邪霊ハンター (阿修羅丸)
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エピソード1
影の襲撃 その1


 夜の山道は暗い。その上新月の夜ともなれば、なおさらだろう。

 そんな中を、峰岸(みねぎし)(あおい)は一人、トボトボと歩いていた。

 赤茶色に染めた髪や、やや派手なメイク。その割りに顔立ちにあどけなさも感じるのは、彼女がまだ高校生だからだ。

 深夜の山道。舗装された道路とはいえ、スマホのLEDライトしか明かりがない状況では、自然と歩みも遅くなっていた。

 高校生にしては豊満すぎるバスト101センチの胸が、一歩進む度に水色のキャミソールの下で弾む。

 下はショートパンツにサンダル。

 あまりにも軽装過ぎる。

 しかし、もちろん好き好んでこんな格好で山道を歩いている訳ではない。

 

「あいつ等、マジ信じらんない……なんで置いてくのよ……」

 

 葵は嗚咽混じりに愚痴をこぼす。

 

 山奥にある、住む者なき二階建ての民家。そこはいわゆる心霊スポットとして知られていた。

 期末テストも終わって気の緩んだところで、友達の間で誰ともなしに『面白そうだからちょっと行ってみようぜ』的な話になったのだ。

 友人の中に、車の免許を取ったばかりの兄や先輩などを持つ者がいたため、彼等に車を出してもらい、七人で突撃したのは良かったのだが……。

 

 ――ブルルッ。

 

 思い出して、葵は恐怖で身震いした。

 

 件の家に到着した一同は、何故か鍵のかかってない玄関のガラス戸を開けて、ズカズカと中へ入っていく。

 葵もちょっとした探検気分で、恐怖心はおろか罪悪感もなかった。

 当たり前だが、中は真っ暗闇だ。何人かが用心に持ってきた懐中電灯で照らしながら、探索する。

 居間と思わしき和室には、なんとブラウン管のテレビが鎮座していた。壁にかかっているカレンダーは、昭和50年代の物だ。あまりの古さに全員がゲラゲラと笑った。

 妙にテンションが高かったのは、今にして思えば怖さを紛らわせるためだったのではないだろうか。

 一階の探索を終えて二階に続く階段を上ろうとした矢先、玄関の戸が勢い良く閉まる音がした。

 その時、葵たちは全員廊下の奥の階段前に集まっていた。つまり、玄関には誰もいないはずなのだ。

 

「おい、誰だ! 脅かすんじゃあねえーよ!」

 

 懐中電灯を持っていた男子の山崎が、声を荒げて玄関に向かう。後から肝試しにやって来た誰かが先客に気付き、イタズラしたのだと思ったのだろう。

 その山崎の後ろ姿が、他の仲間の懐中電灯に照らされる中、土間に降りた瞬間に消えた。まるで落とし穴に落ちたかのように、フッと消えた。

 全員が我が目を疑う中、玄関の暗闇の中から、何かが這い出てきた。水中から浮かび上がるように、地面の影から真っ黒い人影が這い出てきたのだ。

 

 ――否。

 

 それは人影ではなく、影その物だった。

 人の形をした闇だった。

 それが、理性を全く感じさせない四つん這いの動きで、葵たち目掛けて這い寄って来る……!

 一同は悲鳴を上げながら、居間へと逃げ込んだ。そして窓を開けて、次々と外へ飛び出す。

 全員が外に出て、最後に葵が脱出しようと窓枠に片足を掛けた時、後ろからもう片方の足を掴まれた。そして引き寄せられた葵は、窓枠に上半身だけを乗り出した形となった。

 思わず振り向けば、あの人型の闇が、葵の白い太股に両手でしがみついている。

 

「ひぃいいいっ! やだやだやだぁぁああっ!」

 

 葵はわめき散らし、ジタバタともがき、相手を蹴り飛ばそうとすらした。

 しかし、太股に絡み付く腕のヌメヌメした気色悪い感触が確かにあるにも関わらず、蹴った方の足には何の手応えもない。

 そいつの顔の辺りに、黄色く濁った目が見えた。

 ニタリといやらしく笑う歯が見えた。

 半狂乱になって暴れるうちに、何とかそいつの拘束から逃れた葵は、窓枠を乗り越えて転がるように外へ飛び出した。

 しかし時すでに遅し……二台の車のエンジン音がしたかと思うと、それはすぐに遠ざかっていく。置いていかれたのだ。

 

「ま、待って! 待ってよぉー! 置いてかないでぇーっ!」

 

 葵は叫びながら走り出したが、追いつけるはずもなし。

 仕方なく、徒歩で山を下りる事となったのだ。

 

 最初はシクシクと泣いていたが、それもやがて落ち着いてくる。

 車で30分ほどはかかった道だが、町を出て山に入ってからはずっと登り坂だった。つまり、今こうして坂を下っているのだから、時間はかかるが町には戻れるはずだ。そう考えると、気持ちも楽になる。

 

 フッとスマホのLEDライトが消えた。

 画面を操作してもう一度点灯させた瞬間、葵は「ひっ!」と声を漏らした。

 目の前に、先程の民家があったのだ。葵はその玄関の目と鼻の先に立っていて、LEDライトがガラス戸を照らし出していた。

 磨りガラスの向こうに誰かがいる。

 

「誰かいるのか!? 助けてくれ! 戸が開かねえんだ!」

 

 聞こえてきた山崎の声に、葵は彼の無事を喜びつつ、ガラス戸の取っ手に手を掛けた。

 ガラガラと音を立てて、戸は簡単に開いた。

 だがそこに、山崎の姿はない。

 廊下いっぱいに、たくさんの人影がひしめき合っている。

 無数の黒い腕が、葵の手や足、髪を掴んで、暗闇に引きずり込んだ。

 

 ガラス戸は再び、ピシャッと閉ざされた――。

 

 

 廊下の上に仰向けに寝かされているのが、背中の感触でわかった。

 抵抗出来ないように、たくさんの手が手足を押さえつけているのもわかった。

 ヌメヌメした触手を思わせる気持ちの悪い視線が、自分の身体に絡み付いているのもわかった。

 だが、それだけだった。

 わかってはいても、葵には何の抵抗も出来ない。

 たくさんの手が、少女の肉体を這いずり回る。

 舌で舐められる感触もあった。

 肩。

 腋。

 へそ。

 内股。

 キャミソールの下に潜り込み、豊満すぎる膨らみに指を食い込ませる者もいた。

 そしてその漆黒の愛撫を受ける度に、葵は体から熱と力が抜けていくのを感じた。

 頬を舐められた瞬間、葵は顔を背けて唇を死守した。まだ誰ともした事がない、という訳ではないが、だからと言ってこんな薄気味悪い連中に許すつもりはない。

 そこへ二本の腕が伸びてきて、少女の頭をガッチリと押さえた。

 別の手が、口を強引に開かせて固定させる。

 闇の中でもわかるほど真っ黒な顔が、葵の眼前に現れた。その顔が渦を巻き、ねじれ、細いミミズのような形に変化していく。

 

「あっ……ああっ………あああああっ!」

 

 開かされた口からヨダレを、目から涙を溢れさせ、葵はうめいた。何をされるか、直感でわかったのだ。

 

 こいつは、自分の中に入ろうとしている……!

 

 もがく葵のショートパンツが下着ごとずり下ろされる。頭を押さえつけられてるので見る事は出来ないが、別の場所から別の者が入ろうとしているのだとわかった。

 葵は必死にもがいたが、身体はびくとも動かない。

 諦めかけて目を閉じた瞬間、パリンと音がした。

 玄関のガラス戸を突き破って、何か細長い物が飛び込んで来たのだ。

 それは意思を持つかのように上昇して廊下の天井に突き刺さると、まばゆい白光を放つ。

 その光に焼かれて、葵の周囲の影のいくつかが消滅した。

 残った影たちは、潮が引くように光の届かぬ奥の闇へと逃れる。

 

 解放された葵が、着衣の乱れを直すのも忘れて、救いの光源を見上げると――それは、一本の木刀だった。

 刀身の半ばまでを天井にうずめたそれは、柄の部分に『獅子王』の文字が彫られてある。

 

 ガラス戸が開けられた。

 立っているのは、若い男だ。

 白いTシャツにジーパン、そして黒のフード付きベスト。

 ただでさえ暗いのに、そのフードを被っているため、余計に顔はわからなかった。

 

 闖入者はスニーカーのまま廊下に上がり、葵の横を大股で通り過ぎて、

 

「服直せ」

 

 振り向きもせずに言う。声の感じからして、葵と大して変わらない年頃のようだ。

 葵は慌てて、ずり下ろされたショートパンツを戻した。

 キャミソールもめくれ上がって、薄桃色のブラジャーが丸見えだ。それも戻した。

 そしてもう一度救出者の方を向き直ると、彼は天井に刺さっていた木刀を右手で引き抜いたところだった。

 そして彼の正面の暗闇の中では、何かが蠢いていた。

 あの影たちだ。

 奴等が互いに身を絡ませ合っている。そしてドロドロに融け合い、一つに混じり合って、一匹の獣へと姿を変えた。四つん這いの猿を思わせる姿に……。

 

「長い事とどまりすぎて、完全に人間らしさをなくしたか……」

 

 フードの人物はポツリとつぶやき、木刀を両手で構えた。剣道の試合などでよく見られる、正眼の構えだ。

 木刀は依然白く輝いていたが、その光輝が更に強まった。

 漆黒の魔猿が、黄色く濁った眼を爛々と輝かせ、耳まで裂けた口から牙を剥き、飛び掛かった。

 

「イィーーエヤァッ!」

 

 家全体を震わすような鋭い掛け声と共に、木刀が真っ直ぐに鋭く突き出される。

 切っ先は怪物の胸の中心を貫き、次の瞬間、そいつは黒い塵となって消滅した。

 

 たったの一撃で怪物を退治した人物は、左手で刀身を拭った木刀を、背中の襟口にストンと押し込む。

 長さ一メートル近くある木刀は、シャツの中に消えた。裾をズボンに入れてる訳でもないのに、切っ先すら覗かせず、綺麗に消えたのだ。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 そして葵のそばに歩み寄り、フードを下ろした。

 短い黒髪で、目付きは鋭い。

 やや男臭い顔立ちだが、決して悪い見た目ではなかった。

 

「…………うっ、ひっく、ふぇぇえええ~~んっ!」

 

 ようやく助かったのだと理解して気が緩んだのか、葵は小さな子供のように泣き出した……。



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影の襲撃 その2

 翌日、登校してきた峰岸(みねぎし)(あおい)を昨夜の友人たちが出迎えた。

 ギャル仲間のマッキーこと芦原(あしはら)麻希(まき)と、リンダこと林田(はやしだ)恭子(きょうこ)

 二人は教室に入ってきた葵に駆け寄って、泣いて謝った。

 

「あー、うん。いいよ、気にしなくて。それにあれはしょーがないよ……アタシが逃げ遅れたのは、たまたまアタシが最後だったからでさ。だからもしかしたら、アタシがリンダやマッキーを置いて逃げ出してたかも知れないもんね……」

「葵、マジごめんねぇ?」

「今度ケーキおごるね?」

「いいからいいから……それよりさ、ミッチーは?」

 

 葵はいつもの面子が一人欠けてるのに気付き、教室内を見渡した。

 ミッチーこと柳沢(やなぎさわ)美智子(みちこ)が、いない。

 

「さっき電話したんだけど、出ないのよねー。んで、家の方の電話に掛けてみたんだけどぉ、何か熱出して寝込んでるんだって」

「あと、山崎もまだ帰ってきてないみたいなの」

 

 恭子の答えに、麻希が付け加えた。

 

「そうなんだ……大丈夫かな……」

 

 あの木刀を使う男に助けられた後、葵は山崎の事などすっかり忘れていた。ただひたすら、恐怖から解放された安心感だけがあったのだ。

 二人の友人の身を案じずにはいられなかった。

 

 

 放課後、葵たち三人は美智子の家を訪ねた。

 ありふれた二階建ての一軒家だ。

 

 ピンポーン。

 

 玄関のインターホンのボタンを押す。いつもなら専業主婦である美智子の母親が「はーい」と呑気な声と共に出迎えてくれるのだが、今日は何の返事もない。

 

「出掛けてるみたいね」

 

 麻希が庭の方を見て言った。いつもそこにある黄色い軽自動車がないのだ。

 

 しかし、葵はやけに家の中が気になって仕方ない。

 恐る恐るドアノブを掴んで捻ると――ドアはあっさりと開いた。

 土間にはスニーカーが一足、脱ぎ散らかされている。

 

「ミッチー?」

 

 葵は呼び掛けてみるが、やはり返事はない。

 胸の奥で、不安が込み上げてきた。

 思いきって中に入る。

 玄関を上がってすぐ右手に、二階へ続く階段がある。そこを上がると、開け放たれたドアが廊下を半分ほど塞いでいた。

 

「ミッチー、いるの? だいじょぶ?」

 

 そのドアの部屋を覗き込んだ瞬間、葵はポッと赤くなった。

 山崎が、ベッドの上に横たわる美智子の上に覆い被さっていたのだ。

 ベッドの下には美智子のパジャマと――下着も散乱している。

 

(――えっ? なに? そーいう関係だったの?)

 

 困惑する葵の横から、恭子と麻希も中の様子を確認し、恭子は葵と同じ反応をして、麻希は口許を緩ませて鼻息を荒くした。

 

 しかし、次の瞬間には三人の顔は恐怖でひきつった。

 彼女たちに気付いた山崎が起き上がって振り向くと、その顔は真っ黒に染まっていた。

 塗料を塗りたくったような黒さではない。ポッカリと空いた穴の底のように、顔の部分だけが黒かった。

 その真っ黒な顔の中で、黄色く濁った眼といやらしく笑う歯を見た瞬間、葵は昨夜の恐怖を思い出した。

 あのおぞましい愛撫で自分の肉体を弄んだあの『影』たちと同じ顔だった。

 

「ひっ!」

「な、なに?」

 

 麻希と恭子も、声を上げた。どうやら葵にしか見えない訳ではないようだ。

 

 山崎がベッドから下りた。

 全裸に剥かれた美智子は意識を失っているのか、ぐったりとしている。

 山崎の顔が、変形を始めた。渦を巻きながら、ヒモ状になっていく。葵たちに向かってゆっくり伸びるそれは、まるで毒蛇を思わせた。

 

「ひっ……い、いやああああっ!」

 

 葵の中で、恐怖があっさりと限界を超えた。

 美智子の事も、すぐそばにいる恭子と麻希の事も忘れて、その場から逃げ出した。

 がむしゃらに走って走って走り抜いて自宅の部屋に飛び込むと、そのままベッドに潜り込み、震えるしか出来なかった。

 

 ――恭子と麻希が家に帰ってないと、翌日担任の教師から知らされた。

 

 その日の放課後に、葵は隣のクラスの教室を訪れる。

 室内を軽く見渡すと、ちょうど目当ての男子生徒がくたびれたショルダーバッグを肩に掛けて、席を立ったところだ。

 

「ねえ」

 

 葵はその男子に声を掛けた。すると彼は、ジロリと鋭い眼差しで睨み付ける。

 

「この前は、ありがとね。でさ、ちょっと頼みたい事があるんだけど……」

 

 

 久我(くが)憂助(ゆうすけ)

 あの夜、葵を『影』の群れから救い出した少年はそう名乗った。

 彼は葵と同じ学校で、同じ二年生で、クラスはさすがに同じとはいかなかったが、それでも隣同士だった。

 その救出者たる少年を、葵は校舎の裏庭へと連れ込んだ。

 

「で、頼みっちゃ何か」

 

 少年は訛りのある口調で尋ねる。

 

「あいつ等が、アタシの友達に取り憑いてるの」

 

 葵の言葉に、彼は眼を細め、眉根を寄せた。

 

「アンタ、除霊とか出来るんでしょ? この前のあれって、そーいうのだよね? なんかイメージと違ったけど、そーいうのなんだよね?」

「……ちっと違うが、まぁだいたいそんな感じだ」

「ならお願い、アタシの友達も助けて! ――お礼は、するからさ」

 

 言うなり葵はシャツのボタンを外し、胸をはだけさせた。

 バスト101センチの豊満な胸と、それを包む薄紫色のブラジャーがあらわになる。

 

「お金は払えないけど、その代わり、アタシをあげる……アタシの肉体(からだ)、好きにしていいよ……アンタのオモチャになってあげる」

 

 葵が腕を組むと、二つの膨らみが圧迫されて、深い谷間を作り出した。

 久我憂助は……葵のあられもない姿を少しの間(半ば睨むように)見ていたが、おもむろに彼女の衣服に手を掛けた。

 

「ここで、()()の……?」

「んな訳あるか、阿呆」

 

 言いながら憂助は、はだけたシャツを戻して、ボタンも留めてやる。

 

「しかしお前、なしそこまでするんか……お前の友達っちゃ、この前お前を置いて逃げた連中やねえんか」

「……うん、そうだけどさ。でもあの時、アンタ言ったじゃん。アタシが逃げ遅れたのはたまたまで、場合によってはアタシが他の誰かを置いて逃げてたかも知れない、そういう意味ではお互い様だから恨むなってさ……その通りだよね。昨日アタシ、あいつ等みたいになった山崎見て、怖くなって逃げ出したの。ミッチーもマッキーもリンダも見捨てて、一人で逃げちゃったの」

 

 葵の声は震えていた。

 

「アタシ、自分が情けなくて……許せなくて……助けてあげたいけど、でもアタシには何にも出来ないんだもん……アンタに頼るしかないの……」

 

 言ってるうちに、涙がポロポロとこぼれてくる。

 

「お願い……みんなを助けて……あいつ等やっつけて……お願い……お願いします……」

 

 嗚咽混じりに懇願する葵。

 彼女の赤茶色に染めた髪に、ポンと憂助の手が置かれた。

 

「わかった。案内せえ」

 

 憂助の声が、葵にはとても力強く聞こえる。

 髪に触れる手も、とても暖かかった。



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影の襲撃 その3

 峰岸(みねぎし)(あおい)久我(くが)憂助(ゆうすけ)を友人の家に案内した。

 時刻は夕方の5時を過ぎる頃だ。

 庭に軽自動車が停められてある。美智子の母親は在宅しているようだ。

 ――しかし、そうだとすればあまりにも静か過ぎた。

 

「お前はここで待っとけ。邪魔だ」

 

 憂助は葵に言い捨てて、胸までの高さの門を開けて敷地内に入っていく。その足取りには何の迷いもためらいもなく、まるでここが自分の家であるかのようだ。

 何の気遣いもない言いぐさにちょっとカチンと来る葵だったが、事実なので仕方がない。実際に何も出来ないから、彼に助けを求めたのだ。だから文句を言いたくなったのを、ぐっとこらえた。

 しかし心配だ。彼は助けてくれた時に持っていた、あの光る木刀を持っていない。その事を道中聞いてみたが、彼は「心配いらん」と返すのみだった。

 

 憂助は玄関のドアノブに手を掛け、回した。

 施錠はされてないようで、簡単に開いた。

 

 ――ゾクゾクッ!

 

 外から眺めていた葵は、思わず総毛立った。

 家の中に、あの山奥の民家同様に『影』たちがたむろしていたのだ。

 そいつ等が憂助目掛けて、無数の黒い腕を伸ばす。

 

「イィーーっ……エヤァッ!」

 

 憂助は雷鳴にも似た鋭い声を発した。

 目の錯覚だろうか、一瞬、彼の体が光ったように、葵には見えた。

 否、錯覚ではない。

 確かに憂助の体から白い光が放たれ、その輝きが手を伸ばす『影』の群れを消滅させた。

 

「邪魔するぜ」

 

 憂助はそう言って中に入ると、自ら玄関のドアを閉めた。

 

 

 家の中は、暗い。

 夏の今頃なら、屋内でもまだ照明を点ける必要がないほど明るいはずだが、逆に照明が必要なほどだ。

 空気も、何年も閉めきられたままであったかのように淀み、しかも冷たい。憂助がハーッと息を吐くと、その吐息が白くなった。

 

「どなた?」

 

 廊下の左手から、女性の尋ねる声がする。

 行ってみるとそこは台所のようだ。部屋着の上からエプロンを着けた女性が立っている――手に包丁を持って。

 美智子の母親の幸枝(さちえ)だ。

 憂助は突き刺すような眼差しで、睨み付ける。

 彼女ではなく、その背後に群がる影を。

 彼等は思い思いに、彼女の身体にまとわりついていた。

 気安く髪や頬を撫でる手もあれば、半袖シャツやスカートの中に潜り込み蠢く手もある。

 彼女の豊かな乳房を、見せつけるように揉みしだき、捏ね回す手もあった。

 奇怪な存在に熟れた肉体を弄ばれているにも関わらず、幸枝の表情は虚ろで、目線も定まっていない。

 

 憂助が、一歩前に出た。

 瞬間、『影』は幸枝の鼻や口、耳からその体内に入っていく。五つの『影』が全て、一人の女性の体内に一瞬で収まってしまった。

 かと思いきや、幸枝が包丁を振り上げて襲い掛かって来る!

 その目は黄色く濁っていた。

 憂助は逆さに握った包丁を突き立てようとする彼女の手首を、左手で掴んで止めた。

 そして右手で幸枝の口許を押さえ、そのまま壁に押しつける。

 

「エヤァッ!」

 

 掛け声と共に、右手の平から白光がほとばしる。

 光は幸枝の口から体内に入り、その肉体を侵食していた『影』を焼いた。

 女性のものではない――否、人間のものとすら思えないおぞましい断末魔と共に、『影』たちは幸枝の体から逃げ出し、そのまま煙となって消えた。

 幸枝が、糸の切れた操り人形のように倒れる。それを抱き止めた憂助は、優しく床に横たわらせてやった。

 そして立ち上がるや否や、後ろ回し蹴りを放つ。

 その蹴り足が、眼鏡を掛けた中年男性の腹に突き刺さる。

 彼は金属バットを振り上げた姿勢のまま、台所から廊下の壁へと吹き飛ばされた。

 美智子の父親の孝之だ。その目は黄色く濁っており、妻と同様に『影』に取り憑かれているのがわかった。

 憂助は素早く孝之の懐に飛び込み、両手で彼の耳を押さえる。

 気合いと共に白光がほとばしり、幸枝と同様に体内の『影』を焼き払った。

 孝之を廊下に横たわらせてやり、憂助は次に二階へ続く階段へ向かう。

 上がろうとする足が止まった。

 目線は階段の上を見上げている。

 その上の白い影。

 全裸の美智子が、仁王立ちして憂助を黄色く濁った目で見下ろしている。

 口からは無数の黒いミミズが這い出して、うごめいていた。

 白い裸身が不意に跳ね上がり、虫のように天井に張り付いた。

 美智子の首がグルリとフクロウのように回転して、憂助を見つめるや否や飛び掛かる。

 

「エヤァッ!」

 

 憂助は一瞬の迷いも見せず、拳で迎撃する。日本拳法風の縦拳が、槍のごとく真っ直ぐに繰り出された。

 上空からの攻撃は、相手のカウンターに対して無力。防御するしかない。

 しかし美智子は、憂助の腕を掴んで跳び箱を跳ぶように直突きをかわした。

 そのまま憂助の頭を両足で蟹挟みに捕らえ、体重を掛けて押し倒す。

 まったく嬉しくない顔面騎乗をされながら、憂助は廊下に倒れた。

 その倒れる勢いを利用して下半身を跳ね上げ、美智子の頭を両足で挟む。

 そして下半身を上げた反動で起き上がり、素早くマウントポジションを取った。

 だが元通りに向き直った美智子の顔から黒い触手が伸びて来て、憂助の顔に絡み付く。

 それが鼻や口、耳から侵入しようとする。

 

 憂助は目を閉じて、眉間で黄金の水車が回転するのをイメージする。

 

 すると眉間に光が生まれた。その光が渦を巻きながら、光輝を強めていく。

 

「イィーーエヤァーーッ!」

 

 家全体を震わすような、まさに烈帛の気合い!

 同時に憂助の全身から、これまでにない強い光輝が爆発するように溢れ出し、触手を焼き払い、消滅させた。

 

「ウギィィイイイイッ!」

 

 美智子がケダモノじみた声を上げる。

 そして細腕からは想像も出来ない腕力で憂助をはね退け、階段を四つん這いで駆け上がって行った。

 

「だいぶやられてんな……」

 

 憂助はぼやきながら立ち上がる。

 背中の襟口に右手を差し込み、引き抜くと――長さ1メートルほどの木刀が出てきた。とてもそんな長物を隠してるようには見えなかったのに……。

 柄に『獅子王』と彫られたその得物を携えて、憂助は階段を上っていった。



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影の襲撃 その4

 玄関のドアが閉ざされてから、10分が過ぎた。

 何の物音もしない。

 中はどうなっているのだろう?

 久我(くが)憂助(ゆうすけ)は無事だろうか?

 峰岸(みねぎし)(あおい)は落ち着かない気持ちで、彼が出てくるのを待った。

 

「…………?」

 

 ふと視界の端に、何かが見えた。

 敷地内の隅っこ。

 停められた軽自動車の後ろからこちらを伺う、二つの顔。

 

「リンダ! マッキー!」

 

 二人の友人だった。無事だったのだ。

 彼女たちの顔を見た途端、葵は喜びで胸がいっぱいになり、思わず駆け寄った。

 恭子と麻希も車の後ろから出てきて駆け寄り――葵の両腕を両隣から掴み、押さえた。

 

「えっ?」

 

 友達の奇行に驚く葵。その顔が、すぐに恐怖に歪んだ。

 山崎が現れたのだ。

 その顔は昨日とは違い、はっきりと見えた。

 だがその目は黄色く濁っていた。

 山崎はニタニタといやらしい笑みを浮かべながら葵の眼前に歩み寄った。

 逃げ出そうにも、恭子と麻希の腕力が強くて、まったく動けなかった。

 恐怖に震える葵のシャツに手を掛けた山崎は、勢い良く左右に開く。ブチブチとボタンがちぎれ飛び、101センチの豊満なバストと、それを包むブラジャーがあらわになる。

 山崎はそのブラジャーも引きちぎってむしり取ると、剥き出しになったたわわな膨らみに指を食い込ませた。

 

 葵の全身を、ゾワゾワとした悪寒が駆け巡った。

 揉みしだかれ、捏ね回される度に、体から力が抜けていく。

 山崎の唇が白いうなじを這い回ると、体の芯がどんどん冷えていくのがわかった。

 麻希が葵の後ろに回り、羽交い締めにする。

 恭子が足下に座ったかと思うと、ミニスカートの中に顔を突っ込んだ。

 

「ひいいいっ!」

 

 内股を吸われ、舌で舐め回されて、葵は恐怖の声を上げた。

 恭子の鼻面が、ショーツ越しに股間に押し当てられたかと思うと、あり得ない感触が葵を襲った。何か細長い物が複数、這い回るような感触……見えはしないが、恭子の口からそういう物がウジャウジャと出てきて、自分の股間を愛撫しているのだと、肌の感覚でわかった。

 

 憂助を呼ぼうと開いた口が、山崎の唇で塞がれる。

 重なった口の中から、何かが自分の口の中に入り込んで来た――。

 

 

 階段を上がりきった憂助は、廊下の奥を睨み付けた。その先に、全裸の美智子が四つん這いで待ち構えている。獣のような唸り声を上げて。

 憂助は木刀を下段に構える。

 四つん這いの美智子が、更に身を低く屈めると、全身のバネを使って跳躍し、襲い掛かって来た。その様は獲物に牙を突き立てんとする虎や豹のようだった。

 だがその時すでに、憂助は一歩左に動いて、攻撃の軌道から外に出ていた。

 木刀が跳ね上がり、すぐ脇を通過する少女の白い腹を斜めに斬り上げる。刃のない木製の刀身が、何の抵抗もなく人体を透過していった。

 美智子の体は真っ二つに両断され――ては、いない。

 四つん這いで廊下に着地した彼女は次の瞬間、全身に備わる穴という穴から白い光を溢れさせる。

 その光に押し出されるように黒い影が排出され、光に焼かれて消滅した。

 力なく倒れる美智子を、憂助は木刀をズボンのベルトに差してから抱き上げて、近くの部屋のベッドに横たえさせる。そこは彼女の部屋ではなく両親の寝室だったが、彼にとってはどうでもいい事だ。裸身の上にタオルケットを被せてやった。

 

「あと三人おるはずやがの……」

 

 葵の他の友達二人と、山崎なる男子。その三人の姿を求めて寝室を出た憂助は、階下に人の気配を感知して、階段を駆け下りた。

 廊下を進んでリビングに出ると、そこで三つの白い影が絡まり合っていた。

 

 葵。

 麻希。

 恭子。

 

 三人ともが一糸まとわぬ全裸になっており、ソファの上で白い裸身を絡ませて、互いを愛撫し合っている。時には恋人同士のように唇を重ね合わせ、舌を絡ませ合っていた。

 

『いい眺めだろう?』

 

 土の底から響くような不気味な声が、左手からした。

 憂助が振り向くと、山崎が立っている。黄色く濁った歯を剥き出しにして、ニヤニヤと笑っていた。

 

『お前も混ぜてやろうか? 俺たちの仲間になるならな』

「お断りだ」

 

 憂助は即答し、木刀の切っ先を突きつける。

 

「テメーこそあいつ等を解放しろ。そしてさっさと高い所へ行け」

『それこそお断りだ。ようやく新しい体が手に入ったんだ、俺は今度こそやり直す……この新しい体で、新しい仲間と一緒に、新しい人生をな』

 

 山崎は――彼を乗っ取った『影』は自分の胸に手を当てて、そう言った。

 

『ずっとあそこで待っていたんだ……ようやく手に入れた、俺の居場所だ。誰が手離すものか……お前こそ、何故邪魔をする? こいつの記憶に、お前の姿はない。お前は赤の他人のはずだぞ』

「別に大した理由やねえ。誰だって自分の部屋に虫が入ってくれば追っ払うやろうが」

『俺たちは、虫か? 俺たちだって人間だぞ』

「他人に取り憑いて、その体も居場所も乗っ取る化け物がか? ここは生きてる者の世界で、死んだ者には死んだ者の世界がある。いつまでもこの世界にしがみついてても良い事は何もねえ。お前等はもう死んぢょうとぞ」

『黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇぇえええええっ!』

 

 山崎が叫ぶと、リビング中の家具が宙に浮かび上がった。ポルターガイストだ。

 椅子が、テーブルが、棚が、ミサイルのように飛んでくる。

 憂助はそれを木刀で打ち払い、受け流していく。

 だが、飛び交う家具に紛れて、さっきまで身を絡ませ合っていた葵たちが忍び寄ってきた。

 

「エヤァッ!」

 

 だが憂助はとっくに気付いていた。

 気合い一閃、木刀が宙に三度ひるがえり、三人の裸身を()()()()()

 先程の美智子と同様に、葵たちは体内から『影』を排出し、その場に倒れた。

 

『うあああ、お、俺の仲間がぁぁあああ……よくも、よくもぉぉぉおおおおおっ!』

 

 山崎の頭部が変型を始めた。

 渦を巻き、捻れ、細長いヒモ状になり……その先端が膨れていき、顔になった。

 鼻の大きな、垂れ目の男の顔に。

 かつては人の良さそうな愛嬌のある顔だったかも知れない。しかし今は、憤怒に歪んだ恐ろしい形相だった。憂助の身長ほどにまで膨れ上がり、黄色く濁った目が爛々と鬼火のように光っている。

 

『ウギィィアアアアアアーーッ!』

 

 ケダモノのような雄叫びを上げて、その顔が黄色い歯を剥いて憂助に襲い掛かる。

 その顔を、白い光が縦断する。

 憂助の木刀が真っ向から幹竹割りにしていた。

 

 

 憂助はまず葵を起こし、彼女に恭子と麻希に服を着せる作業をお願いした。

 気恥ずかしさもあるが、素っ裸の女子高生に服を着せる自分の姿を想像すると、我ながら何とも間抜けな絵面だったからだ。

 葵が一仕事終えると、二人の友人と山崎を目覚めさせた。

 三人とも、『影』に襲われた記憶はあるものの、取り憑かれていた間の事は覚えてなさそうだ。

 訳がわからないなりに、自分たちがとても怖い目に遭った事、そしてその恐怖から解放された事は理解して、それぞれ家路についた……。

 

 憂助も、家人の目覚めない内に外に出る。葵はそれを追った。

 並んで歩きながら、葵は尋ねる。

 

「ねぇ、アイツ等結局、何だったの?」

「悪霊とか死霊とか呼ばれてる連中だ」

「あれが? 人間って死んだらあんな風になるの?」

「別におかしな事でもねかろ。例えば轢き逃げされて死んだ人間は、犯人の所には死んだ時のグロい姿で出てくるが、家族の所には生前の綺麗な姿で出て来るやろが。それと同じだ。ただ奴等は、長くとどまりすぎた。生きてる者への妬みや生への執着が、とどまる内にどんどん強くなっていって、あんな風に変質していった」

「なるほどね~。で、あんたがそれを除霊してくれたのよね? もう出てこないよね?」

「お前等がつまらん事せん限りはの」

「ハァーイ、マジさーせーん。んじゃあさ、アンタのあれは何なの? 霊能力?」

「…………」

 

 憂助はジロリと葵を睨んだ。

 

「あれは、念法っち言っての。人間の思念を極限まで高めて、あいつ等げな連中をやっつけるエネルギーに変えて戦う技だ。うちが先祖代々受け継いでる」

「へぇー、何かカッコいいじゃん! あ、そーだ。はいコレ」

 

 葵は鞄のポケットから、紙切れを取り出した。

 

「アタシのアドレスと番号。アンタの都合のいい時に呼んでくれていいからね?」

 

 そう言って差し出す。

 しかし受け取った憂助は見もせずに破り捨てた。

 

「ちょっと、何すんのよ!」

「いらん」

「いらんって、でも、約束したっしょ? アタシをあげるって! アンタもOKしたじゃん!」

「しとらん。俺はただ、お前がどんだけ友達思いかわかったき手ぇ貸しただけてぇ」

 

 憂助は言い捨てて、歩調を速めた。

 葵は慌てて追い掛ける。

 

「でもさぁー、世話になったのにお礼もしないとか、何かカッコ悪いじゃん!」

「そげなん俺には関係ねえ。ついて来るな」

「でもでも、ホントにいーの? アタシ、おっぱい大きいよ? 中学の時に年上の彼氏にチョーキョーされたからマジ上手いし……それにさぁー、こーして見るとアンタ、けっこーイケてるし、アタシは全然オッケーだよ? 何なら今からラブホ行く?」

「行かん。帰れ!」

「もぉー、つれないなぁー……あっ」

 

 葵は何かに気付いたように声を上げて、ニンマリと笑った。

 

「……アンタさぁー、ひょっとして童貞?」

「だき何か」

 

 憂助は慌てる風もなく、しかし面倒くさそうに肯定した。

 

「そっかぁー、それでかぁー……あー、どーしよ、何かマジで可愛いんですけど。すっげームラムラしてきた。ね、ラブホ行こ?」

 

 葵は頬を赤く染め、濡れた瞳で見つめながら、憂助の腕に抱き付き、胸でホールドする。引きちぎられたブラジャーは鞄の中なので、今はノーブラだ。

 

 バチンッ!

 

 物凄い音を立てて、憂助の怒りのデコピンが炸裂した。



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エピソード2
覗霊(しりょう) その1


「きりーつ……れーい……ちゃくせーき」

 

 日直の号令で、六時間目の授業が終わった。

 教壇のすぐ前の席にいる久我(くが)憂助(ゆうすけ)が教科書とノートを片付けていると、白い手が伸びてきて、小さくたたまれた紙切れを置く。

 見上げると、白い半袖ブラウスと黒のタイトスカート。ブラウスは内側から盛り上がり、見事な山脈を描いている。

 今の国語の授業を担当していた女教師、富士村(ふじむら)静流(しずる)だった。

 彼女は人差し指を唇に当てて『ナイショ』のジェスチャーをすると、教室から出ていく。

 

「…………?」

 

 教師の意図が読めず、憂助はとりあえず紙切れを広げた。

 

『大事な相談があります。放課後、生徒指導室まで来てください』

 

 綺麗な字でそう書かれてある。

 

 富士村静流は長い黒髪と切れ長の眼、そして服の上からでも隠しきれないメリハリのあるプロポーションをした25歳の女性だ。

 背筋をピンと伸ばして廊下を歩く颯爽たる姿は、男女問わず生徒たちの人気の的である。

 

 しかし、そんな彼女からしてみれば憂助など、単なる一生徒にしか過ぎぬはず……大事な相談とはいったい何なのか、まったく見当がつかない。

 ただ、校内放送で呼び出すのではなく、このようなやり方で話を持ち掛ける辺り、憂助が何かしたからという訳でもあるまい。

 掃除とホームルームが終わると、憂助は生徒指導室へ向かった。

 そしてドアをノックしようとした瞬間、眉間にチリチリとした感覚が走った。

 念法の修行によって鍛えられた第六感が発動したのだ。

 憂助はドアを乱暴に開けて、中に踏み込んだ。

 

 部屋の中は、窓際に教員用のデスク。

 真ん中に生徒と面談するための長机とパイプ椅子が一式。

 その長机の傍らに、静流がこちらに背を向けて立ちすくんでいた。

 彼女の視線は窓に釘付けだ。その理由は問わずともわかった。

 窓ガラスに黒い人影がヤモリのように貼り付き、室内を覗き込んでいるのだ。

 

 否。

 

 そいつの黄色く濁った目は、静流を捉えているのだと、憂助には直感でわかった。

 そして同時に、身体が動き出していた。

 

「イィーーエヤァッ!」

 

 獅子の咆哮のごとき気合いと共に、一跳びで長机とデスクを飛び越えて窓際に迫り、そこにいる『影』目掛けて右の手刀を振るう!

 その一撃は窓ガラスにすら紙一重で届かず、ただ虚空を切り裂いただけだった。

 しかし『影』は、窓ガラスから弾き飛ばされ、発泡スチロールをこすり合わせるような奇怪な声を残して消えた。

 憂助がすかさず窓を開けて外を見回すも、影も形も見当たらなかった。

 下を見下ろすと、下校していく生徒たちの姿がはるか下方に見えた。ここは三階なのだ。

 窓を閉めた憂助は、未だ石地蔵のように立ち尽くす女教師の方を振り返った。

 

「先生、大丈夫ですか?」

 

 声をかけると、静流はペタンとその場に座り込んだ。

 自分の両肩を抱いて丸く縮こまり、震えている。

 

「そ、そんな……学校にまで出て来るなんて……こんな、明るい内から……」

「先生」

 

 憂助は片膝をついてしゃがみ、教師の肩に手を置いた。静流はビクッとすくみあがるが、目の前にいるのが自分が呼び出した生徒だと気付くと、すぐに安堵の表情になった。

 

「あの黒いのなら追っ払いました」

 

 そして憂助のその言葉を聞くと、まるですがりつくように彼に抱きつく。

 日頃の彼女らしからぬ行動に驚く憂助だったが、それで彼女の気持ちが落ち着くならと、しばし好きなようにさせてやった。

 憂助の方でも、子供をあやすように背中を叩いてやる。

 

 ――二、三分もすると落ち着いたようで、静流は憂助から離れた。

 

「ご、ごめんなさいね、いきなり。さ、座って?」

 

 バツが悪そうに謝り、長机のパイプ椅子を引いてやる。生徒がそこに座ると、彼女も向かい側のパイプ椅子に座った。

 

「先生。相談っちゃ、さっきのあの黒いのの事ですか?」

 

 憂助は単刀直入に切り出す。

 

「……ええ、そうよ」

 

 静流はうなずき、話し始めた。

 いわく、二週間前からあの黒い影が付きまとっているらしい。

 電車で通勤しているのだが、駅から自宅のマンションまでの徒歩数分の道のりで、視線を感じるようになったという。

 振り向いても誰もいない。

 後をつける足音も聞こえない。

 だがそれでも、自分の身体にネットリとした視線が絡み付くのがわかるのである。

 そしてその視線が、段々近付いているようにも感じられた。

 1()0()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()から、着替えを覗かれる事もあった。

 先週の金曜日など、電車の中でうたた寝をしてしまったのだが、首筋に荒い吐息を感じた。

 ビックリして目を覚ましたものの、身体が動かず、目を開ける事も出来ない。金縛りだ。

 軽くパニックになりかけていたところへ、何者かの手が服の中に潜り込み、静流の豊満な胸を気安く揉み始める。

 スカートに潜り込んだ手が、内股を撫で回す。

 ヌメヌメとした手触りに、肌が粟立った。

 声を上げる事も出来ず、静流は正体のわからぬ何者かに延々と肉体を弄ばれた。

 唇まで奪われそうになった時、電車が駅に止まり、乗客が二人乗り込んで来た。

 その瞬間、静流の肌をオモチャにしていた手の感触が消え、彼女を拘束していた金縛りも解けた。

 

 ――そして、昨夜。

 寝室で寝ていると、不意に身体が重くなった。誰かが上から覆い被さっているかのようだ。

 そう気付いたのと同時に、金縛りになる。

 不可視の力で動けない彼女の肌を、ヌメヌメした手が這いずり回った。

 舌で舐め回される感触もある。

 振りほどこうにも身体は指一本動かせず、うめき声一つ出せなかった。

 心の中で思い出せる限りの念仏を唱えてみたが、相手は意に介する風もなく、愛撫を続ける。

 ついには唇も奪われ、怪しい生き物のようにうごめく舌が口の中に潜り込み、静流の舌に絡み付く。

 恐怖と恥辱に耐えきれず、静流は気を失った――。

 

「朝になって目を覚ますと、誰もいないの。窓も玄関のドアも鍵がかかったままだし……でも私、パジャマも下着も全部脱がされてた……暑くなって知らない内に自分で脱いだとか、そんなんじゃない、絶対にないわ。だってその下着、リビングに捨てられていたんだもの……」

 

 その恐怖の一夜を思い出して、静流の声は震えていた。

 

「もう私、怖くて怖くて……そしたら今日、たまたま一緒にお昼を食べてた峰岸さんからあなたの事を聞かされたの。あなたには、とてもすごい霊能力があるって」

 

 その一言で、憂助の脳裏に峰岸(みねぎし)(あおい)のテヘペロ顔が思い浮かび、ぶん殴ってやりたくなった。

 

「……先生。申し訳ないですけど、俺のはちょっと違います」

「違う……?」

「確かにそういう連中相手に戦う事も想定してますが、俺の技はどちらかと言えば武道、武術の類いです。だから、今ここで何か呪文唱えたり、魔除けのお札とか作って渡して、それでめでたしめでたしとはいかないんです」

「つまり……」

「そいつが出て来たところを、首根っこ押さえて取っ捕まえて、二度と悪さが出来んよう、高い所へ送るしか出来ません」

「そう、なの……」

 

 静流はうつむいて、考え込んだ。どうやら憂助が言ったように、魔除けの呪文を唱えるなりお札を用意するなりしてくれると思ったようだ。

 

(いい加減な説明しくさりやがって……)

 

 憂助は葵への苛立ちに、目を細めた。

 

「――わかったわ」

 

 何かを思い立ったように、静流が顔を上げた。

 

「ちょうど明日は土日でお休みだもの。久我くん、申し訳ないんだけど、今夜から先生の家に泊まってくれないかしら」

「…………は?」

「今の話からすると、直接現場を押さえるしかないんでしょう? 逆に言えば、それさえ出来れば何か特別な道具とかを準備しなくてもいいって事よね? さっきも追い払ってくれたし……せっかくのお休みのところを悪いんだけど、どうかうちに来て、お願い!」

「~~~~っ!」

 

 手を握っての懇願に、憂助は物凄く困った顔をした。

 男子高校生が女教師の家に、最悪二泊三日する事になる。

 

(さすがにやべーやろ……学園物のAVやねえんぞ……)

 

 しかし、彼女がそこまで頼むのだからよほどの事だ。

 静流の手が恐怖で震えているのもわかる。

 そもそも、葵から話を聞いたその日のうちに相談を持ち掛けた時点で、彼女がどれほど追い詰められているかわかるというものだ。

 

「……わかりました。でも、いっぺん着替えを取りに帰らせてもらえますか?」

 

 義を見て為さざるは勇なきなり。

 

 そんな言葉が、憂助の心中に浮かんだ。



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覗霊(しりょう) その2

 一度帰宅して、リュックサックに着替えのシャツとパンツ、タオルと歯磨きセットを詰め込み、久我(くが)憂助(ゆうすけ)は学校に戻った。

 服装も制服から私服に着替えている。グレーのシャツに黒のベストとジーパン。

 時計の針は5時半を回っていた。

 

「あれー? 久我じゃん」

 

 校門を抜けた所で呼び掛けられて、そちらを見やる。

 赤茶色に染めた髪と、豊満な胸。

 峰岸(みねぎし)(あおい)だ。

 夏服の胸元をはだけさせて、深い谷間をやたらとアピールしている。

 友達の姿はなく、彼女一人だ。期末試験で数学の点数が悪かったので、放課後の補習をやっていたのだ。

 

「そんなカッコで学校来て、どしたの? 忘れ物?」

「かくかくしかじか」

「そっかー、それで今から静流(しずる)センセーの家で除霊するんだー。頑張ってね~。ちゃんと出来たらゴホービにおっぱい触らせてやっからさ♪」

 

 葵は制服の胸元を更に広げて、その下の白い膨らみをチラリと見せる。黒のレースで縁取りされた桃色のブラジャーも見えた。

 

「何だったら、おっぱいだけじゃなくてもっと凄い事してあげてもいーよー?」

 

 ニンマリと笑い、憂助の胸に寄り添う。

 葵の自慢の戦略兵器が、少年の胸板に押し付けられてムニュッと形を変える。

 

 ベチンッ!

 

 そこへ憂助のデコピンが炸裂した。

 

「いちいちくっつくな、暑っ苦しい」

「いった~……アンタ手加減してよ! アタシ女の子なんですけど!?」

「したやろうが。それと、あんまり俺の事をペラペラ他人に喋んな」

「なんでよー? だって静流センセーマジ悩んでたみたいだったし、アンタなら助けてくれるだろーなってマジ思ったしー」

 

 葵は不服そうに唇を尖らせつつ、憂助の腕に抱きつく。

 

「……人助けする分には文句は言わん。けどの、俺が本物っちわかったら、つまらん事考える馬鹿も湧いて来るき面倒くせえんて」

「つまらん事って何よ」

「昔、俺等の念法を金儲けに使おうとか考えるアホが、たま~にうちに来よったんて」

「アンタのアレって金になるの?」

「なるか。金になるようなら、うちはとっくに豪邸建てとるわ……とにかく、つまらん事ペラペラ喋んな」

「はぁーい、マジさーせーん」

 

 ……わかったのかわかってないのか判断に困る返事だった。

 

「じゃ、俺は今から一仕事あるきの。寄り道せんと真っ直ぐ帰れよ?」

 

 憂助は葵の腕を振り払い、教師みたいな事を言って校舎に向かう。

 富士村(ふじむら)静流(しずる)には既にメールアドレスを教えてある。仕事が終われば向こうから連絡してくる手筈なので、それまでどこか人のいない場所で時間を潰すつもりだった。

 だが葵は、何故かトコトコと憂助についていく。

 

「……忘れ物か?」

「センセーの仕事終わるまで、一緒にいてあげる♪ ヒマだし寂しいっしょ?」

 

 ベチンッ!

 

 憂助の二度目のデコピンが炸裂した。

 額を押さえる葵を残して、憂助はさっさと校舎に入る。

 

 葵は――その後ろ姿を見送りながら、何故かニヤケていた。

 

「……やっべー……童貞が突っ張ってんのかと思うとマジ可愛いんですけどぉー……あー、スッゲームラムラしてきた……アイツいつか絶対食ってやろ」

 

 そして、何やら危険な事を呟くのだった……。

 

 

 憂助はベンチが備え付けられてある裏庭へ向かった。

 ベンチに深く腰掛けて目を閉じ、そのまま石地蔵のように動かなくなる。

 そのまま身じろぎ一つせず、30分以上は座っていた。

 時計の針が6時を過ぎる頃、携帯電話に静流からのメールが入る。玄関前にいるようだ。

 立ち上がった憂助は、大きく伸びをしてそちらに向かった。

 そして女教師と並んで、校門をくぐって外へ出た。

 二人の間に会話はない。

 静流はあの黒い『影』をかなり恐れているらしく、しょっちゅうあちこちを見回していた。

 彼女の白い手が、知らず知らず憂助のベストの裾を掴む。

 しかし憂助は何も言わず、好きにさせた。

 彼もただボンヤリと歩いてはいない。周囲の気配を常に探っている。隣を歩く女教師のようにキョロキョロしないだけだ。

 電車に乗って移動し、三つ先の駅で下りる。

 そこから徒歩で10分ほどの距離に、静流の住まうマンションがあった。彼女の部屋はここの最上階にある。

 玄関ホールを入って正面にエレベーターがあり、その脇に階段があった。

 エレベーターはちょうど一階で待機していたようだ。静流がボタンを押してドアを開ける。

 

 ――そこに、『影』が一つあった。

 

 黄色く濁った目が爛々と輝いて静流を睨み、コールタールの塊のような腕がニュッと伸びて彼女の手を掴んで引っ張り込む。

 静流が悲鳴を上げる暇も、憂助が助けに入る暇もない早業だ。

 エレベーターのドアは音もなく閉ざされた。

 憂助は階数表示パネルを見上げる。ランプは『1』から『B』に移動した。地下だ。

 リュックサックを放り出して、憂助は階段を駆け下りていった。

 

 

 静流は止まったエレベーターから放り出された。そこは地下駐車場――のはずなのだが、やけに暗い。

 エレベーターから出て来た『影』が、起き上がろうとした静流の足首を掴んで、その真っ暗な駐車場の更に暗い隅っこへと引きずっていった。

 

『……裏切り者……僕という者がありながら……!』

 

 土の底から響くような不気味な声で、『影』は怨嗟の言葉をつぶやく。

 

「な、なに? 何の事? あなたいったい誰なのよ!」

 

 静流にはとんと思い当たる節がなく、一方的な言いぐさに、恐怖の中でわずかながら怒りも湧いてきた。

 だが『影』は彼女の問い掛けに答えず、その頬を黒い手で張り飛ばすだけだった。

 一見細身なシルエットからは想像出来ない力で、静流はその平手打ち一発で壁まで吹っ飛んだ。

 

『君が悪いんだ……僕がこんな風になったのも、こんな事をしてしまうのも、みんな君が悪いんだ……!』

 

 怨み言を吐きながら、静流の上に覆い被さり、白いブラウスを掴むなり引き裂く。いくら薄い夏服とはいえ、こんな薄紙か何かのように簡単に引き裂けるはずもない。しかもその下のブラジャーまで、ブラウスと一緒に雑草みたいにむしり取られた。

 相手の力の強さに、静流はさっきの怒りがたちまち雲散霧消してしまった。

 タイトスカートも同様に引き裂かれ、ショーツもろともむしり取られる。

 あっという間に裸に剥かれた静流の白い裸身に、『影』が身を重ねた。

 

『僕だよ……富士村さん……』

 

 鼻息すら感じ取れそうなほど近付けた顔が、変化した。顔を包む闇が薄れて、その造形があらわになったのだ。小さくくぼんだ目と、髭の剃りあとの青い、細面の男だった。

 

「け……ケーゾウくん……?」

『そうだよ……君と同じ大学のケーゾウだ……僕はずっと君だけを見ていた……君だけを愛していたんだ……なのに君は、そんな僕の愛を裏切ったんだっ! 僕を追い払うためにあんな男に媚びを売りやがって! この淫売のビッチが!』

 

 怒号を浴びせて、『影』は静流の頬を二発、三発と叩く。

 

『君は僕のものだ、僕のものなんだ、僕だけのものなんだ……!』

 

 ブツブツと繰り返しながら、静流の股を乱暴に開く。

 その意図するところを察して、恐怖の絶頂に達した静流が悲鳴を上げようとした瞬間――!

 

「イイィィーーーエヤァッ」

 

 雷鳴のような雄叫びと共に、白い光が横一文字を描いて『影』の体を腰から真っ二つに斬割した!

 駆け付けた憂助が、背後から木刀で斬りつけたのだ。

 念法の刃で斬り分かたれた下半身が、塵となって消滅していく。

 しかし上半身は、腕を動かしてゴキブリのように這いずって逃げていく。

 憂助は一跳びでそれに追い付き、逆手に握った木刀を黒い背中に突き立てた。これも念法の為せる技か、木製の刀身はコンクリートの地面に半分以上も突き刺さった。

 しかし『影』はその体を液体のように変化させて、壁際の排水溝に潜り込み、逃走してしまった。

 舌打ちしつつ憂助が木刀を引き抜くと――地面には穴どころか、傷一つついてなかった。

 

「先生、大丈夫ですか?」

 

 木刀をシャツの背中側の襟口に突っ込み、憂助はあられもない姿の女教師に駆け寄る。

 

「久我、くん……う、うわぁぁあああああんっ!」

 

 恐怖から解放された静流は、自分と相手の立場も忘れて彼に抱きつき、子供のように泣きじゃくった……。



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覗霊(しりょう) その3

 久我(くが)憂助(ゆうすけ)はリュックサックの中からシャツとバスタオルを出して、女教師にそれを身に付けさせた。

 破られた服と下着を、入れ替わりにリュックサックに詰め込む。

 そして二人はエレベーターに乗って最上階の10階へと上がった。幸い他の住人と出くわすような事もなく、エレベーターは無事に到着した。

 富士村(ふじむら)静流(しずる)はハンドバッグから鍵を取り出して、玄関の鍵を開けようとした。しかしその手はまだ震えていて、なかなか上手く鍵が入らない。

 そんな彼女の手に、憂助が自分の手を重ねた。

 手のひらから暖かなものが溢れ出て、自分の手を包み込んでくれるのを、静流は感じ取った。手の震えはあっという間におさまり、彼女は鍵を開ける事が出来た。

 

「久我くん。先生、先にシャワー浴びてきていいかしら?」

「ええ。その間台所貸してくれりゃあ、メシは俺が作っときますよ」

「……あなた、お料理出来るの?」

「うちは親父と二人暮しなんで、交代でメシ作ってるんです……不味くはないと思います」

「そうなの。でも何だか悪いわ。シャワーも支度もすぐに済ませるから、あなたはその辺でくつろいでて?」

「はぁ」

 

 憂助は曖昧な返事をして、リビングのソファに座る。

 それを見届けてから、静流は寝室のクローゼットから着替えを出して、バスルームに向かった。

 ここ最近は何者かの気配や視線を感じて、家の中でも今一落ち着けなかったが、今夜は何故か、とても安心した気持ちで入浴出来た。

 濡れた身体を拭き、乾いてない黒髪をタオルでまとめて、部屋着を着てバスルームを出る。

 

 ――憂助はテレビもつけず、ソファの上で座禅を組み、目を閉じていた。

 

(……もしかして緊張してるのかしら? それで過剰に心を落ち着かせようとしてるとか?)

 

 生徒の奇行を、静流は勝手にそう分析する。

 

「久我くん。ご飯すぐに作るから、その間にあなたもお風呂済ませたら?」

「お構いなく」

 

 憂助は目を閉じたまま答える。

 

「俺は男やき、一晩くらい風呂入らんでも大丈夫です」

「ダメよ、体は清潔にしておかないと。入りなさい」

 

 静流が少し口調を強めて命令すると、憂助は口をへの字に曲げつつも、従った。

 自宅で愛用しているリンスのいらないメリットがなかったので、やむを得ず女性用のシャンプーで髪を洗う。

 次に体を洗おうとボディソープのボトルとスポンジを手に取って――そこで少年の動きが止まった。

 

(これ、さっき先生が使ったんよなぁ……)

 

 今手にしている、ペンギン型のボディスポンジ。

 ほんの数分前、女教師の肉体の隅々にまで触れた物体。

 そう思うと、使用するのが非常にためらわれた。気にしすぎだと自分でも思うのだが、このスポンジで体を洗うのがとても卑猥な行為に思えて仕方がない。

 しかし持参した手拭いは、うかつにもリュックサックの中に忘れてしまった。

 そんな訳で憂助は、自分の手で体を洗うしかなかった……。

 

 

 入浴を手早く済ませた憂助は、静流の作った簡素な夕食を食べる。

 黙々と箸を進める男子生徒に、静流はおずおずと話し掛けた。

 

「食べながらでいいから、聞いてくれるかしら?」

「何です?」

「……さっきのあの黒い影、私の知り合いなの」

「知り合い?」

「ええ。同じ大学に通ってたケーゾウくん……本当は経蔵(つねくら)くんっていうんだけど、名字がそうとも読めるからって、みんなケーゾウって呼んでて……それで私も、ケーゾウくんって呼んでたの。おとなしい人だけど、いろんな漫画本をたくさん持ってて、私も何回か借りた事があるわ。つい最近、亡くなったらしいんだけどね」

「……何か、話聞いてると本当にただの知り合いで、特別仲が良かったような感じがせんのですけど……」

 

 訃報にすら「らしい」を付けるくらいだ。恐らく葬儀どころか通夜にすら出てはいないだろう。

 

「――そうね。講義やお昼休みなんかで、見掛ければ挨拶してたくらいかしら。だから、正体はわかったけれど、別の疑問が出てくるの。どうして私の所に出たのか……」

「表に出さなかっただけで、先生の事を前から狙ってただけでしょう」

 

 憂助はそう言って、インスタントの味噌汁をすする。

 

「それはないわよ。だって彼、別の人に付きまとってたんだもの」

「別の、人?」

「ええ。亡くなった人を悪く言いたくはないのだけど、ケーゾウくん、隣町のマンションに住んでる女性をストーキングしてたみたい。それで、その女の人の部屋に忍び込むために、隣の空き部屋からベランダづたいで侵入しようとしたみたい。そしたら、部屋に遊びに来ていた彼氏さんがベランダで煙草を吸おうと出てきて……」

「ああ、思い出した。確かニュースでもやってましたよね、マンションの10階から落っこちて死んだストーカー……あのストーカーが、先生の大学時代の知り合いだったって訳ですか?」

「ええ。だから、その人の所に出るならわかるのだけど、何故私の所に出るのか、どうして私を狙うのか、さっぱりわからなくて……」

「先生。たぶん違います。もともと先生が狙いだったんですよ」

「どういう事?」

「このマンションの住所、確か西元町(にしもとまち)ですよね?」

「ええ、そうよ」

「で、ニュースでやっとったマンションが、西本町(にしほんまち)でしょ? そいつ、西本町をニシモトマチっち読んだんやないんですか?」

「…………えっ?」

 

 静流は、間の抜けた声を漏らした。

 

「どこでどう調べたか知らんけど、そういう勘違いから、ストーカーはそのマンションに先生が住んぢょうっち思って、その出入りを見張っちょった。でも先生の姿が見当たらんもんやき、思いきって部屋に忍び込もうとしたんやないですか?」

「……それじゃあ、私のせいってどういう事なの? さっきケーゾウくんが言ってたの、彼があんな風になったのは私のせいだって……もしもあなたの言う通りなら、どうして私のせいになるの? どうして私を怨むの?」

「ストーカーなんてそんなもんですよ」

 

 憂助はキッパリと言い切った。

 

「そいつにしてみりゃ、紛らわしい住所に住んでた先生が悪いとか、そんな感じなんでしょう」

「そんなの、逆恨みもいいとこだわ!」

 

 静流は思わず声を荒げた。今まさにこの瞬間だけ、怒りが恐怖を上回った。

 

「とにかく、次現れたら、そん時は必ず仕留めます」

「そ、そうね……お願いね、久我くん。頼りにしてるわ」

「ドーモ」

 

 女教師の信頼の言葉に答え、憂助は皿の上の豚の生姜焼きを掻き込んだ……。

 

 

 翌朝。

 リビングの隅で、憂助は座禅を組み、目を閉じていた。一晩中こうして瞑想していたのだ。

 組まれた足の上には木刀が置かれてある。柄の部分に、手彫りで『獅子王』の文字が彫られてあった。念法の基礎を習得した憂助が、修業の次の段階に移る際に自ら製作した愛刀である。

 

 憂助の目が、スッと開いた。

 そして視線を、寝室に続くドアへと移す。

 それから10秒ほどして、部屋着に着替えた静流がドアを開けて姿を見せた。

 

「おはようございます、先生」

「おはよう、久我くん。すぐに朝ご飯作るわね」

 

 そう言ってパタパタと台所へ向かう静流の表情は、とても晴れやかだ。よく眠れたと見える。

 

 ピンポーン。

 

 インターホンが鳴った。

 静流がすぐに、リビングの壁に設置されたモニターで来客の顔を確認する。

 モニターには、黒髪をボブカットにした女性が映っていた。同じ階の住人の女子大生だ。おおかた、友達と遊び回って朝帰りしたら、親がまだ起きておらず、閉め出されているのだろう。それで親が起きるまでの間、時間潰しに静流の部屋を訪れる事が、これまでにもあった。

 そのため、彼女は何の警戒もなしに玄関へ向かう。

 その背中を見た瞬間、憂助の眉間に稲妻が走った!

 

「入れんな!」

 

 敬語も忘れて叫ぶが、時すでに遅し――静流はドアを開けてしまっていた。

 

「ど、どうしたの久我くん……大丈夫よ、知ってる人だから……」

 

 驚く静流を押し退けて、女子大生が中に入る。

 

 バンッ!

 

 ドアが、ひとりでに勢い良く閉まった。

 瞬間、女子大生はその場にうずくまる。

 大きく開かれた口から、滝のように真っ黒なものが吐き出された。コールタールを思わせる吐瀉物があっという間に、廊下のフローリングに畳一枚分はある黒い水溜まりを作る。

 その水溜まりの中から、黒い手が現れた。

 まず右手。

 次に左手。

 そして頭が浮かんでくる。

 

「先生、離れろっ!」

 

 廊下に飛び出した憂助は、今まさに姿を現さんとする黒い侵入者の脳天に、木刀を振り下ろした。

 光輝をまとったその一刀は、まさに白い稲妻だった。

 黒い水溜まりから半身を浮上させた『影』は、そのままの体勢で幹竹割りに斬割され、断末魔の悲鳴すら残さずに消滅した。

 憂助が木刀に宿して打ち込んだ破邪の念は、黒い水溜まりも散らして、浄化した。

 その間に、静流は倒れた女子大生を寝室に連れていった。

 だが、リビングまで来ると、一本の手が毒蛇のように妖しく、そして素早く、静流のシャツの中に襟口から潜り込んだ。

 

「ひあっ!?」

 

 豊満な膨らみの先端にある敏感な部分を指でつねられて、静流の唇から艶かしい声がこぼれる。

 

「ちょっと、何をす……」

 

 たしなめようとして、静流は凍りついた。

 自分の胸を気安く弄ぶ手は、闇を凝固させたかのように真っ黒だった。

 そして、彼女が妹のように可愛がっている女子大生の、口の中から伸びていた。

 

『富士村さん……』

 

 声と共に、黒い腕が肩まで現れる。

 

『静流さん……』

 

 もう一本の腕が、ずるりと口から吐き出され、静流の艶やかな黒髪を鷲掴みした。

 

『静流ちゃん……』

 

 そして今度は、頭部が現れた。

 何たる怪異か、女子大生の口から、大人の男性の上半身が生えて来たのである……!

 ストーカー経蔵は、下半身を失った無惨な姿を完全に現すと、静流の背中にしがみついた。

 

『ようやくこの時が来たんだ……君を手に入れるこの瞬間が……僕の愛が実を結ぶ時が……君と一つになれるこの時が!』

 

 ストーカー経蔵は静流の胸を引きちぎらんばかりに乱暴に捏ね回し、粘着性すら感じさせる生臭い吐息を耳元に吹き掛ける。

 

 ここにストーカー経蔵がいるのなら、たった今憂助が撃退したのは何者か?

 憂助には、もう答えがわかっていた。

 あの『影』を倒した瞬間、少年の耳には『ありがとう』とささやく安らかな声があった。

 それで彼は、直感で悟ったのだ。ストーカー経蔵は、近くをさ迷う浮遊霊を捕らえて手下にしたのだ。そして女子大生の身体に一緒に潜り込み、静流の油断を誘って部屋に侵入したのである――浮遊霊は、憂助を引き付ける囮だったのだ。

 静流を追ってリビングに戻った時、静流は黒い影に羽交い締めにされていた。

 ポルターガイスト現象によって、ベランダに出るサッシが開き、静流の足が一歩一歩、おぼつかない動きでベランダへ彼女の体を運んだ。

 憂助が駆け寄る前に、サッシは行く手を阻むように閉ざされた。

 

「な、何をする気!? やめて、お願いだからやめて、ケーゾウくん!」

『大丈夫……怖くないよ……僕がついてる……二人で天国へ行こう……』

 

 経蔵は静流にささやくと、彼女の足をポルターガイストで操り、手すりへと進ませる。

 静流の身体は死への強制行進を進めながら、宙に浮いた。

 そして空中を歩き、手すりを乗り越えた瞬間、肉体を操る不可視の力が消えた。

 静流は絹を裂くような悲鳴を残し、10階から地上へと、真っ逆さまに落ちていく!

 

『キャァーハハハハハハ! 富士村さん、静流さん、静流ちゃん! これで僕たちは、永遠に一つだよ。二人で天国へ行こぉぉぉおおおおおおっ!』

 

 経蔵は狂喜の声を上げた。勝利を確信し、静流の胸を揉み、うなじに舌を這わせる。

 だがそんな二人を、太陽とはまた別の白い輝きが照らし出した。

 瞬間、静流の表情は恐怖から一転、歓喜と安堵に変わった。

 経蔵の表情は喜びから一転して、恐怖に歪んだ。

 白い光輝の源は、木刀を振り上げた憂助だったのだ! 後を追って飛び下りたとしても追い付けるはずもなし……しかし念法は、その不可能を可能にする!

 

「てめえ一人で地獄へ行け! 天誅!」

 

 破邪顕正の一刀が、静流の肉体を透過して経蔵の霊体のみを両断! 黒い塵へと変じて、風に消えた。

 憂助は空中で静流を抱き止め、目を閉じて精神を集中する。

 二人が白い光に包み込まれて消えた――次の瞬間、寝室のベッドの上に、二人は落っこちた。

 憂助を下に、静流を上に。

 二つの豊満な膨らみが、少年の顔を塞いだ。

 

 瞬間移動。

 

 憂助が念法修業の果てに身に付けた秘技。

 ただし、知ってる場所や知ってる人の所にしか行けない。いつでもどこでも何度でも、無制限に飛べる訳ではない。

 これこそが救出を成し遂げた奇跡であった。

 

「先生、もう大丈夫です。アイツは今度こそ、完全に仕留めました」

 

 女教師の下から這い出て、憂助は断言する。

 静流はしばし呆けた顔で憂助を見つめていた。

 しかし、その頬に赤みが差し、瞳が潤いを見せたかと思うと、憂助に抱きついた。

 

「ありがとう久我くん、本当にありがとう……! 凄くカッコ良かった……本当に素敵だったわ……!」

 

 抱きついた勢いそのままに生徒をベッドに押し倒し、熱のこもった声でささやきながら、情熱的な抱擁をする。

 さすがの憂助も、どうしたらいいのかわからなかった……。



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エピソード3
リョウメンスクナ その1


 恐怖の廃屋で、影の群れから助けられた峰岸葵は、しかし恐怖から解放された反動で腰が抜けて、立ち上がれずにいた。

 久我憂助はそんな彼女の背中と膝の裏に手を通し、いわゆる『お姫様抱っこ』の形で軽々と抱き上げて、廃屋の外に連れ出してくれた。

 その後、葵は仲間に電話を掛けたが、誰も出ない。

 それで憂助はやむを得ず、彼女を背負って下山したのである。

 その道中で二人は自己紹介して、お互いに、相手が同じ学校の生徒だと知った。

 

「で、お前はなし、あげな所におったんか」

 

 訛りのある口調で問い掛けられた葵は、彼に助けられるまでの経緯を話して聞かせる。

 

「──それで、みんなさっさと車で逃げちゃったの……アタシだけ置いて……マジあり得ないし……!」

「気持ちはわからんでもねえが、怨むな」

「なんでよ!」

「今聞いた限りやと、別にそいつ等はお前を囮にしようとした訳やねえ。お前が取り残されたのはたまたまだ。場合によっちゃ、お前がそいつ等のうちの誰かを置き去りにしたかも知れんやろが。そういう意味では、お互い様だ」

「……でも……やっぱり文句の一つも言わなきゃ、気が済まないよ……」

「そら良かった。文句言っておさまる程度の怨みなら、飲み込んじまえ。腹ん中で消化されて、消えてなくなる」

「…………」

 

 葵は納得できず、ブスッと唇を尖らせた。

 

「それより、あんたはなんであんな所にいたの? 肝試し……じゃ、ないよね?」

「あの家は良くないもんがしょっちゅう集まるき、月一で祓いに行きよう。で、今夜行ってみたらお前がおった……運が良かったの」

「……そうだね……ありがと……」

 

 葵はそう言って、憂助にギュッとしがみついた。

 バスト101cmの豊満な膨らみが、互いの着衣越しに、少年の背中に押し付けられる。彼女なりの、ささやかなお礼のつもりだった。

 

 憂助が立ち止まった。

 いつの間にか、見覚えのあるアパートの廊下に到着していた。二人はその一番奥の部屋の前にいる。

 憂助がドアを開けて中に入る。

 短い廊下を抜けると六畳間があり、その真ん中に布団が敷かれてある。

 葵は憂助の背中から下りた。

 彼女の服装は、セーラー服だ。中学校の制服である。

 それを当たり前のように脱ぎ捨て、真っ白な裸体をさらけ出した葵は、憂助の足下にひざまずき、慣れた手つきでズボンを下ろした。

 顔を見上げると、茶色に染めた長髪の男の顔があった。顎の細い、端正な顔立ちだ。

 

()()()()。今日も葵を可愛がって?」

 

 ──そして、次に葵の目に映ったのは、自室の天井だった。

 窓の外から鳥の声が聞こえる。

 空も白み始めており、カーテンの隙間から薄明かりが差し込んでいた。

 

「……夢、かぁ……」

 

 つぶやく声は、寂しそうだった。

 

(だよねー……あそこ、和彦さんの部屋だし……アタシ、中学の制服着てたし……)

 

 和彦とは、中学時代に葵が付き合っていた近所の大学生だ。ルックスもイケメンで、中学2年生の時に『クラスの友達に自慢したい』という理由で思いきって告白したら、あっさりOKをもらった。

 自分から告白しておいて、葵は思わず「これってドッキリ!?」と勘繰り、どこかに『大成功』と書かれたプラカードを持って誰かが隠れているのではないかと、辺りを見回したりしたものだ……。

 そのまま和彦は自分のアパートに葵を連れ込むと、彼女を抱き締めてその唇を奪い、部屋の隅に敷いたままの布団に押し倒した。

 ──それから葵は、毎日アパートを訪れて、自ら進んで和彦のオモチャになったのだ。

 和彦のどんなリクエストも、葵は決して拒まなかった。単純に気持ち良かったからというのもあるが、『年上の彼氏がいる』・『大人の男性に愛される自分』という優越感もあったのだ。

 

 しかしそれから一年ほどして、葵が中学3年生になる頃、和彦は就職を機に上京。アパートの部屋も引き払い、そして全く連絡が付かなくなってしまったのである。

 

「あー、思い出したらムカついて来た……あのロリコン豚野郎、今度会ったらケツの穴にダイナマイト突っ込んで火ぃ点けてやる……!」

 

 葵は物騒な事をつぶやくと、タオルケットを頭から被ってふて寝した。

 

 

 中天に差し掛かった夏の日差しが、砂浜に容赦なく照りつける。

 それでも潮風がある程度は熱気を和らげてくれた。

 

 浜の土手沿いに建てられた海の家で、峰岸葵はのんびりとフランクフルトを頬張っていた。

 

 夏休みに入り、ギャル友3人と海水浴に来ているのだ。友人たちも彼女の傍らで、かき氷や串焼きイカ、焼きそばを食べていた。

 海水浴なので、全員水着である。

 しかし葵の水着姿は、四人の中でも特に異彩を放っていた。彼女の超高校生級のプロポーションに加え、露出度の高い服装に理解のある友人たちをして「サイズ間違えてない?」と言わしめるほど、彼女のまとうビキニは布面積が小さかったのだ。

 そんな水着で平気で泳いだりボール遊びに興じるものだから、トップスがずれて101cmの豊満な膨らみが露になるハプニングも当然起きたが、葵は全く気にしなかった。

 

「ポロリは巨乳の宿命だし?」

 

 などとうそぶく程である……。

 

 葵の目線は、砂浜の端──30メートルほど先にある林の方に注がれていた。

 そこに子供が一人、立っていた。水色の半袖シャツとベージュの短パンを穿いた、小さな男の子だ。小学校に上がってもいないかも知れない。

 水着姿でもなく、近くに保護者らしき人物もいないので、地元の子供かも知れない。

 ただ、何となく目をやった瞬間、その男の子と目が合ったように感じられたのである。それ故に、目が離せなかったのだ。

 そこへ背後から白い手が伸びてきて、葵の胸の谷間に潜り込んだ。

 

「葵~、何見てんの? イケメンでもいた?」

 

 振り向くと、芦原麻希が葵の肩に顎を乗せていた。そして柔らかな手つきで胸を揉みしだく。

 

「んー、あそこに男の子が突っ立ってたからさ、何してんだろなーって」

 

 友達の手つきにかすかに頬を赤く染めながら、葵は答えた。

 

「男の子? どこ?」

「ほら、あそこの林のとこ……あれ?」

 

 葵が目線を林に戻すと、そこに男の子の姿はなかった。

 

「あれー? さっきまでいたんだよ? ちっちゃい男の子」

「帰ったんじゃない? あんたのケダモノの目線にビビって」

「ケダモノじゃねーし。別に狙ってたわけでもねーし」

「ジョーダンジョーダン。だいたいあんな遠くじゃ目ぇ合う訳ないしね」

「……だよねー……」

 

 同意する葵だったが、実際にさっきは目が合ったのだ。しかし麻希に言われて、自分でもただの気のせいだったのではないかと思えて来た。

 

「はぁ~、それにしてもあんたのおっぱいマジ落ち着く~……」

 

 麻希はホゥッと溜め息をつきながら、延々と葵の発育過剰気味の胸を揉み続ける。

 二人はどちらからともなく、葵の肩越しに唇を重ね合わせ、舌を絡ませ始めた。

 

 

 友達と別れて、葵は一人家路を急ぐ。

 海水浴場を出た後、ファミレスで早めの夕食を取りつつお喋りに興じたせいで電車を一本逃してしまい、すっかり帰りが遅くなってしまった。

 今は夕焼けで辺り一帯が朱色に染まる、午後7時半過ぎである。

 親には既に『遅くなる』とLINEとメールの両方で連絡済みなので、お小言をくらう心配はなかった。そのせいか、葵の足取りも軽いものであった。

 

「──ん?」

 

 その足取りが不意に止まった。

 住宅街の入り口にある公園。

 その滑り台の支柱の陰に、子供の姿を見たのだ。

 水色の半袖シャツとベージュの短パン……葵が海水浴場で見掛けた、あの男の子だった。

 

(なんだ、近所の子だったんだ……)

 

 葵は呑気にも、そう思った。

 

「こぉ~ら、チビッ子ぉ。早く帰んないとパパやママに怒られるぞ~」

 

 公園の外の歩道から声を掛ける。

 しかし男の子は、支柱の陰に隠れたままだった。その様子に何やら不審なものを感じて、葵は彼の真ん前にまで歩み寄り、前屈みになって目線を合わせた。そんな時でも101cmの膨らみは、キャミソールの下から存在感をアピールする。

 

「どしたのチビッ子ぉ。パパやママに怒られて家飛び出しちゃったとかそっち系?」

 

 男の子は、首を左右に振った。

 

「……ママ、いない」

 

 ポツリとつぶやく。

 まだ仕事から帰ってないだけなのか、それとも本当にいないのか……いずれにせよ、この男の子は親のいない寂しい家に帰るのがつらいのだと、葵は察した。

 彼女の家庭も両親が共働きで、小さい頃は寂しさの余りに泣き出した事もある。

 そんな昔の自分を重ねてしまい、葵は思わず男の子を抱き締めた。

 

「そっかそっか……じゃあ、ちょっとの間お姉ちゃんがママになったげる。その代わり、暗くなる前に帰りなよね?」

 

 そう言って、男の子をベンチへ連れていき、並んで座った。

 

「ところで、チビッ子どこの子? 名前は──あんっ」

 

 座るなり、男の子は葵の膝の上にまたがり、彼女の豊満な胸に顔をうずめる。そしてキャミソールの上から、小さな手で揉み始めた。

 

「ママ……」

 

 男の子は葵の胸の中でつぶやく。その声音はどこか物悲しく、寂しげで、母親恋しさからの行動だと感じさせた。

 だから葵は、文句も言わず彼の好きにさせる。元々胸を見られるのも触られるのも、嫌いではない。男の子の背中に手を回し、優しくあやしてやった。

 しかし、それも束の間。

 胸の先端に、痛みが走った。噛まれたのだ。

 

「こらっ、噛むな!」

 

 たしなめながら男の子を剥がそうとした葵だったが──離れない。

 男の子の細腕が葵の胴体に巻き付き、くっついている。

 胸にうずめていた顔が上げられると、その顔は非人間的な造型に変わっていた。

 目も口も縦に裂けており、口の中にはギザギザの歯が生えている。

 一つの眼窩の中に二つの眼球が入って、別々の方向を向いていた。

 両の手足が裂けて、吸盤がびっしりと付いた二対の触腕へと変化した。都合八本の、タコを思わせる触腕が葵の肉体に巻き付いて、服の下にまで潜り込んでくる。

 

「ひ、ひいいいいっ! いやああああああっ!」

 

 葵は悲鳴を上げて、奇っ怪極まる抱擁から逃れようともがいた。

 しかし結果は、ベンチから転げ落ちて地面に倒れるだけ。男の子だった怪物は彼女の上に覆い被さり、触腕をうごめかせて柔肌をまさぐり続けた。

 

「やだやだやだ! 誰か、誰か助けてぇぇえええーーっ!」

 

 葵は恐怖の余り目を閉じて、声を限りに助けを呼ぶ。

 ──不意に、体にのし掛かっていた重さが、フッと消えた。

 全身に絡み付いていた触腕の感触も、消えた。

 

「君、大丈夫?」

 

 若い男性の声がした。聞き覚えのある声だ。

 恐る恐る目を開けると、茶色に染めた長髪の男が、片膝をついて座り込み、葵の顔を覗き込んでいる。

 見覚えのある顔だった。

 

「……和彦さん?」

「ん? あれ? ひょっとして葵ちゃん? 綺麗になったなぁー」

 

 呑気な言葉を口にするその男は、葵が中学生だった頃に付き合っていた大学生の小野原和彦だった。

 

「──で、こんな所で寝転がって、どーしたの? 立てる?」

 

 男は聞きながら、右手を差し出した。

 その手首には、白色の玉を繋げた数珠が巻かれていた。

 

 

 葵は再会した元カレと、手を繋いで歩いていた。

 和彦は道すがら、就職先の会社が潰れてしまい、新しい仕事を求めてこの町に戻ってきたのだと手短に語った。

 

「ずっと連絡出来なくてごめんね。スマホは壊れちまうし、仕事も忙しくて、慣れるのにいっぱいいっぱいでさ……」

「……ホントに?」

「ホントさ。ずっと会いたかったよ、葵ちゃん」

 

 和彦は葵の肩に手を回し、抱き寄せた。

 その手は自然と、彼女の胸へと伸びる。そして当たり前のように、キャミソールの襟口から中へと潜り込んだ。

 

「胸、前より大きくなってるね。今は何cm?」

「んっ……101cm……」

 

 葵は敏感な部分を指先でくすぐられ、頬を赤らめながら答えた。

 

「そっかー、3桁行っちゃったかー」

 

 和彦は嬉しそうにつぶやきながら、葵の胸を気安い手つきで揉み続けた。

 人気がないとは言え、往来の真ん中であまりにも大胆すぎる。しかし葵は抵抗などせず、人形のようにされるがままになっていた。

 

「しばらく見ない間に、本当に立派になったんだね。嬉しいよ、葵ちゃん」

 

 和彦は葵の顎に指を添えて持ち上げた。

 そしてゆっくりと顔を近付ける。

 その意図に気付いた葵は、咄嗟に顔を背けた。

 

「ダメ……恥ずかしい……」

「どうして? もっと凄い事だってしてきただろ?」

「~~~~っ!」

 

 和彦の一言に、葵は耳まで真っ赤になった。

 

「好きだよ、葵ちゃん」

 

 和彦は葵の顔を両手で挟み、自分の方を向かせると、ゆっくりと唇を重ね合わせた。

 久しぶりの感触だった。

 葵は身も心もとろけるような思いで、和彦の首に腕を回して、抱きついた。

 数秒ほどして、和彦の方から唇を離した。

 

「ところで葵ちゃん……さっき、男の子と一緒にいたよね?」

 

 葵の赤茶色に染めた髪を撫でながら、尋ねる。

 

「……和彦さん、見えてたの?」

「うん。最初見掛けた時は、歳の離れた弟の世話してるのかなとしか思わなかったけど、いきなり君が悲鳴を上げて倒れて、ビックリして駆けつけたら、いつの間にか消えてたんだ……あれ、どう考えても生きてる人間じゃあないよね……」

「アタシにも……わからないの……急に襲われて、急にどっか行っちゃって……」

「アイツが逃げた理由ならわかるよ。たぶんこれだと思う」

 

 そう言って和彦は、右手の数珠をかざして見せた。

 

「向こうで霊能力者の先生と知り合いになってね、魔除けのお守りとしてもらったんだ。これを嫌がったのかも知れないな」

 

 説明しながら、その魔除けの数珠を外して、葵の右手首に巻いてやる。

 

「か、和彦さん?」

「あげるよ。さっきの奴がまだ狙ってるかも知れないからね。大丈夫、俺は予備を持ってるから」

「あ、ありがとう、和彦さん……」

 

 何の迷いもない行動に、葵はかえって照れ臭さを覚えた。

 

 

 その夜、葵は色々な意味で寝付けなかった。

 自分を襲ったあの男の子が怖くて仕方がなかった。

 中学時代の恋人と再会した驚きと──わずかながら喜びも──あった。

 豆電球の明かりの下、ベッドの上で、和彦がくれた数珠を見つめる。材質はわからないが、少なくとも本物の真珠ではないだろう。白い牙状のパーツや紫色の房も付いていて、アクセサリーとしてもそう悪い物ではないと思った。

 ひとえに、和彦が自分を心配して譲ってくれたものだという思いが、それをとてもお洒落な物に見せていた。

 自宅前まで送ってくれた和彦は、そこでも彼女の唇と舌をたっぷりと味わい、散々胸を弄んだ後、「また明日、様子を見に来るよ」と言って帰っていった。その『明日』が、葵はとても楽しみだった。

 

「んふふっ……♪」

 

 思わず笑みがこぼれる。

 窓の方に寝返りを打った瞬間、その笑みが凍りついた。

 クーラーを付けているので、窓は閉めている。その閉めきられた窓ガラスに、あの男の子が八本の触腕を広げて貼り付いていた。

 その体が紙のように平らになって、窓の隙間から室内に忍び込む。

 

「ママ……」

 

 縦に裂けた口から、発泡スチロールをこすり合わせるような声が発せられた。

 

「こ、来ないで! アタシはあんたのママじゃない!」

 

 葵は叫び、逃げようとする。

 だがそれよりも早く、魔物が彼女の体に覆い被さり、触腕を絡ませてきた──。



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リョウメンスクナ その2

 峰岸葵はベッドの上で身悶えしていた。

 ノースリーブタイプのネグリジェは裾がめくれて、ムッチリとした太ももがあらわになり、ショーツも丸見えだ。

 その肉感的な脚に、アザが浮かび上がっていた。

 脚だけではない。両腕にも、そして恐らくは、ネグリジェの下にも、同様のアザが広がっている事であろう。

 そのアザはまるで、少女の五体にタコの足が絡み付いているかのように見えた。

 そして、いかなる怪異の為せる業か、そのアザは葵の皮膚の下で蠢いていた。そのアザ自体が彼女の体に絡み付き、締め上げ、苛んでいるかのようだ。

 

 この奇っ怪な情景を、一組の男女が見つめていた。

 一人は葵の母の歩美。

 もう一人は、小野原和彦である。葵との関係こそ秘密にしているものの、両親とも親交はあった。

 葵の父の孝夫は先週から県外に出張中で、家にはいない。

 

 日曜日、昼近くになっても起きてこない娘を心配して歩美が起こしに行ってみると、このような怪現象が起きていたのだ。

 そこへ、ちょうど和彦が葵の様子を見にやって来た次第である。

 

「これは、救急車を呼んだ方が……」

 

 歩美は傍らの和彦におずおずと提案する。

 

「──いえ、恐らく無駄でしょう」

 

 和彦はそれを却下した。

 そして手に提げていた小さなバッグから、ガラス小瓶を取り出す。

 蓋を開けて、手のひらに中身を出した。透明な紫色の液体で、オイルか何かのようだ。

 

「ちょっと失礼……」

 

 和彦は夫婦にそう言うと、その紫色のオイルを葵の腕に塗った。

 するとその部分のアザが、スゥーッと消える。

 

「やはり……」

 

 和彦はそうつふやき、他の部分にもオイルを塗りたくる。両手足のアザが嘘のように消え去り、葵も幾分楽になってきたようだった。

 

「後は──服の下などは、お母さんにお願いします。私は下にいますので」

 

 和彦は瓶を渡すと、部屋を出た。

 残された歩美は、急いで葵のネグリジェを脱がせる。やはりその下にもアザが広がっていたが、オイルを塗るとすぐに消えた。

 葵も苦痛はなくなったらしく、穏やかな寝息を立て始めた。

 

 歩美は一階のリビングに戻り、そこで和彦と話をする。

 和彦は昨日見たものの事を語った。

 

「お母さん、何か心当たりはありませんか?」

「……あの子、昨日友達と海水浴に行ったの。それくらいしか……」

「じゃあ間違いなくそれだ。恐らくは、その海水浴場から憑いて来たんでしょう」

「で、でも、もう大丈夫なのよね?」

「脅かすようで申し訳ないけど、まだ安心は出来ません。お母さん。さっき葵ちゃんの手に数珠が巻いてあったのを見ましたか?」

「……ああ、そういえば」

「あれは昨日、葵ちゃんに渡した魔除けの数珠なんです。それもかなり効果の強い……それを身に付けていたのにあんな風になるんじゃあ、あの魔除けのオイルの効果も長続きしないでしょう」

「それじゃあ、あの子はどうなるの!?」

 

 歩美は思わず声を荒げた。

 和彦は腕を組んでうつむき、少しの間何かを考えていたが、意を決したように答えた。

 

「あの数珠やオイルをくださった霊能力者の先生がいます。あのお方なら助けてくださるかも知れません」

「そ、その先生は大丈夫なの?」

「ええ。あのお方は間違いなく本物です。自分の力と技と知識を純粋に世のために役立てたいと願っている、立派な人です──料金を取るなんてそんな俗っぽい事も全くなさいません」

 

 歩美の「大丈夫なの?」という問い掛けに経済的な心配も感じたのか、和彦はそう付け加えた。

 

「今から先生に電話してみます。お母さんは葵ちゃんに付いててあげてください」

「お願いね、和彦くん……」

 

 歩美はそう言って頭を下げると、パタパタと二階へ上がっていった。

 

 

 葵が目を覚ますと、部屋はオレンジ色に染まっていた。もう夕方のようだ。

 起き上がって室内を見渡すと、ベッドの傍らに、和彦がいた。勉強机の椅子に座って、スマホをいじっている。しかし葵が起きた事に気付くと、スマホを机に置いて椅子から立ち上がり、ベッドの端に座った。

 

「気が付いた? 気分はどう?」

「和彦さん……!」

 

 葵は昔の恋人の優しい笑顔を見て、思わず抱きついた。

 

昨夜(ゆうべ)、アイツが来たの……お守りの数珠、ちゃんと着けてたのに……それで、アイツがアタシの体中をまさぐって……」

「うん、大丈夫。もう大丈夫だよ」

 

 和彦は葵の背中を優しくポンポンと叩き、髪を撫で、落ち着かせた。

 

「何も怖がらなくていい。昨日話した、あの数珠をくださった先生を呼んだんだ。明日の昼には到着する。その先生に頼めばきっと大丈夫だよ」

「ホント?」

「本当さ。先生は霊能力者としても、人間としても、とても立派なお方だからね。きっと葵ちゃんを助けてくれるさ」

 

 和彦は優しく話し掛け、そしてとても慣れた動きで、葵の唇を吸った。

 手が当たり前のように葵の胸元に伸びて、ネグリジェの上から豊満な膨らみを揉みしだき、捏ね回す。

 

「ダメ……ママが……」

 

 葵は顔を背けて抗議した。

 

「お母さんは今、ご飯作ってる。葵ちゃんが大きな声を出さなければ大丈夫さ」

 

 和彦は葵をベッドの上に押し倒し、うなじに唇を這わせる。手はネグリジェの下に潜り込んで、彼女の101cmの巨乳を直に弄ぶ。

 葵の両腕が和彦の背中に回り、すがるように彼の服を掴んだ。

 

 

 和彦いわく「霊能力者の先生は明日の昼には到着する」と言ったが、実際はそれより少し早い、朝の11時前にやって来た。

 

 キャスター付きの旅行ケースを引く、黒々とした髪をオールバックに寝かしつけた、スーツ姿の男。年の頃は、30代前半といったところだろうか。アングル次第では、葵の父よりも若く見えた。

 

「初めまして、神道宗光と申します」

 

 そう名乗り、名刺を差し出す姿は、霊能力者というよりはビジネスマンだった。

 

「お話は小野原くんから聞いています。早速始めましょう」

 

 神道宗光は奥の書斎を借りて、そこでスーツから狩衣(かりぎぬ)に着替えた。テレビや映画で見られる、平安貴族が着るあの服装である。

 そしてリビングのテーブルの上で、小さな祭壇を組み立てる。

 葵は和彦と歩美に挟まれるようにして、その様子を見ていた。

 祭壇の上に、蝋燭や線香、お札が置かれる。

 中でも葵の目を引いたのが小さな像だった。高さ20cmほどのそれは、二匹の鬼が背中合わせにくっついたような珍妙な姿だったのだ。

 神道は次いで、リビングのドアや庭に面したサッシにお札を貼った。

 

「お嬢さん……葵さんでしたか。こちらへ座ってください」

 

 葵は言われて、神道と向かい合うようにソファに座った。その隣に歩美が寄り添うように座る。

 神道宗光は祭壇の蝋燭に灯をともすと、目を閉じて手で印を組み、何やら唱え始める。何を言ってるのか葵にはいまいち聞き取れないが、「神社の神主さんとかが唱える祝詞っぽい」とは思った。

 

 不意に、部屋が暗くなった。天井の照明が消えただけでなく、サッシから差し込む日光すら、カーテンを閉めている訳でもないのに遮られ、リビングの中に闇が立ち込める。

 

 葵の鼻に突然、濃い潮の香りが立ち込めた。

 

「ママ……」

 

 耳元で、あの化け物の声がした。

 足が急に冷たくなり、思わず見下ろすと、足首の辺りまで水に浸っている。そしてその水の中からタコの足が躍り出て、葵の両足に絡み付いた。

 

「ひっ……いや、やだぁっ!」

「どうしたの、葵! 大丈夫よ、落ち着いて!」

 

 歩美は突然悲鳴を上げた娘に声をかける。彼女には、娘を苛む妖魔の姿も、床一面を満たす水も、見えていないのだ。

 神道宗光は、構わず詠唱を続ける。

 祭壇の蝋燭の火が突然膨れ上がり、天井にまで届く火柱と化した。

 その炎の中から、影が現れた。女だ。青白い肌をさらけ出した、全裸の女……祭壇の上の像と同様に、二人の女が背中合わせに裸体をくっつけている。

 それは葵の体にタコ足を絡み付かせる魔物を掴んで引き剥がし、持ち上げ、四本の腕で力任せに五体を引き裂いた。細腕からは想像も出来ぬ怪力であった。

 そして二つの首が口を開けて、自らの手で引きちぎった魔物の体をムシャムシャと食べていく。

 その凄惨極まる光景に耐えきれず、葵は悲鳴を上げる気力すら失っていた。

 魔物を平らげた女が、炎の中に消えていく。

 火柱は瞬く間に縮んでただの蝋燭の灯火となった。

 闇が晴れて、リビングに再び日中の明るさが戻ってきた。

 床の水も消えていた。

 

「終わりました」

 

 神道宗光がそう言って一礼した。

 

 

 道具を片付け、再びスーツに着替えた神道に、歩美は冷たい麦茶を入れてやる。

 

「お嬢さんに憑いていたのは、海で死んだ子供の霊です。それが長い間現世をさ迷ううちに海辺の動物霊と融合して、力を付けてしまったのです」

 

 神道はやたらかしこまった作法で麦茶を飲みながら、説明をした。

 

「いかに悪霊とはいえ、あまり乱暴なやり方は好まないのですが……小野原くんに渡した数珠や聖油も効かないようなので、やむを得ず両面宿儺(りょうめんすくな)の力で調伏いたしました」

「……リョーメンスクナって……あの背中合わせの女の人ですか?」

 

 歩美の横に座っていた葵の言葉に、神道と和彦はかすかに目を細めた。

 

「見えていましたか?」

 

 コクン。

 神道の問いに、葵は小さくうなずいた。

 

「左様ですか……あなたは感受性に優れた、豊かな心をお持ちだ。

 両面宿儺は飛騨地方に伝わる観音様の化身とも呼ばれる妖怪で、土地を荒らしていた悪い龍を退治したという逸話を持つ武神でもあります。私はその両面宿儺を使役する術を修めておりましてね。宿儺にしっかりと退治させましたので、もう心配はいりません……しかし、お嬢さんにはいささか刺激の強いものを見せてしまいました。その点については、申し訳なく思っております」

 

 神道宗光はそう言って、深々と頭を下げた。

 

「……ただ、そういう事なら少々厄介ですな。

 霊障に遭ったのを切っ掛けに霊感に目覚めるケースがたまにあるのですが、両面宿儺まで見えたとなると、お嬢さんの霊感はかなり高いレベルにあるものと思われます。

 普通は放っておいても勝手に閉じてしまうものですが、お嬢さんほどの高レベルとなると、その前にまた何か、別の良からぬものが取り憑くやも知れません」

「そんな……先生、何とかしてくださいませんか?」

「ここから先は、何とかするのは私ではなく、あなた方ご自身です」

 

 神道は強い口調で答え、旅行ケースから先程の小像と、細長い冊子を取り出した。

 

「これは両面宿儺の神威を顕した像です。これに毎日水を供え、この経文をお読みください。そして供えた水をお嬢さんに飲ませるのです。両面宿儺の力がこの家に宿り、お嬢さんの体にも宿る事で、見えないものから身を守る事が出来るでしょう」

「わ、わかりました……」

「霊は日当たりの悪い場所や風通しの悪い場所に特に集まりやすい。宿儺の像はそのような場所に設置しておけば、集まってきた雑霊を追い払ってくれます」

「重ね重ねありがとうございます」

「ありがとーございました」

 

 歩美が深々と頭を下げ、一瞬遅れて葵もお辞儀をした。

 その後、神道宗光は三人に見送られ、旅行ケースを引いて峰岸家を後にした。

 別れ際に歩美が「些少ですが」と封筒を差し出した。中には一万円札が三枚入っている。

 しかし神道は受け取らなかった。

 

「私はあくまでも、修めた術を世のために役立てたいだけです。いわば趣味でやっているだけなのです。そのお金で、お嬢さんとお食事にでも行く方が、よほど有意義な使い方というものですよ」

 

 にこやかにそう言って、彼は去っていった。

 

「まだお若いのに、立派な先生ねぇ」

「でしょう? でもね、ああ見えてもう五十代なんですよ」

「マジでっ!?」

 

 和彦の言葉に、葵がすっとんきょうな声を上げた。

 

 

 ──それから一週間後。

 正午を過ぎたとある喫茶店で、三人の少女が、浮かない顔で窓際のテーブル席を囲んでいた。

 

 芦原麻希。

 林田恭子。

 柳沢美智子。

 

 葵のギャル友三人衆である。いつもならこの三人に必ず葵も加わっているのだが、今日はいなかった。

 三人とも既にオーダーは済ませてある。

 麻希はメロンクリームソーダをチマチマとストローですすり、恭子はコーヒーゼリーに手を付けずスプーンで掻き回すだけ。美智子もチーズケーキを一口食べただけで、以降はフォークすら置いたままだった。

 

 カランコロン。

 

 ドアが開いて、その上部に取り付けられていた鈴が音を立てた。

 三人が一斉に振り向く。

 入店したのは、彼女たちと同年代の少年だ。がっしりとした顎と濃いめの眉毛をした男臭い顔立ちである。

 

「おーい、こっちこっちー!」

 

 美智子が久我憂助に呼び掛け、麻希と恭子が手招きした。

 憂助は無言で彼女たちの席まで向かい、空いていた恭子の隣にドッカリと腰を下ろした。

 

「で、話っちゃ何か」

 

 挨拶はおろか「いい天気だね」とか「今日も暑いね」と言った前振りすらなしに、単刀直入に憂助は用件を聞く。

 

「ま、まぁその前に、何か頼みなよ。うちらが奢ったげるから」

 

 恭子が隣からメニューを差し出した。

 憂助は受け取ると、アイスコーヒー(氷なし)とバナナクリームパフェを注文した。

 

「──で、話っちゃ何か」

 

 そして、もう一度同じ質問をした。

 

「富士村先生から、お前らが何か困っちょうごとあるき助けてやってくれっちメールがあったが……」

 

 そしてそのメールに、待ち合わせ場所であるこの喫茶店への地図も添付されていた次第である。

 

「あー、アタシから話すね?」

 

 と美智子が小さく手を上げる。まずは自分たち三人を紹介した。

 

「この前葵も一緒にみんなで海水浴行ったんだけど、その次の日から葵とマジ連絡取れなくなっちゃったの。んで、心配になってアイツん家行ったら、ママさんにマジスッゴい勢いでマジ怒られちゃってー、でね、ママさんがマジワケわかんないコト言うの。何かねー『アンタたちのせいで葵が変なのに憑かれた』とか言ってさー、マジワケわかんないよねー」

 

 やたらと『マジ』を付けるのは美智子が混乱しているからとかではなく、これが彼女の普段の喋り方だった。

 

「最初はさー、葵の帰りがマジ遅くなっちゃってそれでママさんマジ切れしてんのかなーって思ったんだけどー、何か違うっぽいのよねー」

「どう『違うっぽい』んか」

「葵がいないの。フツーさぁ、そーいうのだったら葵だってマジ怒られてしばらく外出禁止とかありそうだし、それならアタシ等もマジ納得すんだけど、何かマジ家にいないっぽいのよね。

 でさ、ちょっとマジおかしいなって思って葵ん家張り込んだワケ」

「よう通報されんかったの」

「ご近所さんには探偵ごっこって言ったら納得してくれた」

 

 ──それで納得されたって事は、そんだけお前等が馬鹿っぽく見えたっち事やねえんか?

 

 憂助はそう思ったが、黙っておいた。

 

「でねでね、そしたらね、夜になって葵が帰って来たんだけどー、知らない男と一緒だったの」

「しかも超イケメン! 腕とか組んでー、家の前でチューとかしてさ。んで葵のおっぱいも揉んでたし! あれ絶対あれだよ、あれ! 葵、中学ん時年上の彼氏にチョーキョーされてたって言ってたけど、あのイケメンがそうなんだって!」

 

 麻希が鼻息も荒く、口を挟んで来た。

 

「絶対間違いなくあれだよ、あのイケメンの家で朝から晩までフガフガ!」

「マッキー、ストップ」

 

 美智子が麻希の口を手で塞いだ。

 そこで憂助が注文した物が、白髪混じりの髪のマスターの手で運ばれる。

 早速憂助はパフェを食べ始めた。

 

「でさ、さっきも言ったけど、葵の帰りがマジ遅くなってママさんマジ切れならさ、葵が夜まで帰ってこないとかマジ許すわけないじゃん? でもママさんが葵に怒鳴る声とかも聞こえなくってー、マジ静かになっちゃってー、何かおかしいなーってマジ思って、ちょうど玄関開きっぱなしだったからコッソリ入ってみたの」

「……本当に、よう通報されんかったの」

 

 憂助は呆れて、それしか言えなかった。

 

「そしたらさー、ママさんがアタシ等の想定とは別方向でマジヤバい事してたの」

「何か。呪いの藁人形に釘でも打ちよったんか?」

「違うけど、マジヤバいの。廊下の突き当たりの、お風呂の前にちっちゃい仏像みたいなのがあって、その前でお経唱えてんの! 葵も一緒に! でねでね、お経終わった後、仏像にお供えしてた水を葵が飲んでたの!」

 

 ──憂助の手が止まった。

 

「それでね、水を飲んでる葵を、仏像の後ろから変な女がジーッと見てるの……背中合わせにくっついた二人の女。でもおかしいの。その女、頭しか見えないんだもん……」

 

 思い出したのか、美智子はブルルッと身震いした。

 

「アンタさぁー、除霊とか出来るんでしょ? この前もそれでアタシ等の事助けてくれたんでしょ? お願い、葵も助けてよ」

「何でも言う事聞くからさ、お願い!」

 

 美智子の後に、麻希も続いた。両手を合わせて拝みまでする。

 

「お金はあんま出せないけど……うち等、みんな彼氏いないしさ……葵を助けてくれたら、うち等三人で、アンタの事気持ちよくしてあげる」

 

 恭子が隣から、憂助の手に自分の手を重ねた。

 

「葵よりはおっぱい小さいけど、スタイルは割りと自信あるしさ。アンタのオモチャになってあげる……女の子としたいと思ってる事、全部させてあげるから……」

「──類は友を呼ぶ、か」

 

 憂助はつぶやき、パフェを一気に掻き込んだ。

 

「峰岸もの、お前等助けてやってくれっち頼んだ時、同じ事言いよったぞ」

「そうなんだ……あれ? じゃあアンタ、葵と()()()の?」

「んな訳あるか、阿呆」

 

 否定しながら、アイスコーヒーも一気飲みする。

 

「あいつの心意気に感じ入ったから手ぇ貸しただけだ。今回も、お前等の心意気に免じて受けてやる」

「ホント!? マジありがとー久我! マジ愛してるー!」

「お礼におっぱい触らせてあげる!」

「いらんっち言いよろうが。それより峰岸ん家に案内せぇ」

 

 麻希に凄んで、憂助は立ち上がった。



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リョウメンスクナ その3

 ギャル友トリオに案内されて久我憂助は峰岸邸に到着した。

 憂助は敷地を囲う塀に取り付けられた、胸の高さほどの簡素な門に手を触れ、目を閉じた。

 瞬間、彼の頭の中に映像が浮かぶ。

 葵の母親と思しき女性が、門を開けて外出するシーン。

 そして髪を茶色に染めた若い男がこの門を開けて敷地内に入っていくシーンが。

 

「峰岸はまだおるようやの。男も一緒んごとある」

「マジで? なんでわかるの?」

「サイコメトリーっちゅうやつだ。詳しい事はGoogle先生に聞け」

 

 美智子に答えながら、憂助は門を開けて中へと入る。まるでここが我が家であるかのような、迷いのない足取りだ。

 

 サイコメトリーとは超能力の一種で、手で触れた物品の過去を見る能力だ。

 あらゆる物体に、どのような人物がいつどこでそれを手にしたかというような記憶が刻み込まれており、憂助は念法の力でそれを読み取ったのである。

 

 玄関のドアノブに手を掛けると、鍵が掛かっている。

 ここでも憂助は、ドアノブを握ったまま目を閉じて、精神を集中させた。

 

 カチン。

 ガチャン。

 

 ドアの向こうで二つの音がして、憂助が再びドアノブを捻ると、ドアは苦もなく開いた。ロックとドアチェーンの両方が外されたのだ。

 ドアを開けると、土間には男物の革靴があった。

 その先の廊下には、脱ぎ散らかされた服と下着が二人分。

 二階に続く階段の手すりに、ベージュ色のブラジャーが引っ掛かっていた。

 一番奥には廊下を挟んで二つのドアがあり、その間の壁に小さな台が置かれ、その上に背中合わせの二匹の鬼の像と、水の入ったグラスが置かれてあった。

 

「あ、あれあれ。あれが葵とママさんが拝んでたやつだよ」

 

 恭子がそれを指差して、憂助に教える。

 ──と、そこへ右手のドアが開いた。

 そして、腰にタオルを巻いただけの裸の男が出てくる。小野原和彦だ。シャワーを浴び終わって、ちょうど身体を拭いていたのだろう。

 

「うん? 何だ君たち、他人の家に勝手に──」

「エヤァッ!」

 

 憂助が廊下の奥の和彦に右手をかざして、鋭い声をほとばしらせる。

 和彦は一瞬ビクッと竦み上がったかと思うと、その場に力なく座り込んだ。表情は虚ろで、完全に放心している。

 久我流念法の技の一つ、『遠当て』であった。

 

「な、何よ今の! どうしたの和彦さん!」

 

 ……次いで、葵も同じドアから大慌てで飛び出してきた。彼女の方は、一糸まとわぬ全裸であった。

 

「…………久我? なんでここにいんの? なんでアタシん家知ってんの?」

「先に服着れや。目障りだ」

 

 言われた葵は、裸でいる自分が急に恥ずかしくなり、「わひゃっ!」と珍妙な悲鳴を上げてその場にうずくまった。

 

 

 和彦が目を覚ますと、視界いっぱいに天井が広がっている。自分はどうやらベッドに寝かされているようだ。

 起き上がって周りを見渡して、葵の部屋だとわかった。

 同時に、自分が服を着せられてるのもわかった。

 

「……?」

 

 さっきの男女は何だったのだろうか?

 葵がここまで、一人で自分を運んで、服まで着せてくれたのだろうか?

 はっきりとしない記憶の糸を手繰り寄せていると、ドアが開いて葵が入ってきた。タンクトップとショートパンツを身に付けている。

 

「あ、起きた? ビックリしたよ、いきなり倒れるんだもん。はい、お水」

 

 葵は持っていたお盆の上の、グラスに入った氷水を手渡す。

 

「ありがとう、葵ちゃん」

 

 和彦はそれを受け取り、一気に飲み干した。

 

「美味かったか?」

 

 そこへ、別の男の声がした。開け放たれたドアから、さっき見たあの知らない男が立っている。そして、和彦の手の中のグラスを指差した。

 

「《リョウメンスクナ》にお供えしとった水だ。さぞ美味かったろ」

「──っ!」

 

 途端に和彦はグラスを投げ捨て、自分の口の中に手を突っ込んで、たった今飲み干した水を無理矢理吐き出した。

 

「か、和彦さん……?」

 

 葵は突然の行動に驚く。

 

「き、貴様……何て事を……!」

「お前等が峰岸にやらせた事やろうが」

 

 怒りの形相で睨み付ける和彦に、憂助もまた憤怒の視線で応じた。

 

「峰岸から聞いたぞ。雑霊の集まりやすい場所に像を置いて、お供えした水を飲むよう言うたらしいのぉ……それを吐いたっち事は、お前も知っちょったっち事か──あの水には、集まった雑霊がたっぷりと含まれとった事を」

「……!」

 

 和彦は答えない。しかしその沈黙と、憂助に向ける怒りと憎しみの眼差しが、彼の言葉を雄弁に肯定していた。

 

 和彦が遠当てで放心している間に、葵は憂助たちに、我が身に起きた怪異を全て話したのだ。和彦が霊能力者神道宗光を紹介してくれた事も、その神道宗光が悪霊を退治してくれた事も、母が用意したお礼の金一封を断った事も、全て。

 そうする事で和彦の潔白を証明出来るからと思えばこそであり、和彦を守りたいと思えばこそであった……。

 

「お前等、峰岸をどうするつもりなんか。金も取らんかったっち事は、それ以外の目的があるんか? それとも、単に後からもっとガッツリ搾り取るために、敢えて目先の金を取らんかっただけか?」

 

 憂助は問い詰めるが、和彦はうつむいたままだった。

 だが、口の中で何かブツブツとつぶやいている……それに憂助が気付いた瞬間、部屋の中が暗くなった。

 まだ明るい白昼、カーテンを閉めている訳でもないのに、部屋全体に闇が満ち満ちて来たのだ。

 

 潮騒が聞こえる。

 憂助たちが足下を見ると、床一面に水が溢れていた。濃い潮の香りが鼻を突く事から、海水であろう。それが膝の辺りにまで浸水している。

 そしてその海水の中を泳ぐ、細長い影。

 飛沫を上げて姿を現したのは、鎌首だけでも天井に届くほどの大蛇──大海蛇だった。

 だがその顔は、人の顔だ。土気色の赤ん坊の顔だ。

 その口が耳まで裂けて、牙を剥き出しにする。

 葵たち四人は、思わず悲鳴を上げそうになった。

 しかし、自分たちの傍らで生まれた白い光輝が身体に触れると、湧き上がった恐怖がたちまち消えてしまう。

 輝きの源は、憂助だ。その右手にはいつの間に、そしてどこから取り出したのか、一本の木刀が握られている。彼はそれを八双に構えた。

 柄に『獅子王』の文字が彫られたその木刀からも白光が生まれ、輝きを更に強める。

 人面の大蛇が、赤子の泣き声にも似た声を上げながら、憂助目掛けて鎌首を伸ばした。

 憂助の面打ちがそれを迎え撃つ。

 大蛇の顔面が真っ二つに断ち割られた。

 裂け目は更に胴体にまで伸びて、水面に没している部分にまで到達し、細長い巨体を幹竹割りにして、消滅させた。

 同時に闇と海水が消え去り、夏の日差しが室内を明るく照らす。

 床は全く濡れていなかった。

 そして、和彦の姿もない。

 

「逃げたか……」

 

 憂助は木刀の刀身を左手で拭いながら、ぼやいた。

 

「和彦さん……なんで……」

 

 葵はその場にペタンと座り込んだ。突然の事態に、まだ理解が追い付いてないのか、それとも理解する事を拒んでいるのか……。

 

「なんでも糞もあるか。もうわかっちょうやろが。あいつは──何が目的かまではわからんが──自分たちの目的のために、お前を利用しちょったんてぇ」

「ウソ……」

「さっきあいつ、お供えしとった水を吐き出したやろうが。飲んだらやばいのをわかってたっち事ぞ? そんなんをお前に飲ませとったんぞ?」

「ウソ……ウソ! 和彦さん、アタシの事好きって言ってくれたもん! いっぱいキスしてくれたもん! 信じない! そんなの絶対信じない!」

「葵、目を覚ましてよ!」

「実際アイツ、アンタを置いて逃げちゃったっしょ!」

「葵は騙されてたんだよ!」

 

 ギャル友3人も葵を説得しようとする。

 しかし彼女は耳を塞ぎ、目を閉じて、全く聞き入れようとしなかった。友人たちの声を掻き消そうとするかのように、「アーッ!」と声を張り上げ、わめき散らす。

 不意に、壁に掛けられていた時計が弾かれたように宙に浮き上がり、恭子の頭目掛けて飛んできた。

 それを憂助が木刀で打ち払う。

 窓ガラスがカタカタと鳴り、勉強机の椅子や、タンスの上の置物、テレビの棚のDVDなどが一斉に宙に浮いた。

 

「信じない……信じナイ……お前等が悪い……ゼンブオマエラガワルイ……ッ!」

 

 葵の声が、突如おどろおどろしたものに変わった。

 目は黄色く濁り、口からは牙が生え、指先から獣のような鉤爪が伸びる。

 

「コロシテヤル……オマエラ、コロシテヤルゥゥウウウッ!」

 

 そして大口を開けて、麻希の首筋に噛みつかんと迫った。

 しかし憂助が彼女の胸を木刀で軽く押すと、葵の身体は軽々と吹っ飛んで壁に叩きつけられ、そのまま不可視の力で押さえつけられる。

 

「あ、葵、どうしちゃったの? キレた……とかじゃあ、ないよね?」

 

 恭子が憂助の背後に回り、尋ねる。

 

「体内に取り込んだ霊が峰岸の感情を糧にして活性化して、体を乗っ取ったっちとこかの……お前等、邪魔やき下がっとけ。心配すんな、かすり傷一つ付けん」

 

 憂助の言葉を今は信じるしかないギャル友たちは廊下に逃げて、それでも心配なのか、外から室内を伺った。

 憂助が木刀を右霞に構えると、葵は不可視の拘束から解放されたのか、壁から床の上に飛び下り、四つん這いになって憂助を睨む。一切の理性を感じさせない獣の形相である。

 憂助がそんな葵に向ける眼差しは──憐れみの眼差しだった。

 

「ガァァァアアアアアッ!」

 

 彷徨を上げて、葵が飛び掛かった。鉤爪で憂助に掴み掛かろうとするが、その胸に木刀の刀身が突き刺さり、半ばまで埋もれた。

 しかし背中から突き出るはずの切っ先は、一ミリたりとも出て来なかった。

 

「エヤァッ!」

 

 鋭い気迫と共に、木刀が白い光輝を放つ。

 葵の頭部に備わる全ての穴から白光がほとばしり、それに押し出されるように黒い煙も吐き出され、そして消えていった。ギャル友たちは一瞬だけ、その煙の中に人の顔のようなものを見た。

 憂助は木刀を引き抜くと、力なく倒れる葵の身体を左腕一本で抱き止め、ベッドに寝かせてやる。

 ギャル友3人が駆け寄ると、木刀を刺されたはずの葵の胸には傷一つなく、タンクトップにも穴は空いてなかった。

 

 葵はすぐに目を覚ました。

 起き上がった彼女の目は元通りになっている。牙も鉤爪も消えていた。

 

「葵、マジ大丈夫?」

「うちらの事わかる?」

「どっか痛いとこない?」

「ミッチー……リンダ……マッキー……うっ……ふぇぇぇええええええんっ!」

 

 口々に声を掛ける友人たちの顔を見渡した葵は──その場で小さな子供のように泣き出した。

 

「ごめんなざい、ごべんなざぁぁああいっ! 違うの、今のは違うのぉぉぉっ! アタシだけどアタシじゃなかったのぉぉぉおおおっ! ごべんなざぁぁああいっ!」

「わかってる! わかってるから!」

「うちら気にしてないからね! 怒ったりしてないからね!」

「葵はマジ悪くないんだよ! マジ葵のせいじゃないから!」

 

 どうやらさっきの事は覚えていたらしい。わんわんと泣きじゃくりながら謝る葵を抱き締め、ギャル友たちは一生懸命に彼女をなだめ、慰めの言葉を掛けてやった。

 

「──そろそろいいか?」

 

 しばらくの間彼女たちの好きにさせてから、憂助は声を掛けた。

 

「久我……ごめんね、あんたにも迷惑掛けたよね……」

「悪いと思っちょうんなら、あのカズヒコとかいう男の住所教えろ」

「どうすんの?」

「奴等のやってる事は、なんぼなんでもタチが悪すぎる。二度と悪さ出来んようにしとかんと、またどっかで同じ事をやるかも知れん」

 

 瞬間移動で直接和彦の元へ飛べばいいのだが、さすがにさっき対面したばかりの人間とは繋がりが薄くて、移動出来ないのだ。

 

「……尾川ハイム……ほら、去年駅前に出来た新しいマンションあるっしょ? アソコの最上階の一番奥の部屋だよ……」

 

 葵は、素直にそう答えた。そして、

 

「行くんなら、アタシも連れてってよ……ちゃんと和彦さんとケジメ付けたい」

「葵が行くなら、うちらも行くよ!」

「アタシ等だってマジ文句言ってやらなきゃ気が済まないし!」

「つーかアタシは蹴り入れたいし!」

「ここにおれ。邪魔だ」

「でもさぁー、アンタ、オートロックの番号とか開け方とかわかんの?」

「…………」

 

 葵の一言に、憂助は黙り込んだ。

 番号と操作方法を聞き出してから向かえば良かったと気付いたのは、四人のギャルを連れて尾川ハイム前まで瞬間移動し、エレベーターで最上階に向かう途中の事であった……。



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リョウメンスクナ その4

「アタシって、ホント馬鹿だよね」

 

 最上階へと向かうエレベーター内で、峰岸葵はポツリとつぶやいた。

 

「ちょっと前まではさ、和彦さんの事思い出すのあんまりなかったし、思い出しても『次会ったらゼッテェーぶん殴る』とか思ってたのに、実際に会ってみたらそんなの忘れて、和彦さんの言いなりになって……でも、ホントに嬉しかったの、和彦さんとまた会えて。これからはまた一緒にいられるんだって思ったら、もう嬉しくて嬉しくて、細かい事どーでも良くなって……」

「しょーがないよ。葵、アイツの事マジで好きだったんでしょ?」

 

 柳沢美智子が葵の肩に手を置き、慰める。

 

「好きになった人の事、そんな簡単には吹っ切れる訳ないって」

「うちら、葵のそーゆートコ大好きだもん。だから気にしなくていいんだよ」

 

 芦原麻希と林田恭子も、優しい言葉を掛けてやった。

 久我憂助は、四人のギャルのそんな様子を横目で見ているだけだった。

 

 エレベーターが止まり、ドアが開くと、憂助がいの一番に廊下に出る。

 

「アソコ。一番奥が和彦さんのお部屋だよ」

 

 それに続いた葵が、正面に真っ直ぐ伸びる廊下の突き当たりの部屋を指し示した。

 その部屋の前まで来た憂助は、ドアノブを掴んで目を閉じた。

 

「……?」

 

 その時葵は、憂助の腰と左脇腹が、服の下でかすかに光を発しているのを見た。

 

 カチン。

 ガチャン。

 

 ドアの向こうで、ロックとチェーンの外れる音がした。葵の家に入った時と同じだ。

 

 葵が見たのは、憂助が開いたチャクラの輝きであった。

 下から腰、脾臓、へそ、心臓、喉、眉間、頭頂部の七ヶ所に存在する、宇宙のエネルギーの注入口だ。

 それぞれの位置で作用する力の種類が違う。憂助がドアの解錠の際に開いたのが、下位の二つ、腰と脾臓にある物理的な力を司るチャクラであった。

 

 ドアを開けた憂助は、ここでも我が家に入るかのような迷いのない足取りで侵入した。靴のままで。

 半ば呆れながら、ギャル四人も同様に土足で乗り込んだ。

 憂助はリビングの入り口で立ち止まった。閉ざされた木製のドアを一睨みすると、右手の木刀を正眼に構えた。

 今度はへそ、心臓、喉の三つのチャクラが開放され、光を灯した。中位の三つは、感情的な力を司る。

 

「エヤァッ!」

 

 鋭い気合いと共に繰り出された掬い上げるような突きが、ドアを貫いた。

 

「んぐっ!」

 

 ドアの向こうで、うめき声が聞こえた。和彦である。もしも彼のそばに人がいたならば、ドアを透過して伸びた木刀が、顎の下から彼の頭部に突き刺さる様を見た事だろう。

 憂助は木刀を引き抜き、傷一つ付いてはいないドアを開けた。

 そこには、ネイルハンマーを手にボンヤリと立ち尽くす和彦の姿があった。

 

「座れ」

 

 憂助が室内のソファを木刀で指し示し、和彦に命令する。

 

「ああ」

 

 和彦はうなずき、唯々諾々と従った。

 チャクラの開放によって得たエネルギーを、木刀を通して和彦の脳に注入したのだ。今彼は、憂助たちに対する一切の敵意はおろか、わずかな抵抗の意思すら持ってはいない。聞かれた事には素直に答える人形状態だ。

 ──というような内容を、専門用語とその解説を省いて憂助は葵たちに説明した。

 

「さて、さっきの話の続きといくか……お前等、峰岸をどうするつもりやったんか」

「葵ちゃんに、雑霊が染み込んだ水を長期間飲ませて、霊が憑依しやすい状態に作り替えるのが目的だった……葵ちゃんは両面宿儺(りょうめんすくな)が見えるくらい霊的なセンスが高いから、きっと強い式神になるだろうと、神道先生はおっしゃっておられた……」

「式神っちゃ、陰陽師が使うとかいう奴か? 峰岸がそれになるっちゃどういう事か」

「先生の言う式神は少し違う……先生の素晴らしい知恵と技術で複数の霊を結合させてお造りになられた、人工霊だ……」

「俺等にけしかけた、あの蛇の化け物げな奴か」

 

 憂助の眉間に、シワが寄った。

 

「ああ、そうだ……葵ちゃんに取り憑いていたのも、先生の式神だ……人がたくさん集まる場所に放して、波長の合った人間に取り憑かせる……頃合いを見計らって、俺が偶然を装って追い払うが、あくまでも追い払うだけだ……式神はまた戻ってくる……そこで先生を紹介する……先生が式神を処分して、新しい信者の出来上がりだ……でも、さっきも言ったけど、葵ちゃんは強い霊感があったみたいだから、新しい式神の材料にはうってつけだった……」

「はああ? マジざけんなよテメェーッ!」

「葵をあんな化け物にするつもりとか、いかれてんのか!」

「テメー葵の元カレだろーが! 葵はテメーの元カノだろーが! なんでそんなコト平気で出来んだよ!」

 

 ギャル友三人は和彦の告白に激昂し、荒々しい口調で怒鳴り付ける。

 

「仕方なかったんだよ……先生には、この腐った世の中を正すという崇高な目的がある。そのためには、強力な式神をたくさん作らなくてはいけない……もったいないけど、先生のためならしょうがない……」

 

 和彦は葵の豊かに膨らんだ胸元をチラリと見て、そう言った。

 

「……えらいその神道とかいう奴を持ち上げるのぉ。お前、そいつと何かあったんか?」

「恩がある……上京して少ししてから、そこでも新しい彼女を何人か作ったんだけど、その中の一人がストーカー化してね……困ってたところを、神道先生が式神を使って処分してくれたんだ……」

「彼女を何人も作ってんじゃあねえ」

 

 しかもその彼女にすら『処分』という言葉を使う……憂助は呆れるしかなかった。

 

「和彦さん。アタシの質問にも答えて」

 

 葵が和彦の前にしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。和彦の視線が、自分の胸に注がれてるのがわかる。

 

「アタシの事、どう思ってる?」

「葵ちゃんは……初めて会った時からスケベな体つきで……最初は中学生とはわからなかった……可愛いし、適度にお馬鹿で、何でも言う事聞いてくれて……君で遊ぶのは、凄く楽しかったよ……でも結婚とか、そういう相手としては見てなかった……」

「最初から、肉体(からだ)が目当てだったんだ……」

「ああ、そうだよ……正直、今も未練がある……でも、これも先生のご意志だから……」

「だからアタシを、化け物の材料にするの?  あんなにいっぱい愛し合ったアタシを、あんなキモい化け物にするつもりだったの? いっぱいキスして、毎日エッチして、何回も好きだよって言ってくれたのに、神道センセーがそうしろって言ったら捨てれるような、そんな風にしか思ってなかったの?」

「先生のお役に立てるなら、葵ちゃんだって嬉しいだろう?」

「んな訳ねーだろ、この豚野郎ぉぉぉぉおおおおおおッッ!!」

 

 葵が吼えた。

 怒りの右ストレートが、和彦の顔面に突き刺さった。

 葵は更に殴り付けようとしたが、不意に大きな溜め息をつくと、振り上げた拳を下ろした。

 

「まー、アタシもあんまし人のコト言えないのかなー……友達に自慢したいとかそっち系の理由でテメーに告った訳だし……テメーの友達と()()()()()時も、何か浮気っぽくてドキドキしてちょっと楽しかったし、そーゆー意味じゃアタシ等お似合いのバカップルだったよね」

 

 和彦は答えない。顔を押さえてうつむいている。鼻血が止まらず、それどころではないようだ。

 しかし葵は、全く気に掛ける風もなく、憂助の方を向いた。

 

「ありがとーね、久我。おかげでスッキリしちゃった。このバカ、後はアンタの好きにしていーよ?」

 

 そう言うと彼の胸に寄り添い、口元に顔を寄せる。

 唇が憂助の頬に触れた。

 

「アタシからのお礼ね」

「いらんわ」

 

 憂助は手の甲で頬を拭う。

 

「もー、目の前で拭かれるとプチ傷付くんですけどー? ……まーいっか、アンタそーゆーキャラだもんね。んじゃ、アタシ等先に帰るね?」

「おう」

「久我、マジありがとー」

「今度うちらからもお礼するね」

「何でも()()あげるからねー」

 

 ギャル友三人も口々に礼を言うと、リビングを出ようとした。

 だが、四人の足はドアの手前で止まる。

 開け放されたドアの先に、スーツ姿の男が立っていた。

 

 神道宗光。

 

 その顔には鋼鉄のように冷たく暗い影が差していた。

 

「先生……来てくださったんですね! こいつ等、先生の崇高なご意志を理解しようともせず、俺に暴力まで振るったんです! どうか先生のお力で、この愚か者どもに天罰をお与えください!」

「そのつもりです」

 

 宗光の足下の影が、不意に面積を広げた。

 実体を持つ幕となってリビングの床に、壁に、天井に広がり、窓を覆い尽くし、室内を暗黒に閉ざす。

 

 その闇の中から、無数のうめき声が聞こえてきた。

 たくさんの顔が、水面から浮かび上がるように闇の中から浮かび上がった。赤ん坊や子供、女、老人、様々な顔が。

 そしてどれ一つ取っても、人間の体ではなかった。

 手足が蛇になっている者。

 犬や猫の胴体を持つ者。

 カラスやトカゲの胴体を持つ者。

 和彦の言っていた、複数の霊を結合させた人工霊、忌まわしき霊的キメラの群れが、憂助たちを囲んでいた。その数は、ざっと30体を越えていた。

 

「いかがですかな? この程度の霊なら簡単に使役出来ます。私が手を一振りするだけで、彼等はあなた方を殺し、その魂を喰らう……しかし、心を入れ換えて私に従うのならば、葵さんとそちらの木刀を持ったお友達は許してあげましょう。特に葵さんは、小野原くんのお気に入りのようですしね」

「……お断りだ」

 

 憂助が真っ先に答えた。

 

「こいつ等は全員無事に帰す。そしてお前等は徹底的にぶちのめす」

「力の差がわかってないようですね……何やら不思議な技を修めておいでのようだが、まさかこれだけの数の式神を、一人で倒すおつもりですかな?」

「つもりやねえ──こいつ等全員、解放してやる」

「愚かな」

 

 宗光は右手を掲げて、サッと振り下ろした。

 式神の群れが一斉に襲い掛かって来る。

 その時、憂助の眉間に光点が灯った。

 眉間のチャクラは、霊的な力を司る。

 憂助は木刀を顔の前で垂直に立てた。柄に『獅子王』と彫られた木刀が、白い光輝を放ち始める。

 式神たちは……まるで虫が明かりに引かれるように、その輝きに吸い寄せられた。

 

「イィーーエヤアッ!」

 

 雷鳴のごとき声と共に、憂助は木刀で虚空の闇を数度斬り付けた。

 何たる怪異か、はたまた奇跡か──その太刀筋が明確な光のラインとなって、空間にとどまっている。まるで糸を張り巡らせているかのように!

 その光が、野鳥を絡め捕る霞網めいて式神たちを捕らえる。

 霊的キメラの群れはその光に触れるや否や、黒い塵となって瞬く間に消滅していった。

 

「これはこれは……豪語するだけの事はありますね。もっとも、彼等はしょせん、簡単な命令にしか従えない低級霊。ケダモノと変わりません。しかし私の両面宿儺は」

「やかぁしいっ!」

 

 憂助が宗光の言葉を遮って、叫んだ。

 その顔は、葵たちですら怯むほどの激しい憤怒の形相となっている。

 

「低級霊だ? ケダモノだ? お前がそげな風にしたんやろが! 救いや解放を求めてさ迷う魂を粘土細工か何かみてえに捏ね回してくっ付け合って作り替えて、お前に従う事しか出来んようにしたんやろが! ようそげな風に言えたのぉ!」

「仕方のない事です。この腐った世の中を正す、いわば衆生済度のための犠牲ですよ」

「あの人たちが、その犠牲にならないかんような悪い事でもしたんか! 犠牲にする者と救う者とを選り分けられるほどお前は偉いんか! 腐った世の中の前に、まずはテメーの腐った根性叩き直してこい!」

「……おお、臭い臭い、青臭い……何も知らない子供の理想論は、聞くに耐えませんね」

 

 宗光はこれ見よがしに胸ポケットからハンカチを取り出し、鼻を隠す。

 

「何とでも言え。仮にお釈迦様が、お前の方が正しいと太鼓判を押したとしても、それでも俺はお前を許さねえ。何も知らん人間を騙して利用したり、魂とか命とか、見えないものに対する畏れや敬いの気持ちを持てんような奴は絶対にな!」

「勇ましい事で……どうやらあなたとはお友達にはなれないようだ……殺れ」

 

 宗光の最後の一言は、一際暗く、冷たい響きを持っていた。

 彼の背後から女が現れる。

 青白い裸体を背中合わせにくっつけた二人の女──両面宿儺。

 

「この両面宿儺は、私に従う二人の巫女をベースに、たくさんの浮遊霊を喰わせて育て上げた最高傑作です。あなたの技など通じませんよ」

 

 宗光は自慢気に解説してせせら笑う。

 両面宿儺は横っ跳びで憂助に掴み掛かった。指先には鋭い鉤爪。開かれた二つの口には牙が生えている。

 憂助は木刀を横一文字に振り抜いた。

 しかし宿儺は、迫る一刀に足を掛けて踏み台にして跳躍し、回避した。

 四本の足が槍のように伸びて、憂助の胸板を蹴り抜く。

 憂助はサッカーボールめいて吹き飛び、壁に背中を叩きつけられた。

 両面宿儺が四本の腕を振り上げると、それに従うように室内の調度品が浮かび上がり、ミサイルのごとく憂助に降り注ぐ。

 

「エヤアッ!」

 

 憂助は眉間のチャクラを輝かせ、木刀で虚空を薙ぎ払う。

 ポルターガイストによって飛来した調度品が、その一振りが合図であったかのように、一斉に床に落ちた。

 両面宿儺はよほど悔しかったのか、四本の足で地団駄を踏む──否、それは次なる攻撃だった。

 宿儺の足踏みに合わせて、突如部屋全体が激しく上下に揺れ始めたのだ。憂助はその震動に立っていられず、その場に片膝をつく。

 葵たちもそれぞれ、しゃがむなりうずくまるなりするしかなかった。

 和彦はソファの背もたれに必死でしがみつく。

 それほどの揺れの中でも、神道宗光ただ一人だけが、悠然と立っていた。

 

「イィーーエヤアッ!」

 

 憂助は逆手に持ち換えた木刀で床を突く。

 白光が波紋のごとく床に広がったかと思うと、揺れが収まった。

 

『ギィィィイイイイイッ!』

 

 両面宿儺は、金属をこすり合わせるような不快な唸り声を上げた。

 憂助から見て後ろ側の女が、戦いを見守る葵の姿を目にするや口許を歪めた。笑ったのだ。

 

「きゃあっ!」

 

 葵の悲鳴が闇に響いた。両面宿儺に抱え上げられたのだ。そして憂助目掛けて投げ付けられる。

 憂助はそれを、体全体で受け止めた──が、それこそが宿儺の狙い。邪悪な笑みと共に襲い掛かる!

 憂助は受け止めた葵をどかさねばならないため、対応がワンテンポ遅れる。そう読んでの行動だった。

 その宿儺の前で、葵はペタンと尻餅をついた。

 背後で彼女を抱き支えていたはずの憂助の姿はない。

 宿儺の後ろ側が、驚愕に目を見開いた。突如虚空に白い光が生まれ、その中から木刀を振り上げた憂助が現れたのだ。

 本来、最大の死角である背後の守りも万全なはずの両面宿儺だったが、よもや瞬間移動で現れるなどとは、完璧な想定外である。

 稲妻にも似た面打ちが、前後の身体を一まとめに斬割し、消滅させた。

 

 同時に、闇が晴れた。

 

 神道宗光は、自慢の両面宿儺の敗北を見届けた瞬間、既に逃走を始めていた。

 短い廊下を抜けて、玄関のドアを開ける。

 そこに憂助が、瞬間移動で先回りしていた。

 

「天誅!」

 

 木刀が唸り、宗光の額を割る。

 赤い筋が宗光の顔を伝い落ちた。

 

「かあっ!」

 

 しかし宗光は怯む事なく、右手のひらを憂助にかざす。

 瞬間、不可視の力が彼の全身を打ちのめし、後ずさりさせた。

 その隙に宗光は、何を思ったか中庭に面した手すりに足を掛け、迷わず空中へとダイブした!

 しかし彼の体は地上には落ちない。

 バサバサと激しい羽音を立てて、真っ黒な大鷲が飛び去るのみであった……。

 

 

 崇拝していた男の敗走劇を目の当たりにして放心したままの和彦を放置して、憂助たちは尾川ハイムを後にした。

 

「じゃあまた明日ね、葵」

「何かあったらうちらに言いなよね」

「てゆーかアタシ等の方が、明日マジ遊びに行くよ」

「うん、みんなありがとー。大好き」

 

 途中でギャル友三人と別れた葵。

 憂助は男の義務が半分、ギャル友トリオからのお願いが半分で、葵を家まで送ってやる。

 

 会話はなかった。

 何を言ったところで、自分では何の気休めにもなるまいと、憂助は思っている。そういうのはあの三人に任せるのがベストだろう。

 葵が手を握って来た。

 振り払いたかったが、今日だけは好きにさせた。

 少し歩くと、今度は腕にしがみついて、豊満な胸を密着させてくる。

 デコピンをくらわせようかと思ったが、今日だけは好きにさせた。

 家にたどり着いても、葵は憂助を離さなかった。

 

「おい」

 

 憂助は声を掛けるが、葵は余計に強くしがみつくだけである。

 

「……おい」

 

 やや語気を強める。すると、消え入りそうなか細い声で、葵がつぶやいた。

 

「抱いて……」

「はぁ?」

「今すぐ、アタシを抱いて……和彦さんの事、忘れさせてよ……今日だけでいいの……今日だけ、アタシの彼氏になって……アタシの肉体(からだ)、メチャメチャにしてよ……」

 

 途中からは、嗚咽が混じっていた。

 

「信じてたのに……好きだったのに……赤ちゃん産みたいって思ってた……お嫁さんになりたいって、マジで思ってたのに……こんなのってないよ……あんまりだよ……」

 

 葵はぐずりながら、思いの丈を吐き出す。

 

 好きになった人の事を、そう簡単に吹っ切れる訳がない。

 

 さっき麻希が言った言葉を、憂助は思い出した。

 そして葵の両肩に手を置いて、そのまま抱き寄せ、優しく背中を叩いてやる。

 

「……そーゆー意味じゃなかったんだけど……」

 

 葵は苦笑した。

 夏の暑い盛りである。しかし、憂助の体温が、鍛えた肉体の厚みが、今は心地好かった。

 

「ま、いっか……ありがとね、久我」

「ああ」

 

 憂助はそれだけ答えた。

 そんな素っ気なさも、今の葵には嬉しかった。



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エピソード4
幽霊マンション その1


 板張りの道場で、剣道着姿の久我憂助は木刀を正眼に構えていた。

 奇妙なのは、彼が手拭いで目隠しをしている事だ。

 そして更に奇妙なのが、同じように目隠しをし、同じように木刀を正眼に構える剣道着姿の男がいる事である。

 憂助と向かい合う、口髭をたくわえたその男の名は久我京一郎。憂助の父だ。

 父子は木刀の切っ先を相手に向け合ったまま、じっとしている。まるでビデオの静止画像のように、微動だにしない。

 ──かと思うや否や、憂助の木刀が動いた。電光石火の突きが父親の喉元目掛けて繰り出される。

 京一郎の木刀がかすかに揺れて、憂助の木刀に触れた。

 その瞬間、憂助の身体はポーンと宙に跳ね上がり、大きな弧を描いて京一郎の背後の床板に叩きつけられた。

 彼の木刀は、京一郎の木刀に磁石のように吸い付いていた……。

 

「ちちっ……!」

 

 派手に落下した割りには、憂助にダメージはなさそうだ。すぐにムクリと起き上がって腰をさすると、目隠しを取った。

 

「ふむ……『(たい)の起こり』は完璧に消せとうが、『気の起こり』はまだまだやのう」

 

 立ち上がった息子に、京一郎は同じく目隠しを取りながら、木刀を返してやった。

 起こりとは、簡単に言うと、技を出す際に生じる予備動作の事である。『体の起こり』がまさにその事で、『気の起こり』とはこの場合、攻撃しようとする意思を指す。いわゆる殺気と呼ばれるものだ。

 

「お前はどうにも気性が荒いきのぉ……お母さんは菩薩様んごと優しい人やったき、やっぱりじいちゃんに似たんやろうな」

「嘘つけ、じいちゃんメチャクチャ優しいやねぇーか。遊び行ったらいっつも小遣いくれるし、でけぇヤマメ食わしてくれるぞ」

 

 福岡の山奥に一人隠居している、祖父の久我玄馬を思い出し、憂助は優しい祖父の名誉のために抗議するが……、

 

「そらお前、じいちゃんからしたらたった一人の孫やき、優しくもなるわ。そやけどじいちゃんああ見えて、若い頃はものすご怖かったぞ? 名前にかけて『鬼より怖い久我閻魔』っち呼ばれとったらしい。父ちゃんも小さい頃は、悪戯するたびに泣くまでぶっ叩かれてなぁ……怒ったじいちゃんを止められるのは死んだ婆ちゃんくらいやったわ。

 ──じいちゃんがお前に甘いのは、昔の自分を思い出して親近感湧くからかも知れんのぉ」

「……あのじいちゃんが……?」

 

 憂助には信じがたい話のようだ。

 しかし、自分の両頬をバチンと叩いて、気持ちを切り替える。

 

「それはそれとして、親父、もう一丁!」

「そろそろ朝飯作らなならんきの、続きは、仕事から帰ってからな」

 

 京一郎は自分の木刀を壁に架けて、道場を出ていった。

 父一人、子一人の久我家では、週ごとに交代で食事を担当しているのである。

 

 

 父がその話を切り出したのは、夕食の素麺をすすってる時だった。

 

「のう憂助。せっかくの夏休みやし、バイトしてみる気はねえか?」

「……また面倒事か?」

 

 憂助が不機嫌そうに聞き返した。

 

 京一郎は調子の良い性格と、笑うと適度に間抜けになる顔つきのせいで、大抵の相手と仲良くなってしまう。そのためか、とても広い人脈を持っていた。

 しかしその人脈を通して、時に面倒事が持ち込まれる。なまじ念法の技で解決可能なせいで、余計にその手の相談が持ち込まれた。

 憂助は中学に上がる頃から、その面倒事の処理を時折父から押し付けられていたのだ。『ちょっと出稽古のつもりで行ってこい』と言う場合もあれば、今夜のように『アルバイト』と表現する場合もある。

 もっとも、バイト代をもらった覚えは一度もない。ただ、その日の夕食が豪華になるくらいである……。

 

「今度は何か」

 

 憂助は尋ねながら、食卓の中央の大皿から箸で素麺を取って、麺つゆの入った自分の器に浸した。

 

「おう、寺沢のおいちゃん知っちょうやろ? そのおいちゃんの経営しとるマンションに幽霊が出るっち言うての、住んぢょう人からクレームが入っちょうらしい」

「おいちゃんとこマンション新築やねーか。確か一昨年の春に出来たやろ。何も事件とか起きてねーし、幽霊とか出る訳ねかろうも」

 

 バッサリ言い捨てて、憂助は素麺をズルズルとすする。

 

「だいたい、気の流れも良いき繁盛するやろうっち言うて、親父があそこに建てるよう言うたんやねかったんか。おいちゃんはそう話してくれたぞ」

「おう、それよ。実際今年に入るまでは上手く行きよったらしいんやけどのぉ、春辺りから急にそういうクレームが出始めたらしい。さすがにあの場所を薦めた身としては、責任感じてのぉ……」

「責任感じてんなら自分で行けや」

 

 憂助が至極真っ当な反論をした。

 

「憂助。俺等念法家は、生まれてから死ぬまでが修行やぞ。ちょう出稽古のつもりで行ってこい」

「バイトやねかったんか……バイト代なんぞいっぺんも貰った事ねーけどのぉ」

「除霊出来たらおいちゃんが焼き肉奢ってくれるっち言いよったぞ?」

「明日行ってくるわ」

「さすが憂助! 男の中の男! 日本一!」

 

 京一郎はパチパチと手を叩き、息子を大袈裟に褒め称えた。

 

 

 ──そんな訳で、憂助は着替えやその他の生活に必要な品を詰め込んだリュックサックを背負い、山沿いにあるマンション『グリーンハイツ寺沢』を訪れた。午前11時を過ぎる頃である。

 服装は、グレーのTシャツとジーパン。その上からお気に入りのフード付きの黒いベストを着ていた。

 

 マンションは鉄筋コンクリートの六階建て。建物の向かって右側が広い駐車場で、左側が公園である。公園は道路に面した側に高いフェンスが設けられていた。

 その道路を挟んだ向こう側が河になっている。河原は整備されて広場になっており、そこに下りる階段にはご丁寧に手すりまで付いている。夏休みという時期もあってか、小学生が三人、魚釣りに興じていた。

 

「おぉーい、憂くぅーん!」

 

 大声で呼ばれた憂助がそちらを見やると、マンションの前に立った一人の男がいた。

 白いポロシャツとベージュのスラックスを身に付けた小太りの男で、憂助に向かって両手を振っている。

 父の知り合いで、このマンションを経営する寺沢俊夫。今回の依頼人でもある。

 

「おいちゃん、こんちは」

 

 憂助は彼の元へ来て、ペコリと小さくお辞儀した。

 

「元気にしてたかい? ごめんねぇ、夏休みでのんびりしたかっただろうに……」

「うん。だき、さっさ終わらせて、夏休みの間はここでのんびりさせてもらうわ」

「おお、そうかそうか。よしよし、じゃあ早速お部屋に案内しようね」

 

 寺沢は憂助に背中を向けてマンションの中に入る。憂助はそれに続いた。

 玄関ホールの左手に管理人室があり、正面がエレベーター、右手が階段である。

 階段の手前には、来客用のソファとテーブルが置かれてある。

 寺沢は憂助を連れて、エレベーターで最上階の六階に上がった。

 エレベーターを出ると、左右に伸びる廊下の左手一番奥、非常階段に出るドアの手前の部屋へと憂助を案内した。

 

「暮らしていくのに必要な物は、一通り揃えたつもりだよ。冷蔵庫には飲み物も入ってる」

「お世話になります」

 

 憂助は寺沢に改めてお辞儀をした。

 

 除霊に成功すれば焼き肉を奢って貰えるだけではない。『アルバイト』を引き受けたら、夏休みの間だけ一部屋ただで貸して貰えるという話になっているのだ。家賃や光熱費は全て寺沢が出してくれると言う。

 夏休みの間と言っても、お盆を過ぎて残り二週間ほど。その間の高校生の一人暮らしで発生する費用など、胡散臭い拝み屋に払う金に比べればはるかに安い。寺沢はそう判断したのだ。

 

 部屋に上がった憂助は、リュックサックを下ろしてリビングの隅に置いた。

 その間に寺沢が冷蔵庫からオレンジジュースのペットボトルを取り出し、棚から出した二つのグラスに注いでテーブルに置く。

 ガラスのテーブルには、既に大きな封筒が置かれてあった。

 憂助がソファに座ると、寺沢はその封筒を開けて中身を広げる。このマンションの、各階の見取り図である。部屋のいくつかに、赤丸がされていた。

 

「この赤丸がしてある所が、幽霊が出るとされている部屋だ。出るタイミングも出るものもまちまちで、中には昼日中から見た人もいるらしい」

「出るものもって?」

「夜中に知らない女が部屋の廊下を歩いてたという人もいれば、朝から知らないおばあさんが玄関の土間に座ってたという人もいる。小さな子供だったり、男だったり、見える姿も全身だったり手や足だけだったりと、目撃証言が一致しないんだよ」

「うーん……」

 

 憂助は小さく唸り、とりあえずオレンジジュースを一口飲んだ。

 

 そんなにバラエティー豊かな幽霊が一ヶ所に出るとすれば、マンションが建つよりもずっと以前から土地に由来するものなのだろう。

 だが、だとしたら父がそれに気付かぬはずはない。地元の歴史には明るくなくとも、たくさんの幽霊が出るような土地に対しては、勘が働くものだ。多くの死者を出すような事件・事故・災害……それ等の現場となった場所には良くない気の流れが発生する。憂助以上の念法家たる京一郎なら、リンゴを見て『これはリンゴだ』と認識するのと同レベルでそれを知覚出来る。

 その京一郎が、マンション経営を始めようという知人にそんな土地を薦めるなど、絶対に有り得ない。

 

(……誰か、いらん事しくさりやがったな)

 

 憂助は胸の内で、そう結論付けた。

 幽霊騒ぎ自体が、今年の春から急に発生したのだ。人為的に引き起こされた霊現象であろうと考えたのである。

 

「おいちゃん。今、この幽霊が出るっちいう部屋には、誰か住んどうと?」

「いや、みんな出ていってしまったよ。今はどの部屋も空き部屋だ」

「んじゃちょうどいい。ちょっと見てみるか」

「今から?」

「今から。おいちゃんも早めに片付いた方が助かるやろ」

「まぁ、そうだけど……」

「鍵貸してくれたら、俺が勝手に見て回るき、無理して付いて来んでもいいよ。おいちゃんも忙しかろ」

 

 憂助はオレンジジュースを一気に飲み干し、立ち上がる。

 

「い、いやいや、さすがにそれは困る。一緒に行くよ」

 

 寺沢も慌ててソファから立ち上がった。

 二人で部屋を出ると、隣の部屋のドアが開いた。

 中から、金髪の女性が姿を見せる。

 グレーに細い白のストライプが入ったシャツと、お揃いのグレーの短パンを身に付けていた。

 短パンから伸びる白い太ももが、ムッチリとした肉感的なラインを描いている。

 胸元も大きく膨らんでおり、シャツの裾を持ち上げているため、チラチラと白いお腹が見えた。

 肩まで伸ばした髪はウェーブの掛かった金髪だが、染めた物ではない生まれつきのものだと、彼女の顔つきと白い肌でわかった。早い話が、彼女は外国人なのだ。

 

「ハァイ、大家さん」

 

 彼女は軽く掲げた手を振って、朗らかに挨拶する。とても流暢な日本語だった。

 

「クリスさん、お出掛けですか?」

「ううん。声がしたから、新しく越してきた人がいるのかなーって、様子を見に来たの」

「ああ、そうでしたか。こちら、私の知人の息子さんでね。勉強に集中出来る場所が欲しいと言うので、今月いっぱいまでこの部屋を貸してあげる事にしたんです」

「……ども」

 

 憂助はボソリとつぶやくように挨拶し、小さくお辞儀した。

 その様を見て、クリスと呼ばれた女性の口角がかすかに上がる。

 

「そんなに緊張しなくていいわ。私、クリスティーナ・ノーランド。クリスと呼んでね?」

「久我憂助です」

「ユースケ? 可愛い名前♪」

 

 どこがじゃ。

 と反論したかったが、出来なかった。クリスティーナがいきなり憂助を抱き寄せて、その豊満な胸に顔を埋め込んでしまったのだ。

 憂助の顔いっぱいに広がる感触は妙に柔らかかった。ブラジャーを着けていないのかも知れない。

 

「困った事があったら、私の事本当のお姉ちゃんだと思って何でも言ってね? あなたみたいなキュートな男の子になら、何だってしてあげる」

「──あざっす」

 

 憂助はクリスティーナの肩に手を掛けて、やや強引に彼女の胸のグランドキャニオンから脱出した。

 

「それじゃあクリスさん。私はこの子と下でまだお話がありますので、失礼します」

「ハァーイ。ユースケ、また後でね。一緒にお茶でもしましょ?」

 

 クリスティーナは憂助に投げキッスをして、また部屋の中へ入っていった。

 

 

 エレベーターで一階まで下りた二人は、管理人室から部屋の合鍵の束を取って来て、早速現場の調査を始めた。

 マンションは各階に七部屋あり、出る場所は下から104号室、204号室、301号室、403号室、504号室、604号室と、各階に一部屋ずつある。

 どの部屋も、照明を点けてもなお薄暗く、空気も淀んでいる。

 憂助は部屋に入ると、まずはパン! と拍手(かしわで)を打った。彼を中心に八方へと涼やかな風が吹き、部屋中を駆け抜ける。すると部屋全体を覆う薄暗さがなくなり、空気も爽やかなものに変わるのである。

 

「とりあえず。応急処置やけど」

 

 憂助は最初に入った104号室でそれをやった際に、そう言った。

 体内で練り上げた念を、拍手の音に乗せて放出し、部屋に充満していた邪気を祓ったのである。全ての出る部屋で、これをやった。

 それから、部屋の中を、家具の裏や、壁と天井の境目などの、死角になりやすい場所を中心に調べて回った。

 憂助の仮説通りなら、どこかに霊を招き寄せる印なり札なりがあるはずだった。

 しかし、何も見付からなかった。

 ベランダに続くサッシの上まで覗いてみたが、それらしきものは一切見当たらなかった。

 全室、結果は同じである。

 次いで憂助は外に出て、マンションの周りを調べてみた。建物の壁、周辺の電柱などを見て回ったが、やはり怪しい物はない。

 そうやって調べて行きながら、マンションの裏側に回っていった。

 裏側は、道路とフェンスで仕切られた広い庭になっている。その一角に、大きな蘇鉄の木が植えられていた。

 

「…………」

 

 憂助はその蘇鉄が、妙に気になった。

 木の幹に手を触れる。

 念法によるサイコメトリーで、この木の過去を探ると、すぐに映像が頭の中に浮かび上がった。

 黒ずくめの人物が、夜中に木の根本に何かを埋める場面が。

 

(やっぱりか……)

 

 その『やっぱり』には、二重の意味があった。

 一つは、やはり幽霊騒ぎは人為的なものであったかという意味。

 もう一つは、その原因がこの木であったかという意味である。

 この木の生えた地点を境に、気の流れの性質が変化しているのだ。清らかで善良だったエネルギーが、突如どす汚れた禍々しいものへと変わっている。流れる河の中に毒物が沈められて、その毒が下流へと流れていくように、この木の根本に埋められた何かが気の流れの性質を歪ませて、邪な気をこのマンションへと流し込んでいるのだ。

 根本を掘り、その何かを取り出して処分すれば、気の流れはすぐにかつての清浄さを取り戻すはずである。

 憂助からその旨を説明された寺沢は、急いでシャベルを持ってきて、根本を掘ろうと地面にシャベルを突き立てた。

 そして、凍り付いたようにその手が止まった。

 突然、無数の視線が寺沢の身体に突き刺さったのだ。

 思わず顔を上げると、いつの間にかフェンスの上にカラスの群れが止まっている。数は三十羽以上いるだろう。

 

 ガァァーーッ!

 

 やけにしわがれた鳴き声が響いた。

 どこからかは、わからない。少なくとも目の前の群れのどれかが鳴いた訳ではない。

 しかしその一声を合図に、カラスの群れは黒翼を広げてフェンスから舞い下り、寺沢目掛けて襲い掛かって来た。

 寺沢はシャベルを落っことし、頭を抱えてその場にうずくまる。

 憂助がその前に立った。さっきまでは空っぽだった右手には、木刀を握っていた。

 

「エヤアッ!」

 

 鋭い気迫と共に、木刀が虚空を薙いだ。すると小竜巻にも似た激しい風が吹き荒れて、カラスたちを蹴散らしていく。

 

 ガァァーーッ!

 ガァァーーッ!

 

 さっきのしわがれた声が再び響くと、遠くから別のカラスが群れをなして押し寄せてくる。

 

「そこかぁっ!」

 

 憂助は何を思ったか、蘇鉄の幹を木刀で打った。

 その打撃に込めた念が、不可視の波動となって蘇鉄の上へと広がっていく。

 

「ギャウッ!」

 

 蘇鉄のてっぺんで、明らかに人の声で、そのようにうめく者があった。弾かれたように枝と枝の間から空中に躍り出たのは、やはりカラスであった。

 だが、大きい。大人の背丈ほどはある。

 そしてその顔は、頭の禿げ上がった人面であった。

 思わず顔を上げた寺沢が、一瞬『なんでこんな所に禿鷹が?』と思ったほどである。

 憂助はフェンスを蹴って、空高く舞い上がった。

 人面の大ガラスが、恐怖にひきつった顔を見せる。

 その顔に白い光線が走ったかと思うと、真っ黒な羽毛に覆われた巨体が頭頂部から幹竹割りにされ、黒い塵となって消滅した。

 近付いていたカラスの群れは、散開してそのまま姿を消した。

 

 

 寺沢が掘り出したのは、ソフトボールほどの大きさの玉だった。

 材質はわからないが、毒々しい紫色に光っている。

 長らく土中に埋められていたはずだが、生き物のような温かさがあった。

 

「たぶんこいつが、良くないものを招き寄せとったんやと思う」

「しかし、誰が何の目的で、こんな物を……というか、こりゃあ一体何なんだい?」

「わかんね」

 

 憂助は即答した。

 

「でも、おいちゃんも見たやろ? さっきのカラスの化け物は、こいつを守っとった。そのカラスの化け物がやられて、玉も掘り出されたとわかれば、埋めた奴は必ずこいつを取り戻しに来る。そこをふん捕まえる。そうせんと、俺がなんぼ邪気を祓っても同じ事だ」

「そうかぁ……その辺は、憂くんに任せるよ」

「んじゃあ、この玉っころは預かるきね」

 

 憂助は玉をベストにくるんで、部屋に持ち帰った。

 部屋に戻った憂助は、ベストにくるんだ玉をリビングのソファの上に置くと、冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、直接口を付けてゴクゴクと飲んだ。

 フウッと息をつきながらペットボトルを冷蔵庫に戻した時、インターホンが鳴った。

 リビングの壁に設置された小さなモニターが点灯し、玄関前の様子を映す。

 上から見下ろすアングルで、隣人のクリスティーナが映し出されていた。服を着替えたらしく、素肌の上から薄水色のキャミソールワンピースを着ている。

 元々そういうデザインなのか、豊満過ぎる胸がほとんど露出していた。明らかに、ブラジャーを着けてはいない……。

 さっきの「一緒にお茶でもしましょ?」という言葉を思い出した憂助は、たぶんそのお誘いだろうと思った。

 辞退しようかとも思ったが、夏休みが終わるまでの間でも隣人は隣人である。無下な態度を取る訳にも行くまい。

 憂助は玄関のドアを半分開けて、顔を覗かせた。

 

「ハァイ、ユースケ。大家さんとのお話は終わった?」

「ええ」

「それじゃ、オネーサンとお茶しましょ?」

 

 そう言ってクリスティーナは軽く前屈みになり、自分の豊満な胸を見せ付けた。たわわな膨らみがたゆんと揺れて、今にもこぼれ落ちそうだ。

 彼女は、自分の胸が男の視線をどれだけ引き寄せるか、男たちがどれほど自分の胸に夢中になっているのかを、よくわかっていた。そして胸元に集中する視線の熱さを、心地好いとすら思っていた。

 

「まぁ、お茶くらいなら……」

 

 憂助はしかし、彼女の自慢の戦略兵器には目もくれず、そう答えた。あくまでもご近所付き合いの一環として応じただけである。

 そのどこかつれない態度に野良猫的な可愛さを見出だしたクリスティーナは、下腹部がキュンキュンと甘くうずくのを感じた。



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幽霊マンション その2

 時刻は午前2時。

 照明を一切点けてない104号室の中は、漆黒の闇に塗り潰されている。

 久我憂助はソファに身を沈めて、一人瞑目していた。

 膝の上には、愛用の木刀『獅子王』を置いている。

 

 ……カタン。

 

 不意に響いた物音に、憂助は目を開いた。

 念法で強化された視覚は、闇などものともせずに、音の正体を見抜く。

 それはテーブルの上に置かれてあったテレビのリモコンが、フローリングの床の上に落ちた音だ。

 憂助が落とした訳ではない。

 かと言って、他の誰かが落とした訳でも、ない。そもそもこの部屋には、憂助一人しかいないのだ。

 

 バンッ!

 

 次いで、新たな物音。

 それはキッチンの方から聞こえてきた。

 食器棚の扉が、勢い良く開かれたのだ。

 

 バンッ!

 

 そして今度は、叩きつけるように乱暴に閉ざされる音。

 

 バンバンバンバンッ!

 

 続いて、部屋中の壁を手で叩く音。

 

 ドタドタドタッ!

 

 そこかしこを走り回る足音。

 

 ──ポルターガイストである。ドイツ語で『騒がしい幽霊』という意味だ。

 

 憂助はソファから立ち上がり、木刀を正眼に構えた。

 木製の刀身から、白い光輝が生まれ、陽炎めいてゆらゆらと揺らめき出す。

 その刀身がゆっくりと持ち上がり、切っ先が天井を向いた。

 

「エヤアッ!」

 

 鋭い掛け声と共に、憂助は木刀を虚空の闇に振り下ろした。

 瞬間、部屋中を涼やかな風が吹き抜け、それが合図であったかのように、騒霊現象はピタリと止まった。

 だが、憂助はその時、慌ただしく部屋を出ていく気配を感知していた。

 後を追って部屋を出る。

 そこはマンション一階の廊下である。

 時刻が時刻なので、人の姿は全くない。

 しかし部屋から飛び出した気配は、確かにこの廊下に逃げたのだ。

 その気配の痕跡は、部屋の正面、廊下の中央にあるエレベーター前で消えていた。

 

 マンションに流れ込む気の流れを汚す原因となった、あの紫色の珠は取り除いたが、まだ気の流れが完全に清浄化された訳ではない。

 邪気の名残に惹かれて、付近の雑霊が部屋に入り込んだのである。

 

 憂助は部屋に戻ると、玄関を施錠した。

 彼の体が白い光に包まれて、104号室から消える。

 次に憂助は、204号室のリビングに瞬間移動していた。

 本来なら知っている場所、または知っている人の所にしか行けない。一度行った、或いは会っただけでは繋がりが薄く、飛ぶ事は出来ない。

 だが憂助は、自身の念をたっぷりと込めた髪の毛を、全ての『出る部屋』のリビングのテーブルの裏側に、セロハンテープで貼り付けておいたのだ。それで自身の念をたどって、簡単に移動出来るのである。

 そしてそれぞれの部屋で、ポルターガイストやラップ音を確認した。

 オーブと呼ばれる小さな光も見た。

 寺沢の言った通り、老若男女様々な浮遊霊の姿を目撃した。

 そしてどの部屋の霊も、憂助の念に当てられて、たまらず部屋を飛び出し、そしてエレベーター前で消えた。

 

 

 与えられた507号室に戻った憂助は、まずキッチンの戸棚の、下段の戸をを開けた。

 そこには昼間回収したあの珠が、依然しまわれたままだ。それを確認すると、冷蔵庫から麦茶のペットボトル出して、直飲みした。

 

 リビングのテーブルの上には、マンションの見取り図が広げられている。

 各階を上から見下ろした図面と、マンションを正面から捉えた図面。

 その正面からの図面にも、『出る部屋』が赤丸でマーキングしてある。

 

 気付いたのは、つい数時間前の事だ。

 マンション中を、そしてその周辺もくまなく調べたが、あの紫色の珠以外に怪しいものは何も発見出来なかった。

 夕方になり、食事の準備のために、近所のスーパーで食材を買い込み、再びマンションに戻って来た憂助の背中に、ゾワッと嫌な感覚が走った。

 マンションの各部屋は、すでに灯りが灯されている。住人のいない『出る部屋』だけが、暗いままだ。

 その暗くなった部屋の配置に、憂助は見覚えがある。

 それは、人体に宿るチャクラと同じ位置であった。

 

 チャクラはエネルギー吸収口。

 本来は気や宇宙の理力を吸収するが、このマンションの場合は、『出る部屋』をチャクラに見立てた場合、何を吸収するか……それは恐らく、土地に流れる気であろう。

 そして、その気の流れがあの紫色の珠で邪なものに汚染された場合、当然『出る部屋』にその邪気が流れ込む。

 仕掛けなど必要なかった。

 気の流れを汚すだけで、幽霊騒ぎは自然発生してしまうのだ。

 

(あとは、犯人をふん捕まえるだけやが……)

 

 紫色の珠その物をサイコメトリーで調べたが、犯人を特定出来る情報は記憶されてなかった。

 犯人が珠を回収してくれれば、サイコメトリーでその痕跡を追える。

 実際に各部屋でどのような現象が起こるのかを確認するついでに、そういう展開を期待してもいたのだが……。

 念のため、外出中に本当に誰も侵入してなかったか、室内の壁や床、家具に手を当てて、サイコメトリーで調べる。

 

 ──不意に、おかしな臭いが鼻をついた。

 獣の臭いだ。

 それが何故か、天井から漂ってくる。

 床を調べていた憂助の背中に、チクチクと小さな針が刺さるような不快感があった。

 殺気だ。

 殺意の感触だ。

 フッと辺りが暗くなった。天井の照明が消えたのではなく、照明の明かりを何か大きな物が遮っていた。

 憂助は、木刀を右手に持ったままだ。

 

「エヤアッ!」

 

 立ち上がり様に、その木刀を天井目掛けて投げた。

 木刀は真っ直ぐに飛翔して、天井に貼り付く影を襲う。

 しかしそれは、ギリギリのところで回避に成功した。天井から飛び下りて、床に四つん這いになる。

 

 猿だ。

 

 毛並みは真っ白だが、日本猿のようである。

 しかし、大きい。両手両足を床に付けた姿勢でも、憂助の背丈ほどもある。二本足で立ち上がったら、頭が天井を突き破るかも知れない。

 

「来たか……」

 

 憂助は床に落ちた木刀を素早く拾い、後退りする。その先はキッチンの戸棚。

 下段の戸を開けて、木刀の切っ先で紫色の珠を取り出す。

 大猿の目線が、コロコロと転がり出た珠に吸い寄せられていた。

 

「ほら、持ってけ」

 

 憂助が珠を蹴り上げた。

 空中に舞い上がった珠を取ろうと、大猿は二本足で立ち上がり、両手を伸ばす。

 

「イェヤアッ!」

 

 その瞬間、がら空きになった胴体目掛けて、憂助は木刀を叩き込んだ!

 大猿の巨体が吹っ飛び、壁に叩きつけられる。

 

「ほぎゃああああっ!」

 

 図体に反して臆病なのか、それとも念のこもった一撃がそれほどまでに痛烈であったのか、猿は黒板を爪で引っ掻いた時のような耳障りな悲鳴を上げた。

 その巨体が突然ブワッと膨れたかと思うと、破裂した。

 部屋中が濃霧で満たされる。

 猿が霧に化けたのだと、憂助は察した。

 霧が、風に吹かれたように一方向に流れ始めた。

 窓だ。部屋の中に熱気がこもらないようにと開け放しておいた、窓ガラスの上の方に付いてる小窓。そこから霧は外へ出ていく。

 霧が全て流れ出た直後、憂助は窓を開けて身を乗り出した。猿の逃げた方向を確認するためだ。

 しかし、窓から上半身を出した途端に、大きな手で首根っこを掴まれた。

 そして物凄い力で窓から引きずり出される。

 猿が霧から元の白猿に戻っていた。

 そして窓の上の壁に蜘蛛のように貼り付き、憂助を片手で宙吊りにしている。

 猿の口角が吊り上がり、牙が剥き出しになった。笑っているのだ。

 猿が、憂助を空中へと放り投げた。

 どんなに手を伸ばしても、壁には指先すら届かない。

 そして地上6階の高さ──どう考えても助からない。

 そう考えているのだろう。猿は勝利を確信したいやらしい笑い声を上げる。

 そして、憂助が今開けた窓から再度部屋に入り込もうとした時──、

 

「おい、エテ公」

 

 声を掛けられた。

 思わず振り向いた白猿の目が、驚愕に見開かれる。

 そこには、憂助が立っていた。

 垂直の壁面に、平らな地面に立つのと同じように、直立している。

 右手に下げた木刀からは、念の光が白い炎となって燃え上がり、揺らめいていた。

 猿の視界を閃光が走ったかと思うと、憂助の一刀が猿の右目を深々と切り裂いていた。

 

「ひきぃぃいいいいっ!」

 

 大猿は悲鳴を上げて、壁を蜘蛛のように這って屋上へと逃げていく。

 憂助もそれを追って、壁を駈け上がった。

 屋上は、住民の使用は禁止されているため、フェンスがなく、胸までの高さの塀で囲っているだけである。

 その塀を乗り越えて屋上に上がった憂助は、大猿と、もう一つの人影とが向かい合っているのを見た。

 黒いフルフェイスのヘルメットを被ったその人物は、黒い全身タイツのような物を身に付けていた。

 大きく盛り上がった胸や尻。それに反してウェストは細く引き締まっており、女性である事が一目瞭然だ。

 黒い全身タイツには肩や肘、膝、下腕部や脛などにプロテクターが取り付けられている。

 腰に巻かれたベルトにはいくつものポーチが付属し、左肩には、鞘にしまわれた大振りのナイフが柄を下にして取り付けられていた。

 後ろ腰には、細長い棒が横向きに付いている。憂助にはそれが刀に見えた。

 それらの特徴を捉えたのは、ごく一瞬の事である。

 憂助が助けようと駆け出した時、その珍妙な姿の女性は右腰に手をやった。

 サッと猿に向けて伸ばされた右手には、大型の拳銃が握られている。

 

 プシュン、プシュン、プシュン!

 

 空気を吹き出すような小さな音が、三つ聞こえた。銃口に消音器を付けてあるのだ。

 放たれた銃弾は、しかし白猿の毛皮に阻まれて、ひしゃげた形になって地面に転がり落ちた。

 猿は彼女を敵と認めたのか、丸太のような両腕を振り上げて襲い掛かる。

 しかしその腕を振り下ろす前に、憂助がすでに間合いを詰めていた。

 

「エヤアッ!」

 

 破城槌のような強烈な突きが、猿の脇腹に突き刺さる!

 ほとばしる念の衝撃が、そのまま反対側の脇腹を突き破って爆発させた。

 そして白猿の巨体が、黒い塵となって消滅した。

 

 ──チッ!

 

 憂助は、思わず小さく舌打ちした。

 わざと倒さず、痛め付けるだけにとどめ、逃げ帰る猿の後を追うつもりだったのだ。

 それなのに、女性を助けねばという思いが先走り、加減を忘れてしまった自分自身に対して、舌打ちした。

 

 何はともあれ、あのおかしな格好の女性は助かったのだから、それはそれで良しとする。

 彼女の方を振り向くと、ちょうど銃を右腰のホルスターに収め、ヘルメットを脱ぐところだった。

 ヘルメットが外されると、ウェーブのかかった豊かな金髪が溢れ出す。

 

「助かったわ、ユースケ。ありがとう……あなた、とっても強いのね」

 

 流暢な日本語で礼を言った。

 隣人のクリスティーナ・ノーランドが、そこにいた。

 

「……こげなとこで何しようとですか?」

「あら、それはこちらの台詞でもあるわよ?」

 

 クリスティーナは脱いだヘルメットを左脇に抱えて──今収めた拳銃を素早く抜き、憂助に突きつけた。

 その右手首に、待ち構えたように、憂助の木刀が添えられていた。

 

「あんたの親は、助けてくれた人に銃を向けなさいっち教えたんか?」

「……ごめんなさいね、ユースケ。でも、これも仕事なの」

「ほぉー、そら大変やのぉ……どげな仕事か知らんが」

「ええ、大変よ。だって国家公務員だもの」

「はぁ?」

「私の所属は、警視庁DTSS……立ち話も何だから、私のお部屋で話すわ」

 

 という訳で、憂助は彼女の部屋へと向かった。

 部屋に着くと、クリスティーナは「先に着替えて来るから」と言って寝室に入る。何故かドアを閉めようとしないので、憂助が閉めてやった。

 

「あら、見ても良かったのに」

 

 ドアの向こうでクリスティーナがそんな事を言った。

 部屋着に着替えたクリスティーナは、リビングのソファに座った。

 憂助がテーブルを挟んで向かいのソファに座った。

 

「まずは改めて自己紹介ね。私はクリスティーナ・ノーランド。見ての通り白人だけど、国籍は立派な日本人よ。身長は184cmで、スリーサイズは上から109・62・97。性感帯は」

「そんなんはどうでもいい」

 

 憂助は苛立ちで声を震わせ、木刀をクリスティーナの喉元に突きつけた。

 クリスティーナは苦笑しながら、胸の谷間から一冊の小さな濃い焦げ茶色の手帳を出した。

 テーブルの上でそれを開くと、ページはない。下側に警察のマークが、上側には警察官の服を着たクリスティーナの写真が貼られてある。

 

「言っておくけど本物よ。私、これでも警察官なの。所属はDTSS。Damned-Thing(ダムドシング) Sweeper(スイーパー) Section(セクション)の略称で、まぁ、簡単に言えば、お化け退治がお仕事ってところね。もちろん、どこの警察署にもある部署ではなく、本庁直轄の……そうね、特殊部隊って言えば、わかるかしら?」

「で、わざわざこのマンションの噂を聞き付けて、解決に来たっち事か」

「ちょっと違うわね……」

 

 クリスティーナは手帳を再び、胸の谷間にしまった。

 

「私たちが今追っているのは、ある妖術使いの集団。その一人がこの近辺に潜伏してるらしくて、それで去年から私が、この地区に派遣されたの」

「なら、ここの幽霊騒ぎもそいつの仕業か……」

「そうでしょうね、目的まではまだわからないけど。──さぁ、次はあなたの番よ?」

「何が?」

「あなたの事もいろいろ教えてくれなくては、アンフェアでしょ?」

「ああ……」

 

 憂助は、自分が念法という技を学んでいる事、知り合いが経営するこのマンションの幽霊騒ぎの解決のために来た事を語って聞かせた。

 

「念法、ねぇ……あなたの親戚に、宮内庁に勤めてる人とかいない?」

「そりゃ御本家だ。うちは分家だよ」

 

 憂助は素っ気なく答えた。

 

 念法は久我家が始めたものではない。

 平安時代にはすでにその源流となる技術体系が生まれており、それを更に改良し、洗練させたのが結城(ゆうき)伯舟(はくしゅう)という武芸者である。

 この結城伯舟の子孫たちが代々念法を伝えていった。

 その過程で生まれたいくつかの分家の一つが、久我家である。

 父の京一郎いわく、結城家は代々の当主が天皇の護衛を務めているらしい。

 しかし、これは今の状況とは関係ないので言わないでおいた。

 憂助はソファから立ち上がった。

 

「どうしたの?」

「屋上調べて来る」

「私が調べたけど、何もなかったわよ?」

「そんなはずはねえ。それぞれの部屋で吸収して集めた邪気は、必ず屋上から出ていく。その妖術使いとかが、それをほっとくとは思えん」

「どうして屋上から出ていくってわかるの?」

「そこが王冠のチャクラに当たるきてぇ」

 

 チャクラはいわばエネルギー吸収口。

 しかしただ一つ、頭頂部に備わる『王冠のチャクラ』と呼ばれる箇所だけは、エネルギーの放出口である。

 このマンションの『出る部屋』がチャクラと同じ位置にあるのなら、王冠のチャクラは屋上に該当するはずなのだ。

 憂助はチャクラの事を説明した後、自分のその憶測も話した。

 

「うーん……そういう事なら、もう少し念入りに調べてみる必要がありそうね……オーケー、一緒に行きましょう」

「いらん」

 

 憂助はつれない返事を残して、部屋を出て行った。



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幽霊マンション その3

 久我憂助とクリスティーナ・ノーランドは、再びマンションの屋上に向かった。

 クリスティーナは先程のあの全身タイツのような服を着ている。

 彼女いわく、最新の素材に魔除けの呪文を刻み込んだ『戦術霊装』という防護服らしい。ナイフや小口径の銃弾を受け止め、呪いや憑依すら防げるらしい。

 

 二人で手分けして、屋上を隈無く調べて回る。配水管等のパイプの陰まで調べたが、なるほどクリスティーナの言う通り、特に怪しい物は見付からなかった。

 憂助の推測通りだとすれば、どこかに邪気を回収するための道具や呪符、或いは紋様などがあるはずなのだが……。

 

 地面に這いつくばって配水管の下を調べていた憂助は、立ち上がった瞬間、ある物に気付いた。

 自分たちが出てきた、マンション内に続くエレベーターホールだ。

 住民には解放されていない屋上だが、業者の点検のために、階段とエレベーターは屋上まで続いている。

 憂助はエレベーターホールのそばまで寄ると、軽く身を屈めてジャンプした。

 小さな動きに反して、彼の体はフワリと舞い上がり、一跳びでエレベーターホールの屋根の上に上がった。

 

「やっぱりここか」

 

 憂助の足下に、五芒星が赤い塗料で描かれていた。

 星の頂点の上に、何やら四行ほどの文章も書き込まれている。

 何と描いてあるかは、達筆すぎて現代っ子の憂助には読めない。

 しかし、判読出来る文字もいくつかあった。そして、そのいくつかの文字は、上下逆さまになっている。

 憂助は体の位置を変えて、字の読める方向に移動した。

 それで、五芒星が本来とは上下逆の、逆五芒星である事に気付いた。

 魔除けのシンボルとされる五芒星だが、逆五芒星は悪魔を象徴する災いの印である。

 

 人体に備わるチャクラは、脊髄と繋がっている。

 マンションにおいて、その脊髄に当たるのがエレベーターだ。

 そのエレベーターホールの上こそが、このマンションの王冠のチャクラだったのである。

 あとは逆五芒星と呪文を消してしまえばいいのだが、一つ気になる事があった。

 ここはいわば、邪気の流れの集束地点のはずである。にも関わらず、憂助が感じ取れる邪気が、あまりにも薄いのだ。

 その理由を考えていると、正面に人の気配を感じた。

 地面に落としていた目線を上げるより先に、左手の方向から横殴りに風が吹き付けた。

 否、それは風などという生易しいものではない。熱を孕んだ空気の塊が、岩のような硬さでもってぶつかったように、憂助には感じられた。

 憂助はそのまま屋上の外まで吹っ飛ばされ、漆黒の虚空へと消えていく。

 相手は、一人だった。

 黒の鳥打ち帽とインバネスコートを身に付けた、背の高い男だ。

 男は憂助が屋上の外へと吹き飛ばされたのを見てから、エレベーターホールの屋根から下りた。

 下にいたクリスティーナは、右腰のホルスターから拳銃を抜き、その男に向けて両手で構えた。

 しかし男は、怯む素振りすら見せない。ただ、鼻で笑うだけだった。

 

「あなたの方から出て来るとは思わなかったわ、門倉(かどくら)楊堂(ようどう)……警視庁DTSSよ。あなたには誘拐と殺人の容疑が掛けら──うあっ!?」

 

 クリスティーナは最後まで喋る事が出来なかった。

 彼女が門倉楊堂と呼んだ男が、自身の正面に拳を打った瞬間、彼女は横から見えない岩が飛んできたような衝撃を受けて、エレベーターホールの壁に叩き付けられたのだ。

 

「公僕が吠えるでないわ」

 

 門倉楊堂は、妙に時代がかった口調でつぶやいた。

 彼の背後に、大きな影が、いつの間にか立っている。

 猿だ。

 見た目は日本猿だが、後ろ足で立った姿は大きく、身の丈3メートルはある全身を、黒い体毛で覆っていた。

 

「俺の可愛い左近を殺してくれおって……右近よ、この女はお前にやろう。殺された弟の分まで、好きなだけいたぶるが良い」

 

 楊堂の言葉がわかるのか、黒猿はずいっと前に出て、クリスティーナの両足首を、右手だけで一まとめに掴んで持ち上げる。

 戦術霊装の上からハッキリとわかる、彼女のメリハリに富んだボディラインを見て、右近の唇がめくれ上がり、歯が剥き出しになった。

 笑っているのだ。

 クリスティーナの肉体に、明らかに欲情していた。

 左手で、彼女の肉体を覆う邪魔な物を引きちぎり、むしり取ろうとするが、戦術霊装は伸びるだけで、ほんの小さな裂け目すら出来ない。

 

「残念ね、あなたは好みじゃないの」

 

 クリスティーナがヘルメットの下で言うなり、右手の拳銃を黒猿に向けて撃った。

 

「ひぎゃあああああっ!」

 

 先程の白猿には、体毛で阻まれて通用しなかったが、黒猿には効いた。クリスティーナが狙ったのは、黒猿の眼だったのだ。

 黒猿は左右の眼窩から血を流し、黒煙を吹き上げていた。

 

 クリスティーナの使う拳銃は、これもまた、悪霊や妖魔との戦いを想定した武器だ。

 正確には、装填されている銃弾が、だが。

 銀製の弾頭に破魔の梵字を刻印した退魔弾である。

 

 クリスティーナは後ろ腰に取り付けていた棒の端を、左手で掴んだ。

 憂助はそれを刀だと思っていたが、正確には、剣だ。

 黒い剣だ。

 塗料で黒く染めたのではない。そういう材質で出来た剣である。

 その刀身にも、魔を退ける呪文が刻まれていた。

 クリスティーナはその黒剣で、自分の足を掴む猿の右手首を切断する。

 クルリと宙返りして着地したところへ、黒猿が左腕で殴り付けてくる。

 クリスティーナはその殴打を、左腕を踏み台にしてジャンプしてかわした。

 そして、黒剣を猿の眼窩に、根本まで突き立てると、グリッと捻った。

 黒猿は脳を破壊されて息絶え、巨体が仰向けに倒れる。

 

「おのれ、左近だけでなく右近まで……かあっ!」

 

 門倉楊堂が怒りに吼え、再び拳を突き出した。

 クリスティーナとの距離、約5メートル。明らかに届く距離ではない。

 しかしクリスティーナは、熱を帯びた空気の塊を叩き付けられるのを感じた。

 銃弾すら防ぐ戦術霊装をすり抜けて、強烈な衝撃が彼女の五体を打ちのめした。

 

「トドメだ……全身の骨を砕いてくれるわ!」

 

 楊堂が握り拳を大きく引いた。より強力な一撃が来るであろう事を予感させる動きだ。

 

「死ねいっ!」

 

 右拳が、虚空に突き出された。

 その拳から、人体を吹き飛ばすほどのエネルギーが放たれた事が、地面にまばらに積もった砂埃が舞い上がった事でわかった。

 しかし突然、クリスティーナの前に白い光が発生した。

 

「イィーーエヤァッ!」

 

 掛け声も勇ましく、憂助の姿が白光の中から現れる。

 クリスティーナの前に瞬間移動した憂助は、迫り来る不可視のエネルギー塊へ木刀を振り下ろした。

 

 ブワッ!

 

 憂助の正面で、突風が左右に吹いた。

 楊堂の放ったエネルギー塊を、切り裂いたのだ。

 

「なっ……遠当てを斬った、だと……そんな、棒っきれで……」

 

 うろたえる楊堂に、憂助はベストの懐から紫色の珠を取り出した。

 

「こいつは、お前のか?」

 

 マンションの裏庭に埋められていた、気の流れを汚していたあの珠だった。

 

「小僧……貴様が何故それを……いや、それ以前に、貴様はさっき叩き落としてやったはず……」

「そげなんどうでも良かろうが。あの白いエテ公といい、この珠っころといい、傍迷惑な事んじょしくさりやがって。根性叩き直しちゃるき覚悟せえや」

「白いエテ公……?」

 

 憂助の言葉に、楊堂の顔が憤怒に歪んだ。

 

「そうか、左近を殺したのは貴様の方であったか……俺が、何年も掛けて育てた左近を……許さんッッ!!」

 

 楊堂が拳を突き出す。

 瞬間、憂助の眼は、その拳から巨大なもやの塊が放出されるのを捉えた。

 拳の形を模したそれは、『気』だ。

 体内の気脈を通して練り上げられた気を、拳打の動きを利用して発射しているのだ。

 

「エヤァッ!」

 

 念を込めた木刀が、白光の軌跡を宙に描く。

 楊堂の気の塊が切断されて、雲散霧消した。

 

「小賢しいっ!」

 

 楊堂はしかし、怯まない。

 今度は両手の平を勢い良く突き出した。

 放出された気の塊は、すぐに軌道を変えて、憂助の左右から挟み撃ちに迫る。

 

 正面から来ると見せて横から。

 横からと思わせて正面から。

 かと思えば背後や頭上から。

 そして、左右からの同時攻撃も可能。

 その変幻自在さこそが、門倉楊堂の遠当ての恐ろしさであった。

 

 憂助は、何を思ったか右に跳んだ。

 そこからも楊堂の攻撃が来ているのがわからないのだろうか?

 

 ──否。

 

 憂助は跳んだ先から迫る気の塊を、木刀で受け止めた。

 気の塊は、木刀に吸い付いて、綿飴のようにまとわりつく。

 そこへもう一方からも気の塊が飛んで来るが、憂助はこれも木刀に絡め取った。

 

「返すぞ、受け取れ!」

 

 そして二つの気の塊を吸収した木刀を、楊堂目掛けて振り抜いた。

 放出された二発分の気に憂助の念が上乗せされたエネルギーが、飛竜となって楊堂に襲い掛かる。

 

「かあっ!」

 

 楊堂は、それを遠当てで以て迎撃しようとした。

 放たれた気は、しかし憂助の放った念の激流にあっさりと呑み込まれてしまう。

 

「うごあっ!?」

 

 直撃を受けた楊堂の全身に、熱を孕んだ強烈な衝撃がほとばしっていく。

 意識を失った楊堂は、その場に膝を突き、倒れ伏した。

 

 

「天来教団って、知ってる?」

 

 ヘルメットを脱いだクリスティーナは楊堂を拘束しながら、憂助に尋ねた。

 

「うんにゃ」

「カルト教団の一つで、この宇宙の外側に神々の住まう世界があって、やがて彼等がこちら側に来て、人類を幸福な未来へ導いてくれるっていうのが、彼等の掲げる教義。門倉楊堂はその天来教団に所属しているの。こいつ以外にもたくさんの術者がいて、彼等は自分たちの信じている神を呼ぶための儀式と称して、たくさんの人間をさらっては、生け贄として殺害しているの」

「で、なしそげな奴が、こげなとこで幽霊騒ぎを起こしちょったんか」

「さぁね。調べによると、この男は飼っていた二匹の猿にいろんな雑霊を取り込ませて、人工的に妖怪化させて操っていたらしいわ。私たちがやっつけた、あの大きな猿がそうなんでしょうね。だから恐らく、このマンションを利用して邪気を集めて、それを猿に喰わせてパワーアップさせるのが目的だったのかも知れないわ」

「……それでなんやろか」

「何が?」

「さっきそこの屋根の上で、ヘンテコな呪文が書いてあるのを見付けたんやけど、あれが邪気を集めるためのもんやったとしたら、それにしちゃあ邪気が薄かった……あん?」

 

 憂助はエレベーターホールを見ながら答えていると、そこの屋根の上に、鳥のような物が空から舞い降りるのを見た。

 ジャンプして屋根に上がる。

 クリスティーナは壁に設置されている梯子で上がった。

 上がったところで、彼女は黄色い声を上げる。

 そこには一匹の猫がいた。

 体毛は濃い灰色で、虎のような縞模様がある。虎猫の一種で、鯖虎と呼ばれる種だ。

 屋根に上がったクリスティーナはそれを抱き上げようとして手を伸ばす。

 しかし、その手はすぐに止まった。

 猫の足下には、憂助が見付けたあの逆五芒星と呪文があり、そこから人体のパーツを寄せ集めて丸めたような不気味な球体が浮かび上がって来たのだ。

 そして、鯖虎がそれを、左右の前足で押さえ付け、ムシャムシャと食べ始めたのだ!

 クリスティーナの手が止まった理由はそれだけではない。

 鯖虎の前足の付け根──肩に当たる部分に、同じ色、同じ模様の翼が生えていたからでもあった。

 

「…………何これ」

「こっちが聞きてえわ。窮奇に似ちょうけど……」

 

 窮奇とは、中国の神話に登場する『四凶』と呼ばれる四匹の邪悪な怪物の一つ。

 その姿は、肩から翼を生やした虎である。

 ひねくれた性格で、善人に危害を加え、悪人の味方をすると言われている。

 

「確かに似てるけど、中国の神話に出てくるような妖怪が、日本にいる訳ないじゃない。そもそもこの子、虎っていうより虎猫でしょ?」

「まぁ、そうなんやけど……」

 

 鯖虎は、すぐそばの人間たちには眼もくれず『食事』を続ける。

 全て平らげると、舌なめずりをし、前足で口元を拭い始める。

 その姿は、紛う事なく猫であった。

 憂助は、恐る恐る手を伸ばし、鯖虎の背中に触れ、念法によるサイコメトリーを試みた。

 それでわかったのは、この鯖虎がやはり普通の猫ではない事。

 そして、かと言って本物の窮奇でもない事。

 この鯖虎は、蠱毒(こどく)によって造られた呪物であった。

 しかし、完成と前後して術者が死んでしまい、放置される形となってしまった。

 以降は翼で空を飛び、あちこちをさすらいながら、見付けた邪気や小さな浮遊霊、地縛霊を食べ回っていたようだ。

 

「まぁ、可哀想に……」

 

 クリスティーナは心から同情し、鯖虎の背中を撫でてやった。

 

「でも、つまりこの子は、門倉楊堂とは無関係って事?」

「たぶん。アイツが集めた邪気を猿の餌にするつもりやったんなら、このチビのおかげでどの道台無しやったんは間違いねぇ」

「じゃあお手柄ね、猫ちゃん」

 

 そう言ってクリスティーナは、鯖虎を抱き上げ、鼻先にキスをしてやった。

 

「でも、どうしようかしらこの子」

「ほっとけ。別に害はねえ。害になるようやったら、そん時退治すりゃあいい」

 

 憂助はそう言って、木刀で地面を打つ。

 書き込まれていた逆五芒星と呪文が、念の衝撃によって弾き飛び、雲散霧消した。

 憂助は木刀を背中にしまうと、もう用はないと言わんばかりに屋根から飛び下りる。

 

「もうっ、つれないわねぇ……」

 

 クリスティーナは呆れたように言う。

 しかし、実際のところ、彼女としても連れ帰って世話をする訳にはいかなかった。妖怪退治を生業とする公務員が、無害とはいえ妖怪を飼う訳にはいくまい。

 

「ごめんなさいね、猫ちゃん。元気でね」

 

 クリスティーナは鯖虎を下ろすと、小さく手を振ってから、屋根から下りた。

 

 

 ──夏休みが明けた。

 峰岸葵とギャル友トリオは、仲良く通学中、久我憂助の姿を見付ける。

 その足下で、一匹の鯖虎が並んで歩いていた。

 

「や~ん、何これ何これ!」

「やっべー、マジ可愛いんですけどー!」

「アンタ猫飼ってたの?」

「仲良く通学とかマジ可愛すぎー!」

 

 ギャル四人は黄色い声を上げて駆け寄ってきた。

 しかし、その鯖虎の肩の辺りがモゾモゾと動き出し、折り畳まれていた翼がバッと広がった。

 マンションの幽霊騒ぎで出会った、あの蠱毒の呪物。

 憂助の念に惹かれたか、それとも念に惹かれてやって来る雑霊が目当てなのか、いつの間にか彼のそばにいるようになったのだ。

 

「うっわ、何これ! マジで何これ!」

「へぇー、羽が生えてるとかチョー変わってるー!」

「でも何かカッコ良くね?」

「うん、いけてる! この子マジいけてる!」

 

 ──ギャルたちの黄色い声は、その程度では止まなかった……。

 

「で、この子、アンタのペット?」

 

 葵が鯖虎を抱き上げ、頭を撫でながら尋ねる。

 

「かくかくしかじか」

「まるまるうまうまでアンタにくっついちゃったんだ……で、コドクって何?」

「Google先生に聞け」

 

 憂助は言い捨てて、また歩き出した。

 

「で、名前は?」

 

 芦原麻希が彼の隣に寄り添って、尋ねる。

 

「チビっこい虎猫やきの、チビ虎だ」

「…………あんた、マジもう少し考えてやんなよ、マジで」

 

 逆隣で憂助と腕を組んで来ながら、柳沢美智子がたしなめる。

 

「なし俺が居候なんぞの名前に頭使わなならんとか」

「だってこんな可愛いんだから、もっとちゃんとした可愛くてクールでいけてる可愛い名前付けてやんなきゃっしょー!」

「そうそう。一緒に暮らしてんだったらなおさらじゃん!」

 

 美智子の腕を振り払う憂助の後ろから、葵と林田恭子が抗議する。

 鯖虎はいつの間にか恭子が抱っこしていた。

 

「やかましい! そんなん知るか!」

 

 憂助はギャルたちに怒鳴り付けると、歩調を速める。

 チビ虎は、恭子の腕から翼を羽ばたかせて宙に舞うと、憂助の頭の上に着陸した。



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エピソード5
(ぬえ) その1


 放課後。

 瀬戸博之は教室から出たところを四人の女子生徒に取り囲まれた。

 四人とも派手な格好をした、いわゆるギャルと呼ばれるタイプだ。

 マッシュルームカットに眼鏡の、今一つ冴えない風貌の瀬戸とは縁のない手合いのはずだった。

 取り囲まれたまま裏庭へと連行された瀬戸は、四人のうちの一人、一番胸の大きな、赤茶色の髪のギャルに肩を掴まれ、壁に押し付けられた。

 

「な、な、何でスカ!?」

 

 瀬戸は突然の事に、声が途中から裏返ってしまう。

 

「あー、ごめんね。別にカツアゲとかそーゆーのじゃないから」

 

 そのギャル──峰岸葵は、そう言うと、自分のシャツのボタンを二つ外した。

 あらわになった深い谷間に、瀬戸は視線が吸い寄せられる。しかし、すぐに目を逸らした。

 葵はその様子を見て、ニンマリと笑う。

 

「アンタのクラスにさぁー、久我憂助っているっしょ? ソイツの事教えてほしいの」

「く、久我くん? どうして……?」

「アイツとエッチしたいんだけどぉー、アイツ全然その気になってくんないからさぁー。なんか女の好みとかそーゆーの教えてくんない?」

 

 葵は言いながら、瀬戸の手を掴み、自分のはだけた胸元に差し込んだ。瀬戸の手のひらに、ボリュームのある柔らかな感触が伝わってきた。

 

「どーお? アタシのおっぱいスゴいっしょ? 久我の事教えてくれたら、好きなだけ触らせてあげる」

「も、も、もう触らせてまスケどぉ!?」

「うん、これはアタシが無理矢理やらせてるからノーカン。教えてくれたら、アンタの意思でアンタの好きなだけ揉ませてあげるし、吸ってもいーよ?」

 

 葵はそう言って、瀬戸の手に自分の手を重ねて、グニグニと揉ませる。

 手に吸い付くような柔らかさだったが、瀬戸はそこに、違和感を覚えた。

 

「あ、あ、あ、あの、つかぬ事を聞きますけど、ブ、ブ、ブラジャーは……」

「あー、邪魔になるかもだからトイレで脱いできた。だからアタシ、今ノーブラでーす」

「気にしない気にしない。葵はおっぱい見られるのも触られるのもチョー大好きなんだから」

「そうそう。うちらも毎日モミモミさせてもらってるしね」

 

 瀬戸の左右から、芦原麻希と林田恭子が囁き掛ける。囁きながら、麻希の手は瀬戸の薄い胸板を、恭子の手は尻を、着衣越しに撫で回してきた。

 

「マジでどんな事でもいーからさ、久我の事マジ教えてよ。好きなタイプとか、好きなプレイとか、好きなAV女優とか、マジ何でもいーから教えてくれたら、葵の爆乳マジ揉みホーダイだよ? ……アンタだって、嫌いじゃないっしょ?」

 

 柳沢美智子に至っては、瀬戸の股間を、やはりズボン越しにだが、優しく愛撫し始める。

 美智子の手の中には、硬い感触があった。

 

「んふふ、アタシで良ければ、最後までやらせてあげてもいーよ?」

 

 本当にその気になってきたのか、美智子は呼吸がかすかに荒くなっている。

 瀬戸のズボンのジッパーを下ろし、開いた合わせ目の中に手を潜り込ませ、蠢かせた。

 麻希と恭子は、それぞれ瀬戸のうなじや耳たぶに舌を這わせる。

 

「ねぇ~、いいでしょ? もったいぶらずに教えてよぉ。で、一緒に気持ち良くなろ?」

 

 葵は、手に更に力を込めつつ、上目遣いに瀬戸の顔を覗き込む。頬にはかすかに赤みが差していた。

 

 

 ホームルームが終わり、久我憂助は教室を出た。

 しかし、すぐには学校を出ない。借りていた本を返しに図書室に立ち寄り、返却を済ませると、荷物を取りに教室へ戻った。

 

「おーい、久我ぁ~」

 

 そこへ、三人の女子生徒に呼び止められる。峰岸葵のギャル友トリオだ。

 

「ちょーど良かった。ちょっと頼まれてくんない?」

 

 芦原麻希が子犬のようにパタパタと駆け寄り、憂助の腕にしがみつく。

 

「いちいちくっつくな。なんか、また面倒事か」

「違う違う。ちょっと配達頼みたいの。葵が宿題のプリント持って帰るの忘れちゃっててさ。うちら今から英語の補習で動けないしー、あんた届けてやってくんない?」

 

 林田恭子が反対側から身を寄せてきた。

 

「ねぇー、いいでしょ? 後でおっぱいモミモミさせてやっからさぁー」

「いらんわ阿呆。さっさよこせ」

 

 その『宿題のプリント』とやらをよこせ、と言っているのだ。

 

「行ってくれるの? ありがとー、久我マジ優しいからマジ愛してるー!」

 

 柳沢美智子が、大袈裟に喜びながら、鞄から、ホッチキスで留められた五枚のプリントを取り出し、手渡した。

 

「お礼に、今度やらせてあげるね♪」

 

 そして手渡した後、ズボンの上から憂助の股間に手を這わせる。

 

 ベチンッ!

 

 憂助のデコピンが、美智子の額に炸裂した。

 

 

 ──憂助が立ち去った後、ギャル友トリオは教室に戻った。

 

「なぁーんか、すんなり頼まれてくれちゃったね、アイツ」

「だよねー、もっとごねるかと思ってたけど」

「まぁそこは、マジ瀬戸くんのジョーホー通りって事っしょ? マジお礼しなきゃねー、マジで」

 

 美智子はそう言って、何やら楽しげにニヤニヤし始めた。

 頬には赤みが差している。

 

「つー訳で、早速行ってくるわ。じゃ、また明日ねー」

 

 鞄を持って、美智子はそそくさと教室を出ていく。

 

「ミッチーって瀬戸みたいなのが好みだっけ?」

「まぁ顔は悪くなかったし、いじり甲斐のある性格だったし……それより、葵は上手くやれるといーねぇー」

「そだねー。まぁ、久我はホモでもロリコンでもないみたいだし? ムードさえ作っちゃえば、葵のおっぱいなら楽勝でしょ」

 

 麻希と恭子はそれからも矢継ぎ早に話題を変えつつ、お喋りに興じた。補習に行く気配はまったくない。

 そもそも補習などないのだから、当然である。

 先日、憂助のクラスメートである瀬戸博之から聞いた話を元に練った作戦であった。

 

 瀬戸いわく、憂助はあまり露骨に誘われると軽く見られてるように思えてしまうらしい。

 そして「うっとうしい女は嫌い」らしいので、逆におとなしめの女の子が好きなのだろうという事だった。

 

 そこで三人は、葵と憂助が二人きりになれるシチュエーションをセッティングしたのだ。葵の両親は、今日は仕事で二人とも帰れないので、絶好のチャンスと言える。

 あとは、葵がか弱い女を演じて憂助の情に訴えかけるという寸法である……。

 

 

 峰岸葵は、期待に胸を膨らませながら、一人家路を急いでいた。

 ついさっき恭子のスマホから『任務完了』というショートメールが来たばかりである。

 あとはいかにして憂助をその気にさせるかだが、葵に具体的なプランなど全くない。

 しかし『アタシのこの爆乳さえあれば何とかなるっしょ』という根拠のない自信だけは、あった。

 これまで、多くの男が彼女の胸に劣情の眼差しを向けてきたが故の、思い込みである。

 

 もうすぐ住宅街に入るという辺りで、道端に一台の白いハイエースが停まっているのに気付いた。

 その手前に、男が一人倒れている。

 葵が様子を見てみると、頭から血を流している。

 

「お、おにーさん、ダイジョーブ?」

 

 恐る恐る声を掛けると、男はノロノロと起き上がった。

 

「変な奴に絡まれて……いきなり殴られたんです……」

 

 髪を茶色に染めた、葵より少し年上のその男は、真っ赤に染まった額を手で押さえながら、弱々しくそう答えた。

 

「財布もスマホも取られちゃって……」

「うわぁ、ひど……とりあえず、手当てしないと……」

 

 葵は鞄からハンカチを取り出し、男のそばに歩み寄った。

 そこへ、もう一人別の男が姿を現した。ハイエースの陰に隠れていたのだ。

 長い黒髪をした、背の高い男だ。上下を黒で統一した服装をしている。

 その黒い男は、足音も立てずに葵のそばに来ると、彼女の肩をポンポンと叩いた。

 

「ふぇっ!?」

 

 葵は、その男には全く気付かなかったらしく、変な声を上げながら振り向く。

 男と目が合った。

 その目を見た瞬間、葵は何も考えられなくなった。

 ボーッとその場に立ち尽くし、持っていたハンカチも力なく落っことした。

 表情は虚ろで、視線も定まってない。まるで人形だった。

 

「乗せろ」

 

 黒い男が、ハイエースの方を向いてそう言うと、後部のドアが開き、三人の男が出てきた。

 染めた髪や、派手なピアス。

 そして狂暴そうな顔つきの連中であった。

 そいつ等と茶髪の男が、葵を抱え上げて車内に運ぶ。そのどさくさに、四人ともが最低二回は葵の豊かな胸を揉んだ。

 黒い男は助手席のドアを開けて、乗り込んだ。

 

「出せ」

 

 運転席の小太りの男に命令すると、運転手は「ハイ」と答えてエンジンを掛け、車を発進させた。

 

 シートを倒して広くした後部で、三人が葵を取り囲み、彼女の体を思い思いに撫で回していた。

 茶髪の男はタオルで額や顔を拭いている。拭き終わると、血は綺麗さっぱり止まっていた……否、最初から怪我などしていなかった。赤い塗料をそれっぽく塗りたくっただけだったのだ。

 顔を拭い終わると、茶髪の男も仲間に加わる。葵のスカートをめくり上げ、太股を撫で始めた。

 葵は全く抵抗しない。

 自分が置かれている状況すらわかっていないようだった。

 

「お前ら、触るくらいなら構わんが、それ以上の事はするなよ?」

 

 助手席の黒い男が、振り向きもせずに言う。

 

「おとなしくさせるためにひっぱたくくらいなら構わないが、決して傷物にするな。先生はそうおっしゃっていたからな」

「わ、わかってますよぉ~水野さぁん」

 

 後ろの男の一人が、愛想笑いを浮かべて答える。しかしその手は、葵の胸をしっかり鷲掴みしていた。

 別の一人が、葵のシャツのボタンを外し、乱暴に脱がせる。

 スカートも脱がされていた。

 葵の下着は、上下とも飾り気のないシンプルなデザインで、色も白で統一されている。

 しかし彼等にはどうでもいい事のようで、一人がブラジャーのホックを器用に外して、ずり上げた。

 その下の、圧倒的なボリュームを持つ膨らみが、タユンとこぼれ出て、揺れた。

 その白い双丘に、男たちの無遠慮な手が伸びた。

 

「──ん?」

 

 ハイエースが市街地に入った辺りで、運転手がルームミラーを見て、声を上げた。

 

「水野さん」

「ああ。さっきからついてきてる」

 

 助手席の黒い男が、呼び掛けられて答えた。

 ハイエースの後ろを、一台の自転車が追っているのだ。乗っているのは、俗に学ランと呼ばれるタイプの制服を来た少年だった。

 

「三回左折してみろ」

「ハイ」

 

 運転手は言われた通り、左折を三回繰り返した。そうすると一周して最初の道に戻った──後ろの自転車も、だ。

 尾行していると見て、間違いないだろう。

 

「どうします? どっかテキトーなとこで始末しますか?」

「必要ない。思いっきり飛ばして、引き離せ」

「ハイ」

 

 小太りの男は、グッとアクセルを踏み込んだ。

 

 

 憂助は葵の住む住宅街へ、自転車を走らせていた。

 青色のクロスバイクは、中学生の頃から愛用している物だ。

 普段は徒歩で通学しているが、今日は寝坊してしまったため、自転車をかっ飛ばして来たのである。

 瞬間移動を使えば良いのだが、寝坊したのは憂助自身の落ち度である。そんな理由で念法の技を使うのは、憂助の中では断固NGだった。

 

 住宅街に近付いた時、そこから出てくる一台のハイエースとすれ違った。

 そのハイエースの後部の窓から、一瞬葵の顔が見えた。

 スモークの貼られた透過性の低い窓だが、念法で強化された憂助の視覚は、確かに彼女の顔を見たのだ。

 その表情が虚ろで、明らかに普通の状態ではない事もわかった。

 

 憂助はクロスバイクをその場でUターンさせて、ハイエースを追った。

 瞬間移動で車内に乗り込む手もあるが、下手に動いて街中でうっかり事故でも起こされてはたまらない。

 人気のない所でアタックを仕掛けるつもりだった。

 

 ハイエースが、左折を三回繰り返した。

 ひたすら追っていた憂助だったが、三回目の左折で元の道に出た瞬間、舌打ちした。

 ハイエースは自分が後をつけているのかどうかを確かめたのだ。

 そして、明確な意思を持って尾行している事に気付いたはずだ。

 現に目の前の白い車体が、急にスピードを上げた。

 どんどん遠ざかっていく。

 憂助は自転車のペダルを強く踏み込んだ。

 クロスバイクもまた、一気にスピードを上げた。

 しょせん自転車と自動車。普通なら、追いかけっこの結果など火を見るより明らかだ。

 普通なら。

 しかし憂助は、普通ではない。

 クロスバイクはオートバイを思わせるスピードで街中を突っ切り、ハイエースとの距離を縮めていく。

 ハイエースがそれに気付いて、更に加速した。

 両者はやがて、街を出て山沿いの道に入った。片側二車線ずつあるバイパスだ。山を迂回するように敷かれた道路は、緩やかなカーブとなっている。周辺の民家に配慮して、道路の左右には防音壁が張り巡らされていた。

 小太りの運転手は、アクセルをベタ踏みした。

 激しいエンジン音を上げて、ハイエースがますますスピードを上げる。

 後ろに食いついていた憂助のクロスバイクは、再び距離を離された。

 ルームミラーに映っていた自転車が、吸い込まれるようにカーブの向こう側へと消えていった。

 

「諦めたみたいッスね」

 

 それを見た運転手が、ニタッと笑った。

 

「後は合流地点に向かって、そこで車を替えるんですね?」

「そうだ」

 

 水野がジュースホルダーに差し込んでいたペットボトルの緑茶を飲みながら、答えた。

 このハイエースは、盗難車なのだ。

 この先の合流地点で、用意してある別の車に乗り換えるという寸法だ。

 

「な、何よアンタたち!」

 

 不意に後ろから上がった声を聞いて、水野が眉を潜めた。

 

(早いな……)

 

 胸の内でつぶやいた。

 一睨みで相手の思考力を奪い、木偶の坊にしてしまう『邪視』の効果が切れて、葵が意識を取り戻したのだ。

 いつもならばあと一時間以上は効果が続くはずなのだが……。

 

(先生のお眼鏡にかなうだけの事はある、か……)

 

 水野はそう考えて、自分を納得させた。

 

「やだやだやだやだ! 離せよ! 触んなぁ!」

「うるせえ!」

 

 バチンッ!

 頬を叩く音が響いた。

 

「どーせいろんな男とやりまくってんだろ? 俺たちにもサービスしてくれよ」

「そ、そりゃ確かにやってるけど! だからって誰でもいいって訳じゃねーんだよ! テメー等みてえな猿なんか金積まれたってお断りだっつーの! アタシとやりたかったら最低限クロマニヨン人にまで進化してこい、エテ公!」

 

 葵はこの状況でも気丈に相手を罵倒した。

 

 バチンッ!

 

 二度目のビンタの音が響いた。

 

「このメスが! こっちが下手に出てりゃあ付け上がりやがって!」

「どこが下手だったんだよ! テメー等言葉の意味わかってあぐっ! んー!」

 

 口の中に丸まった布切れを突っ込まれて、葵はくぐもった声しか出せなくなった。

 口に押し込まれたのが、脱がされた自分の下着だとわかったが、何の救いにもならなかった。

 

 葵は手足を押さえつけられて、再び肉体を好き勝手にまさぐられ始める。

 ハイエースはやがて、バイパスの出口に差し掛かった。

 

「……嘘だろ」

 

 運転手が、前方を見てうめいた。

 進行方向に、黒い影が立ちはだかっていた。

 学ランを着た少年だ。壁側の車線に仁王立ちしている。

 彼のクロスバイクは、隣の車線に横倒しで置かれている。

 少年の右手には、木刀が握られていた。

 運転手からはまだ距離もあって見えないが、その木刀の柄には手彫りで『獅子王』の文字が刻まれている。

 久我憂助であった。

 幸運だった。

 このバイパスは、父と共に何度も通った事があるため、瞬間移動で先回りが可能なのだ。

 

「──やれ」

「ハイ!」

 

 水野の冷徹な声に、運転手は威勢良く答えた。

 壁側の車線に進路変更し、真っ直ぐフルスピードで突き進む。憂助を轢き殺すつもりであった。

 

 憂助は、木刀を霞に構えて、腰を落とした。

 木刀が、彼の念の力によって、白い焔を噴き上げる。

 ハイエースの車体が、目前に迫った。

 

「エヤァッ!」

 

 鋭い掛け声と共に繰り出された突きが、左右のヘッドライトの真ん中に打ち込まれた。

 瞬間、ハイエースはそれまでの加速で得た慣性を無視して、ビデオの静止画像のようにピタリとその場に止まった。

 車内は、かすかに揺れただけである。

 エンジンも止まっていた。

 

「え? あれ? え?」

 

 間の抜けた声を上げて、運転手がキーを何度も回すが、何の音もしなかった。

 

「あれ? 水野さん、もう着いたんスか?」

 

 後ろから、葵の乳房をタプタプと叩きながら、茶髪の男が尋ねた。

 

「邪魔が入った──消せ」

 

 水野の声に、鋼鉄のような暗さと冷たさが宿っていた。

 その声色で状況を察した男たちが、荷室の隅っこに置いてあった鉄パイプやサバイバルナイフ、鉈などを手に、素早く車を下りる。

 運転手も、ダッシュボードからナイフを取り出して、それに続いた。

 そして木刀を手にした高校生らしき少年を見るなり襲い掛かる。

 

 木刀が宙に閃いた。

 

 迫る凶器を先端で軽々と受け流し、木製の刀身が敵の胴や頭を透過していく。

 斬られた者は、糸の切れた操り人形のように、その場に膝をついて倒れた。

 3秒と掛からぬ早業であった。

 

「たいしたもんだ」

 

 水野が車から下りて、憂助に声を掛けた。

 憂助は水野をジロリと睨む。

 

「さらった女を返せ」

「ハイ、ワカリマシタとでも言うと思ったか? 多少は腕が立つようだが、俺には勝てん」

 

 自信に満ち溢れた言葉とは裏腹に、水野は顔をうつむける。

 そして、バッと顔を上げた。

 憂助と、目線が合う。

 瞬間、憂助は頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなってしまった。

 水野の邪視を、まともに浴びたのだ。

 正眼に構えていた木刀も、今はだらしなく右手に提げるだけ。

 虚ろな表情で、無防備に立ち尽くしている。

 

「どうやって先回りしたのか知らんが、頑張った割りには冴えないオチだったなぁ」

 

 水野はニヤニヤと笑いながら、部下が落としたサバイバルナイフを拾い上げた。

 そして憂助の正面に歩み寄る。

 

「じゃあな、正義の味方くん」

 

 ナイフを憂助の喉に突き立てようとした瞬間、水野は少年の喉がかすかに発光するのを見た。

 直後、ナイフが下からの攻撃で弾き落とされた。

 木刀だ。

 憂助の木刀が跳ね上がり、ナイフを持つ水野の手を打ったのだ。

 目の前で起きた現象が信じられず、立ち尽くす水野に、憂助の抜き胴が入った。

 木刀が水野の脇腹を透過し、水野はその場に膝をついて倒れた。

 

 フゥーッ!

 

 憂助は、大きく息を吐く。

 危ないところだった。

 精神や感情の力を司る三つのチャクラが自動的に開いた事で、邪視の効果を打ち消してくれたのだ。

 そうでなければ、或いはチャクラの働きがもう少し遅かったら、憂助の命はなかっただろう。

 

「おい峰岸。生きちょうか?」

 

 ハイエースの、開けっぱなしの後部ドアから中を覗き込もうとした憂助に、葵が飛び付いて来た。全裸で。

 

「ふぇえええんっ! 久我ぁ~、マジ怖かったぁ~っ!」

 

 憂助の首にしがみつき、小さな子供のように泣きじゃくる。

 

「わかったわかった。いいき服着れや、風邪引くぞ」

 

 憂助は左手で葵の背中をポンポンと叩いてなだめる。

 ひとしきり泣いて気持ちも落ち着いた葵は、いそいそと脱がされた服を身につけた。

 憂助がドアを閉めた時、バサバサと音がした。羽音だ。

 見れば空から、肩に翼を生やした鯖虎が舞い降りてくる。

 

「トラ……?」

 

 憂助がとりあえず『チビ虎』と名付けたが、その時その時の気分で『チビ』だったり『トラ』だったりする、蠱毒の呪物。

 

「お待たせー、んじゃ帰ろっか」

 

 そこへ、服を着た葵が出てきた。

 そしてチビ虎を見てパッと笑顔になる。

 

「や~ん、ネコちゃんも来てくれてたの~? ありがとうねぇ~」

 

 黄色い声を上げて、チビ虎に駆け寄り抱き上げ、頬擦りする。

 憂助はそんな彼女の襟首を掴み、ハイエースの方へと投げた。

 葵の体は、体重など消えてしまったかのようにフワリと浮いて、吸い込まれるようにハイエースの荷室に入る。

 

「ちょっと! いきなり何すんのよ!」

「そこにチビと一緒におっとけ」

 

 言い捨てて、憂助はドアを閉める。

 

 チビ虎に、誰かを心配して駆けつけるなどという殊勝な心掛けはない。

 自分の食料である霊すらも、ちょっと強そうな霊の場合は、まずは憂助に倒させてから、手頃な残りカスを平らげる図々しさである。

 そのチビ虎がこの場に現れたという事は……。

 

 ──不意に、辺りが薄暗くなった。

 憂助の鼻に、ムワッと漂ってくるものがあった。

 獣の臭いだ。

 どこからともなく、鉛色の霧が立ち込めてくる。

 その向こうから、巨大な獣が姿を現した。

 最初は、虎かと思った。

 だがその顔は、人間の物だった。若い女の顔だった。

 細長い尻尾は蛇で、鎌首をこちらに向けて、赤い舌をチロチロとうごめかせていた。

 憂助は木刀を正眼に構える。

 それが合図となったかのように、人面の虎が身を屈めて、飛び掛かった。

 太い前足から鉤爪が伸びて、開かれた口にも鋭い牙が並んでいる。

 虎が前足での打撃を憂助の顔面に打ち込もうとした刹那、憂助の木刀が跳ね上がって、虎の顎をアッパーカットめいて打ち上げた。

 虎の巨体が宙で一回転しながら後方に飛ばされる。

 しかし、猫科動物特有のしなやかな動きで、上手く着地した。

 

(結構速いな……)

 

 憂助は胸の内でつぶやく。

 虎が間合いを詰めるのが速かったため、必殺の念を練る間がなかった。

 ゆえに、今のカウンターは虎を突き放すだけに終わったのだ。

 

 人面の妖虎は憂助から視線を外さず、その周りをうろつき始める。

 隙をうかがっているのだ。

 憂助は木刀で、自分の周りの地面に円を描いた。直径が肩幅よりやや大きい程度の、小さな円だ。

 木刀の軌跡に沿って白い光が生まれ、そしてすぐに消えた。

 円を描いた後、憂助は木刀を八双に構え──何を思ったか、目を閉じた。

 最初は相手の動きを警戒していた虎だったが、やがて殺戮の衝動に耐えきれなくなったらしく、憂助の背後から飛び掛かる。

 前足の爪が憂助に触れるか触れないかというギリギリにまで迫った瞬間、白光がほとばしり、虎は女面を真っ二つに幹竹割りされていた。

 いつの間に振り向いたのか、虎と向き合う形で、憂助が木刀を振り下ろしていたのである。

 

 憂助が地面に描いた円は、いわば結界。

 その領域内に侵入したものに対して、肉体が自動的に神速の迎撃を行う、久我流念法の技であった。

 

 虎は顔のみならず、その巨体を真っ二つに断ち割られて、黒い塵となって消し飛んだ。

 葵がハイエースのドアを開けると、一足早くチビ虎が飛び出して、地面に散らばるかつて妖虎だった塵をムシャムシャと食べ始めた。

 鉛色の霧は、すでに消えていた。

 

「久我、ダイジョーブ? 怪我してない?」

「おう、平気だ」

 

 駆け寄った葵に答えつつ、憂助は木刀の刀身を左手で拭うと、そのまま左手の平に差し込む。

 木刀は手品のように、左手の中に消えていった。

 

 プップッ!

 

 そこへ、小刻みのクラクションが響く。

 見れば、銀色のプリウスが停まっていた。

 二人が驚いたのは、その屋根に赤灯が乗ってある事だ。覆面パトカーである。

 プリウスから、スーツを着た一組の男女が下りてきた。

 

「大丈夫かね、君たち」

 

 男の方が、気さくな声音で尋ねる。

 

「さ、さーせんお巡りさん! あの、その、アタシたちはえーっと、その」

 

 葵は上手い言い訳が思い付かず、あたふたする。

 男は憂助の方に視線を向けた。

 

「久我憂助くんだね?」

「はい」

「先日は、うちの同僚が世話になった。ご協力、感謝する」

 

 言いながら、懐から茶色い革の手帳を取り出して、広げて見せる。

 

「私は警視庁DTSS、沢渡直也警部だ」



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(ぬえ) その2

 沢渡直也警部が呼んだ警官隊が、水野とその手下たちを拘束、連行していく。

 彼等の乗っていたハイエースは、憂助が木刀でコツンと叩くと、また元通り動くようになった。打ち込んだ念を除去したのである。

 

「んじゃ、晩飯作らなならんき失礼します」

 

 憂助はそう言って、倒してあったクロスバイクを起こした。

 葵がそのそばに駆け寄る。

 そこへ沢渡が呼び止めた。

 

「待ってくれ、久我くん。我々は、たまたまこの場に出くわした訳ではない。君たち二人に用があるのだ」

「たちって……アタシも?」

 

 憂助の横で聞いていた葵が、すっとんきょうな声を上げる。

 

「アタシにも用があるって……あ、あのー、アタシこんなカッコしてるけど、エンコーとか万引きとか全然やってませんよ?」

「それは良い事だ。だが、そうじゃない。峰岸葵くん、君が拉致されたのは、決して行きずりの犯行などではない。最初から君を狙って仕組まれたものなんだ」

「へっ?」

「君たちは、神道宗光という男を知っているだろう?」

「コイツが詐欺られそうになったんで、焼き入れてやりました」

 

 憂助は隣の葵を親指で差して、答えた。

 

「恐らくは、その時の復讐をするつもりなのだろうな……奴が最近、この近辺に潜伏している。我々は君たちを護衛し、奴を逮捕するために来た」

「……そんじゃ、コイツはお任せします」

 

 憂助は葵の背中を押して、沢渡警部の方へと押しやった。

 

「俺の方はご心配なく」

「そうはいかないよ。それに、神道宗光とは別件で、君に話したい事もあるんだ」

「……じゃ、そっちの話は家で。とにかく、そいつの事はしっかり守ってやってください」

 

 憂助は言いながら、目線でチビ虎を探した──が、どこにもいない。食事を終えて、さっさと帰ってしまったようだ。

 

(あのニャンコロ……)

 

 葵の護衛に付けようかと考えた矢先に、これである。憂助は胸の内で毒づいた。

 

「無論だ。大宮刑事、峰岸くんの事は任せた」

 

 沢渡にそう言われた女刑事の大宮は、「はい」と答えると、葵をプリウスに乗せた。

 

「では行こうか。確かノーランド刑事の報告によると、君は瞬間移動を使えるそうじゃあないか。早速見せてもらえないか?」

「んじゃ、肩なり腕なり、お好きなとこを掴んでください」

「うむ」

 

 沢渡警部は憂助の肩に手を置いた。

 憂助の体から白い光が生まれ、二人を包み込むと、その場からフッと消えた。

 

 

 街から外れて、山中を道なりに進んでいくと、中腹の辺りで脇道が見えてくる。舗装されてはいないが、車二台が並んで通れるくらいの広い道だ。

 その脇道を抜けた先にある古ぼけた一軒家が、久我憂助の自宅である。

 ガラガラと音を立てて、玄関の引き戸が開かれ、枯れ草色の作務衣を着た男が出てきた。

 久我憂助の父、京一郎だ。玄関前に立つと、腕組みをする。何かを待っているかのようだ。

 その彼の見ている前で、自宅前の拓けた場所に、不意に白い光が生まれた。

 光の中から現れたのは、愛用のクロスバイクを傍らに立てた久我憂助。そして沢渡直也警部であった。

 

「……本当に瞬間移動したな」

 

 沢渡警部は感心したようにつぶやいた。

 

「お帰り憂助。お客さんもようこそいらっしゃいました。まぁ汚い所ですが、ざっくばらんにお上がりください」

 

 息子が瞬間移動で、知らない男性を連れて帰宅したというのに、京一郎はいぶかしむ事もなく、にこやかに沢渡を迎え入れ、居間に案内した。

 ちゃぶ台の上には、来客用のお茶と茶菓子が用意されていた。

 まるで、客が来るのがわかっていたかのようだ。

 実際、わかっていた。

 憂助が念法修行によって瞬間移動を会得したように、京一郎は近未来予知を会得しているのだ。

 

「初めまして、当家の主の久我京一郎と申します。本日はどのようなご用向きで?」

 

 沢渡の正面に座った京一郎が、単刀直入に聞く。

 沢渡も警察手帳を取り出して自己紹介をした。自分が所属するDTSSについても、簡単ながら説明した。

 

「率直に申し上げますと、息子さんが今、悪質な霊能力者に狙われております。我々は息子さんの護衛と、その霊能力者の逮捕が目的です」

「悪質な霊能力者?」

「ほれ、この前話したやねえか」

 

 憂助の言葉で思い出したのか、京一郎はポンと手を打った。

 

「おお、確かお前の友達を狙っとったっち言いよった奴か」

「友達やねえ」

「そうそう、彼女やったのう」

張っ倒すぞ

 

 憂助は声に凄味を加えたが、京一郎はどこ吹く風であった。

 

 神道宗光を取り逃がした憂助は、彼の復讐の矛先が父に向くのを懸念して、簡単にではあるが事情を説明してあったのだ。

 

「とにかく、そういう事ですので、しばらく窮屈な思いをさせてしまうかも知れませんが……」

「いやいやお構い無く」

 

 京一郎はいささか的外れな返答をした。

 

「それと、これはまた別の用件なのですが……息子さんの念法は、京一郎さんがご指導なさっておられるのでしょうか」

「ええ」

「では、その念法を、我々DTSSにもご指導願えませんでしょうか」

「へっ?」

「実は、以前から念法には注目しておりました。しかし宮内庁の結城義輝氏に頼んでも断られるだけでして……」

「念法は基本的に一子相伝なんです。御本家は特にそういうのは厳しいですき」

「そうでしょうな。しかし我々DTSSは社会の安全と秩序のため、今後もより多くの対抗手段を備えておかなくてはなりません。京一郎先生、どうか念法のご指導をお願いいたします」

「うーん、しかし、一子相伝はうちも同じでして……技だけなら百人の人間に教える事が出来る。そやけど、心まで教えられるのは一人だけです。私も、息子以外に念法を教える気はありません」

「……そう、ですか」

 

 静かではあるが、強い意思の込められた京一郎の声色に、沢渡はそれ以上頼む事は出来なかった。

 

「しかしまぁ、分家はうちだけやねえし、教えてくれそうなとこ紹介しましょ」

「よ、よろしいので?」

「世のため人のための役に立てられるっちゅうんなら、御開祖様も御本家も文句は言わんでしょう」

「──風間のおいちゃん、ぎっくり腰で入院したんやねかったんか」

 

 憂助が口を挟む。

 分家の中で風間家だけが、道場を開いて、念法を複数の人間に教えているのだ。

 と言っても、門人の数はせいぜい三人。いずれも霊媒体質だったり霊感が強すぎたりなどで、超常の存在に悩まされている者たちであり、あくまでも自衛の手段として師事している。

 

「とっくに退院したわ。リハビリにはちょうど良かろ。お巡りさん、ちょっと電話してきますき、待っとってください」

 

 京一郎はそう言って立ち上がり、廊下に出た。

 しばらくの間、廊下から、風間家と電話で話をする京一郎の声だけが聞こえた。

 戻ってきた京一郎は、沢渡に一枚の紙切れを渡した。

 

「これが住所と電話番号です。全員にいっぺんに教える訳にはいかんので、代表として二人ほど連れてきてほしいそうです。向こうで面接して、合格したら念法を教えるとの事で」

「ご協力、感謝します」

 

 沢渡は差し出された紙切れを、両手でうやうやしく受け取った。

 

 

 峰岸葵を助手席に乗せて、大宮薫子刑事はプリウスを走らせる。

 その間に、葵にDTSSという部署について簡潔に説明した。

 

「神道センセーが久我を狙ってるなら、なんでアタシまで……まさか、シキガミにするつもりとか?」

「知ってるの?」

「神道センセー、アタシをシキガミとかいう化け物にするつもりだったって、前に言ってたから」

「そう……恐らくあなたの考えてる通りだと思うわ。さっきあなたたちを襲ったあの人面の虎も、神道宗光が造った、奴が言うところの式神でしょうね。それをあんな簡単に倒してしまうなんて……久我憂助くんは、私たちの思ってる以上の使い手のようね」

「でしょでしょ? アイツ。マジでチョー強いし! ちょっと怒りっぽくて愛想もないけど、ドーテーが突っ張ってんのかって思うとマジ可愛いし!」

 

 何故か葵は嬉しそうだった。

 不意に大宮薫子が、ゆっくりとブレーキを踏んでスピードを落とした。

 前方、車道の真ん中に、男が一人立っていたのだ。

 薫子はクラクションを鳴らすが、男は動かなかった。

 葵がその男を見て、うめくようにつぶやく。

 

「和彦、さん……?」

 

 その男は、髪はボサボサで眼も虚ろ。白痴めいて口からヨダレを垂らしているが、確かに小野原和彦だった。

 プリウスが完全に停止すると、薫子は懐に手を差し込み、拳銃を抜いた。黒塗りの自動拳銃だ。マガジンには、純銀製の弾頭に破魔の梵字を刻印した退魔弾が装填されている。

 声を掛けようともせずに銃を抜いた女刑事に、しかし葵は何ら抗議しなかった。

 和彦は容貌からして普通ではないが、それ以上に、彼の体が透けており、その向こう側の景色が朧気ながらも見えていたからだ。

 目の前の小野原和彦は、生きた人間ではなかった。

 和彦が、突然その場で四つん這いになった。

 みるみる内に体が膨れ上がり、首から下が獣毛に覆われていき、人面の虎に変化した。

 虎がグッと身を屈めるのと、薫子がギアをバックに入れてプリウスを後退させるのは、ほぼ同時だった。

 後続車がなかったのは幸いである。プリウスは後方へ急発進し、跳躍した妖虎の前足での攻撃を、かわす事が出来た。

 薫子は窓を開けて、妖虎目掛けて引き金を引く。

 銃声が、一発。

 純銀製の退魔弾は、妖虎の左肩に当たった。

 箇所を問わず、当たれば大抵の浮遊霊や怨霊を浄化出来る退魔弾だが、虎は一瞬怯んだのみで、すぐに反撃に出た。

 薫子目掛けて飛び掛かる。

 プリウスは更に後退して、虎の爪をかわし、薫子は立て続けに三発発砲した。

 肩と脇腹に一発ずつヒット。

 もう一発が和彦の頬を撃ち抜いた。

 和彦の顔をした虎は、それでもなお攻撃の姿勢を取る。

 更にもう一発。

 それが眉間を撃ち抜くと、妖虎の体が弾け、黒い塵となって消滅した。

 

 車中の二人が安堵の息を漏らす間もなく、プリウスを横殴りの激しい衝撃が襲い、車体が揺れる。

 いつの間にか、更に三匹の人面の妖虎が現れ、車を囲んでいたのだ。今のはその内の一匹が、前足でプリウスを殴り付けた衝撃であった。

 薫子はギアをドライブに切り替え、アクセルを踏み込む。

 けたたましい音を立てて急発進したプリウスは、妖虎の囲みを抜けた。

 薫子の拳銃に装填されている退魔弾は、マガジン一本につき九発。一匹倒すのに五発使っている。予備のマガジンはスーツの懐に忍ばせてある一本だけ。戦うのは分が悪かった。ましてや今は、民間人の女の子を護衛せねばならないのだ。

 三匹の妖虎が猛然と追い掛けて来たが、さすがにフルスピードで走る自動車には追い付けないのか、ドアミラーやルームミラーに写っていた異形の姿は、すぐに小さくなり、見えなくなった。

 

 薫子と葵は、今度こそ安堵の息を漏らした。

 

「和彦さん……なんであんな風に……」

「小野原和彦は神道宗光の信者だったからね。神道は彼以外にもたくさんの信者を抱えてる。そして時にはその信者を、式神に変えてしまうらしいわ」

「えっ、なんで? 自分の子分みたいなもんでしょ?」

「そうよ。子分のようなもの。だからどう扱おうと親である自分の勝手。信者だけでなく、自分たち以外の全ての人間、全ての生命を、彼等はその程度にしか認識していないわ」

「自分たちって、神道センセー以外にも、そういう人がいるって事ですか?」

「ええ。神道宗光は、あるカルト団体に所属しているの。その団体には彼以外にもいろんな術者がいて、彼等が信仰する神々への生け贄と称して、たくさんの人間を拉致して殺害しているわ」

「そのカルト団体って──ひゃっ!?」

 

 葵がすっとんきょうな声を上げ、体が前のめりになった。シートベルトが101cmのバストの谷間に深く食い込み、そのサイズを知らずアピールしてしまう。

 薫子が急ブレーキを踏んだのだ。

 前方に、黒いロングコートを着込んだ長身の男が、一人立っていた。

 右手に、反りの強い長尺の木刀を持っていた。

 プリウスはタイヤを軋ませて止まろうとするが、間に合いそうにない。

 だが男は、避けようとしない。

 ただ無造作に木刀を振り上げ、振り下ろした。

 瞬間、まるで見えない岩が落下してきたかのように、プリウスのボンネットがひしゃげて潰れた!

 そしてプリウスは、殺しきれなかった慣性など忘れたかのようにその場に停止したのだ!

 男は次いで、振り下ろした木刀をもう一度振り上げた。

 するとプリウスの車体のフロントが持ち上がり、そのままひっくり返った。

 木刀はその切っ先さえも、触れてはいないというのに……。

 

「峰岸さん、大丈夫?」

「ふぁ~い……」

 

 葵は間の抜けた声で返事をする。

 車を止められた時も、ひっくり返された時も、車内の二人には何の衝撃も感じられなかった。

 

「ひゃあっ!」

 

 葵は不意に、物凄い力で体を引っ張られた。

 シートベルトが独りでに外れ、ドアも勝手に開いて、葵は不可視の力で車外へと引きずり出される。

 

「峰岸さん!」

 

 薫子も急いで外へ出ようとするが、何故かシートベルトが外れない。ロックは解除されているのに、見えない手で押さえられているかのようだ。

 薫子は懐に忍ばせてあったフォールディングナイフを取り出し、刃を起こしてシートベルトを切断し、葵を追って外に出た。

 ひっくり返ったプリウスの向こう側で、先程の黒い男が、立ち上がろうとした葵のそばに歩み寄り、木刀で彼女の白いうなじに触れた。

 途端に葵は気を失って、地面に横たわった。

 

「その子から離れなさい!」

 

 薫子が拳銃を抜いて突き付け、警告する。

 

「警視庁DTSSよ! あなたのような能力者に対しては、威嚇なしの発砲も許されてます! 両手を上げて、その子から離れなさい!」

「断る」

 

 男は低い声で、ハッキリとそう答えた。

 銃声が一発、鳴り響いた。

 退魔弾が、男の傍らの地面に当たって白煙を上げた。

 男は、下ろしていた木刀を真横に振り抜いていた。

 

(飛んでくる銃弾を、弾いた……!?)

 

 薫子がそう認識した時、男は木刀で虚空を縦に斬り下ろした。

 薫子の視界を白い光が一筋縦断したかと思うと、何か冷たいものが体を通り抜けた気がした。

 次いで、両者の間にあったプリウスが、車体を真っ二つに切断された。

 一瞬遅れて、大宮薫子の体もまた、拳銃もろとも幹竹割りに斬割され、左右に分かれて倒れた。

 鮮血と臓物が溢れ出し、アスファルトの道路にぶちまけられたのは、それから更に二秒ほど後の事である。

 

 たった今自らの手でこしらえた、女刑事の凄惨な死体には目もくれず、男は木刀の切っ先を左の袖口に差し込み、押し込んだ。

 全長150cmはあろう長尺の木刀は、袖の中に完全に隠れてしまった。しかし、袖は、全く膨らんではいなかった。

 男は葵の背中と膝裏に手を回して抱き上げる。

 白い光が生まれ、葵を抱き抱えた男の姿は、その光の中に消えた。

 光も消え、後は黄昏時の夕闇と静寂が、辺りを包むだけであった……。



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(ぬえ) その3

 ちょっとした運動場ほどもある、広い部屋だ。

 天井も高い。

 その高い天井を、左右に並んだ太い石柱が支えていた。

 四方の壁には、星の紋様が描かれていた。二つの十字星を重ね合わせたような形をしている。八芒星だ。その八芒星の真ん中に目が描かれていた。

 床は磨かれた大理石である。

 足音を響かせて、黒いコートを着込んだ男が歩いている。その両腕に、穏やかな寝息を立てる峰岸葵を抱えて。

 

 彼の歩く先には祭壇があり、護摩壇を焚いて何やら一心不乱に祈る老人の背中があった。

 老人の向こう側に、透けるような薄衣に身を包んだたくさんの女たちが、横並びにひざまずき、同じように祈っていた。

 老人は男の来訪に気付くと、クルリと振り向く。

 生気のない。土気色の肌であった。

 そこに深いシワが無数に刻まれ、小さな目が爛々と輝いている。

 

「ご苦労でしたね、飛鳥くん」

 

 枯れ木をこすり合わせるような声で、老人はそう言った。

 

「鵺が二匹やられた」

「ええ、わかっていますよ……なに、式神などいくらでも作れます。材料のストックはたっぷりとありますからね」

 

 老人は肩越しに、背後に控える女たちを見た。

 女たちは、材料呼ばわりされても怯える様子はなかった。

 飛鳥と呼ばれた黒コートの男は、祭壇の上に葵を横たわらせた。

 

「この子の魂を使えば、より強い式神も作れます……また両面宿儺(りょうめんすくな)でも作りましょうか……それとも、阿修羅がいいか……」

 

 老人は楽しげに、クックッと喉を鳴らして笑いながら、葵の髪や頬を撫でた。

 枯れ木のような手がそのまま下に移り、葵の胸を揉み、太ももを愛撫する。

 

「……それまで、あんたが生きてればいいがな」

 

 飛鳥がポツリとつぶやくと、老人の手が止まった。

 

「というか、何故そんな風になってしまったんだ? 聞いた話だが、あんた、歳はとらないそうじゃあないか」

「あの小僧のせいだ……」

 

 軋むような声で、老人は唸った。

 

「私の可愛い両面宿儺を倒しただけではない……奴が打ち込んだおぞましい力が、不完全ながらも私の不老の法を打ち消した……」

「だから、この女を使うのか」

「ええ、そうです……葵さんの肉体に満ちた精気を吸って、もう一度若さを取り戻さなくては……私には、まだまだやらねばならぬ事がたくさんあるのです……彼女も、その肉体と魂の両方を()()のために役立てられると知れば、さぞや喜ぶでしょう……小野原くんもそうでした……」

 

 そう言うと、老人は葵の唇に自分のしわくちゃの唇を重ねる。

 今にも折れそうな細い指が、葵の豊かな胸に食い込んだ。

 

 

 沢渡直也警部は、ビジネスホテルの一室にいた。

 ソファに座り込み、眉間に深いシワを寄せている。

 先程、廊下を挟んで真向かいの部屋のチェックアウトを済ませてきた。

 大宮薫子刑事が宿泊していた部屋である。

 昨夜、憂助に瞬間移動でこのビジネスホテルまで送ってもらった後、薫子の無惨な死体が発見されたという報せが届いた。彼女に護衛を任せていた峰岸葵の姿はなかったという。

 薫子と葵の両方に、沢渡は強い責任を感じていた。

 今すぐにでも薫子の仇を取りたかった。

 葵の救出に向かいたかった。

 しかし、敵の居場所がわからないので、動きようがなかった。

 葵の誘拐を実行した、水野とその配下も、すでに死んでいた。

 バイパスの途中で、横倒しになった護送車が発見されたのだ。その周囲に、水野たちと彼等を護送中だった警官たちの死体が散乱していた。複数の猛獣に襲われたかのように、全身をズタズタに引き裂かれていたという。

 神道宗光の足取りも、完全には追えていない。

 そもそも彼等は、特定の施設を持たなかった。どこかのビルの一室、空き家、廃墟、様々な場所に、ある日不意に信者たちが集まり集会を開く。DTSSが駆けつけた時にはもぬけの殻という事が何度もある。

 九州でさらわれた数人の子供の遺体が、東北で発見されたなどという事もあった。

 今、葵がどんな目に遭わされているか……家族や友人が彼女の身をどれほど案じているか……考えるだけで、腸が煮えくり返る思いであった。

 そんな沢渡を、気遣わしげに見守る二人の男がいた。やはりDTSSの刑事である。

 一人は逢坂(おうさか)吉彦、もう一人は小峠修平という。

 彼等は葵とは面識もないが、それでも仲間を殺された事で、神道宗光に対する怒りを胸のうちで静かにたぎらせていた。

 

 不意に、部屋のドアがノックされた。

 沢渡たち三人の視線がそこに向く。

 彼等の見ている前で、独りでにチェーンが外れてドアが開き、学生服を着た少年が入ってきた。

 太い眉とがっしりした顎の、男くさい顔つきだ。

 

「何だね、君は……勝手に入ってきてはいけないな」

 

 逢坂刑事が、我が物顔で入室する少年の前に立ち塞がった。

 沢渡が制止するより先に、突然逢坂の背中がビクンとすくみ、そのまま力なく立ち尽くす。

 小峠刑事は、少年が右手の袖口から滑り出た木刀で、同僚の頭部を顎から貫くのを見た。

 彼がもう少し冷静であったなら、頭頂部から突き出るはずの切っ先が覗いていない事、貫かれた顎から一滴の血も流れていない事がわかっただろう。

 しかし、小峠修平はいささか激しやすい男であった。

 

「貴様っ!」

 

 怒声を上げて少年に掴みかからんとするが、少年の木刀が瞬時に翻り、稲妻めいた速さと鋭さをもって、小峠の頭を斜めに透過した。

 

「邪魔だ、どけ」

 

 少年の言葉に、二人の刑事はそれぞれ力なく壁まで歩いて、道を空けた。

 少年は沢渡の前まで来ると、木刀を喉元に突きつけた。

 その柄には、『獅子王』の三文字が彫られてある。

 

「久我くん……」

「峰岸が家に帰っとらんらしいのぉ……アイツの友達が心配しとったぞ。どういう事か」

 

 怒りゆえか、憂助は敬語も忘れて問い詰めた。

 

「さらわれたんだ……神道宗光に……私の部下も、殺されたよ……」

 

 答える沢渡は、己れの腸を吐き出すような声音であった。

 

「それがわかっとって、なしこげな所でじっとしとうとか」

「私も、今すぐにでも助けに行きたいのだがね……峰岸くんの居場所がわからないのでは、闇夜の鉄砲玉さ」

 

 そして、水野たちが護送中の警官たちもろとも殺された事を話す。

 

「どこにおるかはわからんが、アイツの所になら、行く事は出来る」

「どうやって?」

「昨日やったやろうが。俺の瞬間移動は知ってる場所だけやねえ、知ってる奴の所にだって飛べる。アイツのおるとこやったら、地球の裏側にだって行ける」

「……それは助かるが、それでも向こうの備えがわからないのでは、無謀に過ぎる。行っても返り討ちに遭いましたでは、私は峰岸くんに申し訳が立たんよ」

「あんた等、妖怪退治しようとやったら、遠くを見る術とか使う事は出来んとか」

 

 憂助は苛立って、声を荒げる。

 

「専門の探索班がある。今のところは、彼等からの情報待ちだ」

「……そうか」

 

 憂助はそれだけ言うと、木刀の切っ先を制服のポケットに差し込んだ。木刀はそのまま、手品のようにポケットの中に消える。

 

「邪魔したの。そこの二人は、五分もすれば元に戻る」

 

 背を向ける憂助を、沢渡は呼び止めた。

 

「久我くん。君も我々の護衛対象だ。余計な事をして、仕事を増やさないでくれ。君に何かあれば、お父さんも悲しむぞ」

 

 月並みな言葉ではあったが、憂助の足が止まった。

 沢渡からは見えないが、口をへの字に曲げている。

 が、それも束の間、憂助はドアを乱暴に閉めて立ち去った。

 それから五分ほどで、憂助の言った通り、逢坂・小峠の両刑事が白痴の状態から立ち直った。

 その時、テーブルに置かれていた沢渡のスマホが鳴った。

 

 

 葵が目を覚ますと、高い天井が見えた。

 自宅ではない。

 起き上がろうとして、手足に枷をはめられ、冷たい石の台に──祭壇に鎖で繋がれている事に気付いた。

 そして自分が、一糸まとわぬ裸にされている事も。

 

「お目覚めですか、葵さん。ご気分はいかがかな?」

 

 呼び掛けられて振り向くと、五人の女を従えた老人がいた。

 

「だ、誰よアンタ……!」

「おやおや、もうお忘れですか。今の私のこの姿では無理もありませんが、それでも私は、一度はあなたを救ったのですよ? 両面宿儺の力でね」

「りょーめんすくな?」

 

 どこかで聞いた名前だ。

 記憶の糸を手繰り寄せると、答えはすぐに出た。

 

「まさか、神道センセー?」

「そうです。神道宗光です」

「な、なんでそんなシワクチャになっちゃってんの?」

「あなたのあのお友達のせいですよ。あの、木刀を使うお友達の……奴の力が、私の若さを保つ力を不完全ながらも打ち消してしまったのです。その若さを取り戻すためのお手伝いを、あなたにしていただきたいのですよ」

「あ、アタシに!? ムリムリムリ! アタシ頭悪いしこの前の小テストでも三点しか取れなくてセンセーにメタクソに怒られたし、ぜってぇー役に立たないから! だからお家に帰してよぉ!」

「心配する事はありません。段取りは全て、私どもの方で行いますので」

 

 怖いくらい丁寧に、老人は言った。

 控えていた女たちが一斉に立ち上がり、着ていた薄衣を脱ぎ去った。

 あらわになった五つの白い裸身が、葵に群がる。

 唇が。

 舌が。

 指が。

 葵の全身、いたる所を這いずり回った。

 

 葵は、女同士も初めてではない。

 ギャル友三人には挨拶代わりに毎日その豊満な胸を揉ませているし、キスだってした。彼女たちが家に泊まりに来たり、あるいは自分が彼女たちの家に泊まった夜は、必ず同じベッドで裸で抱き合い、裸体を絡ませ合ったものだ。

 しかし、それはそれ、これはこれだ。こんな状況で体をまさぐられ、舐め回されて、嬉しい訳がない──はずなのだが、

 

(な、なんか……スッゴい気持ちいい……!)

 

 唇で吸われ、舌で舐められ、指で撫でられする度に、甘い震えが葵の体に走る。

 五人の女たちの愛撫に、葵は手足の鎖を鳴らしながら身悶えた。

 

「んっ……あっ……あぁん……」

 

 悦びの喘ぎが、知らず知らず唇からこぼれ出す。

 たくさんの指と舌が、葵の全身を余す所なくナメクジのように這い回った。

 女たちは代わる代わる、葵の唇を吸い、舌を絡ませ合う。

 葵の頬は紅潮し、瞳は濡れて、表情は快感で緩みきっていた。

 

「どうです、とろけるような気分でしょう。その女たちは今、あなたの精気を高め、みなぎらせるツボを刺激しているのです」

 

 神道宗光のその説明も、今の葵の耳には入ってこなかった。もし両手が自由であれば、自分からも彼女たちの体に触れたいと思うくらい、女同士での絡み合いに身も心も没頭しているのだ。

 そして神道は、葵のその様子を見て、シワだらけの顔を満足げにほころばせた。

 

「もう良いでしょう。下がりなさい」

 

 その一声で、女たちは波が引くように葵から一斉に離れる。

 

「あんっ、いやぁ……行かないでお姉様ぁ……もっとぉ……もっとしてぇ……もっと葵を可愛がってぇ……」

 

 葵は不満げな声を上げ、拘束された唾液まみれの体をくねらせて続きをねだった。

 それに答えるように、神道が祭壇に上がった。

 葵の顔を覗き込む眼が、妖しい光を放っている。

 

「ふふ、実に可愛らしい……あなたの精気で、私はもう一度元の若さを取り戻せます。その魂も強力な式神に作り替えて、()()の理想のために役立たせていただきます……感謝しますよ、葵さん」

 

 枯れ木のような手が、葵の赤茶色に染めた髪や紅潮した頬を撫でた。

 ボリュームを確かめるように、ゆっくりと胸の膨らみを捏ね回す。

 その神道の背中に、変化が現れた。

 まとうローブの下で、何かがモコモコと蠢いている。

 一つではない。八つほどのコブが生えてきて、着衣を突き破らんと暴れている。

 それ等はすぐにローブを破って、姿を見せた。

 

「──ひいっ!」

 

 葵の顔が、一転して恐怖に歪む。

 神道の背中から現れたのは、八本のタコの触腕であった。しかも一本一本の先端が、土気色の女の顔を形作っている。

 女面の触腕が一斉に、葵に襲いかかった。

 神道の肉体のどこにどうやって収まっていたのか、触腕はとても長く、葵の手足に巻き付いてなお余裕があった。

 先端の女面が、葵の口を吸い、乳房を頬張り、股間に潜り込む。

 恐怖と快楽が、同時に葵を責め苛んだ。

 

「い、いやっ! やだ! やだぁあああっ!」

 

 恐怖と嫌悪感に悲鳴を上げながら、肉体は悦びに打ち震え、悶えている。

 そして葵は、人面の触腕が自分の体から何かを吸い出しているのを感じ取った。

 

「やだ、やだよ……助けて、ママ……パパ……助けて……久我ぁ……」

 

 葵は涙を流し、助けを求める。

 

 ──少女の願いは、通じた。

 

 白い光が、虚空に生まれた。

 

「イィーーエヤァッ!」

 

 雷鳴にも似た気合いが、空気を震わせた。

 激しい熱風が葵の上を吹き抜けて、神道を異形の触腕もろともに吹き飛ばした。

 現れたのは、学生服の少年。

 右手に握られた木刀には、柄に彫られた『獅子王』の三文字。

 久我憂助であった。

 沢渡の警告に、わずかながら逡巡したものの、やはり葵の危機を見過ごせず、無謀にも瞬間移動で単身乗り込んで来たのである。

 

 憂助は足下で拘束されている葵に気付くと、その手足を木刀で小突いた。

 弾けるように枷が外れた。

 次いで辺りを見渡すが、脱がされたはずの葵の衣服が見当たらない。

 

(まぁいいか)

 

 しかし憂助は、それで済ませた。瞬間移動で葵の家に直接飛べばいいのだ。

 その憂助目掛けて、神道配下の女たちが裸体を隠しもせず、襲いかかった。手に手に刃物を持ち、迷う事なく斬りつけ、突き刺しに来る。

 

「邪魔だ!」

 

 憂助は四方八方からの凶器を木刀で叩き落とし、裸身の女たちを容赦なく打ち据えた。

 うめき声も上げずに、眠るように昏倒した女たちには構わず、憂助は全裸の葵を引っ越し荷物めいて肩に担ぎ上げ、祭壇から飛び退いた。

 彼のいた場所を、大きな影が通り過ぎた。

 

 虎だ。

 人面の虎だ。

 尻尾は蛇になっており、赤い舌をチロチロと覗かせている。

 琥珀色の眼は、殺戮の欲求でギラギラと輝いていた。

 神道宗光が作り上げた式神の一つ、鵺。

 それが三頭、どこからともなく現れた。

 

 彼等は憂助を取り囲み、グルグルと回りながら隙をうかがう。

 憂助は裸の葵を担ぎ上げたまま、右手の木刀を片手正眼に構える。葵を下ろせば両手が使えるようになるが、その隙を突かれる恐れがあった。何より、葵を人質に取られる可能性がある。

 この三頭の鵺を、昨日バイパスで倒した鵺と同じ程度の強さと仮定しても、三対一で囲まれた状態では、瞬間移動で飛ぶのも危険だ。移動の際の精神集中の隙を突かれる。

 一人と三頭は、睨み合いを続けた。

 

 神道宗光は既に起き上がり、顔を歪めて笑っていた。

 これまで多くの女の精気を吸って若さを保ち、生き長らえてきた。その自分の顔に傷を付け、自慢の両面宿儺を倒し、まだ二十年以上は保てたはずの若さまで奪った小僧が、憎くてたまらない。

 その小僧が、これから鵺に引き裂かれて殺されるかと思うと、嬉しくてたまらなかった。

 

 睨み合うこと数秒──鵺が動いた。

 三頭のうち二頭が攻撃してきた。

 一頭は地を蹴って跳躍し、憂助の頭上から前足に備わった鋭い爪を振り下ろす。

 もう一頭は、身を低くしたまま近付いて、憂助の足に噛みつこうとする。耳まで裂けた口から、ナイフのような牙がずらりと並んで見えた。

 その足狙いの鵺目掛けて、憂助はその場で木刀を下から上へと振り上げた。

 切っ先が地面をこすった瞬間、白い炎が噴き上がり、幕となって鵺を牽制する。

 地面をこする事で生まれる、あるかないかのかすかな摩擦熱を念の力で増幅し、破邪の炎に変える、久我流念法の秘技『闇祓い』である。

 白炎に怯み相手が動きを止めた隙に、憂助は跳躍していたもう一頭の鵺に、片手上段の一撃を叩き込んだ。先の闇祓いで生まれた焔は木刀の刀身にも宿っており、木刀は文字通りに火を噴き、敵の巨体を幹竹割りに斬割した。

 一頭目の鵺がそうやって黒い塵と消えた瞬間、三頭目が仕掛けてきた。

 人面の口が耳まで裂け、そこから青白い炎を吐き出したのだ!

 直系が憂助の背丈ほどもある青白い火の玉に、憂助は木刀を打ち付けて、受け流す。

 受け流された火球は、闇祓いで牽制した二頭目の鵺に直撃した。

 

「エヤァッ!」

 

 憂助はすかさず三頭目へと間合いを詰めて、すれ違い様の片手抜き胴!

 一刀両断されて、三頭目の鵺も黒い塵と消えた。

 憂助がすかさず振り向くと、仲間の火球を浴びた二頭目の鵺が、まだ生きていた。

 全身を炎に包まれながら、それでも憂助目掛けて前足を振り上げ、飛び掛かる。

 憂助はその下に、葵を抱えたまま身を滑らせて、無防備な腹を木刀で突き上げた。

 下から貫かれた二頭目は、これもまた黒い塵となって消滅した。

 

「すっごぉい……!」

 

 全裸のまま肩に担がれるという憤死ものの状況も忘れて、葵は憂助の手並みに感嘆の声を漏らす。

 

「あとはお前だけやのぉ、化け物」

 

 憂助は背中から人面付きの触腕を生やす老人に、よもやそれが以前自分が取り逃がし、今また自分と葵を狙う神道宗光とは知らぬまま、木刀を向けた。

 木刀を向けたまま、もはや人質に取られる心配もあるまいと、葵を肩から下ろす。

 

「久我、あれ神道センセーだよ」

「あぁん? 嘘つけ。あのオッサン、あげん歳食ってねかっちょろうも」

「マジマジ。自分で言ってたし。何かね、アタシのセーキで若返るとか言ってた」

「……二重の意味で人でなしやったか」

 

 憂助は木刀を八双に構えた。

 

「おとなしくお縄に付くか、今の化け物の後を追うか、好きな方を選べ」

「小賢しい……返り討ちにしてくれる……かぁっ!」

 

 神道が右の掌を勢い良く突き出す。

 

「エヤァッ!」

 

 憂助、すかさず木刀で虚空を斬り下ろした。瞬間、熱風が彼の正面で、左右に吹いた。

 憂助の眼には、遠間から迫るエネルギーの塊が見えていたのだ。

 神道がうろたえた。

 

「遠当てを、斬った!?」

「同じ技を使う奴と、以前戦ったきの」

「まさか、門倉楊堂も貴様が……」

「問答無用! 覚悟せぇ悪党!」

 

 憂助は答えず、木刀を振り上げて間合いを詰めた。

 神道宗光は背中の触腕を伸ばして迎撃する。八つの触腕の先端に備わる女面が口を開けて、四方八方から噛みつかんと迫った。

 八つの女面が、憂助の全身に食らいついた──かに見えた。

 だが、そこに憂助は既にいない。

 瞬間移動である。

 そして神道の背後の空間に、波紋が走った。

 何かがぶつかり合うような音もした。

 直後、憂助は神道から離れた場所に、白光と共に姿を現す。だが、自分の意思でそこに移動したというより、まるで何かに弾き飛ばされたかのようだった。

 次いで神道の背後にもう一つ白光が生まれ、その中から黒いコートを着た男が、悠然と現れた。

 右手には、反りの強い長尺の木刀を携えている。

 憂助は男を睨む。

 表情には、少なからず驚愕の色が浮かんでいた。

 目の前の男が、瞬間移動中の自分に攻撃を加えてきたからであった。

 

「仲間か」

「少し違うが……まぁ、お前がここで死ぬ事に変わりはない」

 

 コートの男は、憂助の誰何(すいか)にそう答え、木刀を正眼に構えた。

 

「名乗っておこう。俺の名は飛鳥(あすか)竜摩(りょうま)。お前の死神だ」



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(ぬえ) その4

 言葉を発する者は、誰一人としていない。

 神道宗光はシワだらけの顔を期待に歪ませていた。

 彼の配下であり、敬虔な信者である女たちは、依然昏倒したままである。

 峰岸葵は、白い裸体を隠す事も忘れて、久我憂助に心配そうな眼差しを向けた。

 

 その久我憂助は、木刀を下段脇構えにしていた。

 剣術において、下段の太刀は虎に例えられる。腰を落とし、木刀を我が身で隠す憂助の様は、まさに藪に潜み獲物の隙をうかがう虎であった。

 

 対する飛鳥(あすか)竜摩(りょうま)、反りの強い長尺の木刀の構えを、正眼から上段に切り替えた。

 剣術において、上段の太刀は竜に例えられる。振り上げ、打ち下ろすその動きは、さながら天地を駆ける竜のごとしといったところであろう。

 

 誰一人として言葉を発する者はいないが、決して静かではなかった。

 どこか遠くから、かすかにうなるような重低音が聞こえてくる。一見石造りのように見えるが、この大部屋には電気が通ってあり、照明や空調の設備もある。その空調の稼働音であろう。

 しかしそれが、対峙する二匹の獣の唸り声のように聞こえていた。

 

 憂助が、動いた。

 地を蹴って飛び出し、低い軌道で間合いを詰め、飛鳥竜摩の足を狙って木刀を振り抜く。

 飛鳥竜摩もまた、跳躍していた。

 憂助の木刀はむなしく虚空を薙ぐ。

 その頭上めかけて、飛鳥竜摩の木刀が稲妻めいて打ち下ろされた。

 憂助はとっさに体を回転させて仰向けになり、上から来る一刀を打ち払った。

 

 瞬間、ぶつかり合った木刀を中心に衝撃が八方に走った。

 

 憂助はそのまま床を転がって間合いを取り、正眼に構える。

 着地した飛鳥竜摩は、木刀を中段の霞に構えた──と思うや否や、すかさず間を詰めて、突きを放った。長尺の木刀がまるで槍のように伸びてくる。

 憂助、これを正眼の構えのまま受け流そうとするが、飛鳥竜摩は互いの木刀がぶつかり合った瞬間に、己れの木刀を真横に振り抜いた。

 普通なら威力などあろうはずもないが、憂助は木刀もろともに、数メートル後方の柱まで吹き飛ばされた。

 

(こいつ、間違いねえ……!)

 

 憂助は確信した。

 目の前の男は、念法使いだ。

 今の突きからの廻し打ちは、筋力で出せる威力ではない。

 

(しかし、どこ流なんやろか……?)

 

 そんな疑問もあった。

 

 結城家から始まる念法の一族は、年に一度集まって交流会を開く。ずいぶんとお気楽なもので、用意された料理をパクパクつまみながら、名乗り出た者同士がカラオケ大会や宴会芸のノリで手合わせをするのである。

 憂助も父や祖父と共に何度か顔を出し、本家や他の分家のおじさんおばさんたちに稽古をつけてもらった。

 そのため、ほんの一合立ち会えば、どこの家の流派なのかくらいならわかる。

 しかし飛鳥竜摩の構えや動きは、憂助の知る念法ではなかった。そもそも念法は一子相伝。風間家のみが門弟を募っているが、それも片手で数えても指が余るほど。

 憂助の知らない念法の流派なのか、あるいは、持って生まれた力を磨くうちに自得した、我流念法か……。

 

 いずれにせよ、倒すべき敵である事だけは、確かだ。

 憂助は相手の正体についてあれやこれやと、考えるのをやめた。

 木刀を八双に構えて一歩踏み出そうとした瞬間、飛鳥竜摩の木刀が眼前に迫っていた。

 

「──!?」

 

 とっさに身を捻り、横に転がって、かわす事が出来た。

 飛鳥竜摩はその場から一歩も動いていないのに、いかにして数メートルの遠間を越える突きを放ったのか?

 その答えは、当の飛鳥竜摩がすぐに見せてくれた。

 中段霞から突き出された木刀の刀身が、白光を伴って消失したのだ。

 かと思えば、憂助の目と鼻の先に、白光を伴って出現する。

 瞬間移動の応用であろうが、中段突きのはずが、上段や下段へと飛んでくるのが厄介だった。

 憂助は右に跳び、左に転がりして、攻撃をかわす。

 飛鳥竜摩が木刀を真横に振り抜いた。

 刀身から放たれた光が、長さ五メートル以上はある刃となって飛来してくる。

 憂助の体が、白い光に包まれて消えた。

 直後、飛鳥竜摩の背後に瞬間移動して、脳天めがけて木刀を打ち下ろす!

 飛鳥竜摩、これを頭上に木刀を掲げて防いだ。

 

 そこからは、両者足を止めての打ち合いとなった。

 木刀と木刀がぶつかり合い、その度に異様な衝撃が四方に弾け飛ぶ。

 互いに相手の喉笛を狙って噛み合う野獣同士のような、激しい剣戟であった。

 

 不意に、憂助がバックステップで下がる。その体が、白い光に包まれた。

 飛鳥竜摩は木刀の切っ先を左手で握り、柄へと滑らせる。長尺の刀身は左拳の中に消えた。

 憂助の姿が消えた。

 飛鳥竜摩が、柄のみとなった木刀を振った。

 どこからともなく、硬い物がぶつかり合う音が響いた。

 彼の頭上に生まれた白光から、憂助が弾かれるように飛び出した。

 床に転げ落ちた憂助めがけて、飛鳥竜摩の両手突きが放たれた。姿を現した反りの強い長尺の刀身が、飛竜めいて迫る!

 

「エヤァッ!」

 

 憂助、これを打ち落とさんと木刀を振るう。

 しかしその迎撃の一撃は、木刀の反りによって、外側へと受け流された。

 そして飛鳥竜摩の突きは軌道を一ミリもブレさせる事なく、憂助の胸を貫いた!

 学生服の背中を突き破って、血に濡れた刀身が顔を出す。

 飛鳥竜摩はそのまま木刀を振った。

 串刺しにされていた憂助の体が、力なく振り落とされ、葵のそばまで転がった。

 憂助の胸にはぽっかりと穴が穿たれ、鮮血が床にどんどん広がっていく。心臓を貫かれているのだろう。

 

「く、久我……?」

 

 葵は、我が目を疑った。

 ついさっき、三頭の鵺を倒してのけた少年が、たった一人の人間に負けたのだ。

 

「ちょ、ちょっと……ねぇ久我ってば! 嘘でしょ! なに死んだふりしてんのよ! マジ面白くねーし! ねぇ、起きてよ久我ぁ!」

 

 葵は血で汚れるのにも構わず駆け寄り、抱き起こし、揺さぶった。

 だが憂助は、答えない。

 虚ろに開かれた目は、どこにも焦点を結んでなかった。

 

「く、くくく……ひっ、ひっ、ひぃーっひっひっひっ!」

 

 神道宗光の笑い声が響いた。

 

「見事見事! お見事でしたよ飛鳥くん! さすがは百戦錬磨のサイキックソルジャーですね! 実に素晴らしい!」

 

 パンパンと手を叩いて笑い転げるが、そのうち急に咳き込んだ。

 

「さぁ、儀式の続きといきましょう……葵さんをこちらに」

「ん」

 

 素っ気なく答えた飛鳥竜摩は、血振るいした木刀を下げて、葵の元に歩み寄る。

 葵は憂助の頭を胸に抱き、裸身を震わせるしか出来なかった。

 自分を守ってくれるものは、もういない。

 深夜の海の底よりも暗い絶望に、悲鳴すらも凍りついて出てこなかった……。

 

 ──チリン。

 

 鈴の音が響いた。

 飛鳥竜摩は足を止め、振り向く。

 葵も神道も、音のした方を見た。

 深草色の作務衣を着た男が、木刀を手に下げて立っている。

 木刀の柄尻に、細い紐で二つの鈴が付けられている。

 口元に髭を生やしたその男の太い眉とがっしりした顎は、憂助に似ている。

 

 久我京一郎であった。

 

「どなたですかな……勝手に入られては困りますな」

 

 神道の誰何(すいか)に、京一郎はニッと笑った。

 とたんに、顔つきが少し間抜けな感じになった。

 

「息子がこちらにお邪魔しとうようやき、迎えに来ました。お構い無く」

「そうはいきませんな。せっかくお越しくださったのですから、おもてなしの一つはさせていただきましょう」

 

 神道の言葉に、飛鳥竜摩は京一郎に対して木刀を中段霞に構えた。

 

「ふむ……」

 

 しかし京一郎の視線は彼ではなく、血にまみれて倒れている息子に向けられていた。

 

「こらまた派手にやられたのぉ~」

 

 呑気な声を上げつつ息子の傍らに来ると、何を思ったか胸に空いた傷口に、木刀の切っ先を突っ込んだ。

 

「ちょいさ」

 

 そのまま真横に振ると、木刀から血と肉の塊が振り落とされ、遠くの床にベチャリと音を立てて落ちた。

 憂助の胸の穴は、綺麗に塞がっていた──というより、なくなっていた。

 

「……へっ?」

 

 葵が声を漏らした。

 憂助の頭を抱いていた胸元に、彼の呼吸を感じ取ったのだ。

 

「傷を治したのか?」

「というより、怪我をしたという事実を切り取った」

 

 飛鳥竜摩の問いに、京一郎はフフンと鼻を鳴らして答える。

 

「お嬢さん、これ着ときない」

 

 憂助と同じ訛りのある口調で言い、作務衣の上を脱いで、葵に投げ渡した。

 脱いだ下には、白い肌着があった。

 

「もうちょっとしたらお巡りさんも来てくれるきね。それまで息子の事よろしく。悪い奴等はおいちゃんがやっつけちゃるきね」

 

 小さな子供に対するような優しい声音に、葵は奇妙な安心感を覚えていた。

 

「やっつけるとは、誰が、誰をだ? まさか、貴様が俺を倒すとでも言うのか」

 

 事も無げに言ってのける京一郎に、飛鳥竜摩が怒気混じりに言った。

 

「まぁ、そんなとこかのぉ。若者を指導するのは大人の務めやしね」

「ほざけ!」

 

 飛鳥竜摩は木刀を突き出した。

 刀身が白光を伴って消失し、遠間を越えて出現し──虚空をむなしく貫いた。

 京一郎はすでに横にかわしていた。

 飛鳥竜摩は舌打ちし、間合いを詰めた。

 京一郎が木刀を高く掲げると、そこに得物を打ち下ろす。

 次に京一郎が木刀を体の横に立てると、飛鳥竜摩はそこに横殴りの打撃を打ち込む。

 激しい打ち込みを受けながら、鈴はまったく鳴らなかった。

 そんな剣戟が、更に数合続いた。

 

「……アイツ、何やってんの?」

 

 奇異な光景に、葵は思わずつぶやいた。

 京一郎が『さぁ、ここに打ちなさい』と木刀で示し、飛鳥竜摩が『はい、わかりました』とばかりにその木刀に打ち込んでいる。

 そんな風にしか見えないのだ。

 実際は違った。

 飛鳥竜摩が打とうとする箇所を、打とうとする瞬間に、京一郎がガードしているのだ。

 

「ちぃいっ!」

 

 業を煮やした飛鳥竜摩は、一歩下がって木刀を中段霞に構え直した。

 京一郎が、ここで初めて構えた。

 しかし変わった構えである。

 木刀を正面で垂直に立てたのだ。腕は伸ばさず、木刀はほとんど密着して、窮屈な構えだった。

 

「こざかしい!」

 

 飛鳥竜摩が両手突きを放った。憂助のカウンターを受け流しつつ心臓を貫いた、あの突き技だ。

 京一郎は片足を後ろに引いて、木刀を振り下ろした。

 両者の木刀が交差して、反りを利用して()()()()()()()()外側へと受け流された。

 正中線に沿って、何か熱いものが体を通り抜けたと感じた瞬間、飛鳥竜摩は意識を失い、その場にぶっ倒れた。

 

吹毛(すいもう)

 

 京一郎がポツリとつぶやいた。今の技の名前であろう。

 

「──さて、お次はそっちか」

 

 京一郎は神道に向かって歩き出した。

 神道は狼狽して顔を歪ませた。

 

「しゃあっ!」

 

 蛇のような声を上げ、背中から生えた人面の触腕を伸ばす。

 京一郎が木刀を正眼に構えると、白い光がほとばしり、縦横無尽に駆けめぐった。

 光がおさまると、京一郎は正眼のままである。左拳で木刀をトンと叩くと、チリンと鈴が鳴り、京一郎に迫る八本の触腕の顔が次々に弾け飛び、消滅した。

 京一郎の姿が、消えた。

 

「天誅」

 

 背後からの声に神道が振り向く前に、木刀が彼の体を頭頂から股間まで透過した。

 背後に瞬間移動した京一郎の一刀で、神道もまたその場にぶっ倒れた。

 

「ほい、終わりっと」

 

 京一郎はやたら軽い声を上げると、木刀の刀身を左手で拭った。

 そして切っ先を左手のひらにあてがい、グッと押し込むと、木刀は手品のように左手の中に消えた。

 

「お、おじさん……もしかして、久我のパパさん?」

 

 投げ渡された作務衣を着るのも忘れて見入っていた葵が、恐る恐る尋ねた。

 

「もしかせんでも、憂助のパパさんよ……それより、はよ服着ないね。もうすぐお巡りさんが来るき」

「あっ、ハァーイ」

 

 葵は自分が全裸のままである事にようやく気付き、いそいそと作務衣を着る。下はほとんど隠せてないが、それでもマシではあった。

 

 探索班からの報せを元に、沢渡直也警部率いるDTSSの部隊が突入してきたのは、それから数分してからだった。

 

 

 憂助が目を覚ますと、見慣れた自宅の天井があった。

 自室の布団の上に寝かされているらしい。

 

「あ、起きたぁ?」

 

 傍らに、葵がいた。

 ベージュのオフショルダーのトレーナーにジーンズ姿で──添い寝していた。

 

「……何しよんか」

「かくかくしかじか」

「親父が助けに来てくれたんか……」

 

 自分の危機を察して、瞬間移動で駆けつけてくれたのだろうと察した。

 起き上がってみたが、体は重かった。

 

「もうちょっと寝てなよ。今パパさんがご飯作ってくれてるし」

 

 葵はそう言って憂助の肩に手を添えて、寝かせる。

 憂助はそれをはねのける気力もないようだ。おとなしく従った。

 しばし無言で天井を見上げた後、添い寝する葵を横目でジロリと睨んだ。

 

「お前、なしこげなとこおるんか。はよ帰れ。親御さんも心配しとうやろ」

「……あー、ごめ。ちょっと説明足りなかったね。あれからもう2日経ってんの。今日は日曜だし、今お昼だし」

 

 それで憂助は、窓を見た。カーテンは閉められたままだが、日中の明るい日差しがカーテン越しに差し込んでいた。

 

「そうか」

 

 それだけを言って、憂助はまた虚ろに天井を見上げた。

 

「すまんかったな」

「何が?」

「勇んで飛び込んだはいいが、結局お前を助ける事が出来んかった」

「気にしないでよ。久我が来てくれた時はチョー嬉しかったし。あの虎みたいなお化けやっつけた時とか、チョーカッコよかったし」

「それでも、最後の最後でしくったやろが」

「うーん……それは、そうだけどさ。でも、負けちゃったのはしょーがないっつーか……とにかく、アタシは久我が助けに来てくれて、マジ感謝してるから……だから、元気出してよ」

 

 葵は手を伸ばし、憂助の黒髪を撫でながら、慰めた。

 憂助の手を取り、胸元に引き寄せる。

 トレーナーの下に潜り込ませて、自慢の膨らみにあてがった。

 

「ほら、おっぱい揉ませてあげっからさ」

 

 憂助の手に自分の手を重ねて、ゆっくりと揉ませる。

 いつものように硬派を気取る気力はないらしい。

 憂助はただされるがままだった。

 そんないつにないおとなしさが、葵にはとても可愛らしく見えた。

 たまらなくなって、憂助を思いっきり抱き締める。

 

「久我、助けに来てくれて、マジありがとーね。久我がマジ強い事、アタシはちゃんと知ってるからね。だから、元気出してね……何でもしてあげるから、さ」

 

 子供をあやすように憂助の頭を撫で、葵は優しくささやき──ゆっくりと唇を重ね合わせた。



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エピソード6
サイキックソルジャー その1


 夕暮れの道場で、久我憂助は一人、一心不乱に木刀を振っていた。

 風切り音が絶え間なく響く。

 憂助の額には汗が浮かび、呼吸も荒い。

 十月の半ばを過ぎようという時期ではあったが、着ているグレーのシャツが汗を吸って変色していた。

 飛鳥竜摩に心臓を貫かれて出来た傷は、父・京一郎が治してくれたが、流れ出た血までは彼でもどうにもならなかったらしい。

 憂助の身体は今、血液が足りてない状態だった。これでは学校生活も無理だろうと判断した京一郎が、一週間ほど休ませるくらいである。

 そんな状態で稽古をすれば、汗も出るし息も乱れる。

 しかし憂助は、そんな自分の肉体にすら苛立っていた。

 

 木刀をがむしゃらに振るう間も、思い出されるのは先日の飛鳥竜摩との戦いである。

 そして思い出すだに、苛立ちは募る一方であった。

 憂助は怒っていた。

 ぶち殺してやりたいと思った。

 その思いの丈を声にして吐き出し、怒鳴り散らしたいくらいであった。

 飛鳥竜摩に対してではない。

 飛鳥竜摩に敗れた自分にでもない。

 

 峰岸葵を守れなかった、情けない弱っちい自分自身を、憂助は激しく憎悪していた。

 

「何をしよんか、お前は」

 

 呆れた声で、問い掛ける者があった。

 道場の戸口に立つ京一郎である。柿色の作務衣の下に、白い肌着が覗いていた。

 憂助は動きを止めて、息を整えてから答えた。

 

「見りゃわかるやろうが。稽古てぇ」

「どこがか。ただがむしゃらに体を動かして、自分をいじめとるだけやろが。そんなんは稽古とは言わん。そげなんするくらいやったら部屋戻って勉強せえ。もうすぐ中間テストやろも」

「知るか、ほっとけ」

「ほっとけんきこうして声を掛けようんやろが。イライラするのもわかるが、お前がそげなったんはただの自業自得やぞ」

 

 ジロリ。

 

 憂助は京一郎を睨み付けた。

 眼差しには、殺意に近い怒りがこもっている。しかし京一郎は涼しい顔で続けた。

 

「聞けばお巡りさんからも忠告されたらしいやねえか。それを無視して一人で乗り込んで、結果どうなった?」

「……峰岸は助かったやろが」

 

 憂助は吐き出すように答えた。

 

「俺がいかんかったら、どうなっとったかわからんぞ」

「そうやのう……けどそれは、結果論でしかなかろうも。しかも結果だけで言うたら、お前は結局飛鳥くんにボロ負けして、葵ちゃんは結局ピンチになって、お父ちゃん来んかったらそれこそどうなっとったかわからんぞ」

「やかぁしい! ならどげしたら良かったんか!」

「父ちゃんに一声掛けれ。そしたら一緒に行ってやったわ」

 

 京一郎の答えは、至極もっともであった。

 憂助は、その至極もっともな解答に、黙り込むしかなかった。

 どうやら、そんな事も頭に浮かばなかったらしい。

 京一郎は息子のその様子に、ただ嘆息した。

 

 一度こうと決めれば、一切の迷いもためらいもなく行動する。

 それは憂助の長所であると思っている。

 だが、長所は時に短所になる。

 困難をものともせず進もうとする姿勢は、ともすれば回避出来る危険にすら突っ込む猪突猛進でもあるのだ。

 

「自分がどんだけ考えが足りんかったか、わかったか?」

 

 憂助は、答えなかった。

 だがその沈黙が、何よりの答えであろう。

 

「わかったら、飯食え。もう晩飯出来とうぞ」

 

 京一郎はそう言って背を向けた。

 その背中に、憂助が打ち掛かった。やり場のない怒りが、そうさせた。

 京一郎はそこで、奇妙な仕草をした。

 振り向きもせず、手刀を軽く横に振ったのだ。虫でも払うような、軽い動作である。

 途端に憂助は、全身の力が抜けて、板敷きの床にぶっ倒れた。

 まるで糸の切れた操り人形の如くであった。

 

「父ちゃんに八つ当たりしてどうするんか……そこで頭冷やしとけ」

 

 京一郎は背を向けたまま言い捨てて、母屋に戻った。

 憂助はうつ伏せに倒れたまま、目に涙を浮かべていた。

 

 

 数日後の夜。

 京一郎は居間で、一人テレビを見ながら晩酌をしていた。肴は憂助が余り物の野菜で作ってくれた、かき揚げである。

 テレビはアニメ映画『天空の城ラピュタ』を放送しており、京一郎はそれを、焼酎の水割りをチビチビと飲みながら、真剣な顔で見ていた。

 

 襖が開いて、憂助が入ってきた。

 そして父の傍らに、正座する。

 

「親父。大事な話がある」

「ちょっと待て。今パズーがシータを助けるとこだ」

 

 ──いい歳してアニメ映画に熱中してんじゃねぇ。

 と言いたいのをグッとこらえて、憂助は番組がCMに入るのを待った。

 CMに入ると、京一郎は水割りを一口飲んでから、息子の方を向いた。

 

「で、どうした? 小遣いか?」

「もう一週間、学校休ませてくれ。山にこもる」

「テストはどうするんか」

 

 体調は充分に回復しているので、そちらは心配していない。

 

「補習なり追試なり受ければいいやろ」

「学生の本分は勉強ぞ?」

「俺の本分は念法だ」

「念法だけが人生でもねかろ」

「俺の人生は念法だ」

 

 ──もはや息子の中では、一週間の山ごもりは決定事項のようである。

 京一郎は嘆息した。

 チラリと、仏壇に飾ってある妻の遺影を見やる。

 憂助を生んですぐに病気で亡くなった最愛の妻は、写真の中で柔和な笑みを浮かべていた。

 

「……まぁ、知らん内に家飛び出されるよりはマシか。わかった。学校には父ちゃんから言うとこう」

 

 憂助は父に、深々と頭を下げた。

 翌朝、既にまとめてあった荷物を持って家を出た。

 

 荷物と言っても、リュックサック一つである。

 中身は、暖かいお茶の入った水筒、コップと飯盒、替えのシャツとパンツを一枚ずつとタオル、非常食代わりの板チョコ一枚、そして祖父が小学校入学祝いに買ってくれて以来愛用している、アーミーナイフだ。

 

 仏壇に線香を上げて、父に一声掛けてから、憂助はさっさと出て行った。

 

 家の前の山道をしばらく上り、道の脇の森の中に入り、どんどん奥へと進んでいく。

 勾配はきつく、木の根が盛り上がって、地面もデコボコしている。

 しかし憂助は慣れたもので、ズンズン進んで行った。

 やがて尾根を越えて、今度は斜面を下り、谷川に出ると、その川をスタスタと上っていった。

 目指すは上流にある滝。

 小学生の頃は父と二人で、中学生になる頃には一人で、月に一度はそこで二泊三日の山ごもりをしているのだ。

 いつもならちょっとしたリフレッシュ休暇のようなものだが、今回は自分を鍛え直すためのものである。川を遡って歩く憂助の表情は、険しかった。

 

 

 その力に気付いたのは、十歳の頃だった。

 意識を集中させると、目の前の物を動かす事が出来た。

 目を凝らせば、障害物を透かしてその向こうを見る事が出来た。

 耳をすませば、相手の今考えている事を聞き取れた。

 力は徐々に強くなっていき、動かせる物は大きくなり、一度にたくさんの物を動かせるようにもなった。

 目を閉じれば、まぶたの裏に遠くで起きている出来事を映し見る事が出来るようになった。

 やがて、集中する事で数秒から数十秒先の出来事を見聞き出来るようになった。

 行きたいと念じれば、遠く離れた場所へも行けた。しかしこれは、知っている場所や知っている人の元に限られた。

 

 楽しくてたまらなかった。

 漫画やアニメでしか見られない力が自分の中にあり、自由自在にコントロール出来るのだ。

 そしてこの力は、父親の命令で習わされていた剣道にも応用出来た。

 相手がどこにどう打ち込むのかが、事前にわかる。

 相手の竹刀の軌道を逸らす事も出来る。

 目線を合わせれば、一瞬だけだが金縛りに掛ける事も出来た。

 もはや向かうところ敵なし。

 文字通りの無敵。

 

 彼はこの力を、もっともっと極めたいと思った。

 中学生になる頃には、その辺の柄の悪い連中に見境なしに喧嘩を吹っ掛けて、力を応用して相手を叩きのめす。

 高校生やそれ以上の相手だろうが、大勢いようが、武器を持っていようが、まったく問題にならなかった。

 周囲の人間はそんな彼を恐れ、距離を置き始めた。

 両親ですら、怪物でも見るかのような視線を向けてくる。

 だが、そんな事は彼にはどうでも良い事で、この力をどこまで極められるか、ただそれだけを考える日々であった。

 

 高校生になったある冬の夜の事だ。

 彼は二つの人影が部屋に忍び込み、一人が持っていた包丁で自分を刺す様を夢に見た。

 目を覚ました瞬間、それはただの夢ではないと直感で思い、木刀を手にクローゼットの

中に隠れた。

 木刀は反りの強い長尺の物である。

 そして力を使って、ベッドの上の毛布を持ち上げ、あたかも誰かが毛布にくるまって寝ているように見せ掛けた。

 それから数秒ほどで、部屋のドアが開き、二つの人影が入ってきた。

 そして夢で見た通りに、一人が持っていた包丁を毛布に突き立てる。

 瞬間、彼はクローゼットから飛び出し、その影の胸を木刀で突いた。

 力で加速を付けた一突きは、相手の胸を貫いた。

 胸から抜いた木刀で、もう一人の首筋を打つ。

 骨の折れる感触がした。

 灯りを点けて賊の顔を確かめると、それは両親であった。

 驚きはしたものの、罪悪感はなかった。

 常日頃から、力を捨てて普通に生きるべきだと口うるさくわめいていた二人である。

 いい加減煩わしくなって、実力を行使した。SF映画『スターウォーズ』のキャラクターがやるように、手から放出した力で両親の首を締め上げ、宙に浮かせ、壁に叩きつけたのだ。

 それだけで彼等はおとなしくなったが、完全に心から屈服した訳ではない事を、彼は感じ取っていた。

 いつかこうなるだろうと思っていた事が、思いの外早く起きた。

 彼にとっては、ただそれだけであった。

 

 彼は夜が明けぬ内に、姿を消した。

 

 それからは、力を振るう場所を求めてさすらい続けた。

 暴走族の溜まり場やヤクザの事務所に殴り込みを掛けた事もある。

 自分を轢き殺そうとする車を、木刀の一撃でひっくり返した。

 ヤクザの撃った銃弾の動きがゆっくりと見えて、木刀で払い落とす事も打ち返す事も出来た。

 

 誰もが彼を恐れたが、中には用心棒として雇う者もいた。

 そうやって、自得した超能力剣法に磨きを掛けながら凶剣を振るう内に、いつの間にか、誰からともなく彼──飛鳥竜摩(あすかりょうま)を、こう呼ぶようになった。

 

 超能力戦士(サイキックソルジャー)と。

 

 やがて飛鳥竜摩は、天来教団(てんらいきょうだん)なる宗教団体に雇われる事となる。

 それまでも、それからも、己れの中にある力こそが彼の全てだった。

 だが今、飛鳥竜摩は暗闇の中にいる気分だった。

 向かうところ敵なしであった自分の力が、それを活かして実戦で磨き上げた超能力剣法が、まったく通用しない相手が現れたのだ。

 それどころか、そいつの一撃で、自分の力が封じられていた。

 見えていた物が見えず、聞こえていた声が聞こえず、行きたい所にも行けない、ただの人間にされてしまったのである。

 警視庁DTSSが所有する、異能力者用の収容施設の独房内で、飛鳥竜摩は胸の内で静かに、憎悪の炎を燃えたぎらせていた。

 

 座禅を組み、瞑想をする。

 自身の体感や、書物やインターネットで得た知識によると、体の中にいくつかの、力を開放するための“門”がある。

 今はこれが完全に閉じられているため、力を発揮出来ないのだ。

 その“門”を開かない事には、かつての力は取り戻せない。

 そしてそれは、彼にとっては死んだも同然である。

 瞑目すると、まぶたの裏にあの男のとぼけた顔が浮かび上がる。

 

 久我京一郎。

 

 戦いの中で心を読み、名前を知る事は出来た。

 何としても力を取り戻し、奴を殺さなくてはならない。

 この力こそが自分の全てである。

 それを真っ向から打ち破り、封印までした男。

 奴の存在を許す事は、自分の人生を、存在意義を否定するのも同然である。

 久我京一郎だけは許してはおかぬ。

 久我京一郎だけは殺さねばならぬ。

 奴の心臓を貫き、物言わぬ屍にする事を夢見て、飛鳥竜摩は力の回復に専念していた……。

 

 

 山ごもりを始めて二日目。

 憂助は川の中に入り、水浴びをしていた。

 陽は中天に届こうとしているが、十月の半ばを過ぎる頃である。川の水は肌に冷たすぎるはずだが、憂助の表情は、とてもそんな風には見えない。

 川から上がった少年の裸体からは、湯気さえ立ち上っていた。

 川辺に置いてあったタオルで体を拭き、肌着と学校指定のジャージを着ると、そばに突き立ててあった愛用の木刀を手に取り、素振り稽古を始めた。

 打ち下ろし。

 横薙ぎ。

 斬り上げ。

 突き。

 これらを百本ずつ。

 それが終わると、持ち手を替える。

 普段は利き手の右手を上に、左手を下にして柄を握るが、これを入れ換えるのである。

 そうやって、また同じメニューを繰り返す。

 そうして素振り稽古を終える頃、細木と枝葉で組み上げたテントの傍らに、京一郎の姿を見た。瞬間移動で来たのだろう。枯れ草色の作務衣姿で、手頃な石に腰掛けていた。

 

「ほれ、差し入れ」

 

 そう言って小さな風呂敷包みを差し出す。中は三つの握り飯とたくあんが詰め込まれたタッパーだった。

 

「すまん」

 

 憂助はそう言って受け取り、ちょうど昼食にしようと思っていたところなので、その差し入れをパクパクと食べ始めた。

 

「時に憂助よ。お前、意外とモテるごとあるのぉ」

「はぁ?」

「昨日葵ちゃんだけやねぇで、他にも三人、女の子が見舞いに来たぞ。葵ちゃんと一緒に」

「そりゃ峰岸の友達だ」

「いやいやいやいや、家から学校までは普通やったらバスを二、三回くらい乗り換えなならんとに、友達っちだけでわざわざついて来んやろ。それと、お前んクラスの担任の先生、男やったよな?」

「ああ」

「葵ちゃんたちだけやねえで、なんか女の先生も見舞いに来たぞ。髪の長いで胸の大きい別嬪さんやったのぉ」

 

 ──富士村先生か。

 

 憂助はすぐにそう思った。

 一学期のストーカー幽霊の一件以来、彼女から声を掛けてくる事が増えた──ような気がする。

 

「イケイケなギャル四人に女教師までたらし込むとか、お前も隅に置けんのぉ」

「張っ倒すぞ」

 

 憂助は声にめいっぱいドスを効かせたが、京一郎はどこ吹く風である。

 

「それはともかくとして、今日は一つお前に新しい事を伝授しちゃろうと思ってな」

「ならいらん話せんで、最初からそう言えや」

「まぁまぁ、いいから聞け。そもそもお前と飛鳥くんは、出せる力、念の強さにはほとんど差はない。なのにお前は負けた。何故(なし)かっち言うたら、それはお前の気の持ちよう、心の在り方にある」

「…………?」

 

 言われても心当たりがなく、憂助は首を傾げた。

 

「お前は葵ちゃんを守らなならんと気負っとったし、たぶん同じ念法使いを相手にして『えぇくそ、負けてたまるか』と思ったんやねぇか?」

「……まぁの」

「そのせいで、お前の心にいらん力みが生まれた。心の力みは念の純度を曇らせる。心気清爽であってこそ、念法はその本領を発揮する。お前はそれが出来んかったき負けた──いいか、飛鳥くんがお前に勝ったんやねえぞ、お前が飛鳥くんに負けたんぞ。父ちゃんの言いよう意味、わかるな?」

「ああ。で?」

 

 憂助は苛立たしげに、続きをうながす。

 

「そこでお前に授けるのが、風水だ」

「占いに興味はねえ」

「いやいやいやいやいや、そっちやねえ。読んで字のごとく風と水。そよぐ風やせせらぐ水、それらの音を聞き取る心の在り方の事てぇ」

 

 言われて、憂助はなるほどと納得した。

 戦いの中でもそういった音を聞き取れるほど心が落ち着いていれば、どんな状況にも冷静に対処出来るだろう。

 

「本当は毎日の稽古を通して、ゆっくり会得してほしかったけどの……一週間も学校ずる休みするんやき、何か一つは覚えてもらわんとの。そういう訳で、しばらくお前の眼を没収する」

「は?」

 

 意味がわからず、憂助が間の抜けた声を上げた。

 同時に京一郎が、彼の眉間を人差し指で軽く突いた。

 途端に、憂助の視界が白くぼやけていき、たちまちの内に、眼に磨りガラスを嵌め込まれたかのように、何も見えなくなった。

 

「くそ親父ぃ!」

 

 憂助は咄嗟に木刀で父に打ちかかる。

 しかし京一郎はすでに目の前にはいない。横に身をかわしていた。

 

「眼に頼るな。静かで落ち着いた心で、風水を聞け。天然自然に身を委ねろ」

 

 京一郎はそう言い残して、空になったタッパーと風呂敷を回収して、瞬間移動で立ち去った。

 

「くそ親父……こんなんで、どげせぇっちゅうんか……!」

 

 念法修行で音を上げた事は一度もなかった憂助だが、今回ばかりは頭を抱えたい気分だった。



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サイキックソルジャー その2

 自宅の庭で、久我京一郎はパンツ一丁で水垢離(みずごり)を行っていた。

 ただでさえ冷水が身に染みる時期である。加えて、時刻は午前四時。辺りはまだ真っ暗だ。

 にも関わらず、京一郎は庭の水道から洗面器に汲み上げた水を、何度も頭から被り、一心不乱に祈っていた。

 何を祈っているのか──それは息子憂助の無事だけであった。

 

 京一郎の中には、常に真摯な想いがあった。

 憂助には、念法などどうでもいいから、ただ健やかに育ち、清らかに生きていてほしい。

 息子が望み、そして今も熱心に学んでいるから念法を教えてはいるが、もしも息子が

 

「飽きたしつまんないし、女の子にモテる訳じゃないからもうやーめた」

 

 と言ったら、それでおしまいにするつもりである。

 久我流念法が自分の代で絶えてしまう事になるが、それがどうした。糞食らえだ。そんな風にすら思っている。

 念法だけが人生ではないのだ。人生のために念法があるのであり、念法のために人生があるのではない。

 同時に、それとは矛盾する願いがあった。

 憂助には、自分や父以上の念法家として大成してほしい。親馬鹿は百も承知だが、御本家の当主や開祖・結城伯舟(はくしゅう)とも比肩し得る逸材だと思っている。

 今回の山ごもりの際、風水の心得を会得させるため念を打ち込み視覚を封じたのも、そんな期待あればこそであった。

 それでも、家に帰ってから『ちょっとやり過ぎたかな……やり過ぎたかも……』と一人後悔した。

 そして毎朝、陽も上らぬ内から息子の無事だけを祈り、柄にもなく水垢離などやっているのだ。

 

 

 京一郎は兼業農家である。

 農業の他に、道の駅の片隅で小物屋を営んでいる。

 

《まよひが》

 

 と書かれた看板を掲げたプレハブ小屋がそうで、『まよいが』と読み、山の中の怪異の一つである『迷ひ家』の事だ。

 その隣に、短い渡り廊下で繋がったもう一軒のプレハブがある。そこは京一郎の工房で、そこで作った置物やアクセサリーを隣の店舗で販売しているのだ。

 今日は定休日だが、京一郎は隣の工房にこもり、品物を作っていた。竹製の鳥笛、木製の独楽や起き上がりこぼしなどだ。

 時刻は午後五時。

 時間を報せる音楽が辺りに響く中、工房の出入口のサッシがカラカラと開かれた。

 夕陽が、京一郎の足下にまで来客の影を伸ばす。

 

「おう」

 

 来訪者を見て、京一郎は声を上げた。

 黒いロングコートを着込んだその男は、右手に反りの強い長尺の木刀を携えている。

 飛鳥竜摩であった。

 

「久しぶりやね、飛鳥くん」

「……どこで、俺の名を?」

「お巡りさん」

「ああ」

 

 DTSSの刑事たちかと、納得した。

 

「しかし、ずいぶん早いこと出られたね」

「あの程度のセキュリティでは、俺を閉じ込めておく事など出来ん」

「うん、そう思っておいちゃんは君の力を封じたんやけどね」

「それも、自力で解除した」

「ほっ」

 

 京一郎の声音が弾んだ。

 飛鳥竜摩に放った『吹毛』の一太刀で、彼の体内の全てのチャクラを封印し、二度と開けぬようにした。

 彼はその封印を、わずか二週間足らずで解いたという。

 その力量に、心から感心したのだ。

 

「哀しいねぇ」

「何がだ」

「それだけの力を、世のため人のために役立てないだけならまだいい。カルト宗教の用心棒なんぞやって殺し屋の真似事に使いようのが、哀しい」

「俺の力だ。どう使おうと俺の自由だ。それに、説教など聞くつもりはない。表に出ろ」

「なしかい」

「知れた事。この前の続きだ」

「おいちゃん忙しいんよ。また今度にして」

 

 京一郎はつれない返事をして、手にしている木片を紙ヤスリで磨き始める。厚い木の板を切り出して作った、小鳥の置物である。

 

「……嫌だと言うなら、貴様の息子を殺すぞ」

 

 飛鳥竜摩の言葉に、その手が止まった。

 

「奴も多少は使えたが、俺の敵ではない。殺そうと思えばいつでも殺せる。今すぐにでもな」

 

 飛鳥竜摩の言葉に、京一郎は眉間にシワを寄せた──かと思えば、ハァ~ッとこれ見よがしに大きな溜め息をついた。

 

「君は、いつの話をしよるんかね」

「なに?」

「男子三日会わずんば刮目して見よ、と昔の人も言うとる。ましてやあれから二週間近く経っとる。そげな大昔の憂助に勝ったくらいでいい気になられちゃたまらんばい。大口叩くのは、今の憂助に勝ってからにしてもらわんとね……そもそも、憂助は確かに君に負けたが、君が憂助に勝った訳やない。その辺から、君は勘違いしとうごとあるね」

「あの時の奴が、本気ではなかったと言うのか」

「君は憂助一人に集中出来た。憂助は君一人に掛かりきりになる訳にはいかんかった。あん時の憂助はお姫様を守らなならんかったきね。その時点で、あれがどこまで真っ当で公平な勝負やったかはわからんと思わんかね? 君に有利な条件で君が勝つのは当たり前。何の自慢にもならん。おいちゃんと戦いたかったら、まずは本当の意味で憂助に勝ってからにしてもらわんとね。それが出来たら、また稽古付けちゃろう」

「……良かろう」

 

 飛鳥竜摩は木刀をコートの袖にしまい込み、クルリと背を向けた。

 

「そんなに息子を殺してほしいと言うのなら、喜んで殺してやる──貴様の息子の首を手土産に、また戻ってくるぞ」

「期待せんで待っとるよ、頑張んないね」

 

 京一郎はその背中にヒラヒラと手を振って、見送る。

 それから工房の中を片付けて戸締まりをし、軽トラに乗って帰宅する。

 居間に入ると、棚に飾ってある妻の遺影の前で、深々と土下座した。

 

「すまん、小百合さんッッ!! つい勢いでやっしもたッッ!!」

 

 飛鳥竜摩に憂助を侮辱されて、つい負けん気と親馬鹿からあのような挑発をしてしまったようだ。

 憂助の視覚を封じた時といい、意外と面倒くさい男である。

 

「で、でもまぁ、憂助もそろそろ風水を聞けるようになっとうやろうし、俺と小百合さんの子供やき大丈夫大丈夫!」

 

 それは亡き妻への弁明というより、自分自身に言い聞かせているかのようだった……。

 

 

 夕焼けが辺りを朱色に染める、山中の草原。

 久我憂助はそこにいた。

 タオルで目隠しをしている。

 父の念で視覚を封じられ、何も見えない状態は依然続いている。目隠しは、転倒して木の枝や尖った石で眼を傷付けるのを防ぐための物であった。

 顔には、これまでに何度も転んだとわかる、たくさんの小さな擦り傷が見受けられた。

 ジャージの上を脱ぎ、上半身を裸にしている。腕や胸にも、転倒して出来た擦り傷や痣があった。

 

 草原にはたくさんのトンボが群れをなして飛んでいる。

 

 憂助はその中で木刀を振るっていた。

 狙いは、周囲を飛び交うトンボである。

 しかし打ち殺したりはしなかった。

 紙一重で木刀を外し、その太刀風で以てトンボを気絶させているのである。

 憂助には、トンボの位置や軌道が正確にわかった。

 トンボ一匹一匹の羽音も、冷たい秋風も、風に吹かれる草のざわめきも、どれも正確に聞き取れていた。

 他の音に紛れて聞き取れない音など、何一つとしてない。

 嗅覚も鋭敏になっていた。

 そして、皮膚の触覚も。

 トンボの移動によって発生する、かすかな空気の揺らぎすら、今の憂助にはハッキリと肌で感じ取る事が出来た。

 視覚以外のあらゆる感覚がもたらす情報を、脳が瞬時に処理して、周囲のロケーションをくっきりとイメージさせている。色まではさすがにわからず、白黒のイメージでしかないが、盲目というハンディキャップは半ば以上、その意味をなくしている。

 木刀を紙一重で外す事が出来るのも、そのためだった。

 これが父の言う風水なのか、実を言うとわからない。

 ただ、世界にはたくさんの音や匂いが溢れており、それだけたくさんの命が溢れているのだとわかった。

 最初は悲嘆にくれていたが、今では気持ちもすっかり落ち着いている。自分自身が戸惑うほど静かで、澄みきっていた。

 

 やがてトンボが、一匹もいなくなった。全て憂助に打ち落とされたのだ。

 憂助は木刀を正眼に構えた。

 

「エヤァッ!」

 

 構えたまま気合いを発すると、気絶して地面に落っこちていたトンボたちが一斉に目を覚まし、飛び立っていった。何とも不思議な光景であった。

 

 不意に憂助は、目隠しの下で眉根を寄せた。

 ここから百メートル先に滝があり、そこが憂助の山ごもりの拠点である。

 その拠点に、人の気配を感じたのだ。

 覚えのある気配である。

 憂助は拠点に向かって瞬間移動した。

 

「……戻って来たか」

 

 来訪者の声が、憂助の耳を打った。

 来訪者は、飛鳥竜摩であった。

 憂助の五メートル前方、草木で組んだテントのそばに立っていた。

 

「おう、久しぶりやのう。聞いた話じゃ少なくとも二、三十年は出れんやろうっち事やったが、脱獄か」

「そうだ。貴様の父親への雪辱を果たすために、な……だが奴は、俺が怖いらしい。まずはお前を殺してからもう一度来いと言っていた。貴様も、ずいぶんひどい父親を持ったものだな」

「忠告しといてやるが、うちのバカ親父の話いちいち真に受け取ったら身が持たんぞ」

「いずれにせよ、奴と戦うためにはお前の首が必要だ。もらっていく」

 

 飛鳥竜摩は言うなり、左の袖口に手を差し込んだ。

 引き抜かれた手には、反りの強い長尺の木刀が握られている。それを正眼に構えた。

 

「欲しけりゃ持ってけ──取れたらの話やけどの」

 

 憂助は、木刀を八双に掲げる。

 飛鳥竜摩が尋ねた。

 

「目隠しは取らなくていいのか?」

「はぁ?」

「それとも、負けた言い訳が欲しいのか? 死んでしまえば意味のない事だがな」

「さっきから何を言いよんか──あっ」

 

 そこで憂助は、間の抜けた声を上げた。

 

「そうやった、目隠ししとったんやった……忘れとったわ」

 

 白黒の世界に慣れて、冗談でも何でもなく、今タオルで目隠しをしているという事を忘れていた。

 木刀を下ろし、左手で後頭部の結び目をほどきに掛かる。

 そこへ、飛鳥竜摩の木刀が槍のように突き出された! 五メートルの遠間を瞬時に詰めての、強烈な一突き!

 それが憂助の胴体を貫いた──かに、見えた。

 だが憂助は、横に移動してその突きをかわしていた。

 

「ほれ」

 

 そして左手の、ほどいたタオルを飛鳥竜摩の顔に投げつける。タオルは生き物のように彼の顔に巻き付き、目を塞いだ。

 そこへ憂助が、木刀で軽く胸を突いた。

 否、『突いた』というより『押した』と言った方がいいだろう。

 にも関わらず、飛鳥竜摩の体は大きく後ろへ吹っ飛び、川の中に落ちた。

 飛鳥竜摩は立ち上がり、顔にまとわりつくタオルを剥ぎ取って投げ捨てた。

 

(確かに、以前とは違うようだな……)

 

 だが、自分とて前回全ての力を見せた訳ではない。

 飛鳥竜摩は木刀を川の水に浸け、目を閉じて精神を集中させた。

 川の水が、徐々に集まっていき、轟音を上げ、水柱となって噴き上がった。その水柱は形を変え、龍となって憂助に襲い掛かる!

 憂助はテントのそばにある、石を組んで作ったかまどの中に木刀を突っ込んだ。

 その中には、灰の下でまだ種火がくすぶっている。

 念を使ってその種火の火勢を強める。

 憂助が木刀を振り上げると、火柱が上がった。それが炎の龍となって、飛鳥竜摩が生み出した水の龍とぶつかり合った。

 二頭の龍は互いに身を絡ませ合い、最後には空中で水蒸気爆発を起こし、消滅した。

 

「やるな……なら、これはどうだ?」

 

 飛鳥竜摩が木刀で天を指し示すと、それが合図であったかのように、憂助の周囲の川原の石が一斉に宙に浮かび上がった。

 サッと木刀が振り下ろされると、石が一斉に憂助目掛けて飛来する。360度全方位から迫る、石の弾幕!

 憂助は木刀で、足下にあった小石を突いた。

 跳ね上がった小石が、飛んでくる石にぶつかる。

 ぶつかった石が軌道を変えて別の石に当たり、その石もまた軌道を変えて別の石にぶつかる──そんな連鎖反応が次々と起こり、憂助の頭上や後方にまで瞬く間に広がっていき、ついには全ての石が互いにぶつかり合って砕け、地面に落ちた。

 飛鳥竜摩が木刀を顔の前に立てた。

 

 ガツッ!

 

 乾いた音を立てて、石がその長尺の刀身にぶち当たった。一つだけ、彼の方へ飛ぶように調節されたのだ。

 

「俺の首が欲しかったんやねえんか。手品はいいき、さっさ取り来いや」

 

 憂助は木刀で自分の首筋をトントン叩き、挑発する。

 

「ガキが……」

 

 飛鳥竜摩は唸るように呟き、川原に上がった。

 木刀を中段霞に構え、憂助と対峙する。

 

「もう一度、その心臓に風穴を空けてやる」

「やってみろや」

 

 憂助もまた、中段霞に木刀を構えた。

 

 両者、同じ構えで相対したまま、動かない。

 

 数秒後、飛鳥竜摩が動いた。憂助の心臓目掛けて、電光石火の突きを打つ!

 憂助も、全く同じタイミングで動いていた。

 技も同じ突き。

 両者の木刀の切っ先が、激しくぶつかり合った!

 飛鳥竜摩の体が、後方へと吹っ飛ぶ。ほんの一メートルほどではあるが、それは彼が力負けした証拠であった。

 

「馬鹿な……この俺が、貴様ごときに……!」

 

 一度は苦もなく倒した相手である。久我京一郎の助けがなければ、そのまま死んでいた相手である。

 その相手に、今自分が押されていた。

 わずか二週間足らずで、前回戦った時とは全く違っている。

 

「男子三日会わずんば刮目して見よ、か……なるほど、認めざるを得んようだ。だがな、それでも貴様は、俺には勝てん」

 

 飛鳥竜摩は木刀を顔の前に立て、目を閉じて精神を集中させた。

 全身からユラユラと陽炎めいた光を立ち上る。

 そして彼の両隣に、全く同じ姿、全く同じポーズの飛鳥竜摩が現れた!

 更にその数は増えていき、ついには十三人の飛鳥竜摩が、憂助を取り囲む!

 

「さぁ、これはどうかわすかな」

 

 十三人の飛鳥竜摩が、木刀を霞に構えた。その動きは、申し合わせたように全く同時であり、次に来る攻撃も、ほんのわずかなズレもなく同時に、全方位から繰り出される事だろう。

 多方向からの攻撃は、あらかじめタイミングを合わせない限り必ず一人一人遅い・速いの違いが出る。その違いが囲みを抜ける隙となるが、これにはそんな隙などない。

 十三人の飛鳥竜摩は、口許に勝利を確信した笑みを浮かべながら、同時に突きを放った。

 しかし憂助、何を思ったか、それには構わず頭上目掛けて木刀を投げた!

 

「ぐおっ!」

 

 呻き声が頭上で聞こえたと同時に、憂助を囲んでいた十三人の飛鳥竜摩が一斉に消え失せた。

 直後、憂助の背後に何か黒い物が落ちてきた。

 それは飛鳥竜摩。

 幻覚を見せて憂助の注意を引き付け、自分は瞬間移動で憂助の頭上から攻撃を加えようとしていたのである。

 

「な、何故本物の俺の位置がわかった……」

「本物のって……なんか、俺に目眩ましでも掛けたんか。あいにくと俺は今、目が見えんきの。そんなん効かんわ。お前の気配が上に飛んだき、そこを狙っただけてぇ」

「は?」

 

 飛鳥竜摩は、間の抜けた声を漏らした。

 彼の目の前で、憂助が右手を横に伸ばす。

 先程投げつけた木刀が、その手の中に落ちてきた。

 

 目が見えない?

 いや、そんなはずはない。

 目が見えない人間の動きではなかった。

 目が見えない奴に、自分の突きに正確に同じ突きを合わせるなど、出来るはずがない。

 目が見えない奴に、落ちてきた木刀をキャッチするなど、出来るはずがない。

 

 飛鳥竜摩は狼狽した。

 だが、それが本当だと言うのなら、まだやり様はある。

 飛鳥竜摩は木刀で地面を打った。

 

 ドォォオオオンッ!

 

 激しい音が鳴り響き、舞い散った土砂がパラパラと降り注ぎ、辺りは無数の雑音に包まれる。

 その隙に、飛鳥竜摩は憂助の背後から間合いを詰め、突きを放った。

 目が見えないと言うのなら、今奴は聴覚を頼りにしているはずだ。自分の動く音を、土砂が降り注ぐ音で掻き消せば、何も出来まい……!

 事実、憂助は動かない。

 飛鳥竜摩は今度こそ、勝利を確信した。

 瞬間、憂助の姿が消え、突きは虚空をむなしく貫いた。

 同時に、何か熱いものが自分の胴体を横一文字に透過するのを感じた。

 憂助が振り向きながら身を沈め、木刀で飛鳥竜摩の胴体を薙いだのである。

 土砂が全て落ちきって、辺りを静寂が包んだ。

 飛鳥竜摩は、突きを打った体勢のまま、意識の糸を断たれ、そのまま地面に崩れ落ちた──。

 

 

 憂助は近くの森から切り取ってきた蔓で、飛鳥竜摩の手足を縛った。

 後は父の元へ瞬間移動で連れていき、彼の力を再度封印してもらった後、DTSSに引き渡せばいい。

 

「…………?」

 

 不意に憂助は、鼻をヒクヒクとさせた。

 雨の前触れのように、空気の湿り気が増した。

 皮膚感覚で、霧が出たのがわかる。

 周囲がたちまち、乳白色の幕に覆われた。

 その濃霧の向こうから、音がした。

 鎧兜に身を包んだ者の足音である。

 やがて、足音の主が憂助の前に姿を見せた。

 平安時代よりも前の古い甲冑で武装した戦士である。両手で矛を携えている。

 しかし、大きい。身の丈は三メートルにも達していた。

 兜の下の顔はミイラめいて干からびて、ルビーを埋め込んだような赤い眼が爛々と輝いていた。

 その巨人戦士が、憂助目掛けて矛を突き出した。

 憂助は跳躍してかわすと、矛の柄を踏み台にして更に跳躍、巨人を大上段からの打ち下ろしで、真っ二つに切り裂いた。

 憂助が着地すると同時に、巨人は幻のように消え去った。

 濃霧もまた、現れた時と同様に突如消え去った。

 ──飛鳥竜摩の姿も、消えていた。

 巨人がいた場所に、真っ二つに切断された紙人形が一つ、落ちていた。手のひら大の大きさでしかない、ちっぽけな物であった。

 

(逃げられたか……)

 

 恐らく、あの霧や巨人は、憂助を引き付ける囮だったのだろう。

 しかし、憂助が巨人を撃退するのにわずか数秒しか掛かっていない。その間に飛鳥竜摩を連れ去るとは、何者かは知らぬが、大した手際の良さであった。

 憂助はただ、口をへの字に曲げるしかなかった。

 

 

 月曜日。

 京一郎の打ち込んだ念も消えて視覚を取り戻した憂助は、学校へ続く道を歩いていた。

 

「久我、おはよー」

 

 その背中に、峰岸葵が声を掛ける。ギャル友トリオも一緒だ。あっという間に、憂助は四人のギャルに囲まれた。

 葵が憂助の右腕に自分の腕を巻き付け、101cmの爆乳を押し付けて来た。

 

「久我ぁー、二週間もガッコー休むとかひどくない? アタシらマジ寂しかったんだからぁー。お見舞い行ってもいなかったしぃー」

「知らんわ」

「パパさんからお爺ちゃんとこでセーヨーしてるとか聞いてたけどさ、何かお土産とかないの?」

 

 芦原麻希が厚かましい事を言ってくる。

 

「ねぇよ。じいちゃんとこは別に観光名所でも何でもねぇ」

「ちぇー、つまんないの」

「まぁアンタがマジ元気になったみたいで、マジ良かったよ」

「ウチらも心配したんだからね?」

 

 柳沢美智子と林田恭子が口々に言った。

 

「おう、そらすまんかったの……なんか」

 

 二人に謝り、じっとこちらを見つめる葵をジロリと睨む。

 

「なんか久我さぁー、雰囲気変わってない? なんか前より落ち着いた感じってゆーか」

「知らんわ」

「……まさかアンタ、誰かとヤったの?」

 

 葵の一言に、ギャル友たちも顔色が変わった。

 

「マジで? 誰とヤったの?」

「アンタのドーテーはウチらがもらう予定なのに!」

「ひょっとして風邪で休んだのも嘘で、その女のとこに入り浸ってたとか?」

「もしかして静流センセー? センセー前からアンタの事狙ってるっぽかったし!」

 

 ギャルたちは目の色を変えて騒ぎ立てる。

 いい加減うっとうしくなってきた憂助は、一声怒鳴り付けてやるべく、大きく息を吸った──。

 

 



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エピソード7
学校の幽霊 その1


 放課後。

 久我憂助は教室に残っていた。

 他に生徒はいない。みんな部活に行くか下校するかしており、彼一人だ──生徒は、だが。

 教室にはもう一人、女性教諭がいた。教卓に両肘をついて、憂助を見つめていた。

 国語の担任である富士村静流である。

 中間試験を休んだ憂助は、放課後に追試を受けており、今日は国語の追試をやっているのだ。彼以外に受ける者はおらず、静流は二人きりになれた事をちょっぴり喜んでいた。

 憂助は黙々と問題を解いている。静流の視線に気付いているのかいないのかは、わからない。

 問題を全て解き終えると、席を立ち、静流に手渡した。

 

「じゃ、失礼します」

 

 憂助はそう言ってペコリとお辞儀すると、机の横のフックに掛けていた鞄を肩に下げる。

 

「ま、待って久我くん!」

 

 静流が慌てて呼び止めた。

 

「はい」

「あ、あの、明日は土曜日でお休みでしょう?」

「ええ」

「良かったら、ちょっと付き合ってもらえないかしら」

「……何ぞ厄介事ですか?」

「そうじゃないけど、その……」

 

 静流は言い淀んだ。教師と言う立場にいる者が、このような事を口にしていいのかどうか……しかし、これは何のやましい事でもない、人として当たり前の事なのだと自分に言い聞かせた。

 

「この前あなたに助けてもらったのに、未だにちゃんとしたお礼が出来てないでしょう? だから、そのお礼がしたいから、その、一緒にお食事とか、どうかなって……」

「お構い無く」

 

 憂助はつれない返事である。

 静流は一瞬心が挫けそうになったが、ある程度は予想していた事でもあった。

 

「で、でも、もうお店にも二人分の予約を入れてあるし……」

 

 そう言うと、憂助は口をへの字に曲げる。相手の意志も確認せずに予約を入れるのは、大人としてどうなんだという思いがある。ちょっと文句の一つも言ってやろうと口を開きかけたその時──、

 

「そこのお店、ステーキハウスなんだけど、お肉がとても美味しくて、先生のオススメなの」

「明日の何時に、どこ集合ですか?」

 

 憂助はそう尋ねてしまったが、何の後悔もなかった……。

 

 

 翌日。

 時刻は午後8時。

 憂助と静流は食事を終えて、夜の町を並んで歩いていた。

 

 憂助はジーパンと長袖Tシャツにマウンテンパーカー。

 静流はレザーパンツとニットセーターの上からコートを着ている。

 

 家ではまず食べる機会のない大きな肉に存分にかぶりつけたおかげか、憂助の表情は明るい。この少年には珍しく、明確に『今とても機嫌が良い』とわかる。

 静流はそんな教え子の腕に自分の腕を絡ませたい衝動に何度も駆られて、その度にそれを抑え込んでいた。

 今夜の食事は、あくまでも命の恩人への感謝の印であり、それ以上の深い意味はないしあってはならない。憂助に抱いている特別な感情を自覚しつつも、それはただの気の迷い、いわゆる『吊り橋効果』に過ぎないのだ。心の中で、そう自分に言い聞かせて。

 

(仮に付き合えたとしても、どうせ長続きなんてする訳ないんだから……)

 

 何せ自分たちは教師と生徒の関係だ。その立場の違いは憂助が卒業してしまえば問題ないが、彼はまだ高校一年生。それまで彼を繋ぎ止めていられるとは思えない。教師というのは休みの日も結構忙しい。恋人同士の時間が取れなくなれば、憂助の心が離れていってしまうのは火を見るより明らかだ。

 年齢差もある。自分は今25歳で、憂助がもう16歳になったと仮定すれば9歳差、まだならば10歳差となる。『育った文化が違う』というフレーズが出てきてもいい年齢差だ。話題や趣味が合うとは思えない。

 ──いっそ肉体(からだ)で誘惑して関係を持とうかとも、考えない事もなかったが、考えた次の瞬間には、自分でも『ないな』と思った。体つきに自信はあるが、年下とはいえ男性を押し倒すなど、到底出来ない。

 何よりも一番の問題は、憂助本人である。あの事件以降、こちらから積極的に話し掛けて来たものの、彼の態度は素っ気ないものであった。

 

(やっぱりこの子にとって、私はただの一教師にしか過ぎないのよね……)

 

 認めたくはないが、そのように思えてしまう。

 考えれば考えるほど見込みがなさそうで、やはりスパッと諦めるのがお互いのためだと思う。

 だが、しかし。

 やはりこの胸の内の想いは消し難かった。

 助けられた後、つい感極まって憂助に抱きついてしまったが、その時感じた少年のたくましい肉体の感触が忘れられず、思い出す度に全身が熱く、甘くうずいてしまう。

 今がまさにそうで、隣を無言で、しかし上機嫌で歩く生徒に、無性に抱かれたかった。

 一夜限りの肉体関係に終わってもいいから、この少年と肌を重ね合わせたかった。自分の全てを捧げたくてたまらなかった。

 そしてそんな衝動がこみ上げて来る度に、それを理性でねじ伏せる。

 あの日以来、そんな堂々巡りが静流の内で延々と続いている。

 思わずハァ……と溜め息がこぼれた。

 

「どうかしましたか?」

 

 それを聞いた憂助が、そう尋ねて来る。

 

「……何でもないわ。ただ、家でもやらなきゃいけない仕事がまだたくさんあったなって思い出して……お休みの日でも、先生って忙しいの」

「……すんません」

 

 憂助は謝った。自分の追試の採点があるのだろうと思ったのだ。しかし静流はコロコロと笑った。

 

「あなたが謝る事じゃないわ。むしろ久我くんは手の掛からない生徒だから、私としては助かってるくらいよ? ──逆に、私の方が助けられたし」

 

 静流は言いながら、憂助と腕を絡めた。

 

「心配してくれてありがとう……久我くんって、本当に優しい子ね……ちょっと愛想に欠けるけど」

「すんません」

「いいの。そういうところも可愛いし」

 

 言われて憂助は、口をへの字に曲げたが、彼と腕を組める喜びで、静流は気付かなかった。

 

(ダメ……私……もう、ダメ……!)

 

 理性よりも衝動が上回った。

 

「ねぇ、久我くん」

「はい」

「今夜は、泊まっていって?」

「はい?」

「本当は、一人でいるのがちょっと怖いの……昨日、近所で空き巣があって、女の人の下着とかも盗まれたそうで」

 

 自分でもあきれるくらいスラスラと、ありもしない事件をでっち上げる。

 

「だから、今夜だけでも、一緒にいてくれる? お礼に、明日は焼き肉を奢ってあげるから、ね?」

「わかりました」

 

 憂助は迷わず即答した。

 

「あ、ありがとう、久我くん……」

 

 あまりの即答ぶりに、誘った静流すらちょっぴり戸惑うほどであった……。

 

 

 静流の住むマンションへ向かう途中の公園の前まで来た時、二人は足を止めた。

 無人の公園に一人の女の子の姿を見付けた。背丈からして、小学校低学年くらいだろうか。ベンチに一人ポツンと座っており、周辺に保護者らしき者の姿は見当たらない。

 静流は公園の中に入り、女の子のそばへと歩み寄った。

 憂助は歩道で待つ事にする。知らない男の人に近寄られれば、女の子が怖がるだろうと思ったのだ。

 

「あなた、どうしたの? 早くお家に帰らないとパパやママが心配してるわよ?」

 

 静流は女の子の前まで来ると、しゃがんで彼女と目線を合わせた。

 

「暗くて、怖いの」

 

 女の子はそう答えた。

 

「一人だと、怖くて帰れないの?」

 

 静流がそう尋ねると、女の子はコクンとうなずいた。

 

「お家までの道のりは、わかる?」

 

 コクン。

 

「じゃあ、お姉さんが一緒についていってあげる。それなら、お家に帰れる?」

 

 コクン。

 相手がうなずいたのを見て、静流は安堵した。

 憂助も公園の外からそのやり取りを見て、面倒な事にはならならなさそうだと安心した。

 そんな彼の耳に、バサバサと羽音が聞こえた。

 目の前に、灰色の影が舞い降りる。

 肩から翼を生やした、一匹の鯖虎だ。憂助が『チビ虎』ととりあえず名付けたものの、その日その時の気分で『チビ』だったり『トラ』だったりする、蠱毒の呪物。霊喰いの妖猫。

 チビ虎は翼をたたむと、公園の方を向いて、その場でチョコンとお座りした。そして何度か、公園の中と憂助とを交互に見る。まるで何かを催促しているかのようだ。

 

(こいつが、こげな態度する時は……)

 

 近くに食糧となる霊がいて、憂助に退治するようせがんでいる時の態度である。

 そしてチビ虎の視線は、公園に向けられている。

 

「それじゃ、一緒に帰りましょうね?」

 

 静流はそんな事など露知らず、女の子の手を握る。

 女の子がベンチから立ち上がり、彼女の手を引いて歩き出した。思いの外、力が強い。

 トコトコと静流を引っ張って向かう先は、公園の反対側の出入口だ。

 だが、静流の足が不意に止まった。

 真っ暗なのだ。

 本来この公園の向こう側には、道路を挟んでコンビニがある。

 なのに今、女の子が向かおうとする出入口の先は、闇に塗り込められていた。

 何かおかしい。

 しかし女の子は、構わずその闇に向かって歩き出す。女性とはいえ大人を引きずって、難なく進む。

 

「イエェェーーヤッ!」

 

 憂助が雷鳴のような気合いを上げながら、駆け寄る。

 その手には、柄に『獅子王』の文字を彫り込んだ木刀。

 チビ虎も同時に駆け出していた。

 しかし、破邪の念を込めた木刀が唸る前に、静流は女の子に引っ張られて闇に呑まれた。

 闇から無数の小さな手が現れ、憂助とチビ虎をも引きずり込んだ──。

 

 

 峰岸葵は、カラオケボックスで熱唱した後、ギャル友トリオと別れて一人家路に就いた。

 時刻は午後8時を過ぎている。

 住宅街に向かう道すがら、一人の男の子がポツンと立ち尽くしているのを見て、足を止めた。

 見た感じ、小学校高学年くらいのようだ。

 

「こぉーらチビッ子ぉ、早く帰んないとパパやママに怒られっぞぉ~」

 

 そう呼び掛けると、男の子は葵の方をクルリと振り向いた。

 

「散歩してた犬が逃げちゃって、中に入って行っちゃった」

「中?」

 

 何の中? と聞こうとして、やめた。

 夜の闇に、学校と思わしき大きな建物のシルエットが浮かんでいた。

 二人は、その学校の正門前に立っていたのだ。

 

(あれ? こんな所に学校なんてあったっけ?)

 

 葵は怪しむが、男の子が彼女の手を握る。

 

「お姉ちゃん、一緒に探してよ。連れて帰らないとパパやママに怒られちゃうよ」

 

 そう言われると、この見知らぬ男の子が無性に可哀想になってきた。

 

「オッケー、お姉ちゃんに任せなって!」

 

 そして、ついそんな風に安請け合いしてしまうのだった。

 

「とは言え、どこから入ったもんかなー……」

 

 正門の鉄格子の隙間は、犬ならともかく人間がくぐるには狭すぎる。

 

「こっちから入れるよ」

 

 男の子が葵の手を引いて、歩き出した。

 白い塀沿いに進むと、裏側に出る。そこは塀ではなく金網で仕切られてあり、しかも破れて穴の空いてる部分があった。

 二人はその穴をくぐって、学校の敷地内に入った。

 

「あそこから入っていったんだ」

 

 男の子がそう指差した先は校舎の勝手口で、引き戸が開け放しになっていた。

 

「うわ、開けっ放しとかありえねーし……」

 

 葵はぼやきながら、男の子に手引きされて校舎の中に入る。

 当たり前だが、中は真っ暗だ。廊下の先は暗闇の中に消えていて、全く見えない。

 葵はショルダーバッグからスマホを取り出して、ライトを点灯した。バッテリーは充分あるし、何より画面のバックライト程度では気休めにもならない。

 そのスマホのライトが、教室のドアを照らし出した。

 そこも施錠されておらず、開け放されてある。

 不意に男の子が、その教室の中へと駆け込んだ。

 

「こら、一人で行くなー!」

 

 葵は後を追って中に入る。

 入った瞬間、ドアがひとりでに閉まった。

 

「ひっ!」

 

 葵は思わず声を漏らす。

 ドアがひとりでに閉まったからではない。

 教室の中に、さっきの男の子以外にも同い年くらいの男の子が十人ほどいて、葵を一斉に見つめていたからだ。

 彼等の目が、ポッカリと穴が空いているかのように真っ黒だったからだ。

 葵の本能が、今すぐ逃げろ大音量で警告を飛ばす。

 それに従って逃げようと背を向けるより早く、男の子たちが一斉に葵に飛び掛かった。

 力はとても強く、葵は簡単に床の上に押し倒される。

 たくさんの細い手が、葵の服の中に潜り込み、肌を撫で回し始めた。

 その不気味な愛撫に、葵は覚えがある。生者にあらざる者の手の感触だ。

 その冷たい手が、生ある者の温もりを貪るように、葵の全身をまさぐる。

 101cmの豊かな胸に、小さな指がいくつも食い込み、弄ぶように捏ね回す。

 顔を突っ込んで、脇腹やヘソを舌で舐め回す者もいた。

 穿いていたズボンとショーツが脱がされ、太股を指と舌が這い回った。

 

「やだ! やだやだやだぁ! 離せエロガキども! アタシに触んなぁ!」

 

 葵は必死に抵抗するが、小さな身体からは想像も出来ない怪力で押さえ込まれて、身をよじるしか出来なかった。

 

 ──その時、一陣の風が吹いた。

 巨大な灰色の影が教室の中に躍り込み、葵の身体に群がる子供たちを蹴散らしていく。

 それは灰色の虎だった。

 肩から同じ灰と黒の縞模様のある翼を生やした虎の前足での一撃で、一人は壁まで吹き飛ばされ、首と胴が離れ離れになった。

 別の一人は喉笛に食いつかれて、簡単に首を引きちぎられた。

 残った子供たちは、室内の闇に溶け込むように消えていった。

 葵が身を起こすと、虎の姿はない。

 ただ、チビ虎が倒れた二人の男の子の骸を、シャクシャクと音を立てて食べている真っ最中であった。

 蠱毒の呪法で生み出されたこの魔猫は、その気になれば今のように本物の虎と見紛う戦闘力を発揮する。なのに、普段は憂助に霊を退治させるのだからふてぶてしい。

 

「猫ちゃ~ん……」

 

 ドアを開けて、恐る恐る呼び掛ける女性の声がした。

 葵が全裸に剥かれたまま振り向けば、そこには静流がいた。

 

「静流センセー?」

「峰岸さん? どうしてここに? て言うか、その格好はどうしたの? 大丈夫?」

「ふぇええ~ん、静流センセー!」

 

 顔見知りに会えた安心感から、葵は静流に抱きついた。全裸で。

 静流は生徒をなだめ、まずは服を着るように促す。

 葵が落ち着きを取り戻して服を着ると、お互いの事情を話して聞かせた。

 

「……それで、この猫ちゃんと一緒に、久我くんを探しているの」

「久我もいんの? でも、出口ならすぐそこにあったよ? アタシ、変なガキんちょに案内されてそこから入ったし」

 

 葵はそう言って廊下に出る。

 しかし、ついさっき入ってきた勝手口は、影も形も見当たらない。ただ、壁があるだけだ。

 

「あれー? 本当にここに出入口があったんだよ? マジマジ」

「……きっと、消えてしまったのね。この学校、変なのよ。やけに広すぎるわ。先生、この廊下をかれこれ百メートルくらい歩いたもの」

「え、何それ」

「とにかく久我くんを探さないと……この辺にはいないみたいだし、他の階に行ってみましょう。峰岸さん、先生から離れちゃダメよ?」

「ハァーイ」

 

 葵は返事をしながら、不安を紛らわせるようにチビ虎を抱き上げ、静流と一緒に上の階に続く階段に向かった。

 

 

 憂助は、ベッドのある狭い部屋の中にいた。

 ベッドの周りはカーテンで仕切られ、壁に並ぶ棚には薬品の瓶が陳列されてある。

 部屋の片隅には、身長計と体重計が置かれてある。

 保健室だと、すぐにわかった。

 それも、彼が通っていた小学校の保健室だ。レイアウトが全く同じなのだ。

 周りを見渡しても、静流の姿は見当たらない。あの女の子によって、別々の場所に飛ばされてしまったのだろうか?

 敵の正体や目的は何であれ、まずは静流の安全確保が最優先だ。

 憂助は保健室を出ようとドアに手を掛けた。そこへ──、

 

「久我くん」

 

 女性の声がした。

 素早く木刀を正眼に構えつつ振り向くと、無人だったはずのベッドの上に、白衣を着た一人の女性が座っている。

 緩やかなウェーブの掛かった栗色の髪をした、若い女性だ。静流と同じくらいだろうか。

 

「大きくなったわね、久我くん」

 

 その女性はベッドから立ち上がり、憂助に歩み寄る。

 

「また会えて、先生とっても嬉しいわ」

 

 そして、ゆっくりと憂助の首に両腕を回し、密着してきた。互いの着衣越しに、胸の膨らみが押し付けられる。

 

「平山、先生……」

 

 憂助は呻くように呟いた。

 その女性は、彼が小学六年生の頃に校医を勤めていた平山裕子であった……。



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学校の幽霊 その2

 平山裕子の肉体の柔らかさを感じながら、久我憂助は小学校六年生の時の、彼女との会話を思い出していた。

 

 

 五時間目の体育の授業中の事だ。

 その日はサッカーをやっており、憂助はキーパーを任されていた。

 相手チームの男子が、ゴールの隅を目掛けて蹴り込んだボールを、憂助は横っ飛びでキャッチ、更に取り落とすまいと抱きかかえる。

 その直後、ゴインという重い金属音と共に、頭に衝撃が走った。

 勢い余ってゴールポストの角で頭を強打したのだ。

 生暖かい物が、額を流れた。

 出血していた。

 だが憂助はうめき声一つ上げず、体操服の上を脱いで細長く畳み、それを額に巻いてプレーを続行しようとした。

 担任の緒方から保健室に行くよう言われたが、「平気です」とだけ返した。それでもきつく言われたので、憂助は口をへの字に曲げて、渋々保健室で手当てを受ける事にしたのだ。

 そんな一幕を平山裕子は保健室の窓から眺めていたらしく、

 

「久我くんは我慢強いのね」

 

 と、手当てしながらコロコロと笑う校医を、憂助は口をへの字に曲げて睨み付けた。

 手当てが終わると、「ありがとうございました」と言ってグラウンドに戻ろうとする。それを平山裕子が制した。

 

「駄目よ、血が出るくらい頭打ってるんだから、安静にしてないと」

 

 彼女はそう言って、強引に憂助をベッドの上に横たわらせる。

 

「緒方先生には私から言っておくから、授業が終わるまで休んでなさいね」

「もうすぐ終わるからいいです」

「私が言ってるのは、その次。六時間目の事よ」

 

 裕子は苦笑しつつも、真面目に授業を受けようとする少年の態度には好感を覚えた。

 

「あなたは頭を怪我してるんだから、誰も文句は言わないし笑ったりもしないわ。いい子にしてなさい。わかった?」

「……うっす」

 

 憂助は不満げに答え、布団を頭から被った。

 五時間目が終わり、様子を見に来た緒方に裕子が説明する。

 それから六時間目の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 

「久我くんの名前、いい名前よね」

 

 裕子が唐突にそんな事を言った。

 憂助からはカーテンで見えないが、彼女は憂助の親への連絡先を確認しているところだった。

 

「……先生。ユウスケのユウは『憂鬱』の『憂』ですよ。ホントは『優秀』の『優』にしようとしたけど、役場に届け出る時にアホ親父が間違って『(にんべん)』書き忘れたそうです」

「お父さん、きっと照れ隠しで言ったのね」

 

 裕子はそう言って笑った。

 

「憂鬱の憂は『憂い』とも読むの。憂いは心配とか悲しいとかそんな意味で、『憂える』と書けば、心配するとか気遣うとかいう意味ね。あなたの名前は『憂』える者を『助』けるという意味になるから、いい名前だと思うわよ」

「どーも」

 

 憂助は素っ気ない返事を返した。

 カーテンで見えないが、ベッドの中で憂助は耳まで真っ赤になっていた……。

 

 

 ──その平山裕子が、今、目の前にいた。

 深夜の小学校の保健室で、あの時と変わらぬままに。

 

「大きくなったわね、久我くん……嬉しい……」

 

 艶かしく微笑み、裕子はズボンの上から憂助の股間を白い手で撫でた。

 

「私、あなたの事が好きだったのよ……卒業したんだから、もう生徒じゃないわよね? こっちも、卒業しましょう?」

 

 裕子の手が、毒蛇めいて憂助のズボンの中に潜り込む──と同時に、彼女の体がビクンと震えた。

 憂助の木刀が、彼女のこめかみに柄まで突き立てられていた。

 木製の刀身は少しも貫通してはいない。

 

「く、が、く、ん……」

「平山先生は生きとるわ、阿呆……舐めた真似しくさりやがって」

 

 憂助は憎々しげに呟き、「エヤアッ!」と気合いを放つ。

 裕子の顔中の穴から白光がほとばしり、彼女は黒い塵となって消えた。

 

「くぅぅううがぁぁぁあああくぅううぅぅぅんんん……」

 

 だが、その消えたはずの裕子の声が、再び響いてきた。

 奥のベッドが、グニャリと形を変えて、裕子の姿に変わった。

 壁の薬品棚もアメーバのように溶けたかと思うと、裕子の姿へと変化していく。

 天井からは裕子の頭が生えてきて、スライムのように床に滴り落ち、これもまた裕子の姿を取った。

 

「先生にぃいいぃい……暴力を振るうなんてぇぇええええ」

「いけない子ねぇぇぇええええぇ、久我くぅぅううぅうん」

「お仕置きぃいいぃいしてあげぇぇぇええるぅぅううぅうぅ」

 

 間延びした不気味な声を上げながら、新たに生まれた三人の裕子は人間性を全く感じさせない、四つん這いの動きで憂助に迫る。

 憂助は木刀の切っ先で床をこすり上げた。

 発生したあるかないかのかすかな摩擦熱を念で増幅させ、破邪の白炎を生み出す。

 久我流念法『闇祓い』が文字通りに火を噴き、三人の裕子を焼き払った。

 

 憂助はドアを乱暴に開き、廊下に飛び出した──はずだった。

 だが出たのは廊下にではなく、教室にだった。

 無人の教室だ。

 保健室のすぐ外が教室という奇妙な現象に、憂助は一瞬呆気に取られた。

 その瞬間、憂助の背後でドアがひとりでに閉ざされた。

 同時に、室内の机や椅子がガタガタと揺れ始める。

 それらは一斉にのたうち回り、形を変えた。

 椅子の背もたれや机の天板に裂け目が出来て、それが牙を生やした口へと変化したのだ。

 そして憂助目掛けて群狼めいて飛び掛かって来た!

 

「イィーーエヤァッ!」

 

 憂助は木刀を脇構えに振りかぶって、振り抜いた。

 一陣の烈風が吹き荒れ、迫り来る椅子や机を一まとめに薙ぎ払い、壁や天井に叩きつける。

 闇祓いがかすかな摩擦熱を増幅させるように、わずかな空気の流れを念で増幅させる久我流念法『太刀風』である。

 机と椅子の襲撃は退けたが、今度は教室の後ろのロッカーから、蛇の大群が躍り出る。

 ただの蛇ではなく、人面の蛇であった。

 しかもその顔は、どれも憂助の知っている顔ばかりだった──小学生時代のクラスメートたちなのだ。

 

「しゃらくせぇ!」

 

 しかし憂助の太刀筋には一切の迷いもためらいも見られなかった。

 木刀は破邪の念を宿して白く輝き、迫り来る怪蛇の人面を斬割し、鎌首を刎ねていく。

 

「人の思い出踏みにじるような事んじょしくさりやがってぇ!」

 

 憂助は木刀を大上段に振り上げると、怒号を上げながらロッカー目掛けて飛ぶように走り、渾身の一刀を叩き込んだ!

 木製のロッカーは音を立てて裂け──憂助の木刀を咬み止めた!

 左右のロッカーから、やはりクラスメートたちの顔を持つ新たな蛇の群れが現れて、憂助の全身に巻き付く。

 そしてギリギリと締め上げ始めた。

 

 憂助は、目を閉じた。

 観念したのか──否。

 彼は目を閉じて、山での修行の日々を思い出していた。

 目が見えない中でも鮮烈に耳に響いた、川のせせらぎや風のそよぐ音を、今心の中で再び響かせる。

 眉間のチャクラが開かれて、白い光輪が生まれた。

 光輪は激しく回転しながら、輝きを強めていく。

 

「イィィーーーエヤァッ!」

 

 雷鳴のごとき気合いと共に、眉間の光輪から放射された白光が、憂助の全身を締め上げる蛇たちを焼き払い、消滅させた。

 

 それで、襲撃は一旦途絶えたらしい。

 教室内に、不気味な静けさが戻った。

 憂助はその隙に精神を集中させ、静流の元へと瞬間移動で飛んだ──。

 

 

 富士村静流と、チビ虎を抱いた峰岸葵は、どちらからともなく手を繋ぎ、暗い階段を上っていた。

 踊場を抜けて次の階段を上り、次の踊場を過ぎてまた階段を上り、そしてまた次の踊場へ──そこで二人の足が止まった。

 ここが学校の中なら、階段が長すぎる。もう二階どころか三階に到達してるはずだ。

 

「……峰岸さん、いったん戻るわよ」

「う、うん……」

 

 二人は階段を下り始めたが、今度はいつまで下りても一階にたどり着けない。下りた先には踊場が待ち構えているだけだった。

 

「やっぱり、同じ所をグルグル回らされているだけみたいね」

「どうすんの、センセー」

「……動き回っても疲れるだけだし、久我くんが私たちを見つけてくれるのを待つしかないわね」

「はぁ~い……もぉ~、早くいつもみたいに瞬間移動で助けに来てよね……」

 

 葵はぼやきながら、抱っこしていたチビ虎の背中を撫でる。

 そのチビ虎が、突然肩の翼を広げて飛び立ったかと思うと、上の階段の暗闇の中へと消えていった。

 

「ど、どうしたの?」

「わかんない……もしかして、久我がこの上にいるから行っちゃったのかも。アタシ等も行こーよ!」

 

 葵は言うなり階段を駈け上がる。

 静流も後を追う。

 階段を上った先にはドアがあり、それを開けると、ドアの向こうはたくさんのデスクが並ぶ職員室だった。

 照明一つ灯されていない暗がりの中で、しかし静流にははっきりと見えていた──そこに居並ぶ教員と思しき男女の姿が。

 彼等は一斉に、静流の方を向いた。

 その目は、ポッカリと穴が空いているかのように真っ黒だった。

 身の危険を感じた静流が逃げようとするよりも早く、彼等の手が静流の服や髪を掴み、冷たい床の上に引きずり倒した。

 無数の手が毒蛇めいて彼女の服の中に潜り込み、肌をまさぐる。

 男女問わず、代わる代わる静流の唇を吸った。

 服を乱暴に剥ぎ取られ、あらわになった白い肌の上を、舌が這い回る。

 手も、唇も、舌も、どれも怖気をふるうような冷たさがあった。

 その冷たい不気味な愛撫の度に、静流は自分の中の熱を奪われていくような感覚に襲われた。

 二本の手が、それぞれ下着を剥ぎ取ろうとした瞬間、突然職員室内を白光が照らした。

 

「エヤァッ!」

 

 鋭い声と共に、熱風が吹き荒れて、静流に群がる教員たちを吹き飛ばして塵に変える。

 瞬間移動で駆けつけた憂助であった。

 

「先生、大丈夫ですか」

 

 憂助は静流に駆け寄り、優しく抱き起こす。

 静流は思わず、親にすがりつく小さな子供のように、憂助に抱きついた。

 

「先生、服着てください。風邪引きますよ」

 

 憂助はつとめて冷静にそう言い、静流もそれに従った。

 

「んじゃ、行きましょう。先生ん家まで飛びます」

「待って、まだ峰岸さんがいるの。あの子も助けないと」

「峰岸? なしあいつがこげなとこおるんですか?」

「私たちと同じように、変な子供に誘い込まれたらしいわ」

「しゃーねえのぉ……」

 

 ぼやきつつも、やたらこういった事に巻き込まれる葵を、いろんな意味で心配する憂助であった。

 

「それと、肩に羽根が生えた猫ちゃんもいたんだけど……」

「うちの居候です」

「そ、そう……あの猫ちゃんも一緒なら大丈夫だとは思うんだけど」

「あいつには期待せん方がいいですよ」

 

 憂助はあっさりと言い切った。

 面倒は憂助に押し付け、美味しいところだけをちゃっかりいただく図々しさを何度も見ているので、あの妖猫がおとなしく葵を護衛するとは思えないのだ。

 ともかく、憂助は静流を伴い、葵の元へと瞬間移動した。

 

 

 葵がチビ虎を追って階段を上ると、その先にドアがあった。

 それを開けて中に入ると、そこは教室であった。

 思わず警戒する葵だったが、照明一つ灯されていない真っ暗な室内にたたずむ人影を見て、パッと笑顔になる。

 

「久我! 良かった~!」

 

 その人物が久我憂助である事を認めると、パタパタと駆け寄り抱き付く。

 

「マジ怖かった~! 静流センセーもこの下にいるから早く……んう」

 

 葵の言葉は思わぬやり方で遮られた。

 憂助が突然唇を重ねてきたのだ。

 あまりに予想外過ぎて驚いたものの、葵は半ば条件反射で、口の中に潜り込んで来た舌と自分の舌とを絡ませ合った。

 憂助の手が服の中に潜り込み、101cmの豊かな膨らみを捏ね回す。

 

「んうっ!?」

 

 葵は咄嗟に、憂助を突き飛ばした。

 見られるのも触られるのも大好きだが、今の憂助の手は、ゾッとする冷たさがあったのだ。それはついさっき、別の教室で自分の体を弄んだあの黒い目の子供たちと同じ感触だった。

 

「だ、誰よアンタ! 久我じゃな、ひゃっ!」

 

 後ろから二本の腕が葵の体に巻き付き、胸を鷲掴みしてきた。

 肩越しに振り向くと、そこにも憂助がいる。

 見れば室内の椅子や机が形を変えて、次々と憂助の姿に変わっていき、近付いてくる。

 葵は恐怖で凍り付き、逃げるどころか声も上げる事が出来なくなっていた。

 無数の手が葵の体へと迫った時、突如、光を伴う激しい熱風が吹いた。

 その光が、風が、偽物の憂助の群れを吹き飛ばし、黒い塵に変えて消滅させる。

 ペタンとその場に尻餅をついた葵に、

 

「大丈夫か?」

 

 と声をかける者があった。

 振り向くと、木刀を手にした憂助が静流と共にそこにいた。

 

「立てるか?」

 

 憂助が空いた左手を差し出す。

 葵はそれを掴んで、半ば引っ張られるように立ち上がった。

 そして憂助の顔をジーッと見つめる。

 

「なんか。俺の顔に何か付いとうんか」

「アンタ本当に久我?」

「当たり前だ」

「じゃあおっぱい触って!」

 

 葵は大真面目に言った。本物ならさっきの偽物のような冷たい手はしていないからと考えたのだ。

 だがその直後、教室内にデコピンの音が響き渡った──。

 

「阿呆言うとらんと、脱出するぞ。掴まれ」

「はぁ~い……」

 

 葵は額を押さえながら、憂助の左腕にしがみついて、胸を密着させた。

 静流はそれを見ながら、憂助の肩を遠慮がちに掴む。

 憂助は目を閉じて精神を集中させた。

 その場に白い光が生まれ、教室から三人の姿が消えた。

 次に三人が姿を現したのは──また別の部屋であった。

 教室ではない。絨毯が敷かれ、奥にはデスク。

 その前に来客用のソファとテーブルが一式。

 壁には黒板や掲示板が設置されてある。

 

 チッ!

 

 憂助は顔を歪めて舌打ちした。

 

「久我くん、ここは?」

「校長室」

 

 憂助は静流の問いにそう答えながら、腕にしがみついて胸を押し付けてくる葵を振り払った。

 

「あー、言われてみればそんな感じだねー。でも、なんでここに飛んだの?」

「来たくて来た訳やねえ……言いたぁねえが、閉じ込められた」

「へっ?」

「この学校の外には出られんっち事てえ」

「その通りです」

 

 別の声が、答えた。

 三人が振り向くと、デスクの椅子に、いつの間にかスーツ姿の男が座っていた。

 白髪混じりの髪をオールバックにした、六十歳ほどの男だ。その目は穴が空いているかのように真っ黒だった。

 

「あなた方にはいつまでも、我が校に留まっていただきたい」

 

 男は、怖いくらい朗らかに笑う。

 

「それにしても、久しぶりですねぇ、久我くん。大きくなって……」

「校長先生……」

 

 憂助は呻いた。

 柄に『獅子王』の文字を彫り込んだ木刀を握り締めると、

 

「エヤァッ!」

 

 鋭い掛け声と共に、木刀を横一文字に振り抜く!

 白光が三日月状の刃となって、デスクの向こうの男へと飛翔していった──。



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学校の幽霊 その3

 木刀からほとばしった光刃が、デスクの向こうにいる男の胴体を真っ二つに切り裂いた。

 斬割された男の上半身が、デスクの上に落ちる。

 

「ひどいですね、久我くん……」

 

 上半身が、事も無げに呟きながら、肘をついて起き上がった。

 傷口から、瞬く間に新しい下半身が生えてくる。肉体だけでなく服までご丁寧に再生されていた。

 

「六年間ずっとあなたを、あなたたちを見守ってきた私に、こんな事をするなんて……」

 

 その声はまだ椅子に座ったままの下半身から聞こえた。

 その傷口からは、新しい上半身が、やはり着衣込みで再生される。

 

「あなたは短気だものねえ……」

 

 女の声が響いた。デスクの上に顔が浮かび上がり、水面から出てくるかのように、眼鏡をかけた小太りの女性が姿を現す。

 憂助が小学校二年生の時の担任の、菅原敏江だった。

 

「エヤアッ!」

 

 憂助は地を蹴って跳躍するなり、その女教師の脳天に木刀を叩きつけた。

 菅原敏江はデスクもろとも真っ二つに斬割されて、消滅する。

 

貴様等(きさんら)何者(なにもん)かぁ!」

 

 憂助は吠えながら、二人に分裂した校長も木刀で切り裂き、消滅させる。

 

「先生たちだよ」

 

 足下から声がした。

 そこには、小学生の時のクラスメートたちの、当時のままの幼い顔が無数に浮かんでいた。

 各学年時の同級生たちが、一斉に憂助を見上げていた。

 

「ねえ久我くん、戻っておいでよ」

「みんな一緒だよ」

「いつまでもここにいようよ」

「きっと楽しいよ」

「あのお姉ちゃんたちも一緒でいいからさ」

「ずっとここにいようよ」

 

 男女問わず口々に憂助に語りかけてくる。

 背後から、悲鳴が二つ上がった。

 振り向けば、壁や床、天井どころか調度品に至るあらゆる物が人間の姿に変わり、葵と静流に群がっていた。

 憂助が小学校時代に世話になった教師たちだった。

 

 憂助はそれを見て、胸の内から熱いものが込み上げて来るのを感じた。

 二人を襲撃された事に対する怒りもあるが、自分の小学校時代の思い出を冒涜するかのような敵の行為に、激しい怒りを感じたのだ。

 憂助は木刀を、切っ先で床をこするように斬り上げた。

 発生した白い炎が、いくつもの輪となって宙を飛び交い、葵と静流に群がる敵も、憂助の足下の顔たちも、何もかもを焼き尽くしていく。

 闇祓いと太刀風の合わせ技、風火輪である。

 校長室内が白い炎に包まれる中、憂助は葵と静流を両脇に抱え、ドアを蹴破って外に出る。

 その先は廊下ではなく、教室だった。

 陳列された机や椅子がガタガタと震え出し、ある物は生徒や教師に擬態し、ある物は牙を生やした口を開いて飛びかかってくる。

 

「邪魔だ!」

 

 憂助は二人をその場に下ろし、木刀を振るった。

 風火輪がここでも乱れ舞い、教室内を焼き払った。

 ──後には、埃にまみれた机や椅子が居並ぶ、何年も放置されて劣化した教室だけが残った。

 

「大丈夫か」

「あ、うん、ヘーキヘーキ」

「助かったわ、久我くん」

 

 葵も静流も気丈に振る舞うが、顔色は優れなかった。

 

「……ねえ、これ座ってもヘーキ?」

「おう、今はボロっちいだけの、ただの椅子だ」

 

 憂助の返事を聞いて、葵は半ば飛び込むように椅子に座り込んだ。

 かすかに息が荒い。

 静流が傍らに、膝をついて座り込んだ。

 

「峰岸さん、大丈夫?」

「んー……何か、息苦しい感じ」

「そうね……先生もよ。何だかあちこちから始終見張られてるような感じがするわ」

「アタシはどっちかってゆーと、大きな生き物のお腹の中にいるみたいな感じかなー……クジラに飲み込まれたピノキオって、こんな感じなのかも」

 

 ──葵のその呟きに、憂助は欠けていたパズルのピースを見付けたような気持ちになった。

 

 先程倒した校長は二階堂俊晴。憂助が五年生の時に赴任してきた。

 しかし彼はさっき、憂助を六年間見守ってきたと言っていた。辻褄が合わない。

 

 また、今自分たちがいるこの小学校は、明らかにおかしかった。周囲のあらゆる物が、この学校にかつていた者たちに変化する。さっき葵を襲っていた自分の偽物しかり、保健室の平山裕子しかり、同一人物が複数現れたりもする。

 悪霊が創造した異次元空間かとも思ったが、少年誌のバトル漫画でもあるまいし、そんな力を持つ悪霊がいるなどと、父や祖父からも聞いた事がない。

 

 ──大きな生き物のお腹の中にいるみたいな感じ。

 

 葵が何気なく漏らしたその一言が、憂助の疑問に光明を投げ掛けた。

 

「……付喪神(つくもがみ)か」

「え?」

 

 憂助の呟きに、葵と静流が声を揃えて聞き返した。

 

「久我くん、何かわかったの?」

「てゆーかさ、ここにいるお化けたち何なの? みんなアンタの知り合い系?」

「まぁの。知らん奴もおったが……みんな、俺が小学生やった時の同級生とか先生たちだ」

「んじゃ、その人たちが悪霊になったの?」

「うんにゃ。ここにおるのはみんな、学校の記憶を元に再現した、学校が作った偽物だ」

「ごめ、全然わかんない」

「そのまんまだ。あれはこの学校が作った偽物てえ」

「どういう意味?」

 

 と、静流が尋ねる。彼女にも、憂助の言わんとする事がわからなかった。

 

「この学校は、俺が通っとった小学校です──っち言うても、校舎が老朽化して、生徒数も減って来てたんで、俺が卒業してから廃校になりましたけど」

 

 静流にそう答えてから、憂助は葵の方をジロリと見た。

 

「峰岸。お前さっき言うたの、なんかでっかい生き物の腹ん中におるごとあるっち。そん通りてえ。俺等は今、付喪神になった小学校ん中に飲み込まれとる」

「ツクモガミって何?」

「長い事使っとった道具が、捨てられた怨みで化けて出たもんだ」

 

 憂助は大雑把に説明した。

 

「俺が卒業した年で、もう創立70年くらいは行っとったかの……それが廃校になった怨みで付喪神にでもなったんやろうの……」

「それじゃあ、私たちをこの学校に誘き寄せた子供たちも、そのツクモガミとかいうのが作った物なの?」

「たぶん。中には、付喪神に取り込まれた浮遊霊もおったんかも知れませんが」

「で、でもさ、なんでアタシたちを捕まえたの? 食べる気?」

「んな訳あるか……化け物の考える事なんぞ知りたくもねえが……やり直したかったんかもの……学校を……」

 

 憂助は染みだらけの天井を見上げて、そう言った。

 

 ──バンッ!

 

 突如、音がした。

 

 

「何? 何?」

 

 葵は今にも泣きそうな声を上げて、静流にしがみつく。

 静流は彼女をかばうように抱き締めた。

 見れば廊下に面した窓いっぱいに、無数の人影が貼り付いていた。

 それらが窓ガラスを力一杯に叩いているのだ。

 窓だけでなく、ドアも同様だ。

 

「ひぃいいっ! 何かいっぱい来たぁぁあああっ!」

「く、久我くん! どうしたらいいの!?」

 

 ──こっちが聞きてえ。

 

 という言葉を、憂助はかろうじて飲み込んだ。

 この教室内は風火輪で焼き払われて浄化されている。技に宿した念が残留しているため、簡単には入って来れないようだが、それも時間の問題だ。

 しかし憂助には、敵の正体はわかっても、それを倒す術が思い付かない。

 出てくる敵を片っ端から倒していけばやがて付喪神と化したこの母校も消滅するだろうが、それは文字通り木刀一本で小学校を丸々一つ解体するも同然である。

 

 思案に暮れる憂助の耳に、カタンと乾いた音が聞こえた。

 見れば黒板の下にチョークが一本、転がっている。

 そして黒板には、刃物で切りつけたような右肩上がりの筆跡で、こう書かれてあった。

 

《雲切り》

 

 それは福岡の田舎に一人隠居している、祖父・玄馬の筆跡であった。

 憂助はその文字を見て、昔祖父が一度だけ見せてくれた念法の一手を思い出す。

 十歳の夏休みに帰省した憂助が、祖父に連れられて川に魚釣りに行った時の事である。

 

「憂くん、面白いもん見せちゃろう」

 

 弁当を食べ終わった後、祖父はニコニコ顔でそう言うと、どこからともなく木刀を取り出した。

 

「ほれ、あそこの入道雲、よーく見ときないね」

 

 玄馬が指差した空には、見事な入道雲が鎮座している。

 玄馬は目を閉じて木刀を上段に振り上げた。

 そして数秒の間を置いて、

 

「エェエエーーイッ!」

 

 雷鳴にも似た気合いと共に、木刀を振り下ろす。

 すると、入道雲が縦真っ二つに切り裂かれたのだ。

 祖父の木刀から、光刃や衝撃波の類いが出た様子はまったくなかった。

 しかし、祖父が今まさに、虚空を切り下ろしたその一刀で入道雲を切り裂いたとしか思えなかった。

 

「爺ちゃんだけやないで、お父さんも出来るとばい。憂くんも真面目に稽古すれば、絶対出来るようになるきね。だき一生懸命頑張んないね」

 

 玄馬は「スゲー、スゲー!」とはしゃぐ憂助の頭を撫でながら、そう言っていた。

 この時見せてくれた一手こそが、久我流念法の秘技《雲切り》である。

 憂助は成功させたどころか、練習すらした事がない。他に学ぶべきものがたくさんあったからだ。

 だが、理屈だけなら父・京一郎が教えてくれた。

 己れの心を鏡にして敵の姿を我が内に映し、その映った像を切る。像を切れば敵の実体もまた切れる。

 言われた時はちんぷんかんぷんだったが、今はその一手に賭けるしかなかった。

 しかし、憂助の胸中に不安はない。

 彼が瞬間移動を、京一郎が近未来予知を念法修行の果てに修得したように、玄馬は遠隔視の技を身に付けている。その千里眼で孫の危機を知り、熟達した念法の力で以てチョークを動かし、メッセージを送ったのだろう。

 祖父がやれと言うのなら、つまり今の自分なら出来るという事だ。

 憂助は目を閉じた。

 己れの内に、山で聞いた風のそよぎ、水のせせらぎを響かせる。

 六年間通い続けた母校の姿を、己れの内にイメージした。

 そのイメージが鮮明になった時、憂助は木刀を大上段に振り上げた。

 

「──エヤアッ!」

 

 そして、一気に切り下ろす。

 その虚空に向けた一刀が、母校を両断する様が容易に想像出来た。

 

 ──ズズンッ!

 

 不意に、地鳴りが起きた。

 ほんの一瞬の事だが、それはまるで何か巨大な生き物の、断末魔の痙攣を思わせた。

 瞬間、教室の中へ入ろうとしていた敵たちは一斉に姿を消した。

 後はただ、耳が痛くなるほどの静寂だけが、あった。

 葵と静流が、抱き合ったままキョロキョロと辺りを見回す。

 

「あ、あれ? あいつ等どこ行っちゃったの?」

「ええっと……久我くんがやっつけてくれたって事で、いいのかしら」

「ええ、終わりました」

 

 憂助は木刀の刀身を手で拭うと、左手の中に納める。

 その顔に、勝利の喜びも、技を成功させた喜びもない。

 ただ、いつもよりも強く、口をへの字に曲げていた。

 

 

 三人が外へ出ると、そこは荒れ果てた小学校だった。

 月明かりに照らされた校舎を見て、葵と静流は息を呑んだ。

 まるで巨大な斧か鉈で叩き割られたように、校舎が真っ二つに割れていたのである。

 二人はしばし、その奇異な光景に見入っていた。

 我に帰ったのは、葵が先である。

 

「──あ、そうだ! 猫ちゃんは!?」

 

 その問いに答えるように、バサバサと音を立てて、チビ虎がどこからともなく飛んできた。

 そして憂助の顔面に頭突きを食らわせる。

 飼い主たちの危機など素知らぬ顔で、目につく雑霊を手当たり次第に喰っていたのだ。

 なのに、それらが突然消えた。

 食い放題の餌場を失った腹立ちをぶつけたのだろう。

 そしてそのまま、どこかへ飛び去ってしまった。

 

 

 憂助はリビングのソファに深々と座り、テレビを見ていた。

 否、どちらかと言うと、視線の先にたまたまテレビがあるというだけだ。番組の内容など、まったく頭に入ってこない。

 それどころか、未だにマウンテンパーカーすら脱いでなかった。

 

 ここは静流の住むマンション。

 葵も、今日は両親が用事で家にいないらしく、一人でいるのは怖いからと泊まる事になった。

 そして、やはり一人だと怖いからという理由で、今は静流と一緒に風呂に入っている。

 

 今回の事件、静流や葵が巻き込まれたという事は、誰でも良かったという事だ。

 付喪神となった母校は、『学校をやり直したい』という妄執に駆られ、手当たり次第に人間をさらって己れの内に閉じ込める魔物と化した。

 憂助は、六年間を過ごした母校がそのような魔物となった事が、哀しかった。

 そして、そんな哀しみを面に出すまいと、彼は口をへの字に曲げていた。

 

「──久我くん、大丈夫?」

 

 風呂から上がった静流が、バスローブ姿で戻って来た。葵も一緒だ。静流から借りたパジャマを着ている。

 

「お構い無く」

 

 憂助は振り向きもせず、そう言うだけだった。

 

「もぉ~、元気出しなよぉ~」

 

 葵が憂助のすぐ隣にポフッと座る。

 

「アンタは悪くないよ? 幽霊になっちゃった学校を成仏させてあげたんだから、良いことしたんだよ?」

 

 そう言いながら憂助を抱き寄せて、自慢の爆乳へといざなう。

 憂助はいつものように「くっつくな、うっとうしい」とつれない態度だ。

 

「峰岸さんの言う通りよ? あなたはあなたの出来る事を精一杯やったの。久我くんがいなかったら、私も峰岸さんもどうなっていたかわからないもの。私たちは本当に感謝してるし、きっとあの学校も、天国で感謝してると思うわ」

 

 静流が逆隣に座り、肩に手を置きながら慰める。

 

「──あ、そーだ。ねえねえ久我ぁ~、今夜はさ、アタシと静流センセーと三人で寝ようよ。何ならアタシ、裸で添い寝してあげるよ?」

「──え゛」

 

 突然の提案に、静流の方が変な声を出した。

 

「いいでしょ、センセー。アタシとセンセーのおっぱいで慰めてあげよーよぉ」

「あ、いや、でも、あの、その……」

 

 返答に困る静流であったが、葵のこの積極性や思いきりの良さは、見習うべきではないだろうかとふと思った。

 彼女も何だかんだで疲れているようだ。

 

「……そ、そうね……命の恩人だもの、それくらいの事をしても、バチは当たらないわよね……いえ、むしろそれくらいはしてあげるべきだわ」

「でしょでしょ? センセー話がわかるからマジ大好き!」

 

 自分を挟んで、自分を無視して話を進める二人に対して、憂助は対応に困った。

 瞬間移動でさっさと逃げればいいのだが、その場合『明日焼き肉を奢ってもらう』という約束はどうなるのか?

 それを思うと、逃げるに逃げられないのだ。

 ──結局食欲に負けて、いろんな意味で眠れぬ夜を過ごす羽目になるのだった……。



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エピソード8
人形使い その1


 年が明けて、憂助は二年生に進級した。

 最近、チビ虎の様子がおかしい。

 憂助がどこへ行くにも、トットコトットコとついてくる。

 どこかの呪術師が蠱毒の呪法で以て造り上げた霊喰いの妖物であるが、普通の猫と同じ物も喰う。時には憂助のおやつやおかずを横取りしたりもする。しかし、かと言って憂助に飼われているという自覚は全くないので──そして憂助も憂助で、やはりこの鯖虎もどきを飼っているという自覚はないが──飼い主になついているという訳ではない。

 理由はすぐにわかった。

 最近、自分の周りを様々な雑霊が、やたら大量にうろついている。チビ虎の狙いはそいつらなのだ。元々、『こいつのそばにいれば喰いっぱぐれないぞ、やったー』という感覚で憂助のそばに居付いた猫である。なので、憂助は特に気にしなくなった。

 

 ──たった今までは。

 

 夜の8時を過ぎる頃、憂助はコンビニに買い物に出掛けた。チビ虎もトコトコとついてくる。

 その帰り道、チビ虎が不意に憂助の足下で、身を屈めて、肩に生えてある翼を広げたのだ。飛行能力を有する翼は、威嚇用のディスプレイも兼ねてある。

 憂助はしかし、小さな同居人には目もくれず、前方を見据えた。

 電柱に取り付けられた小さな外灯に照らされて、影が一つ、立っていた。

 形からして人間であろうが、外灯が地面に投げ掛ける小さな光の円の中にいながら、顔も服装もわからなかった。人の形に切り取られた黒い紙、もしくは板切れがそこに立っているかのように、全身が黒かった。

 しかし紙や板では、ない。

 漆黒の体には、確かに立体感があった。

 影が、かすかに身を屈めたかと思うと、憂助目掛けて走り出した。

 外灯の明かりから出て夜の闇の中に入ってもなお区別がつくほど、そいつは黒かった。

 ──故に、憂助は容易く見抜く事が出来た。そいつの手にナイフが握られている事を。

 逆手に握ったナイフを、影が大きく振り上げる。

 その時憂助は既に、相手の攻撃のラインから移動していた。

 右手には、いつの間に、そしてどこから出したのか、木刀が握られている。柄に手彫りで『獅子王』と彫り込まれた得物は、破邪の念を白い炎と燃え上がらせていた。

 

「エヤァッ!」

 

 鋭い掛け声と共に繰り出された抜き胴が、白い軌跡を闇に残して、影の胴体を両断した。

 離れ離れになった影の上半身と下半身がそれぞれ弾けて、黒い塵となる。

 その残骸に、チビ虎がパッと飛び付いて、ムシャムシャと食べ始めた。食べながら喉をゴロゴロと鳴らしているのは、やはり霊体が一番の好物だからか……。

 

 憂助は最後までチビ虎には目もくれず、木刀を左手の中に納め、コンビニに向かって歩き出した。

 

 

「……なぁ~んか、変やの」

 

 ソファに深く腰掛け、コンビニで買ってきたじゃがりこサラダ味をポリポリと食べながら、憂助は呟いた。

 ソファの後ろにはカウンターがあり、その向こうにキッチンがある。

 床は綺麗なフローリング。

 ソファは膝くらいの高さのテーブルを挟んで二つ。

 ベランダに面したサッシのそばに、薄型テレビ。

 ここは久我家ではなく、マンションの一室であった。

 進級した憂助に、父京一郎が突然

 

「社会に出た時に備えて、一人暮らしの練習しとけ」

 

 と言って用意したものであった。

 

「家ん中の事は一通り出来ても、それを全部一人でやるとかほとんどねかろうが」

 

 という父の言葉に納得しての事であった。

 マンションは父の知り合いの不動産屋が格安で用意してくれた。お調子者でいい加減だが、この人脈の広さには、憂助は尊敬の念を抱いている。

 しかし、そのようにして始まった一人暮らしがこれである。

 近くに霊の通り道がある訳でもなく、マンション自体に霊を引き寄せるいわくがある訳でもない。

 なのにチビ虎が居付くほど霊が集まり、ついには先程、明確な敵意を持って襲い掛かってきた。

 

「まさか、誰かが俺を狙っとう訳でもねかろうしのぉ……」

 

 と呟いたところで、ある名前が浮かんだ。

 

『天来教団』。

 

 思えば、成り行きとはいえそのメンバーである門倉楊堂を倒した。神道宗光も組織のメンバーだったという。そしてその天来教団所属の超能力剣士、飛鳥竜摩も倒した。

 心当たりがあるとすれば、奴等しかいない。

 

「そやけど、あいつ等の仕業にしちゃあ、しょぼいしのぉ……」

 

 神道宗光は両面宿儺や鵺を始めとした、怪物じみた人工霊を操った。

 門倉楊堂はゴリラと見紛うほどの巨大な猿の怪物を操った。

 飛鳥竜摩は、初戦で自分を殺したほどの念法使いだ。

 しかし、今周りに出没しているのは、近付きすぎてチビ虎の餌食にされたり、先程のナイフ使いのような、雑魚みたいな連中ばかりである。

 メンバー三人を倒された天来教団の報復だとするならば、あまりにも手ぬるい。

 

 ──もうしばらく様子を見るか。

 

 そう結論付けた憂助は、おやつを食べ終えると、歯磨きをしてさっさと寝室のベッドに潜り込んだ。

 

 

「おはよー、久我ちゃん」

 

 翌朝。

 無人の教室で一人黙々と小説を読む憂助に、女子生徒が声を掛けた。

 はだけた胸元から深い谷間を覗かせ、染めた金髪をピンクのシュシュでポニーテールにしてまとめている。

 左右の耳には、ハート型のピアスをしていた。

 同級生の八千代ゆかなである。

 しかしゆかなは、自分の席ではなく憂助の机の上に座った。

 

「今日早いじゃん、どったの?」

「日直が遅く来る訳にもいくめえも」

 

 憂助は本から視線を外さず、黒板を指差した。

 黒板の端っこに、今日の日付と日直の名前が名字だけ書かれてある。『久我』の隣には『金森』と書いてあった。

 

「あーそっか。んじゃ、金森は?」

「職員室に日誌取りに行っとう」

「ふーん」

「それより、下りろ」

「ういーっす」

 

 ゆかなはだらけた返事をして机から下りると、憂助の前の席の椅子に、彼の方を向いて座った。背もたれに豊満なバストが乗っかって、ボリュームをアピールする。

 

「お前こそ早いやねえか。どうした」

「あー、昨日夜更かってたらホラー映画やっててさー。13金モロパクりのクソつまんねー映画だったんだけど、カップルのセックスシーンがやたらガチっててさ、ちょっとムラムラして寝らんなかったんだよねー」

「そら災難やったの。次からは早う寝ろ」

「ういーっす。でもさでもさ、なんで外人ってあんなその辺のビーチとか森の中とかでやる訳?」

「日本男児の俺がそげなん知るか。ただのサービスシーンでそげ深い意味はねかろ」

「そーかなー、ホント凄かったんだよ? 繋がってるとことかは映ってなかったけど、男優とかすっげーピストンして女優もマジおっぱいブルンブルンでさ」

「…………それ、本当にホラー映画か? ホラーっぽいポルノ映画とかやねえんか」

「あー、そっか、そーかも」

「どっち道、夜更かしなんぞするな」

「ういーっす」

 

 ゆかなはわかってるのかわかってないのか判断に迷う返事をした。

 が、その後、何を思ったか憂助が手に持っている小説に指を掛け、グイッと下に下ろした。

 

「──何か」

 

 読書を邪魔されて、憂助は不機嫌そうな眼差しを向けた。

 

「久我ちゃんさぁ、最近どう?」

「フワッとした質問を投げ付けんな。日常生活において、特に不便はねえ」

「誰かに絡まれたりとか」

「しとらん」

「うーん、ならいいんだけどさ」

「なしそげなん聞くんか」

「久我ちゃんさぁ、四組の峰岸と付き合ってんでしょ?」

「うんにゃ」

 

 憂助は即答した。

 

「違うの? だって仲いいじゃん」

「良くねえ。ただの知り合いだ。アイツがどげしたんか」

「ほら、峰岸って可愛いしおっぱいデカくてエロいっしょー? それで狙ってる男がたくさんいるんだけどさぁー、そいつ等ん中で久我ちゃんが峰岸と付き合ってる事になっててさ、『マジ許せねえ、ぶっ殺す!』みたいな話になってんのよね」

「事実無根のデマですっち、そのアホどもに伝えとけ」

「うい~っす。でもさでもさ、久我ちゃんホントにマジで付き合ってないの? アイツおっぱいデカいしエロいし、カツオくんを野球に誘う中島くんみたいなノリでやらせてくれるよ?」

「だきっち俺が相手せなならん義務はねえし、やらせてくれる女がおるきっちホイホイ飛び付くほど男は安かねえわ」

「ふぅーん、そーゆーもんなんだ」

 

 ゆかなはとりあえずそれで納得したようだった。

 

「まー、それはそれとして、気を付けなね? 久我ちゃん可愛いし優しいから、何かあったらあーしが守ってあげる♪」

 

 そう言って、読書を再開する憂助の頭をよしよしと撫でてやった。

 

「だから、お金貸してくんね? お弁当持ってくんの忘れちゃった♪」

「利息は十一(トイチ)やぞ」

「利子取るの?」

「高校二年生にもなって、無利息で金の貸し借りが出来ると思うな」

「む~……利息はおっぱいじゃダメ?」

 

 身を乗り出して胸の谷間をアピールしたゆかなの額に、憂助のデコピンが炸裂した。

 

 

 放課後。

 

「おーい、久我ぁ~」

 

 校門を出た辺りで、峰岸葵が声を掛けて来た。

 

「ちょーど良かった。ね、一緒に帰ろ? みんなと都合合わなくって寂しいの」

 

 そう言って憂助の腕に自分の腕を絡ませ、自慢の101cmを押し付けてくる。

 

「……好きにせえ」

 

 憂助は振りほどいたりせず、歩き出した。

 

 ゆかなにはああ言ったものの、憂助の葵を見る目は、以前とは違ってきていた。

 神道宗光にさらわれた彼女を救出すべく単身乗り込んだものの、飛鳥竜摩に返り討ちに遭った。父が来なければ、葵は殺されていただろう。

 しかし葵は文句一つ言わず、こんな低能のうぬぼれ屋に優しくしてくれた。

 付喪神と化した母校を倒した時も、富士村静流と一緒に添い寝をして慰めてくれた。

 そういった事が理由で、今までのようなつれない態度を取れないでいるのだ。

 そんな憂助の心中を知ってか知らずか、葵は嬉しそうに憂助の腕にギューッとしがみつき、101cmの爆乳でホールドした。

 そうやって一緒に歩くうちに、ふとある事に気付いて、憂助に声を掛けた。

 

「ねぇ久我、アンタん家、こっちじゃないっしょ?」

「かくかくしかじかで、この先のマンションに住んぢょうんて」

「へぇー、一人暮らしなんだー、いいなー。ね、遊びに行ってもいい?」

「好きにせえ」

 

 憂助は素っ気なく答えた。

 もしも京一郎が見ていたならば、ガッツポーズを取っていただろう。

 社会に出た時に備えてというのは本当だが、それ以上に、高校生になっても浮いた話の一つもない息子を案して、女の子と二人きりになれる環境を用意することこそが、父の真の目的だったのだ。

 そんな父の心遣いなど露ほども知らない憂助は、葵に対する負い目もあってか、女の子を一人暮らしのマンションに連れ込むという大胆な事をあっさりと成し遂げてしまったのである……。

 

 商店街を見下ろすように建つ五階建てマンションの最上階に、憂助は住んでいた。

 部屋に案内された葵は憂助がミルクココアと一緒に出してくれたアルフォートを遠慮なく平らげる。

 

「結構綺麗だねー。男の一人暮らしだから、もうちょっと散らかってるかと思ってたけど」

 

 アルフォートを食べながら、葵は部屋を見渡す。

 マンションに元々標準で設置されてある家具や電化製品以外、ほとんど見当たらない。せいぜいテーブルの下の棚に本が二、三冊置かれてあるくらいだ。その本も、鳥や動物、外国の城などの写真を納めた物であった。

 中学三年生の時に付き合っていた大学生の小野原和彦の部屋の方が、まだ散らかっていた。もっとも、彼の場合はしょっちゅう友人が何人も遊びに来て、そのまま泊まり込む事もあったのが、散らかっていた原因だろう。葵は時々部屋の掃除をしてあげたり、彼等のための食事を作ってあげたりしたものだ。

 憂助の場合は、単に一人暮らしを始めたばかりでまだ散らかるほどの時間も経ってないだけだろう。

 

 憂助はテーブルを挟んで向かいのソファに腰を下ろした。

 

「おい、峰岸」

「なぁーに?」

「最近お前に付きまとっとる男とかおらんか?」

「うーん、付き合って~とか言ってくる奴ならたまにいるけどぉ? なんでそゆ事聞くの?」

「実はの……」

 

 憂助は今朝八千代ゆかなから聞いた話を、語って聞かせた。

 

「まぁ俺は自分の身くらい守れるきどうでもいいが……そいつ等がトチ狂ってお前にまでつまらん事しくさったらいかんき、注意くらいはしとこうと思っての」

「そーなんだ。でもさ、もしもアタシに何かあったら、久我が助けに来てくれるっしょ? ヘーキヘーキ」

「……あまり俺を当てにするな。力及ばん時もある」

 

 そう言った憂助の声色は、暗く沈んでいた。

 

「……この前のあれ、まだ気にしてるの?」

 

 察した葵は、憂助の隣に座り直し、太股の上に置かれた手を優しく握った。

 

「言ったっしょ? アタシは久我が助けに来てくれたのマジ嬉しかったって。パパさんに助けられたのは確かだけど、久我が来てくれなかったらアタシが殺されてたのも確かなんだよ? アタシがピンチの時には絶対に駆け付けてくれる久我は、マジでアタシのヒーローなの」

 

 言いながら、握った手を胸元へといざない、制服の中に潜り込ませた。

 

「だからさ、いつまでもクヨクヨしてないで、アタシのおっぱい揉んで元気出しなよ。アタシおっぱい触られるの大好きだから、声掛けてくれたら、いつでもどこでも何回でもオッケーだよ?」

 

 葵は憂助の手に自分の手を重ねて、グニグニと胸を揉ませる。

 白い頬に赤みが差し、瞳が潤って来た。

 シャツのボタンを外して、何の恥じらいもなく脱ぎ捨てると、ブラジャーも外した。

 

「からかってる訳でも何でもなくて、マジだから。アンタが元気になれるんならさ、おっぱい好きなだけ弄んでいいし、おっぱいだけじゃなくてアタシの身体全部あげる」

 

 優しくささやき、憂助を抱き締めて、自慢の爆乳の中に顔をうずめさせた。

 憂助はされるがままだ。

 

(──あ、これいけるんじゃね?)

 

 と、妙な手応えを感じた葵は、立ち上がり、憂助の両手を握った。

 

「ねぇ久我、エッチしよ? アタシとエッチして、溜め込んでるもの全部吐き出して、明日からまた頑張ろーよ」

「…………」

 

 葵を救えなかった事は確かに気にしてはいたが、別にそこまで大袈裟なものでもない。

 デコピンの一つもくらわせて叩き出そうかとも思ったが、憂助の中のもう一人の憂助がそれを止めた。

 一人暮らしで、やはり気持ちが開放的になっているのだろう。

 憂助はソファから立ち上がり、葵を寝室へと連れていった。

 

 

 夜の8時。

 憂助と葵は腕を組んで夜道を歩いていた。憂助は瞬間移動で送るつもりだったが、葵がもっと一緒にいたいと言うので──かと言って泊める訳にもいかないので──徒歩で家まで送ってやっているのである。

 

 憂助は今、とても複雑な心境であった。

 葵の事は嫌いではないが、こうもあっさりと関係を持ってしまっていいのだろうか?

 ア・イ・ウ・エ・オの五つの中から正解を選ぶ選択問題を解いていったら七問続けてウになっていた時のような、『本当にこれでいいのか?』という奇妙な不安感が、胸に渦巻いていた。

 ──が、それもすぐに消えた。

 前方に五人の男が、道いっぱいに広がっていた。

 全員が、布を口元に巻いたり目出し帽を被ったりして、顔を隠している。

 全員が、手に鉄パイプや金属バットを持っていた。

 全員が、目を黄色く濁らせていた。それは悪霊に憑依された人間の特徴であった。

 

「な、なに?」

「──下がっとけ」

 

 怯える葵を自分の背後に押しやり、憂助は右手を背中側の襟口に突っ込んだ。

 引き抜かれた手に握られているのは、愛用の木刀。木製の刀身から、破邪の念が白く燃え上がっていた。

 男たちが一斉に襲い掛かって来た。

 憂助も木刀を八双に構えて、前に出る。体の軸をぶれさせる事なく、滑るように駆けていくと、木刀が縦横無尽に翻り、白い軌跡を描きながら、五人の男を瞬く間に斬り伏せた。

 男たちは目や鼻、口、耳から白光をほとばしらせたかと思うと、黒い煙を吐いて倒れた。

 黒い煙は、憂助の念をくらって浄化された悪霊の残滓であった。

 

 ──カッ!

 

 と、別種の閃光がほとばしった。車のヘッドライトだ。しかもハイビームで、憂助の視界を白く染め上げる。

 

 ブオン!

 

 エンジン音が響いた。

 

 キュキュキュッ!

 

 とタイヤを軋ませて、急発進した自動車が突進してくる。

 憂助は目を閉じて、木刀を上段に掲げた。

 

「エヤァッ!」

 

 鋭い掛け声と共に振り下ろした一刀が、車のボンネットに流星めいて叩き込まれた。

 後方から見ていた葵には、電光を伴う白い波動が車体を前から後ろへと駆け抜けたように見えた。

 

 ──瞬間、車はピタリと止まった。ビデオの制止画像のように、或いは、時間が止まってしまったかのように、急発進で得た慣性などなかったかのように、静かに止まった。

 エンジンが止まり、ヘッドライトも消えた。

 車内には運転手が一人きりだったが、気を失っているようだ。

 

 静寂が、辺りを支配した。

 

「おい、行くぞ」

 

 木刀を背中にしまいながら、憂助が葵に呼び掛ける。

 

「でも、コイツ等どーすんの?」

「もう少ししたら起きる。死にゃあせん」

 

 憂助がそう言ってさっさと歩き出すものだから、葵は慌てて追い掛けて、その腕にしがみついた。

 

「アイツ等何だったの?」

「知らん」

 

 葵の問い掛けに、憂助はそれだけを答えた。

 

「知らんって、だってアイツ等、アンタの事殺そうとしてたじゃん」

「どっかの悪霊に取り憑かれたんやろ。そいつ等も浄化してしもたき、もうどうもならんわ。あいつ等に聞いても、ほとんど何もわかるめえ。ほっとけ」

「はぁ~い」

 

 葵は不承不承といった風に返事をした。

 

 憂助はこの時、八千代ゆかなから聞かされた連中の事を思い出した。

 しかし、ただの嫉妬でここまでするだろうか?

 襲撃者たちはその辺の暴走族のようだがが、そいつ等に悪霊を憑依させて操る事など、出来るものだろうか?

 天来教団の可能性も考えたが、彼等の行動の規模やスケールを考えると、まだまだみみっちいという印象が拭えない。

 

(さっぱりわからん……)

 

 憂助は口をグッと、への字に曲げた。



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人形使い その2

 放課後。

 教室を出たところで久我憂助は見知らぬ男子生徒に呼び止められた。

 

「おい久我、ちょっと顔貸せよ」

「断る」

 

 一瞬の間も置かず、憂助は返答した。

 

「いいから来いっつってんだよ」

 

 男子生徒はそう言って憂助の肩を掴んだ。

 憂助は肩越しに、男子生徒をジロリと睨む。

 

「すまんが人を待たせとうきの、今度にしてくれ」

「女か?」

「まぁの」

「なら、ついて来ないと後悔するぜ。どうせその女は待っちゃいねえからよ」

「あん?」

「俺等が預かってるからよ。お前が来ねえなら俺等で好き勝手させてもらうぜ?」

「……案内せえ」

 

 憂助の声音に、凄味が加わった。

 男子生徒に連れられてたどり着いたのは、家庭科や物理の実習を行う別棟の更に奥にある庭だった。庭というよりは、ただの広っぱというべきだろうか。そこに六人の男子生徒と峰岸葵、そして何故か八千代ゆかなもいた。

 

「ふぇえ~ん、憂助ぇ~!」

「久我ちゃぁ~ん!」

「……八千代。なしお前までおるんか」

「だってこいつ等、峰岸を無理矢理どっか連れていこうとしててさぁ~! それでやめねーと先生呼ぶぞって脅かしたらあーしまでさらわれちゃったのぉ~!」

「そら災難やったの」

 

 憂助は溜め息をついた。

 

「おい久我! テメー峰岸とヤりまくってるそうじゃねーか! 俺等はずっと前からこいつ狙ってたのに抜け駆けしやがって!」

「知るか阿呆」

 

 憂助は吐き出すように言った。

 

「お前等が相手されんかっただけやろが。別に俺が裏から手ぇ回した訳やねえ」

「うるせえ! いいから峰岸に近付かないって約束しろ! でねーとぶち殺す! 言うこと聞かねーと峰岸もこの女も只じゃおかねえぞ!」

 

 言ってる事が滅茶苦茶だが、葵もゆかなも何も言えなかった。彼等の目の奥に、暗くどんよりしたものがあった。正常な精神状態とは思えない。迂闊に刺激すると、本当に何をされるのかわからなかった。

 憂助は、肩に下げていた鞄を無造作に地面に下ろした。

 呼吸を整え、感情や精神の力を司る三つのチャクラを開いた。

 そして両手を開き──、

 

 パァンッ!

 

 と、叩き合わせる。

 その音に乗せて、開放したチャクラから得たエネルギーを放出する。

 その波動に打たれ、男子生徒たちも葵やゆかなも、全員の心が、空白となった。

 何も考えられず、ただぼんやりと立ち竦むのみだ。

 その隙に憂助は、まず自分をここまで連れてきた男子生徒の首筋に手刀を叩き込み、昏倒させた。

 次いで正面にたむろする男子生徒たちの中に飛び込み、彼等にも手刀を振るう。徒手空拳ながら、『斬り伏せる』という表現が似合う動きだった。

 六人の男子生徒はたちまちの内にその場に倒れ込んだ。

 憂助は未だに立ち尽くす葵とゆかなの眼前で、パチンと指を鳴らした。そのフィンガースナップにも精神のチャクラの力が込められており、音と共に放たれた波動で少女たちは空白状態から元に戻った。

 

「……へ? あれ?」

「……え? 嘘、久我ちゃん一人でやっつけちゃったの?」

「まぁの」

「あ~ん、さっすが憂助ぇ~! マジすごぉ~い!」

 

 葵が憂助に抱きついて、その胸板に頬擦りする。

 

「すまんのぉ八千代、つまらん事に巻き込んで」

「あー、うぅん、気にしないでいーよ? ほとんど何もされてねーし……でもさぁ~」

 

 ゆかなはニンマリと笑った。

 

「久我ちゃん、この前は峰岸とは付き合ってないって言ってなかったぁ?」

「その日のうちに事情が変わった」

「ふぅ~ん、ま、別にいーけどね。でも久我ちゃんさぁ、あと一人くらい彼女作っても良くね?」

 

 ゆかなはそう言って憂助にしなだれかかった。

 葵ほどではないが、やはり発育過剰気味のバストを押し付ける。

 

「久我ちゃん優しいし可愛いし、しかもチョー強いっぽいし、あーし好きになっちゃった。あーし今フリーだし、どう?」

「いんじゃね? アタシはオッケーだよ?」

「いいの?」

 

 葵の言葉に、ゆかながはすっとんきょうな声で聞き返した。

 

「オッケオッケ! 憂助マジ凄いんだよ? 絶対病み付きになっちゃうから……みんなで気持ち良くなろ?」

 

 葵はゆかなと憂助の両方にそう言った。頬に赤みが差し、瞳も潤んでいる。完全に出来上がっていた。

 

「ねぇ、いいでしょ憂助ぇ~。この子憂助の友達っぽいし、混ぜてあげよ?」

 

 その潤んだ瞳で憂助をみつめ、甘ったるい声でささやき、ズボンの上から股間を愛撫する。呼吸もハァハァと荒くなっている。

 憂助は葵とゆかなの腰に腕を回し──地面を蹴って大きく跳んだ!

 三人が立っていた場所の、足首の高さを、銀光が一閃した。

 ナイフだ。

 憂助に倒された男子生徒の一人が、隠し持っていたナイフを抜いて斬りつけて来たのだ。

 その男子生徒が、地面にうつぶせになったまま跳ね上がり、すっくと立った。

 彼だけでなく、他の男子生徒も、ある者は激しく背を仰け反らせて、ある者は地面についた腕の力だけで、異様な起き上がり方をする。

 憂助は二人の少女を抱えたまま、五メートル後方のフェンスを飛び越えて着地した。

 

「え、え? なに、なに?」

「な、なんかアイツ等ヤバくね?」

「おう、わかっちょうんやったらここにおっとけ」

 

 憂助は困惑する二人に言い残して、フェンスを飛び越えて庭に戻った。

 その時には他の男子生徒たちも隠し持っていたらしい大型のカッターナイフや小振りの金槌などを取り出していた。

 憂助も、得物を手にした。

 葵とゆかなからは、袖の中から現れたとしか見えなかった。

 柄に『獅子王』の文字を彫り込んだ木刀である。憂助はそれを正眼に構えた。

 構えた木刀の切っ先から、体内で練り上げた念を放射する。

 その念が男子生徒たちに触れると、彼等の肉体の厚み、筋肉量、骨格などが感じ取れた。念によるスキャニングだ。これで彼等に取り憑いているだろうものの正体もわかる。

 

(──?)

 

 しかし、何か悪霊や妖怪の類いの反応はなかった。

 ただ、全員の頭部、もっと言えば脳内に、異物を感知した。

 そこへ男子生徒たちが、一斉に襲い掛かって来た。凶器を振るう動きには、何の躊躇いもなかった。そして、何の感情の動きも感じ取れなかった。

 それどころか、何人かは憂助の方を見てもいない。

 奇妙な事だが、彼等は憂助の念法手刀で昏倒したまま立ち上がり、昏倒したまま凶器を手にして、昏倒したまま攻撃して来たのだ。

 憂助は迫るカッターナイフや金槌を最小限の動きでかわし、相手の小手に木刀を打ち込む。木製の刀身が二の腕を透過すると、体内に浸透した念が筋肉を麻痺させて、彼等は力なく得物を取り落とした。そこへすかさず、足を打つ。腕と同様に念の一撃で筋肉が麻痺して、彼等はその場にぶっ倒れた。そしてジタバタともがいていたが、それも束の間、すぐにおとなしくなった。

 憂助は木刀を背中にしまい、しゃがみ込んで彼等の頭部を調べる。

 頭頂部に触れた時、指先に異物感を感じた。

 憂助は人差し指と中指をそこに当てて、指先に念を集中させてから当てていた指を離す──二本の指に挟まれて、針が出てきた。

 長い。

 20cm近くある。

 これだけの物がほんの1~2ミリほど残して人間の頭部に刺さって埋もれていたのかと思うと、さすがの憂助もゾッとした。

 針は、長いだけでなく細かった。

 指先で摘まんではいるが、その摘まんでいる感触が、細すぎて感じられない。

 ほんのちょっと目を離したら、見失ってしまいそうだ。

 まるで糸──否、髪の毛のような細さだった。

 その不可思議な針が、男子生徒全員の頭に刺さっていた。

 念法を応用したサイコメトリーで彼等の過去を探ってみたが、こんな物を打ち込まれたという自覚は彼等自身にもなかったようだ。怪しい人物や場所の記憶は、一切探知出来なかった。彼等も気付かないうちに、頭に針を打ち込まれたという事である。

 

(どういうこっちゃ……)

 

 憂助は抜き取った針をじっと見つめながら、口をへの字に曲げた。

 

「憂助、大丈夫?」

「久我ちゃん怪我してない?」

 

 フェンスを乗り越えて、葵とゆかなが駆け寄った。

 

「お前等、今日はもう帰れ。寄り道せんと真っ直ぐな」

「えーっ? エッチしてくんないのぉ~? アタシ憂助とエッチしないと生きていけないのにぃ~!」

「一日くれえなら死にゃあせん、明日にせぇ」

「久我ちゃぁ~ん、あーしもちょっと今ムラムラしてて、たまんないんだけどぉー」

「気のせいだ。さっさ帰ってさっさ寝ろ」

 

 憂助はつれない返事を投げつけながら、回収した針をポケットから出したハンカチでくるむと、二人に「じゃあの」と言い捨てて立ち去った。

 

「もぉ~! 憂助のバカー!」

 

 葵はその背中に幼稚な罵声を浴びせた。

 そして、隣にいる見知らぬギャルを目線を移した。

 ゆかなの目、鼻、口、うなじ、はだけたシャツから覗く深い谷間、スカートから伸びるムッチリした太股と下降していき、そしてまた目線は上昇して、胸の谷間に固定された。

 

「えーっと……まだ名前聞いてなかったね。誰さんだっけ?」

「久我ちゃんと同じクラスの、八千代ゆかな。アンタは四組の峰岸葵でいいんだよね?」

「うん、そう」

「久我ちゃんと付き合ってるってマジ?」

「うん。毎日いっぱいエッチしてるの……だって憂助、マジで凄いんだもん……あんな気持ちいいの、マジ初めて……」

「──そんなに?」

「うん、凄すぎて頭おかしくなりそう……てゆーか、もうなってるのかも……最近、アイツとエッチする事しか考えられなくってさ……」

 

 葵は内股をモジモジさせた。

 思い出しただけで、全身の細胞がうずいて憂助を求めてしまうのだ。

 

「久我ちゃん、そんなに上手いの?」

「上手いとか下手とかじゃなくて、憂助の体自体がチョー気持ちいいの……触っても触られても、それだけで溶けちゃいそう……」

「……ふぅ~ん……」

 

 ゆかなは小さく、生唾を飲み込んだ。

 ぶっきらぼうだが、掃除の時などは率先して重い物を運んでくれるし、ツンツンした態度は妙に子供っぽくて、(いじり甲斐があるという意味で)可愛らしい。

 しかし、今の葵の話を聞いて、そして欲情したその表情を見て、違う意味でクラスメートへの興味が強くなった。

 そこへ葵が聞いてきた。

 

「ねぇねぇ、ゆかなんて呼んでいい?」

「いいよ」

「ねぇゆかなん。今からうちにおいでよ」

 

 言いながら、葵はゆかなの胸元に手を潜り込ませる。

 

「えっ、えっ? ちょ、ちょっと何してんのさ!」

「おっぱい大きい……アタシ、おっきいおっぱい大好き……」

「お、お、お、落ち着け、まだ慌てるような時間じゃない! 冷静になれ! 素数を数えろ!」

「大丈夫、怖くないよ。女の子同士もマジ気持ちいいんだから」

 

 葵はゆかなの胸をブラジャー越しに揉みながら、唇を重ねて、素早く舌を差し込む。

 ゆかなは竦み上がり、葵を引き剥がそうとするが、舌を絡ませられると、手足から力が抜けていった。

 

(嘘……こいつチョー上手い……つーかキスって、こんな気持ち良かったっけ?)

 

 気が付くと、自分から舌を絡ませていた。

 互いの指と指を、恋人のように絡ませ合った。

 葵の膝が股間に押し当てられて、ショーツ越しにグリグリとこすって来た。

 時間にして1分ほど、女の子同士のディープキスを交わすと、葵の方から唾液の糸を引きながら、唇を離した。

 

「ねぇゆかなん……エッチしよ?」

「あ……うん……」

 

 ゆかなは、コクンとうなずいた。

 その日、八千代ゆかなは新たな扉を開いた。

 

 

 森の中にある、警視庁DTSS本部。

 上空から見ると五角形になる、五階建ての建物だ。

 一見そうとはわからないが、建物周辺には結界が張り巡らされており、悪霊や妖魔、呪詛の類いの攻撃に対して備えてある。

 沢渡直也警部は、会議室で憂助と向き合って席に着いていた。

 正直に言うと、目の前の少年の行動力に感心すると同時に、呆れてもいた。

 つい数分前、いきなりスマホのLINEを通して『天来教団に狙われてるかも知れません』というメッセージを送ってきたのだ。

 ちなみに沢渡の番号は神道宗光の一件の後、『もしまた何かあったら』と教えてもらっておいた。LINEのアプリは葵と関係を持ってから、彼女に言われてインストールした。

 そして沢渡から詳しく話を聞きたいという返信が来るなり、瞬間移動で文字通り彼の前に現れたのだ。おかげで危うくぶつかるところだった。

 いくら顔見知りとはいえ、高校生の身で警察の関連施設にこうもあっさりと乗り込むその度胸と行動力は本当に、感心するべきか呆れるべきか、判断がつかなかった。

 複雑な気持ちのまま、沢渡は会議室に憂助を案内すると、そこで彼から事情を聞いた。

 彼がハンカチにくるんで持ってきた針も見せてもらった。

 しかし不思議な事に、ハンカチを広げると、針は丸まってしまっていた。髪の毛のように細い針どころか、本物の髪の毛となってしまったのだ。

 

「……これが、その生徒たちの頭に刺さっていたのだね?」

「はい」

「そしてその生徒たちは、意識を失ったまま立ち上がり、襲い掛かった」

「はい」

「……間違いなく、天来教団だ」

「やっぱりそうですか」

「奴等の中に、髪の毛を操る術者がいる。そいつが彼等の頭に髪の毛の針を打ち込み、凶暴化させたのだろう」

「なるほど……そんじゃ、後はお任せします」

「ああ、もちろんだ。しかし、わからんなぁ……奴等がその気になればもっと大規模な事も出来る……メンバーを倒された報復としては、やってる事がみみっちい上に回りくどい……」

「その辺の答え合わせも、お任せします」

 

 憂助はそう言って席を立った。

 

「待ちたまえ久我くん。君に護衛を着けたい。帰るならその者たちも一緒に連れていってくれないか」

「……うっす」

 

 憂助はパイプ椅子に座り直した。

 沢渡が机の上の電話で、どこかに連絡を取る。

 

「沢渡だ──ああ、君か。ちょうどいい、一仕事頼みたいので、会議室に来てくれ」

 

 そう言って受話器を下ろす。

 まるでおつかいを頼むような気安さだったが、たぶんそういうものなのか、それとも正式な任命なり手続きなりは後でやるつもりなのか、とにかく素人がゴチャゴチャ口を挟むものでもないのだろうと思った憂助は、何も言わないでいた。

 少ししてドアがノックされた。

 

「開いている。入りたまえ」

 

 沢渡がそう言うと「失礼します」という女性の声と共に、ドアが開かれた。

 

「ハァイ、ユースケ。元気にしてた?」

 

 緩やかなウェーブの掛かった豊かな金髪と、スーツの下からでもその存在感をアピールする豊満すぎる胸を揺らして、クリスティーナ・ノーランドは明るく手を振った。



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