香霖堂恋々帳簿 (河蛸)
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薀蓄店主と天然メイド
恋色混じりのビター・ノストラム


「にがっ」

 

 血染めのように紅い館の中で、小さな悪魔は苦悶を漏らした。

 目をすぼめ、いーっと唇を引き攣らせ、味蕾の上を暴れまわる苦味から逃げ出そうと一生懸命舌を伸ばす。それでも味はしっかりと舌に絡んで離れないので、やり場の無い苦しみをパタパタと足を揺り動かすことで発散した。

 

「にッッがぁーいっ! なにこれ! ナニコレ!? 信じられないくらい苦いんだけどぉっ!?」

 

 怒り半分、困惑半分。隠し味に涙を少々滲ませながら、レミリア・スカーレットはマグカップを叩きつける様にテーブルへ戻した。

 カップの中には『まろみ』のある茶色い液体が溜まっている。仄かに甘く、幽かに高貴なフレグランスは、少女の心を掴んで離さない飲み物の香りだ。

 

 要約すると、ココアである。

 チョコレートの原材料として知られるカカオの粉末をお湯に溶かし、たっぷりの砂糖とミルクを融合させて堪能する魔性のデザート、ココアである。

 ただし今回はその甘美なイメージと裏腹に、砂糖の優しさは含まれていなかった様子だが。

 

「咲夜、一体全体どういうつもりでこんなゲキニガドリンクを差し出してきたわけ!? きちんと納得のいく説明をなさいっ! 私が苦いの嫌いなことくらい知ってるでしょもーっ!」

 

 ご立腹の先に立つのは、銀月の如く煌めく美しい髪をした従者だった。

 深い青を基調とした使用人の正装。控え目ながらも視界に映えるフリルとカチューシャを添えつつ、遊び心にちょっぴり丈の短いスカートを着こなしているメイドさんだ。 

 名を十六夜咲夜。事実上紅魔館の管理を任されているレミリア自慢の右腕であり、『完全で瀟洒な従者』の二つ名に恥じる事なき仕事ぶりを誇る、完璧超人なヒトの少女だ。

 ……注釈として『レミリアのティータイムに試作のゲテモノオリジナルを淹れたり、時たま頓珍漢な言動をする点に眼を瞑れば』を加筆する必要があるのだが。

 

 しかし、今回ばかりは流石のレミリアも堪忍袋の緒が切れた。怒髪冠を衝かざるを得なかった。

 だってレミリアはココアが好きなのだ。甘くて美味しいココアが大好きなのだ。幻想郷では中々ココアパウダーを手に入れ辛いという理由もあって、『今夜はココアをお持ちしましょう』と珍しく言ってきた咲夜の言葉に内心浮かれていたほどなのだ。

 

 それを超がつくほど苦いココア――否、ココアの形をした劇物に替えられたとあっては堪らったものではない。故にレミリアは激怒した。かの邪知暴虐な従者を叱らねばならぬと激怒した。

 

「――お嬢様」

「あん?」

「外の暦で、今日が何月何日かご存知でしょうか?」

 

 今まで涼しい笑顔のまま静観していた咲夜が、おもむろにレミリアへ問いかけた。

 怒りの熱が少し冷え、ふわっとした思考が生まれる。

 そう言えば最近、咲夜がやたら『今日』を楽しみにしていたなぁ、と暫しの間考えて。

 2月14日に行きついた。

 

「……ああ、バレンタインデーね」

 

 バレンタインデー。かつて兵士の婚姻が禁止されていた時代、彼らを憐んだ司教が内密に結婚を執り行い、その果てに処刑されてしまった悲しき聖人の命日である。

 そんな背景が手伝ってか、現代の一部地域……特にこの極東の島国では恋慕を抱く異性へチョコレートを贈ることで想いを伝えるという、変わった風習が根付いているのだ。

 

 更に付け加えれば、今では恋人や想い人に留まらず、日頃の感謝を抱いている恩人、友人、家族など、大切に思う人へ贈るプレゼントでもあるという。

 ある意味、レミリアは()を得た。味はさておき、何故咲夜がレミリアへココアを差し出したのかを理解した。

 

「このココアは、その、つまりそういうこと?」

「はい。咲夜からの、日頃の感謝の気持ちですわ」

「いやおかしいよね。絶対おかしいよね。感謝なら美味しく作るハズじゃない? なんでこんなクッソ苦いのよ。感謝の『か』の字も見えてこないんだけど。むしろ日頃の恨み感満載でお嬢様泣きそうなんだけど」

「滅相も無い。咲夜は心からお嬢様をお慕いしております。その苦いココアは、故あって

てのものなのです」

 

 というと? と怪訝な眼差しを向けつつ問えば、実はですね、とメイドは返し、

 

「今日のお昼に香霖堂の店主へチョコレートをお渡ししてきたのです。私の気持ちを込めて」

「……」

 

 何でこのタイミングでノロけられたの? レミリアは真顔になった。

 

 一応、完璧超人な上に時間も操れるという人智を超えた能力を持つ咲夜だが、それでも彼女はれっきとした人の子である。色々あって吸血鬼の館に就職しているけれど、前提として、彼女は年若く麗しい乙女なのだ。

 

 だから、特定の異性に好意を抱いたとしても別段不思議な話ではない。特に香霖堂の店主――森近霖之助は、少々癖のある男だが博識でウィットに富み、大人びていて、高身長のイケメンである。加えてその独特な人柄に惹かれるものがあるらしく、あくまで風の噂だが、あの博麗の巫女や黒白魔法使いまでもが懇意にしているとの話もある。

 

 であれば必然、趣味で店に通っていた咲夜が何らかのキッカケと機会を重ねて、淡い恋心を持ったとしても疑問など有りはしない。どころか、レミリアは可愛い従者の恋愛事情を陰ながら応援していた節もあったくらいだ。

 それがこのとっても苦いココアを作った理由と何の関係があるのか、スカーレットデビルにはとんと理解できなかった。

 

 主の疑問符を捨ておき、従者は頬に人差し指を添えながら、語り紡ぐように話を進めてゆく。

 

「そう、あれは咲夜が勇気を出して店へ向かった時のこと……」

「……え? ちょっと待って、これ回想に入らざるを得ないくらい長くなるの――――」

 

 

 ほわんほわんほわんほわーん…………――――  

 

 

 

 予め断言しておこう。十六夜咲夜は恋する乙女である。

 

 ほろ苦くも甘いこの気持ちを抱いたのが何時の日だったかは当人にも分からない。何が切っ掛けだったかは知る由も無い。

 土砂降りの雨に濡れ、雨宿りをした先に介抱して貰った時かもしれないし、仕える主人の素晴らしさに共感してくれた時かもしれないし、無愛想ながらも隠れた優しさに気付いた時かもしれないし、彼の話が面白くてもっと聞きたいと思うようになった時かもしれないし、仕事で珍しくミスをして落ち込んだ時に励まして貰った時かもしれない。

 

 とにかく、咲夜は森近霖之助を好くようになった。初めは戸惑ったけれど、今ではハッキリ好きだと言えるくらい慕うようになった。

 そして今日はバレンタイン。外の世界では恋人たちの日とも言われる神聖な日だ。

 風習の発祥がチョコ会社の陰謀だとか、幻想郷にそんな文化は根付いていないだとか、些細な事情は咲夜にとってどうでも良かった。そういう日がどこかにあったのならば、利用せずにはいられなかった。

 

 森近霖之助は朴念仁だ。趣味人故の特性か、変な所には鋭い癖に心の機微に滅法疎い。だから厄介極まりない。急がば回れとは言うけれど、彼に関してだけは、回っていては望む結末など永遠に廻ってこないと自信を持って言えるだろう。

 

 だから咲夜は決起した。当たれば砕けるかもしれない恐怖を呑み込み、後悔しない選択を取ろうと決意した。

 

「すぅ…………はぁ」

 

 お世辞にも綺麗とは言えない店の入り口に立ち、深呼吸を一度。いや、やっぱりもう一度。保険も兼ねてもう一度。

 張り詰めた心の線に緩みを作って、優雅に華麗に淑やかに。いつもの十六夜咲夜を演じつつ、勇気の門戸を叩いてみせた。

 

「ごめんください」

「おや、咲夜じゃないか。いらっしゃい」

「はい、いらっしゃいました。咲夜です」

「今日は――ふむ。どうやら買い物をしに来たわけじゃあなさそうだね」

 

 心臓が跳ねる。どうしてこういう時だけ鋭いんだろうと血が熱を運ぶ。

 けれどここで取り乱したらおしまいだ。イメージも、デモンストレーションも、この日のために何度も何度も済ませてきた。恥ずかしさといたたまれなさで逃げ帰るなんてもってのほかだ。

 

 女は度胸と胸に刻みながら、咲夜は鉄の笑顔をもって応対する。

 

「バレちゃいましたか」

「君が買い物をする時は決まって大きな袋を持っているからね。けれど今日は影も形も無い。そういう日は、決まってお茶を飲んで帰っていく日なのさ。……それで、一応聞くけど何の用だい?」

「これを受け取ってください」

 

 微妙に震える手を必死に誤魔化しながら、咲夜は背に隠していた小さな小包を手渡した。

 一生懸命作って、丁寧に丹念に包装した、少女の想いの結晶を。

 

「これは……」

「店主さん。今日は外の世界で何の日と呼ばれているか、知っていますか――――」

「チョコレートじゃないか!」

「――は。え、あ、はい。そうです、チョコレートです」

 

 まずバレンタインデーの概要を説明して、それからチョコの意味を括りつけて、それからそれから、思い切って告白をする――というのが十六夜咲夜のパーフェクトプランだった。

 けれど計画は序章に差し掛かるよりも早く、予期せぬリアクションを前に呆気なくふっ飛ばされてしまった。普段は冷静沈着な彼が、まるでプレゼントを貰った子供のように語気を荒げるなんて想像もつかなかったからだ。

 

 知らずして先手を取った霖之助は、捲し立てるように言葉を飛ばす。

 

「なんという、っはは。いや失礼、君があまりにもタイムリーな品をくれたものだから、柄にもなくつい興奮してしまったんだ」

「はぁ……喜んでもらえて何よりです……?」

「良い機会だ、チョコレートを持ってきてくれた君に是非とも見せたいものがある」

 

 ちょっと待っててくれ、と言い残し、席を立つ霖之助。彼の中でどんな化学反応が起こったのか知る由も無い咲夜は、溜め込んでいた勇気の風船にぷしゅーっと穴を開けられたように、呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。

 

 幾拍の間が空き、青年が会計所へと戻ってくる。手にはボロキレ同然な一冊の本があった。

 

「これは今朝、無縁塚を歩いていた時に見つけたカカオについてのグリモワールだ。正確にはカカオという魔法薬の原材料、その歴史書――と僕は睨んでいる」

「カカオ……チョコレートの原料の?」

「そう、そのカカオさ。この書籍にはチョコレートの――ひいてはカカオの歴史について断片的ながら記されているんだ。激しい劣化のせいでかなりページが抜け落ちてしまっているが、しかし重要な部分は運よく保存されていた」

 

 趣味人、森近霖之助の本領発揮か。彼は機関銃の雷針が如く舌を動かした。本を台の上に広げ、慎重ながらも素早い手つきでページを捲り、とある箇所を突き止めると、水垢や汚れで半ば崩壊しかけている文字列に指を這わせながら、

 

「見てごらん。この記事によると、カカオとは遠い遠い世界でとても貴重な代物として扱われていたものらしいんだ。ある時は貨幣に、ある時は王の飲み物に、ある時は薬に、またある時は血と心臓の代わり――即ち、生贄の象徴として使われた」

「は、はぁ」

「これだけでもカカオというものがとても有用性が広く、愛され、そして活用されてきた一品だと分かるだろう? けれど面白いのはそこだけじゃない。僕が一番興味を惹かれたのは、このカカオの薬効さ」

「薬効、ですか」

「そうだ。とても残念な事に、薬効の詳しい効果について記された部分は破けていて解読できなかったのだけれど、数々の断片を組み合わせて僕は一つの仮説を組み立てたのさ。文を読み解くに、どうやらカカオは万病を治し人に幸福をもたらす作用を持っているらしくてね。数々の権力者たちを虜にしたのも納得というものだ。しかしここで疑問が生まれた。この植物は何故そんな効果をもって、彼の大地に生まれたんだろうかと」

「あの」

「この地には根強い信仰がある。大和の八百万の神々にも負けないくらい、多様な神々が祀られている。この図を見たまえ、日輪の様な紋様が一人の人物を中心に囲っているだろう? 恐らくこれは太陽神だ。そして彼らは贄を捧げる事で神の威光と恵みを受け取り、栄え続けてきた種族なんだ」

「霖之助さん」

「まぁ聞きなさい」

 

 軌道修正しようとしたら手で制され、新設レールの増設が続行された。

 咲夜は知っている。こうなった霖之助を止められる者は、幻想郷に誰一人として存在しないと知っている。

 

 なので咲夜には、もはや時の流れに身を任せるしか道は無く。

 でも流し聞きするのも勿体ないので、折角だから店主の話に耳を傾けてみる事にした。

 

 

 

 

「太陽は生命に恵みをもたらす命の源泉の一つと考えられている。そして彼らは太陽神から慈悲を受け取る神事を生業としていた。よく考えてごらん? 彼らは太陽神から直々に加護を頂戴していたんだ。大いなる命の源から大陸規模で授かっていたんだよ。すると何が起こるか? そうだよ咲夜、太陽神の力をふんだんに取り込んだ大地から芽吹くものがあるとしたら、それは一つしか無い。太陽神の分霊ともいえる植物たちだ。最高位に座る神々の祝福を一身に受けた緑たちだ。そしてその中で最も強い力を授けられ、蓄え、凝縮を果たした黄金の果実こそが、カカオの正体という訳なのさ」

 

「……なるほど。カカオが様々な効果を持ち、多様な用途に使われる理由がそこにあったののですね?」

 

「その通り。使っても使い切れないほどのエネルギーを蓄えたカカオはまさしく神の心臓、その断片と呼ぶに相応しい代物だ。そんな仰々しいものを取り込んでいたのだから万病が治るという伝承にも納得がいく。なにせ太陽の恵みを塊で飲んでいた訳だからね。妖怪と違って日の下に生きる人間が幸福になるのは自明の理さ。まさしく、カカオとは神に選ばれ、神によってもたらされた古代の霊薬……いや、聖遺物の構成要素だったんだ」

 

「まぁ……! カカオにそんな歴史が」

 

「驚くのはまだ早い。仮にカカオが神の心臓であるとするならば、それを溶かして飲むという行為は即ち、神の血を飲む事と同義なんだ。分かるかい? ほら、ここの記述と合わせると、その時代の王たちは皆、神の子孫でなくとも現人神に成り得たのさ。人造もとい、()()現人神へ昇華するための機構としての役割も、カカオは担っていたんだよ」

 

「しかし、そうなるとお嬢様がココアを飲めていたのが不思議ね。太陽の神様の力を取り込んだのなら、吸血鬼であるお嬢様は大怪我を負ってしまうはずでは?」

 

「ふむ。面白い仮説だね。僕の説を述べるならば、今のカカオに神秘は含まれていないから――という側面が大きいのだと思う。カカオは吸血鬼の弱点として伝えられていないし、外の世界ではもうオカルトは絶滅危惧と化している。コンキスタドールと称される謎の人物によって世界中に広まったとも書かれているし、それが手伝って、太陽神の神威が削がれてしまったんだろうね。けれど今なお外で愛用され、嗜好品の一部を担うほど活躍しているのであれば、少なからず恩恵は残っているんだろう。吸血鬼的視点で言えば、都合のいい栄養だけ残されている状態だから平気なのさ」

 

「ではお嬢様の健康にも良いという事になりそうね。折角だからその栄養を最大限引き出してみたいですわ。どうすればいいのかしら?」

 

「恩恵をもっと受けたいというのなら、やはり原始への回帰が大きな効果をもたらすだろう。例えば、そうだね――――」

 

 

 

 

「という訳で、神様の血を最大限に活かしたココアをお嬢様に召し上がって貰いたくて、敢えて甘味を取り除いた次第なのです。なんでも余分な要素を抜いたほうが、純化されて体に良いだろうと」

「……………………」

 

 ツカレタ。レミリアの脳内からそれ以外の文字が消えた。

 

 一体どれだけの時間が流れたのかは分からない。が、とにかく咲夜と霖之助が熱心にカカオの起源について考察し合い、この至高の妙薬ホットココアを作るまでに至ったかを延々と聞かされ続けた。こんなの疲れない方がおかしいというものである。

 もっと言うと、さりげなく無自覚に猛烈なノロケを食らった。話のどこが楽しかっただとか、やっぱり霖之助さんといると心が彩られるだとか、それはもう盛り沢山に。

 

 詳細に語ると本当に砂糖が口から出て来そうになるので、説明は省かせてもらうけれど。

 

「しかし如何に良薬は口に苦しと言えど、気分を害してまで飲むのもお辛いでしょう。一口は飲まれましたし、残りは砂糖とミルクを加えてまろやかに」 

「いや、いい」

「……大丈夫なのですか? 苦手なのでは?」

「今は、いい。これが、いい」

 

 若人の恋は砂糖よりも甘く濃厚だ。普段の立ち振る舞いが幼いとはいえ、レミリア・スカーレットは五百年を生き続けた吸血鬼である。なので、本物の若さが放つ色恋パワーを長時間一身に受け続けたスカーレットデビルは、胸やけを超越したナニカに苛まされていた。

 

「……にがっ」

 

 だから、最初は大嫌いだったこの苦みも、今では不思議と美味しく感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、肝心の恋慕は伝えられたの?」

「……………………あっ」

 

 前途多難、ここに極まり。



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「時よ止まれ。私は心疚しい」

 

 その日、古道具屋を営む店主を除く、万物万象が凍結した。

 比喩でもなんでもなく、そのまんまの意味で。

 

 

「…………んんっ?」

 

 

 一般的に血の気が多いとされる妖怪の血を引くものの、森近霖之助は極めて冷静沈着な男である。幻想郷が非日常の連続で成り立っているために()()()()()耐性をある程度備えているとはいえ、それでも驚愕を表情筋に反映する事はほとんどない。

 別段冷血漢というわけではないのだが、持って生まれた性か年の功か、並大抵のことでは驚けなくなってしまったのだ。

 

 そんな霖之助は今、ここ数年類を見ない驚天動地に身を震わせ、得もいわれぬ感情を全身で表現せずにはいられなくなっていた。

 

 目を見開き、声を漏らし、ちょっぴり間抜けな顔を晒して、ポカンと石像の如く硬直している。幾度も瞬きを繰り返しては脳のネットワークをフル稼働させ、眼球が怒涛の勢いで運んでくる情報を処理しようと躍起になった。

 しかし答えを出すことは終ぞ叶わず、ただただ異常の渦に呑まれた愛しの香霖堂を、呆然と眺める事しか出来ずにいた。

 

 無理もない。だって急に物が動かなくなったのだ。なんの前触れもなく、突然氷の中へ閉ざされてしまったかのようにピッタリと。

 それは物に留まるどころか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、まるで人形に変えられてしまったかのように凍結してしまったのだ。

 こんなの、驚かない者が居たとすれば、それは狂人だけだと断言できる。

 

「魔理沙? おーい魔理沙」

 

 のほほん笑顔でお茶を飲んだまま固まっている魔理沙を怪訝な眼差しで観察する霖之助。

 悪戯じゃないのか? と顔の前で手を振ったり頬を引っ張ったりしてみるが反応は無い。細胞レベルで一片たりとも微動だにせず、むいーっと引っ張った頬から手を離したら、ほっぺたが伸びたままの形で保存されてしまう始末だ。

 

 ……なんだか面白くてむいむいやっていたら、魔理沙の『乙女』を冒涜してしまったんじゃないかと頬を引き攣らせざるを得ないくらい凄まじい顔になってしまった。

 戻したくても戻せないので、捨て置こうと英断する霖之助。

 

 とにかく、魔理沙も異常事態の渦に囚われている以上この怪現象の発端ではないらしい。

 幻想郷が外の世界の非常識で成り立っているとはいえ、物理法則を捨て去った訳ではない。リンゴは捥げれば木から落ちるし、水は上流から下流へとくだる。風が吹けば落ち葉は攫われるのは必然で、太陽の光は大地をしっかり暖めてくれる。ほんの少しオカシイ場面もあるけれど、基盤(ベース)は『外』と変わらない。

 

 だから、天井からゆるゆる落ちてきた埃が途中で停止しているのも、魔理沙が身動ぎ一つしなくなったのも、読みかけの本が不自然に開かれたまま宙に浮いているのも、れっきとした異常なのである。

 

「となると、なにかの異変かな。これは」

 

 異変。それは幻想郷でたびたび起こる怪現象の総称である。強大な力を持った妖怪の悪戯だったり神秘的なナニカが原因だったりと様々だが、とにかく、幻想郷ではこういったみょうちきりんなことが稀に起こるのだ。例えば真っ赤な霧が幻想郷を覆いつくしたり、春が来なくなったり、夜が明けなくなったり、四季の花が一斉に咲いたり、天気が滅茶苦茶になったりと様々に。

 

 であれば此度の事件も例に漏れず、それら異変の類なのだろう。そうとしか今の霖之助には判断のしようがない。

 

「さて、どうしようか。そのうち霊夢が解決してくれるだろうが――」

 

 一応、なぜか霖之助が触れた時だけは物体へ干渉できるみたいだが、不便な事に変わりはない。本を読もうにもページを捲って離せばそこで止まるからいちいち正さないといけないので疲れるし、お湯を沸かして一服しようにも火は触れないから湯が沸かない。だったら掃除でもしようかと雑巾を絞れば、排出された水が全部空中で止まってしまって滅茶苦茶だ。

 

 無重力空間では水が玉になって浮かぶと聞いたことがあるけれど、まさかそれを香霖堂で拝む事になるとは露程も想像していなかった霖之助である。

 

「――弱ったな。これじゃ下手に動けないじゃないか」

 

 諦めて、一先ず椅子へ腰かける。自然と零れるこの溜息も、見えていないだけで目の前で止まっているのかな、なんて耽りながら天井を仰いだ。

 

 森近霖之助は半妖だ。おそらくヒトの数倍……いや、数十倍は長生きするだろうし、しているかもしれない。つまり普通の人間とは時間の縮尺度合がまるで違う。霖之助にとって一日二日程度の時間は瞬きくらいの誤差でしかなく、異常事態に巻き込まれたってそれくらいなら我慢できる。

 けれど今回だけは事情が異なった。夜が明けなくても春が来なくても別段苦とは感じなかった霖之助も、ほんの数時間も経たずに不安を覚えた。覚えざるを得なかった。

 

 なにせ()()()()()()()()()のだ。

 それはつまり、()()()()()()()()()意味に他ならない。

 

 霧が濃くても巫女は飛んだ。春が来なくても『明日』は来た。朝が来なくても時は流れた。

 今までの異変は『流動』を伴う異変だった。流れたモノは必ず終着点へ辿り着く。だから心配はいらなかった。いつか解決されるものだろうと、確信を持つことが出来たからだ。

 しかしこれは違う。一切合切が流れていない。始点も無ければ終点も無く、無間地獄を彷彿とさせる虚空が支配するのみである。

 かつての異変には見られなかった最大の特徴たる()()()()は、流石の霖之助にも不安の種を植え付けるには十分だった。

 

 ありたいに言ってしまえば、『もしこのまま止まったままだったらどうしよう』というものである。

 

「……よし。霊夢を尋ねてみよう」

 

 椅子から立ち上がりつつ、とりあえずの目標を設定する。

 木を切るなら木こりに。酒を買うなら酒屋に。ならば異変は異変解決のスペシャリスト、博麗の巫女へ頼るのが王道だろう。

 それに、彼女ならこのおかしな空間であっても煎餅を齧りつつ神社でまったりしてそうだ――なんて想像を走らせながら、外の状況も確かめるために、霖之助は店のドアをギィッと開いて足を踏み出した。

 

 

 ゴンッ、と鈍く重い衝突音が波紋のように広がったかと思えば。

 大きな影が、どさりと地面へ落下した。

 

「あっ」

 

 それが博麗の巫女だと気が付いた瞬間、霖之助は割と本気で命蓮寺へ入信しようかと考えた。

 

 頭痛を持ったように頭を押さえながら、博麗の巫女――博麗霊夢を抱き起こす。

 大方、香霖堂へ入ろうとした刹那の際だったのだろう。そこで運悪く凍結してしまい、霖之助がドアを開けた事で頭を打って地面へ転がったのだ。

 かなり強烈な音がしたにも関わらずリアクションが無いので、霊夢も完全に固まっているらしい。取り敢えずこの間無縁塚から拾ってきた『ソファー』という腰掛けへ安置しておくことにした。

 

「参ったな、霊夢も駄目か」

 

 キョンシーのように固まったまま動かない霊夢を見ていると、なぜか宇佐見菫子から教わった『等身大ふぃぎあ』なるものを彷彿させられてしまう。よく見るとおでこ辺りが真っ赤になっているが、多分気のせいだろうと言い聞かせた。

 

 さておき、これで最悪具合に拍車がかかった。頼みの綱だった霊夢がいとも容易く異変の渦に呑み込まれ、物言わぬ置物と化してしまったからだ。別に彼女だけが異変解決を取り持っている訳では無いのだが、霖之助にとって現状最も頼れる存在だった霊夢がまるで役に立たないとくると流石に手痛いものがある。

 第二候補である魔理沙は言わずもがなだし、文字通りお手上げに等しい状態と言えるだろう。

 

「落ち着こう。取り敢えず落ち着こう。悩むなんてそれからでも遅くないさ」

 

 言い聞かせるように言葉を吐き、熱を持ち始めた脳髄を鎮火させる。魔理沙や霊夢のような行動派と違って思考派の霖之助は、この異変の情報を整理しつつ冷静になろうと試みた。

 

 そも、この異変の始まりは何だっただろうか? 残念ながら心当たりが全くない。いつものように店番をして、いつものように魔理沙が来て、いつものようにお茶を出してくつろいでいたら、突然何もかもが止まったのだから。

 先ほどチラッと外の状況を見た限り、これは香霖堂に限った話ではないらしい。視界一面の落ち葉たちが皆一様に空中で縫い留められていたから、きっと局所的な現象ではないのだろう。

 

 今の段階では原因不明。ならば理屈はどうか? 時間という川の流れをピタリと止めてしまっているダムの正体は果たしてなんなのか――――

 

「――待て。時間が止まっているかのような……?」

 

 頭上に電球が浮かんだような錯覚があった。霖之助はすぐさま跳び上がるように椅子から立つと、散らかるのも構わず棚の上を物色していく。

 

 そして、すぐにそれは見つかった。以前、守矢の現人神である東風谷早苗に「幻想郷へ持ち込んだ『外』の品で要らないものがあったら譲ってほしい」と頼んだ結果、プレゼントされた『電波時計』である。なんでも()()という雷を溜め込む力を持ったマジックアイテムを用いることで動く式神で、空中を漂っている眼に見えない信号を受信する能力を持ち、西方を基準とした時刻を正確に測ってくれる代物らしい。

 

 最初はうんともすんとも言わなかったのだが、河童に改造してもらった結果問題なく動くようになった。()()()()()()に映る西洋数字が規則正しく変わっていく様子は、中々面白いものがある。

 

 閑話休題。

 

 霖之助がこれを手に取ったのには理由がある。それは頭の中に浮かんだ仮説を証明する実験に必要なアイテムだからだ。

 今、霖之助の脳内には二つの可能性が分かれ道のように佇んでいる。ひとつは「物理法則が止まった世界」という結論。そしてもう一つは「時が止まった世界」という空論である。

 

 似ている様で、二つの仮説には明確な違いがある。簡単に例えるなら「水が消えて動かせなくなった船」と「水の流れが止まった川」だ。前者は世界を動かすために必要なパーツが失活している状態であり、後者は世界そのものが動きを止めている、という差である。

 

 つまり、どういう事かと言うと、だ。

 

 現状物体へ干渉できる潤滑油(りんのすけ)が時計へ触れて()()()()()()()()()()()()、止まっているのは時間ではなく世界の一般法則という事になる。しかし時計が動かなかった場合、それはこの世界の時が停止しているという証に繋がる。

 何故ならば、例え式神が動いても拾って示すべき時間が止まっていたら、時計は先に進む事が出来ないからだ。

 

 止まった世界を自在に動けている自分というイレギュラーがあるせいでかなり破綻した理屈になっているが、しかし一つの指針を決めるには十分だろう。これが是か非かによって、今後の霖之助の行動は大きく転換されるのだから。

 

 ぎゅうっ、と小型の時計を握り締め、念じるように霖之助は呟く。

 

「頼む、動かないでくれ……!」

 

 ――祈りを込めつつ覗いた結果は、()()()()()であった。

 それはつまり。この異常事態の正体が、時間停止によって引き起こされているものだと証明された瞬間で。

 ()()()()()()()()霖之助は、すぐさまある場所へ向かう事を決めた。

 

 世界が冷たくなってしまった原因が時間なら、きっと、()()()に答えがあるはずだから。

 

 

 十六夜咲夜という少女がいる。

 

 年齢不詳。種族は人間。吸血鬼の主を持つメイドさんで、特技は時間を操ること。

 れっきとした人間だけれど、空を飛べれば魔法も少し使えるし、約36m離れた妖精の頭上にあるリンゴを正確に狙撃出来るくらいナイフ投げが上手い。なので刃物の扱いに慣れており、料理の腕は幻想郷の筆頭格だ。

 彼女は紅魔館のほとんどを取り仕切っている。炊事、洗濯、掃除、ご主人様とその妹君のお守りなどなどなど、大きな屋敷を体ひとつで切り盛りしている健気な娘だ。

 

 彼女の特徴を並べてみると、本当は妖怪なんじゃないかと疑われたっておかしくない。だってどう考えたって時間も体力も足りないはずだ。紅魔館は彼女の力の応用で見た目以上に凄まじい容積を誇り、到底一人で管理できる規模ではないのだ。

 にも関わらず、彼女は疲れ知らずの限界知らずだ。本当は人間を辞めているのでは? なんて噂もある程度には。

 

 まぁ、彼女の不死身超人っぷりの裏側には、ちゃんとした理由(タネ)があるわけで。

 単刀直入に言ってしまえば、彼女はちゃんと休んでいるのだ。()()()()()()()()()()()()()

 

 そう。彼女にはどういう訳か時間を操る能力がある。その力は利便を極め、洗濯物が乾く時間や肉の熟成スピードを短縮させたり、自分で勝手に休日を設けたりと大活躍だ。

 なので今日みたいに異常な激務でへとへとに疲れても、休憩を設けて休めるから、いつでも瀟洒であれるのである。

 

「つ、疲れたぁ」

 

 自室前まではいつも通り毅然と歩を進めていたが、部屋へ入った瞬間、咲夜はくったりと萎びた青菜のようにへたり込んでしまった。

 

 事の発端は主であるレミリア・スカーレットの妹君、フランドール・スカーレットである。彼女が珍しく引きこもりを辞めて図書館まで出てきたかと思えば、何を思ったかパチュリーに魔法の師事を頼み、特訓という名の魔法実験を催したのだ。

 結果、図書館は爆発した。容疑者は「新しいスペルカードを作って遊びたかった」などと供述していたらしい。

 

 そんな経緯があって、咲夜は半壊した図書館の修繕に追われていた。パチュリーとフランドールの助力もあったが、修理の他に毎日の雑事も重なっているせいで仕事をしながら仕事に追われると言う地獄のようなイタチごっこを味わうハメに陥り、流石の咲夜もギブアップせずにはいられなかった。

 

 そんなこんなで、ようやく休憩にありつけて今に至る。

 

「疲れた。疲れた疲れた。疲れた疲れた疲れたぁ」

 

 フラフラした足取りで部屋を歩く。行きつく先はマイベッド。躊躇せず、咲夜はボフンと飛び込んだ。

 当然服は皺まみれ、髪はくしゃくしゃになってしまう。おまけに服の下は汗で少し滲んでいた。

 脱皮のようにソックスを脱ぎ捨て、ホワイトブリムとおさげのリボンも纏めてテーブルへと放り投げる。しかしベッドから起き上がる気配はない。

 天然気味ながらも優雅さを忘れなかった普段の雰囲気はどこにも無く、どこか現代のくたびれたOLを彷彿させる咲夜が転がっていた。

 

 無理もない。咲夜は超人なれど人間なのだ。感性やスキルが少々異なっていても、器は年頃の少女なのだ。恋慕を抱くこともあれば疲れのせいで頭が麻痺してだらしなくなる瞬間だってあるし、己を無造作かつ無防備に曝け出す刹那もある。

 むしろ、この疲労度合でプライベート以外いっさい隙を見せなかっただけ怪物だろう。普通なら廊下で倒れてたっておかしくもなんともないコンディションなのだから。

 

「うー、あー、もふもふ。もふもふー」

 

 ぐりぐりと枕に顔を押し付け、足を力なくパタパタさせる。普段の彼女を知る者ならば思わず自分の眼球の期限を疑うような、死にかけの魚みたいな仕草だった。

 

「はぁ、ふぅ」

 

 うつ伏せから仰向けに変わり、天井をぼんやりと見やる。咲夜は視界が霞んでいると気付き、途端に睡魔の力が増してくるのを実感した。

 不思議なことに、とても眠い時に限って妙に頭は冴えるもので。あれをまだやってないだとかこれもしなきゃだとか、やる事リストがぐるぐると脳漿を掻き混ぜてくる。

 それが一層、咲夜を眠りの流砂へ引き込んでいき、

 

「あぁ、だめ、だめ。ねむい。ねむい」

 

 うつら、うつら。瞼が降ろされては上がるを繰り返す。目を擦っても効果は無く、筋肉から力が抜け落ちていく感覚だけが清水のように伝わってくる。

 

「汗、流さなきゃ。せめて寝間着には着替えないとっ……」

 

 完敗だった。無敵超人十六夜咲夜は、睡魔の前に敗れ去った。

 しかしこのまま眠る訳には絶対にいかない。寝間着も来てないし、部屋は(咲夜基準だが)滅茶苦茶だし、汗だってかいてる。万が一、誰かにこんなところを見られたら、咲夜は死んでしまうだろう。

 

「じかんよ、とまれ」

 

 最後の抵抗を試みる。時計の歯車を外して止めるように、冷たい世界へ身を投げる。

 この世界なら安全だ。だらしない格好も、汗ばんだ自分も、散らかった部屋も、誰にも見つかることは無い。咲夜にしか分からない無欠のプライベートスクウェアなら何をしたって構わないのだ。

 

 ようやく熟睡できると安心し、静かに瞼を閉じていく。

 こんなに頑張った日くらい、ご褒美に()の夢が見れたらいいな――なんて妄想を無意識の内側へ抱きながら、咲夜の意識は静謐なブラックアウトを遂げた。

 

 その泡沫のように淡い心が、()に歪みを生んでしまったのかは分からない。

 この時、この瞬間。咲夜は一人の青年を自分の世界に巻き込んでしまっていたなんて、当然知る由もなかったのだ。

 

 

「や、やっと見つけた」

 

 現実時間で換算するならば、止まった世界で一刻(約二時間)ほど経ちかけた頃。森近霖之助は広大な紅魔館を虱潰しに探し回り、ようやく十六夜咲夜の元へと辿り着くことに成功した。

 無論、彼女に会って力を解除してもらうためだ。時を止める事が出来る人物なんて、霖之助は幻想郷で一人しか知らない。彼女以外に原因があったとしたらそれはチェックメイトだと判断せざるを得ない程度には。

 

 本来なら紅魔館へ忍び込むのは容易ではない。例外なのは霊夢か魔理沙くらいで、いくら霖之助が顔見知りの仲でもアポなし訪問は吸血鬼から無用な怒りを買うリスクがある。親しき中にも礼儀あり、というやつだ。

 そして案の定というべきか、道中、妹と魔法使いを正座させて叱る姉吸血鬼や、まぁまぁと宥める門番の一行に出くわした。もちろん彼女たちも凍結されているので、霖之助の侵入を知る術は無く、吸血鬼の根城とは思えないくらい安易に進むことが出来た。

 

 監視の眼が無い紅魔館なんて稀有な体験である。この機会を活かして紅魔館のいたるところに配備された骨董品を心行くまで観覧しようかな、などと邪な考えが一瞬だけ過ぎったが、いやいや今はこの怪現象を解決することが先決だと蒐集家根性を押し殺し、ここまでやって来た次第である。

 

 ノックをする。返事はない。

 再度ノック。やはり返事はない。ノブへと手を回せば、鍵を掛け忘れていたのかあっさりと開いた。

 無礼と知りながらも今回ばかりは不可抗力だとドアを開き、乙女のプライベート空間へ足を踏み入れる。

 

「……やれやれ。やっぱり君が原因そうだね」

 

 肩をすくめつつ、溜息を一瞥。

 霖之助が呆れながらも安堵を露わにしたのは、絶対零度のこの世界でも変わらず、可愛らしい寝息を立てながら胸を上下させ、微睡みの渦潮へと身を委ねている咲夜の姿があったからだ。

 服や髪が寝相のせいで乱れているうえに、いたるところに物が散乱していて彼女らしからぬ有様である。普段は常に大人びている咲夜だが、こうして見るとまだまだあどけなさが残っているように感じた。

 

 さておき、咲夜が止まっていないということはだ。少なくとも彼女の持つ時間操作能力が霖之助を襲ったアクシデントと何か関係があると見て間違いは無いのだろう。安心するには早いかもしれないが、これは大きな一歩である。

 

 そう。まだ彼女の仕業だと決まった訳じゃない。もうここまで来れば九分九厘咲夜のせいじゃないかと思えてくるのだが、霖之助には咲夜が自分を巻き込んで時間を止めた動機が見つからなかったのだ。ロジカル思考派の霖之助としては、決定的な証拠も無しに彼女を犯人と決めつける事に躊躇を覚えた。

 

 故なればこそ、霖之助の行動は決まっている。これよりは最高裁の開廷である。

 『被告人十六夜咲夜、夢から覚めなさい』と霖之助は近づいて、

 

「咲夜」

 

 肩を叩き、名前を呼んだ。

 か細く「んぅ」と呻くだけで、一向に目が開く気配は無い。

 ならばもう一度と肩を叩く。今度は強めだ。

 目覚めない。なんと頑固な睡魔か。しかし僕は負けないぞ、と霖之助は咲夜の体を揺り動かした。

 

「咲夜、咲夜。頼む起きてくれ。助けてほしい」

「……りんのすけ……さん?」

 

 奮闘は実り、咲夜の瞼がゆっくりと開いていく。

 少女はポーッとしたまま上体を起こし、ベッドの上でいわゆる女の子座りをしたまま、霖之助をぼやけた瞳でトロンと見上げた。

 

 数拍の間が空間を支配し。

 

 そして、普段は静謐で雅な笑顔しか覗かせることの無い咲夜が、ニパーッと童女のような微笑みを浮かべたかと思えば。

 

「へへー。りんのすけさんらぁ」

「!?」

 

 倒れ込むように彼の腰元へと抱き着いた。

 その姿はどこか赤ん坊のような、あるいは甘えてじゃれつく子犬のようである。平常時の十六夜咲夜を知る霖之助からしてみれば、なにか一服盛られてるんじゃないかと疑わざるを得ないほどの豹変ぶりだ。

 

「お、おい、咲夜?」

「てんしゅさんてんしゅさん」

「?」

「きょうのさくやはがんばりました。とってもがんばりました」

「は、はぁ」

「だから、ほめてください」

「何だって?」

「ほめてください。さくやをいいこって、ほめてくださーい」

 

 回していた腕を離し、両手を広げながら励ましの言葉を催促する十六夜咲夜児童。

 霖之助は目の前の人物が咲夜ではなく、姿を真似た妖怪の類ではないかと錯覚した。

 しかし脳の処理能力が限界を迎えた霖之助は、半ば条件反射的に唇を動かし、

 

「あー、その、なんだい。頑張ったね……?」

「……」

「咲夜?」

「えへー」

 

 だらしない笑顔を浮かべ、振り子のように揺れる咲夜。あまりに無邪気な振舞いは、『あっこれ妖怪の変装じゃなくてただ寝惚けてるだけだ』と妙な確信を霖之助に与えた。

 

「やったぁ、ほめられました。これでさくやはがんばれます」

「そ、そうか。それは良かった」

「もっとほめてもいいんれすよ?」

「君、飲酒してないよね?」

「なにをいいます。ここはさくやのゆめのなかです。よってきゅーきょくのシラフです。あんだーすたん?」

「夢……あー、咲夜。それは違う」

「?」

「これは現実だ。夢なんかじゃないんだ」

「………………??」

 

 なに言ってるんだこの店主、という顔で咲夜は霖之助を見ている。微かに顰められた眉が、取り戻されつつある理性の片鱗を示唆していた。

 まどろっこしいのは御免なので、霖之助は強硬手段に打って出た。

 即ち咲夜の手を取って、自身の顔へと当てたのである。

 さらに追い打ちを掛けるように、霖之助は咲夜の頬っぺたをむいーっと引き伸ばして、

 

「ほら、僕は正真正銘本物の森近霖之助だ。今君の頬を抓っている指も、その感覚も本物さ」

「……いひゃいれす」

「だろう? ということはつまり?」

 

 蕩けていた瞳に光が宿り、一瞬で消える。肌は死人の如く血の気を失くし、表情筋から一切の力が抜け落ちた。

 

「…………………夢じゃ、なぃ」

「ご名答。紛れもなく現実だよ」

「は」

「という訳で、おはよう咲夜。早速で悪いが、ちょっと話を聞いてくれ」

「―――――――――ぴっ」

 

 瞬間、乙女よりも乙女らしい天を衝くような大絶叫が、紅魔館を蹂躙した。

 

 凄まじい高周波がゼロ距離から霖之助の鼓膜を襲う。さっきまで死者のようだった肌を完熟トマトより真っ赤に染め直した咲夜は、霖之助のことなどお構いなしに悲鳴を上げながら後ずさり、後ろにさがり過ぎてベッドの反対からどんぐりの如く転落した。

 バタバタ。バタバタバタ。少女の生足が別の生き物のように暴れ回る。あまりのパニックに見舞われた咲夜は、完全に平衡感覚を喪失してしまったらしい。

 

 無理もない。今まで徹底して表に出さなかった自分を、だらしなく開放されたフリースタイルの十六夜咲夜を、よりにもよって森近霖之助に見られてしまったのだ。

 しかも、夢と勘違いして、あんな甘えん坊になる始末。

 名伏し難い羞恥の嵐が咲夜を徹底して破壊し尽くすのは、もはや自明の理であった。

 

「な、なんっ、なんでっ、なんでなんでなんでどうしてどうしてぇっ!? どうして霖之助さんがここにっ、やだぁっ、あっ、じかん止めなきゃ、とき、時よ止まれっ! 早く止まれぇっ! 止まってぇっ!!」

「落ち着いてくれ、既に時間は止まっている。しかしどういう訳か僕だけ君の能力から弾かれてしまってるんだ」

「どうして止まってくれないの……っ!? こ、こんなはしたない姿、一秒だって見られたくないのにっ、はやく、はやく、お願いだから早く止まれぇっ!!」

「だから時間の流れを元に――――ああもう、落ち着けってば!」

 

 ひっくり返った亀みたいになっている咲夜の下へ駆け寄り、腕を掴んで引っ張り上げる。インドア気質とはいえ180㎝級の男の腕力は伊達ではなく、あれだけ暴れていた咲夜の体が軽々持ち上げられると、あっさり直立姿勢に正されてしまった。

 

 なにが起こったのか理解できず、数秒前の発狂が嘘のように大人しくなる咲夜。眼をパチパチと瞬かせ、急に視界一面を占領した霖之助をただ呆然と眺めるだけになってしまう。

 霖之助は埃を払うように彼女の服を整えながら、

 

「無断で君のプライベートへ踏み入ってしまったのは本当にすまなかった。けど仕方なかったんだよ。こうしなければ僕は元の世界に戻れなかった。君を訪ねるしか方法は無かったんだ」

「――――」

「心から謝罪する。すまなかった。この埋め合わせは必ずするから、今はとにかく落ち着いて能力を――うおっ!?」

 

 聞く耳持たず、咲夜は霖之助を突き飛ばした。間髪入れずに隣を駆け抜け、眼にも止まらぬ速さでテーブルの上にあった()()()を奪取すると、ベッドの毛布をひったくって体を覆い隠しながら、部屋の角へ飛び込むように逃げ去った。

 

 普段の冷静な彼女ならここで部屋から脱出するだろうが、逆に袋小路へ逃れてしまうとは、よほど追い詰められているらしい。隠したかったのだろう脱ぎっぱなしのニーソックスとホワイトブリムの一端も、毛布の端から完全に覗けてしまっている始末である。

 

 咲夜は顔を夕陽よりも真っ赤にさせて、涙を瞳にいっぱい貯め込みながら、雨に打たれた子犬のように震えた声で、

 

「…………………見ないでぇっ…………」

 

 

 ……そこまで悪いことをしたつもりはないのに、なんだか物凄く罪悪感に苛まされる霖之助である。

 これではまるで霖之助が彼女へ乱暴を働いているみたいではないか。

 

「――ハッ!!」

 

 瞬間、霖之助の脳内に電流走る。もはや電流というより非常事態警報に似たアラートが鳴り響いたかのような錯覚だった。

 ここまでの状況を噛み砕いていく内に「これってもしやかなり不味い場面なのではないか」と霖之助の本能が訴え始めたのである。なんだかよく分からないがとにかくヤバいのだ。とびきり不味い状況だと第六感がエマージェンシーを叩きつけてくるのだ。

 

 例えるなら、そう。

 

 ここで第三者が介入なんかすれば、瞬く間に()()()()()を産んでしまうこと受け売りなのではないか、と。

 

「どうしたんですか咲夜さん!? なんか聞いたことも無い悲鳴が聞こえました…………け…………ど?」

 

 狙いすましたかのように、紅魔館が誇る第一の門番(セキュリティ)、紅美鈴がミサイルの如くすっ飛んできて、ドアを躊躇なく蹴破って現れた。

 そして、部屋を一望した彼女の瞳にはこう映るのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――などと。

 

 ああ、成程。霖之助は引き攣った笑顔を浮かべながら理解した。止まっている筈の美鈴がどうして動けてここまでやって来れたのか、どうしてこんなに第六感が働いたのか、完全無欠に理解した。

 

 咲夜が完全に自我を取り戻した時、パニックを起こしながらも彼女は能力を切っていたのだ。正確には無意識のうちに凄まじい速さで能力のオン・オフを繰り返していた。それこそ、咲夜自身にも霖之助にも時間が止まっているのか動いているのか分からないくらい微細な間隔で。

 

 そう。()()()()()二人だけの冷たい世界はとっくに解除されていた。そして実に残念なことに、まったくもって不幸なことに、時止めのスイッチは最終的に『オフ』で差し止められてしまっていた。霖之助が腕を引いて彼女を起こした瞬間、運命が確定してしまったのだ。時の流れが正常に戻り、悲鳴が紅魔館へ轟いて、それを聞きつけた美鈴が豪速で駆けつけてくる運命が。

 

 まぁつまるところ、何が言いたいのかと聞かれれば。

 どう足掻いても八方塞がりな王手(チェック)に、霖之助は嵌ったわけで。

 

 幻想郷妖怪界隈でも屈指の温厚さを誇る美鈴が羅刹のオーラを纏っている時点で、強制投了は免れなかった。

 

 

「俳句を詠め。この(ホン)が引導を渡してやる」

「ご、誤解だぁーっ!?」

 

 

 

「あはっ、ははっ、あっははははははははははははっ! あ――――っはははははははははははははははは!! ひひひひひっ、ふふふははははははははははははははははっっ! んぐっ、んぅぁっ、ふひっ、ふふふははははははははははははははははははははっ!! ひぃ、ひぃ、はふ、あぁ、だ、だめっ、息が吸えない、死んじゃう死んじゃう! 腹筋がもげちゃうううううううふはははははははははっ!!」

「……いくら何でも、少し笑い過ぎじゃないかい?」

「だっ、だれのせいだとっ、ぶふっ、おもってんのよっははははははっ、あっっはははははははははははははっ!」

 

 久しい紅茶の香りと仄かな酸味を堪能しながら、霖之助は対面座席に座る笑い袋をジトッとした眼差しで見つめていた。

 抱腹絶倒の境地に足を踏み入れ、文字通り死にそうなくらい笑い転げている人物は、紅魔館当主のレミリア・スカーレットである。

 語るまでもなく、先ほどの騒乱を()()が故のリアクションだった。

 

 本当に苦しいのか、引き裂かれるような笑顔のまま目尻に涙を浮かべるレミリアは、普段の貴族然とした振舞いをかなぐり捨てて乱暴にティーカップの中身を飲み干し、笑いを飲み下そうと奮闘する。

 

「んぐっ、んぐっ、んぐっ……ぷふぅ。ふ、ふ、ふぅー……あー、やぁっと落ち着いてきたわ。まったくなんて楽しいことしてくれるのよお前は、お陰で死ぬところだったわ。私を窒息死させて暗殺でもしようって魂胆かしら?」

「そんなわけ無いだろう。僕だって望んでこんな目に遭ったんじゃない」

「すみませんすみませんほんとすみませんまさか咲夜さんの世界に巻き込まれてたなんて思わなくてすみませんすみません」

 

 霖之助の隣で高速謝罪マシーンと化しているのは、先ほど彼を熟練のチョークスリーパーで落としかけた美鈴である。

 案の定とでも言うべきか、あの後誤解を解くのに咲夜の部屋を探し当てるまでの時間と同じくらい弁解を強いられた。誤解が解けるまで霖之助はありとあらゆる寝技関節技を極められた訳だが、そこは腐っても半人半妖。もうすっかり全快である。

 運命を操ると豪語するレミリア・スカーレットによる審査が無ければ、未だ霖之助は賊として尋問されていたかもしれないが。

 

「いやーまさか咲夜が無意識にお前を自分の世界に引き込んだまま眠ってしまうなんて、数奇なこともあるものねぇ。お陰で色々と面白いものが見れたわ。ねー、咲夜?」

「さぁ、何の事を申されているのでしょうお嬢様。私にはとんと心当たりがありませんわ」

 

 ニヤニヤ面で投げ放たれる意地の悪い主からの()()を涼し気にいなす咲夜。件の半狂乱はどこに消えてしまったのか、そこにはいつもの彼女があった。

 

 が、そんな面白くない返答で悪魔が満足するはずもなく。

 

「てんしゅさんてんしゅさん」

「ヴッ」

「きょうのさくやはがんばりました。ほめてくださいー」

「……………っっっ!!」

「時よ止まれっ! 早く止まってぇ!!」

「わ、私は、妹様のお食事の支度がありますのでっ、こっ、これにて失礼いたします……!!」

 

 消えた。

 今度は霖之助を巻き込むことなく、十六夜咲夜は速やかに退出した。

 羞恥の頬紅を露わにせず礼節を保ったまま去ったのは流石と言うべきか。でも耳が真っ赤だったのは触れないであげよう。指摘なんかした日には発狂するのが目に見えていた。

 

「あまりいじめてやるなよ。可哀想だ」

「あら、誰に向かってものを言ってるのかしら。私はスカーレットデビルと畏れられる女よ? そんな悪魔につけ入る隙を晒したあの子が悪いわ」

「……はぁ。その様子だと一月は玩具にされそうだね」

 

 幻想郷へやって来た当初と比べてめっきり丸くなったレミリアだが、それでも根っこは妖怪で、悪魔と揶揄される吸血鬼のソレである。からかい所のある人間を見つけるとどうしても弄りたくなってしまうのは、持って生まれた性に等しい。

 

 咲夜の未来を憂いながら吐息を零し、お茶を一口。

 カップを置き、一転。霖之助は剣呑な光を瞳へ宿す。

 眼鏡のレンズが、シャンデリアの光を淡く反射した。

 

「で、実際のところどうなんだい」

「……? なんの事を言っているのか分からないのだけど」

()()()()()()()()()()()()()()()。君が手を引いていたんじゃないのかい?」

 

 被告を追い詰める検察のように。犯人の退路を塞ぐ探偵のように。森近霖之助は言葉を突き付けるように言い放った。

 十六夜咲夜が起こした能力の誤作動は、レミリア・スカーレットによって引き起こされた事件なのではないのかと。

 

 レミリアは清楚な微笑みを浮かべたまま、小首を可愛らしく傾げて問うた。

 

「一応聞いてあげるけど、どうしてそんな言葉が飛び出たのかしら?」

「不自然だからだよ」

「なにが?」

「一つは、彼女に僕を巻き込む動機がとんと見当たらなかった所。そしてもう一つは――あの咲夜が、たかが疲労程度でこんなミスをする訳が無いだろう? ましてや紅魔館から距離がある香霖堂のこの僕だけを、わざわざピンポイントで、彼女にとって不可侵領域である自分の世界に巻き込むなんて」

 

 ――前提として、十六夜咲夜は完全無欠の肩書を名乗ったとしても、誰も異論を唱えないほど完璧な人間だ。

 

 確かに、時たま素っ頓狂な事を言うし、常人には理解できない行動に打って出ることもある。しかしそれはあくまで『十六夜咲夜』という少女の性格の問題だ。彼女の仕事能力、万能性を妨げている訳ではないし、それが原因で仕事が疎かになっているなんて話は聞いたことも無い。

 無論、彼女もたまにはミスをする。咲夜だって人間だ。100%完璧ということは無い。けれどそれを万全の対策をもって防ぎ、事実上100%へ押し上げているのも、彼女が『完全で瀟洒な従者』と謳われる理由の一つなのだ。

 

 そんな咲夜が、いくら疲労困憊していたとはいえ――霖之助は知る由もないが、彼女ながら淡い想いを抱えているとはいえ――たった一人の人間を己の世界へ巻き込むだなんてあり得るだろうか?

 そもそもの問題。例え無意識の所業でも、咲夜が己の空間へ人を誘うとは考え難い。何故ならあの空間は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 彼女はあの空間の中でだけ、無防備な少女の咲夜でいられる。紅魔館の従者でもなんでもない、天衣無縫の己を曝け出せるプライベートスクウェアなのである。そして『そんな咲夜』は完璧を是とする少女にとって絶対に知られたくない弱みであり、例えそれが霖之助であっても――否。むしろ霖之助だからこそ、曝露されるのを全力で阻止しようとするはずなのである。

 あの発狂ぶりからも、それは容易に推察できるだろう。

 

 では何故、彼女は絶対に踏み込まれたくない領域へ、絶対に来てほしくない人物を招き寄せてしまったのか? 

 真実があるとすればただ一つ。このアクシデントは十六夜咲夜の意志によるものではなく、第三者の介入あってこその事件だったからだ。

 

「君が『運命を操る程度の能力』と謳う力。それが事実ならば、僕は因果律への干渉じゃないかと推測していてね。この仮説が正しいとした場合、咲夜の能力に綻びを生ませる事だって可能なんじゃないかと思ったんだ。例えば、そう。能力の調整ミスをする運命に、少しだけ誘導するとか」

「……」

「もちろんこれはあくまで机上の空論、ただの戯言に過ぎないさ。それを是と認めるか非と捨てるか、君の判断に任せるよ」

 

 紅茶を啜る。湯気で曇った眼鏡を外し、ハンカチでレンズの靄を拭い取った。

 レミリアはテーブルへ膝を着き、指を絡めて作った橋へ顎を乗せながら、悪戯っ子のように微笑んで。

 

「概ね正解。なによ、案外やるじゃない」

「その概ねという部分が引っ掛かるが……意外とあっさり認めるんだな。誤魔化されるかと思ってた」

「別にうやむやにする理由もないしねー」

「なら、もう一つ質問。どうしてこんな事をしようと思ったんだい?」

「んー……一概には言えないけれど、強いて言えば息抜きかしらね」

 

 それは()()()の? と問う前に、レミリアは唇を動かした。

 

「あの子ね、真面目なのよ。時々へんてこりんだけど、本当によく働くの」

「だろうね。傍目から見ても明かだ」

「でしょう? 私としてはそれでも良いんだけど、ちょーっと心配になるのよねぇ」

 

 溜息を吐き、憂いの色を帯びる吸血鬼。その表情は童女のそれではなく、しかし当主としての顔でもなく、どこか母親のような柔らかさを感じさせた。

 

「アレでも大分マシになった方なのよ。幻想郷へ来てからよく笑うようになったし、ジョークも言うし、おまけにワケ分かんない事も沢山しでかすようになった。昔の咲夜はもっと冷徹で淡々としてて、なんていうか、機械みたいなヤツだったわ」

「……」

「その名残か知らないけれど、あの子時々無茶するのよ。今回だってそう。休めと言っても構わず仕事をしちゃう。多少は自己管理……というか自分を視野に入れられるようになったけれど、まだまだ全然甘い」

「つまり、彼女の度が過ぎた働き者ぶりを諫めるために運命を弄った、ということか」

「それもあるけど、あの子のガス抜きも兼ねてね」

「……ガス抜き? 僕が彼女の世界へ入ってしまうような惨事が、どうしてガス抜きに繋がるんだ?」

 

 当然な理屈である。咲夜にとって自分の世界へ踏み込まれ、あまつさえ無防備な姿を見られることは恥辱の極みだ。それが『もう二度と倒れるまで働かない』という教訓にこそなるだろうが、ガス抜きになるかと聞かれれば首を傾けざるを得ない。

 

 対して、レミリアは深く息を吐き出しながら『これが距離を縮める切っ掛けにならないか、ってところよね』などとわけのわからない言葉を漏らすのみ。

 

「それにしても……ふふ。あの子にもまだ可愛いところが残ってたのねぇ。あーんなに取り乱しちゃってさ。パチェに頼んであのシーンをデータ化してもらおうかしら。アレよ、ホームビデオってやつ? あの子が式でも挙げた日には大画面で流してやるわ」

「ほどほどにしておけ。塞ぎ込んでしまったらどうするんだ」

「その時はお前を雇うから。それで一発解決よ。無論お前に拒否権は無い」

「どうしてそうなる!?」

「どうしてって、当たり前でしょ。()()()使()()()()()()()()()()()()、ちゃーんと取ってもらうんだから」

「理不尽すぎる上に意味が分からない」

「今は分からなくて良いわよ。――ああ、そうそう。さっきの推理の事だけどさ」

 

 レミリアは一対の翼をパタパタと動かしながら、ニコッと悪魔らしからぬ笑顔を浮かべて、

 

「採点するなら80点よ。あの子には動機が見当たらないといったけれど、()()()()。今は無理かもしれないけれど、きっと、そのうちあの子から歩み出すくらいにはね」

「……? もうちょっと要領よく言ってくれないか。言葉遊びは君ほど得意じゃないんだ」

「却下。吸血鬼(わたし)はそこまで優しくないし、この前お前のせいで酷い目もとい()()()にあったんだからこれくらい我慢なさい」

 

 事件の裏を読み取れても、吸血令嬢の言葉の裏を汲み取る術なんてものはなく。

 霖之助はただただ疑問符を浮かべながら、うーんと呻くばかりであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……いてっ。いててっ。おい止めろ香霖顔を引っ張るな、いまお茶飲んでる最中なんだぞっていない!? こ、香霖が消えた痛たたたたたたたいひゃいいひゃいいひゃい!? なんひゃこりぇぇぇぇぇぇっ!?」

「お邪魔するわよー。霖之助さん喉乾いちゃったから冷たい飲み物よろし痛ッッたああああああああああああいっ!? な、なに!? 敵襲!? というかここどこ――って、あ、あれ? 香霖堂の中……? まだ外にいたハズじゃ、あれー……?」

「ひぇいむううううううううたしゅけてくりぇええええええ」

「……アンタ一人でなにやってんの?」



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薀蓄店主と流星ガール
スマート★クライシス


きんぱつのこかわいそう


「すまほ?」

 

 昼下がりの香霖堂。いつものように入り浸っていた黒白魔法使い(きりさめまりさ)は、奇妙なプレートを弄りながらそう言った。

 湯呑程度の長さだが、厚さは指一本分にも満たない薄板である。板にはカラフルな絵画が反映されていて、しかも指でなぞれば動くという、魔法使いもびっくりなアイテムだった。

 その名を『すまほ』というらしい。

 

「正確にはスマートフォンだがね。スマホは略称だよ」

 

 魔理沙の疑問を補足するのは、銀縁眼鏡をキラリと光らせている店主である。閑古鳥の鳴く店内では特にやることも無いのか、無縁塚で手に入れたらしい『外』の書物をパラパラと捲って堪能している。

 

 スマートフォン。本来ならば『外』の世界に存在する、科学技術の叡智が集結した万能端末。

 ただの板きれと侮るなかれ、これさえあればいつでもどこでも他者とコンタクトを取ることが可能で、あらゆる分野の情報を瞬時に利用することまで出来るという、まさに魔法を物質として固めたかのような道具なのである。

 

 だがしかし、当の二人はスマホの正しいメカニズムなんて知る由もないけれど。

 

「ふーん。何に使う道具なんだ? へんてこな絵がいっぱいあるが」

「主に通信端末として使うらしい。電波という特殊な魔力に乗った情報を送受信する『外』の式神だそうだ」

「へぇ! 面白いな。『外』には情報を載せられる魔力なんてあるのかぁ」

「一番上に白い枠があるだろう? その中に文字を打ち込むと、自分の求める情報を拾うことができる。例えるなら……そうだね、自分で記事を探せる魔導書(グリモワール)といったところか」

「なんだそりゃっ! 信じられない便利アイテムだな!」

 

 魔理沙は白枠を穴が空きそうなくらい眺めながら驚嘆の声を漏らした。左にGと書いてある。右にはよく分からない絵があった。なんだか青いツクシのようなアイコンだ。

 

 とりあえず白い枠を触ってみる。一瞬板が振動して、枠の下から『恋 成就』やら『胃袋 掴む』とか『朴念仁 落とし方』といった、単語でパズルゲームでもした痕跡のような単文たちが現れた。

 おまけに下の方には『悩殺 シチュ』だとか、『銀髪 眼鏡 長身 男性 好き』のような、明らかに特定の人物を指し示しているかのような奇妙な文が続いている。

 

 どうしてこんな検索履歴(きみょうなもの)が姿を現したのか知らないが、まるで魔理沙が調べようと思っていた心を読まれたかのような文ばかりで、思わずドキッとしてしまう。

 

 無視し、白枠をもう一度押してみる。今度は五十音の頭文字だけが浮かんできた。

 どういうパネルなのか理解できず、とりあえず適当に押してみる。しかし『あかたさなはまわ』のような意味不明な文しか打ち込めない。

 

「あー? なんだこれ、どうなってんだ」

 

 思い通りに操作出来ないせいでイラッときたからか、逆境魂に火が付く魔理沙。

 根気よく法則性を確かめていく。こういう試行錯誤は魔法使いの端くれとして得意であった。。

 若く柔軟な頭脳は、やがて一定の法則を抽出する。霖之助が書物を半分読み終わるころには、まだスローペースながら自分の思うままに文を打ち込むことが可能となるまで進化していた。

 

 そんな魔理沙が検索しようとしているのは、『男の人 好き どんな女』で――――

 

「ああ、そうそう」

 

 いざ検索しようとした矢先、急に声が飛び込んできて肩が跳ねる。

 拍子にあらぬ方向へ指をスライドしてしまう。すると、折角打ち込んだ検索アプリが落ちてしまった。

 

「その式神は人の声を届けることも出来るらしい。どんなに遠くにいても話したい人間と会話出来るそうだよ」

「ほんとか? どんなに遠くにいても?」 

「ああ」

「そいつは凄いな……あーあー、こーりん聞こえますか? かわいいかわいい魔理沙ちゃんだぜ。応答願いまーす」

「僕はここにいるだろうに」

 

 悪戯成分濃縮100%な笑みを浮かべつつ、スマホを口元に近づけて無線機のように扱う魔理沙。霖之助は困ったように笑いながら軽く受け流していた。

 

「そもそも、遠隔会話をするためには端末が二つ必要なんだ。脳内に直接届けるような効果は無いよ」

「……じゃあもし私と香霖がすまほを持ってたら、いつでも話が出来るってことになるのか?」

「まぁ、そうだね」

「へー! へーへーへー!」

 

 今の短い会話の中で、魔理沙の琴線をビンビン弾いたものがあったらしい。瞳を星のように輝かせながら、宝物でも見つけたが如くスマホを握り締めていた。

 

 霖之助には彼女が何故そんなに嬉しそうなのかがピンと来なかったが、さておき、不味そうな展開だなという雰囲気を察知する。

 というのもこの魔法使い、とにかく手癖が悪いことで有名である。借りると称して様々なモノをかっぱらうのは割と日常茶飯事であり、霖之助自身、絶対に()()()()()()()()代物は敢えて価値がないと風潮しておき、予防線を張り巡らすほどなのだ。

 

 で、今の魔理沙はいわゆる『お借りしますモード』に入っている。つまり目をつけられた。

 今すぐ窘めなければ鼠のように姿を消すこと請け負いである。霖之助は長年の付き合いから知っているのだ。

 書物から眼を上げ、一言釘を刺そうと口を開き、

 

「魔理沙、それは僕の私物じゃなくて他人の忘れ物なんだ。だから持って行っちゃ駄目――って、もういない」

 

 時すでに遅し。とんがり帽子のブロンド少女は影も形も無くなっていて。

 ズレ落ちた眼鏡の位置を正しながら、霖之助は自らを落ち着かせるように咳払いした。

 

「……まぁ、持ち主が持ち主だ。どうとでもなるか」

 

 忘れ主が菫子のように尋常の者であれば流石の霖之助も追いかけるが、今回ばかりは事情が異なる。

 なにせあのスマートフォン、霖之助の知る限り、この幻想郷で最も盗み出すのが難しい人物の物なのだ。

 

 

 

 

「へへ。コイツを複製出来れば……へへ」

 

 頬をニヨニヨと餅のようにしながら、散らかった我が家でほくそ笑む霧雨魔理沙。

 手中にはスマートフォン。古道具屋の店主いわく、この式神が2つあればいつでもどこでも会話できるうえに、万能のグリモワールとしても働いてくれる夢のアイテム。

 

 それを手にした魔理沙の考えは単純明快だった。

 ()()()()()()()。そして霖之助へ渡す。ただそれだけ。

 

「そうしたら、会いに行けない時でも話せるな」

 

 平時は粗雑な振舞いの目立つ魔理沙だが、やはり年頃の乙女に違いない。恋する声をいつでも耳にしたいと願う心は、いたって普通のソレだった。

 

 さっそく魔理沙は取り掛かる。式神を複製するためにどんな構造になっているのか知るべく、まずは中身を見てみようと考えた。

 が、ここでひとつ大誤算。

 言うまでもなくスマートフォンは式神ではない。外来の知恵で生まれた機械、理学工学の塊である。幻想とは対極に位置する存在であり、当然ながら魔理沙に解析できるものではなかったのだ。

 気付いた時には日没だった。しかし肝心の解析はおろか、スマホの中身を拝む事さえ叶えられていない。

 

「だめだこりゃ、手に負えねー。明日河童にでも頼もうかな」

 

 ぼふっ、とベッドへうつ伏せに倒れ込む。苛立ちを発散するかのようにグリグリ顔を押し付けて、満足したら仰向けに寝返ってスマホを見た。

 既に大まかな操作の仕方は把握している。横のスイッチを押すと暗い画面に色彩が宿り、さらに白枠を押すと、不思議なグリモワールが開けるのだ。

 

 そう言えば遠くの人と話す方法を聞いて無かったな――なんてぼんやり思い耽りながら、魔理沙はGo●gle(グリモワール)を起動した。

 外来の知恵を盗めるまたとないチャンスを魔理沙が逃すわけなどなく、淡々とキーワードを入力していく。

 

「男の人、好き、どんな女……と」

 

 昼に調べることの出来なかった、初心な少女の抱く星の言葉。

 願いを込め、幻想郷には存在しない理をもって、画面へ答えを映し出す。

 

「おっ? おおすごい、なんかいっぱい出てきたぞ」

 

 続々と飛び出す魔法の辞書(ウェブサイト)

 電子の海に触れたことのない魔理沙にとってそれは、全てが黄金とすら思える世界だった。

 

 モテる女のポイント3つ、男性の持つホンネ100選――純情な少女の興味を極限まで引き出す金言ばかりの広がる空間。

 小さな板からは想像もつかない、探究心を埋め尽くさんばかりの情報世界。

 ひとつ。ひとつ。手探りで操作を覚えながら、未知の領域へ飛び込んでいく。

 

「やっぱり女は笑顔なのかー。笑顔にゃ自信あるぜ。清潔感だってばっちり……あー、部屋の掃除そろそろしないとな……。書いてある通り、外も中もデキる女にならなくちゃ」

 

 知りたくても知れなかった知識の山が、山脈のように広がっていて、ついついサーフィンに熱中してしまう。

 浅瀬を泳ぎ、乗りこなし、魔理沙は更なる大洋へ。

 少しずつ、少しずつ、電子の海の泳ぎ方を覚えていく。

 

 だが、しかし。

 海域に浸かりたての魔理沙は、そこに潜む悪魔の罠を知らなかった。

 

「は」

 

 偶然だった。ある記事を読んでいた時、本当に偶然手が滑って、半透明のバナーに触れてしまった。

 インターネット初心者ならば誰もが陥る落とし穴。深淵を覗けば覗くほど猛威を振るうバミューダ海域(18禁の世界)

 即ち、違法広告によるブービートラップ。 

 他人のキスを見ただけで完熟トマトに早変わりする純情乙女にはあまりに刺激の強い、魔界とすら呼べるドギツい大人の世界が、一瞬で画面を蹂躙した。

 

「……え。え!? なにこれ、ぇっ、えひぇっ!? わた、わたし、こんなの調べてなっ……!?」

 

 心臓が暴走機関の如く暴れ出す。沸騰した顔面が熱すぎて脳が溶けるかと錯覚した。

 思考が弾ける。神経という神経がショートしていく。

 それでも何故か、眼を離すことが出来なくて。

 

「ぁわっ、うわーっ、うわわ、わは、うわーうわーうわー!」

 

 語彙が消え、言語にならない言語を吐き出す生き物。

 まるで視線を盗まれたように釘付けられた魔理沙だが、しかし人間にはキャパシティというものが存在する。

 一瞬で羞恥が天元突破した魔法少女は、これ以上直視できないと本能的に戻るボタンを連打した。

 それで逃げられるなら、悪魔の罠であるものか。

 

「えっ、え? なんで、なんで消えないの……?」

 

 戻れない。何度押しても戻れない。

 どういうわけか何度も同じページが表示される。その度に魔理沙には過激な世界が再生されて、何度も何度も焼き付けられる。

 亜光速でテンパった。

 

「どどどどどうしよどうしよどうしよなんで閉じれないのなんでなんでなんでええええええっ!?」

 

 逃げ場がなかった。網に捕らえられた魚のように困惑し、暴れまわることしか許されなかった。 

 瞳がグルグル渦を巻く。パニックを通り越して笑みまで浮かんできた。もう完全に涙目だ。終いには「やだやだやだやだやだ」と繰り返す壊れたラジオになってしまう。

 

 だってこれ、霖之助の物なのだ。つまりいつか返さなくてはならない代物なのだ。

 

 魔理沙から帰って来たスマホを開いたら【禁則事項】な画像の山だったら、彼はどう思うだろう。破廉恥な女と思うに決まっている。

 それは駄目だ。それだけは駄目だ。魔理沙にとってそれは死刑以外の何物でもない。

 

 かといって河童へ預けるのも不味い。理由は同上、霖之助ではないぶんマシとはいえ、誤解されるなんて真っ平ゴメンだ。

 

 であれば、もういっそ自分の物にしてしまって墓場まで持って行くのが定石か。

 

 

 ――と、いつもの魔理沙なら考えるだろう。

 しかし今の霧雨魔理沙は普通ではない。思考回路が爆発し、冷静なんて月まで投げ捨ててしまっている。

 完全無欠に慌てていた。それはもう人生で類を見ないくらい暴走した。

 

 パニックを起こした人間は常識外れな行動を起こす。魔理沙はスマホを握り締めて相棒の箒を引っ掴むと、ジェット機の如く飛びあがった。

 

 夜を裂き、香霖堂へ一直線に飛行する。店舗の前へ不時着すると、どたどた走りながら店のドアを蹴り破るが如く侵入した。

 

「こーりん!!」

「うおっ!?」

 

 テロリストの奇襲でも受けたようなリアクションをする店主。

 真夜中に何の前触れもなく少女が大声と爆発音を伴いながら入店したのだ。驚かない方がおかしい。

 

「こんな夜更けにどうしたんだ。しかも君、なんだか様子がおかしくないか――」

「返す!!」

 

 スマホを裏面のままテーブルへ叩きつける魔理沙。

 何が何やら理解できず、返却されたスマホと魔理沙に視線を泳がせる霖之助。

 ただ、いつも飄々としている少女が耳まで真っ赤に染めて涙を蓄えながら「フーッ、フーッ」と猛獣のように息を荒げているものだから、ただ事ではないのは理解した。

 

「落ち着いてくれ魔理沙、どうしたんだ? 一体何があった?」

「これもう返す!! いいか! 絶対中身を見るなよ!! 絶対だぞ!」

「は? スマホかい? スマートフォンが何だと」

「触っちゃだめ!! いいから見るな触るな! お願いだから見ないで!!」

 

 スマートフォンへ干渉されることを酷く嫌う魔理沙。触ろうとすれば歯を剥いて唸るものだから、手を挙げて降伏するしかない霖之助である。

 

「わ、分かった。見ないから、取り敢えず落ち着いてくれ」

「ほんとだな!? 嘘じゃないな!? 絶対見るなよ!! ほっ、本当に見たらヤなんだからな!! 約束しろぉっ!」

「ああ約束する、絶対に見ないと約束するよ」

 

 今にも泣き出しそうな魔理沙を冷静に諫めて鎮火しようと試みる。

 どうにか納得したらしい魔理沙は、何度もびしびしと指をさしながら少しずつ後退を開始した。

 

「ぜったい、ぜったいだからなっ! みたらひどいからな! いっしょうのおねがいだから、ぜったいぜったい、みないでよっ!!」

 

 捨て台詞と共に嵐の如く去っていく魔法使い。

 残された店主は開けっぱなしのドアを暫く呆然と眺めた後、ゆっくりスマートフォンへ視線を落とし、

 

「……あの子があれほど狼狽えるなんて、一体何があったのやら」

 

 興味が無い、と言えば全くの嘘になる。

 家を勘当されようが、無数の魑魅魍魎を相手に弾幕勝負を繰り広げようが、ケロリとしている鋼の精神の持ち主をたった数時間で憔悴させたのだ。気にならないはずがない。

 

「やれやれ」

 

 だがもし正体を知ってしまえば、厄介事になるのは目に見えていた。

 霖之助は知っている。彼女が鬼気迫るほど嫌がることを万が一にもしでかしたら、尋常じゃなく拗ねるという生態を知っている。

 

 それはもう凄まじい拗っぷりだ。普段サバサバしてる分の反動とでも言うべきか。とにかく筆舌に尽くしがたいほど機嫌を損ねる。下手をすれば幾つも月を跨いだって治らないくらい不機嫌になる。

 

 だから霖之助は、一切スマートフォンに触れなかった。

 触らぬ神に祟りなし――幻想郷には神様なんて腐るほどいるけれど、今この時ばかりは、霧雨魔理沙ほど厄介な神様はいないと断言できる。

 

「……コレの持ち主は、見ても良いのだろうかねぇ」

 

 今日も今日とて、吐息を落とす店主である。

 

 

 

 

 根本的な話をしよう。

 幻想郷とは『忘れ去られたものたちの楽園』である。外の世界の認知から外れ、存在を抹消された生物無生物が最後に流れ着くユートピアなのだ。

 

 その性質上、忘れ去られたもの、滅びたもの以外が流れつくことはまず有り得ない。無論例外もあるが、それは多くの因果と数奇、賢者の気紛れが混ざり合って初めて成立するイレギュラーである。

 

 で、あるならば。

 忘れ去られるどころか、世界規模で広く根付く現役バリバリの最先端機器たるスマートフォンが、一体全体どんな経緯を辿って流れ着くことになったのか?

 

「ふんふーん、ふんふんふーん」

 

 真相は全て、一人の少女にこそあった。

 いくつか毛先を束ねた金糸のようなブロンドヘア。パープル基調のフリルドレス。暁を彷彿させる黄金の瞳。

 名を八雲紫。境界の乙女にして、幻想郷の創設者が一人。

 即ち、『外』と幻想郷を自由自在に行き来できる、数少ない人物である。

 

「こんにちはー。霖之助さんいらっしゃるー?」

 

 目玉蠢く異形の空間から降りたって、紫は香霖堂に姿を現した。

 対する霖之助はと言うと、書物から一切視線を動かさずに「いらっしゃい」と生返事するのみ。不意打ちされるのは慣れっこらしい。

 

「相変わらず冷たいわねぇ。もうちょっと驚いてくれてもいいじゃない」

「長い付き合いだからね、流石に慣れたよ。何をお求めで?」

「忘れ物したから取りに来たの」

「そんなことだろうと思ったよ」

 

 こちらがお求めの品になります――皮肉交じりに霖之助はスマートフォンを明け渡す。

 紫はどういう訳か、ぱちくりと瞬きを繰り返した。

 

「……それだけ?」

「うん? それだけとは?」

「いやほら。もっとこう、言うことは無いの?」

「忘れものには気を付けるんだよ」

 

 カクッと首を落とす紫。霖之助はクエスチョンマークを浮かべるのみだ。

 しずしずと受け取った紫は蚊の鳴くようなお礼を告げて、あっさりと香霖堂を後にしていく。

 

「うーん……一体何が駄目だったのかしら。興味を惹かないわけないと思ったのに」

 

 異形の空間を揺蕩いながら、不機嫌そうに眉を顰めて首を傾げる大妖怪。

 当然ながら、スマートフォンをうっかりなんぞで忘れたわけではない。実のところ、全て計算された上での行動である。

 

 森近霖之助。古道具屋の店主であり、その独特の魅力から数多くの異性を惹きつける半妖の青年。

 紫もまた惹きつけられた少女の一人であり、賢者の叡智を用いてあの手この手で振り向かせようとする策士でもあった。

 

 が、霖之助は巷で不動明王と囁かれるほどの朴念仁。今のところ全戦全敗であり、めぼしい成果は上げられていない。

 それでも彼女は諦めず、新しい作戦に打って出ていた。これこそが、今回のスマートフォン事件の発端なのだ。

 

「完璧な作戦だったのにー」

 

 名付けるならば、『検索履歴で気付かせちゃおう大作戦』である。

 

 内容はこうだ。まず霖之助の生態である『外来の物に興味を示すコレクター気質』を逆手に取り、外界において最先端機器のスマートフォンを使って興味を惹く。

 次にスマートフォンの使い方を説明し、敢えて香霖堂へ忘れておく。

 すると霖之助は好奇心を抑えきれず手を伸ばし、Go●gleへ手をかけたところで検索履歴を目撃、ストレートな恋文から紫の心情を察してHappy End――これ以上に無いパーフェクトな筋書きだった。過去形の通り玉砕したが。

 

「ただいまぁ」

 

 幻想郷のどことも知れない八雲邸に帰宅する紫。ふらりふらりと居間へ向かい、スキマから取り出したソファの上へ倒れ込んだ。

 今日は休日なのだろうか。暇そうに足をパタパタさせながら、おもむろにスマートフォンを手に取って弄ぶ。

 

「流行ものだから絶対面白がると思ったのだけれど、ふぅ。男の人のストライクゾーンってイマイチ分からないのよね」

 

 ぶー、と膨れっ面になりつつ、おもむろにスイッチを押す。

 えっちの濁流に呑まれた。

 

「――は。あ、ぇ、うん??」

 

 寝ている時にジャンピングエルボーでも喰らったかのような、思いがけない不意打ちを受けて動揺する紫。

 身に覚えのないサイトが表示されていた。それも濃厚な成人向けともなれば、尚更驚愕モノである。

 一秒、二秒、三秒。八雲紫は再起動する。

 

「な、なんだ霖之助さん、スマホに興味無さそうだった癖にばっちり使ってるんじゃない! というか、へぇ、あの人こういうのに興味あったんだ……」

 

 若干戸惑いながらもしっかり観察する紫。

 少々驚きはしたが、実は枯れてるんじゃないか疑惑すらあった霖之助にも男の面があったという事実に、むしろ安堵すら覚えていた。

 

「……よく考えたらこれ、チョー貴重なデータよね。彼の好みを分析出来るまたとない機会なんじゃ」

「昼間から、なにしてるんです、紫様」

 

 死神のような声がした。

 血の気を引かせ、油の切れたブリキのように、紫はギギギギッと振り返る。

 この八雲家に住人は二人。であれば、声の主は当然一人。

 ソファの後ろから覗き込むように、己が従者が君臨していた。

 

 もこもこだったはずの九尾を萎れさせ、絶対零度の瞳で主を見下ろすのは、紫の誇る式神たる八雲藍で間違いない。

 ただしその眼差しに、主への忠誠だとか尊敬だとかそんな暖色は欠片も無い。あるのはただ、軽蔑を凝縮して作ったドライアイスのように冷たい寒色だけで。

 

「珍しく早起きされているかと思えば、こんな……」

「藍、待って。ねえ待って。違うの藍。これはね、あの、霖之助さんがね!」

「ええ、分かっております。かの賢者であらせられる紫様にも持て余す時があるのでしょう。それは仕方のない事です。ですが時と場所は選んでいただきたい。そのような風体で余所へ示しがつくとお思いか」

「待って、違うのとんでもない誤解なの!! 藍、信じて!!」

「そうですか。ああそういえば、そろそろ昼餉の時間ですね。もやし炒めにしましょう。夕餉も明日もその明日も」

「うわああああああああん私じゃないんだってばああああああああああああ―――――――っ!!」

 

 結局、誤解が晴れることは無かったそうな。

 




きんぱつのこかわいそう(一人とは言ってない)


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