peaceful days,after (楡野 透)
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還る、想い 1

絶狼の考えや行動をいちいち詮索する、なんて不粋な真似、この私の流儀じゃない。

したところで、あまり意味もない。

けれど、彼がバイクのエンジンを切った場所が、ある意味、予想通りであり、また予想外でもあったものだから、思わず尋ねてしまった。

「ここなの?、絶狼。」

ヘルメットを脱ぎ、ぷう、と軽く息を吐くと、絶狼は柔らかく笑いながら、

「…まあ、ね。」

地に足を下ろし、ゆっくりと腰を上げると、彼は傍らの建物を見上げた。

黒いシャツに漆黒の魔法衣を引っかけただけの、いつもの出で立ち。

彼はこの姿以外に、なろうとはしない。

何故なのか、改めて尋ねたことはないけれど、おおよその見当はついている。

それにしても、彼にとって、ここは特別な場所。

今さら、なぜ…。

私の内側に、不快な細波が生じ始める。

絶狼の愛車であるバイクの後輪には、両側に革製のバッグが装備されていて、彼は身を屈めると、その片方から、さっき買ったものを取り出した。

これを買ったものだから、ここへやってくることもあり得る。

そう思ったのだけれど、それもただの可能性のひとつにすぎず、確信にまでには至らなかった。

絶狼が今、手にしているもの。

それは、可愛いらしいコンパクトな花束。

まず目を引くのは、ピンクや赤紫のダリア、黄色のフリージア、クリームや白のトルコ桔梗といった華やかな花々。

しかしその影には、カモミイルやミント、ローズマリイといったフレッシュハーブの花達もこっそりとあしらわれている。

明るく爽やかな色合いのその花束は、贈る相手が何をもって喜ぶか、よく熟知している代物。

絶狼はそれをちらりと覗き込み、微かに笑んでから、優しく右手に下げて歩き出す。

赤茶色の煉瓦に覆われた堅牢な外壁に沿ってしばらく進み、玄関前のステップにさしかかると、彼はそれをひょいと右肩に担ぐ。

…そう、ね。

いつも、そうしていた。

彼女に花を贈る時は、いつもこんな風に、背中で隠すようにしていたわね…。

あまり一般的ではない広さのステップを上がりきると、そっけないほど装飾の少ない正面玄関の前に出る。

そびえるように大きい、その両開きの扉は、分厚い無垢の一枚板でできていて、鎚の跡が荒々しい黒く武骨な蝶番や鋲によって、力任せに扉としてそこへ打ち付けられている。

 わずかな隙間もない、壁よりも堅固な扉。

初めてここを訪れた者は大抵、まずこの扉に畏れを抱き、尻込みしてしまうのが常だった。

 再びここへ立って、そんなことを思い出し、そんなことすらすっかり忘れていたと気づく。

扉の前に立った絶狼は、扉の表面に指先を軽く当てると、そっと押した。

重そうな扉は、音もなく中へと退いてゆく。

やはり、昔と何も変わっていない。

踏み締めるような足取りで、彼は屋内に入る。

今日は幸いにも晴天。

こんな日は、暗くなりがちなエントランスも気にならない。

正面の壁の、少し見上げる位の高さに施されているステンドグラスが、鮮やかな色と光を放って輝き、エントランス全体を明るく照らしてくれるからだ。

ステンドグラス自体が眩しいほど輝いている訳ではない。この、ガラスと光で描かれた絵画には、不思議と空間そのものが鮮やかになるような、そんな明るさをもたらしてくれる効果があるらしい。

だが、今の彼には、そんなことすら目に入っていないだろう。

軽く口元を引き締め、どちらかといえば厳しい表情で、避けようもないくらい目の前にある、二階へと続く階段を見つめている。

ふいに、一瞬だけ鋭く睨み、だがすぐに、足元に視線を落とす。

顔を伏せたままで、彼はまた歩き出す。

さっきまでとは、全く違う足取り。

床に敷かれている深い瑠璃色の絨毯の上を、彼はゆっくり、ゆっくりと、まるで静謐な儀式か何かのように進み、階段を前にして立ち止まる。

その場を見下ろし、彼は微動だにしない。

理由など、聞くまでもない。

あの時、間に合うことができなかった絶狼と私は、ここで見つけたのだ。

事切れた、道寺の亡骸を。

ここに立つだけで、嫌でもあの時の情景をまざまざと思い出してしまうのは、きっと私も彼も、変わりないだろう。

暗闇に浮かぶ、記憶の中のその情景から逃れるように、私はぐるりと辺りを見回す。

うっすらと光を反射する白壁と、手の込んだ調度品のようなマホガニーの手摺や階段。それから、繊細な輝きで光りを散らす、細やかなガラス製のシャンデリア。

それらが呼び水となって、果てのない凍てついた記憶の海から、幾つもの光景や瞬間が甦ってくる。

以前ここに住んでいたあの三人のことを、その時ここに棲んでいた私は、私なりに楽しんでいた、らしい。

だからこそ、今、私は懸命に平静であろうと努めているのだ、と気づく。

不快で、不快で、たまらない。

私の奥底で膨らみ始めている、絶狼に対する仄暗い期待が。

彼の抱える深い悲しみが、ホラーにとってひどく甘美で食欲をそそる、憎しみや殺意といった浅薄な感情へと、捻れ、歪み、狂暴に膨らんでいけばいい…。

そんなことを、魔導具であるこの私が期待するなんて、プライドが許さない。

そんな風に意識を乱され、私はひとり、悔しくて苛立つ。

一方、絶狼はというと、意外なほど落ち着きを払っている様だった。

呼吸を乱すことも、感情をざわつかせることもなく、ただ足元を見下ろす。

しかしそれも、長い時間、そうしていたわけではなく、ふいにゆらっと頭を上げると、これから向かう先へと視線を投げ、それからまたゆっくりと歩き出す。

数段を昇り、踊り場に立つ。

そこで二階へと上がる階段は、右と左の二方向へ分かれ、それぞれ城の東側、西側へと向かう廊下へと伸びていく。

絶狼はその東側へと続く階段の前に立ち、止まった。

再び、首を深く折って俯く絶狼を、私は息を殺して、待つ。

何の気配もない、静かなエントランス。

空気の流れすらない。

私は意味もなく、耳をそばだててしまう。

ほどなくして、絶狼は右足を軽く持ち上げると、爪先を高く上げたハーフブーツの底で、階段の一段目の角を蹴り始めた。まるで踏み潰すかのように、がしがしと何度も蹴りつける。

そうして彼は、階段の軋む音をしばらく見下ろしていたが、ふいにその爪先が一段目に乗った。

トトン、と二度、その爪先が軽やかに階段を叩き、彼はくいと上階を見上げる。

翳りのない、まっすぐな表情。

彼は階段を昇り始める。

いつもの彼なら、一瞬で駆け上がってしまうくらいの階段であるのに、今日はひどく時間をかけて進む。

やっと階段を昇り終え、絶狼は再び、足元の絨毯だけに視線を這わせながら、彼女の部屋の前に立った。

自分の記憶に間違いがないか確かめるように、彼はしばしドアを見つめる。

絶狼の白い指が、躊躇いがちにドアノブへと伸びた。

剣士のくせに、絶狼の手には傷痕ひとつ、見当たらない。

幼い頃から、彼は極力、傷を負わない戦い方を自身に叩き込んできたからだ。

戦士として、傷を負わないようにすることは至極当然なことだろう。

だが、それに固執しないこともまた、戦いに勝利するためには必要な場合もある。

特に、魔戒騎士の戦いに、負けは有り得ない。あってはならない。

それでも、絶狼は傷を負わないことに拘(こだわ)った。

そのためになら、どんなに辛く厳しい鍛錬でも厭うことなく、自ら進んで課すほどに。

最初こそ、道寺も怪訝そうであったが、その理由に気づくと、何も言わず、鍛練の内容に彼の意に沿うものを取り入れてやっていた。

絶狼がそこまでする理由なんて、決まっている。

彼の手に傷や痣を見つけただけで泣きそうになってしまう、彼女のため。

彼女は絶狼と出会ってからというもの、ひたむきに彼を想い、彼もまた、そんな彼女を想った。

二人の互いを想い合う心は、いつだって、今でさえ、こんな風に絶狼を傷や痛みから守っている。

そう思いついて、私はわずかに呼吸を乱す。

彼の目の前にある、鈍い光りを纏った真鍮製のドアノブ。

ぎこちない仕草で、彼はそれを掴む。

そうして、絶狼はまた、動かなくなった。

今までの経験上、こんな時の『人』に声をかけてはいけない。

声をかけることは、邪魔をすることと同じで、大抵の場合、私は疎まれ嫌われてしまう。

待つことしかできない私は、ため息まじりに意識を広げ、辺りに注意を向けた。

今いるこの廊下は、明るく暖かで心地よい。

だが、足元の絨毯には、はっきりとした影は見当たらない。視界を巡らせ、明るさがどこからやってきているのかと探せば、のびやかに背の高い窓が絶狼を背中から見下ろしていた。

東西へと伸びる二階の廊下。その北側の壁には、このような大きな窓が並んで配されている。

この窓のおかげで、城はかろうじて凍てつかずにすんでいたことを思い出す。

堅牢であること。それが建造物として大前提である、城。

一階には最低限の開口部しかなく、よって窓も最小限の明りを取るくらいにしか配されていない。

それでも、昼間から電灯をつけたくなるくらい部屋は暗く、空気は淀みがちで、子供たちはいつも低い室温に震えていた。

しかし、二階はこの窓のおかげで、過ごしやすい室温と明るさが保たれ、気づくと子供たちは二階でばかり遊んでいた気がする。

この窓がもたらす直接的でない穏やかな明るさは、子供たちと共に、この城の強張りをやんわりと和らげていた、そんな過去を思い出していた。

だが、そう思い返せたのも、ほんのつかの間。

廊下全体が薄く翳り、視界から明るさが沈む。

全ての色から、さあと鮮やかさが欠ける。

深みのあるマホガニーの腰壁は黒ずみ、鮮やかな瑠璃色の絨毯は平坦な青緑と化す。

さては、無粋な雲が無神経に太陽の前をよぎって、その恩恵の邪魔をしているに違いない。

意識の細波に、不快なうねりが混じり始め、私は眉根を寄せる。

突然、絶狼の後ろの窓に、鳥の影がよぎった。

羽ばたきの音が一瞬して、直後、高く鋭い鳴き声が窓ガラスを貫く。

威嚇か、仲間への警告か。

しかしそれも、旋風(つむじかぜ)のようにあっという間で、もうすでに遠い。

その余韻すら消えてしまえば、もう何の音もしない。

それでも、耳は音を探す。

気配のようなひそやかさで、意識の外から届いてくるのは、中庭にある噴水が立てる水音。遠い葉摺れの音。

もう、そんなものしか聞こえてこない。

あまりの静けさに、意識を閉じてしまおうかと迷い始めた頃、また、辺りにふわりと温かい気配が戻ってきた。

かち、…かちん。

小さな金属音が間近で聞こえ、私は眉をしかめる。

絶狼の握り込む力に負けて、ドアノブが変形し始めているらしい。

彼の胸の内を推しはかることはできても、見抜くことはできない。

当然、かけるべき言葉も、持ち合わせていない。

だから私は、そっと名を呼ぶ。

貴方の名を知る存在が、今、ここにいて、貴方の様子がおかしいことに気づいている、と伝えたくて。

理由?

そんなもの、ホラーには必要ない。

そんなものがいるのは、人だけ。

私はしたいようにするだけの、人でないもの。

「…、絶狼?」

瞬間、彼の手から力が抜ける。

同時に、爪の先の方まで彼をきつく縛り上げていた、繊細で頑強な何かが、あっけなく散ったのを感じる。

強ばりが解け、彼はふう、と小さく息を吐いた。

そして、穏やかな笑みを浮かべて呟く。

「大丈夫だ。」

そう言うなり、絶狼はさらりとドアノブを回し、身体ごと部屋に踏み込んだ。

ドアはすんなりと室内に吸い込まれ、彼は踏み込んだその場から中を見回す。

ベッドも、机も、みな昔見たまま。

その光景を目にし、絶狼は胸を突かれたように固まる。

眉をしかめ、苦しげな息を二、三、繰り返すと、彼はぎこちなくなってしまった呼吸を、無理矢理ねじ伏せる。固く拳を握り込み、俯いて息をつめれば、何秒とかからず、絶狼は己を元に戻せる。

今回も、そうして絶狼は普段に戻った。

鋭さを隠すナイフのような眼差しに、凪いだ黒曜の双眸。

今の絶狼はこんな風に、気配のない殺気を、何気なく纏うことができる。

魔戒騎士としての長いキャリアが、自然とそうさせてしまうのだろう。

胸に止めていた息を、フッと肩で短く吐いてから、彼はその端整な顔立ちに、静かな笑みを滲ませた。

纏った殺気が、綺麗に消え失せる。

微笑は、苦そうではあったものの、どこか自嘲気味にも見えた。

再び、部屋の奥へと進み始めた彼の足取りが、先程より柔らかい。

この部屋に保たれている空気さえ壊したくないかのように、彼はそっと机に近づくと、手にしていた花束をやんわりと置いた。

「…ただいま、…かな。」

机の本立てにある淡いピンク色のファイルや、ペン立てに一本だけ置かれてある、クリーム色のシャーペンが目に入り、それらが確かに彼女の手にあった光景をも思い出す。

両腕で抱えていたあのピンク色のファイルには、確かピアノの楽譜が閉じてあったはず。

クリーム色のあのシャーペンは、彼女のお気に入りのひとつで、机に向かっている時は、いつも彼女の手に握られていたものだ。安物だが書きやすい、と言うだけあって、彼女はこのペンを何度壊れても買い直していた、と記憶している。

他愛もない、ありふれた小物たち。

そんなものであっても、彼女が間違いなくここにいて、生活していた確かな証。

彼女が何気なく使っていた、その時のままで今も残されているこの机、それ自体もまた、彼女が生きていた証のひとつと言えた。

だから今みたいに、どちらかというと誕生日のプレゼントと共に贈られるのがふさわしいくらい、可愛いくて華やかな花束が置かれていると、随分前に彼女はこの世を去った、という事実の方が、ひどく不自然な気さえする。

背後のドアがかちりと開き、

「あ、銀牙。」

甘い香りのするミルクティーのカップを手にした彼女が、危なっかしい様子で現れ、机の上に気づくなり、ほころぶように微笑む。急いで机に近づくと、慌ただしくも慎重に、両手でカップを傍らに置き、子猫でもすくい上げるような手つきで花束を胸に抱く。

「なんて可愛いらしい花束。」

胸元で咲き乱れる花々を見下ろしながら、彼女はそう囁くと、その美しさや香りを充分満喫してから、上目遣いに彼を見上げて、

「もらっちゃって、いいの?銀牙。」

彼女は嬉しさを輝きに変えて、柔らかく微笑む。

見ているこちらまで心がほどけるような、優しく美しい笑顔で。

私にさえ、そんな幻が見えてしまうくらい、この部屋には今なお、彼女が生きている。

絶狼が、ぽつりと、

「よかった…。」

彼はあの時から、本当の顔を隠している。

隠すために、笑顔を止めることができない。

止めたその瞬間から、彼は本当の表情に戻ってしまう。

だから今、笑顔でいることを止めてしまっている彼は、誰にも見せたことのない、本当の素顔。

唯一の彼女にすら、見せていない顔。

しかし、そこで思い出す。

例外がひとり、いたことを。

あの子は、見ている。

ほんのひと時、絶狼の素顔を見て、満足そうに消えていった、黒髪のあの娘。

私には、『悲しみ』という感情が欠落している子供にしか見えなかったけれど、絶狼にはまた違った一面が見えていたのか、あるいは同じ思いを抱えているように感じたのか。

最後、あの子がその姿を失うまで、彼は素顔のまま、ずっと彼女を抱きしめていた。

今となっては、もう、どうでもいいことだけれど。

絶狼の指先が、銀色の小鳥に伸び、優しく撫でる。

机の上で羽ばたく、銀色の小鳥。それは、細長いガラスの花瓶を支えるスタンドの一部で、今は寂しげに空の花瓶に寄り添っている。

緩慢に身体ごと振り向き、絶狼は彼女のベッドを間近から見下ろした。

綺麗に整えられたベッドには、見覚えのあるカバーがかけられている。

彼女の好きだった色と、銀牙の好きだった色が、美しく調和しているそのベッドカバーは、彼女がパッチワークでこつこつと作り上げた代物。

ベッドから出られなかった時の彼女が、退屈を持て余した果てに生み出した、作品のひとつだ。

 道寺から絶対安静と診断されると、彼女はいつも、大人しくベッドに横になった。

だが、どんなにいい子でも、数日が限界。

 長引けばどうしたって飽きてしまい、そうなると彼女はよく本を読んでいたのだが、いつの頃からか、パッチワークもするようになった。

 背中に枕やクッションをあてがい、壁やベッドの柵に上半身を預けて座りながら、彼女は針を動かす。

小さな布地を根気よく丁寧に縫い合わせていく、ただそれだけを繰り返す作業が、信じられないことに、彼女には苦痛ではなかったらしい。

 彼女が手を動かし始めると、どこからともなく絶狼が現れ、彼女のベッドの端に腰かけて、魔導書を開く。

 彼女はこの手の作業に、夢中になりやすい。

だから、タイミングを見て、それとなくストップをかけてあげないといけないことを、彼はよく知っていたから。

 もちろん、もっと単純な理由が、まず第一にあるのだけれど。

 あの日も、そうして小一時間ほど、二人静かに過ごしていた時、

「銀牙。」

「ん?」

 呼ばれて、絶狼が本から顔を上げると、彼女は表情の乏しい顔で彼を見つめたまま、ぽつんと、

「完成、しちゃった。」

「え、出来たの?すごいじゃないか。」

 読んでいた魔導書をベッドに投げ出し、絶狼がにこやかに感心して見せる。

 しかし彼女は、どこか上の空、という表情。

 ようやく出来上がったというのにあまり喜んでいない彼女の様子に、絶狼が首をかしげていると、彼女は手元にあるそのベッドカバーを見下ろしたまま、ぽろっと涙を落した。

「え?」

 予想外の出来事に、絶狼は動揺するが、彼女はそんな彼の腕を指先で優しくとらえて、緩やかに首を横に振る。

「違うの。ごめんなさい。」

「静香?」

 覗き込む絶狼に、彼女は顔を伏せたまま、身を寄せ、

「こんなことでも、凄く、…嬉しくて。

こんな私でも、ちゃんと作れた。最後まで、…完成させることができるなんて、ちっとも、思ってなかったから。だから今、本当に、本当に、嬉しいの。」

そう囁いたら、彼女の涙は、はらはらと止まらなくなった。

口元を押さえ、声を殺して泣く彼女を見つめ、絶狼はその傍らに座り直すと、震える細い肩をずっと抱いてやっていた。

彼女が泣き止むまで。優しく、守るように。

彼女の残された時間が、他の人のそれより短いことは、二人とも幼い頃から知っていた。

だからこそ、二人は諦めてしまうのではなく、いつも前向きであろうと努めていた。

懸命に、であったのはきっと、無意識に、だろう。

こんなことで泣いてしまうほど、彼女は本当は張りつめていて、絶狼はそんな彼女を守りたいと心から望んでいた。

誰に何と言われようとも。

ふいに、彼の顎先から、雫がひとつ落ちて、

「まだ、…嫌だ。」

解らない、絶狼の台詞。

解らないけれど、

「いいのよ、絶狼…。好きになさい。」

私は貴方の味方。

貴方の命が尽きるその時まで。

『愛しい』絶狼。

貴方の心臓の、最後の鼓動は、私のもの。

だから、どんなことがあっても、私は貴方を見放さない。

 

 

 

廊下に出て、彼女の部屋のドアを閉めようとする絶狼に、私は声をかけた。

「どんな心境の変化なの?絶狼。ここは苦手ではなかった?」

しかし、彼は丁寧にドアを閉ざすと、今度は隣の、道寺の書斎の前に立つ。

急に元気な素振りになって、

「ここも随分と久し振りだなぁ。ちょっと見て行こ。」

先刻とは打って変わり、絶狼は躊躇いなくドアを開け、中へと飛び込む。

「うっあ、懐かしい。」

はしゃぐように笑いながら、彼はぐるりと身を翻す。

陽を入れることが少ないこの書斎には、いつもひんやりとした空気がひっそりと満ちていて、踏み込む度に肌がざわめく。

古書が放つ時を経た紙やインクの匂いはもちろん、薬棚の怪しげな小瓶や、蝋燭に煤けたカーテン等から漂う様々な残り香に、絶狼は目を細めた。

この書斎には南側にささやかなバルコニーがあり、それを見渡せる広さの頑強な格子窓とテラス戸によって室内と仕切られている。

格子窓とテラス戸には当然、特殊なガラスがはめ込まれており、中から外を望むことはできても、外から中を覗くことはできない仕掛けがされていた。勿論、強度という部分においても、相応の対策が施されている。

その格子窓を覆う為のカーテンが中途半端に開いていて、絶狼は誘われるように歩み寄ると、そこから外の景色を眺めた。

「本当に、何も変わっていないんだな。」

そうひとりごちた彼に、不思議と悲しみの色はない。

例えそれがただの虚勢であっても、私は一向に構わない。

さざめいていた私の意識が、そんないつもの絶狼らしさによって、また冷たく凍てついていく。

普段の私に安定していく。

なら、もう何も望まない。

私の問いかけに、絶狼が応えなかったことすら、もうどうでもいい。

沈黙は、消極的な拒絶。

彼は、知っている。

私の質問は心配からではなく、ただの好奇心からだと。

私は魔導具であり、ホラー。

何より人の陰我に魅せられ、食欲を煽られる、魔戒に棲むもの。

人にとり憑き、人を喰う、人に仇なすもの。

どんなに感情豊かに見せても、それは人を惑わす能力のひとつに過ぎない。

第一、私が案じたところで、それが役に立つことはない。

私に何か打ち明けたところで、私ができることもない。

でも、それでも絶狼は大抵、言葉を返してくれる。

賢い彼は、私が喜ぶような言葉や言い方を選んで、きちんと答えてくれたり、さらりとかわしてくれたりする。

そんな風に、私を家族として扱おうとするが故に、彼は感情のまま、言えることは言い、言いたくないことは沈黙する。

気を使わない、ということは、絶狼にとってはそういうことらしい。

だから、広大な凉邑家の敷地を窓辺から眺めていた彼が、ふいに私をその眼差しの前へと翳した時、私は逆に不可解にさえ思った。

もちろん、思慮深い魔導具として、そんな些細な疑念をいちいち口に出したりはしない。

思ったことをすぐ口に出すなんてことは、少なくとも、私は望まれていない。

かつての絶狼達から、私はそう学んでいる。彼らがそう望むのは、命をかけて守り、いとおしむ、愛する者たちばかり。

私は分をわきまえた、有能な魔導具であればいい。

どこか険しい表情の絶狼を見つめ、私は彼の言葉を待つ。

ほどなくして、絶狼は軽く息を吸い込んでから、明るく力強い口振りで話してくれた。

「もうすぐ、雷牙が十歳になる。

それまでに、あいつらが戻らなかったら、俺は鋼牙の代わりをする約束をした。

もし、雷牙が魔戒騎士となることを望むなら、俺は奴を鍛えなくちゃならない。

その約束を果たす前に、…自分もいい加減、逃げてばかりじゃなく、けじめをつけようと思ったんだ。」

けじめ…。

ホラーには分かりにくい、人特有の心の有り様。

私は半分理解を諦め、残り半分で、

「ついたの?」

すると彼はため息混じりに笑って、

「ああ。…俺はまだ、過去のことだと割り切って、思い出なんかにしたくない。そう、けじめをつけた。」

可哀想な子…。

結局、まだ引きずりたいのね。

世界はもっと明るくて、広大で、様々な存在で溢れているというのに。

貴方はどうしても、彼女に拘ることを望むのね。

まだ、悲しみたいのね…。

私は、青い夜に静かな草原を照らす月の光りを思い浮かべながら、優しい旋律を奏でるように、

「絶狼、…人は時の流れと共に、どんなことをも忘れることができる生き物と、聞いたことがあるわ。」

実際、そんな風に生きた絶狼もいた。

そんな風に生きても、魔戒騎士であることを棄てさえしまわなければ、誰も何も言わない。

何もかも捨て、あるいは失い、違う世界へ行くように、隣町に根を下ろし、全く違う家族と幸せになることは、間違ってさえいない。

「でも、貴方はまだ、抗うというのね?」

とても彼らしいと解っていながら、それでも違う答えをして欲しいと望んでしまう私が囁く。

絶狼は、私の台詞に、ふわりと笑った。

柔らかく穏やかなその笑顔は、いつもとどこかが違っていて、何故か懐かしい気さえする。

「忘れる、なんてあり得ないさ。」

そう言った彼の声は、とても晴れやかで、私は不意を突かれた。

しかし、微笑はすぐにかき消され、絶狼は表情を引き締める。

強い光りを宿した瞳を、陽光に満ちた外界へと向けて、

「俺は、忘れない。忘れる訳には、いかない。」

噛み締めるような彼の口調からは、揺るぎない決意が伝わってくる。

高潔で凛々しい、彼の真摯な表情。

絶狼は軽く唇を噛んでから、断固たる口振りでもって、

「忘れてしまったら、全部、消えてしまう。なかったことになる。

俺に家族がいたことも、愛してくれた人がいたことも。

俺が、いなかったも同然にしてしまう。

そんなのは、嫌だ。

あの二人がいたからこそ、今の俺が生きているのに。」

絶狼は挑むような眼つきでテラス戸の向こうを望んでいるが、もしかしたら、テラス戸のガラスに映った、もうひとりの自分を睨みつけているのかもしれない。

彼の語気には、そんな重たい気迫があった。

けれど、私は困惑し、何も言えない。

何も言わない無様な魔導具に、絶狼は眼差しを戻すと、再び穏やかな笑みを浮かべて、

「あの時、シルヴァがそう言ったんだぜ。」

決して責めている訳ではない呟き。

……、そうよ。

あの時、私は彼に囁いた。

悲しみと絶望にうちひしがれ、身動きひとつ取れずにいた彼に、私はそう囁き、そして二人の復讐まで唆(そそのか)した。

あの二人がそんなことを望むはずがない。

それくらい、私にだって解っていた。

でも、それでもあんなことを言ったのは、あのまま絶狼を死なせたくなかったから。

それは、紛れもない真実。

けれど本当は、それだけじゃない。

あの時、私は他方で確かに、喜びに溢れていた。満ち足りていた。真っ黒な嬌喜を享受し、甘い悦楽に意識は溺れんばかりだった。

今、私が彼の全てを握っている。

彼の命も、彼の心も、彼の未来までもが、間違いなく私の手に握られていて、弄ぶことも、握り潰すことも、私次第。

そんな快感に酔いしれていた。

あの時の私は、主を守る魔導具でありながらも、闇堕ちを唆すホラーそのものだった。

だからこそ、痛む。

今さっきの、絶狼の言葉。

彼に他意はない。

それは、わかっている。

それでも、今改めて、彼の口からあの時の私の言葉を聞かされて、私は苦く重たい闇を背負ってしまったんだと気づいた。

まるで、『人』のように。

そして、嫌というほど思い知ってしまう。

この闇は、決して私を解放してはくれないことを。

絶狼は、私のせい、ではなく、私のおかげ、というニュアンスで話してくれた。

そんな彼の思いに、私は何を思えばいいのだろう。

ホラーである私は、それをわかっていいのだろうか。

何一つわからないまま、全てをわかっている振りをして、とても巧妙に人の感情の猿真似をする。

それが一番、私にふさわしい気がするのだけれど…。

いまだに、どこかあどけなさが残る絶狼の笑顔を向けられても、私は眼差しを伏せ、力なく告げるばかりだ。

「ええ、…そうね。確かに、そう言ったわ。

でも本当は、今の貴方の在り方そのものが、二人が生きていた証ではなくて?

今の絶狼の在り方を決定したのは、間違いなく、あの二人だもの。

それは、絶狼があの二人を忘れても、忘れなくても、変わらない事実。

だから、あの時の私の呪いは、もう解けてしまって構わないのだけれど。」

すげない、冷えた口振りでわざと悪意のある言葉を使ってみせれば、たちまち、絶狼は眉をひそませ、怪訝そうに聞き返してきた。

「呪い?」

私はすかさず、用意していた台詞を差し出す。

そう、これは、弁明。

私なりの謝罪。

「絶狼が死を望むということは、絶狼の中に在る二人に関する全ての記憶をこの世から消すということ。

それは、貴方までが二人を殺すのと同じ。

あの時、私はそう言ったわ。

今は、死なんて選びはしないでしょうけど、忘れる、ということに置き換えても、意味は同じになる。」

饒舌な自分に幾分落ち込みながらも、どうしても伝えなくてはならないところまで、必死に語る。

「けれど今なお、貴方がそんな言葉に縛られ、幸せに背を向け続けるなら、それはもう、ただの呪いだわ。

仇討ちを果たしたあの瞬間に、二人は現在と切り離され、初めて過去となった。

今を生きる者は、過去に縛られてはいけないわ。

先立ってしまった者を、絶狼が怨霊にしてしまっては、あまりに彼らが哀れだもの。

だから、もう過去に縛られないで。絶狼。」

詭弁だった、と我ながら思う。

だからこそ、いつか伝えなくては、と思っていた。

今を逃しては、私の『闇』は深くなるばかり。

ホラーが闇を恐れるなんて、バカげた話だけど、何より、これ以上この子を惑わすような真似は、したくない。

私は瞼を閉じ、黙する。

絶狼は、聡明だわ…。

勝手に力が抜け、私の意識は沈みながら拡散し始める。

私が話している間、絶狼は何も言わずただ聞いていた。

そして、私が黙り込んでしまった後も、身動きひとつ、せずにいる。

蝋燭の火が消えた後に立ち昇る、白く細い煙のような不安が、私の中で揺らめく。

身勝手、と言われても仕方ない。

あるいは、絶狼の胸内では、すでに私を見限っているのかもしれない。

震え凍える意識の中、微かに空気が揺らいだのを感じた直後、

「縛られてなんかないぜ、シルヴァ。」

軽やかに、はっきりと言い切る絶狼の口振りに、私は驚いて見上げる。

彼はあやすような笑みを浮かべて、楽しげに言った。

「言ったはずだ。忘れる訳にはいかない、って。

これは、俺の意思なんだ。

俺はここへ来て、決めた。

忘れない。過去のことにも、思い出にも、しない、と。」

しかし、そう言い切ったにも関わらず、彼の面差しが一瞬だけ深い翳りに沈んだのを、私は見逃す訳にはいかなかった。

まるで、風に駆ける薄い群雲が、白い月の前をほんの一瞬よぎるかのように。

だが彼はすぐに明るい表情に戻って、元気に話し出す。

「道寺のことは、すごく身近に感じる時があるんだ。

俺が魔戒騎士であろうとするほど、あの人の気配を、剣や絶狼から感じる。共に戦ってくれてるんだ、今でも。

それなのに、俺が勝手に、過去とか思い出なんかにできないだろ?」

笑顔でそう語る絶狼は、嬉しそうですらある。

「彼は、魔戒騎士だった。

そして、あの人は絶狼を継いだ瞬間から、どんな死であっても受け入れる覚悟ができていた、そんな気がする。

だから俺も、バラゴが消え失せた時、仇を討てた、少しは精算できた、と思えたんだ。」

軽やかに言い切る絶狼の面差しは、後悔に囚われている者のそれではなかった。

絶狼の、道寺に対する誠実な尊敬や感謝の念がまっすぐに伝わってくる。

すると何故か、私まで、意識が熱を帯びた感覚になった。

魔戒には、決して存在しない、光りを帯びた熱を。

しかし絶狼はそこまで言って、ゆっくりと、大きく苦しそうな息を吐いた。

と同時に、ゆるゆると私を身体の脇に下ろす。

これでもう、私は絶狼の表情を覗くことはできない。

私の傍らには壊れんばかりに握りしめられた、彼の拳。

私の意識の細波が、暗く乱れる。

絶狼の心が、こんなにも軋んでいる。

今、彼の心に溢れているのは、きっと、彼女。

あの時以来、この子は滅多なことでは、彼女のことを口にしなくなった。

この私にさえ。

そう思ったこともあったけれど、本当はそうじゃない。

今は、解る。

彼は心のどこかで、私を責めている。

否、責めたがっている、と言った方が正しいだろう。

あの晩、私がもっと早く、バラゴの気配を探知していれば、こんなことにはならなかった、静香を失うことだってなかったんだ、と。

だが、彼は解ってもいる。

私を責めたところで、過ぎてしまったことを変えられる訳でもない、と。

だから、彼は未だ一度たりとも、私を責めたことなどない。

余計なことは何も言わず、残された者同士として、悲しみを共有し、共に在り続けようとしている。

ひたすら、思いを胸に秘めて。

彼は、心優しい家族。

けれど、私には、彼に知られず、彼を知ることができる瞬間がある。

魂の契約の代償として、彼が差し出すほんの指の先ほどの命を、惜しみながらも、うっとりと一口だけかじる、あの瞬間。

彼の精神が、ほんのわずかだけ流れ込んでくる。

それは、写真のような一瞬の映像と、複雑な感情の色と熱を持っていて、心のほんのひとかけらの断片でありながらも、私の意識を魅了する。

不確かで、不安定で、甘く苦く、柔らかく鋭く、清く冷たく。

闇の中で戦い続ける、揺らぎのない彼にはそぐわないほど、彼の隠している心そのものだと分かってしまう。

そして、一度だけ、垣間見えてしまった。

流れ込んでくるあまりにも膨大な情報量が、まるでノイズのようだったけれど、その中で明らかに、他とは異なっていたもの。

目を瞠るほどに美しく、悲しげにはらはらと涙を落とし続ける、今は亡き婚約者。

白く目映い光りに包まれた彼女は、まるではっきりとしない幻のようだったが、一瞬見ただけでも、よく解った。

今でも、彼女が絶狼の全てだと。

私は尋ねたくなり、口を開こうとしたが、彼の方がわずかに早かった。

「ここへ来たのは、正解だったな。」

この書斎に踏み込んだ時と同様、晴れやかに明瞭な声でそう言いながら、絶狼は大きく伸びをして見せる。

穏やかな彼の瞳は、城の南側に広がる深い緑色の芝生を映しながら、

「俺はまだ、立っていられる。」

ついさっきまでの陰りを微塵も感じさせない、突き抜けた表情の絶狼に、私は戸惑う。

戸惑うが、即座にそれは切り捨てる。

絶狼が迷いを断ち切れたのなら、私の戸惑いなど、どうでもいい。

彼が前に進めるのなら、それだけでいい。

私はある記憶を手繰り寄せながら、絶狼へ尋ねる。

「ねぇ、絶狼。覚えているかしら?」

思わせ振りな台詞を、柔らかな口調で響かせれば、彼は私を胸元まで持ち上げて、怪訝そうな眼で見下ろす。

彼が本当に二人を忘れないと、過去にも、思い出にもしないと決めたのなら、こんなことで揺らいだりはしないはず。

私は彼の眼差しを、瞬きで刻みながら、

「写真のこと。毎年、三人で撮っていた。」

「写真?」

訝しげに眉を寄せて、怖いくらいに考え込んでいた絶狼だったが、ふいに一瞬だけ目を瞠り、すぐにその表情は優しく緩んで、悔しそうな笑みへと変わる。

「思い出した。……そうだ、撮ってたよなぁ。すっかり忘れてたよ。」

ため息混じりにそう言って、彼は肩を落とす。

懐かしげに苦笑する彼に、私は重ねて、

「あれが今、どこにあるか、貴方、知っている?」

すると彼はびっくりした顔になり、

「え?、あれって、まだあるのか?俺はてっきり、道寺が…」

そこまで言って、絶狼は笑みをかき消し、幾分沈んだ眼差しで口を噤む。

彼の推測は、確かに正論。

魔戒騎士たる者、己れのどんな痕跡であれ、抹消しなくてはならない。

道寺も絶狼にそう教え、実践してみせてもいた。

しかし、私は得意げな含み笑いを湛えたまま、睫毛を震わせ、

「なら、道寺の、あの椅子に腰かけてみて。」

誘うように囁きながら、私はちらりと道寺の机のある方へと目配せした。

絶狼は何を思ったのか、少しだけ躊躇った後、でも私の指示通り、道寺の机に向かう。

上質な黒革で覆われた、ゆったりとした安楽椅子に、彼は静静と身を沈め、肘を折った両腕をひじ掛けにのせる。

かつての、道寺のように。

椅子に背中や首まで預け、絶狼はそこから見える景色を不思議そうな眼差しで、しばし眺めた。

彼の爪先が床を軽く蹴り、ゆっくりと椅子を回らす。緩慢に回る視界に、絶狼は何を見ているのか。

軋む音さえ立てることなく、椅子はおおよそ一周したところで動きを止めた。

冷たい表情の絶狼が、こうしてこの席に座っていると、彼こそ凉邑家当主であるという威厳すら感じられる。

しかし、絶狼はすぐに私を目の前に翳して、にこやかに、

「で?」

唐突に聞き返してくる気紛れな主に、私はさも慣れていると言わんばかりの笑みを向け、

「ちょっと待っていて。今、開けるから。」

そう返して、私は呟く。

『イデ アル ナ ピエタ』

魔戒語の、簡単なセンテンス。

それに呼応して、道寺の机の、上から二番目の引き出しが、かこっ、と鳴った。

絶狼は少し緊張した面持ちで、私を見つめる。

しかし、私は何も言わない。

見れば分かることを説明なんてしたくもない。

確かに私は、今の今まで、絶狼に言ったことはない。

実は、道寺の声を再現できるなんて。

それに、さっきの魔戒語の意味だって、絶狼ならすぐに分かったはず。

私は絶狼の鋭い眼差しを、あえて見返す。

悪いことなど、何もしていないもの。

わずかだけ口角を上げ、挑むように見返していれば、絶狼はいきなり、笑った。

「さすが、シルヴァ。そんなこともできるのか。」

楽しげに笑いながら、絶狼は解錠された引き出しを開ける。

引き出しの中には、いくつものフォトフレームが本のように閉じてしまわれていた。

そのひとつを手に取り、中に飾られている写真に目を落とす。

椅子に身体を預け、両手でフォトフレームを持って、彼は写真を眺める。

今の絶狼はきっと、道寺と同じ眼をしている。

鋭い眼つきなのに、ひどく凪いだ瞳で、きっと写真を見つめている。

「『すべては、ここに。』…か。」

絶狼が弱いため息と共に呟く。

道寺にとっての、すべて。

それを見て、絶狼が何を思うのか、私には想像もつかない。

だけど私は、絶狼の知らない事実を、まだ幾つか知っている。

私が知っているだけでは、何の価値もない記憶。

私は自分の思いつきに、意識がさざめくのを感じる。

緩やかな熱を帯びた、細波。

フフ、きっと私は今、「楽しい」のだわ。

 



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還る、想い 2

道寺は、手を止め、顔を上げた。

書斎の扉の向こうに、人の気配がする。小さくて、ひどく頼りない気配。

「愛娘よ、絶狼。」

胸元で、銀色の美貌が、からかい気味に囁く。

その直後、微かなノックの音がして、重厚な木製の扉がゆっくりと室内に押し込まれる。

見れば、その隙間の影から、静香の白い顔が覗き込んでいた。

「あの、お父様、…今、お話ししても、いい?」

消え入りそうなくらい小さな彼女の声に、道寺は深く頷く。

それを認めてから、静香はワンピースの裾を揺らめかせつつ、恐る恐る、道寺の机の前である書斎の真ん中に立った。

今日の彼女は、グレイを基調としたワンピース姿だったが、アクセントに黒のリボンや白のレースがあしらわれていて、控えめながらも可愛いらしい。

ふわふわとした明るい亜麻色の髪は、黒いリボンのカチューシャが軽く押さえていた。

未だに、仕事中の無愛想な道寺が苦手らしく、やってきた静香の表情は、強ばり引きつって見える。

胸の前で握り合っている彼女の指先が、真っ白であるのを眺めながら、道寺は柔らかい口調で促した。

「どうした、静香。」

すると、彼女は思いつめた面差しを伏せて、たどたどしく告げる。

「お願いが、あるの。」

「願い?」

 怪訝そうに聞き返されてしまい、静香は俯いてしまいがちの顔を必死に上げながら、おどおどとした眼差しを道寺に向け、

「あのね、…次の誕生日って、初めて銀牙も一緒の誕生日でしょう?

だから、記念に、……写真を撮りたいの。私と、銀牙と、お父様で。」

緊張で、息もうまくできないらしい。

たどたどしい口振りで、それでも、静香は自身の願いを告げた。

道寺は、当然、彼女の言葉が聞こえていたはずなのに、憮然とした顔のまま動かない。

返事すらしてもらえず、静香はますます色をなくしながらも、

「駄目、かしら?」

倒れそうなほど彼女は張りつめた様子であるのに、道寺は緩慢に机の上へ視線を泳がせながら、

「駄目、という訳では、ない。」

歯切れの悪い道寺の台詞に、静香は首を傾げる。

彼の不可思議な態度に気をとられ、とりあえず緊張から解放されたらしい静香だったが、道寺はどこか冷たい目で彼女を見つめ、

「いいのか?そんなものを残して。まだ、わからないのに。」

道寺の声は、固く低く揺るぎない。

銀牙は今なお、いついなくなるか、分からない。

改めてそう宣告されてしまい、静香は先程とは異なる様子で、再びぴしりと表情を強ばらせた。

だが気丈にも、すぐに思い切り明るく笑って見せ、

「私なら平気よ。きっとそんなことにはならない、って信じているもの。」

にこやかにそう言って、静香は微かに首をかたむけた。亜麻色の前髪がさらりと揺れ、白い額に可憐さが映える。

すとん、と鳶色の瞳を手前の床へ落とし、彼女は確信めいた微笑みを浮かべて、

「銀牙なら、きっと大丈夫よ。」

まるで自身を励ますような台詞。

しかし、そんな静香を目の当たりにしても、道寺はわずかに瞼を伏せるばかり。

彼の冷たく沈んだ面差しを見て、静香の笑顔はあっという間に搔き消されてしまう。

口をへの字に曲げたかと思うと、感情に声がよれてしまいそうになりながらも、

「わかっているわ、お父様。ちゃんと、わかってる。

どんなに私がそう願っても、銀牙がいっぱい頑張っても、駄目な時だってあることくらい、わかってるわ。

だって、私も銀牙も、まだ子どもなんだもの。

結局、ひとりじゃ何もできないし、何も思った通りになんてならないんだわ。」

ぽろぽろっ、と涙が頬にこぼれ落ち、静香は慌てて手の甲で拭う。

しかし、一度あふれてしまった涙は、簡単にはおさまらない。

あげく、彼女がやっとの思いで秘めてきた不安までもが、その小さな口からこぼれ出てしまう。

止まらない涙を隠すように、彼女は手や腕で顔を覆いながら、

「もしかしたら、明日にだって、銀牙、いなくなっちゃうかもしれない。

…気がつかないうちに、いなくなっちゃったら、…どうしよう、…って、いつも私、とても怖いの。」

うっく、ひっく、としゃっくりを上げ、静香は涙を手でこするように拭った。

書斎の真ん中で、きちんと両足を揃えて立ちながら、静香は泣き続ける。

道寺は椅子に腰かけたまま、動こうとしない。

泣かせているのは自分だと自覚しているせいで、慰めようもないからだ。

そして、彼の心配は、今、別のところにある。

極端に体力のない静香にとって、泣く、という行為は、重労働に等しい。

身体に大きく負荷のかかる呼吸を、絶え間なく不規則に繰り返すそれは、長引けば、静香の場合、最悪、生死をさ迷うような事態への引き金となってしまいかねない。

それでも、道寺はただ黙って、注意深く静香を見守る。

幸いにも、激しかったしゃっくりは、次第に弱まり、彼は秘かに安堵する。

ようやく静香の様子が落ち着いてきたらしいと分かると、彼はゆっくりと口を開く。

「写真など残して、いざ、あれがここを去ることになったら、辛いのはお前ではないのか?」

 押しつけるのではない、静かな口調。

 しかし、静香はびくりと身を震わせ、顔を上げる。

 涙の滲む目元を見つめながら、彼は、

「写真は、寂しさも悲しみも、幾度でも鮮明にするだろう。そんなことは、繰り返していいことではない。何も残さず、心のあるがままに任せるのも、自然なことと、私は思うが。」

見る度に、悲しみをぶり返すような代物など、いたずらに残さない方がいい。

忘れた方がいいことなら、少しでも早く忘れるに越したことはない。

痛みを伴うなら、なおのこと。

その痛みが深いなら、よりさらに。

理性的な道寺の言葉に、静香は目をこすりながら、でも小さく首を横に振る。

くすん、くすんとまだ鼻を鳴らしながらも、静香は懸命に反論した。

「そんな、悲しいこと、言わないで。

…銀牙、なのよ?

私には、生まれて初めての、お友達。

代わりなんていないくらい、大切なお友達で、もう、家族なの。

毎日一緒に、ご飯を食べたり、笑ったりするのが、もう、当たり前なの。

いないことなんて、考えられない。

お父様は、違って?」

涙で濡れた目元を手でこすってしまったせいで、静香の瞼は赤くなり始めている。

そんな痛々しい面差しの娘に、面と向かって訊かれても、道寺はやはり視線を下げて黙すのみ。

静香は深く項垂れ、両手でスカートを鷲掴むと、少しずつ息を整えながら、

「なんとなくね、…わかるの。

今、銀牙がいなくなったとしても、それはきっと、誰のせいでもないんだわ。

お父様だって、銀牙のこと、嫌いじゃないもの。

だから、そんなこと、おっしゃっているんでしょう?」

ゆったりと、深呼吸にも似た息づかいで、静香はひとり語る。

「だから、銀牙は、もしかしたら本当にいつか、いなくなっちゃうかもしれない。

そしたら、私、…きっと泣くわ。

最初は、毎日ずっと泣いて、それから少しずつ、泣かない時が増えて、そしていつか、泣かなくなると思う。」

彼女の両手からは、すっかり力が抜けて、やんわりとスカートを押さえていた。

足元に広がる絨毯に、ぼんやりと視線を放ったまま、静香はぽつんと言った。

「でもね、お父様、私は、ずっと泣きたいの。」

 瞬間、道寺の顎が微かに上がる。

 静香は壊れた残骸を眺めるような、虚ろな面差しで、

「銀牙がいなくて寂しい、って、ずっと泣きたい。

だって、今、私がこんなに毎日が楽しくて仕方ないのは、全部、銀牙のおかげだもの。

だから、寂しいって泣く、ってことは、一緒にいて楽しかったことを忘れてない、ってことでしょ?

私、銀牙のこと、少しだって忘れたくない。

泣くしかない、辛い思い出になってしまっても、思い出は思い出。

楽しい毎日がある、って教えてくれた銀牙なんだもの。

そんな銀牙を忘れてしまうことの方が、私には怖くて仕方ない。」

疲れたのか、吐息混じりの弱々しい静香の声であるのに、道寺には、彼女の決して譲れない強い意志を感じ取ってしまう。

自身でも気づかないうちに、道寺は静香の表情をうかがい見ていて、顔を上げた彼女の眼に目を奪われる。

彼女はもう、彼の視線に怯むことなく、

「だから、…お願い。」

涙で潤んだ瞳なのに、もう悲しみの色はない。

強い意志と、深い覚悟。

静香の鳶色の双眸には、幼さにそぐわないほどの輝きが宿っていて、秘かに道寺を後悔させてしまう。

彼はもう、小さくため息を吐くしかなかった。

その後、二人の誕生日に、静香の願いは無事、叶えられる。

そうして出来上がった写真を、道寺は静香に差し出したが、静香は受け取らなかった。

代わりに、

「お父様が持っていて。」

にっこりと笑う静香に困惑しながら、道寺は手にある写真を見下ろす。

「だって、私は今、会いたい時に、銀牙に会えるもの。だからまだ、必要ないわ。」

そんなことを言って静香は、ひとり歩み去りつつある銀牙の背中を追って行ってしまった。

立ち尽くす道寺に、魔導具は艶やかな声で、

「やるわね。」

感心しているらしい、銀色の輝きを放つ賢女に、

「シルヴァ?」

質すような主の声色を敏感に察した彼女は、冷ややかながらも柔らかな口調でもって、

「案外彼女、絶狼に持たせてあげたかったんじゃない?

悪くないと思うわよ。

人はあっという間に、成長するからこそ、何かしら過去の痕跡を手元に置きたがる。懐かしがるためにね。」

人ですらない魔導具に諭された形になり、道寺は何か反論しようとしたが、結局、口を噤んだ。

どこか不満そうな道寺を、銀の貴婦人はくすくすと笑う。

 



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還る、想い 3

瞼を上げつつある自分に気づいて、絶狼はさっきまで見ていた光景が、現実ではないんだと知る。

目覚めるような緩慢さで、彼は我に返った。

虚ろだった瞳に、急速に光が戻って、尖る。

「絶狼?」

銀色に輝く賢女が、柔らかく響く。

「どうかした?」

何事もない普段通りの彼女の口振りに、絶狼は答えない。

仕立てのいい椅子は、仰向けに寝そべるように背中を押し当てると、柔らかく受け止めてくれる。

椅子にすべてを委ねたまま、彼は何もない虚空を冷えた眼差しで見下げた。

口を軽く結び、一点を見据える絶狼の表情は、淡い青に翳っているようにも見える。

懐かしい静けさに耳をすませているのか。

それとも、天井に映っている影を眺め、前にこれを見たのはいつだったろう、と思い返しているのか。

風ひとつ入って来ないこの書斎もまた、時が止まっているかのようだ。

だが、絶狼は唐突に椅子から立ち上がり、思い切り伸びをしながら、

「さぁて、帰るかぁ。」

軽やかな口振りで、絶狼はあっけらかんと呟いた。

それから、あの夜のままに、きちんと片付いている机を見下ろし、

「シルヴァ、」

呼ばれて、魔導具は丁度、机の上に置かれた手の甲から、主を見上げる。

「何?」

「この引き出し、元の通りに、封じておいてくれ。」

明るい表情の絶狼にそう言われて、魔導具は意外そうに眉を浮かせると、

「あら、ひとつくらい、持って帰らないの?」

すると絶狼は、彼女を胸元まで持ち上げ、

「これは、道寺のものだ。俺が持ち出していいものじゃない。」

「そう、ね。」

彼の言い分に、銀の貴婦人は冷たい瞼をわずかに下げて頷く。

彼女の様子に憂いを感じたのか、絶狼は続けて、

「見たくなったら、また来ればいい。付き合ってくれるだろ?」

悪戯っぽい笑みでそう告げる彼に、魔導具は艶然とした声で、満足気に頷く。

「ええ、勿論よ。」

それから、銀の貴婦人は主の命に従い、道寺の机にあった封印を再度施し、絶狼は書斎を後にする。

廊下に出て、間もなく、彼は階段前の小ホールとも呼べる開けた空間に差し掛かる。

さっきは視線すら向けることなく、絶狼はここを素通りしたのだが、今度は足を止めて見渡す。

窓にかかる白いカーテンが、緩やかな風に絶え間なく揺らめいている。

絶狼は、こつ、こつ、と艶やかなフロアを進み、止まる。

足元の床には、何の痕跡も残されていない。

見下ろし、囁く。

「ごめんな、静香。」

そこで初めて、魔導具は気づく。

絶狼は、守れなかった静香に向かって、今まで一度も、謝罪の言葉を口にしていなかったことに。

おもむろに踵を返し、彼はその場に背を向け、立ち去る。

階段を降り、エントランスを抜け、玄関から外に出た。

まだそれほど、陽射しは傾いてはいない。

けれど絶狼は、他のどこも見ることなく、愛車の元へと戻った。

本当に、これで帰るつもりなのね。

銀色の輝きを放つ賢女は、迷って、でも口を噤む。

彼が岬へ寄ることもなくここを去る理由なんて、私が尋ねたところで、意味すらない。

けれど、今なら言えることは、ある。

「絶狼、」

「何だ?」

停めてあるバイクに跨がり、彼は腰を下ろすと、彼女と向き合う。

魔導具は、かちかちと睫毛を震わせてから、

「ごめんなさい、絶狼。

私があの夜、もっと早く、奴の気配に気づくことができていれば、きっと違う結果になっていたはずだわ。」

私にだって、言えないでいたことくらいある。

あの時はプライドが言わせなかったが、今なら、言える。

私ではどうすることもできない、絶狼の悲しみや苦しみを、ずっと間近で感じてきたからこそ。

魔導具の言葉に、絶狼はびっくりした顔で目を丸くしたが、そのうち僅かに首を傾げ、

「もしかして、シルヴァ、俺がお前のこと、実は内緒で恨んでるって、思ってた?」

軽やかな口調の彼に合わせ、私は見透かすような余裕の笑みを浮かべながら、

「フフ、まさか。」

私の答えは、絶狼に気に入ってもらえたらしい。

彼は嬉しそうに微笑むと、早速、手に下げていたヘルメットを被る。

エンジンを軽く噴かし、絶狼は愛車で、来た道を戻り始めた。

一方、美しい魔導具は瞼を閉じ、ついさっき絶狼からもらった台詞を、意識の一番深いところへと秘める。

彼からの、たった一言。

「…ありがとな。」

 



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還る、想い 4(終)

いいタイミングだ、と思った。

別に、過去と決別しようとか、そんなことを思った訳じゃない。

だけど、このままでいい、と吹っ切れていた訳でもなかった。

どんなに足掻こうとも、新しい記憶は鮮明で強烈だし、古い記憶は少しずつ掠れ、ぼやけていく。

今を共に生きている者達に癒されてしまうことは、別段、罪でもない。

静香のことを忘れるのではなく、過去のこと、思い出とすることで、新たな系譜を作る伴侶を迎える。

少し前までは、そんなことを考えただけでも、心にある傷から血が滴った。

今は、ちょっと違う、気がする。

それを確かめるのに、いいタイミングだと思った。

静香が一番喜んでくれそうな、小さな花束を携えて、俺は自分の意志でここへ戻った。

ここは、零の始まりの場所。

そして、銀牙と、静香の死んだ場所。

結構、経ってるんだけど、なんだかまだ、うまく整理がつかない。

バイクでここへ向かっている間はそうでもなかったんだけど、バイクから下りて玄関へ向かう道すがら、急に頭ん中がごしゃごしゃになった。

俺は何をしに来たんだろう。

魔戒騎士としての務めを果たすことには、何の疑念もない。

当たり前のことをしているだけだ。

道寺はそう望んでいるだろうし、彼の為にも、そうしたいと望んでいる。

彼女だって、そんな俺をきっと許してくれている。

だから、俺は今、こうしている。

けれど、何かが引っかかる。

俺は何も間違っていない。

間違っていないのに、俺は魔戒騎士以外のすべてから、背を向けて立っている。

だから、ここへ戻って来た。

俺がどうしたいのか、何を望んでいるのか、その答えがあるとしたら、ここしか考えられないから。

俺のすべてが、ここにはある。

 

 

 

玄関扉は、意外と平気だった。

エントランスに足を踏み入れ、階段を前にして、立ち止まる。

道寺の遺体があったところで、あの夜を思い出す。

ここで静香の悲鳴が聞こえ、階段をかけ上がったんだっけ。

少しためらったけど、俺はもうあの頃のガキじゃない。

ゆっくり昇りきって、俺は正面に設けられた小ホールと向き合わないまま、静香の部屋へ向かう。

あそこは、最後でいい。

しかし、静香の部屋で、俺はあっけなく動けなくなる。

俺は俺を試せるほど、何も吹っ切れてなんかいなかった。

このドアを開けて、何も感じないことも、何かを感じることも、俺には怖いことなんだと思い知る。

ゾッとして動けなくなった俺の背中を、シルヴァの声が押した。

「絶狼?」

ふ、と身体の緊張がとける。

何やってんだろ、俺。

静香に会いたかったんじゃなかったのか。

どんな静香であったとしても。

そう思い直して、勢い任せに踏み込んだ。

明るい陽射しが、窓から差し込んでいた。

がらんとした、誰もいないこの部屋を見回す。

おぼろげになっていた記憶が、みるみるうちに鮮明さを取り戻していく。

ぼんやりと、机の上に花束を置いて、以前はよく使っていた言葉を、一応呟いてみた。

「…ただいま、…かな。」

見覚えのある机。その小物たち。

静香の気配が、ここには確かに残っていた。

机に向かっていた彼女の姿。その横顔。

彼女がこの部屋で、どんな顔をして、どんなことを言っていたか。

様々な年齢の静香。

様々な感情の静香。

笑ったり、泣いたり、怒ったり、拗ねたり。

ぽつぽつと思い出していく。

陽だまりの中で降る、光りの雨のように、淡く頼りないまま、止まない。

止まないことに、心は震え、胸がいっぱいになる。

「よかった…。」

俺は、忘れていない。

静香を忘れてなんかいない。

身体ごと振り向いて、静香のベッドを見下ろす。

何度、このベッドで彼女を抱き締めただろう。

苦しいほど強く抱き締めたこともあったのに、彼女は何も言わず、ただひたすら、優しかった。

華奢でたおやかな腕で抱いてくれたり、淡く色づいた唇で頬を撫でてくれたりもした。

俺のためだけに、幾度となく涙を落とし、

『好きよ、銀牙。誰よりも、好き。』

 晴れて魔戒騎士となったものの、守りし者としての務めを果たす過酷さは、想像以上だった。

辛くて、苦しくて、だけど彼女には何も言えなくて。

口を噤んだまま、それでも甘えてしまう俺を、彼女はひたすら優しく、受け止めてくれた。

甘えでも、許しでも、求めれば、彼女はいくらでも与えてくれて、それがどんなに救いだったか。

籍を入れ、改めて妻として迎えるまではと、肌を求めることはしなかったが、俺が求めるなら、彼女はそれすら許してしまっていただろう気さえする。

そんな彼女を、忘れろという。

過去にしろという。

今を生きる、優しい人達が。

「まだ、…嫌だ。」

静香を思い出にして、新たな伴侶を迎え、新しい系譜を作る。

いつかは、そうなる?

いや。

俺はそんな真似、殺されたって嫌だ。

道寺には悪いけど、新しい系譜なんて、くそ食らえだ。

そんなの、他の奴らが勝手にやればいい。

誰であろうと、これ以上、俺から静香を奪うことだけは、絶対に許さない。

例えそれが俺自身であっても。

 

 

 

道寺の書斎で、シルヴァがお節介をする。

以前撮っていた家族写真の在り処を教えてくれた。

懐かしい姿に、苦く笑う。

久し振りに、記憶の中じゃない、静香の顔を見る。

幼い頃の彼女は、まだ元気もあって、一緒によく遊んだ。

静香と同じ誕生日となってからは、毎年その祝いの席で家族写真を撮ることが、四人での約束事のひとつとなった。

きっと一番新しいものなら、あの夜とさほど変わらない姿の静香が微笑んでいるはず。

見たい、と思いながらも、指はその写真を取ろうとしない。

あの時の彼女の隣には、あの時の俺がいる、からか。

と、突然、意識を奪われる。

今度は過去を見せられる。

写真を撮りたい、と静香が言い出した時の情景らしい。

視点が、シルヴァのいた道寺の胸元だったから、この現象は恐らく彼女の仕業なのだろう。

幼い静香が懐かしくて、胸が痛む。

道寺の意地の悪い台詞に泣かされながら、それでも静香は告げる。

『銀牙がいなくて寂しい、って、ずっと泣きたい。

寂しいって泣く、ってことは、一緒にいて楽しかったことを忘れてない、ってことでしょ?

私、銀牙のこと、少しだって忘れたくない。』

耳にした瞬間、息がつまった。

あの夜以来、胸の奥深くでずっと涙が止まらない俺を、静香が優しく抱き締めてくれた気がした。

静香の気配に、ふわりと包まれる。

また、……だ。

俺の、死にかけた心の欠片を、静香はまた、そっと抱いて癒してくれた。

と、同時に、心が深く裂けて、血が噴き出す。

何もかもが真っ赤に染まるほどの痛み。

やっとわかる。

静香の記憶が掠れてきたのは、時が経ったから、だけじゃない。

忘れたかったからだ。

そして俺は、忘れてしまうよりも残酷なことを望んでいるのだと思い知る。

俺は罪人。

全てを、命すら彼女に捧げ、彼女を守ると約束したのに、何ひとつ守れなかった。

そのくせ、俺はまだ生きていて、未来を求めるようにあがいている。

俺の両手を染めるこの赤は、静香の血。

決して拭えやしない、美しい命。

罪だとか、罰だとか、そんなんじゃなくて、そんなことよりも、俺は望んでいたはずなのに。

今の俺は、間違っている。

そんなことを認めるだけで精いっぱいだなんて。

バカな男だ。

そして、安堵する。

「でもね、お父様、私は、ずっと泣きたいの。」

世界に取り残されたのが、俺でよかった。

俺に先立たれた静香の痛みと苦しみは、きっと俺以上に違いなかったろうから。

別に、うぬぼれでも、のろけでもなくて、俺は寒気がするほど薄情な奴だし、彼女は本当に優しい女(ひと)で、何より寂しがり屋だったから。

帰り際、俺は静香の死んだ場所をわざと自分に見せつける。

謝罪したところで、仇を討ったところで、何も変わりはしない。

湿った黒い土に横たわる、静香の白い顔がふいに浮かんだ。

本当に最後の、彼女の面差し。

俺はその後、あの黴臭く汚らしい黒い土を彼女の上に落とし、埋めて、閉じ込めた。

苦しくて、何度も胃液を吐きながら。

あの時は、仇を討つことばかりを頭の中で燃えたぎらせていたから、そんなこともできたのかもしれない。

愛車のところまで戻った時、突然、シルヴァが謝った。

あの夜のことは、自分にも責任がある、と。

以前の彼女なら、絶対そんなことは言わなかっただろう。

魔導具としてのプライドが、そんな真似を許すはずがない。

変わったのか、ホラーでも。

でも、俺は感謝する。

相棒として。

愛車は来た時と同様、ご機嫌に俺を振り回して、すんなりと現役の魔戒騎士としての日常に連れ帰ってくれる。

殺伐とした、戦いの黄昏へと。

まずは、そう、雷牙だ。

奴はまだ、脆く儚い、何も知らない子供。

損な役回りだと、つくづく思う。

後でちゃんと、俺が自ら望んで師匠になったんじゃないと言ってきかせよう。

奴の父である、鋼牙の頼みだから引き受けたんだ、って。

でなければ、誰が、引き受けるものか。

笑顔を奪う役回りなんて。

静香だけでなく、雷牙までも、俺が闇に引き入れる役になるとは。

いや、そうじゃないか。

そうは、させない。

彼は鋼牙の息子であり、カオルちゃんの息子なんだ。

あの二人の息子なら、きっと叶う。

本当の笑顔を失うことなく、牙狼となれる。

俺が、叶えさせてやる。必ず。

それが俺にとっての、道寺への手向け。

ゆっくりと、また傷が裂けて、熱い血が滴る。

いつまでも、いつまでも、俺は無力なままだ。

あいつには、何ひとつ届きやしない。

俺は安心して、にやりと笑う。

ようやく、還ってこれた気がする。

全てから色が消えたこの世界こそが、俺の生きるべき世界。

俺に光りなどいらない。

光りに満ちた世界を一度は手にした。

そして、もう二度と得る事はない。

それでいい。

それでやっと、俺は彼女と同じところに立てるのだから。

バイクのエンジンを軽くふかして、その爆音で思考を断ち切る。

小気味よく疾走する愛車にまで感謝しながら、俺は自身の管轄地へと急いだ。

 



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