狙撃銃は女神の懐 (荒井文法)
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プロローグ

 靴先が何度も同じ軌跡をなぞっている。

 イリカは公園のブランコに座って、小さな振幅で揺れている。

 揺れに従ってイリカの靴先が地面を擦る。さっきまであった軌跡がなくなり、新しい軌跡が作られる。同じように見えるが、全く違う軌跡が地面に刻まれる。その軌跡も一秒後には消えてしまう。

 

 何時間こうして靴先だけを見ているだろう。

 

 時折聞こえていた人の声や足音はすっかり息を潜め、木や草を揺らす風の音が大手を振って歩く。ブランコの鎖の甲高い音だけがささやかに抵抗している。

 太陽が昇るまで、あとどのくらい時間がかかるだろうか。イリカの周りにあるのは暗闇だけである。ブランコのそばにある真っ白い常夜灯がひとつだけイリカを照らしている。

 寒い。雪が降るくらいの寒さだって誰かが言ってたっけ、マフラーを持ってくればよかった、とイリカは思う。これから自殺するのに。

 マフラーがある自宅には誰もいない。イリカの育ての親は三週間前に死んでしまった。とても素敵な人たちだったのに、イリカに泣く時間すら与えず、交通事故で死んでしまった。

 

 イリカの親が死んだ次の日、弁護士がやってきた。

 弁護士は無表情で、事務的に、遺産の相続権がイリカに無いことを淡々と告げた。告げられた言葉の重大さを理解できず、イリカが『分からない』という表情をしていると、弁護士はロボットみたいに口だけを動かしながら言った。

 「今月中に、この家から退去していただきます」

 去っていく姿もロボットみたいだった。

 

 弁護士の話が信じられず、誰かに相談したかったが、イリカが頼れる知り合いは皆無だった。

 ロボット弁護士の話で分かったことだが、育ての親に親族は一人もいなかった。生みの親は、十年以上前にイリカと別れて以来、どこで何をしているのか分からない。親戚もいない。友人もいない。小学校でイジメを受けてから、ずっと学校へ行っていないからだ。

 役所へ行けば助けてくれるかもしれない、と考えた。

 役所を利用するのは初めてだったが、窓口を渡り歩き、たらい回しにされながらも、なんとか自分が置かれている状況を把握した。

 発行された紙切れを見つめるイリカ。

 自分の体温が頭の先から奪われていく感覚。

 ロボット弁護士の話は本当だった。

 

 イリカの戸籍上の両親は、見ず知らずの男女だった。

 

 ブランコの上で思い出した三週間前の出来事が、夜の空気で冷たくなったイリカの体を更に冷やす。心臓が一度だけ大きく脈打ち、少しだけ息苦しくなる。

 おかしい、絶対に間違いがあると、泣きながら役所の職員に訴えた。職員は訝しがりながらも、戸籍の訂正を裁判所に訴えることができると教えてくれた。

 裁判に必要な書類を裁判所に提出し、その審理結果が今日届いた。

 却下、という文字がイリカの網膜を痛めつけ、涙が溢れた。

 他にも小さな文字がたくさん書き込まれていたが、読む気力はひとかけらも残っていなかった。涙に溶けて流れ出てしまったのかもしれない。

 裁判所に却下されたということは、明後日には、この家から退去しなければならない。しかし、お金がない。アパートを借りることができない。アルバイトしてお金が貯まるまで野宿だろうか。いや、その前に、住所不定で身元不明のイリカを雇う所などあるのだろうか。助けてくれる人は誰もいない。誰もいない。誰もいない。誰も――

 

 気付くと、真夜中の公園のブランコに座り、靴先を見ていた。

 自分は死ぬのだろうな、と思った。

 

 ブランコに座っているイリカに、周りの暗闇がおいでおいでと手招きをする。限界まで膨張していた孤独感が、音もなく破裂して消えていく。同時に、すべての感情が停止した。

 どうやって死のうかな、あまり人に迷惑を掛けたくないな、あ、でも、空を飛んでみたいな、できるだけ高い場所から飛んで、できるだけ長く飛んでいたいな――

 空を見上げるイリカ。

 星は見えなかった。

 何もない暗闇の地上に目線を戻す。

 暗闇から笑い声が聞こえる。

 

 暗闇には女神がいた。



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第一章 分解(1)

 「イリカさんっ!」

 「ふぉへっ?」

 奇妙な声を出しながら顔を上げたイリカさん。口の端からヨダレが三センチくらいはみ出してる。はしたない……。

 王都放送の局内の一室、広い部屋に、数えきれないデスクが並んでる。どのデスクにもパソコンが一台、そして、たくさんの書類が乗ってる。天井からは何枚ものプラスティックプレートが吊り下げられてて、その中の一枚には“社会報道部”の文字。そのプレートの下に五つのデスクが集まってるトコがあり、そのうちの一つがイリカさんのデスク。僕の先輩だ。

 イリカさんはいつも、お昼休憩に入ると、ご飯を五分以内に済ませて、残りの四十分間を睡眠に充ててしまう。睡眠後は高確率でヨダレが垂れてる。ご飯を食べた直後だから、ヨダレが過剰分泌されるんだな、きっと。

 「お昼休憩終わりですよ」

 「んー……あー……ほんとだー……」

 イリカさんは、いつも通り時計を見ながら、いつも通り返事をして、いつも通りティッシュでヨダレを拭う。プログラムで動く機械のように、無駄の無い完璧な動きだ。

 イリカさんはいつも机に突っ伏して寝るから、起きた直後の髪は少し乱れてる。

 やっぱりいつも通りに、セミロングの茶色い髪を手櫛で整え始めるイリカさん。子猫が自分の顔を撫でてるような仕草。

 

 か、かわいい……!

 

 この仕草の破壊力といったら、四階からノートパソコンを円盤投げするくらいはある。落ちたあとのパソコンが僕で、投げるのがイリカさんだ。

 イリカさんの指が髪を梳くと、林檎のような桃のような甘いフルーツの香りが漂ってくる。同時に、寝ぼけ眼はパッチリお目々になり、下がってた口角は元の位置に戻る。そして最後に、にっこり笑顔で――

 「ありがと!」

 

 あぁ……僕はこのために会社に来てるんだ……

 

 はっ!

 ち、違う! 仕事! 仕事のために来てるんだよ! 冷静になれ!

 普段通りの顔で、ビジネスライクなビジネスゲームをビジネススーツにビジネストークで……。

 「起きれないなら、目覚ましかけてくださいよ」

 「うん、でもシロウ君、起こしてくれるし」

 「イリカさんが起きないからです」

 「へへ」

 いたずらっ子のように笑うイリカさん。か、かわいい……!

 「なんか、ほっぺたと耳、赤いよ?」

 「そ……! れは……おたふく風邪です」

 「え?」

 「そんなことより、そろそろ出発しないと遅れちゃいますよ、記者会見」

 「分かってるよー。でも、おたふく風邪って――」

 「それは……嘘です。いや、嘘じゃなくて、ジョーク。そう、ビジネスジョークです」

 「ビジネスジョーク?」

 「はい」

 「ふーん」

 イリカさんは、僕のビジネスジョークを追及しないで、出かける用意を始めてくれた。イリカさんの用意が終わるのを、自分のデスクで待つ。

 僕のデスクは、イリカさんのデスクと向かい合ってるから、存分に、心ゆくまで、イリカさんの顔を眺められる。まだですか~、早くしてくださいよ~、という感じで。素晴らしい役得だ。

 イリカさんは立ち上がり、椅子の背もたれに掛けられてたジャケットを着て、用意できたよ、といった感じで僕に微笑む。精神を極限まで統一し、おたふく風邪をガードした。

 イリカさんの左隣のデスクを一つ挟んで、ディレクターのデスクがある。彫りが深くて、ダンディーな髭を生やしたサガミさんが書類を読んでる。イリカさんがサガミさんの所へ向かったので、僕もそれに倣った。

 「失礼します」

 イリカさんが話しかけると、サガミさんは書類から目を離して、僕らを見る。

 「警視庁の記者会見へ行ってきます」

 イリカさんの言葉に、サガミさんは頷きながら片手を軽く挙げて応える。いってらっしゃい、という意味だ。

 喋らず、にこりともしないのに、頷いて片手を挙げるだけで、女の子を二、三人倒してしまいそうなサガミさん。これがハードボイルドというものか……。

 それに比べて、僕は童顔で、ヒョロヒョロで、背も高くない。ヒールを履いたイリカさんと同じくらいの背しかない。以前、サガミさんの寡黙さを真似して男力を高めようとしたら、イリカさんに「下痢?」と訊かれた。ハードボイルドには二度と手を出さないと誓った。

 

 警視庁までは電車で移動だ。吊革に掴まりながら、二人並んで電車に揺られる。

 僕とイリカさんの間で、吊革がひとつ揺れてる。この距離が、二人の親密度そのものだ。電車に乗り込んだとき、思い切ってその吊革に掴まろうとしたけど、予想通りのチキンハートが僕をこの場所に押し留めた。情けなかったけど、がっついてる男は嫌われるからな、という魔法の言葉で自分を立て直す。

 そう、僕はジェントルマン……慎み深く、思慮深い大人の男だから、がっつかず、余裕をもって、この芳しいフルーツの香りを胸いっぱい肺いっぱいに、鼻から口から毛穴から、全ての穴から吸い込んで――

 ……違う、これは変態ジェントルマンだ。全然立て直してないじゃないか。

 隣から漂ってくるフルーツの香りから気を逸らすため、イリカさんに話しかける。

 「今日はどんな夢でした?」

 イリカさんは、お昼寝すると絶対夢を見ちゃう、と公言する夢見る少女だ。ぶっ飛んだ夢が多いから、イリカさんの夢の話はなかなか面白い。一昨日なんかは、イリカさんが牛乳として搾り出され、チーズとして熟成され、消費者に食べられるまでの感動巨編を、前編・後編の二部構成で、身振り手振りを交えて、僕に披露してくれた。

 『私を絞り出してくれたおじさんがすっごいダンディーなの!』

 イリカさんが目を輝かせながら興奮気味に話す。

 『そのおじさんがね、無口なんだけど、絞り出した私を愛情溢れる眼差しで見つめてて、もう私、出荷される前にそのおじさんに飲んで欲しくなっちゃって、お願い私を飲んで、ってお願いしたら、じゃあ一口だけ、って言って、私を少しだけコップに注いでゴクゴク飲んだの。そしたらね、おいしい、もっと飲みたいって言って、何杯もお代わりしちゃうの、きゃーっ!』

 少し赤くなったほっぺたを両手で挟んで、恥ずかしそうに叫んだイリカさん。僕の脳下垂体あたりにグッときたけど、心の中で般若心経を唱えて、事なきを得た。

 そんな回想を一瞬で終わらせて、現実に戻ると、イリカさんは伏し目がちだった。

 「今日のは、少し悲しかったな……。女の子が、空を飛びたい、って思う夢だったんだけど……」

 悲しそうな表情のイリカさん。

 「それって悲しいんですか?」

 「んー、なんていうか、誰も助けてくれないんだなー、っていう感じ」

 なんだか歯切れが悪い。声のトーンも低い。あまり話したくないのかもしれない。僕は「そうですか」とだけ返して、夢の話を終わらせる。

 しばらく無言が続いた。

 この空気を変えたかったけど、何も思い付けなかった。

 電車は走り続ける。

 地下鉄の窓は真っ黒。

 窓に映る自分。

 助けを求める自分。

 ダレモタスケテクレナイ――

 イリカさんの言葉が反響する。

 リズミカルな電車の音と振動が、この空気を削り取ってくれることを祈った。

 「甘いものと、しょっぱいものだったら、どっちが好き?」

 イリカさんが脈絡なく話しかけてきた。

 「断然、甘いものですね」

 すぐに答える僕。

 「じゃあ、帰りはケーキ買ってこう」

 イリカさんが笑う。

 何だかよく分からないけど、とても嬉しかった。

 

 「今回の事件も同一犯ということですが、犯人についての新しい情報などありますか?」

 「えー、まず、先ほど申し上げた通り、同一犯の可能性が高い、ということであって、断定ではありません。犯人については、一刻も早い解決を目指して、捜査に尽力しております」

 警視庁の一室、広い部屋に並べられた沢山のパイプ椅子には、隙間なく記者が座ってる。その後ろには、さらに隙間なく、カメラとカメラマンが乱立。シャッター音とフラッシュが引っ切り無しに部屋を走る。

 「今回で四件めですが、これまでの被害者の方達との間に共通点などありますか?」

 「現在までに、被害者間の関係などは確認されておりません」

 「やはり無差別ということでしょうか?」

 「そのような点も含めて、捜査に尽力しております」

 警察の事件説明に続いて、記者の質問が始まったけど、三件めの事件の会見と同じような問答ばかり繰り返されてる。被害は増えてるけど、捜査の進展はあまりないようだ。

 「万が一、今後も同じ事件が続いた場合、警察側の責任も無視できなくなるのでは?」

 「警察の威信をかけて全力で捜査しておりますが、国民の皆様自身におかれましても、より一層、防犯意識を高めて頂くことで――」

 「国民に責任を転嫁するんですか!」

 「いや、そうではなく、警察としましても――」

 

 「やっぱり、新しい情報なかったですね」

 隣を歩くイリカさんに話しかけた。

 おいしいケーキ屋さんが近くにある、とイリカさんに誘われ、二人で街を歩いてる。勤務中だけど、デートとみなして良いだろう、という暴走を抑えるため、さっき、こっそりトイレで、掌に人という字を書いて呑み込んできた。効果は抜群だ。

 道路脇には沢山のイチョウが並んでる。夏の暑さが一段落して、夜は肌寒いくらいの気温になってきたから、イチョウが黄色くなる準備を始めてる。紅葉の季節だったら最高のデートだったんだけどな……って、もう効果切れ?

 「もしかしたら何か掴んでるかもしれないけど、それにしても情報少ないね」

 目当てのケーキ屋さんを探してるイリカさんが、前を見ながら応える。

 イリカさんの横顔は、まつ毛の長さがすごい目立つ。僕の二倍くらいある。

 以前「マスカラすごいですね」と言ったら、「地毛だよー」と返ってきた。とりあえず“天は二物を与えず”を粉砕しておいた。二重のパッチリお目々も備わっているので、イリカさんは人形みたいにかわいい。間違えた。人形なんて比べものにならなかった。

 「殺され方と死亡時刻くらいですよね、こっちに流れてるの」

 勤務中だということを思い出して、ビジネストークを続行する。

 「あとは、二件めのときの目撃証言? 少年がいたってやつ」

 「でもそれは二件めだけですし、全然関係ないかもしれませんよ」

 「んー、あと、被害者全員お金持ちとか」

 「それは強盗目的だからじゃないですか?」

 「でも、お金持ちの家って、すごいセキュリティだよ。侵入するの大変だよー、きっと」

 これまでの事件は全部お金持ちの豪邸の中で起きてる。だけど、防犯システムが働いた事件は一件もない。犯人がどうやって侵入したのか、警察は一切公表してない。捜査が進んでないから、公表できないだけかもしれないけど。

 「そうなんですよね。やっぱ、お金以外の目的があるんですかね。家主は例外なく殺されてますし」

 「お、はっけーん。あそこだ」

 会話をぶった切ったイリカさんの目線を追うと、カフェテラス付きのケーキ屋さんが見えた。

 「なんか、凄いおしゃれですね」

 ケーキ屋さんなんて来たことがないから、自然に出てきた感想だった。

 「気に入った? じゃあ……」

 一呼吸置いて、僕の顔を覗き込むイリカさん。

 「今度は、デートで来よっか?」

 「……え?」

 え?

 今なんて言った?

 デート?

 デートって言った?

 心臓が狂ったように急加速。

 イリカさんは、僕をじっと見つめて……

 「うそ」

 前歯を見せながら、にーっと笑う。

 「さ、早く買って帰らないとね」

 歩くスピードを少し上げたイリカさんに、少し遅れてついてく。

 僕の心は既に地球を三周はしてるはずなんだけど、なかなか戻ってこない。どこへ行ってしまったのか。

 遠くから車の急ブレーキの音が聞こえてきた。

 そうそう、そうなんだよね。

 車も心臓も、急には止まれない。

 

 ケーキを買って、電車に乗って、会社に戻っても、その日はずっと夢の中にいるような感覚で、感情がふわふわして、落ち着きが無かった。

 十分に一回くらいはイリカさんの嘘がフラッシュバックして、一瞬だけ仕事の手が止まる。で、またすぐ仕事を始める。ニワトリがエサを食べてるトコを思い出した。あいつら、落ち着き無いんだ。

 買ってきたケーキを職場の仲間と一緒に食べてるときは、イリカさんと話せないどころか、顔すら見れなかった。どんなケーキを食べたかもよく覚えてない。茶色かった気がする。

 仕事が終わって家に帰ると、もっと酷かった。

 録画してあったテレビ番組を見てても、頭の中は、昼間の出来事の無限ループ。

 あれはほんとに嘘だったのか? もしかしたら、わりと本気だったんじゃないか? ほら、嘘ついたあと歩くの速くなったし、照れてたんじゃないか? いやいや、落ち着けシロウ。そんな希望的観測に頼ってると、また痛い目見るぞ。ほら、高二の夏、グループで夏祭りに行ったとき、ユリコちゃんに「シロウ君てほんと優しいよね。やっぱ、付き合うなら優しい人がいいなぁ」なんて呟かれちゃったもんだから、一週間後に告白したら、え? なんで告白してんの? みたいな目で見られながら振られて、半年間立ち直れなかったことを思い出せ。あぁ、どうしてもっと冷静になれなかったんだ……そもそもあの夏祭りは――

 寝るまでずっと、不毛な議論・妄想・後悔・反省が続いた。

 翌日起きると、少しマシになってた。だけど、気を抜くと無限ループに入りそうな気がしたから、すぐに出かける準備を始める。

 今日はメグと会う約束をしてる。会社は休み。

 メグは僕の幼なじみで、大学に通うために上京した。国内トップクラスの王都大学に合格したくせに、半年で中退。本人曰く『通う必要がないと分かった』だそうだ。そのあとはずっとアパートにこもって暮らす生活を続けてる。生活費はどうしてるのかと訊いたことがあるけど、ネット上でそこそこ稼いでるらしい。親からの仕送りは一切無いと言ってた。

 十五分で出かける準備を済ませて、電車でメグのアパートへ向かう。

 メグのアパートはオンボロで、全体的に茶色くて、駆け上がると崩壊するんじゃないかというくらいボロい階段がある。この階段を踏むと、ギャア、とか、ギョエ、とか、人間のような声を発するので、精神的にも物理的にも恐怖がある。それを十三段登らないといけない。このアパートを設計した人を叱ってやりたい。

 そんなアパートだから、オートロックやドアチェーンなどあるはずもなく、インターホンもない。ドアも、体当たりすれば一発で開く気がする。アパートが崩壊するかもしれないけど。

 そのドアをノック。十秒くらいでドアが開いた。

 「よ」

 「おう」

 おう、と言ったのがメグ。

 彼女はいつも通りジャージ姿で、髪はボサボサ、眠そうな顔をしながら立ってる。

 すっぴんのメグは、少しそばかすがあるけど、キレイだと思う。かわいいというより、キレイ。肌はものすごく白い。きっと、昼間外に出ないからだろう。そこらへんの引きこもりと同じように、メグの昼夜も逆転してる。彼女にとって今の時間は真夜中だ。

 「悪いね、眠いとこ」

 「あいよ」

 返事をしながら、部屋の奥に戻るメグ。

 そこらへんの引きこもりとは違い、メグはモデルみたいにスタイルがいい。ジャージを着た後姿でも、それがよく分かる。小さい頃から、どれだけ食べても太らない体質らしい。遺伝子は本当に不平等だ。まぁ、おっぱいは小っちゃいんだけど。

 半年ぶりのメグの部屋。ワンルームで、玄関から部屋の中が全部見える。蛍光灯をつけてないから、相変わらず薄暗い。メグの部屋の窓の真ん前にマンションが建ってるから、部屋に入ってくる光はくたくたになってる。スキューバダイビングなんてしたことないけど、海の深い場所はこんな感じかも。全然嫌じゃない。きっとメグもそうなんだと思う。

メグの部屋は、光だけじゃなくて、物も少ない。目に付くのは、液晶ディスプレイが三つ乗った机、安そうなパイプベッド、小っちゃいテーブル、僕よりも年上なんじゃないかと思える茶色いエアコンくらいしかない。

 机の上の灰皿から煙が上ってる。

 「コーヒー飲む?」

 灰皿から吸いかけのタバコを取りながら、メグが訊いた。

 「じゃ、もらう」

 「ん」

 メグはタバコを咥えて、ほとんど使われてなさそうな台所へ行く。

 コーヒーを用意するメグを横目に、パイプベッドに座る。ここが僕の定位置。

 机の上の三つのディスプレイはどれもつけっ放しで、どのディスプレイのウィンドウにも沢山のアルファベットが並んでる。なんかのプログラムかもしれない。

 ヤカンを火に掛けたメグが戻ってきて、タバコを吸いながら椅子に座る。

 「どんな情報見つけたの?」

 煙を吐き出してるメグに訊いた。

 「結構すげーよ」

 メグが答える。

 メールにもそう書いてあった。

 一年前、僕が王都放送に就職が決まったとき、メグは内定祝いだと言って“面白い情報があったらすぐ教える券”をくれた。ジョークだと思ってたら、二日前に『結構すごい情報見つけた』とメールが来た。昔から、メグは意外と律儀だ。

 「金持ちが殺されてる事件の情報。出回ってないやつ」

 「どんなやつ?」

 「現場付近で目撃された少年いんだろ? 実はな、そいつの正体、警察分かってんだよ」

 「ほんと? ってか、どこ情報? それ」

 「けいさつ」

 メグがニヤニヤしながら答えた。もしかして、警察のネットワークに侵入したのか、こいつ……。

 「捕まるよ、ほんと」

 「うまくやればバレねーよ。システムいじったりするわけじゃねーし」

 「犯罪だよ」

 「ちょっと情報見て、俺の心の中にひっそり置いとくだけだって」

 「もう僕に教えちゃってるし」

 「そりゃあ……シロウはさ……ほら……」

 メグの声がだんだん小さくなり、何かごにょごにょ言いながら、タバコを灰皿で揉み消してる。

 「……信用、してるし」

 とっくに消えてるタバコを灰皿に擦りつけ続けるメグ。

 なんだ? 褒めてくれたのか?

 メグが黙ってるので、話しかける。

 「んー、まぁ、いや、そういう問題じゃないでしょ」

 「……うっせぇなぁ! 聞かねぇの?」

 「……聞く」

 「素直にそう言やぁいいんだよ」

 メグは、机の上にあったタバコの箱を乱暴に掴んで、中から新しいのを一本取り出した。タバコに火をつけると、いつもより深めに煙を吸って、溜息をつくように吐いた。

 「少年は、少子対策法の養子だとよ」

 台所の方をチラッと見ながら、メグが言った。お湯が沸きそうな音が聞こえてる。

 「もう身元、分かってるの?」

 「それがな、身元は分かってねーらしい」

 「ん? 少子対策法の養子なんでしょ?」

 「たぶん、正式な養子じゃねーんだろうな」

 僕は首を傾げて、よく分かりません、とジェスチャー。

 「俺もよく分かんねー。国のミスとかで戸籍登録されなかったのかもな」

 ヤカンがけたたましく音を鳴らし始めたので、会話を中断し、メグが台所へ向かった。

 少子対策法――最近それ関連の仕事をしてるので、わりと詳しく知ってる。

 制定されたのは十四年前。海外の難民受け入れを、未成年だけ大幅に増やして、少子化を抑えようとしてる法律。受け入れられた子は必ずどこかの世帯の養子になるから、身元が分からないなんてことないと思うんだけど。

 メグが言った通り、もし国のミスで戸籍登録されなかった奴が連続強盗殺人してるとしたら、国はボロクソに責められるだろうな。あ、もしかして、だから警察は公表しないのか?

 メグが両手にカップを持って戻って来た。机とベッドの間にある小っちゃなテーブルにカップを置いて、また椅子に座る。

 気になったことを訊いてみる。

 「それ、いつくらいの情報? 最近?」

 「見つけたのは二日前だけど、データが作成された日付は四件めの事件の直後だから、四日前くらいか」

 「じゃあ、警察隠してるんだ、その情報。昨日の記者会見、なんも言ってなかったし」

 「だろうな」

 メグが置いたカップを取って、熱々のコーヒーを一口飲む。砂糖とミルクがたっぷり入ってる。さすが幼なじみ。

 メグがくれた情報は確かに凄い。凄過ぎて、どうしたもんかと悩む。

 「実はな……」少し前屈みになるメグ。「とっておきの情報はこっからなんだよ」

 まじすか……。

 「冗談?」

 「マジ」

 指の間に挟んでるタバコで、メグが僕を指す。

 「警察な、犯行現場で、その少年取り逃がしてんだよ」



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第一章 分解(2)

 大きな窓ガラスが割られ、人が入れるくらいの穴が空いている。

 割られた窓ガラスの大きさがが目立たないくらい広い部屋には、何が描かれているのか分からない絵や、異様にキラキラ光る壺など、たくさんの高価そうな物がこれ見よがしに置かれている。悪趣味だが、きっとパーティーを開く部屋だろう。

 被害者の寝室は、この部屋から一番遠い部屋だ。偶然ではないだろう。犯人は、寝ている被害者を起こさないように、この部屋の窓ガラスを割って侵入したのだ。

 「一番の問題は、なんで防犯システムが働かなかったか、ですよね」

 隣にいる後輩が、割られた窓を見ながら言った。

 「そうだな」

 窓からは庭園が見える。庭園の中央には噴水があり、噴水を囲むように、手入れの行き届いた木や花や草が植えられている。初夏の植物の緑色が、とても眩しい。その華やか庭園は、夜になれば、無数の赤外線を蜘蛛の巣のように張り巡らせ、侵入者を絡め取るはずだった。

 庭園の赤外線に触れると、警備会社への通報と共に、暗視カメラが作動する。窓ガラスには振動センサーが設置されていて、作動すると、赤外線と同じことになる。先ほど確認したが、防犯システムに異常はなかった。しかし、事件が起きた昨夜、防犯システムは一切作動しなかった。

 「この家に頻繁に出入りする人物、この家を建てた会社、この家の警備会社を調べないとな」

 私が言うと、後輩が「そうですね」と頷く。

 割られた窓ガラスの周辺では、鑑識課の人間が証拠品や指紋を採取している。まだ時間が掛かりそうだ。

 「ちょっと寝室行ってくる」

 後輩に声をかけ、被害者の寝室へ向かう。

 被害者は五十三歳の家主。結婚しているが、妻子とは別居しており、この豪邸に一人で暮らしていたようだ。

 事件当日、昼間は使用人がいたが、夜は被害者一人だった。翌朝、いつものように使用人が出勤してインターホンを押すと、応答が無かった。不審に思った使用人は、すぐに警備会社に連絡し、鍵を開けて家に入ると、寝室で被害者が死んでいた。

 先ほどまであった遺体は既に移送され、ベッドのシーツに赤黒い染みが残っている。

寝室でも、鑑識課の人間が証拠品を採取している。

 遺体の様子を思い出す。

 ベッドの上で仰向けになって死んでいた被害者。外傷は、左胸への刺傷が一ヶ所のみ。衣服の乱れはほとんど無かった。

 寝室を見渡す。

 寝室のドアの鍵が破壊されている。銃を使ったようだ。

 寝室に荒らされた様子は無いが、机付近にインターネット回線のモデムがあるにも関わらず、PCは見当たらない。

 寝室の壁には隠し扉があり、その中に大きな金庫がある。金庫には何も入っていない。

 ここまでの状況から、犯行の様子を想像する。

 犯人は、何らかの方法で防犯システムを作動させずに邸内へ侵入。寝室の鍵を銃器で破壊し、寝ていた被害者を脅して金庫を開けさせる。金品を強奪したのち、一刺しで被害者を殺害し、逃走。そんなところか。

 分からないことは沢山あるが、特に気になることが一つある。

 気にしなければならない、と脳が震えている。

 被害者の足の裏が汚れていた。

 邸内はとても綺麗で、足裏が汚れるような場所はない。金庫の部屋も、それほど汚れていない。

 どこを歩いた?

 被害者が歩いた。つまり、犯人が歩かせた。

 どこを?

 先走る自分の手綱を引く。

 明日には、鑑識課の作業も終わる。被害者がどこを歩いたのか分かるかもしれない。それまで聞き込みに専念しよう。まずは周辺の住人たちだ。

 脳にしがみついてくる足裏の映像を振り払うため、咳払いをして寝室を出た。

 

 「牢屋?」

 電話で話している鑑識課の人間が、全く想像していなかった言葉を使ったので、つい聞き返してしまった。

 「そうです」

 「人を閉じ込めておく、あの牢屋ですか?」

 「はい」

 事件から二日後、気になっていた被害者の足裏の汚れについて、鑑識課に問い合わせた。

 被害者はどこを歩いたのか、と尋ねたら、牢屋だ、と言われた。聞き間違えたのかと思ったが、どうやら牢屋で合っているらしい。

 「あの家に牢屋なんてあったんですか?」

 「地下にあるらしいんです、隠し部屋が」

 「らしい、ですか?」

 「はい、私達も写真でしか見てないんですけど」

 「鑑識課が見つけたんじゃないんですか?」

 「えーとですね……私達は被害者の足跡を辿って、隠し部屋の入口までは突き止めたんですけど、その入口、かなり複雑な電子錠でロックされてまして、開けられなかったんです。じゃあ、入口を壊して中に入ろう、ってなったんですけど、核シェルター並みの頑丈さだったんで、そこからは軍の特殊部隊に任せたんです」

 軍が出てきたのか……ちょっと異常だな。

 「そちらに行って、その写真見せてもらってもいいですか?」

 「はい、大丈夫ですよ」

 電話を切ってから、あの感覚に気付いた。気にしなければならない、と脳が震えながら警告してくる、あの感覚。

 この仕事に就いてから時々感じるようになった。具体的に何を警告しているのか全く分からない。危ない目に遭ったこともない。

 仲間に話したこともあるが、虫の知らせってやつだろ、と言われるだけだった。しかし、そういったものではないのだ。数学のテストを解いているときの感覚に近い。確固たる答えがあって、その答えに近づくために脳が震えている気がする。

 鑑識課の部屋に入り、先ほどの電話の相手を見つけ、話しかけた。

 「すいません、お忙しいところ」

 「あ、いえ」

 デスクでパソコン作業をしていた相手は、こちらを一度見て、再びディスプレイを見る。マウスを操作して画面全体に画像を表示させた。

 「これです」

 そう言うと相手は立ち上がり、私に椅子を勧めた。

 「ありがとうございます」

 椅子に座り、ディスプレイに表示された画像を見た。見ているだけで体が冷えてきそうなコンクリートの床と壁、気味が悪くなるほど黒光りする鉄格子が映っている。どう見ても牢屋だ。

 マウスを操作して、他の写真をざっと見ていく。何百枚もあるので、じっくりとは見ていられない。

 「この写真、軍が撮ったんですか?」

 「そうです」

 牢屋の中にはトイレのようなものがあるだけで、他には何もない。使用感も全く無い。

 「この牢屋、使用されてたんですか?」

 「いえ、使われてなかったみたいです」

 「この部屋から被害者の足跡が?」

 「はい。あと、犯人の靴跡も」

 「あ、そうだ、犯人の靴のサイズっていくつだったんですか?」

 「えっと、かなり小さくて、二十三センチくらいです」

 二十三か……犯人が小細工している可能性もあるが、なんとも言えないな。

 ディスプレイを見つめながら考えていると、再び脳が震えるように警告し始める。つい言葉が漏れる。

 「犯人、なんでこの部屋に来たんでしょうね」

 答えを求めたわけではなかったが、相手は腕を組み、短く唸る。

 「犯行前に、この部屋の情報があったんですかね。それで、きっと金目の物があるだろうと思って、被害者に案内させた、とか」

 それも考えた。しかし、核シェルター並みの部屋の中に牢屋がある不自然さが、頭から離れない。相手も同じことを考えているのか、ずっと眉を顰めている。

 「分かりました。お忙しい中、ありがとうございました」

 礼を言いながら立ち上がり、軽く頭を下げた。

 「いえ。報告書は、明後日くらいには出せると思います」

 「よろしくお願いします」

 鑑識課の部屋を出るときも、脳はずっと震えていた。同じような事件が続かないことを祈った。

 もしかしたら、脳も何を言えばいいのか分からないから、震えながら祈っているだけなのかもしれない。

 

 三週間後に二件めの事件が発生した。

 現場からは一件めと同じ靴跡が見つかった。その他にも、防犯システムが働かなかったこと、外傷の特徴など、重なる点が多いため、連続強盗殺人事件として捜査をすることになった。

 「あー、男の子がおったわ」

 二件めの犯行現場から五百メートルほど離れた一軒家。今にも崩れそうな木造平屋建ての玄関前で、老婆がふごふごと口を動かす。

 「男の子、ですか?」

 早朝から現場周辺で聞き込みをしていたが、気付くと太陽は沈みかけていた。強烈なオレンジ色の光に照らされ、老婆の顔の皺が地層のような陰影を刻む。地震が発生したら、後ろの平屋建てもろとも地球へ還る、そんな決意の表れかもしれない。

 「そう。髪が短くて茶っこくてな。今どきの男の子」

 男の子……。

 犯人の靴跡のサイズが目の前をちらつく。

 「周り真っ暗じゃなかったですか?」

 「わしゃ年だでな、散歩のときは絶対懐中電灯を持ってくんじゃ。それで誰かいたもんでな、ビカーッと照らした。ほいだら髪が短くて茶っこくてな。今どきの男の子じゃ」

 「どんな服装でした?」

 「んー……どうじゃったかの……黒っぽかった気がするが、覚えとらん」

 「そうですか……どうですかね、身長は、僕の、この胸の高さくらいはありました?」

 「そうそう、そのくらいじゃ」

 百五十センチくらいか。

 「そのあと、男の子どうしました?」

 「森ん中入ってったわ」

 「急いでた感じとか?」

 「いや、こっちをちょっと見て普通に歩いてったわ」

 そのあともいくつか質問したが、有用な情報は無かった。危うく、老婆の今日の夕食を一緒に考えることになりそうだったので、強引に会話を切り、話し足りなそうな顔をしている老婆と別れた。こういう時、こちらも寂しくなってしまう。仕事なのでどうしようも無い。

 夏が始まり、夕方になっても生温い空気が体に纏わり付いてくる。汗で束ねられた髪が額に張り付くのが気になっていたが、老婆の情報がその感覚を吹き飛ばした。涼しい風が無くても、暑さは吹き飛ぶものだ。

 課長へ連絡するため、携帯電話を取り出す。もしかしたら、老婆の情報で事件を解決できるかもしれない。携帯電話を握る手は、久しぶりに喜んでいた。

 

 老婆の目撃証言以降、ほとんど進展が無いまま、三件めの事件が起きてしまった。

 捜査に関わる百人以上の人間が警視庁の会議室に集められ、これからの捜査方針を確認することになった。

 捜査会議が始まる直前、初めて見る顔の男が本部長に挨拶し、そのまま本部長の隣に着席した。本部長よりもかなり若そうだが、二人の立ち振る舞いを見ると、階級は同じくらいかもしれない。

 会議が始まり、まずは事件の経緯を振り返った。一人の捜査員が前に出て、パソコンとプロジェクターを使いながら事件の説明をする。被害者について、犯行現場について、証拠品について、老婆の証言について。分かりやすくまとまっていたが、その分、捜査が進展していないこともはっきり分かった。

 三十分ほどの説明に続いて、最新の捜査状況を各担当者が報告した。老婆の証言に基づいて、犯人が歩いたと思われる森の中を捜索したが、有用な痕跡は発見できなかった――報告は三十分もかからなかったが、その報告を作るために、膨大な労力がつぎ込まれている。

 「それでは続いて、これからの捜査方針についてですが……」

 進行役の課長が言った。課長は少し間を置いて、そのまま言葉を続ける。

 「……今日は国王直轄特別部隊のヨコウラさんがお越し下さっています。詳しい説明はヨコウラさんにして頂きますが、今後の捜査は国王直轄特別部隊の指揮下で行われます」

 会議室がざわめく。

 課長は、本部長の隣に座っている若い男に向かって軽く礼をして、お願いします、と口を動かした。

 私の隣に座っていた後輩が、少しだけ体を寄せてささやく。

 「コクチョク、初めて見ます」

 私もそうだった。恐らく、この会議室にいるほとんどの人間がそうだろう。コクチョク――国王直轄特別部隊という部署の存在は誰でも知っている。しかし、その業務や人員構成は誰も知らない。名称から、国王がトップで、国王の護衛をしているのかもしれないな、と想像できるだけだ。

 「只今ご紹介頂きましたヨコウラです。よろしくお願いします」

 ヨコウラの声が卓上マイクに拾われ、会議室に響いた。

 抑揚のない、しかし、明瞭な発音。まるで、

 「先ほどの言葉通り、これからは国王直轄特別部隊が捜査を指揮します」

 ロボットみたいだ。

 「一連の事件が社会に与えている影響は甚大です。可能な限り早急に解決しなければならないと国王は判断され、国直が捜査を指揮することが決まりました。長くても、国王の生誕祭までには解決する予定です。なお、国直が捜査に関わることは機密事項です。今ここにいる人以外には口外しないでください」

 国直が捜査を指揮する事例は今まで聞いたことがなかったが、なるほど、機密事項なのか。

 「捜査に参加するに当たって、国直では、二週間ほど独自に調査しました。皆さんの捜査資料も全て拝見しています。調査の結果、有益な情報を一つ得ることができました」

 会議室のざわめきは既に消え、全員がヨコウラの言葉に集中している。

 ヨコウラは口以外の部分を動かさずに話し続ける。

 「今回の事件は、三件全て、防犯システムが作動していません。そこで、警備会社のシステムを調査しました。その結果、防犯システムに脆弱性があることが判明しました。防犯システムは、外部からのハッキングにより、一時的に解除されてしまう危険性があります」

 会議室にいる人間が一斉にメモを取り始める。

 百人以上の筆音とヨコウラの声が会議室に響く。

 「恐らく犯人は、その脆弱な部分を利用していると考えられます。強盗する人間とハッキングする人間、二人以上が犯行に関わっている可能性が高いです」

 ヨコウラの眼球が僅かに動く。

 一瞬で会議室にいる人間全員の動きをスキャンしたようだ。

 「次の事件が起きるとすれば、過去三件と同じ警備会社を利用している富裕層の家が狙われるはずです。プロファイリングによって、次に狙われる確率の高い家を三軒に絞りました。これ以上被害を増やさないために、今後は、その三軒を二十四時間監視する態勢とします」

 ヨコウラは『被害を増やさないため』と言ったが、つまり、その三軒を囮にするということだろう。恐らく、防犯システムの脆弱性はそのまま残すはずだ。犯人を呼び込むために。成功すれば確かに被害は増えないが、失敗すれば取り返しはつかない。

 「では、三軒の監視を担当する人員をプロジェクターで映しますので、確認をお願いします」

 ヨコウラが言うと、スクリーン付近の明かりが消された。スクリーンには、監視を担当する人間の名前が並んでいる。どうやら三チームに分かれ、一チーム三十人ほどで一軒を監視するようだ。三交代制のようだが、それにしても規模が大きい。監視する敷地が広大なのか。

 「リュウガイさん、どのチームですか? 名前あります?」

 後輩が訊いてきた。

 訊かれる前から自分の名前を探しているが、どこにも見当たらない。

 「無いな。休んでいいってことだろ」

 「ちょっと、うらやまし過ぎます」

 後輩が笑う。

 「殺人犯捜査第三係のリュウガイ警部補、いますか?」

 突然名前を呼ばれ、一瞬固まる。

 ロボットのような声を思い出し、ヨコウラに呼ばれたと気付く。ヨコウラの姿勢は全く変わっていない。座っているロボットのパントマイムをしているのなら、完璧だ。

 「はい、ここです」

 立ち上がりながら答えた。

 「リュウガイ警部補には狙撃チームに参加してもらいます。監視チームとは別の説明をしなければなりませんので、会議終了後、私のところへ来て下さい」

 「分かりました」

 座りながら、無意識にライフルの感触を思い出す。

 ライフルを構えるまでの異物感。

 ライフルを構えたときの一体感。

 スコープを覗いたときの既視感。

 トリガーを引いたときの虚脱感。

 ターゲットを貫くときの安堵感。

 ターゲットが死んでいく嫌悪感。

 「やっぱ金メダリストは違いますね」

 後輩が笑顔で話しかけてきた。ヨコウラは既に監視作業の説明に入っている。

 「金メダル手当とか付くかな」

 「報奨金もらってるじゃないですか」

 ヨコウラの説明をメモしながら、後輩が言った。

 当然、手当なんて付かない。たとえ手当が付いたとしても、人間を射殺したあとの不快感は抑えられない。

 競技としての狙撃も、犯人を射殺する狙撃も、同じ仕事だ。

 より良い社会のため、誠実に行動するだけ。

 ただ、できれば殺したくない、という想いの分、少しだけトリガーが重くなる。

 

 生活感の無い部屋の中、ひたすら待つだけの仕事。

 明かりを点けてはいけないから、部屋は暗闇。

 ワンセグでテレビを見ても問題無いが、深夜番組は性に合わない。携帯電話でラジオを聞きながら、ペンライトを使って本を読んでいる。

 ラジオを聞きながら本を読んでいると、受験生だった頃を思い出す。友人に『ラジオを聞きながらよく勉強できるな』と言われたことがあるが、むしろ、ラジオを聞いている方が効率が上がる。無音だと、勉強以外のことが頭を過り易くなる。人間の集中力は数十分程度しか保たないと聞いたことがある。集中力の切れた頭を騙し騙し勉強させる方法がラジオなのだと勝手に信じている。

 この一週間、夜九時から朝五時まで、マンションの十二階にあるこの部屋で過ごしている。犯人を狙撃するためだ。

 狙撃チームは、二十四時間を三人の狙撃手で回しているので、一人八時間交代。交代するときに他の二人と少しだけ話をしたが、二人とも国直ではなく、軍に在籍しているらしい。

 事件が起きる確率が高い深夜を私が任されているということは、国直に評価されているということだろうか。プロファイリングでは、今監視している家に犯人が来る可能性が一番高いらしい。

 犯人は防犯システムをハッキングしてから現れる。ハッキング行為が確認された段階で、監視チームと狙撃チームに連絡がくる段取りになっているので、八時間神経を張り詰める必要はない。意外と気楽に待機できる。

 犯人が通ると思われる場所は、無数の赤外線ライトで照らされている。肉眼では暗闇しか見えないが、赤外線スコープを使えば、人の姿をはっきりと捉えられる。

 カーテンが閉められた窓の前には台があり、その上にライフルがセットされている。通常のライフルとは異なり、様々なスイッチやセンサー、計器が取り付けられている。それらの機器のアシストにより、狙撃の成功率が格段に高まる。スコープに映るものは自動的に録画されるため、狙撃時の様子は全て記録として残る。銃身が窓の外を向いているので、私の代わりに外を見張ってくれているようだ。

 持っていた本を閉じる。この部屋に来てから八冊の本を読み終えた。一日一冊以上のペースだ。さすがに飽きてきたが、他にすることも思いつかない。

 フローリングの床に置いてある飲みかけの缶コーヒーを一気に飲み干し、携帯電話の画面で時間を確認する。二時十三分。さっき時計を見てから、まだ三十分しか経っていない。休みの日も、このくらい時間の経過が遅くなればいいのに、と思う。

 突然、持っている携帯電話に着信。メールだ。

 着信音に驚いた自分を笑いたくなったが、メールの送信元が画面に表示されていたので、そんな余裕は消し飛んでいた。

 ラジオを消し、即座にメールを確認。件名も本文も“A”の一文字のみ。

 防犯システムがハッキングされている。

 窓際にあるライフルに駆け寄り、ライフルの横に置かれていたヘッドセットを装着。電源を入れる。

 「こちらT4、応答願います」

 マイクに喋りかけながら、ライフルを用意する。

 「こちらT4、応答願います」

 「こちらT2、異常無し」

 ヘッドフォンから声。

 「T1、同じく異常無し」

 「T3、人影を発見。南西の塀の前、誰か歩いてます」

 カーテンを開け、窓を開ける。ひんやりとした風が顔に当たる。外には街灯や窓の明かりが疎らに灯っているが、月明かりは無い。肉眼では、監視している家を見ることはできない。

 ライフルには既に弾が装填されている。赤外線スコープを覗きながら、ライフルを構える。

 ヘッドフォンから声が聞こえてくる。

 「背は大きくない……細身で、短髪。服は、長袖のTシャツに、ジーンズ、かな。腰に何かぶら下げてる。銃とか刃物かも」

 南西の塀……の前……。

 いた。

 「T4、人影を確認」

 赤外線スコープ越しなので、見ている物は白と黒の二色のみで表される。スコープの中で動く白い人影は少年のように見える。少年は塀に向かって歩いていく。塀まであと十メートルほど。

 突然、少年が走り出す。二メートルほどある塀に飛び付くと、そのまま滑らかに飛び越えた。

 「あ! 塀、飛び越えました! 侵入しました!」

 ヘッドフォンの声が慌てている。

 塀を乗り越えた少年は、落ち着いた様子で敷地内を歩いていく。これで、不法侵入した少年を現行犯逮捕できる。一連の事件との関連性は、その後に調べればいい。

 「T2、確保する」

 「T1も向かいます」

 「こちらT4。T3も向かえ。犯人は俺が見てる」

 「T3、了解です」

 監視チームは全員、南門の鍵を持っている。あと二、三分で、どこかのチームが犯人の所へ到着するだろう。ヘッドフォンからは風切り音が聞こえている。

 やはり、というべきか、狙撃チームなんて必要なかったのではないかと思う。あとは犯人を逮捕して終わり。ライフルの出番は無い。

 スコープの中の犯人が南門の方角を向いた。

 門が開く音に気付いたのか。耳がいいな。

 「こちらT4、犯人が南門の方を見ています。注意してください」

 犯人は立ち止まり、南門の方角をじっと見ている。今の犯人の場所からは母屋が邪魔で南門は見えない。無視してくれることを祈ったが、犯人は南門の方へ向かって歩き始めてしまった。

 「犯人が南門に向かって歩き始めました。あと五十メートル……一分ほどで見えます」

 ライフルの安全装置を解除。

 撃つ気は無いが、手が勝手に動いていた。

 仲間はどう動くだろう? 一旦隠れるだろうか。それとも、一気に確保しようとするだろうか。確保するなら、どのタイミングで飛び出すだろうか。

 様々な状況を思い浮かべ、狙撃する場面を頭の中でシミュレーションした。しかし、やはりライフルの出番は無いように思える。

 突然、身構える犯人。

 ほんの少し遅れて、スコープの画面端に捜査員が入ってきた。三人の捜査員が犯人に駆け寄っていく。一人の捜査員が犯人を正面で牽制しているうちに、他の二人は犯人の横と後ろに回り込む。犯人の後ろに回り込んだ捜査員が飛びかかる。犯人は後ろを振り返らずに、素早い動きで捜査員を避けながら、左膝で捜査員の顔を蹴った。捜査員が地面に倒れる。動かない。その様子を見ていた別の二人は、少し後退して、懐から拳銃を取り出し、犯人へ向けた。動くな、と警告もしている。

 数秒の静止。

 身構えていた犯人が、ゆっくりと両手を上げていく。

 次の瞬間、犯人は姿勢を低くしながら、物凄いスピードで、正面にいる捜査員の足元まで一気に詰め寄る。微かな光、同時にヘッドフォンから発砲音、ほんの少し遅れて銃声。捜査員が一発撃ったようだが、全く間に合っていない。足元に詰め寄られた捜査員が、ぐったりと犯人に覆い被さる。犯人は動きを止めずに、残る一人の捜査員に向けて素早く両腕を上げる。光、発砲音、銃声。捜査員が自分の手を押さえた。犯人が発砲したようだ。残る捜査員の前へ飛び込む犯人。そのまま流れるような上段蹴り。顔を蹴られた捜査員が膝から崩れ落ちた。

 既に指はライフルのトリガーに掛かっていた。

 捜査員を全員倒した犯人は、直立して辺りを見回している。

 犯人の脚にズームし、トリガーを引く。

 火薬の炸裂音。

 何故か、犯人と目が合った気がした。

 大きな瞳、真っ黒な瞳孔に、周囲の光が全て吸い込まれる。

 犯人の右足が上がる。その足元で、地面が弾け飛ぶ。

 直後、スコープから犯人の姿が消えた。

 スコープをズームアウトしている間に、ガラスの割れる音が微かに聞こえた。母屋の窓ガラスを見ると、一枚割れている。

 即刻ライフルから離れ、携帯電話を取りながら部屋を飛び出し、エレベーターの前まで走り、壁のボタンを押す。エレベーターは一階から昇ってくる。足が階段を使いたがる。落ち着け、エレベーターの方が早いに決まってるだろ、と自分の太ももを叩き、捜査本部へ電話をかける。携帯電話を耳に当てようとして、ヘッドセットをしたままであることに気付いた。

 コール音無しで相手が電話に出る。

 「状況は?」

 「悪いです。犯人は邸内に侵入。監視チームが確保に向かいましたが、全員やられました。狙撃も失敗しました。今、現場へ向かってます」

 可能な限りの早口で、一気に報告した。

 「こっちも応援を向かわせたが、たぶん、十分以上はかかる。犯人は一人なのか?」

 「はい、少年のようです」

 「……そうか、分かった。無茶はするな」

 「はい。あ、あと救急車を――」

 「分かってる」

 「すいません、お願いします」

 電話を切ると同時にエレベーターの扉が開く。乗り込み、一階のボタンと閉じるボタンを同時に押した。閉じていく扉を見ながら、先程の光景を思い返す。

 屈強な男が数分でやられてしまった。三人も。油断などしていなかったはず。相手がそれだけ強いということだ。怪我は大丈夫だろうか。酷い状態でなければいいが……。

 そのあとの狙撃。完璧な弾道だった。外れたのは偶然、犯人が足を上げただけ。避けられるはずがない。犯人と目が合うなんてこともない。落ち着こう。

 犯人が侵入した家の見取り図を思い出す。まずは家主の寝室へ行かなければ。

 エレベーターを出ると、全身の筋肉を総動員させて走った。

 息を切らせながら、南門を通る。敷地内の庭は、近くの街灯で微かに照らされている。

 地面に倒れている三人に駆け寄った。三人とも目立った外傷は無く、気絶しているだけのようだ。近くに捜査員の拳銃が落ちている。犯人が撃ち飛ばしたのか。

 ホルダーから拳銃を引き抜き、割れた窓ガラスから邸内に入る。ペンライトをつけ、足音に気を付けながら、最短距離で家主の寝室へ向かった。

 寝室から光が漏れている。部屋の明かりがつき、扉が開いているようだ。

 ペンライトを仕舞い、拳銃を両手で握る。背中を壁に付けながら、寝室の入り口ぎりぎりまで近付く。

 拳銃を構えながら一気に寝室へ踏み込む。

 視線を正面、左――

 ベッドの上に家主が倒れているが、すぐに視線を移動。

 右――

 少年が突っ立っている。

 反射的に発砲。同時に、少年は右肩を仰け反らせながら、左腕を動かす。

 少年の後ろの壁が弾ける。拳銃が叩き飛ばされる。

 少年の左手には火搔き棒。返す刀が顔へ向かってくる。

 背中を仰け反らせて回避。そのまま後ろへ跳ねる。少年は火搔き棒を両手で握り直す。

 素早く振り下ろされた火搔き棒を左へ避け、そのまま壁際まで走った。

 壁に飾られていた剣を取り、振り向きながら、追撃してきた火搔き棒を薙ぎ払う。

 相手の姿勢が崩れる。反撃。

 剣を一気に振り下ろす。犯人はバックステップで回避。さらに剣で突く。

 犯人は最小の動きで突きを避けながら、左手の火搔き棒を顔めがけて振ってきた。

 左利きか。

 状況に似合わない言葉が思い浮かぶ。どうやら脳の一部は、避けられないと判断したようだ。しかし、体は反射的に火搔き棒を避けていた。そのまま床に倒れる。

 体を起こそうとしたが、思うように動けない。足を投げ出したまま上半身を起こし、腕で体を支えながら犯人を見上げる。

 「はあっ、はあっ、はあっ」

 自分の呼吸音に気付く。犯人の息は全く乱れていない。全く相手になっていない。

 脳が白旗を降る。すると、妙な余裕が生まれた。様々なことに意識が向く。

 犯人の茶色い髪は、ヘアスプレーのようなもので固められているようだ。服は上下とも黒。手袋をしている。手術用の手袋のように見える。犯人の後ろにはベッド。家主は倒れたまま動かない。

 犯人と目が合う。子供のような目、鼻、口、顔。かわいいな、と思ってしまった。この子が三人も殺しているのか?

 「突きは、やめたほうがいいよ」

 少年の口が動いた。声変わり前の高い声。挨拶をするような、世間話をするような、自然な発音。憎しみ、興奮、怒り、嘲りのような感情は微塵も感じない。ただ、私にアドバイスをしただけだ。こんな奴に勝てるはずが無い。本能がそう言った。

 「狙撃したのお兄さん? 凄かった。胴体狙われてたら避けれなかった」

 避けたのか。信じられないが、きっと嘘ではないのだろう。

 もしかして、この言葉を言うため、賛辞を贈るため、追い打ちをかけないのか?

 本当にこの子は殺人犯なのか?

 脳が震える。

 「脳が震えるの?」

 少年が言った。

 視線はぶつかったまま。心臓の鼓動が大きくなったが、恐怖は無く、むしろ、声を聞く度に落ち着いていく。

 「なぜ、こんな、こと」

 息を切らせながら出てきた言葉はとても陳腐だった。

 「……優しい人だね」

 少年の声に、ほんの僅か、感情が現れたような気がした。寂しそうな、悲しそうな、狼の遠吠えのような声。

 「僕、少子対策法の養子なんだ。十年前、クリスマスに……」

 そこで言葉を切ると、少年は目を伏せ、火搔き棒を離した。床に落ちた火搔き棒が音を立てて弾む。

 「ごめん、忘れて」

 少年は目を伏せたまま、それ以上は何も言わずに部屋を走り去る。腰のホルダーに収まったナイフと銃がリズミカルに揺れる。その後姿が、太陽をじっと見てしまった時のように網膜に焼き付き、離れなくなった。

 追いかけたいという気持ちとは裏腹に、体の自由はどんどん失われていく。汗も酷い。額の汗を拭うために手を伸ばした。触れた液体の感触に違和感を感じ、手を見る。

 赤黒い。

 そうか、最後のやつ、食らってたのか……。そうだな、うん、もう、突きは、やめよう。

 体から力が抜けていく。上半身を支えていた腕が限界を迎え、再び床に倒れる。

 視界には天井。豪華さだけが取り柄の、品の無いシャンデリアが吊り下がっていた。

 悪趣味だな……



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第二章 整備(1)

 クライマックスなのに、メグは腹が減ったと言い出した。しょうがないから、聞きたい気持ちを叩き殺して、ファミレスで食事をしてる。メグはもちろんジャージ姿のまま。

僕はハンバーグとエビフライのランチ。メグはステーキとポテトフライとピザとビール。とてつもなくアメリカンだ。ステーキの隣にあるご飯が唯一の良心みたいに、辛うじて日本人らしさを主張してる。

 「寝る前でしょ?」

 エビフライをフォークで刺して、タルタルソースの中に沈めながら訊いた。

 「寝る前って一番腹減るだろ」

 メグはビールジョッキを取りながら答える。

 「減りすぎでしょ、それ」

 ビールを一気に半分ほど飲み、ふぇ~、という声だか息だかよく分からない音を吐き出すメグ。とりあえず、おいしそうだ。妙にペースが早いけど、もう二、三杯は飲むつもりか?

 「で。話の続き。酔っちゃう前にしてよ」

 「いい感じで欲求不満だろ? 空腹は最高のスパイスってやつだ」

 メグはナイフとフォークを取りながらニヤニヤ。この野郎。いや、野郎じゃないな。女の場合はなんて言うんだ? このメス豚、かな?

 「警察な、四件目の事件のときは犯人を待ち伏せてたらしい」ステーキを切りながら話し始めるメグ。「そこに、まんまと犯人が来たんだけども、見張りの警官はボコボコ、家主は殺されて、犯人には逃げられて、散々な結果になったみてーだな」

 「待ち伏せできたのは、犯人の正体が分かってたから?」

 「いや、犯人の正体は、四件めの現場で警官が直に聞いたらしい」

 「誰から?」

 「犯人から」

 「話す余裕なんてあったの?」

 「話、というか、二、三言、犯人が喋ったんだと」

 「自分から?」

 「さぁ? そこまでは書いてなかった」

 メグがステーキを一切れ頬張る。

 「で、犯人が自分で言ったの? 僕は少子対策法の養子です、って?」メグは口を開けられなくて、二度頷く。「うそだぁ、なんかおかしくない? それ違う情報なんじゃない?」

 メグは首を横に二度振って、ビールを一気に飲み干し、空になったジョッキを勢いよくテーブルに置いた。

 「警視庁刑事部のパソコンに入ってた捜査報告書だぞ? しかも御丁寧に暗号化付きだ。そこら辺のつぶやきと一緒にすんなボケ」

 ほっぺたを赤くして、少し涙目のメグ。もう酔ってきてるのか? やばい、早くいろいろ聞いとかないと。

 「ごめんごめん。ところで、少子対策法の養子っていうのは、もう確定なの?」

 「現在調査中だと」

 「だーめーじゃーん」

 「でもよ、警察が怪しい子供しらみ潰しに探しても、犯人見つけられねーんだぞ? 普通の子供じゃねーよ」

 「大人かもよ?」

 「警官、犯人の顔見てんだから、子供に決まってんだろ」

 「んー…」なんだか、全体的に頼りない情報だ。まずは裏取らないと、どうしようもないな。「さっき、警官がボコボコにされたって言ってたけど、どのくらいのボコボコ? 入院するくらい?」

 メグはピザに赤い水玉模様ができるくらい満遍なくタバスコを振り掛けてる。あれはもう別の食べ物だな。

 「確か、四人やられてて、三人は軽傷で、一人は頭を縫った、だったか。入院とかは書いてなかった」

 タバスコに蓋をするメグ。カマンベールチーズとバジルのトマトソースピザ、もとい、煉獄水玉模様ピザもどきを一切れ取って口へ運ぶメグ。煉獄水玉模様ピザもどきを食べた人間は、眼球から自身の犯した罪をごうごうと垂れ流しながら赦しを請うことになる。しかし、メグはとてもおいしそうに食べるので、もしかしたら僕も食べられるんじゃないかと思ったのが間違いだった。僕が赦しを請うことになった。

 ドリンクバーで水を三杯飲んで席に戻ると、既にピザは残り一切れ。

 「よく食えるね、ほんと、凄い」

 ベロが燃えるように痛い。特にタ行の発音には、煉獄の炎が燻ってる。

 「うまいぞ」

 ビールジョッキ片手に返事をするメグ。僕が赦しを請うてる間にビールを追加したらしい。

 「なんの話してたっけ?」

 鼻をかむため、テーブルの端っこにある紙ナプキンを取りながら訊いた。

 「警官がボコボコにやられたって話」

 「そうそう」鼻をかむと、大量の罪が出てきた。「現場に来た救急車のこと詳しく調べれば、少しだけ裏が取れるかも」

 「あ、そういえば」ポテトフライを五本摘まみながら、メグがこっちを見る。「犯人、ライフルの弾、避けたらしいぜ」

 「……」

 ますます不安な情報だ……。

 「まぁ、それがほんとかどうかは知らねーけど、犯人狙撃できるようなトコってあんまりねーんじゃね? そのへん考えながら調べれば、なんか分かるかもな」

 ポテトフライを口に放り込んで、メグが言った。

 そのあとも、ご飯を食べながら色々聞いたけど、めぼしい情報は無かった。

 メグはジョッキ三杯を空にして酔っ払いモード。これ以上はレッドゾーンだから、ビールを注文しようとするメグを我慢させる。まだ真っ昼間だ。

 「んだよ、けち」メグはふてくされながら、鉛筆削りみたいにポテトフライを食べてる。「すげー情報くれてやったのによ」

 「ほんとなら、確かに物凄いんだけどね」

 「マジ情報に決まってんだろ。一番偉い上司に言ってみろって。特別ボーナスだ、きっと」

 「んー……情報の出どころもマズイし、まずはイリカさんあたりに相談……」

 無意識にイリカさんの名前を呟いたのがいけなかった。昨日の出来事が僕の心臓を鷲掴みにして、急に心臓マッサージを始めた。ちょ、落ち着け……! 心臓マッサージいらないって……!

 「イリカって、誰だよ? 女か?」

 「ちがっ……彼女じゃない――」

 「はあっ? 何言ってんだ? んなこと訊いてねーぞ」

 「いや、あ、そうか、うん、そうそう」

 「女なのか?」

 「そうそう」

 「なにそんな慌ててんだよ?」

 「いや、別に、慌ててないよ……」

 「ふーん……。珍しい名前だな」

 「そう? ん、ま、そうかも」

 「同僚?」

 「いや、先輩」

 「へー……。かわいいのか?」

 「そう、かわ――」

 だあああああぁぁぁぁぁぁーーーーー! なに言わせてんだこのメス豚!

 「そ、そう、まぁ、可愛いといえば可愛いと言えなくもないくらいの可愛さくらい」

 取り繕おうとしたけど、傷口が広がった気がする。よく分からない恥ずかしさが燃料になって、ベロで燻ってた煉獄の炎が復活。全身に燃え移った。物凄く熱い。ニヤニヤしてるはずのメグの顔を見ると、なぜか僕を睨み付けてる。

 えー、なんで睨まれてるの? 睨まなきゃいけないのは、たぶんこっちだぞ。

 ……もしかして、さっき心の中で叫んだ『メス豚』が無意識に口から出ちゃった? それはちょっとマズすぎる。

 よし、こういう時は、とりあえず謝っておこう。

 「いや、なんか、ごめん」

 謝ったけど、メグのリアクションはゼロ。なんだこれ? どうすればいいんだ?

 「……いいぜ、分かった。俺が直接そのイリカさんって奴に会って、情報が本当だってこと言ってやるよ。捜査報告書のデータも持ってってやる」

 摘まんだポテトフライをぶんぶん振り回しながら、脈絡がないことを言い始めたメグ。なんだ? そんなに酔ってるのか?

 「なに言ってんの? っていうか、え? データあるの?」

 「当たり前だろ」

 「だって、心の中にひっそり置いとく、みたいなこと言ってなかった?」

 「ハードディスクは俺の心だ」

 「えーっ! じゃあ最初からそれ見せてよ!」

 「見せろって言われなかったからな」

 メグはニヤニヤしながら、最後のポテトフライをパクリと食べた。

 とりあえず機嫌は直った、のか? なんで睨まれたのか分からないままだけど、まぁいいや。

ファミレスを出て、もう一度メグの家へ戻って、薄暗い部屋の中、捜査報告書のデータを見せてもらった。確かに、メグの話した通りの内容が書かれてた。

 データをコピーさせてもらえれば、わざわざメグがイリカさんに会う必要は無いよ、と提案したけど、速攻で却下された。万が一ハッキングがバレた場合に僕まで捕まってしまうから、という理由らしい。

 「メグだけ危ないの嫌だし、いいよ、コピーさせてもらうよ」

 そう言うと、メグは吸ってたタバコの火を勢いよく灰皿に押し付けながら、

 「なにカッコつけてんだバカ。いいから俺の言う通りにしとけ。イリカさんって奴には俺が説明する」

 結局、メグがイリカさんに会う方向で話が進んでしまった。酔っ払いを説得するのは、たぶん、月に行くより難しい。

 しばらくメグと話して、メグの眠気がピークになったところで帰ることにした。メグは、ふらふら歩きながら、玄関まで僕を見送りに来てくれた。やっぱりメグは律儀だ。

 「じゃあ、イリカさんの予定聞いて、またメールする」

 「……ぉう」

 玄関に立っているメグの目はしょぼしょぼで、そのまま寝るんじゃないかというくらいの反応速度。

 「ちゃんと鍵かけなよ」

 「……ぉう」

 こいつ、今日の話ちゃんと覚えてるんだろうな?

 玄関の扉を閉めて、しばらく耳を澄ます。カギが掛かる音を確認して、家に帰った。

 

 翌朝、イリカさんに話しかけるタイミングを通勤しながら考える。考えてみたら、一昨日の記者会見の帰りから、ほとんど何も喋ってなかった。まずい、緊張でお腹が痛くなってきた。このままだと健康と仕事に悪影響が出る。頑張って朝礼前に済ませよう。

 会社に着くと、いつもどおりイリカさんはデスクでコーヒーを飲みながらパソコン画面を見てる。他の先輩たちはまだいない。よし、絶好のチャンス!

 「おはようございます」

 「おはよー」

 イリカさんがこっちに顔を向ける。緊張でまた少しお腹が痛くなったけど、こういう時は勢いが命だ。失速、墜落、絶命のパターンを何度か経験してるので、自分のデスクで一旦落ち着くのがどれだけ危険か、よく知ってる。自分のデスクへ行かずに、そのままイリカさんの方へ歩いた。

 「イリカさん、今、少し時間あります?」

 「うん、どしたの?」

 椅子に座ったまま僕を見上げるイリカさん。自然と上目遣い。やばい、これ、頭が沸騰するかも。

 「実は昨日、幼なじみから凄そうな情報もらったんですけど、ちょっと扱いづらい情報で……。まずイリカさんに相談したいなと思ってるんですけど」

 「おぉ、なんか凄いね。あんまり大っぴらに話したくないってこと?」

 「そうですね……そのへんも含めて相談したいです」

 「うん、相談だけなら全然大丈夫。どうする? いつ話す?」

 「えーとですね……実は、その、幼なじみが、直接イリカさんに話したい、って言ってまして……」

 「え? 今日?」

 「いや、違います。そこはもうイリカさんの予定に合わせます。いつでも大丈夫です。明日でも、一ヶ月先でも」

 「一ヶ月はダメでしょ」

 イリカさんが吹き出した。イリカさんへの負担を最大限減らしたいという気持ちの現れだったけど、確かに一ヶ月は言い過ぎた。少し落ち着こう。

 笑いを堪えながら、イリカさんが話を続ける。

 「うん、でも、ま、ありがとね。そうだねー、今けっこう国王生誕祭の仕事がギュウギュウだから、できれば、仕事終わってからがいいな。あ、でもそうすると、夜中になっちゃうな……」

 「いや、夜中、全然問題無いです。イリカさんさえ良ければ。幼なじみも夜の方がいいと思います、たぶん」

 「お、そうなの? 良かったー。じゃあね、ちょっと待って――」

 イリカさんはデスクに向き直ると、素早くキーボードを叩く。ディスプレイを見ると、スケジュール表が出てた。

 「早い方がいいよね……んー……」マウスのホイールが勢いよく回る。「あさっての二十三時なんてどう? やっぱちょっと夜過ぎる?」

 「いえ、大丈夫だと思います。というかむしろ、そこからが幼なじみの活動時間というか……。今、メールで訊いてみます」

 「場所はこのへん?」

 「あ、まだ決めてないですけど、このへんの飲み屋さんで適当に、って考えてます。大丈夫ですか?」

 「うん、大丈夫」

 イリカさんから離れて自分のデスクに着くと、ようやく落ち着いた。とりあえず目的は達成した。二日ぶりのイリカさんとのまともな会話。違った、メグとイリカさんを会わせるのが本来の目的だった。まぁ、何にしても、頑張った、僕。

 スマートフォンを取り出してメグにメール。一分もしないうちに「OK。よろしく」と返信メール。よし、これで完全に目的達成だ。

 他の先輩たちが出社してきてしまったので、イリカさんにもメールを送信。こちらもすぐに「おっけー。どういたしまして」と返信メール。

 ふぅ……これで仕事に専念できる。

 

 二十二時五十五分。

 イリカさんよりも少し早く仕事が終わったので、予約した居酒屋に先に来た。この居酒屋にはしっかりした個室があるので、料理を食べながら仕事の話をするのによく使ってる。僕らの仕事の話は、盗み聞きされちゃいけないことが多い。

 個室の扉が勢いよく開く。

 待ち合わせの時間まであと五分だから、メグかイリカさんのどっちかだろうと思った。だけど、入り口に立っている人が誰だか分からない。だって、この部屋に来る人は、パンツスーツ姿のイリカさんか、フード付きトレーナーを着たジャージ姿のメグのどっちかのはずだ。入り口に立ってるのは、丈の長い白いワンピースに、水色のカーディガンみたいなのを羽織ってて、青い小さな手提げ鞄を持った、ツヤツヤさらさらセミロングな黒髪の女性。

 部屋間違えてますよ、と言いかけて気付いた。

 メグだ。

 あれ? これが噂の幻覚ってやつかな?

 「なんだ、イリカさんって人はまだ来てねーのか」

 幻覚が喋ることもあるんだろうけど、うん、そう、目の前で喋ってるのは、間違いなく、本物の……

 メグだあぁぁ!

 「あ……ん? あぁ、うん、たぶん、そろそろ、来るよ……」

 扉を閉めて、メグがこっちに歩いてくる。靴音に違和感を感じて、メグの足元をチラッと見た。

 ヒ、ヒール!

 なんだこれ? 天変地異の前兆? 明日、富士山爆発するの? ていうか、もしかして僕、もう死んでるの?

 メグは僕の向かいに座ってこっちを見る。メグの透き通るような白い首には、シルバーのネックレス。そして何より、化粧してる!

 「珍しい服、着てるね」

 僕の表情筋が麻痺してる。笑顔ってこんなに難しかったっけ?

 「まぁ、久々の外出だからな。たまには着てやんねーと」

 たまには、っていうか、幼なじみ生活二十三年間で初めて見るぞ、そんな格好。

 「そんな服、持ってたんだ」

 「あ? 馬鹿にしてんのか?」

 「や、違うって! 少し意外に思っただけ。うん、似合ってる」

 「う、るせーよバカ」

 メグはテーブルの端にあったメニューを取って、ぱらぱらと見始めた。

 ボサボサ髪のすっぴんジャージメグしか知らない僕は、何だかよく分からないけど、メグをいつもの様に見られない。チラチラと盗み見るようにメグを観察する。

 さっき僕が言った『似合ってる』っていう言葉はお世辞じゃない。そこらへんの女の子よりも数段整ってる。まぁ元々、顔はキレイだと思ってたけど、それだけじゃない。格好とか仕草とか雰囲気が全体的に整ってるんだと思う。口を開かなきゃ、の話だけど。

 「なんか注文していいか?」

 「んー…まぁ、もうちょっと待ってよ。すぐ来ると思うから、イリカさん」

 と言った瞬間に扉が開いた。今度はしっかりと認識できた。パンツスーツ姿のイリカさん。

 「お待たせしました」

 部屋の中の様子を確認しながら入ってきたイリカさんは、メグの顔を見ると「こんばんは、はじめまして」と軽くお辞儀。メグも「はじめまして」とお辞儀を返すが、座ったままなうえに、ぶっきらぼうな声と表情。もうビジネスマナー以前の問題のような気もするけど、大目に見よう。引きこもりだし。

 「すいません、本当に、こんな遅い時間に」イリカさんは言いながら、バッグの中から名刺入れを取り出す。「王都放送、社会報道部のタカミヤイリカです。よろしくお願いします」

 差し出された名刺を受け取るメグ。

 「あ、どうも。マチダメグミ、です……」

 「女性の方だったんですね。しかも、こんなに綺麗な方。もしかして、タレントさんとかモデルさんの方ですか?」

 「いや、違う――違います」

 メグが答えた。照れてるのか、オドオドし始めた。まぁ、ただでさえ引きこもりだから、しょうがないか。そういえば、僕以外の人間と喋ってるの見るの、高校卒業以来だ。

 「メグは今はやりの引きこもり系で、だからこの時間でも大丈夫なんです」

 「うるせーよ」

 僕の助け舟を粉砕するメグ。場を和ませようとしただけなのに……。

 「なんか物凄い情報を聞かせてもらえるみたいで」イリカさんは微笑みながら、今日の主題を口にした。大人の対応だ。「私みたいな下っ端で大丈夫?」

 「はい、大丈夫、です」

 丁寧語を意識するメグの姿勢を褒めたいとこだけど、下っ端の部分を肯定してるぞ、その返事。

 「ふふ。それじゃあ、ごはんでも食べながら話そうか? 取材費ってことで、私が奢るよ」

 テーブルの上に広がってるメニューを見ながらイリカさんが笑顔で言った。

 

 「むぅー……」

 僕の隣に座ってるイリカさんが、メグのスマートフォンを操作しながら唸った。

 警察が隠してる情報についてメグが一通り説明したあと、今度は捜査報告書のデータを見てもらってる。注文した料理が五分くらい前に運ばれてきたけど、イリカさんは「先に食べてて」と言ったきり、ずっと捜査報告書のデータを読んでる。

 「確かにすごいなぁ……。たぶん本当だよ、これ」

 ようやく顔を上げたイリカさん。正面に座ってるメグにスマートフォンを返す。表情はどことなく厳しい。

 「だすよね。もっと言ってや、ってくださいよ」

 メグは箸でたこわさびを摘まみながら、得意気に僕を見た。丁寧語を噛んだうえに『だすよね』ってどこの田舎娘だ、とバカにしたくなったけど、イリカさんがいるので我慢。代わりに、正論で反論する。

 「でも裏取らないと、どうしようも無いですよね?」

 「もちろんそう。確かめなきゃいけないことだらけだし、報告書に載ってないことも調べなきゃだし。例えば、なんで警察が犯人を待ち伏せできたのかとか全然書いてないし」

 今度は僕が得意気にメグを見る。

 「でもよ、そういうの分かれば大スクープになるん、ですよね?」

 丁寧語に苦戦しながら、メグが確認する。

 「そこがね、凄く難しいかも」僕を見るイリカさん。「シロウ君が言ってた『扱いづらい情報』って、メグちゃんが違法に情報を手に入れたから扱いづらい、って意味でしょ?」

 「はい、そうです」

 「んー……たぶん、それ以上に扱いづらい、と思う」

 「え? どういう……?」

 「シロウ君、入社したてだからまだ感じてないかもしれないけど、たぶんね、私たちの業界って、警察とか行政とか、国の機関と結構仲いいんだ。まぁ、仲がいいのは上の人たちだけだと思うけど。だから、不利益になりそうなことって、お互いあんまりしないんだよ……。この情報、上の人たちが知ったら、報道どころか、取材させてもらえないかも」

 「そんな……。だって、警察の不祥事とか、よく報道されてるじゃないですか」

 「ああいうのはガス抜きとかトカゲのしっぽ切りなんじゃないかな、たぶん。大衆の不満が爆発しないように、もっと大っきな不祥事を隠すために……」

 悲しそうなイリカさんの表情。

 この表情、どこかで見た気が――

 「じゃあ勝手に取材しちまえばいいじゃんか」

 メグが丁寧語を諦めた。なんて奴だ。イリカさんは全然気にしない様子で話を続ける。

 「んー……まぁ、勝手に取材するだけなら不可能じゃないけど、仕事を掛け持つことになって凄く大変だし、何より、報道してもらえないよ」

 「ネットで勝手にやっちまえばいいんじゃねーの?」

 「ネットで勝手に発信したとしても、世間に信じてもらえる可能性は低いし、もし世間に信じてもらえたとしても、たぶん警察は認めないよ、そんなの」

 悲しそうな、イリカさんの、表情。

 そうだ、思い出した。

 電車の中で夢の話を訊いてたときの表情だ。

 誰も助けてくれないって言ってた、イリカさんの表情。

 誰も助けてくれないって、何だ?

 誰にも助けてもらえない。

 誰が?

 イリカさんが?

 「もしかしてイリカさん、そんな感じの経験あるんですか?」

 考えが追いつく前に言葉が出てた。自分で自分の言葉を聞いて、ようやく自分の言葉の意味が分かった。

 「そんな感じの、って?」

 イリカさんに聞き返される。

 「えと……なにか重大な不正を知ってしまって、それを会社で言ったら取材禁止になってしまって、諦めずにこっそりと取材して、ネット上で発信した、みたいな……」

 悲しそうな表情が消えて、今度は困ったような表情で笑うイリカさん。

 「そうだね……三年くらい勤めてれば、誰でもそんな感じの経験してると思うな、たぶん。本当はこうしたいのに、それとは違う方向に進まされちゃう、進まなきゃいけなくなる、みたいな感じ。まぁ、それも仕事のうちなんだけどね」

 なんか、はぐらかされてる気がする。話したくないのかも。でも、ここは引き下がりたくない。

 「イリカさんも、あるんですか? そういう経験」

 「んー……そうだね、あるね」

 「どういう感じのですか?」

 「……少子対策法にね、良くない部分があるんじゃないかって言ったんだけど、うん、取り上げてもらえなかった」

 「え? もしかして、今回の事件と関係あります?」

 「ううん。私が言ったのは、少子対策法の養子のなかに過酷な生活をさせられてる人がいるんじゃないか、ってことだった」

 「過酷な生活?」

 「んー、まぁ、今回の事件とは全然関係無いから、また今度教えるよ」

 「もしかして、俺いるから話せねーの?」メグが訊いた。

 「違う違う、そうじゃないよ」

 「じゃあ俺もその話聞きてーな。世間に知らせようとするくらいの問題なんだろ?」

 「んー……」

 イリカさんがテーブルの上の唐揚げを見つめながら逡巡する。いや、唐揚げを見てるわけじゃないんだろうけど。

 「……そうだね。じゃあ話そうかな」

 そのイリカさんの話は五分くらいで終わった。僕もメグも黙って聞いた。

 少子対策法で養子になった子供たちのなかに、苛酷な教育を受けてる子供が多勢いる、という話だった。

 寝る時間とか、食事する時間とか、お風呂入る時間とか、生活に必須なそういう時間以外、一日十四時間くらい勉強してる養子の子供たちがいる。そういう子たちは学校にも行かず、一日中家庭教師に勉強を教えられ、自由な時間が全く無い。

 その事実を取材しようとディレクターやプロデューサーに相談したけど、何かと理由をつけられ、取り上げてもらえなかった。イリカさんは意地になって、業務をこなしながら一人で取材をしたけど、その成果は全く報道されなかった。

 「でも、どうして国が圧力かけてるって思うんですか? 報道されたらマズイのって、養子の親ですよね?」

 イリカさんに訊いた。

 「取材してるときにね、難民救済法を制定するって話が出てきたんだけど……」

 「……? それが――?」

 全然予想してなかった単語が出てきた。

 難民救済法。

 この一週間、難民救済法について嫌というほど勉強してる。難民救済法の特集番組を作るのが、今の僕のメインの仕事だから。でも、イリカさんが何を言おうとしてるか、全く分からない。

 難民救済法は、少子対策法を発展させたような法律。日本の少子化を抑えるために『未成年』の難民受け入れ人数を大幅に増やしたのが少子対策法なんだけど、思った以上に良い成果が出ていて、GDPは増加傾向にあるらしい。そこで、今度は思い切って『成人』の受け入れ人数も増やそう、っていうのが難民救済法。来月の国王生誕祭と同時に公布される。

 んだけど、なんだ? 報道してもらえないのと関係あるのか?

 初めて因数分解を教えてもらった出来の悪い中学生みたいな顔をしてたら、イリカさんが優しく微笑みながら説明し始める。こんな先生が居てくれたら、フェルマーの最終定理だって簡単に解けるはずだ。

 「難民救済法のプレゼン資料にね、養子の人がたくさん載ってるの。こんなに多くの養子が一流企業に勤めたり、キャリア組として働いてますよ、って感じで」

 「そんな資料あるんですか?」

 「データ自体は政府のサイトにあるよ。ただ、そのデータが載ってるプレゼン資料は一般向けじゃなくて、大企業のお偉いさん方へのプレゼン資料。で、それ見て思ったんだけど、養子の人たちを奴隷みたいに勉強させてるのは、難民救済法を通しやすくするためなんじゃないかって」

 「えーっと……つまり……」

 やばい、頭こんがらかってきた……。何の話してるんだっけ? フェルマーの最終定理の話だっけ?

 「国が率先して養子を奴隷みたいに勉強させて、エリートに仕立て上げて、お偉いさん方に難民救済法を支持してもらう材料にしてるってことだろ。んで、イリカさんの取材はその邪魔になるから潰されちまった、でいいか?」

 「ありがとう」

 メグの言葉に微笑むイリカさん。

 「でもよー、国が率先してるって証拠あるのか? てか、なんで難民救済法そんなに通してーんだ、国は?」

 「決定的な証拠は無いんだけど、状況証拠というか。私、養子の人を何十人か取材したんだけど、明らかに家庭教師を雇うお金を持ってなさそうな家が、一日中家庭教師を雇ってたりするの」

 「国が援助してるってことですか?」

 「直接はしてないと思う。お金の出どころは違うんじゃないかな」

 「まぁ、確証は無いってことだな」

 メグが言うと、イリカさんは黙って頷いた。

 「で、あと、なんで国は難民救済法そんなに通したいんだ? 政治家に大きいメリットあるか?」

 さらにメグが突っ込む。メグは気になったことを遠慮無くズケズケと言っちゃう性格だ。本人に悪気は無いんだけど。まぁ、その前に、敬語使わなくなった時点でアウトだ。あとでイリカさんに謝っとかないと……。

 「私もそれ考えたんだけどね、もうここからは完全に私の想像になっちゃうんだけど……。労働意識を高めようとしてるんじゃないかなって思うんだ」

 「高める?」メグが訊き返した。

 「うん。私たちの国って豊かになったから、死に物狂いで競争する、みたいなハングリーさ少なくなってきてるでしょ? 特に若い世代。贅沢な暮らしはできなくても、最低限の生活ができて、家族がいて、友達がいて、時々楽しいことがあって、そんなふうに生きていければ満足って。そういう人たちって、仕事してても、言われたことするだけで、新しいものを生み出そうなんて全然考えない。それって長い目で見ると、結構危険なことだと思うの。だから、低賃金でもバリバリ働いちゃうようなハングリーな人、難民の人たちを増やして、のんびりしてたら自分の仕事取られちゃう、みたいな環境を作って、国民のやる気を底上げしようとしてるんじゃないのかな、って思う」

 イリカさんの説明は、まぁ、分からないでもない。分からないでもない、んだけど――

 「国が本気でそんなこと考えてたら、救いの無いアホだぞ」

 メグが言った。メグは頬杖をつきながらイリカさんを見つめてる。いや、見つめてるっていうよりも、あれは、睨んでるな。どこまで無礼を働けば気が済むんだ、幼なじみよ。

 「てか、あんた、なんか隠してねーか?」

 ……メグさん……どちらへ行こうというのですか……?

 「……ごめんね、全部私の想像だから、見当違いなこと言ってるかもしれないね。でも、少子対策法の養子の人たちが辛い生活をしてるっていうのは本当だから……。それは、信じて欲しい」

 伏し目がちのイリカさん。

 メグは頬杖をついたままイリカさんを睨み続ける。

 とてつもなく気まずい沈黙。

 メグは五秒くらい目を閉じて、ようやくイリカさんから目を離した。

 「……タバコ吸ってもいい、ですか?」

 メグが青い手提げバッグを取りながら言った。丁寧語が戻ってる。自分の無礼さに気付いたのを褒めてやりたいけど、タバコを吸おうとする時点でアウトだ。ていうか、今日のメグは全部アウトだ。

 「うん、大丈夫」

 微笑むイリカさん。

 雰囲気は回復しつつある。良かった……。

 メグがタバコを一本振り取って咥えて、火を付ける。顔を左下に向けて煙を吐き、そのまま地面を見ながら、タバコを持ってる手で頭をポリポリ掻く。

 「…いや、悪い。言い過ぎた」

 メグが謝った。メグが謝った! 僕にも謝ったことないのに!

 ほんと、今日のメグは一体なんなんだ……。てか、もう敬語無くなってるし。

 「で。結局、捜査報告書のやつは取材はしない方がいいってことか?」

 テーブルの端にある灰皿を取りながら、メグが言った。

 「んー……本人次第って結論になっちゃうな……」イリカさんが僕を見る。「たぶん、メグちゃんが違法に情報を入手したことは、そんなに気にしなくていいと思う。国家機密ってわけじゃないし、綿密な取材の結果、こんな事実が分かっちゃいましたって言えば、たぶん大丈夫。ただ、当然その取材、記者チームに投げられないから、自分で、休み返上でしなきゃいけなくなるけど」

 「しかも、取材した内容が全部無駄になるかもしれねー、って条件付きだな」

 メグも僕を見る。テーブルに両ヒジをつきながらタバコを吸ってるので、とても行儀が悪い。……って、今はそんなこと気にしてる場合じゃなかった。

 「……やっぱり物凄い大変ですか? 一人で取材するの」

 イリカさんに訊いた。

 「大変だよー。休みないし、寝る暇無いし、仕事量二倍だし。なにより、何一つ報われないっていうの、厳しかったなぁ」

 イリカさんは困ったように笑いながら、唐揚げを一つ摘まんで頬張る。

 「どうすんだ、シロウ?」

 メグは灰皿にタバコの灰を落とす。灰が灰皿の中へ落ちてく。

 灰が灰皿に着いた瞬間、反射的に言葉が出た。

 「やる。取材する。ほっとけないし」

 僕の返事を聞くと、メグはニッと笑いながら椅子に深く座り直し、タバコを深く吸い込む。

 「ほんとに大変だよー」

 唐揚げをモグモグしながら言ったイリカさんも、心なしか笑ってるように見える。

 「うん」唐揚げを飲み込んだイリカさん。「じゃあ、私も手伝うよ」笑顔のイリカさん。

 「ガフッ! ゴホッ! ゲヘッ!」

 急にメグが咳き込んだ。なんだ? 煙にむせたのか?

 「だいじょぶ?」僕が訊く。

 「ゲフッ! だいじょぶ、ゴホ」涙目で返事するメグ。しばらくゴホゴホしたあと、僕に向かって開口一番「俺も、手伝ってやる」

 「手伝うって……ハッキング?」

 「しねーよ。大丈夫」

 「んー……でもメグ夜型だし――」

 「じゃあ昼型になってやるよ」

 気持ちはとてもありがたい。だけど……

 「メグもイリカさんも、大丈夫です。これ、自分のわがままみたいなもんですし、手伝ってもらっても大したお礼もできませんし、意味無い取材になっちゃうかもしれないし……」

 「そんなの私もメグちゃんも分かってるよ」イリカさんが笑う。「三人でやれば、たぶんそこまできつくないんじゃないかな」

 「イリカさんの言う通り」メグが体を前へ出す。「警察の悪事、とっちめてやろうぜ」

 ハッキングしたお前が言うな!

 「うん、ありがとう」

 

 次の日から、メグが違法に手に入れた捜査報告書のデータが本当かどうかを確認する作業を始めた。

 僕とイリカさんは働いてるから、昼間の取材の大部分はどうしてもメグに頼るしかない。メグは快く引き受けてくれたけど、四年くらい引きこもり生活してて、しかもあんまりコミュニケーションが得意じゃないメグに、いきなり取材、というか、調査させてしまうことになってしまった。

 一応『嫌になったらすぐ言って』と伝えてはいるけど、メグは一度言ったら最後までやるタイプだから、けっこう心配。ちょくちょく電話して様子を聞かないと。

 僕とイリカさんは仕事が終わったあと、過去の捜査資料とか警察の発表を調べたり、ネット上で情報を集めることにした。休みの日は外で取材。

 僕の普段の仕事は取材じゃなくて、取材で集まった情報を整理して番組にすることだから、取材したことは一度もなかった。イリカさんは二年前に一人で取材してるから、どんなふうに取材すればいいのか、というアドバイスをメグと一緒に受けた。

 あとは習うより慣れろ作戦。当たって砕けろとも言う。

 まずは、四件目の事件のとき、本当に警察が犯人を待ち伏せてたのかについて調べた。

 まぁ、このくらいなら簡単に調べられるだろうな、って思ってた。だけどその思いは、取材を始めて半日で粉々になって、その粉から、記者チームって凄いんだな、っていう敬いの念が完成して後光が射した。

 現場周辺を歩いてる人たちに声をかけても、基本無視。時々立ち止まってくれる人もいるんだけど、不審者を見る視線をほとばしらせながら、知っててもあんたになんか教えないよ、的な態度を僕に浴びせかける。時々、友好的に話してくれる人もいるけど、そういう人は間違いなくただの話好きで、自分が喋りたいことを思う存分喋るだけだった。たぶん、僕の言葉を連想ゲームのお題かなんかと勘違いしてるんだと思う。

 「すいません、今お時間よろしいでしょうか? 私、王都放送の者なのですが――」

 トイプードルを散歩させてるおばさんに話しかけた。

 トイプードルは僕の足をクンクン。全力で撫で回したくなったけど、我慢。おばさんの手にはウンチ袋。犬の散歩してるんだし、きっとこの辺に住んでる人だろう。

 「王都放送? あらやだ、いつも見てるわよ」

 笑顔のおばさん。少し安心する僕。

 「ありがとうございます。実はですね、先日起きた殺人事件について取材しているんですが――」

 「怖いわよねぇ、まさかこんな近くで起きるなんて、ほんともう夜は外に出れないわね、高三の息子が塾から帰ってくるのが夜なのよぉ、もうあんたほんと気を付けなさいよ、って言ってあるんだけど」

 「そうですか、大変ですね……。それでですね、その事件のあった日のことをお聞きしたいと――」

 「事件のあった日はねぇ、何してたかしら、タナカさんと一緒にパスタを食べに行ったんだけど、おいしいイタリアンのお店があるっていうから、ほらあそこ、中目黒の近くにあるんだけど、なんていったかしら」

 「あ、すいません、事件が起きたあたりの時間のことをお聞きしたいのですが――」

 「そんな時間もう寝ちゃってるわよ、次の日も朝早いし、主人も息子も全然家事手伝ってくれないから全部私がしなきゃいけないのよ、ほんと、大変なんだから家事って、男は家事を軽く考えすぎなのよ、あなただってね――」

 そんな感じで、僕を説教し始めて五分、おばさんとトイプードルは活き活きと目を輝かせながら去っていった。その姿を見つめる僕の目は、涙で濡れてたかもしれない。

 メグ、だいじょぶかな……。

 

 取材の大変さを存分に味わいながら、メグとイリカさんの協力もあって、情報が少しずつ集まった。

 四件目の事件のとき、現場に来た救急車は少なくとも二台はあったみたいだし、そのうちの一台で運ばれてったのは、頭に包帯を巻いたスーツの男だったらしい。

 メグが持ってる捜査報告書には、警官が頭部を六針縫った、みたいなことが書いてあるから、あの捜査報告書は本当に本物なんだ、って実感。

 警察が待ち伏せしてたことについても、少しずつ情報が集まった。

 現場近くのアパートに住んでる人の話で、事件の一週間くらい前、急に誰かが隣に引っ越してきたんだけど、事件の翌日からは誰もいなくなった、みたいな話をしてくれた。引っ越してきた人は一人じゃなくて、三人くらい、しかも全員男だったから不審に思って、事件後、警察に連絡したらしい。

 この情報、犯人グループだった可能性も確かにあるけど、たぶんそうじゃなくて、警察が見張り部屋として使ってたんだろうな。

 それにしても警察、事件当日だけじゃなくて、一週間も前から待ち伏せてたのか。ほんと、どうやって犯行現場を予想したんだろう?

 ……まぁ、それが説明できなくても、メグの捜査報告書に書いてあることが本当だって分かればとりあえずオーケーなんだから、裏が取れるまで頑張ろう。

 

 イリカさんが仕事で、僕が休みの日。

 夜の十時くらいまで現場周辺を取材してたら、イリカさんから電話が掛かってきた。朝からずっと歩きっぱなしでヘトヘトだったけど、栄養ドリンクをジョッキ飲みしたみたいに元気になった。

 「はい、ツクモトです」

 「タカミヤです。おつかれさまー」

 「お疲れ様です」

 「今大丈夫?」

 「はい、大丈夫です」

 「まだ外いるの?」

 「はい。あ、でも、そろそろ帰ると思いますけど……」

 「お、そっかー、丁度いいな。ご飯一緒に食べない? 夕飯食べ損ねちゃって」

 うおおおぉぉぉ! なんというご褒美!

 「実は僕も食べてないんですよ。今からですか?」

 「シロウ君がだいじょぶなら」

 「はい、大丈夫です。どこで食べます?」

 「私の家の近くにおいしいお店があるんだけど、どう?」

 家……イリカさんの……

 はっ!

 落ち着けっ!

 危ない危ない……期待と未来がごちゃ混ぜになってた……。僕とイリカさんは夕飯を食べに行くだけ。そう、ただの栄養補給だ。

 「ぜひ連れてってください」

 ん? なんだ今の返事? 普通に言ったつもりなのに、なんでこんな変態っぽく聞こえるんだ? いや、きっと勘違いだ。うん、普通の返事だ。僕の頭がおかしいだけだ。

 「なんか今の返事、変態っぽいね」

 イリカさんの笑い声が、僕の鼓膜を刺激した。

 それから三十分後、イリカさんちの最寄り駅で合流。僕が着いたときには、イリカさんは改札の外にいて、僕を見つけると、胸の前で手をヒラヒラさせながら笑顔。僕はスイカで滑らかに改札から脱出。

 「お待たせしました」

 「おつかれさん。じゃ、行こっか」

 イリカさんの隣を歩く。

 こんなふうに並んで歩くの、二回目か。んー、なんかいいなぁ。何がいいのか分かんないけど、いいなぁ。ただ並んで歩いてるだけなんだけどなぁ。

 周りには、あんまり人はいない。ここには初めて来たけど、閑静な住宅街って感じなのかな。

 お、なんか一回目のときに比べて、だいぶ落ち着いてるぞ、僕。成長したんだな、ジェントルマンとして。

 「お店行く前に、少し寄り道してもいい?」

 駅から外に出ると、イリカさんが話しかけてきた。

 「はい大丈夫です。どこ行くんですか?」

 「公園に、ちょっと寄ろうかなって」

 イリカさんがこっちをチラッと見た。長いまつ毛が上下に動く。

 「公園……何か用事ですか?」

 「……ちょっとシロウ君に話したいことあって」

 頭のてっぺんが急に熱くなる。

 動揺と興奮と不安と妄想が、血圧を極限まで高めたらしい。心臓のリズムと一緒に、体が動いてるんじゃないかと思うくらいの脈動。

 「……はい、え、近いんですか? 公園」

 「んー、十分くらいかな」

 イリカさんの言葉通り、十分後には公園に着いた。

 誰もいない公園。常夜灯がポツリポツリとあるだけだから、ほとんど真っ暗。車のエンジン音もクラクションも、誰かの話し声も笑い声も聞こえない。秋の虫の声と、風が木を揺らす音がよく聞こえる。

 イリカさんは、常夜灯に照らされてるブランコに向かって歩いてく。僕もそれについてく。

 ブランコに着くと、イリカさんはブランコに座って、少し体を揺らしながら地面を見始めた。

 しばらく待ったけど、イリカさんはずっと下を向いたままだった。

 「……話って――」

 僕が喋り始めると、突然、暗闇の中から犬の鳴き声がした。警戒心むき出しの鳴き声。イリカさんと顔を見合わせる。

 野良犬かもしれないので、イリカさんにジェスチャーして、そっとこの場を立ち去ろうとした。そしたら今度は、子供の声みたいなのが聞こえてきた。しかも、犬の鳴き声が聞こえた方向から。もしかしたら子供が危ない目に遭ってるかもと思い、犬の鳴き声が聞こえた方へ向かう。イリカさんも後ろからついて来る。

 犬の鳴き声が聞こえてきた場所には林があって、しかも常夜灯が無いから、暗闇しか見えない。空を見上げると、真ん丸の月だった。月明かりがとても明るい分、林の中の黒さが際立ってる。ちょっと怖くなるくらい。スマートフォンのライトを使いながら、林の中をゆっくり進む。

 少し歩くと、先の方に開けた場所があった。月明かりがたくさん射し込んでて、とても明るい。

 開けた場所の真ん中に何かある。噴水、かな? 水の音は聞こえないけど。

 その噴水の中央には石像みたいなのがある。人型の石像かな。何か持ってるみたいな形だけど、よく分からない。

 噴水に近付くと、犬の唸り声が聞こえてきた。ゆっくりと噴水の反対側へ回る。

 反対側には、犬に抱き付きながら縮こまってる子供がいた。犬は中型犬くらいで、僕を見ながら唸ってる。子供は、犬の背中に顔をうずめてる。子供と犬を驚かさないように、できるだけ優しく、静かに話しかける。

 「こんばんは」

 子供が僕をちらりと見る。髪が長いし、女の子かな。

 「見つかってしまいました……わん太郎のせいですよ」

 女の子は顔を上げ、犬の頭をぺしぺし叩く。そんなの全然気にせずに、犬は唸り続けてる。

 「こんばんは」僕が、もう一度あいさつ。

 「こんばんは」女の子があいさつ。

 「君の犬?」

 「違います」

 「そっか……。わん太郎っていうの?」

 「そうです。友達です」

 わん太郎の頭を撫でる女の子。わん太郎はまだ唸ってる。わん太郎に近付く僕。

 「シロウ君、大丈夫?」後ろからイリカさんの声。

 「犬、好きなんですよ」わん太郎を見ながら答えた。

 ゆっくりしゃがんで、さらにわん太郎に近付く。僕の鼻を、わん太郎の鼻先に近付ける。あと三センチ進めば、鼻がくっつくくらいまで近付いた。

 しばらくすると、わん太郎の唸り声が止まって、僕の匂いを嗅ぎ始めた。もう大丈夫だな。わん太郎が僕の顔を一回なめる。僕はゆっくりと手を上げて、わん太郎の頭を撫でた。わん太郎の毛はベタベタで、目ヤニもたくさん溜まってる。首輪も付けてないし、見るからに雑種。間違いなく野良犬だろうな……。

 「家はどこ? 送ってくよ」わん太郎を撫でながら、女の子に言った。

 「お気遣いなく」

 「……帰りたくないの?」

 目を伏せて黙り込む女の子。家出かな。んー、どうしたもんか……。

 小学校低学年くらいの女の子を、こんな夜遅く、真っ暗で誰もいない場所に残してけるはずがない。かと言って、警察に任せちゃうのも、なんか嫌だな……。

 「じゃあ、私たちと一緒にご飯でも食べない? 近くにおいしいお店あるんだ」

 後ろからイリカさんの声。顔を見なくても笑顔だって分かるくらいの優しい声。

 女の子は、わん太郎に抱き付いたまま、イリカさんを見上げる。

 「ご馳走して頂けるのですか?」

 「もちろん」イリカさんが答える。

 「わん太郎もいいですか?」

 「わん、太郎は……どうしようかな……」

 イリカさんの声がだんだん小さくなってった。

 ほんとにどうしよう、わん太郎……。僕のアパート、ペット禁止だし、預かってくれそうな知り合い、近くにいないし……メグ、犬嫌いなんだよな……。一時保護してくれるような団体も、探せばあるんだろうけど、こんな時間だし……。

 そんなふうに考えてたら、急にわん太郎が唸り始めた。

 ごめんよ、わん太郎、そんなに怒るなよ……と思いながらわん太郎を見ると、わん太郎は噴水の向こう側を見てた。僕もそっちを見る。

 暗くて見えないけど、林の中から足音が聞こえる。

 しばらくすると、スーツ姿の男の人が現れた。

 男の人は、そのまま噴水に近づいてくる。

 「失礼致します。女の子を探しているのですが……」

 男の人の言葉は明らかに、わん太郎にしがみ付いてる女の子に向けられてるけど、女の子は振り向きもしない。

 「サアラ様」

 サアラサマ? ああ、サアラ様か。珍しい名前だな。お金持ちの子供かな。様付けだし。あの男の人は使用人かな。

 そんなこと考えてるあいだも、サアラちゃんは男の人に背中を向け続けてる。しばらくすると、男の人が僕らの方へ近づいて来たけど、イリカさんの手前まで来ると、わん太郎がけたたましく吠え始めてしまった。僕がなだめても効果無し。サアラちゃんは、ずっと下を向いてる。

 男の人は立ち止まって、落ち着いた様子で僕とサアラちゃんとわん太郎を見下ろした。

 「その犬は病気を持っているかもしれません。そうでなくとも、サアラ様の召し物が汚れてしまいます。どうか、私と一緒に御自宅へお戻り下さい」

 「わん太郎は友達です。わん太郎と一緒に帰ります」

 「犬を飼われると仰るのであれば、ヨシヒロ様はもっと素敵な犬を御用意下さるはずです」

 「飼うのではなく、友達です」

 サアラちゃんが男の人を睨み付ける。

 男の人は目を瞑ると、鼻から少しだけ息を漏らした。

 「将来、サアラ様には、サアラ様に相応しい方々と御親交を深めて頂かなければなりません。現在、サアラ様はその準備をなさっているのです。現在のサアラ様は極めて多感な時期に御座います。汚れた物質、汚れた空気、汚れた思想から悪影響をお受けになる可能性が高い。どうか御理解下さい。その犬は汚れきっています。その犬の毛はどうですか? サアラ様の髪と同じ触り心地ですか? 匂いはどうですか? 快い匂いですか? 今、その犬は私を攻撃しようとしています。私は攻撃する意思など微塵も持っていないにも関わらず、です。その犬は全てが汚れています」

 男の人は淡々と、だけど一切の反論を許さないという感じで、一気にサアラちゃんに言葉を押し付けた。男の人を睨み付けてたサアラちゃんは、途中からまた俯いてしまった。

 「この国には保健所という機関があります。主に衛生面の管理を行う公的な機関です。保健所が管轄する公務のひとつに、動物の殺処分があります。何故だかお分かりになりますか? そうしなければ、国民の害悪になるからです。その犬も、今この瞬間に私を攻撃し、私に怪我を負わせるかもしれません」

 「……わん太郎は……殺されるのですか?」

 「……殺処分は、誉められた解決方法ではありません。しかし、効率的です。ですから国は、つまり私達国民は、その方法を採用しています」

 「殺されるのですか?」

 「はい」

 「……嫌です」サアラちゃんが首を横に振る。

 「心苦しいですが、サアラ様のお考えで変更できる事柄ではありません」

 「嫌です」首を振りながら、わん太郎にしがみ付くサアラちゃん。

 「……」

 「嫌です……」首の動きがだんだん遅くなる。声も小さくなる。

 首が動かなくなると、サアラちゃんの肩が震えてるのが分かった。

 もうだいぶ前から我慢してたけど、ここで僕の許容量をオーバー。

 「サアラちゃん、今日はもう帰りな。わん太郎の面倒は僕が見るよ」

 僕が話しかけると、サアラちゃんはゆっくり顔を上げた。顔はくしゃくしゃ。涙が何筋もほっぺたを滑ってく。鼻水もだらだら。

 「ほ……ほけん……じょ――」

 「連れてかないよ。大丈夫。僕ももうわん太郎の友達だから。友達に酷いことはしない」

 「ほんとう……ですか……?」

 「もちろん。そうだ、じゃあ、僕の連絡先教えるから、あとで僕に連絡ちょうだい。わん太郎の様子、教えるから」

 言いながら、ポケットから名刺入れを取り出す。そしたら、男の人の声が降ってきた。

 「大変申し訳ありませんが、保護者の承諾無しにサアラと連絡をお取りになることはお控え頂けないでしょうか?」

 そう言われたので、僕は立ち上がって男の人の前に移動し、話しかける。

 「確かに仰る通りです。大変失礼致しました。それでは、連絡先はあなたにお預け致しますので、彼女が私に連絡を取りたいと言った際には、どうか連絡を取らせてあげてください。彼女が未成年者だと言っても、その権利まで制限してしまうのは、あってはならないことだと思います。よろしくお願いします」

 頭を下げた。ピシッと四十五度。それから名刺を一枚取り出して、男の人に差し出す。

 「王都放送、社会報道部のツクモトシロウです」男の人は黙って名刺を受け取って、胸ポケットの中に入れた。「まだ御返事を頂けていないのですが、ご了承頂けたのでしょうか?」

 「私は使用人に過ぎません。最終的な判断はサアラの親が決めることですので、お答え致し兼ねます。申し訳ありません」

 男の人が丁寧に頭を下げる。

 「分かりました」

 僕は返事をして、サアラちゃんとわん太郎の方へ振り返る。サアラちゃんとわん太郎に近付いて、しゃがむ。

 「そういうことだから、もし僕に連絡したくなったら、ご両親に頼んでみて。一生懸命お願いすれば、きっと許してもらえる」

 サアラちゃんが頷く。

 「それとね、言っておきたいことがあるんだけど……」まだ少し唸ってるわん太郎の頭を撫でる。「わん太郎がこんなに汚れちゃったのは人間のせいだ。めんどくさいから、負担になるから、楽しみたいから、綺麗でいたいから、わん太郎を捨てたり放っておいたり虐めたり殺したりする。覚えといて。綺麗な人ほど、何かに汚れを押し付けてるかもしれない」

 男の人が何か言ってくるかと思ったけど、わん太郎の唸り声と虫の声しか聞こえてこなかった。

 

 サアラちゃんと男の人が一緒に帰ってく後ろ姿を、僕とイリカさんとわん太郎がブランコの前で見送る。常夜灯の白い光に照らされて、わん太郎が寂しそうに見える。

 「すいません、夕飯まだなのに……」イリカさんに話しかけた。

 「夕飯はまた今度だね」イリカさんの笑顔。「わん太郎、どうしようっかー」しゃがんで、わん太郎の頭を撫でる。「どこか連れてけそうな場所ありそう?」

 答えに困ってしまう。はっきり言って無い。後先考えないで、怒りで行動してしまった。少し落ち着いたから、なおさらそれが分かる。僕は、あの男の人が言ってることが気に入らなかった。わん太郎を救おうとか、サアラちゃんの笑顔が見たいとか、そういう気持ちで行動したわけじゃない。自己嫌悪が膨れ上がる。

 「だいじょぶです、心当たりあります。ちょっと、そこ電話してみますんで、イリカさんは先帰っててください。夕飯、ほんとすいませんでした」

 「嘘でしょ」イリカさんの笑顔。

 「……」

 「ん、私の知り合いにね、わん太郎預かってくれそうな人いるから、ちょっと待ってて」

 イリカさんは立ち上がって、バックから携帯電話を取り出した。携帯電話を操作する親指が二、三度動く。

 「……すいません」

 僕の言葉を聞くと、携帯電話を耳に当てたイリカさんが笑顔で頷いた。

 「……もしもし……ごめん、寝てた? ……うん、お疲れさま。あのね、ちょっとお願いしたいことあって……んとね、犬をね、一匹預かってほしいんだけど……んー、今から行こうと思うんだけど……うん……うん、大丈夫……大丈夫……ごめんね、ほんとありがとう……うん、じゃあ今から行くから……うん、ありがとう」

 イリカさんが電話を切る。

 「本当にすいません……僕が言い出したことなのに……」

 「ううん、シロウ君が言わなくても、たぶん私も同じことしてたと思うし」

 「その、知り合いの方ってどこにいるんですか? 僕、わん太郎送ってきます」

 「いや、んーとね……道分かりづらいし、大丈夫、私が送ってくよ」

 「道ならケータイのナビありますし、だいじょぶですよ。それに、こんな夜遅くに女性一人は絶対危ないです」

 「んー……実はね、その、けっこう遠いんだ、そこまで」

 「どこらへんですか?」

 「……山梨」

 「え?」

 「山梨県」

 意外過ぎて、もう一度聞き返しそうになった。山梨県? 遠いというレベルじゃない気が……。

 「どう、やって、行くんですか? この時間じゃ、電車もバスも……わん太郎もいますし」

 「私、車持ってるんだ」

 「え? そうなんですか?」じゃあ大丈……夫じゃない。「でもイリカさん、明日も仕事じゃないですか」

 「だいじょぶだいじょぶ。けっこうタフだから」イリカさんが笑う。

 「片道何時間くらいですか?」

 「今の時間なら、二時間くらいかな、とばせば」



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第二章 整備(2)

 ドアをノックする右手が一瞬躊躇した。この部屋に入る時はいつもこうだ。無意識に体が拒否する。

 ドアを二回叩く。

 「失礼致します」

 いつも通り、返事は無い。

 五秒ほど待ってからドアを開けた。

 「失礼致します」

 同じ言葉を繰り返しながら部屋に入る。

 真正面の机に父がいる。机はこちらを向いているが、いつも通り、父が私を見ることはない。

 机の前にある応接ソファーの横まで進み、父に話しかける。

 「ただいま戻りました」

 「あぁ」

 父は、PCのディスプレイを見ながら、無表情で、ほとんど聞き取れない大きさの声で応えた。

 「怪我の回復が思わしくないため、一週間ほど休暇を頂きました。療養中は、こちらで過ごさせて頂きたいと考えております。よろしいでしょうか?」

 「勝手にしろ」

 「……有難うございます。失礼致しました」

 頭を下げ、即座に部屋を出る。早く部屋から出ていけ、という父の声が聞こえてきそうだった。

 ドアを閉め、少し多めに息を吐いた。

 自分の部屋へ戻る途中、後ろから足音が聞こえてきた。走ってくる足音。この家の住人で、廊下を走るのは一人だけだ。

 後ろを振り向く。

 「お兄様!」

 廊下を曲がって現れたサアラが、こちらへ走って来る。満面の笑みだ。そのまま私の足にしがみ付いた。

 「お帰りなさいませ」

 「ただいま。元気だった?」

 サアラの頭を撫でながら言うと、サアラは足にしがみ付いたまま顔を上げる。

 「はい。元気で過ごしておりました」

 「そうか。良かった」

 言いながらサアラの顔を見る。目が少し赤い。まつ毛も濡れているようだ。

 「泣いた?」

 私が訊くと、サアラは僅かに表情をこわばらせて俯き、しがみ付く力を強くした。

 そのままサアラの頭を撫でていると、ヒラタさんが廊下を曲がって現れた。

 「お帰りなさいませ」ヒラタさんが頭を下げる。

 「ただいま。サアラ、どうしたんですか?」

 「どう、と仰いますと?」

 「いや、なんだか泣いたようで」

 「はい……実は先程、家を抜け出されまして、少々強く指導させて頂きました。私の不行き届きでもあります。申し訳ありません」再びヒラタさんが頭を下げる。

 「そうでしたか……」

 サアラは俯いたまま、ずっと私の足にしがみ付いている。動く様子がないので、話しかける。

 「勉強、イヤになった?」

 「……また、お兄様と遊びたいです」

 「そうだね、サアラはもっと遊んだほうがいいと思う」

 「では是非ご一緒に遊んでください!」サアラが勢いよく顔を上げた。とても寂しそうな表情だ。

 「……ヒラタさん、少しだけでも、空いた時間作れないでしょうか?」

 「申し訳ありませんが、私にそのような裁量は与えられておりません。ヨシヒロ様の御決定がなければ、どうすることもできません」

 「そうですよね……」

 ヒラタさんの立場は充分に理解している。それにも関わらずヒラタさんにお願いしてしまったのは、私の弱さだ。父への畏怖が原因の、私の弱さ。そんな自分を感じる度に、情けなくなる。

 「よし、じゃあ、お父様に頼んでくる」

 サアラの頭をポンポンと叩きながら言うと、サアラの表情が一気に明るくなった。

 「本当ですか? では、わん太郎も一緒にお願いします!」

 「ん? わんたろー?」

 「はい、友達です!」

 サアラが『友達』という言葉を使うのは、とても意外で、新鮮だった。同時に、とても嬉しくなった。

 「友達できたの?」

 「はい、先ほど公園で友達になりました」とても嬉しそうにサアラが話す。

 「そうか、良かったね」自分が破顔しているのが分かる。「わんたろー、って名前なの?」

 「そうです」

 「アキヒロ様」ヒラタさんが会話を遮る。「わん太郎というのは、犬で御座います」

 「いぬ? いぬって、え、あのワンって鳴く?」

 「はい。野良犬で御座います」

 「犬と友達になったの?」

 サアラに訊くと、サアラは笑顔で頷いた。

 「それで、えっと、その、わん太郎を飼うの?」

 「友達に対して、飼うという言葉は失礼です」サアラが怒った。

 「あ、ごめん」

 ヒラタさんは、私とサアラのやり取りに干渉せず、胸ポケットから名刺のようなものを取り出した。

 「この方が引き取ってくださいました」

 ヒラタさんから名刺を受け取る。

 「へぇ、王都放送……。この人が飼――じゃなくて、わん太郎と一緒に暮らしてくれるんだ?」

 「はい」サアラが笑顔で答えた。

 「いえ」ヒラタさんが淡々と否定した。「その方は、そこまでの断言をしておりません。その方へ連絡すれば、犬の状況を教えてくださるとのことです」

 「なるほど」

 「……ひとつ、アキヒロ様に相談したいことが御座います」

 驚いた。

 ヒラタさんが使用人になってから七年間、相談されたことなど一度も無い。誰かに頼る、という人物ではないのだ。先程サアラが言った『友達』という言葉もそうだが、今日は驚くことが多い。二人に何かあったのだろうか?

 ヒラタさんが淡々と言葉を続ける。

 「サアラ様が王都放送の方と連絡をお取りになるためには、ヨシヒロ様の御許可を頂かなければなりません。しかし、アキヒロ様なら御理解頂けると思いますが、ヨシヒロ様の御許可を頂けない可能性が高い」

 ヒラタさんの言葉に、サアラの表情が曇る。

 「……そうですね」

 「そこで、ヨシヒロ様の御許可が頂けない場合の相談をさせてください」

 「はい、もちろん。協力できることがあれば何でもします」

 「有難う御座います」ヒラタさんが深々と頭を下げる。「使用人に過ぎない私の立場をわきまえない発言、どうかお許し下さい」

 「いや、そんな、頭を上げてください。相談って、どんなことですか?」

 「はい……」ヒラタさんがゆっくりと姿勢を戻す。「ヨシヒロ様に御許可頂けなかった場合、王都放送の方へ御連絡して頂けないでしょうか?」

 「えっと、わん太郎の状況を訊けばいいのですか?」

 「お願いできますでしょうか? その状況を私にお伝え下されば、サアラ様にも伝えることができます。勿論、御負担になるようでしたら、直ちにおやめ下さい」

 「分かりました。ぜひ協力させてください」

 「有難う御座います。感謝の仕様がありません」再び深々と頭を下げる。

 「……それじゃあ、お父様に話してきます。サアラはもう寝な」サアラの頭をポンポンと叩く。

 「はい」サアラが元気良く返事をした。

 

 父に直訴するのは二年ぶりだ。二年前の直訴も、サアラに関することだった。今回も、ほんの少しでいいから認めてもらえるだろうか。

 右手に、いつもより力を込めて、ドアをノックした。

 先程と全く同じように部屋に入り、机の前にある応接ソファーの横に立った。相変わらずPCのディスプレイを見続けている父に話しかける。

 「今、サアラと会いました。家を抜け出したそうですね」

 父の様子に変化は無い。そのまま話を続ける。

 「やはり、八歳の子供に、あの勉強量は過負荷だと思います。いえ、大人でも、あのような勉強量は耐えられないでしょう。私の頃よりも多くなっているのではないですか?」

 父は何も応えない。

 「二年前よりも、その気持ちは大きくなっています。再びお願い申し上げます。どうか、サアラに自由な時間を与えてやって下さい。このままではサアラが壊れてしまうかもしれません」

 何も応えない。

 「……サアラに友達ができたそうです、家を抜け出した時に。あんなに嬉しそうに自分のことを話しているサアラを初めて見ました。どのような友達か御存知ですか? 犬です。野良犬です。サアラにとって、犬は友達なのです。優しい子供、と言えば聞こえは良いですが、野良犬を友達にしなければならないサアラの精神状態に目を向けるべきです。これは非常に大きな問題です」

 何も。

 「……その犬ですが、今、王都放送の方が保護なさっているそうです。サアラは、その方と連絡を取りたがっています。友達の様子を知りたがっています。どうか、サアラがその方に連絡を取ることを許可して下さらないでしょうか?」

 「……」

 「御返事頂けないのであれば、私の独断で許可を出させて頂きますが、よろしいでしょうか?」

 「お前はこの家の人間ではない」

 「お父様の息子です」

 「笑わせるな。親の言うことひとつ聞けない奴が。言うことが済んだら、さっさと出ていけ」

 「許可は頂けるのでしょうか?」

 「勝手にしろ。勉強時間は減らさん」

 「有難う御座います」

 深く一礼してから、足早に部屋を出た。

 サアラの勉強時間を減らすことはできなかった。しかし、サアラが王都放送の人と連絡を取る許可をもらえた。許可をもらえない可能性のほうが大きいと考えていたが、説得が効いたのか。もしかしたら父も、心のどこかでは、今のサアラの状況を良くないと思っているのかもしれない。

 明日からは休みだ。念のため、明日はまず私が王都放送の人に連絡しておこう。

 携帯電話に連絡先を登録するため、ポケットから携帯電話と名刺を取り出した。その瞬間、携帯電話が震える。職場から着信だ。

 まだ0時ではない。休日ではない。0時まではきっちり働けということか。

 頭の傷も治っていないのだが……。

 少し多めに息を吸い込み、電話に出る。

 「はい、リュウガイです」



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第二章 整備(3)

 とばすって、こういうことを言うんだ。

 スピードメーターの針が百五十のトコまで行くのは見てたんだけど、それ以降は怖くて見てない。高速に乗ってから一台もこの車を追い抜いてないし、前を走ってる車にみるみる追いついて、そのままあっという間に視界から消えてく。

 僕は後部座席でわん太郎のお守りをしてる。わん太郎を車に乗せた直後は、押さえてないと動き回って大変だったけど、今は大人しくしてくれてる。自分が置かれてる立場を悟ったんだろう。そうさ、わん太郎。僕と君の命は今イリカさんに握られてるんだ。お互い仲良くしようじゃないか。

 急に速度が遅くなる。イリカさんがブレーキを踏んでるみたいだ。どうしたんですか、と訊こうとしたら、すぐに理由が分かった。前にオービスがあった。オービスの真下を通り過ぎた瞬間、再び一気に加速。

 外は真っ暗。しかもこのスピードだし、オービスの場所を覚えてないと急ブレーキになっちゃう気が……。

 「オービス、覚えてるんですか?」後ろからイリカさんに話しかけた。

 「うん、この高速けっこう使うんだ」

 なるほど、だからこんなスピード出せるのか、って、いやいやいやいや、オービスの場所を覚えてても、こんなスピードは出せない。というか、出したくないです、はい。

 「今から行くトコ、よく行くんですか?」

 「うん」

 「親戚とか友達の方ですか?」

 「んー、まぁそんな感じかな。児童養護施設なんだ」

 「えっと、身寄りのない子を育てる感じですか?」

 「うん。あと、虐待された子とか」

 「そうですか……。知り合いの方は、その施設の職員さんですか?」

 「職員というか、経営者かな」

 「親戚の方ですか?」

 「友達だよ」

 友達……。片道二時間以上かけて、よく会いに行く友達って――

 「彼氏さんですか?」

 「違うよー。女の子だよ」

 よかった……と安心してたら、イリカさんのほっぺたが動いた。笑ってるみたいだ。

 「シロウ君って本当に素直だよね」

 「そう、なんですか?」

 「うん、そうだと思う」まだ笑ってるみたいなイリカさん。「メグちゃんって可愛いよね?」

 ん? なんで急にメグが出てきたんだ?

 「そうですね、まぁ、可愛いというか、綺麗というか」

 「私って可愛い?」

 「え?」

 なんだなんだなんだなんなんだ? 僕なにか試されてるのか? そういえば公園でイリカさん僕に何を話そうとしてたんだ? ていうか僕どうしたらいいんだ? いろんな感情と考えが頭の中を走り回ってて収拾がつかない。

 「えっと、えー、は、い……」

 汗が一気に吹き出す。すごいな、人間って。汗こんなに出せるんだ。

 「メグちゃん、大切にしてあげてね」

 「え? なにが、ですか?」

 「ふふ」

 メグ、働かせ過ぎてるってことか? 確かに、メグにはほんと世話になってる。もっと感謝しないとな……。うん、よし、今度メシでもおごってやろう。

 「そうですね、今度メシでもおごっときます。よかったらイリカさんにもおごらせてください」

 「ありがと」

 イリカさんがウィンカーを弾く。滑らかに車線変更して、前の車を追い抜いた。

 

 目的地は山の中だった。

 高速を一時間くらい走ったあと、高速を降りてさらに一時間くらい下道を走った。周りの景色からどんどん光が無くなって、代わりに、木がどんどん増えてった。最後の五分間くらいは、コンクリートもなくなって、デコボコの土の上。たぶん、ご近所さんなんていないだろうな。田舎というレベルを超えてる。ここは、山だ。

 イリカさんが車を停めた。建物が車のライトに照らされてる。想像してたよりも大きな建物。田舎の分校みたいだ。

 「着いたよー」

 「ありがとうございます」

 わん太郎を車の中に乗せたまま外に出る。イリカさんもエンジンを止めて外に出てきた。車のライトが消えると、建物の玄関にある電灯がひとつだけ、暗闇に抵抗してる。その戦力差は圧倒的で、光が暗闇に飲み込まれてしまうんじゃないかって思える。空を見上げると、星が見えた。周りにある木のせいで、ぽっかりと開いた穴から覗いてるみたいな空。山にいるのに、なんだか地下深くに落とされた気分。

 イリカさんのあとに続いて玄関へ向かってる途中で玄関のドアが開いた。中から二人出てきて、こっちへ歩いてくる。メガネをかけてる人と、かけてない人。二人とも女の人、かな。パジャマにカーディガンを羽織った感じの姿。外へ出て分かったけど、寒い。上着を着たくなってきた。

 「お疲れさま。大丈夫?」メガネをかけてないほうの人が言った。

 「うん、大丈夫」イリカさんが答える。「電話で話した、ツクモトさん」

 イリカさんが僕のほうに手を向けたので、パジャマ姿の二人に自己紹介。

 「ツクモトシロウです。初めまして」お辞儀。

 「初めまして、イズミキヨミです」

 「イズミキヨナです。よろしく」

 二人とも笑顔でお辞儀を返してくれたけど、どうしよう、名前が区別できない……。

 「あ、姉妹なんですか?」

 「うん」メガネの人が答えた。「ごめんね、似たような名前で。覚えにくいでしょ?」

 「いや、あの、実は、すいません、もう既にこんがらがってて……」

 イズミさんたちが笑う。イリカさんも笑ってる。

 「私がキヨ『ナ』。妹ね」

 よし、メガネの人がキヨナさんか。妹さん。髪が長くて、メガネかけてるから分からなかったけど、言われてみれば、お姉さんよりも顔がだいぶ幼い。僕よりも年下だろうな。

 「私はキヨ『ミ』です」

 お姉さんのキヨミさん。妹さんと同じくらいの髪の長さだけど、メガネかけてなくて、大人な感じ。僕よりも年上かな。目鼻立ちがものすごくはっきりしてるから、余計大人びて見える。

 「キヨミさんに、キヨナさん……」二人に手を向けながら最終確認。だけど、馴染むのに時間がかかりそう……。「すいません、ありがとうございました」

 「わんちゃんは車?」お姉さんがイリカさんに訊いた。

 「うん。ほんとごめんね、こんな遅くに」

 「こっちは全然平気。それより、明日も仕事なんでしょ? 休めないなら、早く帰ったほうが良くない?」

 「そだね。じゃあ――」

 と、イリカさんが言ってる途中で、突然、玄関のドアが開いた。

 「イリカぁ、キヨナぁ」

 男の子が、泣きながら顔を出した。

 本当に辛そうな泣き顔。

 こっちの心まで締め付けられる。

 妹さんが男の子に駆け寄って抱きしめた。

 「また怖い夢見ちゃったか。怖かったね。大丈夫、大丈夫。もう大丈夫」男の子の頭を撫でながら、妹さんがこっちを振り返る。「イリカもいるよ。安心して」

 「あ……」男の子は、こっちを見て、少し泣きやんだ。「ご、めん、な、さ……」

 イリカさんが男の子のそばへ行く。

 「大丈夫だよ。キヨナもキヨミもちゃんといるから、安心して」

 男の子の頭を撫でるイリカさん。

 「部屋に戻ろう」

 妹さんはそう言って、男の子と一緒に建物の中へ入っていった。

 「ごめんなさい、驚かせてしまって」お姉さんが僕に言った。

 「いえ……。児童養護施設、なんですよね」

 「はい。今の子は、最近ここで暮らすようになったばかりで。ここに来る前に受けていた虐待を、夢で見てしまうみたいなんです」

 「そうですか……。本当に、辛そうでした……」

 「はい……。私たちができることは、そばにいてあげることくらい……。自分の無力さを感じます」

 「そんな、無力だなんて――」

 「いえ、心の傷というものは、時間でしか治らないんです。どんな言葉も行動も、その傷をほんの少しのあいだ忘れさせることしかできません。傷自体を治すことはできないんです」

 お姉さんの声はとても静かだった。

 この森の静寂を全部背負ってるみたいだった。

 「でも、無力だとしても、言葉と行動を尽くすことを諦めちゃいけない、でしょ?」

 イリカさんが元気良く言った。

 「その通り」お姉さんが笑顔で応える。

 「そういう意味では、実は私、わん太郎にものすごく期待してるんだ」

 「わんたろう?」

 「あぁ、ごめん、犬の名前」イリカさんが車を指さす。

 「わん太郎って、あなた、相変わらずのセンスね」

 お姉さんが吹き出した。

 「違う、私がつけたんじゃないよ、もう。シロウ君、その辺の説明お願い」

 イリカさんは、ふてくされた様子で車のほうへ歩いていった。

 ふてくされるイリカさんも可愛いなぁ……。

 

 「犬って、言葉は喋れないけど、行動を尽くすでしょ? だから、もしかしたら子供たちにいい影響があるんじゃないかなって」

 玄関の明かりの下。イリカさんが、わん太郎に首輪を付けながら言った。首輪といっても、布を帯状にしたのを首に巻きつけてるだけだけど。布は、お姉さんが持ってきてくれたのを使ってる。ちゃんとした首輪は、近いうちにお姉さんが買ってきてくれるらしい。

 「そうね。わん太郎、賢そうだし、子供たちの大事な存在になってくれるかもね」お姉さんが言った。「わん太郎はもらっちゃっていいの?」

 「うん。ごめんね、無理言っちゃって」

 イリカさんが首輪を付け終わる。首輪を付けてる間、わん太郎が暴れないようにと思って僕が押さえてたけど、わん太郎が暴れる様子はまったくなかった。お姉さんの言うとおり、わん太郎、結構賢いかもしれない。やるな、わん太郎。

 玄関のドアが開いて、妹さんが戻ってきた。

 「寝たよ」妹さんが言う。お姉さんが頷く。

 「それじゃあ、帰るね」イリカさんが言ったので、慌てて反応。

 「あ、すいません、サアラちゃんに写真を送ってあげたいと思うんですけど、わん太郎とイズミさんたちが並んでる写真……」

 「おー、いいね、サアラちゃん喜ぶね。ねぇ、写真撮ってもいい?」

 「いいけど、やだー、パジャマよ」お姉さんが笑いながら答えた。

 「ほんと。これでも一応女の子だよ」妹さんも笑ってる。

 「すいません、ほんと急に来て、こんなお願いまで……」

 「ほらほら、ちゃっちゃと撮って帰んないと」イリカさんも笑ってる。

 イズミさんたちがわん太郎の両脇に立つ。

 僕はポケットからデジカメを取り出して、設定をいじくり、少し離れてレンズを向ける。

 「はい、撮りまーす」

 フラッシュ。

 「はい、ありがとうございました」

 「ツクモトさんとイリカも撮ったら? 撮ってあげる」お姉さんが言った。

 「んー、じゃあ撮ってもらっちゃおうか」

 イリカさんがこっちを見たので、はい、と返事をして、お姉さんにデジカメを渡す。

 イリカさんとツーショット! やった!

 まぁ実際は、ツーショット、プラスワンだけど、わん太郎のおかげで写真が撮れるんだから不満は無い。むしろ、最高級ビーフジャーキーをあげながら撫で回したいくらいだ。

 イリカさんと二人で、わん太郎の両脇に立つ。

 「じゃあ撮るよー」お姉さんがカメラを構える。

 フラッシュ。

 「うん、撮れた。どう?」

 「ありがとうございます」お姉さんからデジカメを受け取って、画面を見る。「バッチリです」

 「写真のデータって、今もらえる?」隣にいた妹さんが言った。

 「あ、はい。パソコンとかあります?」

 「うん、家の中に。お願いできる?」

 「はい」

 「じゃあシロウ君、ちょっと連れてくよ」

 妹さんがイリカさんに言った。

 妹さんってすごいフレンドリーだな。喋り方もそうだけど、初対面で下の名前を呼ばれたのは、イリカさんに続いて人生二人目。類は友を呼ぶってやつか。

 妹さんと二人で建物の中を歩く。廊下に明かりは無くて、妹さんの持ってる懐中電灯だけが進む先を照らしてる。

 建物の中は、外観通り、学校みたい。たぶん、廃校になった建物を再利用してるんだろな。訊こうと思ったけど、子供たちを起こしちゃうかもしれないので、黙って歩く。

 廊下の突き当たりにある部屋に入った。宿直室みたいにこぢんまりした部屋。二つの机の上にノートパソコンが一台ずつ乗ってる。

 「じゃあ、SDカード貸してもらっていい?」

 「はい」

 デジカメからSDカードを取り出して、妹さんに渡した。妹さんはノートパソコンにSDカードを挿し、マウスを動かす。

 「お、写真いっぱい。全部今日撮ったの?」

 「はい」

 「警察の悪事を暴くんだってね。イリカから聞いてるよ。大変そうだね」

 「あ……はい」

 「大丈夫だよ。誰かに喋ったりしないから。イリカとは家族みたいなもんなんだ」

 「そう、なんですか」

 「うん。イリカから聞いてない?」

 「そう、ですね……そういう話は、したことないかもしれません」

 妹さんはマウスをカチカチ。

 そういえば、僕はイリカさんのプライベートなことを全然知らない。訊いたこともない。そういうこと、あまり気にならないから。でも、今の妹さんの話し方を聞いて、少し気になってしまった。今度聞いてみようかな。

 妹さんがSDカードを引っこ抜いて、僕に差し出す。

 「イリカを、大切にしてあげてね」

 まったく脈絡の無い言葉に戸惑いながら、SDカードを受け取る。

 「たい、せつ……?」

 妹さんは僕を見つめ続ける。

 その視線を真正面から受け止める。

 とても柔らかな表情。

 喜んでるように見える。

 悲しんでるように見える。

 怒ってるように見える。

 祈ってるように見える。

 もしかしたら、神様はこんな表情をしてるのかもしれない。



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第三章 組立(1)

 頭を覆う鈍い痛みと共に、犯人の顔を思い出す。あの事件以降、寝起きはずっとこんな調子だ。

 この家を離れてから、久しぶりに自分の部屋で寝た。

 父との確執以来、実家に戻るのは苦痛でしかない。もしかしたら、自分の部屋でさえ落ち着かないのではと心配していたが、むしろ昔の感覚を思い出して、懐かしい気持ちになった。郷愁感というやつだろう。昨晩はぐっすり眠ることができた。

 頭の傷を療養するために帰ってきた、と父には言ったが、療養するだけなら警察寮のほうが断然良い。それくらい実家には居たくない。だが、ここで調べたいことがある。

 犯人に頭を殴られ気絶した日、目を覚ますと、見知らぬ男が横にいた。声をかけると、その男はこちらを一度見て、無言で部屋を出て行く。一分ほどで看護師が現れ、自分が病院にいるのだと気付いた。それから一時間ほど経過したあとだろうか、ヨコウラが部屋へ入ってきた。

 「お加減はいかがですか?」

 そう言ったヨコウラの顔が微笑む。

 「頭が少しボーッとしますが、大丈夫だと思います」

 「そうですか……しばらくゆっくり休まれるのが良いと思います」

 「……家主は、亡くなられたでしょうか」

 「……大変残念な結果となってしまいました。全ての責任は、指揮していた私にあります。申し訳ありません。責任をとるため指揮から外れることも考えましたが、犯人を逮捕することでしか責任はとれない、というお言葉を王から賜りました。一刻も早く犯人を検挙しなければなりません。そのために、リュウガイさんの協力が必要不可欠です。どうか、ご協力をよろしくお願いします」

 ヨコウラが深々と頭を下げる。

 「そんな、協力だなんて……それは私の、警察官としての義務です」

 「ありがとうございます」

 そう言いながら頭を上げたヨコウラの顔は、とても申し訳なさそうだった。

 「犯人は……」

 「……依然として、足取りは掴めていません。リュウガイさんの話だけが頼りです。どうか話をお聞かせください」

 「そういえば、張り込んでた奴らのケガは?」

 「三名とも軽傷です。リュウガイさんの傷が一番酷い状態でした」

 「そうですか、良かった、いや良くない……被害者は……」

 「……あの日の状況、すべて教えてもらえますか? どんな些細なことでも。なんとしても犯人を検挙しなければなりません。犯人を検挙することでしか、被害者に謝罪することはできないと考えています」

 ヨコウラの目から、水分が一滴。

 水分。

 この病室にヨコウラが入ってきたときから、ずっと脳が震えている。

 今ならはっきりと脳の言葉が分かる。

 嘘だ。

 

 嘘だ。

 

 脳の言葉を聞きながら、ヨコウラに全てを話した。

 犯人との会話を除いて、全て話した。

 

 それから二日間休んだあと、仕事へ復帰した。復帰してから五日間は、怪我を理由にデスクワーク中心にしてもらった。その真意は、犯人が口にした言葉を検証しなければならないという焦燥感。デスクワークをしながら、警視庁のデータベースを使って検証していった。

 少子対策法。

 養子。

 十年前。

 クリスマス。

 『少子対策法』という検索ワードでヒットする事件はゼロだったが、十年前の十二月二十五日でヒットした事件の中に、気になる事件が一件見つかった。資産家の家と児童養護施設で起きた殺人事件だ。既に終結している事件だったが、報告書を入念に読む。

 報告書によると、犯人は児童養護施設の経営者。殺されたのは資産家の家の家主一人と、施設で暮らしていた子供十二人。経営者は、家主を殺したあと、施設に火をつけ、施設で暮らしていた子供全員を焼殺。その直後、経営者は近くのマンションから飛び降り、自殺。

 報告書を読んでいるうちに思い出した。大学生のころ、大きく報道されていた事件だ。被害者の人数の多さ、そして、事件現場が実家に近かったので、なんとなく覚えている。

犯行の動機は、家主からの資金援助を打ち切られた経営者が施設を運営できなくなったため、と報道されていた。報告書にも同様の記述があった。子供を焼殺したのは、無理心中のためだ、という記述も報道と同様だった。

 報告書を読み終えたあと、この事件を調べ直したほうがいいなと考えた。

 頭の傷の療養を理由に有給休暇をとり、実家から事件現場へ向かえば、周囲を気にせずに事件現場を調べられる。同僚などに会っても、実家が近いから、と言えば良い。まずは殺された家主の家へ行ってみよう。そのあとに、放火された児童養護施設だが、既に取り壊されているだろう。周囲の住民に、当時のことを聞くしかない。

 なぜこんなことをしているのだろう。

 こんなこと、したいわけではない。しなければならない、という言葉が近いかもしれない。

 ヨコウラは何かを隠している気がする。見過ごしてはいけない何かを隠している気がする。脳は、それを見つけようと必死になっている気がする。気がするだけで、こんな懲戒処分ものの行動をしている。頭がおかしくなったのだろうか。

 犯人の目が、じっとこちらを見る。

 まばたきを一回。

 

 背後のドアが開く音で、朝食を食べていることを思い出した。一分間くらい、箸の先が味噌汁に浸かっている様子を眺めていたようだ。

 向かいの席に食事が用意され始める。サアラの昼食だ。英語にはブランチという言葉があるが、それに対応した日本語が存在しないのは、昼まで寝ているような怠惰な人間を排除するためだろうかと想像したが、三秒後にはどうでもよくなった。

 しばらくするとドアが開き、サアラが部屋に入ってくる。十二時ちょうどだ。

 「おはようございます」サアラがにっこり笑う。

 「おはよう」

 「遅いお目覚めですね」

 「うん。ぐっすり眠れた」

 「いつまでこちらでお過ごしになるのですか?」

 「休みは一週間だけど、どうかな、早めに帰るかも」

 「そうですか……とても淋しいです」

 席に着いたサアラが、テーブルの上にあるティーカップをじっと見つめている。昨日のこともある。こんな小さな子が、淋しさをうまく処理できるはずもない。

 「食事が終わったら、昨日の、えっと、なんだっけ、わんたろう? を連れてってくれた人に連絡してみようと思うんだけど――」

 「本当ですか! 私もしたいです!」

 「うん、でも、このあと勉強だろう?」

 「今します!」

 サアラが急いで料理を食べ始めた。予定よりも早く食事を終わらせて、勉強を再開する前に、わん太郎のことを訊くつもりだろう。ヒラタさんがいたら、行儀が悪い、と間違いなく怒られる。

 「もっとゆっくり食べな。わん太郎のことは、あとでちゃんと教えるから」

 サアラはパンを食べながら、首を横に振る。どうしても自分でわん太郎のことを聞きたいらしい。

 結局、十五分ほどで食事を食べ終えてしまった。サアラの昼食の時間は三十分なので、連絡するのに充分な時間が残っている。ポケットから携帯電話を取り出す。

 「じゃあ、まず僕が電話して、そのあと代わるから」

 「ありがとうございます」

 昨日と同じように、とても嬉しそうに応えるサアラ。こちらも嬉しくなる。

 携帯電話に登録しておいた連絡先を呼び出す。王都放送社会報道部、月本志朗。名刺には、社内電話、携帯電話、メールアドレスが書かれていたので、全部登録しておいた。まずは携帯電話に連絡する。もし携帯電話に出なければ、会社に電話することになるが、それにも出なければ、サアラのお昼休憩中に連絡を取ることはできなくなる。できれば、サアラに直接連絡を取らせてあげたい、そう思いながら携帯電話のボタンを押す。

 コール音が五回。

 「はい」

 「突然のお電話、申し訳ありません。ツクモト様でいらっしゃいますか?」

 「はい、そうです」

 「私、昨日の夜、公園でお世話になりました子供の兄で、リュウガイと申します。初めまして」

 「あ、初めまして、サアラちゃんのお兄様ですね。リュウ、ガイ、さんですか?」

 「はい、リュウガイ、アキヒロ、と申します。よろしくお願いします」

 「よろしくお願いします」

 「今お時間よろしいでしょうか?」

 「はい、大丈夫です」

 「昨日はサアラが大変お世話になりまして、本当にありがとうございます」

 「いえ、お世話だなんて、そんな……」

 「いえ、本当に感謝しております。サアラの友人を救ってくださり、お礼の仕様がございません」

 「その件ですが、実は私ではなく、私の同僚の知人が引き取ってくださいまして……」

 「そうでしたか。それでは是非その方にもお礼を申し上げたいと思うのですが」

 「では、同僚にその旨申し伝えます。今は……ちょっと席を外しておりまして、申し訳ありません」

 「いえいえ、お手数お掛けします。すいません、実は今、サアラもおりまして、友人の様子を直接お訊きしたいと申しております。お話頂いてもよろしいでしょうか?」

 「はい、もちろんです」

 もう待ちきれない、という様子でずっとソワソワしていたサアラに、携帯電話を手渡す。

 「お電話代わりました。リュウガイサアラです」

 サアラが元気良く話し始めた。

 こんなに楽しそうに話しているサアラを見ると、普段の生活の制約の大きさがよく分かる。やはり、あんな生活を続けていては駄目だ。そう思っているのに、やめさせることができない。情けないとしか言いようがない。

 「お兄様」サアラが耳から携帯電話を離した。「私のパソコンにわん太郎の写真を送ってもらおうと思うのですが、よろしいでしょうか?」

 大きく頷く。それを見たサアラは、喜んで携帯電話を耳に戻す。

 「はい、それでは私のパソコンに送って頂きたいです……はい……そうですね、分かりました。兄に代わります」

 サアラが携帯電話を返してきた。

 「お電話代わりました」

 「あの、今サアラちゃんに、昨日撮った犬の写真を送りたいという話をしてまして、サアラちゃんのメールアドレスをお兄様に教えて頂きたいと思いまして」

 「分かりました。それでは、このあとメールでお伝え致します。送信先は、ツクモト様の名刺に書かれているアドレスでよろしいでしょうか?」

 「はい、お願いします」

 「では……」サアラを見ると、もう一度携帯電話を渡してくれとジェスチャーする。「最後に、サアラに代わります」

 サアラに携帯電話を渡すと、わん太郎によろしくお伝えください、と言って、元気良く電話を切った。

 「わん太郎は今、山梨県にいるそうです」

 「そうか。なかなか遠いね」

 「いつか会いに行きたいです」

 「うん。いつか会いに行こう」

 

 十年前に殺人事件があった資産家の家の住所へ行くと、当時の家は既に取り壊され、マンションが建っていた。豪邸だと報道されていたので、取り壊されていないだろうと思っていたが、甘かったようだ。これであとは、周辺の住民に当時の状況を訊くだけになってしまった。

 周辺は閑静な住宅街で、外を歩いている人たちはマダムという言葉がよく似合うご婦人ばかり。皆一人で歩いている。重そうなスーパーの袋を両手に下げていたり、重そうなスーパーの袋を自転車のカゴに押し込んでフラフラと進んでいたり、重そうなスーパーの袋を地面に置いて「まぁ」とか「うそぉ」と何十分も言い続けるご婦人たちは一人も見当たらない。スーパーの袋の代わりに、かわいいミニチュアダックスフンドを何匹も連れていたり、かわいいチワワが電柱や塀の匂いを嗅いでいるときにリードを強烈に引っ張ったり、かわいいパピヨンが向こうから来た別の犬に対して激しく吠えているときに無言でリードを短く持ち直してすれ違うご婦人しか見当たらない。まあ、きっと、どちらのタイプのご婦人も本質的には同じだろう。平和だ。

 できるだけ古い一軒家を探しながら付近を歩いたが、下町にあるようなボロボロの木造一軒家はもちろん、大手メーカーが大量生産した無個性の一軒家さえ見当たらない。そのような建物に住んでいた人たちは、土地を売って、別の場所へ引っ越したのだろう。引っ越し先を贅沢にしなければ、売却益だけで数年間は遊んで暮らせるはずだ。

 新しそうな家や豪邸にも聞き込みをしようかと考えたが、十年前から暮らしている人は少ないだろうし、いたとしても、都会特有のガードの硬さで、聞き込みは難しい。都会、特に高級住宅街などの聞き込みで警察手帳を見せて話を聞こうとすると、その警察官が本物かどうか警視庁に照会する人は比較的多い。もちろん照会するほうが良いのだが、今の自分にとっては、照会されると面倒なことになる。休暇中に十年前の事件、しかも、解決済みの事件を調べていることが上司にバレてしまう。聞き込む相手を見極めて、慎重に動かなければならない。

 資産家の家付近での聞き込みは保留して、児童養護施設があった場所へ向かった。歩いて二時間ほど。付近の様子を見るため、タクシーは使わなかった。

 児童養護施設があった場所は空き地になっていた。売地を知らせる看板が道路との境界上に立ち、看板の奥の敷地内は、一メートル以上の雑草が茂っている。子供十二人が焼死した場所だ。立地が良いわけでもないので、十年間買い手が現れないのも無理はない。

 付近で一番古そうな一軒家を探していると、門もインターフォンも無い木造平屋建ての家を見つけた。迷わず玄関の戸を叩いた。反応がないので、もう一度戸を叩く。先程よりも強く四回叩いた。しばらく待っていると、家の中から、はいはいはい、という声が聞こえ、開錠音なしで玄関が開いた。腰が曲がった小さな老婆が立っている。

 「突然申し訳ありません。私、警察の者で、今このあたりの聞き込みをしております」警察手帳を見せた。「少しお話をお聞きしたいと思うのですが、お時間よろしいでしょうか?」

 「え? なんかあったかい?」

 「いえ、実はですね、十年前の事件についてお聞きしたいと思うのですが」

 「十年? そりゃあまた昔だね」

 「はい、覚えていらっしゃいますか? 児童養護施設でお子さんが十二人亡くなられた事件なのですが」

 「あぁー……よーく覚えてるよ。本当に酷い事件で、あんたら警察も素っ頓狂なことしか言わんで、捜査し直す気にでもなったかい」

 「あ、すいません、私、当時のことを詳しく知らずに、御無礼ありましたでしょうか?」

 「無礼も何も、シミズさんがあんなことするわけないじゃろが」

 シミズ。児童養護施設の経営者の名前だ。十年前の被疑者の名前が淀みなく口から出るということは、経営者のことをよく知っているのかもしれない。

 「シミズさんとお知り合いだったのですか?」

 「んー、本当にいい人じゃった。あんないい人がなんで人殺しなんかするもんかね。しかも我が子同然に可愛がってた子たちまで焼き殺しただって? ふざけるんじゃないよ」

 老婆の口調がどんどん厳しくなった。普段の聞き込みなら落ち着かせるところだが、老婆の率直な意見を聞きたかったので、そのまま続ける。

 「施設で亡くなったお子さんは十二人でしたが、おばあちゃんは全員ご存知でしたか?」

 「ああ、もうみんないい子じゃった。チーちゃんとヒロちゃんは下の子の面倒をよーく見るし、ユウタはイタズラばっかりしとったが実は思いやりのある子で、ばあちゃん、何か困ったことがあったらすぐ言ってこいよ、助けに行くから、なんて、一丁前にあたしに言って……あぁ、思い出したら泣けてきたよ」

 老婆の目に涙が溜まる。年齢のせいか、頬を流れ落ちることのない僅かな涙に、想像以上の悲しみが濃縮されているようだ。この老婆は、児童養護施設の子供たちを本当の家族のように想っていたのかもしれない。その家族を一瞬で失った老婆の絶望と悲しみが流れ込んできた気がした。冷静さを保つように努めなければならなくなった。

 「心中お察しします。大変辛いことを思い出させてしまうかもしれませんが、事件の起きた日、施設で暮らしていた子供は全員で十二人だったのは間違いないでしょうか?」

 「十四人じゃろ?」

 「え?」

 「十二人じゃなくて、十四人」

 「十三人ではなくて?」

 「十四人じゃ」

 「亡くなったお子さんは、十二人?」

 「ああ」

 「ということは、二人の子供が助かっているのですか?」

 「あんたらが保護したんじゃろ?」

 そんなこと、報告書のどこにも書かれていない。

 「その二人とは、事件後会いましたか?」

 「会っとらん」

 「その二人は何才ぐらいでしたか? 事件の時」

 「十才とか、そんなもんだったか。あんたらの方が詳しいじゃろ?」

 「二人とも?」

 「ああ」

 「性別は?」

 「女の子だが、さっきからなんだいあんた、バカにしとるんか」

 「すいません、そのようなつもりは全くありません。もし気分を害されたのであれば、お詫びします。申し訳ありません」深く頭を下げる。「誠に恐縮ですが、最後にひとつだけお訊かせください。その二人は少子対策法の養子でしたか?」

「んなこた知らん……まぁ、雰囲気は全然違っとった。酷く怯えとって、可哀想じゃった。ずっと二人でくっ付いて縮こまってたのう。確かに、戦場で生きてきた心の傷と言われれば、そんな感じかもしれんな」

 「施設で暮らしてる間、ずっとですか?」

 「ずっとと言っても、二、三日だがな」

 「二、三日? 事件の数日前から暮らし始めたんですか? 二人とも?」

 「そう。わしはまだ名前も聞いとらんかった」

 それから五分ほど老婆と話したが、警察への不満や怒りの発露が大きくなり、情報を引き出せる状態ではなくなってしまった。有用な情報がまだあるかもしれないと思いながらも、老婆に謝罪とお礼を言って、話を終わらせた。

 まだ一件しか聞き込みをしていないが、充分な成果だった。いや、寧ろ、これ以上不用意に動いてはいけないと感じるようになった。

 十年前の事件で、警察が何かしらの事実を隠蔽した可能性が高い。組織ぐるみなのか、個人の仕業なのかは判然としないが、警察内部での他言はできなくなった。

 病室で会ったヨコウラを思い出す。

 笑顔。

 謝罪。

 水分が一滴。

 ヨコウラだけには絶対に話さない。その決意が一番堅かった。

 老婆の話を整理しながら、様々なことを考えて歩いていると、公園の入口が目についた。昨日、サアラに友達ができた公園だ。実家へ帰ろうと思っていたが、公園のベンチで考えをまとめるのも良いかもしれない。実家へ帰ったところで、居心地の悪さしか感じないだろう。

 公園へ入る。小さい頃、一度だけここに来たことがあるが、その時の記憶と一致するものは何も無い。代わりに、たくさんの遊具が並んでいる。

 平日の夕方、夕陽になりきれていない黄色い太陽が、空と地面の間に浮かんでいる時間、学校帰りの子供たちが賑やかに遊んでいる。

 公園の入口から一番近い場所にあるブランコに目がいった。誰も乗っていない。

 そういえば、一度も乗ったことないな、ブランコ。

 乗ってみようかな。恥ずかしいけど。

 子供たちを横目に見ながらブランコまで歩き、ゆっくりとブランコに座った。

 慌てるな、余計に注目される、と自分に言い聞かせながら、一漕ぎ。

 金属が擦れる甲高い音が子供たちの声に混ざる。予想以上に大きな音だが、耳元で鳴っているせいだろう。自意識過剰だ。

 思い切って漕ぎ始める。

 足と地面の接触を避けるため、体操選手のように足を一直線に伸ばす。重心移動を小刻みに繰り返し、振幅を長くする。金属の擦れる音が大きくなるにつれて、速さと高さの極大値が増えていった。そして、つま先が頭の高さを越える頃、子供たちは全員こちらを見ていた。

 これは、自意識過剰ではない。

 足を地面に突き立て、一瞬でブランコを止める。

 砂埃。

 静寂。

 「にげろおぉぉぉ!」

 突然の叫び声で、一瞬視界が白くなった。こんなことでヨコウラに目を付けられてしまうなんて、恥とか不注意とか、そういうレベルではない。穴があったら入りたい。いや、このブランコで成層圏までテイクオフしたい。

 辞世の句に手を出しそうになった時、背後から三人の子供が走ってきて、遊具で遊んでいた子供たちと合流した。走っていた三人の子供たちは興奮した様子で、まじこえー、とか、のろわれるかも、などと話している。どうやら、先ほど聞こえた『逃げろ』という叫び声は、私とは関係ないようだ。子供たちは、再び賑やかに騒ぎ始める。呪いの石像、とか、銃で殺される、などと聞こえてくる。心の底から安心した。

 後ろを振り返ると、林がある。走ってきた子供たちは、あの林から出てきたようだ。

 そういえば昨日、サアラが隠れていた場所は林の中だったとヒラタさんが言っていた。石のオブジェとも言っていたので、サアラが隠れていたのは、あの林だろう。サアラに初めて友達ができた場所だ。呪いの石像というのも少し気になったので、行ってみることにした。本音は、一刻も早くブランコから離れたかっただけかもしれない。

 林の樹木の密度は想像以上に高く、中はとても暗い。きっと昼間でも薄暗いだろう。子供たちの度胸試しに使われるのも頷ける。

 足元に注意しながらしばらく歩くと、先の方に明るい場所が見えた。石のオブジェも見える。サアラが隠れていたのは、あの場所だろう。

 石のオブジェは噴水のような形だが、水は無い。噴水の中心に石像が立っている。髪の長い女性の石像のようだが、あちこち欠けている。経年劣化というよりは、人為的に傷付けられたように見える。もしかしたら、子供が石をぶつけているのかもしれない。子供たちが『呪いの石像』という仮想敵と戦っている状況は容易に想像できた。

 女性の石像は、左手で何かを抱えているように見える。先ほどの子供たちは『銃で殺される』と話していたので、子供たちのあいだでは、ライフルを抱えているという設定になっているのだろう。そう考えていると、ライフルにしか見えなくなってきた。

よく観察してみると、石像の右腕が無い。そういうデザインではなくて、折れて無くなったようだ。

 おそらく、この石像は、小さな竪琴のようなものを両手で持ったデザインだったのだろう。しかし、右腕の脇が開いた状態でデザインされていたため、竪琴の半分と右腕が一緒に折れてしまったのだ。人為的に折られたのかもしれない。

 人間に造られ、人間に壊されていく石像を見つめる。

 

 不意に、あの犯人を見ている感覚に引き込まれた。

 

 どうしてそんなに傷付いた?

 そのライフルで誰を撃つ?

 

 沢山の疑問をぶつけたくなったが、散々石をぶつけられてきた彼女に、これ以上辛い思いをさせたくなかった。



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第三章 組立(2)(3)

 黒光りする重厚な机が縦列し、猫のように柔らかいカーペットが床一面に敷かれている会議室で、仕立ての良いスーツを着た男達が声を荒げている。
 「少子対策法の裏知ってる奴の数なんてたかがしれてるだろ! 何してんだテメーは!」
 「お前らに何億かけてると思ってんだ!」
 「申し訳ありません」
 末席で立っているヨコウラが頭を深く下げる。
 「頭下げんじゃなくて、犯人連れて来い!」
 「ヨコウラ」
 上座に座っている国王が、落ち着いた声で話しかけた。
 「はい」
 「本当に見つからないのか?」
 「はい」
 「生誕祭までには見つかるか?」
 「発見できない可能性が高いです」
 ヨコウラを睨んでいた国王は、視線を下げると、眉間を親指の先で押し始める。
 「……どうしようもないな」独り言のように国王が呟く。「生誕祭は予定通り行う。難民救済法も予定通り公布する」
 「危険過ぎます! 何か起こったらどうするのですか!」
 「何か起こらないようにするしかない。生誕祭も救済法も、どれだけの人間が関わっているか知っているはずだ。中止すれば、死ぬようなものだ」
 国王の言葉に反論する人間は誰もいない。部屋の中が凍りついたように誰も動かない。そんな状況と裏腹に、仕立ての良いスーツを着た男たちの顔色は赤みを帯び、汗が滲んでいる。
 「クーラーは……」
 誰かが呟いた。
 今は十月だよ。
 ヨコウラは思った。


 サアラちゃんのメールアドレスを呼び出して、昨日撮ったばかりの写真を添付して、送信ボタンをクリック。送信済みメールを開く。フラッシュのせいで、わん太郎の目が赤く光ってる。

 サアラちゃん、こんなのわん太郎じゃない、って思ったらどうしよう……画像補正したかったけど、お昼休憩終わっちゃうし……。

 少し後悔してる僕の前では、イリカさんが机に突っ伏して寝てる。いつもなら、かわいい寝息が聞こえるんだけど、今日は、呼吸をしてるのも分からないくらい静か。やっぱり、昨日の疲れだろうな……本当に申し訳ない。どうしよう、あと五分でお昼が終わっちゃうけど、起こせない。

 「ツクモト」

 後ろから名前を呼ばれた。内臓に直接働きかけてくるようなダンディーな声だったから、振り向かなくても上司のサガミさんだって分かる。

 「はい」

 振り向きながら、今の自分の仕事について思い返す。サガミさんは、仕事以外のことでは話しかけてこないんだ。

 後ろにいたサガミさんは、すでに僕を見てなくて、イリカさんを見てた。僕もイリカさんを見る。

 「タカミヤ」

 イリカさんがビクっとなりながら、ものすごい速さで頭を起こした。

 「シロウ君! 成長したの?」

 ……ど、どうしよう、意味が分からないけど、なんか悲しい。

 「起こしてすまない。二人とも、ちょっと来てくれ」

 サガミさんの表情はいつも通り、っていうか他の表情見たことないけど。いつも通りなんだけど、僕ら二人に声をかけたあと、僕らが返事をする間もなく歩き始めた。いつものサガミさんなら、必ず相手の反応を見てから動くのに、ちょっと変だ。僕もイリカさんも慌てて立ち上がり、サガミさんのあとについてく。

 サガミさんは、このフロアの打ち合わせスペースに入った。打ち合わせスペースは透明なガラスで仕切られてて、外の音がほとんど入ってこない。逆を言えば、よっぽど大きな声を出さなきゃ、外に音は漏れない。内緒話もできる。

 「単刀直入に訊く」僕がガラス戸を閉めた瞬間、サガミさんが話し始めた。「連続殺人について調べているのか?」

 「はい」

 イリカさんが即答する。たぶん、サガミさんの質問の内容を予測してたんだ。しかも、この先の対応の仕方も全部決めてるような気がする。

 「分かった。じゃあ、今の俺の考えは二年前とまったく同じだから、あとでツクモトに伝えておいてくれ」

 サガミさんは僕をチラッと見て、イリカさんに視線を戻す。イリカさんはまったく動かない。そのまま数秒間沈黙。

 じっと見てなきゃ分からないくらい本当に少しだけ、サガミさんは目を伏せた。

 「その取材は禁止する。そんな仕事の指示は出していない。もし今後、同様の取材行為が発覚した場合は、二人併せての懲戒解雇とする。副社長からの厳重注意だ」

 そんな――

 「すいません、僕がタカミヤさんを巻き込んだんです、責任は僕にあります、解雇されるなら僕だけです」

 予想以上の罰を突きつけられて早口になる。僕は自業自得だからしょうがない。だけどイリカさんは違う。僕が取材するって言ったのが一番の原因なんだから。

 「責任の割合は関係ない。指示された業務の範疇を超える取材行為を王都放送職員の肩書きを使って行っていた事実。その事実に対しての処遇だ」

 「どうして二人一緒の解雇なんですか? タカミヤさんはもうその取材をしません。解雇されるなら僕一人です」

 「タカミヤは取材しないが、お前は取材を続けるのか?」

 「……」

 「お前がもう取材しないと言えば、タカミヤも取材をやめるはずだ。お前が取材を続けると言えば、タカミヤも取材を続けるだろう。落ち着いて考えろ。意地張って取材続けて、そんな方法でしかお前のしたいことはできないのか?」

 「できません」

 「シロウ君」

 イリカさんが僕を見てる。イリカさんの表情がない。僕に、黙って、ほしい、のかな。

 「すいません、失礼しまぁす……」

 後ろから突然声がした。びっくりして振り返ると、ガラス戸を少しだけ開けた別部署の女性が、こっちの様子を窺ってる。

 「一時から予約していたのですが……」

 いつの間にか、打ち合わせスペースの周りに五人くらいのスタッフ。みんな書類やパソコンを持ってガラス越しにこっちを見てる。

 「すまない、もう出るから」

 サガミさんはそれだけ言うと、僕とイリカさんをまったく見ずに、打ち合わせスペースから出てった。僕は、イリカさんと話がしたかったけど、イリカさんもすぐに出てってしまったから、慌ててついてく。イリカさんは、そのまま自分の席に戻った。サガミさんはいない。

 「どうしますか?」

 ほとんど意味のない言葉をイリカさんの背中にぶつける。

 「仕事終わってから、話そう」

 やまびこみたいな返事だった。

 

 その日、イリカさんもサガミさんも普段と同じように仕事をしてた。だけど僕は無理だった。気がつくと、いつもより声が小さかったり低かったりした。意識しないといつもどおりの声が出せないなんて、こんなに自分が気分屋だとは思わなかった。もしかして、昨日イリカさんが言ってた『素直』っていうのは、こういうことなのかも……もっとタフにならなくちゃ……。

 仕事が終わってから話そうとイリカさんに言われたから、とりあえず、ずっと仕事をしてた。やらなきゃいけない仕事は山ほどあるから、いつまでも続けてられる。だけど、明日の朝まで仕事をしてるわけにもいかないから、二十四時になったら僕から話しかけようと思ってたけど、二十二時のちょっと前、サガミさんが帰ってすぐ、イリカさんが話しかけてきてくれた。まだフロアには結構人が残ってるけど、僕らの班はもう僕とイリカさんしかいない。

 「さて、話そうか」

 席に座ったまま話しかけてきたイリカさんの表情は、いつもどおり柔らかい。向かい合って座ってる僕とイリカさんのデスクの上には、お互いの顔を隠す物が無いから、二人とも座ったまま話せる。周りからはパソコンの操作音くらいしか聞こえてこないから、ひそひそ声でも充分聞こえる。

 「はい」と返事したものの、何から話そうか迷ってしまう。

 「じゃあまず、サガミさんの考えっていうのかな、二年前に私が言われたこと話すね」僕の様子を見て、イリカさんが話を始めてくれた。「こないだメグちゃんと三人でごはん食べたときに話した、少子対策法に良くない部分があるんじゃないかって話、覚えてる?」

 二回うなずく。忘れるわけない。あのときのメグ、もとい失礼の塊のせいで、僕の寿命は三年くらい縮んでる。

 「その話を最初にしたのがサガミさんだったんだけど、二年前ね。そのときに言われたのが、任された仕事を完璧にこなしていて、なおかつ、王都放送職員としての将来性に繋がる行動であれば何をしても構わない、って感じの言葉だった。で、サガミさんのその考えは今も変わってない、らしいね」

 「もしかして、僕の仕事に何か問題があったんですか?」

 「んー、私の見てる限りでは無かったと思うよ。たぶん、私たちの仕事が問題じゃなくて、私たちが調べようとしてることが問題なんだと思う」

 「前言ってた、国の圧力ってやつですか?」

 「かもね。そうだとしたら、二年前の私のときとは比べものにならないくらいの圧力がかかってることになるね」

 「懲戒解雇ですもんね」

 僕が言うと、イリカさんはなぜか微笑んだ。

 「それは、たぶん、うそ」

 「え? 嘘?」

 イリカさんに言われて気付いた。僕らが勝手にやってる取材は、確かに指示された業務の範疇を超えてるけど、かといって犯罪をしてるわけじゃない。しかも、休日の自主的な行動だし、担当の仕事をサボってるわけでもない。なのに、減給とか停職をすっ飛ばして、いきなり懲戒解雇っていうのは変だ。そんな理由で懲戒解雇なんてしたら、むしろ、会社が違法な状態になるんじゃないか?

 「じゃあ、取材続けられるんですか?」

 「取材は中止しよう」

 微笑んだイリカさんが、よどみなく言った。僕の頭は、イリカさんの言葉と表情を同時に処理できなくて混乱してる。太陽と月を同時に見てるような気分。生きてるのに死んでるような気分。懲戒解雇が嘘だから取材するんじゃないの? なんで中止なの? 中止って言ってるのになんでイリカさん笑ってるの?

 「え、なんで、ですか? 懲戒解雇は、嘘なんですよね?」

 「お昼ね、サガミさんの話のあと、メグちゃんにメールしておいた。取材は中止って」

 「大丈夫です、あいつ意外といい奴なんで、取材再開ってメールしておけば何も問題ないです、むしろ――」

 「シロウ君」イリカさんが僕の言葉を遮った。微笑んだままのイリカさん。「私は王都放送にいたいの。お願い、中止して」

 「……言っ、てることが……めちゃくちゃですよ……」

 僕は、それだけ言うのが精一杯だった。イリカさんの顔も見れず、自分のデスクにあるキーボードを見続ける。言いたいことはたくさんあるのに、どの言葉も自分勝手で惨めでろくでもないことばっかりだ。やばい、なんか泣きそうだ。

 沈黙が数十秒間続いてるあいだ、僕は涙が出ないように我慢してた。そのあいだずっとイリカさんに見られてた気がする。きっと、イリカさんは微笑んでたと思う。いつもドキドキしながら眺めてたイリカさんの笑顔なのに、今は見たくない。

 静かなフロアだから、イリカさんが動いてるのが分かった。マウスを操作してる。書類をまとめてる。デスクの下からバッグを取り出して、ごそごそしてる。ノートパソコンを閉じた。立ち上がって、イスを動かして――

 「おつかれさま」

 言葉と同時に足音。躊躇も迷いも感じられない一定のリズムが僕から遠ざかってく。

 イリカさんの背中を見て、全部終わらせよう。我慢してる涙を全部出して、お酒をちょっと飲んで、すぐ寝れば、明日からまた楽しくイリカさんとおしゃべりできる。

 たぶん、それは、きっと、とても、幸せだ。

 

 どうやって帰ったのかあんまり思い出せないけど、気が付いたら家にいた。

 お酒は買ってない。涙も出てない。きっと、こうやって人間は強くなってくんだな。もしかして僕、少しだけハードボイルドになったかも。

 帰ってくるあいだずっと考えてたのは、どうやったらイリカさんに迷惑をかけずに取材できるか、ってことだった。

 もうイリカさんは取材しない。これは確定。だけど僕は取材する。これも確定。僕が取材してるのバレたら、僕だけじゃなくてイリカさんまでクビになる。これは可能性低そうだけど、サガミさんがあそこまで言い切ってるのが怖い。だから、僕が取材しても、イリカさんがクビにならない確率百パーセントの方法を考えなきゃいけない。でも、そんな方法あるのか?

 コンビニ飯を食べながら、シャワーを浴びながら、歯を磨きながら、ずっと考えてたけど、良い方法が何も思い付かない。部屋の電気を消して、布団に入って、スマートフォンで時間を確認したときに思い出した。メグにまったく連絡してない。まずい。メグのことすっかり忘れてた。

 夜中の一時、いつものメグなら間違いなく起きてるけど、最近は昼型生活になってるから、きっと寝てるだろうな。とりあえずメールかな。いや、でも、メグだって今の詳しい状況を知りたいだろうし、怒られるの覚悟で電話しよう。

 部屋の電気をまた点けて、メグに電話。ツーコールくらいでメグが出た。

 「おせーよ」ぶっきらぼうなメグの声。でも、怒ってなさそうだ。

 「ごめん、忘れてた」

 「なんかあったのか?」

 「うん、上司にバレた。上司というか会社というか」

 「取材が? やっぱ中止か?」

 「んー……イリカさんからのメール、なんて書いてあった?」

 「問題が起きたから取材は中止、詳しいことはシロウから、みたいな」

 どうやら、イリカさんのメールには、取材の中止しか書かれてなかったみたい。とりあえず、今日の出来事を一通り話した。

 「確かに、シロウの話聞いてるだけだと、イリカさん変だな」メグが言う。

 「でしょ」

 「ケンカでもしたか?」

 「してないよ」

 「冗談だよ、怒るな」

 「怒ってない」

 「とにかく、イリカさんはもう取材しないってことだな」

 「うん」

 「シロウは? どうすんだ?」

 「取材したいけど、イリカさんに迷惑かけずに取材する方法が思い付かない……」

 僕はまた考え込んだ。メグも黙り込んで、けっこう長い沈黙。

 「……分かった。俺もなんか考えといてやるから、今日はもう寝ろ」

 「うん、ごめん、寝る」



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第三章 組立(4)(5)

 ヨコウラが、窓から外を見ている。空には青しかない。
 視線を下に移動させると、広大な空間がある。ひたすらに平らな地面。周りは高い壁で囲われていて、その壁もひたすらに平ら。広大な空間は立方体の形に切り取られているが、天井は無い。地面も壁も茶色で、空だけが青い。
 ヨコウラから見える壁は三辺。残りの一辺は、ヨコウラの足下にある。ヨコウラは壁の上から広大な空間を見渡している。地面も壁も茶色いので、ダンボールの中を覗いているみたいだな、とヨコウラは感じた。二週間後には、このダンボールの中に数万人が集まる。国王の生誕祭と、難民救済法の公布式に参加するためだ。ヨコウラの正面に見えている壁と地面の接線部分にあるゲートから、数万人がなだれ込んでくる。数万人に踏みつけられる茶色の地面と壁はレンガでてきており、一週間前に修繕作業が完了したようだが、相変わらずの茶色で、違いは何も分からない。税金の無駄遣い、という意見が出てもよさそうだが、そのような意見は聞いたことがないので、目に見えない効果があるのだろう。
 外を見るのをやめて振り返るヨコウラ。ヨコウラがいる部屋の中を清掃業者が掃除している。部屋の出入り口付近には、たくさんの清掃機器が置いてある。この部屋は、生誕祭や公布式などの様子を国の重役たちが眺める部屋になる。部屋の中に置かれている物は、清掃機器を除けば、椅子と机しかない。どの椅子と机も煌びやかに施されている。
 ヨコウラの指が、目の前にある椅子の装飾部分を撫でる。ヨコウラの指の痛覚を刺激するものが無い滑らかな曲線、滑らかな表面。装飾部分に指を押し付けるヨコウラ。装飾部分が指にめり込み、ヨコウラの痛覚を刺激した。自らの意思で痛みを望み、痛みを得ることは、小さいころ時々あったな、とヨコウラは思い出す。例外無く、何かに耐えているときだった。
 「念入りに掃除してくださいね。日本で一番偉い人たちが、この部屋に集まります」
 ヨコウラは清掃業者に言った。突然話しかけられた清掃業者は、少し驚いた顔をしたが、短く返事をしながら頷いた。


 暗い部屋の中、三台の液晶ディスプレイが光っている。ディスプレイの前に置かれた灰皿からは途切れることなく煙が立ち上っている。部屋に充満しているタバコの煙で拡散されたディスプレイの光が、弱々しく部屋の中を照らす。

 マウスに手を置きながらディスプレイを見つめるメグ。ディスプレイ画面には、いくつもの動画が同時に再生されている。メグの視点はひとつの動画に定まっておらず、すべての動画をぼんやりと眺めているが、身体は微動だにしない。灰皿に置かれている吸いかけのタバコの先に付いている灰が自重を支えきれずに崩れ落ちた。

 一週間前にシロウから『イリカさんに迷惑かけずに取材する方法が思い付かない』と言われたメグは、数秒で最適解を導いていた。ただ、それをシロウには伝えなかった。難しい解答ではない。平均的な大人がシロウと同じ状況になれば、誰でも思いつく解答だ。なぜシロウが思いつけないのか、その理由も、メグは把握していた。シロウは自分以外の誰かに労力をかけさせることができない、否、労力をかけさせるという選択肢がそもそもない。優しすぎる、とか、甘い、などの表現とは一線を画す性質だ。自己犠牲、という言葉が近いかもしれない。シロウは、仕事のできる上司にはなれないだろうな、とメグは思う。

 一週間前の電話以降、シロウとまったく連絡をとっていないメグは、一日のほぼ全てをパソコンの前で過ごしていた。目的は、警察と政府のネットワークに侵入し、今回の連続殺人事件について秘匿されている情報を見つけること。警察のネットワークへの侵入は二ヶ月前に成功しているので、同様の方法で、政府のネットワークへ侵入した。公的機関のセキュリティで一番脆い部分は、例外無く人間だ。年配の人間になるほどセキュリティ意識が低く、しかも、様々な権限を与えられた役職に就いている確率が高い。メグにとって、課長クラスの人間は、エレベーターガールのような存在だった。非常用階段を一段一段踏み締めて目的のフロアへ行くことも嫌いではなかったが、今は時間が優先である。遠慮なくエレベータを使い、ネットワークへ侵入した。

侵入したのは、少子対策法を管轄している外務省のネットワークである。外務省のネットワークに侵入したのち、外務大臣の個人パソコンを特定し、そのパソコンに保存されている文書データ、画像データ、動画データをすべて抜き取った。抜き取ったデータのうち、数が少ない動画データを最初にすべて見てしまおうとメグは考えた。

 突然、マウスを握っているメグの手が動き、メグの視点がひとつの動画に固定された。同時に、メグの視点が固定された動画の再生画面が最大化された。画面の中では、全裸の子供が二人立っている。子供たちの様子を見たメグに鳥肌が立つ。

 動画を見ながらメグが最初に考えたことは、外務大臣が職場のパソコンに自分の趣味動画を保存したのではないか、という可能性だった。メグにとって、その可能性が一番望ましかった。その可能性を検証するため、動画データが格納されていたフォルダの中に、他の動画データが格納されていたかどうかを調べたが、他の動画データは格納されていなかった。その代わりに、文書データが一つ格納されていた。その文書データを開き、内容を斜め読みしていくメグ。どうやら、この動画に関する調査が行われ、その報告書のようなものらしい。報告書の内容は、メグにとって一番望ましくないものだった。報告書には『国王直轄特別部隊 第四係』と、報告者の所属機関名のようなものも書かれている。メグは一度も聞いたことがない名称だったが、字面だけでも、メグにとって一番望ましくない可能性を裏付けるには充分だった。

 机の上にあるスマートフォンをとり、シロウへ電話するメグ。現在は夜中の二時だが、メグの動作に迷いはなかった。

 コール音がしばらく続き、留守番電話が応答する。すぐに電話をかけ直す。

 「もしもし」シロウの低い声が聞こえる。

 「悪いのは、重々承知してる。今すぐ、うちに来い」メグがゆっくりと言った。

 「ん……え?」

 「今すぐ、俺のアパートに来てくれ」

 「えっと……なんで?」

 「イリカさんの考えが、分かったかもしれない」

 「……電話じゃ、無理?」

 「無理というか、見てもらいたいものがある」

 「……んー……じゃあ……タクシーか」

 「ああ。待ってる」

 言い終えた瞬間、耳からスマートフォンを離すメグ。通話終了の赤いボタンを見るまでの間に、メグは考える。シロウは次に不満を言う。シロウの不満を聞いている時間はない。少しでも早くここへ来てもらい、次の行動を決めたほうが良い。シロウが来るのはおよそ四十五分後。その間に、他のデータをなるべく多く調べよう。

 メグは、赤く光るボタンの上に親指を乗せた。

 轟音、振動。

 爆発? 雷? 飛行機の墜落? 隕石の落下?

 突然の状況に混乱するメグ。メグの脳は、音と揺れの原因を無秩序に推測した。推測した原因の可能性を検証するまでもなく、メグは音と揺れの原因を把握した。なぜなら、再び轟音と振動が発生し、玄関のドアが狂ったように開き、そこに誰か立っているのを見たからだ。

 玄関に立っていた人間は、そのままメグへ走り寄る。メグの眼前に迫り、顔が認識できる距離になったが、メグにはまったく見覚えがない男の顔だった。男の目は見開かれ、白目の部分が際立っている。

 メグは恐怖と混乱で身動きがとれない。悲鳴を上げながら、走り寄ってくる男の右手が突き出す何かを反射的に防ぐのが精一杯だった。

 メグは左胸に衝撃を感じ、そのまま仰向けに倒れた。

 倒れたメグの足元に立つ男の右手には包丁が握られている。男の呼吸は荒く、倒れているメグを見ながら「ひとさし、ひとさし」と呟いた。メグの表情は苦痛で歪み、左胸を手で押さえながらうめき声を上げている。男はメグを数秒見ると、すぐに視線を移動させて、「パソコン、パソコン」と呟きながら、ディスプレイが乗っている机の周囲を調べ始めた。

 数分前に外務大臣のパソコンに保存されていた子供の動画を見ていたメグは、左胸の激しい痛みで脂汗を流しながらも安堵した。これ以上襲われることはない、と感じたからだ。ただ、その安堵感はすぐに消えた。シロウが来てしまう。シロウにも危険が及ぶかもしれない。

 メグが男の様子を見ると、男は机の下に潜っていた。パソコン本体に繋がっている全てのケーブルを引き抜いている。机の上のディスプレイ画面が黒くなり、入力信号が無くなった旨を伝えるメッセージが画面に表示されると、部屋の中が一気に暗くなる。男は、机の下からパソコン本体を引きずり出すと、「スマホ、スマホ」と呟きながら、ポケットからスマートフォン取り出して、スマートフォンのライトを点けた。男はライトで部屋の中を照らしながら何かを探しているようだが、目当てのものが見つからないのか、唸り声を出しながら、机やベッドの上の物を片端から掴んでいる。男の唸り声は徐々に大きくなり、行動も荒々しくなる。

 「くそが!」

 男は叫び、スマートフォンのライトでメグの顔を照らした。

 「スマホどこだよ!」

 苦悶の表情で脂汗を流しているメグの両頬を鷲掴み、男はメグの顔を揺さぶる。メグは、てめぇが今持ってるだろ、と皮肉を言いたかったが、うめき声しか出なかった。男の質問に答えようにも、自分のスマートフォンが今どこにあるのか、メグにも分からない。シロウへ電話したあと、男に襲われている間に落としたか、シロウ、今電話すんじゃねーぞ、と心の中で祈る。痛みが酷くなり、血の匂いも感じるようになったメグは、自分の死を意識しながら、シロウが安全になる方法を懸命に考えた。しかし、何も思い付かない。何もできない。時々現れるのは反省と謝罪ばかり。活かせない反省。伝えられない謝罪。メグの目から涙が溢れる。

 「んだよ、命ゴイかぁ?」

 苛立ちで歪んでいた男の表情が一変し、おぞましく柔和になった。

 「……ちょっとぐらい楽しんだっていいよなぁ?」

 男は、メグの頬から手を離し、ジャージのウェスト部分に指を引っ掛ける。

 「うるせーんだよ!」

 突然の怒声に反応して、男は玄関方向を見た。誰かが玄関の外に立っている。

 男は慌てて立ち上がり、パソコン本体を抱えると、玄関の外に立っている人間を突き飛ばしながら走り去っていった。突き飛ばされた人間は、走り去っていく男に対して「てめぇ殺すぞ」と叫んだが、追いかけることはなく、メグの部屋の中を覗いていた。そして、ゆっくりメグの部屋に入り、電気を点けると、声とも息ともつかない音を吐き出したあと、メグに駆け寄り、声を掛けた。

 メグは、男がいなくなったことは分かったが、痛みと失血で意識が混濁し始めていた。

 シロウは大丈夫だろうか。ここへ来ても大丈夫だろうか。自分のように殺されたりしないだろうか。シロウは関係ない。シロウは関係ないんだ。俺の行動で、俺の大切な人が不幸になるのはもう嫌だ。なのになぜ行動した。行動しなければお母さんも悲しまなかった。シロウも殺されなかった。

 

 「なぜ行動したの?」

 

 ……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……



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第三章 組立(6)

 部屋に入ると、微かにタバコの匂いがした。

 玄関のドアは、事件発生時からずっと開いているようなので、一時間近く外気を入れていることになる。それにも関わらず、タバコの匂いが残っているということは、この部屋の住人は愛煙家なのだろう。警視庁に入庁した頃、警視庁のどの部屋も、こんな匂いがした。

 救急車で搬送された女性は、この部屋で倒れていたらしいが、もしも、この部屋の住人がその女性だとすれば、あまり女性らしくない生活をしていたようだ。タバコの匂いだけでなく、部屋の中のシンプルさも、女性らしくない生活を想像させる。

 シンプルな部屋なので、調べる箇所は少なそうだ。鑑識が到着するまでの間に、自分が調べたい箇所を調べ終えてしまうだろう。

 地面に財布が落ちている。財布の中身を調べると、お札は一枚も無い。運転免許証はあった。運転免許証には、町田恵、と記載されている。運転免許証の写真は女性のように見えるが、この部屋で倒れていた女性かどうかは分からない。玄関前で見張りをしている警察官に運転免許証を見せると、「はい、この人です」という返事があった。この警察官は、現場に最初に到着した警察官だ。救急車よりも早く到着したらしい。

 「倒れていた人の様子は?」私が質問した。

 「話しかけてみたのですが、うめき声のような返事をするのがやっと、という感じでした」

 「どんなケガだった?」

 「たぶん、左胸に一箇所だけだと思います。私が来たときには、下の階の方が止血していたので、実際に傷口を見てはいませんが……」

 左胸に一箇所と聞いて、嫌な予感が脳を支配する。

 あの犯人が、こんな見窄らしいアパートを標的にするはずがない、ただの偶然か、模倣犯だろう。そこまで一気に考えたが、嫌な予感はまったく薄まらない。外で光っているパトカーの赤い光のように、その存在を主張している。パトカーの光を見つめていると思考が停止してしまう気がしたので、部屋の中に戻り、調査を続けた。

 部屋の中で気になる箇所は、玄関のドアと、机の周辺くらいしかない。

 玄関のドアは、中央部分がやや凹み、蝶番が緩んでいる。また、ドアノブの動きに連動する爪の部分が拉げ、削れている。おそらく、体当たりで、力任せに、ドアを無理矢理開けたのだろう。

 机の上にはディスプレイが三台乗っていて、電源は入っているが、いずれも黒い画面のままだ。パソコン本体が置かれていたと思われる机の下には、ケーブルが散らばっている。この部屋の中で一番高価な物を盗んでいったと言われれば、それで納得してしまうくらい、この部屋の中はシンプルだ。

 机とパイプベッドの間には、赤い染みがある。

 これで、今の自分が調べられるところは調べ終わってしまった。鑑識はまだ到着しない。アパート付近の道路は車一台が通れるくらいの幅しかなく、マスコミ車両や野次馬に行く手を遮られて、到着が遅くなっているのかもしれない。

 止血していたという下の階の住人に話を聞きに行こうか、と考えていると、部屋の隅からメロディが流れてきた。メロディと同時に、振動音も聞こえてくる。着信音だろうか。音は、パイプベッドと壁の隙間から聞こえてくる。パイプベッドの下には収納ボックスがあるが、ベッドから独立しているため、簡単にパイプベッドを動かすことができた。パイプベッドを少しだけ動かし、壁との隙間を作り、腕を突っ込み、音の正体を拾い上げる。スマートフォンだった。

 スマートフォンの着信画面を見ると、少し驚いた。月本志朗と表示されている。同姓同名だろうか。とりあえず、電話に出ることにした。

 「もしもし」私が言うと、相手は数秒沈黙した。

 「……マチダの携帯電話でしょうか?」相手が言った。

 「はい、たぶんそうだと思います。ツクモトさんですか?」

 「はい、そうです。あなたは誰ですか?」

 「申し遅れました。申し訳ありません。私はリュウガイです。お久しぶりです」

 「え……リュウガイさん、ですか……?」

 「はい、リュウガイアキヒロです」

 「どうしてリュウガイさんが……?」

 今の状況をどこまで話すべきか迷った。ツクモトさんは恩人だが、王都放送の職員でもある。犯人である可能性もある。今の状況を伝えたいが、重要な情報の流出は絶対に避けたい。

 「……ツクモトさんは、恩人なので、少し無理して話します。まず始めにお伝えしなければならないのは、私は警察官だということです。なので、今から私が話すことは、どうか、口外しないで下さい。よろしくお願いします」

 数秒待ったが、ツクモトさんの反応は無かった。話を続ける。

 「マチダさんと思われる方は、何者かに襲われ、病院へ搬送されました」

 「襲われたって、ケガをしたんですか?」ツクモトさんの声が大きくなった。

 「はい」

 「大丈夫なんですか?」

 「私が現場に来た時にはすでに搬送されていましたので、ケガの詳細をお伝えすることが難しい状況です」

 「そんなに酷いんですか?」

 「すみません……本当に分からないのです……申し訳ありません」

 「……どこの病院に運ばれたのでしょうか?」

 「……青柳病院です」

 「ありがとうございます。無理を言って申し訳ありませんでした。今からその病院へ行きたいと思います。あの、マチダの家族には、もう連絡しましたか?」

 「いえ、これからです」

 「実は、マチダには母親くらいしか家族がいなくて、その母親も、普段ほとんど家にいなくて、連絡がとりづらいので、繰り返し電話をかけてあげてください。僕からも電話してみます。よろしくお願いします」

 「ありかとうございます。そうしてみます。ただ、ツクモトさんからのご連絡は、どうか、ご遠慮ください」

 「分かりました。すみません。それでは失礼します」

 言い終えるとすぐに、ツクモトさんは電話を切った。一刻も早く青柳病院へ行きたいのだろう。ただ、青柳病院には、すでに警察官が配備されている。おそらくツクモトさんは被害者に会えないだろう。そのことを伝えようかとも考えたが、今のツクモトさんには不要な情報だと勝手に判断した。私が何を言っても、ツクモトさんは青柳病院へ向かったはずだ。

 通話状態が終了したスマートフォンを眺める。まずは、ツクモトさんが話していた被害者の母親に電話をしようと考えていたが、スマートフォンの画面に表示されていた『バックアップ完了』の文字が少し気になり、その文字をタップする。表示されたデータを見たあと、すぐに電話をした。



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第三章 組立(7)

 「お客さん、こりゃだめだね、入れないよ、何かあったのかねぇ」

 これまで全然喋らなかったタクシーの運転手さんが一気に話した。おぉ、こんなに喋る人だったのか、と思ったけど、目的地に着けない言い訳を僕に伝えたかっただけかな。

 夜中にメグの電話で起きてから、寝ぼけた頭でタクシーを呼んで、メグのオンボロアパートの近くまで来たんだけど、メグのオンボロアパートへ向かう道路の入り口付近に、たくさんの人や車が集まってる。テレビ局の車もある。何か起きてるのは間違いないなさそうだけど、その原因がメグなわけないよな。そう思いながらも、嫌な予感がむくむくと大きくなってなってく。早く、この感じを消したい。

 「じゃあ、ここでいいです、降ろしてください」

 タクシーの運転手さんに伝えて、料金を精算し、タクシーから降りて、人や車が集まってる場所を通ってメグのアパートへ向かう。メグのアパートに近付くほど、人が多くなってく。報道関係の人も多くなってく。

 メグのアパート前に通じてる道路の前まで来ると、赤色灯をクルクル回してるパトカーが道を封鎖してる。真っ黒になった僕の嫌な予感が、僕の手を操って、メグへ電話をかけさせた。

 コール音が続いてる。どうして電話に出ないんだろう。トイレとかに行ってるのかも。いいよ、いつまでも待つから、電話に出てよ。

 コール音が止まった。なぜか男の声。頭が混乱。

 「……マチダの携帯電話でしょうか?」言葉を絞り出す。

 電話の相手はリュウガイと名乗った。リュウガイって……えっと……女の子のお兄さんだっけ。

 「どうしてリュウガイさんが……?」

 リュウガイさんは、自分は警察官だと言った。くらくらして、何も考えられない。

 「マチダさんと思われる方は、何者かに襲われ、病院へ搬送されました」

 最悪の言葉が聞こえた。

 「襲われたって、ケガをしたんですか?」

 「はい」

 「大丈夫なんですか?」

 「私が現場に来た時にはすでに搬送されていましたので、ケガの詳細をお伝えすることが難しい状況です」

 「そんなに酷いんですか?」

 「すみません……本当に分からないのです……申し訳ありません」

 リュウガイさんの誠意の籠った声を聞いて、少しだけ冷静になった。今の僕がしなきゃいけないことは、リュウガイさんを困らせることじゃない。早くメグのとこへ行かなきゃいけない。

 メグが搬送された病院の名前をリュウガイさんに訊いてる途中で、メグのお母さんのことを思い出した。メグの家族はお母さんしかいないけど、たぶんメグのスマートフォンには、お母さんの携帯電話の番号が登録されてない。固定電話はあったと思うけど、メグのお母さんが家にいるのを見たことは、ほとんどない。そんなことを一気に思い出した。リュウガイさんに、その情報を伝えて、電話を切る。

 電話を切ったあとは、ひたすら走った。タクシーを降りた場所まで戻ったけど、タクシーは一台も見当たらない。スマートフォンでタクシー会社を検索して電話しようかと思ったけど、タクシーを待ってる時間が惜しいから、大通りに向かって走った。五分間全力で走り続けて、大通りに出て、ようやくタクシーを見つけた。

 「アオヤギ、病院、お願い、します」

 息を切らせながらタクシーの後部座席に座り、大きな声で目的地を言った僕を見て、タクシーの運転手さんの表情が強ばる。目的地が病院だからか、運転手さんが「大丈夫ですか?」と僕に訊く。僕は、知り合いが救急車で運ばれたから急いでほしい、とだけ応えた。

アオヤギ病院に向かってる間、タクシーの中で呼吸が落ち着けば落ち着くほど、頭の中がどんどん荒れてく。頭の中だけ台風に遭ってるみたい。いろんな考えがそこら中を飛び回って、いろんな場所にぶつかって壊れてく。壊れたものも、そこら中を飛び回って、他のものを壊してく。壊れて砕けた思考と感情の破片が、僕の体中にぶつかってくる。僕は頭を抱えて踞り、身を守ろうとするけど、いろんな方向から吹き付けてくる風の唸り声に責立てられながら、背中や腕や足や顔にぶつかってくる破片でボロボロになった。どうすればいいんだろう。何を考えればいいんだろう。

 アオヤギ病院の正門前には、夜中とは思えない人数が集まってた。たぶん全員、報道関係者だ。病院の敷地内には入れそうにない。

 「ここで降ろしてください」とタクシーの運転手さんに伝えて、料金を精算した。運転手さんは何か言いたそうに僕の方を何度か見たけど、最後まで何も言わなかった。

 タクシーを降りて、人集りのほうへ歩いてく。照明が何機もある。カメラが何台もある。マイクが何本もある。いろんな声が聞こえてくる。

 「今日未明、女性が刺されていると通報がありました」

 「刺されていた女性は病院に搬送されましたが、間もなく死亡が確認されました」

 「警察では、女性が何者かに刺されたとみて、殺人事件として捜査しています」

 「現場の状況から、現在、都内各所で起きている連続殺人事件との関連性も疑われます」



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第四章 狙撃(1)

 「ご覧ください! 昨日までの嵐が嘘のように、青い空が澄み渡っています! 会場へ向かう方々の表情も非常に晴れやかです。皆さん、本当に、今日を楽しみにしていらっしゃたのですね」

 テレビ画面に映っているレポーターが、大袈裟な表情と、大袈裟な身振りで叫んでいる。

 警視庁内の一室でテレビ画面を見つめている柳外明広の目は充血し、眼の下の隈も濃い。国王生誕祭である今日は祝日で、さらに早朝ということもあり、警視庁内にいる人は疎らである。

 町田恵が襲われた事件から一週間が経った。事件の発生状況から、これまでに起きた連続刺殺事件と同一犯の可能性が高いとして捜査されているが、進展は無い。しかし、柳外は違った。町田の部屋で拾ったスマートフォンの画面に表示されていた『バックアップ完了』の文字をタップしてから一週間、柳外は殆ど寝ずに捜査を進めている。柳外は、ある糸口を握っていた。この糸を丁寧に手繰り寄せていけば、事件の核心に近付ける、そんな予感を強烈に抱かせる糸口だった。

 一週間前、柳外が『バックアップ完了』の文字をタップすると、動画データとテキストデータが一つずつ表示された。動画データをタップすると、全裸の子供二人の映像が再生された。二人の子供のうち、一人は犯人の面影がある。映像がフィクションの類ではないことは明らかであり、また、この動画の所持が違法であることも一目瞭然だった。動画の再生時間の表示が四十分を超えていたため、柳外はシークバーを操作しながら、大まかに動画内容を把握した。

 動画を見終えたあと、続けてテキストデータをタップした柳外の目に飛び込んできた文字は『国王直轄特別部隊』だった。文字の意味を認識した瞬間、柳外の鼓動は早まり、一気に文章を読み終える。テキストデータの内容を把握した柳外の脳は麻痺した。考えなければならないことが多すぎるからだ。テキストデータの内容は、動画データの検証に関する報告書のようだ――報告書は国直から外務大臣に送られている――国直の報告書なんて見たことがない、存在すら知らない――何故こんなところに国直の報告書があるのか――町田恵は何者か――。柳外の思考は発散するばかりで、まったく収束しなかった。

 柳外は、この報告書は本物であると判断した。なぜなら、動画に映っている子供二人が少子対策法の養子であること、この子供二人は十年前の十二月二十四日から消息不明であること、養父が殺害されていることが、報告書に記載されていたからだ。この一連の情報を知っているのは、柳外と犯人を除けば、政府関係者だけだと柳外は考えている。柳外は、この報告書を読むまで、犯人の言葉の真偽を計り兼ねていたが、今は、犯人の言葉が真実であると判断していた。

 犯人の言葉と報告書の内容が真実ならば、政府は意図的に情報を隠蔽していることになる。隠蔽した理由は不明だが、全裸の子供の映像や、十年前の事件を考慮すると、生易しい理由ではないだろう。犯人に殴られたあと、病院で、涙を流した横浦に犯人の言葉を伝えていたら、今の自分はどうなっていただろうか、と想像して、柳外は恐ろしくなった。

 国王生誕祭の会場の様子を映しているテレビ画面からは、相変わらず、レポーターの叫び声が聞こえている。テレビ画面から目を離す柳外。充血した目を閉じ、両手の平で顔全体を擦る。柳外は、誰を信用して良いか分からず、この一週間、単独で捜査を進めてきた。連続刺殺事件に加えて、政府の情報隠蔽についても調べ、且つ、横浦に気付かれないように最大限の注意が必要だった。体力、気力、共に柳外の限界は近かった。

 ズボンのポケットから、町田のスマートフォンを取り出す柳外。

 一週間前にバックアップデータを確認した直後、柳外は、町田のスマートフォンのICチップを抜き、現場でのスマートフォンの取得を秘密にした。柳外と月本志朗の電話がインターネットを介した通話であったため、秘密にすることが可能だった。また、柳外は、町田のスマートフォンを調べて、町田の素性についても調べた。しかし、スマートフォンからの情報は乏しく、警視庁の正規の担当者から齎される情報のほうが、量も質も上回っていた。ただし、一点だけ、柳外は町田のスマートフォンから、気になるメールを見つけていた。そのメールは、高宮から送られたメールで、調査を今すぐ中止しろ、という内容だった。高宮からのメールは一通のみで、着信履歴なども一切無い。そもそも、町田のスマートフォンに保存されているメールや着信履歴には、月本の名前しか見当たらない。月本の名前を除けば、一般企業からの通知メールが定期的にあるだけだった。

 月本であれば高宮のことを知っているかもしれない、と柳外は考えていたが、月本が犯人である可能性が捨て切れなかったため、高宮のことを訊けずにいた。もちろん、これは柳外の杞憂であるが、この杞憂が無ければ、この事件の結末は大きく変わっていただろう。実は、この時の柳外は、事件の核心に迫れるものを既に保有していた。

 柳外は、手に持っている町田のスマートフォンを数秒眺めた。柳外の目に生気は無い。しばらくしてから、取り出したかったのは自分のスマートフォンだったことを思い出す。疲れを自覚しつつ、柳外は自分のスマートフォンを取り出した。

 柳外のスマートフォンにメールが一件届いていた。メールの発信者は柳外サアラ。受信時間は三十分ほど前、朝六時である。相変わらず朝早くから夜遅くまで一日中勉強しているのだろう、と考えながら、柳外は自分の小さい頃を思い出していた。思い出すのは、使い込まれたシャープペンシルと、真新しいノート。シャープペンシルは、小学校に入学する際、父親に買ってもらったあと、高校を卒業するまで使い続け、グリップ部分が白から黄色へ変色していた。ノートは、最後のページを使ってしまうと、新しいものを買わなければならない。ノートは絶えず新しくなるのに、シャープペンシルはどんどん古くなっていく。まるで自分を見ているようだった。大人になる体と、子供のままの心。父親に買ってもらったシャープペンシルを使い続けたのは、父親の期待に応えたい子供の心が化石のように固まっていたからだった。

 柳外の父親は、柳外の母親が癌で亡くなったあと、柳外の教育に多額の資金を投入した。その資金の投入額に比例して、病院の理事長である父親の仕事量は極端に増加した。再婚することもなく、一日中働く父親の姿は、柳外に異常な畏怖を植え付け、父親の期待に応えるための行動を常に柳外に取らせた。柳外を縛り付けていた畏怖の鎖は、柳外が医学生の頃に徐々に解けた。柳外が一人暮らしを始めて、様々な価値観を吸収した結果だった。医師免許を取得した柳外が選んだ就職先は、警視庁の刑事だった。このことに激昂した父親は、以降、柳外を拒絶するようになる。程なくして、父親は少子対策法を利用し、サアラを養子にした。

 取り留めなく昔を思い出しながら、柳外がサアラからのメールを開くと、わん太郎の写真を送るのを忘れていたので送ります、という文章のあとに、月本のメール文と画像データが転送されていた。

 

 柳外サアラさま

 きのうのよるは、たいへんだったね。あんまり、むりをしないようにね。

 それでは、わんたろうのしゃしんをおくります。

 いちまいめのしゃしんには、いま、わんたろうといっしょにくらしている人たちも、うつっています。

 ふたりのなまえは、いずみ きよみ さん、いずみ きよな さん、です。ふたりは姉妹です。とてもやさしい人たちです。わんたろうも、とてもよろこんでいました。

 にまいめのしゃしんには、ぼくと、きのうのおねえさんがうつっています。

 きのうのおねえさんのなまえは、たかみや さんです。たかみやさんと、いずみさんは、ともだちです。

 わんたろうが くらしているのは、やまなしけんです。やまなしけんは、とてもとおいですが、いつか、わんたろうのところへ、あそびにいきましょう。ぼくも、とてもたのしみです。

 それまで、サアラちゃんも、べんきょうをがんばってください。

 またメールします。

 つくもと しろう

 

 サアラからのメールを読んだあとの柳外の感情は、とても複雑だった。サアラを助けてくれた月本への感謝、町田を失った月本への同情、高宮の情報を見つけた喜び、犯人が月本と高宮かもしれないという疑い、疑っている自分への嫌悪。様々な感情を遠くで眺めながら、柳外は、新しい情報を処理し、自分がしなければならないことに優先順位を付ける。

 サアラのメールに添付されていた写真データの二枚目をタップすると、月本と高宮、わん太郎が現れた。柳外は、二人の顔を初めて見る。初めて見るはずだが、高宮の顔を見た柳外は、どこかで会ったような感覚に襲われる。仕事で会ったことがあるだろうか、と暫く考えたが、結論は出なかった。

 高宮と町田が何を調べようとしていたのか知るためには、月本に訊くのが最善であると柳外は確信していた。町田のスマートフォンに高宮からのメールが残っていることを月本に伝えれば、たとえ月本が犯人であったとしても、高宮に関する最低限の情報を得ることができるだろう。月本と柳外は、町田のスマートフォンを通して話しているので、警察から月本に連絡が入らない方が不自然になってしまう。

 柳外は、月本に連絡することを決めた。現在の時刻は午前7時前。数時間後に月本へ電話することにした。柳外のスマートフォンの画面で、月本が笑っている。また同じように笑ってほしい、と、柳外は願った。

 柳外の親指がスマートフォンの画面の中から月本と高宮を消し、もう一枚の写真データをタップする。表示された写真の中で、わん太郎の両脇に二人の人間が立っている。わん太郎の右側に立って微笑んでいる人間の顔を、柳外は知っていた。眼鏡をかけていても、髪が長くても、見間違えることはない、柳外の脳に焼き付いている顔だった。その顔の人間に柳外は殴られ、血を流し、賞賛を受けた。

 犯人の顔がスマートフォンの画面の中で笑っている。

 あまりにも突然の情報に、柳外の思考は完全に停止した。

 しばらくすると、スマートフォンの画面がスリープして、柳外は我に返る。柳外は、自分の直感が既に画面の女性を犯人にしていることに驚き、慌ててその直感を否定しなければならなくなった。この女性が犯人である確率は極めて低い。犯人に似ている人間は何人でもいる。柳外は当たり前の言葉を反芻して飲み込もうとするが、言葉は全く消化されずに脳の中をゴロゴロ転がり続ける。気が付くと、八時になっていた。一時間何もせずに、女性の笑顔を見ていた。

 柳外の人差し指が、その女性の笑顔を消す。

 柳外は、デスクの上に積まれた書類の山をそのままにして、部屋を出る。脳は震えていない。

 正解かも、と柳外は呟いた。

 

 柳外は警察車両の鍵を無断で拝借し、車に乗り込む。エンジンを始動させながら、月本の勤務先に電話をかけて、月本が在席しているか尋ねると、在席していないと返答される。出勤の予定はあるか、と、さらに尋ねると、いつ出勤するか分からないと返答される。月本が一週間前から仕事を休んでいる状況を予想していた柳外は、丁寧に礼を言って通話を終了した。

 柳外はポケットから町田のスマートフォンを取り出し、アドレス帳を表示させて、月本の名前を検索した。月本志朗の電話番号、メールアドレス、誕生日、住所が登録されている。住所は二箇所登録されていて、一箇所は宮城県の住所、もう一箇所は都内のアパートの住所である。宮城県の住所は月本の実家だろうか、そういえば、町田の本籍地が宮城県だったな、と柳外は思い出し、月本と町田の関係性を推し量った。

 柳外は自分のスマートフォンのナビに、月本が現在住んでいるであろう都内のアパートの住所を入力して、車を発進させた。国王生誕祭の今日は、サービス業を除いた殆どの業種が休日であるため、平日と比べて、都内の交通量が激減する。柳外は渋滞が発生していない都内の道路を進み、三十分ほどで月本のアパート前に到着した。路上駐車して車を降り、月本の部屋の前に立ち、インターフォンを押す。応答が無いので、十秒ほどのインターバルで、インターフォンをさらに三回押すが、やはり応答は無い。柳外はポケットからスマートフォンを取り出し、月本の携帯電話を呼び出す。しばらくコール音が鳴ったあと、留守番電話になった。スマートフォンの通話を切り、柳外は目の前のドアを叩く。

 「月本さん、柳外です」大声で呼びかけたあと、柳外は耳を澄ませるが、部屋の中から物音は聞こえない。もう一度ドアを叩いて呼びかける。「月本さん、とても大事な話です、出て来てください」しばらく待ったが、月本は出て来なかった。

 月本の会社の社員は、月本が『いつ出勤するか分からない』と返答していた。つまり、少なくとも今日までは、月本か月本の身内が、月本の休暇の連絡を会社に入れているので、月本が自殺している可能性は低いと柳外は判断している。このアパートに月本が居ないのであれば、町田のスマートフォンに登録されている情報が誤っているか、もしくは、月本の実家があると推測される宮城県に月本は帰っているかもしれない。月本と電話連絡がつかなければ、宮城県へ行くしかないな、と柳外は溜息をつく。後ろ髪を引かれた柳外の左手が月本の携帯電話をコールし、右手が目の前のインターフォンを押す。

 「はい」

 突然の声が、スマートフォンから聞こえたのか、インターフォンから聞こえたのか分からなかった柳外は、スマートフォンを耳に当てたまま、インターフォンに話しかける。

 「朝早く申し訳ありません、月本さんでしょうか?」左耳ではコール音が続いていたため、柳外はスマートフォンの通話を終了する。

 「はい」風が吹くような微かな音がインターフォンから聞こえた。柳外はインターフォンに耳を近づける。

 「ご迷惑であることは重々承知の上、このような非常識な行動をとっています。誠に申し訳ありません。町田さんの事件について、早急に伺わなければならないことがあります」

 「高宮のことですか?」

 「はい」

 「高宮は王都放送に勤めている僕の先輩です。高宮と僕と町田の三人で、連続刺殺事件について調べていました。だけど職場にそれがバレてしまい、調査を終了しようと町田にメールを送ったのが高宮です。そこで調査を終了させておけば良かったのに、僕は、僕の我儘で、調査を続行したいと町田に相談しました。あのとき僕が調査を終わらせておけばメグは死なずにす……」

 抑揚の無い一定のリズムで吐き出されていた月本の声が途切れる。柳外は黙って月本の言葉の続きを待ったが、月本の声が聞こえてくることはなかった。インターフォンの向こう側の状況を想像しながら、柳外はゆっくりと話し始める。

 「大変な状況の中、お話を聞かせていただいて、本当に有難うございます。実は、もうひとつだけ、訊かせてもらいたいことがあります」月本の反応が無いため、話を続ける。「私の妹、サアラに送ってもらった写真、わん太郎が写っている写真です、その写真に写っていたイズミさんについて、お訊きしたいと思っています」やはり、月本の反応は無い。「イズミさんたちが居る場所を、教えて欲しいのです」

 月本の返答は一切無い。インターフォンから、嗚咽の音が響いている。

 柳外は、インターフォンに顔を近づけて、ゆっくりと、明瞭な発音で、言葉を発する。

 「月本さん、町田さんは、生きています」

 この事実を伝えることが、柳外にとって非常に危険であることは、当然、柳外は分かっていた。柳外だけでなく、町田の生存を隠してくれている人たちも危険である。もちろん、町田自身も危険である。それら多くの危険性を考慮しても、今の月本からイズミ姉妹の情報を得る手段が他に無い柳外は、町田の生存を月本に伝えるしかなかった。

 「町田さんは、生きています」柳外は、大きな声で、もう一度言った。

 「何を、言って……」月本の言葉は途中で途切れた。

 「町田さんが、これ以上危険な目に遭わないために、警察が情報操作をしました。町田さんは生きています」柳外は、一部嘘を混ぜながら、月本に伝えた。

 インターフォンから、月本の言葉にならない声が聞こえてくる。泣きながら、良かった、本当に良かった、と繰り返し言っているようだ。やがて、月本の声が聞こえなくなると、数秒後にドアの鍵が開く音が聞こえ、柳外の目の前のドアが開いた。玄関に立っている月本の目は涙で濡れて充血し、顔は窶れ、隈が濃く、毛髪は整えられていない上に、多くの皮脂が表面に付着しているようだった。もしかしたら今の自分も同じような状態になっているかもしれないな、と柳外は思う。

 「すいません、こんな格好で」月本が言った。

 「いえ、謝なければならないのは私の方です。月本さんが辛いお気持ちになると分かっていながら、町田さんが生きていることを黙っていました。申し訳ありません」

 「町田は、どこにいるんですか?」

 「それだけはお伝えできません。今、町田さんのことを守ってくれている人たちを危険に晒すことになりかねませんし、何より、町田さん自身が、再び危険な目に遭ってしまうかもしれません」柳外が一気に話すと、月本は悲しそうな顔をして、口を真一文字に結ぶ。「……町田さんの安全は私たちが全力で守ります。ご心配の必要はありません。どうか、町田さんのことは誰にも言わないでください」

 柳外の言葉を聞き、月本は深く一回頷く。月本の目から涙が零れる。月本は慌てて涙を拭って、柳外に話しかける。

 「すいません、話、途中でしたね。わん太郎、でしたっけ?」

 「あ……と、はい、そうです、わん太郎の世話をしてくれているイズミさんに会いに行きたいと思っておりまして、イズミさんのご住所をご存知でしょうか?」

 柳外の質問の意図を月本が勘違いしていることに気付き、柳外は月本に話を合わせた。イズミ姉妹が町田を襲った可能性があると考えている柳外は、自身の真意を月本に知られるわけにはいかなかった。

 「イズミさんたちの住所、ですか……僕は、分からないですが……」月本が俯きながら答える。

 「高宮さんはご存知ですか?」

 「……はい。ただ、ちょっと今は仕事が忙しいと思うので……」

 「そうですか……。王都放送に行けば会えるでしょうか?」

 「いや……大丈夫です、僕が連絡してみます。明日でも大丈夫ですか?」

 「実は、今日、これから山梨県に行く予定がありまして」柳外は二度目の嘘を吐いた。サアラの恩人に嘘を吐く度に、自分を殴りたくなる。「できればすぐに知りたいと思っています。突然押しかけた上、無理を言って申し訳ありません」

 「いえ……それでは……ちょっと待っててもらえますか、スマホ持ってきます」

 月本が部屋に戻り、玄関ドアが閉まる。再び玄関が開くと、月本はデジタルカメラを持っていた。

 「あの、そういえば僕のデジカメ、GPS機能が付いていて、もしかしたら、こっちのほうが詳しい場所が分かるんじゃないかと思って」月本は言いながら、手元でデジタルカメラを操作する。「……緯度と経度、分かりました。あとは、これを地図アプリに入れれば、大丈夫だと思います」

 月本がデジタルカメラの液晶画面を柳外に見せる。画面には『緯度』『経度』という表示欄に、数字と記号とアルファベットが羅列されている。柳外は、自分のスマートフォンを取り出して地図アプリを起動させると、デジタルカメラに表示されている羅列をそのまま検索窓に入力した。検索結果がポイントとして表示される。ポイントの付近には細い道路が表示されているが、建物の表示は一切無い。柳外が地図表示を航空写真に切り替えてピンチアウトすると、山梨県の山中にポイントされていることが分かった。ポイントの比較的近い場所に、高速道路のインターチェンジがある。

 「この辺りですか?」柳外がスマートフォンの画面を月本に見せながら言った。

 「僕も詳しい場所は分からないのですが……」月本は柳外のスマートフォンの画面を暫く眺めると、失礼しますと言って、柳外のスマートフォンを操作する。「そうですね、この高速を通って行ったのは確実で……降りたインターチェンジの名前も、こんな感じだった気がします。インターチェンジを降りたあとの移動時間もこれくらいだったので、多分、この辺りだと思います」

 月本の言葉を聞いた柳外は安心した。イズミ姉妹の居場所の目処が付いたこともそうだが、イズミ姉妹の友人である高宮に現在の状況を知られずに、イズミ姉妹の情報を取得できたことは幸運だと柳外は感じた。高宮がイズミ姉妹に連絡して、警察官である柳外の情報を伝えてしまう可能性があるからだ。

 「ありがとうございました」柳外が言う。「今日、これから、イズミさんのご自宅へ伺って、お会いしたいと思います。どうでしょうか、イズミさんたちは、日中もご自宅にいらっしゃいますかね?」

 「おそらく、いらっしゃると思います。お二人は児童養護施設の経営者で、その児童養護施設に暮らしているはずです。実は、写真を撮ったのが児童養護施設の前で、夜遅くに伺ったんですが、お二人ともいらっしゃったので」

 「児童養護施設の、経営者、なんですね」

 柳外の頭の中で、十年前に起きた事件がフラッシュバックする。十年前の事件の犯人は、児童養護施設の経営者であると報告書に載っていた。何の根拠にもならない付合だが、柳外の鼓動は高まり、無意識のうちに、月本に別れを告げていた。月本は笑顔で柳外に応える。月本の笑顔を見た柳外は素直に嬉しくなると同時に、微かな不安を感じる。爪の先に挟まった黒い汚れのような不安は、月本が笑顔で玄関のドアを閉じた瞬間、柳外の意識から消失した。

 柳外は車に戻ると、スマートフォンのナビを設定し、車内のコンセントとスマートフォンを充電ケーブルで繋ぐ。ナビには、三時間二十四分後、十二時十七分到着予定と表示されているが、柳外は躊躇無く車のエンジンを始動させると、車を発進させた。

 

 都内の交通量の少なさに反比例して、山梨県へ向かう下り方面の高速道路は混雑していた。高速道路を降りるまでの間に何度か渋滞に巻き込まれたが、目的のインターチェンジで高速道路を降りると、交通量は再び減少する。どうやら、観光地として機能している場所ではないようだ。看板の数が少なく、路面の整備状況も悪い。ただ、フロントガラス越しの景色は、森林の緑に青空が映えて、外に出なくても空気の澄み具合が伝わってくる。柳外は車内のエアコンを切り、運転席の窓を開ける。柳外は暫く何も考えずに運転した。気を抜くと眠ってしまいそうだった。このまま眠ってしまうのも悪くないかもしれない。今日の自分の行動で、一体誰が幸せになるのか。自分さえも不幸になるのではないか。柳外は、汚泥のように沈殿した自分の感情を、外から流れ込む柔らかい空気で溶かす。希釈された感情が体の中で対流するのを感じながら、柳外は深呼吸して、運転を続けた。

 目的地が近付くにつれて路面状況はさらに悪くなり、とうとう未舗装になる。最終的に、道幅は車一台分になり、対向車がまったく現れない山道になった頃、ナビが目的地周辺に着いたことを知らせる。柳外が辺りを見渡しながら運転を続けていると、道が二手に分かれる。左の道の先が開けているようだった。建物のようなものも見える。柳外は、その建物に向かって車を進める。分校のような外観の建物の前に、小さな校庭のような広場がある。広場では、数人の子供が遊んでいたが、柳外の車の進入に気付いて、建物の中に逃げるように入っていった。

 柳外は広場に駐車して車を降り、建物へ向かって歩いていると、玄関の扉が開く。女性が一人、建物から出てきた。柳外は、その女性の顔を知っている。写真で見ただけだ。会ったことはない。

 「こんにちは」女性が微笑みながら言った。

 「こんにちは、突然申し訳ありません、柳外と申します。月本さんに伺って参りました」

 「あ、月本さんの……」女性は目を丸くしながら、手を口に当てる。「警察かと思った」

 柳外は一瞬だけ動揺したが、動揺を悟られないように集中する。

 「はい、実は、警察官でもあります」柳外は笑顔で言う。「イズミさんですか?」

 女性は考え込むような表情で柳外を見つめる。

 「……今は、そうです」柳外を見つめながら、女性が言った。「……柳外さん、本当に警察の方ですか?」

 「はい。警察手帳ご覧になりますか?」

 「休日でも、こんな緊急事態なら、やらなければならない仕事があるのでは?」

 「緊急事態……ですか?」

 女性の言葉が具体的に何を指しているのか分からなかった柳外が笑顔のまま女性を見つめ返すと、女性は「ああ」と言って頷きながら再び微笑む。

 「本当に知らないのですね。スマホお持ちですか? ぎりぎり電波が入るので、ちょっと適当にニュースを見てみてください」

 微笑んだ女性に促されたとおり、柳外はスマートフォンを取り出して、インターネットのニュースを表示させる。

 スクロールの必要はなかった。

 

 【緊急速報】国王人質に テロか



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第四章 狙撃(2)

 柳外と別れ、自宅の玄関ドアを閉めた月本が真っ先に考えたことは、町田の生存を高宮に伝えたい、ということだった。町田の事件を知った高宮も月本と同じように絶望しているはずであり、何よりも優先して高宮に町田の生存を伝えなければならない、と月本は考えていた。もちろん、月本は、町田の生存を口外することの危険性を理解しているが、高宮に対する月本の信頼の前では、その危険性は霧散してしまった。月本にとって、高宮の存在は、それほど大きかった。

 月本は躊躇なく自分のスマートフォンで高宮に連絡をとろうとする。まず、高宮の携帯電話に電話をかけるが、留守番電話になった。今日は国王生誕祭当日であり、王都放送の全職員が慌ただしく動いているため、高宮が電話にでないことを月本は予想していた。

 本来であれば、月本も休みなく働くはずだった。月本が休んでしまった分の仕事を別の誰か、おそらく高宮がしていることを想像し、月本の罪悪感が膨張する。月本は留守番電話のメッセージは吹き込まずに電話を切る。代わりに、高宮にメッセージを送信する。町田の情報は一切書かずに、緊急で話がしたい旨だけ書いた。町田の情報が形で残ってしまう状態を避けようとした月本なりの配慮だった。高宮にメッセージを送信すると、月本は強烈な睡魔に襲われ、ソファに座ったまま眠りに落ちた。

 気が付くと十一時を過ぎていた。月本にとっては、ほんの数分間寝ただけの感覚だったが、実際は二時間近く寝ていたことになる。月本は慌ててスマートフォンを確認するが、高宮からの着信はなく、メッセージの既読マークも付いていなかった。スマートフォンの確認もできないくらい忙しい高宮の状況を推し量った月本は、高宮に直接話しに行くことを決めた。町田の生存を伝え、一週間休んでしまったことを謝罪し、上司や他の職員にも謝罪し、仕事で贖罪しようと考えた。

 月本は一週間振りに風呂に入り、身支度を整えて自宅を出る。近くのコンビニでおにぎり三個と飲み物と栄養ドリンクを買いながら、電話でタクシーを呼び、二日振りの食事を喉に通しながらタクシーを待った。数分間で到着したタクシーに乗り込み、車内で食事を続けながら、王都放送へ向かう。一週間分の疲労の蓄積により、月本の意識は機械的な動作のみに働き、自分の行動がどのような結果を齎すかを推察する機能は働いていない。月本の脳内では、高宮に伝えたい、謝罪したい、贖罪したいという感情だけが走り回っていた。

 三十分ほどで王都放送に到着した月本は、まず、自身の配属先である社会報道部に向かった。しかし、月本の所属する班の班員は誰もいない。高宮たちの居る場所を訊くため、近くにいた職員に話しかけると、月本の顔を見た職員は驚きながら、来て大丈夫か、まだ休んでいたほうがいい、と月本を心配する。自身の長期休暇を謝罪し、すぐにでも仕事に合流したい旨を伝えた月本は、「たぶん、編集でラスパだよ」と教えられ、そのまま編集室へ向かう。

 月本は編集室を全室回るが、高宮たちの姿は見えない。編集作業が終わったのであれば、次に行く場所はセンターだろうと月本は考える。十二時から十三時まで国王生誕祭の儀典が執り行われたのち、高宮たちが編集した難民救済法に関する資料映像がセンターから流される予定である。もうじき十二時になる。月本はセンターへ急ぐ。

 センターの扉を開けた瞬間、月本は異様な雰囲気を感じる。薄暗い部屋の中、多くの職員がいるにもかかわらず、誰も喋っていない。喋っていないどころか、体を動かしている職員すらいない。すべての職員がマネキンのように動かない。

 「志朗君、とりあえずそのドアを閉めて、鍵をかけて」

 月本がよく知っている人間が、今まで聞いたことのない無感情な声を発している。月本はそこまで考えたが、それ以上、考えることができなくなった。月本の背筋が粟立つ。

 「聞こえなかった? 早く閉めないと、部長死ぬよ」

 マネキン職員たちの隙間で、月本がよく知っている顔が浮かんでいる。今まで見たことのない無表情な顔が、月本に向けられている。

 高宮イリカが月本を見ている。

 高宮は月本を見ながら、編成部長にリモコンを向けている。否、リモコンだと思ったのは一瞬。指を動かして操作しても、早送りや巻き戻しができないリモコン。停止だけが可能なリモコン。

 高宮が編成部長に向けている物がリモコンではなく拳銃だと分かった瞬間、月本は無言でドアを閉める。そのまま鍵をかけようとするが、手が震えて鍵をかけられない。

 衝撃音。鼓膜が。痺れる。

 月本は、誰かが机の上に物を叩きつけたのかと思い、後ろを振り向くと、全員が月本を見ていた。高宮の拳銃が月本に向けられている。

 「早くして」

 ようやく月本は、高宮が発砲したことに気付く。拳銃の弾がどこに着弾したのか考える余裕は既に無く、月本は一心不乱にドアの鍵を閉めた。

 「全員手を挙げて。奥へ移動して。部長はそのまま座ってて」

 高宮に言われたとおり、部屋の中にいる職員十七人が部屋の奥に移動し、ドアや仕切りがない壁際に追いやられる。月本が部屋の奥に移動しているとき、上司の佐上と目が合ったが、佐上は月本を一瞬見て、すぐに目を逸らした。部屋の中は沢山の靴音で満たされている。

 月本は状況が理解できない。なぜ高宮が拳銃を持っているのか、なぜ編成部長が拳銃を向けられているのか、高宮は何をしようとしているのか。月本だけでなく、高宮を除く職員の誰もが、その疑問を持っているが、口を開く職員は誰もいない。部屋の隅に移動した月本は、先ほどまで自分がいた場所にあるキャビネットに凹みを見つける。その凹みが、高宮が発砲したときにできた穴だと気付き、月本の頬を汗が流れる。

 「佐上さん、そこのロッカーに荷造り用の結束バンドが入ってますから、それで全員の手を後ろ手に縛ってください」拳銃を編成部長に向けながら、高宮が言う。「縛るときは、私に見えるように」

 佐上は、高宮に言われたとおり、ロッカーから結束バンドを取り出し、手際よく職員の手を縛っていく。佐上の落ち着いた動きを見ていた月本は、徐々に落ち着きを取り戻し、周りを観察し始める。

 部屋の壁一面に設置されているモニターの中では、国王生誕祭の儀典が開始されていた。十二時を過ぎたのだ。全国に放送されている映像は、会場全体を映しているカメラから切り替わらない。なぜなら、カメラの切り替え作業を行う職員が拘束されているからだ。視聴者は、儀典中継の画面が一向に変わらずに当惑しているだろう。

 佐上が職員十六名の手を後ろ手に縛った頃、先ほど月本が鍵をかけたドアノブが何度も動き始める。ドアの外で誰かが叫びながらドアを叩いているようだが、ドアは防音設計の分厚い扉であり、外からの音が殆ど遮断される。程なくして、拘束されている職員の携帯電話が鳴り始め、何台もの携帯電話の音が部屋に響く。月本は、部屋の中の内線電話が一度も鳴らないことを疑問に思う。内線電話を見ると、ケーブルが抜けていた。

 「部長、佐上さんから結束バンドを一本受け取って、佐上さんの手を縛ってください。他の人は全員床に座ってください」

 高宮の指示が続く。拳銃を向けられた編成部長が、佐上からプラスチックバンドを受け取り、佐上を後ろ手に縛る。薄暗い部屋の中でも分かるくらい、編成部長は悲愴な顔で、滝のような汗を流している。

 「佐上さんも座ってて」

 編成部長に手を縛られた佐上が部屋の奥に戻り、月本の隣に座る。佐上の表情は、まったく変わっていない。汗も無い。

 「部長、これから副会長に電話して、三つのことを伝えてください。ひとつめは、センターが占拠されていること。ふたつめは、センターのドアを開けたら、十八人が死ぬこと。みっつめは、生放送を中止したら、十八人が死ぬこと。この三つを短い時間で簡潔に伝えてください。この三つ以外のことを伝えたら、あなたは死にます。あと、無駄に話を伸ばさないでください。もし、話を伸ばしていると私が感じたら、あなたは死にます。お気を付けて」

 「ちょっと待て、そんな一気に言われても覚えられない」編成部長が目を見開いて言った。顎から汗が滴る。

 「センターが占拠されていること。センターのドアを開けたら、十八人が死ぬこと。生放送を中止したら、十八人が死ぬこと」高宮が、左手の人差し指、中指、薬指を順番に上げながら、ゆっくりと伝えた。「ズボンの左ポケットからスマホを取り出してください」

 「メモを、とらせてくれ」

 「今すぐ死にます?」

 高宮の無表情な顔を見て、編成部長は左ポケットからスマートフォンを取り出す。

 「スマホは机の上に置いて。私に見せながら操作してください。通話はスピーカーで」

 高宮の指示通り、編成部長がスマートフォンを机の上に置いて操作し、副会長に電話をかける。通話設定をスピーカーに変更したため、コール音が部屋に響く。

 「はい」コール音が止み、副会長の声が響いた。

 「加藤です。副会長、すいません、少しだけお時間ください」

 「お前今どこにいる? 儀典中継見てるか?」

 「はい、その話です」

 「どうなってる? お前今センターだろ?」

 「副会長、センターが占拠されました」

 「は?」

 「センターが占拠されいています」

 「何?」

 「センターが、占拠、されました」

 「意味分からん」

 「殺されそうなんです」

 「は?」

 「職員が拳銃を持って――」

 炸裂音。

 編成部長の叫び声と副会長の上擦った声が部屋に響く。

 「副会長、聞こえますか?」高宮が大声で言った。

 「誰だ?」

 「今、加藤部長を拳銃で撃った職員です。ほかにご質問は?」

 「何を……言って……」

 「私が、たった今、加藤部長を拳銃で撃ちました。部長の、左肩を、撃ち抜きました。叫び声、聞こえましたよね?」

 副会長は無言。高宮と副会長の会話が一瞬途切れる。

 編成部長の喘ぎ声が部屋に響き続ける。

 誰かが声を押し殺して泣いている。

 月本の頭の中は真っ黒だった。月本は何も考えていない。ただ見ている。編成部長が涙と涎を流しながら牛蛙のように鳴いている光景を眺めている。何も受け入れていない。編成部長が撃たれたことも。編成部長を撃った高宮のことも。もう体は震えていない。汗も出ない。熱くない。絶望、恐怖、驚き、嘆き、怒り、悲しみ、感情がすべて沈殿したあとの上澄みが、月本の目から零れる。

 「今から三つのことを伝えます。忘れないように、メモでもとってください」高宮が大声で話を再開する。「準備はいいですか?」副会長は何も答えない。「ひとつめに、センターは占拠されています。ふたつめに、センターのドアを開けたら、センター内にいる職員十七人が死にます。みっつめに、センターの生放送を中断したら、職員十七人が死にます。何か言いたいことはありますか?」

 拳銃を持っている高宮の腕は既に降ろされている。高宮は、机上のスマートフォンを無表情で見つめている。副会長の声は聞こえてこない。数秒間の沈黙。

 「それでは、儀典中継をお楽しみください」高宮が机上のスマートフォンに手を伸ばし、通話を終了させて、編成部長を一瞥する。「部長、男なんですから、少しは我慢してください。部屋の一番奥で静かにしてて」

 高宮は振り返り、壁一面に並んでいるモニターを眺めながら、コントロールパネルの上に放置されたヘッドセットを取り、コントロールパネルの操作を始めた。

 編成部長は左肩を押さえながら、部屋の一番奥へ移動していく。偉大な指導者が海を渡るように、人波が二つに割れ、編成部長が部屋の一番奥へ歩いていく。汗と涙と涎と血を垂らしながら歩く編成部長に話しかける者は誰もいなかった。

 「すいません、センターのトラブルでスイッチングできませんが、カメラはそのままで」ヘッドセットを装着した高宮が言った。

 モニターの中では、甲冑姿の近衛兵二十人に囲まれた国王が入場行進している。国王と近衛兵が歩いているバルコニーは、一般客が犇いている広場よりも十メートルほど高い場所にあり、一般客と完全に分離されている。そのため、バルコニーの先端にある演壇に国王が到着するまでの間、一般客は国王を見ることができない。国王の入場行進を誰に披露しているのかといえば、バルコニーよりも高い場所に居る重役たちに披露している。重役たちは、空調が効いた部屋の中、煌びやかなイスに座り、甘く香るコーヒーを喉に通しながら、眼下の国王を眺めていた。

 「さて、どうなりますかね」重役のひとりが言った。

 「まあ、国王がやられる分には、まったく問題ないでしょう。むしろ、国王に全部被ってもらえれば、素晴らしいですね」別の重役が笑いながら言った。

 「不敬ですなぁ」

 部屋の中が重役たちの笑い声で満たされる。

 眼下の国王が演壇に到着し、片手を挙げた。数万人の歓声が地鳴りのように響く。

 轟音。

 数万人の歓声よりも大きな音が会場に轟いた。

 歓声は叫び声に変わり、数万人の視線が一箇所に集中する。先ほどまで重役たちが笑って過ごしていた部屋の窓から白煙が上がっている。その様子を見て興奮する者、笑う者、呆然とする者、避難する者など、様々な一般客がいるが、一人だけ、他の一般客とは異なる者がいた。その一般客は、広場を走り抜けながら、国王がいるバルコニーへ向かっている。広場とバルコニーの高低差は十メートルほどあるため、バルコニーへ向かっているというよりも、聳え立つ壁に向かって走っているように見える。その一般客は、壁に不自然にぶら下がっている一本のロープを掴み、壁を登り始めた。

 センターにいる高宮は、壁一面に設置されたモニターのうち、放送用モニターを見つめている。放送用モニターに映像を送っているカメラは、会場全体を俯瞰で撮影している無人カメラである。放送用モニターの映像に目を凝らすと、蟻のように小さな国王と近衛兵、そして、壁を登っている一人の一般客を見ることができる。そのほかのモニターは、白煙が上がる部屋の様子を映している。どのカメラマンも、壁を登る一般客に気づいていないようだ。

 「バルコニー、バルコニー映して」

 高宮がコントロールパネルを操作しながら言った。放送用モニターの画面が、俯瞰の映像から、バルコニーの映像に切り替わる。国王は上を向き、様子を伺っている。三人の近衛兵が国王の前で待機し、残りの近衛兵は周囲の状況を確認しているが、壁を登る一般客に気付いている近衛兵は一人もいない。その一般客は既にバルコニーの淵に手を掛けており、体を一気に持ち上げると、壁を登り終えた。

 イズミキヨナが、バルコニーの淵に立つ。

 キヨナが這い上がった場所は国王の真後ろであり、演台の陰でもあるため、国王も近衛兵もキヨナの存在に気付かない。キヨナは懐のホルダーから拳銃を引き抜きながら国王の背後に近付く。国王も、国王の前にいる甲冑姿の近衛兵も、背後にいるキヨナに気付いていない。キヨナから国王の背中越しにバルコニーの出入口が見える。バルコニーの出入口付近には、スーツ姿の護衛官が何人も集まっていた。護衛官の一人がキヨナの存在に気付き、叫び声を上げながら、懐のホルダーから拳銃を引き抜く。護衛官の動作は淀みなく、精確だった。精確であるが故に、キヨナは護衛官の動作の終点を容易く予測した。キヨナは、護衛官の拳銃が現れるであろう空間に向けて発砲すると、その結果を確認せずに、振り向きかけた国王の背中に接近し、国王の右手を背後に捻り上げながら、国王の顳顬に銃口を突き付けた。国王は、苦痛で顔を歪めて、呻き声を上げる。

 「バルコニーから出ろ」近衛兵と護衛官に向かって、キヨナが叫んだ。「バルコニーから出る以外の行動したら殺す」

 キヨナの甲高い声が演台上のマイクに拾われて会場に拡散し、一般客の騒めきが密度を増した。

 バルコニーにいる近衛兵と護衛官は、キヨナを見据えたまま動かない。

 国王に一番近い場所にいる三人の近衛兵は、国王から二メートルほど離れて立っている。三人の近衛兵が一斉に飛び掛かれば、キヨナを取り押さえることは充分可能な状況だったが、先程のキヨナの射撃を見ている三人が動く余地は皆無だった。

 「十秒数え終わったときに、一人でも残ってたら、国王を殺す。いーち、にー、さ」

 会場に響いていた子供っぽいキヨナの声が途切れる。会場の音響担当が、マイクの入力を切ったようだが、バルコニーに響いているキヨナのカウントは止まらない。近衛兵が走ってバルコニーから出て行く。

 「はーち、ドアも閉めてー、きゅーう」近衛兵の後ろ姿に向かってキヨナが叫ぶ。

 近衛兵と護衛官が全員いなくなり、バルコニーのドアが閉められた。

 キヨナがカウントをやめる。

 国王の右手を捻り上げ、国王の顳顬に拳銃を突き付けたまま、キヨナがゆっくりと振り向いた。

 真っ青な空から、気持ちの良い風が吹いている。

 キヨナは、贅沢な最期の景色に感謝した。

 

 キヨナの行動を見届けた高宮は、コントロールパネルを操作して、放送用モニターの設定を変更し始めた。キヨナと国王の姿を捉えているカメラの映像をワイプに切り替えて、画面左下に小さく表示させる。ワイプ後に表示されたメイン映像には、黒一色の背景に、白文字で書かれたURLと読み取りコードが映されている。URLの下には『警告 極めてグロテスクな映像です。閲覧には細心の注意を払ってください。』と書かれている。

 高宮は、自分がすべきことを全て終わらせると、ヘッドセットを外して、机上に腰掛けた。

 高宮は、すべてが終わったことに感謝した。



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第四章 狙撃(3)

 「緊急事態……ですね……」インターネットにアップされている情報を確認した柳外が呟いた。柳外の表情は険しく、笑顔を作る余裕は無い。「この犯人、イズミさんのご家族ではないですか?」柳外が、目の前のイズミに質問した。

 「キヨナに似てますね」イズミが無表情で答える。

 「キヨナさん、今ここにはいらっしゃいませんよね?」

 「いません」

 「キヨナさんが犯人かもしれないのに、心配ではないのですか?」

 「昔から変わった子でした。迷惑なことをしてくれたな、と思います。もう関わりたくありません」

 柳外は、イズミの抑揚の無い声と冷酷な視線を受け止める。

 イズミに質問しても何も得られないと柳外は判断する。連続殺人事件や国王生誕祭テロにイズミが関わっている証拠は、現時点では皆無である。逮捕どころか、任意同行すら求めることができない。

 柳外は、イズミにお礼を言いながら軽く頭を下げ、別れを告げた。イズミも、別れの挨拶をして、柳外を見送る。柳外が車に乗り込むと、イズミは深くお辞儀する。柳外の車が見えなくなるまで、イズミの頭が上がることはなかった。

 

 柳外の車が高速道路の追い越し車線を走行し続ける。柳外は、同業者に捕まらないように祈りながら、前に見える車を追い越し続ける。上り方面の交通量は少なく、渋滞は発生していない。行きよりも三十分以上早く東京に戻ることができた。

 運転中の柳外は、キヨナのことを考え続けていた。インターネットで見たキヨナの身のこなしと、火かき棒で自分を殴った犯人の身のこなしを重ねて、キヨナと犯人が同一人物であると柳外は確信していた。比類ない反応速度に疑う余地は無かった。

 東京に戻るまでのあいだ、車内のラジオでは、犯人に関する情報は一切無いこと、犯行声明などは出ていないこと、王都放送内部でもテロが起きていること、国王生誕祭会場付近は立入禁止区域に指定されたことを繰り返すばかりだった。

 王都放送内部でもテロが起きていると聞いた柳外は、月本と高宮が並んで立っている写真を思い出す。月本がサアラに送信したメールには、イズミ姉妹と高宮が友達であると書かれていた。柳外は、今朝の月本の笑顔を思い出す。高宮が王都放送のテロの犯人だった場合、月本はどれくらいのダメージを受けるのだろうか、と不安になるが、今は考察する意味が無いと判断し、不安を押さえ付けた。

 柳外が運転する車は、国王生誕祭の会場へ向かっている。都内の交通量は平日よりも少ないが、生誕祭会場に近付くにつれて、反対車線の交通量が多くなっていく。渋滞が発生している場所もあった。生誕祭会場から避難している車だろう。会場付近で警察が規制線を張っていることを見越して、柳外は赤色灯とサイレンを作動させた。暫くすると、数名の警察官が道路に立って交通規制をしている地点が見えたので、減速し、交通規制をしている警察官に向けて片手を挙げると、交通規制をしていた警察官は、車内の柳外に対して頭を下げながらバリケードを退けて、手持ちの赤色誘導灯で柳外の車を誘導する。規制線を越えると、反対車線を走行している車を除いて、交通量がゼロになったため、程なくして、柳外は生誕祭会場用の駐車場に到着する。国王生誕祭に参加する一般客の駐車場は無いが、来賓のための駐車場があることを、過去の仕事経験から、柳外は知っていた。

 柳外が駐車場に到着すると、駐車場には多数の車があったが、全て警察車両である。柳外は、駐車場内の空いているスペースに車を滑り込ませる。車から降りて周りを見渡すと、よく知っているナンバーを見つけた。車内を覗くと、柳外の同僚がスマートフォンを眺めている。同僚も柳外に気付き、車内から柳外に話しかける。

 「いや、一大事だね」同僚が笑いながら言った。

 「呼び出し?」

 「参ったよ、寝てたし」同僚が無精髭を触りながら言う。「お前も? 酷いよ、顔」

 「いや、逆」

 「徹夜?」

 「そんな感じ」

 緊急事態であるが、同僚の表情は柔らかい。駐車場内には多くの警察官がいて、どの警察官も武装しているが、緊迫した様子はなく、あちらこちらで立ち話をしながらスマートフォンを見ている。作戦行動や指示が何も無く、定常的な状況が続いているのだろう。

 「あれ、チョッキは?」同僚が柳外の胴回りを見ながら言った。

 「ああ……着てない」

 「まあ、あとはもう軍だしなぁ」

 「え、軍来るの?」同僚の言葉に柳外が反応した。軍の情報は、ラジオでは一切触れられていない。

 「来るというか、もう来てるよ」同僚が生誕祭会場の方向に顔を向けながら話す。会場を囲んでいる茶色い壁の上部が、駐車場から見える。「狙撃してください、って言ってるようなもんだからね、あの場所。ずっと動かないし。死んでもいいんだろうね、きっと」同僚は低いトーンで言いながら、持っているスマートフォンに目を落とした。

 柳外も釣られて同僚のスマートフォンを覗く。

 全裸の子供が二人。

 町田恵のスマートフォンに保存されていた動画と同じものが、同僚のスマートフォンで再生されていた。否、同僚のスマートフォンだけでなく、この駐車場にいる警察官が見ている全てのスマートフォンで同じ動画が再生されているだろう。警察官だけではない。国王生誕祭の儀典中継を見た世界中の人間が、同じ動画を見ているはずである。なぜなら、現在、王都放送が放送している画像に映っているURLのリンク先に、この動画がアップロードされているからだ。この動画以外にも、複数の動画がアップロードされていて、いずれの動画の内容も、子供を痛め付けるものである。サイトのトップページには、これら動画の被害者全員が、少子対策法を不正に利用して海外から連れてこられた子供であること、その不正に国が関与していること、不正に関与している者の名前、動画撮影者の名前、動画購入者の名前、動画の取引金額等が詳細に記載されている。不正に関与している者の多くは、先ほどの爆発で死亡していた。

 柳外は下唇を噛み締める。子供二人の顔は、イズミキヨナと高宮イリカに似ている。二人がテロを起こした原因の一つは、間違いなく、この動画だろう。テロを起こしたあと、二人は何も要求していない。自分たちの主義や主張を表明することもなく、淡々と、情報を発信しているだけである。そんな彼女たちが、生き長らえることを考えているだろうか。同僚が言っているとおり、死ぬのを待っているだけなのではないか。

 「軍が来たのって、何分前?」柳外が訊いた。

 「ついさっき。ぞろぞろ歩いてったよ。五分くらい前かな」

 同僚の話を聞いた柳外は「そっか」と呟いて、生誕祭会場に向かって歩き始めた。

 駐車場から生誕祭会場の入口に移動すると、警察官はいなくなり、代わりに、迷彩服を着た軍人が十人ほど集まって、各々慌ただしく装備を整えている。その軍人たちの中に、柳外が見知っている顔が二つあった。二人の軍人は真っ黒なギターケースのような物を肩に掛けている。そのギターケースのような物がライフルを収納するケースであることを柳外は知っていた。なぜなら、柳外は過去に同じ物を見ているからである。一ヶ月前、連続殺人犯を狙撃するため、柳外とチームを組んだ狙撃手メンバーの二人が、ライフルケースを肩に掛けていた。ライフルケースには分解されたパーツが入っているはずだ。これから狙撃ポイントへ向かい、狙撃ポイントに到着したのち、パーツを組み立てて、ライフルを設置するのだろう。二人が肩に掛けているライフルケースの中身を合わせて、漸く一丁のライフルが完成する。

 柳外が二人の狙撃手に近付いていくと、二人も柳外に気付いた。

 「ああ、柳外さん」

 二人のうち、階級が高い方の狙撃手が笑顔で柳外に話しかける。もう一人は緊張した顔付きで柳外を見ている。

 「狙撃ですか」柳外も笑顔を返す。

 「はい。恐らく今度は大丈夫でしょう。条件が良さそうです」笑顔だった狙撃手の表情が一瞬不自然になる。目の前にいる柳外が、前回の狙撃を外したことに気付いたのだろう。「いや、しかし、見させてもらいましたよ、柳外さんのスナイプ。このライフル初めてで、あそこまで完璧な弾道、流石です」狙撃手がライフルケースを持ち上げながら言った。

 「ありがとうございます、外しちゃいましたが」柳外が笑いながら言う。「どうですか、リベンジさせてもらえませんか?」

 「いやあ、させてあげたいんですがね」狙撃手が横を振り向き、もう一人の狙撃手を見た。もう一人の狙撃手の表情は相変わらず緊張している。「こいつに現場経験させないといけないもんでしてね、申し訳ない」

 「そうですか、残念です」

 柳外は努めて笑顔を装うが、心の中では、キヨナの射殺をどうにかして防ぎたいと焦る。狙撃だけではない。目的を達成したキヨナが自殺してしまう可能性もある。時間が経過するほど、状況は悪くなる。

 軍人たちの準備が完了したため、狙撃手たちは柳外に挨拶して、他の軍人たちと一緒に会場へ入っていった。会場の入口には、見張り役の軍人二人が小銃を抱えて立っている。見張り役の軍人二人が柳外を睨みつけてきたため、柳外は駐車場に戻り始めた。

 轟音。

 柳外は反射的に身をかがめ、辺りを見回した。見張り役の軍人二人が会場の中を見ながら小銃を構えている。口元も動いているため、無線連絡しているようだ。柳外の位置からでは会場の中は見えない。暫くすると、見張り役の軍人二人も会場の中へ入っていった。

 柳外は辺りを窺いながら、会場の入口へ近付く。入口からは、会場の広場が見渡せるが、見える範囲では何も起きていない。見張り役だった二人の軍人の姿は既に見えないので、彼らは広場へ向かわずに、会場を囲んでいる壁の中に入っていったようだ。見張りよりも先に会場に入った軍人たちの姿も見えない。軍人は全員、壁の中に入ったのだろう。柳外も、入口近くにあった通用口から壁の中に入っていく。

 会場を囲んでいる壁は、数百年前から建っている城塞の一部、つまり、砦である。数百年前に建設されたため、当然、改修が何度も行われているが、砦の中の構造は数百年前とほとんど変わらない。柳外が歩く通路は、大人二人がすれ違うのがやっとの狭さである。通路の天井には、等間隔で電灯が設置されているが、電灯が設置されている場所以外は薄暗く、足元の様子さえ確認しづらい。柳外が通路の奥の様子を窺っていると、聞き慣れた炸裂音が聞こえてきた。始めは立て続けに二回。そのあとは、断続的に、一回ずつ聞こえている。柳外は嫌な予感に支配されて、通路を急いで進んでいく。

 砦の中を進むと、通路が二方向に分かれている。一方は直進、もう一方は階段である。階段の上の方から断続的な炸裂音が聞こえてきたため、柳外は階段を上がっていく。

 炸裂音が徐々に大きくなる。

 階段を上がりきると、再び通路に出た。通路は左右に分かれている。炸裂音は聞こえなくなり、静かで薄暗い空間が佇んでいる。

 柳外が通路の右側を覗くと、通路の奥の方に光が見える。その光に照らされて、地面に迷彩服が置かれているのが分かった。目を凝らすと、地面にある物は服ではなく、迷彩服を着た人間だった。倒れているのは一人ではない。人間が折り重なっているようだが、まったく動かない。通路の匂いもおかしい。

 柳外は、足音と息を殺して、慎重に歩みを進める。倒れている人間を照らしている光は、通路脇にある部屋から漏れている明かりだった。部屋の中から再び炸裂音が聞こえた。柳外は、床に倒れている人間よりも、部屋の入口に注意を向け、壁際に体を寄せながら、部屋の中を一瞬覗き込む。見覚えのある後ろ姿が、拳銃を右手に持って立っていた。横浦のように見えたが、部屋の中をまじまじと見ることはできなそうだ。部屋の中の物が散乱し、床に複数の軍人が倒れ、刺激臭が辺りに漂っているにも関わらず、横浦だけが平然と立っていた。部屋の中で爆発が起こり、その爆発を起こした張本人が横浦であることは容易に想像できた。

 柳外は壁際に体を寄せながら考える。一旦退き、仲間に状況を報告すべきだろう。このままでは、床に倒れている軍人同様、殺されてしまうかもしれない。柳外が踵を返そうとすると、部屋の中から靴音が聞こえ始めた。入口に近付いてきているようだ。柳外が歩いてきた通路は一直線であり、階段まで五十メートルほど距離がある。今から走って引き返しても、横浦に背中を見られてしまう。おそらく撃たれてしまうだろう。柳外は、横浦に飛び掛かることが最善であると判断した。呼吸を整える。靴音が。入口に。来た。

 柳外は躊躇なく飛び出す。目の前の人間と目が合う。やはり横浦。表情は変わらない。本当にロボットか。横浦の右手首を掴む。喉輪攻め。そのまま地面に押し倒そうとするが、横浦からボディーブローを受け、柳外の勢いが弱まる。柳外は横浦の首を掴み続けるが、ボディーブローの連発に耐えかね、首を離し、横浦の左腕を抑えようとした。柳外の右手が首から離れた瞬間、横浦の頭突きが柳外の顔面にヒットした。目を閉じそうになるのを必死に堪え、横浦を浮腰で投げる。仰向けに床に落ちた横浦の右手から拳銃が離れ、柳外はすぐさま拳銃を蹴り飛ばした。地面に倒れている横浦に寝技を掛けようとして、柳外が横浦に覆い被さる刹那、横浦の左手が懐に入っていく。柳外は体を捻って、横浦を避けながら床に倒れ込んだ。

 横浦の左手にナイフが握られている。ナイフの先端は、先ほどまで柳外が居た空間に向けて突き出されている。

 ナイフの刃が柳外に向かってくる。柳外は床の上を寝転がり、横浦と距離を取ろうとするが、ナイフの先端が柳外に迫る。

 柳外は部屋に散乱していた物を掴みながら起き上がり、向かってくる横浦に対して腕を素早く振る。横浦は急停止して、後退した。

 柳外の手には一メートルほどの木材が一本握られている。爆発で破壊されたテーブルの脚のようだ。横浦は左手のナイフを右手に持ち替えて、柳外に対峙する。

 なんだろう、デジャビュだ。

 柳外の脳内は極めてクリアで、命を落とすかもしれない状況の中、目の前の横浦以外のことを考える余裕があった。

 ああ、そうだ、あいつを確保しようとしたときも、こんな状況だったっけ。

 横浦のナイフが水平方向に一閃。柳外は軽く後ろに避ける。後退した柳外にナイフの先端が向かってくる。

 

 突きは、やめたほうがいいよ。

 

 柳外の脳内で誰かが言った。誰かの言葉を聞きながら、柳外は体を横に向けて横浦のナイフを躱し、横浦の左足を木材で殴る。横浦の膝が崩れた。虚空に留まっている横浦の右手に木材を振り下ろす。横浦の右手の骨が折れて、ナイフが床に落ちた。蹲った横浦の左手を背面に捻り上げて取り押さえる。俯せに倒された横浦は、全く抵抗しない。瞬きさえしない。息も上がっていない。バッテリーが切れたロボットかもしれない。

 横浦を取り押さえながら、柳外は応援を待った。砦に入る直前に、見張り役の軍人が無線連絡していたはずなので、待っていれば誰かが来るはずだ。

 応援を待っている間に、部屋の中を見回す。物が散乱している部屋の中に、多くの軍人が倒れている。誰も動かない。顔をこちらに向けて倒れている軍人を見ると、額から血が流れている。銃創のように見える。柳外がこの部屋に来るまでの間に、断続的に一回ずつ聞こえていた炸裂音は、横浦が軍人に止めを刺していた音だろうか。そうであれば、倒れている軍人は全員死んでいるだろう。

 「横浦さんが殺したんですか?」柳外が口を開いた。

 「ああ」無表情の横浦が答える。

 「どうして?」

 「死ぬなら彼女じゃなく、まず国王だ」

 「あいつの仲間ですか?」

 「違う。彼女たちは僕を知らない。僕が勝手に協力した。彼女たちの気持ちが分かったから。僕も少子対策法の養子だ。彼女たちの苦しみに比べればどうってことないが、それでも人生のいろんなものをあいつらに歪められてきた。国王が憎い。政治家が憎い。何も知らず安穏と生きてる奴らが憎い」

 「彼らが殺される理由にはならない」

 「理由があれば、殺してもいいのか?」

 「……」

 「まあ、個人的な恨みでやったわけじゃない。彼女たちが殺される時間を少しでも伸ばしたかった」

 「彼らを殺さなくても、あいつを助けられる」

 「助けたいわけじゃない。彼女たちも助かりたいなんて思ってない。彼女たちは、自分がしたことが社会にちゃんと伝わるのを見届けたいだけだ。見届けて、死にたいんだよ。僕も死にたい。お前のせいだ。死ねない」

 「俺は助けるよ。あいつを死なせない。お前も死なせない」

 「……僕は、そのうち、死刑だ」

 「死なせない」

 横浦を取り押さえたまま五分ほど経過した頃、部屋の中に軍人が雪崩れ込んできた。数人の軍人が、柳外と横浦に銃口を向ける。

 「彼が全員殺しました。国直の横浦です」銃口を向けている軍人たちに対して、柳外が言った。「私は警視庁の柳外です。会場の入口前にいたのですが、爆発音が聞こえたので、応援に来ました」

 軍人の一人が横浦の顔を覗き込みながら「本当か」と尋ねた。横浦は反応しない。無表情のままだ。別の軍人が横浦と柳外の身体検査を始める。二人とも武器を所持していないことが確認されたのち、横浦は軍人に連行されていった。

 横浦が部屋からいなくなったあと、柳外は死んでいる軍人を見て回った。即死した事が明らかである者を除いて、全員の頭に銃創を見つける。

 部屋の外で折り重なって死んでいた軍人は二人で、会場の外で話した狙撃手二人だった。肩にライフルケースを掛けたまま死んでいる。狙撃手は隊の最後尾に配置されたため、部屋の入口で爆発に巻き込まれたのだろう。

 柳外は、狙撃手が肩に掛けていたライフルケースを確認する。ケースは変形しているが、ケースの中身には緩衝材が詰まっているため、ライフルのパーツは無事だった。

 「てめえ何してんだ、とっとと外に行け」部屋の中から軍人の怒鳴り声が聞こえた。部屋の外でライフルを確認している柳外に向けられている。

 「彼らの代わりは……狙撃手の補充は大丈夫ですか?」柳外が質問した。

 「てめえには関係ねえから早く行けってんだろ」

 部屋の中で状況確認している軍人たちは明らかに焦っていた。軍人たちは追い詰められている。十人の仲間を一瞬で失い、作戦の要である狙撃手を殺され、さらに、狙撃手の補充の目処も立っていないようだ。柳外は、今の状況であれば、自分がキヨナの狙撃を任せられるに違いないと考えた。

 「私も狙撃できます。一ヶ月前に彼らと一緒に仕事しました。このライフルも組み立てられます。早急に対応しなければ国王が殺されます。どうか協力させてください」柳外が大声で訴えた。

 部屋の中にいる軍人たちが数人集まり、小声で話し合ったのち、階級が一番上の軍人が無線連絡した。柳外の言ったことが事実であるかどうか本部に確認している。

 「警察手帳は」無線連絡をしている軍人が柳外に訊いた。

 柳外は内ポケットから警察手帳を取り出して軍人に渡す。警察手帳を受け取った軍人が証票番号を読み上げると、無線機から、柳外を狙撃手として作戦を続行する旨の指示が聞こえた。

 柳外の警察手帳を持っていた軍人が、柳外に警察手帳を返しながら「すまんな」と呟く。その軍人の視線は、床の上で折り重なっている狙撃手に向けられていた。

 死体をそのままにして、柳外と軍人たちは、部屋の奥の壁に設置されている梯子を上った。梯子を上りきって、青い空の下に出る。砦の最上部である。下を覗くと、数時間前まで数万人が犇めいていた生誕祭会場の広場はもぬけの殻で、一般客は全員避難していた。広場から少し目線を上げると、バルコニーに国王とキヨナがいる。キヨナは国王から離れ、バルコニーの淵の壁に凭れて座っている。拳銃を握ってはいるが、構えてはいない。国王は、キヨナから少し離れた場所で座っている。二人ともまったく動かない。

 柳外は急いでライフルを組み立て始める。一ヶ月前の記憶だったが、スムーズにライフルを組み立てることができた。風は、砦からバルコニーに向かって吹いている。微風であるため、狙撃への影響はほとんどない。柳外はライフルの電源を入れ、銃身部分を壁の上に乗せて立ち構えた。スコープを覗くと、キヨナの口が動いている。何か喋っているようだ。

 「準備できました、いつでもいけます」柳外が言った。

 「ヒトゴヒトサンに狙撃。繰り返す。ヒトゴヒトサンに狙撃。各自配置に付け」軍人の一人が無線連絡している。

十五時十三分まで、あと二分四十五秒。柳外の狙撃と同時に、バルコニーの出入口から軍が突入し、一気に制圧することになっている。一ヶ月前の狙撃の失敗を踏まえての対処である。

 スコープを覗いていた柳外は、国王とキヨナが会話していることに気付く。様子がおかしい。先ほどまで落ち着いていた様子のキヨナが、眉間に皺を寄せて、早口で何か喋っている。そんなキヨナと対照的に、国王の表情はリラックスしているといってもいいほど柔らかい。嫌な予感がした柳外は、ライフルの安全装置を早めに解除し、トリガーに指を掛けた。スコープの中では、国王とキヨナの会話が続いている。

 突然キヨナが立ち上がり、早足で国王に近付く。柳外は深く息を吸って、息を止めた。

 キヨナが銃口を国王に向ける。

 

 狙撃。

 発砲。

 

 薬莢が空中に放たれる。弾丸が空気を切り裂く。弾丸が体を貫く。血が飛び散る。

 

 キヨナと国王が、ほぼ同時に地面に倒れる様子が、リアルタイムで放送された。

 王都放送のセンターを占拠し続けている高宮は、放送用モニターを眺めながら悲しそうに笑い、座っていた机の上から降りると、両腕を真上に伸ばす。手には拳銃。銃口を天井に向けている。

 発砲。

 発砲。

 発砲。

 発砲。

 「高宮!」

 炸裂音を遮るように、大きな声が響いた。月本の隣で座っていた佐上が立ち上がっている。どうやら佐上が叫んだようだ。月本は口を半開きにして佐上を見上げた。高宮は無表情で、両腕を真上に伸ばしたまま佐上を見ている。

 「死ぬのか?」静かな部屋の中に、佐上の低い声。

 無表情の高宮が佐上を見つめる。

 「佐上さん、お願いです、じっとしててください」高宮が言い、再び発砲。

 発砲。

 天井の穴が一つずつ増えていく。

 月本は佐上の表情を見ていた。佐上は涙を堪えているようだった。佐上の泣顔どころか、笑顔さえ見たことがない月本の脳は驚き、反射的に思考を再開した。

 なぜ佐上さんは泣きそうなんだろう。佐上さんの言葉はイリカさんに向けられてる。イリカさんが死ぬということだろうか。死ぬことは悲しい。イリカさんに死んでほしくない。メグが死んだときのような悲しさを経験したくない。メグ。メグ?

 発砲。

 そうだ。僕は。メグが。生きてることを。イリカさんに。伝えに来た。

 「メグが生きてます!」

 月本は叫んだ。

 佐上が驚いて月本を見る。

 高宮も月本を見た。

 「メグは死んでません! だから、イリカさんも死なないで!」

 月本の声が、部屋の中の全ての空気を震わせる。

 高宮は、真上に伸ばしていた両腕をゆっくり降ろす。

 高宮の視線が落ち着きを無くし、表情が強張る。やがて、瞬きの回数が多くなり、唇の形が歪み、鼻息が荒くなり、目が潤む。

 「……よかったあ……」高宮の目から大粒の涙が次々と溢れ出し、押し殺せない泣き声が漏れる。「ごめん……ごめんね……志朗くん……もっと早く……私が……言ってれば……ごめんね……」

 月本は呆然とする。メグが生きていることを伝えれば、高宮は笑顔で喜んで、いつもの高宮に戻ると思っていたのに、目の前の高宮は泣いて謝罪しながら取留めのない言葉を話す。拳銃も握ったままだ。

 「メグちゃん、大切にしてあげてね。佐上さん、ありがとう」

 涙と鼻水で濡れた笑顔の高宮が言った。刹那に、高宮の右手が上がる。銃口は顳顬に。

 一瞬だった。

 微塵の躊躇もなく、高宮は引金を引いた。



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第五章 薬莢(1)

 地面に落ちている薬莢を一つずつ指で摘みながら拾い集めていく。人差し指と親指に挟まれている薬莢が、煌々と光る太陽に照らされて鈍く輝く。太陽に加熱された薬莢は、とても熱くて、長くは持っていられない。

 地面に散らばっている薬莢を拾い集めることが少女の仕事だった。薬莢だけではない。持ち運べる大きさの金属が落ちていれば、それも回収する。集めた薬莢や金属を両親に渡すと、両親が喜んでくれる。笑顔の両親が食料を持ってきてくれる。その光景を見ることは、少女にとって至福だった。

 「本当に、危ない場所には行っていないの?」

 少女が頻繁に薬莢や金属を持ち帰ってくるので、両親は心配して質問するが、少女は「砂に埋まっていたので、他の人は気付かなかった」と返答する。本当のことを言えば、両親は少女を外に出してくれなくなる。そうなると、食料が満足に得られなくなり、両親の機嫌が悪くなり、両親の間で喧嘩が絶えなくなる。その光景を見ることは、少女にとって苦痛だった。

 少女は、摘んでいる薬莢を、襷掛けしているショルダーバッグの中に入れた。ショルダーバッグは少女の母親の手作りで、少女のお気に入りであるが、長く使い続けているため、あちこに綻びや小さい穴がある。少女が着ている服にも綻びや穴が目立つ。

 少女が立っている場所は、煉瓦造りの建物が並んでいる住宅街であるが、昼間であるにも関わらず、道を歩いている人間は一人もいない。

 周囲を見ると、地面のそこかしこに薬莢が落ちている。建物の壁には無数の穴が開いている。大人たちは「無闇に近付くと撃ち殺されてしまう」と言っているが、今の時間であれば、この場所に銃火器を持った人間がいないことを少女は知っていた。否、近所の人の話や、ラジオの情報を処理した少女の脳内では、この場所に銃火器を持った人間がいないという結論になっていた。そして、実際、少女の脳が出した結論どおりの状態になっていた。

 少女の脳内で自動的に予想される事象は、高確率で現実になる。しかし、予想した本人は、なぜ自分がそのように予想したのか説明できず、周囲の大人たちから不気味がられる。そんな経験を何度かした少女は、自分の予想を他人に言わずに行動するようになった。すると、周囲の大人からは、あたかも少女が突然起きたことに対していつも冷静かつ的確に対応しているように見える。周囲の大人たちは、少女のことを、頭の良い子と評価するようになった。

 少女が、付近の地面に落ちていた薬莢を拾い終わった。少女は、落ちていた薬莢の数が少ないな、と感じる。その瞬間、少女が住んでいる村が武装した人間に襲われている光景が鮮烈に思い浮かんだ。

 たくさんの人が死ぬ。

 私の村も、この街と同じようになってしまう。

 少女は悲しくて涙を流す。

 一頻り泣いたあと、自分の家族だけであれば救える、と感じた。少女は、自分の家族を救うための具体的な方法を必死で考えた。

 見知らぬ男が村に来て山羊を買っていく。その夜、川沿いから、武装した多くの人間がやってくる。川に近い家から順番に襲撃していく。最初は集団で行動しながら一軒一軒ナイフだけで襲っていく。六軒め以降は一人ずつ分かれて銃で襲う。銃声に気付いて山側へ逃げる人たちを待ち伏せしている人間がいる。山側へ逃げた人は、その人間に銃で殺される。生き延びるためには、一軒めの家が襲われてから、五軒めの家が襲われるまでの間に、川を渡って逃げなければならない。両親だけが少女の話を信じ、少女と一緒に逃げてくれる。三人だけ助かる。

 

 少女が予想したことは、すべて現実になった。

 

 普段は水筒に使用している山羊の皮袋を浮き輪にして川を渡った三人が、川の向こう側から聞こえてくる銃声と悲鳴を聞き、悲痛な表情をしている。月明かりで照らされている村のシルエットの中に、たくさんの閃光が見えた。

 少女たち三人は、これから隣の村まで歩かなければならない。隣村まで行くためには、一日歩き続けなければならない。事前に少女が川岸に隠しておいた食料やランプなどの荷物を背負い、三人は歩き始めた。星の位置を頼りにして隣村を目指す。

 翌日の夕方、無事に隣村に到着した三人が目にしたのは、見慣れない服を着て、見慣れない車に乗り、聞き取れない言葉を話す得体の知れない人間の集団だった。その人間たちは全員銃を持っているが、村人たちはまったく警戒せずに、普段どおりの生活をしている。

 「あの人間たちは何者だ?」少女の父が、近くの村人に尋ねた。

 「東の異国から来た人たちで、私たちを助けてくれている」村人は笑顔で答えたあと、少女たち三人を見て心配そうな表情をする。「それよりも、お前たち、どうした? 酷く疲れているようだ」

 少女の父が村人に事情を説明する。事情を聞いた村人は、顔面を掌で覆いながら首を振り「なんてことだ」と呟く。「急いで村長に伝えてこよう。お前たち、すまないが、同じことをあの人たちにも話してくれないか。彼らは心強い味方だ」村人が指差した方向には、見慣れない服を着た人間の集団がいる。

 「撃たれないのか?」少女の父が不安そうに尋ねた。

 「撃たれない」村人が笑顔で答える。

 少女たち三人は、見慣れない服を着た人間の集団に近付く。その集団の中に一人だけ、少女たちと同じような服を着ている男がいたので、少女の父は、まずその男に話しかけた。男は、少女たちと同じ言葉を話し、いろんなことを説明してくれた。男が通訳の仕事をしていること。見慣れない服を着ている人間たちは、ニホンという国から来たこと。ニホン人はみんな優しいこと。ニホン人が、この村をテロリストから守ってくれていること。

 「私たちの村が襲われた。おそらくテロリストだと思う。私たち以外の村人は全員殺されてしまった」

 少女の父が悲痛な表情で訴えると、通訳の男は顔を顰める。

 「可哀想に。テロリストたちは本当に悪魔のような存在だ。君たちだけでも逃げることができたのは非常に幸運なことだ。神の導きがあったのだろう」

 通訳の男が神へ祈りを捧げる。少女たちも倣って祈りを捧げる。

 「実は、娘が神の御加護を受けているんだ」少女の父は、少女の頭を撫でながら、誇らし気に言った。

 「どういうことだ?」通訳の男が質問した。

 少女の父は、これまでに少女が見せてきた聡明さを話す。今回、テロリストから逃げることができたのも、まるで少女が未来を予知していたかのように行動したからだった、と語気を強めて話しながら、少女の父は何度も神への感謝を口にした。

 話を聞いていた通訳の男の目付きは徐々に鋭くなり、少女の父の話が終わると、真剣な表情で口を開く。

 「その子が神の御加護を受けているのは間違いない」通訳の男は、そう言いながら人差し指を立てて、辺りを見回した。「今から私が話すことは、極めて重要なことだ。誰にも話してはいけない。約束できるか?」通訳の男は、少女たちが頷くのを確認してから話を続ける。「私は、通訳の仕事をしながら、もう一つ仕事を任されている。その仕事とは、この国の優秀な子供たちを保護して、ニホンの最先端の教育を受けさせるという仕事だ。ニホンの最先端の教育を受けられれば、その子供の未来は太陽のように明るくなり、私たち人間を導くような貴重な存在になれる。ただし、優秀な子供というだけでは、ニホンの最先端の教育を受けることはできない。ニホンの最先端の教育を受けることができるのは、神の御加護を受けている子供だけだ。今、私は、神に感謝している。私の目の前にいるその子は、まさしく、神の御加護を受けている。神の使いとして、私たち人間を導く存在だ」通訳の男は囁くように一気に話すと、口を閉じて、真剣な表情のまま少女たちを見つめ続ける。

 「ど、どうすればいいのか……」少女の父は、額の汗を拭いながら困惑する。

 「その子はニホンへ行くべき存在だ。迷う必要はない。今、君たち家族と私が、こうして会えていることが、すでに神の導きなのだから」通訳の男が畳み掛ける。「先ほど言ったとおり、どんな子供でもニホンへ行けるわけではない。ニホンへ行くためには、神の御加護を受けていることを証明するため、試練を乗り越える必要がある」

 「試練とは、危険なことか?」

 「危険ではない。神の御加護を受けていることを簡単に証明できる試練を、ニホン人が用意してくれている。本当に、ニホン人は素晴らしい」

 通訳の男はそう言って微笑むと、近くにいるニホン人に声をかけて、聞き取れない言葉を話した。ニホン人は頷くと、遠くにいる別のニホン人に大声で呼びかける。呼びかけられたニホン人は車に乗り込み、暫くすると、車から降りて、少女たちが立っている場所まで走り、通訳の男にアタッシュケースを手渡した。通訳の男は地面の上でアタッシュケースを開き、中に入っていた紙束を一つ取り出す。

 「この紙に、様々な図形や記号が書いてある」通訳の男が最初の数ページを少女たちに見せる。「この紙を見ながら、私の質問に答える。それだけだ。それだけで、この子が神の御加護を受けているか証明できる。簡単だが、質問の数が多いのが欠点だ。終わるまでに数時間かかることもある」

 通訳の男は、少女たちの顔を一人ずつ確認する。どの顔にも笑顔は無く、疲れだけが表れていた。通訳の男は、赤くなり始めた西の空を見る。

 「じきに日が暮れる。ニホン人たちのおかげで、この村の安全と食料は保証されている。私が、君たちの休む場所を用意しよう。今の君たちに一番必要なものは、充分な休息だ。試練を受けるためにも、体調を万全にしておきなさい」

 通訳の男との話が終わってから三十分ほど経った頃、少女たちはテントに案内された。少女たちが今までに見たことのない素材で張られたテントだった。テントの中には、冷たい空気が充満していた。テントの隅にある機械から、冷たい空気が吹き出している。テントの中には夕食が既に用意されており、美味しそうな匂いが少女たちの食欲を刺激した。

 少女は、ニホンという国の豊かさを予想する。自分たちの村と全然違う。これほどの差が、なぜ生じているのだろう。ニホンは、なぜこんなに豊かになれたのだろう。自分たちの村は、なぜ豊かになれなかったのだろう。通訳の男に質問すれば答えてくれるだろうか。ニホン人に質問すれば答えてくれるだろうか。ニホンに行けば答えが分かるだろうか。食事を終えた少女は、柔らかい毛布に身を包みながら考えていた。

 翌日、朝食を済ませた少女たちの所に、通訳の男がやってきた。

 「良い顔をしている。よく眠れたようだ」通訳の男が笑顔で言った。「早速で申し訳ないが、昨日の続きだ」手に持っていた紙束を少女たちに見せながら、通訳の男が話を続ける。「この子に、一刻も早く試練を受けさせたい。私が今までに携わってきた子供たちの中で、この子が受けている神の御加護は群を抜いている。私は、この仕事を始めてから、こんなことを言ったことはないが、どうか言わせてくれ。お願いだ。この試練を受けてほしい」

 通訳の男の笑顔が徐々に消えて、真剣な表情に変わっていき、口調や身振りにも熱が籠る。そんな通訳の男の様子を見ている少女の父に、前日のような困惑した様子は見られない。少女の父は、真剣な眼差しで口を開く。

 「その試練を受けると、何か代償が必要だろうか。生憎、私たちは、貴方たちに差し上げるような物を何も持っていない」

 「必要ない。試練を受ける前も、受けた後も必要ない。試練を乗り越えても、乗り越えなくても、必要ない」

 「娘が試練を乗り越えた場合、必ずニホンに行かなければならないのだろうか」

 「ニホンに来てほしいと私たちは願っているが、強制しない。君たちの意思を尊重する」

 「娘が試練を乗り越えた場合、私たち家族三人一緒にニホンへ行けるだろうか」

 「行けない。ニホンへ行けるのは子供だけだ。親には、この国の都市部で生活するための場所と資金を提供できる。希望があれば、仕事も斡旋する」

 「娘がニホンへ行った場合、娘に会えなくなるのか?」

 「制限は一切無い。子供の居住先が確定次第、親に連絡することになっている。手紙も面会も自由だ。但し、子供が成人するまで、ニホン人が保護者になる。君たちの独断で自国に連れ戻すことはできない」

 「……ニホンへ行けば、娘は幸せになれるだろうか」

 「勿論だ。この子の未来には光が満ちている。試練がそれを証明してくれるだろう」

 

 少女は試練を受けることになった。否、通訳の男が試練と呼んでいるだけであり、その実態は子供用の知能検査である。空調が効いたテントの中で、少女が通訳の男の質問に次々と答えていく。時には、通訳の男が質問している途中で、少女が答えてしまう場面もあった。全部で五十問あった知能検査が、三十分足らずで終了した。

 「試練は、終了だ」通訳の男が呟くように言った。紙束を持つ手が震えている。「結果を確認するまでもない。完璧だ」通訳の男が祈りを捧げた。「神よ……」



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第五章 薬莢(2)(3)

 「最高点、三十七。こうなるよなあ。難しすぎるよ」スーツ姿の眼鏡が言った。
 「お前何点とれた?」スーツ姿の薄毛が言った。
 「二十三」スーツ姿の眼鏡。
 「あ、日本人失格」スーツ姿の薄毛。
 「お前は?」眼鏡。
 「二十六点」薄毛。
 「日本人合格おめでとうございます」眼鏡が笑った。
 「うっせ」薄毛も笑った。
 「ボーダー二十五にして、最高点三十七で、合格者が十三人……。さすがにそろそろ方法変えないと、ホントばれちゃうよ、これ。合格者少なすぎ。いや、逆か。満点多すぎ」眼鏡が嘆いた。
 「満点、何人?」薄毛が訊いた。
 「二十二人」眼鏡が答えた。
 「変態ども大喜び」薄毛は真顔。
 「一人いくらぐらいなんだろうな」眼鏡も真顔。
 「二千万とか?」薄毛が眼鏡を一瞥。
 「もうちょっと安くね? 後進国だよ?」眼鏡が薄毛を一瞥。
 「彼ら彼女らの希望に満ちた未来をぶち壊させて頂くんだから、そんなに安くしたら可哀想だ」薄毛が立ち上がる。
 「何様ですか」眼鏡が薄毛を見上げる。
 「これからお骨を二十二人分用意しなければならない大忙しの事務官様です」薄毛が眼鏡から離れていく。
 「どこ行くの?」眼鏡の目が薄毛を追う。
 「便所」


 少女が生まれて初めて見た飛行機の周りには、小銃を持った迷彩服の日本人が何人もいた。その日本人の脇を通って、少女と通訳の男が飛行機に向かって歩く。通訳の男は、少女をタラップの下まで連れてくると、別れの挨拶をした。

 「君と出会えたことは、私の人生の中で一番の誇りになるだろう。どうか、ニホンで様々な知識を得て、この国に帰ってきてほしい。君の故郷が、君を待っている。君を必要としている。神よ、この子に幸甚を齎したまえ」

 通訳の男は、神に祈りを捧げ終わると、タラップの上へ行くように少女を促した。タラップの上には、スーツ姿の日本人が立っている。その日本人と目が合った少女は、胸騒ぎがした。とても悪いことが起こりそうな予感を感じながら、少女は通訳の男に別れの挨拶をして、タラップを上り、飛行機の中に入った。

 飛行機の中には、スーツ姿の日本人の他に、六人の子供がいた。六人の子供の身なりはとても綺麗で、少女が一番見窄らしい格好をしている。少女の格好は村から逃げてきた時と同じ民族衣装である。六人の子供は全員洋服を着ており、髪も整えられている。殆どの子供が笑顔ではしゃいでいる中、一人だけ無表情で窓の外を眺めている女の子がいた。少女は、その女の子に挨拶しながら隣に座り、自己紹介する。相手はマーノーシュと名乗った。

 「綺麗な服。素敵ね」少女がマーノーシュの服を見ながら言った。

 「あんたは、売られたんじゃないんだね」マーノーシュが呟く。

 「売られた……? あなたは、何か売られたの?」

 少女が不思議そうな顔でマーノーシュを見ていると、マーノーシュは悲しそうに笑いながら「あんたの服も綺麗だよ」と言って、少女の肩を優しく叩いた。

 飛行機の中で十時間以上過ごしている間に、少女とマーノーシュは、お互いの身の上を語り合った。マーノーシュもテロが原因で故郷に戻れなくなってしまったということが分かり、二人の故郷の思い出話をした。

 「ニホンでいろんなことを学んで、いつか故郷に帰りたい。お父さんとお母さんと一緒に」

 少女が言うと、マーノーシュは「あたしは帰れない」と言って、目を伏せた。

 「どうして?」

 「父と母はあたしを売った。帰る場所が無い」

 マーノーシュの話の内容を完全に理解できない少女だったが、マーノーシュが言おうとしていることのイメージが朧げながら浮かんできた。見知らぬ男に買われていった山羊を思い出す。マーノーシュの父と母にとって、マーノーシュよりもお金のほうが大事だったということになる。マーノーシュは、普段から山羊と同じように扱われていたのだろうか。少女の悲しみが膨らみ、涙が溢れる。

 「……優しい人だね。ありがとう」マーノーシュが笑顔で言った。

 

 日本に到着すると、七人の子供たちは飛行機から降りた。飛行機の周囲には六台の車が停まっている。少女とマーノーシュを除く五人の子供たちは、一人ずつ別々の車に乗せられて、先に出発した。寄り添って立っていた少女とマーノーシュに、スーツ姿の日本人が近付いてくる。その日本人は、少女とマーノーシュの背中に手を添えて、二人に同じ車に乗るよう促す。

 「こいつは違うだろ? 何かの間違いだ」

 マーノーシュが訴える。しかし、マーノーシュの言葉は日本人に通じない。飛行機の周囲には、少女とマーノーシュとスーツ姿の日本人の三人しかいない。通訳の姿は見えない。マーノーシュは訴えるのを諦めて、少女の手を握り、少女と一緒に車に乗った。車の中でもマーノーシュは少女の手を握り続ける。

 「あたしがあんたを逃がす」

 少女にしか聞こえないくらい小さな声で、マーノーシュが言った。マーノーシュの話の内容を理解できていない少女だったが、自分が置かれている状況が悪くなっていることは感じていた。通訳の男が説明してくれたことと全く違うことが起きている。笑顔で少女を迎えてくれる日本人は誰もいない。車を運転している日本人は、終始無表情でハンドルを握り続けている。通訳の人間もいない。保護者となる日本人もいない。少女は、買われていった山羊を再び思い出した。見知らぬ男に連れられていくときに一度だけ振り返り、こちらを見て鳴いた山羊も、こんな気持ちだったのだろうか。

 少女たちの乗っている車が到着した場所は、豪邸前のロータリーだった。ロータリーには笑顔の中年男性が一人立っており、少女とマーノーシュを出迎える。車を運転してきた日本人は、少女とマーノーシュを車から降ろしたあと、中年男性と短く言葉を交わすと、すぐにロータリーから出て行った。ロータリーには、少女とマーノーシュと中年男性の三人だけが立っている。

 中年男性は自分を指差しながら「瀬川」と何度も言った。少女は、中年男性が自分の名前を伝えようとしていると気付き、セガワと発音しようとしたが、上手く発音することができない。マーノーシュは黙って、中年男性をじっと見ている。

 笑顔の瀬川が、少女とマーノーシュを家の中に招き入れる。少女とマーノーシュは、手を繋ぎながら並んで歩く。広い玄関。広い廊下。広い部屋。たくさんの部屋。家の中の全ての場所が眩しかった。対照的に、マーノーシュの表情はどんどん暗くなっていった。マーノーシュの様子を見て不安になった少女は、マーノーシュと繋いでいる手に力を込める。マーノーシュも、少女の手を強く握り返した。

 眩しい部屋の一室。大きなテーブルの上に様々な料理が並んでいる。笑顔の瀬川は、テーブルに近付いて、二つの椅子を引き、少女とマーノーシュに座るよう促す。二人が椅子に座ると、瀬川はテーブルに置かれているスプーンを指で示しながら、少女の肩に手を乗せた。少女は、料理を食べろと言われていると理解し、食事を始める。隣のマーノーシュも、暗い表情のまま食事を始めた。笑顔の瀬川は、二人が食事を食べる様子を見ながらワインを飲んでいる。

 二人の食事が終わると、笑顔の瀬川が二人を浴室に連れていく。浴室の中には、少女とマーノーシュが見慣れている物は一つもなかったが、浴槽やシャワーヘッドの形から、この部屋が浴室であると分かった。笑顔の瀬川は、水栓のレバーハンドルを引き上げて水を出す様子を二人に見せたのち、服を脱ぎ始める。

 突然、少女は手を引かれた。少女の手を引いたマーノーシュは「走れ」と短く囁き、玄関に向かって走り始める。少女もマーノーシュの後を追う。少女は、マーノーシュが走っている理由は分からないが、瀬川から逃げていることだけは分かった。

 マーノーシュと少女は、一度も振り返らずに玄関のドアへ向かう。マーノーシュが玄関ドアの前に立ってノブを掴むが、ドアは開かない。マーノーシュは鍵を開けようとするが、玄関ドアの解錠方法が瀬川の指紋と虹彩の二重認証であることをマーノーシュが知る由もない。

 マーノーシュは玄関を開けることを直ぐに諦めて、近くの部屋に入った。部屋の中のガラス窓を開けようとするが、填め込み式の窓であるため開けられない。マーノーシュは、部屋の中に飾られていた壺を持ち上げて、ガラス窓に投げつけた。鼓膜が痛くなるような不協和音。壺が粉々に砕け散る。ガラス窓は無傷。

 マーノーシュの行動を部屋の外から見ていた少女が横を向くと、無表情の瀬川がこちらに向かって歩いてくる。少女は慌ててマーノーシュの近くに行き、瀬川が来たことを伝える。マーノーシュは少女の手を引いて、部屋の窓側の壁際に移動させる。マーノーシュは、砕け散った壺の破片の中から一番大きなものを手に取り、部屋の入口側の壁際に移動する。

 瀬川が部屋に入ってくる。瀬川は、部屋の外から見えていた少女に視線を取られ、少女とは逆方向の壁際にいるマーノーシュに気付いていない。マーノーシュは、瞬時に瀬川の足元に近付いて、持っていた壺の破片を瀬川の太股に突き立てる。瀬川は呻き声を上げながら、持っていた黒い筒状の物をマーノーシュに向けて突き出す。マーノーシュは手を出して、瀬川の突き出した黒い物を払い除けるための動作をする。刹那、鳥が囀るような音とともに、マーノーシュの体が不自然に脱力し、動きが緩慢になる。

 痛みに顔を歪めている瀬川の右手にはスタンガンが握られている。瀬川は、脱力しているマーノーシュに、再びスタンガンを押し付ける。マーノーシュは床に倒れて、動かなくなった。

 「くそガキ」瀬川はマーノーシュを一瞥し、少女を見る。

 少女は恐怖で全身が硬直している。その様子を見た瀬川は、少女にスタンガンの先を見せながら、笑顔でスイッチを入れる。けたたましい放電音。スタンガンのスイッチを切り、少女をエスコートするように左手を差し伸べる瀬川。

 恐怖に支配されている少女に、瀬川の左手を握る以外の選択肢は無かった。



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第五章 薬莢(4)(5.9)

 目を覚ましたマーノーシュが最初に見た物は、これまでに見たことがないほど眩しく輝く大きなシャンデリアだった。マーノーシュは、自分がベッドの上で寝ていることが分かり、体を起こそうとするが、左手が激しく痛み、うまく体を起こせない。左手を見ると、火傷のような跡ができている。

 「起きた?」

 聞いたことのない声と、聞き慣れないアクセントだが、マーノーシュが理解できる言葉だった。マーノーシュが声の聞こえた方向に顔を向けると、見知らぬ女の子がコップを持って近付いてくる。部屋の中は広く、マーノーシュが寝ているベッドも含めて、ベッドが三台置かれているが、その三台よりも広い面積がフリースペースになっている。見知らぬ女の子は、そのフリースペースを歩いて近付いてくる。

 「誰?」マーノーシュが訊いた。

 「私の名前は、イルハアム」

 「ここはどこ?」

 「セガワの家」

 マーノーシュは、セガワの家で起きたことが夢であれば良いと願っていたが、イルハアムの言葉で現実を突き付けられる。

 「もう一人、女の子は?」

 「あなたは誰?」

 「あたしはマーノーシュ」

 イルハアムが話す言葉は、マーノーシュの言葉と違う部分もあったが、意思疎通は概ね可能だった。マーノーシュを部屋に運んできたのが瀬川であること、マーノーシュ以外の女の子を見ていないこと、マーノーシュが部屋に来てから一時間ほど経っていることなどが、イルハアムとの会話で分かった。

 「部屋から出たい」マーノーシュが言った。

 「出れない」イルハアムが答える。

 マーノーシュはベッドから起き上がる。酷い倦怠感を感じながら、部屋の出口に向かう。出口のドアはロックされており、玄関ドアと同じように、マーノーシュが見たことのない機械が付いている。

 突然、ドアが解錠される音が聞こえた。マーノーシュは慌ててドアから離れて身を隠すが、イルハアムは逆にドアへ近付いた。

 少し開いたドアから、少女が部屋に入ってくる。少女は目の前のイルハアムに気付いて、僅かに微笑む。開いているドアの隙間から瀬川の笑顔が一瞬見えたが、すぐにドアは閉められた。マーノーシュが少女に声をかけながら近付く。少女は驚いた顔で口を動かしたが、声にならない。涙を一筋流すと、少女は蹲った。少女の目の前にいたイルハアムは、屈んで少女の肩に手を伸ばす。

 「セガワ怒らせなければ、セガワは怖くない」蹲っている少女を抱きしめながら、イルハアムが言った。「美味しい物がいっぱい食べられる。綺麗な服が着られる。水汲みをしなくていい。薪も拾わなくていい。山羊の餌やりもない。ゆっくり暮らせる。だから泣かないで。三人なら楽しく暮らせる」

 「それじゃあ、山羊と一緒だ」マーノーシュが静かに言った。

 「山羊で構わない。私たち売られたから」イルハアムがマーノーシュを見上げながら言った。

 「そいつは売られてない。あたしたちとは違う」

 「売られてない? どういうこと?」

 「そいつと少し話せば分かる。ここに来たのは何かの間違いだ」

 「ありがとう、もう大丈夫」少女が鼻をすすりながら顔を上げて言った。「ちょっと、びっくりしただけ。もう平気。この子の言うとおり、セガワを怒らせなければ、すぐに終わったから。私よりも、あなたのほうが心配」少女がマーノーシュを見上げた。

 「あたしは大丈夫」少女の顔を見ながら答えたマーノーシュの目から涙が溢れる。「……ごめん……逃げられなかった……」

 

 瀬川の家での生活は豪勢だった。食事は三食必ず用意される。食事のメニューは毎食変わる。食事の用意や後片付けをする必要はない。起床後と入浴後に着替えるが、同じ服を二度着ることはない。掃除や洗濯などの家事をしなくても良い。但し、瀬川がいなければ、部屋の移動をすることはできない。瀬川の家から外出することは一切無い。

 数ヶ月前から瀬川の家に監禁されているイルハアムは、瀬川の家での暮らしを既に受け入れているようだった。決まった苦痛と制約をうまく処理できれば、幸せに暮らせるとイルハアムは話す。さらに、同年代の少女とマーノーシュが来たことで、三人で楽しく暮らせるのではないかと話した。瀬川の家に来たばかりのマーノーシュは、そんなイルハアムの考えを否定していたが、瀬川の家での豪勢な生活に浸かることで、イルハアムの考えを理解できるようになった。

 「あたしは大丈夫。この生活でも。向こうよりも格段にいい生活になった。でも、やっぱりあんたは違うんだよ」マーノーシュが少女を見ながら言った。「こんなところに居ちゃいけない。あたしたちとは違う。あんただけは何とかしてここから逃げなきゃ駄目だ」

 「いいの。私もここで暮らす」少女が強い口調で言った。

 「私も同じこと思ってる」イルハアムがマーノーシュの意見に賛同した。「どうやって逃がす?」

 「セガワを殺すしかないだろ」マーノーシュが平然と答える。

 マーノーシュの迷いの無い回答を聞いた少女は、間髪を容れずに「お願い、やめて」と言って、マーノーシュを睨み付ける。

 少女は、マーノーシュが瀬川を殺すと言い始めることを予想していた。イルハアムは気付いていないが、瀬川の家にあるドアは全て瀬川の手と目が無ければ開かないことを、マーノーシュは勘付いている。瀬川の手と目が無ければドアを開けることができないのであれば、瀬川を殺して手と目を切り取るしかない。マーノーシュの思考がそのように流れることを、少女は予想していた。

 「私、少しずつニホンの言葉が分かってきたから、たぶん、近いうちに瀬川と会話できると思う。お願い、それまで待って」少女が言った。

 「ニホンの言葉が、分かってきた……?」マーノーシュが驚く。「どうやって?」

 「瀬川の言葉を聞いてるうちに、なんとなく……」少女が答える。

 「セガワの言葉って、いつ聞いてんだよ」マーノーシュが質問すると、少女は押し黙って俯いた。「……悪い」

 瀬川の家のドアを開けるためには、瀬川の手と目が必要であることに早い段階で気付いていた少女は、マーノーシュが瀬川の殺害を提案してくる前に、監禁状態を解消したいと考えていた。少女の結論は、瀬川の説得もしくは瀬川との取引だった。瀬川の説得にしろ、瀬川との取引にしろ、日本語を話せることが最低条件であるため、少女は積極的に瀬川とコミュニケーションをとり、少女たち三人の解放の下準備を進めていた。

 少女は既に、瀬川の家にある物の名称であれば、すべて発音できるようになっていた。瀬川が話す言葉の半分は理解できる。最近では、文字の読み書きを瀬川から教わっていた。瀬川の家を出たあと、必要になると感じていたからだ。

 少女は、マーノーシュとイルハアムに対して、瀬川の家を出たあとの展望を伝える。少女たち三人が最終的に故郷へ戻るため、少女が日本語を習得するまでは、三人で瀬川の家での生活を続けることが最善であることを、少女は説明した。イルハアムは直ぐに納得したが、マーノーシュは難色を示す。

 「セガワを甘く見てないか? あいつは優しくない」マーノーシュが言った。

 「優しくなかったとしても、殺すのはいけない」少女が答える。

 「優しくないっていうのは、なんていうか、もっと怖い意味だ。今、セガワを殺さなきゃ、あたしたちが殺される。それくらいの怖い意味だ」

 少女は、マーノーシュの警告を切実に理解していた。スタンガンを容赦なくマーノーシュに押し付けた無表情の瀬川。スタンガンの放電を少女に見せつけながら笑う瀬川。瀬川の本質は、他人を簡単に傷付けることができる。少女たちが長期的に瀬川の家に監禁されることで、瀬川が少女たちの誰かを傷付ける確率が高まってしまう。だからこそ少女は一刻も早く、平和的に、監禁状態を解消するために行動していた。

 「……うん。分かってる」少女が答える。「でも、お願い、あと一ヶ月だけ私を信じてほしい。今のまま外に出ても、悪いことしか起きない気がするの」

 少女の言葉を聞いて、マーノーシュが少女を見つめる。

 「あんたの考えを疑ったことなんてないよ」マーノーシュが笑う。「この先もずっと疑わない。あんたの考えが外れても疑わない。待つよ。あんたがいいって言うまで待ってる」マーノーシュが立ち上がる。「とりあえず、一ヶ月、気合い入れるか」少女が体を伸ばして、深く息を吐いた。「……一ヶ月って、どのくらいだっけ?」

 

 一ヶ月後、少女は、日常会話であれば問題無く日本語を喋れるようになっていた。日本語の読み書きも、平仮名と片仮名は習得していた。今は、瀬川から紙媒体の国語辞典と漢和辞典をもらって、少女一人で日本語を勉強している。

 瀬川と少女が二人だけで過ごしている時に、少女は、瀬川が操作しているスマートフォンを見せてもらった。少女の掌の中にある機械が一瞬で画像や記号の表示を変えていく。

 「これは、どうやって動いているの?」少女が尋ねた。

 「電池で動いてる」笑顔の瀬川が答える。

 「電池から電気をもらって、そのあとは?」

 「電気をもらった部品が、プログラムに従って、光を出したり、指で触った場所を感知したりしてる」

 「プログラムって?」

 「言葉で説明するのは難しいな。プログラムは、言葉そのものだよ」

 瀬川は、少女が持っているスマートフォンを操作して、プログラムの説明を始めた。パソコン本体の画像。キーボードの画像。キーボードで文字入力している場面の動画。プログラムに必要なアルファベットについて。実際にプログラムを組んでいる場面の動画。画像や動画を見ながら、少女は瀬川に様々なことを質問する。少女にとって、プログラムは魔法のようだった。この魔法は強力な武器になると直感し、少女は質問を繰り返した。

 「例えば、あそこにあるエアコンも、プログラムで動いてる。でも、目に見えるものじゃないから、これ以上説明しても、ややこしくするだけかな」瀬川は言いながら遠くを見た。「……プログラムに興味ある?」

 「うん」

 翌日、少女たちの部屋にパソコンが置かれた。パソコンと一緒に、プログラムに関する本が何冊も置かれている。インターネットに接続されていないパソコンだったが、プログラムを学びたい少女にとって、何も問題なかった。

 「これでいったい何ができるんだ?」プログラムに関する本と国語辞典と英和辞典を同時に読み耽っている少女に向かって、マーノーシュが質問した。マーノーシュは、キーボードを人差し指で押している。

 「ここから出たときに、すごい武器になると思う」少女が本を読みながら言った。

 「ここから早く出なくていい?」イルハアムが不安そうに言った。

 「この勉強してから出たほうが良いと思ってるの。一ヶ月経っちゃったけど、この家の環境で落ち着いて勉強すれば、早く覚えられそう」少女が言った。

 「どのくらい?」イルハアムの不安そうな顔。

 「一ヶ月……じゃあ、ちょっと無理かな……二ヶ月くらいかかっちゃうかも……」

 「そうか……心配……」

 少女の答えに、イルハアムの表情はどんどん暗くなるが、少女の視線は常に本の文字を追っており、イルハアムの表情の変化に気付くことはなかった。

 

 それから二ヶ月のあいだ、環境の変化は全くなかったが、少女の知識は膨らみ続けた。少女は漢字の読み書きを習得しながら、英単語のスペルも覚えていく。最終的には、国語辞典も英和辞典も使わずに、プログラムに関する本を通読するようになり、階層の一番低いプログラムを理解できるようになっていた。少女が初めてプログラムという言葉を知ったとき、瀬川が少女に説明した内容が正確ではないことも分かった。日本人は頭の良い人種であると考えていた少女は、その考えを改めることにした。

 パソコンを使い始めてから二ヶ月が経過する頃、イルハアムの体調が悪くなった。日本語とプログラムについて充分な知識を得たと判断した少女は、瀬川の説得、もしくは、瀬川との取引を実行することにした。何よりも優先したいのは、イルハアムの体調である。イルハアムの体調を回復させるため、現在のイルハアムの状況を瀬川に伝えた。

 「そうだね、僕も気付いてた。イリカハルムをなんとかしないとね」瀬川が満面の笑みで言った。

 イルハアムの名前すら正確に発音できないなんて、日本人を過大評価していたかもしれない、と少女は思った。







 【自己検閲により、最終段落まで削除】



 「戻ってきたら、セガワ殺すよ」
 大きなポリ袋にイルハアムの遺体を淡々と詰め込んでいる少女に向かって、マーノーシュが言った。マーノーシュは牢屋の中から少女の作業を見ている。
 「一週間後にしましょう。今は無理だと思う。あなたの動きは凄いけど、スタンガンを持ちながら最大限に警戒している成人男性を殺すには、条件が悪いよ。失敗する可能性のほうが高いと思う」少女は無表情で答えながら、ポリ袋に詰め込んだイルハアムの遺体を、大きなスーツケースの中に仕舞った。
 「つらい」マーノーシュが呟いた。
 「うん」スーツケースを撫でながら、少女が頷いた。


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第五章 薬莢(6)

 瀬川にイルハアムを殺されたあと、一週間のあいだ、少女とマーノーシュは、瀬川を殺す方法を話し合った。話の内容は極めて客観的であり、感情的な表現は一切なかった。

 少女もマーノーシュも、目の前で殺されたイルハアムのことを話さなかった。イルハアムの話題を意識的に避け、瀬川を殺すことだけに集中した。しかし、二人の頭の中では常に、自分たちの行動如何でイルハアムの死を避けることができた事実が巡っていた。イルハアムが殺される前兆に気付ければよかった。否、前兆など無くても、瀬川を殺せばよかった。瀬川の家で暮らす三ヶ月の間に、少女の中の優先順位が無意識に変わっていた。自分たちの解放よりも、好奇心を優先させるようになっていた。そのことにマーノーシュは気付いていたが、指摘することはなかった。

 今は、後悔と懺悔をする時期ではない。速やかに瀬川を殺すことが目標である。同じ結論に従って、少女とマーノーシュは行動していた。

 少女もマーノーシュも、瀬川の前では怯えた振りをする。涙ぐむ。瀬川に反論しない。瀬川の言葉どおりに行動する。瀬川に反抗的な態度は示さない。常に二人で寄り添う。

 二人の絶対服従の態度に瀬川は満足し、二人の目の前でイルハアムを殺した効果が覿面だったと考えた。瀬川は、今の二人が自分に反抗することは無いと判断して、初めて二人を一緒にして瀬川の寝室に入れた。瀬川は、机の上に置いてあったビデオカメラとナイフを持って、両方を二人に向けながら近付く。瀬川は、ナイフをマーノーシュの首筋にあてがう。マーノーシュが涙を流すと、瀬川は微笑みながらマーノーシュから離れて、ビデオカメラを三脚にセットする。

 その後も、瀬川は常にナイフを持ったまま行動する。瀬川は、少女とマーノーシュの様子を注意深く観察していたが、自分の動きに気を取られて、注意が散漫になっていた。

 一瞬だった。

 マーノーシュは、ナイフを握っている瀬川の右手を掴んで、そのまま瀬川の左胸に移動させた。

 瀬川は目を見開き、排水溝に多量の水が流れていく時と同じような声を出す。瀬川は、仰向けの状態から上半身を起こそうとするが、途中で崩れる。今度は横向きになって起き上がろうとするが、途中で動かなくなった。

 瀬川が動かなくなるまでの間、少女はずっと瀬川を見ていた。イルハアムが死んだ時と同じだった。瀬川もイルハアムも、屠殺される山羊と同じように死んでいった。

 瀬川の左胸に突き刺さっているナイフを引き抜いたマーノーシュが、瀬川の両目と右手を慎重に切り取る。瀬川の家のドアを開けるために、瀬川の目と手の何が必要なのか、少女もマーノーシュも正確に分かっていないため、手首の関節や瞼にナイフの刃を入れて、眼球と手を傷付けないように細心の注意を払う。切り取った瀬川の右手と両目に付いている血液を、ペットボトルに入っていた水とベッドのシーツで拭き取ると、少女は右手と両目を持って、部屋のドアに近付いた。マーノーシュは部屋の中にあった椅子を持ち上げて、部屋のドアの前まで移動させる。マーノーシュが両目を持って椅子の上に立ち、少女が右手を持つと、二人で声を掛け合いながら、部屋のドアに付いている機械に瀬川の右手と両目を読み込ませて、ドアの解錠を試みる。試行錯誤しながら、右手の指紋と掌紋、右目の虹彩でドアが開くことを理解し、ドアの解錠は数分で終了した。

 マーノーシュは、瀬川の右手と右目を持ち歩きながら家の中を移動して、バッグと食料を見つけ、バッグの中に食料を詰め込む。

 少女は、寝室にあった瀬川のスマートフォンのスリープを解除すると、予め盗み見ていたパスコードを入力して、スマートフォンのロックを解除する。瀬川がスマートフォンを使っている様子を隣で見ていたため、スマートフォンの使い方の見当は付いた。少女は、瀬川のスマートフォンを持って逃げたいが、瀬川のスマートフォンを使うことで、瀬川を殺した自分たちの居場所を誰かに知られてしまうのではないかと考えて、スマートフォンの機能について、インターネットで調べた。少女の予想通り、瀬川のスマートフォンをこのまま使うことで、スマートフォンの大まかな場所が特定されてしまうことが分かった。

 少女は、瀬川のスマートフォンからICチップを抜き、スマートフォンの位置が知られないように設定を変更する。同時に、現在地を調べて、逃げるべき方向を決めた。

 少女の後ろにいたマーノーシュから、食料の詰まったバッグとコートを受け取る。コートの袖と裾は切り取られて短くなっていた。瀬川の右手と右目は、死体のそばに転がっている。玄関は既にマーノーシュが開けていた。マーノーシュは一刻も早く、この家から逃げたいようだった。

 少女とマーノーシュは、家の外に出て歩き始めた。数ヶ月ぶりの外であるが、真夜中であるため、周りの様子は判然としない。星も見えない。とても寒い。着ているコートは瀬川の物であり、サイズが合わないため、コートと体の隙間から冷たい空気が入ってくる。少女とマーノーシュは、自分で自分を抱きしめるようにしながら歩き続けた。

 

 周りには沢山の家がある。道は全て舗装されている。常夜灯が道を照らし続ける。人工物が溢れている。時々見かける木も人工物のように見えてくる。

 

 数時間後、早足で歩いている二人の進行方向の先に人影が見えた。人影の頭の辺りで、赤い光が小さく灯っている。煙草の光だろうか。

 少女たちが歩く道は一本道で、曲がる場所は無い。急に引き返せば不審に思われるかもしれない。少女とマーノーシュは歩くスピードを遅くして、人影に近付いて行く。人影は、髪の長い人であることが分かった。おそらく女性。いざとなれば走って逃げよう、と少女は考える。

 女性は、ずっと二人を見ていた。煙草は持っていない。女性の瞳が常夜灯の光を微かに反射している。

 「こんばんは」女性が優しい声で二人に挨拶した。

 「こんばんは」

 少女が歩きながら答える。マーノーシュは黙ったまま。

 「もしかして、何か困ってる?」女性が言った。

 「いいえ、大丈夫です」少女は歩いたまま元気に答えて、女性の前を通り過ぎようとする。

 「ごめんね。職業柄、こんな時間の女の子を放っておけないの」女性は、二人を目で追いかけながら話を続ける。「少しだけ、お話しさせてもらえないかな」

 少女は立ち止まって女性の方を向き、一回頷く。マーノーシュも少女に倣う。

 「寒いでしょ。うちに入って話さない? 児童養護施設っていうところなの」女性は言いながら、近くの壁を指で示した。壁には看板が取り付けられていて、施設名が書かれているようだが、暗くて判読できない。壁の内側には建物がある。

 少女は、走って逃げることも考えたが、そちらの方が危険であると判断して、女性の提案を受け入れた。女性の言葉どおり、体は冷え切っていて、どこかで温まりたいという思いもあった。

 女性は清水と名乗った。清水は二人の名前を尋ねずに、児童養護施設の中に二人を招き入れる。

 施設の中の照明は全て消えている。室温も低い。避難誘導灯だけが緑色に輝き、廊下を照らしている。清水は、事務室の照明とエアコンを点けながら、事務室の中にある椅子に座るよう二人に勧めた。

 「ホットミルク飲める?」

 「はい」

 清水の言葉に反応しながら、少女が椅子に座る。マーノーシュも少女に倣う。日本語が分からないマーノーシュは、少女の様子を見ている。少女もマーノーシュも、日本語以外の言葉を話さない方が良いと考えていた。

 清水が電子レンジにカップを二つ入れてスイッチを押し、少女たちの近くの椅子に座った。電子レンジが大きな音を立てる。

 「もし良ければ、今日はここで泊まっていかない?」清水が微笑みながら言った。明るい部屋で見る清水の顔は、とても疲れているように見えたが、表情に翳りはない。口調も優しい。「誰にも言わないし、気に入らなければ、すぐに出てっていいから」

 清水の言葉を聞いた少女は、マーノーシュに相談したかったが、清水の前で日本語以外の言葉を話すことを躊躇していた。

 電子レンジの大きな音が、沈黙を掻き混ぜる。

 「この人、信用できると思う」

 突然、マーノーシュが口を開いた。普段の声量だったので、日本語ではない言葉が清水にも聞こえただろう。しかし、清水の表情や態度に変化は無かった。少女がマーノーシュを見つめていると、電子レンジの温めが終了した。清水は立ち上がって、ホットミルクが入った二つのカップを少女とマーノーシュの前のテーブルに運び「飲んで。あったまるよ」と言った。

 少女とマーノーシュがホットミルクに口を付ける。温かい。カップを持つ手が、カップに付けた唇が、ホットミルクを通した喉が、ホットミルクから熱をもらった血液が、温まっていく。

 ホットミルクを飲み終えると、少女はマーノーシュを見ながら、日本語ではない言葉を話す。

 「この人の名前はシミズ。私たちの話を聞きたいみたい。この建物で、そういう仕事をしているみたい。今日の夜、ここに泊まることを提案されてる」

 少女がマーノーシュに淡々と伝えている言葉を、清水は全く理解できないはずだが、黙って少女の言葉を聞いていた。

 「あたしたちのことを心配してくれてる」マーノーシュが話す。「シミズに迷惑をかけたくないけど、このままあたしたちがいなくなっても、やっぱり迷惑なんだろうな」

 「泊まるかどうかは後で判断するとして、今の私たちの状況を伝えましょう。相談すれば、良い方向に進めるかもしれない。故郷に帰れるかもしれない」

 少女の言葉を聞いて、マーノーシュが頷く。

 少女は、清水に今の状況を伝えながら、自分のコートのボタンを外して、洋服に染み付いている血液を見せた。清水の表情が無くなる。

 清水の目から涙が溢れる。

 「私が何とかします」少女の話を聞いた清水が言った。「日本人として責任をとります。あなたたちに酷いことをしてしまった日本に謝らせます。ごめんなさい。本当にごめんなさい」清水が頭を深く下げる。たくさんの涙の粒が清水の膝の上に落ちていった。

 

 少女とマーノーシュは、施設の浴室で体を洗ったあと、清水が用意してくれたパジャマに着替えた。事務室の中は温かく、パジャマだけで過ごすことができた。清水は二人を事務室の奥にある宿直室に案内する。既に布団が二つ敷かれていた。宿直室は狭く、二つの布団で、床の殆どが覆われている。布団が敷かれていないスペースには、着替えと子供用のコートが二組置かれている。

 「明日の朝、またゆっくり話しましょう」布団に入った少女とマーノーシュに向かって清水が言った。

 「はい」少女が頷きながら言うと、清水は微笑んで、宿直室の照明を消した。

 「おやすみなさい」

 清水が宿直室の襖を閉めた。襖の隙間から事務室の明かりが漏れ入っていたが、暫くすると事務室の照明も消えた。清水が事務室から出て行ったようだ。

 少女とマーノーシュは一言も話さなかった。明日、どのように行動すれば良いか全く分からないが、とにかく今は休んだほうが良い。二人とも同じように考えて、眠ることに集中する。

 体は疲れ切っているが、なかなか眠ることができずに、二人とも寝返りを繰り返す。数時間後、漸く少女の寝息が聞こえるようになった。

 少女の肩が叩かれれる。

 眠りの浅かった少女は、すぐに目を覚ました。朝かと思ったが、目の前は暗闇だった。朝であれば、宿直室の障子から光が差しているはずである。なぜ起こされたのだろう。

 「外が変だ」マーノーシュの声がする。「くさい。たぶん燃料だ。足音もいっぱいしてる。逃げよう」

 マーノーシュが宿直室の襖を開けると、廊下の避難誘導灯の緑色の光が宿直室に差し込んだ。緑色の光の中で、少女とマーノーシュは、清水が用意してくれた服とコートに着替える。コートの中には、手袋とマフラーと毛糸の帽子が用意され、二人が脱いだ靴の隣に、子供用のブーツも置いてある。

 二人の着替えが終わる頃、宿直室の障子が赤く染まり始めた。朝日が差し込むにしては時間が早すぎると感じた少女は、障子を僅かに開いて外の様子を窺った。外の景色が赤く染まり、揺らめいている。近くで何かが燃えているようだった。小さな炎ではない。

 「この建物燃えてるかも」少女が囁いた。

 「うん。煙のにおいもしてる。たぶん、さっきの足音の奴が燃やした」マーノーシュが早口で囁いた。

 「シミズ?」

 「分からないけど、足音は一人じゃなかった。とにかく逃げよう」

 少女とマーノーシュが辺りの様子を確認しながら外に出る。外の赤色が網膜を刺激し、煙が鼻腔を刺激し、爆ぜる音が鼓膜を刺激するが、どこが燃えているのか、正確な場所は分からない。二人は、清水が用意してくれたマフラーに顔を埋めて、清水と出会った道路を再び歩き始めた。

 清水が用意してくれた物は、どれも温かかった。少女は、冷たい空気の中をどこまでも歩いていけるような気がした。

 少女は歩きながら、先ほどの状況を思い出していた。建物は本当に燃えていたのか。燃えていたとすれば、誰かが火を付けたのか。誰かが火を付けたのであれば、あの建物が職場である清水が火を付けることは考えにくかった。これから放火しようとしている人間が、見ず知らずの子供を助けて、その子供のために涙を流し、着替えまで用意して、放火しようとしている建物に寝床を用意するだろうか。

 考えはまとまらないが、今はとにかく人が居ない場所へ向かって歩くしかない。

 数十分ほど歩いた頃、赤色灯を点けた警察車両が、少女とマーノーシュの後ろを走行してくることに気付いた。少女もマーノーシュも、赤色灯を点けた警察車両の意味を理解していなかったが、物々しく赤い明滅を繰り返す車を見た二人は、暗がりに身を隠そうと考えた。辺りを見回して、常夜灯が無い方向へ走る。二人が行き着いた先は、林のような場所だった。林の中は暗くて足元すら見えない。少女は背負っていたバッグの中から瀬川のスマートフォンを取り出し、ライトを点けて林の中に入った。マーノーシュも後を付いてくる。

 林の中を進むと、開けた場所に出た。開けた場所の中心には大きな石像のような物がある。近づいてライトで照らすと、石像は大きな円の形に作られており、その円の中心には、小さな竪琴を両手で持った女性の石像が立っている。円の外環の一部にプレートが取り付けられていたので、少女はプレートに書かれている文字を読んだ。『平和を祈る女神の泉』と書かれていた。

 「夜が明けるまでは、ここにいましょう」少女が言った。

 マーノーシュは頷きながら、女神像を見上げて「これ何?」と質問する。

 「平和を祈る女神の泉、だって」

 「ふーん……泉が近くにあるのか?」

 「この丸い土台のところに水が入るんじゃない?」

 「なんのために?」

 「女神も喉が渇くんじゃないかな」

 「女神って何? 神様に性別あるの?」

 少女とマーノーシュは久しぶりに、たわい無い話をする。時々笑い声を出しながら、笑顔で会話する。イルハアムが殺されてからの二人は、常に後悔の念に苛まれながら、瀬川を殺すことだけを考えていたが、目的を達成した二人の感情は、糸の切れた凧のように一瞬だけ空を飛んでいた。

 「こんばんは」

 突然の声に驚く少女とマーノーシュ。少女は反射的に声の聞こえた方向をライトで照らした。二人は、呼びかけられたこと自体に驚いたあと、その言葉が二人の母国語であることにも驚いていた。

 ライトが照らす場所に、女性が一人立っている。少女とマーノーシュは無言で、その女性を見つめる。

 「急にごめん。懐かしい言葉だったから」女性が口だけを動かす。「朝になる前から探検? 暗いから危ないよ」

 少女もマーノーシュも、イルハアムのことを思い出していた。なぜなら、目の前の女性が話す言葉のアクセントは、イルハアムが話すときのアクセントと全く同じだったからだ。

 「イルハアム……」マーノーシュが呟いた。

 マーノーシュの言葉を聞いた女性が目を見開く。女性は口を開いて何か話そうするが、息が漏れるだけで、言葉にならない。

 「……どうして……私の名前……」女性は目に涙を溜めながら、途切れ途切れに声を出す。「……本当に女神?」女性が絞り出した声は、空気に混ざって消えていった。

 少女とマーノーシュの目の前で、高宮イリカが泣き崩れた。



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第五章 薬莢(7)

 少女とマーノーシュは、目の前で泣き崩れた高宮に近寄り、暫くのあいだ高宮を慰めた。顔を両手で覆いながら声を押し殺して泣き続けた高宮だったが、空の色が青くなる頃には、落ち着いて二人と話せるようになった。

 高宮は、これまでの自分の境遇を話し始めた。

 故郷が内紛で住めなくなり、家族と一緒に難民キャンプに辿り着いたあと、日本軍に保護され、自国に両親を残して一人で日本に来たこと。日本では、優しい養親の下で自由に生活していたこと。その養親が先月、突然死んでしまったこと。今日、養親の家を追い出されてしまうこと。行くあてが無いこと。頼れるものが無いこと。孤独であること。これから自殺しようとしていたこと。

 高宮が自分の境遇を話し終えると、少女とマーノーシュも、自分たちが置かれている状況を話した。話の途中で高宮は涙を流し、二人を両腕で抱え込むように抱きしめた。

 二人を守らなければならない、と高宮は感じた。同時に、日本に対する不信感が膨張する。小さな子供が搾取の対象になっている。日本は、その状況を率先して作り上げている。許されることではない。今すぐに糾弾したい。しかし、少女とマーノーシュの話を聞くと、糾弾した三人の存在が消されてしまう可能性があることが分かった。少女とマーノーシュが先ほど遭遇した火事は、偶然の出来事ではないかもしれない。二人の存在を消すために誰かが動いているかもしれない。

 もしかして、今の私も同じ状況なのだろうか? 高宮が自問自答する。

 「あたしたちって、もしかして殺されそう?」マーノーシュが高宮に質問した。

 「そうかも」高宮が正直に答える。

 「なら、あなたは今すぐ私たちから離れないと」少女が強い口調で話す。「イルハアムが巻き込まれて死んでしまうのは――」少女は途中で言葉を無くすと、表情を強張らせた。目から涙が一筋流れ落ちる。

 「……心配ない。三人なら生きれる」高宮が笑顔で言った。

 空の青が明るくなっていく。太陽は見えないが、夜が明けていく。

 

 それからの三人は、お互いの意見を共有しながら、どのように行動すべきかを話し合った。

 三人の存在を消そうとしている人間が本当にいるのか。目立たず生活するためには、どうすれば良いか。お金を手にいれる方法は。住む場所は。自分たちが置かれている状況を、いつ、誰に、どのような方法で伝えるのか。

 結論が出ないことも多かったが、自分たちの目の前にどのような問題が山積しているのか整理できた。これから長い時間をかけて、様々な問題を解決しなければならない。

 「日本で使う名前、決めないと」高宮が言った。「私の名前、日本人は発音できないから、イリカになった」

 「あんた決めてよ。あたし日本語わかんないし」マーノーシュが少女に向かって言う。

 「んー……」

 少女は考えながら、平和を祈る女神を見上げる。

 「……泉、清見、かな」

 「イズミ、キヨミ……うん、日本人の名前だね」高宮が日本語で言った。「なんかラップっぽいけど。イズミー、キヨミー。おお、韻踏んでる」高宮が笑う。

 「イズミキヨミが名前なの?」マーノーシュが質問した。

 「イズミが家族を表す名前で、キヨミが私を表す名前だよ」少女が答える。

 「じゃあ、私の名前は?」マーノーシュが少女を見つめながら言った。

 「喜与奈」



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第五章 薬莢(8)

 空の青が輝き始めた頃に、三人は高宮の家へ行った。高宮は今日中に、この家から出なければならない。高宮は手早く荷物をまとめ、リュックを背負い、キャリーケースを一つ引きながら高宮家を後にした。

 日本の文化や社会の仕組みについては、三人の中で、高宮しか知らない。高宮の知識も充分ではなかったが、日本人として利用できる制度を調べて、生活の基盤を作ることにした。勿論、清見と喜与奈の存在は秘密にしたまま。

 高宮は、生活保護を受けることで居住先を確保する。アルバイト先も確保した。三人は、古いアパートで共同生活を始めた。

 清見は、手持ちのスマートフォンを公共無線LANに接続することで、様々な知識を吸収していた。程なくして、パソコンとインターネット環境さえあれば、お金を稼ぐ方法があることに気付く。高宮と喜与奈に相談して、パソコンとインターネット環境を最優先で用意してもらうことにした。

 喜与奈は、高宮に頼んで、こくごドリルを買ってもらった。

 

 高宮が得たバイト代で、パソコンとインターネット環境を用意すると、清見は瞬く間に収入を増やした。生活保護は廃止されたが、三人の生活が困窮することはなかった。高宮は、清見の能力があれば、一流大学を卒業して、大きな影響力を持つマスメディアに就職し、日本を糾弾できるようになるのではないかと考えた。高宮は既に通信制高校を卒業している。あとは、高宮の戸籍を利用して、清見が大学に入学すれば良い。高宮の提案を聞いた清見は、大学受験のための勉強を始めた。

 喜与奈は、近所の空手道場に通い始めた。

 

 清見の身長が高宮と同じくらい高くなった頃、清見は王都大学に入学した。目立たないように大学生活を過ごし、王都大学を卒業した清見は、王都放送へ就職する。王都放送の企画会議で、少子対策法の養子が過剰な教育を受けていることを告発するが、編成部長の意見により、清見の取材は捏造であると結論付けられてしまう。清見の取材を支持したのは佐上だけだった。

 喜与奈は、銃火器や爆発物の取り扱いを海外で習得した。

 

 正攻法で日本を糾弾することはできないと理解した清見と喜与奈の二人は、少子対策法を悪用している人間を、テロリズムで糾弾することにした。高宮がテロに反対することは分かりきっていたため、高宮には一切相談せずに、二人はテロを起こす準備を始める。清見は、官公庁のシステムをハッキングして、少子対策法を利用して人間を買っている人間を特定した。同時に、国王生誕祭の会場準備を委託される企業と、その下請け会社を特定した。

 喜与奈は、清見が特定した下請け会社のうち、外構工事会社と清掃会社の二社を掛け持ちで勤務することにした。

 

 清見は山梨県の廃校を購入して、住居として利用できるように修繕した。

 喜与奈はアーミーショップでナイフを購入して、使い心地を確かめた。

 

 清見は、少子対策法を利用して人間を買っている人間の家のセキュリティをダウンさせた。

 喜与奈は、人間を買っている人間を刺殺して、男の子一人を連れ帰った。同時に、沢山の貴金属と記憶媒体、そして、拳銃三丁と弾薬を持ち帰った。

 高宮は、清見と喜与奈から、テロの開始を告げられた。目の前には、喜与奈が連れ帰った男の子。引き返せない状況であることを悟り、高宮はテロを黙認した。

 

 清見は、喜与奈が死んでしまうことを知っていた。

 喜与奈は、清見が死のうとすることを知っていた。

 

 清見は、喜与奈から受け取った拳銃を、懐のポケットの中に大切に仕舞った。

 喜与奈は、清見に持たせた拳銃の最後の弾薬から、火薬と雷管を取り除いた。



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第六章 硝煙

 イリカさんは確かに引鉄を引いてた。でも、弾は出なかった。

 涙と鼻水で顔がグシャグシャになってるイリカさんは、一瞬だけ目を見開いたけど、そのあとは無表情。顳顬に向けてた銃を降ろして、というかそのまま銃を地面に落として、横で光ってる沢山のモニターを見てる。モニターの中では、血だらけの犯人がフラフラしながら立ち上がって、左手で右腕を押さえながらバルコニーの淵に向かって走ってる。いや、犯人の身振りは必死だけど、歩くスピードくらいしか出てない。バルコニーの出入口から沢山の人間が一斉に入ってきて、犯人をあっという間に捕まえた。

 その瞬間、たぶん、いや、絶対、イリカさんは笑った。

 今まで見たことない、誰かをバカにするような無邪気な笑顔。

 大好きな誰かを見守るような笑顔。

 イリカさんが、イリカさん自身のためだけに作った笑顔。

 「鈍くなったね」

 イリカさんの口が動いて、空気みたいな声が聞こえた。

 笑ったあとのイリカさんは、涙と鼻水を袖で拭うと、すぐに無表情になって、ずっと無言だった。普通の足取りで部屋のドアの前まで行ったイリカさんは、ドアの鍵を開けて、部屋のドアを開いた。きっと、ドア前の通路奥には警察の人間が沢山いたと思う。両手を上げろとか、床にうつ伏せに寝ろとか、男の怒鳴り声が聞こえて、イリカさんが素直に従うと、沢山の人間が一斉に走ってくる音。あっという間にイリカさんはいなくなってしまった。代わりに、沢山の警察官が部屋に入ってきた。

 それからのことは、あんまり覚えてない。記憶に残ってるのは、部屋に嫌なニオイが立ち込めてたこと。それまで僕の感覚がマヒしてたのを自覚すると同時に、なんだか、イリカさんの負の感情の残り香のように思えた。イリカさんを縛り付けてた負の感情は、全部外に出たと思う。じゃなきゃ、あんな笑顔、作れなかったと思うから。

 

 イリカさんたちがテロ事件を起こしたあと、僕は少し長い休暇をもらった。

 別に、僕が精神的な病気になったわけじゃなくて、あの日、センターで監禁された十八人全員が特別休暇をもらった。まあ、メグが死んだと思ってたときの僕は、たぶん病気だったと思うけど……。

 休暇中に、そのメグと会った。メグの実家近く、つまり僕の実家近くでもあるんだけど、そこにある大きな病院にメグは入院してた。そのことを柳外さんにこっそり教えてもらった。まだ絶対安静のメグだったけど、意識ははっきりしてるし、ちゃんと喋れる。僕は泣いてしまったけど、メグは笑ってた。どうやら、メグのお母さんも来てくれたみたいで、そのことが嬉しかったみたい。その嬉しい気持ちを抑えて、僕と会話してる感じがした。ほんと、素直じゃないな、メグは。

 

 テロ事件関係のニュースは、できれば見たくなかったけど、日本の王政制度を根本から変えなくちゃいけない時期なんだから、無視できない。

 テレビでも、ネットニュースでも、日々新しい情報が洪水みたいに溢れてくる。きっと、イリカさんたちの目論見通りになったんだろう。

 キヨナさんに撃たれた国王は、急所を外されてて、重傷だけど生きてた。たぶん、このまま王政制度は廃止になるだろうけど、国王の生活はどうなるんだろう。誰が考えても、悪い未来しか想像できない気がする。

 もしかしてキヨナさんは、そうなるように、国王を苦しめるために、わざと急所を外したんだろうか。

 イリカさんとキヨナさんは、ずっと警察で取り調べを受けてるみたいだけど、二人の供述内容は全く報道されてない。警察が供述内容をマスコミに知らせてないのか、それとも、マスコミが意図的に報道を控えてるのか。王都放送の同期に聞けば教えてくれるんだろうけど、たぶん今は物凄く忙しくて、休暇をもらってる僕が興味本位で訊くことじゃないから、何も訊いてない。

 

 イリカさんたちがテロを起こしたことで、少子対策法と難民救済法の運用は停止された。近いうちに法律そのものが廃止されるでしょうって、コメンテーターの誰かが言ってたっけ。

 テロの時に用意された告発サイトは、もう閉鎖されちゃってるけど、告発サイトの内容をコピーしたサイトが無数に存在してる。もちろん動画も。警察は何も発表してないけど、イリカさんが少子対策法で被害に遭ってたのは、たぶん事実。でも、イリカさんは僕に何も話してくれなかった。

 

 ダレモタスケテクレナイ

 

 涙が出る。

 

 僕も、イリカさんを助けられない『誰か』の一人だった。

 

 あの日。

 サアラちゃんとわん太郎に会ったあの日に、イリカさんは僕に何を伝えようとしたんだろう。

 知れば後悔するかな。

 知らない方が後悔するかも。

 

 イリカさんは後悔してますか?



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エピローグ

 広場で遊んでいる子供たちを見ながら、高宮イリカは待っていた。

 隣にはわん太郎が伏せの格好で寝ている。わん太郎が自ら子供たちのところへ行くことは少ないが、子供たちから離れることもない。きっと、子供たちを守ってくれているのだろう。

 今日は月本志朗が来る日。何を伝えれば良いだろうか。何も伝えない方が良いだろうか。でもきっと、月本は知りたいだろう。知りたいからここに来るのだ。

 広場を囲んでいる木々の枝に、緑色の小さな葉が隙間を空けて生えている。芽吹きの季節から新緑の季節へ移り変わる。誰にも意識されずに移り変わっていく木々の姿は、清見と喜与奈を思い出させた。

 清見も喜与奈も、気付いたときには移り変わっていた。

 蕾が葉になり、葉はいつの間にか地面に落ちていた。あとに残るのは朽ちた幹と枝だけだと思っていたが、月本が現れたことで再び芽吹き、鮮やかな緑色を取り戻そうとした。清見と喜与奈が朽ちたまま終わらずに済んだことを、それが月本のおかげであることを、月本は知らない。月本の誠実な行動の積み重ねが、清見と喜与奈の命を救ったのだ。

 

 月本とサアラがわん太郎に会いたがっている、と柳外から連絡があったのは一ヶ月前。柳外は時々ここに来ていたが、月本とサアラは一度も来ていない。私たちがずっとここで暮らし続けていることすら、二人には伝えていなかっただろうな、と高宮は考える。

 

 少子対策法で日本に入国し、虐待を受けた子供たち。そんな子供たちの受け入れ先が、すぐに用意できるはずもなく、テロが起きたあとも、高宮は、子供たちと一緒に生活を続けている。高宮と虐待を受けた子供たちの存在は、マスコミには伝えられていない。高宮も、その方が有り難かった。好奇の目に晒され、表面だけの同情を押し付けられるのは耐え難い。

 

 わん太郎の耳が動く。少し遅れて、車が砂利道を走る音が聞こえてきた。

 わん太郎は頭を上げて、広場の奥の方を見つめる。わん太郎の視線の先には砂利道があり、そこから車が出てくることを、わん太郎は知っているのだ。

 わん太郎は立ち上がると、尻尾と前足をピンと伸ばしながら海老反りして、大きく欠伸した。わん太郎の寝起きのストレッチだ。ストレッチが終わると、わん太郎は舌を出して口の周りを舐め回し、お出迎えモードでスタンバイする。

 広場で遊んでいる子供たちも、車が近付いてくる音に気付いた。以前は、敷地内に車が入ってくるだけで、家の中に逃げ込んでいた子供たちだったが、最近は車が来ると、じっと待っている。怖いものが来ることは無いことを学んだのだろう。誰が来るのか見極めている。

 

 砂利道から車が現れた。広場の中に車が入ってくる。

 初めて見る車だが、ここに決まった車で来る人間は清見だけだった。これまで複数回ここに来ている柳外は、いつも警察車両で来ていたが、今日はレンタカーのようだ。公務ではないということだろう。

 フロントガラス越しに柳外の顔が見える。助手席には誰も座っていない。後部座席に月本とサアラが座っているのだろう。

 広場に停車した車のエンジンが止まると、勢いよく後部座席のドアが一つ開いて、車の中から女の子が一人飛び出した。

 

 「わん太郎、お久しぶりです! 会いに来ましたよ!」

 

 女の子が、わん太郎に向かって叫んだ。わん太郎の尻尾が、勢いよく宙を舞っている。

 太陽を隠していた雲が晴れていく。彼女たちの再会を祝福するように、空から降り注ぐ光が地面を照らし始めた。

 女の子とわん太郎の間の距離は、およそ五十メートル。その中間地点で、彼女たちは再会するだろう。



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