アマガミ短編集 ([生])
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桜井梨穂子ソエン√ 絢辻詞スキ√ その後
「はいっ! とゆーコトで、今日は私の生まれ故郷である、キビトにやってまいりました〜! ひかり輝く憂いのない備え、阿鼻叫喚東西南北クレープの、東! 実は私の地元なんです!」
「『故郷に泊まろう!』ということで、今回は私があんまり自信ない人脈を使って、知り合いの家に泊まらせて貰おうと思います〜。では、もう夜も遅いので、早速行ってみましょう……。
――『故郷に泊まろう』!」
その電話がかかって来たのは夜の九時だった。
その頃、私は自宅のソファで絢辻さんと並んで、アニメ映画を見ていた。
「――電話だ。止めるよ?」
「無視すればいいじゃない」
「残念」
私は携帯電話の画面を見せた。
絢辻さんの悔しそうな顔に苦笑し、テレビを操作して、映画を一時停止。
私は部屋を出て、玄関で、少しばかり、かつて好きだった人と話をした。
部屋に戻ると、絢辻さんが心配した顔で待っていた。
「誰よ、こんな時間に。非常識ね」
「もっと非常識な人さ」
「ふうん?」
絢辻さんは少し興味がそそられたらしく、そんな顔をして、私に視線を投げた。私は冷蔵庫から取り出した牛乳をグラスに注いで、一つだけ口をつける。
「桜井梨穂子、覚えてる? 僕の幼馴染みで、高校の時……三年で同じクラスになった」
「知ってるわ。今は桜井リホでしょ?」
ざっつらいと。
言うと、絢辻さんは両手を挙げて喜んだ。
「ばんじゃーい」
桜井梨穂子とは家族ぐるみの付き合いだ。幼い頃は私と妹の橘美也、桜井梨穂子の三人でよく遊んだものだった。いつからその関係が破綻したのかは分からない。が、恐らく、遅くとも小学校中学年の頃には、もう三人で遊ぶこともなくなっていた。
それでも私と梨穂子の関係だけは強いものだったが、それすらも破綻したのが、高校二年生の冬、創設祭の少し前。私の視界の大部分を絢辻さんが占めてきた頃、ある日突然、私と梨穂子は引き離されてしまった。桜井リホという存在によって。
私が恋を愛していたあの時期、急に、頭から冷水を浴びせる知らせが入ったのは今でも忘れない。桜井梨穂子、桜井リホとしてアイドルグループ《KBT48》の一員として芸能界デビュー。雪も降らない、乾いた寒々しい日の夜にテレビ番組でそれを知った私は困惑し、安心し、そして後悔した。そんな自分にも嫌気がさしたし、沢山泣いた。
桜井リホという名前が、私と彼女の間に壊れることない壁を築いた気がして。超えられない壁に罵声を浴びせ続ける権利もない私は、矢印を自分自身に向けて泣いたのだ。
「でもあなた、高校の時は携帯電話は持ってなかったし、その時から桜井さんと関わってないでしょう? どうして電話番号を知ってるのよ。登録までして」
「そりゃあ……梨穂子の保護者を継いでくれた、伊藤香苗のおかげだよ。実は、梨穂子の電話番号だから、大事にとっておいて欲しいって梨穂子が携帯を買った時に貰ったんだ」
つまりは、梨穂子がアイドルになった時である。我が幼馴染両親――ということはご近所さん――も、アイドルの娘に対しては流石に携帯電話を持たせたらしいのだ。携帯電話の扱いについては、ここ最近で、随分印象が変わった。私たちが高校生の頃はまだ携帯電話は会社で必要な人、もしくは、忙しい大学生のためのものであったのだ。それが何年か経てばすぐに手元までやってきて、私は何年前に書いたメモ帳を見つつ慣れないボタンを押したのだ。おかげで、私の電話帳は一番上に桜井梨穂子が記載されている。バレないようにせねばならない。
「伊藤……ああ、あの人ね。桜井さんとよく一緒にいた、蜜柑みたいな」
「そうそう、カンガルーみたいな」
桜井梨穂子の言っていた《香苗ちゃん》の正体は、卒業する時本人から聞き出したことによると、伊藤香苗。
現在は梅原正吉と交際中。絢辻さんといい伊藤さんといい、趣味が悪い。何かしらの業でも背負っているのか心配になるくらいだ。
「で、その桜井さんがどうかしたの?」
「いや、その、家に泊めてくれって」
「場所を忘れたの? 家の?」
「多分。――それは置いといてさ、なんでも、テレビ番組の企画らしいよ」
「はぁ?」
故郷に泊まろう――という番組は私も彼女も良く知っている。見てみると案外面白くて、よく見ているのだ。途中、絢辻さんが参戦してくる。私も絢辻さんも記憶に残っている。
「ああ……あれね。でも、この家に入るかしら?」
「問題ないよ。で、いいかな?」
「許可」
「分かった。連絡するよ」
梨穂子に折り返し、次いでピザ屋や寿司屋へも連絡を済ませたあと、銀行に向かった。
映画が途中止めになってしまって、絢辻さんに悪いなと思いつつも、しかし梨穂子がこちらに辿り着くまでに終わるだろうと推測をつけた。
なんと、タレント、桜井リホは現在私の実家の近く、適当な駐車場で待機しているそうだ。私は現在の住所を教えたが、到着まではしばらくかかりそうだ。
やれやれ。この分だと、明日は確実に、桜井梨穂子の案内役に抜擢されてしまう……。
桜井梨穂子が家に来たのは、狙い通り、丁度映画を見終わって少しした頃だった。つまりは、午後10時23分。
「久しぶり〜」
彼女は私に笑顔で話しかけ、ちょっと考えたあとに手を伸ばした。私はそれに応え、握手。
「お久しぶり、梨穂子……リホ。上がってくれよ、スタッフの人たちも。もうすぐピザが届くから、それまで茶でも飲んでてくれ。お酒は残念ながら切らしてるんだ、ごめんよ」
「いえいえ〜〜。買ってきましたから」
廊下を移動しつつ、梨穂子はスーパーの袋を掲げた。随分と買い込んだらしい。彼女は昔から大食いだが、酒にもそれは適用されるらしい。それ位の数、彼女とそのスタッフは抱えていた。
「えへへ〜、元気でしたか?」
「ああ、あれからずっと元気だったよ」
「いらっしゃい、桜井さん、スタッフの皆さん」
部屋へと入れば、リビングと併設されたキッチンに絢辻が立っていた。青いエプロンをつけている。彼女の好きな色は青だ。
「あ、絢辻さん〜。あれ、でも、何で絢辻さんが?」
「同棲してるんだ」
「え〜〜びっくりだよ〜」
とは言いつつも、予想はしていたのか驚いた風はない。まあ、かつてのような会話の雰囲気に酔っているのだろう、彼女も、私も。
「覚えててくれたんだ、嬉しい」
「そりゃ〜我等がいいんちょですから! 純一と、香苗ちゃんと、茶道部の先輩方の次に覚えてるよ〜」
「結構下なのね」
「そりゃ、絢辻さん以外は特に関わりが濃かったから。話したことも少ないのに覚えられてる絢辻さんが異常なんだよ」
桜井梨穂子と絢辻詞はそこまで仲が良いわけではなかった。三年生の時だけ同じクラスだったらしいが、喋っている場面を見たことがない。我々の学年で絢辻さんは神だった。いやいや、私は人間として見ているよ? 時々天使にも悪魔にも見えるけど。
――と、出前注文も届いて、食事パート。
「あ、そうだ。明日の成人式なんだけどね」
「ああ、カメラに同行しろって?」
「いいかな?」
「勿論」
まあ、それ位は覚悟していたというか、寧ろ、それくらいでないと成人式に出る気すら起きなかったところだから良かった。幸い絢辻さんの同行は見逃してくれるらしいし。
「じゃあ、ひょっとして、二次会もお願いしちゃったりしててもいいどすか〜〜?」
「二次会ってなんだ?」
「え?」
え?
「梅原君とか、棚町さんから聞いてない?」
「全く」
あの2人は私の性格を良く知ってるから。まして自分達が誘えば私の機嫌が悪くなることくらい何となく避けてそうだし。
だが、まあ、なんだ。テレビと言うなら仕方ない。梨穂子との時間も久々だ。そこそこの人数に気付かれず私の足の裏を抓(つね)る絢辻さんには少し我慢して貰って、梨穂子とデートを楽しむのも悪くないだろう。後日埋め合わせするとして。いや、嬉しい悲鳴だ。
「え~! あ、分かった。また『楽しそうじゃないから行かないしー』とか考えてたんでしょ」
「ふふふ……ごめんごめん。ま、その代わり。明日は任せてくれよ」
「えへへ、お願いしま~す」
さて、就寝!
翌日、成人式が終わった後だ。
「今から二次会の会場に移動で~す」
「何の集まりなんだっけ?」
「うん? 二次は輝日東(キビト)高校の集まりらしいよ」
「そうか。期待できるな」
「因みにその後は同名の中学校、輝日南(キビナ)小学校と続くのですが、時間の都合上、私達は参加できませんのです」
「仕方ないな」
何故私がこんな、流行りの動画投稿者みたいな事をせねばならんのか? いやいや、引き受けた以上仕方ないが、流石にこれは予想していなかった。確かに『故郷に泊まろう!』ではMC、ゲストの二人のみを映して進行していくが……流石に、私も恥ずかしい。酒も結構……というかベロベロ入ってるし。寧ろ酒に私が入ってるし。私が酒だし。
「あ、カンペ……なになに、純一の会いたい同級生? ふむふむ、ちょっと興味あるかも。そう言えば、純一って高校で友達できたの?」
「……そんなんでテレビは大丈夫なのか?」
「あははは、やだなぁもう、純一ったらお母さんみたいだよ。心配しすぎだよ」
「それくらい心配されるんだってことを理解して欲しいな」
「純一も変わらないよね、昔から」
――私が桜井リホに対して心配しているのは、先程からこのような脱線ばかりしているからである。いくら『故郷に泊まろう!』が旅番組っぽい、オープンワールドなテイストだからといって、脱線しすぎなのだ。
先程の、『驚天動地風林火山パフェ』と『シャイニングラバーズパフェ』について熱く語っていた時の、スタッフの『カットで』という呟きを私はけして忘れはしない。
「では、そろそろお聞きいたしましょう、純一は誰に会いたい?」
「そうだなあ……交友関係の半分くらいがもう達成しちゃってるんだよな。
敢えて言うなら、梅原はよく会うけど、いきなり来て脅かしてやるのも悪くない。棚町の顔も久しぶりに見たい。伊藤香苗さんも中途半端に関わったし、話がしたいかな。後は、高橋先生かな。うん。沢山世話になった」
「あ、えーと、梅原くんと棚町さんっていうのは純一の親友、香苗ちゃんは私の親友で、高橋先生っていうのは美人で有名な私達の先生のことです」
さて、現場について二次会開始だ。
二次会も終わり、撮影も終わり頃、帰り道。
梨穂子が私に川原を見に行こうというので、暗い中、私は目を擦りつつ、見覚えのある場所へと足を踏み入れたのだった。
「懐かしいね。ここでよく、二人で空を見上げてたよね」
小さい頃から守り続けた私と梨穂子の空は、何一つ変わっちゃいなかった。私たちの背が高くなった分、梨穂子の胸が大きくなった分星は動いているが、それは私の視界には何も影響を及ぼさない。
あの星たちは、ネギ座。あっちは、ドレス座。あれは、醜いアヒルの子座。梨穂子座、純一座……。
泣いてもいないのに、涙が流れた。
「午前中から空を見てて、ゴロゴロして、気付いたら夜〜みたいな事もあったよね。後ですっごい怒られたの覚えてるよ」
五歳の頃だ。
私と梨穂子は適当な服を着て、暇だからと少し遠出した。実家からかなりの近さにある秘境だが、当時の私と梨穂子の足には遠出だったのだ。活動範囲を広げることへの冒険心もあった。
犬の糞、鳥の糞を念入りに点検したあと二人揃って芝の坂に寝転がり、空をぼーっと見上げた。退屈では無かった。
「ね、ちょっとお話しない?」
「うん」
忙しかった。
「えっと…………その。番組のね、宿泊先に、あなたの家を選んだのには、実は理由があったりするのですよ」
《あなた》。梨穂子が私をそう呼ぶのを、私はいつから聞いていないか。それすらも私は忘れてしまっている。不義理という三文字のその上に恥で塗り固めて、ゴミとして忘れてしまっていたのだ。
『純一』、もしくは訛って『ずんいち』と呼ばれることに慣れてしまって、勝手な自分の想いで、桜井梨穂子を忘れてしまっていた。
私はこの瞬間、久しぶりに桜井梨穂子と再開した。気がした。全て私のワガママで、主張に過ぎないものだ。
「その理由っていうのは……私の、かつての想いを、伝えるためです」
・
・ ?
え、いや、あのー。そういう流れ?
確かに、雰囲気的にはそうなのだけどな。
いやあ……その。えー? あれ? えー?
「えーと、高校生になる前の話なんだけど、私……あなたの事好きだったんです」
「……」
私、状況についていけません。
頭もついていけず、処理落ち。助けてと言えるものなら叫びたいくらい。
「えっと、今は、知っての通り彼氏がいるんだけど……その、やっぱり、隠し事はダメかなーって」
あ、あの中堅俳優。絢辻さんに私に似てるって言われたんだよなあ。
頭がびっくりするほどユート……真っ白。アリエールだ。
「あの、それってさ。ひょっとして」
「――小学校五年生から、中学二年生だったり?」
!? と
里穂子はそんな表情で、涙の出てきた目を丸くして、手で口を覆った。
私、自制が効かない。
「ごめん。当時、僕……自分でも分かってたよ。でも、無視してた。ごめん。梨穂子の事が好きで、両想いだって気付いてたのに……ごめん」
「なん……で…………?」
縋るような目で見てくる。
私、困惑。自分で体が動かせなくて、まるで流行りの催眠だとか交霊術だとかみたいで、そう。
焦った。
「いや……その。当時は、その。梨穂子と関係を進めていくのが怖かったし、告白を通り過ぎただけで、スイッチみたいに関係が変わるのが気持ち悪かったんだ。それで……その。うん、告白できなかったんだ」
「それでも、好きな気持ちを伝える方法はあったけど、それも無視してたんだ。高校生になって、視野が広がったら……とか、無責任な事考えて。無視してた。梨穂子を見ないフリしてた。幼馴染みの位置から見た梨穂子が梨穂子の全部だって勘違いしてて、梨穂子をないがしろにしてた」
本当にごめん、梨穂子。
頭で整理もしてないものだから、私の十年くらいぶりの告白は長い。
梨穂子はしっかり聞いていた。
「……ううん。私も、勇気がなかったから。お互い様ですよ」
「ううん、違うよ……。自分で、逃げ道にした言い訳すらも守れないバカが悪いんだ。本当に、ごめん」
なにもわからず、ただ漠然と走っていたあの頃。私は、梨穂子が好きだった。つまり、中学校一~二年生。
ただ、それが段々、走る意味が変わってきて。
私がそれを、見えない誰かを追っていると自覚した瞬間。
二人同時に、失恋。
「私は、何も出来なくて……。だから、あなたが羨ましいな」
梨穂子の顔は涙でくしゃくしゃだった。それを拭ってやることが出来なかった私は、今もそれができないでいる。
私は自分が大人だとは思わないが、ただ、子供に戻りたいと思う。
「あの頃、なんにも考えてなかった。あなたのことが好きで、恥ずかしくて、それだけしかなかったもの。告白って言葉すら浮かんでこなかったの。言葉に出来ない感情ばっかりで心がいっぱいで、アレがしたいっていうのすら浮かんで来なかった」
「そんなんだからあなたにバレちゃうし、あなたの好意にも気付かないんだよね。
――そうしてる内に、段々あなたは足が早くなってた。待ってることしか出来なくて、でもそれは悔しくなかったんだけど……
「今でも覚えてる。中学校二年生の冬頃、図書館からの帰り道の3階廊下で、隣には友達が一人いて。グラウンドの、走ってるあなたの横顔を見た時、『あ、もういいや』って覚めちゃった。自分勝手で……もう、自分が嫌いで」
――。
泣き声、しゃくり上げる音だけが夜空に響く。
口を開くと、しょっぱくて、喋れなかった。
私はこの時、梨穂子と本当の幼馴染みに戻れた気がした。
テレビの中で歌って踊る梨穂子を、ニコニコと、笑顔で見ていられる。
『沢山踊るので沢山食べられるんです〜』と喋る梨穂子を、苦笑しながら見ていられる。
桜井リホを見るときの感情が単純化された印象だ。
モヤモヤだとか、複雑な感情だとかを土に流してしまったからだろう。私はそれがいいことだとは思わない。
「へー、私は、桜井さんの代わりだったんだ?」
良かったことと言えば、絢辻さんが少しだけ、その、挑戦的になってくれたくらいで。うん。
惚気と名のついた逃げは辞めよう。
私は後悔していた。
梨穂子の隣にいたらどうなったかなど気にすることはあったし、やはり寂しかった。電話を掛ける一歩手前まで、機械を操作したことすらある。黒電話の奥、いつまでも《純一ちゃん》と話す梨穂子のお母さんと口喧嘩した事も。
今ではそれもない。特別枠だった梨穂子が、絢辻さんの下位互換へと成り下がったから。
それは決して気持ちの良いことではない。唾棄すべきこと。
しかしそれでよかったと思えた。
子供っぽい、ともう一人の私が絢辻さんと一緒になって馬鹿にする。
しかし私はそんな自分のことが、案外、気に入っている。
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If.棚町薫がその手帳を開くとき
「ねぇ……絢辻さん?」
「何かしら」
彼女は、いつもの気色悪い笑顔の下から、獲物を狙うような、あるいは恐慌に陥った猫のような、ひょっとすると狂人のような視線を投げてきた。
――やるじゃん。
私は彼女、絢辻詞のその部分こそ、受け入れられた。普段はなんというか、ファミレスにいる自分を鏡で見ているようで近寄り難い雰囲気があって近寄れなかったけど。いいじゃん。そう思ったから。
親友の、占い師の助言によれば今日は運勢が最悪で最高らしい。自分らしい結果だな、と大笑いして、机ぶっ叩いて、その助言の主のお昼をひっくり返しちゃったけど――もちろん、食べられる部分も多く残っていた――。
いいじゃん。最悪で最高、矛盾上等だ。
「ハイ、これ。そんな必死になるくらい大事なものなら落とさないようもっときなさいよねー。ひょっとして、絢辻さんって意外とドジ?」
見たの? とだけ聞く彼女。先程手帳で確認した通りの性格だとすると、この後はどうなることやら。さて。どうやって答えようかな?
「見たの?」
もう一度、ハッキリ聞いてくる。ああ、もう。どんな気持ちであれ、こんな風に真っ直ぐと目を見つめられると……。
思わず目線を逸らした。
「ちょ、ちょこーっとだけね」
そう……。
ため息を付くように言って、黙ってしまった。ちょっとちょっとちょっと。
だけど、なんかヤバめな雰囲気。
「痛っ――!?」
へぇ、やるじゃん。
絢辻さんは荒々しく肩を掴んできた。今にも泣き出しそうな、目を逸らしたくなるほど怒った顔で詰問する。
「……どこまで見たの」
「えーと」
多分、この時の言葉選びによって、今後の色々が左右されることは馬鹿でも分かった。ルート分岐、ってやつ? 分かんないけど、友人に言わせればそんなもん。
「ここまで〜、なんちゃって。えへへ……」
「ふざけないで」
真っ直ぐ見詰められる。嘘がつけなくなった。
これは昔からの
まあ、でも。そういう場合は、基本嘘をつく気がない時なんだけど。
今もそう。
「見たわよ。絢辻さんが心配してるとこ……ガッツリ見ちゃったわよ」
「そう……」
映画の悪役みたいに笑った絢辻さんは、肩から手を離して、興味を失くした子供のように、帰宅の用意をしつつ、注文をつけてきた。
「棚町さん、この後暇かしら」
「あー、この後ファミレスでおじさんにハンバーグ配達しなきゃなんないのよ」
「そう? ――今日はバイトが無い日のはずだけど」
……!?
声を出さなかった自分を褒めて欲しい。いや、出なかったが正しいか。
ううん、どっちにせ、棚町薫は無音、凪薫だった。
「なんでアンタが……!」
「クラスでの会話を聞いてれば何曜日が休みかぐらい分かるわよ。今日は平日だし、金曜日でもないから急なシフトもないだろうし。混み具合次第で呼ばれそうなものだけど、棚町さんはさっきまで私と水泳の補習を受けてたものね?」
体育の時、きちんと泳げば良かった。
この時ほどそう思ったことは無い。自分史に残る嘆願だ。ん? 願いじゃないか? まあいいや。
水に漬けると予想以上に膨らんでモップのようになるこの髪が怨めしい。
「よく分かってんじゃない……」
「じゃあ、ちょっと付き合ってくれるわよね?」
「仕方ないわね」
こうして、棚町薫は絢辻詞に連行されてしまった。
委員長の中の委員長。崖の上に咲いた花。
それの毒牙にかかった棚町薫の姿を、その後見た者はいない……。
「ちょっと」
「何失礼なエピローグつけてくれてんのよ、私をなんだと思ってるの?」
続きません
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If.素敵な縁
pixivとのマルチ投稿
絢辻詞(あやつじ つかさ)には姉がいる。
私、絢辻詞には姉が一人いる。名前は絢辻縁(あやつじ ゆかり)。
とぼけた顔をして、『つかさちゃん』とわたしを呼ぶ。冷えきった家庭の中で、姉だけが私を構う。
どんな考えがあるのかは知らないけれど、きっとロクなことじゃない。あの人の事だから。そう思える程度には、わたしは姉を信用していた。
「うう……へいきっ!」
だからわたしは頼らない。なんといってもわたしは子供だから転ぶことはあるけど……絶対に頼らない。姉の伸ばした手なんか、握らない。頼るもんか。
そんな姉、いらない。いらない。いらない。
だから、頼らない。
コケたって、地を這いつくばったって、自分一人の力で起き上がる。わたしにはその力があるし、だから、わざわざ不快な助力は必要ない。
絢辻詞は一番じゃなかった。
小学校二年生の頃、百点を取って周りに自慢した時思い知ったから。過剰な畏怖と尊敬は自分の堕落にも繋がるし、やり過ぎると敵視されることもあるって理解したから。
その時は上手く立ち回って問題解決だったけど、中学生の今、そしてこれから先、そう上手くいくはずがないことは知っている。絢辻詞は一番じゃない。自分の力は知っているし、可能不可能の別もある。
だから狙い目は、三位~五位。たまに二位。一位は取らない、無用な争いの元。
他人に認められることに固執する自分が異常だという自負はあるけど、これも社会勉強の一貫だと考えている部分もある。
一番を取らないよう、力をセーブ。
体育では元から一番は狙えない。身体能力が高い訳じゃない。学年で、上から数えた方が早い位置にはいると思うけど。普段から馬鹿みたいに汗を流す人種と比べたらやはり差が出る。活躍することはいくらでも出来るけど。
音楽、美術、家庭科に関しても同様に。全力を出して、学年トップ十に入るか入らないか、それくらい。
私の手の届く範囲は以外に狭く、一位が取れるのは国数社理英の五教科くらい。それも一位は取らない。
私はそうやって生きていく。周囲を騙して、仮面を被って、のらりくらり。
罪悪感なんてない。だって、私は自分の力を出してる。出し切ってはないけど、その分クラスメイトの背中を押している。
十分私の実力だ。だって、わたしは偽りの力なんて使ってない。よく言う親の七光りとかとは違う、正真正銘わたしの力。
そうでしょう?
だから、そういう意味で、絢辻詞は一番じゃない。
最近、つかれちゃったかな?
私、絢辻詞はそう布団の中で一人ごちた。
まさか、委員の掛け持ち程度でこのわたしが倒れるだなんて。そこまで大袈裟に言わなくてもいいけど、やっぱりそんなつもりで対応した方が良さそう。創設祭が中止になっちゃうのは嫌だし。
思えば最近、自分の体を労わっていなかった。体調管理ができないなんて棚町薫以下だ。
広い部屋に、ため息が響いた。
ダメだ。部屋にいて、この屋根の下にいて、まともに休める気がしない。今日は
「おかえりー! つかさちゃん、いるー?」
全く、頭が痛む。後から聞こえて来たのは噂の彼氏の声か。あの人を好きになって付き合う――それもそれなりの長期間――くらいだから、相当な人なんだろう。
はあ。
ため息一つで幸福が逃げるらしいけど、姉は逃げないらしく、部屋の扉がノックされた。
「つかさちゃーん? 入るよー?」
居留守を使ってもずかずかと部屋に入ってくるというのは流石に無礼だ。私は攻めて姉の彼氏とやらを見定めるべく、上半身を起こした。
扉を開けたアホ面の後ろにいるのは一見普通の男だ。常時ニコニコしている訳でも、眉間にシワを寄せている理由でもなかった。
男は『失礼』と軽く会釈して、部屋に入ってきた。え、いや。アンタも入るんかい。
手にしたビニール袋を机の上に置いて、
「お大事に……これ、ここ置いとくから」
語尾にしばし迷った無表情男を見やる。普通の好青年、という感じ。大学生によく見るうわついた感じもない。
「橘純一です。縁さんとは同じ学校で」
「あ、どうも。絢辻詞です。この人の妹です」
聞いてもいない自己紹介を返した。わたしとしたことが、熱で少しぼーっとしてた。
「あれ? 今誰か私を呼んだ? 縁さんって」
「僕ですよ。ここは絢辻家じゃあないですか。ほら、もう行きましょう」
「あ、待って〜。もう少しだけ……」
高い温度の頬に手を当てて額どうしを擦り合わせていた姉は振り返った拍子に、首根っこを掴まれる。そのまま文字通り、引き摺られて部屋を出ていった。残ったのは体温計を脇に指したわたしだけ。
なんというか、橘純一が姉の彼氏たる所以を垣間見た気がする。
「少し熱は下がったかしら」
『私が言うのも恥ずかしいことなんだけど、あんまり、無理しないでね? ホームルームの時間とかで、他に人員を募ったりして……』
ふざけるなー!
なんで私がこんな無能教師に諭されなければならないの!
ああ、もう、思い出しただけで腹が立つわ! そんなこと、こっちが考慮してないわけないじゃないの! そこらのバカと一緒にしないで!
「つかさちゃん、大丈夫?」
「大丈夫。今日は早く寝るから、悪いけれど出ていってくれる?」
……ふう。
怒りで熱がぶり返しそうだ。さっさとこの邪魔なのを追い出して……。宣言通り、早めに寝よう。
「いやー。私、まだつかさちゃんとお喋りしたいもん」
「……勝手にどうぞ」
そんなの、反則だから。この人がとても嫌い。
視界が壁にかかった計画表から天井へと移り変わり、やがてシャッターを閉めるように暗黒が覆った。
「で? なにか話すことがあるんでしょう」
「うん、その……昨日の事なんだけど」
このアホと争っても疲れるだけ……。
そう思って話を続けた私が考えなければならないのは彼、橘純一の事らしい。姉が恋人を作るとは驚きで、自分としても聞いてみたいと思っていたところだ。
姉は一人で生きている人だからだ。いや、集団の中で《良い孤立》をしていると言えばいいか。それは姉が勝てる勝負しかしない性格だからで、それ故に常に一番だし、常に一人だ。
……ん、少し違うかな。説明が難しい。何せ、掴み所のない人なのだ。
「どうかな? つかさちゃんから見ていい人に見える?」
「良いんじゃない。知らないけど。お姉ちゃんも、いい人だから付き合ったんでしょ」
この人は、私の姉絢辻縁は思慮深い。案外。
行動にはなんの意味もなく、二重三重の意味がある。予測不可能。
それがわたしの姉、絢辻縁だ。皮肉な名前。
彼女のすることは――奇行を除けば――なにか深い意味が……。
「んー? んーん、全っ然! 授業中ね、暇だったから購買に行ったら、彼が座ってたから、お付き合いお願いしたんだー。だから、人柄とか最初は全然知らなかったの」
……。
しね!
「へー、そう……」
「うん。でも、まあ、結構面白い子かもね」
橘純一さんも可哀想に。こんな人に捕まって。もう一生身動きとれず飼われ続けるだろう。それがいい事なのか悪いことなのか分からないけど、少なくとも、わたしはその場に居たくないなと思った。真綿で縛られた人を見る趣味はない。
「ねえ、つかさちゃん」
「私――いいのかな? 恋人なんて作っちゃって。まだ全然、信じられなくて……」
閉じた目に涙が溜まる。なぜだかは分からないが、それは人生で一番大切な涙な気がした。
暗闇の世界には何も映らない希望も、すぐ近くで輝く光も。見えないし、見たくない。
たとえ、姉が昔から変わらずわたしを見つめていたとしても、姉の事は好きになれないし、姉の真意は恐らくわたしの望むものではない。
涙を止めようとはしない。
わたしだって人間だ。涙くらい出る。それに、この部屋ならいいって決めたから。
姉の前だが……壁側に向かうよう寝返りを打てばいいだけだ。ある程度喋ったら出ていくだろう。
「いいんじゃない」
「そっか」
姉は何に納得したのか、短く返事をした。
そっか。
もう一度だけ部屋に声を響かせ、クッションを膨らませる。つまり、立ち上がったということ。
そろそろ出ていってくれるんだろうか?
「つかさちゃん」
まるで捨て台詞を吐くかのように名前を呼ばれる。若干声の震えた、たまに聞く弱気な姉の声だった。
「お姉ちゃんと一緒のお布団で寝ない?」
「早く出ていって」
誰が寝るか。
相変わらずこの人は、何を企んでいるのか。弱った演技もお手の物、ということか。寝る時くらい一人でいたい。
「ごめんね……じゃあ、おやすみ」
案の定だった。
今年もクリスマスがやってくる。
思えば、なんで子供の頃に私はクリスマスにああも拘っていたのだろう。
まあ、いいか。
十代の頃に拘っていたクリスマスの休日も今や働き詰め。ある日、休む意味を亡くしてから効率を重視し始めたのだ。
働き詰めと言ったって私が自分を蔑ろにしている訳では無い。趣味には金を惜しまない。私は充分私を可愛がっていた。で、今も仕事終わりだし。
一般的に見れば私はまだまだ若い。私が自分の年齢を明かした時、十回中十回、驚かれる。姉は年齢相応に見られるけども。ふふふふふふ……。
「つかさちゃんつかさちゃん」
「どうしたの?」
だけど……。絢辻詞は考えてしまう。
姪――現在9歳。姉は二十八の時子供を産んだ――と戯れている時にほんの少しだけ燻るこの感情は、私が見えぬ形で病んでいるからなのだろうか。
そのように……少しだけ考える。
ま、そんなわけはないけど。私はそう、少し……家族に執着というか、言うのが恥ずかしいくらいのしこりがあるだけだ。
私が20歳の時に姉と仲直り――向こうがどう思ったかは知らない――してから、私は結構愛情深くて。ただ、それだけだ。勿論両親とは仲直りする気も起きないけども。
そもそも、私ももう三十三。そこまで元気もない。
「お父さんがね、またお茶しましょうって」
「そっか。伝えてくれてありがとう」
「どういたしまして!
――そう言えば、つかさちゃんはお父さんと不倫してるの?」
……。
姉夫婦のことをよく知っている私も三十を過ぎて三年。このくらいで驚かない。
いや、無理。
どうやったら9歳の子供の日常会話に不倫の二文字が入るのか。姉夫婦は――いや、姉はいったい何をこの子に教えたんだ。
「ねえ、あたしのお父さん、優しかった?」
純粋な知的好奇心に動く絢辻 紬(あやつじ つむぎ)に他意はない。故に、私はチョップを繰り出した。
つむぎちゃんは嬉しそうに叩かれる。きゃー、とか言って。なんだこの子。
「ねぇ、もっと」
「アンタ、いつか悪い男に騙されるんじゃない?」
「大丈夫!」
どこにそんな自信があるのか聞いてみたいものだ。いや、しかし。
彼女の母親が母親だ。私の抱く小さな体に余る自信は、実は当然に持つべきものなのかも知れない。
「不倫なんてしてないよ。姉にも申し訳ないし」
「じゃあ、お母さんと不倫してる?」
「まさかぁ。あのね、不倫っていうのは……好きなだけじゃダメなんだよ?」
――でも、お母さんはしたいって言ってたよ。
子育てを経た姉が更におかしな方向に走っていることを知っていた私はその言葉を疑わなかった。どこまでが本気なのかは分からないが、少なくとも込められた愛情だけは本物なのだろう。それを信じられるくらいには私も成長していた。だからといってどうということはないのだけれど。
「知ってるよ」
「じゃあ、今度お母さんに私もって伝えといてくれるかな?」
「うん! 伝えとく!」
勿論、姉とそういうことがしたい訳じゃない。ないったらない。できるとしてキスまで……って何を言ってんだ私は。
ただ、ずっと無視してきた姉の愛に答えたいというだけだ。
それだけだ。
「――つかさちゃんは彼氏とかいたりするの?」
「うん? 彼氏、か……考えたこともなかった」
現代的な言い方をすれば、彼ピッピ。
私が高校生の頃はまだ携帯電話も一般的でなかったのに……。最近になって、ことある事に時の流れというものを感じるのは、第二次激動の時代、私の歳だけが原因ではないはずだ。
「うん、お察しの通り。後にも先にも、男の影は要らないかな」
「えー。絶対モテるのに。つかさちゃん、二十代のふりして合コンとかいけば?」
「男だけが幸せじゃないの」
「知ってるけど……う″う″う″……。ま、いいか。つかさちゃんには私がいるもんねー!」
つむぎちゃんは満面の笑顔で、私に抱きついてくれた。頬に可愛い唇の感触。聞けば、姉と日常的に頬を刺激しあっているのだとか。
全く、どちらにどう思えばいいのだか。
返礼として愛情を注ぎつつ、思った。
「そうね。つむぎちゃんがいてくれれば寂しくないな、私」
姉にとっての一番は、私でなくなったから。
元、絢辻姉妹√です。原型ないですが。
娘辻さんの名前候補
紬
奏(詞の子)
雫
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橘純一の喪失
思いついたのは彼岸の頃ですので死ネタです。時期設定もその頃
pixivとのマルチ投稿。本当は絢辻×棚町に成るつもりだったんです。もっと濃厚な。
「つかさちゃん、もう帰ろう?」
嫌だった。
もう少し、もう少し
彼岸の頃、私は一つの墓の前に立ち続ける。姉の制止も聞かずに。
ピカピカに磨かれたお墓、いつ来ても綺麗な花。恐らく彼の幼馴染みが来ているのだろう。三日と開けず会いに来る私でさえ、落ち葉を拾うくらいしか掃除というものをしたことがない。家が近いからって、毎朝通っているんだろうか。
――桜井梨穂子。《彼》が死んで、一番に泣いたのは彼女だった。一番に心を崩して、立ち直るまで時間がかかったのも。
その日は
例えば、坂の勾配とか。例えば、トラックの、積荷の超過とか。例えば、トラックの過剰速度とか。例えば……そう、
原因は色々あった。色々あったからこその事件で、色々あったからこそ私の心の中にすとんと落ちるものがあった。
――
私は彼の死を二……いや、五……三十秒で理解した。
しかし、彼の妹含む彼の家族や彼の友人達――特に彼を好きだった女の子とか――はそうではなく。私と彼の妹は随分と責められた。と言っても、私達に取ってそれは理不尽でもなんでもないものだから、ただただ平謝りするしかなかった。
「ぐんもー」
「奇遇ね。おはよう、棚町さん」
長らく拝んでいたからだろうか、背後から投げられた声にビックリしつつ言葉を返す。ポーカーフェイスは学生時代からの得意技だ。
振り返ると、そこに居るのは予想通りの人物だった。
棚町薫。
「掃除しといてくれたの?」
「残念ながら、今日も掃除は先を越されたわ」
「でしょうねぇ……。なんたって、いつ来ても落ち葉一つ無い上に花だって毎日違う、豪華でピンピンしてんだもんね」
「仕事の方も忙しいはずなのに、ご苦労なことだわ」
墓掃除、と言うのは大事な仕事だ。なのに私はただの一度も
「はは、さすがに向こうに行っちゃってる時は私に頼んでくれるんだけどね」
目の前の棚町薫ですら何度も掃除をしてことがあるというのにだ。私だけが。五年も。
私は彼の恋人なのに。
同棲までしていたのに。
「ということは、まだ許してくれてないのね」
「……みたい?」
今にも『やべっ』とでも言いそうな失言顔で、両の視線を左に逸らす。聞かずとも、棚町薫の表情を見れば答えは分かる。
「残念」
「少しも残念そうじゃないけど?」
「桜井さん、あまりお話したことないから仕方ないわ」
桜井梨穂子。
つまり仲が悪い。
無論、謝る気はない。どうして私が。
更にいえば。
今更、仲直りをする気もない。どうでもいいのだ。
謝った所で、彼はいないし。
彼女の存在が、目標も消えてしまった私の生活を脅かすわけでもなく。
ならば愛想をしてやるつもりもない。
だから、どうでもいい。
「あ、そう」
「じゃあ、私はこれで失礼するわね」
気を利かせた姉が早々に車へ避難している。でも、話すことなんてない。どころか、私と
軽く手を振って踵を返す私に、棚町薫は最後の声を投げかける。
「今年も行くんでしょ? 創設祭」
「もちろん」
既にこだわりはないけれど、習慣だ。
空っぽになった私が唯一続けている習慣らしきもの。
どうしようもないものを抱えた、どうしようもない女に残った無機質。
それすら実際はどうでもいい。
改善しかけた姉との関係。積み上げた学歴、彼との思い出。
全てを捨てたいと思いつつも抱きしめたままに、死んだように生きている。
ピロリン。親からの最後の贈り物である携帯電話にメールが届く。
棚町薫だ。
内容は、
そう思って携帯電話を開く。from:棚町薫、to:絢辻詞
subject:朝言い忘れたんだけど……
body:今日飲みに行かない?? 返信ください
飲みの誘いだった。こういう誘いは断ることが多い(というか、基本断る)。彼が死んで、同窓会にも出席しなくなった。
そんなものだから、普段は宅飲み。彼のいなくなったアパートには以前よりも多くの酒瓶が飾られている。
面倒だ。しかし……まあ、飲む。 という話なら、いいか。たまには店で飲むのも悪くは無い。そういった心境だ。
なら、それまで――
「ちょっと寝よう……」
ゴトン、と。
選びに選んだ枕に頭を落とす。横向き、肘鉄、うつ伏せ、仰向け。どの体勢だろうと首が辛くならない優れものだ。
――と、
思い出した。
「返信、しなきゃ……」
思い出したが、体が動かない。だるいんじゃない、いや、だるいけど。そうじゃなくて、金縛り。
たまに、白昼夢のような金縛りに襲われることがある。今がまさにそれで、原因らしい原因はやはりというべきなのか
震える指を伸ばし、どうにか携帯を開く。開いた振動で取り落としてしまった。カタン――。響いた音が耳を打つ。フローリングの床に厚い長方形の重なりが転がって独楽のように一回転。私はそれを目で追うだけだ。今、背後から襲われたとして何も抵抗できない。
やがて、体は動きはじめる。返信、打たないと。
携帯電話を拾う。ポチ、ポチ、ポチ。
flom:絢辻詞、to:棚町薫
subject:Re:朝言い忘れたんだけど……
body:今日は休みだし、今からでもOK
送信して、外を見れば、もう夕方に差し掛かっている。今日の記憶はないのだけど。お墓に行って、それだけ。時計を見ると、四時半という所。……まあいいか。
この時間なら量飲んだとしても明日に響かないだろう。
携帯電話の画面には手紙の絵に書かれた送信完了の文字が旋風の表現に乗って羽を広げている。多分、今から準備した方がいい。
化粧……はいいか、面倒だ。アクセサリーもやめておこう、臭いが移りそうだ。服も……このまま――薄手の桃色の長袖Tシャツと素っ気ないジーパン――でいいだろう。髪は寝癖を整える程度でいい。腕時計は流石に持っていこうか。そうだ、ジーパンが大きめなのでベルトを締めないと。すぐ緩められるよう、簡単なバックルタイプの物で……。後は財布を持って、携帯電話を持って、家の鍵を持って。これだけだろうか。いや。バッグを持っていこう。鍵は掛けていくが、もしもの時のためカードなどを常に持ち歩く習慣が私にはある。
――準備完了。
携帯電話を見る。着信履歴、あり。それも返信の二分後。音で分かってはいたが、どれだけ早いんだ。
内容は『やっぱりそっち行くわ。もちろん、泊まりで』。
巫山戯るなといいたいが、まあ、宅飲みとお泊まりに関しては歓迎してやってもいいし、細かく詰めずウキウキと用意していたのはこちらだから、仕方ない。特にいうべき事でもないか。
『買い物よろしく』と送り返し、一息つく。ベルトを外し、時計を外し、財布と鍵を入れ込んだバッグを放り投げる。
再び倒れ込む。後は棚町薫を待つだけ。彼女の家から私のアパートまで、そうかからない。二人とも輝日東からそう遠くない場所に住んでいる――流石に、同じ町内ということは無いが――。
私は家を出る――大学に入る――際に市町村を跨ぎたい程だったが、それは姉によって止められてしまい、そこまで遠くない――家から車で一時間程の――場所にアパートを借りて、それに付いてくる形で――付いてきてとお願いする形で、もちろんそれは意訳だが、とにかくそんな格好で――彼と住み始めた。
棚町薫はとにかく家を出たかっただけのようで、美大(寮)を出て画家となってからは輝日東近くを転々と――それだけの人気がある――していた。イラストレーター、と言うらしい。パソコンがあれば工房がなくとも良い時代、転居は楽チンだ。――余談だが、漫画の連載もしているとか。読んだことはない。本人曰く、『あっちをちょこちょこ、こっちをちょこちょこ』とのこと。
棚町薫の今の家――本人は当分落ち着くつもりは無いらしくボロアパートだが――はここから車で十分ほどの距離だ。棚町薫とは定期的に飲み会を開くが、彼女は毎回毎回――そりゃ居酒屋とかの日もあるが、基本は宅飲み――よく遠征するんだと思う。車など、仕事だけで十分だ。
と、言うわけで、棚町薫が家に来るまで十分ちょいってとこか。本人曰く『そこそこの絵師』は普段家で仕事しているから、出先というのも考えにくい。(もちろん、可能性が低いというだけだが)
それまで部屋を片付ける――いや、面倒だ。どうせ十分、なにもしないでいよう。
酒も入れることだし、少しの間体を横にして、休めていよう。
鍵は閉めているから、寝ないようにしないと。
ぐう。
ピン、ポーンと高らかに響くチャイムの音で意識が浮上した。頭の中が八割方寝ていたらしい。良くやったぞ、二割の私。
「痛っ」
腕が痺れて、机の足にぶつけてしまった。そりゃ十分とはいえ腕を枕にしていたから痺れる。このような些細な所からも加齢などの心配が出てくるから歳をとるのは嫌だ。後二十歳年をとっていたら、と思ってしまう。90くらいだと割と本気で危ないだろう。
と、そんなではない。棚町薫だ。寝起きに飲みかぁ。嫌だな。
近くにあったジャーキーを齧りつつ玄関の扉を開ける。
「ぐーてんたーく」
「こんばんは。取り敢えず、入って」
闇取引ではないが、立ち話もなんだから、というアレである。来客に酒を出す、ではないけれども。やっぱり立ってるのはつかれる。
「はいはい、勝手知ったるアパートだもんねー」
だなんてほざきつつ、棚町薫は我が家へ上がり込む。居間に入って、立ち止まる。私は無視して中央に置かれたローテーブルの前に座った。棚町薫から酒瓶の詰まった袋――手提げ袋――を奪い取って机の上に開けた。
「だっさいわね。セロハンテープくらい綺麗に剥がせないの?」
「面倒よ」
箱を乱雑に開ける私に棚町薫は小言を漏らすが、一言で切って捨てる。
棚町薫は、はぁ、とため息を漏らした。なんだか、私が悪いことをしたような雰囲気だ。棚町薫の欠点はこれである。彼が死んで、神経質に、重箱の隅を錐でつつくように、私の行動にケチをつける。私はそれに大体面倒の一言で反論するわけだけれども、その度ため息だ。まるで思春期の子供を持て余すように。こんなことは言うのもはばかられるが、私はわざわざ彼女の為時間を割いているのだからそんなに細かい事を気にしないで欲しい。夏の夜はタダでさえ暑いが飲んだら脱ぎたくなるほど暑いのだ、冬は昼から飲むほど寒いのだ。健康診断なんて気にするものじゃない。
……さすがに暴論がすぎるが、とにかく、ここが私の家ということを考えても、私の主張は明らかに正しい。
ので、どうやら彼女は
と、棚町薫は歩みを止めている。居間の入口で、真っ直ぐ突き当たりのドアを見つめているのだ。
その隣にあるのは私の部屋で、故人よりは生きているものに関心を向けてほしいが、まあ、仕方ない。葬式の事、私が桜井梨穂子に恨み節を聞かされる中彼女は一度も喋らなかった。受け止め方の違いというやつだ。桜井梨穂子は早々に立ち上がって、ファンの待つステージに上がっていった。棚町薫はそうじゃない。立ち上がる、立ち上がらないの二元論じゃないということ。
棚町薫は真摯に、情熱を持って見つめている。その目は冷たい氷の燃えている音を響かせ、私の鼓膜を確かに揺らしている。妊娠なんて騒ぎではない様な視線を一身に浴びる木の板は若干汗をかいたように見えない。熱烈に、強烈に、鮮烈に。棚町薫は見つめる。
この後の展開は予想できた。
「アンタ、まだ片付けてないの」
泣きながら。
残念ながら、一連の予言は当たったようだ。
「掃除はしてるわ」
別にいいだろう。ちょっと片付けが面倒くさいだけだ。
「座らないの?」
「……」
強めの口調で呼びかけ、ようやく棚町薫はドアを閉じて体面に座る。瓶を一本二本と並べ、これはなにそれはなにと買ってきたものの説明を始める。よかった、いつもの飲み仲間に戻ったようだ。
そう思って、私は冷蔵庫から出してきたビールの栓を二つ開ける。
何回目か分からない『乾杯』。何かを祝っているわけではないのに。
クッと煽ると、十分に冷えたビールの旨味とノドゴシが体いっぱいに広がる。炭酸が舌を刺激して、プツプツとした変な感覚。
ビールを飲んだ時のこの味わいが、私は好きだった。ク、クー。クー。と、
「おかわり!」
「相変わらずいい飲みっぷりで……」
我ながら印象が真逆だとは思うが、私はよく飲み棚町薫はあまり飲まない。その代わり棚町薫は種類を制覇したがる。コップに移したものくらいなら私が
「そりゃ、日々頑張って生きてますから」
「ちょっと、アタシが適当に生きてるみたいじゃない」
カシュッ。だべりつつも、棚町薫は次々に缶を開けていく。残りを私が飲む。私の缶は遅々としてなくならない。基本的に私たちの飲みはこんな感じだ。
棚町薫にはペースというものがない。いや、彼女は刹那的な生き方をしているから、意図的に考えないようにしているんだろう。画家――現代的に言うなら、イラストレーターとか絵師とかだろうか――
――。
ほら、今も勝手知ったるとばかりに台所からくすねてきたオープナーでボトルの栓を抜いている。グラスまで用意しているのだ。まあ、私の分もあるのなら文句はない。
どうやら
時代を感じる旨み。血の匂いが口に広がる。
――十回忌……か。
結局、
「でも、あんたも変わったよね。アレから」
「アレっていつのことよ」
ちょっと心当たりが多い。
「
「そうかもしれないわ」
知らず、スプーンを弄っていたらしい。指
赤い液体が舌の上を踊る。血袋を味わった鋼鉄の気持ちになる――。
――なんて、今なら格好つけて言える。だけど、当時はそれらが全て簡潔に、『私が殺した』。それに集約されて、支配されてもいた。言い換えると、頭の中の全てのことが
『酔っていたからだ』――誕生日会の企画は私だ。
『まさかそこまで前後不覚なんて』――酒の恐ろしさは、飲む量から考えて
『
最初の一ヶ月ほど、私は何もせず過ごした。やったことといえば布団を強いて寝転がったとか、掛け布団を被った・蹴り飛ばしたくらいだ。日がな一日中、月かな一月中、布団に寝転がってボーっとしていた。眠ってるか起きてるかなんて分からなかったし、分かろうとも思わなかった。
三食きちんと食べられたのは姉――
熟成された愛する人の血の鉄の葡萄の味に舌鼓を打ちつつ、在りし日に想いを馳せる。日が日だからか良いモノを仕入れてくれたらしい。
最初の一月はそんな感じで、姉の助けを借りてどうにかこうにか生き物をやっていた私は、次の一月で完全に復活、もしくは悪化することになる。吹っ切れて、頑張ったのだ。就活もあったし、滞納していた諸々の経済、止まっていた――もしかしたら姉が払っていて、通っていたかもしれない――電気・ガス・水道、家の掃除。彼に寄りかかって生きていた私は自立の必要があった。目につく問題には全力で取り組んだ。
そんな生活が一ヶ月。あえなく私の決意はポッキリ折れた。依存でもいい、弱くてもいい、そんな事を気付かされたのは高校の時だが、それを理由に
燃え尽きて、普通の人間をやっていた期間が四年と10月。そんな生活にも慣れた頃からは高校生の私が憑依したのかと思うほど、私の中身は若々しさを見せていた。計画を立て、可能不可能を見切り、目標をひたすらに最短で、最速で、最緻に追う。休みすらも計算の内だ。自分を分析して、頑張り続けることの出来る年齢でもなくなってきたという
そんな状態で迎えたのが――5年前のあの日――特に何も無かった日――全てが終わり、始まった日。何となく思うところがあった。それだけである。
そんなこんなで今のようになってしまった。
人間関係面倒、立つのもしんどい、何か動くことが面倒。
全てが億劫。
朝起きて、最低限の化粧を施した九割すっぴん顔で出勤、仕事もヤル気なく程々に進めるので解雇も昇進もなく、帰ったらすぐ風呂に入って布団を敷いて市販の既製品を食べて寝る毎日。当然肌ケアなどしない。髪はボサボサ、肌は荒れ放題。休日となれば一日何もしない日々。最低限家の事を済ませ、後は座って飲み物など飲む老人のような生活。テレビは付けていたり付けていなかったり、聞いていたり聞いていなかったり。笑っていたり笑っていなかったり。休みであれば、朝から飲む日もある。
趣味もない、楽しみもない、悲しみもない。涙だけはいつの間にか流れることがあるけど、それもよく分からない。
まるで植物、どうしようもない私が、死なないから生きている。心臓が止まらないので止めていない、と言った方が正しいかもしれない。
そんな状態が今。確かに、激動の人生を送っている。それよりももっと前に記憶を遡っても、そうだ。
「当たり前の事じゃない?
彼は恋人だったのよ。環境が変われば人も変わって然るべし、ね」
「え?」
と、棚町薫は突然、素っ頓狂な声をあげる。高校生時代、やりたいことを探していた彼女と違い、私は出来ることがなくて、だからこそ頑張っていた。しかしそれももう無価値。遺されたのは生きているだけの私だ。
「あんた、それ、本気?」
「? 当然ね」
「そう……。ならいいわ」
何か考え込むように頭を抱えた棚町薫は、暫くすると突然切り替えて、何も無かったように飲みはじめた。何かの伏線かあるいは地雷を警戒したが、まあ、そんなことは無いらしい。これ、酔っ払いにはよくある事だ。会話にどこか《引っかかって》、酒精の波が引いたと同時に答えが出る。『何もおかしいこと無かった』。これは私も結構ある事なので、客観視できて良かった。元から人前で飲む方ではないが、更に飲まない理由が増えてしまった。
「そう言えばさ」
「なに」
既に結構酔っている――酒代が安くついて羨ましい――棚町薫は、チラリと顔をあげた私に、ズイと顔を近付ける。突然変な事をするのは10年前からか。彼の癖だ。彼といえば、突然キメ顔を作ってみたり、手を繋いでみたり、後ろから驚かしてみたり……全然縁もゆかりも無い流れで《ヘンな話題》を振ってきたことも数しれず。
棚町薫も、やはりどこかで彼の死の影響を受けているのだ。先程の話題が頭のどこかに《引っかかって》いた私は安堵を覚える。
「『つかさちゃん、私がいなくても一人で眠れる? 電話しようか?』」
「それは誰の真似かしら」
「さあ? 誰だか」
「ノーコメント」
答える必要は無い、という意味で。だって、姉なら――
そして、私がどんなに酔っていようと、どんなに一人な気分だろうと、どんなに姉の声が聞きたくなかろうと――どんなに姉を嫌おうと。姉は私に、話を聞きたいと思わせてしまう。昔はそれが怖かった。姉を見れば声が掛けたくなって、抱き締めたくなって。魔性の女、というよりもっと上の存在である姉を恐怖し、疎ましく思っていた。血を分けた姉妹にすら――だからこそかもしれないけど――、何かもどかしい感情を与える姉。うざったかった。消えて欲しかった。――同時に、そばにいて欲しかった。縋り付いて泣きたかった。一番嫌っていたのは、そんな矛盾を抱えた自分。
それも和解――というか、私の一人相撲だったわけだが、それも集結――し、今では私の携帯電話の履歴には『絢辻縁』しか見えなくなっていた。かつての時間を取り戻すように。
服を見に連れ出してくれ、キャンプに誘ってくれ、温泉旅行に連れられた。遊園地で二人揃って小学生になったこともある。いい思い出だ。
「ノーコメント」
今の私に確かなものが残っているとすれば、姉だろう。――高校生の私に同じことを聞けば、唯一確かでない。と言うだろうと。予想は簡単に出来た。
「……寝る!!!」
三つ、四つほど船を漕いでいるのを私が確認した所で、棚町薫を立ち上がった。時間は……ありゃ、結構夜遅い。まだ十分程だと思っていた。時計の流れは加速度的に早くなる。
「おやすみなさい」
と、挨拶も聞かず部屋の奥に引っ込んでしまう。私の部屋に勝手に上がり込みやがった。……まぁ、いいか。見られて困るものもない、まさか
今の私に
静かに酒を飲む。思えば、いつの間にかワイングラスではなくガラスの丸っこいコップを手にしている。入っているのは焼酎だ。いつの間に、手の中が入れ替わったのか。どうやら、随分酔っている。
この分だと、棚町薫の話も無視して飲み続けていたのだろう。そりゃ、飲むしかない。棚町薫は弱いのでどれだけペースを緩めていても二時間も飲めば自制できないほど眠くなる。悪い事をした。
トゥルルルルル
しかしその音は聞き逃さなかった。反射的に手を伸ばし、開き、ボタンを押す。姉から電話だ、と気づいたのは三回目の『もしもーし』だった。棚町薫におやすみを返したのもそんな感じでタイムラグがあったのかもしれない。
「もしもしぃ?」
『つかさちゃん、こんばんは〜。大好きなお姉ちゃんだよ〜?』
「うん」
『……つかさちゃん、結構酔ってる?』
どうやら相当酔っている。その証拠に、話し方まで違う感じだ。なんだか甘ったるい。頭もクラクラするし。明日も仕事、あるくせに。
「うん」
『だらしないなー。じゃあ、もう寝る?』
「……もうちょっと飲んで寝るわ」
『ダメ! 明日も仕事でしょ? それに、今一人?』
「うん」
『じゃあダメ』
姉は私が一人で飲むのを嫌がる。歯止めが効かなくて、自分の分がなくなってしまうからだ。ちょっと面白い話だったりする。
「……おやすみ…………」
『はい、おやすみ。ちゃんと玄関の鍵は閉めてね。窓もだよ』
「分かってる」
戸締りくらいできる。私が幾つだとおもっているのか。
はぁ。
寝よう。
電話を切り、ゴロンと寝転がる。
そして気付いた。
お風呂、入ってない。
まあ、いいだろう。墓参りくらいしか活動していない。アルコールが服に染みてくるのなら別だけど。
ぐぅ。
深夜五時くらいにトイレに起きたが、
「あー、頭痛っ……」
「だから何度も謝ってるじゃない、申し訳ございません」
翌日、玄関で分かれるときになっても棚町薫は未だフラフラと千鳥足のままだった。聞けば、やはり私は話も聞かずボーッと飲んでいたらしい。上の空ながらも返事だけはどうにか返していたのは助かったが。
そんなわけで飲みすぎだ。棚町薫は二日酔い、私は健康。昨日は
「だーからもういいわよいつもの事だし…………おっとと」
「ちょっと」
大丈夫――?
聞きそうになって、やめた。
フラっ、とよろめいた棚町薫は私の肩に掴まり、
「うん、大丈夫……」
と、不安なことを言う。明らかに大丈夫じゃないけども。足元はフラフラ、頭はグラグラ、目はゴロゴロと全身波打ったように揺れ動いている。こんな状態で、車に乗れば事故では済まない。しかし、私は今日から仕事。彼女を送った後出なければならない。外出中を任せられるほど棚町薫に信頼を置いている訳じゃない。帰ってもらおう、タクシーでもなんでも。
「車は後で取りに来ればいいから」
「うん……」
やはり飲みすぎたようだ。携帯電話を耳に押し当てながら、棚町薫は去ってゆく。バス停に向かうのだ。後はタクシーを拾うなりなんなりするだろう。流石に時刻表くらい読めるはず。
――。
さて、私も仕事だ。面倒くさいけども、行くからには休むことも遅れることもしたくない。
『――いやー、しっかし、飲ませてもらったわー』
「はいはい、ごめんなさいね?」
『いや、いいんだけど。それより、車取りに行くの日曜日でいい?』
仕事が終わると早速電話が掛かってきた。というか、仕事中だった。折り返す、と言ってしまった手前無視もできず。仕方なくこちらからかけた。
「日曜日? 別にいいけど――」
なぜ日曜日か?
聞こうと思ったが、止めておいた。早く切りたいからだ。次の日曜までくらい、車一台――小さな軽四くらい。どうってことないだろう。
『じゃ、そゆことで。また日曜ね』
「ええ。それじゃ」
ブツっ。ツーツーツー。
早めに切って、車のエンジンを入れる。尻から入れているのでバックの必要は無い。早く帰るためだ。
早く布団に入りたい。
ピンポーン。
呼び鈴がなる。今日は日曜だし、棚町薫かなと思って玄関まで歩いてゆく。鍵はあるんだから、勝手に乗って帰ればいいのに、律儀なことだ。
案の定、玄関の扉を開けた先に立っているのは、肩まで伸ばした天パー、ビシッと格好よく決めた服装、目いっぱいに開いたペンダコの目立つ指をピラピラ振っている。ペンネーム、焼きそばもじゃ子。
「おはモニ〜」
「おはよう」
見た目通りに軽く挨拶をしたその人物は、「さっそく行くわよ〜」と何だかよく分からないことを言った。車を取りに来たついでに、どこかに連れ出す気なのだろうか?
最近、特定の人と交流する頻度が多いかもしれないな、思いつつ、疲れる?
と聞いた。重要なのはそこだ。日曜日は休みだし、どうせ1日カーペットと服の毛玉を付け替えるくらいしかやることは無い。付き合ってもいい。
「どれくらい長引くかわかんないのよね。座りっぱだから、座布団とかあればいいかも」
「了解」
言って、家の奥に引っ込んだ。準備しなければ。言うほどではないけど。
まず、ボサっと広がっていた頭を整える。洗面器に湯を貯め、髪を漬ける。四つん這いに縮こまる形になりながら、手を動かして髪を濡れさせる。しばらく待つ。もういいかな、という所で顔をあげつつタオルで髪を包んでやる。パジャマが多少濡れるが、まあそれは仕方ない。
タオルで包んだまま、別の作業に取り掛かる。まずは服。適当な服をタンスから引っ張り出す。時期的にコートは遅れている。最近はまだまだ寒いので、少し厚手の服に羽織を持っておけば間違いは無いはずだ。ズボンは少し緩めのものにしよう。ベルトを巻けば問題ない。
次に持ち物。財布など諸々入った鞄、携帯電話。それくらいかな。化粧道具は…………。
私は全身鏡を見る。選んだズボン、ベルト、服を品定めするように合わせてみた。羽織ったバージョン、羽織ってないバージョン。
むむむ。
当たり前だが、肌というのは荒れる。何もしなければあっという間に砂漠のようになる。若さでは隠せない年齢になってきたというのもある。化粧をやめるとこうも顔が《落ちる》のか。
一応、していくことにした。そういうことなら、打ってつけの人物が車の傍で待っている。私は結局着替えることも無く玄関を出、棚町薫に化粧してくれと頼んだ。化粧をしなくなって久しい。
「えっ、もしかしてあんた、化粧のやり方忘れたの?」
「忘れてはないけど……自信はないわ。道具にすら手をつけてないんだもの」
はあ、とひとつため息が聞こえる。とりあえず中に入んなさい、と言われて、私はパジャマのままであることに気づいた。敷地内だし、別に構わない。
「タオルから髪が飛び出してるけど?」
「寝癖よ」
「へー、知らなかった。まさか絢辻さんも天パーだったなんて」
軽口を叩かれつつ、リビングで――部屋の奥から引っ張り出した――化粧道具を起き、化粧をしてもらう。そう言えばお姉ちゃん以外から化粧されるのは初めてだ。だいたい、外出の時やむおえず化粧する際はお姉ちゃんに任せていたから。
と、そんな事を考えている内に化粧が終わった。ナチュラルメイク――に見えるが、実際はかなり盛っている。シミ・シワ隠しが同年代の比じゃないだろうと自分でも思う。不摂生は覚悟の内。
さて。避けていたタオルを外し、ドライヤーを掛けて――ドライヤーが苦手なのでできるだけタオルで水分を取りたい――、着替え、そして持つものを持てば準備は完了。玄関の鍵を閉める。
先に車で待っていた棚町薫は私の姿を見て、『反則よねぇ』と呟いていた。でも、髪は手入れした方がいいと忠告した。今から美容院に行く時間はないとの事なので、その忠告を聞き届けるのはまだまだ先になりそうだ。
さて。ブルンブルンと車が走っている。
窓から景色を眺めていると、すぐにどこを走っているのかよく分からなくなった。遠出することがないのだ。
仕方なしに流れる対向車と街路樹を見ていると、だんだん、よく分からなくなってくる。
――私は、何故ここにいるか。
――私は、何故棚町薫の誘いに乗ったか。
当然、そんなもの、一時の気分が分析できるはずもない。はずもないのに、私の頭はどんどん疑問を投げかける。だんだんそれが根本的、哲学的になってくる。
――私は今、誰なのか。
――
――
――昔話のカメさんは、その後どうなったのか。
――このまま生きていていいのか。
――生きていて楽しいか。
分からない。分からない。分からない。どうでもいい。いいわけがない。そんなことはない。
一人でボーッとしていると、ついつい自問自答を繰り返す。運転席のスタイリッシュな彼女は、掛けた音楽に合わせて肩を揺すっている。少なくとも、私にとって今は《一人でぼーっとしている》らしい。
最終的な問はいつも同じ。私はなんでこんなこと考えているのか。そこで終わる。今回もそうで、ようやっと白昼夢から抜け出せた。現実に戻ってくる。
ちょっと寝てた。そんな感覚だ。
気付けば全く見た事がない――いや、よくよく知っている、それでいて知らない場所。テレビに度々登場する、巨大な建物だ。武道館。全音楽家の夢、ということくらいしか知らない。
ていうか、何時間走ったのだろう。
武道館の入り口には大量の人集りがある。列を作っていて、うねうねとうねり、後ろの方がダマになっているのだ。
人混みは嫌いだ。人の数が多いために、誰も何も気にしない。お互いに対して無関心すぎる。いつ誰が刃物で誰を刺すか分からない状況なのに、誰も彼もがみて見ぬ振りをしている。
それと、単純に歩きづらい。
「ほら、こっち」
鞄を持って車から出ると、流石に寒い。分からないことは上着を着、ドアを閉める。ピコっと車の鍵が閉まる音がして。棚町薫は私の手を引いて歩き出す。
手首だ。逃がさないぞ、と言われた気がした。べつに逃げたりしないけど。
棚町薫に手を引かれて巨大すぎる武道館周辺を回り込むように歩く。
それにしても、武道館。日本武道館か。なんだろう。
武道館といえば、やっぱり音楽関係が真っ先に思い浮かぶ。《武道》館なのに。
棚町薫は音楽が好きだ。特に広瀬香美とか、SPEEDやZARDといったアップテンポな曲が好きだ。クール系だとなおよし、らしい。ちょっと古めだよピンク・レディー。洋楽も聞いたりするんだとか。
他にも、アニメソングなんかもよく聞く、と言っていた。
兎に角、彼女と話していれば音楽の話が多いわけだ。車や家には常に音楽が流れているらしいし、やれどこそこのアニメの主題歌だ、やれ誰々のプロデュースするアイドルだ、とか。あんまりうるさいもんだから、いくつか曲を覚えた。
真冬のチョベリバ、囁きオパールなど。どこに行ってもおそらく使わない知識だ。
さて。
先を急ぐ天パーに連れられて、即席の柵みたいなものを越えて、裏口のようなところまで来た。
やっぱりアイドルの公演らしく、若い、ヒラヒラしたピンクの衣装を着た女の子達が数人、スーツをかっちり着込んだマネージャーっぽい人がその倍くらいいた――女の子たちはその人たちと真剣に話している――。で、その他にもカメラだとか記者らしき人だとか、兎に角メディア達がいっぱい。こんな廃れた女がくるなんて場違いだとよく考えなくともわかる。
何のつもりだろうか?
と、思えばやはり。
「すみません。失礼ですが、出演者の方ですか?関係者以外立ち入り禁止区画なんですが……」
と、若い男性が話しかけてくる。一番の下っ端、という所だろう。まだまだ年季の入らない新品みたいなスーツに身を包み、ネクタイの結びも甘い。絶対に私の方が稼いでいる。
と、私が何も言わないでいると、隣から声が聞こえてくる。
「出演者じゃないけど、関係者よ。桜井リホ――桜井梨穂子の楽屋まで通してくれる?」
「申し訳ございません、同窓の方でも侵入は出来ないことになっているんですよ」
「マネージャーさんに問い合わせてくれる?」
「いえ、それもできないことに……」
「本人がいいっつってんだからいいでしょ!」
2,3の押収の後、棚町薫は携帯電話を取り出し、画面を見せる。桜井梨穂子とのメールのやり取りだろう。メールアドレスから見れば一発だ。でも、そんな下っ端じゃ何も知らない。ここは強引にでももっと奥まで攻め込む場面だろう。
て、いうか、棚町薫の用事って桜井リホのコンサートだったのか。いや、KBTの、か。KBTといえば今をときめくアイドル。かなりの大所帯で、何人なのか覚えていないけど、かなりの人気があることは分かる。テレビを付けていれば嫌でも目に入るのだ。いや、嫌じゃあないけど。
「えっと…………少々お待ち下さい」
話がついたようだ。携帯電話の画面をしばらく眺めた若者は、考えた後、奥の方へとかけてゆく。黒服(私より少し年上くらいの男)に何事か話し、その黒服が近付いてくる。黒服、といっても怪しい家業みたい、という訳じゃなく、その人だけ目立ってスーツが無地の真っ黒だからだ。
黒服は言う。
「どうも。KBTグループチームK担当の――大雑把に言えば、桜井リホのマネージャーの黒崎です、初めまして。絢辻詞様、棚町薫様ですね。お待ちしておりました。時間も押しているので短い時間にはなりますが、楽屋でリホが待っています」
ついてきてください、と私たちを先導する。それに続いて、小さなドアを潜り、複雑に移動する。
「こちらです」
KBTは人数が多いので、纏めての部屋ですが。
黒崎という男はそう言って会釈をし、扉を叩く。扉の向こうから「どうぞー」と聞こえてきて、「入るぞ」と声を掛けて扉を開けた。
中に見えるのは多くの女性。いや、本当に多い。学校の一クラスなんてレベルでもないくらいに多かった。とりあえず軽い会釈で済ませる。向こうもさして興味はないようで、「誰ー?」など近くの子と話している。イメージは高校などの学年集会だろうか。本当に人数が多い。
「何人いるのよ……」
小声でそう呟く。百人いってそうな量の女の子たちを前に立っていると、奥へと入っていった黒崎が桜井リホ――桜井梨穂子を連れて戻ってきた。一際豪華な衣装を着ている。
「黒崎さん、隣の部屋って使えますか」
「いや、使えない。隣の隣の隣が会議室なんだが、今は誰も使っていないから使えるはずだ。時間になったら呼びに行くよ」
「お願いします〜」
と、そんな話をマネージャーとして、私達についてくるよう合図し、部屋を出ていってしまう。なんだか雰囲気が変だ。
「桜井さんも変わったわよね。十年前から……」
「ええ」
彼女の個性が消えたわけじゃない。マイペース、ドジ、愛嬌。彼女の武器と言えばその辺りで、それは少しも損なわれた気がしないが、見ていると、やはりどこか欠けたような、別人のような印象を受ける。
そんなことを考えつつ、会釈で退室し、棚町薫の背を追った。
「ふっざけんじゃないわよ!!!」
「ふざけてなんかないよ!」
やれやれだわ。
私、絢辻詞はため息をついた。
話を聞いてみると、どうやら私たちは桜井梨穂子に呼び出されたらしかった。棚町薫にメールが届き、そこから私にも伝わっていた、とのこと。棚町薫が忘れていたのか、私が忘れているのかは結局の所わからない。
何故かといえば、桜井リホの卒業コンサートらしい。だから一番目立つ衣装なんだと。これから、彼女は大勢の前で踊った後、女優へと転身する。既に色々と動き始めているそうだ。
そんな話を聞かされていたはずなのに、どうして喧嘩になったか。それは桜井梨穂子――桜井リホの放った一言から始まる。『
「じゃあどういう意味で言ったのよ!!
納得させてみなさいよ!」
「そりゃ、リホだって――。ちゃんと、考えてるよ!!!
仕事を続ける上で、悲しんでばかりいられないってだけなんだから!」
「そこからどうやったら忘れるって発想になるの!」
「普通にかんがえただけ!」
あーらら。棚町薫は桜井リホの衣装――の上から羽織っている上着を掴んで、がなりたてている。その光景を見ても私は、止めようという気にはなれない。面倒だ。ていうか、早く帰りたい。
「あっそう!
――アンタの想いはその程度だったのね。墓掃除も何も全部、今日の為に
「違うっ!!!!」
「何が違うのよ!!」
「全部だよ!
――全部、全部違う!」
前向きに、合理的に、建設的に妥当な答えを導き出した桜井リホが責められている理由。それは彼女の言い方、いや、解釈の仕方にあった。『
――トン、トン。
と、扉がノックされる。
私は腰を浮かせ、二人を座らせ、ローテーブルに置かれた水を身振り手振りで勧め、飲ませる。メイクを崩さないためか、桜井リホはストローだ。
深呼吸させ、「どうぞ」と扉をに向かって声を掛ける。
「えっと、もう少し声を抑えていただけると……」
「ご迷惑おかけして申し訳ございません」
それだけ扉越しに言うと、男声の主はすぐに立ち去った。時のアイドル桜井リホの思わぬ場面に出くわして驚愕したのだろう、もう結構前から扉の前に気配を感じていた。
棚町薫と桜井リホはバツが悪そうにしている。桜井リホは俯いて水を飲んでいる。棚町薫は目を逸らしつつ手の指先をぐしゃぐしゃ落ちつかなげにしていた。あまりいい雰囲気とは言えない。
「私だって……ちゃんと考えてるよ。
「――私達が仕事してないとでも?」
「そうじゃないけど……テレビにもいっぱい出ることになるし、お芝居だって頑張らなきゃ」
「意味がわかんないわ」
しどろもどろになりつつも、支離滅裂ながらも自分の意見を語る桜井リホに対して、棚町薫は冷たく吐き捨てる。どうやら彼女の中に話は決着が着いてしまったらしい。喧嘩しに来たのだろうか。わざわざ武道館のスタッフ入り口まで?
まあ、いいかな。
――はぁ。
私は一つため息を吐いた。結局一言も喋らなかった。来る意味があったのだろうか。いや、来なかったら来なかったでまたムカムカするはずだ。
難しいものだ。
「それに、
「はあ?」
その一言が、更に棚町薫の怒りを加速させてしまう。
「はっ!
忘れたい〜、なんて言ってる奴のセリフじゃないわよ、それ。兎に角、もう話は終わり。来て損したわ。帰る」
「…………。言いたいことは今日伝えたから。交通費はマネージャーさんに渡してる。今日のチケットも渡してるから、良かったら見て行って」
「そんなの要らない。バカと天然ボケが移ったらいけないものね。
――いこ、絢辻さん」
扉を開けて、境を跨いだところで、棚町薫は捨て台詞のようにそう投げる。しかし私は首を横に振った。笑顔で。
「私は、見ていこうと思うわ」
「――どうしてよ」
「天然パーマが移るもの」
もちろんそんな理由ではない。
少しは、そう、少しは納得できる。
――彼の事を忘れ、乗り越え、過去のものにして、進んでゆくべきだ。いつか、笑い話にでもなれば最高だ。そう思う私がいないわけではない。心の中の私ではかなりの極小数ではあるが、そんなことも考える。
桜井リホはアイドルだ。時には男女間の本気の愛をぶつけられるだろう。そんな時、個人に囚われたままでもダメだ。それもちょっと分かるのだ。
「そう」
少し頷くと、棚町薫は本当に部屋から出ていった。これ、帰りは送って貰えたりするんだろうな。電車賃、もしくはビジネスホテルの一室を借りたいぞ。
私と桜井リホが取り残された部屋の中には、思い溜め息が響く。
まあ、棚町薫の気持ちも大いにわかる。
その主張は言わずもがなだが、加えて、今日新たに一つ理由ができただろう。
要するに彼女は、桜井リホの口から『忘れる』旨を聞いて、怖くなったのだ。自分もいつかそうなるのではないかなと。そして、それに合わせ、桜井リホが忘れるなら尚更自分が覚えておくべきだとも感じよう。自分だけは覚えて、悲しんでいてあげようと。
私は恋人枠なので別カウント。
と、棚町薫がマネージャーに連れられて去っていった。本当に帰るつもりらしい。彼女も随分怒っている。結局の所、
「さて。私は有難くチケットを貰おうかな。桜井さん、さっきの人から貰えばいいの?」
「うん…………ごめんね、こんな所見せちゃって」
それは、泣いているところか。それとも喧嘩しているところか。
ああ、でも。棚町薫と桜井梨穂子。二人が仲良いわけだ。こうして何度も衝突したんだ。その度、お互い謝って、関係を修復し、距離を測ってきた。そりゃ、それだけ仲がいいだろう。私には面倒で出来ない生き方だ。
でも。
今回ばかりは仲直りできない。私はは、二人を一緒に見るのは初めてながらもそう感じていた。
「別にいいわよ。人が亡くなったんだもの、それぞれの衝撃は大きいし、受け止め方も違う。喧嘩くらいあって当然だわ。
――じゃあまた、ステージで」
「うん――また、ステージで」
最後にカッコつけてそう言って、別れた。他人と衝突なんて面倒で嫌だけれど、思うところはある。少しだけ、一人で考えたかった。
桜井リホの卒業コンサートは最高だった。
関係者席から見たので彼女はとても近く、多く行ったファンサービスの中にもかなりの数私へと向けたものがあった。他にも、MCで私達の事を少し語ったりもしていた。
彼女が汗も気にせず踊る、歌う。喋る。大勢の人たちが涙して笑っていた。
その他のメンバーは目に入らなかった。覚悟を決めたような表情で登場した彼女だけが視界に映り込んでいた。
社会的に見ても凄かった。武道館は言うまでもなく満席。ライブ中継を行った各会場も満席、建物外には音を聞こうとするファン達。終わってみても興奮は収まらず、ヤンチャしてしまうものまで出た。テレビでは連日その話題で、1週間ずっとボケ老人の相手をした気分だ。そんなお祭り騒ぎを、
一人だけ楽しめなかった者がいる。棚町薫だ。
もちろん、だからと言って変わりは余りない。
相変わらず私は死んだようにそこに在るし、桜井リホは女優としてドラマに引っ張りだこだし、棚町薫はどこか悲壮感漂う作品を創り続けている。
変わったことは、二つだけだ。
まず一つ、棚町薫は私と同居し始めた。
もとより家はどうでもよかったらしい。安く済むならそうすべし、と。そして、今回の一件で結構親密な中になった私に同居を相談したのだ。もちろん、恋人ではない。私の恋人は天国にいるし、棚町薫の好きな人も天国にいる。だから、これは同居というよりはルーム・シェア。今のところ上手くやれている。
二つ目。墓掃除が毎日できる。
幾らでも早起きして、頑張るというもの。棚町薫は、面倒だからそういうのはやらない、らしい。桜井リホもアレから墓には来ない。彼岸には顔を出すだろう。今では、雑巾と花を持って朝早く車に乗り込むのが日課だ。
と、そんな私でも。
充実した生活という訳では無い。変化は二つだけ、私が死んだように、義務感の中で生きているのは変わらない。
次に何かがあるとすれば、五年後だろう。自殺を決心することを望む。
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