情報を掘り返してもらう算段でしたのよ」

 「渚さんの事は置いておいて。

 今はこちらの話を進めましょう。猶予はないのだもの」

 ミディがそんな言葉で割り込むと、キビキビとした口調で語る。

 「公的機関に属する身の上で、学生のあなた方を頼りにするのは情けない限りなのだけれども。蓮矢や風の噂に聞くあなた達の実力を見込んだ上で、是非協力して欲しいわ。

 少数精鋭である利を生かして、今回のテロリズムの首謀者と目される『戦争屋』、ザイサード・ザ・レッドを無力化して欲しいのよ」

 ミディは端末を通して、蓮矢達にも魅せたザイサードの写真を見せる。

 紫は一目で"キモいほど派手ねー"といった毒舌を口にしたくなったのだが。話を進めるために、言葉をグッと飲み込んでミディの話に耳を傾ける。

 「あなた達の副部長、渚さんの能力(ちから)を使えば、人体に全く苦痛を与えずに正確な情報を聞き出せるらしいわね。

 丁度、ヴァネッサさんが『士師』を捕獲したようだから、彼に尋ねてザイサードの居場所を特定して欲しいのよ。

 …手法には人権的問題があるのかも知れないけれど、状況が状況だもの。目を(つぶ)るわ」

 「…そういう事って、天下の"チェルベロ"がやっちゃって良いワケ? 不良捜査官の行為そのものだよ?」

 ミディを心配しているつもり…というよりも、好奇心で尋ねる、紫。するとミディは嘆息を吐いて語る。

 「私は悪い意味でも現実主義者よ。暮禰捜査官とは、そういう点では気が合うわ。

 1人の人権を多少侵害することで、千も万もの人々が救えるなら、迷わずその選択肢を掴むわ。

 それに、今回はテロ行為の現行犯だもの、刑罰の適用という事で十分に正当化可能よ」

 「うっわ、"チェルベロ"ったら、おっかない」

 思わず陰を含んだ笑みを浮かべて毒づく紫だが、ミディは特に反応を返さず、話を続ける。

 「それで、あなた達の副部長さんはまだ取り込み中なのよね?

 まだまだ時間が掛かりそうなら、渚さんより精度は劣るかも知れないけれど、私が動くけれど――」

 そう語った矢先。「その必要はないぞい」と、独特の口調の言葉が割り込む。それはスピーカー越しの言葉ではなく、滑らかな大気の振動として紫の耳に届く。

 声のする方――背後の方だ――に振り向けば、そこに見えるのは街並みの光景の中に開いたファスナーのようにポッカリと開いた穴と、その向こう側に見える極彩色の悪空間。その穴をヒョイとくぐり抜けて出てくる、3つの人影。

 中央に立つのは、勿論、星撒部の副部長にして声の主である立花渚だ。その制服や肉体に付いた傷や汚れが、直前まで激闘を繰り広げていた事を物語っている。それでも彼女のハチミツ色の金髪や澄んだ紺碧の瞳は、一向に濁りを讃えず、爽やかな輝きを放っている。

 彼女の右隣に居る――性格には、渚に引きずられている――のは、全身がダラリと脱力した男。渚と激闘を繰り広げ、手痛い敗北を喫した元『士師』である狼坐(ろうざ)である。

 そして左隣に立ち、キョロキョロと辺りを見回しているのは、巨躯の男子学生。室国(むろくに)灰児(かいじ)である。彼のボロボロ具合は渚と比べて段違いに酷いが、立ち歩ける程には体力が戻っているらしい。

 「予め方術陣によるマーキング無しでの、自由な空間転移かよ…。スゲェもんだな…」

 灰児が感心して、背後で閉じる穴を眺めている最中。紫はまず、花咲いたようにパァッと表情を輝かせて渚に語りかける。

 「立花先輩!

 大丈夫でしたか!? 周りの雑魚学生どもが、足を引っ張りませんでしたか!?」

 「そういう言い方をするでない。

 寧ろ、こやつらはよくやってくれたわい」

 渚は親指で灰児を指し、苦笑する。途端に、紫の笑顔に暗雲が立ちこめ、刃物のように鋭い視線を伴った不機嫌顔が作られる。

 「誰です、そのデカブツ?

 どう見ても、素行の悪い腐れ不良学生なんですけど?」

 「ンだと、コラッ!?

 初対面の人間に対して、随分な語りようだな!? ユーテリアって学校じゃあ、礼儀作法ってヤツは教えてねぇみてぇだな、あ!?」

 灰児がこめかみに青筋を立てて振り返り、紫との間に視線の火花を散らす。面倒な事になりそうな気配に、ミディはモニターの中で困り顔を作り、溜息と共に制止の言葉をかけようとする…が。

 「そんな些末な事で言い合いしている暇は無かろう!

 二人とも、状況を鑑みて行動せい!」

 渚が素早く一喝し、2人はビクリと体を震わせて黙りこくる。その際、紫は灰児に"アンタの所為よ"という非難の視線を送っていたが、灰児は口笛でも吹き出しそうな顔を作って、"自業自得だろ"と物語る。かくて2人の間の視線の火花は消えることは無かったが、言い争いが続くことはなかった。

 一方、ヴァネッサも灰児とは初対面なので眉を顰めていると。渚が手短に灰児の事を紹介する。

 「こやつは、セラルド学院でのわしのクラスメートじゃ。中々見所のある魔術と戦闘技術を持っておる。

 とは言え、連れてくる気はなかったんじゃが、どうしても聞かんでな。今も、わしに無理矢理ついて来たんじゃ」

 すると灰児は、腕を組んで語り出す。

 「聞けば、お前達は女ばかりだって言うじゃねぇか。

 そんなところで、男がスゴスゴと後ろにすっこんでるなんて、やってられねぇよ」

 「…性別を物差しにしてるなんて、何時の時代の脳味噌なんでしょうねー」

 紫が軽口を叩き、灰児は再びカチンと来て言い返そうとするが。渚が紫の名を鋭く呼び、(いさ)めて制するのだった。

 ――かくして、ミディの揃えたい役者はここに勢揃いする。

 「早速だけど、渚さん。あなたが引き()って来たのって…ええと、その…『士師』、なのよね?

 あなたの能力(ちから)を使えば、彼からザイサード・ザ・レッド――えーと、今回のテロリズムの主犯格のこと、訊き出せるわよね?」

 「"訊く"とは違うのう」

 渚はギラリと意地の悪い笑みを浮かべて見せる。そして、虫の息ながら未だに意識のある狼坐に、その鋭い視線を投げつける。まるで、餌食のネズミに食欲の視線を注ぐキツネのように。

 狼坐が口角だけをヒクヒクさせて表情を精一杯ひきつらせる所に、渚はこう言ってやる。

 「こやつの中から知識を"こじ開けてやる"んじゃよ。無理矢理に、横暴に、挙強制的に…のう!」

 渚の言葉の後半はブラックユーモアがたっぷりと盛ってある。それは渚の眼孔の奥に揶揄の輝きが見て取れることから自明なのだが。狼坐は表情をひきつらせたまま凍り付き、瞳を恐怖と狼狽とでオロオロと震わせる。

 ミディは小さく溜息を吐いて、「穏便にね」とは言ったが、狼坐をフォローするような事は特に口にしない。それに、渚の言い方も、脅迫罪とも取れなくはないが、敢えて目を瞑る。ミディも"チェルベロ"である前に一人の人間(ヒト)、狼坐にはこれくらいの罰が当たっても問題ないだろうという判断だ。

 渚が尋問(?)に取りかかろうと行動を起こそうかと云う時に、すかさずヴァネッサが声を上げる。

 「わたくしの方でも『士師』を捕縛したのですけれども…渚が捕縛したんでしたら、必要ありませんわよね?

 どうしましょう、これ…」

 3Dディスプレイには映っていないが、ヴァネッサは大地に横たえた、棺のようにパバルの全身を覆い固めた水晶の巨塊に視線を投じる。

 すると渚は、キンコン、と澄んだ鐘の音と共に、背後に拘束具で体を包んだ『天使』を召喚。そして『神法(ロウ)』を行使して宙空に大きな錠前の着いた扉を作り出す。転瞬、錠前は勝手にガチャリと音を立てて外れると、扉がギギィと音と立てながら両開きする。その向こう側に見えるのは――ヴァネッサと、その横に倒れるパバルの姿。

 渚の『神法(ロウ)』による、空間接続だ。

 「一緒に持ってくれば良かろう。

 1人より、2人の記憶をこじ開けた方がより良い情報も得られるというものじゃ」

 「分かりましたわ。それじゃあ、このキザで音楽家被れの『士師』の事、頼みますわよ」

 ヴァネッサは水晶の棺を引きずって扉を潜り、渚に預ける。渚は(うなず)いて引き取ると、狼坐の隣に並べる。

 そして渚は右腕をピシッと伸ばして高く上げる。すると、拘束具まみれの『天使』がミイラの包帯が解けるように展開すると、渚の右腕に絡みつく。壷を手にはめたような形を経てから、右腕は『神霊力』のエネルギーによって純白に輝き、獣面を模した籠手となる。

 この右手を握ったり開いたりしながら胸の高さまで下ろした渚は、今度は足を肩幅ほどまで開くと。地面に拳を打ち下ろすような格好で、狼坐の胸を標的にして拳を作り、振り上げる。残る左手は、狙いを定めるように狼坐の胸の辺りに(かざ)す。

 (何すんだ? 痛めつけて訊き出すってのか? 拷問じゃねぇか…)

 灰児は眉を(ひそ)めるが、すぐにその眉は驚嘆のために跳ね上がる。

 狼坐の胸の中央付近に純白の輝きが現れたかと思うと、眩い閃光を経て、錆一つない輝く錠前が出現する。

 (また錠前!? これがこの立花の、『神法(ロウ)』なのか…?)

 疑問符を浮かべている間にも、渚は拳を振り下ろし、錠前をガチンと打ち()える。転瞬、ガキン、と金属音を立てて錠前が分解。同時に、狼坐の胸部を中心に直線的な亀裂が幾つも走ると、機会仕掛けの窓が展開するように、狼坐の上半身が開く。

 「あ、あああ…」

 狼坐が情けない声を上げる。その声はしかし、苦痛による嗚咽ではなく、純粋な怯懦(きょうだ)による疑問符だ。

 展開された胸の内に広がっているのは、外科手術から想像されるような、不気味な赤の血肉の世界ではなかった。溢れる眩い輝きと、その中に浮かぶ定義式で構築された大小の球体である。

 渚がこじ開けた先は、体内の臓物ではない。狼坐の意識世界だ。

 「本来なら、わしの主義に反する行為なのじゃが。事は危急じゃからのう、(あば)かせてもらうぞい!」

 渚は狼坐の精神世界の中に獣面の手を突っ込み、彼の意識に触れて情報を引き出す。

 「ああああ…! あうあああ…! うああああ…あふはへは」

 徐々に呂律の回らなくなる悲鳴を上げる、狼坐。意識が『神法(ロウ)』に介入された為に、脳が精神のフィードバックを正しく受け取れずに電気信号が混乱しているようだ。

 渚はこの作業に取りかかりながら、紫達に向けて左手をヒラヒラさせる。

 「こやつらの処遇はわしに任せておくが良い。おぬしらは、話を進めておいてくれい」

 紫とヴァネッサは彼女の言に従って頸を立てに振ると、渚に背を向けてミディを含めて囲み合い、今回の騒動の収拾と主犯格の捕縛について語り合い始める。

 一方で灰児が、手持ち無沙汰気味に渚の後ろですごすごと立ち尽くしつつ、ちょっと躊躇(ためら)いがちに声をかける。

 「なぁ…あの口の悪い女含めて、みんなお前の仲間…つーか、『士師』なんだろ?

 その力と、本物の『天使』を召喚すりゃ、こんな事態一発で解決出来るんじゃねぇのか?」

 すると渚は、振り向きこそしなかったが、案外軽い口調で答えてくれる。

 「いやいや。紫もヴァネッサも、そして此処には居らんがアリエッタも、皆『士師』なんぞではないわい。

 わしは『士師』も信徒も持たぬ主義じゃからな。

 そもそも、『現女神(あらめがみ)』で女性の『士師』を作るような物好きは、わしの知る限りでは居らぬぞい」

 「…え。女の『士師』って、居ないのか?」

 灰児は目をパチクリさせる。

 先のセラルド学院内での交戦においては、3人の女子生徒が『士師』を名乗り、それに相応しい能力(ちから)を振るっていた。故に、女性の『士師』は普通に有り得るのだと、灰児は思っていたのだが…。

 「出来んことはないのじゃよ、女性の『士師』を作ること自体はのう。

 じゃが、女性の定義上の性質らしいのじゃが、その魂魄のレベルを『士師』に引き上げるためのエネルギーが飛んでもなく高いのじゃ。理由として様々な学説が出ておるが、まだはっきりとはしておらぬ。

 理屈はどうあれ、『士師』を目指すならば、自らが『現女神』になる方が余程気楽じゃと、わしは思うぞい」

 「へぇ…そんなモンなのか…」

 元『現女神』とクラスメイトを続けていたとは言え、特に親しい間柄でも無かったために知り得なかった――例え親しくとも、ニファーナならば知らなかったかも知れないが――『現女神』達の事情に、灰児は興味深げに頭を縦に振ったのだった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 さて、紫達3人による事態収拾を図る議論はトントン拍子で進んでゆく。

 まずはミディが、主犯格の捕獲に関する作戦について言及する。

 「渚さんが情報を得て、ザイサード達の居場所を特定したら、蓮矢捜査官を含めた3、4人で逮捕に向かってもらいます。

 2人にしないのは、相手の拠点にはザイサードだけが居ると限らないからです。ザイサードの逮捕を優先する組と、逮捕を阻む勢力を抑える組を用いて、確実に相手を追いつめます」

 「蓮矢のおっちゃんが此処を離れたら、あの粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)達の攻撃が捌ききれなくなるんじゃないの?」

 そう紫が問えば、ミディは予測していたように即答する。

 「増援として3部隊をプロジェスに派遣するよう、手配済みよ。対竜装備の部隊だから、既に配置済みの対呪詛装備部隊と連携すれば、敵勢力と充分に対抗出来るはずよ。

 ただ一つ、問題になるとすれば…」

 「(ドラゴン)の操者、ですわね?」

 ヴァネッサが口を挟むと、ミディは眉を(ひそ)めて首を縦に振る。

 「竜達が厄介なのは、あの『天使』"(もど)き"のようにルーチンプログラムされた呪詛による存在ではないことよ。

 あの竜は、一人の人間が――というより、『士師』が能力(ちから)を使って作り出しているのよ。そのバリエーションは、ルーチンプログラム的な呪詛と違って膨大な数に上るわ。こちらの対竜装備に対応されて、押し返されてしまう可能性は充分に考えられるの。

 そうなる前に、ザイサード達を逮捕して事態を収拾するか――」

 「操者を倒してしまうか、ですわね」

 ヴァネッサはそう語りながら、制服の上着の内ポケットを漁る。そのポケットはヴァネッサが独自に空間拡張した物であり、中には彼女手製の霊薬(エリクサ)が収まっている。

 その内の1つの小瓶を取り出し、コルク栓を抜きながら、ヴァネッサはこう切り出す。

 「竜の操者は、わたくしにお任せなさいな。

 わたくしも使役系の能力(ちから)を使いますし、相性は良いでしょうから」

 その言葉に対して、ミディは頼もしそうに安堵するどころか、懸念たっぷりに顔を渋らせる。その様子にヴァネッサは眉をはね上げつつも、淡い蛍光色を放つ霊薬(エリクサ)を口にする。

 霊薬(エリクサ)は細胞の回復を劇的に促進するもので、パバルとの戦いで負った傷を手早く治療するものだ。

 懸念するミディは、脅し掛けるような低い声で語る。

 「操者は、とても厄介な相手よ。 あなたの倒したパバル・ナジカよりも断然(たち)が悪いわ。

 彼の名は、マキシス・ミールガン。プロジェス市軍警察衛戦部の現役少佐で、元『竜騎の士師』。恐らく、衛戦部で最強の個体戦力でしょうね。

 実際、彼はこのテロ行為に当たって、自身が所属する基地で陣営に組みしない隊員や将校を全滅させているわ。

 彼の『士師』時代の能力は、無機物の定義構造を変質させ、粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)を作り出すこと。『士師』"擬き"になった今もその能力(ちから)は健在のようね、ミサイルを初めとする射出兵器を竜化させているもの」

 「『士師』との2連戦になるんですね…先輩、大丈夫ですか?」

 紫が尋ねる頃には、ヴァネッサは霊薬(エリクサ)によって傷も体力も回復し、唯一のボロボロな制服を纏いながらも気力充分な不敵な笑みを浮かべて、己の拳と手のひらをバシッと打ち合わせる。

 「問題ないですわ!

 竜を作り出すと言っても、所詮は呪詛で引っ張り出した似非(えせ)神法(ロウ)』による紛い物ですもの。

 日頃から本物の暴れ竜と手合わせしてるわたくしが、敗北を喫するなんて有り得ませんわ」

 "本物の暴れ竜"――それは、星撒部部員であり賢竜(ワイズ・ドラゴン)たるロイ・ファーブニルの事だ。

 ミディがその事情を把握しているかどうかは不明だが、ヴァネッサの自信に頷きを(もっ)て答える。

 「それじゃあ、お願いするわ。

 私たちの機動隊も、露払い程度になるかも知れないけれど、援護させるわ。

 ――ところで、問題はもう1つあるの。

 マキシス少佐の他にもう一人、『士師』"擬き"の存在が確認されているわ。

 『武闘の士師』ヴィラード・ネイザー。元衛戦部の隊員だったようだけれども、『女神戦争』後は退役して、姿をくらましていたわ。どうやら、当時から今回のテロリズムに備えて動いていたようね。

 彼が多数の『士師』"擬き"を率いて、地上で暴れ回っているのよ。彼も引き留める必要があるわ、既に甚大な被害を出しているもの」

 「その辺り、"チェルベロ"に頑張って欲しいんですけど…? 無能ばっかりなんですか、"チェルベロ"って?」

 紫がジト目で睨みつけると、ミディはバツの悪い苦笑を浮かべる。

 "チェルベロ"にも地球圏治安監視集団(エグリゴリ)隊員にも匹敵する個体戦力は所属している。しかし、その数は多くは無いし、引っ張りだこなので自由に呼び出すことなど不可能だ。

 決して機動隊が弱いワケではないのだが、"殲滅"を目的とし得ない彼らは、軍と比較するとどうしても精神的・戦略的に劣りやすい。

 ミディの無言の苦笑を反論できぬ答えと取った紫は、はぁー、と溜息を吐くと、ナビットを操作。アリエッタとの接触を試みる。ヴァネッサがマキシスに当たるならば、自分かアリエッタがヴィラードに当たらねばならない。

 1度切りのコール音を経て、アリエッタは直ぐに連絡に出たのだが――音声のみの通信、且つ口早な調子で有無を言わさぬ言葉が出る。

 「紫ちゃん、ごめんね! 今、手が放せないの! 『士師』と交戦中だから…!」

 それだけ語ると、アリエッタは一方的に通信を切断してしまう。

 紫が目玉をパチクリとさせていると。ミディは早速「[rb:情報人>ミーマー]]の特性を用いて情報を収集、アリエッタの状況を把握して――ハッと目を見開く。

 「彼女、既に接触しているわ! ヴィラードと!」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ミディの言う通り――アリエッタが避難区画を支えている一画では、壮絶な闘いが繰り広げられている。

 「シィィィヤアァァァッ!」

 呼吸音と言うよりも唾棄するような叫びを上げ、墨汁の軌跡のような漆黒の烈風を幾度も幾度も大蛇の群のように(はし)らせる男。ダイヤモンドのように絞り込まれた筋骨隆々の肉体に、厳つい(トゲ)をあしらった漆黒の革鎧に身を包み、野球の審判の被るマスクにも似た面を被った彼こそ――『武闘の士師』、ヴィラード・ネイザーである。

 ヴィラードの拳や蹴りは、量産された『士師』"擬き"達と同様、気化した墨のように実体のない状態で相手に肉薄する。だが、いざインパクトとなると、巨大な鉄球をぶつけたような重くて堅い衝撃が炸裂する。

 ヴィラードの攻撃の特性は、それだけに留まらない。彼の拳足は墨の蒸気と化した直後、その姿を消したかと思うと――突如、真横や真後ろ、真上と云ったあらぬ方向から現れる。つまり、拳足がヴィラードの胴体を離れ、遠隔操作でもしているかのように攻撃を加えるのだ。それでも爆発的な破壊力は健在である。形而下では距離が隔たって見えていても、どうやら形而上相においては胴体と拳足は密接に関係しているらしい。

 あらぬ方向から、デタラメな流星群のように絶え間なく注がれる、ヴィラードの厳撃。それを静かな笑みを浮かべつつ、風に舞う花弁のようにヒラリヒラリと優雅にかわして対応するのは、アリエッタだ。

 (やっぱりスゲェな、姐さん…! 頭の後ろや上にも目が付いてんのか…!)

 アリエッタの近辺で、衛戦部の隊員と肩を並べて『士師』"擬き"を対処するウォルフは、時折チラリと彼女の戦いを目にしては、その度に胸中に驚嘆の念を湧かせる。

 衛戦部の隊員が量産型『士師』"擬き"にすら手を焼き、完全武装の上でも血反吐を吐きながらも必死に抵抗していると云うのに。制服姿で軽装そのもののアリエッタが、始終笑みを絶やさずに攻撃を捌き切る姿は見事としか言いようがない。

 だが――。

 (それでも姐さん、刃を当てないのかよ…!)

 そう、アリエッタは免許皆伝を収めたアルテリア流剣舞術の思想に忠実に(のっと)り、激しい暴力に対しても、あくまで"魅せる演舞"で対抗している。

 ヴィラードの拳足は、時にアリエッタの持つ刃引きの刀に激突し、耳障りな金属音を奏でる。更にはアリエッタが衝撃をいなし切れず、その体が小石のように吹き飛ぶ事もある。

 一方でアリエッタは、ヴィラードの拳足の嵐を潜り抜け、(わず)かな機会に鋭くつけ込み、刀を振るう。だが、その(ことごと)くは、絶対にヴィラードの鎧にも肌にも届かない。ヴィラードがかわしているワケではない、アリエッタが当てないのだ。

 横一文字の斬撃は、眼球の前を通り過ぎる。絶妙の居合いの一撃は、振り抜くどころか鍔の近くの金属の輝きを見せた転瞬、鋭い鍔鳴り音と共に鞘の中に収まってしまう。軽やかな木の葉のようにヴィラードの頭上を回転しながら跳び越える時にも、抜いた刃はヴィラードを斬るどころか、輝く風車のような美しさを魅せるばかり。

 ――そして、この戦い方…いや、魅せ方こそが、ヴィラードを呼び寄せてしまったのだ。

 (骨身を斬らずに、魅力で心を斬るってか! それで実際に、同胞を無力化させちまってるんだから、驚きだわな!)

 ヴィラードの胸中は、アリエッタと交戦を初めてからずっと、昂揚と驚愕で満ち満ちている。

 

 先刻、ヴィラードは同胞達から"ワケの分からぬ強者"の話を耳にした。

 正に舞踊のようなアクロバティックで大振りな動きを繰り出しながらも、マキシスの竜や『士師』"擬き"に引けを取らぬ少女のこと。しかも、手にした獲物で相手を斬るどころか触れることすら無いのに、竜も『士師』"擬き"も"チェルベロ"機動隊よりポンポンと無力化させる、奇妙な実力者のこと。

 己を磨き上げると同時に、強者との戦いを求めて『士師』の道を志したヴィラードにとって、興味を()かぬワケのない相手だ。

 ヴィラードは脇目も振らずに漆黒の烈風となって戦場を駆け抜け、一気に話の少女――アリエッタの元へと接近した。

 有無を言わさぬ挨拶代わりとばかりに放った、全身全霊のコンビネーションブロー。『士師』の能力(ちから)を駆使し、あらゆる方向から険しく拳足を叩き付けるはずが――アリエッタは初見にも関わらず、ヴィラードの攻撃の嵐を風の中に漂う羽毛のようにヒラリとかわしてみせた。

 その邂逅はヴィラードに電撃的な衝撃を脊椎に与え、強者を得た事への興奮と、それを打ち(たお)す機会を得た歓喜とに震えた。

 ――以降、ヴィラードは名乗りもせず、拳足と刀とで語らえとばかりに、アリエッタと攻防の応酬を繰り広げている。

 

 (一々大仰で派手な動きを見せるくせして、実戦の中にキチンと活きてやがる…!

 オレより断然若い身空だっつーのに、長年武道に身を置いてきたような経験と実力をビシビシ感じさせやがる!

 だがよぉ…ッ!)

 ヴィラードは面の下でこめかみに青筋をクッキリと浮かび上がらせながら、漆黒の烈風と化した拳を振るう。その一撃は例によって腕を離れると、アリエッタの顎付近に突如出現。首ごと引っこ抜く勢いでアッパーを浴びせる。

 対するアリエッタは、少し体を仰け反らせながら、桜色の長髪や制服の裾をふんだんに駆使し、花が咲き誇るような様相でクルリと回転して回避。同時に刀で居合いからの横薙ぎの一閃を放つが――やはり、ヴィラードの体には当たらない…いや、当てない。

 曇天の下でも(くら)まんばかりの輝きを放つ銀閃は、ヴィラードの網膜にキラリと()き付いたが…。確かに一瞬、"美しい"と見惚れはするものの、沸き立つ戦意の血気が感情の塗り潰す。

 (斬るどころか、当てもしねぇ刀で、何をオレが(たお)せるワケねぇだろッ!)

 ヴィラードは、胸中の言葉を激しい呼気として吐き出しながら、アリエッタの銀閃をやり過ごした直後に肉薄。至近距離で彼女の脇腹に固めた拳を放つ。

 対するアリエッタは、すかさず回転を停止してサイドステップし、ヴィラードの一撃を回避する。その顔に浮かぶ表情は――ヒヤリとした驚愕の表情ではなく、相変わらずの春の微風のような微笑みだ。

 (全く、()りねぇし、勿体ねぇ女だなぁッ!)

 ヴィラードはすかさず大地を蹴ると、再び嵐と化してアリエッタに襲いかかる。

 

 (はた)でチラチラと見やるウォルフを初めとする衛戦部隊員や"チェルベロ"機動隊隊員達は、アリエッタ本人よりも肝を冷やしつつ、戦いの行く末を案じるばかりだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「なるほど、アリエッタは既に頭の1つを抑えているわけですわね。

 それはそれで好都合ですわ。下手な衛戦部の隊員よりも、あの()になら本物の『士師』だって任せられますもの。

 ねぇ、渚?」

 ミディの言葉を聞いたヴァネッサが、己の評について渚に同意を求めるのと。渚が『士師』"擬き"2人の胸中の意識世界から情報を"こじ開け"終えたのとは、ほぼ同時であった。

 渚は立ち上がって伸びをしながら、「うむ」と同意した上で続ける。

 「むしろあやつなら、引き留める方が気を悪くするじゃろうからのう」

 アリエッタを知る渚達だからこそ、口に出きる信頼の言葉である。事実、アリエッタはアルテリア流剣舞術の免許皆伝を収めただけでは飽き足りず、更なる高みを目指して――その昔、鞘から剣を引き抜くだけで戦争を止めたという伝説の使い手をも追い抜く事を渇望している。斬らず当てずの戦いが如何に不利であろうと、アリエッタは絶好の修練の場として歓迎していることだろう。

 「アリエッタのことはさておき、じゃ。

 わしの仕事は終わったぞい。敵の新鳴る頭2人とその本丸は、しかと把握したわい。

 ということで…ええと、捜査官殿」

 「四条ミディよ」

 ミディは渚に名乗っていなかったことに思い至り、手早く自己紹介する。

 「では、四条捜査官。いつでも蓮矢捜査官を呼び戻してくれい。

 わしの方では直ぐにでも攻め込めるぞい」

 ミディは3Dディスプレイ越しに(うなづ)く。

 「ありがとう、そして分かったわ。

 増援がこちらに到着し次第、彼を合流させるわ」

 「って事は、敵の根城に攻め込むのは、副部長とあたし、そして蓮矢のおっちゃんって事か」

 紫がそうまとめた時。"忘れるな!"と強烈に自己主張するように、パァン! と拳と手のひらを打ち合わせる音が響く。

 音の主は、渚の近くに立つ灰児だ。その顔は飢えた猛獣のように凄絶な笑みを浮かべ、もうもうたる湯気が沸き上がるような気力に満ちている。

 「4人欲しいって話だろ? それなら、オレが行くぜ。

 こんな滅茶苦茶をやってくれたフザケた野郎共、一発ブン殴らねぇと気が…」

 「ダメじゃ」

 灰児が語り終えるより早く。渚がピシャリと続く言葉を遮り、拒否する。

 灰児は一瞬、面食らってキョトンとするが。直ぐに噛みつくような態度で渚に言い返そうとする。しかし、またしても渚は言葉で灰児の口を塞ぐ。

 「相手には、超異層世界集合(オムニバース)において最悪といって過言でない戦争屋、"ハートマーク"が居る。

 おぬしは確かに、凡夫と呼び捨てるには勿体ない才能と実力の持ち主じゃ。…それでも、あやつらの前では赤子のようなものじゃろう。

 一緒に来られても、正直に言って、足手まといじゃよ」

 「"ハートマーク"…?」

 灰児は耳にした事のない組織の名前に、疑問符を浮かべる。何も知らぬ彼にとっては、その名は恐ろしさとは全く無縁の、緊張感のない可愛らしさしか感じ得なかったようだ。

 だから渚は、説得が通じるように少し話を掘り下げる。

 「敵の主格の1人、ザイサード・ザ・レッドなる者は、たった1人でこの都市国家(プロジェス)を引っ掻き回した呪詛の仕組みを作り上げた男じゃよ。

 おぬしもわしもそやつと直接交戦した経験はないが、想像は付くじゃろう? そやつの莫大な魔力と、地獄を地上に引っ張り上げるような実力がのう。

 そんな奴を相手にして、おぬしが命の危機に瀕したとしても、わしも紫も手助けなどする余裕はない。おぬしが無駄に命を散らすだけじゃよ」

 「…だ、だがよ…!」

 灰児はなおも退かずに言葉を挟む。

 「主犯は2人っつったよな!? なら、そのザイサードとか云う奴じゃない方に当たれば、問題は…」

 「大有りじゃよ、たわけ」

 渚は嘆息と共に灰児の言葉を三度遮る。

 「もう1人の相手というのは、この都市国家(プロジェス)において大変有名な実力者。"若神父"の名で知られる、元『僧侶の士師』、エノク・アルディブラじゃよ」

 「…!! 嘘だろ…!」

 灰児は思わず目を見開いて声を上げる。

 プロジェスにおいて、エノクの名は小さな子でも知っている。プロジェスの独立性を強化する切っ掛けを作ったのが『現女神』ニファーナであるならば、切っ掛けそのものの動機であり、切っ掛けを実現へと導いた人物として、万人に見知られて親しまれている人物だ。

 その彼が、どうしてプロジェスを地獄のような混沌の渦に投げ込むのか? 不良であることを自認している灰児も、余りに人道からはみ出したこの所業を全く理解できない。

 灰児の胸中を汲み取ったように、渚は肩を(すく)めて見せる。

 「"ハートマーク"との接触を主導のも、そやつだとのことじゃ。

 そやつは、『女神戦争』以後のプロジェスが尊厳を捨てて堕落し切っておると嘆き、憤っておる。

 そして以前の"強く、尊く、素晴らしいプロジェス"を復活させるために、ニファーナを再び『現女神』にすべく、無理矢理の求心活動を行っておるワケじゃ。

 呪いと祈りは表裏一体、対象へ強い念を捧げることには変わりない。その呪詛の力で住民達にニファーナへの念を強制的に植え付けるための、この騒動じゃよ」

 「そんな事、マジで考えてるのかよ、あのヒトは…!

 なんでそんな…! そんな事して、死体の山の上に成功を収めたって、どこが尊いってンだよ…! 素晴らしいってンだよ…!」

 灰児の反発に、渚は首を縦に振って同意する。

 「わしも全くの同感じゃ。じゃからこそ、この事態を早々に終わらせねばならぬ。

 エノクと云う男、『士師』になる以前も専門が聖職とは思えぬ程の力量で、プロジェスへの対外的な圧力を鎮めて来ておるようじゃな。そこに今、呪詛の力を借りた(まが)いモノとは言え、『士師』の力を得ておる。

 十中八九、バケモノじゃと考えて良いじゃろう。

 そこに灰児(おぬし)が加勢に来たからと言って、やはり足手まとい以上のものにはなれぬじゃろうよ。そうでなくとも、ニファーナという枷がわしらにはあるのじゃから」

 「…分かったよ」

 灰児は(はなは)だ悔しげに奥歯を噛み締めてから、唾棄するように言葉を吐く。

 だが、『士師』3人掛かりを1人で倒した人物の下す険しい評価だ。2人掛かりでも『士師』を倒しきれなかった灰児では、役不足であると痛感する。

 失意に染まろうとする灰児に対し、フォローを口にするのは、なんとミディ捜査官である。

 「灰児君、あなたにはあなたの出来る範囲でこの都市国家(くに)に貢献できる事があるわ。

 『士師』や"ハートマーク"も驚異だけれども、彼らには力で劣るものの、数量が揃っている(ドラゴン)や武装民、それに呪詛の『天使』だってまだ残ってる。

 あなたの実力は、超学生級よ。その力を衛戦部や"チェルベロ"に貸して欲しい。今は相手の数量を押し返す戦力が、1人でも欲しいのよ!」

 その言葉に灰児は、ニヤリと笑みを浮かべて失意を払拭する。こんな風に面と向かって"力を貸して欲しい"と頼まれたのは、人生で初めてのことではないか。その爽快感と、貸せられた責任への重圧と期待から生まれる高揚感が、灰児の心を震わせる。

 「よっしゃあ、それでやってやるぜ!

 市軍警察どもにも"チェルベロ"どもにも見せつけてやるぜ、オレの練りに練り上げた実力って奴をな!」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 こうして、事態収拾へ向けての一行の算段は整った。

 「それでは、お先に行きますわよ。

 あのハエみたいに五月蠅い(ドラゴン)ども、直ぐに黙らせてあげますわ!」

 そう意気込んだヴァネッサ、パッと開いた右手を前に差し出すと。掌の中央辺りから、ピキパキと音を立てて濃い水色を呈する水晶が生まれ、急速に成長してゆく。その体積はヴァネッサ自身を優に越え、荒削りな表面を持ちながらもディテールを整えると――立派な翼を有する、水晶の竜が出来上がる。

 ヴァネッサはその背にヒラリと飛び乗ると、渚達一行に向けてウインクを残し、竜を羽ばたかせる。竜は重い水晶の体をフワリと浮かび上がらせると、数秒のホバリングを経た後に、巨大な弾丸のように一直線の軌道を描いて大理石様の曇天へと上昇する。

 同時に、同じ様な色と軌道を呈する上昇が、周辺で点々と見られる。これは、ヴァネッサが避難区画防衛のために(あらかじ)め作り出していた水晶製の騎士を、竜に変えて一斉に飛び立たせたものだ。

 これらの竜を使い、市軍警察や"チェルベロ"が苦戦するマキシスの漆黒竜に対抗する算段なのだ。

 ヴァネッサが去ってから、残る渚と紫は蓮矢との合流待ちになる。ただ待つのでは時間の浪費と見た2人は、その間に灰児とも合わせて竜や『士師』"擬き"達の打破に挑む。

 魔化(エンチャント)した拳足を嵐のように振るい、次々と敵を打破する渚。灰児は勿論、その姿に感嘆する一方で、初めて見る紫の戦いぶりにも目を見開く。

 (スゲェ…! あの体格で、あんなバカデカい剣を腕の延長みたいに自由に振るいやがる…!

 それでいて、反応も早けりゃ、応用も利く…!

 ユーテリアの奴らってのは、みんなこんなバケモノ揃いなのかよ…!)

 灰児は感嘆してばかりではない。自らも『虹翼の拳』を振るって激しく応戦しているものの、渚や紫ほどの手際で敵を撃破できやしない。一対一で押し込むのがやっと、という有様だ。

 (今日って日は、上ばかり見せつけられて…クソ、(しゃく)に障るぜ…!)

 奥歯をギリリを噛みしめながら、灰児は何とか2人と張り合おうと、全身全霊で敵をブン殴り続ける。

 

 ――それから暫くして。魔力励起光に輝く刀身を振るい、敵を次々に斬り捨てながら迫る蓮矢の姿が現れる。

 「おう、待たせたな!」

 蓮矢はニッカリと笑って渚達と合流する。

 「持ち場は増援に任せて来た! 本部の奴ら、大判振る舞いで5部隊も出してきてくれやがった! 何処にそんなに遊んでる隊員達が居たんだかな!」

 「それだけ"ハートマーク"逮捕に重いているのよ。初動時の評価が過小に過ぎたのよ」

 今や灰児の手中にある通信機を通して、ミディ溜息を吐きつつが蓮矢に語る。

 「ともかく、役者は揃ったワケじゃな!

 それでは早速! 相手の本丸に乗り込むぞい!」

 渚は一声をあげると、キンコン、と何処からともかく済んだ鐘の音を響かせる。

 そして背後から現れた拘束具だらけの『天使』に命じ、眼前に大きな錠前を持つ大きな扉を作り出すと。錠前は勝手に、ガチャリ、と音を立てて開錠され、極彩色が乱れ舞う亜空間の回廊を露わにする。

 この道の先に、ザイサードとエノク、そしてニファーナが潜む場所が広がっている。

 「それでは、暫し分かれるぞ、室国!

 "チェルベロ"や機動隊とうまくやって、達者で乗り切るんじゃぞ!」

 渚がそう言い残す様は、まるで母親のようだ。灰児は苦笑して、首を縦に振る。

 …そして渚、紫、蓮矢の3人は極彩色の回廊の中へと飛び込み――直後、扉はバタンと素早く閉じて、中空に消滅したのであった。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Under The Serpent Hiss - Part 3

 ◆ ◆ ◆

 

 重く垂れ込める大理石様の曇天の下。争乱で彩られる街並が眼下に広がる中、ヴァネッサは数十匹の結晶の竜を率いて、自らの結晶竜の背に乗り、雲霞(うんか)の如く群れ飛び交う漆黒の竜の群の中へと突入する。

 ヴァネッサの水晶竜と『竜騎の士師』マキシス・ミールガンの生み出した漆黒の竜とでは、数量の点においては後者に軍配が上がる。だから、ヴァネッサと突入は、漆黒の積乱雲の中へと進入する渡り鳥の群のように見える。

 質の点で云って、マキシスの竜の方が上だと言えよう。ヴァネッサの作り出した竜は、"竜"である前に結晶だ。その性質は体を構成する結晶の性質に依存し、応用の幅は狭い。対するマキシスの竜は鋭い爪や烈風を巻き起こす翼に加え、種々の事象を吐き出す息吹(ブレス)や、自在な身体(フィジカル)魔化(エンチャント)を付与出来る鱗などの高性能な体器官がある。

 ヴァネッサの竜の吐く息吹(ブレス)は、細かな結晶を奔流として吐き出すものでしかない。これをうまく身体(フィジカル)魔化(エンチャント)で対抗されてしまうと、結晶竜が出来ることは純然たる物理攻撃――噛みつきや引っ掻き、尾撃といった暴力でしかない。

 だが、ヴァネッサの結晶竜には、"竜"である以前に結晶であるが故の利点がある。

 ヴァネッサの竜は、漆黒の竜達の反撃を喰らい、水晶片へとバキバキに粉砕されてしまう。だが、ここにヴァネッサの魔力が加わると、粉砕された水晶片1つ1つが急激に成長。まるで切断されたプラナリアが分裂し、個々で独立活動するように、1体の粉砕から数体が生まれ、果敢に漆黒の竜へと向かうのだ。

 とは言え、漆黒の竜も一筋縄では行かない。彼らは"竜"であると同時に、"無機物"でもある。爆弾から転じた竜は、致命的な傷を負ったと同時に元の爆弾の姿へと戻ると、激しい爆発を起こす。戦闘機から転じた竜は、体の内側から機銃を放ち、掃射される弾丸の1つ1つが小さな竜と化して飛び回り始める。

 もっとも面倒なのは、輸送機から転じた巨大な竜だ。その中から漆黒の鎧を着込んだ『士師』"擬き"が顔を出しては、墨汁のごとき疾風と化して竜の背中を飛ぶように渡り、結晶竜を叩き潰してゆく。中には、竜の背に乗って降下し、地上の衛戦部や"チェルベロ"機動隊に仕掛けに行く者達もある。

 (あの悪趣味な詩人の『士師』とやり合う方が、よっぽど気楽でしたわ!

 本体の『士師』の元に近づくどころか、索敵もままなりませんもの!)

 ヴァネッサは胸中で舌打ちしながら、絶え間なく襲いかかる竜や『士師』"擬き"をいなしつつ、竜の群の中を飛び回る。

 竜の作り手、マキシスを斃しさえすれば、似非(えせ)『神霊力』は消え去り、プロジェスを苛む竜の群は直ちに消え去ることだろう。だが、こうも竜や『士師』"擬き"の密度が多くては、形而上相視認でマキシスの居場所を割り出そうとも、大量の定義術式が思考に雪崩込んでしまい、意識障害を起こす可能性がある。

 ――実際、一度は索敵を試みたものの、一瞬の内に酸素中毒を想わせる意識の混濁を感じたので、頭を振って試行を取り止めている。

 (抑え込むだけなら、さほど手間ではありませんけれども…!

 量の割に定義までもこれほど混んでいると、本体探しも骨が折れますわねッ!)

 そうは言うものの、ヴァネッサは決して失意にも絶望にも沈んでいない。両手に水晶で作り出した剣を持ち、背に乗った竜を自在に操りながら、次々と漆黒の竜を(ほふ)ってゆく。

 爆発する竜に対しては、即座に剣を構成する水晶の性質を変化させ、火霊を結晶格子内に閉じこめる。そしてそのエネルギーを使って別の結晶を作り出し、竜に対抗されるよりも早く、術式の粒子砲を放ち、数体を貫いて撃墜する。

 『士師』"擬き"が結晶竜の上に乗ってきて、ヴァネッサを直接狙ってくることもある。体構造を気化して漆黒の風となり、物理攻撃を無効にしてくる性質は厄介なはずだが、ヴァネッサにとっては足した問題ではない。何故ならば、気化した彼らの体ごと、結晶の棺の中に閉じ込めてしまうのだから。

 ヴァネッサは、結晶の棺を単に放置したりはしない。すぐさま蹴りつけると、大きな結晶はツルリと水晶の竜の背を滑る。砲弾のように宙空を滑空しながら、表面に幾つもの巨大な(トゲ)毬栗(いがぐり)のように生やしながら、漆黒の竜へと突撃する。

 対する竜は、迫り来る結晶に対して迎撃するような真似はしない。回避しようと試みるか、翼を殻のように閉ざして防御するか、の二択だ。彼らを操る『士師』マキシスは、同志を切り捨てるほどの非情さは持ち合わせていないらしい。

 (物量から想像する程には、厳しくはありませんけれども…!

 問題は、時間ですわね…!)

 ヴァネッサは少なからぬ焦燥に眉を(ひそ)めながら、絶え間ない攻撃を繰り広げる一方で、胸中で呟く。

 水晶の竜の数も、破壊された破片から再生・構築させる事を繰り返すことで、マキシスの数量に迫ることは出来る。だが、量が増えれば、それだけ魔力の消費は激しくなる。

 ヴァネッサは、広範囲魔術制御を得意としている方だ。それは先に都市国家アオイデュアで『獄炎の女神』の求心活動に対抗した時の手際で証明済みである。しかし、そんな彼女とて無尽蔵の魔力とスタミナを有するワケではない。

 広範囲戦闘をこなしながら操者(マキシス)を捜索し続ければ、やがては疲労に押しつぶされてしまう。

 マキシスとても条件はヴァネッサと同じはずだが、呪詛という体外要素が彼の魔力やスタミナを援助している可能性は充分に考えられる。長期戦は、恐らくヴァネッサに不利だ。

 (早く見つけ出したいところですけれども…!

 こうも定義にウジャウジャされていては、面倒極まりないですわね!

 何とか手を考えないと…!)

 結晶製の剣で手近に迫った竜の翼を切り落とし、背中に迫る『士師』"擬き"を振り向きもせず結晶に閉じ込めた、その矢先のこと。竜の群れが蚊柱のように集って、ヴァネッサの方へと向かい来ようとして――。

 (ドン)、と大きな破裂音と共に、竜達の体が一気に蒸発。黒紫色の煙へと変じる。

 何事かと案ずるヴァネッサのすぐ隣から、少しノイズが混じったスピーカー越しの声が聞こえる。

 「よう、加勢に来たぜ! ユーテリアのお嬢さん方!」

 そこには、飛行用の装備を積んだ機動装甲服(MAS)に身を包んだ男が1人、宙に浮いている。紺と黒をベースとした色合いは、地上で見た"チェルベロ"機動部隊を想起させる…実際、彼はその一員だ。フルフェイスの額に、三つ首の犬のマークが描かれている。

 「学生、しかもレディに任せての、随分な重役出勤ぶりですわね」

 ヴァネッサは苦笑しながら、おどけつつ声をかけると。機動隊隊員はフルフェイスの頭を撫でて、スピーカー越しにバツの悪い笑いを漏らす。

 「面目ない。組織ってヤツは、動くにしても色々と面倒なモンさ。

 学生の君らの自由さが羨ましいよ」

 そんな会話を交わしている最中、2人の平穏が引き裂かれることはなかった。何せ、竜の群の中にはヴァネッサの眼前にいる男と同じ姿をした機動装甲歩兵(MASS)が入り交じり、竜や『士師』"擬き"を追い回しているのだから。

 ヴァネッサと接触してきたということは、眼前の隊員はこの人員達を纏める指揮官なのだろう。

 ヴァネッサは周囲の隊員の奮闘を一望すると、ホッと一息を吐き、眼前の隊員に柔和な表情を見せる。

 「でも、正直助かりましたわ。

 これで竜達の頭を抑えることに集中できそうですわ」

 「いやいや、助けられてるのはこっちの方さ。

 『士師』なんて大物、本来ならオレ達の方で処理するべきだろうに。君みたいな学生に任せちまうんだからな。

 しかし、たった1人でこんな広範囲に使い魔展開して、自らも戦えるなんてなぁ! ウチの隊に是非スカウトしたいモンだぜ!」

 「生憎(あいにく)と、卒業後の就職先は決まっておりましてよ。残念ながら、"チェルベロ"ではありませんのよ」

 「へぇ! じゃあ、どこなんだい!? 君みたいな超絶実力の持ち主のハートを射止めた就職先って?」

 「"お嫁さん"、ですわ」

 ヴァネッサはウインクして見せると。眼前の隊員が、フルフェイスの向こうで困惑した瞬きをする気配がヒシヒシと感じられる。

 その気配を気にした…というワケではないが、ヴァネッサは1人で勝手に顔を曇らせて顎の下に指を置き、独りごちる。

 「…あら、"お嫁さん"と言うのは可笑(おか)しいかしら。わたくしの方が婿を取る身ですし。

 それだと、"奥さん"と言うのが正解なのでしょうけれども…やっぱり、"お嫁さん"という響きの方が可愛らしいですわねよね?」

 未だ呪詛の竜が飛び交う混沌の中で、何とも牧歌的な独り言に興じるヴァネッサを、機動隊隊員はクックッと笑う。

 「いやはや! これだけの相手とたった独りでやり合おうとしていたお嬢さんだけの事はある!

 こんな状況下で、そんな夢現(ゆめうつつ)の話をヌかす余裕があるなんてな! 大物にも程があるってモンだ!」

 するとヴァネッサは、ニッコリと微笑みを浮かべる。

 「性差なんて過去の話になって今の世の中、度胸もイイ女になる条件ですわよ」

 そう言い残すと、ヴァネッサも何時までも会話に興じてはいられないと気持ちを切り替える。機動隊隊員に軽い敬礼のような仕草で別れと感謝の挨拶を送ると、水晶の竜を力一杯羽ばたかせ、漆黒の竜の群の中を駆ける一陣の蒼跡となって宙を疾駆する。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 "チェルベロ"機動隊の増援の登場は、ヴァネッサにとって大いなる助けとなった。

 竜や『士師』"(もど)き"を引き受けてくれる事は勿論、歓迎の極みだ。加えて、彼らの交戦の様子から、竜や『士師』"擬き"の存在定義の質が理解出来てくる。

 後者の恩恵は、形而上相視認において如実に現れる。竜や『士師』"擬き"の定義の傾向をフィルタリングする事で、竜の操者マキシス・ミーリガンの探索が随分と容易になるのだ。

 (なるほど…! 同じ使役系の能力使いとして、勉強になりますわね…!

 わたくしも使役物を生成する際には独立学習型の疑似魂魄を構築しますけれど…わたくしの組み方とはかなり違いまわすね。

 特に、変化の元となった存在の定義を保持しつつ、竜の定義を前面に出す構造は見事なものですわ)

 敵に感心したところで、敵からの攻撃の手は緩むことはない。手数はだいぶ減ったものの、ヴァネッサを狙う攻撃はまだまだ健在だ。

 ヴァネッサは水晶の竜を俊敏に、時にはアクロバティックに動かしながら彼らの攻撃をいなし、時には彼らを撃破しながら、竜の群の中を縦横無尽に飛び回る。そして、竜の疑似魂魄の定義依存関係を(さかのぼ)り、マキシス・ミールガンの姿をひたすらに探す――!

 そして数十分後。ヴァネッサは遂に、マキシスの姿を視界に捉える。

 指揮官たるはずのマキシスは、意外にも比較的小型の竜の上に乗り、群の中にひっそりと紛れ込んでいる。権威に胡座(あぐら)をかくような尊大な指揮官のようなタイプではなく、あくまで自分も戦闘を支える戦力の一員として行動している事が(うかが)える(たたず)まいだ。

 竜の上に立つマキシスは、全身を竜を総記させる漆黒の鎧で覆っている。頭部も怒る竜を想わせるフルフェイスでスッポリと覆っており、素顔は全く見えない。

 腕を組み、直立する堂々たる巨躯は、この戦闘を趨勢(すうせい)を支える巨木を想わせる存在感がある。

 この姿を見たヴァネッサは、感嘆や畏怖よりも、怜悧(れいり)な理性で歓迎すべき好機を感じ取る。

 (そんな隙だらけの格好! うまく紛れて隠れているつもりでしょうけれど、それが仇になりましてよッ!)

 ヴァネッサは乗る水晶の竜に指示を与え、グルリと天地逆さまにさせると。その背を蹴って飛び出し、マキシスの頭上めがけて降下。両手には幅広の水晶の剣を一振りずつ持ち、バツの字にマキシスを斬り裂こうと構える。

 対するマキシスは、ヴァネッサの接近に気付かぬのか、腕組みを解かずに前方を向いたままだ。このままヴァネッサが双剣の一撃を与えられるならば、倒すに至らなくとも、以後の展開は随分有利に進められたであろうが。

 世の中においては、そう事が巧く運びはしない。

 グニュリ――腕組みし直立したままのマキシスの両肩の鎧が変形し、縦方向に伸びたかと思うと。転瞬、それは二首の漆黒の竜の頭と化す。両者共に黄色に輝く眼光でヴァネッサを射抜くと、一気に大気を吸い込み――息吹(ブレス)として吐き出す。

 (!!)

 ヴァネッサ慌てて双剣を体の前で交差させ、防御態勢を取る。直後、二つの竜頭から飛び出した炎と雷の息吹(ブレス)が強烈な衝撃を伴って激突。(まばゆ)い赤と黄の炸裂を盛大に撒き散らす。

 (やはり、元『士師』だけのことはありますわね! 一筋縄で行かない!)

 衝撃に吹き飛ぶ中、体勢を立て直すべく、ヴァネッサは中空に水晶で出来た足場を形成。それに両足の裏を付け、マキシスの居た方向へと再び飛び出そうと膝に力を込める――その矢先、眩い縛炎の中から、砲弾の勢いで巨大な"塊"が突進してくる。

 "塊"の正体は、マキシスだ! 背中から1対の竜翼を生やし、それを用いて高速で飛翔した彼は、一気にヴァネッサの元へと肉薄。ゴツゴツとした突起に覆われた籠手を纏った右拳で、ヴァネッサの頭を殴りつけに来る。

 (!!)

 ヴァネッサは咄嗟(とっさ)に宙空に結晶の盾を生成。マキシスの拳撃を受け止める――その瞬間。

 ガギンッ! と結晶が悲鳴を上げ、直後にピキピキと小さな雑音が響く。同時に、結晶の盾の中央が徐々に輝く真紅に染まり、表面がドロリと溶融を始める。

 マキシスがインパクトの瞬間、己の拳を竜の頭に変じると。高熱線の息吹(ブレス)を放ち、盾ごとヴァネッサを焼き尽くそうとしているのだ。

 ヴァネッサはすぐにも液化しそうな結晶の盾をそのままに、身をギリギリまで低く構えて足場を蹴る。そして、盾の下を潜り抜け、マキシスの下半身へと接近。手にした双剣を振るう。

 対するマキシスは、臀部から延びる金属製の竜尾を鞭のように振るい、ヴァネッサの斬撃に対抗する。ヴァネッサは竜尾ごと斬り落としてマキシス本体へ攻撃する算段だったが…竜尾は、切断できない!

 硬質の魔化(エンチャンテッド)金属を鱗に持つ粗竜(サヴェッジ・ドラゴン)が存在すると言うが、その鱗を再現したものかもしれない。結晶の剣は高い高度に阻まれてヒビ割れ、微細な破片を霧のように撒き散らす。

 同時に、盾を溶融し尽くした熱線がヴァネッサの頭上を疾駆。マキシスはその熱線を放つがままに、まるで炎の剣を振り下ろすが如くに、ヴァネッサへ叩きつけてくる。

 (この程度では終わりませんわよッ!)

 ヴァネッサは足に結晶で出来た翼を生成。それを用いて大きな弧を描く軌道で宙を飛翔し、マキシスの背中側へと一気に回り込む。同時に手にした結晶の双剣を再生しつつ、その性質を変化。世界最高レベルの硬度を持つ結晶、金剛石(ダイヤモンド)による剣を作り出し、独楽のように回転しながらマキシスに斬りつける。

 だが、この攻撃も功を奏さない。マキシスの肩から生えた竜の首の内の一本が素早く延びると、ヴァネッサの剣に食いつき、動きを止める。

 そしてもう一本の竜首は、ヴァネッサを真正面に見据えると、ヒュゥッ、と大きな音を伴って吸気。転瞬、口腔内で魔力励起光を物語る、網膜を焼かんばかりの青白い輝きが灯り――(ドウ)、と言う轟音を伴い、過電粒子の息吹(ブレス)を吐き出す。

 迫り来る破壊的な閃光を前に、ヴァネッサは取り乱さず、冷静に素早く剣から手を離すと。水晶で小さなを足場を作り、それを蹴りつつ足に着けた結晶の翼を羽ばたかせて水平移動。同時に、閃光を遮るようにして、姿見鏡のように大きく板状の結晶を生成。荷電粒子の奔流を受け止めさせる。

 バチンッ、ガリガリガリッ! 結晶板

は荷電粒子の激突の衝撃を受けて大きな音を立て、盛大な亀裂を走らせ、粉雪のような破片を撒き散らす。だが、瓦解するより前に、荷電粒子の奔流は鏡で反射された光線のように、あらぬ方向へと屈折して飛んで行く。

 

 ヴァネッサが作り出した結晶板は、強烈な帯電性質を持つ物体だ。これが発する電場が荷電粒子を構成するプラズマに干渉し、その進行方向を屈曲させたのだ。

 

 ヴァネッサは以後も結晶板をいくつも作りだし、荷電粒子の奔流を短距離内で3、4度と反射させる。反射の直後に板は瓦解するが、奔流は多少勢いを落としながら着実に方向を換え――果てには、マキシス自身に向かって突撃する。

 (面白い能力、そして発想力だ)

 マキシスは胸中で静かに賞賛しつつ、迫り来る荷電粒子の奔流の方へ双肩の竜の頭を向ける。竜の頭は大口を開いて吸気を始めると、過電粒子の奔流は麺の束がバラリと広がるように散開し、竜の大口の中へと吸い込まれてゆく。

 その隙に、ヴァネッサはマキシスの背後へ回り込むと、空になった己の手に剣を生成すると共に、宙空にも幾つもの水晶の剣を生成。それらを雨霰とマキシスへと突撃させる。

 マキシスはチラリと首を回してヴァネッサの行動を確認するが、完全に向き直りはしない。そのまま臀部から伸びた竜尾を高速で回転させると、飛びかかる水晶の剣を叩き落とす。水晶の剣は粉砕まで至らぬとも、破片の霧をパッと撒き散らして、あらぬ方向へ散らされる。

 そこへ、マキシスの頭上へと移動したヴァネッサが、再び降下突撃。両の手の双剣を合わせ、一つの大剣を作り出し、そのギラつく鋭い切っ先で脳天を貫かんとする。

 対するマキシスは、視線をほとんど動かさず、小さくクルリと身を回して大剣の一撃を回避。大剣の刀身に沿うようにしてクルクルと身を回しながらヴァネッサの元へと飛翔すると、漆黒の烈風にも見える勢いで回し蹴りを放とうとする。

 そこへ、大剣の刀身から結晶が急成長。巨大な錐と化してマキシスの銅をへと肉薄する。マキシスはハッと行動を切り替えると、蹴りで水晶の錐を叩き折ろうと試みる。

 マキシスの蹴撃は、呪詛による『神霊力』"(もど)き"のお蔭で、爆発的な衝撃を有する。その一撃は見事に水晶の錐の表面をボコリとへこませ、蜘蛛の巣状の亀裂を走らせた――が。水晶は、砕けない。

 それどころか、急激に成長を始めると、マキシスの脚を飲み込んでシッカリと捕まえる。

 (もらいましたわッ!)

 ヴァネッサは一気にマキシスの体へと肉薄しながら、結晶製の刺剣(レイピア)を生成。マキシスの肉体を貫くために、疾風の速度で突きを放つ――が。

 突如、ヴァネッサの側に一匹の漆黒の竜が飛び出してくると。自ら黒紫色の煙を放出して元の無機物へと姿を変じると――そこに現れたのは、ミサイルだ。

 (ッ!?)

 回避する暇などない。ヴァネッサは結晶による防壁を作り出すことを即断、水晶はピキピキと音を立てながら素早く成長するが――ヴァネッサの体を覆う程のサイズに達するよりも遙かに早く、ミサイルは爆発。(ゴウ)、と爆音と閃光を振り撒いて衝撃と炎熱が怒濤となって押し寄せる。

 「あうっ!」

 皮膚を焼き、内臓と骨格を揺さぶる衝撃に、ヴァネッサは苦鳴を上げずにはいられない。足に装着した結晶の翼は衝撃に当てられて粉砕してしまい、ヴァネッサは体中に火傷を負い、制服からブスブスと黒煙を上げながら、流星のような速度で地上へと落下する。

 これにより、ヴァネッサの魔力集中が(おろそ)かになってしまう。漆黒の竜の群の中で戦う水晶竜の動きや強度が低下するのに加え、マキシスを捉えていた水晶の柱も一気に脆くなる。マキシスは楽々と脚を振り回して水晶柱を破砕し自由を得ると、竜翼を羽ばたかせて急降下。落下するヴァネッサの元へと肉薄すると、両手を組んで頭上に振り上げ、鉄槌のようにヴァネッサの腹部に叩き込む。

 (ドン)ッ! インパクトの瞬間、危険な衝撃音が響いたかと思うと。マキシスの組んだ両手が大きな竜頭へと化し、その巨大な口から熱線の息吹(ブレス)が噴射される。

 真夏の太陽の輝きを思わせる熱線は、ヴァネッサの腹部を容赦なく貫く。肉や骨は炎を上げる暇もなく一瞬で溶解し、ポッカリとした大穴が開く。

 (…ッ!)

 ヴァネッサは激痛よりも肉体の喪失感に打ちのめされ、目を丸く見開いたまま、さらに加速して地上へと降下する。

 …そこでは、更なる悲劇がヴァネッサを襲う。

 マキシスの"擬き"の『神霊力』が大地の一画まるごとに作用。グゴゴゴッ、と地響きを起こしながら間欠泉のように長大に上昇すると――現れたのは、巨大な竜の首だ。

 それはグワッと桁外れに大きな口腔を開くと、落下してきたヴァネッサを一飲み。転瞬、(あぎと)を閉ざした際に響いた、ガギンッ、という残酷なる無機質な音が、水晶色の長髪を称えた少女の無惨な結末を憐れむようであった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「眠れ、勇敢なる涜神者」

 マキシスはポツリと呟き、巨竜の首の閉じた顎をしばし見つめてから…背中の竜翼を羽ばたかせ、上空の戦闘に参戦すべく上昇する。

 

 ――だが。マキシスの戦闘は、彼の意図に反して、幕を閉じてはいなかった。

 なぜならば――。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Under The Serpent Hiss - Part4

 ◆ ◆ ◆

 

 体の中央に大きな穴を開けられたのなら、死ぬ。それは多くの者が思い描く事実である。

 実際、ヴァネッサ自身もそう考えていた。だからこそ、数多の戦場において、そのような悲惨な結末に至らぬようにと、ある種の恐れを抱いて行動を起こしていた。

 さて――こうして実際に体のど真ん中に穴を開けられた彼女は、何を思ったか。まずは体部を失ったことによる喪失感と困惑だ。

 そしてジンワリと滲み出してくる、市への恐怖。ここに至ってようやく、激痛が思考の中へ怒濤のように流れ込んでくる。

 ――常人ならば、ここで迫り来る死に対する狼狽やら拒絶を感じながらも、何も出来ぬ絶望感に打ちひしがれたことであろう。

 だが、『星撒部』として死線をも潜り抜けている彼女の精神構造は、非常に強靱であった。

 (まだ…ですわ!)

 ヴァネッサはポッカリと開いた腹部の傷口周辺に身体(フィジカル)魔化(エンチャント)。神経伝達を鈍化させて鎮痛しながら、制服の裏ポケットを漁る。そして取り出したのは、青白い魔力励起光を放つドロリとした液体を収めた瓶――彼女手製の霊薬(エリクサ)だ。

 ヴァネッサは素早くコルク栓を抜くと、中身を一気に(あお)る。霊薬(エリクサ)は発光の際に吸熱反応を起こしているため、食道を下る際にはヒンヤリした感覚を得る。

 霊薬(エリクサ)は腸への到達を待たず、食道の組織の中に素早く吸収されてゆく。そしてさざ波を立てるように次々に細胞核を次々に活性化させてゆき…やがては腹部の傷口に到達する。

 鍾乳石のようにドロリとした滴状の塊が幾つも付着する一方、真っ黒に炭化した傷口は、みるみる内に表面の組織をボロボロと落としてゆく。その内側に新鮮なピンク色をした組織が姿を現すと、水を得た海綿のようにニョキニョキと膨張して腹部を再生してゆく。

 ――こうして数秒の後に、ヴァネッサの腹部は、凄惨な傷口が遠い昔の悪夢だったかのように、ツルリと完治してしまった。但し、急激な組織再生は完全に元の状態を再現できてはおらず、以前よりも幾分か筋肉の薄い、若干貧弱な印象を与える体躯となる。

 加えて、多少の突っ張りのような感触も覚えるが――激痛や臓器をゴッソリ失ったことによりショックに比べれば、どうということはない。

 

 さて、こうして回復したヴァネッサは、周囲を見回して竜の体内を確認する。

 彼女は竜の(あぎと)に噛まれた際、激痛の中でも力を振り絞って結晶の盾を作り、致命的な牙から身を守っていた。故に、盛大な破砕音が響いてはいても、ヴァネッサは更なる傷を負うことなく、竜の食道の奥へと滑り込むことが出来た。

 こうして竜の"胃袋"に到達したヴァネッサは、そのあまりに無機質な光景を前に、思わず肩を(すく)める。

 (外見は細かいくせして、中身は随分と等閑(なおざり)な造りですのね)

 ――そう、ヴァネッサの感想の通り。竜の"胃袋"の様相は、おおよそ臓器と呼べるものではない。土で四方を覆われた、単なる洞穴でしかない。消化液もなければ、肉の脈動も感じられない。

 この巨竜はマキシスが土から作り出したもの。故に、体内が洞穴のようになっているのは理解できるが、余りに中途半端だ。

 (本物の『士師』時代なら、もっと精巧に生成できたのかも知れませんわね)

 そんな考えが頭を過ぎった、その直後。ヴァネッサの胸中は急に、煮え(たぎ)るマグマのような激情に駆られる。

 (わたくしってば…こんな『士師』"(もど)き"に、命を取られるほどの遅れを取ったワケですの…!?)

 ヴァネッサは先述した通り、星撒部の活動を通して、何度も死線を潜り抜けている。その最中では、本物の『士師』と交戦した経験も少なくない。

 それでもヴァネッサは、命を落とすことなく――しかも、今回ほどの危なげを与えられることなく、切り抜けることが出来たのだ。

 それを、こんな良いようにやられてしまうとは、屈辱極まりない!

 広範囲に大量の使い魔を呼び出して操作し、魔力を消費していたから…と云うのは言い訳に過ぎない。戦場ではどんな状況だろうが、相手が加減してくれることなどない。自分が決めたやり方なのだから、自身で責任を取って状況を切り抜けるのが本筋だ。

 それを十分理解しているからこそ、ヴァネッサは悔しさを噛みしめる。

 (このままで終わらせるなんて、到底できませんわよッ!)

 ヴァネッサはギリリと歯噛みして、己の激情を表現する一方――竜の体内の様相を鑑みて一計を案じる。そして、ニヤリとギラつくような含み笑いを浮かべると、"胃袋"の乾いた土塊(つちくれ)の表面に手のひらを接する。

 そして、魔力を注ぎ込む――マキシスへの反撃への布石として。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 一方のマキシスは、ヴァネッサのことなど最早一分の気にもかけず。己の能力(ちから)で作り出した漆黒の竜の群に混じり、"チェルベロ"の増援部隊との戦闘を繰り広げている。

 仕留めた相手へ憐憫(れんびん)や感嘆の情を抱く(いとま)など、戦場にはない。後ろを振り返るのは、奇襲を警戒する時だけで良い。ただひたすらに(たお)されぬよう、(たお)し続ける。それが戦場で生き抜くための真理だ――それはマキシスに限ったことでなく、長く戦場に身を置く者なら誰でも考えることだろう。

 マキシスは怒濤のように漆黒の竜を操り、"チェルベロ"の隊員達を翻弄しては、自らも巨大な砲弾のような勢いで疾駆。竜化させた拳や脚を使い、熱線や吹雪の息吹(ブレス)を放ちながらの大打撃を与える。

 対する"チェルベロ"の隊員は、幸いにも脱落者は出ていないものの、それが生じてしまうのは時間の問題と言える。

 対竜の装備によってかなり助けられてはいるが、装備は万全の無敵というワケではない。余りの高出力の息吹(ブレス)の前には、溶鉱炉の熱の前に()け出す鉛板のようになってしまう。

 (チックショウッ! "(もど)き"のはずだってのに、何なんだよ、この強さは!

 このままじゃあ、死人だって出ちまうぞ!

 軍人じゃねぇってのに、冗談じゃないッ!)

 機動隊隊員がフルフェイスの下で汗をベットリと流し、眉根に皺を寄せて舌打ちする。その(わず)かな仕草の合間にもマキシスとその竜の攻撃は容赦無く割り込み、厳しい攻撃の連続が嵐のように襲いかかってくる。

 機動隊の士気を下げる要因は、マキシスの強さばかりでない。ヴァネッサが討ち取られてしまった光景を目にしたこともまた、彼らの心に大いなる(かげ)りを落としている。

 (学生の身空で、こんな怪物と戦わせちまって…! 挙げ句の果てに死なせちまうなんて…! オレ達は阿呆で無能の集まりかよッ!)

 

 そんな機動隊隊員の胸中に、激しい突っ込みでも入れるかのように――突如、大地から響き渡る、盛大な瓦解の轟音。

 ビキビキビキッ、ガラガラガラッ! 大気を揺るがす轟音の源へと視線を向けるのは、機動隊隊員だけではない。マキシスもまた、竜面の向こう側で眉を跳ね上げつつ、多少の驚きを以て音の方角を見やる。

 彼らが見たのは、先刻ヴァネッサを飲み込んだ、大地から生えた竜に起こった異変である。その体がブクッと一回り膨らんだかと思うと、直線的な亀裂がジグザグと走り、内部から破裂したかのような様相を見せつつ瓦解したのだ。

 破壊されて零れ落ちる破片を注視すれば、そこにはやや青みがかった透明の結晶が見て取れる。

 それが氷であると覚った者は、恐らくこの場には1人だに存在しないだろう。

 瓦解の進行と共に生成される、もうもうたる土煙。その一画が素早く、細く長く伸びたかと思うと――その先端に居るのは、グレデーションの掛かった青髪を称えた、1人の少女。制服の腹部と背部には大きな穴が開き、瑞々しい肌がポッカリと覗いている。その両手には刃の長い剣を一本ずつ持ち、強気な気配を漂わす美しい面立ちには、烈火の如き憤怒が浮かび上がっている。

 その姿を見て、機動隊隊員は――そして誰よりマキシスは、息を飲んで驚愕する。

 竜の体内より生還した、ヴァネッサだ!

 

 ヴァネッサは竜の体内にて己の魔力を注ぐと、竜の体を構築する土塊(つちくれ)の中に存在する水に作用し、一気に氷結させたのだ。

 普通、魂魄を有する生物は勿論、擬似魂魄を有する暫定精霊(スペクター)が相手であろうとも、その体内に直接魔術を作用させるのは至難の(わざ)だ。魂魄および擬似魂魄が持つ定義の恒常性が、術式による第三者からの干渉を強く拒むからである。

 マキシスの創り出した竜は、外観の通り生物に近い存在であり、上記の事情に(なら)って術式を嫌う。――しかし、その事情が適用されるのは、生物的な定義構造を有する体表およびその近傍のみだ。

 その体内となると、ヴァネッサが見てきた通り、()き出しの無機質に他ならない。

 そして事実、ヴァネッサの術式は何ら抵抗を受けることなく、巨竜を構築する土塊(つちくれ)にアッサリと干渉。内包された水分を結晶化――即ち、氷に変えたのだ。

 水は結晶化することで、体積が増加する。故に、巨竜は土塊で出来た体組織の内側から結晶に押されて破裂。結果、瓦解したと云うワケだ。

 

 巨竜を完膚なまでに破砕した(わざ)も見事だが、マキシスが何よりも目を()いたのは、ヴァネッサの快復し切った腹部だ。確かに高熱線で()き貫いてやったはずななのだ!

 (あの女、再生能力を有しているのか!?)

 巨竜などに任せず、自らの目で確かめられる形で頭か心臓を破壊しておけば、確実に絶命させられたかも知れぬ――そう考えたマキシスは、ギリリと奥歯を噛みしめる。

 その合間に、近くに居た機動隊隊員が大型の重火器による射撃を行ってきたが。マキシスは振り向きもせず、分厚い竜鱗のある両拳でぞんざいに弾丸を捌き切ると。隊員の存在など初めから無かったかのように、ヴァネッサにのみ意識を注ぐと、背中から生えた一対の竜翼を強烈に一打ち。落下する漆黒の彗星のような有様で急降下し、ヴァネッサの元へと肉薄する。

 (今度こそ、トドメを刺すッ!)

 一方、マキシスを迎え撃つ側のヴァネッサもまた、(はらわた)の煮えくり返る激情に青筋を浮かべながら、迫り来る相手を睨みつける。

 (今度こそは、無様を晒しませんわよッ! 似非(えせ)竜など、地べたに這いつくばらせてやりますわッ!)

 まず仕掛けたのは、ヴァネッサだ。彼女は結晶で出来た翼を使わず、宙空に幾つもの結晶の足場――と云うか"壁"を造りながら、それを蹴って上昇。手に掴んだ水晶の剣をマキシスに向けると、彼女の周囲に巨大な氷柱(つらら)のような鋭い結晶塊が出現。剣を一振りすると、それが指揮棒であるかのように、氷柱(つらら)の群はマキシスへと飛翔する。

 対するマキシスは、速度を緩めずに降下を続ける。そのまま氷柱(つらら)に身を貫かれるかと思いきや…彼を助けるのは、横から介入してくる幾匹もの竜達だ。頑丈な鱗を持つ彼らは、氷柱(つらら)に激突し、それを粉砕したり吹き飛ばしたりする。

 が、氷柱(つらら)の役目はここで終わらない。破砕されたり吹き飛ばされた氷柱(つらら)は、ガキンガキン、と音を立てて急速に成長。荒削りの巨大な鎧騎士の姿を取ると、背中から翼を生やして竜へと突入してゆく。

 「我らが姫のためにッ! 竜殺しの名誉、戴くッ!」

 ゴキゴキと結晶の動く音を立てながら、騎士達は太い声で宣言し、竜達と激しい空中戦を繰り広げる。

 ()くして、マキシスは独りヴァネッサへと肉薄する事となる。

 (かと言って、この策に何の益があるか!?

 再び凄惨なる風穴を開けてくれるッ!)

 マキシスは両腕を組み、作り出した巨拳を竜の顔へと変化。稲妻のように振り下ろしつつ、(あぎと)を開き、灼熱の太陽を思わせる高熱線を放射する。

 対するヴァネッサは――作り続ける結晶の"壁"を蹴って大きく横へと飛び、熱線を回避。そしてすかさず連続して"壁"を作って蹴ると、再びマキシスへと向かう。

 だが、マキシスも熱線を止めたりしない。竜の(あぎと)が吐き出すままにヴァネッサの動きを追って熱線を振るい、ヴァネッサの体を溶融分断しようと攻め続ける。

 ヴァネッサは"壁"を蹴り続けて、熱線の斬撃を器用にかいくぐる。一方で、"壁"は熱線によって溶融・昇華し、破片どころか蒸気と化して大気中に漂う。

 ――こうして、ヴァネッサの回避の連続によって、マキシスの眼下には破壊された結晶による雲状の(もや)が垂れ込める。

 (…なるほど。それが布石と云うワケか)

 マキシスは眼下の光景をみやると、胸中でほくそ笑みつつ独りごちる。

 そしてすかさず、両の竜翼を強烈に一打ち。激しい烈風を巻き起こして、ヴァネッサの結晶の破片が作り出した(もや)へ叩きつける。靄は押し潰されて薄く伸びながら輪状に拡散し、ヴァネッサの周囲は晴れ渡る。

 マキシスの行動は、ヴァネッサが微細な結晶粒子を操り、罠を作り出すような攻撃行動を取るだろう事を予測してのことだ。

 澄み渡った大気の中を跳躍し続けるヴァネッサを、マキシスは執拗に高熱線の息吹(ブレス)で追い詰める。ヴァネッサは懲りずに"壁"を作っては跳び、熱線に破壊させて靄を作るが、その度にマキシスは竜翼を打って靄を払う。

 一方で、マキシスはヴァネッサのスタミナ切れを待つほど悠長ではない。ヴァネッサを追い回しつつ、両肩から伸びた2つの竜頭に吸気させると、新たなる息吹(ブレス)攻撃を準備する。跳躍程度では回避不能な広範囲を標的にする、強烈な息吹(ブレス)を。

 2つの竜の口が魔力励起光で青白く輝き始めた、その頃。ヴァネッサの跳躍の方向が思わぬ方向へと変わる。

 逃げ回る目的での水平方向から、あろうことか、マキシスへ一直線に接近する方向へ。逡巡も怯懦もなく、真っ直ぐに速やかに、跳躍する。

 (息吹(ブレス)を予測して上で、先手を取って潰す算段か?

 しかし、その接近速度では、"遅過ぎる"ッ!)

 "遅すぎる"――その意は、双肩の竜の息吹(ブレス)に対応するにしても、ヴァネッサは到底間に合わない…と云うことではない。双肩の竜が万全な準備を整えるまでには、まだ時間がかかる。

 では何が"遅過ぎる"かと言えば――マキシスがヴァネッサを迎撃するのには、余りにも余裕綽々な時間が在るということだ。

 そしてマキシスは、容赦なく迎撃を実行する。合わせた両手より発する高熱線の奔流をヴァネッサの足下から頭頂へ向かう方向へと振り上げ、彼女を両断せんと試みる。

 対するヴァネッサは、と言えば。結晶で盾を作るでなく、むしろ"壁"を作って新たな足場を形成し、それを強かに蹴ってマキシスの懐目掛けて飛び込む。

 それは同時に、マキシスの超高熱の息吹(ブレス)に自ら身を投げた事を意味する。

 (負け博打に飛び込むか! 邪神に従う涜神者には似合いの愚かさよ!)

 マキシスは胸中で罵声を叩きつけつつ、ヴァネッサの足先に高熱線を叩きつける。

 

 その瞬間――マキシスの視界はチラリと、妙なものを見つける。

 高熱線が狙う足先の部分に、やたらと蒸気を振り撒く白っぽい結晶が生じたのだ。

 盾にしては、形状は余りに粗雑だ。岩石のようにゴツゴツした姿をしており、防御と言うよりは、蹴り飛ばして攻撃する武器ではないか、という外観をしている。しかし、このタイミングで攻撃行動に転じるというのは、余程の命知らずの愚者でない限り、可笑(おか)しな話だ。

 何のつもりだ――その疑問符が頭に張り付くより前に、マキシスの腕は更に進み、高熱線はヴァネッサの作り出した結晶に触れる。

 高熱線の温度は、優に千度を超える。パイロエンデュライトのような火霊の要素が強い結晶は耐え切る可能性も見えるが…蒸気を放って昇華するような結晶では、ひとたまりもなく速やかに蒸発してしまうことだろう。

 実際、高熱線に触れた結晶は、一瞬にしてその姿を消滅させる。――だが、それで事は終わらない。

 (ドン)ッ! 突如、鼓膜を聾する轟音が鳴り響き、空間をも振動させるような衝撃波が振り撒かれる。この事を予想だにしなかったマキシスは、必死に竜翼を動かしてバランスを保ち、吹き飛ばされることを防ぐ。

 だが、衝撃波に翻弄される最中、マキシスはある事に気付く。合わせた両手から吹き出していた高熱線が、消えてしまっている!?

 (何が起きた!?)

 困惑するマキシスの懐に、疾風のように滑り込んでくる人影がある――どのような対策を取ったのか、衝撃波に翻弄されずに的確にマキシスへと接近したヴァネッサだ!

 「ハァッ!」

 ヴァネッサは気合一閃。手にした双剣でマキシスを"バツ"の字に斬りつけると共に、前蹴りを放って腹部を強打。マキシスをあらぬ方向へと吹き飛ばす。

 

 ヴァネッサがマキシスの高熱線を消滅させた絡繰(からく)り。その要は勿論、足先に生成した結晶にある。

 その結晶の正体は、ドライアイスだ。

 常温より遙かに低い融点を持つドライアイスに千度超える結晶が触れれば、急激な昇華が起こり、気体の二酸化炭素屁と爆発的に転じる。

 また、二酸化炭素は非常に安定的した物質だ。高熱を浴びせられても、電離する程のエネルギーを与えられない限りは、化学変化を起こさない。それどころか、その安定性故に燃焼せず、消火剤として働く。

 高熱線に対して爆発的に発生した二酸化炭素は、衝撃波で高熱線の構成要素を吹き散らすと共に、その燃焼反応を停止させたのだ。これにより、マキシスの放った高熱線はエネルギーを失い、消滅したのである。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (クソッ! このオレをッ!)

 マキシスは竜面の下で渋面を造りつつ、竜翼を動かして自身の身にブレーキをかける。

 幸いにも、ヴァネッサの斬撃はマキシスの竜鱗の鎧を切り裂くに至らず、マキシスは無傷だ。だが、安堵をしている(いとま)などない。

 ヌッとした大きな影が、背後よりマキシスの体を覆う。

 何事かと首を回して視線を向ければ――そこには巨大な水晶の巨人が、大剣を水平に構えて横一文字に斬撃を放たんとする姿がある。

 吹き飛ばされたマキシスは、自らが竜翼の羽ばたきで吹き散らした靄の中へ突入してしまったのだ。そこでヴァネッサは微細な破片を操作して成長させ、水晶の騎士を創り出していたのだ。

 (ここまで読んだ上での、布石だとでも言うのか!?)

 マキシスの自問への答えが出ぬ間に、水晶の騎士は「()ッ!」と叫びながら稲妻のような一閃を見舞う。

 首に迫る巨刃に対し、マキシスは肩から生えた竜首を動かし、刃を咥えて対応。水晶の刃は竜の口角をギチギチと切り裂いて数センチ進むも、ガッチリとした牙の捕らえられ、両断には至らない。

 マキシスは拳を固めて、水晶の騎士への反撃を行わんとした、その時。別の方向からもう一つの大きな影が、マキシスの頭上を覆う。目を丸くしてそちらに視線を走らせれば、そこにはもう一体の水晶の騎士が既に刃を横薙ぎに放つ姿がある。

 (なんだとッ!)

 マキシスは反撃を停止し、体を捻る。マキシスの首を狙っていた斬撃は、首を覆う鎧の襟の表面を掠めて過ぎ行くと――そのまま、刃を咥えている竜の首へ強かに突き立った。

 (ザン)ッ! 空間さえも斬り裂くような、重い音。それは、水晶の刃が強固な鱗で覆われた竜の(くび)をスッパリと切り離した事を示す音だ。

 「(フン)ッ!」

 竜に刃を咥えられていた水晶の騎士が、気合いと共に剣を振り上げると。マキシスから切り離された竜の頭が引っこ抜かれる。綺麗な平面をした断面からは、一瞬の沈黙の後、噴水のような夥しい出血が巻き起こる。

 竜面の向こう側では、マキシスが脂汗をブワリと吹き出させて、苦悶に歯噛みする。彼は無機物だけなく、自身の肉体をも竜へと変じることが出来る…それが今回は仇になった。肩より生やした竜の頸が斬られるということは、肩の肉をゴッソリと抉られるに等しい状況だ。出血もすれば、激痛とてマキシスの身体を駆け巡る。

 「ぬがぁっ!」

 マキシスは激痛を吹き飛ばすように叫びながら、竜の頸を引っこ抜いた水晶の騎士に拳を叩きつける。筋組織を竜と同等の強靱なものへと変化させた一撃は、水晶の騎士の胴体のど真ん中に派手な凹みを生じさせ、蜘蛛の巣のような亀裂を四方八方に走らせる。

 だが、騎士は砕け散らなかった。それどころか、高速で抉られた傷口周辺の結晶を再生させると、体内に潜り込んだ拳をガッチリと咥え込んだ。

 そしてもう一方の騎士が、大上段に大剣を構えると、マキシスを脳天から両断すべく振り下ろす。

 「やらせるかぁッ!」

 マキシスは絶叫し、脚を蹴り上げて大剣にぶつける。強靱な竜鱗の鎧で守れた脚の裏は、激突した水晶の大剣をバラリと刃(こぼ)れさせながら、シッカリと受け止め、両断を阻む。

 だが、水晶の大剣も(ただ)でマキシスの行為を許しはしない。瞬時にピキピキと音を立てながら再生、成長すると、(いばら)のようにマキシスの足裏に伸びて絡み付く。

 結果、マキシスは片手片脚を封じられる格好となる。

 (だが、ここで折れるオレではないッ!)

 マキシスは、ガァッ、と声を張り上げると、竜の筋力を得た脚を振り動かす。その動作は脚に絡みつく水晶の騎士の巨躯を振り子のように動かし、滅茶苦茶に振り回す。力付くで束縛を打開する算段だ。

 そんな頭に血が上ったマキシスの頭上に、満を持して登場するのは、ヴァネッサ本人だ。

 相変わらず水晶で創り出した刺剣(レイピア)を突き出し、マキシスの頭頂を貫かんと迫る。

 (如何に貴様の使役術が卓越していようとも! 貴様自身の体術がこうも粗末では、片腹痛いッ!)

 マキシスは血の昇った思考でありながらも、しっかりと視界の端にヴァネッサを捕らえると。わざとヴァネッサの方を注視しないようにしながら、残る肩から生えた竜の頸を素早く延ばし、ヴァネッサに噛みつきに向かう。

 グワッと開いた真紅の口腔に、ゾロリと生え揃った鋭い牙がおぞましくヴァネッサに迫る――一方で、彼女は怯懦の素振りを微塵も見せずに、刺剣(レイピア)を竜の口内へと突き立てる。

 グサリッ――肉を貫く鈍い音と共に、バキリッ――竜の閉じた(あぎと)が水晶を粉砕する音が響く。

 マキシスはまたも肩に激痛を得るが、竜頭化が解除されるほどのダメージではない。マキシスはそのまま竜に吸気させ、息吹(ブレス)の準備に入る。この戦いにおける経験上、武器を失ったヴァネッサは距離を取って体勢を立て直すはず。その隙に、今度こそ彼女の全身を息吹(ブレス)の衝撃で消滅させてやる算段であった。

 だが――マキシスは予想だにしていなかった。武器を失ったヴァネッサが、尚もマキシスの元へと接近する事を。

 そして、何も持たぬ手で拳を固め、堅固な竜鱗のフルフェイスヘルメットで守れた頭部に拳撃を放ってくることを。

 (策を潰され、自棄に走ったかッ!)

 マキシスは拳撃のことなど意に介さず、竜頭に吸気を続けさせ、息吹(ブレス)の準備に万全を期す。

 準備が整うより前に、ヴァネッサの拳がマキシスの頭に届く。ゴツン、と云う激突音は、兜が砕ける音ではなく、ヴァネッサの骨に響く痛々しい音だ。

 

 しかし、マキシスはヴァネッサの行為を愚考だと(わら)うことは出来なかった。

 否――嗤う暇など、なかった。

 

 (ガン)ッ――いきなり、兜越しの頭蓋骨に激突音が響く。同時にマキシスは天地がひっくり返ったような感覚を得ながら、視界がチカチカと明暗する。

 全身から急激に力が抜け、身体から魂魄が抜け落ちたようなフワフワした感覚を得る。かと思えば、絶叫マシーンにやたらと振られて三半規管が狂ってしまったような不快感を覚える。

 その感覚がどれほど続いたのか――混濁したマキシスの感覚では、相当長い時間のように思えた。だが、実際にはほんの短時間だったのかも知れない。

 (ドウ)ッ! 全身を襲う強烈な激突音と共に、骨格全体に響く激痛が駆け巡る。この時になって、ようやくマキシスの意識は混濁から解放される。

 そして知る――彼は落下し、大地に五体を(なげう)って(うつぶ)せに倒れ込んでいることを。

 (何が…起きた!?)

 疑問符を浮かべる彼の上に、ヴァネッサが落下してくる。そして竜鱗の鎧で覆われた背中の中央に両の踵を叩き込むと。ガツン、という踵に響く音が響いた直後、ズンッ! と脊椎から内臓にかけて貫くような激痛が走る。

 「ンガアアァァァッ!」

 思わず絶叫するマキシスは、憤怒と苦悶の意識の中で、鎧を貫くヴァネッサの攻撃の正体を知る。

 

 ――練気だ!

 "気"と呼ばれる生物の生命エネルギーを、文字通り"練り"上げて術式を作り、解き放つ技術。

 "気"は生命エネルギーという性質上、生物の身体に作用を及ぼしやすい。通常の術式ならば魂魄の恒常性が抵抗するものの、練気の場合は意図して抵抗せぬ限り、音叉が共鳴するようにして影響が及んでしまう。

 ヴァネッサは練気の一種、勁によって鎧を伝搬して貫通し、マキシスの肉体に直接作用する衝撃を放ったのだ。

 …ヴァネッサは、水晶操作を得意とするものの、それだけが取り柄と云う一辺倒ではない。ユーテリアでの授業や星撒部の仲間から学び取った技術が、確実に彼女の血肉となっているのだ。

 

 「キサマァッ!」

 マキシスは激痛ごと振り払うように身体を回し、その勢いのまま拳を振るってヴァネッサを狙う。ヴァネッサはフワリと後方に跳び退(すさ)りながら、両手に結晶の短剣を生成。それをマキシスに投げつけて威嚇しつつ距離を取る。

 マキシスは竜鱗の小手で覆われた腕を振り動かして短剣をあらぬ方向へと弾き飛ばすと。勁の衝撃が抜けぬ身体に鞭を入れ、山のように起き上がる。

 そしてヴァネッサを睨めつければ――彼女は両脇に巨大な水晶の騎士を(はべ)らしながら、自らも右手に鋭く輝く刺剣(レイピア)を持って構えている。

 この刺剣(レイピア)は、結晶でできたものではない。眩いほどの金色の金属光沢を放つ、正に金属製の逸品だ。刀身は細身ながらも、刃零れ一つなく鏡のように曇天越しの陽光を照り返している。(つば)の部分は五月蠅すぎない程度に草花の装飾が施され、控えめにはめ込まれた赤の宝石がアクセントとしてキラリと輝いている。

 この逸刀こそ、ヴァネッサがユーテリアの入学の祝いとして父から授けられた宝剣。銘を"風鳴"と云う。

 (あの(アマ)、まだ隠し玉があるのか…!

 出し惜しみをしてこのオレと戦っていたとは、ふざけたことを…!)

 マキシスはゴクリと唾を飲み込み、口内に溜まった吐血を飲み下しつつ、歯噛みすると。臀部から伸びた金属質の竜尾を大地に立て、魔力を注入。途端に、マキシスの眼前の大地が盛り上がったかと思うと、網の中にすくい上げられた大量のウナギのようにうねり暴れる地竜の群れと化し、ヴァネッサへと疾駆する。

 対するヴァネッサは、手にした宝刀を一振り。転瞬、金色の刀身の周囲に激しい大気の渦が生じる。"風鳴"の銘の通り、風を操る能力が魔化されているのだ。渦の中で、朝日の中に輝く粉雪のようにキラキラして見えるのは、ヴァネッサの能力で作り上げた結晶の微少片だ。

 これを手にヴァネッサは、騎士達と共に大地を強く蹴ると。迫り来る地竜の群へと向かって前進する。

 それを受けて、マキシスもまた地竜の後ろに続いて、大地を蹴って走り出す。

 

 「殺すッ!」

 マキシスの口から発された罵声は、声だけでヴァネッサの頸をへし折らんばかりの怨恨が()もっていた。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Under The Serpent Hiss - Part5

 ◆ ◆ ◆

 

 「(エイ)ッ!」

 「(オウ)ッ!」

 ヴァネッサの両脇を走る水晶の騎士達は、気合一閃、手にした大剣を振るって地竜に叩きつける。

 地竜の群は強烈な衝撃に薙ぎ倒され、両手で草根を分けるように2分される。それでも地竜は頭を(ひね)って口を開くと、一瞬の吸気の後に火炎の息吹(ブレス)を吐き出す。

 十分な吸気のない息吹(ブレス)では含まれる魔力の質が低く、水晶の騎士を熔解(ようかい)させるにはあまりにも不十分だ。…それでも、ヴァネッサの肉体を焼き焦がすには寿分過ぎる熱量である。

 しかし――息吹(ブレス)の斜線軸上には、斃すべきヴァネッサの姿は全く見当たらない。

 彼女は宝刀の風を操る[r[b:能力>のうりょく]]を使い、フワリと宙空高く跳び上がっている。そして、半月を描くように素早く剣を振り下ろすと、刀身にまとわり付いた渦が吹雪の塊となってマキシスに迫る。

 (その程度で、怯むかァッ!)

 マキシスはすかさず竜翼を羽ばたかせ、飛び上がる流星と化して自らヴァネッサの放つ吹雪の塊へと突っ込む。竜鱗の鎧の強度を(たの)んでの、無謀とも言える突撃だ。

 吹雪の中は飛び交う高密度の結晶は勿論のこと、風自体が生み出す大気の刃が絶えずマキシスの全身を四方八方から襲いかかる。

 竜鱗の鎧は初め、マキシスの期待通り、果敢に結晶や大気の刃を弾き飛ばしてはくれた。しかし、壮絶な暴力的吹雪の連続は、遂に鎧の竜鱗をペキペキと引き剥がし始める。宙に舞い飛ぶ漆黒の竜鱗が、渦潮に揉まれる哀れな魚のように翻弄されつつ吹き散らされてしまうと、苛烈な刃が鎧の防御を易々と突き破って、バックリと裂傷を生み出す。

 「ヌゥアッ!」

 吹雪の中に舞い上がり、吸い込まれてゆく鮮血。その激痛を噛み殺しながらも、思わず漏れてしまう苦鳴。そこへ更に、鋭利な結晶の群がザクザクと剥き出しの血肉の中に突き刺さる。

 「ガァッ!」

 思わず大口を開いて叫ぶ、マキシス。その裂傷の中では、結晶がパキパキと音を立てて急速に成長し、大きなマキビシのような形状を取って肉を貫く。激痛は更に衝撃を増すと共に、傷ついた筋肉がダラリと脱力してゆく。

 それでもマキシスは、翼を止めない。血風を後方にたなびかせながら、吹雪の中を真っ向から弾丸のように進み――遂には、斬撃の嵐の中から脱出。凪の空の中央に、ヴァネッサの姿を捕らえる。

 (負けるか! 負けるか!

 ポッと出の外部の者、しかも学生風情にッ! オレ達の悲願を折られて(たま)るかッ!)

 マキシスは出血と筋繊維の破砕で重い腕に鞭を入れ、天空高くに手を伸ばすと。その挙動に応じるように、頭上より代償の漆黒の竜の群が急降下してくる。元が戦闘機、またはミサイルの竜達だ。前者は腹部から機銃を放ちながら火を吹き、後者は雷を吐き出しながら、ヴァネッサに突撃してゆく。

 そしてマキシス自らも、身体に刺さった無数の結晶に対して"(まが)い"の『神霊力』を付与。その一つ一つを竜頭と化し、ガチガチと牙を鳴らさせて威嚇しながら、ヴァネッサに突撃する。その姿は、さながら蛇の頭を無数に持った怪物ヒュドラのようだ。

 この上下からの攻撃に対しても、ヴァネッサは動じない。自らは"風鳴"の力で飛翔してマキシスに向かい、両脇に控える水晶の騎士達には頭上の竜群へ遣わすと。牙と息吹(ブレス)、そして大剣の刺剣(レイピア)の斬撃による応酬の嵐が起きる。

 

 水晶の騎士は炎で身体の一部を融解され、雷で砕かれたりしながらも、勇猛に大剣を振るって竜の頸を切り離す。

 竜は絶命と同時に信管の破壊されたミサイルへと姿を戻すと、大爆発を起こす。その衝撃に水晶の騎士の身体には亀裂が生じるが、苦にする様子はない。輝く積乱雲のような爆炎の中に自ら飛び込むと、他の竜を(たお)すべく、ますます勢い付いて剣を振るい続ける。

 一方のマキシスとヴァネッサの戦いは、正に電光石火の応酬だ。

 蛇のように小さくとも、炎や毒を吐き出す竜の頭が幾つも伸びてくる。それをヴァネッサは五月雨(さみだれ)のような突きの連続で弾き、または串刺しにしながら、鎧の剥がれたマキシスの肉体に切っ先を突き立てる。

 マキシスも負けてはおらず、ヴァネッサの剣をその身に受けながらも間を詰め、固めた竜の拳を振るう。それはヴァネッサの剣を弾き返しながら、脇腹や頬面を抉り、ヴァネッサに苦鳴を上げさせる。

 戦いの様相は、嵐と嵐のぶつかり合った竜巻のような展開と化す。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 マキシスのヴァネッサへの執着は、"チェルベロ"の機動部隊に対して幸いを運んでくる。

 (すなわ)ち、マキシスの集中が(おろそ)かになった為に、竜達の動きが鈍り始めたのだ。中には、竜の姿を維持出来ぬ個体も現れ、元のミサイルや弾丸、戦闘機へと戻ってしまうものもある。

 こうなると"チェルベロ"の仕事は楽に(はかど)り始める。漆黒の鎧を着込み、身体を風と化す『士師』"(もど)き"の存在は未だに驚異だが、竜との連携がちぐはぐになりつつある中、その驚異度はずっと減った。『士師』"擬き"の意図に合わせてバランスを調整してくれていたはずの竜の動きが乱れ、『士師』"擬き"達の動きはぎこちないものとなった。

 (このチャンス、みすみす逃すワケないだろッ!)

 機動隊達は隙を逃さずに、重火器や近接武器で彼らと応戦。弾丸や刃には対象の神経系統や筋組織の運動を抑制する術式が込められている。『士師』"擬き"達は混乱の中で満足な回避行動を行えず、次々と直撃を受けては、蛍光色の魔力冷気光を放つ輪状の術式拘束具に束縛され、宙空に張り付けとなる。

 機動隊達は推進機関を吹かして彼らの元に進むと、小さな筒上の注入器で首筋に霊薬(エリクサ)をプシュリと注入。途端に、各種細胞内の呪詛が浄化され、『士師』"擬き"の体内から黒紫色の蒸気が立ち昇る。同時に、『士師』"擬き"の鎧が霧散して消滅し、後に残るのは服越しにも鍛え抜かれた肉体の分かる軍人の体躯だ。

 「よし、確保しろッ!」

 無力化の通信を受けた隊長は、都度そう返答すると。隊員達は拘束された軍人達の腕をひっつかみ、宙空に展開した転移方術陣の中に放り込む。転移先は遠く距離を隔てた惑星リバル・μの"チェルベロ"本部敷地内、その留置場だ。厳重な封印術式が施されたそこで、完全武装した監視員の元、少なくともテロリズムの収拾が就くまでは監禁される。

 次々と制空権を取り戻すプロジェスの秩序勢力。その状況を更に盤石なものにせんと、手の空いた隊員は手にした狙撃銃を構え、マキシスに狙いを定める。彼を無力化すれば、プロジェスの空から漆黒の竜は駆逐され、争乱の半分が収まるはずだ。

 (あの怪物女子学生にばかり気を取られてやがるな…!

 戦場じゃ一対一なんてこたぁあり得ないんだよ、1人相手に執着しすぎるテメェがバカなんだッ!)

 隊員が手にした狙撃銃の引き金に指を置いた、その時。彼らの体は、まるで絶対零度に近い冷気を真っ正面から浴びたかのように、ビクリと凍結する。

 彼を制したのは、なんとマキシスと真っ向勝負を挑むヴァネッサだ。

 彼女のグラデーションの掛かった(あお)い瞳は、激情の烈火を灯して抗議している。

 "邪魔をしないで! これは、わたくし達の戦いですわ!"

 その気迫に隊員の全身からブワリと冷や汗が吹き出す。丸腰で猛獣の(おり)に入ったのならば、このような剣呑(けんのん)な感覚を得られることだろう。

 (バカな! これは戦争だぞ!? 正々堂々も何もないんだぞ!?

 倒せる時に倒さなけりゃ、即座に禍根になっちまうんだぞ!)

 そんな抗議の叫びは、胸中に留まるばかりで声にならない。それほどにヴァネッサの剣幕は激しく、他人(ヒト)の手を寄せ付けない。

 

 ヴァネッサが隊員の助力を拒む理由。

 それは、彼女が騎士道を重んじる名家に生まれたから――という背景も、勿論組みしているだろう。

 だが、それ以上に彼女が考えているのは、眼前の『士師』の心を折ることだ。

 交戦した時から、ヴァネッサは読みとっていた。マキシスの(まなこ)に宿る、鋼のように強靱で猛火の如く激しい意志を。

 彼をただ倒した所で、彼の意志は決して折れない。如何なる裁定を下され、如何なる罰を与えられようと、彼は反省もしなければ、非を認めすらしない。その命が尽きるまで、胸中に烈火を宿し続け、その火の粉を将来必ずや再度の戦禍へと燃え上がらせることだろう。

 それでは、プロジェスを救い出すことにならない。

 マキシスの心をキッチリと折り、(こうべ)を垂れされねば、禍根は消えない。

 

 (だから――真っ正面から――全力で――ッ!

 倒しますわッ!)

 

 ◆ ◆ ◆

 

 バキンッ! バキバキバキッ! ヴァネッサとマキシスの頭上で、激しい破砕音が響く。次いで降り注ぐ、大粒の雹を思わせる結晶の切片。

 ヴァネッサの水晶の騎士が2体とも、とうとう完全に瓦解してしまった音だ。

 だが、(たお)れたのは騎士だけではない。漆黒の竜達もだ。

 ミサイルから生まれた竜達は、既に爆炎となって粉微塵に消滅した。最後に残り、次々とミサイルと弾丸を発射しては竜を生み出していた戦闘機の竜も、その身を十字に切り裂かれて(たお)れた。精霊式ジェットエンジンの爆発と共に、大小の金属の破片が雨霰と降り注ぎ、地響きを上げて大地に激突した。

 そんな苛烈な豪雨の中でも、ヴァネッサもマキシスも怯懦に眼を細めることすらせず、ひたすらに牙と拳、剣と風の応酬を続ける。

 手数は、圧倒的にマキシスに軍配が上がる。前述のように、体中に突き刺さった結晶を片っ端から竜と化し、ヒュドラのように火や毒を吐きまくる。竜がヴァネッサの斬撃の元に破壊されても、今度はパックリと開いた傷口から噴出する血液を竜化して、絶え間なく襲い続ける。

 一方でヴァネッサは、いくら巧みに剣撃を放つと言っても、所詮は一本の刀身に過ぎない。烈風の加護が有ると言えども、竜は千切れて血風が舞う片っ端から、正に神話のヒュドラのように噴出した血液を使って体を再生。懲りずに果敢に襲いかかるのだ。

 そこでヴァネッサは、体の周囲に水晶の氷柱(つらら)を生成し、これらを矢弾のように放ってマキシスの無数の(あぎと)と拳撃に対抗する。

 拮抗(きっこう)する2人の体には、見る見る内に傷が増えてゆく。マキシスの体には無数の裂傷が開き、赤黒い筋組織の断裂が露わになる。一方のヴァネッサは、炎毒によって皮膚を()(けが)され、赤黒く腫れ上がり、中には破裂して出血する箇所もある。

 それでも両者共に、四肢が萎えることはない。傷を得れば、それがまるで燃料であるかのように互いの激情を煽り、更に体をぶつけ合う。

 その様相は、火砕流と津波が真っ向からぶつかり合い、激しい水蒸気と灰燼を撒き散らす光景を想起させる。

 

 (気圧(けお)されて、なるものかッ!)

 マキシスは時にギリリと歯噛みし、時には声無き咆哮を上げて、竜と拳を放ち続ける。

 彼の体組織は正直、今にも破裂しそうな悲鳴を上げている。呪詛による『士師』の力は、自然を超越せし真なる『神霊力』に比べれば、魔術の物真似である手品のようなものだ。エネルギーは無尽蔵ではなく、己の体を竜に変える程に疲労がズンと蓄積する。

 加えて、ヴァネッサの間断ない斬撃によって骨肉を抉られ、その激痛に苛まれる精神的負担も相当のものだ。大分(だいぶ)剥がれてしまった竜鱗の鎧の下には、もうもうたる蒸気を放つ滝の如き汗でビッショリと濡れている。

 それでも――今のマキシスは、例えこれより幾万、幾億の傷を得たとて、止まりはしないであろう。

 そんな彼を支えるのは、『夢戯の女神』ニファーナの傍に控え続けるエノクにも負けない、堅く揺るがぬ信念だ。

 (オレは必ず再臨させるのだッ! 己自身に二足でしっかりと建つ、強固なる都市国家プロジェスをッ!)

 市軍衛戦部における最強の勇士として名高いマキシスだが、その生まれは軍人や警察の家系であるような、立派なものではなかった。

 むしろ、彼の生まれ育った環境は、余りに悲惨な環境であった。

 父は物心付いたころには、飲んで暴れるだけの存在であった。母はそんな父に何度も()たれ、何度も号泣しながらも、決して家を出る事を考えぬ女性であった。

 「あんな親父なんて放っておけばいい。オレ達だけで暮らそう!」

 マキシスがそう語る度に、母は自虐的な笑みをヘラヘラ浮かべながら、決まってこう語った。

 「でも、あのヒトには私が付いてあげなきゃいけないのよ」

 ――一度、マキシスは母を(だま)くらかして、長時間父から放したことがあった。すると父は、母の不在によってガクガクと膝が崩れる程の情緒不安定を呈し、体を縮めて母の名をブツブツ呟き始めた。

 父は、母に強烈に依存していた。

 そして母が帰ってくれば、父は激しく母を責めて殴り、母は息も絶え絶えな状態と化した。マキシスが彼女を介抱すると、母は腫れた眼を精一杯鋭くしてマキシスを睨みつけて語った、

 「お父さんには私が! 私こそが必要なのよ! 誰でもなく、あなたでもなく! 私こそが!」

 母、父に強烈に依存していた。

 ――この(いびつ)な関係から、マキシスは"依存"に絶対の悪を見た。絶対の脆弱を見た。

 故に、理想的であり確固たる強靱な存在になる為には、独立的であれねばならぬという思想が根付いた。

 ――ニファーナの登場による独立機運の高まりは、マキシスにとってプロジェスが理想郷へと向かう道程であった。

 それが瓦解し、他国家からの低俗な娯楽が蔓延し、それに耽溺(たんでき)依存する市民の姿が、マキシスの逆鱗にチリチリと触れ続けた。

 だからこそマキシスは、エノクの誘いに応じ、今回のテロリズムに至る諸事に荷担してきたのだ。

 

 (この戦いを勝ち取り、必ずや再び手に入れるッ!

 我らのッ! オレのッ! 確固たる独立をッ!)

 疲労も疼痛も激情で押し込め、マキシスは嵐のように殴り、蹴り、牙を立て、火を吐き、毒を吐く。

 それでも、眼前の仇敵ヴァネッサは、全く怯む様子はない。彼女もまた確実に傷ついてきているというのに、顔を歪めることもなく、鋭いほどの真摯な表情で、こちらの連撃に付いてくる。

 (第三者たる貴様に、どんな信念が在ると云うのだッ!)

 腕や脇にザクザクと結晶の刃が突き刺さるのも意に介さず、マキシスは踏み込むとヴァネッサの顎に竜拳を叩き込む。ヴァネッサは頭蓋が脊椎から引っこ抜かれるのではないか、という勢いで頸が反るものの、吹き飛ばない。自らの体を結晶で固定し、即座にマキシスへと視線を向き直すと、刺剣(レイピア)を袈裟斬りに振るう。マキシスは半歩退(しりぞ)いて回避するものの、吹き抜ける結晶片を伴った烈風で、肩にさらなる裂傷が開く。

 (どうしてそこまで、戦えるのだッ!)

 ヴァネッサの袈裟斬りの隙を付いて、再びマキシスは接近。全身から生えた毒竜の首を伸ばし、ヴァネッサの体に噛みつかんとする。ヴァネッサは体をクルリと回して脚を突き出し、低い体勢の回し蹴りを浴びせて竜の首を払いのける。直後に吹き抜ける水晶片の烈風が、残酷な硝子(ガラス)片のように竜の首を切り刻み、痛々しい血風へと変じる。

 (どんな理想が、あると云うのだッ!)

 マキシスは、[r[b:呀>ガア]]ッ! と咆哮する。途端に、彼の全身が変化を起こす。

 竜鱗の鎧が、バキンッ、と音を立ててマキシスの体から飛び出す。ヴァネッサの風の力にやられたワケではない。鎧の下にあるマキシスの肉体が膨張したが故に、鎧が弾き飛ばされたのだ。

 露わになるマキシスの筋骨隆々とした肉体が、見る見る内に漆黒の鱗に覆われつつ、更に膨張してゆく。傷口は膨張した筋組織によって閉ざされ、背中の翼は空を覆わんばかりの広さを得る。臀部からは長大な鞭のような竜尾が延びる。そして彼の顔は――歯がゾロリと形状を変えて険しい牙へと代わり、口がワニのように延びてゆく。顔面も鱗に覆われ、爬虫類的な様相を呈するようになる。

 ――そして今、マキシスは自らの能力によって、自らの全身を大きな竜へと化したのだ。

 ガアアアアァァァッ! マキシスは咆哮しつつ、巨拳を振り回してヴァネッサを襲う。ヴァネッサは「[rb:刺剣>レイピア]]の腹や結晶の盾を駆使してこれを受け止めるが、回避行動に移ることが出来ない。マキシスの暴力は、ヴァネッサの宝剣の風すら吹き飛ばす嵐となり、苛烈に執拗にヴァネッサを襲い続けるのだ。

 そして一方で、マキシスは咆哮の反動とでも言うかのように、強烈な吸気を始める。牙の生え揃った大口の奥には、星のように強い青白色に輝く魔力励起光が灯る。露骨な息吹(ブレス)の準備だ。

 (消し飛ばすッ! オレの悲願を阻む者はッ! 灰燼すら残さずに消し飛ばすッ!)

 マキシスは竜尾や脚をも使ってヴァネッサをその場に押し留めつつ、万全な息吹(ブレス)を準備する。口腔から漏れる光は、皮膚をチリチリと焦がす程の高熱をも発している。

 ヴァネッサは、その姿を見ても、決して焦燥に走ることはない。苛烈執拗な打撃の嵐の中で、ジッと息吹(ブレス)の見つめている。

 

 マキシスは、ヴァネッサのその視線が酷く気に食わない。

 彼女の瞳が放つ輝きには、恐怖も怯懦も憤怒もない。"負"として分類される類のあらゆる感情が、含まれていない。

 そこに見て取れるのは、余りにも真っ直ぐで、力強い挑戦者の意志だ。

 "掛かってきなさい!"――眼光が強く訴えてくる。大口を開いて叫ぶよりも明確に、魂を揺さぶるように訴えてくる。

 "逃げも隠れもしない! 貴方の全力は、真っ向から受け止めてみせますわ!"

 一体、如何なる益、如何なる利が在っての訴えなのか。マキシスには全く思いも寄らない。それが更に、マキシスの苛立ちを(つの)らせる。

 ――ならば、受け止めてみせろ!

 マキシスは憤怒で煮えくり返る臓腑の奥底で、(たぎ)る魔力の塊を更に圧縮・加熱する。竜の臓器が発する強烈な電磁場の中、金属を一瞬にして煮沸する程の電離気体が渦巻き、暴力を蓄える――そして。

 (消えろッ!)

 マキシスは遂に、体内で練り上げた暴力の奔流を吐き出す。

 

 (ゴウ)ッ! 網膜を焼き尽くすような青白い閃光が広がると同時に、恒星の表面にも迫る熱量を持つ灼熱の暴力の奔流――プラズマの息吹(ブレス)が噴射される。

 プラズマは直ちに大気を電離しながら、一気にヴァネッサの眼前へと接近。彼女を飲み尽くして、素粒子の雲へと分解せんと突撃する。

 対するヴァネッサは――跳び退(すさ)るような逃避行動も取らなければ、体を仰け反らせたり、屈み込んで掻い潜ったりするような回避行動も取らない。宙空のその場で足を止めたまま、迫り来る灼熱閃光の塊を直視したまま、微動だにしない。

 ――いや、"動かない"と云うのは語弊だ。確かに彼女の足は止まっているが、腕だけは霞むが如くの高速で動いている。手にした刺剣(レイピア)を両手持ちして頭上にまで振り上げると、刀身に一層激しい烈風と結晶片をまとわせる。そして、皮膚をチリチリと[(あぶ)り焦がす灼熱閃光の塊へと、一気に振り下ろす。

 (バン)ッ! その破裂音は、プラズマの息吹(ブレス)とヴァネッサの斬撃が衝突したタイミングで、周囲の大気を揺るがしつつ轟き渡る。膨大な運動エネルギーを受け止めた事による衝撃波に由来する轟音か。灼熱に当てられて次々と爆発的に蒸発する結晶に由来する爆音か。はたまた、その両方なのか――とにかく、戦場を苛烈な破裂音が駆け巡る。

 一見すると、形勢はマキシスに軍配が上がっているように見える。網膜に()き付くド派手な奔流は、今すぐにでもヴァネッサの全身を飲み込んで消し飛ばしてしまいそうだ。

 しかし、実際の所、両者の力関係は拮抗している。ヴァネッサは片っ端から結晶を蒸発されているものの、その直後から絶えず結晶を生成し、プラズマの奔流を刀身に近寄せない。猛烈な吹雪を切り裂く大樹のように、ヴァネッサの突き出した剣はプラズマの奔流を幾つもの支流に分断する。

 (小癪なッ!)

 マキシスは腹に更なる力を込めると、吐き出すプラズマの奔流を更に加速し、体積を増量する。まるで自身の臓腑を、激情を、魂魄を――全てをこの一撃に転化して叩きつけんとするかのように。

 「…ッ!!」

 ヴァネッサは更に増した衝撃に、歯を食いしばる。剣を握る腕が、絶え間ない重くて熱いエネルギー衝撃に、今にも弾き飛ばされてしまいそうだ。結晶と気流とで断熱しているはずが、刀身から柄へと強烈な熱が伝播し、ジクジクと皮膚を(あぶ)り出す。衝撃によって生じる激しい烈風によって全く判断が付かないが、掌からは凄惨な黒煙が立ち昇っているかも知れない。

 それでも、ヴァネッサは諦めない。正面から受け止めることを投げ出したりしない。

 それどころか――彼女は足の裏に『宙地』の方術陣を展開すると、ジリジリと、極小さな歩幅ながら確実に、マキシスの元へと近寄って行く。

 (馬鹿なッ!

 何故、この程度の婦女子をッ! 脆弱なる姿をした柔肉(やわにく)を!

 喰い尽くせぬッ!?)

 息吹(ブレス)の中でも果敢に進み来るヴァネッサの姿に、マキシスの竜の瞳はオドオドと揺れ動く。それは驚愕というより、怯懦の現れであったかも知れない。自身の経験尺度で全く計れぬ行動理念を見せつけられ、胸中がざわついているのかも知れない。

 (もっとだッ! もっと、もっと、もっとッ! もっとだァッ!)

 マキシスは更に腹に力を込め、エネルギーを吐き出す、吐き出す、吐き出す――!

 その行為は、マキシスが包括する魔力の限界を超えてしまう。(まが)いの『神霊力』、つまりは呪詛の魔力によって竜化した彼の肉体は、息吹(ブレス)へのエネルギー集束によって維持できなくなり、崩壊が始まる。竜鱗はパラパラと零れ、露わになった血肉は黒紫色を呈する煙と化して昇華してゆく。

 それでも構わず、マキシスは更に勢いを増した息吹(ブレス)をヴァネッサに叩きつけ、打破を渇望し続ける。

 だが――一方のヴァネッサも、決して折れはしない。

 衝撃にたなびく美しい蒼髪がチリチリと焦げ溶けだそうとも。制服からむき出した皮膚が腫れ上がり、赤を通り越して惨たらしい炭色の漆黒へと変じようとも。彼女は抵抗を、歩みを止めない。

 尚も、尚も、尚も――着実に歩みを続け、迫り続ける――!

 (畜生ッ! 畜生ッ! 畜生ッ!)

 マキシスは息吹(ブレス)に更に力を込めようと、魔力を絞り出す。だが、息吹(ブレス)の出力はとうに頭打ちを迎えていた。マキシスの無尽蔵とも思える憤怒の激化に反して、その勢いは増すどころか――徐々に、衰え始めさえしている。

 

 神ならぬマキシスは、逃れられぬ有限の器量(キャパシティ)の奥底に辿り着いてしまったのだ。

 もうどう足掻いても、その深淵の底より先を掘り進めることは出来ないのだ。爪を立てて引っ掻いた所で、決して破壊出来ぬ岩盤の前に爪がひび割れ、剥がれるばかりなのだ。

 そんな極限に至っても――マキシスは、眼前の少女を焼き尽くすことが出来ない。

 彼女は『現女神』の(そば)で働いている一方で、『士師』ではないとのことだ。ならば、超常たる『神霊力』の加護を持たぬ、高々有限のヒトであるはず。しかも、マキシスのように呪詛と云う第三者の力の援助によって、地力を底上げされても居ない。

 それでも――マキシスは己を滅ぼす程の極限に至る力を(もっ)てしても――ヴァネッサを、滅ぼせないのだ。

 (何故にッ!? 何故にッ!? 何故にッ!?)

 その問い掛けをも奔流に乗せて、マキシスは息吹(ブレス)を吐き続ける。

 対してヴァネッサの応答は、ゆっくりと、しかし着実にマキシスの一方的な疑問符の奔流を(さかのぼ)り…そして遂には。

 (ザン)ッ! (きら)めく虹色の結晶片の光をキラキラと撒き散らしながら、ヴァネッサの風刃がプラズマの奔流を真っ二つに切り裂く。

 予想だにしなかった凪の訪れに、マキシスは息吹(ブレス)を吐くことも忘れて単純に一息吸い込みつつ、己の全力を真っ向から打ち破った少女を見やる。

 宝剣を振り抜いたヴァネッサは、ギロリと上目を向いて、マキシスの見開かれた竜眼を睨みつけると。その壮絶な視線で以て、マキシスの疑問符に答える。

 "信念の質が、違うのですわッ!"

 転瞬、ヴァネッサの振り抜いた[[rbg:刺剣>レイピア]]が、風に(なび)くハンカチのようにヒラリと(ひるがえ)ると。突きの姿勢を取り、曇天の陽光下でなお輝く切っ先を一閃。マキシスの竜鱗がボロボロと剥がれ切った腹部のやや脇に、深々とした一撃を見舞う。

 金色の刀身は易々と血肉を引き裂いてマキシスの体内に分け入り、その背中からズブリと突き抜けた時には、金色は真紅に濡れて輝きを鈍いものとした。

 

 焼け付くような激痛が筋肉と臓腑、そして神経から脊椎、脳髄へと達すると。ボロボロのマキシスを支えていた激情が、執念が、ガラガラと音を立てて崩れる。

 竜化した全身は、組み上げた積み木が崩れるように、小片へと分離して瓦解。その小片も黒紫色の術式の蒸気と化して、宙空へと消滅してゆく。マキシスの体組織内に充満していた呪詛が離れ、消えてゆく瞬間だ。

 盛大な黒紫の蒸気の中から残ったマキシスの体は、筋骨隆々の巨躯を誇ったままであったが、竜のサイズと比べてしまうからか、酷く萎んで見える。ドッと魂魄に押し寄せる疲労と激痛によって、全身が重く気怠くなり、血の気が引いて青白くなってしまった事も原因かも知れない。

 何にせよ、竜の体から変わり果てたマキシスは、もはや直立する力も失い、その場に(うつぶ)せに倒れ込む。ドウ、と小さな響きを立てて投げ出された肢体からは、脇腹に開いた傷跡より流れ出る真紅の体液がジンワリと広がって行く。

 

 マキシスは、敗北した。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ――おのれ、おのれ、おのれッ!

 もう、指一本すら満足に動かせない。口を開くことも億劫に過ぎる。首を動かして頭を持ち上げるなど、不可能だ。

 マキシスはそこまで完膚なまでに叩きのめされたと云うのに、未だに激情を収めない。(わず)かにピクピク動く指先で大地を引っ掻き、自分を倒した相手への不満の炎を燃やす。

 ――おのれ、おのれ、おのれッ!

 正面切って敗北を喫すれば、遺恨などサッパリと無く受け入れられるものだと言った者が居たが。マキシスはその言葉を実感出来ない。今もなお、首だけでも体から飛び出して、ヴァネッサの喉笛に食らいつかんとする程に、激情を燃やしている。

 そんなマキシスの元に、ヴァネッサが歩み寄る。

 彼女の身体もボロボロだ。如何に魔法現象を盾にしようとも、恒星表面にも匹敵する高熱を間近に浴びたのだ。皮膚の所々は火傷を超えて、炭化してさえいる。魔力を絞り出しまくった所為で体力のみならず精神力もすり減り、足下はプルプルと震えている。

 それでもヴァネッサは、マキシスに刃を突き通した時の(はげ)しい表情を張り付けたまま、マキシスを眼下にして言葉をかける。

 「こうして結果を身に受けても、まだまだ納得出来ていないみたいですわね。

 強大無比な『士師』であるはずのその身が、何故にわたくしのような小娘にやられたのか? (だま)されてでもいるのか? とね。

 でも、わたくしから言わせれば、必然でしてよ」

 ――何が必然か!? その問い(ただ)しは唇を震わせるだけに留まり、声帯からは発されない。それでもヴァネッサはマキシスの意図を気配から察し、言葉を次ぐ。

 「貴方の信念は、器が狭過ぎましてよ。

 詰め込んでも詰め込んでも、(あふ)れるばかり。無理矢理(ふた)をして閉じこめてみれば、今度は器自体が壊れてしまう。――貴方の信念は、丁度そんな感じなのですわ」

 ――狭い、だと!? カッと反発が沸き上がるが、続いてのヴァネッサの言葉はマキシスの魂魄の猛りにハッと冷や水を浴びせる。

 「貴方が振りかざしていたのは、ヒトビトの、都市国家(プロジェス)の悲願でも何でもありませんわ。単なるエゴへの執着に過ぎませんことよ」

 ――そうだ、その通りだ。マキシスの思考は、"エゴ"と云う非難の文句をすんなりと受け入れ、肯定する。

 マキシスの悲願は、独立を確立した強固なプロジェスの実現だ。だがそれは、この都市国家に住まう市民達の事を(おもんぱか)ってのことではない。

 市民の幸福などを思慮するならば、わざわざテロリズムに訴えた革命など起こす必要などない。外部勢力に介入されようと、日常は市民の平穏な笑顔で溢れていたのだ。

 現状が気に食わなかったのは、マキシス自身なのだ。誰でも無く、彼自身が独りで憤激していただけなのだ。

 偶々(たまたま)志を同じくする者達が相当の規模で集った故に、マキシスは己の意志が都市国家の意志であると拡大解釈していただけなのだ。

 彼はただ、自身の我欲を通すべく暴れ回る、我が儘な子供と同類だったのだ。

 その事実をマキシスの理性が恐る恐ると云った感でポツリポツリと漏らした頃。土を掻くマキシスの指先から、力がフッと抜ける。瞳の奥に灯る憤怒の炎も、小さく萎んで消えてしまう。

 そして、ヴァネッサを気怠く見上げながら、重い口角をピクピク動かして弱々しい苦笑を浮かべる。

 (敵わないはずだ。

 この小娘は、第三者の立場ながらも、自身を捨ててまで真にこの都市国家(プロジェス)の平穏を取り戻すべく、戦い続けたのだから。

 器量の時点で、オレはすっかり負けていたのだ)

 

 マキシスはようやく、己自身の納得の上で、敗北を認める。

 

 直後、戦闘を終えた2人の頭上に、幾つもの影が掛かる。それは面積をましてゆきつつ、強めの微風を発生させる。

 影の正体は、上空から降下してきた"チェルベロ"機動隊の一群だ。

 もはや曇天下には漆黒の翼をはためかす竜の群はない。マキシスの敗北と同時に、全て黒紫色の術式の蒸気と化して消滅してしまった。元となった戦闘機やミサイルの類は制御を失ってあらぬ彼方へと飛び去ったり、地上に落下したりと無力化した。

 竜に乗っていた『士師』"(もど)き"達は、竜が消えてゆく混乱の中で次々と気力を失い、"チェルベロ"によって呪詛を奪われて逮捕されて行った。未だ健在で抵抗を続けている者も存在するが、彼らも近い内に取り囲まれて逮捕されてしまう事だろう。

 降下してきた機動隊隊員の内、隊長の男がマキシスを見下ろしてから、ヴァネッサに向き直って尋ねる。

 「終わった…って事で、良いんだよな?」

 「ええ、終わりましたわ」

 ヴァネッサは、腫れが幾つも乗る顔にニッコリと笑顔の花を咲かせ…途端に眉をしかめて顔をひきつらせる。

 「いたた…ッ!

 今頃になって、ヒリヒリして来ましたわ…!

 おでことかほっぺたとか、ボワーって熱いし、カッサカサですわよ…!」

 「そりゃあ、あんな熱量を真っ向から受けるんだもんなぁ! 日焼けどころじゃ済まねーだろ、肌荒れ!」

 隊長は苦笑して答えた後。背後に控える部下に視線を投じ、首振りで合図しながら、「確保しとけ。念入りに拘束しとけよ」と指示を出す。

 部下達は、はいっ! とキビキビ返事をすると。(うつぶ)せのまま動かぬマキシスを拘束術式で更に動きを封じた上で、両腕を背中に回して手錠を掛ける。そして転移方術陣を展開し、地球より遠く離れた"チェルベロ"本部のある本星へと彼を送り込む。

 その挙動中、マキシスは何の抵抗も示さなかった。顔をしかめることも、歯噛みすることもなかった。観念しきった自嘲の笑みを浮かべるばかりで、非常に素直で大人しかった。

 ――こうしてマキシスは、プロジェスを苛むテロリズムの嵐から、その姿を消す。

 

 「それにしても、大丈夫なのかよ?」

 マキシスが移送されるのを見送った隊長がヴァネッサに語りかけるが。フルフェイスの向こう側の顔が、すぐに表情を崩す。

 ヴァネッサは早々にボロボロになった制服の内ポケットを漁って自作の霊薬(エリクサ)を取り出すと。青白く輝くドロリとした液体をゴクゴクと飲み下している。腰に手を当てて瓶を[(あお)る姿は、お風呂上がりのオジサンの姿を思い起こさせる。

 瓶の中身を飲み干したヴァネッサは、ぷはーっ、と息を吐いてから、パチクリと瞬きを一つついてから隊長に問い返す。

 「何が、大丈夫だと云うのですの?」

 そんなヴァネッサの皮膚には、霊薬(エリクサ)が速やかに作用し、炭化してしまった傷さえも瘡蓋(かさぶた)のようにポロリと剥がれ落ちると、瑞々しい絹のような肌が再生する。

 この回復の過程は非常に急速で、サラリと眺めている内にヴァネッサの体は五体満足になる。

 その有様を眺めていた隊長は、ハッ、と苦笑を漏らす。

 「なんか…過重労働しっ放しの仕事中毒者(ワーカホリック)が、徹夜明けに栄養ドリンク飲んで、さぁてまた一仕事するかー…って姿が見えてきたよ。

 それに、そのクスリ、なんだよそのスゲェ効能。便利っちゃ便利だろうが、細胞を酷使するようなヤバいモンじゃないのか?」

 「あら、失礼ね」

 ヴァネッサは口を尖らせて抗議する。

 「私の調剤技術は、学園の先生方も舌を巻いて下さるものなのよ?

 体に過負荷を掛けるような劇物なワケありませんわよ。

 ただ…」

 タイミング良くヴァネッサの腹が、クゥ~、と可愛らしく鳴る。ヴァネッサは両手で腹を覆うと、恥ずかしげに頬を赤く染めながら苦笑いする。

 「とてもお腹が空きますけれどもね」

 霊薬(エリクサ)は細胞分裂を促進させて体組織の再生を早める分、急激な代謝を実現するために多量のエネルギーを消費する。このエネルギーを補充するための栄養効果も含めてはいるものの、今回の戦闘で負った派手な負傷は、それでカバーし切れる程度のものではなかったのだ。

 機動隊隊長はフルフェイスの下でクックッと笑いながら、お手上げするように諸手(もろて)を上げる。

 「オレ達は残念ながら警察官だからな。職業軍人のように糧食を持ち歩いちゃいないんだ。

 避難拠点に戻って、そっちでタップリご馳走してもらえや」

 するとヴァネッサは、口を尖らせて拗ねてみせる。

 「あら、二連戦で『士師』を相手にした功労者に対して、そんな不調法は酷いのではなくて?

 カレーライスの一つも持ってきて下さる気遣いがあっても良いのではないかしら?」

 勿論、ヴァネッサの冗談である。…但し、半分くらいは本気も混じっているかも知れない。

 「まぁ、拠点まで肩を化してやるくらいの事は出来るぜ。

 捕まるかい?」

 そう言って手を伸ばす隊長だが、ヴァネッサは首を横に振って、やんわりと断る。

 「ご好意だけ受け取っておきますわ。

 でも、他の男の肩を借りたとなると、わたくしの良人(おっと)()ねてしまいますわ。

 素直に両足で歩いていきますわよ」

 そう言って、トコトコと歩き出すヴァネッサの背に、隊長が揶揄を込めて言葉をかける。

 「あれ、将来の夢が嫁になることであって、まだ未婚じゃなかったのか?」

 するとヴァネッサは、悪びれもせずに、何処か得意げな様子で答える。

 「極近い将来の、確約された事実ですもの。問題ありませんわ」

 

 ――その頃。プロジェスから遠く離れたユーテリアの学園の一画では。

 「ハックシッ!」

 イェルグが盛大なくしゃみをした。

 その近くに居たロイが、怪訝な視線で彼を見つめながら問う。

 「風邪でも引いたのか? "空の男"なんて言ってる癖して、間抜けなこったな」

 「いやいや、風邪じゃない。いきなりムズムズって鼻の奥が痒くなっただけだ。

 これは確実に…」

 イェルグは苦笑いして、長い黒髪の中に手を突っ込んでポリポリと掻く。

 「ヴァネッサの奴が、何か勝手な事を言ったな」

 その台詞に、ロイは苦笑いして同意の(うなづ)きに代えたのだった。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Under The Serpent Hiss - Part6

 ◆ ◆ ◆

 

 ヴァネッサが激闘を繰り広げている頃。プロジェスの別の一画でも、ヒトと『士師』"(もど)き"による激闘が繰り広げられている。

 アルテリア流剣舞術を収めし"剣の舞い手"アリエッタと、漆黒の気流を伴う暴力の権化『武闘の士師』ヴィラード。

 対極的な性質の両者は、水と油の混合とも、同極同士の磁石の反発とも取れる様相の奇妙な激闘を繰り広げている。

 

 (オラオラッ! 何時までかわし切るつもりだッ!?)

 ヴィラードは一挙一動において拳足を(ことごと)く疾風と化すと、あらゆる方向からアリエッタに襲いかかる。ある時は背後より、ある時は頭上より、ある時は地面すれすれを這うように、ヴィラードの体から離れて漆黒の疾風と化した打撃がアリエッタに迫る。

 嵐のような間断なき攻めに対して、アリエッタの回避行動は正に"舞踊"だ。彼女の動きは、一見すると微風の中でフワフワと動く羽根のように見える。屈んでみたと思えば跳んでみたり、クルクルと独楽のように水平に回ったかと思えば、風の中で踊る葉のように中空で縦に方向に回ってみたり。大きく手足を伸ばしてバレエダンサーのようなポーズを取ってみたかと思えば、亀のように手足を縮めてみせる。

 その一つ一つの行動が円のように滑らかに繋がり、何かをヒトの心に訴える芸術性が宿っているように見えるほどだ。事実、動作一つ一つには意味がある。どの動作もヴィラードの攻撃を巧みに回避し、傷一つ負わない。

 それでいて、合間には刃引きの刀身を鋭く振り回し、ヴィラードを攻める。

 (!! おおっとッ!)

 アリエッタの剣勢は素早くて優雅、そして冴え渡っている。刃引きのはずの刀身が空を切ると、大気に繊細で鋭い間隙がパックリと開いたように感じられる。その斬撃で血肉が削り取られてのではないか、とヴィラードが慌ててしまうこともある程だ。

 だが、ヴィラードの体は絶対に傷付かない。なぜならアリエッタの斬撃は、全て彼に届かない――いや、当てていないのだから。

 アリエッタの操るアルテリア剣舞術には、敵を斬り(たお)す業は唯の一つもない。あるのは、どんな相手の心も虜にする為の、力強い優美さの顕現のみである。

 (クソッ! まただ、またビビっちまったじゃねぇかッ!)

 やや袈裟斬りに振り下ろされた斬撃に対して、全身を黒き疾風と化して一気に距離を開けて回避したヴィラードは、思わず舌打ちする。

 アリエッタの剣技は、舞いだ。(たお)すための業ではない――そう理性は分かり切っている。なのに、体が、反射神経が彼女の斬撃に過剰な防御行動を取らせてしまう。

 (このクソアマが…ッ!

 当てる気もねぇで、オレを屈服させようなんざ、甘っちょろ過ぎンだよッ!)

 ヴィラードは全身を疾風化。そして一早く右腕を胴から解き放ち、アリエッタの左の二の腕あたりに叩きつけに行く。

 "胴から解き放つ"という異様な格闘術を用いずとも、並の格闘家では反応が難しいであろう、拳が霞むほどの一撃。それでもアリエッタは、張り付けた微笑みを絶やさずに、大げさに体を仰け反らせてかわす。柔らかなアリエッタの体は、まるで体が逆に折り畳まれたのではないか、と云う程の有様である。

 その動きに、風と化したヴィラードはギラリと眼光を輝かす。

 (その踊りが、命取りだってんだよッ!)

 ヴィラードは空を切った右腕の場所へ胴体を一瞬で移動。そして、振り抜いた勢いのまま右腕を肘内の形へと代えると、アリエッタの腹部めがけて垂直に打ち下ろす。

 対するアリエッタは、初めて"回避"でなく"受け"の動作に回る。

 体を仰け反らせた動きのまま、バク転へと移行すると。振り上げた踵でヴィラードの肘の横面をトン、と叩く。するとヴィラードの肘は思った以上の衝撃を受けてグンと動きを()らされ、弾かれてしまう。

 だが、ヴィラードは悔しがるどころか、ギラリとした笑みを大きくする。

 (流石にこれは、受けるしかねぇよな!

 そんじゃあ、こいつはどうだッ!?)

 ヴィラードはすかさず左腕を伸ばしてアリエッタの足首を掴むと。長身が一気に地面すれすれまで縮んでしまったかと思う程に屈みつつ、アリエッタの足を背負う。そして、彼女を一気に背負い、頭から大地へと叩きつけようとする。――投げ技だ!

 十分な速度を得て、アリエッタの頭蓋を叩き割れると確信したヴィラードの(わら)いはますます大きくなったが――転瞬、その顔が曇る。

 ――背負ったアリエッタの体の感覚が、軽すぎる。そして、弧を描いて振られる彼女の体の動きが、思った以上に速すぎる。

 (何だ!?)

 と思った時には、もうアリエッタの体は大地に真っ逆さまに落ちた――かと思うと。フワリと、フクロウが音もなく枝に降り立つような有様で両腕を伸ばして大地に接すると、そこを支点にし、また投げられた勢いを味方に付けて下半身をグンッ! と振り回す。

 「おおわっ!?」

 ヴィラードが思わず声を上げた時には、背負っていたはずの少女の足に持ち上げられ、宙に放り出されてしまう。

 慌てて中空で体勢を立て直すヴィラードに対して、アリエッタは直ぐに腰に収めた刀に手を置くと。ヴィラードの顔面、両目をめがけて一閃する。

 (斬られたッ!?)

 反射的な両腕の防御も間に合わず、銀閃はヴィラードの両眼を通り抜けてゆく。ヴィラードは視覚の剥奪と激痛への覚悟を決めて、身をこわばらせたが…。

 当然、痛みもなければ、視界が暗転することもない。

 今回もアリエッタはやはり、ヴィラードの両眼スレスレを斬って見せたのであって、眼を斬り裂いたワケではない。

 ヴィラードはホッと安堵した直後、爆発的な憤怒に駆られて、オーガ属の証たる額の金属角の周囲に青筋を走らせる。

 (バカにしやがってンのか、このアマがよッ!)

 ヴィラードは中空で全身を漆黒の疾風へと化すと。一気にアリエッタの顔面近傍まで肉薄し、回し蹴りを放つ。蹴りの先端には真空刃が発生し、アリエッタの頭部を水平に両断するつもりで肉薄する。

 アリエッタは即座に刀を振り上げ、ヴィラードの蹴りと相対する。直後、ギィンッ! と金属の悲鳴が鳴り響き、ヴィラードの真空刃は刃引きの刀身によって破裂。アリエッタの顔面には、その小さな飛沫が飛び散り、頬や額にピシピシと細かな傷を付けて、ジンワリと血を滲ませる。

 「シャァッ!」

 ヴィラードは、僅かな規模ながらも、アリエッタに外傷を与えた事を素直に興奮し、声を上げる。そしてこの勢いのまま、刀身にぶつけた脚を支点にし、宙で逆回転。墨汁のような奇跡を描きながら、今度は左足でアリエッタの顔面をねらう。勿論、蹴りには真空刃がまとわりついている。直撃すれば、顔面の中央に凄惨な傷口が開くことだろう。

 対するアリエッタは、一瞬微笑みを無くすと、刀を握る手に力を込める。すると、リィン、と鈴が鳴るような済んだ音と共に刀身が激しくブレて振動を始める。その衝撃はヴィラードの全身を一瞬の内に巡り、消化器や脳を激震させて不快感を喚起させると。そのままヴィラードの体は、ゴム板に弾き返されたように、宙を錐揉み回転しながら吹き飛ぶ。

 (なんだぁ、今の!?)

 全身を漆黒の烈風とし、大地に吹き下りたヴィラード。その右脚にジンジンとした痺れを感じてチラリと視線を走らせると、足を覆っていた呪詛の装甲が花でも裂いたように破裂し、足の裏からジワッと血液が流れ出ている。

 アリエッタの刀身震動が、ヴィラードの装甲と共に皮膚まで破壊したようだ。

 この傷を認識したヴィラードは、怯えるでなく恐れるでなく、大蛇のように舌を伸ばして舌唇をベロリと舐め回して(わら)う。

 (やれば出来るんじゃねぇか、このアマよぉッ!)

 次いでアリエッタに視線を向けると。彼女は笑むでなく凄むでなく、申し訳なさげに表情を曇らせている。そこにはヴィラードを傷つけた事への謝罪も含まれているのかも知れないが、それ以上に自身の行為に対する後悔が含まれているようだ。

 "舞い"でなく、"攻め"の為の技で相手を傷つけた事に対する自戒のようである。

 その表情を見たヴィラードは、嗤いもそこそこに、角の周囲に再び青筋を走らせる。

 (こんな力を持ちながら、戦場下でまだ甘っちょろい事をやる事を(こだわ)るのかよッ!

 マジに切れたッ! もう打ち合いなんて楽しまねぇ!)

 ヴィラードは全身を漆黒の疾風と化すと、胴体から四肢を離すことなく、そのまま高速でアリエッタに肉薄する。

 (殺しの(わざ)をフルに使って、ブッ殺す!

 無駄な理念への拘りを後悔して、死ねッ!)

 ――そしてヴィラードは、"武闘"の(あざな)とは意を別にする能力(ちから)を解放し、アリエッタの息の根を止めにかかる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 アリエッタの行動をじれったい想いで見つめる人物が、ヴィラードの他にもいる。

 それは、アリエッタの周囲で『士師』"擬き"と闘う市軍警察衛戦部の人員や、"チェルベロ"の機動隊隊員の連中である。

 特に、アリエッタに最も近い位置で闘うウォルフ・ガルデンの想いは並々ならぬものがある。

 「何なんですか、姐さんッ!

 どうしてその刀で、ブッ叩いてやらないッ!?」

 彼は見ている――漆黒の竜が地上に襲いかかって来た際に、アリエッタが剣風だけで彼らを破壊した場面を。そんな力をおいそれと発揮出来る実力者は――しかも、野に咲く可憐な花のような微笑みを浮かべたまま行える者など、そうそう居ない。

 「姐さんってばッ!」

 ヴィラードが全身漆黒の烈風と化し、肉薄した際に、ウォルフはアリエッタの心を揺り動かんばかりの声を張り上げる。だが、その隙を付いて『士師』"(もど)き"が攻め入って来たために、彼はこれ以上アリエッタに(げき)を飛ばす事が出来ない。

 (クソッ! このテロリストどもがッ!)

 こちらでも漆黒の烈風と化して一気に距離を詰め、トゲだらけの手甲で砲撃のような裏拳を飛ばしてくる『士師』"擬き"に対して、魔化(エンチャンテッド)防弾プラスチック製の盾を突き出すウォルフ。

 ガギィンッ! と痛々しい激突音が響き、『士師』"擬き"が衝撃で僅かに後退した隙に、チラリとアリエッタに視線を走らせると。ウォルフの眼は、飛び出さんばかりにまん丸に見開かれる。

 

 視線の先で、アリエッタは漆黒の旋風を眼下に、上空高くへと吹き飛ばされている。

 

 全身を烈風と化したヴィラードは、アリエッタに肉薄した後、体を固体化させずに激しい渦を巻いたのだ。

 アリエッタは拳か蹴りでも飛んでくるかと身構えていたが、予測していなかった攻撃にまんまと巻き込まれしまう。

 鞘に戻した刀を中途半端に振り抜いた姿勢のまま、大地を抉る颶風(ぐふう)に翻弄される。その勢いにアリエッタの制服は派手に裂け、その下に現れるきめ細やかな白い皮膚をザリザリと摩擦し、とうとう血飛沫(しぶき)を上げる。

 颶風と化したヴィラードに対して、アリエッタが力で抵抗を試みたならば…嵐の轟風の前にメキメキと音を立てて折れ倒れる巨木のように、その肉体は絞り千切れてしまったかも知れない。

 そこでアリエッタは逆に脱力すると、颶風の勢いに体を委ねる。そして、まるで木の葉のように翻弄されるがまま回転し――強烈な遠心力と上昇気流の為すがまま、上空高くに吹き飛ばされてしまったのだ。

 しかし、それこそがアリエッタの回避経路である。

 遙か眼下に見える漆黒の颶風に対して、ズタボロになった体をネコのようにクルリと回転させて体勢を立て直すと。腰にから引き抜きかけた刀を一度鞘の収めてから、再び疾風の勢いで居合い抜刀する。

 刀剣を主戦力とする者ならば、この抜刀の勢いで斬撃の烈風を生み、眼下の颶風を両断した事だろう。だが、アリエッタの抜刀が生み出したのは、遙か眼下にまで真っ直ぐに鉛直方向に延びる、閃光だ。

 「な…んだ…?」

 その閃光に気付いて視線を向けた『士師』"擬き"達は、雨上がりの空にクッキリと()かる虹を眺める子供のような視線を呆然と向けると。閃光を通じて心に流れ込む美麗さへの感激が怒濤のように体細胞を震わせ、呪詛を阻害。黒紫色の煙を盛大に吹き出すと、呪詛と共にエネルギーを失う事で一気に疲労感が()し掛かり、次々に大地に四つん這いとなる。

 ウォルフと交戦していた『士師』"擬き"も例外なく戦意を失い、その場に(くず)れると。ウォルフは安堵のため息を吐くと共に、上空高くを舞うアリエッタに視線を注いで感激の言葉を胸中で呟く。

 (やっぱりスゲェ…! "斬らない斬撃"だってのに、確実に心を屈服させちまうなんて…!)

 ――だが、この美麗への感激を微塵も受け付けない者が居る。…ヴィラードだ。

 アリエッタが閃光を放って数瞬後、眼下の颶風は急激に勢いを失う。それはヴィラードの戦意が喪失した事を意味するかと思えば…そうではない。

 ヴィラードは単に、大地から上空へと移動したのだ。アリエッタのすぐ間近へと!

 「!?」

 アリエッタの表情が怪訝に歪む。彼女は自身の体を、まるでグリセリンのような粘度の高い液体の中に放り込まれたような、酷く重くて鈍い感覚を得たのだ。

 いや――実際に、動きが鈍くて重い。抜刀した刀を鞘に戻そうとするも、大気がグニュリと彼女の腕を、指を、刀を捉えて枷となる。

 (これは…!?)

 アリエッタが笑みをすっかりと消して、己の身を襲う事象に疑問符を浮かべた頃。鈍く重い腕にグイッと力を入れて強く動かそうとした瞬間に――シュボッ! 強烈な摩擦熱を感じた矢先、眩い赫々(かっかく)の炎が盛大に立ち上る。

 (!?)

 アリエッタは直ぐに左目を閉じて、形而上相視認を実行。炎を上げる腕と刀に何がまとわりついているのかと調べれば…彼女の視覚野に描かれたのは、液化するのではないかと云う程の高密度を持つ、酸素の塊。

 (この『士師』のヒト、"武闘"の(あざな)を持っているけれども…単に格闘能力に優れているワケじゃない! この能力(ちから)は…)

 思考を巡らせている矢先のこと、グニュッ! アリエッタの全身を、高密度の気体が掌のように押し包み、"握る"。

 「あう…っ!」

 ギチギチ、と骨肉の悲鳴が鳴り響いた直後。大気の"掌"はアリエッタの体を思い切り大地へと投げ飛ばす。

 急速に落下するアリエッタは、全身を襲う強烈な大気摩擦を感じる。それは宇宙空間から飛来する隕石を灼熱させるが如く、アリエッタの体中に発火点を超える熱量を加え、シュボッシュボッ! と次々に赫々の炎を上げる。

 ジリジリと皮膚を焦がす感覚がノイズのように神経を騒がせる最中。アリエッタは眼球を守って薄く開いた視界の中で、冷静に体をクルリと回して体勢を立て直す。そして足の裏に『宙地』に似た方術陣を展開し、落下に対するブレーキとする。

 これにより、どうにか大地への激突の衝撃で全身に大打撃を受ける事を回避したアリエッタだったが…彼女の過酷な状況は、まだ終わらない。

 (一息なんざ着かせるかよッ!)

 ヴィラードは上空から空気塊のまま急降下し、アリエッタの頭上から激突。全身を"大気の拳"と化し、アリエッタを大地に叩きつける。

 「かは…っ!」

 アリエッタは四肢を大の字に投げて、圧力に抉れる大地の中央に仰向けに倒れる。メキメキと押し潰される肺と消化器から空気と内容物が逆流し、血反吐の滴が宙に舞う。

 ヴィラードの攻撃は、ここで終わらない。彼は大気の塊の姿のまま、アリエッタの全身を覆い尽くす。特に彼女の口の周囲に、高密度の"ある種のガス"を集中させる。

 (これ…は…!)

 途端に、アリエッタは激しい頭痛と耳鳴り、そうして嘔吐感に苛まれる。同時に、水を張った洗面器に顔を突っ込まされた時のような息苦しさが、咽喉(のど)を詰まらせる。脈拍が上昇し、意識がフワフワとした浮遊感を得て、思考が混濁し始める。

 (酸素欠乏…!)

 暗転し始める視界の中、アリエッタは自身の症状の正体を知る。彼女の呼吸器の周囲を濃密に覆う"ある種のガス"は大気中の酸素を排斥してしまったのだ。脈拍の上昇は酸素を求めて焦燥する心臓の暴走であり、思考の混濁は酸素不足により脳細胞が大打撃を被る結果である。

 だが、アリエッタが(こうむ)る症状の要因は、酸素欠乏だけではない。"ある種のガス"自体も、アリエッタの体内に入り込み、彼女の体組織に着実にダメージを与えている。

 "それ"は、不安定な物体だ。化学の法則に従い、安定化を求める"それ"は、体組織を構築する有機物から酸素を強奪する。その結果、二酸化炭素という安定した物質へと変じると同時に、体細胞の分子構造を損なわす。

 その"ある種のガス"の正体とは、一酸化炭素だ。

 

 ヴィラードの『士師』としての能力(ちから)。それは(あざな)が物語る通りの卓越した格闘能力――だけに留まらない。

 格闘能力を補い強化するための能力、『風化』がある。これまで見てきた通り、体の一部を気体化し、"軽やか"と云うよりは"烈しい"烈風となって一気に距離を詰めたり、体から腕や足を切り離して在らぬ方向から打撃を加えたりもする。

 この能力(ちから)は、ニファーナの『士師』であった頃より授かっていたものだが。『神霊力』が『呪詛』に成り変わった際、ヴィラードの魂魄と呪詛の相性が良かった為か、更なる能力を開花させた。

 それが、『風化』をより進化させた能力(ちから)――気体支配だ。

 彼は単に気体化するだけではない。気体の密度や組成を自在に変化させることが出来る。

 アリエッタの体を捕らえた高密度化や、彼女の呼吸を苛む一酸化炭素の生成は、この能力(ちから)に由来するものだ。

 

 (………!)

 アリエッタの一酸化炭素中毒症状は急速に進み、意識がいよいよ混濁して暗転する。強烈な睡魔が彼女の思考を塗り潰そうと出張ってくるが、これに屈してしまえば、二度と目覚めぬ昏睡に飲み込まれてしまうだろう。

 アリエッタは口を閉じ、極力呼吸を止めて一酸化炭素が体内に入る事に抵抗するが。ヴィラードは彼女の忍耐が切れるまで、大人しく待つような人物ではない。

 (オラよッ、こいつはおまけだぜッ!)

 ヴィラードは両拳を固体化させる。手の甲の指の付け根から金属質の(トゲ)が生えたそれは、オーガ属に生まれ備わった凶器である。

 ヴィラードは拳を固めると、アリエッタの顔面にブチ込む。金属質の棘が肉に刺さるように叩き込んだ結果、皮膚は赤黒い穴をズブリと開いたかと思えば、ドクドクと赤黒い血液を流す。

 こうして拳の連発も加えて、アリエッタの意識をいよいよ寸断しようと苛烈に攻め続ける。

 (………!!)

 アリエッタは初め、気丈に表情を引き締めて口を一文字に結び、酸欠と中毒症状、そして凶悪な拳撃の三重奏に抗い続けていたが。…遂にその体から、フッと力が抜けてしまう。

 一酸化炭素中毒が進んだ事による、四肢の麻痺が現れたようだ。その証とでも云うように、アリエッタの可憐な桜色の唇は、黒っぽい紫色を呈してチアノーゼを表現している。

 (さぁて、そろそろ引導を渡してやるぜッ!)

 ヴィラードは固めた拳を一層大きく振りかぶり、アリエッタの顔面中央に叩き込もうと、稲妻のように振り下ろす。

 その無慈悲な一撃が、アリエッタの頭蓋を砕いてしまう――かに思えたが。

 

 転瞬、ヴィラードは信じ難い光景を目の当たりにし、驚愕する。顔面を大気と化してなければ、目を見開いて白黒させた事だろう。

 

 (ダン)ッ! 大地を揺るがさんばかりの衝撃音。同時に、アリエッタの体がクルクルと独楽のように激しく回転しながら、宙に浮く。

 重度の一酸化炭素中毒によって四肢が麻痺しているはずの彼女だが。どこに力が残っていたのか、液体のような高密度を発する大気の中でも優に1メートルを越す高さまで跳ね上がったのだ。

 (馬鹿な、どうして…!)

 ヴィラードの驚愕が抜けぬまま、アリエッタは腰から一気に抜刀した刀の衝撃で、体の周囲にまとわりつくヴィラードを吹き散らす。

 ヴィラードは自在に気体化出来るとは云え、その体を無限の体積にまで広げることは出来ない。余りに離散してしまうと、末端のアイデンティティが希薄になり、単なるガスへと変じてしまうからだ。ヴィラードは慌てて自身の体を集合させると、勢い余って体を固体化。大地に拳を着いて(ひざまづ)くような姿を取り、ハァーッ、と一息吐く。

 そして、跳び上がった後は優雅な姿勢制御で羽根のように着地したアリエッタを見据え、額の角周囲に青筋を浮き上がらせる。

 (単なる身体能力じゃねぇ。ありゃあ、(わざ)だ! 練気の"功"みたいなもんか!?)

 

 ヴィラードの予想は、半分当たりと云うところだろう。

 アリエッタが使ったのは練気ではなく、アルテリア流剣舞術において『鍛身』と呼ばれる、身体操作技術である。

 アルテリア流剣舞術は"魅せる"(わざ)である以上、破壊の為の技術に尽力はしない。代わりに、より動作を大きく、長く、しなやかに魅せるための体術に磨きを掛ける。

 魔術的なプロセスを経て鍛え上げれた肉体は、人形のような美麗な体格と、外観から想像も付かない爆発的な瞬発力、驚異的な持久力、そしてしなやかな鋼のような筋力を得るに至る。

 アリエッタが跳び上がらせたのは、腹筋および背筋を爆発的に稼働させた反動によるもの。そして重度の酸欠症状の中でそれほど激しい運動を実現せしめたのは、腹筋と背筋に集中させた体内の酸素だ。

 一歩間違えば、無駄に酸素を浪費して酸欠症状を更に進めてしまい兼ねない"賭け"だ。しかしアリエッタは、これまでの人生で(つちか)った経験と実力を最大限味方に付け、見事に窮地を乗り越えたのだ。

 

 スゥー…大地に立ったアリエッタは、深く、静かに息を吸い込む。酸素に餓えた肺に充満してゆく涼やかな大気の感覚は、アリエッタの表情ににこやかな笑みを添える。

 「んふっ。空気がとっても美味しい」

 そんな独り言を耳にしたヴィラードは、ハッと驚愕から我に返ると。隙を逃さんとばかりに一気に疾駆。

 (さっきまで顔真っ青にしてたクセによぉッ! すぐに余裕ブッこいてんじゃねぇよ、クソアマッ!)

 激情を拳足に宿し、ヴィラードはすぐさまアリエッタの眼前まで肉薄すると、烈風の拳を口火に再び苛烈な攻撃を与える。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ヴィラードの次なる手は、一見すると今までと真逆の行動に見える。

 彼は全身を気化しない。コンパクトな構えから弾丸のように放った拳を、アリエッタの体にぶつける手前で気化。ガスの塊としてアリエッタに叩きつける。

 アリエッタは形而上視認を行い、気化したヴィラードの拳をしっかりと確認しつつ、優美な曲線を描く素早い体(さば)きで回避を行う。

 だが、ヴィラードの気化した拳はアリエッタの予測よりも素早く膨張している。ガスはアリエッタの四肢の先端に触れると――シュボッ! と音を立てて真紅の炎を上げる。

 今度、ヴィラードが操る気体は、高濃度の酸素だ。アリエッタの体に接触すれば、細胞を構築する炭水化物と化合し、燃焼を引き起こす。もしもこれがアリエッタの顔面に直撃すれば、瞬時に重度の酸素中毒症状を引き起こして意識を混濁させるだろう。

 対するアリエッタは、円運動を利用して刃引きの刀を振るい、ヴィラードの喉元を一閃する。だが、例によって直撃しない刃は、ヴィラードの動きを鈍らせることはない。

 それでもアリエッタは、花咲くような微笑みを張り付けたまま、回避と共に刀を振り続ける。

 それが、ヴィラードの神経を始終逆撫でする。

 (何なんだよ、テメェは!

 何がしてぇんだよ、テメェは!

 戦って、勝ちをもぎ取るつもりがねぇのかよ、テメェは!)

 ヴィラードは脚も気化させ、濃密な酸素の塊を暴風と化し、アリエッタを激しく襲う。吹き抜ける気流は刃のような鋭さを伴い、アリエッタの衣服や四肢の先端を燃やすと同時に、ザクッと鋭い切り傷を刻む。アリエッタが舞うように回避行動を取れば、傷口から(こぼ)れた赤の滴がパラパラと宙を舞う。

 それでもアリエッタは、微笑みを絶やさずに回避行動を取り続ける。その姿に激情を爆発させたヴィラードは、気化した拳足を流れるように連動させ、コンビネーション攻撃を放つ。

 (いい加減にしやが――)

 ヴィラードがアリエッタの懐に入って、コンビネーションを叩き込もうとした、その直前。アリエッタの微笑む瞳に、キラリと策略の輝きが灯る。

 何だ――ヴィラードがゾクリと背筋に冷たい恐怖を感じた、その瞬間。

 (ボウ)ッ! アリエッタが鞘に戻した刀を一気に抜刀。同時に、刃引きの刀身から烈しい衝撃波が発生。体の大半を気化したヴィラードは、その気流に飲まれてグニャリと体のバランスを崩す。

 「ヌオッ!?」

 四肢が離散しきらぬように慌てて集めるヴィラードであるが、その体は錐揉み回転しながら宙空に吹き上がる。打撃は受けなかったものの、痛ましい動揺がヴィラードの頭を突き抜ける。

 そこへ、アリエッタが地を蹴って跳び上がり、ヴィラードに追いすがる。そして、動揺醒めぬヴィラードの顔面めがけて、微笑んだまま刀を一直線に下から上へと振り上げる。

 (斬られた――ッ!?)

 冷や汗がドッと滝のように噴き出す、ヴィラード。彼は一瞬、全てを忘れ去り、必死に集めていた四肢を中途半端に固体化した状態のまま、数瞬を呆然と過ごす。

 しかし後に、パックリと両断されたはずの頭部に激痛どころか、冷たい金属の感触すら覚えなかったことを痛感すると。輝く冷や汗の滴をベッタリと頭部に張り付けたまま、ぎこちない(わら)いを張り付ける。

 (脅かしやがって! やっぱり、当てて来ねぇじゃねぇか! 何をビビッてやがるんだよ、オレは!)

 ケヘヘ、と乾いた嗤い声を漏らしながら、ヴィラードは拳を握ると。微笑んで刀を振り抜いたまま、なおも眼前に在るアリエッタの腹部に竜巻のような気流の渦をまとわせた拳を深々と抉り込む。

 (ドン)ッ! 凄まじい激突音に続き、ザリザリザリッ! と気流による擦過音が騒がしく響く。ヴィラードは感情を脅かされた復讐として、アリエッタの腹部を(えぐ)り、臓腑をも掻き回したかと思ったが――。

 (…おい…)

 ヴィラードの顔が、再び驚愕にこわばる。ドリルのように烈しい螺旋を巻く気流は、確かにアリエッタの腹部の制服をズタボロに引き裂き、その下にある皮膚を破いて血飛沫を上げさせている。

 だが、筋肉を破壊させるには至らない!

 ここでもアリエッタは『鍛身』によって、外見上は割れてすらいない腹筋を鋼のように固め、ヴィラードの一撃を受け止めたのだ。

 (身体(フィジカル)魔化(エンチャント)を使った気配も無いっつーのに、マジかよッ!?)

 ヴィラードが眼を見開き、慌ててアリエッタの腹部から拳を引こうとする。対してアリエッタ、半歩踏み込んで後込(しりご)むヴィラードに更に肉薄すると。屈むがごとく状態を低くしつつ、ヴィラードの腕を掴んで捻り上げながら、背負って投げる。

 (んなっ!?)

 刀での演舞にこだわり続けた来た少女が、まさか体術で攻撃して来ようとは! しかも、"武闘"の(あざな)を持つ『士師』に対して、彼の領分に踏み込んで見事にやり込めてみせてしまうなど! ヴィラードは想像だにしておらず、驚愕の連続だ。

 ヴィラードの角の生えた禿頭がコンクリートの大地に真っ逆さまに落下する。そのまま地面に激突すれば、頭蓋が叩き割れてしまうだろう――と云うその際に、アリエッタは疾風のように脚を払い、ヴィラードの額をコツンと蹴る。

 脳を揺さぶるような衝撃も、骨に響き渡るような激痛も、全く生じなかった。代わりにヴィラードの体は、サッカボールのようにポーンと軽々と吹き飛んでしまう。直ぐに受け身を取ったものの、ヴィラードは一度地面の上を回転してから、立ち上がることとなる。

 (流石はユーテリアの"英雄の卵"! 一芸の一辺倒ってワケにゃ行かんかよ!)

 立ち上がったヴィラードは直ぐに身構え、次なる攻撃に備えて間合いを詰めているはずのアリエッタに備えたが――彼の危惧は杞憂に終わる。何故ならアリエッタは、ヴィラードを投げ飛ばした位置から一歩も動かず、満開の桜の樹のように立ち尽くし、花咲く微笑みを浮かべてヴィラードを見送っているのだから。

 (なんなんだよ、このアマはよ、なんだってんだよッ!)

 ヴィラードは青筋と共に鳥肌を立てながら、不気味な化け物と相対した時のような狼狽を瞳に宿し、視線を揺らす。

 

 その様を見たアリエッタは、ニッコリと弧を描いた眼をスーッと細く見開くと。胸中でポツリと呟く。

 (そろそろ、かしらね)

 そして刀を腰に収めると――彼女の気質が、それまでとは一変する。

 穏やかな小春の快晴が、真夏の夕立の暗雲へと変わるように――アリエッタは腰を低く落とし、鬼気迫る姿勢で刀の柄を握り、抜刀の体勢を整える。

 何よりも変わったのは、表情だ。柔らかで美しい面持ちには今、花の微笑みは宿らない。代わりにあるのは――鞘に収まった刀身の輝きがそのまま顔に宿ったような、剣呑な閑寂だ。

 (こいつ…! ようやく本気になったって事なのかよ!?)

 ヴィラードがギクリと顔をひきつらせ、禿頭に汗の滴を幾筋も走らせる。

 その表情を直視するアリエッタは、剣呑な表情を崩さぬまま、胸中でポツリと呟く。

 ("貴女"の言った通りですね。万人を平定させるには、常春の花だけでは足りない。時には鬼の厳冬も必要…と。

 茨の道を歩むのならば、なおさら(トゲ)に屈さぬ鋼の鬼気も持ち合わさなければならない…と。

 その言葉、痛感する共に、これよりの実践の心構えといたします――御師匠様)

 

 ――これよりアリエッタが舞うのは、"鬼"の舞い。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Under The Serpent Hiss - Part7

 ◆ ◆ ◆

 

 「なぁ、アリエッタ。ヒトを楽しませるはずの舞いに何故、ヒトを恐れさせる鬼の面が使われると思う?」

 ユーテリアに入学するより約1年前。アリエッタは"御師匠様"と仰ぐ女性剣舞士から、そんな質問を受けた。

 

 アリエッタの出身は、地球が存在する宇宙とは別世界に存在する、"水と森の惑星"として名高いキュアネラ。現在で観光事業が星全体の一大事業と化しているが、昔は非常に快適な居住環境と豊富な資源を巡る一大戦場であった。

 血で血を洗う戦争によって、美しい惑星の環境が無惨に破壊され、その価値が急速な勢いで失われていった時の事。対立勢力間の敷居を超えて、平和を愛する者達が"戦わず、血を流さずにして、心の勝利を得る闘技"として作り上げたのが、アルテリア流剣舞術だと言う。

 その開祖にして伝説的剣舞士であるルーミア・ネアイオンは、不利に不利を重ねた戦場に身を起き続けて、演舞の披露にて戦争の終結に尽力を続けた結果――"鞘から刀を抜く"と云う行為のみで、血(なまぐさ)い戦意に揚々とした兵士達の心を(ことごと)く魅了し、戦争を終結させてしまったと云う。

 その後、ルーミアの功績を称えると共に、[[混沌の曙>カオティック・ドーン]]によって交錯し混沌とした世界で次々と生まれてゆく争乱へのアンチテーゼとして、アルテリア流剣舞術はキュアネラの国技ならぬ"星技"として定着した。

 剣舞術に身を置く者は剣舞士と呼ばれる。彼らの大半は、星の観光事業に尽力するためのパフォーマーとして活躍する。だが一方で、剣舞術の原義を重んじる者は、超異層世界集合(オムニバース)の各地へと散り、争乱を終結させるべく戦いに身を晒している。

 

 アリエッタの師、ファンネ・テフリスは一昔前までは後者であった。

 "ルーミアの再来"とまで云われた天才女性剣舞士であったが――今の彼女は現役を退き、剣舞術の指導に徹している。

 濡羽(ぬれば)色の美しく長い髪を称え、凛々しくも女性らしい快活さが見て取れる美しい面持ち。そして、決して着飾ることのない、むしろ質素に過ぎる格好をしていながら、燦然(さんぜん)とした雰囲気を眩いばかりに放つ雰囲気。絵画の中に描かれる理想の婦人像を具現化したような女性であるが――一点、不幸なる欠損がある。

 右腕が、スッパリと失われているのだ。

 この欠損ゆえに、彼女は現役を退き指導者に徹している。しかしながら、隻腕であっても彼女の剣舞の技術は、森の如き大樹が咲き誇る絨毯(じゅうたん)のような花の如く力強く、広く、深く、そして麗しい。現役を退いている事実を惜しまれているほどだ。

 そんな彼女が未練の気配を微塵も滲ませないのは、彼女を凌駕する才の持ち主――アリエッタ・エル・マーベリーに出会ったが故かも知れない。

 

 「メリハリのため…だと思いますけれど」

 少し考え後のアリエッタの答えに、ファンネは(うなづ)いてみせる。しかし、満足した気配はなく、生徒に難解な問題を叩きつける厳しい教師のような鋭い表情を作り、薄い唇を開く。

 「もう少し詳しく言ってみな」

 「ええと…」

 アリエッタは如何にも手探りといった感でオロオロと声を上げて、思考しつつポツリポツリと言葉をつなぐ。

 「その…喜劇であっても…途中に山…というか、困難があって…それを乗り越えて掴んだハッピーエンド…と云う方が、平坦なストーリーよりも…あのぅ…良い感じ、じゃなくて、面白味が増すというか、物語に幅が出る…出ます…。

 つまり…あの…鬼という怖い存在は…鬼を比較の対象とさせて…他の楽しい要素を…相対的に、もっと楽しく思わせるための、エッセンス…という事じゃ、ないでしょうか…?」

 自信の無さが手に取るように伝わってくる言葉だ。それを耳にしたファンネはクックッと笑って聞き受ける。

 「こっちが訊いてンのに、疑問符をつけて答えるのは良くないぞ、アリエッタ。

 まぁ、それはともかく、だ。

 お前の答えは、正解の一つだ。喜劇における鬼、その役割の一つはお前の言う通り、対照性(コントラスト)だ。ハッピーエンドを引き立てるためのスパイスだな。

 他には、ギャップの利用による滑稽さの増強、というものもある。怖い存在のはずの鬼に、その真顔のまま、面白可笑しい仕草(しぐさ)をさせるワケだ。面の種類によって、自ずから役割が固定されるタイプの古典芸能じゃ邪道極まりないと見なされる扱い方だが、私は良いアプローチだと思ってる」

 「なるほど…勉強になります」

 アリエッタが真顔でそう応じると。ファンネは美しく凛々しい微笑みを浮かべて、言葉を継ぐ。

 「なんで私が、突然こんな話をしたのか、分かるかい?」

 「なんとなく…は」

 「へぇ?」

 ファンネは面白げに片眉を跳ね上げ、"理由を言ってみろ"、とアリエッタに仕草で指示する。

 アリエッタは今度は、さほどオロオロすることなく、しっかりした口調で語る。

 「私の剣舞のスタイルに対する、忠告なんですよね?

 私は確かに、"花"に傾倒していますから」

 "花"――アルテリア流剣舞術においては、ヒトの心を陽の方向に突き動かし、和ませたり、感激させたりする業一般を指す。

 これに対して、ヒトの心を陰の方向へと導く――怯えさせたり、悲しませたりする業一般は、その名も"鬼"と云う。

 「その通りさ。

 ヒトってのは、性善説だの性悪説だの色々言われちゃいるが、結局は陽と陰の感情を併せ持つ存在さ。とは言え、その混合の比率は綺麗に半々ってワケにゃ行かない。これは個々人の質に因るワケだ。

 だから世の中には、善人と認められる者も居れば、悪人と認められる者も居る。

 同じ事象を目にしても、個々人によって感じ方は千差万別になっちまうワケだ。

 そんなバラバラな個性に対して、心を動かすアプローチの幅を自ら狭めちまってるのは、酷く勿体ない話さ」

 「おっしゃる事は分かります。けれども…」

 アリエッタは少し(うつむ)きながら、反論する。

 「アルテリア流派の訴える道義、"血肉でなく争いを斬り、平穏をもたらすべし"の考えの上に立つと…どうしても、"鬼"より"花"を極めるべきではないかと考えてしまうんです」

 「言ってることは分かる。何せ、私も昔はそう思ってたからね」

 ファンネは笑って二度、三度と頷いて見せたが。その後、表情をキリリとして鋭い真顔にし、言葉を続ける。

 「だけどね…その結果が、この有様さ」

 ファンネは視線と首の動きで、自らの失った右腕を示す。

 アリエッタは、その右腕を見ては常々考えていた事があった。それを口にするのはファンネの尊厳を害するのではないかと懸念していたが…この場の雰囲気に乗じて、思い切って尋ねてみる。

 「あの…御師匠様、何故右腕を再生させなかったんですか…?」

 魔法科学が席巻しているこの時代。肉体の定義に定着さえしなければ、怪我等で欠損した四肢は再生する事が可能なはずだ。それをしないで居るのは、何故なのか。

 「その…まさかとは思うのですが…私たち後輩への教訓を示す為に、敢えて…とかですか?」

 「いやいや、そんなんじゃない。そんなに献身的な人間じゃないよ、私は。

 誰が好き(この)んで、こんな不便な身体になるモンか」

 ファンネはケラケラ笑って答えてから、その笑みを後悔めいた歪んだものに変える。

 「再生できなかったんだよ。怪我して間もない時点でさえね。

 定義ごとスッパリと、斬り捨てられちまったのさ」

 この時のアリエッタは、ゾクリ、と背筋に痛いほどの冷気を感じずにはいられなかった。

 

 定義の破壊は、非常に難しい――これについて、家具の「椅子」を例にして説明しよう。椅子が何らかの事情によって破壊され、いくつもの部位へと瓦解したとする。それでも、背もたれや座面、脚などの部品を鑑みることで、それが元は"椅子"であった事を読み解くことができる。つまり、"椅子"であった定義は消滅していない。

 もしも"椅子"が粉微塵になろうとも、素粒子レベルに分解されようとも…椅子の使用者がその粉塵や素粒子が元は椅子である事を記憶している限り、"椅子"であった定義はやはり、消滅していない。

 定義の消滅までには、長い時間を掛けて、世界から定義の記憶が失われる必要があるのだ――元来ならば。

 だが、刹那の斬撃によって定義を世界から消滅せしめてしまうとは…一体、どのような力や理屈が働いたというのか。世界から全く定義を塗りつぶしてしまう程の形而上学的エネルギーとは、一体どれほどの量なのか。

 そんなものを、ヒトが人為的に作り出すことが可能なのか!?

 この頃、すでに剣舞術の皆伝間近であったアリエッタは、持てうる知識でザッと換算しては、その恐ろしい技術に感服する以上に、畏怖を覚えたのであった。

 

 「私の右腕の件ってのは、かなり(まれ)なケースだろうさ」

 ファンネは粟立つアリエッタに対して、その畏怖を(なだ)めるように軽い調子の声を掛ける。

 「でもな、私が言いたいのは…[rb:他人>ヒト]]の存在を否定する事を常とする戦場に身を起き続けるってことは、時に私の右腕を奪ったヤツみたいな怪物を呼び寄せるってことさ。

 そいつらの前で舞うには、"花"だけじゃどうしても追いつかなくなる時が必ず来る。

 怪物どもは、花の美しさなんて理解しちゃくれない。その辺に転がる石ころみたいに踏み潰して、蹴散らしちまうだろうさ」

 「…でも、伝説のルーミアは、"花"で(もっ)(ことごと)くの戦場を制してみせたと聞きます…!」

 「確かに、私もそう聞いてる。

 だが、ルーミアの時からは随分と時間が経っちまったのさ。

 怪物どもは更に大きく、恐ろしく進化を遂げて、花なんざ目もくれないように、余分なモノは見ないような()を手に入れちまったのさ。

 その最たるモノが、『戦争屋』って厄介なヤツらの集まりさ。

 まぁ、お前が『戦争屋』と戦うかどうかは別としても、だ」

 ファンネはアリエッタと真っ正面から向き合うと、両肩にポンと手を置く。そして、怖い目に遭った幼子に言って聞かせるような鋭い表情を作って語る。

 「お前も私と同じく、(いばら)の道を歩く事を志すのなら、選択肢は広く持つんだ。

 だからといって、私は何も"花"を捨てろと言ってるワケじゃない。"花"で世の全ての険を抑え込めるのなら、それに越した事はないさ。だが、それは科学で云うところの理想状態に近いものさ。

 さっきも言った通り、"花"を踏みにじる狂気は、確実に存在する。

 だからこそ…より美しい"花"を咲かせるためにも、"鬼"を身につけておけ。

 常春や常夏ばかりじゃ、"花"の美しさは作られない。鬼の厳冬を経てこそ、桜のように心に()みる花を咲かせるのさ」

 師にして百戦錬磨の剣舞士たるファンネに、そう真っ向から語られても、当時のアリエッタは納得し切らなかった。(うなず)いてみせたものの、眉の端には怪訝の為せる(ひず)みが(にじ)んでいた。

 それを汲み取ったファンネは、"仕方ない"と言った感じで爽やかに笑い飛ばしながら、アリエッタの桜色の髪をクシャクシャと撫でる。

 「お前は来年から、ユーテリアに行くんだよな?

 あそこは自由な気風が持ち味だからな、思いっ切り世界中を駆けずり回って、色々な経験をして来い。

 そうやって、数多くの戦い――戦場でなくとも、ライバルとの切磋琢磨でも良い――を経れば、お前も私の言った事を納得出来る日がきっと来るだろうさ」

 

 ――そしてアリエッタはユーテリアに入学し、星撒部に見置いて数々の戦いを経てきた。

 それでも、彼女の根底が"花"である事は変わらない。それでも今は、師が言った事を昔の何倍も理解出来る。

 (いばら)の道を進むならば、常春だけでは足りない。花を踏みにじる狂気を凍てつかせる鬼の厳冬もまた、"花"を活かす一手であると。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (ヤル気充分か…!)

 『武闘の士師』ヴィラードは、これまでとは打って変わったアリエッタの気配に生唾をゴクリと飲み込むと。ドッシリと身構えて、よくよくアリエッタを観察する。

 笑みを消し、腰を低くして抜刀の構えを作るアリエッタの姿には、閑寂たる静と共に、今にも烈風を撒き起こさんばかりの動の気配が痛いほど伝わってくる。こちらを射抜く鋭い眼光は、その視線だけでヴィラードの脳天を穿(うが)つようだ。

 (所詮、あの刀は刃引きだがよ…)

 ヴィラードはアリエッタの刀をチラリと見やり、こめかみに一筋の冷たい汗を流す。

 アリエッタの刀が斬撃に適さないのは、これまでの交戦から明白だ。とは云え、斬れないからと云って油断はならない。刃引きの刀とは云え、充分な速度と技量があれば、充分にヒトの命を奪うことが出来る。肉を断ち、骨を砕く事が出来る。

 当てずに舞うだけでも、ヴィラードを手こずらせた相手だ。本気で当ててくるとなれば、苦戦は必至だろう。

 ――そんな苦境の思考を、ヴィラードは小さく首を振って振り払う。

 (何を弱気になってやがる! オレ様は『士師』だッ! 我らが『現女神(あらめがみ)』に仕えし、超常の聖人だッ!」

 口元にまで流れ着いた汗の滴をベロリと舐めとると。ヴィラードは額の金属質の角の周囲に青筋をビキビキと浮かび上がらせて――(ダン)ッ、と地を蹴る。

 そして、墨汁のような烈風をたなびかせつつ、アリエッタへと肉薄する。

 (当たる前に、ブチ殺すッ!)

 アリエッタまでの距離が3、4歩といった中距離で――ヴィラードは腰の高さに構えた右拳を、アッパーの要領で一気に解き放つ。繰り出された拳は直ちに気化して爆発的に膨張しつつ液体レベルまで密度を高め、さながら"大気の拳"となってアリエッタを()しに掛かる。

 対するアリエッタは、桜色の髪をバタバタと乱す烈風に対して、瞬時に抜刀。転瞬、(ゴウ)と云う音と共に衝撃波が発生し、ヴィラードの"大気の拳"に激突する。

 「ぬおっ!」

 ヴィラードが(たま)らずに声を上げたのは、衝突によって生じた強烈なモーメントによって、"大気の拳"が大きく弾かれてバランスを崩し、倒れるどころか吹き飛ばされそうになったからだ。

 この大きな隙を見逃さず、アリエッタは抜刀の勢いのまま素早くクルリと回転しつつヴィラードの懐に入り込む。その(まなこ)には相変わらず笑みはなく、網膜を射抜く鋭さばかりが目立つ。

 (きら)めく眼光が訴えるのは、剣呑なる修羅の意志。

 (マズいッ!)

 ヴィラードはがら空きになった胴の前に慌てて左手をかざすと、即座に気化。高密度のガスによるクッションを作り出す。刃引きの刀ならば、通常の刀に比べて刃先の面積は広いので、充分に受け止められるはず――それがヴィラードの目論見である。

 アリエッタは構わずに、転身の勢いを利用して横薙ぎの一閃を放つ。その一撃は確かに、大気のクッションに巻き込まれるとグニョリと減速したのだが…。

 「()ッ!」

 アリエッタが気合いと共に素早く刀を引いた瞬間。ヴィラードの胴部を守るガスのクッションが、まるで強烈な吸引機に当てられたようにズルリと剥ぎ取られてゆく。アリエッタは高速で刀を引いて大気を切り裂き、真空を作り出して、ヴィラードのクッションを引きずり出したのだ。

 (なんだとッ!?)

 ヴィラードが目を丸くする。両手を気化してしまい、防御を失った今、彼が取れる行動は回避しかない。バランスが崩れているところを、脚をバタつかせて踏ん張り、横っ飛びに避けようとしたが――遅い。

 アリエッタが引いた刀を(ひるがえ)すと、曇天の陽光を眩しく反射させつつ、突きを叩き込んできたのだ。

 刃引きの刀であっても、もっとも表面積の小さい切っ先は、充分な速度さえ伴えば用意に肉を裂く。これはアリエッタが今回の交戦で初めて見せた、殺法に通じる剣技だ。

 アリエッタの突きは刀身が霞んで見える程に高速であり、更に網膜を()くような閃光を放つ事から、ヴィラードはその身を光によって数度焼き貫かれたかと感じた。実際、ヴィラードは胴および内臓にズッシリと沈む衝撃を感じたのだ――もしも光線が彼を貫いたとしたら、質量を持たぬ故に衝撃など感じないはずだが。

 (やられた!?)

 ヴィラードは眼球が飛び出さんばかりに目を見開いて、背筋に走る衝撃に心を震わせた――が。視線を送った腹部には、凄惨な真紅が吹き出ているどころか、赤みを帯びた腫れすら見当たらない。

 (…ンだよッ、また"魅せ"かよッ! 舐めやがってッ!)

 ヴィラードは見開いた眼を一瞬にして険悪に細めると、体勢を充分に建て直して、再びアリエッタの方へと踏み込む。そして気化したままの右拳を、もう一度アッパーの要領で叩きつけるのだ。

 アリエッタは先と同じく、抜刀の衝撃波で吹き飛ばす算段で構えを取ったが。いざ抜刀しようとした、その瞬間。ブワッ、と全身を吹き抜ける烈風に襲われる。

 次の瞬間、キィィン、と耳鳴りがし、耳の中が詰まったような感覚を得る。直後、風が凪いだかと思えば、息苦しさと不快感を覚える。その不快感は、三半規管が混濁したものと違い、内臓そのものが揺さぶられるような――消化物が食道から直ちに逆流するような不快感だ。

 そしていきなり、アリエッタの鼻孔からブシュッ、と鮮血が噴出する。そして、鋭い眼が焦点を失い、クラリと勢いを失う。

 ヴィラードは、"大気の拳"によるアッパーによって、アリエッタの周囲の大気を吹き散らしたのだ。よってアリエッタの周囲の気圧は、地球上ではあり得ないような低圧に達したのである。

 (この期に及んでも、舐め腐りやがったツケを払わせてやるッ!

 深海魚みてぇに、内臓ブチ撒けろッ!)

 異様な低気圧の下、アリエッタの内臓は風船の膨張し、構造が不安定となる。そこへヴィラードは左拳を敢えて固体化させると、腕だけ漆黒の風と化してリーチの延ばし、アリエッタの腹部を狙う。膨張した内臓を圧迫する目論見だ。

 対するアリエッタの行動は、少々異様に映ることだろう。

 彼女は低圧の領域から脱するでなく、腹部を防御するでなく――刀身を鞘に納め始めたのだ。ただし、その速度は腕が霞む程の高速である。

 ヴィラードが怪訝に眉を(ひそ)める間もなく、アリエッタの刀はすっかりと鞘の中に収まり、(つば)が鞘の縁に激突すると――ガキィンッ! と空間が破裂するような鋭い金属音が響く。

 この音程度でビクリと(すく)むヴィラードではないが…代わりに、ある異変を感じ取ってギリリと歯噛みする。

 激しい音によって、低圧を作り出していたヴィラードの気化した拳が激しく震動。自由を失うだけでなく、低圧を作り出すべく大気を押し退()けていた構造が一瞬にして破裂するように崩壊したのだ。

 これによりアリエッタは、低圧の環境を打破し、身体の不調を払拭する。

 そしてすかさず、腹部に肉薄する拳に対して肘を突き出して迎撃。ヴィラードの拳は手甲で守られている為、()したる打撃を受けることはなかったが、拳撃は確実に受け止められてしまう。

 (くそッ!)

 ヴィラードは離散した右拳を集めつつ、放った左拳を引いて体勢を立て直そうとするが。アリエッタの動きは止まらない。突き出した肘を支点にし、高速で抜刀。ヴィラードの左腕を一閃する。

 (斬られたッ!?)

 ヴィラードの額からブワリと冷や汗が吹き出る。彼の左腕は気化しているというのに、その事実さえ忘れて、腕が切り離されたと痛感する。何せ、気化しているはずの腕に、重く鋭い衝撃が走ったのだから。

 だが、無事に左腕が胴体に戻った事を確認すると、ヴィラードは四肢欠損を免れた事に安堵の息を漏らさずにはいられない。

 その隙にアリエッタが更に動く。(ダン)ッ! と音を響かせた足踏みし、ヴィラードの懐深くまで潜り込むと。踵で(もっ)てヴィラードのつま先を踏みつける。

 「ガァッ!」

 ヴィラードが苦悶の声を上げるのも無理はない。神経の集中する指先を思い切り刺激されたのだから。もしかすると、爪の何枚かが剥がれてしまったかも知れない。

 次いで、アリエッタは刀の柄先でヴィラードの顎先を強打。つま先を固定されているが故に衝撃の逃げ場がないヴィラードは、脳天にまで響く固い衝撃に、首が引っこ抜ける程に天を仰ぐ。

 しかし、ここで心折れるヴィラードではない。

 (クソがッ、クソがッ、クソがッ!)

 脳を震わす衝撃を振り切り、ギロリと視線をアリエッタに向けると。今度は両手を気化して上から叩きつける。今度も密度は液体並を誇るが、ガスの組成は通常の大気のものではない。

 鼻孔にツンと痛みすら感じる強烈な臭気を放つ、反応性の高い猛毒の物質――二酸化硫黄である。

 このガスは生物体にぶつかると、酸素を奪う燃焼反応を起こして体組織を損壊させると共に、硫酸を生成して傷ついた体組織を更に悪化させる。

 この不可視の攻撃に対しても、アリエッタは怯懦なく、迅速に対応する。その場でグルリと高速回転し、刀身で大気をかき回して旋風を作ってガスを霧散させてしまう。二酸化硫黄はアリエッタの可憐な桜色の髪の先端をチリチリに焦がした程度で役目を阻害され、離散してしまう。

 (何だよ、おいッ!)

 絶妙の反撃だと確信していたヴィラードは事の次第に笑い出しそうな程衝撃を受け、吹き出すようにも引きつったように見える妙な表情を作り出す。

 そこへアリエッタは回転の勢いのままに蹴りを叩き込む。踵は見事にヴィラードの鳩尾(みずおち)(えぐ)り込まれ、彼は大量の唾液を吐き出しながら派手に吹っ飛ぶ。

 その最中にも、アリエッタの手は休まない。防御の余裕すらないヴィラードのがら空きの首筋めがけて、ギラリと輝く刃を振り下ろす。今度もヴィラードは、首から胴にかけて袈裟斬りに両断されて血肉が吹き出す想いを抱く。

 勿論、それもヴィラードの幻想に過ぎない。アリエッタの刃引きの刀身は彼の首を切り裂くどころか、当たってすらいないのだ。

 それでもヴィラードは、確かに、重くて鋭い刃の感覚を得たのだ。

 (チクショウッ、チクショウッ、チクショウッ!

 何だってんだ、何だってんだよぉッ!

 踊りじゃねぇのかよッ、蹴り技なんて在るのかよッ!)

 着地したヴィラードは踏ん張って体勢を立て直すと。今度は両脚を漆黒の疾風に変えてアリエッタへ肉薄。次なる攻め手を繰り出しに行く。

 対するアリエッタは、果敢にヴィラードへと距離を詰めては、刀のみならず蹴りも交えて苛烈な抗戦を行う。

 

 その始終、アリエッタの顔はニコリとも笑みを魅せない。可憐な彼女の顔に張り付いているのは、刃がそのまま転化したような鋭利で剣呑な無表情。

 それはまるで、木彫りの鬼の面が放つ静かな獰猛さを想起させる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (何なんだ、この戦い…!)

 (はた)で2人の戦いを見守るプロジェス市軍警察のウォルフは、唖然とした戦慄の中でポツリと胸中で呟く。

 ――いや、彼だけではない。周辺で交戦する他の市軍警察官や"チェルベロ"の加勢人員達、それどころかテロリスト側の『士師』"(もど)き"までもが、アリエッタとヴィラードの戦いを一瞥しては同様の感想を抱く。

 それほどまでに2人の交戦の様子は、ある種の"奇妙さ"を醸し出している。

 

 ヴィラードは相変わらず攻め続けている。四肢を気化し、ある時は有害なガスとなり、アリエッタの命を執拗(しつよう)に狙う。

 彼の攻撃は、悲しいかな、なかなか功を奏さない。気化に伴う大気操作に加え、抜群の体術を(もっ)てしても、剣舞術の皆伝を収めたアリエッタを捉える事は困難だ。抜刀の剣風や鍔鳴りによる破裂によって、大気やガスが散らされてしまうことはままある。

 それでも、手数は圧倒的にヴィラードが上だ。それに彼とて、『士師』として働いた実力者。アリエッタに全てを(さば)かれてしまう程落ちぶれてはいない。

 ヴィラードの操る有毒なガスは、時にアリエッタの皮膚を焼き、時にアリエッタの感覚を狂わせ、時に臓器への直接的なダメージを与える。アリエッタの体は徐々にボロボロに傷つき、痛ましい姿へと変わって行く。

 それでも、表情が苦しく険しいのは、ヴィラードの方だ。

 攻め続け、着実に傷を与えているはずなのに。逆に追い詰められているような感じさえ受けるほど、全身にビッショリと冷や汗をかき、顔面を蒼白にさせている。

 一方のアリエッタの攻めは、"鬼"に転じてからと云うもの、その気迫と鋭さは剣舞ではなく"剣武"そのものだ。今にも弾け跳びそうな勢いを込めた構えで、目から放つ鋭利な刃物のような眼光は、その視線だけで血肉を両断する威勢を醸し出している。

 しかし、アリエッタの振るう刀は、相変わらず空ばかりを斬る。刃引きであっても、刀身がヴィラードの体表に触れることはない。尤も、凄絶な剣風や柄による殴打が繰り出されることは多々ある。しかし、基本的には"威嚇による選手防衛"という言葉が相応しい振る舞いだ。

 当たらない攻撃を幾ら繰り出されても、百戦錬磨のヴィラードには何の痛痒も感じない――その"はず"である。

 それでもヴィラードは、アリエッタが繰り出す虚空の一撃一撃に対して、着実に精神を磨耗されてゆく。その異様な事態を可能にしているのは、"通じないはずの痛痒"を喚起させる、アリエッタの真に迫った舞いにある。

 "花"の所作と違い、"鬼"の所作は一々が酷く素早く、重く、そして"凶悪"と称しても過言でない成果を生み出す。刀身はヴィラードの一撃をくぐり抜けると、幾度も幾度も空を切り裂く。一閃一閃は着実に急所を捉えたもので、激突すれば重傷を負うことを免れないだろう。それがほんの数ミリの間隙を空けてヴィラードに肉体スレスレを走ると、吹き出す剣風が体表を鋭く撫で回し、まるで音も無くパックリと血肉が裂けてしまったような感覚を覚える。

 アリエッタは常にヴィラードとの距離を詰め続ける。ヴィラードの手数をアクロバティックながらも実践的に昇華された動きで(さば)き続ける。そして隙と見れば、すかさず斬撃を繰り出す。その一々にヴィラードの顔は歪み、脊椎反射的に冷や汗を撒き散らしながら体を仰け反らせるのだ。

 こうした至近距離での撃ち合いを(はた)から見ていると――険悪極まりない交戦のはずが、なんだか違うものに見えてくる。

 表情を歪めながら、荒い動きで攻め続けるヴィラードの姿は…不慣れな中でもベストを尽くそうと奮戦する、初心者の姿。

 凶悪な手数の中で、険しくも美しい動きでヴィラードを追いつめるアリエッタの姿は…不慣れな初心者のぎこちない動きをカバーして、有り余る技量のパフォーマンスで観衆に感動を届ける熟練者の姿。

 そう、この2人の今の姿は、舞踏会場で踊りを披露するペアと重なる。

 

 そんな険悪ながら優美な様相が、誰の網膜にも奇妙な感覚を植え付けてしまうのだ。

 

 (『士師』相手に、こんな戦い方をしてのけるなんて…!

 やっぱり姐さんは、尋常じゃねぇ…!)

 ウォルフは、眼前の交戦対象であるはずの量産型『士師』"擬き"と鍔迫り合いをしながら、2人してアリエッタ達の交戦の様子を見つめて、呆然とする。

 2人の一挙一動が、見るものの意識を虜にして止まないのだ。この奇妙で美麗なる芸術を前に、ひたすら視線を投じていたくなってしまう。

 

 ――だが、この"舞踏"も、永遠に続くことはない。

 遂に、観衆が惜しんで止まぬ"終演"を迎えようとしている。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (なんだよ、チクショウッ、なんなんだよッ! なんでオレが、追い込まれてんだよッ!)

 度重なる、間近での斬撃の空振り。その積み重ねが着実に生み出した怯懦にヴィラードの心が押し潰されようとした、その時。

 「あああああああッ!」

 彼は胸中に溜まりに溜まった"負"を一気に吐き出さんとするように、大口を開き、こめかみに青筋を立てて絶叫する。

 そして、肉体の気化を初めとした魔法的能力を用いる算段などかなぐり捨てて、ただひたすらに怯懦の源をねじ伏せんと、右腕にありったけの力を込める。

 まるで、いきなり飛び出して来た怪物を拒絶するかのように、岩の如く固めた右拳を、骨身が軋むのも構わずに弾丸の如く撃ち出したのだ。

 墨汁のような疾風を伴った拳撃よりも余程速いその一撃は、ヴィラードの怯えた本能が肉体の限度を越える動きを生み出した結果なのかも知れない。

 その拳撃は瞬時にアリエッタの頬面へと迫り、そのまま彼女の柔肉と頬骨を粉砕する――かに思えた、が。

 ヴィラードの一撃は、悲しくも空しく、虚空を泳ぎ過ぎてしまう。

 そしてヴィラードは、眼球を転げ出さんばかりに目を見開く。たった一瞬前までそこに居たはずのアリエッタの姿が、視界から消え去っている。

 (なんだよ、この速さ!?)

 予想だにして居なかったヴィラードは、拳を引くこともせず、ギョロギョロと眼球を動かしてアリエッタの姿を必死で探す。これまでの戦いの中では、アリエッタは決して遅い動きではなかったものの、視認出来ない程の速度で動けるような片鱗は全く見受けられなかった。

 

 ――だがこの時、ヴィラードは勘違いをしている。

 アリエッタが非常な高速で動いたワケではないのだ。

 怯え切った彼の精神が、脳から意識への感覚のフィードバックを、酷く鈍いものにしていたのだ。

 

 そして当のアリエッタは、と云えば。繰り出された拳撃に対して、即座に屈んで拳を頭上にやり過ごしつつ、低い体勢のまま前進。ヴィラードの脇を通り過ぎ、その背後に回り込んだのだ。

 ヴィラードが幾ら眼球を動かそうが、首を回さずには背後を視認することは出来ない。だから彼は、アリエッタが消えてしまったように感じたのだ。

 そんな彼に対し、アリエッタはつま先でコツン、と(ふく)(はぎ)を小突く。蹴りではなく、本当に気付かせるための所作だ。

 ヴィラードは正に血の気が引く程に顔面の色を失いつつ、冷や汗の滴をボタボタと飛ばしながら、慌てて背後を振り向いた――その時。

 (ザン)ッ! 大気を切り裂く銀閃が横一文字に宙を疾駆。ヴィラードの並んだ双眸(そうぼう)のスレスレを過ぎる。輝きとともに吹き抜ける烈風が、瞳の表面を激しく撫でて、柔らかな水晶体を波立てる。

 結果、視界が酷く歪んだヴィラードは、眼を失ったと信じて疑わず――。

 「ああああああッ!?」

 絶叫しながら、双眸の傷を庇い立てるように、諸手(もろて)を眼に伸ばす。傷の状態を確認するためか、それとも直ぐに襲ってくると信じる激痛を宥めるためか、それとも単なる脊椎反射か。何にせよ、ヴィラードは攻めをすっかりと忘れて、隙だらけの行為に没頭してしまう。

 だが、指先が眼に居たるより早く、視界が回復すると。ヴィラードは自分の身の上に何が起きているのか、もはや図りかねず、思考を困惑一色に染め上げる。

 その間抜けな程の隙を、"鬼"と化したアリエッタは決して見逃さない。刀を高く振り上げて、ギラリと陽光を反射させる。それでヴィラードは我に返ると共に、自身が致命的な苦境に立っている事を本能で理解する。

 (避けられねぇ…ッ!)

 アリエッタが銀閃を一直線に振り下ろす。ヴィラードは目尻からブワリと恐怖の涙を沸き出させ、辛うじて禿頭の上で腕を交錯させて防御態勢を作る。

 アリエッタの剣術の腕ならば、例え刃引きであっても、ヴィラードの腕の防御を切り捨てて、彼を脊椎に沿って真っ二つに両断した事だろう。

 しかし――アリエッタは、剣闘士ではない。

 

 アリエッタは、剣舞士なのだ。

 そして、厳冬の"鬼"が続きに続いた、この瞬間。アリエッタは満を持して、春の"花"を咲かせる。

 

 (ブン)ッ! ヴィラードの腕の間近にまで迫った高速の銀閃は、突如直角に方向転換。水平に宙を走り抜けたかと思うと――そのまま優雅に、大きな円を描く。

 斬撃の速度は徐々に遅化し、やがては踊りに相応しいゆるりとした優美な柔和さを取り戻した頃。刀はアリエッタの真正面に戻る。

 この時、アリエッタはもう片方の手で腰から鞘を引き抜き、これもまた己の真正面にまっすぐ水平に持っている。

 そして刀は、刀身を鞘の中へと収めて――最後に、真夏に照る太陽のような輝きを放ちつつ、チィンッ! と高く澄んだ鍔鳴りの音を響かせる。

 この動作を終えたアリエッタの顔には――険しさなど一片もない、穏やかなる満面の微笑みが浮かんでいる。

 

 "鬼"の冬が終わり、"花"の春が訪れたのだ。

 

 (…美しい…)

 ヴィラードは、呆然とアリエッタの動きを見送る。

 燦然たる陽光の反射が網膜に()き付いた時に、胸中の怯懦(きょうだ)は輝きの中に塗り潰され、真っ白な思考の中に感激がジンワリと広がったのだ。

 (この美しさの前に、オレは…)

 ヴィラードが呆然と回顧を始めると。彼の体は、激しい身震いに襲われる。

 彼はこの時、痛感したのだ。感激に激情が塗り潰された今、純然たる武人の感覚で認めたのだ。

 (オレはずっと、負けていた…)

 ヴィラードが相対し続けてきたのは、"当たらない刃"ではない。"当てない刃"なのだ。

 ヴィラードは交戦の最中、"当てない刃"を"当たらない"と卑下し、嘲笑し、攻め続けていいた。だが、彼の武人の本能はとっくに認めていたのだ――もう何度も、負けていることに。

 "当てない刃"は、その気になりさえすれば、"当たった刃"なのだ。何度も何度も振り回される刃は、ヴィラードの骨身を裂いて鮮血を舞い上げていたはずなのだ。

 しかっしヴィラードは痛みも流血もない敗北を認めず、本能が訴える感服を喚き散らし、拳蹴を振り回すことで払拭し続けたのだ。

 それが『武闘』の(あざな)を冠する『士師』として見苦しい行為であったなど、とっくに理解できていたのだ。それでも手足を止めなかったのは、器の小さなプライドにしがみついていからだ。

 今となっては、アリエッタがなぞった剣閃の跡が、パックリと赤い血肉を覗かせる(きず)が開いているかのように感じてならない。――とすればヴィラードは、使い古された雑巾のようにズタボロに引き裂かれているはずだ。

 ブルリ――ヴィラードは身震いする。同時に、全身がビッショリと大量の冷や汗が噴き出す。アリエッタへの畏怖と共に、己の浅ましさに対する羞恥が、寒気を生み出す。

 

 そして、流れ出す汗と同時に、彼の全身から噴き出すものがある。

 それは、黒紫色に鈍く輝く術式の蒸気――呪詛だ。心の折れた彼の体組織から、力の抜けた呪詛が逃げ出してゆくのだ。

 

 蒸気の存在に気づいたヴィラードは、ハッとして体を強ばらせる。

 如実に身体が脱力して行く様子に焦りを覚えた彼は、(待てよ、待て待てッ!)と内心で慌てて叫び、呪詛の蒸発を防ごうとする。

 一時は、認めたはずの敗北すら否定し、アリエッタへの怒りを呼び起こしてまで、呪詛をつなぎ止めようとしたが――流出が止まらない事を(さと)ると、フッと力無く笑いを浮かべる。

 そして、一気に()し掛かってきた疲労のなすがままに、膝を折ると、そのまま背中から大地へと身を投げ、"大"の字に倒れる。

 ヴィラードが、完全に敗北を認め、受け入れた瞬間であった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ヴィラードが負けを認めた直後。プロジェスのあちこちで黒紫の蒸気が噴き出すのが認められる。それは、多数ひしめいていた『士師』"(もど)き"達の身体から、不意に吹き上がったものだ。

 マキシスの場合は漆黒の竜が彼の呪詛に依存して存在を保っていたように、大多数の『士師』"擬き"の能力(ちから)はヴィラードの呪詛に依存していたらしい。考えてみれば、ヴィラードの気化能力の一部を有していたのだから、当然考え得る事情ではある。

 鎧を失い、呪詛によって底上げされていた体力が一気に低下し、脱力した『士師』"擬き"達は、次々に普通の人間と化し、その場に(くず)れてゆく。アリエッタの奮戦を知らぬ市軍警察達は、急な形勢逆転に警戒感すら抱いたが。"チェルベロ"達が躊躇せずに逮捕に踏み切る姿を見て、状況は何の疑念も抱く必要のない好転であると断じ、"チェルベロ"の行動に従う。

 ――こうしてプロジェスの趨勢は、マキシスとヴィラードの両者を屈服させた事から、再び秩序側へと大きく天秤が傾く。未だに漆黒の『天使』が天空を舞ってはいるが、今の市軍警察や"チェルベロ"の戦力を持ってすれば、即座とは云えずとも制圧は時間の問題であろう。

 

 ヴィラードが大の字に転がっても、市軍警察も"チェルベロ"も中々彼に近寄ろうとはしなかった。アリエッタのとの交戦中の凄絶な動きが網膜に()き付き、未だに畏怖を覚えてならないのだ。

 近寄ったところで、いきなり飛び上がって襲いかかってくるのではないか? そんな不安すら漂っている。

 それを払拭しようと試みたかどうか分からないが、アリエッタがヴィラードに近寄る。彼女の顔は、すっかりといつもの微笑みに戻っている。

 そんな彼女の表情を見つめてヴィラードは、

 「このタヌキ女め」

 と皮肉を語る。

 するとアリエッタは、笑みを少し苦々しく歪めて語る。

 「そんな言い方をされるのは心外ですよ。

 私、"鬼"を見せるのは、やっぱり不本意なんです。何より、刀身を当てなくとも、柄で殴ったりしちゃいますから。それって、本当の意味で心を屈することにはなりませんから」

 するとヴィラードは、寝転んだまま、呆れたように苦笑する。

 「おいおい、ってことは、『士師』のオレ相手に、ニコニコ笑ったまま当てずの刀捌きだけで勝つつもりだったのかよ? 本気で?」

 「可能ならば。

 それが、私の理想であり、目指す道ですから」

 そんな答えを聞いたヴィラードは、クックッと笑って己の眼を覆いながら、ベロリと長い舌を出す。

 「遠い、遠すぎるだろ。そんな理想、夢物語の英雄譚を実現しようとする位に、滑稽な話だ。

 (いばら)の道どころの話じゃねぇ、針の山を素足で歩くようなもんだ」

 「今回の戦いを通じて、本当にそうだと痛感しました。

 でも、だからこそ、やり遂げる意義がある…そう私は、感じます。

 それが絶対なる"不戦の抑止力"に繋がるのなら、私は喜んで素足で針の上を歩きます」

 ヴィラードは眼を覆った手を大きく振って、四肢で再び"大"の字を作ると、ゲラゲラと大笑いする。

 「流石は超異層世界集合(オムニバース)に名を轟かす"英雄の卵"の志だけはある。

 笑っちまうほどに、清々しくデカい夢だなぁ!」

 ――こうしてヴィラードが無防備に語っているのを見ていた"チェルベロ"の隊員は、ようやく顔を見合わせてコクリと首を振ると、ヴィラードに近寄る。そして、2人で一本ずつヴィラードの腕を取って持ち上げて立たせて、確保の工場を述べる。

 「ヴィラード・ネイザー。テロリズムによる破壊および殺傷行為により、逮捕する」

 「はいよ」

 ヴィラードは大人しくそう語ると、"チェルベロ"隊員の為すがままに引き立てられてゆく。他の『士師』"擬き"と共に、"チェルベロ"の本星にある留置所に拘留されるのだろう。

 去り際に、ヴィラードは首だけでアリエッタを見つめると、こう語る。

 「オレはこうして、心が折れちまったがな。だが、まだ残ってる2人は、オレとは比べものにならないくらい心が固いぜ。

 エノクのヤツは勿論。あのザイサードっていう"ハートマーク"の野郎、部外者のクセにして、スゲェ執念を見せやがる。『戦争屋』ってヤツは、誰よりも気の狂った思考の持ち主に違いねぇぜ」

 そう残して再び歩き出すヴィラードの背中に、アリエッタは笑みをスッと消して、ポツリと応じる。

 「ご忠告、ありがとうございます。

 でもそんな事、もう承知済ですから」

 

 その後、ヴィラードの姿が消えた後は、アリエッタに向かって市軍警察の人員がワッと集まってきた。

 その先頭に立つのは、勿論、ウォルフである。

 「姐さん、スゲェよ! あんなヤツ相手に、本当に斬らずに勝っちまうなんて!

 尋常じゃねぇよ!」

 そんな感嘆の声に恥ずかしげな笑みを浮かべながら――アリエッタは胸中で、エノクとザイサードを追った渚と紫へと思いを()せる。

 (気をつけてね。

 …一筋縄じゃ行かないわよ、彼らは)

 その言葉が2人にどう働くなど知る由もなく、アリエッタは市軍警察の人員達にもみくちゃにあれ、胴上げされてしまうのであった。

 

 ― To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Amaranthine Redolence - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 『義賊の士師』狼坐(ロウザ)から読み"()"った記憶を元に、(なぎさ)(ゆかり)蓮矢(れんや)の3人が転移した場所。そこは、長きに渡って打ち捨てられ、錆にまみれた廃墟と化した金属質の空間であった。

 「うっわ…最悪レベルの悪趣味な場所ね…」

 薄暗く点灯する蛍光灯の輝きの下、紫は顔を歪めて不快感を露骨にして漏らすと。隣で蓮矢が肩を(すく)めて同意する。

 「子供向け特撮番組でもあるまいし。こんな如何にもって場所にアジトを構えるってのは、何とも時代錯誤(アナクロ)だよなぁ。

 こんな辺鄙(へんぴ)な場所じゃ、物資運びにも苦労するだろうに。今時のアジトなら、亜空間を利用するだろ?」

 「…あたしが言ってる"悪趣味"ってのは、そういう意味じゃないわよ」

 紫がジト目で睨みながら蓮矢に突っ込む。蓮矢はどういう意味なのか分からず、キョトンとした顔を作ってパチクリと瞬きする。

 「まぁ、蓮矢には仕方のないことじゃろうよ。おぬしは捜査官とは名ばかりの脳筋じゃからな。形而上相の雰囲気にはさほど敏感はあるまいしのう」

 渚もまた、ひどく顔をしかめながら語ると。蓮矢はバカにされたような気がしてムッとしつつ、片目を閉じて形而上相視認を行う。

 「何だよ、オレだってれっきとした"チェルベロ"の捜査官なんだぜ? お前さん達みたいにゃ才能や英才教育は受けていなくとも、並の市軍警察のヤツらよりは断然…」

 語りつつ、形而上相に蔓延(はびこ)る術式構造に焦点を当てて――その構造が単なる式構造のみならず、実像として視覚野に像を結んだ瞬間。蓮矢は思わず、「おぅわっ!」と悲鳴を上げてしまう。

 

 この錆びた金属に囲まれた回廊の中には、阿鼻叫喚の地獄の直中(ただなか)に放り込まれた、呻吟(しんぎん)懊悩(おうのう)する魂魄の大群がひしめいていたのだ。

 それは例えて言うならば、自殺の名所と呼ばれる場所で、怨霊の大群を目にした霊能者の気分――と形容できよう。ただし、怨霊の姿はマンガなどで描かれるような、生易しい不気味さではない。もっと生理的に苦痛を訴えて止まぬ、凶悪な姿だ。

 それらは、全て真っ赤な色を呈している――魂魄自体は可視光を反射・収集しない為に"色"を言及するのは可怪(おか)しいが、術式が誘発するクオリアが"赤"を訴えている。

 赤の由来は、血肉の色だ。無惨に引き裂かれ、露出し、(ただ)れた赤黒い危険色だ。

 そして漂う魂魄の姿は皆、余りに無惨な姿をしている。人の形を見出すには、辛うじて残った一部から見分けるしかない。その他の部位と言えば、一見しただけでは人体とすら認識できぬ程に完全に破壊されている。骨も臓器もグチャグチャに掻き回され、グロテスクなハンバーグの残骸…と形容出来るような凄惨な有様を呈している。

 濃密なる形而上相の様相は、視覚のみならず嗅覚や味覚にまで干渉してくる。鼻孔の奥の方では、ムワッと熱を帯びて沸き上がるような酷い腐臭が粘り着く。口の中には鉄錆を舌の上で転がしたような、(よど)んだ血の味が一杯に広がる。

 「んっ…ぐぅえっ!」

 "チェルベロ"の捜査員として、凄惨な殺人現場も目にした事のある蓮矢であったが。五感に強く訴えかけてくる強烈な不快感に、胃袋の中身がこみ上げてくる。何とか飲み下して嘔吐を回避したものの、口の中に一杯に広がる苦酸っぱい味に唾液が大量に分泌され、それを吐き出さずには居られなかった。大口を開き、糸を引く粘液の塊をベチャリと錆びた金属の床に(こぼ)す。

 その感覚が更に蓮矢の不快感を増幅させると共に、形而上相のクオリアによる干渉で意識と感覚が満杯になってゆく。視界がチカチカ輝くようでいて、ボンヤリと暗転するようでもある、奇妙な感覚に捕らわれた頃――。

 「しっかりせんかいッ!」

 鋭い声をと共に、頭頂をコツンと小突かれる。転瞬、蓮矢の意識はハッと鮮明さを取り戻し、怒濤のようにうねるような不快感がピタリと止まる。

 いつの間にかに四つん這いになっていた蓮矢が振り向いて見上げると、そこには両腕を腰に当てた渚の姿がある。彼女が小突くと同時に、蓮矢の意識に干渉して嫌悪感のクオリアを遮断してくれたらしい。

 「…す、すまねぇ…」

 蓮矢は口元を拭うと、まだおぼつかない足取りで立ち上がり、バツが悪そうに後頭部を掻く。そんな彼の背後では、紫が不安げなジト目を作っている。"こんんな頼りない奴、連れてくる必要があったのか?"と云う文句が聞こえてきそうな表情だ。

 

 何はともあれ。蓮矢が我に返ったところで、渚達は話を進める。

 「ここが都市国家(プロジェス)を席巻する呪詛の発端で間違いないようじゃな。

 しっかし、よくもまぁこれだけの怨恨を集めたしたものじゃのう」

 渚が苦々しく語るのも無理はない。呪詛というエネルギーは、術者自身のみ依存するものではない。術者自身を含め、生物の怨恨の蓄積量に比例して強力になエネルギーである。

 つまり、強大な呪詛になればなるほど、他人(ヒト)の恨みを多く買っている…と云うことだ。

 それが都市国家(プロジェス)を覆う程のレベルに達するとなると、どれほどの者達の怨恨を得たことになるのか。

 「数百人くらいをまとめて地獄炉に放り込んで、身体の一片も残らず(しぼ)り取ったレベルじゃないですかね…。

 そんなに大量の犠牲者(ヒト)、どこから手に入れたんですかね…。この都市国家(プロジェス)で、連続誘拐事件みたいな騒ぎは起きてなかったんですかね…?」

 紫は"チェルベロ"の蓮矢に"捜査が足りないんじゃないの?"と云う非難を込めた視線を送りつつ、疑問を口にする。すると蓮矢は、首を傾げて語る。

 「市軍警察からは、誘拐事件なんて話は特に何も聞いちゃないんだ。ホントさ。

 ただ、『女神戦争』が終わって間もない時期だからな。よく復興を進めているとは云え、目の届かない影だって多くあったろうさ。その影に乗じて人(さら)い…ってのは考えられるかも知れない」

 「もしくは、(ヒト)買いで集めたかも知れぬな」

 渚は人道に(もと)る行為に言及し、桜色の唇を血の色に染める程にギュッと噛みしめる。

 「術者はあの"ハートマーク"に属するとの話じゃからな。何でもありじゃ、人買いくらい平気な顔でやってのけるじゃろうて」

 「全く、『戦争屋』は人類の恥…と云うより、もはや災害ですよねー」

 紫はうんざりといった顔を作り、肩を(すく)めてみせる。

 

 ――と、話してばかりも居られない。単に言葉を交わしている間にも、プロジェスでは激闘が続いているのだから。

 それを思い返した渚は、現在位置の周辺状況を素早く確認。左右に延びるそれぞれの通路を眺めて、眉を(ひそ)める。

 「呪詛の反応が強いのは、あっちとそっちじゃな。

 特にあっち(右を指す)の方が反応が極めて強いのう。術者が居る証やも知れぬ。

 逆方向からも呪詛の反応はするが、それに加えてもう一つ、妙な気配がするのう。『神霊圧』"(もど)き"にも似ておるが、少し違うようじゃ。もしかすると、エノクとか云う『士師』"擬き"の気配かも知れぬ。だとすれば…『現女神』に匹敵する程の魔力の保有量を有しておるかも知れぬ。

 どちらにニファーナが居るかは、判別出来ぬ。が、どちらかに居るのは確実じゃろうな」

 さて、誰がどちらの通路へと進むか、という選択肢が突きつけられたワケだが。真っ先に声を上げて、右の方向を指差したのは蓮矢である。

 「そんなら、オレはこっちだ」

 「ちょっとオッサン、さっき呪詛に当てられて脳機能がイッちゃうところだったじゃん! 何ヤバい方を選んでるのよ!」

 紫が非難めいた口調で叫ぶが、蓮矢は酷く真面目な表情を作って答える。

 「呪詛の術者、つまり"ハートマーク"のザイサードが居る可能性が高いんだろ? 逮捕するには絶好の機会さ。

 それに、さっきは柄にもなく頑張って呪詛の術式を見ようとして、アタマがやられそうになったんだ。大人しく鈍感に徹してりゃ、問題はないはずだろ?」

 「でも、呪詛の密度が更に濃密になって、意図しなくとも脳が実像を解釈するようになったらマズいでしょ! 泡吹いて倒れるどころじゃ済まない騒ぎになるわよ!」

 「その時は、紫、おぬしの得意とする治療魔術で凌げば良かろう」

 そう語ったのは、渚だ。その言葉に紫は、目を見開き、尊敬の相手にも関わらず嫌気を露わにする。

 「ちょっと、副部長ッ!

 あたしに、この足手まといのオッサンと一緒に行けって言うんですか!?

 正直、超困るんですけどッ!

 副部長の方が、あたしより断然実力があるじゃないですか! 副部長がオッサンの面倒を見て上げる方が、オッサンの生存率が高まると思いますッ!」

 (オレは殺される前提なのかよ)

 蓮矢は内心苦笑するものの、口には出さずユーテリアの少女2人の話に耳を傾ける事に集中する。

 さて、渚が(いわ)くには。

 「『神霊圧』"(もど)き"は、得体が知れぬ。もしも本物か、それに極めて近い『神霊圧』で、ニファーナが『現女神』に再覚醒していたとすれば、おぬしには相当の不利になるじゃろう。

 『神霊圧』ならば、わしの方が得手がある。適材適所を考慮しての選択じゃ。

 決して、おぬしの実力を信頼しておらぬワケではない。むしろ信頼しておるからこそ、捜査官の身を任せておるのじゃ。分かっておくれな?」

 「…信頼していただけるのは、嬉しいですけど…」

 紫は渚の賞賛に素直に頬を赤らめつつ、ブツブツと語る。が、すぐに表情を改め、吠えるような真摯なる表情を作る。

 「でも、ホントにこのオッサンを守り切れるかは、約束できませんよ!

 呪詛の方だって、かなりヤバい具合ですから! こんなの代物を操る相手と足手まとい付きで戦うのも、相当な不利ですもん!

 オッサンには精一杯、自分の身を守ってもらわないと、私の命まで危なくなります!」

 「その点は大丈夫だよ、毒舌のお嬢ちゃん」

 蓮矢が苦笑いを目一杯浮かべて、宣誓するように片手を上げて言葉を割り込む。

 「オレだって、修羅場を経験してる身の上さ。さっきのヘマは素直に認めるが、そう簡単にくたばるつもりはないぜ。

 自分の身は自分で守るさ。それでもヤバそうなら、いざとなったらお嬢ちゃんだけ置いて、全力に逃げるよ」

 「それもそれで、情けなさ過ぎてムカつくんだけど」

 紫は片眉を跳ね上げて非難するが、蓮矢は苦笑いを引っ込めずに後頭部を掻いて見せるばかりである。紫はとうとう観念して、大きくため息を吐く。

 そこに渚が諫める声をかける。

 「紫よ、『星撒部』のモットーを忘れたかや?

 "希望のためなら、不可能を可能にする"。それがわしら『星撒部』じゃぞ?

 "チェルベロ"の隊員くらい、守り切ってみせい! 赤子を守れというのでないのじゃからな!」

 「…分かりました。オッサンと一緒に行きます。

 その代わり」

 紫はジト目を作って渚を真正面から睨みつつ、言葉を続ける。

 「今回の件が無事に片づいたら、何か飛びっきりに美味しいものでも(おご)ってくださいね!」

 「うむ、良かろう!」

 渚は二つ返事し、その直後こんな言葉も付け加える。

 「なんなら、ロイと二人でのディナーも実現してやるぞい?」

 「な…ッ! なんで、そこでロイが…ッ!」

 火を吹く程に顔を真っ赤にする紫に、渚はケラケラと笑うのであった。

 

 かくして紫と蓮矢、そして渚は、それぞれの目的地に向かう。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 紫と蓮矢の二人は、強烈極まりない呪詛の発信源に向かい、通路を足早に進んでゆく。

 奥へと進むに連れて、通路を覆う金属の壁面や天井は、酷い赤茶色の錆に覆われてゆく。その鈍い色が心許(こころもと)ない電球の光の中にぼうっと映ると、死者の残した凄惨の血の跡のように見えてくる。不気味且つ、不快極まりない光景だ。

 「この錆も、呪詛の影響なのかね?

 どんどん酷くなって行くぞ?」

 蓮矢が気味悪そうに問えば、彼の前を行く紫は何のことも無さそうに肩を(すく)める。

 「さあね、よく分かんない。

 でも普通、呪詛って意識体に作用するって聞くわよね。だったら、偶然なんじゃない?」

 「…よく平気な顔出来るもんだ、スゲェ肝っ玉だよ。

 オレも色んな現場を経験してるけどよ、経験してるからこそ、怖くなっちまうよ。この錆だの、目の前の闇の向こうだのから、音もなく生物兵器でも飛び出して来そうな感じがしてな。背筋がゾクゾクしっ放しで落ち着かねぇよ」

 「真っ先に生物兵器って発想が出るあたり、マンガとかゲームの影響受け過ぎなんじゃない?」

 「確かに、オレはマンガは結構好きだぜ? ゲームはあまりやらんけど。

 だけど、生物兵器ってのはマジの話さ。オレ達をご指名される事件ってのは、大抵がロクでもねぇ酷い有様のもんだからな。連続誘拐犯の正体が、脱走した生物兵器の失敗作だなんてこたぁ、結構あるんだよ。

 …と、そりゃそうとさ…」

 蓮矢はクンクンと空気の匂いを嗅ぐと、酷く顔をしかめる。

 「なんか、臭わないか?

 なんつーか…例えがスゲェ悪趣味で悪いんだけどよ…腐りかけた血液の中にドップリ付け込んだ、腐乱死体みたいな臭いがしてきたんだけどよ…」

 「ああ、それね。呪詛による神経干渉の影響よ…と言い切りたいんだけど、それだけじゃないみたいね」

 紫もまた、険しく顔をしかめる。しかし、不快感を主としている蓮矢と異なり、紫の表情には静かな憤怒が見て取れる。

 「それって、どう言う――」

 蓮矢が訊き返しかけるが、紫は首を振って言葉を遮る。

 「"そんな事"、口にしたくないわよ。

 このまま進めば、嫌でも目に映ってくるでしょうよ。確かめたいなら、黙って素早く進むことね」

 「…分かったよ…」

 蓮矢はちょっと不満げに口を閉じ、歩く速度を早めた紫の後を黙って追う。

 

 暫く進んだ後――。

 壁や天井は相変わらず錆だらけだが、通路を照らす光源が上質な魔術光源へと変わる。明らかに、極最近に人の手が入った証だ。

 その明るさが浮かび上がらせたとでも言うのだろうか…突然、蓮矢の目の前を濁った赤色の"何か"がフワリと通り過ぎて行く。ギョッとした蓮矢が眼差しで追えば――そこに見えるのは、奇妙な"蟲"だ。

 人間の眼球を筋肉ごと抉り出したような先細りの長い胴体に、一つの人間の耳が翼のように生えている。3対の足には、痛々しく爪の剥がれた6本の指が使われている。

 「おいおい、なんだなんだ、この気持ち悪ぃ蟲は!? 呪詛で作った『天使』"擬き"の幼虫かよ?」

 「あ、それ見えるんだ。

 じゃあ…本格的に、敵の領域(テリトリー)に入り込んだってことね」

 紫が少し歩を緩め、声を落として語る。歩行速度を下げたのは、足音を気にしてのことのようだ。

 ――つまり、敵は足音や話し声に反応出来るほど、2人の近くに居る可能性が高――と云うことである。

 「その蟲は、実体じゃないわよ。強すぎる呪詛のクオリアが、オッサンの視覚野に実像を結んじゃった姿よ。物質で出来てはいないんだけど、触れば臓器の感触もするし、嗅げば血の臭いがプンプンするでしょうね。

 でも、襲ってくるような実害はないわ。無視しておけば良いのよ」

 「了解…」

 と言った直後、蓮矢は「ちょっ、ちょっ、ちょっ! おいおいおい!」と声を荒げる。

 何処かへとフラフラ飛び去った"蟲"を見送って前方に視線を戻すと。金属回廊の中を、秋の野原の上空に飛び交う大量のトンボの群を思わせるが如く、人体部位と臓器で出来た"蟲"の大群が漂っていたからだ。

 「げっ! 何時の間にこんなに…」

 ギョッとして叫ぶと同時に、紫が言及した通り、濃密な血肉の臭いが鼻孔に入り込んでくる。流石に幾つもの事件現場を経験しているだけあって、新米刑事のように嘔吐するような真似はしないが…それでも、ウンザリと顔色を蒼白に変える。

 「"ハートマーク"が相手だって時点で、覚悟はしてたつもりだったがよ…。どうにも参ったな、こりゃ…。

 ザイサードってヤツ、"凶人"ってだけじゃなく、完璧に"狂人"だな。こんな有様を作り出すような人間がマトモであるハズがねぇ」

 「それについては同意見ね」

 (うなづ)く紫の横顔にも、露骨な不快感と蒼白の顔色が(うかが)える。"英雄の卵"としても、この状況に対して完全な平静を保つことはできないようだ。

 2人は不気味な蟲の群の中を、渋々怖々、と云った感じで歩調を落として進む。ユルユルと飛ぶ蟲達は所詮実体がないクオリアの実像に過ぎないので、触感を覚えても皮膚や衣服に汚れが着くことはない。それでも2人ともに触れる事を極力避けながら、ゆっくりと歩みを進める。

 やがて――通路が少し広くなったかと思うと。両側の壁沿いに、かなりの距離間隔を開けて、これまた酷く錆び付いたドアが並ぶようになる。

 初めてドアの真横を通り過ぎようとした、その瞬間。

 「うぷ…っ!」

 いきなり紫が口に手を当てて、フラフラとその場に(くずお)れそうになる。慌てて彼女の腕を掴んだ蓮矢は、呪詛による意識干渉を疑い、強めに声をかける。

 「おい、大丈夫かッ!? 聞こえてるかッ!?」

 「だ、大丈夫…」

 紫は苦い唾液を吐き戻した口元を制服の袖で乱雑に拭いながら、まだ若干フラフラしながらも力強く立ち上がる。

 「オッサンの鈍感さが心底羨ましいわ…。この強烈な苦悶のクオリアを感じずに済むんだからね…。

 危うく、意識を持って行かれそうになったわ…」

 「そうか、危ないところだったな」

 蓮矢は頷きつつ、ドアの方に視線を向ける。この向こう側に、紫を苦しめた元凶が配置されているのだろう。

 「…この向こうに、何があるってんだ?」

 蓮矢がそんな疑問を口に出した、その時。紫は蒼白な顔色を憤怒の赤で塗り潰すと。蛍光色を呈する魔力励起光で全身を覆い、魔装(イクウィップメント)を発動。赤白のコントラストが鮮明なギミック満載の機械化軽鎧を身に纏う。臨戦態勢だ!

 「まさか…! この向こうに、ザイサードの野郎が!?」

 「違う。

 だけど、ここら一帯のドアは、全部開けなきゃダメ。

 そして、中身を"成仏"させてあげなきゃ。こんな残酷な行為、ヒトの所業だなんて信じたくない」

 "成仏"? 一体何のことかと蓮矢が疑問符を浮かべている内に、紫は思い切りドアを蹴破る。赤茶色の錆が、ボコン、と鈍い音を立てて崩れて大穴を開けると共に、ドアはひしゃげながらクルリと回転しつつ、室内へと吹き飛ぶ。

 露わになる、ドアの向こう側。そこは光源が全くないものの、通路から差し込む光のお(かげ)でほぼ全容を確認することが出来る。

 

 そして蓮矢は、経験で鍛え抜いたはずの胃袋が危うく反転して口から転げ出しそうになるほどの、強烈な嘔吐感を覚える。

 

 そこに存在していたのは――狂気であり、混沌であり、惨劇であり、そして機械である。

 "それ"は室内の大半の空間を占めている。色は概ね、鈍く(ぬめ)った光沢を放つ赤色――腫れ上がった血肉の色だ。形状は、"混沌"以外の何とも形容することが出来ない。何の計画性もなく砂で山々を作ったとしても、ここまで酷い混沌は形成できまい。

 "それ"は、呻いている。「ううう」だとか「あああ」だとか、口を半分水中の中に沈めたような粘水性の声が、至るところから沸き上がっている。時折、「ぎゃあああッ!」と云う掠れた絶叫が響き渡り、聞く者の頭蓋を貫く。

 "それ"は脈動し、腐敗しながらも、その片っ端から再生を繰り返している。巨大な(あぶく)のように肉塊が盛り上がり、ブシュウと汚い音を立てて破裂して体液をまき散らしたかと思うと。直ぐにテラテラした光沢を持つ肉が盛り上がり、破裂した傷を塞いでしまう。その様相はしかし、"生命力"と云うよりも、"無限に続く拷問"という言葉がシックリくる光景だ。

 ――"それ"の正体。それはごちゃ混ぜになった人体で構成された、禍々しい有機機械である。

 

 「おいおいおい! なんだこりゃ!? 噂に聞く地獄炉ってヤツかよ!?」

 蓮矢は口元を手で覆いながら、無駄な大声で忌々しい感想を述べる。そうでもしなくては、本能を強烈に刺激して止まぬ電撃のような生理的嫌悪に打ちのめされてしまいそうな気がしたのだ。

 「機能のコンセプトは同じよ。肉体と魂魄の両面から逃げ場のない苦痛を与え、生じたエネルギーを絞り出す。この機械の場合、エネルギーは呪詛に転化させているようね」

 紫は眉をひそめて険しい表情を作りながら、蓮矢の質問に答える。呪詛による意識干渉の影響は、まだまだ尾を引いているようだ。

 紫は更に言葉を続ける、

 「でも、地獄炉と"こいつ"じゃ、スタンスの面で決定的な違いがあるわ。

 地獄炉は、生きた人間を燃料に使うけど、決して命を奪わない。炉から出れば、精神構造は変わり果てて疲労困憊だろうけれど、五体満足で人生を過ごすことが出来るわ。

 でもこの機械は、違う。燃料として使っているのは、みんな死者よ。恐らく、執拗な拷問を何度も何度も繰り返されて、ショック死や自死に追い込まれた人達ね。

 惨いのは、肉体が死んでも魂魄を解放せずに、死した肉体の中に閉じ込めてること。そして死した肉体を術式による擬似電気信号で"半分生きてる状態"にしてる。だから細胞が腐敗しながらも、増殖や再生を繰り返しているのよ。

 燃料は死者だから、これ以上死ぬことはない。だから、この機械はほぼ永久に苦痛を与え続け、エネルギーの搾取を続ける。

 …最悪に胸糞悪い代物よ。だから"成仏させたい"って言ってたのよ」

 「…ホントに死んでるのか、このヒト達…!? 声を出してるぞ…!?

 "成仏させる"ってことは、この機械をブッ壊すってことになるだろうが…まさか殺人を犯す事にならんだろうな…!?」

 蓮矢が警察らしい常識を述べれば、紫は物分かりの悪い子供に接するような小さな溜息を吐く。

 「形而上視認で確かめてみたら? ま、オッサンじゃ意識を汚染されて廃人になっちゃうかも知れないけどね」

 紫が毒づきつつ正論な警告を口にするが。蓮矢は警告を耳に入れるより早く、左目だけを瞑って形而上視認の体勢に入る。

 転瞬、視界中をワッと埋め尽くす大量の怨恨のクオリアによって、脳負荷が激増し、意識障害に陥りそうになるが…。直後、まるで濁った水がスーッと澄み渡るかのように、怨恨のクオリアが取り除かれ、視界がスッキリとする。これは、紫が毒づきながらも蓮矢をしっかりとフォローしたお(かげ)だ。彼女は蓮矢の後ろ首に手を置くと、脊椎に対して術式を流し込み、怨恨のクオリアを視覚野上からフィルタリングしたのだ。

 怨恨が消えた室内の形而上相は――非常に、空虚であった。確かに魂魄の定義は見えるが、その反応は非常に弱々しい。零れ落ちる寸前の線香花火を思わせる程度だ。自我は申し訳程度しか感じられず、しかも「痛い」とか「苦しい」といった単調な感情を繰り返すのみ。死語生命(アンデッド)とは比べ物にならない程に原始的…というか機械的な思考ルーチンだ。

 生きているとは、到底言えない。

 「…こりゃあ、外道の所業の極みってところだな…。

 苦痛を覚えさせるためだけに、魂魄を閉じこめてやがる…!」

 「だから、速やかに終わらせてあげる方が彼らの為なのよ」

 紫が頷いて、蓮矢の首から手を離す。蓮矢も形而上相視認を止めると、直ぐに着込んだ防弾装束のポケットを漁る。そして取り出したのは…一握りの術符である。

 「分かった、成仏させてやる。

 だが、そういう汚れ仕事は、警察であるオレの仕事だ。お嬢ちゃんは見ててくれりゃいい」

 紫が同意して頷くと。蓮矢は早速術符に魔力を集中。すると、術符表面に描かれた黒紫色のフラーレン墨から赤い魔力励起光が発生。そのまま宙に術符を放ると、術符はピンと張り詰めて矢のように真っ直ぐに飛び、凄惨な有機機械に触れる。

 転瞬、フラーレンの球状の分子構造に格納された術式が発動。激しい炎を上げて燃え上がり、それは錆びついた天井を焦がす程の高さまで昇る。

 みるみる内に炎に包まれてゆく有機機械の中からは、特に断末魔などは聞こえてこなかった。相変わらず、壊れた玩具のように呻き声を繰り返すばかりだ。だがやがて、肉体が滅んで魂魄が解放されると、魂魄は自由を謳歌するように一気に膨張し、青白い輝きとなって可視化すると、ホタルのように室内をクルクルと小躍りしてから宙空へと蒸発してゆく。一見して直ぐに"嬉しがっている"事が理解できる、気持ちの良い成仏である。

 「ここら一帯の部屋、全部にこの気違いじみた機械があるんだろ!?

 全部燃やし尽くしてやるぜ!

 魂魄は成仏させられるし、都市国家(プロジェス)への呪詛供給も食い止められる。一石二鳥だな!」

 蓮矢は意気込むと、通路を走り回って次々に扉を開けば、炎上効果の術符を発動して回る。やがて通路は、室内から漏れる赫々(かっかく)の火炎の輝きに彩られる。時には開いたドアの内側から炎の手が伸びてくることもあるが、その姿を見ていると、錆ついて汚れたこの施設を浄化しようとする聖火のようにも見えてくる。

 

 ()くして2人は、通路中の有機機械をすべて燃やし尽くす。

 最後のドアに術符を放り込み、激しく炎上したのを確認した2人が前を向けば…数メートル先には行き止まりの壁が立ちはだかっている。

 …いや、単なる壁ではない。その中央には、両開きの扉が設置されている。扉は妙に新しく、錆ついていないどころか、蛍光灯と炎の輝きを(まぶ)しく照り返す程の光沢を有している。しかも、単なる金属ではない。炎に煽られても煤がついたり酸化したりすることはない。明らかに、何らかの防御措置が取られている。

 この光景だけでも十分に威圧感があるが。加えて、ドアの向こう側からズンと重く伝わってくる、魂魄を振るわす魔力の余波がある。

 (居るな)

 (居るわね)

 胸中で(つぶや)いた言葉を視線で交わし合った2人は、互いに(うなづ)くと。紫が前に立ち、開き扉の真正面に進む。

 

 ――この向こう側に、呪詛の術者がいる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (これだけの騒ぎを起こしてる。相手は既に気付いてる)

 紫は魔装(イクウィップメント)で作り出した魔法機関内蔵の大剣を片手に構えつつ、ゆっくりと扉に手を伸ばす。

 (待ち伏せている可能性は、高い。

 扉を開いた直後に、勝負は始まる)

 紫の左手が、トン、と扉の表面に触れ――(わず)かに扉の均衡を破った、その直後。

 シュッ――小さくも酷く鋭い、風を斬る音が耳に入る。転瞬、紫は本能的に危険を察知し、屈み込む程に体を低くすると。そのままタックルをブチかますようにして扉に突撃、室内へと入り込む。

 同時に紫は背後の蓮矢へと警告を叫ぶ、

 「()けてッ!」

 実戦経験豊富な蓮矢は言葉を受けて、脊椎反射にまで昇華させた回避行動をとる。半歩横に移動しながら、首を曲げた――その直後。ビュンッ! と派手な風切り音が耳の穴の中へと進入する。

 (何だ!? "通り過ぎた"!?)

 一瞬前まで頭が在った場所を、殺意に満ちた烈風が通り抜ける。その風圧が頬を撫で、衝撃に肉が揺れる。

 ――いや、揺れただけでは済まない。頬にジンワリと広がる、熱と痺れ…そして遅れてやってくる、痛み。慌てて頬に手を伸ばせば――ヌルリとした禍々しい生温かい感触。

 頬がザックリと斬れている。

 (な…っ!

 待ち伏せてるとは思ってたが、こんなタイミングでもう攻撃して来るのかよッ!?)

 蓮矢が目を白黒させている間に。蓮矢の頬を斬った"攻撃"を頭上にかいくぐり、室内を疾駆。大剣を両手で握り直し、水平に刀身を構える。敵が眼前に迫った瞬間に疾走の勢いのままに振り抜き、横一文字に一刀両断する目論見だ。

 だが、紫は――4、5歩走ってすぐに、疑問符を浮かべて足をピタリと止める。

 ――視界の何処にも、敵の姿が見当たらないのだ。

 視界を埋めるのは、室内の光景だけだ。この部屋は今までの部屋とは全く違う(おもむき)をしており、生理的嫌悪とは無縁である。ガランと広い殺風景な金属の箱の中――と言った様相だ。奥の方に金属製で無機質に過ぎるデザインの椅子が、玉座のようにポツンと配置されているが、その他には家具や器具といった類のものは全く見当たらない。

 (何処!?)

 素早く視線を走らせて室内を見回していると――ブワリ、と大気の動く気配を頭上から感知する。慌てて首を上に向けると――"そいつ"は、居た。

 

 巨大な真紅の刀身を持つ大鎌を構え、天井を蹴って急降下してくる男。ジャラジャラとスタッズで飾った漆黒のコートに、大鎌の刀身よりもなお赤い、輝く炎のような真っ赤な長髪を持つ、襲撃者。ギラリと牙を剥くような、それでいて高揚して面白がるような、目を見開いた凄絶な嗤い顔を作っている"凶人"。

 ザイサード・ザ・レッド――彼は、何の宣戦布告も無しに襲撃してきた。

 

 (何のッ!)

 ガキンッ! 響き渡る重厚な金属の衝突音は、ザイサードの大鎌と紫の大剣とか正面から激突して発せられたものだ。

 大鎌を受け止めてすぐ、紫は大剣を大振りに振り抜き、ザイサードを吹き飛ばす。ザイサードは宙をクルリと一回転しつつ、すぐに体勢を保持して着地を試みる。

 対して紫は、黙って着地を許しはしない。大剣の峰に並んだ推進機関を噴かすと、急加速。宙空のいるザイサードの背後へと回り込み、回転のモーメントを利用して旋風のように剣を振るう。

 「おっとッ!」

 ザイサードは嗤い顔のまま声を上げると、大鎌を器用にグルリと回し、紫の大剣を受け止める。衝撃は宙に在るザイサードを吹っ飛ばすものの、彼はすぐに着地して両足を踏ん張り、踏みとどまる。

 紫は更に大剣の推進機関を噴かして、ザイサードを追撃。激しく、そして細かく円軌道を描きながら、ザイサードを激しく斬り付けまくる。

 対するザイサードは、大鎌をグルグルと振り回し、右から左からと襲いかかる紫の斬撃を(ことごと)く受け止める。自身の身長と同程度の大きさに、優に1メートルを越える長さの刃を持つ鎌を自在に操る姿は、百戦錬磨の実力を嫌と云う程に見せつけてくる。

 

 (スゲェ…)

 扉の所で立ち尽くす蓮矢は、2人の嵐のような巨大武器の応酬にゴクリと固唾を飲んで見守る。

 蓮矢も戦闘の経験は豊富だ。だからこそ、ザイサードの武器捌きから彼の実力の高さが痛い程に理解出来る。

 出来る事ならば、紫に助力して交戦をいち早く終わらせたいが…。

 (下手に手を出せねぇ…!)

 目まぐるしく立ち回る2人の間には、どうやっても横槍を入れられなさそうだ――動きが速過ぎる! 下手に手を出しせば、誤って紫の邪魔をしてしまいそうだ。

 (ここは暫く、お嬢ちゃんに任せるっきゃないか…)

 静観を決め込みつつも、致命的な隙を見つけ次第すぐに攻撃できるよう、腰に差した刀の柄に手を置いておく。

 ――そんな彼の頬には、冷たい汗の他に、先に斬りつけられた傷からの出血がダラダラと流れ出ている。…止めどなく。

 

 (このまま、一気に攻めきるッ!)

 紫は息をも吐かぬ怒濤の攻めでザイサードを振り回しながら、推進機関で加速した剣撃を叩きつけ続ける。

 ザイサードは相変わらず嗤い顔だが、ぶつける衝撃は着実に彼の体を翻弄している。立ち位置がズレたり、大鎌が跳ねたりと、影響が見て取れる。

 紫が攻め続けるには、2つの理由がある。1つは、呪詛を使わせる暇を与えない事。都市国家(まち)に溢れている漆黒の天使のような取り巻きが大量に発生しては、分が悪くのは自明なことだ。

 もう1つは、ザイサードが手にしている大型武器の欠点を突くことだ。

 紫は何度も剣撃をぶつけ続けた結果、大鎌がかなりの重量を有する事を(さと)った。そこへ強い衝撃を与えれば、長さと相まって強烈なモーメントが発生し、ザイサードは自分の武器によって体勢を崩されることになる。

 一方、紫の武器も大型の武器だが、推進機関のお(かげ)でモーメントを無理矢理に押し殺すことが出来る。更に高速移動も可能なことから、この交戦においては断然有利なはず。

 (それッ、どうよッ!)

 ザイサードの大鎌がガキンッ! と耳障りな音を立てて、大きく横に振れる。

 「おおっと?」

 ザイサードは流石に嗤いを消して、ちょっと慌てたような表情を作る。――但し、その表情は何処かひょうきんな印象を受けるものだ。その余裕が、紫の心情に烈火を灯す。

 (何その変な顔ッ、甘ったるいわねッ!)

 紫は峰の推進機関を全開に噴かして斬撃の機動を急変化させると。ザイサードの真下から大剣を振り上げ、バランスの崩れた大鎌の刃に激突。彼の腕を大きく上方向に跳ね上げる。

 そしてがら空きになった胴体に潜り込むと、左手を堅く握り込んで拳を作り、腕部装甲から電極装置を解放。強烈な電流を発生させてバチバチと青白い電火を発しつつ、ザイサードの胸元――心臓の辺り目めがけて繰り出す。

 (これで黒焦げに――!?)

 ガクンッ! いきなり、紫の動きが急減速し、倒れ込みそうな程にバランスを崩す。実際、紫は背中に巨大な鉛でも背負わされたような重圧を感じると共に、肉体そのものも鉛と化してしまったかのように重く鈍くなってしまう。

 (まさかッ!)

 直ぐに視線を地面に落とした紫が、そこに見たもの。それは、紫の影の中から泥中のカエルのようにチョコンと顔を出す、異形の姿。真夏の陽光の元に放置したチョコレートのように、デロリと溶融した面持ちを持つ化け物。

 一見して自明な呪詛だ。こいつが足にまとわり付き、紫の運動神経に干渉して運動能力を低下させたのだ。

 思わぬ所で隙を作ってしまった紫に対し、ザイサードは弾かれた大鎌を翻し、赤い落雷の如く紫の頭頂めがけて振り下ろす。

 (マズッ!)

 紫は舌打ちしながら、体の重みのままに屈み込みながら、電極装置を伴う左拳を地面に叩きつける。バチンッ! と激しい破裂音と共に青白い雷光が灯り、呪詛を構築する術式が破壊される。

 身体が自由を取り戻した時には、既に大鎌は頭頂より数センチの位置にまで迫っている。紫は屈んだ体勢から倒れ込み、転がってその場を離脱。一瞬の後、ガキンッ、と金属音が響いて大鎌の先端が金属の床に突き立つ。

 だが、ザイサードの動きは止まらない。重量級の長い獲物を振り回している事を感じさせない軽やかな動きで紫に向かって飛びかかる。突き立てた大鎌を引き抜きながら、左脚で蹴りを繰り出す。紫まで脚が届かない距離のはずだが――赤い一閃が宙空を疾駆し、紫の身体に迫る。

 (!!)

 紫は起き上がりつつ大剣を立て、迫り来る赤い一閃を受け止める。ギィィンッ、と激突音が響き渡る中、ザイサードの動きがほんの一瞬だけ止まる。

 そこで紫が見たのは――ザイサードの穿()いた漆黒のロングパンツを裂いて飛び出す、真紅の刃。まるで、ザイサードの脚から生えて飛び出したかのような暗器だ。

 (こいつ、単なる呪詛使いじゃないッ!)

 紫がギリリと奥歯を噛みしめていると。ザイサードは刃を支点にして跳び上がり、もう一方の脚で前蹴りを放つ。その足裏から、靴底を裂いて真紅の刃がシュッ! と出現。紫の顔面目掛けて一直線に向かってくる。

 紫は大剣を振り、ザイサードの身体を吹き飛ばしてから、勢いのままに回転しつつ横へと移動。そんな彼女の頬スレスレを、真紅の刃が通り過ぎたかと思えば、一瞬にしてザイサードの足裏へと引っ込む。

 距離を開けた2人が対峙すると、ザイサードがクックッと声を上げて嗤う。

 「良いねぇ、流石だねぇ、ユーテリアの星撒部!

 "百聞は一見に()かず"とは言うが、ホントだねぇ!

 想像してたより、ずっと面白ぇ!」

 対して、紫は返事しない。それどころか、ザイサードの言葉の終わりを待たずに、地を蹴って肉薄する。

 「そのシビアさ、良いねぇ!」

 ザイサードは賞賛すると、大鎌を構えて自らも地を蹴り、紫を迎え撃つ。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Amaranthine Redolence - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 ギィンッ! ガキィンッ! キィィッ! ガゴンッ!

 連続する金属の衝突音は、紫とザイサードの長大な武器の応酬によるものだ。2人は再び、近距離での嵐のような斬り合いを展開している。

 趨勢(すうせい)は、若干ながらザイサードが有利と言える。彼には大鎌による巧みで重厚な攻撃と、体から飛び出す真紅の刃に加えて、呪詛を用いての攻撃補助がある。神出鬼没な呪詛によって、紫が足止めを食らって隙を晒してしまう場面は何度も起こっていた。

 対する紫にも、ザイサードが持ち得ない強みがある。それは、同じく重量系の武器を持ちながら、推進機関を用いた高速移動が可能である事だ。身体(フィジカル)魔化(エンチャント)によって慣性を緩和し、常に鋭角的な行動で死角に食い込んで行く。

 「ホッ! スゲェッ!」

 とザイサードが讃辞を送りながら、防戦一方に徹する場面も何度もある。

 しかし、紫の苛烈な連続攻撃も、どうしてもザイサードの皮膚に届かない。ザイサードは大鎌と体から突出させる真紅の刃で、紫の攻撃を全て受け止めてしまう。

 だが、残念ながら、その結果は必然と言えよう。紫は高速移動出来るとは言え、常に左右へと忙しく回り込む手間を掛けて攻撃している。対するザイサードは、ほぼ行き足を止めた状態だ。紫が回り込む間に、彼は振り向くだけで動きに対応してしまう。

 (このままじゃ、ジリ貧ね…あたしの体力が尽いちゃうわ。

 …それなら…ッ!)

 紫が打ち出した打開策。それは、彼女にとっては博打の要素の強い、新しい試みだ。

 紫は足の裏の推進機関を一気に噴かし、ザイサードから距離を取る。退避が目的なのではない、ザイサードに攻めに来させようと云うのだ。そしてザイサードのものであった利を、自分のものとしようと云うのだ。

 しかし、これには弱みがある。ザイサードには呪詛や伸縮する真紅の刃による遠距離攻撃がある。わざわざ紫に近寄る必要もない。

 この時もザイサードは肘打ちするような格好を取ると、肘から真紅の刃を高速に打ち出して来る。同時に、刃の影に隠れるようにして、床の上を漆黒のシミが素早く接近してくる。足止めを狙った呪詛だろう。

 この事態は当然、紫も想定済みだ。この対抗策こそ、彼女の"博打"なのだ。――何せ、初めて実戦投入するどころか、ぶっつけ本番の試みなのだから。

 紫は、魔装(イクウィップメント)で創り出した大剣の定義を蒸発させる。あろうことか無手になってしまった紫は、すぐに魔力の集中を始める――新たな武器を創り出すために。

 (やれる、やれない、じゃないッ!

 やるしかないのよッ!)

 紫の右手に蛍光の魔力励起光を放つ術式が収束し、物質化して具現化する――こうして現れたのは、大剣より尚長大な、優に2メートルを越す大きさを持つ、"砲"だ。

 紫は、遠距離攻撃用の武器を創り出したのだ! 試みは成功だ!

 (呪詛も刃もまとめてブッ飛ばして、あの赤ロン毛を引きずり出すッ!)

 紫は砲を両手で持ち、ロクな狙いは付けずにザイサードの方へと砲口を向けると。魔力を集中し、砲の内部に荷電粒子を模した"浄化"のクオリアを持つプラズマを蓄積すると――一気に、放出する。

 (ドウ)ッ! 大気を電離させつつ驀進(ばくしん)する破壊の奔流は、真紅の刃を瓦解させ、大地を這う呪詛を一瞬で蒸発させ、ザイサードへと接近する。

 「おおっとぉッ!?」

 ザイサードはヒラリと転身して奔流を回避。その動作の勢いのまま大地を蹴ると、大鎌を振りかぶって紫へと突進してくる。

 ――狙い通り! 立場が変わった!

 紫はチロリと舌舐めずりしながら、すぐさま砲を大剣へと転変させると。直後、嵐のように大鎌を振るうザイサードを(さば)き始める。

 ザイサードは目論見通り、紫の死角を突くべく絶え間なく移動を繰り返して攻め続ける。対して紫は振り向くだけでザイサードの動きに対応する事が可能とはなったが…決して安堵は出来ない。ザイサードの一撃一撃は激しく重い。移動による加速が加わった分、前よりも衝撃が激しい。相当気合いを入れて捌かないと、大剣が弾き飛ばされてしまいそうだ。

 …それ以前に、激しい衝撃がジンジンと手を伝わり、指が痺れてきそうだ。

 (でも、バカ力だけが勝敗を決めるワケじゃないッ!)

 ザイサードの大振りながら、剣閃が霞むほどの高速の横薙を繰り出し、紫の首を()ね跳ばさんとした瞬間。紫は受け止めるでなく、神速の領域で身を屈めて斬撃をやり過ごす。――通り抜ける大鎌が紫の黒神の末端をパラリと切り落とし、烈風の中に吹き散らした。

 以降、紫は大剣と脚部装甲の推進機関を全開で起動。慣性を無視した鋭角的な動きでザイサードの背後へと瞬時に回り込む。そして、回転の力を利用しながら転身しつつ、大剣を横薙ぎ。ザイサードの背後の両断を目論む。

 対するザイサードは紫の急激な高速移動についてこれず、辛うじて首を巡らすくらいしか出来ない。このままザイサードは紫によって仕留められた…はずだったが。

 ガギィィンッ! 金属音が鳴り響き、紫の動きが止まる。想定外の事象に、紫は目をまん丸く見開いて驚愕を露わにせざるを得ない。

 紫の大剣の一撃は、水飴のように伸びた真紅の塊によって(はば)まれている!

 (何よ、これ!? どこから!?)

 見開いた視線で、塊の根本を追うと。それはなんと、大鎌の柄に繋がっている。――つまりこの塊は、大鎌の刃が変形したものだ。

 (液体金属!?)

 紫が状況判断している間に、ザイサードがギュルルと高速で転身。同時に腕と脚から真紅の刃を長く延ばし、紫の体を切断せんと動く。

 「ちぃっ!」

 紫は大きく舌打ちしながら足裏の推進機関を吹かし、大きく跳び退る。ザイサードの真紅の刃は虚しく空を斬ったが――彼の行動は終わらない。

 ザイサードはすぐさま大釜の刃をグニュリと変形させて元の形に戻すと、そのまま大鎌を大きく振るう。直後、刃がズルリと柄を離れ、高速回転しながら宙に居る紫の元へと飛びかかる。

 紫は大剣を振るって飛来した刃に叩きつけ、その動きを止めようとするが。刃はズルリと液体らしく柔らかに両断されると、2つの小さな刃と化して大剣の上を伝い、更に紫に接近する。

 (もうっ!)

 紫は足裏の推進機関を全開にし、高速の蹴りを打ち上げる。刃を蹴り飛ばすというより、衝撃波で液体の刃を吹き飛ばして撒き散らす算段だ。

 紫の目論見通り、刃は割れたシャボン玉のように飛沫と化して天井の高さまでビチャビチャと吹き飛ぶ。しかし、直後に一滴一滴がオタマジャクシのように宙を泳ぎながらザイサードの手にした柄に集合し、再び大鎌を形成する。

 着地した紫は、どう攻めるべきかと考えを巡らして、ギリリと歯噛みする。

 (こいつッ! まだまだ何か隠してる…ッ!

 何をしかけてくるつもりなのか、全然予測できないッ!?)

 大剣のまま、斬りつけに行くべきか。砲での牽制を行うべきか。逡巡している彼女をあざ笑うように、ザイサードは余裕の嗤いを浮かべて、肩にトンと大鎌を乗せる。

 「ビビっちまった? そりゃそうだよなぁ、呪詛使いなんて根暗なヒョロガリってイメージだしさぁ。こんなバカデカい武器持って振り回してくる時点で、既に予想外だろぉ?

 なのに、戦えば戦うほど、スルメみたいに後から後からと色々出てきちまう。

 怖くなってきちまうのも、当たり前…」

 ザイサードはヘラヘラと語りながら、いきなり膝を折ってしゃがみ込み、左手で大地に触れる動作を行う。

 転瞬、攻め(あぐ)ねている紫の両足から、メキリッ! と痛々しく金属が変形して破壊する音が出る。同時に足首をねじ切られるような痛みを感じた紫が視線を下げると――福笑いのようにデタラメな面持ちを持つ漆黒の影が紫の足下一杯に広がり、(かぎ)のような"脚"がトラバサミのように紫の両足首を捕まえ、肉に先端を抉り込ませている!

 (ヤバッ!)

 紫が冷や汗をブワリと出して焦るのと同時に。

 「だよなぁッ!」

 ザイサードが言葉尻を叫びながら、大鎌を大きく振り上げる。すると、液体の刃からブヨリと真紅の塊の一部が飛び出すと、それは5等分になり、それぞれが体積を増す。そして水面から飛び出したサメの背鰭(せびれ)のように大地に立つ5つの大きな刃となり、金属の床をギリギリギリッ! と削りながら紫の身体へ接近する。

 (こんのッ!)

 紫は腕の電極装置を展開すると、バチバチと派手に青白い電光を灯してから、パァンッ! と空気の破裂する音と共にその場で強烈な閃光を爆発させる。呪詛も悪霊と同じく形而下の存在を電磁気に大いに依存している。これに干渉して、呪詛を取り除こうとしたワケだ。

 紫の試みは何とか成功し、足下の呪詛は光の中へ蒸発して消えて行く。これで拘束から解放されたものの、肉を抉られた痛みは消えない。それでも、グズグズいてはいられない!

 紫は即座に足裏の推進機関を吹かして天井まで飛び上がる。その直後、紫の居た場所に真紅の刃が5つ、虚しく宙を切り裂いた。――しかし、それだけにとどまらず、刃はグニュリと変形し、それぞれが一度宙に浮かぶ球体へと変じると、そのまま三日月の形へと変じ、紫に向かって飛び上がる。

 (しつこいっ!)

 紫は手にした大剣を振り回し、餌をめがけて突き進むツバメのような真紅の刃たちを叩き斬って吹き飛ばす。

 そこの最中――紫は視界の端に、霞む勢いで間近に姿を現した存在を見つけ、目を見開く。ザイサードが飛びかかって来たのだ。

 「そぉりゃっ!」

 ザイサードはオーバー気味の行動を取り、紫を頭頂からかち割ろうと大鎌を振り下ろす。紫は大剣を横薙ぎに払いつつ、最後の1つの真紅の刃を叩き落としながら、天井を蹴って身を回転。ザイサードの大鎌をやり過ごす。

 そこへ、ザイサードが背鰭(せびれ)のようにしなる刃を突出させた脚で蹴りを放つ。大剣での防御が間に合わない紫は、魔力(まりょく)を集中して装甲を厚くした脚で蹴り返し、両断を阻止する。

 ギィィンッ! 耳障りな音が響いた一方で、紫はギョッと目を見開く。装甲の表面がガリガリと削られて、パラパラと金属片を零したのだ。装甲の強化を失念していたら、脚がスッパリを切断されていたことだろう。

 ここを機に、ザイサードは真紅の刃を嵐のように振るい、大鎌のみならず腕脚を絶え間なく振るって紫を攻め続ける。その表情と来たら、怯えて穴蔵に隠れているネズミを(なぶ)ってほじくり出そうと爪を伸ばして楽しむ獅子の嗤いそのものだ。

 紫は距離を取って体勢を立て直すことも考えようとしたが、すぐに頭の中から振り払う。魔装(イクウィップメント)によって武器を砲に変化している合間にも、ザイサードは大鎌を振るうだけで大規模で険しい攻撃を放つことが出来る。遠距離で部が悪いのは、紫の方だ。

 (それなら、近距離で利を取ってみせるッ!)

 紫はザイサードの鎌を受けながら、少しずつ大剣に魔力を注入。そして、魔力が溜まりきった瞬間に、あたかも割り箸を割るようにして、両手でもった大剣の柄を二分すると。大剣は蛍光色と共に姿を変えて、二振りの曲刀と化す。

 長さは元の大剣よりずっと短いが、重量は軽いし、モーメントの影響も小さい。以前より迅速で軽やかな攻撃を展開出来る!

 天井まで飛び上がっていたかと思えば、床に降りたりと、目まぐるしく位置を変えながら戦い続ける2人。その中でザイサードの嗤いに、明らかに苦々しいものが浮かんでくる。重量系の武器である大鎌を振るうのに負担がかかっているようで、紫の曲刀の動きに追随しきれなくなってきたのだ。

 「おっわッ!」

 などと声を上げながら、鎌の刃をグニョリと変化させて曲刀の一撃を防ぎつつも、次いで放たれた二撃目を苦笑しながら脚の刃で受け止める。その体勢はかなり苦しく、今にもバランスを崩しそうだ。

 紫が目論んだ通り、形勢は彼女に傾いてきたとみるべきだが――紫は内心で眉をひそめ、状況に疑問を呈する。

 (…何かおかしい…

 あたし…勘違いしてる気がする…)

 形勢は紫に傾いてきたとは言え、ザイサードも凶人集団と恐れられる"ハートマーク"の一員である。どれほど苛烈に攻めようとも、彼の漆黒のコートを破くことは出来るものの、皮膚を裂くまでには至らない。ザイサードは呪詛を扱える余裕がなくなったらしいが、それでもグニョリと器用に変形する大鎌と、体部から突如として飛び出す真紅の刃を駆使し、紫の攻撃を受け止めては、時折反撃しさえする。

 それでも紫の方が一枚上手なのは、日頃重量系の武器を扱う身の上だからこそ、大鎌の弱点を的確に突いた行動を逐一取っているからだろう。ザイサードは次第に、大鎌の勢いにフラフラと振り回されつつある。

 安堵出来るほどではないが、着実に追い込んでいると言っても差し支えない状況だ。――それでも紫は、違和感を覚える。

 (あの大鎌も、体から生えてくる刃も――単なる液体金属なんかじゃない)

 魔力に応じて流動するだけの液体金属ならば、物理法則に(のっと)り、体積は一定にして不変である。伸びれば伸びるほど薄くなるし、散り散りに飛ばせば一つ一つの飛沫は小さくなるはず。

 だが、実際はどうだ。大釜はどれだけ伸びても、厚みが減じることはない。むしろ、拳のように大きく膨張した形を取ることすらある。刃を三日月のように飛ばしても、柄についた大鎌の刃の体積が減じたようには見えない。

 体部から伸びる刃だって、そうだ。どんなに伸びようとも、その厚さも密度も変わることはない。

 まるで、体積がザイサードの任意によって自由に増減しているかのようだ。

 (ナノマシン? それとも、別の何か?)

 形而上相視認によって確認したくとも、その暇を作るのは極めて困難だ。ザイサードは体勢を崩しつつあるとは言え、その立て直しが恐ろしく速い。気を抜けば、体勢を立て直す勢いのままに大鎌を振られて、首と胴が切り離されてしまう気がする。

 (…警戒はしつつ、取り敢えずは好機よ! 攻め続けるッ!)

 そして紫は一つ、ザイサードを打ち倒すための"罠"を仕掛ける。

 それは、ほんの少しのミスを装ったものだ。大きなミスでは、実力者ならば露骨な誘引だと覚ってしまう。

 紫は勢い付いて高揚したかのように、二本の曲刀を一斉に振るう。そして、ザイサードの大鎌を一気に叩き下ろし、金属の床にグサリと深々と刺し込んだのだ。

 「おっとっとッ!?」

 ザイサードは大鎌と共に両腕を叩き落とされ、胸部が無防備になる。

 紫はそこで"しめた"とばかりに瞳を輝かせ、曲刀を(ひるがえ)して逆手に持つと、ザイサードの胸をめがけて突き込む。

 この構図だけ見れば、どこもミスには見えはしない。だが、相手がザイサードである場合は、思慮に欠いたと言えよう。

 何せ、ザイサードは体の何処からでも真紅の刃を出すことが出来る。

 紫の曲刀を胸の間近にまで引きつけたザイサードは、転瞬、ニヤリと凄絶に嗤う。そして右腕に長い三日月状の刃を形勢し、大鎌の柄を離すと、紫に袈裟斬りに叩きつける。

 紫は一瞬、"しまった!"、と云う表情を作ったが――それこそが、彼女の"罠"である。ザイサードの刃はシュンッ! と虚しい風切り音を響かせて、宙を切り裂くに留まる。

 (おりょ?)

 いきなり視界から消えた紫に、ザイサードがキョトンとしていると。ズドンズドンズドンッ! と発砲音の連続と共に、脇腹に突き刺さる鈍く重い衝撃。

 見れば、両足の推進機関を巧みに操った紫がザイサードの後方に回り込み、曲刀を銃剣(バヨネット)に変化させて、術式の弾丸を撃ち込んだのだ。

 流石のザイサードもダラリと冷や汗を流し、苦痛と嗤いを交えた奇妙な表情を張り付けながら、腕の刃を振るって反撃しようとする。しかし、紫はすぐにザイサードの懐へと潜り込むと、弾丸をたたき込んだのとほぼ同じ位置に「[rb:銃剣>バヨネット]]の刃をズブリッと差し込む。

 紫が魔装(イクウィップメント)銃剣(バヨネット)を創り出すのも、今回が新しい試みだ。

 そして超高振動する刃は、ザイサードの血肉を派手に抉り、真紅を飛沫(しぶ)かせる。

 紫はそのままザイサードに蹴りを叩き込み、尚も迫りつつある真紅の刃を遠退かせる。そして二つの銃口をザイサードの顔面に向けて、引き金を引かんとする。

 これでトドメ――のはずが、紫は背筋にゾワリと悪寒を覚える。

 

 宙を舞う、幾つもの真紅の滴。その光景が、やけに不吉に網膜に()き付く。

 赤。血の色。肉の色。

 赤。大鎌の色。体から飛び出す刃の色。

 赤。変幻自在、体積の増減すら思いのままの存在。

 (――まさか!?)

 思い至った時には――ザイサードの苦悶の表情が一転、ニンマリとした嘲笑へと変わっている。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (マズいッ!)

 紫は慌てて手にした双銃を合わせて、魔力を集中。大剣への変形を急ぐ。

 その間にも、嗤うザイサードから零れた血肉の滴が――紫の悪寒の通りに――"動く"。

 赤の一滴一滴が、突如重力の(くびき)から解き放たれたように、鋭角的に方向転換。急加速し、弾丸の勢いを得て、紫に目掛けて宙空を疾駆する。

 大剣への変形は、血肉の弾丸が接触する直前ギリギリでどうにか間に合った! 転瞬――ガガガガガンッ! 激しい激突音が連続し、大剣を激震が駆けめぐる。柄を掴む両手に衝撃に衝撃が走り出し、指と手のひらにジンジンと痺れが生じる。

 (この能力(ちから)存在支配(ドミネーション)!)

 

 存在支配(ドミネーション)はその名の通り、存在を自己意志の元に支配し、自在に操る魔法技術である。その特性より自明であるが、定義変換(コンヴァージョン)魔装(イクウィップメント)に並ぶ"神に並ぶ存在操作"として知られる、高等魔術だ。

 通常、存在支配(ドミネーション)によって支配出来る存在の範囲は、術者によって異なる(制約なく万物を支配出来るとすれば、それはヒトではなく、最早"神"そのものだ)。大抵術者は、"キーワード"と呼ばれる性質に該当する存在のみを支配する事が多い。例えば――"石である"とか、"液体である"とかだ。

 ザイサードの場合、キーワードは"赤"。血だろうが肉だろうが、赤い色の存在ならば、自在に動かすことが出来る。

 

 (呪詛に存在支配(ドミネーション)って…!? 何の冗談よ、こいつッ!)

 血肉の弾丸を受け切った紫は、大剣で盾を作りながらも、間合いを広げるどころか、ザイサードへと距離を詰めようとする。

 (血や肉を操作出来るなら、さっき私が付けた(きず)が直ぐに再生される可能性が高い!

 再生し切られる前に、致命傷を与える!)

 紫は大地を踏みしめ――途端に、焼け付くような意味が脇腹から頭頂へと駆け抜け、動きが鈍る。

 衝撃も何も感じなかったはずが、何が起きたのかと視線を巡らせば――ちょうど脇腹の部分に、身につけた装甲を綺麗に円状に抉って貫いた、親指ほどの大きさの創がある。出血は見当たらないが、どうやら傷口が焼けているからのようだ。

 (何よ、これ…!?

 これも存在支配(ドミネーション)なワケ!? でも…!?)

 一体、どんな"赤いもの"を操ればこうなるのか? ――存在支配(ドミネーション)では無から存在を創り出すことは出来ない。とすれば、室内にあるもの、ザイサードが持っているものが紫の脇腹に穴を開いたのだ。だが、それは一体なんだ?

 (あいつッ、まだ隠し玉を持ってるっての!?)

 紫が舌打ちしながら、身体に鞭打ってザイサードに詰め寄ろうとするが。脇腹から走る激痛は紫の理性を押さえ込み、動きを鈍らせてしまう。

 取り敢えず、回復が先決だ。紫は大剣で盾を作ったまま、出来る限り力を込めて後ろに飛びつつ、右手で脇腹を覆う。そして魔力を集中させ、体組織の再生を促進させる。

 「運(わり)ぃよなぁ、お嬢ちゃん」

 体勢を立て直したザイサードが、右手を伸ばして人差し指を左右に振りながら、あざ笑う。

 「正義感だか倫理感だかで、オレの作った装置を燃やしてくれちゃったみたいだがよ。

 それって、お嬢ちゃん自身で墓穴を掘っちまってるんだわ。

 こんな風に…よぉッ!」

 ザイサードの語尾が弾けるように強まった途端。バカァンッ! と激しい音が響き渡ると共に、紫の背後の方から何か大きなものが高速で宙を駆け、天井にぶつかってガツンッ! と痛々しい音を奏でる。そのまま重力に引かれて落ちたところをみると――吹っ飛んできたものの正体は、扉だ。

 直後、紫は視界の後ろの方が輝かんばかりの真紅に染まるのを覚る。急いで振り向いてみれば――通路の両端、非道の人体機械を燃やしていた火炎が竜巻のような速度で室内に張り込んできている。

 ザイサードの存在支配(ドミネーション)が、炎を操っているのだ。

 (こんな時に…!)

 まだ満足に動けない紫は、ハッと思い出す。激闘の最中、全く存在を忘れ切っていたが…この部屋にはもう一人、紫の見方が居る! しかも実戦経験を積んだ実力者だ!

 「蓮矢のおっさんッ! その炎、どうにか抑えられない!? ほんの少しの間で良いからッ!」

 ザイサードに筒抜けでも構わず、鋭く叫ぶ紫だが――返事は、ない。

 ――まさか、急激に吹き込んできた火炎に飲まれてしまった? 実力者だと吹聴していた"チェルベロ"の捜査官にしては、あまりにもお粗末だ。それは有り得ないとは思いつつも、何か問題は起こっていると判断した紫は、内心で舌打ちしながら振り返る。

 「ねぇ、聞いてンの!?

 さっきから見てばっかりなんだから、こんな時くらい――」

 紫の毒舌は、不意に止まってしまう。

 彼女が振り向いた先。扉が吹き飛んで通路が丸見えになった出入り口の向こうに、業火に包まれた通路が見える。ザイサードの能力(ちから)は対象が遠距離にあっても、強烈に働くようだ。火炎は爆発的に勢いづき、通路を暴れ回ったようだ。

 扉の傍に居たはずの蓮矢は、どうなったか。一瞬姿が見えず戸惑ったが、高熱の大気によって景観が(ゆか)む床の上に、うつ伏せに寝転がった蓮矢の姿を見つける。

 (何を暢気にノビてンのよ!

 まさか、ホントに吹き飛ばされたってンじゃないでしょうね!?)

 紫は急に足枷を付けられたような不快感を得て表情を渋くしながら、部屋の中を暴れ狂う炎をかいくぐり、蓮矢の元へと走る。流石に、見殺しにすることは出来ない!

 幸いにも、ザイサードは火炎を操る事に専念し、背中から紫に襲いかかることは無かった。それとも、存在支配(ドミネーション)を実現させるために専念する必要があり、他の行動をこなせないのかも知れない――楽天的に考えれば。

 ともかく、渦巻く火炎と高熱に髪の毛や皮膚をチリチリと焦がされつつも、蓮矢の元にたどり着いた紫。早速文句の一つもぶつけてやろうとするが――言葉は舌に張り付いて、外に出られなかった。

 何故ならば――うつ伏せに寝転ぶ蓮矢は、真っ赤な粘っこい水溜まりの中に浸っていたのだから。

 顔を中心に薄く広がるこの水溜まりの正体は、血液だ。蓮矢の頬の(きず)から、今なおダクダクと流れ出る血液だ。

 この部屋へと進入する際、ザイサードの奇襲を避けきれずに負った、頬の創。カッターでスーッと皮膚を薄く切ってしまった程度の創のはずが、今の今まで止血することなく、血が流れ出続けているのだ。

 そのため、蓮矢の顔はすっかりと病的な土色へと化し、皮膚を濡らす赤黒く変色した血液が無惨な彩りを添えている。

 

 どう見ても、ザイサードの存在支配(ドミネーション)による影響だ。血液を凝固させずに、創の度合いに似つかわぬ勢いと量で流出させ続けている。

 結果、蓮矢は貧血を起こし、倒れて伏したというワケだ。

 

 「すまねぇ…。ザイサードの野郎、呪詛使いだとばっかり思ってたが…妙な業を使いやがる…。

 足を引っ張ちまった、すまねぇ…」

 「ホントよねッ!」

 とは毒づきつつも、紫は蓮矢を肩に背負うと、見る間に室内を埋め尽くす火炎地獄の中に、何とか蓮矢を安置出来る場所はないかと目を凝らす。

 ――だが、流石のザイサードも、これ以上は紫を自由に泳がせるつもりはないようだ。

 紫は頭上に目も(くら)まんばかりの閃光を見たと感じた瞬間、蓮矢を負ったまま素早く後方へと飛ぶ。直後、紫が立っていた位置に赫々(かっかく)の火炎の塊が、鎌首をもたげて襲いかかる大蛇のように落下してくる。床に激突した瞬間、火炎は派手に火の粉を撒き散らし、退いた紫を追撃する。

 (もぉッ!)

 蓮矢を肩に負う紫は、大剣を使って防御することが出来ない。ギリリと歯噛みしながら、紫は足裏の推進機関を吹かし、派手な烈風を巻き起こしながら蹴りを放ち、火の粉に吹き飛ばす。

 直後――紫はギョッと目を見開く。吹き飛ばした火の粉の向こう側から、炎に包まれた真紅の大鎌を手にしたザイサードが肉薄していたからだ。

 (やるっきゃないじゃんッ!)

 手の塞がっている紫は、火の粉を蹴散らした勢いのまま、そのまま高速で転身し、横薙ぎに迫る炎の鎌に回し蹴りを叩き込む。

 (ゴウ)ッ! 紫の蹴りが接触した瞬間、鎌の炎の刃が膨張して爆発。紫は蓮矢ごと大きく吹き飛ぶ。

 「ぐぅっ!」

 三半規管を揺さぶられてクラクラするが、紫は即座に足裏の推進機関を吹かして体勢を立て直す――その最中、蓮矢を負う腕に激痛が走る。

 肉を裂き骨を貫く、その激痛の正体を探るべく、視線を蓮矢の方へと向ければ。蓮矢の頬から流れ、紫の腕に垂れた血液が、(トゲ)のように尖って紫の骨肉に食い込んでいるのだ。

 (あの男(ザイサード)に、楽観的な予測は全然通じないッ!

 あいつにとって存在支配(ドミネーション)は、息を吸って吐く程度の芸当なんだ…!)

 火炎に血液の操作、そしてザイサード自身による攻撃行動を目の当たりにした紫は、激痛と共に後悔を感じながら眉を険しく立てる。

 余裕なんて持てるワケがない。…でもこちらには、怪我人という足枷がある。

 この制約に紫は、自身の五体を引き裂きたくなるような焦燥感に駆られる。――活路を見出(みいだ)したい、だが、この状況下でどんな活路があるというのだ!?

 そう逡巡している間に、紫の四方で炎がグワッと持ち上がったかと思うと。それぞれが炎のローブを纏った死神のような姿と化し、手にした鎌や斧、大剣といった大型武器で紫に襲いかかる。恐らくは存在支配(ドミネーション)と呪詛をミックスした攻撃だ。

 「ったくッ!」

 紫は怒気を吐き捨てながら、足裏の推進機関を噴かし、床の上を器用に滑りながら滅多打ちに振り回される武器を回避。そして、烈風を纏った蹴りを放ち、斧を手にした"炎の死神"をブッ飛ばすと、こじ開けた合間の中へと即座に身を入れる。

 その最中、負われた蓮矢が紫の耳元で、紫色に変色した唇をフルフルと震わせながら、(かす)れた言葉を絞り出す。

 「オレ……足手まとい……置いて……お前だけでも……」

 「そうしたいのは山々よッ!」

 紫は怒声を張り上げて即答する。

 「でもそれじゃあ、星撒部のポリシーに反するし! 何より、副部長に怒られるってのッ!」

 そう答えるものの、実際には蓮矢は酷いお荷物だ。彼をどうにかしなければ、未だに隠した能力(ちから)を温存しているザイサードに勝つのは無理だ。

 (取り敢えず、ブン投げてでも、おっさんをこの戦場から遠ざけるッ!)

 そう決意した紫は、早速出入り口へと移動する。通路にも火の手は回っているというものの、火は室内に向かって流れ込んでいる。通路の奥の方は平穏そのものだ。

 出入り口付近まで至る間にも、炎が次々と立ち上がっては形を作り、"炎の死神"が現れて武器を振るって邪魔をしてくる。彼らを打破するまで付き合っていては、ザイサード自身に奇襲されるかも知れない。それを恐れた紫はひたすら回避に専念し、床の上を推進機関で滑りながら、出入り口付近を目指す。

 (見えてきたッ!)

 炎熱によって混沌とした虹色に変色した金属壁の中に、ポッカリと開いた出入り口が見える。紫はもう一踏ん張りと云わんばかりに推進機関を噴かし、目的地に急ぐが――。

 突如、炎の中から巨大な真紅の切っ先が現れ、紫の首を掻っ斬ろうと迫る。この刃と共に炎の中に姿を現したのは――ザイサード自身だ!

 彼は紫の行動を予測して、先回りしていたらしい。

 (最悪ッ!)

 紫は速度を殺さず、最大限横方向へと滑ってザイサードの鎌をかわそうとするが。横薙ぎに振り抜かれた鎌からビチャビチャと弾き飛ばされた真紅の滴が、全て弾丸の速度で紫の体に肉薄してくる。

 紫は烈風を纏った蹴りで弾丸を弾き飛ばそうと試みるが――蹴りを構えた途端、強烈な熱と激痛が右の太股に走る。

 チラリと眺めれば、先に脇腹にやられたように、傷口を焼き焦がす綺麗な円形の穴がポッカリと開いている。

 急に脱力してバランスを崩した紫は、推進機関の勢いを(ぎょ)せずに、その場でステンと転んでしまう。

 仰向けになって床へと落下する彼女へ向けて、真紅の滴が直角に方向転換し、紫の体中に風穴を開けようと迫る。

 (やられてたまるかってのッ!)

 紫は左の足裏の推進機関だけを大きく吹かし、中空で独楽のように回転しつつ、致命的な滴の雨をギリギリで回避する。一瞬前まで紫が居た空間の真下では、滴の激突によって金属の床がボコボコボコッ! と大きく歪んで凹んでいる。

 そのまま推進機関を制御して無理矢理立ち上がった紫は、魔装(イクウィップメント)を使用して大剣を生成。その柄を蓮矢の襟首に括り付けると、峰に並んだ推進機関を起動させ、蓮矢ごと通路へと吹っ飛ばす。

 炎に満ちる通路の中を高速で一直線に駆け抜けてゆく蓮矢。それを見たザイサードは、通路の方へと手を延ばし、通路に満ちる炎を操作。蓮矢を四方から取り囲み、一気に燃やし尽くそうと企む。

 蓮矢は戦力にはなり得ないが、彼への攻撃は紫を焦らせ、足枷となるとの目論見による行動だろう。

 しかし、紫は蓮矢に気を遣うことはしなかった。むしろ、蓮矢に気を取られたザイサードの隙を突き、穴の開いた右足の推進機関をも駆使してザイサードに接近すると。電極装置を突出させた右拳でザイサードの顎を思い切り殴りつける。

 バチンッ! 赤一色に染まった室内を上書く、青白い電光。その輝きと共に四方八方へと高速の蛇のように散る、電流の群れ。

 「ンゲッ!」

 ザイサードは間の抜けた声を上げながら吹き飛びつつ、全身を駆け巡る電流にビクビクと四肢を痙攣させる。当然、魔力の集中は乱れ、蓮矢を囲む火炎は勢いを失う。そして蓮矢を引いて飛ぶ大剣は、まんまと炎の通路を突破する。

 ――これで、足手まといの問題は片づいた! 紫は薄くほくそ笑みながら、ポッカリと開いた右腿の穴に手を触れて回復魔術を遣いつつ、ザイサードの動向を注視する。

 痺れていたザイサードだが、数瞬の後に中空でフワリとコートを(ひるが)して体勢を立て直すと。5歩ほどの距離が空けて紫と対峙し、(わら)う。

 「お見事な問題対処だねぇ」

 「そりゃ、どうも…ねッ!」

 答えながら、紫は両足裏の推進機関を吹かして、高速でザイサードに突進する。右足の穴は、ほぼ塞いだ。少し突っ張るが、動きに支障はない。――ならば、虚を突いて思い切り攻める!

 「オホッ! 元気の良い()は大好きだぜ!」

 ザイサードはあざ笑いながら答えると、火炎を纏った大鎌を振りかぶりつつ血を蹴る。そして紫の胴体に袈裟斬りに振り下ろしつつ――肩の辺りから出現させた真紅の刃を先行させて、紫の額を狙う。

 紫は突進の勢いを殺さずに、額を狙う刃を掠めるようにしてかわすと、電極機関で振り下ろされた炎の大鎌を防御。途端にザイサードの大鎌は爆発を起こすが、紫もまた電流の爆発を起こして対抗。真紅と蒼白の輝きが積乱雲のように巻き起こる。

 

 そのド派手な現象が引き金となったかのように、紫とザイサードの至近距離での撃ち合いの第二幕が開く。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 自ら突進した紫であるが、撃ち合い初めは圧倒的不利な形勢を強いられた。

 何せ紫は、蓮矢を助けるために大剣を手放してしまったのだ。魔装(イクウィップメント)を使い、もう一本の大剣を作れば良いようにも思えるが、残念ながら簡単にそういかない。

 魔装(イクウィップメント)とは、無から有を生み出す(わざ)ではない。言うなれば、(あらかじ)め術式で創り出した"素材"を術者の魂魄の中に仕舞っておき、任意のタイミングで取り出して"物体"へと組み立てる(わざ)なのだ。つまり、持てる"素材"を使い果たしてしまうと、新たに"物体"を組み立てることが出来なくなるのである。

 紫は身に纏っている装甲と、蓮矢を逃がす為に放った大剣を造り出すために、"素材"をほぼ使い切っている。故に、大剣のような高機能な物体を造り出すには、大量の"素材"を新たに生成する必要がある。これは大変骨の折れる作業であり、交戦のような刹那的対応が求められる状況下で成し遂げるのは"無理"と言い切れるほどに困難なことだ。

 紫は体術を武器に、ザイサードと渡り合うことになる。対するザイサードは、部屋に充満している"赤"の存在ならば、自在に操って己の武器とすることが出来るのだ。紫に分が悪くなるのは当たり前と言えよう。

 それでも紫は、ザイサードと良く渡り合った。そこまで凶人に食らいつけたのは、彼女の苛烈な覚悟に依る。

 (防御を考えてたら、後手後手に回って押し切られる!

 腕も脚も捨てて構わない位の勢いで、攻め続けるッ!)

 そう覚悟したとは言え、紫も流石に本気で後先考えずに行動したワケではない。実際には強力な体組織再生の身体(フィジカル)魔化(エンチャント)を仕込み、さながら"肉の鎧"を実現していた。刃や炎で傷つけられようとも、細胞内に仕込んだ術式が速やかに体組織を再生してくれる。手足が丸ごと消し炭になったり、スッパリと切断されない限りは、傷はたちまち回復してしまうのだ。

 この自動的な守護のお(かげ)で、紫はザイサードに対して常に至近距離を保ち、炎や刃を見に受けながらも己の拳や蹴りを叩き付け続けた。

 「スゲェスゲェ! よくやるなぁ、お嬢ちゃんッ!」

 ザイサードはそう絶賛しながら、紫の攻撃を身に受けてはニンマリと嗤って立ち直り、何倍もの手数で以て紫に襲いかかるのだ。

 紫は鎮痛作用に魔化(エンチャント)の能力を回さなかったため、ザイサードの攻撃によって着実に痛みを覚える。それでも紫は滅入ることなく、ギリリと歯噛みして気丈に乗り越えつつ、戦い続けた。

 ――その努力がやがて、身を結ぶことになる。

 大剣がようやく、蓮矢を安全圏にまで運んだのだ!

 それを感知した紫は、即座に大剣を術式に分解。形而上相を通じて己の直ぐ間近にまで引き戻す。

 そしてザイサードを殴りつける行動を取りながら――術式を再構築し、大剣を創り出すと。ザイサードの体に叩きつけたのだ。

 突如として現れた大剣に目を丸くしたザイサードは、脊椎反射的に後退して回避を試みようとするが、間に合わない。長い大剣の刃によって胸を横一文字に切り裂かれる。

 派手に血が噴出するが、ザイサードは苦痛に顔を歪めるよりも、ニヤリと厭らしく笑んでみせる。何せ、"血"と言う武器が増えたのだから。

 これを弾丸のように飛ばし、紫を蜂の巣にしようと試みるものの――紫の次の一手の方が、速い。

 大剣の峰に並んだ推進機関を全開にした紫は、急速に逆回転すると、ザイサードの顔面を狙って大剣を振るう。

 ザイサードは神業がかった反射神経で地を蹴り、後ろに飛ぼうとする――が、ここで紫はもう一手、攻めに加える。

 大剣の刃の部分の定義を再構成し、青白く燃える炎のようなエネルギーの刃と為すと。プラズマ状のそれをブワリと膨張させて、ザイサードの顔に延ばしたのだ。

 仮にザイサードが『宙地』を使って更に後ろに飛ぼうにも、避け切れる速度ではない。

 ザイサードの顔が、エネルギーの刃によって、パックリと二分される――かに思えたが。

 

 ここで、ザイサードの"とっておき"の(わざ)が披露される。

 

 ピカッ――網膜を()くような激しい鮮紅の閃光が室内に走ったかと思うと――転瞬、ザイサードの顔面を切り裂くはずだったエネルギーの刃は、虚しく熱い大気を切り裂くだけに留まる。

 いきなり、ザイサードの姿が消えてしまったのだ。

 (…何よ!?)

 全く予想だにしなかった展開に、紫はパチクリと瞬きをして、キョロキョロと視線を動き回らせて、ザイサードの姿を探す。

 彼の姿をようやく見つけた時、紫はポカンと大口を開きそうになる。

 何せ、ザイサードは部屋の最奥、椅子が配置されている辺りに移動していたのだから。

 (高速移動!?)

 そんな能力(ちから)のことが頭に浮かぶが、紫はすぐに首を振って否定する。

 (違う! そんな能力(ちから)が使えるなら、あたし達が部屋に入ろうとした時点で、あたし達を瞬殺してる!

 これは、別の違う能力(ちから)!)

 そう思考している間に、ザイサードはハァー、と深く息を付きながら椅子に腰掛ける。致命的な隙と言えるが、"謎の能力"を使って見せた今では、誘っているように見えて警戒感が拭えない。

 「やっぱ、ユーテリアの生徒さん。根性在り過ぎだわ」

 パンパンと手を叩いて、うんざりしているようにも感心しているようにも見える表情を作る、ザイサード。――だが、その表情は直ぐに変じる。

 お化け屋敷の人形が、絡繰(からく)りによって清楚な顔立ちから恐ろしい異形の怪物の(かお)へと変じるように――ヘビともサメとも付かない、獰猛な嗤いが浮かび上がる。

 「その根性が、寿命を縮めちまうから、可哀想なモンさ!」

 そう言いながら、芝居がかった動作でバンッ! と椅子を叩きながら立ち上がる、ザイサード。直立した彼は、十字を作るようにして両腕を水平に広げ、そして天井を仰ぐ。

 「さぁて、ここからがオレ様の真骨頂ッ!」

 部屋に響き渡る大声を発した、その直後。室内に異変が起きる。

 

 ポツリ、ポツポツ、ポツリポツリ、パラパラパラ――。

 紫は装甲に覆われていない皮膚に、生温かい滴が触れる感覚を覚える。それは少しずつ密度と勢いを増し、やがて視界には火炎に混じって、赤の縦縞が幾つも現れる。

 灼熱の火炎が渦巻く室内だというのに、真っ赤な雨が降ってきたのだ。

 (血の…雨?)

 紫は掌を広げて滴を受けてみる。小粒の滴は皮膚の上を滑り、(しわ)に沿って流れて合流し、掌の真ん中辺りで赤い大きな滴を作る。

 …が、その滴は見る見る内に体積を減らし、仕舞いにはすっかりと消えてしまう。

 火炎の熱に当てられて蒸発したかと思いきや、何か様子が違う。何より、掌にジンジンとした痺れと気怠い熱が帯びてくる。

 ――一体、この液体の正体は何か。片目を閉じて形而上相視認した紫は…すぐに物質の正体を知ると、ギクリと脊椎に電撃的な衝撃が走る。

 液体の正体は、水銀――常温で液体である唯一の重金属であり、人体に恐ろしく有害な元素である。

 室内に降り出したのは、水銀の雨だ!

 

 この時――ようやく紫は、ザイサードの"とっておき"の正体を知る。

 炎や血液の"赤"から、水銀イオンの"赤"へ――一般化すれば、或る"赤"から別な"赤"へと存在を取り替えてしまう、そんな魔法技術。

 (存在振替(オルタネイション)…!)

 紫は手と顔がジンジンと痺れを増すのを感じつつ、衝撃と焦燥の檻に閉じこめられる。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Amaranthine Redolence - Part 3

 ◆ ◆ ◆

 

 存在振替(オルタネイション)。それは存在の定義に直接干渉する"神に並ぶ魔法技術"の一つである。

 術者は"キーワード"と呼ばれる性質に該当する物質を、同じ"キーワード"を含む物質へと振り替えることが出来る。

 ザイサードの場合、"キーワード"は"赤"――つまり、赤い物を別の赤いものへと変化させることが出来る。

 赤いリンゴと赤いトマトへと。赤い血を赤い炎へと。赤い光を、赤色を呈する水銀イオンへと、変化させることが出来る。

 "赤"を支配し、その定義を替えてしまう能力の持ち主。"赤"を統べる王と言っても過言ではない力を持つが故に、ザイサードは"(ザ・レッド)"を名乗っているのだ。

 

 (そっか、それであたしの体に穴が空いたのか!)

 ここに至って紫は、交戦中に二度も衝撃を知覚せずに体部に焦げた穴を空けられた現象について、合点がゆく。

 あれは存在振替(オルタネイション)の一環だ。赤の血液の滴の定義を振り替えて、高出力の赤色光線へと変化させたのだ。光線は質量を持たぬが故に、衝撃を感じることはない。高エネルギーは肉体を構成する有機物を一瞬にして焼き焦がし、貫通したのだ。

 ザイサードが高速移動した理由も、同じように理解が出来る。真紅の髪を持つザイサードは、"赤"のキーワードに該当する存在として見なされているようだ。よって、赤の光へと変化し、光速にて椅子の所まで移動したのである。

 呪詛に、存在支配(ドミネイション)に、存在振替(オルタネイション)。厄介極まりない魔術をニヤニヤと(わら)いながら操る男、ザイサード・ザ・レッド。

 (副部長に聞いてた通りね、"ハートマーク"はバケモノ揃いだわ!)

 紫が胸中で舌打ちしているところに、ザイサードは余裕綽々の嗤い顔を張り付けて、嫌みをタップリ含ませて語る。

 「済まねぇなぁ、お嬢ちゃん。君は今回の騒動のジョーカーに当たっちまったワケだ、気の毒に…ねぇッ!」

 語尾と同時に、ザイサードは体を赤の光線に変化。光速で紫の懐まで潜り込むと、すさかずに火炎が渦巻く真紅の大鎌を振り下ろす。

 

 ――以降、ザイサードの独り舞台と称しても過言ではない、強烈なる猛攻が始まる。

 

 文字通り四方八方から間断なく襲い来る、"赤"の猛攻。

 ザイサードによる大鎌や刃による斬撃の嵐は勿論のこと。床や宙から呪詛が突然沸き出しては、手にした凶悪な武器を振るってくる。

 紫は大剣を盾にし、転身を繰り返して斬撃を防ぎ続けるものの、完璧に回避し切れるワケなどない。刃は紫の装甲を削り、その下の柔肌を露出させる。

 身体(フィジカル)魔化(エンチャント)による体組織回復が発動しようかと云う歳に、いきなり傷口からゴウゴウと激しい炎が吹き上げる。露出した真っ赤な血肉がザイサードの存在振替(オルタネイション)によって火炎と化したのだ。

 何とか炎を消したいところだが、対応する余裕などない。次から次へと刃が嵐のように襲いかかってくる。致命傷にならないよう(さば)くのだけでもやっとだ。

 紫に襲いかかるのは刃だけではない。

 降りしきる水銀の雨粒も致命的である。水銀は剥がされてゆく装甲の隙間に流れ込み、紫の皮膚へとジンワリと浸透してゆく。そして、神経を初めとした体組織に中毒症状を引き起こしつつ、血流に乗って全身を巡るのだ。こうして紫の神経は侵されてジクジクとした痺れと共に、吐き気を催す深いな熱によって思考がボンヤリとしてくる。足下はフラつくし、大剣を持つ両手の指にも力が入らなくなってゆく。

 更に、水銀の雨粒が高出力の赤外線と化し、不意に体を穿ってくるのも恐ろしい。ひたすらに熱いだけで、一切衝撃を伴わぬ"無音の凶器"によって、紫の装甲にはボコボコと穴が空き、炭化に至ってしまった円形の火傷が幾つも露出する。

 これらの険しすぎる攻撃を、一切休むことなく、捌き続けなくてはならない。理性で判断していては遅すぎる。もはや本能の勘に頼って、滅茶苦茶で良いから動き続けて的を絞らせないようにして、大剣を操り続けるしかない。

 しかし、結局は全て後手後手の防御行動だ。ザイサードの体に刃を当てようと隙を伺うような余裕など、瞬きほどの間もない。

 そして時間が経過するほどに、披露と共に水銀中毒の症状によって着実に運動能力と思考を奪われてゆく。

 

 (何なの何なの何なの何なの…ッ!)

 胸中で叫ぼうと、ザイサードの一切動きを緩めてはくれない。

 ザイサードは無尽蔵にも見える体力と魔力を駆使し、猛獣のような嗤いを張り付けたまま、紫の命を執拗に狙い続ける。

 ――このままでは、紫の命の灯火が消えるのは時間の問題だ。

 それでも紫本人は、そんな懸念を抱くことも出来ぬまま、ひたすらに動き続けるしかないのだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 窮地に陥る紫へ、熱く応援の視線を送り続けている者が居る。

 先に紫によって、交戦の場から遠退けられ、死地から脱した蓮矢である。

 しかし彼は、自身の命が助かった事への安堵など、一片も感じては居なかった。むしろ、自身に対する情けなさと憤り、そして紫に対する申し訳なさで胸中を一杯にしている。ギリリと歯噛みする有様は、己の歯を噛み砕かんばかりに力が入っている。

 (まだ成人してない学生が、あんなにまで戦ってるってのに…! "警察"なんて大義名分を振りかざしてるオレが、このザマかよ…ッ!)

 ザイサードによる存在支配(ドミネイション)の効力は流石に及ばず、頬の出血はようやく止まった。しかし、大量に失った血液を瞬時に再生できる能力(ちから)など蓮矢にはない。全身の力は抜けて、死にかけたカエルのように(うつぶ)せになって、真紅が荒れ狂う室内へと視線を向けている。

 (このまま見殺しにするだなんて…格好悪いどころの話じゃねぇ…ッ! オレの存在意義そのものが()ぇじゃねぇかッ!)

 このまま傍観者に徹してなんて居られない。絶対にもう一度戦いの場に立ってみせる!

 そう決意するものの、蓮矢一人の力では満足に手足を動かすことも出来ない。

 しかし蓮矢は、根性論で状況を乗り切ろうとするような馬鹿者ではない。窮地だからこそ、熱さを感情にぶつけず、思考をフルに回転させる為の燃料とする。

 数瞬後、蓮矢はノロノロとした動きで土気色の手を上着の内側へと潜り込ませ、通信端末を取り出す。そして震える指先でタッチスクリーンを操作し、通信を開始する。

 数コール後、3Dディスプレイに現れたのは、一緒にプロジェス入りした同僚、四条ミディ捜査官である。

 「暮禰(くれない)捜査官!? "ハートマーク"との交戦はうまく行った――ワケでは、ないようですね…その様子ですと」

 「ああ…オレは半殺し状態…一緒に来たお嬢ちゃんは…絶賛交戦中だが…形勢はかなり危うい…」

 「では、直ぐに増援を!」

 「ダメだ…そりゃマズい…」

 蓮矢はノロノロと紫色の唇を動かして語る。

 「あのザイサードって野郎…呪詛だけが芸の男じゃねぇ…。存在支配(ドミネイション)存在振替(オルタネイション)、この2つの使い手だ…。下手な戦力を寄越されても…ヤツの創り出す炎や毒に呑まれて…足手まといになるのがオチだ…」

 「それなら、どうするって言うの!?」

 蓮矢は震える頬を総動員させて、精一杯にニヤリと笑ってみせる。

 「オレが…行くさ…。

 散々間近で見て…手の内は分かってる…。それに…自分で言っちゃあナンだが…下手なヤツよりゃ、強いつもりだしな…」

 「でも、その体じゃ満足に動けないでしょう!? 今のあなたこそ、足手まといそのものじゃないの!」

 「そこで…お前に頼みたいことがあるワケだ…」

 蓮矢は笑みを消すと、精一杯舌をしっかり動かし、険しい口調で語る。

 「血液充填の霊薬(エリクサ)…効果が強けりゃ、多少の副作用なんざ構わん。アミノ酸と糖がタップリの、コッテリ系が最高だ…。

 それに…重金属汚染に耐性のある装甲と…術符。術符は特に…耐性だけじゃなく…解毒作用のあるものも欲しい…。装甲は、耐火性能も高いヤツを頼む…。

 ザイサードの野郎は…赤いモノなんら何でも支配して、なんでも創り出しちまう…現に、血液に炎、そして水銀イオンの高濃度水溶物まで創り出してやがる…。だから、装甲は"赤"が定義に含まれない部品だけで構成されたものが良い…。

 そいつを一式、こっちに転送して欲しい…出来るか? 呪詛による妨害とか…無けりゃ良いんだが…」

 「通信から受ける感じだと、妨害はなさそうよ。

 だから、直ぐに転送させるわ。

 でも…本当に、援軍なしで大丈夫なの? あなたの視覚記録を上層部に提出した上で説得すれば、もっと熟達した人員を配備してくれるはずよ。」

 蓮矢はゆっくりとだが、力強く首を横に振る。

 「上層部が決定を下すまでの間に…お嬢ちゃんが、殺されちまう可能性が高い…。

 それに…ザイサードの野郎、確実にゲリラ戦を得意にしてやがる…大人数で突っ込む方が…同士討ちの危険性やら…身動きが取りづらくなって…危険だ…。

 2人くらいが…丁度良いはずだ…」

 その言葉を聞いたミディは、もう蓮矢を説得することはない。ただ黙って頷くと、両目を閉じて暫く黙る。備品班の方に連絡を取り付けているようだ。

 やがて、ミディが眼を開くと。その直後から、蓮矢の眼前に蛍光色の魔力冷気光の柱が次々と淡く立ち昇ると、柱の中に物体が出現する。備品班から転送されてきた、各種装備だ。百枚単位で束になった術符やら、橙色を呈する炭酸を帯びた霊薬(エリクサ)、それに軽量型の機動装甲服(MAS)一式が現れる。

 蓮矢は直ぐに霊薬(エリクサ)に手を伸ばす。ミディに確認せずとも、これが身体回復の為のものだと一見して確定出来る。

 「それ、かなりキツいって話だから気をつけてね。備品班が急(ごしら)えで作ってくれた特注品なんだけど、回復の反作用の軽減をあまり考えてないみたい。一応、形而上相を経てタンパク質をあなたの体内に注ぎ込みつつ体組織を再生するらしいけれど、注ぎ込む際の免疫反応で発熱や目眩、吐き気がでるかも…て」

 「…ああ、最悪の気分だ。視界がグルグル回ってる…。味が炭酸系スポーツドリンクっぽいのが救いだな…。

 だが…効き目は確かだな。体がスーッと軽くなってきたし、呂律も回るようになってきた…! 文句のつけようなんてないさ。

 …ただ…」

 蓮矢はムクリと起き上がり、肩や首を回して体の具合を確かめながら、ジト目で機動装甲服(MAS)を睨む。

 「装甲とは言ったが…機動装甲服(MAS)ってのは気に食わねぇなぁ。機械の入ってる装甲ってのは、どーにもトラブって"鉄の棺桶"になっちまうってイメージが拭えなくてなぁ…。チェンジして欲しいところだが…」

 「四の五の言わないの。霊薬(エリクサ)で回復したとは言え、まだ病み上がりなんだから、普段通りの身体能力を発揮出来るとは限らないわ。

 それに、そのモデルの機動装甲服(MAS)は内部に暫定精霊(スペクター)を住まわせることで、ナノマシンよりも高度で柔軟な障害復旧を実現しているわ。あなたの時代錯誤(アナクロ)な懸念は杞憂よ」

 「その暫定精霊(スペクター)術失態禍(ファンブル)を起こしたら…とか、考えないのかねぇ…」

 「とにかく、備品班がこの短時間であなた用にカスタマイズして用意できたのは、それなのよ。

 時間が惜しいんでしょ? 文句言ってる暇があるなら、サッサとそれを身につけて紫ちゃんを助けに行ったらどうなの?」

 ミディの"紫ちゃん"という呼び方に、蓮矢は思わずニヤリと笑う。先に連絡を取り合っていた短時間の間に、随分と親睦を深めたようだ。

 「分かったよ、了解だ。

 そんじゃあ、高性能の機動装甲服(MAS)様にお力を借りるとしますか」

 蓮矢はそう残すと、テキパキと機動装甲服(MAS)を身に着け始める。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 蓮矢とミディがやり取りしている間にも、紫の窮地は確実に地獄へと向かってゆく。

 ザイサードは一瞬たりとも、手足を止めることは無い。荒れ狂う水銀の雨と炎の嵐の中、大鎌と刃を携えて通り魔的に斬撃を浴びせ続ける。

 時には、水銀の滴を弾丸のように打ち出したり、高出力赤外線のレーザーを打ち放つこともある。勿論、呪詛による多面的な同時攻撃だって行ってくる。

 そんな行動をひっきりなしに続けているというのに、ザイサードの息は乱れないし、魔力も尽きる様子はない。

 それどころか、攻めれば攻める程に、ザイサードの顔には笑みが深く刻まれ、残虐な歓喜の色を(たた)えて益々(ますます)勢いづいてゆく。

 ――紫が力尽きて行く様を見て、(たの)しんでいるのだ。その愉悦が起爆剤になっているかのように、ザイサードの気力を烈火の如くに旺盛にしているのだ。

 それとは真逆に、紫は徐々に徐々にと力を失ってゆくのだ。ザイサードの猛攻への絶え間ない対応だけでも疲労に苛まれると言うのに、肉体へ着実に蓄積してゆく水銀による中毒症状もある。

 今の紫は、視神経も(おか)されて視界が酷く暗く狭くなり、筋肉は痙攣しっ放しで禄に力も入らない。それでも大剣を振り回せているのは、彼女の並々ならぬ気力によるものだが――その力強さも、先の見えぬ後手後手の防戦一方に対して滅入り始めている。

 (何か…! 何でも良い…! 羽虫が飛び込んでくる程度でも構わない…!

 何か、転機が欲しい…!)

 ゼェゼェと荒くなった息で、ザイサードの竜巻のような大鎌の一撃を防御すると…大剣のガァンと響く金属と共に、両腕がダラリと垂れ下がってしまう。同時に、這い上がってくる痺れに指の力が完全に脱力してしまい、大剣の柄を手放してしまった。大剣は重力の為すがままにグラリと倒れ、真っ赤な水銀イオンの液体の中にビシャンッ! と盛大な水音を立てて倒れ込む。

 「あ…ッ!」

 紫が、呆然と声を上げる。しかし、失意や絶望を感じてはいない――感じるような(いとま)がないのだ。それほどに心身共に疲れ切ってしまっているのだ。

 そんな紫の蒼白にして(いや)な汗でビッショリと濡れた顔を目に焼き付けたザイサードは、死にかけのカエルを目にした空腹のヘビのような、舌舐めずりせんばかりの凄絶且つ恍惚的な笑みを浮かべる。

 (はい、さようならッ! ユーテリアの学生ちゃんッ!)

 ザイサードは大鎌に一層の爆炎を(まと)い、紫の(くび)をめがけて思い切り横薙ぐ。例え紫がなんとか回避したとしても、その場で爆発を起こし、禄に動けぬ紫を爆炎に巻いて致命傷を負わせる算段だ。

 

 霞むような勢いで迫る赫々(かっかく)の凶刃――しかし、それが直ちに紫を破滅に導くことは、なかった。

 ギィンッ! と鳴り響く金属の激突音は、紫の窮地を救った天使の鐘の音にも等しい音。

 次いで、(ゴウ)ッ! と巻き起こった爆発は、まるで水抜き栓の中に吸い込まれて行く水のように、急激に体積を収縮させて消えて行く。

 紫は、予想だにしなかった"支援"の介入に、気怠い[r[b:眼>まなこ]]をぱちくりとさせていると。彼女の眼前に飛び込んで来て、ザイサードの一撃を受け止めた"援軍"は、チラリともこちらを見ずに左手で何かを放り投げてくる。

 淡い蛍光色の魔力励起光を放ち、糸で引かれたようにスィーっと宙を一直線に走るそれを目にした紫は、熱っぽい思考でも瞬時に"術符"であることを理解する。…それも、紫を窮地から救い出す類の、歓迎すべき効能のものだ!

 "使え"――そう言われずとも紫は術符をパシッと掴み取り、即座に魔力を注入。表面に描かれた黒紫色のフラーレン墨に封入された術式を解き放つ。

 蛍光色が輝きを増すと、黒紫色の墨から術式が溢れ出し、紫の肉体へと入り込む。術式は体内の水銀に干渉し、魔術によって定義を振り替えられた形跡が残した脆弱性を突く。途端に水銀は存在を一転し、純水へと変換されてゆく。

 体内から水銀が消えたことで、紫の肉体から不気味な発熱と鈍重さが激減する。しかし、傷ついた細胞が直ちに修復されるワケではない。とは言え、紫には回復魔術がある。渡された水銀中和の術符を体に張り付けて中毒を回避しながら、自身の肉体に魔力を流し込んで体組織の回復に努める。

 (アリガトね、おっちゃん!)

 紫は胸中で自らの救い手――暮禰(くれない)蓮矢捜査官に感謝の念を述べる。口に出さなかったのは、(せわ)しくザイサードと渡り合う蓮矢に声を掛けたところで、集中を乱すことに繋がりかねないと考えたからだ。

 

 黒と紺を基調とした軽量型機動装甲服(MAS)に身を包んだ蓮矢は、装甲の各部にある推進機関を巧みに使い分け、高速にして緻密な運動を実現してみせる。機動装甲服(MAS)の着用に文句を言っていた人物とは思えないほど熟達した動きだ。

 (オラッ、さっきの分のお返しだッ!)

 暴風を伴っての刀による斬撃で、ザイサードを胴体を狙う。ザイサードは身を赤の液体――恐らくは赤絵の具を解いた水だ――に変質させて斬撃を通過させると、右腕から血液の刃を作り出して、ザイサードに反撃する。

 しかし、ザイサードが腕を振るう頃には、蓮矢の姿は視界にない。彼は体の回転の勢いを利用して推進機関を噴かし、クルリと小回りに円を書いてザイサードの背中に回り込んだのだ。そして霞む勢いのままに、装甲で強化された脚を振るって真っ赤な長髪が延びる後頭部へと叩き込む。

 「おっとッ!」

 ザイサードはチラリと視線を後ろに向けて目を見開き、声を上げたかと思うと、全身を赤外線へと振り替える。そして光速でその場を後にしようと試みる。

 …が、彼の体は一瞬の赤い光を放ったかと思うと、ほとんどその場を動けずに、肉体を戻してしまう。

 「…はぁ!?」

 ザイサードは何が起こったか分からないと言った風に声を上げると。そこに蓮矢の高速の蹴りが直撃する。

 頭が胴体から離れても可笑しくない勢いであったが、ザイサードは自ら跳んで勢いを殺してみせたのか、体ごと大きく宙に舞うばかりだ。

 そこへ襲いかかるのは――完全に回復した紫だ!

 「ハァッ!」

 足裏と大剣の峰の推進機関を使って急上昇した紫は、そのまま急降下してザイサードの体に直撃する。大剣の刃はエネルギー化しており、例えザイサードが液体や気体へと変化しようとも、物質を変成させて着実にダメージを与えるものだ。

 とは言え、ザイサードは肉体を変化させる暇もなく、水銀の水溜まりがウヨウヨしている床へと強烈に叩きつけられる。その胸から右腕に掛けては、凄惨な切り傷がクッキリと刻まれている。

 

 床に転がったザイサードは、更に急降下してくる紫を眺めながら、(そうか)と納得する。

 赤外線へと変化するのに失敗した理由。それは、紫の両腕から突出したままになっている電極装置が物語っている。

 赤外線は電磁波の一種。ならば、電極装置で電磁気を発生させることで干渉が可能なのだ。それでザイサードを絡めとって見せたのだ。

 それからザイサードは、ニンマリと愉悦の(わら)いを浮かべる。

 (ザコと思ってた"チェルベロ"のおっさんも使い物になってきたし…! 2人掛かりたぁ、楽しくなって来たじゃねぇかぁッ!)

 ――凶人集団の一員であるザイサードは、あくまで命のやり取りを(たの)しんでいる。

 

 ブシュゥッ! 床に転がったザイサードの凄惨な傷口から、不自然なまでの勢いで盛大に血液が吹き出す。

 それらは大小十数の球体へと変化すると、弾丸の勢いで2方向へと散る。

 1つは、急降下を続ける紫へ。もう一方は、推進機関を噴かして床を滑るように接近する蓮矢へ。血液の弾丸は水銀の雨を吸収し、円錐系に成形しながら、装甲を穿つべく飛翔する。

 対して紫も蓮矢も、手にした大剣や刀を衝撃波と共に振るい、弾丸を弾き飛ばす。その勢いのままに踏み込み、倒れたザイサードを追撃。両側からまっすぐに刃を振り下ろし、ザイサードの両断を試みる。

 ザイサードは呪詛を床に発現させると、背中を引っ張らせてその場から待避。二振りの銀閃は惜しくも空を裂き、金属の床に叩き込まれて深い傷跡を残す。

 ザイサードはそのまま呪詛に押させて、四肢を使わずにグンと奇妙に立ち上がる。その頃には胸の傷は復元し、コートに刻まれた凄惨な裂け目だけが傷の名残を留めているだけだ。

 ザイサードは真紅の大鎌に、今度は不気味な漆黒を呈する呪詛をまとわりつかせる。髑髏(どくろ)や腐敗した顔面がぼんやりと浮かび上がる黒い渦を(まと)ったその武器を振るい、比較的手近にいた蓮矢へと叩き込む。

 蓮矢は退くどころか推進機関を噴かしてザイサードへと突撃。大鎌に構わず、懐へと潜り込もうという算段だ。肉薄した大鎌は装甲の籠手で受け止める。装甲は魔化(エンチャント)により硬度が増しており、傷が刻まれるようなことはない。

 そのまま蓮矢はザイサードの心臓めがけて刀を突きだそうとすると――ガクン、とその動きが鈍くなる。状況を確認すべく、顔に着けたバイザーから情報を引き出すと、思わず「げっ」と声を漏らしてしまう。

 (術失態禍(ファンブル)ってやがるじゃねぇかッ!)

 ザイサードの大鎌にまとわりついた呪詛が、蓮矢の機動装甲服(MAS)の術式機構に干渉して、障害を引き起こしている。致命的な障害を表す赤の警告表示が次々と現れる有様に、蓮矢は冷や汗を噴き出させる。

 (これだからイヤだっつってたんだよッ!)

 このままでは、術式が暴走し、最悪自爆してしまうところだが…不意に、警告表示が次々と消え始める。

 何が起こったかと思えば――蓮矢はハッと気づく。背中に紫の手が置かれている!

 紫が呪詛を中和して、術失態禍(ファンブル)を抑え込んだのだ!

 (サンキュー!)

 蓮矢がニヤリと笑う最中。紫は蓮矢を跳び越してザイサードの頭上に迫ると、足裏と大剣の峰の推進機関を一気に噴かし、急降下を行う。刃先は盛大にエネルギーへと転化させ、もうもうと円上する(まき)のように、煌々たるオレンジ色の輝きを振りまきながら、流星となってザイサードに襲いかかる。

 「おおっとォ!?」

 ザイサードは大鎌を器用に(ひるがえ)し、長大な柄で以て落ちてくる大剣を受け止める。だが、無事では済まない。エネルギー化した刃が柄を伝ってザイサードの手に這い登り、稲妻の直撃を喰らったような衝撃に体組織が瞬時にズタボロになる。加えて、強烈な衝撃に床が凹み、ザイサード自身も直立を保てずに片膝を付く。

 そこへすかさず、蓮矢が加速して接近し、ザイサードの頸を()ねにかかる。

 (うへぇ!)

 ザイサードは柄から片手を放し、血液の刃を作り出して蓮矢の一撃を受け止める。それで頸の皮が文字通り繋がったが、今度は紫の落下に抵抗し切れない。ふんばっていた残る腕がグニャンとおかしな方向へと曲がったかと思うと、紫がそのままザイサードに雪崩れ込んでくる。

 (だけどよぉ、今ならッ!)

 ザイサードは自身の全身を高出力赤外線へ化し、光速で離脱しながら、紫ならびに蓮矢の体に強烈な熱量を与える。紫は電極機関の発動に間に合わず、ザイサードの逃亡を見送るしか出来ない。

 それでも、エネルギーの刃が赤外線と干渉したお陰で、紫は体が黒焦げにならずに済んだ。蓮矢の方も機動装甲服(MAS)魔化(エンチャント)を発動させ、表面を鏡と化して赤外線を反射。多少の熱が装甲を通って来るものの、火傷を負うような結果には至らない。

 離脱したザイサードは一瞬にして部屋の天井に至る。足裏からは血液の刃を突出させて天井に差し込み、屈んだコウモリのようにそこに落ち着く。

 紫と蓮矢は直ぐザイサードを見つけ、追撃行動に出る。対するザイサードは、ギラリと歯を覗かせて嗤うと――これまでの中で一番激しい存在振替(オルタネイション)を巻き起こす。

 室内に充満する炎や、炎から発される赤い光――いや、通路で暴れるそれらまでをも一気に操作すると――室内から通路にかけて、大量の赤い液体が現れる。

 紫は即座に形而上視認を行い、液体の正体を看破する。――全て、水銀だ!

 津波のように押し寄せる真紅の水銀は、部屋を削り取る勢いで渦を巻きつつ、急速に水位を上げて行く。渦の勢いはザイサードが操作しており、その有様は電動ノコギリのようだ。中に巻き込まれれば、重く激しい水銀の暴走によって血肉は紙切れのように破壊されてしまうことだろう。

 紫と蓮矢はほぼ同時に、推進機関を噴かして宙空へと飛び上がる。そして天井にへばりつくザイサードへと大剣と刀を振るう。彼に手傷を負わせて魔力の集中を解く算段だ。

 (さぁ、きやがりなッ!)

 ザイサードは両腕から血液の刃を延ばすと、紫と蓮矢の斬撃をそれぞれ受け止める。しかし、紫も蓮矢も一撃では諦めない。嵐のように執拗に武器を振るい、ザイサードの防御をこじ開けようと奮戦する。

 (おーおー、がんばるねぇッ!

 だけどなぁ、絶ッ対にやられてやんねぇッ!)

 ザイサードは渦巻く水銀の水位を増しつつ、2人の攻撃を(ことごと)く弾き返して見せる。その間に水銀の水位は紫と蓮矢の足先の直ぐ傍にまで迫っている。

 (さぁて、これで詰み――)

 ザイサードは一気に2人を水銀で飲み込もうとした、その時。2人が一瞬視線を交錯したかと思うと、口元にうっすらと笑みを浮かべた有様を見て、眉をひそめる。

 だが、疑問符をいじり回す余裕などない。

 まず、蓮矢がいきなり、自ら水銀の水面へと突入してゆく。自殺行為かと思いきや、蓮矢は両手で術符をバラ撒いて水銀の中へと叩き込む。

 術符は、紫の体から水銀を抜いたものと同様の効能を持つものだ。それが一斉に煌々たる蛍光を発して発動すると、水銀は弾けるようにして、水位の大半を一瞬にして消滅させる。

 (おいおい、あの術符、そんなに強力なのかよ!?

 それとも、あのおっさん、ヘボかと思いきや有能なのかぁ!?)

 背筋に走る衝撃にザイサードが目を見開き、あんぐりと口を開いて呆気にとられている頃。その隙を見逃さず、紫がザイサードの懐へと潜り込むと、腕の電極機関を最大出力にして胸に叩き込む。

 バチンッ! ザイサードの全身にヘビの群のように青白い電流が駆けめぐり、彼の体はガクガクガク、と痙攣する。斬撃と異なって出血を伴わない攻撃のため、血液の弾丸による反撃は出来ない。

 「ッりゃぁっ!」

 そのまま紫は痙攣するザイサードを背負うと、天井から引き剥がし、水銀に濡れる金属の床へと叩きつける。

 「んがぁっ!」

 頭から床にぶつかったザイサードは、ゴキンッ、と痛々しい音を立てつつ、一度床を跳ねる。

 その間に紫は上空から、蓮矢は地上から、ザイサードに迫ると。それぞれが全力で大剣と刀を振るい、ザイサードの体に大きなバツの字の傷を負わせる。

 斬撃は通常、派手な出血を伴うはず。だが今回は、鮮紅は宙に舞い飛ばない。

 何故ならば…紫は大剣の刃を電流へ、蓮矢は斬撃を全て鋭い衝撃へと転化させ、皮膚を裂かずに体組織や内臓への直接攻撃を行ったからだ。

 

 (卑怯だなんて、思わないでよねッ!)

 (バケモノ相手にタイマンなんて、張ってられっかよッ!)

 紫と蓮矢はニヤリと凄絶に嗤いながら、勢いづいたままにザイサードへの反撃を開始する。

 一方でザイサードは、冷たい汗を頬に伝わせながら、胸中でぼやく。

 (おーおー、こんなの2人も相手にするってのは、流石にちょいとヤバいかなぁ)

 ――赤を巡る激闘は、遂に終局へと向かってゆく。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Amaranthine Redolance - Part 4

 ◆ ◆ ◆

 

 ザイサードとの交戦直後のこと。蓮矢は確かに、紫の足手(まと)いになることを恐れ、傍観者に徹していた。実際、あの時の彼はザイサードの超人めいた動きに着いていくことが出来なかったろう。

 だが、四条ミディによって手配された、彼用に特別チューンアップされた機動装甲服(MAS)を身につけて今、蓮矢と紫の歯車はガッチリと噛み合っている。

 彼ら2人は、まるで巣作りに励む(つがい)の小鳥のように、絶妙に互いを補い合い、隙を塗り潰してザイサードを攻め続けている。

 (おっさんってば、中々やるじゃん! 機動装甲服(MAS)のデザインは結構趣味悪いけど!)

 (着いていけるようになると、スゲェ痛感するなぁ! このお嬢ちゃん、頼りになりまくりだぜ!

 オレがちょっと機動装甲服(MAS)に振り回されそうになっても、察して隙を潰してくれる!

 同士討ちが不安だなって思ってたが、敵だけじゃなくて、オレのこともよく見てやがる!

 こりゃあ、気持ちいいくらいに噛み合ってるぜ!)

 赤で染まった室内の中、2種類の銀閃は間断ない豪雨のように輝きを空間に走らせ、厳しく攻める、攻める、攻める!

 一方のザイサードは、2人の実力者を相手にしてなお、恐ろしく巧みに立ち回っている。とは言え、流石に顔に浮かぶ嗤いには揶揄の表情はなく、苦々しくて険しい。

 (ヤベェヤベェ! 気を抜いたら、バッサリじゃんかよッ!)

 ザイサードは長大な大鎌の柄を捨て、手足に生やした血液の刃を振るい、紫と蓮矢の攻撃の嵐に対応している。至近距離での行き着く間のない連撃を相手にしては、モーメントの大きな大型武器は隙を生み出す枷としか働かないのだから。

 ザイサードは大型武器を捨てた分だけ、身軽になったようでもある。コンパクトながらも激しく踊り狂うダンサーのように、アクロバティックながらも洗練された動きで血液の刃を振るい、防御のみならず反撃すらもしてみせる。

 今はちょうど、蓮矢の振り下ろされた一撃をかわしつつしゃがみ込むと、延ばした血液の刃と共に蹴りを叩き込んだところだ。刃は蓮矢の装甲を貫くには至らなかったが、ザイサードの一撃は見事に蓮矢の脚をすくい上げ、彼をステンと宙に転ばす。

 すると、蓮矢への追撃を許さぬ紫が大剣を振り下ろしてくる。そこで蓮矢は、もう何度か試みている、全身の赤外線化を実行しようとする。が、すかさず紫が腕部の電極機関を動作させ、彼の動きを止めてしまう。

 (またダメかよ、よく反応しやがるなぁ!)

 ザイサードは苦々しく(わら)いながら跳び上がり、紫の大剣を回避する。しかし、紫の大剣は地に付くより早く、キュンッと運動の方向を変えて、ザイサードを追って下から迫る。大型武器を振り回しているというのに、なんという器用さだろうか!

 ザイサードは宙空で足裏から血液の刃を突き出し、紫の大剣を受け止める。だが衝撃は打ち消せず、天井へと吹き飛ばされるザイサード。

 (おっと、しめたッ!)

 ザイサードはこれを好機と退避のために体を赤外線へ変えようと試行するが。その頃にはすでに、体勢を立て直した蓮矢がザイサードを先回りして天井付近に浮かび上がっている。そしてザイサードに思い切った(かかと)落とし脳天から喰らわせる。

 (マジかよッ!)

 すかさず頭上で両手を組み、凝固させた血液で盾を作り出す、ザイサード。直後、砲撃のような衝撃が彼を襲い、落雷の勢いで金属の大地へと叩きつけられる。

 しかし、それで気を失うザイサードではない。彼は即座に片腕で自らの体を持ち上げ、大きく弧を描くように立ち上がりつつ、額から派手に噴き出した血液の滴をバラまく。滴は直ちに高エネルギーの赤外線へと変じると、瞬時に宙を駆けて紫と蓮矢の身体を穿つ。

 紫は太股に、蓮矢は肩口に、それぞれ高出力のレーザーを受けて貫通痕を得てしまうが。ピクリと眉をしかめたものの、戦意が喪失する気配はない。むしろ、痛みを起爆剤にしたかのように表情を怒らせ、ザイサードの元へ迫ると銀閃の嵐を浴びせる。

 ザイサードも真紅の斬撃を巧みに操り、2人の怒濤の攻撃を(さば)いて捌いて捌きまくる。ザイサードのスタミナは恐ろしく強靱だ、2人の攻撃を受けた上で攻撃まで放って見せても、その動きが鈍ることはない。

 ――それでも、彼の頬や鼻面に、ツツーッと熱い水滴が垂れてゆく。疲労を物語る汗の滴だ。

 加えて、流石に体細胞も激しい動作に酸素欠乏を起こし始め、息も荒くなってきた。

 

 ザイサードにとって、窮地と言って過言でない状況。

 事実、彼の胸中には敗北の危機感が盛り上がり、チリチリと背筋を刺激している。

 だが…いや、そんな状況だからこそ、"凶人"ザイサード・ザ・レッドは嗤いを浮かべてみせる。

 ("身内"相手以外でよぉ! こんなに焦った気分になったのはよぉ! スンゲェ久しぶりじゃねぇかッ!)

 

◆ ◆ ◆

 

 ザイサードの脳裏に浮かび上がるのは、まだ"ハートマーク"の身内でなかった頃の記憶。

 "正体不明の連続殺人鬼"として暗躍し、都市国家(くに)を恐怖と混沌に陥れては、ほくそ笑んでいた日々。ありとあらゆる残虐な手法を用いて犠牲者を(なぶ)り、()いて()き出す赤を眺めては、悦に浸っていた下衆な時代。

 市軍警察も"チェルベロ"も、彼に全く辿り着けずにいたと言う。"そいつ"――後にザイサードは彼の事を畏怖と敬意を込めて"旦那"と呼ぶようになる――が現れた。

 男の不満をヘラヘラと並べ立てるばかりの阿婆擦(あばず)れ女どもを廃墟に閉じこめ、精肉工場でやるように脚に鉤を突き立てて宙吊りにし、ニンジンの皮でも剥くようにして少しずつ皮膚を削ってゆく。絶叫と共に露わになる鮮紅をニンマリと眺めては魔力を放ち、存在振替(オルタネイション)を発動。炎にして少しずつ火(あぶ)りにしたり、水銀にして泡を吹いて昏睡するまでジワジワと中毒に陥らせるような鬼畜の所業を繰り返していた時のこと。

 「随分と陰険でみみっちい"戦争"をするもんだ。見栄えだけは悪いないが、それも自慰の時に眺める愛玩具程度の安っぽさじゃねぇか」

 (ほの)暗い闇の中から、"そいつ"は夜空の星のように浮かび上がる純白を身につけて、堂々と高らかに足音を響かせて現れた。

 「あぁん?」

 聞き返すザイサードは、特に不平不満を込めてはいなかった。自分の行為が陰険であることも、唾棄されるほどに矮小であることも自覚していたからだ。

 単に彼は、何の脈絡もなく現れた"そいつ"の正体が図れず、困惑しただけなのだ。

 その証拠に、彼は即座に地を蹴った。そして息も絶え絶えな女たちから搾り取った血液で刃を作り出し、それを両腕に装着すると。一気に"そいつ"の懐へと肉薄した。

 (くび)を一閃し、頭と胴を切り離して息の根を止める…そのつもりであった。

 だが…ザイサードが腕を振るおうとした瞬間。彼は恐ろしく奇妙で、気味の悪い感覚に陥ってしまった。

 足が、大地から離れた気がした。いや、大地の中に沈み込んでしまったようにも思えた。それとも、足自体が水か何かの液体と化してしまい、直立が不可能になってしまったようにも思えた。

 上も下も、右も左も、全く分からない状態になった。一瞬前までは確かに大地を蹴って走っていたのに。今は宙空をクルクルと乱雑に回転する独楽(こま)と化したしまったように感じる。

 そして、胃袋そのものが口から吐き戻ってしまうような激しい不快感に苛まれた。

 (なンだ、これ…!? どんな能力(ちから)なんだよ…!?)

 そう疑問符を浮かべるものの、ザイサードは見つからぬ答えに何時までも終着はしなかった。方向・平衡感覚は(ゆが)み狂おうとも、視界は激しく回転しているが、見えなくなったという事はなかった。

 ザイサードは吐き気をギリリと歯噛みで押し殺しつつ、これまでの重ねてきた殺人行為で蓄積してきた呪詛を練り上げ、"そいつ"にぶつけた。

 "[[rb:窮/泣>キュウ]"]と名付けられたその業は、呪詛を殺意を宿した複数のヒト型として生成し、対象を囲んで滅多斬りにすべく襲いかかる。ザイサードが直接手を下さずとも、"そいつ"は多数の呪詛の刃の雨に斬り刻まれ、無惨な肉片の赤と化す――はずだった。

 だが"そいつ"は、うっすらと嗤いを浮かべた程度でほぼ微動だにしていないというのに――ただの一撃の斬撃も、その身に受けることはなかった。

 何せ、呪詛達は音速をも越える強風にぶつかった泥人形のようにパァンッと弾け、黒紫色の飛沫(ひまつ)と化して四方八方に飛び散ってしまったのだから。

 呪詛が弾けるほんの一瞬、網膜を()くような閃光が走っていた。ザイサードはこれを、呪詛に対抗する光霊素による魔法現象だと"勘違い"していた。

 (真っ白い服装と云い、さっきの業と云い…! こいつ、浄化屋か何かかよ!?)

 そんな自問を抱いている間に、"そいつ"の体が視界から消えた――いや、コマ落ちフィルムのように、眼前にまで肉薄された! ザイサードは目を丸くし、体を縮めて防御体勢を取ろうとした、方向感覚が歪み切っていた当時、その試みがうまくいったのかどうかは今でも分からない。

 ともかくザイサードは、全身の体組織が細胞単位で分解されるかのような、"砲撃"と云う形容表現が(かす)む程の衝撃を受けて、一気に吹っ飛んだ。自分が"飛ばされた"と理解できたのは、背中から部屋の壁に強かに激突した事を知覚したと同時に、方向感覚が回復したからだ。

 ザイサードの全身の毛穴からブワリと冷たい汗が噴き出した。ついさっきの一撃は、恐ろしく雄弁なものであった。ザイサードは自身のことを"怪物"だと信じて疑わなかったが、"そいつ"の前ではノウサギも同然だ。

 "そいつ"は、怪物の世界の中において、怪物どもに圧倒的な暴力をはたらいては悠々と補食する、"怪物の中の怪物"だ。

 ――そう確信した時、ザイサードの顔に浮かんだ表情は…絶望でも失意でもなく、なんと嗤いであった。

 (面白ぇ…!)

 ザイサードは体中を駆け巡る激痛の軋みに負けずに立ち上がると、両腕に血液で作った刃を装着。更に定義振替(オルタネイション)で爆炎と化すと、"そいつ"へと突撃した。

 (テメェがオレの死刑宣告者ってワケか!?

 残念だがよぉ、大人しく(くび)ぃ渡すオレじゃねぇんだよッ!)

 

 ザイサードが呪詛に傾倒した理由。それは世の中への不満だ。

 生まれて直ぐに直面した、理不尽な差別と(いじ)め。それでも真っ直ぐにあろうと努力しても、(ことごと)くが裏目に出てしまう。良かれと思ってやったことは、(すべから)く険しい非難の豪雨に晒される。

 そんな世界に心底嫌気が差した。自分がこんなにも呻吟(しんぎん)している中、無邪気に笑ってるヤツが胸糞悪かった。

 だから、そんなヤツらに自分と同等以上の地獄を味合わせるために、殺人に走った。

 ザイサードは決して、被害者を一撃の下に命を奪ったりしない。必ず極限まで痛めつける。ただ痛めつけて楽しむだけだと面白くないからと、呪詛の技術を身につけた。

 その最中で、"赤"に対する存在支配(ドミネイション)存在振替(オルタネイション)の技術が身についた。何時身についたのかは、ザイサード自身も把握してない。ただ、被害者の血肉を見てせせら嗤い続けてきた結果、"赤"に対して並々ならぬ感情を抱いたのかも知れない。

 非道の所業によって強大な力を得たザイサードだが、彼は何時か自分が罰される事を信じて疑わなかった。うまく行った試しのない人生なのだ、楽しんだ分だけ酷い仕打ちを受けることだろう…と。

 

 その終焉が今、この時にやってきたのだと、ザイサードは疑わなかった。

 同時に、その終焉すらあざ笑ってやろうと、出来うる限りの大暴れをしてやろうとも決めていた。

 

 結果――ザイサードは、"そいつ"に完膚無きまでに叩きのめされた。

 (そりゃあさぁ、オレの人生なんてうまく行かねえ事ばかりのクソ溜まりだがよぉ…こんなんクソの中のクソ、ひでぇイカサマじゃねぇか…!)

 こちらの業は、どんな事をやっても"届かない"。もう半歩すらの距離もないまでに肉薄していたはずも、振るった拳も刃も"そいつ"の身につけた白衣にすら届かない。

 火炎による爆発で吹き飛ばそうとした事もある。しかし、先に呪詛を吹き飛ばした閃光を伴う衝撃によって、爆発はあらぬ方向へと散乱されてしまう。

 そのくせ、"そいつ"の拳は恐ろしく速く、堅く、強く肉体に(えぐ)り込まれ、ザイサードはボロ雑巾のように吹き飛んでは転がる。

 吐いたり流れたりした血を存在支配(ドミネイション)で操作する余裕もない程に疲れ果て、壁に寄りかかってやっと上体を起こしている状態にまで陥ったザイサードに対して。"そいつ"はケラケラと嗤ってみせた。

 「面白ぇ能力(ちから)持ってやがるくせして、1人2人をいたぶって殺す程度のみみっちぃ"戦争"なんてしてるから、宝の持ち腐れになるんだよ。

 期待外れも良いところだ。こんな駄人を買うなんて、オレの目も結構な節穴らしい」

 そんな言い方をされたら、ザイサードは(いら)つかないワケがない。そもそも彼は、苛つきやすい性質(さが)だからこそ、殺人などと云う陰険残虐な方法で憂さ晴らしをしているような人物なのだから。

 ザイサードはギリリと歯噛みし、歯茎を剥き出しにして激怒すると。まるで身の内の血液が沸騰し、その莫大な熱エネルギーを全身に与えたかのように、疲れ果てた肉体に力が満ち満ちる。そして感情が爆発するに任せて、己の飛び散った血液を一斉に存在支配(ドミネイション)。"そいつ"の四方八方より、巣を(つつ)かれたハチの群のように飛びかからせた。

 "そいつ"は、これまで通りにザイサードの攻撃を回避した能力を実行したはずだ。だが、次の瞬間、嗤っていた"そいつ"の顔がピクリと驚愕の表情に固まる。

 "そいつ"が扱う謎の防御能力を突破して、血液の弾丸が"そいつ"へと着弾し始めたのだ! それはつまり、"そいつ"の魔力よりもザイサードのそれが上回り、防御能力を突破した事を意味する。

 ダンダンダンッ! 肉を穿(うが)つ着弾音が連続し、ブシュブシュブシュッ! と鮮紅の飛沫が"そいつ"の体から飛び出す。流石に全弾命中とは行かなかった――いくつかは防御能力に阻まれてしまった――が、全く打撃を与えられなかったこれまでの経過に比べれば、大きな進歩だ。

 そしてザイサードは、"そいつ"の体中に塗りたぐられた赤に対して存在振替(オルタネイション)を発動。火焔(かえん)へと替えて火だるまにする。

 それを見届けたザイサードは、中指を立てて突き出すと、ヒャハハハハッ! と狂ったような甲高い哄笑を上げる。

 「何だよ、何だよ! アァンッ!?

 偉そうなクチきいてた割にゃあ、呆気ねぇもんだなぁ、おい!?

 火ダルマ、焦げダルマ、そのまま炭ダルマだぁな!」

 そう一通り騒いだ、その直後だ。猛然たる火焔の中で、人影がモゾモゾと動いたかと思えば――。

 「やっぱり、やれば出来るんじゃねぇか。安心したぜ、オレの感覚も相当鈍っちまったかと思ったからな」

 炎の中から響く、涼しげな声。ザイサードはギクリと顔を歪めた――その転瞬。

 ()ッ! 地を蹴る強烈な音。それとほぼ同時に、ザイサードは咽喉(のど)を万力のように締め上げられる感覚に捕らわれる。

 ――いや、実際締め上げられている! 酸欠と血液不足で歪む視界の中央には、何処から現れたのか、一人の少女が居る。彼女はザイサードの首に手を伸ばし、色白の肌に似合わぬ怪力で咽喉を潰しそうと指を食い込ませている。

 (ど、何処から出てきやがった!?)

 ザイサードに向けられているのは、剥き身の刀のような鋭い殺意。それが闇の静寂の中から、突如として閃いた稲光のように、一気に湧いて出たのだ。

 少女の顔立ちは、非常に美しいものだ。神にも見紛う技術を持つ至高の芸術家が、自身の理想をそのまま作り上げたかのような、可憐にして美麗な顔立ち。しかしそれが浮かべている表情は、玉のような笑顔ではなく――漆黒の色をした猛火のごとき、陰惨で凄絶な憤怒。

 このまま数分もすれば、ザイサードの頸椎はゴキリと音を立てて砕けた事だろうが…。

 「(いき)り立つなよ、紫音(しおん)。そうやって直ぐに殺そうと突っ走るところ、悪い癖だぜ」

 ケラケラと笑いさえしてみせるその声は、間違いなく、白衣を着た"そいつ"のものだ。

 その事実を裏付けるように、ザイサードの意志と関係なく、火焔が破裂するように赤を振りまいて弾けた。四散した炎の中から平然と姿を現したのは――衣服が少し焦げた程度の損傷しか受けていない、"そいつ"の姿。

 (嘘…だろぉ…!?)

 これまで人生の中で、間違いなく最高の水準だった魔力をぶつけたはずなのに。市軍警察との交戦ならば、相手がどれほどの戦力を有していようとも撃破できると確信できる程の攻撃だったのに。――何故こいつは、こうも平然とくぐり抜けて笑っている!?

 平然としている"そいつ"の姿を見た少女は、安堵したようにニッコリと微笑む。どんな花でも敵わないような輝かしい笑みの後、彼女は不意にザイサードの首から力を抜く。意識が暗転する寸前だったザイサードは、突如支えを失っても自重を支えきれず、ゴロリとその場に倒れ転がる。

 「すみません、"賢人(セージ)"さん。この程度なら大丈夫と、頭では分かってるつもりなんですけれども。どうしても本能というか、体が反応してしまうのを抑えきれないんです」

 「その癖は早く直して欲しいな。じゃないと、折角見つけた有望株が、(つぼみ)も付けずにポッキリ()っちまう。

 そうなっちまうってンなら、散歩以外の用事でお前を連れて歩くのは、金輪際辞めなきゃならん」

 「それは酷いですよぉ」

 少女は愛らしい桜色の唇に指を咥え、モジモジと困った様子を見せる。ここだけ見るなら、ブリっ子ながらも可愛い娘だ、程度の感想を抱くに留まるのだが。先のスピードと云い、怪力と云い、造作を全て擬態した怪物としか見えない。

 (こいつら、何なんだよ…?)

 少しずつ脳に血液が巡り始め、視界から陰が消えてきた頃。ザイサードが畏怖と共に疑問符を浮かべていると、少女をその場に残して"そいつ"がスタスタとこちらに近づいてくる。

 そして、寝転がったザイサードの間近に迫ると、しゃがみ込んで彼に視線を投じる。その時の"そいつ"の顔に浮かんだ表情と来たら、まるで不良生徒が思わぬ好成績を残したのを目にした教師が見せる、暖かな賞賛の表情だ。

 「なぁ、ザイサード」

 ――初対面のはずなのに、何故名前を知っているのか。その疑問を浮かべるよりも、ザイサードはもっと大きな困惑に胸中を塗り潰される。

 "そいつ"が、手を伸ばしてきたのだ。明らかに、握手をしようとしている意図が見て取れる。

 「オレと、友達になろう」

 あまりにも意外な申し出に、ザイサードは己の脳がイカれたのかと自問してしまった程だ。

 目を丸くしたまま返答できずに居るザイサードに対し、"そいつ"は笑みを浮かべて誘う。

 「お前は、こんなみみっちい戦争の枠に収まるような[r[b:人間>ヒト]]じゃない。その魔法技術も、戦闘能力も、一人二人の女子供を(なぶ)るだけに使う程度じゃ勿体なさすぎる。

 お前に相応しい舞台は、万人、億人を相手にするような大戦争だ。国家を根(こそ)ぎ転覆させるような、阿鼻叫喚の大戦争だ。

 オレなら、お前をその舞台に連れて行ってやる。いや、連れて行ってやりたいし、お前がそこで大暴れする姿を見てみたいんだよ。

 だから、オレと友達になろう」

 

 屈託のない笑顔に、穏やかに軽く指を伸ばした手のひら。

 自分を完膚無きまでに叩きのめした怪物が、それを無防備にこちらに突きだしている光景を目にした瞬間。ザイサードの胸中から疑問も困惑も、全てが吹き飛んでしまった。

 代わりに湧き出てきたのは、爽やかさ――そう、これまでの人生の中で感じたことのない、初夏の晴天に吹く涼やかな微風のような爽快感である。

 眼前の怪物は、その強大な暴力でいくらでも自分を屈服させることが出来るはず。"付き従え"と頭ごなしに命令出来るはず。

 しかし彼は、命令していないのだ。自分と同じ目線に立ち、そして誘い、お願いしているのだ。

 これまでのザイサードの人生では、考えられなかった状況だ。いくら他人(ヒト)との和を得ようと優しさを心掛けても、一向に省みられなかったどころか、付け込まれては嘲笑と共に裏切られるばかり。友と呼べる存在など在るはずもなく、世の全てが敵か[(ムシ)ケラであり、(なぶ)るか利用する事が最善の選択肢であると確信していた日々。

 その陰険なる負の螺旋を断ち切る程の、強烈な衝撃。

 単に"友"として認めようとしてくれるという喜びだけではない。この怪物が自分のことを同列と扱おうとしてくれる、その心意気。

 ザイサードが歓迎しないワケがなかった。

 

 ザイサードは、疲労で震える腕を伸ばして、"そいつ"の手を取った。

 「こんなオレで良いなら…喜んでなるよ、"旦那"」

 そう語ると"そいつ"改め"旦那"は苦笑を浮かべつつ、少し険しい声音で語る。

 「"こんなオレ"なんて卑下するなよ。

 お前は立派な怪物だ、人類(ヒト)を掻き回す怪物だ。

 だから胸を張れよ、"(ザ・レッド)"」

 ――こうしてザイサードは、"ザ・レッド"の姓を名乗るようになった。

 

 ――"旦那"に認められたオレが、こんなところで焦った挙げ句にやられてやるワケにゃいかねぇ!

 ザイサードはギラリと嗤い、己の魔力を極限まで高める。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ジリジリジリッ!

 室内が真っ赤に染まり、室温が急上昇する。蓮矢の機動装甲服(MAS)では計器が外気温の危険を関知して警告音を鳴らす。紫の魔装(イクウィップメント)による装甲服には計器はないものの、気温上昇に伴う空間中の術式密度の増加に危惧を抱く。

 (こいつ、何かしかけてきやがる!)

 (しかけられる前に、やってやるわ!)

 2人が各々推進機関を全開にして突撃した頃には――ザイサードは、"もう遅い"とばかりにグワッと大きく嗤い、四肢を大きく広げる。

 (テメェらに、至高の"(ザ・レッド)"を見せてやるぜ!

 (もっと)も、視認出来ねぇかも知れないがな!)

 そしてザイサードは、室内に充満する"赤"に対し、強烈な存在振替(オルタネイション)を実行する。

 

 転瞬、紫および蓮矢の視界が、一気に煌々たる輝きに覆い尽くされる。網膜の細胞が過負荷に耐えきれず、そのまま死滅してしまうのではないか、と疑う程の強烈な輝きだ。

 同時に、彼らの周囲――いや、室内の温度が爆発的に上昇する。単に高熱の炎が充満したと云う代物ではない。室内の金属が溶融するどころか、蒸発して電離する程の――恒星の表面に迫る超高熱だ。

 (ヤバい! おっさんの装備じゃ、これは耐えられない!)

 ザイサードに突撃しようと身構えていた紫だが、即座に行動を中止。代わりに、隣で亀のように身を固めて防御態勢を取ろうとする蓮矢の方へと飛び、彼を覆うようザイサードとの間に立ち尽くす。

 そして、両腕の電極機関をフルパワーで稼働させると、強烈な電磁場を展開。周囲で膨張して暴れ回る赫々(かっかく)のプラズマに対抗する。

 「おい、なんかオレの機動装甲服(MAS)のヤツがキシキシ音を上げてンだけどよ!?」

 蓮矢が紫に大声で叫ぶ。電磁場とプラズマが激突するバチバチと云う騒音が酷過ぎて、普通の声音の会話などとてもでないが成り立たない。

 「磁化してるからよ! 脱磁の魔化(エンチャント)があるはずだから、やっておいて! そのままだと装甲がアンタの体ごとグニャグニャに歪んで、ひん曲がった棺桶になるわよ!」

 「磁化だぁ!? こいつ、鉄みたいな磁力を帯びる金属じゃねぇぞ!?」

 「あたしの電磁場で磁性化したのよ! あたし今、神経が焼き切れても可怪しくないレベルの電磁場を出してるから! 調整して、あたしらの体に影響でないようにはしてるけど、余裕がなくなりそうだから、その時はアンタでなんとかして!」

 「はぁ!?」

 蓮矢は何が起きているのか、室内に充満した赫々(かっかく)のプラズマの正体が何か、理解出来ていない。しかし紫は形而上相の様子を一瞥して、即座に理解した。

 異常に上昇した室温は、恒星表面に"匹敵する"ものなどではない。恒星表面そのものと言える。何故なら、この"赤"は恒星表面にて起こる、強烈な電磁的高熱現象なのだから。

 この現象の正体は――"紅炎(プロミネンス)"。太陽上では、地球を丸飲みにして尚有り余る程の莫大な規模のプラズマが大蛇のように恒星表面から飛び出す現象だ。

 ザイサードの作り出したものは、規模こそ室内とその周辺十数メートル規模であろう。しかしながら、その構造は太陽表面で見られるものとほぼ同等のものだ。

 防御を解けば、人体も一瞬にして電離し、命を落とす。

 (あの男、本気になりやがったわね!

 こんな代物を扱うなんて、流石は"ハートマーク"の怪物!)

 ザイサードの姿を探そうにも、超高熱のプラズマが発する閃光によって視界が眩む。術者のザイサード自身は、このプラズマ地獄の中で、一体どんな状態を保っているのだろうか? 自らもプラズマの一部と化し、この輝きの中を動いているのだろうか? それとも、これほどの魔法現象の操作に専念するために、身動きを取らずにいるだろうか?

 そんな疑問を浮かべた直後、紫は希望的観測である後者を頭から振るい落とす。怪物相手に甘い考えを思い浮かべては、命を落とす!

 そして――紫の厳しさは、的を得ていた事が、数瞬後に理解される。

 バチバチバチッ! ミキミキミキッ! 電磁場がねじ伏せられてゆくような悲鳴を上げる。何事かと紫が視線を巡らせるより早く、蓮矢が悲鳴を上げる。

 「テメェッ! しつこいんだよッ!」

 蓮矢が腕部装甲に仕込まれた機銃を放つ。その弾道の先には、電磁場を破こうと両腕に赫々のプラズマの刃を生やし、旋風のように斬りつけてくるザイサードの姿がある。

 蓮矢の放った術式の弾丸は、ザイサードには直撃しない。紫の電磁場がそれらの術式を絡めとってしまったのだ。紫が弾丸一つどころか、雨粒の一滴分もの穴すら開けていない証拠だ。少しでも穴を開けてしまうと、プラズマの奔流が一瞬にして2人を飲み込んでしまうことだろう。

 「おい、お嬢ちゃんッ!

 弾丸だけ通るように調整してくれッ!

 このままじゃジリ貧だろうがッ!

 反撃しねぇとッ!」

 「うるさいわねぇッ!

 穴なんて開けられるワケないでしょッ!」

 「だがよ、このままじゃ攻め込まれるのも時間の問題だぜッ!」

 蓮矢の言葉は正論だ。紫はずっとフルで魔力を注ぎ続けている。長くは保たない。どうにかしてザイサードに重傷を負わせ、魔力の集中を解かせて状況を打開しなければならない。

 ――しかし、どうやって!? 恒星表面に匹敵する温度のプラズマの中、どうやってザイサードに接近する!? 下手すれば、一瞬のうちに素粒子に分解されてしまう!

 紫が逡巡している内にも、ザイサードは赫々のプラズマの中を、大海を悠々と泳ぎ回る魚のように飛び回り、プラズマの刃を突き立てまくる。その度に電磁場の防御壁は着実に半径を減らし、徐々に縮小し始める。このままでは、5分と保たずに防御壁は崩壊する!

 (何か…! 何か手は…!)

 

 その時――焦燥に駆られる紫の思考に、ある光景が過ぎる。

 それは過去の記憶のようでもあるし、絶望を無理矢理に払拭しようと悪足掻(あが)いた希望の生み出した妄想のようにも思える。

 ともかく――紫の思考に浮かび上がったのは、同じくユーテリアの学生であり、この1年程の間共に戦って来た戦友。ロイ・ファーブニルだ。

 思考の中の彼は、ポリポリと頭を掻きながらこんな事を言ってくる。

 「お前ってさ、なんつーか…頭で考え過ぎるっていうか、考え過ぎが足枷になっちまいがちだよな?」

 そんな彼に、紫は喚き散らすように反発の声を上げる。

 「だって、負けたら悔しいで済まないのよ!? 命が掛かってるのよ!?

 だからこそ、確実な勝算を考えるんじゃない!」

 「でも、その"確実な勝算"ってのは何時、思い付くんだよ? 考え続けてる内に、後手後手に回って押し切られるちまうんじゃねーの?」

 「それは…それは、正論かも知れないけど…」

 紫の意気が一瞬、弱くなるものの、直ぐに烈火のような焦燥と苛立ちをぶつける。

 「だからって、アタシはアンタみたいに大雑把で頑丈じゃないんだから! 考え無しに突撃して、何とか出来るってモンじゃないのよ!」

 「そうか? 随分弱気なモンだな、いつもと違って」

 「だって…だって、それは…こんな状況じゃ…」

 自分の思考が作り出したロイだと言うのに、紫は彼の言葉を打ち負かすことが出来ない。それどころか、しどろもどろと苦しい言い訳を語るばかりだ。

 ――言い訳?

 ふと、紫は気付く。何故、"言い訳"なのだ? 放棄の泣き言でもなければ、言い負かす正論でもない。自分を無理矢理に丸め込もうとする、"言い訳"。

 ――本当は、賭けてみたい策はあるのではないか? それを、自信の無さや決め付けの諦観、そして努力の放棄で楽になろうとしているだけではないのか?

 その事をハッと自覚した時。思考の中のロイはニカッと、ヒマワリのように笑う。

 「そうだよ、やっちまえばいい」

 ロイは笑いながらも、しかし金色の瞳の奥に鋭く強い輝きを宿し語る。

 「死ぬ気なら、何でもやって、ぶつかってみた方が良いだろ?」

 

 (その通りよね、ロイ!)

 紫は歯噛みする口の端にニヤリと笑みを浮かべると。蓮矢に向かって声を張り上げる。

 「おっさん、協力して!

 あの真っ赤野郎に一泡吹かせてやるわ!

 こっち来て、耳貸して!」

 「マジかよ!? 何か手が有るってのかよ!?」

 蓮矢は目を丸くしつつ、紫の元へと走る。今の彼に選択肢などない。良策があると言うのならば、従ってみるだけだ――何もしないで可能性をゼロにするよりは、確実にマシなのだから。

 紫は電磁場の維持でマトモに動けないので、蓮矢の方から紫の口元へと耳を寄せると――ボソボソと囁かれた言葉の内容に、ギョッと肝を冷やして顔色を青くする。

 「おいおい、それ、ヤバいだろ!

 特にオレ! ジュースになっちまうんじゃねぇのか!?」

 「どうせ、このままなら素粒子の蒸気になるんだし。ジュースになる位、大したことないでしょ!」

 蓮矢は数瞬絶句していたが…ゴクリと固唾を飲み込む。覚悟決めた証だ。

 「分かった、分かったよ!

 オレに策なんてないんだからな、乗るしかねぇよな! チクショウが!」

 「それでこそ男よ、おっさん!」

 

 突然、苦々しいながらも不敵な笑みを浮かべて見せる、2人。

 それを眺めていたザイサードは、ピクリと片眉を跳ね上げるが。すぐにニヤリと嗤う。

 (へぇ! 仕掛けてくるつもりかよ!

 面白ぇ、マジ面白ぇ!

 やってみなよ、楽しませてみろよ!)

 

 ――そして、紫と蓮矢が取った行動は――。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Amaranthine Redolance - Part 5

 ◆ ◆ ◆

 

 (なんだ、そりゃ?)

 ザイサードはプラズマの刃で電磁場を痛めつけながら、目にした紫と蓮矢の行動に眉をひそめる。

 蓮矢が、紫の前に立って、身構えたのだ。まるで、紫を守る盾にでもなかったかのように。

 (そりゃあ、滑稽ってモンだろ!)

 ザイサードは思わず吹き出しそうになる。機動装甲服(MAS)という外的要因に頼る蓮矢の方が、紫よりも遙かに防御に劣る。内蔵された魔化(エンチャント)をフルに稼働したところで、この超高熱のプラズマを耐えることなど出来ない。万が一出来たとしても、コンマ数秒単位が良いところだ。

 (あーあ、ガッカリだ! どんな奇策かと思いきや、ただの格好付けの無駄死にだ!

 あーあ、ツマンネ!)

 ザイサードは溜息を吐くと、嗤いを更に残虐で陰惨なものへと歪める。

 (もう、殺すわ。2人まとめて、素粒子に分解してやる)

 ザイサードは2人を卑下し、一気に命を奪いにかかる。

 

 ――だが、彼は勘違いしている。

 蓮矢は、盾のつもりで紫の前に立っているのではない。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ザイサードは両手を組んで前に突き出す。そして両腕からザクザクと血液の刃を突出させると、存在振替(オルタネイション)を発動。血液を紅炎(プロミネンス)へと替えると、ザイサードの腕はさながら超高熱のプラズマの大槍のように見える。

 この状態でザイサードは『宙地』を使って宙空を蹴ると、高熱の彗星と化して紫達の元へと突撃。弾丸のように加速した衝撃とプラズマのエネルギーで、電磁場を一気に貫くつもりだ。

 ――一方の紫達は、と言えば。電磁場の強度を上げて防御を固める…などと云った行為は全くしない。

 ただ紫は、眼前の蓮矢の背中のほぼ中央に手を触れるだけだ。そして、触れた手を通して機動装甲服(MAS)の通信回路に干渉し、蓮矢の被ったフルフェイスの内部に直接声を掛ける。…ザイサードに策が漏れないようにとの配慮だ。

 「良いわね!? そろそろ"やる"わよ!

 魔化(エンチャント)は万全よね!?」

 対する蓮矢は、外部スピーカーを切った上で、潜めた声で精一杯力を込めて語る。

 「ああ、やれるだけのことはやったはずだ! ただ、お嬢ちゃんのパワーを吸収しきれるかは、確信出来ないがな!」

 「別に、おっさんがジュースになっても問題ないわ。その鎧が健在なら、それで十分だもんね!」

 「…お嬢ちゃんさ、ホント年上とか関係なしに、ひでぇ事言うよな…」

 蓮矢は苦笑いしたが…直後、彼の顔はギクリと引き締まる。…背中の装甲越しに、チリチリと産毛を撫でる電磁場の感覚を覚えたからだ。

 「もうやんのかよ!?」

 「当たり前よ! あの赤男、もう迫ってンじゃん! ぐずぐずしてたら、アタシもおっさんも素粒子になってサヨナラよ!」

 ブワリ、バチバチバチッ! 紫が発する電磁場の強度が上がる。蓮矢の全身の毛がチリチリと揺れ動くだけでなく、皮膚をジリジリと刺激する静電気がひっきりなしに発生する。内部は絶縁されているはずなのだが、絶縁体が電磁石化してしまう程の強烈な電磁場が発生しているようだ。

 次いで、蓮矢の体がフワリ、と浮き上がる。声掛けなどなかったものだから、蓮矢はいきなり地面を失い、戸惑って足をバタバタさせる。

 「うおっ、一声かけて――」

 抗議しようと声を上げた、その瞬間。

 「じゃあ、行ってこおおぉぉいッ!」

 紫の大声がフルフェイス内に反響し、蓮矢の耳はキィンと耳鳴りを覚える。

 

 そして蓮矢は――強烈な加速を身に受ける。

 

 ザイサードが電磁場の防壁を破るまであと数瞬という、ギリギリのタイミングで。蓮矢の姿が、一瞬にして霞む。

 (あぁん!?)

 疑問符を呈した頃には――ザイサードの視界が、蓮矢の機動装甲服(MAS)の黒紺色で埋め尽くされてしまう。

 強烈な加速度による、ほんの一瞬の肉薄。ザイサードは全く反応できない。

 (!)

 驚嘆が思考を支配した頃には、蓮矢がザイサードのプラズマを纏った両腕をへし折りつつ更に接近し、ザイサードの胴体に激突する。全身の骨格がメキリと音を立てて破砕し、激痛が全身を電撃のように駆けめぐる。

 特に、心臓付近の痛みが強烈だ。ザイサードは把握し切れていなかったが、蓮矢が手にした刀を(つば)元までズブリと差し込んでいたのだ。その衝撃で心臓はもちろん、付近の内臓はブルリと大きく震えて、バシャンと盛大に破裂する。

 急加速した蓮矢はそのままザイサードを押して飛翔を続ける。紅炎(プロミネンス)のプラズマをかき分けて進み、進み、進み――遂には、溶融した部屋の壁を突き抜けて室内を脱し、隣接する別の部屋の中へと侵入。その壁に、(ドン)、と激突する。

 「げぐッ!」

 ザイサードが潰れたカエルのような声を上げる。激突の衝撃で彼の全身はバシャンと破裂し、熟れすぎたトマトを床に叩きつけた時のような盛大な鮮血が壁に大輪の花を咲かせる。

 ドロリと血液を噴き出す眼窩に視界を真っ赤に塗り潰されながら、ザイサードは疑問符を浮かべる。

 ――何が起きた? どうやって紅炎(プロミネンス)を突破した? あの尋常じゃない急加速は何だ?

 ザイサードは自問の答えを見つけられない。替わりに、ゲロリと血肉の混じった血液の塊を口から吐瀉する。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 紫がザイサードに対抗する為に考え出した秘策。それを一言で表現するならば、"人間電磁投射砲(レールガン)"である。

 電場と磁場の相互作用によって生ずるローレンツ力によって物体を加速させ、打ち出す仕組みが電磁投射砲(レールガン)である。加速機構に物質を使わないため摩擦の影響を受けにくく、強大な加速度を得られるのが特徴である。射出体の質量や体積によって、光速に近い速度を実現することさえ可能だ。

 紫は蓮矢の体を射出体に見立て、両腕の電極機関からザイサードへと至る強烈な電磁場の加速機構を生成。ザイサードへと激突する寸前まで間断なく加速させたのだ。

 電磁場による加速機構は、同時に紅炎(プロミネンス)を形成するプラズマにも影響を与える。加速機構は同時に、プラズマから射出体を守る電磁場の鉄壁ともなるのだ。

 蓮矢はこの仕組みにより、一瞬にして音速を越える速度に至った。その急加速は勿論、人体に強大な負荷をかけるものだ。衝撃に細胞が破裂し、蓮矢が懸念していた通りにジュースになってしまう可能性もある。

 蓮矢は機動装甲服(MAS)に内臓された魔化(エンチャント)を発揮し、耐衝撃防御力を激増させることで、なんとか悲劇を免れることが出来たが…。気丈にザイサードの体へ刀身を突き立てた一方で、こみ上げる吐き気と渦巻くような目眩(めまい)に苛まれていた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ザイサードは血塗れの顔をキョトンとさせていたが。やがて、間近に居る蓮矢のフルフェイス越しの険しい視線を眺めて、ニヤリと嗤う。…とは言え、ここまで肉体を破壊されていては、嗤いは病的にひきつったものにしかならない。

 同時に、ザイサードの体から噴き出した真紅が、カタツムリのような速度でゆっくりと這いずり始める。この状況でもザイサードは存在支配(ドミネイション)を扱えるようだ。なんというしぶとさだ!

 (ゴキブリみたいな野郎だな、色は似てないがよッ!)

 蓮矢はフルフェイスの内側で歯噛みをすると。ザイサードの存在支配(ドミネイション)が何らかの攻撃を形作るよりも早く、蓮矢はザイサードの体から刀を大きく振りながら引き抜く。ザイサードの肉体にズッパリと大きな裂傷が開き、大分勢いを失った血液がドロリと気怠そうに流れ出す。ザイサードは激痛を覚えたらしく、ニヤリとした嗤いを一変、グシャリと表情を潰すようにしかめる。

 蓮矢はそのままザイサードの体を蹴り、跳び退って距離を取る。支えのなくなったザイサードは、重力の為すがままに壁からフラリと離れ、そのまま自由落下。血肉の飛沫をバラバラと振りまきながら、大地へと落ちる。

 その最中、ザイサードは自身に血肉に対して存在支配(ドミネイション)を発動。ゆっくりとその傷の再生を始めつつ、正面に血液で幕を付くって激突に備えようとする。

 彼は、この致命的な状況に陥ってなお、交戦を諦めることをしていない。

 

 しかし、そんなザイサードにも、ついに引導が渡される瞬間がやってくる。

 彼が落下する先に、ある人物が待ち構えている。

 その人物とは――紫だ!

 手にした大剣を腰だめに構え、刃はすでにエネルギー体へと変化させている。それゆえ、大剣は太陽のような煌々たるオレンジ色の輝きに縁取られているように見える。

 (アタシだって、アンタが回復するまでのうのうと待ってるワケないじゃんッ!)

 紫はしっかりと、ザイサードの落下を見つめている。その視線に対峙するザイサードは、ギクリと顔をしかめてから、諦めたかのような苦笑を浮かべる。

 (そう、諦めなッ! そして、アタシ達を相手にした事、後悔して――ッ!)

 ザイサードが紫の間合いにまで落下した瞬間。紫は大きな半月を描くように大剣を振るう。オレンジの軌跡を残して空を両断する一撃は、ザイサードのボロボロの肉体を、頭頂から臀部までを真っ二つに斬り捨てる。

 ((たお)れろッ!)

 斬撃の衝撃で、ザイサードの体が左右に吹き飛ぶ。完全に体が分断されたザイサードは存在支配(ドミネイション)を維持できなくなった。血液の膜は単なる液体へと化し、ビチャリと床に大輪の赤をぶちまける。その中にザイサードの半身がビタンッ! と叩きつけられる。

 そして、ザイサードの身体は、当然ながら、ピクリとも動かない。

 ――紫と蓮矢の勝利が確定した瞬間であった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「ああー…もぉー…超しんどいッ!」

 ザイサードの身体が動かなくなった事を確認した紫は、投げやりな感じに大騒ぎすると、膝を折ってその場にズドンと腰を下ろす。

 同時に、紫を包む魔装(イクウィップメント)の鎧は蛍光色の術式へと昇華し、宙空に蒸発してゆく。そして紫は、肉体の損傷に比べて異常に綺麗な制服を身に付けると、シャクトリムシのようにお尻を突き出した格好で、その場に倒れ伏す。

 「その格好、年頃の女の子としてどーなんだよ?」

 フルフェイスを取った蓮矢が、ケラケラと笑いながら歩み寄ってくる。露わになった彼の顔は、汗でビッショリだ。滴を垂らすほどの髪の毛は、ボリュームを失ってペッタリと平たくなっている。

 「どうせおっさんに見せてるんだから、気にしないわよ。

 むしろ、ムサ苦しい脳筋おっさんの目の保養になって良いでしょ?」

 紫がニヤリと陰を含んだ笑みを浮かべて、毒舌を発してみせる。疲労は確かに大きいようだが、精神的にはだいぶ余裕があるらしい。

 「オレはお尻よりもムネの方が隙なんだよ、生憎な」

 蓮矢がケラケラと笑って答えると、紫は"一本取られた"と言わんばかりの苦笑を浮かべて見せるのだった。

 それから一瞬、沈黙が部屋の中を支配したかと思うと。蓮矢が真っ二つになって転がるザイサードの(むくろ)を眺めながらポツリと語る。

 「…逮捕できなかったばかりか、お嬢ちゃんに辛い役目を押しつけちまったな」

 「辛い役目って…あの凶人(ザイサード)(たお)した事?」

 蓮矢は至極真剣な表情を作り、コクリと(うなづ)く。

 「君の行為は正当防衛だ。罪には問われない。

 だが…オレが不甲斐ないばかりに、君に命を奪わせる結果になってしまった。

 相手は大罪人だ、とは言え…気分の良いモンじゃないだろ。どんな大義名分があっても…」

 "人を殺した"と言う胸糞悪い言葉が蓮矢の口から出るより早く。紫がゴロンと寝返りを打ち、四肢を大の字に投げて語る。

 「別に、アタシは気にしてないよ。

 学生の身分とは言え、アタシ達は戦場に顔を出してる身だよ。自分の命は勿論、非力で何の落ち度もない人々を救う為に、理不尽な暴力の相手の命を奪った事だってあるわ。

 …まぁ、良い気分になることはないし、馴れることも絶対にないわ。でも、戦場なんて場所に身を置くと決めた以上は、命のやり取りをする覚悟くらい持たなきゃ、やってられないわよ。

 当然、命を奪わないで済む方法を出来るだけ考えようとするけどね」

 「まだまだ学生の身の上だってのに、そんな覚悟をしてるなんて、素直に感心するぜ。

 オレが学生の頃なんて、遊びたい盛りで、ンな覚悟について思いを馳せるなんてあり得なかったからなぁ」

 「そこまで気が回るなら、ユーテリアに入ってたでしょ」

 と言った直後、紫はニヤリと陰を含んだ笑みを浮かべる。毒舌の合図だ。

 「(もっと)も、おっさんのアタマじゃ進級失敗しまくりの、落第無限ループ人生だったでしょうけど」

 「…オマエ、ホントに年長者に対する敬意ってモンがねぇよなぁ…。

 いくらユーテリアの学生だからって、そんな態度じゃ社会に出てから苦労するぞ?」

 すると紫は、いたずらっぽく下をベロリと出して見せる。

 「アタシは然るべく尊敬できる人に敬意を払うだけよ。年長者ってだけで無闇に敬意を払うような単純バカじゃないのよ」

 「ってことは、オレは敬意を払うに値しない、ただの年長者ってことですか。へいへい」

 蓮矢が苦笑いしながらプラプラと手を振り、紫に答えてみせる。

 それから蓮矢は笑みを消して、再びザイサードの骸に視線を投じる。そして、ポツリと独りごちる。

 「とりあえず、これで新しい呪詛の生成は無くなったワケだ。

 あとは、この遺体を回収するだけ――」

 

 蓮矢の言葉が終わらぬ内のこと。不気味な事態が両名の目に飛び込む。

 縦に真っ二つに割け、死んだ魚のような目を半開きにしていたザイサードの瞳が、突然、パチクリと瞬いたと思うと。爛々と意志の輝きを灯し、三日月のように眼を笑みを形に歪める。

 そして、分断された2つの口が一斉に開き、ゲラゲラゲラ! と大声で嗤い出す。気道や声帯と言った発声に用いられる器官は全て両断されて機能不全なはずなのに、あまりにも滑らかな声音で笑い声を張り上げる。

 紫も蓮矢も、この事態にギョッと目を見開く。常識的に考えて、こんな事態は考えられない。だが、(まぎ)れもない事実として、ここに発現している!

 ザイサードは、生きている!

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「いやー、スゲェスゲェ!

 大したモンだよ、アンタら!

 手が遠くて届かねぇから、拍手できないのが残念さぁ!」

 ザイサードは分断されて床に転がったまま、大声を張り上げる。

 「テメェッ! 生きてやがるってンなら、お縄につけよッ! オラッ!」

 蓮矢が脚部の推進機関を吹かして、一気にザイサードの骸の一方へと肉薄。そして、ザイサードの手首を掴みあげようと腕を伸ばす。

 するとザイサードは、内臓や骨格がむき出しになった断面から、真っ赤な液体――血液なのか、それとも別の物質かは不明だ――を噴出。巨大な腕のように扱って床を叩くと、その反動で一気に天井まで跳び上がる。

 そのままビタンッと天井に叩きつけられるかと思われた直前。ザイサードの断面から噴出した液体は形状を変化させると…まるで、巨大なゲジゲジのように幾つもの節くれ立った長い脚を出現。そのままウゾウゾと動き、蓮矢から距離を取る。

 (もう一つの方は!?)

 蓮矢が慌てて振り返ると――もう片方のザイサードの身体は、肉体をジュクジュクと泡立てながら、衣服ごと真紅の液体へと変化。そのまま床の中へと染み込んで消えてゆく。

 一瞬遅れて、疲弊した身体に鞭打って飛び出した紫が来たが、もはや後の祭りだ。ザイサードは一滴程度の染みも残さず、その場から半身を消し去っていた。

 さて、天井に張り付いた残りの身体は、ゲラゲラゲラと嗤い続ける。まるで、壊れて電源が切れなくなった玩具のようだ。

 「こんなに派手にやられるたぁ、思って無かったぜ!

 学生の身の上で、躊躇なくブッタ斬れるなんて、最高の精神構造してるじゃねぇか!

 アンタ、そこの"チェルベロ"野郎と一緒に居るなんて似合わねぇよ! オレ達に近しい存在じゃねぇかぁ!?」

 「一緒にしてンじゃないわよ、変態殺人鬼ッ!」

 紫が炎を吹くような視線でザイサードを()めつけて叫ぶ。彼女はザイサードのヒトの命を弄ぶような所業を忘れていない、激しい憤りと共に記憶に刻み込んでいる。

 そんな紫の劇場を代弁するように、蓮矢が床を蹴って宙を駆け、再びザイサードを追う。するとザイサードは、ベロリと半分になった舌を出して嘲り、中指を立てて挑発したかと思うと。衣装ごと全身を真紅の液体へと変じると、天井の中に染み込んでゆく。

 蓮矢の拳が到達した頃には、ザイサードの姿はすっかりと消えてしまっている。蓮矢はこめかみに青筋を立てると、思い切り天井をガツンと殴り、凹みを付ける。

 やるせない激情が渦巻くだけとなった室内に、姿無きザイサードの声が響き渡る。

 「良い戦争だった、そうだよなぁ!? そうだったよなぁ!?

 万人を巻き込んで、国家を丸ごと混乱のどん底にぶち込んだ挙げ句! こんなステキな殺し合いまで楽しめた!

 最高の戦争だった! 欲を言えば、オレが勝ちたかったってトコだ!

 "旦那"にゃ叱られるだろうが、それを差し引いても楽しかった戦争だった!

 なぁ、お前らもそう思うだろぉ!?」

 「戦争に良いなんてあるかよッ! 最低しかねぇだろうがッ!」

 蓮矢が唾棄すると、ザイサードはゲラゲラゲラ、と笑って蓮矢の言葉を掻き消す。"ハートマーク"の者達は"凶人"であると同時に、完全な"狂人"だ。戦争狂いの気違いどもだ。

 「なぁ、お嬢さん!」

 ザイサードが紫に尋ねる。

 「名前、教えてくれねぇか? オレとステキに渡り合えたキミの名前、しっかりと胸に刻んでおきたいのさ!」

 「アンタに名乗る名前なんて無いわよ、変態ッ!」

 紫が即答すれば、ザイサードは抱えた腹が壊れるのではないか、というほどにゲラゲラゲラゲラ嗤い転げる。

 「嫌われちった、嫌われちった!

 でも良いや、良いや! 顔さえ覚えてりゃ、それで良いとしとくぜ!

 だから、お嬢さん、また良い戦争しようぜ! 次回のオレは加減抜き、一気にキミの心臓をブチ抜きに行ってやる! だから、キミも精々、足掻きまくってみせてくれや!」

 「そんなに元気に舌が回るなら、次回なんて言わずに、今掛かってくれば良いじゃん!」

 紫はトンでもない事を口にする。正直、それは完全な減らず口だ。彼女は疲弊し切っていて、マトモに戦える状態じゃない。

 もしもここで、ザイサードが"それじゃあ、ご希望に添えて!"なんて言い出したら、紫も蓮矢もその命を落とした事だろう。

 しかし、幸いにも、ザイサードは紫の減らず口の挑発を拒否する。

 「いやいや、これでもかなーり身体がヤバくてね! こんな状態じゃあ、キミらを殺したくても殺し切れねぇ!

 お楽しみは取っておくことにするさ! そしたら、次もまた――いや、今回以上にもっともっと楽しめるからねぇ!」

 そう語る最中、ザイサードの声が遠ざかってゆく。床や天井の中に染み込んだ身体が、そのままこの場を離れて行くようだ。

 「それじゃあ、今はさようなら、だ!

 また会おうぜ、お嬢さん!」

 そしてザイサードは、ゲラゲラゲラ、と嗤い声の木霊(こだま)を残して、そのまま場を去ってゆく。

 

 「だってよ、お嬢ちゃん。

 随分好かれたみたいだな」

 蓮矢が肩を(すく)めながら語ると、紫はガクリと膝を折って座り込みながら、疲労で崩れた表情で苦笑いを作る。

 「そう言うおっさんは、空気扱いだったわね。一言も声掛けられないでやんの」

 「あんな変態野郎の眼鏡になんて、適いたくないね」

 そう語ってから、蓮矢はパンッ! と己の拳と掌を打ち合わせる。

 「それにしても…あいつも"旦那"だかに怒られるとか言ってたが、オレも上司に雷を落とされそうだなぁ。

 ここまで追いつめておいて、まんまと逃がしちまったもんなぁ。機動隊まで投入してこのザマか、って小言を一時間は聞かされそうだ」

 「はいはい、無能なヒトはお疲れ様ねー」

 紫は再び四肢を床に投げながら語る。

 「それにしても…あの変態の身体ってどうなってるワケ? 不死身だっての?

 呪詛に存在支配(ドミネイション)存在振替(オルタネイション)、おまけに不死身だなんて、キャラ設定盛り過ぎでしょ。どんだけバケモノなのよ、あいつは」

 「不死身じゃねぇさ、あいつは。

 極めて死ににくい、ってのは本当だろうがさ」

 蓮矢の言葉に、紫は疑問符を浮かべて眉をひそめる。対して蓮矢は、"知らないのか?"と意外そうな顔を作って答える。

 「あいつは恐らく、"悪夢作り(ドゥーム)"…いや、完全じゃなくてハーフだろうな…そういう種族なんだろうよ。

 この地球じゃあまり聞かないだろうが、立派な人類の一員だよ」

 悪夢作り(ドゥーム)は、地球とは異なる宇宙に所属している人類の一種だ。その名の通り、生物の意識に"悪夢"を送り込むことを生業としている知的生命体である。

 彼らはその生業だけでなく、姿もまた悪夢的である。地球人類のみならずとも、大抵の人物は生理的嫌悪感を催してしまう姿をしている。彼らの外観は千差万別で、ゾンビのような姿をわかりやすいものから、幾何学図形のような無機質なもの、作りかけの煮凝りのような不快な格好のものなどが居る。故に、大抵の世界では生業と相まって差別の標的とされ、自分達の出身宇宙から出ることは極めて少ないとされる。

 彼らの身体も悪夢的で、物理的な負傷で痛みを感じることはあっても、命に関わることは滅多にない。彼らの命を奪おうとするならば、形而上相上の定義を破壊するのが一番手っ取り早い…と評されている。

 ――と、蓮矢が紫にそんな概要を語って聞かせると。紫は初めこそ、新しい知識に直面して素直に感心していたのだが。その内、ハッと表情を変えて、普段の天の邪鬼な陰を含む嘲笑を浮かべる。

 「へー、脳筋だと思ってたけど、おっさんもたまには脳ミソを正しく使えるみたいねー」

 「…お前、減らず口叩かないと死ぬ病気にでも(かか)ってンのか…」

 蓮矢はジト目で睨みつつ溜息を吐くと。ふと視線を何処ともない遠方へと投じて、ポツリとつぶやく。

 「悪夢作り(ドゥーム)のハーフだってンなら、あいつが"ハートマーク"に居場所を作った理由も推し量れるってモンだ。

 さぞや悲惨な子供時代を送ったんだろうな。それで社会やら世界やらに対する恨みをたっぷりと抱え込んで、それを爆発させる場として"ハートマーク"を見つけたってところだろうよ」

 「悲惨な人生だったろうが何だろうが、だからと言って、他人(ヒト)の命を(もてあそ)ぶような真似は正当化されないし、到底許されるものじゃないわ」

 大の字に寝転んだままの紫は、嘲笑を消して険しい表情をスッと浮かべて、強い語気で漏らす。

 「アイツが言った通りに、アタシとアイツがまた出会うかどうかは、分からないわ。

 だけど、今度出会ったら、アタシは今以上の全力を(もっ)て、アイツを叩き潰すわ」

 (その為には、もっと強くならないとね…)

 二人掛かりで、ようやくマトモに戦えた相手だった。しかも、全力を出されてからは、二人掛かりですら()されるほどの実力者だった。こちらの奇襲がうまくいったからこそ何とか撃退できたものの――次に一対一で出会って、初めから全力で攻撃されたら、今の実力では到底敵わない。

 だからこそ、紫は決意を胸に深く刻み込む。どんなに悲惨な過去があろうと、過去への妄執があろうと、それらの負の感情を真っ向から受け止めて叩き伏せれるだけの強さを持ちたい――と。

 その決意が、紫の疲れ切った身体に急にエネルギーを注ぎ込み、今すぐにでも身体を動かしたい気持ちになったが。いざ腕を上げようとすれば、鉛のように重くなった筋肉が逸る気持ちを抑えてくる。

 すると紫は、自分の身体の状態を"仕方ないなぁ"と言い聞かせるように薄く笑うと、瞳を閉じて、蓮矢に語る。

 「渚先輩がもう一人を叩き伏せてくれるまで、少し休むわ。

 おっさん、眠ってるところに変な真似しないでよね」

 「誰がするかよ! オレはれっきとした警官だぞ!」

 そんな蓮矢の反論を耳にしながら、紫は意識を内なる疲労の海へと沈み込ませると。思考は直ぐに、微睡(まどろ)みの黒一色に塗り潰されてゆく。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ザイサードが撃退されたことで、都市国家プロジェスを席巻していた黒い『天使』は、急激に力を失ってゆく。よく制御されていた行動パターンは稚拙で単調なものとなり、市軍警察程の実力を持っていれば衛戦部所属でなくとも楽々と撃破出来るまでに落ちぶれた。

 また、黒い『天使』が新しく生成されることもなくなり、プロジェスから黒い『天使』は迅速且つ着実に駆逐されてゆく。

 こうしてプロジェスの混乱は、収束の一途を辿(たど)る。

 

 残る課題は、後一つ。元『僧侶の士師』エノク・アルディブラから、元『現女神』ニファーナ・金虹を取り戻すのみ。

 この課題に立ち向かうは――『星撒部』副部長、立花渚。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Irresponsive Hate Anthem - Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 ニファーナが『現女神(あらめがみ)』として覚醒する以前より、エノク・アルディブラと親交のあるプロジェス都民はこう語る。

 「彼はまさに、天の御遣いです!」

 エノクに対する都民の印象を文字化すれば、"奇跡の使い手"と表現できるだろう。手を(かざ)せば、魔法科学を取り込んだ医学で(もっ)ても治療の難しい傷病をたちどころに快癒させてしまうのだ。不幸にも死を待つばかりの奇形として生まれついた赤子を、手を翳す行為だけで五体満足な形状へと変えたことすらある。

 勿論、彼の能力(ちから)にも限界はある。老いや天命を退けることは、流石に不可能だ――それを成せるのは、真なる神の御業だけだろう。

 その制限を突いて、エノクを罵った者も当然存在する。だが、大部分の者達はエノクの能力(ちから)に満足していた。

 それに、エノクは卓越した癒し手であると同時に、無双と称される程の都市国家の護り手でもあったのだ。

 プロジェスを支配下に置こうとするあらゆる勢力からの侵略に対し、エノクが相対すれば、敵は必ず大きな被害を被って退散する。そして、二度とプロジェスに近付こうとはしなかった。

 そんなエノクが歓迎されないワケがない。故に、彼は"若神父"の二つ名でプロジェス中から親しまれ、尊敬の念を集めてきたのだ。

 

 だからこそ、エノクがこのテロリズムを企画した時。彼を慕う多くの者が賛同者となり、喜び勇んで忌むべき呪われたテロリストへと身を落としたのだ。

 

 他方――プロジェスの外部におけるエノクの評価は、内部の評価と真っ向から食い違う。

 「あいつが"神の御遣い"だぁ!?

 ふざけるな、バカ言ってんじゃねぇ!

 あんな怪物が、カミサマの遣いなワケねぇだろ! 悪魔の間違いだろ!」

 エノクに叩き潰された侵略者達に彼の事を尋ねれば、(すべから)く、彼らは頭を抱えてブルブルと震撼し、そう喚き散らすことだろう。

 彼らがエノクの事を想起すれば、脳裏を過ぎるのは恐怖一色の記憶なのだ。

 ――何を以て、[(エノク)を"怪物"と称するのか? そう尋ねれば、彼らはまん丸く見開いた眼で恐怖の記憶を掘り起こし、交戦の際にも垂れ流したであろう、滝のような冷たい汗を噴き出しながら語る。

 「初めは…初めは、ヒョロい兄ちゃんが一人突っ立ってるだけだと思ったさ…!」

 交戦の際、エノクは侵略勢力と相対するにはあまりにも貧弱な装備しか身に付けていなかったという。身には機動装甲服(MAS)はおろか、魔化(エンチャント)をふんだんに付与した防護服すら纏っていない。普段通りの、見た目そのままのシンプルな神父服姿であったという。

 一方で、流石に武器は所持していたようだ。しかし、その武器というのは――拳銃一丁のみ、であったという。フルオート式だとしても、軍隊と呼べるクラスの大勢を相手にするのは、常識的に考えて無謀としか言いようのない武装である。

 しかしエノクの持つ拳銃は、魔化(エンチャント)のされていない、凝った装飾だけが目を引くような、儀式用と断じるほかないような代物であった。

 この姿を見た侵略者達は、嘲笑や爆笑を浴びせ、エノクを卑下するばかりであった――のだが。

 「その拳銃一丁だけぶら下げた相手に、メッタクソに、ズタボロに、負かされた――!」

 エノクが引き金を引き、パァンと乾いた銃声が戦場に響くと。飛び出したのは金属の弾丸――ではなく、銃身の容積を遙かに越える体積を有する、全身を白銀の鎧で武装した六翼の天使である! 擁する4つの腕の内、二つには馬上槍(ランス)を持ち、残る二つには頑強な縦を有している。

 エノクが引き金を引く度に、この天使達は数を増して直ちに飛び立ち、侵略者達へと突撃。彼らの術式弾丸を白銀の装甲で何事もないかのように弾き飛ばしながら肉薄すると、眼窩やズブリと貫いて後頭部から脳髄ごと槍の切っ先を突出させる。天使達は、そうした容赦のない攻撃を嵐のように浴びせ、侵略者達を次々に屠ってゆく。

 この戦況下において、当然ながら次のような思考に至る知恵者が現れる。

 ――術者本人を(たの)せば良いではないか!

 この天使がもしも『現女神(あらめがみ)』の生み出したモノであっても、その術者本人と言える『現女神』を斃せば『天使』を構築する『神法(ロウ)』は崩壊し、『天使』は存在できなくなる。これが単なる人間の所業であるなら、尚更のことだ。

 エノクの拳銃が生み出した天使の猛攻を潜り抜け、彼に接近する猛者が徐々に現れる。凶刃や凶弾を手にし、エノクの肉体から魂魄を引き剥がそうと、どす黒い殺意を抱いて雪崩かかる。

 「だがよ――マシだったんだ、天使どもの方が。いくらあの能力(ちから)が強かろうと、まだヒトとして理解出来る強さだったさ!

 だが――あいつの本体の所業は、ヒトじゃねぇ!」

 仇敵に周囲を囲まれ、窮地に陥るエノク――その体に、異変が起こる。

 その"姿"を目にした者は、誰もが目玉を丸く見開いた事だろう。

 そして雪崩かかった者達は、驚愕と怯懦の表情を顔に浮かべたまま――体中に十字の穴を無数に開けられて、大地に伏してゆく。悲鳴を上げる間もなく、肉が破裂するような音もなく、電池切れした玩具のようにフッと力を抜いて、ドサドサと(うずたか)く積もってゆく。

 その所業を為した時のエノクの姿を思い出すと――侵略者達は嘔吐感を堪えるように口元に手を当てて、ヒックヒックと嗚咽を上げる。実際に、目尻には熱い涙が大きな滴を作っている。

 

 彼らは、脳裏に浮かべた(エノク)の姿を、様々な言葉で形容する。或る者は、酸性雨によって葉の禿げた針葉樹と表現する。或る者は、イソギンチャクやウミユリといった、異様な形状をした海洋無脊椎動物と表現する。また或る者は、ナナフシやムカデと言った、長大にして多足の蟲と表現する。

 どう形容しようが、彼らのエノクに対して抱く感情は(おおむ)ね統一している――。

 「あんなの、神に仕える聖職者の格好じゃねぇ! ヒトを取って喰う悪魔そのものだろ!」

 ――さて、そんな彼らに、エノクが『現女神(あらめがみ)』の傘下に下り、『士師』として更なる力を得た事実を伝えると。彼らは(すべから)く、蒼白の顔面から更に色を失い、気が違ったかのようなひきつった笑みを浮かべて、震撼しつつ乾いた笑い声を上げる。

 「ウソだろ、おい、ウソだろ…!

 アレが、更に『神法(ロウ)』の力を手に入れただと…?

 おいおいおい、ふざけんじゃねぇよ…そんなの、怪物どころの話じゃねぇだろ…!」

 その時、或る者はエノクについて、こんな言い得て妙な評価を口にする。

 「ヤツが『士師』になったとしたら、それは罪人を改心させる聖職者じゃねぇ。

 罪人を(なぶ)って追いつめ、永劫の地獄の中に放り込む閻魔だ…ッ!」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 紫がザイサードと交戦を開始するよりも、少し時間を遡る。

 

 紫と分かれ、ニファーナの居るであろう『神霊圧』"擬き"を強く感じる通路の先へと進む渚は――厄介極まりない"問題"と直面している。

 (なんなんじゃ、こいつらッ!)

 渚は、床のみならず、時には壁や天井までも蹴って跳びながら、通路の先を急ぐ。

 そんな彼女の背後に執拗に迫るのは――6体の天使だ。

 地上で戦った呪詛に由来する黒い『天使』とは明らかに違う。6体とも色調は神聖さを醸し出す純白か白銀色だ。そして、黒い『天使』が発していた、意識を押し潰して鬱屈の奈落へと叩き落とすような『神霊圧』は全く感じない。

 6体の天使は、2つのタイプに分けられる。

 6体のうちの2体は、通路の照明を(まぶ)しく照り返す、白銀色の鎧に身を包んだ騎士を思わせる天使だ。白銀色の金属の羽根が合わさって出来た翼は3対あり、これらを金属とは思えない軽やかさと柔軟さで扱い、銀の烈風となって渚を追いかける。その右手には、これまた輝く白銀色を呈する長大な馬上槍(ランス)を持ち、左手には女神の顔を刻んだ白銀の盾を手にしている。

 彼らの飛行速度は非常に素速く、渚がどれだけ距離を開けようとも、即座に距離を詰めてくる。

 (まるで、弾丸じゃなッ!)

 これらの天使をそう評価する渚は、天使が間近に迫り、馬上槍(ランス)を振るおうとして来たところをかいくぐり、蹴りや拳を浴びせて撃退する。騎士の天使は突進の方向を逸らされると、通路の床や壁に激突、馬上槍(ランス)を通路を囲む金属に虚しく突き立てる。

 すると、バガァンッ! と恐ろしい破裂音が響き、床や壁を構築している金属板が()ぜるように歪むのだ。そして、一気に金属疲労が限界を迎えたようで、痛々しい亀裂が蜘蛛の巣のように走る。

 一方、天使を蹴り殴った渚の手足にも異変が生じる。蹴った時には、靴の裏から煙とともに、ゴムが溶融した時の異臭が鼻を突く。殴った時には、思わず手を引っ込めたくなるほどの熱を得て、拳が赤く腫れ上がる。

 (まるで、というよりも、弾丸そのものではないのかや!?)

 渚は思わず、そんな感想を抱いてしまう。渚を目掛けて、脇目も振らずに一直線に飛んでくる行動も、"弾丸"の印象を強めている。

 他方――残り4体の天使は、光をそのまま反射するような純白の衣を身に着けた、掌サイズの小さな個体だ。指二本分ほどの大きさの翼を一対持ち、これを羽ばたかせて渚を追い回している。

 彼らには、顔がない――目・鼻・口の無いのっぺらぼうなのだ。それでも彼らには鋭敏な感覚が備わっており、ツバメのようなアクロバティックながらもコンパクトな飛行で渚に襲いかかる。

 彼らの動きは、騎士の天使に比べると数段劣る。動きこそツバメに似るが、その速度は灯火の周りを飛び回る蛾のようにゆるりとしている。それでも渚の脅威と成り得るのは、彼らの厄介な性質にある。

 彼らは十字を伴う目映(まばゆ)い輝きと共に空間転移し、いきなり渚の眼前に現れることが度々あるのだ。そして、手にした物騒な獲物を振り回して、血肉を剥ぎ取ろうとしてくる。

 獲物は4体それぞれで異なる。ハサミ、カマ、オノ、そしてカミソリの二刀流だ。渚はこれらの刃の嵐を、かなりの気を遣って潜り抜ける。間違っても、"切り傷の一つ位大したことない"、と軽んじたりはしない。――それで渚はすでに、居一度痛い目を見ている。

 オノによって腕をうっすらと傷つけられた事があった。切り裂かれた服の合間から見えた傷は極々浅いものであった。しかし――。

 (なっ!)

 傷口がグチュグチュと動き始めたかと思うと、膨れ上がり、傷つけてきたオノの天使と同じような姿を取り始めたのだ。渚は慌てて己の拳で己の傷口をブッ叩き、膨れた肉を潰して散らした。お蔭でうっすら程度の傷は、ドス黒く内出血して抉れた、痛々しいものへと変じてしまった。

 しつこく眼前に転移してくる天使を、渚は拳と蹴りとで叩き飛ばし、二度の負傷を許さない。天使たちは派手に天井や壁に太き飛ぶと、ベチャンッ! と熟れたトマトを落とした時のような音を立てて破裂する。が、直ぐに十字を伴った輝きに包まれると、何事も無かったかのように再生。直ぐに渚を追い回すのである。

 (しっつこい奴らじゃのう!

 本物の『天使』顔負けの性質じゃな!)

 ――そう、渚の指摘する通り、これらの天使は『現女神』の『神法(ロウ)』によって生み出される『天使』ではない。

 何より、『神法(ロウ)』に由来する『神霊圧』が全く感じられない。通路内にこそ『神霊圧』が充満しているのはヒシヒシと感じられるが、この天使達からは如何なる神霊的な威圧も畏怖も感じられない。それはつまり、これらの『天使』が単なる使い魔である事を意味する。

 実際、形而上視認することで、これらの天使の存在定義を支えて操る、意志の"糸"をクッキリと見て取ることが出来る。呪詛で作られた"黒い『天使』"の出来映えに比べると、あまりにも露骨で偽装する気などサラサラないようだ。

 この点を把握した事も、渚がこれらの天使と真っ向勝負したがらない理由である。力を尽くして倒したとしても、術者にはさほど痛みはないだろう。それどころか、こちらの実力を危惧され、さらに厄介な対応を起こされる可能性すら考えられる。

 ここは、極力相手にせずに突っ切って、術者自身に一発かましてやるのが良策だ。

 「ほれほれ、道を開けんかいッ!

 いたいけな女子を誘拐するような、おぬしらの下衆なご主人様に用があるんじゃいッ!

 さっさと散れぃッ!」

 渚は眼前に転移してきた小さな天使を拳足で吹き飛ばし、こじ開けた空間の中に飛び込んで、背後から迫る騎士の天使を回し蹴りで迎撃し、その反動で跳んで前進する。

 身にかかる『神霊圧』のビリビリした感じは、通路を進む程に強くなってゆく。――正確には『神霊圧』には成り得ない代物なのだが、魂魄干渉を引き起こす程の真に迫った威圧感が細胞を揺さぶる。

 それは、強烈な呪詛が為せる所業なのか?

 それとも、ニファーナを(さら)った元『士師』が威嚇目的で曝しているものなのか?

 はたまた――元『現女神』であるニファーナの身に、何か妙な現象でも起こっている証なのか?

 考えられることは様々だが、この目で確かめるまでは、どれも単なる予測の範疇を出ない。結論を出すためにも、今は前進あるのみである。

 

 そして遂に――渚は、"その間"の元へと辿り着く。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 渚が、その両開きの扉を目の前にした時。直ぐに、この向こう側に天使を操る術者と、囚われているニファーナが存在する事を確信する。

 『神霊圧』"擬き"の流れが、扉の内側から奔流のように(あふ)れ出している事を知覚した――というのも大きな理由の1つだ。

 加えて気になったのが、形而下の感覚的にも明白な、1つの異変。扉の隙間から漏れ出す、目映(まばゆ)い純白の輝き。錆の蔓延る金属の光景を一気に塗り潰し、聖なる世界へと飲み込んでしまいそうな閃光。

 相手が"若神父"と呼ばれているような相手ならば、いかにも『現女神(あらめがみ)』を迎えるために(しつら)える舞台に相応しい、宗教的神聖感。

 

 (邪魔するぞいッ!)

 渚は一瞬行き足を止めた、その直後。弾丸をも越えるような加速で地を蹴り、両開きの扉に跳び蹴り。

 衝撃を真っ向から受けた扉は、バガァンッ! と大きな音を上げながら、錆の粉をバラバラと派手に振り撒く。そしてクシャクシャにされたダンボールのようにひしゃげながら、室内へ砲弾のように吹き飛ぶ。

 こうして遮蔽物を失った、純白の輝きの漏れる室内の様相とは――。

 

 天国、そして同時に、地獄。

 そんな言葉が、渚の脳裏に咄嗟に浮かぶ。

 扉の隙間から漏れていたものと全く同一の、存在を塗り潰してしまいそうな程に目映(まばゆ)い閃光が、幅と奥行きだけでなく、高さまで広大な室内を照らしている。もしかすると、この室内は空間拡張の魔化(エンチャント)によって形成されたものなのかも知れない。

 純白の輝きの中、まず目に付くのは――室内の床の大半を埋め尽くし、凹凸の激しい小高い丘のようにドッシリと存在する、巨大な物体。神々しい純白の輝きの包まれているがために、宗教哲学的に難解なオブジェのように見えたそれだが――よくよく目を凝らし、無機質な客観視に徹することで、その印象が大きな間違いである事に気付く。

 それは、神々しいどころの話ではない。無神論者がノリで作った十字のアクセサリー程の清々しさすら存在しない。

 それは、ウジに(まみ)れた腐肉と同等の、生理的嫌悪感を否応なく喚起させる、無惨の産物だ。――事実、それは大量の血肉で形成されている。筋肉、血管、臓器、脳髄に脊髄、骨――それらが煮凝(にこご)りのように集まって生み出された、禍々しい有機機械。それらの部品一つ一つが、人体に由来するものであることを、本能が瞬時に悟る。

 (外道の極みじゃな…!)

 渚は思わず、奥歯をギリリと噛みしめて憤りを露わにする。

 次いで渚が目にしたのは、この巨大な有機機械の上部に存在する、特徴的な2種類の存在である。

 まず1つ目は、目映(まばゆ)い>輝きを燦々(さんさん)と振り撒く天井スレスレで、円を描いてクルクルと回転する8体の巨大な天使である。縦長の体は、純白の大きなローブに身を包み、胴の前に付きだした両手で巨大な水晶の剣を手にしている。水晶の色は濁りのない搾りたての牛乳のような乳白色で、純白の輝きの中に溶けてしまいそうだ。ローブの内側は濃い陰になってよく見えない。もしかすると、中には何もないのかも知れない。

 この8体の天使達は、不可視の顔面から、よくビブラートの聞いた、高低入り乱れた音程で、聖歌を口ずさむ。

 「幸いなるかな、幸いなるかな、幸いなるかな。

 諸手を天へと差し伸べ、燦々たる光の前に涙し、歓喜せよ。ひたすらに歓喜せよ。

 我らが神、再びここに降り立ち出ずる時来たれり」

 この8体の天使の回転の中心の真下に、もう1つの特徴的な存在がある。

 それは、有機機械の一部が異様に鋭く、そして高く(とが)って突出した、針山のような塔だ。その先端付近に、ある人物の姿が腰掛けている姿が見える。

 数人の人物の体がゴキゴキと折り畳まれて作られた、不気味な血肉の椅子の上。一糸纏わぬ姿で、堂々たる有様ながら、昼寝に興じているかのように瞼を閉じたその人物は――渚も今やよく知る人物、ニファーナ・金虹である。

 眠っているようなその姿を見ていると、ニファーナはフラリとバランスを崩して椅子から転げ落ちそうにも見える。しかし、そうはならないのは、血肉の椅子がニファーナの背や腿にシッカリと吸い付いて固定しているからだ。

 (裸の少女に、グロテスクの肉なんぞ…猟奇趣味にも程があるわいッ!)

 

 さて、渚はこの部屋の光景を破壊すべく、地を蹴って室内へと突撃する。

 目映(まばゆ)い純白が、地獄の光景さえも神聖化する輝きの世界の中へ、その身を入れた――転瞬。渚の身に、痛々しい異変が起こる。

 それが発生した時、渚は一切の衝撃を受けなかった為、その事象を他人事のように認識してしまった。

 しかし――純白の世界の中に、クッキリとした霧のように舞い上がる蒸気のように細かい血液の滴と――腕を初め、体中の至るところが(にわか)にグズグズと熱を帯びた激痛を訴えるようになると。渚は己の腕に視線を走らせて、ようやく自分の身の上に起こった異変を認知する。

 掌や手の甲、そして腕を被う制服に、まるでクッキーの型を大量に押し付けられたかのような、小さな十字架状の傷が幾つもポッカリと開いている。断面は切れ味の鋭い刃物で咲いたように垂直且つ真っ平だ。腕については、制服のみならず、そのまま真下の皮膚を抉って傷が出来ている。

 これらの傷は、心臓の鼓動に合わせるように、ドクドクと真紅の血液を噴き出す。傷口はあっと言う間に血液によって満たされ、腕中がまるで真っ赤な十字架の入れ墨でも彫り込んだような状態となる。

 痛みのある場所は恐らく、全てがこの傷と同一の状態になっているのだろう。

 そしてこの傷に、渚は見覚えがある。

 (鬱病を呈していた連中の舌に刻まれていた、傷!)

 サイズや出血を伴うなど差異はあるものの、形状だけを見るならば一致と断じても問題ないだろう。

 ――己の体中を穿(うが)ったこの傷と、罹患者の舌の傷が同じ。と云うことは――この部屋を"護る"者と、病魔を振り撒いた元凶は同一人物ということか!

 (つまりは――!)

 渚が結論を出すよりも速く。彼女の間合いに、烈風のように接近してくる人物がある。

 純白の世界の中、真水に落とした墨汁の水滴のように濃密な存在感を醸し出す、黒一色の司祭服に身を包んだ男。その左上半身は大きく抉れて無くなっている――とは云え、怪我によって欠損している様子ではない。断面は千切れた粘土のような有様をしており、惨たらしい臓器や筋肉、血液といった内容物が一切見当たらない。抉れたというよりも、"離れた"――いや"離した"というような感じだ。

 彼の駆ける脚は、室内と同様、目映(まばゆ)い純白の輝きに包まれている。同時に、大型のハトを想わせる翼が数枚生じており、どこか天使を想起させる様相を呈している。

 男は一気に渚との距離を詰めると、この脚を雷光のように振り回し、渚の胴へと叩き込む。渚は十字架の傷が複数刻まれた腕を酷使し、交差させて蹴りを防御する――と。

 ビリビリビリッ! 細胞の一つ一つが弾け飛びそうになるような、激しい震動と衝撃が駆け巡る!

 「うぐぅッ!!」

 思わず呻き、眉をしかめて奥歯を噛みしめる、渚。彼女の体はそのまま、嵐に(さら)われる巨木の枝のように吹き飛び、酷い有様の有機機械へと激突する。有機機械は見た目よりも硬度があり、岩のように渚の体を受け止めたため、背骨に激突の衝撃がかかって鈍痛を呈する。

 渚がチラリと腕に視線を落として、傷の具合を確認すると――思わず、目を丸く見開いてしまう。蹴りを受けた腕を被っていた制服の袖は焼けて破れてしまい、剥き出しになった腕にも高熱を受けたような火傷が生じている。

 この火傷は単に広がっているだけではない。焼き印でも入れたように、傷で文字が描かれている。その文字曰く――。

 "忌むべき邪神、浄化すべし"。

 

 (随分な挨拶じゃのう…っ)

 渚が激突の衝撃を振り払い、有機機械からグラリと体を起こして立つ。すると、彼女に蹴りを叩き込んだ男がスッと直立して真っ向から対峙すると、薄い唇を割って静かに語る。

 「神の名を冠していても、やはり邪。聖域の浄気にて(きず)を得、浄化にて血肉が焼ける。

 所詮は禍物に過ぎない」

 語る男の正体は勿論――元『僧侶の士師』、エノク・アルディブラ。

 

 ――他人(ヒト)を禍物だのとこき下ろしている場合か! お前は生娘を裸に剥いて、奇っ怪な血肉に括り付けている変質者だろうが!

 渚は、そんな文句を叩きつけようと、顔に憤りを交えた嘲笑を浮かべ、桜色の唇を少しだけ開く。

 だが、彼女がそれを成す事は叶わない。何故ならば、通路からずっと彼女を追ってきた6体の天使が室内へと進入。その内、2体の騎士の天使が間髪入れずに渚に突進して来たからだ。

 「まだ来るんかいッ!」

 思わず突っ込みの声を上げながら、渚は傷ついた手足を思い切り振るい、灼熱を呈する騎士の天使を蹴り殴り、弾き跳ばすだけでなく破壊しに掛かる。渚の一撃は練気によって爆発的な勁を得ており、見た目以上の衝撃が騎士の天使を轟々と震撼させる。騎士の天使の表面はベッコリと凹み、もしも中にヒトが入っているのならば、内容物を口から吐き出して絶命しているレベルにまで達する。

 それでも騎士の天使は――非常にぎこちない動きながらも――ギリリと四肢を稼働させて渚を睨み付けると。白銀色の翼をフラフラと動かして、なおも渚に迫る。渚は呆れを通り越して乾いた笑いを浮かべながら、トドメの一撃を見舞うべく、中指の第一関節を立てた拳を握り閉める。勁の一種、黒点針で装甲を貫き砕く算段だ。

 一方、4体の小さな白衣の天使は、渚のことなどお構いなしにエノクの元へと向かう。そして、大きく抉れたエノクの左半身へと飛んで行くと――徐々に形を失い、遂には肌色の正方形と化し、エノクの抉れた左半身の断面へと融合する。するとエノクの左半身は少し膨らみ、抉れ具合が緩和される。

 それを横目で見ていた渚は、"なるほど"と思案する。

 (先の翼の生えた脚による蹴りの一撃と云い、"そういう"絡繰りか。

 あやつは、己の肉体を神聖なる天使へと変じさせる事が出来る。そして、生成した天使を己から切り離し、意のままに操ることも可能…と云うワケじゃな!)

 渚の洞察は、的を得ている。彼女の指摘は、確かにエノクの能力(ちから)を説明している。――だが、全てではない。

 その証に――渚の黒点針が炸裂し、騎士の天使の内の1体を見事に貫き砕いた瞬間のこと。天使はエノクの血肉の破片にでも成るかと思いきや――風船が萎むように体積を減らし、遂に至った姿は…ひしゃげた一発の弾丸だ。

 エノクは己の肉体だけでなく、己の動作で干渉した物体も、天使へと生成することが出来るらしい。騎士の天使は恐らく、エノクが打ち出した拳銃の弾丸だ。

 とすると、天井スレスレを回転している8体の天使も、エノクの体が作り出されたものだろう。エノクの左半身がゴッソリと抉れているのは、彼らを作り出したからではないか?

 (それならばそれで、やりようは幾らでもある!)

 渚がギラリと瞳の奥に知略と決意の輝きを灯した、その直後。残るもう一体の騎士の天使が、手にした馬上槍(ランス)を大きく振るって、渚の頭部をかち割ろうとしてくる。渚は即座に体を反転させて一撃をやり過ごすと、逆に上段蹴りを天使の顔面に放つ。金属製のフルフェイスに被われた天使の顔面を砕くには心許ない攻撃かと思いきや、蹴りの先端は鋭利な衝撃の刃となっており、易々と顔面を両断する。天使に脳など存在するのか分からないが、この一撃によって騎士の天使は萎んで、もう一発のひしゃげた弾丸となって床に転がる。

 邪魔者が居なくなったところで、本命のエノクを相手にせんと、振り返った渚。転瞬、ギョッと目を見開く。エノクが至近距離に接近しており、鷲掴みする手付きを作った右手で渚のわき腹を強かに叩いたのだ。

 パァンッ! 小気味良い、乾いた音が響く。同時に渚は、痛烈な衝撃をわき腹に得た――が、真の苦痛が生じるのは、この直後のことだ。

 「お、お、お、あ、あ…ッ!?」

 渚は非常に奇妙な苦痛に、途切れ途切れの悲鳴を上げる。叩かれたわき腹の肉がギュルリと渦を巻き出したのだ。渦はわき腹の内部、肋骨の先の方や腎臓、小腸などの臓器をもギュルリと絞り上げる。途端に渚は食道を逆流する熱い不快感を得て、顔色が真っ青になる。

 (一端、距離を取る!)

 バランスの崩れた体勢で慌てて地を蹴ろうとする、渚。そこへエノクが、聖句にしては苛烈な雰囲気を纏った一言を居鋭く発する。

 「陰邪、祓うべしッ!」

 転瞬、エノクの右腕が天使化。無数の純白の翼が生えたかと思うと、そこから小さな2つの上半身が生えてくる。小さいながらも筋肉質で全裸の男性の肉体は、手に長い十字架の棒を持ち、それを渚の渦巻いたわき腹に差し込む。わき腹は粘土のようにすんなりと棒を受け入れてしまうと、棒はブチブチと内臓を破いて体内深くへと進入。その後、パァッと目映い純白の輝きを爆発的に発すると同時に、渚の体内に強烈な熱を与える。

 先の蹴りで受けた時と同種の熱だ。

 「あああああッ!」

 渚はたまらず大口を開いて叫ぶが、そこで心が折れるような肝ではない。あまりの激痛で涙を(あふ)れさせながら、グルリと体を回転せて、十字架の棒を体内から強引に引き抜く。そして、回転の勢いのままに、エノクの抉れた左上半身に向けて後ろ回し蹴りを叩き込む。勿論、蹴りには魔化(エンチャント)に加えて勁を盛り込み、爆発的な衝撃で骨身を粉砕する勢いである。

 (そんなにゴッソリと身を抉るような真似をしていては、自ら死角を作っておるようなものじゃッ!)

 渚の蹴りは、当然、無防備な左上半身に叩き込まれるはずだったが――またしても、渚の予測を越えた事態が、彼女の意図を阻む。

 抉れているエノクの左半身の断面から、まるで粘土をこね上げるように肉が細長く隆起すると。そのまま、藁で作った人形を思わせるような、至極細い体躯を持つ天使の上半身が出現。ポキリと折れてしまいそうな程に細い腕で、渚の剛蹴を受け止める。

 (そんな腕、叩き折ってやるわいッ!)

 意気込み、衝撃と共に爆発的な勁を叩き込む――が。天使は、細い体躯に似つかわしくない堅固な耐久力を発揮し、渚の蹴りをガッシリと掴んで、グラリともしない。

 (何じゃと!?)

 驚いて目を丸くする、渚。その一方で天使は細い腕で、渚の体を軽々と持ち上げ、タオルのように彼女の体をブンブンと振り回す。その最中、天使が掴む部位の肉がギュルリと渦を巻き、脚が深いな鈍痛の悲鳴を上げてねじ曲がる。

 (またこの攻撃かッ!)

 渚はギリリと歯噛みしながら、身体(フィジカル)魔化(エンチャント)と功の混成で対抗を試みる。確かに、渦の動きが鈍くはなったようだが、完全に影響を封殺することが出来ない。

 そのまま天使は、渚を放り投げる。彼女の体は砲弾のように宙を跳び、再び惨たらしい有機機械に背中から激突する。受け身を取ろうとはしたものの、渦巻いて歪んだ体が、どうにもうまく動いてくれない。

 血の混じった吐息をカハッと噴き出しながら、渚は渦巻いた体の治療に専念する。

 (接触による身体干渉じゃろうから、今なら回復も容易なはず!)

 しかし、エノクも黙って渚の回復を見送ってはくれない。残る右腕を横方向へとまっすぐ延ばしたかと思うと――腕が、ボスン、ボスン、と幾つもの正方形の塊へと分解。そのまま中空に飛び出すと、刃渡りの大きな曲刀を手にした天使5体へと変じる。天使達はのっぺらぼうの顔を渚へと向けると、純白の一対の翼を強く打ち、弾丸のように渚の元へと向かってゆく。

 (流石に、攻める好機を見逃すような間抜けではないか…!)

 感嘆の一方で舌打ちしながら、渚はゆっくりと渦巻いた体を回復させつつ、一瞬で肉薄してきた天使5体との交戦に入る。

 四方八方から迫る、白銀の輝きを放つ凶刃を片足で飛び跳ねながらかわしつつ、(ひね)りを利かせた拳で殴りつける。インパクトの瞬間、渚は勁を放って天使の体に回転の力を与え、己の体に起こっているような肉の渦を作り出す。その渦は錐のように天使の体内を鋭く進みながら、天使の体を衝撃で吹き飛ばす。流石はユーテリアにおいて"最強"の候補の一角とされる渚だ、身体に不備が起ころうとも、ただただ諦観に染まることなどあり得ない。

 天使を吹き飛ばす一方で、渚の体にも代償が発生する。天使の体に叩き込んだ拳が、焼け付くような高熱を得るのだ。天使の持つ神聖なる防御結界が、渚の肉体に干渉して"浄化"という名の細胞破壊を行っているようだ。

 (だからと云って、止まるワケなかろうがッ!)

 渚は少しずつ調子の戻ってきた足を使いながら、2体、3体と拳を叩きつけて天使を吹き飛ばす。このまま全て叩き伏せてやろうと意気込んだ、その矢先。

 グン――突如、重苦しい存在感を背後に感じ取る。マズい、と本能的に判断した渚が横に跳ぼうとした、その直後。

 (ドン)ッ! 強烈な踵落としが脳天を直撃。渚の体は一気に倒れ込み、床にビダンッ! と伏せってしまう。

 両腕を天使に変えて遊離させたエノクが、脚に翼を纏って高速移動し、渚の背後に回り込むと。その勢いのままに脚を振り上げて、脳天に踵を落としたのだ。

 渚は両手を床について、顔面がそのまま床に激突することだけは防いだが。脳天に与えられた衝撃は、天使による攻撃の比ではない程に重くて素速く、衝撃で鼻血がブシュッと噴き出してしまった。

 (尋常じゃなく、痛いっつーのッ!)

 渚は唇に至った鼻血をペロリと舐めつつつ、転がったその場から離れる。直後、苛烈な踏みつけが直前まで渚の寝ころんでいた床を踏み抜く。

 あと一瞬遅れていれば、頭蓋をグシャリと粉砕されていたことだろう。

 渚は両腕で床を弾いて飛び起き、構えながらその場に立つ。このころには、渦巻いたわき腹も脚もなんとか回復し切る事ができた。余裕のない中、よくも魔化(エンチャント)と功を維持したものである。

 一方のエノクは動きを止めており、放った5体の天使を自らの右腕に戻すと。刃のように細めた、氷の如く冷たい視線で渚を射抜きながら、語る。

 「邪神よ。神を冠する存在たるその[[rb:能力>ちから]」、発揮してみせろ」

 そしてエノクは、右腕を前に突き出して構えを腰を低く落とし、構えを取って言葉を次ぐ。

 「邪なる神の能力(ちから)を受け止めた上で、私はお前を打ち(たお)す。

 未だ羽化せぬ我らが神に代わり、天の御国(みくに)を狙う不届きなる存在は、ここで(ちゅう)する」

 その言葉を耳にした渚は、痛みに歪んでしまう表情で苦笑を作り、クックッと声を出して笑う。

 「わしは別に、『天国』を手中に収める事なぞに興味はない。その事を非難したいのならば、"獄炎"や"月影"なぞに言ってやれい。

 …と、文句を言いたくなったのが、1つ。

 そしてもう1つ、おぬしに言いたいのは…」

 渚は苦笑を精一杯の嘲笑へと変え、見下す視線でエノクを射抜く。

 「おぬし相手に、わしが『現女神』の能力(ちから)を出すじゃと? 冗談じゃろ?

 女子高生を裸に剥いて、気味の悪い肉に括り付け、神として崇めるような元『士師』の変態相手に、わしがそんな事をするワケがなかろう」

 そして渚は、ヒュッと鋭く息を吸って、体中の十字架状の傷や、浄化によって焼け(ただ)れた痕が訴える痛みを押し殺すと。堅く握った右拳を真っ直ぐにエノクへと向け、笑み消した鋭い刃のような表情で、言葉を締める。

 「わしは、ヒトとして、ヒトであるおぬしに勝つ」

 「…そうか」

 エノクは少し間を置いてから、アッサリと渚の言葉を受け入れると。右手で己の顔を覆ってみせる。すると、右手から黒紫色の奔流が現れて顔を塗り潰し――右手を離した時には、今まで交戦してきた『士師』"(もど)き"と同様、黒い仮面がエノクの顔を覆っている。

 それは、大口を開いて号泣しているようにも、非難しているようにも見える、古代文明における英雄像を思わせる人物の端正な面だ。

 エノクはその面越しに、ポツリとこう漏らす。

 「(わざわい)在れ、邪神の傲慢」

 そしてエノクは、両足を天使化。純白の輝きを纏った、幾対もの翼を得た脚で地を蹴る。

 同時に渚も、(ダン)ッ、と地を蹴ると。眼前で烈風と化したエノクに立ち向かうべく、真っ直ぐに前進する。

 

 激闘の幕が、上がる。

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Irresponsive Hate Anthem - Part 2

 ◆ ◆ ◆

 

 (決して、捕らえられぬ速度ではない!)

 渚はそう思考しつつ、眼前に迫ったエノクの顔面を狙った前蹴りを首を動かして回避。そして逆に、堅く握った右拳でエノクの左の頬面を狙う。

 天使化したエノクの脚は、烈風の速度とツバメのような機敏さを持ち合わている。視界の中で霞むような速度でありながら、慣性を無視したような鋭角的な動きを実現できる。

 彼らの体から作り出した天使の群れの中をかいくぐって攻撃されれば、簡単に死角を取られてしまう。

 それでも神経を研ぎ澄ませば、補足できない程の動きではない。

 ――ただ、脚の発する輝きに皮膚が触れると、小さな十字架状の傷が否応なく出来てしまうのが難点だ。前蹴りの直撃は避けられたものの、渚の左頬がプシュプシュと血を吹いて、赤い小さな十字架を幾つも作り出す。

 (じゃが、止まるかよッ!)

 渚は握った右拳の中指間接を立て、黒点針の構えを作る。そしてエノクの左頬を、真っ向から殴りつける。エノクの顔は頬と言わず、そのすべてが呪詛で形成された面によって被われている。それでも渚の一撃は確実に面を貫き、頬肉の柔らかな感触と頬骨の堅固な感触とを揺さぶる。

 グラリ、とエノクの顔が傾く――が。彼の体は倒れるには至らない。それどころか、加撃した渚の方が顔を歪めて、表情を焦燥に染める。

 エノクの面の頬部から、ニュウッと掌が生えている。それは渚の拳をガッシリと掴んで、離さない。そして掌は浄化の純白光を放って、渚の右拳に次々と十字架の傷を穿つ。

 (こやつ、こんな所からも天使を出せるのか!)

 渚は拳が壊れる前に、と距離を取ろうと後ろへ跳ぶ。すると、その動きに合わせて、エノクの頬面からズルズルズル、と腕が、肩が、そしてのっぺらぼうの顔と痩せ気味の胴体が現れる。天使だ!

 「ッ!!」

 渚は表情を更なる苦痛に歪める。天使の浄化により、渚の拳の構造がグルグルと渦を巻き始めたのだ。その歪みは腕にまで達し、思い切り絞り上げた雑巾のようにねじ曲がってゆく。

 「離さんかいっ!」

 渚は思わず叫びつつ、大きく下半身を回して蹴りを叩き込む。回転する蹴りは疾風の刃と共に、赫々(かっかく)たる火焔をまとっている。体温の持つ火霊の力を練気技術で増幅した、炎の一撃だ。炎と風の刃が天使の細い腕を強打すると、ゴギン、と痛々しい音と共に天使の腕が両断される。同時に、ブワリと火焔が天使の体を上り、その体を火だるまに変えてゆく。

 だが、天使は怯まない。それどころか、壮健さを印象づけるように、のっぺらぼうの顔に大きく横に割れた口を表すと、血を吐くような責め立てる声を上げる。

 「禍在れ、邪神の暴力」

 そして天使は火だるまになったまま、渚の元へと突進してくる。切断された腕からはニュルリと槍状の突起が生え、渚の体を貫かんと狙う。

 (面倒なヤツじゃのうッ!)

 着地した渚は、迫る天使の顔面に回し蹴りを叩き込む。インパクトの直後、天使の顔面を突き進む衝撃は練気の影響を受けると、頸椎に達した瞬間にあらぬ方向へとベクトルを分散。ゴギン、と鈍い音が響くと同時に、天使の首がグルリと異様な方向へと回転し、頸椎が脱臼する。

 天使は『現女神』の生み出した『神法(ロウ)』の産物ではない。故に、その身体構造は通常の生物学の法則に従う。頸椎を破壊された天使は直ちに全身麻痺に陥り、力なく大地へと倒れ込む。

 渚は捻れた腕を回復する間も惜しんで、エノクへと再び接近を試みる。だが、その頃にはエノクの次なる攻撃の準備は整っている。

 エノクは手に愛用の拳銃を持ち、渚に向けると。パン、パン、パン、パン、と4度の銃声を発する。直ちに射出された弾丸は、風船ガムのようにみるみる体積を膨張させ、先に通路で相手をした騎士の天使へと変化する。

 この天使達も、フルフェイスの兜に一文字の口を開くと、カラスにも似た(やかま)しい濁った声で、一斉に唱和する。

 「禍在れ、邪神の矜持!

 其は在るだけで、罪なりッ!」

 その聖句が耳に届くなり、渚の体から再びブシュブシュッと赤が飛沫き、十字架の傷が形成される。

 (ならば、これでどうじゃッ!?)

 渚はなるべく動きが大きくなるようにん、飛び上がって体を回転させる。そして両足に火焔を纏い、一直線につっこんでくる騎士の天使を迎撃する。

 ガギィンッ! 鋼鉄同士の激突する音が響くが、渚の狙いは騎士の天使を迎撃することではない。彼女の真の目的は――火焔にて、空気をかき乱すことだ。

 渦巻く炎が空気に乱流を引き起こすと、騎士の天使達の唱和が激しく揺れ動き、言葉の(てい)を失う。すると、渚の体から新たな鮮血が飛沫(しぶ)く事はピタリと止んだのだ。

 (やはりのう!)

 渚はニヤリと笑いながら、十字架の傷が刻まれる原理を理解する。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 それは、ヒトが宗教観を持ち合わせて以来の本能なのか。渚は勿論、魂魄理論を用いる人文科学者だって分かり得ない。

 だが、ヒトはリンゴの実を見て"食物である"と理解するのと同じく、意味を深く理解していなくても聖句を"神聖である"と理解するらしい。それが

 エノクの天使は、このプロセスを利用している。

 彼らが聖句を唱え、ヒトがその言葉を聴覚で捕らえ、"神聖である"と認識する。この事を引き金として、魂魄に干渉を与え、脳幹にある種の信号を発するように仕向ける。その結果、"神聖である"事の連想から十字架のイメージが成され、この形に添って急速な細胞の自滅を起こさせる。

 つまり、エノクの能力(ちから)は天使を生み出すだけでなく、"神聖である"事を認識させる事を引き金として、対象の身体に干渉を与える特性もあるという事だ。

 だが――この絡繰りが解ければ、十字架の傷の防御は容易い。

 聖句を耳に入れないようにすれば良いのだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 こうなると、騎士の天使は、高熱を帯びて高速で飛び回る兵器に過ぎない。

 "過ぎない"と言い捨てては居るが、常人には厄介極まりない相手だ。高速の時点で回避し(がた)く、受け止める等をして接触すれば火傷を負う。破壊しようにも、金属の耐久度が壁となって立ちはだかる。

 だが、渚にしてみれば、騎士の天使の本質が"金属の弾丸"である時点で、問題の大半は解決する。

 宙で独楽のように激しく回転する渚の元へ、2体の騎士の天使が接近してくる。大気の乱流の中でも彼らが口をパクパクと動かし続けているのは、相変わらず聖句を唱えているからであろう。

 騎士の天使は手にした馬上槍(ランス)を振り回して突き出し、渚を串刺しにしようとする。対して渚は、指を曲げた奇妙な掌底を作り出すと、繰り出された馬上槍(ランス)の横面に叩きつける。

 転瞬、グワワン、と馬上槍(ランス)が音叉のように細かく震動して音を立てたと思うと。掌底を食らった部位が突如、輝かんばかりの赫々(かっかく)に染まり、そのまま泡を立てながらドロリと融解してゆく。

 赫々の影響はそれだけに止まらない。大地を這い回る溶岩のように馬上槍(ランス)(さかのぼ)り、遂には騎士の天使本体に達すると。天使は体の至るところを赫々に輝かせながらデロリと解けだし、真っ赤な液体金属と化して床にボトリと落ちる。そのままプシュウ、と空気が抜けるような音を立てて体積を減らすと、小さな溶融した金属の滴と化す。それは、弾丸が融解したものだ。

 渚の使ったこの技は、練気の一種、『赤竜慟』だ。身体の熱を火霊によって増幅させつつ、細胞を震動させて高熱震動を発生。対象の固有振動数に干渉し、熱と震動の二面性によって破壊を引き起こす。

 弾丸という単純な構造の金属が本質であった事が災いし、騎士の天使は即座に固有振動数に干渉され、哀れにも熱震動の餌食になったのである。

 残る2体の騎士の天使は、無惨な最期を遂げた同朋の事など省みず、果敢に一直線に渚へと向かってくる。しかし、この彼らの突撃は最早、無謀の自棄(やけ)と同類だ。渚は馬上槍(ランス)による攻撃を回避しつつ、掌底と蹴りで――そう、『赤竜慟』は脚でも出来る――一気に騎士の天使達を解けた弾丸の滴へと返す。

 この勢いのまま、渚はエノクに突撃する。聖句対策として、身体中の体温に宿る火霊を増幅させ、炎の化身のように身体のあちこちからゴウゴウと火焔を巻き上げ、耳に届く音を蹴散らす。

 案の定、十字架状の傷を付けられることはない。

 (さぁてッ、お返しじゃぞいッ!)

 エノクの間近へと一気に接近する、渚。エノクも呆然と見届けてはおらず、脚を天使化させ、高速移動によって渚の背後に回り込みつつ、回し蹴りを後頭部に叩き込もうとしてくる。対する渚は体勢を低くして蹴りをやり過ごしつつ、ヒュウッ、フゥー、と素速く深呼吸。そして、腹部で気を練り上げると、再び掌底を作ってエノクの鳩尾に叩き込む。

 ズクンッ! 打撃とは異なる衝撃音が響き渡る。まるで、山のように巨大なゼリーをブルンと震わせた時のような、水っぽい震動音だ。

 転瞬、慟哭の面の下で、エノクは生理反射によって面と同じくらいの大口を開く。掌底を叩き込まれた彼の腹部は、やはり打撃とは異なる、破裂するような痛みと、内臓が直接かき混ぜられたような強烈な不快感を覚える。食道を内容物が(ほとばし)り、喉元(のどもと)にまでせり上がって、口の中を激しく熱い酸味で満たす。

 渚が放った掌底は、またも練気技術の一種である『波砕震』だ。打撃を与えた相手の内部の水分に作用し、激しい水流と震動を引き起こす。エノクの内臓はこの影響を受けて激しく震え、不快感を得たのだ。炎の塊のような姿とは裏腹の、水霊の作用を増幅させる技術である。

 エノクはそのまま、不快感に飲み込まれそうになるが――嘔吐物をゴクリと飲み下しながら、打撃を受けた腹部に対して天使化を作用させる。すると、エノクの腹部に縦横に幾筋かの切れ目が走り、それらはそれぞれ正方形の肉の破片と化して宙に遊離すると、それぞれが(のこぎり)を手にした小さな天使と化す。

 一方、エノクの腹部はポッカリと穴が開いた状態だ。その断面は抉れた左上半身と同様、粘土のような質感を呈する奇妙な凹凸面となっている。

 こうして、痛みを得た内臓を切り離したエノクは、不快感からケロリと解放される。そして自らの腹から作り出した天使と共に疾駆し、渚に襲いかかる。

 「神は、天の主にして唯一無二なり」

 エノクと天使が唱和する。しかし、渚には身に纏った轟々たる火焔がある。聖句が耳に届かないはずだが――。

 ブシュッ! 痛みと共に鮮血が宙に舞う。渚の首筋に、十字架の傷が3つほど固まって、皮膚と肉に穴を穿っている。

 (何じゃッ!?)

 渚は痛みと共に困惑を噛み殺しながら行き脚を止めると。身に纏ったは炎はそのままに、鋸を振り回す天使達へ拳足を叩き込む。ベチャリ、と力のない肉の感触が渚の身体に響き、天使達は熟れ過ぎた果実のように床に叩きつけられて広がる。

 だが、天使は直ぐにグググッと盛り上がって立ち上がり、元の形状を取り戻すと。すぐに渚の肉を切り取らんと飛びかかってくる。

 (面倒なヤツらじゃなッ!)

 渚はすぐに天使達の位置を把握して再び拳足を振るい、彼らを叩き伏せる――と。

 「一なる神を組み伏せし理不尽は無し」

 天使をかいくぐって接近してきたエノクが、右拳を叩きつけながら聖句を唱える。その言葉は、やはり、炎に煽られて渚の耳には届かないが…。

 ブシュッ! ブシュッ! 再び宙を待つ、鮮紅の煙。今度は渚の左頬や左耳に十字架状の傷が現れる。

 (なるほどのう…! 流石は天使の親玉、こやつは"特別"か…!)

 渚は思考を改めながら、突き出されたエノクの拳を屈んで回避しつつ、その腕を肩に背負う。そして雷のような勢いで地面に叩き落とす。

 「ぐは…っ!」

 背中から強かに叩きつけられたエノクが一瞬呼気を漏らすが。直ぐに面越しにギラリと視線を輝かすと、足で渚の顔面を狙う。つま先が渚の眼を目掛けて、一直線に向かってくる。

 渚はその蹴りをギリギリ引きつけてかわすと、中指を立てた拳を握り込み、黒点針でエノクの面越しに額を狙う。幾ら強烈な呪詛で生成された面とは云え、渚の卓越した練気技術による勁の一撃は、やすやすと面を貫通して頭蓋を貫くことだろう。

 対するエノクは、右手を突きだして渚の拳を受け止める。その手は無数の翼が生えて、天使化している。加えて、その掌には、まるで杭でも穿(うが)たれたように、鋭い突起が突き出ている。

 渚の突き立てた中指の間接と、エノクの突起が真っ向からぶつかる。まずは渚の一撃が技名の通り針となってエノクの掌を、そして腕を一気に貫通してゆく。エノクの右腕はたまらずビクンと痙攣する。

 一方で、エノクは激痛の走る右手で渚の掌をガッシリとつかみ取ると。掌の突起をグリグリと押し当てながら、聖句を唱える。

 「一なる神の恩寵を打ち倒す業は無し!」

 その言葉はやはり、渚の纏った炎が轟々たる音でかき消したが。渚の腕を幾つもの十字架状の傷がブシュブシュと刻まれる。

 (厄介なモノじゃな、この"特別"は!)

 渚はギリリと歯噛みし、腕をジクジクと苛む痛みに耐えつつ、エノクの手から拳を振り解こうとする。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 エノクの"特別"の原理。それは、彼の"聖句を唱える"と云う行為が、天使のそれと異なり、単に聞く者の魂魄の干渉するものではない事に発する。

 天使の親玉であるエノクの聖句は、もう一歩も二歩も前進した結果をもたらす。

 彼の聖句、および、信仰にまつわる行為は、世界そのものに対して"神聖"を認知させるのだ。

 結果、渚が言葉を耳にしようとしまいと、世界が"神聖"に従って、渚の身体に聖痕を刻みつけるのである。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 エノクは更に、もう一つ新たな業を見せつける。

 渚が捕まれた拳を振り解いて、身体ごと腕を引いた、その時だ。エノクの掌の突起がズワッと広がると、それは(いばら)となって四方八方に展開。植物の成長速度とは比肩にならない、超高速の奔流となって渚の腕を掴み、這い上ってくるのだ。

 (いたたッ! このッ、離さんかいッ!)

 すっかり茨に飲み込まれてしまった右腕を激しく振り動かし、解放を試みる渚。だが、茨はガッシリと腕を咥え込んだまま、シッカリと棘を肉に食い込ませて、離れようとしない。それどころか、棘を中心に体組織がギュルリと渦巻き始め、右腕から力が抜けてゆく。

 渚が茨と格闘している間に起きあがったエノクは、天使を腹部の穴に戻して、体勢を立て直す。そして足を天使化させ、純白の電光のように地を疾駆し、渚の背後へと回り込み、後頭部を狙って蹴りを叩き込んでくる。

 渚は舌打ちを残し、茨の処理を一端は諦めて、前方へと跳んで蹴りを回避。宙空で体を回し、エノクと対峙しようとすると――。

 バサバサバサッ! 無数の大きな羽音が響き渡る。そして、渚の視界には純白を身に纏った巨躯の人影に覆い尽くされる。

 巨大な剣を頂き、フードを目深に被って素顔を影で隠したそいつらは…この部屋に入った時、天井近くをクルクル回っていた8体の巨躯の天使達だ。エノクの左上半身が無いのは、彼らを創造する為に肉体を削ったからであろう。

 「神罰、此処に降れり!」

 8体の天使は一斉に唱和すると、大剣を軽々と振るい、渚を切り刻みにかかる。

 天使の大剣が、単なる金属の塊であったならば――渚は茨で片腕を封じられようとも、拳足で剣の腹を叩いて弾き、軽々と対処することも出来たであろう。だが、天使の大剣は厄介な事に、8体で各々異なる事象を(まと)い、激しい渦を巻いて斬撃を強化している。即ち――火焔の渦、吹雪の渦、水流の渦、電光の渦、土砂の渦、烈風の渦、聖光の渦、そして腐毒の渦だ。大剣を弾きに行けば、事象が即座に肉体を傷つけてくる。

 (面倒な事じゃなッ!)

 渚は歯噛みしながら、茨の痛みに耐えつつ、混沌の嵐と化した天使達の事象の斬撃の回避に専念する。傷つくのを承知で天使達を攻撃することも可能だろうが、いかんせん、渚の肉体は傷つき過ぎている。それに、天使を破壊しても、エノクと云う根幹を屈服させねば、再び天使を呼び出される。

 (そう、あの男…!

 何処へ行きおった!?)

 激しい斬撃の中、渚はチラリと視線を走らせてエノクの姿を探す。だが、直ぐに渦巻く事象の斬撃が肉体の間近を通過し、渚に集中を許さない。却って、ハチミツ色の髪が渦に巻き込まれ、チリチリに焦げ付いたり、ミチミチと引き抜かれたりする。

 (一端、距離を取るかのう!)

 渚は一気に上空に飛び上がり、8体の天使を眼下に見下ろす。天使達は正に神懸かった反応速度で渚を追うが、渚も神業的な達人だ。即座に『宙地』を駆使して横に跳び、8体の天使から距離を取る。

 その時だ。不意に、渚の顔に影が掛かる。ふと上を見れば、そこには天使化した脚を振り上げ、脳天へと叩きおろしてくるエノクの姿がある。

 渚が状況を脱する事を予測し、彼女が飛び出した所を迎撃に来たとでも云うのか。

 (こンのッ!)

 避けられないと判断した渚は、茨に被われた右腕を振り上げ、この腕を捨てる覚悟で踵落としを受け止める。

 ゴギンッ! 嫌な打撃音は、渚の腕の骨が完全に折れた音だ。茨の中ではただでさえ、腕の組織が渦巻いて負荷を得ていたのだ。そこにエノクの強烈な蹴りが叩き込まれれば、骨は脆くも破壊されて当然のことだ。

 「っつぁッ!」

 渚は思わず叫び、目尻に涙を浮かべる。だが、痛みを味わう暇などない。彼女の体は衝撃を受けて落雷のように床に落下したのだ。激痛がジンジンと思考を蝕む中、なけなしの理性で『宙地』を使い、床への激突は避けたものの――状況は、好転しない。

 と云うのも、8体の天使が上空から降りてきて、一斉に彼女の体に刃を振り下ろしてきたのだ。

 (ザン)ッ! 惨たらしい、骨身を断つ音が聞こえる。渚の体が、刃の直撃を受けた証拠だ。

 だが――渚は、8つに分断されてはいなかった。刃は確かに渚の体にそれぞれ食い込んでいたが、程度に違いはあるものの、体を両断するまで深い位置まで潜り込んではいなかった。

 渚は咄嗟に功を用いて肉体の硬度を高め、刃を受け止めたのだ。単なる剣であれば、彼女の硬度は却って刀身をポキリと折ったことだろうが。天使の刃は一味違う、渚の肉にスンナリと潜り込んでくる。そして、事象の渦で傷口を焼き、凍えさせ、激しく抉り、腐り(おか)す。

 そこへ、エノクが天使を分けて渚に急接近すると。渚の首を掴んで締め上げながら、体を持ち上げる。8体の天使は渚の体から刃を引き抜いて下がり、創造主が邪神を吊し上げる様をフード越しに見守る。

 「え…ぐ…っ」

 渚が舌をダラリと垂らし、唾液の糸を引いて、塞がった気道をなんとか開こうと呼吸を試みるが。エノクの万力のような腕は、ますます渚の首を締め上げる。そのまま頸椎をへし折らんばかりの剛力だ。

 血の気が引いて蒼白になり、滝のように冷や汗を流す、渚の顔。それを面越しに真っ向から見つめるエノクは、冷淡な声を口にする。

 「神の業を使って抗え、邪神」

 その言葉の響きには、軽蔑と共に失望の意志が読みとれる。

 「この程度では、試練の内にすら入らん。

 禍なる傲慢を捨て、全力を尽くし、真なる神の御業と戦え」

 エノクは武人ではない。むしろ、勝てる時には徹底して力を振るって勝利を収める、合理主義者だ。そんな彼がわざわざ相手の全力を誘うのは、合理主義者である前に、聖職者であるという意地のなせるものか。大きな試練こそ神に近づけるという信仰の大儀に沿った行動か。

 この言葉を聞いた渚は――喘ぐことすら困難な状況で悶えながらも、その顔に何とも傲慢で不敵な笑みを見せる。

 「じょ…だん…じゃろ…」

 答えを得るためか、エノクが少し締め付けを緩めたその時。渚は剛毅にも元よりの意志を貫いた言葉を口にする。

 「ヒト相手に…神の力なぞ…分に過ぎると…云うものじゃ…」

 「そうか。あくまで傲慢を貫くか」

 エノクはそう言い捨てると。(にわか)に渚の首を締め上げる手に更なる力を込める。渚の顔は色を失い、広角には苦悶の泡が(あふ)れ出る。

 「禍在れ、傲慢の大罪」

 そう語った転瞬、エノクの腕が変質。鋭い棘が高密度に生えた茨と化し、渚の首を貫きながら、いよいよ頸椎をへし折ろうと絞るように締め上げる。

 渚の顔面が更に蒼白になり、激しい苦痛に表情が歪むが――エノクは彼女の面持ちを見て、ピクリと片眉を跳ね上げる。明らかに、怪訝を抱いている表情だ。

 それもそのはず…絶対的な窮地に陥ったはずの渚が、苦痛に顔を歪めながら、微かながら笑みを浮かべているのだ。

 「何を嗤う、邪神」

 エノクは怪訝の色を消して不快感を露わにし、今度は眉に怒らせる。一方で渚は、酸欠気味で痙攣が始まっている左腕を、自らの首を締め付ける茨にポン、と力無く置くと。締まった気道を何とか動かして、途切れ途切れに言葉を口にする。

 「おぬ…の…底…これまで…か」

 「底?」

 エノクは不快感を露わにしながら、疑問符を浮かべて言葉を繰り返す。底――それは、底力の事を意味しているのか? つまり、"これで実力の全てを出し切ったのか"と訊いているのか?

 「知らん。

 が、どの道、お前はここで浄化される。

 地獄にて己の傲慢を永劫に悔いろ」

 エノクは冷淡に吐き捨てて、ギリギリと渚の首を更に締め上げる。棘が深々と首の肉に食い込み、ドロリと鮮血が茨の伝って滴る。

 渚はエノクの反応に、乾いた笑いを浮かべて、声にならぬ言葉をパクパクと呟くと。痙攣が酷くなった左手で、精一杯首の茨を力強く掴む。

 

 (無益な抵抗だ)

 エノクはゾウに噛みつく一匹のアリでも眺めるような眼差しで渚を見やる。そこに込められた感情は憐憫などではなく、見下した非難だ。

 エノクは、渚を引き裂かんばかりに敵視している。

 信奉するニファーナが神の座を失ってから現れた、二柱目の『現女神(あらめがみ)』。それが再び人心を奪ってゆくのかと懸念すれば、烈火のような憤怒が胸中にメラメラと燃え上がる。

 (傲慢に抱かれたまま、死ね、邪神)

 エノクは全力で茨と化した腕を締め上げて、渚の頸椎を破壊しに掛かる。

 どれほど鍛え抜かれた首だとて、呪詛によって細胞の能力を強化されたエノクの力に抗うなど、本物の『士師』ですら困難かも知れない。渚の首は、数瞬と待たぬ間にポキリと砕ける――はずであった。

 

 だが――予想外の事象が、2人の間に起こる。そしてエノクは、目を見開く。

 

 (何だ!?)

 ザワリ…腕を変質させた茨に、震えを伴う悪寒が駆け抜けてゆく。同時に、茨がビクビクと痙攣を始め、勝手にブルブルと蠢き始めると。その棘が見る見る内に(いばら)と化し、ポンポンと音を奏でるように次々と花を咲き誇らせる。その各々の花は、サクラにも似た薄いピンク色を呈するバラのものだ。

 勿論、エノクが意図しての所業ではない。

 (こいつ、何をした!?)

 エノクは渚に烈火の視線を送り、さっさと頸椎を粉砕しようと剛力を込める。しかし――花咲く(つる)と化した茨は、全く力が入らない!

 それどころか、花と化した棘が見る見る内に花びらを落として散ってゆくと。それに連動するように、蔓がシワシワに(しお)れて枯れ木の茶色を呈する。まるで、一年草の一生を早回しで眺めているかのようだ。

 (何はともあれッ! こいつを叩き潰す!)

 すっかり脱力した蔓から、スルリと抜け落ちる渚。その姿を認めたエノクは、直ぐに両足を天使化。まだ酸欠から立ち直っていないはずの渚の胴にたたき込み、盛大な浄化をブチ込むつもりだったが――!

 ギンッ! 渚の眼が、鋭い輝きを放ってエノクを睨みつける。ほんの数瞬前まで酸欠で喘いでいたとは思えない、刃のように研ぎ澄まされ、煌々と輝く星のように眩しい眼差しだ。

 「ッ(セイ)ッ!」

 渚は全身をギュルリと回転させ、激しい渦へと化すと。両足に青白く輝く烈風の颶風を巻き付けて、そのままエノクの胴へと突撃する。

 エノクの蹴りの方が発生は早かったというのに、渚の突撃はその速度を大きく上回る。蹴りが到達するよりも断然早く、渚の両足がエノクの胸に激突し、その筋肉をギュルギュルギュルッ! と抉る。

 

 練気と身体(フィジカル)魔化(エンチャント)を混合させた、渚独自の業だ。名前は特に付けていない。即興の攻撃だ。

 

 「グハッ!」

 エノクは胸筋への痛みと同時に、肋骨越しに肺を激しく圧迫され、悲鳴の混じった呼気を漏らす。

 それでもエノクは蹴りの勢いを極力殺さず、渚の体に叩きつける。

 天使の翼が幾つも生えた脚は、世界の認知する"神聖"の定義に従い、渚の組織に聖句を焼き入れる――はずであった。だが、蹴りを叩き込まれた渚の脇腹は、衝撃に歪むものの、浄化現象を起こさない。

 これではエノクの一撃は、ただの高速の蹴りだ。

 (何故だ!?)

 エノクの理解が追い付かぬままに、渚はエノクの天使化した脚を掴む。渚の手は、やはり、浄化の影響による体組織の歪曲を起こさない。小柄な体躯に似合わぬ万力のような力でエノクの脚をギリギリと掴み上げながら、その場に着地した渚は、エノクの脚をグルリと回転させる。独楽のように宙で回るエノクの頭部が床近くにまで移動した転瞬、渚は強烈な蹴りを容赦なく叩きつける。

 エノクは右腕一本で蹴りを受け止めたものの、ミキミキッと痛々しい軋みが響き、彼の体は紙切れのように吹き飛ぶ。そのまま床を数度転がり、堅い有機機械へ強かに衝突する。

 (邪神めが、何をした!?)

 エノクは体の芯から衝撃が抜け切らずとも、精神力で抑え込んで跳ねるように立ち上がり、面越しに渚を睨みつける。そして――渚の体に生じた"変化"を認識し、眉を(ひそ)めてギリリと歯噛みする。

 

 渚の輪郭が、ぼんやりと黒紫色の影に被われている。その陰惨な気配に呼応するように、渚の顔が鬼にも似た凄絶な笑みに歪んでいる。

 エノクは、渚が用いているこの技術の事をよく知らない。だが、彼女の纏う"影"が、浄化の影響を防ぐ役目を担っているだろう事を理解する。

 しかし、茨の棘を花に変え、急激に枯れ(しお)らせた技術が全く理解出来ない。

 そんなエノクの困惑を面越しの雰囲気に読みとったのか、渚は凄絶な笑みの中に挑戦的な眼光を灯し、満身創痍の身体を軽々と動かしながら、誘うような構えを取ってクイクイと指を動かしてみせる。明らかに、挑発している。

 「おぬしの天使の力、とくと味わったわい。

 ならばこちらは、悪魔的に行かせてもらうわい」

 ――確かに、渚の身体を包む黒紫の影や、彼女の凄絶な表情からは、悪魔と形容するに相応しい暗澹とした気配をヒシヒシと感じる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 渚の用いた2つの業。その正体は、全く別の技術によるものだ。

 

 まず、浄化を防いだ黒紫色の影。これは"感情魔術"と名付けられて体系づけられた魔術一派を用いたものだ。

 その名が示す通り、感情という心理現象を形而上および形而下に干渉させ、何らかの事象を得るというものだ。憤怒ならば炎や熱、爆発といった事象を得やすいし、悲泣ならば水や湿気、そしてやはり爆発といった事象を得やすい。

 渚は"神聖"や"浄化"に対抗するため、その真逆の事象を引き寄せるための感情を作り出すことにした。即ち、嫌悪や憎悪といった、負の感情である。これが魔術励起光として可視化したものが、彼女の身を被う黒紫色の影である。

 感情魔術は、事象を発生させる事が非常に困難であるとされている魔法技術だ。感情という心理現象は個人に強く依存しており、事象世界に干渉を起こせるほどに影響を波及させる事が難しい。それを成すには、感情の強さと共に、感情を構築するクオリアを干渉させやすい構造へと操作する器用さが求められる。

 この困難に打ち勝てるほどに、卓越した魔法技術と感情操作技術を持つ渚は、やはりユーテリアで"最強候補"として名を上げられる程の実力者に相応しいであろう。

 

 さて、もう一つの業――茨を破壊した技術は、練気の応用だ。しかも、飛び抜けて硬度な応用だ。

 練気は、旧式の魔法体系として知られる五行思想の影響を強く受けている。五行の各々の属性は、身体部位や要素に対応するように関連づけられている。

 即ち――火は体温に、水は水分に、土は筋肉に、金は骨格に。そして木は雷気を含むことから、電流の走る神経系統に対応する。

 練気において木行を反映した業と云えば、神経電流を増幅させることで実現する電撃や電磁場である事が大部分だ。…とは云え、木行が全て雷気ばかりに関連するワケではない。

 人間の体構造上、干渉は困難であるものの、原義である植物への干渉を行う事も可能だ。

 渚が使ったのは、この原義によるエノクへの干渉である。

 茨と化したエノクの腕には、植物のクオリアが含まれていた。ここに練気による木行を干渉させ、急速な成長を促し、茨の寿命を迎えさせたのである。花が咲いた事象は、茨の成長を物語るものだったのである。

 

 この2つの業を用いて、渚はエノクんも拘束と浄化に対抗したのだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「悪魔、か」

 エノクは面越しに燃え盛る視線を渚に叩きつけ、地の底から響くような威圧的な声を上げる。

 渚はそれに対して、ちょっと表情を緩めて語る。

 「悪魔と言えば、のう。

 ちょいと昔に、おぬしのものと良く似た能力(ちから)と対峙した事があったわい。

 おぬしの場合は天使じゃが、"あやつ"の業は悪魔であったのう。

 あの時は大分苦労したが、その経験が生きておるようじゃ。お蔭で、『現女神(あらめがみ)』の能力(ちから)を発揮せずとも、おぬしと十分に渡り合えておる」

 「…悪魔と振興を持つか、卑しき邪神めが…ッ!」

 エノクは火を吐くような重苦しい声で渚を威圧すると。8体の天使を左上半身に戻し、五体満足な肉体を取り戻す。

 しかしその直後。彼の体は大きな異変を生じる。腕も脚も、胴すらも天使の翼が滅茶苦茶に生じたかと思うと。両腕とその付け根がバラリと裂けるように展開。翼ともクモやカニの脚とも付かぬような、幾つもの枝分かれした腕となる。その先端には勿論、手がくっついているものもあるが、口がくっついていたり、小さな天使の上半身がくっついているものもある。

 エノクの体は枝分かれた上半身に対応するように、胴がヒョロリと上に延び、身長が優に3メートル半は越えるようになる。

 その姿は、神の使者と言うより、闇夜に浮かび上がる不気味な針葉樹か、神性とは真逆の禍々しさを連想させる異形の怪物を思わせる。

 エノクは縦長の体をグラリグラリと揺らしながら、枝の先についた口と共に、エコーがかった叫声を張り上げる。

 「神の名に()いて、我、邪を(はら)い滅ぼさん!」

 「やってみるが良いわ、似非(えせ)使徒がッ!」

 渚は感情魔術と身体(フィジカル)魔化(エンチャント)による二重の筋力強化を用いた加速で、烈風の形容すら生温いような加速を実現。一瞬にしてエノクの懐に潜り込むと、その胴に黒紫色の影に被われた右拳を叩き込んだ。

 

 邪神と呼ばれし者と、神の徒を語る異形との交戦は、佳境に突入する。

 

 - To be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Irresponsive Hate Anthem - Part 3

 ◆ ◆ ◆

 

 ――それは、今から約一年前の渚の記憶だ。

 当時1年生であった彼女とバウアーとが、ユーテリアにおいて"学園史上最強"と言われた3年生のペアに挑んだ時の話である。

 

 「いやいやー、ホント危なかったわー」

 その少女は、片方の鼻の穴から盛大に飛び散った鼻血をグシグシと拳で拭いながら、ちょっとくぐもった声を放った。その声音には驚愕と、そして尊敬の意が込められていた。

 少女の声がくぐもっていたのは、彼女の右頬が盛大に腫れているからだ。強烈な拳の一撃を食らったらしく、真っ赤を越えて紫に変色し、見た目からして痛々しい。歯が折れていないのが不思議な程の損傷だ。

 この少女は、非常に小柄な体躯をしている。渚も小柄だが、それよりも数センチ低い。だから一見すると渚よりも年下にも見えるが、実際には渚より2歳年上だ。

 初夏の新緑を思わせる髪をショートカットにし、ディフォルメされたドクロの髪飾りを付けた、可愛らしさを想起させる外観。対して身につけている制服は大して飾ってはおらず、それどころか動きやすさを配慮して、シンプルさを追求した改造を施している。

 彼女こそ最強ペアの片割れ、『悪魔使い』椰鋳(やい)禍凪(かなぎ)だ。

 「やっぱ、現女神(あらめがみ)ってのは伊達じゃないねぇ。気なんて抜けやしない。

 それに、交戦回数を重ねるごとに、倍以上の実力を付けてくるんだもんさ。肩肘張るわ~」

 鼻血を吹き終わった禍凪は、首を左右に振りながら深い溜息と共にそう語ると。猫のように縦長な瞳孔で、つい宣告まで交戦していた相手を見やる。

 その相手こそが1年生であった立花渚だったのだが――渚のやられっぷりは、禍凪のそれに比べると差が酷い。

 崩れた"大"の字になって地面に転がる姿は、完全にノックアウトされた事を物語っている。ハチミツ色の髪はグシャグシャに乱れて、使い古したブラシのようになっている。額からは盛大に血がドロリと垂れ流れており、左目のあたりは内出血でドス黒くなって腫れ上がっている。蒼穹の瞳の奥には、まだメラメラと燃え盛る意気の炎が見えるものの、気絶を誘う曇りに押され気味だ。

 禍凪が『現女神』の言葉を口に出した通り、渚は『現女神』の力をふんだんに発揮していた事が分かる。その体は彼女が唯一使役している『天使』によって武装されていた。両腕には獣面の籠手、背には魚類のヒレにも見える一対の純白の翼、臀部からは骨片が連なったような尾が伸びる。尾の先端は、彼女の神としての号である"解縛"を象徴するような、鍵をあしらったような形状をしている。そして頭上には、棘の付いた光輪を戴いているものの、激しくやられた影響からか、その輝きは使い古した蛍光灯のように薄暗く、点滅さえしている。

 「…全く…相変わらず…バケモノじゃのう…おぬしは…」

 渚は血で赤色が際だった口をプルプル振るわせつつ文句を語ると。禍凪は腫れた頬も気にせずに、ケラケラと子供のように笑ってみせる。

 「"おぬし"じゃなくて"禍凪先輩"だろー?

 まっ、今更気にしちゃいないんだけどさ。最後くらい、マンガの最終回みたいに、感謝と敬意を込めて"先輩"って呼んで欲しかったなー…なんちゃってね」

 "最後"。そう、この光景は、当時のユーテリアの最強ペアに対して、渚とバウアーが挑んだ最後の戦いの結果である。渚とバウアーは1年生の期間中、この最強ペアと幾度となく交戦し――そして、(ことごと)く敗北を喫してきた。

 渚がこのようにボコボコにされて地面に這いつくばっている一方で、同じ演習場の別の場所では、バウアーが禍凪の片割れによって完膚無きまでに叩きのめされていたことだろう。

 さて、禍凪はフゥーと一息吐いてその場に腰を下ろすと。ようやく腫れた頬の痛みを認識したようで、「痛ぇー」と呟きながら頬を優しく撫でつつ、渚に視線を投じる。

 「しっかし、この1年間、よくもまあ懲りずにあたい達に挑んできてくれたもんだ。

 そのお陰で、あたいも森羅も面白ぇ1年を過ごすことが出来た。アンタらが居なかったら、退屈で死んじまってたかも知れねぇ。

 その点、アンタらには感謝してる」

 森羅――その名こそ、禍凪の片割れであり、最強ペアのもう一人。壬無月(みなづき)森羅(しんら)の事を指している。

 渚が"感謝"と云う言葉に乾いた苦笑を浮かべている最中。禍凪は更に言葉を続ける。

 「アンタらって云う好敵手が居たお蔭で、あたいらは更なる高みに至る事が出来た。

 あたいなんて、『現女神』と交戦する機会を何度も得たワケだしね。『神霊圧』だとか、『神法(ロウ)』ってモンがどんなモンか、この身でじっくり味わう事が出来た。

 その上で、ヒトの身でも修練さえ積めば、神を冠するモノと肩を並べられる事を実感出来た。

 貴重な体験だった、ホントに感謝だよ」

 「…わしらは…おぬしらの…踏み台かよ…」

 ようやく渚が苦言を形にして口に出すと。禍凪はケラケラと笑い、そして頬の痛みに顔を歪める。

 「いやいや、踏み台なのはお互い様だろ?

 アンタらだって、あたいらとの交戦の最中に、更なる高みに至ってるじゃないか。正直、腑抜けの多い2年生より、アンタらの方が断然実力がある。並大抵の3年生だって、歯が立たないだろうさ」

 「そんなわしらを…軽々と…超えてみせる…おぬしらは…一体何なんじゃ…」

 「軽々とじゃないっつーの。

 ホラ見ろよ、このほっぺに、この鼻血。制服抜けば、体中打撲だらけだろうさ。

 一瞬でも気を抜けば、あたいの方が負けててもおかしくなかったよ」

 「…どうだか…のう…」

 渚は肩でも(すく)めたい気持ちでそう語る。が、それに対する禍凪の反応は、意外なものであった。

 それまで冗談めいたような柔和な雰囲気があったのだが。それがガラリと代わり、雷を孕む暗雲のような重圧を伴う。

 禍凪が、静かに怒りを訴えている。

 「そんなに自分を下に見るんじゃねーよ、不屈の挑戦者」

 禍凪は立ち上がると、コツン、と軽く渚の血に塗れた額の辺りを爪先で叩く。平時ならば大した衝撃でもなかったろうが、満身創痍の渚には顔を歪めるほどの鈍痛が走った。

 その様子に禍凪は一瞬、申し訳なさそうな表情を作ったが。すぐに咳払いをしてから、怒りの言葉をの続きを述べる。

 「自己の過小評は劇毒だ。折角の自分の大きさを縮こめちまう。

 過大評価もマズいっちゃマズいが、卑下して自分を縮めるよりゃ、よっぽどポジティブでマシなもんさ。

 アンタらは、学園でぶっちぎり最強のあたいらから逃げることなく、諦めることもなく、挑戦し続けてきた。その実績は、誰にも――自分にも否定しようのない成果なんだぜ? それは素直に受けれ居て、自分を()めてやれよ。

 その体に刻まれた傷は、いつかの日か必ずや実力という血肉となるのさ」

 この時、渚は一瞬キョトンとしてから、そして力なく笑いつつ答えた。

 「おぬしから…初めて…先輩らしい言葉を…聞いたのう…」

 「…おいおい、その台詞は聞き捨てならないぞ?

 確かにあたいの方が背は小さいけどな、年長なのは確かなんだからな! 背丈の大きさでヒトを計るような真似をしてんじゃねーよ!」

 「…いやいや、そうではなく…」

 途端に不機嫌になる禍凪に対し、咳き込むように笑いながら渚は返す。

 「普段…おぬしの粗野で…野蛮な物言いばかり…聞いておったからのう…。

 そんな…マトモな事も言えたのかと…関心したのじゃわい」

 「…アンタは、あたいの事をどう見てんだよ…」

 禍凪はジト目を作って、渚を見下ろす。が、すぐに"やれやれ、仕方ないヤツだ"と言った感じで肩を(すく)めて首を振ると。両腰に手を置いて、強い口調で語る。頬の痛みを気にせずに口を大きく動かしていたのは、もしかすると身体(フィジカル)魔化(エンチャント)によって鎮痛処置を行っているからかも知れない。

 「ともかく、だ。

 自分を信じな。自分の積み上げてきた実績を信じな。

 アンタは、強い。並のヒトなら十分過ぎる程に、強い。そしてアンタの強さは、更に磨くことが出来る。

 自分の可能性も信じて、もっと強くなりな」

 「…勿論…じゃとも。

 次に会った時は…おぬしを…超えてみせるわい…!」

 渚が精一杯の力を込めてその言葉を口にすると。禍凪はチッチッチッ、と舌打ちしながら人差し指を立てて左右に振る。

 「それは無理だねぇ。

 あたいだってもっと強くなるからさ。

 アンタみたいな一年風情に良い一撃もらって、ほっぺをブックリと腫れさせるような無様は、もう二度と御免だからねぇ」

 「…風情と…言い切りおったか…!」

 渚がピクリと眉をしかめて言い返すと、禍凪は意地悪そうに目を細める。

 「おーおー、言ったよ。一年風情ってな。

 それが悔しいンなら、もっともっと強くなりなよ。

 誰にも負けないくらい、メッチャクチャに強くなりなよ」

 禍凪はそう語り、ケラケラと声を立てて笑うと。倒れた渚を後に残して踵を返し、その場を去って行く。

 渚はそんな禍凪の背中を見送りながら、鉄錆のような血の味が広がる口の中でギリリと歯噛みすると。満身創痍に響く事も忘れ、大声を出した。

 「当たり前じゃわいッ、超強くなってやる!」

 ――そして渚は、全身を襲う電撃のような激痛に苛まれ、涙をジワッと滲ませながら、(しば)し静かに悶えたのであった。

 

 在学中、渚とバウアーのペアを打破し続けた椰鋳禍凪と壬無月森羅の2人は…卒業後、以前からスカウトされていた地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に入隊。最も激しい交戦任務をこなす"エボニーコート"軍団に籍を置いた。

 そして今なお、彼らは超異層世界集合(オムニバース)中にその名を轟かせ、活躍している。

 ――そんな彼らと肩を並べようと奮戦し続けてきた渚とバウアーは、その過程で得た矜持を今なお持ち続け、『星撒部』での任務に当たっている。

 即ち――絶対に、誰にも負けない――!

 

 ◆ ◆ ◆

 

 時は、現在――渚とエノクとの交戦の場へと戻る。

 

 渚の放った強烈な一撃は、異形と化したエノクの高く伸びた胴体を深く(えぐ)る。

 エノクは、胴体のみならず全身が天使化し、触れたものを(すべから)く浄化する能力(ちから)を発揮する――はずである。だが、渚の感情魔術によって黒紫色に染まった拳は、浄化を完全に中和し、エノクの肉体を単なる有機物の塊として(とら)え、衝撃を内臓深くにまで届ける。

 「ッ!!」

 エノクの高い背丈がグラリと揺れる。渚の放った暗黒の拳は、エノクの強烈に神聖化された体組織に拒絶反応を引き起こし、激痛を走らせる。加えて、拳に加えられた強力な回転がエノクの腹部を掻き回し、船を飲み込み藻屑と化す渦潮のような激しい(ゆが)みを引き起こす。

 だが、エノクは決して挫けることはない。顔の口で苦痛を噛み殺しながら、広がった枝のような無数の腕の先端についた口からは、高らかな聖句を唱える。

 「恩寵は、信徒たる我の元に在りッ!」

 この聖句によって、身に受けた暗黒の影響を塗り潰すと。今度は無数の手で堅い拳を握り込み、渚の頭上から流星群のように天使の拳撃を雨霰と降らせる。

 「天罰は、邪なる偽神の元に降れりッ!」

 ()()()()()()ッ! 神々しい純白の奔流となって降り注いだエノクの拳撃だが、渚は激流の中でヒラヒラと舞う木の葉のように軽やかにして素速い動作でその合間を拭う。

 高速の拳撃の中、一度たりとも直撃を受けなかったものの――無傷とはいなかなかった。多数の口で聖句を唱えるエノクの神聖力は、放つ純白の輝きだけでも高熱線のようなエネルギーをジリジリと叩きつけてくる。感情魔術で浄化に対抗している渚の身体も全てを浄化し切れず、皮膚には聖句を刻んだ火傷がクッキリと現れる。

 しかし、渚とて決して挫けることはない。

 (痛みなぞ、交戦すると腹を括ってる時点で覚悟済みじゃわいッ!)

 ジクジクと己の肉体を蝕む苦痛を、更なる暗黒を呼ぶ感情魔術の燃料へと化しながら、拳の雨を抜けてエノクの横手へと回る。そして再び拳を握り、今度は中指の間接を突き出して、強烈な回転を加えながら長い脇腹に叩き込む。

 感情魔術による暗黒、拳撃による物理的な暴力、そして練気『黒点針』による体内へと抜き抜ける厳撃。それはエノクの天使化した脇腹にも、クッキリとした漆黒の傷痕を刻み込む。この傷痕が逆五芒星を刻んでいるのは、渚の魔術による影響というよりは、エノクの神聖化された体組織による拒否反応の徴候らしい。

 「邪に膝を折る、正義は無しッ!」

 エノクは痛みを押し殺すように、火を吐く勢いで無数の口から聖句を唱えると。今度は天使化した脚を渚に叩きつける。純白の輝きを伴う蹴りは、真空の刃を伴って渚の腹部を直撃する。

 渚は身体(フィジカル)魔化(エンチャント)で強化した腹筋で蹴りの斬撃を防いだものの、鮮血が飛沫(しぶ)くのを免れない。エノクは神聖化だけに頼るだけでなく、基礎的な体術にも優れている。

 だがやはり、渚は倒れるような素振りを全く見せない。

 それどころか、『宙地』をアレンジした方術陣を展開。その上で跳ぶと、トランポリンのようにギュンと宙を切って急上昇。エノクの顔の高さまで上がると、彼の顎に拳を叩き込む。勿論、練気や身体(フィジカル)魔化(エンチャント)でガチガチに強化した一撃であり、顎どころか脳天にまでも爆発的な衝撃が――いや、実際に爆発が発生し、エノクの後頭部に突き抜ける。

 エノクの体が、嵐に翻弄される巨木の如くにグラリと大きく傾いたが――それもほんの一瞬の事だ。白目を剥き始めていた眼球をギロリと戻し、渚の顔を睨みつけると。枝のような腕の数分で渚の体をガッシリと組み掴むと、流星の勢いで床に叩きつける。

 骨の髄にまで響く衝撃が、渚の消化器から血反吐の塊を戻させる。加えて、直接接触による浄化が、焼き(ごて)のように渚の腕や胴にクッキリとした聖句の火傷を刻み込む。

 「冒涜に、眠りを許す寝床は無しッ!」

 エノクの聖句に対し、渚は口の中いっぱいに広がる鉄錆の味を振り切るようにして、反発の声を浴びせる。

 「お主に許される寝床なぞ、要らぬわいッ!」

 そして渚は、感情魔術による黒紫の魔術励起光を更に濃くし、エノクの腕を浸食する。するとほんの一瞬、ピクンとエノクの腕が反射的に力を失う。その隙にすかさず付け入った渚は、肘で床を叩いて激しく回転しつつ跳び上がり、エノクの拘束を振り解く。――と、同時に、激しい胴回し回転蹴りによって、エノクの腕を更に激しく弾き飛ばす。

 

 両者の一進一退の攻防は、果てなど来ない程の勢いで、激しく目まぐるしく続いてゆく。

 時が経つに連れ、両者の身体には着実に痛々しい傷痕が刻み込まれてゆく。元より満身相違であった渚は勿論、エノクも純白の輝きの中に鮮血の赤や内出血の黒などを交えている。

 顔面や内臓を直接的に攻撃する苛烈な業が、子供の喧嘩におけるパンチの応酬のように、頻繁の交錯する。その直撃を受ける度に、両者の眼には気絶を誘う曇りの帳が降り、血反吐を噴出する。神聖化されたエノクの身体ですら痙攣が走り、体軸がグラリと激しくブレる。

 それでも両者共に、白旗を上げることはない。すぐに激痛を噛み殺し、曇った眼に憤りの輝きを超新星のように灯すと。再び拳を握りしめ、あるいは烈風のように脚を振るい、相手に全力で叩きつける。

 その応酬は、正に嵐と嵐がぶつかり合い、雷雨を振りまく混沌の空模様のようだ。

 一撃一撃を放ち、そして受ける事で、肉体には着実に疲労とダメージが蓄積しているだろう。しかし、それらに[(おか)されてる様子は、全くと云って良いほど見受けられない。それどころか、時が経つ程、傷が刻まれる程にますます勢いは増し、相手を魂魄ごと虚無の奈落へと叩き落とそうと荒れ狂う。

 両者には、どんな苦境にも激痛にも膝を折らぬ、頑とした信念がある。

 それは単に、強烈な意地と言い換えられるような代物かも知れない。それでも、その意地こそが両者の意識を繋ぎ止め、意志に動き続ける炎を与えているのだ。

 「裁き、邪なる汝を罰せりッ!」

 (何が裁きじゃ、何が罰じゃッ! やれるものなら、やってみよッ!)

 一方は無数の口から声を、一方は苦境を噛み殺す胸の内での声にならぬ叫びを、互いに叩きつけて戦いは続く。

 

 ――だが、有限たるヒトの世界に、永劫など存在しえないのだ。

 両者の交戦にも、終焉の時が訪れようとしている。

 その徴候は、神の信徒たるエノクの異変から見て取れる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (屈してなるものかッ!)

 身を異形に落としてからと云うもの、エノクの心中は焦熱地獄の如くに燃え(たぎ)っている。

 (こんな降って湧いたような存在どもに、屈してなるものかッ!)

 ――いや、エノクの心中の焦熱は、正確に云えば今に始まった事ではないのだ。

 『現女神』としてのニファーナを失った都市国家プロジェスが、それまでの凛とした気概を失った時から、炭の中心で静かにグラグラと燃える炎熱のように、ずっと燃え(たぎ)っていたのだ。

 (貴様等が、民の精神から我らの真なる神を奪い去ったッ!)

 都市国家プロジェスの長年の悲願を達成したのは、『現女神』ニファーナの存在有っての成果。どんなに努力と奮闘を重ねようと決して手に入らなかった悲願を、民の手に渡したのはニファーナだ。

 しかし――ニファーナが決意と共に望んだ決戦で敗北を喫した後。颯爽と現れた外野の『現女神』レーテが、事も無げに敵を掃討すると。民の信奉はコロリと方向を変え、プロジェスに悲願をもたらした功労者ニファーナを忘れ、流星のように現れては消えたレーテへと向いてしまった。

 ポッと出の、福引きで偶然にも得た賞のような存在が、これまで積み上げて来た堅固たる信奉の牙城を瓦解させた。その軽薄なくせに大きな成果を残す所業が、憎らしくて堪らない。

 (貴様等はいつも、掠め取る卑劣ばかりを為すッ!)

 都市国家プロジェスはニファーナの登場よりずっと前から、苦境の中で繁栄を勝ち取ってきた、敬うべき国家である。

 ニファーナは登場後、プロジェスの在り方を一切否定しなかった。それどころか、プロジェスの在り方を全面的に受け入れた上で、出しゃばる事なく尽力し、その繁栄を頂点に導いた。

 ――これに対して、他の『現女神』どもときたらどうだ。

 "陰流"のヌゥルは、求心活動の欲を満たすため、暴力的手段に訴えて繁栄の頂点を手にしたプロジェスを奪いに掛かった。

 "鋼電"レーテは、志高き民が血の涙を流して繁栄を取り戻そうと努力を重ねていたところへ湧いて出て、結果を掻っ(さら)っていった。そして、志低き民の信仰を奪い、上空に電光の走る天国を残していった。

 積み上げた努力を横から奪い取るなど、卑劣の極みと語って過言でない所業。それを平然と為す邪神どもが、憎らしくて堪らない。

 (貴様等が愚民どもを惑わしッ! 愚民どももまた、誘惑を素直に受け入れる、何たる愚行かッ!)

 今のプロジェスの民の姿は、一体何だと言うのか。

 心血を注ぎ、志半ばで人生を終え、国家の(いしずえ)となってきた父祖達が彼らを見れば、どれほどの涙を流し、どれほどの青筋をこめかみに浮き上がらせることか。

 "独立独歩"を信念と気概にする、孤高なる精神は絶滅危惧の断崖上にある。そして残った(わず)かな信念の臣民達は、呪詛と云う不本意な力に体を蝕まれる恥辱を受けれ、古き良きプロジェスの姿を取り戻そうと奔走していると云うのに。愚民どもは彼らの努力を歓迎するどころか、膿でも見るような目で軽蔑するか、眼を開いたまま視界から閉め出すばかりだ。

 そんな志低く、プロジェスが積み上げてきた重みを知らぬ愚民どもが、憎らしくて堪らない。

 (そして、我らの悲願を潰さんとする、この邪神ッ!)

 如何に神聖を叩きつけようとも、眼に輝きを灯し続け、あくまでもエノクが至らんとする悲願を阻み続ける、この邪神! こいつへの憎悪は、格別だ!

 こいつは、エノクが憎むすべての要素を内包している。

 フラリと湧いて出て、ほんの数日都市(まち)を彷徨った程度で。愚民どもと心を通わせ、彼らの意向を背負い、プロジェスの気概を取り戻さんとする自身と同朋を叩き潰そうとする、邪悪の権化!

 「禍在れ、禍在れ、禍在れッ!」

 エノクの体の無数の口は、何時の頃からかひたすらにその言葉を吐き出し続ける。

 「禍在れ、禍在れ、禍在れッ!」

 それは、エノクの聖歌だ。憤怒と憎悪を含んだ聖歌だ。責を負わずにプロジェスの繁栄を掠め取り、謳歌しようとする全ての者を呪う聖歌だ。

 信仰と呪いは紙一重、何かを強く想い念じる様には変わりない――その言葉があまりにも実を帯びる程に、エノクの呪いは神聖なまでに純粋であった。

 

 その強い念が、エノクの能力(ちから)を進化させる。

 

 エノクの姿が、更なる変貌を遂げる。

 広げた枝葉のような無数の腕が、純白の輝き一色に染まり、輪郭を失う。腕はもはや物体である事を捨て、神聖という概念を形而下に表現する概念的存在へと変じる。

 純白の輝きはエノクの胴にも至り、彼の体の大部分は目も(くら)むような閃光に包まれる。

 輝きの中、頭と足先だけが辛うじて見て取れるエノクの姿は、もはや天使ではない。

 天使という概念を通り越してしまった、もっと純粋な神聖の存在。

 それは"信仰"がヒトの形を取った姿である、と形容出来るのかも知れない。

 

 「禍在れッ! 入滅せよッ! 傲慢にして卑劣なる邪神ッ!」

 エノクは轟雷のように絶叫し、純白の輝きの群と化した腕を一気に操る。それはイソギンチャクが全ての触腕を振るってエサに襲いかかるが如く、神聖の奔流と化した無数の腕を広く展開し、渚をスッポリと包み込むように四方八方から叩きつける。

 今のエノクが発する神聖は、渚の感情魔術による暗黒では、とても抗し切れるものではない。暗黒は強烈な純白の中に飲まれ、渚を覆っていた黒紫色の影は強風に消し飛ばされた蝋燭(ろうそく)の灯火のように消え去ってしまう。

 防御もなく、剥き出しの肉体一つとなってしまった渚は、太陽を直視するような純白の輝きに全身を焼き焦がされる。触腕に接触されていないにも関わらず、輝きに触れるだけで皮膚がブスブスと煙を上げ、次々と聖句の形状を取る火傷を刻印のように刻んで行く。

 「むうぅっ!」

 網膜が焼き潰されるような純白一色が視神経に与えるズキズキとした激痛と共に、全身の皮膚が上げる悲鳴を受けて、渚が思わず呻き声を上げる。

 だが、エノクの攻撃の真価は、この直後に顕現するのだ。

 神聖の触腕が、次々と渚の肉体に接触する。物体としての性質を失ったはずの触腕だが、巨大な鉛の塊でもぶつけられたかのような衝撃が、渚に次々と襲いかかる。

 「むう…う…う、あ、あ、ああ…ああああッ!」

 渚が、絶叫を上げる。全身のあらゆる部位に叩き込まれる衝撃に翻弄され、五感は震撼と共に狂乱する。同時に、聖句が焼き込まれた皮膚が、次々と盛大な血飛沫を上げて行く。皮膚、それどころか、表層の筋肉まで一気にめくれ上がり、十字架状の傷が次々と刻まれて行く。傷は幾重にも折り重なり、元の形状が何であったか分からないような、無惨なる(えぐ)れとなって、凄惨な真紅をボタボタと噴き出す。

 エノクは、渚を触腕で何度も、何度も、何度も、何度も――滅多打ちにする。その度に渚はビクンビクンと大きく痙攣し、盛大な血液を飛沫いて、ああああッ! と絶叫する。それでも倒れないのは、渚の意志力と云うよりは、エノクからの四方八方の衝撃によって倒れることすら許されない状況に陥っているからかも知れない。

 ――何にせよ、このまま神聖の触腕を喰らい続ければ、渚の肉体は十字架の傷によって抉られ続け――最終的には、大量の血液だけを残し、削り取られて消滅してしまうことだろう。

 

 ――だが、この状況においても渚は…絶望を覚えてもいなければ、敗北を認めることもなかった。

 むしろ彼女は、この苦境に陥ってなお、絶叫をしながらもなお――しっかりと、見据え続けている。

 己の、勝機を!

 

 ◆ ◆ ◆

 

 (おぬしの聖歌、この身にて存分に堪能させてもらったわい。

 じゃがな――!)

 衝撃に翻弄され、口の中いっぱいに鉄錆味の血を含み、額から滝のように流れる血液で視界が真っ赤に染まりながら――尚も渚の意識は、しっかりと自我を保っている。

 そして血液に染まった眼球の奥底でも、勝利への意志の輝きは、決して消えてはいない。

 むしろ、その輝きは爛々(らんらん)と勢いを増している!

 (そんな乾きもがく蚯蚓(ミミズ)のような呪いの聖句でッ!)

 強烈な衝撃の連続に翻弄されながらも、渚は地響きを立てんばかりの勢いでしっかと、床に力強き一歩を刻む。

 (ヒトを屈服させようなぞ、我が(まま)気侭(きまま)のガキの理屈じゃあッ!)

 (ダン)ッ! 渚の足が床を蹴り、轟雷の如き爆発的な音を立てる。

 同時に、渚の体は神聖の触腕が叩き込む衝撃を振り切り、烈風――いや、閃光の如き勢いと速度で、前方のエノクへと突進する。

 そして、彼女がエノクの間近にまで肉薄するには、ほんの一瞬の時間しか掛からない。

 (こいつ、この期に及んで、一体何を――)

 エノクが眼を見開き、渚の抵抗を目に焼き付けた――その時。

 (ドン)ッ! 強烈な衝撃が、物体という性質を失ったはずのエノクの胴に、叩き込まれる。それは爆裂となってエノクの神聖と化した内臓や骨格を揺るがし、彼の身を包む純白の輝きを一気に霧散。イソギンチャクともヒドラとも取れない、天使と云うよりバケモノにしか見えない真っ白な異形を白日の下に(さら)す。

 (ッ!!)

 物体である事を捨てたはずの肉体に、強大な爆発の衝撃波が干渉する。その事実に、エノクは苦痛と共に困惑を呈する。

 渚の使った技は、練気の勁技術の中でもトップクラスの破壊力を有する『鋼爆勁』に間違いない。しかしそれは、形而下の現象として爆発を引き起こすものであり、"神聖"の存在と化したエノクの肉体には影響を起こし得ない――はずであった。

 

 ――だが、練気も初戦は、魔法科学の産物なのだ。

 そして魔法科学は、感情魔術に代表されるように、意志と云う形而上の力が事象に干渉する…いや、時には(ゼロ)から生み出す事を自然現象の一環として認めているものだ。

 この『鋼爆勁』において、渚はエノクの対する強い憤りを込め、爆発を放った。エノクが万人に正道として押しつけようとしている我が侭気侭を、根こそぎ叩き折ろうとして、山をも揺るがさん劇場を込めて、一撃を放った。

 その意志が形而上だの形而下だの、物質だの"神聖"だのといった理屈を超えて、"エノク・アルディブラ"と云う存在を叩きのめしたのだ。

 

 「ッがあああぁぁぁぁッ!」

 エノクは全身の細胞一つ一つが盛大な破裂を起こしたような衝撃に、(たま)らずに悲鳴を上げる。声帯を壊す程の悲鳴を振り撒きながら、稲妻のような勢いで一瞬たりとも抗う(いとま)もなく、一直線に吹き飛んで行く。

 そしてようやく彼の体が止まったのは――巨大な有機機械装置に激突した時だ。それでも衝撃の余波でエノクの体はバウンドし、1メートル強の距離を弾き飛ばされる。

 そこへ更に――渚が追い打ちとばかりに一直線に接近。中指の間接を突き立てた『黒点針』の拳で(もっ)て、激しい回転を掛けつつ、エノクの鳩尾(みずおち)に当たる部分――胴が変形していて確固たることは言えないが、大体そこに当たるであろう部分――に、颶風のように叩き込む。

 そこが鳩尾として正解だったかどうかは、エノクにも判別は付かない。何せ、この一撃で彼はバウンドした距離を一瞬にして後戻りし、岩盤のように堅い不気味な有機機械装置に叩きつけられ、更にはメキリと機械に悲鳴をあげさせつつめり込んだのだ。

 そして渚は、めり込んだエノクの元に拳を(えぐ)り込んだまま、立ち尽くしている。

 内臓と共に脳天を突き抜ける鋭い痛みに、エノクの瞳が一瞬白目を剥き、グラリと長身を揺らす。だが、渚の攻撃はこれで止まらない。

 完膚無きまでの完全勝利をもぎ取らんとする険しいトドメの一撃を――繰り出す。

 「頭を冷やさんか、バカ神父ッ!」

 叫びと共に渚は、抉り込んだ拳に超震動を施す。

 転瞬――ズグンッ! エノクの輪郭が霞む。震動を得て激しく細かく震動した証だ。その震動は渚の激情を受けてエノクの内臓や筋肉、骨格や精神までも揺さぶり、その各々を破裂させてゆく。

 

 バシュッ――エノクの全身から、怒濤の飛沫の如く鮮血の盛大な噴出が舞い上がる。

 

 - To Be Continued -

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Irresponsive Hate Anthem - Part 4

 ◆ ◆ ◆

 

 負けを認めたつもりなど、微塵もなかった。

 実際、エノクの理性は烈火の如き不屈の精神によって燃え上がっていた。

 (立たねば、ならぬッ!)

 何時の日であったか、目を通した事のある或る宗教の聖書の記述のように――手足がもがれようとも、歯だけでも喉笛に噛み付いてやろうと云う気概を持つ程に、エノクはまだまだ戦い続ける気でいた。

 だが――理性はそうあっても、彼の生物としての本能は、そうはいかなったらしい。

 『士師』であった頃すら()せなかった、己自身を"神聖"と化す事で邪悪なる敵を排除する、至高の技。それを真っ向から破られた事実が、彼の本能に深い畏怖を刻んだらしい。

 (立たねば、ならぬのだッ!)

 いくら己自身に言い聞かせて、鞭を入れようとも、体は指一本すらピクリとも動かなかったのだ。

 

 それどころか――彼にとっては、あまりにも残酷な現象が発生する。

 彼の全身から、純白ではなく、黒紫色の魔術励起光が業火の煙のように排出されてゆく。それと同時に、エノクの異形は萎んでゆき、"神聖"としての姿は失せて…満身創痍の、鍛え抜かれたヒトの体へえと変じて行く。

 それは、体組織の内部に宿っていた呪詛が抜けて行く光景だ。

 (そんな、そんな、そんな…ッ!)

 エノクは、抜けて行く呪詛をかき集めて体内に戻したいと、強く願う。それでも、魂魄を焼くような焦燥に反して、体はやはり指一本すらピクリとも動かないのだ。

 (私は、まだ、まだ、まだ…!)

 どんなに意志を込めようとも、呪詛の流出は止まらない。そして、呪詛が抜けた事による細胞構造の変化と、それに伴う感覚の鋭敏化によって、エノクは気を失いたくなるような全身の激痛に苛まれ、顔面を蒼白にさせて冷や汗を噴き出す。

 (そんな、そんな、そんな…バカなッ!)

 ――どう心中で叫ぼうが、もう力は戻らない。エノクの体は単なる鍛え抜かれたヒトのものへと成り下がってしまった。天使を作り出す事も、肉体を天使化させることも、もはや出来ないのだ。繊維の(ほつ)れ切ったボロ雑巾のように、体組織はくまなく劇的に消耗し切り、骨格が抜き取れたかのように動けずに地面に尻餅をつく。背にした有機機械のお蔭で、辛うじて座っている格好を取れるような状態である。

 

 ――エノクは、渚に完全に敗北したのだ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 エノクの眼前では、これまた満身創痍の状態である渚が両腰に手を当てて、肩幅程に足を広げ、威圧感たっぷりに立ち尽くしている。

 彼女の消耗具合も、エノクに劣らぬ過酷な具合だ。制服は十字架状の穴が幾重にも重なって大きな穴を幾つも開き、ボロ(きれ)同然の状態だ。この穴から覗く渚の皮膚は、十字架状の傷やら聖句を刻み込まれた重度の火傷やらで、正に完膚など存在しない状態だ。何もせずとも、ジクジクと激痛が脊椎を撫で回すような状態であろう。

 それでも渚は、真紅に(まみ)れた顔を苦痛に歪めもせず、凛とした鋭い面持ちを作り、座り込むエノクに爛々たる視線を投じる。

 対してエノクは、万語を尽くして…或いは、火を吐く勢いで…眼前の渚に罵声を浴びせたかったが。消耗しきった体組織は、声帯も顎も動かす程の余力すら残っていない。

 だからエノクは、見開いた眼だけで――その奥に灯る憎悪の眼光だけで、渚への反抗を示す。

 "例え、この暴力の勝負で敗北を喫したとしても、我が魂魄は決して屈しない!"

 その意志を痛い程に読みとった渚は、スゥーッと深く息を吸い込むと。

 「本当に大馬鹿なガキじゃな、おぬしはッ!」

 全身の傷に響くのも意に介せず、渚は怒声をぶつける。

 エノクはそれでも瞳の奥の憎悪を絶やすことはない。その態度がますます、渚の意志を逆撫でする。

 「わしは正直、宗教と云う代物は好かぬ! 自然の摂理で無し、ヒトが都合で勝手に作り出した手摺(てす)りに過ぎぬくせに、やれ主義主張の対立じゃの、やれ人生観の押し付けだの、うんざりじゃわいッ!

 じゃが、人生にしっかとした根を持たぬヒトビトが、その手摺りに(すが)りたくなる気持ちは理解しておるつもりじゃ。この2年間、超異層世界集合(オムニバース)を駆け巡り、そんな弱き輩の姿を幾つも見たからのう。彼らは、宗教という手摺りに縋ることで、初めて自身の存在意義やら人生観を見出し、希望を手にする。

 じゃから、個人的には好かぬが、同じく希望を蒔く身としては、宗教の存在意義を或る程度は認めておる。

 ――じゃがなッ!」

 渚はギリリと奥歯を噛みしめ、座ったまま反抗的な眼差しを投じるばかりのエノクの襟首を掴むと、グイッと引っ張り無理矢理に立たせる。

 2人の真逆の意志を有した激しい視線が、真っ向からぶつかる。

 渚は、ぶつけた言葉でエノクの顔の川を剥ごうかと云う勢いで、叫びまくし立てる。

 「『僧侶の士師』たるおぬしが為したこれは、なんじゃッ!? どこに希望という大義名分が存在するッ!?

 都市国家1つを巻き込んでッ! おぬしと価値観の合わぬ大多数を絶望に追い込んでッ! 思い通りにならぬことを憤って呪詛を放ち、無茶苦茶に暴れ回ってッ!

 挙げ句の果てに、無辜(むこ)なる生け贄を大量に投じ、望まぬ少女をいじくり回して妄想を具現化しようとするッ!

 この何処に、希望の大義名分がある!?

 ――いや、おぬしらにとっては希望なのかも知れぬがッ! こんな内輪の希望を世に押し付けることが、おぬしの『僧侶』としての仕事かッ!?」

 エノクは正直、言われっ放しに甘んじるしかない現状に、強い憤りを感じている。

 彼とて、この邪神にぶつけたい反論は五万とある。

 数日過ごした程度でプロジェスの意志を代弁しているかのようなデカい態度が、気に食わない。長年の苦渋の果てに繁栄を得たプロジェスの意志など微塵も知らぬ白痴のくせに、"プロジェスの希望"を語る口が、許せない。

 そして何より、二ファーナを『現女神』として再降臨させようという大業を、変質者の所業であるかのようにバッサリと言い切る尊大さが、憎たらしいッ!

 だが、それらを語るべき口が全く動かないのが、無念で仕方ないのだ。

 

 ――しかし。形而上を事象に落とし込む魔法科学が渚に味方してエノクを倒したように。魔法科学は今度は、物言えぬエノクの胸中で燃え盛る憎悪と無念に味方する。

 エノクの魂魄から発せられた、電磁場にも似た強烈な負の感情の場――死後生命(アンデッド)で言うところの『怨場』が、電磁パルスのように形而上相を疾駆する。

 形而下の感覚だけを頼りにしていては、その現象を知覚することは出来ない。産毛をサワリとすら撫でることのない、純粋な形而上の波動が走っただから。それは神経電流にも何らか干渉を与えず、如何なる生物の感覚器官にも何の刺激も残さなかったろう。

 しかし――渚を始めとする『星撒部』の部員達のように、常日頃から形而上相の知覚を意識している者ならば、即座にその波動の強度を把握する。認識格子(グリッド)を激しくうねらせ、吐き気を催す強烈な目眩を魂魄に与えてくる。

 (こやつ、この期に及んで何を悪足掻(あが)きおるのじゃ!?)

 渚は噛みしめた歯の奥で大きく舌打ちすると、襟首を掴み上げていたエノクを思い切り床に叩きつける。防御する体力もないエノクは、熟れ過ぎて落下した果実のように、無抵抗に床に激突する。ガタの来た内臓が容易に出血し、黒々とした赤の飛沫がエノクの口から噴き出す。

 しかし、エノクは赤黒い血液でヌラリと濡れた唇を、ヒクヒクと痙攣させながら吊り上げて、声無く(わら)う。

 「何が可笑しいのじゃ!?」

 そう渚が叫ぶと、エノクは震える口でパクパクさせ、枯れ木の隙間を(はし)る乾いた微風のような呻き声で、精一杯何かを語る。

 その声は渚には全く聞こえなかったし、エノク自身にも骨導音としてすら知覚出来なかったかも知れない。

 だが――彼の言葉を代弁するように、輝きに満ちる室内のあらゆる方向から、"声"が響きわたる。

 それは、"歌"だ。幼子のような甲高い声もあれば、女性の玉のように美しいソプラノもあり、男性の身を震わす体亜音もある。その全てが調和を成し、響き渡る有様は――讃美歌そのものだ。

 渚は嗤うエノクから視線を外し、讃美歌の歌い手を探して眼を走らす。

 歌い手は、直ぐに――そして、"大量に"見つかる。(すなわ)ち――この大広間の大部分を埋め尽くす惨たらしい有機機械、それを構成するパーツとしての人体だ。顔そのものが張り付いているものもあれば、口だけがぽっかりと開いているものもある。それらの全てが、一斉に声を上げて歌っている。

 曰く――。

 「幸いなるかな、幸いなるかな!

 今この時、真なる神は降り立たん!

 幸いなるかな、幸いなるかな!

 我ら、悲願の血肉とならん!

 幸いなるかな、幸いなるかな!

 我らが神、唯一無二たる真理をもたらす神! 世に蔓延る邪悪を討ち取らん!

 悲願に心血を捧げた聖人達の誠意に報いるがため――!」

 (――まさか!?)

 渚は、予想だにしていなかった現象の発現を認識し、眼を見開く。

 (呪詛風情が、こやつ(エノク)らの想いに応えて、神霊力へと至ったとでも言うんかい!?)

 渚が驚愕している間に、室内では巨大にして激しい現象が巻き起こる。莫大な体積を持つ、堅固な硬度を誇っていたはずの有機機械が粘土のようにグニョリと歪むと。まるで穴の中に吸い込まれてゆく水流のように、天井近くの1点を目指して急速に(ほとばし)る。

 ズルズルズルズルズルッ! 粘水が地を削りながら流れて行くような不気味な音が、大広間に広がる。その音の中に混じって、何やら悶え苦しむ絶叫が聞こえる。

 それは、確固たる生命力を有する少女の声。その声音に、渚は聞き覚えがある。

 そして、渚が見つめる有機機械が集結する1点に、その声の主の姿がある。

 「ニファーナ!」

 ――そう。有機機械が作り上げた山のような頂の上、混沌とした人体で作り上げられた椅子に全裸で座らされていた少女の体に、禍々しい肉の奔流が集まってゆくのだ。

 「今、助け――」

 叫ぶなり、『宙地』を使って跳び上がる渚であったが。その矢先に突如、風船の破裂が莫大な規模になったような衝撃が彼女に襲いかかり、一気に数メートルを後退させられる。

 この時に身に受けた力の感覚に、渚は更に驚愕を覚える。それは『現女神』の放つ『神霊圧』に極めて近い感覚だ。細胞一つ一つ、そして魂魄の一片に至るまで、押し包んで抑えつけ、支配下に置こうと云う暴力的な威圧感。

 「ニファーナッ!」

 渚は、『神霊圧』が生み出す烈風に対して全力で足を踏ん張りつつ、大声をあげる。彼女が声をぶつけた先には、スパゲッティが激しく絡みあったような巨大な球体が浮かんでいる。その球体こそ、粘土のように蕩けた有機機械が集結した姿だ。

 そしてその内部に、ニファーナは押し込められている。

 渚は満身創痍の肉体に鞭打ち、全力で『宙地』を駆使して有機機械の球体へと跳び掛かろうとした一方で。『神霊圧』の烈風によって大広間の壁にまで叩きつけられ、横に転がったエノクは、ようやく(しゃが)れた声をあげる。

 「悲願、達せり…!

 我らが神は、再び降りた…!」

 

 エノクの呟きに呼応したかのように、『神霊圧』の烈風がフッと消滅する。

 跳び出そうとした渚は危うく勢い余って、あらぬ方向へと飛んでしまいそうになるのを踏ん張り、その場に留まる。

 そして、有機機械の球体の方へと眼を向けると――一度、ポカンと口を開いてから、グッと口を一文字に結んで憤り顔を作る。

 

 渚が中空に見たもの。それは――怨嗟を祈りと換え、純白ではなく漆黒の神聖を身にまとった、再臨せし"夢戯の女神"の姿。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 混沌とした球形の肉塊が、宵闇より尚暗い漆黒一色に染まったかと想うと。凝縮された夜がその帳を一気に天空に広げるかのように、球体は一気に展開して表面積を拡大させる。

 そうして現れたのは、チョウ――いや、夜のイメージならばガの方が適切か――の如き巨大な体積。広げた翼は鳥のように1対であったが、アゲハチョウかツバメガを想わせる形状をしている。その翼開長は、優に5メートルを超えるような代物だ。

 しかし、大広間の大部分を覆っていた有機機械の体積から鑑みると、体積はかなり縮んだように見える。

 これら翼の近傍には、一対の巨大な漆黒の手が浮かんでいる。形而上相上では本体と結合している、体外器官であろう。指先は槍のように鋭く尖り、神と云うよりは悪魔のものを想わせる形状をしている。

 女神の姿をチョウやガに見立てたとして、頭上には目映い輝きを放つ輪が浮かんでいる。この輪が放つ輝きは、体色とは真逆の、清らかにさえ見える陽光のような黄色掛かった白色を呈している。眩しさに眼を細めながら輪の本体をみやると、そこには数珠のようにツルリとした球体がズラリと円形に並んでいる様子が見て取れる。

 そして、チョウやガの頭部にあたる部分――そこには、漆黒の胴体の中に埋め込まれた、血色の良い皮膚を露わにした少女の裸体がある。手足は完全に漆黒の胴体の中に埋め込まれているものの、不自由さに苛立つような様子は見えない。

 むしろ、その顔――ニファーナの表情は、渚はおろか、エノクさえも見たことのない、(とろ)けるような恍惚と万物を見下す傲慢さの混じった、艶やかにして凶暴なものとなっている。

 ニファーナは、上気して赤身を増した唇を一舐めすると。

 「ああ…」

 うっとりと、極上の甘味を舌の上に載せた時のような、妖艶な吐息を漏らす。

 その有様は、ニファーナを『現女神』の座から引きずり下ろした呪わしき"陰流の女神"ヌゥルの淫靡なる振る舞いに似る。

 しかしエノクは、そんな不都合な記憶には蓋をしたかのようで、期待と畏敬で爛々と輝く眼差しでひたすらに新たなニファーナの姿を眺める。

 「悲願…成れり…!」

 (かす)れきったエノクの声は、微風にすら掻き消されてしまうような弱々しいものだ。当然、渚の耳にも、ニファーナの耳にさえ届かない。

 ――そう、ニファーナは功労者であるはずのエノクになど、一瞥(いちべつ)もくれていない。

 ただただ、満身創痍ながらも力強く立ち尽くし、ニファーナの事を眉を跳ね上げて睨みつける渚を見下している。

 「怖い顔ね」

 ニファーナは、唾液がまとわりついているのではないか、というほどネットリとした物言いで渚の表情を評する。

 「当たり前じゃわい」

 渚は揺らぐことなく、真っ向からニファーナの言葉に応じる。

 「頭に来ておることが、2つあるからのう」

 「そうなの…一体、何?」

 「1つは、こんな事態には絶対にせぬと奮闘したつもりが、まんまとしてやらえてしまったわし自身への不甲斐なさ」じゃ」

 「仕方ないじゃない…あなた、一人も信者の居ない邪神だもの」

 ニファーナはチロリと舌を出しながら、クスクスと嗤ってみせる。だが、渚は反論することなく、抱く憤りの他方の理由を語る。

 「そしてもう1つは、『現女神』の座から落とされ、大きな能力(ちから)を失ったとは言え――こうもあっさりと、呪詛に飲み込まれて神"(もど)き"に成り下がった、おぬしの情けなさじゃい!」

 「情けない?」

 ニファーナはキョトンとして繰り返した直後、クスクスと再び艶然とした嗤い声をあげる。

 「情けないと云うのは、お門違いの非難ね。でも確かに、私には落ち度があったわ。

 愚かだった――こんな素晴らしい能力(ちから)と信奉を得る事を、忌み嫌っていたなんて。

 ヒトの身で居ると、合理性に目を瞑ってしまう奇行をしてしまう事があるわね」

 「"ヒトの身で居ると"、じゃと?

 なんじゃ、その神にでも成ったかのような口振りは?」

 渚が更に眉を跳ね上げて反論すると。ニファーナは万物を見下す傲慢さをたっぷりと表情に乗せて、伏し目がちな視線で渚を睨んで語る。

 「"ような"、じゃないわ。"成った"のよ、正真正銘にね。

 今の私は、ヒトではない。私は『現女神』、"夢戯"の号を有する女神ニファーナ。

 この都市国家プロジェスを統べる存在にして、その民草の信仰を一身に受ける聖神よ」

 その言葉に対して渚は、ハンッ、と鼻で笑い飛す。

 「呪いの力で出来上がった神じゃとな? しかも、"聖神"じゃなどと、滑稽千万じゃな。

 大魔王の間違いではないかのう? その夜に這い回る害虫のような真っ黒な姿には、そっちの名の方が似合いじゃぞ?」

 渚の挑発は、目に余る程に剛毅だ。とてもではないが、立つ事すらやっとのように見える満身創痍が口するような言葉ではない。

 黒い女神と化したニファーナは、その言葉に対して妖艶な笑みを決して崩しはしない。しかし、その内心はどうであったろうか。もしかしたら、真っ赤になるほど灼熱したヤカンの中身のように煮えくり返っていたかも知れない。

 その証拠に、ニファーナは漆黒の大翼をゆっくり羽ばたかせながら、飛行高度を下げると。宙に浮いた1対の手をニファーナ本体の前で交叉させた後、床を撫でるようにして手を広げる。すると撫でた床の上に、炭と云うよりは濃厚なタールのような漆黒の粘体がネバリと広がる。そして粘体は速やかに膨張して体積を増し、大小形状多様な姿を取る。そして光沢が金属表面を撫でるような素早さで色彩が漆黒の表面を走ると、"そいつら"は確固たる存在として具現化する。

 "そいつら"は、ニファーナの尖兵だ。彼女の"夢戯"の号は、ゲームに由来する。その定義に相応しく、尖兵の姿はビデオゲームの中に出てくるキャラクターの姿をしている。

 屈強にして華麗な鎧を着込んだ英雄がいる。大仰なトンガリ帽子を被り、水晶玉が先端についたロッドを持った魔術師がいる。黒装束に身を包み、ギラリと怪しく輝く小刀を逆手に持った忍者がいる。

 キャラクターはヒトだけではない。ねじくれた巨大な角を誇る、牛のような頭とコウモリの翼を持つ悪魔がいる。鋼の体を有して両手には機銃、背中には砲を背負ったロボットがいる。ギラギラと輝く鱗を纏い、天を覆うような翼を有する巨体を誇り、炎の息を吐くドラゴンがいる。

 そういったキャラクターの尖兵が、ざっと眺めても優に50を超える軍勢を作り、ニファーナの眼前に勢揃いする。彼らの全身からは、もうもうと巻き上がる程の威圧感と殺気が放たれ、一人ででも巨城を落とさんばかりの気力に満ち(あふ)れている。

 ――ただ、そんな強靱な気力にそぐわない要素を、尖兵達は(すべから)く有してる。それは、生や活力と云うより、死や腐敗を連想させる欠陥だ。

 鎧には、今にも崩れ落ちそうな錆が点在している。着込んだ衣服はボロのように破け、その内側から覗く肉体は黒痣を有していたり、腐敗して骨や内臓が露出しているものもある。ヒトでない存在にしても、ゾンビか廃品を連想させる容姿である。

 呪詛と云う禍々しい力によって得た神の力のためか、ニファーナの能力にはネガティブな要素が付きまとっているようだ。

 それでもニファーナは、自身の能力を嘆くことなどなく、むしろ誇らしげに笑みを浮かべながら、渚に優越感をぶつける。

 「貴女が私の事をどう評しようが、何の痛痒も感じない。

 ただただ、貴女への憐れみだけは、どうしようもなく胸の内に浮かんでしまうわ。

 貴女は信者が誰一人も居ない、お粗末な唯の一匹の天使しか有さない、消え入りそうな矮神。

 対して私は、この都市国家(くに)中から信仰を集め、貴女が今目にしているように、莫大な眷属を手振り一つで生み出せる大神。

 矮神がどんな負け惜しみを(わめ)こうが、世界を統べる大神としては憐憫(れんびん)を催さずにはいられないわ」

 対する渚も、憤りを露わにすることはない。それどころか、ニファーナの言葉を愚直に受け止めたかのようで、照れたような笑みを張り付けて後頭部を掻く。

 「いやはや、憐憫とはのう! そんな情を寄せられたのは、生まれて初めてじゃわい。

 か弱い存在として慈しまれるというのは…何というか…照れくさいのう」

 そんな飄々(ひょうひょう)とした受け答えの連続に、ニファーナは流石に機嫌を損ねたようだ。妖艶な笑みは張り付け続けているものの、その眼は全く笑っていない。氷のように冷たく、刃のように鋭い激情が眼光となって渚を射抜いている。

 「貴女…」

 ニファーナが渚に何か語りかけようとするが。それを塗り潰すように、

 「じゃがのう!」

 と渚は思い切り声を張り上げる。

 言葉を次ぐ機会を逸したニファーナは、不本意そうに口を一文字に閉じて、咽喉(のど)の奥に言葉を飲み下す。

 「やはり、滑稽じゃなぁ!」

 渚の張り上げる声と共に、彼女の背後からキンコン、と澄んだ鐘の音が響く。そして、純白の輝きと共に宙空から姿を現したのは――拘束具に身を包んだ、渚の有する唯一の『天使』である。

 「憐憫を催す程の矮小な相手に、今から完膚なまでに叩きのめされてしまうのじゃからのう」

 そう語る渚の一方で、彼女の背後の天使は自身の体の拘束具をバラリと解き、コートのように広がる。そして渚の体にバサリと覆い被さると、純白の輝きを放ちながら形状を変化。渚を覆う武具となる。

 

 (すなわ)ち、渚は『現女神』としての姿をニファーナに(さら)したのだ。

 

 ボロ雑巾のように無惨に破壊された制服は、もう身につけてはいない。代わりに彼女の身を覆うのは、彼女の肉体の輪郭にフィットした、陶磁器のような質感と光沢を持つ純白の装具。手足には、今にも火を吐きそうな激情で牙を剥く獣面の籠手。背中から生えるのは、魚のヒレを想起させる一対の翼。臀部からは骨片をつなぎ合わせたような尾が延び、その先端は鍵を想わせる凹凸のついた円柱だ。

 そして、ハチミツ色の頭髪の上に浮かび、(きら)めく陽光の如き輝きを放つのは、棘の付いた光輪だ。天の御使いに似て非なる、神聖なる存在である事を物語る特徴である。

 この姿こそ、"解縛の女神"ナギサの神格を具現化したもの――だが。

 装具一式は、磨き上がったばかりの玉のように、傷一つなく輝かんばかりの美しさを見せているものの――これらの装具を纏う渚本体は、その有様には余りにも似つかわしくない。

 何せ、体の至るところに刻まれた火傷や十字架状の傷がそのままに、痛々しい姿を曝しているのだ。

 ――これが、ヒトでありながら神性を有する『現女神(あらめがみ)』の弱点と言えよう。

 天使を装具として纏い、『神法(ロウ)を全開にしてみせようとも、自身の傷が勝手に塞がってくれはしないのだ。それが、ヒトという不完全なる存在の性質を内包する『現女神』の限界の一つと言えよう。

 だが…渚は満身創痍など気にも止めず、己の神聖なる装具を誇るように胸を張り、巨躯にて宙を占拠するニファーナを自信の輝きで(あふ)れる蒼穹の眼で射抜く。

 

 「おぬしがあくまで"神"だと称するのならば」

 渚は冷たい視線でこちらを見下すばかりのニファーナに、挑戦的な響きの言葉を叩きつける。

 「2人の相対する『現女神』が出逢ってすることは、唯一つ! 『女神戦争』じゃな!」

 ビシッとニファーナの顔を真っ向から指差し、ニヤリと笑ってみせる渚。それを見たニファーナの片眉が一瞬、苛立ちに跳ね上がったが。すぐに穏やかな――いや、見下し切った安堵感を醸し出して眉尻を下ろすと。妖艶に赤い唇を一舐めして、言い返す。

 「『女神戦争』…ね。そうね、その通りだわ。それが私たち、『現女神』の本分ですもの。

 良いわ、勿論受けるわ。そのつもりで降臨したのですもの。

 その酷く醜いズタボロの体で張った虚勢で何処まで私に抗えるか――さぁ、楽しませてね?」

 「おぬしが楽しめる瞬間など、刹那もないであろうよ」

 渚が更に言い返し、そしてこれまでの中でも一番凄絶な――エサを目の前にした猛獣の如き笑みをニィッと浮かべて、言葉を次ぐ。

 「真なる『現女神』であるわしが、偽神のおぬしに格の違いを見せつけるだけに始終するのじゃからな」

 

 ニファーナの顔から、笑みが消える。

 磨き込まれた氷のようにのっぺりとした無表情には、嵐の前の静寂が(はら)む凄みが漂う。

 「滅びろ」

 ニファーナの少しだけ赤味を失った唇が、固い号令を発すると。彼女の眼前に展開する50を越える眷属達が、津波のようのドッと音を立てながら、渚を飲み込まんと驀進する。

 『女神戦争』が、始まる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ニファーナの眷属は、『天使』に極めて似た性質を持つ。『神霊圧』に酷似した魂魄干渉を引き起こす力場を発しているし、『神法(ロウ)』による強固な加護の如く、肉体は(すべから)く柔軟ながらも並の物理的・魔法科学的衝撃を受け付けない防御を誇る。

 それらの強敵が一気に迫り来る様は、英雄と呼ばれる人物でも足に震えを覚えて仕方のない光景であろう。

 だが――満身創痍にして戦いの疲労が重くのし掛かっているはずの渚は、彼らに引けを感じることなど全くない。胸を張ったまま、自信の輝きに満ちた視線を相変わらず投じている。

 そればかりか――彼女は一瞬、身を低くしたかと思うと。(ダン)ッ、と激しく地を蹴って、自ら敵の津波へと真っ正面から激突しに(はし)ったのだ。

 疾る渚の背後で、魚のヒレの如き翼が大きく開き、そして力強く羽ばたきを起こす。すると渚の体はフワリと浮かび上がり、ハヤブサの如き高速で低空の飛翔を開始。更には、脚部の装甲が形状を変化させ、足裏に推進機構を形成すると、青白い神霊力の励起光をバーナーの如く噴出しながら急加速。青白い稲妻となって、魑魅魍魎の怒濤へと突進する。

 怒濤へと突っ込む直前、渚は右手を真っ直ぐ前に突き出す。すると、獣面の籠手が形態を変化、鋭く長く、螺旋を巻く錐状となる。これをギュルリと高速で回転させると、周囲の大気どころか空間すら巻き込み、光景を螺旋状に歪曲させる苛烈な渦を作り出す。

 この激しい武器を携えて、ニファーナの眷属へと激突すると――(ドン)ッ! 大気と空間が一気に爆鳴し、空間を構成する粒子性因子の過剰な摩擦によって魔力性の紫電が嵐のように発生。同時に、火山爆発にも似る強烈な衝撃波が盛大な柱を打ち立て、直後半球状に爆風を振り撒く。

 この唯の一撃で以て、ニファーナの眷属のうち10余りの個体が紙切れのように宙空に舞い上がる。これが単なる爆風ならば、『神法(ロウ)』にも匹敵する加護を持つ眷属は翻弄されたとしても、構造的な損壊はあり得なかっただろう。

 …だが、この一撃は正真正銘の『現女神』の一撃だ。

 巻き上げられた眷属の体の至るところに、錠前が出現する。それらは勝手にガチャリと音を立てて外れると…同時に、眷属自身の体に直線的な亀裂が無数に走る。そして、外れた錠前がポロリと宙空に落下すると同時に、亀裂に沿って眷属の体が分断される。結果、眷属は細かな立体パズルの破片のように分解され、[(あられ)のようにバラバラと床へと降り注ぎ――着地するより早く、漆黒の煙となって蒸発し消滅する。

 (!!)

 渚の盛大な戦果に、ニファーナの表情が思わず歪む。『現女神』との交戦は"陰流"としか経験していないが、その戦いの中でも決して経験したことのない、絶大な破壊力!

 しかし、ニファーナは直ぐに表情を見下した笑みに染める。一撃で結構な数の眷属をやられたものの、絶滅したワケではない。消滅を免れた眷属達は、当然ながら戦意を喪失することもなく、果敢に従順に、渚を討ち取ろうと四方八方から襲いかかる。

 英雄が手にした聖剣。魔術師が放つ強烈な魔法砲撃。ドラゴンが吐き出す地獄の業火。そのような攻撃が止まない雨んも如く、渚へと降り注ぐ。

 対する渚は、派手な一撃を放った直後にも関わらず、ツバメ返しの言葉の似合う敏捷性でクルリと体勢を立て直す。そして、片手の螺旋状の錐、他方の獣面の籠手、そして両脚に鍵状の尾も加えて、眷属達の攻めを(ことごと)く阻む。

 いや、阻むどころか、反撃さえ加えて、着実に数を減少させている!

 英雄の剣をスルリとかいくぐり、蹴りを顔面に叩き込む。元より病的な面持ちをしていた英雄の顔面は破砕されて歪んだかと思うと、その中央に錠前が出現。それが勝手に外れると共に、英雄の体は砂のように分解してしまう。

 魔術師の魔法砲撃を身を低くしてかわし、そのまま地を蹴って一気に肉薄すると、螺旋の錐で顎を貫く。加護を得ているはずの魔術師の肉体だが、豆腐に(はし)を刺したように脳天から錐が突出する。魔術師は速やかに仮初めの生命を失い、漆黒の煙と化して蒸発する。

 ドラゴンの炎に至っては、渚の体の手前にガラスのように青く透き通った大きな扉が出現し、それが盾の役割をして熱も光も完全に防いでしまう。この扉は渚の『神法(ロウ)』が作り出した、"開かずの扉"だ。彼女の『神法(ロウ)』に打ち勝たない限り、どんな高熱だろうが衝撃だろうが、その封鎖を解くことは出来ない。

 ドラゴンは強大な存在であることの意地でもあるのか、虚しい努力で扉に火焔を与え続ける。その徒労を横目に渚はドラゴンの脇に接近すると、獣面の籠手をつけた左手で固い拳を握り、強烈な回転を加えながら殴りつける。ドラゴンの肉体は凄絶な螺旋を描いて歪むと、螺旋の中心に錠前が出現。その開封と共に、ドラゴンの巨体は砂と崩れて消えてゆく。

 ――このような具合に、渚は満身創痍とは思えぬ手際と破壊力を携え、眷属の数を見る見る内に減らしてゆく。

 

 ニファーナの表情は、いよいよ(もっ)て苦渋に歪む。

 とは言え、やはり"神の座の再臨"を自称する存在だ、心はたやすく折れない。苦い表情の中に、悪足掻きの嗤いを浮かべて、次なる策を取る。

 (急(ごしら)えの眷属では、星の数ほど揃えようとも、塵芥にも等しいようね。

 だったら…!)

 ニファーナは宙に浮く一対の手を合わせてから、ゆっくりと開いてゆく。すると、両掌の間に漆黒を呈する粘土状のエネルギー物質が出現。両掌の距離を離すのに比例して体積を増加させるそれは、最終的に直径6メートル程の球となる。

 球は不意に、ボトン、と床に落下する。自身の粘性によって上下方向に少し縮んだ後、今度は逆に波立つようにグニョリと伸び上がって体積を更に増す。そのまま渦巻くようにして形状を変化させ――遂に出来上がったのは、少し歪んだ球形の体に一組ずつの手足がついた巨人だ。頭部に当たる部分はないものの、球形の体に所狭し浮かび上がる、ヒトを始めとする種々の生物の頭骨が顔面の代わりを勤める。

 ビデオゲームの世界を(なぞら)えた能力を有するニファーナにとって、先の大量の眷属は雑魚敵キャラクターであり、この巨人はボスキャラクターだ。

 渚が残り6体まで眷属を減らしたところへ、巨人はその体積に見合わぬ素速さで一気に接近。握った拳を大きく振り上げ、眷属達が渚を囲んで乱戦しているのにも構わず、霹靂のように振り下ろす。

 (むうぅ!)

 渚は即座に反応し、尾を振り回して眷属達を一気に吹き飛ばしつつ、地を蹴って後方へ跳び退(すさ)る。一瞬後、渚が居た場所に漆黒の巨拳が激突し、バシャン! と粘土質の飛沫を振り撒く。

 飛沫は単なる肉体のロスではない。宙に在る内からグニョリと形状を変えて鋭い氷柱(つらら)状に成り、渚をめがけて水平に降る雹のように飛来する。

 (悪くない細工じゃが…!)

 渚は地を蹴り翼を打って、即座に飛翔。飛来する漆黒の氷柱(つらら)の群れに真っ向から突入する。

 渚の飛行速度は、音速に近い。衝撃波が発生しないのは、彼女の『神法(ロウ)』による影響かも知れない。何にせよ、そんな高速の世界に身を置いていると云うのに、渚は氷柱(つらら)に一切当たることはない。高速と同時に高度な機敏性も実現し、稲妻のような動きで氷柱(つらら)をすり抜けているのだ。

 一瞬にして巨人の懐へ飛び込んだ渚は、螺旋を描く錐と化した右拳を突き出し、巨人を刺し貫こうとするが。転瞬、巨人の体が地に落ちた水滴のように破裂し、大小の漆黒の飛沫へと分離。渚は虚しく宙空を過ぎるだけだ。

 (ほう、優秀な回避能力があるのじゃな。

 じゃが、守るべき主を差し置いて自分が逃げてしまうのは、いかんわな!)

 巨人が体を分離して回避することで、ニファーナ本体を遮るものが無くなった。そこを好機と渚は飛翔を続け、ニファーナへ螺旋錐の右拳を突き立てようと試みる。

 対してニファーナは、回避行動を取る素振りを見せない。渚を真っ向から睨みつけているだけだ。二柱の女神による正面切っての肉弾戦を引き受けようと言う意志の現れか――と、思いきや。

 ガツンッ! いきなり、渚の右拳が"見えない壁"に激突。渚の飛翔が止まる。

 (!?)

 渚が眼を丸く見開いていると、ニファーナがしてやったりとニンマリ嗤いを浮かべる。

 

 ビデオゲームの世界は、必ず有限だ。どこまでも広がっているように見える3Dのマップでも、ある地点まで到達するとシステム上の制約を訴える"壁"が現れて移動を制限する。

 古い時代のビデオゲームの中には、画面が箱庭として全ての世界であり、プレイヤーはその外側に出ることは出来ない。もしくは、出れたとしても命を一つ失う事になる。

 ニファーナが成したのは、このシステムの応用だ。

 渚は今、ゲームと同様、広大に見えても見えない"壁"の存在する領域に隔離されたのだ。

 ゲームにおけるプレイヤーである渚は、この制約を超えることはできない――はずである。

 

 ((しもべ)を使わずとも、防御の手段――いや、わしへの妨害手段と言うべきじゃな――は、しっかりと携えておるということか。

 じゃがな、相手が悪かったのう。わしなら、この程度の障害、いくらでもやりようはある!)

 渚は右拳の螺旋錐の形状を変化させ、ギザギザとした激しい凹凸を有する、剣にも似た鍵へと成すと。それを用いて、"障害の排除"を行おうと右腕を高く振り上げる――。

 しかし、彼女がそれを成し遂げるよりも早く。渚の背後に、漆黒の巨大な腕が伸びてくる。それは、先に飛散した粘体の巨人が変形したものだ。腕や指に種々の動物の頭骨が浮かんでいるのが、その何よりもの証拠である。

 (!)

 渚に対応する暇も与えず、腕は渚の全身をむんずと掴むと。そのままブン、と大振りしてニファーナから遠ざけつつ、床に強かに叩きつける。

 (ドン)ッ! 大地が揺るぐような轟音。そして、ゴキリ、という骨身が盛大に軋む音が大広間に無惨に響く。

 「ガハッ!」

 渚は頭から床に叩きつけられ、衝撃が(くび)を伝わって各種の臓器に響き、溜まらず呼気と共に吐血する。

 腕は、渚を叩きつけても尚、満足せずに彼女を掴んで離さない。それどころか、手の形状を変化させて巨大なスライム状になり、渚の全身を覆って床に張り付ける。

 そこへ、残存する眷属6体がすかさず飛びかかり、動きを封じられた渚を八つ裂きにせんとする。

 

 ニファーナはニヤリと嗤いを浮かべて、この光景を小気味良く見守っている。

 対して、渚は窮地に追い込まれた――はずであった、のだが…!

 

 - To Be Continued -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Irresponsive Hate Anthem - Part 5

 ◆ ◆ ◆

 

 (呪詛なんぞによって造られた人工の神(もど)きにしては、ようやるわい。

 じゃが――)

 渚は襲い来る眷属達を前に、眉をピクリとも動かさずに見つめながら、氷のような冷静さでそんな思考を脳裏に浮かべる。

 (残念じゃが、この程度ではやれてやらん!)

 渚は神霊力を集中させ、『神法(ロウ)』を発動。自身を覆う漆黒の粘体のど真ん中に、巨大な錠前を出現させる。その錠前が、ガコンッ、と盛大な金属音を立てて勝手に外れると――粘体には幾筋もの幾何学的な亀裂が走り、粘土というよりはプラスチック製のパズルのように、その身体を分解される。

 瞬時に自由を得た渚は、尚も地に転がったまま6体のニファーナの眷属を眺めている。だが、ただ視線を投じているのではない。この時にも神霊力を練り上げて、『神法(ロウ)』の現象を発現させる。

 渚が寝転ぶ床の周囲から、突如として鎖が飛び出し、眷属達の身体に激突して貫通する。鎖には全て錠前が付いているが、今度は勝手に外れたりはしない。その固く閉ざされた有様をそのまま投影するかのように、眷属達の動きをピタリと停止させてしまう。彼らは元から石像であったかのように、震えもせず地上に落下もせず、その場に縫いつけられて停止する。

 "解縛の女神"ナギサ、その神霊力はあらゆる存在・概念の解放と束縛である。その力をふんだんに駆使した対応だ。

 6体が完全停止したところで、渚はようやく跳ね起きると。翼を力強く羽ばたかせ、一気に急上昇。鍵状に変化させた右拳を前方真っ直ぐに突き出した格好で、ニファーナに向けて真っ直ぐ突進する。

 ニファーナは、窮地を軽々と脱した渚に驚愕の視線を投じていたが。すぐに思い直して、嘲笑を浮かべる。

 渚がニファーナの元へ辿り着くためには、ニファーナが作り出した"ゲームシステムの障壁"を突破しなければならない。ゲームプレイヤーである渚は、この制約を超えることなど決してあり得ないはず――なのだが。

 渚は単なるゲームプレイヤーではなく、神なのだ。

 ゴン――鍵状の右拳が"ゲームシステムの障壁"に激突し、鈍い音を立てる。そのまま弾き返されでもするかと思いきや、鍵はガチャン、と音を立てて障壁の中へと進入する。まるで、鍵穴の中に挿入されるが如くに、だ。

 (まさか…!)

 ニファーナが思い至った頃には、もう遅い。渚は"障壁"に挿入した鍵をグルリと回し、"障壁"が作り出す隔絶を解除してしまう。ガコンガコンガコン、と無機質な音が連続し、空間に直方体状の魔力励起光が淡く輝いたと思うと、輝きはそのまま立体パズルのように分解されて離散してしまう。

 もはや、ニファーナと渚を隔てるものは、何もない。

 

 「せいやぁッ!」

 渚は気合い一閃、そして脚部の装甲を変化させて推進機関を作り出し、急加速してニファーナ本体へと直進する。

 対するニファーナも、驚愕ばかりしてはいられない。眉を怒らせて闘志を燃やすと、自身に練り上げた魔力を注ぎ込む。

 すると、ニファーナの肉体の形状が変わる。いや、基本的な形状はそのままだが、その至る所からウニの棘ように機械質の砲身が四方八方へと突き出たのだ。

 「舐めるなぁッ!」

 ニファーナの絶叫は、しかし、同時に全身の砲身から術式の砲弾を連射する爆音に掻き消される。雲霞の如く高密度かつ大量に展開するその有様は、まさに"弾幕"の表現が相応しい。

 砲弾は無差別に大広間中に着弾する。ニファーナを再度神化させたエノクが、未だ動けずに床に転がっていようとも、彼を避けるような素振りは全く見えない。実際、エノクの周囲には幾つも幾つも砲弾が降り注ぎ、鼻先で強烈な爆発を起こしてエノクを吹き飛ばしさえする。

 だが、エノクは恐怖することも失望することもない。吹き飛ばされながらも、疲労が色濃い顔に満悦した大きな笑いを張り付けている。

 (ニファーナ様! ニファーナ様!

 更なる力を得て、この世を統べるべく再臨したニファーナ様!

 万人よ、この力を眼に焼き付けろ! 畏敬の念を抱け! 偉大にして唯一の女神を崇めよ!)

 エノクは相変わらず声が出ないものの、胸中で興奮し切った声を張り上げる。例え自らの身体がニファーナによって壊滅させられようとも、彼は女神を恨むどころか、生け贄となった事実を喜んで受け入れつつ冥府へと下ることだろう。

 さて、ニファーナはこの弾幕に加えて、体中からほぼ球形をした浮遊物体を幾つも放つ。それはニファーナの弾幕を巧みにくぐり抜けながら広く展開すると、バチンッ! と大気の破裂する音を振り撒きながら、青白い稲妻を天井と床に同時に落とす。

 弾幕と稲妻、この2重の破壊が満ちる大広間の中の様相は、まさに破壊の嵐だ。

 とてもではないが避け切れそうにない猛攻であるが――渚はやはり、一歩も退きはしない。それどころか、果敢なる挑戦者が浮かべる凄絶な笑みを浮かべると、翼で宙を打ち足裏の推進機関を一気に吹かして、更に加速。ニファーナへと接近する。

 道中には、高密度の術式砲弾がある。稲妻の雨がある。しかし、渚は恐れたりしない。

 何せ、獣面の左手を開いて前に突き出し、半球状にたわんだ巨大な封鎖扉を作り出して盾にしているのだ。『神法(ロウ)』で生成されたその扉は、渚が司る"束縛"の派生、封鎖を完璧に体現し、如何なる存在もその内側への進入を許さない。まさに、無敵の盾だ。

 この盾で猛攻を(ことごと)く弾き返しながら、渚は一瞬にしてニファーナの眼前へと肉薄。ニファーナは、猛攻が全く通じなかった事実に眼球が飛び出しそうな程に目を見開き、あんぐりと大口を開く。

 (大勢の信者の頂点に立つことを誇りとしている神が、そんなに簡単に心を乱すのは感心せんのう!)

 渚は胸中で皮肉を叩きつけつつ、右手の形状を単なる拳へと変化。固く握りしめたそれで、ニファーナの頬面を(したた)かに、深く、(えぐ)り叩き込む。

 (ドン)ッ! 骨が砕けるどころではない、強烈な激突音! 同時に、渚と比べて優に3倍以上の大きさを誇る巨体が、彗星の如く落下。(ドウ)ッ、と轟音を立てて激しい震動を起こし、床に激突。それでもニファーナの巨体を突き動かす衝撃は抜けず、ニファーナの巨体は脱線事故を起こした列車の如く床を擦って転がってゆく。

 そしてようやく停止したのは、その巨体が大広間の壁に接触してのことだ。

 もはや、弾幕も稲妻も大広間を占拠してはいない。一瞬にして訪れた凪の中、エノクは倒れたままでニファーナの無惨な有様を網膜に焼き付け、目玉が飛び出るような驚愕を顔面に張り付ける。

 (そんな! そんな! そんな!

 ニファーナ様が! 多くの民草の信仰を集めた、ニファーナ様が!

 ただの『天使』一匹を連れる矮小な邪心風情に、地に墜とされた!?)

 

 エノクの驚愕の視線が見守る中、渚がスーッと美しい直線を描き、墜ちたニファーナのすぐ傍らへと着地する。

 ニファーナは、激突の衝撃が抜け切れないらしく、叩き落とされた蛾のように、漆黒の翼をピクピクと痙攣させるばかりだ。宙に浮く両手が地を掴み、なんとか巨体を起こそうと力を入れているようだが、それもままならない様子である。

 身体を動かせぬニファーナが渚に対して出来ることは、精一杯の威嚇を込めて睨みつけることだけだ。しかし、その視線させも、恐怖の色が滲み出て揺らいでおり、力強さに欠けている。

 そんなニファーナの元へ、渚は少し怒ったような表情を張り付けて、満身創痍ながらもしっかりとした足取りでニファーナの漆黒の中に埋め込まれた胴体へと歩み寄る。

 「来るなッ! 来るな、邪神めがッ!」

 ニファーナは叫んで抵抗を示すものの、渚は全く動じずに歩みを続け――ついには、ニファーナと握手を交わせるような距離にまで接近する。

 「来るなぁ…!」

 ニファーナの声は、泣き出しそうにさえ聞こえる程に力無く、情けないものだ。そんな姿を目にした大抵の信者は、幻滅を禁じ得ないだろうと言うほどに。

 敬虔にして一途なる信徒であるエノクは、流石に幻滅などしなかったが。代わりに、恐れ(おのの)く我が神をどうにかして救済せんと、身体に鞭を入れて動き出す――が、その姿は踏み潰されて臓物をはみ出させた芋虫のように、ノロノロとした匍匐(ほふく)前進でしかない。

 エノクの助けの手も届かなければ、ニファーナ自身の身体に動かぬうちに。渚は右手、そしてその人差し指を延ばし、ニファーナの額へと近づける。

 額に触れる直前、人差し指の先端は形状を変えて鍵と化す。すると、それに呼応するように、ニファーナの額の肉が浮き上がったかと思えば錠前と化し、渚の鍵を待ち受ける。

 「止めろォッ!」

 ニファーナが絶叫するのも構わず、渚は小さく呟いて、鍵を額の錠前に差し込む。

 「わしの主義に反するが――おぬしの心の内、見せてもらうぞ」

 そして、渚が鍵を回すと。カチャン、と乾いた音を立てて錠前が外れて――転瞬、ニファーナの錠前周辺に直線的な亀裂が走って開いたかと思うと、その内側から目映い輝きが陽光のように周囲へ漏れ出す。

 ノロノロズルズルと前進していたエノクは、その輝きに網膜を()かれ、思わずギュッと両の眼を閉じる。

 

 渚の鍵が開いたのは、ニファーナの心を解放する鍵だ。

 そして渚は、ニファーナの思考へと直接触れる――。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 今、渚の視覚野が捉えているのは、ニファーナの意識が直面している精神的な状況を視覚化したものである。

 その場は、光景の大半が黒で覆われている。ただし、夜空のような閑寂な黒ではない。嵐の深夜に荒れ狂う海面を思わせるような、激しく蠢き、渦巻き、呻き声を上げる"黒"だ。

 この黒は、単なる一色の広がりではない。恐ろしいまでに大量の"破片"達が折り重なって構築されている。その"破片"こそ、先に有機機械を形作っていた人体の成れ果ての形而上面。腐敗し、損壊した人体が吐瀉物のようにグチャグチャに広がった姿である。

 この姿こそ、呪詛の視覚化とも言えよう。

 この呪詛達は、ある1点に向かい、排水口に吸い込まれてゆく汚水のように我先にと(ほとばし)ってゆく。その1点にこそ、この精神世界で唯一と言える明るい色彩を持つ存在が見える。

 ニファーナだ。ニファーナの意識の本体である。

 精神世界中の彼女もまた、一糸纏わぬ裸体を呈している。精神世界だからと言って、魂魄の視覚化が裸体であるとは限らない。むしろ、己の性質に相応しい衣装を身に着けている事が多い。それでも裸体になっているというのは――身に着けていた衣装が、呪詛達の横暴によって剥ぎ取られてしまったからかも知れない。

 ニファーナの姿は、かなり奇妙な形状をしている。ほぼ形而下の姿と同じなのだが、決定的な違いは――腰から上の胴体が、2つに分かれていることだ。

 その一方は、美しい色白の肌色を呈する、渚が見知るニファーナの姿だ。しかし、この姿は悲惨な様相を呈している。体中を呪詛達の手に(つか)まれ、ガッチリと拘束されている。口の中にまで指を突っ込まれ、満足に言葉を発することも出来ない状態だ。呪詛の手はかなりの力で彼女を締め付けているか、引っ張っているかしているらしく、ニファーナの双眸(そうぼう)には苦痛が絞り出す涙が(あふ)れている。

 他方の胴体は、呪詛に溶け込むような漆黒を呈している。そちらは呪詛の手によって怪しい手つきで愛撫されており、その感触に恍惚とした笑みを浮かべている。

 渚は一瞥で(もっ)て、この様相の意味を理解する。呪詛によって人格を分断され、一つは封じられ、一つが呪詛の全面的な援助を受けて表面化している有様だ。

 そして、封じられている色付いたニファーナこそ、元より存在するニファーナの人格なのだ。

 漆黒の人格は、ニファーナの中の一部たる負の部分が呪詛によって肥大化された、"誇張され過ぎた一面"による擬似人格に過ぎない。

 ――さて、渚は封じられた色付いたニファーナの前へと進み出る。途中、呪詛達が"邪魔をするな"と言わんばかりに飛び出して塗り潰そうとしてきたが、『神霊圧』で以て威嚇すると、塩を振られたナメクジのように威勢を失い、縮こまる。

 そして、間近にまで接近した渚は、ニファーナの涙が一杯に溜まり、助けを乞う視線を真っ向から見つめて、問いかける。

 「おぬしは、どう在りたいのじゃ?」

 すると、色付いたニファーナが何かを語るよりも早く、隣の黒いニファーナが即座に声を上げる。

 「呪う! 呪う! 呪う!

 唯一無二たる神、都市国家の礎たる我を忘れ、(ないがし)ろにした愚民ども! それに荷担する邪神とその同胞(はらから)

 その全てを呪う! 呪う! 呪う!」

 「おぬしには()いておらぬわッ、(もど)き風情めがッ!」

 渚は怒りの炎が燃え盛る視線で黒いニファーナを睨みつける。途端に、黒いニファーナの口が針金のような細長い金属で縫い合わされて封じられる。更に錠前がガッシリと組み込まれて、完全に発現を封印する。

 ここはニファーナの精神世界、ニファーナこそが主体となる世界だというのに、渚の所業が功を為すのは、真なる『神法(ロウ)』ゆえの作用なのだろう。

 黒いニファーナを封じた渚は、再びニファーナに向き直ると。黒いニファーナに向けた激情をすぐに和らげつつも、鋭い真剣さを含めた問いをもう一度繰り返す。

 「真なるニファーナ・金虹よ。おぬしは一体、どう在りたいのじゃ?」

 するとニファーナは、あっぷあっぷと何度か口を動かして、口内に侵入した指を何とか舌で排除すると。すぐに口内へ戻ろうとする指が動き出すのに抗って、早口で叫ぶ。

 「もう嫌! こんな戦いの繰り返し! 望まない重責の押し付け! 耐えられない!

 早く降りたい! こんな意味の分からない闘いの螺旋! 早く降りたいよ!」

 それを耳にした渚は、ニカッと微笑み、そして言葉を次ぐ。

 「わしは『現女神(あらめがみ)』である前に、希望の星を撒く者じゃ。

 おぬしの希望、叶えてみせよう。

 しかし――ちょいと苦しいかも知れぬ。じゃが、必ずおぬしの希望は叶う。じゃから、ほんの暫くの間、耐えてみせよ」

 

 その言葉の後――渚の視界は(もや)がかかったように輪郭を失い、やがて純白一色の光景へと変じる。ニファーナの精神世界から脱したのだ。

 そして渚の意識は、形而下世界へと戻る――。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 精神世界における渚とニファーナのやりとりは、形而下世界の時間にして数秒にも満たなかったようだ。

 渚が意識を取り戻した、その瞬間。世界の様相は全くと言って良いほど変わっていなかった。ニファーナの神"(もど)き"の巨体は地に転がったままで、何の行動も起こしたように見えない。

 だが、渚が意識を戻した瞬間。ニファーナが地の底から響く悪魔のような戦慄の怒号を上げる。

 「邪神めがぁぁぁッ! 我を(たぶら)かすなぁぁぁッ!」

 同時に、倒れたニファーナの黒い巨体から、黒い影――いや、巨体の一部が溶け出した液体のようにも見える――が、周囲の床を広く覆う。そして、バキバキバキッ、と固い物を引き裂くような音を轟かせながら、黒く染まった床から天へと高く延びる鋭い(トゲ)が林立する。

 ゲームの世界――特にドット絵で構成された古いゲームの世界において、棘は落とし穴同様に一撃で命を奪う存在である。ニファーナもそのつもりで、この棘を出現させた事だろう。

 それが渚の身体に触れたの"ならば"、細胞の壊死が起こるか、もしくは劇毒が全身に回って速やかな死が訪れたかも知れない。――だが、"ならば"は実現しない。

 渚は先端に鍵が突いた尻尾を漆黒の大地に差し込み、クルリと回す。すると、ガチャリ、と金属音が鳴り響いたと同時に、床に広がる漆黒に直線的な亀裂が走り、パズルを瓦解させたように細かな破片へと分解されて宙空に消えてゆく。棘も(すべから)く破片へと分解され、渚の身を突くことなく消えてしまう。

 「足掻くなぁッ!」

 ニファーナが叫び、気力を振り絞って体外器官である両拳を宙に浮かべる。そしてまず、右拳を固く固めると、雷光のような激しい輝きを発した後、龍が(まと)わりついているが如くに紫電を走らせながら、渚の身体に叩き込みに行く。

 格闘ゲームで言うところの、超必殺技と云うところの技だ。その威力は尋常ではないはずだが――渚は、足裏の推進機関をフルに噴出させた高速の蹴りで迎え撃つ。

 (ガン)ッ! 鈍重な激突音と共に、吹き飛んだのはニファーナの拳の方だ。まるで蹴り飛ばされた石ころの如く、盛大に宙空へと吹き飛んでゆく。

 ニファーナは更に、右拳を渚の頭上に配置すると、中指の間接に当たる部分に紺碧の水晶のような結晶を出現させる。それを青白く(まばゆ)く輝かせたと思うと、莫大なエネルギーの奔流を極太のビームとして放出する。

 シューティングゲームで云うところのボムにあたる攻撃だ。強大な威力の攻撃を広範囲に及ぼすだけでなく、敵の攻撃を無効化するという、強力な攻撃手段である。

 だが――これも、『現女神』ナギサへの決定打にはならない。

 それどころか、彼女を傷つけることさえ出来ない。

 渚が左拳を振り上げて、そこを中心に堅固に鍵の掛かった水晶のような扉を作り出すと。その厳重な封鎖が、ボムと云う強大な威力のエネルギーの奔流さえ、髪の毛一本程も進入を許さなかったのだ。

 ゲームの世界が現実(リアル)に通用しないとか、そういう次元の問題ではない。神としての格が違い過ぎるのだ。

 「あ、あ、あ、あ、あ…!」

 強大な攻撃の3連発を見事に対処されてしまったニファーナは、もはや自失茫然とした呻き声を上げることしか出来ない。

 対して渚は、素早く半歩前に踏み出すと。固めた右拳を、ニファーナの剥き出しの双丘の真ん中に抉り込む。

 「もう失せよ、嫌悪を振り撒くばかりしか能の無い(もど)きよ」

 

 渚の拳は、鍵の形状を取ってはいなかったものの、確かに"解放"の力を伴うものであった。

 その証拠に、ニファーナの胸に触れた拳をグルリと回転させると。彼女を覆う漆黒の巨体全域に、直線的な亀裂が幾つも幾つも走ったのだ。

 そして、その亀裂に沿って漆黒の巨体が小さな破片と化し、宙へと遊離してゆくと。術式へと蒸発する直前、網膜を()くような激しい閃光を発すると共に、キンコン、と澄んだ鐘の音が鳴り響く。

 呪詛という呪縛に囚われた魂魄が渚によって解放され、浄化されて美しい輝きを放った姿なのだ。

 こうして巨体が分解され、浄化されてゆく最中。ニファーナは己の肉体を喪失する恐怖感か、それとも苦痛からか、「ああああああああああッ!」と声帯を破壊する勢いで絶叫を発する。

 

 その痛々しい声音とは裏腹に――ニファーナの精神世界の中は、嵐の去った快晴の空を思わせる平穏に満ちている。

 そんな彼女の精神世界が、今度は自ら渚の魂を己の中へと誘ってくる。

 渚は迷わずその誘いに乗り、再びニファーナの精神世界へと訪れる――。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 再び訪れたニファーナの精神世界は、小春日和の陽光を想起させる、優しく淡い山吹色の輝きに満ちた光景となっていた。

 禍々しく世界を蹂躙していた呪詛の姿は、もうどこにも見えない。代わりに、花もしくは星に見える模様が、世界をゆっくりと過ぎって行くだけだ。その模様達も(ささや)くこともせず、優しげな眼差しで見守るかのように閑寂を貫いている。

 この世界の中央に、ニファーナの精神はフヨフヨと浮いて立っている。

 今度の彼女は、裸体ではなく、シンプルながらも可愛らしいピンク色を基調にした洋服を身に(まと)っている。派手でもなく、かといって地味過ぎるでなく、年相応の少女の雰囲気を醸し出すその姿こそ、ニファーナの分相応な精神の姿なのだ。

 (いか)めしい『現女神(あらめがみ)』の装束を身に着けた渚とは、あまりにも落差のある姿である。

 とは言え、渚は装束とは異なり、表情は穏やかに、優しい笑みを浮かべている。ニファーナの誘いを歓迎する賓客のような佇まいだ。

 「ありがとう、立花さん…いえ、"解縛の女神"ナギサ様」

 ニファーナがニッコリと微笑んで語ると、渚は恥ずかしげな笑みを浮かべて後頭部を掻く。

 「様付けとか、勘弁してくれい!

 わしの事は、ただ"渚"と呼んでくれれば良い!

 『現女神』じゃからと言っても、何ら神らしい事なぞしておらんからな。第一、信者も『士師』も一人も持っておらぬもの」

 「…分かったよ。

 とにかく、お礼を言わせて欲しい、渚さん。

 私を重苦しくて耐えられない、責任と闘争の地獄から救い出してくれて」

 そう言って(こうべ)を垂れるニファーナに、渚は頭を上げるよう手を振って合図しながら、語る。

 「当然のことをしたまでじゃわい。

 多くの無辜(むこ)の市民が苦しむテロを見過ごすなど、わしの『星撒部』は許せんかったし。

 それ以前に、友人であるおぬしが苦しんでいるのならば、助けたいと思うのが自然な事じゃろう」

 「友人…。

 あなたみたいな偉大なヒト…いえ、神にそう思ってもらえるなんて、光栄だな…」

 「偉大とか、小っ恥ずかしい事を言うでないわ。

 こちとら『現女神』という肩書きだけをヒョイと背負った、己の欲に忠実なだけの女子学生じゃよ」

 鼻の頭を掻きながら、再び恥ずかしげに笑う渚を、ニファーナは(まぶ)しそうに眺める。暫くそのまま渚を見つめてから…ポツリ、と言葉を漏らす。

 「渚さんは…これから先も続けるんだよね。『現女神』である事を、『現女神』として戦うことを」

 「うむ、勿論じゃ」

 渚は恥ずかしさを消して、気さくに応える。すると、ニファーナはますます眩しげに(まなこ)を細める。

 「凄いな…。そんな風に思えるなんて…」

 「わしは、全部承知の上で、この力を望んで手に入れたからのう。

 神である事…については、信者を取らぬ主義ゆえ、正直覚悟なんて代物は持っておらぬが。戦い続ける覚悟ならば、出来ておる」

 「私は…この力を捨てたくて、捨てたくて…(たま)らなかったよ」

 ニファーナは笑みを消し、溜息を吐きながら(うつむ)く。

 「私は、渚さんと違って、望んでなんていなかった。むしろ…そうだなぁ、授業で名指しされたくないって思うのと同じ気分で…絶対に欲しくないって、思ってたよ。

 ある日突然、誰とも知らない存在に力と一緒に責任を与えられて。けれども、誰もフォローしてくれなくて、自分で考え続けることを強要される。最低な厄介事だと思っていたし…何より、私は流されるままの方が楽だから、何一つ行動的な事なんてしてこなかったのに…。

 厄介事を、背負わされちゃった」

 渚は黙って、二ファーナの独白に耳を傾ける。ニファーナは渚に甘んじて、言葉を続ける。

 「私ね…"陰流の女神"と戦って…最初は、あんな変なヒトに都市国家(まち)の皆を好き勝手にされたくないって想いもあったのも事実だよ…だけど、負けた時…。正直…ホッとしたんだよね。肩の荷が下りたっていうか、押しつけられた責任から解放されて、清々したっていうか…とにかく、気分が良かったよ。

 だけど…エノクさん達は、神の座を失った私の事をまだまだ持ち上げようとしてて…凄く、苦しかった。

 もう何の力もないのに…流されるばかりで取り柄なんてないのに…みんなに(ひざまづ)かれて、神殿みたいな豪邸に住まわされて。凄く、凄く…苦しくて、(たま)らなかった。」

 俯いたままのニファーナは一瞬、幼子が泣き崩れるようにクシャリと表情を崩す。しかし、そのまま(まなこ)を伏せて、フゥー、とゆっくりと深く息を吐き、堰を切って(ほとばし)りそうになる激情を落ち着ける。

 ここはニファーナの精神世界だ、渚が抵抗さえしなければ、ちょっとした意志で姿を隠し、感情を爆発させることも出来た。それを敢えてしなかったのは、渚のこと信頼していないからではなく…ここで泣き叫んでは、情けないだけでなく、申し訳ないと思ったからだ。

 ニファーナ自身が望む方向とは違ったとは言え、彼女を持ち上げ、護り続けてくれたエノク達を一気に極悪人に仕立て上げてしまうような気がして…とても、申し訳なく感じたのだ。

 そのように、例え息苦しい重責を背負わされようとも、己を信じる者達への慈しみを忘れないニファーナの姿は、正に――同時に、皮肉にも――女神に相応しい態度と言えよう。

 そんなニファーナへと、そっと歩み寄った渚は。さほど変わらぬ背丈ではあったものの、俯いている分だけ低くなったニファーナの頭に、ポン、と優しく手を置く。

 「おぬしは、これまで()うやって来た。望まぬ力を勝手に背負わされても、投げ出すこともなく、ヒトビトの希望に答えようと、()う戦って来た。

 出来る事を全て出し尽くしての、神の座の返上じゃ。誇ることすれあれ、恥じることも、泣く程に苦しむこともない。

 今のおぬしは、"夢戯の女神"でなく――唯の、そして唯一無二の、ニファーナ・金虹という存在じゃ。

 もう、誰の期待も背負うことなどない。戻らぬ過去に(こだわ)ることもない。

 おぬしとして、これからの人生をおぬしらしく、歩めば良い」

 そう渚が語ると――ニファーナはふと頭を上げ、キョトンとした顔で渚を見つめる。その(まなこ)は泣きが入って少し赤くなっている。

 「同じような事…"鋼電"のヒトにも言われた…」

 「ほう、レーテの奴にか」

 ニファーナは、渚と"鋼電の女神"の関係を問い(ただ)すこともなく――実際、彼女にはどうでも良い事柄なのであろう――言葉を次ぐ。

 「"鋼電"のヒトが、この都市国家(くに)を"陰流"のヒトから取り戻してくれた後――私の元に来て、言ってたんだ。

 "神の座を失っても、過去に(すが)るヒトビトは必ず、神の面影を求めて手を伸ばしてくる。

 でも、それに応じる必要なんてない。

 もうあなたは、女神なんかじゃない。

 ただのニファーナ・金虹という女の子なんだから。誰の眼を気にすることもなく、ニファーナ・金虹としての人生を歩め"

 って…。

 でも…」

 ニファーナは自嘲の笑みを浮かべる。

 「神の座を失って清々した生活を送っているようでいて、神殿に住む事に甘んじていたり、エノクさんのお世話になっていたり…。

 女神だった時と変わらずに、ただただ周りに流されっ放しだったんだね。

 そんなんだから…こんな大それた事態を招いてしまったんだ…」

 「それはおぬしの所為ではない」

 渚はガシガシとニファーナの頭を乱暴に撫でる。

 「おぬしに対して、勝手に神の面影を見い出して(すが)っていた、心弱き者どもの我が(まま)気[[rb;侭>まま]]な暴走じゃ。

 おぬしには何の責もない。

 それでも、後悔や責を感じるというのなら…」

 渚は星が瞬くようなウインクをして見せる。

 「これからの人生で取り戻せば良いのじゃ。

 おぬしはまだまだ若い、人生これからなのじゃからのう」

 すると、ニファーナは口元に手を当てて、クスクスクス、と笑い出す。

 「そんな口調で言われると、立花さんが物凄く長い人生を歩んで来た、含蓄のあるお婆ちゃんに見えるよ」

 すると渚は、ムスッと下唇を突き出して見せて。

 「見ての通りの、うら若き乙女じゃわい! 失礼じゃな!」

 と叱ったと思うと。渚自身もクスクスクス、と笑い出す。

 柔らかな光の中、2人の笑いが満ちるにつれて――光は輝きを増し、2人の姿は塗り潰されてゆく。それは決して、力付くの染色ではなく、合唱が織りなすハーモニーの如き調和の輝きであった。

 

 そして2人の意識は、精神世界を離れ、即物的なる形而下世界へと戻る――。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「ホントに…ありがとう…立花さん…」

 (かす)れた声を上げるニファーナは、全裸のまま、渚の両腕の中に抱き抱えられている。

 渚は相変わらずの満身創痍だが、苦痛も疲労も表情に張り付けず、穏やかな微笑みをニファーナに返す。

 「何の何の。

 じゃから、気にする事など何も無いというに。

 おぬしには何の責もないのじゃから」

 そう、渚が力強く言葉を返した、その直後の事――。

 「ああああああああああッ!」

 大気が張り裂けるような、血を吐く勢いの絶叫が響き渡る。

 その声の主は――エノクだ。

 渚との戦いで立つことさえままならぬ程の損傷を受けつつも、ニファーナへの執念を原動力に芋虫の如く這い回っていた彼。ニファーナが再び『女神』としての力――正確には、"女神(もど)き"の力を失った今、彼を支えていた悲願は完全に瓦解し、ポッカリとした空虚が胸中に開いたのだ。

 そこから生じる喪失感、悲壮感、絶望感――そんな負の感情に突き動かされ、疲れ果てた声帯を破かんばかりに酷使し、絶叫したのだ。

 「エノク…さん…」

 渚の腕の中でニファーナが小さく呟く。その声音は、エノクの胸中に満ちる負を理解した上で、深い同情を寄せるものだ。

 だが、同情を寄せたとして、悲願の瓦解を目の当たりにしたエノクの心を、そんな一言の慰めで落ち着かせられるワケがない。

 「我が神ッ! 我が神ッ! 我が神ッ!

 有り得ないッ! 唯一無二にして絶対たる我らの神がッ! 信者無き裸同然の邪神に破れるなどッ! 有り得て良いワケがないッ!」

 エノクは歯肉から血が滲むほどに歯噛みをし、爪を剥がさんばかりに床に指先を立て、ニファーナに向かって這い出し始める。

 まるで、邪神に(さら)われた女神を取り戻そうと奮闘する戦士の如き姿だ。しかし、"英雄"という言葉は、この光景を目にした誰の胸にも浮かばなかったことだろう。

 今のエノクの表情は、ヒトビトが慕うのとは真逆の、鬼や修羅の類を思わせる壮絶な表情を浮かべている。

 渚は冷たい視線で、じっとエノクを見下すばかりであったが。彼女の腕の中のニファーナが渚に視線を向け、"下ろして欲しい"と訴える。

 渚はコクリと頷くと、静かにニファーナを床に下ろす。するとニファーナは、少しノロノロとした動作で立ち上がり、ゆっくりとした足取りで這い寄るエノクの元へと歩み寄る。

 そして、エノクを踏める程の間近にまで距離を詰めると、スッと腰を下ろしてエノクの顔と向き合う。

 「エノクさん。

 もう、終わったんです」

 「終わった…?」

 ニファーナの言葉を繰り返す、エノク。それに対してニファーナはコクンと(うなづ)き、もう一度ゆっくりと、しかししっかりと繰り返す。

 「終わったんです。

 エノクさん達がこの都市国家(くに)蹂躙(じゅうりん)してまで手に入れようとした望みは、もう消えて無くなったんです」

 「まだだッ!」

 エノクが敬意を寄せていたはずのニファーナに対しても、彼は鬼気迫る横暴とも言える態度で、()れた声を張り上げる。

 「まだ終わってないッ! 終わってたまるかッ!

 ニファーナ様、[r[b:貴女>あなた]]様の存在さえ滅びていなければッ! 神の座程度、何度でも呼び戻すことが出来るッ!

 貴女様を慕う我らの心が生きている限りッ! 何度でも、何度でもッ! 悲願は動くッ!」

 「また、呪詛の力を使って? 呪いの力を祈りの読み替えて? 私を、神(もど)きに祭り上げるんですか?」

 「"擬き"ではない、神だッ! 神そのものだッ!」

 エノクは叫び続ける。その絶叫で世界そのものを説得しようかと言う勢いで、叫び続ける。

 「信仰を集める存在はッ! 信仰の力で奇跡を起こす存在はッ! (すべから)く神であるッ!

 それこそが、悠久の時の中でヒトが定めた神の定義ッ!

 ニファーナ様は、そこの裸同然の邪神に比べ、(まご)う事無く定義を満たす神ではないかッ!」

 「…分かった。私がもう一度呪いの力でカミサマに成れるとするよ。

 そうやって、もう一度立花さんに挑んでも…何十度も、何百度、何千度も挑んでも…私は絶対に、立花さんに敵わないよ」

 「そんな事はないッ! 有り得ないッ! 有り得るワケがないッ!」

 エノクはニファーナの言葉を根底から拒絶するように、絶叫を繰り返す。対してニファーナは、瞳を閉じてゆっくりと深呼吸し…再び眼を開くと、射抜いたものを縫いつけるような鋭く、力強い視線をエノクの投じる。

 「聴いて、エノクさん」

 そう語るニファーナの声は、視線と同じく鋭く、力強く、心を縫い止めるようなものだ。

 エノクは絶叫に大口を開いた格好のまま、ピタリと発声を止める。

 エノクが自分の意志を聞き入れた事を確認したニファーナは、表情をフッと和らげ、へそを曲げた幼子に言い聞かせて宥めるような口調で、言葉をかける。

 「お地蔵さんって、知ってる?

 [[混沌の曙>カオティック・ドーン]]以前の地球の、東洋って呼ばれた地域の道に置かれていた、小さな小さな神様のこと。

 (やしろ)(ほこら)を持っているお地蔵さんも居たみたいだけど、中には吹き(さら)しのまま、人気の無い道に置かれたまま大して(まつ)られる事もなかったものも沢山あったみたい。

 決して良い扱いばかり受けているワケじゃない、孤独に過ごすお地蔵さん達。それでも彼らは、ヒトビトを護る神としての役割を全うしていたの。どれだけ忘れられようとも、地域の住人や旅人を悪意から護る、善き神様。

 立花さんは――"解縛の女神"ナギサ様は、そんなお地蔵さんのような神様なんだよ。

 それに対して、"夢戯の女神"は…」

 ニファーナは自嘲の笑みをクスリと浮かべてから、間抜けな程に時が止まったように動かぬエノクに言葉を次ぐ。

 「とんだ悪神――いえ、神を(かた)る詐欺師だよ。

 欲望や悪意を集めて信仰として、大した役目も果たさずに神の名の上にドッカリと座って、ヒトビトの好意を貪るばかりの大詐欺師。

 正義も大義もなく、神ですらない私と、その対極にある立花さん。(かな)うわけがないんだよ」

 エノクはすかさず、ニファーナの言葉を拒絶しようと大きく息を吸い込んだが。彼の言葉が発されるよりも早く、ニファーナは「それに」と言葉を続け――エノクにとっては残酷極まりない、トドメの一言を口にする。

 「私は、そんな詐欺師で居る事が辛かった。止めたくて仕方なかった。

 だから、そんな悪い役割を捨て去れた今、私はとっても清々してるんだ。

 そして――もう二度と、勝手に責任を背負わされたり、期待を寄せられたりするような、心苦しい真似はされたくない」

 ニファーナの言葉は、エノクを始めとする今回の大事を引き起こした狂信者の存在を、根底から否定するものである。

 そのはっきりとした言葉をぶつけられたエノクは――喉元まで出掛かっていた、ニファーナを盛り立てる叫びを形にする事が出来ず、パクパクと痙攣するように虚しく口を開け閉めする。

 

 その状態を暫く続けた後のことだ――エノクの、狂気さえ感じさせるような力強い表情が、グシャグシャに歪んで瓦解する。

 そして、その両の眼から、ボロボロと大粒の涙が(こぼ)れ落ちる。

 

 「私の悲願は――無為だと言うのですか」

 エノクは激情が涙でふやけてしまった声を漏らし、語り続ける。

 「故郷を捨て…異郷たるこの地で恩師を失い…それでも己の為すべき正道であると信じて心血を注ぎ…仕える神すら変えて…力無き万人の期待を背負い…闘争に心身を砕き…成し遂げようとした繁栄は、無為だと言うのですか…」

 「そうじゃないよ」

 ニファーナは首を横に振る。

 「それは、誰もが認める立派な事。

 エノクさんが間違いは、その後の事」

 「間違い!?

 私の、私達の心血を注いだ悲願が、間違いであると、貴女様はおっしゃるのか!?」

 エノクは、ニファーナを責め立てるように、()れた声をこれ以上ない程に張り上げて語る。

 「長き苦渋の時間を経て…! 理不尽な横暴に耐え続けて来た…! 偉大なる父祖の理想を、いともたやすく忘れ去り…!

 己らも謳歌した繁栄を…! 如何なる横暴からも退(しりぞ)け実現した…! 偉大なる貴女様の存在を忘れ去り…! 手柄を掠めただけの異教の女神に現を抜かし…!

 矜持も意欲も無く…! 空虚にして無責任なる異文化の蹂躙を許し受け入れる…! そんな腑抜けばかりの烏合の衆と化した…!

 この腐り果てるばかりの果実となったこの都市国家(プロジェス)の現状を憂い…! 嘆き…! 憤り…!

 悪の名を背負う覚悟を…! 血の涙を流して受け入れて…! 在るべき姿を取り戻す戦いを続けてきた、我々を…!

 貴女様は、誤りだとおっしゃるのか!!」

 今にもニファーナの喉笛に噛みつきそうな勢いで叫び迫る、エノク。あまりに酷使した彼の声帯は酷く損傷し、咽喉(のど)を鉄錆の味のする血が流れゆくが。そんな事などお構いなしに、エノクは画面の全ての(あな)から業火を吹き出す勢いで、ニファーナを睨みつける。

 ニファーナは、そんなエノクの激情に気圧されはしなかった。その眼には、燃える程の憎悪を抱いて鬼と化してしまった、敬虔なる英雄の末路を(あわ)れむ、弱い輝きだけが点っている。

 ニファーナは数瞬、その残酷な言葉を口に出すのを躊躇(ためら)ったが…やがて意を決し、一度唇を固く閉ざしてから、はっきりと語る。

 「そうだよ」

 その一言をぶけられた時のエノクの有様と来たら、なんと形容するべきだろうか。自身が手塩にかけ、部品の一つずつを手ずから積み上げて作り上げた巨城が、天災により一瞬にして無惨な瓦礫と化した一部始終を、眼前にて見届けていた――そんな悲愴と虚脱を得て、エノクの表情は昼には萎んでしまうアサガオにように脱力し、茫然とする。

 ニファーナがこれまで全く見たことのない、エノクの空虚である。

 ニファーナは、そんなエノクに中身を吹き込もうとするように、ゆっくりと言葉を次ぐ。

 「エノクさん達の言う悲願は…はっきり言って…一部のヒト達の単なる我が侭だよ。

 都市国家(プロジェス)の意志なんかじゃない。

 もう居なくなった父祖だとか、踏ん張った過去だとか、そんな物は現在(いま)にとってはどうでも良くて…。

 現在(いま)都市国家(プロジェス)は、女神の存在も、頑固な独立独歩も必要ない、外からの変化を柔軟に受け入れて繁栄する事を楽しんでいる。

 それで皆、うまく回ってるんだよ。

 それを、エノクさん達一部が、どんな風に大義を掲げて拒絶しても…それは我が侭でしかないよ。

 そんなにエノクさん達が都市国家(プロジェス)現在(いま)が嫌いで仕方ないなら…エノクさん達は、もう…此処(プロジェス)を出て行くしか、ないんだよ」

 過酷と言って過言ではない言葉を受けたエノクが示した反応は…憤るでもなく、茫然を貫くでもない。

 ワッと、声を上げて泣き出したのだ。

 もう涙は、ボロボロ零れる程度ではない。滝のように流れるばかりだ。クシャクシャの表情は、幼子のように頼りなく、力に乏しい。

 その状態でエノクは、泣き叫ぶ激情を力に変えたのか、満身創痍の身体をプルプルと震わせながら上体を起こすと、ニファーナに抱きつく。

 それは、慈愛に満ちた女神に(すが)る、退路無き貧者の姿そのものである。

 「時を…長き時を注ぎ…障害の…大半を…賭して…走り続けた…私は…もう、ここに、必要ないと言うのですね…。

 貴女様を…慕い続けて来た…一途に…慕い続けて来た私を…必要と、言うのですね…!

 それが、それが…貴女様の…真なる意志による…お言葉なの…ですから…私は、受け入れます…貴女様の、永遠の信徒として、受け入れます、受け入れます…!

 ただ…!!」

 エノクは語尾にて、爆発するかのような大声を上げると。暫く嗚咽(おえつ)を続けて後に、消え入りそうな掠れ声で、ポツリ、ポツリとこう漏らす。

 「ただ…我が女神よ…私の行為が…一つでも貴女の力となり…それを感じ入ってくださるのならば…最後の願いを…聞き入れてください…。

 私を…無為の(あぎと)に陥った私を…。

 …憐れんでください…」

 対するニファーナは、困ったような笑いを浮かべる。

 「エノクさん…もう私は、女神じゃありません。だから、女神として、あなたを憐れむことは出来ません。

 だけど…」

 ニファーナは一度言葉を切り、一息吐いてから、続ける。

 「ニファーナ・金虹と云う一人のヒトとして、あなたを…憐れみます」

 その言葉に対し、エノクは拒絶などしなかった。ただ、涙でグシャグシャになった顔で、暫く嗚咽を繰り返した後に――スッと、(こうべ)を垂れる。

 エノクは、散々に現実を拒絶し続けた果てに…遂には、ニファーナの言葉を全面的に受け入れたのだ。

 ニファーナはもはや、女神でない事を認めたのだ。しかしその上でなお、ニファーナの憐れみを欲しているのだ。

 ニファーナは、そんなエノクを嘲ることもなく、蔑むこともなく、憤ることもなく――優しく手のひらを伸ばして、戦いの中で乱れ切ったエノクの頭に触れ、そしてゆっくりと撫で回す。

 エノクは、時折嗚咽を漏らしながら、その慈しみを味わい続ける。

 

 "解縛の女神"ナギサが静かに見守る中、悲願の為に暴走した神父の野心は、すっかりと根本から折れた。

 ――こうして、都市国家プロジェスの騒動は幕を引いた。

 

 - Next, the Epilogue -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Epilogue Part 1

 ◆ ◆ ◆

 

 ――都市国家プロジェスの騒動が終焉を迎えてから、約1週間の時が流れた。

 

 プロジェスの騒動は、地球圏の都市国家のメディアどもに大きく取り上げられた。都市国家の繁栄に寄与し続けて来た"英雄"達が、不満を抱えて反逆を起こしたと云う構図は、同じく一部の"英雄"的な人物に守護を頼る弱小の都市国家に、今後の繁栄の在り方を考えさせる一因となった。

 他方、メディアが触れ得ぬ政治や科学の深淵では、地球圏のみならず超異層世界集合(オムニバース)中の眼が、熱心にプロジェスの騒動に注がれた。特に、呪詛を祈りに読み替えて『現女神(あらめがみ)』を降臨させようとする試みは『握天計画』のヒントになるのではと、魔法科学の研究者の血走った好奇心を呼び寄せたが。地球圏治安監視集団(エグリゴリ)の調査団によって、呪詛の作り出した存在は高々『現女神』の(もど)きであり、それ以上言及する要素がないと言い捨てられてしまうと――彼らの視線は一気に冷め、何事もなかったかのようにそっぽを向いたのだった。

 

 エノクを始めとする、騒動(テロリズム)の首謀者達は皆、"チェルベロ"によって逮捕された。

 元『士師』達は"拳闘"のヴィラード・ネイザーが激しい抵抗を見せたものの、その他は皆、大人しく手錠を受け入れ、術式による堅固な封印が施された檻に入った。

 彼らの態度は概ね良好だと云う。特に、主犯首謀格であったエノクの態度は極めて模範的で、監視している看守がバツの悪さを感じてしまう程だと云う。

 「それでも、あいつは厳罰を免れないだろうよ」

 それは、渚の元に訪れた蓮矢の口から漏れた言葉である。蓮矢は渚達『星撒部』の部員を今回の功労者として敬意を払い、"チェルベロ"が引き取った後のエノクらの処遇について教えてくれる。

 「あいつが狂わせ、奪った人生の数は甚大だ。監獄(ブタバコ)の中でどんなに模範的な態度を取ろうが、恩赦なんてとてもじゃないが望めるようなレベルじゃない。

 これから先、一生日の目を見ない人生を送るのは当然だな。加えて、"地獄炉"に放り込まれて魂魄を搾取されるとか、生体実験の被験体として延々いじくり回されることか、それくらいの処遇を言い渡されても可怪(おか)しくないだろうよ」

 「むうぅ…(あわ)れなものじゃな。

 これまで散々、故郷を捨てて都市国家の為に人生を捧げて来た挙げ句の果てが、(いたわ)りの言葉一つすらない、地獄の底に叩き込まれるのじゃからな」

 渚はそう同情を寄せるものの、同じような憐憫を抱くプロジェス市民は少なくない。今回の騒動の被害者であった者でさえ、これまでのエノクの実績や恩義を忘れず、減刑を訴える者も多いそうだ。

 「確かに、オレだって可哀想だなって思わんでもないさ。

 だがよ、客観的に、無機質に言い切っちまえば、勝手に働いていたくせに同調を求めて、それが叶わなかったからムカついて暴れた…ってことだろ? そこだけ抜き出して聞かされりゃ、誰だってクズ野郎だなって思っちまうわな」

 「うむ、それも理解出来る。

 理解は出来るが、ヒトとして生まれた身の上ゆえ、どうしても感情が出しゃばるのを抑え切れぬわい」

 「『現女神(あらめがみ)』だろうと、それくらいの人間味があった方が可愛げがあって良いじゃねぇか」

 「…おだてても何も出さんぞ」

 「そんなつもり無ぇよ。第一、社会人のオレが学生のお前にたかるなんて、格好つかないっての」

 ――また、蓮矢は紫と共に交戦した相手、ザイサードについても言及する。

 「あのクソ野郎、目の前であそこまで追いつめたってのに、まんまと逃げられちまった。

 あいつこそ、地獄炉にブチ込んでやりたかったぜ」

 「ザイサード・ザ・レッドのう…わしの知らぬ"ハートマーク"のメンバーじゃな。

 まぁ、わしらとて何時でも"ハートマーク"の相手をしておるワケじゃなし、分からぬことがあって当たり前じゃがな。

 …ところで、あのエノクという神父と、ザイサードなる怪物を引き合わせたのは、"牙穿(がせん)"のヤツなのじゃろう?」

 「"牙穿(がせん)"?」

 蓮矢が疑問符を浮かべてながら聞き返すと、渚はキョトンとしてから、ハッと思い至ったように言い直す。

 「"調達屋"ツィリン・ベリエルの事じゃ。おぬしら警察は、"牙穿(がせん)"の(あざな)をあまり意識しておらんのじゃったな。

 …えーと、そのツィリンが引き合わせたのじゃろう?」

 「ほぉー、"牙穿(がせん)"なんて物騒な呼ばれ方もしてんのか、あのチビ。流石は"ハートマーク"、非戦闘民なんて存在しないワケか。

 …それはそうと、その通り、あのチビが引き合わせたそうだ。

 あのチビに連絡を入れたのは、エノクの方からだったそうだ。世界を渡り歩いている"調達屋"なら、自分の望みの実現に助力してくれる人材にコネがあるだろうってワケだ。で、紹介されたのが、あのクソ赤野郎なワケだ」

 「つまり、元凶はツィリンのヤツとも言えるじゃろう? 犯罪幇助という事で、逮捕してしまえば良いのではないか?」

 「そうしたいのはヤマヤマなんだけどよ…上層部(うえ)が乗り気じゃないんだよ。

 むしろ、(かば)い立てする上役(ヤツ)まで居るのさ、"今回の件は、彼女は直接関与しているワケではなく、適切な情報を渡しただけなのだから犯罪幇助と扱わないべきだ"とかな」

 「妙な話じゃのう」

 渚は眉を曇らせる。

 「ザイサードと云うヤツ、おぬしの同僚の…四条ミディと言うたな…が目を付けているような犯罪者ではないか。そんなヤツに引き合わせている時点で、マトモな用件ではない事くらい、誰の目から見ても明らかであろうに」

 「オレもそう思うんだがよ。

 ツィリンのヤツが捕まると、困る上役(ヤツ)が結構居てな。それで贔屓されてるのさ」

 蓮矢は事情を説明ながらも、自らも納得出来ていない事を示して眉を"八"の字に寄せて眉間に皺を寄せる。

 「"調達屋"ツィリンが調達するのは、単なる物品だけじゃない。人材や情報まで、広く扱ってるんだよ。

 そんなツィリンの有益性を、"チェルベロ"の上層部は評価しているのさ。んで、難事件の際には、あいつに接触して情報を得たり、時には専門家を紹介してもらう事もある。これがまた、かなり良い仕事をするんだよ。

 だから、あいつをいつでも使えるように、何だかんだ理由を付けて、泳がせてるのさ」

 「なるほどのう」

 渚は溜息を吐いて、理解を示す。

 「あいつら"戦争屋"が関与する"戦争"は、物理的な命をやり取りする闘争のみに非ず、じゃからな。正義が犯罪と闘うのもまた、"戦争"と見なしておるワケか。

 それにしても…天下の"チェルベロ"様が外部の人材、しかも"戦争屋"を(たの)むとは、情けない話じゃのう」

 「全くさ」

 蓮矢は肩を(すく)めて自嘲の笑みを浮かべて同意するが。直ぐに笑みを引っ込めて、拳をギュッと握り締めて語る。

 「だが、オレが必ず"戦争屋(あいつら)"を"チェルベロ"と縁切りさせてやる。

 その為にゃ、実績積んで上を目指さないとな」

 その言葉を歓迎した渚はニッコリと微笑む。

 「応援しておるぞ、未来の"チェルベロ"幹部よ」

 「オウ!」

 ――そんな会話を交わした後、蓮矢は渚と別れ、"チェルベロ"本部のある別宇宙惑星リバル・μへと去った。

 

 エノクが逮捕された事により、彼が信奉していた宗教である"メジャナの瞳"が俄に注目を受けた。地球圏では余りに馴染みの薄い宗教だっただけに、メディアはエノクの所業から受けた印象から"危険思想の塊"として取り上げ、世論は"メジャナの瞳"を"正体不明の悪の秘密結社"のように扱っていた…が。

 "メジャナの瞳"側は、そんな地球圏の反応に対して激情的な反応を示すことはなく。むしろ、非常に紳士的な態度で非難を受け入れた上で、自分達を知ってもらう事で偏見を無くそうと、自らメディア露出を増やして行った。

 結果、"メジャナの瞳"の慣用さ、真摯にして謙虚な態度、そして馴染み安さから、地球圏の人々に即座に受け入れられていった。

 "メジャナの瞳"との交流が盛んに叫ばれ、ビジネスとして注目されるまでに至ると…エノク・アルディブラという人物は"何処にでも存在しうる、希有な過激思想を持った犯罪者"として見なされ、"メジャナの瞳"とは切り離されて考えられるようになった。

 と云うよりはむしろ…テロリズムの被災地域であるプロジェス以外の都市国家では、エノクの名は市井の記憶から薄れていった。

 

 さて、プロジェス自体の様子は、と云えば。

 『女神戦争』から立ち直って、さほど間を置かない二度目の大災厄とその復興と云うことで、市民達の間にはウンザリとした雰囲気が円満していたが。

 プロジェスに進出していた外部企業――特に建設や製造業は、復興による需要こそビジネスチャンスとして、活発な行動を見せていた。

 一方、プロジェスの市民は概ね、このような外部企業の活動を受け入れ、歓迎すらしていた。彼らとて外部企業が慈善ではなく利潤の為に活動していることは理解しているし、それ故に外部企業に対して嫌悪を抱いた市民も居る。それでも、市民からの概ねの評価が良好なのには、先の『女神戦争』とは異なる事情による。

 まず、『女神戦争』終結後、復興に関する観光などプロジェスの懐が潤っていた事。そして、短期間でもう一度自らの手足を酷使するような"疲弊に向かう意固地"を嫌ったことだ。行政は潤沢な資金を外部企業に注ぎ、自らの手をほとんど汚す事なく、復興の実現に取り組んだワケだ。加えて、プロジェスとしても外部企業の作業員に宿泊施設や食料を提供する事で、自らもまた利益を得ることが出来た。

 更には、先の『女神戦争』直後に入都してライブを行う有名パフォーマーも次々と現れ、プロジェスの復興は都市国家を挙げてのお祭り騒ぎの様相を見せるに至った。

 ここに、エノクらのような過激な思想を持つ回帰主義者が一掃された事情も相まって、プロジェスの復興には陽気さが大きく目立つ事となった。

 

 ――そして最後に。今回のテロリズムに加害者として参加はしていなかったものの、その中心に据えられてしまった人物…元『現女神』の二ファーナ・金虹は…。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 「ニファっちには全然責任ないのにさ!

 元『士師』の連中が勝手にやらかした事じゃん!

 なのに、どうしてニファっちが責任取らされるような事になるワケ!?」

 不満そうな声を挙げたのは、二ファーナのクラスメイトであり、ゴシップ屋の美樹・ジェルフェロードである。

 ――そこは、プロジェスの市壁に極近い辺境地域である。近隣に居住区はなく、草木が鬱蒼と茂る緑地を背にした、広大な"空き地"である。元はプロジェスの国土を広げるための開拓拠点がもうけられていたようで、背の低い草や苔で覆われた大地には、所々に瓦解しかけた廃小屋が見受けられる。

 普段は市軍警察の地域部の巡回監視員くらいしか足を運ばないような場所だ。しかし今は、普段からは考えられないような数のヒトビトが集まっている。

 彼らの内訳はこうだ――まず、美樹をはじめとした、ニファーナとクラスメイトの一部。勿論、全員が居るのではなく、ニファーナに縁深い者達だ…即ち、美樹、ナセラ・リンと(ジエ)凜明(リンミン)、そして学級委員長の本樹(もとき)(しゅう)。加えて、今回の騒動の集結に手を貸した室国(むろくに)灰児(かいじ)の姿もある。

 次に、ニファーナ・金虹本人だ。彼女はクラスメイト達の中には居らず、彼らと対峙する位置に立っている。俯きがちなのは、今回の騒動に対しての責任を感じているからなのだろうか。

 ニファーナの隣に寄り添うようにして立つのは、"チェルベロ"の捜査官である四条ミディである。その表情の読み取れない無機質な面持ちは、犯人を粛々と連行してゆく者の姿を想起させるが――ニファーナの腕には手錠は掛かっていないので、彼女を逮捕しに来たワケではなさそうだ。

 ニファーナのクラスメイトの集団の外側を囲むようにして立つのは、立花渚を初めとする『星撒部』の面々である。ニファーナと彼女のクラスメイトは、渚以外の『星撒部』とは初対面だったため、顔を会わせて直ぐの頃は如何にも学生の交流らしい騒がしさでこの閑寂な土地を賑わわせた。

 ニファーナとミディの横や後ろを固めるのは、プロジェスの市軍警察の治安部の人員達だ。そこには蓮矢と行動を共にしていたウォルフ・ガルデンの姿もある。彼らは決して重装備ではないものの、皆、手には機銃を携えている。戦闘員というよりは、護衛と云った印象だ。

 治安部の人員達の更に背後には、戦闘機より一回り程大きな、概ね細長い三角錐の形状をした機体が着地している。これは"チェルベロ"御用達の異相世界横断用航行機だ。非常にシンプルで無機質なデザインは、かなり古い時代の陳腐なSF映画を思わせるが、"チェルベロ"の技術局が曰くには「無駄を極限まで削ぎ落とした、最もエレガントな航空機」とのことだ。

 ――さて、話の焦点を会話に戻そう。

 美樹の不満の声に呼応するように、ナセラが不服そうに眉を立てて、頷きながら語る。とは言え、美樹のような感情的な口振りではなく、大人っぽい抑えた口調だ。

 「私も納得出来ない。ニファーナは完全に被害者だ。

 それに、操られての行動も罪になると云うのならば、呪詛によって邪悪な『士師』"(もど)き"となった私達3人こそ罰されねば、不公平というものだ」

 凛明は、うんうん、と頷いてナセラに全面同意するが。美樹はギクリと顔を引きつらせる。

 「いやー、あたしまで罰されるのは、ちょっと困るけどー…」

 そうポツリと漏らしてから、咳払いを挟んで口調の勢いを取り戻すと。再びニファーナの隣に立つミディに食って掛かる。

 「と、とにかくさ!

 ニファっちは何の問題もないじゃん!

 なのに、どうしてニファっちがこの都市国家(まち)を離れなきゃいけないのさ!」

 

 …そう。この集まりは、ニファーナがプロジェスを去るに当たっての送別会でもあり、抗議の場でもあるのだ。

 エノク達が起こした騒動の後、学校は2日の休校を挟んだ後、授業を再開した。被害の割に素早い再開となったのは、優秀な外部企業による高度な暫定精霊(スペクター)による高速の修復のお蔭によるものだ。

 授業が再開した後は、渚も留学を全うしてセラルド学院に通学していたが。ニファーナ・金虹は一行に登校しては来なかった。

 大規模な呪詛の浸食による影響で体調不良でも起こしているのかと、クラスメイトの誰もが思っていたが。彼女の転校…というより、移住が決まった事を知らされたのは、ほんの昨日のことであった。

 …とは言え、渚だけはこの情報を事前に把握してはいたのだが。クラスメイトに話をしなかったのは、ニファーナ自身からの要望に従ったからである。

 

 ――そう、ニファーナは他意によってプロジェスを後にするのではない。

 

 「勘違いしないで、みんな」

 ミディが堅い表情のまま、クラスメイト達の非難に対して口を挟む。その表情は怒っているようにも見えるが、鋭い観察眼を有する者であれば、彼女もまた不満に耐えつつも、その様子を表に出すまいと努めている表情であると見抜くことだろう。

 「金虹さんがこの都市国家(まち)を出るのは、別に罰だと云うワケじゃないわ。

 むしろ、あなた達の言う通り、金虹さんは今回の件において落ち度はないの。

 ただ…金虹さんの希望なのよ。プロジェスを…地球を離れるのは」

 「なっ! 地球自体から離れちまうのかよ!」

 そう声を上げたのは灰児だ。そんな彼に対し、秀が言葉を挟む。

 「"チェルベロ"の異相世界横断航行機が来てるんだ、その事態は予測出来るだろう」

 「た、確かに言われてみりゃそうだけどよぉ!

 だけど、何も地球から離れるなんて…そんなに責任感じる必要、無ぇんじゃねぇのか!?」

 「そうだよ、ニファっち!」

 美樹が灰児を差し置いてズズイッと体を乗り出す。

 「他惑星だとか、異相世界だとか、そういう場所って環境が全然違うっていうか、地球人にとっては有害極まりない場所も多いって、授業で言ってたじゃん!? ニファっちにとって、地獄みたいな場所かも知れないじゃん!

 なんでそんな、自ら罰ゲームに当たりに行くような真似するのさ! しかも、これはゲームじゃなくて、人生に関わる問題なんだよ!」

 ナセラや凛明も美樹に同意し、思い留まるように語る…が。

 それまでジッと黙っていたニファーナが、ようやくゆっくりと、その桜色の唇を開いて語るには…。

 「室国君は…"責任感じる必要はない"、って言ってたよね?

 うん…わたし、責任を感じたくない。責任が在るとしても、それを放り投げ出したい。無責任で居たい。

 だからこそ…行くんだ。

 要は…逃げ出すの」

 "逃げ出す"。その言葉を耳にしたウォルフら市軍警察の人員達の間に、刺々しい不快感が漂う。

 "チェルベロ"もプロジェス市軍警察の上層部も、ニファーナが今回の件について責は無い事を認めている。その決定について、ウォルフ達現場の人員達も、黙って従ってはいる。

 だが…あの騒動の現場で、多数の市民に被害が出ているのを目の当たりにした彼らにとって、責は無くとも引き金になったニファーナが無責任に徹しようとする姿は、気持ちの良いものでないのだ。

 一時は都市国家の趨勢を担う『現女神』だったのだから、少なくとも市民の前で詫びや(ねぎら)いの言葉の一つも掛けるのが筋ではなかろうか? そういう不満が沈黙の中にヒシヒシと蔓延していた。

 

 だが…その雰囲気こそが、ニファーナを逃げに追いやった"苦役"なのだ。

 もしニファーナが気丈さ、または鈍感さを発揮してプロジェスに居残ったとすれば。公式には無罪と言われようとも、必ずやニファーナの存在を(うと)んで責める者が出てくるであろう。

 そんなヒトビトの視線を鼻歌を歌いながら無視出来るほどに、ニファーナは気丈でも無ければ鈍感でもない。むしろ…押し潰されそうな程の苦痛に苛まれ、居ても立っても居られなくなる。

 だからこそニファーナは、渚に、そして"チェルベロ"のミディに相談し、移住を決めたのだ。

 渚もミディもニファーナの性格を鑑みて、彼女の意見に賛同したのだ。

 

 「ニファーナの事を悪く言うヤツなんて、私がブッ飛ばして上げるよッ!」

 凛明が拳を作り、鼻息荒く語るものの。ニファーナは力ない笑みをクスリと浮かべるだけだ。

 「ありがとう…皆の気持ちは、凄く嬉しい。こんなわたしを受け入れてくれるんだもの、とてもとても嬉しいよ。

 でもね…ごめんね…嬉しいんだけど…同時に、苦しくもあるんだ」

 ニファーナが徐々に消え入りそうな声音でそう呟くと。クラスメイト達は、ギクリ、とその身を固めてしまう。

 彼らが想像だにしていなかった言葉なのだ。単純に元気付けたいと思って、良かれと思って語った言葉なのに。それが"苦しい"と言われるなど、露ほども考慮していなかったのだ。

 ニファーナは、ぎこちない笑みを浮かべたまま、言葉を次ぐ。その笑みは、クラスメイト達の温情を無下(むげ)にしてしまう事への恥ずかしさと、そんな自分への嘲りで構築されている。

 「私は…本当に情けない人間なんだよ。

 誰からも頼りにされたくない。何の責任も負いたくない。注目されるような面倒なことになりたくない。

 ただ、ただ…静かに、流れに身を任せて暮らしたいんだ。

 でも…この都市国家(ばしょ)に居続けるなら、そんな事は絶対に叶わない。

 被害者として憐れまれたり…加害者だとして憎まれたり…エノクさん達みたいに、またまた『[r[b:現女神>あらめがみ]]』である事を望まれるかも知れない。

 そういうの…全部、やだ。

 何もかも、捨てちゃいたい」

 ニファーナの言葉は、彼女自身が浮かべる嘲笑が余りにも相応しい程に、非常に情けなく、自分本位な言葉である。

 背後に控える市軍警察の人員達が思わず、殺意かと思える程の憤怒の気配を漂わせてしまう。

 そんな彼らの雰囲気を悟ったニファーナは、肩を(すく)める。"ホラ、言った通りでしょう?"とでも言いたげだ。

 対してクラスメイト達の態度は…別段、失望するようなことはない。ニファーナが元来、自発性に大きく欠けている人物であることは分かり切っているのだ。特に女子3人は、ニファーナに全面的に同情し、説得の言葉を(つぐ)んでしまう。

 しかし――今回の騒動まで、ニファーナと殆ど接点を持たなかった灰児は、彼女の情けなさに髪を逆立てる程の憤りを見せる。

 「おいおい、なんだよ、その言い分は! そういうのは身勝手って言うんじゃねぇ、甘ったれってンだよッ!

 被害者だって可哀想がられるなら、良いじゃねぇか! 別にお前が頼んだワケじゃねぇ、好き勝手に憐れんでるんだからよ、シメシメと貰っておけばいいだろうが!

 加害者だって憎まれようが、無視してりゃいいじゃねぇか! ヒトってのは、生きてりゃ絶対にソリの合わないヤツと出会うもんさ! どんなに気をつけてても、何の理由かもよく分からねぇ内に因縁付けられたりしてるモンさ! そんなのを一々取り合ってたら、キリがねぇだろ! そんなのガン無視で良いんだよッ!

 お前が何処に逃げようが、そういうモンは必ず着いて回るんだ! それと向き合えないってンなら、人生止めるしかねぇだろ!」

 「お、おい、灰児…」

 噴火の如く憤怒をまき散らす灰児を、秀が宥めようとする。折角の説得が無駄になってしまうと恐れたに加えて、ニファーナを萎縮させてしまうのでは、と気遣ったのだろう。

 しかし、ニファーナは硬直することなく…烈風の中にそよぐ野草のような、力無い程に柔らかな笑みを浮かべる。

 「室国君は強いからね、そういう事言えるんだよ…。

 だけど、私はね、そんな強さ…一生掛かっても、持てないよ。

 それとも…」

 ニファーナは、意地の悪さを笑みの端に滲ませながら、灰児を見つめる。

 「室国君が、その強さを私にくれるの?」

 そう言われてしまうと、灰児はたじろぐばかりだ。

 「いや…あげるとか、そういうモンじゃねぇだろ、こういうものって…。

 自分の中から、絞り出すしか、無いからよ…」

 「それなら、やっぱり、無理だよ」

 そう即答するニファーナに、灰児は再び憤りの情が湧いてくるが…何か言葉をぶつけることは、しない。…どうして何を言ったところで、堂々巡りになるだけだと、悟ってしまったのだ。

 それくらい、ニファーナの身体は、雰囲気は、力に乏しかった。

 

 クラスメイト達が(だんま)りすると…。ニファーナは、その視線を渚の方へと向ける。

 「立花さん…わたし、あなたに会えて良かったよ。

 それに、"鋼電"のレーテさんに会えたのも、良かった」

 「ほほう。わしとあやつから、おぬしは何を得たのじゃ?」

 渚が試すような意地の悪い伏し目を向けてニファーナに尋ねると。ニファーナは、やはり自嘲を含んだ笑みを浮かべてみせる。

 「カミサマ…って言うのは、可笑しな話なのかな…ともかく、この超異層世界集合(オムニバース)の仕切ってる"誰かさん"は、わたしを選んだみたいにいい加減な考えばかりで『現女神(あらめがみ)』を選んでないって事を、この眼で確かめられたし。

 それに、立花さんに関して言えば…正真正銘の『現女神』の力がどんなに偉大なものか、この身を通して感じられたし。

 そんな凄いヒト達…いや、女神様達と知り合えたんだもん。わたしの人生の宝物だよ」

 普段の渚なら、この言葉を聞いて反発を感じる事だろう。自身も『現女神』であった身ながら、その事に一切触れずに卑下し、他者ばかりを持ち上げる。そんな卑屈な態度に、怒りを感じずにはいられなかっただろう。

 だが、渚は何事もなく、屈託なく笑って見せる。そこには、ニファーナをこれ以上どうすることも出来ないという諦観が含まれているのかも知れない。

 「うむ! 新天地で存分に自慢するが良いぞ!

 レーテのヤツはともかく、偉大なる"解縛の女神"様と知り合いなのだぞ! と大威張りして、写真を見せてやれい!」

 …渚は予め、ニファーナの要望に応えて、『現女神』の姿でツーショットの写真を撮っていた。

 ニファーナはその後、『星撒部』の面々に視線を向けると、ぎこちない笑みを浮かべる。

 「みなさんとは、全然話す機会が無かったけど…今回の騒動を鎮める手助けをしてくれて、本当にありがとう」

 「それが仕事ですからね、当然ですわよ!」

 そんな風に高飛車な態度で応じるのは、ヴァネッサである。残る2人は――アリエッタは笑みを浮かべたまま、紫はジト目気味の無表情を張り付けたまま、特に何も答えはしなかった。

 …こうして声を掛け終えたニファーナは、隣のミディに視線を向けると。

 「もう、行きます」

 と告げて、さっさと踵を返し、異相世界横断航行機へと歩き出してゆく。

 長年、慣れ親しんで来た土地、そして友との別れにしては、あまりにもアッサリとした態度である。

 この態度でミディは戸惑いを感じ、もう少し何か――名残惜しむような何かをしなくて良いのか、と引き留めるべく手を伸ばそうとして…辞める。ニファーナの背は、ミディの人情など素通りしてしまうほどに、儚い力の無さを露呈していた。

 ニファーナは何も言わなくとも、残る友の方はそうではない。よくニファーナと(つる)んでいた美樹は一歩、足を踏み出して身を乗り出し、言葉を掛ける。

 「通信…ううん、それが嫌ならメールでも良い! 絶対にするよ! 気が向いたら、読んでね…!」

 「うん…」

 ニファーナは意外にも首を縦に振って返答すると、チラリと美樹に視線を向けてこう続ける。

 「美樹と秀君の惚気(のろけ)話、ちょっと興味あるから」

 その台詞に、美樹と秀はほぼ同時に顔色を火焔の如く真紅に染める。

 

 今回の騒動が終結した後、秀は美樹に告白。美樹はちょっと戸惑ったが、真摯な秀の態度に打たれ、それを受け入れたのである。

 

 「い、良いよ!」

 美樹は顔を真っ赤に染めながら、ちょっと自棄(やけ)になりながら叫ぶ。

 「一杯一杯、ノロケてやるんだから! だから、たまには返事ちょうだいね! じゃないと、メールするモチベーション、下がるからさ!」

 「…うん…たまに、ね」

 ニファーナは、控え目な口調で儚い約束をしたのだった。

 

 それが、プロジェスにおけるニファーナの最後の言葉になる。

 その後、ニファーナはミディと共に航行機に乗り込む。それから数分して、航行機は烈風を発することもなく、静かにフワリと宙に浮き上がる。かなり優秀な風霊機関による飛行機能を実現しているようだ。

 航行機はクラスメイトの視線に見送られながら、高く高く、鉛直方向に浮き上がると。眩しい程の虹色に近い魔力励起光を纏ったかと思うと、そのまま光の柱となり――地球から離脱する。

 「さよなら」の一声すら掛けられなかった、余りにもアッサリとした別離であった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ニファーナと分かれた一行は、市軍警察に連れられて緑地帯を越えると。人気の少ない最外縁の居住区の、古びた道路上に待ち受ける大型の護送車に乗り込む。

 「こんな大仰な乗り物でなくとも、小型バス程度で良かったじゃろうに」

 護送車に乗り込んだ渚が刺々しくウォルフに向けて語ると。

 「仕方ないだろ! 俺たち市軍警察は公共交通会社じゃないんだからよ!

 お前達くらいの人数を運べる(アシ)って言ったら、コイツくらいしかないっての!」

 そう語気強く言い返してくるのであった。

 

 ちなみに、護送車の運転はウォルフの同僚が担っている。

 

 護送車が軽快に出発する。しかしながら、頑強な魔化(エンチャンテッド)鉄格子をはめた窓は、とてもではないが外の風景を楽しめやしない。

 そこでセラルド学院とユーテリアの学生が、目的地到着までの時間潰しに取った行動は…勿論、お(しゃべ)りだ。特に、社内は女子学生が多いので、正に(かしま)しい有様を呈する。

 「立花としか交流出来なかったのは、本当に残念だったよ。

 他の皆さんも、立花さんと一緒に留学してくれれば良かったのに。せめてこの一週間だけでも、ね」

 本当に残念そうに眉を曇らせて語るのは、ナセラである。向上心の高い彼女は、渚以外のユーテリアの学生の振る舞いから、自己研鑽の為の新たなモチベーションを得たかったことだろう。

 これに対して、ユーテリアの3人の言い分は。

 「わたくし達がこの都市国家(まち)に入都した目的は元来、留学や交流ではなく、仕事のためですわ」

 そう返答の口火を切ったのは、ヴァネッサである。

 「渚があなた方の学院に留学したのも、元はと言えば、今回の騒動の引き金となった奇病――実際には呪詛でしたけれども――を探るためでしたもの。

 …まぁ、渚は目的を果たした後も、留学を楽しんでいたようですけれども」

 ヴァネッサはジト目で渚を睨むが。当の渚は悪びれた様子なく、ハッハッハ、とちょっと大袈裟に屈託なく笑う。

 「学園長からは、好きなだけ留学して見聞を広めよ、と言われておるからな。学生として、立派に学業に(つと)めておるだけじゃよ」

 「…そうやって、(てい)の良いことを(つくろ)うんですから」

 ヴァネッサは諦観の溜息を吐くと。それ以上は渚の事を言及せず、自身の事について語る。

 「わたくしは希望を振り撒く『星撒部』の理念に(のっと)って、再びの災厄に見舞われたこの都市国家(まち)のため、復興作業に(いそ)しんでいましたわ。

 一学生としては、皆さんとの交流に多大な興味がありましたけれども…とてもじゃありませんが、それを楽しむ暇はありませんでしたわ」

 ヴァネッサの言は誇張ではない。彼女は水晶を操り、それで構成された使い魔を多数生み出して使役することが出来る。その能力は復興作業において大いに重宝がられ、様々な現場に引っ張りだこになっていたのだ。彼女がボランティアの学生でなければ、この労働で多大な利益を得られたことだろう。

 次に口を開いたのは、アリエッタである。

 「私は、ヴァネッサちゃん程には忙しくなかったし、渚ちゃんと一緒に留学すれば良かったわね」

 そう言った途端――護送車の前部、市軍警察の人員が乗り込むスペースから、ウォルフの慌てた抗議が割り込んでくる。

 「冗談じゃないッスよ、姐さん!

 姐さんが居てくれなかったら、かなりマズかったですよ! どれだけの被害が出てた事か!」

 騒動は終結したものの、都市国家(まち)の領土から全ての呪詛が直ちに消え去ったワケではなかった。確かに、大半の呪詛はザイサードの逃亡によって消滅したのだが…呪詛による被害者の怨念が生み出した二次的呪詛が点々と発生し、ヒトビトを奇襲するという事案が相次いだ。

 これに対応したのは、市軍警察は勿論のことなのだが、一番目覚ましい活躍をしたのがアリエッタである。呪詛は下手に破壊すると、己の怨念を強めて成長してしまう厄介な習性がある。しかし、アリエッタの見事な剣舞は、呪詛を破壊するでなく"浄化"して消滅させるのだ。彼女の尽力によって、速やかに安全が確保出来るようになった地域は多数に及ぶ。

 「…うーん、やっぱり私も留学して皆さんと交流する余裕は無かったみたいです」

 アリエッタは残念さを滲ませた笑みを浮かべるのであった。

 最後に言及したのは紫であるが…彼女は他の2人と違い、セラルドの学生達を見下すような刺々しい高飛車な態度を取り、大仰に肩を(すく)めてみせる。

 「あたしは先輩達と違って、最初(ハナ)っから留学なんて御免ですね。

 こんなレベルの低い凡人達の間に囲まれたところで、得られるモノなんて何も無いですからね」

 この言葉にセラルドの誰もがムッと顔をしかめる。特に反応が大きかったのは、美樹と灰児だ。

 「何よ、その言い草! いくら都市国家(まち)を救ってくれたからって、酷過ぎるんじゃない!?」

 「テメェ、初めて会った時も散々な言い方してくれやがったがよ! ユーテリアに籍を置いてるってだけで、どんだけ偉いってんだよ、アァンッ!?」

 しかし渚は、ハンッと鼻で笑って、2人の抗議を軽くいなす。そして再び口を開いて、お得意の毒舌を叩きつけようとする――が。

 そこに柔和な態度で分け入って来たのが、アリエッタである。

 「そういうツンデレな事、言わないの。誤解されちゃうでしょう?」

 「ツンデレって、あたしは別に…」

 「それに、紫ちゃんもヴァネッサちゃんに劣らず、凄く大忙しだったじゃない。留学する余裕なんて取れなかったのよね」

 アリエッタの言う通り、紫も多忙な復興作業生活を送っていた。彼女の場合はヴァネッサのように作業員としての働きではなく、貴重な治療魔術の使い手として被害者の手当に当たっていたのだ。呪詛による精神汚染など、本業の医者でも難色を示す症状を、次々と手早く片づけて行ったのである。その成果から、プロジェスの医師協会から、卒業後の就職を打診されたほどだ。

 「まっ、そうですね」

 紫はアリエッタの言葉に同意する。

 「凡人相手に割ける暇なんて、無かったワケですよ。時間の無駄極まりないですからね。

 そんな時間の無駄に付き合ってあげられる副部長の器の大きさには、感服するばかりですよ」

 「…テメェ、喧嘩売ってンのかよ…!」

 「いくらユーテリアの学生だからって、ここまで言われっぱなしなのは、(しゃく)に触るなぁ!」

 灰児と美樹が視線から火花を散らして紫を睨みつける。アリエッタは困った顔をして紫に視線を向けるが、当の紫は何処吹く風と云った様子で、刺々しい雰囲気を収めない。

 

 紫がセラルド学院の生徒に――いや、ユーテリア以外のあらゆる学校の生徒に対して反抗的な態度を取るのには、勿論理由がある。

 それはユーテリアに入学する前、とある都市国家の学生であった頃に直面した、"不幸な不遇"に由来するものだが。その話はまた、いずれ言及することにしよう。

 

 「これ、紫。いい加減にせい」

 渚が少し責めるような口調で語ると。紫はハッとして、慌てて態度を鎮めて、黙り込む。――紫は、渚に全く頭が上がらないようだ。

 渚は更に、紫の頭をガッシリと掴むと、険悪な雰囲気になってしまったセラルドの学生達の方向へと力付くで向かせて、頭を下げさせる。

 「すまぬな。こやつは毒袋を持っておってな。定期的に吐き出さねば、自分の毒にやられてしまうのじゃ。

 それでも、復興の方には大分手を貸しておったのでな、それで勘弁してあげてはくれぬかや」

 「…立花さんがそう言うなら…。

 でも…いくらユーテリアの学生だからと言っても、発言には気をつけてほしいね」

 そう凛明が答えると、渚はニッコリと笑って、渚の頭から手を離す。かなり力を入れていたらしく、紫は顔を上げながら涙目で頭をさすっている。そして、口は災いの元だと痛感したようで、黙り込むことにしたようだ。

 微妙になった場の雰囲気を帰るべく、ポン、と手を叩いて、ニコニコと声を上げるのはアリエッタだ。

 「ここで知り合ったのも何かの縁ですし。連絡先を交換しましょうよ。

 今度は私たちがユーテリアにご招待しますから、そこで思い切り交流しませしょうよ。私も手料理を振るいますから」

 「え、あたしらがユーテリアに行けるの!? 何それ、凄いじゃん!」

 美樹が目を輝かせて、真っ先に食いつく。ユーテリアの評判は、地球圏は勿論、異相世界にも広く轟いている。一般的な学生には、"英雄を志す者達が集う、激しい競争社会"と認識される一方で、"競争にさえ適用できれば、遊園地のような興奮に満ちた夢の学園生活の場"として語られているのだ。そこに競争の要素無しの完全なゲストとして訪問出来るのだから、大歓迎なのである。

 「うむ、それは名案じゃな!」

 渚がアリエッタの意見に賛同し、首を縦に振る。

 「わしらの『星撒部』の真の素晴らしさも見て貰いたいからのう!

 それに、灰児、おぬしには是非やってもらいたい事があるしのう!」

 「オレ?」

 灰児がキョトンとして言い返すと、渚は首を縦に振る。

 「おぬしとウチの大和との試合、是非とも見てみたいからのう!

 あっ、蒼治が相手でも良いかも知れぬ! あやつは甘っちょろいからのう、おぬしが速攻を決めれば勝機十分じゃろうて。

 何せおぬしは、ユーテリアでもやっていけること間違いなしの人物じゃからな」

 「ユーテリア、ねぇ…」

 灰児は視線を遠くへやってボンヤリと口ずさむと。ゆっくりと(かぶり)を振る。

 「いや、遊びに行く程度で十分だ。

 オレは、この都市国家(まち)でやりたい事が出来ちまったからな。此処を離れて暮らす気にはなれねぇよ」

 そう語る灰児の顔は、不良の険がすっかり取れた、穏やかな微笑みが点っている。

 

 灰児の"やりたい事"。

 それは、彼の能力(ちから)を存分に発揮して、プロジェスの発展に貢献して行くことだ。

 今回の騒動を通して、中々認められずイジケていた自分の小ささを痛感した。彼の上を行く存在はゴロゴロしているのだと、小山の大将になったところで何も誇れはしないのだと、よくよく認識した。

 だから、キチンとした形で成果を残し、ヒトから認められるようになりたいのだ。

 それは単に、自己承認欲求なのかも知れない。だが、イジケた薄暗く狭いコミュニティでジメジメと暮らすよりは、よっぽど気持ちが良いはずだ。

 灰児とよく一緒に居る3人には、この話は既に通してある。彼らは灰児の爽やかな決意を歓迎して受け入れ、彼らもまた灰児と共に歩みたいと、真面目な努力を始めている。

 

 「ところで、立花さ。

 どうせ闘うってンならよ、その大和だの蒼治だのって中途半端な実力のヤツじゃなくて、本物の強い男とやらせてくれよ。

 良い経験にも、刺激にもなるだろうからさ」

 そう語る灰児に対して、渚は即座に手をパタパタ振って却下する。

 「ダメじゃダメじゃ! 残りの男どもは…バウアーも、イェルグも、そしてロイのヤツなんぞ特に! 手加減の"ネジ"が吹っ飛んでおる!

 流石に命を取るようなバカな真似はせぬだろうが、深刻なトラウマを負わせて、おぬしの人生を狂わすのが落ちじゃ!

 灰児、おぬしの事を決して見下しておるワケではないが――おぬしでは、あやつらの相手はとてもでないが勤まらぬ」

 その言葉に対して、灰児は憤ることはなかった。渚との交戦や、呪詛の騒動を地肌で体感した身の上として、自分の実力はまだまだ及ばない事を痛感している。

 憤る代わりに、灰児は意地悪な笑みを浮かべて渚に反撃する。

 「でもよ、立花、お前の手加減の"ネジ"の外れっぷりも、相当なモンだったじゃねーか。

 思いっきりボコボコにしやがって、死ぬかと思ったぜ」

 すると渚は、悪びれもせずにハッハッハと笑う。

 「死ぬかと思うただけで、死なんかったではないか。

 むしろ、おぬしの底力を引っ張り出してやったではないか。

 わしは学園(ユーテリア)でも手解(てほど)き上手で通っておるからのう、おぬしはわしに感謝こそすれ、非難するのはお門違いと云うものじゃよ」

 「…へいへい、そりゃありがとさんでしたね」

 灰児はもう観念して、渚の言葉に特に反発することなく、諦観の溜息と苦笑と共にそう答えるのであった。

 

 それからセラルドとユーテリアの生徒達は、護送車を降りるまで専ら交流に関する話題で盛り上がる。

 特にセラルドの学生がユーテリアに対して描くイメージ…学食が豪勢だとか、授業がとんでもなくハイレベルだとか、志高い生徒達の厳しい自主訓練だとか…の話が多い。渚達が、概ねその通りだ、と答えればセラルドの学生達は「おおー!」「ハンパないなー!」と歓声を上げる。

 …一方で、離別したばかりのニファーナについての話題は、皆無である。

 特にセラルドの学生達は、ニファーナに対する思い入れは少なからぬところであろう。それでも話題に出さなかったのは…別れ際のニファーナの気弱な態度に対して、思わず愚痴(ぐち)(こぼ)したくなってしまうからだろう。

 都市国家の繁栄を担ってきたはずの『現女神(あらめがみ)』が、あれほどまで情けない思考の持ち主だったと痛感しては、失望は免れない。

 それでも、もう会えないかも知れない人物の事について陰口を叩くのは、人道に(もと)る最低の行為だと自覚している。

 ――もう会えないのならば、思い出を美化する方が断然マシだ。

 そう考えたであろうセラルドの学生達は、ニファーナの話題を避け、思い切り楽しめる話題に没頭することにしたのだ。

 

 ――こうして、2つの学校の生徒達は、愉快な時間を過ごすのであった。

 

 - To Be Contineud -



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Epilogue Part 2

 渚達4人がユーテリアに帰ったのは、翌週の月曜日の夜である。

 その昼間は、渚が留学終了の挨拶を含めて、セラルド学院での最後の生活を楽しんだのである。その間、残りの3人は勿論、最後まで復興活動の援助に尽力していた。

 その翌日。『星撒部』は早速、夕方からプロジェスの事件解決を祝う打ち上げを予定する。渚は学食への連絡を含めて手筈を一式整えつつ、仮部室である本校者4階の第436号講義室で、のほほんとした骨休みを満喫している。

 他の3人も、それぞれ思い思いの時間を過ごしている。

 ヴァネッサは早速、イェルグと共に複数の授業に参加している。イェルグと一緒に過ごす時間を楽しみたいという理由も勿論あるだろうが、彼女は元来真面目な性格なので、授業への参加率は『星撒部』の中でも高い方だ。普段の堂々とした態度をそのまま生かして、ハキハキと挙手しては意見を述べたり、問題に解答したりと、学生の本分を全うしている。

 アリエッタは、夕方からの打ち上げに向けて、部員達に振る舞う料理の自作に勤しんでいる。自分の功労を自分で讃えるという奇妙な構図になっているものの、本人がそれで満足しているのだから良いのだろう。ちなみに力を入れている料理は、手の込んだケーキである。

 一方で紫は、夕方まで惰眠を貪ったり、マンガやゲームをするなどして、一日を休暇に当てている。高度にして魔力を非常に費やす治療魔術を連発していたのだから、相当疲労が溜まっていたらしい。加えて、"ハートマーク"の一員との死闘の疲弊が今頃になってドッと()し掛かってきた事も大きい。

 ――こんな風に、4人は思い思いの火曜日を過ごしている。

 

 さて、渚がのんびりとした時間を過ごす仮部室には、彼女の他にもヒトの姿がある。…ロイとノーラだ。

 ロイは混み合うトレーニングルームを避けて、この仮部室で基礎体力トレーニングに勤しんでいる。魔化(エンチャント)によって劇的に加重された、拘束具にも見えるアイボリー色の衣服を着て、汗だくになって腹筋を繰り返している。その回数は今や、4桁に達している。

 一方のノーラは、渚からプロジェスでの出来事の話を聞こうと、彼女の元を訪れている。授業を(ないがし)ろに考えているワケではないが、実戦経験の浅さを痛感している彼女は、イメージだけでも掴みたくて此処を訪れる事を選んだ。

 「…と、まぁそういう次第でな。

 病気を治して、さぁお終い…と言うワケには行かず、込み込みの大騒動になってしもうたワケじゃよ。

 それでも大団円に導いたのは、流石にわしらじゃな、と自己評価せざるを得ぬわい」

 渚がスラスラと、そしてくどさの無い語り口で事件のあらましを語り終えると。ノーラは面白い紙芝居を見た少女のように、目を輝かせて真摯に拍手する。

 一方でロイは、身体を起こして腹筋運動を止めると。そのままの格好で、ジト目の視線を渚に送る。

 「何が大団円だよ、副部長。

 そのニファーナって元『現女神(あらめがみ)』は、その都市国家(くに)を脱出したんだろ?

 それじゃあ、手放しでハッピーエンドとは言えないんじゃねーの?」

 「いやいや、それで良いのじゃ」

 渚はパタパタと手を振る。

 「あやつ自身が望んだことである、というのも一つじゃが。あやつの性格を考えると、あの都市国家(くに)に居続ける方が苦痛で(たま)らんじゃろうからな。

 ハッピーを考慮するなら、新天地でやり直す方が断然の良策じゃよ」

 ロイはその言葉については納得したようだが。姿勢を崩して胡座(あぐら)をかくと、不満げ…というより、ちょっと怒っているような表情を作る。

 「それにしても、そのニファーナってヤツ、情けないにも程があるぜ。心っつーか、意志っつーか…とにかく、弱過ぎだろ」

 「ほう」

 渚が相槌を打つと、ロイはそのまま言葉を次ぐ。

 「折角『現女神(あらめがみ)』の座を手に入れたってのに、喜ぶどころか、それを重荷に感じるだとかさ。

 別に自分が原因ってワケじゃねぇのに、事件について責任を感じたり、他人(ヒト)の目を意識したりとかさ。

 堂々としてりゃ良いのに、何をそんなに一々ビクついてんだかな。そういう態度、オレは気に食わないね。弱過ぎオーラで、こっちまで腐り溶けそうだ」

 「するとロイ、おぬしがもしも女として生まれ、『現女神』の座を得たのならば、堂々とその能力(ちから)を行使して信者の上に立つワケじゃな?」

 渚が言い返すと、ロイは顔中をベットリと濡らす汗を袖で拭いながら答える。

 「信者の上に立つかどうかは、その時の気持ちとか状況に因るかも知れねぇけどさ。そうした方が世の中がマシになるってンなら、喜んで上に立つね。

 勿論、能力(ちから)だって迷わず使うぜ。授かりモンだけど、オレのものにゃ変わらない。大歓迎だぜ」

 「なるほどのう。

 まぁ、おぬしらしい答えじゃな」

 渚はニカッと笑う。直後、その笑みを歪めながら、こう続ける。

 「正直わしも…ニファーナの気持ちというのが、良う分からぬ。

 わしは『現女神』に成る事を望んでおったし、成った今も境遇を歓迎したことこそあれ、後悔した事など一度も無いからのう。

 じゃが、苦しいと云う気持ちは、本人の口からシッカリと聴いたからのう。十分理解は出来ておるつもりじゃ」

 「理解は出来ても、同情は出来ないンだろ? 副部長だってさ?」

 そうロイに問われれば、渚は「むうぅ」と唸るだけであるが、その表情や口調からは肯定の雰囲気がひしひしと伝わってくる。

 するとロイは、ふいに五体を床に投げて天井を仰ぎ見つつ声を上げる。

 「なーんで"どこかの誰かさん"は、そんな弱っちいヤツに『現女神』の座なんて大層なモン、くれてやったんだかな?」

 そうロイが語った直後のことだ。

 「…弱い、とは違うと思う」

 ポツリとそう言葉を漏らしたのは、ノーラである。

 その意外な言葉に、渚もロイもほぼ同時に視線をノーラに向ける。

 「ニファーナって()には、彼女なりの強さが、ちゃんとあると思うな…」

 「そうか?」

 ロイは寝転んだまま、眉をしかめて問い返す。

 「『現女神(あらめがみ)』の能力(ちから)ってのは、学園長だとか市長だとかみたいな、権力とか違うんだぜ?

 突き詰めちまえば、結局は単なる肩書きでしかなくて、肩書きの価値を知らなかったり通じなかったりする相手には何の効力もないのが、権力ってヤツだ。だから、重荷だって認識するヤツが居るのは理解出来る。

 だが、『現女神』は全然違う。肩書きだけじゃなく、『神法(ロウ)』って言う強固な自己防衛能力まで付いてくる。そいつを使えば、言うことを聞かないヤツを相手にしても、力でねじ伏せちまう事が出来る。重荷どころか、完全にメリットじゃねーか。

 そんなメリットを重荷に感じたり、引け目を覚えたりするってのは、やっぱり心が弱いか…そうでなきゃ、バカじゃないのか?」

 「バカ…か。

 それは確かに…否定できないかな」

 ノーラは薄い苦笑を浮かべて答える。ロイは"そうだろ?"と視線で問い掛けてくるが…次ぐノーラの言葉は、やはりロイを肯定するものではない。

 「でも…弱くないよ。

 ロイ君や副部長がそう思ってしまうのは、仕方ないことだと思うけど…私は、そんな風に言えないな」

 「どうしてじゃ?」

 渚がそう訊けば、ノーラは薄く、ちょっと情けなさそうに微笑む。

 「私には…その()の気持ちが、凄く分かるから」

 「…? ノーラが? どうしてだ?」

 ロイが身体を起こし、片膝を立てて座り込んでノーラに尋ねる。するとノーラは、はにかみながら語り出す。

 ――はにかむのは、この話を説明するために、彼女自身の情けない過去を伝える必要があるからだ。

 「私ね…家族のみならず…故郷に暮らす一族みんなから、『現女神』になるよう期待をかけられて育って来たの。

 このユーテリアに入学させられたのも…『現女神』になるための修練を積ませるためなんだ。

 でもね…私はね…みんなから期待を掛けられていることは重々理解できたけど…そんな期待に答える気になんて、なれなかった」

 『現女神』になって、『天国』をもたらせ――それが一族から託された希望だ。その希望を背負わされたのは、ノーラが生まれて間もない頃からである。彼女が希有な魔力を有する事を把握されると、一族は騒ぎ立てて彼女の人生の道を『現女神』の方向へと仕向けたのである。

 だが…当のノーラは、その使命の重大さだとか、利点だとか、理解できずに居た。…いや、理解しようとすら思わなかった。

 彼女は単に、他の子供達と同じように、楽しく遊んで暮らしたいと思っていただけだった。世界でも指折りの金持ちのような幸せでなくとも、困窮に喘ぐことさえなければ、そこそこ幸せでいればそれで満足できた。

 大変な想いをする修練を課せられてまで、もっともっと上を目指す必要など、全く感じていなかった。

 「2人みたいに…高い志があるヒトなら、大きな能力(ちから)を天から授かれば、嬉しいだろうね。

 でも…そうでないヒトにとっては…そこそこの水準で満足しちゃうヒトにとっては…それは運べない位に大き過ぎる宝で…使い道すら分からない、混乱の元でしかないんだよ…」

 そう語ったノーラは、更にこんな例えを付け加える。

 「例えばね…学芸会の演劇で、人前に立ちたくないヒトが、主役に抜擢されちゃったとするじゃない…?

 中には…そういう状況に置かれた事で奮起して、練習の中で人前に立つ面白さに目覚める子も居るかも知れない。でも…そういう子は、恐らく…開花してなかっただけで、元々人前に立てる勇気がある子なんだと思う。

 そうじゃない…元来から人前に立ちたくない子は…主役という重責に苦しみながら…何で自分が選ばれたんだろうと悩みながら…本番の嵐を乗り切るまで、暗澹とした思いで日々を送ることになるんだよ…」

 「そんなに苦しいなら、最初(ハナ)っから断っちまえば良いじゃんか」

 ロイの語る事は、極めて真っ当な正論だ。だが、ノーラは(かぶり)を振る。

 「そういう子達にとっては……断るという行為自体が、高い壁なんだよ…。

 人前に立ちたくないって想いはね…誰かに笑われたくない…怒られたくない…間違いを皆の前に晒したくない…そんな臆病な想いなんだよ。

 そして臆病だから…断って、誰かに変な想いをされるのを…恐れちゃう。だから…断れないんだよ」

 そしてノーラは、「だからね…」と続ける。

 「そのニファーナって()は…そういう臆病な想いを必死に押し込めて、逃げる事を選んだ、勇気のある()だと思うよ。

 弱いヒトには…弱いヒトなりの勇気が、あるんだよ」

 「臆病者の強さ、というワケか」

 渚がそんな事を舌の上で転がし、ニカッと笑う。

 「そうやって言葉にすると、物凄くカッコイイ響きじゃのう」

 渚はノーラの言に納得したからこそ、そんな台詞を口にしてみせる。

 一方でロイも、ノーラの言に納得してはいたが…疑問符が一つ、頭の上に浮かんでしまい、眉をひそめながらノーラに問う。

 「なぁ、ノーラ。

 もしお前が『現女神』の座を手に入れたとしたら…お前も、捨てちまうのか?」

 ノーラは暫く目を伏せ、黙って考え込む。そしてたっぷり時間を掛けた後に、桜色の唇を開く。

 「どうだろう…"今の私"なら…どうするか、分からない」

 「"今の"?」

 ロイが訊き返すと、ノーラはゆっくり眼を開いて語る。

 「"昔の私"なら…この『星撒部』に入る前の私なら…そのニファーナって()と同じく、苦しみながらも役割を引き受けたと思う。

 それが…私達の一族の長年の悲願だし…私がユーテリアに入学させられたのも、その達成が目的だったし…。

 それに…私自身、このユーテリアで学ぶ他の目的や理由も見つけられなかったからね…。

 だけど…」

 ノーラは一度、ゆっくりと瞼を閉じて開くと――その新緑を思わせる碧眼に、真夏の木漏れ日を想起させる輝きを灯す。

 「今の私は…ロイ君や、立花副部長や…『星撒部』の皆と出会って…正直大変だけど、とても貴重な体験をしてきた今の私は…却って、どっちが良いのか分からなくなっちゃったんだ。

 立花先輩を否定するワケじゃないんですけど…何かから与えられた『神』の力を得るより前に、ヒトとしてもっともっと、強くなりたいと言う想いもあります。

 でも一方で…ロイ君と同じような意見になっちゃうけど、今の私が『現女神』になることで、世界をより良い方向に導ける手助けが出来るなら…その能力(のうりょく)を使うのも良いかな、とも思うし…。

 …うーん、結局は…得た『神法(ロウ)』の性質に依るのかも知れないな…。立花先輩みたいな、力強い問題解決能力を持てるなら…正直、大歓迎だけど…。誰かを魅了するだけのような能力(ちから)なら、要らないね…」

 「まぁ、何の能力(ちから)であろうと、結局は使い方次第で善し悪しが決まるとは思うがのう」

 渚は顎に手を置いてそう語るものの、ノーラの言を肯定して(うなず)き、ウインクして人差し指を立てる。

 「それでも、今のおぬしが、他意に流されることなく、自身の意志で選択した答えならば…それがどうであれ、わしは尊重するぞい」

 するとロイが「えー」と声を上げる。

 「オレはやっぱ、貰えるモンなら貰っといた方が良いと思うけどなー。

 貰いたくても貰えるモンじゃねーしさ」

 「ロイ君は、それで良いと思うよ。ロイ君らしいもの」

 そんな風にロイとノーラが語り合い始めた頃。渚はふと、窓の外へと視線を向ける。

 視界に飛び込んでくるのは、青々とした空。ユーテリアには四季というものは存在しないが、地球の地軸の傾きによる昼夜の長短や空の色の濃淡は反映されている。

 北半球に位置するユーテリアは、2月の終わり――暦の上では冬から春へと移り変わる季節だ。空は南中高度を増す太陽によって、その青色が徐々に明るい水色へと移り変わってゆく。

 「…もうそろそろ、春休みじゃのう…」

 渚は欠伸(あくび)をするような眠たげな声で、そんな言葉を口にした。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ――そこは、ユーテリアでもプロジェスでもない。しかしながら、地球上の南半球に位置する、とある都市国家の片隅。

 時間帯は、丁度夕餉の頃。繁華街は夕食や酒を求めるヒトビトでごった返し、光霊を主体とした派手に動き回る光源が店々をこれでもかとアピールしている。

 そこそこ繁栄している都市国家の繁華街ならば、何処ででも見られる喧噪。

 その中に置いて――一店舗だけ、時の流れに取り残されたかのように静まりかえっている場所がある。

 

 "本日休業"。

 そう書かれた札が入り口の扉に掲げられている割には、窓からは煌々(こうこう)たる明かりが漏れている。

 実際、店内に入ると、店主を初めとしてアルバイトのウェイトレス、店主の補助を努めるコックなど、従業員が揃っている。

 彼らは通常の影響日と同様、労働に勤しんでいる。厨房ではひっきりなしに調理が進行しているし、ウェイトレスはお盆を両手に抱えて、食欲をそそる香りが湯気に混じる、出来立ての料理を運んでいる。

 しかし、従業員達の様子は、非常に奇妙だ。

 料理人達は、必死の形相で食材や調理器具に向かっている。その"必死"は、単に精魂込めている…という様子ではない。それはまるで…喉元に刃を突きつけられている時のような、致命的な状況に身を(さら)している時の、まさに"必死"な表情だ。

 ウェイトレスに居たっては、その一挙一動に如実な恐怖が見て取れる。運ぶお盆はガタガタと震え、その上に乗った皿がガチャガチャと耳障りな音を立てる。それでも、料理のソースやスープを漏らさないよう、綱渡りでもしているかのような集中力を発揮し、料理を運んでいる。

 

 そんな従業員達が相手をしているのは、男女4人の客だ。

 店のやや入り口の方のテーブルに座り、高額なメニューを中心に注文を繰り返し、豪華なディナーを楽しんでいる。

 彼らの構成は、背丈的な意味極端に凸凹(でこぼこ)としており、人目を引きやすい。即ち――4人のうち2人が180センチを越える身長の持ち主で、もう1人は160センチに届かない程、最後の1人に至っては140センチにも満たない子供のような身長である。

 一番背の低い人物は、プロジェスの騒動に関わった"チェルベロ"隊員には、見覚えのある人物だ。キャラバンを思わせる、民族衣装的な模様を縫いつけた白いローブを身につけ、赤毛のボブカットからは猫状の耳がピンと姿を現している。"調達屋"ツィリン・ベリエルだ。

 彼女の対照的に、一番背が大きいのは、2メートル近い身体を誇る大男。体長に比べて体の幅がスマートなのでヒョロリとしても見えるが、身につけた衣装の上からでもガッチリと鍛えられた肉体が見て取れる――痩せているのではなく、体をダイヤモンドの如くコンパクトながら強固に鍛え上げているのだ。明るい青色を呈する髪の下、料理を口に運ぶ表情は冷たい刃のように無表情である。

 刃と言えば、彼の席の直ぐ傍の床には、彼の体長をも越える巨大な剣がズシンと置かれている。馬どころか、竜すらも一刀両断できそうなその剣は、彼が長年愛用している逸品である。

 この大男の名は、ヴァーザンク・グレイブン。知る者には"剣凄"――"剣聖"に(あら)ず――と呼ばれている。ちなみに、この4人の中で唯一の男性である。

 彼の隣の向かいに座るのは、2番目に高い身長を誇る大女だ。その頭の上には唾広の三角帽を乗せており、身長が更に高く見える。剣を扱うヴァーザンクとは対照的に、こちらはファンタジーゲームから抜け出して来たような"魔法使い"の姿そのものをしている。席には、先端に淡い翡翠色の宝玉をあしらった愛用の杖を立てかけている。

 彼女の顔は、その大柄な体格に反して幼げだ。よく言えば、悪戯(いたずら)好きの少年――少女のような可憐さではなく、少年のような活気が目立つ――のようである。悪く言えば――弱い獲物をいたぶって遊ぶ、ネコ科動物のような表情だ。

 そんな粗野な表情に応じるように、彼女の料理の食べ方は粗暴だ。空腹の獣が獲物の臓物に噛みつくような勢いで、殆どの料理を手掴みして口に放り込み、ガツガツと咀嚼する。スープを飲むときは皿ごと口に運び、ゴクゴクと一気に飲み下す。魔法使いの姿の割には、知性よりも野蛮さばかりが目立つ、妙な女。

 彼女の名は、エルルゥシカ・ボリャプキン。このような体たらくながら、知るヒトからの呼び名は"魔女"。この魔法科学が発達時代において、敢えて"魔女"の呼び名を有する彼女は、超異層世界集合(オムニバース)でも最高峰の魔法技術を有する、天才魔術師である。

 最後の1人は、横に並ぶエルルゥシカと対極的な雰囲気を醸す少女。[濡羽(ぬれば)色の、美しいストレートのロングヘアに、キッチリと着こなした純白の胴着と青の(はかま)が、花の如き清楚さと剣の如き鋭利な健強を醸し出している。椅子に座る姿勢は、背中に鉄の棒でも入っているかと疑う程にピンとして美しく、食器をキビキビと扱う一挙一動が絵画のような様になっている。

 少女はこの出で立ちが物語るように、剣士だ。しかし、ヴァーザンクと違い、己の獲物たる刀は座っていても腰に差しており、決して地面には置かない。どんな姿勢であろうとも、刀が邪魔にならないよう、幼い頃から体の一部として扱うよう修練を積んでいるのだ。

 この少女の名は、風祭(かざまつり)(つばめ)。呼び名は、特にない――それは他の3人に比べて実力が劣っている、というワケではない。しかしながら、知名度が低いというのは真実である。

 ただし、知名度が低い理由は、相対した敵は(すべから)く命を失っており、逸話を語る者が居ないからである。

 一見すると、共通性のない混沌とした面子である。しかし、4人には1つだけ、共通点が存在する。

 着込んだ衣装の何処(いずこ)かに、"I"と"WAR"の字で挟んだハートのマークを縫いつけている。即ち彼らは――悪名高き"戦争屋"集団、"ハートマーク"の構成員と云うワケだ。

 

 「いやいやー、良いね良いね、こりゃ良いねぇ!

 これからデカい仕事(ヤマ)って時に、このボリュームにこのカロリー! 魂魄の隅々にまでエネルギーが行き渡る、爽快感! かぁーっ、良いねぇ!

 流石は"調達屋"のツィリン様々、グルメの情報を扱わせても第一級でいらっしゃる!」

 豚の角煮を皿ごと口に運び、ザラザラと口の中に放り込んでグチャグチャと咀嚼しながら、エルルゥシカが絶賛する。

 「でも、エルルさんなら、この程度の料理は一度食べてしまえば、お得の魔術で幾らでも複製できるでしょう?」

 ツィリンが目の前のレアステーキをしずしずと切り分けながら、ニコニコと語ると。エルルは口の周りにベッタリとついた角煮の汁を拭きもせず、幅広の袖が揺れる腕をブンブンと左右に振る。

 「確かに確かに、そうなんだけどさー。あたし様ってば天才過ぎるからよー、味わった代物をそのままソックリ、寸分違わず複製しちまうんだわ。

 こういう風に、手作りならではのビミョーな差異をつけるってのが、中々難しくてさー。何をどれほどの振幅で配分すべきか、自然に実現しようとすると、結構ドツボにハマっちゃうんよ」

 「そんな振幅などに拘らず、ベストな一品を複製すれば事足りるのではありませんか?」

 ツィリンが至極真っ当な正論を語るものの、エルルゥシカは「チッチッチッ」と舌を鳴らしながら指を左右に振り、否定する。

 「それじゃあツマランじゃんか。

 アトランダムな要素があってこそ、この世は面白いのだよー!

 それは料理も然り! 毎日ソックリそのまま同じものじゃあ、飽きちまうじゃんか。少しずつでも差異があることで、ヒトは刺激を受け、感性を豊かにするってモンさ!」

 「…料理の味付けの誤差くらいで、そこまで大仰な結果がもたらされるモノですかね?」

 ツィリンは苦笑しながら肉を口に運ぶと、エルルはようやく口の周りの汁をペーパーナプキンでグシグシと拭いつつ、ニカニカ笑う。

 「いやー、あたし様みたいな天才でないと分からない機微かな、こりゃ。

 確かに、単に胃袋を満たすだけの連中は、そこまで頭回さんわな!」

 「…それはつまり、我々がお前に比べて下等であると、見下しているワケか?」

 そう指摘するのは、ヴァーザンクである。ただし、怒っている様子は全く見受けられない。刃のような冷たい鋭さはあるものの、金属の無感情さも併せ持った、空虚な言葉だ。何となく会話に混ざってみた、程度の発言のようだ。

 だが、エルルは極端とも言える程に大仰に反応する。ブンブンと首を左右に振って、慌てて否定する。

 「いやいやいやいや! ヴァー達の事を見下してるワケじゃなくて!

 一般人達(パンピー)の事を云ってるワケよ、一般人達(パンピー)の事!

 たーだたーだ、社会っつー蜃気楼の砦に(すが)って、世の(ことわり)に疑問符も浮かべない、愚民どもについて、もっとマシに成りたまえ! と言っているワケだよ、うん!」

 「その愚民の中に、オレ達が含まれている…と」

 ヴァーザンクは相変わらず無表情に告げるものの、内心では楽しんでいるのかも知れない。

 「あーもーッ! そうじゃねーってッ!

 何でそう、疑った見方をして突っかかってくるかなぁッ!」

 エルルゥシカが鍔広の三角帽の直ぐ下、両のこめかみの辺りを手で押さえて頭をブンブン左右に振り回して喚く。

 そんな彼女の隣で、鳴き交わす鳥の群の声にも動じずサラサラと流れる小川のように、泰然自若としてクリームソースの掛かったポークステーキを切り分けている燕が、ポツリと漏らす。

 「あまりに騒がしいですよ。

 こんな叫喚の有様では、折角の料理の味も香も損なわれてしまいます。

 少し、自重してくださいませ、エルルさん」

 「注意されんの、あたし様だけかよおぉぉッ!!」

 騒がしさを注意されても、エルルはブンブンと頭を左右に振って、更に声を張り上げる。

 

 4人の有様は――特にエルルゥシカの振る舞いによって――お祝い事のような様相を呈している。

 という事は、この店が表に"本日休業"と掲げているのは、彼らの為に貸し切り状態を作り出すため――ではない。

 本来なら、この日とて通常の営業日なのだ。そして、ほんの数刻前までは実際に、この夕刻のかきいれ時に乗じて、(あふ)れかえる程の客を抱えていたのだ。

 その証拠が、店内の至る所に"転がっている"が――それらは奇妙を通り越して、"気味が悪い"代物である。

 店内のテーブル周りやカウンター周りの椅子、そして通路の至る所に、その"気味の悪い代物"が配置されている。

 それは、ヒトの下半身だ。丁度ヘソくらいの高さでスッパリと切断され、上半身を失った下半身が、椅子に静かに腰掛けていたり、通路にゴロリと転がっていたりする。その数が余りにも多いし、凄惨な出血も見受けられないので、まるで装飾のようにも見えてしまう。

 だが、切断面を見れば、それが装飾でない事は一目瞭然だ。そこにはグロテスクなまでに新鮮な筋肉や皮下脂肪、臓器のスッパリとした切断面が露出している。内分泌液に濡れてテラテラと輝いている様や、足音に揺れてプルプル震える様から、それらが決して作り物でない事を物語っている。――正真正銘、本物の人体の切断された下半身だ。

 奇妙なのは、先述した通り、出血がない事だ。…いや、切断面には真っ赤な血液が今にも吹き出しそうな具合で露わになっている。しかし、血液達は切断された血管の末端から吹き出したりしない。見えない壁にでも阻まれているかのように、末端部分でピタリと停止しているのだ。

 この残酷な仕打ちを行ったのは、現在唯一飲み食いして騒いでいる4人である。そして店員は、彼らがこの大量のヒトビトをこの悲惨な有様へと変えた所業を目の前で見ている。だからこそ、彼らは恐怖で震えつつも、4人が機嫌を損ねるなどして自分達に牙を剥かないようにと平静を装い、文字通り"必死に"仕事に従事しているのだ。

 

 (どんだけ食えば気が済むんだよ…!)

 (金なんて要らないから、早く帰ってくれよ…!)

 (お願いだから、殺さないで…殺さないで!)

 時が経つにつれ、従業員の胸中の恐怖がブクブクと膨張してゆき、今にも破裂して号泣しそうな程の緊張感に苛まれている頃。

 ガチャン、チャリリン――景気の良いドアノブを回す音と、ドアについた呼び鈴が澄んだ音を上げる。来客を告げる音だ。

 (おいおいおい、誰だよ、何でだよ!

 "本日休業"の張り紙を見てないのかよ、ドアホッ!)

 店長は招かれざる客の到来に、4人が機嫌を損ねるのではないかとギクリとしたが。来店した客の身なりを見るなり、脱力と安堵、直後に更なる緊張と、泣き出したくなる諦観に襲われる。

 そこには、血の色のように真っ赤な長髪を(たた)え、夜の帳のような漆黒のコートに身を包んだ男が居る。コートには銀色に輝くスタッズがジャラジャラと張り付けられており、派手なミュージシャンを思わせるほどだ。

 そして、このコートに肩に張り付けられたハートのマークを見つけ、瞬時に理解する。

 (お仲間が、増えちゃったよ…!)

 ――店主の察する通り、この男は"ハートマーク"の一員。ザイサード・ザ・レッドだ。

 「おっ、マジで居た居た!

 おいーっす! ツィリン様のお声掛けで、ザイサード・ザ・レッド、参上ですよーだ!」

 ザイサードはおどけた調子で声を上げ、踊るようなステップで仲間4人の元へと近寄る。途中、通路に転がった下半身につま先をぶつけて顔をしかめると、指差しながら尋ねる。

 「おっわ、派手にやらかしてンねぇ!

 強制貸し切りたぁ、豪勢なこった!

 で、"どっち"がやったンよ?」

 すると燕がスルリとした動作でヴァーザンクを指差す。

 「決まっているでしょう。

 私の技では、血流のベクトルまで切断出来ません」

 「いやいや! 燕ちゃんだって、やり方次第で出来ちゃうんじゃないかなーって! そんな可能性に賭けてみたかったんヨ!」

 そう語りながら下半身を思い切り蹴って吹っ飛ばし、悠々と仲間のテーブルへとたどり着く。そして椅子が足りない事に気付くと、直ぐ隣のテーブルから椅子を引っ張り出し――上に乗っていた下半身は揺すり落とした――自分の席にしてドッカリと座る。

 こうしてテーブルを囲むのは"ハートマーク"5名となる。

 燕は先のザイサードの言葉を受け、顎に手を置いて少し(うつむ)き、数瞬何かを考えると。

 「…確かに、貴方にしては一理ある考え方だ。

 試行錯誤もせず、頭から否定して諦めていては、可能性を摘み取るだけ――正論だ。

 良い思案の材料を頂いた、感謝します」

 そう言って軽く頭を下げるものの、礼を言われたザイサード当人は、戸惑いとも不満とも付かない複雑な表情を見せる。

 「"貴方にしては"…って言い方、スンゲェ気になるんだけど…。燕ちゃんの中のオレって、どんな存在なワケさ?」

 燕はその質問には答えず、涼しい顔をして料理を口に運ぶ。"推して知れ"とも"知らぬが仏"とも言いそうな表情に、ザイサードはちょっと機嫌を損ね、頬を膨らませて()ねながら頬杖を付く。

 だが、キョロリと4人の仲間に視線を走らせると、直ぐに機嫌を直す。そして、ヴァーザンクに向かい、悪戯っぽい表情を作って語る。

 「ヴァーザンクよぉ、随分と良いご身分だったじゃないの。美女に囲まれて、旨い料理に舌鼓を打ってさ。

 オレ、お邪魔しちゃって申し訳ないねぇ」

 燕に向けられたからかいをヴァーザンクにぶつけて解消しようとしたのだが。ヴァーザンクは凍れる剣の様相のまま、肉料理を綺麗に切り分けつつ、こう語る。

 「その美女の中には、エルルの奴も入ってるのか?」

 その質問に即答したのは、ザイサードではなくエルルゥシカだ。

 「当然じゃーん!

 この空前絶後の頭脳明晰、才色兼備の超絶美女のあたし様がカウントされないワケねーじゃんかよぉ!」

 …そう語るエルルゥシカは、歯を剥き出しにして爪楊枝(つまようじ)で歯の隙間をほじっている。美女とは程遠い有様だが…確かに黙っていれば、多少童顔めいた可愛らしさのある、愛嬌のある顔立ちと言えないこともない。

 ザイサードは、ハハハ、と乾いた苦笑を漏らすに留めると。ツィリンに向かながら、腹をさする。

 「ここまで来るまでに迷っちまってさ、余分に動いたから腹ぁ減っちまったよ。

 ツィリンさんよ、オススメの料理って何さ? 出来れば、トマトかパプリカ、トウガラシでも良いな…真っ赤なヤツが良い」

 流石は"(ザ・レッド)"を姓に背負う人物。扱う能力(ちから)だけでなく、嗜好もまた赤色に染まっている。

 「それなら、この四川風担々麺がオススメですね。トウガラシをふんだんに使った、挽き肉と会えた真っ赤なソースを太麺に乗っけた料理です。空腹感を刺激するスパイシーさは勿論のこと、コシの強い麺と言い、挽き肉の旨味と言い、すばらしい赤の料理ですよ。

 そして残念ながら、このお店ではトマトやパプリカの料理は置いてません。赤と言えばトウガラシに由来するものが多いです、何せ中華料理屋なものですから」

 「オーケー、オーケー! そんじゃ、そいつにしよう!

 オーダーだッ、その担々麺ってヤツを取り敢えず一つだ!」

 ザイサードは声を張り上げて注文すると、ウェイトレスは「はひっ!」とうわずった声を上げ、厨房に駆け込んでゆく。

 料理が運ばれてくるまで暇を持て余すザイサードは、お喋りを続ける。

 「しっかしよぉ、オレ達が"箱庭"の外で5人も集まるなんてなぁ! 国家転覆どころか、惑星破壊にでも来てるみてぇだなぁ!」

 「確かに、こんなに集まるなんてこと、滅多にありませんよね」

 ツィリンがニッコリ笑って答える。

 「外食となれば、"旦那様"が料理人を呼びつけますからね。

 まぁ、"箱庭"の皆と楽しむもうとするなら、一店舗丸ごと貸し切っても面積が足りないですしね」

 "旦那様"。その言葉を耳にした途端、ザイサードは「ああーっ!」と叫び、真っ赤な長髪に手を突っ込んでは()(むし)り、テーブルの上に突っ伏す。

 「オレ、まだ"箱庭"に帰ってねーんだけどさぁ…おっかなくてよぉ。

 受けた仕事、完遂できなかったどころか、依頼人が逮捕されちまったモンよ。無様な成果と言われても仕方ない有様さ。

 "旦那"、カンカンに怒ってるだろうなぁ…」

 「そんな事はない」

 ヴァーザンクが皿を平らげ、ペーパーナプキンで口の周りを拭きながら即答する。

 「"あの方"は、些細な汚点になど頓着しない。

 お前が"戦争屋"らしく良い戦争を実現したのならば、"あの方"は憤ることはないだろう」

 「確かに、良い戦争だったとは思うぜ。そうは思うんだけどよ…完全な負け戦をやらかしちまったからよぉ。胸を張れないんだわ。

 ホラ、見てくれよ」

 ザイサードは椅子の上でクルリと体を回し、漆黒のコートに覆われた背中を見せつける。その中央には、ヘタクソなパッチワークで縫い合わせた、見苦しい縫合痕が縦一直線に走っている。

 「件の『星撒部』の連中と、そのオマケと交戦したんだけどよ。見事にスパーンと、真っ二つにブッタ斬られたちまったわ。

 お蔭で、お気に入りのこのコートがこの有様さ」

 「自業自得だろう」

 コップの水を飲み下してから、ヴァーザンクが言い捨てる。

 「また何時ものように相手を(なぶ)り遊んだ挙げ句、相手に成長を許したのだろう。

 成果に拘るのならば、出し惜しみなどせず、瞬時に全力を出して叩き潰すべきだ」

 「そりゃ正論なんだけどさ。こりゃ、オレの性分っつーかな、職業病だから仕方ねぇ」

 ザイサードは向き直りつつ、バツが悪そうに頭を掻く。

 「ホラ、オレってば呪詛使いじゃん?

 呪詛ってのは、一瞬でぶっ殺しちゃ中々集まらんものじゃんか? じーっくりじーっくり時間を掛けて、苦痛と絶望を嬲って絞り出さないと、質の良い呪詛は集まらんじゃんか?

 そういう作業が日常茶飯事な仕事ばっかしてるからよ、実戦だろうが何だろうが、その癖が出ちまうのさ」

 「…それで、この一週間ほど、敗北を喫した腹いせに、何処ぞに引きこもって拷問三昧に興じていたワケですね」

 燕が食べ終えた皿を脇の除け、口を拭きながら静かに、物騒な事を口走る。

 「あ、そんな事まで分かっちゃうの、燕ちゃん?」

 ザイサードが問えば、燕は早々にメニューを開いて次の注文を検討しながらサラリと答える。

 「血腥(ちなまぐさ)さが染み付いてますからね」

 「あー、でもね、燕ちゃん。ただの腹いせってワケじゃねぇんだぜ?

 これもれっきとしたお仕事なのさ。いやー、プロジェスに関わってばっかだったから、依頼が山のように溜まっちまっててさ。それを片っ端から片づけてたら、この有様ってワケさ。

 まぁ、ちょーっとは最近の精神状態による趣向が入ってるけど。それはそう、実益を兼ねた趣味の特権というか、役得ってヤツさ」

 ザイサードは"ハートマーク"のメンバーの中でも、かなり多忙な方である。彼の元に集まる依頼は、呪詛を扱って欲しいというものは勿論、"あの憎たらしい糞野郎に地獄を見せてやって欲しい"という類が大量に来る。単に頭に来たというレベルから、法で裁けない、もしくは法の裁きでは軽過ぎる罪人に真の地獄を与えて欲しい、というものまで様々だ。ザイサードは己の呪詛を集めるために、こうした依頼を嬉々として受けている。

 元来彼は、ヒトを"一思いに殺してくれ"と嘆願されるまでいたぶるのが大好きなのだ。

 「お蔭様で、今回の大騒動で使いまくった分の呪詛は、とっくに取り戻させてもらったよん。

 ヒトの憎悪様々~、ってヤツだな!」

 腕を組んで得意げに語るザイサードだが、質問してきた燕はとっくに興味を失っているようだ。震える手でザイサードに料理を運ぶウェイトレスに向かって手を上げて、注文をアピールする。

 ザイサードは燕の態度にむくれるかと思いきや、料理が運ばれてきた事で一気に上機嫌になり、「いただき~!」の嬌声と共に麺を大量に持ち上げ、一気に頬張る。口の中一杯に広がる肉の旨味と脂の甘み、そして遅れてやってくるピリリとした辛味が彼の舌を心地良く刺激する。ザイサードは両目をギュッと瞑り、感激の情を露わにする。

 「あーっ、マジ旨ッ!

 今まで穴蔵生活でさー、インスタントと"生肉"ばっかり口にしてたから、こんな手の込んだ料理は久しぶりだわ!

 ビバ、文明様々!」

 ザイサードの語る"生肉"は、勿論、いたぶった犠牲者の肉体に由来するものだ。生理的嫌悪を催す発言を耳にしても、仲間4人は全く動じない。流石は屍山血河の世界を日常とする"戦争屋"の面々である。

 「そういやぁ、プロジェスと言やぁよぉ、ツィリンちゃん」

 ザイサードは箸をヒョコヒョコ上下に動かしながら、ツィリンを差す。無礼極まりない振る舞いだが、ツィリンは気分を害することなく、ニコニコと応じる。

 「何でしょう、ザイサードさん」

 「前にプロジェスでデカいコンサートあったろう? その頃の復興に関わってじゃんか、ツィリンちゃん?

 今回、オレらが派手にブッ壊しまくっちまったんだけどさ、何か想うところとかあるでしょ? 勿体なかったなぁ、とかさ?」

 「いいえ、別に」

 ツィリンは相変わらずニコニコとして、サラリと即答する。

 「私は、商売人ですからね。お金を積まれて頼まれれば、二つ返事で引き受ける人間です。

 それが昨日の依頼者を叩き潰すような内容であっても、思い入れなんてありません。

 実際、そんな潰し合いに関わった事なんて、五万とありますよ。ほんの二、三日前に武器を調達して上げた組織に対して、彼らを完膚無きまでに叩き潰すための人材一式を派遣した事もありますしね」

 「はぁー。なるほど、商魂逞しいワケだ。

 でも、そりゃあ素敵な戦争になったろうねぇ」

 「ええ、とっても素敵な戦争でしたよ」

 ――"戦争屋"同士の会話は、ふとした事で匂い立つ程血腥(ちなまぐさ)い話題が、"今晩のおかずは何か"程度の気軽さで飛び出す。

 

 5人の会話も弾み、宴も(たけなわ)になってきた頃の事――。

 何の前触れもなく、ドガンッ! と大きな音が店内に響き、店の扉が吹き飛ぶ。

 直後、開けっ放しになった出入り口からバタバタと激しい足音を立てて雪崩込んで来るのは、紺色を基調とした魔化(エンチャント)が施された防具に身を包んだ、市軍警察治安部の人員達。その手には(すべから)く機銃が握られている。

 店員がコッソリと現状を通報し、助けを求めていたのだ。その結果、彼らの念願叶い、治安部が動き出したのだ。

 ――店員達としては、より戦闘能力の高い衛戦部の出動を希望していたかもしれない。しかし、市内で発生した事件であるに加え、街への被害も考慮し、通例に(なら)って治安部の機動隊が出動することとなったのだ。

 「おーおー? 何だ何だ? いきなりの団体様ご到着たぁ、この店は随分知名度高いみたいじゃんかよ、おい?」

 ザイサードは自分の席から見て背後に当たる治安部の団体を肩越しに眺めながら、おどけた調子で語る。

 彼を初め、"ハートマーク"達は機動隊の到着に全く動じていない。女性陣4人に至っては、チラリと機動隊に視線を走らせたものの、直ぐに料理へと視線を戻して食器を扱う。

 その脳天気な様子に、機動隊の隊長はフルフェイスのヘルメットの内側でこめかみに青筋を立てて、怒声を上げる。

 「動くなッ! 両手を上げろッ!」

 機動隊は店内の様子を通報にて把握していたが、肉眼で確認し、グロテスクさよりも異様さの目立つ惨状に純然たる怒りを爆発させている。

 「貴様ら、自分の犯した罪の大きさを認識して――」

 隊長が更に怒声を上げて、5人を威嚇した――その途中のことだ。

 

 隊長の声が、ピタリと止まる。

 それだけではない。機動隊から燃え盛るように立ち上る殺気と怒気が、突如目の前のボールが消えてしまったかのように、フッと消失してしまう。

 その状況が発生する直前、ヴァーザンクがチラリと機動隊に視線を走らせていた。

 彼は相変わらずの冷たい刃の視線で彼らを睥睨(へいげい)し、パチクリと一度、瞬きをした。

 その直後のことだ――機動隊の隊員達の胴に、恐ろしく速く、そして鋭い衝撃が一直線に駆け抜けていったかと思うと。彼らの上半身が――ただ1人だけを残して――(すべから)く下半身から切り離され、中空に舞う。その上半身も、不可視の(あぎと)によって丸(かじ)りされたように、バクンッ、と音を立てて消えてしまう。

 残された下半身は、やはり出血することなく、真紅に彩れた臓物が鮮やかな輝きを放つ断面を見せながら、床にゴロゴロと倒れて転がる。

 

 この所業の一部始終を見ていたウェイトレスは、思わず運んでいたお盆を料理ごと取り落とし、顔を真っ青にして立ち尽くす。一瞬の後、目尻にジワリと涙の粒が溜まるものの、ワッと泣き出すことはなかった。――泣き出せる程の心理的余裕がなかったのだ。

 一体、何が起きたのか。どんな(わざ)が使われたのか。ウェイトレスには勿論、知る由などない。

 ただ――店に居た他の客を排除したのと同じ現象を目の前にして、やはりこれは悪夢では無かったのだと痛感するばかりだ。

 「おいおいおーい、店主店主店主よぉ! 店主さんよぉ、ちょいとここに来いっつーのッ!」

 大声を張り上げたのは、エルルゥシカである。すると、厨房の方からドタドタと取り乱した足音を上げて、壮年に差し掛かった年代の小太りな、使い込まれた調理服に身を包んだ男性が現れる。

 「は、はい! ただいま!」

 上擦(うわず)った声を上げて、体をピンと伸ばして"気を付け"の姿勢を取った店主。そんな店主に対し、エルルゥシカは敵を前にして牙を剥き出しにした獅子のような壮絶な表情を作り、ドスの効いた声を上げる。

 「あたし様らはよぉ、ただただ旨い飯を楽しみたいだけだっつーの。

 ここらのクソ野郎どもをブッ殺したのもよぉ、飯が不味くなるからに過ぎないのであってよぉ」

 ――この店は味も良く、価格も決して高くない割にボリュームが良いことから、地元からよく愛されていた。特に、肉体労働者達が常連として足を運んでいた。

 "ハートマーク"の4人が来店して食事を始めた頃、入店して来た地元の荒くれた性格の常連が、「そこはオレたちの席だ」と難癖を付けてきた。それに構わず食事をしていると、彼らは4人に喧嘩をふっかけてきた。そして店内の客達が面白がり、ワーワーと騒ぎ立てた。

 この様子に静かに憤ったヴァーザンクが、機動隊に使ったものと同じ技で、彼らの体を斬り離してしまったのだ。

 「旨い飯を提供するのが仕事のハズのテメェらが、何で飯をマズくするような茶々入れるかねぇ!?

 そういうフザケた真似されんのよぉ、あたし様ったら、スゲェ腹立つんだわッ!」

 猛獣の剣幕で叫びつつ、エルルゥシカは右手を1人だけ残った市軍警察の隊員に向けると、"こっち来い"とばかりに指をクイクイと動かす。すると、隊員の体がフワリと浮き上がる。突然の事に隊員は手足をバタ付かせて、焦燥に駆られる。そんな隊員の意図に反して、彼の体は釣り糸にでも引っ張られたのような勢いで、グンッ、と宙を移動。エルルゥシカの眼前に引き寄せられる。

 (な、何する気だよ…!)

 フルフェイスの下で冷や汗をビッショリと掻く隊員が、エルルゥシカの獰猛な表情をビクビクと見つめていると。エルルゥシカが椅子に立てかけていた杖を掴みつつ、店主に向かって語る。

 「またフザケた真似するならよぉ――」

 語尾を強く言い切ったと同時に、エルルゥシカは杖の先端を隊員に向けると、クルクル回して振る。すると、先端に付いた宝玉から、輝きが粉のような有様で出現し、隊員の方へと飛来して(まと)わりつく。まるで、旧時代のファンタジーアニメーション映画のような光景だ。

 そして、この魔術行為の結果も、ファンタジーアニメーション映画を想起させるものだ。すなわち、隊員は自身に螺旋を描いて(まと)わりつく輝きをヒョコヒョコと首を回して追っていたが――やがてその身体が虹色に染まったかと思うと、ポン、というコミカルな小爆発音が響く。そして、白い煙が八方にボフンと散ると――隊員の姿が、消える。

 代わりに、親指に乗る程度の大きさの小さな緑色の芋虫が出現し、中空から床へポトリと落下する。

 これを見届けたエルルゥシカは芋虫を拾い上げて手のひらに乗せて、店主に見せつける。そして、牙がゾロリと覗く獣の笑みを満面に浮かべて、店主に語る。

 「今度、"こう"なるのはテメェらだよん?」

 ――転瞬、そこに居合わせた店主は勿論、ウェイトレスや、厨房の出入り口付近からこちらを眺めていた調理人達は、即座に理解する。――隊員が、芋虫に変じてしまったことを。

 ファンタジーアニメーション映画ではよくありがちなシチュエーションだが、こうして現実として目の前にすると――その行為は余りにも残酷で、身震いする程に恐ろしい。

 ――実際、エルルゥシカがやって見せた魔術は、恐ろしく高度で強烈な技術である。自身を変身させる魔術ですら高度であると言うのに、形而上相上の免疫機構を持つ他人の存在を、免疫機構を完全に無効化した上で、定義を上書きする。――地球どころか、超異層世界集合(オムニバース)の文明を集めても、実現できる術者は両手で数える程しかないであろう、強力な魔力。

 それをこのデカい身長の魔女は、片手間で実現してみせたのだ。

 店主を初めとする従業員は、この魔術の原理や価値を正確に理解せずとも、その大事加減を本能的に把握し、ドッと冷や汗を滝のように噴出させる。

 「も、も、申し訳ありませんでした…ッ! 以後、以後…絶対に、あなた様方の食事のお邪魔になるような事は、一切いたしませんッ!」

 店主は即座に下半身が転がる床に正座し、額を床に(こす)り付けて土下座する。その身体は、自壊してしまうのではと云う程にブルブルと強烈に震えている。

 その有様を見たエルルゥシカは、恐れる店主の様子を面白い見世物のようにでも思ったのか、ニンマリと上機嫌で(わら)う。

 「あー、分かったならオッケー、オッケー。

 早よう料理に戻って、あたし様達のオーダーをしっかりと作ってくれよぉ。

 くれぐれも、涙とか汗でしょっぱくなった料理なんて出すンじゃねぇぞ」

 「はい、はい、はいッ!

 勿論でございますッ!」

 店主はそう叫ぶと、小太りの身体からは想像も付かない素早さで立ち上がり、厨房の中へと駆け込んでゆく。途中、こちらを覗いていた料理人達に鬼気迫る表情を見せ、彼らを厨房の中へと押し込み、調理に専念するよう促す。

 フロアに残ったウェイトレスは、足をブルブルと震わせて棒立ちをしていたが。エルルゥシカがウニウニと蠢く芋虫を(もてあそ)びながら、チラリと視線を走らせると。

 「テメェもちゃんと働けよ。

 オラ、食い終わった皿がテーブルに残ってて邪魔なンだよ」

 「は、はいッ! 只今、お片づけいたします!」

 ウェイトレスはそうキビキビ叫ぶや、震えを出来るだけ押さえた動きで皿を集めて重ねると、そそくさと厨房へと駆け込んでゆく。

 残された"ハートマーク"5名の内、この直後に真っ先に声を上げたのはザイサードだ。しかし、その口から出た言葉は、従業人を気遣うものではない。

 「その芋虫、どうすンのさ?」

 そんな、とぼけたような発言である。それに対して、残り3名が顔を歪めることもない。飄々(ひょうひょう)と料理に向かっているのみだ。

 "ハートーマーク"のメンバーにとって、気に食わない存在は暴力的にでも排除するのは常識である。

 「んー、そうだねぇ。

 蝶になるまで飼ってみっかぁ。

 あたし様、最近小動物に飢えてたし」

 エルルゥシカはそう語りながら、芋虫をテーブルの上に乗せる。そして今度は杖を置き、左の人差し指をクルクルさせて輝きの粉を振りかける。すると、芋虫を囲むように周囲の空間が直方体の形に歪んだかと思うと――透明なプラスチックで四方が囲まれた飼育箱が生成される。中にはキャベツのものらしい、瑞々(みずみず)しい葉っぱがモッサリと敷かれている。

 芋虫は葉を認識すると、一心不乱に口をモシャモシャと動かし、餌を咀嚼し始めるのだった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ――一連の惨殺事件の大凡(おおよそ)は、隊員の装備に埋め込まれていたカメラを通して市軍警察の情報部に把握された。

 情報部は直ちに映像を上層部に送り、事件への対応を検討する会議が開かれた――のだが。出席した市軍警察の幹部は、誰も彼もが事件への対処に対して消極的な姿勢を見せる。

 「…"ハートマーク"が、5人も居るのだろう? 対抗するのならば、衛戦部に任せるしかないのだが…」

 治安部の部長がそう語ってチラリと衛戦部の部長に視線を走らせると。衛戦部部長は顔色を青くし、表情を露骨にひきつらせる。

 「…確かに、対抗するなら我々が適任なのだが…。

 しかし、しかしだな…収束までに被る損害は、非常に甚大なものだと推定されるし…。

 しかも、しかもだな…隊員に命を賭してまで対応してもらってもだな…その…事態を収束できるとは約束できないのが…誠に、誠に遺憾ながら…現実であるし…。

 その…彼らを本気で打破するのならば、地球圏治安監視集団(エグリゴリ)に動いてもらうのが、妥当ではないかと…」

 市軍警察で最も強大な戦力を有している割には非常に弱腰な言葉である。だが、対外勢力に対して常に高いアンテナを立てている彼らは、どんな敵がどれ程の脅威なのか、という情報を市軍警察内で一番よく把握している。

 そんな彼らからすると、"ハートマーク"はブラックリストの最上段に乗る、最要注意勢力であり…例え相手が1人であっても、分が相当悪い事を重々理解している。

 そんな衛戦部の意見を耳にした総務部の部長は、禿頭にビッショリと冷や汗を流して、組んだ手に隠れるようにして[[rb:頭<こうべ]]を垂れながら、こう語る。

 「…今回の件は、災害扱いということにしようじゃないか…」

 会議に出席している部長の数人が顔をしかめたが、そういう人間に限って地域部や交通部といった交戦を殆ど考慮しない部門の者達である。とは言え、総務部部長は"戦いを知らないお前達にそんな顔をされる謂われはない!"などとは決して口にせず、慌ててこう取り(つくろ)う。

 「す、既にこちらは多くの被害を被ってしまっている。し、しかも、相手はほぼ労力を掛けていない。そ、そんな相手と本気に交戦などしたら、ひ、被害の甚大さは、め、目に見えてる。こ、この都市国家(くに)すら潰れかねん!

 そ、それに! あ、あいつらは、食事をしに来ただけだと言う…! な、ならば、腹が膨れれば、そ、そのまま大人しく帰ってくれるだろ!

 ほ、ほら! 嵐と同じだ! 過ぎるまで我慢すれば、も、問題ない!」

 「だが、犠牲者はどうするんですか!? この食堂に局地的な嵐が発生して、それにやられてバラバラになりました、なんて説明するんですか!?」

 地域部の部長が険しい視線で睨むものの、総務部部長はそれよりも"ハートマーク"への交戦を恐れ、声を張り上げる。

 「な、なんとでも説明する! い、遺族には多めにお悔やみの金子(きんす)を持たせて、黙らせてやれ!

 じ、実際! 初めにやられた者達は、あいつらに対して礼を失した事をやらかしたら、こ、殺されてる! 自業自得だ、そんな奴らに、手厚い対応など要るものか!」

 ――こうして市軍警察は事態を静観するものとし、後日一部の市民から激しい抗議を受けることとなる。…勿論、市軍警察は黙殺に徹し、事件は時と共に有耶無耶(うやむや)になる。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 さて、場は食堂に戻る――。

 

 「んでよ、みんなはこれから、何の予定が入ってンのよ?」

 ザイサードが料理を頬張りながら尋ねたかと思うと、「あ」と言葉を挟んで言葉を次ぐ。

 「ちなみにオレは、丁度この辺りで2、3件依頼が入ってるンで、それを片づけてから"箱庭"帰りかな。

 "旦那"が怒るんなら、もうちょっとフラフラするかなーって思ったんだけどさ。そうでないなら、久しぶりに自分のベッドでグデ寝するわ」

 「…賢人(セージ)さんは怒らなくとも、紫音(しおん)さんには殺されるかも知れませんけどね」

 そう燕がしれっと言うと、ザイサードは顔を真っ青にして表情をひきつらせる。

 「怖ぇ事言うなよ…! 有り得ない話じゃないだけに、スゲェ不安になるじゃねぇか!」

 「まぁ、"あの方"が手を出さないのならば、紫音殿も異存はあるまい」

 ヴァーザンクが口元をペーパーナプキンで拭きながら語ると、ザイサードはホッと一息吐く。――紫音と呼ばれる"ハートマーク"のメンバーは、ザイサードでさえ震え上がる程の実力の持ち主のようだ。

 「んでんで、みんなの予定はどーなのよ?」

 ザイサードが安心して語れば、まず口を切ったのはエルルゥシカである。

 「あたし様は、ヴァーと一緒に仕事さ」

 「お、2人掛かりとは、スゲェ仕事が来たモンだ!

 『女神戦争』にでも乱入しちゃったりするワケ!?」

 「まぁー、ちょいと似てるけど、別物の仕事だよん」

 エルルゥシカは芋虫の入った飼育槽を持ち上げてブンブンと振り、中の芋虫がビックリして身を強ばらせるのを見てニヤリと笑いながら言葉を次ぐ。

 「あたし様達は、『現女神(あらめがみ)』に着くのさ。

 んでもって、あたし様達の相手は『現女神』サマに楯突く愚民どもってワケ」

 「…それ、無茶苦茶ツマンネー仕事じゃね?」

 ザイサードがジト目で苦笑を作り、エルルゥシカを見つめる。

 只でさえ強い『現女神』の勢力に、化け物集団の"ハートマーク"が2人も加勢しては、民衆風情が幾ら束になっても敵うワケがない――それがザイサードの認識だが。

 「いやいや、そーでもないのよ。

 相手は中々やる手練れでねぇ、『現女神』サマも結構な歳月で手を焼いてるそうだよん。

 まー、土地柄的にも、かなり面白い種族が繁栄してる場所だからねん。アンタが想像してるより、断然楽しめるハズさね」

 「へぇー」

 ザイサードは返事をしながら、チラリとヴァーザンクを見やる。彼が相変わらずの仕草で淡々と料理を口に運んでいる様を見る限り、エルルゥシカの言葉に異論はないらしい。

 そこでザイサードは屈託のない笑みを浮かべると。

 「そりゃー、良かった。2人掛かりで出張った挙げ句、ショボい仕事だったなんてことにならないなら、万々歳だわな」

 と他意なく答える。

 ザイサードは次にツィリンと燕を見やり、次の予定は何かと尋ねると。真っ先に答えたのはツィリンである。

 「私は、近くの都市国家で一仕事ありますので、そちらを片づけます。

 燕さんは…お仕事終わりで、"箱庭"に直帰ですよね?」

 「…いえ。少し寄り道する用事が出来た。1人、黙らせてくる」

 燕の"黙らす"の意味は、勿論、"息の根を止める"ということだ。

 「ところで、ザイサードさん。1つ、訊きたいのだけど」

 燕が料理を切り分ける手を止めて尋ねる。ザイサードが手と表情で"何でもどうぞ"という仕草を取ると。燕は一言、こう呟く。

 「アリエッタ・エル・マーベリー」

 ――『星撒部』2年生にして、アルテリア流剣舞術を扱う、"斬らない剣士"の美少女の名である。

 燕は一息吐いてから、こう続ける。

 「交戦しましたか?」

 「いいや、残念ながら」

 ザイサードは肩を竦めながら答える。

 「オレが交戦したのは、相川紫ちゃんっつー、なんか意地悪そうな女の子だったな。それと…"チェルベロ"のおっさん」

 それからザイサードはハッと表情を変えると、少し意地悪そうな笑みを浮かべて燕に問う。

 「同門同士だから、気になるんかい?」

 「同門?」

 転瞬、燕の冷たい表情が露骨にガラリと代わり、鬼の如き険悪な表情へと変わる。

 「あんな偽剣術を扱う一派を同門と見なされるのは、心外この上ない。

 剣は所詮、ヒトを斬る道具。心に訴えるなんて虚無に心血注ぐ阿呆達と、一緒くたにされたくない」

 その余りの剣幕に、ザイサードはゴクリと生唾を飲みこんでから、バツが悪そうに苦笑する。その様子を見た燕は、ハァー、とため息を吐くと。

 「交戦していないのならいい。

 詰まらない相手だとしたらガッカリするから、確かめたかっただけ」

 ――この風祭燕とアリエッタの間には、とある因縁があるのだが。その話は後ほど、別の機会に言及するとしよう。

 

 さて、少し場の雰囲気が悪くなった事を察したツィリンは、今回の宴の主催者として、底抜けに明るい声を上げて雰囲気を柔らげる。

 「まぁまぁ、皆さん!

 "箱庭"の外で、この人数で集まれたことですし! ここは楽しくやりましょう!

 燕さんも、ザイサードさんは悪気があったワケじゃないんですから、そんなに気になさらず!

 皆さん、志を同じくする者同士、いがみ合うなんて無意味な熱を注がず! お互い仲良く、これからの多幸を願おうではありませんか!」

 そしてツィリンは、並々と次がれた炭酸ジュースを掲げると、より一層声を張り上げる。

 「良い戦争を!」

 すると残る4人は、ツィリンに(なら)って各々の飲み物を掲げて、唱和する。

 「良い戦争を!」

 ――こうして、最凶の戦争屋達の宴は続いてゆく――。

 

 - over -



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。