サイレンススズカ:私の走る理由 (あーふぁ)
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1話
春は遠く、まだ冬の寒さがある2月1日。
今日はウマ娘、サイレンススズカのデビュー戦の日だ。
俺は初めてレース場にまで来てはレースを見ていた。
今までウマ娘のレースには興味がなく、ここに来ることなんて思いもしなかった。
でも来ることになった理由は、デビュー前から仲の良い友達として付き合ってきたサイレンススズカを見るためだ。
普段会っている彼女はミステリアスでどこか影のある雰囲気を持ち、ちょっとずれた常識を持つ子だった。
だからか、レースでは上手に走れるか心配していた。
けれど、いい意味で大きく予想を裏切ってくれた。
半袖短パンの体操服を着て1番のゼッケンをつけたスズカが、ゲートから出た瞬間に内側から先頭に立つ。あとはそのままマイペースといった感じで前を走り続け、ゴールするときには他を大きく離していた。
その姿を見て、俺は最初から最後までスズカの走る姿から目が離せず、惚れたと言ってもいい。
力強さを感じる走り。風になびく髪。揺れる尻尾。
走る前まで、俺がスズカに持っていた寂しげなイメージはレースが終わる頃にはもうなかった。
寂しげな子。
―――そんなイメージを持った、初めて会った頃とは違っていた。
あの時の出会いは雨が降っていた日だ。1人公園の中で、雨に打たれながら寂しげにベンチに座っていたスズカと出会ったのは。
◇
季節は9月も後半になった夏の終わり。
息苦しいほどの暑さはずいぶんと前に感じ、今日は雨がザーザーと強めな勢いで降る肌寒い日だ。
高校が午後3時頃に終わり、部活に所属していない俺は寄り道もせずに、ひとりで家へと帰っている。
遊び盛りな男子高校生としては帰りに寄り道をするものだが、俺は家に帰って家事と勉強をしなければいけない。
別に誰かに怒られるというわけでもないが、俺にはやる必要があった。
仕事で長く家にいない親同士が浮気の疑いとか愛がないとか言って離婚し、家とお金を与えられてアパートでの1人暮らし。
尊敬もできない親を見て育った過程で学んだことは、人は1人で生きていかないといけない、ということだ。そのためにも良い大学に行き、収入がそこそこ良くて優良な会社に行く必要がある。
友達なんていないも同然だが、立派な人間になるには必要な犠牲だ。
それに高校2年生ともなると大学受験はもう間近。
だから今日も今日とて、寄り道もせずまっすぐ帰っている。
ショルダーバッグを肩に掛け、手には傘を持って制服の半袖ワイシャツをちょっとだけ雨に濡らしながら静かな住宅街を歩いていると、帰り道ににある公園が気になった。
雨の日にわざわざ来る人がいないのに、傘も差していない女の子がベンチに座っていたからだ。
足を止め、公園の入り口からベンチに座るその子の横顔を見ると外見的な特徴から人ではなく、その子は俺と同じ歳ぐらいに見えるウマ娘の女の子だった。
人の耳の位置にあるものはなく、代わりに頭の上にはウマ耳がある。その耳には緑色の耳を覆っている、リボンのような耳カバーな馬具のメンコカチューシャをつけていた。
ワンピースタイプの青を基調としたセーラー服の制服を着ていて、とても控えめな大きさの胸元には大きな青いリボンと
下は白色に青いラインが入っているスカート。太ももまである白いニーソックスな制服に皮靴のローファーは、このあたりじゃウマ娘たちが通う学校として有名なトレセン学園のものだ。
顔が美人で、明るい茶色の髪の彼女はうつむいて寂しそうに地面を見続けている。 お尻から出ている、髪と同じ色をしている尻尾は力なく垂れていた。
放っておくと風邪を引き、道に出たときには車にぶつかって死んでしまいそうな気がした。
そんな彼女のことが気になり、俺は公園に入るとまっすぐ彼女のところへと歩いていく。
正面に立って彼女を見下ろす形となるが、目の前のウマ娘の子は俺に反応する様子さえも見せていなかった。
「大丈夫か?」
無反応すぎることに対して心配の声をかけると、ゆっくりとした動作で俺を見上げてきた。
でも何も言ってこず、その目には何の意思も感じない。
あまりにも無防備で無気力で寂しげで。生きる気力すらなさそうに見えた。
そんな人に関わるのは面倒なだけだ。
無視するか、よくて警察に電話するのが普通だろう。
でも俺はそんな目の前の子に何かしてあげたかった。この子を見ていると、親が離婚して自分が捨てられたように感じたときのことを思い出して。
「ウマ娘の学園ってのは全寮制だったはずだが、帰らないのか?」
彼女がこれかからどうしたいのか気になって聞くが、俺の言葉に返事もせずにまた地面をじっと見つめ始めた。
言葉だけじゃどうしようもないと思い、冷えている彼女の手をゆっくりとした動作で掴む。
「俺の家に連れていく。嫌だったら言ってくれ。すぐに手を離して俺はいなくなるから」
しばらくのあいだ返事を待つが、何も言わないために強引に手を引っ張っては立ち上がらせる。
けれど、その体は力なく俺の胸へと寄りかかってくる。
170㎝の身長な俺より少しだけ低い背は片手で抱きかかえるには辛い。だから慌てて傘を放り投げ、地面へと倒れてしまわないように両手で抱き留めた。
そうしてから冷たい体の女の子を1度ベンチに戻し、落とした傘を閉じてはそこらに放り投げる。
「連れて行かれるのが嫌じゃないなら、自分で立ち上がるか抱っこされろ。どっちがいいんだ?」
女の子の顎を掴み、俺の目線へと合わせる。その目はさっきと違い、ほんのちょっとだけ感情が揺れ動いた気がした。
「……抱っこ」
ちょっと悩んだあとに小さな口から、ささやくような声が聞こえた。
自分で選択肢を出しておいて、選ばないと思っていたのに抱っことは。今まで恋人すらいなかった俺に高度な要求をしてくるが相手は弱っている女性だ。こんなところで変にときめいたり、挙動不審になるわけにはいかない。
俺は女の子を肩へと担いで1人暮らしをしている自分のアパートへと向かって歩き出す。
もし俺が鍛えた体なら、ロマンあるお姫様抱っこをしたいがそんな体力はない。だからコメ袋を担ぐような雑な抱き方なのは許してもらおう。
女の子を肩に担ぐ姿は他の人から見ると、誘拐している姿に見えるだろうが幸いにも人と会うことはなく、アパートへとたどり着く。
2階建てで、和室で1Kな広さの部屋である201号室の前に来ると、肩に担いでいた女の子を降ろす。
ショルダーバッグから部屋の鍵を取り出してドアを開け、彼女を玄関の中へと入れる。
いったん彼女を座らせたままにし、靴を乱暴に脱いでショルダーバッグを床へと置いた俺は台所がある玄関から部屋と移動する。
本棚とタンス、ちゃぶ台にテレビがある部屋のタンスからバスタオルを4枚取り出すとそれを持って玄関へと行く。
「ほら、これで体を拭け」
玄関に座ったままの女の子に2枚のバスタオルを差し出すが、受け取る気配もなく俺をぼぅっと見上げてくるだけ。
ため息をつくと、俺は自分の顔だけを拭いてから女の子の体を拭いていく。
制服が雨で張り付いて、下着が透けて見えて、普段なら気になってしまうが、今はそんな場合じゃない。
顔をごしごしと拭いてから、胸をさわらないように気を付けつつ上半身を拭いていく。それが終わると俺はワイシャツを脱いでTシャツ姿になり、別なバスタオルを使って俺自身の体を拭いていく。
「あとは自分で拭けよ」
そう言うと女の子はゆっくりとした動きで立ち上がり、手に持ったバスタオルをなぜか俺に向けてくる。俺はその手を掴んで女の子自身の体を拭かせる。
「誰が俺のを拭けと言った」
「連れてきてもらったから、お礼として拭かなきゃと思って」
「お前はまず自分の心配をしてろ。いいか、しっかり拭いとけよ?」
小さく頷いたのを確認すると、台所のすぐ隣にある風呂場に行き、ガス給湯器のスイッチを入れてシャワーの準備をする。
それから部屋のオイルヒーターの電源を付け、洗ったばっかりでまだ着ていなかった学校指定の赤色ジャージと下着を乾かす用のドライヤーを準備して玄関へと持っていって、床に置く。
「シャワーを浴びろ。ジャージは洗ったばかりだから綺麗だし、女物の下着はないから自分で乾かせ。そのあいだ、俺は外にいるから。何か質問は?」
早く体を温めて欲しい俺は早口でそう伝えると、女の子はジャージのズボンを手に取った。
「これ、私は履けないと思う」
「未使用のはないから我慢してくれ」
「そうじゃなくて。尻尾を出す穴がないの」
……ウマ娘だってことを忘れていた。
慌てて部屋からハサミを持ってきてジャージに穴を開けようとしたが、どれぐらい切ればいいかがわからない。実際に尻尾をさわって大きさを確かめればいいが、それはただのセクハラになる。
「わからないから自分で切ってくれ」
「いいの?」
「ああ。切るのはすぐにできるだろうし、先にシャワーを浴びてくれ。じゃないとせっかく連れてきた意味がない」
「それは私の裸が見たいってこと?」
「見ねぇよ! 早くシャワー行ってこいウマ娘! 髪も下着もきちんと乾かして用意できたら出てこいよ!」
連れてきた理由が納得したという顔に俺は大声をあげ、俺は自分用のバスタオルを2枚ひっつかむと早足で外へと出ていく。
そうしてアパートの廊下に来ると閉めたドアに背を預けて座り、自分の体を拭いていく。
ため息をつくと一気に疲労感がやってくる。
俺は善意で人助けをして立派な人間だと自己満足をしたかっただけだが、言われてみるとエロ目的で連れてきたようにしか思えなくなってくる。
そんなことは考えていなかったのに。
ただ、体を拭くときに服の上から見えてしまう下着に目が向いてしまったのは不可抗力だ。エロ目的とはまったくの別問題だ。
そんなことを考え、自分は間違っていないと正当化しつつ体を拭き終わると待つ以外にやることはなく、濡れたバスタオルを自分の上半身に巻くと降り続ける雨を見ながら時間が過ぎて行くのを待っていた。
寒さに体を震わせながら、ぼぅっとしていると背にしているドアから控えめなノック音が聞こえてくる。
「終わったのか?」
「うん」
思っていたより早かったと思いながら、ドア越しに聞こえる声を聞いて立ち上がり、そっと静かにドアを開ける。
そこには俺のちょっと大きいジャージを着て、しっとりとした髪にメンコが外されて横へと倒れたウマ耳が見えている、かわいい女の子がいた。
どこか一般常識からずれている子が普通に服を着ていて安心する。遠慮して下着姿だけだったら怒っていたところだ。
あとは俺がシャワーに入って体を温めれば落ち着くが、その前に名前を聞いていなかったことを思い出す。
別に今日だけの出会いだから名前なんて知らなくてもいいが、せっかく知り合ったのだから聞いてみたいとも思う。
「知らなくていいかもしれないが、俺の名前はアキだ。お前の名前は?」
親と同じ苗字とつけられた名前が嫌で、友達から呼んでもらっているあだ名を言う。
女の子は俺がフルネームを言わないことに不思議そうに見つめてきたが、すぐに返事をしてくれる。
「私はサイレンススズカ。まだデビューしてもいないウマ娘」
名前と同時に聞いてもいないことを教えてくれる。レースに出たことがあるとかないとか、そんなことは気にもしないがウマ娘にとって大事なことなのだろう。
なんで公園にいたとか、気になることはいくつかあるが自分から言いたくなるのを待つことにする。無理に聞いて、嫌がられるのは嫌だから。
「それじゃあ……スズカでいいか。サイレンススズカって全部呼ぶのは長い」
「そこは敬称をつけるんじゃないの?」
「なんでそこだけ常識人なんだ」
マイペースなのに戸惑いながら、俺はスズカが使っていたバスタオルを手に取ると、俺が体に巻いているのと一緒に洗濯機に入れる。シャワーを浴びた後に俺自身の脱いだ服を入れてから洗濯機を動かせばいいと思ったが、それだとスズカの制服がわずかな 時間とはいえ遅くなってしまう。時間優先ということで俺が着ていたワイシャツとスズカの制服も入れて脱水のボタンを押す。
タンスから自分の下着と着替え、バスタオルを取って風呂場前に置く。
そして服を脱いでシャワーを浴びるために風呂場へ入ろうとするが、手に服をかけたところで視線を感じて振り向くとスズカが静かに俺を見つめてきていた。
「私はどうすればいいの?」
「俺がシャワーから出てくるまで好きにしていい」
そう言って背を向けるが、すぐに名前を呼ばれる。
「アキくん」
「なんだよ」
綺麗な女の子に自分の名前を呼ばれたことに新鮮さと嬉しさを感じながら振り向くと、スズカの手には着ているはずのブラとショーツ、それとドライヤーを持っていた。
一瞬だけ思考が止まるが、すぐに理解する。
そう、俺が貸したジャージの下はノーブラノーパンの状態だと言うことに。
スズカは尻尾をふんわりと揺らし、恥ずかしそうにするわけでもない。
男である俺に下着を見せることに何の羞恥心も感じていないらしい。
わかった。この子はアホの子だ。
これから接する時はそのことを頭に入れることにし、ついマジマジと見てしまう下着から目をそらす。
「これ、乾かしててもいい?」
「乾かしておけって言っただろ! ええい、俺に見せるな! 奥に行って乾かしておけ!」
部屋の奥へと指を指し示すと、頷いたスズカは素直に行ってコンセントにドライヤーを差してから座り、下着を乾かし始めた。
公園から家まで連れてくるよりも、家についてからのやりとりのほうがとても疲れる。
大きくため息をつき、服を脱いでいくと俺に背を向けているスズカの尻尾が見えた。ジャージにハサミで穴を開けただけだから、その穴から白い尻の一部分が見えてしまっている。
その姿に理性と本能が争い、理性が勝って視線をずらすと、スズカの頭の上にあるウマ耳がこっちへと向いていた。
スズカの耳を気にしながら服を全部脱ぎ、下半身にバスタオルを巻く。
すぐに入るならバスタオルはいらないが、少し試したいことがあるからだ。
「……スズカのむっつりスケベ」
小声で言うと、スズカが体をびくりと震わせると同時にこっちに向いていたウマ耳が素早く前へと向く。
俺がスズカに興味があるように、向こうも興味があるようだ。羞恥心もあることがわかり、裸でうろつくとかそんなことをしなさそうなことに少しだけ安心する。
スズカがこっちに注意が向いていない隙に風呂場へと入り、脱いだバスタオルを外へと出した。
風呂場の中は暖かく、嗅いだことのない匂いがする。
それがスズカの匂いだとすぐに気づき、なんだか恥ずかしくなってしまう。同じ年頃の女の子が使った風呂場を使うなんてのは。
ドキドキしながらも、シャワーを浴びて体が温まるととてもいい気分になる。
シャワーを浴びながら、このあとはどうしようかと考える。髪を乾かして、あとはコーヒーを飲みながら話をすればいいか。夕食の時間にはまだ早いし。
色々と考えながら風呂場のドアをそっと開け、隙間から手を伸ばしてバスタオルを手に取る。
体を拭いてから、バスタオルを腰に巻いて外へと出た。風呂場の中で着替えると、どうしても服が濡れるから外で着ることになるが、見られるかもという緊張感がやってくる。
アニメやラノベだと、今のとは逆な展開が普通なのに。少女漫画だとこういうのはあったりするか?
と、恥ずかしがりながら背中を向けているスズカを見ながら服を着終える。スズカの耳はさっきとは違って、こっちに耳を向けないように耳を落ち着きなく動かして努力しているのが見えた。
その行動に感心しつつ着替えたあとは台所に向かい、ヤカンに2人分の水を入れて火にかける。
棚からマグカップ2つを取り出して台所に置き、何にしようかと考える。家にあるのはインタスントコーヒーに紅茶、友達からもらったまま缶から未開封のこんぶ茶がある。
「スズカ、何か飲むか?」
ドライヤーの音に負けないよう、大きな声でそう聞くと下着を乾かす手を止めてスズカが隣へとやってくる。
俺はお茶類が置いてある棚へと指を差すとスズカ自身に選ばせる。そうして選ばれたものは、こんぶ茶だった。
外見的に紅茶を選ぶかと思っていただけに、渋い選択に驚きながら缶を手に取って開ける。
初めて入れるものだから、缶表面にある説明をじっくりと読む。そうしているとすぐ隣から、風呂場に入ったときと同じ匂いがした。
すぐ横に来たスズカは俺の持っている缶を手に取った。
「私がやる」
「お前は乾かしていればいい」
「アキくんはこんぶ茶飲んだことないでしょ? それなら私のほうが上手にできると思うの」
さっきまでの恥ずかしいところを隠したいかのような、スズカのやる気アピール。
何かミスをしそうな気がしないでもないが、本人にやる気があるし普段から飲んでいるみたいだから任せるのが1番か。
「わかった。じゃあ任せる」
「うん。代わりにアキくんは私の下着を乾かしておいてね」
衝撃的発言を言っておいて、自分の言ったことに気にするでもなくマグカップへとこんぶ茶の素を入れていく。
女の子の下着を乾かすのは犯罪じゃないだろうかとか、男に対する警戒心の無さはいったいなんだと疑問に思いながら、触るとまだ少し濡れている下着の前へと座る。
おしゃれな刺繍が入っている下着を前に、何も考えないようにしてドライヤーのスイッチを入れて下着を乾かし始める。
そうしながら、スズカの様子をそっと見るとヤカンを静かに見つめていた。
ちょっとの時間が経ち、マグカップ2つを持ってきたスズカはちゃぶ台に置く。
俺はドライヤーのスイッチを切り、マグカップ1つを手に取って座るとスズカも俺の対面へと座る。
お互いに何も言わず、マグカップに入っているこんぶ茶を飲んでいく。
初めて飲んだ味は、しょっぱさとこんぶのうまみ成分が入ったスープだと思った。お米にかけたくなる。もしくは何か具を入れたい。
お茶と言うには首を傾げる味だが、心も体も温まっていく。
2口目を飲み、落ち着いてところでスズカに気になっていたことを聞く。
「なぁ、スズカは公園で何をしてたんだ?」
「えっと、散歩?」
「傘も差さずにか? 俺はウマ娘の関係者じゃないし、ただの学生だ。変なことを言っても怒らないぞ」
「じゃあ言うけど。……落ち込んでいたの。今度出ることになる、初めてのレースについて」
「ウマ娘らしい悩みだな」
「うん。それでね、私を鍛えてくれるトレーナーさんが『お前はまだレースに出せない』って言われて。周りの子たちがどんどんレースに出るなか、私だけが置いていかれてるの」
さっきまでの言葉少ない様子とは違い、不満や誰かに言いたらしく俺へと言葉を出してくる。
自分に自信がないような不安な声で。
「レースに出れない理由は、私の成長が遅いからだって。だからレースは遅い時期になるの。なんだか私に能力がないって言われている気がして……」
「やっぱりウマ娘ってレースに出たいものか?」
「走ることをなくしたら、私たちウマ娘の存在価値なんてないも同然だと思う。踊ったり歌ったりすればいいって思うかもしれないけど、それはウマ娘じゃなくてもできるから」
話を聞いても、ウマ娘の苦しみなんてのは俺にはわからない。
俺はウマ娘でもないし、ウマ娘たちと関係する仕事をやったことがあるわけもなく詳しくもない。
ただ、自分の価値なんてひとつの物事だけではわからないと思う。
「でも問題に向き合って悩み続けるってすごいことだと思う。楽なほうに逃げようとしないんだから」
現実逃避として何かに逃げることもなく、自分の将来のことについて考えているのだから。
「……そんな立派なものじゃない」
俺としてはとても立派だ。公園で傘も差さずに雨の中にいたくらいに悩み、自分の価値に疑問を持っていたのは。
でも言葉だけじゃ、スズカの助けには何もならない。
今日会ったばかりのスズカの力になりたい。自分に自信を持って、この子の笑顔を見てみたいと思ったから。
じゃあ俺にできることは?
少しぬるくなったコーヒーを飲み干し、考えた結果はとりあえず飯を作ることだった。
「スズカ、今から飯を作るがなにか食べれないものとか好きなのはあるか?」
「えっと……野菜中心だと嬉しいかな」
「わかった。作るから待ってろ。夕食ぐらい食っていく時間はあるだろ?」
「なんでアキくんは私に優しくしてくれるの?」
「昔の自分を見ているような気がしてな」
親が離婚して、アパートの部屋と金を渡され、捨てられたと思って世の中と親に失望していた俺の過去に、スズカが公園にいたときの雰囲気に似ている気がして。
誰かを見捨てるような人間にはなりたくないという思いが俺にあるからだ。
「あとは美人な人に優しくしたいってところだ」
そう言って、ほんの少し恥ずかしくなっては立ち上がり、台所へと行く。
今からご飯を炊くのは時間がかかる。冷蔵庫を見ると、いい具合にうどんがあった。2人分のうどんと適当な野菜を炒めて夕食にしよう。
冷蔵庫から野菜を取り出し、まな板の上で野菜を切っていると隣にスズカがやってきた。
「どうした?」
「作るの、見ていてもいい?」
「いいけど、下着はつけたか?」
さっき話をしていた時より、なんとなく明るくなったスズカに聞くとジャージの前を開けてブラをつけているのを見せてくる。
それを見て、即座に俺は包丁を置くとジャージを掴んではファスナーを上いっぱいにまであげる。
「……おとなしく見ているならいいぞ」
「アキは乱暴ものね」
「お前の常識がずれているからだ!」
呆れた言い方に大声をあげてしまうが、それの何がおかしいのかスズカは小さく笑みを浮かべてくれた。
初めて見た笑顔に見とれていたが、気を取り直して料理へと戻る。
「誰かに心配してもらえることって、こんなに嬉しいだなんて思わなかった」
恥ずかしい。なんだかそう言われるのは恥ずかしい。
スズカはつい放っておけなくて、色々と気になってしまう。例えるなら、手のかかる妹を持ったと言えばいいかもしれない。
料理を作り続けながら、じっと俺の手元を見てくるスズカの横顔を見て、そんなことを思う。
野菜炒めと、うどんを煮るのが終わって料理ができあがると、皿に盛りつけるのと運ぶのはスズカが自主的に運んで行ってくれた。
ちゃぶ台で向かい合って、ウマ娘に関する雑談や学園のことを聞く。
食事が終わっても話は続き、スズカの話を多く聞いていた。でもスズカは時間が気になり、部屋にある壁掛け時計を見あげた。
「私、もう帰らないと」
「そうか。今日は話ができてよかったよ」
「私も。誘拐されたときはどうなるかと思ったけど」
「誘拐じゃねえよ。連れてく前にちゃんと聞いただろ?」
「……ええと、そんなことを聞かれた気がしたような、しなかったような」
俺から目をそらしながら立ち上がると、洗濯機の前へと行って制服を手に取った。
それを見ると、俺はすぐに家の外へと行き、着替え終わるのを待つ。
スズカが出てきたときは出会ったときと同じ格好になっていた。
「今日はありがとう。ちょっとだけ元気になった」
「それはよかった。もしスズカをテレビで見る機会があったら、今日のことを思い出しながら見てやる」
「私を好きになった?」
「なってねぇから早く帰れ」
スズカは少し不満げな様子になるが、すぐに感情のないクールな表情を俺へと向けてくる。
俺は家へと1度戻り、使い捨てなビニール傘を取ると遠慮するスズカの手に強引に持たせた。
それに戸惑っていたが、俺の強い意志を感じて受け取ってくれた。
「もう雨に濡れるんじゃねぇぞ。それじゃあな」
「……うん、ばいばい」
そう言って、スズカは俺へと小さく手を振りながら返っていった。
今日は疲れたが、いいことをしたと精神的に充実した日だった。
ウマ娘、サイレンススズカとの偶然の出会い。スズカと名前を呼んで色々と世話をした、常識からちょっとずれた女の子。彼女の悩みが軽くなったのなら、嬉しく思う。きっと出会うことはもうないような気がした。
そう思ってしまうと、寂しく思えたがそもそもあんな美人な子と話をできただけも喜ぶとしよう。
もし、彼女が有名になったら自分の中で満足感がきっと出るに違いない。
あの子は俺が助けたんだぞ、と。
そう思いながらスズカがいなくなった方向をしばらく見ていたが、体が寒くなって家へと戻る。
1人になり静かになった家の中。洗濯機の前にはスズカが残していった、お尻あたりに穴が開いたジャージが置いてある。このジャージは後で直して家で使う用にしよう。
それと公園で投げ捨ててしまった傘は明日の朝に拾ってこないと。
そうして慌ただしくも、ちょっと楽しかった日は終わっていく。
・電子書籍版
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メロンブックス
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2話
また、いつもの変わらない日常が戻ってきた。
でもそれは2日後の天気がいい晴れの日に終わる。
学校が終わり、家へと戻ってくるとドアに背を預けて座っていたスズカがいたからだ。
出会ったときと同じように制服を着ていたが、前と違うのは手に持ったトートバッグいっぱいに入っているニンジンだ。
スズカは俺に気づくと立ち上がり、何の感情もないようなクールな顔つきで俺を見てくる。
「アキくん、帰って来るのが遅い」
「文句言う前に何か言うことがあるだろ、お前」
流れ的に会うことはないような雰囲気だったのに、こうも再会するのはなんかがっかり感がある。
後々、レースに出ているスズカの姿を見て俺が感動するっていうはずだったのに。
あまりにも再会が早すぎる。
呆れた俺に対し、スズカは首を傾げたがすぐに元へと戻った。
「これが照れ隠しというものね?」
「さっさと入れ」
スズカの声を無視し、ドアの鍵を開けて入っていく。後ろからスズカがやってきて家へとあがる。
俺は肩にかけているショルダーバッグをそこらに放り投げると、 冷蔵庫を開けて何の飲み物を飲ませようか考えていると隣にスズカがやってきてトートバッグを差し出してくる。
「これ、お土産」
「お、ありがとな」
冷蔵庫のドアを閉めて、トートバッグを受け取るとずっしりと重いのが手に伝わってくる。
いったん床に置いて中身を確かめるが、ニンジンばかりだ。ニンジンの奥のほうにはお土産ではないスズカの私物っぽいものが入っていた。
「全部ニンジンなのはなぜ?」
「普通のだとつまらないかなと思って、トレセン学園名物の高品質ニンジンを買ってきたの」
高品質と言うだけあって、形も色もいい。だけれど、16本もあると消費するのに困る。
男子高校生の1人暮らしなんて、そんなに野菜は食べないし、ニンジンなんて特にだ。ウマ娘ならとても喜ぶだろうけれど、俺は喜びと同時に困惑がある。
でもお土産は気持ちなので、ありがたく冷蔵庫へとしまう。
「何か飲みたいのはあるか?」
軽くなったトートバッグを返すと、スズカは冷蔵庫のドアを開けてペットボトルのオレンジジュースを指差す。
そのペットボトルを持ち、ガラスのコップふたつを持つとちゃぶ台へと行き、つい2日前と同じように俺の対面へと座るスズカ。
ジュースを2人分注ぎ、ある程度飲んだところで気になっていたことを聞く。
「今日はどうした。走る練習中にころんで泣いたか? ストレス発散で大食いしてショックを受けたのか?」
「アキくんの中で私のイメージはいったいどうなっているの?」
「手のかかる妹」
ため息をついて言うとスズカは不満らしく、足を延ばして俺の足を軽く蹴ってくる。
抵抗も文句もしないでいると、次第に威力が上がっていき、強くなっていく。
「スズカ、痛い」
「謝って。私が手のかかるってとこは謝って」
「妹なのは否定しないのかよ。で、今日は何の用だ?」
「遊びにきた」
足を蹴るのをやめると、さも当然のように言ってくる。
友達ならそれでもいいが、俺との関係はそう呼べるものじゃないと思う。その日だけの出会いだと思っていたから、今日みたいなのは予想さえしていなかった。
「俺とお前は友達だったか」
「じゃあ知り合いから始める」
「出会ったのも縁があるってことだし、それでいいか」
俺の言葉に何か気になることがあったのか、首を傾げて少し考えたあとに口を開けた。
「……ツンデレ?」
「今すぐ出ていけ」
そんな楽しい言葉のやりとりをしつつ、俺は家に帰ったらいつもしている勉強のためにスズカを放置することにした。
スズカもやることがあるため、ちゃぶ台に勉強道具を気にせず自分の作業を進めていた。
その作業とは、俺があげたスズカ用に改造されたジャージだ。持ってきたソーイングセットと当て布で、尻尾部分の穴を補強している。
時々その作業を気にしながら勉強をしていると、作業が終わったスズカが隣に座ってくる。
「アキくんはいつも勉強しているの?」
「ああ。今は目標がないが、行きたい大学に入れるように」
「大変だね」
「お前だってウマ娘なんだから、なにかしら努力をしているだろ。それと同じことだよ」
「そっか。アキくんと同じかぁ……」
言葉に寂しさと嬉しさの感情を顔に浮かべ、スズカが悩んでいる問題は今も続いていることがわかる。
でもそれは俺にはどうしようもない。だから、気晴らしをさせてあげようと前のようにふざけることにした。
やることはスズカの頬に人差し指を突き刺すということを。
それをされたスズカは表情を変えなかったが、俺が「ぺったんこな胸と違って、ほっぺたは柔らかいな」なんて言うとイラッとした感じに顔をしかめると俺の人差し指を口に入れ、結構な力で噛んできた。
俺が悲鳴をあげたのは言うまでもない。
そういうふうに今日は時々じゃれあいながら、スズカが俺の勉強を見るということをして過ごしていった。
空が暗くなりかけた時にスズカは帰ると言い、俺は少し待ってもらってサンドイッチを作る。
たくさんのニンジンをもらったから、それのお礼としてだ。
作ったのはきゅうりのサンドイッチだ。パン4枚を使い、作っていく。
パンにはマーガリンの甘味ときゅうりの爽やかさ、塩コショウを入れる。これが俺お気に入りの作り方。
その俺自慢の手作りサンドイッチをスズカに持たせる。
「もらっていいの?」
「おう。帰るときにでも食ってくれ」
「ありがとう。わざわざ作ってくれたのは、私の魅力のせい?」
「何を言っているんだ。このダメ妹は」
スズカのおでこをデコピンではじき、涙目でおでこを押さえながらスズカは帰っていった。
なんだかんだで今日も楽しかった。もう俺の中ではスズカは妹ポジションだ。
お礼を言ったから、今度こそもう会わないかと思う。
でもそのうちまた来そうな気がするから、それまでに料理の腕前を上げて置かないと。
そう決心してちゃぶ台のところに戻ると、スズカが縫っていたジャージが置いてあった。ズボンを手に持って広げると、きちんとお尻の穴部分は補修されていた。
スズカの奴はまた来るらしい。そのことはなんだか嬉しくなり、にやける顔を軽く叩く。
補修されたスズカ専用のジャージをタンスにしまうと、冷蔵庫からニンジンを取り出して今日の夕食は何を作ろうかと考えた。
こうしてスズカと過ごした2回目。この日から、俺とスズカの友達以上で兄と妹みたいな関係が始まっていく。
週に1回か、2回ほどスズカは学園の授業が終わったあとにアパートへと遊びにやってくるようになった。
遊びと言っても、ほとんどは雑談をしたりスズカが本棚から何かの本を取って読んでいるぐらいだ。スズカが本を読んでいるあいだ、俺は勉強をして静かな時間を過ごしたいた。
そういう穏やかな関係の日が続き、俺とスズカは遠慮をあまりしない仲になっていった。
でも親しくなったからといって、スカートの中が見える無防備姿勢が増えてきたのは俺の理性によろしくないのでやめて欲しいとは思うが。
9月の出会いから始まり、12月と続いていく。
そのあいだ、スズカが気に入ったきゅうりサンドイッチを毎回持ち帰らせ、クリスマスを一緒に過ごし、神社に初詣にも行った。
こうして一緒の時間を過ごし、俺の狭い1Kの部屋にはスズカの私物が少しずつ増えていく。食器にマグカップ、スズカ専用ニンジンと言ったものが。
世話の焼ける妹という家族がもう1人できた気分になる。
スズカと会うのが楽しみになってきたが、1月も半分を過ぎるとひどく落ち込みながらスズカがやってきた。
その日はスズカは家に入るなり、ちゃぶ台に突っ伏して力なく倒れた。
それを見ながら、俺はいつものように座って勉強をし始める。
が、いつもの何かと俺にちょっかいをかけてくるのと違い、どんよりと暗いオーラを出しているのが落ち着かない。いったい何があったのか心配してしまう。
「何かあったか?」
「聞いてくれるの?」
突っ伏したまま、顔だけを動かして見上げてくるスズカ。
ふざける様子もないことから、真面目に話を聞くことにする。
「お前の悩み事ならいつだって聞いてやるさ」
「ありがとう。そのね、2月1日に初めてのレースがあるの。時間は午後1時を少し過ぎたあたり。コースは芝の1600m」
スズカが言ってくれたのは前にも言っていた、レースのことだった。
悩みを教えてくれたのは嬉しいが、もし技術的なこととか、どう走ればいいとか聞かれたらと思うと冷や汗が出そうになる。でも聞いたのは俺自身で、スズカの悩みが軽くなるのなら分からなくてもしっかりと聞いてやりたい。
「……不安なの。最初のレースから私のウマ娘生活が始まっていくのが。負けたらどうしようって。1度負けたら、その次も負けるかもって。そうして勝てなかったら私はどうすればいいのかということを考えるの。ウマ娘だから走るけれど、私には目標がなくて。G1優勝? 海外遠征? 3冠? そのどれにも興味が持てなくて」
いつもより勢いよく、感情が強くある言葉がスズカの口から出てくる。自分への自信のなさと不安が。特に走る理由がないというのが大きな問題になっていると思う。
俺だって何の目的もなく勉強を日頃からしているわけではない。大学に行き、きちんとして就職をしたいと考えている。
そうすることで、自分を捨てた親と違って、まともな人間として存在することができると思うから。
だからスズカにも理由が必要だ。これから自分を支えるべき、そんな理由が。
「だったら俺のために走ってくれよ。俺はスズカが、サイレンススズカが走っている姿が見たい。
普段はクールな雰囲気だけど、どこかぽやぽやしているお前じゃなくて。かっこいいお前が、俺は見たい。レース場に行って、お前を見てやる」
「アキくんのため?」
「おう。普段がダメダメだから、俺にかっこいいところを見せてくれ」
「私はダメダメじゃ―――」
スズカはその言葉に不満だったのか俺を睨んでくるが、ほんの数秒経ったあとには気まずそうに目をそらしていた。
おそらく、かっこいいところがあると思っていたけれど、考えてみればなかったということに思い至ったのだと思う。
「……もし私がダメなウマ娘で、引退させられたらアキくんが養ってくれる?」
「任せておけ。ウマ娘を使う仕事に就職して、思い切り働かせてやる」
そう言って笑みを浮かべると、スズカは安心した笑みを浮かべてくれた。
少しのあいだ、ふたりで笑みを浮かべあっていたが、スズカはふと真顔になる。
「ねぇ、アキくん。もし私が次のレースで勝ったらご褒美が欲しいの」
「いいぞ。で、いったい何が欲しいんだ?」
「んー、内緒」
それを最後にレースに関する話は終わり、いつも通り俺たちは部屋の中で自由にのんびりと過ごした。
レース4日前に遊びに来たスズカは、レースの見方やレース場の場所、レースの時間を改めて教えてくれた。
俺が初めて行くからなのか、お姉さんみたいな感覚で俺に接してくるのは新鮮だ。妹が成長したような気分になる。
気分よく俺に色々と教えたあとは、絶対に来てねと何度も念押ししてくる。手書きのメモでレース場についてから行く順番を詳細に書いたのを俺に渡すくらいに。
前と違って、やる気に溢れるスズカに結果がどうあってもレース後に会ったら優しくしてやろうと決めた。
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3話
そうして時間が経ち、2月1日のよく晴れた日。
今日はサイレンススズカの初レースだ。
コートを着こんで、ショルダーバッグを肩に下げた俺は電車で初めてのレース場へとやってきた。
レース場は人が多く、皆がきらきらと輝いた目でレースが始まるのを楽しそうに待っている。
そんな中をうろつきながら、食事をする店が多いなとか、レースを見るスタンドが多くあって、指定席や自由席があり、場所の違いによってどう見えるかに困惑していた。
でも前もってスズカが書いてくれたメモに従い、まずはパドックと呼ばれるところに行く。
ここはレースに出走する前のウマ娘たちが、それぞれ自分の健康状態を見せる場所らしい。
そのパドックは、ファッションショーでモデルさんたちが歩いて姿を見せるのと同じようなステージになっている。
多くの人がウマ娘を待つように俺も同じくやってくるのを待つが、ちょうど時間だったらしく、パドックの入り口にある赤い垂れ幕が上がってウマ娘が出てくる。
そこにいたのは1番のゼッケンをつけたサイレンススズカだった。
いつもの感情が分かりづらいクールな顔には、少し緊張の様子が見られる。
半袖短パンの体操着を着ていて、その上には長袖の上着を肩にかけるようにしていた。その状態でステージの一番前まで歩いてくると、上着をかっこよく投げ放つ。
投げる動作だけでかっこいいと思ってしまう。その時に一瞬だけスズカと目が会った気がしたが、すぐに背を向けて戻っていった。
普段の頼りなさと、ここでのかっこよさのギャップに惚れてしまいそうになる。あの常識からずれているスズカなのに。
ドキドキと鼓動が強くなる心臓を抑え、他のウマ娘が出てくるのを続けて見る。
そうして全員分見たが、スズカを見たときと違って心がときめく子はいなかった。
それで理解した。俺はただギャップの差によるものにやられただけなんだって。
そう納得して、時間には余裕があるからレース場内を少し散策してからレースを走るウマ娘たちにファン投票ができるというので深く考えずに"サイレンススズカ"を選んだ。
投票を出してからは場内をうろうろと歩き回ったあと、ウマ娘たちが走るコースが見える1階のスタンドへと行く。
今日はウマ娘たちのデビュー戦だからか、テレビで見たことのあるG1レースと違って人が少なく、観戦しやすい。
スズカのレースが始まるのにワクワクしながら待っていると時間はあっという間に過ぎ、ウマ娘たちが走るコースにトラックがゲートをつけて運んでくる。
もう目に見える何もかもが新鮮で、俺の好奇心を全力で刺激してくれる。
ゲート後方のコース上には11人ものウマ娘たちがいて、それぞれ準備運動をして体をほぐしていた。
ウマ娘は美人な子が多いなと感心するが、俺にとって目を引くのは1番のゼッケンをつけているサイレンススズカだ。
各ウマ娘たちの準備運動が終わり、それぞれゲートの中へと入って皆が並ぶとすぐにゲートが開いた。
スズカは最初から先頭に立ち、1番前を走っていく。他の子を寄せ付けぬ、圧倒的な速さ。後ろの子とどんどん差を広げていく。
それは最後のコーナーを回り、直線へと入っても先頭にいた。スタンドからの歓声が大きくなるなかで他のウマ娘たちが追い上げるも、追いつかれることはない。
スズカは最初から先頭でそれを譲らず、最後の直線も先頭。そのまま後続と大きく差をつけて勝った。
他のウマ娘をものともしない、マイペースで圧勝する姿を見て俺は言いようがない歓喜の感情がやってくる。
スズカの走る姿は綺麗で、力強い。
初めてレース場で見ることもあってか、スズカは日本で1番のウマ娘なんじゃないかと思ってしまう。
スタンドからのスズカの名前を呼ぶ歓声があってスズカの強さがわかるというものだ。
レースを走り終えたスズカはコースの上で立ち止まり、荒くなった息を整えながらスタンドをきょろきょろと何かを探すように見ている。
俺を探しているのか? と考え、目立つように片手を思い切り上へと上げる。それでも回りの人たちがやっているから、そんなに変りない気がする。
だから俺は声を上げる。
「スズカ―! サイレンススズカー!!」
名前を呼んだためか、スズカは俺に気づいて俺と目が合う。その途端にスズカは安心したような柔らかな笑みを浮かべると、コースから離れてレース場の中へと戻っていく。
観戦していた人も一部はいなくなるが、この後も別ウマ娘のレースは続いていく。
この後の俺の予定はレースで勝ったウマ娘のウイニングライブ、つまりは1着で勝ったスズカが歌って踊るのを見ることにしているが、それまではまだ時間がある。
ウイニングライブについての説明はスズカが軽くしてくれたが、1着から3着までのウマだけがアイドルのように歌って踊れることができるとのことだ。
でもなんでライブなのかがわからない。
走るだけじゃ観客はそんなに来ないし、ファン投票は賭け事ではないから、お金が賭けれない代わりにライブの当選権ということだろうか。
夕方の時間が近づくとライブをする場所まで行くが、どうもレースの時と客の雰囲気が違う。
ウマ娘を応援していた人たちが、なにやらアイドルのライブで応援するような道具の何かを準備している。
スズカはライブのことなんて軽くしか言ってくれなかったために、何を歌うかとか踊りはどういうものかも分からない。
周囲の客の観察をしているあいだにライブの時間が来て、スズカが走った前のレースのウマ娘たちがウイニングライブを始める。
運動着の姿と違うんだなぁとぼんやりと見ながら、歌い終わっていくのを眺めていく。
そしてスズカの番が来た。
ステージに出てきたスズカの姿は運動着とは違い、綺麗な衣装をしていた。
緑色のケープを身に着け、その下にはトレセン学園のとは違う制服のようなデザインで白と緑を使った色だった。手には黒手袋、足は黒タイツで全部を覆って靴はヒールを。
見慣れない、でもおしゃれな恰好はただかわいくて、さらには歌って踊るのは見ていてたまらない。
初めてのライブだからか、それほど歌も踊りも上手というわけではない。でもこのライブは印象深く記憶に残ると思う。
ライブをしているのが不思議な関係で仲良くしているスズカなんだから。
スズカの出番が終わり、他のウマ娘たちのライブが終わると心に穴が開いたような空虚感が生まれる。
レース場から自宅へと帰る途中、テンションが下がったためか暗いこと考えてしまう。
どこかスズカが遠くに感じたのは気のせいだろうか。多くのファンが集まり、スズカに声援を飛ばして嬉しそうに笑みを浮かべている人たちを見ると。
俺なんてファンの中の1人と同じ存在だろう。
もしかしたら、次会ったときはいつもの違うスズカになっているかもしれないと考え、怖くなってしまう。
そんな気持ちを持ちながら、スズカがやってきたのは次の日の夕方だった。
スズカにもう会わないほうがいいとか言われたら嫌だと思いながら、休日の日を暖かい部屋の中で、ジーンズと長袖の服を着てごろごろしていた時のことだ。
チャイムの音が聞こえ、慌てて玄関へと行きドアを開けるとそこにはスズカがいた。
いつものクールな顔つきに普段どおりの制服にメンコの耳カバー、茶色のダッフルコート姿。背中には大きく膨らんだリュックサックを背負った。
「約束を果たしに来たの」
……約束? あぁ、そんなのもあったなと思いだす。約束の内容は俺がご褒美をあげるというものだったはず。
スズカを中に入れると、スズカはちゃぶ台の前に行ってリュックサックを置く。
俺にスズカとは反対側のちゃぶ台前に座るよう指で指し示してきたので素直に座る。
「ちゃんとレースを見たよ。かっこよかったな」
「あ、うん、ありがとう。これ、お土産」
俺が褒めると困惑しながらリュックサックの中から物を取ろうとする。
ちゃぶ台の上に並べられたのは物はお土産だった。
有名ウマ娘の写真が入ったシールやキーホルダーにボールペン。
「結構あるな。むしろ俺のほうが感謝するよ。あんなかっこいいスズカを見れてよかった」
「ううん、私のほうが感謝している。アキくんを見て、落ち着けたの。走り終わったあと、みんなが私に向かって歓声や笑顔を向けてくれて嬉しかった。あぁ、私がみんなを喜ばせてあげているんだなって。私が走ることで喜ぶ人がいるなら、走り続けたいって思ったの」
「走る理由ができてよかったな」
「うん。それとアキくんがこれからも見続けているなら、その、頑張れる、と思うの。だからこれからも私を見ていて欲しい」
頬を赤らめ、たどたどしく恥ずかしがりながら言うのに俺までもが恥ずかしくなってスズカの顔を見れなくなる。
どちらも言葉が言えず、静かな時間が続く。でも嫌な時間じゃなく、自分の中の恥ずかしさがいっぱいで喋ることすらも難しい。
今、何か口を開けたら感情任せに恥ずかしいセリフを言うに違いないから。
だから頭を落ち着かせ、言葉を選んで言う。
「走る理由は見つかったらしいな?」
「うん。見ている人に喜んでもらえるような、夢を与えられるように私はなりたい」
走る前と今ではすっかりと変わっている。ウマ娘だから、と惰性で走ろうとしていたスズカが目標を持って明るい顔になっている。
正直、俺がいなくてもいい気がしてくる。
自分の目標を持ち、レースで圧倒的な強さがあるのだから、すぐに有名なウマ娘になるだろう。その時になればスズカの成長の邪魔になるかもと思ってしまう。
「スズカ」
「なに?」
「……俺はまだスズカと一緒にいていいかな」
スズカは首を傾げ、不思議そうな表情になって言う。
「アキくんはアホの子だったりするの?」
「お前に言われたくないわ! この常識知らずが!」
「うん。私は常識がちょっとだけ足りないの。だから今までもこれからも必要。アキくんが、私には必要なの。いつでもどんな時でも」
小さく、幸せそうな笑みを浮かべるともう何も言えない。
こんな顔をされたら俺は一方的に負けてしまう。いや、その前にそう思ってくれるのはとても嬉しい。
スズカといると楽しいし、生きていくことを 元気づけられるから。
「それとこれもあげる」
そう言ってリュックサックから出したは1個の
「これは2日前の、私が初めて走ったレースのものなの。記念としてアキくんに持ってもらいたくて。私の大事なものを」
蹄鉄はちゃぶ台に置かず、頬をちょっとだけ赤らめて俺から目をそらしながら手渡してくる。
それを受け取り、これがスズカが使っていたものだと実感すると鉄の重み以上な何かを感じる。
初めてのレース、初めての勝利を運んだ、スズカの走る靴につけられていた蹄鉄。
「何もしていないと錆びちゃうから、時々は手入れしてね」
「錆止めを塗って、時々取り出しては眺めるよ」
「うん。残りのもう1個は私の寮の部屋にあるから、お揃いね」
はにかんで嬉しそうに言うスズカ。まるで親友のような関係で気分がいい。
物を通して目に見える友情があり、今こうやって笑いあう見えない友情。
ひとおり蹄鉄を眺めたあと、それをちゃぶ台に置くとスズカとの会話に戻る。
「もらってばかりだと悪い気がするな。レース前にご褒美をあげるって言ったろ。何がいい?」
「お泊りがいい」
「どこに?」
「アキくんの部屋」
俺とスズカは仲がいいと思っている。これはお互いに遠慮なんてなく気楽だし、男女的問題が起きないという信頼が置かれているってことか?
でも何も考えていないこともあるが、あえて聞くと俺が気にしすぎだと思われる。
ここは普通どおりのそっけない態度で行こう。
「いいけど、泊まっても大丈夫か?」
「大丈夫。ちゃんと外泊許可をもらったから。男友達の家に泊まるって」
……正直者は好きだけど、よくトレセン学園もこれで許可を出したなって思う。でもきちんと許可はあるわけだし、後々の問題にはならないはずだ。
スズカはリュックサックの中から白いキャミソールみたいなものに緑色のカーディガン、下着は前に見たのと違うデザインのを出してくる。
着る服の準備も万端だ。
それにこれはスズカがレースを頑張ったご褒美として望んでいるんだから、できるだけ叶えないと。
その前に服と下着は目の毒なのでリュックサックに戻してもらうが。
「準備もしっかりしているみたいだな。さて、俺はお土産を片付けて、今から飯を作るがスズカはどうする?」
「アキくんが持っている本を読みたい」
「ああ。本棚にあるのなら自由に読んでいいぞ」
「……自由に読んではいけないのがあるの?」
その言葉に何も答えず、お土産物を集めて部屋の隅っこに置くと急いで台所へと行き料理を作ることにする。
正直にその答えはいいたくなかった。俺だって健全な男の子。女の子が読んじゃいけない本だって多少は持っている。
もしスズカが読みたいと言ったら非常に困るため、その話は回避しないといけない。
背中に感じる視線を無視しつつ、2合分のお米を研ぎ始める。考えることは夕食のメニューをどうしようかということだ。今日はカップ麺で済まそうと思ったが、せっかくレースで勝ったあとにカップ麺というのはよろしくない。
もっと豪華にしてもいいんじゃかいかって気もする。スーパーで買える範囲内で。
そうなると今から買い物に行くべきだ。
俺1人じゃなく、スズカも連れて。
お米が研ぎ終わり、炊飯器にセットが終わると何かの本を読んでいるスズカのそばへと行く。
「夕食の材料を買いにスーパーに行かないか?」
「行く。今すぐ行く」
返事は素早く、力強かった。読んでいた本をすぐにちゃぶ台の上へ置くと、リュックサックを持とうとするがそれを止める。
「お金はいらないって。今日は俺に任せてくれ」
「でも……うん、わかった。アキくんに任せる」
俺はそこらに放り投げてあったジャンバーを着ると、財布とエコバッグをジャンバーのポケットに入れてダッフルコートを着たスズカと一緒に家を出る。
暖かい家から寒い外に出ると時刻5時の今は太陽がもう沈む寸前で、人気のない道に街灯の灯りがあちこちでついている。
向かう先はすぐ近くのスーパーだ。そこへ行くため、スズカと並んで歩くが、こうして歩くのは初めてだ。最初に会ったときは雨の中でスズカを俺が肩にかついで家に連れていったし、それ以外でスズカと会うのは俺の家の中だけだった。
女の子と一緒に歩くというのは、そんなに多くないため新鮮だ。
そもそもこんな美人なスズカと一緒に外にいることにわずかに緊張してしまう。
「スズカは何か食べたいのがあるか?」
「アキくんが作ってくれるなら、なんでもいい」
「なんでもって言われると困る。嫌いなものだけでも教えてくれ」
「野菜中心なら後は好きにしていいよ。……それにしても」
「なんだ?」
「えっとね、私たちってまるで恋人みたいな会話しているね」
なんて照れながら言うスズカの髪をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でまわしてはボサボサの頭にしてやる。
スズカはじとっとした目つきでに俺をにらんでくるが、俺としては恋人という気分じゃない。
「お前がウマ娘じゃなかったら、兄と妹な関係にしか見えないな」
「つまり、今は恋人と見てくれ―――あ、待って、尻尾はやめて」
変なことを言うスズカの尻尾の付け根に手をやり、さわさわと撫でるとスズカの言葉は止まり、色っぽい喘ぎ声が聞こえてくる。
その声が聞こえてすぐに手を引っ込めるが、今まで尻尾は触ってこなかったから、こんな反応をするとは思わなかった。せいぜい、くすぐったい程度だと思っていたのに。
次からはしないように気をつけよう。危ない気持ちになってしまうし、セクハラしたということで警察沙汰になってしまうかもしれないから。
……ああ、いつもならスズカをさわるなんてことはしないのに。
外という開放的な空気に、レース勝利というお祝い事のために俺のテンションが上がってしまっている。
もう早く買い物を済ませ、家に帰って飯食って寝よう。明日になればスズカは帰り、穏やかな日常が戻ってくる。
それから恥ずかしがったスズカとは会話もなく、なんとも言えない空気の中でスーパーへとやってくる。
今日作る料理はキャベツのステーキに湯豆腐、あとは家にある白米とインスタント味噌汁だ。
作るものを決めると、先にその場所へ行ってから材料を買い、あとは日用品やお菓子などを買っていく。
スズカは、買い物かごを持つ俺の後ろをついてきては、俺が手に持った商品を見たあとに値段を確かめるということをしている。
どうも普段はスーパーに行かないらしく、なんにでも興味津々だ。
そんなスズカがかわいく見え、頬が緩んでしまうが慌てて手で口元を押さえる。これがスズカに見られたら、また変なことを言ってくるから。
スーパーで問題を起こすことなく、無事に家に帰ってきた俺とスズカ。
それぞれジャンバーとコートを脱ぐと、エコバッグの中身を片付けたあとはそろって台所の前へと立つ。
これから料理を始めるのだが、なぜかスズカもやる気が満ち溢れている顔をしている。
「スズカ。俺は今から料理を始める」
「わかってる」
「あまり話をできないから、向こうに行ってていいぞ?」
「私も手伝いたいの」
けなげな言葉に感動し、手伝わせようとするが今日の夕食は簡単なため手伝ってもらえる要素があまりない。
最も手間がかかるのはキャベツのステーキだが、それもすぐ作り終えてしまう。
「今回は簡単なのだから、すぐに終わるが」
「それでいい」
決意の固さに俺は折れ、スズカにキャベツのステーキを任せることにする。
まな板の上にキャベツを置き、包丁を手渡すがどうにも持ち方が悪い。
「料理経験はあるか?」
「ええと、ウマ娘は料理をおいしく食べるのが仕事の一部となっていて……」
つまりは料理経験がない、と。
それはそれで楽しい。何も知らない子に、自分好みのことを教え、育っていくというのは。
スズカに料理技術を教えたら、将来的に俺好みの味を作ってくれるかもしれない。そうすれば料理を作らなくてもいい機会が増える。
いい機会なので、丁寧に持ち方から教えていく。他は料理を作りながら教えていくことにする。
まずは買ってきたキャベツ1玉を半分に切らせ、切った半分を4等分に。
用意した小麦粉をキャベツの切り口にまぶす。
スズカがその作業を楽しくしているあいだ、俺はニンニク1欠片をスライスする。次にフライパンへオリーブオイルとスライスしたニンニクを入れ、弱火で火にかける。
そうやって油にニンニクの香りを移すのを待つあいだ、作業が終わったスズカと一緒に待つ。
そのあいだに会話はなく、フライパンをじっと見つめるスズカのふんわりと揺れる尻尾を見ていた。
2、3分ほど時間が経ったあとは火を中火に変える。そこに4等分したうちのふたつ、小麦粉をつけたキャベツを入れる。
全部で4つの両面をいい具合に焼いたあとは湯豆腐と味噌汁も作る。
部屋のちゃぶ台へと食器を準備し、料理を運ぶのはスズカに任せ、俺はちゃぶ台の前に座って待つ。
用意が終わると対面にスズカが座り、お互いに手を合わせて「いただきます」と言って食べ始める。
キャベツのステーキにしょうゆをかけ、スズカも同じように。そして同じタイミングでそれを口に入れる。
「うん、うまいな」
「おいしい。アキくんに教えてもらいながらだけど、私の初めての料理になるのね」
「あー、初めてならもう少し手の込んだものがよかったよな」
「ううん、最初はこれくらいでいいと思う。これより難しかったら、アキくんに全部任せちゃうだろうから」
自分の力量をきちんとわかっていることに好印象を受ける。俺がいるなら、とりあえず作りたいものから始めると言っても良さそうなのに。
料理の味付けやお米の固さ、この季節は何の食べ物がおいしいかなどの雑談をしている時に気になったことがある。
今日、スズカは俺の家に泊まると言った。でも布団は俺の分しかない。夏なら布団はなくてもなんとかなるが今は2月。布団もなしにそこらで転がっていたら風邪を引いてしまう。
スズカは寝袋か何かを持ってきたのかとも考えたが、さっきのリュックサックにはそれが入っているようには見えなかった。
食事を終え、箸を置いた俺はまだ食べ続けているスズカに聞くことにする。
「なぁ、スズカ。俺の部屋は布団がひとつしかないが、お前はどうするんだ?」
「どうするって、そんなのアキくんと一緒の布団でいいじゃない」
なんでもないように言うスズカの言葉に俺は硬直し、固まってしまう。
その言葉の意味は、俺を追い出してスズカがひとりでそこで寝る。または一緒に寝るということが考えられる。
「なるほど。スズカは俺が服を着こんで床の上に寝ればいいと言うのか」
「だから、一緒に寝ればいいって言ってるの」
表情を変えずにクールなスズカ。動揺しているのは俺だけか。ウマ娘にとって感情を大きく表現する耳の動きがわかればいいが、スズカは耳カバーをしているためにどういう感情なのかわかりづらい。
普段からの落ち着いた雰囲気もあって、いったいどういう意味か。男女としてなら、俺はまだ早いと思うし、そもそも現役ウマ娘のスズカとしても男女的問題が起きてしまうのも。
「私はアキくんの温度を感じて寝たいの。今まで母親の他に誰かと一緒に寝たことなんてないから。……信頼できるアキくんのそばにいると、私の心は満たされるの」
それを聞いて、俺は自分がバカだったことに気づく。もっと頭を使えと自分を叱る。スズカは常識が足りない子だが、繊細な子でいつも考えて生きている。
時々言う、恋人的な言葉は寂しさを伝える遠まわしだったと気づいた。
スズカと出会って5か月ちょっと。スズカのことの多くはわかったつもりでいたが、そうではなかった。
出会いの時から、スズカは自分への自信がなく寂しがっていた。
捨てられたらどうしようと悩み、自暴自棄になって雨が降る公園のベンチに傘も差さず座っていた。死んでしまいそうな雰囲気に見えたほどに。
それが今のような仲がいい関係になったが、単なる男女との関係ではないが、俺もスズカと一緒にいると安心する。
今の俺たちを表すなら、家族みたいな信頼と安心を求めている関係なのだと思う。兄と妹のような。
やっと俺たちの関係が把握できたときには、スズカは静かに俺を見つめていた。
「わかった。寝るだけな」
「ありがとう。アキくん大好き」
大好きと言われた瞬間に、驚き心臓がバクバクと動いて鼓動が早くなって顔が赤くなる。
家族と思った途端に、そんなことを言われて動揺する俺の意思の弱さが悲しい。
スズカのほうはそういう意識がないというのに。その期待を裏切らないように、スズカのことを考えて大事に付き合っていこう。
言ったほうのスズカは食事を終え、興奮も恥ずかしがる様子もなく自分の分の食器を台所へと持っていく。
その時に見えた後ろ姿。スズカの尻尾は普段の下がっている状態ではなく、高く持ちあがっていた。
尻尾でも感情が分かるらしいが、その知識がない俺にはそれがどういう意味かは分からない。だから、これからはウマ娘のことについて多くを調べていこうと思った。
食後の後片付けはスズカがやってくれるというのでお願いし、俺はテレビをつけてちゃぶ台へと突っ伏して適当な番組を見ている。
今から勉強はスズカを気にして集中できないし、読書な気分でもない。なのでテレビを見ることぐらいしかやることが思いつかず、ぼぅっとしているとスズカが後ろへとやってくる足音が聞こえる。
「あの、シャワーを借りても?」
「わかった、今から出て―――」
「そのままでいていい。今日は寒いし、アキくんを追い出すというのも悪い気がして」
「そう? じゃあこのままテレビを見ているよ」
「うん。私はシャワーを浴びてくるね」
といって、隅っこに置いてあったリュックサックから下着とバスタオル、俺に見せてきたパジャマ代わりの服を持って風呂場へと向かう。
ぼぅっとしていて、事の重大さに気づけなかったけど……俺の真後ろでスズカが着替え?
そのことに気づいたときにはスズカの服を脱ぐ音が聞こえる。
後ろを振り向けば、すぐそこにスズカの裸が見える。
ちょっと見たい気持ちと、見たら嫌われるという思いがせめぎあう。
そのあいだに風呂場へとスズカが入っていく音がし、風呂場のドアを閉めたことで安心する。
思春期である男子高校生にとってなんという拷問か。この精神的な辛さを、シャワーから出てきたときにもう1度耐えなきゃいけないのか。ああ、俺が信頼できるかスズカに試されている気がする今だ。
落ち着け。こういう時は素数を数えればいいって誰かが言っていた。次にスズカが出てきたら、そうしよう。
対策を素早く脳内で考え付いたが、予想外の音が聞こえる。
シャワーの音だ。その水の流れる音は不規則で、音だけでも刺激的な。脳内にガツンと来る。
……ああ!! 女性と同棲している世の中の男性たちを俺はものすごく尊敬する。こんな生活を当たり前に続けているだなんて。その人たちはどんな精神力をしているんだ。大人か、大人なら耐えれるのか、くそったれめ。17歳の俺にはきっついぞ、こんちくしょう!!
テレビの電源を落とし、ちゃぶ台に顔をうずめてはひたすら耐える。素数を数える余裕なんてない。
断続的に聞こえてくるシャワーの音に耐え、ふと音が止まったあと、次に聞こえたのはドアの音。バスタオルで体を拭く音。下着や服を着ていく音。
あぁ、今この瞬間に俺の精神力は鍛えられていく気がする。顔をあげまいと耐えていると、足音が俺の横を通り過ぎて正面に座る音が。
「次、いいよ」
声が聞こえ、顔をゆっくりと上げるとパジャマ代わりの服を着たスズカが座っていた。
耳につけていたメンコのカバーは外されてウマ耳が見え、髪はまだバスタオルで拭いただけでしっとりと濡れている。
持ってきた白いキャミソール、その上に緑色のカーディガンを着ていて、初めて見る姿に見とれていた。
「アキくん?」
「ん、あぁ、入ってくるよ」
スズカの声で我に返り、慌てて立ち上がるとタンスから下着と灰色のパジャマを手に取った。
風呂場の前に行ってスズカの方を見ると、スズカは座りなおしたらしく俺に背を向けて手に持ったドライヤーで髪を乾かそうとしていた。
俺の着替えるのに興味がないのか、または理性が強いのか。スズカは大人だなと感心しながら服を脱いでいたが、視界の端に何かがちらちらと動いた。
それはウマ耳だった。
俺の動きが止まったときは落ち着きなく耳が動いていたが、また脱ぎ始めると顔はこっちを向いていないが耳の向きは俺へと固定される。
スズカも俺と同様に好奇心があるのかと俺だけがえろいわけじゃないことに安心し、全部脱いだあとに風呂場へと入る。
初めて会ったときと同じように風呂場はスズカの匂いで満ちていたが、あの時よりも落ち着かなくなってしまう。
今ではもうずいぶんと親しい仲の女の子の匂い。それが好きな子なのだから余計に。好きといっても家族、妹という意味でだが。
変に興奮してしまっていたが、シャワーの暖かさで次第に落ち着き、終わる頃にはいつも通りに戻っていた。
ドアを開けて風呂場を出ると、スズカは俺に背を向けた状態のままでテレビの電源をつけて見ていた。
耳の向きは一瞬こっちへと向いたが、すぐにテレビへと戻した。
それでも耳や尻尾は落ち着きがなく、こっちに興味があることに苦笑してしまう。
スズカの後ろ姿を眺めながら手早く着替えると、スズカの隣に置いてあるドライヤーを取りにそばまで行く。
「ドライヤーを使っていいか?」
「うん、私はもう使わないから」
さっきまで俺へと興味を持っていたのに、今はそっけない態度にイタズラをしてしまいたくなる。
さりげなく、座っているスズカの耳へと手を伸ばして優しく撫でると、体をビクリと震わせたスズカはすぐにくすぐったそうに手で耳を抑えた。
俺をちょっと不満そうに見上げてくる顔はかわいらしい。
「アキくんのえっち」
「今のがそうなるのか」
「逆の立場で考えるとそうなると思わない?」
「……なるな。でもスズカのかわいい姿が見れたから気にするな」
「私は気にするの!」
と、俺の足をバシバシと手で軽く叩いてくる。それを無視し、スズカの隣に座るとドライヤーで髪を乾かし始める。
俺が相手をしてくれないのが嫌だったのか、スズカは俺の髪をがしがしと乱暴に撫でまわしてくる。
それさえも無視していると、乾きつつある髪を手で整えてくれる。
その優しい手つきが無視しきれず、そっとスズカの顔を見ると優しい顔で俺を見つめてきた。
「アキくんはかわいいね」
男としてそう言われるのは嬉しいような、嬉しくないような複雑な気分だ。
スズカの顔を見続けることができないほどに恥ずかしくなった俺は、髪が乾ききってもスズカを気にしないようにして寝る時間まで本を読むことにする。
俺がそうするとスズカもテレビの電源を切り、前に家に来たときに見ていた本を読み始める。
その間、お互いに会話もなく本を読み進めていくも時間が進むにつれて寝る時間が近づいてきて落ち着かなくなる。
これから俺はスズカとひとつの布団で寝る予定だが、寝れる気がしない。そのうち眠気で自然と落ちてしまうだろうが、それがいつになるかはわからない。
このまま悩み続けるよりも行動に移して寝る努力をしたほうがいい。明日は学校があるし。まぁ、あまりに眠れなかったら休むことにしているが。
「寝るか」
本を閉じて立ち上がってはスズカに声をかけると、立ち上がって本を本棚にしまう。
俺も本棚へとしまうと、ちゃぶ台を部屋の隅に寄せて押し入れから俺が使っている1人用の布団を敷く。
それからオイルヒーターの電源を切り、部屋の灯りをオレンジ色の小さなものへと切り替える。
暗くなった部屋に敷いた布団。目の前にはスズカという美少女がいる。
どうにも落ち着かない心を抑え、先に布団に入るとスズカにも入るように言う。
スズカは戸惑うことなく布団へ入り、横になる。
お互いに天井を見て、会話もなく息遣いが聞こえるだけ。
おやすみぐらい声をかければよかったと思うが、今から言うにはタイミングが難しい。でも言わないと落ち着かない。
どうしたものかと悩んでいると、スズカが声をかけてきた。
「アキくん」
「どうした?」
「ありがとう。今まで私を支えてきてくれて。あなたがいたから、私は頑張れた。レースにも勝てた。不安になった時にはアキくんのことを頭に思い浮かべて、やってこれたの」
「なに。兄として当然だ」
「私のことは妹なの?」
寝返りの音が聞こえ、すぐ耳元に息がかかる。振り向くとすぐ目の前にスズカの顔があり、薄暗い今の状態でも少し寂しそうな表情が見えた。
「今はそれでいい。私を大事にしてくれるアキくんは私のお兄ちゃんで」
スズカは柔らかく微笑むと、素早く俺に顔を近づけたかと思うと頬に暖かく、柔らかな唇の一瞬だけの感触。
「おやすみなさい」
キスの意味について考える時間もなく、スズカはそう言って俺に背を向けた。
その背中を見ながら、仲良くなれたんだと嬉しく思う。それは友達以上で兄と妹のような関係で、家族が新しくできたような。
信頼ができ、いとおしい俺のスズカ。
今ある愛情はこれから恋愛としての意味に変わるかもしれないが、今は親愛という愛情でいっぱいだ。
「おやすみ」
自然と俺の手はスズカの頭へと伸び、スズカはビクリと体を震わせたあとに俺の手へと押し付けてくる頭を何度か優しく撫でたあと俺も寝ることにする。
布団に入った時とは違い、今は穏やかな気分だ。
スズカとの親しく、心休まる関係がこれからも続いていって欲しい。お互いに甘え、甘えられることのできる存在として。
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4話
サイレンススズカがゲートを潜った!
そんな悲鳴めいた声が聞こえたのは3月2日の曇った日の午後、G2である報知杯弥生賞の時だ。
ゲートを潜った瞬間の声が周囲から聞こえた時の俺は、レース場のちょっとだけ高い場所にある観客席から柵を越えて落ちてしまっていた。
落ちるまでにいたった理由は、ゲートに収まったサイレンススズカをよく見ようとして身を乗り出し、柵を掴んでいた手がすべったからだ。
そんなかっこ悪い理由だったが、妹みたいなスズカの様子が心配になって慌てて立ち上がると100mほどの距離がありながらも彼女と目がばっちりとあう。
目があったスズカは、俺が無事そうな姿を見ると安心したふうに大きいため息をついたあと、係員に誘導されてゲートの裏側へと歩いていった。
元の場所へと戻った俺は、スズカに怪我がないか身体検査が終わって始まったレースを申し訳ない気持ちで見る。
全14人のレースにて5枠8番で出走するはずだったのに、問題を起こしたせいで大外枠である14番のひとつ隣から出走することになった。
レースが始まった時、精神が乱れていたのか前回のデビュー戦とは違って気持ちよいスタートではなかった。
ゲートが開いても出るタイミングが悪く、大きな出遅れで最後方から始まり、その後は後ろから2番目の位置で走る。
その後、外から追い込んで8着になった。
それは俺がいなければ違った結果、1着とかになれたんじゃないかと思う。
だから、レースを終えたあとのスズカが俺のほうへと優しい笑顔を向けてきたのが辛い。
逃げるようにしてレース場から家へと帰る途中、スマホにスズカから連絡が来たものの、その全部を無視した。
今日という日のために練習していたというのに、俺が結果を悪くしてしまった自身の罪悪感に立ち向かえなかったから。
もし話をしたら、今の兄と妹のような関係が壊れるんじゃないかと思って。
◇
そう思った翌日の月曜日。学校の授業が終わったあとの午後3時過ぎ。
気分が悪かったものの休まずに高校へ行ったが、テンション低いままに授業を終えてアパートに帰ってくる。
防寒着のコートは脱ぐも、制服である黒の学ランから私服へ着替える気力もなくて自宅のアパートの玄関で仰向けに倒れる。
天井を見上げながら考えるのは、レースの時にスズカを不安にさせたことだ。そのことで後悔と申し訳ない気持ちでいっぱいになっている。
昨日と同じ曇り空だったから、学校にいるときは空を見るたびに思い出してしまっていた。
ぼぅっとした時間を過ごしているとスマホにスズカからの着信がある。
スマホを手に取って画面に映る名前を見ながら着信が切れるまで待ち、切れた瞬間に安堵のため息をつく。
でも逃げてばかりじゃいられない。今すぐにでもスズカに電話をして謝らないといけない。
そして、これからも仲良くしていきたいと。
そう思っている俺は、首だけを動かしてスズカの色が濃くなった部屋の中を見る。
スズカと出会うまでは俺だけの物しかなかったが、出会ってからは時々泊まるということもあってスズカの私物がちょこちょこと増えていった。
お気に入りのこんぶ茶や歯ブラシやマグカップ、尻尾用のブラシに手入れ用の油などが置いてある。
スズカと一緒にいるときは気分が落ち着いていい。少しアホの子だけど、気を遣わなくてもいいから。かわいいスズカを見ているだけで癒される。
それにスズカが学校やトレーニング関係で落ち込んでいる時に励ますと、俺にもできることがあるんだという充実感がある。
ただぼんやりと生きているだけじゃなく、スズカがいるからこそ学校や料理の勉強にやる気が出て、日々の生活を頑張れる。
その結果はスズカを養っている気分になるんだけど。スズカにご飯を作り、勉強を教えてあげるというのは。
妹がいれば、こういう感じなんだろうなぁ……。
そんなことをぼんやり考えていると、俺の部屋にチャイムの音が響き渡った。
スズカが来たのかと思って勢いよく起きあがり、ドアののぞき窓を見る。
そこには緑色の耳カバーやカチューシャをつけた制服姿で、茶色のダッフルコートを着ているスズカがいた。
さっきまではスズカと電話するのにも悩んでいたが、こうやって目の前に来ているスズカを寒い外へと置いていくわけにはいかない。
俺は急いでドアを開ける。それと同時にドアノブを握る手に衝撃と何かがぶつかった大きな音が聞こえてくる。
ぶつかってからゆっくりドアを開け切ると、スズカがちょっとだけ涙目でおでこを両手で押さえていたからドアにぶつかってしまったんだなと理解してしまった。
「なんでドアのすぐ前にいるんだ」
「アキくんは部屋にいるかなって、のぞき窓から見ようとして……」
「外から見えないだろ、これは。チャイム鳴らしてから10秒も経ってないし、少しは待てないのか」
「だってアキくんに早く会いたかったんだもの」
あきれた声で言うと、小さな声で言い訳してきたスズカ。
スズカからの電話を無視していたというのに、文句を言うわけでもなく俺に会いたいというスズカがかわいらしい。
こんな姿を見せられると、何も言わずに無視していた俺が小さな男に見える。自分勝手な理由で拒否していただなんて。
「寒いから早く入ってくれ。帰ってきたばかりだから、ヒーターのスイッチはまだ押してないが」
「じゃあ体を温めないといけないから、私がふたりぶんのこんぶ茶を淹れてあげる」
そう言ってスズカは靴を脱いで部屋へと上がり、まるで自分の家のように棚からこんぶ茶の袋を見つけると、流れる動作でヤカンを掴むんでは水を入れて沸かし始めた。
週に2日ほど家に来ているのが5か月も続いているから、時々自分よりも家に詳しいことに驚くことがある。
いつかスズカの別荘のようにされそうだなと苦笑し、靴を脱いでスズカが脱いだように綺麗にそろえるとスズカの横を通り過ぎてオイルヒーターのスイッチを付けに行く。
後は脱いだ服や読んだ本が散らばっているのを片付け、ついでに丸いちゃぶ台を布巾で水拭きをした。そうしてから用意するのは座布団だ。
スズカ用に買った濃い緑色のと俺用の落ち着いた赤色のふたつだ。
それらをちゃぶ台越しに向かい合わせるように置くと、お茶が来るまで座って待つ。
その間、ぼんやりとしながら見るのは壁から麻紐で下げてあるスズカの蹄鉄だ。はじめは棚にしまっておこうと思ったが、ずっと見ていたくて飾るようになった。
もちろん錆びないように時々手入れをしている。
スズカの初勝利記念としてもらった蹄鉄をぼんやり眺めていると、スズカがマグカップ2つを持ってやってきた。
俺はこんぶ茶が入ったマグカップを受け取るとスズカは自身の座布団へと正座で座り、俺はあぐらをかいて座る。
座ったスズカはコート脱いで隣に置くと俺が見ていた方向を見た。
それが自身の蹄鉄だったのが嬉しかったらしく、小さく笑みを俺へと向けてくれる。
それだけで喜んでくれるのがかわいく、でもなんだか恥ずかしくなる。
オイルヒーターでまだ暖かくならない部屋で、スズカの視線から逃れるように熱いこんぶ茶を飲むと体の中から温かくなり、気分がよくなった。
お互いに言葉もなく、でもそれが嫌にならない静かな時間。こんな時間を続けていたいが、俺には言うことがある。
こんぶ茶を飲み終える頃には俺の覚悟は決まり、昨日やってしまったことを謝るのとスズカに罵倒されてもいいような心構えの準備ができた。
「スズカ、昨日のことなんだが」
「うん、とても心配したのよ。慌ててゲートから出てしまうほどに。
昨日、今日とアキくんは電話にでないから骨折でもしたのかなと思ったんだけど、今の様子を見ると大丈夫そうでよかった」
そう言ってスズカは俺を責めるのではなく、落ちてしまったことを心配してくれた。
安心したように笑顔を向けてくれるスズカに対し、俺は深呼吸をして気合を入れる。
「昨日は悪かった! ターフの上にいるスズカを見て興奮したあまりに身を乗り出して落ちたんだ。それが原因でスズカの精神に悪い影響を与えたんだって思うと、スズカからの電話を受ける気にはなれなくて……」
「私が負けたのは私が悪かっただけ。私の心が弱かったの。それが早いうちに気づけたから悪いことじゃないと思う」
「それは俺に心配かけないようにと言っているんじゃないんだよな?」
「私は走ることに関して嘘なんて言わない。アキくんは悪くない。
……だから、レース場に来れる時はまた見に来てね?」
不安な表情でそう言葉をかけられた俺は、ひどく大きい安心のため息をついた。
よかった。
スズカに嫌われていなくて本当によかった。
「もう見に来ないでと言われる覚悟があったんだが」
「そんなこと言わない。私のほうこそ動揺してみっともない走りを見せたから、嫌われたかと思ってた。……電話に出てくれなかったから、ずっと不安だったのよ?」
不満そうに頬をふくらませ、両手でちゃぶ台をぺしぺしと軽く3度叩いて怒っていますアピールをするスズカ。
お互いがお互いに嫌われていると考え、気持ちのすれ違いが怒っていた。でも俺とスズカのどちらもそんなことは思っていなく、むしろ心配をしていた。
「できるだけ見に行くよ。行けない時はスマホで見ることになるけど」
「それでいいわ。画面越しでもアキくんが見てくれているのがわかれば、私はたくさん頑張れるから」
「見ているだけで?」
「うん。アキくんがいたから今の私はいる。だからこそ、私の走る姿を見て欲しくて」
少し恥ずかしげに言うスズカがかわいくて、頭を撫でてしまいたい欲にかられて立ち上がるも、それよりも早くスズカが立ち上がる。
急にどうしたと思っていると、何も言わずに玄関へと行き、玄関のすぐ外に置いていたらしい段ボール箱を取ってきた。
両手で抱えるほど大きく、たくさん物が入っていそうな段ボール箱をスズカは嬉しそうに目の前の床へと置く。
その時、大きな音と共に置かれた段ボール箱によってフローリングの床がきしんだ音が聞こえた気がした。
「これは?」
「いつものおみやげ。トレセン学園や商店街で買ってきた野菜とお惣菜が入っているわ」
スズカはこうして俺の家に来る時、野菜を持ってくることがある。でもそれはビニール一袋分と言った少量だったが、重い音からしてこれほど多いのは初めてだ。
それにしても段ボールか。バッグに入れてくるとかの見た目に気をつけないのがスズカらしいというか気はするが。
女子力が足りないんじゃないかと思ったが、トレセン学園では物を運ぶのに段ボールのほうが一般的かもしれない。
音の重さに驚いているとスズカが自信ある笑みを浮かべ、褒めてというように表情や尻尾がそわそわとしているが俺はそれを無視すると、しゃがみ込んで段ボールを開ける。
俺に無視されたスズカの尻尾が顔や首筋に強く当たってくるのを耐えつつ中を見ると、鮮度がよい野菜とコロッケやとんかつなどの総菜が入っている。
「普段持ってくるのは野菜だけなのに、惣菜があるなんて……」
「驚いた? 野菜だけ買ってアキくんに料理してもらっていたけど、時々はこういうのを買ってもいいかと思って」
「ああ、驚いた。総菜といってもたい焼きやたこ焼きといった、おやつの詰め合わせかと思った」
段ボールのフタを閉め、感心した俺はスズカを褒めようと見上げたが、スズカは俺に目を合わせず、耳はばらばらと左右に動いて落ち着きがない。
この様子を見ると、どうやらおやつを買おうとしたらしいが、何かがあって総菜へと変化したみたいだ。
立ち上がって俺はスズカの頬を両手で押さえると、目を合わせるように顔の向きを向ける。
「最初はおやつを買おうとしていたんだな?」
「えっと、そう思っただけで買ってはいないわ」
「こうなった経緯は?」
「……商店街をうろうろしていたら心配されたのか、赤い耳カバーをつけたツインテールなウマ娘の子に買い物を助けてもらったの。なんでもここは地元だから任せてって言われて」
「次に会うことがあったら感謝しておかないとな」
これですっきりした。
どこかずれているスズカが最初から総菜なんかを買うわけがないから、理由がわかると安心する。
持ってくるおみやげも変わったものが入っている時がある。同じ野菜でもおかわかめ、アイスプラントといった一見してどう料理していいかわからないものが。
いつものスズカらしく安心した俺は頬から手を離して段ボール箱を持ち上げようとするが、結構重く、少しだけ気合を入れて冷蔵庫の横へと持っていった。
置いて戻ってきた俺は立っているスズカの前まで戻ってきたが、これからどうしようかと悩む。
ご飯を作るのにはまだ早く、テレビを見る気分でもない。だからといって寒い外へ用事もなく出かけたくもない。
「何かしたいことがあるか?」
「うーん……アキくんと話がしたい。普段のこととか」
「スズカがそれでいいなら」
話なんてのは普段からしているし、この時間なら遊びに行くこともできるから変なことを言うなぁと思いつつ部屋の壁に背を預けて座り、足を伸ばす。
そうするとスズカがやってきて俺の前へしゃがみこむと、俺の両足を掴んで横へと広げてくる。
何をするのかと思い、黙って見守っていると広げた足の隙間へと体を入れてきた。
俺の胸元へと背を預けて座る体勢。それはいわゆるスズカ専用座椅子のようなものになった。
こういう態勢をされると、スズカの女の子らしい体のやわらかさを…………感じない?
別にスズカに胸がないからというわけじゃない。それに胸は前にあるから関係ないし。体のやわらかさを感じないのは、レースに出るウマ娘だからこそ鍛えられた筋肉の体だからだと思う。
それでも男とは違って髪からはいい匂いがするし、間近で見るスズカの肌は綺麗だ。
真後ろから見ている今、安心した息をつくスズカの耳は横向きに倒れ、リラックスしているのがわかる。
俺の口元近くに耳があるのを見ると、やわらかそうな耳を口に入れたくなってくる。
そんな気持ちを理性でもって全力で抑えつける。さすがに耳を舐めるとかそんなのは変態じみた行為だ。
「アキくん、今の気分はどう?」
「え、あぁ、今か? 今は……スズカの肌はこんなに綺麗だっけとは思う」
スズカの動く耳に心を奪われていたが、そんなことは言わずに気になっていたことを聞く。
出会った頃は幼い印象だったけど、こうして後ろからとはいえ近くで見ると綺麗だなと思うから。
それでも不思議と心がときめかないのは女性として認識できていないかなと思う。
普通、こういうふうにくっつけば思春期の男子高校生としては興奮するはずだけど、まったくそんなことはない。
恋愛感情がないということもあるけど、まぁスズカは妹みたいなものだからか。
単に俺の好みが金髪巨乳の女の子ということもあるが。現実でそんな子は滅多にいるものじゃないから、理想という夢でしかない存在になっている。
「アキくんに綺麗と思われていたいから、スキンケアについて勉強したの」
「スズカが美人なのは見ていて気分がいいから、俺としては嬉しいけど」
「それならよかった」
俺へと振り向き、嬉しそうな笑顔を浮かべるスズカ。
その表情を見たら心の奥底から湧き上がってくる、謎の感情に整理をつけるために両手でスズカの頭をわしゃわしゃと撫でつけてしまう。
しばらくされるがままでいたスズカは俺が満足して手を離すと、手櫛で髪を整えた。
「ふふっ、まるで恋人みたいなじゃれあいね」
「兄と妹だろ、これは。他の人が見ても俺と同じことを言う」
「そうかしら?」
髪を直したスズカは体を俺へと向け、至近距離で見つめてくる。
上目遣いでまっすぐに俺を見てくる表情は何かを決意したかのような。
「私とアキくんはとても仲がいい関係よね」
「そうだな。でも、レースを邪魔した罪悪感がまだあって、ちょっとだけ距離を取ろうとも考えているんだ」
「そんなの私は気にしてないわ。だから距離を取らないで」
強めに言ってきたスズカは俺の背中へと腕を回し、壊れ物でもさわるかのようにそっと抱き着いてくる。
さっきの背中とは違い、胸がとても控えめなスズカのでも体に当たっているとわかるとドキドキしてくる。
緊張した俺がスズカの動きに反応することができないでいると、スズカは俺の耳元でささやいてきた。
「もうアキくんがいないと、生きていくのが苦しい体になっちゃったの」
抱き着き行為と意味深な言葉に深い理由を想像しそうでいると、さっと俺から体を少し放してはにんまりと笑みを浮かべていた。
「アキくんのご飯を食べないと心の疲れを癒せなくて。あと私の遊び場所もなくなると困るから」
「深い意味がありそうで驚いたぞ、この天然ウマ娘!」
スズカの肩を掴み、ガクガクと揺らしては大声でそういうことを強く言う。
一瞬だけエッチな意味かと思ったじゃないか。知らないうちにスズカの体になんかやってしまったかと驚いた!
「アキくんを驚かせることができて嬉しい」
俺だけドキドキして緊張したというのに、すっきりした表情をするスズカに腹が立って脇腹を全力でくすぐることにした。
スズカを笑わせ始めるが、同じようにスズカも俺にしはじめ、お互いに向き合って相手をくすぐりあうというワケのわからない状況が発生する。
それが5分ほど続いて息が荒くなるほど笑い、じゃれあったあとはふたりとも壁に寄り掛かって息を整えていく
「私にとってアキくんは大事な存在なの」
肩がふれあうほど近くにいるスズカは突然そんなことを嬉しそうにそう言った。
「そこまでか」
「うん。走るためにトレーナーやトレセン学園はあるけど、それとは別に私にはアキくんが必要よ」
「ご飯係で?」
「違うわ。私が変なことをすれば怒ってくれるし、甘えたいときは甘やかしてくれる。まるで少女漫画に出てくるシスコンのおにいちゃんみたいな」
「誰がシスコンだ!」
とても心外なことを言われたので、スズカのおでこへとデコピンを2度、3度と強く力を入れてぶちかました。
痛いことをされているのに、されるたびに楽しそうにしている。
まさかスズカはいじめられて嬉しいのかということが頭にちらつくも、その考えはしまっておくことにする。変な属性がついたと認識してしまうと、俺の苦労が増えるから。
「学校で嫌なことをされるのか?」
「私はアキくんと会うまでは人にそれほど興味がなかったから、怖がられていて」
「お前が怖がられる?」
この天然ウマ娘のどこが怖いのだろうか。
1人で歩かせるようなものなら、自分から電柱に突っ込んでいきそうなイメージがあるというのに。
「お昼ご飯に誘われても仲良くしようとしなかったし、威圧して追い返していたの」
「今でもか?」
「ううん。同期の子やチームの先輩とは仲良くできていると思う。タイキやフクキタル、フジキセキ先輩たちとも話をよくするようになったと思う」
スズカから始めて聞く、他のウマ娘の名前。今日になるまでチームのウマ娘の名前なんて聞くことがなかった。
厳しい女トレーナーの話はちょこちょこ出ることはあったが。
「アキくんが私に優しくしてくれたから、私もまわりの人に優しくしようと思って。アキくんは私にとって大切な存在だけど、アキくんは私のことをどう思っている?」
「スズカの助けになれているから嬉しいよ。スズカが家に来るたびにご飯は何を作ろうかと思うし、たくさん食べる姿を見るのは好きだ。リスみたいな小動物みたいで癒される」
「それならよかっ―――……小動物? 私が?」
ムスッとした顔をしたスズカが、隣から俺の伸ばした足の上へと乗ってきてにらんでくる。
普段はぼけーっとしているのに、今だけはレースみたいに厳しい顔になっていた。
小動物と言われるのに何か嫌な思い出があったみたいらしく、何か他の言葉に言いなおそうとするが何も思いつかずににらまれ続ける。
「アキくん」
「あぁ、なんだ?」
「私は猫みたいに愛らしい動物だと思うの」
「……なんだって?」
「だから本物の猫を相手しているみたいに頭を撫でるとか、褒めると喜ぶのにゃ」
「何を言っているんだウマ娘」
本人がウマ娘な女の子なのに、さらに動物要素を付け足すとは。
意外とかわいい、いや、変なことを言うスズカのほっぺたをぐにぐにと両手でもんでいると、こんなことをされているのに嬉しそうにしている。
うん、これなら犬っぽい。実際の犬もこうやってぐにぐにされても抵抗しないし。
そうやってほっぺたの感触を楽しんでいたが、1分ぐらいさわったら満足したスズカを開放する。
顔をさわれていたからか、スズカはなんだか赤くなっていて恥ずかしそうになっている。そのことを笑うと、俺の顔へと頭を近づけては耳でぺしぺしと俺の顔を叩いてくる。
それはくすぐったく、かわいらしい。
少ししてから俺の顔から頭を離し、けれど俺の足の上に乗っかっているスズカは真面目な表情をして言う。
「私をもてあそんだアキくんには罰を与えます」
「もてあそんだうちに入るのか、これは」
「私の寮まで迎えに来て、一緒に登校すること。アキくんは自転車通学だから、少し家を早く出るだけで間に合うはず」
トレセン学園の場所はわかるものの、寮となると詳しくはわからない。まぁ、寮なんだから学園に近くはあるんだろうけど。
行けなくはないだろうけど、でも俺の家を出てから寮を経由してとなれば結構な時間が経つ。
「寮の詳しい場所は?」
「あとで住所と待ち合わせする寮の場所を写真で送るわ。そうしないとアキくんが迷子になるから」
「別に待ち合わせ場所を間違えても、知らないウマ娘と仲良くなって一緒に登校するよ」
「そんなことをされたら、私は悲しさのあまりに隣の山まで走りに行くわ」
「なんで自主朝練をしようと考えるんだ、お前は」
「私はアキくんと一緒に登校したいの。ほとんど夕方にしか会わないから、起きてすぐに会いたくて。だから、そんないじわるなこと言わないで」
「わかった。言わない。でも、本当にあまえんぼうだなぁ、スズカは」
そう言った途端、恥ずかしげに俺の胸をぽすぽすと両方の手で軽く叩いてくるスズカ。
恥ずかしそうにする表情がかわいく、ずっと見ていたいなぁと思うも段々と力が強くなってきて痛いので長くは見れない。
両手を抑えようとするもスズカの力は強くてうまく抑えられず、バランスを崩して倒れてしまう。
そしてスズカは俺のすぐ横へと片手をつないだまま倒れていく。
その時に手をほどこうとするも、スズカは改めて手をつなぎなおしてはぎゅっと力を軽く入れて握ってくる。
それで手をほどくのをあきらめると、スズカはそれを見て嬉しそうだ。
「スズカはどじっ子だから、ずっと見ていないと危なっかしくて心配だ」
「だったらずっと私を見ていて。危なくないように」
「再会した時からずっと気にしている。料理を上手になろうと思ったのはスズカのためだし、半分ぐらいはスズカのために生きているかもな」
我ながら恥ずかしいことを言ったかと思っているとスズカは俺から離れて床を転がり、自身の顔を手で押さえながらバタバタと足が雑に動いている。
それが一通り終わると、顔を隠している指の隙間から俺のことをじっと見つめてくる。
「おにいちゃんのひとたらし。女泣かせ。おたんこにんじん」
「その雑な罵倒はなんだ。あと最後は初めて聞いたぞ」
スズカのいじけた姿を見て苦笑する。
友達や友人よりも仲がよく、恋人まではいかない。それは兄と妹のようなもので、出会った時から続く関係はとても居心地がいい。
だから俺たちはこれからも続けていくだろう。
時々スズカは兄と妹以上の関係を求めてくるけど、それはたぶん兄を慕うようなもので恋愛感情とは違うものだとは思う。
理由はないけど、それは友情だと思うから。
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閑話 クリスマス
2話と3話の間の出来事。
冷たい雨が降っていた日にサイレンススズカというウマ娘の女の子と出会って3ヶ月。
親から離れたいというだけで1人暮らしをし、大きな目的もなく生きてきた俺に人生の鮮やかさを増やしてくれた彼女。
見た目はクールで落ち着いた子の彼女だが、実際は天然すぎる子だった。
友達になってから月日はそれほど経ってはいないが、気楽にいられるからか妹と言いたくなるほどに馴染んできている。
12月24日の今日だってそうだ。美人な女の子であるスズカから、チームでやるパーティ後に来るとメールに書かれても胸はときめかない。
別に女性に慣れたということではない。テレビで美人な女優やウマ娘を見ればいいなと思う事はある。
ただ、スズカは別だ。出会い方が変わっていたから、手のかかる妹という印象が強い。
スズカと会うことは、もう日常の一部となっている。
今だってスズカが来ることを待ち、パジャマに着替えることもしないで待っている。
今日までスズカにあげるプレゼントが決まらず、今日になって決まって昼の間にプレゼントを買いに行ったときと同じ、灰色の細身であるズボンと黒のフリースを来たままだ。
その状態で面白さを感じないテレビ番組をぼぅっと見ていると、午後9時を少し過ぎた頃にメールが来た。
メールの内容は『私、スズカ。アキくんの後ろにいるの』というホラーなものだ。それを見ると、怖くなって勢いよく後ろを見てしまうのは仕方がないと思う。
そして、俺が後ろに何もいないことを確認して安心した瞬間にチャイムを鳴らしてくるのはやってはいけない。
すげぇ心臓に悪いから。あと、出てこないからと続けてチャイムを押すのはうるさい。
ホラーな恐怖で心臓がバクバクとなっているのを深呼吸して抑え、立ち上がっては玄関へ行く。
ドアののぞき窓から見えるのは、制服の上に深緑のジャンバーを羽織っているスズカだ。
スズカが来たことに嬉しさを覚えると同時に、脅かしてくれたことに少し腹が立つ。
でもプレゼントを渡すことは忘れていなく、いったん部屋に戻ると包まれたプレゼントをフリースのポケットに入れてからスズカに何かしてやろうと思いながらドアを開けた。
「アキくん、メリークリスマス」
外からの寒い空気が入ってくると同時に、俺の顔を見て笑顔になったスズカに対して俺はスズカのおでこを軽くデコピンした。
それも1回ではない。連続して3回だ。
デコピンを受けたスズカはおでこを両手で押さえながら後ろへと下がる。
「痛いよ、アキくん……」
「お前な、クリスマスの日になんであんなメールを送ってくるんだ」
「待たせちゃったから、楽しんでもらおうと思って」
「すごく驚いたんだが」
「ほんと? アキくんの驚いた顔が見たいから、今度は一緒にいるときにやろうかな」
スズカを家の中へと入れ、ドアを閉めながら楽しそうに言うスズカの頭に俺は手をやると、両手で髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜていく。ただし、繊細な耳にはさわらないようにして後頭部側の髪だけを。
俺にひどいこと宣言をする奴の髪なんて乱れてしまうがいい!!
そうしてスズカは俺にいじめられているというのに、なんだか嬉しそうだ。ぼさぼさの髪になっていくのを見るとやりすぎたかとちょっとだけ反省し、手でスズカの髪を整えていく。
整えていく中で、スズカに返事をしていないことを思い出す。
「メリークリスマス、スズカ」
と、俺は普段の挨拶をするようになんでもなく言うとスズカはジャンバーのポケットか青の水玉模様をした紙袋を俺へ渡してくる。
手の平より大きい袋は少し重さがあり、紙袋の中の感触はやわらかさと固さがあった。
「プレゼントはアキくんに似合いそうな手袋と、あと私の手作りクッキーが入っているの」
「ありがとな。しかし、料理ができないスズカが作ったとは……」
食べるのが専門と言っていたのに、お菓子を作っただなんて。
俺が料理を作るのを手伝おうとして電子レンジは爆発し、切った野菜は大きさも厚さもばらばらで調味料の淹れ間違いが多くて結局は見るだけになったスズカが!!
成長したことに感動して震えているとスズカは耳を左右ばらばらに動かしながら、すまなそうな顔になる。
「チームの人に教えてもらいながら作ったんだけど、上手にはできなくて……」
「作ってくれたということが嬉しいよ。ほら、お返しのプレゼントだ」
俺はスズカから受け取ったプレゼントを部屋の中に置くと、プレゼントのお返しにポケットから手のひらサイズの大きさの物を出す。
高校生が買えるくらいの値段だが、時間をかけて選んだ尻尾を手入れするラベンダーの香り付きオイルだ。
包装されたそれをスズカに手渡すと、スズカの耳と尻尾はぐんと上へ上がったので喜んでくれたらしい。
スズカは何も言わずにきらきらとした目で持っているプレゼントを見つめると、両手で持ったプレゼントを小さな胸の中で抱きしめた。
「ありがとう、アキくん!」
「それだけ喜んでくれたのなら悩んだ甲斐があった。中身を見てがっかりしないのなら、もっと嬉しいが」
「がっかりなんてしない。だってアキくんが私のために悩んで選んでくれたものだもの」
にっこりと素敵な笑顔を見せるスズカに、そんなにもまっすぐに好意をぶつけられると恥ずかしい。
今になって送ったプレゼントの中身が心配になる。友達のウマ娘に、尻尾の手入れをするのは重すぎなんじゃないかと。
食べ物のほうがよかったとも思うがもう遅い。今までと関係が変わらないのをウマ娘の神様に祈っておこう。
「来てすぐだけど、もう帰らないと。今日は外泊届けを出していないし、パーティの途中で勝手に抜け出しているから」
「それなら途中まで送っていくよ」
喜ぶスズカに背を向けると部屋の中に置いてあるボアジャケットを着て、スズカのイメージカラーでもある緑色のマフラーを首に巻き、スズカと一緒に家から出る。
家の鍵を閉めたあとは夜道を歩いていく。空は雲が薄く、半分の月がある夜。
外に出た途端、雪が降っていないのに身震いがするほどの寒さだ。
住宅街の夜は歩いている人はとても少なく、道沿いのアパートやマンションからはカーテンの隙間から見える明かりと楽しそうな喋り声が聞こえる。
友達とのパーティや家族と過ごす穏やかな時間。
どちらも俺にはないものだが、今日という日にスズカと会えたことで寂しさは少なくなってきた。
横に並んで歩き、冬風に栗色の綺麗な髪がなびく美しい姿のスズカといれるのは嬉しい。
「ねぇ、アキくん」
「どうした。腹が減ったのか」
「私に送り狼をするの?」
ただ純粋に聞いてきたスズカ。その言葉にからかいや恐れ、心配と言った感情は感じられない。
だが、しかし。なんで俺がそれをすると思ったのか。俺の家でシャワーを入っていたときに襲うこともなく、写真を撮って脅迫もしない。
いたって善良で無害な男だというのに。
そう言われると、信頼が足りていないのかと落ち込む。
「そんなことはしない。意味をわかって言っているのか、お前は」
「一般的な男の人は、女の子に優しくして帰り道に乱暴をするって私のトレーナーさんが言っていたから」
「お前は美人だからそう思う奴もいるだろう。けどな、筋力が高くて強いウマ娘には手を出さないと思うが」
「……アキくんは美人の私に手を出さないの?」
さっきと違い、からかうような笑みを浮かべるスズカを見るとかわいくは思う。
そうは思うが、スズカのトレーナーは男に対する正しい距離感を教えたほうがいい。
スズカが所属するチームリギルは女性トレーナーだとは聞くが、その人は1度惚れた男に対して表面的には愛情を隠しているが深い愛情を持っているんじゃないかと感じてしまう。
その人の人生経験の影響を受けて、今のスズカは俺を無意識で誘っているんじゃないかと思ってしまう。
まったく、スズカのことを妹にしか思えない俺でよかったな!!
俺が恋人を作るとしたら、明るくて胸が大きくて男友達のような気楽に接することができる女性にしよう。170㎝を越える高身長でスズカのような栗色の髪だとさらにいい。
理想の恋人を考えてスズカの言葉をわざと無視していると、スズカは尻尾で俺をバシバシと力を強くいれて叩いてきた。
無視が一番だ。どう返事をしてもスズカがからかってくる。
無視する俺をからかえなかったからか、スズカは不機嫌な顔をして尻尾で叩いてくる。
意外と尻尾は痛く、何度か叩かれたてから止めるために尻尾を押さえようとしたが、手がすべって尻尾の付け根をさわってしまう。
「ぅひゃぅっ」
触った瞬間、文字にできないような難しい言葉を出し、体を震わせたスズカは即座にポカポカと俺を両手で叩きまくってくる。
「ごめ、ごめんって! わざとじゃないんだ!」
「アキくんのえっち、すけべ、変態!」
ウマ娘の尻尾の付け根、そこはくすぐったく敏感な部分であると聞いた。
わざとじゃないとはいえ、俺の罪悪感が物凄い。
俺を叩いてきたスズカは2分ぐらいの時間をかけて落ち着きを取り戻した。
「初めて仲良くなった男の子がアキくんでよかった」
「なんだ、急に。褒めてもコンビニスイーツしか買ってあげられないぞ」
「それじゃあ今度ロールケーキを買ってもらおうかな。……うん、やっぱりアキくんが1番ね。男の人は下心があって危ないって聞くし、アキくんは私が迷惑をかけても許してくれるから」
「お前な、迷惑をかけている自覚があったら改善しろ」
「でもそんな私が気に入っているでしょう?」
「……まぁ、そう言えなくもない。高校にいる女子たちと違ってスズカと一緒にいるのは気楽で楽しい」
人間関係が面倒というのではなく、スズカみたいに目標へ向かって頑張る子は素敵に見える。
その中でもスズカの走りたいという願いは強く純粋で、俺はそれをたくさん応援したい。
とは言っても高校生である俺ができるのはスズカの遊び相手と飯を食べさせることだけだが。
スズカとなんでもない話さえも楽しく、いつの間にか結構な距離を歩いていた。
大きな道の横断歩道で立ち止まると、スズカは俺の前へと回り込んでくる。
「見送りはここまででいいよ。あとは走って帰るから」
「そうか。次に会うときは来年だな」
「うん。実家に帰るからお土産を楽しみに待っててね」
「俺はあのアパートにいるから何もあげられないが」
「ううん、いいの。アキくんが元気なら私はそれだけで――くちゅんっ!」
「おいおい、風邪にならないでくれよ?」
かわいらしいくしゃみをしたスズカに、俺は自分のマフラーを素早く外すとスズカの首へと巻いていく。
自分の首元はすごく寒いが、帰る間に風邪になってしまうと困る。
スズカは俺に巻かれたマフラーの感触を手で確かめ、そのマフラーの位置を調整すると満足そうに笑みを浮かべた。
「また来年ね、アキくん!」
胸元で小さく手を振って、横断歩道を渡っていくスズカ。
俺も手を振り返し、歩いていくスズカの背中を見る。
ある程度距離が離れ、スズカの背中が遠くなってから自宅へと帰る。
今年が終わるまではまだ日はあるが、スズカと会えたのならもう終わった気分だ。
来年の4月で高校3年生になり、大学受験または専門学校、就職かでいまだ悩む俺だが、来年も今年と同じかそれ以上に充実した時間となるだろう。
あのどこかぬけていて、つい構いたくなるウマ娘のスズカと一緒に過ごす生活は。
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5話
春休み最後の日にスズカの学園内模擬レースがあった4月5日、日曜日の夜。
夕食を食べ終わった頃、4年前に両親が離婚した後、初めて母親から俺へと電話があった。
その内容は新しい旦那を見つけて再婚したというもの。
離婚して2年と少しで再婚は早いかどうかはわからないが、母親に対して何も思うことがなくなっている俺は感情のこもっていない声でおめでとうと祝福を告げた。
俺の親権を持つのは父親であり、父親は月1回で連絡をしてくるが、この母親は俺のことなんてどうでもよくて今まで連絡をしてこなかった。
そんな繋がっているのは血縁だけな母親である女性からの電話を切ることなく話を聞いたのは、時間があったことと母親に甘えたいという意識があったと思う。
小学校のはじめまでは仲がよかったが、高学年になった頃から両親は共に仕事で長いあいだ家を留守にするようになり、1人で過ごすのも珍しくなくなっていた。
小さい頃に欲しかったものが、ある程度自由に動ける年齢になると欲しくなってくるのかもしれない。
そうして話を聞いていくと、話の最後には母親らしく助言がしたかったのか、恋人を複数持ってうまく使っていけということ。
結婚する時は自分の生活を良くする相手を慎重に選べ。多くの恋人を作ることができてこそ人として優秀、そうしてこそ人としての器が大きいことの証明だと。
俺にはそうは思えない。母親は単に男遊びがしたいだけじゃないだろうか。
思えば、昔から今と似たようなことをよく言っていた。多くの人に愛されてこそ幸せになる最短の手段と。
それらの説教めいたことを電話越しに行って満足した母親は俺の返事を聞かずに、別れの言葉を言って一方的に電話を切った。
こんないい加減な人から俺は生まれ、育てられたのかと落ち込んでしまう。こんな人と俺は違うと思いたい。
……スズカに会いたい。
スズカと会って、ふざけては笑いあう時間をたくさん過ごしたい。
でも明日は月曜であり、電話して会いたいと急に言いづらくもある。それに今日のスズカは強い雨が降った中で模擬レースがあり、そんな中で走って疲れているだろうから。
だから火曜日か水曜日に会おうとメールだけをして寝ることにした。
◇
翌日の月曜日はすかっとした気持ちのいい青空だが、俺は昨日から続く気分の悪さをひきずっていた。
高校の始業式ではクラスメイトたちに心配されたが、睡眠不足だと適当な理由を言っては午前中に学校が終わったあと1人静かな場所に行く。
こういう時は友達と喋りながら遊びに寄るところだが、今日ばかりは売店で飯を買って静かに食べたい気分だった。
校舎の外に出て、人の来ない敷地の隅っこにある建物の背を預けて座る。
何も考えられず気分がよくないままに食事を終えると、売店にいたときにスズカから送られたレース動画をスマホで見ることにした。
スズカの走る姿を見れば、レース内容に関係なく気分が良くなるに違いないから。
そうして動画の再生を始めると、まず最初に写ったのは雨が降っていて薄暗いトレセン学園の芝コースで発走を待つ、体操着姿のスズカだった。
雨とスズカという組み合わせは出会った頃を思い出し、今回はしっかり走れるんだろうかと不安になる。
そんな気持ちで少し高さのある観客席の場所から撮影されている映像を見ていると観客のウマ娘がそれなりにいるのが写る。
普段見ることのないウマ娘の多さに感激していると『芝2000m、天気は雨でバ場は重! 実況はチームリギル所属でスズカとは仲良しのタイキシャトルがお送りしマース!』と顔は見えないものの、元気な声が聞こえてくる。
初めて聞く声だが、スズカと同じチーム所属のウマ娘と聞いてスズカとは正反対な雰囲気だなと感じながら話を聞いていく。スズカと仲良しなら、機会があれば学校でのスズカの話をぜひとも聞きたいものだ。
実況を聴きながら出走するウマ娘12人は次々とゲートに入っていく。スズカは5枠5番だ。
雨で体を濡らしながらゲート内で待機し、枠が開くと同時に遅れることなくスタートした。
『ゲートが開いてスタートデス! おおっと! スズカがポーンと飛び出しマシタ!』
スズカははじめから他のウマ娘たちより早く走り、先頭に立って走って行く。
最初のコーナーあたりから5バ身のリードを取り、逃げる走り方だが差を広げ過ぎないよう抑えている走り方だ。
その時の表情は不満で走りにくそうにし、3コーナーからは3バ身差へと縮んでいく。
4コーナーに入る少し前にはだいぶ差が詰められたものの、最終直線になると抑えていた走りを開放して、ぐんぐんと差は伸びていく。
『さぁ、どんどんどん差が開いていきマース! そしてスズカが楽勝の1着! Yeah!!!! 7バ身差で2着はロングミゲルになりマース!』
落ち着いて実況はしていたが、テンションが上がっているタイキシャトルが最後には叫んでいた。
その声の大きさに持っていたスマホを遠ざけてしまうほどに。
でも声を出したくなるくらいにスズカが勝ったことに俺は嬉しい。出会ったときに雨に濡れていた自殺しそうな感じがスズカとは違い、今のスズカは心も体も強くなっていると実感できた。
けど少し気になった部分がある。レース中、抑えながら走っているのが気持ちよさそうでないことに不安を覚えたが、きっとレース的にはこのほうがいいのだろう。
素人考えでスズカに最もいい走りとはなにかを考えてしまうが、それはスズカやトレーナーの人が考える部分だ。
俺はスズカの1着を喜べばいい。
そう思いながら妹や娘が成長した姿を見る心境でいると、ゴール板を駆け抜けていったスズカが戻ってくると、カメラを構えているタイキシャトルが観客席から走り出してコースに向かって走っていく。
観客席の1番前、コースと観客席を分けるところまで来ると雨に濡れるにも構わずスズカへとカメラを向けている。
『Hey、スズカ! こっちに来て、あなたの大好きなアキくんに何か言うといいデース!』
タイキシャトルはあたりへ響き渡る大声を出すと、スズカは恥ずかしそうに顔をそむけながらもカメラの前へと走り寄ってきた。
カメラの前に立ったスズカは、タイキシャトルに渡されたタオルで顔を拭き、タオルを返すと髪を手で整える。
そうして恥ずかしがりながらもゆっくりと口を開く。
『えっと、今度会ったとき、私を褒めてくれると嬉しいな』
『スズカ、スズカ! 今こそワタシが教えた必殺ポーズを取るといいデス!』
『……本当にやるの?』
『勝った今こそがチャンスデスヨ!』
『…………ぶいっ』
スズカはピースサインをした両手を顔のすぐ横に置くと、ぎこちなく笑みを浮かべる。
そのポーズを2秒ほどしたスズカは照れた様子で顔を押さえながら、カメラに勢いよく背を向けてしゃがみこんだ。
それからタイキシャトルがスズカを褒めて映像は終わる。
見終わった俺はスズカの照れた姿があまりにもかわいくて、足をばたばたとさせて言葉にしきれない感情を発散する。
スズカがレースで走る姿、1着を取ったこと、その後のかわいさ。この3つで暗い気分は空の向こうへと吹っ飛んでいった。
2度動画を追加で再生しているとスズカからメールが来て、今日会いたいと来たから俺も会いたいと返事をすぐにした。
会うことが決まると、昨日の勝利のお祝いをしようと思いつく。
でも俺の料理技術は未熟で、手料理だけでなく売っている総菜を買うことにする。
近所のスーパーは味がいまいちなため、少し遠くなるか味がいい物を置いてある商店街へ行こう。昼である今なら総菜はたくさん並んでいるはずだ。
そう決めてスズカに豪華な夕食を用意するとメールを送ったあとは、どういう料理なら喜んでもらえるか悩むのに楽しい時間となった。
それからは自転車に乗って気分よく商店街へと向かう。
商店街の入り口に自転車を置くと、学生カバンを手に持って主婦や年配の人たちに混ざって総菜を探す。
すぐには買わず、ひととおり見てから夕食メニューを決めようとするも商店街の端まで来ても決まらない。
ひとまず肉を買っていけばいいか? と悩みながら商店街を歩いていると、向こう側からよく見たトレセン学園の制服が目に入る。
そういえばトレセン学園も今日が始業式だった。スズカと待ち合わせして昼飯を一緒にするという手もあったな。
うまい料理を俺が用意して食べてもらうということばかり考え、そこまで頭が回っていなかった。
自分自身の浮かれた思考にあきれながらも、どこかで見たような気がした歩いているウマ娘を見つけて観察をしてしまう。
その子は赤色が強い髪と赤い耳カバーをつけた短いツインテールをした子だ。
今の特徴をどこかで見たか聞いたような気がして立ち止まり、じっと見つめていると俺に気づいた向こうも止まって見つめてくる。
初めて見るのに初めてじゃない。空を見上げ、記憶のすみっこを探すとふと思い出した。
以前、スズカが商店街に来たときに今と同じ外見をしている子に助けられたと。
視線を戻したと同時に、その子は口と目を見開いて俺へと指を差してきた。
指を向けられたことに困惑していると、その子は指を下げると俺の前へと早足で歩いてくる。
薄茶色の目をしているその子はスズカよりもちょっと背が低く、だけど胸なんかのスタイルはスズカより立派だ。
「えーと、つかぬことをお聞きしますが、あなたは"アキくん"という名前だったりしちゃいますかね?」
「偶然にもそんな名前だったりする。そういうツインテールさんはサイレンススズカというウマ娘を知っているか?」
申し訳なさそうな顔をして聞いてきた子に対し、俺はすぐにスズカが商店街の買い物で助けてもらった例のウマ娘だと気づく。
向こうはスズカのことを覚えているかと聞いたら、両手を胸の前で音が鳴るほど勢いよく合わせる。
お互いに話だけは聞いていた相手と実際に会い、既視感が解決した瞬間だ。
このウマ娘は親しみやすい見た目に声があると、以前会ったことがあるような親近感がある。
しかしスズカ。商店街で買い物しただけなのに、なんで俺の名前まで出ているんだ。いったい何の話をしたんだ、あいつは。
もし変な話をしていたなら夕食の時にウマ耳をめちゃくちゃにさわって嫌がらせをしてやろう。
「あのクールでかっこいいスズカ先輩のことだよね」
「クールでかっこいいかはわからないが、うちのスズカによくしてくれてありがとう」
「いえいえ。あのあとスズカ先輩に作ってもらった夕飯はどうだった? 愛しの彼女さんが作った料理なら、どんな味でも最高に違いないよね」
「いや、夕飯は俺が作った。あいつは料理ができないからな」
「……おぉ、彼氏さんの手料理ですか。作ってもらえるスズカ先輩は幸せものだ」
「男の手料理なんてのは雑だけどな。あと、あいつとは恋人関係じゃない。兄と妹のようなものだ」
スズカのことを"クールでかっこいい"と言う人がいるのは意外だ。
あいつは天然で何をするか予測がつきづらいと思うんだが。
スズカのことで悩んでいると、ツインテの子はにんまりとした笑みを浮かべる。
「なんだ、その笑みは」
「いや~、スズカ先輩は手のかかる弟みたいと言っていたけど、アキ君はその逆を言っているのが興味深くてですねぇ。あっ、言い遅れたけどアタシはナイスネイチャっていう名前で、スズカ先輩の後輩で中等部です」
「ナイスネイチャか。俺の名前は―――」
「アキくんでしょ? スズカ先輩が嬉しそうにのろけ話をしてきたから、よぉく覚えていますよー」
俺を暖かい目で見るナイスネイチャの雰囲気は、女子中学生というよりも世話焼きのおばちゃんのような感じがした。
こんな子だからこそ、スズカが商店街の買い物で頼ったのもわかった気がする。
ウマ娘というのは、みんな何かがきらきらと輝き、熱い情熱を持っているものばかりだと思っていたが、この子は親しみやすい。
「それで今日は商店街に何のご用事で? 必要だったらアタシがスズカ先輩の時のようにお世話する?」
「ぜひともしてお世話して欲しい。スズカの夕飯に出す総菜を買うのに悩んでいてな。お礼はお菓子でいいか?」
「任されましたっ。お礼はパン屋にある、いいお値段がするメロンパンね!」
お礼の品を決めてナイスネイチャの協力を得た俺は、商店街を歩きながら店ごとの特徴を聞いていく。
あの店のこだわり、商品ごとの説明に店主や総菜を作っている人の情報。客層や人が混む時間帯。
ただ商店街に来ているだけじゃわからない話を聞き、買い物じゃなく観光をしているような気がしてくる。
たくさんの情報を教えてもらったが、選択肢が多すぎてナイスネイチャに買い物を任せることにした。
予算は2000円で総菜ジャンル指定はなし。
肉も野菜も幅広くと注文をすると、ナイスネイチャは首を少しかしげて悩んだあとに爽やかな笑みを浮かべて「このネイチャさんにまっかせて!」と元気に引き受けてくれた。
そんなナイスネイチャに連れられて店を歩いていき、ナイスネイチャが物を買って俺が持つという流れだ。
コロッケやきんぴらごぼうなどを買い、今はとんかつを買うためにナイスネイチャが店主と楽しく会話をしながら買い物をしている。
そんな光景を後ろから見ていると、母親とはこういうものだろうかと思ってしまう。
俺より年下で中等部の子にそう思ってしまうのは失礼だろうが、実の母親ではこんなのは見たことがなかったから。ドラマでしか知らない。
楽しそうに買い物をし、俺と夕食の献立について話をする。
母親と一緒に暮らしていたときは外食やスーパーで買ってきたものに冷凍食品ばかりだったから、こういう話をするだけで新鮮というか心が温かくなる。
スズカと出会ってからは俺が手料理を作り、それをスズカが食べるというのも嬉しかった。スズカとスーパーで一緒に買い物をしたことはあったものの、それは妹を連れての買い物気分。
母親みたいだと感じる今の状況とは違う。
年下の子に母親っぽさを感じ、つい見つめてしまう。
とんかつを買い終えたナイスネイチャは俺へと振り向くと、どうしたの、と不思議そうな表情になった。
「あー、アタシ、もしかして間違ったものを買いました?」
「そうじゃない。ナイスネイチャが買い物している姿が母親っぽいなと思っていたんだ」
「母親? あー……母親みたいですか、アタシは」
そう言った俺へ買ったとんかつのパックを渡してくるナイスネイチャはすごく落ち込んでしまった。
その異様に落ち込む姿を見て、慌ててしまう。
褒め言葉のつもりで言ったが、あとから考えるとこれは褒めていない。
これだと中身だけ歳をとっているとか、会話や仕草がおばさんくさいと言っているものだと気づいた。
「違う、違うんだ。俺の母親は育児放棄のようなものだったから、家庭的な姿が見れるのはいいなと思ったんだ!」
つい大きな声で言い、ナイスネイチャは目を見開いて驚くが、すぐに安心した様子になってため息をついた。
誤解はとけたと安心するも、周囲の人たちが「いい人を見つけたわね、ネイちゃん」や「うちで買ったとんかつで旦那の胃を握るんだよ!」とからかってくる。
それに文句を言いたくなるが、こういう人たちは若い人をからかい、応援するのが生きがいなものだと思うから下手に何も言わないでおくのが1番だ。
ナイスネイチャはからかってくる人たちに、慌てて違うと苦情を言うも、その様子がかわいらしくて商店街の人たちは笑っている。
しかし、よかった。もしスズカと一緒に来ていたら、俺を冷たい目で見てきて3日間は口をきいてくれなくなるだろう。
夕食の総菜は結構買えたし、後は1人で買いに行くかとナイスネイチャを置いてこっそり行こうとした。
だが、視線を感じて振り向いた10mほど先にいた人物を見ると俺は背筋が凍えた。17年生きてきて、最も恐怖を感じたと思った瞬間だ。
今すぐ背を向けていなくなりたいほどに。それは感情をなくした顔で立ち止まった俺を見つめてくる、制服姿でバッグを持っているスズカに対して。
こんな時間にいるわけがないと否定したい。会うのは夕食のはずだ。
今はまだ12時を過ぎたところ。俺へのお土産で何かを買うにしても早すぎる。
体の色々なところから冷や汗が出て、スズカに目を合わせて硬直する以外何もできない状態でいると、ナイスネイチャも「やばっ……」と少し焦って言ってからスズカがいることに気づいたらしい。
スズカは尻尾を足の間に巻き込んで恐怖しているナイスネイチャに1度視線を向けたあと、俺のすぐ前へとゆっくりと歩いてきた。
商店街は多くの人が買い物をしているが、みんな見えない圧力を感じてスズカを避けている。
耳をぴんと立て、こちらへとまっすぐに向けながら怒った雰囲気を出しているスズカにたくさんの言い訳をしたいところだが、今の状況は浮気に見える。
別にスズカと恋人になっているわけではないものの、悪いことはしてないのに俺が悪いようにしか思えない。
だが、まだ大丈夫だ。耳を後ろへと倒していないから、すごく怒っているわけではない。
「こんなところで会うなんて偶然ね。私、アキくんとあえてすごく嬉しい」
まっすぐに立っている耳の状態から強く怒ってはないと思うものの、俺のすぐ目の前まで歩いてきたスズカは威圧感がある低い声でそう言ってきた。
いつもは感情豊かに言ってくるが、ここまで無機質に思ったのは初めてだ。
無言のプレッシャーで恐怖を感じた俺は深呼吸をしたあと、スズカに隠すこともなく今の状況を言うことにした。
「今日の夕飯のために買い物に来たんだ。そこにいるナイスネイチャは俺が悩んでいるのを助けてくれてな」
「はっ、はい! そうなんですよ! でも買い物は今ので終わりましたので、アタシはもう行きますね……?」
「アキくんを手伝ってくれてありがとう、ネイチャ」
スズカに感謝の言葉を言われたナイスネイチャは、俺へ申し訳なさそうな顔をすると早足でいなくなった。
もうちょっと買い物をしたかったところだが、これで終わらせていいかもしれない。
スズカだって商店街に来たから買い物をしたかっただろうし。
「あー……、買い物が終わったから俺は帰るぞ」
「アキくんの荷物は私が持つわ」
「でもスズカは買い物に来たんだろう?」
「持っていくおかずを買いに来たんだけど、アキくんがご飯のおかずをたくさん買ったから大丈夫」
俺はスズカがそう言い終えると、自転車が置いてある場所へ向かって商店街の道を歩くとスズカは自然に左横へと並んでくる。
惣菜や野菜で重くなったビニール袋を両手に持っている俺は、何を考えているのか分からないスズカが俺を見てくる視線が辛い。
今日の夕飯を食べて気分を良くして欲しい。そうでなければ、その後はくつろぐどころじゃなくてストレスしか感じないだろう。
もちろん家に帰ってから今日の詳細を言うし、スズカが文句を言うなら素直に聞く。でも今は人目が多い商店街。ここで口喧嘩をしようものなら目立って仕方がない。
それがわかるからこそスズカもおとなしくしている。
「荷物、重いでしょ? 片方を持たせて欲しいの」
「あぁ、頼むよ」
スズカの荷物を持ちたいというアピールに負け、俺が左手に持っているビニール袋をスズカはカバンとバッグと一緒に左手で持つ。
俺の左手とスズカの右手が自由になると、スズカからの視線が止まったのを感じた。
歩きながら横目でスズカの様子を見ると、さっきまでの真顔になっていたのと違って笑みをわずかに浮かべていた。
俺の荷物を持っただけで機嫌がよくなった理由がわからず、でもそれを聞くと怒られる気がして何も聞けないまま会話もなく歩いていく。
そうすると、スズカの右手が俺の左手へと当たってきた。
最初は手の甲がふれるだけだったのに、スズカは俺の指を掴んでスリスリと指を指先や手の甲、手の平へとすりつけてくる。
その感触はくすぐったくも気持ちがいい。さっきは寒気で背筋がゾクゾクと寒かったが、今は小さな快感がある。
怒っていたんじゃないか、と不思議に思ってスズカの顔を見るもまっすぐに前を見ていて、さっきまで浮かべていた笑みはない。
スズカが考えているかがわからない。今までは天然でアホの子をやっているウマ娘と思っていた。
今まで見ていた部分はほんの一部分だけであり、ネイチャといたときのような怖い部分は初めて見た。レース中の真剣な顔とはまた違うものだ。
新しい部分が見えて嬉しく思うも、こういう心臓に悪い姿はあまり見たくないものだ。
俺は左手をスズカに自由にされながら自転車を置いてある場所へと着いた。
「俺はこのまま帰るけど、スズカはどうする?」
「少し早いけど、このまま行ってもいい?」
「わかった。……ほら、自転車のカゴに入れるから荷物をくれ」
俺は総菜が入っているビニール袋と学生カバンをカゴに入れると、スズカのも一緒に入れようと手を差し出す。
スズカは自転車のカゴを見てから俺に惣菜のビニール袋を渡してもらい、俺は同じようにカゴへと入れていく。
本当はスズカのバッグも入れたいがカゴの容量的に難しくて入れられなかった。
「それじゃ帰るか」
と、歩きであるスズカのことを考えて自転車に乗らず、押していくことにした。
ウマ娘だから走ってくることは難なくしてくると思うが、男が自転車で女が走るというのは罪悪感があるからだ。
そういう思いで歩いている俺の横にスズカは来て、一緒に歩いて商店街から離れていく。
この気まずい沈黙の中、何の話をしようかと悩んでいるとスズカはいつものような明るい声を出してくる。
「アキくんは自転車に乗らないの?」
「スズカは歩きだろ? 俺だけ自転車で行くのは悪いだろ」
「アキくんが全速力で自転車を漕いでも私は後ろから着いていけるし、むしろ先に行く。あと鍵を貸してくれるのなら、先に部屋で待つことだって」
「部屋で待って何をするんだ」
「何って……アキくんの香りがする部屋を楽しんだあと、玄関で正座して新婚夫婦ごっこを楽しむけど?」
そんな当たり前のことをなんで聞いてくるの? と不思議そうに聞いてくる表情はいつものスズカらしく柔らかい表情だった。
商店街の時は俺とナイスネイチャに怒っていたのに、この変わりようはいったいなんだ。
聞かないほうがいいかもしれないが、このあまりの変わりっぷりにどうしても聞きたくなる。
「俺がナイスネイチャと一緒にいて怒っていたんじゃないのか?」
「私が怒るの? なんで?」
意を決して聞いたら、首を傾げて不思議そうに聞いてくる。
俺が聞いたのに、逆に聞いてこられると困る。てっきり自分を置いて他のウマ娘と仲良くしているのが嫌だったとか言うと思っていた。
これはあれだ。俺が意識しすぎていたってことか。……恥ずかしい、すごく恥ずかしい。
「怒ってないならいいんだ。でも、それならなんで普段と違う様子だったんだ?」
「それはその……後輩の子にはかっこよく見られたいから」
「かっこよく?」
「アキくんの前ではすごく楽しく話ができるけど、学園だとクールでかっこいいと思われているの。だからイメージを守るためにそうしたほうがいいかなって。でもちょっとだけ、アキくんと買い物を楽しんだのはいいなと思ったけれど」
照れた様子のスズカに俺は困惑してしまう。
スズカが後輩であるナイスネイチャの前であんな雰囲気だったのは、失望されたくないとかイメージを守りたいと思っていたのはわかる。
だが、俺にはそれ自体がおかしく思える。
この天然ウマ娘であるサイレンススズカがクールでかっこいい? いったいどこが!?
いつもどこかにぶつかっている印象で時々話がずれ、料理ができなくて俺の部屋でよく食いに来ているというのに。
トレセン学園のウマ娘たちはスズカのどこを見ているんだ!
スズカにクール要素はどこにあるんだと考えると、思い出したのは去年の9月の時だ。
出会った頃だと、不安があり自分に自信がない子だった。周囲の優しさを拒絶しているかのような。その時の印象が今でも続いているのかもしれない。
今では俺と親しく話をするが、もしかしたら学校には友達がいないという可能性がある。
もしそうだったのなら、うんと優しくしてあげよう。俺にできることはそれしかないから。
「学園が辛いのなら俺に電話をしてきてもいいぞ。話に付き合ってやる」
「別に辛くはないけど友達のタイキやフクキタルとは仲がいいし、チームのみんなとは一緒にご飯を食べているから」
「練習やレースが辛いとかは?」
「トレーナーさんと走り方で意見がぶつかることや自分にとってレースとは何かを考えることはあるけど、走るのはすごく楽しい。雨の日や雪の日でも!」
楽しそうに明るい笑みを浮かべるスズカに、俺の心配はまったく不要だったことがある。
これじゃあ、妹を心配しすぎる兄のようだ。
スズカのことはいつも心配で、ふとした瞬間に考えることが多い。飯に不自由していないか、ランニングした先で迷子になっていないかなどを。
それらは兄を越えて、父親視点じゃないかと思ったところで母親から来た電話のことを思い出した。
母親はたくさんの人を愛して恋人にすることが人として優秀と言っていた。
でも俺はスズカ1人だけしか考えることができない。母親から見れば俺はダメな子だ。
でも、だからこそ嬉しく思う。そんな母親と自分は違うんだと。
生まれた時から母親の言うことを聞いて育ったから、1人の人のことだけを考えれない人間になってしまったと考えていた。
だが、スズカと出会ってから女性のことで考えるのはスズカのことばかりになっている。
俺は歩く足を止め、大きく深呼吸して気分を入れ替える。
「それならいいが、学園でクールなのを演じるのは疲れることもあるだろ。俺が知っているお前にお前がなっていればいいんだよ」
「私が私であること?」
「おう。話してみるとお前は親しみやすいからな」
「つまり話をまとめると、アキくんは普段の私に惚れているということね?」
「どういう流れでそうなるんだ」
「今度アキくんの部屋に私のサイン色紙を置いていくから」
「いらない」
「それじゃあ私の使用済みゼッケンがいいということね。それに染みついた汗の匂いがあれば、私がいなくても寂しくないと思うの」
「俺をなんだと思っているんだ、お前は」
「何って……アキくんは私に恋愛感情を隠している立派なツンデレさんでしょ?」
「違う!」
疲れる。
すごく精神が疲れる。でもこういう言葉のやりとりを楽しく思う自分がいて、つい笑顔になってしまう。
スズカも俺とのやりとりで楽しんでくれているのが嬉しく思う。
だからと言ってこのままだとツンデレや変態に正式認定されてしまう。そうなる前に足を再び動かして歩き出すと、スズカは何も言わずについてくる。
それから言葉をかわさない居心地のいい静かな時間が過ぎていく。
「遅くなったけど、レース、勝ったんだな」
「うん。前回はかっこ悪いところを見せちゃったけど、今回はどうだった?」
本当は会った時に言いたかったこと。でも言うタイミングがなく、今になって言えた。
その返事に対し、スズカは不安そうな声をあげる。
俺は動画で見たレースのことを思い出す。道中はもっと前へと行きたい感情を理性で抑えているのが辛そうに見えた。そんな中でも最後の直線がやっぱり印象に残っている。
逃げという走り方なのに、最後は追い込みや差しのように伸びていく姿がかっこよかった。
もしかしたらG1も勝てるんじゃないかと思うほどの強さと思うほどに。
「かっこよかった」
「それだけ?」
「言いづらいんだが初めてスズカの走りを見たときと比べると、今回のは走ることが辛そうで気持ちよくなさそうに見えた」
「……そう。他には?」
「他にもか」
短い言葉だが、褒めたときはちょっと自慢げだった。
次に疑問に思ったところを言ったら、スズカは何かを言いたそうに口を開けたが言いたかったことを抑えては俺に他の感想を求めてくる。
スズカが何を言いたいか、何を悩んでいるかはわからない。ウマ娘とは違い、人である俺がわからないところかもしれない。
でも、スズカには辛そうな顔よりも、笑い、変なことを考える子でいてもらいたい。
俺ができることはスズカと一緒に過ごし、愚痴があったら聞き、ご飯を食べさせ添い寝をするだけだ。
20秒はたっぷりと悩んでから足を止めると、スズカの顔をじっくりと眺める。
もっと勉強していれば、1ハロンのタイムやスタートダッシュについて語れるかもしれない。
でも、まだ少ししか勉強できていいない俺ではレースを、サイレンススズカの走りについて語ることなどできはしない。
それなら他のことを言うとしたら、俺だけに見せてくるスズカの飾っていないことしかない。
「レースが終わったあとにピースサインをしたポーズはかわいかった。家に帰ったらやってくれないか?」
「もう、もうっ!!」
綺麗なスズカの顔がすごく恥ずかしそうになり、次は不満そうに俺の体をバシバシと手と尻尾を使って強めに叩いてくる。
ちょっと怒りながら叩いてくるのは照れ隠しのはずだが、結構痛い。ピースサインでからかうのはやめておこう。いや、動画を取ったタイキシャトルと名乗ったノリの良さそうな子となら大丈夫そうだ。
もし会えたなら、一緒にスズカを褒めまくって照れさせようと心に誓う。
そうして、スズカとじゃれあいながら俺たちは家へと帰る。
今日の夕飯は気合を入れて作り、腹いっぱいで動けなくさせようと決めて。
それと悩み続けているスズカを見ていたくないから、俺でストレス発散や悩みを聞くということも伝えよう。俺はスズカの明るい笑顔を見ていたいということも。
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6話
トレセン学園のファン感謝祭は1年に2回あり、それは4月と10月。
俺はスズカと出会うまではウマ娘に興味がなく、そういうイベントがあるのすらはっきりとは知らなかった。
でも今回は違った。 スズカからファン感謝祭に来てと言われたからだ。
4月は第3週土曜日だから行きやすく、ウマ娘の熱心なファンだけでなくお祭りというだけで行ってもいい楽しいイベントだという。
ファン感謝祭と聞くと行きづらく思ったが、やっている内容を聞くと高校生がやる文化祭の規模を大きくした感じらしい。
スズカと一緒に登校するためトレセン学園の門まで行ったことはあるものの、学園の中には入ったことがないから行きたい気持ちが強い。
普段、スズカがどんなところで勉強やトレーニングをしているか。スズカ以外のレースを走るウマ娘というのをたくさん見たいということもあって。
そうしてスズカと一緒に感謝祭を回る約束をし、やってきた晴天の日であるファン感謝祭の日。
深い青のチノパンを履き、白いシャツの上から黒いパーカーを羽織ってはきちんと身だしなみを整えた俺は楽しみと緊張を持って家を出た。
ショルダーバッグを肩にかけて自転車を漕ぎながら思うのは、有名なウマ娘と会った時には失礼がないようにということ。
今までウマ娘にはスズカしか興味がなかったが、この日のために勉強をした。
そうしたらスズカが所属するチームリギルは有名だし、その中にいるシンボリルドルフやナリタブライアンはレースで強く、ネットで見たライブはすげーかっこよかった。
レース場に行ったことがあるというのに、いかに今までスズカしか見ていなかったかということがよくわかる。
予習をしたし、何かあった時にはスズカに助けてもらおうという考えで落ち着いた頃には学園近くまで近づいていた。
事前にスズカの紹介で、自転車をスズカが暮らしている寮のところに止めてから学園へ向かって歩く。
時間始まる10分前に着いたのはいいが、始まる感謝祭を前にして正門前で待つたくさんの人が並んで待っていた。
500人はいそうなのを、制服を着たウマ娘たちが行列の整理をしている。
走って踊るウマ娘はテレビで知るのと違って、こうやって並ぶ人たちがたくさんいるぐらいに人気が高いことに驚きを持ちながら最後尾に行って並ぶ。
最後尾には、制服の上に腕章をつけてプラ看板を持っているナイスネイチャがいた。
声をあげて仕事をしている彼女の邪魔をしないよう、目が合った瞬間に軽く手を挙げて挨拶をしておく。
向こうは俺に気づくと「アキくん!」と元気な笑みを浮かべて軽く手を振ってくれた。
その途端、周囲から熱い視線をもらったのはなぜだろうか。
困惑に好奇心、妬み恨みとそんな感情を感じる。……こう、まだ知名度がないウマ娘に名前を呼ばれただけなのに。ファン感謝祭に来る人たちは俺よりもよっぽど熱心なファンのようだ。
そう思うとウマ娘はスズカの走る姿しか知らないから居心地がどうにも悪い。
それでもスズカと会うために深呼吸をして気分を落ち着け、ちょっとしてから柵の門が開くと俺も含めて並んだ順に歩いて学園へと入っていく。
初めて入るトレセン学園にはウマ娘が2000人も在籍しているとだけあって広く、校舎の建物はかなり大きく立派だ。
その校舎に続く長い道の間には屋台ができており、制服やジャージを着ているウマ娘の子たちが料理を作り売っている。
チョコニンジンやたこ焼きに焼きそば、そしてニンジン焼きの屋台ではスズカがいた。
制服の上に緑色のエプロンを着けて売り子をしているスズカは俺を見つけると、嬉しそうに手招きをして呼んでくる。
コンロの上にある網の上でニンジンを焼いているスズカに、料理をしている衝撃の光景を見続けていたかったが、呼ばれたのなら仕方ない。
ニンジン焼きの店にはスズカの他に、もう1人のウマ娘がいた。
その子の邪魔にならないよう、屋台の脇へと行く。
「よぉ、頑張って焼いているか?」
「アキくん! うん、頑張ってる。まだ始まったばかりだけど、自分が作ったものを買って食べてくれるのはすごく嬉しい。アキくんが私に餌付けする理由がよくわかったわ」
「お前に餌付けして、俺が得したことがあっただろうか」
「将来有望なウマ娘と仲良くなるのはいいことだと思わない?」
「スズカならレースを走らなくても仲良くしていたと思うが。それに俺はスズカがレース勝てなかったとしても怪我をしないで、ずっとそばにいてくれるだけで嬉しいよ」
ファン感謝祭というイベントでテンションが上がっているのか、上機嫌に話しかけてきたスズカ。だというのに、普段より元気な姿を見て逆に落ち着いている俺の言葉を聞いてうずくまるのはどうかと思う。
しゃがんでいないで、立ってニンジンを焼かないともう1人の子に迷惑がかかるというのに。
そう思ってニンジンを売っていた、青いエプロンを着けている子に目を向ける。
その子はオレンジのような明るい茶色の髪をして、耳飾りには小さなダルマや四葉のクローバーをかたどったアクセサリーを身に着けていた。
スズカよりも体にメリハリがあり、立体感がある胸の持ち主は「この女たらしがアキくん……」とつぶやいては、俺に対して恐れおののいている。
なぜだ。俺はスズカがそばにいるだけでいいと言っただけなんだが。今の発言に何も問題なんかないだろ。
「フクキタル、アキくんにニンジンを売って……」
と、いまだうずくまって俺に視線を合わせてくれないスズカは網の上に乗っているニンジンを指差している。
スズカにお願いされたフクキタルは、すぐに焼きニンジンを発泡スチロールのトレーに移し替えて売る状態へとなった。
「あー……、じゃあ1本くれ」
「はい、どうぞ! スズカさんが丹精込めて焼いたニンジンをご賞味ください!」
お金を渡すと、よくわからない言葉と一緒に棒に突き刺さった焼きニンジンを受け取る。
その焼きニンジンは赤いデミグラスソースがたっぷりついていて、匂いではおいしそうに思う。
「スズカ、俺はそのへんを回っているから仕事が終わったら電話してくれ」
なぜか照れた様子でようやく立ち上がったスズカにそう言うと、焼きニンジンをかじりながら人混みが多い道を歩いていく。
スズカとフクキタルという子がやっていた屋台の他にもトレセン学園らしい出店をぼぅっと覗いていく。
食べ物以外にもウマ娘のグッズやブロマイドを売っているところがあった。
その屋台で売り子をしているウマ娘の説明では、レース場や通販で出ていない知名度が低いウマ娘のも扱っているということだ。
そう聞くとスズカのを探したくなるというものだ。スズカはまだデビュー戦しか勝っていないため、あるかもしれないと。
本人に自撮りや練習している姿の画像をくれと言ったらくれると思うが、求めたらスズカが調子に乗りそうで嫌だ。
そのことをネタに長期間からかってくるのは間違いない。
だったら、ここで買えるのなら買いたいところだ。あとは知り合いでもあるナイスネイチャのがあれば、それも一緒に。
そう思ってじっくりと眺めていると、ふと強い視線を感じた。
誰かと思ってあたりを見回すと、スマホで誰かと電話をしながら俺を見ているウマ娘がいた。
一言でいうなら、かなり俺の好みだった。
身長が俺と同じぐらいで胸が大きく、スズカの髪色を少し明るくし、性格が陽気そうな雰囲気だから。
そのウマ娘はスズカが所属しているチームリギルの子で、つい先日に勉強した甲斐があって名前を知っている。
彼女の名前はタイキシャトルだ。大柄な体で、短距離やマイルといった短い距離を走る子で、前にスズカのレースを撮ってくれた。
その子にぼぅっと見惚れていると、俺へと笑顔で小さく手を振っていなくなった。俺はその子が見えなくなるまで、つい目で追ってしまっていた。
スズカを見ていると安心感があるが、あの子には心がときめいた。一目惚れとまではいかないものの、誰だって自分好みの子を見たら、ときめいても仕方がないと思う。
そうして俺は自然とスズカ以外にその子のも探したのは当然と言えるだろう。
時間をかけて探したものの、スズカやタイキシャトルの物はなかった。スズカは1勝、タイキシャトルは勝ってないかデビュー前だった記憶だ。
スズカが所属するチームリギルはウマ娘が10人もいるから覚えきれない。時間をかける、またはウマ娘ファンなら知名度が低い子でも知っているだろうけど。
目的の物が見つからず、少し落ち込んで屋台を後にすると俺の前には1人の大人の女性がいた。
その人はウマ娘ではなく、灰色の高級そうなスーツと黒いワイシャツを身に着け、ふくらんだ紙袋を持っていた。
さっき見たタイキシャトルや俺と同じぐらいの身長で、ハーフリムの眼鏡を身に着け、つややかな黒髪をポニーテールにしている。
20代後半に見える怖めな顔つきをしている女性は俺の前までくると、じっと俺を見つめてくる。
「あの、俺に何か?」
「急にすまない。君がスズカの言っていた、あの"アキくん"だったから観察してしまったんだ」
「もしかして、スズカのトレーナーさんですか?」
「ああ。チームリギルの東条ハナだ。私のことはスズカから何か聞いているか?」
はじめはきつい目で見てきていたが、答えにくい質問にどう言うべきか悩んでいると柔らかく笑みを浮かべた。
どうしてそうなるのか。その反応がわからないでいると、彼女は腕を組んで苦笑する。
「言いづらいのなら構わない。その反応でどういうことかわかるというものだ。別に私はスズカを苦しませようとしているわけではないというのは知っておいて欲しい。
私は私が経験したことと知識でしか教えることができないから。スズカが足を痛めないよう長く走ってもらいたいとは思うものの、うまくいかないことはある。それが嫌われているかもしれないけど」
「スズカはあなたのことを嫌ってはいませんよ。スズカは自分の思うとおりに走りたいだけなんです」
「……私としては怪我なく走り続けるのが一番だけれど。それと迷惑かもしれないけど、気が向いたときでいい。スズカに優しくして欲しい」
会ったばかりだけど、今までスズカから俺のことを聞いたであろう人の信頼。
だけど、その信頼にはいらだちが来る。大人という生き物は自分勝手だ。
いつだって上から目線で言い、今だって俺が頼まれでもしないとスズカと仲良くしないかのようにも聞こえる。
もちろん本人はそんなつもりなんかないだろう。だが、大人らしい上からの言い方に腹が立ってしまう。
「気が向いたときになんてしません。いつだって優しくしています。
スズカは俺にとって親友で妹みたいな存在で、目が離せない天然な女の子ですから」
サイレンススズカは有名なチームリギルに所属し、優秀なトレーナーの元にいるウマ娘だ。
俺から見ると、そんなのは関係なく1人の女の子として見ている。
そういう見方でにらみながら言った言葉に、東条さんは声をあげて嬉しそうに笑った。
「そう考える君だからこそスズカは頼っているとわかる。これからも変わらない君でいてくれ。それと、これはプレゼントだ」
東条さんは手に持っていた紙袋を俺へと押し付けるようにして渡してくると、俺の背後を気にしながらゆっくり歩いて去っていく。
歩いていった方向にはネットやテレビで見たことのあるチームリギルのウマ娘たちがいる。
そのウマ娘たちを見ていると、ふと気配を感じて振り返るとエプロンを外したスズカがいた。
「おつかれ、スズカ」
「待たせてごめんね、アキくん。……今、会っていたのはトレーナーさん?」
「あぁ。世間話を少しして本を渡されたんだ」
受け取った紙袋の中にあったのは本だ。その本を手に取ると、タイトルには『健康・調理の化学』『ウマ娘栄養学』の2冊が入っていた。
これはスズカに料理を作るなら、レースするウマ娘を考えろということだよな。
今まで作っていたのは、炒めて煮る簡単料理だったからなぁ。スズカと一緒にいるなら、栄養のことについて考えないといけないか。
自分が作った料理は、スズカがおいしいというものを作るということしか考えていなかったことに反省する。
ちょっと落ち込んで自分に反省すると、スズカは俺の手から本を取り上げて紙袋に押し込むと、紙袋ごと俺の手から奪っていった。
「アキくんはこういうのを読んじゃいけないと思うの。私はアキくんが私のためを思って自由に作るのが好きだから」
「でもスズカと一緒にいるなら勉強しろということだろ。そうしないとスズカと会うなと言われそうだ」
「そこは大丈夫だと思う。マルゼンスキーさんは1人暮らしをしているけど、そこまで栄養に気をつけていないし。体重の増減と、時々する血液検査で問題がなければいいと思うの」
「まぁ、スズカがそういうならそうするけど。でももらったからには読んではおくぞ」
と、スズカの手から紙袋を取り、ショルダーバッグの中へと詰める。
スズカは俺のショルダーバッグを見つめ、納得がいったというようなすっきりとした表情になった。
「もしかしたら遠まわしにウマ娘栄養管理士の資格を取る道があるかもと伝えたかったのかも」
「俺は進路相談をしたわけでもないんだが」
「私が相談したの。どうしたらアキくんはウマ娘に関する仕事に興味を持つかなって」
それでか。だから東条さんは前持って栄養学の本を準備できたわけか。
なるほどなるほど。俺の将来を心配したというわけか。
俺はスズカの手を掴むと、屋台の隙間へと連れていく。
「えっと、アキくん?」
不思議そうにするスズカのおでこにデコピンをひとつ。そのあとにほっぺたをむにむにとさわりまくる。
少しのあいだ、スズカのすべすべしたほっぺたを楽しんだあとにため息をつく。
「なぁ、スズカ。アイドル活動やレースで有名になるウマ娘だからこそ報告義務があるのはわかる。わかるが、俺のことはどこまで東条さんやチームの人に話をしているんだ?」
「付き合っているわけでもないから、外泊届け以外のは別に報告義務はないけど。ただ、私が優しい男の子がいるって自慢したくて」
「このアホ娘! 俺の情報が全部出ているんじゃないのか!? 東条さんに目をつけられたし、スズカの調子が悪ければ俺の責任になるだろうが」
「……でも最低でも週に1回はお泊りに行っているんだから、トレーナーさんが気にするのも仕方ないと思うの。あと、素敵な男の子のアキくんを他の人に知ってもらいたくて」
「チームの人は俺の顔がわかるのか?」
「うん。その、アキくんの許可を取らなかったのは悪いと思うけど」
スズカは耳をばらばらと動かして不安そうにし、体を小さくして顔をうつむかせて罪悪感を感じている表情だ。それを見ると、もうこれ以上は怒れない。反省しているようだし、悪気がないから今回は許そう。
俺はスズカの手を離し、深呼吸をすると気持ちを切り替えて感謝祭を楽しむことだけを考える。
「今度ブロマイドをくれるなら許すよ」
「いいの?」
「ああ。ほら、行くぞ」
顔をあげて安心するスズカに背を向けて歩き出すと、スズカは安心した様子で俺の横へと並ぶ。
スズカが普段勉強している教室や筋トレの器具がある場所や練習場。
他には演劇を鑑賞し、男装執事喫茶ではチームリギルに所属するイケメンなウマ娘たちを眺めたりと。
そこらでやっている出し物や売っているものを食べ歩きして一通り回った頃には昼を過ぎていた。
午後はスズカも友達と遊ぶだろうし、午後は1人で回るかと思ったものの、普段それほど鍛えてない俺の体は疲れている。
そんな俺を察してか、スズカは校舎裏の人が来ない場所へと連れていってくれる。
木々があり林となっている影のベンチへと肩を並べて座った。
「ウマ娘は人気があるんだな……」
「走る姿だけでなく、歌や踊りで人々を楽しませるから」
「スズカの歌はデビュー戦の時に1度聞いたけど、あれはファンになりそうだな」
「アキくんは私のファンになってくれなかったの?」
耳を伏せ、寂しそうな顔をしてくるスズカに俺は顔をそらしてしまう。
それというのも自分の気持ちがよくわからないから。
スズカと出会った時はまだデビュー前だから、レースをするウマ娘というよりも普通の女の子として接していたからファンというよりも仲のいい友達という感じだった。
他の人に説明するのなら、以前から接していた子が駆け出しアイドルになったとでも言えばいいだろうか。
スズカの走りや歌は好きだ。でもファンかと聞かれると答えることができない。
何か代わりの言葉を、たとえば歌がもっと上手になったら、踊りがよくなったらという軽口も言えない。
これほど落ち込むスズカなんてのは出会った頃に近いと思うほどだ。
「私はアキくんに頼りっぱなしだから、ウマ娘というのに幻滅しているのね。だから私が家へ行くとよくデコピンをして―――」
「それはお前が悪いだろ」
まだ話をしている途中なのに、つい突っ込んでしまう。
そしてすぐに俺は後悔をしてしまうが、俺が困っているのを見たスズカは笑顔を浮かべてすっきりした表情だ。
それが妙に腹が立ち、左手と右手で同時におでこへとデコピンをぶつけた。
「お前の走りや歌は好きだが、ファンというものがわからないんだ。スズカと出会うまではウマ娘やアイドルに興味がなかったからな」
「と、いうことは私がアキくんにとって初めての女ということね?」
「その言い方はやめてくれ。そこだけ聞かれると俺が恨まれる」
スズカはデコピンで痛んだおでこを両手でさすりながらも、からかうように言ってきた。
少しして痛みが落ち着いてらしく、手を膝の上へと戻して俺へとまっすぐな目を向けてくる。
「ファンというのは、その人が好きで応援したい気持ちがあれば、ファンと名乗っていいと思うわ」
「そういうものか?」
「ええ。それにそんなアキくんを見ていると、学園に入るときに思っていた目標を思い出すの」
「目標?」
「私の走りを見てくれた人が喜んで、そんな人たちに夢を与えられるウマ娘になりたいというのを。アキくんは私を見て何か思ってくれたら嬉しいな」
スズカは俺に笑みを向けてくれるが、それは寂しさや儚さ、俺に対する期待という感情が混じったものだ。
考えてみれば、いや、考えなくても俺はスズカに多くの物を感じている。
スズカと出会った時だって、普通なら面倒なことに関わりたくないから無視するはずだった。
今はよく料理を食べにくるが、それまでは自分のためにしか料理をしたことがなかった。
一緒に女の子と同じ部屋で何度も寝泊まりさせることも。
そして、最も大きな変化は将来の目標が具体的に決まっていなかった俺が、ウマ娘に関する仕事をしたいと目標があるから。
「スズカには充分に夢を与えてもらっている。お前のおかげで俺の人生はなかなか楽しくなっているぞ?」
「本当?」
「本当だとも。俺の家に来ているならわかるだろう? 俺はいつもスズカが家に来るのを楽しみにしているんだ」
「その割にはいつも私をいじめてるような……」
「それはスズカが悪いこともあるだろう? あと、いじめてない。からかっているだけだ」
そんなあきれたふうに言うと、スズカは頬をふくらませては俺の太ももを片手でぺしぺしと軽く叩いてきた。
その手を掴んで抑えようとするも、ウマ娘特有の力で俺の手を振り払ってくる。
ちょっとの間、じゃれあったあとに俺はベンチの背もたれへと体を深く預け、透き通るような青空を見上げる。
「ねぇ、アキくん。私ね、前にアキくんに言われたことを考えたの」
「気持ちよく走れていないということだったか」
「そう。そのことをトレーナーさんに言ったら、スピカっていう違うチームのトレーナーの人に少しだけ練習を見てもらえるようになったの」
「スズカが理想とする走りは見つけられそうか?」
「わからない。もう少しで何かがわかると思うけど……、ふふっ」
暗い表情をしていたかと思うと、次の瞬間には小さく笑い声をあげた。
そんな姿が不気味だ。この話の流れで笑う要素はないというのに。悩みすぎてどうでもよくなったのか?
「うん、やっぱりアキくんは私にとって大切な人」
「なんで今の流れでそうなるんだ」
「だってそうでしょう?」
「何がだ」
話が見えず、はっきり言わないスズカに不満を覚えているとスズカは俺にもたれかかるように体重を預けてくる。
俺は倒れないように足で踏ん張り、ベンチに手をついて支えとして耐える。
いつもしているみたいな甘えとは違う、俺に何をされてもいいと思っているほどに感じる甘え。
俺の肩にしなだれかかったスズカは上目遣いで見つめてくる。
そんなスズカがひどくかわいく見え、周囲から聞こえているはずのざわめきがさっぱりと聞こえなくなった。
「私が悩んだ時はいつだってアキくんが私に光を見せてくれる。
……私は走ることが大好きで、トレセン学園に来たのもたくさん走りたかっただけなの。1人で走るのは好きだけど、誰かと一緒に競争するのも好き。
だけどね、アキくんと出会った頃の私はクラスメイトの子たちとはうまく馴染めなくて。他の子たちは人生や応援してくれる人たちの想いを持って来ている。
でも私にはそんなのがない。楽しく走れればいいとだけ思っていた。ただ走るだけで幸せだった。冷たい雨や視界がなくなるほどに雪が降っていても。
そんな私が他の誰よりも早く走れたものだから、すごく努力していた子たちからは距離を置かれていた。
その時は、その子たちが楽しんでいないから上手に走れていないと強く思っていたの」
そこまで言うとスズカは目をつむり、僕の膝の上へと落ちる。
太ももにスズカの重さを感じ、膝枕になった状況に震える声でスズカは話を続けていく。
「時間が経ってチームに入ってからは、先輩たちが苦しくてもすごく練習していてショックを受けて……。
私が学園で走る意味はあるのか。レースで勝って、歌と踊りはそこそこやればいいと思っていた。
でもそこには私しかいない。誰にも喜んでもらえない私しかいなかったの。
自分の走る理由に悩み、体ができあがっていないからデビューは同期の子よりも遅くなると言われて学園を抜け出してしまったの」
「そんな時に俺と出会ったのか」
「うん。どうすればいいか分からなかった時に優しくしてくれたのがアキくんだった。何も理由を聞かず、初めて会ったのに」
あの時は親が離婚した時の絶望した自分と重ねていた。そんなふうなのを見ていられなくて助けただけだ。
自分のためだけにやったことだが、それでスズカが楽になってくれたのなら嬉しい。
「それからもアキくんは私のために色々してくれて、私は辛い時期を乗り越えた。少し前に悩んでいた時もそう。
アキくんがいたから私はトレーナーさんと相談して、自分がやりたい走り方を目指した。それができるように私を助けてくれたことにすごく感謝している」
俺がしたことはスズカの悩みを聞き、少し背中を押しただけだ。変わろうとする勇気がなければ、スズカは今も悩み続けていた。
でも今は違う。スズカは前と進み、結果を出した。それはとても強い子だ。
「友人なら悩みを聞き、助けるのは当たり前だろ」
自然と優しい声が出た俺はスズカのさらさらとした栗色の髪をさわり、手で髪をなでるようにしてさわっていく。
スズカも俺にされるがままに髪を自由にさせ、俺と目を開けて優しく見つめてくるスズカの間には静かな時間ができていく。
「だったら私もアキくんを助けたいな。アキくんが困った時に、いつでもどこへでも私が走って助けてあげる」
「その時になったら助けてくれ」
「うん。絶対に助けるから」
スズカの真面目な声を聞くと、俺自身が俺のことをいい人になれてきているなと嬉しくなった。
無責任という印象が強い自分の親と俺は違うんだと感じられて。
そのあとはベンチからスズカが元気よく立ち上がると、俺の手を引っ張って立たせてくる。
俺はスズカに引っ張られるようにして、スズカと手を繋ぎながら感謝祭巡りを再開する。
でもほとんどは見て回ったため、練習場でやるイベントを眺める時間がほとんどだった。
その時は練習場の観客席でなぜかチームリギルに所属するウマ娘や東条さんたちと一緒にウマ娘やトレーナーたちの出し物を見ることに。
椅子に座った俺の右にはスズカがいて、左には三冠ウマ娘のシンボリルドルフが。他にも周囲に有名ウマ娘やデビュー前のウマ娘も。
どうしてこうなったかとウマ娘さんたちに聞いたところ、スズカが話に出すアキくんを見たかったということと、アキくんがどういう男の子かよく聞くから初対面じゃない気がしたからとのことだ。
そういうのを聞かされると、なんか俺の生活がスズカにコントロールされているんじゃないかという気がする。
俺はスズカにご飯を作り、家に泊めるほどなのに。私物も増えてきているからか、スズカに生活を支配されている気がした今だ。
将来スズカと結婚する男は大変だ。
スズカは天然な子だが隠し事をすると感覚はするどいし、グラビア写真集やエロ本といった置き場所は全部把握しているほどだ。
幸いにもスマホの中だけは俺だけの自由空間ではあるが。
それでもスズカと一緒に過ごす時間は楽しいし、時々同棲みたいなもんじゃないかと思うでもスズカが言うには一緒に暮らしているわけじゃないから違うとのこと。
そうならば、妹が兄の部屋に押しかけるようなものに違いない。俺に妹はいないから、全国の妹持ちの兄たちに妹がいる生活はどういうものかと聞いてみたいものだ。
複雑な感情を持ちながら出し物を見終え、帰ろうとするもチームリギルの打ち上げに混ぜられ、なんか最後には大色紙にそれぞれのウマ娘たちからのサインが書かれたものをもらった。
それと1週間ほど経ってからは、それぞれのウマ娘のサイン付きブロマイドを送ってきた。その中にはまだ販売していないはずのスズカのも入っている。
スズカと会ってから段々と俺の人生にウマ娘深く関わってきているなぁ……。
でも嫌なわけじゃなく、むしろいいことだ。だってずっと一緒に過ごしていきたいと思っているスズカの、ウマ娘のことを知ることができるから。
完結。
・電子書籍版
おまけの話ひとつと、各話のプロットがあります。
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