流星の恋 (キララト山)
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ギリシャ編
プロローグ
それでも大丈夫な方はどうぞ。
※修正しました。
女神である母と人間である父との間に生まれたその子どもは『アステラ』と名づけられ、大切に育てられました。
そうしてアステラが大抵の事を一人で出来るようになった頃。
母は外で遊んでいた彼女を呼び出し、告げた。
「恋をすれば貴女は不幸になるわ」
優しく、歌うように囁かれた言葉。
突然突きつけられたその不穏な言葉と母の真剣さに一瞬気圧され戸惑うも、幼さ故に理解が及ばず、内容自体には恐怖を感じていなかった。
それよりも、アステラは"こい"という聞き覚えのない言葉に対しての興味の方が勝っていた。
まって。まってね。それって何だっけ。
覚えたての数少ない知識の中からそれを引っ張り出そうとするも見つからない。
つまりそれはアステラにとって未知の言葉であるという事。
だからアステラは純粋に母に問うた。
「こいってなぁに?」
すると、母は困ったように眉を下げた。
「好きは、分かる?」
その問いに勿論だとアステラは大きく頷いた。
アステラは母が"すき"であったし、父も"すき"であった。最近ではこの山の空気も、森も、空も、花も"すき"であると分かった。
具体的にどういうことなのかを説明する事はできないけれど、それが"いいこと"だと知っている。
「もしかして"こい"って"すき"と同じなの?」
「ううん少し、違うわ」
「違うの?」
「そうね……例えば自分とは別の誰かに特別な感情を抱いてしまったり、その人を見るたびに走ったみたいにドキドキしたり、一緒にいるだけで幸せだって思ったり……ね」
「それが"こい"?」
「勿論それだけが恋ではないのだけれど、そうね」
その答えにアステラは「ふーん」と曖昧に返事をした。聞いたはいいものの、やはりその内容は難しくアステラには理解できなかった。
「わたしはそれを"ふこー"になるからしない方がいいの?」
「恋はね、唐突にしてしまうものよ。だからもし貴女が誰かに恋したのならそれでいいのよ。ただそれが貴女にとって幸せとは言えないかもしれないというだけの話なの」
悲しそうに微笑む母を尻目にアステラは考えた。
話を聞く限り、"こい"は悪いことじゃなさそうだけれど、自分で御せるものではないらしい。そのいつなるかも分からない"こい"をすれば、母が言うにヴェガスはきっと不幸になるのだと言う。
「ふこーになるの……やだなぁ……」
できるなら幸せでありたいという安直な考えからぽそりと呟いた言葉に母は酷く泣きそうな顔になった。それから唇を噛み締めて頭を振ると、アステラの目線の高さまでゆっくりとしゃがみこんだ。
「もし……もしも、よ?貴女が恋をして、苦しくて仕方がなくなったのなら、これを成人するまでに使いなさい」
大きな母の手がアステラの手をぎゅっと包みこみ、何かを握らせた。
その手の中に置かれたそれは角があってゴツゴツしていて冷たい何か。その正体を確認しようと手を開いた瞬間、アステラは「わぁ!」と感嘆の声を洩らした。
花を象った蒼玉は、光の加減で明滅する星のように六条の光を放つ。周りを縁取る銀の装飾は滑らかな曲線を描き、その青を映す髪飾りは見事なものだった。
アステラは瞳をキラキラと輝かせて年相応にはしゃいだ。
「これ、わたしがもらっていいの?」
「えぇ、貴女の為に作ったもの、ですもの」
夢中になって見ていた髪飾りの上に、ポツリと雫が一つ落ちた。雨でも降りだしたのだろうかと不思議に思い、顔を上げたアステラは目を見開いた。
母の夜みたいな色の瞳から、はらはらと涙がこぼれ落ちていた。
「普通の人みたいに、家族が欲しかった。どうしてもあの人との子どもが欲しくなってしまったの。貴女に会いたかったのよ、アステラ。それなのに、ごめんね、ごめんなさい私が──」
声を震わせて泣く母はアステラを抱き締めた。アステラはというと、母が泣いてしまった事に驚いてしまって動けないでいた。
しばらく目を泳がせて戸惑っていたが、母の温もりがじんわりと伝わり、強ばった体から余計な力が抜けていく。
そうしてその心地よさから段々と微睡みに誘われて、母の腕の中でゆっくりと目蓋を閉じた。
しっかりと、その青い花飾りを握りしめて。
──女神ヴェガスは退屈でした。
ですから、父であるエクトスに今日もお願いしました。
「お父様、私にも何か仕事をくださいな」
何時もと変わらない願い。
「そのうちに来るから、もう少し待ちなさい」
何時もと変わらない返答。
本当は役割がほしかったのですが、貰えないことは分かっていました。
ヴェガスは諦めて散歩に出掛ける事にしました。
そうしてしばらく歩くと星の神に出会いました。
「おじ様、何をしてらっしゃるの?」
「あぁヴェガスか。下界を見ているんだよ。ほら」
そう言って天の門を開くと空に溢れた星達がコロコロと滑り落ちていきます。
ヴェガスが言われるがまま覗きこむと、空と同じ色の何かが見えます。空の世界しか知らないヴェガスは興味津々です。
「あれは何でしょうか?」
「海だよ」
「じゃあ、あれは?」
「大陸だよ。生き物が住んでいる──あぁ、ヴェガスあんまり乗り出すと──」
落ちてしまうよ。そう忠告する前にヴェガスは星と共に空から落ちてしまいました。
仕事を終えて帰ろうとしていた鍛冶屋オリクトの元に、星のようにきらきらと輝く女性が落ちてきました。
そして泣き出した彼女に、彼は驚きながらも宥めます。
「どうして貴女は泣いているのですか?」
「落ちてしまったの。このままじゃ帰れないわ」
そうしてオリクトを見上げる彼女の瞳は涙に濡れて、宝石のように、星のように輝いていたのです。
*****
祖父は全てを知っていた。
母が地上に落ちる事も、父と結ばれる事も。
あぁ、それなのに。そんな祖父でさえ予想だにしない出来事が起きてしまったのだ。
一体何処でねじ曲がってしまったのか。何を間違えたのか。
それは"私"という存在が生まれたこと。
それはいけないこと。あってはならないこと。
だから祖父は私に死を授けると決めた。
それを聞いた母は嘆き、祖父と三日三晩口論を続けた。そして遂に折れた祖父は母にとある提案をした。
それは私を生かす代わりに呪いを施し、家族が離ればなれになるというもの。
祖父は母が結論を出すのに七日間の猶予を与え、母は父と話し合うために直ぐに地上に降りた。
二人はあっさりと私を生かす決断を下し、祖父から与えられた五年の時を過ごした。
そして五年が過ぎると父は何処か遠くへと渡り、母は私に別れを告げて空に帰った。
地上に残された私はそうやって生かされている。
両親と別れたアステラは祖父の知り合いであったケイローンの元で暮らす事となった。
彼の住むというペリオン山の麓を訪れてみれば、一頭のケンタウロスが柔和な笑みを浮かべてアステラを待っていた。
少し跳ねた髪をゆるく束ね、その薄い碧色の瞳を細めて微笑む彼からは荒々しいケンタウロスの気配は感じられない。むしろ知的な印象を与える穏やかな青年であった。
アステラは側まで近づいてぺこりとお辞儀をすると、ここに来るまで何回も練習した挨拶を紡いだ。
「はじめましてアステラです。これからよろしくお願いします」
「はじめましてアステラ。私の名はケイローン。これからよろしくお願いしますね。
それと、他にも紹介したい子がいます。丁度貴女と同じくらいの年の教え子がいまして……ほら、アキレウス。挨拶なさい」
そう言ってケイローンは後ろを振り返ると、誰かにそう催促した。アステラもそれにつられてそちらに目を向け──
「すき」
「え」
それは意図せず溢した言葉。
アステラはなんだか急に苦しくなって、胸元を押さえた。心臓がおかしいくらいにドキドキと鳴っている。
それは緊張している時よりも遥かに速く、それはまるで走った時のような。
その胸の高鳴りが何なのか。口走った言葉は何なのか。それらを今のアステラは理解できない。
例え理解していたとしても、きっと目の前に現れた彼を見つめるだけで手一杯な筈だ。
彼女はその輝きに目を奪われてしまったのだから。
アステラの両親、祖父の名前を出しました。親戚に当たる方に実在の名前の方が出てくるかも知れませんが、アステラ含め、ここ四人(?)はオリジナルです。
これ以上オリジナル人物が出てくることはないです。
両親の昔話やらも加筆。
語る場所が無さすぎるのもと思い、思いきって増やしました。
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幼少期編
※修正しました
こんなひどい出会い方ってないと思う。
初めて会う相手に開口一番"好き"だなんて。
綺麗な子。
それが初めて出会った男の子に対しての感想だった。
若葉色の髪が太陽の光を浴びて柔らかく輝いている。子ども特有の大きな瞳は星のようにきらきらとしていて……。
瞬きをするのも忘れて彼を見つめていた。
「アステラ」
「──!」
宥めるような静かな声にはっとする。
声のした方を見上げれば、ケイローン様が困ったように眉を下げて苦笑いをしている。
どうしてそんな顔をしているのだろう。
私は何か不味い事を言ってしまったのかしら?
そう思って視線をさ迷わせて、目の前の彼に視線が止まる。
(あれ?)
先程までの私は何故かぼんやりとしてしまって、正常ではなかったから気づかなかった。
男の子はぽかんとした顔で私を見つめている。
どうしてそんな顔で私を見ているのか、全くわからない。でもこの子だけでなく、ケイローン様も何だか困っているようだった。
(……もしかして、何かしてしまった?)
そんな考えが過るが、全く身に覚えがない。
けれど実際、二人はこうして困惑している訳だから何かがあった筈なのだ。
私はその答えを導くべく、無理矢理に頭を回転させた。
(えぇと、私はこの子に挨拶をしようとして……。そう。それで自己紹介をした、筈、で)
それなのに、未だ居座る違和感に首を傾げた。
挨拶した筈なのに、そんなに長く喋った気がしない。
むしろ、もっと短かったような────
「────ぁ」
そしてようやく自分が放った場違いな言葉に気づき、慌てて口を手で押さえつけた。後悔と恥ずかしさから全身がみるみるうちに火照り出した。耳なんか千切れそうなくらいにジンジンと熱い。
彼の様子を伺えば、少し顔を赤くして視線を右往左往させている。
つまりそれは、本当に初対面のこの子に向かって"すき"と言ってしまったという事で───
(違う!違うの!本当はきちんと言うつもりで……それならどうしてきちんと言えなかったの!?)
言い訳と罵倒が頭の中でぐるぐると渦巻いて喧嘩をし出す始末。
もう一度彼に話しかけようとか謝ろうとか、そんな考えも過ったりもしたけど、そんなことしたらまた失言してしまいそうで出来なかった。
「アキレウス」
私の混沌とした思考を断ち切るように落ち着いた声が響いた。
「この子は他人に会うのは初めてだと聞いています。きっと緊張したのでしょう。ですから、貴方から自己紹介なさい」
「は、はい先生!」
元気な──それでいて何処か戸惑った声がそれに答えた。
それから草花を踏みしめる音がして、私の視界に白い手が入り込んで、健康的な白い手が私の手を、緩く握った。
「ぁ」
驚いて顔を上げれば、金色の大きな目と目が合う。
それは先程よりももっともっと近い距離で。
そうすれば、ほら。また鼓動が早くなって胸が苦しくなった。
驚いたから?それとも緊張したから?
何が原因かわからないそれにまた混乱してしまう。また、顔が熱くなってしまう。
「初めまして。アキレウスです。君は?」
彼──アキレウスはそう言って笑いかけてきた。
その笑顔に私の頭は一瞬真っ白になりそうになる。
けれど、先程の失態を繰り返したくないという思いがあったからか、何とか踏みとどまった。
(だめ。返さなきゃ。失礼だ)
震える唇を一度噛み締めた。それから軽く息を吸って──
「…………ア、ステラ、です」
小さな、聞こえているかどうかも怪しい声量で何とか自分の名前を声に出した。
情けないけれど、これが限界だった。
いつの間にか掴んでいたらしい裾が、私のかわりに手の中でギリギリと悲鳴をあげた。
「……やっちゃった」
空を隠すように新緑が広がる大樹の下、アステラは顔を手で覆い隠してへなへなと力なく座り込んだ。
「絶対変な子だって思われた……」
ケイローンの話が終わるや否や、アステラはここまで一人で駆けてきた。
勿論遠くまで行くつもりはなくて、ただあの二人から離れたかったのだ。
あんな事になって、あの場に留まれるほどの精神力を彼女は持ち合わせていなかったのだ。
アステラは自分の膝に額をくっつけて心の中で嘆いた。
(初対面であれは酷い。ない。あんまりだ。彼はあんなにも歩み寄ってくれたのに私ときたら……!)
冷静になればなる程、過去の自分に恨みしかわかない。けれど、過去の自分を罵倒したところで今が変わるわけではない。
アステラはため息を一つ溢した。
(これからケイローン様にお世話になるのだし、彼とも、一緒に過ごしていくんだ……。だから気持ちを切り替えないといけない、のだけど……)
このままではいられない。それはわかっている。
でも気分は地のどん底まで落ちていて、直ぐにいつも通りに戻すなんて事は難しかった。
気持ちの整理をしようと、もう一度深く息を吐き出した時だった。
「なぁ」
「ひわっ」
すぐ隣からあがった声に、アステラは情けない声をあげて飛び上がり、バランスを崩して仰向けに倒れた。
幸い倒れた場所が柔らかな草の上で、さして衝撃はこなかったものの、少し痛い。
倒れたアステラの視界には大樹から透けるように落ちる木漏れ日と──心配そうにこちらを覗きこむアキレウスが映った。
「ご、ごめん。大丈夫……?」
声をかけられた途端、急速に心臓が脈打ち、脳が覚醒したように一気に働きだす。
アステラは慌てて飛び起きた。
「は、はい!大丈夫です、全然!」
狼狽えながらも必死に答えるアステラにアキレウスはぽかんとした顔で瞬きを繰り返していたが、段々と彼女のその様子が面白くなって、くっくっと笑いだした。
「実はさっきから呼んでたんだ。けどなかなか気づかなくてさ、近くから呼んでみたんだ。ごめん驚かせて」
「ううん……!私こそ気づかなくてごめんなさい。えっと……アキレウス、さま?」
「敬語もいらないしアキレウスでいいよ。俺もアステラって呼ぶから」
「分かった。じゃあアキレウスって呼ぶね」
そう言えばアキレウスは満足そうに頷いた。
少し前まで緊張していたのが嘘のように、自然に言葉が出てくる。
アステラはその事にほっとして頬を緩めた。
「ところでさ」
アキレウスが首を傾げ、純粋に──そう、悪気は無かったのだが、アステラが今一番聞かれたくないことを問うてしまった。
「何で好きって言ったんだ?」
「えっ」
勿論アステラはそんな問いが来るとは思わず驚きの声を上げてしまう。
アキレウスは自己紹介の続きのつもりで聞いたのだが、アステラからすれば唐突で何の脈絡もなく触れてほしくないところに触れられたのだ。
戸惑うアステラをアキレウスは答えを促すようにじっと見つめた。
その視線から逃げるようにアステラが視線をさ迷わせても、彼は辛抱強くアステラの答えを待ち続けたのだ。
好奇心の強い彼の興味を引いてしまったのが最後か。
アステラは遂にその視線に根負けし口を開いた。
「本当は──」
と、そこまで言って一度口をつぐむ。
それから視線をさ迷わせて、ぽつりぽつりと話し出した。
「本当は挨拶するつもりだったの。でも、どうしてかな……そう、言葉にしていたから……私もよく、分からなくて」
「分からない?」
アステラはこくんと頷いた。
実のところ、アステラ自身もよく分かっていない。
どうしてあんな事を言ってしまったのか。どういった"すき"だったのか。
言葉と言葉の間隔を空けながらも、それでも一生懸命に自分なりの答えを出した。
「多分だけど、"すき"って言ったのは……貴方の色が綺麗だと思ったから、だと思う」
「色?」
「そう。貴方はきらきらした若葉色をしてるの。とっても綺麗」
アステラは母譲りの多色性の青目を細めて笑った。
新緑の──芽吹いたばかりの生命力溢れるような、その力強い色に惹かれたのかもしれない。
それがあの"すき"に繋がるかどうかは分からないけれど、そう思っていた事は確かなものだったからアステラはそう答えた。
空や花に向ける気持ちと同じ"すき"。
それが今のアステラが出した答えであった。
「そっか」
アキレウスはその言葉に嬉しそうに、楽しそうに笑った。
「女の子が来るって言うからどんな子かと思えば──うん。お前とは仲良くなれそうだ!これからよろしくなアステラ」
それからアキレウスはアステラに向かって手を差し伸べた。
若葉色の髪は木漏れ日を浴びてより一層輝いて、その笑顔にまたアステラの心は高鳴っていく。
けれどそれは最初の忙しないものとは違い、どこか落ち着いたもので煩わしいとは思わなかった。
「うん。よろしくアキレウス」
その笑顔につられてアステラも顔を綻ばせると、その手を戸惑うことなく強く握り返した。
そして二人は立ち上がると、ケイローンの待つ森の奥へと仲良く駆けていった。
走る、走る、走る────
降り注ぐ矢の雨を避けながらアステラとアキレウスは岩場を身軽に駆け抜けていく。
「せ、先生!!先生!!!ケイローン先生!!無茶です!死んでしまいます!!」
悲鳴混じりの声をあげ、走りながらもアステラはケイローンに全力で訴える。
かれこれ数時間はこうして矢を避け続けている。
なんとか岩影に転がるように避難して息を整えていると、先に岩影に着いていたらしいアキレウスがアステラの肩に手を置いて頭を振った。それはもう諦めろというように。
「無駄だ。あぁなった先生はもう……」
「そんな……」
知的で優しい先生は何処へ。
岩場から様子を伺おうと、二人でひょっこりと顔を出す。ケイローンとアステラ達の距離は、こども二人がすっぽり隠れるくらいの大きさの岩、約五個分。
「大丈夫ですよ」
そんな二人にケイローンは弓を一本取り出すと、矢尻を指の腹で曲げて見せた。
「ほら、ね?通常より柔らかく作られているのです」
「でも」
「大丈夫です。軌道をずらしながらひょいっと避ければ。当たってもちょっと痛いだけです」
アタッテモチョットイタイダケデス?
酸素の回らなくなってきた頭で復唱しても意味がわからなかった。
アキレウスの方に助けを求めようと顔を向ければ、諦めろと言わんばかりにまた頭を振られた。
「休憩は終わりです。──さぁ、始めましょうか」
その声と同時に弦を引き絞る音が聞こえた。
「あ!ケイローン様!」
樹木より優しい色味の、ひょこひょこと少し跳ねた毛並み。
それ目掛けて駆け寄れば、ケイローン先生は私の目線に合わせるように屈み、息が整うまで待ってくれる。
「アステラ、"様"は要りませんよ。今日から私は貴女の師になるのですから」
「じゃあ、先生とお呼びしますね」
聡明な方。
様々なことに長けており、どんな分野においても教えを説くことができる。
優しくも厳しい、第二の父のような存在。
そんな先生を私もアキレウスも尊敬していたし、大好きだった。
「今日はここまでにしましょう」
その言葉にアステラは深く息を吐きだした。
それと同時に疲労感が襲い、地面に膝をついて肩で息をする。
終わった。
後半は走るのも避けるのも、瞬間的な判断に任せていた。考えていてはあの早さには間に合わない。
それにはかなりの集中力が必要で、その間だけは無駄になると判断したものを切り離して意識外に押し出していた。
終わればそれ元に戻す訳で、外に溜め込んでいたそれらが疲労による脱力感となって一気に私に帰ってくる。
呼吸を整える為に深呼吸をもう一度つけば、ようやく酸素が体中に行き渡り、正常な思考と余裕が戻ってくる。
アステラは汗を手の甲で拭うときょろきょろと辺りを見回してアキレウスを探した。
(──あ、いた)
そうすれば直ぐにあの若葉色の髪を見つけた。
疲れた足を叱咤して小走りにアキレウスの元にかけよった。そして横から顔を覗きこんでぎょっとした。
顔面蒼白。まさに言葉の通りの顔色のアキレウスがそこに立っていた。
今回の修行は一段と厳しいものであったと思う。
修行だからと言って手を抜く、なんて事をケイローンはしないのだが、今日は修行の域を超えて完全に射抜きにきていた。
まるで自分達は獲物なのではないか、という錯覚を覚えるくらい。
張りつめたとした空気と鋭く鳴る音。
真横を掠めていく柔らかいとは思えないそれら。
思い出しただけでアステラはぶるりと身を震わせ、ヒリヒリと痛みだした傷を指で押さえた。
アステラはいくつか避けきれず、こうしてかすり傷を作ってしまったが、アキレウスの様子を見るに完璧に避けたようだ。その体に傷はなく、土汚れのみが着いていた。
(……凄いなぁ)
尊敬と、少しの悔しさ。
アステラはアキレウスを純粋に尊敬していた。
彼の戦術への探求心とセンスは本当に凄まじいもので、いつも感心してしまう。
けれど、それと同時に自分とは確実に差がある事を実感し、悔しさも感じるのだ。
到底追い付けない。そんなことは分かっているのに、追いつきたいと思ってしまう。
そんな複雑な気持ちを込めてアキレウスを見ていると、彼はようやくアステラに気づいたようで、彼女を見て力なく笑った。
「アステラ、俺、頑張ったよ──」
「ア、アキレウス!?」
そんな遺言みたいな言葉を残して仰向けに倒れたアキレウスに驚いて、慌てて助け起こし、顔を覗きこんだ。
肩で息をしていて辛そうだが、意識はあるようだ。
時折何かに魘されるようにうんうん唸っているアキレウスを見てほっと胸を撫で下ろした。
そうしていると「アステラ」と名前を呼ばれたので顔を上げれば、少し離れた場所でケイローンがちょいちょいと手招きをしていた。
アステラはアキレウスを地面に横たえて、ケイローンの元までぱたぱたと駆け寄った。
「今日はよく頑張りましたね」
そう言って、色素の薄い小さな頭をケイローンは優しく撫でた。
するとアステラは夜天のような多色性の瞳を伏せて、目を反らす。
ケイローンはその様子におや、と首を傾げた。
いつもなら頭を撫でてやると嬉しそうに顔を綻ばせるのにどうしてしまったのだろうか。
「ちょっと、当たってしまいました。……アキレウスは避けてたのに」
そう言ってむすりとしたアステラに、ケイローンはきょとんとしてから微笑んだ。
成る程。アステラはアキレウスに追い付けないことが悔しいらしい。
二人は兄妹であり、友であり、良き競い相手であった。そうやって互いの存在が互いを成長させいく。
現に彼らの成長は目覚ましいものだったし、アステラが来てからというもの、アキレウスは文字や礼儀作法の勉強も楽しそうにするようになった。
仲良く過ごす教え子の様子は微笑ましいもの。
ケイローンは二人の出会いを、悪いものだとは思っていなかった。
「……私、強くなれてますか?」
そう不安げに聞くアステラにケイローンは頷いて答える。
「勿論。最初の頃に比べれば格段に反応速度もあがっています。大丈夫。自信を持ちなさい」
再度頭を撫でれば、先程の不機嫌さは何処へやら。アステラは子どもらしく笑うと嬉しそうに頷いた。
「私は片付けがありますから、帰りは二人でゆっくり帰っておいで」
川で冷やした布を渡してやれば、倒れたアキレウスの所まで迷わず駆けていく。
ケイローンはその様子をしばらく目を細めて見ていたが、眉間にシワを寄せて視線を逸らした。
あの子達は既に
未来を。運命を。呪いを。
それがどうか彼らの重りにならないように、軽やかに人生を駆け抜けられるように──
(彼らに知識を、戦術を、授けなくては)
「はい、アキレウス。お疲れさま」
「おう」
戻ってみれば、アキレウスは起き上がって胡座をかいて私を待っていた。そんなアキレウスに先生から貰った冷えた布を渡し、隣に腰を下ろせば、自然と会話が始まる。
「今日のはびっくりしたね」
「先生たまにああやって暴走するからな……」
遠い目をするアキレウスがなんだか可笑しくてクスクスと笑ってしまう。勿論その気持ちが分からないわけではないのだけれど。
「そう言えば明日、カリクロー様と散歩の約束してるんだ」
「また花かぁ。本当に好きだな」
「ね、一緒に見に行こうよ」
そういえばアキレウスは「えぇ……」と不満そうな声をあげた。どうやら彼にはつまらないらしい。以前二人で花畑に行った時なんて途中から昼寝をしていたくらいだ。あんなにも綺麗なのだ。その綺麗を二人で分かち合いたいのだけれど、それは無理そうだ。
「じゃあ何がしたいの?」
「組み手」
即答された。
アキレウスは戦う事に関しては貪欲だ。
技術を磨く。強い相手と競いあう。そういった事が彼にとって一番楽しいらしい。
「いいよ。散歩終わったらやろう」
「よっし!次は負かすからな!」
「あれ、今何勝何敗だっけ?」
「俺が56勝58敗」
「60勝まであと少しかぁ」
「俺のが先に60勝してみせる」
「えー」
なんて。こんな他愛ない話が大好きで。
先生とカリクロー様がいてアキレウスがいる。それが家族みたいで、心地よかった。
勿論いつまでもとは言わない。
アキレウスだって私だって、いつかは独り立ちをする。
けれどそれはまだ先の事。
だからこの関係はまだ終わらないのだと思っていた。
そう、信じて止まなかった。
「え──?」
59勝59敗。
どちらかが60勝すれば、負けた相手の望みを聞くという提案をした。
アキレウスは狩りに、私は花畑に一緒に行くという約束でここまで組み手をしてきた。
なのに突然、60勝をかけた組み手をする事もなく、アキレウスは花畑に行こうと私を誘ったのだ。
その時から胸騒ぎはしていたのだけれど──
「明日、此処を出て行くんだ」
まさか──まさかそんな──
唐突に告げられたそれに、作りかけの花冠が手から滑り落ちた。
「明日?」
震える声で問う。
「あぁ」
そうすれば短い肯定が返ってくる。
「そ、っか」
なんとかこの動揺を誤魔化そうと、膝に落ちた花冠を拾い上げて作業を続行しようとした。でも指が震えてまともにできない。
ジリジリとした痛み。脳に響く脈の音がガンガンとうるさい。体は急速に冷え、胸から首までが一気に熱くなる。
別れを告げなくてはいけない。
そうしたいけれど、言葉が出てこない。唇がカタカタと震えて上手くいかない。
あぁ、私はどうして肝心なところで駄目なのか。
不甲斐なさがそれに拍車をかけた。ぽっかりとした喪失感を煽られて視界がじわりとぼやけ出した。
もう、駄目だ。
「アステラ」
私の頭がゆらゆらと揺れた。それは私が自分から揺らしたわけでなく、他動的に起きたもの。
それに驚いて顔を上げてしまえば、涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
「別に死別するってわけじゃない。また会えるさ。だから、な?泣くなよ」
困ったように笑いながら、先程より優しく私の頭を撫でる。
「……会える、かな」
「会えるさ!」
不安げに聞けば、アキレウスは自信満々に言うのだ。
出会った時と変わらない、私の大好きな笑顔で。
私もそれにつられて泣きながら笑った。
「私、会いに行く。その時にはもっともっと速くなってるから」
「おう、期待してる」
アキレウスの若葉色が夕日に当てられて、出会った時のようにきらきらと輝いて──
「またな、アステラ」
私に手を差し伸べて──
「うん、またねアキレウス」
私は彼の手を強く握った。
そして暫くして。どちらからともなく手を離した。
指が名残惜しそうに、ほんの少しだけ、引っ掛かった。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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