隣人のお姉さんが肉じゃがを持ってこない。 ( junk)
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①
突然だが、僕は今年の春から一人暮らしをしている。
大学に進学した事で、自宅から通うのが困難になったからだ。
一人暮らしについて、男子なら一度は憧れるシチュエーションというものがある。
例えば気になる女の子を呼んで夜通しどんちゃん騒ぎをするとか、料理を作ってもらうとか。
そういった数ある妄想の中で頂点に君臨するのは、やはり隣人のお姉さんシチュだろう。
たまたま隣に住んでいるお姉さんとひょんなことから仲良くなり、色々と面倒を見てもらう、というのは誰もが憧れる所だ。もちろん、僕も例外じゃない。というか大好きです。
そんなシチュエーションの代名詞的なセリフが「肉じゃが作り過ぎちゃったから、おすそ分け」だ。後に「お口に合うと嬉しいんだけど……」って恥ずかしそうに言われたら、僕は肉じゃがが劣化ウランで出来ていようと食べきる自信がある。
さて、諸君。
ここからが本題だ。
憧れのシチュエーションについての題ではなく、僕についての題だ。
僕の部屋の隣には、お姉さんが住んでいる。
しかも、かなりの美人だ。
よくありがちな可愛くて包容力がある、という感じではないけれど。背が高くて、キリッとした目をしていて、スラっとしたスタイルのカッコいい美人のお姉さんが住んでいる。
お姉さんの名前は鹿倉みゆき。
ひょんなことから仲良くなって、僕とは仲良くしてくれてる。
コンコン、と部屋のドアを叩く音が聞こえてきた。
鹿倉さんはインターホンの存在を知らないらしい。いつもああやってドアを叩いて僕を呼ぶ。
ドアを開けると、そこにはやっぱり、鹿倉さんが立っていた。
鹿倉さんはいつも無表情、鉄面皮ってやつだ。
普通なら愛想が悪いと感じるかもしれないけど、どちらかとクールとか孤高って印象を受ける。
美人ってずるい、って言う人の気持ちが分かる。
「こんばんは、佐々木くん」
「はい。こんばんはです、鹿倉さん」
挨拶を済ませると鹿倉さんは、一人暮らしで使うには明らかに大きすぎる鍋を、僕に渡した。
鍋からいい匂いが漂ってくる。
いい匂いと言っても、お花の様な匂いじゃなくて、煮物とかからする何処か懐かしくてお腹が音を鳴らす類の匂いだ。
「夜分遅くにごめんなさいね。肉じゃがを作り過ぎてしまったのだけれど」
お裾分け、だろうか。
僕は鍋を開けてみた。
「頑張って全部食べ切ったわ」
鍋の中身は空だった。
まだ洗ってないのか、所々にタレが付いているけど、空と言って差し支えないだろう。
僕の隣人のお姉さんは、肉じゃがを持ってこない。
◇
僕は鍋を鹿倉さんに返した。
「鹿倉さん」
「何かしら? 使ってるシャンプーならツバキよ」
「なんでそこでシャンプーが出てくるんですか」
「あら。今からグルシャンをするのではなくて」
「グルメシャンプーなんて、したことありませんよ」
「嘘おっしゃい。いつも壁越しに聞こえてくるわ。佐々木くんが美味しそうにシャンプーをグルメする音が」
「凄い勢いでシャンプーすすってますね、僕。このアパートの壁はそんなに薄くないでしょう」
「私が頑張って削ったわ」
「そんなショーシャンクの空にみたいな」
「それじゃあ佐々木くんは最後、銃で自殺するのね」
「僕は汚職していません」
「そうね。佐々木くんは職に就いてない、ただの汚だものね」
「汚くもありません。それより、鹿倉さん」
「はい」
「帰って下さい」
「……」
「……」
「今日は、随分冷たいのね」
鹿倉さんはうつむきながら、両手で肩を抱いた。
それだけ見ると可哀想だけど、顔はやっぱり無表情だから、あんまり悲壮感がない。
「いや、そんな仕草されましても。僕今から、夕ご飯食べますし」
「それじゃあ、私も同伴させてもらうわ。ちょうどお腹が空いていたのよ」
「さっき肉じゃがを頑張って食べ切ったって言ってたじゃないですか」
「あれは嘘よ。お腹が空いて空いてしょうがないわ。げぷっ」
「満腹ですよね? 確実に満腹ですよね?」
「そうね。たしかに空腹ではないわ」
「認めちゃった」
「でも問題ないわ。トイレで嘔吐してくれば、まだ食べれるもの」
「そこまでしますか」
「あら。私が佐々木くんとどうしてもご飯を食べたい、みたいな言い方ね。そんなことないわ。私はいつも、お夕飯時はゲロを吐いて二度食事をするのよ」
「……はあ。じゃあ、上がって下さい」
「そう。そこまで言われては仕方ないわね。お上りしてあげるわ」
「自分に尊敬語を使わないで下さい」
鹿倉さんは靴を脱いで、僕の部屋に入った。
ちゃんと靴を揃えてるのが、なんというか、無駄に礼儀正しい。
僕の部屋には、あまり家具がない。
ベッドと本棚、それと小さなちゃぶ台が一つだけだ。当然、床に座ることになる。
だけど座布団はひとつしかない。
僕は座布団がない方に座って、鹿倉さんに座るよう促した。
「お構いなく。突然押しかけた身だもの。家主が座布団のある方に座ってちょうだい」
「いやいや。一応とはいえ、お客さんですから。どうぞ」
「いやに親切ね。まさか、私が帰った後私のお尻の熱を愉しむ気かしら?」
「分かりましたよ」
鹿倉さんと、座っていた位置を交換した。
何だかんだいっても、この人は優しい人だ。
本当に僕に気を使って変わってくれたのかしれない。
そう思っていると、何処からかクッションを取り出して、下に敷いた。
「なんでクッションなんか持ってるんですか」
「準備がいい女だからよ」
「僕に何も言わず、僕の部屋に来る準備をしないで下さい。でもまあ、それなら良かったです」
「だから言ったじゃない。お構いなく、って」
「そう言われて本当に構わない人、みたことあります?」
「さあ。分からないわ。私、友達いないから」
「そ、そうですか」
「……」
「……」
なんて反応していいか分からず、少しの間沈黙が流れた。
鹿倉さんは僕の部屋を見渡すこともなく、僕の方をじっと見つめてる。
何だかいたたまれなくなって、僕は無理矢理話題を引き出した。
「あの、お茶とかいります?」
「お構いなく」
「あ、分かりました」
「ところで、佐々木くん」
「はい」
「喉が渇いたわね」
「飲むんじゃないですか。お構いして欲しいんじゃないですか」
「素直になれない、いじらしい女の子なのよ」
「そういうことにしておきます。日本茶とほうじ茶、紅茶、コーヒーがありますけど、何がいいですか?」
「沢山あるのね」
「実家からの仕送りです」
「ああ。佐々木くんのお家はカフェだものね」
「いや、まったく違いますけど。僕の実家の話、したことないですよね?」
「あら。これは別の隣人の佐々木さんのお話だったかしら」
「鹿倉さんの別隣は空き家でしょう」
「そうだったかしら。じゃあ別の人の話ね」
「あっ、誰かの話ではあるんですね。架空じゃなく」
「誰の話か、気になる?」
「いえ、特には」
「聞こえなかったのかしら。もう一度言うわね。誰の話か、気になる?」
「なんですか、このドラクエみたいなシステムは」
「誰の話か、気になる?」
「ええ、分かりましたよ。気になります。誰のお話なんですか?」
「ふふっ。秘密よ。私の全てを知れるなんて、思わないことね」
「全てはいいんで、対処の仕方だけ教えて下さい」
「五千円で握手、
一万円でデートになっております」
「料金プランじゃないですか。しかもちょっと高いし」
「私のような絶世の美女のお相手が出来るのだから、当然でしょう」
「そうですね」
「クレオパトラ・楊貴妃・ヘレナの代わりに鹿倉みゆき・鹿倉みゆき・鹿倉みゆきにすべきだわ」
「三大美女全部独り占めしてるのに、一万円でデート出来るんですか」
「ええ。佐々木くんだけの、特別プランだもの。他の人は、いくら積まれてもお断りよ」
「……そ、そうですか」
「ところで」
「は、はい。なんでしょう」
「コーヒーはまだかしら?」
僕は急いでコーヒーを淹れに行った。
でないと、うるさくなる心臓が、女の子と二人きりで部屋にいることを僕に自覚させそうだった。
インスタントのコーヒーを淹れながら、鹿倉さんに尋ねる。
「お砂糖とミルクはどうします?」
「私、甘党より辛党なのよ」
「じゃあ無しでいいんですね」
「お砂糖2つに、ミルク多めでお願い」
「うん。ちょっと前の会話いります?」
「無駄なことこそ、人生の宝である。鹿倉みゆき」
「最後に名前を付けても、名言にはならないですよ」
「格言よね」
「失言です」
「じゃかじゃかじゃーーん。鹿倉みゆきの失言シリーズ」
「なんか始まった」
「おかあさ――先生、質問があります」
「ガチの失言じゃないですか」
「昨日は恥ずかしい思いをしたわ」
「まさかの昨日の出来事」
「あっ、これ核ミサイルの発射ボタンだったわ」
「失言過ぎます。いきなりレベル跳ね上がりすぎでしょう」
「肉じゃがに集中し過ぎたわ」
「ついさっきの出来事じゃないですか」
「私ったら、罪な女よね」
「罪な女というか、罪人ですよね。国際指名手配犯ですよ」
「世界中が私の敵になったとして、佐々木くんは味方でいてくれる?」
「影ながら応援させていただきます」
「逃走経路や、武器の調達とかかしら」
「割と本気で影ながら応援してますね、僕」
コーヒーのドリップが終わり、抽出器からコーヒーが零れ落ちてくる。
僕はブラック派なので、先輩の方にだけ砂糖とミルクを入れた。
「どうぞ。熱いので、気をつけて下さいね」
「ありがとう、佐々木くん」
マグカップを両手で待ちながら、珍しく、鹿倉さんは素直にお礼を言った。
悪い気はしない。
いや、正直ちょっと嬉しい。
普通にお礼を言われただけなのに、不思議なものだ。
「いい香りね。豆は何を使ってるのかしら。それとも、淹れる人が上手いのかしら」
「さあ。インスタントなので。豆もスーパーで買ってきた奴で、淹れたのも機械です」
「そう。じゃあ、佐々木くんが一緒だから美味しく感じるのかしら」
「そう、かもしれませんね」
「あるいは私が味覚音痴か」
「もしかして、僕をからかってます?」
「どうかしらね。ところで、お夕食はまだと言っていたけれど、食べないの?」
「食べますよ」
お客さんが来ているのに、僕だけ目の前でむしゃむしゃ食べる、というのも気が引けてしまう。
けれど、お腹が空いたことも確かだ。
さっさと夕ご飯を作ろう。鹿倉さんには、何かお茶受けでも出しておけばそれでいいか。
「じゃあちょっと、夕ご飯を作って来ますね」
「今日の献立はなにかしら」
「みんな大好きインスタントラーメンです」
「駄目よ。育ち盛りの男の子が、インスタントなんて」
「もう育ち盛りって年齢でもないですよ。インスタントも、ほぼ毎日食べてますし」
「例えそうだとしても、私の目の前では許さないわ。少し待ってなさい。キッチン、借りるわね」
「あっ、ちょっと!」
「いいから。座っていなさい」
僕が止めるのも聞かずに、鹿倉さんはキッチンの方に行ってしまった。
鹿倉さんは、結構頑固な人だ。ああなったら、僕がなんと言おうと、持ち主の僕がなんと言おうと、キッチンを占領し続けるだろう。
仕方ないので、スマホでもいじりながら待つことにする。
鹿倉さんが戻ってきた。
手には、最初に鹿倉さんが持ってきた大鍋が握られている。
ちゃぶ台の上に敷いたタオルの上に、大鍋が置かれた。中にあるのは、肉じゃがだ。
「僕の家には、肉じゃがの材料なんてなかったと思うんですけど……」
「ええ。だから家から持ってきたのよ」
「わざわざすみません。ありがとうございます」
「味には自信があるわ。散々試したもの」
「……じゃあ、作り過ぎちゃったけど、食べ切ったっていうのは」
「そうよ。試行錯誤中に出来た物を食べていたら、いつのまにかお腹いっぱいになってしまったの。本当は佐々木くんと一緒に食べようと思っていたのだけれど。人生、そう上手くはいかないものね」
「ありがとう、ございます」
「いいのよ。私が好きでしたことだから。お構いなく、よ」
「でも、なんで、その、こんな回りくどいことを? 自宅で作って持ってくるとか、余り物を持ってくるとか、出来たんじゃないですか? 頂いてる身で、恐縮ですけど」
僕の問いかけに、鹿倉さんは少しだけ悩むそぶりを見せた。
そして一言。
「愚問ね」
そう前置きしてから、彼女は言った。
「作り置きや余りものではなくて、出来立てを食べてもらいたかったからに決まってるじゃない」
そう言った鹿倉さんは。
珍しく、本当に珍しく、少し笑っていた。
僕の隣人のお姉さんは肉じゃがを持ってきてくれない。
だけど、そう。
お姉さんが作る肉じゃがは、美味しい。
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②
夜、僕は部屋でぼうっとしていた。
読んでいた本が読み終わってしまい、やることがないのだ。
大学の課題も終わってしまったし、部屋にテレビの一つもない。新しい本でも買いに行こうか、とも思ったけど、外に出る気力も起きない。
「……あっ。夕ご飯もないんだった」
そうだ。
ちょうど昨日、インスタント食品が底を尽きた。
しまったなあ、買い足すのを忘れてた……。
お腹の具合は、やや空いてるという感じだ。
外食をして、帰りに本を買って帰る――というプランも考えたけど、やっぱり気力が出ない。
めんどくさい。
今日はもう寝よう。
明日大学に行く前に、朝ご飯を食べればなんとかなるだろう。
そんなことを考えてると、部屋のドアが叩かれた。
ピタゴラス、フリードリッヒ、ケイローン。
過去のどんな名教師達であっても、彼女にインターホンの使い方を教えることは出来ないかもしれない。
ドアを開けると、そこにいたのはやっぱり鹿倉さんだ。
「こんばんは、佐々木くん。いい夜ね」
「こんばんはです、鹿倉さん。別に普通の夜だと思いますけど」
そう言った鹿倉さんは、普段と少し趣が違った。
なんていうか、ベトベトしてる。
茶色いベタつきが、身体中に引っ付いていた。
「どうしたんですか、それ」
「肉じゃがを作っていたら、あり得ないくらい失敗したのよ。びっくりよね」
「いや本当に、あり得ないレベルですね」
「暴発したのよ、鍋が」
「何したんですか」
「よくゲームであるじゃない。料理や錬金に失敗したら、爆発して『とほほ……大失敗』って表示されるやつ。あれよね」
「現実世界とゲームをごっちゃにしないで下さい」
「分かったわ。それじゃあ佐々木くん、コマンドを入力してちょうだい」
「ごっちゃにはしてませんが、こっちの世界がゲームになってます」
「そのコマンドは昇竜拳よ」
「格ゲーだったんですか。せめてシミュレーションゲームにして下さい」
「大変よ。私に爆弾がついたわ。起爆まで3……2……」
「どこのときめきメモリアルですか。それに起爆までが早すぎます」
「私が爆破したら大変よ。他のヒロインが未来永劫、攻略出来なくなるわ。ニューゲームしても」
「クソゲーじゃないですか」
「どかーん」
「爆破しちゃった」
「これで佐々木くんは、私以外攻略出来なくなったわね」
鹿倉さんは攻略出来るんだ。
そう思ったけど、それはあえて言わなかった。
「ところで、佐々木くん」
「はい」
「シャワーをお借りしてもよろしいかしら?」
「えっ?」
何故僕の部屋でわざわざ浴びるのだろうか。
疑問に思っていると、鹿倉さんは少し考えてから「ああ、なるほど」と言った。
「シャワーというのは、お湯が出るノズルのことよ」
「何もなるほどじゃないです。シャワーの意味が分からないわけじゃありません」
「そう。賢いのね」
「このくらいで賢いって思われるなんて、僕はどれだけ馬鹿だと思われてたんですか」
「ちょっと頭の悪いチンパンジー程度かしら」
「それもうただのチンパンジーじゃないですか。せめて頭の良いチンパンジーにして下さい」
「では頭の良いチンパンジーの佐々木くん」
「はい」
「シャワーをお借りしてもいいかしら?」
「いや、いいですけど。なんでわざわざ僕の部屋で浴びるんですか。部屋にあるでしょう」
「止められてるのよ」
「いや、嘘ですよね。だって料理してたんでしょう?」
「……鋭いわね。伊達に頭の良いチンパンジーを名乗ってないわ」
「名乗ってはないです」
「それより、貸してくれるなら早速頂きたいのだけれど。これでも身体中がベタついて、結構不快なのよ」
「……まあ、構わないですけど。着替えはあるんですか?」
「もちろんよ。私は準備がいい女だもの」
「準備がいいなら、鍋を吹き飛ばさないで下さい」
本当に、何をやったら鍋が爆発するんだろうか。
相変わらず、
僕の隣人のお姉さんは、肉じゃがを持ってこない。
◇◇◇◇◇
鹿倉さんが、シャワーを浴びている。
そのこと自体は普通のことだ。
最低日に一回はシャワーを浴びるだろうし、女の子なら朝にも浴びるかもしれない。
シャワーを浴びること自体は、普通のことだ。
ただ場所がよくなかった。
鹿倉さんの家から5メートルくらいズレてる場所のがよくない。鹿倉さんの家から5メートルズレた所というと、つまり僕の家だ。
僕の、というかこのアパートのシャワー室のドアは、曇りガラスになっている。
もちろん僕はシャワー室から離れたリビングにいるが……。
「佐々木くん、聞こえるかしら?」
「は、はい。聞こえてますよ」
鹿倉さんの声が聞こえる。
おしゃべりの相手が一切れも布を身につけていないというのは、不思議な感覚だった。
普通に話しているだけなのに、妙に緊張する。
「そう。良かったわ。まだ妄想の世界に行ってはないようね」
「行ってないですし、これからも行く予定はないです」
「そうなの? てっきり、私の裸を想像して小躍りしてると思ったわ」
「どんだけ想像力豊かなんですか、僕は。それで、何の用ですか?」
「別に用と言えるほどのことはないのだけれど、少しお話ししようと思っただけよ。ほら、私髪が長いじゃない。思わずヴィーナスが神席を譲るほどの上質な長髪じゃない」
「気軽に愛と美の神の座に着かないで下さい」
「だからトリートメントに時間がかかるのよ。率直に言って暇だわ。お話ししましょう」
「まあ、いいですけど。何の話をするんですか?」
「それじゃあお互いに、佐々木くんの嫌いなところを挙げていきましょうか」
「僕の人生でしたくない話題ワースト1位をぶっちぎりで更新するくらい嫌な話題なんですけど」
「私は大好きだわ。一人でもよくやるくらいよ」
「一人で何してるんですか」
「私がラジオを持ったら、絶対にコーナー化するでしょうね」
「オールナイトニッポンが鹿倉さんにオファーを出さないことを祈ります」
「もしお誘いの声がかかったら、記念すべき初ゲストは佐々木くんにお願いしようかしら」
「丁重にお断りさせていただきます」
「それは困ったわね。私、佐々木くん以外に呼べるような友達がいないのだけれど」
「少なくとも僕の良くないところを挙げるコーナーがある内は、行きたくありませんよ」
「ゲストが嫌なら、レギュラーになって貰おうかしら」
「負担増えてるじゃないですか」
「そういうことなら、今から練習しましょうか。先ずは私から行くわね」
「僕の方は行きませんよ」
「そうね。忘れっぽい所が、良くないと思うわ」
「忘れっぽい……」
忘れっぽい、だろうか。僕は。
まあ頭はそれほどよくない方かもしれない。
鹿倉さんから見たら、忘れっぽく見えるのかも。
「それじゃあ次は佐々木くんの番よ。佐々木くんのダメな所を言って、一緒に盛り上がりましょう」
「盛り下がりますよ」
「盛り上がりなさい。狂喜乱舞しなさい」
「人生初の狂喜乱舞をこんな所で失いたくはないです。それで、僕の良くない所でしたっけ。そうですね……結構ズボラな性格だと思ってます。今日も面倒くさくて夕ご飯食べてないですし」
「ダメよ。育ち盛りの男の子なのに」
「だから、育ち盛りって歳じゃありませんよ」
「髪の毛は伸びてるじゃない」
「髪だけじゃないですか」
「反論がなくなったから、この話題は切り上げるわね」
「なんですその話題の変え方。自由過ぎません?」
「都合が悪くなったら強制的に話を止めるのは、私の必殺技の一つよね」
「反則技の間違いじゃないですか?」
「では、次は私の番ね」
「まだやるんですか」
「やるわよ。私の人生で最高の娯楽だもの」
「そこまで言われると、もうなんか光栄です。それで、なんです。次の僕の悪い所は」
「ないわ」
「なかった」
「忘れっぽいところ以外は、大体全部好きよ」
「そ、そうですか」
そう言う意味で「好き」と言ったわけではない。
分かっているのに、少し嬉しい僕がいた。
ずっと聞こえていた水音が止まった。
鹿倉さんはシャワーを浴び終えたようだ。
シャワーを浴びている時よりもむしろ、身体を拭く音の方が緊張する。そして着替える時の服の僅かな音は、もっと心臓に悪かった。
「良いお湯だったわ、ありがとう佐々木くん」
「どういたしまして」
「流石だわ。シャワー設備も一流ね」
「鹿倉さんの部屋にも同じ物があるでしょう」
「ないわ」
「なんでですか」
「肉じゃがの失敗で吹き飛んだもの」
「本当にどんな失敗したんですか」
「ところで、佐々木くん。まだお夕飯を食べてないと言っていたわね」
「はい」
「お腹は空いてるかしら」
「ええ、まあ。そこそこには」
「それなら良かったわ。今からパーティーをしましょう」
「パーティーですか?」
「乱痴気パーティーよ」
「二人で乱痴気するのは、ちょっと盛り上がり過ぎな気がします」
「じゃあ普通のパーティーでもいいわ」
「妥協したみたいに言ってますけど、二人でパーティーやるのも結構凄いですよ」
「二人だけのパーティー、いいじゃない。昔の映画でありそうだわ」
「たしかにありそうですけど。そういうのって、お洒落な洋館でワイン片手にとかですよね」
「そうかしら。私は盗もうとした財宝こそ手に入らなかったものの、もっと大事な物を盗んだ後のささやかなパーティーを想像していたわ」
「映画版ルパンじゃないですか」
「それで言ったら、私は藤子で佐々木くんは銭形さんかしら」
「鹿倉さんの中で、僕はどんなイメージなんですか」
「変態」
「訂正します。鹿倉さんの中で銭形さんはどんなイメージなんですか」
たわいもない話をしてると、不意にインターホンが鳴った。
僕の家を訪ねて来るのは、精々鹿倉さんくらいだ。
その鹿倉さんはいつもインターホンを鳴らさないから、一瞬なんの音か分からなかった。
「ちょっと対応して来ますね」
「その必要はないわ。多分、私が呼んだ人だから。佐々木くんはそこに座っていて」
「いや、でも」
「座ってなさい」
「はい」
鹿倉さんに睨まれて、僕はすごすごと引き下がった。
あの人、眼力が強すぎる。
ゴルゴーンと睨み合ったら、多分向こうの方が石化するんじゃないだろうか。
扉を開けて、来訪者と何やら話しているらしい。
その後鹿倉さんは、平べったい箱を持って戻って来た。
中身を予想するのに、箱の形はあまりにも分かりやすかった。そもそも臭いが強いから、もしかすると見なくても分かる人は分かるかもしれない。
「ピザですか」
「ええ、出前しておいたの。言ったじゃない、乱痴気パーティーをするって」
「あれ本気だったんですか。僕が夕食後だったら、どうするつもりだったんですか?」
「ヒント:ボディ・ブロー」
「吐かせるつもりだったんですか」
「それもまた一興よね」
「まったく一興じゃないです。なんの趣きもないです」
「吐く様子がマーライオンみたいに美しいかもしれないわ」
「マーライオン、世界三大がっかりスポットじゃないですか」
「いいじゃない。結局お夕飯はまだだったんだから」
「まあ、そうなんですけどね。実際、ピザなんて久しぶりなんでちょっと嬉しいです。いくらだったんですか? 半分出しますよ」
「そこは男らしく、全額出すくらい言ってもいいんじゃないかしら」
「無理です。貧乏学生ナメないで下さい」
「冗談よ。今日は私からのおごり。たまには先輩らしくしてあげるわ」
「え。いや、いいですよ。半分出しますよ」
「佐々木くん」
「はい」
「引っ叩くわよ?」
「なんでですか」
「たまには素直に喜びなさい。人の好意は受け取るものよ」
「……そこまで仰るなら、分かりました。有り難く受け取ります」
「嬉しい?」
「嬉しいです」
「乱痴気する?」
「乱痴気します。いえーい」
「そう。私も嬉しいわ」
そう言った鹿倉さんは、本当に嬉しそうだった。
どうしてだろう?
鹿倉さんは、いつも変なことをする。
でも今日は、輪をかけて変だ。
肉じゃがが爆破したなんて明からさまな嘘をついていたし、金払いがいいし。
ただの好意、で片付けてはいけない気がする。
鹿倉さんは最初、パーティーをすると言った。
つまり、何かめでたい事があったわけだ。
なんだろう。
鹿倉さんの誕生日パーティーはこの間やったし、もちろん僕の誕生日でもない。
今日は、一体なんの日だ……?
「……あ」
「どうしたのかしら、何かに気がついた様な声を出して。死にたくなったの?」
「いきなり何に気がついてるんですか、僕は」
「私が佐々木くんだったら、日に四回は死にたくなるわ」
「僕は今まで一度も死にたいと思ったことはありません」
「そう。佐々木くんは鏡を見た事がないのね」
「そんなに酷いですか、僕の顔は」
「どちらかというと、タカアシガニに近いわよね」
「何と比べてタカアシガニに近かったのかはこの際置いて置くとして、確かにタカアシガニに近い顔をしていたら死にたくなるかもしれません」
「でも、私は嫌いじゃないわよ」
「そ、そうですか」
今からちょうど1年前。
今日と同じ日付の日に、僕はある授業に出ていた。
一人で授業を受けていた僕の、前の席。
そこには一人の、恐らく先輩だろうという女性が座っていた。
授業が始まる前、彼女は席を立った。
トイレか何かだったのだと思う。
するとその席に、さっきの女性とはまた別の女性が近づいて来た。
最初は、隣に座ろうとした友達か何かだと思った。
だけど机に置いてあったレジュメを取り、何処かへ去っていく様子を見て、そうではないと悟った。
案の定戻って来た女性はしばらくレジュメを探した後、諦めた様に授業を受けていた。
その時の悲しそうな顔を見て、僕の心の中で何か汚い物が生まれた。
次の授業も、同じような事が起きた。
その時僕は、よく分からない正義感に駆られた。
普段はそんな事まったくしないはずなのに、レジュメを盗もうとする女性に、僕は注意したのだ。
女性はひどく驚いた表情をした後、僕に対して罵倒を浴びせてきた。
僕も負けるわけにはいかないと、負けじと言い争った。
そうこうしているうちにトイレに行っていた女性が戻ってきて……もうしっちゃかめっちゃかだ。
結局三人で授業をサボって、僕らはカフェで話し合った。
話を聞いてみると、どうやら二人は元から知り合いだったらしい、
しかし些細なことで喧嘩してしまい、その腹いせにレジュメを盗んだ、ということだった。
ちなみに被害者の女性はトイレに行っていたのではなく、加害者の女性に電話で呼び出されて席を空けていたそうだ。
その後僕が仲介して、二人は仲直りした。
被害者の女性からは、顔を真っ赤にしながら何度もお礼を言われた。加害者の女性からも、まあ一応お礼っぽいことは言われた。
めでたしめでたし、というやつだ。
それからというもの、僕はこの二人とそれなりに交流を持つようになった。
ここまで言えば分かるかもしれないが、これが僕と鹿倉さんの出会いである。
ちなみに、レジュメを盗んでいた女性が鹿倉さんね。
余談だが、被害者の女性は蝶ヶ崎さんという人だ。
現在、蝶ヶ崎さんと僕は同じバイト先で働いている。
元々僕が働いていたところに、偶然採用されてきた形だ。
それに何故かほとんど毎日、スーパーや駅、大学構内で会う。
この前なんか、早朝ふと目が覚めて家を出たら家の前で出くわしたくらいだ。
偶然って怖い。
まあとにかく、今日は僕と鹿倉さんが出会った日である。
……確かに、僕の短所は忘れっぽい所かもしれない。
「鹿倉さん」
「何かしら」
「パーティーを始める前に、僕が音頭を取ってもいいですか」
「いいわよ。千年間盛り上がるような、素晴らしい音頭をお願いするわね」
「それはちょっとハードルが高すぎますけど、僭越ながら」
グラス――ではなく、コーラが入った紙コップを僕らは掲げた。
「僕らの出会いに」
「……覚えていたのね」
「ええ、まあ。思い出したのはさっきですけど」
「思い出したのならいいわ。これで短所は全部なくなったもの」
僕らは乾杯した。
グラスがぶつかる乾いた音の代わりに、紙がぶつかる間の抜けた音が響く。
「それで、どうでした。僕の音頭は」
「そうね。少なくとも、私の心は千年間盛り上がっていそうだわ」
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③
大学の帰り道。
いつもの道を歩いていると、良く見知った顔を見かけた。
見かけたというか、見かけさせられた。
彼女は道のど真ん中で、荒ぶる天神乱漫のポーズをしていた。
「……」
「……」
目が合う。
合ってしまった。
これはもう、流石に無視するわけにはいかないだろう。
「何してるんですか、鹿倉さん」
「日課よ」
「あっ、そうですか」
「ツッコミなさい。冗談よ」
「僕でもツッコミをしない時くらいあります」
「意外ね。佐々木くんはいつもツッコミをしてるイメージがあるわ」
「それは鹿倉さんのせいです」
「そう。美しさというのは、時に罪よね」
「それは確かにそうかもしれませんが、今回の件とは完全に無関係です。罪があるのは中身の方です」
「内側から滲み出る美しさ、というものかしら」
「口から溢れ出るボケです」
「ああ、あの酸っぱめの……」
「それはボケじゃなくてゲボです。発音は似てますけど」
会話もそこそこに、鹿倉さんは歩き出した。
何処に行くのかは知らないが家の方向とは違う。
用事があるのだろう……と思ってお別れの挨拶をしようとしたら、鹿倉さんが振り返った。
ちょいちょい、と小さく手招きしてる。
その時、僕は今まで日本語を正しく理解してなかったことを知った。“ギャップ萌え”とはこういう意味だったのだ。
率直に言ってとても可愛らしかった。
「今日はちょっと付き合ってもらいたい場所があるのよ。それとも何か、別の予定があったかしら?」
「いや、別にないですけど」
「そう。それは良かったわ。それじゃあ行きましょうか」
「何処にです?」
「それは着いてからのお楽しみよ。でも、そうね。一つヒントを言うとしたらEU圏内よ」
「僕パスポート持ってないんで帰ります」
「お待ちなさい。ちょっとした茶目っ気よ。本当は日本」
「よかったです」
僕と鹿倉さんは肩を並べて歩き出した。
普段面と向かって話しているからなんだか少し新鮮だ。
立って歩いていると鹿倉さんの背の高さがよく分かる。
「ところで、佐々木くん」
「はい」
「今日もあの子……蝶ヶ崎さんとは会ったのかしら?」
「ええ、まあ。よくわかりましたね。家を出て直ぐに、偶然会いました。そういえば、大学構内でも会いましたね」
「……そう」
鹿倉さんは顎に手を当てて何か考え始めた。様になっている。何処ぞの名探偵みたいだ。
やがて考えがまとまったのか、鹿倉さんが肩を開いた。
「あの子には気をつけなさい」
「なんでですか?」
「実はあの子は――アベンジャーズと敵対してるからよ」
「まじっすか。思ったより深刻な理由じゃないですか」
「そして実はこの私もアベンジャーズの一員よ」
「唐突過ぎる告白ですね。僕の周りほとんどマーベル関係者じゃないですか。というか鹿倉さん、どうやって戦うんですか。戦闘能力低いでしょう」
「毒舌よ」
「うわぁ……ヒーローとしてあり得ない戦い方ですね」
「敵の弱点を見つけたらここぞとばかりに攻めまくるわ。そして精神崩壊させるのよ」
「そんなの映画館で観たら子供が泣いちゃいますよ」
「いいえ、むしろこれ以上ないくらい喜ぶわ。私主演の映画は基本ハッピーエンドだもの。こほん――鹿倉みゆきの活躍により世界中から戦争や貧困がなくなり、地球には未来永劫まで続く平和と愛が訪れたのでした……みたいな感じよね」
「ハッピーエンド過ぎるでしょう。毒舌で何を倒したんですか」
「それは映画を観てのお楽しみよ」
「楽しみ過ぎます」
かつてここまで気になる予告をされた映画はなかった。
「ところで、佐々木くん。つまらない話をしてもいいかしら?」
「ハードルを下げるようで上げてるフリですね。いいですよ。お付き合いします」
「あれはそう、つい三日前のことだったかしら。ふとスイーツが食べたくなってコンビニに行ったのよ」
「まあ、よくありそうなことですね」
「それでコンビニに行って、シュークリームを買ったの」
「なるほど」
「……」
「……」
「えっ、終わりですか?」
「ええ、終わりよ」
終わりだった。
「もっとなんかこう、ないんですか。シュークリームを落としちゃったとか、フォークが付いてなかったとか」
「ないわ」
「なかった」
なかった。
「ああ、でも。それなら一つ補足があるわ」
「なんですか?」
「美味しかったわ」
「シンプルな感想ありがとうございます」
「クリームが口の中でぐちゅぐちゅして、甘くて、上のビスケットみたいなアレがなんかこう……いい感じだったわ」
「食レポ下手過ぎません? 一切食欲が引き立てられないのですが」
「佐々木くんには性欲しかないものね。やめなさい、佐々木くん! これ以上性欲を増すと、人の形に戻れなくなるわよ! って感じよね」
「せめて、人間らしく」
「その返しは一部のディープなエヴァヲタクにしか伝わらないわよ」
「鹿倉さんには伝わってるじゃないですか」
「当然よ。私はネルフ関係者だもの」
「アベンジャーズな上にネルフ関係者って、凄い頻度で世界救ってますね」
「まあ、バイトなのだけれど」
「バイトなんですか」
「登録しててよかったバイトル」
「バイトルなんですか」
「ちなみに時給は956円」
「世界救ってるのに第三新東京の最低賃金なんですね」
「三ヶ月働けば1000円に上がるわ」
「まさかの居酒屋システム」
「まかないつきよ」
「本格的に居酒屋じゃないですか」
会話もそこそこに、鹿倉さんが足を止めた。
どうやら目的地に着いたようだ。
「着いたわ」
目の前にあるのは『あかたん』という名前のスーパーだ。
ここは僕もたまに使っている。
郊外にある普通のスーパーなのに、何故かあり得ないほど品揃えがいい。イルカの肉とかイノシシ肉とか普通に売ってる。謎だ。
「さて、ご来店しましょうか」
「なんで店員さん目線なんですか。で、なんのお買い物を?」
「かくかくしかじか」
「それで伝わるのは藤尾・F・不二子の世界線のキャラクターだけです」
「仕方ないわね。説明してあげるわ」
「仕方なくはないと思います」
「あれはそう、昨日の話よ。過去回想スタート」
「過去回想スタートって言われましても」
「まさか佐々木くんの脳にはダビング・再生機能が付いていないの?」
「残念ながら」
「そう。地デジくらいは対応していてね」
「すいません。ちょっと確認なんですけど、僕をテレビだと思ってはないですよね?」
「まさか。ササキジョンくんは人間よね」
「ちょっとテレビジョンに寄ってるじゃないですか」
「それで、そろそろ話を戻してもいいかしら」
「なんで僕がわがままを言ってるみたいになってるのかは分かりませんが、どうぞ」
買い物かごを取りながら、僕は促した。
「昨日、テレビを観ていたのよ。内容はいわゆる旅番組ね。途中から観たから詳しくは分からないのだけれど、多分東北地方を旅していたと思うわ」
「まあよくありそうな感じですね」
「寒そうにしながら駅近くを歩いていたのよ。そこでたまたま見つけたお店に入ってお鍋を頂いていたの。それがたまらなく美味しそうで……困ったわ」
「まあ一人暮らしだと、鍋なんてそうそう食べれませんよね」
「そうなのよ。かといってお店で食べるのは少し値が張るじゃない」
「コンビニとかにも一応、アルミの鍋に入ってるインスタントのやつとかありますけどね。でもなんか違うんですよね、あれ。なんならもっと寂しい気持ちになるまであります」
「だから買っちゃいました、鍋」
「まじですか」
「まじよ」
「というわけで、今日は鍋を食べましょう」
「うわーい」
これはちょっと本気で嬉しかった。
普段インスタント食品ばかり食べている僕だけど、美味しい物は嫌いじゃない。というか大好きだ。
「先ずは方向性を決めましょうか。塩鍋、みぞれ鍋、豆乳鍋、ミルフィーユ鍋……変わりどころではトマト鍋やカレー鍋なんかもあるかしら」
「今日は最初ですし、とりあえずオーソドックスにしましょうよ」
「じゃあトマト鍋ね」
「オーソドックス!」
「塩鍋にしましょうか。
じゃあとりあえず、カレー粉を探しましょう」
「塩鍋!」
「手軽に作れる塩鍋の素を買うわね。
お肉は焼肉用ラム肉にしましょうか」
「味付き!」
「無難に豚肉か鶏肉にするわね」
「二つ入れると味が濁りますから、片方にしましょう」
「今日は鳥にしましょうか。こけっこっこーよ」
「なんで鳴き声に直したのかは分からないですが、そうしますか」
「後は周りながら、各自好きな具を選びましょう」
「了解です」
「私はシナモンが苦手だから出来れば外してほしいわね」
「僕はシナモンがそこそこ好きですが、鍋に入れられたらキレると思います」
白菜、ネギ、豆腐。基本的にはオーソドックスな具材だけを選んでカゴに入れた。流石の鹿倉さんも口では「カレー粉、カレー粉を入れる。カレー粉を入れさせなさい。殴るわよ?」とか言ってるけれど、買いもしない商品を手に取るようなことはしなかった。常識はわきまえてる人だ。僕のバイト先のクソッタレ後輩の猪又とは違う。あいつと前に買い物に行ったとき、僕は紛争地帯で路上ライブする方がまだマシだと思った。
「あっ……」
「どうしたんですか?」
「い、いいえ。なんでもないわ。なんでも……」
買い物をしてる途中、鹿倉さんは急に無口になった。
お喋りがしなくなくなった、という様子ではない。どちらかというと何かに気がついて、それが気になりすぎて落ち着かないという風だ。
僕はそれを問い詰める様なことはしなかった。鹿倉さんが言いたくないなら、言わなくていいと思ったからだ。
しかし鹿倉さんはやがて、意を決したように口を開いた。
「私はデートということをしたことがないのだけれど、一般的には話題のカフェに行ったり雑誌で紹介された有名なデートスポットに行ったりするそうね」
「そうみたいですね。僕はまあ、人混みが苦手なので行きたいとは思いませんが」
「でも私はこう思うの。そんなとこに行くよりも、二人でスーパーに行って買い物をする方が親密なのではないか、と」
「確かにそうかもしれませんね」
「この後私達は買い物を済ませた後、どちらかの家に行って二人でお料理をして二人で食べることになるでしょう。それはとても……そうね、こんな時なんて言えばいいか分かる?」
僕は首を横に振った。
恥ずかしさ三割、本当に分からないのが七割だ。
「私達、夫婦だと思われてるかもしれないわね」
少しだけ恥ずかしそうにしながら鹿倉さんはそう言った。
残念ながら、俯いてるせいでどんな表情をしているかは分からなかった。もっとも僕の方も、そんな余裕は少しもなかったけど。
僕はひとつ、あることを思い出していた。
それはなんの変哲も無いテレビの番組表だ。僕の記憶が正しいとすれば昨日に旅番組なんてやっていない。もちろん鹿倉さんがケーブルテレビを契約している可能性もあるけど。
もしかしたらキッカケなんか本当はなくて、ただ僕と一緒にご飯が食べたいと思ってくれたのかもしれない。それはとてもありがたいことだ。
その後僕たちは買い物を済ませて、二人でお鍋を作って、二人で食べた。
語る必要がないくらい何の変哲もない食事だった。
何の変哲もないことが僕らの仲の良さの証明だ。
これからももしかすると、二人で料理をする機会が増えるかもしれない。
だから、そう。
僕の隣人のお姉さんは肉じゃがを持ってこない。
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