いつか還るべき場所へ (あんずせんぱい)
しおりを挟む

Prologue 【Insel Null】

青い世界の只中に、俺、比企谷八幡はいた。

見渡す限り一面の海原。

12月の低い太陽が、きらきらとはねている。

頭上には、高く澄み切った青空。まだ生まれたばかりの空は、今にもこぼれ落ちそうな程に瑞々しく艶めいていた。

瞳に映ったものは、それだけだった。

遥か彼方に真っ直ぐ伸びた水平線が、海と空を分けていた。

 

「……寒いな」

 

ぽつりと呟く。

1羽のカモメが、緩やかな弧を描きながら風に流されて行く。

風は潮の匂いをはらんでさらさらとそよいでいた。

背後には、人々の喧騒。

子供たちの歓声、響き渡る笑い声は、12月の寒さを少しばかり和らげてくれるように感じる。

 

「昨日までの慌ただしい日々が嘘のようだな……」

 

まるで、夢の中にでもいるようだった。

 

 

× × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × × 

 

 

――千葉県館山市館山湾沖16Km。

洋上に浮かんだ人工島『インゼル・ヌル』は、まさに現実とはかけ離れた別天地を思わせた。

その様相は、ユートピア(楽園)という言葉さえ連想される。

実際、この浮島の船着場にある石碑には、このような文字が刻まれていた。

 

『天国はどこにある?』

『空の上と、あなたの足元に……』

 

俺は浮島の手すりを背もたれにするようにもたれかかり、横目で海中を眺めていた。

金属製の巨大な構造物が、青い視界の彼方にゆらゆらと揺らめいて見える。

 

ふとそちらに目を向けると、人々が列を成して前に進んでいくのが見えた。行く手には密閉式の巨大なゲートがあった。

音もなくゲートは開かれ、列をなしていた人々が次々とその中へと入る。

 

ようやく俺の番か……

 

俺はその後に続いた。LeMUへの一般客用入り口はそこにしかなかった。ゲートには数人の係員が待機していて、訪れる客へ小型のイヤホンのようなものを手渡している。この先では、このイヤホンを装着しなければならないらしい。

 

――なんでこんなことをするんだ……。

 

軽く訝しみながらも指示に従い、建物の内部に足を踏み入れた。

天井を見渡す。

窓がなかった。よく磨かれた丸い壁の様子から、この部屋が半球状のドームであることがわかる。

辺りを見渡す。

順番待ちをしていた多くの客が、この部屋へと入ってくる。

友達同士、恋人同士、家族連れの姿もある。

周囲には、見知った顔は見当たらない。

既に、奥の扉のエレベーターに乗り、階下に行ってしまったのだろう。

20分程前のことだが、入場待ちをしていた俺の目の前で、客が部屋の定員に達してしまったために、一緒に並んでいた雪ノ下や由比ヶ浜たちは先にこの部屋に入り、俺だけがひとり、次回に取り残されることになっていた。

 

大勢と行動していてなおぼっちになれる――こんな場所でも俺のぼっちスキルは発動するようだ……。

 

やがて、静かに入場ゲートが閉じられる。

係員と思わしき人が、壁面に据え付けられたパネルを操作すると、部屋が少し暗くなった。

 

「皆さん、どうもこんにちは!」

 

先ほどパネルの操作を行っていた係員とは別の係員の姿が闇の中に浮かぶ。

 

「こんにちわーっ!!!」

 

子どもたちを中心とした周囲の客が返答する。

 

「元気の良いお返事ありがとうございます。――それでは改めまして――この度は、海洋テーマパーク『LeMU』に御来場くださいまして、誠にありがとうございます。これから皆さんに、このテーマパーク『LeMU』の御説明と、少しだけ、注意事項をお知らせいたします。

まず、この部屋についてですが……ここは加圧室と申します。これから、この中の空気圧を6気圧まで加圧します」

 

加圧室ということは気圧を上げるということか……。理系の苦手な俺にとっては理由など皆目見当もつかないが――おそらくゲート入場時にもらったイヤホンも何か関係するんだろう。

 

「なぜ気圧を上げなければならないのか?理由は後で御説明するとして……その前に、ひとまず注意事項をお伝え致します。

これから気圧の上昇に伴い、皆さんは耳に違和感をお感じになると思います。高い山の上から降りてきたときと同じように、気圧が鼓膜を圧迫するからです。ですから、耳がちょっと変だなと思われたときは……指で鼻をつまみ、口をしっかりと閉じて、耳抜きをするようにして下さい。

それでも耳が治らない場合や、体調が悪くなってしまった場合には、手を挙げて知らせてくださいね。そのときには、すぐに加圧を停止します」

 

――ちょっと待て……耳抜きってどうやるんだっけ。

 

動揺を隠しつつ周りを見回し、耳抜きの仕方を真似ようとする。

 

「では、加圧を始めましょう。加圧時間は17分間です。その間に、皆さんにLeMUの構造について御説明いたします」

 

係員の人からの説明を要約すると次のようになる。

 

LeMUは水深17m~51mの海の中に浮かんでいる。

4つの層に分かれた構造をしていて、上から順に『インゼル・ヌル』『エルストボーデン』『ツヴァイトシュトック』『ドリットシュトック』と呼ばれている。(一般的に言われるグランドフロア~地下3階に相当する)

LeMUは飽和潜水仕様の設計――つまり、内部の気圧が、外の水圧と同等か、またはそれを上回るようになっている。これにより、水圧によって押しつぶされるということはない。

加圧室に入場する前に渡されたイヤホンは『音声変換器』と言い、ヘリウムガスの充満しているLeMUの中で正しく音声を聞き取るために必ずつけていないといけない。(外すとアヒルのような声に聞こえる)

 

――なるほど……。加圧室にいる理由やこのイヤホンの存在理由は理解できた。あとはこの施設LeMUの構造についてだが――一応あとで地図なんかで一通りの場所を確認しておこう……。

 

「さて、以上で説明を終了いたします。あと1分程で、この部屋の脇にあるドアが開きます。ドアの向こうはエレベーターになっていますので、下降すれば、その先には素晴らしい楽園が広がっています。それでは、海洋テーマパーク『LeMU』を、心ゆくまでお楽しみください」

 

ドアが開きエレベーターが現れる。するとドア付近にいた客から順に列をなしてエレベーターに向かっていく。

俺も周囲の動きに合わせてエレベーターへと向かう。エレベータに乗り込みドアが閉まると徐々に下降を始める。

ゆっくりと降りてゆくエレベーターの中で俺は今ここに至るまでの経緯を思い返した――。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Recall【彼らの行く末】

経緯を思い返すとは言うものの、何を起点とするかは非常に難しいことだと思う。

現在は過去の積み重ねであり、すべての事象に因果関係があるといっても過言ではないだろう。

 

それでも――俺にとっての経緯の起点は……終わらない日常を演じ続けたことだろう。

修学旅行で俺が行った偽告白――それによって生じた奉仕部内での軋轢――これこそが起点であり今現在、海洋テーマパーク『LeMU』にいることにつながっている。

 

一色いろはの依頼――海浜総合高校との合同クリスマスパーティ企画――俺個人での解決が限界と感じ、終わらない日常を壊す覚悟で雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣に依頼をした。

和解というにはほど遠いが……車輪のきしりも幾分かはましになったのではないかと思えた。

そして、雪ノ下、由比ヶ浜の助力をもってしても進まず、踊る会議に対抗するために俺たちは最終兵器でもある平塚先生に相談することとなった。

 

ことの顛末を説明し助言を仰ぐと、平塚先生はデスクの脇に置いてあった鞄から海洋テーマパーク『LeMU』のチケット4枚を俺たちに渡した。

 

「これをやるからクリスマスが何たるかを少し勉強してきたまえ。――参考になるだろう。それに……息抜きにもなる」

 

そう言って、俺たちに『LeMU』へ行くことを促してくれた。

クリスマスについての取材という建前のもと、息抜きを提案してくれた平塚先生――なぜ結婚できないのか……むしろ俺がもらっちゃうまであるぞ。

 

こうして館山という僻地に最近できた海洋テーマパーク『LeMU』に俺たち4人は行くことになった。

 

平塚先生から『LeMU』のチケットを貰った翌日の土曜日、俺は早朝から出かけていた。

件のLeMUの取材のため、集合場所である館山駅に向かうためだ。

俺の最寄駅から館山駅はスムーズに千葉駅で内房線に乗り換えられたとして2時間ほどかかる。

本当に同じ千葉であるかも怪しいほどだ。

目的地である館山駅で電車を降りて改札を出るとすでに雪ノ下と由比ヶ浜がいた。

他県からLeMUに来る人は電車ではなく直通バスで来るため、改札前は閑散としており彼女らを見つけることは容易だった。

あとは一色だけか――そう思い周りを見渡すと、駅のコンビニから複数人の男女が出てきた。

寝ぼけ眼でよくよく見てみるとそれは、一色を筆頭にして葉山、三浦、戸部、さらには海老名さんだった。

 

なんであいつらもいるんだ……。

 

予想外の光景に説明を求めて二人を見ると、雪ノ下の視線が由比ヶ浜の仕業であることを物語っていた。

 

その後由比ヶ浜の謝罪と弁解を聞き、俺たち総勢8人はLeMUへ向かっていった。

 

先頭を葉山、戸部、一色、三浦がグループとなって進んでいる。

館山に来るためかなり早めの起床となっているはずだが戸部は相も変わらず元気でやかましかった。

 

そのグループの半歩ほど後ろを海老名さんが見守るようにして付いていく。

そこから少し離れたところを、雪ノ下と由比ヶ浜が並んで歩いている。

俺はそれを二歩ほど後ろで見ている。

ずっと計りかねていた彼女たちとの距離感は、多分これでいつも通りだ。

 

そんなことを考えながら最後尾を歩いていた結果、浮島にて見事に定員オーバーとなり、単独行動を余儀なくされる結果となった。

海中テーマパークであるLeMUの中では通信機器等は圏外となるため、携帯電話での連絡も不可能だ。

そのため、再び彼女らと邂逅できるのはいつになるのやら……そんなことを思いながら浮島での待ち時間を過ごしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Prologue【予感と予兆】

浮島からゆっくりと下降していったエレベータは、その動きを止め音もなくドアを開けた。

エレベータ内で今か今かと待ちわびていた客たちが我先にと飛び出していく。

大衆に流されるなどぼっちとしてあるまじき行為だとかなんだとか益体もないことを考えていたが、人の勢いには逆らうこともできず、エレベータから降りることとなった。

 

「……ここがLeMUか」

 

ぐるりと周りを見渡し案内図に目を向ける。――どうやらここは『エルストボーデン』、つまり地下1階らしい。

 

先に行ったあいつらがこのフロアにいるとは限らない、なんなら別行動をしているまであるのではないか。

 

……まぁ、人が集まりそうなところに行けば誰かしらはいるか……。

 

俺はそう思い、人気アトラクションが多数ある下の階に向かうために先ほど降りたばかりのエレベータに乗り込んだ。

エレベータは音もなく到着し、客を飲み込む。そしてLeMUのさらなる体内へと降りていった。

あてどもなく歩く。

アトラクションはどこも盛況だった。

あちこちであがる歓声と皆の笑顔が、今のLeMUの人気の高さを窺わせる。

 

しまったな……人が集まるところにあいつらの誰かがいる可能性は高いが、見つける難易度まで高くなってやがる。

いっそのこともう探すのをやめるか……俺が一か所でとどまっていた方がむしろ見つけてもらえるまであるんじゃないだろうか。

よし――そうと決まれば休めそうなところに向かおう。俺は安息の地を求めて行動を開始した。

 

安息といえば横になること、そして横になるにはベッドが必要だ。休息をとることに定評のある俺の脳は仮病で救護室に向かうという選択肢を叩き出し、俺の体も特に反対することはなかった。

 

エレベーターホールを横切り救護室へと続く通路に足を向けたその時だった。

 

「あ、先輩じゃないですか――」

 

ここ最近になってやたらと聞きなれてしまったあざとさを孕んだ声が耳に届いた。声のした方に目をやると、そこには想像と違わない一色いろはの姿がそこにはあった。

すると、とてとてとあざとく近づいてくる。

 

はいはい、あざとい、あざとい。

 

「先輩、こんなとこでなにやってるんですかー」

 

「……お前らと違う時間帯に入場するはめになったから探してたんだよ。――あいつらと一緒か……?」

 

「はい、さっきまでずっと一緒にいましたよー、地下3階――ドリットシュトックでしたっけ――今はそこにいると思いますよー」

 

なるほど――。さすがの雪ノ下も由比ヶ浜がいる手前しっかりと集団行動を行っていたようだ。感心感心――ん……?

 

「……一色――お前は何でこのフロアにいるんだ?」

 

「実は――さっきまでこっちのフロアのアトラクションに乗っていたんですけど、そこに忘れ物をしちゃったんで取りに来てたんですよ」

 

てへっという擬音がぴったりくるような立ち振る舞いに尊敬を通り越して委縮しちゃいそう――。

 

「とりあえず――みんなと合流したいじゃないですかー?下のフロアに行きましょ」

 

「……おう」

 

あいつらと合流することは俺も同意見であったため、短く肯き、一色とともに下のフロアに行くエレベータに乗り込んだ。

 

浮島からエルストボーデンに下ってきたときとはうって変わって、エレベータの中は俺と一色だけだった。

 

「LeMUで貸し切りのエレベーターに乗れるなんてラッキーじゃないですかー?」

 

「――そうだな。ここまで人がいないのはむしろ気味の悪さを感じるまであるが……人に酔わずに済むからいいな」

 

「……ほんとにひねくれてますね――」

 

――ガンッ!

 

強烈な衝撃とともに、エレベーターが止まった。

俺と一色はほぼ同時に天井を見上げた。

照明は不安げに明滅を繰り返している。

 

「え、な、なにが起こったんですか!?」

 

「……わからんが――フラグを回収した感じはあるな」

 

「なんなんですか、それ――!?」

 

ウーウーとけたたましく聞こえてくるのサイレンが、現実であることを証明しているようだ。

たくさんの悲鳴。

駆け足の音。

けたたましく唸るサイレンの音。

それは、夢や幻ではなかった。

 

「……すまん――俺も余裕があるわけじゃないが――パニックには陥るなよ……」

 

照明は徐々に弱まっていき、やがて消えた。

 

「――せ、先輩!?」

 

「……落ち着け一色――俺はここにいる」

 

一色の手が俺の腕に触れる。その手は――微かに震えていた。俺自身も現状を受け入れられているわけではないが――隣にいる一色に対する庇護欲が俺を冷静にしてくれた。

 

どれくらの時間がたっただろうか。喧騒は止み、嘘のような静けさが訪れる。

一条の光さえ射さぬ暗闇。

ただ繰り返される吐息だけが聞こえる。

 

「……先輩――なんか……気持ち悪いです……」

 

一色がか細い声でそう訴える。

確かに――肺に膨張圧を感じる。

 

「――そうか……気圧が低下してるのか――一色、耳抜きをしろ」

 

「……は、はい」

 

口から少し息を吸い、擦った空気が口から漏れないように口を閉じる。そして鼻からも空気が漏れないように指でしっかりつまむ。

ポンと音を立てて、耳の内側に溜まっていた空気が抜けた。

 

――出口はどこだ……。

 

一色はそろそろ限界が近い。焦る気持ちからか――胸ポケットからスマホが滑り落ち落下した。

その落下の衝撃でスマホが点灯し、漆黒の空間に一抹の光が射した。

その光を頼りに手を伸ばすと、ノブのようなものをつかんだ感触があった。

そのままノブを回す――するとエレベータの扉はゆっくりと開いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。