TSしたら友人がおかしくなった (玉ねぎ祭り)
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一章
寝てる間に潰した?


 朝目覚めると女になっていた。

 

 何を馬鹿なことを言っているというなかれ。俺が一番混乱しているのだ。

 その日の目覚めは特別何か変化があったわけではなかった。

 七時にセットしたスマホのアラームを無視する。罪悪感と共に二度寝を強行しようとしたところで兄貴にたたき起こされた。寝ぼけ眼を擦りながら洗面所へと向かい、洗顔を済ませ、トイレに入ってそこで気が付いた。 

 なにかいつもと違うとは思っていた。 

 お袋と妹が怒り狂うので、俺、兄貴、親父を含めた男勢は用を足すときは基本座って致す。下品な話小便が飛び散るからだ。 

 俺はいつものようにパンツと共にスウェットを下ろし、どっかりと便器に腰を下ろした。 

 股がすーすーする。

 初めの違和感はこんなもんだった。 

 寝ている間夢精でもしてしまったかと焦りながら自分のパンツと股間を目で確認した。

 パンツは特に問題なかった。

 股間は問題大有りだった。 

「……ん?」

 ついていない。

 何がではない。ナニがだ。

 たっぷり十秒ほど意識が遥か彼方へと飛びさった。

 だが俺の意識がどう飛ぼうと生理現象はどうしようもない。意志とは無関係に排泄行為は完了された。 

 怪我をしているわけではないらしい。などと、混乱した頭で安心しているとトイレの扉を乱暴に叩かれた。二つ上の兄貴だ。 

「遅え。いつまで気張ってんだよ糞野郎」

 あんまりな物言いだがこれがうちの兄貴だ。外見も言動も粗野でどうしようもないが、家を空けがちな両親に代わって家事全般を担当しているので発言力は強い。

「すぐ出る。ちょっと待って」

「早く出て飯食えよ。後窓開けて換気しとけよ」

 そう言うと兄貴は妹を起こしに扉から離れていった。少しして二階から妹の悲鳴が響いた。

 取り敢えず俺はトイレから出ると自室に戻った。

 混乱の極致にあったが、現状を知る覚悟があったらしい。スウェットをパンツごと引き下ろした。

 小便をした時、排泄口の違和感はあったが痛みはなかった。切り傷や腫れ傷といった怪我ではないと信じたかった。

 中学校の時買ってもらった姿見の前に立つ。ゆっくりと埃除けに使用しているシーツを外し、姿を現していく自分の股間を見逃すまいと、じっと目を凝らした。

「……うん?」

 最初何がなんだか理解が追い付かなかった。

 額から脂汗がとめどなく吹き出し、脇汗が二の腕をつーっと伝い、肘までやってきた雫がカーペットにシミを作る。

 おかしい。俺は目が悪くなったのだろうか。

 あり得ない現実に目を逸らそうと頭が必死で警戒音を鳴らす。だがそれが現実逃避であることは時間がたっても変化の起きない自分の体が嫌というほど教えてくれる。 

「おう、お、おー?」 

 どこへ行ったのだ、俺のちんこ。

 太腿の裏や尻に移動したのではないかと何度もくるくる回って確認するが、見慣れたあいつがどこにもいなくなっている。

「え、寝てる間に潰した?」

 あとで思い返すと明らかに混乱した発言だが、この時の俺は本気でそう思った。

 とっさに兄貴を呼ぼうと思った。だが問題が起きているのは俺の股間だ。性器だ。同性とはいえ相談を持ち掛けることに躊躇いを覚えてしまった。

 親父やお袋もここ数か月は仕事で海外に行っており頼ることはできない。妹に相談なんて論外だ。

「お、お、おぉぉ……」

 俺は絶望のあまり崩れ落ちた。

 ちんこがもげた。

 事がもっと大ごとだと知ったのはもう少し後になってからだった。

 

 

 



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俺の裸を見てくれ

 病院、いつ行こう。 

 スーパーの鮮魚コーナーから飛び出してきたのかと言われるくらいに生気に欠けた暗い目をした高校生がいた。

 ただでさえ猫背気味な背をさらに丸め、この世の絶望を一心に受けたような憔悴しきった表情を受かべている。

 目線は常に真下をむき、己がつま先を見つめるように歩くので時々すっころびそうになっていた。

 他人の振りしておいてなんだが、俺の事だ。

 朝飯の席では妹が「セカンドよ。目が死んでいるぞ」と決め顔で指摘してきたが無視した。

 セカンドとは妹が俺を呼ぶときの呼称だ。

 二番目の兄だからセカンドらしい。

 上の兄貴はボスと呼んでいて、親父のことはビッグボスとか呼んでいる。

 痛い子だった。昔は普通にお兄ちゃんって呼んでくれたんだけどなあ。大きくなる過程でなにが悪かったのだろうかと頭を抱えたくなる事案だ。

 妹の話はどうでもいい。問題は俺の体だ。 

 俺の股間はきっと何か遺伝的なものかその他諸々のサムシングが影響した病気だろうと勝手に納得していた。つまり何も予想がつかない。

 大きな病気ではないと信じたい。だってどこも痛くないし、熱っぽくもないからだ。

 ただそうだとしても体に異常があることは間違いない。

 近いうちに、というか今日中にでも病院に行かなければならない。

 行くとしたら外科かなとか、行きつけの整形外科の腕って確かあんまりよくなかったようなとか、親や兄貴に相談するのはやっぱりまだ気が引けるよなとか、いろいろ思考が渦巻いていた。

 

 

「よ、公麿」

 ぎゅむっと尻を揉まれた。

 考え事をしていた最中だったので、後ろからやってきた人物に気が付かなかった。

 だが何事だ、と驚くことでもない。本来ならいきなりかように過激な挨拶をされれば飛びのくか身の毛がよだつかのどちらだろうが、俺にこんな事をしてくるのは一人しか思い当たらない。

 振り向くと友人の平等橋があほ面掲げて手をにぎにぎしていた。

「……今日もセクハラを許してしまったかー」

 いつものことではあるのだが、この友人は事あるごとに俺にセクハラまがいのスキンシップを取ってくる。

 初めてされた時は普通にきもかったが今では慣れたものだ。すまし顔で流す余裕がある。

 

 平等橋正義。

 

 アニメに出てくるような冗談染みた名前だが、名前負けしない容姿をしたいかにもリア充といった風体の男だ。

 切れ長の目をした美男子と表現すればいいのだろうか。運動部に所属しているので体も引き締まっており、さらに身長も俺より頭一つ大きい。俺たちが並べば同じ年齢なのかとよく疑われる。性格も明るく、大概の事なら受け入れてしまう寛容さもある。平たく言うとこの男、男女異性違わず非常にモテる。女子にモテない俺は常にこいつに対して恨めしい目で睨んでいるのは内緒だ。

 平等橋との付き合いは去年一年間同じクラスで、大体二年くらいになる。 

 女顔の俺をからかって、事あるごとにセクハラをかましてくる為、クラスの奴からはガチホモ認定を受けている。周りも冗談で言っていているのは分かるが、本人もノリノリで受け入れているため始末に負えない。

 クラスカーストトップのグループにおり、一見するとすかして見える平等橋。

 しかしクラスの中でも下ネタや身を切った自虐芸、さらに前述の俺との絡みでクラスを大いに盛り上げている。

 このことからわかるようにクラスでこいつは近寄りがたい上位層というより、弄っても大丈夫なイケメン(変態)という扱いを受けている。

 誰からも好意的に見られ、かなりおいしい位置にいるお調子者の中心人物。

 それが平等橋という男だった。 

「公麿。今日のお前の尻なんか妙にもちっとしてて柔らかかったぜ」

「さよか」 

 でも毎度毎度こう来られると面倒だ。特に今日は体の異常で気分が滅入っている。

 顔はいいのにいつもこういうのを笑顔で言うからコイツはダメなんだろうなぁと俺は思った。

 

 

 放課後。俺はとぼとぼと一人家路についていた。

 

『大学附属病院に紹介状を書きますから、今度そこへ行ってください』

 

 先ほど病院で医者に言われた言葉を思い出していた。

 待合室で1時間ほど待たされた俺は、担当医に症状と自分の股間を見せた。普通に恥ずかしかったが背に腹は代えられん。

 医者は目を丸くしていた。

 沈黙が暫く続いた後、「特に異常はなさそうですが」と困惑気味に答えた。

 そんなはずはないと俺は焦りを覚えたが、次の言葉で俺は固まった。

「綾峰さんの女性器ですが、特に異常は見当たりません」

 女性……ん、なんだって?

 ここで俺が沈黙したことで何かを察したらしかった。

 カルテを確認した医者が絶句した。

「綾峰さんは男性でしたか。しかし手術のあとは見られませんし……」

 その後俺は医者からいろいろと専門的な説明を受けたが、わかったことは二つ。

 

 どうやら俺の股間は男から女のそれに近いものになっていること。

 原因はこの病院ではわからないこと。だった。

 

 一応体の異常が他にもないか調べてもらった。 

 胸が、膨らんでいた。 

 極端な膨らみではない。

 何もなければ大胸筋付いたか俺? がはは。となるレベル。

 だが触ればふにゅりと指が沈み、服を着直すとき胸の先端がこすれ今まで感じなかったような痛みがあった。

 ホルモンバランスの変化で女性化しているのではないかというのが医者の意見だった。過去に何かそういった類の薬を服用したことがあるかと尋ねられたが、俺の答えはNOだ。医者もそれはすぐに信じた。俺の言葉を、というより、それでも俺の股間のそれはホルモンバランスの変化云々で説明できるほど単純なものではなかったそうだからだ。

 いよいよ大事になってしまったと青ざめてしまった俺は、家族に打ち明ける覚悟を決めて病院を出た。 

 

 

 家に戻り、着替えもせずにリビングのソファでぐったりしていると、しばらくして妹が帰って来た。

「我、帰宅! む、セカンド発見! 甘えてやるぜ!」

 言うなり妹がダッシュで絡んできた。うっぜえ。

「ふははは。うざかろう、だるかろう! 我のウザがらみは対応に困ろう! それが嫌なら我のモンハンに付き合うがよいぞセカンドよ!」

 ぐいぐいと顔を胸にこすりつける妹は相変わらず鬱陶しい。いつもののこととはいえ今日それをされるとさすがに堪える。

「……っ」

「え、あ、ごめん。痛かった?」 

 妹の顔面ぐりぐりが胸の先を擦れて痛みが走った。素に戻って俺を心配する妹。

 俺の不安は我慢の限界だった。 

「ゆかりよ。お前を俺のたった一人の妹として頼みがある」

「う、うん。何急に真顔になって……」

 俺のただならぬ気配に気押された妹は神妙に頷いた。

「俺の裸を見てくれ」

 

 



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どうでもいいけどお前キャラぶれまくってるぞ

「ただいまって、なんだこりゃ」

「兄貴。おかえり。ちょっとその、なんていうかいろいろあってさ」

 夕方七時ごろに帰宅した兄貴はリビングを見て呆れたようにそういった。

 ソファにはぴくぴくと鼻にティッシュを突っ込み、痙攣しながらフローリングの床へ突っ伏す妹と、セーラー服を着て妹の前で正座をする俺。制服は妹の物だ。

 他人から見れば意味不明かつ異質な光景だが、我が家では偶にあることなので兄貴もさほど動じていない。

「ゆかり、お前邪魔だからどけ。公麿はまた何つー格好してんだよ」

 兄貴はゆかりを蹴っ飛ばしてソファに座ると、「そういえば親父たちから伝言預かってるんだよ」と俺に言った。

「公麿お前最近体に変化なかったか?」

「あった!」

 兄貴の言葉に俺は食い気味でうなずいた。

 ちょうど妹と体の現状を再確認した後だったので、兄貴が帰ってきたら真っ先に相談しようと思っていたのだ。兄貴の口からそれが出るとは思わず、自分でも信じられないくらい前のめりで兄貴に詰め寄った。

「ひょっとしてそれ今のお前の格好に関係してるのか?」

「うんそう! その通り!」

 俺の裸を見せると、ゆかりは興奮したように「お姉ちゃんができた! わーい!」とこちらの都合もお構いなしに狂喜乱舞した。

 ゆかりの悪ふざけで俺はいろいろゆかりの服を着させられたのだが、結果に満足したゆかりが床に悶えているという訳だ。

「やはりか。そうか」

 俺の興奮とは裏腹に兄貴は眉間に皺を寄せて溜息を吐いた。

「兄貴?」

「公麿。お前の体は多分女になっている。だがそれは別に病気とかじゃない、俺たちの家がそういう家系ってだけだ」

「……どういうこと?」

「俺もよくわからん。昼間突然親父から電話がかかって来たと思ったらそう捲し立てて切りやがった。どうも口ぶりからするとお前が女になっている事が自然なことみたいにいっていたな」

「全然意味わかんねえ……」

 俺はうなだれた。だがさっきの兄貴の一言で引っかかったものがあった。

「兄貴、でも今さっき病気じゃないって」

「ああ。親父もそのあたりは念を押していたな。家系的に起こりうることだから気にするなってな」

「そ、そうか、そうなのか!」

 俺はそれだけで心がふっと軽くなっていくようだった。

 だって今までは原因不明の病気か何だかで体が変態したと思っていたから、ひょっとしたら数時間後には死ぬんじゃないかなんて突拍子もない可能性も無視できないと思っていたからだ。 

 家系云々はちょっと意味が分からないが、少なくとも死なないらしい。それだけで十分だ。

「兄貴、俺はじゃあ問題ないんだな」

「いやお前女になっただろ。問題大有りだ」

 兄貴は真顔で突っ込んだ。

「些細なことだろそんなこと」

「んなわけあるか。取り敢えず確認するからお前服脱げ」

 兄貴の言うことに間違いがあるはずがない。俺はいそいそと服を脱ぐと、兄貴は顕微鏡でミドリムシを観察するかのように目を細めた。

「……なあ兄貴、目が怖えんだけど」 

「気のせいだ。もういいよ、服着て」

「お姉ちゃんとお兄ちゃんの禁断の愛。ヤバいなにこの背徳感!」

 ゆかりが起き上がってなんか言ってたけど無視する。

「……マジで女になってやがる。胸は小さいけど一応乳房って分かるレベルだな」

「生々しい言葉使わないでくんない?」 

 兄貴は俺の言葉を無視すると、スマホを片手に立ち上がった。

「親父に伝えてくるよ」

「なあ。さっきはああ言ったけどさ、俺大丈夫なのかな」

「大丈夫だ。少なくとも命に別状はねえよ」

「うん、まあ、うん。そうか」

 じゃあ話は後でなと言い残し、兄貴は二階へと行った。

「ねえねえ。別にお姉ちゃんがさっき服脱ぐ必要なくなかった? お兄ちゃんって割とマジでそういう人な訳?」

「ゆかりそれ兄貴に言ったらぶっ殺されるぞ」

 殺されることはなかったが、夕飯時にゆかり分だけおかずのトンカツが数切れ少なかった。一階の声が割と二階に響くことをこの妹はいい加減学ぶべきだと俺は思った。

 

 



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俺女になりました

 俺が女に変態したことで問題がいくつかあった。

「学校どうすっかな」

 当たり前だが、俺は現在男として学校に籍を置いている。このまま通って大丈夫なのだろうかというのが一点。続いてこれも問題の一つになるのだが、

「胸が育ってやがる……」

 昨日は手のひらを被せたくらいの扁平だった胸が、今日起きてみると握りこぶしを少し潰したくらいのサイズに膨れていた。これではどこからどう見ても乳房だ。

 これを見てゆかりが「我を一日で超えた、だと!?」と驚愕の表情を浮かべていた。ちなみに兄貴は「下着類とか金欲しかったら請求しろよ」と偉くドライなことを言っていた。財布の紐を握っているとはいえもう少しこう、ないのだろうかと思わなくもない。

「これで男を通すのは難しいだろうな」

 最後に、昨日学校で平等橋から指摘された事がある。

 声が半音ほど高くなっているらしい。

 昨日の俺は自分がまさか女になっているなんて思っていないから、喉の調子が悪いとかなんとか言ったと思う。喉の調子が悪くて声が高くなるなんてヘリウムガスを吸う以外にあり得ないと思うのだが、本気で体調不良でそうなったと信じていた俺は意地でもそれで通した。そんな意地なんかなくても、もともと俺は男にしては声が高かったからそこまで目立たなかったが、今のこの姿を合わせて見られれば女としか見られないだろう。

 どうしたものか頭を唸らせていると、兄貴が部屋に入って来た。何故かうちの女子の制服をもって。

「兄貴、その手のやつは?」

「ああ。必要かと思ってな」

「どっから持ってきたんだよ!?」

「親父とお袋の寝室から出てきた」

 そこだけ切り取ったら怪しいワードだ。

「親父たちは本気でお前がそうなるって分かってたみたいだな。ほら、学生証もなぜか入ってたぜ」

 投げ渡してきた新品の学生証には俺の名前が。戸籍は女となっていて、顔写真は男の時のままだ。

「お前女顔だから男ん時も今もあんま変わらねえんだな」

 軽く言ってくるがこの顔は昔からコンプレックスだった。何せ小学校の時上級生に女と間違えられて三回告白されて、ませた奴からは唇を一度奪われたことがあるからだ。女には一切モテなったが男にはやたらモテた。

「俺も生徒手帳まではちょっとおかしいって思ったから今朝学校に電話してみた。そしたら朝校長室に寄れってよ。やっぱこのこと学校も何か知ってるみたいだぜ」

「ええぇ……」

 兄貴はそれだけ言うと制服を置いて妹を起こしに行った。隣の部屋から妹の悲鳴が聞こえる。

 俺は女子制服を手に取り姿見の前に立って肩に合わせてみた。

「これ着るのか?」

 困惑の表情を浮かべた、俺によく似た顔をした女の子がそこにはいた。

 

 

「君のことは君の御両親からよく聞いていましたよ」

 俺は高校に入学して初めて校長先生と対面していた。

 学年集会でよく校長のことは見ていたが、改めて優しそうな爺ちゃんだなって感じた。

 なんというか生徒に安心感を与えるというか、妙な威圧感が一切ない。だから一対一で話し合うとなっても全く緊張感はなかった。いや厳密にはそばで俺の担任の先生もいるか。

 困惑した表情をしながらも笑顔で俺に手を振ってくれる新任の女教師、女教師って書くとそこはかとなくエロい気がする。どうでもいいか。

「親からは僕のこと、なんて?」

 こんな時でも目上の人に対して一人称を変えてしまうのはなんでだろうと考えてしまう自分が憎い。僕なんてめったに使わないぞ俺。

「諸事情があって2年の途中から性別が変わってしまうということですね。にわかには信じられませんでしたが、今朝君のお兄さんから連絡を受けて、君がこうやってやってきた時確信しました」

 初老の優し気な校長は、「君には2つの選択肢をご両親から預かっています」と言う。

「一つは近くのご両親が提案する女子校に編入すること。君もこの学校に在席するなら知っているでしょう? そう、よくうちとも提携しているあそこです」

 校長説明するのは俺も良く知るこの近くの女子高だ。俺は全く関係ないけど、よくチャラい男子連中が合コンをしているのを聞く。進学校で、うちよりも偏差値が高い。

「もう一つはこの高校に女子生徒として編入し直すこと。ただ後者を選ぶといろいろと君も大変だと思います。君の選択に任せますが、新しい学校という選択肢も悪いものではないと私は思います」

 校長のいうことはもっともだった。俺も女になって今まで通り学校に通うのがまずいということは容易に想像がつく。

 まず偏見の目。

 性転換だとか、そういった差別的な待遇を受ける可能性がどうしたって否定できない。

 いままで仲良くしてきたやつらにそういう目を向けられたらきっと耐えられないだろう。

 でも今まで仲良くしてきたからこそ受け入れてくれるかもしれない。

 正直今から新しい学校、しかも女子校に行ってうまく馴染めるか分からない。

「あの、校長先生、ちょっといいですか?」

 俺が何も言えずに床を見つめていると、今まで黙っていた担任がそろーっと手を挙げた。

 校長がなんだねという感じの視線を向けたので、恐る恐る口を開いた。

「綾峰さんも突然のことで戸惑っていると思うので、しばらく考える時間があってもいいんじゃないでしょうか? ほら、今日彼、あ、いやもう彼女ですね、初めて女子の制服着て学校来たわけじゃないですか。体験っていうと言葉はあれですけど、ちょっとお試しでやってみてから考えるというのはどうでしょう」

 もちろん問題が起きないように私がしっかりと責任を持ちますと担任は〆た。

 今までほとんど担任に関心を向けたことはなかったけど、今この人は俺のことをしっかりと思って言ってくれたんだなっていうのが伝わって来た。

「問題が起こってからでは遅い。そうは思うのですが、そうですね、石田先生のおっしゃることももっともです。綾峰くん、どうしますか?」

「俺も迷ってたんで、今日一日、ひょっとしたら数日になっちゃうかもしれないんですけど、ここで様子を見たいと思います」

 俺がそう言うと校長はにこりと口角を上げた。

「わかりました。ではそのようにしてください。あなたの配慮は職員会議等でしっかりと対応していきたいと思います。また何か問題があったらすぐに教えてください。あなたが快適に学校生活を送ることができるが第一ですから」

「もちろん真っ先に私に言ってね」

 担任、石田先生が被せるように言った。

「すいません。ありがとうございます」

 ちょっと泣きそうだった。今まで先生とか超どうでもいいと思ってたし、今でもその想いはどこかにあるけど、この二人の好意を疑う気には俺にはならなかった。そう感じる俺はやはり単純なのだろうか。 

 校長室を出た時、もう一時間目が始まっている所だった。

 隣を歩く石田先生は「それにしても」と前置きした。

「気に障ったらごめんね? 綾峰くんすっごくかわいくなったね。いやー男の子の時から可愛い顔してるなーって思ってたんだけど、女子の制服着てると破壊力が違うよね。体の線もちょっと細くなってもう守ってあげたいって感じで」

 俺がちょっと引いた目で見ていることに気づいた先生は、「ああ違うの違うの!」と必死で弁明してきた。なんだろう、うちの妹と同じ匂いをこの先生からは感じる。

「別に気にしてません、っていうとやっぱり嘘になります。教室の皆の反応とか、友達とか、特に女子の反応とか、やっぱりいろいろ気になります」

 正直な気持ちだった。

 家族や校長先生、石田先生と俺は俺の変化を受け入れてくれる人たちばかりだった。でも世の中そんな人たちばかりじゃないってことも知ってる。

「いつでも助けてあげるなんて、そんな無責任なことは言えない。でも今日1日、それも耐えられなかったら我慢しなくてもいい。でも覚えていて。私はどんなことがあってもあなたの味方だから。いつでも私の所に逃げてきて」

「先生……」

 胸が熱くなった。さっきからどうも情緒が安定しない。これも変態による影響だろうか。

「……ひ、庇護欲がやばい」

 ふいと顔を背け先生はよだれを拭うを仕草をした。

 ……この人やっぱり。

「あ、綾峰くん。授業だけど中途半端な時間だしどうする? 何だったら職員室でお茶でも」

「いえ、授業に出ます」

「あ、うん、そうね、うん。それがね、いいよね」

 露骨にがっかりした顔をする先生と別れ、俺は教室へと向かった。

 

 

 慣れたはずの教室までの道のりがやけに長く感じる。

 階段を一段上るごとに息が切れる。

『お姉ちゃん。スカートを履いたら気をつけなきゃいけないのは階段と座るときだよ! 男の子の時と同じ感覚だったら大変な目に遭っちゃうんだから!』

 脚を動かすたびに揺れるスカートを見て、妹に言われたことを思い出した。

 なんでスカートなんて履いてるんだよ俺。 

 教室の前まで来ると、中から教師の声が聞こえる。英語の田中だ。四十代のちょい悪親父を自称するちょっと痛い教師で、でも時折挟む寒いギャグが俺は結構気に入っていた。

 どんな反応をされるだろう。

 気づけば右手が小刻みに震えていた。

 びびってやがるよ、俺。

 なんだか笑えてきた。何に怖がってるんだよ。ダメだったら逃げ出したらいい。それだけだ。

 教室の後ろから俺は扉を開いた。

 瞬間、視線が俺に集まるのを感じた。

 それはそうだ。何せ今俺は女子の制服を着ている。

 普段から女子に限りなく近い男という不名誉なあだ名を付けられてはいても、ネタや冗談で俺がこんな格好をする性格ではないことは皆知ってる。

 田中は授業の説明を緩めることなく、遅れて授業に参加してきた俺に、いつも遅刻してきた生徒に対してするみたいに授業のプリントを手渡してきた。

 それだけ。

 特に俺の格好に何かを言う訳でもない。

 きっと校長先生に言われたのだろう。

 校長先生は俺との話し合いを終えると、すぐに朝の職員会議に向かった。石田先生は俺に付き添ってくれたが、その間に俺のことは職員の中では広まったのだろうと思う。

 皆の視線は気になる。このクラスは妙に皆真面目なので授業中に喋ることはしない。でも好奇の視線は感じる。

 特に俺の右斜め前の奴なんてずっと体ごとこっちに向けてあんぐりと口を開けている。

 平等橋だ。

 俺はいつもと同じように席に座った。妹に教わったようにスカートを尻に敷くようにだ。

 耐えられねえなあ。この空気。

 しばらく黙って授業を受けていたが、もう無理だ。

 ちらちらとこっちに視線を向けるクラスメイト。

 好機な視線も勿論だが、心配したような色がそこに含まれていることも気が付いていた。

「先生」

 俺は手を挙げた。質問がありますとばかりにピンと手を挙げた。

 この時点で教室がちょっとざわついた。それもそのはずだ。俺の声は昨日よりももっと高くなっている。『お姉ちゃん声完全に女の子じゃん』とは妹の言葉だ。

「お、おう綾峰。ここじゃあ答えるか?」

 前置詞のatだかonだとかは興味がない。ただ言ってやろう。

 

「俺女になりました」

 教室が湧いた。

 

 



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なんで俺を避けるんだよ

 俺の心配はどうやら杞憂に終わったらしい。

 あの後クラス中騒ぎになって授業にならなくなったので、田中先生が俺に対する質問の時間をつくってくれたのだ。先生は苦笑いしていたが。

 クラスメイト達から矢継ぎ早で質問がきて、俺はそれにわかる範囲で答えていった。

 きもいとか、学校辞めろとか、オカマとか、そういった罵倒を覚悟していた俺は少し拍子抜けした。

 そのことをぽろっと漏らすと、『むしろ女になって結果オーライ』と謎のサムズアップを食らった。男女ともに。

 俺はどうやらクラスで受け入れられたようだった。

 だが、一人、その中で俺に一言も話しかけてこない奴がいた。

 そいつは俺のことを遠巻きに見ているだけで、何とも言えない表情を浮かべたまま教室を出ていった。

 

 平等橋にだけは、俺は受け入れられなかったようだった。

 

 

 二時間目が終わり、昼休みになると俺の噂は学年で広まったようだった。

 ひっきりなしに他のクラスの奴らが俺のことを見に来て、その度に「やべえええ」と意味不明の奇声を発しては俺のクラスメイトに粛清されていた。

 俺は普段平等橋と飯を食っていたので、今日はぼっちかと肩を落としていたらクラスの女子が誘ってくれたので甘えることにした。

 皆本当の所腹の中で何を考えているのかはわからない。

 俺のことを受け入れてくれるように見えても実際はきもいって思っているのかもしれない。

 でも今は表面上でも好意的にふるまってくれることに感謝した。

 

 あれから一か月たった。

 校長先生には学校の継続を願い出た。立ち会っていた石田先生が小さくガッツポーズしていたことを俺は見逃さなかった。

 俺は女子の友達ができ、付き合う人間も男の頃に比べ随分変わった。

 変わったといっても男の時は特定の友人は平等橋しかいなかったので、むしろ友達は増えたといってもよかった。

 体の変化としては、胸の成長等はあれからそれほど変化はない。巨乳になるのかと焦った時期もあったが並くらいで落ち着いた。ついでに生理も来た。股間からドバドバ血が出た時は悲鳴を挙げそうになったが、妹が助けてくれた。

 体が女性になった影響か、精神面でも変化があった。

 一人称が『私』になり、髪も少し伸ばすようになった。

 これは単に俺のビジュアルで『俺』というとどうも背伸びをしているというかなんというか、若干中二病を拗らせた痛い奴に見えると思ったからというのが一つ、もう一つはクラスの男子が「俺っ娘キター」と俺がいない所で叫んでいるのを聞いたからだ。うん、あいつら悪い奴らじゃねえんだけどな。でもそれは他人に向けての態度ってだけで、家や心の中ではやっぱり『俺』が馴染んでる。こればっかりはどうしようもないんじゃないかって勝手に思ってる。

 髪を伸ばし始めたのは友人となった荒神の助言だった。

 荒神は俺が女になって真っ先に声をかけてくれた女子の一人で、男の時から何かと親切にしてくれた女子のクラス委員長だ。誰だって美人な同級生が、「あなた髪の毛亜麻色なんだ。綺麗だね」なんて頬染めて言われたらその気になるだろ。なる、よね?

 別に荒神含め女子を恋愛対象に見ているとかじゃないんだけど、やっぱり女の子に褒められるとうれしい。これはもう本能みたいなものだ。

 細かい仕草なども荒神などからいろいろ指導を食らい、今では女子のビギナーくらいは自任してる。これを口に出すと「まだまだ半人前よ」とグチグチ言われるんだけど。

 でもいいことばかりじゃない。

「あ、平等橋」

 昼休み。俺が声を掛ける前に奴はふいっと教室から出ていった。

 わかりやすく俺を避けている。

「避けられてるね」

「うわ!」

 右肩から首が生えて来たかと思った。

 クラス委員長、荒神裕子はもう一度「避けられてるわね」といった。2度目はちょっと傷ついた。

 荒神は特別背が高いわけではないが、それよりずっと小柄な俺はまるで荒神にハグされているような格好になっている。

「荒神ちょっと重いって」

「またまた。嬉しいくせに」

 確かにいい匂いするし柔らかいし嫌な気分はしない。でも認めるのは癪だ。

「おっぱい揉むぞこの野郎」

「いいわね。保健室に行きましょうか」

「待った待った! 私が悪かったごめん!」

「わかればいいのよ」

 なぜか負けた気分になった。

 俺は一つ溜息を吐くと自分の席に戻った。荒神もついてきた。

「なんだよ」

「初めに私が言ったことの返事がないなって思ったから」

「なんのことだよ」

「言わないとわからない?」

 言わなくてもわかる。平等橋のことだ。

 クラスの大部分が俺を受け入れてくれた一方で、平等橋だけが俺を避けているということは周知の事実だった。

 俺はそこに裏切られたという気持ちはない。と、思いたい。 

 反対の立場だったら俺だって戸惑うと思うし、やっぱり否定してしまうかもしれない。そう思ったからだ。

 だが理性とは逆に感情は複雑だった。

 なんで俺を避けるんだよ、とか。

 せめて話し合いくらいさせろよ、とか。

 いろいろと平等橋個人に対する怒りも湧いてくる。それが理不尽な怒りであることはわかるのだけど、こうも露骨に避けられて何も思わないほど俺は感情が疎いわけじゃない。

「戸惑っているんじゃない?」

 荒神が前の席に腰かけてそういった。

「あんたらって男の時ずっと仲良かったじゃない。ちょっと見てて怖いなって思うくらい」

「まって怖いってどういう意味?」

 目を逸らすな。

「あいつの気持ちもわかるんだ。皆が変なんだよ。普通こんなことそう簡単に受け入れられないって。だから平等橋の態度もわかるんだよな」

「それは違うわ」

 顔を上げると荒神は強い口調でもう一度「それは違う」と否定した。

「あいつのあれはね、ただ逃げてるだけ。わけわかんなくて戸惑って逃げてるだけなのよ。それで傷つく誰かがいるってこともわかっていないアホなのよ」

 捲し立てるように荒神は言った。

 俺は一瞬言葉に詰まり、荒神をじっと見つめた。

「やだ。照れるじゃない。キスしたいの?」

「全然違う。荒神って平等橋のこと詳しいんだ」

 俺は平等橋の友人関係を詳しく把握していない。友達が多いことは知っていた。男女ともに顔が広く、この学校の中でも何度か付き合った女子がいるという話も直接聞いたことがあった。ひょっとして俺が聞いていなかっただけで彼女も平等橋と以前そういう関係にあったのだろうか。

「待って。今あんたが何考えてるか分かった。絶対違うから。ただの幼馴染ってだけよ」

「幼馴染……」

「そこで意味深な顔しない。そもそも私あいつのこと男だとも思ってないし向こうもそうよ。何妬いた?」

「いやそういうことじゃ全くないんだけどさ」

「なにこの子のブレなさ……」

 離れてみてわかった。俺は平等橋のこと何も知らないんだなって。

 アイツは友達が多くて、俺はあいつの大勢いる友達の一人だった。それはわかってた。

 でも趣味が合ったのもあるし、俺たちは勝手に互いが特別な友人だと思っていると思っていた。そう思っていたのは俺だけだったんだろうか。

 また黙りこんだ俺に痺れを切らしたのか、荒神は両手で俺の頭を掴むとぐしゃぐしゃと掻きまわした。 

「うっわなにこれあんた頭ちっさ! めっちゃいいにおいする!」

「何がしたいんだよやめろって!」

 ようやっと離した荒神は、俺のカバンから勝手に俺のスマホを取り出して何やら弄っていた。

「え、何やってんの荒神」

「Line交換してんの。そういえばまだだったなって」

「なんでこのタイミング……?」

 俺の疑問はスマホが帰って来た時すぐに分かった。

 

Yuko『平等橋の家ここだからね』 

 

 見慣れないアイコンと二通の新着メッセージ。一件は上の言葉と、もう一つは位置情報。

「荒神……」

「だからそんな庇護欲掻き立てる目で見るなって。疼くじゃん」

「荒神……」

 温度の下がった目で見つめても彼女はくねくねと体をよじらせるだけだった。

 

 



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キミちゃんにお料理を教えましょう

「ここ、だよな。多分」

 俺はスマホの画面と目の前の建物を比べながらつぶやいた。

 荒神に教えてもらった位置情報を頼りにたどり着いた平等橋の家は俺の家から更に二駅離れた場所にあった。

 公共住宅が立ち並び、そのアパートの一棟に平等橋は住んでいるらしかった。

 正直意外だった。

 ここを悪く言う訳つもりはないが、平等橋はその見た目からいいところのボンボンだと勝手に思っていたからだ。

 狭い階段をあがるとすぐに目的の部屋の前についた。

 303号室。そこに明朝体で平等橋という名前が書かれてあった。

 インターホンを押す手が宙を行ったり来たりする。

 ここまで来てなんだがまだ迷っていた。だってあれだ、学校であんだけ避けられてるのにわざわざ自宅特定して凸ってきたってことになってるわけで、それって下手したら修正不可能なくらい嫌われてしまうんじゃないかって不安になるわけで。

 迷っていると唐突に扉が開いた。

「え?」

 疑問は一瞬。すぐに鈍い痛みが走った。で、でこが痛え。

「え、え? あら、嫌だ。人がいるなんて気が付かなくてごめんさい! ってその制服……」

「え? あ、えっと」

 顔を上げると平等橋に似たえらい美人なねーちゃんがいた。目をぱちくりさせ、俺を、ていうか俺の着ている制服を見ている。

「……ひょっとして正義の彼女?」

「え、いや、あの、えっと……」

 素直に違うと言えばそれで済むのだが、テンパってしまってうまく言葉がまとまらなかった。

 俺の態度を肯定と受け取ったらしい。

 平等橋の姉(仮)は俺の手を引いて立ち上がらせると、「ちょっと付き合ってくれない?」とにっこり笑った。

 

 

「最近お野菜の値段が上がって困っちゃうのよね」

「は、はあ」

 俺は平等橋の姉(仮)に手を引かれ近所のスーパーに着ていた。マジで手を繋いで引っ張ってこられた。初対面でこの距離感。出会った当時の平等橋を彷彿させた。

 それよりも問題は俺と彼女の会話だ。彼女が平等橋の肉親(仮)であるということから俺はバリバリに緊張してしまい、一向に会話が弾まない。愛想ないとか思われてるんだろうなあ。死にたい。

「あなたお名前は?」

 ここでようやく名前を聞かれた。

「綾峰です。綾峰公麿」

「公麿ちゃんかー。変わった名前だけどどういう字を書くのかな?」

 俺が口で説明すると、「成程ー」と間延びした口調で笑った。仕草がいちいちエロいなこの人。

「私は平等橋愛華っていいます。気軽にあいちゃんって呼んでね。正義とは結構歳離れてんだけどねー」

 やっぱり平等橋の姉だったか。薄々そう思ってたけど納得だ。

「公麿ちゃんお肉って好き?」

「え、あ、好き、です」

 しばらく俺たちは世間話をしながら買い物を続けた。

 

 スーパーの帰り道までで、俺もだいぶ打ち解けることができたと思う。

 そこまでで俺が愛華さんからわかったことは、愛華さんの年齢が24歳で近くの会社に務めていること、今日は早番で偶然早く帰っていたこと、平等橋とは二人暮らしであることだった。

「二人暮らし、ですか?」

「父親が死んじゃってねー。母親はとっくの昔に出て行っちゃったし」

 踏み込んでいい領域じゃないことは明らかだった。

 平等橋は俺にこんな話をしたことはなかった。父親のことや、母親のこと。

 もちろんそんな気軽に話せる内容じゃないことはわかる。

 やっぱり俺は平等橋のことを何も知らない。それが再認識させられた。

「それより、キミちゃんのことがもっと聞きたいなー。君はうちの正義とどういう関係なのか? どうも彼女って感じじゃないっぽいしー」

 彼女は早々に俺を『キミちゃん』と呼ぶようになった。ちょっと嬉しい。

 だが彼女の言葉には俺はすぐに答えることができなかった。

 俺が平等橋の何なのか。一か月前からずっと俺が教えて欲しかったことだからだ。

「……友達です。友達、だと私は思っています」

 俺の様子に何か察することがあったのか、「ふーん、そっかー」とだけ言って愛華さんはそれ以上何も言わなかった。

 

 

 愛華さんの強い勧めもあって俺は平等橋のアパートに招待されていた。

 他人の家に招待される経験が少ない俺は何とも尻の座りが悪かった。

 俺の強い要望もあって、愛華さんの料理を手伝うことになった。お客様はくつろいでいてと愛華さんは言ったけどくつろげないって。なんかそわそわしちゃって落ち着かないんだって。 

 手伝うといったものの俺の料理のスキルは小学校の家庭科レベルだ。いつも兄貴に料理を任せていたつけがここで回って来た。

「うん。じゃあここはキミちゃんにお料理を教えましょう」

 そういうことになった。申し訳ねえ。 

 初心者にも作りやすいということで、俺は愛華さんからハンバーグの作り方を教えてもらっていた。そういえば中学校の家庭科で作った覚えがあるな。失敗したけど。

 愛華さんは包丁の握り方からハンバーグの形成のやり方まで念入りに教えてくれた。

 包丁の時は指を切らないようにと後ろに回り込んで俺の手を包み込むようにレクチャーをしてくれる徹底ぶりだ。時折貧血を起こしたようで俺にしだれかかってきたので心配になったが、本人はむしろ元気そうだった。仕事で疲れているのに俺の相手なんてさせて重ね重ね申し訳ないなと思う。

 料理に夢中になり過ぎていたのが悪かった。

 俺が何の目的でここに来たのか、当初の目的を俺はすっかり忘れていた。

「ただいま」

 俺はその声を聞くまで全く忘れていた。

「これなに、え?」

 部活帰りの平等橋が目を見開いて俺を見ていた。

「平等橋、あの」

「いや、意味わかんねえし」

 いら立った様子で平等橋は俺を一睨みすると、黙って自分の部屋に引っ込んでしまった。

 出来事は数秒だったが、十数分近くの緊張感と緊迫感があった。

 終わってみると呆気ない。

 やってしまったな。

 悪い方に転がってしまった。

 平等橋と何とか和解したい。

 その目的をもってここへやってきた。

 途中愛華さんと買い物や料理なんかをして凄く楽しかったけど、本来の目的は平等橋だ。

 それが一瞬にして、再び拒絶。

 あの感じじゃ対話をする隙も何もあったものではないだろう。学校の時の非じゃないほどこっちへ来るなというオーラをバシバシ感じた。

 もうちょっと何とかなると思ったんだけどな。

 吐いた息は苦笑かため息か、それとも別の何かなのか。

 なんにしてももうここにいるわけにはいかないだろう。俺は愛華さんに挨拶をして帰ろうと振り返った。

「かっちーん」

 できなかった。なぜなら、愛華さんが今までの笑顔を一切忘れたかのようにキレていたからだ。

「ご、ごめんなさ」

 愛華さんがこっちに向かって近づいてきたので俺は反射的に頭を下げた。すると愛華さんは俺を素通りして平等橋の部屋の前まで行くと、

 

 思いっきりその戸を蹴り飛ばした。

 

「正義あんたちょっと出てきなさい」

「え、ちょ、姉貴」

「出ろっつってんの、聞こえない?」

 愛華さん、だよな。

 今繰り広げられている修羅場、それを引き起こしている人物が昼間キャベツが高いと頭を抱えておっとり微笑んでいた人物と一致しない。

「何アンタ舐めた態度取ってんの? さっさと出ろっつってんだよ」

 破壊音。

 衝撃でリビングの近くのドアや壁がドスンドスンと揺れる。何が起こっているのか想像するだけでぞっとする。

 部屋に入ってしまい二人がどうなっているのか全然わからない。音だけっていうのが逆に怖い。

 断片的に聞こえる平等橋の「ちょっ」とか「待って!」といった静止の声を無視するかのような暴行音。

 それからしばらくすると顔を二倍近くに腫らした平等橋が出てきた。

 気まずそうに眼をそらすが、数秒の逡巡を経て俺に向き直った。

「……ごめんな公麿」

 後ろではにっこり笑う愛華さん。その笑顔がただただ恐ろしかった。

 

 



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それ俺も作ったんだぜ

『今日なんか機嫌良い?』

 朝だけでいろんなやつに言われた言葉だ。確かに気分は悪くないが、そんなに顔に出ているのだろうか。

「出てるわよ」

「うわ!」

 気が付けば俺の前の席に荒神が座っていた。

 じとーっと座った目で俺を見てくる荒神。怒ってる、わけではなさそうだし、何だろう。

「はあ、敵に塩を送るなんて言葉があるけど実際にする奴は阿呆ね。そう思わない?」

「なんの話?」

「あー、いいのいいの。こっちの話」

 やってらんないわよとそっぽを向きながら愚痴る荒神。

 そうしていると教室にあいつが来た。流石にあの傷は一日では治らなかったみたいで、ところどころ湿布が貼られている。

 平等橋は俺に気が付くと、照れくさそうに片手をあげた。

 俺も手を振り返す。へへ。

「うっわあの男殺したい」

「物騒なこと言うなよ荒神」

 荒神はどこから出したのか不明だが鉛筆をバキバキ折っていた。

「そうだ。荒神、昨日はありがとうな。おかげでちょっと仲直りできたよ」

「うんでしょうね。もうオーラでわかるもの。くっそ男なんて死ね」

 元男の身としてはなかなか心に刺さる言葉だ。それにしても荒神はなぜそんなに平等橋に敵愾心を抱くのだろう。

「昨日はそんな感じじゃなかったのにどうしたんだよ」

「昨日の私が今いれば間違いなく絞め殺してるわ」

「怖ええよお前」

 荒神と話しながら俺はうっすらと平等橋のほうに意識を向けていた。

 男友達と馬鹿笑いする平等橋。ちょっと前まではあの中に俺もいた。というか引きずられていたんだよな。

 それがなくなったことは悲しいけど、でもだからって俺たちの関係が壊れるってことはないだろう。

 昨日の夜、俺はそう思ったのだ。

 

 

「え、キミちゃん男の子だったの?」

「はい、ごめんなさい黙ってて」 

 流れで夕飯もごちそうになることになった俺は愛華さんに正直に告げることにした。愛華さんは凄く驚いたみたいだったけどすぐに受け入れてくれた。なんとなく、この人は大丈夫だという確信が俺にはあった。 

 リビングに食器を並べている間、平等橋は黙々と料理で使用したフライパンとか洗っていた。

 時折あいつがこっちを見るから、その度に振り向くとすっと目を逸らされた。それが四五回続いてなんだろうかと思っていると、平等橋は愛華さんに拳骨を食らっていた。少しずつ愛華さんと平等橋の力関係のようなものが見えてきたような気がした。

「正義。このハンバーグおいしいでしょ?」

「口の中切れすぎてて血の味しかしない」

「おい旨いだろ? 旨いって言えよ」

「めちゃめちゃ旨いよ姉貴」

 ガンと向う脛を蹴られた平等橋は壊れたブリキ人形みたいに首を縦に振っていた。ちなみにお前が今食ってるの俺が作った部分のやつだ。そうか、旨いか、そうか。

 夕飯を済ますと、本題とばかりに愛華さんは平等橋に詰め寄った。

「で、あんたキミちゃん無視してたんだって? はーガキくさ」

「いや、それは、その」

「言い訳すんなボケ。まだキミちゃんへの謝罪の言葉が聞こえないけど?」

「あ、いやごめ」

「あたしに言ってどうすんだよ」

 愛華さんの平等橋いじめは留まることを知らない。ていうか一応部屋から出てきた時謝ってはもらったんだよね。

 でも平等橋はきっちりとこっちに向き直って頭を下げた。

「公麿、その、ごめんな」

 そう、久しぶりに俺の方を向いて言った。

 俺は気にすんなよって言おうか、それとも全くだ、ふざけんなよって詰ろうか。

 迷った結果何も言えなかった。 

 口を開いて出た言葉は言葉とも言えない嗚咽。 

 俺は泣いていた。

「ど屑じゃんアンタ」

「姉貴は黙ってくれよ! ごめん公麿、俺またなんかした、よな、マジでごめんって」

 さっさと泣き止めよ俺。みっともないぜこの野郎。

 そう頭では思うが体は逆らうみたいに涙とか鼻水とか生産しやがる。

 高校まで友達っていう友達ができたことがなかった。

 昔からこの顔のせいで変な奴を引き付けることが多くって、それが原因で極度の人見知りになった。

 歳を重ねるごとにマシにはなったけど自分から友達を作りに行くなんてできなかった。作り方が分からなかったんだ。

 親切な奴も数回は俺に話しかけてくれるけど、緊張してうまく喋れない俺を相手することはだんだんなくなっていく。

 平等橋は俺がどんなに上手く話せなくて、傍から見たら冷たく見えるような返しをしてもしつこく話しかけてくれた唯一の友達だった。

 嫌われたくなかった。

 愛華さんからタオルを受け取った俺は酷い顔を隠すように、涙を拭いた。

「無視なんてするなよ」

 まだ顔は上げられない。タオル越しのくぐもった声で伝わっているだろうか。

「嫌われたくないんだ」

「ああ、本当にごめん」

 俺は人生で初めて、友達とケンカをして、仲直りをした。

 

 

 昼休み、俺は弁当箱をもって席を立った。

「綾峰。あんたどこ行く気?」

 後ろから肩を掴まれた。この声、この掴み方、間違いなく荒神だ。

「えっと平等橋のとこだけど」

 昨日昼飯の約束はあいつの家でした。久しぶりに二人で昼飯だ。

「やめなさい」

「え?」

「絶対にいかせないわ」

 目がマジだった。

「ちょ、どういうことだよ」

「言葉のとおりよ。わからない?」

「全然わかんねえよ」

 荒神は頭が痛いとばかりに天井を仰いだ。そこまで変なことを言っただろうか。

「亜衣、舞衣ここに」

「「ヘイ親分!」」

 ささっと荒神の両脇から女子が生えてきた。俺が女になってから一緒にいることが多いメンバーだ。

 柊亜衣と楠舞衣。

 短髪で巨乳なのが亜衣で、長髪で貧乳なのが舞衣。

 性格はどちらもお調子者で常に荒神をリーダーに悪ふざけをしている点が共通している。偶にこの二人は姉妹なんじゃないかと疑うほどだ。

「マロちんダメだよ~。マロちんを男の所なんて行かせないって~」と亜衣。

「そうそう、それにボスが昼休みはすはすできなくて困るって愚痴聞くの面倒なんだもん」と舞衣。あ、舞衣が荒神に殴られた。

「いや、でも今日はもう私平等橋と約束しちゃってるし」

「そんなもの破りなさい」

 んな滅茶苦茶な。

「荒神。いつも言ってるじゃないか。約束は絶対守れって。お前私に無茶なお願いしては「約束だからね、絶対守れよ」って言ってくるじゃないか」

 そういう時の荒神の要求は大体俺へのボディタッチが多い気がするのだが。無茶なお願いをしては守れなかったと称して俺に執拗に触れようとしてくる。正直約束も何もないと思う。

 だが荒神は痛いところを突かれたとばかりに「うぐっ」と呻き声を上げた。

「え、ボスそんなことしてるの?」

「ボス前々からヤバイと思ってたけどまさかこれほどとは」

 亜衣と舞衣がこそこそ後ろで話しているが、荒神の地獄耳を知っている俺はこいつら絶対後で〆られるぞと戦々恐々した。

 それはともかく荒神だ。

「ごめん荒神。今日だけはだめか?」

 俺は荒神の目を見てお願いをした。背が低い俺は見上げる形となる。

「ぐ、く、くそう。これは卑怯だ。こんなの反則だ」

 荒神はがばっと俺に抱き着くと、わしわしと頭をなでだした。く、喰われるかと思った。

「今日だけだからな。絶対明日は私とお昼だからな!」

「ボス私らもいますぜ?」

「所詮あたいらは蚊帳の外さ舞衣さんや」

 何はともあれ許可は出た。

 平等橋はもう先にいつもの場所に言っているだろう。

 俺が荒神に詰め寄られてるときにアイコンタクトで先に行くように伝えておいたからだ。

 

 

 屋上前の踊り場に平等橋は先に座っていた。ここが俺たちのいつもの場所だった。 

「お、案外早かったじゃん」 

 平等橋はスマホから顔を上げ、俺を認めるとそういった。

 もともとこの場所は俺が一人で飯を食う時に使っていた場所だった。

 殆どの教室が入っている二棟三棟の校舎と違い、職員室や情報教室など特別教室が入っているこの1棟は昼休みの生徒の出入りは少なくなる。特に一棟の屋上前なんてよっぽどのことがない限り人は来ない。

 いろいろ探した結果俺が見つけた秘密のスポットだったのだが、何の拍子か平等橋に見つかってしまった。それが縁で友達になったのだけど。

 難点は教室と離れている為急いでご飯を食べなければいけない点。特に俺は飯を食うのが遅いから急がなければお弁当を残してしまう。そうすると兄貴に烈火の如くキレられるので死活問題だった。

「出た丸弁。お前女になってもそれ変わんねえのな」

「うるせえほっとけ」

 丸弁とは兄貴の弁当のことだ。丸い弁当箱ってだけだなんだがなぜか平等橋は面白がってそう呼ぶ。女になっても食べる量自体はそう変わらない。

「そういう平等橋は今日は弁当なのか」

「ああ。昨日の残り詰めただけだけどな」

 そういって弁当箱の蓋を開けると見覚えのあるハンバーグ。俺も手伝ったやつだ。

「昨日は姉貴にしこたま殴られて味なんてわかんなかったけど、今日食ってみると結構うまいな」

「それ私も作ったんだぜ」

 平等橋が吹いた。きたねえ。

「ひょっとして昨日のもお前作ってたの?」

 俺のペットボトルの茶を受け取りながら奴が聞いてくる。当たり前だろう。

 平等橋は確かめるようにハンバーグを見る。見てわかるもんでもあるまい。

「うまいよ。普通に」

「そいつはよかった」

 ちょっと照れ臭かった。ちょっとだけな。

 

 



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大切な友達だからな

 最近妙な視線を感じる。

 視線の主はわかってる。

「あの、なんか用か? 荒神」

「あら、どうして私だって気が付いたのかしら。ひょっとして愛?」

「電柱で隠れられるほど小柄じゃねえよお前」

 

 荒神だ。

 

 こいつがここ最近ずっと俺のことを意味深な感じで見つめてくる。 

 荒神とは女となってから二か月。一番仲良く付き合っている女友だちだと思ってる。勝手だけど、俺は女子の中で一番信頼してる。次点で亜衣と舞衣だけどあいつら適当だからなあ。

「まあバレてしまったら仕方がないわ。ちょうどいいし一緒に学校に行きましょうか」

「いいよ。じゃあ三人で行こうか」

「は? 三人……?」

 荒神が固まっているとそいつはやって来た。

「悪い公麿。ちっと遅れたか?」

「ちょっとだけね。後でジュースおごりな」

「牛乳でも買ってやるよチビ」

「お前ぶっ殺す!」 

 平等橋だった。 

 最近俺たちは朝一緒に登校している。

 一緒にといっても住んでる場所が平等橋のほうが遠いので駅から学校までの間だけだけど。 

 昔はあいさつ代わりに俺の尻を触ってきた平等橋だが最近はそんな事なくなった。あれは慣れたとはいえ普通にきもかったから止めてくれて俺は嬉しい。代わりにどっちが先に着いているかで勝負するようになった。平等橋のほうが家が遠いから不利のはずなのに、遅刻しないためとか言って勝負をやめることはしない。おかげで結構な割合で俺は昼休みにただでジュースが飲めている。

「ちょっと待ちなさいよ!」

 俺と平等橋はじゃれ合いの手を止めて荒神を見た。やべえ忘れてた。

「よお裕子。お前もこの時間なのな」

「黙りなさい男性器」

「だ……」

 平等橋が絶句した。普段の荒神の様子を知っている俺でもなかなかきついパンチだ。

 この二人が幼馴染だという話は荒神から聞いているが、二人が仲良く話している所を俺は見たことがない。というか荒神が一方的に平等橋、いや広く男子を毛嫌いしている。

「今日は荒神も一緒でいいよな」

「え、いやでも公麿」

「いいわよね?」

「あ、ああ……」

 誘っといてなんだけど、予想通りギスギスした登校になった。

 

 

「ねえ綾峰。あんたって女が好きなの? 男が好きなの?」 

 昼休み。唐突に荒神が尋ねてきた。

 俺は平等橋に奢ってもらったコーヒー牛乳を飲みながら、何言ってんだこいつと思った。 

「おお。ボスがついに切り込みましたぜ舞衣殿!」

「ワクワクが止まりませんな亜衣殿!」

 例の如く亜依と舞衣は無責任に囃し立てる。 

 しかし好き、か。考えたこともなかったな。

 昔からそういう事に興味が薄かった。男の時はそれでも可愛い同級生とか目で追っていた気がする。今は、今はどうだろう。女の子を目で追うことは昔よりずっと増えたけど、それは服装だったり髪型とか化粧だったりファッションチェックの意味合いが濃くなったような気がする。 

 反対に男は今も昔もあんまり興味ないな。 

「女の子の方が見ることは多い、かな?」

「絶対嘘よ!」

 正直に話したのに荒神に嘘と断定された。嘘じゃねえよ。

「じゃあもっと限定するわ。平等橋のことどう思ってる?」

 教室の後ろの方で友達と飯食ってる平等橋が噴き出した。アイツ聞き耳でも立ててたのか? 

「好きだよ」

「はあ!?」

 なんだ。一気に教室から音が消えたぞ。まるで俺たちしか喋ってないみたいだ。

 俺が平等橋のことをどう思ってるかなんて決まってんだろ。

「大切な友達だからな」

 一気にクラスの空気が元に戻った。時でも止められていたのかのようだ。

 後ろから「どんまい」だの「調子に乗ってたからだよ」といった男子の声が聞こえる。

「じゃ、じゃあ私は?」

「おっとこの空気で行きますかボス」

「その強心臓には感服しますぜボス」

 荒神か。いや、えと、荒神な。

「……」

 友達って言っていいのかな。怒られないかな。ちらっと荒神を見る。鼻息荒くこっちを見つめている。許して、くれるよな。

「……と、友達。だよ」

 恥ずかしい。なんだこれ。たまらず顔を逸らす。やってられるか。

 荒神は俺の回答に満足したらしい。

「私も好きだぞ綾峰!」とハグしてきた。待て。俺は一度も好きだなんて言ってない。そりゃ好きだが。

「ねえねえ。マロちん亜衣は?」

「そうだねえ。舞衣のことも気になるなあ」

「うん。二人も好きだよ。と、友達だから」

 何度言っても慣れない。冗談で聞いてるって分かってても照れるものは照れるのだ。

「舞衣さんや。何やらボスの気持ちがちょっとわかりそうですわ」

「同意しますよ亜衣さんや。これはボスを馬鹿にできませんなあ」

 女になって二か月。季節は夏に向かっていた。

 

 

「あ、うん。わかった。じゃあ土曜な。うん。わかってる」

 電話を終えると、ゆかりが俺の方をじーっと見ていることに気が付いた。

「お姉ちゃん。今の電話だれ?」

 そういえば最近ゆかりの俺や兄貴の呼び方が変わった。ゆかりの兄貴に対する呼び名のボスだが、俺の学校の友人が級友相手に使ってると教えたあたりからだ。「パクリじゃん! てか誰でも思いつくってことじゃん! はっずーい!」そういうことらしかった。それ以来俺のことはお姉ちゃん。兄貴のことはお兄ちゃん。親父のことは相変わらずビックボスと呼んでいる。親父のは変わらなかったみたいだ。

「友達だよ」

「男?」

 間髪入れずに聞いてきた。思わず妹の様子を窺いみるがジャンプを読んでる以外特に変わった様子はない。いやあった。ジャンプ逆さまだ。こいつ絶対読んでねえ。電話聞き耳立ててやがったな。

「まあ、そうなるか」

 先ほど平等橋から電話があった。今週の土曜久しぶりに部活が休みになったから遊ばないかとのことだった。あいつはサッカー部に入っているのでなかなか休みが取れない。俺は二つ返事で了承した。

 妹の反応は劇的だった。

「うっそ本当? お姉ちゃんってモテるんだ! すごいすごい!」

 マンガ雑誌を放り投げて俺に飛びつくゆかり。女になって感覚が近くなったせいか、男の時ほど妹の行動がうざく感じない。

「いや別にモテるとかじゃないよ。仲いい友達ってだけ」

「えー、でもそれお姉ちゃんがそう思ってるだけで向こうはそう思ってないかもじゃん」

「ないない」

 俺は一笑した。平等橋が俺に? 男の時なら冗談で言ってきそうだが今はそういうことはしないだろう。

「わっかんないじゃん。お姉ちゃんすっごい可愛いもん。ていうかお兄ちゃんの時から可愛かったじゃん」

「いやちょっと待てよ」

「例えるならそう、エロ同人のヒロインみたいなモテ方してたじゃん」

「嬉しくねえモテ方だな」

 大体酷いやられ方されるじゃねえかそれだと。いやジャンルにもよるけど。 

 うーんとゆかりは顎に指をあてる。考え事をするときのこいつの癖だ。 

「でもお姉ちゃん胸小っちゃいから。そりゃ中学生の私なんかよりは全然大きいんだけどさ、それでも胸がねぇ……あ、『胸が無え』。あははははは」

「微塵も面白くねえよ」

 ちょっとイラッと来たので眉間をぐりぐりしてやった。暴れまわるほど痛いだろう。 

「それよりさ、その人かっこいい?」

 復活したゆかりは懲りずにやってくる。学習能力というものをこいつの脳は搭載していないらしい。

 だが容姿か。うーん。

「ああ。かっこいい部類だと思う」

 初めはリア充オーラを振りまきすぎてて苦手だったけど、慣れるとそれもなくなった。客観的に見てあいつはイケメンだ。 

「ほんと? 写真とかある?」

「ねえよんなもん」

「うっそなんでないの? 普通友達同士だと写真撮るじゃん」

「いや俺も女になって初めて分かったけど、男はそんな写真撮らねえよ」

 ほんと荒神とのツーショット何枚撮ったんだろう。最近じゃもう容量ないし俺のスマホじゃ撮らないことにしてるし。アイツ撮り過ぎなんだよな。

「じゃあさ、今度撮ってきてよ」

「あー、気が向いたらな」

 多分覚えてることないと思うけど。   

 

 



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それだとパンツ見えちゃわない?

「お?」

 靴箱を開けると上履きの上にピンク色の封筒が見えた。

 まさか、と思って手に取るとそこには「綾峰くんへ」の文字が。

 ラブレターだ。いや、多分。

「どうかしたか公麿?」

 靴を履き替えた平等橋が近づいてくる。

「あ、いや、別になんでも」

 俺は手紙を咄嗟に隠した。馬鹿にすることはしないだろうが単純に恥ずかしい。

「なんか怪しいなお前」

「いやもういいから行こうぜ。ほら、今日もお前のおごりなんだからさ!」

「いやそれ昼休みだし今関係ねえ、蹴るなバカ!」

 強引に誤魔化した。カンのいいこいつがこれで誤魔化せてくれたらいいなあという期待も込めた。 

 

 

 俺はこれまでにラブレターというものを受け取ったことが三度ある。 

 全部男からだった。

 一度目は小学校四年の時。相手は縦割り学級で同じだった六年生。こいつは俺が女だと勘違いしていたみたいで、強引に唇を奪われたという苦い記憶がある。ボコボコに叩きのめしてやったが。兄貴が。

 二度目と三度目は中学校の時。それぞれ同級生と先輩からで、こいつらは俺が男だとわかったうえで告白してきたから質が悪かった。何が質悪いかって断ったのにしつこく付きまとってきたからだ。先生に見咎められても男同士だからじゃれ合っているとかで片づけられることが多かった。それぞれ兄貴と妹の協力を得ることで何とか撃退することはできたのだが、それ以来俺は手紙での呼び出しというものに苦手意識を持つようになった。 

「でもこれどっからどう見ても女の子の字だよな」

 俺はトイレの個室にこもり、例の手紙の確認をしていた。教室で開いたら平等橋と荒神にばれて何言われるかわかったものじゃない。普段から授業の始まるまで余裕をもって登校しているので、手紙を確認する時間くらいはあった。

 便箋の表の字からひょっとして女の子かなと思ったが、多分それで間違いないのではないかと思う。理由は丸文字で、便箋のセンスと言いとても男が選んだものに思えなかったからだ。昔もらった男からのラブレターもルーズリーフをただ折りたたんだものが殆どだった。わざわざ便箋まで使うのだ。しかもピンクの便箋だ。男な訳がない。

 だがこれはラブレターじゃないかもしれないと思う要素もある。

 手紙には今日の昼休み二年三組に来てくれ、とあった。

 普通こういう場合指定するとしたら生徒の少なくなった放課後で、尚且つ目立たない場所だろう。この手紙が指定する条件はそのどちらも当てはまらない。

 どっちでもいいか。

 最悪ドッキリでしたと言われなければそれでいい。

 

「やっばい。お腹痛くなってきた……」

 俺は普段他の教室に行くことは少ない。

 友達がいないからだ。俺が他所のクラスに行くとしたら、せいぜい合同授業で男女半々になった時くらいだ。

 だから今ちょっとだけ緊張していた。

 昼休みになると、俺は荒神たちに断りを入れて手紙のクラスまでやってきていた。

 クラスメイトと違い、一時期話題となったとはいえ女になった俺を見て物珍しそうにすれ違う奴らは多い。あまり気にしないようにはしていたが、やっぱり平等橋か荒神か誰かについてきてもらえばよかったかななんて少し後悔した。 

 俺が目当てのクラスの前でちょろちょろしていると、髪を一つにひっくるめた背の高い女子が出てきた。きりっとつり上がった目が印象的で、きつそうな感じだ。 

「綾峰くんね」

 かすれたようなハスキーボイス。 

 彼女は餅田美奈子と名乗った。

「ひょっとして手紙の?」

「ええ。あれは私が書いたものです」

 驚いた。あんな女の子女の子した字を書くような見た目に思えないからだ。王子様みたいな見た目のくせして字はお姫様らしい。

 なんて冷静にコメントしているように思えても、実際の俺は相当テンパっていた。

 慣れないクラス、ていうかその前の廊下で、衆人観衆に見られながらの出来事。

「ちょっと移動しましょう。ここは人が多いですし」 

 だったらなんで待ち合わせをここに選んだんだよ。

 初対面の人に突っ込む余裕は俺にはなかった。

 

   

 餅田に連れてこられたのは三棟と二棟の一階、渡り廊下の間に位置する美術室だった。

 先導する餅田が美術室の鍵を開けてドアを開くと、中から油絵の独特な匂いが鼻腔をくすぐった。

「好きなところに掛けてください」 

 壁一面に生徒が描いたであろう作品が飾られている。俺にはうまいか下手なのか見分けがつかないが、なんとなく凄そうってだけが伝わった。

 手近にあった椅子に座ると、餅田は話を切り出した。 

「突然呼び出してごめんなさい。実はあなたにあるお願いがあってあんなお手紙を書かせていただいたんです」

「お願い?」

 餅田は話し方のせいもあってとても同級生には見えない。なんか年上の人と話しているみたいでドキドキした。

「絵のモデルになって欲しいんです」

「絵の、モデル?」

 聞き返すと餅田は少し頬を染めてうつむいた。

 薄々気が付いていたがやはり今回のこれはラブレターではなかったらしい。そのことにほっとする気持ちと、やや残念に思う気持ちがあった。いや残念ってなんだよ。

 だがよくわからないな。

「私と餅田さんって今まで話したことないよね?」

「……そう、そう、ですね」

 なぜか気まずそうに視線を逸らす餅田。何か悪いことを言っただろうか。

 俺は確かに餅田と話したことはなかったはずだ。 

 そりゃ同じ学校に通って二年目なんだし、廊下や学校のどこかで姿だけは見たことはある。でも名前も知らなかったし、まして突然絵のモデル頼まれるほどの理由が俺には思いつかなかった。 

 思いつくとしたら一つ。でも、それだと嫌だなあ。

「ひょっとして、私が男だったから?」

「え?」

 女になった元男。 

 あれからいろいろ調べてみたが病気や体の変化で後天的に性別が変わることは世の中にはあるらしい。俺の場合はそういった予兆のようなものが一切なかったが。それでも、いやそれだからこそ物珍しい。

 珍しい生き物の観測みたいな意味で頼んできたのなら断ろうと思った。

「ち、違います。私があなたにお願いしたのはあなたが綺麗だからです! あ、いや、これは……」

 勢いよく言い切った後、自分の発言を思い出したかのように口を押えて目線を逸らした。

 見た目に似合わず照れ屋。確かな根拠はないけど、俺は彼女の言葉に嘘はないと感じた。 

「綺麗かどうかは置いとくとしても、うん、取り敢えず話だけでも」

 綺麗な女子に褒められて嬉しがらないやつはいない。荒神の時とまるで同じパターンだなという自覚はあったが。

 

 餅田の応募するコンクールには特に題は決まっていないらしかった。

「出場条件が高校生っていうのと、あとはキャンバスのサイズとかだけなんです」

 翌日、俺はさっそく放課後美術室に足を運んでいた。

 コンクールまでまだ期限はあったが、可能なら早くお願いしたいとのことだったからだ。気持ちはわかる。締め切りぎりぎりでいいものが描けるはずないよなっていう素人的な思考だけどな。

 俺が餅田に頼まれたのはただ椅子に座って手を組んでいることのみ。入学式のクラス写真とかで皆畏まった姿勢で撮るときのあの姿勢だ。肩が凝るぜ。

 デッサンっていうのだろうか。俺のことを見つめながら鉛筆を握る餅田は真剣そのものだった。

 結局餅田がなぜ俺にモデルを頼んできたのか。それはわからなかった。

 そりゃ容姿が綺麗って褒められはしたが、俺より可愛い女子はこの学校には結構いる。もともと女子のほうが多い学校だからだ。

 だから元男ってところが餅田が俺に興味を持った唯一の点だと思ったんだがそれも違うというしいったい何なんだろう。考えてもわからない。

 それと、俺が知らなかっただけで美術部の餅田といえば結構有名らしい。

 昼休みにクラスに戻り、荒神に聞いてみるといろいろ教えてくれた。県のコンクールかそれ以外のなんだかかはわからないが、結構規模の大きなコンクールで受賞したことがあるとかで学校に垂れ幕がかかったこともあるそうだ。

 中学の時私立の美術推薦があったらしいがそれを蹴ってここに来たという噂もあるそうだ。特に何もないこの公立高校になぜ、と疑問を抱く人もいるらしい。

「うーん、何か違う……」

 餅田がガシガシと頭を掻いて悩ましていた。絵に夢中になるとスイッチが切り替わるらしい。粗野な態度が妙に似合っていた。

「何が違うんだ?」 

「あ、ごめん綾峰くん。綾峰くんが悪いんじゃなくて、ちょっと自分的にしっくりこないっていうか」

「どんな感じ?」

 立ち上がって絵をのぞき込むと、当社比三倍くらい綺麗に描かれた俺がいた。こんな妖精みたいな儚さとか醸し出してねえよ俺。

「確かにちょっと良く描きすぎてるよな」

「違うの。綾峰くんはそのまま描いてるんだけど、もっと綾峰くんは栄えるはずなの。もっといい構図があると思うんだけど」

 なんとこれより良くなるらしい。それにしても餅田は俺を持ち上げることが好きだな。嬉しいんだけど過度の持ち上げはちょっと心苦しい。

 ちょっと話題でも変えてみようか。

「それにしても他の部員とかはどうしたんだよ。放課後なのに誰もいないみたいだけど」

 俺のクラスにも聞けば何人か美術部員がいたみたいだから、一人ってわけではないだろう。顧問の姿も見当たらないし。

「えっと、実は今日部である画家の展覧会に行ってるんです」

 餅田はこういう絵の人なんですけどわかります? とスマホで丁寧に教えてくれたが、絵に疎い俺は全く分からなかった。ていうか、だったらなんで餅田がここにいるんだ。

「もともと次のコンクールに向けていい刺激になればという催しだったので。私は今日綾峰くんに許しをもらいましたから行く必要はないんです」

 それよりも早く絵を描きたいんだとか。餅田はそういった。

 それからしばらくまた俺は無言で椅子に座って手を組み、餅田はうんうん頭を捻らせた。

「……綾峰くん。ちょっと姿勢変えてみましょう」

「お、おぉ、いいけどどんな風に?」

「椅子の上で胡坐をかいてください」

「胡坐? いいけどそれだとパンツ見えちゃわない?」

「そ、そこは見えないように何とかしてください!」

 真っ赤になって目を逸らした。うぶだ。可愛い。

「胡坐、あぐらねえ……」

 よっと心の中で一息入れて胡坐を組む。

 不思議と懐かしい感じがした。 

「あ……」

「ん、どしたん?」

 思わず漏れてしまったと言わんばかりに急いで手を口に当てた餅田。その表情は嬉しそうな、でもどこか寂しそうな複雑な顔だった。

「やっぱり綾峰くんはそっちのほうが綾峰くんらしいですね」

 俺らしいとはどういうことだろう。

 一瞬考えてすぐに思い当たった。

 学校の椅子の上で胡坐をかくのは男の時の俺の癖だ。

 授業中にはしなかったが、一人でいる時や平等橋と駄弁っているとき、俺は無意識にこういう姿勢を取っていた。

 女になってすぐ荒神が無理やり矯正したから今ではめっきりすることはなくなった。

 でも、どうして餅田はこのことを?

 キャンパスに目を落として真剣に鉛筆を動かす餅田。

 絵のモデルに俺を選んだのはきっと何か理由があるんだろうなと、確信に近い何かを俺は持った。

 

 



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マジでなんなんだよ

 待ち合わせ時間より二十分ほど前に着いたにも関わらず、平等橋は既に待っていた。

「悪い。ひょっとして待ち合わせ時間間違ってた?」

 俺が平等橋の腕を叩くと、奴の肩がびくっと跳ねた。こいつまさか俺が来たこと気づかなかったのか? 見ると平等橋の耳にはコードレスのイヤホンが刺さっていた。

「びっくりしたー、いきなり誰かと思った」

「私以外いるわけないだろ」

 今日は以前約束した土曜日だった。

 折角だし朝から遊びたいということで、俺たちは朝10時に駅に待ち合わせをした。

 この場合駅というと大型モールや飲食店が立ち並ぶ少し離れた都会の駅という意味だ。俺たち地元の高校生は大体ここに服を買いに来たり遊びに来たりする。

 俺は人を待たせるのが嫌なタイプなので、余裕をもって家を出たのだがこいつは一体どれくらい前についていたのだろう。

「今日どうする? 何個かプラン考えてるけど聞きたい?」

「どうせ服見た後飯食って、どっかぶらぶらした後カラオケかボーリングだろ?」

 平等橋はどうしてわかったとばかりに目を開いた。わざとらしい仕草だ。大体いつもそのコースじゃないか。

 男の頃から俺と平等橋はちょくちょく遊ぶことがあったが、こいつの考える案は店が多少変わるだけで殆ど一緒だった。そうは言ってもこいつと遊ぶこと自体そう何度もあったわけではない。毎回似たようなコースでもそれなりに楽しかったわけだが。

「それにしてもお前あれだな、変わんねんなぁ」

「はあん?」

「いや服のことな。服」

 ああそのことか。一瞬成長がないって喧嘩売られたのかと思った。

「似合ってない?」

「あー、いや、うん。似合ってるよ」

 歯切れ悪く顔を逸らす平等橋。

 家を出る前、姿見に映った自分を見て「俺女になっても結構似合ってんじゃん」とはしゃいでたんだが、これそんな微妙か? ちょっと自信無くす。

 女になった俺だが、新しく服を買うことは今までなかった。下着とかは別とした普段の私服という意味だが。

 というのも俺は男の頃から平均よりも小柄で、サイズ的な意味も含めてレディースものを買うことが結構多かったからだ。アウターもユニセックス系統が大半を占めていた。それに何よりここ最近私服を着る機会がなかったというのが最大の要因だ。

 今日はちょっと服を買い足したいという目的もあった。

 俺がその旨を平等橋に伝えると、午前中は俺の服選びに付き合ってくれる運びになった。

「お前なんか女物の服選ぶの手慣れてないか?」

「妹とよく買い物来るし、それに俺も結構着てたからなー」

 七店くらい店を回って大体目星はつけた。

 今は休憩と昼飯を兼ねて近くのカフェに入っていた。高校生にはこういう所での食事はなかなか手痛い出費だが、しばらく話すことを考えたらまあ仕方ないともいえる。

 昼飯を食いながら俺たちは最近の互いの出来事を話し合っていた。クラスが一緒だといっても、俺は女になってからいつも平等橋と一緒にということはできなくなった。男女で別れる授業や班行動は勿論のこと、荒神が平等橋を追い払うので実は登校の時間を除いて俺たちが話すことはあんまりなかった。だからこうやって落ち着いてこいつと話すのは凄く久しぶりで楽しかった。

「そういや最近お前放課後何やってんの?」

 それは話がある程度落ち着いたときに、唐突に投げかけられた。

「何って、何が?」

「俺もよ―わからんけど裕子の奴がお前がいねえつって発狂してたぜ。なんかやってんのか?」

 発狂って荒神…… 

「ちょっと今美術部の子の手伝いしててさ」

「へえ、美術部ってたしか餅田美奈子がいるところか」

「餅田ってやっぱ有名なんだ」

「学校であんだけ派手に宣伝されたらさすがにな。俺も一年の時学校の廊下に飾られてたあいつの絵見て鳥肌立ったからよ」

「お前に芸術を理解する感性なんてあったんだ?」

「なんだこいつ喧嘩売ってんのか、おー?」

 しばらく俺たちはくだらないことで攻防を繰り広げた。

 一息つこうと注文した追加の珈琲が届いたタイミングで、「で、お前美術部でどんな手伝いしてるわけ?」と平等橋。

 なんかちょっと様子が変だ。

「別に普通だよ」

「普通って?」

「普通は普通。なに、いやに食いつくじゃん?」

「そっちこそ妙にぼかしてる」

 餅田は俺をモデルにしてコンクールに出すと言っていた。必要があるかはわからないが、一応コンクールに出品し終わるまでモデルであることも黙っていた方がいいと思った。

 

 様子が変なのは平等橋だ。

 

 口調はいつもと変わらないが、若干いら立っているようにも見える。 

 秘密にされて怒ったとか。

 さすがにそれはないか。

「そろそろ出ようぜ」

 まだ俺のカップの珈琲は半分以上残ってる。いつもだったら気づいて待ってくれるはずなのにそれがない。

 まさか怒った?

 一人で先に出ていこうとする平等橋を追いかけるように俺は珈琲を口に流し込んだ。舌を火傷した。くそう。

 

 

「これどうよ」

「……いいんじゃね?」

「これは?」

「あー、うん。いいと思う」

「……えと、じゃあこれは?」

「さいこーさいこー」

 返事がおざなりだ。

 

 案の定というか、午後の買い物は最悪だった。

 試着して意見を求めても適当な返事しか返ってこない。どころかちょっとめんどくさそうにスマホに目を落とし始める始末。

 午前中は「いいなそれ!」とか「お前じゃそれは着こなせねえよ」とか粋のいいコメントをくれたものなのだが。 

 原因はやっぱりあれだろうか。美術部の件。正直に話した方がよかったかなあ。

 俺は誰かを怒らせるというのが苦手だ。自分が悪いと思っているときなんかは特に。

 どうやって謝ったらいいかわからないし、許してもらえなかったらどうしようとか考えて何も言えなくなる。

 楽しいとは正反対の気分で俺たちは店を出た。目的の服は買えたが全く嬉しいとは思えない。

 平等橋と喧嘩らしい喧嘩はしたことがない。前回無視された時は別だ。あの時はいろいろ想定外の事情が重なったという背景がある。でも今回はどうだろう。

 隣を歩く平等橋を盗み見る。

 平静を保っているように見えるが、先ほどから自分から口を開くことはない。

 こいつこんなねちっこいキレ方する奴だったのかと時間が経つごとにむかむかしてくる。

 一言ちょっと言ってやろう。息を吸い込んだそのとき、先に平等橋が口を開いた。

「公麿」

 平等橋は立ち止まった。目線の先に俺を映していない。

「今日はもう帰ろうぜ」

 

 

「あれ、お姉ちゃんお帰り。早いじゃん……ってあれー? お姉ちゃーん?」 

 妹の呼びかけを無視して二階の自室に鍵をかける。

 買ってきた服を机の上に置いた後、ベッドに倒れこんだ。

 脳裏に映るのは苛立ったような平等橋の顔。

「なんなんだよあいつ」

 突然キレて、勝手に帰りやがって。

 途中までは楽しかったのだ。バカみたいにテンション上げて互いのファッションセンスを冗談交じりに貶しあって、小突き合い、じゃれ合い、小気味の良い会話のやり取り。

 久しぶり、だったのだ。

「マジでなんなんだよ……」

 情けない声が妹に聞こえないように、枕に顔を埋めて俺は泣いた。 

 

 



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閑話 

「あいつまだ寝てんの?」

「フハハハハ、我がお姉ちゃんはいまだ深い眠りを」

「いやそういうのいいから。ったくあいつ何があったんだ?」

 リビングから妹と兄貴の声がかすかに聞こえる。 

 

 今日は日曜日だ。休みの日は休むのが筋というものだ。

 決して土曜の件を引きずってふさぎこんでいるのではない。泣いたせいで酷いことになっている顔を家族に見せたくないからでもない。

 そう思ってベッドから動かずにいると、だんだん瞼が落ちてきた。

 なんだ、体が疲れているのか。

 だったら休もう。

 だって今日は日曜日なのだから。

 

 

「ランキング?」

 耳慣れないワードに俺は後ろを振り返った。平等橋を含めた数人の男子がやべっていう焦った顔をした。

「何の話?」

「あー、いや、ちょっとこっちこい公麿」

 平等橋に尋ねると、奴がちょいちょいと手招きをした。なんか怪しい。

「おい綾峰混ぜたらややこしいことになるんじゃ」

「どっちみち感づかれた時点でおしまいなんだよ。だったらこっち陣営に混ぜた方がいいだろ」

 ほかの男子がちょっと微妙な顔をして言うので俺ハブられてんのかなと悲しい気持ちになりかけたが、平等橋のフォローで何とか平静を保てた。ホント俺って平等橋以外友達って言える奴がいないんだなって軽く落ち込む。

 平等橋は何かから隠すように俺の肩を組み、一枚のルーズリーフを広げた。

 その紙にはでかでかと「二年三組かわいい女子ランキング」の文字。

「これって!」

「声がでかい!」

 平等橋以下数名に口を押えられる。汗臭い。

 暴れなくなった俺をそろそろと離すと、「いいか公麿」と至極真面目腐った調子で平等橋は声を潜めた。

「お前も男なら女子に興味の一つや二つあるだろ?」

 ここで否定するのも変だ。頷く。

「教室の女子のだれが一番か気にならないか?」

 いや別に気にならない。でもここでそう言えば白けるのは確実だ。調子を合わせておこう。

「そういう訳で誰が一番か男子の総意を決めようとしているんだ。わかってくれるな?」

 そういうことか。

 俺は一気に冷めた目をここにいる男子たちに向けた。

「おい正義。こいつ一気にどうでもいいって顔してやがるぞ」

「まさか女子にチクったりしないだろうな? バレたら俺たち全員ハラキリものだぞ!」

「ええい落ち着け皆のもの! こいつがこういうことに興味がないのは自明の理ではないか!」

 騒ぐ男子を取りまとめる平等橋。どうもこの企画の開催者はこいつなんじゃないかという疑いが生まれた。こういう馬鹿らしいことをこいつはよくするのだ。

 しかしかわいい女子ランキングねえ。

 俺はルーズリーフに汚い字で書かれた一文を見てあほくせえなあと思った。

 まず第一に女子をランキングする時点で失礼だ。

 第二にそれをお前らがするなって思う。

 そして第三にこんなことしてるこいつら相当暇なんだなってその時点で呆れる。

 興味を失ったとばかりに席を立とうとすると平等橋に止められた。

「なんだよ。別にチクらないって」

「違う。お前はこのことを知ってしまった。いわば共犯者という訳だな」

「共犯者ってそんな」

「お前にはしてもらいたいことがあるんだが、聞いてくれるよな?」

 馬鹿な男子共の目がギラリと不気味に光った。

 

 

 俺は平等橋の馬鹿な催しごとに付き合うことが結構多い。

 平等橋が巻き込んでくることが多いのだが、偶に俺の方から気になって声をかけるといつの間にか巻き込まれていたというパターンもある。その中でもやっていて面白いものと、全く面白くないものの二パターンに分かれることがある。

 今回は明らかに後者だった。

「あ、あのちょっといい?」

 俺は勇気を出して声を掛けた。

 推定男子一番人気の女子、荒神裕子はああんとばかりに不機嫌そうに振り向いた。

「あら、クソ男子かと思ったら綾峰じゃない。どうかした?」

「俺も一応男子なんだけどな……」

 気にしない気にしないと気さくに肩を叩いてきた。き、緊張するなあ。 

 平等橋が俺に与えた任務は、女子の情報を可能な限り入手してくるというものだった。

 趣味趣向、好きな男子のタイプなど、ランキングを作る際に必要となる情報を集めて来いという無茶ぶりだ。

 無理だと断ったら、平等橋だけでなく後ろの男子連中にもごねられた。

 結果、数人だけならという条件でしぶしぶ了承することに決まったのだが、その数人というのが恐ろしいメンツだった。

 男子嫌いで有名な眼鏡委員長、荒神裕子。

 荒神の右手として数々の男子に追い打ちをかけてきた短髪巨乳、柊亜衣。

 荒神の左手として柊が仕留めそこなった男子を完膚なきまでに再起不能にする貧乳ロング、楠舞衣。

 このクラスの男子の人気をほぼ三分する女子にして、恐ろしいまでの男嫌いかつ変人三人衆だった。間違って声を掛けようものなら、男子の尊厳自身その他もろもろを吹き飛ばされる恐怖の男子デストロイヤーだ。正直俺も震えが止まらない。

 この三人に声をかけるまでにトイレに二回足を運んだほどだ。

「で? わざわざ私たちに何か用か?」

「マロちんがやってくるってことはバッシ―のパシリかな?」

「パシリじゃないよ亜衣。愛だよ、愛。ら~ぶぅ」

 きゃはははと何が楽しいのかテンションをあげる亜衣と舞衣。荒神は「まあ座りなさいよ」と空いていた自分の席の隣を示した。

 男子嫌いと有名な荒神だが、クラスが一緒になって以来俺にはかなり好意的だ。恐らく俺が女顔のせいだと思うのだが、男扱いされていないという意味では素直に喜ぶことができない。亜依と舞依は荒神が俺には友好的な姿勢を示すのでそれに倣っているだけだろう。

 席に着くと、じっと三つの視線が俺に集まった。う、威圧感が。

「ちょっと三人に聞きたいことがあって」

「……ふーん?」

 一瞬荒神の目線がすっと動いた。視線の先を追うと、俺と似たように他の女子に質問をしている平等橋がいた。

「聞きたいことね、何かしら?」

 にこやかに荒神は質問を促す。

 本当に荒神なんでこんなに俺に協力的なんだろう。荒神は普段男子に対して「私の近くで息を吸うのをやめてくれない? 私が息をできないの」とか平気で言う女だ。ここまで露骨だとちょっと怖い。

 だが今はそれに甘えるしかない。さっさと聞いてしまおう。

「えと、じゃあまず荒神から聞きたいんだけど。変な意味じゃないんだけどさ、荒神は好きな男子のタイプってある?」

「ないわ」

「え?」

「だからないわ。好きな男子のタイプなんて。しいて言うなら男性器を股間にぶら下げてない男かしらね」

 ひゅっと股間が寒くなった。古代中国に、自らの逸物を取り除いた宮廷官僚がいたことを思い出した。

 そこからいくつか質問をした。

「趣味は?」

「可愛い女の子と出かけることかしらね。あなたでもいいけど」

「好きなブランドは?」

「ブランド品は身に着けないわ」

「好きな場所は?」

「ラブが頭に付くホテルね。一緒に行く?」

「近い将来したいことは?」

「このクラス男子のあそこを切り落とすことかしらね」

「あ、ありがとう……」

 もう無理だ。いろいろ平等橋から聞いて来いってリストは渡されたがとてもじゃないが全部聞けない。ていうかこいつ絶対俺のことからかってる。目が笑ってるもん。

「じゃあじゃあ次は亜衣だね!」

「先に舞衣がいってもいいんだよ?」

 亜衣と舞衣。この二人の相手を終えた後俺は干物のように干からびることになった。

 

 

 放課後、這う這うの体で平等橋に結果を報告した。 

「でかしたぞ公麿! お前ならあいつから聞き出せるって信じてたぜ」

 早速確認させてもらうぜと俺のメモしたルーズリーフを見始める平等橋。次第にその表情は困惑に代わっていった。

「ゆ、荒神のこれはまあ仕方ないとして、柊と楠もすげえ答えばっかりだな。柊は好きなタイプ『未来人』で楠は『液晶テレビ』? これはさすがにアイツらには気づかれてたかな」

 俺もそう思った。荒神の時から、俺たちが何か良からぬことをするために女子に聞きまわっているんじゃないかと疑いをもたれていた気をバシバシ感じた。

「ふぃ~。お疲れ。どんなもんよ」

 俺たち以外の他の調査メンバーも帰って来た。三者三様に浮かない様子だ。

「こっちはだめだな。そっちは?」と平等橋。

「こっちも微妙。なんか女子がくすくす笑ってやがんだよな」

 ちなみに平等橋のほうも素っ頓狂な答えしか返ってこなかったらしい。これ確実にばれてる。

「まあ女子にはばれているかもしれんが担任にチクられていない以上黙認はされているとみなしても良かろう。これよりこの情報を基に投票を行おうと思う!」 

 その理論は絶対間違っていると思うが、平等橋は嬉々高々と拳を挙げた。するとどこからともなく教室に湧き上がってくる男子生徒たち。女子の人払いをどうやって行ったか不思議だ。

 

「お待ちください隊長! まだ一枠プロフィールが不明な者がおります!」

 隊長と呼ばれた平等橋は「なにい!?」と芝居かかったわざとらしい演技をする。うわあノリノリだこいつ。

 でも誰だろう。集めたプロフィールを見てもこのクラスの全員分あるように思えるが。

「綾峰女子がここには欠けているであります!」

「ん゛ん゛! 確かに!」

 いや俺男だって。わざわざ否定するのもあほらしいが「綾峰がいねえだとおおお」と叫びを上げる奴がいるからもう病気だ。

「なんだ公麿。お前書いてなかったのか」

「書くわけないでしょう。改めて言うのも変だけど俺は」

「早く書いてくれよ綾峰。お前が書かなきゃ全員分とは言えないだろ?」

「いや、だから!」 

 俺が言い返そうとしたとき、ちょいちょいと教室の外から手招きをする荒神の姿が。

 角度的に俺にしか見えていないようで、他の男子は気が付かない。

 何だろうと思って廊下にでると、「私の後ろに下がっていなさい」と妙に男らしいことを言う。

 荒神が何をするつもりなのかすぐに分かった。廊下にはクラスの女子が全員おり、そこに学年主任の先生が呆れたように教室の中をのぞいていたからだ。

 女子は人払いして出ていったのではない。戦闘態勢を整えるために自発的に出ていったのだ。 

 バカ騒ぎをする男子共はまだ事態に気が付いていない。

 先生が教室に入り、後は阿鼻叫喚だった。

「図ったなゆうこおおおおおおおお!」

「ちんこはもげろ! 死ね!」

 この一件以来二年三組は良くも悪くも悪目立ちするようになった。

 学年が始まってまだひと月かそれくらいの出来事だった。

 

 

 目が覚めた。

「あ、お姉ちゃん起きた」

 目の前に妹の顔があった。え。なんでお前馬乗りしてんの? 

「寝顔可愛いねお姉ちゃん!」

「バカお前降りろ!」

 にひひひと口元を押さえて飛び降りるゆかりに向かって枕を投げつける。

「なんかいい夢でも見たの? お姉ちゃん」

 スマホを片手に、勝手に撮った寝顔を見せつける妹が腹立たしい。

 でもそうだな。

「悪い夢じゃなかったよ」

 ともすれば泣きたくなるくらい楽しい思い出だったのかもしれなかった。

 

 



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勝手に拗ねるなよばーか

 土曜日が散々だった為日曜日も沈んだ気分で過ごしたが、月曜日になると幾分気分も落ち着いた。

 初めは俺が悪かったのかなと落ち込んだ。しかしよくよく思い返してみても平等橋のあれは過剰攻撃な気がする。沈んだ分むかっ腹が立ち、俺は平等橋との待ち合わせ場所には寄らずに一人で登校した。

「あら。早いじゃない」

 教室にはまだ数人しかおらず、その中に荒神がいた。そう言えば今日の日直は荒神だったか。

「平等橋は? トイレ?」

 俺が一人で教室に来たことが珍しかったのだろう。嫌そうに俺の後ろを確認する。

「ううん。今日は一人」

「マジで!? 何かあったの!?」

 荒神はキャラが崩れるほど食いついた。

「ケンカ? ねえケンカ? あいつとは破局?」

「ケンカって言うか、いや破局ってそもそもおかしいだろ」

「なんでもいいわよ。重要なのは今あいつと仲が悪くなっているのね」

 荒神は別に俺たちの間にあったいざこざを何か察しているわけではないだろう。こいつはいつも俺と平等橋が仲たがいすることを望んでいる態度を隠そうとしないからだ。ただ、だからって反応が早すぎる気もする。まだ教室に入って一分もたっていないぞ。

 俺の沈黙を肯定とみなしたのか、荒神は俺に抱き着きわしゃわしゃと頭をかきまわした。

「ええ、ええ、いいのよそれで。あんな矮小な男ほっときなさい。そして私の所に来るのよ」

 普段の俺ならここで何か平等橋のフォローを入れるところだろう。だが今日は違う。

「ああ。あんな小っちゃい男のことなんてどうでもいいな!」

 勢いよく荒神の言葉に合わせる。

 ほんと狭量な男だよあいつは。ちょっと秘密にしたからってあれはねえよ。

 てっきり荒神も一緒になって乗ってきてくれる思った。いつも平等橋の悪口を言いまくっているからだ。

「……え、どうしたの。ほんとに何かあった?」

 返って来たのは困惑。まさかそういう返しになるとは思わず、俺は何も言えなくなった。

「ま、ま、ま、まさか……」

 何も言えずにいると、荒神はだらだらと脂汗を流し始めた。

 俺を教室の隅に引っ張り、自分の体で俺を隠すようにする。荒神の体から柑橘系の香水の匂いがして胸が高鳴る。おいおい、そういう場面じゃないって。

「いい。今から言うこと誤魔化さずにはっきり答えて」

 荒神は瞳孔が開いてるんじゃないかと疑わんばかりに目を見開き、焦りからかカタカタと歯を打ち鳴らしている。怖い。いやマジで。

 俺の耳元まで口を近づけ、小声でこういった。

「平等橋とヤったの?」

「バッカじゃねえのお前!」

 とっさに手が出た

 何てこと言ってんだこいつ。やっぱこいつ馬鹿だ。前々から思ってたけど中身はどうしようもないやつだ。外見がクールビューティー気取ってるけど中身はド変態だ。

 苦しみながらお腹を押さえてるはずなのに、荒神はくつくつと歓喜の声を上げていた。

 

 

「あーらごめんあそばせ?」

「わたくしたちは忙しくってよ」

 亜衣と舞衣が平等橋の前に立ちふさがる。

 放課後、教室に残っていた俺たちの所にやって来た平等橋はひきつった笑顔で頭をかいた。

「お前らに用ってわけじゃなくて、公麿に用なんだけど……」

「愚民の声は聞こえなくってよ!」

「生まれ変わってから出直しなさいな!」

 亜衣と舞衣は相変わらずだ。悪乗りが出来るタイミングがあれば水を得た魚のように生き生きと目を輝かせる。特に今日は荒神の鉄拳制裁がないので好きなだけ弾けている。

 俺は荒神に土曜日の一件を話した。あんまりにもしつこく聞いてきたからだ。俺も誰かに聞いてほしかったという気持ちがあった為、最初は気乗りしなかった。だが俺も鬱憤が相当たまっていたのだろう。途中からべらべらと口が乗ってしまった。その過程で多少誇張が過ぎたかもしれない。

 俺にも悪い所はあったと思うので、荒神がなんていうのかは少し不安だったが、期待通り荒神は「ぬわんですってえええええ!」と烈火のように怒りを露にし平等橋にお灸をすえてやると息巻いた。

 朝からずっと平等橋は俺に話したそうな目線を送って来た。

俺はその度にふいと視線を逸らしていた。何度かその攻防を繰り広げているうちに痺れを切らせたのだろう。実力行使で直接俺の方にやって来た。そんなことはさせるかと立ち上がったのが荒神だ。亜衣と舞衣を巧みに遣い、結局放課後までその戦いは続いていた。

 

 

 平等橋がサッカー部の同級生に引きずられていったことでようやく終了したが、精神的に疲れた。

 何度も何度も俺の方を見てくる平等橋の目からは、土曜日に感じたような苛立ちは含まれていなかった。ただ純粋に謝りたいという気持ちは伝わって来た。

しかし俺はすぐにそんなもの聞きたくなかった。くだらない意地を張っているだけというのは気づいている。でもまだムカつくんだからしょうがない。一方やりすぎかな、ちょっと悪い事したかなという罪悪感がなくもない。うーん複雑だ。

「あー、今日は気分が良かった。にっくき害虫を近づけずに済んだのだから」

 俺に頬ずりする荒神。ええい止めろそこまでは許してない。

「ねえねえ舞衣。今日の貴族令嬢スタイル結構よくなかった?」

「前の必殺仕事人スタイルもなかなか良かったと思うけどねえ」

 亜衣と舞衣は好き勝手喋っている。

「あのさ、やっておいてもらってなんだけどちょっと、その、大丈夫かな?」

 協力しておいてもらって言うのもなんだが、流石にちょっとやりすぎたかなと思う。

「いいのよあれくらい。あいつもちょっと反省すればいいのよ」

「亜衣的にはもう少し過激でもいいかなー」

「舞衣的にはもっと激しくてもいいかも」

 荒神はふんと鼻息荒く、亜衣と舞衣は新しいおもちゃを与えられた子どものように、俺の肩を抱いて「大丈夫。大丈夫」という。本当かな。

「あ、そろそろ私部活いくね」

「あらら、確かにそろそろ行かなきゃいけない時間だ」

 亜衣と舞衣に手を振って見送る俺と荒神。あれ、なんで荒神も?

「えっと、荒神も部活あるんじゃなかったっけ?」

「サボるわ」

 どうしたんだこいつ。

「最近綾峰が美術室に入り浸って何してるか気になるし。どうせ今日も行くんでしょ? ほら行くわよ」

「え、いや、でもそれは」

「何よ。ごちゃごちゃ言うとお尻撫でまわすわよ」

「それはやめろ」

「いいから早くいくわよ」

 断ることは許さないという口調だ。主導権を握られている。

 俺はいいのかなあという不安の下、荒神に手を引かれて美術部へ向かった。手なんか持たなくても逃げないってば。

 

 

 先に美術室に来ていた餅田は、俺が連れてきた荒神を見て目を丸くした。

「ゆうちゃん?」

「久しぶりね美奈子」

 荒神と餅田は知り合いだったみたいだった。

「二人友達なの?」

 いつものように椅子を引いてその上で胡坐をかきながら二人に尋ねる。この座り方も定位置みたいになってきたな。

「中学の時にちょっとね。ていうかその座り方やめなさいって言わなかったかしら?」

「あ、違うのゆうちゃん。私が綾峰くんにそうやって座ってってお願いしたの」

 荒神がにこやかに近づいてくるのを餅田が止める。

「ああ、そうなの」

 以外にもあっさりと荒神は引き下がった。

「それで? あんた今回はこの子をモデルにしてコンクール出すんですって?」

 道すがら俺は洗いざらい荒神に打ち明けていた。

「あんたが人物画を描くなんて意外ね。今どんな感じなの?」

 何気なくだろう。荒神は餅田の後ろに回ってキャンパスを覗き見ようとした。

「だ、だめ!」

 餅田は抱えるようにそれを隠した。

「まだ完成してないし、み、見ないで……」

 恥ずかしがっているようには見えない。いや見ようによってはそうなのだけど、餅田のそれはどこか怯えているようにもみえた。

 荒神はしばらく何も言わなかったが、「ふーん」とだけ漏らした。何がわかったのだろう。

 餅田は荒神が美術室に入ってきてから妙にそわそわしているようだった。焦っているというか、後ろめたいことを隠しているかのような印象を受けなくもない。穿ちすぎだろうか?

「ゆうちゃんはどうしてここに?」

「私の嫁が最近浮気をしてるって聞いてね。浮気現場を確かめに来たの」

「嫁って、ひょっとして綾峰くんのこと? 相変わらずだね」

 餅田はふふっと笑ったが、荒神は笑わなかった。

 蚊帳の外に置かれた俺は、なんでこんな張り詰めた空気なってんだろうと不思議だった。最近は美術部に餅田以外の部員もやってきている。黙々と自分のキャンパスに向かっている部員も、何か起ころうとしている俺たちの方に意識が向いているのがありありと伝わってきてちょっと居心地が悪い。

「その綾峰『くん』っていうのやめなさいよ。この子はもう男じゃないのよ」

「分かってるよ。癖みたいなものだってこれは」

「本当にそれだけ?」

「……何が言いたいの?」

「コンクールなんて嘘なんでしょ?」

「……」

 餅田は黙って視線を落とした。それを見ると、荒神は嘆息した。

「綾峰。帰るわよ」

「え、あ、は!? ちょ、ちょっと荒神」

 荒神が俺の手を引いて美術室を出る。何がどうなってるんだ。

 彼女は教室を出てもすぐに俺の手を放すことはなかった。何処まで引っ張っていくんだこいつは。

 下足までやってきたところでようやく荒神は手を離した。

「一体なんなんだよ荒神? 意味わかんねえよ」

「強引に連れ出したのは謝るわよ。でも、もうあそこに行く必要はないわ」

「は? どういうことだよ」

「それは……ああ、後ろにいる人に聞いたらいいんじゃない?」

 振り返ると、沈んだ表情でうつむいた餅田がいた。

 

 

「嘘をついていました」

 餅田は静かにそういった。 

 グラウンドのテニスコートの近くのベンチは老朽化と日当たりの悪さか、普段から人気はない。放課後ともなればわざわざこんな場所にやってくる奴はいないだろう。秘密の話をするには絶好の場所という訳だ。

 荒神は俺たちをここに連れてくるとさっさとどこかへ行ってしまった。俺にというより餅田に気を遣ったように見えた。

「本当はすぐに言うつもりだったんです。ごめんさい」

 俺をモデルとした絵をコンクールに出す。ドラマの中の話みたいだと初めから思っていたが、いざそれが嘘だと言われると多少残念に思う気持ちはあった。

「どうしてそんな嘘を?」

 俺の問いに餅田は答えなかった。ぎゅっと口を結び、何かに耐えているように、追い詰められているように、そういう風に見えた。

「なあ、間違ってたらごめん。ひょっとしてなんだけどさ」

 俺は思い切って聞いてみることにした。

初日に美術部へ足を運んだ時。俺が胡坐をかいて座っている姿を見た時の餅田の表情を見た時。俺は一つの頭に思い浮かんだものがあったのだ。

「初めにくれたあの手紙。あれラブレターだったりした?」

 弾かれたように餅田が顔を上げた。

はっきりと顔が赤くなっているのが分かる。

 多分これが答えだ。

「ごめん、私女になっちゃったからさ」

「綾峰くんは男の子です!」

 俺の発言に被せるように餅田は言った。

 どうして女の子なんですか。

 今まで女になって口には出さなくても辛いことやしんどいことはたくさんあった。でも、この言葉が一番心に来た。

 ぽろぽろと涙を流す餅田。

 あなたが好きでした。

 初めて女の子に告白された。

 でもそれは過去形だ。

 今の俺は男じゃない。女になってしまった。餅田の気持ちを受け止めることはできない。

 女に変わってしまってから、俺は女子のことを恋愛対象として見ることができなくなってしまった。男が好きになったってわけじゃない。でも自分が彼女たちと同種になってしまったという意識からそういう対象にならなくなったという話だ。

「男の子だった綾峰くんが好きでした。き、気持ち悪いですよね。その為にこんな、回りくどいことまでして」

「気持ち悪くなんてないよ」

 餅田はそれから堰を切ったように俺に語ってくれた。

 本当だったら手紙で人気のない放課後に告白するつもりだったということ。

 女の子になった俺を見て自分の気持ちが変わらなかったこと。

 その中で男の時の癖が見えた時は嬉しくなったこと。

 会う口実がなくなってしまうため、コンクールのことが嘘だとなかなか言い出せなくて申し訳なかったこと。

 それでも会うといつも嬉しかったこと。

 感情のままに餅田は俺にぶつけた。

 こんなに感情豊かだったんだな。そう驚いた。

 不謹慎なのかもしれない。でも、俺はそれを聞いたとき嬉しいと思ってしまった。

 多くの人が女に代わってしまった俺を受け入れてくれた時、そのことをありがたいと思う反面男の俺が皆の記憶の中からまるで消えてしまったかのような喪失感が広がった。それは細い針で指先を刺すような痛みで、気にしないようにはしていたことだった。

 俺を、男の俺を覚えてくれた人がいた。嬉しくなることはあっても気持ち悪いなんて思うはずはない。

「ごめんな餅田。お前の気持ちには応えることはできない。でもお前さえよかったら『私』と友達になってくれないか?」

 私の部分を強調した。

 女になった俺でも友達になってくれるだろうか。身勝手な言い分だとはわかっていたが、俺は餅田との関係をこんな形で切りたくはなかった。

「……綾峰くんはずるいですね」

 悲しそうに眼を細めながら、だけれど彼女ははっきりと頷いてくれた。

 

 

 それからのことを少し話そうと思う。

 俺と餅田はあの一件以来少しギスギスするというか、微妙な空気が互いに流れることはあったがなんとか仲良くやっていた。

 そういえば荒神が餅田に対して、俺の絵をコンクールに出すなんて嘘だと指摘したのはどうしてかと尋ねてみたことがあった。これはちょっと気になっていた。

「実はあれ真っ白だったんです。描いたフリはしてたんですけど、気配であの子には伝わっちゃったんですね」

 荒神と餅田の関係性が詳しく気になる所ではあったが、ただならぬ空気を感じて聞くに聞けなかった。 

 荒神といえば、あの日の夜初めて彼女から電話がかかって来た。普段から学校でベタベタしてくる荒神だが、案外学校の外では連絡を取ってこないような奴だったので少し驚いた。

 俺は自分から餅田に告白されたことは伏せたが、荒神はどこか気が付いているような節があった。うーん謎だ。

 電話を切る前に荒神から、平等橋が妙な勘違いをしているからそろそろ誤解を解いてあげたほうがいいとよくわからないことを言った。

「何の話?」

『さーなんでしょう? ヒントは美奈子、あんたは元男、放課後に二人きりで密会』

 通話の最後に小さな声で『平等橋に悪い事したかしらね』と呟いていたのは気になったが、それとは別にスマホを片耳に当てたまま、俺は随分変な顔をしていたと思う。

 

 

 翌日、昼休みに俺は平等橋を呼び出した。待ち合わせはいつものあの屋上前の踊り場だ。荒神には仕方ないわねと快く送り出された。素直に送り出されると逆に不気味だった。

「よ、よう公麿」

「よーバカ野郎」

 ひどくたどたどしく片手をあげてやってきた平等橋からは、以前遊びに行った時の帰りに感じたような冷たさはない。

「バカってお前、いやそうだけど」

「バカはバカだろ。お前私と餅田が付き合ってるとか思ってたんだって?」

「いっ!?」

 荒神から聞いた情報。更に亜依と舞依が面白がって教えてくれた情報を繋ぎ合わせた結果俺は一つの答えを得た。それがこれだ。

 平等橋の右足の甲をぐりぐりと踵で踏んでやる。スリッパを脱いでやるのがせめてもの情けだ。

「私はもう女だ。変な勘違いして勝手に拗ねるなよばーか」

「拗ねてねえよ」

「拗ねてたろ」

 にやにやと軽口の応酬。

 こいつはずっと俺のことを男だと認識していた。

 だから俺が女になったって分かったらすぐに距離を取った。受け入れがたい事実だったからだ。

 だが俺は無理やり距離を詰めた。 

 その結果こいつは俺の性が自分の認識の中で曖昧なまま受け入れてしまうことになったのだと思う。

 友達が自分に内緒で隠し事をしている。しかもそいつが自分の知らない所で彼女を作っていたと知ったら、同性の友人とからすればどう思うだろう。

 俺だったら素直にムカつく。一人だけ彼女とか作ってんじゃねえよと嫉妬にかられる。

 そしてちょっと寂しくなるだろう。

 自分に何の相談もなかったこと、これからはいつものように気軽に遊びに誘えなくなるんだろうなということに。

 平等橋が俺と全く同じ考えかどうかはわからない。あくまで俺ならって話だからだ。

 でも友達だと思ってるやつに隠し事されたら、ちょっとは気になるのが人間ってものだろう。

 もし仮に俺が考えているような気持ちを平等橋が持っていたとするなら。

 しかし、それだとしたら俺は彼にこういわなければいけないだろうと思う。

 俺はもう女だ。

 男の俺はもういない。

 今までなあなあにして誤魔化してやって来たが、餅田の件で俺は俺が女であることをはっきりと認識させられた。

 お前は俺のことをまだ心のどこかで男だと思っているのかもしれない。

 でも俺はもう女で、お前にもそれはわかってほしいと思っている俺がいる。

「なんだよ」

「なんでもねえよ」

 見え上げれば気恥ずかし気に頬を掻く平等橋がいる。

 こいつが何を考えているのかはさっぱりだが、俺は俺なりに、こいつに俺のことをわからせてやろう。

 俺は密かにだが確実な意思をもってこの時そう、決意した。

 

 



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番外編 その1 平等橋

他視点サイドのお話がここからちょこちょこ続いた後に本編にまた戻ります。


 12歳の時。母親が知らない男と行為に及んでいる所を見てしまった。 

 

 朝学校へ向かって、途中で忘れ物に気が付いて家に引き返した。

 図工で使うハサミなんて忘れたままでもよかったはずなのに。

 その後すぐに両親は離婚した。親権は父親が勝ち取ったそうなので俺と姉貴は父親に付いて行くことができたのが唯一の幸いだった。

 だがそれ以来俺は本能的に女性に嫌悪感を抱くようになってしまったらしかった。

 母親ではなく女としてのあの人を見て以来、女性に対して汚らわしいというイメージが頭から離れなかった。

 それは中学高校と学年を上がっても変わらなかった。むしろ悪化したといってもいい。

 中学の時始めて彼女ができた。

 自慢するわけじゃないが俺はそこそこ顔が整っている方だと思う。流行には聡いし、興味もある。姉貴の影響で女子受けがする話題なんかも良く耳にしていた。だから女子と仲良くなることは容易だったといってもいい。

 俺は母親の一件から女子が苦手になったが、このままでいいとも思っていなかった。だからリハビリのつもりで女子と仲良くして、その延長で告白を受けた。ただそれだけの話だった。

 今でもガキだが、あの当時の俺は更にガキだった。興味本位で告白を受けて、映画やドラマで恋人同士がやりそうなことは一通りやってみた。

 だが体を重ねる行為だけはできなかった。

 幼かった当時の記憶がフラッシュバックして強烈な吐き気に襲われたからだ。

 そうやっていつの間にか彼女とは連絡が取りあわない日が増え、ある日好きな人ができたとあっさりフラれた。

 悲しくはなかった。

 友達としては好きだったが恋愛対象として見ていなかったからというのも勿論ある。

 でも本心はやっぱりなとどこかで諦めていた部分があったからだ。

 女性は信用できない。

 別にうちの母親が特別だったわけじゃない。女はそういうものなのだと思ったからだ。

 表面上俺は常ににこやかだったと思う。クラスの中心にいたことは自覚できていたし、そこで変に謙遜するつもりもない。

 でも俺の心は常に不安定で、特に対人の距離の測り方がうまくいかなかった。合わせることはできても自分を見せることはできない。浅い付き合いの人間しか生まれない。

 姉貴は俺を見て、「結構重度な人間不信だよね、あんた」といった。そうかもしれなかった。

 世の中もっとひどい体験や苦労をしている人がいることは知っている。

 たかだか母親の不倫現場を見たくらいで何年も引きずる俺の心は随分弱いのだろう。

 そんな俺の心に更に追い打ちをかける出来事が起こった。

 中学三年の時に親父が倒れた。

 原因は過労だった。

 母親が出て行ってから、親父は何かに取り付かれたかのように仕事の虫になった。目に生気が宿っておらず、俺たち姉弟が何を言っても弱弱しく微笑むだけだった。

 親父をここまで追い詰めた母親だった女を俺はますます憎むようになった。

 中学の卒業を待たず、親父は死んだ。

 ここまで大切に、何とか守り続けてきた最後の生命線のようなもの。それがなくなった。俺の中でかろうじて守ってきた精神的に大切な何か。それがぷつんと音を立てて切れた気がした。

 親父の死をきっかけに俺たち姉弟は変わった。

 姉貴は母親が出て行ってからいろいろとグレて悪さをしていたが、真面目に働くようになった。高校に行かず働くと息巻く俺を殴り飛ばし、学費の負担を全て姉貴が請け負った。

 住んでいたマンションを引き払い、安いアパートに二人で引っ越した。

 姉貴は慣れない生活もなんとか四苦八苦しながら楽しんでいるようだった。

 人格が別にあるんじゃないかと思うほど外面のいい姉貴は職場での待遇もいいらしい。楽しそうに話す姉貴とは対照的に、俺は全く前に進めずにいた。

 親父の死がなかなか受け入れられず、姉貴にも迷惑をかけた。

 それでも姉貴に似た外面で表面上俺はつつがなく学校生活を送れていた。

だがふとした時に思うのだ。ここにいる俺は一体誰なんだろうか、と。

 自分なのに自分じゃないような、ある種乖離した存在として自分が写る。

 家に帰ってベッドの中にいる時だけ本当の自分でいるような気がした。

 高校に上がっても女子が苦手なのは変わらなかった。

 上手くやること、人間関係波風立てないことができる。

 でも踏み込んでくるもの相手にどう対処すればいいのかわからなかった。

 結局は体裁や、その場その時一瞬の立場を考えて告白を受け、そしていつも後悔していた。

 自分が嫌いだった。相手を傷つけているとわかっていながら、それでも前に進めない、進み方が分からない自分に苛立ちを覚えていた。

 何度か付き合ってみても、結局いつも俺はフラれていた。

 一緒に遊ぶことはできる。服を見てあげることはできる。綺麗なものを一緒に見て感想を言い合うことはできる。でもそれ以上のことができない。

 初めはそんな俺のことを紳士だなんだと嬉しがった相手も、次第に疑問を抱き始める。

 最終的には煮え切らない態度の俺を見て自然と離れていく。

 頭では俺に非があることはわかっていた。だが感情は違う。

 やっぱり母親と同じ女は皆一緒なんだ。

決めつけだった。

 

 そいつと話したのはそんな腐りきっていた時だった。

 

 そいつの顔自体はいつも見ていた。同じクラスだったからだ。

 こういう言い方をしては誤解を招くかもしれないが、男子の癖に下手な女子よりも顔が整っているやつだった。

 背は低いし、声は高い。仕草がいちいち小動物染みている割に不良のように口汚い。

 狙ってやっているんだったら痛々しい奴だ。

 碌に話したこともないくせに俺は偏見でそいつ、綾峰公麿を見下していた。

 男子の制服を着た女子、少なくとも外見はそう、な相手に俺は戸惑ってたのだと今ならわかる。

 でもあの時の俺はひたすらに精神が未熟で、少しでも気に入らないと他人を心の中で見下す悪癖があったのだ。

 きっかけはいつかの体育の時間だったように思う。

 先週末の試合で右足を痛めた俺が先生に事情を話し見学していると、隣の見学者席にぽすっと小さいのが腰かけてきた。

 ちらっと盗み見ると、左手を包帯でぐるぐる巻きにしている綾峰がいた。

 仲良くする気はこれっぽっちもなかったが、気さくなクラスの中心人物を演じている俺は条件反射のように綾峰に声をかけていた。「よお、お前も欠席か?」確かこんな中身のないものだったと思う。

 綾峰はびくっと露骨に肩を揺らし、恐ろしいものでも見るかのような目で俺を見てきた。

 いつまで待っても返事が返ってこないので続けて何か言うと、ようやくぼそぼそと何かを返してきた。声が小さいのと、喉の奥で掠れて何を言っているのかわからなかった。

 睨まれている。一見すると怒っているようにも見えた。

 眉間に皺をよせ、口を尖らせて半目になってこちらを見ていた。

 だがよく観察してみると、それらの動作は必死で何かを伝えようとしている最中の副産物のようなものであると気が付いた。

 仏頂面のように見えるが、よく見ると耳も顔も赤いし、小さすぎてよく聞こえないが時たま「おう」だの「そうだな」といった同意を促す声も交じる。

 話をするのが苦手なのかと思った。

 クラスでも綾峰は男子とあまり喋っているところを見ることは少ない。

 大概は近くの席に座っている女子と喋っているのを傍で聞くことがあるくらいだ。こいつがこんなに人見知りをするなんて思わなかったな、と意外なことに、なぜか俺の綾峰に対する評価は上がった。

 綾峰はクラスの男子や女子に一線を引かれている。

 いじめとか悪い意味じゃない。いや綾峰にしてみれば悪い意味になるのかもしれないが、よくも悪くも綾峰のことを特別扱いしているのだ。

 男子は明らかに女子が男子の制服を着ているように見える奴を相手にどう振る舞えば分からず、しかも相手は極度の人見知りだ。

 俺のように最初から本心で仲良くしたいと思わず、ただ人間観察だけがうまくなった相手にしかわからないような仏頂面で対応されれば普通の奴なら嫌われてるのかなって思う。

 女子は女子で綾峰のことを顔がキレイな男子と認識してはいても、女子とは明らかに違うので同じ仲間に入れることはない。

 グループワークで仲間外れにされることはないが、特定のグループに入ることはない特別な存在。言い換えれば孤高の存在といってもいいだろう。

 俺は綾峰を見て自分に似た部分を感じ取った。

 自分の性格や性質のせいで、自分の振る舞いたいように振る舞えないもどかしさ。それを綾峰から感じ取ったからだ。

 俺は随分久しぶりに姉貴以外の他人に興味を持つことができた。

 教室で会えば特に用もないのに絡みにいったし、連絡先を聞きだして休日に遊びに誘ったりもした。

 初めは興味本位だった。

 綾峰公麿という異質な人間を観察することが面白かったのだ。

 しかしこいつとの付き合いは俺の予想をはるかに上回るほど楽しいものだったことは予想外だった。

 食や音楽、芸能人や映画など俺たちは細かい点で好みが合った。

 綾峰は最初のほうこそ戸惑いはすれ、俺に絡まれることを嫌なことだとは思っていないようだった。少なくとも俺にはそう見えた。ひょっとするとこいつがNOと言えない類の日本人かとも思ったが、今のあいつを知る俺なら言える。あいつもこの時まんざらでもなかったんだと思う。

 もともと人嫌いでもなんでもなく、ただ昔いろいろあったらしく人見知りになってしまっただけなので、ぐいぐい来てくれる人間はむしろ望むところだったのだろう。

 慣れてくると綾峰はどんどん俺に対して気安くなってきた。

 俺のことを呼び捨てにし出し、少しでもおもしろくない冗談を言えば白けた目を向けてくる。

 いらっと来ることも度々あったがこいつといるのはだんだん本心で楽しいと感じている自分がいた。

 綾峰が本当の俺を見ているのかはわからないが、こいつの前で俺は『クラスの中での役割として果たしている俺』を演じていないことに驚いた。

 それは綾峰が特定のグループに所属していないので、綾峰の前では別に『いい人』を演じる必要がなかったというのもあるだろう。

しかしそれだけではない。

 同類を見つけたという親近感、それに伴う油断からか。

 俺は綾峰を知らず知らず信頼することで、また綾峰もそんな俺の無意識な信頼を返してくれることで、気が付けば俺は人間不信が前よりも大分緩和されていることに気が付いた。

 感情が体に追い付いている感覚が生まれてきた。

 クラスでの振る舞いもずっと動きやすくなった。流石に演じる演じないにかかわらず、これまで作り上げてきたキャラは崩せなかったものの、綾峰という逃げ道が俺の精神を安定させていた。

 クラスメイトの、それも男子に若干依存している部分があるだなんて、字面に起こしてみるとぶっちゃけキモいし引いてしまう自覚はあった。

 だが仮に綾峰が女子だったら俺はここまで楽にはならなかったと思う。

 以前クラスの男子に半分冗談で「お前らデキてんのかよ」と綾峰とセットで茶化されたことがあった。冗談とわかっていないのか綾峰が真っ赤になって否定している所が一番笑えた。

 そこで考えてしまうことがある。

 しばしば冗談半分で俺は綾峰の体をやや度の過ぎたスキンシップと称して触れることがある。

 相手の反応が面白くてしてしまうのだが、その時に昔付き合ってきた彼女たち相手に抱いた嫌悪感が綾峰には表れない。

 他の野郎相手に試したことがないから何とも言えないが、想像するだけで吐き気がするのできっと綾峰限定だ。

 もともと女顔だからあんまり男に見えないっていうのもある。

 そうなった時、俺は真剣に自分が同性愛者ではないかと不安になることがあるのだ。

 誓っていうが俺は綾峰に欲情したことはない。

 しかし触れて嫌悪感が出ない相手、それが女性でないということは俺にそういう素質があるということではないだろうか。

 二年に上がり、男らしくなるどころかますます美少女ぶりに磨きがかかった友人相手に悶々とした日々を過ごしていたある日。

 

 綾峰が女になって学校に現れた。

 

 



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番外編 その2 平等橋

 綾峰が女になった。

 

 その話は教室全体に激震を走らせた。

 人一人の性別が変われば多少何か問題が、平たく言えば生理的嫌悪感からくるイジメとか、そういったトラブルが起こりそうなものだと思うのだが、綾峰に関して言えば一切それは起こらなかった。

いや一切と断言すると少し語弊があるか。どちらかというとマイナス意見を唱える奴を綾峰肯定派の連中が同調圧力という名の暴力で封殺していた印象だった。

 綾峰は人見知りをするが人当たりはよかった。

クラスであいつのことを嫌いだという奴は聞いたことがなかった。興味本位で容姿をいじってくる男子連中に対してもあいつは苦笑いこそすれ嫌な態度はとらなかった。

 あいつの人柄がこの事態を大ごとにさせなかったといっても語弊はないと思う。

 また、あいつの性別が変わって喜ぶやつの方が多かったというのもある。

 男子連中は勿論だ。

二年に上がってすぐ、クラスの女子の中で誰が男子の一番人気か票を集めたことがあった。

 裕子のせいで途中学年主任が集計途中に現場に乱入し、生徒指導問題に発展したのだが、再度隠れて行った結果綾峰は四位に輝いた。

 男だぞ? 

 その疑問はあったが誰一人この結果に「きめえホモかよ!」と笑うことはなかった。それどころか「俺だけだと思ってたのに」と沈痛な面持ちで黙るやつらの方が多かった。

 断っておくがうちのクラスの女子のレベルは相当高いと思う。

 芸能人の誰に似てるのが何人とかそういう物差しで測ることはできないが、容姿だけを単純に切り取っても可愛い奴は相当数上る。だからランキングを作ろうって話にもなったんだが。

 その中で男であるにも関わらず綾峰がランクインすることがまず異常なことで、そのことに「残念これネタでした!」と茶化すことができない真剣さがそこにはあった。

 というか俺もあいつに票を入れていた。

 仮に女子に入れているのが本人にバレたら面倒なことになると思ったからだ。

 綾峰ならうっすら目を細めながら「ふ。まーた一人俺の魅力にほだされやがったぜ」とかなんとか抜かすだけで済む。

 他のやつらはどうも真剣に入れているみたいだったから温度差を感じるところではあった。

 とにかくそういう訳で男子はほぼ全員綾峰を受け入れた。

 問題は女子だ。

 今まで男子というカテゴリーの中にいた綾峰が自分たちのテリトリーに踏み込んでくることにどう思ったのか。

 結果から言うとこれも心配することはなかった。

 荒神裕子が綾峰を大層気に入ったからだ。

 裕子と俺は両親が離婚する前に住んでいた家のご近所さんだった。

 俺にというより、姉貴に懐いていた裕子は小さい頃よく俺の家に遊びに来て、ついでだからと俺を含めた三人で遊ぶことが多かった。

 両親が離婚して引っ越してから疎遠になったが、偶然同じ高校だったというのは二年に上がって同じクラスになってから気が付いた。もっとも相手は俺が同じ学校だと姉貴を通じて知っていたみたいだったが。

 兄妹同然に育った裕子のことを女性としてどうこうと見ることはないが、女子の中であいつが一番人気が高いというのは頷ける話だった。

 容姿は整っているし、スタイルもいい。

 欠点は重度の男嫌いという点だが見る人によってはそれも魅力的に映るらしい。

 こいつが男子人気一番ということは、このクラスの男子の過半数が被虐趣味かあるいはそれに準ずる何かを抱えていることになる。そう思うと背筋が冷たくなった。

 裕子は男子に人気があることも確かに事実だが、どちらかというと女子の方に人気が偏る類の人間だった。

 それはそうだと思う。美人で親切、スタイルもいいし頭もいい。それなのに男子に媚びることなく下手な男子より男らしい面もある。俺は裕子の信奉者と称する女子がこの学校に複数存在することを知っている。

 裕子はそれゆえにクラス女子の中で最も発言権が強い女子だった。

 そんな相手が綾峰を気に入ったのだ。

 並の女子が文句を言ったところでそれすなわち裕子に楯突くことに他ならない。女子を丸め込めた一番の理由は裕子を味方につけたことだと俺は分析していた。とはいえもともと裕子は男だった時から綾峰には親切だった。あの顔で男臭さが一切ない綾峰に、いい意味でも悪い意味でも男扱いしていなかったのだろう。

 クラスの皆が綾峰を受け入れてハッピーエンド。

 このままいけばそうなるはずだった。

 俺だけが受け入れることができなかった。

 俺はこの時すでに綾峰のことを下の名前で呼ぶほど気を許していた。

 どんなに仲良くなろうとも俺は相手のことを下の名前で呼ぶことはない。ファーストネームで呼ぶことで相手が勝手に親友認定してきて、ずかずかと俺の領域に踏み込んでくるのが嫌だったからだ。中学校の時それで幾分嫌な思いをしてきた。

 同じ中学校の奴が高校でも俺をファーストネームで呼ぶことはあるが、俺からそれをしたいと思えたのは綾峰だけだった。

 言葉にすると変な響きを持ちそうだが、綾峰は俺にとって特別な存在だった。

 俺の逃げ場であり、支えであり、楽しみでもあった。

 人間不信に陥っていた俺を救ってくれた、とまでいけば表現は過剰だが、少なくとも俺はこいつのおかげで助かった部分が大きかった。

 そう考えるようになったのは綾峰が女になったと分かった後、つまり男だった綾峰に対して俺がどう思っていたのか客観的に見ることがあってからのことだった。

 信頼していた友人が俺の最も忌避するところの『女』になった。

 そのことは俺の中で吐き気を催すほど混乱たらしめることだった。

 女性が悪いんじゃない。悪いのは不貞を働いた元母親で、世の女性すべてがそういうわけじゃない。

 感情で推し量ることはやめようと、人を信じる事ができるようになった俺ならば可能だと、頭で必死に唱えた。

 だが考えてもみろ。

 心の中に潜むもう一人の俺が囁きかける。

 人を信じさせてくれるようにしてくれた綾峰は男だった。

 綾峰は女になってしまったんだぞ。どうして変わらないあいつでいてくれると思うんだ。

 考えれば考えるほどドツボにはまる。

 綾峰の笑顔が、時折怒ったように拗ねる仕草が。

 男の時と変わらないはずなのに女になったというその事実だけで、俺の目にはまるで悪意という名のフィルターがかかったかのようにあいつの行動一つ一つが歪んで見えるようになった。

 意図して綾峰を避けた。

 自分の周囲に近づいてきてほしくなかった。

 綾峰は俺を混乱させるために生まれてきたのかと、避け続ける中考えたことがあるほどだ。

 

 だからだろう。自分のことで手いっぱいで、俺があいつにどれだけ酷いことをしているのかという自覚があの時の俺には全くなかった。 

 綾峰が女になってひと月、つまり俺が綾峰を避けるようになってからひと月が立った頃、久しぶりに裕子から電話があった。

『あんた小さいのよ』

 開幕早々突然の罵倒。

 こいつのそれは慣れたものとはいえ電話超しでそれを聞きたいと思うほど俺は酔狂ではなかった。

 思わず電話を切ろうとしたが、綾峰の名を出されたら切ることができなかった。

『一番にわかってあげなきゃいけないのはあんたでしょ。気丈に振る舞ってはいてもそれは強がってるだけ。緊張状態にあるから感覚が麻痺してるだけなのよ。昔のあの子と今のあの子を見てたらわかるわ』

 女になって混乱しているのはお前だけじゃない。

 裕子の言葉は鋭利な刃物のようだった。ざっくりと自分の一番触れられたくない部分に容赦なく突き立ててくる。

 頭ではわかっていたはずだった。それはそうだ。自分の性が突然変わったなんて知れば混乱しない方がどうかしている。

 ゆっくりと女になっていく過程があれば徐々に自分の性別を受け入れる用意はできただろうが、突然女になったのなら精神が追い付いていないのは当然だ。一か月そこらで慣れるはずがない。

 環境の変化に常にさらされ続けるストレス、意識とは裏腹に進行する女性としての自分。

 本来こういう時に頼りにするのが親であったり友人だ。

 とかく学校において普段と変わらない友人という存在は変化についていけない自分の支えになるものだ。

 その役目を俺は放棄した。

 あまつさえ拒絶した。

 俺が少し考えただけでも綾峰がどんな気持ちでいたのか想像するに難くない。

『あんたがお母さんの件で女子を苦手にしてることは知ってるわ。でもそれとあの子は関係ないことでしょう?』

「うるせえよ!」

 裕子の言うことの方がもっともだった。だが母親の話を持ち出されて俺は感情的になって怒鳴りつけた。

 勢いで通話を切ってまた自己嫌悪に陥った。

「何やってんだよ俺」

 久しく感じることのなかったドロドロした悪感情が、俺の血液をめぐっている感じがした。

 

 

 次の日、俺は暗い気分のまま学校を終え、家に帰った。

 綾峰と裕子の顔が見れない。

 綾峰はいつも俺の方を気にしてちらちら見ていることは気が付いていた。俺も気になって偶に綾峰の方を見るが、視線が合いかけるとすぐに逸らした。

 あいつのそばで裕子が立っているのも怖かった。

 昨日一方的に電話を切った後ろめたさもそうだが、自分のあまりのガキ臭さに呆れられているんだろうなと思ってしまう自分がいることが嫌だった。

 針の筵のような学校を終え、クラブで汗を流し、姉貴と住むアパートに帰ったら綾峰がいた。

 リビングで、テーブルの上に食器を置こうと中腰の姿勢で固まっていた。

 姉貴のエプロンを制服の上からつけた綾峰。何処からどう見ても女子だ。

 なんでこいつがここにいるんだ?

 疑問はすぐに氷解する。裕子だ。あいつがチクりやがったんだ。

 裕子は姉貴経由でこのアパートを知っている。裕子がいないで綾峰だけがいるということはつまりそういうことだろう。

「いや、意味わかんねえし」

 あいつが俺に親切をやく理由はない。理由があるとすれば、俺があいつの害になるようなことを行っているからだろう。原因排除の為にしかあいつは動かない。この場合の問題というのは綾峰と俺の関係のことだ。

 どこまで俺は人を煩わせれば気が済むんだ。

自分で自分が嫌になる。

 視界の隅でびくりと体を震わせた奴がいた。

 目はせわしなく動き、顔は血の気が引いて青色に見える。

 なんでこいつこんなびびってんだ。

 綾峰の様子を見て俺は心臓に冷水を掛けられたかのような気分に陥った。

 さっきの発言だ。

 思わず口に出てしまっていたのだ。

 今の俺たちの関係性を鑑みれば、それが綾峰にとって肯定的な響きを含んでいるはずはない。

 自分のしでかしたこと、それに対する責任、そういったものを取らなければいけないはずなのに、俺は逃げるように自室に入った。

いや実際逃げたのだ。

自分のしでかした軽はずみな行動で、はっきりと綾峰を傷つけた。

 直接綾峰を傷つけた。

 後悔をして情けない気分に陥っていたのは一瞬だった。

 なぜなら、次の瞬間俺の部屋のドアが吹っ飛ばされ、続けて姉貴が青筋立てて入って来たからだ。

 今度は俺の血の気が引く番だった。

 身長はもうずっと俺の方が高くなったが、俺は姉貴に勝てた例がなかった。

 素手で煉瓦を殴り砕くし、昔やんちゃしていた時の名残からか、筋を通さない者に対する態度は徹底的だった。

 あの場に死角になっていて見えなかったが、姉貴もいたのだ。

 冷静に考えれば綾峰だけでこの部屋に入れるわけがない。姉貴がいるのは予想できたはずだった。その考えが抜けるほど俺は混乱していたということだろう。

 自分が悪いことをしているという自覚があった分姉貴の拳は痛かった。情けない奴だと言外にも言われているようだったからだ。

 姉貴の怒りは相当なものだった。

 普段だったら怒ってもここまで怒りはしない。相当綾峰は姉貴に気に入られたのだろう。

「あんたさっさとあの子に謝りな」

 しこたま殴りまわした挙句、低く脅すような声音でそういうと、俺の襟首をつかんで部屋の外へ投げ出した。

 ボコボコにやられた俺を見て怯える綾峰がすぐそこにいた。

 目元が赤い。泣いた後が見えた。

 もう吹っ切れた。何をやってるんだと情けなる自分にも情けなくなった。

「……ごめんな公麿」

 口の中が切れてうまくしゃべることができない。

 姉貴に殴られたから謝る男。

 主観的に見ても客観的に見ても超絶情けない姿だった。

 

 

 その後綾峰を含めて飯を食って、綾峰に泣かれて、姉貴にまた殴られそうになって、なんとか仲直りをした。

 いや仲直りなんて綺麗な言葉を俺は使ってはいけない。

 あれは俺が一方的に拒絶したもので、綾峰に一切非はなかったのだから。

 初めからわかっていたことだった。

 綾峰がたとえ女になろうと綾峰であることに変化はないということくらい。

 分かったうえで疑い、結果傷つけた。

 俺は綾峰に甘えていたのだ。それがよくわかった。

 綾峰とはそれから良好な関係を続けていけた。そう俺は感じていた。

 友人としての綾峰。

 男の時と何ら変わらない友人関係。

 それがいつまでも崩れることはないと俺は思っていた。

 きっかけ一つでそんなもの簡単に崩れると、この時の俺は考えてもいなかった。

 

 



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番外編 その3 平等橋

『綾峰に女ができたわ』

 

 夜中の8時頃、突然裕子から電話がかかり、開口一番これだった。

 裕子から連絡が来るときは大抵何かしらのトラブルが発生した時だ。だから着信画面に裕子の名前が現れた時、俺はげっと眉を顰めたのだが、要件を聞いてもいまいち意味が掴めなかった。

 なにが言いたいのだろうかこいつは。

『鈍感な男はこれだから嫌いよ。もっと焦りなさいよ』

 鈍感の使いどころミスってるだろ。そう思ったが反論されると面倒なので黙っておいた。

「お前知らないのか? 綾峰は今女なんだぞ」

『知っているわよ。一緒にお風呂にも入ったことあるんだから。舐めないで欲しいわ』

「男にそういうこと言うのはやめろ」

 一瞬想像しちまったじゃねえか。

「女に女ができたって言ってんのか?」

『不自然な話じゃないでしょ?』

 何バカなこと言ってるんだよという意味で答えたのに肯定の言葉が返ってきて、俺は一瞬鼻白んだ。

 本当だ。何もおかしくない。

 ジェンダーだ性差だなんだと、性に関するマイノリティ層がいることは俺も知っている。男性は女性を、女性は男性を番として選ばなければいけない理由は現代において議論を醸し出している所でもある。

 まして綾峰、公麿は少し前まで男だったのだ。恋愛対象が女性であってもさほど驚かない。どころか非常に納得してしまう所でさえある。

 もともと女っぽかったやつで、更に女子と付き合っている様子もなかったので女に興味がないと勝手に思い込んでいた節があった。でもそういえばいつかの昼休み女の方が好きみたいな話を裕子たちのグループで話しているのを聞いたことがあったな。

「その話ちょっと詳しく聞かせろよ」

 夜分に突然電話をかけてきたんだ。生半可な情報じゃないことは確かだろう。

 

 

 きっかけは放課後の誘いを断られたことだったらしい。

 裕子は女子バスケットボール部に入っていて、平日は滅多にオフがない。しかし週末の日曜に試合が入っていた日などは、振り替えに一日どこかの平日の練習がオフになるらしい。

 公麿はどの部にも入っていない。いや確かどこかの文化系の部活に入って気もしたが、滅多に顔を出していなかったから実質幽霊部員だ。とにかくそういう訳で公麿は放課後高確率で暇をしていると思ってもいい。

 これまでも裕子は部活がオフの日は綾峰をアポなしで誘ってはどこかに連れまわしていたらしい。

 裕子が公麿を連れ出したくなる気持ちは俺も少しわかる。だってあいつ口では面倒だとか、いい迷惑だとか憎まれ口叩く癖に、実際どこか連れてってやると超テンション上げるからな。テーマパークに連れ出したときのテンションの上がり方は今思い出しても少し笑える。

 その日はいつものように誘うと、「悪い。今日は用事あるんだ」と断ったそうだ。

 部活をしていないとはいえ公麿も忙しい日くらいあるだろう、と裕子は退いたらしい。多分嘘だ。こいつのねちっこさは俺が一番よく知っている。きっと朝から放課後までごねたに違いない。

 問題があったのはその翌日。

 体育館の不備があって二日続けて部活が休みになったそうだ。これ幸いと公麿を誘うとまたも断りの返事が。

 裕子はここで女の勘が働いたそうで、公麿の断りを怪しんだ。

 放課後、まさかのストーキング行為に及ぶほどに。

「お前やっちゃいかんだろそういうことは」

『亜依と舞依が囃し立てるから感覚が麻痺してたのよきっと。反省してるわ』

そこで公麿がはにかみながら美術室へ消えていったところで裕子は気を失ったそうだ。

 もう一度言う。気を失ったそうだ。誇張表現ではない。

「どういうことかちょっと理解できなんだけど」

『精神的ショックっていうのかしらね。あれはトラウマものよ」

 もろい精神だな。

『亜衣と舞衣のあの二人が焦っている所を初めて見たわ』

「公麿が美術室に入ってっただけで気を失われたんじゃ誰だってビビるわ」

『るっさいわね。話を戻すわよ』

 裕子はこう考えた。

 美術室は放課後美術部の部室となる。

 美術部には女子の部員しかいない。

 公麿は美術部員じゃない。

 

 つまり、美術部に公麿に女ができた。

 

「いやその三段論方おかしいだろ」

 結論がぶっ飛び過ぎである。

 俺の指摘を、裕子は嫌そうな溜息交じりに返した。

『あんたはあの子の顔を見てないからそういうことを言えるのよ』

「どういうことだ」

『あんた馬鹿だから分かんないわよ。でも、いいわ、あんたに電話したのもそれが理由なんだから』

「さっぱり何の話か分からん」

『あんた明日土曜あの子と出かけるんでしょ?』

 なんで知ってるんだこいつ。口に出しかけたがやめた。藪蛇になりそうだし。こいつとの会話こんなんばっかだな。

『あの子に事情を聴きだしてきなさい』

「いや事情ってお前」

 嫌だよそんな面倒なこと。

 対して興味が湧く話でもないし。それより明日は純粋に楽しみたい。

 裕子は俺の返事を聞くと露骨に機嫌を悪くした。このパターンは危険だ。警戒音が頭の中で鳴り響く。

『あんた私に借りがあること忘れてないでしょうね?』

 出来れば忘れたままでいたかったがそうもいかない。公麿に俺の家を教えたことだろう。そうしていなかったら俺と公麿は未だに気まずい関係が続いていた可能性が大いにありうるので、うん借りですねこれは。

「何すりゃいいわけ?」

『特別なことは何もしなくていいわ。ただ女と付き合ってるか訊いてきてほしいのよ』

「特別なことじゃなくてもすげえ神経使うことじゃねえか、仮にうんって頷かれた場合俺はどうすりゃいいんだよ」

『あんたのケアなんてどうでもいいのよ』

 すげえことを言いやがる。

 まあいいだろう。不承不承、俺は裕子の頼みを引き受けることにした。

 

 

 約束の土曜、姉貴が休日出勤ってことでついでに俺もたたき起こされた。

 時計を見れば明け方四時半。

 何のいじめかと思った。

 親父を亡くしてから、俺たちは可能な限り家族での時間というものを大事にするようにしていた。

 人がいつ死ぬかわからないってことを親父から学んだからだ。でもこれは別段暗い話じゃない。その分実感を持って家族がいる時間を意識しようってなったってだけだ。

 だから我が家ではきっちり三食家族がそろって食べることを理想としていた。

 そういう理由で姉貴はいつもように俺を起こしたわけだが、自分が何時に起きたかわかっていなかったようだ。

「え、嘘時間、あ!」

 珍しく謝る姉は面白かった。結局妙に目が冴えてしまい姉貴と同じ時間に飯をくった。

 

「正義今日キミちゃんとデートなんだって?」

 コーヒー吹きかけた。なんで知ってんだ。

 姉貴はどこか機嫌よく「早く答えなさいよ」とせかしてくる。こ、こいつ。

 公麿は極度の人見知りではあるが、人から好かれやすい質だ。

 しかも滅多に友人を紹介しない俺が友人として紹介したのだ。公麿に対して姉貴が興味を持つのは理解できた。それがなくても「あの子すっごい可愛かったから今度家に持って帰ってきなさい」と公麿を家に帰した後姉貴に言わせたほどだ。単純に公麿が気に入っただけの可能性もある。顔はいいからなあいつ。

 姉貴が公麿のことを気に入ったのは個人的に嬉しい事でもあった。

 性別が男から女に変わったという人は多くない。世の中のニュースを見れば稀に目にするレベルだ。だから姉貴が公麿の事情を理解してくれたというのはどこか安心するというか、ほっとすることだった。

 姉貴が公麿を気に入っていることと、今姉貴が振って来た話題とは別問題だけどな。

「いやデートって、何言ってんだよ」

「デートじゃないの? 裕子からそう聞いたけど」

 あのアホ、姉貴にも電話していたのか。

「男相手だぜ。んなわけねえだろ」

「何言ってるのよ。あの子女の子じゃない」

 そうだった。昨晩裕子に指摘したはずなのに俺が逆に言われるとは。

 でも公麿だからなあ。女って言われてもピンとこない。

 顔は依然とあんまり変わっていないし、口調もそのままだ。

 スカートを学校で履くようになったのと、後ろ髪が伸びたこと、後は声がちょっと高くなって全体的に華奢になったことくらいしか変わっていない。……結構変わってるな。改めて整理するとびっくりした。

 公麿が女になったということは俺も理解しているし受け入れたつもりだ。

 でもなんというのかな。あいつに触っても女子と触れ合ったようなざわつきは感じないし、ノリが男の時と一緒だから実感として持ちにくいものがあるんだよな。

 そういうようなことをかみ砕いて姉貴に言うと、こいつアホなんじゃないかという目で見られた。なんだよその眼はあぁん?

「あんたアホね。そんな態度じゃすぐにキミちゃん取られるわよ」

「取られるも何もアイツは俺のじゃない。それに公麿も男子と付き合うなんてしないだろ」

「バカね。だから女の子に取られるっていってんのよ」

 裕子の話か。

 この二人は二人して心配のし過ぎというか、誇大妄想が過ぎるというか。

「後になって後悔しても遅いのよ?」

 使い古された定型文を残し、姉貴は仕事に行った。

 待ち合わせ時間までが遠かった。早朝に目が覚めると10時の待ち合わせが凄まじく遅く感じる。

 自分としては「もう家出てもいいだろ」とか思って出たんだが、着いて見たら一時間近く早くついていた。体感時間が狂ってるな。

 コンビニに入って雑誌を読んだり、近くの鳩を見て時間を潰していた。どちらも時間を潰すには限界があったので、結局待ち合わせの場所で音楽を聴いて待つことにした。

 ネットニュースとか普段あまり見ないアプリまで使っていると、腕に衝撃が走った。

 なんだと驚いてその方を見て固まった。

 なんかすげえ可愛い女子がいる。

 まずくりっとした大きな猫目が目に入った。次に薄く潤いを持った小さな唇。華奢で小柄な体躯。浅く後ろで纏めた髪は普段学校では見ないものだ。

 すぐに反応しない俺を不審がって、そいつは少し頬を膨らませていた。

 公麿、だよな? 多分。恐らく。信じられないけど。

 こいつこんな女子女子してたっけ? あれ、おかしいぞ。

「私以外いるわけないだろ」

 いたずらが成功した子どものように公麿は笑った。

 まずいな。

 何がまずいのか具体的に説明することはできないがやけに自分の心拍数が上がる感覚がけたたましく警笛を鳴らしている。

 なんだ。俺は何に不安を抱いているんだ?

 違う。この感覚は緊張だ。

 ……いやいやいや。だから何に対して俺は緊張しているっていうんだよ。

 少しばかり立ち止まっていた俺は、公麿に服の裾を掴まれて歩きだした。

「早く行こうぜ」

「あ、ああ」

 こいつ人の服とか掴むやつだったっけ。

 思い出せない。

『後になって後悔しても遅いのよ?』

 どうしてこの時姉貴の言葉を思い出したのか。それを理解するのはもう少し後になってからだった。

 

 



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番外編 その4 平等橋

 ガッデム! やっちまった。

 ベッドの中で俺は右へ左へのたうち回る。

「……死にたい」

「勝手に死になさいよ」

 ぼそりと呟くと予想だにしなかった返事が返ってきた。

 今姉貴とは話したくない。怒られるし。多分、殴られるし。

 俺の部屋は、先日の一件以来常にオープン状態だ。

 姉貴のキックで金具が根元から吹っ飛んだ為、修理に業者を呼ばなくてはいけない。さっさと修理してほしいが俺も姉貴も日中は家にいないことが多いからなかなか時間が取れず、また扉がない生活に慣れつつあったため結局そのままになっている。

 扉の損傷の要因が俺である以上、姉貴に対して強く申し上げることができないってことも補足しておく。何がトリガーとなってキレるかわからない。女って怖い。いやうちの姉貴は特別仕様か。

 デメリットはこうして姉貴がいつの間にか俺の部屋の前で俺の醜態を観察することがあること。プライバシーの返還を強く求めるところだ。

 今日も仕事帰りなのだろう。 

 朝に見た服装と同じなのに、こころなしかくたびれて見える。社畜お疲れ様って言ったら多分蹴られるから言わない。今は言う元気もないが。

「その様子だと、あんたあの子になんかやらかした?」

 あの子がこの場合誰を指すかなんて決まり切っている。俺は姉貴に視線をやる気力もなく、ただ無言を貫いた。軽く蹴られた。痛い。

「で、何やらかしたの。言ってみなさいよ」

 気のすむまで蹴って満足した姉貴は、今度はため息とともに俺に再度尋ねた。

 こういう空気を作り出されるとこちらとしても弱い。

 誰かに聞いてほしかったという思いもあっただけに。

「実はさ」

「あ、先にお風呂掃除してきて。私ご飯用意するから」

「……」

「何よ。早くしなさいよグズ」

 いや、まあ、うーん。

 

 

「成程ね」

 俺の話を聞き終えた姉貴は一言そういうと、ふーっと何かを吐き出すように息をついた。昔仲間と一緒にタバコ吹かしてた時の癖だ。滅多に表に出さないが、考え事をする時ついつい無意識に出てしまうらしい。それだけ真剣に聞いてくれたという証拠でもあった。

 意外なことに姉貴は俺の話を聞いた後も怒ることはなかった。

 公麿に対して酷いことをした。その自覚があるからこそ、公麿擁護派(勝手に命名)の姉貴はきっと怒ると思ったのだ。

 だが今の姉貴の反応はどちらかというと俺を気遣っているように見えた。

 今日の朝。俺は公麿と数か月ぶりに外で遊んだ。公麿が女になって初めてのことだ。

 女になったってことは頭では分かったつもりになっていても、実際には理解していなかったらしい。

 私服姿の公麿を見た時、俺は目の前の少女が公麿と同一人物に感じられなかった。女性に対して綺麗だとか可愛いだとか、そういう印象を抱かなかったことはないが、実際同級生を見て凄く顔が整った子がいても心が揺れることはなかった。

 だが私服姿の公麿を前にしたとき、俺は心が掻きまわされた。

 こいつこんな可愛かったっけ、だとか。そんないい匂いさせてったっけ、だとか。

 服装だってそうだ。昔からあいつは体格や顔の都合で、レディースものやユニセックス系統を好んで着用していた。妹と服を着まわしているってことも言っていたし、もともとその辺は気にしていなかったんだと思う。

 男の時に着ていた服のはずなのに、女になってみるとここまで印象が変わるのか。

 俺は終始公麿相手に緊張しっぱなしだった。表面上はいつもと同じ風を装っていたが、時々会話の間があくと、何か喋った方がいいのかわからなくなったりした。こいつと一緒にいる時でそんなこと考えたのは初めてで、冷静じゃなかった。

 女モノの服が見たいってんで、午前中はいくつかの店を回り、いい時間になったので近くの喫茶店に入って昼飯にした。

 時間が経つと慣れるもので、やっぱり公麿は公麿だよなと俺も普段通りに話ができるようになった。なんでこいつ相手に緊張していたのか不思議なくらいだった。

 どうでもいい、だけれど非常に気の休まる会話を続けた後、ふと俺は裕子が言っていた公麿の彼女疑惑のことを思い出した。

 どうせ裕子が大げさに言っただけだろうと何の気なしに尋ねた。お前最近放課後何してるんだよ、といった感じだ。

 この時の公麿の反応が印象的だった。

「何って、いや別に」

 俺の胸に去来した感情は困惑の一言に尽きた。

 なんでこいつ照れてんの?

 んなわけあるはずないだろ。

 そう返ってくるものだと思っていた。だが返って来た実際の返答は答えを誤魔化すもの。

 綾峰に女ができた。

 裕子の言葉を信じるわけじゃない。現実的に考えられない。だってあの公麿だぞ。どちらかというと女子の枠組みにカテゴライズされていた奴だぞ。女子が公麿のことを可愛いだのなんだの愛玩動物よろしく撫でまわしていたのは知っているが、恋愛対象として見ているだなんて話聞いたことがない。

 なのになんでこいつはこんな照れてんだ。頬染めてんだ。ついでに明らかに誤魔化してるって分かってんのにそれを突き通すんだ。俺にも言えないようなことなのか。

 自分でも驚くほど公麿の反応に困惑し、そしてかなり苛立ちを覚えた。

 しつこく問いただしても公麿は誤魔化すだけだった。

 お前この前俺のこと友達って言ってきたよな。ならなんでそこまで露骨に隠す。

 自分でもよくわからないほど公麿に対してムカついた。

 感情に任せてそのまま店を出た。

 困惑した公麿の表情。

 俺の態度に戸惑いを覚えていた。

 どうして俺がキレてるのかわかっていないようで、それが更に苛立ちを加速させた。

 だがそれは理不尽な怒りだったと家に帰って頭を冷やした今なら思う。俺自身どうしてそこまで怒りを覚えたか説明できないからだ。

 たとえ友人同士であったとしても秘密の一つや二つあるのか当たり前。そいつの全部を知っているなんてことあるはずがない。

 午後は最悪だった。

 公麿が必死で俺の機嫌を窺うように何か言って来ても、俺はそれに空返事を返すだけ。

 どんどん公麿の顔に悲壮感が生まれてくる。それに罪悪感と、同じくらい苛立ちが混在した。

 こんな気分で遊べるわけがない。

 俺は一方的に公麿に今日はお開きにしようと告げ、返事も聞かずに家に帰った。公麿がどんな表情をしていたか、俺は見ていない。

 家に帰って冷静になると、俺がどんな馬鹿をしでかしたか頭を抱える羽目になり、冒頭に戻るという訳だ。 

 

 

「嫉妬したんでしょ」

「は?」

 姉貴は俺の話を聞くとそういった。嫉妬? 何にだよ。

「いや、だからキミちゃんが自分以外の誰かの約束を守ってるってことによ。自分の言葉より優先するその人にあんたは嫉妬したんじゃないの?」

「いやいや、なんで俺が公麿に嫉妬なんてする必要があるんだよ」

 この姉は何を言っているのか。

 今は悪ふざけとかいらない。たまには真面目に答えてほしい。そう思って再度口を開きかけたところ、姉貴の目を見て何も言えなくなった。その目に冗談だとか悪ふざけだとか、そういった色が混じっていなかったからだ。

「昔お母さんのことであんたが臆病になってるのはわかるわ。でも自分の気持ちを正しく理解しなきゃいけないわ」

「意味わかんねえ」

 あの人は今関係ないだろ。そう思ったが口には出さなかった。

「なんにしても解決は早くした方がいいわよ。じゃなきゃ折角仲直りしたのにまた疎遠になっちゃうわよ?」

 それは嫌だな。嫌なんだけどなんて言って謝ればいいのか。

 最近公麿のことでやたらと頭を使うことが増えたなと、俺は頭を抱え込んだ。 

 

 

 次の月曜、つまりあの最悪の土曜から二日が経った登校日。 

 スマホで謝るのはなんか微妙かなと思ったこともあって、俺は直接公麿に謝罪しようといつもの待ち合わせ場所に行った。公麿はいつまでたっても来なかった。

 仕方なく一人でとぼとぼ学校へ行くと、教室に公麿はいた。

 なんだ来ているじゃないかと公麿の方に向かうと、俺の死角からにゅっと誰かが現れた。

「ここは通さんぜ旦那」

「お通しできませんぜ」

 柊と楠。裕子と常につるんでいる女子だ。顔は全然違うのにどこか姉妹のような息の合い方を見せる。

「え? なんで」

「ボスに止められてるんでさ」

「自分の胸に聞いてみなってさ」

 二人の背後には公麿を隠すように裕子の姿が。あ、あいつ今中指立ててきやがった。

 公麿は俺と目が合うと露骨に目を逸らした。怒り方が分かりやすい。

 その後も休み時間の度に俺は柊と楠に邪魔され続けた。

 無理やり押しのければできたと思うけど、そうすると公麿とまともな話にならない気がしたからできなかった。

 悶々とした気分を抱えて俺はその日帰る羽目になった。

 その日の夜、裕子から着信があった。こいつから連絡が来るような気がしていたから、特に驚くことはなかった。

『あんたも可愛い所があるじゃない』

「なんの話だよ」

 開口一番に意味の分からないことを言うのはこいつの癖なのか。今日の仕打ちを思い出して若干不機嫌になって答える。

『美奈子の事、付き合ってるって思ってたんだって?』

「……その言い方じゃ違うらしいな」

 この電話のかけ方からしてそうだろうと思っていたので驚きはなかった。ただただ自分の行いのアホさがフィードバックして死にそうになるが。

『何あんたが不機嫌になってんのよ。綾峰に関すること教えないわよ』

「いや別にいい」

『意地張る所でもないでしょ。馬鹿じゃないの?』

 こいつ辛らつ過ぎないか? 心が折れそうだ。

『愛華さんに聞いたのよ。あんたデートの途中で嫉妬して帰ったんだって? 『き、公麿は友達だし、ドゥフフ』とか言ってたくせに』

「ドゥフフとは言ってない」

 悪意のある俺の物まねに殺意を覚えた。

「というか、今回俺はお前に踊らされた感がどうしても否めないんだが」

 自分が悪いというのはもちろん自覚しているし、そこで言い訳をするつもりもない。が、最初に焚きつけたのはこいつだ。そんなこいつに何か言われるとむかっ腹が立つ。

『……そこは、まあ悪かったと思ってるわよ』

 幸い本人にも自覚はあったようだ。こいつが素直に謝るのは非常に珍しい。

『それでもあんたはあの子のこともっと信じたほうがよかったんじゃない? 言い訳になるけどあの時の私の勢いを信じるなんてあんたも結構どうかしてると思うわよ』

「ここでそれを言われると痛いけど、やっぱりお前が言うなって話だよな」

『誤解だってわかったんだから水に流しなさいよ。それに、あんたが綾峰のことちゃんと女の子だって気が付いたみたいだし今回は応援してあげるんだから』

「応援?」

 いろいろと突っ込みたいところはあるが、裕子が俺に好意的になることはとても珍しい。

『綾峰にあんたがただ嫉妬しただけだって教えておいてあげたわ。よかったわね、どうしてあんたが突然キレたのかあの子はそれを聞いた途端すぐに分かったみたいよ』

 何を言ってくれているんだこの女は?

 声にならない悲鳴を上げる俺をよそに、裕子は『明日の昼だけあの子を貸してあげるわ』と言って一方的に通話を切った。

 呆然としたまま立ち尽くす俺。

 口角を上げて口笛を吹く姉貴と目が合った。死にたくなった。

 

 

 翌日は公麿に弄られ続けた。 

 それはもうあいつは嬉しそうだった。

 いっそ爆笑でもしてくれた方がマシってもんで、あいつはくつくつと声を押し殺すように俺を見て目を細めた。

 不思議なことに腹は立たなかった。

 それどころか安心すらした。いやなんでだよ。自分で思っておいて自分で不思議に思った。

 散々周りから言われたが、俺は確かに嫉妬していたのかもしれない。

 でもそれはあいつの一番の友人が俺ではないのかもしれないという不安からくるもので、決して誰かに取られるだとか、こいつに恋人ができることで今の関係が崩れるだとか、そういうことを考えたわけじゃない。そこあたり姉貴も裕子も勘違いをしている。

 公麿はあくまで友人で、俺が心を許した数少ない友人で、そんな友人から相談を何一つされなかったことに嫉妬しただけだ。

 女になろうが公麿は公麿。

 俺のそのスタンスは崩すつもりはない。

 でもなんだかな。最近のこいつを見ていると 変に動揺することが増えた。どうしてだ。

「なんだよ」

 公麿が下から覗き込むように尋ねてくる。どきりとするほど整った顔。

「なんでもねえよ」

 できるだけ普段通り返した。

 なんでもない。そうなんでもないはずだ。

 深く考えるのはやめよう。今はただこいつとアホみたいなことくっちゃべって笑っている方がずっと楽しいのだから。

 

 




今回で番外編はいったん終了です。次回からまた綾峰視点ですね。


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二章
なんで女になるんだよ


今回はちょっとオカルトチックな話になりました。そこまで本編に絡む設定でもありませんので、「あっそ、ふーん」くらいの寛容な精神でご覧ください。


 最近割と真剣に考えていることがある。

「改名?」

 平等橋は間抜けな声を上げた。想像の範囲内のリアクションだったので、俺は「ああ」と頷いた。

 昼休み、学食の前には昼飯求める生徒でごった返している。

 俺と平等橋は、学食の隅に設置してある自動販売機の前で話をしていた。今日の分のジュースを平等橋に奢ってもらうためだ。

 最近は少しマシだった荒神の束縛も、少し前からまた激しくなってきた。あいつの目が光っているうちは碌に平等橋と話もできないほどだ。

 俺たちの中で朝の登校と、昼休みのこの短い時間だけ駄弁るというルールが確立しつつあった。

「『公麿』って名前を変えるってことか?」

 平等橋は不思議そうな顔でパックのリンゴジュースをすする。俺はコーヒー牛乳にストローを突き刺しながら首肯する。

「まあ確かに男っぽい名前だよな。お前の名前」

「男っぽいって言うか……」

 俺は言葉を濁す。ぶっちゃけキラキラネームの域だろこれ。好意的に解釈しても時代錯誤過ぎる。

「とにかくこのままは不自然なんだよ。女でこんな名前なんて変だとお前も思うだろ?」

「俺はどんな名前でもいいと思うぜ」

「適当言ってくれるよな」

 他人事だと思いやがってこの野郎。半眼で睨みつけてやるとおどけたように肩をすくめた。

「適当じゃねえよ。名前が変わっても公麿は公麿だろ。どんな名前でもお前であることは変わらねえってこったよ」

「そいつはどうも」

 キザったらしいセリフを吐きやがる。恥ずかしくないのかこいつは。言われた俺は結構恥ずかしかったぞ。

 餅田の告白騒動から平等橋は少し変わった。

 変わったというか、戻ったという方が正しいのかもしれない。

 それは主に平等橋の行動に現れていた。

「照れてんなこいつめ」

 ぐりぐりと俺の頭を掴んで撫でまわす平等橋。「うぜえからやめい」と言うと一応はやめるがずっとにやにやしてやがる。

 ボディタッチが復活したのだ。

 さすがに昔のように尻やら胸やら触ってくることはなくなったが、意味もなく肩を組んで来たり、バシバシ背中を叩いてきたり、気安さが昔に戻った。

 女になってから物理的な意味で平等橋は俺に距離をとっていた。態度はそこまで露骨ではなかったものの、俺との距離感を測りかねている感じではあった。

 それが何をどう見誤ったのか、逆にこいつは急接近してきた。どういうことなのか俺にもさっぱりだった。

 餅田の一件があって以来、俺もこいつとの距離を改善しようと決意した。

 もっと俺が女であることを認識したうえでの関係を構築しようと決起したわけだ。

 俺の決意はこいつのせいで早くも揺らぎ始めていた。

 俺のことを男だと思っているわけではない、と思う。でも態度が同性に対するそれとまるきり一緒だというのはいささか引っかかる部分がある。

 変わらない平等橋の態度にほっとするものがあるのは確かだが、女であるという自覚を手にした今の俺はこいつのこの行動に何も思わないわけではない。

 そこで考えたのが改名だ。

 俺の名前がまだ男であった時のままというのが、俺を女だと思わない一端を担っているのではないかと思うようになったのだ。

 この名前はお世辞にも男女共用で使用できるものじゃない。

 ネットで改名の手続きを調べてみたら、案外費用も掛からずにできるということも分かった。

 自分の今の名前が嫌いなわけではないが、女として生きる以上必要なことだと俺は感じていた。

「ちなみに名前変えるとしたらどんな名前にするんだよ」

「考えてないけど、今の名前が公麿だからなー」

「公子とか? なんか芋臭えな」

「謝れ! 全国の公子さんに謝罪しろ!」

 その後どんな名前にするかで平等橋と盛り上がった。

 そのせいで教室に帰るのが遅くなった。荒神にすげえ撫でまわされた。

 

 

 自宅の玄関に着いたとき違和感を覚えた。

 違和感の正体を探ってみると、すぐにわかった。

 見慣れない靴が二足ある。

 俺は直感的にその持ち主が誰であるのかすぐに思い当たった。

 急いで靴を脱いでリビングに向かって走る。

「親父! お袋! 帰って来たのか!?」

 勢いよく開いた扉の先には誰もいなかった。

 あ、あれー? おっかしいなあ。

 見慣れない靴だったが、両親のもので間違いないはずだ。というかそうじゃなったら一体誰の靴になるのかわからないし怖すぎる。

 ソファの近くにデカいキャリーケースが四つ置いてあった。やっぱり両親が帰って来ていたみたいだった。

「ばあ」

「うわあああああ!」

 キャリーケースに近づくと、ソファの陰から腕が伸びてきて俺の手を掴んだ。

「ハハハハハハ! 騒ぐな騒ぐな公麿!」

「心臓に悪いんだよ親父!」

 悪戯に成功した悪ガキのような笑みを浮かべた、髭面の中年がソファの陰からぬっと姿を現した。

 我が家の大黒柱は相変わらずだった。

「公麿ー。お前話には聞いていたが本当に女になっているなハハハハハハ!」

「会話の途中で爆笑してんじゃねえよ!」

 何一つ面白くないし、無性にイラッと来る。懐かしい感覚だ。

「怒るな怒るな公麿! お前の為に今回はいろいろ持って帰って来たんだから」

「は? 持って帰って来たっていったいなにを」

「焦る気持ちはわかるがまあ待て公麿。まずはつい先ほど喧嘩をして出て行ってしまった母さんを連れ戻してからでもいいだろう」

「帰国そうそうなにしてんだよ馬鹿親父!」

 数か月振りだがこの両親は相変わらずだ。俺は頭を痛めながら母親を探しに家を出た。

 

 

「世話を掛けましたね公麿さん」

「全くだハハハハハハ! お前も突然出ていくことなんてあるまいに!」

「あ、あなたが帰国早々寝室に連れ込もうとするからでしょう!」

「子どもの前で生々しい話するんじゃねえよ!」

 俺は両親相手に怒鳴りつけた。毎度毎度くっそくだらないことで喧嘩をする二人だが、その喧嘩の原因も犬も食わないような甘ったるいものだから対応に困る。二人ともいい年した大人なのだからもう少しわきまえてほしい。

 綾峰大吉と綾峰咲江。それが両親の名前だ。

 親父が熊のような厳めしい大男である一方、お袋は線の細い大和撫子といった感じ。リアル美女と野獣を体現している夫婦である。

 特にうちのお袋は子どもの俺から見ても美人であることが分かるほどだ。うちの兄妹の顔が整っているのはこの母親の遺伝子が強い。比較的親父の遺伝子を多く受け継いだ兄貴はすげえ強面になっているし。

 親父は仕事の都合で海外諸国に長期滞在することが多い。それにうちの母親は毎度付いて行っている。仲の良さは相当なものだった。

「それで、今回は突然だったじゃん。先に一言連絡くれてもよかったのに」

 リビングのテーブルで、俺は両親と対面で喋っていた。

「大介さんには伝えていましたよ。聞いていませんでしたか?」

「私が大介に黙っているように言っておいたんだよ咲江。サプライズというやつだな」

「まあそうでしたか」

 大介は兄貴のことだ。俺を置いて二人でハハハハフフフと笑い合う両親。相変わらずうぜえ。

「いいよもうそれは。それで? まだ帰国するには早かったと思うけど」

 予定ではあと二月後まで向こうにいる予定だったはず。急に帰国を早めることは今までなかった。

「流石に実の息子が娘になってしまったという緊急事態ですから。お父さんの仕事が一段落したところで一時帰国することにしたのです」

「しかしお前女になっても顔はあまり変わっていないな! 乳も小さい小さいハハハハッモガ!」

 親父の顔面に裏拳を叩き込むお袋。

「込み入った話もあります。公麿さん、すこしあなたの部屋に行きましょうか」

「い、いいけどあれほっといていいのか?」

「なんの話をしているのかわかりません。行きますよ」

 のたうち回る親父を冷ややかに一瞥して俺の手を引くお袋。相変わらずこの両親はよくわからなかった。

 

 

 大体の子どもがそうであるように、親が自分の部屋にいるという状況は落ち着かないものがあった。

 お袋は俺の部屋を興味深そうに眺め、簡易机を挟んで俺に座るように促した。

「公麿さん。服を脱ぎなさい」

「え、ああ、え?」

「変な意味はありません。早く脱ぎなさい」

 お袋の目力にやられた。

 見られながら着替えるのは精神的に来るものあった。兄貴に見せるのとはまた意味が変わって来る。

「下着も外しなさい」

「いやさすがにお袋それは」

「脱ぎなさい」

「……はい」

 何の羞恥プレイだと思いながら、俺はお袋の前で全裸になった。親とは言え、いや親だからこその羞恥。高校二年になって親に裸をじっくり見られる機会なんてそうそうないだろう。あってほしくないと言った方が正確かもしれないが。

 お袋は「失礼しますね」といいながら、俺の胸部や臀部、喉仏やついでに口に出せないあそこも含めて隅々まで調べた。調べた、であってるはず。何かちょっと触っては「成程」とか「大丈夫そうですね」とか呟いてたから。

「お袋、そろそろ服着ていい?」

「ええ。寒いでしょうからもう着てもいいですよ」

 寒いから着たいわけじゃないんだけどな。どうもこの親はずれている。

「俺の体さ、どうなってんの?」

 着替えながら俺はお袋に尋ねた。お袋は顎に手を当て何かを考えていた。

「女性のものです。まず間違いなく」

「やっぱりそうなんだ」

「ええ。やはりそうなってしまいましたね」

「はー、やっぱそうなっちゃってたか」

 ここ数か月でわかりきっていたことだが、改めてお袋に言われるとそうなのかと納得がいくものもあった。というか、これだけ外見が変わって「実はあなた男のままですよ」と言われた方が困惑は強かっただろう。

 ……いや待て。

 さっきお袋はなんて言った?

「お袋。やはりってどういうこと?」

「やはり、とは?」

「いや、『やはりそうなっちゃったね』的なこと言ってたじゃん」

 まるで俺が女になってしまうのを将来的に予見していたかのようなものの言い方だ。

「予見していました」

「嘘だろ!?」

 お袋は普段ほとんど表情が変わらない。声も一定だから怒っているときと喜んでいるときのトーンの差が分からないほどだ。例外は親父と絡んでいるときだが、それ以外は常に一定。そんな母親の顔が少し曇っているのが分かった。

「信じてもらえるかわからないのですが、うちの、この場合私の家に家系で稀にそういうことが起きてしまうことがあるのです」

「お袋の血筋。それ兄貴からも聞いたけどどういう事?」

 以前女になってすぐに兄貴からもそう聞かされた。兄貴もわかっているのかどうなのか分からない感じで誤魔化してきたけど、あれはどういう意味なのだろう。聞くならここしかない。

「はい。変態気質、とでもいうのでしょうか。性が曖昧ということもできるかもしれません。私の家では一括りに『花婿の呪い』と言われていました」

「『花婿の呪い』」

 聞きなれない単語に首をかしげていると、お袋は「昔話をしてもいいでしょうか」といった。ここで断る理由はない。

「ある所に貴族の男性と、それを慕う貴族の姫がいました」

「ちょっと待って、なんでおとぎ話テイストなの?」

「黙って聞きなさい。そういう風に言った方が理解しやすいと思うからそうしているまでです」

 お袋が語った昔話は次のようなものだった。

 江戸時代よりもずっと昔。ある貴族の男性と女性が恋に落ちたそうだ。だが二人にはある問題あった。

 それは姫の性別だった。

実は姫は男だったのだ。

 男に生まれながら女であるように育てられた姫は、男であると知りつつその男性と恋に落ちた

 男性も姫の性別が男とわかっていたが、姫を深く愛していた。だがどれだけ愛し合おうが男と男では子は生まれない。

 家の人間に何と言われようと頑なに答えを変えない男性の親が怒り狂った。

 祝言の日、姫は貴族の男性の家の人間に池に沈められてしまった。

 姫のことを知った男性は嘆き悲しみ、自らその命を絶った。

 不幸な出来事。

 それで済めばことは単純だった。

 姫が亡くなってから暫くたった頃、姫の家のある若者が突然女になるという珍事が発生した。

 その出来事は一度で済まず、度々起こるようになった。

 歳の頃は十五か六。

ちょうど姫が男性と祝言を挙げた年齢になると、姫の家の若い男が女になるという怪奇現象が起こるようになった。

 毎年必ずその現象が起きるわけではなく、一年のうちで複数人女体化することもあれば、三十年以上何も起こらなかった時もあったそうだ。

 この呪いは以降現代にも引き継がれている。

 男性であったために結ばれなかった。それを解決するかのように男性から女性へと変態する家系。

 故に『花婿の呪い』。

「信じる、信じないは自由です。ですが、我が家はそういったある種の呪いがかかった家なのです」

 男であるがゆえに花婿。その呪い。

 普段寡黙な母親が一息に語ったその話。

 信じられるか信じられないかで言えば、だれが信じるんだよそんな都市伝説って感じだ。でも俺の身に起こっているこの怪奇現象を説明する確かな手段がない以上、ただ切り捨てることもできない。いつかの病院も結局行ってないし。

「なんで女になるんだよ」

「もし自分が女であったならこんな悲劇は起こらなかったから、という姫の後悔の念が形になって表れているのがこの呪いであると言われています。それを自分の子孫に押し付けるのはどうなのかとも思うのですが」

 姫が死んで、結婚した歳に変態は起こるらしい。はた迷惑すぎる。

「姫の祖先がうちってことなんだ」

「ええ。まあ正確には私の実家が、という事に成りますが」

そこまで話して俺たちは一息ついた。いろいろと情報が多くて整理する時間が俺には必要だった。

「でもお袋、信じる根拠が薄すぎるよ」

「信じる根拠、ですか」

 お袋は目を丸めた。何も変なことは言った覚えはないが、何か間違ったことを言った気にさせる。

「公麿さん。通常、人は男性から女性に一日で変わることはありません。性別の変化がある場合も、体の状態であったり、自覚症状はなくとも徐々に変わっていく感覚が伴うものです。あなたの場合それがありましたか?」

 ない。全くなかった。朝起きたら急に女になっていた。

「科学で証明できること。それはこの世の中のすべてではありません」

「だからって、んな与太話信じろって方が無理あるぜ」

「どうして?」

「どうしてって」

 きょとんと逆に問い返される。どうしても何も理屈に合わない。説明がつかないからだ。

「証明できること、論理的であることがこの世のすべてだということを説明することはできません。科学も日々進化していると聞きます。100年前の科学の常識を今の常識と捉えている科学者はいません。伝説も与太話も、今の理屈で説明できないから信じられないということはありません」

 上手い事煙に巻かれているような気もしなくない。

 だが母親のいうことも一理ある気がする。

 何より自分の体の異常の原因を『これ』だと言ってもらえるのは精神的に楽ではある。でもそうやすやすと受け入れられる話でもあるまい。

「今すべてを受け入れる必要はありません。そういう話もあるということを覚えてくれたらそれで」

 お袋はそういうと席を立った。話は終わったということだろう。

 出口まで来たところで「そうそう」と振り返った。

「今の公麿さんはとても可憐ですよ。男の子であった時も愛らしかったですが、今の姿も私は好ましく思います」

「そ、そう?」

「はい。とても」

 お袋にそういわれると照れる。男の時は殆どそういうことで何か言われたことはなかっただけに。

 扉に手を掛けた時、お袋は何かに気が付いたかのように動きを止めた。ついでにちょいちょいと俺に手招きをする。

 何だろうと思って近づくと、小声で「バットか何か棒のようなものを持ってきてください」と言った。

 昔小学生の時使っていた木製バットを手渡す。いったいこんなものを何に使うのか。

 疑問は一瞬で氷解。

 扉を開けた先にはコップを片手に聞き耳を立てている親父の姿が。

「ハハハハハハ! ばれてしまっては仕方が、待て! 俺の話を聞いて!」

 無言でバットを振り被るお袋に、逃げ回る親父。

 お袋の話は信じられそうにないが、女になってもこの両親は変わらないらしいことはよくわかった。俺への扱いとか超雑だもん。

 まあ今更重く受け止められても微妙なんだけどさ。

「公麿! 母さんを止めてくれ!」

「止めてはいけません公麿さん。一度この夫は黄泉の国へ行かなければ馬鹿が治らないのです」

「止めろよ二人とも」

 何はともあれ、両親が帰ってきたことを俺は素直に喜ぼうと思う。

 

 



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きみまろ

「改名ですか?」

「うん。どう思う?」

 俺はお袋の手伝いをしながら、今日平等橋と話した内容を伝えた。

 リズミカルにキャベツを刻む手を止め、お袋は俺を見た。どことなくその目は嬉しそうだ。

「公麿さん、もう彼氏ができたのですか?」

「そうじゃねえよ」

 思わず食い気味に突っ込んだ。男の時にお袋にこんな突っ込みを入れることはなかったので新鮮だ。いつもこうやって突っ込みを入れる相手は親父だけだったから。そんな親父はお袋にボコボコにされてソファに沈んでいる。

「わかっていますよ」

 調理の手を再開させて、「名前の件ですね」と言う。

「反対はしません。公麿さんの好きにするといいと思います」

「え、反対しないの?」

 てっきり「親のつけた名前を変えるとはどういうことだ!」くらいは言いそうなものだと思ったのだが。

「女の子で『公麿』となるとやはり目立つのではないかと思いますから」

 お袋は改名にどちらかというと賛成しているような節があるようだ。

「どんな名前がいいと思う?」

「そうですね。そうは言っても公麿さんのお名前には愛着があるのも事実ですし、ああそうだ。『公子』はどうですか?」

「そのネタはもう一回やってるんだけど」

「ネタではないのですが」

 お袋とぽつぽつ会話を交えながら料理をしていると、玄関で「たっだいまー!」という元気な声が聞こえてきた。妹のゆかりだ。

「あれー! お母さんが帰ってきてる!」

 ゆかりはとてとてリビングにやってき、お袋の姿を確認すると満面の笑みを浮かべた。

「お帰りお母さん!」

「ただいまゆかりさん。そしてお帰りなさい。風邪をひかないように手を洗ってきなさい」

 ダッシュでお袋に抱き着くゆかりを優しく受け止めるお袋。このストレートな愛情表現は俺にはマネできない。

「あれ? お母さんが帰ってきてるってことは」

 ゆかりがきょろきょろと周囲を確認するので、俺は無言でソファを指さした。

 するとゆかりはお袋にしたようにぴょーんとソファにダイブして親父に抱き着いた。抱き着いたって言うかフライングボディアタックだなあれじゃ。

「ぐぶぅう! 何事だ!」

「フハハハハ! ビッグボスよ! お帰り!」

「む、その声は我が愛しの娘ゆかり! マイリトルフェアリーよ!」

 花の子ルンルンよろしく手を取り合って踊る二人。あほらしい。

「埃が立ちますね」

「お袋、もっと他に言うことねえの?」

 その後兄貴が帰ってきて、久しぶりに家族五人で食卓を囲むことになった。

「兄貴今日バイトじゃなかったっけ?」

「両親が帰ってくるってことでシフト変わってもらった」

 俺がシチューをよそって渡すと、兄貴はそういった。

 最近兄貴はアルバイトはじめた。

 もともとバイト自体は興味があったらしいが、家事を、特に夕飯を作らなければいけなかったのでその余裕がなかった。

 流石にそれはだめだろうと俺が兄貴のいない日の料理を当番を担当することで、兄貴は週に3日の間隔でコンビニで働くようになった。

 料理は偶に愛華さんに教わっているので最近簡単なものなら作れるようになったし、学校から帰ってきて暇なときは料理教本を片手に何かを作るのが楽しくなってきたので、俺の料理の腕も少しずつ上がってきている。ゆかりは「まだまだだねお姉ちゃん」と指を振ってくるが。あれすげえムカつくんだよな。

「大介。お前少し背が伸びたんじゃないか?」

「二十歳近い男が身長伸びるかよ」

「お母さん! あたし一ミリ背が伸びたよ!」

「よかったですねゆかりさん。でもきっとそれは誤差の範囲だと思いますよ?」

 親父と兄貴が、お袋とゆかりが楽しそうに卓を囲む。

 男の時の俺はこういう時どっちについて話を聞いていたっけ。

 男だから兄貴たちに交じっていたっけ。それとも親父があまりにも馬鹿だからお袋の方に交じっていたか。

 気が付けば俺の皿は空っぽになっていた。黙々と食っていたからだ。

 ああそうか。どっちにも入っていなかったな俺。そういや。

 家族で飯食う時はいつも俺だけ速攻で食い終わって、自分の部屋に行っていたんだった。

「公麿さん」

 ご馳走様と席を立とうとした俺をお袋が呼びとめた。

「デザートにプリンがありますけど、食べますか?」

「食べる」

 ゆかりがずるいと言い、親父がだったら急いで食べろと囃し立て、兄貴はマイペースに食べ続ける。

「お袋。俺も手伝うよ」

「そうですか?」

 冷蔵庫から出すだけなのだから手伝いも何もいらない。それが分かっているはずなのにお袋は何も言わなかった。

 

 

 キッチンはリビングから少し死角になっていて、冷蔵庫からこちらを窺うことはできない。

「真ん中の子は寂しいですか?」

「ちょっとだけ」

 お袋にはかなわない。俺の微妙な立ち位置というか感情を読み取ってくれる。

 兄貴は年長ということで、また男ってことで親父と気が合いよく二人だけで話をする。ゆかりは末っ子ということもありお袋にべったりだ。どちらでもない俺はいつも宙ぶらりんで、どちらかに甘えることがなんとなく難しかった。

「体の変化のこともあって、いろいろ大変だったでしょう。いっぱい甘えなさい」

 お袋はそっと俺の頭を撫でた。

 久しぶりに抱き着いたお袋からは、石鹸の優しい匂いがした。

 

 

「はい第一回公麿改名コンテストー!」

「おい、やめろよそんな適当なノリで始めるの!」 

 夕飯後、親父がテンション高く宣誓した。お袋は静かにお茶をすすり、兄貴はおざなりに手を叩き、ゆかりはキラキラと目を輝かせる。

 プリンを食べながら、「俺名前変えようかな」と呟いたところ、親父が急にテンションを上げこのような運びとなった。どうでもいいがこの人は帰国の疲れとかないのだろうか。お袋はすげえ眠そうにしてるが。

「はいじゃあルール説明ね! 俺がたまたま持ってるこれ、この紙に思いついた名前を書く。それをこの去年間違ってコンビニで買っちゃった隣の市のゴミ袋に入れる。順番に公開していって公麿が一番気に入った名前にするってことで!」

「おいふざけんなクソ親父!」

「こら公麿! 親父をクソとは何事だ。クソなどと汚い言葉を使ってはいけないぞ! せめてうんちといいなさいうんちと! そうすればクソというよりはよほどましな……」

「お父さん? そろそろ口を閉じないとゴルフバットで頭を叩きますよ?」

「……というどうでもいい話だが、うん、まあ面白そうだし取り敢えずやろうじゃないか!」

「え、えぇ……」

 全く乗り気でない俺とは対照的に、家族はいそいそとペンを走らせていた。兄貴も参加していたことにびっくりした。

 ものの数分で全員が書き終えると、親父は回収した紙を四つに折り、袋の中に入れてがしゅがしゅシェイクした。

 ていうかもっと考えた名前にしてくれよ。

「よーし、じゃあ一発目いこうか。どーれーにーしーよーうーかーな! こいつだ!」

 びっと一枚の紙を摘まみ上げた親父。

 それを俺に渡す。読めってことか。

「えーと、『あかり』か」

「えへへへ。あたしだぁ」

 ゆかりが照れくさそうに手を挙げた。え、これ書いた本人が名乗り上げるスタイルなの? だったらなんで袋に入れて匿名性を高める工程を一回挟んだんだろう。

「ゆかり、この名前にした理由を聞いてもいいか?」

「イエスビックボス! えと、ゆかりの名前とちょっと名前の響きが似ているのと、あとなんか最近のお姉ちゃんがあかりちゃんって感じがしたから!」

「成程成程」

 親父は鷹揚に頷いたが俺は全然意味が分からなかった。名前の響きが似ている以外何一つ分からなかった。

「判定は公平性を保つために最後にまとめてすることにしようか」

「まあいいけどさ」

 親父はさっそく次の紙を俺に差し出した。

「えーと『すず』?」

「『りん』だ」

 今度は兄貴が手を挙げた。『鈴』と漢字が一文字あっただけなのでどちらの読みかわからなかった。

「理由を聞こうじゃないか」

「ああ。名前の響きがキレイなこと、それと公麿がちょっと猫っぽいからな。それだけだ」

 思いのほか適当な理由だった。猫っぽいってなんだ。帰省本能薄そうって意味か?

「ふふふ。家族が公麿のことをどう思っているのかよくわかる瞬間だな。じゃあどんどん次行ってみようか!」

「えーと、『公子』うんこれお袋だな。次行こう」

「お待ちなさい公麿さん。それではあまりにも不公平というものです」

 俺の雑な扱いが気に障ったらしい。お袋は席を立って待ったをかけた。

「一応理由は聞くけどさ。さっき聞いたのと同じじゃないの?」

「基本は同じです。まず公麿さんの公の一字が入っていること。そして女性らしさを表す子の一字。疑いようもない素晴らしい名前だと考えます」

「まああれだな、その名前云々っていうより母さんはネーミングセンスがないからな」

 湯のみが親父の鼻っ面にジャストミート。泡吹いて倒れやがったよこの親父。

「不慮の事故が起きてしまいましたが続けましょうか。最後の一枚ですね、というかこの流れだとお父さんのものになりますね」

「嫌な予感しかしない」

 お袋に渡された最後の一枚を開き、俺は息を飲んだ。

「……」

「どうかされましたか? 公麿さん」

「あ、いやなんていうか」

 俺は笑いながらその紙を丸め、ポケットにねじ込んだ。

「もう今日は遅いしさ、また今度にしようよ、ね?」

「えー、お父さんなんて書いてあったの? 知りたい―!」

「いや大したこと書いてないから、もう寝るぞゆかり!」

 俺の強引な締めにお袋と兄貴は何か察したようだった。

「そうですね。そろそろ寝ましょうか」

「ゆかりも寝るぞ」

 と俺の擁護に回ってくれた。

 俺はそそくさと自分の部屋に戻り、丸めた紙を開いた。

 『きみまろ』

 漢字でもなく、カタカナでもなく、ただその四文字がそこにはあった。

 いつか小学校の宿題で自分の名前の由来を聞いて来るというものがあった。

 俺が親父にそれを聞くと、親父は『なんかかっこよさそうだから』と適当に答えたが、お袋がそっと俺に教えてくれた。

『「公」という字には「偏らず正しいこと」という意味があります。誰とでも平等に接することのできる優しい子に育ってほしい、そんな思いがあってこの字を選んだのですよ』

『じゃあ麿は?』

『そうですね、実は麿という字はうんちという意味があるんです』

『ええ! うんち?』

『はい。昔の人は悪霊というものを信じていました。自分の大切な子どもにわざと穢れた名前を付けることで、悪霊から我が子を守るという考えがあったのです。あなたから災いが降りかからないように麿という字をつけたのです』

 今なら、親父がどうしてそんな時代錯誤な名前を付けたのかわかる。

 信じる、信じないにしろ、『花婿の呪い』が俺の身に降りかからないようとある種の呪いを兼ねたのだ。

 お袋には聞かなかったが、ひょっとしたらこの呪いが降りかかるのは男でも、特に次男など限定があったのかもしれない。兄貴の名前は古風ではあるものの普通だから。

 確かに今の名前は女の子がつける名前じゃないだろう。時代錯誤甚だしいし、結局俺は呪いにかかってしまったようだし。

 でもなあ。そんな俺の名前をそれでもこれがいいと思ってくれる人がいるんだ。

 もう少しこのままでもいいか。

 そう思わせるくらいの気持ちが生まれた。

 この先多分名前を変える機会はあるだろう。

 何せこの名前は女として生きていくには少々特殊過ぎる名前だ。

 でももう少しだけこの名前で生きていこうと、俺は思った。

 

 



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もう夏だもんな

 いつだったか忘れたが、俺はどうやら随分表情に出やすい性格をしているらしいということを指摘された覚えがある。

 昼休みが始まるのを今か今かと待ち構えているのがよくわかった。そう荒神に言われた。

「なんで分かんだよ」

「あなたを愛しているから。そしてあなたも私を愛しているから。相思相愛だからよ」

「一方通行でも相思相愛っていうのか?」

 荒神との絡みも慣れたものだ。近頃じゃちょっと冷たい事言ってもまったく平気な態度を取ってくるようになった。反動で向こうの発言も過激さを増していくんだけどさ。

「でも今日のマロちんは結構わかりやすかったと思うよ」

「え、そう?」

 亜衣が荒神に便乗するように隣の席から椅子を引きずって俺の席に弁当を置いた。舞衣は後から来るらしい。

「そうね。これはもう吐きなさい。平等橋と何かあったっていう空気でもないし、単純にいいことがあったんでしょ?」

 荒神は真剣に俺の心の中を覗き見ているんじゃないかと不安になる発言をかましてくる。怖い。うん。怖い。

 でも嬉しそうな顔か。確かにそういわれる理由は今の俺にはあった。

 俺は武骨なデカい弁当箱をでんと机の上に置いた。普段使ってる丸い弁当箱じゃない、いかにもドカ弁って感じの弁当だ。

「すごいデカいね」

「あなたこんなに食べれないでしょ?」

 亜衣と荒神が口を揃えて目を丸くする。ふっふっふ。何とでもいうがよい。

「これはかなり久しぶりに作ってもらったお袋の弁当なんだ」

 俺の笑顔の理由。それは今日お袋の弁当を持参できたからだ。

 お袋は料理がべらぼうに上手い。和食洋食中華なんでもござれだ。兄貴の料理もそこらの定食屋なんかより全然うまいが、お袋には勝てない。そんなお袋が作ってくれた久しぶりの弁当に俺はテンションをあげていた。弁当箱が武骨すぎるのは確かに気になったが、そんなもの些細な問題だ。

 俺は嬉々として弁当の蓋を開けた。

 ぎっちり詰まった寒天がそこにはあった。

「……」

「え、綾峰泣いてるの?」

 そっと蓋を閉じた俺に気遣うような荒神の声。優しさが身に染みる。

 重いはずだよ。隙間なく寒天が入っているんだから。

 俺お袋を怒らせることなんかしたかなーと不安になったので、ひとまずお袋にメッセージを送ろうとスマホを取り出した。するとお袋から先にメッセージが届いていた。

『ごめんなさい! お父さんのお弁当と間違えて渡してしまいました! 今日は学食か購買で済ませてください。お金は後で払います』

 ほっと一息ついた。これは事故だったのか。親父が何をやらかしたのかはわからないが、今回の件は偶然らしい。

 お袋の言う通りこれを昼食にするのはきつい。弁当箱いっぱいに詰まった寒天って見ているとなんだか別の生き物みたいに見えて来るし。きな粉でもあれば変わったんだろうがあいにくそんなものはなかった。こんな仕打ち受けるほど親父は一体何をしたんだろうか。

 今日は仕方ないか。

 荒神が自分も学食に行くとごねたが、昼休みに女バスの練習があるらしく泣く泣く俺を見送った。

 いつも昼飯を食って休憩時間中ごろくらいに平等橋と約束をしている。まだ早いかなと思って覗いてみたら平等橋が数人の男子と一緒に飯を食っていた。平等橋の昼は学食と弁当が半々くらいの比率だ。愛華さんが用意してくれる時が弁当で、忙しい時は学食で済ませるよう言われるらしい。これは最近聞いたことの一つだ。平等橋のプライベートが少しずつ分かっていくみたいでちょっと嬉しかったりする。

 平等橋の周りにいるのもクラスの男子がほとんどだ。何人か顔見知り程度のあまり話したことのない奴が交じっているが、これなら俺が近づいても平気だろう。

 ちょっと悪戯してやろうか。

 できるだけなんでもないように平等橋に後ろから近づく。

クラスの男子が俺に反応したようだが、人差し指を立ててしーっと合図をすると、でへへと言わんばかりに相好を崩した。おいバレるだろう。

 何とか平等橋に気づかれることなく背後に陣取ることに成功する。

 こいつめ、俺が後ろにいると知らないもんだから、女性の尻についての魅力を熱弁してやがる。滑稽だわ滑稽。うはははは。

 ぽんと軽く平等橋の肩に手を置いた。振り向く奴の頬に俺の人差し指がめり込む。

 よくある振り返った反動で頬っぺたが突っつかれた状態になるアレだ。名前は知らん。

 平等橋は目を瞬かせながら、何してんのといった目で俺を見てくる。くそ、反応が薄い。作戦失敗だ。

 俺は無言でその場を後にした。

 いたたまれない複数の視線が俺の背後を刺してくる、気がした。流石に被害妄想か。

「早いじゃん公麿」

 気を取り直して何食べよっかなーと食堂の張り紙を眺めていると、平等橋がよっと片手をあげて俺の横に立っていた。

「ひょっとして邪魔しちゃった?」

 だとしたら悪い。

「いや、お前が来たから出て来たってのは間違ってないけど、あいつらの嫉妬が目に余ったからな」

 嫉妬とはなんぞや。

 平等橋が先ほどいた席に目を向けると、一斉に平等橋に向かって中指を立てている連中がいた。俺と目が合うと、ポケットに手を突っ込みすまし顔で口笛を吹く。

「私モテモテだね」

「だな。男ん時から」

「それは言うなよ。でもそんな私をはべらせてお前も気分いいんじゃないか?」

「よく言うぜ、毎回俺にジュース奢らせる金食い虫の癖によ」

 けらけらと笑い合って小突き合う。うん、いつも通りだ。いつも通りの中に微妙に攻めた発言を混ぜてみたんだけど、それも華麗にいなされてしまった。

 こいつ本当に俺のことどう思ってんだろう。

 手早く食べたいということもあって、俺はそばを注文した。手持ちがなかったので素そばにしようとしたら、平等橋が横から小銭を投げてきてくれたのでかき揚を上に乗せることができた。ありがてえ。

「気前いいじゃん」

「最近バイトはじめたからな」

「え、聞いてないんだけど」

「言ってなかったっけ?」

 聞いてない。席に着いた俺は半眼になって平等橋を睨みつけた。

「んな顔しても微塵も怖くねえよ」

「怖いと思ってやってんじゃないの。これは不満を表現してる顔なんですけど?」

 おかしな話だ。別に友達に隠し事をするだけで怒られる謂れはない。だが先日の一件もあり平等橋は弱かった。

「姉貴の事務ちょっと手伝ってるだけだよ。土曜とか空いてる時間だけだけど」

「愛華さんの?」

 思わぬ名前が出て俺は驚いた。愛華さんとは平等橋の姉のことで、近くの会社で働いているとだけ聞いたことがあった。

「小さい会社だからな。週一とか部活あって全然入れないけど、簡単な雑務の手伝いするだけでそこそこもらえるんだぜ」

「えー、私もやってみたい」

「残念。このバイトは俺専用なんだ」

 どこかの口と髪型を尖らせた小学生みたいなことを言い出した。

 俺がそばを啜っていると、視界に知っている奴が通りかかったので、反射的に声をかけてしまった。

 友達が少ないからいざその友達が目の前来ると声を掛けずにはいられない性。それが俺でした。

「餅田ー」

 餅田美奈子。先日俺と友人になった他のクラスの女子生徒。高校での俺の友人、通算五人目だ。

「公麿ちゃん?」

 餅田は俺を見つけるとゆっくりと歩いてきた。相変わらず歩き方が優雅で、上品っぽい。

 俺一人だと思っていたのだろう。

 餅田は対面に座る平等橋を見て眉を顰めた。え、そんなに他の人がいたらいやだったのか?

「……平等橋、正義」

 餅田は歯噛みするように平等橋を見た。というか睨んだ。平等橋は「ひぇ?」と何とも情けない鳴き声を上げた。

 そういえば、餅田は俺のことを『綾峰くん』ではなく『公麿ちゃん』と呼ぶようになった。本人なりのけじめらしい。俺は相変わらず餅田と呼ぶけど、本人も何かあだ名とか下の名前で呼んでほしいといった欲求があるのだろうか。

 餅田の気持ちを知って以来、やはりどこか気まずい関係ではあったのだが、いつからかそんな気まずさもなくなった。餅田曰く荒神が何か言ったらしい。

 美術部にも時たま顔を出している。

 特に何をするってわけでもないが、餅田の描く絵なんかを隣で眺めるくらいか。

 他の部員にも受け入れられつつみたいで、この前なんて入部届までくれるようになった。俺特に絵とか描いてないんだけど、居心地いいためついつい入り浸ってしまう。入っちゃおっかなーと悩む。でもそうなったら兼部することになって面倒だなとなかなか入部届に印を押せない。

 益体もないことを考えていると、平等橋と餅田が険悪な空気になっていた。

「へえ、あなたが『あの』平等橋くんですか?」

「何を聞いたかわからんけどそうだよ。そういうそっちは『あの』餅田さんですか?」

 二人とも同じ言葉を使っていても意味が全然違う風に使っているっていうのは一目瞭然だ。互いになにを指しているのかはっきりとは不明だが、どす黒い敵意が両者の間に流れ始めていた。まずい、荒神よりひどい対立になりそうだ。

「じゃ、じゃあそろそろ私たちは行くから、また今度な餅田」

「何言ってるのよ公麿ちゃん。まだおそばいっぱい残ってるでしょ? しっかり食べ終わるまで行っちゃだめじゃない」

「そうだぞ公麿。折角俺がかき揚プラスしてやったんだからしっかり喰え」

「かき揚程度で小さい男」

「なんか言った?」

「あら、聞こえましたか? 矮小な男はどんな些細な事でも自分のこととなれば気にするって本当なんですね」

「お前喧嘩売ってんのか、そうなんだなああん?」

 ご、ご飯がおいしくない。

 餅田を呼び止めた俺に明らかに非があるんだろうけど、ここまでヒートアップするって誰が予想できたよ。

 うぅ、お腹が痛くなってきた。

 なおも小さな、かつ陰険な言い争いを続ける二人は、会話に夢中すぎて俺の動きに注意を払っていないらしい。

 こっそり器を戻して、俺は学食を飛び出た。二人には悪いがあそこにいることは俺に精神衛生上よろしくない。餅田を引き留める時はもっと周囲や状況に気を配ってからにしよう。教訓だ、うん。

 教室に向かって歩いていると、てくてく見知った顔が近づいてくるのが分かった。

「あ、やっと帰って来たマロちん」

「舞衣じゃん。あれ? 亜衣は?」

 黒髪貧乳ロング美人。楠舞衣だった。こいつの相方を探す俺に「そんないつも一緒じゃないってー」とけたけた笑う舞衣。いやいつも一緒ってイメージなんだけど。

「まあいいや。私になにか用でもあった?」

「うんそれがあるんだね、あってしまうんだねえ」

 言い回しが面倒くさいがこれが舞衣だ。二人で言われない分若干テンポに違和を感じる。

 しかし舞依が俺に用? なんだろうか。学校のプリントの空白とか金貸してくれとかだろうか。前者に関して言えばもっと授業中起きとけよって突っぱねることはできるし、後者に関して言ってもお金のトラブルで人間関係壊したくないので、これもやっぱりアウトだ。

 舞衣は一体何の用事なんだろう。

「マロちんマロちん、実はね?」

 舞衣が俺にこそっと耳打ちをしてきたこと。それを聞いて俺はどういう表情を浮かべていいのかわからず、ただ曖昧にひきつった笑みを浮かべるしかなかった。

「今日の放課後、よろしくねー」

 舞衣は颯爽と教室に戻っていった。俺も同じ教室なんだけどな。もうちょい待てよ。

 しかしそうか。

 舞衣の話を聞いて俺も呟いた。

「もう夏だもんなあ」

 それについては俺も考えなきゃいけないと思っていることだっただけに、舞衣の提案はそんなに悪いものじゃないと俺は思った。

 

 



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お前実はそこまで気にしてねえだろ

誤字脱字等の報告ありがとうございます。
基本的な文法から、言葉のミスまで見返すといろいろあってお恥ずかしい限りです。
致命的なのがキャラクターの名前なのですが、
平等橋 ○ 平等院×
舞衣 ○ 麻衣 ×
です。キャラ名の間違いは噴飯ものですね。気をつけます。
追記
舞衣と亜衣の名前の衣が依と混同してやっちゃってます。気づき次第直してますが直ってねえよ馬鹿野郎って言う方がいらっしゃれば何卒誤字報告を…


 楠舞衣(くすのきまい)

 俺の友人だ

 友人なのだが、俺は舞衣と二人だけで話したことはなかったと思う。

 理由は、舞衣は常に柊亜衣とセットだからだ。

 二人で俺や荒神と絡むことはあっても、亜衣一人、舞衣一人だけで話したり、行動したりすることはなかったと思う。

 二人の息があまりにも合い過ぎていて、他の介入する余地がないというか。

 亜衣と舞衣は荒神をリーダーのようになってして慕っているが、そこに対等な力関係を持った友人という感じが俺にはしない。茶化しながらも荒神に付き従う二人。そんなイメージを俺は持っていた。

 邪気のないような、天真爛漫に息のあったコンビ芸を繰り広げる二人に、俺は親しくなればなるほど若干の疎外感というか、壁を感じるようになっていた。

 ある種二人だけで世界を構築させている。

 そこまで露骨ではないものの、俺は亜衣や舞衣に対して荒神の友達、つまり友達の友達なんじゃないかという不安がどこかにあった。

 だから今凄く困惑している。

「マロちんは何飲む?」

「……コーヒー牛乳」

 それ好きだよねえと舞衣は笑いながら自販機のボタンを押す。

 学校終わり、俺は舞衣と2人でショッピングモールへとやってきていた。いつも平等橋と使っている場所だ。

 昼休みに舞衣に今日の放課後暇かと誘われたが、実際終礼の後に「マロちんいくよん?」と声をかけてきた時は驚いた。冗談だとばかり思っていたからだ。

 その場に荒神がいたならば、きっと自分もいくと鼻息荒く立ち上がっただろう。しかし奴はさっさと女バスの練習へと向かっていた。今回に限っては、荒神が居てくれたらなと思ったのだが。

 舞衣が悪い奴じゃないってことはよく知っている。でも何度も強調するけど俺と二人きりって今までなかったことだ。こいつは逆に気まずくないのだろうか。俺はすっごく気まずいぞ。

 昼休み、舞衣は俺に買い物に付き合ってほしいというようなことを言った。

 ただの買い物じゃない。なんとそのブツは水着だ。男の時ならこの言葉に反応するだけで変態の烙印を押されたものだが、女となった俺には単なる必要品に過ぎない。

 俺も水着に関しては考えなければいけない事でもあったので、丁度いいかと気軽に考えていた。

 だがまさか舞衣と二人きりとは思わなかった。普通に荒神か亜衣がいるものだと思っていた。

 終礼が終わるとさっさと教室を出て行く二人を見て、実は部活行くのおふたり? と疑問を抱いたほどだった。

 知らない仲じゃないとはいえ、俺は舞衣と水着を買いに来るような仲だったのだろうか。それ以前に、水着を一緒に買いに行くってどれくらいの間柄なら許されるんだろう。許される、許されないって考えている時点で多分アウトだと思うんだけどさ。

 顔に出やすい俺のことだ。きっと相手にも困惑している様子がよく伝わったのだろう。

 舞衣はすぐにショップに入るのではなく、フードコートでジュースを奢ってあげると俺に言ってきた。

 彼女の意図がよく分からない。それが今俺が置かれている状況だった。 

 

 

「マロちんってほんとすぐに顔にでるよねー」

「うるさいよ。最近自覚してきたけど。てか、だったらそろそろ理由話してくれてもいいんじゃねえの?」

 ここに来るまでの道のりの中で俺はそれとなく今回の誘いの意図を尋ねたのだが、いまいち相手には伝わらなかった。いや、伝わっていたと思うけど俺の反応をこいつは楽しんでいた風に見えた。本当に意地が悪い。

 一見、舞衣と亜衣は姿形を除いて殆ど瓜二つのように見えるが、ある程度普段から一緒にいると違いが見えてくる。

亜衣の方が若干の天然で、舞衣の方がかなり底意地悪いということだ。

 同じイタズラも、亜衣は悪意なく、舞衣はある程度惨事が起きることを予見した上で行う。舞衣だけイタズラに成功した時、というか相手が嫌な顔をしたときの表情が違うのだ。満面の笑みを浮かべるのだこいつは。

 そういう理由もあって、俺は亜衣と舞衣ならどちらかというと亜衣の方が二人でいて苦にはならないのだが、今目の前にいるのは舞衣だ。さて、こいつはどんな意図で俺を誘ったのだろうか。そろそろ答えろよこの野郎。

「いやー、これを、言うのはちょっと恥ずかしいことではあるんだけどね?」

「前置きとかいらねえから」

「あーん、マロちんがつーめーたーいー」

 へらへら笑う舞衣。いやほんともうさっさと話せよ。

「あたし胸無いじゃん」

 だからって突然自分のコンプレックスを語るのはやめろ。

 俺がなんと言えばいいのかわからず黙っていると、舞衣は「いや理由なんだけど」と付け加えた。

「えっと、どゆこと?」

「だーかーらー、あの二人と比べたらまな板でしょ? あたしのバスト」

「お、おう」

「去年一緒に買いに来たんだけど滅茶苦茶馬鹿にされたんだよね。あのパイオツカイデーコンビに」

「怪獣みたいに言うのやめろよ」

 ちょっと笑っちゃったじゃないか。

 亜衣の胸がばかみたいにデカいことは周知の事実だ。

クラスどころか学年で数えても亜衣に勝てる奴はそうそういない。一方亜衣に隠れているが荒神もかなりのものだ。服の上からでもはっきりとそれが分かる。いや服の上ってか実際一度一緒に風呂入ったことあるからってのもそうなんだけど。

「あいつらあたしの胸を、胸を、胸肉を……」

「鶏肉みたいになってくるから肉をつけるな」

 だが本人はいたって真面目だった。つまり真面目にボケていたってことになるんだが、それはひとまず置いておく。

「マロちんならあたしとどっこい……いやマロちんの方がでかくない? ちょっとマジか、やめてよここまできてそれはー」

「私の胸から手を放せバカ」

 ぐにぐにと俺の胸を揉みしだく舞衣の顔を押す。

 男の時平等橋に受けてきたセクハラの数々のせいで、俺は他人に体を触られてもちょっとやそっとじゃ動じない厄介な体質になっていた。流石に赤の他人に触られたら拒否はするだろうけど、舞衣なら特に警戒することもなかったからつい許してしまった。しかし時と場所をわきまえろ。気のせいか周りの人がちょっとこっち見てるじゃないか。

「うーん、まさかマロちんにまで抜かされているとは」

「結局目的は胸を馬鹿にしない奴と水着を買いに来たかったってことでいいのか?」

 このままだと一生話が終わりそうになかったので、俺は強引に話を戻した。

 舞衣は買ってきたジュースを飲みながら右手の親指と人差し指で輪を作って小刻みに振った。正解らしい。でもなんかイラッと来る仕草だった。

「まあいいや。私もちょうど授業で使う水着必要だったし」

「え、マロちんスク水持ってないの?」

 俺が席を立ったところ思いもかけない舞衣の言葉がやって来た。

「ここじゃスク水買えないよ?」

「……なんだって?」

 売ってないのかよ。じゃあなんでこんなところまで来たんだこいつ。ていうか連れてきたんだこの野郎。

 恨みがましい目で睨んでやると、舞衣は腹を抱えて爆笑しだした。こいついつか絶対泣かす。

「うちの授業で使う奴は指定のとこじゃないと買えないって。今日は普通の外で使う水着だよマロち~ん」

「帰る」

「まあまあ待ちなって。ほら行こう、され行こう」

 俺の目的のものがない以上ここに居座る理由も特にないのだが、舞衣を一人残すのもなんだか罪悪感がある。

 決して舞衣に流されているわけじゃないが、肩を組んでずるずる引っ張られていく俺は傍から見たら流されているように見えたと思う。

 

 

「水着ってそれだけで売ってる店とかあるんだな」

 俺がぼそっと呟くと、舞衣は「一年中水着ばっか売ってるところもあるし、それこそいろいろだと思うよ?」と返してくれた。なるほど。

 夏が近いということもあり、全体的に水着を扱っている店は多いように見えた。

 舞衣はすでに行く店を決めていたようで、とあるショップに俺を引きずっていった。

「これはまた凄まじいな」

「男の時に見てたら鼻血吹いてた?」

「流石にそこまでじゃないけど」

 いたるところにマネキン水着マネキンマネキンまた水着。カラフルな蛍光色からそれほんとに肌守ってんの? と疑問を抱きたくなるような奇抜な布地まで多種多様だった。

 何かお探しですか、とにこやかに声をかけてきた女性店員に断りいれ、舞衣は俺を奥へと案内する。店員さんと一緒に商品を探す人もいるだろうが、舞衣はそうしない類の人間らしかった。

「あいつら内心あたしの胸見てわらってっからね」

「流石に被害妄想じゃないか? そもそも舞衣くらいのサイズの方が種類多いだろ」

「マロちん喧嘩を売るネタを間違えちゃいけないよ? 舞衣くらいって何? バカにしてる?」

「こいつめんどくせえなあ!」

 でも実際そこまで胸を強調しないような水着ならいっぱいあると思う。大きめのフレアとかリボンのついたやつとか。

 もちろん舞衣も自分の似合う水着くらい把握していたみたいで、これ可愛いかもと物色を始めた。大体どんなものを買うのか目星はつけている印象を受けた。

 小一時間ほどで舞衣は商品を決めると、さっとこちらを向き直った。

「マロちんが意外にも水着に詳しかったのは驚いたけど、選ぶの手伝ってくれてありがとね。ひょっとして昔も男物じゃなくてこっち着けてた?」

「笑えない冗談いうなよ。単に妹の選ぶの手伝わされてたからってだけだ」

「この手の店に妹と入れる兄って、しかもそれを見咎められなさそうなのがまたマロちんクオリティだよね」

「どうでもいいからさっさと買って来いよ」

 しっしと犬を追い払うように手を振ると、舞衣は何言ってんだこいつみたいな目を向けてきた。なんだよ。

「マロちんの分買ってないよ?」

「はあ?」

 何を言い出すんだこいつ。買う訳ないだろう。水着とか言ってなんか水の中の正装みたいに振る舞ってる節あるけど、あれってただの下着じゃん。俺に露出癖はない。なんで見ず知らずの人間がうようよいる中であんな全裸に近い恰好ができるのか理解不能だ。

「買わねえよ」

「ええ~。マロちんも買おうよ~。貧乳同盟組もうよ~」

「お前実は自分が胸小さいことそこまで気にしてねえだろ」

 自分から自分の胸を弄れるそのメンタルはどっからやってくるんだって話だ。

「夏だよ? 皆で海とか川とかプールとか行きたいじゃん」

 プールという単語でちょっとぐらっと来た。友達いなかった反動がここできた。友達とプールって言葉だけでもう心がぐらつく。

 押せばいけると踏んだのか、舞衣はそこから怒涛のように畳みかけた。

「そうだよプールだよ!」

「楽しいよ~、楽しくないわけないよ」

「ボスは絶対行くし亜依も行くよね。あたしも当然参加で、あ、そっかマロちん水着持ってないんだ。へーそうなんだ」

「それは残念だねえ。皆でプールに行くけどマロちんは誘われもせずに一人寂しく夏を過ごすんだね」

「あー可愛そう。もしマロちんがこの時、水着を買っていたらこんな悲劇は起きずに済んだかもしれないのに」

 怒涛の口撃。

 なんでこいつは人を攻めるときここまで生き生きしているのかと無性に腹立たしく感じる。

「く、くぅう、いやでもほら、俺今金ないし」

「もともと学校のスク水買ってくるだけのお金はあったんでしょ? なら全然余裕で買える買える。そんな事よりささっと決めないとマロちんの夏休みの悲惨さがいまここで、この一瞬で決まってしまうかもしれないんだよ? いいの、ねえいいの?」

 

「だああ、もううるさい! わかったよ、私も買うよ買えばいいんだろ!」

 

 半ばヤケクソになって言うと、舞衣は「言ってみるもんだね」と破顔した。負けた気分に陥ったが、たまにはこういうことをするのも悪くないだろう。それに、プール、だし。

 さて、じゃあどうするかなと俺がいろいろ見ていると、後ろで舞依が「せっかくだし誰かに見せるっていうのを意識して選んでみたらどう?」と言ってきた。

 誰かに見せる、か。

 誰に見せようか。近い所だとゆかりとか兄貴とかかな。流石に兄妹はきもいか。

 じゃあ誰だろう。

 荒神に合わせるか? あいつ鼻血吹いて倒れそうだしな。

 じゃあ平等橋はどうだ。

 平等橋……。

「バッシーでしょ。どうせ」

「どうせってなんだよ」

 舞衣が口に手を当てて嫌らしそうに眼を細めて笑う。うるさいよ。

 うん、でも舞衣に言われたからってわけじゃないけど、普通に平等橋を意識してチョイスするのは悪くない選択じゃないか。思い出した、思い出した。

 俺は平等橋に俺のことをどう思っているのかはっきりさせなければならないと思っていたのだった。

 女扱いしろって言ってるわけじゃないが、今の平等橋は無理して女の俺の中から「男」だった時の俺をくり抜いて接しているような感じがする。

 水着なんていかにもな装備を着けたら、さすがの平等橋も何らかの反応を見せるだろう。

「これなんてどうかな?」

「お前自分が着ないからってそんな紐だけみたいなの持ってくんなよ……」

 舞衣との買い物は、思いのほか楽しかったということを追記しておく。

 

 

 家に帰ると、揚げ物のおいしそうな匂いがした。

 エプロンをつけたお袋は、「今日お弁当を間違えてしまいましたから、そのお詫びです」とはにかみながら言ってくれた。ラッキーだ。

 制服を着替えてお袋の料理を手伝う。最近はこの時間が結構好きだったりする。

 今日は舞依と買いものに行ったため、ほとんど料理は完成していたんだけどな。皿だしくらいはやる。

「今日は遅かったですね。お友達と買い物ですか?」

 お袋は鋭い。

 別に隠すことでもないので、俺は素直にうなずいた。

「前に話していた、あのなんたらっていう男の子ですか?」

「平等橋のこと? 違うよ。今日は女の子の友達」

「そうですか。とても仲の良い友達なのですね」

 ん、仲の良い? 俺は不思議に思ってお袋を見ると、「とてもいい笑顔ですよ」と付け加えた。

 そんなに分かりやすいかなと自分の顔をぐりぐり弄る。表情筋がちょっと緩んだ気はする。

 嬉しそうな顔か。

 それはきっと帰りの電車の中で舞衣が俺に言ったことが原因なんだろうな。

 

 

「マロちんってさー、あたしらと距離あるよね」

 舞衣が唐突に何かを切り出すことには慣れたはずだけど、内容が内容だけに俺は動揺を隠せなかった。

「え、何急に」

「あたしだけかなーって思ってたんだけど、亜衣もそう思ってたみたいだから言っとこうかと思って。別に責めてるとかじゃないよ。一緒にいるようになってそんなに時間も経ってないし」

 でもちょっと寂しいじゃん。

 舞衣はそういうと、車外の風景に目を落とした。

 俺は戸惑い半分、嬉しさ半分といった何とも複雑な心境で舞衣の言葉を聞いていた。

 俺だけじゃなかったのか。

 舞衣や亜衣も、俺との距離感に戸惑っていただけなのだろうか。

 二人はいつも軽快で、お調子者で、深く物事を考えているように見えず、ただ二人だけの世界を作りだしている印象が俺にはあった。

 そういう風に見ることで、逆に俺の方から壁を作っていたのかもしれない。

「もしかして今日誘ってくれたのって」

「深い意味はないって。普通に水着買いたかったっていうのが一番の理由だし。でももちっとマロちんの心が開いてくれないかなーとか、思ったりー、思わなかったり?」

 舞衣は照れたように頬を掻いた。その顔はいつもよりずっと赤く見えた。夕日のせいなのか、それともそれ以外の何かなのか。

 どちらでも構わない。ただ俺は嬉しくなった。

「お前らわかりにくいもん」

「うっそー。そんなこと言われたのマロちんが初めてなんだけど? あと二人って一括りにするのはやめてよ。あたしは舞衣だから。亜衣とは仲いいし、一緒にいることは多いけどセットじゃないよ。いい、マロちん?」

 人差し指を立てて俺に警告する舞衣。そうだな、これからはそういう風に見るのはもうやめる。

 その後は言葉少なに、でも和やかな時間と共に俺たちは帰路についた。

 

 

 ついでのおまけ。

 夕飯時、俺が今後授業で使う水着について親に相談したところ、親父から既に購入しているとの返事が返って来た。

「なんでもう買ってんだよ!」

「ははははははは! そう、その顔が見たかったからバラゲフッ!」

 親父の悪ふざけにキレたお袋が親父に向かって湯飲みを投げた。

 いつものように昏倒する親父を、俺は呆れたように眺めたのだった。

 

 



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さっさと行けよ馬鹿!

 風呂から上がってリビングに戻ると、お袋が誰かと電話をしていた。

 お袋が電話なんて珍しいな。

 そう思いながら、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐ。この一杯が堪らんのよ。

「公麿さん、代わって欲しいそうですよ」

 いつのまにかお袋が電話の子機を持って俺のすぐ近くに来ていた。相手から声が聞こえないように肩口でマイクの部分を抑えている。

「んー、誰から?」

「創大さんからです」

 口に含んだ牛乳を吹き出しかけた。

「嫌だよ!なんであいつから電話なんて来たんだよ!」

 お袋が口にしたのは俺と同い年の従兄弟の名前だ。

 お袋の姉貴の子供で、年も近いことから昔はよく遊んだものだ。だが年月が経つ毎に奴の身長はにょきにょきと大きくなり、それに比例するかのように態度も尊大になって来た。

 年末年始や盆など、行事毎でしか顔を合わすことがなくなったとは言え、正直好んで会いたい相手じゃ無い。普通に嫌いだ。ぶっちゃけ声もあんまり聞きたく無いレベルで。

『聞こえてんだよ公麿!!』

「おや、音が漏れていたようです」

 ほらこれだ。すぐ怒鳴る。

 あとお袋のそれは絶対わざとだ。何故だか分からないが、お袋はこの尊大な態度をとる従兄弟に甘い。ついでに俺とこいつが仲良しであると理解不能な考えまで持っている。

 があがあがなり立てられるのもいささか腹が立ったので、ちょっと文句を言ってやろうと受話器を受け取った。

「うるさいよ創大」

『さっさと出ろよタコスケ!』

 譲歩して話してやったのにこの態度。毎度のことだったが改めてこの声を聞かされると往年のトラウマが蘇るようでげんなりだ。

「切るぞ」

『だあああ! 待て待てタコスケ。ちょっとは人の話聞けよスカポンタン!』

 切った。話を聞くまでも無い。

 俺の膨れ面が面白かったのか、お袋は隣で声を殺して笑っていた。笑うところじゃないんだよなあ。

 

 

「言い残すことはそれだけ?」

「流石に勘弁してやってくだせえ! 親方!」

 学校に着くとよく分からない光景が広がっていた。

 教卓の上に座る荒神。腕を組み、目は閉じられ、眉間には薄っすらと青筋が立っている。

 

 対面には床に土下座をする舞衣、その横で同じようにひれ伏す亜衣。亜衣は荒神に何か嘆願するように両手を組んでいる。

「なんだあれ」

「よくわかんないんだけど、荒神止めなきゃまずいかも」

 平等橋が引いたように呟く。

 俺が近づくと、荒神が手招きをして自分の横に来るように示した。な、なんだ?

「私に黙って浮気だなんてやるじゃない?」

「どういうこっちゃ」

 酔っ払いみたいに乱暴に俺の肩を組む荒神。

「誤解なんです親方!」

「亜衣っつぁん。オレのこたぁもういいんだ」

「なさけねえこと言わんでくれよ舞衣さん!」

 なんだ茶番か。

 白けた目で見てやると、三人はバレたかと舌でも出さんばかりにいつもの調子に戻った。

「昨日舞衣と一緒に水着買いに行ったんでしょ?」

 亜衣が楽し気に話しかけてきた。もう情報が回っている。隣の舞衣が何故か親指をグッと立てていた。いや意味が分からん。

「もう超ラブラブだったんだかんねあたしら。ねえマロちん」

 舞衣が馴れ馴れしく俺の肩を抱く。思わず俺も昨日の舞衣の言葉を思い出して顔が熱くなった。

「おっと、これは信憑性の高まる反応ですぜ舞衣さん」

「やっべえ、この反応は予想外だぜ亜衣さん、ていうかボス? ちょっと目が怖いよボス? 椅子なんて持ち上げてどうするつもりってぎゃああああああ!」

 幽鬼のような虚ろな目で舞衣を追い回す荒神。

 取り残された俺と亜衣。ちょんちょんと俺の肩を亜衣は叩いた。

「昨日舞衣とさ、どんな感じだった?」

「どんな感じって言われても」

 思った以上に楽しかった。しかも舞衣の本心の一端を見たような気もした。総括してよかった。しかしこれを何という言葉で表現できるのか思考していると、亜衣の顔が少し曇っているように見えた。

「楽しかったんでしょ?」

「え、ああ。それは勿論」

「だよね。顔に出てるもん」

 また顔か。俺多分嘘つけねえな。

「舞衣だけってずるくない?」

 ここまで言われて、亜衣が何を言いたいのか俺はわかった。ここが俺が鈍感系主人公タイプの平等橋とは違うところだ。

「亜衣も、また一緒に遊ぼうよ」

「とーぜん! そんでその時は舞依とボスのいない二人きりね!」

 昨日舞衣が電車の中で語った事の中に、亜衣も同じように俺との距離感を考えているという風に言っていたことを思い出した。どうやらそれは正解だったみたいで、亜衣は「よしよし」と納得しながら俺を抱え込んだ。胸が、胸が顔に……

「あ、ボス見て! あの二人いちゃついてる!」

「ああああいいいいいいいい!?」

「げ、やばい! ボスにバレた!」

 今度は亜衣が逃げる番だった。

 騒がしいし、なんか体よくネタにされてる感はあるけど、それでも俺はこの関係が楽しいと思い始めるようになっていった。

 

 

 今日は初めての水泳の授業だ。

 そんな俺は、緊張のあまり吐きそうになっていた。

「マロちん大丈夫?」

 亜衣が優しく背中をさすってくれる。大丈夫じゃないかも。

 水着を買いに来た時も思ったことだが、俺は基本的に水着が好きじゃない。

殆ど裸だからだ。

あれを泳ぐための正装と言い張るのは無理がある。何が悲しくて半裸にならなきゃ行かんのか理解に苦しむ。

 授業の単位の為に必要だから仕方なく着るしかないのだが、なんだか拷問を受けているような気分だ。

 更衣室から出た俺は、荒神と亜衣に守られるようにぞろぞろとプールへと向かっていた。その間突き刺さる男子の目線の数々。

 うちの学校は、更衣室が比較的プールと近いこともあり、脱衣はプールの更衣室ではなく通常の体育で使用する更衣室を推奨されている。というか半強制的にそれに決められている。だが、更衣室とプールの距離が短いとはいえ、その間に女子と別れてグランドで球技を行う男子とは時間がかち合う訳で、そいつらが遠慮なくこっちを見てくるのだ。

 俺は男の時であっても、スカートとか女性っぽい服なら他人に見られてもさほど気にしなかった。

 でも極端に肌が露出している姿を他人に見られるのは非常に気恥ずかしかった。

 俺がそういったことを更衣室で荒神に話すと、「大丈夫。私が守ってあげるから」と偉く男前な答えが返って来た。危うく惚れかけた。

 荒神は俺たちの先頭を行くようにずんずん進んでいる。

 俺が頭から貫頭衣のようにタオルをすっぽり被って上半身をガードしている一方で、荒神はまるで荒波に揉まれる一流の船乗りのように肩にタオルを引っ提げて歩いている。見られることなどなんのもんだという男らしすぎるスタイルに、俺だけじゃなく周りの女子も黄色い悲鳴を上げている。荒神が女子に人気な理由が女になってわかる瞬間の一つだ。

 亜衣はどちらかというと俺寄りの考えだ。

「やっぱ見られんのは嫌だよねー」

 そういいながらタオルを胸元に寄せる。やはりそれだけデカいと自然と視線を集めるのだろう。ただ、胸元にタオルを寄せることで余計に胸部を強調することになっているのは言った方がいいのかどうなのか迷うところだ。

 ちなみに舞衣は俺たちの後ろに付き、殿を務めている。目をぎらぎらと光らせ道行く男子を威圧する舞衣は気が付いていないのだろうか。自分も十分見られる対象に入っていることに。

「あ」

「お?」

 目の前に平等橋がいた。なんてタイミングだ。

 とっさに顔を逸らす俺。

 くそ、これは無理だ。恥ずかしいなんてもんじゃない。昨日舞衣に乗せられて水着なんて買っちまったが、比較的布面積の大きいスク水でこの羞恥だ。しかも今はタオルで全面を隠していての状態。それでも平等橋の面を見た瞬間とてつもなく恥ずかしくなった。

 さっさと行こうと荒神に合図をした。全く伝わらなかった。

「ふふん。平等橋。あんた随分この子をエロい目で見つめるじゃない?」

 あろうことか平等橋に絡み始めた。マジでやめろマジでやめろ!

 俺の声にならない叫びは誰にも届かなかった。平等橋はいつもの挑発だと理解しているようだが、それでも一応相手にするようだった。

「見てないって。大体こいつタオルで全身隠してるだろ。テルテル坊主と大差ねえよ」

「言ったわねこの陰茎」

「お前もうそれは完全アウトだよ!」

 平等橋の元気な突っ込みを、るっさいわねと跳ねのける荒神。何故か俺の方に振り向いた。

「え、なに?」

「後で謝るわ」

「何を」

 するんだ。

 そう言い切る前に荒神はバっと俺のタオル剥いだ。「おー」と感嘆する舞衣と対照的に「あちゃー」と手で顔を隠す亜衣。

 一斉に道行く男子の視線がこちらを見たような、そんな気がした。

「~~~~~ッ!」

 恥ずかしいしこいつ何やってくれてんの馬鹿じゃないかアホじゃないかみんなが見てるじゃないか!

 一息にいろいろなことが頭を巡り、とにかく自分の姿を見せたくなかった俺はその場で蹲った。

「お、おい公麿」

 平等橋が戸惑ったような声を出す。

 そうだった。こいつもいたんだ。こいつもいたんだったんだよなあ。

「いつまでいるんだよ! さっさと行けよ馬鹿!」

 お前がいたら俺はいつまでもミノムシに擬態しなくちゃいけないんだ。

 俺の祈りが通じたのか、男子の体育の先生が「さっさと集合しろよ男子ー」と声をかけた。平等橋の視線をかなり長い間感じたが、奴も体育教師に逆らう愚行は起こさなかったようだ。暫くすると平等橋の気配もなくなっていた。

「あの、えーと、綾峰?」

「マロちん大丈夫だよ。もう野獣共はどっかいったよ?」

「そそ、ついでに眼鏡の暴君ボス猿も気にしなくていいからねー」

 何か言いたげな荒神と、俺を間に荒神に剥がれたタオルを優しく掛け直してくれる亜衣と舞衣。舞衣は荒神に物凄い速度で殴られていた。

 俺は今まで誰にも向けたことのないような冷たい目で荒神を睨んだ。

「……荒神なんて嫌いだ」

 その日一日、荒神は魂が抜けたように真っ白だったと後から舞衣に教えてもらった。知るもんか。

  

 



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そんな単純なこと?

「近頃の荒神には目が余るものがある」

 俺が鼻息荒く訴えると、亜衣と舞衣の二人は顔を見合わせ、「まあ、ねえ?」とでも言いたげに曖昧に笑った。二人のリアクションは薄い。ちぇ、なんだよ。

「でもフォローするわけじゃないけどさ、ボスがあんな態度取るのってマロちんぐらいだよ?」と亜衣。

「そそ。ある意味で特別な存在ってことだよ」と舞衣。

 納得いかない。

 俺が憮然とした態度を崩さないでいると、亜衣が「まあまあこれでもお食べよ」と小さなバスケットに入れたクッキーを差し出した。聞けば亜衣の手作りらしい。意外に亜衣は女子力が高い。

 水泳の授業があった日の翌日、土曜日に俺は亜衣と舞衣に呼び出された。場所は亜衣の家、というか部屋だった。驚いたことに亜衣はこの歳でもう一人暮らしをしているらしい。

 荒神の横暴はいつものことだが、先日の一件は腹に据えかねた。俺は授業の後からずっと荒神を無視していた。

 亜衣と舞衣が一向に機嫌を直さない俺を宥めるためにわざわざ呼んだのだろうということは明白だった。

 だったら俺も思いのたけをぶつけてやろうと息巻いてやってきたのだが、意外にも二人は俺の意見に同調してくる部分もあった。しかし根本は荒神側にいることは変わらないらしい。こんな風に荒神のフォローが随所に挿入される。なんとなく面白くないという気持ちはある。

「荒神は私のことをぬいぐるみや愛玩動物か何かと勘違いしているんじゃないか?」

 亜衣に入れてもらった紅茶を飲みながら俺は言う。

 女になった時、俺は荒神のおかげで随分助けられた。

 男の時から何かと荒神には親切にしてもらっていた。だから、これもその延長なのだろうと思っていた。

 男から女に変わった異端児。そんな異物感を払拭するためにわざとベタベタ身体的な部分を含めて、スキンシップを図ることでクラスの孤立を防ごうとしてくれている。自分から率先して女子の輪の中に入れていってくれている。そういう風に初めは思っていた。

 しかしもうすぐ女になって二月半を超えそうになっているが、荒神のスキンシップはどんどん過激になっていっているのはなぜなんだ。以前男の時に受けてきた平等橋のあれが可愛く見えてくるレベルに突入しようとしている。

 そこで考えたのが、荒神が俺のことをただ面白がっているだけなのではないかということだった。

 お気に入りのおもちゃで遊んでいる感覚。そこに友達としての対等さは存在しているのか。

 たまたま今回の水着の件が引き金となったわけだが、それは前々からずっと頭の片隅に引っかかっていることではあった。

「まーあたしらがいくら言ったってマロちんがそう感じるっていうならどうしようもないんじゃない?」

 一通り俺の考えを聞いた舞衣は淡泊にそう答えた。言い方が少し突き放しているように感じた俺は、寂しさと若干の恥ずかしさえを覚え、目を伏せた。なんだよやっぱりこいつら荒神の味方なのかよ。

「舞衣。その言い方じゃちょっと冷たくない?」

「うっそ~ん。超暖かいって。ねえ、マロちんもそう思うよね?」

「はいはい黙秘権、黙秘権。自白は現行の法律で禁止されてるんだよ?」

「でたー! 亜衣最近インテリぶってるよね~。……あれ、でもなんか微妙に違ったような気が」

「嘘、どこ?」

 厳密に言うと自白の強要が禁止されている、だ。どちらにせよ犯罪を犯したわけじゃないし自白もするつもりはない。場を和ませようとして言ってくれたってのは分かるんだけどさ。

 俺を放置して勝手に盛り上がる二人。なんだか居た堪れない気分になって来た。

「あたしはマロちんの気持ち、ちょっとわかるよ」

 落ち着いたころ亜衣が仲裁するように言った。

 分からず屋を説得するような言い方だったら俺は絶対耳を貸さなかっただろうが、本気でそう思っていると伝わる感じが伝わっていたので、俺は膝の隙間からそっと顔を上げた。「あ、やっと顔あげた」うるさい舞衣、

「あたしらは中学の時のボスを知ってるから今のボスに対して見えるものがまたマロちんと違うんだよね。もし昔のボスを知らなくって、今のマロちんの立場だったらあたしもビビるかもしんないもん」

 確かにねーとその部分に強調する舞衣。調子のいいやつだ。

「でもマロちんに知ってほしいのはさ、ボスはマロちんのことしっかりと対等な友達だって思ってると思うよ。そりゃ流石に最近のボスは若干暴走気味なのは見てて思うんだけど。これは別にボスの肩をもって言ってるわけじゃないよ? あたしにとってはボスもマロちんもどっちも友達だもん」

 亜衣の焼いたクッキーをポリポリ摘まみながら、俺は黙って彼女の話を聞いていた。

 多分、いや恐らくほぼ絶対亜衣の言うことは真実なのだろう。俺なんかよりもずっと荒神との付き合いが長い彼女が言うのだ。

 だけど俺の中で何か形にならない靄のようなものが堆積するのはなぜなんだろう。

「亜衣ー、こういう時言葉で説明したって納得いかないって」

 俺が静かにしていると、舞衣が楽しそうに亜衣に提案を持ち掛けていた。

「ほら、こういう時はこっちから仕掛ける方に回るんだよ」

「あ~。それありだね!」

 二人が俺のわからない所で盛り上がり出した。かと思えばすすすっと俺を両脇に固めるように横に移動してきた。

「な、なんだよ二人とも」

「ままま、そう緊張なさらずに」

「お話だけでもお聞きなさいよ」

 二人が同時に、内緒話をするように耳元に口を寄せた。

『リベンジだよ』 

 

 荒神の登校時間はばらばらだ。

 女バスの朝練がある時は七時くらいにはもう学校に着いているし、朝練がない時は一時間目が始まるぎりぎりの時もある。

 他にもその日の気分次第で早かったり遅かったりするので、朝に荒神を捕まえようと思ったら事前にアポイントを取らなければ難しいレベルにあった。

 今日は女バスの練習がある月曜日だ。この日なら荒神は今頃体育館で汗を流している頃だろう。

 俺は肩に水筒と背中にリュックを背負い体育館の扉を開いた。

 体育館には女子バスケットボール部の他にバレー部が体育館の半分を使って練習していた。というか数では圧倒的にバレー部の方が多い。

 入り口から近い半分をバレー部が使用し、奥を女バスが使っていたのでそそくさと俺は移動した。

 何人かの女バス部員がこっちを見るが、肝心の荒神は練習に夢中で気が付いていない。

 毎日朝練がない事からわかる通り、この学校の女子バスケットボール部はそこまで練習熱心な部活ではない。

 県大会予選もベスト8に入れれば上々くらいで、目指せ全国大会など夢の又夢。今の説明はかつて荒神に言われた言葉だが、実際に練習風景を見てなるほどと納得する部分もあった。

 まず女バスの部員が何人いるのかわからないが、練習に来ている部員が少ない。大きい体育館だから、数名しか活動していないとどうしても数が見劣りしてしまう。体育館の半面を使っているバレー部が多い分、余計に。

 今は軽く休憩を取っている時間なのか、女バスの部員は水分補給をしていた。荒神はただ一人その時間もシュートを打ち続けていた。

 フリースローって言うんだっけ。

 マンガでよく見る左手は添えるだけっていうあの打ち方だ。

 リングの部分に触れることなく、ばさばさとネットがボールを通すたびに音を立てる。

 体育の時にバスケがあって、その時から思っていたが荒神だけ動きが別格だ。どうしてこの高校を選んだのかというほど動きが洗練されているのが素人目にもわかる。

 ぼーっと俺が荒神のことを見ていると、ようやく荒神は俺に気が付き、ぎょっと驚いたようだった。荒神が驚く姿をあまり見ないので、俺はそれだけでしてやったりという気になった。

「え、え、ああ綾峰? どうしてここに? なんか体育館に用事でもあった?」

 早足で俺に近づき尋ねる荒神。金曜の一件があった為か、自分に用事があるとは思わないらしい。

「ううん。荒神に用事があったんだ」

「え、私に?」

 俺はリュックからタオルを出し、荒神の汗をぬぐった。

 硬直する荒神。何をしているんだと言わんばかりの目線がバシバシ突き刺さる。それは荒神だけじゃなく、周りの女バスの子たちも同様だった。

「な、に? 綾峰、ちょ、え、なに?」

「じっとしてろって。お前朝からいい汗出してるよな」

 続いて俺は水筒の栓を開き、コップにこぽこぽとお茶を注ぐ。

「はい荒神」

「え? え?」

「早く飲めって。冷たくておいしいよ」

 明らかに困惑しているのが伝わってくる。

 荒神がお茶を飲んでいる間、俺はにこにことその様子を見ていた。

「あ、ありがと。でもどうして突然こんなこと?」

「荒神が喜ぶと思って。嫌だった?」

「そ、そんなことない! ないけどその、もう怒ってないの?」

 正直さっきまでの荒神の動揺で水泳の件は吹っ飛んだ。だが俺は何も言わずただにこにこと笑っているだけ。

「綾峰、綾峰?」

「じゃあまた授業でな」

 コップを受け取った俺はまた荷物を担ぎ直して体育館を後にした。

 疑問符と感嘆符を頭に浮かべまくった荒神を放置して。

 俺は内心ガッツポーズを作り、こっそりと亜衣と舞衣にグループメッセージを送った。

『うまくいった』

『詳しく』

 速攻で既読が付いたのは舞衣だった。廊下でスマホを弄っているとバレたら没収は免れない。顔を上げると廊下の門で舞衣が手を振っていた。

「舞衣やった。荒神のやつすっげー動揺してた!」

「おーおーそうかそうか。よっしゃよっしゃ。次もおっちゃんに任しとき!」

 忠犬のように駆けよれば、舞衣もそれに乗って俺の頭をわしわしと撫でた。

「あんなんでほんとに効果あるのか疑ってごめんな。効果覿面だ」

 うむうむと得意げに頷く舞衣。この場に亜衣がいれば同じようにしていただろう。生憎亜衣は朝が弱く、いつも遅刻ギリギリにならなければ学校にやってくることはないが。 

 亜衣と舞衣が俺に言ったのは極めて単純なことだった。

『逆に思いっきり接近してみろ』

 これだった。

 荒神の俺に対する近すぎる距離感。それは俺がスキンシップに対して微妙に嫌がったりしつつも、最終的には無抵抗で受けることによってどこまでが許される範囲なのかわからず暴走しているのだろうと二人は推測していた。

 ならいっそ相手も引いてしまうほど近づいてみたらどうだろうか。それが二人の提案の中身だ。

 自分のしていることを相手にされることで、逆に自分が行っていることを客観的に見ることができるのではないかというものだ。

 俺は最初この提案を聞いて微妙な顔をした。

 少し前、荒神を黙らせるためにセクハラで脅したことがあったのだが、逆にセクハラを返され言い負かされてしまったという経験があったからだ。逆効果になるのではないかと思った。だが二人はそうは思わなかった。

「とことん行ってみなマロちん」

「最終的には行くとこまで行ってみて大丈夫だから! 絶対ヤバイことにはならないから!」

 そんなもんなのだろうか。半信半疑だが、俺のことを思って言ってくれる二人のことを疑うのは気が引けた。

 二人の言葉を信じて俺は取り敢えず、朝の朝練を励む荒神を応援することから始めてみた。

 すると俺が想像していた反応とはかなり違っていた。

 金曜が気まずく終わったからというのも勿論あっただろうが、もっと抱き着くなりなんなりしてくると思ったのだ。

 ところが荒神は嫌がってはいないものの、かなり困惑しているようだった。

 これは使える。俺は確信をもって亜衣と舞衣の作戦を全面的にのっかかることに決めたのだった。 

 

 

 昼休み。

 そわそわと俺の方を見る荒神と目が合った俺は、にっこりと笑いながら荒神の手を引いた。

「き、今日は平等橋の所へは?」

「ううん。今日はずっと荒神といたいから」

 席も普段なら対面に座る所だが、わざわざ椅子を移動させてまで荒神の横に座る。隣も隣。真横だ。肩がぴったりと触れ合っている。内心火が出そうなほど恥ずかしいが、荒神にもかなりダメージがあるようだ。

 この日のために今日は平等橋に断りを入れておいた。ほどほどにしとけよとあいつは苦笑いしていたが、ほどほどなんかで済ます気はない。行くところまで今日は行ってやる所存だ。

「あ、綾峰? なんだかいつもより近いような気がするんだけど」

「そう? 私が近くにいたら荒神は嫌なんだ」

「そんなはずないだろう。ふふ、なんだったら膝の上でもいいくらいさ」

「そうなんだ。じゃあ失礼するね」

「え?」

 俺はよいしょっと荒神の膝の上にちょこんと座った。重くないかなと不安になるが、ここで引くわけにはいかない。

 亜衣と舞衣はさいとうたかおの劇画キャラのような顔をして俺たちの様子を見守っている。

「おおおぉ……いい匂いがする。ち、小っちゃい……」

 負けるな俺。ここで逃げ出したらいつものままだ。むしろ攻めるくらいがちょうどいい。攻撃は最大の防御だ。つむじあたりに鼻先をこすりつけられている感覚はあるが耐えろ。頬を擦りつけられるなんて日常茶飯事だろう。むしろチャンスだ、いまだいけ。

 俺はぐいぐいと体を荒神にこすりつけた。傍から見ると甘えているように見えるはずだ。さらにここで第二弾、発射だ。

「荒神。今日もお前昼飯パンなのか?」

「へ? あ、ああ。そうだけど」

 はっとしたように荒神は答える。なんで一瞬トリップしていたのか今は考えないでおこう。

「それじゃあ部活の後で食べてよ。今はこっち」

 俺は自分のリュックから弁当箱を二つ取り出した。一つはいつも使っている丸い弁当箱。もう一つはそれより少し大きな四角い弁当箱だ。

 今日俺が朝早くに起きて作った手製だ。流石にこんなふざけた意地を張るためだけにお袋に弁当をせがむのは心苦しかったので、荒神の弁当を作るついでに自分の弁当も用意したといった方が正しかった。

「ここ、これ私にか?」

「食べてくれるか?」

 荒神がふるふると弁当の蓋を開ける。味見はしたからおかずは荒神の舌にさえ合えば大丈夫なはずだ。問題は、形が崩れていないかなのだが。

「……」

 硬直する荒神の隙間からそっと覗く。うん、大丈夫だ。崩れてなかった。

 桜でんぶは好みが分かれるところではあるけれど、ご飯にハートと言えば古今東西これしか思いつかない。我ながら見事な黄金比率だと改めて自画自賛しておく。

 あれ、亜衣と舞衣がここにきて「あちゃー」と言わんばかりに天を仰ぎ、ひきつった笑みを浮かべているのはなぜだ。こういうことじゃないの? ねえ。

「あ、あ、あ、あ……」

 硬直と痙攣を繰り返す荒神。だ、大丈夫かこいつ。流石にやり過ぎたか。

 俺が心配になって荒神の顔を覗き込む。

「……これがあんたの答えな訳?」

 頬を紅潮させながら、低く答える荒神。いつもだったらここで引いている俺だが、今日は違う。

「ああ。嘘偽りない私の気持」

 言い終わる前に思いきり強く抱きしめられた。

「なにこの子超可愛いんですけど持って帰りたいんですけど!」

「ちょ、ちょ、ボスストップ! さすがにすとーっぷ!」

 亜衣と舞衣のドクターストップがかからなければどうなっていたことか。というか、初めにこの二人には絶対大丈夫って聞いていたのに全然大丈夫じゃなかったじゃないか。

 過呼吸を起こしかけている荒神に気づかれないように二人を睨んでやれば、某お菓子屋のマスコットの女の子みたいにペロッと舌を出してとぼけやがった。こいつら……。

 

 その後もちょくちょく荒神にいつもと違う姿勢で接した。

 さすがは荒神ということで、昼休みを境に俺がちょっとやそっとのスキンシップなら乗ってくると踏んだのか、だんだん要求が過激になってき、最後の休み時間が終わるころには危うく口づけをする寸前までいった。この時も亜衣と舞衣は大活躍だった。意地になった俺もおかしいが、荒神の様子もこの時どこかおかしかった。俺のように引くに引けなくなってというようにも感じたからだ。

 終礼が終わり、席を立ったところで荒神が俺の服の袖を素早く掴んだ。逃がさないつもりらしい。

「綾峰。ちょっと時間ちょうだい。あと亜衣と舞衣も」

 そろーっと足音を忍ばせて逃げようとしていた亜衣と舞衣は、観念したようにたははと笑った。まあ気づかれてないわけがないわな。

 

 

 以前餅田と話したベンチまで着くと、くるりと荒神は振り返った。ここはいつ来ても人気がない。何か霊的なものがあるのではないかと疑ってしまうほどの静けさだ。因みにここまでの道中で会話はなかったので、振り返った荒神につい身構えてしまった。

「なに警戒しているのよ。別に怒ってないわ。綾峰にはね」

 後ろに構えていた亜衣と舞衣が、「ねえあたしらヤバイってこと?」「ちょっとマズいかもしんないっすねー」と小声でささやき合っている。

「どうせ後ろの馬鹿二人に何か言われたんだろうけど、理由くらいは聞いてもいいわよね、綾峰」

 荒神は怒っていないとは言うが、その口調は真剣そのもので、怒られているように俺は感じた。

「ご、ごめん荒神」

「だから怒ってないって。……ふう、違うか。ちょっと怒ってるかも。でも綾峰に怒ってるんじゃなくて、三人で何か秘密を隠してることよ。原因は金曜のあれかしら」

 荒神はなんでもお見通しらしい。

 先に白旗を上げた俺は、後ろの亜衣と舞衣にどうするか目をやった。二人とも両手をひらひらと上げた。荒神にはやっぱ勝てねえよなあ。

「綾峰。金曜の件は本当にごめんなさい。あんなに嫌がるとは思わなかったのよ。いいわけだけど、あんたを傷つけたことは謝るわ」

「い、いや私の方もその、ごめん。今日もちょっとやり過ぎたって自覚はあったし」

「そのことは後ろの二人が関係しているから取り敢えずは不問にしておくわ。あなたたち、もう先に行っていいわよ」

 荒神は亜衣と舞衣に席を外すように言った。「勿論後できっちり話はするわよ」の一言で震えながら去っていった姿が印象的だった。

「大体予想はついているのよ。大方私の態度に問題があったっていう自覚はあったんだけど」

 ふうと何度目かの溜息を吐いた荒神は、そっと髪を耳に掛けた。その仕草がどきりとするほど大人びて見えた。

「まずあんたの話を聞かなくちゃ。平等じゃないもんね。ねえ、どうしてこんなことしたのか話してくれない?」

 普段のように苛烈極まる口調ではなく、優し気に荒神は言った。

 

 

「初めはね、ただ躍起になっていただけなのよ。あなた男から女になったでしょ? クラスの人間関係とかイジメが起きたらどうしようって、そういう心配からだったわ」

 俺が今日の行動の理由まで含めたすべてを話すと、荒神もまた俺に語り始めた。

「あなたのことは男の時から心配はしてたのよ。ごめんなさいね、上からみたいに聞こえて嫌かもしれないけど。でもほら、あの時からあなた友達って言ったら平等橋くらいだったでしょ? アイツがいない時は殆ど一人だったし、大丈夫なのかなってそういう気持ちはあったのよ」

 男子嫌いで有名な荒神だが、決して男子を無下に扱ったりすることはない。例外は平等橋だが、あれも今考えれば幼馴染からくる気安さのせいだろうということはよくわかる。そうでなければ荒神が男子の中で一番人気であるはずはない。

 男の時からなぜか俺は荒神に親切にしてもらっていたが、それは俺の顔のせいというよりも、クラスでただ一人浮いている生徒を気遣ってのものだったのだと知って恥ずかしくなった。知らずに俺の顔が女顔だからだろうと思って勘違いをしていた。

「そんなあなたが女になって、石田先生からも相談を受けたのよ。なんとかあなたをクラスでなじめるようにしてくれって。でも勘違いしないで。石田先生に頼まれたっていうのは確かだけど、私があなたと仲良くしようって思ったのは私自身の意志だったんだから」

 石田先生は俺がこの学校に残るといった時、真っ先に賛成してくれた先生だ。

 今でもホームルームの時や廊下ですれ違うと心配して声をかけてくれる。時たま「ますます儚げな雰囲気が!?」とよだれを拭う動作を隠さないが、俺がこの学校で信頼する先生の一人だ。

 自分の意志だとは言うが、荒神が女になって初めて声をかけてくれたのは、石田先生の相談があったからだろう、納得のいく思いがあった。

「あの時平等橋が逃げてたから変に焦っちゃってたのね。クラスの皆があなたのことを避けだしたりするのも嫌だったし、かといってあなたが前の男の時みたいに皆に一線引かれているような状況も嫌だった。だからちょっと過剰なくらいあなたに近づきすぎたっていうのは反省しているわ。その後も距離感を見誤って、変な方向に流れていったことも」

「なんでそんなに私にしてくれる気になったんだ? 委員長だからってそこまでする必要ないのに」

 義務感で荒神は俺に接してきてくれていた。

 その事実は泣きたくなるような落ち込むことだけど、荒神がここまでしてくれる理由が俺にはわからなかった。

「委員長だからしたわけじゃないわ。時々勘違いする人もいるんだけど、私ってそこまで良い人じゃないの。平気で人を傷つけたりするし、それに悪びれない所とかもあるしね。私があなたに近づいたのは」

 不自然に会話が止まった。

 顔を上げれば、荒神の頬がかなり赤くなっていた。こんな荒神を見るのは珍しい。というか、初めてだ。

 悪ふざけで顔を赤らめることはあっても、こんな心底言うのが恥ずかしいという表情をしたことはなかった。

 暫くして、意を決したように、荒神が口を開いた。

「あなたの顔が超可愛かったからよ!」

「……え?」

 荒神はとうとう言ってしまったと後悔するように空を仰ぎ見た。

 あー言ってしまった。吹き出しをつけるなら多分こんな感じだ。

 俺はそんな荒神を見て、不覚にも、本当に不覚にも。涙を流してしまった。

「罪悪感で胸がいっぱいだわ。ごめんなさい。泣くほど嫌だとは思わなくて……」

「ち、違う」

 歯を噛みしめ陰を落とす荒神に、違うと手で制す。本当に違うんだ。

 俺はほっとしたのだ。

 荒神が、荒神の行動原理で俺に近づいてきてくれていたと、馬鹿らしいことに荒神の答えを聞くことで。

 先生の言われたとか、委員長の責任だからだとか、クラスの和を乱したくなかったからだとか、そんな理由を聞いていたら俺はきっと二度と学校に行けなくなっていた。

「荒神はやっぱ荒神なんだな」

「なによそれ。褒めてんのか貶してんのか」

 俺が落ち着くのを待つと、荒神はゆっくりと口を開いた。

「昔ちょっといろいろあってね。男の子が苦手なのよ私。そんな中であんた男なのに女の子みたいに可愛い顔してたじゃない。あ、今は女なんだから傷つかないでよ? 私があんたに親切にしてたのはあんたが一人だったからってのもあったけど一番はあんたの顔が可愛かったから。女になった時仲良くしたいなって思ったのも、やっぱり顔なのよね。いろいろ立場とか先生に言われたこともあるんだけど、一番の行動理由はこれ。幻滅したわよね」

「全然しない」

「あんたやっぱりブレないのね」

 呆れたような、ほっとしたような、それとも泣き出しそうな。

 ぐにゃりと顔を歪めた荒神に、俺はこれだけは聞きたかった。こんなことを聞いたら、ひょっとしたら今後この関係を続けることはできないかもしれないけど。それでも。

「私たちって友達かな?」

「友達よ。疑わないで」

 即答だった。少し怒っている風にも聞こえた。

「きっかけは確かに不純だった。でもずっと一緒にいたのは何よりもあんたのことが好きになったから。友達として、ずっと一緒にいたいって思うようになったから。強情だし、たまにそっけないし、その癖かまってちゃんだし。照れ屋だし、泣き虫だし」

「も、もういいだろ!」

 自分がとんでもなく情けなくなってくるからやめてほしい。だがふっと荒神は目を細めた。

「そして凄く優しい。もともと嫌いなんかじゃなかったよ。男だったけど、それでもあんたは私にとって特別だった。残念ながら恋愛感情はこれっぽっちも抱いてなかったけどね。でもそんなあんたが私は凄く好きなの。あんたは、私のこと嫌い?」

「嫌いじゃない。嫌いなはずない」

「ありがとう」

「でも本当に不安になったんだ。荒神が私のことどう思っていたのか」

 俺は正直な胸の内を吐露した。

「ごめんなさい。不安になるわよね。私ってこんな性格だから、他にも周りの子たちにいろいろ言われたりするのよ。何考えてんのかわかりにくいってね。仲良くなった子だとなおさら」

 荒神は寂しそうに言った。

「私はもう荒神にそんなこと思いたくない。どうしたらいいかな」

「それを聞くのは難しいと思うわ。でも、そうね手始めに下の名前で呼んでみるとかどう? ファーストネームで呼び合うと結構親近感湧くものだって聞くし。亜依と舞依もそうじゃない」

「そんな単純なこと?」

「複雑に考えることじゃないって話よ」

 なんだよそれ。

 その後俺はまた泣いて、荒神に慰められた。部活の開始時間はとっくに過ぎているはずなのに、彼女はずっとそばにいてくれた。

 

 

 次の日、腫れた目は何とか元に戻ったものの荒神と顔を合わすのはなんとなく気まずかった。 

「あら、顔元に戻ってるじゃない」

 そんな日に限って荒神は早くに教室についていた。反射的に顔が赤くなった。

「顔? 何の話だ」

 平等橋が俺と荒神を交互に見て首をかしげる。お前は少し黙っとけ。

「あんたに話すことなんか一ミリだってないのよ。この」

「やめろ。お前また規制に引っかかりそうな卑猥な単語を叫ぶつもりだろ!」

 平等橋と荒神がいつものようにやりあう。

 荒神は「あんたと話していても何一つ生産性はないわね」と強引に打ち切ると、俺に視線をやった。

「そんなことよりさっさとこっちへ来て私の話し相手をしてよ『公麿』?」

「……わかった『裕子』」

 これは二人で決めたルールだ。

 何とも形式ばっているし、本質的には全く意味をなさない行為なのかもしれない。でもこれでいい。俺たちはこれでいい。

「それよりも今日は私にお弁当はないわけ?」

「あ、あれは裕子をぎゃふんと言わせたかったってだけで!」

「キスは?」

「お前やっぱりあの時ふざけてたろ!」

 けらけらと笑う俺と荒神。

「何、お前ら下の名前で呼び合う仲になったわけ?」

 そんな中、平等橋が何かに焦ったように呟いていたのを俺は知らなかった。

 



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なんも問題ナッシング!

 七月になった。

 水泳の授業の開始や、クラスにエアコンが稼働を始めるなど、学校全体としてもいろいろと変化があった六月を終え、期末試験を控えた七月がやって来た。

「あー、テストが憂鬱だよぉ」

 亜衣が俺にしだれかかって「うあぁ」と嘆く。エアコンを付けているとはいえ、この季節に密着されるとさすがに暑い。離れろ。

「亜衣はテスト苦手なんだ」

「普通得意な人なんていないって~」

 そういうもんなのか。俺は亜衣の言葉を聞いて内心驚いていた。

 昔から友達がいなかったから、授業中は黙って真面目に聞くし、途中でわかんなくなるのも嫌だから毎日家で復習をしていた。テストでいい点数を取ると兄貴がアイスとか奢ってくれるからますます勉強するモチベーションとか上がったりして、俺は勉強やテストを苦だとは思ったことはなかった。

「その余裕顔なんか腹立つ~」

「余裕ってわけじゃないけど」

 いじけた亜衣をなだめていると、購買に行っていた裕子と舞衣が帰って来た。両手にどっさりとパンを抱えた裕子。どれだけ食べるつもりなんだこいつ。

「やあやあ待たせたね、紳士淑女諸君」

「この場に紳士はいないよ舞衣」

「丁寧に突っ込みを入れてくれるあなたが好きよんマロちん」

 裕子は俺の隣に。亜衣と舞衣はその対面に俺の席の机を挟んで座った。いつもの定位置だ。

「それで、亜衣はどうしてこんなゲル状になっているのかしら」

「期末が近いから」

 裕子が鬱陶しそうに亜衣を指さすので、仕方なく俺が答えた。亜衣はさっきからひたすら沈黙を続けている。本当にどれだけテストが嫌なんだろう。

「亜衣は昔からテストが苦手だよね」

「舞衣も人のこと言えないじゃんか~」

 舞衣が買ってきた焼きそばパンのラップを外しながら、からかうように言うと亜衣は顔を突っ伏したまま食いついた。俺は二人の成績は良く知らないが、話しぶりからすると二人ともそこまで高い点数を取っているわけではないみたいだ。

「姉御~。今回もお助けくだせえ」

「あたしもどうか、どうかご慈悲を!」

 亜衣と舞衣は、パクパクと次々にパンを胃に納めていく裕子に懇願をした。

 裕子の成績がいいことは俺も知っている。大概の科目でクラスの最高点を取っているのが裕子だからだ。

 裕子は露骨にめんどくさそうな顔を作った。これは毎度毎度テストの度にやられているんだろうなあと容易に想像がつく。ご愁傷様ですと心の中で合掌を送っていると、裕子と目があった。あ、なんか巻き込まれるやつだこれ。

「仕方ないわね。じゃあ今日公麿の家で勉強会と行きましょうか」

 なんだって?

「おい。家無理だって。お袋とか妹とかいるし」

「ちょうどいいわ。お母様にご挨拶しなくちゃ」

「何を挨拶することがあるんだよ!」

 俺と裕子がやりあっているよそで、亜衣と舞衣は「マロちんの家だって」「テンション上がりますなー」と手を叩き合っている。話を進めるな。

「まあ確かに勝手に押しかけるのも失礼よね」

「そりゃそうだ」

「だから今確認を取りなさい」

「……今?」

「今よ今。ハリアーップ!」

 せっせとスマホをせかされる俺。ダメだって。許可なんて取ったらお袋がなんていうかわかりきっている。

『お友達は三人ですか? お待ちしておりますね』

 ほらこういう返信が来るに決まってんだよ。

 お袋は俺が『今日仲いい友達連れて家で勉強会とかしたいんだけど無理だよね?』と送ると、速攻で既読が付いて返事が来た。早すぎる。

「決まりね」

 裕子は眼鏡を光らせてにやりと決定した。

 

 

「おー、マロちんって実は結構金持ち?」

「この家超高そう。家賃いくらだろ」

「あなたたち不躾に周りの住居を眺めるのはやめなさい。程度が知れるわよ」

 はーいと、まるで裕子は引率の先生のようだ。俺はげんなりしながら三人を先導する。

 テストが近いこともあり、今は部活動休止期間だ。幽霊部員である俺は勿論、熱心に部活に励む三人もこの期間だけは一緒に帰れるってわけだ。

 実はこの三人と一緒に何かをするのは嫌じゃない。むしろ楽しみなくらいだ。

 勉強会なんて生まれてこの方したことなかったし、心躍るイベントだ。男の時平等橋と確かに仲は良かったけど、一緒に勉強するほどじゃなかった。あいつはあいつでそういう友達がいっぱいいたからだ。

 ではどうして俺がこんなダウナーな気配を纏わしているかというと、それは単に気恥ずかしいからに他ならない。

 お袋や妹は絶対にテンションを上げる。

 何せいままで友達を家に招いたことがなかった俺だ。「生まれて初めてお兄ちゃんに友達が!?」と、女になって初めて裕子に話しかけてもらったことをゆかりに話したとき、そうやって涙を流されたほどだ。 

 家族の反応が恥ずかしい。故に家にはあまり招きたくないんだけど。

「おっほー、この家超ひまわり植えてるよ! あ、家の人と目が合った! こんちにわー!」

「亜衣さんちょ~っとテンション高すぎませんか? お、この家痛車持ってる。うわマジか! その塗装で街中走るわけ!?」

「あなたたちうるさいわよ。あ、待ちなさい公麿。そんなに距離を空けないで。偶々同じ制服着てるだけの他人を装わないで」

 うるさい。こいつら超うるさい。裕子は百歩譲ってまだましだとしても、亜衣と舞衣が凄くうるさい。

 この辺りは町内会の同じ工区にはいっているので、ひと月に一度の朝の清掃活動で結構顔を合わす人が多いのだ。俺も兄貴に付いて行ってしょっちゅう掃除に参加しているから、俺の顔を覚えている人は多いはず。次から掃除に参加しにくくなるじゃないか。

「着いたよ。ここなんだ……え?」

 俺はようやく着いたと皆に我が家に招こうとして固まった。ここ俺んちであってるよな。

「うわ。マロちんち凄いね」

「ほんとほんと。これ手入れ超大変だよ」

「見事なものね」

 三者三様に賛辞の言葉が飛び交う。いやいやいや。どうなってんだよこれ。

 雑草まみれだった我が家の玄関が、きちんと整備され、今朝まで存在していなかったフラワーポッドやらなんやらがいたるところに設置されており、花がいっぱいの不思議の国のようなありさまとなっていた。思わず表札を見たがやはりここは俺の家で間違いないらしい。

「まあまあまあ。公麿さんおかえりなさい。お友達も、どうぞ中にお入りになって?」

 玄関でわいわい騒いでいたからだろう。内側からお袋がエプロンを付けたまま出てきた。げ、外に行くわけでもないのになんで化粧なんてしてんだよ。昨日とか普段してないだろ。

「うおおお。マロちんのお母さん超美人じゃん!」

「パイオ、げふんげふん! 胸超でけー」

「亜衣、舞衣失礼よ。特に舞衣、言い直してなお失礼よ」

 小声でこそこそ話すのはやめろ三人。

 お袋はにっこりと笑いながら俺をちょいちょいと手招きした。

「先に入って着替えてきていらっしゃい」

「え、でも皆いるし」

「いいから。着替えてきていらっしゃい。お友達は私がご案内します」

 有無を言わせぬ迫力。従う以外に選択肢はない。

「ああ、少し遅くても大丈夫ですよ」

 玄関でお袋はそう付け足した。

 速攻で着替えなければ。

 俺は早足で部屋へ駆け上がった。

 

 

「――それでこれが小学校の時になるんですが」

「おー、マロちんってばこの時から美少女全開だねー」

「お母様。これあとでネガか何か残っていないかしら?」

「ボスボス? それは真剣にやばいからやめときな?」

 すぐに着替えてやってきたというのに、リビングではお袋がアルバムを広げて三人に昔の俺の写真を見せていた。何やってんだよ。

「お袋、勉強の邪魔だからどいてくれよ」

「そんなけちけちしなくてもいいじゃん。ほら、このマロちん可愛いよ?」

「やめろその写真の私全裸じゃないか」

 二歳の時お風呂場で撮られた写真を見せるのはやめろ舞依。

「ほら、部屋空いたから私の部屋で勉強しよう」

「いけませんよ公麿さん」

 ここにいてはお袋、さらに言えばもうすぐ帰ってくるゆかりに何を話されるかわからない。そう思ってさっさと二階へ避難しようと思っていたのにお袋に止められてしまった。構ってられるか。

「晩御飯にニンジンをたくさん入れますよ?」

「リビングで勉強しよう」

 カロチンとか嫌いだ。あの甘いような青臭いような最悪の根菜を食べるくらいなら、散々弄り回される方がまだましというものだ。

 後ろで三人が、「マロちんニンジン嫌いなんだねー」「食べに行ったときは気を付けなきゃねー」「ニンジン嫌い、う、か、可愛い」裕子のそれはもうただの病気だ。

「それでこれが中学の時の公麿さんの写真になるのですが」

「お袋はもうあっちいっててくれよ!」

 予想通り、勉強は全くはかどらなかった。

 

 

 夕方、三人を駅まで見送った後俺はお袋をじめっとした目で睨みつけた。

「なんですかその目は」

「言わなくちゃわかんないかな?」

「そんなに怒らないでください。お母さんも嬉しかっただけなんですから」

「家の前のガーデニングは?」

「あれはちょっとした見栄です」

 見栄であそこまでするか?

 夕飯を手伝いながら、俺はお袋にぼつぼつと今日の不満をぶつけた。

 ついでにもう一人も。

「ゆかり。お前も同罪だからな」

「てへへへ。まいったなぁ」

 こいつめと妹の頭を小突く。

 勉強会はそれはもう酷いもんだった。

 試験勉強をするために集まったというのに、お袋はやれお菓子だケーキだお茶だと邪魔をしてきて、ついでに三人に余計なことを吹き込んで帰っていく、また来るを何度も繰り返した。ゆかりはお袋から連絡を受けていたようで、普段よりずっと早く帰宅した。

 帰って来たゆかりは図々しくも俺たちの隙間に入り込み、自分も一緒に勉強をすると言ってきかなかった。

 亜衣や舞衣は勿論、こんな面白そうなことはないとばかりに歓迎したが、裕子はその中でも更に上をいく熱烈な歓迎を行った。ゆかりが裕子のことを「お姉さま」とか言い出したあたりで俺は全力でゆかりを裕子から隔離した。なんて悪影響を与えるんだこいつは。中二病だけでも十分厄介だというのに。

 亜衣と舞衣は勉強が苦手ということもあって、集中力が切れるとお袋や妹に流されて勉強の手を止めるというのは仕方がないかなと思える部分もあった。

 でも裕子は明らかにこうなることを予見して俺の家にやってきたように見えて仕方がなかった。

 俺はこうやって大人数で勉強会を開くといということを経験したことがなかったので、ここまで勉強にならないものだとは知らなかった。

 だが優等生な裕子のことだ。友達の家で勉強なんてよほど時間をきっちり決めて鋼のような決意をもって取り組まねば速攻で遊びに転じてしまうことくらい知っていたように思う。なのにこいつはお茶を持ってくるお袋には率先して自分から話しかけに行くし、ゆかりが来ると自分の膝に抱えこもうとした。

 こいつは今日の勉強会が俺の家に決まった瞬間から、目的を勉強から遊びにシフトさせていたのではないかと思えた。

 結局消化したかった課題の半分も終わらなかった。これはご飯を食べたら部屋にこもって勉強だ。

「いいお友達でしたね」

 味噌汁を人数分分けるお袋が、今日のことを振り返るようにそういった。

「うんうん。特に裕子さんがすっごい美人だった! 亜衣さんはおっぱいすっごいおっきかったし、舞衣さんは時々怪しい目で私のこと見てたけど髪の毛とか綺麗で可愛かった! お姉ちゃんの友達全員レベル高くない!?」

 お袋に便乗するように、ゆかりも食いついた。

「うん、まあ、そうなんだけどさあ」

 それでも家の人間があそこまではしゃぐのを見せられると、本人としては複雑な気分だ。

「お袋もゆかりもお前を心配してたんだよ。それが分からないってこともないだろ」

 後ろから兄貴が俺の頭を掴んでわしわしと粗っぽく撫でた。兄貴も勉強会が行われている最中に帰って来たけど、一言皆に挨拶して自分はさっさと部屋に引っ込んだ。こういう反応を俺は家族の全員にしてほしかったのだが。

 兄貴のいうことは勿論よくわかる。

 もともと友達が少なくて、家に連れてきたことは一度もなかった。そんな俺が女になって、学校生活を本当に楽しめているのか心配になったのだろう。俺の口からは友達ができたといっても、実際にその目で見るとまた違うのだろうな。

 そういう気持ちが分かってしまうから、俺はお袋やゆかりを強く言えない。だからただ恥ずかしい。

「お母さんは安心しましたよ。公麿さんが楽しそうにしている所が見られて。あの三人がお友達であるというのならお母さんは安心です」

 これ以上言われるのはなんか照れるし恥ずかしい。

 俺は「うん」とか「あー」とか、曖昧にお袋の返事をぼかした。話題を変えようときょろきょろ視線を動かしていると、親父の姿がどこにも見えないことに気が付いた。いつもならこの時間は家にいるはずだ。

「お袋、親父は?」

「まだ寝ていると思います。起こしてきてください」

「寝てる? なんでまた」

「昼間お庭で随分働いてくれましたから」

 あの庭は親父の作戦だったのか。

 俺は呆れながら親父を起こしに行った。

 飯食って風呂入って、そんで軽くリビングで家族と過ごした後、俺は自分の部屋で今日の分の勉強に手を付けていた。今後は裕子たちに誘われても絶対勉強会にはいかないぞ。

 

 テンポよく数学の問題集を解いていると、スマホがぶるぶる震えた。着信だ。

 特に確認せず電話を取る。俺に電話をする奴なんて裕子か平等橋を除いたら家族くらいだからだ。

『ようタコスケ! この前はよくも勝手に切りやがっ――』

 間違い電話みたいだ。

 俺は素早く通話を切ると、サイレントマナーモードにする。これで一安心。

 数学の問題集に戻ろう。

 ……めっちゃ掛け直してくるなあいつ。ちかちかライトが点灯して凄く気になる。

 スマホをひっくり返して完全無視の体制を取る。これで安心だよな?

「公麿さん? 創大さんからお電話が来ているのですが……」

 くっそおおお。あいつどこまで粘着質なんだよ。お袋を使ってくるのは卑怯だ。

 嫌々受話器を受け取るとまた罵声が飛んできた。こいつ俺がこれを言われるのが嫌だから毎回切っているって学習しないのか。

『おめえには学習能力がねえのか!? 毎回毎回バカの一つ覚えみたいにブチギリしやがってはあああん?』

「うるさいぞ創大。今私は試験勉強で忙しいだ。切るぞ」

『待て待て。お前今「私」って言ったか? 言ったよな? ぎゃはははは! 女になったってマジなん――』

 切った。不愉快だ。

 受話器をお袋に返すと、さすがにちょっとお袋も眉を落としていた。

「二人を見ていると、お母さんはもどかしい気にさせられます」

「あいつがまともな日本語話せるようになったら相手してやるって、今度電話がかかってきたら俺に渡す前にあいつに言っといてよ」

 あんな馬鹿従兄に煩わされている時間はない。とにかく勉強だ。

 お袋が部屋から出ていき、また黙々と問題を解いていると、また着信がかかってきた。しつこい。

「お前今日はさすがにしつこいぞ!」

『え、わりい。時間マズかったか?』

 平等橋だった。やべえミスった。てっきりまたあいつかと思ったから。

 脇汗がすげえ出てきた。

「ちちち違う! なんも問題ナッシング! あ、あは、あはははは」

『ほんとに大丈夫か?』 

 平等橋の訝しむ声が胸に刺さる。

「それよりどうしたんだ? こんな時間に」

『ああ、それなんだけどさ。お前明日とか明後日って放課後用事あるか?』

「放課後? ねえよ、なんも」

 ひょっとしたら裕子がまた亜依の家とかで勉強会をしようとかいうかもしれないが、はっきり断ってやる。断れるかな。多分無理かもしれないなあ……

『じゃあ明日一緒に帰ろうぜ。ついでに俺んち寄ってかないか?』

「お前んち? 別にいいけど」

『おっけ。じゃあまた明日な』

 それだけ言うと平等橋との通話は終わった。なんだったんだ。

 まあいいや。久しぶりに愛華さんに会いたいってのもある。

 俺はすぐに勉強に意識を戻した。

 平等橋に家に誘われたこと。

 これをもっと深く考えなければいけないことだったと、俺は翌日深く後悔することになるのだが、この時の俺はそんな事よりも目の前の問題集を解くことで頭がいっぱいだったのだった。

 

 



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なにやってんだ私

 終礼の後、やはりというか予想通りというか、三人から勉強会のお誘いが来た。

 今日の場所は亜衣の家だ。亜衣は一人暮らしをしているので、こういう時溜まり場にされやすいらしい。

 行きたい気持ちはあったが、今日は平等橋に誘われているから無理だ。そう伝えると裕子の目がすっと細くなった。怖かった。怖かったから裕子が何か言う前に逃げてきた。この時の決断の速さを俺は自分で褒めてやりたいくらいだ。

 下足の出口で平等橋は先に待っていた。教室だといろいろと面倒だからだ。主にあの三人絡みで。

 裕子は昔から知ってるってのもあってまた違う意見を持っていそうだけど、亜衣も舞衣も平等橋のことはあんまりよく思っていないらしい。

 理由は俺が女になった当初にあいつが俺のことを露骨に避けまくっていたことが原因だそうだ。

 あの時はまだ亜衣や舞衣とも今ほどは親しくなかったが、それでも思う所はあったらしい。その点に関して俺はなんとも言えない。個人的には解決した問題だと思っているのだが、人が見たらどういうかちょっとはわかるつもりだからだ。

 片手をあげて近づくと、平等橋はすぐに気が付いたようだった。

「もっと揉めるかと思ってたぜ」

「だと思ったから先に抜け出してきたんだよ」

 俺は平等橋の背中を叩いて「行こうぜ」と歩き出した。叩いた手の方がちょっと痛い。改めて俺女になったんだなーと認識するのは、実はこういう些細なことからだったりする。

 

 

 平等橋のアパートに足を運ぶのも慣れたものだ。

 平等橋個人に会いに行くために訪れたのは最初の時だけで、今回で二回目となる。

 それ以外では愛華さんに料理を教わりにちょくちょく休みの日に遊びに行っているので、久しぶりという感覚は薄い。大体午前中にお邪魔していたので、クラブに行っている平等橋とバッティングすることはなかった。というより愛華さんがバッティングすることを嫌がって午前中を指定することが多かったってのもあるんだけどさ。

 お袋が帰国して料理をそっちに教わるようになったので、足は遠のいたが、久しぶりに愛華さんに会いたいと思っていたので今日の平等橋家訪問は普通に楽しみでもあった。

 平等橋はポケットから鍵を取り出して、扉を開いた。

 あれ、ひょっとして愛華さん外出中なのかな。基本的に愛華さんが家にいる時は鍵はかかっていない。

 部屋の中に入っても愛華さんがいる気配はなかった。部屋の中をきょろきょろと不躾に見る俺に平等橋は「何か気になるもんでもあるのか?」と尋ねる。

「愛華さん外出中なんだって思って」

「あー? 姉貴なら今日出張で他県に行ってるから帰り遅いぞ」

 なんか姉貴に用事でもあったか? と聞く平等橋。ないこともないんだけど、いないのか。そうか。会いたかったんだどなー。

 愛華さんはゆるふわっとした面と、ピリッときついヤンキーみたいな面の二つを持っている特殊な人だ。人間的にも凄く尊敬できる人だし、いないとなると肩透かしを食らった気分になるというか。

「お前姉貴に会いに来たのがメインとかいうなよ?」

「えー、半分以上愛華さんに会いに来たんだけど」

 勿論目的は平等橋の話を聞くためだ。でもこれくらいの冗談はいいだろう。

「取り敢えず俺の部屋行こうぜ」

 俺の荷物をもって平等橋はすたすた入っていった。意外に紳士なところもあるじゃないか。

 以前愛華さんに蹴り壊されたドアは部屋の内側に立てかけてあった。異様なオブジェとなっていて一瞬ビビる。

 平等橋の部屋はいかにもサッカー少年って感じの部屋で、有名海外選手のポスターや、中学の時の賞状なんかが飾ってある。俺が憧れるTHE男の子って部屋だ。

「適当にかけてくれ」

 そうは言うが、平等橋の部屋には小型の机もなければ、ラグもない。座る所と言えばフローリングに直かベッドくらいだ。机の椅子はもう平等橋が座ってるし。

 尻が冷えるのも嫌なので、俺はベッドに腰かけた。人のベッドって変に緊張するんだよな。

「話って?」

 俺が聞くと、平等橋は「あー、うん。それな」と頭をかいた。言いにくい事なのだろうか。

「実はさ、姉貴からもちょっと聞いたことあるかもしんないんだけど、俺って女子が苦手って言うか、まあトラウマみたいなのがあるんだよね」

 たっぷり2分ほど考えて、平等橋が語り出したのはそんな事だった。

 待たされた俺は、本棚に収納されている本で俺の知ってるやつ何かあるかなーとか思って平等橋から意識を外していたので一瞬反応が遅れた。

「え、あ、ああ」

 平等橋の話を脳みその中で反復する。あの話か。

 何度か愛華さんと会っていると、彼女は時たま「正義は女性不信なとこあるんだよね」ということがあった。詳しい理由とか、そこに至った背景とかは教えてはくれなかったけど、平等橋の複雑な家庭に関係しているんだろうなということは雰囲気から伝わって来た。

 

 

「だからさ、お前が女になったって時にパニックになっちゃって。あの時は本当にごめん公麿」

「何度も聞いたよ。もういいって」

 あまり立ち入ったことは聞けないが、こいつはこいつなりに苦しんでいたのはわかる。もうそのことは水に流しているし、いまさらごちゃごちゃ言うのも違うだろう。

「お前がそういってくれて嬉しいよ」

「当たり前じゃん。私ら伊達や酔狂で友達やってるわけじゃないんだから」

 覚えたての言葉を使いたかっただけだ。なんかかっこよさそうだと思ったから国語辞典でこの言葉を知ってからいつか使おうと思っていた。今使えて満足。

 平等橋はそこでえらい真剣な顔になった。マズいこといったか?

「友達、か」

「違うとか言うなよ?」

「言わねえよ。言わねえけどさ」

 平等橋は何か考えるように視線を落とした。右こぶしを左手が包むようにぐっと握りしめ、迷っているようにも見える。

「なあ公麿」

「なんだよ」

「セックスしないか?」

 

 たっぷり10秒。俺は平等橋を見つめた。ふざけている様子は一切ない。

「……何、言ってんだ?」

 じわじわと足の先から全身にかけて熱が広がっていく。こいつ今なんて言いやがった?

「しないかって、そういったつもりなんだけど」

「聞き違いじゃないのか」

「ああ。真剣に言ってる」

「っ!?」

 平等橋が立ち上がった。反射的に身構えた。

 俺の反応にショックを受けたように、平等橋は動きを止めた。どうしてお前が傷つく。

「違う公麿。何もしないって」

「う、嘘つけ! だったらさっきの言葉はなんだよ!」

「あれは、あー、くそ。短絡的に言い過ぎたか」

 平等橋はガシガシ頭を掻いた。

「お前のことが男なのか女なのか、それが俺にはまだよくわかってないんだ」

 平等橋は自分の気持ちを打ち明けてくれるようだった。

「前にお前に泣かれて、ついでに餅田にお前が告られた時とかもだけど、俺にとってお前がどういう存在なのか考えたんだ。友達だと思ってる。でもお前女になっちまっただろ、昔みたいに気安くすんのも違うかなってな。でもそうしたらお前距離ができたみたいな感じでまた悩むだろ? だからできるだけ昔みたいに接してたんだけどさ。俺もごちゃごちゃ考えるのめんどくさかったし」

 平等橋が俺に対してボディタッチが増えたのはそういう理由からだったのか。こいつは俺以上に俺との関係を考えていてくれたのかもしれない。

「で、そうこうしてたら最近はお前俺より裕子たちとの方が仲いいだろ? 俺はなんなんだって思うようになったんだよ」

「いや、それはその、ごめん」

「謝んなって。つーか普通にキモいからな俺が。でも変に誤魔化してまた誤解が生まれるのが嫌だから正直に話してるだけなんだから」

 平等橋は気にしないでくれという風に言った。

「やっぱ男と女じゃ違うんだよなって思ったんだよ。お前のこと男として見たらいいのか、女として見たらいいのか俺にはよくわからなくなった。だからもういっそヤってみたらすっきりするんじゃねえかなって思ったんだよ」

「……ちょっと意味が分からない」

 なんでそこに繋がるんだよ。

「俺がお前のこと男だと思ってたら抱けないし、女だと思ってたら抱ける。そしたら俺は自分の本能に従って今後の態度を決めれるって――」

「お前バカだろ! 結局ヤりたいってだけじゃねえのかよそれ!」

「はあ? 全然違えよ。何を聞いたらそうなんだよ」

「今の中身聞いたらそう考えるだろ!」

 平等橋の言葉を途中で切って俺はキレた。なんだこいつ。

 くっちゃべって意味不明なこと言ってるけど本音は女を抱きたいってただ言ってるだけじゃないか。何が女性不信だ。盛りまくっているじゃないか。

 俺が熱くなるものだから、平等橋も熱くなって言い返す。しまいには喧嘩みたいになっていった。

「お前そうやって意固地になって人の話聞かない所よくないと思うぜ!」

「ただただ頭の中桃色の奴に言われたかねえよ!」

 フーフーと鼻息荒く俺は返す。なんでここまで腹立ってるのかわからない。

「素直に言えよ。女になったから抱いてみたいって! お前も男だもんな、思わないなんてことないはずだ! 今まで我慢してきたけど最近お前触り方なんかやらしかったもんな!」

「はああ? 意味わかんねえよ! どうしてそんな話になるんだよ」

「お前が最初に振って来たんだろうが!」

 いらいらする。

 平等橋が素直に認めないことが? 違う。

 俺を女として見ていることが? 違う。

 じゃあなんで腹が立ってんだ。

 自分の気持ちに整理がつかない。冷静じゃないということだけはわかるが、熱をもった頭では素直に聞き入れそうにない。

 帰ってやる。

 そう思って立ち上がった俺は、どういうわけか足がうまく動かず、そのままつんのめって倒れそうになった。そうならなかったのは平等橋がとっさに支えてくれたからだ。

「さ、触るな!」

 だが俺はその手を弾いた。

 平等橋ははっきりと傷ついた顔をした。

 たまらなくなって、俺は自分の荷物を掴むと部屋を飛び出した。

 逃げるように階段を下り、必死で走った。

 息が切れて恐る恐る後ろを振り返る。平等橋は追いかけてきていなかった。

 ほっとした気持ちと同時に悲しさが心を満たした。

「……なにやってんだ私」

 いつか平等橋が俺にしたこと。そっくりそのまま俺がしているじゃないか。

 

 

 そのまま家に帰る気になれなくて、俺はあるコンビニまで足を運んでいた。

「いらっしゃいませー……って公麿か?」

 兄貴が働くコンビニだ。

 店内には客が俺しかいないので、兄貴は小声で俺の名前を呼んだ。

「兄貴。バイト、何時に終わる?」

「もうすぐだ。なんか奢ってやるから外で待ってろ」

 兄貴はこういう時察しがいいから助かる。俺はピーチティーを兄貴に奢ってもらい、外の駐車場で兄貴が出てくるのを待った。

 小一時間もしないうちに私服に着替えた兄貴がやってくると、「飯でも食うか」とファミレスまで俺を連れてった。

 久しぶりに入ったファミリーレストラン。兄貴は好きなもの食べろよとメニューを見せてくれたので、俺は和風ハンバーグセットを注文。兄貴はなんかデカい肉の塊みたいなやつ頼んでいた。因みにお袋には今日の晩飯はいらないことを事前に伝えてある。

「なんかあったか?」

 料理が届き、二人して黙々と食べている最中にようやくといった風に兄貴は口を開いた。

「うん。ちょっと相談」

 俺は兄貴に相談することはあまりない。

 理由の殆どはどうしようもない単なる意地だ。

 兄貴は俺の持っていない多くを持っていて、俺は兄貴に常に劣等感を抱いていた。勉強も兄貴の方が全然できるし、スポーツや料理もそうだ。でも本当にどうしようもなくなったとき、俺はこうして兄貴に相談をしていた。兄貴はへそ曲がりな俺のことを不満も言わずただ付き合ってくれる。そんな器の大きさの違いにまた劣等感を抱きかけるのだが、それこそ意味が分からないって話だ。要は俺は我儘なのだろう。

 俺は今日の平等橋の話をした。それだけではわからないだろうから、女になってから態度が変わった平等橋の話を含め、かなり細部に至って話した。

 俺の話を聞き終えた兄貴は、一言「成程な」といった。今の話で分かったのだろうか。

「女になってからしばらく元気がないように見えたが、そういうことがあったのか」

「うん、心配かけてごめん」

「そういう話に持っていきたかったわけじゃない。気にするな」

 こういう時、やっぱり兄貴はずるいと思う。余裕を見せつけてくる。そんなつもり本人にはきっと全くないとは知ってるんだけど。

「平等橋くんだったか、そいつがどうしてそんなこと言い出したか少しわかる気もする」

「兄貴もあいつの肩もつんだ?」

「俺の時も逃げるか? 鞄もってこのファミレスから」

「意地悪言うのやめてよ」

 いじけると、兄貴は大して悪びれていない様子で「悪い悪い」といった。絶対思ってない。

「公麿を責めるわけじゃないが、お前が彼に求めていることって矛盾してんだよ」

「矛盾?」

 兄貴は頷いた。俺はそれが何なのかわからないので、黙って兄貴の話に耳を傾けた。

「お前は彼に男の時と同じような友人関係を求めている一方、女である自分を受け入れろと言っている。これはひどい矛盾だぞ」

「なんでだよ。別に変なこと言ってねえじゃん」

「これは俺の考えだから人によっては違うっていうかもしれない。その前提で話を進めるぞ」

「いいよ」

 兄貴は水を一口含む。

「男と女で友情は成立しない、と俺は考えている。性別の壁っていうのは人によってはとてつもなく大きなもんだ。よく男女の友情なんていうがあんなもんまやかしだ。行為に及べば精神的な面で変化は必ず起きるし、それがグループ単位にしろ個人単位にしろ、永遠に続く友情を男女間で保つのは無理だ。性が意識されないくらい小さかったり、逆に老人であれば話は別だが、お前らみたいな思春期真っ盛りで男女の友情なんて成り立つはずがないだろう。これが前提だ」

「あ、兄貴?」

「なんだ公麿」

「あ、いや別に」

 饒舌な兄貴なんてほとんど見たことない。本物かどうか一瞬疑ってしまった。

「男は男同士で、女は女どうしで固有の友情を作るだろ。それをなりは女だが男との友情を築こうって方が無理だ。向こうは男として接すればいいのか女として接すればいいのかわからないんだからな」

「平等橋と同じ事言うなよ」

「お前は少し欲張りなんだよ。どちらかしか手に入らないのにどっちも手に入れようとしている。お前はどうしたいんだ?」

「どうしたいって、そんなのわかんないよ」

「ならもうちょっと考えてみてもいいかもな。あんま思いつめんなよ公麿」

 兄貴はそれきり答えず食事へと戻った。優しいが甘やかしてはくれない。

 俺が平等橋に求めるもの。

 一つは簡単だ。男の時みたいな友人関係。これを継続すること。

 もう一つはきっと、俺が女であることを受け入れること。

 俺ははじめこの二つは両立できるものだと思っていた。

 男の時と同じような友人関係を保ちつつ、俺が女であることを受け入れること。

 なるほど、確かに矛盾だ。

 言葉を並べてみてわかった。

 男の時と同じような友人関係。それはしかし俺が男だったからなりたっていたものだった。それを女の時と適応させてできるはずがない。それが証拠に、平等橋は朝のあいさつで俺の尻を触らなくなったじゃないか。小さなことか大きなことかはわからないが、女になっただけで変わってしまうものがあるのなら、同じような友人関係を続けるなんてそもそも無理な話だ。

 どうして気が付かなかったんだろう。

 俺は平等橋にずっと無理を強いていたのだろうか。

「兄貴、俺どうすればいいかな。ずっとこんなことで頭を悩ましてる気がするんだ。女になってからずっとだよ」

「人は大なり小なりみんな人間関係に苦しむもの、だと思う。お前の事情は確かに他とは違うかもしれないが、それでも悩むことは普通のことだ。皆そうだ。俺だってそうだ」

「兄貴も人間関係に悩むこととかあるの?」

 兄貴が何かに頭を悩ましているところなんて想像もつかない。

「そりゃな。俺をなんだと思ってんだよ。大学じゃ高校の時みたいにクラスがあるわけじゃなからその分少ないが、今でも大なり小なり抱えてるよ」

「俺だけじゃないんだ」

「お前は今まで人とあまり関わってこなかったからな。慣れてないんだよこういうことに」

 慣れていない。そう兄貴言うけれど、本当にこれは慣れるものなのだろうか。

「解決できる問題なのかな」

「さあな。それはお前が決めることだ。まあでも今は何も考えずにいっぱい食え。ついでにデザートとか頼んでも今日は許してやる」

「……うん、じゃあゆずシャーベット」

「はいはい」

 結局答えらしき答えは見つからなかった。

 俺が平等橋に求めているものは二つあるけど、どちらがより大きいのかなんて俺にはわからない。

 でも取り敢えず明日また平等橋に謝ろうと思う。それから考えてもいいだろう。

 

 



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聞いてない!

 期末試験が終わった。

 それすなわちここから数日の後は夏休みを迎えることを意味する。

 クラス中がテストが終わった充足感と、夏休みに向けての期待感に胸を膨らます中。俺はただ一人沈痛な面持ちで頭を抱えていた。

「マロちんかーえろ。おろ? 何なんか考えてんの?」

 舞衣がぽんと俺の肩に手を置く。反応がない俺の顔をのぞき込む舞衣。相手をする余裕は俺にはなかった。

「ボス―。マロちんがまたなんかフリーズしてんだけど?」

「ほっときなさい」

 帰り支度をする裕子に舞衣が声をかけるが、裕子の反応は実にそっけないものだった。

 それもそのはず。俺は既に俺が抱えている問題についてテストが始まる前から相談をしていたからだ。

 相談の内容は平等橋のこと。

 俺はいつぞやのあの日以降平等橋とすごく気まずくなっていた。

 兄貴の話や自分の気持ちを整理することで、平等橋も色々考えているし、俺も自分勝手が過ぎたのかなと思う気持ちは勿論あった。

 でも冷静に考えてみても、だからってあの結論に至るのはおかしいだろと思う。あいつやっぱり見た目通りのチャラ男なんじゃないかと疑いたくもなる。

 せめてもの救いは、平等橋も自分の発言があまりにアレだったという自覚はあったらしいということだ。

 向こうも気まずそうにして俺に話しかけてこない。これは多分下手に自分が近づくことで俺が嫌な気分にならないかどうか心配してのことだと思う。そう思うんならLineとかSNSで連絡くらい寄越せよって思うんだが、これって支離滅裂なこと言ってるかな、俺。

 誰が悪いわけでもない。しいていうなら平等橋の出した言葉が悪かったということはできるけど、あいつも色々考えてあの結論が出たということが理解できるので俺もこれ以上強く言うことはしない。

 でもあいつの考え方を許容できるかできないかっていうのはまた別の話で、今度また二人になったら襲われんじゃねえかな、とか。襲われはしないまでも微妙な空気になるんじゃねえかな、とか。そう考えちまうとなかなか平等橋に話しかけることができなかった。

 裕子は自分が仲介に立とうかと提案してくれたことがあった。

 しかし俺はそれを断った。これまでも俺は平等橋がらみで裕子に助けてもらっている。いつまでも甘えていてはいけないし、毎度平等橋と何かあった度に裕子に頼っていては裕子がいない時どうすんだよって話にもなる。

 だから今回は自力で解決を試みようとしたのだが、

「あんたいつになったら平等橋のとこ行くのよ」

 全く俺は動けていなかった。

 どっしりと俺の頭に教科書が詰まったカバンを乗せる裕子。頭を押さえつけられてあいつの表情は窺えないが、声が呆れているのが分かる。うるへー。

「このまま夏休みになったらあんたらずっと気まずいままよ? いい加減どうにかなさいな」

 それを言われると痛い。

 平等橋は部活をやっているので、夏休み中はずっと部活をしているはずだ。

 意図的に時間を作ってもらわなければ夏休み会うことはないだろう。

 そして夏休み会わなかったら、きっと二学期から俺たちは話すことはなくなる。

 それは嫌だった。

「でもなぁ」

 いつかの平等橋の俺に向けたあの目。何でもないように性交渉を提案するあいつに俺はあの時少し恐怖を感じたのも確かだ。

 顔を合わせてまともに会話ができる自信がない。

「マロちん。為せば成るって言葉知ってる?」

「え?」

 亜衣が突然後ろからがばりと俺に抱き着いた。というより抱っこした。俺今座ってんだけど。力強すぎない?

 俺の心の中の突っ込みは、亜衣の無茶苦茶な動きでかき消された。何しようとしてんのこいつ。怖いんだけど。

 亜衣の突然の行動に、舞衣は勿論、裕子も何か察したようだった。

「左様左様。為さねばならぬ、何ものも~ってね」

「バカ言ってんじゃないわよ。でもまあ、そうかもね」

 俺の右半分を舞衣が。左半分を裕子が。そして背中には亜衣が。がっしりと俺を固定してずんずん歩きはじめる。おい、まさかお前ら。

 嫌な予感は当たる。そのまま廊下に出ると三人はある男子目掛けてスピードをあげ走り始めた。道行く男女が「なんだあいつら」と言わんばかりの奇異な視線をくれる。そんなことどうでもよくなるくらい俺は抵抗した。やめろ、それはだめだ。止まれ亜衣。離せ裕子に舞衣。

 俺の願いは届かず、「どーん!」と楽しそうな声を上げながら亜衣はその男子にぶつかった。

 男子と亜衣に挟まれた俺は、サンドイッチの具みたいになった。

「何しやがる! って、公麿?」

「あー、いや、あの、うん……」

 その男子とは予想の通り平等橋正義。俺が今絶賛避け続けていた男子だ。

 こいつは俺を気遣ってか何なのか、最近は授業やテストが終わると一人でさっさと教室を出ていっていた。

 俺が話すタイミングを得なかったのは、実はこの部分も大きかった。

 さっさと帰るから、俺もまだ気持ちが固まっていないしちょうどいいかと後回しにできていたのだ。でもそろそろ話し合わなきゃいけないよな。俺は意を決して口を開いた。

「平等橋。話があるんだけど」

「それはいいけど、まずどいてくれ。その、周囲の目が痛い」

 覆いかぶさった状態の男女。俺の思考は停止した。

「おい、公麿? 公麿? って逃げんなバカ!」

 今度は平等橋が俺を追いかけてくれる番だった。

 俺たちの逃走劇が一段落をしたころには、あの三人はいつの間にか姿を消していた。あんにゃろうめ。

 

 

『それで、結局どうなったわけ?』

「仲直りはできたよ。遊ぶ約束もした」

 夕方、俺は裕子に電話をかけかけていた。

 迷惑をかけたし、相談にも乗ってもらっていたからその礼も兼ねてだ。そういう意味じゃまた今度亜依や舞依にも礼を言わなきゃいけない。

 平等橋は俺の話を聞くと、「まあそうだよな」と納得したところはあったみたいだ。それでも全面的に自分の考えが間違っていたという風には言わなかったけど。

 今回はもともと互いが互いのある部分をキレて起こったことじゃないし、まあ発言に俺はキレたけど、でも落ち着いたら一考の余地はあったというか。一言でいうと見解の相違ってのが今回の話だ。それが分かればある程度妥協はできる。

 しかし俺たちは肝心な部分は何一つ話さなかった。

 行為をするしないの所は全くノータッチだったし、俺も平等橋に俺のことをどう見てほしいだとか、それが俺の我儘になるんじゃないかとか、そういった部分も何も話さなかった。悪く言えばなあなあにしてお茶を濁した。

 根本的な部分は話さないけど、とりあえず今は喧嘩とかやめて普通に仲直りしましょうね。それを俺たちは話し合った。

 互いに納得しているかはわからない。

 だが少なくとも俺は今はこの問題をはっきりさせる必要はないと思ったので、この提案には全面的に賛成だった。乗って来たってことは平等橋も何か思う所があったってことだろうと勝手に解釈する。

『何も解決していないわね』

 裕子は端的に指摘した。自覚しているとはいえ他人にそういわれるときつい。

「そういうなって。一度に全部決めるなんて無理だろ。気持ち的にもさ」

『……そうね。その通りだわ。勝手なことを言ったことを謝らせて頂戴』

「そこまで気にしなくてもいいよ。裕子のいうことは当然なことだし」

 裕子は二人で話すときと、みんなでいる時とは性格が少し違う。人は多少の程度の差はあれ、グループで行動するとき自分の役割を意識するものだと思う。俺を含め、いつもの四人でいる時は裕子は暴走キャラということになっているし、本人も乗り気だ。だがクラス全体で見ると裕子は真面目な優等生ということになっている。そして二人で話していると、ちょっときつい言葉を吐くが親身になってくれる奴。そういう風に感じる。

 裕子たちのグループに居て気が付かされることは多いが、こういった人と人とのコミュニケーションの部分で気が付かされることは多い事にいつも驚かされる。

『そう。ならあまり気にしないことにするけど』

 裕子はそこで言葉を切った。話すことがそろそろ尽きてきたのかな。一時間くらいずっと同じ話題だったし、そろそろいい時間なのかもしれない。

 俺はじゃあまた明日なと言って電話を切ろうとしたのだが、そこで裕子が『そういえば公麿はクラス合宿にはいくのかしら?』と投げかけてきた。クラス合宿?

「クラス合宿って、あの勉強会のこと?」

『そう。あの勉強会のこと』

 うちの学校には一年と二年の時に、夏休みに学校にてクラス単位で泊まり込みの勉強会を行うイベントがある。二泊三日。任意参加で強制参加ではない。

 もともとは夏休みの宿題を皆で教えあって考えたいからという生徒の要望で、夏休みに教室を解放したことから始まるのだが、そこから発展して泊りで勉強会を、勉強の合間にはプールや花火、肝試しをとどんどんエンターテイメント性を高めていった。

 任意参加と銘打ってはいるが、最近じゃ滅多なことでは欠席する奴はいない。参加費も飯代くらいで、後は殆どただみたいなものだからな。

 去年参加して結構楽しめたので、今年も何もなければ参加するつもりだった。参加の出欠は去年と同じだと終業式近くに用紙が配られるはずだ。それに丸を付ければいいだろう。

 俺が参加の意思を告げると、裕子は「ふーん」と何とも意味深長に間延びした声を出した。なんだよ。

『それ、平等橋も参加するってことよね』

「まあな、多分。あいつがサッカー部の試合とか重なっていなけりゃ」

 そういうともう一度裕子はふーんといった。楽しそうな声だ。俺は反対にどんどん苦笑いしたくなってくる。

『買った水着。持ってきなさいよ』

「え、あ、は?」

 困惑した俺の反応を十分楽しんだ後、裕子は「バーイ」と通話を一方的に切った。

「見せろってことか。あいつにこれを……」

 俺はあの日舞依と買いに行ってから、一度も開封していないショッピングの袋を見つめた。なんだか無性に欠席に丸を付けたい気分になった。

 

 

 終業式が終わった。

 裕子や亜衣はさっさと部活に行き、文化部の舞衣と二人で俺は帰った。

 舞衣は因みに軽音部に入っている。練習が緩く、ほとんど外部のライブハウスなどを利用している為部活に行くのは駄弁りに行くのがメインだそうだ。

 手近なファーストフード店で無駄話をした後、夕飯の時間で俺たちは別れた。

 なんか俺普通の高校生っぽい青春送ってるなーとルンルン気分で家に帰った。

 車庫に車がない。親父がどっか買い物でも言ってんのかと思って玄関で靴を脱ぐと、お袋の靴もない。二人してどっか行ってんのか? こんな時間に珍しいな。

 まあいいか。そのうち帰ってくるだろ。

 俺は着替えもせずごろっとソファの上でスマホを弄った。なんか面白いつぶやきでもあるかなー。

 どれくらいごろごろしていたかわからないが、俺の腹がぐうとなった頃に家の前に車のエンジン音が聞こえてきた。ようやく帰って来たか。

 わざわざ出迎えるのもめんどくさかったので、俺はスマホを弄ったまま「おかえりー」と言った。

「はっ! 荷物くらい運び出すの手伝ったらどうだよタコスケ!」

 ありえない人物の声が聞こえた。

 ばっと身を起こすと、幻でもなんでもなく、俺の大嫌いな従兄が仁王立ちしていた。

「ふう。流石に少し荷物が多いですね。公麿さん少し車の中の荷物を下ろすの手伝ってくれませんか?」

「おおおおお袋! なんでこいつがうちにいるんだよ!」

 遅れて入って来たお袋に隠れるように馬鹿従兄を指さした。

「なぜって。何度も説明したと思うのですが」

 

「聞いてない! てか説明ってなんだよ!」

「お前そんなことも聞いてないのかよタコスケ。だから毎回毎回バカみたいに電話切るなっていったろ?」

 得意げな顔がことさらムカつく。誰かここにフライパンはないか? 全力であのにやけ面ぶっ叩いてやりたい。

「これから夏休みの三週間家で預かることになったんですよ。何度も説明しようとしましたが、そういえば創大さんの話題が出るたびに公麿さんは耳をふさいでいましたね」

 信じられない言葉をお袋は宣った。嘘だろ。

「まあそういう訳だからよろしく?」

 にやにやと挑発的な表情の従兄を相手に、俺は初めて田舎で出されたイナゴを前にしたときのような、実に嫌な顔をした。

 



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もう容赦しないぞ!

 藤原創大(ふじわらそうだい)。俺の従兄弟だ。

 歳は俺と同じで、今年で17歳になるはず。

 高慢ちきで、嫌味で意地悪。殊更、俺に対する態度は酷いもので、とにかく嫌な奴だ。

 昔は、本当に小学校にも上がる前の小さな頃は仲良くしていた記憶もぼんやりとある。でも何がきっかけとなったのか、奴は俺の天敵へと成り代わった。

 それは現在も変わらない。

 

 

 創大の実家、つまりお袋の実家では毎年夏になるとよく分からん大掛かりな儀式のようなものをする、らしい。それなりに名のある家なので、そこの慣例行事、らしい。

 曖昧な表現を多用するのは、俺はそれに参加したこともなければ実態をお袋に聞いたこともないからだ。

 お袋は親父と結婚した時に実家とは実質的に絶縁状態になったそうだ。詳しい話は両親とも語ってはくれないが、それなりに込み入った事情があるのだと雰囲気から伝わってきたので聞くことはなかった。

 実家から縁を切っているとはいえ、お袋は兄弟姉妹とは繋がりを持っている。創大を含め、複数の従兄弟たちと接する機会があったのはそのためだった。

 創大はお袋の実家の長男だ。

 通常その行事が行われる時、創大は母方の実家の伝手を辿って親戚の家に預けられる。成人していない創大はそれに参加することができないからだそうだ。

だが今年はいつも創大が身を寄せる親戚の婆さんが亡くなったらしく、さらに預かる期間が長いこともあってお袋に相談があったらしかった。

 お袋は実家と縁を切った身だが、お袋の姉とは仲がいい。

 それに個人的にお袋が創大のことを気に入っているということも含め、あまり積極的ではないとはいえ受け入れる運びとなったようだった。

 俺はその話を兄貴から聞いた時、憤懣やるかたなかった。

「お袋の微妙な立場ってのはわかるけど、そこは受け入れるなよ! 断ってくれよ俺のために!」

「まあそう言うなよ。あいつも事あるごとに親戚たらい回しにされてんだ。少しは気の毒だなって思うのが人の情ってもんだろ」

 兄貴は大人だ。体が、というよりも考え方が。

 創大は確かに昔から実家の都合でいろんな家にころころ預けられていた。小さい頃はその都度泣いていたのをよく覚えている。八つ当たりのように嫌味を言われたので、俺はその時も別に可哀想だとか思わなかったが、寂しそうだなという気はしていた。

 あいつにそういう事情があるのは分かるが、それとこれとは話が別だ。俺に対する態度がもう少し違っていたら話はまた変わったかもしれないが。

 どういうわけか、創大の態度がアレなのはこの家で俺に対してだけだ。

 ゆかりもぞんざいに扱われてはいるが、俺ほど酷いものじゃない。寧ろ俺の両親に対する態度は真面目な青少年そのものだ。そこがまたムカつくところなのだが。

「兄貴はあいつにおべっか使われるからイラつかないんだよ。俺はあいつ嫌いだ」

 それに兄貴に俺の気持ちは分からない。

 創大は兄貴には妙に腰が低いというか、なんだか兄貴のことを尊敬している節があるのだ。俺に対する意地悪も、兄貴が言えばピタリとやめる。それがあるから兄貴も創大のことがきっと可愛いのだ。

 俺が不貞腐れてると、兄貴はコツンと俺の額を弾いた。

「穿ちすぎなんだよ。それにお前らもう高校生だろ?お前もそろそろあいつとまともに話すようにしろ。肩持つわけじゃないが、俺には過剰にお前があっちを毛嫌いしている風に見える」

「だから兄貴にはわかんないんだって!あいつ飲み物に毛虫とか入れてくるようなやつなんだぜ!? 他にも暴言とか悪口とか!」

「全部小学生の時の話だろ? 中学じゃ一切話してなかったし、高校でも顔を合わせたのが今日が久しぶりだろ」

 俺は言葉を詰まらせた。

 兄貴の言葉に納得をしたわけではないが、最後に創大に嫌なことを言われたりされたのはいつだろうととっさに思い出せなかったからだ。ただ嫌なイメージだけがずっとこびりついていた。だからその点に関して言えば俺は兄貴の言うことを素直に聞き入れるつもりはなかった。

「こういうのは感情の問題だからなあ。でもまああいつのあれは自業自得か」

 兄貴は一人事を呟くように息を吐いた。どういう意味かは分からなかったが、わからなくてもいいような気もした。

「お姉ちゃん遅い!」

 兄貴との話、というか俺の一方的な愚痴が終わったので部屋から出ると、ゆかりが待ち構えるように自分の部屋から出てきた。子リスのように頬を膨らませている。

「悪かったってゆかり」

 軽く謝る俺に、自分怒ってますからと露骨に怒りをアピールするゆかり。その実そこまで熱度の高い怒りではないことはわかっているのだが、怒っているには間違いない。

 ゆかりが怒っているのには理由がある。

 今現在創大は俺の両親ともに日用品といった諸々の買い物に出かけているのだが、出発するまで俺と兄貴が部屋に引っ込んでしまった為ゆかりが犠牲になることになったのだ。そうでなきゃ創大が俺、ひいては俺のいる兄貴の所まで突撃かましてきそうな空気だったからな。

「創大嫌い!」

 ゆかりはこの家で唯一創大の問題に関して俺の味方だ。兄貴は良くも悪くも中立だから、昔からこの時ばかりはゆかりに感謝している。

 今でもゆかりは俺に懐いている所があるが、小さい頃は完全に俺にべったりだった。兄貴とは少し年も離れていたから、一番年の近いお兄ちゃんということで俺に親近感を持っていたのだろう。俺も自分の後をよちよちついてくる妹が可愛かったから、それがうざいと感じるまで俺とゆかりは常にセットで行動していた。

 そんな状態で創大は俺にいじわるや嫌なことをするものだからゆかりが怒るのは自明の理だった。

 あの当時創大は俺たちをセットで怒らせる天才だと言ってもよかった。

「ゆかり。俺はこの時ばかりはお前がいてくれてよかったと心の底から神様に感謝するよ」

「そんなときだけじゃなくて普段から思ってほしいんだけど」

 俺たちはひしっと抱き合った。

 半開きのドアから、兄貴がひきつった笑みを浮かべてこちらを見ていたのが印象的だった。いや、まあ、ねえ?

 

 

 夏休み一日目。

 俺は夏休みの課題は一日で終わらせることをモットーとしている人間だったので、部屋にこもってひたすらシャーペンを走らせていた。

 嘘だ。いや宿題をしていることは嘘じゃないけど、モットー云々は嘘だ。単にリビングに降りて創大に会うのが嫌だからだ。

 昨日我が家にやって来た創大は、しかしまあ借りてきた猫のようにおとなしかった。俺は常に喧嘩吹っ掛けられるんじゃないかとひやひやドキドキイライラしていたのだが、その点で言えば拍子抜けだったといってもいい。まだ初日だから何とも言えない部分ではあるのだが。

 昨日の夕飯は豪華だった。創大の歓迎会というか、いや俺は全く歓迎していないのだが、俺とゆかりを除いた家族全体が奴を受け入れるムードで結構なメニューが食卓を彩った。うまかったが同じ食卓に奴が座っていると思うとおいしさも半減というものだった。

 不思議なことに、創大は一発目のあれ以降俺に絡んでくることはなかった。そのことはゆかりも不思議がっていた。しかし何度も言うがまだ初日なのだ。警戒して損をすることは何もない。

 一階の客間を使っているあいつに会わぬよう、俺は朝飯をちゃちゃっと済ませるとすぐさま二階の自室にこもっていた。

 どれくらいそうしていただろう。

 腹へったなーと時計を確認したあたりで、ドアがノックされた。

 この家でノックをしてくれる人なんてお袋以外いない。俺は「開いてるー」と背を向けたまま答えた。

 ドアが開いてお袋は入ってきたようだが、いつものようにご飯なりなんなりができたというのをお袋は言わない。

 なんかあったのかなと振り返ると、創大がいた。

「うわあああああ!」

「叫ぶなよタコ」

 あまりの驚きに絶叫する俺を、創大はえらく冷めた目で見てきやがった。その態度はなんなんだよ。

「叔母さんが飯できたから来いってさ」

「……」

 警戒心丸出しの猫のように身構える俺。擬音語が目に見えるなら、「フシャー!」っと毛を逆立てていることだろう。

 創大はそんな俺を見て、何か考えるようにパクパクと口を開いたり閉じたり。なんだこいつ。

「……お前さ」

 何か言い出した。何を言い出すつもりだこいつ。

 警戒レベルを頭の中で急上昇させる。

 メーデーメーデー。至急臨戦態勢に入れ! ムカつくこと言ってきやがったら金的だ。不快なこと言ってきやがったら目つぶしだ!

 十数秒ほど我慢比べのうように俺たちはじっとしていた。

「いや、なんでもねえわ」

「ま、待てよ! 途中までなんっか言いかけてやめるとか無しだろ!」

 何かを言いかけて何も言わず、さっさと部屋から出て行く創大。

 おい、あの間は何だったんだよ。思わず突っ込みそうになる。

 差し出された手を引っ込められると追いかけたくなるのと同じだ。俺はムカつきと疑問を腹に抱えて創大を追いかけた。

 勢いよく駆けたため、急停止した奴の背中に盛大にぶつかる。ふぎゅっとか声にならない潰れた奇声が漏れた。

「こうするとお前来るんだ」

 創大はにやにやと実に嫌らしそうな表情を浮かべて振り返る。こいつ、作戦だったのか。

 すーっと頭から血の気が引いていく感覚があった。こんな気分久しぶりだ。

 この感情は怒りだ。

 俺をおちょくるためだけにわざわざこんな子供だましみたいな手を使ってきやがった。こいつはどこまで小さい男なんだ。

 だがそれを許容できる俺はもういない。

 女となり、裕子や亜依、舞依といった友人も手に入れ、さらにいろいろと関係が複雑とはいえ平等橋とも関係性を保ち続けている。もう友達がいないぼっちではない。自信がなく、びくびくとこいつの悪意に苦しむかつての俺はいないのだ。

 今こそやり返しの時。

 ていうかもう普通に頭に来た!

「お前私に何の恨みがあるのか知らないけどいい加減にしろよ! 仕方がないとはいえ暫くこの家にいるんだ! 腹立つことばっかしやがってもう容赦しないぞ!」

 一言一句、俺は吐き出すようにやつにぶつけた。

 肩で息を吐く。酸欠だ。でも言ってやった。言ってやったぞ。

 俺はぜえぜえと乱れる呼吸を落ち着かせる。まだ奴の顔は見れない。

 そこで違和感があった。

 どういう類のものか判断不明だが、なにか間違った方向に向かっているような違和感。

 俺はまっとうな反論をしたつもりなのに、それがうまくかみ合っていないと感じさせる空気。

 それは俺が顔を上げた時、やつの表情を確認してすぐに分かった。

「……別に。そういうつもりじゃねえよ」

 あいつはそう言うと、黙って階段を下りて行った。

 なんでなんだろう。

 気のせいじゃなければ、その時のあいつの表情はどこか沈んでいたような。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」

 きーっと恐る恐る隣の部屋からゆかりが顔を覗かせた。言わんとすることはわかる。創大のあの態度だ。ゆかりもやはりおかしいと思ったのだろう。

「あいつお兄ちゃんがお姉ちゃんになったからってなんか狙ってんじゃないかな」

 

「アホ言うな」

 両手を使って、内緒話をするようにこそこそ話すゆかりを背後から兄貴がチョップした。俺たち兄妹の部屋は三つ続きになっているので、順番に顔を出してきたことになる。ゆかりは「痛いー」と涙目になって頭を押さえている。

「あれ、どういうこと?」

「さあな、自分で話してみろって言ったろ? あいつもお前も、昔のままじゃねえってことだよ」

 俺が尋ねると、兄貴は曖昧にぼかして「腹減ったー」と下に降りていった。

「お兄ちゃんの言ってることがよくわかんないんだけど」

「安心しろ。俺も全然よくわからん」

 でも何かしら考えなきゃいけないことな気はするんだよなあ。

 創大のことで頭を捻らせる日が来るとは思わなかった。

「てかお姉ちゃん警戒してた割にはあっさり部屋通したよね」

「あれは仕方ないと思うんだけど」

「防御力の低下は心の低下だよ!」

「意味わかんねえよバーカ」

 女になって、家族の関係として変わったことはいろいろあるけど、その一つがゆかりとの物理的、心理的距離が縮まったことだろう。女同士という気安さもあって、前以上にゆかりとは仲良くなった気がする。

 ゆかりと仲良くなった原因を考えてしまったからだろう。

 ふと、そういえば創大は俺が女になっていることに殆ど驚いていなかったのはなぜだろうと、今更ながらに疑問を抱いた。

 あまり聞いていなかったが、電話口でも俺が女になっていることを知っているような口ぶりだった。

 正直創大とは話したいとは思わない。

 兄貴にいろいろ言われたけど、これは昔から積み重なって来たトラウマがある以上しかたのないことだ。体が拒否している。

 でも、あいつはいつかお袋が話した『花婿の呪い』の源流の家だ。何かお袋以上に知っていることがあるのかもしれない。

 創大と話し合ってみるか。

 夏休み一日目。

 嫌いな従兄とどうやって話すか、それを考える日になった。

 

 



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そっちスーパーねえぞ

 俺は創大と話すことを決意した。

 ……その日から二日が経った。未だに話せていないまま。

「無理なんだよなあ……」

 俺はぐだーっとテーブルに突っ伏した。行儀が悪いのはわかってるが、今の気持ち的にどうしようもない。

「よっぽど嫌なんですね。その従兄さんと話をするのが」

 俺の対面に座るのは人間的に凄くできた人なので、俺の態度云々で怒ったりしなかった。

 寧ろ、今の俺の心情を慮ってくれている。なんていいやつなんだ餅田。

 夏休みが始まる前、俺は餅田に絵画展に行かないかと誘いを受けていた。

 美術部に行くことが多くなった俺は、暇つぶしに美術室にある世界の絵画という本をよく読むようになった。

 餅田の手が空いているときは相手をしてもらったり、あとは他の美術部の奴が俺に絵を描くように絵具を渡してきた時なんかはそれに従うが、そうじゃない時は基本読書だ。絵本見てる感覚だけど。

 時々俺邪魔になってるかなーと思う時はあるのだが、皆が「いつでもきていいよ。ていうか用事がなかったら来てよ」と言ってくれるので、言葉通り俺は受け取って来ている。本当は来てほしくないけど、社交辞令として言っていたっていうならすごく傷つく。そんなことはないと思うんだけどほんとのところはわからん。ただ少なくとも餅田は歓迎してくれているので、餅田がいる時を狙っていつも美術部を訪れていた。毎回行く日は餅田にメッセージを入れて確認を取ってるし。

 そんな折、俺がある画家の絵を見ながら「ほー」とか呟いていると、餅田が後ろから覗き込んで来て「この人の絵今度近くのホールで見ることができますよ」と教えてくれた。

 餅田は個人的に行くつもりで、よかったらどうかと誘ってくれたのだ。

 餅田以外に他の人がいたら気まずい。そう思って一度は断わったが、餅田は一人で行くつもりらしかったのでそれならと誘いを受けた。夏休みに友達と約束をするなんて初めてに近い経験だったので、俺は少し浮足立った。

 絵画展をめぐった後、近くのファミレスで俺たちは絵の感想を言い合ったりした。

「俺あの人の絵って、こうなんかデカい塔の建物しかイメージになかったんだけど、あんなの描いてるのあれだけなんだな」

「そうですね。人々の生活風景、風俗といったものをよく描いていた画家ですね。因みにさっきの塔の絵も実は中であの塔を建設している人々の風景を描いたものなんですよ」

 こんな感じで、俺が素人丸出しの感想を出しても餅田はにこにこと丁寧に答えてくれた。

 話が落ち着いたころ、俺はいつの間にか創大の愚痴をこぼしていたようだった。

 いや話すつもりはなかったんだけど、餅田って聞き上手だからさ。「そういえば夏休みに入ってなにかありましたか?」なんて聞かれたら素直に答えてしまうじゃないか。最悪の夏休みの幕開けだって。

「不思議ですね」

 

 俺は一通り昔のことも含めて創大のことを話し終わると、空気の抜けた風船のようにテーブルにへたり込んだ。

 餅田は紅茶を口に含みながら、ぽつりと言った。

「その人にあったことがないので何とも言えないというのが正直な感想なのですが、話を聞いていても今現在の態度が昔の頃の時と随分違うようです」

「そうなんだよな。それが変なんだよ」

「えと、そうじゃなくて、相手方のほうは小学生の時と高校の時で性格が変わるというのはよくあることかなと思ったんだけで。私が不思議だと言うのは、そういった部分を含めて公麿ちゃんが頑なにその従兄の人と接触を断つ理由についてです」

 俺の方だったか。居心地がちょっと悪くなった感じがする。責めている、といった風じゃない。ただ純粋にどうしてと餅田は首をかしげている。

「……その辺は理屈じゃないんだよ。なんかもう生理的? 本能的? っていうのかな。とにかく無理なんだよ。トラウマのほうが大きくってまともに話すことができない」

「PTSDという奴ですか」

「なにそれ」

「強い心理的なダメージを受けると、それが後々になってもフラッシュバックや悪夢といった形であったり、心の傷として残ってしまうストレス障害のことです」

 餅田の説明を聞いて、そうかもしれないと俺は思った。このせいで俺はまともに創大に話すことはできない。

「でも公麿ちゃんの場合普通にその従兄さんに突っかかっていったりしているので、また違うのかもしれません」

「どっちなんだよ。てか別に普通に行けたわけじゃないって。頭に血が上ったというか、突発的な感じだったからできただけで」

 あの時俺は本当に腹が立った。

 普段だったらまた何か言い返されると思うからなかなか言えなかっただろうが、その日はそんなこと考える余裕もなく、気が付いたら体が動いていた。

「今のところ実害がないのなら放っておくことが一番いいと思うのですけど、そうもいかないのですよね」

「一緒に暮らしてるとどうしてもなー」

 くっそ、あいつマジでなんで夏休みいっぱい居やがるんだよ。心が病みそうだ。

 口をへの字に曲げて俺がうんうん唸っていると、餅田は「話は少し逸れるんですけど」と前置きをした。

「このことって平等橋には話したんですか?」

「……いや、してない、けど。でもなんで?」

 餅田の口から平等橋の名前が出たことに驚き、すっと答えることができなかった。餅田って平等橋と仲悪くなかったっけ?

「いや勿論好ましいと思ってはいません。でもそれはそれ、これはこれです」

 俺が疑問を口にすると、餅田はそう答えた。以前二人が鉢合わせた時、俺はその場から逃げるように脱出してきたのだが、ひょっとするとあの後に何かあったのかもしれない。また今度平等橋にも聞いてみよう。

「それはそれって、どれ?」

「あの人をかばう訳ではないですけど、早いうちに伝えた方がいいですよ。またややこしい誤解が生じそうですし」

「またって、まるでこれまでのこといろいろ知ってるみたいじゃん」

「ゆうちゃんにいろいろ聞いていますから」

 裕子……。

「えー、でもなんか従兄にイジメ受けてるとか言うの嫌なんだけど」

「いえ、そっちではなくて……あれ、うーん、それも入るのかな?」 

「えらく歯切れが悪いじゃん。珍しい」

「私も何といえばいいのか迷っている部分でもあるので。とにかく自分で直接伝えた方がいいですよ。それよりも来週のクラス合宿なんですけど――」

 餅田はそういうと、強引に話を変えた。もうこの話はおしまいという風に言っているように見えた。

 彼女の意図はあまりよくくみ取れなかったが、餅田がここまで言うのだ。平等橋には伝えた方がいいんだろうなとぼんやり思った。覚えていたら伝えようってくらいの軽い気持ちだった。自分の弱いところを友人に見せるなんて恥ずかしい。そういう気持ちもあったから、そこまで積極的に話したいと思える話じゃない。そういう気持ちが強かったからだろう。

 俺は結局店を出るころには、平等橋に伝えることをすっかり忘れてしまっていた。

 

 

 餅田と別れた後、俺はプラプラ街を歩いていると、見たことあるような黒髪ロングの貧乳を見つけた。舞衣だ。

 舞衣は背中にギターケースを担いでいた。ギターケースは特徴的な形をしているのでよくわかった。そこに貼ってある趣味の悪いハートのステッカーとか見たことがあるやつがいくつかあったので、舞衣だと確信したということもある。

 ギターを背負っているってことは今日は部活だったのだろうか。でも周りにそれっぽい人もいないし。

 街中で友人に声を掛けたことがなかったので、どうするべきか暫く悩んでいると、反対に舞衣の方が俺に気が付いたようだった。

「お、マロちん?」

「ま、舞衣。こんなところで会うなんて奇遇だね!」

 とことこと俺の方に近寄ってくる舞衣。俺はこんな時どうすればいいのかわからなくなって、普段より硬くなってしまった。中途半端に上げた手を下ろすタイミングが分からない。

「あははは。マロちん何その変なポーズ。てかここで何してんの?」

「餅田と絵見てきた帰り。舞衣は?」

「あたしはスタジオ帰り。今日は妹の誕生日だから早く帰ってなんかしてやろうって思ってさ」

 街で友人と遭遇するという経験のなさに初めは動揺したが、次第に緊張も解けてきた。

 舞衣に五つ離れた妹がいることは聞いていた。今年小学校六年生で、最近反抗期に入ったらしく生意気だとよく愚痴をこぼしているからだ。でも今日の様子を見る限り、なんだかんだで仲は良いみたいだ。

「いいお姉ちゃんやってるじゃん」

「全然。ケーキにあいつの嫌いなブルーベリー大量にトッピングしてやろうって思っただけよ?」

 まさかの嫌がらせ目的だった。ほれ、と手にしたビニール袋には大量のブルーベリージャムがガチガチと音を立てる。小瓶で20本くらい見えた。本当にこの味が嫌いなのだとしたら、シャレにならないレベルの嫌がらせだなこれ。

 俺が引いていると、舞衣は「やっべえ。これだとただの最低な奴だと思われるじゃん」と焦り出した。

「マロちん汚名返上、汚名返上! ほら、これ! しっかりプレゼントとかも買ってるから!」

 ギターケースの隙間に入れていたのか、ケースを下ろした舞衣はそこから綺麗に包装されら小さな箱を出した。

「虫?」

「さすがにここまで綺麗にラッピングしておいて嫌がらせでしたーってことはしないよ。普通にアクセ。適当に可愛かったの選んだだけだけどね」

 舞衣は照れくさそうに頬を掻いた。俺まで若干気恥ずかしくなるような仕草だ。

 しかしプレゼントか。

 今創大が来ていることもあって、この言葉は俺にとってあまりいい意味を持たないんだよなあと独り言ちる。

 アイツのプレゼントって基本虫とか埃とか雑巾とかだったからな。特に虫の死骸を大量に見せつけられた時は、全力で奴の鳩尾に蹴りをお見舞いしてやった記憶がある。忘れたい思い出だ。

 

 

 途中まで舞衣と一緒に帰り、駅で別れた。

 家までてくてくと歩いていると反対方向から認識したくない奴が歩いてきた。

「お前連絡見ろよ」

 創大だ。

 いつになく不遜な態度でふんと鼻を鳴らす。

「連絡?」

 俺は奴の言うことを聞くのも癪だったが、ひとまずスマホを確認した。するとお袋から『牛乳と卵が切れたので、すいませんが買って来てくれませんか?』というメッセージが入っていた。しかもそれが届いていたのが一時間前だ。

「何のためのスマホだよ、ああん?」

「う、うるせえな! たまたま見てなかっただけだっつの!」

 今回は俺が悪かったというのは自分でわかっているんだけど、創大を前に素直に自分の非を認めるのは癪だった。

「ま、どうでもいいけど」

 創大はさっさと話を切り上げると、俺を無視してそのまま通り過ぎようとした。どこ行こうとしてんだこいつ。

「待てよ。お前どこ行こうとしてんだよ」

「どっかの馬鹿が買い忘れたもん代わりに行くんだよ」

「そっちスーパーねえぞ。反対だ」

「……」

 創大は黙りこくって俺を睨みつけた。普段ならひるむが、今は全然怖くない。くくく、こいつ道音痴は相変わらずなのか。

 小さい頃からこいつにはいろいろ嫌がらせを受けてきた。体が小さかったり力が弱かったりした俺は大体のことでこいつに負けてきたが、そんなこいつの唯一の弱点が道だった。何度かこいつをだまして先に家に帰ったり、全然違う道を教えて迷わせたり、小さな報復を行う時によく利用させてもらった。

 俺が噴き出すと、創大はあからさまに嫌な顔をした。

「……スーパーどこだよ」

「それくらいスマホの地図で調べろよ」

 ちょっと意地悪かな。そう思ったが、今時現代っこでスマホの地図アプリを使って目的地にたどり着けない奴はいないだろう。特にうちがいつも使ってるスーパーはそこまで複雑な道順でもない。

 俺は創大を通り過ぎようとした。

「……どっちが上なんだよ……、これ、どうなってんだよ……?」

 ぶつぶつとスマホを上に掲げたり、振ったりしている創大を見て不安になった。こいつ夕飯までに帰ってこれんのか。牛乳と卵無事に届けられんのか、と。

「……こっちだから」

「あ?」

 俺は創大の方を見ずに歩きだした。

 もともと俺が頼まれたものだ。それにこいつは少なくとも三週間はこっちに居座ることになるんだ。スーパーの場所くらい知っていても損はないだろう。

「お前歩くの遅えな」

「うるせえよ馬鹿!」

 道中、相変わらず終始険悪な雰囲気は変わらなかった。しかし再会した時よりもずっと会話は増えていた。

 創大が嫌いなことは変わらない。

 でも意外と会話が成立するのかなと、そういう風に思うことができた日になった。




すいません、リアルの方がごたごたしておりまして更新であったり感想のお返しが滞っている状態でございます。暫くこういった状態が続くかなーという感じですが、落ち着いたらいろいろお返しできたらと考えていますので、当分は無言で投稿を続ける状態になりそうです。


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外の方がいいかも

『ーーで間違いなさそうなの?』

『はい。この子はーーに憑かれているようです』

『あなたでおしまいだと思ってたんだけどね……』

 居間から母親と伯母の声が聞こえる。

 聞いてはいけない類の会話であることは本能的に分かった。

 隣で寝息を立てている創大とゆかりは気づいていないだろう。

 毛布を頭からかぶり、必死で寝ているふりをする。気が付きませんように。こっちに来ませんように。そう願いながら俺は全身がぐっしょりと汗ばむ思いだった。

『……このことあの子には話してないんでしょ?』

『はい。もうすこし大きくなってからの方がいいかと思いまして』

『そう。なら任せるけど……あら、子供たち寝苦しくないかしら』

 突然会話をやめて、伯母は立ち上がった。

 一歩一歩、スリッパがぱたぱたと床を踏む音がはっきりと聞こえる。

 襖をあけ、豆電球が薄っすらと照らす部屋を目渡す。

 俺は息を殺してじっとしていた。

 早く去りますように。

 どこかへ行きますように。

 バクバクと心臓の音が耳に響き、額いっぱいに汗の球を作る。

 十秒か、二十秒。

 実際にしてみるとたかだかそれくらいの短い時間だったと思う。

 でも俺にとっては永遠のように、もうずっとこの時間が続くんじゃないかと思うくらい心が乱れる時間だった。

 どれくらい俺がじっとしていただろう。

 気配が去った。

 伯母は部屋の外へ行ってしまった。

 

 俺は安心のあまり、ほっと息を吐き、毛布からそっと顔を覗かせた。

『やっぱり起きていたわね。公麿』

 

 

「うわああああああああ!」 

 跳ね起きた。

 心臓がせわしくなく脈動する。

 背中や脇、足の指の間に至るまで、ぐっしょりと寝汗を感じる。

 夢だ。

 ただの夢だ。

「公麿、どうかしたか?」

 俺の悲鳴を聞いたからだろう。兄貴は扉のすぐそばで心配そうに俺に声をかけた。

「いや大丈夫。ちょっと嫌な夢見ちゃって」

「夢か。ならいいんだが。部屋にコウモリでも入ったかと思った」

「コウモリならもっとデカい声上げるって」

 俺は少し笑った。

 ちなみに俺の家にはマジで一回コウモリが入ってきたことがある。そん時は軽くパニックになった。兄貴が撃退したけど、ゴキブリが家に入ってきた以上に焦る出来事だった。

 兄貴は「またなんかあったら言えよ」と言って自室に戻っていった。

 時計を見ると三時を少し過ぎたころ。起こしてしまって申し訳ないなあという気持ちが起こった。

「でも嫌なこと思い出しちゃったな」

 あれは五歳くらいだったと思う。

 なんの用事かはわからないけど、俺とゆかりはお袋に連れられて創大のお袋さん、つまり俺にとって叔母さんに当たる家に一泊することになった。

 ちょうど今くらいの蒸し暑い夏の日で、扇風機をガンガンに回した状態で俺たちは雑魚寝していた。

 そこで俺は喉が渇いたか、トイレに行きたくなったかどっちかで目が覚めた。そん時にかすかにお袋たちが話しているのが聞こえてきたんだった。

 今思い返すとあれは俺の呪いのことを言っているモノだったのかもしれない。

 俺が起きていると知った時。毛布から顔を出してほっとした時に戸のそばでじーっと俺を見ていた時の叔母の顔。

 あの訝しむような、憐れむような、蔑むような、それらの感情を全て隠そうとして、結局隠せていないような、そんな表情の叔母と俺は目が合ったのだった。

 もう十年以上昔の記憶だ。

 その後叔母と何かがあったわけじゃない。

 理不尽に嫌がらせを受けたわけでも、いやなことを言われたわけでもない。

 普通に、兄貴やゆかりと同じように俺も一人の甥としての扱いをしてくれた。

 でもあの時のあの目は、忌避すべきものとして見つめられたあの目は、俺の心の深くをかなり傷つけたらしかった。

 もうずいぶん見ていなかったのになんで今更。

 きっと先日数年ぶりに創大と話したからだろう。あの時は子ども同士で、俺たちは仲が良かったから。

「あー! 何だってんだこんちきしょー!」

 俺は乱暴に頭を掻いてベッドに倒れこんだ。こうなりゃ明日の、ていうかもう今日だけど、遊びは遠慮なく引っ張りまわして胸のもやもやを吹っ飛ばそう。そうしよう。

 気持ちが固まれば楽になった。

 汗も引き、反対にすこし涼しくなった。

 もうひと眠り。今度は楽しい夢が見れそうだった。

 

 

「遅い」

「わ、悪い」

 俺はたははと頬を掻く友人の向う脛を蹴っ飛ばしたくなる気持ちをグッと抑えた。ここでいらん諍いをするのは得策ではない。

「あー、えっと、そんなキレんなって。ジュース奢っから。てかなんかあったの?」

 平等橋は早口に捲し立てると、また頬を掻いた。明らかに動揺している。いい気味だ。

「ああ。お前が一時間も遅刻したせいでしつこいナンパにあったよ。男にだ。まさか女になってまでこんな遣る瀬無い気持ちにさせられるとは思わなかったよ」

 どんよりと暗い目で見つめてやれば、平等橋はひくっとひきつった笑みを浮かべた。

 今日はまた平等橋と遊びに来ていた。

 前回は平等橋がキレて途中になってしまったので、その埋め合わせだ。最近の平等橋は部活にバイトといろいろ忙しそうだが、無理やり時間を作らせた。色々誘うまで勇気が必要だったが、ちょっとくらい俺の相手をしろという趣旨を伝えることには成功したわけだ。

 そんな平等橋だが、この男待ち合わせに大きく遅れてきやがった。

 俺は人を待たせるのが嫌なのと、そういえば前回平等橋はえらく早い時間にやってきていたなということを思い出し、一時間前に待ち合わせの場所にやってきていたのだ。

 つまり俺はこいつには言っていないが二時間待たされたことになる。いや待たされたというとちょっと言葉は乱暴かもしれないが、俺の感覚からするとそうだ。

 待ち合わせ場所は、一応俺たちの住む田舎とは違い都会と言っても遜色ない場所。人は大勢いる。

 二時間近くもずっと同じ場所で暇そうにしている俺は周りからどう見られていたのか予想はつく。

 一時間を過ぎたあたりで、二組の見知らぬ男二人に声を掛けられた。

 初めは道案内か? でも俺この辺あんま案内できるほど知らないしなーと思っていた。しかし「一人?」だの、「よかったら一緒に遊ばない?」などと言われれば、これはちょっと様子が変だぞという気になった。

 丁重にお断りしてその場を離れ、急いで平等橋にLineをしこたま送り付けた。

 すると帰って来たのは『もうすぐつく』の文字。

 もうすぐならどこかで時間を潰すのも変だろうとまた待ち合わせの場所に戻ると、さっきの二人組がまた声をかけてきた。しつこいしちょっと怖い。

 今度はお手洗いで逃げたが、流石にもうあの場所に戻るのはごめんだった。

 そうしてどうしようかなーとうろうろしていた時に平等橋の背中が見えたので、引っ付構えたのが今の図だった。

 平等橋は俺がナンパにあったことを聞くと、次第に表情を曇らせた。冗談じゃないとわかったらしい

「どれ?」

 俺は平等橋を待ち合わせ近くの場所で捕まえたので、ここからその場が良く見える。俺が座っていたベンチ近くにさっきの二人組はまだいた。

「あーっと、あの二人」

「あらー、いかにも遊んでそうな大学生風ですなー」

 言ってることは普段通りだが、声が少し低い。ひょっとして怒ってる?

「ちょっと正義君? あなた何するおつもり?」

「ちょっくら文句の一つでも言ってやろうと思ったけど」

「けど?」

「普通に怖いからやめた」

 なんだそれと俺は笑った。うん、ようやく落ち着いてきた。いい感じだ。

 俺がゲラゲラ笑っていると、平等橋は「あー」だの「うー」だの、かなり気まずそうな表情を作った。

「何?」

「いや、割とマジですまん。どっかしら今までのお前だと思ってる節がまだあるんだなって思ってな」

「どういうことさ」

「お前女で、割とかわいいからさ。今回は声だけだったけど、何が起こるかわかんねえんだなって」

 びっくりした。こいつ俺のことを心配しているらしい。

 子ども扱いかよとちょっと腹が立ったが、それ以上に照れた。家族以外にこういうことを言ってもらえるのは不思議な気分だ。

「それにさっき女になってまで男に声かけられるようになった、みたいなこと言ってたけど、普通だったらそれ逆だからな。女だから声かけられんだよ。ていうかこれからは多分今まで以上に増えるぞ」

「マジかよ。ぞっとしねーな」

 ぶるると身震い。

 今まで身内とか、学校とか、自分の環境に近い所から俺のことをどう思っているのかなんてのは考えていたけど、全くの第三者、つまりその辺の道歩いてる通行人Aが俺のことをどう見えてるか関心を払ったことはなかったので、焦って来た。今焦っても仕方ないのはわかってるんだけど、気持ち的にさ。

「これからはもっと気を付けりゃいいって話だよ」

「そういうんならお前が遅刻しなけりゃ済むんだけどな」

 うぐっと喉を詰まらせる平等橋。ちょうどいい、今日いっぱいはこれでからかえそうだ。

「じゃあ手始めにこの前お前がキレて帰ってった店の続きから行こうか」

「今日のお前ちょっと意地悪じゃないか?」

 俺が歩き出すと、平等橋はため息を吐きながらついてきた。

 遅刻は万死に値すると思い知るがよい。

 

 

「平等橋って相変わらず歌下手くそだな」

「うるせえよ! あの点数計ぶっ壊れてんだってマジで!」

 俺は駅に向かう道中ひたすら平等橋をからかっていた。

 前回遊びに来た時はまだ本格的に夏が到来していなかったので、今回は夏服を中心に何点か物色した。その後でカラオケに入ったのだが、こいつの歌声は何度聞いても笑える。決して音痴という訳ではないのだが、歌い方に癖があり過ぎて真面目に聞いていると噴き出してしまうのだ。ビブラートがかかり過ぎている。

 フリータイムでしこたま騒いだ後、俺たちはやいのやいのたわいのない話に花を咲かせながら歩いた。

 平等橋とは降りる駅は違うが、途中まで方向は一緒だ。電車のなかで今日の出来事をこそこそ話し合っていると、ふと誰かの視線を感じた。

 何の気なしにそっちを見ると、創大がいた。

「ぃい!?」

「おわ、公麿どうした!」

 ばっと顔を背けた俺。当然さっきまで話をしていた平等橋は訝しんだ。

「あれ、誰か近づいてくるけど。あれお前の知り合い?」

「知らない知らない。赤の他人」

 

 俺は平等橋の服を引っ張って隣の車両に移ろうとしたが、事情の分からない平等橋がすぐに反応できるはずもない。

「何逃げようとしてるわけお前?」

 結局すぐに奴に捕まった。

 観念して創大の方を向くと、まあ嫌らしい顔をしていること。

 にやにやと口の端を上げ、さも弱みを握りましたと言わんばかりの嫌らしい笑みだ。何がそんなに楽しいんだこいつ。

「なに、おたくそいつの彼氏?」

「は? いきなりお前何言ってんだよ」

 創大は俺ではなく平等橋に声をかけた。平等橋は突然見知らぬ男から声を掛けられたということなので、困惑した様子だ。

「あんた誰?」

「俺? 俺はこいつの従兄だよ。藤原創大っていいまーす。以後お見知りおきを」

 俺をそっちのけで勝手に会話が進む。

 創大は何のつもりか、平等橋に握手を求めた。

 なんでヨーロッパ式の挨拶求めてんだよお前。

 平等橋はまだ困惑している様子だったが、一応握手に応じるようだった。

 その時、創大の目が嫌らしそうに細められるのを俺は見てしまった。

 やめろ。

 俺はとっさに平等橋に口を挟もうとしたが、遅かった。

 差し出そうとした平等橋の手は空を切り、返す刀で創大は平等橋の頬を叩いた。

 パチンと、軽い音が車内に響いた。

 全力じゃない。軽い、スキンシップのような平手。

 痛みはないはずだ。

 体の痛みは、だが。

「あぁ?」

 人を怒らせるためだけにする行為。

 創大はどういう理由か不明だが、初対面の平等橋を挑発したのだ。

 平等橋の体から膨れ上がるように怒気があふれ出た。

「ちょ、やめ、平等橋!」

 俺は平等橋の体にしがみつくようにして止めた。俺の力で止まるとは思わなかったけど、電車の中で喧嘩なんて学校にバレたらえらいことになる。

 平等橋は滅多に怒ることはない。

 そもそも学校でそんな滅茶苦茶にキレることがないっていうのもそうなんだけど、人に対して「こいつやったるでぇ!」てな感じで怒り爆発させることなんてなかった。喧嘩に発展しかけること場面は何度か見たことはあったけど、それも平等橋はいつもへらへらと諌める感じで、自分から掴みかかるなんて予想もつかない感じだった。

 そんな平等橋がキレている。

 当たり前だ。初対面の人間にそんな態度とられりゃ誰だってキレる。

「おーこわ。マジでキレてんじゃん」

「黙れ創大!」

 俺は平等橋の服の隙間からぎっと創大を睨んだ。誰のせいでこんなことになったと思っているんだ。

 平等橋は一言も口を利かず、ただゆっくりと創大を睨んでいる。

 力が強い。

 抱き着くようにして背中から両腕を押さえつけているが、俺のホールドがいつまでもつかわからない。

 助けを呼ぼうと周りを見渡したが、今日に限って人がほとんどいない。その少ない人も、巻き込まれたくないと端の方に移動したり、スマホを弄ってみて見ぬふりをしている。俺も逆の立場だったら同じことをすると思うから何も言えないが、駅員さんが来てくれればという思いが胸に去来する。反対に、来て事が大ごとになったら学校に連絡いくよなと、来てほしくないという気持ちもある。どうしたらいいんだとパニックになった。

 永遠とも思えたこの瞬間だが、突然終わりを迎えた。

「はー面白かった。あんたガチギレしすぎだろ。挨拶だって挨拶。ほんじゃま、さいならー」

 次の駅で創大が降りたからだ。

 扉が閉まってから、次の駅に向かう数秒間。俺たちは動けずにいた。

 それから、ふしゅーっと俺は気が抜けたように座席にへたり込んだ。なんだったんだあれ。

 平等橋を見れば、やつはもう落ち着いていた。しかしため込んだ怒りをどこに向ければわからないようで、「ぬがー!」と震えていた。

「びょ、平等橋?」

「あー! なんだあいつ腹立つわー! 公麿あいつお前の従兄ってマジなんか!?」

 ぐわっと詰め寄られた。こう、風が前髪をはじく勢いで。

 思わず赤べこのようにこくこく頷くと、平等橋はまた「ぬがー!」と奇声を発した。

 ふと、俺は餅田の言葉を思いだした。

 平等橋に説明するいい機会かもしれない。

「な、これからお前んち寄っていってもいいか?」

「あ? なんだよ急に」

「そいや愛華さん今日家にいる? いないならまた前みたいになるから外の方がいいかも」

「なんねえから! あんなこと二度としねえから! つかいるよ姉貴普通に!」

 興奮のせいもあってややオーバーリアクションで平等橋は否定した。

 愛華さんがいるなら大丈夫か。

 俺はお袋に今日は帰るのが遅くなると連絡を入れるため、いそいそとメッセージを打ち込むのだった。 

 

 



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ケチ

「面倒な従兄を持ったものねぇ」

 俺の話を聞き終えた愛華さんは、一言そういうとお茶をずずっと啜った。見かけによらず仕草が年寄りっぽくて思わず笑いそうになってしまった。

 平等橋は事前に愛華さんに連絡を入れてくれていたみたいで、俺が急にやってきても嫌な顔一つせず歓迎してくれた。玄関口で迎えられた時のほんのりエロい感じがなんとも懐かしい。

 夕飯もごちそうになって、一息ついたところで俺は語り出した。

 平等橋には帰りしなにある程度話していたので、改めて愛華さんを交えて説明をしたという事の次第だ。俺の個人的な我儘だが、愛華さんにも聞いてほしかった。大人の意見ってやつが欲しかったのか、それとも愛華さんに「俺こんな大変な目にあってるんだすよ」と慰めてほしかったのか、それはわからないけど。

 愛華さんはちょいちょいと俺に手招きをしたので近づくと、抱きかかえるようにぎゅっとしてくれた。

「えぇ? 愛華さん何?」

「いやー、キミちゃんがモノ欲しそうな眼をしていたからつい?」

 いいこいいこと頭をなでてくれる愛華さん。

 恥ずかし嬉しい。でも汗臭くないだろうか。それだけが心配だ。

 あと平等橋が風呂に入ってる間で本当によかった。こんなところ見られたらなんて言ってからかわれるか分かったものではない。 

「話を戻すけど、面倒な従兄さんね」

「はい。私ももうどうしたもんかと頭を抱えている次第でして」

「そうねえ。いまいち行動原理が見えないわ」

「行動原理、ですか?」

 考えたことがなかった。

 創大が何を思って動いているかなんて。あいつのことだからどうせなんも考えてない可能性も無きにしも非ずだけど。

 まずそもそものこととして、考えたくないという感情もある。

 何が悲しくて自分に嫌がらせをしてくる奴の気持ちなんて考えなきゃいかんのだ。

 俺が何かして、それであいつが嫌ってくるのならそれはまあ仕方ない。

 理由があるのだから。

 でも俺の場合特に何かをした覚えはないのだ。

 そりゃ小さかったし、ひょっとしたら些細なことで奴の逆鱗に触れる何かをしたのかもしれない、覚えてないけど。それにしたって幼児レベルのベイビーがしたことをいつまでもねちねち覚えているなんて、それはそれで人間としての器がしれるというものだ。有体に言って大人げない。

 俺が黙ってむっつりしていると、愛華さんは更に俺を強く抱きしめた。せ、背中に胸の感触が。おい嘘だろ、いくら風呂上りたってつけてないのかこの人!?

 別の意味で硬直する俺に、愛華さんは「大丈夫だよー」とふんわり言った。

「大丈夫って?」

「言葉通りの意味だよ。これからもその従兄君はキミちゃんに何か嫌なことをしてくるかもしれない。嫌なことを言ってくるかもしれない。でもそばに正義を侍らせておけば大丈夫だよ」

「侍らせるってそんな。あいつも暇じゃないし」

「大丈夫大丈夫。あの子の用事なんてたかが知れてるんだから」

「適当言ってくれるぜ姉貴」

 風呂から上がった平等橋が呆れたように愛華さんに返した。う、シャンプーの何とも言えんいい匂いと、風呂上がりの艶っぽい髪の毛が目に毒だ。ええいイケメン死ね。

「でも現状特に何かされてるってわけでもないんだろ?」

 俺が照れ隠しで心の中の平等橋をナイフで刺し続けていると、ふと現実に戻ったように平等橋が声をかけた。対面に座るなよ落ち着かないなあもう。

「まあ、うん」

 内心の動揺が気取られないようぶっきらぼうに答えた。質問自体はその通りだし。

 ……うん。その通り、だったんだけどなあ。

「キミちゃんどうかしたの?」

 俺がまた沈んだのが気になったのだろう。愛華さんはぐりぐりと俺のつむじを顎でぐりぐりした。地味に痛い。

「あいつこの前まではちょっと話せるかなって、そう思ったんです。お袋とか兄貴とか妙にあいつのこと庇う感じあるし、ひょっとしたらあいつも昔とは変わってるのかなって、期待する気持ちもあったんです」

 事実あいつとはこの前、随分久しぶりにまともな会話ができていた。

「でも今日会ったらそんなことは全然なかった、と」

「初対面でひでえ挨拶食らったからな」

 愛華さんと平等橋が順番に反応する。俺は力なく頷いた。特に平等橋には悪いことをした。

「正義はその従兄の子にあってどう感じたの?」

 愛華さんが平等橋に尋ねると、平等橋は実に嫌そうに眉を顰めた。

「公麿には悪いが感じは悪かったな。いきなり挑発されたし」

「その件については本当にごめん」

「なんで公麿が謝んだよ。なんも悪くねえだろお前は」

 ぐしゃぐしゃと頭をなでられた。冷静に平等橋姉弟に挟まれている今の状態って何だろうと思わなくもない。

「でもな」

 平等橋はそこで言葉を区切った。

 何だろうと思って顔を上げると、平等橋はどこか宙を見つめているようだった。

「あいつなんか妙な雰囲気だったな」

「妙?」

「なんていうかな。焦ってる、でもねえし。怒ってる、でもねえ。なんだろうな」

 俺が問い返しても、平等橋は要領を得ない曖昧模糊な感想をぶつぶつ呟くだけだった。

「正義は国語が苦手よね」

「言語化が苦手って言いてえのかよ。違えよバカ」

「は? バカって言った? いま私に向かってバカって言った?」

「言ってない言ってない! ごめんなさいごめんなさい姉貴ごめんって、みぎゃー!」

 愛華さんにコブラツイストをかけられている平等橋を見ながら、俺はあの時の創大の様子を思い出していた。

 あいつが焦ってた? 怒ってた? そんなことってあるのか?

 創大のことで思い悩むなんてばかみたいだと何度も思っているが、一緒に生活している以上自然接触する機会が多いのだ。精神衛生上解決できる問題ならした方がいい。

 でもやっぱり解決できる気がしないんだよなあ。

「見てないで助けろよ公麿!」

「キミちゃんに助けを求めるな愚弟!」

 楽しそうだなーこの二人。と、俺はぼんやりそう思った。

 

 

 家に帰って玄関で靴を脱いでいると、あれと思うことがあった。創大の靴がない。

「お袋ー。創大帰ってないの?」

「ええ。今日はこっちにいるお友達の家にお泊りするそうですよ」

 リビングにいる袋に声を掛ければそう返って来た。ふーん、こっちに友達なんていたのかあいつ。なら夏休み中そこで泊めてもらえばいいのに。

「人一人を長い期間泊めるというのは大変なんですよ?」

「あれ、俺声漏れてた?」

「いいえ。でも顔に書いていました」

 お袋はなんとも言えない表情で俺を見つめた。

「何?」

「創大さんのこと。やはり嫌いですか?」

 ストレートに聞いてきやがる。

 俺は何と答えれば角が立たないか必死で頭の中で答えを探したが、こんなもんすぐに応えなきゃYESって言ってるようなもんだ。お袋はふうっと息を吐いた。

「あの子は悪くないんですよ。でもあの子の家は、すこし考えが偏っているのかもしれませんね」

「どういうこと?」

 お袋がキッチンに引っ込みながらそういったので、俺もお袋に付いて行くようにキッチンへ行く。

「夏休み前に私が話した『花婿の呪い』というお話を覚えていますか」

 もちろんだ。あんなインパクトのデカい話を忘れるはずがない。

「公麿さんも知っている通り、創大さんの家は私の実家、つまり本家です。あの家はこの呪いをとても嫌なモノとして見ているんですよ」

「嫌なモノ?」

「禁忌。何か犯してはならない罪をした者が振りかかる呪い。そういう風にいう人もいます」

「俺なんか悪いことした覚えないんだけど」

「知っています。これは事故みたいなものです。でもそう思わない人もいるんですよ」

 お袋はカップに冷えた麦茶を注いで俺に手渡した。外から帰って来たばかりなので、この冷たさは極上だ。

 一息に飲み干すと、お袋は「だから創大さんもそういう風に教え込まれてきたんですよね」といった。

「そういう風……」

「呪いのことです。もともと姉さんがそういう人だから」

 俺は叔母さんのあの冷たい目を思い出した。あれはやはりそういう意味だったのだろうか。何か汚いものでも見るようなあの目は、事実そういう風に見ていたのだろうか。

「なあお袋。ひょっとして俺が呪われてるってずっと前からわかってた?」

「……そうですね。今更隠していても仕方がありませんので言いましょう。あなたが生まれて言葉を話すようになったころには気が付いていました」

「言葉って、それって二、三才の時にはってこと?」

「はい。もうその頃にはこの子は将来女の子になるんだろうなという予想がついていました」

 案外ショックはなかった。

 夢の中のあの会話を思い出していたからかもしれない。でも二歳の時からかー。どおりでお袋も親父も俺が悪ふざけでスカートとか履いても怒らなかったわけだよ。気を引きたくて悪ふざけしたのにそれがなかったから自主的にやめたけどさ。

「それってそんなすぐわかるもんなの?」

「そうですね。これっていう目印みたいなものはなかったんですが、オーラというか雰囲気というか」

「おーら?」

「まあ一言でいうと直感ですね。この子はそうだってっていう」

 雑だ。今までの説明が全部信じられなくなるレベルで。

「いろいろ悪い条件も重なっていましたからね。公麿さんの場合は。だからというのもあります」

「悪い条件って?」

「生まれた日や順番。何と言っても男の子なのに私の血を多く引き継いでしまったことが原因ですね」

「兄貴だってそうじゃん」

「大介さんはお父さんの血の方が濃いですから。それに長男ですしね」

「意味わかんねえなあ」

「ほとんどわかっていないことばかりですよ。今ここでわかっていると言われているものだって本当かどうかもわかっていません。だから大事なのは女性になってしまったというその事実だけなんですよ」

 俺の飲み終わったカップを流しで洗うお袋。その姿をぼーっと眺めた。

「創大さんは自分で考える人です。今の自分、そして家のことも」

「どういうこと?」

 お袋は何か大事なことを言っている。でも肝心の部分をわざとぼかしている。

「あんまりべらべら話していると怒られてしまいますから、私が言えるのはここまでですね」

「なんだよそれ。ケチ」

「ケチじゃありません」

 戸棚から一口まんじゅうを取り出し、俺の口に放り込むお袋。甘いがこんなもんじゃ誤魔化されない。

「公麿さん。でも誤解しないでほしいのです」

「ふぁにが?」

 もぐもぐと急いで咀嚼する。口がめっさぱさぱさになる。やっぱもう一回麦茶欲しい。

「私は公麿さんの味方であるということです。創大さんは確かに可愛い甥っ子ではあるのですが、そんな理由でこの夏を引き受けたわけではないということを」

「……」

「本当はもう少し簡単に事が運ぶと思っていたのですが、予想以上に拗れていました。大人が介入していいものかという気持ちもあるのです。でも一度しっかりと創大さんと話した方がいいと私は思います」

 これも親の勝手な言い分になってしまうのでしょうねと、お袋は困ったように笑った。

 俺はどんな顔をしてそれを聞いていただろう。鏡を見ないことにはわからない。見たところできっと形容しがたい、グニャグニャに口を歪めた嫌な表情を浮かべていただろうけど。

 それからは普通の会話をお袋とした。

 今日平等橋と遊んだことが中心だったけど、最後に創大に絡まれたこと。これだけは言うことができなかった。

 なんにしても創大は今日家に帰らないんだ。精一杯羽を伸ばして休むことができる。

 そう思って俺はその日ぐっすりと眠ることができた。

 次の日、創大は家に帰ってこなかった。

 友達の家で二泊してるんだろう。ひょっとしたらそうなるかもしれないと事前に聞いていたらしいから。

 でもその次の日、三日たっても創大は戻ってこなかった。

 

 



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わかってんのかわかってないのかさっぱりわからん

 創大が家出をした。

 そのことは我が家をパニックに至らしめた。

「あいつどこ行きやがったんだよ!」

「創大アホじゃん!? なんで連絡一つなしなのさ!」

 俺とゆかりはキレる。だってこれで仮に創大が行方不明とかにでもなってみろ。責任問題でお袋がどうなっちまうかわからない。あいつはどこまで人に迷惑かけりゃ気が済むんだよ。

「まあ落ち着け公麿。ゆかり。ほら親父を見習え、あのどっしりとした我が家の大黒柱を」

「うむ、うーん、み、水を……」

「酔っぱらって潰れてるだけじゃねえかよ! つか親父も昼間から酔いつぶれてるんじゃねえよ!」

 頭に響くのか、親父は青ざめた顔でごそごそとソファの上で丸くなった。大事な家族会議中にこの男は……。

「大介さんの所にも連絡は入っていないのですか?」

 お袋が心配そうに尋ねるが、兄貴は首を横に振るだけだった。

「一昨日の分は連絡受けたんだけどな。昨日はなかった。あいつそんなに金も持ってないはずなんだけど」

 二人は困ったなと言う風に沈黙した。くそ、気分が下がってくる。

 創大がこの街に住む友人の家に泊まると言い出したのは、本当に突然のことだったらしく、聞けばその日の夕方に急に連絡を受けたらしい。ちょうど俺が平等橋と一緒にいた時に絡まれた時だ。そこから更にもう一日泊まると兄貴は連絡を受け、次の日の分はいくらこっちがメッセージを送っても既読すらつかなかったらしい。

 突然の友人宅泊りも含め、これを家出と我が家は認定した。

 その件に関して俺は実は少しばかり罪悪感を感じている部分もあった。

 俺が露骨に家でも創大を避けていたから、こいつは家に居づらくなって出てったんじゃないかって。あの日いきなり平等橋に挑発した日も、そういった溜まりに溜まった鬱憤がそうさせたんじゃないかって。

 たとえそうだとしても俺は謝らないけどな。仕掛けてきたのは向こうだし、これについては譲るつもりはない。でも罪悪感を感じるか感じないかはまた別の問題だ。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」

 ゆかりがくいくい俺の裾を引っ張った。なんだと耳を貸せば、こそこそと何やら言い始めた。

「私のせいかもしれない」

「何が?」

「創大が出ていったの」

 見るとゆかりは泣きそうな顔をしていた。

 こそこそ話したってことは周りに聞かれたくないってことだ。

 俺はゆかりを引っ張って廊下まで出た。少し落ち着いたゆかりは事情を説明しだした。

「お姉ちゃんが男の人と遊びに行った日あるでしょ?」

「平等橋とな。その言い方マジやめろ。うん、で?」

 あの日は家を出る前にゆかりと鉢合わせたので、どこに行くのかと聞かれて前の友達と遊びに行くと言ってしまったのだ。ゆかりがこの前俺と平等橋の電話を盗み聞きしてたのは知っていたから。話がズレた。元に戻そう。

「その日に創大とかち合っちゃってさ。しかもあいつお姉ちゃんどこ行った? とか聞くから絶対教えてやるもんかっていじわるしたの」

「いじわる?」

「あっかんべーってしてやった」

 妹の頭が想像以上に幼稚で複雑な気分だ。

「そしたら創大がお姉ちゃんのこと馬鹿にしてきたの。『どうせあいつは友達もいないのに見栄張って一人で遊びに行ったんじゃねえのか?』って。あったま来たからお姉ちゃんは超イケメンの男の人とデートだって言ってやったの!」

「おい待て。お前いろいろ間違ってるぞ。くそ、まあいい、とにかくそれで?」

「そしたら創大のやつ急に黙って。一言『フーン』ってだけ言って気づいたら家から出ていってたの。これ私のせいだよね?」

 ゆかりはまた半泣きになっていた。

 お前のせいじゃないよと俺はゆかりの頭をぽんぽん撫でてやった。

 ゆかりも創大は嫌いだ。でも家から追い出したいと思っていたわけじゃない。

 過剰攻撃。

 それがゆかりを不安たらしめていることだろう。

 しかしこれで合点がいった。あの日創大があの電車にいたことは偶然かどうかわからないが、少なくとも俺と平等橋を見つけたアイツが突然平等橋を見て彼氏かどうか聞いてきたのはそういう理由があったからか。

「おいお前ら。取り敢えず探しに行くけど、行くか?」

 兄貴が車のキーを揺らしてやって来た。ゆかりはうつむいている。迎えに行くべきか、それとも自分が言っていいのかどうか迷っているのか。

「ゆかりは家に居とけ。兄貴、俺行くよ」

「じゃあいくぞ」

 さっさと出ていく兄貴を追って、俺も急いで家を出た。

 

 

 高校を卒業して、兄貴はすぐ自動車の運転免許を取った。

 それから休みの日とかちょくちょく運転しているので、海外生活が長い親父より兄貴の方がひょっとしたら運転がうまいかもしれない。

 兄貴は車に乗り込んでから、どこか目的を定めたように走り始めた。俺はそれに違和感を覚えた。

「ひょっとして創大の場所わかってる?」

「……ああ」

「嘘?」

「いや、マジ」

 俺たちは数秒間沈黙した。いや兄貴はもともと無口だから、俺が黙ることで必然的に沈黙が訪れたといった方が正しいか。

 しかし聞き捨てならん。なんであいつの場所知ってんだよ。ていうか朝っぱらから俺が騒いだのは何だったんだよ。

「親父とお袋には出る前に言ってあったんだがな」

「なんで俺には黙ってたんだよ!」

「言ったらお前ついてこなかったろ」

 俺は黙った。今度は怒りでだ。兄貴の意図がよくわからない。

 わざわざ創大に会わせるために俺を誘いだしたみたいじゃないか。

「どういうつもり? 俺今結構兄貴にムカついてんだけど」

「なんでだ?」

「俺があいつのこと嫌いなの知ってるだろ!? なのにわざわざ騙すみたいにして呼び出してさ! これもあいつと口裏合わせてんのか? 兄貴はあいつのこと気に入ってるもんな!」

「少し落ち着け」

「もが!」

 赤信号で車が止まったタイミングで、兄貴は俺の口にドーナツを突っ込んできた。腹が減るだろうと兄貴が出るときに持ち込んだものだ。それにしても、お袋といいこの家の人間は相手を黙らせるために食べ物を口に突っ込みすぎだ。

「あいつも大概だがお前もお前だ。まず第一に別に騙してない。俺はあいつと口裏を合わせてお前のこと呼び出したわけでもないし、気に入ってるからお前を陥れたとかそんなんでもない」

 兄貴が長く喋るときは怒っているときか慰めているときかの二択。これはどっちかわからない。

「これ見てみろ」

 兄貴は俺に自分のスマホを投げてきた。画面にはどこかの地図と、一か所丸いアイコンが点滅している。

「これって」

「GPS機能だよ。昔ちょっとあいつのスマホ弄る機会があったから、そん時にID知ったからな。今でも同じIDか自信がなかったが繋がったみたいだ」

 創大のスマホのGPSから場所を割り出したということらしい。噂じゃ聞いたことはあるが、実際に使用するところを見るのは初めてだった。

 俺はへーっと感心していると、こほんと咳払い。運転席の兄貴が正面を向きながら話の続きをする。

「あともう一つ。お前なんか僻んでんのか?」

「は? なんだよ急に」

 いきなり喧嘩売って来た。兄貴と言えど気が立っている今の俺に自制心はない。

「あいつがこっち来た時からやれお気に入りだ可愛がってるだと言ってくるが、俺があいつになんか特別なことしてるとこでも見たことあんのかよ」

「あるよ。だって兄貴あいつのこと怒らねえじゃん!」

「そりゃなんもしてねえ奴相手にキレてたらそっちの方がおかしいだろ」

 何言ってんだ兄貴。創大はいつも何かしているじゃないか。見ていないのか。

「何をしているっていうんだ?」

「いっつも喧嘩売ってきてる」

「俺が見る限りそんなの初めの数回だけだったろ。後はお前がずっと威嚇して会話らしい会話なんてなかったじゃないか。それとも俺が見てない所で散々やりあってたのか?」

 やりあってない。兄貴の言う通り、あいつから俺に絡みに来たのは初めの数回だけだった。でも最後にデカいのをかましてきた。

「あいつ俺の友達殴ったんだぞ。初対面で。正気じゃないじゃないか」

 これには兄貴も驚いたらしい。マジかと呟く。

「どういうことか事情はさっぱりだが、そりゃあいつに非がありそうだな」

「非しかねえよ!」

 本当にあの時はこいつ頭おかしいのかと思った。平等橋がキレなかったら俺が殴り掛かっていたところだ。

「で?」

「で、って。何が」

「いやそれ以外。他にどんなことされたんだよ」

「ほかにって……」

 いろいろされた。

 色々されたと思うけど、咄嗟には出てこない。

「されてねえよ。少なくとも家ではな。なんせ見張ってたし」

「見張ってた?」

「ああ。親父に頼まれてな。創大がもしお前にいらんことしてきたら止めてやれって。でも家じゃなんもなかったろ」

 兄貴の言葉に俺は何も言い返せなかった。

 言い返そうとはした。いや確かに具体的に何かされたわけじゃないけど、あいつが家にいるってだけで俺のストレスは溜まっていったし、間接的に不快感は与えていたわけで。

「正直な。創大に関しちゃ俺もちょっと同情染みた気持ちはなくはない」

「聞いたよ。親戚中たらいまわしにされてたからだろ」

「それもあるけど、俺高校あいつの実家の方で寮生活してたろ? そん時に偶に会ってたんだよ」

「……なにそれ? 聞いてないんだけど」

「いやお前あいつの話されるだけでもう悲鳴上げてただろ。話せるかよ」

 兄貴は高校の頃実家を離れて他県に寮生活をしていたことがあった。スポーツ推薦でなかなかの強豪校だったらしい。確かに兄貴のいた高校は母方の実家の近辺にあったはずだが、その頃の創大と会っていたのは初めて知った。

「それで創大がお気に入りになったんだ」

「だからちげえっつってんだろ。お前思い込み激しいんだよ」

「失礼な」

「いやマジで言ってる。自分がこうって思ったら周りもそう思ってるって思いこんでる。視野が狭いんだよ」

「俺兄貴と喧嘩したいわけじゃないんだけど」

「奇遇だな。俺だって喧嘩したくない」

 車内には走行音だけが静かに響く。

 なんだってんだ兄貴の奴。急に説教みたいなこと初めやがって。

「何度も言ってやるけどな。俺は創大を気に入ってるなんて一言も言ってない。言ったのは同情の余地はあるって言っただけだ。拡大解釈して勝手に世界閉じてんじゃねえバカ」

「うるさいな! 結局何が言いたいんだよ! 説教はこりごりだ!」

「創大が嫌な奴だっていう認識を改めないから、あいつのやることなすこと全部歪んで見えてんじゃねえかって言ってんだよ。言っておくがあいつが全部正しいなんて言ってるわけじゃないからな。寧ろ俺から見たら両方意味わからん。でも会話のキャッチボールが出来ていないのに勝手に相手を嫌いになって家の中の空気を悪くするのはやめてくれってことだ」

 兄貴が言うことは言葉の意味としては理解できる。

 つまり兄貴は、俺が創大のこと偏った見方をしているからまともに見ることができないって言ってるんだろ。

 ついこの前、俺が女になって平等橋に避けられた時どうして俺を避けていたのかやつに聞いた事があった。その時に返って来た答えは「なんか女になったお前見たら全部悪い方向に映っちゃってさ。変なフィルター入って見ちゃってたんだわ。すまん」だった。悪意のフィルター。あいつはそういったけど、俺もそれを通して創大のことを見ているんじゃないかって兄貴は言っているんだ。

 そうか? 俺はそこに疑問を感じる。

 だってあいつすぐに人のことを馬鹿にするし、見下すし、挙句平等橋を殴るし。人としてどうかと思う所ばかりだ。

 会話のキャッチボールが出来ていないのはあいつのせいだ。

 俺まで悪いっていう兄貴の考えに俺は賛同することができない。

「その俺は悪くないって顔ぶっさいくだぞ」

「なっ!」

 考え込んでいる最中に声をかけるのはやめてほしい。ていうか心の声が漏れてた?

「悪いとか悪くないって考え止めろよ。そう思うから余計に話がこじれるんだって気づけよ」

「意味わかんねえよ! 結局兄貴は何が言いたいわけ!」

 べらべらくっちゃべってムカつく。兄貴のことは尊敬してるけど、俺だって人の子だ。ここまで言われてストレスがたまらないはずがない。

「簡単だ。言葉で無理なら後はどうする」

「は?」

「殴って来いって言ってんだよ」

 ほら、あのベンチに座ってる奴相手にな。

 車が停車した。

 兄貴が指さした先には、ぼーっと空を見上げる同い年の従兄がそこにはいた。

 

 

「こんのアホがああああ!」

「え、な、はあ?」

 助走をつけてワンツースリー。

 勢いよく俺は創大の頬を引っぱたいた。

 いってえええええ! なんだこれ叩いた方が痛いじゃないか!

 兄貴の言いつけ通り、俺は創大目掛けて思いきり殴った。拳で殴ると下手したらお前の骨がいかれるぞ。そう兄貴が言ったので、平手打ちだと決めたのだが、平手でも指が何本か折れたんじゃないかという不安が訪れるくらい痛みが走った。

「いってえ! いきなり何しやがるんだてめええ!」

「うるせえええ! 迷惑かけてんのはお前の方だろ馬鹿野郎!」

 起き上がる創大にもう一発反対の手でビンタ。今度は辺りどころがよかったので乾いた高い音が鳴った。思いっきり拍手した時みたいなヒリヒリした感覚が残る。

「っ! なんのつもりだボケ!」

「黙れこのカス野郎!」

 手は痛い。今度は脚だ。全力でローキックをかましてやった。低く唸るよなうめき声が創大から漏れた。

 ……案の定俺の方がダメージでかいんじゃないかというくらい痛い。

 だがこれは相手も相当ダメージを受けたようで、俺とほぼ同時に崩れ落ちた。

 たった三発。でも気合いを込めて全力で殴って蹴ってやった。

 やり返されるかもしれない。そうしたらまた反撃だ。

 荒い息を整え、俺はきっと創大を睨みつけたやった。俺の怒りはこんなもんじゃない。

「散々人のこと馬鹿にする、嫌なこと言う。しかも俺の友達まで巻き込んで挙句家出だぁ!? どこまで人をイラつかせたら気が済むんだよお前!」

「うるせええ! 人の話を聞かないのはどっちだ! 昔のこと散々穿り回して今の俺の話聞いたことあったかよ!」

 反省するかと思いきやまさか言い返してきた。殴ったこともあってちょっと許してやろうかなと思った気持ちが吹き飛ぶ。

「お前クズだ! 自分が何やって来たかもわかってないような大馬鹿野郎だ!」

「誰がクズだ! 自分ばっか被害者みたいな面してるお前に言われたかねえんだよ!」

「ハイハイお前らちょっと落ち着け」

 いつの間にか俺と創大の間に兄貴が割って入っていた。

 ふしゅーふしゅーと興奮した俺たちを戒めるように、「ほれ、こんなところで騒ぎまくってたら警官来てもおかしくねえだろ」と、止めてあった車を指さした。

 

 

 走行中、俺たちは無言だった。

 俺は後部座席、創大は助手席に座っている。俺の場所なのにクソ。

 沈黙が続いた後、兄貴が口を開いた。

「創大。お前そろそろ謝れ」

「は、え、えぇ?」

 創大は思わぬところから刺されたと言わんばかりに意外な声を出した。こいつがこんな間抜けな音を出すところを俺は初めて聞いた。

「お前の意志を尊重して黙ってやってたけど、いい加減じれったい。つーかそうじゃなきゃ何のためにわざわざ叔母さん騙してこっち来たんだよ」

 目の前で俺の知らない話が展開している。何の話をしているんだこの二人は。

「俺からこいつに言ってもいいけど、信じないぞこいつ頑固だから」

「知ってます。いや、でも俺から言ってももう無理っす」

 創大は力なく言った。こいつこんな奴だったか。

もっと高飛車で、嫌な奴を具現化したような奴が俺の知ってる創大だ。嫌らしそうに口の端を上げ、人の嫌がることをするのが何よりも好きなのがこの男の本性のはずだ。バックミラーに越しに映るやつは、とてもそうは見えなかった。

「無理かもな。でも謝れ。散々待ってやったんだ。俺もお袋もキレるぞ?」

「……すいません。そうですよね。」

 創大は言うと、「公麿」と俺の名を呼んだ。こいつに名前を呼ばれたのは随分久しぶりな気がした。

「なんだよ」

「悪かった」

 何が、とか、何を、とか。そういうことは聞かなくてもわかった。全部だ。そういうことひっくるめて、全部の謝罪だと分かった。

 でも、それでもだ。

 許さなきゃいけないのか? そういう気持ちがふと沸き起こった。

 どうもこの雰囲気からして、こいつも単に俺に嫌がらせをしていただけではないらしいことはわかる。兄貴とお袋が何らか関与しているんだ。それは信用していいだろう。でもだ、それでも俺が今まで嫌な思いをしてきたのは事実で、それをこんな簡単な謝罪で許していいのか。許すことができるのか。俺は考えあぐねた。

 兄貴も創大も、俺が返事をしないことに何も言わなかった。

 創大は薄々感づいていたのだろう。小さく息を吐いただけで何も言わなかった。

 

 

 家まで帰ってくると、家の前に見慣れぬ白いセダンが一台止まっていた。

「母さん?」

 車を降りた創大がそうつぶやくと、玄関からきつそうな眼をした中年の女性が出てきた。伯母さんだ。暫く見ていなかったけど、だいぶ老けたな。

 エンジンの音で俺たちが返ってきたことに気が付いたのだろう。伯母さんはお袋と一緒に出てくると、すぐに創大の元まで近づき、創大の頬を張った。

「……っ!」

「このバカ息子! 芳子おばさんの所に連絡しても来てないっていうからまさかと思って咲江に電話したら案の定よ! 迷惑かけてこの!」

 もう一度叩いた。

 さっきまで湧いていた創大に対する怒りがしぼんでいく。

 見たくない。

 創大は力のない目で虚空を見つめていた。事が過ぎるのをただ待っているように見えた。

「姉さん。もうやめてあげてください。私がいいと言ったんですから」

「あらそう? なら逆に聞かせてもらうけど咲江。あなたどうして私の確認を一言でも取らなかったの? あなたにも問題があったんじゃないかしら」

 伯母さんの矛先が今度はお袋に向いた。すると創大が「やめてくれよ母さん」と制した。伯母さんの目がぎろりと血走る。

「あんたは黙ってなさい! よくもまあ親に口答えができたものですね!」

 俺は小学校の時以来伯母さんに会ったことがない。そのあたりからお袋がお袋の実家に繋がる人と会うことを避け始めたからだ。久しぶりに見る伯母さんは記憶の中のそれとは大きく乖離して見える。少なくとも見かけ上は俺に対しても優しかったはずなのに。怒っている状態だからでは説明できない狂気がそこから感じられた。

 振り上げられる手。流石に黙って見ていられなかった。

「やめてよ伯母さん!」

 俺はたまらず声を上げていた。言ってしまってはっと気が付いた。やってしまった。言ってはいけない一言だった。

 まるで汚いものでも見るように俺のことを睨む伯母さん。記憶にある表情なんてまるでぬるい。混じり気なしの悪意。俺は伯母さんの表情からそれを読み取った。

「ふふふふ。公麿。あんた女になったのね。汚らわしいわ」

「……っ」

 ねっとりと悪意を帯びて伯母は言う。ぞわぞわと産毛が逆立つ思いがした。なんなんだこれは。この気持ちは。

「あんたみたいなのが、あんたみたいなのがいるからこの家はいつまでも呪われ続けるのよ!」

「やめてください姉さん。私の子どもを傷つけることは私が許しません」

 お袋が俺の間に立って、伯母さんを睨んだ。

 今までお袋は伯母さんに何か強く物を言ったところを見たことがなかった。明確な上下関係が敷かれているという感じでもなかったが、一歩引いてそれに追随している印象はあった。そのお袋が伯母さんに歯向かった。さっきまで感じていた不快感が、お袋が間に入ってくれただけでなくなっていった。

「……そ。ならもういいわ。迷惑かけたわね咲江。帰るわよ創大」

 くるっと背中を向けると、伯母はさっさと車に乗り込んでいった。

 

 残される俺と創大と兄貴、お袋。

「ごめんなさい創大さん。荷物はもうまとめて車に積んであります。ばたばたしたお別れになりましたね」

「いえ、俺の方こそ申し訳ありませんでした。結局母親に見つかってしまいご迷惑をおかけすることになってしまって、ほんとなんて言ったらいいか」

「お気になさらず。姉さんのアレは見慣れたものです。創大さんもいつも大変ですね」

 ふふっとお袋が笑うと、創大もつられて少し笑みを作った。

「大介兄もほんとごめん」

「いいよ。俺基本何もしてないし」

 兄貴はめんどくさそうに耳を掻いた。創大はそれを見て苦笑した。

「そんで最後に公麿。やっぱり言わせてくれ。ごめん」

「……よくわかんないんだけどさ。結局お前それ言いにここまで来たわけ?」

『早く来なさい創大!』

 創大は何か言いかけたが、叔母さんの怒声でかき消された。結局あいつは何も言わなかった。

「あ、そうだ」

 最後に振り返って創大は俺の方を見た。

「あのさ、お前の友達にやっちゃったあれ。あれだけはマジで俺もなかったなって思った。だからそれは謝りたい。伝えてくれないか?」

「はー? なんでだよ。つーか自分でまた謝りに来い」

「……それもそうだな。すまん。じゃあな」

「創大」

 背を向ける奴に俺は声をかけた。このまま去られるのもなんとなく気分が落ち着かない。

「今度は電話出てやるよ」

「……ブチ切りはすんなよ」

 そういって創大は去っていった。後ろ姿で見えなかったけど、微かに笑っていたような、そんな気がした。

 三週間の予定は、結局蓋を開けてみると二週間も滞在しなかったことになった。

 

 

 創大が帰った後、俺は兄貴とお袋に詰め寄った。今回の種明かしだ。

「もともとあいつの方から俺に連絡が来たんだよ。お前と話し合うことができないかってな」

 兄貴の所にそういった連絡は実は随分前から着ていたらしい。それこそ俺が女になってすぐくらいから。でも兄貴は俺がバタバタしてたってのもあってもう少し待ってくれって伸ばし続けていたそうだ。

「私とお父さんが帰国したこともあって、それならいっそ夏休みを利用して遊びに来てはどうかと私が言ったんです。姉さんに内緒でやって来たのは来てから知らされてびっくりしましたけどね。とにかく、公麿さんと創大さんの仲が拗れているのは知っていましたから。昔の創大さんならまた喧嘩になるだろうからご遠慮いただこうかとも思っていたんですが、私も個人的な用事で実家に何度か顔を出していたことがあったので、今の創大さんを知っていたからというのも大きかったですね。創大さんの方に公麿さんに歩み寄ろうという意志があるのなら問題はないかと」

「でも問題大有りだった。お前が創大のことやたらめったら嫌うのはまあ予想の範疇だったんだが、創大も昔の癖が抜けなくて全然素直に歩み寄ろうとしやがらなかった」

 お袋と兄貴は何度か二人で創大をたしなめたらしい。今のやり方だったら一年使っても歩み寄るどころか険悪になるぞと。

「それでできるだけ公麿さんに誤解されないように直接的な接触は避けて、でも要所要所で会話が出来たらいいと言う結論が出たのです。順調に二人で話しているときなんかもあったでしょう?」

 あれは兄貴とお袋の入れ知恵だったのか。

「でもそんな中でお前の友達に喧嘩売るなんて暴挙に出たわけだ。流石に俺も何も言えなくなってな。電話口で黙ってたらあいつ暫く家に帰らないとか言い出した。勝手にしたらどうだって俺も返した。あいつがこの辺に知り合いなんているわけないって知ってたからな。金もねえし突き放したら黙って帰ってくるだろうと思ったからだ」

「ちょっと待って? アイツの家出って当てがあったんじゃないの?」

 説明の途中だったが、俺は口をはさんだ。友達の所に泊まるって言っていたじゃないか。

「お袋にも黙ってたんだけど、そんなもんいるはずない。なんで他県に友達がいるんだよ」

「待ちなさい大介。あなた私に嘘をついたのですか?」

 思わぬところで飛び火した。お袋はなんですっと言わんばかりに目をかっと開いた。怖い。

「待ちなってお袋。目が怖いし最後まで聞いてくれ。男の意地ってやつだろあいつのあれは。馬鹿らしいことだけどさ。とにかく一日目と二日目はネカフェで泊まったらしいんだけど、三日目で金が尽きたらしい。それでまあ救助に向かったってわけだが」

 兄貴は一息つくと、ずずっとお茶を啜った。

 リビングにはお袋と兄貴と俺、そしてソファで死んでいる親父。ゆかりは部屋でゲームでもしてる。

 兄貴の説明を聞き終えた俺だが、どうにもすっきりしない所が多い。

「……なんであいつが家に来た理由から嘘ついてたのかわかんないんだけど」

 確かここにあいつが来た時、いつも頼ってる親戚のばあちゃんが死んだからって聞いた。俺も名前くらい知ってる人だったし、式自体は出てないけど葬式があったのも知ってる。親戚がいろいろいるはずなのに、なんで絶縁状態の我が家に転がり込んできたのか不思議ではあったけど、それが嘘だとは思うまい。

「創大さんに口止めをされていたのです。理由を言えば公麿さんが嫌がるだろうからと」

「あいつ俺のことわかってんのかわかってないのかさっぱりわからん」

「私たちから見たらわかっている風に見えたんですよ。だから受け入れても大丈夫だろうと思ったんです」

 あいつが俺の嫌がることをわかっているくせにどうしてその誤解を解こうとする努力をしなかったのかがよくわからん。

「てかまずなんで創大を受け入れたのさ。あいつが昔とちょっと雰囲気違うなって言うのは最後でわかったよ。でも普通そんなんで嫌がる俺がいるのに受け入れるかね?」

「それは……」

 お袋は少し考えるように黙った。言葉を探しているように見える。

「それは、創大さんが次のあの家の跡継ぎになる人だからですよ」

「……よくわからないんだけど」

「言葉が足りませんでしたね」

 お替りいりますか? とお袋が俺と兄貴のグラスに麦茶を注いだ。

「私たちはもうあの家とは縁を切っているとは言え、やはりまだ繋がりはあるんですよ。

 それは公麿さんが女の子になってしまったことで、更に呪いという形でその存在が浮き彫りになってしまいました。要は悪目立ちしてしまっている状態なんですよ今うちは。直接的な被害は少ないにしろ、先ほど姉さんの態度を見ればわかる通り呪いは本家にとって忌避すべきものなんです。姉さんの態度が異常だと思ってはいけません。本家の人間は大体があんな態度を取ってきます」

 お袋は「何も知らないのに好き放題言ってくるんですよ」とぼそりと続ける。

 伯母さんのあの目。あの目が本家に行けば集中砲火されるのか。絶対行きたくない。

「昔は創大さんもあんな感じでした」

 お袋は言う。それはそうだろう。生まれた時からそういう環境で育てば、自然とその場の考えに思考が染まるのが人間だ。それは俺も何となく想像がつく。

「私も諦めていた部分もありましたから。殆ど部外者になった私が本家の人間である創大さんに何か言って、それが原因で家族に影響が及ぶのを考えたら何も言えなくなったというのもあります。ですから姉さんとも徐々に距離を置いて行ったんですよね」

 創大が突然俺に意地悪になった理由。

 それは俺が将来的に呪いを受けると伯母さんから、あるいはそれ以外の本家の誰かに聞いたからなのかもしれない。呪いは忌み嫌われる。排斥して当然というのが向こうの考えだ。

「でもどうしてでしょうね。創大さんはその考えがおかしいのではないかと思うようになったそうなんです。性が変わるのはおかしいことだけど、それで差別的な考えが生まれる理由が分からないと、そういったのです。私は呪いに寛容な当主が生まれれば、私がいなくなった後も公麿さんは後ろ指刺されずに生きていけるのではないかと思って創大さんを受け入れることにしたのです」

 そういうことだったのか。

 お袋や兄貴が散々俺に話し合えと言った理由がよくわかった。

 創大はもともと俺と会話を試みようとしてやって来たのに、過去のトラウマから俺は奴をはねのけてしまった。

 アイツも俺が素直に話さないからむっとなったのかもしれない。多少いじわる染みた接触をしたのかもしれない。でも俺はそれを過剰に反応してしまった。昔のせいで悪意のフィルター越しに見るあいつはいつも歪んで見えたから。決定的だったのは平等橋の件。あれはあいつも謝ったとはいえ今も許す気になれない。あれだけはなんでしたのか意味わからんが、それ以外ではあいつも一応の歩み寄りを見せていたのだ。

 俺が意固地にならず、ちょっと我慢してあいつの話を言いていればここまで拗れなかったのかもしれない。うーん、それでも俺がしたことはそこまで間違っていなかったと思うのは、俺が頑固な証拠なんだろうか。

「なあ、俺って思いこみ激しいのかな」

「かなりな」

「そんなことありませんよ」

 俺の問いにまるで正反対の答えが同時に返って来た。どっちなんだよ。

「こいつ思い込みかなり激しいって」

「あら、自分の考えをしっかり持っていないと話もできませんよ。公麿さんはただ自分の考えを持っているだけだと思います」

「そこで柔軟な発想転換ができないから思い込み激しいって言ってんだよ」

「何でもかんでも自分が間違っていると疑ってかかるよりずっといいですし、それに公麿さんはしっかり人のお話を聞く子ですよ?」

「それって自分に害のない話限定でしょ? そんなの誰だって聞くって」

「もういい! もういいから!」

 俺を挟んで兄貴とお袋が戦い出したのでストップをかけた。しかもよく聞いたらお袋も俺のこと思い込みが激しいって方に賛同してるっぽい言い方だったし。フォローはめっちゃしてくれてたけど。

 思い込みなあ。知らず知らずのうちにしてたのかもしれない。いやでもそんなの皆してることじゃないの? と思わなくもない。でもどうなんだろうな。反省すべきことなのかな。

 女になって三か月ちょっと。

 ムカつく従兄が実はそうでもないんじゃないかと自問自答するようになって、すこし自分を見つめ直さなければいけないのかなと思わせた。

本家とか呪いとかよくわかんないことばかりだけど、これからいろんな厄介ごとが付きまとってくるんだろうな。それを思うとぞっとするけど、とりあえず今は冷たい麦茶でも飲んでわははと笑っていようと思う。なんか事が起こったらそれから考えてもいいだろう。

 夏休みもそろそろ折り返しが見えてきた、そんなある日だった。

 

 




お詫び

感想欄が創大ヘイトでえらいことになっているのはわかってるんですけど、こんな形で一旦は〆ました。ふざけんじゃねえよとか、納得いかねえって方がいたら大変申し訳ありません。
感想欄参考にしてちょっと展開変えようかなとか思ったりもしたんですけど、結局は自分が元々考えてた話で進んでしまいました。
途中経過でこんな事を書くのはあまり好ましいことではないと思うのですが、モチベーション維持の為というか、この小説で私が考えていることを書こうと思います。
この小説は一人称視点ですすんでいくので、見るもの感じるものすべてある1人が主観で感じたものとなります。今回主人公が従兄に対して過剰に悪感情を剥きだしにし悪いように書きまくったのはあくまで主人公がそう思うというだけで周り全員同じことを思っているかというのはまた違うかなという風にしました。こうした一人称視点での他者とのすれ違いみたいな部分がうまく表現できればなと考えていたのですが、なかなかうまくいきませんね。創大へのヘイトが高まっていくにつれ皆さんの反応が厳しいものとなっていきましたが、それも含めて私の力量不足というほかないと思います。あれですよ、本来は創大そこまでヘイト集める予定はなかったんですよ! どうしてこうなった……
この一連のお話で不快な思いをなされた方もおられたかと思います。謹んでお詫び申し上げます。
次からは純粋にTSを愛でられるお話にしたいなあ。


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……こんなん家にあったっけかな?

 やべえ。なにがやばいって宿題が全然片付いていないことがマジでほんとヤバイ。

「フハハハハ! お姉ちゃん! 我とゲームしようぞ!」

「ごめんなーゆかりー。お姉ちゃんちょっと遊んでる暇ないわー」

 ばたんと扉を開けてやってきたゆかりは、しゅーんと落ち込んで帰っていった。うむ、罪悪感がチクリと胸を刺す。

 でもそんな事言ってられないくらい宿題がヤバイ。具体的に言うと英語のワーク以外全く手が付いていない。創大が来た時のごたごたで、初めは引きこもってやってたけど途中で遊ぶ方向にシフトしちゃったんだよな。ストレス下で勉強なんてやってられるかよ!

 あれもこれも全部創大が悪い。うんそうだ。

 現実逃避でもしてなきゃやってられない。期日的にはまだ余裕があるんだけど、毎年この時期には全部終わってたから焦る焦る。

 俺は朝から朝食も食わずに必死でがりがりとシャーペンを動かしていた。数学の計算問題が多い。さっきから滅茶苦茶急いでやってるのに二ページくらいしか進んでいないってどういうことだよ。一枚に問題びっちり詰め過ぎなんだよこんちくしょう。

「公麿ー。お袋が桃剥いたって言ってるけど食う?」

「ごめん後でいい」

 兄貴も俺の部屋を訪ねてくる。何度言われようが今日の俺は宿題の鬼だ。たとえ万札ちらつかされようが動く気はない。いや万札だと動いちゃうな。うん。

「はははははは! 公麿!」

「親父うるせえ!」

 三人目は許さん。ぷつぷつ集中を切りやがって。

 ベッドのそばに置いてあるクッションを放り投げる。躱すなムカつく。そしてまた笑うなこんにゃろう。

「元気なのはいいことだが、お前に電話だぞ」

「電話?」

 親父は片手に子機を持っていた。俺に電話なんて誰だろう。

「もしもしお電話代わりましたけど」

『あ、綾峰さん? 担任の石田です。今日クラス合宿の日だけど、綾峰さんどうかしたのかなって』

 先生の言葉を聞いて、俺は時が止まる感覚に陥った。

 クラス、合宿?

 バクバクと心臓が高鳴り、脇からじっとりと嫌な汗が流れ落ちる。まて、今日って何日だっけ。

 先生の言葉が脳を介さず耳から耳に通り抜ける。嘘だろ。マジで今日じゃねえか。机に置いた立てかけ型の小さなカレンダーに今日の日付にぐるぐる赤い印が残してあった。

『遅れてもいいから今日来れるっていうことでいいのかしら?』

「すいません。今すぐ出ます」

 電話を切った。扉の前で親父が腕を組んでにやりと笑っている。その後ろにはゆかりと兄貴も同じポーズでニヤニヤしていた。

「荷物詰めるの手伝うよお姉ちゃん!」

「俺のボストンバックもってけ公麿」

「学校まで送ってやろうぞ公麿よ」

「恩に着るよみんな!」

 なんていい家族なんだと俺は心の中で涙した。

 

 

「だはははははは! お前日付忘れてたって、あ、アホだ! バカだ!」

「うるさいよ平等橋! たまたま忘れることくらいあるだろ!」

 急いで準備をして、親父に学校まで送ってもらった時にはちょうど昼食時みたいだった。皆は食堂でカレーを食っていた。このカレーも宿題が早く終わった奴らが家庭科室でつくったものだ。この作業が楽しいから、俺も参加したかったのだが。

 職員室によって石田先生に挨拶して、そこからすぐやって来た。時間的にもう昼飯かなーって思ってたけどマジでそうだとは。一泊二日の四分の一がもう既に終了したことになる。くそー。

 クラス単位で座っている席にこそこそ行くと、すぐ近くに平等橋がいたので隣にお邪魔させてもらった。

 一向にやってこない俺をこいつはこいつで心配していたらしい。

「つーか連絡くらい見ろよ」

「宿題の邪魔だからスマホの電源落としてたんだよ」

 車に乗っている最中電源を入れると、平等橋や裕子などから着信やらメッセージやらたくさん来ててびっくりした。そういえば裕子はどこだろうとその場で首を伸ばして探してみたが姿が見えない。これだけ人がいれば見えなくても当然か。

 クラス合宿。

 夏休み半ばに開かれるこのイベントは、一言でいうと宿題を終わらせることのできない生徒の救済措置だ。

 うちの学校は一年生二年生でべらぼうに宿題が出される。部活生や勉強の苦手な生徒は毎年いつも苦しむことになるのだ。

 そこでいつの代の生徒会長が提案したのか不明だが、学校全体で勉強合宿という名の泊り行事を提案したのが事の始まりらしい。

 もともと部活生の中では、宿題が終わらせられない部員を学校に強制的に縛り付け、泊まり込みで終えさせるというスパルタなことを行っている所もあったのだが、随分昔に教育問題に取り上げられたのだ。そしてより人道的に課題を楽しく終わらせる手段として生まれたのがこのクラス合宿だ。

 学校全体で同時に行えば布団とか場所とかとてもじゃないが足りないので、期間をずらしてクラス単位で合宿を全てのクラス行う。故にクラス合宿とよばれるのだ。

 クラス全体での団結力も高まるし、仲も深まる。何より学校というある種家庭とはまた別の見慣れた環境で寝泊りするというのが楽しく、生徒からの人気は高い。

 この合宿では宿題を終わらせることがメインだが、それ以外も結構イベントはある。初日の夜は肝試しをするし、次の日の夜はバーべキューと花火を行う。昼と夜の飯の用意は基本的に自分たちで行い、それ以外にもクラスの希望でしたいことはクラスごとに変わっていく。

 宿題がヤバい奴と夏休み友達と遊びたい奴、単純に暇をつぶしたい奴など、様々な要望を叶えたのがこのクラス合宿という行事だった。ただやっぱり基本は勉強なので、日中はずっと教室で宿題やってんだけどな。

 今の形まで持ってくるのは相当大変だったと歳のいった先生とか言うけど、この行事があるのは俺は好ましいと感じていた。任意参加だから、だるいっていって参加しない奴とかも結構いるんだけど。

 学食はうちのクラスの奴らの他にも、部活生などでごった返している。

 受け取ったカレーを口に運んでいると、平等橋が隣でじーっと見つめているのが気になった。

「何。なんかついてる?」

「いや、そういやお前あの従兄どうなったのかなって気になってな」

「あー、あれな」

 誤魔化すつもりは全くなかった。あれには平等橋も大きくかかわっていたし、しっかり事の顛末は喋るつもりだった。あいつの平等橋の謝罪も含め。でもいきなり聞かれるとは思っていなかったので、どう答えようか答えに詰まってしまった。その様子は傍から見たら誤魔化している風にも見えただろう。

「答えにくいなら別にいいけど」

「いや全然全然。そうじゃなくてさ。私から切り出そうと思ってたからびっくりしただけ」

 わたわたと手を振って否定したら、平等橋はぷっと吹きだした。俺の必死な姿がおもしろかったということだろうか。許さん。

「おーふたーりさーん」

 にゅっと俺と平等橋の隙間に一人の男子が割り込んできた。

 こいつは知っている。

 平等橋の部活仲間の望月とか言う奴だ。

 茶髪でチャラチャラしてて、常に女子とくっちゃべっているナンパ野郎である。

 一年の時から俺が平等橋と二人で話しているときも急に現れて平等橋を連れていくことも多かった。こいつは平等橋を取るから俺は嫌いだった。人間的には知らんけど、喋っている相手取ってくのマジでやめろって思う。一人残されてぽつーんってなると割とガチで寂しくなるんだからな。

「望月、お前部活だろ」

「そそ。コーチがなんか途中で説教初めてさー、昼飯の時間こんな遅くなっちゃった。まーくん慰めて?」

「知らんあっちいけ。俺は今合宿中なんだよ」

 平等橋はしっしと追い払う仕草をする。

 クラス合宿の最中は原則部活よりもこちらを優先していいことになってる。生まれた経緯を考えても、先に学業をということだ。大会が近かったり、それでも隠れて練習させる部活とかあるみたいだけど、サッカー部はそういうことでもないらしい。

「えー、いいじゃん一緒に食べようよ。まーくんの彼女も一緒にさー」

 え、平等橋まだ彼女いてたっけ。一瞬もやっとしてきょろきょろ見渡したがそれらしいのはいない。平等橋が溜息を吐いたのが見えたのでようやく合点がいった。あ、これ俺のこと言われてんのか。

「彼女じゃねえよ。綾峰だよ。知ってるだろ」

「あー、あの女男のかわいい子ね。え、マジで? 嘘綾峰くんってこんな可愛い子だったの? うっそ~」

 まじまじと俺を見る望月。チャラい。うざい。一部の派手な女子はこいつのこの軽いノリで受けている所を見たことは何度かあるが、俺とはタイプが違うと思った。

「彼女じゃないってマ~ジ? じゃあ僕立候補してもいい? 付き合ってよ綾峰ちゃ~ん」

「嫌だ。あっちいけ」

 この手の相手に優しさは逆効果だ。きっぱりと拒絶の意を示せばそれで大丈夫なはず。

「なにそれ超冷たいんですけど~」

「お前マジで今はどっか行っとけ。ほら、お前の彼女があそこに座ってるぞ」

「もう別れたしー」

 鬱陶しそうに平等橋が離れた席に座っている女子の集団を顎で示せば、特に落ち込んだ様子もなく望月は答えた。見た目通り中身も軽そうだなー、こいつ。

「それよか綾峰ちゃんマジで可愛いじゃん。まずはお友達からってことでどう?」

「お前なあ」

 平等橋がちょっとキレたような声を出したその時、平等橋はぴたりと口を閉じた。不思議に思って奴の顔をのぞくと、ひくっとひきつった笑み。こいつはこういう顔をよくするが、今度は一体何なんだ。

 平等橋の見ている方を俺も見る。

 腕を組んで仁王立ちをする裕子の姿がそこにはあった。怖っわ。

「いい覚悟じゃない望月。あんたこの子になんの用事だって? もう一度私に言ってくれないかしら」

「え、あ、いや~」

 だらだらと脂汗を流しながら目を泳がせる望月。裕子の脅威はこいつにも有効らしい。

 僕そういえば用事あるんだった~と逃げていった望月を見送ると、裕子はふんと鼻を鳴らした。王者の風格がある。

「情けない。あんな輩さっさと追い払いなさいよ平等橋」

「そういうなよ。軽いけどあいつだって悪い奴じゃないし、それに部活仲間だ」

「そ。でも少なくともこの子が困ってたことくらいわかってたんならさっさと助けなさい」

 この二人の攻防を見るのは久しぶりだ。二人とも本気でいがみ合っているわけではないと知っているので、安心してみることができる。なんか俺がいかにも虚弱生物みたいに扱われているのが癪だけど。

 裕子は平等橋との言い合いを終えると、「それで?」と俺の方に向き直った。う、嫌な予感。

「で、言い訳を聞こうかしら」

「や、やー、あははは。ほら、そんな事より隣座れよ。ほら、空いてるからさ」

 裕子の目が怖い。笑ってない。口元は笑ってるのに目にハイライトが入ってない。

 仕方ないわねと俺の隣に腰を下ろす裕子。席の並びとしては、平等橋、俺、裕子となる。この二人に挟まれるのはなんか微妙だけど、この際仕方がない。

「いやさー、実はクラス合宿の日今日だって気が付かなくってさ」

「そんなことどうでもいいのよ。多分忘れてるんだろうなって気はしてたもの」

 だったらなんで聞いてきたんだよ。

「私が聞いてるのは、あの中途半端な返信についてよ」

「返信……?」

 何のことを言ってるのだろう。

 たっぷり30秒ほど考えて、思いつくものがあった。

「あ、あーあれか。あの水着持ってきたかってやつか」

 裕子は俺の安否確認を一時間の間で20件近く入れてきていたが、後半は俺がスマホの電源を落としていると察したのか、これを持ってこいだのあれを持ってこいだの指示の形に変わっていた。俺はそれを見た時もう既に家を出た後だったので、持ってきたのと持ってきてないの律儀に返したのだった。水着は残念だが持ってきていない。いらんだろあんなもん。日中は水泳部が使っててプールに入る機会なんてないし。

「忘れたってどういうことよ。あなた何のために舞依と水着を買いに行ったと思ってるの」

「ぜってえこの日の為じゃねえよ。てかプールなんて入る機会ないだろこの合宿で。何のために必要なんだよ」

 俺がそういうと、裕子だけじゃなく平等橋も「え、知らないの?」とでも言いたげにぽかんと口を開いた。

「夜中プール開放してんだよ。肝試しが終わった後な。ある意味でこれが本番だって言ってるやつもいるくらいだぜ?」

「夜中に? 危ないじゃないか」

「プールの近くにデカいライトあるから光はあるよ。普段は使用禁止だけどこの期間は許されてんだ。お前知らなかったのか?」

 平等橋はそう教えてくれた。

 知らなかった。

 でも確か去年も二日目の朝妙に他の奴らの寝起きが悪かった気がする。あれは夜中にプールではしゃいで寝たからだったのかもしれない。あの時期はまだそこまで平等橋と打ち解け切れていない時だったし、あいつも俺を誘うことはしなかったからな。普通に肝試しが終わった後は寝てた。

「そっか、残念だな。折角プール入れると思ったのに」

「残念だわ。本当に」

 俺が肩を落とすと、裕子は俺以上に落ち込んだ。

 ……実は水着を入れなかったのはわざとだ。

 このクラス合宿というイベントは何が起こるかわからない。クラスによってはしたいと思うことは様々だからだ。ある年のクラスは肝試しの代わりに天体観測をしたという所もあるし、映画の上映会をしたってところもある。それこそクラスに寄っちゃ花火なんかよりプールで水球大会をしたってとこも聞いたくらいだ。だから学校で使うようなもんは一通り必要になるかもしれないという考えはあった。

 でも俺はわざと水着は置いてきた。

 だって恥ずかしいじゃないか。確かに舞依と一緒に買いはしたけど、あれに袖を通すことは多分ないと思う。この夏が終わったらゆかりにでもあげようかなって思ってるくらいだ。今だと胸がちょっと余るから、あいつがもう少し成長したら着れるだろうなあとか思いながら。

「それよりあなた、えらく大荷物ね」

 裕子は俺の足元に置いたボストンバックを指さした。緑色のデカいやつだ。一泊二日にしては確かに大荷物なのかもしれない。でもこんなもんじゃないのか。

「基本制服だし、私服を入れるわけでもないのに一体何を持って来たっていうのよ。ちょっと見せなさい」

「私も何が入ってるのかあんまり知らないんだよね。勉強道具とか普段遣いのリュックは私が用意したんだけど、泊まるセットとかは兄貴と妹が用意してくれたんだ」

「なにそれ、お泊りセットを兄妹に用意してもらうって普通聞かないわよ」

 裕子は呆れながら笑った。うるせえ。時間なかったんだよ。ついでにぷるぷると笑いをこらえるように震える平等橋の脇腹には肘鉄を叩き込んでおいた。

「何が入ってるんだろ」

「今ここで見ちゃったら片付け大変だし、先に大荷物は寝る場所に運び込んで置いたらどうかしら。もうみんなそこに置いてあるし」

 裕子はそういうと俺の荷物を肩に掛けた。男らしいなおい。俺はそれ持つのに「ぃよいしょお!」とか掛け声上げなきゃ無理だっていうのに。

 

 

「片付けやっといてやるから、お前先言って来いよ」

 平等橋がそういってくれたので、俺はそれに甘えて裕子に付いて行った。

 普段の授業では使わない特別棟、予備の家庭科室とか視聴覚室とかが入ってるところの二階と三階にある教室が今回俺たちが泊まる教室となっていた。部活生が泊まるところなんかも基本ここで、布団とかシーツとか、ぎっしり詰まってある。元は家庭科被覆室とかいう名前だったかな。今じゃ一部の生徒からは“別荘”なんて言われてたりする。そんないい所でもないけどな。

 女子が三階なので、そこまでえっちらおっちら運ぶ。エレベーターがないのが辛い所だ。夏真っ盛りということもあって、廊下がじめじめと蒸し暑い。

 教室と言っても、合宿場に使われるようなものなので当然そのまま教室って感じでもない。床が一面畳張りになっているのがその最たるものだ。その癖黒板が前方と後方に残っているのだからアンマッチ感が凄い。でもこの黒板、毎年合宿終わりには記念撮影でいろんなアートを作れるからそれはそれでいいものだったりする。

 去年俺は二階に泊まっていた。

 そこで二階と三階の格差に気づかされた。

「ここ天井に扇風機ついてる!」

「そうね。あ、男子の所は家庭用の奴が何台かあるだけなんだっけ」

 俺が叫ぶと、裕子はそうねと反応してくれた。何台かじゃない。一台しかなかったんだ。去年はその前の組が二台あった扇風機のうち一台を壊したとかで、俺たちのクラスでは一台の扇風機を取り合う羽目になったのだ。寝る時超あつかったんだからな。

 ほかにもコンセントの数がこっちの方が多い。建物の階の影響か風通しが心なしか良い。布団の質がちょっといいなどなど、なんだか若干の女子贔屓が感じられた。

「嬉しいけどなんか複雑だなあ」

「二つを経験している生徒なんてあんただけよね、きっと」

 入り口の横の下足にスリッパを入れ部屋に入る裕子と俺。部屋の窓を全開にしている為、むわっとした熱気はない。むしろ夏なのにちょっと涼しいくらいだった。

 よっと裕子は俺のバックを適当な場所に下ろした。皆好き勝手に荷物を置いている。裕子たちの荷物の近くに下ろしてくれたみたいだ。こういう時友達がいるって有難いっておもう。去年は殆どぼっちだったからなー。皆気を遣ってくれたけど、どこに陣取ればいいか分かんなかったもんだ。

「さてさて、じゃあ御開帳と行きますか」

「なんかスケベ親父みたいだぞ裕子」

「へっへっへ。スケベしようや姉ちゃん」

 珍しく裕子が乗って来た。

 合宿という特別な気分にこいつも当てられているのかもしれない。

 俺もあの二人が何を詰めたかちらちら見てはいたので大体は知っているが、気にはなる。兄貴は問題ないだろうけど、ゆかりが何を入れてたかだよなあ。下着類はあいつに全部一任したから今更ながらに不安になって来た。

「トランプとウノが出て来たわね。ふうん、まあ後で遊びましょうか」

「……こんなん家にあったっけかな?」

 見たことないトランプと、未開封のウノが出てきた。まさかこれを見越して事前に買ってたのか? 兄貴が入れたのかゆかりが入れたのか不明だけど。

「携帯ゲームが一つ二つ、三つ……全部で四つね。荷物が重かったのはきっとこれのせいね」

「これは間違いなく妹のせいだ。あいつ普通に旅行だと思ってたのか?」

 カセットは某赤い帽子を被ってオーバーオールを着たおじさんが主役のカートゲーム。これを皆で遊べってことか。

「あとは普通ね。下着下着下着に歯ブラシ、バスタオル、ドライヤーに……あら?」

「どうかした?」

 俺は懐かしいなこれとゲーム機をガチャガチャ動かしていると、「この袋は何かしら」と裕子が俺に見せてきた。悪戯が成功した子どものような声だ。ん、悪戯?

「どれ?」

「これ」

 振り返ると白いビニールの袋。どこかで見たことあるような特徴的なロゴが刻まれている。

「ちょ、それって!」

「あらあら、私この店知ってるのよ。去年亜依と舞依の三人でここの商品を買ったものだから」

 するっとそこから見覚えのある布を取り出す裕子。試着以来家でも試していなかったのでタグがまだ着いたままだ。

「持ってきてるじゃない。水着」

「……うん、そうね」

 あの日舞依と一緒に買った水着がそこにはあった。

 おかしい。あの日から誰にも見つからないようにクローゼットの奥底に隠したはずなのに。ゆかりの奴。目ざとく発見してこっそり入れやがったんだ。

「公麿ー。夜が楽しくなりそうね」

 肩を組んでえらい嬉しそうに笑う裕子。

 俺は今すぐに家に帰りたい気持ちでいっぱいになった。

 

 



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調子に乗り過ぎると痛い目みるぞ

 荷物を置いた後、二年三組の俺たちの教室に行くと既にほとんどのクラスメイト達が席についていた。 

「あ、綾峰さん。これさっき頼まれてたやつ」

「すいません。ありがとうございます」

 教卓の前に座っていた石田先生は俺を見つけると手招きをし、今日のしおりを渡した。

 事前にこの合宿で何をするか予定を決めた冊子だ。生徒がクラスごとで作成していて、修学旅行の時に配る冊子の簡略版みたいなのを想像してくれたらわかりやすいと思う。これを作るのもクラス合宿の楽しみだったりする。夏休み前に配られたんだけど、今日バタバタしていて忘れてきてしまったのだ。

 俺は席に着くと、さてこのクラスはどんなことをするんだったかなと再確認するつもりで冊子を開いた。表紙は絵がうまい奴がうちの制服着た男女を描いている。微妙に胴体が長いがそれは御愛嬌というものだろう。

「昼食カレー作り、午後勉強、夕方七時から八時に肝試し、そんで就寝か」

 基本的に何も捻りを加えなければ初日と二日目の夜は肝試しと花火でおしまいになる。

 二日目が夜解散にするのは毎年揉めることだが、全てのクラスを順番に回すには二泊三日にするとちょっと長いらしい。このクラスはここの部分まったく弄っていないみたいだ。俺肝試しより映画鑑賞とかの方がよかったんだけどな。去年男女のペアが足りないっていって俺だけペアのやつ男子だったし。肝試し自体は楽しいけどペアの奴に結構左右される気がするんだよなあれ。

「ん? プールのこと書いてないけど」

「あれは一応黙認って形になってるからな」

 俺のつぶやきに反応する声。

 右隣にやって来た平等橋がそういった。

「禁止ってこと?」

「公にはあんまりOKって言いたくないんだろ。夜だし、何かあったら責任問題だからな。だけど生徒の要望も叶えたいってんで黙認。ライトが点くのもぎりぎりのラインらしいぜ」

 俺はふーんと相槌を打ってしおりに目を落とした。やっぱプールあんのかー。

 この合宿では好きな席に座っていいことになっている。

 毎時間席に着いた奴から勝手に勉強を始めていく学習塾みたいなスタイルだ。

 みんな夏休みで自分の持ち物とか全部家に持って帰ってるし、好きな奴と教え合いながらしたいってんでクラスの皆で話し合ってできたルールだ。とはいっても荷物を動かすのが面倒だから、朝来た時使ってた席から動かないってやつも多くてあんまりばらばらに座ってるってわけでもないんだけど。

 俺は裕子たちが席取っといてくれてるかなーって微かな希望をもってたんだけど、席取りは禁止って言われたらしくあいつらの周りの席は既に埋まってしまっていた。

 仕方ないから適当に空いてるところに座ったら平等橋がやってきたという訳だ。

「お前午前中どこ座ってたの?」

「俺午前はちょっと部活の方に顔出してたんだよ。明々後日試合だからさ」

 平等橋も俺と同じように午後からの参加らしい。

「宿題の進み具合は?」

「全くノータッチ。部活終わったら家帰って風呂入るだろ? 寝るだろ? そんで起きて飯食ってテレビ見て寝たらもう次の日だ。できる時間ねえ」

「テレビ見る時間減らしたらどうなんだよ」

「正論だな。でもそれがどうしてだかできねえんだよなあ」

 こそこそ話していると石田先生に「そこ勉強に関係ないお話多いよー」と注意された。気を付けます。

 クラス合宿のこの時間は基本的に私語厳禁だ。もともと家で宿題が進まないからここで持ち込んでいるわけだから、この場では絶対進まなければいけない。その為に時間をきっちり決めて行うのだ。

 集中力を切らしてすぐ廊下に出て友人とお喋りをしだす奴もいるが、そうなると担任の先生が教室に連れ戻しにやってくる。とはいえどうしたって集中力は切れるものだから、休憩時間は用意されてる。

 通常授業でいうところの六時間目が終わるときと、夕方六時の前半後半で分けられているのだ。

 二十分くらい休憩があって、去年だと前半の休憩時間にPTAからスイカの差し入れがあったかな。

 後半が終わったら夕飯に移る。昼飯はカレーだったし、夜は一体何になるのか楽しみなところだ。

「公麿公麿。この問三ってどうやったら解ける?」

 しばらく無言でガリガリと数学の問題集を解いていると、同じ問題集をやっている平等橋が小声で俺の脇をつついてきた。危うく笑いかけた。二度とするなと脛を蹴ってやる。

「何、どれ?」

「これなんだけど。ちょっと意味わからん」

 平等橋は数学が苦手だ。この前数学のテストで補習食らっていたくらいに。反対に英語と国語はクラスでも上位に食い込むので勉強が苦手ってわけでもないんだと思う。

 見せてきたのは俺がすでに解いていたページの問題だ。やり方が分かれば後は機械的に解けるが分からなきゃずっと思い悩むタイプの問題だ。ようは覚えりゃすむ計算式。

「ここ、解の公式使って、そんで全体2で割って」

「あー、そっから移項すりゃいいのか。おっけサンキュ」

 地頭がいいので平等橋はすぐに理解した。お前本当に数学苦手なのかよってちょっと悔しく思う。俺はその問題答え見て暫くうんうん悩んでやっとわかったっていうのに。

 それからちょくちょく平等橋は俺にわからない問題を聞いてきて、それに答えていると前半は終わった。

 今年の差し入れはアイスだった。箱で六本とかで入ってるタイプの奴が数種類あって、そこから俺はソーダアイスを選んだ。聞けば石田先生の自腹らしい。ありがたや。

 俺と平等橋は廊下に出て食べることにした。

 教室と対面にある窓際の壁に背中を預け、生ぬるい風を感じながら冷たいアイスをなめる。至極だ。

 俺がちびちび舐めているのとは反対に、平等橋はしゃくしゃくと速攻で平らげる。性格でるなあこういう所。

「食べる早いなーお前」

「なんかこういうのって一気に食わないと喰った気しねえんだよな」

 食べ終わったアイスの棒を口にくわえてプラプラ振る平等橋。行儀悪い。

「私はゆっくり食べるのが好き」

「うげー、俺そういうの無理だわ」

「お前意外とがさつだもんな」

「どういう意味だよこの野郎」

 けらけらと笑っていると、教室から亜衣と舞衣がやって来た。

「ご出勤ですかい社長?」

「重役出勤お疲れ様です!」

 びしっと敬礼する二人。完全に今日の遅刻をネタにされている。

「うるさいよ二人とも。あれ、裕子は?」

 二人の後ろを確認するが、その姿が見えない。

「なんか部活の方で呼ばれてったよ?」

 と舞衣。部活か。どこもかしこも忙しそうだ。

 その後一言二言交わして二人はお手洗いの方に消えていった。

「なんか悪い事したか?」

 二人が行ったあと、平等橋がやや困ったように眉を下げた。何がいいたいかは大体わかる。

「別にあいつらこっちの気を遣ってるわけじゃないと思うよ」

「だといいんだがな」

 裕子を含めたあの三人はよく俺にかまってくれるが、いつも平等橋を近づけさせないというわけではない。寧ろ先に平等橋と一緒にいる時はあまりちょっかいを掛けず、喋り終わったらこっちへおいでといったテンションだ。逆にあいつらといる時に平等橋がやってきた時は「今はこっちの時間よ」とばかりにこいつを追い払うんだけど。そういう時俺は大体いつも微妙な顔しながら笑うしかなくなってる。

「逆にお前はいいの? 私とばっかりで他の友達大丈夫かよ」

 平等橋は俺よりずっと友達が多い。それこそクラスにも俺が名前を挙げないだけでいつもつるんでる連中、俺は勝手にリア充グループと呼んでいる、がいるというのに、こいつは時間があれば俺の方に来てくれるきがする。なんていうかな、人気者を独占している罪悪感がちょっとだけある。

「全然平気。あいつらはあいつらで勝手に楽しんでるし。それに俺と公麿が仲いいってあいつらも知ってるしな」

 平等橋はあっけらかんと言った。仲いいって言われると嬉しいもんだな。あー、ちょっと顔が熱くなった。気づかれたら引かれるかなこれ。

 暑い暑いと誤魔化すように手をぱたぱたさせていると、「やっぱ暑いわけ?」と訊いてきた。やっぱりってどういう意味だよ。

「そりゃ今夏だし。暑いけど」

「じゃなくてさ、そのー、髪の毛」

「髪?」

 髪がなんだというのだ。俺は自分の首の後ろに手を当て、あーそういうことかと気が付いた。

「長さのことね」

「春より伸びてないか?」

 俺は春先より幾分髪が伸びていた。肩先くらいだったのが、今は肩甲骨くらいまで伸びている。一回興味本位で伸ばして見たかったのと、舞衣が「我が同士よ!」と目を輝かせてきたので俺も調子に乗っていたのだ。

 あんまり家から出なかったし、基本クーラーの元で生活してたから暑さは意識してなかったけど、久しぶりに学校来ると首元が超蒸れて暑い。あと髪洗う時とかもすげえシャンプーもこもこになってうざい。ヤバイ伸ばしてるメリット何も感じなくなってきた。

「いいんじゃないか。なんかすげえ女子っぽいし」

 褒められると嬉しい。褒め方がちょっと微妙な気もするけど。うん、もうちょいこのままでいるか。我ながら単純だ。

「あーそうだ。お前こんなんいる?」

 わざとらしく平等橋が切り出した。んん! と咳払い。不自然すぎるその仕草に若干以上の胡散臭さを感じる。

「何?」

「深い意味はないぞ」

 取り出したのは藍色のなんかワニの口みたいなとげとげした洗濯ばさみみたいなやつだった。結構デカい。

「いやマジでなにこれ」

「知らない? 髪留めだよ。バンスクリップってやつ」

「これ髪留めか。……なんで学校に持ってきてるんだよ」

 へーっと感心しながら手渡されたそれを弄る俺。いやいや違う。なんでこんなもんお前持ってるんだよ。

 明らかに女性ものであるアイテムを学校に持ち込んでいる平等橋に胡乱気な視線を送ると「だから深い意味なんかねえって言ったろ」とかなり焦って否定しだした。

「姉貴がお前にプレゼントだってよ」

「愛華さんが?」

 聞けば先日友人と買い物に行ったとき偶然見つけて買って来てくれたらしい。結構高そうなのに申し訳ないな。

「暑そうだし後ろ髪とか纏めたら?」

「そうしようかな。でも使い方が分からん。しかし見れば見るほどミュータントの口みたいだなこれー」

 蝶番のところをカチカチさせていると、その間に平等橋は使い方をネットで調べてくれていた。

「こうするみたいだぜ。はー、女ってこうやって髪の毛纏めてんのな」

「ふーん、どれどれ」

 まず後ろの髪をまとめて肩の方に持ってきて、捻ると。うん? 結構むずいぞ。

「ぎゃははは! 下手くそすぎんだろお前!」

「う、うっせえ!」

 その後四苦八苦して何とかアップにすることに成功した。首元がすっきりして、午後の授業はすこぶる集中できたことを追記しておく。

 

 

「あんたらえらくいちゃついてたらしいじゃない」

 午後の勉強時間が終わった後、クラスの皆でぞろぞろと家庭科室に移動した。夕飯の支度だ。

 豚汁に焼き魚、野菜炒めの調理班に分かれ、俺は裕子たちと豚汁作成班に入った。ご飯は休憩時間の間に手が空いてるやつが先に予約を入れてきてくれたので、もう炊き終えている。

 大根の皮を剥いていると、裕子は唐突に俺に投げかけてきたのだ。

「いちゃいちゃ? どういうことさ」

「誤魔化さなくてもいいわよ。えらくかわいいものつけてるんだから誰だってわかるわ」

 裕子が呆れたように肩をすくめると、舞衣も「そうだそうだ」と興味深々に食いついてきた。亜衣は足りな分の野菜を準備室から運んできている為いないが、あいつもいたら便乗して言ってきそうだ。

 裕子の指さした先は俺の頭、正確には頭に付けてるクリップを示していた。

「あ、こ、これな! これ違うぞ。あいつの姉ちゃんにもらったやつだからこれ!」

 藍色の大人っぽいクリップ。デザイン自体はシンプルなんだけど色合いとか形とか凄く気に入った。流石愛華さん。センスがいいなあと感心する。

 裕子は愛華さんを知っているので、そうなのと目を丸くした。でも追及を止める気はないみたいだ。

「それにしたってみんなが見てるあんなところでいちゃいちゃするのはちょっとけしからんわね」

「ボスボス。本音漏れてるって」

「だからいちゃいちゃしてないって」

 妙な誤解をしている裕子に俺が何か反論しようとしたとき、ちょうど亜衣が帰って来た。段ボール箱いっぱいに野菜を抱えている。

「お帰り~ん。ほっほう、さすがはパワーファイターですなあ。重くないの?」

「なんのその。ソフトで鍛えた我が肉体を侮るでないわ」

 わはははと合掌する亜衣と舞衣。

 なんだかうまい具合で話の腰が折れた。ほじくり返しても都合のいいもんでもないしほっとくか。そう思って鍋に火をかけたところで「そいやマロちんもう告ったの?」と亜衣が爆弾投げてきやがった。この話の流れでなんのことかわからんほど鈍感じゃない。

「はあ?」

「あたしは見てなかったけど、クラスの男子が血の涙流しながら『平等橋殺す。平等橋殺す』って呟いてたよ。三人くらいいて普通に怖かったな」

 知らなかった。ていうかさっきから平等橋の姿がどこにも見えない。ちょっと不安になってきた。

「やめろっていう訳じゃないしほっとけばいい話なんだけど、周りがどう見てるかっていうのも気をつけなさい。あんたら二人はそう思ってなくても周りは違うんだから」

 それにしても平等橋にやるには惜しいわねえ、と裕子は零した。

 俺は何と返せばいいのかわからず、ひたすら鍋の灰汁を掬った。

 面倒くさい、とは違うんだけど、厄介だなと思う。

 周りがどう思おうがそんなん知らねえよって言えたらそれが一番なんだけど、あいにく俺はそこまで強くはない。

 素直にその気持ちを三人に伝えると、三人とも同意の意を示してくれた。そう思ってくれる友達がいるだけで救われる。

「別に付き合ってるわけじゃないんだ」

「そんなわけないだろ。あいつとそんなことなるはずないって」

 きょとんと尋ねる亜衣に俺はないないと手を振る。俺が平等橋に? 想像しただけで笑える。以前血迷って平等橋が頭の湧いた提案を俺に持ち掛けてきたことはあったが、あいつも別に俺に対して恋愛感情を抱いているわけではないと思う。

 大切な友達だけど、それとこれとはまた話が別なのだ。

「でもマロちんがそう思ってても向こうはそう思ってないかもしんないよ?」

「まあいいじゃない」

 舞衣の追撃を裕子が止めた。

「結局その時にならなきゃわからないんだし、今ここでごちゃごちゃ言ってもしょうのないことよ」

「それ言ったらそうなんだけどさー」

「それにこういうのは他人が余計なこと言えばいうほど拗れるものだし」

「おやおや? ボスが何やら乙女っぽいことを言い出しましたぞ亜衣殿?」

「いや、そこはちょっと乗れないかなー舞衣殿」

「おい、うそだろ。梯子外されちまったよ」

「自分から言い出してといて何言ってんのよ舞衣」

 その後はいつも通りの空気に戻ったけど、俺はすっきりしないもやもやみたいなものが胸に残り、それは食事を終えても消えてはくれなかった。

 

 

 一旦部屋に戻ってから、肝試しが始まった。

 特別棟の一階の多目的教室に集合し、クラス合宿担当のやつらが前に出てルールの説明を行う。

 去年と殆ど同じなので、俺は話半分で舞衣と駄弁りながら聞いていた。部屋に戻ってから舞衣に髪の毛のアレンジの仕方をいろいろ教わっていたのだ。凝り出すとおもしれえよこれ。

「おい公麿聞いてるか?」

 担当の片割れである平等橋が名指しで俺を指摘してきた。皆が見るからやめろよ馬鹿。

「聞いてるよ」

「だったら今言った説明初めからここで喋ってくれるな?」

 聞いてないからできない。くそ。嫌らしい報復の仕方しやがって。後で脛蹴ってやる。

「まあ皆去年とかやってるから聞くのもだるいと思うけどさ、一応学校とは言え夜だから注意は必要な訳よ。だから皆もっかいこっち注目してくれ」

 話を聞いていないのは俺だけじゃない。周りを見るとざわざわ好き勝手喋っているので、諌めるために俺を使ったらしいことはわかった。説明を女子の相方にバトンタッチした平等橋は、こっそり俺に目で謝って来た。話を聞いていなかったのは俺も悪いし許してやることにする。ふん。

「そういうアイコンタクトが怪しまれる原因だって気づかないんだもんなー。この二人は」

 舞衣がボソッと何か言ったような気がして振り返ったが、下手くそな口笛を吹くマネをされて誤魔化された。

 ルールは簡単だ。

 まず脅かす組と回る組で半分に分かれる。

 出発前にペアを決め、指定されたルートを通って最後に二年三組の黒板にマグネットを付けてきたら終了だ。

 マグネットは全部で3つ。

 それぞれチェックポイントである「学食」「体育教官室前」「音楽室」にそれぞれ置いてある。

 脅かす役は至る所で脅かすが、基本的にチェックポイントの所に一人はいるようにしてある。ネタが割れると白けてしまうので、脅かす役は前後で各自別々の脅かしグッズを用意している。こういうところはなぜか凝ってるんだよなと感心するところだ。

 時間の都合もあるので、そこまで長いルートじゃないけどなかなか楽しめそうだった。

 俺と舞衣は前半に回る組で、裕子と亜衣、平等橋は脅かす組だった。

 脅かす組が先に教室を出ていくと、残った女子の担当の子がくじでペアを決めていた。

 お菓子の缶に入れられた四つ折りの紙を開くと赤く④と書かれていた。

「マロちん何番?」

「四番。舞衣は?」

「あたし九番。多分最後だこれ」

 さっそく一番の組が出発する。

 誰が俺のペアだろうと見渡すと、すぐに見つかった。

「四?」

「お、おう!」

 熱でもあるんじゃないかってくらい顔を赤らめた奴が俺に近づいてきたからだ。

 村木って名前のやつだ。男の時も平等橋を通して何回か話したことはあったが、特別仲が良かったわけでもない。それを言ったら平等橋以外全員に言えるんだけど。

「顔赤いぞ。熱でもあるんじゃないか?」

「いや大丈夫! ぜんぜん元気!」

 ほら元気と突然スクワットを始める村木。お、おう。元気そうだな確かに。

 村木は硬式テニス部で、そこそこ男前とクラスでも人気の高い男子だ。身長が180近くあって、低身長だった俺はこいつを見るたびにうらやましがっていた気がする。がっしりしてるし憧れの体を持ってるやつだ。

 ただ猥談になった時童貞だっていうんで散々からかわれていた気がする。俺の前でテンパってるのも多分俺が性別上女になっちまったからなんだろうなと推測すると、こいつの珍妙な行動もある程度理解できた。

 俺が生暖かい目で村木を見つめていると、彼はぎこちなく目を逸らした。ほほう、愛い奴だ。

「ちょっとちょっとマロちん」

 ぐいっと裾を引かれた。舞衣だ。

「なんだよ」

「あんまり近づきすぎは厳禁だよ? みんながみんなバッシーみたいにチキ、紳士じゃないんだからね!」

「今平等橋のことチキンって言おうとした? ねえ」

 会話の中身よりもそっちの方が気になった。

 舞依が何か言おうとしたが、「四番OKだよ」という指示があった為、後で話すと俺は一方的に話を切った。

「行くぞ村木」

「……」

「村木?」

「……」

 フリーズして動かない村木。いや動けよ。

 面倒だったので手を引いて連れて行っていくことにした。汗すげえなこいつ。やっぱ熱あるんじゃねえかって疑った。

 

 

「さーてと、まずは学食か」

 俺はしおりと懐中電灯を片手に目的地まで歩いていた。しおりに肝試しのルートが載っているのでライトと一緒に持つと見えにくいのだが、反対の手は村木の手を掴んでいる為できない。

 ……いや村木の手を離せばいいだけか。そろそろこいつも動き出すだろ。

 ぱっと手を離すと、逆につかみ返してきた。え、何?

「あ、いや」

 自分の行動が意外だったと言わんばかりに、弾かれたように手を放す村木。なんなんだ一体。

 顔も赤いし、握った手も驚くほど熱かった。マジでこいつ体調不良なんじゃないだろうか。

「なあ、ほんとに熱あるんじゃないか?」

「ないない。ほんとにない」

「強がる必要ないって。一緒に戻ってやるから」

「大丈夫だから!」

 こう頑なに大丈夫と言われるとこちらも何も言えない。

 そうかと一応の納得を見せて歩きはじめる。今度は何も言わなくてもついてきた。

「学校って何もなくても夜は怖いよな」

「……」

 話を振ったが村木からの返事はない。おかしなこと言ってないし、こいつどうしたんだ?

 男の時少しとはいえ喋ったことがあるので知っているが、こいつはむしろ饒舌なやつだ。女子が苦手というか、女子を相手にテンパることはあったがそれでも女子を前にしてもテンションは高かった気はする。なんでこんな静かなんだろう。

「ひょっとして村木ってビビり?」

 肝試しが怖いのだろうか。だったら納得だ。なかなか出発で動かなかったのも内心乗り気でなかったというなら説明がつく。

「いやそういうわけじゃない」

 違うらしい。ていうかこれは返事をするのかよと内心突っ込みをいれた。それでも静かなことには変わりはない。

「……あのさ、別に前行けとは言わんからせめて横並んで歩いてくれない? 先導して歩くって地味に怖いんだよ」

「お、おおう」

 今まで半歩後ろについて歩いていた村木が、すっと横に並んでくれた。うん、これでいい。肝試しで妙な大和撫子スタイル取らないでくれ。何かあった時普通に怖いし。

 しばらくお互い黙って歩いていると、最初のチェックポイントである学食にたどり着いた。

 脅かし役が必ずいるって分かっているので、入るのは普通に勇気がいる。

「怖ええなあ」

「……」

 外から見る学食は怖い。月明かりしか照らすものはなく、全体的に薄暗いし奥が見えない。屋内にある自販機のヴヴヴという稼働音が不気味だ。

 学食の手前の入り口から入り、ぐるりと一周して普段メニューを注文するところにマグネットが置いてあるので、それを取って奥の出口から出ていけばここはいい。

 じゃあいくかと村木に声をかけ、俺は扉に手をかけ中に一歩踏み込んだ。

『わあああああああ!!』

「うわああああああ!」

 入り口すぐに構えていた奴に大声を出された。

 ひいいい。怖い怖い怖い。

 ダッシュで駆け抜けるようにマグネットまで急ぐ。

『ああああああああ!!!!』

「ひいいいいい!」

『がああああああ!!』

「やめてええええ!」

 いたるところからやってくる男子の野太い叫び声。

 脅かし方という声の大きさと言い、こいつら絶対練習してる。

 マグネットをひっつかんで速攻で学食を出た。滞在時間にして30秒もなかったと思う。

 すげえ心臓バクバクいってる。

 舐めてた。普通に怖かった。

「あ、あの綾峰」

「ああ?」

 村木が困惑したように声をかけてきた。こいつは全然怖がっていないようだ。

「あの、手」

「手? うわすまん!」

 いつの間にか村木の手を掴んでた。

 多分さっさと学食を切り抜けたいって気持ちが強すぎて、鈍い村木を引っ張っていたんだと思う。

 決してビビって何かにしがみついたとかそんなんじゃねえよ。ねえよ。

「お前の方がビビりなんだな」

 噴き出すようにして笑う村木。うるさい。そういうのじゃない。

「いっそのことずっと手でも掴んでおいてあげようか綾峰くん?」

「お前調子出てきたじゃないか。でも調子に乗り過ぎると痛い目みるぞ」

 差し出してきた手にチョップをかまし、俺はずんずん先に進む。

 肝試しは始まったばかりだ。

 まだ平等橋や裕子、亜依の仕掛けに遭遇していない。

 予想以上に楽しめそうだとテンションの上がる俺を妙に熱っぽい目で見る村木の視線に、俺はこの時気が付いていなかった。

 

 



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今はそういうこと考えられないんだ

なんだか初めのほうに比べてどんどん文字数が増えていっている気がします。分割したほうがいいのか悩みどころですね……


 今回の肝試し、短いと思っていたが案外長いということにやってみて気が付かされる。

 この学校は上空から見ると『州』という字に似ている構造となっている。

 一画目の部分が特別棟で、長い部分が左から三棟、二棟、一棟となっており、小さな点は建物を繋ぐ渡り廊下にして見ればこれほどわかりやすい漢字もないだろう。

 特別棟から出発した俺たちは、一階の三棟と二棟の三棟よりに位置する学食を抜けた後、そのまままっすぐ一棟へ目指していた。

 この学校は珍しく体育館が棟の中にある。

 一棟の二階に体育館があり、その手前に体育教師が常駐する体育教官室なるものがある。

 体育の授業の時忘れ物をしたらここに報告に行かなきゃならんのだが、これがすこぶる恐ろしい事だった。

 うちの高校の体育教師は基本的にパワハラを恐れないけしからん教師共で、生徒の畏怖と軽蔑の対象となっている。あくまで俺はそう思っている。

 男の時、俺は外見のせいか知らないがある体育教師にえらく目を付けられ、露骨に弄られ続けた記憶がある。

 故に体育館やその手前の教官室は嫌な想いしかせず、できれば通りたくないが肝試しのチェックポイントになっているのだから仕方がない。

 それに今は体育教師も帰っていないしな。

「綾峰やっぱビビってんじゃね」

「んなわけねえだろボケナス。しつこいぞ魔法使い」

「ま、魔法使いじゃねえよ!」

 復活した村木はいつもの調子を思い出したように軽快に俺をおちょくる。甘い、弄られキャラ度だったら俺よりお前の方が上だ。魔法使いの使いどころは間違っているのは知っているが、こういうのは言ったもん勝ちだ。うははは。

 スタートより幾分ましな空気になりながら、俺たちは目的の場所近くまで来た。

「ここってさー、正直隠れる場所あんまねえよな」

「だなー」

 俺の呟きに今度はしっかり返してくれる村木。うんうん、こういう言葉のキャッチボールって大事だと思う。

 だが実際その通りなのだ。

 学食と違い、ここは言ってしまえば隣にバカでかい体育館があるだけで隠れ場所なんてほとんどない。言ってしまえばただの廊下と大差ないのだから。何を思ってこんなところをチェックポイントにしたのか。

 どんな仕掛けをかけてきてんのかなーと思い切って教官室前まで飛び出した。

「……あれ?」

「なにもないなー」

 何もなかった。仕掛けも、さらに言えばマグネットも。

「なんか張ってあるぜ」

 村木が教官室の扉に貼ってあった紙を発見した。

 ライトで照らしてみると『体育館に変更』とおどろおどろしい字体で書いてあった。って体育館?

「あ、開いてるじゃん」

「マジかよー」

 俺はげんなりしてその場に座り込みそうになった。本来閉まっているはずの体育館が片方だけ開いてる。学食なんか目じゃないくらい暗い。

「入りたくないんだけど」

「びびりじゃん」

「うるっせえなバカ」

 やけに嬉しそうな声を出す村木。馬鹿にされると癪だ。入ってやろうじゃないか。

 真っ暗の体育館は、俺たちが足を踏み込んだ瞬間ばっとひな壇に明かりがともった。びっくりしたー。

 ひな壇の上どころか体育館のどこにも人の姿は見えない。

 ひな壇中央に校長がスピーチするときとかに使う机(名称がわからん)に、マグネットを入れた箱が見えた。うえぇ、あそこまで行かなきゃ行けないのかよ。絶対なんか仕掛けてあるじゃん。

 やだなーとか思いながら二人で正面まで近づいていくと、後ろの出口がバタンと音を立てて閉まった。ていうか閉められた。

 するとどこからともなく流れる女、いや少女の笑い声。

『クスクスクスクス』

 いや怖いよ!

 どんだけ凝ってるんだよここの脅かし役の奴ら!

 ひな壇だけはっきりと明るくて、周りが薄暗いのも相まってすげえ怖い。

「綾峰、ちょ、お前」

「ちょちょちょちょーっと黙っとれい!」

 村木をデカい盾に見立てて俺は突き進むことにした。前は見ない。何なら地面も見ない。何処も見ない。

「ぶつかるから! お前力案外強いな!」

 そんなに距離もないので、すぐにひな壇までたどり着いた。

 震えてなかなか階段が上れん。くそったれ。なんという恥辱か。

 村木は何も言わず俺の腕を引っ張って上まで引き上げてくれた。いいやつだなあ。

「びびってねえからな!」

「いや完全にびびってるだろ」

 びびってる。だから肝試し嫌なんだよ。こいつらガチなんだもん。

「捕まってなよ。服」

「え、あぁ……」

 紳士にも村木は体操服の端を掴むように言ってきた。もうなりふり構ってられん。恩に着るぜ魔法使い。

 俺が服を掴むのと、村木がマグネットを取るのがほぼ同時だった。

 マグネットを掴んだ瞬間どこからか『ジリリリリリ!』と黒電話の音が聞こえてきた。多分箱の内側にセンサーか何か仕込んでやがったな。

「わあああああああ!!!」

「どっから出てくんだよお前らあああ!!」

 舞台裏から馬の被り物を被った奴らがぞろぞろやって来た。

「ワンパターンかおのれらは!」

「逃げよう!」

 急いで駆けだそうとする村木。あかん、腰抜けた。初めての経験に俺はちょっと涙が出た。

「置いて行くなよ!? 後生だぞ村木!」

「うっわマジかよ綾峰!」

 びーんと服の裾が伸び、ぐえっと村木がのけぞった。死んでも離してなるものか。

 脅かし役の奴らは俺のリアクションが楽しいのか、俺たちを囲んでゆっくり近づいてくる。ほんと怖い。なんだその馬。上半身裸って変態かよ!

「もういいから上乗れ!」

「は、はあ?」

 村木は俺を小脇に抱え、まるで荷物を扱うかのように背中にしょい込んだ。パワフルすぎて言葉も出ない。

「あ、てめえ村木! それはやっちゃいかんだろ!」

「綾ちゃん離せよ村木いいい!」

 すると今度は馬面の奴らが本気になって追いかけてきた。うおおお別の意味で超怖ええ!

 流石はマッチョマン。村木は俺をものともしないように追いかける馬面に捕まることなく体育館から出ることができた。

 閉まってた扉も、いつの間にか開いてたし。

 出る時後ろを振り返ると、馬面の奴らは酸欠に陥っていた。あんなもん被りながら走るからだ。

 村木は俺を下ろすと、荒く息を整えた。そりゃ流石に疲れるよな。

「ごめん。重かっただろ」

「いや全く。運動不足なんだ俺」

 それはさすがに嘘だろう。女子に体重云々で誤魔化すというのはよくわかるが、俺は元男だしそんなん気にしないのに。

「それより綾峰もう大丈夫か」

「うーん、いやごめん。まだ動けん」

 冷静装っているが今も心臓ばくばくいってる。神経切れたんじゃねえかってくらい下半身と接続できない。情けねえー。

「背負ってってやろうか?」

「やー、さすがにそれはなあ」

「でも後続がそろそろやってくるぜ」

 そうだった。俺たちが出発した時間間隔からいってもそろそろやってきてもおかしくない。背に腹は代えられんか。

「悪い、頼むわ」

 村木に体を預けた。こいつやっぱ上背あるなーとか思う。あと視点が高くなったのでいつもと違う感覚だ。へえ、長身のやつは世界がこういう風に見えてるんだ。

「お、これ、こうしてるとなんか肝試し全然怖くないな!」

「……」

「な!」

 テンション上げて張り切る俺とは対照的に、村木は何も言わず歩きだした。ちぇ、乗って来いよこんにゃろ。 

「最後は音楽室か。私音楽室って行ったことないんだよね」

 この学校では芸術科目として三つから一つ選択することができる。美術、書道、音楽の三つだ。

 俺は毎年書道を選択しているので、音楽室とは今まで無縁だったりする。書道の教室の横が音楽室だから場所は把握してるんだけど。

 村木の上に乗った俺がライトとルート確認係で、村木が歩行係。歩行係ってなんだよって誰か突っ込んでほしい。村木にこういうフリをしても「あー、うん。そうだな」くらいしか返ってこなくて物足りないのだ。平等橋なら爆笑した後「いやそれおもしろくないわ」とか矛盾したこと言ってくれるんだけどな。

 そろそろ歩けそうなので、村木にも「もう大丈夫だぜ」って言ってるんだけどこいつ無視しやがる。俺を新しい筋トレ道具だと思っているのではないかと疑問だ。

 俺もなんかアトラクションっぽくて楽しいのでずっと乗っていることに不満はない。でも疲れないのかなこいつとは思う。

 一棟の三階にある音楽室は一度二階の職員室の前の階段を通らなければいけない。

 この階段になにか仕掛けがあるとか、特別なことはない。だがそのすぐそばにバカでっかい鏡があるのだ。

 昼間に見ても特に思うことはないが、今は肝試し中だ。暗闇の鏡ほど恐ろしいものはない。

 鏡エリアが近づいてくると、俺は自然と身をこわばらせた。

 体重をただ預けるのではなく、自分からがっちりしがみつく姿勢にシフトだ。いつでも走り出せる体制を整えてやる。

「ちょ、綾峰」

「し。集中しろ」

 今か今かとドキドキさせる。

 ……おや?

 視点が高いおかげで気が付いた。階段の陰に一人隠れてやがる。わはは、これで向こうが驚かしてきても何も怖くないな。

「わ! って、ぇえ!?」

「ひょえ!」

 かと思ったら廊下側の窓から顔を覗かせて驚かしてくる奴がいた。おいここ二階だぞ! 危険すぎる。

 そいつは驚かしたと思ったら中途半端な困惑を混ぜてきた。脅かしとしては失敗だろう。

「ちょっとちょっとマロちんそれどういうこと?」

 村木の背中に顔を押し付けていた俺は、その声で誰かわかりほっとした。亜衣だ。でもなんかちょっと怒ってるような気がする。

「村木くん、マロちん下ろして」

「え、あ、ああ」

 俺が言っても聞かなかった村木が、亜衣が言うとあっさり下ろしやがった。どうなってんだこの野郎。

「ちょっとこっち来なあんぽんたん娘」

 俺の手を引いて村木から聞こえない位置まで移動する俺たち。暗闇でもわかるくらい亜衣の機嫌は悪そうだ。こいつのこんな顔見たことなかったので、何を言われるのか不安だ。何をしたってんだよ。

「ダメだよ。男の子にあんなに密着したら!」

 小声で怒る亜衣。一瞬なんのことを言われてるのかわからなかった。

「え、と。何?」

「まさか気づいてないの?」

 亜衣は馬鹿かこいつとでも言いたげに俺を見てきた。失礼だろう。

「マロちんさんざん自分でも言ってるじゃん。もう女の子なんだよ? 男の子にあんなにくっついてたら何されても抵抗なんかできないんだよ!」

「え、えぇ? でも私が男だった時あいつも知ってんだぜ?」

 だから俺相手にそういう気分になることなんてないだろって意味で言ったんだけど、亜衣は「甘いよ!」と一喝した。

「今のマロちんは男の子になんて見えないんだから、そういう考えは捨てなきゃ! それに男の子の時だって半分女の子みたいなもんだったじゃん!」

「おいちょっと待てや」

 とにかく! と亜衣は俺の口元に人差し指を立てた。言い訳無用とでも言いたげだ。

「過度な接触はNOだよ! ボスに言いつけるよ!」

「了解だ。絶対守る」

 裕子の名前が出た瞬間俺はすぐに頷いていた。条件反射とは恐ろしい。

 亜衣から解放されて戻ると、村木は所在なさげにたたずんでいた。こんなところで待たされたらそりゃそういう顔にもなる。申し訳ない。

「や、ごめんごめん」

「いいよ。柊に拉致られたのは見てたし」

 村木は実に寛大だ。こんな男が俺を不埒な目で見ているはずがない。亜衣は心配性なのだ。

 そんな亜衣は俺と話し終えると、また窓の反対側にスタンバイしに戻った。落ちたら絶対ケガするからやめた方がいいと思う。あと階段近くに隠れていると思っていたのは人形だった。亜衣が油断させるために置いたらしい。なんという徹底ぶりだ。ちなみにここまで亜衣の脅かしでビビらなかった組はいないらしい。

「あのさ、綾峰」

「ん?」

 階段を上っている最中、珍しく村木から口を開いた。なんだろうと思って村木を振り返ると、やけに顔が赤い。

「お前平等橋と付き合ってるってマジ?」

 こいつなに言いだしてんだ。

 数秒間じーっと見てやると、「悪い、そうだよな」と勝手に納得し始めた。まて、どっちの方向で納得したんだお前。

「付き合ってるわけないだろ。友達だぞただの」

「え、付き合ってないのか?」

 わざわざ口に出して訂正しておいてよかった。なんかすげえ勘違いされるところだった。でもそうか、飯作ってる時もまさかって思ってたけど、マジで俺が平等橋とどうこうあるって信じてるやついるんだな。そいつらは何も疑問を抱かないのだろうか。

 村木は「なんだそうなのかよ」と心なしか声の調子が明るくなってもう一度そうかそうかと頷いた。

「てか誰だよ。そんなこと言ってるやつ」

 見つけたら折檻だ。俺がはーっと掌を暖める仕草をすると、村木は楽し気に笑いやがった。いやまあ冗談なんだけどお前の笑いのツボどこにあんだよ、さっきまでほぼ無表情だったじゃねえか。

「誰って、特定の奴はいないよ。みんな言ってたからさ」

「みんなねえ」

 厄介な言葉だ。

 集団をさす言葉のはずなのに、いざお前はみんなの中に入ってるのかって聞かれたら全員が首を振るような曖昧な表現だ。もやっとすんぜ。

「まあいいや。行こう」

「あ、ああ。手掴まんでも歩けるって」

「また固まられたら困るし」

「二度というなよ? いいな、それは禁句だ」

 テンションの上り幅に若干困るやつだが、村木悪い奴じゃないんだよな。男の時にもう少し俺が歩み寄っていたら、こいつとも平等橋みたいに仲良くなれたんだろうか。

 繋がれた手を見つめながら、俺はあったかもしれない可能性を考え、いややっぱないだろと破棄した。あの時の俺に話しかける猛者なんてあのアホくらいしかいなかったのだから。

 最後のチェックポイント前に、俺と村木はずんずん進んでいった。

 

 

「お疲れー」

「ただいまー」 

 多目的教室に戻ると、先にゴールした組がおいおいにそんな声をかけてきてくれた。みんな疲れ切った顔をしつつも満足そうだ。怖かったし楽しかったからな、この肝試し。

 難点を言えば最後のチェックポイントだ。

 一つ目と二つ目に力を入れ過ぎたのか、最後の音楽室は気弱な女子がロッカーから「わ、わああ」と脅かしてくるだけだった。直前に亜衣のあれがあったから迫力不足というほかなかった。

 でもゴールに決められていた教室のアンケートは面白かった。

 チェックポイントで使うマグネットが何に使うのだろうと不思議だったのだが、教室に入った瞬間分かった。

 黒板にアンケートが書かれていたのだ。

『脅かし道具として馬の被り物はありかなしか』

『体育館の鍵は許可を得ていたかどうか』

『石田先生は結婚できるか否か』

 最後の質問は確実にあほな男子の悪ふざけだ。石田先生が見たらきっと泣く。

 それぞれYESとNOの枠が用意されていて、ペアごとにマグネットを一つずつ貼っていった。三つ目の質問はNO一択だったけど、どうやって確認するつもりなのだろう。

 

 俺が帰ってきたとき、舞衣はもう既に出発した後だった。

やることもないので一人で寝転がって待つことにした。決してクラスの奴らから逃げているわけではない。話しかけられることから逃げているわけではない。でも裕子たちいないから気まずいんだよなあ。誤解のないように補足すると、この教室は床全体にカーペットを敷いている。そのため、寝転がって休憩をしている人たちは結構いた。

「よう。ここいい?」

「ん、村木?」

 スマホをポチポチしていると、村木がすぐそばにきていた。珍しいな。

 村木は普段球技大会や合唱コンクールとか、クラス全体の催しがあってもすぐ仲間の男子の所に避難していく。俺たちがゴールした後も村木は仲のいい男子連中の元へ真っ先に離れていった。わざわざこっちにやって来たのが意外だった。

「いいけど、どうしたん?」

「いや、その」

 歯切れが悪い。

 ははーん、こいつ何か頼み事でもあるんだな。村木とは男の時もそれほど話したことはなかったが、この肝試しで随分仲良くなれたらしい。結構嬉しい。

 なんなのだろうと首を傾げていても、村木はなかなか口を開かない。

俺も村木も何も喋らない時間が数秒続く。それだけで空気が妙なものになっているのが分かった。

 違う。村木が俺のところへやってきたのはお願いなんかじゃない。

 伏せていた村木の顔がゆっくり上がった。その顔を見て、嫌な予感は確信に変わった。

「話、ちょっとあんだけど」

 

 

 脅かし役と交代して、今度は俺たちが脅かす側へ回った。

 俺は舞依とペアで、音楽室に入って来たクラスメイトを狙った。釣り竿にくっつけたこんにゃくを首元に当てる役だ。面白いぐらい悲鳴を上げる同級生が楽しくて仕方がなかった。

 笑ったのが平等橋と裕子がペアで来たことだった。

 明らかにギスギスした空気をまき散らしながら歩く二人は、脅かし役を逆に威圧していた。

 肝試しは大きな事故なく、つつがなく終了した。アンケート結果は明日帰るまでに報告があるらしい。地味に楽しみだったりする。

 片づけをして、風呂でも入ろうかとこっそり抜け出そうとした俺を止める三つの影。

「どこ行こうとしてるのマロちん?」

「逃がしはしないぜマイスイートハート!」

 亜衣と舞衣、それに後ろに構える裕子から逃げることはできなかった。

 更衣室に連行される俺。着たくない。本当に着たくない。俺の願いは聞き入れてもらいすらいなかった。

「観念するんだ綾峰隊員!」

「羞恥心が快楽に変わるときがやってくるぜ!」

「それただの変態じゃねえか!」

 ぐずぐず着替えない俺。業を煮やした三人によって俺はあれーと悲鳴を上げながら着替えさせられた。

『………』

「なんか言えよ!」

 着替え終わって無言でサムズアップを送る三人に俺は盛大に突っ込んだ。

 

 

「よお」

 プールサイドで意気消沈していると、「よっ」という掛け声と共に平等橋がやってきた。腹筋バキバキに割れてやがる。ムカつくぞこいつ。

「おー」

「なんだよその気のない返事は」

 うっせえと返すが声に力がないのは自分でもわかった。平等橋は隣に腰を下ろすと「あいつらは?」と訊いてきた。裕子たちの事だ。

「泳いでるよ、あそこで」

「お前行かなくてもいいのか?」

「全力で拒否したら流石に勘弁してくれた。でも多分また来ると思う」

「お前も大変だなあ」

 他人事のように平等橋は言う。文字通り他人なんだけどさあ、もっとこうなんか温かみのある言葉がいい。

 夜のプールというものは思っていた以上に良かった。

 クラスメイト達が楽しそうに騒ぎ、波打つ水面がライトの光と夜の暗闇が混ざってきらきら光っている。それがなんとも幻想的な気分にさせた。ぬるい風が肌の上を撫でる。普段なら気持ち悪いと感じる湿度の高いそれも、幾分気温の下がったここでは不思議と嫌な気分にさせない。何もなければ俺の気分を高めるのに一躍買っていただろう。

「そういや、お前どんなの着てきたんだよ」

 不意に平等橋が口を開いた。唐突の質問に俺は一瞬どきりとさせられた。

「み、見せないぞ!」

「だったら何しにここに来たんだよ……」

 平等橋は呆れているようだった。

 ここまで逃げ回ってきて今更だが、やはり恥ずかしい事には変わりはない。特に平等橋に見せるのは無性に恥ずかしい。なぜなら水着を買う時に参考としたのが、平等橋に見せるならどの水着がいいか、だからだ。どうしてそんな思考回路に至ったのかは今でもよくわかっていない。その場のテンションと舞衣に乗せられたのが大きな理由だと考えている。強引にでも自分の中で理由を作らないと、女物の水着を買う行為が自分の中で許容できなかったからだ。しかしよくよく考えて舞依に何と言われようがあの時断ればよかったのではないかという疑念が尽きない。あの時軽率な行動をとった自分がただただ恨めしかった。

平等橋の視線から逃げるように、ぐっとタオルを胸元に引き寄せた。

「そんなにヤバイやつなの?」

「やばいって?」

「紐とか?」

「お前やっぱバカじゃん」

 発想が俺と同レベルだった。

「……はあ」

「なんだよため息なんか吐きやがって。別に無理に見ようってわけじゃねえよ。お前そういうの苦手って知ってるし」

 この前のプールの授業の事を言っているのだろう。あの時俺は無遠慮に平等橋を罵倒したが、考えてみたらただ通りがかっただけだし、もっと言えば裕子が余計なことをしなかったら何事もなかった。何も言っていなかったが平等橋には悪いことをした。

「よし」

「何、いきなり立ち上がったりして」

 こいつに隠すのも今更だ。布地面積は違うが、一度見られている事には変わりはない。それに裕子たちに強制的にはだけさせられるのだったら自分から脱いだ方がまだ傷は浅いだろう。

 羽織っていたタオルのボタンをぷちぷち外す。

 平等橋から少し離れて振り返り、思い切ってその姿をさらした。

「どーだ平等橋!」

 息を飲む音が耳に届いた。

「……どうよ」

 今度は慎重に尋ねた。

 選んだのは白のビキニタイプの水着。

平等橋はむっつりスケベなので、清純っぽいのが好みだ。この水着を目にした時、昔平等橋と遊びに行ったときの事を思い出した。去年の夏。ぶらぶらと二人で服を見ていた時、奴はある店でぴたりと立ち止まった。『見ろよ公麿。こういうのやばくねえ?』。谷間の所がリボンみたいになっている以外はシンプルなデザイン。巨乳なマネキンが着けたそれを見つめる平等橋にドン引きした記憶が懐かしかった。

あの時見た水着と瓜二つのデザインを見つけて興奮してしまったことは否定しない。ただし買う時に試着した自分をしっかりと見つめなおす時間は必要だったと思う。巨乳のマネキンが着けた姿は色っぽく見えたが、俺が着けたら胸が足りない。頑張って背伸びをした子供だ。肌を見せること以上に、そんな自分を晒すことが恥ずかしかったのもまた事実だった。

 しばらくたっても何も言わない平等橋。

羞恥心で燃え上がりそうになる一歩手前で、ようやく平等橋は反応を見せた。

「あ、ああ。いいんじゃないか」

「いいんじゃないか? もっと気の利いた言葉はないのかよ」

「最高にエロいなそれ!」

「もういい。お前に聞いた私がバカだった」

 平等橋の反応は予想できていたけど、がっかりだ。もっとましな表現はないのだろうか。一年前から何一つ進歩のない友人を半目で見つめると、居心地が悪そうに身をよじらせた。一応自分の発言の中身を気にしてはいるらしい。

 でも振り返った時のあいつの顔は見物だった。世の女性は男性にああいう目で見られたいから頑張るのかもしれないと思うくらいに、達成感というか、やってやったぞっていう気分にさせてくれた。

「なあ平等橋」

「あんだよ」

 俺はもう一度平等橋の横に腰かける。

「お前私のことどう見える?」

「……」

 俺の突然の問いに、平等橋はすぐには答えなかった。じっと俺の目を見つめ、言葉の意味を反芻するように頭を掻いた。面倒臭いこと言っている自覚は、一応ある。

「どうって、公麿だろ?」

「そういう事じゃなくて、もし私がキスしたいって言ったら受け入れることできる?」

「なにこの前の事言ってんの? 謝ってるじゃねえかそれは」

「違うよ。真剣に聞いてるだけ」

 平等橋は黙った。

「変わりたくない。変わらない。そう思っているのは私達だけなのかなって」

 俺はプールの方に目を落とした。

 バカみたいに騒ぎまわる男子たち。

 その中に村木の姿はない。

 

 

「綾峰。付き合ってくれない?」

 特別棟の四階までやってきて、俺は村木から告白を受けた。

 どこにとか、古典的なボケで誤魔化せる空気ではなかった。男女交際について村木は言っていた。

「えっと、私前まで男だったんだけど」

「知ってる。それでも俺はお前が好きだ」

 男子に告白されたことは今まであったが、これは新しいパターンだった。なぜなら今の俺は女だ。これまでのように男だから無理と無碍に出来ない。

 村木の目は真剣そのものだった。

 ここまでやって来るのに相当な決意をしたのだろう。覚悟を決めたように真っすぐ俺を見つめていた。

 それに対して俺は、随分情けない顔をしてしまっていた。

 亜依や舞依が散々忠告していたのはこのことだったのかと、初めて自分を恥じた。ありえないことだと勝手に決めつけていた。

 スキンシップだ、密着だ、なんだと軽く考えていた。

俺は元男だ。男の時を知っているクラスメイト達から見れば、女になっても俺は女子の枠に入っていないと思っていたのだ。

「きもい話していいか」

 俺が黙っていたからだろう。何も返事を返せなかったが村木は続けた。

「俺実はお前のこと入学した時から気になってた」

「うぇ!?」

「いや勘違いすんなよ。ホモとかじゃねえから」

 何をどう勘違いするなというのか分からない。入学当時の俺は紛うこと無く男だ。

「お前女にしか見えなかった。俺女子と話すと緊張してどもんだけどさ、お前だとそれがなかった。男だってわかってたけど、目で追ってたんだよ。そんなお前が女になったって聞いてさ、今まであんま喋ったことなかったし、それに平等橋と付き合ってるって思ってたからなんも言えなかった。でもそうじゃないって聞いたから」

 一息に村木は言った。村木は真剣だ。真剣の告白だ。

 バクバクと、恐怖とは別の緊張で心臓が高鳴る。

 村木に話があると言われた時、薄々感じていた。今まで告白してきた人たちと同じような目を彼はしていたからだ。

 苦しいのは、俺がこいつの気持ちに応えることができないから。

 それでもすぐに返事ができないのは、断る時の気まずさ、タイミング、その他もろもろの勇気がまだ訪れないからだ。

「改めて言います。俺の彼女になってください」

 村木が頭を下げた。

 男らしい。咄嗟にそんな言葉が頭に浮かんだ。

 よく仲間内でモテない奴がいて、でもそいつの良さは男友達の中ではみんなわかっていて、『俺が女だったら絶対付き合うよ』みたいなことを言われている奴がいるとする。

 村木はまさしくそういうタイプだった。

 俺も村木のことは好ましく思うし、男の時だったら話の流れで「おー、俺も付き合う付き合う」と便乗したかもしれない。

 でもいざそういう局面に立った時、そんな選択肢が出てこない。

なんでこいつ告ってきたんだよ。

罪悪感と焦燥感で胸が押しつぶされそうになった。

「……やっぱ無理か」

「……え?」

 どれくらいお互い黙っていただろう。ぽつりと村木がそういった。

「俺じゃ無理だよな。お前には平等橋いるし」

「何、言ってんだよ。どうしてそこで平等橋出てくんだよ」

「だったらなんか言ってくれよ。俺じゃダメか?」

 正直ここまではっきり追求できるのは称賛に値する。

普通俺のような曖昧な態度を相手にされたら、その時点で脈なしと見るか、気分を害して立ち去るかするものだと思う。村木のようにあえて踏み込んで曖昧にしないのは少数派だろう。それは村木にとって痛みを伴う可能性が高いからだ。村木のそれは誰にでもできることじゃない。

だが、それは俺にとっても苦しいことだった。

 ふと、村木の表情を見た。

 泣きそうで、苦しそうな歪んだ顔。

 頭を氷の塊のような硬い何かで殴られた気分だった。

 俺は何を考えていたのだろう。

 自分から口にしたくないから。悪者になりたくないから。さっきからずっと村木を傷つけている。

 相手にどれだけ失礼なことをしているのか、俺はこの時初めて気が付いた。

「ごめん。村木とは付き合えない」

「理由、聞いてもいいか」

 半ば予想していたのだろう。村木はすぐに返してきた。だが俺はそれに満足な答えなんて持ち合わせちゃいない。

「理由は、ない。ごめん。ただ、付き合えない。今はそういうこと考えられないんだ」

「………」

 村木は押し黙った。当然だ。理由もないのにフラれるなんて冗談じゃないだろう。それならいっそ自分に欠点があるからとでも言ってくれた方がまだましだ。

でも俺はそれを口にできなかった。嘘をつきたくなかったから。

 本当に村木と、男と付き合うということが考えられなかった。

 周りから散々平等橋とのことを言われても、「またなんか言ってらー、はは」くらいに流していた。

 平等橋に女扱いしろってごねたこともあったけど、その時も考えたことはある。

俺はあいつの女になりたいのかどうかってことだ。

 俺の中の結論はNO。

 俺が求めるモノは『友情』であって『愛情』ではなかった。

 それは平等橋もわかってくれていると思う。だから俺たちはうまくやっている。

 でもそれを周囲がどう思うかなんて考えていなかった。

 裕子や亜依、舞依が散々注意をしてくれても、真剣に耳を貸すことがなかったのはそのためだ。

俺自身がそういう気持ちを抱いていないのだから、相手もそう思うはずがない。

 平等橋というたった一人の特異なサンプルだけで、俺はそれがすべての男子に共通することだと勝手に思っていた。

いや、そう思い込もうとしていたというのが正解かもしれない。

 だって面倒じゃないか。クラスの男子が俺のことを一人の女子として見ているだなんて。

だってあいつらと俺はちょっと前まで猥談なんかをしていた仲なのだ。親しさという面で見ればそこまで親密ではなかったかもしれない。しかし同じクラスの男子という仲間意識はあった。そんな彼らのことを俺は警戒したくなかった。

 それが甘えであることはわかっていなかった。

 皆が皆、平等橋じゃない。

「納得、できないっていったらどうする?」

 震える声で村木はそう言った。

「ごめん。それでも無理だ」

 俺にはそう返すしかできなかった。

「……そう、か」

 ただ一言、彼は「仕方ないな」と笑みを作った。無理して笑っているのだと知りつつも、それを指摘する権利は俺になかった。

罪悪感がまた刺激された。

 

 

 あれから俺は村木と顔を合わせていない。向こうも気まずいのだろう。

 村木に告白を受けたことは平等橋に言うことはできなかった。何故だかわからないけど、それを言うのは躊躇われたからだ。

 変わらない関係でいるための現状維持。

 それが俺は最善だと思っていた。

 でもずっと同じ関係でいるってことは本当にできるのだろうか。

「あ、マロちんが脱皮してる!」

「捕まえるのよ亜衣、舞衣!」

「合点承知だボス!」

 むんずと抱えられてプールに引きずり込まれる俺。

 ごぼごぼと空気が漏れる水の中で、このままじゃいけないのではないかと、形のない危機感だけが胸を募らせていった。

 

 



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このままでいいのかなっていう

 悩んでいた。

 椅子に尻を乗せ、学習机の端に両足の指を引っ掛けて座っていた。裕子が側にいれば行儀の悪い座り方はやめろと注意を受けるだろう。

 クラス合宿がつつがなく終了してから二日が過ぎた。

 いや、つつがなくというのは嘘か。

体育館の不正使用と黒板に残されたアンケートのせいで、普段温厚な石田先生を激怒させる事態となったからだ。

いつもお願いをしている清掃会社にわざわざ断りを入れてまで、全校舎中のトイレ清掃という罰を下す石田先生に一同は困惑と恐怖を隠せなかった。俺だって怖かった。

 クラス全員で無言で便器を擦る光景はなかなかシュールだったと思う。

 それ以外は本当に何事もなく終わったと言ってもいいだろう。

真面目に掃除したということで、石田先生が奮発してバーベキューにかなりいいお肉を買って来てくれた。すっかり遅くなってしまったけど、裕子たちとだべって帰る道すがらは面白かった。

 問題はある。

 俺個人の問題だ。

 村木の告白の件だ。

 プールから上がった後も、その日寝る時も、トイレ掃除をしているときも、バーベキューで皆がはしゃいでいる時も、ずっともやもやもやもや心の中で蜘蛛が糸でも吐いているんじゃないかってくらいどんよりした気分でいた。

 この感情を隠す腹芸は俺にはできないだろう。顔に出やすいってことはそろそろ学習した。俺は裕子や亜衣、舞衣にばれないように必死だった。なんでもないふりをした。

 別に隠すようなことでもないし、彼女たちなら笑わず相談に乗ってくれるだろう。そりゃ初めはちょっと何か言われそうだけど。

 隠したのはあの時、あの場。村木がすぐ近くにいるあの空間の中で、村木の話題を口に出すことが嫌だったからだ。

 俺のポーカーフェイスはうまくいったようで、三人から特に何か問われることはなかった。気づいていて言わなかったのかもしれないけれど。

 それが良かったのか悪かったのかはわからない、けど今は後悔している。

 一人でこんな気持ちなるって分かっていたなら相談したかった。うがー。

「大体突然なんだよなあいつも」

「誰が?」

「誰って、そりゃ」

 ……なんで独り言に返事が返ってくるんだ。

 嫌な予感がしつつも声のした方を振り返る。案の定ゆかりだった。妹は俺のベッドに寝転がりながら、興味津々に鼻を膨らませていた。 

「ノックはしたからね! 我を通すお姉ちゃんの結界力が弱まっていた結果なのだフハハハハハ!」

 素と中二が混ざった意味のわからない言い訳を捲し立てた。考え事をしている時の妹は非常に厄介だ。

 しっしと追い払う仕草をするもこいつはめげない。

 梃子でも動かないという風にベッドの上で大の字になった。

 こうなった妹を動かすのは至難の業だ。相手をしなければいつまでもベッドを占領したまま夕飯まで動かないことは間違いない。俺はゆかりを追い出すことを諦めた。

「何、なんか用か?」

「用ってことはないけど」

 ゆかりは言葉を濁した。用事はなかったらしい。

「最近お姉ちゃん構ってくれないし」

「お前もう中三だろ? 勉強どうしたよ」

「休憩中なのー! 息抜き中だから構って、構ってよ、構えってー!」

 驚いたことにこの妹受験生である。

 言動や行動など幼いところが目立つが、学力はかなり高い。なぜかは分からない。我が家の不思議の一つだ。全国模試でも三十番とかこの前なっていた。来年俺の高校に受験するとか言っているが、お前ならもっといいとこいけると何度言っても聞きやしない。

 いろいろと言いたいことはあるが、妹のストレートすぎる要求を俺は聞いてやることにした。創大の時にはこいつにも助けられたし。

「わかったよ。で、何する?」

「女の子に予定決めさせるなんてちょっとどうかと思うよ」

「俺も女だよ」

「あ、そっか」

 素なのかボケなのか判断できないことを言ったゆかりは、「じゃあボードゲームしよう!」と提案した。ボードゲームねえ。

「ボードゲームって言ってもお前」

 我が家にあるボードゲームは人生ゲームのみだ。

 小さい頃は家族みんなで遊んだものだったが、今じゃ物置に埃を被っている。

「二人だとつまんないだろ」

「そんなことないよ。工夫次第であれの可能性は無限大だよ!」

 意味不明の主張をされて言葉に詰まる。

 正直乗り気がしない。単純に二人だと飽きるからしたくないというのも勿論なのだけど、それ以外にもゆかりと二人でしたくないのには理由がある。 

 ゆかりは一人でする系のゲームはそこまでだが、対人ゲームとなると信じられないくらい強くなるのだ。

 相手の心理を読むとか、行動をあらかじめ予測して誘い込むとか、怖いことを言っていた気がする。

 だから俺はゆかりにゲームに誘われた時は、こいつとチームか戦わなくて済むゲームしか基本しないことにしている。人生ゲームに心理戦が絡むことはないとはいえ、なぜかこいつに勝てた試しがなかった。……俺が知らないだけで運以外にも絡む要素あるのだろうか?

 人生ゲームを却下すると、ゆかりは「えぇ~」と露骨に顔を顰めた。

「モンハンでもいいじゃん、持って来いよ」

「装備全部作っちゃったからすることないよぉ。あ、じゃあこうしよう、『人生詰んでる人生ゲーム』」

「人生ゲームが嫌だって言ってんだよ。ていうかなんだその不穏な響きのゲームは」

「簡単、簡単。所持金ゼロからスタートして、払うマスの時だけ一桁多く設定するってだけだよ。開幕早々約束手形まみれになるし、株券が割に合わなさ過ぎて嫌になるよ! 救済措置として最後に子供と奥さんをルーレットのマス目×一万ドルでお金とトレードすることが出来る! 約束手形を完済するか、一番少ない人が勝者! なかなか人生ハードモードだよー?」

「絶対しない」

 想像以上に妹の闇が深かった。

 俺がどんなに興味のない態度を取っても、じゃあ何がいいかなと人差し指を顎に当てて一向に諦めない妹に、諦めて部屋へ戻れよと言いたくなる。

 ああでもないこうでもないと頭を悩ますゆかり。

 その姿を見ていたら、改めてこいつに聞いてみたくなった。

「なあ、お前本気でうち受けるの?」

「受けるよー。ていうかそこしか受けないよ」

「はあ!? そこまで?」

「え、そこまでなに?」

 ぽかんと俺は口を開いた。呆れた。こいつ本気で言ってやがる。冗談かと思っていたのに。

 確かにうちの高校は県内でもそこそこの進学校だ。だけどゆかりの学力から考えるとランクは落ちる。うちが低いのではない。ゆかりの学力がそれだけ高いということだ。

「もったいないって。もう夏じゃん、そろそろ真剣に進路考えろよ」

「真剣に考えてそう思ってるんだけど。てか別にもったいなくないもん」

 拗ねたようにゆかりは頬を膨らませた。

「逆にお姉ちゃんはなんでそんな反対すんの?」

「なんでって、当たり前だろ。お前ならもっといいとこ行けるし、そしたら大学進学だって」

「勉強だったら自分で何とかできるよ。今までだってずっとそうだったし」

「甘いぞゆかり。人間環境に流されてしまう生き物なんだ。よりよい環境でこそ人は伸びるし、逆に周りがみんな遊ぶ奴だと流されてしまうのが人の常ってもんだ」

「お姉ちゃんのとこ遊んでる人多いの?」

「いや、そんなことないけど……」

 ここまで熱くなっているのは俺のみ。ゆかりは実に淡々としたものだ。

「ていうかさ、お姉ちゃんはそれ以外の理由で私に来てほしくないって言ってるみたいに聞こえるんだけど?」

「……そ、そんなわけないだろ」

「お姉ちゃんって嘘つくとき絶対口ごもるよね」

 ゆかりの大きな目に覗きこまれ、俺は言葉を詰まらせた。

「多分だけど、お姉ちゃん自分がいるから私に来てほしくないんじゃない? って思ったり」

「……」

 図星だ。

 俺が何も言えずにいると、ゆかりは悲しそうに眉を落とした。そんな顔してほしくて言ったわけじゃない。

「どうなるかわからねえからだよ。俺は今クラスで受け入れてもらってるけど、学校のやつ全員がそうってわけじゃねえからさ」

 女になってしばらくした後、他クラスや他学年の廊下を歩いている時に偶然耳にすることはあるのだ。

『みてみてアレだよ』

『うわ、マジじゃん。引くわ』

『ねえ、ちょっと気持ち悪くない?』

 名前も知らない赤の他人。

 でも世間一般の認識はどちらかというと“そっち側”であることをついつい忘れてしまいがちになる。

 来年はクラスも変わる。状況も変わる。

 俺のせいでゆかりが奇異な目で見られる可能性は十分ありうるのだ。

「言わせたい奴は言わせればいいよ」

「え?」

 ゆかりは腰に手を当てて高らかに宣言する。

「ていうかぶっちゃけ我今も学校で浮いているからな! お姉ちゃんがいようがいまいがどこでも浮くと思うから全然平気だぞ! フハハハハ!」

 悲しいことを笑顔で言われてしまった。

 そうだった。こいつはどこかズレた中二病だった。

 快活に笑うゆかり。

こいつの凄い所は俺と違って周りの目を全く気にしないところだ。

 どれだけ痛々しいと周囲から言われても一向にブレることはない。頑固って意味じゃ俺と似ているかもしれないけれど、ゆかりの場合文字通り人の話を聞いていないだけのような気もする。

 その強さをうらやましくもあり、若干鬱陶しくもある。

でも、やっぱり少し憧れてしまうところではあった。

「まあいいやゲームとか」

 さんざん考えたのにゆかりはさっくりと言い捨てた。

「いいのか?」

「うん。そういえばゲームより面白そうなことすっかり忘れてた」

「ゲームより面白そうなものって、そんなんこの部屋にあったか?」

「ものじゃないんだけどね」

 ゆかりはクスクスと笑い出した。分かった。嫌な予感しかしない。

「部屋戻れよゆかり」

「お姉ちゃんさっき独り言で言ってた相手誰?」

「なんの話だ?」

「誤魔化してもだめだよ」

 スマホを取り出すゆかり。何をするのかと思いきや、突然スピーカーから俺の声が聞こえてきた。

『意味わかんねえよなあ』

『どうしてあんなこと言うかなあ』

『大体突然なんだよなあいつも』

 ボイスメモでばっちり俺の呟きが取られていた。恥ずかしいし、じっくり俺のことを観察していたゆかりが腹立たしい。

「消せ」

「話してくれたら速攻で消すよ?」

 このガキ。

「お姉ちゃん。悩み事は誰かに話すのが一番なんだよ?」

「悩み事って、どうしてそう言い切れるんだよ」

「さっきあれだけ頭抱えてたらさすがの私でもわかるよ」

 素で突っ込まれる。だよなあ。

「いや、でもお前に話しても……」

「ええ? その言い方ちょっと傷つくんだけど」

「あ、悪い。そういうつもりは一切ないんだけど」

 膨れるゆかり。突っついてやるとぶしゅうと空気が抜けた。

 この悩みを抱え、自己解決できないとわかった時に、俺は誰かに相談に乗ってもらいたいと思った。

 一番初めに思い浮かんだのは裕子だった。

 俺が最も信頼している友人の一人だし、相談にも乗ってくれるだろうということは簡単に予想が付いた。

 でもあいつは二人になると妙に厳しい所もある。さらに言えば恋愛相談でもしあいつが暴走した時、止められる自信が俺にはなかった。その為裕子には話せないと断念。

 続いて舞衣。

 これはだめだ。

 意外とドライな面を持つ彼女は「付き合えばよかったじゃん。村木かわいそーじゃんマロちん」とか平気で言ってきそうだからだ。

 その時理由を聞けば、「だって付き合ってみないとわかんないことも多いじゃん。何事も経験だよ経験。無理って分かってから振っても良くない?」とか言いそう。

 確かにそうかもしれないけど、実際言われるときつい。そういうことではないと言っても通じるかどうか。

 最後に亜衣。

 実はゆかりに話を聞かれるまでずっと亜衣に相談しようかずっと悩んでいた。

 亜衣は三人の中で一番感性が俺に近い、と思う。裕子や舞衣と違って辛辣すぎる毒も吐かないし、言葉も選んでくれる。さらに言えば亜衣は一人暮らしをしているから、気軽に相談に行きやすいということもあった。

 迷っていたのは、亜衣は裕子や舞衣と比べやはりどこか少しだけまだ距離があると俺が思っているからだ。

 裕子と舞衣はあけすけに俺にモノを言ってくる。

 傷つくことやムカつくことも多いけど、その分素を出して話してくれているのだと分かるので打ち解けやすい。でも亜衣はあまりそういった言葉を使ってこないので、どこまでが踏み込んでいいラインなのか俺もわからない。

 仲が悪いわけじゃない。

 寧ろいい方だと思う。でも急に相談に乗ってくれっていって、すぐに承諾してくれるかどうか自信が持てなかった。

 そうこう迷っている間にゆかりがやって来たという訳だった。

 家族に相談することは最初から頭になかった。

お袋と親父はなんだかはしゃぎそうだし、兄貴は興味がないって顔しながら正論叩きつけてきそうだ。ていうか普通に親兄弟に恋愛に関する相談をするのが嫌だった。下品な話自分のマスターベーションを見られているような気まずさがある。ゆかりにばれたのはつまりそれくらい恥ずかしいことだった。

「ずばり、恋の悩みですね?」

 どこかの番組で司会をやっているタレントみたいな喋り方で、ゆかりは俺の頬を突っついてきた。うっざ。うわ、うっざ。

「違います」

「嘘はいけませんね」

「違うってんだろ」

「じゃあその真っ赤な顔どう説明するつもり?」

 嘘だろ。

 ばっと自分の頬を確認する。なんだ、全然熱くないじゃないか。

 俺が抗議しようとゆかりに向き直ると、やつはしてやったりと得意顔を浮かべていた。腹立たしい。

「もう観念しなよ」

「……」

 このまま何も話さなければ、妹は一日中くっついてきそうだ。

 俺はため息を吐きつつ、ゆかりのしつこさに折れるはめとなった。

 

 

「え、告白ってこの前電話してたお姉ちゃんの男じゃないの!?」

「だからその俺の男とかそういう言い方すんのやめろっつったろ」

 軽く拳骨をくれてやると、ゆかりはあうっと涙目になった。あざとい。

 全部話すと時間がいくらあっても足りないので、大まかな筋だけゆかりには話した。すると返って来たコメントがこれだ。こいつは何か自分の予想があったらしい。

「え、てことはお姉ちゃん二人からモテてるってことになるの?」

「どうしてそうなるんだよ」

 またチョップ。今度はゆかりもめげなかった。

「だって前のお姉ちゃんと遊びに行った男の人でしょ? それと今回告白してきたその村木って人。二人じゃん」

「平等橋はそういうんじゃねえよ」

「平等橋っていうんだ!」

 しまった。

 前回創大が家出した時もちらっと平等橋の名前を出してもスルーされたので、今回も聞いてないだろうと口に出したらしっかり聞かれてしまった。

 こいつは記憶力がいいから、一度聞いた名前なかなか忘れない。

「その平等橋って人の写真見せて! この前撮ってきてくれるって約束したじゃん」

「約束はしてねえよ。出来たらって条件付きだったろ。それに写真なんて」

「写真なんて?」

 あるわけない。

 そう言おうとしたのだが、そういえばクラス合宿の最終日に、全員で集合写真を撮っていた。クラスのグループラインでその写真が張られていたのを思い出したのだ。

 正直者な俺はそこで口籠ってしまう。それがいけない。

「あるんだ。あるんでしょ? 見せて見せて見ーせーてー」

 ぐいぐい来るゆかり。うざい。この子ちょっとこんなうざい子だったかしら。

 思わず心の中でオカマになる俺。いや今は女だからオカマじゃないな。だったらなにになるのだろう。

 自分の中で意味不明の押し問答を繰り広げるくらいにゆかりはぐっと身を詰めてくる。

 昔から積極的に攻めてくるゆかりには俺は弱い。

 結局ゆかりの圧に負けて写真を見せる。集合写真だからみんな顔が小さいし碌にわからないだろう。

 俺のスマホを受け取ったゆかりは、「ほっほー、これがお姉ちゃんのクラスメイトかー」と謎の感嘆を吐いた。

「どれ?」

「俺の隣にいる髪の毛つんつんのやつ」

「……このイケメン?」

「それそれ」

 俺は面倒だからベッドに転がりながら、近くで俺のスマホを手にじっと見ているゆかりに適当に答えた。もうどうにでもなれだ。

「満足したら返せ、うぇ!?」

 目を開けたらゆかりが体重をかけずに俺に覆いかぶさるような体勢を取っていた。びっくりすんだろ。

「お姉ちゃん、この人が平等橋さんで間違いないんだね?」

「え、あ、ああ」

 写真はバーベキューの前に取ったものだ。裕子や亜依、舞依が左に、右に平等橋を挟んで中途半端な笑みを浮かべている俺が写っている。

 ゆかりは俺の横に立つ平等橋を指さし、「マジでこれなんだね」と念を押す。

「知ってるのか?」

「知らない! でもどえらい男前だからびっくりした。お姉ちゃんすげえ」

「なにに感心してるのか意味不明だよ」

 どうやらゆかりは、俺が以前平等橋の存在をほのめかしてからずっと気になっていたらしい。

「これならお姉ちゃんを任せてもぎりぎり許してあげられるかな。いや、でも性格がまだわかんないし」

「ぶつぶつ何言ってんだお前」

 親指の爪を噛みながら何やら黒い顔で呪詛のように呟くゆかり。いい加減俺の上からどけ。怖い。声と顔が。

「それで、村木さんってのはどれ?」

「……その写真の右端にいる背デカいやつ」

「はんはん、どれど、れ? いや普通にイケメンじゃん。なんで振ったのお姉ちゃん」

 ほらこれだ。こういう反応がくるってわかってたから言いたくなかったんだよ。

 そりゃそうだ。写真でも村木は背が高いしイケメンだし欠点は見えない。実際にあったら性格もいいのだ。振るほうがどうかしている。でもそれ言われちゃうと何も返せないんだよ。

「……んー、まあ、そうか。お姉ちゃんも忘れがちだけど、まだ『お姉ちゃん』になって三か月ちょっとだもんね。そりゃ無理か」

「……え?」

 かと思えばゆかりはそっかそっかとしきりに一人で頷いていた。なんだこいつ。どういうつもりだ。

「お姉ちゃん顔が可愛いから忘れがちだけど、心は男の子のままだもんね。そりゃ無理だよ」

 無理無理と更に頷きを強めるゆかりに、いやちょっと待てよと声を掛けそうになった。

 でも結局掛けなかった。ゆかりが言ったことは何も間違っちゃいない。俺が心の中でずっと思っていることだし、村木の告白を断った理由でもあるからだ。

 ゆかりに物申しそうになったのは、単にこいつの言葉に素直に乗りかかるのが嫌だっただけだろう。天邪鬼が働いただけ。そうに決まっている。

「で、お姉ちゃんの悩みってなんだっけ」

「お前本当は俺の話あんまり聞いてないだろ」

 ん? と間抜けな顔をするゆかりに三度目のチョップをする。話を脱せんばかりさせるからだ。

「だからその、このままでいいのかなっていう」

「このまま?」

「平等橋とこのままの関係で続けていけるのかなっていう、そういうのだよ! 何度も聞き返すなよバカ」

「お姉ちゃん今最高にエロい顔してる……痛い痛い痛い! 逆エビはさすがに背骨折れるってえええ!」

 流石に今のはいらっと来た。人の話を聞かない妹の足を掴んでその尻に乗り、思いっきり下半身を反らせてやった。

 姉をあまり怒らせるなよ。

「お姉ちゃんはどう思ってるの?」

 落ち着いたゆかりは、シーツから顔を上げないまま俺に尋ねた。小刻みに震えているからまだ痛いのだと思う。

「どうって?」

「このままでいたいのか、それとも何か変えたいとか変わりたいのかってこと」

 俺自身か。

 それは、あまり考えていなかった。

 周りにも目を配らなきゃってそればかり考えていた気がする。

「俺の考えって今はそういうんじゃないっていうか」

「どうしてさ。一番大事なことだよ」

 だって今まで自分の考えばっかで押し通してた気がするし。

 それが原因で周りが見えてなかったから、村木が俺をどう思っていたか気が付かなかったわけで。もっと周りにも目を配らなきゃいけない。

 それで、そうすることって実は今までの男子、ひいては平等橋との関係性も男の時とは違った風に見直さなきゃいけないのかなって。

「うーん。確かにお姉ちゃんは男だった時が長いから、男の人に対する警戒心って薄い気はする」

「え、そう?」

 意外そうに尋ねると、ゆかりは深く首肯した。警戒心のことをとやかく言われる場面なんてゆかりに見られた覚えがなかったのだが。

「わかるよ普段の様子とか一緒に買い物行ったりしたときとか。まあそれで、それはちょっと改めた方がいいっていうのは賛成。でも平等橋さんとの関係もまた見直すっていうのはちょっとどうなんだろうって思うな。会ったことないからなんとも言えない部分は大きんだけどさ」

「どうしてそう思うんだ?」

「だってそうしたらお姉ちゃん“また”泣きそうだもん」

 悪戯っぽくゆかりは笑った。

 俺は口の端がひくっと痙攣するのを感じた。

 こいついま、またって言ったか?

「ゆ、ゆかり。お前それってどういう意味?」

「えー、それを私の口から言ってほしいの?」

 ヤバイ。かつてないほどゆかりが調子に乗っている。口に手を当ててどこぞの殺戮熊のようにうぷぷと笑っている。

「さては兄貴に聞いたな」

「黙秘権を行使します」

 兄貴には少し前平等橋のことで相談したことがあった。まさかこいつその時弱った俺の惨状を兄貴から聞いたのか。

「あ、お袋にも聞いたのか!」

「こたえませーん」

 お袋にも実は少しだけ平等橋のことは話していた。創大が来ていて心が荒んでいたこともあって、女になって友人に避けられたことがあるという話をしている最中に感極まって泣いてしまったことがあるのだ。お袋は何も言わず頭をなでてくれたが、ひょっとしてこいつはお袋からそのことを聞きだしたのか。

 一向に口を割らないゆかり。

 嫌な予感がする。

 まさかだと思うが。

「ひょっとして、両方?」

「………」

「ゆーかーりー?」

「ごめんなさいごめんなさい! 二人とも全然口割らないけど証言が一致してるところとか推理みたいにして遊んでたら真相にたどり着いちゃったみたいなってぎゃああああ!」

 ゆかりのしぶとさに感心と苛立ちを覚えた俺は、ゆかりのこめかみを拳骨でぐりぐりしてやった。

 隣の部屋からうるさいと兄貴に怒鳴り込みにやって来るまで、妹への折檻はやめなかった。

 結局この騒ぎで、話が中途半端になって終わってしまったなと後になって思ったが、ゆかりが単純に飽きたのかこの話をあいつがもちだしてくることはなかった。

 

 

 昼飯を食べた後、俺は平等橋の家に向かっていた。

 あいつに会うためじゃない。愛華さんに会うためだ。

 ゆかりに茶化されたのが原因ってわけじゃないけど、やっぱり一人で思い悩むより誰かに相談したほうがいいと気が付いた俺は、その中でも頼れる愛華さんに聞いてもらいたいと思ったのだ。今日は土曜日だし、愛華さんも家にいるはず。ちょうど髪留めのことも直接お礼はしたかった。Lineですぐ礼はしたけど、こういうのはやっぱり直接言いたい。

 迷惑にならないだろうかと連絡をしてみると、快い返事が返って来たので俺はいそいそと家を出たのだった。

 駅の近くのケーキ屋さんでプリンを三つ購入する。手ぶらで行くのもなあと思った結果だ。愛華さんはまったく気にしないだろうと思うけど。

 もう何度目かになる平等橋のアパート。

 俺は階段を上っていると上の階から降りてくる人とぶつかりそうになった。

「あ、すいません」

 俺は咄嗟に謝ったが相手の女性は無言で会釈をし、早足で通り過ぎていった。

 女性が過ぎ去った後も、俺はしばらくその後姿を思い返してしまった。

 似ていた。

 平等橋や、愛華さんに。

 その女性、後に平等橋の母親であると知る「弟切ユリ」さんを初めて見た時のこの瞬間をよく覚えている。

 生きているのに死んだような目をした人。

 後にも先にもそんな目をした人と会ったのは、この人だけだった。

 

 



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三章
これのどこが小規模なんだよ!


「平たく言うと不倫したのよ。うちの母親」

 愛華さんの部屋に入り、先ほど愛華さんや平等橋に非常によく似た顔立ちの女性とすれ違ったという話をしたら「ああ」と頷かれた。

 それから小一時間くらいかけて愛華さんは俺に平等橋家の話をしてくれた。正直ここまで踏み込んでいいのだろうかとも思う。 

 平等橋の親父さんとお袋さんは学生の頃に出会い、所謂学生結婚をして生まれたのが愛華さんらしい。

 お金もない中愛華さんを生んだので、当時経済的に凄く大変だったそうだ。

 平等橋が生まれるころには家も豊かになり、賃貸アパートから一戸建てに住むようになった。

「その頃あたりから私がグレてねえ」

 平等橋家の歯車が狂った一つ目が長女の非行だった。

 経済的に豊かになった反動でお袋さんは務めていた会社を辞めたらしい。

 平等橋も幼く、家に誰かいてほしいという親父さんの願いを聞き届けた結果だった。

 だがこの頃愛華さんに一つの問題があった。

「クラスの男子振ったからっていう理由でさ、ちょっとハブられちゃったの」

 クラスの女子に総スカンを食らっていた愛華さんは鬱屈した気持ちを抱えていたが、両親に相談することができなかった。

 当時平等橋は重い病気を抱えており、両親の関心は弟に向けられていたからだ。

 治らない病気ではないが、警戒は怠れない。

 常に目を配っていなければならないような、そんな病気だった。

 愛華さんは両親に心配の種を増やさないためにあえて我慢し続けた。

 だがそれも我慢の限界だった。

 ある日、とうとう我慢の限界を迎えた愛華さんが学校で暴れまわった。

 相手の女子にケガをさせたとして、お袋さんが学校へとやって来た。

 平謝りするお袋さんを見て申し訳ないことをしたと思う反面、どうしてこちらがすべて悪いというように振る舞うのかと思ったそうだ。

 疑惑が確信に変わったのは、帰り道のことだったらしい。

 愛華さんが頭を下げることで一応の決着を迎えたこの件で、お袋さんは愛華さんに「なんでこんなことをしたの」と叱ったそうだ。

 一言相談してくれればよかったのに。

 この一言がいけなかった。

 愛華さんはお袋さんにぶち切れた。

『あんたらのことを思って我慢してたんだろうが!』

 愛華さんの怒りにお袋さんも謝りはしないまでも、聞き受けることはすべきだった。

 だが日々の平等橋の看病や気遣いでお袋さんも素直に娘の反抗を受け入れる心の余裕がなかった。

 反抗的な娘をたしなめようとし、それが愛華さんの怒りをさらに助長させた。

 すれ違いから、彼女はお袋さんに対する不信感を強め家に帰りたくないという思いが強くなっていった。

 そのうち学校にも足が遠のくようになり、悪さをする連中とつるむようになっていったそうだ。

「あの頃の私はバカだったよ。言っても仕方ない事なんだけどね。でもこれがいけなかったのよね」

 愛華さんがぐれるようになったことで、夫婦間の不和が生じるようになった。

 家にずっといながら愛華さんの様子を看破できなかった妻を夫は責め、家庭をあまり顧みない夫を妻は責めた。

 親父さんには会社という家以外の逃避先がある。

 しかしお袋さんには家以外どこにも逃げる先がなかった。狂った歯車の二つ目だった。

「一回だけ母さんが相手の人と会ってるとこ見たことあるのよ。私」

 相手はお袋さんの務めるパート先の店員だったらしい。

 平等橋の容体が回復したのを見て、お袋さんは午前中の間だけパートをすることになったらしい。この頃には夫婦間も冷めていて、親父さんも口出しはしなかったそうだ。

 相手といるところを見て愛華さんは激しく動揺したらしい。

 すぐに母親に詰め寄ったが、母親は取り乱すだけではっきりしたことは何も言わなかった。

 親父さんには黙っておくから、二度とあんなことをするな。

 自分の行いが招いたことだとうすうす感じていた愛華さんは、母親を深く責めることはできなかったそうだ。

 家がおかしなことになっている。

 ようやくそれに気が付いた愛華さんは、悪いことをする連中とは手を切り、真面目に学校に通い短大に進んだ。

「それからはうまくいってると思ったんだけどね。私もいろいろ家族がうまくいくように頑張ったつもりだし、罪滅ぼしみたいな気持ちもあったんだと思う。それでもやっぱりまだ家族とはギクシャクしてたんだけど、それは私のせいだって思ってたの。何年も家のことを見ていなかったからだって」

 しかしそれも叶わなかった。

 愛華さんが短大に進んで一年目。事件は起こった。

「家に帰ったらもう全部終わってた。父さんは離婚届にすぐ判を押して母さんを追い出していたの」

 それからの平等橋家の荒みようは酷かったらしい。

 親父さんは殆ど家に帰ってこないで仕事漬けとなり、たまに帰ってきても酒を飲んでは暴れたそうだ。

「正義は父さんのいい面しか見てなかったから父さんのことを凄く尊敬してたけど、私から見たらどっちもどっちだったな」

 愛華さんが社会人二年目の年、親父さんは亡くなった。

 原因は過労だった。

「母さんが家を出て行ってからうちは少し、いやかなりかな、おかしくなっちゃった。正義は特に」

 愛華さんの長い話はそこでいったんストップした。

 俺はさっきから冷や汗が止まらない。

 いいのか。本当にこんなディープな話俺が聞いてもいいのだろうか。

 無言でいる俺に、愛華さんは「ごめんごめん。急にこんな思い話しちゃって」とけらけら笑った。笑えない。

「あの、どうしてそんな話私に?」

「さっき母さんに会ったんでしょ。キミちゃん」

 愛華さんは姿勢を正した。何か重大なことでもいう前振りだろうか。

「ひょっとしたらまた会うかもしれない。その時隣に正義がいたら守ってあげてほしいの」

「守って?」

「前にキミちゃんが困ったら正義を頼れみたいなこと言っておいて矛盾するかもしれないけど、この通り。お願いします」

「ちょ、ちょっと愛華さん!?」

 愛華さんは俺に土下座をした。

 慌てて顔を上げてもらう。心臓に悪いことをしないでくれ。

「あの、それなら一つ聞いてもいいですか」

「何?」

「さっきお母さんいらしてましたよね。どういう要件だったんですか?」

 平等橋家の事情はわかった。しかしそれなら当然浮かび上がってくるであろうこの疑問。

 平等橋母はどうして彼女の子どもたちの所にやって来たのだろうか。

 愛華さんは一瞬ためらいを見せた後、「実はね」と切り出した。

 俺は愛華さんが喋り終わるまで頷きながら聞いていたが、終わったころには口をあんぐりと開けていた。

「お、俺に話していいんですかそんな事!?」

 思わず口調も元に戻って尋ねてしまった。動揺が半端じゃない。

 愛華さんは「よくはないかもしれないわね」と言った。

「ならどうして」

「知っておいてほしかったからよ。正義を知るあなたに」

「私はあいつはただの友達ですよ。それなのにそんな立ち入った話を聞かされても」

「“ただの友達”なら言わないわ。あの子にとっても、あなたにとっても。そうじゃないの?」

 俺は沈黙した。あいつが俺のことをどう思っているか、それは永遠の謎だ。

 しかし俺が平等橋のことを特別な友人と思っていることは確かだし、愛華さんもそれは初対面の頃から知っているのだろう。

「あの子が女の子と仲良さそうに話すなんて考えられなかったの。母さんの一件があってからあの子は酷い女性不信に陥ってしまったから」

「私が元男だから、男だと思ってるからだと思いますよ」

「そうかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。お願いキミちゃん。でもせめて何かあった時あの子のそばにいてくれないかしら」

 手を握られる。

 俺は戸惑いながらも、小さく頷くことができた。

 

 

 重すぎる平等橋家の話を聞いた後、俺は本来の目的である悩みを打ち明けることができなかった。

 だってあんな話を聞かされた後じゃなあ。

 晩飯も誘われたがさすがに辞退した。平等橋と顔を合わせるのも今は気まずいし。

 すっかり暗くなった道をてくてく歩いていると、見慣れたつんつん頭が目の前に見えた。

「あれ、公麿じゃん」

「よ、よう平等橋」

 イヤホンを外した平等橋は「外で会うの久しぶりだなー」と俺の頭を乱暴に撫でまわした。

「あれ、どしたの抵抗しないなんて」

「うっせえな」

 失策だ。

 まさか平等橋とバッティングしてしまうとは。違うルートを通ればよかったと激しく後悔。

「あ、そうだ。お前今暇か?」

「暇っていうか、もう帰るとこだけど」

 突然こいつ何言って来ているのだ。

 そう思っていたら、「じゃあ祭り行かねえか」と誘ってきた。

「祭り?」

「そう、ここらへんの商店街でやる小さいやつだけどな。もう夏も終わりだし最後の記念にどうよ」

「記念ってお前」

 悪い提案じゃなかった。

 大きい祭りだと人がいっぱいいて人に酔ってしまいそうになるが、小さいのだとそれもないだろう。それに学校のやつらに見られる心配もない。

 こいつと二人で遊びたいっていうのもあるし。

「いいよ。じゃあまた連絡してよ」

「っと、どこ行くんだよ」

 別れようとしたその手を掴まれた。げごっと蛙を踏みつけたような声が漏れた。

「今からだよ。何帰ろうとしてんだ」

「はあ? 今?」

「そういっただろ」

 そのまま手を引いて平等橋はずんずん歩き始めた。

 ちょっと、俺逆向きで歩いてるから。怖いから、ねえ。

 調子に乗ってテンションを上げる平等橋。

 俺の反応を楽しんでいる所がムカついたので、信号が赤の時にローキックをお見舞いしてやった。すっとした。

 

 

「……嘘つき」

「う、嘘はついてないかなあ?」

 ぴゅーと妙にこなれた口笛を吹く平等橋の脇腹に、思いきり肘を入れてやった。

 肋骨の隙間に入ったようで、もだえ苦しんでいた。

 祭りは確かにやっていた。

 近くまでくると、祭囃子の音が聞こえてきて、なんとも心躍った。

 小さい子を連れた家族連れや、友達同士で来ている中学生。

 浴衣を着ている人もいて結構人がいるなあと嫌な予感はしていた。

 着いて驚いた。

 人が多い。

 屋台の数が多い。

 全然小規模じゃない。

「これのどこが小規模なんだよ!」

「いや、テレビとか来ないから」

「テレビが来ない祭りのことを小規模っていうんじゃないよ!」

 聞けばこのお祭りは地域の町おこしも兼ねているらしい。

 商店街の人たちの気合いの入りようが違う。

 青年団らしき人たちがなんか高い物見やぐらみたいなのの上に乗って太鼓を叩いている。

 その周囲を浴衣や法被を着た若い男女がそりゃそりゃと踊る。

「ありゃ近くの大学生だな」

「知ってるのか?」

「ああ。よく夏祭り近くなると公民館とか借りて練習してんだ。この時期よく見るぜ」

 ほいよといつの間にか姿を消していた平等橋は、ラムネの瓶を手渡しながらそういった。よく冷えている。うまい。

「いくら?」

「いいよ、誘ったの俺だし。それよか他にも見て回ろうぜ。絶対出ないくじ引きとかあんだよ」

「それわりと何処でもあるぞ」

 早く、早くと急かす平等橋の手を借りて立ち上がった。うざいなあこいつ。だがそうだ、こればっかりは平等橋の態度の方が正しいのかもしれない。

「祭りはテンション高い奴が正しい!」

「わかってるじゃないか公麿!」

 がっしりと手を組む俺たち。傍から見たらどう見えているかなんて気にしない。

「行くぜ公麿!」

「ルートは任せた平等橋!」

 はしゃぎまわって二人でいろんな屋台を冷やかした。超楽しかった。

 

 

 祭りの宴もたけなわという所で俺たちは抜け出してきた。

 平等橋が言うには、このくらいの時間に捌けるのが一番空いていて帰りやすいのだという。

「あー楽しかった。祭りでこんなにはしゃいだの何年ぶりだろ」

「そいつはよかった。俺はその、明日からどうしよう」

 明るく笑う俺とは対照的に、平等橋はパチンコで大負けした男のような顔をした。

「いや払うよ今からでも。そんな顔すんなって」

「いらん! ここで受け取ったら男が廃るってもんだ」

 テンションの上がりきった平等橋はことあるごとに「ここは俺が払う!」「俺に任せておけ」「すべてが俺の財布からだ!」と何度も奢ってくれた。

 祭りのものは基本的にどれも割高だ。

 そんな何度も二人分支払っていたらどうなるかわかるだろう。

 俺が自分の分の代金を出すと、平等橋は死んでも受け取らないとばかりに首を振った。なんなんだこいつは。

「いいから。そんなに奢ってもらう理由もないし」

 俺は無理やり平等橋のポケットに千円ねじ込んだ。平等橋は「だせー! 俺だっせえー!」と騒いだ。ダサくないから少し黙れといいたい。

「こんなに楽しいんだったら愛華さんも誘えばよかった」

「姉貴を? やだよ姉貴が横にいるなんて」

「なんで。美人じゃん、嬉しいだろ」

「どこの世界に高校生になって姉貴同伴で祭りに来る奴がいるんだよ」

 それもそうかと思った。でも個人的に愛華さんとも来たかったなとも思う。

「よかったよ」

 平等橋がぽつんといった。何がだろう。

 小首をかしげると、「お前の顔」と平等橋は言った。言葉が足りなさ過ぎて何のことを言っているのか分からない。

「いや、会った時お前なんか沈んでる風だったからさ。ってこういうこと言うのもあんまよくないんだけど」

「沈んでたか? 私」

「え、ああ。気悪くしたら悪いな」

 驚いた。こいつ自分の気を紛らわすとかじゃなくて、俺のことを思って誘ってくれたらしい。

 こいつも言っているように最後にその理由まで話してしまうのはどうかと思うが、その気遣いは普通に嬉しかった。

 でもな、平等橋。

 俺が沈んでいたのはお前のことでもあったんだ。

 

 

「癌が見つかったって、そう言って来たのよ」

「え?」

 昼の会話の続きだ。

 愛華さんはお母さんがやって来た理由を淡々と説明してくれた。

「転移しててどうしようもないからって、最期に私たちのことを見に来たって言っていたわ。私は構わないけど、正義になんていえばいいのか正直まだ迷っているわ。言わない方がいいんじゃないかとも思ってる」

「それは、どうして?」

「母さんに会うことであの子がまた傷つかないか私は分らないの。でも、この機会を逃したらあの子は二度と生きた母親に会うことはない。伝えることが正しいのか、正しくないのか。一人で抱えるには重かったから聞いてほしかったのかも。でも誤解しないでキミちゃん。あなたに何かしてほしいってわけじゃない。でも、もし母さんが強引に正義に会おうとしてきたら、そして正義の身に何か起こったら間に入ってほしいの。母さんとはよく話したし、そんなことは起こらないと思うんだけどね」

 愛華さんの語ったそれを、俺はどう受け止めていいのかわからなかった。

 

 

 平等橋が母親のことを今もなおどう思っているのかわからない。

 しかし相手が死ぬって分かっていたら、それを伝えないでいいのかという葛藤はある。

 他人の俺が出しゃばるのはお門違いだ。

 だが、もし愛華さんが母親の件をまったく平等橋に伝えなかったら、こいつは母親の死に気が付くことなく生きていくことになる。それは本当にいい事なのだろうか。

 ただ一つ言えることがある。

 隣を歩くこの能天気な優しい友人。

 彼の傷ついた顔だけは見たくないということだった。

 

 



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引かないよ

 夏休みが明けて新学期となった。

 久しぶりに袖を通した制服はなんだか新鮮で、これから毎日嫌って程着なくちゃいけないのにこの日だけは嬉しくなるから不思議だ。 

 例の如く平等橋の待ち合わせの場所に行くと、やつは既に待っていた。

 遠めでもはっきりわかるくらい存在感を放ってやがる。改めて見てもあいつイケメンだよなあと謎の怒りが込み上げてきた。

「よお平等橋」

「なんでお前ちょっとキレてんだよ」

 改札前で俺に気が付いたあいつは、流れてくる人にぶつからないように近づいてきた。

「今日は俺が先に着てたぜ」

「あ、うん。そうね」

「流すなよ。ジュースな」

「それいつまで続けんだよ……」

 そういやそんなルールがあったなと思い出す。先に待ち合わせについていた方が昼休みに紙パックのジュースを奢ってもらえる。

 もともと平等橋が遅刻しないように自分の戒めてとして勝手に始めてきたものだったが、いつの間にか俺も適用されるようになってしまった。

 夏休みにあったことや面白かったことなどを中心に話ながら俺たちは歩いた。

 合間合間にちょこちょこ会っていたはずなのだが話す話題が尽きないから不思議だ。

 平等橋は主に夏休み中部活であった嫌なことや面白かったこと、後は愛華さんの悪口なんかを面白おかしく話してくれた。

 俺は基本聞き役だ。聞かれたら答えるがそれ以外はふんふんと相槌を打つ。これは平等橋と出会った時から変わらない。

「そういやお前なんか太ったか?」

 話が一段落したころ。唐突に平等橋が尋ねてきた。

「え、太ったかな。気がつかんかった」

 俺はというと意外そうに目をぱちぱちと瞬くだけだ。マジか、太ったか。

 腹の肉を掴もうとするがちまっと皮が引きつるだけ。

「なんか全体的なフォルムが丸くなった気がするんだよな。あと腹出てるような」

「別に私だからいいけどさ、他の女子に言うなよ? それ。ボコボコニ殴られるから」

 腹や顔をさすさす撫でてみてもあんまり変化が分からない。

 なんでこいつそんな事言い出したのかと考えてみて、思い当たることがあった。

「多分ブラのカップがひとつ上がったからだと思う。ほら、ベストがそのせいで伸びて見えるだろ?」

 前回クラス合宿で水着を付けた時、なんかほんのちょっときついなーと思っていた。するとプール終わりの着替えで裕子たちにあっさり見つかってしまったのだ。あの時は裕子や舞衣だけじゃなく亜衣まで悪乗りしてきたから困ったものだった。

 お袋に相談して新しい下着を買いに行って測り直したら、胸が育っていたのが分かったのだ。

 今まで意識してなかったけど確かに大きくなっている。女になりたての時は潰れた餅みたいなペタンこだったのに、今じゃ小リンゴくらいになっている。ブラを付けたら形が出るからぱっと見もう少し大きく見えるだろう。

 俺が丁寧に説明すると、平等橋は途中から「もういいから」「俺が悪かったから」と顔を塞ぎだしていた。その様子が面白かったから嬉々として続けてやった。

「あー、あれだ。俺はひょっとしてとんでもないセクハラ発言をかましていたということになるのか?」

「覚えとけよ平等橋。一般的に女性に太ったとか言いだした時点でセクハラだ」

 あっはっはと笑う俺たち。平等橋の笑いが渇いているがそこは気にしない。

 男の時はこんなセクハラもこいつは全く気にしていなかったが、今はこの手の際どい話はできるだけ振ってこない。久しぶりの感覚だったので俺の方がつい調子に乗ってしまった。

「セクハラついでにこの際聞いてもいいか」

「いいけど。何?」

 変なスイッチが入ったのか、平等橋はえらく真面目そうな顔をしてきた。

「公麿ってさ、女になってから一人で致したことってあるのか?」

「いたす?」

「いや、ほらだからそのオナニー」

「あんた何公衆の面前で卑猥なこと聞いてるのよ」

「うわ、裕子。いたのかよ、声かけてくれよ」

 いつの間にか裕子が俺の隣に歩いていた。反対の隣に歩く平等橋が「はがががが」と壊れたロボットのような声を出している。

 凄いな、目視できるレベルでだらだら汗を流しているぞこいつ。

「公麿こっちへいらっしゃい。妊娠させられるわよ」

「お前時々表現が古いぞ」

 裕子が平等橋の存在をいないもののようにして俺を自分の方に寄せてきた。なんだか平等橋がちょっと可哀そうでもある。

「おい裕子。これは俺と公麿の会話だ。途中から出しゃばってきて調子乗るなよ?」

 おお、珍しく平等橋が反撃した。

 意外な事態に目を丸くさせていると、裕子の目が小動物をいたぶる鷹のように鋭く細められた。

「言うじゃない平等橋。いいわ、私も聞いていてあげるから話を続けなさいよ」

「え?」

 裕子の返しが意外だったようで、平等橋はきょとんとした。

「お、おうよ、続けてやらあ!」

 啖呵を切って俺に向き直る平等橋。この時点で不自然さ100%だ。

「公麿、さっきの話の続きだけどなって聞けるかぼけえええええ!」

 赤面しながら平等橋は走り去っていった。

「あ、おい平等橋」

「ほっときなさいよあんなの」

 裕子はふんと鼻を鳴らした。俺も裕子が横で聞いているのが分かっていて答えたいものでもなかったので安心と言えば安心。でも逃げるなよなーくそ。

「裕子さ、なんか平等橋に厳しくない?」

 いつか言おうと思って口に出せなかったが、ちょうどいい機会だ。思い切って聞いてみよう。

 裕子を見ると、彼女はへの字に口を引き結んでいた。痛い所を突かれたという表情だ。

「あいつになんか嫌なことされたこととかあるのか?」

「いえ、そういう訳でもないんだけど。……そうね、確かにどうしてなのかしら」

 平等橋と裕子は小学校来の幼馴染だ。

 裕子は主に愛華さんと交流があって、平等橋本人とはそこまで深い交流があったわけではないと聞くけれど、本当の所はどうなのだろう。

 彼女の平等橋に対する当りの強さを見ると、さも全男子を嫌悪している風に見えるし実際本人もそういうことを口にする。だがここ数か月間付き合ってきてあそこまで理不尽なほど当りの強い反応を示すのは平等橋だけなのだ。

 ほんの少しだけ、もやっとするところでもある。

「平等橋はほら、馬鹿だから」

「うちのクラスの男子なんて大概バカの集まりだよ」

「飛びぬけて馬鹿なのよあいつは。何、ひょっとして嫉妬してるの?」

「うん。ちょっとだけ」

「マジっすか!?」

 がっと両腕で肩を掴まれた。痛いし目が血走っていて怖い。

「まままままさかあなたたち夏休みに何かあったの!? 吐きなさい。吐いてすっきりしなさい!」

「何もねえし怖ええよ!」

 振り払うとあっさり崩れ落ちた。ここ通学路なんだけど。人めっちゃ見てんだけど。

「おい、立てって裕子。お前あと凄い勘違いしてるって」

「勘違いって何よ」

 ふらふらと足元のおぼつかない裕子の手を引き先導する。このままじゃ遅刻しそうな勢いだ。

「私がこう、なに。もやっとしたのは、裕子が平等橋のこと好きとかそういうの疑ったんじゃなくて。あいつの幼馴染だから、昔のこととか、その、いろいろ知ってるのかなって思って」

「……あいつに何かあったの?」

「それは……」

 元の調子に戻った裕子は、声のトーンを落として俺に尋ねた。

 答えていいものなのだろうか。

 頭の中にあるのは勿論先日の愛華さんとの会話だ。

 平等橋の母親、弟切ユリさん。

 平等橋と愛華さんの母親ということもあって、随分綺麗な人だった。

 アパートの階段ですれ違っただけだったが、その眼は暗く濁っておりはっきりと記憶に焼き付いている。

 平等橋の母親で、あいつに女性不振を植え付けた相手。

 彼女がこの街に単にやって来ただけならここまで悩みはしない。だが相手は自分の死期を悟って最後に一目自分の息子と娘を見ようとやって来たという。

 俺の感性が青いからかもしれないが、それって勝手なこと、だと思う。

 冷たい考えだろうか。

 死ぬとわかっているから一目血を分けた子どもの顔を最期に見たい。この考えは理解できる。

 でも自業自得だ。

 会えない原因を作ったのはほかでもない、自分自身なのだ。

 愛華さんには平等橋に母親が来ていることを教えるか否かという事は言われなかった。ただ知ってほしいというだけだった。

 さっき会った時に見た平等橋の反応からして、あいつは愛華さんに母親のことを聞いていないのだろう。

 平等橋に母親のことを伝えるのがいいのか、それとも黙ったままでいるのがいいのか。俺はずっと悩んでいた。

 俺がどう思うかと、平等橋がどう思うかはまた別問題だからだ。

 愛華さんからはあまりいい話を聞かない母親であっても、今の平等橋にとってはまた違っているかもしれない。

 また俺が平等橋の母親がどんな人なのか、愛華さんの情報からしかうかがい知れないというのも大きい。このため下手に手が打てないという面もある。

 だから裕子が少しうらやましくなったのだ。幼馴染である彼女は、きっと俺なんかよりもずっと平等橋の家の事情に詳しいはずだから。

「何もないよ」

 俺は努めて何でもないように笑った。

 裕子は「そう」と言ったきり、この話に触れてくることはなかった。

 

 

 帰り支度をしていると、後ろからボスと軽い衝撃があった。振り向くとサイドバックを片手に平等橋がニヤッと笑っている。

「なんだよ」

「今日部活なくなったんだ。一緒に帰ろうぜ」

 魅力的な誘いだ。

 これはつまりこのまま遊ぶことができるという提案に他ならない。

 夏休み終了から授業開始初日だというのに、大半のクラブは今日から開始だ。その為裕子も亜依も舞依も部活に行くとさっさと教室を出て行ってしまった。

 仕方がないので美術部にでも顔を出すかとやや寂しい気持ちがあっただけでに、平等橋のこの誘いは震えるほど歓喜するものがあった。

「よっしゃ! 今日どこ行こうか!」

「テンションクソ高えなおい。それに愚問だぞ公麿。そんなの決まってんだろ! ノリと勢いで決めんだよ!」

 がしっと手を組みあった。さあ行こう。時間は一秒でも無駄にはできない。

 俺たちは互いの背中をバシバシとたたき合うというよくわからないテンションのまま昇降口を降りた。

 

 

 平等橋の上手くはないが決して下手とも言えないなんとも独特な歌声をたっぷり堪能した後、俺たちは学校の駅近くのファストフード店で駄弁っていた。

 とりとめもない話をしていると、不意に平等橋が「そろそろ話せよ」と切り出した。

「えっと、何が?」

 内心の動揺は隠せなかったが、なんとか平静を保ってとぼけた。

「知ってるか公麿。お前は嘘ついてるとすげえきょろきょろ目線を泳がすが、隠し事をしているときはいつも眉をハの字にさせてんだぜ」

「嘘だろおい」

 とっさに俺は自分の眉を触った。平等橋はそのさまを見てにやっと笑った。こ、こいつカマかけやがった。

「話しにくい事なのか?」

「え、いや、その」

 平等橋の声には心配の色が隠れているように感じた。俺は平等橋に隠していること、つまり平等橋の母親のことを話すべきかずっと迷っている。このタイミングで平等橋に切り出すのは果たしていい事なのか悪い事なのか。

 俺が答えあぐねていると、平等橋の目線は俺ではなくどこか違う方に向いていることに気が付いた。視線の先を追ってみると、小さな子供を連れた母子のテーブルを見ている。

「俺の母親の話ってお前にちゃんとしたことあったっけ」

 平等橋はぽつりと口にした。俺は無意識に平等橋の母親のことを口に出していたのかと焦ったが、そうではなかった。

 ぼんやりと母子の席を見つめる平等橋。彼の心情を俺はつかみ損ねている。

「俺が女性不振になった原因でさ。そこまでは話したっけ」

「え、ああ」

「親の不倫現場って結構壮絶でさ。母親としてのあの人しか知らなかったから、急にそういうことを父親以外の人とするんだってなったら怖くなった。裏切られたって感情より得体のしれない不安に押しつぶされそうになったんだ。でもさ、生きてりゃ浮気だ不倫だなんて結構ごろごろあるだろ。知らないだけで隠してそういうことする人だっている。うちが特別ってわけでもないんだよな」

 だからかな。

 平等橋は淡々と、滔々と、感情が入らないように続きを口にする。

「あの日俺が忘れ物を取りに帰らなかったら。あそこまで騒ぎ立てなければ。離婚なんてしなかったかもしれない。父さんも死ななかったかもしれない。まだ一緒に、家族四人で暮らしていたかもしれない。そんなことを最近は思うようになってきたんだよ」

「平等橋……」

 ずずっと氷で薄まりきったオレンジジュースをすする平等橋を見て、俺も踏ん切りがついた。

「悪い公麿。急に重い話しちまった。引いた?」

「引かないよ」

「だと思ったぜ。お前と俺の仲だもんな」

 けらけら笑う平等橋。いつもなら乗ってやるが、ここでこの話を終わらせたくはない。伝えなければならないと身を乗り出した時、店の外から見つけてしまったからだ。

「出るぞ平等橋!」

「え、いきなり何?」

 俺は自分のトレーをもって片手で平等橋の腕を掴んだ。

 店の外に出て必死で探す。いた。

「なんなんだよ公麿」

 戸惑った様子で抗議する平等橋。俺は無言で指をさした。

「お母さん、病気でもう長くないらしい。お前に会いたいって言ってるけど愛華さんが止めたんだ。私はでも会うべきだと思った」

 視線の先を追う平等橋。何年もあっていなくても、親の顔は忘れないのだろう。

 びたっと顔をこわばらせた平等橋。失敗したかもしれない。余計なことをしたか。俺の心中不安が渦巻いたのも一瞬。平等橋は俺の手をとって足早に歩きだした。

「平等橋?」

 平等橋は何も答えない。まっすぐに前を向いて、でも繋がれた手は歩きながらでもわかるほどはっきりと震えていた。

「母さん」

 その人の近くまでくると、平等橋は恐らく緊張で掠れた声を出した。

 ぴくっと振り返ったその人は、信じられないとばかりに目を開いた。その顔から本当に予想の範囲外だったのだろうということが伝わって来た。

「……まさ、よし?」

 感動の再会という言葉は似合わないだろう。

 経緯を知っているだけに、この立ち合いが果たしてどれほどの意味を持つのか俺にはわからなかった。

 




ごたごたしてましたがようやく更新再開できそうです。毎日更新できるかは不明ですが、八月中には完結させたいなあ……


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戻ろう

 弟切ユリさんはやがてすっと視線を下げて、申し訳ないように立ち去ろうとした。

 わざわざ平等橋のアパートにまでやって来たのだから、もっと何かあるのだと思っていた。それだけに彼女の行動は不可解で、俺たちはしばらく去っていくユリさんを見送ることになった。

「って、おい、平等橋?」

 先に気を取り直したのは俺だ。茫然とする平等橋の肩を叩いて正気を取り戻させる。

「え、あ、ああ」

 要領を得ない。

 平等橋の目はぐるぐるとどこを見ているのかわからない。

 迷ったが、俺は平等橋を引っ張ってユリさんの前に躍り出た。

「待ってください! どうして逃げるんですか!」

「……あなたは、階段の」

 ユリさんの目が俺の方を向いた。あんな一瞬だったのに彼女も俺のことを覚えていたらしい。

「余計なお世話だってことはわかってます。でも、ならどうして平等橋に会いに来たんですか」

「……あなたが誰だか知らないけど、そんなこと関係ないわ」

 暗い陰りのある言葉。逃がすか! なおも俺たちの脇をすり抜けようとするユリさんの腕を掴んだ。反対の手は平等橋の手を掴んでいるから、文字通り二人の橋渡しになっている。

「はな、して」

「じゃあ逃げないでください!」

「あなたには関係ないでしょ!」

 ばっと乱暴に弾かれた。

 弾かれたことよりもその言葉にショックを受ける。

 そうだ、自分でもずっと言っているじゃないか。これは平等橋の家のことで、俺が介入するには深入りしすぎている。払われた手の痛みはなんでこんなことをしてしまったのかという心の痛みだ。ぎりりと鈍く痛む。

「関係なくねーよ」

 いつの間にか平等橋が俺とユリさんの間に立っていた。

「巻き込んだんだ俺が」

 平等橋の手の震えは収まっていた。

 ユリさんは何か言いたそうにし、しかし何も口にしない。

「ごめんなさい」

 ようやく口にしたのは謝罪の言葉だった。

「勝手に押しかけて、迷惑をかけたことは謝るわ。あなたは愛華からどこまで?」

「……何も。さっきこいつに言われるまで何も知らなかった」

 ユリさんの視線が一瞬だけ俺に移ったが、すぐに平等橋に向き直った。

「先、長くないのか?」

「……ええ」

「そっか……」

 黙りこむ二人。道の端で佇み、通行人はチラリとこちらを見てくるがそれだけだ。二人にとっては大事でも、知らない人が見たら関心のない事なのだ。

「俺友達ができたんだ」

 平等橋が再び切り出した。

「そいつのおかげで、かなり大丈夫になった。だから、俺は大丈夫だ。それだけ、かな」

「……そう」

 

 

 結論から言えば二人の会話はここで終わった。

 ユリさんはその後「それじゃあ」と一言残して立ち去り、平等橋もあえて追うことはなかった。想像していたよりもずっと淡泊な結末と言えた。

「あの、えっと、その、さ。平等橋、よかったのか?」

 このまま別れるのも気持ち悪かったので、俺たちは近くの公園に移動した。ベンチに座る平等橋の隣に座るのはなんだか落ち着かなかったので、あえて正面に立って彼のつむじを見つめていた。

 改めて自分のした行動の大胆さと無神経さに心臓がバクバクする。

 恐る恐る尋ねた俺の問いに、

「ああ。あれでいいんだよ」

 と答えた。

「お前、結構姉貴と俺の家のこと話してたんだな」

「あ、えっと」

「隠さなくていいよ。怒ってるわけじゃないんだ。ただ、ありがとな。そんな心配しなくても大丈夫って」

 賭けだったと言わざるを得ない。

 平等橋が女性不振に陥ったのは家族のあの一件があったからで、母親と対面させることを迷っていた愛華さんの忠告を無視する形で逆にこちらから首を突っ込んでいってしまった。これでもし平等橋の様子が以前よりひどくなった場合どうなっていたか。

「手を握ってくれてたろ。あれがデカかった」

「え、あ?」

 一瞬何を言っているのかわからなかったが、話し合っている時のことだと気づき何故だか顔が熱くなった。

「あ、あれはお前がその!」

「キレんなって。茶化しとかなくてマジでさ、お前が隣にいたから何とかなったんだと思う。一人じゃないって、そう思えたからかな。……そんで、母さんと話せてよかったよ」

「そ、か。うん、そうか」

 ぱちぱち何度も瞬きをして平等橋の座る高さに視線を合わせた。

 平等橋の隣座れよと言わんばかりの目線を無視して彼の眼を見た。嘘をついているようには見えなかった。

 俺がしたことは間違っていなかったと思っていいんだろうか。

「でも全然話せてなかったよな。よかったのかあんなんで」

「あれくらいがちょうどよかったよ。でも実際あんまり実感はわかないな。死ぬ、なんて実感湧かねえよな」

 やはり引っかかっていたのはそこだろう。いきなり言われただけであっさり納得できる言葉ではないからだ。

「詳しいことは私にもわからないけど。ごめん、もっと早く話すべきだった」

「そこでなんでお前が謝んだよ。よくわかんねえけどさ。それはまた姉貴に聞いてみるよ。ってなんだよその顔」

 平等橋は俺の頬をぶすぶすと指で押してきた。納得がいかない、というより不可解な部分があるのは確かだ。

「親が死ぬかもっていうのにあっさりしすぎてるか? 俺」

「あ、いや」

 図星を突かれて答えに窮する。間違いなく俺が引っかかっていたところだからだ。

「もう二度と会うことはないって思ってたからな。それを思ったら最後にもう一度会えてよかったって感じだよ」

 俺は平等橋家の事情をかなり深いところまで知ってしまった。

 俺を安心させる意味を含めてだろう。

 平等橋は明るい口調で語る。

「姉貴に聞いたんだけどな、あの人もう別の家庭を持ってるらしい」

 でも、それがどれほど無理をしているかなんて。

「あの日の男と一緒になったのかは知らねえけど、子供もいるんだってさ」

 かりかりと何かをひっかく音が聞こえる。公園のベンチを爪でひっかいている。

「極力聞かないようにしてたけど、やっぱりそういう話って耳から離れないもんだろ」

 音はどんどん早く、強くなり、爪から血が噴き出している。それでも動きが止まることはない。

「だから、もう俺の母親っていうよりよその家のかあちゃんっていうか」

 言い終わる前に俺は平等橋を抱きしめた。

 見ていられなかった。

 言葉なく、彼を正面から強く、強く。

 男同士で気持ち悪いだろうか。半年前の俺ならきっとこんな行動には至らなかった。でも今の俺は女だ。傷ついた友人を放っておくことはできなかった。

 頭一つ背のデカい友人。

 震える体を安心させるように、俺は何度もその背を摩った。

 

 

 家に帰った俺は、お袋の「遅かったですね?」という呼びかけにもおざなりな返事で濁し、一直線に自室に入って鍵をかける。

 ベッドに腰を下ろした時点で我慢の限界を迎えた。

 枕元に置いてある手ごろなクッションを手に掴み、大声で叫んだ。

 うああああああああああ! 何やってんだ俺ええええええ!

 思い出すのは数時間前の出来事。

 勢いとノリで平等橋を抱きしめたはいいが、その後どうすればいいのか分からず、平等橋の「そろそろ大丈夫だから」の声で体を離した時のやってしまった感。帰り道互いが無言となる気まずさ。とどめはいつも帰り際には「またな公麿」と声を掛けてくれる平等橋が今日に限っては目も合わせず黙って俺が下車するのを待つだけという避けられよう。

 なんで俺あんなことしたんだろう。

 一人になって家まで歩きながら自問自答を繰り返したが、その度に脳裏には平等橋を抱きしめる映像がぐるぐると駆け巡り、電信柱に頭を叩きつけたくなる欲求を何度も我慢した。

 有体に言って死にたい。

 死にたいよおおおおお。

 ごろごろとベッドの上で転がりまわる。今までこんな黒歴史に残る行動は取ったことがあっただろうか、いやない。

 本当、どうしてあんなことをしてしまったのか。

 興奮して体は熱いが、反対に脳みそは驚くほど冷え切っていた。

 普通、普通だ。

 たとえ友人が落ち込んでいるって言ってもハグはしないだろう。欧米じゃあるまいし。だとしたら、俺は。

 違う違う。そういうんじゃないって。

 危うく浮かび掛けたものを必死でかき消す。

 ダメだ、頭の中に沸いた疑念をかき消そうとすればするほど脇汗がすさまじい事になって来る。

 埃が舞い散るのを構いなしに転がっていると、ふとじとーっと嫌な気配を感じた。

「何してんの? お姉ちゃん」

「……」

 ゆかりがひきつった顔で俺を見ていた。

「いつから?」

「クッションに顔当てて叫びだして、転がり始めたくらい?」

 ほぼ全部見られていた。

「あっち行っててくれよ。今ちょっと一人になりたいんだ」

「ええ? ごはん呼びに来たのにー。今日オムライスだよ? お姉ちゃん好きじゃん」

「……好きだけど今は食欲ない」

「食が細いくせに食い意地張ってるお姉ちゃんが食欲ない、だと!? いやマジでなんかあったの?」

 ゆかりは俺を押して空いたベッドの端に腰かけた。こいつ出ていかない気だ。

「何もない」

「うっそだー。お姉ちゃん嘘ついてるとき目逸らすもん。絶対なんかあったじゃん」」

「ないってんだろ。怒るぞゆかり」

「じゃじゃじゃ、ヒント頂戴ヒント」

 このクソガキ。

 今更だがゆかりは俺がちょっとやそっと怒ったくらいじゃめげない。というかこいつは俺の沸点がどこまでか把握している節がある。本当に怒っている時は近づかないが、そうでないときはぐいぐいやって来る。俺も本気で触れて欲しくないというわけではないので強く言い返せない。悔しいなあ。

「恋バナ?」

「違う」

「マジで!? 恋バナなんだ! お姉ちゃん今まで男の子ばっかりモテてたからこりゃ義姉ちゃんは無理かなーって諦めたんだけど、今お姉ちゃん女の子だから将来的には義兄ちゃんは期待できるわけか。燃えるわー!」

「違うっつってんだろ! 耳腐ってんのかアホ妹!」

「じゃあさじゃあさ! 相手って誰? 私の勘だとこの前の写真の平等橋さんだっけ、その人だと思うんだけどなー」

「……違う」

「……これはー。この反応は私じゃなくてもわかるよね。え、嘘。マジで?」

「お前もう出てけよー!」

 興奮するゆかりを強引に部屋の外へ追い出した。くそ、変に体力使った。体中が暑くて仕方がない。

 扉の外で「お姉ちゃんごめんって~」と形ばかりの謝罪を述べてくるゆかりも、俺が無視を決め込んだらさっさと下に降りて行ってしまった。

 なんなんだろうなこれは。

 ベッドの上に倒れこみ、俺は漠然と考えた。

 ゆかりに茶化されたが、というかあいつはどういう思考回路を経てあの答えにたどり着いたのかは謎だが、感情の矛先としては近しいものがあると思う。

 俺が平等橋に行ってきた行動の数々。

 女になって、一度は疎遠になって、また友達になって。喧嘩もして、やっぱり遊んで、周りから茶化されて、鬱陶しく感じてもやっぱり一緒にいて。

 でもそれって友達だからであって、でもやはりそれは裕子や亜衣や舞依に向けるものとは明らかに違っていて。

 これまで築き上げてきた延長線上だと自分を誤魔化し。

 誤魔化し、誤魔化し、誤魔化し続けた結果の行動が、今日の“アレ”なんだろうか。

 何度も何度も否定してきて、その答えに安心して、導き出したものが答えなのだとずっと思っていた。

 思えば女になってからずっとだったと思う。

 声には出さなかったが、この問いとの否定が俺の頭の中にはずっとあって、でもそれは否定しても否定しても納得のいく答えが見つからず、結局いつも思い悩む羽目になっている。

 ゆかりの言葉に頷くことはできない。

 怖いからだ。

 気持ち悪いって、自分にそんな気はないって、あいつに言われたらどうしよう。

 そんな気持ちをかけらでも抱かれていると知ったら相手はどう思うだろう。

 もうだめだ。

 今日の件で思い知った。

 とっさの反応であんな事をしてしまうのだ。これからいつどこでぼろが出るかなんてわからない。

 姿見の前に立つ自分を見た。

 半年前は男だった。

 髪は短く、肩幅も今よりはがっしりしていた。

 今の姿を見ればもはや同一人物とも思えない。完全に女だ。

 こんな姿で変わらないだのずっと友達だの何を言っているのやら。

 自分で言いだしておいて自嘲染みた笑いが込み上げてきた。

 戻ろう。

 それしかない。 

 学習机に立てかけておいた鋏を手に取り、俺は女を捨てる決意を固めた。 

 

 



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だって俺“男”だぜ

番外編という括りでなくここから平等橋視点で進みます。


 家に帰ると姉貴が腕を組んで玄関の前に立っていた。扉を開けた瞬間飛び込んできた姉の姿に一瞬びびった。

「おかえり。正義」

「ただいま。どっかいくの?」

「いかないわ。そろそろあんたが帰ってくる頃だと思って待ってたのよ」

 時刻は八時前。部活がある平日なら大体この時間くらいに帰宅することは多い。

「ごはん食べながらでいいから。大事な話があるの」

 十中八九母さんの話だろうなと思いながら、俺は荷物を下ろして頷いた。

 

 

 姉貴の話は大体が予想を超えるものではなかった。

 母さんの病気のこと、俺に会いに来たいという事、いままでそれを隠していたことに対する謝罪など。公麿に聞いた内容を補足するような形で述べられたそれを、俺は咀嚼するように聞いていた。 

「さっきまで母さんがそこにいたのよ」

 話がひと段落すると、姉貴は空いている席を指さしてそういった。

「ここに来たの?」

「『やっぱり正義には会わない方がいい』。そう言うために私に会いに来たみたいだけど、なんの偶然かその行き道であんたに会っちゃったのよね。向こうも驚いたみたいよ」

「ああ。俺も、そう」

 姉貴は神妙な顔をして、「大丈夫だった?」と尋ねてきた。何がとはきかない。

「心配しなくても大丈夫。なんともないよ」

「でもあんた」

「本当は自分でも結構驚いてる。もっとビビったり、最悪吐くんじゃねえかって思ってた。でもそんなこと全くなかったよ」

 それはきっと一人じゃなかったからだ。

 弱いくせに誰よりも友人思いなあいつがいてくれたから、俺は一歩踏み出せたんだと思う。

 それとは別に、あいつにも一度訊かれた疑問をここで氷解したいという気持ちになった。自分がとんでもなく薄情な人間だと思い始めてきたからだ。

「なあ姉貴。俺さ、母さんが病気で、その、後が短いって知った時とか、あと実際に会ってみた時とか。特別何か感じなかったんだ。そうか、とは思ったけど、だからってそれ以上の感情は生まれなくて。いや生まれないって言ったらそれは嘘だけど、だからって泣くとかそういうのは全然なくてさ」

 俺は薄情なのだろうか。

 そういう疑問を姉貴にぶつけると、彼女は困った顔をしながら、それでも俺の質問に答えてくれる。

「薄情なんかじゃないよ。正直ね、私も複雑よ。娘としてはそりゃ悲しまなければいけないものだけど。何年も前に離婚していて、そして母さんにはもう別の家庭も築いてる。そういうところが素直に感じ取れないところなのかなとか、ね」

 テーブルの上で手を組んで親指同士を回すようにこすり合わせる。それは姉貴が言いにくいことを言う時の癖だった。

「私たちは父さんが死んでから今まで二人で生きてきたから。もう他人なのよ母さんは。だからじゃないかなと思うんだけど、この考えをあなたにも押し付けるつもりはないわ」

 姉貴の気遣いは嬉しい。俺は母さんに凄くなついていたから。

 しかしそんな配慮は無用だ。逆に俺はすっきりした気分だった。そうか、もう他人なのか。公麿の前で吐き出した言葉でもあまり自身は持てなかった。まだどこかで信じていた部分があったからかもしれない。

 その幻想をかき消してくれる言葉が俺には必要だったのだろう。

「うん。もう大丈夫そうだよ」

 一言そういうと、姉貴は静かに「うん」といい、空いた俺の湯飲みにお茶を足してくれた。

「母さんが何を考えていたかなんて私にも分からない部分は多いわ。でも今日でもうここには来ないと言っていたわ。向こうの家でも随分心配をかけたみたいだし」

「そうか。いやでもそれをこっちに言われても困るんだけど」

「まあ、ねえ」

 笑うに笑えない微妙な間が生まれた。誤魔化すようにお茶をすすると、姉貴が思い出したかのように「キミちゃんにもお礼を言わなきゃいけないわね」とつぶやいた。お茶を噴出した。

「ちょ、何よいきなり汚いわね!」

「うえ、ごほっげほっ、ちょ、ごめん」

 テーブルいっぱいに吹きこぼしたのを姉貴が持ってきた台ふきでふき取る俺を見て、姉貴がうっすら目を細めた。

「なんかあった?」

「なんかって何が」

「キミちゃんと」

 椅子に足を引っかけて転んだ。

 布巾を水で洗おうと立ち上がった際だった。

 起き上がっている最中の姉貴の無言が耳に痛い。姉貴の方を見るのが怖い。

「半分冗談のつもりだったんだけど」

「何がよ」

「ここまできてその誤魔化しがきくと本気で思ってないでしょうね」

 布巾を絞りながら黙る。まずいな。何がまずいか具体的に説明することはできないがこれは非常にまずい事態だ。

「そういえばお母さんが正義に会ったときに隣に綺麗な女の子がいたって言っていたわね。正義の彼女だと思ってたみたいだけどそれキミちゃんでしょ。うん、あの子にしか母さんの事話してないからやっぱりそうよ」

「姉貴は探偵にでもなった方がいいよ」

「今の事務職で手一杯よ。それよりそうか、そうよね。その場にキミちゃんが居たなら仕方ないわよね」

 姉貴はどこか納得するように頷いた。俺はそれとは別に姉貴が妙な勘違いをしないように先に釘を刺しておく必要があった。

「姉貴あれだろ、公麿に母さんの話した時俺にそれを伝えるかどうかの判断を投げたみたいじゃん。結果的に俺はどうにもならなかったけどさ、仮に俺を母さんに会わせて俺がまた変な事に成ったらどうしようっていうのは悩んでたみたいだからその点で公麿を責めるとかはやめてくれよ」

 あいつはあれで気にするタイプだから、こういうことはしっかり言っておく必要がある。

 だが、姉貴は俺の発言にこいつは何を言っているのだと言わんばかりに胡乱げな視線をよこしてきやがった。

「あんた馬鹿じゃないの? なんで私がキミちゃん責めるのよ。むしろ感謝しかないわ」

「感謝、なんで?」

 俺の中でも答えは浮かんでいたが、確認のために聞いてみる。さっきから姉貴の呆れた視線が精神的にきつい。

 姉貴は息を吐き、俺から視線を外し、昔を懐かしむように目を細めた。

「あんたのことでさ。お母さんの事はできるだけあんたから遠ざけるべきだと思っていた。それがあんたのためになるって思ってたわ。でもあんたはもう高校生なのよね。まるきり子供じゃないしこれからのあんたの人生を考えたときどっちが正しいのかなんてまで考えてなかったのかもしれない。確かに今回の結果はたまたま運がよかったからなのかもしれないけど、うまくいかなかったとしても私はキミちゃんを責めれなかったわ。あんたの事を本気で考えてくれた結果だもの、それって」

「いや、そんな重いもんなのかなって」

 肉親からそういうことを言われると無条件で照れてしまう。鼻の頭を掻く。

「考えすぎなのかもね。まあそれはそれとしてなんだけど」

 と、お茶をすする姉貴が切り出した。なんだなんだ、姉のこの話はここからが本番ですとでも言いたげな雰囲気は。

「改めて聞くけどキミちゃんと何があったの?」

「なにもねえよ」

「何よその用意してましたみたいな回答速度」

 実際用意してたからな。

「とうとう付き合うようになったわけ」

 お茶を含んでいなくてよかった。口に入れていたら確実にまた噴出していた。

「な、なに言ってんだ姉貴。んなわけねえだろ」

「そうなの? お似合いだと思うけど」

「いやいやいや。あいつ元男だぞ。んなわけあるかって」

「関係ないでしょ。今女の子なんだし。ていうか私は少なくともあんたはあの子の事好きなんだと思ってたけど。違うの?」

 無言は肯定を示す。

 俺は熱くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。何かうまい誤魔化しを考えたが何も浮かばず断念する。その隙を姉貴は逃さない。

「誰もあんたを責めないわよ。あれだけ可愛い子がいつもあんたのこと考えて動いてくれるんだもの。女の私でも抱きしめてわしゃわしゃ撫でまわしたいわ」

「あいつは犬かよ」

 姉貴の軽い冗談に少し笑ったが、俺の気持ちは落ち着かなかった。

「素直に認められないのはあの子が男だったから?」

「そうじゃない。それも関係あるっちゃあるけど」

 俺はあいつの好意を利用しているんじゃないかと、そういう気持ちがないわけじゃないからだ。

 男だった時、人見知りのあいつに話しかける奴は俺くらいだった。無視されたらそれでいいやって軽い気持ちだったからあいつの一見冷たいように見える反応にも慣れた。むしろあいつに話しかけている時は周りの奴らが寄ってこないから便利だなくらいに思っていた。

 あいつが俺に懐くのは予想外と言えばそうだったけど、それ以上にあいつといることが俺も楽になるなんて思っていなくて、近づいた動機が動機なだけにだんだん心苦しく思うようになっていた。

 俺は暇つぶしだったり、人除けだったり、自分の気さくなキャラというイメージの保持のためにあいつと仲良くしようとしていたのに対し、あいつはただ友達が欲しいだけだった。

 あいつが求めているのは異性との愛情なんかじゃない。

 同性の友情だ。

 それがあいつと長く接する間で俺が分かったことだ。それは女になっても、いやむしろ女になってからの方が顕著に感じた。

『お前は俺の事をそんな目で見ないよな。他の奴とは違うんだよな』

 被害妄想と言えばそれまでだ。しかし俺がクラスであいつ以外の友人たちと話している時に遠くから感じるあいつの視線が、時々すがるようになっていたのを俺は感じていた。

「あいつを裏切ることはできないよ」

 これが俺の答えだ。

 今の公麿が男子にあり得ないくらいモテているのは知っている。クラス合宿を筆頭に恐ろしいほどのやっかみを男子連中からうけているからだ。

 でもだからこそ、俺はあいつの期待にこたえなければならない。俺はあいつの一番の親友でなければならない。

「本当にそうなのかなあ」

 俺の意見を一通り聞き終えた後の姉貴の感想だ。

 そうに決まってるだろ。

 俺は軽く笑ってしめた。

 だって、そうじゃなかったら俺はどうすればいいのだろう。

 

 

 次の日学校に行くと公麿の姿がなかった。

 待ち合わせの場所にもなかなか来なかったのでLineで一言告げてから先に行ったのだが、教室についてもあいつの姿は見えない。既読もつかないし風邪かとも思って裕子に聞いてみたがあいつも知らんという。

 昨日の一件があっただけに、公麿が来ていないことに妙な胸騒ぎを覚えたがここで何かできるわけでもない。

 一時間目が過ぎても公麿は姿を現さなかった。

 これはおそらく病気で欠席だなと思った二時間目の途中、教室の後ろの扉が開いた。

 公麿か? そう思い振り返り、硬直した。

「すいません、遅刻しました」

 公麿には違いない。

 だがクラスメイト全員がその姿に疑問符と驚嘆府を頭に浮かべているだろう。かくいう俺もそうだ。何があったんだこいつ。

 姿だけを見ればどこも違和感はない。

 どころか見慣れた姿であるはずだ。

 だがそれはもう二度と見ることのできないはずの姿で、それ故に違和感がある。

(そういえば、あの時はそんなに短かったんだな)

 思わず俺はそんな感想を抱いた。それがこの場においてやや間の抜けた感想であることは重々承知のつもりだった。

「公麿、あんたそれどういうつもりよ」

 授業もお構いなく裕子が立ち上がり、公麿の肩を掴んだ。

 対する公麿は取り立てて驚くこともなく、

「普通じゃん。だって俺“男”だぜ」

 髪を切り、男の制服に身を包んだ公麿は確かにそう言った

 

 



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平等橋正義さんですか?

 初めて話しかけられた日の事はよく覚えている。

 前の日にゆかりとバカやって遊んでいたら左の手首を強く捻ってしまったので、大事をとってその日の体育を見学していた時だった。

『よお、お前も欠席か?』

 自分にかけられた言葉だと気づくのに暫くかかった。

 今まで友人らしい友人が出来たことはなく、事務的な連絡や、お調子者の男子のからかい目的などで声はかけられることはあったが、こんなにフランクに話しかけてくる人は今までいなかった。

 誰だろうと声の主を確認して固まった。

 そいつの事はよく知っていた。

 このクラスの最大派閥の中心人物で、クラス一のお調子者だからだ。

 はっきり言ってカースト最上位のリア充の頭だ。俺の警戒レベルは一気に引き上げられた。

 それでも返事もせずに無視をしていたら今後教室での俺の人権ははく奪されてしまう可能性が高い。

 何とか返事をしようとするが、かなしいかな。普段学校で喋らないものだから口の中がカラカラでもごもごとはっきり言うことが出来なかった。

 俺はますます青ざめた。

 どうしてこんな事に成ったのかとその日の運を呪ったし、そもそもどうしてスポーツ万能のこの男がよりによって今日の体育を見学しているのかと怒りと恐怖を覚えた。

 しかし、俺の心配をよそに彼は『綾峰で合ってるよな? 俺平等橋ってんだよ。よろしくな』と勝手に自己紹介を始めた。

 平等橋はペラペラとこっちの気も知らないで質問攻めをしてきた。

 住んでいる場所、好きな食べ物、嫌いな先生、所属している部活。今考えるとありふれた質問ばかりだった。答えに窮してほとんどは下手糞な相槌を打っているだけだったが、どんな曲を聴くのかと言う質問で変化があった。

『え、お前もそれ聞くの? 俺も結構好きなんだよ』

『……し、CDとかも持ってる』

『マジか。友達でも知ってるやつ全然いないから感動だわ。なんだよお前いいやつじゃん』

 好みのアーティストが一緒だというだけでいいやつは扱いされるのはどうなのだろうと思ったが口にはしなかった。

 だが一つでも好きなものが重なるとわかると俺の口も徐々に回るようになっていった。

 授業の見学なんてそっちのけで、俺たちはくだらない話に花を咲かせた。

 それは俺にとって高校に入学してから初めて楽しいと思えるクラスメイトとの会話だった。

 

 

〇 

 あれから二週間がたった。

「おはよう平等橋」

 改札を抜けるといつものように公麿がいた。小さく手を振り、小動物染みた仕草は相変わらずだ。男の制服もまた。

 あの日、髪の毛を切り、男子の制服に身を包んだ公麿を前にクラスは騒然となった。

 裕子を筆頭に何があったと公麿に詰め寄ったが、本人はけろりとして「何が? 俺男じゃん。ふつう普通」とまともに取り合わない。

「あんた今は女でしょう?」

 裕子がクラスメイトの意見を代弁するように言っても「いやー、男だよ」と取り合わなかった。

 クラスメイトとは別に俺の動揺もいかんともしがたかった。

 何が起こったんだ。

 最近はクラスの中でも比較的公麿と絡む俺だが、そもそも所属しているグループが違うのでそう毎回あいつの所に行くことが出来ない。

 特にその時は公麿の周りに普段絡みに行かないクラスの女子たちもわんさか群がっていて、とても俺がその場に割って入れる空気じゃなかった。唯一裕子があんたなんか知らないのとでもいいたげな目線を送ってきたが俺が聞きたいくらいだった。

 放課後になって公麿の周りに人が少なくなるとようやくあいつの所に行けるようになった。

「おい公麿」

 声を掛けると、あいつはびくりと肩を震わせて振り返った。反応が大きすぎて怖がられたのかという気持ちを抱きかける。

「なんだ平等橋かー。驚かすなよ馬鹿野郎ー」

 公麿はにこにこしながら俺の胸板をぼすぼす殴って来た。怒っている訳でも、怯えているわけでもない、のか。

「なあ公麿。多分いろんな奴に聞かれてるかもしれねえけどさ。俺からも訊いていいか?」

「なんだよ平等橋。俺とお前の仲じゃん。なんでも聞けよ」

 やりにくい。高すぎる公麿のテンションに違和感しかない。

「その制服、どういうことだ?」

「……? どうって、普通だけど」

「いや、そういうのいいから」

 教室に入ってきた公麿をみた瞬間、こいつ男に戻ったのか? と疑った。公麿が女になったのは突然の事だった。

 昨日まで男だった奴が一晩で女になるなんてギャグみたいなことをしでかしてくれたこいつだ。逆もまた然りだろうと思うのも当然だ。

 だが今の公麿を見る限りそれはないだろうと断言できる。

 声は相変わらず高いし、制服はぶかぶかだ。固い生地でできている制服を着ているため、体のラインははっきりとはわからない。だが全体の線が細いのは相変わらずだ。胸はどうやって潰したのか分からないがそんな手段いくらでもあるだろう。こいつだって自分の格好に違和感があることくらいわかっているはずだ。なのになぜバレバレの嘘を突き通すのか、それが分からない。

「真剣に答えてくれよ。なんかあったのか?」

「……別に何もねえけど。なんでそんなに突っかかってくんだよ」

「お前がいきなり髪切って、そんで今更男子の制服なんか着て来るからだよ」

 一息に言って後悔。公麿がはっきりとわかるほど不機嫌になっているのが分かったからだ。

「なんの話してんだお前」

「何って、お前が女子の制服着てこなかったとかそういう話だけど」

「なんで俺が女子の制服なんか着なきゃいけないんだよ。なんか今日やたらクラスのヤツらにも言われたけどさ」

「ちょっと待てよ。お前マジで言ってんのか?」

 さっきから話がかみ合っていない。何かがずれている。

 なんのことだよと訝しむ公麿に、俺は何と言えば分からなかった。

「お前女になったこと忘れてんのか?」

 馬鹿なことを自分でも言っている。本人が一番衝撃を受けたことをどうして俺が指摘するんだ。だが俺の期待した反応とは真逆のものが返ってきた。

「女になんかなるわけねえだろ。ははあん? さては平等橋お前さっきから俺の事からかって遊んでるだろ。そういうネタはもう死ぬほど受けてきたから面白くねえよ?」

「……何言ってんだよお前」

 言葉を失う。公麿が何を言っているのか。

「お前は女だろ? この四月五月の間で突然女になったんだろ?」

「はっはっは、平等橋頭チーズにでもなったか? 人間はカタツムリじゃねえんだし雄から雌に急に変わるかよ」

「お前は女だったんだって!」

 しつこくしすぎた。それでも俺は公麿がイラつき始めているのに気付いていなかった。

「いや男だから。てかこの問答もそろそろだるいんだけど。天丼は二回までってお前が教えてくれたんだろ?」

「なんで知らない風に誤魔化すんだよ。あれか、昨日の俺がきもかったのが関係してんのか? だったら謝るから――」

「男だよ。男だってんだろ!」

「え、ちょ公麿」

 話している最中に言葉を切られた。

 きっと顔を上げた公麿は俺の制止を振り切って走って逃げ去る。

 俺も追いかけようとすると、「待ちなさい平等橋」と誰かに呼びかけられた。

「話があるからちょっと付き合ってもらうわよ」

 そこには複雑な面持ちで佇む裕子と柊、楠たちがいた。

 

 

「しばらく様子を見るべきだと思うの」

 グランドの隅のテニスコート近くのベンチまで連れてこられた俺は、裕子をはじめ女子三人にそういわれた。

「様子って、今の公麿をか?」

「私らも休み時間とか授業の合間でいろいろマロちんの話を聞いたんだけどさ、やっぱ今のマロちん変な感じになってるって」

「舞衣それじゃ誤解あるって。そうじゃなくてね、マロちん何か悩んでるみたいに思えたからさ。下手に今つつくのはどうなのかなって」

 柊と楠が説明を重ねる。

 こいつらは公麿が女になって常に行動を共にしてきたやつらだ。そんなこいつらの言うことを疑う気にはならない。

「でもただ様子を見るって言ってもな。どうしてあんな事になったのか理由だけでも知りたいじゃないか」

「そんなの私たちも一緒よ」

 裕子が俺の言葉を一刀する。

「あの子がどうして今更自分の事を男だなんて言い出したのか分からないわ。それでも普段あれだけ気遣いばかりしているあの子がしつこく聞いても答えてくれない、どころかあんまりしつこい子にはうるさいって怒ったのよ。何かがあったのは自明の理だし、それを無理に聞き出すことが正しいか分からないわ。だから待つの」

 公麿がクラスの奴に怒鳴ったのは俺も知っている。

 いつもどんなにクラスの無茶ぶりとかきつい冗談を言われても苦笑いこそすれ取り立てて声を荒げたことがなかった公麿が、初めてクラス皆がいる前で怒ったのだ。あいつもはっとなってすぐに相手に謝っていたが、言われた奴は魂が抜かれたかのように放心していた。

 公麿がおかしなことになっているのはうちのクラスの人間でなくてもわかることだろう。

 しかし裕子はこのことを俺に伝えるために呼んだわけではないようだった。

 こいつが俺を呼ぶときはいつもきつい口調だが、今日は殊更険がある。

「あんたあの子になんかしたでしょ」

「なんでそうなるんだよ」

「あの子が変わる時って大体あんたが関わっているからよ」

 そう言われても素直に頷くことは出来ない。

「そんなこと」

「ないとは言わせないわ。あの子にとってあんたは特別な存在なのよ。男だとか女だとか以前に、あの子の友達はあんただけだったんだから」

「……」

 一瞬自分の都合のいい妄想が頭を駆け巡ったことを恥じた。

 確かにそうだ。あいつの“友達”はこれまで俺だけだ。少なくともこの学校で男の時に俺より仲のいいやつはいなかったはずだ。あいつは何よりも友達というものに飢えている。

 俺があいつの変化に関わっているという推理は間違いとは言えない。

 公麿が変わったきっかけ。

 昨日までは普通だったことを考えると、昨日の学校終わりから今日の朝にかけてということになる。

 昨日の放課後、俺は公麿と殆ど一緒にいた。もし俺と一緒にいたことが原因ならば思い当たることが二つある。だがそれは俺にとって情けないことで、思い出しても恥ずかしいというかなんというか。

「どしたのバッシー突然顔を押さえだして」

「うわなんかエロいこと考えてる顔だよこれ」

「平等橋。断頭台の準備はできてるわよ」

「好き勝手言ってんじゃねえよバカども!」

 公麿が絡むときのこいつらの俺に対する当たりの強さはほんとどうにかしてほしい。

「それで、心当たりがあるのね」

「あ、ああ。多分だけど。いや、どうなのかな」

「いまさら中途半端に濁してんじゃないわよ。もぐわよ」

「何をだよ!?」

「今そんな漫才いらないってー」

 柊の冷静な突っ込みを受けて俺と裕子は黙った。

 三人が俺に注目する。話しにくいが言うしかないか。

「昨日なんだけどさ、あいつと手を繋いだんだよ」

「平等橋って童貞だっけ?」

「クラスLineで拡散しよう。バッシー童貞説っと」

「やめなよ二人とも。あ、でもツイッターで拡散しよう」

「お前らいい加減にせんかい!」

 比較的常識人の柊まで遊びだしたので手に負えなかった。

「だってマロちんってわりと誰とでも手くらい繋ぐじゃん」

「そうね。普段触られ慣れているせいか妙にボディタッチに対する耐性は高いのよね」

「人見知りなのにパーソナルスペースは割と狭いよね。男の子だったからかな」

 なんだろう。そういう意図はないってわかるんだが公麿が尻軽みたいな扱いを受けていて少しもやっとした。

「まさかそれだってんじゃないでしょうね」

「それだけだったらマジで童貞Line流すよ?」

 裕子と楠に詰め寄られる。形勢が不利すぎる。

「いや、なんつーか、いろいろあってその後あいつに抱きしめられたんだけど、お前らの話聞いてたら割と誰とでもしそうだからやっぱ俺あんま関係ないんじゃ」

 話し始めまでぎゃーすかうるさかった三人が『抱きしめられた』あたりで無音になった。別の意味で怖くなってきた。

「ああ、やっぱ俺関係ないか」

「んなわけないでしょう」

 ノーモーションのビンタが飛んできた。首がちぎれたんじゃねえかってくらい顔が吹っ飛んだ。

「はっ、私ったら咄嗟にとはいえ手が出てしまうなんて」

「いやボスは何も悪くないよ。この男には少しくらい罰を受けるべきだ」

「二人ともおかしいよ!? ボスバッシーに謝りなって!」

 裕子と楠が柊の説教を受けている横で、俺は少し安心をしていた。よかった、あれまであいつが誰にでもしているんだったら俺の葛藤はどうすればいいのか分からなかった。

「叩いたのは悪かったわ平等橋。あんたがあまりにも羨ましくて」

「ボスボス? 本音が漏れてるよ?」

「失礼。でもあの子が変わった原因は多分それじゃないかしら」

 裕子から受け取ったハンカチで口の端を拭っていると、裕子を含め柊も楠も頷いていた。どういうことだ。

「ほら、あの子って触られるのは慣れてるじゃない。で、その延長で手くらいはぱっと掴むんだけど抱き着いたり身体的な接触があんまり強すぎるのは極端に嫌がるのよね。私や亜衣とか舞衣にはもう慣れたみたいなんだけど、それでも包まれたりするのは苦手みたいなのよ。自分からするなんて考えられないわ」

 驚かされた。

 俺は男の時から公麿にちょっと気持ち悪いくらいあいつをもみくちゃにしていた。こいつガード緩いなーと思っていたが、公麿も誰でもってわけではなくちゃんと人を選んでいたらしい。そりゃ誰でもあんなことされていたらちょっとどうなんだと思うが、それは俺があいつに特別許可された人間だったかららしい。やべえ、なんか知らんがすげえ嬉しくなってきた。

「……そう、か」

「なーにが『……そう、かデュフフ』よ! カッコつけてんじゃねえわよ!」

「悪意的に俺をデブキャラにするのマジでやめろ!」

「でもさー、それとマロちんのあれとどう繋がるの?」

 少しの間黙っていた柊が不思議だとばかりにこめかみをぐりぐりした。

「あれじゃない? マロちんがバッシーへの愛に目覚めたとか」

「あ、やっぱり?」

 柊と楠が勝手なことを言い出す。

「お前らなあ」

「何よバッシー。バッシーだってちょっと感じてたでしょ。マロちんのバッシーに対するラブビームを!」

「舞衣舞衣? あたしできるだけ舞衣の味方だけどその表現は死ぬほどダサいよ?」

「やめなさい二人とも」

 珍しく裕子が真剣な目で二人の会話を止めた。

「公麿が平等橋の事が好きなのはそうだと私も思うわ。でもきっとそんな単純なことじゃないのよ」

「どういうこと?」

 楠の問いに裕子はあいまいに首を振る。

「私にも分からないわ。だって私は男から女になんてなったことがないもの。あの子が何に悩んでいるかなんて私たちが推し量ることはできないのかもしれない」

 柊と楠が「うむー」と首をひねる横で、俺は別の意味でそもそも公麿が俺に好意云々と言う話自体ずれているのではないかとも思っていた。

 昨日の俺は自分で言うのもなんだが精神的に参っていたし、優しいあいつがそんな俺を見かねての行動だったととらえるのが普通だ。

 異常なのはあいつの優しさにそれ以上の意味を求めた俺のゲス根性。しかし沈黙するこの空間でそれを言うのはどういうわけかはばかられた。

 

 

 その後やはり初めに言った通りすべてを決めるのはもう少し時間をおいてからの方がいいだろうという事になった。

 口には出さなかったが、皆がこの件は慎重に動かなければ大事になるという認識があった。

 委員長である裕子の口利きで、公麿が男子の制服を着る事は教師に認可された。

 そして公麿も次の日には逃げ出したことなんてけろりと忘れたかのように俺に話しかけてきた。

 時間をかけて公麿の話を聞くしかない。

 焦りは禁物だろう。

 そう自分に言い聞かせているうちに、気が付けば二週間たっていたというわけだった。

 

 

「それで親父がおっかしくってさー。おい、聞いてんのかよ平等橋?」

「聞いてるよ」

 ならいいんだけどさともごもご口ごもる公麿。

 今のこいつは躁と鬱が交互に来る。

 妙にテンションが高い時が来たと思えば、俺がそれに反応していないかやけに気にして落ち込みだす。もともと気の弱いやつではあったのだが、最近は殊更その傾向が強い。

「おはよう公麿」

「ぉ、おはよう。……裕子」

 後ろから裕子が声を掛けてきた。

 情緒以外にも公麿は変わった。

「今日家庭科の授業だけどエプロンは持ってきた?」

「……うん。持って来てる」

「……そう。じゃあまた後で教室でね」

 言うと裕子は速足で先に行ってしまった。

 左端の制服の端に感じる違和感。また公麿がぐいぐい引っ張ってきてやがる。

「公麿」

「あ、わりい」

 注意するとぱっと手を離す。無意識にやっているから下手に文句も言えない。

 裕子が走っていく姿を公麿はじっと見つめていた。

 公麿の変化。それは裕子や柊、楠と言った普段一緒にいた女子たちと距離を取り出したことだった。

 露骨に避けることはしないが、今みたいによそよそしくなった。

 理由を聞いても、「女子と話すの緊張するじゃん」と頬を染める始末。まるで時間が半年前に戻ったみたいだ。

 裕子たちとは最近は昼飯も一緒に食べていないらしい。毎回俺を連れていつもの踊り場まで連れて行く。その時に裕子やあの三人から掛けられるなんとも言えない視線が苦しい。

 一つ、鈍い俺でも推測できる考えがあった。

 公麿はなかったことにしようとしているのではないだろうか。

 女になったという事実。それがをなかった事にして今までの日常を送りなおそうとしている。

 そして公麿が変わってしまったのは俺が関係しているのではないかという裕子たちの推測を確かめることは今でもできずにいた。

「なあ公麿」

「なんだよ」

「繰り返しになるけどさ。お前男に戻ったわけでもねえだろ。裕子たちも寂しがってるしそろそろ戻してやれよ」

 この二週間、俺は裕子の提案にのったから公麿の変化をただ黙って見ていたわけじゃない。

 本当に何もできなかったのだ。

 もともと数日やそこらで公麿の奇行ともとれる変化が止むとは思っていなかった。

 そもそも公麿は突飛な行動をそうやすやすと起こす人間じゃない。それをするだけの何かがあったことは明白だった。

 だがそれに関して一切の干渉を俺たちが出来なかったのは、それほど公麿の拒絶が強かったからに他ならない。

 ゆっくりと、傷つかないよう遠まわしに事情を尋ねようとしても「俺はもともと男だ」の一点張りで話にならない。

 見守ろうと提案した本人である裕子でさえも一度強く迫ったことがあった。

 公麿の姿格好が変わっただけなら見守る姿勢を崩さなかったあいつも、突然避けられ始めたことがショックを受けたらしかった。

 友人がいきなり自分たちにそっけなくなった理由が知りたいというのは当たり前の事だ。俺も裕子の限界が近いことはよくわかっていた。

 だが、公麿の出した答えは拒絶の二文字。

 その場にいたわけではないので、後で裕子に聞いた話になる。

 裕子の詰め寄り方にも問題はあったと自分で言っていたが、公麿は自分が女であると指摘されるとまるで子供のように「違う」と連呼し、裕子の手を弾いて逃げ出したそうだ。

 手を弾かれたことよりも、精神的に追い詰められような公麿の表情にショックを受けた裕子はそれ以来公麿に深く関わろうとはしなくなった。

 柊や楠も公麿に会えば挨拶はするが、それも特別親しくもないクラスメイト同士が廊下であった時のような応答だ。

 いかなる理由が公麿にあるのかは分からない。でもこの三人を失うことは公麿にとっていいことであるはずがない。

 今まで黙っていたが俺も口を挟まずにはいられなかった。

 暫くたっても公麿からの返事はなかった。

「……まで」

「は?」

「お前までどうしてそんなこと言うんだよ」

「ちょ、公麿!?」

 スンスンと洟をすする音が聞こえてはいたが、まさか泣いているとは思わない。

「知ってるだろ、俺昔女男とか言って色々からかわれてたって。なのになんでお前までそんなこと言うんだよ……」

「ちょ、何の話だよ。からかわれたってそりゃ小学生の時とかだろ。しかも今のお前はマジもんの女じゃねえか」

「女じゃねえって言ってんだろ!」

 立ち止まり、叫ぶ。

 登校中の奴らがなんだなんだと騒ぎ立て始めた。

「しつこい、しつこい、しつこい! どうしてそんな意地悪ばかり言う! 嫌がらせにしたって触れてほしくないところだってある! なんでお前はそれを分かってくれないんだ!」

 わなわなと震え、目からぼろぼろと涙を零す公麿。

 人をかき分けて逃げて行った公麿を俺は追うことが出来なかった。

 

 

 あれだけの事があったのに、昼休みになると公麿は俺の席の前まできて「お昼いこう」と誘ってきた。

 弁当を食べている最中、公麿から朝は先に行ってごめんという謝罪を受けた。朝のあの張り詰めた感じはなかったが、またぶり返すのが怖くて俺も深く聞くことが出来なかった。

 互いに遠慮があるため会話が弾むはずもない。まるで喧嘩の最中のような気まずい昼食となった。

 部活を済ませ家に帰ると、アパートの前で妙齢の美人な女の人が佇んでいた。

 どこかで見たことがある顔だなと思っていると、女性の方から声を掛けられた。

「すいません。平等橋正義さんですか?」

 フルネームで人から呼ばれることはそうない。驚きもあって反射的に頷くと、相手はほっと笑顔を作った。

 その仕草があいつと凄く似ていて誰だかその時になって分かった。

「公麿の母です。あの子の事でお話させていただきたいことがあるのです」

 

 



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どういうことなんですか?

「マジモンの平等橋さんだ!」 

 俺が公麿の母親に会釈を返していると、道の向こうからセーラー服を着た小柄な少女が走ってきた。

「人を指さしてはいけませんゆかり」

 妙に興奮しながら俺を指さし「マジモンだマジモン!」と騒ぐ少女を公麿の母親が窘める。見た感じ公麿の妹といったところだろうか。それにしてもなぜここまで騒ぎ立てられるのか分からず困惑する。

「失礼をしました。改めて自己紹介をさせて頂きます。私の名前は綾峰咲江、公麿の母です。そしてこの子は次女のゆかりです」

 深くお辞儀をする公麿の母親、咲江さん。アパートの前という事もあって人通りは少ないが、妙齢の女性にこうも畏まった態度を取られると居心地が悪い。

「あの、確認なんですけど、俺に用事ってことなんですよね?」

「はい。公麿の事でお話があって伺わせて頂きました」

 公麿の事。

 公麿の母親とその妹がやってきたというのだからそりゃその用事しかないだろう。しかし今現在ぎくしゃくしている公麿との関係、そのさなかに相手の肉親がやって来るという状況は俺を緊張させるに十分なことだった。

「突然押しかけてしまい申し訳ありません。非常識の無礼お詫びします」

「畏まらないでください。それに、立ち話もなんですから」

 緊張と不安を以て俺は二人を招き入れた。

 

 

「正義おかえりー」

 ミスった。

 姉貴が家にいるという事を完全に失念していた。

 姉貴は普段は帰りが遅いのだが、職場の所長の都合だとか、経理の整理だとか俺にはよくわからない事情で週に何度か帰りが早い日がある。

 事前に分かる時もあるし、その日家に帰ったら姉貴が早かった日だとわかるのと二パターンがある。

 どちらにせよまあまあの確率で姉貴が家にいることには変わりないというのに、俺は緊張で頭からすっかりそのことをとんでしまっていた。

 昔俺が部活のヤツを数人家に呼んだ時、というかじゃんけんに負けて強制的に俺の家に行かざるをえなくなった時、たまたま姉貴が家にいた事があった。仕事疲れもあったのだろう。姉貴はすっと表情を消して俺に皆を連れて場所を移せと耳打ちをして手に三千円を握らせたことがあった。

 あの時の光のともっていない姉貴の目が恐ろしく、以来誰かを連れてくるときは毎回姉貴に事前に確認を取るようにしていたのだ。

 返事をしない俺をいぶかしんで、リビングから顔を覗かせる姉貴。

 その顔が俺の後ろにいる二人を見て疑問に顔を固めた。

「公麿のお母さんと、妹のゆかりちゃん。家に上がってもらうけどいいかな?」

「夜分に失礼します。公麿の母の綾峰咲江と申します」

 後ろにいた咲江さんがまた丁寧なお辞儀をすると、姉貴が転がらんばかりにすっ飛んできて、「いえいえこちらこそお世話になっております」と外面全開の笑顔を振りまいて挨拶を返し、急いで上がってもらうよう促した。姉貴の顔を見るのが怖い。

 俺も続いて靴を脱いでいると、姉貴が小声で「正義」と呼んだ。

「ごめん姉貴、急で」

「それはいいけど、私も同席するわよ。キミちゃんの話なんでしょ?」

 姉貴の顔は怒っているというより誰かを心配しているような不安げなものだった。怒られなかったのはよかったが、いったいどうしてそんな顔をしているんだ。

 俺の疑問は答えられることなく、姉貴はすぐにリビングに通した咲江さんとゆかりちゃんのもとへ戻った。

 

 

「そこでキミちゃんが『薄口しょうゆだから濃い口の二倍入れなきゃダメなんじゃないんですか』ってどぼどぼ入れようとしたのを必死で止めて」

「あら、そうでしたか。そういえばそのくらいの時期にあの子が醤油さしを見るとなぜか顔を赤らめて逸らすということをしていました。納得です」

 席についてからかれこれ三十分。姉貴と咲江さんは俺を置いて公麿の事で盛り上がっていた。

 うちには何度か足を運んでいたことを知っていたらしい咲江さんが、姉貴にいつもお世話になっていますというよく見る挨拶と菓子折りを交わしたことから話は発展していったのだ。

 いつ本題に入るのかと嫌な汗を掻いていた俺は終始落ち着かない。

 落ち着かないと言えばもう一点。

 公麿の妹と紹介されたゆかりちゃんだ。

 彼女は今年中学三年で、来年はうちの高校に受験を考えている受験生らしい。受験生と言えば今は追い込みの時期のはず、どうしてこんなところまでやってきているのかは疑問だがひとまず置いておこう。

 問題は会ってからずっと俺の事をきらきらとした目で見つめてくることだ。

 年下の女の子にそんな目で見られれば、この子俺の事が気になっているんじゃないかなんて妄想も浮かび上がりそうなものだ。

 だが経験上そういう黄色い感じじゃない。

 どちらかというと観察とか茶化しとか野次馬とか、面白半分で見てくる感じがばしばしと伝わってくるのだ。

 俺に興味津々なことを隠しもしないくせに、向こうから話しかけてくることは一切ない。

 時折「へえ」とか、「こんな感じなんだぁ」と意味深長な呟きを零すばかり。

 容姿が整っている少女にされるというのが逆に怖い。

 思い切ってなにかあったのかと問いただしてみたいが、姉貴と咲江さんの会話をさえぎってしまいそうでそれもできない。尻の座りが悪い事この上なしだ。

「そういえばここへは正義が?」

 ようやく話の流れが変わった気がした。姉貴が尋ねると、咲江さんはゆかりちゃんの方を見て、この子がと言った。

「夏休み前に裕子さんが家に来た時Line交換したんです。で、裕子さんが平等橋さんと幼馴染だってお姉ちゃんと聞いてたから住所もきいてみたんです」

「マナーがなってないのは承知の上だったのですが、どうしても直接お話しなければと思い今日伺わせて頂いたのです。この子はついてこなくてもいいといったんですが聞かなくて。すいません」

「だってお姉ちゃんのこと気になるじゃんかー!」

 今日あの時間俺とアパートの下で会ったのも偶然だったらしい。

 家の近くでゆかりちゃんがアパートの棟を確認しに行ってる間俺が待っている咲江さんと遭遇したという次第だったらしかった。

「そんなお気になさらず。それで、今日は最近のキミちゃんのことですよね?」

 姉貴にも公麿の変化については話していた。

 姉貴は出合ってから公麿の事を下手したら俺より可愛がっている節がある。毎日顔を突き合わせている俺は今の公麿がどうなっているか分かる。でもまだ見たことがない姉貴は俺の話からの情報しか持っていないので、俺以上に不安に思っているのかもしれない。

「そうですね」

 咲江さんはどこから切り出すべきか悩むように口を開いた。

「二週間前のことです。夕飯を呼びに公麿の部屋をノックしても返事がなく、不審に思って勝手に入るといつもなら部屋の電気がついていませんでした。姿見の前ではあの子が小さく丸まり、何かぶつぶつと呟いていたのです。娘の尋常ではない様子はそれだけではありませんでした。暗くて気付きませんでしたが、足元にはバッサリと切り落としたあの子の髪の毛が乱雑に散っていました」

 俺と姉貴が息を呑み黙って聞いていると、咲江さんはそこで俺の目を覗き込むように見た。

「正義さん。あの子は何と言っていたかわかりますか?」

「……わかりません」

 彼女は俺を責めているわけではないだろう。

 それは口調や雰囲気で伝わってくる。

 だが公麿の行動が俺と深く関わっていると強い確信をもっているようだった。

「『俺は男だ』『綾峰公麿は男だ』『女じゃだめだ』この三つを鏡に映る自分に繰り返し繰り返し呟いていました。明らかにあの子は自分の今の性別を否定したがっています。そしてそれは正義さん、あなたが原因だと私は考えています」

「俺が、原因?」

 話の中身が衝撃的すぎてその後がなかなか頭に入ってこなかった。

 公麿が変わったのは一目瞭然だった。でも精神に支障を来すほど負担を強いていたなんて想像もしていなかった。

 オカルト的な実験の一つに、鏡の前に立って自分に向かい『お前は誰だ』と話し続けるというものを聞いたことがある。

 はじめはなんともなくても、次第に自分が自分ではない誰かに見えてき精神に支障を来すというものだ。

 実際には人格崩壊を起こすほどのものではないらしいが、長時間続けることでゲシュタルト崩壊が起こったり、笑っている自分の顔が気味悪く見えたり気分が悪くなるのはそうらしい。だがそれも個人差だ。

 この行為の本質は暗示にある。

 自分が自分ではない何かである。そうしなければ耐えられなかったのだろう。

 本当の自分は男だ、それを言い聞かせねばならぬほど公麿は追い詰められていたのだ。

「この子が原因と言う話ですが、それは一体どういうことですか?」

 黙りこくった俺に代わって姉貴が尋ねる。姉貴の心中もきっと穏やかではないはずだ。

「娘が正義さんに恋愛感情を抱いているからです」

 この場にいる誰も意外そうな声をあげなかった。

 姉貴も、そして俺も。

 さんざんネタにされ続け、少し前には裕子たちの前でも否定を重ねていた。自分自身にすらそう言い聞かせていた。

「自覚はありますか?」

「……はい」

 しかし心の奥底では認めていたという事なのだろう。咲江さんは逡巡するように言葉を選ぶ。

「あの子にとってあなたは文字通り特別なのだと思います。あまり友達の多い子でもありませんでしたから、高校であなたという友達にめぐり合えてあの子はとても喜んでいました。性別が変わっても変わらず仲良くしてくれたこともあの子がどれだけ嬉しかったか、親の私でも想像に難くありません――」

「……それは」

 一言口をはさみたくなった。俺はずっと公麿を受け入れていたわけじゃない。

 一時期酷くあいつを傷つけた。だがそれをこの場で指摘することは臆病な俺にはできなかった。

「――ですからあの子も勘違いしてしまったのかもしれません。優しい誤解が生じていたのだと思います。ですがあの子を責めないで欲しいのです。今日はそのことをお伝えしにやってきました」

「……ん?」

「今学期で公麿を転校させようかと考えています。ちょうど来月には休みも切れて夫と海外へ戻らなければならないと考えていたので時期的にも都合があったので」

「え、はあ? 転校?」

 途中頭の中でごちゃごちゃ考えている間に話が飛んでいるようだった。なんだ、なんの話になっているのだ。

「ちょっと待ってください。どこからそういう話になったんですか? というか公麿と俺がどうその話に繋がっているのか見えないんですが」

「平等橋さんがお姉ちゃんのこと振ったからじゃん!」

 これまで黙っていたゆかりちゃんがテーブルを叩いて立ちあがった。

「いつお母さんに弁明するのかなとか、あいつは俺のもんだとか男らしいこと言うのかと期待してたら『はい』とか、『いえ』とかロボットでも言えそうな短いのばっかり! お姉ちゃんから聞いてた印象と全然違う!」

「ゆかり、座りなさい。すいません、娘がお騒がせして」

 咲江さんの一言でふくれ面のまま腰を下ろすゆかりちゃん。俺は彼女に言われた意味がよくわからず呆然とした。

「正義。あんたキミちゃん振ったの?」

 姉貴の言葉ではっと意識が戻る。

「振ってない振ってない! ていうか告られてもない!」

「え?」

「はい?」

 咲江さんとゆかりちゃんが目を丸くして俺を見つめる。

「どういうことですか?」と咲江さん。

「どういうこと?」とゆかりちゃん。

「どういうことなんですか?」と、俺。

 隣に座る姉貴がまとめるように、

「いろいろと意見の食い違いがあるみたいですね。どうです、お茶でも入れて小休止しません?」

 その提案に異をとなるものは誰もいなかった。

 



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……何の話してんだよ

「おかえり。なんも問題なかった?」

 咲江さんとゆかりちゃんを見送って帰ってきた俺に、姉貴がリビングから顔だけ出して声を掛けてきた 

「ああ。普通に駅まで送って終わりだよ。……ゆかりちゃんにはすげえ食いつかれたけどさ」

 あの後、俺たちがお互いの誤解が解けてから程なくして解散となった。

 話がある程度落ち着いたことと、時間がかなり遅くなってしまったからだ。

 誤解が解けてからは咲江さんよりもゆかりちゃんがマシンガンのように俺に詰め寄り、それに耐えかねた俺は露骨に時間が遅いことを姉貴と咲江さんにアピールした。そうしなければおそらくもっと長時間話し込んでいたに違いない。

「ゆかりちゃんかー。姉妹でもキミちゃんとはタイプが全然違うのね。正義が年下の子にタジタジになるのなんて初めて見た」

 けらけらと笑う姉貴。対する俺は自分でも若干頬がこけているのを感じるほど憔悴している。

「公麿が話に絡んでるっていうのがまあ一番なんだけど、それ差し引いてもあの子怖えよ」

「あんたの自業自得な部分もあったんじゃない? 物凄い剣幕だったし」

「それは俺も自覚してるんだけどさ」

 俺が公麿に対して友情以上の感情を抱いている。

 それを打ち明けた瞬間綾峰家の次女はぎらりと俺に牙をむいた。

『はああ!? じゃあなんでお姉ちゃんあんなことになってるんですか!? 平等橋さんが振ったからじゃないんですか? ていうか今も少し感じるところありますけど平等橋さん言葉の節々に優柔不断の気がありますよ! その気もないのにお姉ちゃんを誑かしていたならぶっ殺してるところですけどその気があったのにそれ以上進まずお姉ちゃんを凹ませるってなんですかそれはあああ!?』

 飛びかかろうとするゆかりちゃんを咲江さんが羽交い絞めしなければどうなっていたことだろうか。

「つーか姉貴もあそこはちょっと助けてくれても良かったんじゃねえの?」

 抗議の意味も込めて睨めば、姉貴はさらりと視線を外す。

「一応言うけどあの子も本気であんたに怒ってたわけじゃないわよ?」

「分かってる。駅の改札前でも謝られたし」

 俺だってそれくらいの分別はついているつもりだ。

 少し話しただけでゆかりちゃんが公麿の事を凄く好きなんだという事は伝わってきたし、それを害したであろう俺の事が複雑だったのもあるだろう。別れる寸前までそれを滔々と語られてげんなりさせられたものだ。

「お姉ちゃんの相手が気になる、か。ゆかりちゃんは相当なお姉ちゃんっこね」

「いやあれはもうシスコンの域だろ。はじめはそれで俺もかなり変な目で見られてたから」

 姉貴に入れてもらったお茶をすすりながら、家に入ってきた瞬間のゆかりちゃんのやたらきらきらと俺を観察してきた目を思い出す。字面だけを追えば俺に好意があるのかとでも錯覚しそうだが、彼女のらんらんと輝く瞳はまさに好奇心の現れそのものだった。

『お姉ちゃんがいつも話す平等橋さんを生で見れたという興奮と、この男がお姉ちゃんを誑かしたのかという殺意が同時に襲い掛かってきました』とは彼女の弁だ。道理で居心地が悪かったわけである。

 話を大筋に戻すと、綾峰家から俺に二つの選択肢が与えられた。

 一つは俺の本心を公麿に伝えてほしいというもの。これには咲江さんから一言あった。

『今あの子は正義さんとの関係を壊したくないという強迫観念に駆られており、その気持ちが外に出たのが今の公麿だと考えています。二人が付き合ってほしいと言っているのではありません。ただ中途半端な状態でいることはお互いにとって良くないと考えるのです』

 もしそれが叶わないなら。二つ目の提案がそれに続く。

『公麿には何も言わないでください。あの子を連れて行き、ここでの思い出は思い出のままで時間が解決してくれるのを待ちます』

 極端な二択だ。

 要約すれば俺が公麿に告白するかしないかという事に尽きる。

 どうしてこうなった、とは思わない。これまでにも予兆はあったし、それをあえて見ないふりをしてきたのは俺だ。

 公麿は俺にとって特別な友人だ。それを失うことは俺にとっても耐え難い。

 だが咲江さんの言葉にすぐに返事をできない理由もあった。

 それはここまで言われ続け、自分の中にもひょっとしたらという気持ちが芽生えつつある今、逆にこれまで逃げ続けてきた“女性”に俺は果たして向き合えるのだろうかという不安があったからだ。

 公麿は公麿だ。その点に疑う余地はない。

 しかもあいつのおかげで俺は母親に対して自分の中で一つの区切りをつけることが出来た。あれからは今までよりも女子に対して純粋な意味で向き合う事ができるようになっていると自分では思っている。

 だったら大丈夫じゃないか。

 ここまで説明すれば大概の人はそういうだろう。俺だって他人から聞かされたら同じように答える。

 気持ちを数値化することが出来るのなら、俺の抱える不安は1パーセントにも満たない極少しの可能性だ。

 だがここでもしうまくいかなかったら、公麿を俺自身が否定してしまったら、俺はきっともう立ち直れないだろう。

 情けないと思う。女々しいとも思う。ぐだぐだ考えて一歩が踏み出せない愚図が俺だ。

 この沈黙を咲江さんがどう受け取ったのかは分からない。

『あと一日だけ考えさせて下さい』

 俺の申し出に彼女は黙ってうなずいてくれた。

 

 

 翌朝、俺の足取りは重かった。

 今日の夕方、今度は俺が公麿の家に行く事になっている。もし俺が今後も公麿と付き合って関係を続けていくのなら家に来てくれと咲江さんに言われたからだ。もしそうでないなら、今日を境に公麿とは会えなくなるのかもしれない。昨日の調子からははっきりわからなかったが、ゆかりちゃんの言葉の強さや焦りようから時間はあまり残されていないのだろうか。

 それにも関わらず、俺はまだ自分の中で答えを出せずにいた。

「あ、平等橋ー!」

 改札を抜けるといつものように公麿が待っていた。

 昨日の話を聞いた後ではそのいつも通りの姿も変わって見えてしまう。

 それが表情に出てしまったのだろう。隣に立って歩き始めると、公麿が怪訝そうに眉をひそめた。

「なんだよ。風邪でも引いたのか?」

「いや、ちょっと寝不足でさ」

「え、小テストとか今日あったっけ?」

「ねえよ。つか、テスト勉強で俺が徹夜するキャラに見えんのかお前」

 見えないなあと、ここでようやく公麿は俺から視線を外した。

 とっさに出た言い訳だがあながち嘘と言うわけでもない。

 自分がどうすればよいのか、正しい選択は何なのか。答えの見えない問いにぐるぐると翻弄されて碌に寝られなかった。

 会話が途絶える中、こっそり隣に並ぶ友人を盗み見る。

 この半年の間で体も縮んだのだろうか。ぶかぶかに見える学生服に肩口で切りそろえられた髪。姉貴が渡した髪留めをつけていた頃が懐かしく感じる。

「何? 俺の事じろじろ見て来て。きもいんだけど」

「ちょっと朝から辛辣すぎない? 嫌なことでもあったのかよ」

「いや、別にそういうわけじゃないけど」

 もにょもにょと口ごもる公麿。こいつは自分から噛みつくような発言はめったにしない。するとしたら腹の居所が悪い時だけだ。

「家族?」

「……なんでわかんのお前?」

 普通こういう時何回か外してから正解するもんじゃないの? と若干口を尖らせつつも、それが怒りでないことはすぐわかる。

「まだ確定してないし、もしかしたらって話なんだけどさ。俺転校するかもしれない」

「……そう、なのか?」

「あんま驚かないのな。なんか寂しい」

「いや驚き過ぎて言葉が出なかっただけだ」

 これで昨夜の咲江さんの言葉が嘘でないことがはっきりわかった。公麿の口ぶりから昨日咲江さんとゆかりちゃんが俺の家に来たことはしらないらしい。なら俺がそのことを漏らすのは得策ではないだろう。そのことを意識するあまりリアクションが薄くなったが、逆に公麿に不審がられる結果となっては意味がない。

「確定じゃないってどういうことだ?」

「言葉通りだよ。どっちになるのかはまだ分かんないんだってさ。お袋も親父も近いうちに分かるとしか言わねえし」

 きっと俺の選択次第という事なのだろう。咲江さんは穏やかそうに見えてなかなかえげつない選択肢を俺にたたきつけてきやがる。

「公麿はやっぱ残りたいか?」

「んー、どうなんだろうな。分かんねえや」

 公麿は返事を濁した。

 何気ない返事だったが、俺は自分の足元がぐらつくのを感じた。

 答えの分かり切っている質問のつもりだった。

「え、っと。何。お前転校考えてんの?」

「そうじゃねえけどさ、お袋が言うんだったら仕方ねえって言うかなんていうか」

「咲江さんはお前の意思を尊重するんじゃないのか? お前が嫌だってんなら無理強いはしないだろ」

「いやそうだと思うんだけどさ……てか俺平等橋にお袋の名前教えたことあったっけ」

「あ、あるある。この前言ってたろ」

 そうだったっけかなあと首を傾げる呑気な公麿。対して俺はさっきから嫌な汗が止まらなかった。

 咲江さんの名前を出したミスで焦ってんじゃない。公麿が転校を嫌だと思っていないというその事実に対してだ。

 こいつ俺の事が好きなんじゃないのか?

 短い期間で周りのヤツからさんざん言われ続けたもんだから、俺も公麿が俺に気があるって信じて疑ってなかった。そして、その考えから公麿が自分自身の意思で俺から離れていくという事も考えちゃいなかった。昨日咲江さんに言われた時も、公麿の状態次第でっていうあくまで公麿の意思とは別ものだと思っていた。

「……平等橋なんか機嫌悪い? 俺何か怒らせること言った?」

 動揺で返事が出来なかった事が、公麿に俺が不機嫌であると誤解させてしまったみたいだった。

「なんもねえよ。それより最近姉貴が爬虫類飼いたいとか言い出したんだけどこれどうにか止められねえかな」

「マジで? 愛華さん爬虫類好きだったんだ……」

 適当な話でこの場を誤魔化すことはできる。でも俺自身このまま誤魔化し続けてはいられないのだと強い危機感をもって感じた。

 

 

「で、どうすんのよ」

 昼休み、こっそり呼び出した裕子は俺の話を聞くなり一言そういった。

「どうって、俺がどうこうできるもんでもないだろうし」

 場所はいつも公麿と昼飯を食ってる屋上前の踊り場でなく、いつかのテニスコート前のベンチだ。今は昼休みという事もあって制服きた連中がサッカーやらテニスやら楽しそうに騒いでる姿が目に映る。

 俺は裕子に昨日咲江さんが来た事から始まり、今日の公麿が転校を嫌がっていないということまで事細かに伝えた。

 裕子は俺が話終わるまで口を挟むことなく黙って聞いていたが、だんだん眉間の皺が寄っていくのが見て取れた。話し終え、俺がこいつにアドバイスを求めて返ってきたのが最初の言葉である。

「は? あんたしかどうにもならない問題じゃない」

 裕子の機嫌はすこぶる悪かった。もともとこいつは俺と二人でいることを嫌がるのだが、今回はそれに拍車がかかっている。だが俺はそれでいいと思っていた。

「どういうことか詳しく教えてくれるか?」

「……ほんっとあんたって昔からアホね」

「自覚してる。後でいくらでも言っていいから教えてくれよ」

 裕子は何かを考えるように目を強くつぶり、大きな息を吐いた。俺もこいつとは結構長い付き合いだが、ここまで呆れられたのは多分今回が初だ。

 柊と楠の姿はここにはない。俺が外してもらったからだ。

 裕子の言葉はきつい。特になぜか俺には必要のないところまで言葉の刃を向けてくる傾向にある。

しかし俺はこいつの事を信頼していた。

きついことは言ってくるが嘘は言わないし、言ったら怒られるかもしれないがこいつなりに俺の事を心配してくれているのが分かるからだ。

だが意識的か無意識的かは分からないが、こいつのこの分かりにくい思いやりは周りに誰かがいると素直に言ってくれないという困った性質を持っていた。二人になれば周りに人がいない分人を殺せるレベルで言葉はきつくなるが、その分ためになる。だから俺はあえて裕子と二人で話を聞いてもらうことに決めた。

「相手の立場に立って考えてみればわかるでしょ」

「相手の、公麿の?」

「そうよ」

 考えて見なさいよと前置きをして、裕子は人差し指を立てた。

「あの子はあんたが自分の事どう思ってるのかわかってないのよ。そこできて自分の気持ちが分かってしまった。板挟みにあってあの子が考えそうな事は何?」

「今の関係を崩さないままフェードアウト……まさか公麿はそれで?」

「分かるわけないでしょそんなこと」

 裕子は冷たく切り捨てた。だが意外なことに裕子は切り捨てるだけで終わるつもりもないみたいだった。

「……なんか言い足りないって顔してるか?」

「言い足りないって言うか、迷ってる、ていうのが正解かしら」

「迷ってる? 何に」

「初めにいったでしょ。どうすんのって。言葉の意味わかる?」

「馬鹿にしてんのか?」

「してないわ」

 裕子の瞳は揺れていた。いつも自信にあふれているこいつらしくない、どこか萎れた雰囲気だ。

「結局あんたの選択に任せているのよ私は」

「……何の話してんだよ」

「公麿が転校するしないっていうのは多分、いやほぼ絶対あんたの答え次第で決まる、と思ってる。私は公麿には行ってほしくないし、もっと言えばまた仲良く話ができる関係に戻りたい。でもその責任を負うのはあくまであんたなのよね。偉そうなことを言っている自分が無性に残念な生き物に思えてきたのよ」

「お前ってそんなネガティブなキャラだっけ?」

「ほっときなさい」

 裕子は立ち上がった。話はここまでと言う意思表示だ。

「平等橋。どうするかはあんたが決めたらいいと思うわ。公麿を止めるというのならそれ相応の覚悟をもって、そして――」

 ――黙って見送るならそれも選択の一つだと思うわ。

 裕子はそう言って俺を待つことなく行ってしまった。同じクラスだしそろそろ昼休みも終わるし、一緒に帰っても良かった。

 しかしあいつの後ろから絶対についてくるなというオーラが発せられていて、俺はついていくことが出来なかった。

 



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朗報ねえ

『黙って見送る』 

 裕子が残したあの言葉が頭から離れなかった。

 

 だってそれは俺がどこかで考えていたことだったからだ。

 公麿がどこかに行くのは嫌だ。

 でも引き留める側の俺が自信を持てないんだ。

 俺は公麿を、公麿の人生を壊しちゃいないだろうか、そんな疑問が頭を過る。 

 公麿はいきなり男から女になるなんていう通常ならあり得ないような経験をした。それだけじゃ飽き足らず、自分の性別に困惑し、自身を否定する行動にまででた。

 そんな思いつめた公麿を俺は責任をもって引き留めることが出来るのだろうか。

 たかだか一年弱。

 俺と公麿が接してきた時間なんてそんなもんだ。

 これからもあいつの人生は続く。高校時代の思い出は特別だなんていう大人もいるけど、それだって長い人生を見れば風化するに値する時がいつか来る。

 ここで公麿を見送ることがあいつにとって一番いい選択なんじゃないだろうか。

 ただでさえ俺は少し前まで女性が苦手なポンコツだ。そんな俺がと思ってしまう。

「あれ、平等橋まだ着替えてないのか?」

 考え事をしていたからだろうか。いつの間にか周りにいた男どもがいなくなっていた。

 六時間目は体育だ。

 俺もいつも一緒にいるやつらと一緒に更衣室に入ったところまでは覚えているんだが、そこから考えが渦巻いてぼーっとしていたみたいだ。考えてみたら先行ってるぞと声掛けがあった気もする。

 出口に立つのはクラスメイトの村木。

 グループが違うのでそこまで話すわけじゃないが、気のいいやつで男子の中ではいいやつという扱いを受けている。女子を前にすると緊張してどもる癖があり、それさえどうにかなればモテそうなのになとはクラス男子の共通認識だ。

 体育では日直とは別に週に一回更衣室の鍵を閉める当番が決まっている。今週は村木のようだった。

「あー、悪い。すぐ出るわ」

「平等橋が一人ってなんか珍しいよな」

「そうか?」

 急いで制服を脱いで体操服に着替えていると村木が更衣室のカギを回しながら笑った。

「いつもクラスの中心じゃん。あ、別にこれ嫌味じゃねえから」

「思ってねえって」

 身振りで否定する村木がおかしくて少し笑ってしまった。

 しばらく益体もないラリーを交わすと、タイミングを計ったように村木が口を開いた。

「平等橋ってさ、どうやって綾峰と仲良くなったんだ?」

 一瞬だけ、ズボンのベルトを外す手が止まってしまった。

 村木を見ると、彼は俺の目は見ず更衣室の扉にもたれてどこか遠くを見ていた。 

「別に? 普通に声かけて普通に仲良くなっただけだな。それ言ったらお前だって結構公麿と仲いいじゃん」

「お前と比べたら全然だよ。下の名前で呼んでる時点で歴然じゃん」

 「そうかもなー」と笑って返しながら、こいつは一体何が言いたいのだろうかと焦りにも似た感情を抱く。

 真意が掴めずにいると、「俺さー」と村木が言った。

「綾峰に告白したんだよね。夏合宿の時」

 振られたんだけどさ、と。

 落ち込んでいると言うより疲れたような声。村木は初めて俺と目を合わせた。

「綾峰がああなったのって平等橋が関係してんだろ?」

「……どうだかな」

 村木の言葉の意味が頭から素通りする。

 こいつは俺と仲良く会話がしたいんじゃない。

 責めてるんだ。

 村木の追随は続く。

「夏休み前は何ともなかったよな」

「あー、まあそうだな」

「夏休みの最中になんかあったのか?」

「なんだよなんかって。てかいいよこの話面白くないし」

「綾峰が平等橋に告白したとか?」

「ははは。いいって、もうやめようぜこういうの」

いい加減限界だ。笑顔で返すのも無理が出てきた。

この話はもうここまで。

そういう目で睨んだ。

「綾峰はお前の事が好きなんだと思う」

「なんなんだお前」

 自分でも意外なほど冷たい声が出た。

 普段お調子者演じている俺のこんな姿教室で見せたことはない。村木は明らかに動揺していた。

「関係ないだろ。首突っ込んでくんなよ」

 いらいらする。村木にじゃない、自分にだ。

 さんざん周りから攻め立てるように選択を迫られ、それに焦って苛立っている。でもここまでその選択を引き延ばしたのは俺自身だ。八つ当たりで人を責めている自分。関係の薄いお前まで俺に何か言ってくるんじゃないと、過剰防衛にも近い衝動で口走ったことが後悔し止まない。

 予想外だったのが、気を悪くして黙るかと思った村木が俺の方に詰め寄ってきたことだ。

「……なんだよ」

 殴られるのだろうか。村木の身長は俺より頭ちょっと高い。近くによれば少し見上げなければいけない。腕力じゃこいつに勝てないかもしれない。

 冷静に見えた村木は近くに寄るとまったくそうじゃなかった。

 手を握りしめ、体は小刻みに揺れ、フーフーと小さく鼻息は漏れている。

「お、俺は、俺は関係ないよ!」

大きな声を上げる村木なんて始めていた。呆気にとられ、言い返す機会を失う。

「お前らの間に何があるとか、そういうの全然知らねえし、そういうのを知りたいってわけでもない」

「はあ? だったら」

「でもさ、悔しいんだ。一番近い場所にいるお前が、綾峰があんなんなってもずっとそうしてるお前が分からないんだ。多分事情あるんだろうなって、あるんだろ? なんかそういうの。それでもさ、お前がそんなんだと諦めるに諦められねえんだよ」

「……」

「逃げてるお前を見ると、余計に悔しくってさぁ」

 感情をそのままぶつけられた。そんな気分だった。

 男の時から男にモテていた公麿だが、村木はネタじゃなくマジで公麿の事を好いているやつだった。でもそこまで強い思いがあったことまでは知らなかった。

 公麿からも村木に告白されたことは聞かされていない。でも、ひょっとしたら村木の告白がきっかけで自分の性を自覚し始めたのだろうか。

 現実逃避にも近い推察は今いい。俺は村木と向かい合わなければいけないと思った。

「逃げてる、か。どうしてそう思ったんだよ村木」

「え、あ、いや……」

 熱が冷えたのか、村木は気まずそうに眼をそらし、じりじりと俺から距離を取ろうとする。

「……教室とかで二人見てても白々しい会話しかしてないし、なんか距離あるなって、その、綾峰がっていうか平等橋がって感じなんだけど、あの平等橋さっきはなんていうか」

「いやいいよ。逆にサンキュな。お前の言う通りだよ」

 逃げている。

 ほとんど会話すらしてなかった村木ですらそう感じたんだ。会話をしている公麿はもっとそう感じていても不思議じゃない。

 人一倍人の機微に敏感なあいつだ。誤魔化しているようで誤魔化せていないじゃないか。

 公麿との問題に固執するあまり、問題に対して慎重になり過ぎるあまり。俺は自分でも気がつかないくらいあいつに対して消極的になっていたのだろう。

 別に村木に言われたからって訳じゃないが、馬鹿らしい自分を見て乾いた笑いが止まらない。

 本末転倒もいいところだ。こういう俺の態度を見て公麿は転校を、俺と離れることを選択肢に入れる気分になったんじゃないだろうか。

 だが、逆に気分が軽くなった。

 開き直ったと言えるかもしれない。

「もういろいろ考えるのはやめるわ」

 もともと俺は計算高く動く人間じゃない。

 自分勝手で、周りに迷惑かけて生きてきたんだ。だけど、そんな俺を公麿は必死で見捨てないでいてくれた。

 誰のためかと言われれば自分の為。

 間違ったことをするのかもしれない。

 当の公麿本人にすら嫌われるかもしれない。

 だけど知るかそんなもの。先に手を握ったのはあいつの方なのだ。 

 もう一度、俺の自分勝手にあいつを巻き込んでやろう。

「俺さ、自分がしたい事しようって思うわ」

「え? 何、何の話?」

「いや、こっちの話」

突然の俺の宣言に困惑を隠せない村木。俺はなんでもないという風に首を振った。

「あ、てか時間」

「え?」

 時計を見ると授業は開始まであと1分。二人そろって遅刻した。

 

 

「あら、平等橋じゃないですか」

「餅田か。結構久しぶりだな」

 下足で靴を履き替えていると背の高い女が声を掛けてきた。

「部活はどうしたんですか? あなた確かサッカー部じゃなかったでしたっけ?」

「今日は休ませてもらった。そういうお前も美術部はどうしたよ」

「なんだか創作意欲がわかなくて……っていうのは冗談です。私もちょっとした用事ですよ」

 俺が薄目で馬鹿にした顔をしていると、コホンと咳ばらいをして言い直す。俺たちは別にこうやって世間話をするような仲じゃない。こいつが話しかけてくるときは決まっている。

「公麿か?」

「決め打ちみたいに言うのやめてくれません? 気分が悪いです」

「悪かったな。じゃあなんだよ」

「別に。知り合いに会って無視もないでしょう?」

 驚いた。てっきり嫌われているとばかり思っていた。

 俺が目を丸くしていると、彼女はふっと口の端を上げて罠に掛ったウサギを見つけたマタギのような顔をした。

「まあ公麿ちゃんの事は聞くんですけどね」

「ブレねえよなお前」

 彼女は以前公麿に告白をしたことがあるという。いつかのタイミングで本人から告げられた。

 男の時の公麿に好意を抱いていたそうで、女となってからは友人となったそうだが今でも公麿への好意は変わらないらしい。恋愛感情ではないと本人は主張するが、側で見ているとそれも怪しいものだと感じている。

「お前は俺にいろいろ言ってこないんだな」

 駅まで一緒に歩いているが、なかなか彼女の口から公麿の話が出てこない。それが逆に不気味だった。

「何を言うんです?」

「いや、公麿の事。噂になってんだろ、よそのクラスでも」

 さすがに一月近く立つと噂も広まる。公麿の男装騒ぎはクラス外でも有名になっていることは部活をしていると嫌でも耳に入って来る。

「ああ。そのことですか。そうですね、あれ以来美術部にも顔を出さなくなって寂しいです」

「……それだけ?」

「最近会ってないんでマジで会いたいですね。ああ、癒しが足りないなあ」

 うっとりと両手を組む餅田。違う。そういうリアクションが見たかったわけじゃない。

「そうじゃなくて、俺のせいとか、俺がなんかしなきゃとか、そういうの」

「ないですよそんなの。なんです? その気持ち悪い質問」

 分かっていたことだが餅田は裕子とはまた違った意味で辛辣だ。女子の気持ち悪いは想像を超えるダメージがある。

「裕子とはそういう話はしないのか?」

「……二週間前に一度電話でそういう話はしましたね。公麿ちゃんが男の子の制服をもう一度着るようになってゆうちゃんたちが避けられ始めたって」

 餅田は俺が知らない裕子との会話を教えてくれた。

「ゆうちゃんが事態を動かさないって言うので、私も下手な口出しはしないって決めたんです。ただでさえ私は口下手ですから」

「めっちゃ喋ってんじゃねえか」

「どうでもいい人には饒舌になるんです。……嘘ですよ、露骨に凹まないでください」

 俺が復活すると餅田は気を取り直して話を戻す。

「なんて言ったら分からなかった、というのが正しいでしょうか。公麿ちゃんの抱えるものが私では到底推しはかることが出来なかった。行くことで彼女を傷つけるかもしれなかった。いろいろ理由はありますけどどれも違いますね。

 ……私は自分が傷つくのが嫌だったんだと思います。ゆうちゃんの話を聞いて、自分も避けられたら立ち直れないだろうなって。だから公麿ちゃんの所には行けませんでした。そして、そんな臆病な私があなたにとやかくいう資格なんてないですよ」

「でも思うところはあるんだろ?」

「多少は。でも些細なことです」

 ゆうちゃんはいろいろ言いますけど、と餅田は口にする。

「私は平等橋の負う責任ってそんなにないと思ってますよ。公麿ちゃんがああなったのはそりゃ確かにあなたに原因の一部があったかもしれませんけど、それからここまで続いたことは一概にあなただけのものではないと思いますから」

「どうしてそう思うんだ?」

「クラス全員で現状維持をするって、言い換えれば逃げですよ。誰もかれもが下手につついて責任を負いたくなかったからって見方もできます。担任やほかの先生もゆうちゃんに説得されたからって素直に首を縦に振って公麿ちゃんのあれを見逃したのもどうかと思います。あとは私ですが、これはさっきも言いましたね。言い方あれですけどみんな逃げてたんですよ。平等橋一人を責めるのは間違ってます」

「おい、でもそれは」

「分かってます。対応を間違えてたら公麿ちゃんはもっとまずい事になっていたのかもしれない。というか今の公麿ちゃんの危うさを見るとそうなる可能性も十分あったでしょうね。私が言いたいのは、責任の所在で責任感を持つことはないってことですよ」

「……言い回しがめんどくせえよお前」

「よく言われるんですよ。特にゆうちゃんに」

 駅が見えてきた。随分話し込んだものだ。

「それはそうとさっきから思っていたんですが、なんだか大人になりましたか?」

「どういう意味だよ」

「落ち着いている、というより腹を括ったという感じがします」

「かもな」

「ひょっとしてこれから公麿ちゃんに会いに行くんですか?」

「まあ、な」

 本当は放課後にでも公麿をひっ捕まえて話そうと思った。

 だが最近逃げるように終礼が終わると帰るので部活に休みの連絡を終えてゆっくりあいつの家に向かおうと思っていた。顔じゃわからないが吐きそうなほど緊張している。

「ふうん。まあ朗報を期待しています」

「朗報ねえ」

「頑張ってください」

 

 



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えぇ……

もう一度公麿視点に戻ります。本日二話更新となります。


 学校から家に一目散に帰ってくる。この一目散って言葉が今の自分を表すちょうどいい表現だと思う。 

 一目見ることなく散るように去る。

 本当の意味とか語源とかは分からない。でもなんとなくそんな気がしている。

 珍しく家に帰っても誰もいなかった。ゆかりはまだ学校だから分かるが、ほかの家族がこの時間にいないのは珍しい。

 でも都合もいい。

 誰もいないとわかっているが、いつものように音を極力出さずに自分の部屋を開け、ゆっくりと扉のカギを占めた。

「はああ~」

 いつもの癖で息を吐いた。姿見の前に立って、頭のウィッグを取った。

 ネットで締め付けられて新種のメロンみたいな模様がいまだにちょっと笑える。

「癖になってないかな」

 ネットを取って頭を振る。ハラリと肩口まで髪の毛が落ち、籠った熱気を取るように髪を揉んだ。

「うん、いい感じ」

 

 

 あの日、自暴自棄になって断髪を試みた日を思い出す。

 

 

『公麿! 公麿!?』

 鬼気迫る表情で自分の名前を呼ぶ母親の姿を見たのはあれが初めてだった。

 次の日目が覚めると、家族が全員そろってリビングで待っていた。

『公麿さん。話があります』

 お母さんが口火を切った。

 今日の学校は休んでいいという事を先に言い、昨日“私”の身に何が起こったのかを詳しく説明するように言った。 

 “私”自身何が起こったのかよくわかっていない。だから何も言えずにいるとゆかりが泣き出した。

 お母さんも困ったように、どうしたらいいのかわからない顔をしたので、“私”も不安になった。

『安心しなさい公麿。何も不安がることはない』

 お父さんが側に来て頭をゆっくり撫でた。いつもなら強引にするのに、その日は特に優しかったので思わず泣きそうになってしまった。

 それから“私”が学校に行くとき学生服を引っ張り出してきても両親は何も言わなかった。ただ不揃いな髪を気にして、お兄ちゃんが短い髪のウィッグを買ってきてくれたのでそれをつけて学校に行くようになった。

 最初はワイワイうるさかったクラスメイトも、いつの間にか静かになった。

 荒神さんが何か言ってくれたみたいだ。

 荒神さんと言えば、彼女はとても親切だ。

 あまり馴染みがないのに“俺”にも親切にしてくれる。ただいきなり下の名前で呼ばれるのでちょっと戸惑ってしまう。女子に、しかも美人な女子に名前で呼ばれたら照れてしまうのだ。それは彼女の友達の楠さんや柊さんにも言えることだ。

 “俺”が困っているのを察したからか、だんだん彼女たちも無理な距離の詰め方をしなくなったが、始めは本当に困ったものだった。

 平等橋はそういう時もっと困った顔をする。

 そうだ、平等橋だ。あいつは最近変だ。

 ことあるごとに“俺”の事を女だと言ってくる。意味が分からない。

 良いやつで、唯一の友達なんだけど変なのが玉に瑕だ。

 最近学校があまり面白くない。

 何故か体育の授業はいつも見学だし、トイレも職員室を使えと言われる。他にもクラスメイトからなんだか腫物を扱うような扱いを受ける。どうしてだろうか。

 そういった不安をお母さんに話すと、お母さんは海外に一緒についてくるかと転校を提案してきた。

 転校か。

 真っ先に頭に浮かんだのは平等橋だった。

 あいつと離れるのは寂しいな。

 それを考えた瞬間、体が折れ曲がるほど苦しくなった。病気になった痛みとかじゃない。締め付けられるような寂しい痛みだった。

 お母さんは考えておきなさいと優しく言った。それ以来ずっとぐらぐら“私”の心は揺れている。

 

 

 学生服とシャツを脱ぐと、ここ二週間ですっかり見慣れたさらしが姿を見せる。

 初めのうちはズレて休み時間の度にトイレに入って確認したりしたものだが、ほぼ毎日つけると慣れたものだ。

これもお兄ちゃんが買って来てくれたもので、変えも含めて今四枚のさらしが我が家には存在する。

 さらしの巻き方なんて今まで生きて来て知る由もなかったが、インターネットで動画を見て何とか形にすることが出来た。

 胸を潰すことが出来るので感動するが、凄く窮屈なので帰ってからこれを外すのが地味に一日の楽しみだったりする。

 しかし楽しみはこれだけではじゃない。

 本棚の上に置いている化粧ポーチを取る。

 汗をかいていないか確認して、下地を作っていく。化粧のやり方は誰から教わったんだか忘れてしまったが、順番を間違えかけると『それじゃ全然乗らないよマロちん』と言う声を思い出すので今のところミスはない。マロちんってなんだろうと思うけど。

「うんできた。今日のはうまくいったぞ」

 クローゼットを開けて、中から長髪のウィッグを取り出しつける。

「あ、ネットつけてな……もういっかこのままで」

 幸い地毛と色は殆ど変わらない。ちょっと見えても問題はないだろう。

「お次は何を着よっかなー。ワンピは、さすがにもう寒いよね。なんで買っちゃたんだろうこれ……バーゲンだったからだ。思い出した……」

 たまたま一人で出歩いていたらシーズンオフという事で格安で売っていたのを調子に乗って買ってしまったのだ。まだ暑いから全然着れると勢い込んだものの、その後一週間で一気に気温が落ちた。

「まあこれかな」

 厚手の臙脂のボルドーニットを手に取り、ベージュのロングスカートを履く。少し背伸びした格好だが案外悪くない。

 クローゼットの下段からブーツを取り出す。なんだかんだでこれが一番高かったよなーと思いながら手に取り、ゆっくりと部屋を出た。

 すぐに準備をしたため、家の誰かが帰ってきた気配はない。しかし玄関で鉢合わせるわけにはいかないので、念には念を入れて確認をした後家を出た。

 鍵を閉めた後は小走りで家から離れる。200メートルくらいいったところでようやく緊張を解いた。

「はー、いつやっても緊張するねこれ」

 普段はお母さんとお父さん、ついでに隣の部屋にお兄ちゃんがいるから大変だ。お母さんは若干気付いている節があるけど、お父さんとお兄ちゃんにばれるわけにはいかない。なんでなのか理由はちょっと説明できないが。

 

 

 最近化粧をして街に出ることにハマっている。

 字面に起こすとどういうことだと混乱を招きそうだ。もっと言うと、女の子の姿で羽を伸ばすのが気持ちいいといったところだろうか。

 あの日から私は自分の性について理性とは離れたどこかで自分はどうしようもなく女であるという事を自覚させられてしまった。

 気持ちの上では私は男だった。学校には学生服を着る。髪の毛は短くする。女の子は興味はあるけどちょっと苦手。昔の綾峰公麿はこんな感じだった。だから学校ではこれでいかなければならない。そうでなければ綾峰公麿ではないから。

 でも学校を離れるとその縛りはなくなってしまう。少なくとも、体はそう認識するみたいだ。

 蒸れるウィッグを外し、きつく縛ったさらしを外す。

 自己主張するように盛り上がった胸が、丸みを帯びた体が、自分が女であると主張する。

 押さえつければつけるほど自分が女であると自覚してしまった。

 気づいてしまうと、どうして学校外でそれを押さえつける必要があるのかと、逆に解放したがる自分がいた。

 女の子らしい服を着て、化粧して、街を歩く。

 それが楽しいと感じるという事は、自分が間違いなく女であるという事を肯定していた。男でも感じるかもしれないが、私は男の時はそんなこと思ったことはなかったから、私の中での変化と言う意味でここはとらえることにした。

 自分が女だと思うと、今までかたくなに守ってきた人の呼び方も違和感を覚えるようになった。

 『俺』は『私』に。

 『お袋』は『お母さん』に。

 そういった言葉遣いも変わっていった。

 でも学校の中では別だ。

 だって学校では『私』は『俺』なのだから。なんでそうなのかはわからないけど、そうしないとおかしなことになってしまうからだ。……それ以上は私もよくわからない。これ以上考えてよかった試しがないし、考えない方がいいと思うからだ。

 化粧品を買った。服を、バッグを買った。下着も買った。

 今まで女性の象徴として避けてきたものを積極的に見て行った。

 お年玉とか小遣いがすごい勢いで減っていったけど後悔はしていない。

 洒落た、と自分では思っているバッグをふるふる振って駅まで向かう。ここまでくれば家族に会うこともないだろう。

 この時間は地元の高校生を中心に駅がごった返す。特に駅の近くのコンビニでたむろする男子高校生の集団は厄介極まりない。

 今日は何かあるのか、それに加え一般の人もいて人通りが多かった。

 時間ずらせばよかったかなーと思いつつ考え事をしていたのが悪かった。

「でえっ!?」

 何かにつんのめって転んでしまった。

 何が起こった!? と確認をすると、排水溝の枠にヒールが突き刺さっていた。嘘だろ。

「えぇ……」

 冗談だよね。さーっと顔が青くなる。まさか買って一月もたっていないブーツのヒールが取れた?

「……あの、大丈夫ですか?」

 困り果てて立ち往生していると(厳密には座ったままだけど)、見知らぬ人から声を掛けられた。側で事故が起こっても我関せずと無視していくような現代社会においてなんて親切な人がいたのだろう。感激しながら、「実はブーツが……」固まった。

「大丈夫ですか」

 目の前に平等橋がいた。

 声を掛けてきた親切な人は平等橋だった。

 

 



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相変わらずいい尻だな

二話更新です。


 平等橋は何か言っているが、私の頭はショート寸前だ。

 どうやって逃げるかということしか頭にない。 

 ……逃げるにしてもブーツは壊れているじゃないか!

「『い、いやー、意外とだいじょうぶです』」

 精一杯の裏声を使って他人のフリをすることに決めた。頼む。騙されてくれ。

 時間にして数秒。しかし私の中では永遠にも近い時間が流れたあと、

「ああ。これは厄介ですね」

 助かった。平等橋は見事騙されてくれた。

「『いえ大丈夫です。ちょうど修理しに行く途中だったんで。わざわざありがとうございます』」

 言外にどっかいけと言う意味を込めて微笑んでやれば、「なら肩貸しますよ」と爽やかに笑い返してきやがった。こ、こいつ……っ。

「『いえいえ、悪いですし』」

「折れたヒール履いたまま歩くと靴自体痛みますよ?」

 そう言われるとこれを履いたまま歩くのは気が引ける。でもだとしたら私はここに立ち往生なのだろうか。

「これ履いてください。ちょっと汚れてるけどわりと新しいんで」

 平等橋は自分の運動靴を脱いで、私の足の横にそろえて差し出した。

「履けません! だってそうしたらあなたが履くものないじゃないですか」

「ああ大丈夫です。俺これあるんで」

 平等橋はごそごそとリュックの中からぼろぼろの靴を取りだした。

「もうだいぶお釈迦間近なスパイクです。新しいのと交換する時期だったんでちょうど持っててよかったです」

「なら私がそっち履きます。わざわざ脱いでもらうのも」

「いいんですか? これ超汚いし臭いですよ?」

 意地悪そうに笑う平等橋。すこし笑ってしまいそうになった。

 いけないいけない。こいつはジゴロだ。いつもこういう手口で女性を引っかけているのだろうかこいつは。

「でもそうですね。分かりました。ご厚意に甘えさせていただきます」

「でも? ああはい。じゃあどうぞ。あ、肩貸しますよ」

 

 

 駅前でヒール修理に出すと、平等橋が「家まで送っていきますよ」と言ってきた。

 こいつ家まで付いてくる気かと本気で警戒したが、「その足じゃ帰れないでしょ?」の一言で納得した。逆にこいつには下心が存在しないのか検証したくなった瞬間でもあった。

 道中相変わらず平等橋はおしゃべりだった。

 あまりにも普段通りだから、ふと今自分がどんな格好をしているか忘れそうになる。同時に、こいつは別に私が相手だから楽しそうに話すわけじゃないんだなと気分が落ち込んでしまったりもした。

 家まで中ごろというところで気が付いてしまった。

 このまま家まで案内されると家族の誰かが私を見つけて名前を呼ぶのではないかと言う危険性に。

 この場合二つのミスがある。

 一つは私が女装をしているという事実が発覚すること。

 もう一つは平等橋に私=公麿ということがばれやしないかということだ。

 幸いにしてこの馬鹿は私が公麿であるということを分かっていないようだが、第三者に指摘されると気づかれてしまうというリスクがある。何とかうまいことを言って近くまで来たら靴を脱いで逃げ出せないものか。

「紅葉が散っていますね」

「え?」

 平等橋が突然そんなんことを言いだした。

 どこを見てそんなことを言っているのかと彼の視線を追えば、近所にある割と大きめの公園に目を向けているようだった。

 この公園には噴水もあり、夏になれば日に三度ほど噴水が吹く。それが楽しくて昔はお兄ちゃんとゆかりの三人でよく遊んだものだった。

 しかしここはチャンスだ。ここで時間を潰して隙を見て逃げ出してやる。

「良かったら少し寄っていきますか?」

「そうですね。寄っていきましょうか」

 俺の不信すぎる誘いに何の疑いもなく乗る平等橋。別の意味でこいつが心配になった。美人局とかにあわないだろうかこいつ。

 公園の出入口の近くにベンチがある。私たちはその一つに腰を下ろした。

 ……困った。こっちから誘ったはいいが話す話題がない。さっきまでは平等橋が話していてくれたから助かったが、今はこちらがホストだ。何かもてなさなければ。

「俺の話をしてもいいですか?」

 頭を悩ませていると、ぽつりと平等橋が口にした。

「話、ですか?」

「ええ。相談っていうか、愚痴みたいなもんなんですけど」

「え、ええ。ええ! どんどん話してくださいな!」

「なんか口調変わってません?」

 構わない。何を話そうか迷っていたところなのだ。自分から口を開くとはこれほどいいこともない。

「俺こう見えてあんまり友達いないんですよ」

「あなたが? いっぱい居そうに見えますけどね?」

 お前友達いっぱいいるじゃないか。何を嘘ついてるんだこら。

「えと、なんて言うんですかね。喋るやつは結構いるんですけど、なんていうかこう親友? 的なやつです。こころ許せる友達って意味で」

「ああ。そういう事ですか。そういうものじゃないですか? 親友なんてそうそう数いるものでもないでしょう」

「そういうものなのかもしれません。……俺にも一人親友って呼べる奴がいるんです。そいつの相談なんですけど」

「聞きましょうか」

 平等橋の親友か。こいつは友達が多いから、その中にいてもおかしくない。

 私が平等橋の友達のどこにいるとか今は考えるな。悲しくなるし。

「そいつ俺とは全然違うタイプなんです。スポーツも苦手っぽいし、性格も内向的だし。でも俺の中でそいつが一番なんです」

「なんですかその口ぶり。ひょっとしてあなたその親友さんが好きなんですか?」

「はい。好きです」

 心臓が跳ねた。

 軽くジャブを打ったらクロスカウンターを食らった気分だ。

 親友、好き? 誰だ。こいつの周りでそんな奴いたか? まさか、こいつそういう……?

「あの、俺同性愛者ってわけでもないです。女ですよそいつ」

「心の底から安心しました」

「まあ男とも言えるっちゃ言えるんですけど」

「お巡りさーーん!」

「マジででかい声出すのやめて下さいよ!」

 全く、とどうしようもないものを見る目でこちらを見る平等橋。う、真面目に聞くからその目やめろよ。

「最近そいつとちょっとうまくいってないんです。喧嘩したとか、そういうんじゃないんですけど」

「うまくいってないって具体的にはどうなってるの?」

 一応相談を乗っているという体なので、聞くだけ聞いてみる。私が解決できるとは思えないけど。ていうか誰だよその女。なんかむかむかするな。

「詳しくは言えないんですけど、俺とだけ仲良くして、今まで仲良かった女友達と急に疎遠になったり、俺が変わったそいつの様子を指摘したら泣き出したり」

「なかなかヘビーだね。でもあれじゃない? 泣き出すってことはその指摘がよっぽど言われたくなかったことじゃないの? 髪型似合ってないとか。女友達のことは……なんだろう。何か嫌なことでもあったのかな」

 髪型とかそういう軽いやつじゃないんですけどねとぼそっと言われる。うるさいな。自分でも相談に向いてないことくらいわかってるっての。

「周りが言うにはそいつが俺の事好きみたいなこと言うんですよ」

「その親友の子が君の事を? ふーん、まあキミモテそうだもんね」

「俺はそんなことないってずっと否定してたんです」

 平等橋は私の軽口を無視してそういった。なぜだろう。さっきから無性に胸が苦しくなってきた。

「薄々気が付いていたのかもしれません。でも気付かないふりをしていたんです。だってそんなことあるはずないって思っていたから。あいつが俺の事を好きだって、それを認めるのが俺だけじゃなくてあいつも否定したいことだと思うから」

「……」

「昨日、そいつのお母さんと妹さんがうちに来たんです。親友とはさっき言ったことが二週間くらい前にうまくいかなくなっちゃって、その原因が俺だっていうんで来たんです」

「……」

「笑っちゃうのが、お母さんと妹さん親友があんなことになったのは俺が親友を振ったからだって言うんです。思ってもみなかった答えが来て俺もなんて言ったらいいのかわからなかったです」

「……」

「帰り際にお母さんに言われたんです。もし娘と今後一緒にいたいなら責任を取れって。そうじゃないなら黙って見送れってね。言葉はこんなにきつくないですけど、大体こんな感じです。今日の晩、その答えを出してくれって言われました」

「……」

 

「一晩考えました。本当はもっと考える時間はあった。

 でも俺は考えないようにしてたんです。難しいこと考えるの苦手ってのもありますけど、俺がもともと女性が苦手だってこともありました。

 昔ちょっとトラウマがあって。でもそれを取り除いてくれたのがそいつだったんです。

 あいつには感謝してる。でもだからこそそんなはずないって思ってしまったんです。俺がそいつにそんなに大きな影響を与えてるっていうことが。

 迷惑を掛けた覚えはある。でも好意を抱かれる理由なんかないだろうって。友人ならありだけど、異性でそれはねえだろって。

 でもそれが間違いでした。

 姉貴とか友達とか、親友の友達とか、親友に告白したやつとか、いろんな奴の話を聞きました。

 それで俺なりに答えを見つけてきたつもりです」

 

「……なん、て。いうつもり、だったんですか?」

 喉が震える。 

 これ以上聞くな。脳が拒否し始める。

 先へ進め。絶対にこの続きを聞け。体が求める。

 寒さとは別に体がぶるぶると震えた。

 平等橋は私に向けていた視線を、何かに気づいたようにふと外す。

 私ではなく、私の背後?

 

「娘さんを俺に預けてください。後悔させません。嫌な思いも極力しないようにします。この思いが俺の我がままだって自覚もあるつもりです。でも、俺はこいつと離れたくないんです。親友としても、好きな人としても」

 

「……結構なこという少年じゃないか咲江」

「あら、ガキ臭いことを言うようなら問答無用で殴り飛ばすって言ってませんでしたっけ?」

 お母さんとお父さんが後ろに立っていた。 

「――――――!!!」

「おい咲江。なぜだか私たちの娘が声にならない悲鳴を上げているぞ」

「きっとおめかしした姿を見られて照れているのよ。あらどうしたの公麿、逃げ出そうったってそうは行きませんよ?」

 万力のような力でお母さんに押さえつけられる。なんで二人はこんなところにいるんだ!? あと放してくれ! ていうか殺してくれ!

 羞恥心と驚きで顔に血液が一気に集まるのが分かる。

 どうしているんだこの二人!? 家にいなかったじゃないか、あ、まさか平等橋の仕業か!?

 平等橋はどこだ!

 ばっと振り返ると両親を前にがちがちに緊張した顔の平等橋がいた。

 なんでこいつこんな面白フェイスしてやがんだ。

 思考は一瞬。先ほど自分が何を言われたか思い出した。

 あ、あれってつまり所謂その、告白と言うやつじゃないのだろうか。

 もし自分の頭の上にブロックの氷を置いても溶かせる自信がある。オーバーヒートしそうだ。

「ところで平等橋くんといったね。夕飯はもう済ましたかな? まだならどうだろうか」

「ご相伴に預かります。あ、家に電話いいですか?」

「構わんよ。なに、今日はいい気分だフハハハハハ!」

 じゅわ。

 体の中で今までたまっていたドロッとしたものが流れていく不思議な感覚が起きた。

 “お袋”の腕からするりと抜け出る。

「うるせえよ親父!」

 我慢できずに“親父”の頭を引っぱたいた。

「お」

「あら」

 親父とお袋は驚いたように目を丸くし、声を上げて笑った。

「聞いたか? 咲江」

「ええ。はっきりと」

 ふーふー息の荒い俺を満足げに見て踵を返す二人。

「もう大丈夫そうだな。咲江、先に帰ろう」

「ええそうですね。公麿、正義さんを必ず連れて帰ってらっしゃい。あとその年不相応な化粧についても一言ありますからそろそろ言わせてもらいますよ?」

「ひぇっ」

 かたかた震える“俺”を置いてお袋と親父はさっさと帰っていった。

 残されるのは俺と平等橋の二人。

 二人?

「あー、緊張したー。手汗やべーって、お前何逃げてんの?」

「ひっ!」

「悲鳴上げてんじゃねえよ。つか今追いかける気力もなくなったからマジで逃げんなよ?」

「い、いつから?」

 いつから俺が俺だと気が付いていたのか。それを聞くと初めからだという答えが返ってきた。

「ていうかお前初めは裏声使ってたのに割と序盤からやめただろ。せめてキャラ突き通せよ」

「うるせえうるせえうるせえ!」

 憤死しそうだ。なんだ、じゃあ俺は正体が気付かれてないと思いながら平等橋を弄っていたつもりが、実は何もかも知られていてそのうえでこいつの掌の上で踊らされていたという事なのか? うわー、死にたい。

「まあいいや。じゃあ飯食わせてもらお。やたら腹減っちまったよ」

「……一人でいけよ」

「は? なんでだよ」

「帰りづらい。絶対弄られるし、あと、お前も……」

「お前なあ……」

 ベンチの上で三角座りをして動かない私を見て、がしがし頭を掻いて悩ませる平等橋。

「……なに?」

「乗れよ、ほれ」

 何を思ったかいきなり俺の方を背に向けて屈みだした。所謂おんぶの体制だ。

「お前私の事幼稚園児か何か頭の悪いものに見えてないか?」

「別に幼稚園児は頭悪いとは思ってないけどな。いいから、ほれ」

「……なんなんだよくそ」

 強く主張されると嫌とは言えない。相手がこいつならなおさらだ。

 軽々持ち上げられると、よっと一声と同時にぐにゅっと尻を揉まれた。

「うん、相変わらずいい尻だな」

「……はあ、さよか」

「あと、お前今日その恰好わりと似合ってんぞ」

「……さよか」

 もし万が一、こいつが振り向いたときの言い訳を考えとこう。

 寒くて顔が火照ったってことにしよう。

 




次回ラストです。


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エピローグ

「……緊張で吐きそう」

「処理はしてやるから存分に吐いて来いよ」

「問題の本質はそこじゃねえよお」

 弱音を吐くと、平等橋は大丈夫だって、と全く頼りない励ましをくれやがる。 

 時刻は午前8時前。

 普段ならこんなに早く来ることはないが今日は特別だ。

 彼女が部活の朝練前には一度荷物を置きに来ることは知っている。朝一番ならまず教室に人はいないし、狙うならそこが一番だ。

 ただ私の生来のヘタレ根性が発動して実行に移そうと考えただけでぶるぶる震えが止まらなかった。そのため今日早起きして平等橋に付き合ってもらっている。

 私の心配とは裏腹に平等橋は「大丈夫だってそんなことしなくても」とかなり温度差のあるコメントをくれやがる。緊張感皆無である。それが証拠に、こいつ今欠伸しやがった。こっちは死ぬほど緊張してるというのに。

「おい、来たぞ」

 ぼそっと平等橋が合図をする。ぴうっと妙な擬音が体のどこかから漏れた。

 がらりと教室の戸を開け、裕子は平等橋を、そして次に私の姿を確認して目を見開いた。

「……公麿、その制服」

「ゆ、裕子。お、おはよう……」

「き、公麿?」

 わなわなと体を震わせながら、裕子は私を見ていた。遠目にでもわかるほどレンズ越しの目に涙をためている。

 肩から下げていたスポーツバッグを床に落とし、始めはゆっくりと、次第に速度を上げて――

「今までごめん、裕子。本当に――」

「謝るくらいなら撫でさせなさい触らせなさい胸揉みしだかせなさいーーーー!!」

「ひいいいいいいっ!」

 びっくりするくらいいつもの裕子に戻った。というか前より勢いが増している。

 おい待ってくれ! こんな事態想定していなかったぞ!

 もっと怒られるとか、絶交されてんじゃないかってそればっかりびくびく怯えてたってのに。 

「落ち着いてくれ裕子!」

「これが落ち着いてられますか! うわああああ! 柔らかい! 可愛い! なにより

いい匂い!」

「ぎゃあああああ!」

 助けを求めようと視界の隅で平等橋を探せば、やっぱりなと言いたげに口元を引きつらせている。

「おはよーって、ボス? え、マロちん復活してんじゃん!」

「助けて舞衣! ほんとやばいってこれ!」

「マロちんが、マロちんが私の名前呼んでくれるよぉ」

「感動してないで助けてってばああああ!」

 裕子に私の初めてが奪われそうになった。何の、とは聞いてくれるな。

 

 

 裕子と舞衣を筆頭に、今まで迷惑をかけてきた人たちに順々に謝罪、といかないまでも迷惑かけてごめんというのを繰り返した。

 全員にすべての事情を話すことはさすがにちょっとできなかったが、そこまで突っ込んだ事情を聞いてくる奴らはいなかった。後ろで裕子がにらみを利かせていたからだと後になって平等橋が言っていたが、もし本当なら裕子に感謝しなければいけないことがまた増えたことになる。自分勝手で起こしたことだけど、やっぱり全員にそれを話すのはかなり覚悟のいることだったから。

 制服も女子のものに戻し、ウィッグも外した。切ってしまった分は戻らないけど、それ以外はまあ元通りっちゃ元通り。

 一応それ以外にも小さな変化はあった。さらしをつけていた影響かは不明だが、ほんの少し胸が大きくなっていたのだ。それに気づいてるのは今のところ舞依くらいだけど、恐ろしい形相で私の胸と顔を交互で見てきたときは身の危険を感じた。

 次に先生だが、これは両親が先に事情を話してくれていたようで案外スムーズにいった。

 退学とか停学はないまでも、校内の風紀を乱したとかで最悪反省文くらい覚悟してたんだがそれもなかった。

 勿論職員室に行ったとき中には迷惑そうにする先生もいたけど、それは自分がしたことを思えば仕方ないと思える。

 身が縮こまる思いだったが、逆にもう大丈夫なの? と心配して下さる先生もいて涙が出そうになった。特に石田先生からは「ほんとに大丈夫? 何かあったらいつでも職員室に来ていいからね」と本気で心配してくれてたんだろうなと伝わる温かい言葉を貰った。この時ばかりは先生の前で少し泣いてしまった。あな恥ずかしや。

 詳しい事情は話さなかったが、クラスメイトの中には本気で心配してくれた人たちも結構いて、泣き出す人もいた。ここは事情を話しているが、近い人だと亜衣がそうだった。

「マロちん、私、私さあぁあ」

「ごめん、亜衣ごめん」

 裕子にもみくちゃにされている私をおもしろおかしく見てる舞衣を押しのけ、必死で助けてくれた亜衣が最初に言ったのが先の言葉だった。

 思わずもらい泣きをしてしまったのはあまり言いたくない恥ずかしいことだった。

 それから、夏合宿以来なんとなく気まずかった村木とも話した。

 あいつは私を見るなり「平等橋とうまくいった?」と言ってきやがった。

 あんまりにも唐突だったから、焦って思わず鳩尾を強く殴ってしまった。

 謝ったら許してくれたけど、それにしても泣くほど痛かったのかと思えば罪悪感もある。今度なんか奢ってやろうと思う。

 他のクラスで言えば、昼休み裕子から連絡を受けたとかで餅田がすごい勢いでやってきた。

 今まで餅田がうちのクラスに来ることなんてなかったから、それだけで驚かされた。

「公麿ちゃん! ハグしていいですか!?」

「声でかいしお前も突然なんなんだよ!?」

 顔とか性格は全然似てないけど、こいつの性質って割と裕子に近いよなと、昼休みいっぱい裕子と餅田の二人の抱き枕にされて思った。

 

 あの期間の記憶は実はあまり鮮明じゃない。

 

 濁った水の中に浸かったように不透明で、どうして自分があんな状態になったのかはっきり説明できるわけじゃない。

 周りの人にいろいろと迷惑、特に裕子たちに酷いことをしたって記憶はあるんだけど、なんで自分が学校だと男だとか、家に帰ったら女装しだすのかとか、よくわかっちゃいない。

 ただ推測するに私も逃げていたのではないだろうか。

 平等橋に対する気持ちがはっきりし、そこで自分の心と体の乖離が起こったのではないだろうか。

 平等橋といい友人関係で保っていきたいと考えるのは男の時の“俺”。

 平等橋とは恋人関係、とまでは考えていたかは分からないが、ひそかな恋心を抱いていたのは“私”。

 学校に通っている、つまり平等橋と接している時は男。家に帰ると平等橋と会わないから女の気持ちが出てくる。

 この間で軽い二重人格のような状態になっていたのではないかというのが言うのが私の考えだ。

 家じゃその境がはっきりしていない時間、つまり登下校のタイミングなのだけれど、それがあったから私の言動や行動がめちゃくちゃだったのだと思う。そりゃ家族が心配するわけだ。転校を勧めるわけだ。

 あの日親父を叩いたとき私は“俺”の意識で体が動いた。

 平等橋がその場にいたのに“俺”を使ったという事は、ここで“俺”と“私”が一つになったってことじゃないだろうか。それっぽく言うと自我の統一が図られたとか云々カンヌン……いやそれっぽくも言えないじゃないか私。

 平等橋が引き金となっての男女の意識の境というのは、あくまで私の推測だ。しかし親父やお母さんが何故かあの時笑って帰っていったのだから何かしら関係していると思いたい。

 でも真面目な話、あの状態の私を放置してさっさと家に帰っていったのだから、私はもう大丈夫だという何か理由はあったのだと思う。

 だけど何を基準にそう思ったのかは不明だ。

 親父だけならまた適当な勘で大丈夫と判断したのだなと呆れるが、お母さんもそれに同調してったのだからそれだけじゃない確かな根拠があったはずだと考える。

 単に私が元気になったとみてもう大丈夫と判断したのだろうっていう見方もできるけど、どうなのだろう。

 あの二人が何を考えているのか不明だ。そこ辺りはまた今度聞いてみようとは思う。

 それと名称。これもまたぐちゃぐちゃになった。

 自分の事はもう私と呼ぶことに決めた。口に出す時も、心で思う時も。

 理由としては、もうすっかり使い慣れてしまったというのもあるし使わないことが自分の中で違和感が生まれて来るようになったからというのもある。

 この辺は感覚だ。

 同じような理由で大体の女性が使うような言葉で自然と考えるようになった。照れくさくてまだちょっと荒っぽい言い回しをすることがあるけれど、それも時間がたてば収まっていくような感じがしてならない。

 家族など人に対してもちょっと変わった。

 親父は親父のままで、お袋はお母さん。兄貴は兄貴。ゆかりはゆかりのままだ。なんでお母さんだけ変わったのだろう。

 自分でもその基準はよくわかってない。

 一度どうしてこんなぐちゃぐちゃ入れ混じるようになったのか考えたけど、答えが出なかったからやめた。

 細かく考える必要なんてないだろう。と、私は結論付けた。

 そう平等橋に告げると、「違いないな」と笑ってくれた。

「ぐだぐだ細かいこと考えるのはもう飽きたよ」

「なんだよそれ。細かい事ってそれ私の事か?」

 わき腹をつついてやればやめろやめろと身をくねらせるが一向に逃げる気配はない。気づいたがこいつ結構マゾだ。

 今日もこいつの部活が終わるまで待っていた。

 図書館が閉まる時間とサッカー部の終わる時間が同じなので、最近じゃその時間まで本を読んでいる。

 今まで全く興味の湧かなかった恋愛小説とかで泣きそうになるからそろそろやばいなあと思い始めている。

 しかし目下私には悩み事、というかある深刻な疑問を抱えている。

「時に平等橋」

「はあん?」

 コンビニで買った肉まんをほおばりながら、平等橋は気の抜けた返事を返す。

「私たちってさ」

「ああ」

「付き合っているのか?」

「……」

 そう、あの日から結構な時間がたっているが、私は厳密に言うと平等橋から面と向かって交際を申し込まれたわけではない。

 なんか雰囲気から多分そうだろうなあとかはある。

 サッカー部の練習を待っていると、おそらく一年生であろうサッカー部員が「あれバッシー先輩の彼女じゃん」とか言うのを聞いたことがあるし、学食でご飯を食べていても「綾峰もついにバッシーとかよ……」という同級生の嗚咽交じりの声を耳にしたことがある。

 バッシーと言うのが平等橋を指すのであれば、だが。

 そのほかにも、たまに親父が家に平等橋を呼ぶことがあるし、私が愛華さんに呼ばれた時も以前よりかなり親密な感じで接してくれるようになった。

 付き合っている、と思う。

 でも手を繋ぐ以上の事をしたわけでもないし、何より直接こいつから好きだと言われていない。

 私がじーっと見つめていると、平等橋も思い当たる節があったらしい。「そういや言ってねえな」とつぶやく。

「よし分かった。明日まで待ってくれ」

「おう。……いやなんで明日?」

「照れくさいんだよ」

「は? いいじゃん。けちけちすんなよ」

 どうしてそこで出し渋る必要があるのだこの男は。

「よし分かった。おい公麿、ほれ、あれ見て見ろ」

「なんだよ。……月?」

「あの月見てどう思う?」

「なんも思わねえけど。でかいな」

「そうだな、綺麗だよな、あの月。うん、実に綺麗だ」

 指をさしながら早口でまくし立てる平等橋。誤魔化すにしても何の意図があるんだか。というかここで誤魔化されると無性にイラっと来る。

「綺麗? それよりさっさと言えよアホ」

「もう言った! 俺もう言った!」

「はああ? 何言ってんだボケ、あ、てめ逃げんな!」

 走り始めた平等橋を追いかけながら一つ考える事がある。

 私の選んだ選択はこれで合っていたのかって。

 今回の事がすべてじゃない。

 転校の話はお母さんが勝手になかったことにしていたけど、もし私が転校をしていれば。

 女にならなければ。

 平等橋に出合わなければ。

 すべては仮定だけど、もしそうなら私は今どうなっていたのだろう。

 仮定の話をするのは無益だなんてどこかの学者が言っていたのを思い出すが本当にそうかもしれない。

 結局は今の気持ちの持ちようなのだろう。

 すべてが完璧なんてそんな選択があるとも思えない

 でも少なくとも今この選択が間違っていたと思いたくない。

「あ、やべ公麿俺本気で走りすぎた?」

「速すぎんだよバカ―!」

 彼が隣にいてくれるのは、そう悪いものではないと思うから。

 




これにて本編完結です。
九月に終わらせたいとか言いつつ一月ズレるとはいかんともしがたい事実です。
この後こぼれ話とか書いてみたい気もするけど新しいのも書いてみたい。迷いどころですね。
最後に、間隔が空いたにも関わらず最後までお付き合いくださった方に感謝いたします。





玉ねぎ祭り


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番外編
とある男子の目線から


 うちの高校の男子にアンケートを取ってみて、最も華がある学年はどこだと聞くとしよう。

 大多数の生徒は二年と答えるだろう。

 この場合の華というのは、早い話女子のルックスだ。

 去年俺たちが入学してから、先輩や下世話な男性教員が俺たちの代が『あたり』の年だと言っているのを何度も耳にしたことがあった。

 確かに周りを見ても、俺たちの学年の女子はかなり美人が揃っている気がする。

 うちの高校は偏差値がそこそこ高いってこと以外は、部活でも特に目立った成績がない普通の高校だ。一部俺たちの代で美術部が著しい貢献を学校にしているがそれは除く(余談だがその立役者となった部員の餅田美奈子という女子生徒も俺たちと同じ二年で、これも例に漏れず相当な美人だ)。だというのにどうしてこれほどルックスの良い芸能人クラスの女子が集中したのかは謎だ。

 可愛い女子が多いと、その中で誰が一番か、なんて馬鹿な事を言い出すのが男子高校生という生き物だ。残念というほかない。

 そういうことを言い出すのは決まってクラスの中心人物なのだが、二年三組で言い出したのは平等橋と言う男子だった。

 この学年で平等橋を知らない奴はまずいない。

 理由はいくつかあるが、単純に顔がいいからという点が上がる。

 きりりと精悍な顔つきで、部活であるサッカー部の印象から爽やかなスポーツマン、初対面で平等橋が抱かれやすい印象がそれのようだ。これは平等橋の部活仲間から聞いた話だ。

 話すと明るく、ノリがいい。無茶ぶりをしても楽しそうに応え、人を弄ったりして笑いを取ることもない。

 真面目そうな外見とは裏腹に打ち解けやすい性格という事もあり、男女問わず平等橋の人気は高い。

 明るく真面目でスポーツ万能、しかも面白い。

 これほど揃っていれば女子にモテるのは当然だが、男子にもやっかみを持たれていないとなると不自然だと思う人もいるだろう。実際俺も平等橋の事をよく知らなければいけ好かないやつだと思っていただろう。

 男子が平等橋を好くのは、平等橋が女子の事を苦手としているからだ。

 これはある程度平等橋と親しくない奴でも知っている情報だ。本人はこの情報が流れていることを知らなさそうだが、少なくともうちの学年では暗黙の了解として受け入れられている。女子に人気があっても、本人がそれを自慢したり誇示しないというのは男子にとってかなり親しみが持てるというものだ。反対に俺モテますよと言う風にスカしてくる男子は絞め殺したいほど憎らしい。これはあくまで俺は、だが。

 俺と平等橋が出合ったのは一年生の時だ。出席番号順で、偶然席が近かったこともあり、彼と親しくなった。

 持ち前の明るさと中学の頃からの知り合いなども含め、四月の頭にはすぐに平等橋を中心としたグループが出来上がった。その中に俺も入ることが出来たわけだ。

 中には平等橋の事を露骨に狙っている奴もいたが、そういう女子は比較的早い段階でグループから抜けていった。そうして段々数が少なくなっていき、最終的に五人ほどのグループとして落ち着いた次第だった。

 男女構成は男が三で女子が二。

 女子も初めは平等橋に気がある素振りを見せていたが、アプローチに一切答えない平等橋に飽きたのかすぐに友人としての付き合いに切り替えたようだった。

 女子のアプローチは露骨だったと思う。

 二人で飯行こうとか、休みの日遊びに行こうとか、映画館、テーマパーク、水族館などなど。明らかなデートの誘いは傍で聞いていて面白いものでもなかった。

 平等橋は困った風に笑うだけで、二人で遊びに行くということは決してしなかった。代わりに男子も含めて複数人で遊びに行くなら高確率で乗ってきたが。

 女子といる時に見せる顔と、男子といる時に見せる顔が違うなと感じたのは何も俺だけではなかった。自然な笑顔や無邪気な行動が女子の前だと極端に減るからだ。

 女子と話すことが苦痛とか苦手だとか感じている風には見えない。だがなんとなく苦手なんだろうなと感じることが一緒にいることが長くなるにつれ感じるようになったのだ。

 事実一年の短い間でも平等橋は何人かの女子と付き合っていたらしいが、調子はどうだと聞くといつも別れた後だった。笑いながらまた振られたよと言う平等橋は悲しんでいるようには一切見えなかった。

 そんな平等橋だが、一年の冬ごろから徐々に雰囲気が変わっていった。それもいい方向にだ。

 男子に対しては気安いが、それでもどことなく薄い壁があるように見えた平等橋だったが、それも少なくなってきた。もともと明るいやつだったが、もっと明るくなった。しこりが取れた、とでも表現したら的確なのかもしれない。

 理由はなんとなく想像がつく。

 同じクラスにいる綾峰という男子だ。

 綾峰は男子なのだが、一見すると女子にしか見えないような奴だ。

 初対面で綾峰を見れば、文化祭にはまだ早くないか? と突っ込んでしまうほど男子の制服に違和感を覚えるだろう。

 背は低く、声は高い。でかい目に小動物を連想させる所作はどう見ても女子にしか見えない。髪は耳に掛るくらいの短髪だが、それも活発なショートカット女子そのものだ。

 綾峰は夏休みを超えてもクラスで浮いている男子だった。

 特別性格が悪いとか、嫌な奴だという話は聞いたことがない。

 四月の初め綾峰に声を掛けた男子がいた。入学直後でまだクラスにどんな奴がいるかもよくわかっていない時期だ。

 佐藤か中村だったと思うが、声を掛けた男子連中が綾峰の事をコスプレをした女子と勘違いし、「お前気合入りすぎだろ! スカート忘れたのかよ」と大爆笑したそうだ。これは仮に綾峰が女子であっても失礼な対応だが、綾峰はそれに対してただひたすら無言を貫いたらしい。

 自分の事を馬鹿にした男子を無言のままじっと睨み、「な、なんだよ」と怯むもお構いなしに黙って睨む。時折綾峰の喉奥からぐるぐると低い唸り声が聞こえ出し、たまらず相手は逃げ出してしまった。

 この一件から綾峰はつつくとなんだかヤバそうなヤツという扱いをクラスで受けるようになった。いやクラス、というと語弊があるか。男子のみだ。女子とは時折話しているのを見るからだ。でもその光景を見ることで、やはり綾峰は女子なんじゃないかと男子の中で盛り上がり、水泳の授業で奴の裸を見たことがあるにも関わらず「綾峰は女子」説が成り立ち今に至るというわけだった。

 そんな綾峰とどういうわけか平等橋は仲良くなったようだった。

 綾峰の存在自体は平等橋も知っているはずだった。同じクラスだからだ。しかし話したことはなかったように見える。それを聞けば「まあ、ちょっとな」とはぐらかされてしまう。

 俺たちのグループは別にいつも一緒というわけじゃない。休み時間とか、空いている時間があれば駄弁ったり遊んだりするが全員揃っていることは少ない。

 平等橋がいない時、教室を出て廊下を見渡すと大抵彼は綾峰と一緒にいた。

 何度か綾峰と一緒にいる平等橋を見たが、それはもう生き生きとしていた。

 一口に楽しいと言えども種類はある。笑えるから、一緒にいてくれるから、お金をくれるから、いろいろだ。

 平等橋が綾峰と一緒にいる時に見せている表情から、気が許せているから楽しいという風に見えた。友人としてそれは無性にもやっとするというか悲しいというか、悔しいというか、複雑な気分にさせられた。

「あんたってさ、ホモなの?」

「は?」

 同じグループの女子、新妻彩子のあんまりな言葉に俺は固まった。

「いや平等橋の事好き過ぎでしょ」

「ち、違う! というかお前も前は平等橋のファンだっただろ!」

「どんだけ前の話よ。つか、今のバッシーみてたらそんな気起きるわけないでしょ。見て見なよあれ」

 彼女の指さす先には平等橋が綾峰の姿があった。平等橋は綾峰の頭をバシバシ叩きながら大爆笑しており、それに綾峰が全力でキレていた。

 

 

 二年に上がった時、平等橋が「うちのクラスで一番可愛い女子選手権しようぜ」と切り出した。

 一年の時同じグループだった奴らは俺を除き全員平等橋と離れた。俺は平等橋と同じクラスだったことが嬉しかった。嬉しすぎて神に感謝を捧げているところを新妻に見られ薄っすら笑われたのは思い出したくもない過去だ。

 二年のクラスではサッカー部もそこそこ人数がおり、またすぐに平等橋を中心としたクラスが出来上がった。一年と違うのは少しグループの規模が大きくなったくらいか。

 女子が体育から帰ってくる前に平等橋は人を集めた。

「ランキング?」

 俺たちの声が耳に届いたのだろう。綾峰がこちらを振り返った。

 平等橋はまずったという顔を作った後、すぐに綾峰を味方に引き込んだ。俺は咄嗟に平等橋に綾峰を入れることにストップをかけようとしたが、味方に引き入れた方が色々やりやすいという平等橋の意見に引くしかなかった。

 二年に上がり、俺も綾峰の事が少しずつ分かるようになっていた。

 まず性格だが、これは超が付くほどの人見知りだった。

 同じクラスであったにも関わらず、一年の終わりまで俺は綾峰とまともに話せたことがなかった程だ。

 人見知りではあるが嫌な性格じゃなかった。どころか一度懐に入れてしまえばかなり気の利くいいやつだった。

 自己主張の強いやつではないことは前から知っていたが、その分聞き上手だった。大げさではなくその時その時にリアクションを取ってくれ、どんなくだらない話にも耳を傾けてくれる。それでいて嘘はつかないから面白くない話をすると面白くないとはっきり表情に出してくれるから話を聞いてくれている時は本当に興味があるんだという気にさせてくれる。

 加えて忘れてはならないビジュアルだ。

 学年でも女子を押しのけて上位に食い込むであろう綾峰の顔で熱心に見つめられれば、男だと分かっていてもついくらっとくるものだ。実際俺を筆頭に男子とある程度打ち解けるようになってからは、綾峰は男子の中で急激に人気を高めていった。本人にとっては不本意かもしれないが、俺も綾峰求心者筆頭の一人だ。

 冗談で綾峰の事を女子扱いしてるやつが大半で、俺もどちらかというとその一人に入るのだが、本気で綾峰に恋愛感情を抱いている奴もいる。うちのクラスでは村木がそれだ。

 長身でそこそこイケメンなのだが女子にはモテない。いいやつなのだが女子の中ではそれこそ「いい人」止まりで彼女はできない。だから綾峰に熱を上げたのかと思ったがどうもそうでもないらしい。

 もはや綾峰は女子だろ。

 俺の中ではそういう結論が出ていただけに綾峰がこの企画に参加することを反対したのだが、仲間外れにされたと感じたのだろうか、綾峰が俺の方を見てかなり落ち込んだ表情をせていた。

 後でこっそり謝りに行くと、「別にそんなことで落ち込んでねーし。いや、でも、うん。ありがと」と軽く腹を殴られて逃げられた。悶え死ぬかと思った。

 ランキングの結果は途中先生の乱入なんかで散々だったが、結果自体は後日でた。

「綾峰が四位というのはやばいな」

「公麿やるなぁ」

 俺がポツリと呟くと、横から平等橋が感心したように反応した。

 綾峰がクラスでもある程度溶け込めるようになったのは平等橋の存在が大きかったように思う。

 そこまで頻繁ではないが、何か平等橋がやろうとする時に綾峰を呼ぶことがある。そこで普段皆の前で姿を現さない綾峰の事を男子連中は知る機会が増えていくというわけだ。繰り返しになるが、綾峰は殆ど女子みたいなものだというのが俺たち男子の共通認識なので、可愛い女子と話すことが出来るという意味で平等橋が綾峰を連れてくる時大抵俺たちは喜んだ。

 だがどれだけこっち側から綾峰と仲良くしたいと思っても、綾峰にとって特別は平等橋一人だけだったように思う。

 まだ話し始めてそれほど時間が経っていないという事も勿論考えられるが、どこか綾峰には平等橋に接する時と俺たち男子たちと接する時とで薄い膜のようなものがあると感じさせられるのだ。それはかつて平等橋から感じられたものにとてもよく似ていて、二人はひょっとしてかなり似ているのではないかと思った。

 平等橋と綾峰の夫婦漫才のような関係はすぐに学年でも知れ渡るようになった。

 もともと知名度の高い二人だ。平等橋は単純な人気、綾峰は男とは思えないルックスから。男子同士ってこともあって女子からのやっかみもなく、どころか二人の関係を涙ながらに称える女子もいると聞くほどだった。

 俺もそんな二人を微笑ましく見ているひとりだった。

「落ち着いたもんねあんたも」

「うるさいなこの野郎」

 余計な茶々を入れてくるのは新妻だ。クラスが違っても廊下で会えばこうして憎まれ口を利いてくる来るところは変わらない。

「ようやく平等橋熱は収まった?」

「そんなもの初めからない!」

「あっそ」

 平等橋と綾峰の微笑ましい関係を側で見ていた。それが急に壊れるなんて思いもしていなかった。

 ある日綾峰が女になって現れたからだ。

 

 

 綾峰が女になって、最初の日はやはりクラスに緊張は走っていたように思う。

 女だ女だと冗談で言っていても、本気で女だと思ってるやつはいない。

 これから綾峰とどうやって接していこうというのが皆の本音だったと思う。

「静粛に!」

 綾峰が女になって登校してきたその日、昼休みに何かの用事で綾峰が先生に呼び出されている間に一人の女子が教卓の前に立ち、叫んだ。

「ボスボス? 別に誰も騒いじゃいませんぜ?」

「黙ってなって舞依。ボスが皆を注目させたいだけなんだから」

「聞こえてるわよそこのバカ二人」

 教卓の前に立ったのは荒神裕子。このクラスで女子のリーダー、みたいなやつだ。

 きりっとした雰囲気を持った美人で、眼鏡から覗く泣き黒子がエロいとはクラスの男子談。顔だけなら間違いなく学年一位を張れるがいかんせん男子に対する当たりが強い。

 荒神を茶化す二人の女子、柊と楠をしっしと手で払い、荒神は「手短に言うけど」と前置きをした。

「綾峰は私たちが面倒を見るわ」

 以上、と荒神は締めた。クラスの一同困惑に包まれる。

「ちょっと裕子それどういう事?」

 俺たちのグループの女子、飯島が皆を代表するように恐る恐る尋ねた。

「今の微妙な空気嫌でしょ。どうすればいいのか分からない、みたいなね。私と亜衣と舞衣、三人で綾峰に付いて女子の何たるかをいろいろ教えるわ。だから時間はかかるかもしれないけど今度は女子として綾峰がこのクラスにいることが普通って言う状況にしたいの」

 にっと荒神が笑えば飯島は「微妙っていうかさー」と視線をうろつかせる。荒神はそのはっきりと物事を言う性格が相まって女子から絶大の支持を得ている。飯島も荒神のファンの一人だ。

「さっき石田先生にちょっと聞いたんだけど、綾峰隣の女子高にも転校勧められたみたい。でも断ってこっちに残ったそうなのよ。皆は嬉しくない? あのシャイな綾峰がわざわざ茶化されるとか、陰口とかいろいろ言われる危険を冒してまで残ってくれたのよ」

 そう言われてしまえば皆NOとは言えない。自然と隣同士目を合わせる。

「だから皆悪いわね。あの子の事暫く独占させてもらうわよ」

 何か不満があれば聞くわよ、と荒神は俺たちを見渡した。仮に言いたいことがあってもこの状況で手を挙げるやつはいないだろう。

 荒神の言い方は上手いと思った。

 まだ午前中だったが、何もしなければ綾峰が今後孤立するかもしれないという事は容易に想像がついたからだ。

 授業の休み時間ごとに、女になったことで皆一斉に綾峰に詰め寄った。終いには隣のクラスからもやって来る始末だったが、その殆どは興味本位の野次馬だった。

 綾峰は逐一質問に答えているようだったが、その反応は一年の入学当初と酷似していた。つまり、必死で返そうとしているが相手には綾峰が機嫌を悪くしている風にしか見えない。いろんな人に囲まれていてテンパっているから、綾峰は周囲が自分の事をどう見ているのか分からなかったのだろう。

 今の綾峰に人が集まっているのは一過性のものだ。熱が過ぎれば一年の頃のように去っていくだろう。いや、女になったというその奇特性から弄りや、ひょっとしたら虐めの対象にされるかもしれない。

 荒神がわざわざ名乗りを上げたのは、綾峰がクラスの中で浮いた存在であるという事を否定するためだ。正確には浮いた存在であることをはっきりと認めたうえで、馴染ませていこうと了解を取るためだ。

 これは荒神だからできたことだ。

 並みの正義感が強いだけの女子が言えば、他からの反発が強かったと思う。正義感ぶるなとか、何様のつもりだとか、なんでお前が仕切ってんのとか、こっちを悪役に仕立ててない? 等様々な不満が爆発しただろう。

 荒神はその分このクラスの女子の過半数、というか全員か、の支持を得ている為女子からの反発はまず出ない。男子も荒神を恐れている為口をはさむことはないだろう。

 それに皆誰かがこう言ってくれるのを期待していた節があったのだろうと思う。

 綾峰が女になって、やはり混乱した。

 冗談だろ? と思ったし、俺は引かなかったが周りから引かれたり、キモイと言われたりするんじゃないかと心配もした。でもだからと言って自分は力になれないなとも思った。何故なら、『手を伸ばせるほど綾峰と仲が良くなかった』からだ。

 迷惑じゃないかという感情が先だつ。男は更に損だ。女になったから急に寄って来たんじゃないかと綾峰に思われたらどうしよう。この考えが先行して下手に動くと却って綾峰に不信感を与えそうだ。

 だから誰かがこいつの面倒は自分が見ると言ってくれて安心したんだ。

 それもクラスで一番発言力の強い女子が言うんだ。これ以上ないほどの適任者だ。

 荒神は普段特別クラスを仕切ることはしない。

 まだクラス替えからそんなに経ってないからって言うのもあるが、自分から前に立つより皆がしたいことを纏めてそれを可能にさせるために頑張る感じのリーダータイプだからだ。だからそんな荒神が自分から宣言したと言うのはそうとう珍しいことだった。ひょっとしたらクラスのこの微妙な空気をいち早く察知して切り出したのではないかと勘繰ってしまうほどに。

 荒神の宣言通り、教室に戻ってきた綾峰は荒神のグループに組み込まれる事に成った。

 そうして一月が経つと綾峰もすっかり女が板についたように見えた。

 スカート姿も目に慣れ、少しだけ膨らんだ胸部に目を移すこともしばしば。

「何見てんの?」

「綾峰の胸」

「あいつぺちゃぱいだろ」

 隣でパックのジュースを啜るのは平等橋だ。こいつは綾峰が女子になってから一か月くらい一切綾峰と喋っていなかったそうだが、今じゃすっかり元に戻ったように綾峰と仲が良い。

「おい、どこ行くんだ」

「公麿からかって来る」

 平等橋は席を立つと、さっそく綾峰の方へ向かっていった。

「はあ、いいよなあ平等橋」

「うわ、びっくりした!」

 隣で大きな溜息が聞こえたと思ったら、村木がさっきまで平等橋が座っていた席に腰かけていた。

「そんなにびっくりすることでもないだろ」

「お前声でかいよ。いやまあどうでもいいんだけど」

 村木と俺は仲は悪くないがそこまで話す仲でもない。ぼーっと平等橋と綾峰の取っ組み合いを見ていると、「やっぱ付き合ってんのかなー」と独り言にしてはやや声量が大きい呟き。

「さあ? 付き合ってないんじゃないか」

「え、マジ声漏れてた?」

「ギャグで言っているなら面白くないし、マジで言ってるなら同情するよ」

 付き合ってはいないと思うが、付き合うのも時間の問題だろう。

 これ以上村木に絡まれるのも嫌なので俺はトイレを行くふりをして廊下へ出た。少し歩いていると前から見知った人物が歩いていた。向こうも俺の事に気が付いたようで、片手を揚げて近づいてくる。

「何。ボッチ?」

「うるさいトイレだ」

 にやにやと意地悪く笑う新妻。クラスが離れている癖に結構廊下で会う事が多いから不思議だ。

「うちのクラスでも話題になってたよ」

「綾峰の事か?」

「ていうかバッシーのこと、かな。ダークホース現るってね」

 にひひと口の端を歪める新妻。独特だがこれがこいつの笑い方だ。人前ではしない方がいいと言っているんだが聞きやしない。

「あんたとしては心中穏やかじゃないんじゃない? 愛しの平等橋が盗られてさ」

「お前それ何度も言ってるが違うぞ。俺をホモに仕立てるんじゃない!」

 新妻がそのネタで俺を弄って来ることにももう慣れた。

「今バッシーが綾峰クンとくっつくかで賭けやってるよ」

「へえ。今どのくらいなんだ?」

「半々かな。ちなみにあたしは付き合う方に五百円」

「それクラス別でも参加して大丈夫なやつか?」

「余裕。だってこれ学年単位でやってるやつだもん」

「この学年はどれだけあの二人に関心を寄せているんだよ」

「いろいろと有名だからねあの二人は」

 確かにそうだ。よくも悪くも目立つ二人であることは否定できない。

「ちなみにどっちに入れるの?」

「付き合うに五千円」

「大きく出たねえ」

 ちょうど平等橋が教室から出てきた。彼は俺たちを見つけると「珍しいなおい」と近づいてきた。

「なんだお前ら、相変わらず仲いいな」

「いやー、お宅と綾峰クンほどじゃないと思うけど?」

「ダチだからな。それよりどうしたんだよハタ、まさかお前ら」

「ちがうからな! それだけはないから!」

 平等橋がよからぬ事を言い出しそうな雰囲気だったので咄嗟に止めた。

「それよりもバッシーさ、マジなとこどうなん? 別にあたしらに聞かれるのが初めてってわけでもないんでしょ」

 何がとは言わないことがミソだ。一歩踏み込んだところで新妻は平等橋に綾峰の事を尋ねた。

「マジも何も。普通に友達だって。それ以上でもそれ以下でもねえよ」

 そう言うと、俺トイレ行くからと一言残し、平等橋はそそくさと俺たちから離れていった。

「どう思う? あれ」

「グレー、だな」

「さすが平等橋検定二級」

「そんな検定はない」

 新妻に問われた時、平等橋は間髪入れずに答えた。意識的に答えを用意していないとあんなことできない。しかし、その割には目に余裕は感じられなかった。いつも飄々としている平等橋からは想像もつかないほど。

「やはり時間の問題だな」

 俺は財布から五千円札を取り出した。 

 




時期的には一年~二年六月くらいの出来事ですね。今回全く無名の脇役視点でしたが、次回は公麿か平等橋のどっちかで一本やろうかなと思います。


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不穏な後輩と ①

「公麿、ちょっといいか?」

 昼休み。

 いつものように裕子たちとお昼ご飯を食べていると、後ろから平等橋が声を掛けてきた。

 この時間に話しかけて来るなんて珍しいこともあるものだ。何の気なく振り返ると驚いかされた。随分と困った顔をしていたからだ。

「なによ平等橋。私たちの憩いの時間を邪魔する気?」

「バッシー、それは万死に値するよ?」

「どうしたの? なんか困った顔してるけど」

「お前ら相変わらず三者三様の対応の差がえげつねえな……」

 順番に裕子、舞衣、亜衣が反応する。最近は裕子と舞衣のあたりが強すぎて亜衣が受けに入ることが多い。

「なんかあった? 移動しようか?」

 私が提案すると、平等橋は「いや、そのままで大丈夫だ」と言う。

「ちょうどお前らにも聞いて欲しいしな」

「私たちにも?」

 平等橋は私以外の三人にも聞かせたい話をしたいらしい。ますます何の話なのか分からない。裕子は腕を組み、亜衣と舞衣はこてんと首を傾げている。

「実はさ、ちょっと後輩でやっかなやつが入って――」

「せんぱ~い!」

 ねっとりと粘り気のある甘ったるい声が教室中に響き、それと同時に声の主が一直線にこちらに向かってくる。

 

「げ、明堂……」

「明堂?」

 探しましたよせんぱ~いと、これまた甘ったるい声を上げて平等橋の腕にしがみ付く女子。なんだこいつ。

 背は、小さい。顔もなんか化粧が結構濃いけど可愛い系でそこそこ可愛い。

 制服は着崩していて、スカートの丈は極端に短い。生活指導の先生に見つかったら間違いなくアウトだこれ。うちの高校はそこまで服装にも厳しくないけど、さすがにここまで着崩すと注意は避けられないと思う。

 きゃるんという擬音語が似合う今時の女子高生と言う感じで、ああこういう子いるよなって普段なら無視するタイプ。そんな女子が目の前に現れた。現れたって言っても相手の視線は平等橋一点で私たち四人が視界に入っていないように振舞っているように見える。その態度に裕子がちょっとイラっと来ているのが空気で伝わってきた。

「せんぱい今日お昼ご飯一緒に食べてくれるって言ったじゃないですか~」

「いやほら、昼はもう約束してるしさ」

 明らかに困った顔をしながら、視線だけで私に助けを求める平等橋。

 大体事情はつかめた。

 でも面倒だなあ。余計な首突っ込むのも、ねえ?

 右を見る。裕子が肩肘ついてじっと相手を見定めている。

 左を見る。亜衣と舞衣は傍観を決め込むと決めたようで、一歩下がって椅子にもたれかかっている。

 三人とも平等橋に助け舟を出すつもりはないみたいだ。

 ……仕方ないな。

「ごめんね。私が先に平等橋と約束してたんだ。だから悪いけどまた今度誘ってやってよ」

 できる限り相手が恥ずかしくないように気を付けて私は言った。

 平等橋のことを先輩と呼ぶのなら、この子は一年生のはずだ。一年生がわざわざ二年の教室のある場所までくるのは結構怖いはずだ。そこまで来てただ帰れと言われたら恥ずかしくって仕方ないだろう。平等橋は困ってるっぽいし、私も外見とか言動はちょっと苦手だと思う子だけど女の子に恥をかかせるのはダメだ。

 そういう意図を込めて私は慎重に言ったつもりだったのだが、彼女はそう思わなかったらしい。

 言った私の方をグリンと首をひねって見つめると、ただ一言。

 

「は?」

 そう言った。

 

「あー、あの、だからね」

「いや聞こえましたけど」

 私の言葉が届いていなかったのかと思い、言い直そうとしたら嫌に攻撃的な返答が返ってきた。

 私は今まで後輩というものと話したことはなかったのだけれど、運動部とか見てると先輩後輩の上下関係が厳しいものを想像していた。今までの会話と雰囲気で私を平等橋の知り合いと分からないはずない。それにもかかわらず刺々しい雰囲気を隠すことをしない。はじめの甘さマシマシのあの声音はどこへ行ったのかと首をひねりたくなるほどの低温ボイス。初対面の後輩に悪意をぶつけられたという事実で硬直してしまった。こっわ。後輩こっわ!

「あなた一年でしょ。いきなりその態度はどうなのかしら」

「かなり非常識って自覚ないのかにゃー?」

 黙った私に代わり、裕子と舞衣が後ろから援護してくれた。裕子ははっきりと、舞衣は茶化しながら。しかし二人とも目が全く笑っていない。こいつらの方が怖いや。

「えー、なんですかー。ちょっとそこの先輩が何言ってるのかわからなかったから聞き返しただけじゃないですかー。それともなんですか? 先輩方はこんな小さなことも見過ごせないほど心狭いんですかー?」

「なるほどなるほど」

 後輩女子が言い終わるや否や裕子が立ち上がる。

「ちょっと顔貸しなさいあなた」

「やっばい! ボスが切れた! 亜衣!」

「合点承知だ舞衣! バッシーはその子連れて廊下でも出てて!」

 ぶわっと体から怒気があふれ出した裕子を、二人の華麗な連携で取り押さえる。

 その間私は何もできず、平等橋が件の後輩女子を廊下に引っ張っていくのを面白くなく見つめていた。

 

 

 昼休み終了ぎりぎりに教室に帰ってきた平等橋は、私たち四人のところまでくると何も言わず、すっと土下座をした。後で聞いたけど、この時私たち四人は能面を付けたかのように無表情で、すごく怖かったらしい。

「踏めばいいの?」

「いや、ボスそれはちょっと……」

 スリッパのまま片足を上げる裕子に亜衣がストップをかける。私も事情が聞きたかったので、さっさと平等橋を立たせて隣に座らせた。

「想像を超えてきた厄介さだよ」

「いやマジですまん」

 一番に私が口を開くと、平等橋は両手を合わせて謝ってきた。

「話しなさい平等橋。個人的にもあの後輩に一言言ってやりたいわ」

「ボスの場合“一言”ですんだ覚えがないんだよなあ……」

「こういう経緯で第二第三の私たちみたいなのが量産されてくんだろうなあ」

 肩肘を付きいかにも悪役ってポーズをする裕子に茶々を入れる舞衣と亜衣。案の定二人とも裕子に殴られていた。

「ああ。話は先週くらい前からなんだけどさ――」

 

 季節外れの転校生。そう平等橋は説明した。

 うちの高校に限らず、公立高校に転校生は珍しい。

 それは転校の手続きの複雑さであったり、引っ越し等で住む場所が変わっても同じ区域だったら電車などを使えば通うのも難しくもなかったりと経済的な理由かららしい。

 そんななか三学期に入って早々にやってきた転校生は目を引く。

「転校生ね。珍しいことは分かるけど、それがあんたとどう繋がるわけ?」

「なんつーかな。あんま悪く言いたいわけじぇねえんだけどさ」

 がりがりと頭を掻く平等橋。言いにくいことをどう説明しようか悩むときのこいつの癖だ。

「あの子割と可愛い方だろ? だからなに、ちょっと調子に乗ったっていうか」

「ああ、クラスの女子の反感を買ったのね」

「……まあそんな感じ」

 言いにくそうにしていた事を裕子が代弁した。亜衣は「うえっ」と声を潜め、舞衣はどこか納得したように「あー」と呟く。

 私も経験があるから少し分かるところがあるが、一年生も三学期になれば落ち着いてくる。自分が通っている感覚という意味で学校に慣れてくるし、文化祭や体育祭と言った学年行事が終了してなんとなく手持ち無沙汰になるのもこの頃だからだ。

 そんなやや緊張にかけた時期に突如やってきた転校生。

 女の子で、なおかつかなり可愛い。

 男子連中が騒ぎ立てるのに十分な要素を持っていた。

 その転校生がどういう性格なのかはあの一瞬だけではいまいち掴めないが、盛り上がる男子に対して委縮するタイプでなかったことは確からしい。それどころか女子に反感を買うような盛り上がりを見せたそうだ。

「なんでそんなことまで知ってるんだ?」

「これから話すけど、サッカー部の後輩マネージャーが明堂と同じクラスらしくってさ」

 平等橋は転校生の話を後輩の女子マネージャーに相談されたそうだ。クラスで浮いていて可哀そうだからどうにかできないかと。

 こいつはそんなこと自分に話されてもどうしようもないと頭を悩ましたそうだが、近くで話を聞いていた他のサッカー部員が「じゃあマネージャーで呼んだらいいじゃん」と思い付きで提案。翌日にその後輩マネージャーは転校生を連れてきたらしい。

「ふうん。話が見えてきたわ。そこでもあの転校生がちやほやされたって落ちでしょ」

「お前エスパーかよ。まあ、そうなんだけど」

 どの学校でもそうかはわからないが、うちのサッカー部はマネージャーが少なく、殆ど男子しかいない。男だらけのむさくるしい集まりだと平等橋は言っているほどだ。そんな中にあの転校生を連れて行ったらそりゃ男は大興奮だろう。

「別にその点に関しちゃ俺はどうでもよかったんだけどさ、部の中には明堂と同じクラスの後輩とかもいて、『明堂は一年のもの』とか『後輩が出しゃばんな』とか意味不明の取り合いがひっそりと始まったんだよな」

「あー、なるほどな」

 私はうんうんと頷くが、裕子ほか三人は渋い顔をしたままだ。え、これそういう反応が自然なの?

「で、さすがに部の空気も悪いし練習も気入ってないこと多かったから部会開いて注意したんだよ。そしたら懐かれた」

「ん?」

 話が飛んだぞ。どういうことだ。

「どういうことよ。どうして注意してあんたが好かれるわけ?」

 裕子が私のききたかった事を代弁するように聞いてくれた。平等橋は「俺もよくわかんねんだけどさ」と前置きをする。

「『色目使わずに本気で私のことを怒ってくれたのが嬉しかった』らしい。他の男子は明堂のファンか、それ以外だとめんどくせえって傍観してる奴だけだったからな。キャプテンもこういうのあんま得意じゃねえし、じゃあ俺が言うかって結構きつめの事言ったつもりなんだが……ってなんだよお前らその顔」

 私を含めた四人の目がしらーっと冷めていく。ふん、なんだいそれ。

「バッシーの自業自得じゃん」

 まず亜衣が口火を切った。普段平等橋にそこまで強く言わない亜衣が先に言い出したことで、私たちの中でも平等橋を擁護する気持ちが一気になくなってしまった。

「初めて本気で怒ってもらった、ね。転校生の子が相手を、まして年上の先輩を意識するのに十分な要素ね」

「なんだ。やっぱりバッシーの天然たらし発動させただけか」

「え、ちょっと? 酷くないそれ、なあ公麿? 公麿?」

 裕子と舞衣も続く。想定外な答えが返ってきたのだろう。平等橋はひどく動揺した。

 助けを求めるように平等橋がポンと私の肩に手を置くが、私はその手を少し強めに弾いた。

「知るかよバーカ」

 ぽかんと放心する平等橋を無視して私たちは全員席を立った。

「え、ちょちょちょっと」

「なんだよ。私たちは今から音楽なんだ。じゃあな美術」

 五時間目は芸術選択で、本来だったら昼休みの間に移動は済ましておくのが普通だ。今日は平等橋があんな中途半端な形で話を切るから待っていただけだ。それも聞き終わってしまえば待つ価値もあまりなかった。

「公麿? お前なんか怒ってる? おーい?」

 後ろの方から聞こえる平等橋の声を無視して私たちは教室を出た。

 

 

「バッシーさ、最近モテてない?」

 音楽の授業では今ギターを取り扱っている。二人組でギターの練習をするのがここ数時間繰り返されているのだが、私は席の並びで舞衣とペアだった。

「それってさっきの話?」

 先生が配った指の押さえ方とか詳しく乗ってるプリントを見ながら返すと、「別に今日の事に限らずさー」と舞衣。

「ほら、なんか先週も五組の立花さんに告られてたじゃん」

「……」

「あ、そこコード違うよマロちん」

 動揺してやんの、とからかってくる舞衣。うるさいよ。

 しかし舞依のいう事は確かだった。ここ最近の平等橋はモテている。

 私がちょっと精神的に不安定だった時、正確には平等橋が母親との問題に区切りをつけてからだろうか。平等橋の女子に対する雰囲気が丸くなったそうなのだ。伝聞なのはその期間私の記憶があいまいで、気が付けば平等橋がモテているというのを傍で見ているという状態なのだが、それはいい。

 クラスの中心人物である平等橋であるが、実は女子とはそこまで積極的に話すわけではない。

 もちろん、リア充の代表格ともされるような男なので、クラスでも派手なカースト上位の男子と女子が混在するグループには所属しているし、その中では女子とも話してはいる。しかしあまり深くまで女子を自分の領域に近づけることはないし、自分から行くこともなかった。表面上空気を悪くしないために無理をすることはあるそうだが、実際は苦手なのだと何度か平等橋の口からきいたことがあった。

 それが母親との間にあった自分の中でのわだかまりが解消されたことにより、女性そのものに対する認識が変わった。

 女子に対しても男子と変わらないような軽口をたたく。冗談を言う。手助けをする。

 あいつは下心なんか特に持っていないと信じたい。いや男だし多分多少下心はあるだろうけど。まあそれはいい。

 だがその結果だ。あいつは今信じられないくらいモテている。

 もともとモテる要素はあった。

 結構身長高いし、話が面白いし、さりげないところで優しいし、なによりイケメンだ。

 幸いにしてその手の感情にあいつも疎いわけではないらしく、そういう空気になると避けてきたらしいが、今回のようにたまに冗談なのか天然なのかわからない事態を引き起こすことがある。

 それはなんだか、私としても面白くない。

 

「マロちん的には今のバッシーはどうなの?」

「どうって?」

「付き合ってんじゃないの? 二人」

 またコードミスった。

 勢いで指を切ってしまったので、鞄の中から絆創膏を取り出す。指が震えてなかなか外せない。くそ。

「マロちんをそこまで動揺させるとは。バッシーも罪な男よのー」

「……そんなんじゃないやい」

 

 平等橋と私のことについては、すぐに三人と餅田に報告した。

 亜衣と舞衣は「まあ妥当じゃん?」と言った風に平等橋と私を交互ににまにま笑うだけだったが、餅田は平等橋を射殺さんばかりに睨んでいたのが対照的だった。

 意外だったのが、裕子だ。

 彼女はてっきり餅田と一緒に平等橋にくってかかるのかと思ったが、「よかったわね、公麿。平等橋も」と静かに笑うだけだった。

 もともと私と平等橋の情報は四人、特に裕子と亜衣、舞衣には筒抜けだったのだが、平等橋と付き合ったことでなぜかよりそれが厳しくなった。

 気恥ずかしいしやめてほしいって思う時もあるんだけど、今回みたいなことが起きると事情を知っている人がたくさんいるってのは助かる。一人だとどうしたらいいかわかんないし。

 

「私思うんだけどさ」

 舞衣が教本を見ながら言う。

「二人が付き合ってること公表したらいいじゃない? もう学校中に」

「は、はあ!?」

 たまらず大きな声を上げる。「そこお喋りしない!」あ、すいません先生。

「どういう意味だよ舞依!」

「どういう意味も何も、そのままだけど」

 小声で舞依に詰め寄ると、舞衣は面白そうに眼を細めた。

「マロちんの気持ちもわかるよ? でもそろそろいい頃なんじゃない?」

 

 実は、私と平等橋が付き合っていることはこの学校では四人しか知らない。あ、いやなんでか村木も知ってるんだっけ。じゃあ五人だ。

 付き合う時私は平等橋にあまり付き合っていることを言いふらさないでくれと約束したからだ。

 平等橋はそれを守り、今でも学校じゃ口にしない。

「それってさ、バッシーに変な攻撃がいかないように、だよね。でももう大丈夫でしょ。マロちんが女子だって大概受け入れてると思うよ?」

「……そう言ってくれるのはありがたいけどさ。やっぱ他人の目って怖いよ」

 私が周りに隠すのは単に恥ずかしいってだけじゃない。好奇の視線にさらされるのが嫌だからだ。

 元男が男と付き合うなんて格好の話題だ。ホモだとか、キモイだとか、そういうことを言われてまくって、もし平等橋が別れようなんて言ってきたら私は多分耐えれない。周りは別にどうでもよ……くはない、うん、知らん人から言われるだけでも結構傷つくから。でも平等橋にそんなくだらないことで離れられるのは嫌だった。

 だから周りには黙ってもらっていたのだが、そうすると今度は平等橋がモテ始めた。

 人気のある男子と付き合っている元男。

 駄目だ、カミングアウトするには私の心臓が小さすぎる。

 私が一人で悶々と抱えだしたのにしびれを切らしたのか、舞依が「あのさー」と思考を中断させる。

「これ言うと私が性格悪いみたいで嫌だけどさ」

「何?」

「マロちんより可愛い子ってこの学校じゃ殆どいないよ?」

「……いや、それは言い過ぎ」

「それにバッシーだって周りが何言おうと関係ないって言うと思うよ。もっと信じてあげなよー。あれで結構マロちんに尽くしてんだから」

 舞衣の言いたいことはわかる。つまりもっとお前は自信を持て、そして相手を信頼しろ。そういってるんだ。

 分かってる。特に平等橋に関しちゃこれ以上ないくらい信頼もしてる。

 逆なんだ舞衣。信頼しているからこそそれが適わなかった時の絶望を想像して泣きそうになっているんだよ。

 私が必死で訴えると、舞衣は「あー、なるほど」と呟いた。

「こりゃちょっと考えなきゃなりませんなー」

 舞衣が笑っている時は碌な事が起きない。

 半年間でそんなこともうすっかり分かり切っているはずなのに、この時の私はそれに気づけないでいた。

 



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不穏な後輩と ②

 久しぶりに美術部へ行こう。

 そう思った私は、授業が終わると早速美術室へと足を運んでいた。

 私が落ち着いてから一度顔を出したのだが、それきり暫く顔を出せていなかった。行かなかったのは特に理由があった訳ではないんだけど、この前廊下で偶々餅田と会ったとき「どうして来てくれないんですか」と半べそをかかれた。そういやしばらく行ってなかったと思ったのはその時だ。

 餅田に連絡をすると今日はいるとのことなので、さっそく行くことに決めた。

 学食を通ってすぐに美術室がある。その渡り廊下を歩いていると見たことのある顔があった。

「ちょっと待ってください」

 何事もなく通り過ぎようとしたのだが、その声の主に引き留められてしまった。くそー、あんま話したくないのに。

 引き留められて無視と言うのもできない。

 諦めて振り返ると、彼女は「無視しないでください」と私の心の中を読んだような事を言ってくる。ほんと、なんで引き留めたんだろう。聞けばいい事なんだけどさ。

「……明堂さん、だっけ。何か用?」

「お時間今、いいですか」

 不機嫌そうに答える後輩転校生。そこに平等橋と一緒にいたときのような甘さは全くなかった。

 

 

 人目に付かないところで話がしたいからどこかいいところはないかと訊くので、私は以前餅田や裕子と話したテニスコート近くのベンチまで彼女を案内した。その間私も彼女も無言である。

 昼休み見たときはその見た目のせいもあってどこか媚びた印象を与える彼女だったが、どちらかと言うと今は警戒心をむき出しにした一匹狼のようなイメージを抱く。

 どちらが彼女の素なのかは不明だが、どちらにせよあの感じで私に好印象を持っているわけではないんだろう。ちょっと無警戒だったと後悔している間に目的地までついてしまった。

 彼女はしばらく無言で私を見つめていたが、意を決したように体をくの字に曲げ、

「すいませんでした!」

 と謝った。

 いや、何だいきなり。

 呆気にとられ、しばし言葉を失う。

 彼女は一向に頭を上げなかった。

 五分くらいたっても頭をあげない。

 これはいよいよどうしたことだと半分パニックになり、「ちょ、とりあえずさ、頭上げてよ、ね?」というと漸く頭を上げた。私の言葉を待っていたのだとこの時初めて分かった。

「え……?」

 その顔は真っ赤だった。

 頭を下げすぎて血液が集中したのかなと見た瞬間は思ったが、目の充血具合や、洟をすする音から自体が自分の想定外の方向に動いているのではないかという不安が胸中に去来する。

「ど、どうっしたの?」

 焦りすぎて噛む。

 転校生――明堂さんは「ちょ、ちょっと待ってください」と自分の顔を手で隠し、浅く息を整えていた。彼女が再び話始めるのに、たっぷり五分はかかった。

「昼休み、先輩に対して失礼な態度を取ってしまったことを謝らせてほしくて……」

「え、え? あの、昼休み?」

 殊勝な態度で謝罪をする明堂さん。とても昼休みの時に来た人物と同じだとは思えなかった。

「はい。平等橋先輩にあの後すぐすごい注意されて、それで、その、自分でもないなって思っちゃって」

「……平等橋に?」

「……はい」

 そこで一度会話が途切れた。

 私自身何を言えばいいのかわからなかったし、彼女の意図がいまいち計れなかったからだ。

「あの、じゃあ私はこれで」

「ちょちょ、ちょっと待って!」

 お辞儀をして去ろうとする明堂さんの手を掴む。振り払われる気はしなかった。

「私でよかったら話聞く、よ?」

「……」

 彼女は大きく目を見開くと、ぶわっと噴き出すように目から涙を流し始めた。

「わ、わー! なんだなんだなんだ!」

「ご、す、すみまぜん……!」

 話を聞く前に化粧を落としてからだ。私たちは誰にも見られないように小走りで近くのトイレに駆け込んだ。

 

 

 明堂晶。それが彼女のフルネームらしい。

 落ち着いた彼女と二人、テニスコート近くのベンチに座ってペットボトルのジュースを飲んでいた。これは明堂さんが化粧を落としている間、私が学食の自販機で購入しといたものだ。後輩に奢るって初めてだから、なんだか新鮮だった。

「平等橋先輩にさっき告白して、振られました」

「……どぃええ!?」

「先輩って驚き方面白いですね」

 くすくす笑う彼女。益々どれが彼女の本性なのかわからない。

「あー、あの、平等橋がね、そうかー、いや、うん」

「下手な誤魔化しいいですよ。先輩ですよね、平等橋先輩の彼女って」

「……」

「やっぱりそうだ……」

 夕日に照らされた明堂さんの横顔は、化粧を落としたってこともあるかもだけどすっきりしているように見えた。

 化粧を落とすと案外幼い顔つきをしている。

「すいませんって、わざわざ言いに? それとも私とあそこで会ったのは偶然?」

「先輩を探していました。先にクラスの方に行ったんですけどいなくって。昼休み一緒にいた眼鏡をかけた先輩が美術部じゃないかって教えてくれて」

 多分裕子だ。今日美術部に行くことは伝えてはいないが、私がさっさと教室を出るときは大概美術部へ行く時なので気付いたのだろう。

「私父親が転勤族で、小学校の時からずっといろんなところを転々としていたんです」

 ぽつりぽつりと、彼女は自分の話をしてくれた。

「こっちへ来たのもほんと最近で、どうせまた今度もすぐに転校するんだろって思ったら人間関係とかいちいち作るのも億劫になって来るんですよね。だからここでは男子に思いっきり媚びて、反応を楽しもうとかそういうことを考えていました。そうしたら父親が暫く転勤はないって言ってきたんですよ。それこそ私が卒業する三年間」

「それは……なんていうか」

「いいんです。私の自業自得ですから」

 俺が下手なフォローを挟むことを察知したのか、彼女はすぐ手で制した。

「ただすぐに転校するって思ってたから好きにやらかしていたのに、それが卒業まで続くんだと思ったらぞっとしちゃいました。いきなり女子の過半数敵に回しましたから。でもそんな私をかばってくれる子もいて」

「例のサッカー部のマネージャーって子?」

「はい。平等橋先輩から?」

 私は頷いた。昼に平等橋が言った情報と彼女が話す内容。情景が頭に浮かんでくるようだった。

「平等橋先輩って鋭いですよね。私がやらかしていっぱいいっぱいになってるってすぐに気が付いたんですよ。だから平等橋先輩に甘えちゃって、しかも先輩ってモテるから私が先輩に甘えに行ってもクラスの子とか納得するんですよ。ああ、平等橋先輩のファンがまた増えたのか、くらいの認識で」

「ちょっと待って。平等橋って下級生にも人気なの?」

 大事な場面だと分かっていたが止めずにはいられなかった。嘘だろ。あいつなんで下級生にまで人気あんだよ。

 明堂さんは知らなかったんですかと言わんばかりに目を開き頷いた。

「イケメンですし、何より優しくて紳士ですから人気高いですよ。それこそアイドルみたいなものです」

「……信じられない。気を抜いてたら後ろから膝カックンとかしてくる奴が紳士……?」

「先輩だけだと思いますよ。そういうことする相手って」

 話の腰を大きく折ってしまった。私はどうぞ続けてくれと手で示す。

「隠れ蓑って言う感じですね。平等橋先輩に抱いていたのは。でも段々今の騙しているような状況が辛くなってきて、平等橋先輩は優しいしで自分でも暴走していたっていう自覚はあります」

「それで今日の出来事ってわけか」

 はい、と力なく頷くと明堂さんは黙った。私も少し考える時間が欲しかったからちょうどよかった。

 きっと彼女は自分の居場所がほしかったのだ。

 安定しない環境で自暴自棄になり、それが裏目に出てしまった。平等橋はそれは頼れる存在に見えただろう。だが結局平等橋に頼るのは逃避でしかなく、問題の解決にはならない。

「逃げること自体は悪くないと思うんだよ」

「……はい?」

 顔を挙げた明堂さんの目は赤く染まっていた。また泣いたのだろうか。

「クラスでやらかして、それで平等橋に頼ったって言うのは逃げだ。でも逃げることは全然いいことだと私は思う。問題は逃げる先だよね。平等橋って男じゃん。男関係で反感買ったのに男の所に逃げるって選択としてはよくないよね。ってか男の所に逃げるっていう表現もあれだけど」

「仕方ないじゃないですか。女子全員敵に回したのに味方になってくれる子なんていないし。マネージャーの子にもちょっと頼りにくいし……」

「うん。だからさ、私を頼ってみない?」

「……どういうことですか?」

「明堂さんってさ、絵とか好き?」

 

 

 翌日の昼休み。

「で、美術部に勧誘したのか」

「うん。絵は描かなくても居場所があるって言うのは大事だと思うから」

 なるほどなと言うと、平等橋はふうっと浅く息を吐いた。こいつもあれでかなり思いつめていたのかもしれない。

 美術部へ明堂さんを連れて行くと、美術部一同はいたく歓迎した。一年生が一人もおらず、来年の勧誘次第で廃部の危機があったからだ。部長になった餅田は特に俺に礼を言ってきた。同じ一年がいないというのは若干気まずいと思うが、今の明堂さんの立場を思うと逆に良かったような気もする。それに美術部はいわば一時療法だ。逃げ場があるって言うだけで人は随分楽になるが、逃げてばかりじゃ精神的にもつらくなる。いつか自分で解決しないといけない問題もある。

「その時は私も力になってあげたいな」

「なんだ、随分仲良くなったんだな」

「うん。向こうが先輩って懐いてくれたんだ。可愛いんだぜほら」

「はー、お前も写真とか残すようになったんだな」

「しみじみ言うなよ。お前は私の親か」

 スマホをスカートのポケットに戻すと、「いつまでここで待つんだろう」と呟いた。

「俺が聞きてえよ。てかなんで昼休みにこんなとこで待たされなきゃいけねえわけ?」

「……さあ?」

 平等橋の言い分はもっともだ。私はここで誤魔化すことしかできない。

 私は平等橋を連れて放送室の前までやってきていた。放送室を指定したのは舞衣だ。放送部の知り合いがおり、昼休みの間融通してくれるとの話だ。放送室はその構造上防音となっており、万が一話が外に漏れる必要もないし、密室という事で平等橋も逃げ出しにくいとのことだ。私一人ならなかなかこういう場のセッティングが出来なかったので、多少恥ずかしいが舞衣には感謝している。

「準備できたよー」

 舞衣が放送室から出てきた。隣には眼鏡をかけた女子もいる。彼女が舞衣の知り合いの放送部員だろう。話したことはないが、同じ二年であることは分かる。

「じゃあ後は頑張ってね、マロちん」

 舞衣は親指を立てて去っていった。なぜか放送部の子も同じようにグッドラックを送ってくれた。

「なんなんだ?」

「いいから。こっち来てくれ」

 不審がる平等橋を私は無理やり放送室に押し込んだ。

 放送室は初めて入ったが、案外広いんだなというのが印象に残った。もちろん機材がぎっしり詰まっていて狭いのだが、もっと人一人しか入れないとかそういう狭さを想定していたが、四人くらいが駄弁っても十分な広さがあった。

「あー、あのさ、平等橋」

 昼休みは限られている。私は早速本題をぶつけることにした。悠長に自分のタイミングで、なんて待っていたら昼休みが終わってしまう。先制攻撃だいけ。

「そろそろ皆にカミングアウトしてほしいなって、思って」

「えっと、何?」

 後半恥ずかしくてしりすぼみになった。鈍感男はやはり気が付かないらしい。

「いや、だから、その、私たちが付き合ってる、的な」

「なんだよ。俺らが何?」

「お前わざとか? わざと聞き逃してないか?」

「なんの話をしてんだ。つかなんでキレてんの?」

 このポンコツ男は本気で私が何を言おうとしているのか理解していない。私の事を無視して放送室の機材を見ながら「これすげえぜ公麿」と肩を叩いてくることからそれは明白だ。段々腹が立ってきた。

「平等橋。お前に聞きたいことがある」

「お、おうなんだ改まって」

 腹から声を出したこともあって、平等橋はびくりと居直った。

「私はお前にとってなんだ!」

「え、何だって……」

「答えろ!」

「え、え~……」

 平等橋は及び腰になって「なんで今更」とごにょごにょ言い出した。付き合い始めたときも薄々感じていたが、こいつはこの手の言葉を口にするのを極端に嫌がる節がある。別に私も普段はそこまで気にしないが、一度くらいしっかりと言葉に残してほしいと思うのは当然の感情のはずだ。

「さあ!」

「お、お前こそ俺との関係はなんだ!」

 この野郎この期に及んで言い返してきやがった。頭にきた。

「恋人だ! お前はどう考えてやがんだこんちきしょう!」

「いや、俺も……」

 ここで平等橋急にバランスを崩し、廊下へごろんと転がり落ちた。背にしていた扉のノブを気付かないうちに背中で押していたみたいだ。私に詰め寄られて精神的にも逃げていたって言いたいのかこいつは。

 言い足りないとばかりに追いかけて廊下に出て、固まった。

「あ、え……?」

「……」

 固まっているのは俺だけでなく平等橋もだ。こいつの場合転がった姿勢のままなのでかなり不格好だ。

 何故なら、放送室の前には信じられないくらいの人だかりができていたからだ。見ると前に詰めかけているのは殆どがクラスの連中。

「な、何か用?」

 俺は手始めに近くにいる裕子に尋ねた。彼女は無表情から一気ににやりと笑い、私の後ろを指さした。後ろ? 機材があるだけだ。

「やっほー!」

『やっほー!』

 裕子が大きく叫ぶと、廊下のいたるところから裕子の声が反響した。冷汗が止まらない。

「まさかだけど、聞いてた……?」

 私が問うと、クラスの奴らは黙ってサムズアップ。

 平等橋はぱくぱくと金魚のように口を上下に動かす機械と化している。

「まあああああいいいいいいいいいいい!!!」

 私の絶叫はしっかりと後ろの機材が拾い、全校生徒に聞かれることとなった。

 

 

 どすどすと足音が立つなら、間違いなく今の私の足からはその音が鳴っている。

「だから謝ってるじゃんマロちん~」

「許さない。絶対にだ!」

 隣でペコペコ頭を下げる舞衣を無視しながら私はつーんとそっぽを向いた。

 舞依が考えていたのは、単に私が平等橋と話す場をセッティングすることではなく、その会話を全校生徒に聞かせることだったみたいだった。こうすることで否が応でも私と平等橋が付き合っていることが周囲に知れ渡る。だが大胆すぎる。

「学校中に流すなんて何考えてるんだよバカ! お陰で職員室行けば先生に生暖かい目で見られたんだぞ!」

「反省文書いたのは私だから多めに見てよ~。それに問題は起きなかったでしょ」

「問題って言うか、皆の私を見る目がちょっと優しくなったっていうか」

「まあバッシーのアレはひどいものだったからねえ」

 昼休み以降平等橋は私以上に質問の嵐にあっていた。私との事実関係ももちろんだが、それ以上になぜあそこまでヘタレていたかという糾弾が半数を占めていた。

「それにしっかりバッシーからの返事は貰ったんでしょ?」

「言わされてるみたいなもんだよあれじゃ」

 つるし上げを食らうように、平等橋はクラスメイトに囲まれた状態で「俺はこいつと付き合っています」と宣言していた。その時の平等橋は頭から湯気が出そうなほど真っ赤になっていた。

「まー言うて黙ってたけどさ、正直二年は二人が付き合ってることくらい皆知ってるからね。平等橋が認めるかどうかってだけで」

「なんで知ってんだよなんで」

 私が力なく突っ込むと「常識だよ常識」とけらけら笑った。常識ってなんだろう。

「あ、バッシーだ」

 舞衣が指さした下足には平等橋が柱にもたれ掛かってぼーっとしていた。

「じゃあ私はこれで」

「あ、舞衣ちょっと」

 私の返事を聞かずに舞依はそそくさと来た道を引き返していった。今日部活ないって言っていたのに。おせっかいな。

「よう公麿」

「今日部活は?」

「さぼった。ちょっと話したい事あったからな」

 いつになく真面目な様子で平等橋は俺を見た。

「あのな、俺は、本気でお前の事」

「いいよ。無理して言わなくて」

「いや、違うんだ。だから俺は」

「分かってる。そういう意味で言ったんじゃない。今はまだ無理して言わなくていいよ」

 平等橋がこの手の言葉を口にしないのは、きっとしたくてもできないからだと思う。意識ではなく無意識的な部分で体が拒否するのだろう。それはきっと彼の母親の件が影響している。まだ平等橋の中で母親の件は完全に消化できているわけではないはずだ。女性を信頼すること、それは私と付き合うことでだんだん変わってきてはいると思う。でも深層心理の部分で傷はまだ癒えていない。

 相手を好きだと言葉にすることは、裏切られた反動が大きくなることを意味する。

 一度心に大きな傷を負った平等橋は、それがどうしてもできないのだろう。

「でもいつか言ってくれよな」

 私が笑うと、平等橋は眩しそうに眼を細め、応と言った。

 



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藤原咲弥 ①

ちょい鬱い展開があります。ご容赦を。この話は多分四話か五話くらいで終わります。


 朝目覚めると女になっていた。

「……え?」

 体を起こした時手首を捻った。自分の手首はここまで細かっただろうかと疑問を抱きながらなんとか上体を起こす。そこで無性に上半身が苦しく感じられた。

 息ができないことはないが、胸の上で何かを強く押し付けられている苦しみ。

 堪らず上のパジャマのボタンを緩めて驚愕させられた。

「……嘘だろ」

 首から二つボタンを外すと、弾けるようにそれが姿を現した。

 先端は自分が風呂場でよく見る。だがここまで膨れ上がった状態を果たして見たことがあっただろうか。

 俺に何の知識がなければ、寝ている間に胸部に物凄い量の膿が溜まったのかと青ざめただろう。

「まさか、『花婿の呪い』……?」

 俺が別の意味で青ざめたのは、これが病気ではないことが分かっていたからだ。

 命に係わる病ではない。

 だが自分の身に絶対に起こってほしくないものだった。

咲弥(さくや)。朝ごはんできたよ」

「ま、待って姉さん!」

 まだ混乱は続いていたが、自分を起こしにやってきた姉に今の姿を見られるわけにはいかなかった。襖に手を掛けられたらすぐにバレてしまう。布団で上半身を隠し、緊張で滝のような汗が流れた。

「なあに、風邪でも引いたのサク?」

「そ、そういうわけじゃなくて」

「でも声変ね。あなたやっぱり風邪なんじゃ」

「あ、朝勃ちしてるから!」

 このままでは確実に部屋に入られる。それを防ぐために最大のカードを切った。

「……そう。分かったわ。早く来なさいね」

「う、うん」

 姉さんはそう言うと俺の部屋に入ることなく立ち去った。同時に俺の中の大切なものが一つ砕けた音がした。姉さんの声は凄く冷たく怖かった。

 一応の難は去った、が。

「……どうしよう、これ」

 ふにふにと自分の胸部を触り、俺は途方に暮れた。

 

 

 我が家は曰く平安時代から続く名家だそうだ。

 室町、江戸、明治、昭和と手を変え形を変え、表舞台に立つことはなくもその名を代々語り継がせることを迎えて千数百年。誠に信じがたいことだが、倉庫に残る家系図を見れば驚くほど遡れるのだからあながち嘘とも言い切れない。

 今ではすっかり凋落の影が見える我が家だが、数代前までは優れた商売人の家として名を馳せていた。むろん今も事業自体は続いているが、この不景気の波に押され事業の維持が手一杯と言ったところだ。

 そんな古くから続くことだけが取り柄の我が家だが、実はこの家にとても胡散臭い伝承が残されている。

『花婿の呪い』

 そのような名で語り継がれる曰あり気なそれは何かというと、一言で言うならば男から女に性転換するという呪いだ。

 この呪いと我が家には実に密接に関わったとある話があるのだが、今は割愛する。

 とにかく、そんな呪いがあるという事自体は俺も幼い頃より父親に教えられてきた。

 男から女に変わるなんて奇天烈なこと到底信じられるものでもない。話半分でいつも聞いていたが、生まれてからこの方ことある毎に語って来るのですっかり耳にタコが出来てしまった。

 呪いと銘打っているだけあって、この家では『花婿の呪い』は忌避されている。

 男から女に変わること自体はこの現代においても多少ショッキングなことではあるが受け入れることはできることだと思う。

 問題は別にあるという事だ。

 我が家で生まれて来る男が女へと性転換した場合、家の存続に関わるほど経済基盤がガタガタになってしまうらしいのだ。

 記録に残っている中で近いものだと、百年前に一度。五十年前に一度。三十年前に一度起こっているが、何れもお家存続の危機に陥ったらしい。この場合の存続とは跡継ぎではなく破産という意味だ。

 呪いによって生まれた子供は言わば貧乏神のような存在となってしまうのだろう。

 それ故に我が家では呪いに掛った子どもは即刻処分の対象となってきた。それこそはるか昔は処刑といったことも平気で行われていたみたいだが、近年の記録を見ると家を追い出されるくらいで済んでいるらしい。家を追い出される事を「くらい」と表現しても良いのかどうかは微妙なところだが。

 どちらにせよ、呪いに掛るとこの家で生きていくことは限りなく難しくなる。

「うぅ、ってててて」

 何度目になるか分からない腹痛で、俺は電柱に手を当て立ち止まった。さっきから緊張で腹痛が止まらない。

 今朝は朝食を食べずに、家から逃げるように登校した。服の上からでも胸が膨らんでいることがはっきりわかったからだ。家の人間に見られたらまず呪いを連想させる。

 学校に着いたらすぐ体調が悪いと保健室へ逃げ込み(実際今朝の俺は精神的な疲労も含めてかなり体調が悪く見えていたため疑われなかった)、誰に見られることもなく昼前に早退して帰って来ていた。

 その道中何度も立ち止まり考えてしまうのだ。

 呪いの事がばれたらどうしよう、と。

 念のためこの胸が物凄い量の膿が溜まったか、高熱のせいで腫れあがっただけかという一縷の希望を掛けてみたが、股間を確認した時そんな都合のいい話はないと絶望させられた。

 父さんはどう思うだろう。母さんは、姉さんは。

 この家で呪いの事を肯定的に捉えている人間はいない。

 直接血のつながっている家族以外にも、親戚一同が入れ替えたちかえ我が家には暮らしている。一般的な家庭とは違うかもしれないが、俺は親戚が常に十人単位で側にいる生活をずっと送ってきた。それらすべてが俺を嫌な目で見てきたとしたらどうしよう。

 想像しただけで足がすくむ。吐き気が込み上げてくる。

 元来心配性であるという自覚はある。実際は女になってしまったと言っても、ただ心配されておしまいという事も十分あり得る。なにせもう三十年近くも呪いは起こっていなかったのだ。その間日本の情勢は大きく変わった。高度経済成長を超え、先進国の仲間入りを果たした現在の日本のもとで、平安時代から続く呪いのせいで家が傾く、なんていうわけもないだろう。

 

 そんな楽観、通用すると一度でも思った自分が馬鹿だった。

 

「咲弥。お前女になったな」

「……」

 三十人近くの観衆が取り囲む中、俺は父さんと対面して座っていた。

 学校から帰ると、家には見たこともないような量の車が家の庭に何十台と止まっていた。俺が帰ったと分かるや否や、お手伝いさんが「坊ちゃんがお戻りになられました!」と大声で叫び、俺を連れて家の奥の大広間へと通された。普段親戚一同が会する時以外ほとんど使ったことのない部屋だ。それだけでこれはもうただ事ではないことが分かった。

 部屋にはスーツを着た大人たちが何十人とおり、俺が部屋に入った瞬間視線が一気に集まった。

 その中に誰一人好意的な色は含まれていなかった。

 考えてみて欲しい。

 自分の父親程年の離れた男たちに訝し気な目で見つめられる状況を。

 部屋に入っただけで吐き気が込み上げてきたが、何とかそれは耐えた。

 中央には父さんがいた。

 普段着ないような背広に身を固め、険しい顔で俺を見ている。その横には顔を伏せた母さんと、姉さんがいた。

 俺が女になった事はとっくにばれているようだった。

 

「答えろ咲弥」

 父さんの声に親としての甘さは一切感じられなかった。

 犯罪者を取り締まる声と表現すれば的確かもしれない。

 顔を上げて見れば、怒りで真っ赤に充血した父親がそこにいた。

 がちがちと耳の奥で固いものが打ち付ける音が聞こえる。自分の奥歯の音だと気づくのに時間がかかった。

 だんだん周囲が騒がしくなった。

『聞いたか。本家からついに出たぞ』

『最近事業が安定しないと思っていたんだ』

『この家はもう駄目だ。咲弥さえ生れてこなければ』

 今まで優しかった親戚が自分の事を外敵のように見てくる恐怖。

「黙れ貴様ら!」

 騒がしくなった周囲を一喝する父親に、俺は一瞬の希望を見た。

「こいつさえいなくなれば会社は元に戻る。そういう事であろうが!」

 言葉を失った。

 父親は俺の事をかばったのではなかった。

 自分の、家の保身の為周囲を黙らせたに過ぎなかった。そしてそれは、俺をこの家から追い出すという方向ですでに結論付けているように聞こえた。

「答えろ咲弥! いつだ! いつからお前は女になっていた!」

「ぃ、い……っ」

「はっきり答えんか貴様!」

 立ち上がり、俺の胸倉を掴む父親。

 俺は目から涙が溢れ、喉からしゃくり上げる様に嗚咽がこぼれた。

「やめて父さん!」

「離さんか! こいつが! こいつがいたから!」

 堪らず姉さんが父親を止めようと体に屈みつくが、俺を蹴る足までは止まらなかった。

「やめて、やめて!」

「こいつが、こいつが!」

「……なさい! ごめんさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

 蹴られながら何度も俺は謝罪した。

 顔を蹴られ、背を蹴られ、腕を蹴られ、腹を蹴られ。

 今まで父親だと思っていた人物に怒りのままに蹴られ続けた。

 

 

 体の痛みと共に目が覚めた。

「……っ」

 息を吸い込もうとすると胸が痛み、息を吐こうと口を開くと唇が切れた。

 体は痛みでピクリとも動かない。

 それよりもここはどこだ。

 見慣れない布団からなんとか起き上がり、部屋を出る。キッチンと風呂とトイレが短い廊下を挟んであった。

 どこかのアパートに俺はいるようだった。

「……?」

 冷蔵庫に封筒が貼りつけてあった。

 中を開くと、二枚の便せんがあった。

 初めは何が書かれているのかとただ気になって読んでいたが、進めていくにつれ目の前が真っ暗になっていった。

「は、はは」

 そこにはこう記されていた。

『お前はもううちの子供ではない』

「はははは、は!!」

『うちの子供であるという戸籍を抹消した。このアパートはせめてもの慈悲であり、それ以外の生活費はすべて自分で賄え』

「はははははははははは!!」

 

『二度と家に帰って来るな』

 

 手紙をびりびりに破き。俺は乾いた笑いが止まらなかった。

 世界中の時間が止まった感覚があった。

 ふと、風呂場にある鏡に自分が写った。

 男の時よりもずっと小さく見える頭。大きな目。喉仏の消えた細い首。一回り体は小さくなっていた。

 衝動的にそいつを殴りつけた。

「死ね! 死ね! 死ね!」

 幾度も殴りつけ、放射状に罅が入り、鏡面が真っ赤に染まっても殴り続けた。

「……っぐ、あ゛っ、ぐ……あ、あぁあ゛あ゛あ゛ぁぁあ……!」

 

 涙と悔しさと、痛みと悲しさ。色々な感情がない交ぜになって何も見えなくなったこの日を、俺は生涯忘れない。

 

 



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藤原咲弥 ②

「キミ名前なんて言うの? 可愛いね」

「……」

「ねえねえ。無視しないでよ」

 うっぜえ。

 横目で相手を確認すれば頭の悪そうフリーター風の男が二人。無遠慮に俺の横に腰かけ肩を抱こうとしてきていた。

「消えろ」

「うわ。めっちゃ可愛い声してる。しかも近くで見たらマジ可愛い。やっべ、おいこれ見ろって」

「マジじゃん。キミ今暇でしょ? 俺ら実は向かいのマックで一時間前から君がここいるの見てたんだよね」

 慣れているのか俺の一言に動じる気配はない。

 しかもストーカー気質まであるときた。これだから社会の底辺は嫌になる。

 いや、自分も今はこいつらと大して変わらないのか。

 煙草を深く肺に染み込ませ、相手に向かって煙を吐きつけた。

「え、ッホ、ゲッホ、いきなり何すんの!」

「暇じゃないんだ。どこかへ行ってくれ」

「んのボケ調子乗んなよ!」

 そのうちの一人が激怒した。今にも殴りにかかってきそうなほど興奮し始める。

「やめときなって君。こいつ昔ボクシングやってたんだから」

「なんだそのどこかで聞いたような設定」

 相手が動く前に、俺は自称ボクサーの顔に煙草を押し付けた。

「っづうう!!」

「おいお前!」

 すかさずポケットからカッターナイフを取り出すと、一歩前に詰めてきたもう一人が立ち止まる。

 その隙を逃さない。

 そいつの首をひっつかみ、ナイフの刃を眼球寸前まで持っていく。

「……あ、あ……」

「どこかへ行けって言ってるんだ。言葉分かるよな?」

 口を金魚のように開閉するだけで返事がない男に苛立ち、カッターを一つカチリと進める。

「ぎゃあああ! すいません! もう行きます、許して!!」

 手を離すと二人は逃げるように雑踏へ消えていった。

『ねえねえ、今の見た?』

『カッター出してなかったか?』

 やばい。騒ぎになりかけている。

 俺は周りの人を押しのけて逃げ出した。

 行く先は特になかった。

 

 

 家を追い出されてから、俺はしばらく何もする気が起きなかった。

 ショックが大きすぎて無気力になっていた。

 幸い手元に当面の生活費として結構な額の現金が残されていたので何もしなくても生きていけた。

「うぷ、なん、だこれ。腹が痛ぇ」

 急に腹痛が起こり、トイレに行くと便器が真っ赤に染まった。

 初めての生理だった。

 生活自体に問題はなかったが、女として体が作り変えられていく感覚が俺を苦しめた。

 現金だって無限じゃなかった。どんなに金があると言っても限りはあった。

 毎日出来合いの物を買っていたらすぐに尽きる。

 外に出たくないという気持ちは強くても生きるためには金がいる。引きこもって一月もせず、俺はバイトをすることに決めた。

 高校はもう退学届けを出されてしまっているし、一応親が転入を決めた高校もあるにはあったが、女子の制服が部屋に掛っていたのを見てすぐに捨ててしまった。籍はあるが俺は一度も高校に通っていない。

 初めは昼間に働けるバイトがいいと思い、定食屋で働いた。だが店長がべたべたと体を触って来ることに耐えかねてすぐにやめてしまった。

 次はファストフード店で働こうとしたが、面接の段階で店長が俺の胸を凝視していたので行く気が失せた。

 昼間のバイトだから駄目なのかと思い夜に稼げるバイトを探したが、この年で働ける時間は限られていた。黙って年齢を誤魔化して居酒屋で働いていたが、酔っぱらった客や店長にセクハラを多数受けて辞めてしまった。

 この体になってからずっと、俺は男性から性的視線を受け続けていた。

 俺の意識は未だ男のままで、それは耐えがたい事だった。

 自分の体をしっかりと見たことは、今でもない。

 初日にアパートの鏡を割ってから、自宅に自分の顔を確認するものは一切ないからだ。

 しいて言うならば風呂に入る時自分の胸や尻の形を手で触って分かるくらいだ。尻は分からないが胸が一般より随分大きいことはなんとなくわかっている。

 男が俺の体をどういう風に見えているのか大体予想はついている。

 男が俺の体を見て興奮するのは、まあ勝手だ。それに関しちゃ俺はどうでもいいと思っている。街に出て暗闇に連れ込まれでもしない限り俺がとやかくいうことはその点ではない。

 嫌でも思い出してしまうのだ。

 この体になったことで、家から追い出されたあの日の事を。

 女にならなければ、俺は今でもあの家で暮らしていけた。

 優しい両親。小うるさい姉。親切な親戚。

 全部まやかしとなった。

 涙はもう出ない。怒りもない。あるのは漠然とした虚しさ。

 何度も死を考えた。

 実際首を括るための荒縄もホームセンターで購入した。これから死ぬのだと、頭の中で何度もその姿を想像した。アパートのクローゼットの部分を使って縄を掛けたが、先にクローゼットの支えが壊れた。

 死ぬ手段はきっと他にもあった。

 部屋を閉め切って練炭を焚き、一酸化中毒で死ぬ方法。

 電車に身を投げる、国道を走るトラックにぶつかる。

 包丁で自分の心臓を突き刺すだけで簡単に死ねた。

 だが一度死ぬことを失敗すると、もう一度自分の命を投げる行為がどうしても恐ろしく、どれも実行に移せなかった。

 死ぬことすら臆病な俺にはできなかった。

 何のために生きているのかは分からない。

 ただ飯を食い、睡眠をとり、その日生きるための金を稼ぐ。そのサイクルをただ無為に続ける俺は一体何者なんだろう。

 誤魔化すように酒を飲んだ。煙草もやった。

 そんなもので何も埋まらなかった。

 虚しさは募り、やがて用もないのに深夜に街を徘徊するようになった。今日のように妙な輩に声を掛けられることも一度や二度じゃない。

 

 自分が何のために生き、そして存在しているのか、俺には分からなかった。

 

「……新しいバイト」

 家の帰りにいつも立ち寄るコンビニ。その外にバイト募集のポスターが貼ってあった。昨日までなかったものだ。

 深夜で時給1200円。

 深夜バイトならありかもしれないな。と、新しいバイトを探さなければならなかったこともついでに思い出した。

 時給はいい。それに深夜なら客もほとんど来ないだろうし、人と接することも少ない。自分にとっていい条件しかないように見えた。

 

 

「ええ、今日から入る、えと名前なんだっけ?」

「藤原です。藤原咲弥」

「そう、藤原さんね」

 面接は一発で通った。今まで面接でバイトを落とされたことがなかったので落ちることなんて考えちゃいなかった。仮に落ちても違うところ行けばいいだけだ。世の中正規雇用は少ないが派遣やバイトの数はどこだって足りてない。その日暮らしの俺みたいなやつを食いつぶすことしか考えてないのが世の中だ。

 早ければ早いほどいいと俺が言うと、店長を名乗る小太りの中年は早速面接の翌日にシフトを入れてきた。

 初出勤で制服を渡され、バックヤードでもう一人の同僚を紹介された。

「へえ、新人さん」

 でっけえ。

 それが第一印象だった。

 立ち上がった熊みたいに全身がっしりしたでかい男がそこにはいた。

「綾峰くんは二年やってるベテランさんだからね。分からないことがあれば何でも彼に聞けばいいよ。ちょうど歳も同い年だしね」

「あ、同い年なの。じゃあ今年22?」

「ええ、まあ」

 面接の時についた嘘がここで来るとは思わなかった。本来の年齢で17歳と言えば深夜の時間帯は無理だ。それに女となればもっと不可能だろう。

 だから22歳のフリーターという事にしたのだが、まさか同じ年の人間がいるとは思わなかった。

 思わず引きつった笑みを浮かべると、熊男は爆笑し始めた。

「わははははは、女性に年齢の事いっちゃ訴えられますぜ店長!」

「え、嘘。これもダメなの?」

 ダメでしょそういうのも。下らないことで大笑いする男二人。ここもすぐ辞めそうだなと、その時俺は思った。

 

 

 綾峰大吉と名乗る熊男と俺はシフトが重なることが多かった。

 というか、こいつは土日を含め殆ど毎日のようにシフトに入っていた。

「藤原は好きな食い物とかあるのか?」

「別に」

 深夜のコンビニは想像した通り暇な時間が多かった。

 品出しや掃除、在庫確認などの雑務はもちろんある。けれど絶対的に客がやってこないので必然暇な時間も生まれて来る。そんな時決まって綾峰の雑談が飛んできた。

「俺はおでんが好きだな。この時期はそろそろおでんが上手くなってくる。寒い道中にほっと息の着くあのあつあつの大根がなんとも臓腑に心地よい感動を与えてなあ」

「綾峰さん。お喋りもいいですけど掃除とかしないでいいんですか?」

「そこはついさっきやったばっかだから大丈夫だ」

「……」

 綾峰はお喋りな癖に仕事が異常に早かった。効率的と言い換えてもいいかもしれない。

 棚卸と掃除を並行して行っていたり、何をどの順番ですれば早く終わるかルーティンではなくその日の荷物や用事によって変えていたりしていた。悔しいが、綾峰と一緒に入る時が一番仕事的に楽だった。本人は単に仕事が慣れただけだと言っていたがそれだけでは説明がつかないほどこの男の仕事は正確で速かった。

「藤原は平日普段何をしてるんだ? 確かフリーターだったろ」

「なんですかそれ。馬鹿にしてるんですか?」

 自分が大学に行っているから、行ってない人間が何をしているのか気になっているのか。趣味が悪い。

「そういうわけじゃない。答えたくないならそれでいいさ。ちなみに俺は大学に通っている。バイトがない日は朝から晩まで図書館の籠ってることが多い」

「それ、自分が真面目だってこと言って欲しいんですか?」

「根暗でもいいぞ。あまり趣味が多い方じゃないからな俺は。普段授業で寝てばかりだからテストの為に勉強をせねばならんのだよ」

 綾峰は俺の嫌味に決して応じることはなかった。無視されているのではなく、嫌味を嫌味と受け取っていないように感じた。この男と話していると自分の調子が狂うのを感じる。

「バイト減らしたら授業中寝ることもなくなるんじゃないですか」

 俺も大学に行きたかったかと聞かれれば分からない。それほど進路について考えていたわけではないから。でも目の前で大学で授業中寝てばかりいるなんて言うやつがいたら少し思うところがあるくらいに考えてしまう。

 綾峰は「確かにそうだな」とまたワハハと笑う。この余裕のある態度が俺をイラつかせた。

「けどお前もここ最近ずっとシフト入ってるだろ。かなりしんどいんじゃないのか?」

「別に。これしかやってないし」

 昼前に寝て、夜に目覚める。最近はその繰り返しだ。いったん大学を挟んでいる綾峰は信じられないなと思う。大学がどんなところかいまいちわからないけど。

「それでもだよ。まだ入ってそれほど日も経ってないんだ。きつかったら遠慮なく言えよ」

 綾峰はそういうと「確認作業してくるからなんかあったら呼んでくれ」と奥へ引っ込んだ。

「……うす」

 俺の返事を聞きのっしのっしと消えていく熊男。その後ろ姿を見送りながら、俺は複雑な気持ちだった。

 初めこそ俺はあの熊男のことを信じられないくらい鬱陶しい奴だと思っていた。

 声はでかいし馴れ馴れしい。

 バイトをし始めて嫌というほど出会ってきた下衆達と同じ対応を取ってきたからだ。

 こんなやつがいるところさっさと辞めるだろうな。そう自分で思っていたのに、気が付けば二か月が経とうとしている。研修期間もあとひと月で明けるところまできた。

 素直に認めるのは癪だが、それはあの熊男のおかげと言ってもよかった。

 楽だ楽だと思っていた深夜のコンビニ。実際作業自体はきつくないが、時間帯と慣れない職場という事もあり精神的にはかなりきつかった。

 そんな折、熊男は「仕事きつくないか?」だのと言いながら時間外であっても多めに休憩を取らせて来る。棚卸で失敗しても「良くあるよくある」とがははと笑うだけで大きく注意をされたこともない。これが俺の外見を見て言っているのだとしたら幻滅するだけだが、誰に対してもこの態度であると別の日に違う人と一緒になった時に教えてもらった。

 シフトに入りすぎて店長よりも発言権が強いらしく、綾峰が前に立てば大抵の事は許される。

 それは店としてどうなんだと思わなくはないが、どこも似たようなモノだと言われたら俺も黙るしかない。

 口やかましさも、俺が本気で嫌がっている時は何も言わなかった。

 態度に出ているとは思わないが、空気を察することはできるみたいだった。

 それでも何度かうるさいと口が出そうになった時はある。だがそういう時に限ってぎりぎりのところで引くものだから、こちらとしては抜いた刀をどう振舞えばいいのか分からないことになる。

 煩いけど、仕事はできるし俺に対して無茶は言ってこない。

 うざいけど、俺を下卑た目で見てこない。

 綾峰という熊男は、俺が出会ったことのない初めてのタイプの男だった。

 



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藤原咲弥 ③

誤字報告してくださる方々、非常にありがたいです。個別に返事をする方法がわからないので、失礼ながらここでお礼申し上げさせていただきます。


 ぐしゃっとリースを握りつぶすと、綾峰は「なんだ、何かあったか?」と声を掛けてきた。何でもないと返す。

「なんでもないことはないだろう。あらら、せっかくの飾り付けがぺしゃんこだ。お前はクリスマスが嫌いなのか?」

「うるさい」

 12月に入るとクリスマス仕様の飾り付けが本部から送られてきた。コラボグッズだったり店の外に貼る系の物は夜に飾り付けることが多い。昼間じゃ客が多いからだ。

 俺たちは卓上ツリーや店外から見えるオーナメントを着ける作業していた。

「……クリスマス」

 思わず呟いた。

 去年までクリスマスと言えば楽しい日の象徴だった。昼間はクラスメイトとカラオケやボーリングに行き、遊び疲れて家に帰れば家族がいた。七面鳥は高いからとフライドチキンのバレルを買ってきて、今日だけは特別と父さんがワインを飲ませ酸っぱいと騒ぐ。姉さんが今年も彼氏がいなくて家族とサビシマスなんて嘆く横で母さんが笑っている。

 今年のクリスマスはあの暗いアパートで一人だ。

「クリスマスはいいな。街全体が明るくなるし、企業の商法だってわかっちゃいるんだが無性にプレゼントが買いたくなる。お前も彼氏と一緒に過ごしたりするんじゃないのか?」

「彼氏なんていない。黙れよ綾峰」

 熊男は「これは失礼」と全く悪びれない表情で頭を掻いた。

 この数か月で俺は熊男の事を綾峰と呼び捨てにすることになった。書類上俺は22歳なので、敬語はやめろと向こうから言ってきたのだ。本当の年齢が5つも違うのでかなり気後れしたが、ここで断って年齢を疑われることがあっては厄介だという気持ちが先立ち以降ずっとため口で通している。相手も敬語がぞわぞわすると言っているので良かったのだと思う。ただ敬語をやめると元来の俺の口の悪さが出てきてかなり辛辣になっているという自覚はあるのだが、熊男が気にした様子は一切ない。ここらで自分自身ストップ掛けないと他の人にも同じ調子で言ってしまいそうで怖い。

「そういえば24日も25日もシフト入ってたなお前。この日入ってくれるってんで店長が泣いて喜んでたぞ」

「暇なんだよ。そういうお前は両方とも休みだったな。珍しい」

 労働基準法に引っかかるからこれ以上は働かないで。そう店長に頭を下げられるほど普段バイトの鬼と化している綾峰が、この二日間は休みとなっていた。こんな熊でも彼女がいるのだろうか。俺が胡乱げな目で見ると「家族だよ」と俺の思考を先回りするように答えた。

「クリスマスは家族で過ごすって決めてるんだ。大の男がちょっと引くか?」

「別に」

 少なくとも、彼女と二人で過ごすという答えよりよっぽどマシに聞こえた。

 

 

 ピピピッという電子音がアパートの部屋に響いた。

 のっそりと脇の下から取り出すと、38.7℃の文字が写っていた。

「……マジかぁ」

 24日の夜。ぎりぎりまで寝ていたがついに体調が回復することはなかった。

 体温計を見るために掲げた腕をぽすんと布団の落とす。体中が熱く、だるい。頭がガンガン痛む。

 前日から少し喉がいがいがすると思っていたが、まさか風邪の予兆だったとは。

 情けないが今日のバイトは休むしかないだろう。

 のそのそと立ち上がり、炬燵の上に置いたスマートフォンを掴む。立つだけで足元がおぼつかない。

『あ、もしもし。藤原さん?』

「すいまぜん、風邪引いて熱出したようで」

『あー、今日休みか。おっけ了解了解。大丈夫、リョウタが昨日彼女に振られたって泣きついてきたからあいつが代わりに入るよ多分! 大事取って一応明日も休みかな? また連絡して! 安静にしといてね!」

 一瞬で電話が切れた。初めてこのバイトを休んだがあっさりしたものだ。店長はバイトの人たちと個人的に仲が良く、休日も一緒に遊ぶこともあるらしい。リョウタというのもたまにシフトが重なる30代のフリーターの事で個人的にあまり仲は良くないがうちの古株の一人だ。この前まで彼女と何周年記念かの指輪を見せつけてうざかったが、そうか別れたか。

 布団へ戻り、目を瞑ると一気に眠気が襲ってきた。

 

『サクー、この肉マジ柔らかいわ』

 姉さん?

 頭の後ろで姉さんの楽しそうな声が聞こえてきた。

 俺も食べたいと声を出そうとするが不思議と音が出ない。

『咲弥、お前ももう来年は高校卒業だ。そろそろ酒の味を覚えておきなさい』

 酔った父さんがワイングラスを片手に手招きをする。それを母さんが『やめてくださいよみっともない』と窘めるが本気で怒っているわけでもない。

 今行く。そう言ったつもりが言葉がやはり出ない。

『置いていくわよ咲弥』

『先に行っているからな』

『追いついていらっしゃい』

 三人はそれぞれ笑いながら歩いていく。

 待って!

 追いつこうと必死で走るけれど、まるで足踏みをするように一向に追いつかない。

 段々話声も遠くなり、距離がどんどん離れていく。

 行かないで。一人にしないで。

 

 目が覚めた。

 いつの間にか両手は宙をさまよっている。寝ぼけていたにしては嫌な目覚めだ。

 あれから何時間経ったのだろうと時計を見ると、ほんの数時間しか進んでいない事に驚かされた。

 頭痛は引き、心なしか体も軽い。汗を沢山かいたからだろう。

 起き上がるのは億劫だが喉はからからだ。

 立ち上がって冷蔵庫を覗く。残念なことに飲み物の類が一切入っていなかった。

 仕方なく水道を捻って喉を潤す。鉄分の多い味がした。これは明日腹を下すこと間違いなしだ。

 

 体調は幾分回復したが気分は最悪だ。

 炬燵に入り、スイッチを入れる。もう一度眠る気は起きない。

 何もこんな日に家族の夢を見ることはないだろう。

 風邪を引いて孤独な夜は特別胸に刺さる。こんな気分になりたくないからわざわざバイトを入れたというのに。

 木製の机に頬を付ければひんやりと心地がいい。

 食欲はないけれど何か食べたほうがいいかな。そうじゃないと明日の出勤に差し支える。でももう一度立ち上がるのは面倒だな。

 炬燵が温かくなり、うとうとしてきた。まずい、ここで寝たらまた風邪がぶり返す。気持ちいいんだけどさ。

 このまま意識を手放してしまおうかと諦めかけていると、ピンポーンと高い音が鳴った。

 びくりと体を震わせる。なんの音だ。

 一瞬頭の中で探ったが、すぐに部屋のインターホンだと思い出した。入居初めに新聞とNHKが来た以外にこの部屋のインターホンを聞いたことがなかったから忘れかけていた。

 それにしても誰だろう。

 この部屋に尋ねてくる知り合いはいないはずだがと訝しみながら鍵を開ける。

「よお。なんだ元気そうじゃないか」

「……は?」

 綾峰がいた。

 コートにマフラーという普段バイトじゃ見ない姿だが、この大男を見間違えることはない。

「なんで、ここが?」

「なんでって、それよりほら、これ食え。急に風邪なんて引いたら外出るのも大変だろ」

 綾峰はスーパーのビニール袋を俺に手渡してきた。持つとズシリと重みがある。一体どれだけ持って来てくれたのか。

 それじゃあ俺はここでと、帰ろうとする綾峰のコートの端を俺は咄嗟に掴んだ。

 え、なにという驚いた顔をする綾峰。俺が俺の行動に一番驚いていた。

「さ、寒いから! 早く入って!」

「はあ?」

 本当はどうして俺の家を知っていたのか訊こうと口を開いたつもりだった。でもそれにしたって風邪が治った後バイトで聞けばいい話だ。つまり、俺のこの行動を説明することは俺はできなかった。

 

 

 綾峰は俺の部屋に入ると、「お前男入れるんだから最低でも下着くらい片付けてろよ」とあきれ顔だった。そんな余裕なかったんだ。

 部屋干ししている洗濯物をクローゼットに押し込んでいる間に綾峰は台所に立って調理を始めた。

「何してんだ」

「まだ飯食った感じじゃないしな。できるまで寝とけ」

「……食欲ない」

「少しでも食っとけ。治るもんも治らんぞ」

 無理やり布団に押し込まれると、今度は掌で俺の額を触る。手が、大きい。

「熱いな。冷えピタ貼っとくか」

 持ってきたビニール袋から取り出し、それを貼った。ひんやりと清涼感に包まれ、寝苦しさが消えていく。

「あと小まめに水分補給だ。ポカリとアクエリ、どっちがいい?」

「……ぽかり」

 わかったというと、コップに注ぎ手渡した。寝ながらだと飲みにくいだろと折れ曲がるストローをそれに添えてきた。

 どうしてここまで。

「…………」

「うわ、なんだいきなり。何泣いてんだよお前!」

「うるさい。泣いてない」

 顔を見られないように、布団を被った。人恋しいと思っていた時に来るからだ。

 音が漏れないように必死で耐えた。それでも体は小刻みに震えていたはずだが、綾峰がそれを指摘してくることはなかった。

 

 

 暫くして綾峰は一人前用の土鍋を持ってやってきた。

「鍋焼きうどんだ。お前うどん嫌いじゃないよな?」

「作ってから言うなよ」

 炬燵を布団の方まで移動させて、俺は布団に入ったまま足だけ炬燵に入るという極楽のような状態でご飯を食べられる事に成った。

「う、しょうが入ってる」

「風邪には効くんだ。食っとけ」

 ネギと鶏肉が入ったうどんはとてもおいしかった。しょうがは苦手だったけど、汁まで全部飲むとぽかぽか体が温かくなった。

「常備薬とかあるのか?」

「ない」

「ならそのまま布団はいっとけ」

 ものの数十分で食べ終えると、綾峰はすぐに食器を洗いに行った。ちなみに土鍋は綾峰の家から持参してきたらしい。もう使ってないからやると言われた。

 食欲はないと思っていたが、体はエネルギーを求めていたらしい。無理なく食べきれたことに綾峰は「そんだけ食えりゃ風邪なんてすぐだ」と笑った。大食いだと言われたみたいでちょっと微妙な気分になった。作っておいてもらってあれだけどさ。

「話戻るけど、なんでうちに来たんだよ」

 洗い物をしている綾峰に話しかけると、奴は「店長からお前が風邪ひいたって連絡来たからな」と返って来る。違う。そうじゃなくてどうしてこの場所を知っていたのか聞きたいんだ。

 そう聞くと、「お前覚えてないのか?」と呆れたような声がやってきた。

「覚えてないって、何が?」

「お前がバイト入って一月くらいしたあと、お前の歓迎会やったろ店長と俺と三人で」

「歓迎会……?」

 全く記憶にない。そんなことあっただろうか。

「ほら、店長が店のビール全種類開けだした」

「あ、あー」

 思い出した。

「あれ歓迎会だったんだ」

「当たり前だろう」

 思い出せなかったのも無理はない。路上で缶ビールを飲んだというだけだからだ。

 バイトに慣れ始めたころ、太陽が昇るか上らないかという時に店長がやってきた。この日は俺と綾峰の二人の勤務で、店長がやってきたのは意外だった。

 何も言わずに店のアルコール飲料を多量にレジに持っていくと、一言。

『飲むぜ綾ちゃん』

 これで普段滅多に羽目を外さない綾峰が「よっしゃああ!」と叫び、嫌がる俺を掴んで店の外へ出た。ちょうどそのタイミングで早朝のシフトの人と交代した。

 スタッフの専用口付近で互いに好きな飲み物を持ち、乾杯をした。俺は未成年だから本当は何も飲みたくなかったのだけど、場の空気に逆らえきれずついつい飲んでしまった。その日の記憶はない。

「あの日お前が酔いつぶれて俺がここまで運んで来たんだろ。覚えてなかったか」

「そういえばそんなことがあったような、なかったような」

 記憶があやふやだ。そうだったか?

 まあいいけどさ、と綾峰はエプロンを畳み上着を羽織り始めた。

「え、なんで?」

「なんでって、そろそろ帰んだよ。もう結構いい時間だしな」

 時間を見ればもう日付は変わっていた。そういえば今日こいつは家族と過ごす予定だった筈だ。なのにどうしてこんなところまで来てくれたのかという気持ちが沸き上がる一方、どうしてここで帰るんだ薄情者という気持ちが膨れ上がった。

「か、帰らないで」

 布団から出て綾峰のコートを脱がそうとする。当然のように綾峰は困惑しながら抵抗した。

「どうした。お前いつもとキャラ違うぞ」

「う、いや、違う。さっきのはなし! 帰れ! さっさと帰れよ!」

 跳ねるように布団に戻ると頭から被った。顔に血液が集中していくのがわかる。

 やばいやばいやばい。

 何やってんだよ俺。熱に浮かされたって言っても限度があるだろ。

 一分経って、二分経って、ようやく音がしなくなった。

 帰った、のか。

 沈んだ気分のまま布団から顔を出すと、壁に背を預けながらスマホを弄る綾峰がまだいた。

「いるのかよ!」

「いるよ。なんだ居たらまずいのか?」

 うぅーと低く唸り声が漏れる。獣かよと笑うがこっちは恥ずかしくってそれどころじゃない。

「なあ、お前体の調子はちょっとはよくなったか?」

「……別に。普通」

 顔だけ出して憮然と答える。今日の俺はちょっとおかしい。

「ならさ、俺の家に泊りに来いよ。療養も兼ねてな」

 



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藤原咲弥 ④

まずい。本当に次で終わらせることが出来るのかこれ……?


 熱で気持ちが弱っていた自覚はある。

 部屋の中で一人だと思うと余計にみじめな気分になって、去年なら、とか思って泣きそうになっていたからだ。

 そんな中わざわざ訪ねてくる人がいたら、その人が優しくしてくれたら、つい帰りを止めてしまうのは人間としての性ではないだろうか。

 これはつまり生理現象だ。

 反対に、弱っていたところに付け込んできたという至極卑怯な手段にやられたと言い換えてもいい。

「だから俺は悪くない」

「なんか言ったか?」

「別に」

 綾峰の自転車の荷台から降りると、あいつは「こっちだよ」と先導した。

 実家から近いところでバイト先を選んだといつだったか綾峰は言っていた。俺のアパートからそう遠くない場所に彼の家はあった。それでもコンビニを挟んで反対方向にあったので、自転車で大体三十分ほど。綾峰の健脚でそれだから俺の足じゃもう少しかかるだろう。

 綾峰が連れてきた場所は昔からの日本家屋が並ぶ住宅街で、その一つが綾峰の家だった。

 裏手に自転車を止めると、ポケットから家の鍵をまさぐる綾峰。俺はその間に綾峰の家の庭とか、門の様子とかを何気なく見ていた。

「珍しいか? こういう家は」

「いや。うちも家がこんな感じだったから」

 うっかり零れた。

 思わず口を押えて綾峰を振り返るが、彼は「ふーん、そうか」と特に気にした様子もなかった。

 この姿になってから、他人に実家のことを話したことはない。

 ないとは思っているけれど、もし同じ地方出身の人がいたらすぐ俺が誰なのか分かるからだ。地元じゃ俺の家は有名だ。古くから続く家系だし、田舎という事もあってコミュニティが狭い。三つも県を跨いで俺を追いやったんだから、その辺りの心配は向こうの方が強いだろうが。

 もう一つは、意地だ。

 二度と帰って来るなと手紙にあったように、俺はもうあの家の人間じゃない。

 だから自分がもうあの場所を実家だと、たとえ言葉の上で相手に説明することすらそこにまだ未練があるように思えて嫌だった。

 

 

 玄関を潜ると微かに線香の匂いがした。実家でもしょっちゅう法事やなんやで家の匂いがこれに包まれていたので、俺は一瞬険しい顔をつくった。

「この匂いダメか?」

「……別に、そんなことないけど」

 綾峰はちょっと待ってろと言うと、俺を残して奥へ行ってしまった。

 体が怠かったので上がり框に腰を下ろし、壁に背を預けているとどこかから視線を感じた。

 主を探ってみると、すぐ近くにある階段のちょうど五段目くらいからひっそりと身を潜めている黒い影。

 猫にしては大きい。

「こんなとこで何してんだ桜」

「うぉおお兄ちゃん!?」

 ぬっと現れた綾峰に驚いたのか、そのまま足を踏み外してどどどどっと俺のすぐ近くまで転げ落ちてきた。

「何すんだ!」

「転んだのはお前だろ」

「お兄ちゃんが急に驚かすからだい!」

 元気よく立ち上がると、綾峰の襟元を締め上げた。女の子にしては背が高い。綾峰の妹だろうか。

 相手の対応にも慣れているようで、綾峰は「わかったから」と激高する相手にあくまで冷静だ。というか完全に呆れている様子が却って面白い。

「大体お兄ちゃんは!」

「おい、今はそれよりこいつ案内したいんだ。後にしてくれるか?」

「そうだ! それだよ。お兄ちゃんがいきなり人を連れて来るなんて珍しいと思ったら――」

 思い出したように俺の方に向き直る綾峰の妹(推定)。その目が俺を捉えたとき大きく見開かれた。

「え、女の人!? うそ、マジか! おばあちゃん!! お兄ちゃんが女連れ込んできたぁああああ!!」

「ええい黙れ度阿呆!!」

 本気で拳骨をくれる綾峰が珍しく、俺は終始目を丸くしていた。

 

 

「なんか現実じゃないみたい」

 布団のから顔をだしてぽつりと口に出せば、ますます実感がわかなくなった。

 包まった布団からは綾峰の匂いがした。あいつの家の布団なんだから、そりゃ匂いくらいするさ。分かっていてもどうにも落ち着かない。他人の家に泊まるなんて経験今までしたことがなかったからだ。

 

 綾峰が帰ってきた後、彼の隣でけたたましく騒ぎ立てる彼の妹(その後正式に妹であると紹介された)の桜ちゃんと客間に通された。そこに家主のおばあさんがいた。

「あら、いらっしゃい」

 部屋には布団が一組用意されており、明らかに急いで準備してくれたであろうことは想像がついた。

 俺たちが部屋に入ると、おばあさんは柔和そうに微笑み「ゆっくりしていってくださいね」と言った。

「俺たちのばあさんだ。ばあさん、こっちが連絡した」

「おばあちゃん。この人女の人だよ。しかも超美人。めっちゃもっさい恰好してるけどヤバいくらい美人だったよ!」

「お前はもう風呂入って寝ろバカ」

 桜ちゃんが俺を指さして嬉々として語ると、綾峰は鬱陶しそうに彼女を追いだした。

「桜さんが初対面の人に懐くなんて珍しいですね」

「あのバカ。相手は病人だってのに」

 綾峰は心底しょうがないなと言いたげにがしがし頭を掻いた。 

「ごめんなさいね騒がしくしてしまって。風邪を引いているのでしょう? 足元にあんかも仕込んでおきましたからもう今日はお休みなさい。明日、元気になったらまたお話しましょう」

 おばあさんに布団に押し込まれ、それからすぐ部屋の電気が消えた。

 おばあさんが言っていた『あんか』が何なのかよくわかっていなかったけど、布団の中に入ってすぐに分かった。足元を温める電気枕みたいなものだ。これのおかげで、冬場の布団でも入った瞬間冷っとすることがなかった。熱くなったらスイッチを切ったらいいらしい。

 慣れない人の家なのに、俺はすぐに瞼を落とした。

 

 

 尿意で目が覚めた。

 体をよじってスマホを着ければ、深夜1時。まだ眠りについて数時間もたっていない。体調を崩した日は眠りが浅くなるが、こう何度も頻繁に目が覚めてはそれだけで精神的に疲れるというものだ。

 尿意に逆らって布団にくるまっていても、だんだんそれが気になって眠れなくなるのは明らかだ。

 諦めて布団から出ると、意外なことにふらつかずに立てた。体がかなり回復していることにささやかな喜びを感じ、寝る前に綾峰から教わったトイレまで向かう。

 廊下に出るとひやっとした空気が背筋を撫でた。身震いしながらさっさとトイレを済まそうと向かっていると、どこかで人の話し声が聞こえた。

 こんな時間まで起きているのだろうかと、なんとなしに光の漏れる部屋の前まで来る。

 予想通り一人は綾峰だった。会話の内容までは聞こえないが、なにやらぼそぼそ話している。

『藤原さんと言いましたね。どうして彼女をうちまで連れてきたんですか?』

 襖に掛けた手が止まった。

 相手は綾峰だけではなかった。あのおばあさんも一緒だったのだ。

 カクテルパーティ効果というものがある。

 カクテルパーティのように、大勢の人々がいる会話の中でも自分の興味のある会話や、自分の名前などは自然と聞き取ることが出来ることをそのように言うらしいのだが、まさしく今の俺はそうだった。さっきまで中身が分からなかった綾峰の声が、はっきりと意味のある言葉として耳に届く。

『もしかして怒ってる?』

『まさか。でも相手は女性ですし、まして今までそんなこと一度もなかったでしょう。犬猫とは違うんですよ?』

『別に拾ったわけじゃない』

 とくとくと心臓が脈打つ。この会話を自分が聞いていいものか判断に困ったが、あいにく足が動いてくれない。

『バイトの同僚だと聞きましたが、本当にそれだけですか?』

『やけに食いつくな。ばあさん大概の事は寛容だと思っていたぞ?』

『はぐらかすのはお止めなさい。何度も言うように怒っているわけではないのです。ただ、どうしてあなたが夜中に突然抜け出し、そしてメールで一通一方的に友人を泊めるとだけ送ってきたと思ったらそれが女性。……私も少し混乱していますね』

『断っておくけどあいつと俺は本当にただの同僚だぞ?』

『だから混乱しているというのにこの馬鹿孫は……!?』

 呆れと怒りが半々に混じったおばあさんの声。綾峰は慣れているのか特に動じることもなくお茶を啜る音だけが部屋の中に響く。

『どういう人なのですか? 藤原さんは』

『さあ?』

『さあ、って。あなたさあって』

『いや俺もよく知らんからな。自分の事を話すのはあまり好きじゃないみたいだし。ただ色々と複雑な家の事情ってやつがありそうでさ。店長も久々に凄い新人が入ってきたって言ってたし』

 そこから綾峰はバイトでの俺の話を中心に語った。

 バイトに入ってきたその日から愛想がとても悪かったこと。

 仕事は真面目だが、人間関係を築く気がない事。

 男性客と女性客とでは対応があまりに違い、バイトの男性陣には特にあたりがきつい事。

 どうやら自分はあまり好かれていないこと。

 最後の一つは咄嗟に反応しそうになってしまった。「え、どうして」と襖をあけてしまいそうになった。

 だけど自分がどうしてそんな行動をとろうと考えてしまったのか自分でも分からなかった。俺が綾峰に取ってきた行動、言動、すべて考えて彼が俺に好かれていると感じるはずがないと思ったからだ。

『それで、わざわざそんな彼女の所まで看病に行ったのはどうしてですか? あなたまさか遂に好きな人ができたんですか』

『いや違う』

 俺の肩が跳ね、おばあさんの声が若干喜色ばんだ瞬間に短く否定。俺は微妙な顔のまま固まる。

『前にあいつの家に送っていった時さ、ちょっと部屋の中入ったんだよ。言い方はあれだけど、年頃の女性の部屋には見えなかった。家具らしい家具は机と布団くらいで、後はごみ袋と洗ってない洗濯物の山。だらしないやつなんだなってその時はそれだけしか思わなかった。でも違ったんだ』

 一拍置く。

『部屋中真っ暗でさ。電気がついてないんじゃない。じゃあなんでだってベランダまで駆けよったら驚いたよ。窓びっしりに黒い色画用紙が貼ってあったんだ。最初は意味が分からなくてさ。こいつなりのこだわりなのかと思った。だけど部屋からそれ以外に違和感があったんだ』

『なんだい?』

『鏡が一枚もなかったのさ』

「……」

 ぎりっと、気が付けば俺は奥歯をかみしめていた。これ以上聞きたくないのに。

『普通どの部屋にも鏡の一枚くらいあるだろ。女性だったら姿見とかあってもおかしくない。この家はそれどころか、洗面所にも鏡がなかったんだ。いや正確にはその跡はあったんだ』

 鏡が外された跡が、さ。

 重苦しい空気が襖越しにも伝わってきた。

 鏡を外したのはこっちにきてすぐの事だ。割れて危なかったというのもあるが、一番の理由はそこじゃない。自分の姿は見るのも苦痛だった。

『思えば出勤してくるときも妙だった。いつもスウェットの上下だし、おしゃれに興味がないんだと思ってた。けど多分そうじゃない。あいつは自分の体を見たくないんじゃないかって、あの家を見て思ったんだ。ベランダのドアに画用紙を貼るのは、きっと夜反射して自分の姿が映らないためだ。それを知っちまったらただ放っとくのはできなくなった。あいつはおそらく人に相談できない大きな悩みを抱えている。でも多分それは誰にも相談できないんだと思う。だから店長から連絡が回ってきたときは考える前に体が動いた。迷惑がられるかもしれねえけど、きっとあいつは風邪で碌なもん食ってねえだろうし、誰も頼らねえだろうし』

『そうかい。じゃあうちに連れてきたのは』

『あんな部屋にいたら治るもんも治らないと勝手に思ったからだよ。全部俺の独断さ』

 会話を聞いたのはそこまで。

 最後まで聞いていられなかった。

 俺は二人に気づかれないように部屋に戻ると、ふらふらと布団を被った。

 体が燃えるように熱かった。

 尿意はもうどこかへ行っていた。

 

 

 翌朝目覚めると、洗面所に綾峰がいた。

「よお、調子はどうだ」

「……別に」

 昨日の事が脳内にフラッシュバックし、俺は咄嗟に顔をそらした。

「そうか。よく寝れたか?」

 しゃこしゃこ歯を磨く綾峰。もう一度別にと答えると、なぜかがはははと笑い出した。何がおかしい。

「そんだけ素っ気ないってことはもう元気ってこった。どれ、熱計らせろ」

「ふ、普通に体温計でいいから!」

 ぬっと伸びてきた手を勢いよく叩く。綾峰は目を丸くすると、それもそうかとまた盛大に笑った。こいつはわざとか天然か判断ができない。

「あ、咲弥ちゃん起きたんだ!」

 俺たちの騒ぎに気付いたのか、昨日ぶりの桜ちゃんがやってきた。

「桜、お前名前呼びはいきなり無遠慮だろ」

「お兄ちゃんは黙ってて。ね、いいよね咲弥ちゃん?」

「え、あ、うん。いい、けど」

 きらきら光る純粋な目で見つめられれば断れない。大方名前は綾峰に聞いたのだろう。初対面の時そういえば名乗った覚えがある。

「じゃあご飯食べよう! 咲弥さんは病み上がりだから、皆と違っておかゆだけどね!」

 朝から元気いっぱいな綾峰の妹に手を引かれ、俺は居間へと連れていかれた。

 

 四人で食卓を囲んでいると、綾峰が「お前今日はどうするんだ?」と尋ねてきた。

「どうって、バイト?」

「ああ。熱は下がってたけど店長には大事を取れって言われたんだろ?」

 食べる前に計った時36℃8分まで熱は下がっていた。平熱よりはちょっと高いけど、殆ど回復したと言ってもいい。俺は今日はバイトに出るつもりだと伝えると、なぜか綾峰は困ったような顔をした。

「まだ微熱があるし、休んどけよ。ぶり返すぞ」

「でも元気だし」

「どうしてもバイトに出なきゃいけない理由でもあるの?」

 俺たちの会話に桜ちゃんが加わってきた。

「理由っていうか、生活かかってるし……」

「そうか……あんまり立ち入るのも良くないってわかってるんだが、そんなに生活厳しいのか?」

 この質問が昨日今日あっただけの奴ならその通りだと単純に返しただろう。だが綾峰とはそこそこ長い時間一緒にいるし、なにより昨日の会話を聞いてしまった。

 本当の所をいうと、金銭的な不安はほとんどない。

 アパート等、光熱費はすべて親が、というか藤原の家が支払っている。俺が稼がなきゃいけないのは俺自身の生活費で、それも贅沢をしなきゃ毎月三万ちょっとで十分満足な生活を送れる。つまり今の俺はオーバーワークをしていることになる。

 仕事がしたいってわけじゃない。あの家にいる時間が短ければ短いほどいいと思ってしまうからだ。一人でいるのは孤独だから。

「なんにせよ今日は休んどけよ。風邪は治りかけが一番気をつけなきゃならんし。ついでに泊ってけ」

「え」

 最後の一言に露骨に引っかかってしまった。

 綾峰はなんだと不思議そうな顔をする。いや、二日連続って聞いてないし、それに他の二人にも何も聞かずにそんな。

「いいじゃんそれ! 泊ってってよ咲弥ちゃん!」

「そうですね。いいんじゃないでしょうか」

 桜ちゃん、おばあさんが順に頷いていく。この家の人間はどうなっているんだ。

「い、いやでも悪いし……」

「誰も嫌がっちゃいない。それとも用事でもあるのか?」

「ないけどさぁ」

 俺がしどろもどろに応えると、何かに気づいた桜ちゃんが「咲弥ちゃん25日大丈夫なんだ!?」と声を上げた。時間差で驚くのはやめて欲しい。

「夕飯はお鍋なんです。人数が多い方が楽しいですし、ね」

 おばあさんがにこやかに笑いかけた。それを断れるほど俺は強情じゃなかった。

 

 

 年が明けて二月。久しぶりに綾峰とシフトが重なった。

「制服姿珍しい」

「たかが二週間ちょっとだろ」

 俺がぼそっと呟くと彼は耳ざとく拾う。そうなんだけどさ。

 綾峰は年が明けるとしばらくしてバイトを二週間休んだ。大学のテスト週間に入ったからだ。

 その間俺は特に変わらず勤務していたが、やはり隣にこの大男がいるのと安心感が違う。

「藤原ちゃんさー、大ちゃんとなんかあったの?」

「え、いや。別にそんなことないですけど」

「嘘だー。さっきちょっと嬉しそうな顔してたじゃん。綾峰がシフトに入ってるって知った瞬間さー。俺と二人の時はそんなのしないじゃんね?」

 バックヤードで荷物を整理していると、リョウタさんがじとっとした目で見てきた。以前クリスマスの日にバイトを変わってもらって以来、このフリーターは妙に俺に馴れ馴れしく接してくる。

「俺がなんかしました?」

 ぬっと綾峰が現れると、リョウタさんは「なんもないから、俺レジ戻るわ」と逃げるように出て行った。

「俺がいない間に良太さんと仲良くなったんだな」

「両目腐ってんの? そんなわけないじゃん」

 寧ろ最近はちょっと近寄りがたくなっている。あの人明らかに俺の事を意識してる。彼女と別れてまだ一月経っていないだろと声を大にして叫びたい。

「それよりさ、あの」

 言いにくそうに言葉を濁すと、綾峰はすぐに察してくれた。

「今日の朝飯は期待できるぞ」

「うそ、何?」

 クリスマスを越えて、大きな変化が二つあった。

 一つがこれ。

「出る前ばあちゃんが筑前煮大量に作ってたから多分家帰ったら食えるぜ」

「本当? ごぼうあるかな。俺好きなんだ」

「間違いなくそのあたりは入ってるよ」

 俺がよしと小さく拳を固めると、綾峰は「根菜でそこまで喜ぶのはお前くらいだな」と笑ってきた。

 あの日を境に、俺は定期的に綾峰の家へお邪魔するようになった。

 結局25日どころかその次の日も泊り、そろそろバイトに行かなきゃまずいってんでアパートに帰った。でもその日のシフトで綾峰と同じになり、飯有り余ってるから食いに来るか? と誘われたことをきっかけにバイト終わりの日は綾峰の家に寄って帰ることが日課になりつつあった。

 これにはおばあさんと桜ちゃんの影響が大きかった。

 桜ちゃんはどういうわけか俺の事を非常に気に入ってくれ、いつでも来てくれという姿勢を前面に出してくれた。

 そしておばあさんだ。

『いつでもあなたのお布団は用意しておきますからね』

 いつだったか忘れたけど、例の如く綾峰にくっついて家に帰るとおばあさんが出迎えてくれた。朝が早いおばあさんと、バイト終わりの俺たちの時間がちょうど重なる。俺たちの朝食の用意をしながらおばあさんが言ったのがこの言葉だった。

 朝ごはんをごちそうになるころから、俺は綾峰の家で少し寝てから家に戻り、また仮眠して出勤していた。でも堂々といつでも寝に来ていいと家主に言われたのは初めてだった。

 ごはん代も、部屋の掃除もタダじゃない。

 そう思って俺は何度も代金を支払おうとしたがおばあさんは頑なに拒んだ。内心やっぱり俺が来るのは迷惑なんだろうかと俺は気後れしつつ、それでも居心地のいい綾峰の家に入り浸ってしまっていた。居心地がいいと思うのは、ここにはいつも人がいたから。桜ちゃんは朝が早いから平日は殆ど会う事がないけれど、おばあさんは玄関をくぐるといつも出迎えてくれた。迎え入れてもらえるという事実に俺は飢えていたのだと思う。

 だから、おばあさんがいつでも来ていいと言ってくれた時俺は涙が出るほど嬉しかった。

 お金を受け取ってくれなかったのはそれだと商売みたいになってしまうからだと後でおばあさんから聞いた。それじゃあ悪いからと、最近は部屋の掃除や買い物の代行なんかを率先して引き受けている。今じゃアパートにはよっぽどの事がない限り帰ることはない。

「タバコも止めたみたいだし、お前食い意地ばっか張ってるとデブるぞ」

「うるさいなあもう!」

 がはははと笑う綾峰の向う脛を蹴っ飛ばすも相手は全くダメージを受けた気配がない。痛む右足をぶらぶらさせて痛みを取っている間に綾峰もレジの方へ帰っていった。

「……」

 俺は出口の方へ移動し、こっそりと様子をうかがった。戻ってきた綾峰を発見したリョウタさんが「お前なんか藤原ちゃんと妙に仲良くない?」と絡み、「気のせいですって」と笑いながら躱す綾峰。視線は綾峰を追っていた。

「やばいやばい」

 自分の行動が謎過ぎて、俺は急いで離れた。

 二つ目の変化がこれ。俺の病気。

 近頃妙に綾峰のことを目で追う事が多くなった。

 部屋にいる時や、一緒に移動している時、そんで今日は久しぶりにバイトが一緒になってから、ずっと。

 別にあいつの顔に虫がついてるとかじゃない。でも気付けばあいつのことを探している自分がいて、正直気持ちが悪い。

 今の綾峰を俺はうざいとかキモイとか思っていない。いやうざいんだけど、嫌なうざさじゃないっていうか。

 本当に優しい人だと分かってしまった。

 がさつだし、馴れ馴れしいし、かなりしつこいところはある。でもその反面人の気持ちをいつも考えてくれていると気づいた。

 気づいてしまったらもうあいつを邪険にはできない。

 今までひどい事や素っけないことばかり言ってきて虫がいい話って自分でも自覚はしている。でもあいつと一緒にいると落ち着くんだ。

 誰に対しての言い訳か知らないが、俺は絶えずそんなことを頭の中で考えながら、でもそれにしたっていつも目で追うっていうのは脳になにかの障害を抱えてしまったのか、なんて思ったり。一緒にいると落ち着くはずなのに、不意に起こすあいつの動作に妙に心臓が高鳴ったり落ち込んだり。これってどういう事だろう。

「おい藤原。休憩長すぎるぞ」

「ひゃい!」

 ひょこっと顔を出してくる綾峰。突然の出来事に顔に血液が集まっていく感覚がせりあがって来る。

「サボりか?」

「うっさいバカ!」

 最近じゃ顔もまともに見れない。

 どういうわけだか恥ずかしい気分だけど、嫌じゃない。

 俺はようやく自分の居場所が見つかった気がしていた。

 

 

 簡単に幸せになれるなんて、どうして思えたんだろう。

 

 

 それは突然の出来事だった。

 いつもの平日の昼間。

 洗濯と床掃除を済ませ、おばあさんと昼のワイドショーを見ながらコタツでミカンを剥いていると、店長から電話がかかってきた。

「なにかありましたか?」

 電話を切るとおばあさんが少し心配そうに尋ねてくる。きっと俺が緊張で声が堅かったからだろう。

「……ちょっとアパートの方へ行ってきます」

 荷物も持たず、おばあさんが俺の名前を呼ぶのも聞かず、俺は駆けるように家を飛びだした。

 いつもは綾峰の自転車の後ろに座って通る道を、全速力で走った。

 

 近くまでやってきて、俺は荒くなった息を整えながら階段を上った。

 目の前に髪の長い綺麗な女性がいた。

 少し前までは見慣れた姿。少し痩せただろうか。

 彼女はまだ俺に気づいていない。だから俺から声を掛けた。

「……姉さん」

「サク」

 およそ一年ぶりに、俺は自分の部屋の前で姉さんと再会した。

  



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藤原咲弥 ⑤

ごめんなさい。遅れたにも関わらず案の定5話で収まりませんでした。次で本当に終わりです。


『さっき店の方から連絡受けてね、どうも君のお姉さんが来たみたい。近いうちに妹を辞めさせるからって言って出て行ったみたいなんだけど、藤原さん心当たりある?』

 店長から電話を受けた時、頭が真っ白になった。

 姉さんが、どうして?

 もう二度と関わることがないと思っていた肉親の情報に気が動転した。その後店長に礼を言うとすぐに綾峰の家を出た。姉さんが俺の働いているところを知っていたことは特に驚かなかった。あの家なら俺がどこで何をしていたかくらい把握していてもおかしくないだろうという事は予測できたからだ。だから次に姉さんが向かうであろう場所も綾峰の家か自分のアパートかのどちらかしかないと思った。ここに来ていないというなら後者に違いない。

 その考えは間違っていなかった。

 

 アパートの階段を上って姉さんの顔を見た時、俺は警戒と共に懐かしさを覚えた。

「サク」

 姉さんが俺を呼ぶ声が昔とまるで変っていなかった。優しくて、弟の俺でもちょっと弟離れが出来ていないんじゃないかなんて思うくらいで、だから彼氏ができないんだと母さんに呆れられて。

 楽しかった記憶が蘇るとどうしても虚しさが胸に去来する。それはもう過去の事だと思い知らされてしまうからだ。

 姉さんは俺の顔を覗き込むと、眉を曇らせた。

「少し痩せた?」

「……姉さんもね」

 まだ一年も経っていないけれど、姉さんの目の下には化粧でも誤魔化せないほど濃い隈が見えた。痩せたというよりやつれた、そんな印象を受けた。

「部屋に入ってゆっくり話したいんだけど、どうかしら」

「なんで姉さんがここに」

 俺は本来の目的を思いだした。どうしてここに姉さんがやってきたんだろう。今更女になった俺に何の用があるというのか。疑問は一気に膨れ上がったが、姉さんの目が碌に見れず言葉が途切れて下を向く。昔は姉さんが相手だとどんなに答えにくいことも問いただせたというのに、女になって気も弱くなったのだろうか。

「……姉さんそれ」

 下げた視線が偶然捉えた。姉の左手の薬指に、見慣れない指輪が嵌っていた。

 姉さんは俺が何を言っているのかすぐに気が付いたらしい。

 ふっと笑みを零す。

「先月籍を入れたの。誠実でとてもいいひとなの」

「そう、おめでとう」

 左手をそっと撫で優し気な表情を浮かべる姉とは対照的に、俺は自分でも分かるほどそっけない返事を返した。

 本当はいい事のはずだ。

 姉さんは常に彼氏が欲しい、結婚がしたいと家で騒いでいた。相手が見つかったというのは本来ならば喜ぶことなのかもしれない。

 事が姉の結婚だけなら俺も喜べたかもしれない。

「藤原の家の事業も安定してるみたいだし、結婚後も安心だね」

 コンビニで働いていると嫌でも新聞は取り扱う。新聞の一面に藤原家の事業が持ち直したという記事を見たとき、俺は足元が崩れ落ちるほどの衝撃を受けた。

「ち、違うわ! そんな事を話に来たんじゃない。あなたとそれは別の話よ」

「違わないだろ。『花婿の呪い』が家から消えたから全部解決して皆幸せ。そう言いに来たんだろ?」

 姉の報告がなければ、俺もただの偶然だと思いたかった。

 前時代的な伝説を信じて子どもを追い出した鬼畜生にも劣る下劣な家。そうやって恨むことが出来た。

 性別が変わった。環境が変わった。

 今まで学生だったら許してもらえていたことも、子供だから、女だから、それだけの理由でないがしろにされるようになった。

 世の中を恨んだ。家族を恨んだ。女になった自分自身を恨んだ。

 それでも生きていけたのは、この状況を作り出したのは自分が悪かったからじゃないと思えていたからだ。

 俺は悪くない。朝起きたら勝手に女になっていたんだ。女になったからって即人権を剥奪しかねない勢いで追い出す家ってどんな家だよ。薄ら呟いて泣いた夜は数えきれない。

 

 でも呪いが実在しているなら。

 そう信じられる証拠を見せつけられたら。

 追い出した向こうが正しかったと、そういわれてしまったら。

 

 

 俺は何のために生まれてきたんだ。

 

 

「待ってサク! 話を聞いて!」

 俺は後ろを向いて飛ぶように階段を駆けた。一瞬でもあの場に留まることを本能が許さなかった。

 耐えられなかった。

「~~~~~~!」

 吼えていたのか叫んでいたのか泣いていたのか分からない。

 何も考えられないくらい遠くへ、ただ遠くへ。それだけを考えて俺は走った。

 

 

 悲しくても腹は減る。

 邦楽の歌詞にありそうだなと自嘲しつつ、俺は腹を撫でた。急いで飛び出してきたから財布も持って来ていない。

 時刻はとっくに夜中を回り、あたりは真っ暗だ。ひょっとするとバイトの始まる時間になっているのかもしれない。

「……寒い」

 思わず零すと、いっそう温度が冷えた気がする。

 あれから走り続け、途中で泣き止んで歩き、また後ろから追いかけられていないかなと振り返りつつ走り、歩き、また走り、いったい何のために逃げているのか分からなくなってきた辺りで歩くのを止めた。近くにあった公園のベンチに座り、急激な眠気に襲われて起きたら今、という状況だった。

 起きた瞬間全身に寒気が走った。がたがたと体の芯から震えが止まらず、その割に不思議と体の表面は温かい。意識がゆらゆらと揺れ、ぼうっとする。これは風邪を引いたな。二月の寒い日に殆ど部屋着みたいな恰好で汗を掻いて寝れば誰だって体調を崩すか。

 なんだかバカみたいだ。自分の行動も、自分自身の境遇も。

 普通に座っているのも辛かったので、ベンチに横になる。木の冷たさに自分の温度が移ってだんだん温かくなるのがほっとする。

 これからどこに行こう。

 熱で働かない頭が警笛を鳴らしている。

 アパートには帰れない。姉さんが待っているし、何をされるのか分からない。

 バイトにも行けない。こんな体調だし、動くことも難しい。

 そして綾峰の家にも、いけない。

 俺は今まで自分の境遇を家のせいだと思っていた。

 女になったことも、虐待同然で追い出されたことも、そのせいで世の中に放り出され苦労をしたことも全部。

 可哀そうな人間だと、客観的な目から見て俺は自分をそう見ていた。

 だから綾峰が俺に優しくしてくれる時、それを受け入れても許される状況にあると、自分自身で納得をつけていた。綾峰の好意が嬉しいのは、可哀そうな俺を可哀そうだと思っての行為だからだ。

 でも今日姉さんと会って、俺は可哀そうな人間ではないと思ってしまった。

 貧乏神をただ家から追い出しただけ。

 俺は疫病や病魔のような家に害を与えるものだと知ってしまった。

『花婿の呪い』が他の家に災厄を引き起こしたという記述は今までにない。

 しかしここで可哀そうな俺という存在が消えてしまったと俺は思ってしまった。

 寧ろ家族に迷惑をかけていたという事実が真実であるならば、俺が綾峰の好意を受け取ることは許されないことのようにさえ思えてしまった。

 あの家は俺に甘い。

 綾峰はもちろんだし、桜ちゃんもそうだ。おばあさんもとてもよくしてくれる。

 あそこにいたら俺はつい甘えてしまうだろう。それは許されないことのように思えてしまうのだ。自分自身に自信が持てない。自分という人間の価値がひどく不安定に見える。

 女になって暫く、俺は死ぬことばかり考えていた。

 そのどれも勇気がなくて実行に移せなかったけれど、今日は大丈夫そうだ。

「このままじっとしてたら、明日には死んでるかな」

 気温は今零度を下回っているだろう。風は切り裂くような音を鳴らし、だんだん曇り空が広がっているのが月を隠すことで分かってくる。昼間見たテレビでは今日の夜から明日の朝にかけて雪が降ると報道していた。

 凍死で死ぬなら痛くないかな。

「誰が死なせるか」

 聞きなれた声が頭上から降ってきた。

 うっすらと目を開けると、綾峰がいた。

「あ、あや、みね?」

「おう俺だ。なんだお前氷みたいに冷たいじゃないか」

 体から湯気が出ている。額からは汗がしたたり落ち、口を開くたびに白い息を吐きだしている。

「なん、で?」

「ばあさんがお前が急に飛び出してったって電話よこしてな。そっから八時間近く探したぞ。こんな人も寄り付かないような辺鄙な場所で寝やがって」

 口調は荒いのに温かみがある。

 なんでこんなにしてくれるのだろうか。俺はだって、いらない人間なのに。

「お、俺は、駄目だから。ひ、必要ない人間だから!」

「はあ? 何言ってんだお前」

 自分で立てない俺を持ち上げようとする綾峰の胸を押す。こんな俺に構う必要はない。

「俺は可哀そうなんかじゃないんだ。当然だったんだ。死んだ方がいいんだ!」

「落ち着け藤原」

「やめろ! 離せ! 優しくするな! 親切にするな! どうせ本当の俺を知ったらお前も幻滅するんだ、離れていくんだ! だったらお前もいなくなれ!」

 言い終わらぬうちに体が大きなものに包み込まれた。

 綾峰に抱きしめられていると、遅れて気が付いた。

「辛かったんだな」

 耳元で絞り出すような綾峰の声が届くと、俺の中で何かが決壊した。

 家族を恨むとか、可哀そうだとか、それはほんの一部でしかなかった。

 ただ、辛かった。

 そこからは単純だった。

 幼子のように声が枯れるまで俺は泣いた。

 

 

 寝覚めは最悪だった。

「痛っ」

 頭が痛いのは予想が出来た。風邪を引いているのは予想がついていたからだ。

 追加で喉が痛いこともまあ分かる。体の節々が痛いのもまたしかり。完全に風邪の症状だ。

 だが関節痛では説明のできない全身の筋肉痛の理不尽なまでの痛みは納得がしかねた。少し考えれば昨日の無茶な走りが原因だと分かるのだが、それを差し引いてもひどい。

「起きてるか?」

「ひゃっ」

 襖が開くと同時に俺は布団に頭を隠した。瞬間びしりと体と頭に電流が走る。いっっったい!

「昨日の件で気まずいのは分かるが普通にしてくれ。そっちの方がありがたい」

「気まずいっていうか」

 気恥ずかしい。

 前回は見られていなかったが、今回はばっちり恥ずかしいところを見られてしまった。顔を合わせる心の準備が必要だった。

「やっぱり顔赤いな。体温計持ってきたからどんもんか計っとけ」

「お前のせいだと思う」

「応急処置はしたぞ。昨日見つけた時からもう風邪ひいてるっぱかったからな、許せ」

「……そういう意味じゃないんだけど」

 ごにゅごにょと言葉にならない文句を綾峰にぶつけていると、病人の戯言と切り捨てたのか彼は体温計を数回振って渡してきた。わきの下に挟むとひやっとする。

 昨日、綾峰に発見されてから帰るまでの道中の記憶があやふやだった。綾峰の口ぶりから、おぶって家に運んでもらったことは確からしいのだが、その際変な事を口走っていなかったか不安だ。確認するのも変だし。

 考えあぐねていると、綾峰は珍しく言いにくそうに口を開いた。

「なにかあったか?」

 いつもならここで何もないとはぐらかしていたと思う。すました顔で「別に」なんて言って、綾峰もそれから言及することはないと思う。昨日の事を見られているというのもあったけど、綾峰の前で隠すことをしたくないという気持ちが強かった。

「……信じられない話かもしれないけど――」

 意を決して俺は口を話すことにした。

 自分の事。家の事。包み隠さずに。

 恐怖はあった。

 家の事を綾峰に話すことは大した抵抗もない。理解を得られるかどうかは別の話だが、なぜ俺が年齢を偽ってまで一人で暮らしているのか説明するのはそう難しくないからだ。

 問題は、俺が本当の女じゃないと綾峰に言わなければいけないことだ。

 俺だって少し前までは男だったから、そろそろ気が付いている。

 普通他人が見も知らぬ他人に対してここまで優しくはできるもんじゃない。見返りがあって人は初めて行動に移すものだ。

 日常的に俺は自分の姿をできるだけ見ないようにしてきたが、生きていたらどうしたって目にする機会はある。女になって時間が経つごとに体全体に丸みを帯びていき、女性らしくなっていくのが分かっていた。

 男だった時から中性っぽい顔つきで、女子からもそこそこ人気のあった顔だと自負していたが、女になることでそれに拍車がかかっていた。客観的に見て俺は容姿が整っていると思う。

 綾峰に下心があると思いたくはない。だがそれ以外で継続的に親切にしてくれる理由がなかった。

 例えばクリスマスの日のあの日だけなら、突発的な親切だと思う事が出来ただろう。

 家に帰る途中で雨に濡れている捨て猫を見つけてしまった人が、持っていた傘をその場に残すように、同情からの施しだと思うことが出来た。

 だが綾峰はその後もずっと優しかったし、とどめは昨日の一件だ。

 綾峰は長時間俺を探して走り回ってくれた。何時間も、息を切らして俺を見つけてくれた。

 こんなことをただの親切でできる人間なんているものか。

 綾峰に本当の事を話す気になったのは、彼を騙し続けていることの罪悪感に耐え切れなくなったということも大きい。

 下手に期待させていたのだとしたら、俺はとても悪いことをしていた。

 それを差し引いても優しい彼の事だ、きっと風邪が治るまでは面倒を見てくれるだろう。

 だがそれでこの関係は終了だ。

 俺は荷物を纏めて出ていき、そして姉さんの所へ行く。判決を待つ死刑囚のようだ。

 不思議と心は軽かった。

 本当は昨日の時点で終わりだったんだ。でも綾峰が来てくれたから、最後に報われた気がした。いい夢が見れた。

 全てを話し終えると、俺はゆっくりと息を吐いた。毒をすべて出し切ったような妙な爽快感が体を駆け抜けた。

「そうか。そんな事情があったんだな」

 綾峰は一言そう言うと黙った。目を閉じている俺は彼が今どんな顔をしているのか分からない。

 できることなら何も言わずに立ち去って欲しかった。覚悟を決めているとはいえ、彼の次の言葉が怖かった。

 しかしそれは彼の今まで俺に与え続けてきてくれた誠実さとは反対の行為だ。

 どんな言葉が飛んでくるのか、だんだん脈拍が高まってきた。

「……騙していて、ごめんなさい」

 先に口を開いたのは俺だった。情けない事に沈黙に耐え切られなくなったのだ。

 数秒間綾峰は何も言わなかったが、やがてゆっくりと「そうだな」と言った。

「お前十七で煙草と酒はダメだろ」

「……は?」

「は、じゃない。どちらも二十歳越えてからだ。しかも深夜バイトも。いろいろ事情があったんだと知ったが、店にバレたら店長の立場が怪しくなるぞそれ」

「い、いやそっちじゃなくて」

 綾峰はうんうんと頷きながら、どこかズレた感想を漏らす。違う。俺が予想していたのは、俺が不安に思っていたのはそんなことじゃない。

「女じゃなかったんだぞ。騙していたんだぞ。それは、どうして……」

「どうしてって言われてもな」

 綾峰は特別それで驚いている風には見えなかった。本当に大したことじゃないと思っているのか、どう言葉にしようか迷っているようだった。

「大学の友人にもニューハーフのやつとかゲイとかレズとかいるからな。皆気のいい奴らだし、そこまで気にすることでもないんじゃないか?」

「俺は手術で女になったんじゃない!」

「分かってるよ。呪いだろ。凄いな、現代社会でそんなもんがあるとは、世界もまだまだ広いってことか」

 感心するように息を吐く綾峰。悉くズレている。

「馬鹿にしてんのか! 俺は、俺は!」

 言葉にできない感情が先行する。真面目に話しているのに、気持ちを知って欲しいと思っているのに。

 思わず涙がこぼれそうになった時、綾峰がゆっくりと押しとどめた。

「馬鹿になんかしちゃいないさ。疑ってるわけでもない。お前が言うならそれは本当のことなんだろうな」

 荒れてしまった布団を駆けなおし、俺のでこに冷えピタを貼り付ける。

「薄々だがお前が本当は男なんじゃないかって思う事はあったさ。見かけは完全に女だが言動とか仕草とかな。自分のこと俺なんて言ってるし、性に戸惑いを覚えているのは確かなんだろうってこともな。まさか呪いだったなんて思いもしなかったが」

 綾峰の語調はあくまで優しい。何か反論しようと口を開く気にもならないくらい、心に響かせる。

「話してくれてありがとう。言うのは凄く勇気がいることだったろう。怖かったと思う。お前すごいな……ってまた泣いているのか」

 手渡されたティッシュケースを受け取った瞬間、ああ、俺はもう駄目だなと、綾峰の顔を見ながら思った。

 

 

 午前中寝ると体調も幾分回復した。

 居間に行くと、おばあさんが炬燵に入ってテレビを見ていた。俺に気が付くと、「あら、もういいのですか」と立ち上がろうとして来てくれたのを手で制す。

「ご迷惑をおかけしました」

「詳しいことは知りませんが、大変だったと聞いています。寒いでしょう? お入りさないな」

「はい。あと心配かけてごめんなさい……」

 いつものように微笑むおばあさんを見て、改めて謝罪を述べた。忘れていたけれど、昨日は突然飛び出したんだ。心配したに違いない。

「体調はどうですか?」

「結構よくなりました。なんか風邪引いてばっかりだな」

「喋り相手がいて嬉しい限りです」

 ふふふっと笑い合う。

 そういえば綾峰の姿が見えないなときょろきょろ見渡していると、「大吉さんなら学校の方ですよ」とおばあさん。

「え、いや、別に探してなんか」

「違いましたか?」

 違わない、けど。

「あいつなんか言ってましたか?」

「何か、とは?」

「いや、その、俺のこと、とか?」

「あらあら」

 おばあさんは少女のように目を見開き頬を染めた。なんだか予想していた反応とは違う。

「大吉さんにもようやく春が来たのかしら」

「ち、ちちち、違います! そうじゃなくて」

 俺の正体とか、家のこととか。

 おばあさんに知られるのは綾峰本人に知られることの次に怖い事だ。俺はなんだかんだでこの家の人間に嫌われることを恐れている。失くしたくない居場所だと体が訴えかけているからだ。しかしおばあさんの反応から、綾峰が何か言った様子はなかった。

「大吉さんもあなたが来て随分変わりました」

 暫く俺はおばあさんとお茶を飲んだり、テレビを見ていたりしていると、ポツリと零した。

 なんの事だろうと顔を向けると、おばあさんは目を細めて笑う。

「大吉さんからあの子の両親の話を聞いたことはありますか?」

「両親?」

 俺は思い出そうと頭を捻り、そういえばあいつの口から両親の話を聞いたことがないなと思った。この広い家にも彼の両親が存在している形跡はない。はじめてこの家に上がってしばらくは疑問に思ったものだが、そういうものだと思ってわざわざ聞くことはなかった。

「二人とも交通事故で亡くなりました。まだほんの二年前の話です。その当時大吉さんは大学に入学したて、桜さんは中学1年生でした」

 予想はついていた。これが綾峰とおばあさんだけなら綾峰が大学の都合でおばあさんの家に居候しているだけだと思う。しかしこの家には未成年の桜ちゃんもいる。両親が不在で中学生の桜ちゃんがこの家にいるという事は、両親が海外赴任か何らかの事情でいないか、すでに亡くなっているか二択だと思うからだ。

 俺はこんな時どんな顔をして聞けばいいのか分からなかったが、視線だけはおばあさんの目から外さなかった。

「夫婦水入らずで温泉旅行に行ったその帰り道、トラックが横から突っ込んできて二人とも即死だったそうです。宿を取り、旅行を勧めたのは大吉さんだったそうです。事故があってから大吉さんは何かに取りつかれたようにバイトに勤しみました。大学の学費は二人の保険金でどうにかなりましたが、桜さんの進学資金を貯めるのだと躍起になったのです。私もまさかこの歳で二人も養う事になるとは思っていなかったので、貯金もまったくありませんでしたから大吉さんを無理に止めることはできませんでした。

 でもあの子はただお金を貯める為にがむしゃらになっていたんじゃなかったと思います。両親を死なせてしまったのは自分だと、自責の念が強かったのだと思います。

 何度もあの子には言ったのですが、聞き入れてはくれませんでした。学業に支障はきたさない。これを繰り返し私に言い、まるで自分の体を痛めつけるようにあの子は生きてきました」

 今の綾峰を見て信じられないと思う反面、心のどこかでああ、だからかと納得してしまう部分があった。

 傍から見ても綾峰は働きすぎだ。大学生のアルバイトと言っても限度がある。でもあれが賃金を稼ぐ以外の目的があるのだとすれば、それが自分を罰するためだとするなら、あの過酷極まりないスケジュールは理解できてしまう。

「家にいる時間も少なくなりますから、桜さんとも話すことはなくなります。両親がいなくなって不安だった桜さんは大吉さんとの話し合いを求めていました。ですが色々あってうまくいかなかったんです。私も間に取り持とうとしましたが、二人の間に会話がない月も存在するほどでした。そんなある日、大吉さんが珍しく困った顔をして帰ってきたんです。バイトで厄介な奴が入ってきたと頭を掻きながら」

 ここまで凄く暗い雰囲気だった話が、急に色合いが変わり始めてきた。

「仏頂面で接客は最悪。話し合おうにもそれすら撥ねつけられる。しかもかなり訳ありそうだ。大吉さんがそんな風に話す人は初めてでした。今までバイトの事を聞いても順調だ、とか問題ないといった色合いのない反応が一転しての態度。それも日を追うごとに頭を抱えることが多くなって帰って来ました。そんな兄の態度を見て、桜さんも自分から話しかけに行き、大吉さんも愚痴のような相談のような形で桜さんと再び話すようになりました」

 おばあさんは今度ははっきりと俺の目を見た。

「あなたのおかげです咲弥さん。あなたは大吉さんからいろいろしてもらった、なんて風に思うかもしれませんが、それ以上に私たち家族に与えてくれたものは大きいんですよ」

 これで初日の謎が解けた。

 どうしておばあさんが俺を快く受け入れてくれたのか。どうして桜ちゃんが俺に警戒せず懐いてくれたのか。

 俺を警戒させない為に知らないふりをしてくれたのかは分からないが、もともと俺の事を知っていたのだ。その事実とさっきの話は顔から火が出るほど恥ずかしいが、同時に疑問が消えたことで余計な不安がなくなった。それにしてもバイト初めの俺の態度は改めて最悪だったよなと反省しなければいけないけれど。

 俺が一人で悶々としていると、おばあさんは何か思いだしたように立ち上がり、箪笥の引き出しを開けた。

「昨日夕方にあなたのお姉さんと名乗る方からこれを預かっていたのを思い出しました。渡しておきますね」

「え、姉さん?」

 受け取ったのは銀糸があしらわれたレター封筒。妙なところでおしゃれ感を出す癖は変わっていない。

「どこかへ行くのですか?」

「はい。姉に会って来ようと思います」

 手紙には一言『話がしたい』と書いてあった。場所も何も書いてないという事は、きっと俺のアパートにいるに違いない。昨日別れてそのままの場所だ。

「あ、その前に」

「はい、なんでしょう?」

「大吉君の携帯の番号ってわかりますか?」

 最後に俺はやり残したことを片付けなければいけない。

 

 

 時間の進みが遅い。

 俺は手首に着けた時計を見ると、分針がさっきから一歩も動いていない。待ち合わせ時間までまだ十分はあった。

 呼び出したのは自分なのに、まだかまだかと相手が来ないことにいら立ちを覚える。たんたんと忙しなく足踏みをするのがその証拠だ。

 普通に待っているだけなら俺だって何もここまで苛立たない。

 俺が苛立つ、というよりも一刻も早くこの場から立ち去りたいと思うのは、理由があった。

『ねえねえ、あれ誰?』

『モデル?』

『さあ? 誰か待ってるみたい』

『さっきから全然動いてないぜ』

『俺声かけてみようかな』

『あ、お前それはヤバいって』

 時間が経つごとに周りに人が増えていっている。はじめは勘違いかと思っていたが、周りの声が聞こえてきた辺りで、俺の事を言っているのだと分かってきた。見世物になってきている現状がたまらなく恥ずかしい。

「なんだこの人だかりは。おう、待たせたな」

「遅い!」

 予定より五分以上早く来てくれたにも関わらず、俺は相手の脛を思い切り蹴飛ばした。

「痛い!」

「いや、蹴っておいてそれはないだろう」

 相手は無傷でこちらは多大なる損害を受けた。きっと涙目で睨めばさしもの熊男も「お、なんだなんだ」と頬を引きつらせる。

「お前の大学人が多すぎる!」

「そら大学だからなあ。というかあれか、この人だかりやっぱりお前が原因だったか」

 あたりを見渡しながら話す綾峰。その人だかりも、俺が綾峰と話しているうちに散っていった。

「今日は随分めかしこんでいるんだな」

「……うっさい」

 俺は今普段使っている真っ黒の男物のコートとスウェットではなく、かわいらしい女性もののコートにロングスカートといういで立ちだ。薄らと化粧も施しているが、多分この熊男には気づかれていない。鈍感だから。馬鹿だから。

 家を出るとき、短縮授業で帰ってきた桜ちゃんとちょうど鉢合わせした。俺が外出することと、綾峰に会いに行く事を聞き出した桜ちゃんは俺を部屋に引きずり込み、メイクアップを済ませて送り出してくれた。彼女がどんな意図をもっての行動かは説明されなくても分かる。全く、おばあさんといい似た者家族だ。

「電話で緊急だと聞いたが、何かあったか」

 綾峰の声は低かった。心配ばかりかけてきたのが悪かったな。

「今日はさ、綾峰に」

 いや、最後だ。ずっと呼び捨ても失礼だ。

 綾峰にはもう俺が22歳じゃないことはバレている。年下なのにずっとため口をするのは抵抗があったのだ。でも綾峰さんだと今まで親しくしてきたのに急に壁を作ったような気になる。ちょうどいいと言えば、これかな。

「大吉くんに言いたいことがあって来たんだ」

 彼もまさかいきなり自分の下の名前を呼ばれることは予想していなかったのだろう。「え、いやおい、お前」と珍しく動揺した姿が見れて溜飲が下がる。

「今から姉さんに会って来る。それで、多分ここを出ていくと思う」

 今日一日どうして姉さんがここにやってきたのか考えていた。

 俺を警告するつもりなのだろうかと初めは思った。ほぼ一年が経とうとし、本家の恨みで俺が妙な行動に走ろうとしていないかどうかという監視の目的なのかと。だが昨日の姉さんの雰囲気からどうもそういう感じじゃなかった。

 そこで思い出したのが姉さんの結婚だ。

 昨日は焦ってそこばかりに目が行ったが、姉さんが結婚をしたという事は、実質的に家の権利が父親から姉さんの夫に譲渡されたことを意味する。

 あの家では、家業とは別に家長は代々長男か長女の夫が引き継ぐことになっている。家の実行支配権を握ったと言っても過言ではない。

 姉さんは俺に妙に甘いところがあったから、それで俺を家に呼び戻そうとしているのではないかと思った。

 でも呼び戻されたとしても俺の存在がいいものじゃないことはあの連中の印象からぬぐい切れない。きっと今よりずっと自由は利かない生活が待っているだろう。

 それでも、姉さんがわざわざ俺の所へ再び来てくれたという事実が、時間が経つごとに嬉しくなってきた。どんな扱いを受けても、俺はやはり家族が恋しかった。

 あの家に戻れば俺はもう二度とこの地へ来ることはない。家がそうさせない。

 その前に最後に。彼に伝えたい自分の気持ちがあった。

 それはきっと男の時だったら想像もつかなかったもので、実を言うと女になった今でもこんな感情を持つことがあるなんて思いも知らなかった。

 何度か自分の中で確認もした。

 勘違いじゃないか? 気の迷いじゃないか?

 彼が何かをするたびに、それが勘違いでも気の迷いでもないことを証明してくれた。

 多分、これは向こうからしたら迷惑な話だ。これから消える人間が残すにしては最低最悪の行為だと思う。

 それでも何もせずに去る事だけはできなかった。

「なんだ」

 彼が問う。

「あなたが好きです」

 俺は言った。    

 



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藤原咲弥 ⑥

 アパートに着くと姉さんがいた。

 俺の布団にくるまりながら、時々「んん」と寝息を立てている。もう夕方になろうとしているというのに、この人は相変わらずどうしようもないな。

「姉さん、起きなよ。夜寝られなくなるよ?」

「……あと30分」

「いつもそれ言うけど、30分二度寝したら結構なピンチになるよ?」

「分かってるわよサク~。……サク?」

 がばっと起き上がる姉。寝ぐせで髪の毛がライオンのたてがみみたいになっている。

「サク? 本当にサク?」

「俺だよ。昨日は逃げてごめんね」

 無言で抱きしめられた。支えきれず、俺まで一緒に布団に倒れこんだ。

「サク。サクぅ……」

「うん。俺だよ」

 小さな子供をあやす様に、俺は姉さんの背中を何度も撫でた。

 

 姉さんの調子が戻ると、彼女は気恥ずかし気に立ち上がった。だがその勢いとは対照的に、俺を捉える両目は不安そうに揺れていた。

「俺を家に連れて帰るんでしょ」

 姉さんの口からは伝えにくい事だと思う。俺は追い出された側だけど、姉さんは直接ではないにしろ追い出した側の立場だ。勝手なことを言おうとしているという自覚があるのだろう。だからここは俺が切り出すことにした。

 彼女はわずかな逡巡の後、小さく頷いた。ごめんなさいサク、と何度目になるか分からない謝罪がやって来る。姉さんに対して俺は何も怒ってはいない。家に対しては、まだ感情は色あせてはいないが。

「よくあの父親が判断したね。古い考えに固執するあの家でもとりわけ古い人間だって言うのに」

「違うわ。父さんは今でも反対だと思う。でも私が結婚したから、家長はもう父さんじゃない。そして、あなたをこんな所で一人にさせたくなくて」

 姉さんが新たな家長の権限を握っていることは予想の範囲内だ。念の為聞いてみただけに過ぎないが、父親の事を話に出すだけで家を追い出された時の体の痛みを思い出してしまった。

 彼女は意を決したように俺に向き直ると、両手を取った。

「家に帰りましょう。サク」

「……」

 予想していた答えだったが、いざ目の前にしてしまうとそれでも返事が出せなかった。

「……周りの人はどうするのさ」

 俺の父親や母親、所謂本家の人間は家長である姉が黙らせることは可能だろう。だがそれ以外。頻繁に家に出入りする分家の人間はどうなるのだろう。

 彼らの頭の中にはもう『花婿の呪い』は悪しきものだとインプットされている。

 たとえ俺の存在に対するかん口令が敷かれても、俺を家に置くことで不満は溜まっていくはずだ。そんなことこの聡明な姉が分かっていないはずがない。

「家の人間全員を黙らせることは、ごめんなさい。私の力じゃどうにもできないわ。でもできる限り家の目から映らないところで生活はできると思う。不自由はさせないわ」

 思わず笑いそうになった。

 隔離された生活をしろって言ってるのと同じだからだ。

 腫物を扱うように、異物から遠ざけるように、でも他所に見られないように。

 オブラートに包んではいるが、結局家の人間に俺を認めさせることが出来なかったと言っているに等しかった。

 だがそれでも俺は姉さんを責める気になれなかった。姉さんが俺の為に、呪いのかかった俺が生きていけるために動いてくれているという事は痛いほど分かったからだ。

 姉さんは何も力になれないという風に言ったが、離れでもあの家で俺を容認させたのは相当な労力だったはずだ。

 まず誰も賛成しないし、味方はいない。その中であの堅物で保守的な家の人間を譲歩させたのだ。

「学校には、多分通えないわ。でも通信教育ならできるかもしれない。不自由はあるかもしれない。でも可能な限りサクがしたいことをできるようにさせてみせるわ」

「ここに残りたいって、もし言ったら?」

「……サク」

「冗談だよ。そんな顔しないでよ」

 決して冗談ではなかったが、姉さんの反応を見てそう言わざるをえなかった。

「あなたもこの一年余りで分かったでしょう? 何の後ろ盾もなく女性の身で生きることがどれだけ苦しい事か。この部屋の家賃だってずっと家が払う保証もないのよ。お金の保証はされているし、寝床もある。あなたにとっては辛い時期かもしれないけど、私がきっと周りを黙らせるから」

「この生活、そんなに悪くなかったよ」

 姉さんの言葉をわざとさえぎるようにして俺は言った。驚愕の目で姉は目を見開いた。

「嘘よ。あなたのこれまでの生活は調べたわ。自暴自棄になっていた時期もあったでしょう。その時に力になれなかったのは悪かったわ、でも嘘をいうのはやめて」

「本当だよ」

「……あの綾峰って男?」

 姉さんの口調が暗く陰りを見せた。同時に綾峰の名前が出て心臓を鷲掴みされたような苦しみを覚える。

「いい人だっていたんだ」

「でもあんたの本当の事を知っても受け入れてくれる? 女として受け入れてくれる?」

 俺は何も言えなかった。言わなかったんじゃない。反論する言葉を持たなかったからだ。

 

 

 

「あなたが好きです」

 俺の言葉に彼は瞬きを繰り返した。そうかと思えば忙しなく目を動かせ、額からうっすらと汗を浮かべた。

「なーんちゃって」

「え、あ、は?」

「嘘だよバーカ。信じた? ねえ信じた?」

 俺は未だに硬直する彼の脇腹を突っついた。身を捩らせながら「なんだその冗談は」と笑う。

「ちょっと用事があってさ。近くまで寄ったから来ただけ。俺がお前に告白したとマジで思った?」

「思うだろ普通。本気っぽい雰囲気出すしさ。しかもお姉さんに会って出ていくって」

「リアリティを出すための冗談だよ。それっぽかったろ?」

「勘弁してくれよ……」

 俺はじゃあまたと彼の胸板を軽く殴って元来た道を引き返した。

 後ろから「おい、用事って本当にそれだけだったのか?」という声が聞こえたが、後ろ手をひらひら振るだけにとどめた。

 振り返ることはできなかった。きっと酷い顔をしていただろうから。

 告白をした時の表情が忘れられない。

 驚き、困惑し、どうすればいいのか誰かに助けを求めるように目をさまよわせ。

 俺の事を多少は意識をしていると思っていた。

 だから、もし彼が告白を聞いて頷いてくれたら俺は今日アパートに行く事はなかった。

 彼に家の事をすべて話したとは言ったが、姉がおそらく自分を連れ戻しに来ていることを伝えていなかった。下手な心配をかけたくなかったというのが理由の一つだが、最大はいざという時の逃げ道が欲しかったからだ。

 告白をしてもし駄目だった時の逃げ道。

 あいつも男だし、しかも今の俺はそこそこ可愛い部類に入る。優しさは勿論あっただろうが、それでも俺にいろいろしてくれたのは俺という人間を気に入っているからだ。成功するとは思っていなかったが、それ以上に失敗するとも思わなかった。なんだかんだで受け入れてくれるんじゃないかと思ったのだ。

 甘かった。

 彼は完全に答えに窮している様子だった。

 はっきりと答えを聞いたわけではなかったが、あのままいけば確実に振られていた。

 気が付けば口から出ていた冗談の一言。露骨に安心した様子の彼を見て、俺は一気に心が沈んだ。予想が間違っていなかったことを見せつけられたようだったからだ。

 でも考えようによってはよかったのかもしれない。

 振られて終わるのは後味が悪い。いいお思い出だけ残していける。

 

 

「姉さんの言う通りだと思う」

 俺の反応が予想外だったのだろう。姉さんは驚いた声を上げた。

「どうしたのサク」

「いや、当たり前の事だと思っただけだよ。俺は男で、女で、よくわかんない奴だ。そんなのを一般の人が理解してくれるわけないって」

 受け入れてくれたのは、あくまでその存在だけだと知った。

 LGBTに対して差別的な考えを持たないことと、ではその人とパートナーになれるかは別の話だ。

 飛躍して舞い上がって、自分の理想を知らずに相手に押し付けていた。

 彼ならばという期待がどこかにあった。どれだけ求めれば済むというのだろうか。恥知らずもいいところだ。

「サク……」

 姉さんの何か言いたげな視線を無視して、俺は少ない荷物の荷造りを始めた。

 

 

 アパートの管理人さんと話を済ませていたのか、駐車場に止めてあった車に乗るように姉さんに言われた。

「車買ったんだ」

「新婚祝いよ。豪勢な事よね」

 車に詳しくないが、王冠の形をしたエンブレムがなんとなく高級車感を醸しているように見えた。

 工場座席に段ボール一つ。たったそれだけの荷物しか俺は持っていなかった。

 家財道具はそのまま処分する手はずになっている。大部分が借りたときに無料で貸し出してくれたものだし、炬燵はごみ置き場で使えそうだったから拾ってきたやつだ。毛布は別で使っていたがそれも高いものでもない。家財を処分すると俺の荷物は頼りない量となった。まるで俺のこれからの未来を暗示しているようだと自嘲する。

 思い入れが強いわけでもないが、それでも一年余り暮らした場所だ。助手席に乗り込み、姉さんが発進の準備をするまで窓を開けて景色を眺める。

「それじゃあ出発しましょうか」

「姉さんやっぱペーパーでしょ。手つきがぎこちないよ」

「うるさいわよ」

 姉さんがアクセルを踏み込んだその瞬間、車体がガクンと大きく揺れた。

「え、何?」

「分からないわ。どこかぶつけた? ていうか全然動かないんだけど」

 エンジンがウォンウォンと唸りを上げているのに関わらず、不思議なことに一歩たりとも進んでいない。心なしか車体が斜めになっているような。

「ひ! 何あれ!」

 姉さんがバックミラーを指さして慄いた。反射的に俺もミラーを覗く。

「綾峰!?」

 映っていたのは綾峰だった。汗だくで、踏ん張るように顔をしかめている。冗談だろ。まさかこいつ後輪を浮かしているのだろうか。

「姉さん止めて! アクセルやめて」

「ええ? 何これもうどうなってるのよ」

 車が止まると、ずしんと言う音と共にシートが水平に戻った。シートベルトを外し、姉さんの「ちょっとサク!?」という制止の声も無視して車外へ飛び出る。

「何やってんだよ!?」

 人外染みた真似をやってのけた馬鹿に一言言ってやりたくなったからだ。

 昨日俺を見つけた時よりも息を切らし、どこで何があったのか上着がずたずたになっている。はじめこそ驚きと困惑が強かったものの、だんだん心配の色が濃くなってきた。

「だ、大丈夫なの?」

 よく見れば腕は青黒く変色し、尋常ではないほどの汗が地面に広がっていた。

「ちょっと、息が、きれ、切れた。だけ、だ。もん、だいな、い」

「いいよ、息整えてからで」

 ポケットに入れたハンカチで汗を拭いてやっていると、運転席から姉さんが出てきた。綾峰を見つけると、目がすっと細くなった。

「サク。どういうこと?」

「いや、俺は」

 俺に聞かれても困る。何がなんだかわかっていないのは俺の方だ。

「綾峰大吉。あなたの事も調べさせてもらったわ。家族構成や、あなたのご両親のこともね。経済的に随分苦労しているみたいだけど、そんなあなたが咲弥の事を着け狙う理由はなに? お金?」

「姉さんそんな言い方」

 綾峰は今だ荒い息を整えている状態だ。姉さんの言葉に応える余裕はない。

「随分素敵なパフォーマンスをしてくれたみたいだけど、あなたの目的はいったい何なのかしら」

「手荒なことをしたことは、お詫びします」

 綾峰は姉さんに向き直ると、俺の手から離れた。喪失感を感じるな俺。

「こいつを連れて行くんですか?」

「そうよ。家の問題よ。あなたに関係ある?」

「あります」

 あまりにも綾峰がはっきりと言うものだから、姉さんは「うぇ?」と間抜けな声を出してたじろいだ。

「咲弥」

 初めて名前を呼ばれた気がした。

 彼は俺に視線を合わせると、浅く息を整えた。

「さっきの返事。してもいいか?」

「さっきのって」

「大学で言ったあれだ。冗談なんて嘘なんだろ」

 鼻の天辺から顔全体に血液が広がっていく感覚がした。

「ち、ちょっと待って」

「俺もお前が好きだ」

「え、あ、え、え……」

 言葉にならない文字の羅列が脳裏を駆け巡る。なんだ今自分は何を言われたんだ。

「お前が行ってからすぐに後悔した。情けない態度で申し訳ない。今でもまだ間に合うだろうか」

「そんな、そんなことって」

 口にするたびに鼻水が込み上げてきた。上手く言葉にできなくなる。

「正直女性として今まで見てたわけじゃなかった。それで返事が出来なくてお前を傷つけた。すまん。でもお前がいないと嫌なんだ。俺の気持ちは迷惑か?」

 何度も首を横に振る。迷惑なんて考えられない。

 感情の矛先が分からず、綾峰の上着の襟を掴み、空いた片方の手で彼の胸を叩く。何度も叩いた。

 

「なんなんですかこれは」

 背中から姉さんの戸惑うような声が聞こえた。

 俺が何か答えるより早く、綾峰が前にでた。

「咲弥さんのお姉さんですね。改めて、綾峰大吉です」

「知っています。あなたは一体何者なんですか?」

 調べたと言っていたから、姉さんも綾峰のことは知っているはずだ。この場合の何とは、俺との関係性だろう。昨日まで何もなかった俺たちの事を姉さんが把握しているはずがない。

「しがない大学生です。来年からは社会人ですが」

「そういうことを聞いているのではなく」

「妹さんを俺にください」

「だからそういうはあああああ?」

 姉さんは驚くほど大きな反応を示した。俺が姉さんでもさっきのタイミングでそんな言葉が飛んでくるとは思わないだろう。いったい綾峰はどんな顔で言ってのけたのかと覗いてみれば、かなり真面目な顔つきだった。いや、うっすらと額に汗を掻いている。ぱっと見は分からないがかなり緊張をしているようだ。そっと彼の服の袖をつまんだ。

「ふざけているんですか?」

「いたって真面目です。妹さんを俺にください」

「……仮に真面目だとしても言う相手が違うでしょう」

「ご両親よりもあなたに言った方がいいと思いました。違いますか?」

 姉さんが再び黙った。でもそれはさっきまでの綾峰の調子に押されてというわけではなかった。

「どこまで聞いているんですか?」

「彼女に身に起きたこと。家の事情。あなたの事。何も知らないわけではないと思います」

「この子のどこがそんなに気に入ったの? 顔? 性格? 男だったのよ。あなたはそれを本当に理解しているの?」

「全部です。嫌なところも含めて全て」

「あなたは同性愛者なの?」

「俺が好きなのは咲弥です。性別はどちらだろうとこの際関係ありません」

 ここで姉さんが「ぐふっ」と噴出した。堪えきれなかったのだろう。

「サク。この人本当に何者なの?」

「……わかんない。でもすごい人なんだ」

「そう、あなたはそれでいいのね?」

 俺は頷いた。それを見ると、姉さんは嬉しいような悲しいような中途半端な笑みを作った。

 それは俺に向けての笑みで、綾峰に向き直るときっと強い目で睨んだ。

「口ではどうとでも言えるわ。でも一年。一年たってもまだ同じ事が言えたらその時は認めてあげる」

「はい」

「個人的には絶対認めたくないわ」

「本音零れるの早くないですか?」

「うるさいわね! なんでサクはこんな熊みたいな大男に……」

 姉さんはぶつぶつ言うと、一人で車に乗り込んだ。それが意味するところを俺が分からないわけでもない。

 綾峰の袖を放して運転席の方まで駆けよると、窓を少し開けて姉さんが俺の名前を呼んだ。

「忘れないで。何があっても私はあなたの味方よ」

「姉さん」

「本当の所を言うと今連れて帰るのは得策じゃないって思っていたのよ。ここで暮らせるならそれに越したことはないのかもしれないわ。でもね、それってあなたを捨てた事になるんじゃないかって」

 姉さんは綾峰を見た。いつもがはははと大口広げて笑う綾峰が、この瞬間だけは借りてきた猫のようにおとなしく佇んでいる。

「ありがとう姉さん」

 両親二人のことはやっぱりまだ複雑な気持ちはあるけれど、姉さんだけは信じたいと思った。

 困ったらすぐに電話してと言い残し、姉さんは去っていった。

 走り去っていくのを十分に見送ってから、俺は後ろで所在なさげに突っ立っている大男を振り返った。

「帰ろっか」

 色々言いたいことはあるけれど、無性にあの家が恋しくなってきた。

 

 

 家に帰ると真っ先に俺は桜ちゃんとおばあさんに報告した。

「えええええ! 遂に!?」

「うん。付き合う事にしたよ」

 桜ちゃんはどしぇええとオーバーなリアクションを、おばあさんは「あらあら」と番茶をすすりながらおめでとうと言ってくれた。俺は照れくさくて頬を掻いていると、手洗いを済ませた綾峰が居間に入ってきた。

「お兄ちゃん咲弥ちゃんと付き合ったんでしょ!? 告白はどっち?」

「え、俺ら付き合ってんの? あ、そういう事になんの?」

「なるよ。何言ってんだよ」

 とんでもない発言を言ってのける綾峰を俺は鋭く睨みつけた。そこ桜ちゃん、口笛拭かない。

「あれだけ啖呵きったんだ。今更なかったことなんかにしないよ?」

「こっちのセリフだ。望むところだよ」

 

 それからの日々は目まぐるしかった。

 俺が綾峰、大吉さんと付き合うこととなってから、桜ちゃんのファッションチェックがかなり厳しくなった。

「咲弥ちゃん? 今まではすっぴんもスウェットも許してたけど、これからは私のお姉ちゃんになるかもしれないんだからそうもいかないよ?」

 おかげで俺は今まで貯めてきた貯金を一部切り崩して、服と化粧に時間を費やす事になった。

 アパートはあの日以来完全に引き払った。

 そうでなくても半分以上綾峰の家で寝泊まりしていたようなものだったので、それほど変化があった訳ではなかった。ただそのおかげかどうか分からないが、今までも少し感じていたお客様扱いが、完全に家族のそれと同じになった風に思う。その分家事労働は増えたけど、苦にならないくらい嬉しかった。

 バイトは、深夜の時間帯はやめた。

 結構な日数無断欠勤を繰り返したので勝手にクビになっていると思っていたが、大吉さんがいろいろ言ってくれていたみたいだ。ついでに本当の年齢も店長にバレたようで、昼間なら雇いなおしてくれるというので甘えることにした。その分時給は下がるけど、桜ちゃんやおばあさんと接する時間が増えたから結果オーライだ。大吉さんとは完全に活動時間がずれてしまったけれど、彼も以前のような無茶な働き方はやめたので何もない日は二人でいることも多くなった。桜ちゃんに見られたらまた冷やかされるんだけどさ。

 大吉さんが大学を卒業したタイミングあたりをきっかけに俺も色々と心機一転することにした。

 まず呼び方をかえるようにした。私と口の中で何度も練習し、自然に私と出るまでそこそこ時間がかかった。

 寝室を客間から大吉さんの部屋に移した。その際ちょっと揉めた。

「いやなんでだ。狭いだろ」

「いいでしょ。それとも一緒に寝るの嫌なの?」

「いや、別に嫌ってわけじゃないが」

「じゃあいいじゃん。はい、決定」

 ほぼ強引に決定したが、さすがに部屋が狭すぎるという事もあっておばあさんが二人の寝室を作ってくれた。大吉さんは後で頭を抱えていたそうだがそんなもの知らない。

 これとほぼ同時に、私は大吉さんに婚姻届けを突き出した。

「さあ! さあ!」

「いや、これはまだ早いだろ」

「何? 他に好きな人でもできたんだ」

「そうじゃない。でもお姉さんの言いつけがなあ」

 大吉さんは姉さんの言った一年間を律義に守っていた。それを歯がゆく思う事になるとは思わなかった。

 さらに一年、姉さんが視察しに来て結婚を許してくれた時になって私は大吉さんに少し待って欲しいという旨を伝えた。

「どうした。何かあったか」

「うん。名前を変えたいんだ」

「名前?」

 婚姻届けに名前を出す時、『咲弥』という名前を使うのがなんとなくはばかられた。そりゃ頑張れば女性としても使える名前かもしれないけど私が違和感を覚えてしまう。

「どんな名前にしたいんだ」

「もう決めてるの。おばあさんみたいな感じがいいなって」

「ばあさんか」

 大吉さんは目を細めた。

 おばあさんが亡くなったのは昨年の冬のことだった。朝目覚めが遅いと思って起こしに行ったら冷たくなっていた。特に大きな病気があった訳じゃない。大往生だ。

「ばあさんってでも確か大正生まれだろ? いいのか、今と大分テイストが違うぞ」

「いいの。それに私がそうしたいんだ」

 おばあさんから受け取ったものはたくさんある。それを忘れない為にも名前の一部を引き継ぎたかった。

「咲江ってどう?」

「ばあさんが文江だったからな。しかし一気におばさんっぽくなったな」

「殴るよ?」

「ごめん」

 名前が変更され、婚姻届けが受理された後も大変だった。具体的に言うと、夜が。

「ねえ、そっち行っていい?」

 反対側の布団で寝たふりをする大吉さんに声を掛ければ「ううん」と返事なのか寝返りなのかよくわからない反応が返って来る。

「返事ないから行くからね」

「ううん」

「なんで頑なに嫌がるわけ!」

 第一子である大介を授かるまで、この攻防があと数回続くことになる。

 うちの旦那は超絶奥手だった。

 子供ができると、今まで以上に女性としての責任感を感じることが多くなった。

「これはなんですか、大介さん?」

「ぶーぶー」

「はい。ぶーぶーですね」

「なんだその口調」

 大介に絵本を読んでやっていると大吉さんが横からやって来て茶々を入れてきた。

「子供の情操教育っていうか、子供って親の言葉をすぐに真似たりするでしょう? 汚い言葉を使う子になって欲しくないから」

「そうか。しかしますますばあさんみたいになってくな」

「おばあさんは私の理想だから」

 女性として、母として生きていく上でおばあさんが私に与えてくれたものが如何に大きかったか日々痛感させられる。

 掃除、洗濯、炊事といった家庭の技術に加え、女性として生きていく心構えもおばあさんから教わった。

 私が元男だと伝えるととても驚いていたけれど、それなら戸惑うことも多いだろうと言って、通常であれば小さい女の子がお母さんに習うようなことまで丁寧に一つ一つ教えてもらった。

『大吉さんは少しデリカシーに欠けますからね。嫌な時は遠慮なく口に出すのですよ。夫婦円満の秘訣は互いに無理をしないことです』

 おばあさんとの日々は私の宝だ。口調をまねるのもあくまで尊敬の延長だ。

 とはいえあくまで目的は子供の教育の為だった。それが癖になってしまい、子供が大きくなってもずっと続くとは思わなかったけれど。

 

 

 玄関で靴を履き替えていると、大介を抱えた夫が見送りに来た。いつもの自信たっぷりな様子と違い、眉が若干下がり不安そうに見える。

「本当に俺もいかなくて大丈夫か?」

「平気です。相変わらず心配性ですね」

 ふふふっと微笑むと、大吉さんは「だって場所が場所だしなあ」とあくまで不安を隠さない。

「いつまでも逃げているわけにはいきませんから。この子もいますし」

 そっとお腹を撫でる。先日産婦人科に行けば三か月と診療された。男の子になるか女の子になるかまだ分からないが、生まれて来る子供の為にも憂いはなくしておきたい。

「頑固だな」

「心配をかけてごめんなさい」

 肩をすくめて苦笑する旦那。小さな手を振る息子に見送られ、私は藤原の家へ向かった。

 電車とバスを使って四時間余りかけて四年ぶりに帰ってきた。

 町の景色は時間が止まっていたのかと錯覚するほど変わっていない。

 こんなに色あせた町だっただろうか。

 家に近づいても懐かしいという気持ちは一つも起こらなかった事が逆に不思議だった。思い入れがなくなることはげに恐ろしきことかな、ということか。

「サク。お帰り」

 門の前に姉さんがいた。会うのは二年ぶりだが、また少しやつれた印象を受けた。

「みんな中にいるわ。父さんには、その」

 言いにくそうに淀む姉。この人には面倒な役を押し付けてばかりで申し訳なくなる。

「線香くらいはあげますよ。それくらいの常識は持ち合わせているつもりです」

 先日父親が亡くなったと姉さんから電話を受けた。

 悲しくはなかった。そうかと淡々と思っただけだった。

 家を追い出された日から終ぞ会う事はなかった。随分早くに亡くなったんだなと、他人のような感想を持った程度だ。

 私の反応を半分予想していたのか、姉さんは深く追求をすることはなかった。その日は何事もなく終わったのだが、昨日また姉さんから電話がかかってきた。

『父さんからサクへ遺言状が出てきたのよ』

 それは遺産の分配についてだった。

 私はもう藤原から籍を抜かれているし、姉さんも一時は戻そうと動いてくれそうになったが私がそれを固辞した。いまさら遺産を受け取る筋はないだろうと。

 だがそれを許さなかったのが分家の人間たちだ。

 呪い子に残された遺産など気味が悪いからと私に引き取るように要請してきたのだ。

 勝手な話だと思ったが、姉さんが心底困り果てている様子だったのでわざわざ足を運んだ次第だった。

 

 部屋に入ると懐かしい線香の匂いがした。

「こっちよ」

 姉さんが先導して歩く。この家は部屋数が多すぎてどこになにがあるのか住んでいても分からなくなるほどだ。

 暫く歩くと、だんだん人の声が大きくなってきた。

 襖越しで最も声の大きい部屋の前まで来ると、姉さんは立ち止まって私の方を振り返った。その目には本当に大丈夫かという色が見えた。もう子供じゃない。

 室内に入ると騒がしかった声が水を打ったように静まりかえった。

 四十、五十代のおじさんが一斉に自分を非友好的な視線で見つめてくることは非常に不愉快極まりなかったが、それを無視して姉さんの後に続いた。

「これよ」

 手渡されたのはズシリと重たい木箱に、一通の手紙。

「父さんの手紙よ。中は見てない」

 表面に『咲弥へ』とある。なるほど、確かにこれは自分のものだ。

 中を読んでいる最中、警戒心が薄まったおじさんたちが私の悪口を言い始めるのが聞こえてきた。

『あれが呪いか』

『気味が悪いの。あれは咲弥だろう? 女にしか見えん』

『馬鹿め、あいつは女になっておるのだ。汚らわしいのう』

 好き放題に吠えるがいい。

 手紙を読み終えた私はそれをポケットにしまった。

「なんて書いてあったの? サク」

「どうでもいい事ですよ。それと、これ姉さんが受け取ってください」

 木箱ごと姉さんに渡す。姉さんは戸惑いこそすれ、他の親戚一同と違い嫌な顔はしていない。

「何が入っているかさすがに姉さんも見てるでしょう?」

「だけど、これはあなたの物よ。いいの?」

「もともと何が手に入っても置いていく予定でしたから」

 私の置いていくという言葉に反応したのだろう。

 外野がけたたましく騒ぎ始めた。

『置いていくとはどういうことだ咲弥!』

『われらに災厄を置いて帰るというのか』

『かつては本家の家長となると言われていたお前が情けないな咲弥』

「咲弥咲弥とうるさいですねあなた達」

 まさか私が言い返すと思っていなかったのだろう。

 ドスの利いた私の声音に一同が黙った。

 手紙には二つの事しか書いていなかった。

 遺産として金を残すという事。あの木箱の中には金塊が入っているはず。現金を好まないあの父親のやりそうなことだ。現金を何かの形に変えることをあの人は好んだ。

 そしてもう一行には短く『私が間違っていた』と書いてあった。

「大体誰ですか咲弥って」

 もう一度周囲をぐるりと見渡す。この私に異見を唱えるなら言ってみろ。昔と違い全力で戦ってやるぞ。

 私はこの場に来て再び家との繋がりを求めに来たのではない。

 むしろその逆だ。

 姉さんが今まで辛うじて繋いでくれていた部分を、はっきりと断ちに来たのだ。

「私の名前は綾峰咲江です」

 あの時泣いていた十七歳の少年はもういない。

 私は、もう一人じゃない。

 




過去編これで一旦おしまいです。他にも枝分かれして書きたい部分とかあるんですけど、長くなるし暗くなるしで少し保留です。次は公麿と平等橋の話に戻します。鬱度0%の話にしたい。


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平等橋と合コン

 部活の後の男どもはテンションが高い。

 とりわけあまり部活動が熱心でないと言われているこの高校の中でもまだ精力的な活動を行っているサッカー部では。きつい練習を終えた解放感から知らずテンションが上がるのだろう。

 更衣室とは名ばかりの、各運動部の部室が並立するグラウンドのプレハブ小屋の集合体。その一室で俺は裸で叫びまわる仲間たちを横目に今日もこいつら元気だなーと苦笑をしていた。全然嫌いじゃないぜこのアホさ加減。

「静かじゃんまーくん?」

 後ろから大きな衝撃があったと思えば、肩口からにゅっと首が生えてきた。

「そりゃな。結構しんどかったし」

「またまた。キャプテン様は言う事が真面目になりますね?」

 お茶ら気た感じはこいつの持ち味なんだが、練習終わりに絡まれるとちょっと鬱陶しい。上半身裸で密着されるのも最高に不愉快だし。

 俺をからかう様にやってきた同期の望月から逃げるように身を捩ると、「まーくんったら照れ屋~」と返ってきた。めんどくせえ。

 公麿とのごたごたがあった時期と並行して俺はサッカー部のキャプテンに任命されていた。

 適任者が他にいなかったってだけだが、前キャプテンに「あとは任せた」と言われちゃ責任が肩にのしかかるものである。キャプテンの仕事はどこの学校でもそうかもしれないが、メインはクラブの代表だ。委員会や顧問の報告、練習の切り出し等率先するのが仕事だ。その際チームメイト達がしっかりついてきているかだとか、不満は抱いていないかだとか細かな所まで気を配る必要が出てくる。そうした小さいところが試合のプレーに影響するからだ。もちろんこんなこと俺だけじゃとても手が回らないから副キャプテンや同期の仲間たちに助けてもらってる。だが一方でキャプテンになって改めて同期や後輩たちが好き勝手に暴れまわってるのが分かった。練習メニューの「俺はこうした方がいいと思います」勢の存在だとか。こいつらこっちに言ってくれるのは全然いいんだけど、一度みんなで同意したメニューをガン無視して自分たちで勝手に始めるから統率が取れなくなる。他にも遅刻魔だとか、サボり魔だとか、ラフプレーを屁でも思わない悪辣漢だとか。就任当初は随分苦労させられたものだ。みんなアクが強すぎる。前キャプテンはこれを纏めていたのかと感心させられる。

 プレイはぴか一だが、マイペース代表の望月は「まーくんは真面目だからなあ」と肩を叩いてくる。お前が後輩を誑かしてるのは知ってるんだぞこの野郎と一言いいたくなる。言ったら面倒だから言わないけど。

 望月のどうでもいい話を適当に聞き流していると、ロッカーに置いているスマホがぶるぶる動いた。

「なに、彼女?」

「あー、まあな」

 公麿から『図書委員手伝ってるから迎えに来て』とメッセージがきた。こいつはここ最近放課後に図書室にいることが多い。本が好きになったと主張してくるが、明らかにこっちの終わる時間に合わせているのがバレバレだった。指摘したら拗ねて待っていてくれなくなりそうなので言わないが。とはいっても毎日ってわけじゃない。週で言うと二度ほどだ。美術部がない日だけ待ってくれている感じだ。後は裕子や柊や楠といった普段教室で一緒にいる連中の部活がない日なんかは何も言わず帰っていたりする。そんな日は結構気分が下がったりするんだがこれもまた公麿には言っていない。

 図書委員でもない公麿がどうして手伝っているのかは不明だが、あのお人よしのすることだ。きっと後輩か誰かが困っていたから手伝ってしまったんだろう。それでも以前までは『図書委員手伝ってるからちょっと待ってて』となっていたのが迎えに来てくれとなったのだから大したものだ。俺相手だから気を遣わず言ってきてんだろうって伝わって来る。露骨な愛情表現なんかよりずっと嬉しくなるんだから不思議なもんだ。

「まーくん知ってる? 君らの存在って周りから随分羨ましがられてるって」

「なんだよそれ」

 女子生徒と頻繁に付き合っている望月が、顔を引きつらせているなんて珍しいこともあるものだ。少なくともお前は興味ないだろと言いたくなる。

「だって今まで誰と付き合っても淡白だったまーくんがデレデレで校内うろついてるし? 同じく女になったってかなり特殊だけど男の時から男子に人気のあった綾峰ちゃんとでしょ? しかも前の放送」

「あれはもう散々弄り倒しただろお前ら」

 放送という言葉を聞きつけたのか、ほかの部員まで「おう、またあの話か」と寄ってきた。やべえ、マジでうぜえことになってきた。

 少し前楠に仕掛けられたせいで俺と公麿が付き合っていることを校内放送で流されたという事故、もとい事件が発生した。

 公麿は裕子のかん口令があるから多分そこまで弄られてないだろうけど、俺はもういろんな人にそのことで弄られ倒した。

 顧問に会えば「よう色男」とからかわれ、担任に会えば「応援しているからね」と強く手を握られる。授業中では俺が先生の出す問題に正解すると「数学は答えられるのに告白の返事が出来ないのはどーしてだ」とクラスメイトにからかわれることもしばしば。そして放課後かなりの時間を共にしている部活仲間たちだ。

 こいつらの対応は三者三様。

 単純に上の人たちみたいにからかってくるタイプ。

 この人ら校内放送つかって何やってんだよと一歩引いてみてくるタイプ。

 そして、

「おう平等橋、お前いつになったら別れるんだよ」

「てめえが綾ちゃん独占するのは反吐が出んだよ、あぁあん?」

「落ち着けお前ら」

 公麿信者の死ね死ね攻撃である。

 公麿が男子にも人気が高いことは知っていたつもりだったが、まさか部活の中でもその数がかなりいたことに驚愕させられた。男の時から公麿と仲の良かった俺が憎たらしくてしょうがなかったと告白された時はどうしたらいいのかと途方に暮れたものだ。

「まーまー落ち着きたまえよ諸君」

 珍しく望月がいきり立つ男共を押さえた。いやほんとマジで珍しい。どういうつもりなんだ。いつも火に油を注ぐ行為に精を出す男なのに。

「まーくんを責めてもキミらが惨めな現実は変わらないそうだろう?」

「殺すぞ望月!」

「てめえも挽肉になりてえか!?」

 血気盛んな男子高校生を挑発するのはよせ。

「話は最後まで聞きたまえよ童貞諸君。そんな君たちに朗報だ。いい知らせがある」

「朗報って時点でいい知らせと意味重複してんだよ! 殺すぞてめえ!」

 駄目だ。部員の何人かの目が血走り始めた。恐ろしいのが、この反応を示しているのが同期の二年だけじゃなく一年も混ざっているってことだ。無礼講もここまで行くとどうなんだと思う。先輩後輩の垣根が薄いこともこの部活の伝統みたいなところはあるが。

「なんだあ? この猿ども。いいのか? 良い話なのにいいのか?」

「おい誰か縄もってこい。プールに沈めんぞこいつ」

「警察にばれないかな」

「なあに水泳部と協力すれば証拠は残らねえよ」

 望月が逆切れしたところで更にキレ返す部員ども。しかしこの光景も見慣れたものだ。望月のこちらをかなり馬鹿にしたような発言に全員がキレて、望月がキレ返す。でも仲が悪いわけじゃない。

「隣の女子高と合コンセッティングしてやったぜ?」

 水を打ったように静まり返る部員ども。次いで絶叫。「うおおおおおお! さすがは我らが望月様!」と望月礼賛の嵐が巻き起こる。バカばっかりだ。

「静かに。これには向こう側からの条件がある!」

 人差し指を掲げる望月に、部員どもは訓練された犬のように黙り、息を呑んだ。

「平等橋正義を参加させよとのことだ」

 怒りの矛先が俺に向いた。納得できねえ。

 

 

 

 翌日、学食で飯を食い終わり教室に戻ろうとしていると向かいの廊下から公麿と柊が歩いてくるのが目に入った。

「あれ、バッシーじゃん」

「ほんとだ」

 柊が気付くとおーいと手を振って来る。横で公麿も小さく手を振りかけ、やっぱりやめているのが面白かった。

「なんか元気ない?」

 俺が口を開く前に公麿がやや眉を下げて尋ねてきた。こいつの人の機微を察する能力はなんなんだと時々怖くなる時がある。

「いや別になんもねえよ」

「嘘だ。顔色ちょっと悪いもん」

「熱はねえよ?」

「そういうのではないんだけど」

「そこ唐突にいちゃつき始めるのやめてくんないかな?」

 柊が咳ばらいをすると公麿が飛び跳ねるように俺から離れた。ほんとこいつの気を許した人間に対するパーソナルスペースの狭さは如何なもんかと問いただしたくなる。

「マロちんじゃないけど、なんかあったの? 向こうから歩いてて難しい顔はしてたよ?」

 柊が気付くってことはよっぽどってことなんだろう。思わず乾いた笑いがこぼれそうになるのをぐっと堪える。

「私にも言えないこと?」

 公麿が不安そうな声音で尋ねる。やめてくれ、隣の柊の目つきが今ので五割り増し鋭くなる。これでも柊だったからまだましだ。裕子か楠だったらさっきのだけで小一時間ネチネチ責められ続けただろう。というかこの三人の公麿に対する異常な愛着はなんなのか。公麿を見ていると庇護欲が掻き立てられるってのはありそうだが、それにしてもきつい。泣きそうだ。

「いや、その、えっとだな。ほ、放課後話す!」

 話すにしても、とてもじゃないが柊がいる横で話す勇気はない。

 逃げるように会話を打ち切った俺は、二人の声を無視して振り切った。

 

「合コン?」

「まあ、平たく言うと」

 ふーん、と隣に歩く公麿が言った。どういう意味での「ふーん」なのか凄く気になるが、聞くに聞けない。

 先日部活終わりの更衣室で望月が持ち出した合コンの話。

 どういうわけだか向こうに俺を知っている女子がいるらしく、俺が行くなら人数を整えてやってもいいということらしかった。

 当然俺はそんなもん興味ないし、なにより相手がもういる。その日は断って帰ったら、翌日から授業中、休み時間関わらず部員からの嫌がらせが始まった。

 10人単位でLineのスタンプ投下、『行くって言え』と書かれた紙を丸めて授業中にぶつけられる、休み時間の度にトイレに呼び出されてネチネチ懇願。

 そして昼休み、望月が「これまーくんが行くて言うまであと二か月は粘るからね?」の一言でとうとう折れる羽目になってしまった。

 これが卒業まで、なんて言われたら途中で飽きるだろと無視できたんだが、二か月はリアルすぎる数字だった。あの馬鹿どもだったら平気でする。どれだけ出会いに飢えているんだあいつらは。

 それに、お前は彼女がいるからいいよなと言われるのがうざかった。公麿から連絡が来るたびに騒ぐし、昼休みに話すこともできなくなるし。あいつらに相手が、全員が出来なくても一人でも出来たらそっちに意識が分散されるだろうという薄暗い意図があったことも確かだ。

 だが行くと言ってしまった以上通さなきゃいけない筋はある。

 公麿だ。

 俺の中で浮気の気持ちは一切ないと断言できるが、それを公麿に伝えなければいけない。こいつは口には出さないが人一倍寂しがり屋だし、独占欲も強い。困るのはそれを直接言ってこないことだ。寂しいのに、どこかに行ってほしくないのにこいつは口ではなにも言わない。ただ悲しそうな眼を向けて来るだけだ。

 それで泣かれた日には俺は俺が情けなくなる。

 世の中には彼女がいても合コンに参加する奴なんてごまんといるだろう。今回の俺みたいに、自分が行かなきゃそもそも会が成り立たない場合だったり、全体の盛り上げ役だったり、出会いを求める以外の理由だ。

 しかしそんなの行った奴の都合だ。見てる側はどんな目的かなんてわかりゃしない。

 放課後、一緒に帰ろうとわざわざ誘って今日は美術部があったというのに、俺は公麿と帰っているのはそれを説明するためだった。

「望月って前クラス合宿の時に絡んできたあのチャラいのだよね?」

「え、ああ。よく覚えてるな」

 公麿の返事に一瞬遅れて返す。声音は特に怒っていたり悲しんでいる様子はない。

「平等橋も大変だねー。いいよ、行ってきたら?」

「え、マジ?」

 あまりにもあっさりした返事だったので思わず公麿の顔を覗き込んでしまった。彼女は「なんだよ」と心外そうに頬を膨らませる。

「私だってなんでもかんでも嫌がるわけじゃないぞ。そりゃ、ちょっとは嫌だけどさ。お前モテるし、私は、こんなだし」

 自分の胸に手を当てる公麿。胸の大小という話ではなく、元男だという事実を言っているのだろう。

「でも付き合いじゃん、そういうのって。断ったら平等橋が変な感じになっちゃうだろ」

「公麿……」

「あ、でも、その、あれだ。気になる子がいたとか、Line交換した、とかはやめて欲しいな。いや、でもそんなこと言うのもめんどくさいか……」

「しねえよそんなこと」

 俯く公麿を安心させるように彼女の頭をわしわし撫でた。セットが乱れると脇腹に拳が飛んできたが、いつもより威力は弱かった。

「あとでどんな感じだったか教えてよ」

「興味あんのか?」

「一回どんなもんか知りたいじゃん」

「お前は行かないでくれ……」

 なんだそれと呆れた顔をされた。

 

 

「ミナでーす」

「サヤカです」

「モカで~す」

 土曜日の昼。部活が終わって引き連れられてきたカラオケで四人の女子がいた。隣の女子高っていや格式ばっててお嬢様って感じが俺の中であっただけに最初の三人には目を丸くさせられた。化粧が濃い、というか、ギャルっぽい。

 アイシャドウやリップの色が強くてとても同年代とは思えない。顔は隣の馬鹿どもが唾を飲み込むほどだから整っているんだと思うが、どうにもな。やはりまだ女性を強く連想させられる化粧品は俺の中で抵抗が強いのかと勝手に落ち込まされる。おかしいな、おかしくなってた時の公麿のアレは普通に可愛いと思えたんだけどな。そういや最近あいつも薄っすら化粧し始めてんだよな。あれ、どうしてそっちは大丈夫なんだろう。

「まーくん、まーくん、自己紹介、出番」

 望月に腕を引っ張られて意識がどこかへ飛んでいたことに気づいた。

「あーっと、平等橋正義です。一応ここにいるサッカー部の奴らのキャプテンやってます」

 両陣営からお~っという歓声が上がる。いらねえそれ。

 なんとなく周囲を見渡していると、対面に座る一人の女子と目が合った。あれ、この子どこかで。

「なになにバッシー。さっそく行っちゃうわけ?」

 テンションの上がったバカ一人がマイクを使ってハウリング。うるせええええ。

「夏奈だよ。覚えてない?」

 四人の中で化粧がすごく薄い。

 夏奈という名前はすぐに出てきた。

「柳本?」

「え、まさか今気づいたの?」

 望月が茶々を入れてくる。

 無言で肯定をしてしまえば、この場はきっと「えー、ないわー」みたいな感じになってしまうだろう。それは避けねば。

「んなわけねえじゃん。ちょっとオーバーにリアクション取ってみただけ。マジっぽかった?」

 なにそれ受ける~と全体から飛んできた。柳本もきゃっきゃ、きゃっきゃと笑っていた。人間変わるもんだな、と化粧以外全体的に崩しまくったイメージを与える中学時代の知人を見て思った。

 

 柳本夏奈と付き合っていたのは中学二年の時分だった。

 親父が倒れたりとか、姉貴が社会人なるかならないかくらいの時で、俺が最も荒んでいた時期の一つだったと思う。

 柳本はその当時結構仲の良かった友達の女子から紹介されたってやつで、第一印象は内気な女の子だった。

 付き合ってほしいと頼まれたのはそこからすぐだったが、あまり長続きはしなかった。

 俺がその当時今以上に女性不振だったこともあったけど、性格が合わなかったというのが大きい。

 好きなものとか趣味趣向は人それぞれだし、その部分で共有できなくても問題はないと俺は思っている。俺と彼女とでは価値観が共有できなかったことが最大の理由だった。

 食べ物も、映画も、景色も、なに一つ共感をすることが出来ない。

 逆にここまで合わない人も珍しいと俺は驚いていたほどだ。

 だが、そこでさっさと別れればいいのに俺も彼女も今度こそはという思いからずるずる先延ばしになった。先延ばしといっても、ほぼ最初の段階で合わないなと思っていたので、それを続けるってことはたとえ二か月という短い期間でも苦痛のような期間だったと思う。

 彼女は明らかに退屈にしていたし、俺もそうだった。だから俺から別れを切り出したんだが、後日柳本を紹介した友人にたいそう詰られた。

 女ってやつはこれだからと益々女性不振を加速させた相手。

 それが柳本という中学の同級生だ。

 

 顔かたちは変わっていないが、あの頃より大分チャラくなったな。と、隣でラブソングを歌う彼女を見ながら思う。そう、隣だ。

 自己紹介が終わって全員が一曲ずつ歌い終わると、席替えをしようと望月が切りだしたそうだ。トイレに行っていて俺は知らなかったが。戻って来ると俺の横が望月じゃなく柳本に変わっていて驚かされた。順当に考えたら当然か。この場で俺が知ってる女子は柳本しかいない。つまり会を設定した女子側の幹事は柳本という事になるのだろう。俺を呼びだしたってことは俺に話しがあるってことだ。

「どうだった?」

「うまいじゃん」

 歌い終わると柳本が訊いてくる。普通だと思うが正直に答えるのはまずい。普段聞きなれてるのが上手いから比較してしまうんだよな。そういうの悪いって思うんだけど心の中くらいは正直でいたい。

「正義くんはなんていうか、独特だよね」

「いいよ普通に下手で」

 それでいつも散々からかわれているし。

 皆めいめいに話し始めているので、いつしか俺と柳本二人で話し込むという構図になっていた。

「柳本結構変わったな」

「そう? どんな風に?」

「どんなって……」

 ギャルくなった、チャラくなった。

 外見はそうだが、何よりも中身が変わった、ように思う。内気な印象は微塵も残っていない。

「正義くんと別れてからいろいろ試行錯誤したんだよ。正義くんも結構変わったよね」

「……俺が?」

 急に俺の話になって反応が遅れる。

「変わったよ。なんて言うのかな、優しい感じになった」

「変わってねえよそこは」

 笑わすつもりはなかったが、柳本は噴出した。そこまでおかしなことを言っただろうか。

「冷たかったじゃん。付き合いはじめた時とか、化粧した日とか、あと最後の方とか」

 言葉を詰められされた。意識していなくても相手に伝わっていたらしい。

「今日化粧薄いでしょ? 本当は普段もっとすごいんだよ」

「そうなのか?」

 尋ねておいてなんだが予想はついた。周りを見てれば柳本が如何に浮いているか分かる。きっと普段は柳本も他の三人と同じ感じなのだろう。

「正義くんに会うためにね。今日は特別。ねえ正義くん、今彼女いるでしょ」

「いきなりなんだよ」

「私も彼氏できたんだ」

「……そうなんだ」

 会話の意図が読めず、視線を彷徨わせる。

「あんたなんかより全然いい人なんだから。今日はそれを確かめに呼んだだけ。期待したなら残念でした」

「期待ってなんだよ」

 俺の問いには答えず、柳本は「しーらない」とそっぽを向いた。

 その後は皆を交えてゲームをしたりそこそこ盛り上がっていた気がする。ただ柳本の表情だけは最後まで見ることはできなかった。

 

 

 その夜、家に帰ると公麿がいた。

 姉貴の姿が見えないのが不思議だったので尋ねると、「コンビニに宅配頼みに行ったよ」との答えが返ってきた。

「どうしたの? なんか疲れた顔してるけど」

「そう見える?」

「見える」

 待っててと公麿は席を立つと、台所でお茶を沸かし始めた。こいつだんだん俺んちの食器の位置とか把握し始めてるんだよな。

 公麿の入れた茶を飲んでいると、「合コンどうなったの?」と聞いてきた。話の流れから聞かれるのは当然だ。

「楽しかったよ。そこそこ」

「そうなんだ。じゃあそれは楽しさ疲れ?」

「……でもねえなあ」

「なにがあったんだよ」

 軽く笑いながら訊いてくるが、公麿の目からは心配の二文字が浮かび上がっているように見えた。

 こいつに隠す必要もないか。誰にも話したくはないが、公麿には話したかった。

「昔の自分がどれだけ幼稚だったか再認識させられたんだよ」

 俺は今日の事の顛末を公麿に話した。柳本の話は中学の時から遡って話した。

 話し終えると、公麿は難しい顔をしたまま腕を組んで黙った。

「複雑な気分になるなあ」

 ぽつんと零した言葉に、そうだよなと同意すると「違うよ」と返って来る。何か間違えたのだろうか。

「その子、柳本さんだっけ、にだよ」

「柳本に?」

「話しぶりからすると彼氏がいるなんて嘘だもん。それか、本当にいるかもしれないけど」ちらっとこっちを見る。

「何?」

「お前鈍感だもんなあ」

 公麿はぐっと背を伸ばした。真剣な話をしている最中で申し訳ないが、セーターを着た状態でそれをされると非常に目の毒だ。胸の形がはっきり浮き出てくるから勘弁してくれ。

 顔ごと横に向けると「なんだよいきなり」と不機嫌な声が飛んでくる。今までの会話で不機嫌にさせる部分があったとするなら、多分さっきの“鈍感”の所だろう。

「その子まだお前の事好きだよ」

「分かるかよんなもん」

「じゃなきゃわざわざ化粧薄くしてまで会いに来ないし、今の自分を自慢するために呼んだりもしないだろ。それで会ってみたら相手にはもう彼女がいるんだろ、強がりも言いたくなる」

 それに、と一息入れる。

「あれだけ頑なに女嫌いを通してたお前が優しい雰囲気になってるんだ。相手の人には絶対に勝てないって思うじゃん。ふつう」

 その相手がどうっていうのは別にと今度はごにょごにょ口を噤む公麿を見て、ようやくなぜ柳本が突然あの場であんな事を言い出したのか分かった。なるほど、確かに俺は鈍感かもしれない。

「仮にそうだとしても、俺にはもう相手がいるし」

 公麿を見つめれば数秒で目をそらされた。地味に傷ついた。

「正義」

 公麿が突然俺の名前を呼んだ。

「え、なに急に」

「名前、下で呼ばれてたんだろ」

 誰にとは聞かなくても分かる。こいつ気にしてたのか。

「これからは私も呼ぶから」

「張り合うところか?」

「お前って時々そういうところあるよな」

 胡乱げに見つめられる。

「呼ぶから、絶対」

「ああ、了解」

 ふんと公麿は鼻を鳴らした。

 



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桜さんと由紀ちゃん ①

 

 高校二年の冬、私は正式に美術部へ入部届を出した。今までなあなあにしていたけれど、もうかなり入り浸っているし部外者と言い切るのは難しくなったからだ。

 冬から入るなんて迷惑かもしれないと思ったが、餅田が「部員が増えればその分部費が増えるんですよ」とダメ押しのように言ってきたことで断る理由がなくなってしまった。

 今日の作業が終わった俺が、水道でパレットを洗っていると後ろから私を呼ぶ声があった。

 振り返ると上機嫌な後輩、明堂晶が後ろ手を組んでにこにこと近づいてきた。

「晶どしたん?」

「綾ちゃんこの後って暇?」

「別に用事はないけど」

 今日は部活があるから正義と帰ることはない。順当にいけば駅まで餅田と晶の三人で帰っておしまいだ。

「じゃあちょっと付き合ってほしい場所があるんだけど」

「いいよ。どこ?」

「えへへ~、秘密~」

 スキップしそうな勢いで踵を返す晶。えらく嬉しそうだが一体どこに連れていかれるのだろうか。

 俺と離れた後、彼女は後ろで片づけの作業している二年の部員に絡みに行っていた。その様子をつい微笑まし気に見てしまった。

「あの子もだんだん慣れてきましたね」

「餅田。帰ってきてたの?」

「ええついさっき。全く、石田先生はたまにドジを踏むから困ったものです」

 ふんと鼻を鳴らす餅田は、さっきまで来年の美術部に関わる書類を顧問の石田先生に渡しに行っていた。本来なら後期が始まる九月に提出していたものだが、各部の整理を担当していた石田先生が美術部のものだけ紛失してしまったらしい。たまにポンコツ気味なところがあるからな、石田先生は。

 幸い個人名等プライバシーにかかわる情報が記載されている書類じゃなかったので、部長の餅田が時間を割くだけで大事にはならなかったみたいだが、どうして私がと餅田はぷりぷり怒っていた。後でなんか奢ってやろうと思う。

「それはそうと、公麿ちゃんってやっぱり人誑しだと思う。どうやったらあんなに懐くのかしら」

「人誑しって、そんな」

 おそらく晶の事を言っているのだろう。

 少し前一年に転校生としてやってきた晶。彼女と平等橋をめぐっていろいろあった後、俺は彼女を美術部へと誘った。

 初めのうちはやはりぎくしゃくしたところがあった彼女だが、段々と生来の明るさを取り戻していき、今ではすっかり活発娘へと変貌を遂げていた。威嚇染みた態度から始まった彼女だが、おそらくこれが素なんだなと思う。ただ本人曰く美術部以外ではまだクラスの中で微妙な立ち位置にいるのは変わりないらしく、その分ここで発散しているのではないかと私は推測している。

 だがそれを抜きにしても晶の変化は好ましく思う。ただ餅田はその変化の一端に私が深く関わっているという。

「付きっ切りすぎでしょ公麿ちゃん。部に来るなり一緒にこれしよう、あれしよう、これは分かるか、あれはどうかって。あんなことされたら誰でも懐きますよ」

「だって、周り殆ど晶と学年上ばっかだし、連れてきたのは私だからさ。それにそういうことって普通じゃない?」

「あなたは自分がどういう存在なのかよく理解していないところがありますね」

「どういう存在って……」

 餅田は私の事を過剰に持ち上げるところがある。好かれているというのは嬉しいけれど、行き過ぎたところがあってたまに引いてしまうところがある。

「大げさじゃなくて、公麿ちゃんってここじゃかなり有名なのよ?」

「ああ、まあそうだろうけど」

「断っておくけど、付き合ってるのが誰とか、公麿ちゃんが女の子になったとかそういう理由だけじゃありませんよ」

 先に答えを塞がれてしまった。どういうことだ。

「なんにせよ晶にあんまり関係ないだろ。あいつはただ最初につっかかってきたってだけだし。私の存在云々って言うのはあいつには当てはまらないだろ?」

「思考放棄してるわね。まあそこについて別に深く言うつもりはないけど、そろそろ言わせてもらう事はあります」

 私の反論に餅田は別の角度で食いついてきた。

「明堂さんを呼ぶときの、その晶っていうの。あと綾ちゃんって愛称。それどういうことですか」

「どういうって……」

 じとっと湿った目で見つめられると尻の座りが悪くなる。どうも何も特に理由はない。

 晶が入部した当初は、私も彼女の事を「明堂さん」と呼んでいた。だがいつごろか、彼女の方から「よそよそしいから言い方呼び捨てで呼んでくれませんか?」と言ってきたのだ。

 後輩というものがどういうものなのかいまいちわからない私は、そういうものかと納得して彼女の事を呼び捨てで呼び、それと同時期くらいに彼女も私の事を「綾ちゃん」ないしは「綾ちゃん先輩」と呼ぶようになった。

 その呼ばれ方が新鮮なので受け入れていたが、餅田は一言もの申したいらしい。

「いや晶は別に私の事舐めてるとかじゃないと思うよ?」

「違うわよ。そんなこと疑ったんじゃなくて、あの子は下で呼ぶのに私はいつまで餅田なわけなのってことです」

 このセリフが照れていたり顔を赤くしていたらまた違った反応が取れたのだろうが、真顔で詰め寄られるその表情に恐怖しか感じなかった。

「み、美奈子?」

「よろしい。ところで明堂さんからはなんて?」

「それがよくわからないんだけどさ」

 私は片づけを再開させながら餅田に説明していると、ポケットに入れたスマホがぶぶっと振動した。誰かからメッセージが届いた。

「平等橋ですか? 殺しますか?」

「違うから殺さないで。お母さんからだ」

 ハンカチで濡れた手を拭き、メッセージ画面まで行く。読み進めてその内容に噴出した。

「どうしたの、風邪?」

「い、いや違う。違うんだけど」

 叔母さんが来るから駅まで迎えに行ってほしい。

 短い文章が私に与えた衝撃はなかなかのものだった。

 

 

 小さい頃、私は叔母の桜さんに大層懐いていたらしい。とお母さんは言う。

 その頃兄貴は小学校に上がり立てて、必要以上に私を遠ざけていた。加えてゆかりはまだ赤ちゃんで、遊ぶ相手が誰もいなかった。

 どういう理由だったか知らないけど、この時桜さんは我が家に長期間滞在していた。私はお母さんが家事で手が離せない時、よく遊び相手になってもらっていたのだ。

 親父の兄妹だというのに桜さんは全然強面じゃなくて、どちらかというとお母さんに近しい柔らかさを持っていた。背は凄く高かったけど。

 でもやっぱり親父の妹なんだなと思える場面は多々あって、それは遊びにもよく表れていた。

『怖いよお。高いよお』

『ばっか、ばか公麿! 男がこんな高さなんぼのもんじゃい! 行くぞ神風フライングアタック!』

 私を抱えた桜さんは遊びと称して時々公園に生えている高い木に登り、そこから飛び降りて笑うような人だった。今でも少し高いところが苦手なのは間違いなくその経験のせいだ。

 他にも車で二時間かけて川に遊びに行き遭難しかけたり、海釣りで竿事海に落ちそうになったりした。無駄に外遊びの規模が大きい人だった。

 親父にバレてこっぴどく叱られるというのがいつもの流れだったが、不思議と私は叔母の事が嫌いになれなかった。

 失敗して私が泣きかけると叔母は決まって笑った。

『やばい死にかけた。でも楽しいな公麿!』

 その笑顔がまぶしくて、綺麗で、私の記憶に鮮明に残っている。

 

 ただ、数々のトラウマ経験から私は叔母の事を嫌いではないけれど、ある意味でとてつもなく苦手になっていた。

 

 晶の誘いを後日に回してもらい、私は駅まで叔母を迎えに来た。

 そこまで広い駅というわけじゃないが、それらしい人はまだいない。会うのは二年ぶりだが、女性であれだけ背の高い人を見逃すはずがない。

「だーれだ?」

「ひい!」

 ひんやりと大きい何かに突然視界を奪われた。声だけで分かる。

「何やってんだよ桜さん!」

「あっはっはっは! 公麿は相変わらず元気がいいね! うん、グッジョブ!」

 大きく親指をたててはしゃぐ叔母さんがそこにいた。お母さんと数年しか歳が離れていないって言うんだから驚きだ。

 ぱりっとスーツにコートを着込み、キャリーケースを抱えた姿は完全に出来る女そのもの。なのにどうしようもなく子どもの部分がこの人にはある。見ようによっては美徳なのだが、被害に遭う私としては堪ったものではない。

「大体桜さんは……って、その子」

 桜さんに集中していて気が付かなかったが、ちょこんと彼女のコートの裾を掴んでいる小さな女の子がいた。

「ああ、紹介するね。ほら由紀。ご挨拶」

 とんと桜さんに背を押されて前に出る女の子。

「……」

 暫く待ってみたが、由紀と呼ばれたその子は一向に喋り出す気配がなかった。

 戸惑っているとか、恥ずかしがっているわけではなく、ただ黙っている感じだった。一瞬目があったと思えばすっとそらされる。誰かを連想させられた。

「あちゃー、やっぱ黙るか。へいドウター、君はいつからそんな無口な子になっちまったんだい」

「……だ、だっておかーさん」

 無言だった女の子が何かに焦るように喋り出した。鈴を転がすような綺麗な声だ。

 いや待て。

 引っかかるのはそこじゃない。

「お母さん?」

「ん?」

 桜さんが反応した。

「えと、誰が?」

「ん、私が」

「結婚したの?」

「したよ。先週」

「なっ―――」

 駅構内で女子高生の絶叫が響いた。

 駅員さんに注意され、それを見たうちの高校の奴がその噂を流した。お陰で数日間正義や裕子たちに弄られ続けることになるのだがそれはまた別の話だ。

 

 

「いやー、久々だとこの辺道わかんなくってさー。公麿がこの時間に帰って来るって咲ちゃんから聞いたから、だったらちょうどいいやってね。この辺も大分開発進んだよねー」

「うん。そうだね」

 隣を歩く桜さんは相変わらずお喋りで明るい。

 道中「そういえばどうして私だってわかったの?」と尋ねてみた。桜さんは異常なくらいお母さんと仲がいいから多分それ経由で伝わったんだと思う。それでも今の私は髪も伸びたし制服も女子のそれだ。パッと見ただけで分かるものなのか不思議だった。

 その問いに対し、「あんたみたいな美少女間違うわけないじゃん」と返ってきた。「咲ちゃんの時もそうだったしあんたら似てるからねー」と快活に笑われる。そういえば最近自分でもお母さんに似てきたような気がしてきている。将来あんな感じになるのかな。

 桜さんがたくさん話す分、全く話さない方にどうしても意識がいってしまう。

「……」

 無言で桜さんの側を歩く由紀ちゃん。桜さんの娘だという。

 私の記憶が正しければ桜さんはずっと独身だった。というか独身をいいことに人生好き放題に生きているなという印象だった。

 突発的に会社の有休を使ってエベレスト山脈に登りに行ったと思えば、インドに修行へ行くと音信不通になった時もある。破天荒な風来坊というイメージが強かったからこそ、結婚をしたという事実は私を大いに驚かせた。

「あのさ、由紀ちゃんっていくつ?」

 話がひと段落(あのスーパーが潰れてしまっただの、近頃ガソリン代が異常なほど高いだのどうでもいい話が中心だった)着いた頃、私はおそるおそる尋ねた。あの自己紹介から全く由紀ちゃんの話がなされなかったから気になっていたのだ。

「10歳だよ。今四年生……だよね? 由紀」

 自信がないのか、桜さんが隣に確認を取ると小さな頭が縦に揺れる。

「ていうかあんたら二人で話しなさいよ。間に挟まれるの窮屈なのよ」

 桜さんがぐいっと由紀ちゃんを引っ張って私の隣に来させる。

 実はこの道中で私は由紀ちゃんに避けられまくっていた。

 初めからその片鱗は感じ取っていたが、年下の子に嫌われる経験が今までなかっただけにどうしたらいいのか分からなかった。

 でもその存在を無視するのもどうかと思って、由紀ちゃんと目が合ったときは微笑んでみたり、三人が分かるような話題を提供したりしたつもりだったが、私の小細工は桜さんにはばれていたみたいだ。

 ばたばたと元の位置に戻ろうとする由紀ちゃんの頭を押さえ、爆笑する桜さん。

「え、ちょっと桜さん。由紀ちゃん嫌がってるし……」

「嫌がってない嫌がってない。この子照れてるだけだから」

「照れてない!」

 桜さんはほれほれさっさと話せと私に目でけしかけて来るが、顔を赤く染めて必死で抵抗を試みる由紀ちゃんを見ればそんな気起こるはずもない。

 桜さんがここに来た理由も、由紀ちゃんという存在も私には不明だ。頭が混乱してきた。

 やいやい騒がしい二人とは対照的に、私は内心げっそりとしながら歩いていると、対面からお母さんが歩いてきた。

「お、咲ちゃん?」

「遅いから出迎えに来ましたよ桜。いったいどこで油を売ってたんです?」

「めんごめんご。それにしても待ちきれないほど楽しみだった?」

「何言ってんのよ」

 ふうと肩をすくめて呆れるお母さん。桜さんと話す時だけお母さんは言葉が若干砕ける。昔からそれがなんとなくいいなあと思っている。

 ただ二人の仲が良すぎて、時々子供がおいて行かれることも多い。例えば今がそんな感じ。

 久しぶりに会うという事もあって、帰り道だっていうのに立ち止まってやいやい話を始める二人。当然私と由紀ちゃんはぽつんと放置だ。

「……先、帰っとく?」

「……いいです」

 勇気を振り絞って話しかけたが、あっさり首を横に振られてしまった。

 小さい女の子の拒絶って心にくるね。

 

 

 由紀ちゃんは桜さんが生んだ子供というわけではなく、相手の連れ子らしい。

 家に戻って、桜さんと由紀ちゃんが風呂に入っている間にお母さんが教えてくれた。

「仕事の都合で土日の間家を空けなければいけないらしく、その間由紀さんを見て欲しいと頼まれたんですよ」

 相手方の実家はかなり遠くで、近くに頼めるのがうちだけだったらしい。由紀ちゃんは今小学四年生だというが、それでもまだ小学生だ。一人で家を預ける不安は理解できた。

「それにしても桜さんが結婚してたって初めて知ったんだけど。どうして教えてくれなかったの?」

 台所で夕飯の用意を手伝いながら私が不満を零すと、お母さんは「その時公麿さんも大変な時期でしたから、伝える機会を逃してしまったんですよ。ごめんなさいね」と謝られた。あのあたりの時期か、なら仕方ない。

「まだ籍を入れただけですよ。でも式は桜はするつもりはないみたいですね」

「なんで?」

「そうですねえ、私もした方がいいと思うんですけどこればかりは桜の意思ですから」

 お母さんは何か知っているようだったけど、私にそれを教える気はないみたいだった。言わないってことはそれなりの理由があるのだろう。深く追求するのは違うと思った。

「たっだいまー! あれ、お客さん来てるの?」

 玄関ででかい声が反響した。相変わらずゆかりは元気がありあまりまくっている。受験生特有のぴりついた感覚が一切ないから逆に不安だ。

「お姉ちゃんお帰り! お母さんただいま!」

「なんで私はお帰りなんだよ……」

「おかえりなさいゆかりさん。風邪が流行っているみたいですから手洗いとうがいをしていらっしゃい」

 走って横スライドしながらリビングにやって来るゆかり。勢いのままタックルを受けるが、いつものことなので動じない。包丁持ってたらヤバいんだけど、お母さんはなぜかゆかりにその手の注意はしないんだよな。私がガンガン言いまくるからそのせいかもしれないけど。

 そのまま流れるように洗面所へと消えていったゆかり。

 そういえば。

 ゆかりが帰ってきたことで懸案事項が一つ増えてしまった。

『あああああああ! 桜ちゃん帰ってきてるううううう!』

『お? ゆかりおかえり~』

 風呂場兼洗面所の方からそんな声が聞こえてきた。出会ってはいけない組み合わせの再誕だ。

 

 



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桜さんと由紀ちゃん ②

 

 小学校高学年になると、私もさすがに桜さん離れというか、大人と一緒に遊ぶという行為に恥ずかしさを覚えた。

 その旨を伝えると、桜さんは「公麿も男になったね」とぐっと親指を立てるだけであっさり私を構うことはなくなった。

 普段のねちっこさから考えてもう何回か攻防があると予想していた私は、逆に寂しさを覚えるほどだった。けれど意地が勝って何も言えなかった。そういえば桜さんが兄貴に構わなくなったのも兄貴がやめてくれと言ったからだと聞いた。

 構わなくなったと表現すると、桜さんが私に冷たくなったとかそういうイメージを抱いてしまうかもしれない。でもそんなことは全然ない。相変わらず優しいし、たまに小さないたずらをしてくることも変わらなかった。あくまで遊び相手として全力で仕掛けて来ることがなくなったというだけだ。

 だが私が桜さんから卒業したことで、桜さんの無茶ぶりというか、欲望のはけ口というか、いままで私が担っていた部分がある人物に取って代わった。

 ゆかりだ。

 もともと私とゆかりは桜さんと一緒に遊ぶことが多かった。私は友達がいなかったし、ゆかりもお兄ちゃんお兄ちゃんといつも俺の後ろをついてきていたからだ。しかしそれでも年長という事でより危険なことは私が請け負っていて、ゆかりはあくまで私の横にいるというだけだった気がする。

 それが私がいなくなったことで、ゆかりは桜さんの壮絶な遊びに巻き込まれていく事になった。

 これもまた誤解のないように説明しなければいけないが、桜さんの方から一緒に遊ぼうと私たちに言ってくることは少なかった。向こうは社会人で時間もあまりないし、家に来るのもメインはお母さんと話をするためだからだ。

 だから遊ぶ場合はまず私たちの方から声を掛ける。遊びの内容の過激さから、どうして桜さんを遊びに誘ってしまったんだろうと後悔することが多かったというだけで。

 毎度毎度怖い思いをするが、その反動か桜さんの遊びは刺激に満ちていた。

 いうなれば桜さんの遊びは麻薬のように中毒性の高いものだったのだ。怖いのにやめられないし、なにより頻度は高いとはいえ桜さんが家に来るのはレアだ。遊んでもらわなれば損だという感情が先だった。

 これまで私が矢面になっていた遊びの主体がゆかりに変わったことでなにが起こったか。

 いろいろあるけれど、やはりゆかりが物凄く桜さんに感化されてしまったことが言えるだろう。

 私以上に行動力や知的好奇心に富むゆかりと桜さんの相性は抜群だった。

 私が引きながら行うことも、ゆかりは嬉々として行う。

 例えば、ゆかりが中学一年生の時。夏休みにアメリカ大陸を横断しようと桜さんが切り出した。俺がドン引きしている横で、ゆかりは嬉々とした表情で迷うことなく頷いていた。その日のうちに荷物を纏めていると、帰宅した親父に全力で止められて事なきを得たが、あと三十分親父の帰宅が遅ければ実行に移していたことは間違いない。お母さんはなぜか桜さんの破天荒さには弱いんだよな。何も言わないし。

 ゆかりは桜さんの事を心底尊敬している節があり、間違いなくゆかりの性格形成に大きく関わった人物であると言えるだろう。

 そんな二人が関わることを私はいつからか恐れるようになってしまった。

 いや恐れるというと語弊があるか。単純に面倒と感じる、か。両方を足して二で割った感情が一番正確かもしれない。

 どうしてか、それを詳細に説明するより今の状況を伝える方がより理解してもらえると思う。

「桜ちゃん、これお姉ちゃんの彼氏」

「ほう、公麿も立派になったもんだ。で、どこまでいったの?」

「それがキスもまだだって。手つなぐだけで手一杯」

「それじゃ彼氏もたまったもんじゃないでしょうよ。あ、逆に溜まっていく一方なのか」

「桜ちゃん上手い!」

「微塵も上手くねえよバカ二人!」

 げらげら笑う二人の頭を叩く。全く悪びれることなく詫びる二人を見て、やっぱりこうなるかと肩を落とした。

 ゆかりは中学、というか現在に至っても桜さんと一緒に遊ぶことが多い。それは恥ずかしくなって一緒に遊ぶことを止めた私との違いだ。

 ただその内容が運動やスポーツではなく私を弄るというものに変化した。

 本人たち曰く愛のなせる業と言うが、もっと生産的なことに時間を割いて欲しいと思う。

 たまにやって来る桜さんを捕まえてはゆかりは私の最近の写真や行動を逐一報告しては「あら~、公麿も大人になっていくのね」とにやにや笑ってくる。何度言ってもゆかりはやめないから早いうちから受け入れることにしたけど。

 それにゆかりがそんなことをしだした理由もある程度想像がついたということも大きい。

 ゆかりが小学校六年生に上がったあたりで、私も妹という存在が煩わしく感じられるようになった。

 何をする時も後ろについてくるし、自分一人でしたい時でも横にゆかりがいるからできない、なんてことも多かった。だから一時期ゆかりを遠ざけていた。

 横で騒がれても無視したし、腕を引っ張られるのも嫌な時は部屋に閉じこもった。

 ゆかりはそれが面白くなかったんだと思う。

 桜さんを使えば俺がゆかりを無視するなんてことはできない。無視し続けてもしつこいくらいに続けてくるし、あの人は私が無視できないポイントを知っているような節があるからだ。これを言えば無視はできまいだろうと言った風に。

 私が女になったことでゆかりが前にもまして私に構ってオーラを出す様になったが、それも一時期の無視期間が堪えているのではないかと予想する。

 しかしそれによりゆかりを無視することがなくなったので、桜さんと結託して私を弄ることはもうないと半ば願望に近い気持ちを抱いていたのだが、今の様子を見るにもうただ面白くなっているだけな気もする。

「そんなに怒りなさんなよ公麿」

 まだ腹を抱えてげらげら笑っているゆかりを置いて、一足先に復活した桜さんは「大変だったね」と優しい声を出した。

「いろいろあったのに今笑い話もできる。いい子だよあんた」

「別に……そんなことないけど」

「うわ、それ言うとあんたマジで似てるわ」

「……? 誰と」

「桜?」

「やばい聞かれた!」

 照れくさくてそっぽを向くと、桜さんは変な所に反応した。本当に何の事を言っているのか分からなくて聞き返したが桜さんは詳しく教えてくれなかった。どういうわけかキッチンにいるお母さんが無言で微笑んでいたのが怖かった。

 時刻は午後八時を少し過ぎたころ。

 夕飯を済ませ、今はリビングで一家団欒と言ったところだ。

 兄貴はバイト、親父は残業があるとかで、私、お母さん、ゆかり、桜さんと由紀ちゃんの五人だったけど。

 洗い物の手伝いを買って出た由紀ちゃんはお母さんと食器を洗っている。真面目で可愛いなあと思っていたが、桜さんがぼそりと「まだ照れてやがんな」と呟いていたので他に理由はあるみたいに思えた。

 由紀ちゃんと言えば、飯の時由紀ちゃんは随分ゆかりと話し込んでいた。私の時とは打って変わったように饒舌になる由紀ちゃんに私は深い敗北感とショックを隠し切れなかった。お母さんと桜さんがくつくつと爆笑していた事が余計に腹立たしかった。

 特にすることもないが、いつもの癖でリビングでごろごろしているとゆかりと桜ちゃんによる私弄りが始まったというわけである。

 余談だが、正義の話になるとゆかりがあいつの事をちょくちょくこけ下ろした。なんでか知らないけど私の周りの女性は正義に厳しい。本当にどうしてだろう。別にチャラいこともないんだけどな。別に私から正義の愚痴とかのろけとか話すことはないのに。

 さすがにちょっと可哀そうだなと思ったので、その都度軽いフォローを入れたのだがその度に桜さんが「そいつ本当に信用できるの?」と真剣な顔になっていったので話がおかしな方向に進んでいった。最終的に、話の流れで正義を桜さんに会わせるという事になってしまったので後であいつに伝えなきゃいけない。ちょっと憂鬱だ。

「面白い話をしていますね」

「あ、お母さん」

「咲ちゃんも混ざる? 自分の姪の恋バナ程聞くなんて私一人じゃお腹いっぱいでさあ」

「その話絶対しないから!」

 用事を済ませたお母さんが人数分のお茶を持ってやってきた。隣にはお袋の裾をちょんと摘まんだまま不安そうにこちらを伺う由紀ちゃんもいる。

 お母さんはあらあらと楽し気に私たちの炬燵に入ると、由紀ちゃんは素早い動きで桜さんの隣に腰を下ろした。ちょうど私の対極の位置だ。なんだ、本当に私なにか由紀ちゃんにしたのか? 初対面で小さな女の子に嫌われる原因が本当に分からない。

 結局その日、私は由紀ちゃんと一言も会話をすることはなかった。

 

 

「じゃあね由紀。また日曜の夜迎えに来るから。ていうかあんたなんつー顔してんのよ」

「……だって」

 朝早くに桜さんは我が家を出発した。

 見送りにお母さんと私が付き添った。

 私は由紀ちゃんに嫌われているみたいだし、わざわざ同じ空間にいるのもなあと思ったのだが、寝る前桜さんに直接頼まれたのだ。理由は聞いてないけど。桜さんに頼まれると条件反で頷いてしまう。やっぱり幼少期のトラウマは深刻なんじゃないかと脂汗が浮き出る瞬間であった。

 玄関で靴を履き替える桜さんの裾を掴み、半べそをかく由紀ちゃんの頭を荒々しく撫でる桜さんはかなり困った顔をしていた。由紀ちゃんにとって我が家は初めて来る場所だし、殆ど知らない人がたくさんいる場所だ。一人になる恐怖は私にも理解できた。

 桜さんは私にアイコンタクトで「あとは任せた」と残し、由紀ちゃんが服を放した一瞬を狙って逃げるように出ていった。

「おかーさん!」

「ちょ、ストップ由紀ちゃん」

 玄関を駆けようと踏み出したので、とっさに由紀ちゃんの手を掴んだ。

 掴んでから、振り払われるんじゃないかという考えがよぎり体が硬直した。しかし予想に反し由紀ちゃんの反応はおとなしいものだった。むしろ私が手を掴んだことで由紀ちゃんの勢いが弱まった気すらする。由紀ちゃんにとってはあまり好ましくなかっただろうが、桜さんが私を呼んだ役割くらいは果たせたのではないだろうか。

 とはいえいつまでも相手の嫌がる行為を続けるほど私もいい性格をしていない。

 素早く手を放し二度寝をしようと階段に足を掛けると、後ろから襟袖を掴まれた。カエルがつぶれたみたいな声が自分の喉から漏れた。

 涙目になって振り返るとお母さんがにこにこ笑いながら「どこにいくんですか?」と聞く。まだ何かすることがあっただろうか。

「朝ごはんの支度をするので由紀さんと少し遊んでいらっしゃい」

「じゃあゆかり起こしてくるよ。ついでだし兄貴と親父も起こそうか」

「公麿さんが、二人で、遊んでいらっしゃい」

 一節一節区切ってお母さんは私の言葉にかぶせるように言った。心なしか圧が強い。

 いやでもなあ。

 由紀ちゃんも嫌がるだろう。そう思い彼女を見れば、私とお母さんの両方を見ていた。

 話を聞いていただろうが、特に否定するそぶりはない。相手が嫌だと言わないなら、私から言うのも違うよなあ。

「えっと、じゃあ私の部屋くる?」

 控えめに提案してみれば、由紀ちゃんは小さく頷いた。

 

 由紀ちゃんを招き入れたはいいが、私の部屋に遊べるものは少ない。テレビゲームもリビングだし、この部屋に娯楽と言えば携帯ゲームと数冊の小説くらいのものだ。最近舞衣に押し付けられたファッション雑誌なんかはあるけど小学生が興味あるのか分からない。

 私の不安は的中したようで、部屋に入ってから由紀ちゃんは所在なさげに私を見つめるばかりだった。

 今まで年下の女の子と言えばゆかりしか知らないから、こんな時普通の女の子がどんなものを求めているのか分からない。ゆかりは桜さんと結託する時点で明らかに普通の音の子の枠から出ているのでそもそも論外だ。

 それでも由紀ちゃんにとっては年上の部屋が珍しいのか、単に私に期待することを諦めたのか、私が黙っている間に控えめに部屋を観察しているようだった。時折興味深そうに何かを見つめている。

「使ってみる? それ」

「……い、いいでぅ」

 話しかけられるとは思っていなかったのか、相手はびくりと肩を揺らして手を振った。焦りすぎて噛んだのか、恥ずかしそうに顔を伏せる姿が可愛い。ゆかりにはこういう小動物のような可愛さはない。

 由紀ちゃんが見ていたのは私の部屋に着実に数を増やしつつある化粧品だ。この年齢の女の子がもう化粧品に興味があるのか私には分からないけれど、多分あると思う。背伸びしたい年頃だし。ただまだ彼女に心を許してもらっていないのであっさり遠慮されてしまったが。

「あ、あの」

 さてどうやって時間を潰そうかなと考えていると、由紀ちゃんが緊張した面持ちで私に声を掛けた。相変わらず可愛い声だ。

「なに?」

「結婚する前のお母さんって、どんな人だったんですか?」

 顔を真っ赤に染める内容じゃないと思う。よっぽど私に話しかけるのが勇気のいることだったのだろう。彼女の方から来てくれたことに若干以上の喜びを覚えた。

 それに尋ねられた内容が微笑ましすぎて、思わず口角が上がってしまう。

「いいよ、じゃあ私しか持ってない桜さんの写真とか見せてあげる」

 お母さんや親父に聞けばより詳細に分かることだ。それでも私と由紀ちゃんとの接点なんて桜さんくらいしかない。

 懸命に歩み寄ろうとしてくれる女の子に、私は素直に乗った。

 

 桜さんの話は由紀ちゃんに大いに受けた。

 少し誇張した話にもなったけど、概ね事実の事を言うだけで由紀ちゃんはお腹を抱えてベッドの上で苦しんだ。桜さんを知らない見ず知らずの人にも桜さんの話はスベリ知らずだ。桜さんを知っている由紀ちゃんにとってはおかしくて仕方がない話もあっただろう。実際に経験を共にした私にとっては地獄だったことも多々あったが。

 ただ話をしたのが功をなしたのか、嬉しいことに朝食の時間になるころには由紀ちゃんはすっかり私に気を許してくれるようになった。

「おかーさんは朝弱いから、わたしがコーヒー淹れるんだよ。飛び切り苦くしないと後でこっそり二杯目を自分で作るの。この前悔しいから思いっきり苦くしたら涙目になって壁を叩いてたわ。とってもおもしろかった」

 私の隣に座って饒舌に話す由紀ちゃんをみて、そうかそうかと微笑む私。自分でも分かるほど顔がだらしなくなっている気がする。きもいという誹りは甘んじて受け入れよう。でもこの子可愛いんだよ。

 我が家の朝食は基本ご飯が中心だけど、たまにトーストが出ることもある。今日は普段由紀ちゃんがトーストを食べているという事で、ベーコンエッグにサラダ、コーヒーという欧米スタイルだった。

 私の隣にうんしょうんしょと椅子を移動させてやってきた由紀ちゃんは、私が尋ねるまでもなく桜さんの話を聞かせてくれた。

 もともと寡黙なほうではないと桜さんから聞いていたが、なるほどと納得させられる饒舌ぶりだ。

 お母さんは時々「そういえば昔も桜はそんなところがありましたね」と相槌をうち、由紀ちゃんが目を輝かせながら「それ詳しく教えて!」と食いつく。桜さんの事を心底好いているんだなという感情がありありと伝わってきた。

 そうこうしていると他の住人も起きてきた。

「今日はパンか」

「おはようございます大介さん。寝ぐせすごいですね」

「おはよう兄貴。寝ぐせやっばいな」

「枕カバー変えたのが悪かったか……」

 ぼりぼりと腹を掻く兄貴。由紀ちゃんはすっと兄貴から身を隠す様に私にしがみ付いた。

 昨夜帰りの遅かった兄貴と由紀ちゃんは今初めて対面している。事前に連絡は受けていただろうが、兄貴の目に彼女はどう映っているのだろうか。

「叔母さんの子?」

「あー、うん。由紀ちゃんっていうから」

「ふーん」

 じっと兄貴に見つめられてますます委縮する由紀ちゃん。分かるよ、兄貴のあの人を測ろうとする目は私も怖いもの。加えて親父譲りの鋭い眼光の威圧感も半端じゃない。初対面の人と仲良くなれた例がないという兄貴の愚痴を何度聞いたことか。ただフォローをさせてくれるなら、あれも本人の意思じゃないってことだ。でも小学生にこの兄貴は怖いよな。

「なんだ大介、朝から小学生を脅してからに」

「物騒なこと言うなよ親父」

 のっそりと立ち上がった熊がやってきたかと思うほどの迫力。親父は朝だというのにがはははとテンション高く兄貴の肩を叩いた。反比例するかのように兄貴のテンションが下がっていく。

「あー、もうご飯食べてる! 起こしてよお姉ちゃん!」

「何度も声掛けたろ」

 ばたばたと階段を降りる音と共にやって来るゆかり。朝だというのにこの家族はやかましい。

「ごめんね由紀ちゃん。朝から騒がしくして」

 人の家の喧騒なんてどういう目で見ればいいのか分からないだろう。そう思って横を見れば、どこか寂しそうな目で私たちを見ていた。

「由紀ちゃん?」

「あ、ううん。平気。たのしそうだぇ」

 焦りすぎて由紀ちゃんは噛んだ。

 

 

 せっかく由紀ちゃんが来てくれたのだが、土曜日は美術部の予定が入っていた。

 午後から餅田が入賞した絵の展覧会に行くのだ。正確には美術部全体の参加ってわけじゃなく、行きたい人だけの任意参加なんだけど。

 昼前に駅で集合だからそろそろ出なきゃいけない。

 そうお母さんにいうと、側で聞いていた由紀ちゃんが物欲しそうな目で私とお母さんを見つめていた。何が言いたいのかはなんとなく分かるけど。

 私が何と言おうか迷っていると、お母さんが食器を拭きながら「提案ですけど」と切り出す。

「由紀さんも私と一緒に見に行きますか?」

「いきたい」

 間髪入れずに由紀ちゃんは即答した。その後口を押えて赤くなる姿が可愛かった。

「でもお母さん、私友達いるし……」

「ええ。ですから公麿さんとではなく私と二人になりますけど。でもお昼くらいは一緒に取りませんか? お友達も一緒に」

「ちょっと聞いてみるよ」

 美奈子と晶に伝えると、すぐに了解が取れた。二人のレスポンスの速さに驚愕だ。

 お母さんに「大丈夫だよ」と伝えると、いそいそと準備を始めた。二人は車で行くみたいだけど、私は電車だからそろそろ出なきゃいけない。

 部屋で着替えているとお母さんがノックをして入ってきた。

「どしたの?」

「いいえ。ただちょっとごめんなさいね。親同伴なんてあまり嬉しくはないでしょう?」

「そのこと? 全然いいよ」

 お母さんがいるという事は結構いいもの食べれるってことだし。学生の財布の脆弱さを考えればどんとこいだ。これが横に親父も同席って言うなら考えるけど、親父は今朝がたすぐに会社へ出勤していった。

「それにしても随分と由紀さんと打ち解けましたね。ゆかりさんが小さかった頃を思い出してしまいました」

 私の後ろをよちよちついてきた時を言っているのだろうか。ふふふと微笑むお母さんを横目に、それはちょっと違うんじゃないかと私は思った。

「普通に暇だからだと思うよ」

 今朝で私とも仲良くなってくれたと思うけど、やはり由紀ちゃんとの相性はゆかりの方がいいと思う。

 元気を濃縮させたようなゆかりは、朝の限られた時間でも由紀ちゃんと楽し気に喋っていた。というかゆかりが来たことで由紀ちゃんを隣からかっさわれた。くそ、ゆかりめ。

 そんなゆかりだが、コーヒーをずびずび飲んでいる最中、思い出したかのように「やばい忘れてた!」とテーブルを叩いて立ち上がった。

「何?」

「今日学校で模試だ!」

 時計を見ればあと20分で開始だそうだった。

 バタバタと用意を済ませ、親父に車で送られて行った。嵐のような立ち去り方だった。

 そんなわけでゆかりが居なくなり、家には私とお母さんと兄貴しかいない。

 留守番をするには暇だと言う気持ちは分かった。由紀ちゃんは勿論の事、兄貴にとっても由紀ちゃんのような華奢な小学生女子を相手にすることは苦手とするだろうし。

 由紀ちゃんは私と一緒にいたいというより、まだ私、というより話の出来る年の近い存在が側にいることを求めたのだろう。お母さんもいるからそれで解決すると私は思うんだけどなあ。

「それよりさ、お昼あそこの中華行ってみたいんだけど!」

「あの最近できた所ですね。あまりおいしくないと聞いたんですが大丈夫ですか?」

 おいしいよ。多分。

 



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桜さんと由紀ちゃん ③

 

 駅に着くともう二人は先に待っていた。遅刻だ。

「ごめん! 待った?」

「待ってないですよ」

「超待った! 綾ちゃんもふらせて~」

 どっちなんだよ。

「今日ごめんね。親来ることになっちゃってさ」

「別にいいですよ。公麿ちゃんのお母さんがどんな人か興味がありましたし」

「私も全然いいよー」

 晶に好き放題髪を弄らせながら私が謝ると、二人は何でもないように言った。両方気を使ってそんなこと言うタイプじゃないから助かる。

「そういえばお母さんには公麿ちゃんのやつは言ったんですか?」

「実は言ってない」

「えー、なんで? 綾ちゃんも入賞したじゃん」

 今日の展示会では、予め入賞した美奈子の作品を見に行くことが最大の目的だ。でも今回たまたま私の描いた絵も入賞を果たしていた。餅田と比べれば賞のランクも全然落ちるんだけど、それでも聞いたときは飛び上がるほど興奮した。

 お母さんをはじめ家族にはこのことは伝えていない。単純に恥ずかしいからだ。賞を取ったって言っても殆ど参加賞に毛が生えたようなものだし、自慢するほどでもない。いやそんなこと言うと取れなかった人たちに失礼だ。うん、賞自体は取ってすげえ嬉しかった。はしゃぐ姿を家族に見せたくなかった、とかが一番近い感情なのかな?

 はじめてに近い感覚で筆を執り、懸命にキャンパスに向かった。

 結果が出るとは思っていなかったし、今回がまぐれだって思う。だけど嬉しい気持ちを心の中でも隠すことはないだろう。

 

 電車で二駅のり、そこからバスで移動する。

 どでかい国際展示会場の一つのフロアでそれは行われていた。

「ひとはボチボチいるんですねー」

「学生だけじゃなくて一般の部もありますから。午後からはもう少し混むと思いますよ」

 晶がはーっと感嘆したような声を出すと、美奈子が補足する。

 室内に入ると暖房が効いていた。

 マフラーを外し、小脇に抱えて展示会場をぶらつく。

 美奈子と晶とは別行動だ。

 二人とも興味のある絵の所には一人で見に行きたい質らしい。私もどちらかというとこういう場所では一人で見て回りたいのでその考えには賛成だった。ただ美奈子とは何度か絵やコンクールの展示会に来たことがあったから知っていたが、晶はどちらかと一緒に回りたいと思っていた。

「絵って、一人でじっと見てたくない?」とは晶の弁だ。今日一番意外に思ったことかもしれなかった。

 先に美奈子と私の絵を三人で見た後各自ばらけてそれぞれ見て周った。会場が広いだけあって、なかなか見ごたえがある。上手い人も、自分には感性がよくわからない人もそれぞれだ。

「……お、あれは」

 ぷらぷら歩いてみていると、見知った小さな女の子が一枚の絵の前でじっと佇んでいるのが目に入った。

「由紀ちゃん、もう着いてたんだ」

「……」

「由紀ちゃん?」

 絵に注意が行き過ぎているのか、由紀ちゃんは私の声に反応しなかった。人を無視するような性格じゃないだろうし、いったい何の絵を見ているんだろう。

「お、おねーちゃん!?」

「あ、気付いた?」

 遅れて反応した由紀ちゃんはぎょっと両手を上げて驚きを表現した。漫画みたいな驚き方をする子だ。

「お母さんは?」

「えと、おトイレだよ」

 すぐ近くがトイレだった。どうやらお母さんを待っている時間つぶしに見ていたようだった。

「どう、面白いここ?」

「……ごめんなさい。よくわかんない」

 由紀ちゃんは気まずげに顔を伏せた。うん、いやそうだろう。私も由紀ちゃんくらいの年で絵画に興味があったとは言えない。というか高校二年に入るまで絵画のかの字すら理解していなかった。

 でも、ならどうして由紀ちゃんはあの絵を見つめていたんだろう。

「あら、もう着いていましたか?」

「お母さん、それはこっちの台詞だよ」

 由紀ちゃんに尋ねてみようと思った最中にお母さんがお手洗いから戻ってきた。由紀ちゃんには後で聞けばいいだろう。

 その後合流した二人とお母さんと由紀ちゃんで噂の中華屋に入った。

 味は話題になるほどのものではなかった。

 

 

 家に戻ると、由紀ちゃんは帰って来ていたゆかりの部屋に遊びに行った。いいさ、どうせ私はゆかりがいない間の代用品さ。

 負けた気分を誤魔化そうと、自室に戻って数学の課題に取り組むことにした。

 数時間後、課題を終えた頃にダダダダと高速でノックをする音が響いた。この忙しない叩き方は間違いなくゆかりだ。

「遊びに来たよお姉ちゃん!」

「呼んでねえよ」

 扉を破壊せんばかりにやってきたゆかりにじとったした目を向ける。毎度のことなのでゆかりは全く気にした素振りを見せない。

「ていうかお前由紀ちゃんはどうしたんだよ。部屋に置いてきたのか?」

「ん、由紀? 後ろにいるよ、ほら」

 こいつ呼び捨てにしているのか。

 思わず肉親に向けるには強すぎる眼光で睨みそうになったがぐっとこらえた。

 控えめに扉の端から顔を覗かせる由紀ちゃん。大方ゆかりによって強引に連れてこられたのだろう。困惑が表情に浮かび出ていた。思わずため息が零れる。

「元気ないじゃんお姉ちゃん! そんな時こそレッツプレイ! 皆でボードゲームでもしよう!」

「だから人生ゲームだろうちにあるのって。その広くボードゲームって言葉でぼかすのやめろ」

 そして私は人生ゲームが嫌いだ。

 何度も繰り返した攻防だが、ゆかりはちっちっちと指を振る。イラっとする仕草だ。デコピンでもかましてくれようかこいつ。

「昨日ビッグボスにお願いしていたのだ私は! 見るがいい私の力を! 古より解放されし我が秘儀、我が奥義! かつてかの魔王を封印し、その魂を収めたと言われる壮絶かつ壮大な物語を秘めた――「さっさと話せ」――あう!」

 長すぎる説明に思わず物理的に手が出た。久しぶりに密度濃い中二が飛び出してきやがった。

「要約すると?」

「お父さんが新しいボードゲーム買ってくれた」

「一行で済むじゃねえか……」

 額を押さえ涙目になるゆかり。あざとい。

 いつまでも廊下に立たせるのも良くない。二人を招き入れると、ゆかりは背中に隠していたでかい箱をテーブルの上に広げた。

「ふははははは! これが、これこそが新たなるマギクラフト!」

「『カタン』な。これ聞いたことはあったんだけどやり方知らねえんだよな」

「あ、私分かるから教えるよ」

「急に素に戻んなよ……」

 三人で遊んだ。思いのほか盛り上がったことを追記する。

 夜はどんちゃん騒ぎでお母さんは勿論、嫌がる兄貴も親父が引きずり出してみんなで遊んだ。

 

 日曜日の夜。

 あと数時間後になれば由紀ちゃんは帰ってしまう。

 名残惜しさもあるが、それはそれだけ楽しい時間を過ごせたという証拠だろう。

 今由紀ちゃんはお母さんと風呂に入っているはずだ。風呂を済ませれば後は寝るだけだし、家族はみんな自分の部屋に戻っている。

 先に風呂を済ませた俺のもとへ控えめなノックの音が聞こえた。

「空いてるよー」

 ベッドに寝転がったまま返事をしたが、扉は一向に開く気配がない。

 不審に思って立ち上がると、外には髪を濡らせた由紀ちゃんがノックの姿勢のまま固まっていた。風呂を済ませたらしい。

「どうしたの? ていうか髪濡れたまんまじゃん。乾かしてあげるからおいで」

 半ば強引に引っ張ってカーペットの上に触らせる。ベッドの端に腰かけ、ドライヤーをゆっくりかけた。由紀ちゃんの髪は私よりずっと長いので、このまま寝たら風邪を引くかもしれない。その間、私は気になったことを彼女に聞いてみたいと思った。

「あのさー、昨日の昼間由紀ちゃんあの絵すっごい見てたよね。由紀ちゃんって絵が好きなの?」

 ドライヤーがかかっているから気持ち大きめに声を出す。聞こえているだろうけど、由紀ちゃんからの返事はない。

「絵は、普通。好きでも嫌いでもないよ」

 ようやく帰ってきたのはなんともあいまいなものだった。だとしても特に驚くことでもない。

 あの後私はしばらくお母さんと由紀ちゃんの三人で見て周ったが、芸術に疎いと宣言するお母さん以上に由紀ちゃんは周りに興味を示していなかったからだ。それだけに初めの熱心に絵を眺める様子が目から離れなかった。

「綺麗な絵だった?」

「……」

 理由は二つ考えられる。

 一つは由紀ちゃんの琴線に触れるほどいい絵だったということ。だけど勝手ながらそれはあまり考えられなかった。由紀ちゃんの表情は伺えないが、絵を見ている時の由紀ちゃんの顔は感動とはかけ離れたものだったからだ。

 考えられるとするならもう一つ。

「“お母さん”が気になった?」

「……」

 同じ沈黙でも、今度は由紀ちゃんの肩が跳ねた。きっと正解だ。

 由紀ちゃんが見ていた絵のタイトルは『お母さん』。近所の市立小学校の二年生が描いた絵で、家族の絵をモチーフにしたゾーンあったものだった。

 大人が描くような上手さはなかったが、子供らしい大きな筆遣いで母親の笑顔を描いた、見ていて気持ちのいい絵だった。

 その絵を前に、由紀ちゃんは何かに耐えるような寂し気な顔をしていたのだ。

「お母さんね、ママって言ったらダメだって」

 ぽつりと由紀ちゃんが呟いた。

 ドライヤーを切り、彼女の言葉に耳を傾ける。

「『私はママにはなれないけど、お母さんにはなってあげる』って。パパとお母さんが結婚するって言ってくれた時ね。わたし凄く嬉しかった」

 由紀ちゃんは桜さんの連れ子だ。だけど傍で見ても本当の母娘のように仲睦ましそうに見えた。

 由紀ちゃんが言うには、桜さんとは結婚をする前から何年も交流があったらしい。もともと彼女の母親と桜さんは中学時代の友人であり、それこそ由紀ちゃんが生まれた時から桜さんの存在は認識していたそうだ。

「ママは私が幼稚園の頃に病気で死んじゃったの。お母さんはずっと看病に来てくれて、私とパパのご飯とか作ってくれてたの。わたしは、その時はママのパパが取られるかもって思ってお母さんに嫌な態度ずっと取ってた。それでもお母さんはずっとわたしに優しかったんだ」

 そういえばこの家にやって来るとき桜さんは大抵お母さんと何かの料理を作っていたことを思い出した。あれはひょっとしてお母さんに料理を教わっていたのだろうか。

「ママが居なくなってからもお母さんはずっとわたしに会いに来てくれたの。その時はもうお母さんはわたしのママになってくれるのかなって思うようになって、わたしもいやじゃなくなってた。でも何年経ってもお母さんはパパと結婚しなかったんだ。お母さんはわたしたちが嫌いなのって聞いたら好きだよって言うけど、結婚はしないよって、わたしの頭を撫でるの。お母さんがママじゃなかったらどこか行っちゃうんじゃないかって、だってお母さんはわたしが大きくなるまでの間ママにお願いされてただけかもしれないから。だからパパにお母さんと結婚してって何度もお願いしたの」

 たどたどしく語る由紀ちゃん。こんなこと話すこと自体慣れていないのだろう。

 焦らなくても大丈夫だという様に、私は彼女の背を撫でながら黙って聞いた。

「やっとお母さんがいいよって言ってくれてわたしすっごく嬉しかった。ママの事を忘れたわけじゃないし、ママの事が大好きなのは変わらないよ。でもお母さんがママになってくれるって言ってくれて本当に嬉しかったの。これで離れることないって、そう思ったのに」

 洟を啜る音と共に由紀ちゃんの言葉が詰まった。ティッシュを箱ごと渡す。カタカタと震える背から彼女の不安が見て取れた。

「お母さんが言ったの。私はあなたのママになれないよって。わたしお母さんに嫌われてるのかな……」

「そんなことないよ」

 私は由紀ちゃんの背中を抱いた。こんなことで彼女の気持ちが落ち着くとは思えないけど、意味のない行為だとは思わなかった。

「大丈夫。桜さんは由紀ちゃんの事大好きだよ」

「わからないよそんなの」

「言葉が足りないんだよあの人は」

 体で、態度で表現をすることが多い桜さんは反対に言葉でのコミュニケーションが途端に雑になる。

 由紀ちゃんの“ママ”になれないという言葉は、きっと生んだ由紀ちゃんの本当のお母さん、そして桜さんの友人のことを由紀ちゃんに忘れて欲しくないから出た言葉だと思う。

 どうしてそんな言葉を選んでしまったのかは桜さんに聞かないと分からないけれど、あの飽き性な人がわざわざ他人の子供をずっと面倒見続けるなんてできるはずがない。それこそ愛情がなければ。

 そしてこの数日、由紀ちゃんが私に対して何か言いたげな視線の意味が分かった。

 彼女は知りたかったのだ。

 自分や、自分の父親とは違う客観的な意見を。包み隠すことなく教えてもらえる大人以外の意見を。ゆかりよりは私は年上だから、由紀ちゃんから見ればまだ信頼に足るものがあったのだろう。

「本当に信じていい?」

「もちろん。それに由紀ちゃんも疑ってないでしょ?」

 ふすふす鼻を鳴らし、由紀ちゃんは私の胸に抱かれながら小さく頷いた。

 

 

「そんなこと言ってたの? あの子」

「うん。桜さん言葉足らずは相変わらずだね」

「ぐうの音も出ないねこれは」

 その夜、由紀ちゃんを迎えに来た桜さんを捕まえて数時間前の由紀ちゃんのことを話すと、桜さんは「まずったなあ」と頭を掻いた。

「不安がってたよ。言ってあげなよ」

「いや、うん、でもやっぱりママはあいつだけだから私はママにはなれないよ」

「えぇ……でもそれじゃあ」

「そう、だから“お母さん”は私だけ。そう由紀に伝えるよ」

 ありがとね公麿、と桜さんは乱暴に私の頭を撫でた。こういう仕草は親父とそっくりだ。

「そうだ」

 由紀さんが車に乗り込む前に振り返った。

「由紀、あんた公麿にしっかり言ったの?」

『――――!』

「ああ、はいはい内緒なのね。でも守らない。なぜなら私はずるい女だからって暴れないのこら!」

 車内で由紀ちゃんが声にならない悲鳴を上げ、桜さんが応戦している。一体何を話しているのだろうか。

「由紀さんは公麿さんに会いたくて来たそうですよ」

「ん?」

 同じく見送りに玄関まで出たお母さんが言った。見ればふふふと笑っている。

「桜がことある毎に自分には可愛い甥がいると由紀さんに言っていたそうです。私たちの手が足りなくて、公麿さんの時にはよく桜の手を借りました。その分桜にとっては公麿さんは一番長い時間を過ごした子になりますからね、愛情もひとしおなのでしょう。女になったと伝えたときはとても心配していましたし、まあ写真を送った途端『もっと可愛い写真はないのか』というふざけた反応に変わりましたけどね」

「締まらねえな桜さん」

「公麿さんに対する愛情は本物ですよ」

「淡々とそんなハズいこと言われてもなあ」

 桜さんがそんな風に思ってくれていたなんて知らなかった。照れ臭くなって鼻の頭を掻く。

「そーそー、桜ちゃんってお姉ちゃんに凄い特別扱いするんだから。いーなーって思う時あるもん私」

 横でつまらなさそうに頬を膨らますゆかり。一番桜さんと距離が近いと思っていたゆかりがそういうとは意外だった。

「公麿さんの話と、写真をたくさん見せられた結果会ってみたくなったらしいですよ。最初は大好きなお母さんのお気に入りが気に入らなかったという気持ちだったのかもしれませんけど、途中からとても仲良しで私も安心しました」

「お母さんってそういう裏の背景みたいなところ意図的に隠す癖あるよね?」

「そうでしたか?」

 とぼけやがって。

 やがて桜さんと由紀ちゃんを乗せた車が動き始めた。

 車内でしっかりと話ができるといいなと、私は思った。

 

 

 従妹の小学生が可愛かった。

 そう熱弁した所、正義は遠い目をしながら一歩離れた。解せん。

「引くなよ」

「引くだろ。お前段々裕子に染まってないか?」

 あそこまで堕ちちゃいない。

 登下校の最中の雑談。いつもなら私が聞き役になることが多いけど、今日は話すことがあったため私が中心となった。

「でも桜さんもお母さんなんだなって思ったよ。いつまでも子供だと思ってたのに」

「なんだかお前の方が母親みたいなこと言ってんぜ」

「いろいろ滅茶苦茶な人だったからなー」

 へえと興味あり気に耳を傾ける正義。いいだろう、話してやるよ桜さん伝説を。

 っと、その前に。

「正義の事を紹介してくれって桜さんに言われてたんだった」

「へ?」

「覚悟しとけよ、親父やお母さんなんて目じゃないぞあの人は。ゆかりをさらに濃縮させたような人だからな」

「え、ゆかりちゃんを?」

 一気に青ざめる正義。覚悟しとけだなんて漫画でしか言わないし、ギャグのつもりで言ってみたんだけどなんだこの反応。

 やっべえぞこれとぶつぶつ言い始めた正義に、私は首を傾げた。

 



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柊亜衣の思い出話 ①

久しぶりに投稿です。多分4話くらいかなあって思います。よければ見てやってください。


 

「亜衣って裕子たちとはいつ出会ったの?」

 対面でカフェオレをちびちび舐める友人の言葉に、私はふと顔を上げた。

 彼女、綾峰公麿は私の言葉を待つようにカップを両手に挟んでちらちら伺ってくる。

 時は十二月。

 冬休みの前に迫りくる期末試験を控えた日曜日の事であった。

 

 その前にどうしてマロちんが今当たり前のように私の部屋で座っているのか。その経緯を説明する必要があるだろう。

 

 突然だけど、私はあまり勉強が得意なほうじゃはない。テストでは赤点と言わないまでも、結構やばい感じ。大学進学を考えるならばそろそろ本腰を入れて勉学に励まなければどこにも引っかからないだろうという危うさ。公麿ことマロちんを家に招待するきっかけとなったのがその『勉強を教えてもらう』ところからだった。

 

 マロちんを始めて部屋に呼んだのは先月の事。

 一時期大変な事になっていた彼女の問題がとりあえず落ち着いた頃を見計らって、思い切って声を掛けてみた。

 彼女が私のアパートの部屋に来ること自体は初めてではない。だがその時は隣に舞衣がいたし、呼び出す理由も一応あった。なんの用事もなく誘うことは私にとってはとても勇気のいることで、断られたらどうしようという気持ちがあっただけになかなか声が掛けられなかった。

 もともと私はマロちんともっと仲良くなれたらなという気持ちが強かった。というのも、どことなく私は彼女にシンパシーを感じていたからだ。舞衣もボスも自分というものを強く持っている為、どこか堂々とした態度で物怖じしない姿勢を示す。初対面や目上であっても失礼にならない程度に(舞衣は時々失礼な時もあるけど)自分の意見をはっきり主張するし、あけすけにものを言う。敵を作ることもあるけれど、自分というものをしっかり持っている二人に私は少し気後れした気持ちを抱いているのも確かだった。

 マロちんが自分を持っていないとかじゃない。でも常にあの二人に挟まれていた私にとってみれば、彼女は私とかなり近い感性を持っていると感じてしまった。男の子に肌を見せるのは恥ずかしいし、学食で上級生に割り込みをされても文句をいう事に躊躇ってしまう。これを小さなことと見るか大きなことと見るかは判断する人によると思うけれど、こうした些細な点で二人にはできることが自分にはなかなか難しいものがあった。

 できることが正しいことだとまでは言わない。でも出来ない自分が情けなく感じることも多かった。そんな仲間が出来たら共感を覚えるのは自然なことと思う。

 だからってすぐに私は彼女と親しくなれたかというとそういうわけではなかった。他人がどう思っているのかは分からないけど、私は積極的に人に絡みに行けるタイプではない。舞衣が初対面でもぐいぐい行くので誤解されがちだけど、私は友達でも仲良くなれたとある種の確信が生まれるまでは話しかけるのにも勇気を有する人間だ。

 それゆえマロちんに対しても仲良くしたいのになかなか二人きりで話しかけるきっかけが掴めず、五月や六月に舞衣にそのことで相談した記憶がある。

 そうしていたら事件が起こった。

『私マロちんとデートしちった』

 六月某日、舞衣がさらっと抜け駆けをした。この時ばかりは舞衣を恨んだものだ。

 舞衣は私やボスと隠れてこっそりマロちんと二人で買い物に行った。言ってしまえばそれだけなのだが、その日以降マロちんの舞衣に対する態度が極端に軟化した。彼女を知る今なら分かるが、マロちんは一度気を許すととことん相手に甘くなる。警戒心が薄れる。一言で言って彼女はちょろい。

 当時マロちんとまだ薄い壁があった私にとってそれは歯痒すぎる出来事であった。

 

 それから数か月がたち、ようやく家に誘う事が出来たという次第である。私にここまでの勇気を与えた舞衣には深い恨みと共に感謝も抱いている。

 とはいってもそれまでにかなりの時間を私と彼女は共にしていたので、家に呼ぶ呼ばないという以前にかなり親しくはなっていた。だがこの出来事を境に彼女の方から家に遊びに行っていいかと連絡が来ることも増えたので、結果上々だと言える。

 

 この勉強会、普段ならここにボスや舞衣が加わるのだけど今回はあえて二人は呼ばなかった。理由は単純明快。勉強にならないからだ。舞衣がいると私もつい調子に乗ってふざけて遊んでしまう。前回なかなか悲惨な点数を取ってしまっただけに挽回しなければいけないという切実な思いが私にはあった。ボスを呼ばなかったのは二人きりだと怒られるし、マロちんを入れた三人だと舞衣だけ仲間外れにしているようでちょっと嫌だなあと思ったからだ。

 

 彼女を家に呼ぶときは大体いつもお菓子作りをだしに使う。私が単純に作りたいって言うのもあるけど、これを言うとマロちんの断る確率がぐっと減るからだ。今のところ100%の確率で家に来ている。今日はテスト勉強がメインだけど、その前にとシフォンケーキに挑戦してみたところだ。焼きあがってからが勉強開始。焼いてる間に小休止しているのが今だった。

 

 

 くるくるとスプーンで底を掻きまわす彼女の所作を見つめる。

「どしたの? 急に」

 私はなんと答えようか迷い、ひとまず相手の真意を掴もうとした。どういう意図の質問なのだろう。

「いや深い意味はないんだけどさ。ほら、亜衣って舞衣とはすごく仲がいいじゃん? でも裕子って二人とは結構タイプ違うって言うか」

「あー、そういう事ね」

 相手が何を聞いているのか理解できた。彼女の疑問は尤もだと思ったからだ。

 私には目の前に座る友人の他に、中学の頃からの特別親しい友人が二人いる。そのうち一人とは普段から常に一緒に行動することが多く、傍から見るとペアのような扱いを受けることもままあるが、もう一人とは少し距離がある様に見える、と言われることはこれまでにも確かにあった。

 自慢ではないが、私たちのグループは教室の中でも結構目だつ方だと思う。

 ボス、荒神裕子の存在感がそうさせているという面もあるのだけど、単純に私以外の二人の容姿が優れているからだと思っている。私は二人に挟まれることでなんとなく雰囲気可愛いく見えている感じで立ち位置が微妙なのだがそれは今はいい。何が言いたいかというと、容姿が優れている、有体に言うと美少女集団内の友人関係なんて話題に飢えた高校生にとっては格好のネタであり、それも最近になって私たちの集団に加わった彼女からすると他のクラスメイト以上に関心が高い事だろうということは想像に難くないということだった。

 とりわけ彼女が私たちと一緒に行動するようになった経緯も特異だ。

 彼女自身の問題や人間関係のごたごたで今までなんとなく流していたが、改めて私たちの関係の歪さ、というとネガティブな意味を含みそうだけど、距離感、これが気になったことはある意味当然とも言えた。

 私は自分のカップを置くと、さてそれにしてもなんと答えればいいだろうかと頭をひねった。何分私たちの事を説明するにはやや長くなる。

「あ、別にどうしても聞きたいわけじゃないって言うか、言いにくかったら別にいいんだけど」

 私が黙ったのを敏感に察したのか、彼女は両手を振って必死で訴えかけた。そう言われると逆に言わなければいけない気になって来る。ただなあ、別段面白い話でもないし、若干話を引っ張った手前わざわざ話すことなのか? と思わなくもない。

「やー、でも正直マロちんが期待するほど大したことじゃないんだよね」

「え、あ、うん、そか。それなら、別にいいや……」

 駄目だ。こんな言い方したら詮索するなと言っているようなものだ。

 私は必死で頭を回転させ、彼女を傷つけない答えを探す。

「あー、えっと。その、なんだろ。私にとってはちょっと恥ずかしい部分でもあるんだけど、で、なおかつ結構長くなるかもしれないけど、聞く?」

 迷った結果正直に白状する。落ちもなければ山もない。そして昔話をする都合上、私がちょっと恥ずかしい思いをする。

 できれば興味ないって答えが欲しいところだけど、目の前で興味津々に目を輝かせる彼女を見るとそうも言えない。

 息を一つ着く。仕方ない、語るとしようか。

 できる限り正確に。でもちょっと盛り上がる様に脚色して、私は彼女に話し始めた。

 

 



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柊亜衣の思い出話 ②

 

「転校生?」

 クラス替えの紙が張り出された掲示板の前で私は首をひねった。

「どしたの亜衣?」

「何かあった?」

 仲のいい同級生が私の呟きに反応して私を見た。私は掲示板のある箇所を指すと皆もそこに注目する。

「あれ、誰? この子」

「わかんない。転校生かな」

 めいめいに話し始める友人たち。私も「どんな子かなー」と便乗する。

 小学校の時は転校生ってそこそこいたような気がするけど、中学に上がってから実際に来ることは今回が始めてだ。どんな子が来るのか気になった。それも自分のクラスじゃなおさらだ。

 だけどその時は気になるねーと友達同士で話題に挙げる程度で、言葉以上に関心があった訳ではなかった。

 教室に入ってきた少女を見た時息を呑んだ。

 

「どもども、楠舞衣って言います。皆さんよろしこー」

 にこにこと気さくな様子で手を振る少女。大きな切れ長の目に細く長い首、とりわけシャランと肩口から零れる黒髪が私を引き付けた。

 ここよりもずっと都会からやってきたというその少女は、壇上できらきらと輝いて見えた。

 担任の先生が告げた彼女の席は私とはかなり離れた場所だった。四月だからまだ名前の順で席は並んでいる。当たり前と言えばそうだけど、席が近かったらなと期待していた分がっかりした。なぜなら、席が遠かったら話しかける口実がないからだ。

 私みたいにぱっとしないのをあんなきらびやかな人が仲良くしてくれるはずがない。きっとこういう人はクラスの中心人物が声を掛け、そうやってグループに加わっていくんだと思う。

 残念なことだがそればかりは仕方がない。住む世界が違うとはそういう事なのだ。

 都会の空気を纏った美人の転校生がやってきた。私とは無関係な出来事であると判断し、それ以上特に気に留めることもなかった。

 

 始業式から二か月ほど立ったある日。部活を終え、家に戻る両親がリビングにいた。

 珍しいこともあるものだと、着替えようと自室に向かった私の背中に「亜衣ちょっと」と母の声がかかった。

 汗でべとべとするからさっさと着替えたいのになんだというのだ。

 機嫌悪く二人の座るテーブルに近づくと違和感を覚えた。

「亜衣、ちょっとそこ座って」

 母に促され、いつも座る母の隣の席につく。いつも通りの事なのに、どこか不穏な空気が流れている。

「何?」

 内心の嫌な予感を払拭しようと口に出した。

「ていうか珍しいね。お父さんがこの時間に家にいるって」

「ああ」

 普段から寡黙な父だが、いつも以上に黙り込み、やがてゆっくりと口を開いた。

「お前にとっては突然かもしれないんだがな、父さんたち別れようと思っていてな」

「……え?」

 何を言われたのか分からなくて思わず聞き返す。すると父は「離婚しようと思っているんだ」と加えて説明した。

「亜衣は来年受験だし、それまではって話はしていたのよ。でもどうしてももう限界で」

「……二人とも好きな人でも出来たの……?」

 母が補足するが耳から耳に流れていく感覚がある。それでも何とか返した。離婚という単語に結び付く言葉を反射的に考え口に出しただけで、本当にそれを疑ったわけではなかった。ただ黙っていると何か恐ろしいものが足元からせりあがってくるような不安があったからだ。

 二人は私の問いに軽く首を振る。それがほんの少しだけ私に安心感を与えたが、だからと言って問題が解決したわけでもなかった。

「そうじゃないんだ亜衣。父さんも母さんも他に好きな人が出来たわけでもお互いが嫌になった訳でもない」

「じゃあどうして?」

 自分の声が耳の奥で籠って聞こえる。怖い。でも何が怖いのか自分では分からない。

 心臓が激しく脈動する一方で手足の先端が凍る様に冷たくなっていく。

 対面に座る父の顔はこんなにも無機質な顔だっただろうか。寡黙でも、常に穏やかな表情を絶やさなかった父が他人のように見える。

 昔から両親が特別仲の良い夫婦だと思ったことはなかった。

 友達が語る様に、一緒の布団で寝てるとか、結婚記念日に二人でどこかへ出かけているとか、そんなこと今まで一度もなかったし、お互いが会話をしているところもあまり見たことはなかった。だけど喧嘩している所は見たことがあったわけではなかったし、二人とも口数が多い方じゃないからそういう家族の在り方なんだと思っていた。いや、思おうとしていたのかもしれない。

「あなたやお父さんの事が嫌いなわけじゃないの。でも私もお父さんも今仕事がとっても忙しくてね、家の仕事と外の仕事の両立が出来なくなってきていたのよ。ううん、こういう言い方は卑怯ね。私達は家の事より仕事を優先させたいって思っているの。お母さんいま会社ですごく大切な仕事を任されていて、お父さんもそう。このままいったら家庭が壊れてしまうかもしれない、だからもう別れた方がいいだろうって」

「なに、何言ってるの?」

 母の言い分が少しも理解できなかった。いや言葉の上では理解できる。だがそれが私を納得させることはできなかった。

 気づけば私は席を立ち、テーブルを挟んで二人の正面に移動していた。

「仕事が忙しいからって、そんなの、そんなの前からじゃん。お父さん家にいないことだって殆ど当たり前だったし、お母さんも遅くて留守番だっていつもしてたじゃん。なんで今更なの?」

 口に出すと不満は止まらなかった。

「そんな前ぶりなんもなかったじゃん。忙しいけど、家族でどこかいくとかそんなんなかったけど、でもそれでもいいじゃん。今まででいいじゃん。どうしてそんな答えが出たの?」

 自分が混乱していることは分かっていた。

 喋っている自分と、それを真上から客観的に見ている自分の二人がいた。頭上にいる私は白けた目で喋っている私を見ている。たくさん話しているようでその実中身が一切籠っていない文字通り子供の主張。ただ同じ言葉を羅列しているだけで両親の心に全く響いていない。

 両親は私がしゃべり終わるのを待つと、一言「申し訳ない」と言った。

 考え直すだとか、意見を聞くだとか、そういう隙間が一切感じられない謝罪だった。

 思えばこの二人が決定したことが覆ったことが今まであっただろうか。

 二人が私に何か話す時、それは相談ではなく報告だった。決定事項を確認するだけの作業。ならばこれも私が今何と言おうと関係のない事なのだ。

 全身に虚脱感が襲い掛かってきた。

 立っているのも辛くなっていき、呼吸が浅くなっているのが分かる。

 二人に目の焦点を合わせるのが怖くなり、天井や、リビングの隅を忙しなく徘徊させる。

 私の挙動を知らず、あるいは知っていてその上で、両親はつづけた。

「亜衣、あなたはどっちに付いていきたい?」

「……」

「お母さんについてきても、お父さんでも構わないわ。あなた一人くらいならこれまで通り不自由なく暮らしていけると思う。ただやっぱり夜とかは一人で留守番を頼むことになるかもしれないけど」

「違うじゃん!」

 会話の途中で遮った。違う。二人の話しているのはズレている。

「私がどっちに付いていきたいとかじゃないじゃん! 二人は本当に自分の所に来て欲しいって思ってるの?」

 仕事が優先したくて離婚をするのならば、私の存在は邪魔でしかないはずだ。

 だが、だからと言って私の教育を放棄することは世間が許さない。

 形上、立場上私の存在を肯定しているが、二人の本音で言えば私はお荷物なはずだ。

 好きなことをしたいのに家庭という鎖がそれを許さない。つまり二人の主張はそこに尽きる。

 家庭の象徴ともいえる私の存在は二人の目にどう映っているのか。

 それでも私は心のどこかで期待していた。すぐに答えが返ってくるものだと思ってた。二人の、私を今まで育てて来てくれた二人を信じたかった。

 

 私が口を挟んでから、二人が口を開くことはなかった。

 

 

 自宅から自転車で15分ほど走らせると、そこそこ大きな緑地公園がある。

 市営グラウンドと隣接したその公園には休日になると少年野球のチームや、老人会のゲートボール、地元のテニスクラブの練習などで賑わいを見せる。

 平日、それに前日の雨も相まって今日は全くと言っていいほど人気がなかったが、私にとっては都合がいいと言えた。

 グラウンドとコートを結ぶ道の脇には、休憩用の木製ベンチが設置されている少し奥まったスペースがある。春先は毛虫、梅雨時期は雨、秋冬は寒さを理由にそれほど人気のない場所ではあるが、それゆえに一人になりたいときはいつもここに来ていた。

 しっとりと湿った風が木々を揺らし、水滴が顔に当たる。ジャージ越しにじんわりとベンチの水分を感じるが、それを気にする心の余裕はなかった。

 数十メートル離れた道路から車の走行音が聞こえる以外は音はない。

 だからだろう。背後から人の歩く音に過敏に反応してしまった。

「あれ? あー、名前なんだっけ、クラスの」

 思いがけず目が合ってしまうと、相手は私を確認するなり即座に私を指さした。

「クラス同じだよね、ほら、えーと、話したことなかったっけ? あれ、思い過ごし?」

「く、楠、さん?」

 クラスにやってきた転校生、楠舞衣だった。

 彼女は、「なんだやっぱそうじゃん~」と朗らかに笑いながら近づいてきた。

「名前なんて言ったっけ? てかこんな遅くに一人で何やってんの? あ、誰かと待ち合わせ? 彼氏とか? うひょー」

 全く親しくない名前も知らない同級生相手によくぞここまで詰め寄れたものだ。そう頭で思いながら、実際私はどう対応してよいものか非常に困っていた。

 どうして彼女がこんな地元民でも知らなさそうな穴場に出現したのだろうか。そこが気になったが、対応に追われそれどころではない。

「ひぃ、らぎ。柊亜衣だよ。ちゃんと話したことはなかったと思うけど、一応自己紹介はしたことある、と思う」

 私は地味な子だが、長年スポーツをやってきただけあって人と話すのはそんなに苦じゃない。積極的に行くのが得意じゃないってだけだ。でもここまで綺麗な子相手にするとやはり緊張する。話始め声が不自然に上ずってしまったが、それでも何とか平静を装って対応することに成功した。

「あはは何その声、めっちゃ面白いんだけど」

 訂正、全然成功していなかった。凄く恥ずかしい。

 けたけた笑う楠さんは、「隣失礼しまーす」と私の了解を得ぬまま腰を下ろした。部活をしている時も感じることだが、この手の人たちのパーソナルスペースの狭さは何なのだろうといつも不思議に思う。まだ出会って数秒だというのに、さも昔なじみのような親しみを持ってやってくる。良い悪いは置いておいて、とても私にはマネできる気がしないなと思った。

 楠さんは背負っていた大きな鞄を下ろすと、濡れている地面に付かないように足で挟んだ。特徴的な形をしていたそれが不思議で見ていると、「気になる?」と尋ねてくる。

「それリュックなの?」

「ギターケースだよ。あたしギターすんだよねー」

 空中で右手をじゃかじゃか振る楠氏。真面目にというよりややオーバーに茶化したような仕草だった。

 私はギターをテレビや写真以外で見たことはなかったけれど、なるほど言われてみれば確かにその鞄はギターを収納するのにぴったりの形をしていた。というかギターをそのまま鞄に仕立て直したような形だ。上の方がギターの弦を押さえるあのなっがいヤツみたいに細くなっている。くそ、あれ名前なんて言うんだ。気になる。

「楠さんはギター歴結構長いの?」

「うーん、まあそこそこ?」

 楠さんのように明るいクラスの人気者に話しかけてもらえることは嬉しいけれど、その分つまらないやつと思われたら致命的だ。どんなことで嫌われるかとか分からないが、最悪いじめのターゲットにすらされる得る危険性がある。怯えずに私から切り出したそれは、しかしどうやら失敗に終わったようだった。

 楠さんはそこに触れられたくないのか、先ほどの饒舌さとは打って変わって静まり返り、気まずい沈黙が流れた。自分からギターだと教えたんだから想像しうる範囲の質問だろ、なんでこっちまで微妙な空気にならなきゃいけないんだ。と、仲のいい友人になら言えるのだが、相手はクラスカースト上位だ。私は体中の脂汗が止まらないような激しい後悔が体を襲っていた。

「ところで、ヒイラギさんはなんでこんなとこいんの? こっち来たばっかのあたしが言うのもなんだけど今までここに人がいるとこなんて見たことないよ」

 先ほどの気まずい沈黙は何だったのかと思うほど楠さんは明るい調子で尋ねてきた。

 だが彼女の言い分は尤もだ。奥まった場所にあるという事実も相まって、このエリアはあまり人が寄り付かない。ますますこんな場所にベンチを置いたのは設計ミスとしか言いようがないと思う。

「私の家がこの近くだから。ここは、なんていうか一人になりたいときによく使ってて」

「え? じゃあ今も一人になりたかった系? やべー、あたしどっか行った方がいい?」

「いやいやいや! 別にそういう意味で言ったわけじゃないし全然いていいよ!」

 油断してぽろっと零した言葉に死にそうになった。何の気なしに『お前邪魔だからどっかいけよ』と言っているような感じになりかけた。

 楠さんは取り立てて気にした様子もなく、感情の読み取れない調子で「ほーん」と相槌を打つのみだった。

「でももう七時前よ? 親心配してるくない?」

 親という言葉に心臓が跳ねた。今一番聞きたくないものだ。

 私は両親が何か答えを言う前に家を飛び出してきていた。

 仕事だ家庭を壊したくないだとなんだか言っていたが、結局自分たちの好きにしたい面倒ごとを抱えるのが嫌になっただけなのだろうと思った。そして、その面倒ごとの中に私も入っていたということだ。

 家を飛び出し、自転車にまたがった直後は両親が返事をしなかったことに対して悲しみを覚えた。でも今ではそんな両親に対し失望しかない。信じていた、というと言葉が強すぎて自信が持てない表現ではあるけれど、少なくとも『両親だから』という甘えは私の中にあったと思う。

 突発的に家を出たのは、二人を見るのが怖くなったから。そして多分、二人も私のこの行動を咎めはしないと思う。だって二人とも家を飛び出す私を引き留めることすらしなかったんだから。

 一方で、だからといってこの家出のような行動が二人に何の影響も与えないことは分かっていた。

 強がっていたって私は何の力もないただの中学二年生の子供で、お金がなかったらご飯も食べられないし、野宿をする度胸もない。散々強がったって結局二人がいるあの家に戻らなければならないのだ。

 つまりこれはただ自分を納得させるために時間を作っているだけ。気持ちの整理するための時間。

 客観的に自分の気持ちを分析できることが、今は何より腹立たしかった。

「―――ってことだよね?」

「え?」

 しまった。考え事に没頭するあまり、隣に座る同級生の存在を忘れていた。

 何やら隣で随分沢山私に話しかけていたようだが、まさか聞いていなかったなんかで済ますことはできない。

 どうしよう。ここは適当にお茶を濁すか? いやしかしこれが二択の質問、例えば「犬飼ってるってことだよね?」なんて質問だったとしたら、「うーん、いや、そうかも」みたいな濁した答えをしてしまったら、なんでそこぼかすんだよと思われなくもない。

 悩んだ挙句私は、

「そんなことないよ!」

 と力強く否定していた。

 何が「そんなことない」のか、自分でも理解していない。ただここで曖昧な答えを言って嫌われるより、どうせなら断定してしまった方が同じ嫌われるにしても自分の納得が着く。

 しかしなにもこれは無計画に否定したわけではない。

 聞き取れた楠さんの言葉の中に「ってことだよね?」とあった。

 事実がその通りであるという事を他者に同意を求めるときに使う言葉だ。

 だがその時の彼女の言い方が、どこか否定してほしいという風に聞こえてしまったのだ。だから私は賭けに出た。

 ……後になって思い返せば、普通に「え、ごめん聞いてなかった」と聞き返せばよかっただけなのだが、この時の私は両親の事もあって大分テンパっていた。

 それが今後の私と舞衣の関係を決定づける一言であると知っていたなら、私はもう少し慎重に応えるべきだったと思う。

 楠さんは私の力強い答えを聞くと一瞬ぽかんと私の顔を見た。四月から今まで教室で見たことのないような見事な呆け面だった。

 それもすぐにくしゃっと破顔させると、飛び跳ねる様に立ち上がりついでに私の手も引いて歩き始めた。

「ちょ、ちょっと楠さん!?」

「クスノキさんだなんてそんな他人行儀な呼び方やめなさいな友よ! 今から私達親友じゃないか」

「だから何の話?」

「今から校庭に爆竹鳴らしに行こうぜ相棒!」

「普通にまだ先生学校いるから!?」

 何がなんだか分からなかったが、憧れの同級生が自分の手を繋いで嬉々とした表情で歩いている。それが嬉しくて私は再度彼女に尋ねることはしなかった。

 彼女は私をどこかに連れていこうとしているようだったが、不思議とそこに不安はなかった。

 私はまだ全くと言っていいほど彼女について知らない。けれど、彼女と一緒にいればいいことがあるのではないかという確信めいたものがどこかにあった。

 

 

 

 話し疲れて喉が渇いた。

 カップに口をつけ、相手の様子を伺う。すると彼女が随分難しそうな顔をしていたのでぎょっとしてしまった。

「ど、どしたのマロちん?」

「いや、ごめん亜衣。ひょっとして亜衣があんまり言いたくなかったのってその、ご両親のこととかあるのかなって思っちゃって」

「いやいやいや、それじゃないって! ていうか気にしなくていいよ? 今は私普通に両親と仲いいし」

 マロちんは私の両親の事を聞いた時からそういえば表情が強張ったなと感じていた。そこは配慮が足りなかったと反省。

 彼女は私の言葉を信じてくれたようで、「亜衣が大丈夫ならそれでいいけどさ」とそれでも少し気にした様子を見せていたけれど、私が気にするなと手を振るとようやく納得してくれた。考えなく喋ってしまい彼女に余計な気を使わせてしまった。

 気まずい部分が解決され後は、聞こう聞こうとマロちんは身を乗りだした。 

「亜衣と舞衣って初めから仲良いわけじゃなかったんだ?」

「え、うん。そうだよ。今じゃ想像もつかないと思うけど、あの当時の舞衣のカリスマオーラ感は結構すごかったんだよマロちん」

 それもただ猫を被っていただけだとすぐに知る事になったのだけれど。

 マロちんは興味深そうに「へー」と頷く。

「ちなみにさ、舞衣は最後亜衣と話していた時なんて訊いてたとか後で分かったの?」

「んー、それはちょっと舞衣の事情とかと重なってくるから本人に聞いた方がいいかも。私が言うと怒るんだよこれが」

「舞衣が亜衣に怒る事とかあるの?」

 めっちゃある。人前だとあまり言わないけど、二人になった時だと「なんであんなこと言っちゃうの亜衣? あたし別にいいって言ってなかったよね?」とねちこく言われる。とりわけ彼女も家庭が複雑であり、安易に私が口にすべきものではないと思う。

 マロちんはそれもそうかとあっさり引いた。彼女のこういう下手な野次馬根性を出さず、相手を尊重して引く姿勢は偉いなといつも思う。私だったらついつい聞きたくなっちゃうし。

「これは舞衣について聞くわけじゃないんだけど、結局亜衣と舞衣はその後どこ行ったの? まさか本当に学校いって爆竹鳴らしたとか」

「そんなことするわけないって。ただカラオケ行って解散しただけだよ」

 この時の舞衣は友達に飢えていた。しばらく経って本人から聞いたことだ。

 舞衣は学校の中では友達は多いように見えていたけれど、やはり他所からやってきたという事もありなかなか輪の中に馴染めてはいなかったそうだ。

 表面的には仲良くできていたが、それでも一歩引いた視線、都会からやってきたスターといった様子で敬遠されてはいないものの、対等に話せる友人が出来なかったらしい。

 それにすでに中学二年生、小学校も合わせると八年間知り合った集団の中にぽっと入れられても、交友関係が出来上がっている以上その中で楽しめる自信がなかったとも言っていた。

 意外なことに思えるかもしれないが、舞衣は既存のグループの中に入ることをすごく嫌がる。自分が知らないのにグループの他の皆が知っているという状況が堪らなく寂しいのだそうだ。だから新天地で友達を作るならどこにもグループに属していない一人の子を狙っていたという。その候補の中に私の名前があった時は驚かされたものだ。私は部活をしていたのでぼっちという感覚が自分の中にはなかったが、クラスで特別親しい友人がいたわけでもなかったので比較的一人でいる時間が多かった。だから私が部活をしていると告げた時舞衣はしばらく拗ねるのだがそれは余談だ。

「舞衣とはそこから仲良くなったの?」

「んー、まあそうだね」

 カラオケに行った帰りにはもう互いにファーストネームで呼び合う様になっていた。

 舞衣はきらびやかで美人で、自分とは合いそうにないなと思っていたのに根っこが似ていたからかもしれない。

 歌の趣味も、好みの食べ物も、ついでに好きな人のタイプも舞衣とは今まで一度も被ったことはない。だけどなぜか私は彼女と意気投合してしまった。今になって思えば、この時私も舞衣も家の事で不安を抱えているという共通の悩みがあったからなんじゃないかと思う。だけど出会ったこの日はお互いの家のことなんて話さなかったから、やっぱり感性がどこかに通っていたのかもしれない。

「でもいい事ばかりじゃなかったんだよね」

「……っていうと?」

 私が声を潜めてお道化れば、マロちんものってくれた。こういうやり取り楽しい。

「うん、今は大分抑えられてるけど、舞衣にこの後凄いたくさん悪い遊びを教えられたんだよ」

「え?」

 はっきり言って当時の舞衣は私以上に荒れていた。表面上はそう見えなかったが、内面は大荒れだった。

「しょうもない事ばっかりやったよ。髪の毛真っキンキンに染めたり、ピアス空けたり。お酒とかたばことか、無断外泊とか。近所の公園にスプレーで落書きしたり、舞衣の家の車勝手に運転してみたり。売春とか万引きとかはしなかったけど、人に迷惑をかけること含めて色々やっちゃたったかな」

 返事がなかったのでマロちんを見れば口の端を引きつらせて固まっていた。やばい、赤裸々に言い過ぎたかも。でも詳しく言わない分大分オブラートに包んだはずなんだけど。

 ……ないね。口に出して思ったけど普通に犯罪行為に手を染めていたし、控えめに言って私と舞衣は非行少女だった。

「マロちん引いてー、るよね、これ」

「い、いやいや、いやいや? 引いてないよ」

 嘘だ。これは確実に引いている。逆の立場だったら私は引いている。

 だが彼女の言葉に嘘はないようだった。

 マロちんはカップの淵を指でなぞりながら、習ったばかりの複雑な数式を見るような目で私を見た。 

「本当に引いてないって。ただなんていうかな、今の二人を見てそんなに荒れてたっていうのが想像できなくて」

「そう、かな」

 改めて返事に困る。あの当時は今とは比較にならないくらい心が荒んでいた自覚はあるし、他人にも迷惑をかけた最低な時期だった。あまり掘り返したくない黒歴史であると同時に、決して忘れられない私自身の記憶でもある。

「今の二人が出来たのって、多分だけど裕子がすごく関わってるんじゃないかって思うんだけど、どう?」

「おっとマロちん性急に答えを求めて来るねー?」

「だって三人の関係を聞いたのにまだ裕子の名前すら出てきてないもん。そろそろかなって思うじゃん」

 もっともな感想だ。

「マロちんの想像は合ってるよー。ここからボス登場って感じ」

「やっぱり。でも話聞くだけでもその時の亜衣と舞衣が裕子と仲良くしそうな感じあまりしないんだけど」

「ご明察。めっちゃバチバチしてました」

 両手を合わせて天井を仰ぐ私。思えばあの時は無謀なことをしていたものだ。

「すげえ聞きたい」

「続き?」

「うん」

 じゃあ話すとしようか。正直今まで以上に語りたくない部分ではあるけれどそれはまあ自業自得だ。

 私自身記憶を手繰りながら言葉を探す。

 あの時、まだボスの事を『荒神』と呼び捨てていた頃を思い出しながら。

 

 



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柊亜衣の思い出話 ③

「あんたらね、夜中に悪さしてるっていう二人組は」

 凛とした声が頭上から降ってきた。私と舞衣が視線を上げた先には、学校で見たことがある女が腕を組んで私たちを見つめていた。

「誰? こいつ」

 舞衣が興味なさげに私に尋ねる。

「うちの生徒会長。確か名前は」

「荒神裕子よ。ついでに言うと二人と同学年。あなた達、特に転校生の楠さんは夏休み明け以降あまり学校に来ていないから知らなくても不思議じゃないかしら」

 私の言葉を遮って荒神は名乗った。私はそのくらいで別になんとも思わないが、突然部外者がやってきたことと、私に聞いたはずなのに荒神本人が答えたことで舞衣が機嫌を悪くした。

「で、そのセイトカイチョーさんがなんか用?」

「簡単よ。悪いことはやめなさい。学校に迷惑がかかるわ」

「……」

 私たちは黙って荒神を睨んだ。

 だが私達に睨まれてまったく動じる気配がないことに、私は内心焦りを抱きつつあった。

 今の私たちが中学生あるまじき姿をしているという自覚はあった。

 髪の毛を金色に染め、両耳に小さなピアスを開け、蛍光色のジャージにサンダルを履いてコンビニの前で座り込んでいる。

 時刻は夜の七時だった。

「あー、はいはい。やめまーす。だからどっか消えてくんないカイチョーさん?」

 舞衣が挑発するように語尾を上げると、相手の眉間がぴくっと動いた。

 一瞬喧嘩になるかと思ったが、そうはならなかった。

「そう、ならいいわ。それとそんな恰好でうろついていたら危険よ。田舎だからって悪い人がいないわけじゃないのよ」

「うるっせーな。さっさと行けよ」

 余計な一言にイラついた舞衣がさらに噛みついた。今の言葉は私も少しイラっとしたから特に止めることはしない。そもそもこいつ何様だと思う気持ちは私にもあるからだ。

 荒神の姿が見えなくなるのを確認すると、さっそく舞衣が口を開いた。

「うぜー! なんだあれうぜー!」

「ね。なんか上から目線って感じだったよね」

 生徒会長荒神裕子。

 その名前は入学当初から知ってはいた。

 学力優秀でスポーツ万能、リーダーシップもある。男女問わず平等に親切に接するので変なやっかみもなく両性からの人気も高い。

 同学年の中で最も有名な人物の一人になるのではないかと、記憶の中のデータベースにあたって答えを出してみた。

 私も少し前に会っていたらまた違った感想を抱きそうだけど、さっきのタイミングは最悪だった。最悪に気分の悪い出会い方だった。

「何も知らないくせに」

「他人なんてそんなもんだよ」

 ぼそりと呟いたつもりが、舞衣に拾われてしまう。若干の気まずさから、私は立ち上がった。

「もう行く?」

「うん。そろそろ見回りとか多くなってくる時間だし」

 どちらか片方が立ち上がるとそれが合図だった。

 青少年保護法だか何だかで、この辺りは夜七時を過ぎると途端に大人の目が厳しくなる。

 家に帰りたくない私と舞衣は、そのくらいの時間になるとコンビニやカラオケなど人の光が集まる場所を離れ、公園や高架線の下などあまり人気のない場所を見つけては移動していた。

 自転車に跨ると、舞衣は動かずじっと私のことを見つめていた。

「何? 行こうよ」

「いやさ、今更だけど亜衣家帰んなくていいの?」

「……なんで?」

「あたしに合わせてるんならなんか申し訳ないなって、あらためて思ったり」

「馬鹿な事言わないでよ。あんなとこできる限り帰りたくない」

「……だよね」

 舞衣も自転車に乗った。

「今日どこ行く?」

「どっか適当?」

「でたー! さんせー!」

「ぶいぶい言わしちゃうよー?」

 きゃはははと謎のテンションで坂道を駆け抜ける私達。

 早くこの場を離れないと警察の見回りがやってくる。見つかるかもしれないというスリルと夜風の冷たさが私たちの気分を余計に高揚させていた。

 

 

 あの日、舞衣と初めてカラオケボックスで騒ぎまくったその日の夜。

 私は夜中の十時に家に帰った。

 家に帰ると父の姿はなく、母が一人起きて待っていた。

「どこ、行ってたの?」

「……」

 母の語調は弱弱しかった。

 探る様に、私の事を想っているというより、保護者として世間から非難されないために義務として、私に尋ねているように聞こえた。

 私は何も言わずに自室に鍵をかけ眠った。母はそれ以上何も言ってこなかった。

 母の気配が私の部屋の前からなくなったと分かると、私は声を殺して泣いた。

 どうして泣いたのか分からなかった。

 悲しかった、悔しかった、腹が立った。

 どれもあるかもしれないが、胸にぽっかりと空いてしまったかのような喪失感が胸を締め付けたのは確かなことだった。

 

 その日以降、私は舞衣と一緒にいることが多くなった。

 舞衣もクラスの上位カーストグループから抜け、私と一緒にいることが増えた。

 私も、初めは真面目に授業も受けていた。でも段々舞衣の遊びが深夜まで食い込むことが増え、朝早く起きることが出来なくて学校に遅刻しだし、遅刻するくらいなら面倒だし学校休んでもいいかなという怠惰な気持ちが私をどんどん駄目な方向に導いていった。

 当然学校からも山のように電話が来た。母はそのたびに学校へ行った。

 しかし母は私に何も言う事はなかった。

 困ったように私を見るだけで、叱りもしてくれなかった。

 形だけの注意は受けた。だけど本当にそう思っているとは思えないような、誰でもいえるような注意だった。

 母の注意を無視しても問題がないと分かると、私はますます学校に行かなくなった。

 舞衣も色々言われているみたいだったが、私以上に反発的だった。

 学校から電話が来た日は決まって舞依から連絡があった。

『どっか行こうよ』

 舞衣の誘いに乗らない日はなかった。

 非行に走っているという自覚はあった。

 長年続けていたソフトボールを無断で止めたことを咎める気持ちもどこかにはあった。

 でも今まで仲の良かった友達が心配そうな顔をして事情を訊いて来るたび、どこか冷めた目で見てしまう自分がいた。

 変わっていく私に、だんだん友達も離れていった。その程度の友達だったんだろうと諦めの気持ちが勝ったので特にショックはなかった。 

 私と舞衣はますます一緒にいることが増えた。

 舞衣はよく大金を懐に抱えては、「海に行こう」「山を見に行こう」「川で泳ごう」などとわんぱく坊主さながらに私を色々な場所に引っ張っていった。多分親の金をくすねてきているのだろうなと思ったけれど、私は何も言わなかった。舞衣との関係は今は心地いい。だけどこれが刹那的な関係であると心のどこかで思っていたからだ。

 最初はあれだけ嫌がっていた野宿も、舞衣と一緒に時々するようになった。地元の頭の弱そうな高校生やフリーター上がりの不良っぽい人たちに狙われかけることもあったけれど、大概は舞衣がどうにかして追い払っていた。相手を逆上させるのではなく、よりよい獲物がいる場所を教えるというある意味非道なやり方だったのでちょっとどうかとも思ったが、彼女のやり方にケチをつけることはしなかった。

 八月に髪を染め、九月に耳を開け、十月には家に殆ど帰らなくなった。

 家に帰らず寝る場所は、街の外れにある廃ビルだった。

 立ち入り禁止や格子鉄線が張り巡らされているのを無視し、アスベスト上等と息巻いて私たちは眠った。寝心地は最悪の一言。床は固いし、ガラスが割れているので隙間風もひどい。家から持ってきた毛布だけじゃ寒いからって舞衣は私の毛布まで寝ぼけて持っていこうとするし、日によっては真下で時代遅れの暴走族がバイクをウォンウォン吹かせる。

 それでも家に帰るよりはましだった。あの冷たい空間にいるよりは。

 

 今日も例の廃ビルに舞衣とやってきたが、いつもと違っていた。

「何? 急に止まったりして亜衣」

「し。人がいる」

 自転車から降りて目を凝らす。黒い人影がゆらゆら揺れていた。

「誰?」

「ホームレス、かも」

 目を凝らすと確かにそれらしい人たちが私たちの寝床を物色しており、横になっている人もいた。

 全員で七人ほどおり、とてもじゃないがあの場に行ける気がしなかった。

「あーあ。取られちった」

「もともと立ち入り禁止だったとはいえ、ね」

 私たちは自転車に跨りなおし、目的なく走った。

 お互い行くべき場所を決めていたわけではないが、気が付けば私と舞衣が始めてしっかり話した緑地公園に来ていた。廃ビルに拠点を移すまで、私たちの会合はここだったので、ある意味原点回帰ともいえた。

「ここまあまあ夜怖いね」

「電灯が殆どないもんね」

 舞衣が私の袖を引くので私も同意する。とりわけあのベンチの場所は広い空間に対して光の量が微弱だ。その分人は寄り付かないのだが。

「今日、家帰る?」

「……」

 舞衣は答えず、背中かからギターを取り出した。

 そのまま調律をし始めたかと思うと、突然演奏を始めた。

「ちょ、舞衣夜だよ?」

 人気はないとはいえ、大人に見つかったらまずい。

 私の焦りをどこ吹く風と言わんばかりに舞衣はにこやかに私を見つめた。

「亜衣歌ってよ。結構うまいでしょ」

「歌うって、なんの曲なのよ」

「ちょー有名な曲。絶対知ってる。……when the night――」

「歌詞までは知らないってそれ!」

 結局殆ど舞衣が歌って、サビだけ一緒にハモった。暗い森の中で、ギターの音色だけが明るく響いていた。

 

 

 騒がしい。眩しい。

 それに、左腕が妙にあったかくて、震えている……?

「亜衣、亜衣、ちょっと起きて亜衣」

 小声で舞衣の声が聞こえた。

 目を開くと、舞衣が私の腕を抱いて震えていた。顔もこわばり、心なしか白く見える。いつも大胆不敵を絵にかいたような舞衣らしくない怯えた表情だ。

「お、相手の子も起きたみたいじゃん」

「え?」

 そこで私は初めて第三者の存在に気が付いた。

 私たちの対面には二十歳そこそこの男性がいた。

 手に竜何か動物の入れ墨を入れ、髪の毛を銀色にし、唇にピアスを開けている。

 外見で人を判断するなと昔から言われてきたけれど、相手の表情を見ればそれも吹き飛んだ。

「あーあーあー、もっかい会っちゃったねお嬢ちゃんたち。あの時は上手く逃げたのにこんなとこで寝てるんだもんなぁ」

 くちゃくちゃとガムを噛みながら私達の肩を触った。

 瞬間尋常じゃないほどの嫌悪感と危機感が全身を駆け抜けた。だが、私は恐怖で振り払えなかった。

 隣を見ると舞衣も同じようで、カチカチと奥歯を鳴らしていた。

 この男を見るのは初めてじゃない。

 正確には、この男たちを、だ。

 後ろに控える似たような外見の男たちが四人ほど、道のわきに停めてあるワンボックスカーの近くで煙草をふかしていた。

 こんな夜遊びを年頃の女子二人でしているのだ。田舎とはいえそれなりに危ない目に遭いかけたこともあった。

 この男たちにも一度接触され、「暇なんでしょ」とどこかに連れていかれそうになったことがあった。

 文字通り暇だった私たちは多少警戒しつつも、好奇心が勝って車に乗り込もうとした。ワンボックスの中から裸の女の子が横たわっているのを見なければ。

 私と舞衣はがむしゃらで逃げた。

 相手もさっきまで乗り気だった相手が突然全力で走り出すことを想定していなかったようで、対応に遅れたことも助かった。

 自転車で逃げ回ったが、後ろからあのワンボックスがやってくるのではないかと恐怖し、その日ばかりは一目散に家に帰った記憶がある。

 あのワンボックスが目の前にある。

「逃げないよね? 逃げたら殺すから」

 銀髪の男はポケットからナイフを出した。

「だ、だれか助け――」

 舞衣が叫ぼうとした瞬間、刃物が舞衣の首筋に触れた。

 つー、と浅く肌を切ったようで、ぷくりと血の球が流れ出る。舞衣の動きはそれだけで止まってしまった。

「ほら立って。大きい声とか出さないようにね。近所迷惑考えようよ」

「…………」

「ほら返事!」

「っい……!」

 舞衣の髪の毛が乱暴に掴まれた。私はそれでも恐怖で腰が抜け、動くことが出来なかった。

「ほら立てよお前ら。行くぞ」

「い、行く?」

「こんなとこで深夜徘徊してんだから大体想像つくだろ。おら暴れんなよ」

「や、いやあ!」

 舞衣はそれでも激しく抵抗した。すると男が業を煮やしたのか、舞衣の鳩尾に思い切り膝蹴りを入れた。

「舞衣!」

 駆け寄ろうとする私の髪の毛を銀髪の男が掴んだ。

「うるせえよお前も。お友達がダイジーってか?」

 嫌らしい顔を浮かべた後、何かに気づいたように私の肩に手を回し、乱暴に胸を掴んだ。

「―――っぃ!?」

「うわ、胸でけー。おーい、今日割とあたりっぽい」

 銀髪男が車の近くでたむろしている仲間に声を上げると、付近で甲高い歓声が起きた。

「や、やめて」

「あ?」

 男はしばらくすると私の胸から手を離したが、そのまま私と舞衣の手を引いて車の方に歩き始めた。

 怖い怖い怖い怖い。

 息が荒くなり、視界がぼやけ始めた。

 どうしてこんな事になったんだろう。

 後悔が体中を駆け巡り、これからの未来を想像して絶望が全身を支配した。

 何をされるかなんて明白だった。

 初めては好きな人と、なんてメルヘンチックなこと考えていたわけじゃないけど、テレビで見るような被害者に自分がなるとは思っていなかった。

「めん、めん、めん……」

 ぶつぶつと隣で舞衣が呟き始めた。視線だけを向けると、舞衣は恐怖で引きつった顔を浮かべながら、私に「ごめん」と言っていた。

「舞衣の、せいじゃないよ」

「ごめん亜衣。ごめん亜衣」

「うるせえよお前ら」

 男に足を蹴られた。その衝撃で舞衣が姿勢を崩した。

 こんな事態に陥ったのは舞衣のせいじゃない。

 そう思ったのは本音だ。

 もともと私が家が嫌で飛び出して、舞衣はそれに付き合ってくれたと勝手に思っている。

 自分でも思って言事じゃないか。

 所詮私はただの中学二年生。なんの力もなければお金も、ご飯も自分で用意することなんてできない。

 舞衣が一緒にいてくれたおかげで一瞬でもあの場から逃げることが出来た。

 彼女は私にとって友達だ。そんな友達のせいにできるはずもなかった。

 でもどうしてだろう。

 さっきから怖くて仕方がない。

 

『こちらです! お巡りさんこちらです!

 少女が誘拐されそうになっています!

 市営緑地グラウンドにて少女が男性5人に誘拐されそうになっております。

 今にも犯されそうになっております!

 住民の皆様夜分にご迷惑をおかけします! 少女が犯罪に巻き込まれそうになっております!

 助けてください! 』

 

 キーンっと拡声器の大きな音が鳴った。

「……え?」

 私と亜衣が呆けていると、男は舌打ちをしてさらに私達を引っ張る力を強めた。

「早く歩けよ!」

「い、いやあああああああ!」

「やだああああああ!」

 私も舞衣も叫んだ。ここで声を上げないと助からないという直感があった。

 

『ああ! 今にも連れ去られそうになっております! お巡りさんこっちです! あのワンボックスカーです! れの3454です! プレート番号れの3454です! いかにも怪しげな車です!』

 

「糞が!」

 とうとう銀髪男は私たちを乱暴に突き放すと、仲間と車に乗り込んでどこかへ逃げる様に発進していった。

 ぽかんとして舞依と顔を見合わせる。舞衣も私と似たような表情を浮かべていた。

「……助かったの?」

「……みたい」

 まだ実感がわかなくて、私たちはお互いの手を握りあった。舞衣の手は温かかった。

「ぎりぎりだったわよあんたら」

 すると私たちの後ろから声が飛んできた。

 さっきの直後だったので、ぎょっと身を固めた。

「だから悪いことはやめなさいって言ったのに」

 ジャージ姿にサンダルをひっさげ、片手に拡声器を持っている。

 生徒会長の荒神裕子が私たちの目の前に立っていた。

 

 

「裕子登場だ!」

 マロちんのテンションは上がった。

 私は「そだねえ」と緩く受け止め、追加のカフェオレを作りに自分と彼女のカップを持って立ち上がった。

「裕子って生徒会長だったの?」

「そだよ。二年の間だけだけどね。普通生徒会長ってもあんま目だたないんだけどさ、ボスはあのビジュアルもあって結構目だってたんだよ」

 大人顔負けのはきはきとした受け答えや、積極的に地域の取り組みに参加する姿勢などからよく地方の広報誌に載せられ、地方新聞にもうちの中学の代表として幾度も登場した。

 表舞台に立っている光の存在として私も舞衣も当時は彼女にいい印象を持っていなかったのだ。

「亜衣と舞衣、荒んでたんだね」

「ストレートに言うとね。今で言うと不登校生徒って感じかな」

「それでも夜中この辺で野宿って危ないよ」

「身に染みた。実は私達が廃ビルで寝てたってこと大人の人たちは知ってたみたいなんだよね。私たちがホームレスだと勘違いしたのも後で聞いたら自治会のおじさんたちだったらしいし」

 遅かれ早かれ私と舞衣の野宿生活は終了していただろう。実質私たちが野宿をしていた期間は二週間ほどだが、それも寒くなりつつあったので時期的にも限界があったのかもしれないが。

「それで、その、怖い目に遭ったんだ」

「遭ったねー。あれはヤバかった。これも後で聞いたけど、あれ地元の人間じゃなかったみたい。頭の悪い大学生の連続人さらい、みたいな」

「いやお茶らけて言うには怖すぎる内容だよねそれ」

 マロちんの引きつった突込みに頷かざるを得ない。

「さっきの話の続きになるけど、連中を追っ払ったのって裕子なの?」

「うん。どうもボスの家が公園のすぐ近くみたいでさ、私達がやべえことになってるのが見えたんだって」

 でも警察の人が向かってるとはいうのは嘘だったようだ。通報してみたが別件で立て込んでいたのか、すぐに向かうのは難しいと言われたそうだ。しかしボスが拡声器で騒ぎまくってくれたおかげで、目を覚ました近隣住民の人が警察に言ってくれたようで、その後すぐに警察からの事情徴収を受けた。こう聞くとボスは単に子供だから相手にされなかった可能性があるのではと思ってしまう。口に出したら殺されるので決して言わないが。

 私も舞衣も被害届を出し、両親が迎えに来て朝方帰った。

 母と、珍しく父も隣にいた。

 二人は私の今の姿を目にし、気まずそうに眼を逸らした。

 母はともかく、父は私が髪を染めたことも、耳に穴をあけたことも知らない。娘が非行に走っているという事を知らなかったのだろう。

 車中は静かだった。

 父はともかく、母も何も言わなかった。

 私は後部座席で揺られ、精神的な疲れもあってすぐに眠りに落ちた。

「次の日目覚めてさ」

 カップを持って腰を下ろした。受け取ったカップを息で覚ましながら、マロちんは視線だけこちらに向けた。

「ボスから電話があったんだ。今日は学校来いって」

「なんで裕子は電話番号知ってんの?」

「……それは確かに不思議だなあ」

 そういえばなんでだろう。あの時は全然親しくないし、どうやって知ったのか気になる。

「あ、話の腰折ってごめん。それで、学校行ったんだ」

「私は根が素直だからねー。それに昨日の今日でボスに対してもちょっと感謝っていうか、思うところはあったからさ」

「しっかりお礼は言ってなかったの?」

「状況が状況だったし、なにより時間はあってもあの時の私たちが素直に礼を言ってたか微妙なところだねえ」

 ところが家を出ようとした瞬間ボスが仏頂面で玄関に立っていた。

「え、なんで?」

「舞衣がねえ」

「舞衣?」

「気になる? じゃあここからは私たちの改心話だよ。ついでにそろそろ長いから次で一気に終わらしちゃおう」

「ゆっくりでいいよ」

 嫌だよ。だって勉強の時間なくなるじゃん。

 



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