「これ凄くない?」
「ちょーすごーい!」
「昨日のアレ観た?」
「おお、観た観た。凄かったよなあ」
「先輩、この書類ってどう書けばいいんですか?」
「ん? ああ、ここは前に書いたやつをちょっとだけ変えてやって・・・」
平日の昼間だというのに学生やサラリーマンと思われる人達がいくつかのテーブルに着いているなか、私は今日もひとりで隅のほうの席を専有させてもらっている。
カップの中のコーヒーを見つめていても耳に入ってくる会話やその声量は様々で、店の中央あたりに居る女子高生のグループはどうやら新しい機械の話をしているらしい。
かと思えばそこからさほど遠くない位置に座る男子高校生たち。校章が先の女子高生と似通っていることから、同じ学校に通っていると思われる。彼らは昨日のテレビ番組だろうか。いや、今の若い子たちはインターネットでなにがしかの動画を見ているとも聞く。
私の時代からは考えられないことだ。
若い男性と中年が合わさった二人組のサラリーマンらしき人達は書類の訂正か、はたまた新人に新しい仕事を覚えさせているのか。
いずれにせよ、この季節にはよく見られる光景だ。残念ながら私には経験が無いが、それでも新しい生活に対する不安と希望はよくわかる。
「柏木さん。上着をお預かりしましょうか?
この天気のいい日に上着なんか着て窓際に居たんじゃあ、お暑いでしょう」
呼ばれて顔を上げると、声をかけてきていたのは慣れ親しんだウェイターの子だった。低めの背もあってか中学生にも見える彼は名前こそ知らないがよく気のつく良い子で、いつも私のことを気にかけてくれる優しい子なのだ。ここが外国の地なら間違いなくチップを弾んだだろう。
「ああ、ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて預かってもらおうかな」
ありがたく、着ていた上着を彼に預けると彼は上着を丁寧に受け取って少し離れた壁際に掛けた。これも、私のように上着を着ている客のことを思って彼が店長に無理を言って付けてもらったものらしい。
「あ、お冷かコーヒーのお替りお持ちしましょうか?」
戻ってきた彼がカップを見るなり言った。
「・・・そうだね。でも、今日はコーヒーじゃなくてロイスを頼みたいな」
少し考えてからそう告げると、彼は本当に嬉しそうに「かしこまりました」とだけ言って引っ込んでいった。
『ロイス』が来るのを待つ間、私は窓の外、
とりわけ空を見ていた。自分で頼んだというのに、出されるまでの少しの間で頼んだことを後悔している自分がいるのに気付く。自然、苦笑いとため息が漏れるのをどこか他人事のように感じていた。
ロイスというのはもともと人の名前だ。もう数えきれない程の昔、私の友人をしていた男の名前。そして、今はその姿を見ることができない男の名前だった。
彼はひどい紅茶好きで、最期のその直前にあっても紅茶について語っていた。
曰く、
「紅茶と女は待たなきゃいけない。焦らし、蒸らすことでより旨くなる」
自称英国紳士で女たらしなロイスは、何番目だかの彼女が作ってくれたサンドイッチが大好きらしかった。自家製のピクルスと彼の好物のハム、そしてツナを挟んだパンは誰が見ても羨む幸せと愛情に溢れた出来で、部隊の皆は嫉妬に荒れ狂ったものだった。
・・・もっとも、その後何ヶ月かで別れてしまったようだが。
そうそう、ロイスと言えば忘れてはいけないのが幼馴染だ。女たらしな彼とは正反対に彼女は身持ちが堅かった。凛として清楚な感じのする彼女は立っているだけでも魅力的で、当時の私の知り合いは軒並み彼女に告白をしていたが、彼女は一貫してそれを断っていた。彼女が誰と付き合うか、その話題は常にあったように思う。
ある日、彼女が妙にそわそわしていて落ち着きがなかったことがあった。私を含めて誰が聞いても何一つ答えようとせず、結局わかったのは全てが終わってからのことだった。
身も凍るような雨の中、部隊の皆の家を回って戦死報告をするのは私の役目だった。
彼女を最後に回したのは何故だろうか。思えばその時、私は彼女がロイスに気があるのに気付いていたのかもしれない。
私の報告を聞いた彼女はショックを受けている様子だったが、それでも気丈に振る舞っていた。立ち尽くすわけでもなく、座り込むわけでもない。
「私、あいつに告白してたんだ」
何かを考え込むように黙っていた彼女は、やがて寂しそうに笑って言った。
「帰ってきたら返事聞かせてくれるって言ってたんだけどなぁ・・・」
それを聞いた時、私は何を思っただろうか。
ただ、無性に涙が溢れて彼女に背を向けたことだけは覚えている。
「柏木さん。お待たせしました」
その言葉を聞いて、ようやく自分が思考に耽っていたことに気が付いた。
私は礼を言ってからロイスを受け取り、ゆっくりとテーブルに置いた。
ロイスはその名前が示す通り、頼むと彼の好物だったピクルスサンドと紅茶がセットで出てくる。ただし、紅茶だけは彼の幼馴染だった彼女の希望するものとなっていた。彼女が彼に紅茶を淹れた際に、一度だけ褒められたものらしい。
ピクルスは厳選された胡瓜を酢と水、砂糖と多めの塩に胡椒や白ワインを加えたものを煮立たせてから漬け込んでいるため、マイルドながら刺激のある味となっており一緒に挟んであるマヨネーズをあえた卵とマッチしてたいへん美味だと店主は言う。
パンもかなりこだわって作っているらしく、
自家製酵母まで用意しているとか。
彼が好んだという紅茶は香り高く、甘みなど余計だと言わんばかりに飾り気のない味は上品で、飲むとどこか安心するような気持ちになる。ポットの中でよく蒸らされたのがわかる一杯だった。
いずれも懐かしく、そして嬉しさと悲しさを引き立たせる味だ。いくら考えないようにと思っても、昔を思い出してしまう。
・・・いや、昔を思い出すために頼んだのだ。忘れないように。寄る年波に負けず、過去に縋りついて必死に記憶へ留めておこうと足掻いている。何度となく食べようとして、それでも辛くて頼むことすらできなかったメニューのひとつがこれだ。
散っていった英雄たちの名が冠されたセットメニュー。何ページにもわたってその存在を示しているそれらを考案したのは、当時の通信要員のひとりらしい。
彼らは何を思ってこれを作ったのだろうか。
私のように忘れないためにか、それとも墓前に添える花としてか・・・。
意識を少し外へやれば、話声は何故だか遠く聞こえてくる。それが、あの日皆の命と引き換えに守った明日が今に続いていることの証明のひとつだと考えると、誇らしく思う自分がいるのと同時に、申し訳なく思う自分がいるのもまた事実だった。
ちらりと視線を横へやれば、相変わらずあの子は忙しそうに客たちの間を行き来して気配りをしている。そうした光景を目にする度に、彼らにそれを見せてやれないことが残念でならなかった。
「すまない」
「はい」
私は彼が側を通ったタイミングで呼びとめて会計を頼んだ。
「ありがとうございました。またどうぞ」
会計を済ませ、随分と嬉しそうに言う彼にどうしたのかと問うと、
「大戦を終わらせた英雄に通っていただけて光栄です」
と彼は言う。
それに対し、私は受け取った上着を羽織りながら笑みだけを返して店を出た。
「・・・私は、英雄などではないよ」
そう。どんなに人が称えても、どんな栄誉や名声を得ても、私が欲しいものはもう手に入らないのだ。
もし、英雄なんてものが居たのなら、誰も悲しませずに全てを終わらせることが出来たはずだ。
英雄が居なかったからこそ、私は今日もひとりだった。
目次 感想へのリンク しおりを挟む