桃源郷を目指して (ツヅラP)
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Prologue:深夜に響く鎮魂歌
空を見上げた。
目の前に広がる景色は澄んだ青空で染まり、少し視線を下げれば彼方に入道雲が悠然と佇んでいた。
更にその下へと視線を向ければ、鏡かと見紛うほどに澄んだ湖が空を映し、正面を向いた時、空と湖を隔てる境界線は綺麗に並んだ真一文字の林のみであった。やや違和感を感じるその牧歌的な湖畔を、俺はベンチに座りながら、ただ、眺めていた。
ーーーー
瞳を開けると、懐かしい感覚が訪れた。
移り過ぎ去るいつかの心象。刹那が永遠に塗り潰される世界。霞む視界が開き切った時、目の前にいる男を見て俺は全てを悟った。
「なぁ、父さん──」
心残りの清算。親子最期の語らい。話したいことはたくさんある。が、まずは一言。
「今も
昔も
これからも
──俺は、幸せだ」
満ちた月が夜を照らす。今宵は、永くなりそうだ。
桃源郷を目指して
Prologue : 深夜に響く鎮魂歌
十二月のとある早朝。そこは外気に勝る勢いで凍てついていた。
原因は、三人の媛にあった。
「──ねぇ……あたしたちだってね、こんなことしたくはないんだよ?」
普段の奔放さは鳴りを潜め、睨み付ける少女はブリザードだった。
「いつもなら私まで怒ることはありません。しかし、今日は別です」
感情を感じさせない常温な声は、今ばかりは冷えきっていた。おまけに三白眼とショートの姫カットも相俟って雰囲気倍増である。
「素直に謝ったら、あたしたちだって考えるのよ?」
天真爛漫な彼女らしからぬ無表情と威圧感。きっと普段の彼女しか見たことのない人ならば卒倒するに違いない。
この世ならざる美を体現する三人の少女たちの激情。対面する者がショック死しかねないこの状況。元凶は、寝室というにはやや大き過ぎる部屋で、デカすぎる特注キングサイズベッドの上で、仁王立ち、三人を睥睨していた。その顔に一切の怯みはなく、逆に、楽しんでいるかのように獰猛な笑みを浮かべていた。
「断る」
その漢は譲歩の提案を一刀に切り伏せる。
「立場が、わかっていねぇんじゃねぇか?」
そう言うやいなや、彼は語り始めた。
「俺は夫だ。で、おめぇらは妻だ
わかるか? 亭主関白なんだよ俺たちは!
──しかし
なんだ、その納得いかねぇって面は
おめぇらは俺の3歩後ろを恭しく歩いてりゃあいいんだよ
俺のしたことにいちいち文句垂れてんじゃねぇぞ処女オナホどもッ!!」
どこまでも不遜な物言いは彼女たちの温度を更に下げ、遂に絶対零度となった。その口から紡がれる言葉はなく、瞳で、少年へと不退転の意志を示す。
地獄の冷気もかくやと言わんばかりの極寒を、少年は裸一貫で踏破せんと助長した自尊心を更に滾らせ突き進む。その姿は、正に天上天下唯我独尊。
少年は組んでいた両腕を開き胸を反り返らせ、世界に存在する遍く総ての存在に聞こえるように、高らかに宣言する。
「──人の真価は前進にある」
威風堂々と。
「──突き進む魂にこそ輝きがあるッ!!」
超然に。
「──喝采せよ、運命ッ!!」
道を阻む総てを蹴散らす豪の如く。
「──刮目せよ、世界ッ!!」
遥か古の世界にて、戯れに猛威を奮った神の如く。
「──今の俺は間違いなく、俺史上最強の俺だ」
漢は笑う。
二十九人が目指す世界への旅路。
その序章が今、終わろうとしていた。
ペースは遅いですが頑張っていきます!
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第一章 その出逢いから総てが始まった
Prologue:星の鼓動
「やぁ、久しぶり」
自分と同じくらいの男の子は暗い夜にそう言った。なんとなく、その顔は心配しているようだった。
「ずっと君を……いや、君たちを見ていたよ」
暗くて寂しいところで、さっきと同じ男の子は嬉しそうに笑っていた。
「みつけたわっ!」
顔がくっつきそうなくらい近くで、金色の女の子は喜んでいた。とても可愛くて、そして会ったこともないのに知らない人だなんて思えなかった。
「……ごめん、ごめんなさいにゃぁ……守れなかったにゃぁ……」
大泣きしているお姉さんはとても悲しそうだった。なんでかな?
「怒ってるわ、すっごく」
僕を見つめる三人のお姉さんたち。一人はさっきの女の子と似ているけど、ほかの二人は見たことなかった。でもやっぱり三人とも他人とは思えなかった。あとすごく怖い。
遠くから救急車とパトカーの音がする。足下には赤い水溜まり。その先には……
「……つ、く……も……」
ーーーー
「────ひっ」
「おっと、どうしたんだ? そんな目ぇまん丸にしちゃって」
「……え? お、おとーさん……?」
僕の頭を撫でてくれるその大きい手は間違いなくお父さんのだ。さっきの夢はなんだった……てあれ? 何を見てたのかな?
「怖い夢でも見たのか?」
「……うん。たぶん、そう」
「ハッハッハっ!」
お父さんはたくさん笑った後、僕の頭をまたたくさん撫でてくれた。ふにゅぅ。
「なですぎだよぉ」
「ハハハっ! わるいわるい
……よいしょっ、と」
「うわぁ!」
お父さんに肩車をされた。ちょっと怖いけど、それ以上に大好きだった。
「九十九」
「なにー?」
「お前は女の子より女の子っぽいし、泣き虫で怖がりだ。
ハハハッ、そんな顔するなって、九十九は絶対立派になるから。その時まで、お父さんがしっかり守ってやるからなー」
ここからお父さんの顔は見えない。けど、その声だけで安心できる。
「さぁて、母さんが待ってるから早く帰んぞー!」
「うん!」
あともう少しで僕は小学生になる。ちょっと怖いけど、燐子ちゃんとひなこちゃんとリィちゃん、それにお父さんもいるからきっと大丈夫。
桜の花が綺麗な公園の出口に向かって、僕たちはゆっくり進んでいった。
第一章『その出逢いから総てが始まった』
Prologue:星の鼓動
「ハァ……! ハァ……!」
少女は走っていた。
「ハァ……お、ハァ……ぉ、ねえちゃん! まっ、まってよぉ……!」
脇目を振らずに走る少女の名は戸山香澄。香澄に手を引かれているのはその妹、戸山明日香であった。
二人の周りは闇と深緑の林で包まれており、彼女達が持つ照明は首飾り型の心許ないライトしかなかった。夜の心強い味方である月は、星明かりを強める代わりに光を失っていた。
手を引っ張られ、尋常ならざる進撃を続けさせられる明日香は、今の状況を途方もなく後悔していた。
何故、キャンプに来ただけなのに。姉を連れ戻そうとしただけなのに。
道は覚えているのだろうか。お父さんとお母さんは怒っているのだろうか。
明日香は先ほどからこれらのことを何度も何度も考えていた。終いにはこの世の理不尽さに憎悪を芽生えさせかけていた。しかし元凶たる姉に一切の悪感情を向けないのは、
「ごめんねあすか、だいじょーぶ?」
「うん! おねーちゃんがいっしょだから!」
つまりはそういうことである。
明日香に声を掛けた辺りから香澄は段々と速度を落とし、やがて止まった。二人の息切れがやけに大きく聞こえるその場所は、明日香の目にはだだっ広い丘に見えた。森の中に比べれば幾分とマシだが、幼い子供である明日香から見れば怖いには違いはない。
ふるふると震える手で香澄の手を強く握り返す。姉は怖くないのかと横顔を確認すると……香澄は上を向いて瞳を輝かせていた。
「……きれー……!」
「え?」
何を言っているのか理解できないという顔で呆けていると、香澄がその視線に気づいたようで興奮した様子で明日香に上を見るよう催促した。
何やら楽しそうな姉の顔を見て、明日香の震えはいつの間にか止んでいた。姉に倣い上を見た。そして目の前に広がる星の大群に明日香は目を奪われるのだった。
「……、」
この景色はもしかしてお父さんの言っていた『星の鼓動』なのではないか、と明日香は胸に浮かんできた考えをストンと受け入れていた。
そもそもの話、戸山家が今日この山にキャンプに来ていたのは巷で噂になっていた『星の鼓動』とやらを確かめるためだったのだ。香澄に性格を遺伝させた父の一言により決まった電撃キャンプ作戦。絶対に嘘だ、と幼いながらも賢かった明日香は信じていなかったが、この光景の前には認めるしかない。お父さんのわがままに付き合うのも悪くないな、と明日香は父の評価を上方修正していた。
しかし、明日香の認識は半分外れていた。
確かにこの星空は『星の鼓動』と呼ばれているものであったが、それを正しく認識、感受できていた者は過去、現在を含め一人だけ。
そう、戸山香澄だけがその姿を一滴の濁りもなく掬いとっていた。
「……あかい……どくんて……あ、キラキラで、ドキドキだっ!」
「お、おねーちゃん?」
香澄が「キラキラドキドキ! キラキラドキドキ!」と連呼する様子に若干困惑しながらも、父のことを思い出して芋づる式に湧いてきたこの先の難題について明日香は香澄に告げるために、姉を宥めるのだった。
「……あのね、おねーちゃん、かえりみち、おぼえてる……?」
「だいじょーぶっ!」
興奮冷めやらぬ状態の香澄からはなんとも頼もしい返事が戻ってきた。正直このまま二人迷子になるのでは、と思っていた明日香は少しでも姉を疑っていた自分を嫌悪した。姉を信じないなんてカスミニストにあるまじことである。どんな脅威も姉ならば粉砕できるのだとこの先明日香は信じて疑わない。ならば一番の問題であるお父さんも難なく倒せるに違いない。もう何も恐くない。ティロ・フィナーレ・ブラックアスカ、始まります。マジぶっちゃけありえな〜い!
賢くとも子供は子供。迷うことよりも父を一番の問題と捉えたり、魔法少女に憧れたりする明日香は立派な一人の小さなお友達なのであった。
「おねーちゃんおねーちゃん! おとーさんたおそーねっ!」
「…………あ」
“おとーさん”という言葉を聞いて硬直する香澄に首を傾げる明日香。この後、最強最高の魔法少女アルティメットかすみが敗北するなど夢にも思わなかった。
この日から明日香は姉を盲信しなくなり、そして、香澄は何かに突き動かされるように外出が増えたのだった。
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第1話:その鼓動は煌めいて
ほんのりとオレンジに染まった空の下で、二人は出逢った。
「……だ、だいじょうぶ……?」
「……う、うん……」
公園のベンチで膝を抱えていた黒髪の少女と、星のヘアゴムが印象的な少女。
一言交わして二人は暫し、お互いをみ合う。星屑散らばる夜空が交差し、今この瞬間だけは二人を中心に世界が廻り、二人の心が叫んでいた。
運命が、交わったと。
第1話:その鼓動は煌めいて
香澄はキャンプの翌日から“キラキラドキドキ”を求めて駆け回っていた。入学したての小学校すらそっちのけになるほどの夢中っぷりであり、近所ならば自転車で、遠出なら都電でと、慣れない移動手段を駆使して大冒険を敢行していた。
だが、この突然の日課に明日香と両親はいい顔をすることはなかった。毎日毎日泥んこや葉っぱなどを体につけ、門限ギリギリに帰ってくるのだから当然である。時には外出禁止も言い渡され、明日香が監視についたりもした。しかし、結局は香澄の熱意に圧倒され、連絡用の子どもスマホや時間厳守などの妥協案で落ち着いたのであった。
そんなこんなで、『星の鼓動』を聴いたあの日から一ヶ月以上が経っていた。
「ほへー……」
今日も今日とて香澄は“キラキラドキドキ”を探しに、見知らぬ土地へと赴いていた。地図アプリとにらめっこしながら辿り着いたその場所は、気品漂う閑静な住宅街であった。
香澄はこの日課を始める際、何はともあれ探す場所を決めなければどうしようもないということに気づき、家にあったハザードマップに赤丸で目星をつけていた。
その基準は、直感である。
実は『星の鼓動』を明日香と二人で見られたのもこれの導きがあってこそだった。離れていたとはいえ同じ山にいたのに両親は明日香と同じ光景は目にしていないのだ。
このことを両親から聞いた香澄は以降、今まで以上に自分の直感に信頼を置くようになっていた。
香澄は目移りしながら住宅街を探索する。自然と人工物のバランスが子供の香澄から見ても芸術的で、目新しいデザインの数々の家屋も相俟って香澄の気分は上々だ。
最後の目星、──八原町。
幸先は明るかった。
暫く歩くと、妙に古びた区画に着いた。そこはかなりの広さがあり、次の家まで二百メートルはありそうだった。
小さな森。それが、香澄が抱いた印象だった。ふらふらと吸い寄せられるように横切っていると中間辺りに鳥居を見つけ、香澄は迷いなくその下を潜った。中では生い茂った深緑の葉っぱが太陽光の勢いを奪い、優しげな木漏れ日が小さな祠を薄暗く照らしていた。広い空間に対して、あの祠。そのちぐはぐさから香澄には子供の工作のように思えた。
「おかしいだろう?」
「──ひゃぁぁああ!!!!」
頭上から降ってきた知らない声に思わず香澄は飛び退いた。慌てて振り返ると、杖をついたお婆さんがばつの悪い顔をしていた。
「驚かして、悪かったね」
「……う、ううん……」
そう言って謝るお婆さんの顔は酷く白くて、その鼓動の弱々しさは初めて聴いた。
不思議な場所で不思議なお婆さんと出会った香澄は夢現な気分だったが、二人揃って近くのベンチに座った後、香澄は先ほどの言葉の意味を尋ねた。
「ねー、おかしいってなんのこと?」
トートバッグの中から水筒を出したお婆さんは香澄の疑問に答えた。
「……ん、あぁ、あの小さな祠のことさ
……ほら、麦茶だ、飲みな」
「ふおー! ありがと! おばあちゃん!」
その顔をみた時から警戒心を解いていた香澄はキンキンに冷えた麦茶で僅かにしていた緊張も緩んだ。
「おいしー!」という声を聞きながら、お婆さんは語り始めた。
「……こんなだだっ広い場所なのに何を祀ってんだか分かりゃあしない小さな祠1つときた、立派な鳥居がある癖にね。気にならない方がどうかしてるさね」
「まつる?」
「ありがたく思うことだよ」
「へー、じゃあおばあちゃんまつるね!」
「にしし」と笑う香澄にお婆さんは一瞬固まった後苦笑して、人差し指で軽く香澄のおでこを突いた。
「あうぅ」
「あたしはまだくたばる気はないよ、ちびっこ」
香澄とお婆さんこの後も話をした。香澄の質問にお婆さんが答えるという形式ではあったが、知らなかった知識を蓄えることが幼い香澄には楽しかった。
そしてすっかり話し込んだ後、お婆さんが帰ると言うので香澄は見送りのために鳥居の外までついていった。
「じゃ、せいぜい気をつけて帰んな、ちびっこ」
「うん! またね、おばあちゃん」
別れの挨拶も済まして去ろうとするお婆さんを、香澄は少し躊躇って、袖を掴んで引き止めた。
「……どうしたんだい」
「あ、えと……げんきっ! げんきだしてねっ!」
その言葉に目を丸くしたお婆さんは、フッと笑った後、香澄の頭を一撫でして言った。
「あの祠、叶えたいもんがあるなら祈っときな。効果は覿面だよ」
「てきめん?」
「絶対叶うってことさ」
「おおー! ありがとっ!! にれーにはくしゅいちれー……だっけ?」
体も使ってシミュレーションする香澄にお婆さんは優しげに呆れていた。
「合ってるけどそれはちゃんとしたとこでやんな。ここじゃ不要だよ、賽銭箱すらないんじゃね」
そして今度こそ、お婆さんは帰っていった。
香澄はお祈りを済まして鳥居を出て、探索を再開していた。空は若干陽が傾き始めていて、閑静を体現したこの街はノスタルジーな雰囲気に包まれていた。この空気に呑まれた香澄はホームシック気味になり、スマホで時間を確認しようとして、愕然とした。
「あっ……でんち……」
取り出したスマホの画面は何をしても真っ黒のままであった。充電切れである。周りの静けさに耳鳴りがして、冷めた香澄は知らない街に独りという状況を正しく感じてしまう。
込み上げる何かで目尻が熱い。
だが、香澄は涙を拭った。
「──まだっ!!」
香澄はさっき、希望を貰った。名前を聞き忘れたお婆さんの言葉に、彼女も元気を貰っていたのだ。
香澄がここを探しに来るまでの一ヶ月間で集まった成果は何一つなかった。流石の香澄でも、その結果には堪えるものがあった。もしこの街で何も見つからなかったら本当に宛がなくなる。そしたら……。その恐怖を気にしないように香澄は努めていた。
しかし、「絶対に叶う」とお婆さんは言ってくれたのだ。それはお婆さんの優しい嘘であると、幼い香澄は気づいていない。
だが、香澄を想って与えてくれた言葉であることは彼女には分かっていた。
だから、その言葉に賭けようと香澄は祈った。
強く、強く希った。
──キラキラドキドキを、見つけたい!
彼女は走った。前を向いて。
目的地はない。ただ、直感の赴くままに。
がむしゃらに走る香澄は何度も躓いて転んだ。膝小僧や、手のひらを擦りむき血を流しても彼女は止まらない。
止まったら、終わりだ。
その瞬間に香澄の何かは砕け散るだろう。その何かは彼女の誇りであり意地でありアイデンティティであり、──運命だった。
だからこそ、彼女は進む。
進んで、突き進む。
突き進んで、
やっと。
「ハァ! ハァ! ハァ!」
位置は住宅街の端っこ。そこの小さな公園に彼女はいた。
最後の踏ん張りどころと、香澄は震える足を鼓舞して駆ける。
公園のベンチで蹲る少女を目指して、香澄は全力を振り絞った。
そして、目の前でこけた。
「あぶっ!」
顔面スライディングをなんとか両腕を犠牲にした香澄は痛みを無視して顔を上げた。
すると、つい数秒前まで俯いていた少女は香澄を心配そうに手を差し伸べていた。
「……だ、だいじょうぶ……?」
「……う、うん……」
香澄は生返事しか返せなかった。転んだことが恥ずかしかったからではない。
──少女の鼓動は、『星の鼓動』と同じ音を響かせていたから。
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第2話:かなしむ音に溺れて 前編
「はふぅー……」
疲れも一緒に抜け出てていくような気の抜けた吐息が湯気と共に立ち上ると、張り詰めていた糸は自然と弛んでいった。お湯に浸かるまでは気にすることもできなかった部分も、時間が経つにつれ考える余裕ができた。
どうやら大きい家だとお風呂も大きいようだと、そんな当たり前の事実を、蕩けた香澄は脳内にインプットしていた。
「……かすみちゃん……きず、しみてない……?」
そうして微睡みかけているところを引き上げたのは、ガラリ、と扉を開けて入ってきた素肌の少女であった。
香澄はそんな少女の心配に笑顔で返す。
「うん、へいきだよ」
「……そっか……」
香澄の元気な様子に安堵した少女は、そのまま体を洗い始めた。香澄はシャワーの音に耳を傾けながら、今の状況をようやく理解し始めていた。
ここは少女、──白金燐子の家である。
シャワーを止めて、ノズルを壁に掛けた燐子は長い髪をタオルに包んでお湯に足からゆっくりと浸かる。今日が初対面だというのに、彼女は妙に自然体だった。
これまで友達と幼稚園以外でお泊まりをしてこなかった香澄にとってその態度は興味を引くのに充分過ぎた。やはり年上のお姉さんだからだろうかと香澄は公園の出来事と一緒に、そう考えていた。
第2話:かなしむ音に溺れて 前編
みつめあいの末、先に均衡を破ったのは香澄だった。
「──っ!!」
息切れが収まるにつれ鼓動も落ち着き、次に彼女を襲ったのは過度な興奮で抑えられていた痛みだった。全身を駆け巡る鈍いやら鋭いやらの痛覚に顔を歪め、その場に蹲る。
走って流れた汗はそのほとんどが冷や汗に変わり、堰き止められていた涙はごちゃまぜに吹き荒れる感情の嵐で遂に、防波堤を越えた。
「……ぁ──」
とめどなく流れる大粒の涙と、叫び声。目元を何度も何度も拭い、閉じようとするも上手くいかず歪んだ口。その姿は、今の彼女の気持ちを代弁していた。
笑顔でいたかった。顔をみた時から、その鼓動を聴いた時から、他の人とは違うと、特別な人だと感じたこの人の前では。
香澄は、涙を流す自分が情けなかった。彼女に逢うまでは流そうと決めていたそれは、香澄にとって、──諦めと同義であったから。
「……だいじょうぶだよ……もう、だいじょうぶだから……」
手の甲で目元を擦り続けていた香澄を止めたのは、決して大きくはない、けれど透き通った心地よい音色と、体を包み込む干したての布団のような感触だった。
いきなりのことで驚いた香澄は顔を上げると、目の前には西洋人形のように整った顔を、深みのある微笑で温かくした少女がいた。そのまま彼女は香澄の顔を自分の肩に乗せ、その背中を、傷つけないようにやや慎重すぎる手つきでそっと、何度も摩り始めた。
そして香澄は今度こそ、自分の全てをぶつけるかのように、縋りついて泣いたのだった。
◆
「ねぇ、りんこちゃん」
「……ん……?」
「えとね、いろいろありがと」
反対側でお湯に浸かっていた燐子に、香澄はお礼を言った。それは公園での出来事のこともあるし、今、この状況に至った経緯に対しても言っていた。照れくさそうに笑う香澄に、燐子は微笑んで返した。
香澄が落ち着いた後の対応は迅速だった。身に纏う静謐を崩さずに、燐子は香澄の傷を手際良く処置し、事情を途切れ途切れの言葉や様子から汲み取った。そして自分の家に連絡をして迎えに来てもらい、香澄のスマホに充電をしてその中にある彼女の母の電話番号を聞き、燐子は自身の母に香澄の言い訳を頼んだのだった。
その結果が、お泊まりである。
事後承諾という形になったが、香澄はこの提案に喜んで賛同した。最早間に合わなかった門限が消えたのだ。断る理由がない。勿論、それだけで喜んだ訳ではないが。
湯船から上がった二人は「えへへ、りんこちゃんのにおい」「……か、かがないで……」と微笑ましいやり取りの末にパジャマを着た後、夕食ができたということでダイニングに向かっていた。
扉を開けて、中に入るとまず飛び込んできたのは口いっぱいに広がるクリームシチューの香りだった。テーブルの上にある皿にはどんな景色が彩られているのか、香澄は涎が止まらなかった。
しかし、次の瞬間には皿模様の想像も綺麗さっぱり吹き飛ぶ衝撃が彼女を襲った。
「きゃぁああ!! やっぱりかっすみちゃんかわいいわぁああ!! りんりんマジグッジョブっ!! 流石私の娘よっ!! で、香澄ちゃん怪我大丈夫? しみなかった? ええ、ええ、任せてっ!! 香澄ちゃんに傷なんて残さないからっ!! お母さんにまっかせなさぁぁぁい!! あぁん、もう義娘にしたいぃぃぃいい!!」
「わっぷ」「……お、おかあさん……」
香澄が気づいた時には柔らかな感触に全身が囚われていた。燐子とは違った安心感に、香澄は身を委ねた。
初めて自分の家以外で食卓を囲んだが、白金家の夕食は香澄にとって和気藹々としたものだった。どことなく、慣れていた。
「まったく、節操が無いのも大概にしなさい。余りにも過ぎると私にも考えがある」
「……もぉ、怒ってるじゃなぁぁい……
ねぇ、りんりん?」
「……」
ツーンと無視する燐子に泣き崩れるのは、燐子のお姉さんと言っても通じるほど若々しい女子とも呼べる燐子の母だった。ただ、雰囲気が真反対と言っても過言ではなく、燐子の落ち着いた性格はその隣で溜息をつく眼鏡を掛けた細身の男性、燐子の父からだと香澄でも分かった。
「騒がしくて悪いね、香澄君」
「ううん! あの、とっても、たのしいのっ!」
「そうかい? それはよかった」
香澄の言葉にうん、と頷く燐子パパを見ながら、彼女はクリームシチューを頬張った。
「──っ!」
「美味しいだろう?」
香澄はむしゃつきながら首をブンブンと振った。燐子パパの鼓動が、高鳴るのを感じた。
「あんなのでも、いや、だからかな。家内は料理が大の得意なんだ
気に入ったなら、また何時でも食べに来なさい」
「いいのっ!?」
「ハハハ、勿論だとも」
「やったぁ!」
香澄は興奮し更に食べる速度を早めた。
「そんなに急かなくても料理は逃げないよ」
「……(モグモグブンブン)」
「りんりんんんん!!」
「……(ツーン)」
人生初のお泊まり。香澄はとっても温かな家庭に、心底リラックスした。
楽しい時間は長いようで終われば一瞬の内。団欒が一段落した後、香澄は燐子の部屋に案内された。最初、車から降りた時から思っていたがやはり白金家はすごい、と香澄は瞳を輝かせて改めて感じていた。
「ふおぉぉおお!! ひろい!? ほんたくさん⁉︎ ピアノ!? テレビぃぃいい!?」
「……かすみちゃん……し、しずかに……」
モノトーンが基調の彼女の部屋。見慣れない色、デザイン、広さに香澄は現実とは程遠い夢の景色を思わせた。
「あれ?」
けれども香澄はこの部屋に妙な既視感を覚えていた。それだけでなく、自分の部屋にいるような居心地の良さを感じていた。
その違和感を自分なりに噛み砕いている途中、香澄は視界の端に映ったそれを、“みた”。
「──しゃしん……」
ピアノの傍に立て掛けられたコルクボードに留められた一枚の写真。写っているのは燐子を含め四人だった。
燐子は香澄の呟いた“しゃしん”に動揺を隠せずにいた。
「……あ、そ……それは──」
「あのね、りんこちゃん」
香澄は燐子の言葉を遮る。そして、その瞳に視線を合わせた。
「きいてほしいことがあるんだ」
そう言うなり、香澄は燐子に縋りつくようにその胸に顔を押しつけた。それはこれから話すことを途中でやめないようにする、自分自身への抵抗であった。
ちなみに燐子パパは作家で燐子ママは医者の娘です
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第3話:かなしむ音に溺れて 後編
「ぼくね、おとうさんみたいにつよくなって、みんなをまもれるようになりたいんだぁ」
いつも通りの公園。いつも通りの夕焼け。チャイムが鳴り響く中で君はそう言ってはにかんだ。
だからリィは君の頬を抓ってやった。
「いひゃい! いひゃいよ!」
君はリィたちの中で一番小さくて頼りなくて、言われなければ男の子だって気づくことが出来ないくらいに華奢。おまけに泣き虫でいつも弱気。そんな君がリィたちを護る? なんの冗談?
「な・ま・い・き」
自然と口から出た言葉がリィの気持ちの全てだった。君の泣き顔を見て溜飲を下げたリィは手を離した。
「うぐっ……」
「ほら帰ろ」
そう言ってリィは涙を拭う君の手をひったくって公園を出た。とぼとぼと歩く君の歩調に合わせるのは、もう癖になっていた。
「……リィちゃん、ごめんね……」
君を家まで送っていざ別れる時、君は俯きながら謝った。リィの気持ちが伝わってたみたいで嬉しかったから、リィは君の頭を撫で回してやった。
「うんうん! じゃ、またね」
「……うん、またね」
顔の横で小さな手を振る君に見送られてリィは元の帰路に着いた。
──ねぇ、つくも。君はそのままでいいんだよ。
燐子がピアノを弾く部屋で、ひなこもドラムを叩いて、リィもベースを弾く。そして君はその音を聴く。そんなのでいいじゃん。そんな風に変わらない毎日をずっと続けていれば幸せじゃん。
でもさ、これって誰かが欠けたら幸せじゃないよね。一人でも欠けたら“毎日”が毎日じゃなくなっちゃうしさ。
だから、つくも。
「……」
どうして目を開けてくれないの? 君の綺麗な瞳を見るのがリィの密かな楽しみなんだよ? ねぇ──。
第3話:かなしむ音に溺れて 後編
リィ:今日は暖かくていい天気だね
「──……ぁ?」
(リィは、えっと……あぁ、寝ちゃってたんだ)
オレンジの光に手を翳して微睡から起きる。そのまま立ち上がって、リィは一つ伸びをする。体の内側から鳴るパキパキって音はなんとなく怖いけど同時に気持ちいいんだからままならない。どうしようにも仕方がない。ってそんな益体もない考えを追い払って本来の目的に戻ることにした。
ここは、いつもの公園だ。
リィはベンチを後にする。ここでの目的はすでに達成してるしもう用はない。今日は寄るところが多くて疲れていたのだろう。ちょっと多めに時間を使ってしまった。急がなくちゃ。
リィはみんなに遅れそうな旨をポチポチっと送信して公園から出ようとして、立ち止まった。
「……」
振り返って公園を眺めてみる。その行為に、特に意味はない。
リィ:ちょっと寝ちゃった、少し遅れるかも
リィは今、バスに乗っていた。
陽が完全に落ちかけていて、それに色づけされた街並みが車窓から流れていく様をただ目で追っていた。耳には、先ほど乗ってきた部活帰りの男子高校生達の話し声が響いていた。話題はリィのこと。声は一応抑えているようだがこの密閉区間では意味がない。
「どこ校だよあの子」
「高校か? 大学じゃね?」
「あー……確かに。じゃあ彼氏いんのかねやっぱ」
「そりゃー……そうだろ」
「はー、うらやま」
「だなぁ」
好き勝手言ってくれてるようだが、容姿を褒められるのは悪い気はしない。まぁかと言って良い気も微塵もしないけど。中高で異性同性問わず美辞麗句は聞き飽きてるし、その間一回もときめいたことはないんだから。
リィ:もうすぐ着くよ
バスから降りる頃には外はすっかり暗くなっていた。やっぱり寝たのはまずかったなぁ。
目の前の山道は、呑み込んだものを決して逃さない化け物の口のように禍々しかった。リィには関係ないけど。寧ろぴったりだ。
もう戻るつもりなんてないのだから。
リィは懐中電灯で袖をまくった腕を照らす。そこには無数の切り傷。所謂、リストカットだ。リィのストレスを痛みで誤魔化してきた痕であり、のうのうと独り生きてきた罪の代価だ。
リィは宛てもなく歩く。目的地、はここだけど目当ての場所は特に決めていない。弦巻山に思入れなんてないし。リィがここを選んだのはただリィたちの思い出の場所を汚したくなかったから、近くに丁度いい山があったからだ。
「ここら辺でいいかな」
リィは今年二十歳になる。幼い頃はよく二十歳の頃を妄想したものだ。
「つくもとリィたちの間に子どもができる妄想、よくしたなぁ……」
(そして死ぬ時はたくさんの家族に看取られながらって……)
でも現実の最期はこんな山の中で自殺だ。
準備はできた。縄の強度も大丈夫そうだ。
遺書は書いていない。生きながらにして死んでいたリィは、生きている世界に興味なんてなかったから。リィにあるのは全部死んじゃったつくもたちへの未練だけだ。
リィ:やっとそっちに行けるよ
涙が流れる。
嬉しいな。
……あぁでも、謝らずじまい……だった……な……ぁ……。
ーーーー
「──ぁぁあああッ!!」
リィは絶叫と共に目を覚ますと、側に横たわっていた人形を一心不乱に手繰り寄せた。
「ハァ……! ハァ……!」
そして人形──デベコを目一杯抱き締めた。
リィの部屋は散乱した漫画や雑誌、衣服でとても綺麗とは言えない有様だった。人形を抱き締めて震えている彼女自身も、体は雨に打たられたように汗に濡れ、顔色は悪く、目元のクマも深く、手入れが行き届いていれば滑らかだったであろう茶髪も艶を失っていた。
ある程度呼吸が安定したリィは、未だに震えながら目線を人形から自身の腕に移し、ゆっくりとひっくり返していく。また激しくなっていく動悸は、完全にひっくり返ったところで大きな息と共に収まっていった。
彼女の腕は、傷一つない小学三年生時のままであった。
しかしそれでも安堵、とまではいかなかった。リィの恐怖を煽るものは自分の状態だけではない。夢でみた自分の末路を決定づけた原因である、大切な人たちの生死だった。
リィは暗がりの中スマホを手探りで見つけたが、そこから電源をつけることができなかった。それはリィの現状と、頭に焦げ付いた先程の夢が彼女を躊躇わせていたからだ。
リィがみたものは夢というには現実的過ぎていたし、何よりそこで夢の自分が感じた気持ちは全て今のリィを蝕んでいたのだ。時間の感覚が曖昧になる程に。
リィが体験したものは所謂擬似未来。そこには一切の希望がなかった。夢の自分は最初こそ絶望を感じていたが、いつしかそれも擦り切れて彼女に残ったものは罪悪感だけ。それ以外に感じるものはない、欠落した人間だった。
彼女、そして今のリィの網膜には常に三人の死顔が映っていた。もし、それが実際に起こる、もしくは起こったことだとして。それを確認するのが恐ろしくてリィは握っていたスマホを投げ捨てた。
しかし確認しなければ安心することもできない。と思ったリィだったが、しかし。
「──」
どちらにせよ自分は安心することができないことに、彼女は気づいてしまった。
だって、九十九は眠ったままなのだから──。
「……ぁ、あぁ、ああ…………あ」
リィは気づく。
そういえば、夢の自分は最期に罪悪感以外の感情を持っていたことに。
徐に両腕を掲げたリィは、生唾を吞み込む。見開いた瞳で震える両腕を注視した後、ゆっくりと近づけていく。
そして両手に力を込めると、首がゆっくりと締まっていった。
「……ぅ……ぁ……」
これは罰だとリィは思った。みんなを見捨てたから罰があたったのだと。きっとあの夢はこの方法を思いつくための暗示だったのだろうと。
締める力をどんどん強めていく。
「……ふ、へ……」
涙が流れる。
嬉しいな。
──しなないで。
気を失う寸前、リィはそんな声を聴いた気がした。
◆
「……すぅー……すぅー……」
「……」
むくり、と燐子は体を起こした。真っ暗な中で隣に寝ている香澄を起こさないように彼女はベッドから出ると、迷いのない足取りでピアノまで辿り着く。一人部屋を貰った時からそこにあるピアノの位置は、目を瞑ってでも燐子には関係なかった。
『りんこちゃんのはなしもきかせてね』
そう言って、香澄はブレーカーを落としたように寝てしまった。まだまだ起きているつもりでいたようだが意識よりも体の方が先に限界を迎えてしまったようだ。
でも、それでよかったと燐子は思った。流石に自分の隠してることを話すには覚悟を決める時間が足りなさ過ぎたのだ。
だから今、燐子はピアノを弾いていた。
慣れ親しんだ楽譜を頭に浮かべ、その通りに鍵盤を叩くのは燐子の精神統一である。
滑らかに広がる音符を感じ、目を閉じて自分の心象で視界を塗り潰す。
そこにいる三人に燐子は問い掛けた。
「……みんなのこと……話してもいいかな……?」
何が可笑しかったのか、三人は笑っていた。
「……しんけんに……聞いてるんだよ……?」
燐子が頬を膨れさせると、その中の一人──リィが口を開いた。
「ごめんごめん。でもさ、後ろ見てごらんよ」
リィに言われるがまま振り向くと、そこには香澄がいた。
「あ、えへへ」
香澄は困ったように眉を八の字にして笑っていた。
「……か、かすみちゃん……!?」
思いもしなかった展開にそれっきり口をパクパクさせている燐子の代わりにリィが香澄に話し掛けていた。
「はじめまして! リィの名前は鵜沢リィ! みんなのお姉ちゃんだよ」
「は、はじめましてっ! わたしとやまかすみっ」
「うんうん! で、こっちの二人が──」
リィが残った二人の紹介をしようとしたところを遮り、彼女の背後から疾風の如く香澄に飛びつく者がいた。
「あ〜! かわいいよぉぉぉおお! かわいいよぉぉぉおお! あたし二十騎ひなこねっ、かちゅみちゃぁぁぁああんんん! くんくん! はぁああ! いいにおいぃぃぃ!」
「ひゃわわわ!」
「あぁ! ペロペロしたい! ペロペロしたいなぁ! ね! いいよね! ペロペロしちゃっていいよねぇぇええ!!!!!」
「ひぃぃ!」
「グォラァァァア! ひなこォ!」
「あいたぁ!!」
香澄の顔を舐めようとしていたひなこをリィは拳骨で制した。先程の衝撃から立ち直れていなかった燐子はただおろおろとその様子を眺めていた。そんな彼女に残った一人が歩いていき、その袖を引っ張った。
「りんこちゃん」
「……あ……」
直前までの動揺が収まり、同時に湧いてくる感情は罪悪感だった。
「……つくもくん……」
「そんなかおしないで。ぼくは、おこってないよ
りんこちゃんがかなしそうにしてるほうが、ぼくはいやだな」
「……そんなこと言ったって……っ!」
燐子は九十九から顔を背けた。彼の言葉をそのまま鵜呑みにするには、余りにも自分のことを許せないでいた。
「でももうだいじょーぶだとおもうんだぁ」
「……え……」
九十九のその言葉に、燐子は固まってしまう。
「かすみちゃんとあってから、りんこちゃんはまたわらうようになったよ?」
「……そんな……こと……」
否定しようにも、九十九の言っていることは事実だった。毎日毎日あの公園で膝を抱える日々。その生活に終止符を打とうとしているのは間違いなく香澄との出逢いがきっかけであったから。
だが認めたくなかった。
だって香澄とは今日が初対面である。そんな短い付き合いで自分が絆されたなんて思いたくなかったから。そして自分の抱えているものが大したものではないと、これまでの懺悔の日々を全て否定されるようだったから。
それは即ち、自分独りだけが楽をしていたという肯定に他ならない。
「りんこちゃん」
自己嫌悪の堂々巡りに陥りそうになっていた思考は、九十九が燐子の頬を両手で包んだことにより止まる。
「……ちゅくも、くん……?」
「りんこちゃんがどれだけつらかったか、ぼくたちはしってるよ
だからりんこちゃんだけがらくだったなんてこと、ぜったいにない、わかった?」
「……うん……」
消極的な彼には珍しく強気で、燐子は思わず肯いてしまった。
「それにね、ここにいるってことはかすみちゃんはぼくたちにとっても、たいせつなひとだとおもうんだ。だからりんこちゃんはぼくたちのことをはなそうとしてるんでしょ?」
「……そうかな……」
「えとね、ぼくたちがはじめてあったときのことをおもいだして
あのときも、ぼくたちはすぐなかよくなったでしょ?」
燐子の脳裏には出逢いの一時が浮かんでいた。幼稚園の廊下で転んで泣いていた九十九に手を差し伸べたことが二人の馴れ初めだった。そしてを差し伸べたもののどうすればいいか分からず慌てていたところをリィとひなこに助けてもらったのが、四人の馴れ初めだった。
四人はすぐ仲良くなった。初めて会ったのに、一日も経たずに四人は笑い合っていた。
「ね?」
「……うんっ……」
「かすみちゃんは、たいせつなひと?」
思えば最初から、燐子はその答えを持っていた。出逢った瞬間に感じたシンパシーは九十九たちと逢った時のものと同じであった。
それを本能的に理解していたからこそ、彼女は香澄を家に泊めることにしたのだ。いくら燐子が優しいからといって、初対面であるか否か関係なしに、他人を家に泊めるなんてことはまずあり得ることではない。両親が香澄に好意的だったこともここから付随していた。
それを認めなかった理由は、偏に彼女が優し過ぎたからである。つまりは自己の否定だ。
結局、燐子がそのことに気づくには今の彼女の肯定が必要だったのだ。それを得られた彼女に、悩むような質問ではなかった。
「……うんっ……!」
「だって! よかったね! かすみちゃん!」
「……え……?」
力強く頷いた後、燐子の後ろを見て微笑む九十九にデジャヴを感じつつ振り返ると瞳にたっぷり涙を溜めた香澄が飛びついてきていた。
「……ひゃあっ……! ……かすみちゃん……?」
「うああああああああああん!!!!」
大声で泣く香澄に燐子は戸惑うが、それでも泣いている子の慰め方は心得ていた。
「不安だったんじゃないかな、りんこがどう思ってるかわからなくてさ」
「あたしたちを心配してくれるのはひなこちゃん的にすっごくうれしーけどね」
泣き疲れて燐子の膝の上で寝ている香澄を眺めながら二人は言った。
「もういくの?」
九十九の言葉に、燐子は頷いた。
「そっか。じゃ、おきたらリィのことたのんだよ。リィはさびしいと死んじゃうからね」
「あたしはみんながもどってきてくれたらそれでいいかなー?」
「ぼくはえっと……たくさんあるんだけど……あ、ちょっとまって! えーとえーと!」
燐子の意識が遠くなる。
「おそいってつくも!」
「りんりんいっちゃうよ! ファイト! つくもん!」
「──が、がんばってねっ!」
その言葉を最後に、燐子の意識は内側から戻っていった──。
目を開けると、真っ暗だった筈の部屋はカーテンの隙間から入ってきた月光で仄かに照らされていた。
切りのいいところで鍵盤から指を離して軽く体を伸ばす。心の整理は終わった。覚悟も決まった。
「……ありがとう……」
そして明日に備え椅子から立とうとしたところで、ピアノの隙間から辛うじて覗けるベッドから声が聞こえた。
「おわり?」
「……ひゃう……! ……お、おこしちゃった……?」
「ううん、たまたま。それよりりんこちゃんのピアノ、すっごくきもちよかった! おんがくってすごいね!」
「……う、うん……」
燐子と香澄の距離は遠い。しかし燐子は深呼吸をしてから、自分から、香澄に近づいていく。
月夜に染まる香澄の顔は朧げにしか見えないが、燐子には幸せそうだと思えた。燐子は香澄の隣に腰掛けて、言った。
「……ごめんね……今まで……
……あのね……。……ねるのはちょっとおそくなっちゃうけど……よければ話……聞いてくれないかな……?」
「うん」
「……知ってほしいんだ……かすみちゃんもわたしの……
──大切な、人だから……」
「うんっ!」
その日、二人は思う存分語り明かした。
涙と笑顔の絶えない、二人で初めての徹夜だった。
くっ……。
文章ってむずい……。
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第4話:それはきっと──
ちくしょう!書きたいのにどうしてこんなに書くのが遅いんだ!
──運命って言葉が嫌いだ。
──だってこの“世界”の不幸も幸福も、ありとあらゆるもの総ても、その一言で説明できてしまうから。努力をするもしないも、奇跡が起きるも起きないも、生も死も、運命。
その理に抗うことはできない。
空に漂う月を眺める。
ゆらゆらと輪郭を揺らす満月を沈めて。
真っ暗な世界で物語を憶う。
──それを知った人は必ず、こう嘆くだろう。
希望はないのか──、と。
ーーーー
桜が散る昼下がり、少女は独りだった。
「……」
少年も独りだった。
「……」
少女はぴくりとも動かない少年に近づいていく。
彼女の認識では、ある日唐突にそこに座っていた少年。いつ来ても場所も姿勢も変わらないために半ばオブジェと思っていた彼に、少女は初めて声を掛けた。
「おまえは……なんじゃ?」
見た目不相応の老成した言葉遣い。可愛らしい顔立ちを歪ませて訝しみ、少女は返答を待つ。
それから、数分。いよいよ無視に痺れを切らした少女が去ろうとして、動きがあった。
「……わからない」
顔を少女に向けてか細く漏らした吐息のような声。彼女は目を見開いた。動いたこと、声を出したこと。それらは彼女に多大な衝撃を与えた。が、しかし。
彼女が一番に驚いたものはその瞳であった。
余りにも綺麗なその双眸に、彼女は暫し見惚れていた──。
魂を弔う場所で始まった魂を還す物語。
その冒頭は、二人のそんな出逢いから紡がれた。
第4話:きっとそれは──
入学式から早一ヶ月と少し。小学一年生となった子ども達は学校という場所に慣れ始め、校内での活動に固さが取れていく頃合いである。
同学年との関係も、幼い者同士であるのだから滅多なことが起きない限り良好になるというのが必然であり、至る所で理想に近い学校生活が送られていた。
ここ、花咲川女子学園小等部でもその例に漏れることなく平穏な時間が過ぎていた。
「なんのはなしをしているの?」
「あ、こころちゃん。なんでもないよ」
「なんか1くみのひとがずっとやすんでるみたいだから」
「あら! そうだったの?」
「うん、それじゃあね」
「ええ!」
「またねー」
『こころ』と呼ばれた少女は笑顔で級友を見送った。
「……」
そして自分以外誰も居なくなった教室の中ランドセルを背負い、こころも教室を出た。
「こころ」
平坦な、感情の篭らない声。しかしこころは瞳を輝かせてその方に振り向いた。
「くろなっ!」
「はい」
その姿を目に収めるとこころは走り、その胸へとダイブを敢行した。突然の飛び込みに目を剥く『くろな』であったが、反応は実に俊敏であった。
対応を間違えれば危ない状況で迷いなくこころの脇腹に手を添えてその勢いを流すべく、彼女の背中側に体を移しながらくるりと回った。そして「おー!」と感心しているこころを降ろすと、口を開く。
「こころ、危険なことはおやめください、いつも言っていますが」
「ええ! わかってるわ!」
「……。本当に、わかっているのですか?」
「もちろよ! けがしたらたいへんだものね!」
(こいつっ)
迷いのない返答であった。
『じゃあ今のはなんだ』と問い詰めたくなった『くろな』であったが、本気で言ってるであろうこころ相手では押し問答になることが目に見えているために、ぐっと堪えた。
(どうせ私なら大丈夫とか言うのでしょうね)
「はぁ……」
「あら、ためいきはダメよ? しあわせがにげちゃうわ!」
「誰のせいですかっ」
「きっとごがつびょうのせいね!」
「はぁ……」
「あら、ため──「もういいです」わっ」
こころのランドセルを引ったくり、そしてこころ自身も脇に抱えてその場を後にした。
そのまま廊下を進む彼女たちの姿に、生徒達の視線が注がれていた。しかしそれは奇異というよりは羨望、と言った方が適切であった。
きめ細かな天然の小麦肌に、ショートの姫カット。そして生まれつき鋭い眼光を持つ黒髪黒眼の少女『くろな』の本名は、──弓引黒奈。背の高い小学三年生である。彼女の顔には若干の疲労が見てとれた。
その彼女に抱えられてキャッキャと嬉しそうにする『こころ』──弦巻こころは目と髪が暁の如く金色に染まった神々しい少女である。
後に彼女たちは小等部三大美少女に数えられるのだが、それはまた別の話。
「あのねくろな、ちょっといってほしいところがあるの」
「……私は構いませんが、どこへですか?」
「1くみのせんせいのところよ。だれかきてないみたいなの」
「なるほど……」
『1くみ』『きていない』の二つのワード。黒奈の脳内には、該当する人物が浮かび上がっていた。
「それでしたら、私に心当たりがあります」
「ほんとっ!?」
「ええ」
彼女は一つ頷くと、歩調を緩めた。
窓の外に視線を移し、のっそりと動く雲を追う。
「──彼女のことは入学前から存じています」
心なしか、その声は沈んでいた。
「え?」
「……彼女の家も把握済みです」
「え??」
「善は急げです、行くのでしょう?」
刹那、こころに電流が走る。
こころが一組に向かおうとしていた理由。それは件の子の事情を知ることではない。それを思い出した彼女には、黒奈がどうしてその子のことを知っているかなんて些細なことなのである。
故に、こころの返答は決まっていた。
「もちろん! いくわっ!」
「いい、笑顔です」
黒奈はこころを小脇に抱えたまま駆け出した。
「ところでそろそろおろしてくれないかしら?」
「ダメです」
「そう? ならお願いね!」
黒奈はこころを降ろした。
「はぁ……」
「あら、ためいきはダメよ? しあわせがにげちゃうわ!」
「……ええ、そうですね」
こころの笑顔はいつまでも眩しかった。
◆
「「「 さようなら! 」」」
帰りの会が終わると、子ども達は一斉に騒ぎ出す。ランドセルを背負い友達と喋りながら靴箱へ向かう生徒。教室を出るも図書室や他クラスの友達のところへ向かう生徒。その場に留まり話に花を咲かせる生徒。放課後の過ごし方は、実に多様であった。
しかしそれこそが放課後の光景であり、これも、その一部であった。
「やーいおとこおんなー!」
「「おとこおんなー!」」
「うぅ……」
「おとこかおんなかはっきりしろよな!」
「「そうだそうだ!」」
「うぅ……」
「おとこっぽいくせにながいくつしたがにあうなんてうらやましいのよ!」
「「そうだそう──え?」」
「え?」
「なによ」
「いやおかしくね」
「うらやましいってなんだよ……てかまえからおもってたけどおまえって……なぁ?」
「うん……オカ──「うるさいわねッ‼︎ たま……つぶすわよ」
(ど、どうしたのかな……?)
先程まで虐められていた少女は、手を逆手にしてワキワキさせている少年とそれに怯えて股間を抑えている少年達を見て困惑していた。
帰っていいものかと思案すると、そのタイミングで大声が聞こえてきた。
「ごぉらぁぁぁあ‼︎ またはぐみをいじめてるなーー!!」
開けっ放しの扉から突っ込んでくる少女を見るや否や、少年達は恐ろしさに動揺していた。
「や、やべぇ!」
「はやくにげないと!」
「ちょ、こっちのはなしがすんでないわよ!」
「「こっちもやべぇぇぇえ!」」
「……。フン」
そう言いながら一目散に逃げる少年達を、その少女は鼻を鳴らして見送った。
そのポニーテールの少女の名は──宇田川巴。虐められていたショートヘアの少女──北沢はぐみの幼馴染みである。
「ありがとう! ともちん!」
「いいって。にしてもあいつらしつこいよな」
「そう、だね……」
「……なー、このあ「あっ!」……」
巴が話し掛けたところではぐみは何かを思い出したらしく、手早く帰り支度を済ませると。
「ともちんきょうはほんとにありがとねっ! またあしたっ!」
そう言って、はぐみは目にも留まらぬ速さで教室を出ていった。
「あ……」
巴はその間口を挟む暇もなく、中空に伸ばした手がゆっくりと落ちる。
「またかぁ……」
はぐみは教室を出た際にすぐそこまで来ていた他の幼馴染みたちとすれ違ったらしく、巴の耳には彼女たちの話し声が届いていた──。
『──もくひょういまだうごきがありません!』
『ラジャ〜。そのままかんしよろしくね〜』
『サー! イエス! サー!』
『ひまりちゃん、しーっだよ?』
『ああっ! いけない! そうだった!』
『う、うるさい……』
「…………」
手元のスマホから流れる幼馴染みたちの声に巴は、どうしてこんなことになったのだろうとうんざりしていた。
現在彼女は電柱の陰に隠れ、『もくひょう』の行動を逐一窺っている。他の面々も四方八方で似たように監視をしており万が一のロストも許さぬ徹底ぶりでああり、その様子はさながら集団ストーカーであった。
しかし子ども故にガバガバな追跡。彼女たちは生暖かい視線に晒されていた。
巴はむず痒い気持ちになりながら、こんな状況になったことを『もくひょう』──はぐみに心の中で謝ったのだった。
事の起こりは、はぐみが帰ってすぐにまで遡る。
「──うわきだよっ‼︎」
バン、と机を叩いたひまりはその勢いで立ち上がった。目はこれでもかと見開かれ、「ムフー!」と鼻息を荒くする彼女に同じ机を囲んでいた四人の少女は目を丸くした。
「ひ、ひまりちゃん……? さすがにそ「だってっ! はぐなんかこそこそしてるもん! こういうときは ほかのおんなのひとと あってるってテレビでやってたもん! しょーこだってあるんだよ! パパこそこそしてたら ちっちゃいかみ おとしてママにおこられてたしっ!」……うん」
捲し立てるひまりに出かけた言葉を呑み込んだつぐみは助けを求めて同じ机を囲んでいる仲間に視線を送った。
変な方向へと思考がシフトしている幼馴染を救うために。彼女の目にはキラキラと希望が宿っていた。
「うんうん〜。モカもうわきだとおもうな〜」
「え」
「ひーちゃんめいすいり〜。そんなひーちゃんに……じゃじゃ〜ん! はぐをみまもろうアプリ〜」
「ええっ!?」
小さな手にはスマホが握られていた。その画面にはフレンド同士の位置情報を共有し、常に相手を感じ絆を育むアプリが表示されていた。つぐみは何故はぐみのアイコンがその画面に映っているのか、これがわからない。
「ゆるさない……!」
「ちょ、ちょっとぉ」
「はぐぅ……」
「と、ともえちゃんまで……」
ミーハーのひまり。悪ノリのモカ。思い込みの蘭。上の空な巴。
あまりの劣勢につぐみは折れた。
そんな訳で現在に至る。
これまでの成果により、はぐみが誰かと密会しているという疑念は確信になっていた。
しかし、この結果に深い憤りを覚えた者が二人いた。彼女たちの様子は時間が経つにつれ悪化していき、今では二人の周囲に重々しい空気が広がっていた。
「ね、ねー……」
「ど、どうしよっか……」
「うん……」
彼女たちから少し後方で様子を見ていた巴、ひまり、つぐみの三名は顔を突き合わせて打開策を練っていた。
「ね、ねー……ともえちゃん」
「ど、どうしよう」
「……うん」
件の二人は物陰から食い入るようにしてはぐみを見ていた。はぐみが待ち合わせ場所に近づくにつれ二人の機嫌は
二人を落ち着けるにはどうしたらいいか。というより、モカをどうするかが話の焦点である。彼女が怒るのは珍しい。しかもこれ程まで静かに怒るモカは初めてといっていい。故にどう対処すればいいのかが全く浮かばず、仕舞いにはモカの隣にいる蘭に尊敬の念を覚えていた。
「こわくないのかなぁ……?」
「んー……ど、どうだろうね……」
「すごいな、らん……」
因みに蘭の対策を考えていないのは慣れているからである。意固地の蘭は普段の態度とは裏腹によく怒るのだ。
ただ、今の彼女は巴たちの予想から外れ、夏にも関わらず肌寒さを感じていたけれど──。
「──あっ!」
突如、袋小路と化した状況に投じられたはぐみの一声。それは彼女たちにとっては鶴の一声に等しく。
はぐみが曲がり角を駆け抜けていく様を見てモカは蘭を引っ張って追いかけていった。
「え──」
その一連の動きは正に一瞬であり、出遅れた巴たちは顔を見合わせた。
「ど……どうしようどうしようどうしよー!!」
「と、ともえちゃん!」
「いこっ! はやくっ!」
しかし直ぐに巴たちは慌てふためきながらもモカたちに追従した。
先程まで頭を悩ませていた問題は突然の出来事に吹き飛び、呼び覚まされた興奮で彼女たちは本来の目的に注視せざるを得なくなっていた。モカたちが消えていった曲がり角を巴たちも抜けると、そこから一直線に伸びた道の向こう──。
「こんにちは〜。はぐとなにしてるのかきになってついてきちゃいました〜」「はぐみ……!」「モカちー!? らんちゃん!?」「はわわわ」「ちーちゃんをいじめないで!」「あなたちかいのよっ!」「……お、おちついて……」「いまいまっ! つくもっていわなかった!?」
その光景はあまりにも混沌としていた。
◆
同時刻。そこは、立派な日本家屋であった。
「ここなの? くろな」
「はい」
こころの問いに、黒奈は粛々と頷いた。
二人が立つのは入り口である古風な門、その門前である。明らかに他とは違う静謐な雰囲気にこころは暫し呆けていた。そして惹きつけられたという事実に、彼女は内心驚いていた。
「どうかしましたか?」
「うーん……わからないわ」
黒奈に曖昧な返事をしたこころであったが、自分でもその正体に心当たりがなかった。しかし己の奥にある芯の部分からの渇望である。
「でも、なんだかたのしみね!」
理屈のない直感的な衝動に、彼女は身を任せることにした。
こころの、その期待に煌めく瞳を見た黒奈は一つ頷くとチャイムへと手を伸ばしていく。一秒にも満たない僅かな時間。けれども黒奈には引き延ばされているように感じた。
伸びていく腕を見ながら黒奈は思う。これから起こるであろう彼女との対面が、どう転ぶのかを。
彼女とこころを会わせる理由に、何か特別な思惑が含まれている訳ではない。ただ、僅かばかりに残っている姉としての情が勝手に口を動かしただけなのだ。そう彼女は心の中で呟いた。
その時である。
「なんじゃ! ワシのいえのまえで!」
後ろから響く大きな声に黒奈は瞬時に翻ると、そこには目的の少女がいた。
「あなたは──「あうっ」ッ⁉︎」
黒奈は言い切る前に、背中に感じた違和感に瞬時に翻った。
(いつのまに……!)
「……あれ?」
「は!?」
彼女は内心驚愕に顔を染めながらも顔に出さず、無言で注意深くその人を観察する。
だが──。
「あなただったのねっ‼︎」
──謎の少年に飛びつくこころに、彼女以外の二人は完全に呆然となった。
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