大好きで、あれだけ会いたかった家族はもういない。
――私が逃げ出したから、殺されてしまった。
涙は出ない。心のどこかで覚悟はしていたのだろう。
自分の中の何かが欠落してしまったような感覚。
あぁ、これで私は本当の意味で……。
鏡が私の姿を映し出している。仮面をつけているせいか、表情は読み取れない。
外すことすら忘れていたようだ。
仮面に手をかけ外そうとして――
「うそ……」
思わず口から声が漏れる。
そんなはずはない。今までそんなことはなかった。
仮面が外せないなんて、そんなわけ……。
背筋が凍るような恐怖心に駆られて、仮面を引き剥がそうと力を入れる。
まるで顔と一体化してしまったように、どうしても剝がすことができない。
これだけ力を入れているのに、皮膚が引っ張られる痛みすら感じられない。
「どうして……こんなことって……」
接合部から滲んだ血が、仮面の魔力で修復されていく。
恐怖と絶望に、ただ鏡を見つめて茫然としていると、
――トントン
部屋のドアが優しく叩かれた。
「誰?」
できるだけ平静を努めて声を出したものの、声は掠れてしまい、ドアの向こうの相手に届いたかどうか自信がない。
「ロザミア……俺だけど」
控えめな男性の声。少し甲高さの残る少年特有のこの声は……。
「団長?」
最悪のタイミングだ。今一番会いたくない人であり、いつかは伝えなければならない相手でもある。
いや、伝えるのならば早いほうがいいか。
「いいわ、入って」
声をかけて数秒、ためらいがちにドアを開けて入ってきた彼は、頭を掻きながら目を泳がせている。
「それで、なんの用かしら」
一向に会話を始めない彼にやきもきして、私は少しイラついた口調で問いただす。
そうすることで、やっと彼は口を開いた。
「その……大丈夫?」
言葉を選ぶようにゆっくりと彼が問いかける。
――大丈夫? 仮面のことはまだ知られていないはず。じゃあ、私の何が……
あぁ、そうか。至極簡単なことに思い当たった。
彼は家族を失った私を心配してここに来てくれたのだ。
そんな簡単なことも思いつかないほどに、今の私には余裕がなくなってしまっていた。
「実感が湧かないのが本当のところ。
……それに、私がやるべきことは変わらないわ」
そう。変わらない。
帰るべき家がもうなかろうが、仮面が剥がれなくなろうが、私は復讐者であり続ける。
……どうしたって、もう戻れないのだ。
「大丈夫。私なら心配いらないわ。
今更この程度のことで揺るがない」
「この程度のことなんて言うなよ」
少年が涙目で訴える。
そうだ。彼はいつだって他人の痛みを自分のもののように感じてしまう。
感受性が強いのだろう。
それは誰かの救いになるだろうけど、同時に己を傷つける刃にもなってしまう。
――同情ならいらないわ。
「優しいのね、あなたは……」
だからこそ突き放したいのに、私の口からは本音が漏れてしまう。
それでも、これ以上の迷惑はかけられない。
覚悟を伝えるために私は彼に背中を向けた。ここからは、一緒に進むわけにはいかない。
「……私はこの艇を降りるわ。
ここから先は、ただの私怨だもの」
熱い衝撃が体を覆う。
少しして彼が背中から抱きしめてくれているのだと気付いた。
彼が私の耳元で、私の名前を囁く。
熱に浮かされたような彼の声がくすぐったくて、少し嬉しい。
彼の方に振り向いた私の顔に手をかけてゆっくりと仮面を――――
仮面を剥がそうとした彼の表情が堅くなる。
――大したことじゃないの。放っておいて。
「もう外れないの……」
隠そうとしても本音を言ってしまう私に、強がりは意味をなさない。
諦めて私は本当のことを告げることにした。
「きっと……もともと制御できるような代物じゃなかったのよ。
私は完全に仮面の呪いに飲み込まれてしまった」
仮面に飲み込まれるということは、力の暴走がより強烈になるということ。
それがどういうことか、私の近くにいた彼ならばよくわかってしまうことだろう。
「だから、私は団を抜けるわ。お別れよ、団長」
彼は一瞬だけ悲痛な表情を浮かべると、すぐに首を振り「行くな」と言う。
けれども仮面の呪いはきっと彼を、彼の大事なものを傷つけてしまうから……。
「ごめんなさい。私はもうここにはいられない」
「君を一人にはさせたくない」
まだあどけなさの残る真摯な瞳に、胸の奥が疼く。
羨望と安堵と罪悪感、そして欲情。
「やっぱり、あなたはお節介で、お人よしだわ」
私はきっと、長い旅の間に彼を信頼しきってしまったのだろう。そして、それだけではなく……。
「ねぇ、もしも……」
意味のない質問だと気付いて口を閉ざす。
「私以外の団員が同じような目にあっていたら、あなたはどうするの?」
それでも、私の口は勝手に動き、心に押しとどめていたかった質問を吐露してしまう。
「放ってはおかない」
そう、あなたはそういう人だ。
私を抱きしめてくれるのも他意のない優しさにすぎない。
勘違いしてしまいそうになる感情を押し殺す。
……私は彼の『特別』にはなりえない。
「あなたのそういうところ、嫌いだわ」
そんな言葉を伝えたいわけじゃないのに……。
仮面は私の本心を表にさらけ出す。
きっとそうすることで私が孤立することを望んでいるのだ。
けれど、どうして……?
答えは明白。
仮面が私を支配するのに、仲間や友人といった存在は邪魔なのだ。
私はただ、コレの求めるままに闘争を続ければいい。
今までだってずっと一人で戦ってきたのだ。
これからだって……
(これから? これから私はいったい何と戦うというのだろう)
(そうだ、復讐。私は復讐をしなければならない)
どのみち彼には嫌われた方がいい。
そうすれば、なんの気兼ねもなくこの艇を離れることができる。
彼は私をまっすぐに見つめている。
……その表情は、まだ私を引き留めることを諦めていないようだ。
当たり前だ。彼はどうしようもないくらい誰にでも優しい。
「嫌われても構わない。これからも、ずっと傍に居てほしい」
ひと言ずつ選ぶような喋り方ではあったけれど、その言葉に迷いはない。
「ちょっと何言ってるかわからないわ。私を傍に置くメリットはもうあなたにはないはずよ」
だからこそ私は彼に冷淡に事実を突きつける。
その行為の心苦しさに、私は認めざるをえなくなる。
私の最後の未練は、きっと彼なのだ。
「キミが好きだ」
「本気?」
「こんなタイミングで言うべきことじゃないかもしれない。けど……」
――私は、そんな馴れ合いをするつもりはないわ。
「ありがとう。私もあなたが好き」
あぁ、まったく。仮面に少しだけ感謝してしまいそうになる。
きっと言えなかったであろう言葉を、いとも容易く表に出してしまう。
「私を、あなたに繋ぎとめて」
繋ぎとめてもらって、私は一体どうするつもりなのだろう。
自分の衝動も欲望も理解できないけれど、もう後には引けない。
私は彼の肩に手をかけると、目を瞑り唇を重ねた。
少しカサカサしている男の子の感触。
短いキスから唇を離すと、彼の手が私の背中に回された。
密着してギュッと抱きしめられる。
「どこにも行かせない」
囁く彼の声が麻薬のように身体を熱くさせる。
「どこにも行かないわ」
もう本音も建前も関係ない。満足したように彼が力をゆるめると、再び私たちはキスをする。
お互いの唾液を交換する、脳髄まで蕩けてしまうような深い口づけ。
再び強く抱きしめ合うと、彼が姿勢を低くして私の胸に顔を埋めた。
顔を擦り付けるようにして求める姿が、なんだか可愛らしい。
一通り堪能すると満足したのか、再びのキス。
彼の舌先が私の首、肩と降りていき、最後に脇にたどり着く。
「んんっ!? こら、やめなさい」
くすぐったさと恥ずかしさに彼の顔を引き離すと、すごく残念そうな顔をしていた。
「本当にバカなんだから」
ふたり顔を見合わせて笑いあう。
――あぁ、そう。私はまだ笑えるのね。
仮面の張り付いた右頬の感覚はないけど、それでもよかった。
そのまま全身で求め合い、もつれるようにしてベッドに倒れ込むと、お互いの服を脱がしあう。
恥ずかしくて怖いけど、温もりがそれ以上に愛おしい。
お互いのぎこちない行為に、私たちは安堵し、笑い合い、求め合い、幸福の中でその絶頂を迎える。
私は、彼と生きていってもいいのだろうか。
スヤスヤと寝息を立てている彼の髪を撫でながら、そんなことを考えてしまう。
……そんな未来も悪くない。
彼の頬に優しくキスをして、金属の擦れ合う音を極力抑えながらゆっくりと剣を抜く。
もはや彼は私の心の拠り所になってしまった。
家族はもういない。けれど、復讐以外に残ったものもある。
振りかぶり、愛を交わした男の心臓を一思いに……
……!?
私は今何を考えた?
私は、今、何をしようとしている?
唐突に戻ってきた己の意思と感触に怖気が走る。
(いつのまに剣を握った?)
振りかぶった先には彼が眠っている。
……私は、大切な人を、殺そうとしたのか?
意味の分からなさに混乱し思わず顔を覆ったが、その理由は手に触れた冷たい感触で理解できてしまった。
私は仮面に体だけでなく心まで侵されていたのだと。
私の気配を察知してか、彼が身じろぎをした。
(お願い、どうかこのまま起きないで……)
願いとは裏腹に、彼が薄く目を開けて微笑む。
穏やかな表情。
血に濡れた道を歩いてきたというのに、私とは大違いだ。
彼は大志を持って大空に臨み、
私はどす黒い復讐心を抱きながら大地をのたうち回っている。
助けて……私も、この終わりのない復讐から解き放たれたい。
あなたの隣で、幸せになりたい。
涙を流しながら、縋りつきたい気持ちで開いた口からは、
「コ……ロ……」
思わず己の口を手で押さえつける。
違う。そんなものは私の本心ではない。
そうであっていいはずがない。
私は……私は……
――コロシテヤル。
どうして。今までは本心が漏れることがあっても、本音が言えなくなるようなことはなかった。
うめき声を抑えつけ、私は彼に「出て行って」と告げる。
心配するような眼差しすら、今の私には恐ろしい。
彼に何かしてしまいそう。温もりを知ってしまった今、その恐怖は耐えきれないほどに重い。
「お願い……一人になりたいの。ごめん……」
腑に落ちない顔をしている彼に、仮面の力が暴走しそうなのだと告げる。
「大丈夫、どこにも行かないわ」
あぁ、嘘がポロポロと、私の口から漏れ出ずる。
本音を言ってしまえればどれだけ楽なことだろう。
――行かないで、そばに居て。
部屋から出ていく彼の背中に、声をかけてしまいたくなる衝動を抑え込む。
やがてドアが閉まると、私はベッドに伏して彼の残り香に身をゆだねて泣いた。
このまま私がここに居たのでは彼を傷つけてしまう。
そうなってしまえば、本当の意味で私はきっと仮面に飲まれてしまうだろう。
だから、私はここを発たなければならない。
――ねぇ団長。私は本当にあなたのことを、愛してしまっているのよ。
そうだ。ここを発つ前に手紙を書こう。
いつかまた戻ってこれるように。彼が心配しないように。
私の心がこれ以上蝕まれないように。
長い時間をかけて私は自分の心を綴る。
手紙を書き終えると、東の空はすでに白みを帯びていた。
艇から降りる準備はそんなにはかからない。
もともとここに長居する気はなかったのだ。自分でも思ってた以上に荷物は少ない。
一人に戻るだけだ。それに私には帰る場所がある。
東の空が明るんできている。
物音を立てないように部屋を出て、最後に一度だけ、彼と過ごした光景を目に焼き付けようと部屋の中を眺める。
切り刻まれた手紙が、窓から風に乗って外へ流れていった。
(あぁ、本当に私は、もう手遅れなのね……)
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