動画配信で食べていく (キ鈴)
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配信者と農娘とスカウトマン

 ギンギラギンと輝く太陽が地上に住む生物達に夏の恵みを与える8月の午後、とあるアパートの一室に一人、汗を滝のように流す青年がいた。

 

 青年の部屋にはエアコンが設置されていないにもかかわらず全ての窓が締切らており、ジメジメとサウナのような状態となっていた。少しでも暑さを和らげようと冷凍庫から取り出した氷は既にコップの中でぬるま湯になっている。

 

 そんな現代人が住むとは思えない環境で青年は一人ノートパソコンの前に座っていた。

 

 パソコンの画面には【雑談枠】と大きく書かれた文字を背景にいくつもの文字列が左から右へと流れていた。青年はその文字を読み、机の上にセットされたマイクに向かって語りかける。

 

 彼の名前は倉敷良(くらしきりょう)、動画配信で生計をたてている22歳の青年だ。現在この猛暑の中窓を締切り、一人マイクに向かって喋りかけているのはそんな彼の職業故だった。

 

『おい、明日PUGGの公式生放送に出るってまじか?』

 

 絶え間なく流れる文字列の中、一つのコメントが倉敷の目にとまった。

 

「お、耳が早いな。ちょうどその話をしようと───げっ……」

 

 待ってましたとばかりにそのコメントについて掘り下げようとした彼の目に新たに投下されたコメントが映った。その文字列に彼はあからさまに辟易とした声をだす。

 

『桃太郎は婚約者と農場を捨てたクズ 桃太郎は婚約者と農場を捨てたクズ 桃太郎は婚約者と農場を捨てたクズ』

 

 そんなコメントが大きな赤文字で他のコメントを押しつぶす勢いで連投されたのだ。【桃太郎】というのは彼のHN(ハンドルネーム)だ。

 

 この婚約者がうんたらかんたらというコメントは所謂(いわゆる)【荒らし】と呼ばれる行為で彼の放送に度々姿を現していた。

 

 通常なら荒らしは配信者はもちろん他の視聴者達にも嫌悪される存在なのだが…

 

『老倉ちゃんきたあああああ!』『神回確定』『これまじ?桃太郎最低だな』『老倉回待ってました』

 

 といった具合に荒らしの出現を歓迎するコメントが多数見受けられた。むしろ配信者側が野次られている。

 

「お前ら俺の視聴者なら俺の味方しろや!荒らしのコメントなんざ信じるな!」

 

『でも婚約者捨てたんでしょ?』

 

「捨ててねぇって言ってんだろ!そもそも老倉は婚約者でも何でもねぇ!!」

 

 倉敷は感情的になりながら視聴者達に弁明する。だがこの弁明に意味がないことを倉敷は頭では理解していた、視聴者は常に面白そうな方に味方するからだ。ぶっちゃけ真実なんてどうでもいいのだ。

 

『老倉ちゃん、この配信者こんなこと言ってるよ』

 

 視聴者の一人が老倉と呼ばれる荒らしにコメントを送った。するとしばらく間を置いて

 

『ひどいです…(泣)』

 

『やっぱサイテーだな桃太郎』『女を捨てたクズ』『老倉ちゃんの元に帰れ』『牧場に帰れ』

 

「何も知らんのに勝手なことばっかいいやがって・・・。お前ら分かってんのか!?俺が農場に帰ったらもう俺の動画は見られないんだぞ!それでいいのか!?」

 

『は?いいわけねーだろ』『牛育てながら配信しろ』『毎秒動画投稿しろ』『農業配信しろ』

 

「てめーらぁ……」

 

 倉敷は顳かみをヒクヒクと痙攣させる。視聴者とは勝手な生き物なのだ。

 

「あーーー、もうヤーメタ!!今日はおしまい!また次回よろしくお願いします!」

 

『おい逃げんな』『老倉ちゃん幸せにしろ』『責任とれ』『24時間配信しろ』

 

 彼が終了を宣言すると彼を非難する大量のコメントが画面を埋め尽くした。だが倉敷はそんなもの意にも介さず配信終了ボタンをクリックする。

 

「15時過ぎか……そろそろ飯くって出ねえと」

 

 配信(しごと)を終えた彼はぐう~と悲鳴を上げるお腹をさすりながら台所に移動し冷蔵庫を開ける。だが中にあるのは麦茶だけで腹の足しになりそうなものは何もない。数時間前にも確認していたがあの時のは見間違いだったのではないかという彼の希望は打ち砕かれ、また腹の虫がぐう~と鳴った。

 

 ならばと財布の中身を確認するが入っているのは数枚のアルミ硬貨だけだった。

 

「ひもじい……お腹すいた……」

 

 彼が元々勤めていた職場『老倉Farm』から脱走し動画配信者となって1年が経過していた。この1年、自堕落な彼にしては珍しく本気で動画配信者としての活動を続けていた……が彼の生活が豊かになる兆しはない、エアコンどころか満足に食事もできないほどに。

 

「こんなはずじゃなかったんだ……本当なら企業案件とか沢山こなしてがっぽがっぽお金を稼いでいるはずだったのに……」

 

 動画配信者の収入源は主に3つに分けられる。

 

①広告収入

 配信者は投稿した動画に企業等の作成したCMを埋め込むことができ、動画が再生されるたびに広告料を収益として得ることができる。広告料は1再生=約0.1円となっている。基本的に上限はない。

 

②企業とのタイアップ

 企業から依頼された商品を動画内で宣伝し報酬を得る、所謂ステルスマーケティングと呼ばれる仕事だ。

 報酬額は内容、配信者の知名度によってまちまちだが1再生=10円等、①と比較するとかなりの額が見込める。だがタイアップ動画には①の広告を付けられない、また報酬額には上限がある等のデメリットがある。

 

③他の番組への出演

 依頼を受け企業等、他の番組に出演し報酬をもらう仕事。②と異なるのはステルスではなく公式的に企業番組に出演することになり自身の知名度UPにつながる。ただし、自身のコミュニティ外での仕事となるため配信者としての真に実力が試される。

 

 基本的に動画配信者達はこの3つの仕事を同時にこなすことで生計を立てている……が、現在の倉敷の収入源は①の広告収入のみとなっていた。

 

「老倉が全部悪い、あいつの妨害さえなければこんなひもじい思いしなくて済むんだ」

 

 冷蔵庫の扉を勢い良く閉め忌々しげにつぶやく。

 

 原因は先ほどの生配信で現れた荒らしにあった。正体は既に判明しており名を老倉やかげという。老倉は倉敷が元々勤めていた農場の一人娘で脱走した彼を何とか連れ戻そうと倉敷の活動の妨害をしていた。『荒らし』もその妨害活動の一つだ。

 

 半年以上前、彼の元に1通のメールが届いた。内容を要約すると以下のようなものだった。

 

『桃太郎様に弊社のソーシャルゲームの紹介をお願いしたくメッセージを送らせていただきました。ついては打ち合わせの為に一度お会いできないでしょうか?』

 

 怪しいことこの上ないメッセージだったが当時の倉敷は小踊りして喜んだ。仕事の依頼が来るということは配信者としてそれなりに名が売れた証明だったからだ。当然OKの返事をした。

 

 待ち合わせ当日、生活が苦しいにもかかわらず購入したスーツに身を包み倉敷はウキウキしながら待ち合わせ場所に向かった。

 

 だが待ち合わせの犬の銅像の前に立つ女性をみて倉敷は固まった。女性は倉敷の存在に気づくとサイドポニーにまとめた髪を揺らしながら彼の方に体を向けこう言った。

 

 

『もう逃がしませんよ、せ ん ぱ い』

 

 

 女性は倉敷の良く知る人物、老倉だった。

 

 倉敷は走った。幼い頃から農場で動物と共に走り回っていた老倉からは逃げられないと理解しつつも走った。捕まれば農場に連れ戻されもう抜け出すことはできないだろう、そんなのは絶対に嫌だったのだ。

 

 直ぐ後ろでガッガッガッとその細い脚の何処にそんな筋力があるのか、力強くアスファルトを蹴る音が聞こえた。

 

          ・

          ・

          ・

 

 どれくらい走ったのか今自分が何処にいるのかも分からなくなったところで彼の足は限界を迎えて倒れた。彼は観念した。

 

「違うんだ、ちょっと一人暮らしってのを経験したかっただけなんだ。やっぱ男なら一度は憧れるだろ?決してお前から逃げたとかそういうわけじゃないんだよ」

 

 疲れ果て仰向けに倒れたまま彼はそうまくし立てた。どうせ捕まるなら老倉の怒りを少しでも鎮めようとしたのだ。

 

『……?』

 

 だが老倉からの返答も襟首を掴まれ引きずられる感覚もない。不思議に思った彼は体を起こし辺りを見渡す。周囲に鬼の姿はなかった。

 

『逃げ切った…?』

 

 本来なら彼が老倉から逃げ切ることはできない。だが老倉にとっては場所が悪かった。田舎育ちの彼女は人通りが多く、信号の多すぎる渋谷の街で身動きがとれずにいたのだ。おかげで倉敷は九死に一生を得た。

 

 ピロリン 

 

 乱れた呼吸を整える倉敷の元へメールが届いた。

 

『次は絶対に逃しませんから』

 

 それからというもの倉敷は自身へ届く案件依頼のメッセージを全て無視するようになった。また老倉に騙されれば今度こそ逃げられないと考えたからだ。

 

 だがその結果が今の貧乏生活だ。企業からの仕事に手をつけられない以上収入源は広告収入一本に限られる。だがその収益だけでは彼の生活はギリギリのモノとなっていた。

 

 彼の動画はクオリティが高く100万(ミリオン)再生を超える動画が複数ある。しかし1再生=0.1円である広告収入では10万円程度にしかならなかった。それでも月に大量の動画を投稿できれば十分な額にはなるのだが彼はクオリティ維持の為、編集・撮り直しに時間をかけ、月に投稿できる動画は1~2本+数時間の生配信程度となっていた。

 

 そんなこんなで彼は少ない収益と貯金とでこの1年を過ごしてきた。だが既に貯金は底が見え始めている。このままでは自ら老倉の元へ戻らなくてはならない──────そう考えた彼はついに動いた。

 

「公式配信の時間までのこり40分……少し早いがそろそろ向かうか」

 

 彼は唯一の友人である他の配信者に頼み込み自分と企業との連絡を仲介してもらったのだ。この方法なら企業を装った老倉に騙されることはない。

 

「今回の番組で信頼できるコネを必ず作ってやる……。そうすれば俺もタイアップや企業案件の依頼を受けることができる。この貧乏生活ともおさらばだ」

 

 そう決意を新たに彼はスマートフォンと空っぽの財布を手に部屋を後にした。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 モーモーと牛の鳴き声の響く牛舎にツナギ姿で食い入るようにスマートフォンを見つめる女性が立っていた。彼女の名は老倉(おいくら)やかげ、この農場を経営する夫婦の一人娘だ。

 

「くッ、私がコメントした途端に配信を中断するとは卑怯な先輩ですね」

 

 そう言うと両耳に付けていたイヤホンを外しスマートフォンと共にポケットへとしまう。その途端今までイヤホンでシャットアウトしていた牛達の鳴き声が彼女の両耳を支配した。

 

(先輩がこの農場から脱走してもうかなり経ちます……はやく連れ戻さないと…。こうしている間にも先輩の貴重な時間がどんどん失われています)

 

 婚約者が脱走して1ヶ月ほどの間はまだ彼女には余裕があった。その余裕は掃除・洗濯・料理・その他もろもろの知識のない婚約者は彼女なしでは生活できない、ましてや一人暮らしなんてとても不可能、必ず自分の元へ帰ってくるという根拠からくるものだった……が1年経った現在も婚約者は帰ってきていない。

 

(先輩のことを少し侮っていました……私の大切さを先輩に実感してもらおうと泳がせたのは失敗でした)

 

 婚約者の脱走から数日はまだ余裕を持っていた老倉だったが1ヶ月経っても婚約者が戻ってこないことに焦りを感じ彼女は知人をも巻き込んで婚約者の捜索に乗り出した。結果、老倉は婚約者が動画配信者として生計を立てていることを知った。

 

 老倉にとってこれは衝撃だった。まさか自分を捨てて何をしているかと思えばネット上でそんなことをしていたとは夢にも思っていなかった。そもそも動画配信者等という安定性とはかけ離れた職業を選んだ彼の考えに呆れた。呆れたが故にこう考えた。

 

『やはり先輩の手綱は私がしっかり握らないとですね……』

 

 彼を見放すという考えは彼女にはなかった。老倉は婚約者のことが大好きなのだ、だから絶対に見放さないし諦めない。きついお仕置きはするだろうが。

 

 そんな風に動画配信者という職業に否定的な老倉だが現に彼女の婚約者はなんとか食いつなぐことのできる程度には収入を得て、身体を壊さないていどには人間らしい生活ができているようだ。もしかしたら彼女のいないところで新しい女を作りその女性に身の回りの世話をさせているのかもしれない……そう考えた老倉の目はどす黒く濁った。

 

(このままでは何時まで経っても先輩は帰ってきません、それどころか誰かに取られてしまうかも……先輩はカッコイイですから)

 

 そう考えた老倉は行動を起こす。

 

 まず彼女はSNSを使って婚約者の目撃情報を洗った。動画収益で生計を立てられるということはそれなりに知名度があると考えたからだ。狙いは大当たりだった。SNS上には彼の目撃情報がいくつもUPされていた。中には女性とのツーショット写真まで含まれており危うくスマートフォンを握りつぶしそうになった。

 

 婚約者の目撃情報は東京と神奈川に集中していた。恐らくこのどちらかに住んでいるだろうと言うことは特定できたがそれ以上の情報は出てこない。

 

 次に目をつけたのは【荒らし】と呼ばれる行為だった。動画配信者というのは自身の個性や人気を売る、言ってしまえばタレントのような側面を持っている。その為彼女は

 

 婚約者の悪事を暴露する→ネット上での居場所を失くす→自分のところに戻ってくる

 

 と単純に考えた。故に荒らしを行った。

 

 だが彼女のその企みは失敗に終わる。理由は分からないがむしろ放送を盛り上げてしまっているのだ。不本意極まりない。

 

 二つの作戦が失敗に終わったところで彼女には手立てがなくなった。元々ネットにはあまり詳しい方ではないのだ。

 

「そういえば先ほど私がコメントを打つ直前に先輩が何か言いかけていましたね……確か公式放送がなんだとか……」

 

 老倉は握っていたクワを足元に置き、先ほどポケットにしまったスマートフォンを取り出し『桃太郎 公式放送』と検索した。

 

「これは……!」

 

 表示されたサイトを閲覧した彼女は直ぐさまスマートフォンをしまい家に戻り、外出用の服へと着替え車庫に向かった。老倉が車庫から取り出したのは一目で購入したばかりだと分かるほどピカピカのバイクだった。

 

 老倉はバイクに跨りエンジンをかけるとブルンブルンと轟音を発しながらそのまま発進した。

 

「今回こそ逃しません!」

 

 

 

 

□□□

 

 

 

 

「またダメだった…」

 

 ため息を吐きながら桜木町の海に浮かぶ船を一人ぼんやりと眺める女性がいた。

 

「いや、どう考えても私は悪くない。会社が悪い」

 

 女性の名前は庭瀬(にわせ)小春(こはる)。彼女はBUUUM株式会社という所謂MCN(マルチチャンネルネットワーク)という会社の社員だった。

 

 MCNとはクリエイター……動画配信者達と契約を結び彼らのマネジメントや他の会社からの仕事の斡旋等を事業としている企業だ。

 

 なのだが……現在彼女が身を置くBUUUM株式会社には所謂(いわゆる)有名配信者と呼ばれるクリエイターは在籍していない。元々は複数在籍していたのだが近年メキメキと業績を伸ばし始めたsecondステージというライバル会社に全員が引き抜かれてしまった。残ったのは言葉を選ばず言うのであれば底辺配信者と呼ばれる者ばかりだった。

 

 焦ったBUUUMは現状どこの企業にも属していない即戦力となるクリエイターのスカウトに乗り出した。庭瀬も駆り出された社員の一人だった。

 

 だが今更フリーのクリエイター等そういる訳もなく、いても組織に属する気のない者や中級クリエイターばかりだった。

 

 このまま有力配信者を確保できなければ倒産してしまうのではと末端社員である彼女が心配するような状況となっている。

 

「田舎に帰った方がいいのかな……」

 

 もう一度ため息をつき船を眺めているとカバンの中のスマートフォンがぶーぶーと振動した。取り出したスマートフォンに表示されているのは後輩の名前だった。

 

「もしもし?何か用事?」

 

『小春先輩!大変です大変です!すっっっごく大変です!』

 

「井原にしては随分慌ててるわね。どうしたの?」

 

『桃太郎さんがPUGGの公式生放送に出るみたいなんですよ!』

 

「嘘っ!?」

 

『ほんとですです!』

 

 【桃太郎】……一年前に突如として現れた動画配信者で動画投稿数はそれほど多くはないものの高い編集技術やトーク力で瞬く間にファンを増やしていった今最も勢いのある配信者の一人だ。

 

 その勢いを手に入れようと数々のMCNが彼と契約を結ぶ為にコンタクトを取ろうとしたが誰一人として彼と連絡を取れた者はいなかった。もちろん庭瀬も彼に接触しようと幾度となくメッセージを送ったがその全てを無視されていた。

 

 その為、理由は不明だが配信者桃太郎は『仕事』として動画配信を行うつもりがないというのが業界での共通認識となっていた。

 

 実際は女から逃げる為に外部からの連絡を全て遮断しているだけなのだがそんな事情は当人達しか知らない。

 

(桃太郎は仕事を受けるつもりがないはずじゃ……、だけどこうして表舞台に出てきたってことはその認識は間違いだった?それとも今までは何か事情があったとか?)

 

「井原その放送の日時教えて、私が行くわ」

 

『今日の16時から、場所は東神奈川のよつやビルです!』

 

「30分後!?告知が急すぎるでしょ!でも了解!今から向かえばギリギリ間に合いそう!」

 

『ご武運を!』

 

 庭瀬は通話を切りスマートフォンをバッグにしまい駅へと走った。

 

 配信者と農娘とスカウトマン。それぞれの思惑を胸に、個性溢れる三人が東神奈川のビルに集まろうとしていた。



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VS婚約者(偽)

「いや~やっぱり一番印象的なのは3戦目ですよね!あそこで爆発を引き当てるのは持ってるとしか言えないですよ!」

 

「はは……そうっすね…」

 

 神奈川県に建つとあるビルの一室に、初めての公式番組に挑む桃太郎こと倉敷良(くらしきりょう)の姿があった。

 

 初めての公式番組への出演という事もあり始めは緊張していた彼だったが司会者や他の出演者のフォローに助けられここまで特に大きな問題もなく放送は終盤に差し掛かっていた。

 

 だが彼はこの終盤の場面で焦っていた。なぜなら彼がこの世で最も恐れる女性の姿を見つけてしまっていたからだ。

 

(なんで……なんであいつがいるんだよ!!!)

 

 その女性は観客席に座り司会者や他の出演者のこと等まるで興味ないとでも言うかのようにジッと倉敷を見つめていた。

 

(俺の出演が一般に告知されたのって確か放送1時間前のはずだったよな!?老倉Farmからじゃ放送時間内には間に合わないはずだろうが!)

 

 倉敷はガタガタと震える脚を両腕で必死に押さえつけ平静を装う、そこへ番組司会者が最後のコーナーへの移行を宣言した。

 

「えー、ではお別れの時間が近づいてまいりました。最後に会場に遊びに来てくださった皆さんから出演者の方に何か質問がある方などいらっしゃいますか?スペシャルサービスで番組に関係のない質問でも構いません!」

 

 司会者のその言葉にサイドポニーの女が直ぐ様手を挙げ、倉敷の両足の震えは一層ひどくなった。放送を見る視聴者達からのコメントにも『桃太郎なんか様子おかしくね?』と彼の異常に気づく者もいた。

 

「おっ、じゃあ一番最初に手を挙げてくれたそこのお嬢さん質問どうぞ!」

 

「はい」

 

 指名を受けた女性は倉敷から目を離さずにゆっくりと立ち上がりスタッフからマイクを受け取った。

 

「桃太郎さんに質問です。桃太郎さんは婚約者の女性を捨てた、という噂が流れていますが本当ですか?」

 

 倉敷と司会者の顔が引きつった。司会者としてもこんな非常識な質問をする観客がいるとは予想していなかった。

 

「あー、それ僕も気になってたんですよね。噂自体は結構有名ですけど実際のところどうなんです?」

 

 倉敷のフォローをするべきかと思案した司会者だったが結局は女性の質問に乗る形をとった。ここで彼女を(たしなめ)めても折角円滑に進んだ放送が台無しになると考えたからだ。

 

「はは…やだなーそんなのガセに決まってるじゃないですか、ははは…」

 

 冷房が効きすぎなほど冷えている室内で倉敷は冷や汗をダラダラと流しながらそう応えた。視線は決して女性には合わせない。

 

「そうですか…変な事を聞いてすみませんでした。……最後に一つよろしいですか?」

 

「なっ、なんでしょう」

 

「か え り ま す よ せ ん ぱ い」

 

「もう無理!!」

 

「桃太郎さん!?」

 

 女性の放つプレッシャーに耐えられなくなった倉敷は生放送中だというのも忘れて立ち上がりステージの後ろにある関係者専用通路に出て鍵を掛けた。直ぐに追いかけてきた女性がガンガンと扉を叩く。

 

「先輩!ここを開けてください!別に怒ってはいません。少しお話をしましょう!」

 

「やなこった!開けた途端に絞め落とされて気づいたら牛舎に連れ戻されてるのが目に見えてんだよ!一人で帰れ牛女!」

 

「…酷い事を言う先輩ですね。それが婚約者の後輩に言う言葉ですか」

 

「ふざけんな!何が婚約者だ、お前が勝手にそう言ってるだけだろうが!俺のいないところで親父とお袋まで丸め込みやがって、とにかく俺は戻らねぇからな!」

 

「そんな事まで言うんですか…分かりました、先輩の言う通り絞め落として連れ帰ることにします。お話は牛舎でゆっくりとしましょう」

 

 そう言い残し女性…老倉が扉から離れどこかに走り去っていくのを倉敷は足音から把握し、関係者専用口から非常階段へと出た。

 

(老倉がこの非常階段に出るためにはエレベーターか階段を使って上の階か下の階に一度移動しなければならないはず……)

 

 このビルには通常時使用するエレベーターと階段とは別に災害時に使用するための非常階段が設置されていた。非常階段にはどの階層からも出ることができる造りになっている。

 

(エレベーターはダメだな、不確定要素が多すぎる。となると非常階段か通常の階段どちらから逃げるかだな。裏をかいて通常時用の階段から逃げるか?いや、老倉のことだ俺の裏の裏をかいてくる可能性も十分にある)

 

 非常階段から逃げるか通常階段から逃げるか、相手の位置が分からない以上結局は運に頼るしかなかった。

 

(ダメだ……運であいつに勝てる気がしねぇ…)

 

 倉敷は過去の経験から運任せで老倉に勝てないことを理解していた。倉敷の運が特別悪いのではなく老倉が天に愛され過ぎているのだ。

 

(何か……何か他の脱出手段を)

 

 倉敷は必死に後輩女子から逃げ切る方法を考えた。時間は過ぎれば過ぎるほど老倉の足音が近づいてくるような錯覚に襲われながらも必死に脱出方法を模索した。

 

(フィジカルで突っ切るか!?…だめだ秒殺される未来しか見えない)

 

 年下女子を相手に情けなくも正しい自己分析だった。

 

(そうだ!小学生の頃に非難訓練で使った布の滑り台みたいなやつ!あれならこのビルにも設置されてるんじゃないか!?……いや、ダメか、確かあれは一人では使えなかったはずだ)

 

(……あれ?もしかしてこれ詰んでいるのでは?)

 

 考えに考えて彼の出した結論はそれだった。

 

(いや、いや、何か方法があんだろ。もっとよく考えろ)

 

 考えても考えても良い案は浮かばない。だが無情にも時間は過ぎ去っていく。時間が経てば経つほど倉敷は老倉への恐怖で冷静さを失っていった。

 

(こうなったらやっぱイチかバチかで階段を突っ切るしか…!)

 

 そう彼が意を決したところで彼の立つ非常階段の下層から誰かが上ってくる足音がした。

 

「きやがった!!」

 

 倉敷は急いで扉を開け関係者専用通路へ戻った。直ぐさま鍵を掛けしゃがみ込み息を殺し何者かが過ぎ去るのを待つ。

 

 コツ、コツ、コツ、といっぽいっぽ階段を上ってくる足音が響くたびに倉敷の心臓がバクバクと鼓動を速くした。

 

(頼む、気づくな、そのまま上に行ってくれ!)

 

 だが彼のそんな願いは虚しく足音は扉の前でとまった。

 

 ガチャガッチャガチャガチャガチャ

 

「ひっ!!」

 

 扉を開けようとドアノブを激しく引く音に思わず声を上げてしまう。その反応を聞いてかドアの前に立つ人物はドアノブを引くのをやめた。

 

(まずい───ばれた)

 

 しゃがみこんでいた体勢からゆっくりと顔を上げるとスモークガラス越しに人が立っているのが確認できた。

 

(ここまで……だな)

 

 倉敷は覚悟を決めた。今の倉敷と老倉を遮る扉は先程のモノと比べ明らかに老朽化が進んでおり、老倉なら簡単に蹴破るだろうと悟った。

 

「そこにいるの桃太郎さんよね?」

 

「へっ!?」

 

 聞き覚えのない声にまた声を漏らしてしまう倉敷。扉の前に立っているのは老倉ではなかったのだ。倉敷は一瞬安堵しほっと息を吐いた。

 

(いや、安心はできない。俺のHNを呼んだということは俺に用事があるということだ。老倉の協力者ということも考えられる)

 

「桃太郎さん、あの女性……多分噂の婚約者さんね?あの人から逃げてるんでしょ?」

 

「……」

 

「条件付きだけど助けてあげましょうか」

 

「……条件はなんだ」

 

「私とちょっとお茶してくれればそれでいいわ。別に難しい話じゃないでしょ?」

 

「…」

 

「どうする?早くしないとあのこわーい婚約者さんに捕まっちゃうわよ」

 

 怪しいとは思った。だが現状倉敷には彼女に頼る以外の選択肢はない。彼は立ち上がりゆっくりと扉を開けた。

 

 扉の外に立っていたのは綺麗な黒髪を肩のあたりで切り揃えた身長160cmほどの女性。この真夏日にクールビズなど知ったことかという風にスーツをビシッと着ている。もちろん倉敷の知人ではなかった。

 

 謎の女性は扉から出てきた倉敷の腕を掴み満面の笑みで言った。

 

「即戦力GET♪」

 

 



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BUUUMネットワークへようこそ!

 

 

 倉敷が通常階段と非常階段のどちらを使ってビルから脱出するか思考を巡らせている中、対照的に老倉やかげの行動は早かった。

 

 そもそもこのビルに非常階段が設置されていると認識していなかった老倉は関係者専用フロアに逃げ込んだ倉敷が籠城を始めたのだと勘違いしていた。

 

 閉ざされた扉の前に立つ老倉には2つの案が浮かんでいた。

 

①先輩が痺れをきらし部屋から出てくるまで待つ。もしくは関係者の誰かを捕まえて鍵を取りに行ってもらう。

 

(この案ではダメですね。待っている間に先輩が何をするか分かったものではありません。もしも先輩が窓から飛び降りて脱出しようとして大怪我なんてされてはかないません)

 

②現在いる3階から階段を使って4階に移動→4階の窓から飛び降り3階の窓をぶち破って先輩の居る部屋に突入する。

 

(穴のない素晴らしい作戦です。これでいきましょう)

 

 自身の安全面など微塵も考慮されていない、というか一般人ならまず思いつきもしないような作戦を老倉は採用した。倉敷は彼女のこういう一面をみて彼女のことをやべー奴だと認識していた。正しい。

 

 作戦を決めた老倉の行動は早かった。まず生放送会場に設置されていた椅子や机を扉の前に置きバリケードを作った。

 

 ちなみに倉敷と老倉によってぶち壊された放送は今なお配信が続けられており視聴者数は過去最多を記録していた。人間はこういう痴情のもつれが大好きなのだ。

 

(これで私が上の階に移動している間も先輩は部屋から出られませんね)

 

 念入りにバリケードを積み重ねた老倉はその後、階段を使い4階へ移動した。4階は3階と同じく貸出用フロアとなっていた。現在は誰も使用していないらしく電気は消され薄暗く不気味な雰囲気を纏っていた……が老倉は怖がる素振り等まるで見せずズンズンと倉敷がいるであろうフロアの真上に向かった。

 

(……?)

 

 目的のフロアに到着し、さあ飛び降りるぞと窓を開けたところで老倉は何か引っかかるものを感じフロアを見渡した。そしてふらふらと何かに導かれるように何故かとなりのフロアへ廊下へ出て少し進んだところで彼女はスモーク張りになっている扉を見つけた。

 

(非常口……?こんなものがあったなんて…いや、この高さのビルなら付いていて当然ですね)

 

 老倉が非常階段を見つけたのは本当に偶然だった。本来の作戦ならフロアに入った時点で窓から飛び降り3階に突入していたのだ。理屈では説明出来ない、まさに神に導かれたとしか思えないような経緯で彼女は今、非常階段の扉の前に立っていた。

 

 こういう理由(わけ)の分からない彼女の豪運を恐れ倉敷は階段・エレベーター・非常階段のどれを使って脱出するか決断出来ずにいた。

 

(しまった!!なら先輩は間違いなくこの非常階段を使って脱出しています!)

 

 老倉は慌てて階段を駆け下りた。ちなみに老倉は倉敷が既にビルから脱出したと思っていたが実際にはまだ倉敷はビル内にいた。しかも彼女の立つ4階のすぐ下、3階の非常階段に。このまま老倉が階段を駆け下りれば10秒後には接触する。

 

(絶対に嫌です、絶対に嫌です、絶対に嫌です。今日こそは必ず先輩を連れて帰らないと……連れて帰らないと私はもう…!)

 

 老倉は焦っていた。今日ここで倉敷を捕まえられなければ次のチャンスがいつになるか分からない、また1年……いやそれ以上待たなくてはならないかもしれない。それは老倉にとって耐え難いものだった。

 彼女は階段を飛ぶように走った。ブレーキなどまるで考えていないトップスピードで、倉敷をみつけたら危険など顧みずそのまま飛びついてしまうであろう勢いだ。

 

「っ!!!」

 

 だから3階と4階中間地点にある踊り場に女性が立っていたと気づいた時には遅かった。ブレーキはもちろん間に合わない、女性を躱そうにも人一人分程度の幅しかない非常階段ではそれも出来ず老倉と女性は正面から衝突した。

 

ドンッ!!

 

 老倉がタックルをかましたような形で女性を弾き飛ばしてしまう、勢いがついたままの老倉も同じ方向に進み続ける。

 

 吹き飛ばされた女性が階段の手摺にぶつかろうかというタイミングで老倉が女性の手を取った。

 

「はぁっ!!!」

 

 老倉は掴んだ腕を力いっぱい自分の方へ引き寄せた。するとクルリと老倉と女性の位置が入れ替わる。女性は吹き飛ばされた力と引き寄せられた力が相殺され元々立っていた場所に綺麗に着地した。だが老倉は勢いを殺しきれずそのまま手摺に激突した。

 

「ぐぅぅ……痛いですね…」

 

「ちょっ!大丈夫!?怪我してない!?」

 

 女性がうずくまる老倉の元へ駆け寄った。女性は身長こそ165cmの老倉より少し低かったがビシッと着こなしたスーツに品のある薄い化粧から漂う大人っぽさから老倉より少し、恐らく2〜3歳ほど年上であることが予想された。

 

「大丈夫です……お姉さんこそお怪我はありませんか?」

 

「私は貴方のおかけで大丈夫だったけど……というかさっきの曲芸みたいのはなに?」

 

「良かった……お姉さん、私のせいで危険な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」

 

 先程のアクロバットが何なのかについては返答しない。というか老倉もよく分かっていない。無駄に高い彼女の身体能力が生んだ技だった。彼女のこういうところも倉敷は恐れていた。

 

「怪我もないし特に怒ってはないけど……気をつけなさいね?もしかしたら大事故になってたかもなんだから」

 

「はい…」

 

「よろしい。ところで随分急いでいたみたいだけどもしかして桃太郎さんを探してた?」

 

「……どうしてそれを?」

 

 突然かけられたその言葉に先程までしょぼんと落ち込んでいた老倉の表情が引き締まる。

 

「私もさっきの生配信の会場にいたからよ。貴方の乱入で変な終わり方になっちゃったけど」

 

「すみませんでした……でも私は先輩を…!!」

 

「あー、分かってる分かってる。言わなくてもいいわ」

 

そう言って女性は階段の上を指さした。

 

「?」

 

 老倉は意味が分からず首を傾げる。

 

「あっち、桃太郎さんならすっごい慌ててこの階段を上っていったわよ」

 

「本当ですか!?」

 

「ええ、だから行きなさい。今度はゆっくり走るのよ」

 

 だが彼女のその言葉に老倉は疑問を浮かべた。

 

(先輩はどうして上に?上に逃げても脱出は難しくなるだけじゃ…)

 

 このビルは5階建てで現在老倉は3階と4階の中間の踊り場にいる。老倉は4階の非常口から出てきたので倉敷は5階、もしくは屋上に向かったということになる。

 

(いえ、そういうことですか……私は先輩が下の階から脱出しようとしていると決めつけていた。だから先輩は私の裏をかいて上階に1度身を潜め私がこのビルを出たところを見計らって脱出しようと……)

 

「ありがとうございます!これでようやく先輩を捕まえられるかもしれんません!」

 

「そう、それは良かったわね。愛しの先輩とお幸せにね」

 

「はい!それでは失礼します!」

 

 そう言って老倉は下りてきた階段を再び上り始めた。その足取りは軽くまるで夢に向かって走る少年のようだった。

 

 

 

 

    ・

    ・

    ・

 

 

 

 

「……行ったわよ」

 

 老倉が居なくなり踊り場に1人残された女性がポツリと呟いた。

 

 その声に反応して下の階から1人の男が上ってきた。それは老倉が探し求めている男……倉敷だった。

 

「助かりました」

 

「お礼はいいわ。それより約束は守ってね」

 

「貴方とお茶するだけであいつから逃げられるなら安いものですよ」

 

 

 

 

 

□□□

 

 

 

 

 

「ふつーお茶するっていったら喫茶店とかじゃないんすかね」

 

「別に場所の指定はしなかったでしょ?」

 

「いやまあそうですけども」

 

 謎の女性の手を借り無事ビルから脱出した倉敷は電車に乗り神奈川県桜木町にあるとあるビルに連れてこられていた。

 

 駅からこのビルまでの道中、通行人のほとんどがスーツを着たサラリーマンと思わしき人達だった。サラリーマン達はこの真夏日に背広を羽織り、暗い表情を浮かべていた。この街は好きになれそうにないな……と初めて訪れたというのに倉敷は直ぐにそう思った。

 

「それでここは一体どこなんですか?」

 

 上階に向かって移動するエレベーターの中で女性に問うた。

 

「ここ?私の勤める会社よ」

 

「会社?そんなとこに俺を連れてきてどうす

 

チン

 

 倉敷が女性に尋ねようとしたところでエレベーターは目的の階に到着し扉を開いた。

その瞬間フロア内の冷房がエレベーター内へ移動し倉敷は背筋をゾクゾクと震わせる。

 

 女性は扉が閉まらないよう右手の人差し指で『開』のボタンを押しながら言った。

 

「ようこそBUUUM(ブーム)ネットワークへ」

 

 後に彼はこう考える。この時背筋が震えたのは冷房のせいなどではなく、危険に対する純粋な自己防衛本能によるものだったのではないか────と。

 

 

 

 



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MCNってなんですか?

 

 

 

 「さっ、付いてきて」

 

 老倉から逃げるのに協力してもらう交換条件として桜木町にあるビルに連れてこられた倉敷は女性……庭瀬小春の誘導に従いフロア内を進んでいた。

 

 倉敷は歩きながら辺りの様子を窺う。フロア内には沢山の机や椅子、パソコン等が並べられており、ここがなんらかの会社のオフィスであることが推察できた。

 

(居心地わるっ!!)

 

 庭瀬の後を追う倉敷に何故かオフィス中の人々の視線が突き刺さった。談笑に花を咲かせていた2人組は会話を止め、カタカタとキーボードを叩いていた者は目を見開き倉敷に視線を集めた。

 

「ちょっとここに座って待っててもらえる?飲み物と資料取りにいってくるから」

 

「はぁ」

 

 オフィスの隅にあった4m×2m程の机……恐らく普段は仕事の打ち合わせ等に使っているのであろう場所に通された倉敷は言われるがままに椅子に座る。

 

(まじでここ何処なんだよ……てかこんな場所に一人置いてかないでくれ、部外者が侵入してるとか思われたらどうすんだよ)

 

 周囲からの視線に居心地の悪さを感じ倉敷は肩を窄める。すると彼に視線を送っていた内の一人の女性が立ち上がり彼に近づいた。

 

「ねっねっ、貴方ゲーム実況者の桃太郎さんよね?よねよね?」

 

 スーツ姿の庭瀬とは異なり真っ白いパーカーにジーンズと随分とラフな格好をした女性は倉敷にずんずんと顔を近づけながら話しかけた。倉敷は逃げるように背を仰け反らせながら応える。

 

「そうですけど、僕のこと知ってるんですか?」

 

「そりゃ知ってるわよ!むしろ貴方は業界の中じゃかなり有名よ」

 

「有……名?」

 

 この女性の言う通り、倉敷……いや桃太郎のゲーム配信者としての知名度はこの時点でかなりのものだった。だが倉敷はその事実を認識できていない。老倉Farmから脱走して1年、ここまで食いつなぐのに必死だった彼は『桃太郎』という自身のコミュニティにしか目を向けておらず他者との比較ができていなかった。もちろんエゴサーチなど一度もしたことはない。

 

 『井の中の蛙大海を知らず』の逆バージョンと言えるかもしれない。

 

「またまた謙遜しちゃって。ところで今日はどうしてここに?もしかしてうちと契約してくれるとか?とかとか?」

 

「契約?いえ、そういうのではないです。さっきのスーツの人に連れて来られただけでここが何処なのかも分かってないんですよね」

 

「あーそういう……小春先輩強引だなぁ。でも今のうちはそのくらいグイグイいかないと不味い状況だし仕方ないか」

 

「……?」

 

「そうだ!小春先輩か帰って来る前に桃太郎さんと私が契約を結んじゃえば私が彼の担当に!」

 

「なれる訳ないでしょ」

 

 いつの間にか戻っていた庭瀬が筒状に丸めたパンフレットのようなもので倉敷に迫っていた女性の頭を叩いた。

 

「げっ、小春先輩」

 

「げっ、じゃないわよ。なに人の担当かっさらおうとしてるのよ。ほら自分のデスクに戻って、私は彼と大事な話があるんだから」

 

「はぁ〜い、すみませんでした」

 

 シッシッと追い払われ女性は名残惜しそうにその場をあとにした。

 

「ごめんなさいね、あの子は私の1つ下の後輩なんだけど少し強引な所があって」

 

 それは貴方もですよね、という言葉を倉敷はすんでのところで飲み込んだ。庭瀬は倉敷の向かいの椅子に座り胸ポケットから名刺を取り出し倉敷に手渡す。

 

「まずは自己紹介からね。私の名前は庭瀬小春、このBUUUM(ブーム)ネットワークに所属する社員よ」

 

「えっと僕は倉敷良、動画配信者やってます」

 

「知ってるわ。ねぇ倉敷君、今貴方はどこかのMCNに所属してたりする?」

 

「いえ、というかMCNって何です?」

 

「え」

 

 庭瀬は驚愕した。今時、しかも倉敷のようなチャンネル登録者40万人を超えるような配信者がMCNの存在を知らないなど想定していなかったのだ。

 

「いやいや知らないって事はないでしょ?倉敷君なら今まで沢山勧誘のメールが届いてるはずでしょ?というか私も送ったし」

 

 倉敷は少し考えた後、ハッと気づいたような表情を浮かべた。何か思い当たる点があったらしい。

 

「あー、僕チャンネルに届くメール一切見ていないんですよね」

 

「それは……やっぱり仕事として動画配信をする気はないってこと?」

 

「へ?いやそんな事は全然ないです。というか動画配信が僕の生活の生命線ですし、むしろお仕事ばっちこいです」

 

「いやいやいや、ならどうしてメッセージを見ないの?沢山お仕事の依頼来てるでしょ?」

 

 庭瀬の問いに苦虫を噛み潰したような顔をしながらも倉敷は応える。

 

「今日僕を追いかけてた女……あいつ老倉って言うんですけどあいつが以前仕事の依頼を装って僕を捕まえようとしてきたんですよ…それ以来届くメッセージが全部老倉から送られて来たものなんじゃないかと疑うようになってしまって……」

 

 余談だが今現在、倉敷のチャンネルには2000通あまりのメッセージが未開封のまま放置されているが、その内の8割が老倉から送られたものだったりする。つまりメッセージを見ないという倉敷の判断は正しかった。

 

「そんなことが…でもそれって裏を返せば信用できる相手からの依頼なら請け負う気があるってことよね?」

 

「もちろんです」

 

「うんうん、そんな貴方にとっても美味しいお話があってね」

 

 満足気にそう言うと庭瀬はテーブルの上に持参したパンフレットを広げた。

 

「まずはMCNが何なのかについて簡単に説明するわね。MCNって言うのはマルチチャンネルネットワークの略」

 

「マルチチャンネルネットワーク?」

 

「そう、無数にある貴方達動画配信者さん達のチャンネルを企業や視聴者とより深く繋げるって意味だと思って貰っていいわ、ちょっと違うけど」

 

「はぁ……」

 

「MCNの主な業務内容は貴方達配信者のマネジメント、そうね…配信者専用の芸能事務所だと思って貰えれば分かりやすいかしら」

 

「配信者の芸能事務所……そんなのがあるんですか」

 

「うん、ていうか割ともう世間一般にも認知されてる筈なんだけど……まぁいいわ。つまり今回貴方にここまで同行してもらったのは私達、BUUUMネットワークに入ってくれないかっていうお誘いの為なの」

 

「……具体的にはどんなことをしてくれるんですか?」

 

「そうね。例えば企業案件の斡旋や貴方の動画の著作権管理、イベントの開催なんかが主な所になるわね。他にも配信者同士のコラボレーションの企画とか沢山あるのだけどその辺はおいおいでいいと思うわ」

 

「なんか話が美味しすぎる気がするんですが僕の方に何かデメリットはありますか?」

 

「デメリットって言い方は違うのだけどそうね、私達MCNは貴方達配信者のマネジメント料として貴方の動画収益の20%をマージンとしていただく事になります」

 

「20%!!」

 

 その数字に倉敷は驚愕した。ただでさえ日々食いつなぐので精一杯の毎日なのだ、今の収入から20%も差っ引かれては生活がままならないのは火を見るより明らかだった。

 

 そんな倉敷の表情をみた庭瀬はこれは不味いと補足を付け加える。

 

「安心して、確かに20%を貰うことにはなるけどうちと契約して貰えれば今以上の収益が得られるわ」

 

「…」

 

 だがそんな言葉を倉敷は鵜呑みにはしなかった。そもそも倉敷はMCNと言う企業の存在をつい先程まで認知していなかったのだ。もしかしたから新手の詐欺集団なのではないかと疑ってすらいる。

 

「お話は分かりました、ですが急なお話なので1度家に持ち帰って検討させてください」

 

「えっ」

 

 庭瀬は考えた。このまま倉敷を家に帰してしまってもいいのかどうかを。

 

(倉敷君が今までMCNに所属していなかったのはMCNの存在その物をしらなかったから……だけど今は知ってしまっている。もしもこのまま家に帰れば確実にMCNについて調べる、そうなればうちの経営が傾いていることにも気づいて他のMCNに行っちゃうかもしれない……それだけは絶対にダメ、何としても今ここで契約を……… せめて仮契約だけでも!)

 

 何としても今ここで倉敷と契約を交わす必要がある、だがその為の手札がない。無理に倉敷に迫り不信感を抱かせてしまっては本末転倒だ。

 

(くっ、どうすれば……)

 

 そんな時に庭瀬にスマホに着信が入った。庭瀬は鞄からブーブーと振動するスマホを取り出し画面を見る、そこには見慣れぬ番号が表示されていた。

 

「出てもいいかしら?」

 

「どうぞ」

 

 倉敷は直ぐにそう応えた。この着信の相手が誰なのかも知らずに────

 

 

 

 

 

□□□

 

 

 

 

「何処にもいません…」

 

 倉敷と庭瀬がビルから脱出して1時間、老倉は未だにビル5階のフロアで倉敷を探していた。

 

「どうして…どうして…あの女の人は先輩が上に向かったと言っていたのに…」

 

 庭瀬と別れたあと老倉は徹底的に5階と屋上を捜索した、だが倉敷の姿は愚か人っ子一人姿はなかった。探しても探しても見つからず老倉は徐々に焦りを募らせていた。

 

(冷静に、冷静に考えましょう。こういう時は視野が狭くなっている可能性があります。落ち着いて、きっとまだ先輩はビル内にいるはずです)

 

 深呼吸をし思考をクリアにした老倉は考える。

 

(よく考えれば私とぶつかったあの女性の行動が不可解です。あの女性は何か用があって非常階段を上っていたはず…なのに私とぶつかった後はそのまま下の階へ下りていきました。…まるで私とぶつかるのが目的だったかのようにです)

 

「っ!!!つまりあの人は先輩の協力者!!」

 

 真実にたどり着いた老倉はその場に崩れ落ちボロボロと涙をこぼした。

 

(ということは私が5階と屋上を探している間に先輩はもう外へ…)

 

 涙を流す老倉の脳裏に倉敷の背中が浮かんだ。その背中はどんどん老倉から離れ小さく、小さくなっていく。老倉がどれだけ倉敷の名前を叫んでも振り向くことはない。

 

 倉敷を想い涙を流す老倉の頭に彼との思い出がフラッシュバックする。

 

 

『先輩!先輩!先輩は卒業後の進路はもう決められているんですか?』

 

『あ?いや決まってないな。やりたいことも特にないし適当に就職でもするかな』

 

『でしたらうちに来てください!先輩なら大歓迎です!』

 

『なに?老倉の家って会社経営でもしてるの』

 

『そんな感じです。フレックス制度やブラックフライデーだって導入してる超ホワイト企業ですよ!』

 

『マジか!?最高じゃん!行く行く!』

 

 

(あの時はあんなに喜んでくれたのにどうして…)

 

 倉敷勧誘の際、確かに老倉は嘘はついていなかった。だがそもそも老倉の実家は農家なので自分の判断で出勤時間も調整できるフレックス制度はもちろん、夕方になれば殆どの仕事は終わっているため毎日がブラックフライデーのようなものだった。その代わり休日はほぼない。老倉の勧誘に嘘はなかった、だが一種の詐欺のようなものだった。

 

(いやです……いやです……ようやく、また一緒に暮らせると思ったのに……どうして帰ってきてくれないんですか…… それにあの女性は誰なんですか)

 

 老倉を騙した女性はもしかしたら既に倉敷と男女の仲にあるのではないかという疑惑が老倉を襲った。瞬間老倉は胸に刺すような痛みを感じうずくまってしまう。

 

ヒラリ

 

 うずくまった老倉の胸ポケットから1枚の紙が落ちた。

 

「これは…」

 

 涙で視界がボヤける中老倉はその身に覚えのない紙を拾い上げる。

 

「名…刺?」

 

 老倉が手にした長方形の紙には『庭瀬小春』と女性のものと思わしき名と連絡先が記されていた。



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ステマで稼ごう

 今から10年前、当時小学6年生だった老倉(おいくら)やかげは初めての恋をした。

 

 それは夏休みの早朝、彼女の管理する安納芋畑での事だった。

 

 そこは農場を営む両親から与えられた10㎡程度の畑。決して大きいとはいえないその畑だったが、両親から初めて管理を任された畑で、責任感の強い老倉少女は日に何度も畑の様子を窺いに行っていた。

 

 その日、朝六時に目を覚ました老倉少女はパジャマを着替えるといつものように安納芋(あんのういも)畑に向かった。

 

 芋の苗を植えたのは今から3ヶ月前、老倉少女の過保護とも言える管理の甲斐があって苗はすくすくと成長し、地中に立派な根を下ろした。

 

 恐らくは既に根には芋が実っていることだろう。

 

(来月には収穫できそうですね)

 

 自分が初めて作った芋はさぞ美味しいことだろう。収穫を間近に控えた老倉少女はその日を今か今かと待ちわびていた。

 

 だが老倉少女はまだ知らなかった。

 

 収穫が近いからと言って油断してはならない、寧ろ収穫時期にこそ注意を払わなくてはならない存在がいる。

 

 そう、害獣である。

 

 早朝、老倉少女が一人向かった安納芋畑、その中心部で得体のしれない黒茶色の物体がもぞもぞと蠢いていた。

 

(なんでしょうあれは?まさか芋泥棒!?けどまだ収穫にははやいはず……!)

 

 老倉少女は慌てて畑へと走り近づいた。その足音に物体が反応し、老倉の方へとその巨躯を向ける。

 

(!……イノシシ!?)

 

 振り向いたのは全長1mを優に超えようかというイノシシ。凶刃な牙こそ生やしていないがその太く、筋肉質な四本の足からは牛にも引けを取らないような力強さが感じられる。

 

 11歳の少女がどうこうできるような相手ではとても無い。ここは芋のことは諦めて家へと泣き帰る他に老倉少女に選択肢はない。

 

 恐らく、老倉少女の両親はバリケードも何も施されていない老倉少女の畑がイノシシに荒らされることを知っていた。知っていて敢えて彼女に伝えなかった。

 

 それは農場の跡取り娘である老倉少女に身をもって害獣の恐ろしさ、有害性を知って欲しかったからなのだろう。

 

 だが一つ、老倉両親には計算違いがあった。普段大人しく、我儘の一つも言わない自慢の愛娘、そんな老倉少女がまさか拳一つでイノシシに立ち向かう等とはまるで想像だにしなかったのだ。

 

 老倉は謎の物体がイノシシだと気づいても畑へと走る足を止めない。それどころか拳を握りしめさらに加速していく。

 

「わたしの畑からでていけぇぇぇぇぇ!」

 

 あろうことか、老倉少女の全体重をかけたその拳はイノシシの頭部へと放たれてしまった。

 だが所詮は少女の拳、如何に助走を付けようとイノシシの分厚い脂肪を貫通しダメージを与えることなど到底できない。拳を放った老倉は弾き飛ばされ、ゴロゴロと畑を転がった。

 

「くっ!!」

 

 老倉は直ぐに体勢を立て直しイノシシの方へと視線を向ける。そこで初めて気がついたのだ。イノシシの大きさ、その筋肉、そして自分に向けられた敵意に。

 

 老倉は普段、イノシシより一回りも大きな牛の世話をしている。だが牛は老倉に対して敵意を向けない、乳が溜まって苦しいから早く搾れ、草がねぇぞ早く寄越せとモーモー鳴くだけだ。

 老倉少女に取って動物は管理の対象だった。だから彼女は動物の怖さを知らなかった、動物と自身の力の差を理解出来ていなかったのだ。

 

 イノシシの敵意に気づいた老倉は突如金縛りにあったかのように体が動かなくなった。

 

 ただ、その場にヘタリ込みブルンブルンと鼻を鳴らすイノシシの前で震える。

 

(うう……おとうさん、おかあさん……助けて)

 

 恐怖から声を出すことも出来ない老倉はただ両親に助けてと願った。だかその願いは届かない。イノシシは真っ直ぐに老倉目掛けて突っ込んだ。老倉は諦め、目を閉じてしまう。

 

──────パンパンパンと轟音が畑に轟いた。

 

 老倉が吹き飛ばされた音ではない、直ぐ近くで何かが爆発したような音だ。

 

 老倉が恐る恐る目を開けると既にそこにイノシシの姿はない、今の爆発音に驚き逃げていったのだ。

 

(何がおこったの……?)

 

 わけがわからず辺りを見渡す。すると畑の外から自分と同年代くらいの少年がこちらに歩いて来るのが見えた。やがて少年はへたり込む老倉の目の前までやって来て彼女に手を差し出した。

 

「怪我してねーか?」

 

「……うん」

 

 少年に起こしてもらいながら老倉は困惑した。ここは老倉家の畑で敷地の中だ。だというのにこの少年は何故ここにいるのか、まさか彼も芋泥棒なのか。ならば倒さなくては。

 

「この辺、カブトムシとかレアな虫めっちゃ捕れるけどイノシシとかいてあぶねーんだよな」

 

 どうやら芋泥棒ではないらしい、ただ虫を捕まえようと敷地内に侵入しただけのようだ。

 

「ほら、これやるよ」

 

 そう言って少年は老倉に赤、青、黄の三つの小さな玉を差し出した。

 

「なに……これ?」

 

「かんしゃく玉だよ。地面に叩きつけると爆発するんだ。イノシシはでかい音を鳴らすとビビって逃げるから、これで追っ払うんだ」

 

 先程の爆発音はこのかんしゃく玉によるものだった。つまり老倉はこの虫取り少年に助けられたということだ。

 

「んじゃ、俺もう行くわ」

 

 そう言って少年は直ぐに姿を消してしまった。

 

 嵐のような少年だった……。その時の老倉はそう思った。

 

 だが数分おいて、老倉少女は少年に礼を言っていないことに気がつくとともに、自身の内になんだか甘い、だけど切ない、そんな訳の分からない感情が渦巻いていることに気がついた。

 

「おれい……言わないと」

 

三色の小さなかんしゃく玉、老倉少女はその玉を見つめながら自身の内に渦巻く感情について考えた。

 

 だが分からない。いくら考えても老倉少女の胸を覆う謎の感情の正体が分からなかった。

 

 経験のない老倉少女には知る由もないが、彼女の胸を覆っていたのは間違いなく『恋心』だった。自身のピンチを颯爽と現れ救ってくれた同年代の男の子。11歳という多感な年頃の少女が恋に落ちるには充分過ぎた。

 

 この日を切っ掛けに、老倉少女は少年に急接近する。まず少年の名前が『倉敷 良』であること、彼が老倉の一歳上で中学一年だということをつきとめる。そして数年後、ストーカー行為……ではなくアプローチ(?)の甲斐あって婚約者の関係まで仲を発展させるのだが……それはまた別のお話。

 

 

 

□□□

 

 

 

 

 

 

 八月の真昼間エアコンもなく、蒸し風呂と化した六畳間の一室に滝のような汗を流す男女二人の姿があった。

 

「本当にこんな動画でいいんすか?」

 

 男はこの部屋の主、倉敷 良(くらしき りょう)。倉敷はノートパソコンに流れる自身が作成した動画を見ながら納得いかないといった表情を浮かべていた。そんな倉敷に対し隣に座る女、庭瀬 小春(にわせ こはる)団扇(うちわ)を扇ぎながら質問に答えた。

 

「いいのよ、そんなので。ステマ動画一件にマンパワーを割き過ぎちゃ割に合わないわ。倉敷くんはもう少し手を抜くってことも覚えたほうがいいわね」

 

 現在、倉敷は初めて『動画配信者』として企業案件依頼を受注していた。案件の内容は『ソーシャルゲームの宣伝動画の作成』、ようはステルスマーケティングだ。

 

 動画配信者となって1年、婚約者『老倉(おいくら) やかげ』の影に怯え、一切の仕事依頼を無視してきた倉敷。その彼がなぜステマ案件を受注しているのか?……それは今から一日前に時を遡る。

 

 17時間前、庭瀬は自身の所属するMCN『BUUUM(ブーム)ネットワーク』に倉敷を勧誘した。庭瀬にとって倉敷はようやく捕まえたフリーの大物配信者、ここで何としても契約を結んでしまいたい。だが、庭瀬の必至の勧誘も虚しく、倉敷の反応は芳しくない。そんな時に庭瀬のスマートフォンに一本の着信が入った。

 

『もしもし……老倉と申します。庭瀬さんの携帯で間違いないでしょうか?』

 

 まさかの相手に庭瀬は目を丸くした。対面に座る倉敷は何故か歯を震わせている。どうやらスマホから漏れる僅かな声から相手が老倉だと認識したらしい。

 

「庭瀬さん!その電話早く切って!」

 

 突如倉敷が声をあげた。その必死の形相に庭瀬は少し困惑する。

 

「え?どうして?」

 

「いいから!切ってくれたら仮契約結びますから!」

 

「がってん!」

 

 こうして老倉との通話は切られ、倉敷とBUUUMとの仮契約は結ばれた。

 

 そんな投げやりな感じで結ばれた契約後、その場で倉敷に一件の仕事が依頼されたのだ。

 

 それがソーシャルゲームの動画宣伝。

 

 宣伝するゲームは王道RPG、『スカイブルーファンタジー』。だが請け負ったはいいが倉敷にはどのように動画を作ればいいのか分からない。今まで何本も動画を作ってきた倉敷だが『依頼』、つまり正式な仕事として動画を作ったことがなかったのだ。

 

 なので倉敷は担当である庭瀬に指示を仰ぐことにしたのだが……庭瀬は『動画に編集はしなくていいわ。ただ貴方がゲームをプレイする動画……それだけで充分宣伝効果があるから』と言うのだ。結果作られた動画は本当に無編集の撮られたままの動画だった。初めての案件動画だけに、倉敷は本当にこれでいいのかと不安を覚えていたのだ。

 

「でもこんな垂れ流し動画でゲームの魅力が伝えられているとは思えないんですけど……本当にいいんですか?先方にクレーム入れられません?」

 

「分かってないわね倉敷くん……」

 

 動画のクオリティに不安を抱く倉敷に対し、庭瀬はちっちっちという音と共に指を揺らす。

 

「倉敷くん、どうしてステルスマーケティングが『ステルス』と呼ばれていると思う?」

 

「えっと……視聴者にそれがマーケティング行為……つまりはそれが『宣伝』だと気づかれないように商品を宣伝するからですよね?」

 

「正解。じゃあどうして『宣伝』行為だと気づかれないようにする必要があるの?」

 

「……考えたこともなかったですね」

 

 倉敷がそう答えると庭瀬は少し得意げな顔になる。倉敷は少しこの庭瀬という女がどういう人間か分かった気がした。

 

「ぶっちゃけた話、視聴者はゲームに何てたいして興味は持っていないの。本当に興味があるのは貴方達配信者なの」

 

「僕達ですか?」

 

「そう、当然よね。興味がなかったら貴方達の動画なんて見たりしないわ。そして視聴者の興味の対象はもう一つ……それは貴方達が何に興味を持っているのかってこと」

 

「どういうことですか?」

 

「倉敷くんだって好きな女の子がいたらその子がどんなものが好きなのか気になるでしょ?それと同じ。視聴者は貴方達の好きな物を知りたい、そしてそれを共有したいの」

 

「なるほど……あ、じゃあ『ステルス』マーケティングにするのってそういう……」

 

「そっ、『宣伝』じゃあダメなの。本当に貴方達配信者が好きで紹介しているんだって視聴者に認識させた方が『宣伝』としての効果は高くなる、だから『ステルス』するのよ。仕事だから嫌々紹介してるなんてバレたら視聴者も萎えちゃうもの」

 

「納得しました。じゃあこの無編集動画はそのままアップロードしていいんですね?」

 

「うん。実はもう先方に確認も取ってるしね。報酬は1再生につき30円、さらに貴方の動画URLからゲームがダウンロードされれば1DLにつき100円が貴方の収入になるわ」

 

「1再生30円!?」

 

 倉敷は驚愕した。今現在、倉敷が受け取っている収入は動画の広告再生による物のみとなっていた。しかしその収入は動画1再生=0.1円。仮に100万(ミリオン)再生されても10万円にしかならなかったのだ。だから倉敷は庭瀬の提示した金額に度肝を抜かれた。当然だ、1再生=30円ということは単純に考えて300倍の収入を得ることになるのだから。

 

「ただし、再生数がカウントされるのは今日から一ヶ月間だけ。それ以降は再生されても報酬は貰えないわ。それに報酬の上限額は100万円までだからそれも覚えておいてね」

 

「それでも十分ですよ!」

 

 通常、倉敷は一本の動画を作成するのに莫大な時間と労力を掛ける。だがその動画がヒットしたとしても得られる収入が100万円には到底届かない。それを1時間にも満たない様な時間で作成した動画で得られるかも知れない。倉敷に取って破格なのだこの条件は。

 

 倉敷は一も二もなく動画をアップロードしパソコンに浮かぶ【公開】の文字をクリックした。これで動画は全世界に公開された。

 

「よし、これであとは待つだけね。初めての案件お疲れ様。……ところでなんだけど……倉敷くん、このあとちょっとついて来て欲しいところがあるんだけどいいかな?」

 

「ついて来て欲しいところですか?どこです?」

 

「まあその……なんていうんだろ……」

 

 珍しく庭瀬が煮え切らない様子をみせる。倉敷は庭瀬と出会ってまだ間もないが一日行動を共にして彼女がどういう人間かだいたい把握していた。初めて会ったビルで老倉に追い詰められた倉敷に交換条件(脅迫)を提示したことからも分かるように『ガンガンいこうぜ!』タイプなのだ庭瀬は。その彼女が口ごもっている……これは何かやましいことがあるなと倉敷は直感的に理解した。

 

 だが今の倉敷は機嫌がよかった。今回のステマ動画で大量の収入を得られるかも知れない。捕らぬ狸の皮算用で倉敷はウキウキして他のことは割とどうでも良くなっていたのだ。

 

「しょうがないっすね~今回はいい仕事を回して貰いましたしそのお礼としてついて行きましょう!」

 

「ほんとう!?助かるわ!じゃあこのスーツに着替えて!」

 

「……へ?」

 

 そう言って庭瀬は自身のショルダーバッグから男物の真っ黒なスーツを取り出した。

 

「パーティーだもの、ドレスコードは守らないとね」

 

 

 

 

 

 

 

 




老倉ちゃんは裏表のない優しい娘です。やべー娘ではないです。たぶん。



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ツンデレ配信者①

「庭瀬さん……話が違うんですけど」

 

 17時。初めての案件動画を投稿して一時間後、その日の夕飯代に困っていた倉敷良は、庭瀬小春の口車に乗せられ東京都心にあるビル8階へと連れて来られていた。

 

「あら?私ちゃんと言ったじゃない。『パーティー』に行くわよって」

 

「確かに言ってましたけども!けども!BUUUMさんと仮契約した僕の歓迎会みたいなやつだと思うじゃないすか!なのにこれはどういうことです!」

 

 倉敷は眼前に広がる奇妙な光景を指さした。

 庭瀬に連れてこられたビル8階の大ホール。そこには小さな丸机と椅子が規則性なく、ホール全体に所狭しと配置されていた。

 

 それぞれの席には年齢、性別多様な人達が座っており、机に並べられた豪華な食事を楽しみながら談笑に耽っている。

 

「だからパーティーだってば。ただし集まってるのは『有名配信者』と呼ばれる人と私達MCNの人間だけどね。配信者業界の懇親会的なやつよ」

 

「なっ……!聞いてないっすよ!」

 

「まぁ確かに言ってはなかったけど……むしろ何のパーティーだと思ってたの?」

 

「俺の歓迎会的なやつかと思ってました」

 

「……倉敷くん、あなた案外逞しいわね」

 

 倉敷はホールの入口からもう一度、パーティー会場に目を向ける。なるほど、有名配信者ばかり集めているというのは嘘ではないらしい。中には倉敷も知るような日本一の配信者と呼ばれる者の姿まで確認できた。

 

 全員がパーティーを楽しんでいる。だが倉敷はそこに交ざる気にはなれなかった。

 

 ここは倉敷にとって完全なるアウェーなのだ。

 元々、倉敷はコミュニケーション能力が高いワケではない。コミュ障という程ではないが面識のない人、それも大勢と話すというのは苦手だった。ようは人見知りするのだ。それが仕事の関係であれば割り切ることも出来るのだがこの華やかな場ではそうはいかない。

 

 倉敷は自身の歓迎会を開いて貰えるのだと思い、パーティーにやってきた。それは自身の歓迎会であれば主役である自分は色々気を使って貰えるのでアウェーでも何とか楽しめるだろうという打算があったからだ。

 

 だが実際に来てみれば自身が主役などと言うのはただの勘違い。全員が対等な配信者パーティーだった。

 

 ホールでは既に配信者同士、グループのようなものが出来上がって談笑をしている。恐らくは、元々配信者同士、面識があったのだろう。だが倉敷は違う、ここに彼の友人などいないのだ。

 

「庭瀬さん……俺やっぱ帰ります」

 

「ここまで来て何言ってんのよ」

 

 帰ろうとする倉敷の襟首を庭瀬ががっちりと掴み離さない。

 

「嫌ですよこんなの!かんっっっぜんにアウェーじゃないですか!知り合いも誰もいないのに交ざっても『こいつ誰?』みたいな顔されて終わりですよ!俺は無駄に傷つきたくない!」

 

 振りほどこうと藻掻く倉敷を羽交い締めにし庭瀬は説得を試みる。ここで倉敷に帰られては彼女の目的は達成できない。

 

「大丈夫だから!倉敷くんが知らなくても向こうは君を知ってるから!それに倉敷くんだってお腹空いてるでしょ?食事してから帰りましょ?ね?」

 

 そうなのだ。一文無しの倉敷は今晩の夕飯すら確保出来ていない、それどころか昨晩から何も食べていないのだ。だからこそお腹ぺこちゃんの彼は食事を確保するためにこのパーティーに来たのだ。

 

「……そもそも何で此処に俺を連れてきたんすか」

 

「いやー……このパーティーって色んな配信者が集まってるじゃない?だからあわよくばうちに引き抜いちゃおうと思って」

 

「それなら俺いらないじゃないですか……」

 

「そうもいかないのよ。ほら、このパーティーって配信者の為のモノじゃない?そこにMCNの人間が一人で参加する訳にもいかないのよ」

 

「知りませんよそんなの」

 

「くっ……まさか倉敷くんが人見知りする子だったなんて……普段あれだけはっちゃけた動画投稿してるくせに」

 

「カメラに向かって話すのと人に向かって話すのじゃまるで違います」

 

「いいわ。とりあえずあの誰も座ってないテーブルに座りましょ。それならいいでしょ」

 

「まあそれなら……」

 

 庭瀬に誘導され、二人はホールの一番隅のテーブルに陣取った。テーブルの上にはローストチキン、刺身、パスタ、数種類のケーキその他もろもろと言った煌びやかな料理が所狭しと並べられている。

 

「いただきます」

 

 老倉の妨害のおかげで日頃から貧しい生活を強いられていた倉敷は空腹を抑えることができず直ぐにローストチキンにかぶりついた。チキンはあまりに柔らかく、歯を使う必要がないほどで唇だけでちぎる事ができた。

 

「……うまい」

 

 咀嚼すればするほど口の中を芳醇な油が満たした。それも下品な油ではない、澄み渡った、どことなくオリーブを連想させるような上品な油。

 

 次に倉敷は刺身に手を伸ばす。オレンジ色に輝くサーモンを箸で持ち上げるとぷるんっと身が震えた、それだけでこの身の中にどれだけの旨み成分が詰まっているのかは想像に難くない。倉敷は醤油に浸すこともなくそのままサーモンを口に放り込む。

 

 ただ幸せだった。この数口で既に倉敷はこの場にきて正解だったと思う様になっていた。単純なものである。

 

 だがその幸せな時間は直ぐに終わりを告げる。

 

 次にパスタを食べようとした倉敷は辺りが何となく暗くなっていることに気がついた。

 

(ん?照明でも落ちたのか?)

 

 不思議に思い目の前の食事から目を離しあたりを見渡す。するといつの間にか倉敷と庭瀬の座る円卓を取り囲むように大勢の人が立ち並んでいた。辺りが暗くなったのは照明のせいではない、人の影によって生じたものだったのだ。

 

「ねっ!君って『桃太郎』さんだよね?」

 

「え……はい、そうですけど……」

 

「うっわ、やっぱ本物だ!」

 

 倉敷の直ぐ隣に立っていた男が倉敷のHN(ハンドルネーム)が桃太郎であることを確認すると周囲の人間にも聞こえる音量で騒ぎ立てた。それを聞いて周囲はざわざわと色めき立つ。

 

『実在してたんだ……』

 

『まじかよ、写メとってTwitterに投稿しねぇと』

 

『桃太郎ってこういうオープンな場には参加しないんじゃなかったの?』

 

『いや、でもこの昨日のPUGGの公式放送に参加してたらしいぜ?』

 

『ここにいるってことはもうどこかのMCNに参加してるのかな?』

 

 

 動画配信者界隈で倉敷こと桃太郎の存在は一種の都市伝説のようなモノになっていた。桃太郎のチャンネル登録者は現在40万人。これは所謂『大物配信者』と呼ばれるに相応しい数だった。その為、彼の人気にあやかろうとこれまで多くの関係者が仕事やコラボ依頼のメッセージを彼に送った。だが誰一人として彼とコンタクトを取ることはできない。いつしか彼は本当は既に死んでいて、天国から配信を行っているのではないかという噂が立っていたほどだ。

 

 実際のところは、田舎に置いてきた婚約者から逃げる為に外部との連絡を絶っていただけなのだがそんなことは当人達以外には知るはずもない。

 

「ねっ!桃太郎さん!一緒に写真とってもいいかな?」

 

「えっ、……いいですけど」

 

「なあ!桃太郎くん!君と噂になってる『老倉』って子いるじゃん?その子とはどう言う関係なのか教えてくれよ!」

 

「あいつは……中学時代からの後輩っすよ。昔は俺の後ろをちょこちょこついてくるだけの可愛らしい奴だったんすけどね……」

 

「ふーん。婚約者うんぬん言う話は?」

 

「その話はできればそっとしておいてください……」

 

 

   ・

   ・

   ・

   ・

 

 

 

「ひどい目にあった……」

 

 ホールで大勢の人間に囲まれた30分後、次から次へと投げかけられる質問に耐え切れなくなった倉敷は『ちょっとトイレ行ってきます!』とその場から逃げるように撤退した。

 

 現在はビル1階のエントランス、そこで庭瀬に買ってもらったペットボトルの紅茶を飲み休んでいる。

 

「あのくらいでへばってちゃだめよ。ファンに囲まれた時とかどうするのよ」

 

「考えたくもないっすね……」

 

 庭瀬の苦言に辟易とした様子で返答する倉敷。

 

「ところで庭瀬さんはここにいていいんですか?スカウトしたい人がいるとか言ってましたけど」

 

「うーん、ずっと探してはいるんだけど全然見つからないのよね。噂じゃかなりシャイな子みたいだからどこかに隠れてるのかも」

 

「配信者の癖に恥ずかしがり屋なんですか。変な奴ですね」

 

「君も人のこと言えないでしょ」

 

 カメラに向けて喋るのと人の目を見て喋るのではまるで違う、そういうことなのだろう。自身と似た感性を持つその配信者に倉敷は少し興味を抱いた。

 

「そいつどういう奴なんですか?」

 

「ツンデレよ」

 

「ツンデレなんすか……」

 

 その人がどんな人間なのか一言で把握できてしまうのだからツンデレとは便利な言葉である。もし庭瀬が老倉やかげを何かに例えるのならヤンデレになるのだろうか。

 

「そっ、『わらびもち』ていうHNで動画では毒舌系とも呼ばれてるわ。ゲーム系をメインにしてる女性配信者でチャンネル登録者は現在10万人、数ヶ月前から伸び始めてる娘ね」

 

「はー、毒舌系って需要あるんすね」

 

「需要というよりは彼女の人気は他の要因による所が大きいかしらね」

 

「他の要因ですか?」

 

「その娘、可愛いのよ」

 

「なるほど……」

 

 倉敷は納得いった。可愛いとは力なのだ。それは配信者界隈でも変わらない、むしろそれだけである程度の地位にまで上り詰めることができる。

 

「身長は155cmくらいで黒髪のショートカット、警戒心剥き出しで八重歯がやたら尖ってる娘よ。……動画を見せたほうが早いわね」

 

 庭瀬はスマホを取り出しそれを倉敷に見せる。画面には庭瀬の言う通りの女性……というよりは少女といった雰囲気の女が映っていた。

 

(あー……確かにツンデレって感じの娘だな)

 

 マナーモードなので彼女の声を聞くことはできないが倉敷はその娘のツンデレオーラを動画越しに感じ取った。だが確かに可愛らしい容姿をしている、特に笑った時に見える犬の様に尖った犬歯が彼女の雰囲気とあいまってとても魅力的だ。

 

「この娘を見つけたら私に教えて頂戴、うちに引き抜くから」

 

「それはいいですけど、何でこの娘なんですか?他にも配信者は沢山いたじゃないですか」

 

「それはこの娘が貴方の信者だからよ。だから貴方がうちに在籍している今なら引き抜ける公算がある」

 

「……信者?」

 

 信者とはある特定の物や人物の熱狂的……あるいは狂信的なファンのことだ。信者は度を越した発言や行動が多いため、世間ではあまり良い存在であるとは認知されていない。

 

「確証はないけどね。でも可能性は高いと思うわ。さあそろそろ会場に戻りましょう、続きは歩きながら話すから」

 

 庭瀬に促され倉敷は再び8階のパーティー会場へと向かう。だが二人の後方から10mほど離れた地点、その物陰から件の配信者『わらびもち』こと北長瀬 咲花(きたながせ さくか)が二人の背中をジット見つめていることに二人が気づくことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■□▪▫■□▫▪■□▪▫■□▫▪■□▪▫■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 老倉やかげは激怒していた。

 

 怒りの余りぷるぷると震えるその右手にはスマートフォンが握られている。画面に映っているのは某SNSサイトに投稿された一枚の写真。

 

 その写真にはパーティー会場のような場所で、顔を紅潮させて名を知らぬ女性と肩を寄せ合い、笑っている婚約者の姿。

 

 もう一度言う。老倉やかげは激怒していた。

 

「………」

 

 だが老倉やかげはただの一言も発さない。ただスマートフォンを鞄にしまい、足早にどこかへ向かって行った。

 

 



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ツンデレ配信者②

倉敷良(HN(ハンドルネーム)=桃太郎)
好きなポケモンはポッチャマ、ミカルゲ、ギラティナ。

老倉やかげ
好きなポケモンはアリゲイツ、ワルビアル、クチート。

北長瀬咲花(きたながせ さくか)(HN=わらびもち)
好きなポケモンはバチンウニ、ナマコブシ、ブルンゲル。






 暗くて、臭くて、汚くて、息苦しくて、足の踏み場もないほどに散らかった部屋で一人の少女が泣いていた。

 

 赤ん坊のようにえんえんと泣き喚くのではなく、堪えるように声を押し殺し涙を流している。

 

 泣きじゃくる少女の身体は色白というには余りにも青白く、もう何週間も着替えていない服からは悪臭が放たれていた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 少女は嗚咽とともに誰ともなく謝罪の言葉を呟いていた。いや、誰ともなくではない、きっとその言葉はこの場に居ない彼女の両親に向けられている。

 

 彼女が自室に引き篭るようになって一年が経っていた。初めは彼女の両親も落ち着けば直ぐに出てくるだろうと考えていたし、彼女自身、こんな生活は一ヶ月として続けられないだろうと思っていた。

 

 だがいつまで経っても彼女は部屋から抜け出すことが出来なかった。

 一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月と引き篭って行くうちに、段々と引っ込みがつかなくなっていた。今出ていってどんな顔をして両親に会えばいいのか、どんな顔をして学校に行けばいいのか、そんなことを考えれば考える程に外に出られなくなり気づけば一年が経っていた。

 

 2月10日、本日の日付だ。

 

 中学3年生である彼女は本来なら受験シーズン真っ只中だ。だが今更もう遅い、今になって部屋を出たとしても一年間勉強などしてこなった彼女が受験できる高校などありはしない。浪人は決定していた。

 

 最終学歴中卒。今のご時世、中卒の、それも女性を雇ってくれる企業がどれだけあるというのか、雇って貰えたとして引き篭もりの彼女にその仕事を続けることができるとも思えない。

 

 彼女の人生はこの先真っ暗だった。少なくとも彼女は自分に生きる価値はないと、ここまで育ててくれた両親に申し訳が立たないと考えていた。

 

 死のう-----そう覚悟を決めていた。

 

 死を迎え入れる日程も既に決めていた。今から一週間後に彼女はこの自室で首を吊って死ぬ、そう決意していた。それが怖くて、申し訳なくて、彼女は一人この部屋で泣いていたのだ。

 

 ピロリンっという音と共に彼女のスマートフォンが点灯した。少女は涙で滲んだ視界の中、微かなスマートフォンの明かりを頼りにそれを掴んだ。

 

«桃太郎さんが配信『お前らの悩み俺が解決してやるよ』を開始しました»

 

 スマートフォンにはそう通知が届いていた。それを見た少女は直ぐに部屋の中心にある小さなテーブルに向かい、その上に載るノートパソコンを立ち上げる。

 

 スマートフォンに通知のあったページへ飛ぶと少女より少し年上の男性の声が流れ始めた。パソコンの画面には少女より2〜3歳ほど年上の男が缶ジュースを飲みながら楽しそうに話す姿が映し出されていた。

 

 引き篭もりとなった彼女の唯一の楽しみ、それがこの名も知らぬ男性が定期的に投稿する動画や生配信を見ることだった。

 

 画面の中の男は粗暴な態度で自身の動画を見ているであろう者達に声をかける。

 

「俺がお前らの悩みを解決してやっから何でも言ってみろ」

 

 男がそう言うといくつかの文字列が右から左へと流れていった。男はジュースを飲みながら横目で、だがしっかりとそのコメントを吟味し一つのコメントに目をつけた。

 

『若ハゲでのせいで女からモテません。どうすればいいですか?』

 

「テメエがモテねえのをハゲのせいにしてんじゃねえよ!!周りの人間をもっと見てみろよ!ハゲてても結婚できてるやつはいくらでもいるだろが!お前がモテないのはハゲだからじゃねえ、頭部以外の面でもお前に魅力がねえからだよ!」

 

 配信を見ていた少女は少しだけ吹き出した。

 

(あはは、どうしてそうなるのよ。普通、悩みを聞くって言ったらその解決策か何かを提案するものでしょ。やっぱりこの人イカれてる)

 

 少女の感想はもっともだった。普通ならば自身の配信に集まってくれた視聴者達を逃すまいと、配信者達は歯に衣を着せ、耳障りのよい言葉を並べて媚を売る。ましてこの男のような罵声を浴びせてしまえば下手をすれば炎上、少なくともリスナーの減少は避けられない。だがこのコミュニティは違った。配信者の心無い言葉に対して非難するどころか彼に好意的なコメントが多く寄せらていたのだ。

 

『正論』『やめろ、その言葉は俺に効く』『ただの罵倒で草』『まあハゲはデメリットではあるけど致命傷かと言われると……いややっぱ致命傷かもしれねえわ』

 

 

『そうですよね……ハゲてても他でカバーすれば良いんですよね。ありがとうございます!俺ちょっと今から筋トレしてきます!』

 

 

 視聴者だけではない、悩みを相談し罵声を浴びせられた本人さえも彼に感謝の言葉を告げていた。

 

(私も……この人に相談すれば自殺しなくて済むのかな……)

 

 そう考えた時には既に少女の指をキーボードへと向かっていた。カタカタと、自身の不安と恐怖を指先に乗せ言葉を紡ぐ。

 

『中学三年、引きこもりです。このままだと最終学歴が中卒でこの先の人生が詰んでしまいます。どうすればいいですか?』

 

 決意を込めて並べた文字列を送信した。

 

(お願い……届いて……届いて……わたしを助けてよ、死にたくないよ……)

 

「おっ面白そうな悩みきてんじゃん、『中学三年、引きこもりです。このままだと最終学歴が中卒でこの先の人生が詰んでしまいます。どうすればいいですか?』だってよ」

 

 少女の救済を求める文字列は配信者の元へと無事に届いた。少女は固まった。もし、もしもこの人にまでもう人生詰んでると言われてしまえば本当に終わりだ。直ぐにでも首を吊ろうと少女は決意した。

 

「おいお前ら、最終学歴が中卒だと人生終わりなんだってよwww」

 

 しかし、そんな少女の決意とは裏腹に、配信者の発した言葉は軽く、少女の悩みを嘲笑うかのようなものだった。

 

「ちょっと中卒の奴ら手ぇあげろよ」

 

『ノ』『ノ』『ノ』『ノ』『ノ』

 

「やっぱりな、結構いんじゃん。んでお前ら今の人生どうよ?まあ色々あるんだけどそれなりに楽しくやってんじゃねえの?」

 

『おう、それなりに楽しいよ』『別に普通に生活してるよ。嫁と子供もいるぜ』『仕事って選ばなければ何でもあるしな』

 

「な?コメントでもあったけど選ばなけりゃ土方でも何でも仕事なんざいくらでもあんだよ。お前は全然詰んでねえよ」

 

 軽くて、無責任な言葉だった。だけど彼のその言葉を聞いていると少女の心に重くのしかかったていた不安が少しずつ取り除かれていった。まるで少女の眼から溢れる涙とともに不安が排出されているかのような感覚だった。

 

 涙で霞む視界の中、少女はなおもキーボードを叩く。

 

『女なので土方は無理です』

 

「だったら俺みてぇに配信者になればいい。配信者がだめなら家政婦でもあんだよ。もしそれでも、だめなら俺が嫁に貰ってやるよww」

 

『おいこら、それはちげーだろ』『お前老倉ちゃんに言いつけるからな』『お前もう女は懲りたとか言ってたじゃねーか……』

 

 暗闇の中、少女は声を上げて泣いた。だがそれは苦しくて悲しくて辛いからではない。将来への不安、死への恐怖から開放された安心から溢れ出た涙だった。そしてその涙がかれる頃、少女には一つの目標ができていた。

 

 

 

「わたしも動画配信者になる」

 

 

 少女、北長瀬咲花(きたながせ さくか)が動画配信者、『わらびもち』へと姿を変えた瞬間だった。

 

 

 

 

  □□□

 

 

 

 

 北長瀬咲花(きたながせ さくか)こと、わらびもちが動画配信者としてデビューして1年。ゲーム実況業界ではかなりの知名度を誇るようになった彼女は一人の配信者を探していた。

 

 『桃太郎』。あの日彼女を絶望から救ってくれた男だ。北長瀬は自身を絶望から救ってくれた桃太郎に直接お礼を告げようと何度も彼との接触を試みた。だがダメだった、幾度彼にメールを送ろうと返信がくることは一度もなかった。ならばと探偵を雇ったこともあったが男の足取りを掴むことは出来なかった。

 

 この人は本当に実在しているのか?もしかしてネット上に生きる幽霊のようなものなのでは?そんな突拍子もないことを考え始めていた時だった。

 

 彼女が所属するMCNの担当者にどうしてもと連れて来られたパーティー会場に彼女が探し続けていた男はいた。

 

 桃太郎を見つけた彼女は走りだし、気づけば彼の腰に抱きついていた。

 

 「好き!!」

 

 お礼を言うはずだった北長瀬の口から溢れたのはそんな二文字の言葉だったという。

 

 

 




お久しぶりです。
感想、評価貰えると嬉しく思います。


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老倉やかげが病むまでに①

老倉やかげ
本作のヒロイン。スマブラでの使用キャラはガノンドロフ、クッパ、キングクルール。

倉敷良
HN桃太郎。スマブラでの使用キャラはサムス、ゼルダ。

北長瀬咲花
HNわらびもち。スマブラでの使用キャラはスネーク、インクリング。




「スキ……あり!!!!」

 

 告白されたと思ったら不意打ちを食らった。当時のことを倉敷は後にそう語る。彼の言に間違いはなく、正しくそれは不意打ちだった。

 

 庭瀬の指示の下、動画配信者『わらびもち』の捜索に乗り出した倉敷はパーティー会場に入った途端に強烈なタックルを側面から受けた。その衝撃に吹っ飛びこそしなかったものの、体勢を崩した倉敷はタックルを放った少女と共に床に倒れた。

 

「いってぇ……、何しやがんだこのチビ」

 

「チ゛ビ゛じゃな゛い゛わ゛よ゛!!」

 

 ボヤきながら倉敷が上体を起こすと彼の腰に抱きつき抗議する少女の声が会場中に響き渡った。少女の顔は倉敷の腰に埋められているためその表情を窺い知ることはできないが彼女の声から泣いているであろうことが推察される。

 

「えっ、なんでこの娘泣いてるの……タックルくらって泣きたいのは俺の方なんだけど……おーい俺なんかしたか?」

 

 何故自分は名も知らぬこの少女に押し倒され泣かれているのか……倉敷は困惑していた。学生時代から老倉少女のよく言えば破天荒、悪く言えばイカれた言動で不測の事態にはある程度耐性のある倉敷にもこの現状は如何ともし難いものだった。

 

「何かしたか?じゃないわよ!!何もしなかったんでしょうが!この結婚詐欺師!!!」

 

 北長瀬の叫びに会場が響めく。ただでさえ未成年に押し倒され泣かれている状況、既に周囲は奇異の視線を倉敷に向けていた。そこへ飛び出た『結婚詐欺師』という言葉に野次馬達は倉敷を有罪と判断し写真を撮るフラッシュの嵐が舞い、その画像は直ぐにネットの海へと放たれる。

 

『動画配信者桃太郎、未成年のわらびもちに手をだしたか!?』

『桃太郎が結婚詐欺!?涙ながらにわらびもちが語る!!』

『まさかの二股!?老倉とわらびもち本命はどっち!?』

 

「ちょ!!何撮ってんすか!!禁止!撮影禁止!もしもこんなところを老倉に見られたらどうなるか……庭瀬さんも見てないで止めてくださいよ!」

 

「え?ダメなの?こういうスキャンダル的なのも私としてはウエルカムなんだけど」

 

「いい訳ないでしょうが!!!てかお前はいつまで抱きついてんだ!!いい加減離れろ!」

 

「嫌だから!離したらまた逃げられる!」

 

「逃げも隠れもしねえよ!いいから離れろ、会話になんねえ!」

 

 倉敷は北長瀬の顔を押し無理矢理に自身から引き離す。その際に彼女の鼻水が倉敷の服に糸を引き、なんとも言い難いシュールな光景を生み出していた。

 

「で?俺が結婚詐欺師ってどういうことだよ。なんで初対面のお前にそんなこといわれなきゃならんのだ」

 

「アンタが結婚詐欺師だからに決まってるでしょ!一年前、私と結婚してくれるって言ったくせに……老倉さんなんていう婚約者がいたなんて……絶対に許せない、、、私がどれだけ傷ついたと思ってるのよ!」

 

 北長瀬のシャウトにまたも周囲が動揺した。それもそのはずだ、北長瀬は現在15歳。一年前と言えばまだ中学生だったのだ。もしや老倉から逃げ回っているのは彼がロリコンだからなのでは?という邪推がどんどん周囲に浸透していく。

 

 引き離されても尚も腹部に抱きつこうとする北長瀬を倉敷は彼女の頭部を押さえ拒絶する。この相手が仮に老倉だったとすればその圧倒的フィジカルに倉敷は逃亡するしかないのだが相手が15歳の少女であるならば倉敷にも多少の余裕はあるらしかった。

 

「俺がいつお前と結婚の約束をしたよ……証拠があるなら見せてみろよ」

 

「証拠ならあるわよ!!」

 

 そう言って北長瀬が取り出したのはスマートフォンだった。数度操作した後、画面を勢いよく倉敷に突きつけた。

 

『だったら俺みてぇに配信者になればいい。配信者がだめなら家政婦でもあんだろ。もしそれでもダメなら俺が嫁に貰ってやるよww』

 

 不躾で、品のない笑い声と共にかつての倉敷の音声が再生される。

 

 ――まずい。

 

 直ぐに倉敷は過去を思いだし状況を理解した。

 

 言った。自分は確かにこのセリフを吐いた。だけど、それはあくまでもおふざけでしかなくて、誠意の欠片もない言葉だ。小学生が幼馴染と交わした将来の約束以上に意味も効力もないはずの言葉だ。

 

 しかし結局の所、言葉の真意や意味などは受け取り手がどう捉えるかに一存される。今回の場合で考えてみれば疑う余地なく、勘違いの余地もなく、倉敷は北長瀬を嫁に貰ってやると宣言しているのだ。アーカイブとして証拠も残っているのだから言い訳もできない。

 

(助けて)

 

 ことの深刻さとヤバさを理解した倉敷は視線で庭瀬に助けを求めた。その助けを受け、庭瀬は顎に手をやり考える素振りを見せる。「うーん、どうするのが面白いかしら」と聞こえた気がしたが倉敷は幻聴だろうと己に言い聞かせた。

 

「ねぇわらびもちちゃん。さっきの動画だと倉敷くんがわらびもちちゃんと結婚する条件は『わらびもちが動画配信者として成功しなかった場合』っていう風に聞こえるけど……わらびもちちゃん成功してるよね?」

 

 庭瀬の言葉にわらびもちこと北長瀬は硬直した。その横で倉敷は『えっ!?こいつが探してたわらびもちなのかよ!?』と驚愕した。

 

「せッ、成功してないですけど……?」

 

「いやいや、チャンネル登録者10万人も抱えといてそれは無理でしょ」

 

「そうだ!そうだ!お前は成功してんだよ!だからあの約束はなし!俺は結婚詐欺師でもない!」

 

 攻勢とみるや倉敷も責め立てる。しかし北長瀬は尚も倉敷の手を押しのけ彼に飛びかかる体勢を崩さない。

 

「だってある程度知名度がなきゃこの人には会えなかったんだもの!!現に今だってそう!このパーティに呼ばれてなかったら私は今日もこの人に会えてなかった!それに!!チャンネル登録者何人以上で成功とかそういうのは決めてなかったから!私はまだまだ成功してない!」

 

「むちゃくちゃか!?」

 

 荒れ狂う二人を前に庭瀬は思考する。脳内での議題は『このめちゃくちゃ面白い状況をどうにか利用して動画のネタにできないか』。結論は直ぐにでた。

 

「分かったこうしましょう。二人でゲームで対戦をする。わらびもちちゃんが勝ったら倉敷くんと結婚。倉敷くんが勝ったらわらびもちちゃんはうちのMCNへ移籍……これでいきましょう!!!」

 

 

 

 

□□□□□

 

 

 

 

 

 これは今から10年前、当時小学六年生だった老倉やかげが野イノシシにタイマンを挑み、初めての敗北を経験した直後のことだ。

 

 時刻は早朝6時30分。老倉やかげの母である老倉老松(おいくらおいまつ)は朝食の準備をしていた。老倉母が作り終えた牛乳、目玉焼き、ウインナー、白米といったメニューをテーブルに並べていると玄関の開く音がした。どうやら娘が牛や畑の世話を終えて帰って来たらしい。

 

「やかげ〜〜。ご飯出来てるから手ぇ洗って食べちゃいなさい」

 

 老倉母は玄関まで届く大きな声で娘へと声をかけた。だが反応がない。いつもなら直ぐに『うん、わかった』という返事が帰ってくるのに。心配になった母はとてとてと玄関まで出迎えに行った。

 

 そこにあったのは泥だらけになり、目元を赤く腫らした娘の姿だった。母は驚き娘へと駆け寄る。

 

「やかげちゃん!?何があったの!?」

 

「やかげのパンチ……イノシシに効かなかったです」

 

 老倉母は瞬時に状況を理解すると共に絶句した。確かに、彼女もこの辺りにイノシシが出没することは知っていたし、彼女の管理する安納芋畑がその標的になるであることも承知した上で娘に畑の管理を任せていた。だが、それはあくまでも害獣の危険性や悪性を身をもって体感して欲しかったからであった。通常、野生動物はこちらから手を出さなければ襲ってくるようなことはまずない。

 

 昔から大人しく、引っ込み思案な娘だ。イノシシに遭遇すれば直ぐに逃げ帰ってくる、そうすれば危険はないだろう───そう母は考えていた。

 

 しかし、その大人しいはずの娘がまさか拳一つでイノシシに立ち向かうなどと誰が誰が想像出来ただろうか。

 

 自身の教育不足で娘に何かがあったら───── 老倉母は背筋が凍った。

 

「けっ、ケガは!?やかげちゃん怪我はないの!?」

 

「はい。男の子が助けてくれました……」

 

「男の子……?あっ、そう言えば」

 

 老倉母は娘を助けたという男の子に心当たりがあった。通常、老倉家の敷地内にある老倉少女の安納芋畑に男の子等いるはずはない。だが今日に限っては違う。それは昨日、老倉母が夕食の用意をしていた時の事だ。

 ピンポーンというチャイムが鳴らされ彼女が玄関へ客を出迎えに行くとそこにいたのは娘と同年代くらいの少年だった。

 

『あら?あらあらあら?もしかしてやかげの友達かしら?』

 

 今年小学六年生になる愛娘であるがこれまで友人を我が家に招くという事は一度もなく、それ故に母として娘の交友関係に対して気を病んでいた。

 

『やかげ?誰それ?』

 

 どうやらこの少年は娘を訪ねてきたわけではないらしい。母は落胆した。

 

『ここ、老倉さん家だよね?明日の朝なんだけど畑の方に入らせてもらってもいい?カブトムシとかとりたくて』

 

『ああ、そういうこと。良いわよ、荒らさないようにだけしてね』

 

『うん!ありがとおばさん!』

 

 そんなやり取りがあったのを老倉母は思い出した。おそらくはあの時の少年がやかげを助けてくれたのだろう。あの少年は確か倉敷さん家の長男だったはず……

 

「お母さん……」

 

「うん?やかげちゃんどうしたの?」

 

 少年の家にお礼を言いに行かなくては、手土産は何が良いだろうかと悩んでいると聞いたことも無いような娘の声が聞こえた。様子がおかしい。いつもは堂々と無表情に言葉を述べるやかげが俯き、服の裾を掴み言い淀んでいる。

 

 イノシシの恐怖に身がすくんでいるのかとも思ったがどうやら違うらしい。その頬は蒸気しやかげ自身困惑しているようでもある。

 

(おや?おやおやおやおや?)

 

 見たこともない娘の表情ではあったが見覚えがないわけではなかった。母自身その表情を幾度となく浮かべてきたからだ。赤く染まり羞恥に身を焦がすかのようなその表情、まさに恋する乙女の表情に他ならない。

 

 母は歓喜した。友達もつくらず、趣味もなく、ともすれば自分自身にすら興味がないのでは思ってしまうほどに娘は達観していた。よく言えば精神年齢が高いと言えるのかもしれないが母としてはそれは違う。人を育てるのは他人との触れ合いだ。励ましあい、競い合い、時に傷つけ合って人は成長する、その過程をすっとばした達観など張りぼてでしかない─────それが母の持論だった。

 

 しかし、とは言っても他人との関係は母から強制するものでもないというのもまた老倉母の持論であり、故に母からできるのは『家の手伝いはしなくてもいいよ』と言うことくらいだった。まあそれでもやかげが安納芋畑だけでなく農場全体の手伝いを止めることはなかったのだが。

 

 しかしそんな娘がちょっと目を離した隙に恋する少女になっている。

 

(イノシシに襲われていた所に颯爽と現れて助けてくれた謎の少年……そりゃ恋もするってものね)

 

 俯く娘の前で老倉母は倉敷さん家の長男に親指を立てた。グッジョブ少年、お前がうちの婿だ。

 

「お母さん、何か……モヤモヤします」

 

「そっか、モヤモヤするか……うんうんモヤモヤするよね」

 

「……?母さんもモヤモヤすることあるんですか?」

 

「最近はないけどね。昔は父さんの事を思うとずっともやもやしてたわよ」

 

 老倉母は若かりし日に想いを馳せた。懐かしい……あの時は夫を捕まえる為にあとを付け、交友関係、家族関係、趣味、将来の夢など全て調べ上げ少しづつ、少しづつ外堀を埋めていったっけか……あの時の努力があったからこそ夫を捕まえ幸せな家庭を築けている……こんな事を言えば夫は苦い顔をするだろうが母は本気でそう思った。

 

「父さん?父さんのことを考えてもモヤモヤしませんよ?」

 

「当ててあげる。やかげはそのイノシシから助けてくれた男の子の事を考えるとモヤモヤするんでしょ」

 

「!……はい」

 

「苦しい?」

 

「はい……」

 

「そっか。じゃあ治しにいかなきゃね。さっ!早くご飯食べてちゃって!そしたらうんとお洒落して倉敷さんの家にもやもやを治してもらいに行きましょ!」

 

 

 

 

 

 

 

 



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老倉やかげが病むまでに②

 

 倉敷が動画配信者を目指し上京する十年前、中学生になって初めての夏休みを過ごす倉敷少年は退屈していた。

 

「暇だ……」

 

 開け放たれた部屋の窓から差し込む陽光、途切れることなく鳴り響くクマゼミの合唱、田舎の夏をこれでもかと堪能させられながら自室で一人、彼は呟いた。

 

 やることがない。いつもなら悪友達と山や広場へ遊びに行くのだが生憎今日は皆して家族と外出している。ただ一人どこへ出かける予定もない倉敷少年は、畳の敷かれた自室で何度となく読み返した漫画を広げ無為な時間を過ごしていた。

 

「そういえば今朝のあの女の子、なかなかヤベー奴だったな」

 

 読んでいた漫画を枕代わりにし天井を見上げ、倉敷は今朝出会った拳一つでイノシシに立ち向かう女の子のことを思い出していた。

 

 普通に考えて、いや考えなくとも人がイノシシに素手で勝てる訳が無い。常識、当たり前だ。なのにあの少女はまるで臆することなく拳を振り上げ、それをイノシシの眉間に叩き込んだ。しかも、しかもだ、それを食らったイノシシはあろうことか少しよろめいていたのだ。

 

 どう考えても普通じゃない。ヤバすぎる。村では悪ガキ3人組の一人として名の通っていた倉敷だったがあの少女にだけはちょっかいはかけない方がいいと自分に言い聞かせた。

 

「ごめんくださーい」

 

 倉敷少年がイノシシ少女に身震いしているとそんな声が玄関の方から聞こえてきた。声の感じからして大人の女性だ。だとすれば自分ではなく母への来客だろう、そう当たりをつけた倉敷は昼寝でもするかと両目を閉じうたた寝を始めた。

 

「起きな良!」

 

倉敷がこくりこくりと船を漕ぎ始めた頃、突然彼の母が部屋に乗り込んできて彼を叩き起した。「うっさいな、いい気持ちで寝てたのに」という倉敷の非難を無視し母は捲し立てる。

 

「良、アンタにお客さんだよ。直ぐに下に降りてきな」

 

 そう言い残してドタドタと階下へと姿を消す。

 

「客ぅ……?アイツ等は全員出かけてるはずなのに誰だ?めんどくさいな」

 

 そう言いつつも倉敷は直ぐに体を起こし母の言いつけ通り一階へと向かう。倉敷家では母が生態系の頂点に位置する。それ故に彼は母の言うことには絶対に逆らえないのだ。

 

 ボリボリと臀を掻きながら玄関へと向かうとそこには母と同じくらいの女性が立っていた。さらにその後ろにも誰かがいるのが分かったが女性の背に隠れているのでその顔までは確認出来なかった。

 

「こんにちは良くん」

 

「あっ、老倉さんとこのおばさん。今朝はあんがとね、カブトムシ沢山とれたよ」

 

「こんにちは良くん。カブトムシ可愛がって上げてね。それでね良くん今日はお礼を言いに来たの」

 

「お礼?自慢じゃないけど俺良いことなんてなんもしてないけど?」

 

「えっとね、今朝うちの畑でイノシシから女の子を助けてくれたでしょ?あの子うちの娘なの。ほらやかげ、いつまでも隠れていないで貴方もお礼を言いなさい?」

 

 老倉母の背に隠れていた少女がもじもじとうつむきながら倉敷の前に姿を晒した。その顔を見て倉敷は思わず

 

「ゲッ、イノシシ女!!痛ッなんで殴るんだよ母さん!」

 

「女の子に向かってイノシシ女とはなんなのよ!謝んなさい!」

 

「良いのよ倉敷さん、今日はこっちがお礼を言いにきたんだから。ほらやかげちゃん?良くんに言いたいことがあるんでしょ?」

 

 そう言って今だにうつむく老倉少女の背中を母が押すがそれでも少女は顔を上げない。

 

「あー、怪我しなくて良かったな。朝とかは動物が出やすいからあんまり一人でうろつかない方がいいぜ?じゃ俺はこのへんで……」

 

 痺れを切らして、というよりは老倉少女へ得体のしれない恐怖の様なものを感じていた倉敷はそう言って戦線離脱を試みた。

 

 けれど倉敷の逃亡は失敗に終わる。少女に背を向けた瞬間、後ろから彼の両手を挟み込むようにして老倉に抱きつか(拘束さ)れたのだ。その力は凄まじく倉敷が全力で抜け出そうとしてもビクともしない。まるで恐ろしい大蛇に巻き付かれているかの様なイメージが脳裏をよぎり彼の背筋を凍らせた。

 実際、老倉少女にしてみればただ抱きついているだけなのだがそのイカれたフィジカル故に倉敷に恐怖を与える結果となってしまっていた。

 

「まって……ください」

 

「はなして……ください」

 

 抱きつき耳の先まで真っ赤に蒸気させる老倉と抱きつか(拘束さ)れ冷や汗を流す倉敷。そんな二人を見て両者の母親コンビは黄色い歓声を上げていた。

 

「えっ!?もしかしてやかげちゃんうちの馬鹿息子のことを!?」

「そうみたいなの!!やかげったら友達の一人も作った事無かったからもう嬉しくて嬉しくて……。ねっ!倉敷さんうちの娘、良くんにお願いしてもいいかしら!」

「もちろんよ!ああ、うちのバカ息子にも相手ができて良かったわ。もうこの子の代で倉敷の家は潰えるんじゃないかと心配してたのよ」

 

 母親コンビが冗談交じりにとんでもない将来設計を描いていたが当の本人達にはそんなことを気にする余裕はまるでない。血液の循環を妨げられた倉敷は震える声で懇願する。

 

「えっと、老倉さん……?そろそろ手を離してくれねーかな?両手の血が止まって感覚がなくなってきたんだけど────」

 

「……」

 

 倉敷が悲痛な声で許しを請うが老倉は顔を倉敷の背にぐりぐりと埋めるばかりで返答がない。

 

 そう、10年後の彼女の姿からは想像もできない事だが当時の老倉やかげは人見知りだった。とんでもないフィジカルをその身に宿していながら家族以外とはまともに会話もできない────そんな恥じらう乙女な時代が極僅かな期間ではあるが老倉やかげにも存在したのだ。

 

「あらあら、良とやかげちゃんすっかり仲良しなのね。そうだっ!良、アンタやかげちゃんと一緒にちょっと出かけて来なさいな」

 

「はあっ!?勘弁してくれよ!女と一緒に遊んだりしたら仲間(アイツら)に茶化されるじゃねーかよ!」

 

「黙んなさい。いつもいつも男達で集まって悪さばかりして!たまには女の子と遊んで乙女心の一つでも理解しないと一生独身で過ごすことになるよ!」

 

「ぐっ……、けどこいつだって会ったばかりの男と遊ぶなんて嫌がるだろ!」

 

 その反論を受け老倉母は倉敷の腰に抱きついたままのやかげに視線を合わせ優しく、諭すように語りかけた。

 

「ねっやかげ。良くんとデート行きたい?」

 

「でぇ…と?」

 

「そう、デート。良くんがやかげをデートに連れてってくれるんだって。行く?」

 

「……行きます」

 

 倉敷の腰に顔を埋めたまま、耳を真っ赤に染め上げた老倉少女は静かに、けれど力強く頷いた。

 

「決まりね。ほら馬鹿息子、しっかりやかげちゃんをエスコートしてきな。ちゃんと日が暮れるまでには家へ送ってくるんだよ」

 

「良くん、うちの娘お願いね♪」

 

 

 

□□□

 

 

 

 

「何故こうなった……俺が何したってんだ……」

 

 理不尽に家から追い出された倉敷はジリジリと肌を焼くような日差しを受け、額から流れる汗を拭いながら独り言ちた。

その背中には相変わらず一言も喋らないままの老倉が抱きついている。

 

「クソ暑ぃ……なぁ、老倉ちゃん君も暑いだろ?そろそろ離してくんない?」

 

「んーーーんーーーー」

 

 暑さに耐え兼ねた倉敷が老倉を引き離そうとするがびくともしない。むしろ剥がそうとすればするほどその力は倉敷の胴体をねじ切らんばかりに増していく。『まるで巨大なクワガタに挟まれているかのようだった』、この時の恐怖を10年後の倉敷はこう語る。

 

「痛い!!痛いから!!分かった!もう引き剥がそうとかしないから力緩めて!!」

 

 倉敷がそう半泣きになりながら叫ぶと老倉はその両腕から力を抜いた。

 

「なんだなんだこの女……なんでこんな力強ぇんだよ……」

 

 通常、中学性男子が小学生女子に力負けするなどということはまずない。しかし事実として老倉のフィジカルは倉敷のそれを大きく上回っていた。見る限り特別筋肉質というわけでもないその細く白い腕のどこにそんな力があるのか───人体とはかくも不可思議なものである。まぁきっと老倉少女が特別(おかしい)なだけなのだろうが。

 

「おい、老倉ちゃん。このまま外にいても熱中症になるだけだ。取り敢えず涼めるとこへ行こうと思うけど希望はあるか?」

 

「……ないです」

 

「そっすか……。なら好きな物とかある?食べ物とか本とかなんでもいいけど」

 

「……ワニ」

 

「ワニっすかぁ……」

 

 倉敷は天を仰いだ。

 

 いくらこの町、いや村がど田舎だとしても所詮は日本だ。ワニはいない。或いは都会ならば動物園へ行くという手もあるのかもしれないが、この村にそんなものは当然ない。無慈悲なり。

 

「ワニ以外に好きな物はないかな?」

 

 そう問うが少女からの返答はない。代わりに腰に回された両腕の力が少しだけ強くなったのを倉敷は感じた。

 

「ホームセンターでも行くかな……あそこなら涼しいしペットも売ってるから暇つぶしにはなるだろ。まぁワニはいないだろうけど……」

 

 そう誰に言うともなく呟いて背中に張り付いたままの老倉少女を引きずりながら歩みを進めた。

 

 

 

  □□□

 

 

 

「ようやくついた……」

 

 照りつける太陽に耐え老倉少女を引きずること30分、倉敷少年はようやく地元のホームセンターに辿りついていた。入口のドアを開けると中から溢れ出るエアコンの冷気がここまでの彼の奮闘を讃えてくれた。

 

「涼しい~~~俺もう此処に住むわ」

 

 店内で両手を広げ冷気を堪能するが相変わらず老倉は背にひっついたままだ。いったいこの少女は何がしたいのか、頭を悩ますがまるで見当がつかない。これが女心というやつなのだろうか?だとすれば一生分かりそうにねーなと倉敷は考えるのを止めた。

 

「おーい、そろそろ離してくんないか。ここまでお前を引っ張ってきたからマジで腰が痛くて……ちょっとベンチに座らせてくれ」

 

 そう倉敷が懇願すると意外にも老倉少女は素直に彼の背から離れた。ずっと背に顔を押し付けていたからだろう、顔には倉敷の汗やら彼女の鼻水やらが付着し不衛生な状態になってしまっていた。

 

「あーあー。たくっ、しゃーねーな……」

 

 渋々といった風体で彼がポケットから取り出したのはハンカチだった。彼の性格から言えばそんな物を持っているはずがないのだがこれも常日頃からの倉敷母の教育の賜物である。母は息子が将来結婚できるのか割とガチで心配しその辺しっかりと躾ていた。

 

「じっとしてろよ」

 

 そう言って取り出したハンカチで老倉の顔についていた汚れを丁寧に拭き取った。

 

「ありがとうございます……」

 

「別にいーよ。それより何でずっと背中に引っ付いてたんだ?」

 

「それは……恥ずかしかったから」

 

「ほーん。まあいいや座ろうぜ。って腰痛った!」

 

 そう促して老倉をベンチに座らせると倉敷もその横へ腰を下ろした。瞬間、ここまでの疲労の蓄積か彼の腰に鈍い痛みが走る。それを察してか老倉はそっと手を伸ばし倉敷の腰を摩った。

 

「私の所為だから……。ごめんなさい」

 

「あー、まあ気にすんなって」

 

 実際、彼の腰痛の原因は老倉少女を1km以上引きずり歩いたことによる物なのだが流石の倉敷も落ち込む少女の顔を見て責めるほどの鬼ではなかった。内面はともかく、当時の老倉は見た目だけはか弱い少女であった。

 

 それから老倉に腰を摩られたままお互いに無言の時間が続いた。それも当然でイノシシとの戦闘という劇的な出会いをした二人ではあったが実のところ彼等が知り合ってまだ半日しか経っていないのだ。共通の話題どころか互いがどういった性格なのか、趣味嗜好すらも把握していない。それでも気まずさに耐えられなくなった倉敷はなんとか話題を絞り出した。

 

「そういえばお前、なんでイノシシと戦ってたの?」

 

「私が育てたお芋、食べてました。だから殴った」 

 

「そっか。それは────仕方ないな」

 

「はい。せいとうぼうえい」

 

 正当防衛とはそういうものだったろうか?倉敷は訝しんだ。

 

「正当防衛だったとしてももうイノシシとは戦うなよ。あぶねーから」

 

「……分かりました」

 

 たっぷり10秒以上かけての了承に倉敷は『あっこれ何も分かってねーな』と看破した。また同じ状況になればまたイノシシとタイマンを張るだろう。そうなれば次はどんな大怪我を負うか分からない。まだ出会って間もない関係ではあるがもしもそうなれば寝覚めが悪い。

 

(どうすれば動物と喧嘩しなくなるんだ……)

 

 頭を捻るがそんな難題の解決策は簡単には生まれない。

 

「おう悪ガキ、また涼みにきたのか?ってどうした、今日は珍しく女連れか。やるじゃねぇか」

 

 そうして倉敷が老倉VSイノシシの戦いを未然に防ごうと思考を巡らしていると何者かが彼に近づき話しかけた。驚いた倉敷が声のした方へ顔を向ける。そこにはホームセンターの制服を着た30代前半と思しき男が額の汗を拭いながらニヤニヤと揶揄うような笑みを浮かべ立っていた。

 

「なんだ伯父さんか。つーか女連れとか言うなよな。どちらかと言えば子守りだよ、子守り」

 

 男の名は倉敷慶太。倉敷の母の兄、つまり彼の伯父だった。伯父は制服の上からでも分かる筋肉質な腕で倉敷の背をバシバシと叩き機嫌良さそうに笑う。

 

「ガハハ!!照れんな照れんな!」「だから違うっての!!そもそもコイツは小学生で俺は中学生!!そんな関係なわけねぇだろ!」

 

 倉敷が老倉との関係を否定すると横に座っていた老倉が彼の横腹を摘み抓った。

 

「痛てぇんだけど!?何で抓った!?」

 

「……」

 

 腹を摘む老倉を非難するがその手は一向に離されない。それどころか何がそんなに気に入らないのか、不機嫌そうな目で倉敷を見つめていた。

 

「ごめんな嬢ちゃん!こいつまだまだガキだからさ、女心って奴がわかんねぇんだ!許してやってくれや!」

 

 伯父が笑いながらそう言ってまた倉敷の背中を叩いた。

 

「あっそうだ伯父さん、なんかイノシシが畑に寄り付かなくなるような物売ってない?」

 

「イノシシ避けぇ?なんだってそんなモンが必要なんだよ。また危ないことしようとしてんなら止めとけよ。お前の母ちゃんに怒られるのは俺なんだからな」

 

「そうゆんじゃねぇよ。コイツ、老倉さん家の子供でさ、自分の畑持ってるんだけどそこにイノシシが出たんだよ。今朝なんて素手でイノシシと闘ってたんだぜ?危なっかしくてほっとけねぇよ」

 

「イノシシと素手でか……そいつはやべぇな」

 

「やべぇんだよ……」

 

 倉敷と伯父、二人して小学六年生の少女の異質さにドン引きした。当の老倉は何故か誇らしげにしていたが恐らくはそういうとこなのだろう。

 

「うーん、その畑の大きさはどの位なんだ?」

 

「あんま大きくはなかったよな?」

 

「……はい。4m×3mの12㎡です」

 

 老倉は倉敷の背に顔だけを隠しながら伯父にそう告げた。イノシシと喧嘩できるのに何故こうも人見知りなのか、倉敷は理解に苦しんだ。

 

「12㎡か。だったらいいもんがある。ちょっと待ってな」

 

そう言って伯父はホームセンターのバックヤードへと消えていった。何を持って来るのだろうと二人して首を傾げているとキャスターに大量の荷を載せた伯父が再び姿を現した。

 

「伯父さん、それなに?」

 

「アニマルフェンスつってな。この杭を畑の周りに挿して金網を巻くんだ。イノシシだけじゃなくてアナグマやヌートリヤなんかの小型の害獣の対策にもなる優れもんだぜ」

 

「いや、そんな大掛かりなもの買うつもりじゃなかったんだけど……。それにそれそこそこ値段するでしょ」

 

「事情が事情だからな今回は俺のおごりだ。その代わり組立はお前らでやれよ。ハンマーさえあれば簡単に組めるからよ」

 

「奢ってくれんの!?伯父さん最高かよ!!」

 

「ありがと……ございます」

 

 

 

  □□□

 

 

 

 

「さてもうあんま時間ないけど出来るところまでやっちまうか」

 

 伯父の軽トラックでフェンスの材料を老倉の畑まで運搬し終えると既に時刻は16時を回っていた。日暮れまでには帰路につかなくてはならない為、残り時間は1時間弱しかない。倉敷はテキパキと材料の梱包を外していった。

 

「この杭を畑の周りに打つって言ってたよな。老倉、ちょっとこれ押さえててくれ」

 

「分かりました」

 

 老倉が杭を押さえ倉敷がハンマーを構える。しかし狙いを定めて振り下ろされたはずのハンマーは杭の頭部を少し掠めただけでそのまま地面に着地した。

 

「ありゃ。思ったよりも難しいな」

 

 もう一度ハンマーを構え振り下ろす。しかし何度繰り返しても杭の芯には当たらない。極まれに当たる事もあったがやけくそ気味に振り回され体重の乗っていない一撃では杭を突き立てることは出来なかった。

それでも彼はハンマーを振り下ろすが次第に倉敷の息は上がっていき、とうとう地面に膝をついた。

 

「クソっ……!全然あたんねぇ!」

 

 ぜぇ、はぁ、と倉敷が息を整えていると地面に置いていたハンマーを老倉が拾い上げた。

 

「代わり……ます」

 

「マジで?でもこれかなり難しいぜ?ハンマーも見た目よりずっと重いし」

 

「大丈夫です。杭、押さえててください」

 

 そう言って老倉はハンマーを構えた。その構えは明らかに素人のそれではない。倉敷のようにハンマーの重量に振り回されているものではなく、しっかりとその重みを彼女の腕力でコントロールしている。振り下ろされたそれはまるで定規でも使ったのではないかと疑うような軌跡を描いて真っ直ぐに杭へと叩きつけられた。

 

ドガン、という衝撃音と共に杭が半分近く突き挿さった。間髪入れずに振り下ろされた2擊目によって杭全体が隠れてしまうほどに畑へと埋め込まれた。

 

「いや、えっと、埋めすぎなんだけど……」

 

 地中深くに根ざしたその杭を引っ張り上げるのに二人はたっぷりと一時間を費やすと辺りは夕空に覆われ始めていた。

 

「もういい時間だな。老倉ちゃん、暗くなる前に帰ろうぜ」

 

 倉敷がそう言うと先程まで楽しそうに笑みを浮かべていた老倉の表情が曇った。うつむき、今朝下ろしたばかりのスカートを皺ができるほどに握りしめている。

 

「まだ……帰りたくないです」

 

 老倉少女はこれまで同年代の子供と遊ぶといった体験をしてこなかった。それは彼女の性格がどうこうといった問題ではなく、ただ興味がモテなかったということに起因する。綺麗な洋服を着たい、ゲームで遊びたい、スポーツで汗を流したい、そういったモノに対する興味がまるでなく、それらに時間を費やすくらいなら牛や畑の世話をしたいと考える、それが幼き日の老倉という少女だった。

 

 だから彼女が倉敷に覚えた『好意』という興味はまさしく麻薬だった。彼に助けられ、背中に張り付き、ホームセンターへ引きずられ、一緒にフェンスを組立てるという他者から見れば何でもないような一日も彼女にとっては衝撃的なものだった。

 

 この一日を終わらせたくない。まだ倉敷と一緒にいたい。だから「帰りたくない」、物心ついた時から両親にすら言ったことのない我が儘を今朝出会ったばかりの少年に老倉少女はぶつけていた。

 

「仕方ねぇな……あとちょっとだけだぞ」

 

 そう言って倉敷は新たな杭を取り出しそれを畑に突き立てた。

 

「いいんですか?」

 

「まあ誰にだって帰りたくない日はあるわな。俺も通知表を貰った日なんてマジで家に帰りたくなくなるし。でもあと30分だけだ、おばさんが心配するといけねえからな。続きはまた明日だ」

 

「明日も……遊んでくれるんですか?」

 

「まだフェンスの組立も終わってねえしな。と言っても老倉ちゃんなら一人で組めそうだから俺はいらないか」

 

「無理です」

 

 断られたらどうしよう、もう遊ばないと言われたらどうしよう。そんな不安が老倉を包み込む。けれど彼女は拳を握り締め最後まで言葉を続けた。

 

「無理です。私一人では組立てられません。だから、だから……!明日も───一緒に遊んでください」

 

 初めは強かった語気も段々と弱まり萎んでいく。それでも、老倉少女が放った最後の言葉は確かに倉敷に届いていた。

 

「おう、約束だな」

 

 そう倉敷が答えると老倉少女はひまわりが咲いたような笑みを浮かべた。今日一日、陰気な表情しか見ていなかった倉敷は彼女はこんな表情もできるのかと少しドキリとした。

 

 じゃあ今日は帰ろうか。そう言って倉敷が場を締めようとした時、メキリッと枝を踏みおるような音を背後に聞いた。驚いて振り返るとそこには今朝方追い払ったはずのイノシシが再び姿を現していた。しかも今朝よりも興奮しているようでブルブルと鼻を鳴らし威嚇している。二人を襲うのは時間の問題といった風体だった。

 

 倉敷は老倉を背に隠すようにして立つとイノシシを刺激しないような小さな声でそっと指示をだす。

 

「老倉ちゃん、イノシシに背中を見せないようにゆっくり後退りしてくれ。十分な距離が出来たら全力で走るんだ」

 

 しかしその指示に老倉の返答はこない。まさかまた素手で闘う気か?と不安になった倉敷はそっと背後の彼女を盗み見て驚愕した。

 

 彼が見たのは尻餅をつき、ガタガタと歯ぎしりをしながら震える老倉やかげの姿だった。

 

(なんで!?今朝は普通に闘ってたじゃん!?)

 

 倉敷が混乱するように確かに今朝方、老倉は目の前のイノシシに怯えることなく果敢にも拳一つで勝負を挑んだ。だがそれはあくまでも『イノシシ』という敵の危険性を彼女が理解していなかった、いや、もっと言うのであれば『恐怖』という感情そのものを老倉が認識していなかったが故に起こせたアクションだった。

 だが今の老倉は今朝の経験から恐怖を知ってしまっている。しかも目の前にいるのは恐怖を彼女に教えた元凶だ。彼女が動けなくなるのも当然だった。

 

 「チッ!仕方ねえな!」

 

 状況を理解した倉敷の行動は早かった。まず畑の土を蹴り上げてイノシシを挑発し自分に意識を向けさせた。その後イノシシに背中を見せ走り出した。とにかく老倉とイノシシの距離を離すのが優先だと彼は考えたのだ。

 倉敷の目論見通りにイノシシは彼を追って突撃した。イノシシにあっという間に距離を詰められるが間一髪のところで側方に飛び込み、倉敷はなんとか突進を回避する。

 

 畑を転がり、泥まみれになりながらも体勢を立て直そうとするが間に合わない。視界の隅で次の突進の構えに入るイノシシの姿を倉敷は認識していた。

 

(やべぇ。次は躱せねえ)

 

 覚悟を決め、衝撃に備える倉敷を数メートル離れた場所で老倉は唖然とした様子でその一部始終を見つめていた。

 

 このままでは大好きなお兄さんが怪我を───もしかしたら死んでしまうかもしれない。そうなればもう二度とお兄さんに会えなくなる。

 

 そんなのは絶対にだめだ。

 

 老倉やかげはパワー系ではあるが馬鹿ではなかった。だから考えた。どうすればお兄さんを助けられるのか、どうすれば畑を守れるのか─────。

 そうして考えが纏まり切る前に老倉は走り出した。力強く蹴り上げられた畑の土が宙に舞い、踏みつけられた芋がぐしゃりと潰される感触を足裏に感じた。

 けれど老倉は止まらない。あの恩人を、大好きなお兄さんを守りたいその一心で彼女は恐怖を抑えつけ、走り、そして飛んだ。

 

 全力でジャンプし勢いそのままに老倉はイノシシの頭部へと落下したのだ。

 

 イノシシは上部からの衝撃によって頭部を畑へと叩きつけられた。しかし老倉渾身のこの一撃は実の所イノシシへ大したダメージを与えるには至っていない。それもそのはずで体重35kgの老倉に対してイノシシの体重は70kgを超えており、さらには地面は柔らかい畑である。老倉の落下はただイノシシの頭部を土に埋めるだけの結果に終わっていた。

 

「なにやってんだ!!さっさと逃げろ!!」

 

 倉敷が叫んだが老倉は逃げない。渾身の一撃が効かなかったにもかかわらずその目は未だ諦めていない。あれほど恐れていたイノシシだと云うのにだ。

彼女は十二歳にして初めて『恐怖』という感情を知り、その日のうちにその感情を完全に克服していた。

 

 老倉は土に埋もれるイノシシの頭部に両腕を回し思い切り締め上げた。

 ヘッドロック──────この土壇場でイノシシ相手に老倉が選んだ技はまさかのプロレス技だった。

 

「嘘だろ──────」

 

 倉敷は目を疑った。言うまでもない事だがプロレス技とは対人間用の技だ。当然イノシシに対して使用される事など想定されていないし効くはずもない。なのに──────何故あんなにもイノシシは苦しそうなのか。

 

「ブグゥーー!!ブグゥーーーー!!」

 

 ヘッドロックをかけられたイノシシはもがき苦しみ必死に老倉から逃れようと暴れている。だが老倉は離さない。ヘッドロックをかけたままイノシシの頭部を土の中に拘束し続けた。

 

「やめろ!離して逃げろ馬鹿!!」

 

 倉敷の声は老倉の耳に届かない。最早彼女の脳内には畑をめちゃくちゃにされた怒りも、イノシシに対する恐怖も何もなかった。

ただ大好きなお兄さんを助けたい。その一心のみでイノシシの頭を土の中へと拘束し続けた。

 

 永遠にも感じられるような一分が過ぎた。倉敷がどれだけ怒鳴っても離さなかったイノシシの首を老倉は唐突に開放した。

 

どさり─────

 

 酸欠に陥り畑に倒れ伏したイノシシには目もくれず老倉は倉敷へと視線を移しこう言った。

 

「お兄さんは─────どんな女の子が好き?」

 

「は?」

 

 倉敷はなんかもう色々と理解できていなかった。何故目の前の年下の女の子は徒手空拳でイノシシを倒しているのか?何故今好きな女の子の事を聞かれているのか?老倉という少女の存在その物が倉敷にとって理解し難いものとなっていた。

混乱した倉敷は老倉の問いに馬鹿正直に答える。

 

「えっと……一途な子かな。たぶん」

 

「分かった。頑張りますね」

 

 そう言って笑った老倉は自分より年下とは思えないほどに妖艶で大人びていて、倉敷は思わず顔を赤らめた。この答えが後の二人の関係に多大なる影響をもたらすことになることを彼はまだ知らない。

 

 

 

 

 ■ ■ ■ 

 

 

 

 

 随分と懐かしい夢を見ていた。十年前の先輩と出会った日の夢だった。

 

 タクシーの中で目を覚ました老倉は突発的に掘り起こされた倉敷との出会いの記憶に胸が締め付けられるような切なさを覚えた。

 

 思えばもう随分と彼に会っていない。何故彼は自分の許を去ってしまったのか、自分の何がダメだったのか、幾度反芻したかもしれないその疑問を再び自身に問うがやはり答えは出ない。

 

 何か嫌われるような事をしてしまったのだろうか?他に好きな人ができたのだろうか?だとしたらどうすれば帰ってきてくれるのだろうか?答えのない疑問は次なる疑問を生み落とし老倉を更に悩ませる。

 

 だけどこの疑問のスパイラルも今日で終わりだ。回答するのは彼女ではない、疑問を生んだ張本人だ。

 

 

 老倉やかげの乗るタクシーが倉敷のいるパーティ会場へ到着するまで残り30分を切っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




色々ご意見いただきましたのでこの作品を書き直すor非公開に致します。
私としてはやかげちゃんの行動は彼女の個性、魅力として書いていたつもりだったのですが私の実力不足のせいで意図しない印象を読者の皆様へ与えてしまいました。
申し訳ございません。
またいつか皆様へ作品をお届け出来るよう頑張ります。


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