奴隷蛮行――そのメイド、特殊につき。 (紙谷米英)
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奴隷蛮行【1-1】

【1】

 

 運に見放された輩というのは、いつの時代にも散見される。空港のトランジットで荷物を紛失される、海外出張中に母国でクーデターが勃興する、たまたま私用で訪れた大使館にテロリストの襲撃……。現世の薄幸は枚挙に暇がない。

 日差し柔らかな、昼飯時前のイングランド西部。ウェールズ国境に程近い内陸の州――ヘリフォード・シャーの寂れたガソリンスタンドに、薄汚れた黒のバンが駐まった。いびつなへこみをこさえた後部ドアがスライドし、二十代前半らしき男ふたりが降りる。片方がバンの埃を被った給油口を開き、スタンドに備え付けられたセルフ式の給油ノズルを握る。もう一方は、並みならぬ緊張の浮かぶ面持ちで、せせこましい売店へ足早に向かった。バンには三人の男が残り、落ち着きなく眼を泳がせている。如何にも自信なげで不審者然とした様子だが、ここで仮に警官の職務質問を受ければ、その理由もおのずと知れるだろう。

 男らは皆、とある陳腐でよこしまな目論見に衝き動かされていた。服装は一様に、擦り切れたジーンズを履き、上着はくたびれたフーディやデニムのジャケットである。平日昼間に定職にも就かず、じめじめと締まりのない面構えは、世間から落伍した若者像を体現していた。売店のガラス戸が開き、先のろくでなし一号がビニール袋を両手に現れる。男は往路と同様に小走りでバンへ戻ると、手にした袋を後部座席に放った。各々が袋へ我先にと群がり、調達されたの菓子やブリスターパックの惣菜を食い散らかし始める。車内のすえた体臭に、チョコレートと植物油のそれが添加される。働き詰めのエンジンが再始動し、そこに古い機械油と、手入れされていない空調の排気までもが加わった。きしむ車軸が悲鳴を上げ、バンはガソリンスタンドを後にした。

 陽の高いA49国道を北上する五人組は風体に違わず、ろくでなしの類であった。大学に行かず、幼少より軽犯罪を繰り返しては、幾度も留置所に叩き込まれてきた。先天的な遺伝子異常を除けば、こうした若者が増加する要因は、劣悪な家庭環境に帰すとする資料も少なくないが、その親も同様の家庭環境に身を置かれていたというのは、想像に難くない。極めて広範な目で見れば、悪童誕生のメカニズムは、親族間の連綿たる遺伝子の欠陥とも受け取れる。地上に生を受けた時点で、個人の生の設計図は、その大半が完成してしまっているのが現実である。であるが、望まずして被害者の認定を受けた彼らへ、労働者の憐憫が寄せられる道理もない。資本主義や共産主義、果ては破綻国家の第三世界といった不能の共同体でさえ、この理は適用される。学歴と資格のないまま劣等感にいじけて社会に自身をねじ込めなかった者の末路が、このスクラップ寸前のバンにたむろしていた。

 社会の爪弾き者の筆頭――助手席で腕を組む二六歳のジム・カヴィルは両の眼が異様に小さく、その頭に黒い巻き毛が不潔に絡み合っている。歯茎の痩せ衰えたすきっ歯は、噛み煙草で色素沈着を起こしていた。手指の爪は伸びっぱなしで、何本かが不揃いに欠けている。

 カヴィルは菓子の油に汚れた指でグローブボックスを開き、道路地図を取り出した。皺だらけの地図には赤い印が点々と記入されており、それが商業地区に集中している。カヴィルは道案内するでもなく、バンを運転する相棒――ジェイソン・マッキニーの膝へ地図を放り、頭上の日除けを下ろした。マッキニーは首領の横暴を、右の眉を僅かに下げるだけでいなし、肩の脂肪に食い込んだシートベルトの具合を直した。巡回警官の停止命令を警戒して、シートベルトを装着しているのは、この車内にマッキニーひとりだけだった。

 車内は張り詰めた空気が充満し、乱れた呼気と、後部座席の一人――ルーカス・ダウダルの、ガムを咀嚼する音が不快指数を跳ね上げていた。ねちっこい水音に第三のろくでなし――バーニー・スプリングが舌打ちを発すものの、音の主は我関せずとサイドウィンドウに頭を預けている。無言の抗議に、スプリングの貧乏揺すりが始まった。不快な音と震動、それらを生み出す二人に挟まれ、後部座席中央の最年少――バイロン・ラスキンは苦悶に眉間を歪めて爪を噛んだ。

 バンは淀んだワイ川を越え、窓外を流れる平坦な田園風景が、都会然となりきれない灰色の街並みへ変じてゆく。右手には、この近辺では数少ない観光資源、ヘリフォード大聖堂がちんまりと佇んでいる。不心得者の代表、カヴィルの苔色の瞳が、ダッシュボードのデジタル表示を睨んだ。時計のセグメント数字の真ん中で、コロンの点滅が規則正しく秒を刻む。間もなくAMの表示がPMに切り替わり、画面にゼロが三つ並ぶ。カヴィルの瞳に、貪欲な暗光が宿った。ここからの一時間が、彼らにとっての勝負時であった。



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奴隷蛮行【1-2】

 正午のイギリスはヘリフォード市街。英国らしからぬ、うららかな春の陽光の下を、日用品の買い出しへ赴く女性がまばらに歩む。大半はいわゆる主婦層であるが、彼女らと距離を取って日陰者に徹する存在があった。『それら』はみすぼらしい身なりもいれば、それなりのお仕着せを与えられた個体も確認される。世間一般が認知するところの、メイド装束も珍しくない。二一世紀にもなって時代錯誤も甚だしい、一種の忌むべき慣習が、イギリス連邦に残存していた。彼女らは単なる使用人ではない。施設を清掃し、雇用主の面倒を見、時として彼らの下卑た欲望を満たす為に操を穢される新芽たち。それこそが、現代イギリス連邦の暗部が一端――奴隷である。

 現代における奴隷は、その大半が奴隷を商品とする民間企業によって売買されている。奴隷企業は商品となる奴隷を、複数のルートから調達する。極貧家庭の親が口減らしに娘を売り飛ばす例は多く、また、生活苦から自身を企業に身請けさせるケースもある。地下で奴隷企業と繋がっている悪辣な孤児院や協会の存在も確認されており、奴隷関連の汚職や生臭坊主が新聞の一面を飾る事も珍しくない。こうした犯罪の温床と化した業界は、SNS上で誰が言い出したか、「女王のスラム街」などと蔑称されていた。

 如何なる形であれ、身を売られた奴隷は、それまでの経歴や個人情報を社会的に抹消される。履歴によっては、一般の斡旋企業を介して調理人や清掃員として派遣される事例もある。が、大概は全ての自由を剥奪された上で、型落ちした家電製品の如く買い叩かれて使い潰される。司法の監視をくぐり抜けて海を越えた奴隷は、今日も何処かの炭鉱で肺を患い、夜半に腹のせり出した館主の陵辱に瞳を曇らせる。欲望のある場所には、必ず奴隷が存在していた。

 ここ、ヘリフォードも例に漏れず、快い日差しを受ける奴隷らは暗い面持ちを隠せない。商業施設の窓を磨く少年が、磨き粉で荒れた手の痛みに顔を歪める。一ペニーの駄賃もなしに家を出された少女は、ぼろ切れ同然のお仕着せを補修する端切れさえも買えない。灰色の街に、灰色の労働力が行き場なく漂っていた。

 そんな奴隷の中に、一際異彩を放つ存在があった。横断歩道で歩行者信号の切り替わりを待つ集団に混じる彼女は、あらゆる面で他の奴隷、ひいては女性と異なっていた。信号を無視して車道へ駆け出す人々なぞ何処吹く風、律儀に青信号の点灯を待機した彼女は、毅然とした足取りで革ブーツの踵を響かせ、二階建ての大手商業施設〈マークス&スペンサー〉の自動ドアをくぐる。必需品を記したメモを手にする少女は、実用性を重視したブラウンのメイド服に身を包み、くすんだブロンドの頭上に飾り気ないホワイトブリム(メイド用のカチューシャ)のレースが揺れる。身の丈は高からず、背中でよじれなく交差するシルクのエプロンと、それに劣らず無垢な肌が眩しい。着衣の上からでも窺える、すっきりした身体のラインは老舗の工芸品と見紛うばかりだ。美醜に五月蝿い自称英国紳士が、雁首(がんくび)を揃えて情欲を催す美貌が、さも当然と備わっている。何処か眠たげな碧眼は何の考えに耽っているのか、見る者を妖しげな印象で惑わせる。少々のあどけなさが残る化粧っ気ない面持ちも、果たしてそれが本性かも定かでない。

 欲求不満を隠せない主婦、勤労意欲の片鱗もない移民の店員、不景気な面持ちの奴隷で満ちた店内一階を、そのメイドはのどかな微笑みで悠々歩み、店に備え付けの樹脂籠を脇に抱えた。指先につまんだメモに従い、機械的に目当ての商品を籠へと収めていく。頻繁にこの店を利用しているらしく、経路の選択にも迷いがない。ショッピングカートも使わず、商品の溢れる籠を苦ともしない辺り、些か人間離れした気味悪ささえあった。線が細いくせして自信に満ち、それを裏打ちする実力が、瞳の奥底に覗き見える。気が抜けている様で、他に抜きん出て垢抜けた狡猾な演技派。はばかりなく言ってしまえば、同性から倦厭されるきらいがあった。極めて打算的な印象を、他者に抱かせるこの娘。その名を、ブリジットという。



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奴隷蛮行【1-3】

 ものの数分でメモの品目の大半を揃えたブリジットは、最後に酒類の棚へ向かった。抱える籠は、ジャガイモを始めとする農作物、肉、牛乳といった食材で満たされている。その上には、体格ばかり立派でいたずらに気を揉みがちな雇い主を慮り、大量のチョコレートが積み重なる。

 目的の陳列棚に到達すると、ブリジットは手始めに黒塗りの〈ベイリーズ〉の壜を取り上げた。続いてカクテル作りに定番の〈アンゴスチュラ・ビターズ〉の小壜を薬指で絡め取り、その手で自分のお気に入り――悪女の唇と見紛う紅が扇情的な〈ピムス〉をさらう。リキュール(混成酒)の補給を終えた時点で、買い物籠の重量は十五キロに迫ったが、ブリジットはよろめく素振りもなく、ウィスキーの陳列棚へとスカートの裾を翻した。

 木目プリントのシートを敷かれた什器には、多様な色形のボトルが店内照明に輝いていた。ブリジットは指差しを伴って、什器の最上段からウィスキーの品定めに掛かる。十八年ものの〈タリスカー〉や〈マッカラン〉といった高級品は、本日の補給リストに列席されていない。彼女の要求はもっと庶民価格で、角張った壜を採用している。一つ下の段では桁数が落ち着くものの、いささかブルジョア感が抜けきらず、凄まじく癖の強い〈ラフロイグ〉を私費で購入する程、彼女の主人は酔狂でもなかった。更に下の三段目に至ると、ようやくで日頃嗜むのに躊躇わない面々が並ぶ。ブリジットは穏やかな鼻歌を発し、飴色の液体に満たされた容器群を検めた。右端の値札から順に、視線と人差し指が楽しげなステップを踏む。この三段目にこそ、彼女の主人のお気に入りが陳列されているのだ。

 ――あの人はね、〈ボウモア〉じゃないの、ごめんなさい。お隣の、〈デュワーズ〉さんも、お呼びでない。〈シーバス・リーガル〉違うちがう。〈ジョニー・ウォーカー〉無難すぎ。良い線いってる〈バランタイン〉。でもでもやっぱり、あの人は――

 即興の小恥ずかしい歌詞を乗せた『英国擲弾兵(ブリティッシュ・グレナディアーズ)』の鼻歌が、はたと止んだ。流麗な指遣いが凍り付き、碧眼を縁取る長い睫毛が伏せられる。彼女の指差す先には、およそ壜一本分の隙間が棚の奥まで続いていた。愛らしい使用人の目尻から、微笑みが失せる。ブリジットは鼻歌と指差しを仕切り直し、三段目の残りと更に下の段までを(ねぶ)る様に走査した。

 ――いいえ、よくある間違い、きっとそう。だって、〈ジェムソン〉あるじゃない。〈パワーズ〉、〈キルベガン〉、〈タラモア・デュー〉。待って、誰かを忘れてる。ほらほら、そこにはアイルランドの――

 震える指が行き着いた先、最下段の左端に居座っていたのは、家計に優しい〈カナディアン・クラブ〉であった。硬直するブリジットを余所に、昼休み中の建築作業着の男が、脇からひょいとその壜を取り上げる。それからブリジットの容姿を二度見し、名残惜しげに会計の列へ消えていった。当のブリジットは、他人の当て所ない劣情になど構っている場合ではなかった。その心は目下、奈落の底に落ちてゆきつつあったのだ。



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奴隷蛮行【1-4】

 メイドの桜色の唇は固く結ばれ、その美貌から一切の感情が失せていた。再度、陳列品を瞬きも忘れて精査するものの、むべなるかな、そこに彼女の求むボトルは存在しなかった。

 琥珀色の蒸留酒、ウィスキーはその産地で五種に大別される。軽い口当たりのカナディアン。緻密な風味のジャパニーズ。移民が新天地に確立したアメリカン。スモーキーな最大派閥のスコッチ。そして、ウィスキー発祥の地が誇るアイリッシュ。このアイリッシュ・ウィスキーのブランドが一つ、〈ブッシュミルズ〉の『ブラックブッシュ』こそが、ブリジットの主人のお気に入りであった。

 ブリジットは佇まいを正すと、店員に在庫を尋ねようと周囲を見回した。ひょっとすると、切らしているのは店頭在庫だけやもしれない。倉庫の備蓄を一縷の望みに、背後で割り材の補充に勤しむ店員へ声を掛けようとした。が、その背中へ声帯を震わせる寸前、ブリジットは考えを改めた。そして初めからそうする予定であった様に、ごく自然な所作で酒類の棚を後にした。先の店員を、ブリジットは一瞥だけで評価・分析していた。四十を半ば過ぎた女の左手に指輪はなく、曲がった背中には哀愁より意地の悪さが現れていた。肥えた上半身は胸と腹の境目をなくし、ただただでかい臀部がジーンズの生地を虐めている。その内面は容貌へ具に現れており、引きつった表情筋に他人を慮る余地はない。美醜でいえば明白に醜い容姿を、ジェルネイルや雑多な宝飾品で悪目立ちさせている。ブリジットの主人をして「頭お姫様勘違い売れ残りおばさん」と評されるこの手合いは、心の奥底では自身の見てくれが秀でていない現実を自覚している。彼女らは余りに必然な事実を認め難い為に、僅かでも容姿の優れた他者を妬み、嫉み、そして排斥に躍起になる。馬鹿げていると一蹴する前に、ほんの少し思い返してみよう。多くのヒトの雄が、成人後も男根で物事を考える悪癖を断てない様に、彼女らも女性ホルモンに脳が踊らされているだけの雌なのだと。そこに奴隷という階級が添加されれば、彼我の優劣をかざして悪意をぶつけられるのは必死である。英国の霊長類社会は、かくも無益と不都合に満ちていた。

 無用の敵意を回避してから一分で、ブリジットは目的に適った女性店員を発見した。長身で、栗色の髪をポニーテイルにまとめた二十代前半。ブルージーンズの尻がぷりぷり艶めかしい、男好きのする容姿である。

「失礼致します。ウィスキーの在庫は、出ている限りでしょうか?」

 腰低く切り出された声に店員は営業スマイルで振り返り、そして呆気にとられた。問い掛けてきた奴隷はあたかもフランス人形の様で、落ち着きある声音は厳かでありながら、快い親しみが滲んでいる。襟に控えめなジャボット(三角形の布飾り)を着けている点から、淑女教育に励む令嬢とさえ見紛い、高貴たる威厳に気圧された。「わ、可愛い!」。空白の一秒間から我に返ると、店員は申し訳なさげに眉を下げた。

「ええ、そうなの、ごめんなさいね。明日には補充されると思うんだけど……」

 店員はもう一度謝罪の言葉を重ね、ブリジットは手間を取らせた謝意を述べてその場を去った。背中に掛けられた、店員の「頑張ってね」の声に、メイドは微笑み手を振る。だが店員の視界から外れると、その面持ちは急転した。蒼い瞳孔は強か収縮し、ガラス玉の如く、がらんどうに覇気を欠く。傍目には知れないが、彼女の背中を一筋の滴が伝った。

 ブリジットがこうまで狼狽するのには、確固たる理由があった。英国の常識的に、奴隷の待遇は悲惨を極める。雇用形態は文字通りの全権を握る主人に委ねられており、難民以下の暮らしを強いられる者もざらである。奴隷を端から消耗品と捉える事業主も多く、肉体的な懲罰行為が一線を越えて殺人へ発展する例は、銀河系の数だけある。この場合は通常の殺人罪ではなく、英国の資産に対する器物損壊、及び奴隷販売企業への弁済金といった罪状が適用される。悪辣な主人に手綱を握られた奴隷に、その機嫌を損ねるタブーは許されない。

 というのが、現代英国の常識である。であるのだが、目下のブリジットの焦燥は、雇用主からの懲罰に帰依するものではなかった。確かに、彼女の主人には世の一般男性より拘りの強いきらいがある。ジーンズを窮屈と言って絶対に履かず、高慢ちきに聞こえるロンドン訛りを嫌って、アメリカ英語に近い発音を好む。そのくせ、余りにストレートな物言いは下品と、曖昧模糊なやり取りで他者をしばしば混乱させる。執着は酒類にも及んでおり、マティーニにオリーブの実を沈めず、使用するジンは〈ボンベイ・サファイア〉と規定している。平時に飲むウィスキーは前述のブラックブッシュであり、地下蔵の奥に仕舞い込んだ〈レッドブレスト〉の十二年は、特別な機会にのみ自身に開栓を許す徹底振りときている。とはいえ、この男とて一日くらい好きな酒がないだけで拗ねる器ではない。軍人という職業柄、手の内のカードで事を済ませる習慣も染み付いており、自意識とは反する柔軟性も兼ね備えている。かてて加えて、彼の者は夕餉の酒などなくとも、愛しい伴侶との睦言で十二分に至福を噛み締めるのだ。些事に他人を巻き込んで激昂するのは、股間だけが肥大した幼子に他ならない。

 ――にもかかわらず、それを良しとしないのが、航空会社の重量規定より厳格と定評ある家事使用人、ブリジットの矜持である。「それでも私はメイドさん。一点の妥協の余地もあってはいけないの」。彼女の内には天使も悪魔も存在しない。そこには唯一、無欠を信条とするメイドが控えるばかりである。

 



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奴隷蛮行【1-5】

 山盛りの必需品で膨れたトートバッグを両肩に提げ、ブリジットはマークス&スペンサーを後にした。降り注ぐ陽光が方々の窓ガラスに反射しており、昼の折り返しを告げている。奴隷でごった返していた街路は、今は幼稚園児を連れた母親らに占拠されている。狭隘な歩道を、中背の母親と五歳くらいの男児が横並びに歩いていた。にわかに男の子が掛けだし、母親から十メートル離れたところで立ち止まる。子供が無邪気に振り返ると、母親はちゃんとそこで我が子を見守っている。「ちゃんと前を見なさい」。特筆に値しない、市井の一幕。誰の記憶にも残らないその光景を、ブリジットだけは心のスクラップ帳に貼り付けていた。

 ヒトのDNA構造を解明するまでもなく、子供の可愛い盛りと恭順性は共生し得ない。赤子が持つ原石の純粋さは美しい。だが同時に、穢れなき無知は己の破滅をも容易に招く。赤子はこの世に生を受けた時、母親の羊水の加護を失ったその時から、真っ白な存在ではいられなくなる。透き通った心は自らの生存本能と好奇心に弄くられ、無垢な輝きを失う。あたかもそれが人間へ至る通過儀礼である様に、無条件に受け入れるべき行いである様に、社会は「成長」「進化」の一単語で賞美する。子供という未知のハードウェアへ思慮なく突っ込んだアップデートが、いつか種にとって致命的なエラーを引き起こすとも疑わず。かくして、特定の世代を蝕むシステム障害が頻発する。国家は民への損害補償も有耶無耶に、エラーは社会の外から持ち込まれたウィルスに起因しており、ウィルスの感染源は各自の家庭環境にあると、トカゲの尻尾を切り続ける。もう胴体すら残っていないというのに。

 理想の未来をあつらえてやれなかったと悔い、母親は切に願う。もし許されるなら、我が子には何者の束縛もない自然の中で泥まみれになってほしい。幼い内にしか触れ得ぬ、生の感動に身を委ねてほしい。どうか、この子が最期まで健やかであります様に、と。創造主がヒトに与えたもうた時間は、ほんの一瞬でしかない。今日、親が当然に持つ最たる願望は、ヒトの皮を被った狂犬に食い散らかされている。純粋な赤子は外界の澱《よど》んだ悪意に染まり、霊長類の頂から四つ足の獣へ堕落する。母親は下賤な穢れを最小限に留めんと、不本意ながら我が子を透明なリードに繋ぐ。親心を解さぬ子供の糾弾を堪え忍び、尚も自らの辛苦を悟らせまいと神経をすり減らす。それこそ、ひとえに無償の愛のみが為せる業である。

 束の間、ブリジットは件の母子を物思いに眺め、自身の下腹部に触れた。その唇は固く結ばれ、睫毛が伏せられる。齢十九のブリジットには、月経がない。かつては規則的な周期が訪れていたが、十五歳で身を売られた心的外傷が原因で彼女は一切の記憶を失い、子宮の活動が停止した。自分を災厄へ陥れた仇も知れず、強制労働と恥辱に三年間の女盛りをむしり取られたのだ。『揺り籠から墓場まで』と、労働党が社会福祉の充実を謳ったイギリスはその実、少女から市民の階級のみならず、女性さえも奪掠していた。

 大人が大人気(おとなげ)を亡くした現代、こうした少年少女は英連邦全土に溢れていた。真っ当な親の庇護なく、商品として値札を貼られた奴隷が犯罪に手を染める事例は後を絶たない。そも、奴隷事業そのものに違法が横行しているのだから、この傾向は自明であろう。彼らは童心に吸収した術を、満を持して行使しているに過ぎない。アメリカの大半の州と異なり、英国の法執行機関は自国民へ容易に銃を抜かない。だが、社会の害虫と見なされた奴隷にに対する引き鉄は極めて軽い。

 ブリジットが目蓋を開くと、もう母子は歩道からいなくなっていた。小さな吐息を漏らすと、メイドは荷を持ち直して歩き出す。人の生には、ままならない事も多い。それが、世間に奴隷の烙印を押されていては尚更である。少しばかり冷えた彼女の心に、春の陽気が差し込む。母親となる未来が絶望的なのは変えられない。だが今のブリジットには、そこらのくそ餓鬼よっか扱いに手を焼く主人に仕える責務があった。庶民的な妻としての幸福は得られずとも、彼女はそれ以上の体験を前向きに見出している。気落ちした面構えを拭い、メイドは人気(ひとけ)のない住宅街を進んだ。全ては、主人にとって完璧な使用人であるが為に。



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奴隷蛮行【2-1】

【2】

 

 一二三五時のヘリフォードを、一陣の突風が吹き抜ける。突如、市街上空に木星じみた積乱雲が発生していた。それは周囲の水分を奔放に吸収し、終末を予期させる影を地上に落としていた。降り注ぐ陽光は分厚い迎撃網に阻まれ、天使の梯子さえ垣間見えない。街を彩る春模様に、終止符が打たれた。

 水蒸気の天幕が天候の主導を握って間もなく、下剤を投与された胃腸の如き唸りが、ブリテン島に響き渡る。雷鳴に貴重な洗濯日和の死を察した主婦が、方々で洗濯物の取り込みに躍起になった。軍人街の妻たちは、子供と自分の下着を最優先で保護すると、まだ空模様に気付かぬ近隣住民へ警報を発して回った。呑気に庭で寝転ぶ飼い犬を屋根の下に匿い、花木のプランターを風除けで覆った。木々からけたたましく鳥の群れが飛び立ち、野良猫が路地裏へと駆けてゆく。一転してゴーストタウンと変じた住宅街を、黒のフォード・トランジットが道に迷った様に右往左往していた。

 型落ちしたトランジットはシャシーにガタが来ており、ステアリング操作ひとつで金属摩擦に喘いだ。劣化したタイヤはグリップが利かず、角を曲がる度に尻が激しく振れる。尻が大変なのは、車内でも同様であった。ろくでなしの首謀、バンの助手席に座すジム・カヴィルは物理的な据わりの悪さから、運転手のジェイソン・マッキニーを睨んだ。その実、マッキニーはおんぼろ車輌が残す最大性能を引き出していので、むしろ勲章に値する働きを見せていたのに。

「こいつは好都合だな」

 とうに味のなくなったガムを悠々と咀嚼しながら、ルーカス・ダウダルは後部座席から陰気な無人街を眺めていた。

「なあにが好都合なもんか。最悪だぜ」

 対するバーニー・スプリングが、頬のにきびを潰して悪態をつく。ダウダルとスプリングの間に押し込まれたバイロン・ラスキンは黙りこくり、心身共に縮こまっていた。後席の三人に比べれば、前席の二人の尻はずっと健康であった。ヘリフォード市街に入るまで、後席の三人は座席の庇護にあやかっていた。その座席は今や取り払われており、三人の尻は鋼が剥き出しの床に直に触れていた。タイヤが小石を踏み付けると、衝撃が三人の臀部を痛撃した。小柄で肉付きの悪いラスキンは、年増車輌との延々たる騎乗位で神経が摩耗していた。彼らの防護をになっていた後部座席は丸ごと外されて、後部荷室の角へ転がされていた。一人の、奴隷の少女と一緒に。

 スプリングはにきびの汁を拭うついでに、奴隷の肩を小突いた。少女は鞭で打たれた様に身をすくませると、激流に打ち上げられた川魚の如く身悶えた。頭に目の粗い麻袋が被せられており、ブロンドの髪の先端が覗いている。手足を後ろに拘束されており、白い肌に麻縄が深く噛み付いていた。ブラウンを基調とした上質なお仕着せから、傍目にも少女が高級性奴隷であると窺えた。

「こいつは確かに売り物になる。だけど、たったの一人じゃ割に合わねえだろ」

 スプリングの苦言に、ルームミラーを介したマッキニーが加担する。

「少なくとも、俺らの人数と同じだけは攫わないとな」

 マッキニーの発した動詞に、少女が取り乱して喘ぎ、トランジットのリアゲートを蹴り始める。スプリングが暴れる奴隷を引き寄せると、麻袋の側頭部の辺りを拳で打ち据えた。少女は殴り飛ばされても尚、気丈に身をくねらせ、不自由な口で罵りを結ぼうとした。

 パネルバンを駆る、社会の落伍者が五人。まともな手段で食い扶持を稼ぐ当然に迎合出来ず、多数派から爪弾かれた無知な愚者。同種と利害観の一致した彼らが行き着き、即席で実行に移した暗い思惑……それが高級奴隷の誘拐、及び密売であった。奴隷を人質に、その雇用主から身代金を取るのは、警察の捜査が介入するリスクが高い。仕入れた商品を早々に換金する方が、ずっと足が着きづらい。裏社会の業者との取引で利益が減じるとしても、五人が五年働くよりずっと高額の現金が転がり込むだろう。ともかく、五人を統率するカヴィル当人は、それが最善と信じていた。

「あんまり商品に傷を付けるな。そいつには高値が付く」

 頭目カヴィルの無感な口振りに、スプリングが歯を剥いた。

「ご高説どうも。じゃあ教えてくれよ、このくそ天気でどうしろって? 奴隷どころか女ひとり、何処にも残っちゃいねえ! みーんな屋根の下だからな!」

 スプリングは大仰な手振りがラスキンのこめかみを小突いた事への謝罪もなしに、そのまま助手席のヘッドレストに腕を回した。

「なあカヴィルさんや、教えてくれよ。あんたの賢い計画とやらをさあ?」

 助手席が前後に揺さぶられると、座面の基部が厭な軋みを上げた。カヴィルは舌打ちすると、マッキニーの股間に投げやった地図で、現在地を探った。数十秒に渡り、カヴィルは湿気と手油でよれた紙面を相手に格闘した。その間、マッキニーはハンドルを小刻みに切り続け、なるべく一度も通っていない道を選んで、首領の決断までの時間稼ぎに勤しんだ。背後のチンパンジーが凝視する中、カヴィルは呼吸を荒げて、脂ぎった巻き毛を掻きむしった。やがて汗が鼻の頭を濡らし、手油でよれよれの地図をふやかす。その一滴が、隘路で入り組んだ区画に着弾した。カヴィルは袖で額を拭い、抜け毛の絡む指で塩気たっぷりの着弾座標を示した。

「この辺りで網を張る」

「奴隷がいる根拠は?」

 チンパンジーが、椅子をぎいぎい鳴らすのを止めた。

「……ここは私道が多い。資産家も多い筈だ」

 焼き切れたニューロンの出任せでしかなかったが、それを聞いたスプリングは座席から手を放した。カヴィルはストレスを含んだ二酸化炭素を排出し、地図を隣の膝に放り戻した。剣呑で臭い空気に、マッキニーは閉口したが、爪で跡を付けられた区画へとハンドルを切った。そこに、高級住宅街などありはしないと確信しながら。



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奴隷蛮行【2-2】

 ヘリフォードの街外れ、寂れた住宅地から更に隔絶された一角にその物体、もとい平屋は佇んでいる。『サヴェジ日用品店』は、一辺が約二十メートルの正方形に近い敷地面積を有する、灰色のプレハブ建築である。屋上の貯水タンクは元の色が窺えぬまでに腐食しており、廃墟然とした概観が市民の不安を煽る。商業施設を名乗るには汚れすぎた壁が三辺を構成し、窓は殆どない。正面出入口のある一辺はガラス張りであるものの、方角は北向きで、表面は鳥の糞便と羽虫の死骸に塗り潰されている。加えて、隣接する建造物群が元より少ない日照を阻害しており、建材の樹冠が文字通りのコンクリートジャングルを形成していた。

 店内は外見以上に陰気が籠もり、蛍光灯の半数が黄ばんで明滅している。出入口の脇に立つアルバニア人の用心棒はハーフパンツ姿で、警備企業の社員証さえ下げてはいない。リノリウムのタイル床が欠け、商品を陳列する什器の並びは勿論、渡された棚板まで全てが傾き歪んでいる。棚卸はおろか在庫調査さえ疎かな商品が厚く埃を被り、三号前の〈サン〉誌がヌード見開きを破り去られて放置されていた。とどめとばかりに、メーカー不詳のコンドームや「おとなのおもちゃ」が、子供の目線の高さで悪趣味な乱痴気騒ぎを繰り広げていた。この汚濁の数少ない強みといえば、商品価格の異様な安さと、廃番商品がいつまでも取り残されている点くらいである。

 客層には不登校の学生や筋金入りのホームレス、消耗して瞳の濁った奴隷と、内装に見合った不景気が主要素を占めている。内壁に丸いものが点々と見られるのは、打ちっ放しのコンクリートだからではない。未だ完成を見ないこの芸術は、客が噛み捨てたガムでしつらえたのだ。こんな荒廃振りにもかかわらず、店に閉店の兆しは皆無であった。

 給料日前の労働者さえ利用を躊躇うサヴェジ日用品店の経営は、カビによる肺炎のリスクを冒してでも訪れる常連に維持されていた。厚化粧が崩れた起き抜けの娼婦。髪を掻きむしって舌打ちするビジネススーツの男性。パーカーのフードを目深に、呼吸浅く周囲へ警戒を向ける女――。彼らは出入口の対角線上、店舗の最奥に設置されたレジカウンターに列を成し、三々五々の面持ちで会計順を待っていた。レジを打つのはタトゥーとピアスだらけの東欧系の男で、スツールに腰掛けて骨董品のレジスターをのらりくらり操作している。遅々と進まぬ会計に、ビジネスマンが足踏みで催促するも、店員はつゆほども作業の手を早めず大袈裟に欠伸してみせた。その間にも、会計の待機人数は増え続ける。やっとで娼婦の小計額を表示すると、小汚いレジで物言わぬやり取りが交わされた。目の下にくまの浮かぶ娼婦は会計皿に代金を置くと、それと別に紙幣数枚を皿の下に差し入れた。店員は何食わぬ顔で、娼婦へ釣り銭とレシートを差し向ける。娼婦は購入品をカウンターからひったくると、鼻息荒く会計の列から外れていった。その手に、随分と分厚いレシートを握り締めて。

 自分の会計順が来るや、ヒステリー会社員はエナジードリンクの缶をカウンターに叩き付けた。逆の手には、二十ポンド札の束が震えている。店員は男の逼迫した様子をせせら笑い、揉みくちゃの女王を受け取る。タトゥーで真っ青な指先がゆっくりと、不必要に入念に紙幣を勘定する。店員はここでも茶目っ気を発揮し、わざと計数を間違えて客を苛立たせた。残酷なまでに冗長な会計を終えると、印字の欠けたレシートが会社員へ差し向けられる。会社員は店員から紙片をもぎ取るなり、そのまま床へ放る。その指先に、ビニールの小袋がつままれていた。店員が、レシートの下に潜ませていたのだ。額に脂汗を噴出させ、男は充血した目で喘く。「トイレ貸せ、早く!」

 「ご自由に」と店員が手振りするのも見届けず、男は右手の角にある洗面所のドアを勢い跳ね開け、トイレの個室へ消えていった。

 洗面所のドアが半開きで揺れている以外に、サヴェジ日用品点の様子に変化はなかった。男の発狂に関心を抱く者は誰ひとりとおらず、店内にはレジスターの怠惰な電子音が木霊し、物陰で子供が菓子を服の裏に潜ませる。会計順の回ってきたパーカーの女が、懐から抜き出したメモ用紙と紙幣を店員に掴ませる。冷笑を浮かべた店員が膝元から、会社員へ渡したのと別種の小袋をカウンターに置く……。店は今日も、不気味なプログラムに則って商《あきない》を続けていた。

 やっぱり、来るんじゃなかったかな――。近隣から「えんがちょ」の烙印を押される個人商店の日常風景を目の当たりに、少女は唇を噛んだ。控えめなフリルをあしらった両肩に、土嚢と見紛う荷物を提げている。小柄なメイドは身近の危険を走査しつつ、会計列の最後尾へと歩を進める。可憐であり堂々たる足取りは、明るみを厭う落伍者の巣窟にあるまじき威風をまとう。華奢な手が握るは、〈ブラック・ブッシュ〉の角張った壜がひとつ。この日、はぐれ者の行き着く奈落に、ブリジットは身を投じた。



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奴隷蛮行【2-3】

 ブリジットが会計列の最後尾に着いた時、列には五人の先客がいた。会計客がテムズ川のヘドロよろしく滞留する様は、ひと昔前の銀行を彷彿させた。その身が奉仕精神の石英原石を磨き抜いた水晶玉たるブリジットには、堕落した店員の心理を解する術がなかった。バーコードスキャナーの緩慢な電子音を意識の外に、彼女は夕餉の段取りを脳内で演習しつつ、退屈しのぎに自らの癖っ毛に触れる。と、爪先が金糸に触れるが早いか、水仕事慣れした指が異変を検知した。ブリジットは唇をひと舐めすると、意識的に落としていた呼吸を復旧させて、すんと鼻を鳴らした。浮遊する諸々の化学物質が、小さな鼻腔に導かれる。色とりどりの菌類が、培地を求めて健康な粘膜に殺到した。――うっ、カビくさぁ……。腐臭に歪んだ鼻筋を整え、ブリジットは確信めいた懸念に出入口へ振り返った。脳裏をよぎった災厄が、既に具現化していた。イングランド南部の上空を、突発した雨雲が領空侵犯していた。不定形の侵略者はたちどころにカワセミの羽根の如き蒼天を塗り潰し、暗影をヘリフォードの街に落とす。ブリジットをおいて店内に晴天の死を感知した者はおらず、店先の用心棒もスマートフォンの画面に釘付けであった。かねてより大衆の関心を惹くのは、超自然的な人工の刺激である。この用心棒が空模様より女優の新着流出ポルノにご執心なのを、果たして誰が責められようか。

 ブリジットは早朝の天気予報を思い出そうと試み、そしてすぐに取り止めた。気象予報士は本日の晴天を確約したが、頭上では現に澱んだ黒雲が育ち続けている。何にせよ、和やかな白昼は過去のものとなった。暗雲が幾重にも波打って要塞を築き、城郭の拡張が急スピードで進む。渦巻く気流に窓ガラスが震え、用心棒がようやく肌色の画面の外に注意を向けた。店内でも次第に気象状況の認知が広まり、ガラス窓に野次馬が群がる。錆びた窓枠が縁取る終末の光景に、吹き溜まりの住人はおしなべて間抜け面を晒した。最早そこに、彼女が歩んだヘリフォードはなかった。日頃の不信心も顧みず神に祈る客から、暴風雨を危ぶむ声が上がる。どれだけの規模なのか。自宅の窓は割れないか。屋根が雨漏りしないか。そもそも無事に帰れるのか。人々は種々雑多の不安、天を仰ぐばかりであった。

 ブリジットは努めて冷静を保ち、エプロンのポケットから山吹色の平滑な円盤を取り出した。前世紀であれば化粧コンパクトが握られていたものだが、昨今その役目はスマートフォンに奪われがちである。手鏡に限らず、現代人は何かにつけてスマートフォンを酷使する。およそ携帯電話の矮躯には過ぎた重責を課せられたハイテク装置は、ヒトの身を持たぬ奴隷に等しかった。そんな彼らに同情する意図でもないが、使用人の矜持を尊ぶメイドの掌中には、真鍮の懐中時計が収まっていた。音もなく開かれた上蓋の内で、日本製のムーヴメントが一二二五時を指している。蓋の裏に彫刻があり、一対の翼を持つ剣が鈍く輝いている。ブリジットは左目で文字盤を捉えたまま、右目を再度屋外へ向けた。――まあ、降られても問題はない……かな。メイドは天候と折り合い付け、開く時に同じく静かに時計の蓋を閉じ、業務計画の見直しに着手した。どう足掻こうと、じきに雨は降る。主人の帰宅まで時間的余裕は十分にあり、給仕服の交換が業務全体に支障をきたす恐れはない。食事の下ごしらえは前日に済ませており、トイレは銀食器に進化するまで磨き上げた。欧州で異例の、トイレと空間を隔てた風呂場も、職務を終えた主人の身を清める為に――つまりは彼女が撫でこすってやるのだが――不必要なまでに浄化した。それもこれも、主人への愛ゆえである。

 自らの忠犬ぶりを誇る余り緩みかけた頬を、メイドは慌てて取り繕った。己の未熟――その実、二十歳にすら達していないのだが――を戒めていると、先の会社員がハンカチを手に洗面所から出てきた。その佇まいは一転、乱れた頭髪を後ろに撫でつけ、背筋はしゃんと伸び、落ち着いた足取りで人好きのする微笑さえ浮かべる変貌であった。それこそ、ヒトの尋常から外れる程に。口笛を吹き鳴らす男は急変した空合いを気にも留めず、軽やかな身のこなしで店を後にした。夕飯の準備とは別に、ブリジットは早急にこの場を離れる決意を新たにした。



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奴隷迎合【2-4】

 通常、英国人に傘を携行する習慣はない。観光客向けの理由としては、産業革命期に片手が塞がるのを嫌ったという仮説が如何にもそれらしいが、化けの皮の下には「変態だから」と、チープながらもっともな真実が転がっている。そもそも前出の説が通るなら、産業革命以前のイギリスにろくな食文化があった可能性を認める証左となる。無論こんなものは戯言で、産業革命時の使用人急需でフランス人が料理人に招かれるまで、この島民は茹で卵にまさる料理を知らなかった。一説には、十九世紀のジャガイモ飢饉に見舞われたアイルランドへの食糧支援を大英帝国が拒んだのは、自国に秀でる食文化を嫉妬した為とも伝えられている。全く以て、嘘と誠の分別も付かぬ者が英国の土を踏むべきではない。

 閑話休題、雨に限った話ではないが、英国人はその価値観を多民族とまるで異にする。山がちなウェールズ近辺の気象変化は特に頻々で、地元民は霧雨を冷房にビールを飲み、長雨の夜を穏やかに語り合い、土砂降りをBGMに踊り狂う。如何なる降水量においても、彼らは雨天を愉しむ気概を備えている――それが、心のダムの容量を超えるまでは。上空の乱雲が地上に娯楽を提供する思慮を持ち合わせず、自然の猛威に個人のダムが決壊する未来に、人々は畏怖した。そしてそれは、五分前のブリジットが先んじて見越した筋書であった。

 何度目かの時刻確認に開かれた懐中時計が、一二三〇時を刻む。ブリジットが真鍮の殻を閉じると同時、彼女の直前の少年が会計を終えた。両目が落ち窪む、明らかに未成年と見えるその手に、煙草の巻紙が握られていた。――可哀想に。奴隷の憐憫は、自分より上位の存在へ寄せられたものではなかった。会計カウンターの奥、店員のタトゥーまみれ腕が横柄に手招きする。――もし、あんなのが旦那様だったら……。ぞっとしない仮定を否定し、メイドは感情のブレーカーを落として前進し、カウンターの抉れた天板にウィスキーの壜を置いた。天板の端から一歩、物理的な距離が置かれていた。それまでの無気力から一転、稀有な来訪者に気付くと、店員は鼻孔を耳たぶに空けたのと同じくらい拡げて口笛を吹き鳴らす。高域の不快音に、メイドの精神がダメージを受ける。

「おいおい、こいつはぶったまげたな」

 店員は両目を半月に、高級性奴隷を舐め回した。卑俗な値踏みもすげなく、ブリジットは事前に構えた長財布の小銭を手繰る。オイルを塗り込んだ黒革の縁から、既に女王ふたりが双眸を覗かせている。「札入れと別に持つ、硬貨の収納容器。手際に長けた者の他に持つべきではく、さる者は概して要さない」。このメイドの辞書が収録する、小銭入れの記述である。彼女の定めるところの財布とは、品物の売買において貨幣の迅速な提示を使途とする用具であり、間違っても店舗従業員と他の消費者の寿命を浪費させるお荷物ではない。持論の証明に、その手にあるのは色気からっきしの男物である。多感な年頃に性意識を捨てられるのは、己に確固たる自負がある故であった。もっとも彼女の場合、自国の経済構造に人格を歪められたところが大きいのだが。

 店員はスツールを脇へ蹴やり、ねっとりと不敵な笑みでスキャナーを手に取った。LEDの赤いレーザー光がバーコードを読み取り、くすんだ緑色の数列がディスプレイに浮かぶ。

「いかしたチョイスだな。けど女の子にゃきついだろ?」

 ウィスキーをいじくる店員の茶々に、メイドはただ小首を傾げるばかりであった。変態が性奴隷に期待する応答に代えて、第一級の使用人は手振りでその注意を下方へ導く。艶めかしい所作に魅せられた淫欲の目が、白い指が示す先で釘付けになる。位置を元のままの会計皿に、小計額ちょうどの現金が顕現していた。それも、紙幣と硬貨全てが、女王陛下のあらせられる表向きに。

「……すげえな嬢ちゃん。手品師かよ?」

 超常体験に軽いそら恐ろしさを覚えたものの、店員は眼前の性奴隷になお惹かれた。興奮した息遣いに、タンクトップの胸元でサメのタトゥーが躍る。――うわあ、ミスったぁ……。ブリジットは会計からの離脱を急き、その場限りの釈明に労を惜しんだ稚拙を悔いた。最低限の分別も備えぬけだもの相手に、女王の蔑視が通じる道理はなかったのだ。

 店員は奴隷から片時も目を離さず、会計皿の現金をレジの抽斗(ひきだし)へひっくり返す。見開かれた両目が、上玉の獲物を標的にぎらついていた。普段は受け取るレシートの受理を断り、会計を終えたブリジットの左手がウィスキーの壜へ伸びる。指先が琥珀色に触れる寸前、壜がカウンターの奥へ逃げた。見上げると、ウィスキーを奪取した男が悪戯っぽく舌を鳴らしていた。感情の予備電源作動を阻止し、ブリジットは語気穏やかに語り掛けた。

「ごめんなさい、務めがありますので……」

「忘れもんだぜ」

 言うなり男は背後のラックから小箱をもぎ取り、奴隷の前へ放った。カウンターを滑る紙箱に、その筋で世界市場の二五パーセントを占める、〈デュレックス〉のロゴが光る。自らの内で波立つものを殺ぎつつ、ブリジットは『可愛いメイドさん』に徹した。愛と安全を謳う紙箱――極太のコンドームをそっと押し返し、渾身のジョークを紡ぐ。

「あいにく、フランスに知人はおりませんでして……」

「あんだって?」

 相手の知性に合わせたつもりの言葉遊びも、ポーランドの不法移民には受けなかった。――こんなの一生の恥じゃない! ブリジットは無駄知恵を働かせた浅慮に恨み節を奏じ、男が顔の横で揺らすウィスキーを一瞥した。ガラス壜に映る光景に、他の会計客の姿は認められない。ブリジットと店員を除き、店内は天候を無為に見守る野次馬が出入口にたむろするばかりである。会計済のウィスキーを人質に取られ、メイドは窮地に立たされていた。



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奴隷蛮行【2-5】

 一九世紀のヴィクトリア朝、英国がその栄華の最盛期を迎えたのは、周知された事実である。が、その舞台裏で屋台骨を支えていた使用人に焦点が絞られるのは稀である。

 英国の国税調査は、一九〇一年時点での国内の使用人数を約一五〇万人と計上し、その内の約一三〇万が女性であったと示している。屋内使用人に限ればその男女比は一対二二と、字面にして一種のハーレムを匂わせる。この二二は更に家政婦長《ハウスキーパー》や侍女《レディーズメイド》、料理長《コック》……と、個々が専門とするで細分される。雇われ先の都合で、一人の使用人が複数の役職を兼務する事例も少なからず見られたものの、基本は技能別に割り当てられた職務のみを命じられていた――最下級の集団を除いて。

 当時の英国では産業革命を背景に、事業で成功した一部の労働者階級、いわゆる労働貴族が台頭し、上流階級に食らいつこうと躍起になっていた。家具の足を布で覆ってまで性を否定したこの時代において、外面は何よりも重んじられた。新参者の中産階級が貴族へ面通しを許されるには、己の明瞭な価値の表明が求められた。他者の私産を覗き見る、げに下品で変態極まる審査を通過するには、所有する土地や有力者とのコネクション、高貴なる血縁関係などが好都合であったが、そもそれなら労働貴族になどならないのである。いつの世も、お上は理不尽で頑固で、頭が悪い。

 しかしてこの不条理に、今日の英国紳士の礎を築く卿紳《ジェントリ》は抜け道を見出した。『有閑階級』と称される様に、この時期の上流階級の価値観には、暇を持て余して消費活動に勤しむ体たらくが、美徳としてまかり通っていた。この醜悪な美的感覚は特に女性に対して求められ、妻は家事や育児を使用人に放り、帰宅した夫を労う家庭の天使像たる役割を任ぜられた。安楽椅子から一歩も動かず、子供の面倒も観ずにぶくぶく肥えてゆくのは天使ではなく、女王蜂であろう。何にせよ、広大な領地を一望するお屋敷(カントリーハウス)に比べれば、使用人の雇用はそう高い敷居ではなかった。

 とはいえ、ぽっと出の成り上がり労働者が使用人に割ける身銭にも余裕はなく、多くは娘っ子ひとりを雇うのが精一杯であった。言わずもがな、学校や工房で専門技能を修得した者は皆無に等しく、その出自は田舎の農村からの出稼ぎや口減らし、身寄りのない孤児、新大陸から持ち込まれた黒人奴隷という有様であった。年端もいかぬ少女がある日身ひとつで親元から離され、都市部の見知らぬ邸宅で掃除に洗濯、食事の仕込みに暖炉への石炭補給、果ては悪ガキの面倒に至るまで、一切合切の給仕を命じられるのだから、人権などあったものではない。当時、使用人のホームシックを訴える手紙を運んだ郵便配達員は、霧の粒の数ほどいる。こんな次第であったから、見習い未満の使用人に仕事を一から教え込んだり、悲哀に暮れるのを慰めたりして、天使像になり損ねた妻が多かったのにも不思議はない。この未熟で不憫な少女らこそ、先述した最下級の家事使用人・雑用女中(メイドオブオールワーク)である。彼女らが英国史に下ろした根は深く、形態こそ幾らか変われ、現代においてもその姿は散見される。そして、人はそれを奴隷と呼ぶ。

 

 閑話休題、未曾有の曇天が襲来する二一世紀のイギリスはヘリフォード。暗雲に覆われた街の一角、人生の落伍者が滞留する吹き溜まりで、ある雑役女中の末裔が、業務規定に明示されない雑務《オールワーク》にかかずらっていた。彼女に課された任務は二つ。一つは、主人が愛飲するウィスキーを持ち帰る事。もう一つは、主人が愛してくれた己の操を、眼前の不埒な野獣から守り抜く事である。澄んだ碧眼が見据える先、スラヴ系の店員の指先で、琥珀色の〈ブラック・ブッシュ〉が揺れている。男の顔は銀色のピアスで溢れかえっていた下衆の尖兵たる男を前に、ブリジットは微笑みを絶やさずにいた。その張りつけた笑みの裏で、虫唾が全力疾走していた。



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奴隷蛮行【2-6】

 ブリジットの、財布を握る手が強張った。彼女の他に会計待ちの客がいない目下、この場に性奴隷の肩を持つ者はいない。時間は何処までも、上物を前に舌舐めずりする店員の側に着いていた。

 ブリジットの司令部は、次に切る手札の選択にフル稼働していた。動物は同種の個体と争いになった時、本能的に「威嚇」「降伏」「逃走」の何れかから行動を選択する。この反応は魚類から霊長類にまで例外なく備わっており、偶発的な事故や共食い等の生得的なをメカニズム除いて、自然界での同族殺しは起こり得ない。この法則は、現代の人間社会にも浸透しており、サヴェジ日用品店の会計カウンターで進行中の悶着にも、この法則が適用可能である。

 今日の先進国では、善良な市民の多くは争いを厭い、敵対者に譲歩するきらいさえある。先の行動モデルに照らし合わせると「逃走」がこれにあたり、大抵の市民は物品を諦めて店を去る。敵前逃亡からの不戦敗を喫し、体裁の悪さが尾を引いて陰鬱な気分に塞ぎ込む。勿論、支払った金は手元に戻ってこない。惨憺たる恥辱には違いないが、観点を変えれば、これも立派な処世術であり、極めて社会的な生存戦術である。下衆の不法に泣き寝入る代わりに、蒸留酒ひとつで不貞と性病を抱き込む不条理は避けられるのだから。

 ところで奴隷、特に性奴隷においては、その身を損傷する行いは即ち、所有者の資産を害する罪業と見なされる。また、性奴隷を保有する人間はその嗜好から、極めて独占欲が強いという統計が記録されている。この歪んだ処女信仰は、レイプ被害に遭った性奴隷の不当解雇が続発する理由を裏打ちしている。合意の有無にかかわらず、奴隷は危険な人物・場所から己を遠ざける責務があった。ひとえに、住む家を失わぬ為に。

 にもかかわらず、ブリジットは件の会計カウンターに留まり、ウィスキー泥棒の店員へ正対し続けた。深い蒼に縁取られた瞳が、酷薄な店員を一直線に見据える。両者の間に沈黙が訪れてから、三十秒が経過していた。並み居る性奴隷であれば、無駄金を費やした失態への申し開きを案じている頃である。されど、ブリジットの使用人論理は平凡なそれを遙かに逸していた。

 ブリジットの胸中は自らの保身などではなく、まるで真逆の自責で張り裂けそうになっていた。その小さな胸(英国基準でBカップ)には、身体に見合わない責任感が圧縮されている。それが電子レンジの卵の如く弾け、誇り高き己の分身から大目玉を喰らっていたのである。「主から預かった財を悪漢に奪われ、あまつさえ汚名を持ち帰る使用人など、一ペニーの価値もない」。――と、いささか度を過ぎたこの問責を、ブリジットは信じて疑わない。一方、彼女の雇用主は何をおいても彼女の安全を尊んでいるのだが、そんなのは完璧メイドさんの知ったところではない。崇高なる矜持とは、裏を返せば独りよがりの自己満足である。

 束の間の長考の末、ブリジットは呼吸を整えて店員へ向き直った。

「お気持ちは嬉しいのですが、急いでいるもので……」

 小首を傾げ、眉根を寄せる少女から発せられたのは、月並みなお断りの句であった。世の女性が理想、或いは妥協点へ至るまで繰り返す、退屈な謝辞。だが無味な音の羅列も、高位の性奴隷が調律すれば、傾国の睦言にまで昇華する。滑らかな声音には一切の作為が窺えず、あたかも一時の逢瀬に後ろ髪引かれるが如き声風《こわぶり》は、一流奏者が掻き鳴らすストラディバリウスに等しかった。

「そう時間は取らせねえって」

 さりとて、すけべ丸出しの野獣に芸文を解する脳はなく、特級使用人のリップサービスは虚無へと聞き流された。ブリジットは立て続けの裏目に舌打ちをこらえたものの、その内で理性が陰り始めていた。次なる策に貧したブリジットへ、店員が追い討ちを仕掛ける。壜を握るのと逆の手でカウンター下を探り、ジッパー付きの透明な小袋を取り上げた。先客へ渡されたのと同じ、不自然なまでに白い粉末が、卑語まみれの指先に揺れていた。

「あんただけの、初回サービスだ。まけてやるよ」

 店員はこれ見よがしに、メイドの鼻先で包みを揺らしてみせる。瞳孔がかっと見開かれ、濁った黒目が絶えず細動していた。――あんたも欲しいんだろ?

 サヴェジ日用品店の実態は、コロンビアやペルー産の粉末コカインをロンドンへ運ぶ中継拠点であり、店の従業員はすべからく英国内に拠点を構えるロシアマフィアの息が掛かっていた。正規の警備会社へ業務委託していないのも、経営基盤の黒さ故である。

 店員の人外じみた口角の上がりに、首に彫られたタトゥーのサメまでもが涎を垂らす。ヤニ臭い呼気に不快指数が測定不能に陥りながら、それでもブリジットは使用人魂を固持し続けた。

「ご厚意だけ、頂戴致します」

「おいおいおい、つれねえな。自分に正直になれよ」

 欲望のボルテージが限界を迎え、店員の語気もいよいよ圧を増す。まして相手は無力な奴隷で、万人に雌伏して然るべき弱者である。司法の盾なき『持たぬ者』を、高貴な人間様が畏れるべくもない。だからこそ、店員の煽りに遠慮はなかった。

「なあに、最初はどいつもおっかなびっくりだ。でも始めちまえば、もう『愚図なご主人様』の枯れ木にゃ戻れなくなるぜ」

 ――ああ、そう。

 メイドは長い睫毛を伏せると、手を口許にくすくすと笑声を漏らした。忍び笑う奴隷を怪しみ、店員は少したじろぐ。それでも、自分の低俗な冗談がツボにはまったと独善的に解釈し、一緒になって喉を鳴らした。波模様を彫られた頬が、勝利の確信に余裕に緩む。あとは目の前の奴隷が、ちらつかせた餌に飛び付くのを待つのみであった。先の忌詞《いみことば》に、ブリジットを縛る奴隷道徳《ルサンチマン》が解除されたとも知らず。

 駄目押しとばかりに、店員は手中の薬包を奴隷へ放り寄越こした。耳まで裂けそうな笑みに、黄ばんだ歯が糸を引く。ブリジットは財布をスカートのポケット――元より、ハンドバッグは持ち合わせていない――へ収め、いつもと同じ、眠たげな半眼で飛翔体の軌道を見守った。堕落の顆粒が、緩やかな放物線を描いて接近する。――あの人がこの場にいなくてよかった。最早、感情のブレーカーがどうこうの話ではなかった。薬包が終末弾道に達するのを合図に、蒼い瞳に影が落ちる。安全装置《セイフティ》は外された。雑用女中《メイドオブオールワーク》が、五月蠅い害虫駆除に腰を上げる。

 店員の視界を、何かが横切った。ぱしん、と乾いた音に続き、遠く離れた床で軽い落下音が生じる。面食らった店員が数メートル離れた床を見ると、奴隷へ投げやった筈の薬包が転がっていた。それも、割れたタイルに中身の殆どを零して。すぐ正面では、性奴隷が仏頂面に、振り抜いたその左腕を優雅に下ろしつつあった。

「てめえ!」

 末端価格にしてグラム当たり三十ポンドを下らぬコカインを床の塵にされ、悪漢が目を剥いて奴隷の胸ぐらへ勢い掴み掛かる。後先なく伸ばした右腕は、体躯で劣るメイドの襟飾り(ジャボット)にさえ達せず、数秒前の薬包を再現するように打ち落とされた。バランスを崩した悪漢を、藍色の蔑みが睨《ね》め付ける。

「恐縮ですが――」

 悪漢は会計カウンターに肘を突き、体勢を立て直そうと試みた。ついでに左手の壜で生意気な奴隷に殴り掛かろうとした刹那、男の視界を三つの色が満たした。一つは、綾織り(ツイル)生地のブラウン。二つ目は、光沢あるタイツとガーターベルトの黒。それから、ほんのりと紅潮した穢れなき柔肌。神秘的な光景は、新たな一撃で網膜から剥ぎ取られた。暴漢が反射的に目蓋を閉じた次の瞬間、その上半身は会計カウンターへ無様に突っ伏していた。一拍遅れてやってきた痛みが、後頭部と膝裏に広がる。呻く暴漢の耳元で、ストラディバリウスが慇懃な戒めを爪弾く。

「――お戯れも、節度を識るべきかと」

 非の打ちどころない上流英語《グラス・カット》に、男の血気が色あせる。どうやってのけたのか、性奴隷は男の背後から襟首を固め、一切の動きを封じていた。

 店内に味方がいないのは、ブリジットに限った条件ではない。客は相変わらず窓ガラスにへばりついて雲行きを眺め、用心棒は車に防水カバーを掛けるようにと、妻への電話に掛かりきりである。男は癇癪に身じろいだが、上半身は首を起点に完全に極められており、耳のピアスが空しく会計皿を叩くのみであった。無理矢理に拡げられた股関節も、白旗を間近に見苦しく痙攣している。それでも、役立たずの用心棒に叛逆奴隷の排除を叫ぶ力は残っていた。肺いっぱいに空気を取り込み、声帯に全身全霊を込める。乱雲が一際大きく唸り、風の流れが変わった。

 男の指示が音を結ぶ未来はなかった。血管の浮き出る首筋を、固く冷たい感触が撫ぜる。神経毒を盛られた様に、男の脊髄が凍り付く。行き場を失った叫びが、今際《いまわ》の息も同然にすきっ歯[#「すきっ歯」に傍点]を抜けていった。タトゥーのサメが、エラにナイフをあてがわれて喘いでいた。

「さて、改めてお詫び申し上げます。『急いでいるもので』」

 ヘリフォード上空を、ぎざぎざの白光が閃いた。鼓膜を聾《ろう》する雷鳴がそれに続き、「ぽつぽつ」と気構えさせる暇もなく、無数の太矢が地上へと放たれる。地表に着弾した雨の爆風が、濃密な霧をで住宅街を包み隠した。メイドは店員の返事を待たず、拉致された〈ブラック・ブッシュ〉をかすめ取ると、トートバッグへ音もなく収めた。青白い雷光を受ける顔に、虚ろな微笑が繕われていた。

「それでは、佳《よ》き一日を」

 本来の目的を果たしたメイドさんは、黒塗りの刃を握る右手を支点に、両脚を振り上げカウンターを跳び越えた。一瞬の圧で首のサメが軽い裂傷を負い、かすれた悲鳴が上がる。

クールヴァ(くそあま)……!」

 悠然と歩き去る奴隷様へ負け犬が恨み節を毒づくと、その鼻先に小さな紙片――応急絆創膏が舞い落ちた。

ニェ マ ザ ツォ(どういたしまして)

 メイドさんは一顧だにせず、来た時と同じ気高い歩調で出入口へ歩み去った。右手のナイフは、もう何処にも見当たらない。大敗を喫した店員は奴隷を追い掛けるどころか、カウンターに突っ伏すなり、天板を拳で殴りつけた。知性を手放して罵倒の文句も思い付かず、終わりなき自傷行為に埋没した。無理もない。最底辺でかしずくべき奴隷に自尊心を踏みにじられ、その低俗な自我は崩壊していた。



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奴隷蛮行【2-7】

 大雨が襲うヘリフォードの外れ、プレハブ構造が立ち並ぶ住宅街を、陰険な空気を満載した黒のフォード・トランジットが走っていた。五人の誘拐犯と一体の性奴隷を乗せたパネルバンは車一台分の隘路を当て所なく彷徨い、急に方向転換しては来た道を戻るといった、不審な走行を繰り返していた。それもその筈で、車内の誘拐犯は各々の意見を異に、壊滅的な内部分裂を起こしていた。ハンドルを握るマッキニーは、助手席の首領・カヴィルの見当違いな指示に、神経とタイヤをすり減らしていた。車外の雨は勢いを増すばかりで、人気など微塵もない。そもそも、撥水コートのないフロントガラスでは五メートル先さえ見通せず、ワイパーの一本が三分前から動かなくなっていた。道案内を仰ごうにも、親分に干渉すれば火の粉が掛かる。車内の成り行きを静観して、このまま一ブロック毎にハンドルを切り続けるのが最善と腹をくくった。

 座席を取り払った荷室では、巨漢のダウダルがガムを噛んでフォークを歌い、弱冠十九歳のラスキンはジャンク品の拳銃を握り締めて縮こまっている。残るスプリングがコンソールボックス上に身を乗り出し、血色悪くこけた頬をカヴィルに寄せた。

「おいおいカヴィルさんよぉ、どーこに奴隷がいるってぇ?」

 スプリングは額に手をかざして、地平線を見回してみせた。

「ねえねえ、どうするのぉ? カヴィルちゃぁん」

 スプリングの指が、コンソールボックス上でリズムを刻む。カヴィルは同胞のちょっかいに構わず、鼻息荒く住宅地図を睨んでいた。鼻の先に構えた地図を凝視する目は血走り、首を経て胸までもが血の気に赤く染まっている。誰の目にもカヴィルが爆発寸前なのが明らかで、今やお頭の器でないのも露呈していた。スプリングはルームミラー越しに、荷室に横たわる性奴隷へ顎をしゃくった。

「で、どうすんの? 今なら一発ヤって、そこらにポイすりゃいい」

「なら、俺が最初だ」

 音痴のフォークソングが止まり、ダウダルの野太い腕が奴隷の肩を掴む。姦通の危機を気取った奴隷は身をよじるも、仰向けに荷室を転がるだけだった。今後の予定を既に誘拐から輪姦に変じたスプリングが、にやけ面でダウダルに言い寄る。

「なあ、待てって。誰だって他の野郎の後で――」

「文句あんのか」

 倍の体躯にねめつけられると、スプリングはかぶりを振って退いた。おしゃべりを封じられた雑魚を余所に、ダウダルの両腕が暴れる奴隷の股をこじ開ける。

「くそ、ワンピースじゃねえのか……。おい、ちび助、上を剥け。口とパイオツは好きにしろ。俺のタイプじゃねえ」

 急な朗報に、ラスキンは銃を尻の上のウェストバンドに挟んで立ち上がる。被支配階級の存在が、少年の矮小な妄想を増長させた。手駒の身勝手を見過ごせず、名目ばかりのリーダーが助手席から荷室へ跳び込む。

「ふざけんな、誰がここを仕切ってると――」

 胸を強打されたをカヴィルが、荷室から吹き飛ばされた。ダウダルが、奴隷の下着を剥ぎ取る妨げを一撃するのを、ルームミラーが映していた。一部始終を見ていたマッキニーは、元リーダーの背中が自分に迫っているのに気付かなかった。

 重力と遠心力、速度と慣性、それら全てがねじれ絡んでひり出された暴力だった。空中で制御を失ったカヴィルはマッキニーの左半身へまともに激突し、その衝撃でアクセルが最大に踏み込まれた。急加速するエンジンの制止に、マッキニーはアクセルを戻してブレーキを踏み付けた。ところが車は減速せず、足下で癇癪めいた怒声が上がるばかりである。

「馬鹿! 俺の手だ!」

 激痛に喚くカヴィルが起き上がろうと、床に手を着く。バンが再加速し、カヴィルは頭からセンターコンソールにぶつかった。カヴィルが姿勢の安定に掴んだのは、アクセルペダルであった。その腰から拳銃が転がり、マッキニーの足下へ滑ってゆく。マッキニーは隘路の爆走に必死でハンドルを切り、確実にブレーキペダルを連打する。が、またも制動が利かない。ペダルの真下、床との間に拳銃が噛まれていたのだ。サイドブレーキを掴もうにも、その先端は白目を剥いて伸びるカヴィルのジーンズの股間に埋まっていた。英国では、小便の後にきちんとジッパーを上げる義務がある。

 バンは尚も加速を続け、雨粒がフロントガラスを這い上がってゆく。視界も何もあったものではなく、マッキニーは直感だけで車体の安定に尽力した。高度一万メートル以上で及ぶ性行為を俗に『マイル・ハイ・クラブ』と呼ぶが、時速一〇〇マイル(約一六〇キロ)で住宅街を尻を振るパネルバンでレイプに勤しめる程、この小悪党らの肝は据わっていなかった。荷室の誘拐犯は互いにぶつかり、宙返りを強制され、内装に身を打ち据えられた。攫われた奴隷は状況も知れぬまま喚きつつも、頭部を庇って危機に備えた。

 マッキニーはかつてない集中力を発揮し、暴走車輌の鎮静にあたった。速度計の針は最高速を離れ、身体に掛かる圧が減じていくのが感じられる。マッキニーは呼吸を整え、びしょ濡れの片手を相棒のジーンズに差し入れた。むっとした熱気を掻き分け、指先でブレーキレバーの感触を探る。カヴィル帰属の生温かいダミーに幾度も邪魔されながら、ジェイソン・マッキニーは遂にレバーの先端を掘り当てた。

「やったぞ!」

 ロック解除のノブを押し込むと同時に、前方の視界が開けた。住宅地を抜けて幹線道路に達した事実を把握するのに、マッキニーはコンマ一秒を要した。目前に迫り来る、白い構造物を認識する猶与はなかった。

 ハンドルを切る間もなく、バンは正面から構造物――奇しくも、世代違いのフォード・トランジットの横腹に突っ込んだ。時速六〇マイルの体当たりに白のトランジットが横転し、助手席を下に擱坐する。道行く自動車が次々と追突の二次被害を生じ、周囲はクラクションと悲鳴で溢れかえった。

 黒の誘拐トランジットはフロントガラスに蜘蛛の巣が走り、グリルから白煙を吐いていたものの、奇跡的に原形を留めていた。幸か不幸か死者はなく、大きな怪我を負った者もいない。マッキニーは萎んだエアバッグを顔から引き剥がし、状況確認に目を凝らした。急激な血圧の変化で、視界がモノクロに色を失っていた。シートベルトを振り解いて運転席から転げ落ちた先で、数多の光が明滅し、バケツをひっくり返した雨に乱反射していた。思考は未だ明瞭としなかったが、すぐにこの場を離れなければならない事だけは分かった。

「おい、助けろ!」

 声の出所を辿ると、額から流血するカヴィルが、運転席から自力で出られなくなっていた。マッキニーは単身で逃げる事も出来たが、拘置所に送られた馬鹿親分が道連れを謀るのが目に見えたので、渋々手を貸した。べこべこの助手席からカヴィルを引きずり出す頃には、方々でスマートフォンのカメラがストロボを焚いていた。

「見せもんじゃねえぞ!」

 逆上したカヴィルが、天に向けて拳銃を発砲した。無煙火薬の炸裂が、ほの暗い幹線道路に煌めく。大気を裂く銃声に、野次馬のシャッターはなりを潜めた。その代わりに、更なる阿鼻叫喚が事故現場を包囲した。積もり積もったカヴィルの愚行に、マッキニーもぷっつんした。

「いい加減にしろタコ!」

 詰め寄ってカヴィルの胸ぐらを掴んだその時、横転したトランジットのリアゲートが、内側から破られた。数人の男が荷室から這い出すと、各々が別々の方向へ散会し、雨の中へと姿をくらました。マッキニーは束の間の怒りを揉み消され、戻りかけている色覚を疑った。男らは、全員が明るい緑と黄色の珍奇なツナギを着ており、腕に鋼鉄の枷がはめられていた。男らが出てきた車輌は窓に鉄格子を備えており、前後を全く同型のセダン二両に挟まれていた。先程まで認識出来なかったが、周囲で瞬く光が青色であった事に、マッキニーは気付いた。その光の出所は、二台のセダンのルーフ上で機械的に回る回転灯だった。回転灯に照らされずとも、マッキニーの顔が青ざめた。彼らのバンが突っ込んだのは、二両のパトカーがエスコートする、囚人護送車だった。

「奴隷がいねえ!」

 バーニー・スプリングの叫びでマッキニーは我に返り、フロントが潰れたバンの荷室を覗き込んだ。積み荷が滅茶苦茶に散る中に、攫った奴隷の姿は認められない。荷室の隅では、ラスキンがまたも拳銃を手に小さくなっていた。

「いたぞ!」

 元来た住宅街を、ダウダルが指差す。その五十メートル先で、件の奴隷が腕を縛られたまま逃走していた。強風が頭を覆う麻袋をむしり取り、色濃いブロンドがたなびく。

「ぼさっとすんな、追え!」

 カヴィルの怒号でダウダル、スプリング、ラスキンの三人は得物を手に野次馬を押し退け、住宅街へ駆け出した。その後に続こうとしたカヴィルが、はたと振り返る。マッキニーが、その場に立ち尽くしていた。

「ぐずぐずするな!」

 カヴィルの命令は、副官の耳に届かなかった。ここに至り、果たしてあの性奴隷を追う価値があるのか、マッキニーは疑問を抱いた。交通事故による心身のショックもあり、精神に乖離が生じていた。自分は何をしているのか。どうしてこんな事になっているのか。ややもすると、別の人生があったのではないか。秒毎に小さくなる奴隷の背中を見つめ、彼女の逃走を阻む理由が何処にあるのか、ぼんやりと夢想していた。そして不意に、自分の両親はどんな顔をしているのだろうと、鍵を掛けて久しい記憶を紐解きかけた。

 護送車を先導するパトカーから、二人の警官が這い出てきた。どちらも消耗しきった様子で、一方は無線機を口許にあてがい、もう一方は腰の警棒に手を掛けている。警棒を抜いた警官が、マッキニーに誰何(すいか)を試みるや、鋭い破裂音が警官の足下に小孔が穿つ。

「行け!」

 拳銃を構えたカヴィルがマッキニーの肩を掴み、住宅街の方角へ押しやる。マッキニーの背後で、更に三発の威嚇射撃が放たれた。駆け出したマッキニーの心に、先の迷いはなくなっていた。最早、後戻りして済む話ではない。覚悟で踏ん切りを付ける猶与もなく、マッキニーは人の心をもぎ捨てた。奴隷誘拐犯の逮捕か、はたまた囚人の脱走に加担した闖入者の拘束にか、応援に寄越されたパトカーのサイレンが迫っていた。



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奴隷蛮行【2-8】

 乱心する敗北者を尻目に、ブリジットはトートバッグの肩紐を正し、店の出入口を目指した。豪雨が全方向から店の外壁を叩き、会計の殴打音を掻き消していた。規格外の降雨に利用者がどよめき、そこに戸外から数人の避難民が駆け込んできた事で、店内は騒然となった。爆増した湿気でカビ臭さは倍加し、住処が水没したドブネズミが縦横無尽に駆け回る。出入口の傍らで、用心棒が濡れ鼠となって放心していた。

 狂乱の中、ブリジットは懐中時計の蓋を弾いた。――一二四〇時……うん、これなら大丈夫、だよね。タイムテーブルの修正が不要と断じたブリジットの正面、サヴェジ日用品店の出入口から三十メートル離れた道路上を、ずぶ濡れになって走る影が認められた。身の丈は約百六十センチ。ブリジットのそれとよく似たブラウンのメイド服を着て、こちらへ向けて走っている。――女の子……性奴隷、だよね? 濃いブロンドの髪を振り乱す少女の姿を、ブリジットは何処か不自然に感じていた。両腕を振らずに走っているというのもあるが、自身に通ずるものを少女から気取っていた。

 ずぶ濡れの少女はそのまま置物の用心棒の脇を抜けると、出入口で蹴躓いて、店の床へ肩から盛大に転がった。異常な来訪者に、店内が新たなざわめきに揺れる。多様な憶測を交わす野次馬を掻き分け、ブリジットは我先にと少女の許へ膝を突いた。少女の両腕は後ろ手に拘束されており、口にはタオルで猿轡が噛まされていた。ブリジットは肩で息をする奴隷少女の身を起こしてやり、猿轡を解いた。それから、痛々しい喘鳴《ぜんめい》を発して礼を述べる美少女の顔を見定めた。――やっぱり!

「リタでしょ? 何があったの?」

 少女が目を丸くして、自分を介抱する同胞に向き直った。

「うそ、信じられない。ブリジット?」

 首肯するブリジットに、リタなる少女は安堵の表情を浮かべたのも束の間、慌てて何か語を発しようとして、激しくむせた。

「落ち着いて、何が起きてるの?」

「警察に通報して……急がなきゃ、貴女も危険なの……!」

 「警察」の単語に、野次馬が再びどよめく。そこへ、店の用心棒が人波を割って現れた。

「あのな、嬢ちゃん。何があったか知らねえけど、他人の敷地でそう勝手されちゃあ困るんだよ。ここにポリ公を呼ぶって? ふざけちゃいけない」

 奴隷を卑劣に見下ろす用心棒に、リタは反論しようとしてむせた。旧友の背中をさすりながら、ブリジットは通報は不要と断じていた。彼女の耳は雨音の中から、こちらへ接近しつつある、パトカーのサイレンを拾っていた。加えて、もっと近くに迫る複数の足音を。

「いいか? 迷子なら、俺がおうちまで親切に送り届けてやる。だから警察を呼ぶ必要はない。オーケー?」

「ああそうだ、必要ない」

 ガシャン、とハリウッド映画で馴染みの音に、場の全員が振り返った。人々の視線の先に、そばかす面の男が、ポンプアクション式のショットガンを構えて立っていた。その銃口は、既に用心棒へ向けられていた。そばかす面に遅れて、更に四人の男が後方から走り現れる。各々の手には、例外なく銃器が握られていた。男の一人が前に歩み出て、降伏して両手を上げる用心棒の顎を拳銃で小突く。

「悪いな、兄弟。ちょいと場所を借りるぜ」

 ブリジットの腕の中で、リタの身体が強張り縮こまった。か細い声で謝罪を述べる友人――奴隷調教施設での同期――に、ブリジットは朗らかに応じた。

「大丈夫だよ、すぐに帰れるから」

 一分前まで所在さえ知れなかった親友の気休めに、リタは頷きながらも震えを抑えられなかった。――そう、大丈夫。その言葉は、ブリジットの内では気休めなどではなく、確実に掴み取る未来を保証するものであった。彼女に課された任務は三つ。一つは、主人が愛飲するウィスキーを持ち帰る事。第二に、偶然に再会した親友を、眼前の不埒な変態集団から救い出す事。最後に、主人の帰宅までに夕飯の支度を済ませる事である。

 ――とは言ったものの、どうしたものかな……。店の床を濡らしてにじり寄る五人組を見上げ、ブリジットは積み上がった雑務に頭を悩ませた。

 

二〇一〇年 四月一五日 一二四三時

 ヘリフォード・サヴェジ日用品店において、奴隷拉致犯による立て籠もり事件勃発。



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奴隷蛮行【3-1】

【3】

 

 神が六日間で仕上げた球形のジオラマに、穢らわしい綿埃が付着した。昼食時を過ぎた春のイングランド上空に、時節をわきまえぬ乱気流が進駐していた。灰色の煙幕が滞留し、粘ついたネズミ色の影を地上に落とす。雲間に閃くねじくれた雷光は、下界であえぐばかりの人間を嘲っていた。

 そんな煤けた灰色のただ中に、場違いな色がぼうと浮かび上がる。澱んだ灰褐色を透かして、原色の青が騒々しく明滅する。神が、塗装前のマスキング処理を忘れたのではない。罪深き人間が、創造主の拙い工作に悪戯しているのだ。

 

 荒れ狂う風雨の下、ヘリフォードの街は機能停止に陥っていた。臨時の帰宅ラッシュは濁流と化して幹線道路を襲い、方々で交通事故が続発した。数ある事故現場のひとつでは、炎上する車輌の対処にあたっていた消防車の横っ腹に救急車が突っ込み、双方の隊員に市民を上回る被害が生じた。

 平日のまだ昼過ぎでありながら、大半の商業施設が閉店の札を下げた。血相を変えた店主が従業員を家へ追い返す光景が散見される中、悪天を顧みず営業を続ける店舗も確かに残っていた。競合相手のいない市場で一時の寡占を享受する目論見だろうが、核戦争の最中にシェルターから繰り出すのは火事場泥棒くらいである。実際、住宅街から市民の姿は消え失せ、家屋の戸口は固く閉ざされた。他者との競争なくして、資本主義は成り立たないのだ。そんな災厄のただ中に、ひときわ煌々と青い輝きを放つ施設があった。

 生命を脅かす暴風雨にもかかわらず、灰色の住宅街の角地に建つサヴェジ日用品店の玄関先は、大量の来客で賑わっていた。平屋の建物は、全周から複数の眩いスポットライトの照射を受け、曇天の街並みをよそに白昼の砂漠と見紛う有様であった。店舗敷地に二十台を超える車輌群が殺到し、五十人を上回るギャラリーが傘も差さずに動き回っている。群れだった車輌は店の敷地に収まらず、隣接する車道を埋め尽くすまでに至った。車種は殆どが四ドアのセダンで、ごく一部にSUVや大型のバンが認められる。一見するとクルマ好きのの集会だが、どの車にも個性的な改造は見受けられない。だとしても、それらは目に見えて善良な一般車からかけ離れていた。塗装は何れも白を基調としており、側面に青と黄の格子模様を配して外観を統一している。車体を支えるサスペンションにはことごとく負荷が掛かり、縁石に乗り上げようものなら底面の擦過は避けられない。大半がルーフに回転灯を備えており、人工着色料じみた青い閃光をのべつ幕なし振りまく。没個性の強制は来客へも及び、一様に防水仕様の黒い上下、蛍光イエローのジャケットという厳格な服装規定に従っていた。全体主義的ながらも強烈なアイデンティティは、くすんだ街路に悪目立ちするばかりであった。外衣の随所で断続的に光る反射板が、彼らの所属を生気なく示す。曇天の下で煌めく日用品店を前に、ウェスト・マーシア警察の面々は俯き、冷雨に唇を噛むばかりであった。



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奴隷蛮行【3-2】

 寒々しい集会の場に、この数十分でちっとも珍しくなくなったサイレンの音が近づいてくる。数人の警官が音の方角を見やると、一台のパトカーが数ブロック先で急カーブを切り、自分たちの方へ真っ直ぐ向かってくるのが見えた。荒々しい運転とハイビームの光芒から危険を察し、付近の警官が路肩へよける。その数秒後、セダンのパトカーは急ブレーキに尻を振り乱して濡れた路面を滑り、直前まで新米巡査が立っていた場所を通過し、別のパトカーに車体の助手席側が接触する寸前で制動を果たした。長大にのたうつブレーキ痕が、路面と先発の警官らの鼓膜に刻まれていた。

 無秩序なパトカーからのサイレンが止み、運転席から中年の制服警官が顔を覗かせる。自分が原因のどよめきを意に介さず、中年は顔面蒼白な新米警官を呼び寄せて情報を聞き出し、事が済むなり邪険に追い払った。それから駐車位置もそのままにドアを乱暴に押し開け、シートを支えに車外へ這い出た。中肉中背の男は雨除けに額へ手をかざしたが、大自然はその浅ましい試みを一笑に付した。抵抗むなしく濡れそぼる中年警官の顔に、折り重なる雨雲に劣らず折り重なった皺が彫り込まれていた。

 アンブローズ・バグウェル主任巡査部長は、三日前に五十六歳の誕生日を迎えた。高校卒業と同時に警察官となり、現場一筋の三十余年を過ごした。若い頃に妻が「たわしちゃん」と愛でた毛根はすっかり後退し、僅かな最終防衛ラインには白いものが目立つ。肉体の限界を痛感しており、ここ数年で退職の単語がよぎらぬ日はなかった。朝は節々の痛みで目覚めるのが常で、肥満ぎみの自重をやっとで支えている。人生の折り返しもだいぶ過ぎ、辞書が謳う正義と社会の不条理に挟まれて磨耗する日々は、反吐の海に溺れる心地であった。実際問題、バグウェルはこの三日前に反吐と仲良くやっていたし、大本を辿れば、二年前から反吐の大海原で浮き沈みしていた。

 

 アンブローズ・バグウェルの悪夢は今より二年前、母校の同窓会に出席した事に端を発している。会場に踏み込んだ直後、久しく再会した同輩と手を握り交わそうとして、バグウェルは血の気が引く心地を味わった。旧友は例外なく奥さんを同伴し、仲睦まじげに腕を組んでいた。周囲を見渡せば、単身での参加者はバグウェルの他になかった。

 バグウェルの脂の乗った背筋を、冷たい滴が伝う。彼の不安に応えて、旧友は出会いしなに妻の所在を尋ねてきた。バグウェルはその都度「カミさんの都合が合わなかった」と自己弁護を重ね、級友とその妻は気の毒そうに眉根を寄せた。如何な馬鹿でも、五十を過ぎれば物事を嫌でも察する。彼らの声音に含められていたのは同情ではなく、自己中心的な旦那への蔑みであった。遠い過去には、花も恥じらうほど愛し合ったバグウェルとその妻であったが、今やその関係は寝室を別とするまでに冷えきっていた。

 バグウェルは疎外感と劣等感、過去には同列であった友人との間に穿たれた涸れ川(ワジ)に打ち据えられ、ふらふらと会場を退出した。学生時代の思い出話に花を咲かせる参加者に、彼の消失に気付く者はいなかった。

 バグウェルは当て所なく彷徨い、嫉妬に狂って独り飲みつぶれ、酒場の用心棒につまみ出された。路上で幼子のように泣き崩れる中年を、通行人が鼻白んで嘲った。衆目から顔を伏せて丸くなり、バグウェルは夜通し羞恥を噛み締めた。

 翌朝、自らの吐瀉物で窒息しかけて跳ね起きたバグウェルは、霞む朝日に膝を折って両手を組み、妻への贖罪に余生を投じようと誓った。温かい家庭像への羨望が、バグウェルに再生の機を与えたのだ。それまで露とも顧みなかった家庭への帰属を、バグウェルの本心はは渇望していた。それに、ろくに出世せず、預貯金もない自分になびいてくれる女など、妻の他にいるはずもない。一度生じた憧憬に気付かぬ振りなど出来ず、その心根を急速に侵食した。

 この悔悟を境に、アンブローズ・バグウェルは更正の日々を送った。毎晩のビールを断ち切り、麦汁に代わってヨーグルトと野菜スムージーを燃料とした。早朝のフィットネスに励み、弛みきった腹を引っ込ませる努力をした。成果はちょっと出た。退勤後は何処へも寄り道せず、涙ぐましく貯金に勤しんだ。誰にも内緒で開設した預金口座を、我が子のように慈しんだ。無味乾燥な日常を脱し、バグウェルは幸せを噛み締めていた。退職予定日を翌年の妻の誕生日に見据え、退職に備えて業務の引き継ぎに奔走した。年甲斐なく心が踊り、夢のように充実した二年間であった。危なっかしいほどに。

 今から三日前の夕刻、バグウェルは定時で退勤し、足取り軽く帰路に就いた。誕生日を迎えた自分を、愛する妻はどんな言葉で迎えてくれるだろうか。ひょっとすると、忘れてしまっているかもしれない。妻のそんな抜けた部分も大好きだったと、思い出し笑いに頬が緩む。期待を抱くバグウェルが自宅玄関をくぐった時、夢はそっと幕を下ろした。

 そこに妻はいなかった。新婚祝いで買ったダイニングテーブルに、素っ気ない書き置きが残されていた。長年連れ添った夫の総合成績が、たった一枚きりのメモ用紙に収まっていた。

 半日後の早朝、バグウェルはビール壜を手に、自宅前でゲロ池に沈んでいるのを隣人に通報され、部下に回収された。以来、署内の誰ひとりとして、彼に触れる者はいない。

 自ら生み出したエゴに裏切られ、バグウェル感情のゴミ箱を求めては荒れ狂った。入念に組んだ退職計画を破り捨て、妻を思い出す品の一切合切を燃やした。へそくり預は金聞いた事もない銘柄の酒に変わり、味も分からないままゲロに帰した。。ちゃんと出勤はしていたが、数百本の信管が刺さる不発弾が約束する安全などありはしない。そんな男がサヴェジ日用品店での立て籠もり事件の指揮を執ると知って、果たして人質は正気でいられるだろうか。

 



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奴隷蛮行【3-3】

 アンブローズ・バグウェルは新米警官から訊き出した地点を目指して、靴底を引きずるように歩いた。三日前の誕生日から、彼の表情筋は憎悪以外の形を取らなくなっていた。季節外れの寒気に手指の感覚は失われていたが、代わりに膝の関節が粗挽きされるような痛みを訴えた。

 下半身の疼痛にバグウェルの限界が訪れると同時、目当ての車輌を視界に捉えた。その巨大なバンは塗装こそ他のパトカーと変わりないものの、アンテナの針山がルーフに林立していた。近くの地面で無数の配線がのたくっており、途中から一つに束ねられてバンの内部に引き込まれている。バグウェルはバンのリアゲートに迫ると、真っ赤にかじかんだ拳を叩きつけた。せわしない殴打に扉が開かれると、戸口のドアボーイを押し退けて車内へ踏み入った。バンの荷室は薄暗く、精密機器が散乱して立つ場所を探すにも一苦労だった。三人の制服警官が車内に詰めており、各自が複数の液晶画面と睨み合っている。凡庸な警察車輌を装うこのバンには、凶悪犯罪に対抗するハイテクの粋が尽くされていた。付近に展開する警察官の通信基地局としての機能は勿論、国内のニュースやSNSをリアルタイムで追跡し、有事とあれば監視カメラをハッキングして映像を同期、さらには偽りの映像を流して欺瞞もこなす。それはさながら、移動式の司令部と呼べる代物であった。

「現状はどうなってる?」

 防水制服の滴を払うバグウェルの問い掛けに、最奥の席の巡査が振り返る。その目元に疲労と、挨拶もなく自分の縄張を濡らす上司への敬意が表れていた。通信監視を務める巡査は口を固く結び、人質事件のあらましが整理されたクリップボードを差し出した。労力の染みた資料へバグウェルはは一瞥もくれず、上着のポケットへ両手を突っ込んで沈黙を貫いた。資料が空を漂う十秒が過ぎ、監視官は肩をすくめて目頭を揉んだ。――我らが巡査部長殿は、外様のデスクワーク組に口頭での要旨説明をお求めだ。監視官は舌打ちを寸前で押し殺し、鼻梁をずり落ちる眼鏡の位置を直した。疲弊した脳が、決死の合理化を以て自我の維持を試みていた。「大切な仕事道具に、ゲロが付かずに済んだじゃないか」と、祈りめいた呪詛に神経をつなぎ止めると、監視官は埒外の任務に取り掛かった。

 監視官が手垢にまみれたマウスを握るや、矢印形のポインターが五基のディスプレイ上を縦横無尽に飛び交う。目まぐるしく切り替わる画面と、おぞましいビートを刻むのクリック音の合間を縫って、監視官の要旨説明が挟み込まれる。死にゆく脳細胞の処理限界を振り切る負荷に、バグウェルは眩暈を覚えた。許容量を超える負荷に顔を背けるロートルをよそに、端末を駆る巡査の瞳が爛々と煌めき、不規則な情報の濁流から砂金を洗い出す。

 

 ――四月十五日、十二時四十分。現地の通報を統括する管制室に、一件の通報が飛び込んだ。

「黒いバンが、囚人護送車に突っ込んだ」

 この通報を皮切りに、市民からの立て続けの緊急連絡に電話回線がパンクする。

「囚人服の男が路地に向かって走っているのを見た」

「二十くらいの男たちが、犯罪者の脱走を手引きしたみたいだ」

「銃を持った連中が、女の子を追いかけてる」

「うちの子が、何処にもいないの! 早く連れ戻してよ、こんな天気じゃ死んじゃうじゃない! 首輪は緑色の革製で――」

 十二時四六分。個人の携帯電話が発した十七件目の通報に、現地の警察官は戦慄した。

「もしもし、え? 事件か事故かだって? そんな場合じゃないんだって。サヴェジ日用品店ってきな臭い店なんだけど、そこに武器を持った連中が押し寄せてるんだよ。人数は……うわっ! おい、今の聞こえたか! 銃声だよ! こんなとこいられない!」

 市民の嘆願を聞きつけ、法の尖兵が雄叫びを上げた。ウェールズ各地でパトカーのサイレンが唸り、手漉きの公安職員は一も二もなく現場へ急行した。法執行官らが現地に到着すると、既にネタを嗅ぎつけた地元マスコミがうようよしていた。警察は出歯亀の排除に奔走する合間に、サヴェジ日用品店の従業員を自称する外国人ふたりに任意同行を求めた。また、立て籠もり犯が籠城を始める前に解放された民間人へも事情聴取が行われ、これが奏して本件に関する貴重な情報が得られた。なお、店舗従業員らは不法滞在と麻薬密売のかどで、拘置所での追求が確定している。

 短時間で作成された資料によれば、本件の容疑者はカーディフ出身の無職、ジム・カヴィルを筆頭とする、五人組のならず者であった。四月十五日の午後一二時四三分、サヴェジ日用品店を武装占拠した犯行グループは十五体の高級奴隷を人質に取ると、店内にバリケードを築いて籠城、徹底抗戦の意図を表明する。事件解決の初期段階として、犯罪交渉人が籠城犯と電話連絡を取ると、電話口のカヴィルは荒唐無稽な条件を提示した。一つ、自分たちを安全快適に離脱させるVIP車輌の手配。二つ、「金塊でいっぱいのスーツケースをいっぱい」。加えて、店舗に接近する動きがあれば、人質の殺害もいとわぬ考えをほのめかせた。受話器の間近で銃の撃鉄を起こす音を残し、カヴィルは電話を切った。降りしきる豪雨の下、法の守護者たちは不平等条約に頭を垂れる他なかった。

 



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奴隷蛮行【3-4】

 事件の要旨説明を果たし、監視担当が冷えたコーヒーを啜る。己の事前演習なしの仕事振りに満足しており、バグウェル「くそ」巡査部長の如何なる問いにも応じる態勢が整っていた。バグウェルは毛の寂しい肌寒いこめかみを掻き、カフェインで一服する部下を見下ろした。

「……それで、そこまで把握しながら、どうして機動部隊を突入させない?」

 素っ頓狂な物言いに、監視官はむせ返った。悶える同僚をひとりが介抱に駆け寄り、残るひとりは信じられない低脳を目の前に意識が飛んで、警察無線の処理どころではなくなった。手前《てめえ》で説明を求めておきながら、巡査部長殿は話半分も理解してなかったのである。

 監視官は想定外のパンチから持ち直すと、鼻血が混じるコーヒーを袖で拭い、床に落とした眼鏡を掛け直した。

「いいですか? たった今申し上げたように、人質は高級奴隷です。ここまではお分かりですね?」

「当然だろう。さっさと突入させたまえ」

 監視官は大きく仰け反り、その目を覆った。その心中は、事件を解決するより先に、目の前の無能を介護施設に叩き込む欲求に駆られていた。

 実のところ、バグウェルは本件の責任者などではない。本来の担当者は別におり、バグウェルよりずっと上級の刑事が現場を統括する手筈だった。この人事に、天災とそこに付随する人災は考慮されていなかった。暴風雨と交通事故で幹線道路に動脈瘤が生じ、当初の担当者は渋滞に囚われて身動きが取れなくなっていた。当局は代理の刑事を求めたが、護送車から逃亡した凶悪犯の対処もあり、手近な刑事資格者は出払っていた。人質事件に割ける人手は、現場近くの駐在警官に頼るしかなく、当局は刑事が到着するまでの繋ぎにバグウェルを割り当てざるを得なかったのである。

「こちらをご覧下さい」

 監視官は佇まいを正すと、一枚のディスプレイをペンで指し示した。液晶画面に、四つの似通った動画が同時再生されている。それはサヴェジ日用品店内の防犯カメラのリアルタイム映像で、それぞれ別の区画を写していた。くすんだレンズの向こうで武装犯が往き来し、床に座る人質の集団に警戒を向けている。色あせて不鮮明ではあったが、店内の切迫感を伝えるには十分だった。

「ご覧の通り、容疑者は正面出入口と会計後ろの裏口に、什器を使ってバリケードを築いています。この質量の障害を取り除くのは時間が掛かります

 建物正面は一面ガラス張りですが、鋼鉄製のグリルシャッター(目の粗い格子状の防犯シャッター)が隙間なく下りています。シャッターを構成するパイプは工業用バーナーで焼き切れる太さですが、飛び散る火花は目立ちますし、正面からの接近はそれこそ現実的ではありません。

 手段がどうであれ、容疑者から気付かれずに作業を終えるのは困難です。突入の意図を悟られれば、人質に危害が及びます」

「だったら、その前に済ませばいい。何の為に爆弾があると思っているんだ」

 監視官の頭蓋の底に、ふつふつとあぶくが生じる。

「……巡査部長の仰る通りです。建物の適切な箇所にプラスティック爆薬を仕掛ければ、ガラスは元より、錠の落ちたドアや堅固なシャッターも破断は容易でしょう。ええ、誰しもそう思い至りますとも」

 監視官はペンを持つ指を震わせ、ペン先で防犯映像のあちこちを連打した。

「だからこそ、容疑者はそれを見越して発破が想定される場所……つまり、裏口ドアや窓ガラス、壁の薄い箇所に、人質を分散して配置しているんです。これでは手が出せませんね? 起爆したら、ドアやガラスの破片が人質を襲うんですから」

 噴火も秒読みの激情に胸を上下させる監視官を、バグウェルは車内に入った時と変わらない、不遜な半眼で傍観していた。やがて呆れに鼻息を漏らすと、脂肪の乗った指で防犯映像を指した。

「人質はたかが奴隷だ。騒ぎを余計に長引かせる方が、警察の威信に関わる」

 殆ど動きのない映像を見据えるバグウェルの視界の外で、監視官は口をぱくぱくさせた。

「……お言葉ですが、高級奴隷に被害が及んだ場合、相当なバッシングを被ります。ここは慎重を期すべきです」

「おいきみ、随分と性奴隷の肩を持つじゃないか」

 バグウェルの冷笑に、三人の技術職が凍り付く。当人が作り出した冷たい空気に、バグウェルは気付かなかった。

「第一、人質は全員が性奴隷なんだろう? 犠牲者が出たところで、賠償責任を問われるのは奴隷の販売元で――」

「不用意な発言は控えて下さい。メディアに聞かれたら、それこそ威信に関わります」

 ぴしゃりと放たれた戒めに、バグウェルは明らかな不快感を示した。

「言動に気を付けろよ若造、誰がここを取り仕切っていると思っている」

 バグウェルは指で監視官の胸をつつき、昨夜のアルコールが残るため息を車内に撒き散らした。それから反抗の意も顕わな監視官に背を向けると、片耳にヘッドセットをあてがう通信担当の肩を叩いた。

「待機中の警察官に、即時の突入を命じろ。茶番はもうたくさんだ」

 感情と諸々が抜け落ちた指示に、これまで黙っていた通信担当の堪忍袋の緒が切れた。肩に乗るぶよぶよの手を振り払い、ヘッドセットをかなぐり捨ててバグウェルの襟首に掴み掛かるイメージが、その脳内に出来上がっていた。通信担当が衝動に突き動かされてバグウェルへ振り向いたその時、憎い上官の背後で別の動きがあった。



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奴隷蛮行【3-5】

 バンの荷室を、敵意の籠もる足運びが揺るがした。バグウェルの上半身が大きく左へ傾くや、通信担当に触れていた手が虚空を手繰る。バグウェルは外力に対抗して肥えた自重を支えようとしたものの、配線につまずいてリアゲート脇の内壁に背中を打ち据えられた。制服の胸元を、青筋の浮いた腕が揉みくちゃにしている。無能上司と鼻が触れ合う距離で、監視担当官が激昂に息を荒げていた。

「常識がないのも加減しろくそ野郎! 突入なんかさせられるか!」

 激しい揺さぶりにバグウェルのシャツのボタンが弾け、車内を跳弾する。

「……きみ、この手は何だ。こんな真似をして、ただで済むと思っているのか? 今なら情状酌量の余地を与えてやる」

 狭まる気道から絞り出した警告など歯牙にも掛けず、監視官の両手は力がこもる一方だった。バグウェルは努めて平静を繕おうとしたが、その瞳は二十あまり年下の男が向ける敵意に畏れをなしていた。情報班のあと二人が慌てて監視官を引き剥がすと、バグウェルは大げさにせき込んでみせた。

「この件は上に報告するからな、覚悟しておけ」

 猫背で凄む姿は、尻尾を巻いてずらかる寸前の子犬に似ていた。

 バグウェルと監視官が物理的に引き離されると、通信担当が先のクリップボードをバグウェルへ突き出した。同僚が一足先に憤懣をぶちかましたので、彼は牙を剥くタイミングを逸していた。

「必要な情報は、全てここに記されています。どうか確認を願います」

「それならさっき聞いただろう。時間の無駄だ」

 荷室の隅にへたり込んで喘鳴を発するバグウェルの頬に、クリップボードの角が突き刺さる。

「口外できないからこそ、文書にしているんです。読んで、それから理解して下さい。どうやら巡査部長殿は、先の説明で言外の意図を察していただけなかったようですので」

 バグウェルは通信担当の言葉尻に胆汁がこみ上げたものの、荷室に怒れる獅子を増やすのもぞっとせず、クリップボードの拝見を甘んじて受け入れた。

 

 資料の前半には、先に監視員が説いた事件のあらましに加えて、五人の容疑者の来歴、判明している容疑者の武装状況、囚人護送車に衝突した盗難車の出所が明記されていた。いずれの容疑者も小悪党の域を出ず、犯罪歴は月並みなごろつきと同然であった。こらえ性をその甲斐性くらいしか保てず、バグウェルは資料から首をもたげた。

「これがどうしたって?」

「いいから続けて」

 目下からの不当な扱いに、バグウェルの自制のヒューズが焼き切れる。が、通信担当の軽侮の視線を受けるや、すごすごと資料の黙読に戻った。

 情報班が重要視する事項が、資料の後半に集約されていた。そこには人質全員の名簿が綴じられており、各々の顔写真や生年月日、健康状況、果てには奴隷となる前後の来歴が具に記されていた。リベラル団体向けのフルコースである。捜査資料を今度こそ読了すると、バグウェルは眼精疲労を演じつつ問い掛けた。

「こんな荒い映像で、どうやって奴隷の身許を特定したんだ?」

 監視担当が鼻で笑った。背中を壁に預けて両足を投げ出しており、業務への復帰は絶望的である。諦めの境地に達したため息をつき、通信担当は再び仕事の手を止めた。情報班の苦悩の由縁は、かつてヒトだった少女らへの憐憫ではなかった

「なんにも難しくありません。タグが勝手に教えてくれますから」

 現代英国において『タグ』という単語が発せられた時、それはほぼ例外なく『奴隷個体識別および防犯追跡装置』を指す。その名の通り、奴隷の位置情報を四六時中追跡するGPS発信器であり、個体の盗難や脱走時の対処を主眼とした多機能端末である。装置が発する信号は奴隷の所有者のみならず、奴隷に関与する犯罪を抑止する観点から、今日では各法執行機関へも開示されている。あえて言及するまでもなく、法執行機関にはウェストマーシア警察も含まれていた。

 一秒でも早く自分の仕事に戻るために、通信担当が早口に模範解答を並べ立てる。

「本件で最大の問題は、人質の所属……つまり、奴隷の雇用主にあります。名簿上の三名が警察に直接の資金援助を行っており、少なくとも五名は何らかの形で政界に影響を持っています。彼らが愛玩する奴隷に危害が及べば、その問責が警察に向くリスクが生じます。ここまでは理解いただけましたね?」

 死にかけの脳細胞が返答する間は置かれなかった。

「……最悪なのは、容疑者が立て籠もりに選んだ店舗です。サヴェジ日用品点は、以前から麻薬取引でマークされていました。人質が日常的に当該店舗を利用していて、それをメディアが嗅ぎつけたら、こぞって警察を糾弾するでしょう。事件解決どころか、マスコミを遠ざけるだけで手いっぱいなのが現実です」

「近所に凶悪犯まで放たれたしな」

 勤労意識を掻き集めた監視官が、自分の席に戻る。

 聞いた内容の五割方を噛み砕き、バグウェルはやっと入署一年目の巡査に近づけた。

「CO19(ロンドン警視庁の銃器犯罪専門部隊。SWATと同様の武力介入を行う)の出動要請は済んでいるのか?」

 この日初めてバグウェルが発した「それらしい」単語に、情報班の面々が目を伏せる。

「三十分前に先発隊が派遣されましたが、到着は早く見積もって三時間後です」

 通信担当の疲れ切った物言いに、バグウェルの顔が紅潮する。

「そんなに掛かるものか。ヘリのひとつや二つあるだろう」

「正気ですか? この嵐では自殺行為ですよ!」

 通信担当が、埃にびっしり覆われたディスプレイを指差す。事務職の不衛生に嫌味を吐く寸前で、バグウェルはそれがイングランドの最新の気象図だと気付いた。ブリテン島を、上空から禍々しい単眼の怪物が視姦している。通信担当が天井を仰ぎ、事務椅子が軋みを上げた。

「陸路だって使えたもんじゃありません。大雨で、幹線道路は何処も渋滞です。首都警察《ヤード》の到着を待つ間に、マスコミが規制線を突破するでしょうね」

 仰け反った体勢から一転、通信担当は腰を曲げてうな垂れた。

「それこそ、SASの手でも借りなきゃ――」

「SASだと?」

 不穏な声音に通信担当が見上げると、全盛期のソヴィエトより鮮やかなバグウェルの赤ら顔があった。誇張ではなく、頭頂部から湯気が立ち上っている。その手の中で、樹脂製のクリップボードに亀裂が走った。

「SASだと? 冗談じゃない! あんなごろつき連中の手など借りるものか。国家の寄生虫どもめ!」

 上気したバグウェルの地団駄に、壁に掛かるコルクボードが落下する。中年の癇癪に、情報部の三名は唖然となった。

 警察の手に余る凶悪犯罪には、往々にして軍特殊部隊の介入が見られる。支援対象は国内に限らず、一九七七年のルフトハンザ一八一便のハイジャックでは、新生間もないドイツ警察特殊部隊の支援に、SASからアドバイザー二名が派遣されている。国際テロが頻発する昨今、警察と軍の連携は強まりつつある。

 そういった理屈が、アンブローズ・バグウェルには通らない。地元警察の制服に袖を通してこのかた、バグウェルは三つの人種に憎悪を抱いている。一つ目は、職務質問に真面目に応えないSAS隊員。二つ目は、酒場でしょっちゅう喧嘩騒ぎを起こすSAS隊員。それから、夜半にピンポイントで自宅前にゲロ爆弾を落としていくSAS隊員である。元SAS隊員の暴露本はベストセラー入りが確約されているので、書店はショーウィンドウを黒ずくめの戦闘員の表紙で埋め尽くす。そのガラス一枚を挟んだ先で、現役のSASが噛み煙草を道路に吐き捨てているのも知らずに。市井は彼らを手放しに持てはやし、酒場の上客と崇める。だがバグウェルにとって、SASは単なる田舎のチンピラでしかなかった。喧嘩の仲裁に入った警官を下着姿に剥いて嘲る、最低最悪のろくでなしだった。

 鷲掴みにした帽子を壁に叩き付けたところで、バグウェルの発作に一旦の収束が訪れた。制服は乱れ、不慣れな運動に肩を上下させている。荒い呼吸の合間を縫って、かすれた声が発せられる。

「いいか、SASなんかお断りだ……。やつらから接触があっても、絶対に応じるな」

「ですが――」

 通信担当官の正論に、癇癪の第二波が寄せる。不条理を乗せた怒号が腫れた声帯を震わせる。上官の乱心に通信担当が身構えると同時に、バンの荷室に闇が落ちた。

 突然の停電に、その場の全員が慌てふためいた。四人の男が浮き足だってぶつかり、なにか重い物が倒れ、短い悪態が飛び交う。情報班は機材の再起動に起動スイッチを連打し、ヘッドセットでマイクに語り掛けたが、ハイテク機器が眠りから覚めることはなかった。

「どうした? なにが起きたんだ?」

「知りませんよ!」

「だったら原因を突き止めろ!」

「やってますよ!」

 プロらしからぬ返事にバグウェルは遺憾を抱き、通信担当はマグカップを馬鹿上司に投げつける誘惑に駆られた。荷室に明かり取りはなく、今ならどさくさに紛れての闇討ちも難くない。悪魔の囁きに机の上を手探りし、気づけば手中からカップの感触が消えていた。リアゲート付近から鈍い衝突音と情けない悲鳴が生じ、通信担当は自らの愚行に身をこごめた。聞き苦しい呻きと、激しい悪態が続いたせいで、四人は戸外からリアゲートを叩く音に気づかなかった。罵声のエコーに満ちる荷室に、一条の光が差し込む。

「バグウェル巡査部長はいらっしゃいますか?」

 開け放たれたリアゲートの先に、さっきバグウェルが轢きかけた新人警官が立っていた。一筋の稲光が瞬き、バンの内部が照らし出される。 ひっくり返したおもちゃ箱みたいな車内に、壊れかけの警察官の人形四体が転がっていた。零れたコーヒーがこしらえた湖で、バグウェルが身じろぐ。

「ノックくらいしろ」

 「しましたよ」と言いかけて、新人はぎょっとした。腹に据えかねる上官とはいえ、額から鮮血が滴っているのは、気分の良い光景ではない。傍らの床で、空っぽのマグカップが三つ転がっていた。

 額の傷をかばいつつ、バグウェルがのそりと立ち上がる。コーヒーまみれの巡査部長の後方で、情報班の三人が互いに胸を撫で下ろしていた。いずれの机上にも、コーヒーのカップは見当たらない。巡査部長の負傷は、あくまで不運な事故として処理される。

「なんの用だ」

 血みどろの中年を目の前に、若者は言葉を失っていた。バグウェルは役目を果たさない伝令に舌打ちしかけ、すぐに息を呑んだ。萎縮する哀れな巡査の背後から、初老の男性がぬうと音もなく出現した。

「きみ、道案内ありがとう。冷えないようにね」

 その当人は傘も差さず、くたびれたダッフルコートもびしょ濡れの有様である。男性は新米巡査の肩を叩くと、今まで歩いてきた道へそっと背を押してやった。新米巡査は不安げに何度か振り返り、男性はその度に小さく手を振る。若者の姿が曲がり角の先に消えると、もの悲しげにごちた。

「うちのせがれも、あれくらい素直なら可愛いもんですがねえ」

 男性は眉を下げつつも、悪天に不釣り合いな微笑みをバグウェルに向ける。実力が伴うかはさておき、職業病からバグウェルは男性の人相を検めた。身の丈は一七五センチほどで、肩幅は少し広い。薄いブロンドの毛髪は半分白くなり、程々に整えた口髭も同様である。全体的に肉付きが良く、フランネルのシャツ越しでも、ぷにょんとせり出す下腹部が見て取れる。明け透けな品定めをよそに、男性がバンの惨状を覗き込んだ。

「……どうも、お取り込み中のようで」

「どちら様で?」

 無愛想な誰何に、男性がひょうきんに手を打ってみせる。

「いやはや、これは失礼しました」

 そう言って、懐から顔写真付きの身分証を取り出す。

「近くの陸軍から参りました、クラプトンと申します」

 バグウェルの目尻が引きつるのもお構いなしに、クラプトンと名乗る男は砂色のベレー帽を被った。一対の翼を有する剣――陸軍特殊部隊・SASの徽章が刺繍されている。

「そこの立て籠もり事件について、少しばかりお窺いしても?」

 笑顔こそ崩さねど、その言葉に拒否権の余地はなかった。



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