記憶の無い僕と黒い刃の彼女 (丸いの)
しおりを挟む

第一話「不凍の港町クアルス 剣の少女」
1. 難破船


「ツカサ!! 難破船の漂流物を見に行こうぜっ!!」

 

 うたたねをしていた僕を叩き起こしたのは、元気いっぱいな男の子の一声だった。ガツンと頭に響く大音量、そしてバンバンとぶっ叩かれる机。いきなりの事態に驚きにもんどりうって机から墜落しなかったのは、夢の世界から無理やり引き戻されたことへの抵抗である。うんざりしたように薄く目を開けて、その襲撃者の姿を視界にとらえた。

 

「……フィン。まだ夜明けも早々になんだよ」

 

 彼が開けっ放しにしている外の様子から見て、まだ日も上り切っていないような早朝だ。身震いするような肌寒い外気が屋内に入り、作業途中のまま机に突っ伏して寝てしまっていた僕の足元に冷たさを伝える。このままここで二度寝すれば間違いなく風邪を引くだろうし、ベッドで寝なおそうという行為はこの男の子が許しはしないだろう。

 

「何って、難破船だよ!! 夜中にあんだけ騒がしかったっていうのに、知らなかったのかよ!?」

「……ごめん。昨日は遅くまで仕事してたから、そんな喧騒は全く知らないんだ。それで、その難破船って何のこと?」

 

 机にほっぽり出したままの手紙たちを纏めながら、彼に苦笑いを向ける。彼のはしゃぎようや、それに難破船というキーワードから言って、それなりの大事が起きたということは想像に容易い。

 

 だけど恥ずかしながら、寝落ちをしてからこの時間に至るまで、決して厚い壁があるとは言えない小さな小屋の外で騒ぎがあったなんて欠片も知らなかった。僅かな月明りを頼りにして紙に文字を書く単純な作業をしていたのが昨夜の最後の記憶で、気が付けばこんな早朝で机に向かってぶっ倒れていた次第である。

 

「しょうがねーなぁ。じゃあ説明してやるよ――」

 

 彼の話を纏めると、確かに港の方で結構な事態が起きているということだけは分かった。

 

 日もすっかり落ちた昨夜遅くに、付近を航行していた船が沈没をしたらしい。その船とは、夜明けと共に寄港する手筈になっていた輸送船スターランテ号。灯台の見張り番が見たのは、沖合いの離れたところで突如巻き起こる大きな火柱だった。そこから船が真っ二つに折れて、春先の冷たい海に船の残骸が漂流したのはあっという間の出来事だった。海も穏やかで嵐も無く航海には何の問題も無かった気候の最中での沈没騒ぎに、事件の可能性を疑って街の衛兵も動き出す騒ぎになっているそうな。

 

 なるほど、聞けば聞くほど大事に感じるし、確かにてんやわんやな出来事だ。しかし、だからと言ってこのわんぱく坊主が騒ぎ出すのは何かが違うのではないかと思う。

 

「あのねぇ、僕らが行ったところで賑やかしにしかならないだろう。それに君の話を聞いた限りじゃ、今は衛兵の人たちが動いているんでしょ。下手に港で騒げば彼らの仕事を邪魔することになるよ」

「チッチッチ、ツカサは分かっていないなぁ。確かに港に行けばそうなるけど、オレが行こうって言ってるのは海岸線さ」

 

 現在進行形で漂流者の救出作戦が決行されている港湾地区ではなく、そこから少し離れた海岸線に行こうと提案をされる。そんなとこに行って何を見ようというのか、そう切り出そうとした僕よりも先に、彼はニヤニヤとした笑顔をうかべた。

 

「オレがやろうとしてるのは野次馬じゃなくて宝さがしさ!! この季節は海岸近くは北向きの海流があるんだ。だから海岸に何か流れ着いてるかもしれないぜ」

「……重要な参考物は全て衛兵に渡すこと。いいね?」

 

 もちろんだぜ、と楽し気に騒ぐ彼を見てため息を吐いた。僕よりもたぶん二回りは小さい歳の子供にここまで振り回されるとは、まったく朝っぱらからひどく疲れるもんだ。だからと言って放っておけば彼は一人で行きかねないし、ならば監視役を兼ねて同行してやるのが吉だろう。一応は年長者であることには間違いは無いんだし、しょうがねえべと息を吐く。

 

 とうとう白息まで出てきた部屋の室温にブルりと体を震わしながら、壁に掛かっていた厚手の羽織を手に取った。

 

「どんなにたくさんのものが見つかっても、絶対に授業の時間までに切り上げる。それを守ってもらうからな」

「ったりめーよ。じゃあ行こうぜ、ツカサ先生!!」

 

 弾丸のようにはしゃぐ彼に手を引かれ、朝もやの漂う街へと足を踏み出した。

 

 

* * *

 

 

 ここクアルスは、アストランテ王国の北東部に位置する不凍港で有名な港町だ。漁業と海上貿易の要所である上に、全体的な治安の良さも手伝い古くからこの地域の中核としての繁栄が続いている大都市でもある。そんなこの街で暮らす一般市民の僕は、別段漁師や貿易商などではなく、それどころか自分でもうまく説明の出来ない背景を抱えている。

 

 今の僕には、ツカサという名前の他に自分を説明できるものはない。ここ半年以上の記憶が、まったく存在していないからだ。自分が一体何処で生まれ育ったのか、家族はどうしているのか、そしてどうしてこの港町クアルスに流れ着いたのか。そんなことは全てさっぱり分からない。

 

 

 半年前の秋口に、海岸線近くの浜辺に打ち上げられていたのをフィンの父親に見つけてもらってからずっと、そのまま変わりはないのだ。精々自分について判明しているのは、恐らく10代後半くらいの人間族の若い青年であることだけ。

 

 ただ自分の名前の他に、文字を読み書きできるだけの記憶が残っていたのは幸いだった。そのおかげで、フィンの家族に頼らずとも僕は独立して生計を立てることが出来ていた。街の子供たちに簡単な読み書きや算数を教える傍らで、手紙の代筆も小銭稼ぎに行う。たったのこれだけでも、街の外れの小さなおんぼろ小屋で一人暮らしをするだけの稼ぎは得ている。同年代の若者の多くが漁師や大工という腕っぷしにを必要とする職に就く中で、それほど力仕事が得意じゃない僕にとって今の状況は天職といっても過言じゃない。

 

 クアルスでの生活は悪くはない。むしろこうして生活できている以上かなり良いといって間違いは無いだろう。しかし、記憶を失っているという事実がいつもつきまとっているせいか、日常の中にかすかな違和感を抱き続けている。変わらぬ日々を送る傍らで、本当の自分とは何かを考える毎日。それが、ツカサという人間の日常だ。

 

 

 

 海岸線に続くやぶ道を先行するフィンという名前の小柄な少年は、港町クアルスの漁業協同組合長の父親を持つ、漁師の卵だ。そして数少ない僕の生徒でもある。彼は今日みたいに、僕のボロ小屋に転がり込んできては時間を奪っていくわんぱく小僧だ。恐らく懐かれているのだろうけど、同時に心労も蓄積していく。どこか、彼に見つからないような秘密の場所を見つけておいた方が良いだろう。

 

 後ろを振り返れば、石造りの建物が幾重にも続くクアルスの街並みが朝日を浴びている光景が目に映る。王国の東側に突き出た半島の付け根の街を背後にし、湾の北部に位置する海岸線がようやく見えてきた。

 

「やっぱり!! みろよ、結構流れ着いてるぜ」

「……本当だ。正直また適当なほら話だと思っていたよ、ごめんね」

 

 流石は漁師の息子なだけあるなぁと素直に感心だ。フィンが指し示す海岸線には、確かにスターランテ号に積んであったものと思われる木箱や破損した船体がいくつか打ち上げられていた。まだ水平線の上にようやく太陽が姿を現したような早朝であり、僕たち以外はまだこの場所には訪れていないようだ。つまり、僕たちがこの散乱した現場の第一発見者であるということ。こればっかりは、フィンのお手柄であると言う他はない。

 

 

 しかし、僕は同時に視線を険しくした。こういう船の漂流物が流れ着いているということは、同時にその船の船員たちもここに漂流してきているに違いない。事実、打ち上げられた木箱のすぐ近くに、海水塗れになった布の塊に包まった何かを見つける。たぶんフィンもそれを見つけたのだろう、楽し気で威勢の良かった彼の表情が、段々と強張っていく。

 

「フィン。君は大人たちを呼んできて。宝さがしよりも先にやることがある」

「……馬鹿にすんな、オレは漁師の息子だ。海で死んだ奴を引き上げてやるくらい、造作はねぇよ」

 

 明らかに強がっている。声が震えていて、そして目つきも不安げだ。それでも彼は、自分の手でやると言い切って見せた。冷たい風が吹く中で腕をまくり、そして僕の返答も待たずに海岸線へとずんずんと進んでいく。むしろ彼に続いて歩き出そうとした僕がその一歩目を躊躇してしまうような有様なのに、フィンは対照的に年齢を感じさせない芯の強さがあった。

 

「オッサン達は漂流船本体近くを捜索しているから、ここはオレ達でやるしかない。ツカサはむしろ大丈夫なのかよ」

「……正直回れ右をしたいけれど、子供の君にだけやらせるわけにはいかないだろう」

 

 おどけたように本音を話してみれば、彼はようやくぎこちないながらにも笑顔を見せた。そして示し合わせたわけでも無いけれど、海岸線にたどり着くと同時に二手に分かれて漂流者の捜索活動を開始した。

 

 

 捜索なんて言ってみたけれど、流れ着いた人間なんてわざわざ探すまでも無かった。打ち上げられた灰色の布の塊は、見るからにそれであるということがわかる。駆け寄って布の中に包まった物を確認すると、血が引いて真っ白になった男の姿があった。

 

 海水でふやけて膨らんだ顔面、表情は血の気を感じない土気色。どう考えても、生きているとは到底思えない変わり果てた姿。思わず、喉の奥から吐き気がこみ上げてくる。それでも僅かばかりの希望をもって手首を握ると、生者とはかけ離れて酷く冷え切っており、脈など当然のように無い。そこでようやく理解を強制される。この人は、死んでいるんだと。

 

 死体に触れているというおぞましさを、たとえ亡くなっているとは言えどもこの人たちを陸に上げなくてはならないという義務感で塗りつぶし、大柄なその体の腕を引く。海水を多量に含んだその遺体は、浜辺を引きずるだけでも相当の重さを感じさせられる。不自然な角度に固まった腕が、今はむしろ運ぶのには助かった。物言わぬ遺体を海水線から離れた場所までもってきて、そこでようやくため息を吐く。今の季節が冬明けでよかった。もう少し温かい季節ならば、彼らの遺骸は埋葬するよりも前に海鳥に食い荒らされ、五体満足で墓に入ることは敵わなかっただろう。

 

 向こう側からは、同じようにしてフィンが漂流者の体を引きずっている。だらんと垂れた腕と足、その状況で何の反応もなく引きずられているということは、あれもまた亡くなった船員なのだろう。

 

 

 

 時間にしてそう長くはなかっただろうけど、少なくとも見つけることが出来た全ての船員を浜辺に並べ終えた頃には、僕は手も足もひどく冷えて、そしてとても疲れていた。10に届きそうな漂流者の中に、生存者はゼロ。中にはフィンよりも一回り年上の少年と思わしき遺体もあり、やるせなさが胸を突く。たかが短い間手や足の末端が海水で冷えただけでもここまで体力を消耗するのだから、一晩近く全身が浸かっていた彼らが生きているわけがないと理解をさせられる。

 

「せめて、宝さがしの一つでもしていこうか」

 

 僕の隣には、水平線を無表情で眺めるフィンの姿があった。彼が今日こうして宝探しに行こうなどと言い出さなければ、彼らの死体はまた海水に絡め捕られて二度と陸地にあがることは無かったかもしれない。せめて船員たちを陸で葬ることが出来ただけでも、フィンはよく働いたんだと思う。だから、もうくたくたの体を引きずってでも、彼の当初の望みをかなえてやりたい。僕は、うなだれた様子の彼の手を取り、そして漂流した木箱の一つを指さした。

 

「あれの中身を見てみよう。もしかしたら、金銀財宝でもあるかもしれないよ」

「……金貨なんて船が沈んだら真っ先に海の底だよ。ばっかじゃねーの」

 

 憎まれ口を叩きつつ、彼は立ち上がった。別にお宝があろうとなかろうと、どちらでもいい。せめて形だけでも彼と共に宝探しをしてから大人達を呼びにいこう。それで幾らかでも彼の気が晴れるならばそれでいい。

 

 近付いてみると、僕のような大きさの人間でもちょうど入りそうなほど案外大きいサイズの木箱だった。箱の表面に貼ってあるのは、行き先指定のラベルだ。この積み荷は、この国の最北端の街から南部の王都に向けてのものらしい。船が沈没前に炎上していたという話の通り、箱の一部は黒く炭化をしている。しかしとても頑丈な木材で作られているのか、多少焼けたところで脆くなっているようには全くみえない。

 

 試しに小突いてみるけど、くぐもった音が鳴るだけで箱をこじ開けるビジョンは浮かばない。これはあとで斧か何かでも持ってくるしかないな、と諦めようとしたその時、フィンは懐から一つの小さな器具を取り出した。

 

「釘抜か。用意がいいね」

「ったりめーだろ。そもそも当初の予定じゃ宝さがしだったんだ。むしろその身一つできてるツカサがおかしいぞ」

 

 叩いても蹴っても壊れそうの無い箱でも、流石に蓋を打ち付けている釘を抜けば開くだろう。釘抜をトンカチで叩いて釘頭の下にかませ、そして思いっきり手で引く。かなり力を入れないと動きすらもしないけれど、箱を壊して開けるよりもよほど無駄な労力は使わないはずだ。箱の上面を固定している四本の釘を抜くだけで息が切れるほど疲れたが、これでようやく重厚なこの箱の中身が露わになる。

 

「……重いな。そっち側を持ち上げてくれる?」

「任せろ。んじゃ、いっせーのっ」

 

 掛け声と共に蓋を持ち上げる。よくもまあ、そのまま海の底に沈まなかったと感心するほどの重さだ。近くの岩に持ち上げていた蓋を放り投げ、そして乱れた呼吸を治しつつ箱の中身に目をやって――

 

「な、なぁ……ツカサ、これって」

「――フィンッ、脚の方を持って!!」

 

 目に入ったもの、それは人だった。確かに人間が入りそうな大きさとは言っていたものの本当に入っているだなんて予想外だ。容姿がどうとか、性別がどうとか、今はそれよりも先にこの人を箱の外に救出する。掴み上げた露出した肩口から、久方ぶりに感じる人肌の温かさ。無我夢中で箱の中から出したその人を、死体たちとは離れたところに運んで寝かせる。

 

「……生きてるのか?」

「ああ、息も脈も弱いけどあるよ。やっと、生きている人を見つけることが出来た。フィン、彼女は何物にも代えられない宝だよ」

 

 手首を掴んだり口元に耳を寄せてから、初めてここに横たえた人物の全体像を掴む。肩や胸元、それに太ももまで、随分と肌が出た不思議な恰好の少女だ。身にまとう服や薄い桃色の髪の毛が海水を吸って冷たくなってしまっているが、それでも生きていることに変わりはない。箱の中に居たことで、冷たい海水に体温を奪われ切らずに済んだのだろう。

 

 弱弱しい呼吸を繰り返すその少女に僕の上着を着せて背負う。華奢な見た目に違わず、やはりすごく軽い。冷たい水が背中を濡らしていくが、一刻も早く彼女を診療所に届けるためにはどうってことは無い。

 

「いったん街に戻ろう。まずはそれからだ」

「……了解!! オレはほかの漂流者たちについて何とかするから、ツカサはその姉ちゃんを頼む」

 

 まずは診療所、その次に衛兵に連絡だ。この子を絶対に死なせやしない。その一心で、僕は早めの足取りでやぶ道を急いだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

2. 目覚め

「ご、極軽度の低体温症だって?」

「信じられない話だけど、そう言われたんだ。これから重篤な船員たちを診るんだから軽症の人間の世話までしていられるかっ!! ……と突っ返されたよ」

 

 信じられないと視線で語るフィン。診療所の先生にお小言を言われた直後の僕は全く持って彼と同じ心境だった。んなアホな、仕事を放棄するのもいい加減にしろよと。

 

 

 可及的速やかに街へ戻ってから診療所に駆け込んで最初に掛けられたのは、そこの先生の叱咤だった。海難事故の被害者の一人だと言って見せようとした少女の顔色を見て、嘘は言うなという一喝が浴びせられた。何のことか全く分からないまま立ち往生していた僕に続けて、百歩譲って事故に巻き込まれた人間であるとしてどう見ても軽度の低体温症でしかないという言葉がぶつけられる。これからここの診療所は生死を彷徨うような人間が多数運び込まれてくるという一言で、少女を背負ったままの僕は外へと追い出されてしまったのだ。

 

 そんな馬鹿なという一言も、ふと診療所の外で立ち止まった時に背中から感じる温かさで喉の奥に引っ込んだ。確かにさっきまで冷水の中で冷え切っていたはずの体なのに、何故こっちに伝わってくるほどの熱い体温があるというのか。まさか本当に先生の言う通り、この子は軽度の低体温症に過ぎないのか。そんなことを悩み考えながら、結局僕は自分の住んでいる小屋に戻ってきてしまった。

 

 ただいくら彼女が軽症であると言えども、安静に温かくしなければいけないことに変わりはない。古びた暖炉に毛布を備えたベッドという、取りあえず温かい空間で寝かせることが出来るだけの設備はある。

 

「くそっ、海に漂ってたってのに軽度の訳ねーだろがっ!!」

「いや、見てみなよ。低体温症の人は、こんなに汗はかかない」

 

 毛布を掛けた少女の寝顔は、まるで何かにうなされるように歪んでいる。頬は僅かに紅潮しており、額には汗までもが浮かんでいる。低体温症から一転して、まるで熱を出しているかのような見た目の変化に思わず唾を飲み込む。額にそっと手を当てて、先ほどまでの冷たさから一転しての熱さに確信へ変わる。こっちは下手に汗をかいたせいかむしろ全身に悪寒が走りつつあるというのに、見事に対照的だ。

 

 彼の言う通り、長時間冷たい海水に浸っていながらこれほどまでに体温が回復するなんてなかなかある話ではない。しかし実際には、僕らの目の前ではその現象が起きているのだ。僕らの常識がどうであれ、今は目の前の現実を受け入れるしかない。

 

 

 しかし、改めて目の前の少女は不思議な雰囲気を感じさせる姿だ。大胆に胸元や肩口、そして太ももまで開けた服装はまるでどこかの踊り子のような扇情的な格好なのに、そこからは情欲を煽り立てるよりもむしろ動きやすさという点で機能的であるとすらも思える。熱にうなされてやや険しい表情を浮かべながらも儚げな美少女然としていて、淡い桃色の髪色と合わせて一度出会ったら中々忘れられなさそうな子だ。

 

 ただ、どちらかと言えば奇抜な部類に入る見た目の彼女を見ても、何故か僕はその姿を普通のものとして認めているきらいがある。それに普通に考えて彼女のような美少女さんを事情はあれど家に連れ込んだと言うのに、何故僕は変に受かれもしていないのだろうか。まさか失われた記憶の中の僕が過去に彼女のような人間と多数知り合ってたなんてことは無いだろうし、いつの間にか自分の目が肥えたのか――

 

「――ツカサっ、おいツカサ!! 次はどうすれば良いんだ!?」

「っ……ごめん、考え事をしていた」

 

 なーにが彼女の存在が普通のものであるだ。確かに彼女のことで変に浮き足だってはいないが、意識を向けていることに違いはないと自覚をする。怪訝そうな視線をむけるフィンに向き直り、小さく謝った。ともかくここまで回復したから一段落だ。

 

「アンナさんには話を通してくれた?」

「おふくろなら多分もう女ものの着替えを用意してくれてると思う。海岸線の死体についても親父に話は通したぜ。こっちは大丈夫だ」

「ありがとう。じゃあ、僕はこれから衛兵の所に被害者一人を保護してるって伝えてくるよ。フィンは、アンナさんを呼んできてもらえるかな。僕や君じゃ、彼女を着替えさせるのは無理だ」

 

 僕らは男衆で、目の前でうなされた様子で眠る人物はうら若い乙女。ぐっしょりと濡れた彼女の薄手の身だしなみは、まったくノータッチだ。当然だ、別に彼女は一切の猶予もないような危篤ではないのだから、僕やフィンのような男性陣が無理やりこの少女の服を着替えさせるよりも、フィンの母親に代行してもらった方が後腐れもないだろう。

 

 

 

 意識を戻さない少女を一人残して、フィンと共に小屋の外へ出ようとした時だった。扉を押そうとするよりも先に、それはひとりでにバタンという大きな音と共に開け放たれた。目の前でいきなり起きた事態に驚く暇もないままに、意外な光景が目に飛び込んでくる。

 

「え、衛兵さん……? そうだ、今あなた達のところに――」

「この小屋に海難事故の容疑者が匿われているという証言を取った。入るぞ」

 

 革製の軽鎧に白い胸章。この街の衛兵の正装に身を包んだ数人の男たちが、有無を言わさない様子で家に乗り込んできた。突然のことに驚き、そして止める暇もないまま、彼らの内の一人に背後から取り押さえられる。全く取れない身動き、その間に彼らはずんずんと部屋の奥へと足を進めていく。

 

 最後に立ち入ってきた一際目立つ白い鎧を身につけた男が指図をするやいなや、衛兵たちは容赦なく家のなかを荒し始めた。机や椅子を倒し、上に乗ったままだったコップが派手な音をたてて割れる。子供たちに読み書きを教えるための小さな教室も、全てをひっくり返す勢いで無惨な光景に変えられていく。

 

「ちょっ、いったい何ごとですか!? は、離せっ」

「動かないで下さい……大人しくしていないと、下手すれば衛兵への妨害行為になりますよ」

 

 形だけでも保っていた敬語が思わず崩れた。いくら衛兵だといって、流石に自分の仕事場兼家が荒らされていく様を黙って見過ごすことは出来ない。何とか拘束を振りほどこうとしたところで、背後から小声でそう伝えられる。僕を取り押さえているのは若い男のようだ。向かいを見れば、フィンも僕と同じように衛兵の一人に拘束されており、罵詈雑言を叫びながら手足をジタバタとしている。

 

「奴はここにいるはずだ、探せ」

 

 なぎ倒された机を踏みつけて周囲を見回す隊長格の男は、こんなに人様の家を荒らしておきながらろくな説明もせず、そしてさも当然の行為かのように佇んでいる。その傍若無人な横暴さに、無性に腹が立った。

 

「いったい何を探しにきたんで――」

 

 そう言い終えるよりも前に、腕を組ながら衛兵たちに指事を飛ばすその男の耳を目にして言葉を飲み込んだ。彼の耳は、僕らとは違って"長く尖って"いる。ただのそれだけで、下手に抵抗すれば身の安全は保証されないと言うことを嫌と言うほど理解をさせられた。

 

 

 僅かな特徴だけで、彼がただの人間族の衛兵ではないことを思い知る。僕やフィンのような人間が逆立ちしたって敵わない存在の、始祖族と言われる種族。この国の支配階級にいる彼らに下手な手出しをしてはいけない。それは、僕がクアルスで目覚めてから最初に頭へ叩き込まれた知識だ。

 

 始祖族とは、本来であれば衛兵たちの長官レベルに就いているような立場のはずなのに、なんでこんな僕のような一般市民の家を踏み荒らしに来たのか。それがまったく理解を出来ないまま、始祖族の男がベッドに掛けられた毛布を手に取った。そこには、僕とフィンが救出した少女がいるだけで、彼らが捜すものなんてあるはずが――

 

「コイツが……やはりここにいたか。お前たち、連れていけ」

 

 いや、彼女こそが彼らの探し物だったのだ。始祖族の男にはぎ取られた毛布の下に、未だ意識が戻らない少女の姿が露わになる。その男が何かを考えるように動きをとめたのも一瞬だけで、後ろに続く衛兵たちに指図をする。

 

 低体温症による命の危機は去ったものの、まだ安静にしていなければ今度は悪性の風邪でそのまま重症になりかねない。まだ海水に濡れて着替えてすらも居ない彼女の体を、衛兵の一人がまるでものを扱うかのような乱雑な様子で肩に担ぐ。それを見て、たとえ相手の首領が立ち向かってはいけない始祖族の人間であっても、思わず僕は男たちに大きな声を浴びせていた。

 

「そ、その子はまだ意識が戻っていない!! それに漂流時のままだから服も海水で濡れてます!! せめて着替えをさせてからでも――ッ」

 

 その言葉を言い終わるよりも前に、頬に伝わる鈍く激しい痛みを感じ、そのまま小屋の地面へと体が打ち付けられた。頭が衝撃で白黒とする中で、衛兵の拘束を無理やり解いたフィンが駆け寄ってくる姿が目に入る。その後ろでは、始祖族の男が握りこぶしを作っており、そこに来てようやく僕は彼に頬を殴られたのだと理解をした。せめてもの抵抗として睨め付けるが、彼はむしろ罪の意識があるどころか当然の行為だとばかりに鼻を鳴らす。

 

 そしていつの間にか、彼の手に握られていた"霊剣"の切っ先が目の前に突き出される。彼の"霊剣"は、陽炎のように刀身の表面を揺らす白銀色の宝剣。それと共に、顔面にまで伝わる不自然なほどの強い冷気。霊剣とは、始祖族を僕ら力を持たない一般人が立ち向かってはいけない存在たらしめる、彼らの持つ大いなる魂を具現化した特殊兵器だ。

 

 始祖族はそれぞれが強靭な鋼の剣にも打ち負けない剣を顕現させることができ、それだけに留まらずに自然を超越した能力をも振るう。この男は、小ぶりな宝剣と万物を凍らせる冷気を操るのだ。

 

 丸腰の僕はおろか、多少の剣の心得があるような人間でもまず太刀打ちできない。いつの間にか湧き出ていた冷や汗が首元を伝う。この男が気まぐれに腕を振るだけで、切り裂かれるか凍り付くかで僕は呆気なく死ぬ。ついさっきまで確かにあったはずの怒りという感情が、ただのそれだけでまるで最初から無かったかのように消え失せた。

 

「貴様が何を言おうがコイツを連行するのは決定事項だ。むしろ容疑者を匿った罪に問わないことを感謝したらどうだ」

「……将官殿、いくら何でもやりすぎです!!」

「アリアス、新入りの人族に過ぎん貴様にとやかく言われる筋合いはない。とっとと奴を連れていけ」

 

 始祖族の男がひとたび手を奮えば、霊剣と冷気は霞のように消え失せた。解ける緊張、外される視線。その瞬間、なんとか地面についていた腕がまるで赤子のようにブルブルと震えだす。具現化した死というものが無くなっただけで、僕は悲しいぐらいに安堵をしていた。

 

 その頭上では、ついさっきまで僕を取り押さえていた若い衛兵が彼に詰め寄るが、果たして効果のほども見えやしない。アリアスと呼んだ耳をすっぽりと覆い隠すほどの赤い長髪の衛兵を半ば強引に部屋の外へ押し出した始祖族の男は、最後にこっちを一瞥してきた。しかしそこには嘲笑も憤怒も無く、ただ僕とフィンが追いかけようとしていないことを確認しただけだったようだ。すぐ様にバタンと再び扉は閉められ、この小屋には僕とフィンの二人だけが取り残された。

 

「おいツカサっ、大丈夫か!?」

 

 口の中が鉄くさい。殴られた時に少し口の中を切ってしまったのかもしれない。受け身もろくに取れなかったため痛む尻を抑えながら、窓から小屋の外を眺める。年端も行かない少女を肩に担いだ集団なんて、衛兵の証をつけていなかったらただの誘拐現場にしか見えないだろう。

 

 横暴な対応に全くの説明不足、それに文句のひとつでも言おうとしたら暴力をふるい、その上霊剣までもを具現化させる。今更になって、無性に腹が立ってきた。土足で踏み込んできた連中にも、それに対して無力であった僕自身にも。

 

「チクショウ……あの子が海難事故の容疑者だって? んなわけねえだろぉが!! ツカサッ、あいつらを追い掛けなきゃ――ツカサ?」

 

 今にも扉を蹴破って彼らを追い掛けまんと意気込んでいるフィンの肩を強くつかむ。怒りも冷めやらないという様相の彼が、怪訝そうにこちらを見る。彼の怒りは当然だ。あんな満身創痍の少女をまるで物のように扱い、そして何の説明もないままに僕たちから奪い去られたんだ。当事者でなくとも義憤に駆られるような事態。でも、それを僕は押しとどめた。

 

「フィン。彼らがあの子のことを容疑者だと言ったんだ。もう、僕らの範疇を超えている」

「おいツカサッ!! テメェまさかあの子のことを見捨てるっていうのかよ!?」

 

 彼が僕に向ける表情が怒りに染まる。そして未だに腰を抜かしたままの僕の襟をつかみ上げてきた彼の手の上から、そっと手を添える。

 

「……この件には始祖族の人間まで関わっている。少なくとも僕らは彼に敵わない。さっきは脅されるだけで済んだけど、次はそれだけじゃ絶対に済まない」

 

 あの白銀の宝剣を思い出す。小ぶりでありながらもとてつもない威圧感を放つ姿。あれはただの見た目通りの小剣なんかじゃない。

 

 霊剣とは、彼ら始祖族の魂と魔力が形を取った存在だ。始祖族を相手取るということはただの剣戟だけではなく、それを起点とした嵐のような魔術までもを身に受けるということだ。卓越した剣術を持つ騎士相手ならばまだしも、僕たち一般人にとってみればまさに歩く災害としか言いようがない。

 

「……わりぃ、頭に血が上がってた。ツカサ、立てるか?」

「ああ……ありがとう」

 

 ようやく落ち着いた感のあるフィンの手を取って立ち上がる。彼だってわかっているのだ。始祖族に立ち向かうことがどういうことなのか。つい今朝方保護をしただけの名前も知らぬ少女一人を取り戻すために対峙するなんて、いくら何でも割が合わない。とてもではないけど、僕たちの命とは引き換えることは出来ない。

 

 そうだ、僕は自分の命を優先したんだ。いくら治安が良い街であるとは言えども、衛兵に睨まれれば途端に生活は危うくなるのは間違いない。それも彼らを取りまとめる始祖族に目を付けられれば命の保証すらも危うい。自分の命と生活を優先して何が悪い。

 

 だから、僕は自分の本心を見てみぬふりをする。本当は土足で踏み込んできた衛兵たちや、それに対して何もできずに無力であった自分自身にも怒りを抱いている。そして、連れていかれる彼女の最後の姿を目に焼き付けながらも、その時に起きたことを見なかったことにしている自分に対して一番の腹立たしさを感じていた。

 

 あの時衛兵の肩に抱えられた彼女は、確かに小屋の中で無様に倒れたままの僕と目が合っていたのだ。僅かに薄く瞼を開き、金色の瞳で確かに窓の奥にいる僕の姿を捉えていた。何故か、自惚れでも何でもなく、僕と彼女は目が合っていたという根拠のない確信があった。

 

 

 彼女が僕に何を伝えようとしたのか、そもそも何かを伝えたかったのか、そんなことは今や分かる術もない。でも例えそのどちらでも、僕が彼女の視線から目を背けて、衛兵たちの後を追うと息巻いていたフィンを止めた――つまり彼女を見捨てたことに変わりはない。

 

 

* * *

 

 

 衛兵の詰め所の一画、薄暗い中にろうそくの炎が灯る牢獄区画。処刑を待つ罪人たちを収容する牢屋の一つに、その少女は入れられていた。

 

 最低限身を包める程度に敷かれた腐りかけの藁の上に身を横たえ、そして僅かに差し込む日の光をうつろな視線で見つめる。金色の瞳はどこに焦点を合わせているのかも分からないほどただ開かれているだけで、時折伸ばす細長い腕は何かを掴むことも無く空を切るばかり。

 

「……ツカサ」

 

 見張りの衛兵にすらも聞き逃すほどの小さな声で、まだ言葉も交わしていないはずの青年の名前を呟く。少し間をおいてはもう一度、まるで絶対に忘れることが無いようにと自分に言い聞かせるかの如く、少女はひたすらに青年の名前を呼び続けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

3. 異変

 スターランテ号の沈没事故から一日が経過した。今日も今日とて、クアルスの朝を行く。普段よりも早めに目が覚めた今日は、折角早起きをしたのだから朝市へ行くのも早めにしようと思い立ったのだ。

 

 

 規模の大きな港町であるクアルスであっても、噂話の広がる速度はやはり早い。中でも、現場で救出作業にあたった漁師たちが多数出入りする朝の市場という特殊な場ではそれは顕著だ。普段であれば周囲の人たちが話す内容について気にも留めてはいないけど、今日に限って言えば僕は断片的にだけどその話に耳を傾けていた。沈没船、遭難者、事故と事件。そんな単語たちがそこらを飛び交って噂話を成しているのだ。

 

 それだけじゃない。今歩いているこの市場に限らず、家を出てからここに来るまでの道すがらも、明らかに街全体がピリピリとしていた。どこか緊張感の漂う雰囲気、それを構成する一番大きな要因は見回りに出ている衛兵たちだろう。普段からクアルスの街のところどころで見回りに出ている衛兵は普通に見かける光景であるけど、今日に関してはその数がいつもの倍ではすまない。それも三人一体の小隊構成で街を巡回する彼らの姿からは、何か大きな事件でも起きたのかと勘繰るのも仕方のない話だ。

 

 昨日、少女を連行していった衛兵のまとめ役が言っていたことを思い出す。海難事故の容疑者。彼女がその一人であったかどうかはこの際置いておくとして、例の沈没船騒ぎは人為的に引き起こされたという見方をしているのだろう。穏やかな天気で波も荒くなかったという何ら航海に困ることは無い環境の中での沈没事故、それも岸からでもはっきりと視認できるくらいに船全体に火が回っていただなんて、確かにただの事故とするには不自然極まりない。

 

 きっと事故に巻き込まれた乗組員全てがある意味では事故の容疑者としての疑いをかけられているのだろう。そうでなければあんな木箱に入ってまで事故から逃れたあの少女が犯人扱いされるはずもないし、そして強硬的な手段をもってして連行されるわけも無い。取り調べが済んで容疑も晴れれば、彼女は解放されるに違いない。昨日の一日のなかで、僕はそう思うことにした。

 

「おはよう、ツカサ。今日は早いじゃないか」

「おはようございます。あまり寝れなくて……サーディンを二尾、それとキュウリウオを四尾下さい」

 

 一端考え事は中断し、市場の出店の前で立ち止まった。普段よりも少し早起きしたため市場に着けた結果、まだ手付かずの丸々とした魚を目の当たりにする。ずらりと並べられた何匹もの魚の姿は壮観で、どれもこれもよく育った上物だ。焼いたり煮込んだり、それに干物にしたって外れはない。

 

 慣れた手つきでそれらを持参した革袋に詰め合わせていく女将は、フィンの母親であるアンナさんだ。こういう朝の買い出しのときだけではなく、一人で暮らしていくにあたって彼女にはいくらか世話になったものだ。

 

「うちの馬鹿が言ってたよ。アンタたち、始祖様に喧嘩を売ったそうじゃないか」

 

 銅貨を用意しているところで目をあげると、彼女はすこし呆れたようでありながらも嗜めるような口調でそう言ってきた。

 

「……全然違いますよ。ただ、彼らの行動に苦言を呈しただけです」

「それは喧嘩を売ったということさ。本当、始祖様に盾突こうなんて命知らずもいいところだよ。せっかくプリムス様に救って頂いた命なんだからもっと自分を大事になさいな」

 

 この国の宗教で崇めている太古の聖人の名前を出されてしまっては、僕としてもそれ以上の反論をすることもできない。でも昨日の自分の行動が果たして始祖族の男に対して喧嘩を売るようなものだったかについては、僕は今でも否だと思っている。

 

 まあ、どちらであっても危険な行動であることに変わりはないのは事実だ。アンナさんの言う通り、昨日の僕は少し軽率だったかもしれない。

 

「ま、もとはと言えばフィンの馬鹿が言い出したことが切っ掛けだったねぇ。アンタとフィンが見つけた子までも容疑者としてしょっ引抜かれるって、衛兵も随分焦ってるさね」

「……あまり僕はこれに関しちゃ深入りはしないことにします。始祖族に二度もどやされるのは御免ですから」

 

 苦笑いをしながらも、僕は内心で二度目では命は無いだろうと悪い方向で予想をしていた。市井の一般市民である僕と、人民を導き統率する立場にいる始祖族たちは、良くも悪くも見ている世界が違いすぎる。

 

 街の治安を維持するためであれば、それを阻害しようとする人間は何の感慨もなく処断される。それがこの世界の日常であり、この国の治世が成り立つ根源でもあるのだ。郷に入れば郷に従え。クアルスに流れ着いてすぐの頃はとてつもなく恐ろしい世界に見えたものだけど、半年も過ごしているうちに段々とこの価値観にも慣れてこれたと思う。

 

 

 

 アンナさんに別れを告げてから、僕は別の店と向かった。イモや豆などの穀物類はクアルス郊外で作られた物の一部がこの市場にも流れてきている。この市場に来れば、少なくとも食糧事情で困ることは無い。偶然に流れ着いた街だけど、この一点はとてつもない幸運だったと言える。

 

 目当ての店に近づこうとしたところで、あるものを視界に入れて足を止める。人ごみをかき分けて進む、衛兵たちの姿。人の多い市場の中を彼らがこうして警戒しているのは事情が特殊だから不自然なことではないけど、その人物に心当たりがあったから思わず体が強張ってしまったのだ。三人一体の小隊構成のうちの一人、赤色の長髪が印象的な若い男性の衛兵。僕の記憶に間違いがなければ、彼は昨日僕の家に押し入ってきたうちの一人だ。

 

 しかしその時に一度会ったきりで、あの女の子を保護していた以上に僕とあの衛兵の接点は無いはずだ。ほかの客たちと同様に適度に通路を開けてやり過ごそうとしたが、ふと彼と視線があう。その瞬間、彼は表情を変えてこちらに駆け寄ってきた。ギョッとする間もなく、怪訝そうな顔をしている他の衛兵を引き連れたその男が目の前にまでやってきてしまった。

 

「ちょ、ちょうどよかった……!! 今、あなたにお話を伺おうと家の方まで行こうとしていたんですっ」

「えっと、昨日来られた方ですよね……?」

 

 いきなりの事態に身構えようとするよりも先に、ひどく焦ったような様子の衛兵に疑問符が浮かぶ。この感じからいって、僕を何らかの容疑で連行しようとしているわけではなく、本当にただ何かの話を聞こうとしていただけなんだろう。しかしこの人が聞きたがっていることなんて、僕にはかいもく見当もつかない。唯一の接点である昨日連れていかれた女の子についてのことだって、その本人が彼らのもとにいるのだからわざわざ僕が話すことも無いはずだ。

 

「あ、申し遅れました。私、ロイ・アリアスと言います」

「……ツカサです。それでお話とは?」

「ええ、昨日我々が確保した女性について、伺いたいことがありまして」

 

 しかし、やはり彼が話そうとしていることはその女の子のことだった。首を傾げていると、彼は少し慎重そうな様子で周囲を見渡す。僕らが居る場所は市場のど真ん中だ。周囲は当然客で溢れていて、それに衛兵の小隊とそれにつかまっている僕という組み合わせを遠巻きに何事だと観察している人もいる。

 

 やや間を置いた後、「ここでは何なので、市場の出口まで来てください」という彼の言葉に頷いて返す。昨日のいざこざの中で、この人は唯一僕に対する風当たりが強くなかった人物だ。むしろ始祖族の男に殴られた時に、庇ってまでくれたのだ。だから、なんとなく彼には少し協力をしても良いかなという考えが湧いた。

 

 市場の出入り口にほど近い小さな広場にも、幾つかの小さな出店があるためそれなりに人はいる。しかし流石に内部のごった返した空間に比べれば幾分か混雑度合いはマシだ。そこまで出てきてから、ようやくアリアスさんは口を開いた。

 

「さて、どこから話したものか……まず端的に、何故私がお話を伺いに来たのか、事情を説明します」

「おいッ、まだその話は伏せていろって言われてるだろ!!」

「良いんですよ。こんなの黙っていてもすぐに広がるような話ですし、それにそこから話さなきゃ彼も納得しません」

 

 アリアスさんに対して、彼に同行している衛兵の一人が険しい様子で待ったをかけた。街中を歩く衛兵たちの数と言い、こうしてわざわざ僕に事情を聞こうとしているアリアスさんたちと言い、確実に何か変なことが起きているのは明らかだ。そしておそらく、その何かとはあまり市井の人間が聞いてはいけない部類の物であるということも何となく予想できる。

 

 下手に巻き込まれたくないという思いと、それでも何が起きているのか興味があるという感情がせめぎあう名か、向こうも決着がついたようだ。同行している衛兵が「他言無用だ」と釘を刺してきて、アリアスさんも同調するように頷く。

 

「……例の女性が、本日未明に失踪しました」

 

 それを聞いて最初に感じたのは、最後にみた時点ではようやく目を開けて意識不明から復帰したようなぐったりした様子の女の子のどこに、衛兵の警備をかいくぐって脱走するほどの元気があったのかという驚きだった。昨日のあの感じから言って、衛兵の見張りはかなり厳重だったはずだ。それこそアリアスさんたちのような一般の衛兵だけじゃなくて指揮官クラスの始祖族まで出てくるほどだったのだから、その厳重さについては想像するに容易い。

 

「それで昨日件の人物を救護していたあなたの家に戻ってきていないかと思ったのですが、その様子では違うようですね」

「……ええ、確かにうちには来てません。念のため見ていきますか?」

「いえ、私はあなたを信じます。とすると、まだ奴は街のどこかに潜伏をしているのかもしれませんね……」

 

 果たしてどこまで意識が回復していたかも怪しいあの感じでは、僕の家から衛兵の詰め所までの道のりについては覚えているかは怪しいだろう。何たって僕の家はこの市場からも結構離れたところにあり、衛兵の詰め所がある領主の館を囲む城壁とは方向が真逆だ。ただ何で衛兵の詰め所を脱走したのかや、どうやって抜け出したのはやはり気にはなるところだ。

 

「もし奴を見かけましたら、必ず我々にご連絡下さい。それと決してご自分で立ち向かったり、よもや匿おうなどとは思わないことです」

「えっと……わかりました。しかし随分と物々しいですね」

 

 僕から見た彼女の印象とは、おそらく同年代くらいと思われる不思議な恰好をしたはかなげな雰囲気の少女だ。アリアスさんがまるで凶悪犯を話題にするような発言には正直首を傾げるところだ。確かに衛兵の詰め所を脱出したという曰く付きではあるのだろうけど、だからといって彼女の姿と如何にも危険だといった表現はどうしても重ならない。

 

 話としては彼女を見かけたら報告せよということだけだったのだろう、アリアスさんと一緒に来た衛兵たちは来た道を引き返していく。アリアスさんも最後に会釈を一つ残して彼らの後に続こうとしたけど、その去り際に他の衛兵たちには聞こえないような小さな声でこう言った。

 

「……奴は、既に何人か殺しています。うちの衛兵数名と、始祖族の将官殿までやられました。くれぐれもご注意下さい」

 

 その言葉を最後に、彼の姿も人ごみの向こうへと消えていく。去り行く衛兵たちの姿を呆然と見つめながら、アリアスさんに言い渡されたその言葉を頭の中で反芻する。彼女が人を殺した。それも一般人にはとても相手にすることも敵わないという始祖族までもが、犠牲になった。

 

 背中をうすら寒いものが伝う。僕は、つい一日前にそんな人間を背中に背負って家まで歩いていたのだ。何の警戒心も、それどころか欠片もそんな危険な人物とは思わないでいた。その事実を思い出すと、この賑やかな市場の前にもかかわらず、何の音も耳には入ってこないほどに体が震えた。

 

 

* * *

 

 

 時期としては満月であるはずの空はどんよりとした雲で覆われてしまい、普段ならば明るく照らされるであろう夜道はほぼ完全に闇に包まれていた。冬が明けてからまだ間もないために夜の気温は非常に低く、通りに面するいずれの建物の窓も閉め切られている。閉じた窓の内側に街灯の弱々しい光が差し込むなどという事は無く、ただでさえ暗い夜の中で一寸先も見えるかどうか怪しい暗闇に覆われていた。

 

――――

 

 この通りに面するとある診療所も例に違わず暗闇と静穏に支配されていた。煉瓦造りの建物の一階にある部屋の中には均等にベッドが並べられており、誰もが時間相応に寝静まり穏やかな寝息が聞こえるのみであった。部屋の中で眠る彼らは全てが海難事故から救出された生存者だ。

 

 初春の海の冷気で著しく体力を損ないつつも奇跡的に生還した彼らは、この診療所にすぐさま搬送されて治療を受けた結果こうして一命を取り留めているが、体調が回復し聴取が可能になるまで入院を余儀なくされている。しかし心停止一歩手前まで来ていた者もおり、こうして安らかに眠れるのは幸運に違いが無かった。

 

――、――

 

 部屋の入り口には木製のドアが備え付けられている。鍵穴も無いような簡単な作りであり、部屋の中と廊下を仕切る以上の事は求められていないようにも見える。質素な木の板は廊下の音も特に遮断せずに伝えてしまうだろう。

 

――リ、ヒタ――

 

 本来ならば寝息や時折吹き付ける風が窓を叩く音以外がする筈が無かった。しかし何かが地面を押し付ける音が聞こえたと同時にドアの取っ手がゆっくりと軋みを挙げながら動き始めた。鍵など存在しないドアノブは何の抵抗も無く回り、なるべく音をたてないようにするためかゆっくりとした動きでドアが開いていく。

 

――タリ、ヒタ――

 

 誰もが多少の音では覚めないほど深い眠りにつき、扉をゆっくりと開けた軋みに気付く者はただの一人もいない。それでも扉を開けた存在は過度な用心を心掛けているのか、開けすぎて壁とドアノブがぶつからないよう半開きに留めつつ、僅かな軋みのみを響かせながら部屋の中へ立ち入った。

 

 視界をほとんど遮る暗闇の中でも何の抵抗も無くゆっくりと足を進める侵入者が纏うのは頭まですっぽりと覆う黒っぽいローブだ。診療所の癒術師が普段着る白いローブとはまるで違うそれは、まるで闇と同化しているような錯覚をしてしまうほど侵入者の存在感を覆い隠している。

 

――ヒタリ、ヒタリ――

 

 ベッドの支柱にローブの端が擦れることもなく、僅かな足音のみを残して侵入者は一番窓側のベッドの脇へと辿りついた。やや前屈みになりながらローブの奥から覗き込む先には、何も気付くことなく眠り続ける中年の男性の姿があった。

 

 規則正しい寝息を立てる彼の姿を前にして、侵入者はローブの奥に手を入れる。目当ての物はあらかじめ外へ出しやすいようにしていたのかすぐにローブから出された手には、板状の何かが逆手で握られていた。もう片方の手を目の前の男へとかざし、侵入者は更に一歩ベッドへと近づく。

 

 

 ふと、窓の外が少しだけ明るくなった。どんよりとしていた雲の僅かな切れ間が幸運にも月へと重なり、明るい青白い光が暗闇を打ち払うように照らされる。やや曇った窓からも光は差し込み、窓枠をかたどった影が床に映った。月光は侵入者の輪郭をはっきりさせると同時に手に握りしめるものも照らしあげ、赤銀色の刃を輝かせる。

 

 妖しげな色合いの刀身を携える突剣の輪郭が薄れた暗闇に浮かび上がり、侵入者はより見やすくなった患者――獲物の口元へ手をかざした。寝息が手に掛かるほどの位置まで近づけて、短剣を握りしめる手をゆっくりと上げていく。布団の下でゆっくりと上下する胸に狙いを定め、断末魔も手で覆い隠せるように準備を終えた侵入者は、何のためらいも無く腕を振り下ろした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

4. 暗殺者の潜む街

 朝靄の漂う冷たい港町の空気を、ごうという音と共に振り抜かれた長剣が切り裂いた。

 

 咄嗟に一歩後ずさったその目の前を、剣の切っ先が通過する。風切り音すらも伴い前髪を震わせるその斬撃は、すぐ様に角度を変えて袈裟懸けに振り上げられた。今度はそれを横っ飛びすることで避け、着地と同時に姿勢を変えて空振りした剣先へと向き直る。

 

「クッ……ちょこまかとッ!!」

 

 長剣を構えた相手がそう吐き棄てて、こちらへ突進しながら剣を構えた。移動をしながらの線攻撃、単純にその場で回避を繰り返すのでは危険に過ぎる。後方へバックステップをして剣戟から逃れた隙に、両手を腰脇に伸ばした。

 

 しかし相手の突進は終わらず、更に剣先が横薙ぎに目の前へ迫る。相手の速度から考えて再び後ろに跳んで逃げるのでは次くらいで捉えられる。だから今度はそれを避けるのではなく、受け流す。

 

「ようやく抜刀したなっ!!」

 

 子気味の良い甲高い音が鳴り、向こうの長剣と今しがた腰から抜刀して構えた二振りの短剣が打ち合わされた。短剣を交差して相手の剣戟を受け止め、すぐ様に剣の腹に打ち付けて右後方へと勢いを流す。その隙に再び相手の後ろへと逃げるべく足を踏み込もうとするが、それよりも姿勢が崩れたはずの相手の剣が再び襲い来る方が先になった。

 

「逃げるな!! 正面から打ちあえ!!」

 

 相手は腕の長さを優に超える長剣、一方こちらは二振りの短剣。重量が違い過ぎる両者がまともに打ち合えば、こっちが力負けするのは当然だろう。

 

 一瞬の間をおき出た結論は、ひたすらに受け流すこと。再び片方の短剣で重厚な一撃を一瞬だけ受け止めて、すぐ様にその勢いを横へと追いやる。手に伝わる激しい衝撃、ただ受け流しただけでこれなのだから、相手の言う通りにして真正面から受けたらすごく不利になる。フリーになった右手の短剣で決着をつけようと振りかぶり――無意識のうちに後方へと飛び跳ねた。

 

「こんのぉッ……!!」

 

 長剣の勢いをそのまま使った強烈な回し蹴り。剣戟に勝るとも劣らない鋭さのそれを寸でのところで回避する。

 

 ドッと吹き出る冷や汗、あれが腹部に直撃していれば剣がどうとか関係無しに一撃でノックアウトだ。バックジャンプした勢いをそのままに、背後の壁にまとめて積んであった木箱たちの上に駆け上がり、そして空振りさせた蹴りの姿勢から再び剣先をこちらに向けた相手の姿を目に入れた。

 

「こらっ、降りてこい!! それでは剣術の練習にならんだろう!!」

「いや、剣術って……元々は護身術の練習会でしょう、これって」

 

 ドスリと練習用の木剣を地面に突き立てて今しがた護身術の練習をしていた相手を、僕は呆れたように見つめた。革製の鎧に身を包んだ、やや長めの金髪を振り回して怒る一人の女性。普段はすごく落ち着いたまともな雰囲気の人なんだけど、自称剣術練習になると途端に負けん気の強さでああなってしまうのだ。

 

「ツカサは甘すぎるぞ。今は凶悪犯が街に解き放たれた状態だ。そんな危険な状況では剣術こそが己の身を護る唯一無二の道具となるというのに」

「……ジャンヌさんにはいつも組手の練習をしていただいて感謝しています。でも、僕らはあくまで一般市民。戦うよりも、まずは逃げろです」

 

 足場である木箱を崩さないようにして飛び降り、覚悟が足りて無さ過ぎると怒る彼女をなだめるべく歩き出す。この人の名前はジャンヌ・シーツ。僕が住んでいるクアルス郊外の街の警備を担当する、衛兵の内の一人だ。クアルスに住み始めた当初から挨拶を交わす程度には顔見知りであったが、最近ではどういう縁かこうして一緒に体を動かして護身術の練習を見てくれている。曰く、筋がよさそうだったとのことらしい。

 

「相変わらずツカサはすっげーな。ウサギみたいにぴょんぴょん跳んで避けるし、いざとなったらちゃんと打ち合うし。お前、記憶失う前は傭兵か何かだったんじゃねーのか?」

 

 僕らの練習を近くの木箱に腰かけて眺めていたフィンが、感心した様子でそう言った。僕にとって、彼は読み書きの先生である僕の生徒の一人であると同時にもっともよくつるんでいる腐れ縁でもある。たぶんジャンヌさんとの訓練の三回目くらいから僕を訪ねてきた彼も混じるようになったはずだ。

 

 

 彼の言う通り、僕は自分自身について妙に反射神経が良いなと疑問に思ったことはある。それは日常生活の中で羽虫を捕まえる際だったり、こういう運動をしている時だったりと大小さまざまだ。でも一番大きかったのは、数か月前の出来事だろう。

 

 数か月前、街道の一画で馬車の馬が暴れてしまい坂道を暴走するという危険な場面に遭遇したことがあった。商会ギルドに代筆した手紙を届けるためにそこを歩いていた僕は、まさに坂道をおちる馬車の直撃コースにいた。大きな物音とともに振り返ったところでようやく目の前にまで迫った馬車に気が付いた僕は、次の瞬間には何事も無かったかのように馬車が通過していったはずの道の上に立っていた。近くの人に聞いてみたところ、どうやら通過する馬車の縁を足場にして飛び上がって避けていたらしい。

 

 常識で考えてそんなこと無意識のうちに出来ることじゃないが、事実自分の体はそれをやってのけたのだ。僕は半年よりも前の記憶を無くしている。フィンのいう昔は傭兵だったなんて話も、もしかしたら嘘じゃないのかもしれない。

 

「だがツカサ、お前は敵の剣戟を防ぐことは出来ても、その剣で敵に向かってくるのはからっきしだ。何故そう極端なんだ」

「……どうしてでしょうかね。ジャンヌさんから見て、何か理由みたいなものってわかりますか?」

「さっぱり分からん。少なくとも言えるのは、攻めに転じたお前はそこらの素人にも劣る」

 

 呆れ気味にそう話すジャンヌさんの言葉は、まったく否定することは出来なかった。さっきの打ち合いの中でこちらから仕掛けなかったのは、その気がなかったというよりも、攻め口が全く思い浮かばなかったからという方が大きい。

 

 何となく手に合うという感覚で選んだ小ぶりな二振りの短剣は、ジャンヌさんの剣戟を交わす分には大きな働きをするけど、攻める側に回ったら悲しいくらいにさっぱりだ。手ごたえありと思ったら盛大に空振りし、それどころか小さな木剣なのに振った勢いでこっちの重心がぶれる始末。数かいの練習会を経た今は、ただ身を護る分ならば別にこれで良いんじゃねと諦めの境地にいる。

 

 解決しようと考えたことも無いわけではないけれども、悲しきかな突破口はさっぱり見つからない。一応剣を扱う職にいる彼女で分からないことを、素人の僕が分かるはずもないんだ。

 

 

 

「なぁー、ジャンヌー。難破船について教えてくれよ。衛兵なんだからなんか知ってんだろ?」

「……私のような下っ端はあまり情報が与えられていないんだ。昨日も、いきなりの厳重な警備態勢を敷けとしか言われていないよ」

 

 木箱に座って悩んでいる向こうで、フィンがジャンヌさんに纏わりついていた。僕だけではなく、フィンも一昨日の衛兵たちの行為を目の当たりにしていた。衛兵の冷徹な治安維持部隊としての側面。僕たちにこうして時間を割いてくれているジャンヌさんも、一応はその衛兵に所属する一員だ。フィンは、ジャンヌさんならば衛兵の事情について少しは教えてくれるんだろうと期待をしているようだけど、多分何も聞きだすことは出来ないだろう。

 

 昨日アリアスさんから言われたことを思い出す。僕らが助けた少女は、何人かの衛兵を殺害した。それも始祖族の人間まで犠牲になった。これだけでも途轍もなく重大な案件なのに、一番の問題はその少女がこの街のどこかに潜伏しているということだ。そんなことがあれば、昨日の衛兵たちの厳重な態勢も理解できる。

 

 ジャンヌさんのような一般の衛兵全員にその情報が伝わっているかは定かじゃないし、それに伝わっていてもそんな重大なことは話してくれないだろう。少し気まずそうにフィンをあしらう姿から、多分後者なんだろうなと踏んだ。

 

 たぶん明け方にいきなりフィンを連れたって訓練をするぞと押しかけてきたのも、僕らの無事を確かめるための方便だったのかもしれない。夜も開ける前に扉がどんどんと叩かれた時はまさか例の少女が戻ってきたのかと恐怖でガタガタと震えて布団を被っていたが、それは直後に聞こえたきたジャンヌさんの大声でふっと消え去ったものだ。

 

「さて、私はもうそろそろ戻らなければならん。お前たち、くれぐれも夜遅くまで出歩いているんじゃないぞ」

「わーってるよ!! ジャンヌ、ありがとなっ」

 

 髪を纏めなおしたジャンヌさんが木剣を両手に抱えて立ち上がった。今の時間は夜が明けて早々といったところ。朝市もまだ始まっていないような早朝で、港の沖合から上がってきた太陽で本格的に街が照らされ始めている。

 

 去り際に手を振る彼女を僕とフィンの二人で見送った。彼女はまた、昨日と同じく特別態勢の中物々しい警備任務に就くのだろう。色々とイレギュラーなことが一昨日昨日と続いている。街の人たちを見てみても浮足立った空気が満ちている。そんな何処か嫌な予感と雰囲気が蔓延するこの街に、新しい朝がまたやってきた。

 

 

* * *

 

 

 すっかり日が上った昼下がりに、僕は交易所を訪れていた。クアルスの街と外部の間で交わされる貿易を取り仕切る組合の本部だけあって、建物の大きさは街でも相当大きな部類に入る。重厚な黒木の扉を開ければ、目の前には広々としたロビーと幾つかの受付窓口があった。

 

 昨日にも増してピリピリと殺気だった街とは裏腹に、扉の向こう側は普段と何ら変わらない落ち着いた空気が流れている。この受付所で、刀剣類や食物などの取引といった街を出入りする交易の一切を管理するのだ。

 

 僕は革製の小さな鞄一つだけを持った身軽な出で立ち、昨日以上に厳重な警戒態勢が引かれる中武装を施した衛兵たちとはまるで真逆である。その一方で、周囲には衛兵並みにとは言わないけど軽めの装備を身にまとった人たちもいる。たぶん隊商に所属している傭兵だろう。それだけじゃない、おそらく商人と思われる少し恰幅の良い男性が窓口で何らかの手続きをしていた。この場所には、交易に関する様々な人が訪れる。

 

 僕も、交易に関連する用事でここを訪れている。しかし別に自分自身が何かの商品を別の街に売りに行くとかそういう用ではない。鞄の中から出した何枚かの小さな紙を受付の台に置く。これは自分の稼ぎのうちいくらかをもたらしている手紙の代筆作業で仕上げたものだ。それをここの受け付けにおいて、手紙の宛先と合致する隊商に運んでもらう手続きを行うのである。

 

 依頼者から頼まれた内容の文面をかいた後は、こうして僕が発送の手続きまでを行うことにしている。今回の依頼は全て同じ行き先のものだから、手続きはいくらかは簡便なものになる。

 

「王都サンクト・ストリツ向け10通、合計120ジェブだ」

 

 言われるがままに、小包から指定量の小銭をじゃらじゃらと出した。あらためて、手紙なんて気軽に贈るもんじゃねーなと思う。銀貨を合計12枚、贅沢しなければ1ヶ月は過ごせる金額だ。

 

「……よし、丁度だ。それにしても今週は多めだな」

「季節の変わり目ですからね、王都の家族に近況報告する人が多いんですよ」

 

 王都には軍部の花形である近衛隊が常駐している。クアルスの衛兵団よりも始祖族の割合が多い、いわばこの国の主戦力陣だ。そしてそんな部隊に所属する人族の面々にも求められるものは相当に大きいと聞く。

 

 今回手紙を依頼してくれた人の半分くらいが、子供や親族がそこの本隊や見習いに属しているような層だ。そんな遠く離れたエリートの家族に向けての手紙なのだから、内容の多さもひとしおである。今朝に確認がてら読み直してみたら、街の異変にあてられた不安が少しだけ取り除かれるような思いだった。

 

「ツカサ、今日は早めに帰れよ。コンスタントに金を落とす客になんかあれば、僅かばかりでも業績に傷がつく」

「……あの、今日ってなにかあったんですか? 街の空気がかなり固いですけど……」

 

 帰ろうとしたところで掛けられたその言葉で、小屋を出てからずっと今まで抱いてきた疑問と違和感を思い出す。

 

 昨日にあんなことを聞かされたためか、交易所を訪れなければならない用を除けば今日は極力外出は控えようと思っていたほどだ。しかしそれはあくまで僕がアリアスさんから秘密裏に聞かされたものであって、市井に知れ渡るようなものではない。だから昼過ぎに代筆作業を終わらせて外出した時に、たったの一日で街の雰囲気が様変わりしたことに対する疑問は拭えなかった。

 

 僕の質問をうけた係員の男性は、最初こそ意外そうなものを見る顔を浮かべていたものの、直に納得した様子へと変化した。

 

「なるほど、まだ知らないのか。恐ろしい話だぜ。一昨日の難破船の事故で生き残りが何人か診療所に入れられただろ。それは知ってるか?」

「え、ええ。昨日聞いた港の噂じゃ、助けられた半数が意識不明とか……」

 

 そこまでは把握をしている。例の少女を診療所に運んでいった時に突っ返されたのは、その生存者達を治療するためだったはずだ。そこそこの規模の輸送船なのに、救出された船員はわずか10名程度。たったのそれだけの情報でも、事故の大きさを物語っている。

 

「……昨晩、そいつらが全員殺されたんだ」

 

 その言葉を投げかけられた一瞬の間だけ、彼が何を言ってるのかが理解できなかった。

 

「噂によれば全員が胸部を一突き、まったく戸惑いの感じられん殺し方だったようだ。船出日和の中でのスターランテ号沈没といい、生存者の暗殺といい、どうにもこの街は相当厄介なものを抱えているみたいだな」

 

 続けざまの彼の説明は、その半分くらいしか頭に入ってこなかった。今日この場所に来るまでそういう情報を全く仕入れてこなかっただけに、いきなり突き付けられたこの話の衝撃はかなりのものだった。そして彼らは知らないだろうけど、人が死ぬという案件はこれで二日連続で起きたということになる。

 

 一昨日は始祖族を含んだ衛兵たち、昨日は沈没事故の生存者たち。別に、クアルスという街は一日の間に一件も殺人事件が起きないことが当然といった潔癖な場所じゃない。でも、こう一度に立て続けに人が死ぬ、それも同一人物が犯人と思われるだなんてそう起こってたまるものか。

 

「衛兵の様子を見る限りじゃ、犯人は捕まっていないんだろうな。何人もの人間を殺して、その上恐らく船一隻を沈めた輩がクアルスのどっかに潜伏しているんだ。こりゃあ一大事だろうよ」

 

 何か、とてつもないことが僕たちの街で起きている。昨日アリアスさんにこっそりと情報を伝えられた時には分かっていたその異変が、じわりじわりと街全体へと広がりつつあるということか。

 

 恐ろしいことが起きただなんて、本当は昨日の時点で分かっていたことなのに、彼の話を聞いてから明らかにそれに対する考え方が変わった。多分僕は、犠牲になったのは見張りについていた衛兵だけで、市井の僕らには毒牙が及ばないなんて甘えたことをどこかで考えていたんだろう。容赦のない殺人が行われた今、もうどこにも身の安全を保障する根拠は存在しない。それどころか、目下犯人との疑いが強い件の少女との関りが最も強いのは、最初に彼女を救助した僕とフィンの二人だ。それを改めて認識すると、背筋がゾクリと冷えた。

 

「そういうわけで、うちも今日は早じまいだ。お前も気をつけるに越したことはないぞ」

「……ええ、出来る範囲で注意しますよ」

 

 僕はただそう返すことしかできず、最後に一つ頭を下げた後は早足でその場を後にした。つい先ほどまで開閉をしていた扉には特に何の感慨も抱いてはいなかったが、それが今では恐ろしい外界とこちらを繋ぐ唯一の壁に思えて仕方がなかった。

 

 今は、僕と同じくターゲットになる可能性がゼロじゃないフィンの安否を確かめよう。まだ日も落ち切らない明るい街の通りを、嫌な寒気を抱きながら足早に目的地を目指して歩みを進めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

5. 遭遇

「あれま、ツカサじゃないかい。どうしたさこんな時間に」

 

 交易所の受付で話を聞いたあと、僕はいてもたってもいられなくなって帰りがけにフィンの家を訪れていた。扉を叩いて出てきたのは、彼の母親であるアンナさんだった。少し息を切らして焦った様子の僕を見て、彼女は怪訝そうな表情を浮かべている。

 

「フィンは……フィンはいますか!?」

「あの子は今夫の手伝いをしているはずだけど……どうかしたのかい?」

 

 今はやや日が落ち始めた程度と言ったところで、まだまだ夕刻なんかじゃない。確かに彼女の言うとおり、フィンがまだ漁師見習いとして手伝いをしているような時間帯だ。

 

 そんなことも見落とすくらいに気が動転していたことを恥じつつ、僕はアンナさんに事情をかいつまんで説明した。今この街で起きている異変、それに件の少女が関わっているかもしれないということ。もちろんアリアスさんから言われたことは適度にぼかしたけど、僕とフィンが何かのきっかけで狙われてもおかしくないということはきちんと言いきった。

 

「……そうなのねぇ。アンタも危ない中、わざわざ伝えてくれてありがとうよ」

「彼、そろそろ仕事の手伝いを切り上げて帰ってくる時間ですよね。僕買い物ついでにフィンを迎えに行きますよ」

 

 商売道具であるいくつかの紙や羽ペンなどをしまった鞄を持ったままだけど、それを自分の小屋に持ち帰るよりも先に今はフィンの無事を確かめたかった。ただの考えすぎなのだろうけど、何故か今は変な胸騒ぎに突き動かされるような気分だ。

 

「じゃあ、よろしく頼もうかしらね。あの子もアンタみたいな世話焼きの兄貴分が出来て、ホント幸せもんだよ」

 

 不可視の影が街を覆うなかで、普段と何ら変わらない様子で笑うアンナさんの姿に、気分は幾らかか和らいだ。

 

 

 

 フィンの家は漁師ということもあって港湾地区に程近く、小規模の市街地を抜ければすぐにたどり着くような距離にある。アンナさんと別れてから雑貨屋で紙やインクを購入した後は、わりと早めに小さな漁船がいくつも並んだエリアにたどり着けた。大きな桟橋を挟んでこちら側が漁港で、向こう側は交易港となっている。本来ならばスターランテ号の巨体がいたはずであろうその場所を一瞥したあと、漁船の並ぶ桟橋へと足を進めた。

 

 まだ10の子供であるフィンは、海に出て実際に漁を行うのではなく、漁船の点検整備の手伝いをしているはずだ。いくらか働く時間に幅のある僕とは違い、日の出ている間に明日の早朝に行う漁に向けての準備を終わらせなければならない彼らは常に一日の回りかたが早い。彼の父親が保有する漁船のところにたどり着いた時には、多分見た感じでは概ね作業の方は終了していた。

 

「じゃあ最後に網を畳んで――おお、ツカサじゃねぇか。フィンに何か用でもあったか」

 

 漁船の中の方で作業を続けているフィンに指事を飛ばしていた大柄な男性が、僕に気が付いたのか大きな声で呼び掛けてきた。彼はフィンの父親であり、この辺りの漁師を取りまとめる人物でもある。ヴェスタという名前の豪放な性格の人だ。

 

「こんにちはヴェスタさん。彼、そろそろ仕事は上がりですか?」

「ああ。後は組合の方で話し合いをするだけだから、こいつはここいらで仕舞いだ。フィン、ツカサがわざわざ来てくれたぞ!!」

 

 ヴェスタさんが船の先の方で作業をしていたフィンに大声で呼びかけると、そこでようやく僕が来たことに気が付いたのか彼は狭い船体の中を器用に走って桟橋へと飛び移ってきた。

 

 僕の方からこうして彼を訪ねることはそうそうあることじゃない。思い返してみても自立した生計を立ててから今に至るまでじゃあ初めてかもしれない。そんなこちらから来るという状況に何か面白い話でも持ってきたと誤解をしているのだろうか、僕の顔を興味津々といった様子で見つめるフィンの姿に、小さくため息を吐いた。

 

「ツカサ!! どうしたんだよ、何か面白いことでもあったのか!?」

「……君が普段僕を暇つぶしのオモチャとしてみていることは良くわかった。今日はそういうのじゃない。まあ、顔を見に来たんだよ」

 

 彼は何だかんだでまだ小さい子供だ。直接僕らは危険な状況にあるかもしれないと言うよりも、適度にぼかしたほうが良いだろう。ここに来るまでも街の空気がどこか浮き足だっていたのはなんとなく感じとることが出来た。多分その雰囲気を知っててその上で僕の真意を分かっていたのだろうか、ヴェスタさんはフィンを再び仕事に追いやったあと、近づいてきて小声で話しかけてきた。

 

「すまねぇな。本当ならば俺が面倒見ておくべきなんだが、頼めるか?」

「ええ、元からそのつもりです。それに僕の好きでやることですから気にしないで下さい」

 

 夕方近くになってくると、季節がまだ冬も開けたばかりということもあって暗くなるのはあっという間だ。暗く成りきる前に彼を家に送り届ければまずはそれで良い。フィンの仕事が終わるまで少し座って待っていようと思い適当に桟橋に腰を下ろすと、水面にはいつもだとあまり無いはずの幾つかの木くずが点々と浮いていることに気が付いた。

 

「それはスターランテ号の破片だ。一昨日お前たちが死体を見つけた海岸線だけじゃなくて、こっちにもいくつか流れ着いているんだ。そういう小さなものの他に、真っ二つに折れた小型のボートなんてのもあったよ」

「へぇ……今回の事故を解明できるようなものもあったりしますかね」

「衛兵が何回か見回りにきたが、どいつもこいつも手酷く破壊されたガラクタさ。有益な貨物や証拠品はみんな海の底だろうな」

 

 聞けば、昨日辺りはこのような残骸はもっと大量に漂っていたようだ。漁船の操舵に邪魔となるそれらを退かすために漁港一帯を清掃するのはかなりの手間がかかったようで、改めて沈没事故の影響の大きさを感じされられる。

 

 そんなことを話しているうちに、フィンは最後の作業を終わらせてきたようだ。軽快な動きで桟橋に跳び移ってきた彼は、普段と変わらない陽気な様子で僕の目の前に表れた。

 

「アンナには何時もより早く戻ると伝えてくれ。それとツカサに迷惑かけるんじゃねぇぞ!!」

「わーってるよ!! んじゃいこうぜ」

 

 木で出来た桟橋を彼は跳び跳ねるように進んでいく。トントンという小気味の良い音が響き、それに気が付いた他の漁師達が僕らに短く挨拶を交わしてきた。フィンは勿論のこと、彼の家族と少しばかりは関わりをもつ僕も一部の人には顔を覚えられているのだろう。怪しげな影が街を覆うなかでも、そういう日常は変わることはない。

 

 

 

「なぁ、それ何持ってるんだ?」

 

 港湾地区を出たところで、彼が僕の鞄を指差して尋ねてきた。確かにこの鞄は見た感じではいかにも何か入ってますと言わんばかりに膨らんでいる。もとが小さい物だから、少しでも荷物を入れるとこうなってしまうのだ。

 

「さっき買ってきた僕の仕事道具さ。インクと紙、これが無ければ話にならない」

「勉強会でも紙に文字を書きてぇなー。ツカサ、今度それちょっと使わせてくれよ」

「駄目。紙は高価だし使いまわせないからね。それに木版にだって書きやすいし、捨てたもんじゃないよ」

 

 手紙を書くためにはこのような紙とインクが欠かせない。特に紙は決して安いとは言えないが、やはり木版で送るよりは紙の方が軽いし嵩張らないし、配送の時の金額まで含めれば紙と木版はそこまで大きな差は無い。ただ少年少女たちの文字書きの練習に使うには、少々割に合わないのだ。

 

 

 普段と比べてやや人通りが少ないとはいえ、クアルス中心街はそれでも十分の賑わいを見せていた。気をつけて歩かなければ前から来た人と肩がぶつかりそうなくらいだ。日が落ちてきたこの時間帯では、むしろ一日の〆として人通りが若干増える傾向にある。肩から下げた鞄が人にぶつからないように、一層の注意を払った。

 

「なぁ、近道してこーぜ。オレ裏道結構詳しいんだ」

「路地裏のこと? 駄目だ、最近物騒なんだから人通りの多いところを行くよ」

 

 歴史の深い街であるクアルスには、表の賑わいから隔離された巨大な路地裏が存在する。石造りの建物たちの間を縫うようにして入ることの出来るのはほんの表層で、その奥には旧市街が広がっている。半年間この街で過ごしてきたけれど、いかにも危険そうなそんな場所には意図して近づかないようにしてきた。

 

 フィンの提案をばっさりと否定をしたら、彼はつまらなさそうに舌打ちをした。だがこんな状況で、わざわざ薄暗く人通りがほとんどない空間を歩くだなんて冗談じゃない。クアルス中心街に面した路地裏であっても、建物が密集した隙間は表通りとは全く異なる雰囲気を放つ。昼は浮浪者が、夜は酔っ払いがたむろするという、お世辞に治安の良い空間とは言えない。

 

「それにここを抜ければフィンの家はすぐに――ッ!?」

 

 ドン、という強い衝撃が肩に伝わった。ただ人とぶつかっただけじゃ済まされないその勢いに驚いているその間に、肩にかけていた鞄のひもがするりと腕の先へと抜け落ちる。それに気が付いた時には、鞄の本体に引きずられてひもから手が離れてしまった。咄嗟に掴みなおそうとするそれは、落下とは明らかに異なる挙動で指先から逃れた。

 

 目深にフードを被った人物が目の前を走り出し、そして表通りにぽっかりと口を開けた裏道へと向かう。そこに来てようやく、ひったくりに遭遇したのだということに気が付いた。

 

 咄嗟に追いかけようと足に力を入れかけたが、踏み出そうとする寸前に理性が待ったをかけた。このまま追い掛けて、路地裏の深層部に行けばどうなるか。あの鞄の中身は、ただでさえ怪しげな影で覆われた状況下でそんなリスクを背負うほどのものか。たかが紙とインク、また買いなおせばいいじゃないか――

 

「おい、コラァ!! 返せ!! 逃げるな、待てよ!!」

 

 隣から叫び声が聞こえてハッとする。顔を上げた時には、一緒に連れだって歩いていたはずの少年が、もう目の先を走り出していた。手を伸ばしても間に合わず、フィンは一直線に裏通りへと向かっていく。

 

「フィン、戻れッ!! そんなもんくれてやればいい、だから――クソッ!!」

 

 呼び止めようとしたが一歩遅かった。フードの人物とフィンは、二人ともがかなりの速さの駆け足で路地裏に吸い込まれていってしまった。追い掛けるための一歩目を踏みとどまったのは、僅か数秒のことだ。鞄を取り返すのではなく、ただフィンを捕まえて表通りに戻る。ただそれだけを考えて、僕も彼らを追って薄暗い細道へと飛び込んだ。

 

 

 

 表の通りとは全然違う、淀んだ空気が漂う路地裏の世界。表の街を形成する立派な建物の間を縫うように続くこの道は、当然日陰も多いため薄暗くそして肌寒い。そして空気の巡りも悪いせいか、生臭い磯のにおいが嫌に鼻に付いた。普段であれば決して足を踏み入れない領域に、僅かな音も聞き逃すことの無いようひたすら耳をすませながら駆ける。

 

 小さな駆け足の音を頼りに右へ左へと路地を曲がり、そしてそのたびにどんどんと表の通りからは遠ざかっていることをひしひしと肌で感じた。果たして彼を見つけたところで、スムーズに元来た道を戻れるのか。いや、そんなことは全て彼をひっ捕まえてから考えればいい。いくら裏路地でもここが街である以上いつかは果てがあるはずだ。別に底なし沼でも何でもないのだから。その一心でひたすらに足を動かした。

 

 浮浪者やごろつきすらも見当たらない、裏路地の中に見えた広場で立ち止まった。街の発展と共に置き去りにされた古い建物群、それらがこの路地裏の深層部を成していると聞いたことがある。ここは、その昔は旧市街の交差点か何かだったのだろうか。表通りの喧騒がまるで遠い異世界の出来事であるかのような錯覚を感じた。幾つかの細道がここから伸びていき、その奥からは僅かに表の街の喧騒が聞こえる。今まで走ってきたのも、たぶんその細道の一つなのだろう。流石のフィンもここまでくればひったくりを追い掛けるのも諦めるはずだ。

 

「……おいフィン、聞こえてるか!! とっとと戻るぞ!!」

 

 その広場の中央で、大きな声で叫んだ。両脇を塞ぐ人が住んでいるのかも怪しい古びた建物によって、その声が反響して路地裏へと響く。しかし、いつまでたっても彼からの返事は聞こえてこない。走った疲れか、それとも冷や汗か、首筋に付着した水滴をすえた臭いの風がそっと撫でつけた。

 

「鞄の中身なんてどうでもいい、それより早く帰るぞ!! 聞こえているんなら返事をしろ!!」

 

 再びフィンに向けて大きな声を上げる。まさか僕の方が見当違いのところまできたのか、それともフィンはここも通り過ぎて再び表通りまでひったくりを追い掛けていったのか。何か、非常に嫌な予感がする。いくら彼がすばしっこく走るといったって、こっちの足だって負けちゃいない。途中までは確かに彼の走る音を頼りにしてきたし、それにいつの間にか追い越したりいきなり距離を離されるわけも無い。彼の痕跡を追い掛けた結果が、この広場なのだ。

 

「フィ、フィン!! 何でもいいから返事をしろ!! どこだ、早く家へ――」

 

 その声を遮るようにして、ドサリと何かが倒れるような音が背後から聞こえた。雷にうたれたように振り返り、そして日の光がなくなり暗闇がにじみ出てきた空間の中に何かを見つけた。広場から伸びる細道、その一つの路上に何かが倒れている。

 

「……フィン、なのか……? お、おいしっかり――」

 

 ――僕は、駆け寄ったことを後悔した。小柄な体に茶髪のツンツン頭、それはフィンに違いなかった。彼は仄暗い路上にうつ伏せで倒れ、呼びかけたり背中を叩いてもピクリとも動かず、そして地面についた僕の手に生暖かい何かが触れた。それは液体で、この薄暗い空間でもはっきりと赤色とわかり、止め止めもなく突っ伏したままのフィンの体から流れるのを止めようとはしていない。

 

「あ……あぁ――」

 

 べっとりと濡れた手が、ひどく鉄臭い。言葉にならないうめき声が口から漏れ出し、そのまま後ろへと倒れこんだ。冷たく硬い石の感触とは真逆の、生暖かい液体。さっきまで一緒に歩いて話していたというのに、その彼に再び近寄ろうとするのがひどく怖い。これだけ呼びかけようが背中を叩こうが、一言も発しないどころか反応すらもしない。

 

「フィ、ン……起きろよ、なあ!!」

 

 勇気を振り絞り、動く様子のない彼の体を無理やり抱き起す。服が赤く滴る液体で濡れようが構わない。彼の顔を見る、その一心で目にした光景は、ようやく僕の脳に現実を受け入れさせた。

 

 瞬きすらせずに開かれたままの目、そして開けっ放しの口。全身のどこにも力が入っておらず、抱きかかえた体に逆らうようにしてゴロンと首がそのまま下へと向いた。視線を下ろせば、彼の左胸からその赤い液体――血液が流れ出ていた。

 

「な、何で……フィン――」

 

 ザリ、という背後で聞こえた足音で振り返った。動かなくなった彼の体を地面に下ろし、そして震える足で何とか立ち上がる。いつからそこにいたのだろうか、薄ら闇の路地に立ち、フード姿の人影がこっちを見つめていた。あの時僕の鞄をひったくって路地裏に逃げて、そしてフィンが鞄を取り返そうと追い掛けていった奴だ。手にはいまだにその鞄を持ったまま、そしてそれは一歩こちらに近づいた。無意識に一歩後ずさり、靴がフィンの体から流れ出た血だまりを踏みしめる。

 

 その人物は、フードに手をかけてゆっくりと素顔を僕の目の前へ晒していく。この暗闇の中でもはっきりとわかる、淡い桃色の髪の毛、そして周囲の僅かな光で煌く金色の瞳。その姿が誰であるのかを認識した瞬間、背筋に酷い寒気が走った。

 

「……ツカサ。やっとあなたに会えた」

 

 数日前に僕とフィンが木箱の中から助け出した少女が、まるで場違いな淡い微笑みを浮かべていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

6. 始祖族

「君が……お前がッ、フィンを――」

 

 血にまみれた右手で、目の前の少女を指さす。何を悠長なことを、逃げなければフィンの二の舞になる。胸から血を流し、そしてピクリとも動こうともしない変わり果てた姿に――その意思に押され、また一歩後ずさった。しかしここから逃げようとする理性とは裏腹に恐怖で麻痺をした感情が少女に怒りを向けている。

 

「何故……何で彼を殺したッ!? フィンが、僕たちがお前に何をした!?」

 

 少女の顔から場違いな微笑みが消え失せ、そして何も表情を浮かべない無の視線がこちらを射抜く。後ろへとすらした足に、倒れ伏したフィンの体が当たった。人の体だというのに生気が全く存在しない肉塊のような感触に、途端に吐き気がこみ上げてくる。まるで何かを見定めるかのように目を細めてこちらを伺う殺人鬼を目の前にして、全身の震えが止まる様子は微塵も見られない。

 

「……これが、極寒の海からお前を助け出した代償だとでも言うのかよ……お前なんか、助けるんじゃ……」

 

 自分の意志とは関係なく後ずさる。靴の裏の血だまりが、雨上がりの地面とは様相のことなる有機的な水音を鳴らした。

 

 自身が手を下したというのだろうに、まるで彼の死体なんて存在しないかのように平然とした風をみせる少女の姿が、酷く不気味で恐ろしい。仄暗い空間から浮いたその彼女が、ゆっくりとこちらに歩き出す。背後には、この薄暗い路地の中でももうどこに繋がっているのか分からない分岐の細道。喉の奥から、言葉にならないうめき声が漏れ出た。

 

 今は、彼女の一挙手一投足全てが恐ろしい。ただこちらに歩み寄るだけの姿、隙間風に揺れる返り血の一滴すらも無い灰色のローブ、こちらをジッと見つめる金色の瞳、そして俄かに伸ばされた細い腕までも、何もかもに恐怖を抱く。

 

 逃げなければ、しかしどうやって。そんな押し問答を心の内で繰り返し、そして足元に転がるフィンの死体のことを再度意識してしまい嗚咽混じりに咳き込んだ。

 

 もう、立っているのがやっとだった。いつの間にか脚が竦んで動かなくなってしまった僕と向き合う彼女は、とうとう軽く駆け出せば容易に僕の胸へ刃か何かを突き立てられる距離にまで近づいていた。己の呼吸が普段では考えられないほどに荒く、そして早くリズムを刻む。

 

「……ツカサ。私は彼を――」

『――すぐにそこから逃げてください!!』

 

 頭上から聞こえてきたその大きな声が、全てを塗りつぶす。怒りも恐怖もそれら全部が一瞬の間だけ見えなくなり、そしてそれを自覚する間もなく僕は彼女に背中を向けて駆け出していた。

 

「だ、駄目!! ツカサ、待っ――」

『後ろは振り返らず、とにかく走ってください!! 時間は稼ぎます!!』

 

 再び聞こえてきた若い男の叫び声が、僕の背中を力強く押してくれた。後ろから鳴り響くのは、何回も連続して続く甲高い金属音。一心不乱に腕を振り、そして全力で地面を蹴る。奥の細い薄暗い路地をただ彼女から逃げるというその一点のため、ひたすらに薄暗い中を駆けた。

 

『まだ撒いてません!! そこを右に!!』

 

 どんどん狭く、そして明かりが無くなっていく裏路地を、頭の上から聞こえてくるその声だけを頼りに走り続ける。そうだ、この声に僕は聞き覚えがある。昨日あの少女に気を付けろと忠告をしてくれた、衛兵のさんに違いない。彼が、この絶望的な状況の中、助けにきてくれたんだ――

 

 幾多もの剣戟の音が連続して背後から聞こえてくる。剣を弾き、そして石造りの地面へと突き立てられるような耳障りな甲高い音だ。一体後ろで何が起きているのか、彼女がどのような手段をもってしてアリアスさんを攻撃しているのかも分からない。ただただ、もはや存在すらも知らなかった忘却の彼方にあった旧市街の最深部へと足を動かし続ける。

 

 

 

 頭上を古い時代の建物が覆い隠し、そして僅かに出ていたはずの夕日さえも多くが遮られる。地面も気が付けば石畳ではない摩訶不思議な材質でできたひび割れた道へと変貌し、そして苔と埃にまみれた建物の残骸が両脇を固めている。湿気の高さと気温の低さからか、まるで明け方の街のような霧が周囲に立ち込めている。

 

 長い時間をかけて表層の街に埋もれた廃墟の中で、とうとう僕は息が尽きた。人の気配など微塵も感じられない廃墟の影に身を隠し、そして冷たく湿った苔に覆われた壁に手をついた。いつの間にかアリアスさんの声や少女を足止めするための戦いの音は聞こえなくなり、辺り一面には不気味なほどの静寂が広がっている。

 

 その静けさの中で、いやに心臓の鼓動がうるさく聞こえた。目を閉じれば、瞼の裏側には薄暗い中べっとりと地面に広がった血の海が、目を見開いたままピクリとも動かないフィンの姿が、そして僕をジッと見つめるあの少女の姿が次々と浮かび上がる。

 

 なんとかその幻影を頭から追い出すため、強く頭をふった。額を押さえる手は、彼の血によって赤黒く染まっている。それを強く握りしめた。

 

 

 生き残る。生き残って、あの薄暗い路地のなかからせめてフィンの遺体を連れていってやらなければならない。たとえそれが彼が殺される様を防げず受け入れることしか出来なかった自分の自己満足でしかなくとも、今の行動力の源なのだ。

 

 だからただ息を潜めながら、人の気配が無い旧市街の最深部で逃げる機会を伺う。ここがクアルスのどの辺りなのかも正直なところ分からない。だけど、ここに来ることが出来たということは逆に戻ることも不可能なんかじゃない。

 

『ツカサさん、ようやくあの少女を撒くことができましたよ』

 

 ふと、霧の奥から声が聞こえてきた。いつの間にかあの場に駆けつけていたアリアスさんが、今になっては唯一の救いの手だった。通りと朽ち果てた壁一枚挟んだ廃墟の中で、ゆっくりと腰を浮かす。ただそれだけの行為でも、小刻みに震える脚のせいでひどくぎこちない動きになった。ただ単に長い距離を全力で走ったからじゃない、ようやく実感として訪れてきた恐怖がそうさせている。

 

『大丈夫です。顔を出しても、もう危険はありませんよ』

 

 そう話すアリアスさんの声にようやくの安堵を覚えて通りに出ようとしたその時、ふとした違和感が頭を過った。この人は、フィンがあの少女に殺されてしまったとき、一体どこに居たんだ?

 

『ずっとここに留まっていたら、また奴が追いかけてくるかもしれませんよ。まずは合流しましょう』

 

 廃墟の中で、立ち止まったまま考えをめぐらす。そもそも、彼はあの時なんであの場にいたのだろうか。おそらく、僕とフィンが路地に入った瞬間を見かけて追いかけてきたのだろう。でも、逃げろと指示を出した時からここに来るまでの間ずっと彼の声は頭上から聞こえてきた。なんで、そんな僕の目のつかないところにずっといる必要があるのだろうか。

 

『まさかどこか怪我をしましたか!? ここ一帯は空気が悪いから、移動しなければ傷に障って危険ですよ!!』

 

 そもそも、今思い返してみたら先ほどの状況は何かがおかしい。フィンは確かに胸を一突きされて殺害されていた。うつ伏せになった彼の死体を抱き起した背後から、あの少女が近づいてきたのだ。言うなれば、彼女はフィンが殺された向きとは真逆の所から現れたということ。まさか、殺したその一瞬で物音を立てずに僕の背後に回り込んだりしたわけも無いだろう。

 

『どこですか、早く出てきてくださいよ』

 

 それに、彼女が身にまとっていた灰色のローブには返り血なんてついていなかったはずだ。地面を赤く染め上げるほどの出血量だったにも関わらず、返り血の一切を浴びずに人を殺すことが出来るのか。

 

 僕は、何かとんでもない思い違いをしているんじゃないのか。本当に、フィンを殺したのは彼女なのだろうか。

 

「聞こえているんでしょう? あまり私を困らせないで下さいよ」

 

 彼女が僕の鞄を持って走り去ったことに間違いはない。だけど、もし仮に彼女が直接的にフィンに対して手を下していないのならば――。あの場所にいた人間の中で彼を殺すことが出来た人なんて、あとは一人しかいない。絶体絶命の窮地から僕を救い出して、あの少女から逃げきってこの旧市街の深層部に導いた人物。

 

「ほぅら、隠れてないで――」

 

 霧の中、鋭く響く風切り音。ゾクリ、という寒気を感じた時には、僕は勢い良く駆け出していた。アリアスさんの声が、気がつけばかなり近いところから聞こえていて、そしてまるで獲物を追い込むかのような猫なで声と変貌している。飛び出したその一瞬の間をあけて、後ろから耳障りな金属音が聞こえてきた。

 

「――とっとと出てこいッつってんだよォ!!」

 

 振り返ったその先で、複数の短剣が真っ赤な炎を纏いながら苔むした廃墟の壁へと突き立てられていた。壁に刺さる赤銀色の短剣を中心に、紅い炎だけではなく纏った熱を可視化しているかのように不気味な橙色の光が漏れ出ている。

 

 

 

 やっと、自分が逃げきったんじゃなくて、追い詰められたんだということを理解した。何が生き残るだ。何が助けに来てくれただ。気が動転した中でまんまとおびき出されて、気が付けば路地裏の中心街どころか旧市街の最深部じゃないか。こんなどうやって出るのかも分からないようなところからは、もう逃げることなんてできやしない。

 

「み・ぃ・つ・け・た」

 

 嬉しそうな、見下したような、そんな声が聞こえてきた。いつの間にか壁に突き刺さっていたはずの赤銀色の短剣たちは消えていて、そして廃墟の入り口で灰色のフードを被った人影がこちらを覗き込んでいた。両手に握る何本もの短剣は、暗闇に変貌しつつあるこの空間を照らす赤橙色の光を纏ながら表面が僅かに波打っている。

 

「霊剣、なのか……」

 

 乾いた笑いすらも出てこない。掠れた声でそう呟きながら、取り払われたフードの中を凝視する。耳元を覆い隠すほどの、真っ赤な長髪の男。多量の湿りを含んだ風が髪の毛を揺らし、その中に隠れていた彼の耳を露わにする。先端がいびつに千切れているものの、人族とは全く違う長い異形の耳。つい最近、それとよく似たものを僕は目にしている。

 

 始祖族。それは鋼よりも強固な霊剣と呼ばれる兵器を所有し、そして奇跡とも言える魔術を自在に操る、丸腰の人間がどうやったって敵うわけがない存在。表面が朧げに波打つ赤銀色の短剣を構え、そして何もないところから苛烈な火炎を巻き起こす。この男は、その始祖族に違いが無かった。

 

「無駄な手間掛けさせやがって。駄目ですよォ、往生際は良くしなきゃ」

 

 彼は、ただの始祖族の将官に仕える親切な新人の衛兵なんかじゃなかったんだ。その耳を髪の毛で覆い隠して人間の中に紛れていた、恐らく一連の事件を引き起こした張本人。

 

「……あなたが、全部やったのか」

「全部、ねぇ。船一隻沈めて船員を残らず殺して……ああ、衛兵の連中も殺ったか。そんで君のお友達も殺してと」

 

 さも当然とばかりに、目の前の男は指を折って自身のやってきたことを数えて言う。フィンを殺したという事実を、口端を吊り上げてのたまうその姿が、ひどく憎らしく、そして恐ろしかった。衛兵だったはずのこの人が何故だなんて、もう今更思わない。人を殺すことに何も感じることは無い、殺し屋なのだろう。

 

「何で、ですか。始祖族のあなたが、何でこの街で何人も殺して、フィンまでもッ!!」

 

 気が付けば、そう叫んでいた。目の前に突如降って湧いた、いとも簡単に僕たちの日常を破壊する理不尽な暴力。なんで、僕やその周囲の人間がそれを受けなければならないんだ。

 

「……"積み荷"の奪取、及び関与している人間全員の始末。この俺が仰せつかった仕事さ。始祖族なんて大層な連中の中にも、俺みたいに殺しに特化したどうしようもない奴もいるんだよ」

 

 顕現させた霊剣の一本を、手のひらで弄びながらアリアスさん、否、始祖族の男が話し出す。やはり、この男はクアルスの衛兵なんかではない。もっとどこか別の組織に属する、衛兵とは真逆の危険な存在だ。

 

「どうせ殺すんだから愚痴ぐらい聞いてくれよ。この時のために、何日も前から人間族のふりをして磯臭ェ街に潜伏して、そしてようやく日の目を見たっていうのに……"積み荷"は船から漂流して行方不明、見つけて確保したと思えば逃げ出す始末。おかげで無駄に殺す相手が増えて――面倒クセェんだよ!!」

 

 饒舌な様子で話し始めたと思えば、廃墟の中に響くような怒気をはらんだ口調で男は吐き棄てた。それと共に手にしていた短剣の一本が、僕の足元へと投げつけられた。途端に巻き起こる火炎と熱波に思わず後ずさり、短い悲鳴が口から漏れ出る。目の前の男はまるで嘲笑うかのようにそれを眺め、いつの間にか投げつけられたはずの霊剣は姿を消して彼の手元へと戻っていた。

 

 脚が、竦んでしまってろくに動かない。ここから逃げきれる方法が全く思い浮かばない。この男の霊剣は投てきに特化していて、下手に背中を向ければそのまま背中から刺殺される。それに仮に逃げおおせたとしても、こんな旧市街の最深部では地の利も無い上に、暗闇と霧のせいで自分がどこにいるのかも分からない。

 

 ただ足掻くための一歩すらも踏み出せず、気が付けば苔むした壁に背中を預けて、そのまま腰を地面につけていた。

 

「そうだ、殺す前に一個聞いときたいことがあったんだ。俺がこの仕事を受けた時に、一つ念を押されたんだよ。"あの積み荷がもし執着するような人間がいたら、決して油断をするな"。結果、奴は君の名前を呼び、そして君との接触を試みた。だから君を殺すにあたって、わざわざこんな面倒な場所にまで誘い込んだ」

 

 一歩ずつ、彼が近づいてくる。赤銀色の霊剣を右手に握り締めながら、その刀身に赤橙色の陽炎を煌かせる。ただその光景を、呆として見つめることしかできない。

 

「君は何だ。あの積み荷との関係性は何だ。何故、そこまでの警戒が引かれていた?」

 

 フィンを巻き込まなければ良かった。あの時僕が宝探しに行くことに反対していれば、今も僕とフィンは何も知ることが無いまま影に覆われた街の中で暮らしていただろうに。それを思えば、こんな状況なのに知らず知らずのうちに悪手を踏み続けた自分自身に嘲笑が浮かんだ。

 

「……もう壊れちまったか。なら用もない。じゃあな、ツカサ君」

 

 せめて、失った記憶を取り戻してから、どこかに置いてきてしまった自分の人生の意味を取り戻してから死にたかった。振り上げられた赤銀色の短剣、その切っ先をまるで人ごとのように淡々と眺め――

 

「ツカサに――手を出すなァ!!」

 

 ――その背後から闇と霧を切り裂いて、憤怒の表情を浮かべたあの少女が始祖族の男へ飛び掛かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

7. 剣の少女

 まるで、幻でも見ているかのようだった。

 

 霧のなかに軌跡を残す薄桃色の髪。その先端で少女が目の前のアリアスに飛び掛かかる。背中へと振り下ろされた古ぼけた青銅の棒が寸前で霊剣に防がれて、弾けるような音と共に舞い上がる苛烈な紅炎。

 

 重厚な鉄の斧をも切り裂くという始祖族の霊剣が、古びた青銅に打ち負けるわけがない。当然の如く寸断された青銅の棒が空を舞い、しかし少女の姿はもうそこには無い。

 

「チィっ!! もう追いついてきやがった――」

 

 アリアスの言葉は、強制的に遮られた。彼の体勢は大きく崩された上に、がら空きの腹部へ少女の蹴りが突き刺さる。相当な威力なのか、決して小柄ではないアリアスの体が吹き飛び、廃墟の一画に積まれたガラクタの山へと打ち付けられた。シンと静まり返っていたはずの空間に途端に大きな音が響き渡り、呆然とする僕の腕が強くつかまれた。

 

「ツカサ、早く!!」

 

 だが一度足が動き出せば、何がどうとか、もうそんなことは気にしていられない。アリアスの体勢が崩れた今しか、ここから逃げるチャンスはない。彼女に引き起こされた直後、そのまま僕たちは廃墟の外へ駆け出していた。

 

 霧と薄暗闇のせいで足元はおぼつかず、それどころか打ち捨てられた旧市街の道すがらも分からない。そんな中を彼女は何の躊躇も無しに全力で駆け、手を引かれている僕も同じ速さで走り続ける。

 

 深層部の出口は、ここからそう遠い場所ではない。このペースで走り続ければ必ず逃げおおせるはずだ。汗が浮かんだ頬を、ひと際大きな風が撫でつけた。夕凪の時間が終わり、陸風が吹き始めたに違いない。強めの風に吹かれて、駆け抜けている旧道の霧がはれた。少なくとも一寸先の視界は劇的に見えやすくなり、この風の吹いてくるところをたどれば、必ずまた表通りにたどり着けるはずだ。

 

『ちょこまかと、ネズミみてェに逃げてんじゃねェぞ!!』

 

 汚らしい罵声が聞こえた瞬間に、少女は僕の手を引いたまま近くの廃墟の中へ転がり込んだ。ろくに受け身も取れずに痛みを覚える間もなく、驚愕に目を見開く。

 

 連続して鳴り響く甲高い金属音と、次いで生じるすさまじい熱波。ついさっきまで僕たちが走っていた道へ、幾多もの赤橙色の煌々とした光が上から降り注いできた。数分前にアリアスが廃墟のなかで見せたそれよりも、規模と熱量の双方が比較にならない。僅かに残っていた霧を一掃した赤橙色の火炎は、次の瞬間には中心にあったはずの霊剣と共にすべてが消え失せていた。

 

 僕らの頭上には、奴がいる。廃墟を飛び越えて大通りを逃げるこっちを虎視眈々と狙い、そしてふと気を抜けば何本もの霊剣が必殺の威力と莫大な熱量を持って降り注ぎ、周辺を跡形もなく滅却する。淀んだ冷気で満たされていたはずの空間に不相応な熱気が生まれ、そして灰色の路面が僅かに赤熱する有様。その威容に、思わず息を呑む。

 

「……こっち!!」

 

 立ち止まっていたのは一瞬だった。少女は霊剣が降り注いだ旧市街の大通りではなく、廃墟の更に奥へと走り出す。向かう先には、より一層の霧が満ちているどころか光もほとんど存在しない、一層の闇が広がっている。しかし少女はそこへ何の躊躇もなく飛び込んでいく。ただただ彼女の後をついていくしかない僕には、待ったをかける暇もなかった。

 

 この少女のことを本当に信用していいかなんて分からない。例えフィンに直接手を下したのが彼女では無いにしても、鞄を奪って路地裏へと誘い込んだのは彼女に違いはない。だから、この少女はアリアスと仲間ではないという一点だけが、彼女に手を引かれて走っている現状を肯定するただ一つの哲学だった。アリアスが明確な殺意を持って追い掛けている以上、頼れるのは彼女だけなのだ。

 

 

 

 廃墟の奥には、クアルスの表層からの陸風が吹きこまない、やや広めの空間が広がっていた。日はすっかり落ちたのだろう。ただでさえ廃墟に遮られて碌に光も届かない旧市街の最深部において、この場所はどうしようもないほどの暗闇で満ちていた。そして淀んだ空気には多量の霧も浮いているのだろう。肌寒さの中に、顔を濡らすほどの猛烈な湿気を含んだ空気に眉を顰める。目を凝らしてみれば、ようやく全体像がつかめる程度の視界の悪さ。大昔にここは集会所にでも使われていたのだろうか、そんな広さだ。

 

 そんな中でも、手首からはずっと人の暖かさが伝わっている。少女は、僕の手を引いたままこの空間の中で立ちつくしていた。万策尽きたのか、それともここで隠れてやり過ごすのか。どちらかは知らないが、ただ僕は黙って彼女の様子を見つめていた。

 

 何故、彼女は僕を助けてくれたのか。難破船の事故で救出したことを、まさかここまで恩返ししようとしてくれているのだとしたらとんでもなくお人よしだ。そして、何故彼女は僕の名前を知っているのか。彼女を連行するために衛兵が小屋に乗り込んできて意識が僅かに回復したあの一瞬の最中で、フィンが呟いた僕の名前を憶えていたとでもいうのだろうか。

 

 考えれば考えるほど謎が多いその少女が、こちらへと振り返った。この暗闇の中だというのに、彼女の淡い桃色の髪の毛と金色の瞳は、その存在を強く主張している。目と目が合い、そして何かを言おうとしたこちらよりも早く、少女の口が開く。

 

「あなたの、所属と名前は?」

 

 変なことを、と首をかしげる。難破船事件の被害者の一人である彼女が僕の所属を知りたいというのは違和感があり、そして名前ならば彼女はもう知っている。

 

「……ツカサだ。読み書きの塾と手紙の代筆をしてて……所属だなんて、一応商工組合に所属してるだけだ。それで、君は一体――」

 

 そこで言葉を区切る。彼女の意図は掴めないが、嘘をはく場面でもないから正直に話すと、少女の顔に影がさしたように見えた。今話した通り、僕は完全に一般の市民であって、腕っぷしに自信がある傭兵なんかではない。あの始祖族の殺し屋から逃げるにしては、確かに心もとないと思われても仕方がないだろう。

 

「……私はナイン。そう、ただのナインだよ」

 

 しかし再び此方に向けられたその双眼には有無を言わさないほどの強い意志が込められており――

 

 不気味なほど静かな空間に、足音が響き渡る。僕や少女のものはずがない、それがゆっくりとこの広場へと近づきつつある。

 

「私はこの名前をかけて――」

 

 幾多の赤橙色の光の筋が暗闇を彩り、そして背後の壁へと突き刺さる。寒く暗い空間を照らすぼんやりとした炎は、それがアリアスの霊剣を核にして燃えていなければまるで暖炉のように温かに見えただろうに。広場の入り口に佇む人影が、にわかに浮かび上がった。

 

「――絶対にあなたを死なせはしない」

 

 獲物を追い詰めたことを確信して歪んだ笑みを浮かべたアリアスが、再び目の前へと姿を表す。直接霊剣でとどめをさすつもりなのだろう、背後で燻っていた炎はふっと消え去り、代わりに彼が弄ぶ赤銀色の短剣に光が灯る。

 

「……ツカサ、私を使って」

 

 僕の前に体を置いて、少女がそう口を開いた。一瞬の静寂のなか、決して大きくない声で呟かれたその言葉が何故か強く耳をつく。

 

「ようやく追い詰めたか。どうせ死ぬんだよ。逃げるしか能の無い癖して、たかが人間族が始祖族様から抵抗しようなんて、傲慢も甚だしい」

 

 人を治め世を治めるはずの始祖族とは思えないほどひどく見下したような、それでいながらこの世界における絶対の真理。彼らの霊剣は上質な鋼の斧さえも打ち砕き、そして魔術は霊剣の届かない領域を纏めて薙ぎ払う圧倒的な暴力だ。一度は不意を突いて逃げ出すことが出来たものの、二回目は無い。彼の両手が陽炎で煌めく。

 

「私を使って戦って」

 

 だというのに、少女は逃げることも隠れることもせずに、再び意味が判然としない言葉をつづける。いつの間にか彼女に握り締められた手が胸元へと寄せられていた。霧の立ち込める寒さにかじかんだ手に、ほのかな温かさが伝わる。そして頬を軽く触られて、アリアスへ向けられていた僕の視線が少女へと移される。

 

「この国じゃあお前たちはいつも搾取され、そして気まぐれで踏みつぶされるんだろう。良い文化だ。今回も、大人しく身の程を弁えて踏みつぶされときゃァ良いんだよ」

 

 彼がその腕を軽く振るえば、次の瞬間には豪速で迫る霊剣であっけなく僕は死ぬ。それだというのに、視線と意識は無理やりに少女へと固定されていた。彼女の胸に押し付けられた両手に人の肌を通り越した熱い感覚が伝わり、そして目を見開いてその手を放そうとする。しかし少女はそれを許さず、強く僕の両手首を握り締めた。

 

「た、戦うだなんて無理だ!! い、一体何がっ」

「怖がらないで。やっぱり、ツカサだ。あなたはまだ自分の全てを知らないだけ。大丈夫、あなたは戦える。だって――」

 

 手のひらに、何か熱くてかたいものがあたり、それと共に闇を飲み込まんばかりの白い光が眼前から放たれた。暗闇に慣れた視界を焼き尽くさんばかりの、昼間の太陽を思わせる激烈な光。少女の姿が光の爆発に飲み込まれていき、そして自分の手首を握り締める感触がすっと消えた。

 

「――あなたには、その能力がある。私の剣を顕現させて、戦う能力が」

 

 光の中からかすかに聞こえたその言葉を最後に、激光は最高潮へと達した。思わず目頭を抑えようと引いた右手に、いつの間にか何か大きなものが握り締められている。目の前の強烈な光は、その両手に持った何かを起点にしてこの空間を照らしあげていた。

 

「チィッ!! 劣等種共が、何をしやがった!!」

 

 光の奔流の中でアリアスの叫びを聞く。そんなこと、自分にだってわかりはしない。白に染まる視界の向こう側から、彼が投てきした霊剣の軌跡がかすかに見える。一直線に心臓へと突き進むそれは、フィンをやったときと同じく呆気なく僕を殺すだろう。

 

 でも、縮こまるでも身をかわして逃げるでもなく、ただ無意識に突き動かされるようにしてその霊剣に真正面から向かい合う。

 

 投てきされてからのわずかな時間、それが突き刺さる寸前に両手に握り締めた"何か"を横薙ぎに振るう。いつもの護身術の訓練と同じように、ただ投げつけられたものを弾くという行為。段々と光を弱めていくそれが赤橙色の一閃にぶつかり合い、そして呆気ないほどにその軌道を捩じ曲げた。弾き飛ばされて地面へと落ちる霊剣たち。それを見た僕は、自分が何をしたのかも分かってはいなかった。

 

――そう、それで良いんだよ。私の剣は、あいつよりもずっと強い――

 

 白光が収まり、そしてようやく両方の手に持ったものが明らかとなる。それは、二振りの黒い剣のような物体だった。まるで板か何かのように、刀身は広くそして分厚い。両手が握り締めていた剣の柄は、木でも布でもない不思議な質感だ。非常に重厚な見た目に反して、両手に伝わる重さは想像を裏切るかのように妙な軽さを持っている。

 

 そして、さっきまで僕の目の前にいたはずの少女の姿は忽然と消え去り、しかしその声だけはまるで耳元でささやかれたかのように小さく、しかしはっきりと聞こえる。

 

――あいつの能力は、発火と製錬。手出しできない距離から投てきによる制圧と、逃げ場を奪う炎。策も無しに戦えば今のあなたは勝てない。でも――

 

 後方へと弾いた霊剣がまたアリアスの手元へと戻る。あの剣は、投てきしても忽然と姿を消して再び彼の元に顕現する、まさに製錬といって過言じゃない。しかし消える間際に見えた炎は、さっき大通りで上空から降ってきたそれらに比べて著しく規模が小さい。そうだ、ここの広場にたどり着いてから彼の扱う陽炎全てが小規模なものにとどまっている。

 

――この場所はあいつにとってとても不都合な場所。この霧の中ではろくに魔素は燃えず、そして中途半端な広さでは距離をとって剣を製錬し続けるなんて不可能――

 

 アリアスの顔を見る。あれはもう獲物を前にして慢心した顔なんかじゃない。僕をみるその目からは嘲りではなく警戒が、そして低く姿勢を落とすその姿からはこちらを敵として認めたということが伝わってくる。

 

「オイオイ、冗談は止めてくれよ……なんだ、その剣は!?」

 

 黒い二振りの剣を構える。たった今初めて構えたというのに、護身術の訓練で何度か扱っていた木の双剣よりもずっと手に馴染む。柄の形状、刃の大きさ、そして全体の重さまで、全てがまるで自分のために作られたのかと錯覚するほど。

 

――今やあいつは追い詰めたんじゃなくて、誘い込まれた。あいつの慢心が、いまやあいつを滅ぼす――

 

 再び陽炎を纏った霊剣が投げつけられ、何本もの赤く煌めく光の筋が迫る。しかし感覚が麻痺でもしたのだろうか、不思議ともう恐怖は感じなかった。黒い剣を光へと打ち合わせ、その度に霊剣に宿っていた炎が身を焦がそうと迫り来る。しかしそれすらも、剣を薙いだ勢いに負けて霧散した。

 

――ツカサ、行くよ――

 

「このォ……クソガキがァ!!」

 

アリアスの叫びと、少女のささやきが重なった。それを切っ掛けにして、黒い剣を振りかざして駆け出す。たかが剣を手にしただけというのに、己の体を硬直させていた強者に抗うことへの抵抗と恐怖が嘘のように消え失せていた。投てきされる霊剣など、もはやただの牽制にすぎない。敵の間合いに入れば、勝機はある。

 

 もはやアリアスとの間に距離はない。彼が霊剣を振るえば、容易にこちらを切り裂ける間合い。しかしその切っ先は、僕を捉えるよりも前に黒剣へ阻まれた。投てきされた霊剣を弾いたときよりも、余程大きな衝撃と陽炎が荒れ狂う。

 

「"決して油断をするな"。まったくもって、その通りだ!! 何故テメェのような劣等種が――」

 

 重厚な黒い双剣はギリギリと音をたてて押し込まれる赤銀色の霊剣を完全に抑え切り、その上剣の表面には傷一つも着きはしない。アリアスの表情が間近に見える。あれは、あり得ないものを目の前にした疑問と焦りの顔だ。しのぎの削り合いも長くは続かず、彼はすぐに素早く後方に飛び下がり距離を空けた。そして姿勢を低く下げて、再度霊剣を構えてこちらへと飛び出した。

 

「――霊剣、そんなものを持っている。それは、始祖族の魂の象徴、人間族には扱うことはおろか保有することも無理な代物だ!!」

 

 斜め上から目で見るのも困難なほどの速度で振り下ろされる霊剣を、再び黒剣で打ち据える。鋼をも切り裂く霊剣の一撃を防ぎきるなどという芸当は、普通の剣なんかでは到底出来はしない。しかし現に黒剣はその衝撃を受けても健在なままで、刀身が僅かにゆらめいた。

 

 双振りの刃物が真正面からぶつかり合う甲高い音が廃墟の中に響き渡り、渾身の力で振り下ろされた霊剣は勢いを完全に逸らされて僕の顔のすぐ横を通過していく。

 

「テメェ、なんとか言ったら――」

「黙れよ、殺し屋にまで堕ちた始祖族が!!」

 

 まるで熱にうなされたように、僕の思考は普段とは全く異なる様相だった。本来の自分が逃げなくちゃと警笛を鳴らそうにも、体はアリアスの剣戟に真正面から向き合い、それどころか二振りの黒剣を彼に向けて突き出していた。護身術の訓練の時にいつも言われていた、防戦一方で攻撃に転じれば素人にも劣るという特徴。それの原因は今までさっぱり分からなかったが、今になってその一端が見えた。恐ろしく手と体に合致する黒剣を手にして、まるで嘘のように攻め手が頭の中に思い浮かぶ。

 

 再び距離を取ろうとするアリアスの動きよりも早く、彼の霊剣に目掛けて黒剣を突き立てる。アリアスの霊剣から溢れ出た陽炎も、剣同士の衝突によって水をかけられたかの如く霧散し、その代わりに橙色の火花が飛び散った。苦し紛れに振るわれるもう片方の霊剣も、横薙ぎに弾いて彼の手から飛ばす。

 

「消えろ、この街から、目の前から!!」

 

 再び彼の手に霊剣が顕現するが、その上から更に黒剣を打ち付ける。二振りの霊剣が、黒の双剣を辛うじて押しとどめていた。ギリギリというしのぎを削る音、その度に赤橙色の火花が剣と剣の間から周囲へと飛び散り、アリアスが苦悶の声を上げる。もう後ろは廃墟の壁際で、どこに逃がすことも無い。

 

 ピシリという音が僅かに聞こえた。青銅の棒を紙のように寸断したほどの堅強さを持っていたアリアスの赤銀色の霊剣に小さなヒビが走り、黒剣に力を入れるたびに刀身を這うようにしてその筋が拡大していく。火花の中に赤銀色の粉末が混じり、それらは霧の中で赤橙色の炎に包まれて消えていく。

 

「き――さまっ――こんな、ところでっ――」

「消えて、無くなれ!!」

 

 そして、ガラスが砕け散るような音が鳴り響いた。辛うじて形を保つ霊剣の全身に走ったヒビから、紅い光と炎が漏れ出す。指向性のないそれは黒剣やアリアス本人さえをも瞬間的に包み込み、そして瞬時に強烈な熱波として破裂した。声帯がひっくり返るほどの声量でアリアスが叫び声をあげ、それに呼応したかのように襲い来る熱波から身を護るために後方へと飛びのく。

 

 姿勢を直して再び黒剣を構えて前を見据える。急激な紅炎は再び急速に立ち消えた。自身の炎に体を焼かれたアリアスは、ヒビまみれの霊剣を両手に、こちらを見据えている。しかしその瞳に生気は無く、彼の霊剣からは既に光も消えて無くなった。

 

 まるで砂のように、あれほど脅威に満ちていたはずの霊剣の姿が崩れていく。再び暗闇が支配する空間の中で、微塵に砕かれた赤銀色の刀身が淡い紅炎として消えていき、そして糸が切れたかのようにアリアスが地面に膝をついた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

8. 崩壊の日

「あ、ああ――俺の、霊剣――」

 

 アリアスが辛うじて握り締めた霊剣が、煌く破片を散らしながらその形を崩していく。うわごとのように霊剣と繰り返し口にしながら、淡い炎として暗闇の中に消えていく欠片に手を伸ばし、アリアスはまるで芋虫のように地面を這う。赤銀色の刀身はとうに消え去り、そして彼が手に握り締める柄さえもが弱弱しい光と共に姿を消していく。

 

 恥も何も全てを投げ捨てたかのように、地面を這いつくばって焼き尽くされた残り滓を集めようとアリアスは呻き続けていた。その光景がひどく無様で、そしてとても哀れで――傲慢で人間を自然に見下して暴威をふるっていた始祖族とはとても思えない、情けのない姿だ。

 

「どこだ、どこ――俺の、剣はっ――」

 

 痙攣する彼の指先は廃墟の埃をただ無意味に集めるだけで、もはやどこにも霊剣の気配など存在しない。アリアスの表情は蒼白に染まり、赤い長髪が滅茶苦茶に掻きむしられる。

 

 霊剣とは、始祖族の大いなる魂を具現化した特殊兵器だ。彼らにしか扱えない自分自身の化身とも言えるそれは、人間が振るう鋼鉄の業物とは比較にならない堅強さを持つ。しかし、その霊剣が打ち砕かれればどうなるのか。アリアスの霊剣は、今や塵も残さずに世界から消え失せた。それは彼の顕現させた魂が破壊されたということだ。つまり――

 

「――ツカサ、あなたはあいつに打ち勝った。核を砕かれたら、彼らに待っているのは自己の崩壊という結末だけ」

 

 隣に、あのナインと名乗った少女が立っていた。手にしていたはずの黒剣はいつの間にか無くなっており、それに置き換わるようにして右手が少女に握り締められている。彼女は、地面に這いつくばり無意味に砂ぼこりを集めるアリアスへと歩み寄った。

 

 目の前に来てナインの足音にようやく気が付いたのだろうか、アリアスが顔を上げる。嘲るような笑いも敵を前にした警戒心も、そんなものは何一つ浮かんでいない。否、先ほどまでそのような表情が浮かんでいたことを疑問に思うほどに、アリアスの顔からは絶望しか感じ取ることは出来なかった。

 

「……俺の、霊け――」

 

 藁をも掴むということなのだろうか、彼がナインに伸ばした手が、彼女によって無残に蹴り飛ばされた。人体を殴打するようなくぐもった音ではなく、硬いものが割れるような音が鳴った。それと共に彼の腕が体から吹き飛び、廃墟の壁に叩きつけられる。いや、それはもはや切り離された腕とは到底言えないようなものだ。赤みがかった透明の水晶のようなもので構成された腕の形をしたものが、壁にぶつかり呆気なく粉微塵に砕けた。

 

 肩から先が無くなった光景を目の当たりにしたアリアスが、掠れた悲鳴を上げる。残ったもう一本の腕で地面を引っ掻いてずるずると体を引きずり、砂のように砕け散った己の腕の破片へと手を伸ばす。しかし彼の足ももはや形を保ってはおらず、ローブのすそから煌く結晶の欠片が多量に零れ落ちる。

 

「……一体、何が」

「あれが彼らの最期の姿。全身の魔素が崩壊を始めたら、自身の身体の形状すらも保つことは出来ない」

 

 全身から砂のようなものを散らせるアリアスの姿を呆然と見つめる僕に、ナインが語り掛ける。始祖族の霊剣が持つ意味から考えて、それが仮に破損するようなことがあれば彼らもただでは済まないだろうとは思っていた。でも、彼のように全身の崩壊に悶える無残な姿など想像すらもしていない。こちらへと振り向いた彼は顔の半分までもが赤い水晶の断面へと変化しており、残った片方の瞳で僕を見据えた。

 

「き、さま――ゆるさ、ない」

 

 ゴロリ、と大きな音が響く。片腕で地面を這うアリアスという始祖族の成れの果て。彼の下半身全てが結晶に変わり、残った上半身だけが呪詛を呟きながら僅かに動き続ける。

 

「お前はもう助からない。吐け、お前の目的は何だ」

 

 僕の前に立ちふさがったナインが、アリアスに残された右手を踏みつぶして問う。既に結晶と化していた手は砕け散り、残った赤い色の髪の毛が掴み上げられた。その瞳も水晶の球と変化しており、恐らくアリアスには視覚すらも残されてはいないのだろう。

 

「アスト、ランテに――呪いあ――」

 

 最期の言葉を言い終えるよりも早く、アリアスの頭が赤い結晶に変貌した。ナインの掴んでいた髪の毛が砂のように崩れ落ち、それと共に彼の頭部だった大きな結晶体が地面へと落下する。甲高い結晶が砕け散る音と共に、彼という存在はとうとう消滅をした。血も肉体も残らず、ただ彼が身にまとっていたローブと、その体を成していた多量の結晶塵のみが物言わず廃墟の地面に広がっていた。

 

 

 

 今、一人の始祖族が死んだ。スターランテ号を沈めて船員や衛兵、そしてフィンを殺した男を、僕はこの手で殺した。手を赤く染め上げる返り血も目を背けたくなるような凄惨な光景もそこには無く、それでも一人の男が呪詛を吐きながら世界から消滅したという結果だけが存在している。震える手を握り締めた。

 

「……終わったね。ツカサ、行こう」

 

 少女に手を引かれて陸風が吹き込む方へと歩き続ける。旧市街の深層部には、僕たちの足音を除けば時おり吹き抜ける風の音しか聞こえない。脚を動かす最中、頭はずっと同じことを考えていた。

 

 とどめを指したのは、僕だ。自分自身が生き残るために、そしてこの街から脅威を取り除くために、この僕が殺した。アリアスが最期に呟いたこの国への呪いは、その実この身へと向けられていたのだろう。

 

 殺す気が無かっただなんて言い訳はしない。彼の霊剣を砕いたことによって意図せずアリアスの体を崩壊させるという結果にはなったが、そもそもあの時駆け出していた僕は彼を全力で排除しようとしていた。どうにかして剣戟を防ぎ、そして黒剣を彼の体へと叩きつける心づもりでいた。つい数分前まで人殺しとは無縁の生活を送っていたのに、ひとたび剣を手に取ればこの有様だ。僕自身の変貌というものが、今はとても恐ろしく感じる。せめて両手が彼の血で塗れていたらまだ放心も出来ただろうに、殺したという実感すらも薄いことが恐怖を助長していた。

 

 

 意識も覚束ないなかでただナインに連れられて、いつの間にか再び靴の底から感じるのは石畳に覆われた道へと戻り、そして頭の上には辛うじて星空が見え始めていた。陸風が頬を撫でる夜の入り口。絶対の死を突きつけられたクアルスの最深部から、ある程度は戻ってくることが出来たのだ。未だに表通りのようなにぎやかさは無いが、それでも視界が遮られるほどの霧がないだけでも環境は大きく違っている。

 

 そして、再びフィンが倒れたままの路地裏の広場に足を踏み入れる。枝分かれした道の端に、まだ彼の小さな体が横たわっていた。僕よりも頭二つぶんよりも小さい、まだ子供であるはずの遺骸。アリアスに追いたてられて逃げ出したときと寸分違わず、手足は投げ出され、虚ろな目は何も写すことなく廃墟の上の空を見上げている。

 

 再度触れた彼の体は、嘘のように冷たかった。手が再び血に濡れることもいとわずにそっと抱き起こし、その瞼に手をやって閉じる。ついさっきまで彼と並んで歩き、そして一緒に話していたことがまるで幻のようだ。呼び掛けても頬に触れても、もう彼はピクリとも動くことはない。

 

「仇はとったよ。がらにも合わないだろうさ。でも、これで君を連れて帰ることが出来る」

 

 返事なんて返ってくるはずもないのに、意味もなくそう彼に話しかける。その間、ナインはずっと黙ったまま後ろに立っていた。こうして一度立ち止まり、フィンの遺体と向き合って自分自身の心を整理していると、呆然としていた頭がようやく平静さを取り戻していく。

 

「……改めて聞くよ。君は一体何者だ?」

 

 しゃがんだまま振り返り、彼女に問いかける。ナインという人物の存在は、不気味に過ぎた。僕の名前を知っている程度ならばまだ良い。だけどそれに留まらず、始祖族の能力や弱点、そしてあの黒剣について、彼女は僕の理解の及ばないことをたくさん知っているのだろう。

 

「ただの市井の人間ならば知り得ないことを、君は平然と知っている。そんな君が、何故僕と関わりを持とうとする?」

 

 傭兵か、それとも何処かの正規軍か。少なくとも、僕のような一般市民は始祖族の倒しかたや死に際など細かく知っているわけもない。そんな荒れ事に関わる人間と直接的な接点を持ったことなど、少なくともクアルスに住みはじめてからの半年ではあるわけがない。

 

「……あの黒い剣は、君なのか」

 

 そして、核心を口にする。普段の自分であればまず思い浮かぶわけもない疑問だ。黒い武骨な双剣をさして、それが目の前の儚げな少女の化身であったのかだなんて、おとぎ話の中ですら陳腐なものだろう。しかし自分はある種の確信を持っていた。少女と入れ替わるように姿を現し、そして黒剣を手にしていたときに自分の頭の中だけに聞こえた少女の声。そんなものがただの変哲のない剣でしかないというのは、いささか不可解だ。

 

「私はあなたの剣。あなたの意志によってのみ、私は剣へとなる。あなたを除いて誰にも扱えず、それは私自身も例外じゃない、ツカサだけの剣だよ」

 

 彼女は僕をまっすぐに見つめながら、淀みなくそう答えた。それは自身があの剣であることを認めるということか。己から剣を錬成するだなんて、まるで始祖族の霊剣にも通じるような話だ。一見すれば突飛で正気ではない。ただの人間の少女にしか見えない彼女がそのような特異に過ぎる能力を持っているだなんて、実際にこの目で見なければ信じられるような話ではないのだ。

 

「……よしんば君が剣へ変身することが本当だとして、何故僕なんだ。難破船事故で巡りあった人間同士が偶然そうだったなんて、そんな話が――」

「――ちがう。偶然なんかじゃないよ」

 

 ナインは、初めて強い口調で否定をした。偶然ではなくて必然、そう強く訴える。

 

「ツカサには失われた記憶がある。こうして再び巡り会えたのは偶然かもしれないけど、私は最初からあなただけにしか扱えない」

 

 確かに僕には失われた記憶というものがある。クアルスに流れ着いた半年よりも前に自分が何をやっていたかなんて、頭のなかには全く存在しない。しかしそれは今の自分ではない。

 

「確かにそうだ。もしかしたら、そのときの自分は今とは全く違って傭兵か何かでもやっていたのかもしれない。でも今の僕ではない別の記憶だ。もし君が過去の僕に用があるのだとしたら――」

 

 それは意味がない無駄な行為だ。そう続けようとした言葉が、背後から響いた声によって唐突に遮られた。

 

 

 

「――ツカサ、なのか」

「ジャンヌ、さん……?」

 

 廃墟の奥の暗闇からわずかに聞こえたその声は、明らかに動揺していた。その人影は姿勢を低くして警戒心を隠そうともせずに近づき、にわかに差し込む月の灯りの下に金色の髪の毛が小さく煌めく。衛兵の制式装備である長剣を構える手は小刻みに震えていて、彼女が身にまとう軽鎧もカタカタと音をならす。

 

「お前が……何故その女といるんだっ!? それに……フィンはどうして倒れて――」

 

 つい数時間前にフィンと僕に護身術の練習と称した会に無理矢理参加させた、親切でお節介な衛兵のジャンヌさんが、その顔を険しく歪めて剣先を構えた。例え彼女が新入りの衛兵であっても、仮にも街の治安を維持する立場なのだから、倒れ伏すフィンの体の周囲にできた赤い色の水溜まりを見て何が起きているのか理解できないわけがない。

 

「ふ、フィンは始祖族の男に――」

「質問に答えろ。何故お前は、手配中の人間と共にいる?」

 

 たとえ剣先が震えていようと、彼女は本気だ。今までに聞いたことが無いくらい、声が硬くそして険しい。

 

「その女は、難破船事件と衛兵殺害の容疑で指名手配となった!!」

「誤解です!! あなたたちの中に紛れていたアリアスという男、その正体は始祖族の殺人鬼で一連の黒幕だ!! フィンも、奴にやられたっ」

 

 間違いなく、ジャンヌさんは僕たちに疑念を抱いている。片や難破船事件の犯人として指名手配となった少女と、片や血まみれで横たわる子供の脇で少女と共に路地裏にいる自分。たとえジャンヌさんが僕自身と面識があろうと、見過ごすことなんて出来やしないだろう。

 

 アリアスが新入りの衛兵に紛れ込んだ異物であることなんて、詳しく調べれば絶対にわかるはずだ。その一心で彼女に訴えかける。しかし、ジャンヌさんは剣を下ろそうとはしなかった。

 

「……ツカサ、こっちへ来い。どのみちその女は衛兵が確保することになる。お前とどのような関係なのかはこの際どうでも良い」

「彼女は誰も殺していません!! 少なくともアリアスが始祖族だった証拠ならば、あいつの残骸のところまで案内したっていい!!」

 

 さっきまで拒絶しようとしていたはずのナインをかばう言葉が自然と口をつく。一度知り合った人間があらぬ疑いをかけられているのを無視するだなんて僕には出来ない。それに、もうこの世から消滅したアリアスという存在に引き起こされた罪を被せられるなんて、真っ平御免だった。

 

「ツカサ、お願いだ戻ってきてくれ。私もお前が黒幕なんかだなんて思っていない!! だが、たとえどんな事情でも……その女だけは確保しなければならない」

「……何故ですか。アリアスも衛兵も、どうしてそこまでこの子を求めるんですか?」

 

 そしてようやく違和感に気がつく。ジャンヌさん自身は、多分僕たちが犯人とは思っていない。しかしナインの身柄だけは何としてでも確保しようとしている。もはや事件の容疑者だとかは関係なく、ただ彼女の存在だけが目的かのよう。まるでアリアスと一緒だ。彼も、ナインに関してはその命ではなく身柄の確保だけを目的としていた。

 

「それは……私だって知らされていない。だが我々の目的はそいつで、ツカサじゃないのは確かだ」

 

 やはりだ。アリアスのときだって、あくまでナインに関与したという一点だけで命を狙われたのであって、僕自身に何かがあったわけではない。衛兵たちの目的はナインの存在、ただそれだけだ。

 

 仮にこのままジャンヌさんの方へと歩みより、そして後ろにいるナインを見捨てれば、全ては解決するのだろう。衛兵がアリアスと同じように僕を排除する可能性は捨てきれないが、無関係だと声高に叫べばきっとクアルスの日常に戻れるはずだ。全ては元通りに、ただフィンを喪ったという事実のみが残るだろう。

 

「……ツカサは、失った記憶の中身を、そしてあなた自身の意味を知りたくないの?」

 

 いつの間にかすぐ後ろに佇んでいたナインが小さな声で囁いた。熱っぽい吐息と共に耳へと伝わるそれは、僕の背筋を容易にゾクリとさせる、まるで悪魔の言葉だ。クアルスでの日常という選択に傾きかけた選択が、強引に押しとどめられる様を幻視する。

 

 今まで過ごしてきた変哲のない日常の中で抱き続けてきた違和感。自分は一体何なのか、そして一体どこから来たのか。それはふとした瞬間に表れ、そしていつの間にか消え失せるような淡いものだった。でもアリアスの凶刃が迫るその刹那に、違和感はその一瞬だけ渇望に変わった。一度その変化を容認してしまえば、もう今まで通り違和感を見てみぬ振りなんかは出来ないだろう。その事実を、ナインの言葉によって僕は強く認識させられた。

 

 彼女の手を取る。それはつまり、日常の崩壊を意味する。数日前の自分が今の状況に直面したら、何も考えることもせずに彼女を否定するのだろう。でも、今の僕は自分でも訳が分からないくらいに心が揺れ動いている。

 

「直接答えを教えることは出来ない。でも私は、ツカサと一緒に探すよ。あなたの過去と、そしてあなた自身を。だからツカサ――」

 

 首元に、ひんやりとした腕が回された。それは僕という存在と思考を絡め捕るようなものなのか、それともただひたすらに懇願をするためのものなのだろうか。僅かに震えが伝わるそれを拒絶することもできないままに、彼女は耳元に口を寄せた。

 

「――もう、私を一人にしないで」

 

 心当たりもくそもない、まったく身に覚えがない彼女のその言葉が、どうしようもないくらいに頭の中を塗りつぶした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

9. 自分を取り戻すための選択

「……僕はクアルスでの日々が好きでした。記憶の無い異邦人の僕を受け入れてくれた街の人たち、それにフィンやジャンヌさんも、全てかけがえのない存在でした。でも、何者でもない自分への違和感は、ずっと抱き続けてきた」

 

 首元に回されたナインの手を握りしめる。今この瞬間に、覚悟を決めた。

 

 僕にとってみればナインは赤の他人に毛が生えた程度の関係性だ。例えフィンと共に彼女を極寒の海から救い出したといっても、結局はそれだけでしかない。その彼女の一言に、何故ここまで心を動かされたのか。もはや存在しない過去の自分の置き土産が、ナインに何かを感じているのだろうか。

 

「……僕は自分自身が何者なのかを知りたい。それを知らなければ、いつの日か命が尽きる間際に僕は間違いなく後悔をする。一度それに気が付いてしまったから――僕はもう戻らない」

 

 明確な拒絶の言葉を吐くと同時に、ジャンヌさんの目つきが変わる。歪んだ表情に浮かぶのは、悲しみとそして怒り。長剣の先端はこの体に寸分の狂いなく向けられ、剣の柄を握る拳に力が込められていた。彼女は衛兵だ。街の治安の維持のためにならば、例えその剣を向ける相手が肉親や知り合いであろうが、容赦をするようなことはあってはならない。

 

「最後通告だ。その女を差し出して私と共に来い。もし拒むのならばお前は衛兵の敵だ。容赦はしない」

「……僕はナインと共に行きます。クアルスでの生活を捨てる覚悟は、もう出来ている」

 

 その言葉と共に、ナインによって手繰り寄せられたその手が炎のような熱気と強烈な光によって覆われた。光に覆い隠される寸前の彼女は、かすかに涙を流して微笑みかけ、その直後に再び両手に硬い柄が握り締められた。彼女の体の感触がフッと消え失せて、そして光の靄がだんだんと晴れていく。

 

 再度両手に顕現した黒い大きな双剣。始祖族の霊剣をも打ち砕く堅強さを持つ、ナインのもう一つの姿。対峙するジャンヌさんの手にあるのは、容易に人の胴を寸断出来る長さを持った中規模の十字剣。どちらも手にあるのは練習用の木剣などではなくて、人を殺すことが出来る武器だ。

 

 これは護身術の訓練などではない。例え衛兵としては新入りだとしても、彼女は卓越した剣の腕だけでその地位へといる。彼女はその技術の全力をもってして僕を殺そうとして、そしてこちらも本気でかからなければ容易く死ぬ。もう、引き返すことは出来ない。

 

「なっ……やはり、その女は――」

 

 黒剣を前にして一瞬だけ彼女が目を見開いたが、しかし臨戦状態は途切れることは無かった。姿勢を低く構え、そして黒剣を眼前に交差させる。

 

 ジャンヌさんがここにいるということは、この近辺を巡回中の衛兵が他にもいるはずだ。彼女をまかずに表通りに逃げようとすれば間違いなく袋小路になり、だからと言ってこの場に留まれば時間が経つごとに不利になる。ならば、勝機はただ一つだけ。可及的速やかにジャンヌさんから隙を奪い、そしてこの場を離脱する。

 

 地形を有効利用できない障害物の無い路地裏。彼女に追いつかれずにこの場所から脱出をするには――その脱出経路を強く思い浮かべた。出来る、否出来なければここで死ぬだけだ。

 

「――シィィィアッ!!」

 

 鋭い叫び声と共に突き出された十字剣が戦端を開いた。月明りを反射する白銀の筋が暗闇の中を突き進み、こちらも二振りの黒剣の先端を向ける。いくらナインの黒剣が頑丈だとは言え、あの重量の突きを真正面から防げば単純に力負けするのは必然だ。だからやることはいつもと同じ。受け流し、そして反撃の機を伺うしかない。

 

 金属同士が摺りあわされる音が聞こえたのは一瞬だった。右肩を掠めて通過する白銀の剣先、そしてその十字剣から削れて舞った火花が頬にあたる。とてつもなく速く、そして鋭い。黒剣の柄から伝わる衝撃の大きさが、初撃の強大さを物語る。

 

 今朝に行った、木剣を用いた訓練などとは大きく異なる。あれは彼女にとってお遊びのようなものだったに違いない。何とか初弾を反らした黒剣を弾き飛ばさんとばかりに、彼女の長剣が上方へと振り払われる。重さと速さ、その双方がもはや見たことのないほどに洗練されていた。

 

 腕の長さを超えるほどという十字剣にも関わらず、その軌跡は目で追うのも難しい。限界まで見開いた視界と研ぎ澄ました聴覚でなんとかその存在を捉え、寸でのところで剣戟を受け流す。アリアスの戦い方とは根本的に性質が異なる苛烈で隙の無い戦い方を前に、反撃はおろか姿勢を崩されないようにするだけでもぎりぎりの状態だ。

 

 反らし切れなかった十字剣が左の肩口に到達し、僅かに皮膚と肉を切り裂いた。痛みすらも置き去りにして、服の下で血がにじみ出す感触が伝わる。だが叫ぶ暇もなく、状況は否が応にも止まってはくれない。真横に薙ぎ払われた十字剣を再び黒剣でいなし、わずかな間だけ相手の剣の動きを封じた。

 

「ツカサ、剣を下ろせ!! いなしているだけのお前に、勝ち目など――」

 

 この人は、どうしても非情にはなれないようだ。投降を諭すその最中、僅かに十字剣に入る力が弱くなる。本物の剣士を前にしたら、僕のような弱い存在はその瞬間を狙うしかない。

 

 十字剣を黒剣で押しとどめたまま、ジャンヌさんの胴体を目掛けて駆け出す。しのぎを削る耳障りな音が鳴り、右手に持った一振りを彼女の体に向けて突き出した。初めての反撃に彼女の目が見開いたのは一瞬だけで、即座に体が逸らされて剣は空を切る。しかし相手の体勢が崩れたそれだけで、勝機は手繰り寄せられた。

 

 今度はこちらから攻める番だ。手にしたナイン――黒剣のせいか、それをどのように振るえばそれが攻撃となるのかが頭の中に浮かび上がる。重さで優れる十字剣が振るわれる前に先んじて何度も黒剣を打ち付けて動きを封じ、向こうに自由に動く時間を与えない。連続して響く剣戟の音と共に、彼女の背後に路地裏の壁が迫る。その距離が、とうとう想定していたところにまで到達した。

 

 一気に脚へ力を入れる。十字剣に押し当てていた黒剣を引き、そして全力で駆け出した。固定を解かれた彼女の剣が勢いを取り戻して肩から迫るが、それを間一髪で避ける。狙いはジャンヌさんではなくて、その背後の壁。彼女の剣が追い付くよりも先に、石造りのその壁に足をつけて蹴り上げた。

 

 このまま駆け上がったところで、路地裏の両脇に控える旧市街の屋根の上には到底届かない。だから壁を蹴り上げて勢いをつけたその足で、こちらに目掛けて突き出された十字剣の刀身を足場にして、更に高く飛び上がった。つかの間の浮遊感の中で黒剣を石壁に突き立てて体を捩じり、ようやく廃墟の屋根の上に手をついた。

 

「――ツカサァ!!」

 

 途切れた息を直しながら、路地の下を見つめた。たった今足場にしたジャンヌさんは、十字剣を構えてこちらを見据えている。だが路地裏にここへ上って来れるだけの足場など存在せず、彼女はもう手出しを出来ない。

 

「……さようなら。最後に一つだけお願いします。フィンを、彼の両親と会わせてあげて下さい」

 

 僕はフィンを護り切ることが出来なかった。それに、彼を連れて帰るという約束すらも果たせなかった。ボロボロと崩れていくクアルスの一般市民としての日常。恐らく、彼の存在はその中核をなしていたのだろう。彼が生きていたら、もしかしたら僕はジャンヌさんの手を取っていたかもしれない。

 

「……大馬鹿者が。空白の記憶というものに、今の全てを投げうってでも手に入れる価値が本当にあるのか?」

 

 そんなこと、手に入れなければ分からない。その価値がどうかであるかなんて問題じゃなくて、ただ取り戻すという行為に意味があるのだ。彼女の問いに対して何かを答えることもせずにただ首を振り、旧市街の外を目指して屋根の上を走り出した。最後に見た彼女の顔は、悲しげに歪んでいた。

 

 

* * *

 

 

「……ツカサ、ありがとう」

 

 自分が住んでいた小屋に行くことははおろか、表通りすらも大手を振って歩くことは出来ない。そんなことをすれば、たちどころに衛兵たちに捕捉されるだろう。夜が明けるまでの時間を貧民すらも寄り付かない旧市街の片隅で過ごし、日の出と共に最低限の保存食を買ってこの街を発つ。それが、今の段階で考えられる最善の選択だった。

 

 クアルスでの生活が終わりを告げる。旧市街にも残った潮のかおりが、この街での最後の夜の思い出になるのだ。春が明けたばかりでまだまだ肌寒い空気の下で、ナインと寄り添って夜空を見上げる。明るい月だ。これだけ大きな月明りの下では、廃墟の中でこそこそと隠れていなければ巡回しているかもしれない衛兵につかまってしまうかもしれない。

 

「ツカサにとっては、私はほとんど他人なんだよね。でも、こうして手を握ってくれた」

 

 触れ合っている彼女の肩から感じる体温のおかげで、この寒い夜の中でも辛うじて身を震わせなくともすんでいた。ナインに言われるまで、その手を握り締めたままだったということを失念していた。それほどまでに、ジャンヌさんから逃げて廃墟の一画へ身を隠すまでの間、衛兵に見つかるのではないかとずっと気が立ったままであったのだ。

 

 離そうとした手を、ナインはもう片方の手で小さく押さえつけた。わざわざ振りほどくことも無く、彼女の独白に耳を傾け続ける。

 

「檻の中から抜け出してから、ずっとあなたを探していた。警邏の人間たちに連れていかれる間際で目にいれたツカサの姿だけが希望だったから」

 

 やはりあの時ナインは僕を見ていたのか。始祖族には立ち向かえないという現実を呑み込み、彼女のことは忘れようとしていたあの時の僕の姿を。

 

「街中で目にしたあなたの姿を見て、居てもたってもいられなかった。でも警邏の目につく中で姿は晒せない。だからあなたの荷物をとって、それで……ごめんなさい」

 

 結果として僕がいったんは諦めた荷物を追ってフィンが路地裏に向けて走り出し、あの場に居合わせたアリアスによって殺されてしまった。だが、彼の死についてはナインに全ての責があるとは言えない。あくまで彼女の狙いは僕と再び人目のないところで再会をするという一点だけで、そこにアリアスという異物が紛れ込んだせいでこうなってしまった。

 

「……それを責める気は無いよ。たらればの話さ。そもそも僕がフィンを迎えに行こうと言い出さなければ、少なくともあの場で彼が殺されることは無かった」

 

 過ぎたことはどうしようもない、それよりもこれからどうするかだと続けようとして自嘲した。僕は自分の過去を知るために彼女の手を取った。過ぎたことであるその過去を探し求める人間が、これからの未来の話をしようなんて矛盾もいいところだ。

 

 彼女のせいで今現在この立場にいるだなんて思ってはいけない。矛盾を孕んだこの意志も、取りこぼしてしまったフィンの命も、全ては自分の決断によるものだ。ナインの存在はきっかけに過ぎず、元々自分の中にあった日常への違和感が形となって表れた結果がこれだ。一度決めた行動は、責任を持って最後までやり通す。僕は姿形も知らない自分の過去に決着を付けなければならない。自分の中で過去を知るということは、権利ではなくてもはや義務に近いものなのだろう。 

 

「君は、僕の過去をどれほど知っているんだ?」

「……今のあなたよりも、ずっとずっと知っているよ。でも――」

「ああ、分かってる。これは自分で探さなければ意味は無い。でも僕の人生などたったの十数年の話だ。どこか探せば、いつかは見つかるはずさ」

 

 陰りが見えた彼女の言葉に被せるように、そう言い放つ。それはナインへのフォローというよりも、むしろこれからあてもない旅に出ようとする自分に言い聞かせるようなものだ。いつかは答えが見つかると、最初くらいはそんな楽観的な意識を持っていなければ、いつかは頓挫してしまう気がしたのだ。

 

「それに最初に向かう場所は、もう決まっている……いや、それしか選択肢が無いってところだけどね」

 

 クアルスから別の街に移るというのが目下一番の目的になる。しかし現状手元にある金銭を全て路銀に回したところで、そんな遠方にまでは到底行けやしない。国中の情報が集まる王都サンクト・ストリツなど高望みも良いところだ。路銀があまりかからず、そして移動手段に徒歩を用いても十分に行ける圏内にある街。それは一か所しか存在しない。

 

「城塞都市ヴァローナ。山間の盆地に築き上げられた、アストランテ王国北部の中核都市だよ」

 

 まずはヴァローナへと向かい、そこから自由に動けるだけの資金を得ることが目下最大の目的となる。

 

 まだこっちが人となりも知らないというのに、いつの間にかナインは左肩に頭を乗せて目を閉じていた。僅かに聞こえる息の音を耳に入れながら、月明りに照らされる外の光景を見つめる。もう訪れるかも分からないこの街を、せめて目に焼き付けていこう。これまで何度も歩んできた、古びた廃墟の群れから僅かに見えるクアルスの街並みが、とても今はまぶしく感じた。




港町クアルス

アストランテ王国の北東部に存在する、貿易港と漁港の双方で有名な街。
隣国から離れた立地であり、加えて始祖族の安定した統治や健全な衛兵の運用のため、全体的に治安は良い。
街の中心部から少し外れると旧市街が並んでおり、複雑に入り組んだ深層部には全くと言ってもいいほど人けが無い。
クアルスに限った話ではないが、岸を離れすぎて外海に出ると、海神の怒りを買い沈没すると言い伝えられている。


始祖族

この世界には、一般的な人間族の他に、始祖族という種が存在する。
彼らは自身の魂を顕現させた"霊剣"と言われる特殊兵器を各人が保有し、その上炎を巻き起こすなど強力な能力を持つ。
どちらか一つとっても人間族にとっては脅威であり、彼らをアストランテにおいて支配階級たらしめる要素である。
しかし霊剣が魂の具現化である以上、何らかの要因でその霊剣が破壊されれば彼らの命も崩壊してしまう。

とりあえず始まりの街を出たということで一話目は終了です。次からは山間の要塞都市の話になります。
ここまでお目通しありがとうございます。感想等頂ければ幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話「要衝の城塞都市ヴァローナ 黒紅色の戦姫」
10. 城塞に囲まれた街


 城塞都市ヴァローナへと続く、両脇を幾重にも連なる山脈によって固められた街道は、行商や旅の人間が多数行きかうために王国北部において活発な要所である。

 

 山脈は未だ雪が被っているにも関わらず鬱蒼と木々が生い茂る深い森に覆われているために、とてもではないが人が通れるような場所ではない。そして街道の脇には馬の休息には不可欠である河が流れている。必然的に人々は移動に街道を選択し、幾つかの宿場町が終着点であるヴァローナに続くまでに点在をしているほどだ。

 

 彼方に既にヴァローナの城壁が僅かに見えるほどの地点に、数台の頑丈な造りの馬車が並んで目的地に向けて旅路を進んでいた。稀に行きかう商人のそれと比べて、大きさはともかく頑丈さでは明らかに勝る。その先頭をいく馬車の窓辺で、退屈そうな表情を浮かべた一人の若い見た目の女が深いため息を吐いた。

 

「……ようやく近付いてきたか。ボクを閉じ込める次の檻が」

 

 赤みがかった黒の長髪を指で弄り、目的地に聳える大きな砦を見て彼女は顔を顰める。街道を移動するために要する時間は非常に長い。中継地点である港町クアルスから数えても、馬車という手段を用いたにも関わらずこれで九日目の旅路。ようやくその長い移動が終結するというのに、彼女の様子は喜ぶどころかまるで真逆であった。

 

「カタリナ様、ヴァローナに入りましたらくれぐれも――」

「わかってるよ。あの血気盛んな城塞でそんなこと、少なくとも公の場じゃ口に出すつもりは無い」

 

 たしなめようとした初老の男の言葉を遮り、彼女――カタリナは窓辺から視線を外した。乱雑に掻いた赤黒い髪の毛の間から先端の尖った耳が現れ、それを特に見せつけるわけでもなくカタリナは正面に座る男に目をやる。

 

 豪華さよりも実直さを重視した馬車の内装は、長旅に備えた娯楽用の調度品は皆無に等しい。布を被せているためただの木の台よりも辛うじて座り心地の良い椅子に座る両者の恰好から見ても、彼らが金持ちの道楽としてヴァローナに赴いているわけでないのは明らかだ。男の方は頑丈そうな鎧を身に纏い、カタリナもいくらかは軽装とはいえども男と同様にいつ戦闘になっても困らないような装備姿だ。

 

「クーベルト卿、君もわざわざここまでボクを見張りに来なくても良かったんだよ。どこかに雲隠れしようなんて思っていないし、仮にボクがそんな気を起こしたところで人間族の君はどうせ止められない」

「……私は王家に仕える騎士です。たとえ殿下が不要だと仰っても、私は己の使命を全うします」

 

 まるで始祖族みたいに融通が利かないな、とカタリナは小声でつぶやいた。彼の回答が面白くなかったのか、彼女は視線を外して横目で外の景色を流し見る。馬車の窓から差し込む日の光は橙色を帯びていて、じきに夜の闇がやってくる。彼女の頭の中に、とっととヴァローナの領主の元に行った後はすぐに休もうという決意が沸き起こった。

 

 彼女のスケジュールは、少なくともヴァローナに到着してからすぐの間はかなり詰まっていた。領主や商工会との顔合わせに、正規軍を前にした挨拶、そして市民たちを前にした演説まがいの自己紹介。その後に控えているのはまるで老人の隠居生活と大差のないものであるにも関わらず、最初だけはまるで様相の異なる忙しさ。

 

「それに道中のクアルスでも聞いたことですが、ややきな臭い雰囲気を感じます。くれぐれも油断をなさらないことです。恐らく――」

「――フラントニアか。これからその帝国との緩衝地帯でもある城塞都市に行くのだから、まったく笑えないよ」

 

 道中で立ち寄った港町のクアルスにおいて、彼女もそのような話を聞かされた。曰く、街に紛れ込んだ殺し屋によって始祖族の将官を含む衛兵や市民数名が殺害されるという事件が起きたらしい。しかも結果として犯人は見つかっておらず、もっとも有力な容疑者として挙げられた人間は既に街のどこにも見当たらないという。それは彼女たちが王都からの連絡船で港についた僅かに数日前の出来事であり、しかも発端として貨物船一隻が沈められたなど、一歩間違えれば彼女たちも巻き込まれていたような案件だ。

 

 

 各地で国外の工作員が引き起こしたと思われる事件は最近になっていくらか散見されているが、クアルスで起きたものほどの規模のものは初めてとなる。それら全てを背後で操っているかもしれないと、あくまで噂話の中で語られているのが、王国と隣接する巨大国家であるフラントニア帝国だった。これから彼女たちが向かおうとしている城塞都市ヴァローナは、古くは帝国との緩衝地帯として運用されてきた。

 

 城塞都市ヴァローナは、伊達や酔狂で街全体を城塞で取り囲んだわけではない。山脈の間に作られた自然の街道を南北で寸断して北部からの侵攻を防ぐ重要な立地でもある。男の言うような話が仮に本当だとしたら、間違いなくヴァローナはこれから二国間同士の矢面に立たされることになる。その面倒事に飛び込むことになることを想像したカタリナは、いら立ちを隠そうともせずに舌打ちを鳴らした。

 

「……まぁ表向きは、ボクの身はヴァローナの特務将官になるんだ。もしかしたらそういうきな臭さも加味しての厄介払いだったのかもしれない。特段兵も与えられないだろうが、その方が身軽でいいさ。荒事になったら望み通りにひと暴れしてやるよ」

 

 彼女がようやくその端正な顔に笑みを浮かべた。微笑みや慈悲とは程遠い、目の前に敵が居たら喉元にかみつかんばかりの獰猛な笑みだ。

 

 王都から最も離れた北辺の地へ飛ばされたという事実も、その実彼女に対してそこまで大きな意味は持たない。街の治安を維持しなければならないというのは確かに面倒事だが、それに付随する嵐のような戦いがある可能性を予期すれば、彼女の心の靄は自然と晴れていく。カタリナ・フォン・アストランテとは、そういう性質の存在だった。

 

 そんな嵐の中心になりかねない人物を乗せたまま、馬車の群れは順調にヴァローナの正門へ向けてその旅程を進めていた。

 

 

* * *

 

 

「それでは依頼内容を確認致します。港町クアルス行きの交易、護衛の傭兵五名――」

 

 クライアントの行商人から言い渡された依頼の内容を読み上げる。ごわごわとした紙に記したその文面に当然間違いは無かったようで、目の前に立つ依頼人は満足げに頷いた。内容の詳細、人数、報酬金に依頼の時期。全ての項目の確認を終えたところで、ようやく受領印を押した。

 

「よろしく頼むよ。今の時期はクアルスで良い魚がたくさん上がるんだ。これを逃がす手は無いさ。それに明日は休みだろうから、何とかして今日中に依頼しときたいからね」

 

 流石に内陸のこの街では加工のされていない魚を口にすることはあり得ない。しかし干物などの乾物はそれなりに取引がされている。あの港で水揚げされた魚の多くは、外部への交易のためにそのような加工が施される。僕自身、単純に保存して食べるためにそのようなものを作ったこともあったっけか。

 

「……特にサーディンが良いですよ。今がたぶん旬です。それと小さい魚の干物は腹が閉じているものがおすすめです。水揚げされて間もない時期に加工された証拠ですから」

「ほう、こんな山間の街の若者なのに詳しいね。ぜひとも参考にさせて貰おう」

 

 行商人のその言葉に、曖昧に笑いながら会釈を返した。これもすべては、実際に魚の漁や加工で生計を立てていた人たちの知識を分けてもらった故のものだ。フィンやアンナさん、そういった漁師の人たちの助けによって、クアルスの海辺に打ち上げられていた僕はここまで生きながらえている。そしてもう、僕はその街に足を踏み入れることも無いだろう。

 

 手を振りながら商工会の受付所を出ていく彼を見送りながら、今しがた完成した依頼書をボードに張り付けた。この手の依頼は、その多くが腕っぷしに自信のあるフリーの傭兵稼業に向けたものだ。他にはどのような依頼があるのかを知ろうと商工会のボードを流し見ると、同じような護衛の依頼の他に、オオカミたちの討伐依頼やヴァローナの警邏隊の募集なんてものもある。

 

 特に後者の募集人員は他の依頼とは比較にならないほど多く、そして依頼主もただの個人ではなくヴァローナの領主直々のサインが入れてあるという特別仕様。報酬金についてはそこまで多くは無いものの、雇用の期間が長く安定した収入が売りの依頼というものなのだろう。他とは一線を画するこれは、一体どのようなものなのか――

 

「傭兵団の整備ね。この街じゃ毎年春から秋にかけて、正規軍の他に傭兵団の増強もするのよ。一応は砦も兼ねているのだから、備えあれば患いなし!!」

 

 その依頼文書に目をやっていた背後から、重く低い声がそう話した。慌てて振り返ると、そこには大柄な色黒の男性が僕と同じくボードを眺めていた。

 

「すっ、すいません!! すぐに仕事へ戻ります!!」

「良いのよツカサちゃん。もう日も暮れたのだから、依頼人もさっきの彼で打ち止めよ。まあせっかくそこにいるんだから、こいつらに誤記が無いかどうか確認して頂戴」

 

 渋い声色で女性のような口調で話すこの男の人が、ヴァローナに流れ着いた僕の今の雇用主だ。彼の言うとおりにボードに張り付けてある依頼の告知書に目を通し、そのすべてに明らかな誤字が無いことを確認した僕は、再び元の窓口へと急いだ。受付業務がおしまいならば、次は帳簿の確認だ。決して少なくない金額が動くこの窓口では、小さな記入の漏れも許されない。

 

 

 商工会受付の中でも、特に依頼の斡旋を行う窓口の対応が、この僕の新しい仕事だ。普段は主に対応の補佐を行い、そして今みたいに時折単独で手続きの業務を行うこともある。

 

 ヴァローナに着いてから僅かに10日しか経過していないが、こうして低い賃金ながら安定した収入が得られる立場にいるのは、クアルスにいた頃から武器にしていた識字能力のおかげだ。読み書きが行える人間が少ないと言うのはやはり追い風であり、特に書き言葉でしか使わない難解な文字列も難なく書けるというのは大きかったようだ。

 

 街に到着したその日の内に、この窓口で頭を下げに下げまくったおかげで受付を取り仕切るマネージャーである彼の目に留まることができた。ちょうど最近に一人居なくなった受付対応の枠に収まり、僕ともう一人ぶんの生活費を賄うことはなんとかできている。ならばもう一人はというと……

 

「ツカサちゃん、今日は閉めるからもうあがって良いわよ。妹ちゃんも一緒に行きなさいな」

 

 彼の言葉にわかりましたと答えたのは僕だけではなかった。長めのスカートにシャツを組み合わせた落ち着いた服装の少女が、書類の束を片手に小さく頷く。淡い桃色の髪の毛をひと房に括り上げ、この受付所の雑用を一挙に引き受けていたナインは、これまで浮かべていた無表情をようやく崩して僕に笑顔を向けてきた。

 

 

 彼女の存在は僕の妹ということにしている。たった一人の家族も働かせてくれと彼に頼み込み、結果ナインは僕と同じくこの商工組合の受付所で勤めている。僕たちが二人とも荒くれ事とは無縁そうで、この街にたどり着いたその時にはそこまで身だしなみが汚い見た目でなかったことが幸いした。

 

 元々ナインが仕事の時に僕と離れることに難色を示した上に、僕自身もまたナインをつけ狙う人間が現れた時に最低限すぐに対処できるように目の届くところにいたいという思惑もあった。彼女は、現状において自分の過去を探すための唯一の手がかりだ。そう簡単に失うわけにはいかない。

 

「これが二人の今日のお給金。また明日もよろしくね」

「……本当、僕たちを雇って頂いてありがとうございます。お先に失礼します!!」

 

 日々の終わりで日当を渡される瞬間は、いつも彼に頭が上がらない。あくまで見習いの身だから金額自体はそれほど多くは無い。それでも安定した給金があるかないかでは大きな違いがあるし、半年程度この生活を続けることが出来ればまた都市を跨いで移動をするだけの蓄えは出来るだろう。何度も彼に頭を下げながら、海辺よりも冷たい空気に満ちた受付所の外へと足を進めた。

 

 

 

 城塞都市ヴァローナでの生活はまだまだ始まったばかり。現状におけるこの街の第一印象は、クアルスよりかはやや荒っぽいというものである。国の要所を守護する城塞都市という性質上、平和な港町と比べて傭兵の数は間違いなく多く、そして働かせてもらっている場所でもその面々と顔を合わせることが多々ある。だからどうしてもヴァローナのイメージは傭兵の多い街となるのだ。

 

 ただ生活していくには必須となる地理的な話になるとまだまださっぱりだ。街のどこに何があるのかなんてほとんど頭の中には入ってはいないし、ここに来てからたったの十日しか経っていないのだから街の雰囲気を掴むのもまだ手探りといったところだ。

 

 しかし街の名物については流石に到着したその日の内に目にしている。ヴァローナの中央部を南北に縦断する大通りと、その北端に聳えるこの地域の防衛の要である砦。あれが領主の館を兼ねた、城塞都市ヴァローナの中枢である。多量の兵士たちや傭兵が北に向けて睨みを利かせているそうだ。

 

「ええと……イモの薄焼きを二枚下さい」

 

 その大通りの一画にある屋台街に並んで夕食を買うことが、これからのこの街における日常になりそうだ。山間の街であるという立地上、どうしたって港町のクアルスと比べれば食べ物の物価は上昇するし、そもそも味のレベルは大きく落ちる。特段美味しいわけでもないイモの薄焼きと野菜のスープを毎日食べていくのだと思うと、やはり憂鬱な気分になる。

 

「はいお待ち。兄ちゃん、最近よくウチに来るがこの街に来てまだ日は浅いんだろう?」

「そうですね……まだ十日といったところです」

 

 客足がいったん途切れたためか、屋台の店主が話しかけてきた。連日夕飯はここでお世話になっていたから、向こうも僕の顔を覚えていてくれたのだろう。鮮やかな手つきで次に焼くための生地を捏ねながら、彼は人の良い笑顔を向けてきた。

 

「……見た感じじゃ傭兵稼業じゃ無さそうだな。それに最近じゃ北部訛りの連中が良く来るが、お前さんは南部の喋り方だな。お客さんは南方からの旅の途中かい?」

「まあ、そんなところです。こっちで得た仕事の方が明日お休みなので、ようやく街を見て回れそうです」

 

 彼にはそう言ったものの、ヴァローナに関しては街のことをよく勉強する前にはあまり出歩かないでおこうと考えている。何せ傭兵が多く、クアルスよりもずっと血気盛んな気風の場所だ。同じ感覚で路地裏に迷い込めば、まあただじゃすまないだろう。まずはこの街の空気を読んでから、自分の過去に関して何か見つかるものは無いのかをゆっくりと探していければ良い。

 

「そりゃ丁度いい。明日は戦姫様の演説だ。噂話の中でしか聞いたことことのないようなモンを生で見られるんだから、お客さんもいい時に来たよ」

「……センキ、さま?」

 

 はて、なんのこったと思わずひょうきんな顔を浮かべてしまったのだろう。彼は僕の内心に納得したように頷き、苦笑いを浮かべていた。

 

「すまんな、傭兵連中ばかり相手にしてるとそっちに常識が染まっちまう。戦姫様っていうのは、アストランテ王家の第三王女カタリナ様のことさ。数年前の南部戦乱で鬼神の如き戦果を上げた、まさに戦う姫様だ。傭兵や正規軍の中にも未だに英雄視してる連中は結構いる、そうとうな偉人だよ」

 

 それを聞いて、またもや曖昧に頷いた。生憎ながら僕の記憶は半年分しか存在しない。ただでさえ傭兵の絶対数が少ないクアルスに住んでいた上に、そもそもの切っ掛けが数年前の紛争ならば、この僕が知るわけもなかった。姫で王族というのだから恐らくは始祖族の女性なのだろう。僕に推測できるのは、精々そんなところまででしかない。

 

 そんな有名な人だが、彼の話をまとめると昨日に王都サンクト・ストルツからわざわざ王国の北辺までやって来たのだとか。城塞都市の守りをいっそう固めるために違いないと店主は力説していたが、結局のところ確固たる理由は分からないということらしい。

 

 

「ツカサ、野菜のスープ、買ってきたよ」

 

 背後から聞こえてきたその声を区切りに、店主との雑談は切り上げた。両手にスープの入った木のお椀を持ったナインの姿を眼にした店主が冷やかすような視線を向けてくるが、特に何かを返すこともせずに会釈をして離れた。彼女は僕の協力者だからそれはある意味で特別な絆ではあるが、だからと言って恐らく彼が内心で揶揄するような質のものではない。

 

「こっちも買ったよ。じゃあ、早めに帰ろうか」

「……うんっ」

 

 一瞬の間をおいて、ナインが駆け足で僕のすぐ横にぴったりとついた。器用なことに一滴もスープを溢すこともなくどことなく楽しげに笑うナインに小恥ずかしさを感じ、思わず頬を掻く。この少女は、僕を前にすると笑顔の割合が多くなる。彼女が商工会受付で雑用係として働きはじめてからそれは顕著となった。

 

 果たしてそれは僕に向けてなのか、それとも記憶から失せた何時かの自分に向けてなのか、その謎はいつか明らかになるだろうと思って心の中にしまう。つまらない物事を忘れるために、一応は休みである明日の予定について話そうと口を開き――それを遮るようにして僕たちの前から大きな声が聞こえてきた

 

「おい、テメェ!! 今なんつった!?」

 

 決して顔そのものは向けず、視線だけでその声の聞こえた方を向いてみると、大柄な男たち数人に詰め寄られている一人の小柄な人影が目に入った。恐らくは酔っ払った傭兵稼業のグループが、不幸な通行人に理不尽な言いがかりをつけて絡んでいるのだろう。

 

 ナイン共々、特に何かをするわけでもなくその一団を無視して家路を急ぐ。誰かが絡まれていたとしても助けに入って火の粉を被るのは避けて、仮に自分たちが巻き込まれたらひたすらに平身低頭を保ち嵐が過ぎ去るのを待つ。それに今の時間帯よりも遅くには、決して出歩かないようにすればリスクは減らせる。荒くれものが多いと聞いていたために、ヴァローナに入る前からこの手のいざこざには極力関与をしないように心掛けようと決めていた。

 

 触らぬ神に祟りなし。絡まれている人には悪いが、その人も馬鹿じゃないならば穏便に事をすませて何とか事なきを得るだろう。そう心の片隅で考えながら通り過ぎようとして――

 

「何度でも言ってやるさ。君たちのような練度の低い傭兵じゃあ、警邏団もただの有象無象の集まりだ」

 

 はっきりとした声量で聞こえてきた穏便とは程遠いと言わざるを得ないその一言は、思わず僕を振り返させるには十分すぎる代物であった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11. 血気盛んにして

「なんだよ、その重心のぶれた歩き方は。例え酒を飲み意識が朦朧としようが、十分な訓練を受けた真っ当な兵ならばそんなだらしのない様相は晒さない」

 

 開いた口が塞がらないとは、まさにことことを言うのだろう。僕を含めて遠巻きに眺めながらもかかわらないようにしていた人たちが、皆揃って怪訝そうな表情を浮かべていた。そりゃあそうだ、普通に考えたらあの場面じゃ食って掛かるなんて選択肢にも上がらない。あんな屈強な男たちを前にしたら、穏便に済ませるのが当然だ。

 

 声の感じから言って、男たちに詰め寄られて怯むどころかむしろ突っかかっているフード姿の人は、恐らくは若い女の人か。勇ましいというか、愚かしいというか、ともかく自分ならば決してとらないような行動であることに間違いはない。

 

「女ァ!! こっちが黙っていれば言いたい放題――」

「残念にも砦の傭兵団になってしまった君たちを食わせているのは、この街の住人だ。せっかくだから彼らにも意見を聞いてみたいところだけど……」

 

 前言撤回。あれはただの馬鹿で世間知らずだろう。酔っ払った傭兵たちという刺激をしない方がいい人種に対して、一度だけならばまだしも二回も喧嘩を売るような発言を浴びせるだなんて、どう考えたって普通じゃない。

 

 傭兵たちの様子はといえば、大通りの最中という人目につきやすい場所でありながらも、その女性の胸ぐらを掴みかからん勢いで憤っている。だというのに、その怒りを真っ正面から受けている彼女は同調してくれる人を探しているのか悠長に周囲を見回すばかり。

 

 どう考えたって、何かの切っ掛けがあれば爆発しかねないような危険地帯。一度は立ち止まってしまったけれども、こんなところさっさと去った方がいい。

 

「ツカサ、行こう?」

「……そうだね。ああいう手前にはわざわざ近付かない方がいいさ」

 

 あくまで僕にしか届かないような小声で話すナインに同調した。放っておけば私刑もどきの喧嘩が始まりかねない現場に、長居する理由など全くない。足取り早くその場を離れようとした瞬間――まるで品定めをしているつもりのようなその彼女が視線をこちらに向けていることに気が付いてしまった。流し見た瞬間に合う目と目。その直後に、彼女の顔が笑顔へと変わった。

 

「ちょうど良い。そこの君、彼らのような低練度の連中が、この街を護る状況についてどう思う?」

 

 思わず舌打ちを鳴らす。僕は彼らとそんなに近い場所は歩いていないというのに、何故こうして都合悪く巻き込まれるんだ。いや、もしかしたら僕たちの周囲にいる別の誰かに呼びかけているのかもしれない。それにたとえ彼女の対象が僕たちであるとして、決して顔を動かさず、淡々と歩き続けて無視すれば火の粉を被ることも無い。

 

「おいおい、無視をするなよ。実質で言えば君らこそが彼らの雇い主であるといって過言じゃないのだから、意見は言った方が良いし、それに――」

 

 明らかに無視をしている感を出しているのだというのに、あの人はしつこく食い下がってくる。それもご立腹状態の傭兵を引き連れたまま、こちらに少しばかり歩み寄ろうとしている始末だ。もしかして、こいつらは実はグルで、適当に街を歩いている人間に対して言いがかりをつけるがためにこんな茶番をしているのではなかろうか。その可能性を思えば、決して顔には出さないにせよ憤りの感情が沸き起こる。

 

「――ボクが領主ならば、彼らじゃなくて君を雇うさ。どう考えても、君の歩き方の方がぶれていないし、その上隙も無い。明後日の場所から奇襲をされても連中よりはまともに対応できるだろう」

 

 馬鹿を通り越して、この人は思考がなにか致命的におかしいに違いない。歩いている姿を見ただけでそんなことが分かるなんて、それこそ歴戦の武人でもない限り不可能だ。そもそもその対象がこの自分だなんて妄言も甚だしい。

 

「この坊主が俺らよりも兵として優れているだと? この見るからに貧弱で、戦なんぞ経験したこともないような餓鬼がか!?」

 

 そして面倒なことに、彼女にあてられた傭兵たちまでもが僕を認識してしまった。遠慮など欠片も感じられない強さで肩を捕まれて、無理矢理に彼らの方へと向かされる。

 

 見るからに憤怒にそまった粗暴そうな男の顔から漂う、すえた酒のにおい。こりゃあ、そうとうな面倒ごとに巻き込まれたと腹をくくる。浮かんでくる冷や汗に唾がかかる勢いで捲し立てるその男から視線を外し、後ろに控えたままのナインに小声で話しかける。

 

「先にここから逃げて。後から絶対に追い付くから」

「……ツカサ、私がどうにか――」

 

 己の腰元に目を這わせたナインを、強い視線で押し止める。あれは、護身用として忍ばせている短剣でどうにかしようとしている口だ。あのアリアスに対して青銅の棒一本で奇襲をかけて成功するような彼女のことだ、そこらの街娘が威嚇がてらに小さなナイフを持つのとは根本的に訳が違う。

 

 あれを出したら、本当に収集がつかなくなる。下手すれば即日手配になるかもしれない。それよりかは、彼女をとっとと先に逃がして、適度に僕がこの連中を相手しつついなすのがよっぽど良い。手にもったままのイモ焼きを小さな鞄に放り込み、僕の肩を掴んだままの傭兵の男に目を向けた。

 

「……その人は少し変な人ですよ。どう考えたって、僕なんかよりも貴方の方が強くて勇猛です」

 

 ナインが気配もなく立ち去る中で、彼をともかく褒める言葉を投げつける。重要なのは、彼らに敵だと思われないこと。そのためにはこのフードの女の人こそがおかしいと同意をするのが一番だ。それにもし仮に彼らとフードの女性がグルであるならば、隙をついて逃げ出せばいいだけのこと。幸いこの近辺には飛んだり跳ねたりする分には十分すぎるほど煩雑に建物が立ち並んでいるし、傭兵たちが酒に酔っていることから考えてもただ単に逃げるだけならば不可能じゃない。

 

「そらみろ。この坊主自身が弁えているんだ。気狂い女、顔を明かして謝ってみたらどう――」

 

「――まったく、その返答は面白くないね。それにこの連中も煩すぎる。少しは黙れよ」

 

 背筋がゾクリとするほどに冷たい声色が、フードの奥から見える小さな口から漏れ出た。真紅にぎらつく瞳が僕の顔を捉え、そしてはっきりと聞こえるほどの舌打ち。そこに至ってようやく思い立つ。

 

 この女の人は、ただのおかしい人じゃない。ひょっとしたら五人もの屈強な傭兵の男たちに囲まれたところでむしろそれを返り討ちにしうるほどの強さをもった、その上頭の作りが常人とはかけ離れた、本当の意味で危ない人物なのではなかろうか。

 

 明らかに雰囲気の変わったその女の人の変化に未だ気が付けていないのだろうか、傭兵の男たちは僕の肩から手を離して、再度彼女に食って掛かろうとする。しかし真正面からの罵声を心底うるさそうに顔を顰めて、それどころかとうとう拳を振り上げた男たちに対しても、彼女は全く動揺するそぶりも見せない。

 

「煩いってのが――分からないかな」

 

 フードの奥の顔面に目掛けて繰り出された拳が、いつの間にか空を切る。それと共に、先陣を切って殴りかかった傭兵の男の姿が僕の視界から消え失せ――何かをなぎ倒すような凄まじい音によって思わず後ろを振り向いて絶句する。ついさっきにお世話になったイモ焼きの屋台脇に置かれた沢山の箱を、男の巨体がはっ倒していた。一瞬遅れた後に聞こえる、さっき話していた店主の罵声。そのほとんどが頭に入ってくることすらも無い。

 

 

 大の男一人をかなりの距離蹴り飛ばしたにも関わらず、顔色一つ変えずにつまらなさそうな顔を浮かべる彼女は、やはりとんでもなく危ない人物だ。いきなりの事態に僕だけじゃなくて傭兵たちも動けないままでいる。その最中、彼女の顔がふと笑顔に変わる。こんな状況で笑うだなんて、とてもじゃないが普通じゃない。そしてその顔を向けられる身としては、もはや冷や汗すらも沸いては来ない。

 

「ボク、良いことを思いついた。そぅら、ついて来いよこのウスノロども――」

 

 仲間一人が一瞬でノックアウトされて絶句する彼らを、彼女は心底馬鹿にしたような声色で煽る。まるで何をやっていいのかの判断もつかないような悪ガキのような言葉、それが途切れるよりも前に再び彼女の姿が視界から掻き消え――気が付けば勢いよく腕を引っ張られていた。

 

「ボク"たち"を捕まえてみろ。もし仮に追いつければ、君たちがギリギリまともな人員だと認めてやろう」

 

 何が起きたのか気が付くよりも早く、咄嗟に脚を動かしていた。僕の腕を掴んだまま、彼女は容赦のない速さで人の間を縫って往来を駆け抜ける。少しでも油断すれば途端に足が縺れてとてつもないけがを負うような、とてもなじゃいが人々の行く大通りでやるようじゃない走り方。

 

 人ごみの間を抜け、時に手をつなぐその下を潜り抜け、その最中で捕まれた腕を振りほどこうと抵抗をする。しかしローブのすその中から見え隠れする細い腕のどこにそんな力があるのか疑問に思うほどがっちりと掴まれて、振りほどくことはおろかその速度を緩めることすらも出来ない。そして最悪なことに、背後からは置き去りにしてきたはずの傭兵たちの罵声が聞こえてきた。

 

「ほぅら、追ってきた!!」

「追ってきたじゃないだろっ!! くそっ、離――!?」

 

 心底楽しそうに言い放つ彼女の手は全く解けず、急激に方向を変えたかと思えば小さな抜け道に向けて更に走る速度を上げた。もはやこの段階まで来たら、彼女についていくしかない。たとえ彼女の腕を振りほどいたところで、僕もあの傭兵たちに追われる身になってしまったのだから。並みいる通行人をなぎ倒しながら僕らを追うあの粗暴の塊に、ただ巻き込まれましただなんて説明が到底通るわけが無いのだ。

 

 絶対に入ることなんてしないと数分前に心の中で豪語していたはずの路地裏に、あろうことか全速力で飛び込む。それも、後方から激昂した傭兵の男たちを連れているというとんでもない状況で。

 

 恐らく貧困街の一画なのだろう、路地の両側を複雑に組み上がった建物が軒を連ね、不十分な舗装は気を付けないと足を取られて転びかねないほどの荒廃ぶり。しかし僕の手を引く彼女は全く速度を緩めやしないし、それどころか振り向いたその顔に見えた口は愉しげに歪んでいる始末。

 

「連中、まだ追ってくるんだ。案外見どころがある傭兵じゃないか。それに君も、ボクに着いてこれないと――殺されちゃうよ?」

 

 腹立たしいことに、それは全く間違ってはいないだろう。ここは人目に付くような場所じゃなく、理性が半分飛んでいる彼らに追いつかれたらそのまま殴り殺されたってなにも不思議ではない。しかし後方からついてくる彼らの叫び声を、むしろ彼女はスリルを高めるスパイス程度にしか思っちゃいないのだ。

 

 僕らの逃亡を阻害するようにして、目の前に建物が立ちふさがる。両脇に抜け道は無く、だからと言って引き返せばそのまま傭兵集団に直面する。そんな袋小路であるはずの状況でも、走る速度は全く緩むことは無い。

 

「さあ、ボクに着いてきな!!」

 

 全力で走る勢いを全く殺すことなく、行き止まりの壁に到達する間際に地面を蹴り出した彼女が空を舞う。前後後方に逃げる場所が無くならば上に逃げれば良いだなんて、普通に考えれば思いつきもしない。しかし今は、出来るかどうかじゃなくて、もはややるしかないのだ。

 

 強引な解決法をさも自然に選択した彼女に連れられて、僕も曲芸師のように壁を蹴り上げた。つかの間の浮遊感を挟み、石造りの壁にあいた僅かなくぼみを手でつかんで更に自身の体を上へと持ち上げる。そして再び伸ばした手は、とてつもない障害物に見えていたはずの建物の屋根へといとも簡単に到達した。

 

 ここにきて息切れが訪れて、到達した屋根へと腰を下ろす。そのすぐ下からは追いついた傭兵たちの大声が聞こえるが、彼らは多分ここには来れないだろう。彼らは確かに屈強だけど身軽じゃない。それに酔った状態で壁の僅かなくぼみに手をやったところで、彼ら自身の体を支えられるわけも無い。結局、思いつく限りの罵声を置き土産に、彼らの姿は再び大通りの方に向けて消えていった。

 

 

「――――っ!! 君、気に入ったよ!!」

 

 日は既に城壁の下に落ち、辺りは夜の暗さで包まれている。本来であれば暗闇に似つかわしく静かなはずの星空の下に上品さからはかけ離れた笑い声が響き渡り、相も変わらず息切れたまま腰を下ろした僕の前に細い腕が差し出された。あれだけ走ったというのにそのフードは一切捲り上がることなく、僅かに赤っぽい髪の毛が見えるだけ。しかしその奥から、真紅に染まる瞳が僕を捉えたまま離さない。

 

「ねぇ、ボクは今優秀な副官を探しているんだ。忠実なだけのつまらん奴や、あいつらみたいな愚図はいらない。君みたいに、ボクの動きに着いてこれる奴こそが相応しい!!」

 

 深呼吸を繰り返す中で、彼女の手を取ることなく自力で立ち上がった。謝罪か何かでも言い出すかと思えばフクカンの募集だなんて、やはりこの女の人は相当に戦いの能力を持ちながらも頭の中身は異常にすぎる。果たして彼女が傭兵かそれともこの街の正規兵なのかは知らないが、これ以上関わっていたらこっちの思考まで汚染されかねない。

 

「……フクカンが何なのか知りませんし、興味もありません。ここまで巻き込んできたことを咎めはしませんが、その代わりもう勘弁してください」

 

 何か変に遠回しな発言で否定をしても、この女の人はそれを曲解しかねない。ならば失礼を覚悟の上で直接もう関わるなと言った方が良いだろう。しかし彼女は僕の言葉に怒るどころか、むしろその笑みを深くした。

 

「そうだよ、その懐疑的な目。やはり人間族は遊び甲斐がある――ああ、ずっとこんなものを被っていたら失礼だよね」

 

 ふと何かを思い出したのだろうか、ずっと被ったままのフードに手をかける。今更素顔が晒されたところで、彼女の評価が何か特別に変化をするわけも無いだろう。なんとかして逃げる隙は無いだろうかと目を細めたその最中――

 

「改めまして。人間族の青年君。君の名前を教えて……いや、こう見えても勧誘中なんだからボクから名乗るのが筋か」

 

 ――猛烈な吐き気、それに鳥肌。ぞわりとした寒気が全身を走り、その上痙攣したのかと錯覚するほどに震える手足。夜空に晒された彼女の顔を見たその一瞬に、異様なほどの拒絶感が明確な形となって表層化した。

 

「ボクの名前はカタリナ・フォン・アストランテ。もしかしたら戦姫の通り名の方が有名かな。こっちは名乗ったんだ、次は君の番だよ」

 

 赤黒い長髪、その両脇から見える長くとがった耳。闇夜の中でも爛々と輝く真紅の双眼をこちらに向けて、その始祖族は艶めかしく微笑んだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12. 拒絶と逃避

「……名前だよ、な・ま・え。君たち人間族だって普通にあるだろ。別に本名を名乗りたくないなら呼び名でも良いさ。まさかそれすらもど忘れしたんじゃ――」

 

 目の前のこの人の言葉が、半分すらも理解できない。彼女の素顔を認識したその瞬間から、頭の頂上から足の爪先まで、全身が恐ろしいほどの拒絶感に支配された。焦燥してこわばる頬、握りしめた拳に浮かぶ汗、そして自然と後退る両足。

 

 快活なはずの声が虚ろに、深紅の瞳からは色が消え失せ、夜の闇になびく髪の毛が無惨に焼け焦げて、そしてその口は力なく怨嗟を告げ――五感の全てがあり得ない妄想へと塗りつぶされる。

 

 その声を聞くたびに鼓膜の奥が悲鳴をあげ、黒紅色の長髪を揺らす姿から目を離そうとしてももはや金縛りにあったかのごとく首筋のいっぺんすらも動こうとはしない。

 

「なんだよ、そんなに始祖族が怖いの? でも安心しなよ、別にとって食おうだなんてわけじゃ――」

 

 こちらに向かって一歩を踏み出した瞬間に、限界にまでに膨れ上がった拒絶が決壊した。自分自身の全身が意識の制御も聞かずに逃げ出そうと足掻き、無様に屋根の上へと転げ倒れる。

 

 逃げなくては、何処へでも可能な限り遠くへ。目を背けなければ、意識が壊れるよりも前に。拒絶をしなければ、自分を守るために。

 

 気が付けば、僕の手は空をきっていた。屋根の端をも通り越し、ついさっき駆け登った壁の一部に腰が触れる。そして訪れる浮遊感。こんな体勢で落ちたら、下手すれば大怪我を追うかもしれない。でも、これ以上あの光景を目にいれなくて良いんだったら、ここから逃げるためなのであれば――

 

「――このっ……バカがっ!!」

 

 耳をつんざく大声と共に、意味もなく空に伸ばした手が強く捕まれた。

 

 その瞬間に、全身へ帯びていた何かが霧散した。視線の先で、驚きそして憤りに染まる始祖族の女の人が声を荒らげて僕の腕を掴みあげている。数秒前に幻視した光景など微塵も感じさせず、彼女の視線が僕をいぬく。

 

「とっとと上がって!!」

 

 再び聞こえる彼女の声からはただ焦りや苛立ちしか感じられず、どこにも絶望や怨嗟の響きなんて混じっていない。まるで濁った水の中から顔を出したかのごとく、全ての五感が一新された。そして慌てて空いたもう片方の手で壁の一部を掴みあげる。

 

 ここから落ちて大怪我を負っても良いだなんて冗談じゃない。今までの生活やようやく築いた人々との繋がり全てに背中を向けて、スタートラインにたどり着いたんだ。五体満足で生き残り、自分自身を明らかにする。それが今の原動力の全てなのだから、こんなところで足を掬われている場合などではない。

 

「……申し訳ございません、いきなりのことで気が動転してたようです」

「本当さ。一体始祖族にどんな印象を抱いてるんだ。敵対もしていない人間にここまで怯えられたのは久々だよ」

 

 彼女――カタリナと名乗った女性が心外だとばかりにため息をはいた。ようやく屋根の上に登ったところで、再度彼女の姿を視界に納める。

 

 カタリナ・フォン・アストランテ。先ほど聞いたばかりの、僕のような庶民は直接会って話すことなど絶対に無いだろうと思っていた、天上の高貴なる存在。この国で過ごして未だ半年程度の僕にだってわかる、彼女の名前はアストランテ王国を統治する国王一族のものだ。支配階級である始祖族の中でも、その頂点にいる存在。それが、彼女なのだ。

 

 それにもかかわらず、ついさっき見た光景と何ら変わりもなく、彼女はこちらを怪訝そうに眺めている。赤みがかった黒い長髪を夜風に靡かせながら、暗闇のなかで存在を主張する紅い双眼がこちらを向いていた。もうその姿を上書きするような妄想は何処にも浮かぶことはなく、一瞬の最中に見えたのはただの白昼夢だったのだろうか。

 

「……殿下のお手を煩わせてしまい、本当に申し訳ございま――」

 

 クアルスにいた頃から知っている。始祖族たる彼らには敬意を示し、決して立ち向かってはならない。それも彼らの頂点に立つといっても過言ではない王族なのだから、彼女がフードを取り去る前にしていた己の言動なんて不敬も不敬。なんとか失礼を払拭しようとしたその矢先に、露骨に不満げな視線が僕を射抜いた。

 

「そういうの、嫌いなんだよね。別に公的な場でもないし、今さら取り繕うとしなくても良い。それにボクが聞きたいのは取って付けた謝罪じゃなくて、君の回答だよ」

 

 しかし幸いにも――そして不幸にも、このカタリナという人は始祖族としてみても変わり者であったようだ。頭を下げて敬意を示さなければいけないというわけではなく、そしてたとえ頭を下げてても物事が勝手に通りすぎていくわけでもない。

 

「ボクが探しているのは、すぐに頭を下げるような奴じゃない。さっきの君みたいな、明らかに只者じゃない感じを出していたボクにすらも懐疑的な意思を向けることができて、そしてボクについてこれる奴が欲しいのさ」

 

 再びカタリナさんの表情が笑顔に染まる。それも、まるで獲物を追い詰めたかのように鋭く、そして見せつけるようにして舌なめずりをするような、目の前にして逃げたしたくなるような質のもの。

 

 無意識のなかで後ずさろうとした直後に、隣接する建物の壁に背中があたる。彼女の口角は、はっきりとつり上がっていた。

 

「副官っていうのはね、いわばボクの直属の部下さ。誰もが尻込みする火の出るような争いに、将官のボクと一緒に先陣を切る――ああ、本当に楽しみじゃないか」

 

 深紅の目はまるで楽しい夢を語るかのように輝き、しかしその内容は僕にとってみれば楽しいどころか忌避感しか浮かぶことはない。霊剣という分かりやすい力だけではなく寿命すらも違うから、僕ら人間族と彼ら始祖族の価値観は大きく異なる。それは、始祖族の中では変わり者かもしれないカタリナさんであっても同じなのだろう。

 

 いくら戦場に飛び出す自分を想像しても、そこに楽しさなんて感情が湧くはずもない。目の前に立つ彼女との間に横たわる隔絶した価値観の違いは、そう簡単には乗り越えられるものじゃない。しかしカタリナさんは、壁に背中をつけた僕にその笑みを深くして、僕らの間に隔たる見えない価値観の壁など存在しないかのように腕を伸ばす。

 

「なぁに、悪いようにはしない。戦乱なんていつ起きるかも知らないけど、それが起きた暁にはつまらない傭兵よりもよほど面白いものを見せてやるよ。だからボクと――」

 

 その手が僕へと届けば、絶対に逃げられない。彼女のなかには、もはや僕が否定をする可能性など存在しないのだろう。頭の中に浮かんでは適さないと消えていく否定の言葉が流れていき、まるで蜘蛛の巣に絡め捕られた羽虫の如く碌に身動きも取れない。

 

 細く、そして白いカタリナさんの指先が顎先をとらえようとし――触れる寸前に、彼女の手に何かが打ち付けられた。

 

「いっ――!?」

 

 直後に足元へこつりと小さなものがぶつかった。指の長さよりも小さな大きさの小石。音もなく投擲されたそれによって、カタリナさんの意識は反れている。こんなものをわざわざ彼女の手に狙って投げつけるなんて――一人だけ心当たりがあった。

 

 再びカタリナさんが顔をあげるよりも早く、石が飛んできた方へと駆け出した。表通りへと続く細道の中に、僅かにその人物の姿が見え隠れしている。

 

「待てよ、話は終わっちゃいない!! いいから名前を――チッ!!」

 

 走り出した頬の脇を、再び投擲された小石が通りすぎる。これだけお膳立てされれば、少なくともこの場所から逃げるだけならば造作はない。まるで歪な階段のように連なる半壊した塀を足場にし、その都度に蹴り出したところが音をたてて崩れていく。

 

 そしてようやく地面に両足が到達した瞬間、息をつく暇もなく片手が引かれた。目の前に映りこんだのは、夜のなかでもよく目立つ淡い桃色の髪の毛。やっぱり、僕の手を引いて連れ出してくれた人物は想像をした通りだ。

 

「……助かったよ、ありがとう」

「私は何があってもツカサを助けるよ。それに……」

 

 表通りへと向けて走る最中、助けに来てくれたナインが後ろを振り返りながら口をつぐみ、その表情を強張らせる。無理もない、つい先日にカタリナさんと同じ始祖族の男に殺されかけ、そして結局僕が殺したのだ。どうしたって始祖族の人に対して色眼鏡をつけてしまうし、ナインにしてみればカタリナさんだってアリアスのように理不尽な暴威の塊に見えても仕方が無いだろう。

 

『明日の昼、中央広場に来なよ。ボクの所信表明で、君の価値観にヒビを入れてやるさ』

 

 石を投げてナインが注意を反らせてくれたおかげで、恐らくカタリナさんは追ってきてはいない。その証拠に、後ろに残してきた建物の奥から、かすかに彼女の最後の言葉が聞こえてきた。

 

 彼女が来いと言っているのは、イモ焼き屋台の店主が話していた戦姫の演説とやらのことだろう。週末に合わせて行われる、辺境に訪れた王族の挨拶。多分彼女を崇拝する傭兵や正規兵たちだけじゃなくて、数多くの市民もそれに赴くことだろう。そんな集いの中心たるカタリナさんから直々に来いと言われるだなんて、ずいぶんと光栄な話だけど……

 

「明日の予定、少なくとも一個だけは決まったよ。何があっても、中央広場にだけは行かない」

「……それがいいと思う。この街であなたの痕跡を探すのは、また今度でも出来るもの」

 

 僕の目標は成り上がることではなく、自分を探すということだ。そしてその目的は未だに入口にようやく立ったばかりで、まずは地に足をつけて行動しなければならない。

 

 少なくとも今の段階では、カタリナさんのような劇物は必要などではない。むしろ彼女のように人の価値観を上書きしうるような豪傑さは、戦いに身を置く傭兵たちにとっては良い薬であっても僕にとってはただの毒になる。王族である彼女の誘いに乗らずきっぱりと断るには、十分すぎる理由なのだ。

 

 

*  *  *

 

 

「……信じられないわねぇ、ツカサちゃんが戦姫様にーなんて。それにたとえ真実だとして、本当に演説行かないだなんて……あなたかなりの変わり者よ」

 

 翌日、結局どこに行くでもなくいつも通りに商工会の受付所に訪れた僕を待っていたのは、雇い主の呆れと困惑をまぜこぜにした表情と言葉だった。

 

 

 今日は暦の上で立派な休日であり、この受付所においても通常業務の多くが休止状態になっている。新規の仕事斡旋は受け付けておらず、精々が依頼書を見た傭兵やら便利屋たちが請け負いの手続きを行うだけ。そのため仕事の規模は明らかに小さく、新入りの僕やナインが休んでいいと言われたほどだ。

 

 しかし実際には僕たちはそろってこの場に来ている。受付の業務を補佐し、時に自身も手続きの対応を行い、結局いつも通りの仕事に従事していた。元々受付窓口に用が人も少ないということもあり、合間合間での雑談は普段よりもずっと多い。ここを取り仕切る雇い主の彼とは、いつもより自然と話す時間も多くなるのだ。

 

 昨日の夜にカタリナ様を中心に引き起こされた、まるで嵐のようなごたごた。その経緯と顛末を彼に話してみた結果が、先ほどの返答である。後になって冷静に考えてみると、第三王女という高貴な方のお誘いを無下に断った挙句、石を投げつけてその隙に逃げ出すだなんて失礼にもほどがある話だ。雇い主の顔色が若干青くなったことを顧みるに、かなりの危ない橋を渡ってしまったのだろう。せめて名前を教えることなく逃げおおせて、本当に良かった。

 

「ヴァローナのあなたくらいの男の子なんて、きっとみんな戦姫様の演説を楽しみにしているわよ。なんたって街の外からの客だって多く訪れるほどなんだもの」

 

 彼が話す通り、実際ここ最近で見てもヴァローナに訪れる人の数は明らかに増加をしている。僕たちがここにたどり着いたころから前後して、その手の人足の変化が見られていたそうな。どこから漏れたのかも分からないカタリナ様がヴァローナの特務将官として赴任するという噂話が、その一因に違いないというのが目下の推測だ。

 

「周辺から人が集まってきてんのよ。国の中央部からだけじゃなくて、北部人もたくさん。こんなの、あまりある光景じゃないわ」

「……昨日屋台の店主にも言われたんですが、北部の人ってそうすぐ分かるものなんですか?」

 

 この半年の間で、どうにも感覚としてつかめなかったのがそういう人種の話だ。さすがに分かりやすい見た目の違いがある人間族と始祖族の見分けは簡単につくが、人間族の中でも住んでいる場所によって見た目や訛りに違いがあるらしい。

 

 そもそもクアルスに住んでいた頃から、周囲の人と自分とで顔の雰囲気が異なるなということは実感としてわかっていた。しかし自分以外の見分けとなると、その辺の境目が途端に曖昧になる。

 

「そうねぇ……アタシは顔のつくり、そして訛りで見分けてるけど、感覚的なものよ。それにアタシ自身、北部の出だから同郷の人間はなんとなくわかるの。まぁ、あなたもそのうち見分けられるようになるわ」

 

 歴史的な話にまで遡れば、そもそもヴァローナの砦は隣接する巨大国家フラントニア帝国への対抗ではなく、王国北部にある諸国を見張るためのものであったとか。その後諸国がアストランテとフラントニアにそれぞれ併合され、結果ここは二国間の要衝の地へとなった。

 

 そんな経緯もあり、ヴァローナの城壁内に住んでいる北部人の割合自体は少ないものの、その周辺の村には依然として彼らの居住地域が広がっているらしい。

 

「……別に剣姫様の偉業は北部にまでは浸透してないから不思議なのよね。ま、アタシら北部人も一枚岩じゃないから、みんながみんな剣姫様目当てじゃないかもしれないわ」

 

 そう言い残すと、彼はまた受付所の奥へと戻っていった。彼自身が北部出身だというのは初耳だ。ただ、その奇抜な出で立ちや女性のような言葉づかいのせいで、彼を基準として北部の人を見分けることはまず無理だろう。

 

 

 改めてこの受付所を見回す。うつらうつらと船をこぎながら何とか事務作業にあたる先輩の受け付け係と、今しがた雇い主と入れ替わるように奥の部屋から戻ってきたナイン、それにこの僕しかいない。

 

 普段であれば依頼の登録に来るクライアントやそれを請け負う傭兵など、ずっと賑わっている。でも今日が休日ということに加えて、利用する層の多くがカタリナ様の演説に赴いているのだろうから、結果としてこのがらんどう具合。いつもならばキリが良いところまで昼を我慢するところだけど、今日に限って言えばいつ休憩にしたって誰も文句を言うまい。

 

「ツカサっ。そろそろご飯の時間だよ」

「……もうちょっと待ってね。これ終わらせたら行けるよ」

 

 処理のすんだ書類を全てまとめ終えたのだろう、あまり表情を動かさないなりにナインの期待へ満ちた視線がこちらに向けられる。少し待ってと伝えてみると、彼女はすぐとなりに腰かけた。休日の昼食くらいは普段よりも良いものを食べようと今朝がたに伝えていたからか、どことなく彼女がわくわくとしているのが何となく分かる。

 

 カタリナ様の演説による恩恵は、何もその演説本体だけじゃない。人が集まることを見越して中央広場の界隈には普段以上に出店の数が多くなる。ここに来る途中、遠くからちらりと見た様子じゃ、広場の外れのほうにまでその手の店が立ち並んでいた。

 

 劇物じみているかもしれない演説そのものは遠慮しておくけども、それに付随しているものの恩恵は受けたってバチは当たらないだろう。今日くらいは、イモの薄生地焼きから離れるのも悪くはない。

 

 カタリナ様の話では、演説自体は昼にやるということだった。ということはちょうど今くらいが混雑のピークかもしれない。少し並んで待つことは覚悟の上だけど、広場の外側に並ぶ出店を見て吟味をしよう。

 

 

「……よし、一段落。じゃあ行こう――」

 

 羽ペンを置いてようやく立ち上がったちょうどその時、受け付け所の扉がばたんと開かれた。視線を向けてみると、久方ぶりの来客、それも一人じゃなくて複数の団体だ。全員が腰に剣と鞘をくくりつけており、恐らくは依頼を請けに来た傭兵の人たちだろう。

 

 ようやくご飯だと嬉しそうにしていたナインを手で制して、再び受け付け窓口に腰かけた。おおむね傭兵の客たちはここを訪れてまず初めに依頼の紹介を僕たちに要請する。彼らの多くが依頼の募集要旨に書かれた文字を読むことが出来ず、また窓口業務に読み書きの能力が求められる理由のひとつである。

 

 予想通り、彼らのうちの一人が僕の窓口へと近づいてきた。しかし不思議なことに、未だにうつらうつらしている先輩の窓口にも別の傭兵が向かっていく。一緒に受付所に来たというのにわざわざ別の窓口に行くだなんて、彼らは別々のグループなのだろうか。そんな違和感を頭の片隅に残しつつも、接客対応用の笑顔を浮かべた。

 

「こんにちは。本日はどのようなご用でしょう――」

 

 僕の元に近付く傭兵の男を見つめるその視界の片端に、白銀の何かが煌めいた。それと共に静かな受付所の中に聞こえる、不釣り合いな風切り音。

 

 その一瞬の空白を挟み再び正面に焦点を合わせた視界の真ん中で、いつの間にか抜き放たれていた剣の切っ先が目と鼻の先に差し迫っていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13. 白昼の武装蜂起

 目の前に迫った切っ先が、そのまま喉元を抉る寸前。咄嗟に机の上から掴み上げた青銅の文鎮が、耳障りな軋みを響かせ剣の腹を抉り、喉を裂きうる軌道を僅かに反らした。

 

 首の僅か指一本分の場所を通過する剣、それが切り裂いた空気が頬と肩を震わす。剣の柄を握り締める傭兵の顔がそこに来て驚愕に染まる瞬間を垣間見る。

 

「き――貴様(きさん)ッ!!」

 

 傭兵の怒声と共に窓口の机を蹂躙する、命を容易く奪い去りうる刃。積み上げた紙と羽ペンが空を舞い、引き倒された黒インクが剣の軌跡を黒く染め上げた。

 

 この襲撃者との間に隔たる机が、辛うじて凶刃から僕の身を護っていた。二本の文鎮を両手に構えてその男を見据え――もう一つの窓口での顛末に歯軋りをする。

 

 机と壁を赤く染め上げる血の飛沫。奇襲に録な抵抗も出来ずに胸を切り裂かれた窓口担当の同僚を足蹴にし、もう一人の傭兵が受け付け内部に乗り込んでくる瞬間を目にした。

 

 

 何が、いったい何が起こっている。なんで傭兵たちが、彼らに仕事を提供するこの場を襲う? なぜ要求も何も言わずに、その剣で容赦なく殺しにかかる?

 

 だけど、その疑問を悠長に考えている暇はない。僕の相手は、とうとうこちらに乗り込もうと机に足をかけた目の前の襲撃者だけじゃなく、血まみれの机の上から受け付け内に侵入したもう一人の傭兵もいる。幾度も振るわれる剣先をなんとか文鎮で牽制し、しかし額に冷や汗が浮かぶ。

 

 目の前の男は、嗤っている。録に抵抗も出来ていない、文鎮を振り回すだけの子供とその後ろに控えたままの少女。そんな標的に二人がかりであたる。普通に考えたら、僕らはこのまま追い詰められ殺されてしかるべき。

 

 

 だがそんなこと、僕は認めない。受け入れられない。ふとした瞬間に踏まれて潰されるだけの矮小な存在に過ぎなかった日々は、もう終わらせなければならない。

 

「――ナイン、任せた!!」

 

 こんなところで、こんなわけの分からない連中に、理由も何もわからずに殺されてやる道理なんてない。彼女の返事が聞こえるよりも先に、一気に真横へと駆け出した。

 

 僕が狙うのは、真正面で受け付け台に足をかけた隙だらけの傭兵などではなく、すでにそれを乗り越えてこちらに近付きつつある方だ。

 

「はっ!! 女を差し出すとは気前が――」

 

 傭兵の下卑た言葉が、強制的に寸断される。彼女は僕とは違い、絶対に容赦などしない。駆け出す間際に見えたナインは、その両手に護身用のナイフを構えていた。獲物を前に慢心して、絶対の弱点である顔と首元をさらして嗤う大きな的を、彼女は絶対に外しなどしない。

 

 

 後ろからナイフが肉に突き刺さるくぐもった音が響く。その直後に、血の滴る剣を悠長に構えていたもう一人の傭兵の表情が硬直した。彼は、自身の仲間の首にナイフが突き刺さる瞬間を目の当たりにしたことだろう。不自然な形で固まったその顔にめがけ、襲撃によって倒された黒インクの瓶を思いきりの力を込めて投げつけた。

 

 向こうは鉄の剣、こっちはただの青銅の文鎮。まともにやりあって勝てるはずがない。だからこそ、この受付という地の利を生かすことが、僕にとっての唯一の勝ち目に他ならない。

 

「厄介なガキが、しゃらくさい(くせらしい)真似を――!?」

 

 即座に振るわれた男の剣が、投げつけたインクの瓶を弾き落とす。そのまま距離を詰めようとした僕の体までを両断する勢いで剣先が迫り――受付所のロビーと窓口内を仕切る長机に足を掛けて、剣の軌跡のはるか上へと体を滑らせた。

 

 つま先のその下を通過する剣先、そして飛び上がったこちらを捉え切れてすらもいない驚愕に染まった傭兵の顔。中途半端に跳んで躱すのではなく、その更に上の完全なる死角から急襲をする。碌に剣と打ち合うことも出来ない文鎮でこの傭兵を完全に黙らすには、これしかない。僅かに上を向こうとしたその額に目掛け、全体重をかけて二振りの文鎮を振り下ろした。

 

 

 喉の潰れたようなうめき声と共に、白目を向き体を痙攣させて倒れ伏す男。その手に握り締められたままの剣を奪い、受付所のロビーを見据える。この場に入ってきた襲撃者の数は、返り討ちにした奴らを含めて三人。残った最後の一人は、先行した二人が持っていたものよりもより大きな剣を構えて僕たちを警戒していた。

 

「な――なによこの状況!? あ、アンタたちっ」

 

 そして受付の奥から、困惑さを隠そうともしない声が聞こえた。わき目で流し見ると、喉を切り裂かれて倒れ伏す従業員の前で絶句した表情を浮かべている雇い主の姿がある。ロビーの騒ぎを聞いて事務作業を中断してきたであろう彼は完全な丸腰姿、そんな人間までずっと気にしながら戦うなんて困難極まりない。

 

「……賊の襲撃です。僕たちが抑えていますから、逃げて!!」

「ツカサちゃん、アンタ……ちょっとの間だけ持ちこたえていなさい」

 

 その言葉を残して、彼は再び受付の奥へと走り去っていった。裏口から出ていったのだろう。一拍置くこともせずに僕らを残して逃げることを選んだ彼は、まごうことなき英断だ。これで、僕たちは背後を気にせずに奴の相手をすることができる。

 

「あなたは何者だ? 何故商工所の受付を襲った。答えろっ!!」

「……やぜらしい(やかましい)!! まとめてたたっきる(叩き切る)!!」

 

 聞き慣れない訛りを伴った大きな声が、続く戦いの幕開けとなった。長椅子や机といった障害物を時に蹴飛ばして押し退けて、両手剣を振り上げた襲撃者が一気に動き出す。

 

「ツカサっ、使って!!」

 

 今この瞬間に、ナイン自身を剣として顕現させる暇はない。しかし彼女から投げて寄越されたのは、ナインが相手を打ち倒した男が持ったいた剣。空中を舞うそれの柄を掴みとり、これでまたやり慣れたスタイルへとなった。ずしりと手にかかる重さの二振りの剣は、文鎮の二刀流よりもよほどまともな装備に違いない。

 

 うなりをあげて迫りくる襲撃者の両手剣。机や椅子が乱雑に散らばり中途半端に複雑な足場と化したこの空間では、奴らの剣をただ避け続けるだけでは絶対に限界が訪れる。だから、アレに立ち向かうしか――

 

「――チィッ」

 

 両手に持った二本の剣を襲撃者の刃目掛けて振り下ろそうとした間際、強い違和感に舌打ちをした。振った勢いが、僅かに自分の体の動きを阻害する。ナインの黒剣と比べてたった少しの重心や重さの違いが生む違和感の大きさが、今は途轍もなく気持ちが悪い。

 

 碌に十分な力も加えられずに打ち付けた剣は、襲撃者が振るう両手剣によっていとも簡単に振り払われた。構えた剣が丸ごと弾き飛ばされなかったのは、せめてもの柄は絶対に離さないと握りしめたが故のこと。寸でのところで姿勢を立ちなおした直後に目にしたのは、更なる一撃だった。

 

「死ィさらせェ!!」

 

 上段から降り下ろされた両手剣を受け止めた瞬間、想像を遥かに上回る衝撃の強さに己の誤算を悟った。この男の剣戟は、ジャンヌさんのそれと比べればこの自分から見ても鋭さや正確さが遥かに劣るのは明確。しかし打ち合わせたその衝撃だけは、彼女を上回る。

 

 剣を押し止める腕どころか、体全体を支える足までもがこの男の蛮力に押し負けんと悲鳴をあげる。力比べでは、どうやったって勝てるわけがない。そして机や椅子が乱雑に倒されているがために、唯一の勝機である奇襲をかけるという手段が潰された。舌打ちをしたくなるほどに、自分が置かれた状況を呪う。

 

「ツカサを、放せ!!」

 

 ナインの声と共に飛来した血まみれのナイフ。しかしそれは目の前の襲撃者が纏う分厚い鎧に阻まれ、彼の注意を奪うどころか膠着状態に僅かなヒビを入れることすらもかなわない。ギリギリと押される二振りの剣、そして額の僅かに拳一個分にまで迫った両手剣の鈍い刀身。一切自由に動かすことも出来ず、ただひたすらに押されていくばかり。

 

「さあ、まずは貴様(きさん)から――」

 

 両手剣を押し込み、そして僕を両断するビジョンを見据えた襲撃者の声。それがかき消されたのは、唐突にだった。

 

 ドン、という大きな音と共に急激に重さを失う両手剣。それと共に襲撃者の瞳が見開かれ、同時にその手が両手剣の柄から離されてた。地面へと落とされる剣から襲撃者へと目を移し――その姿に息を呑んだ。

 

「まったく、随分派手にやってくれたじゃないの」

 

 腹部を覆っていた鎧を貫通して突き刺さる、一本の槍。巨大な先端部が後ろで倒された長机に突き立てられ、その柄によってくし刺しにされた襲撃者は口からゴボリと血を吐いた。両手で柄を握り締めようとしても、流れ出た血液によって指が滑り落ちる。焦点の合わないその眼は、僕ではなくその背後へと向けられていた。

 

「アタシの仕事場でよくもまあこんなことを。ねぇ、アンタ――」

 

 手足に力が抜けた状態でも、腹部から貫通した長い槍によって無理やりに立たされた姿勢で縫い付けられた男。その異様で凄惨な光景を絶句して見つめるしかできない僕の肩が大きな手で掴まれてた。大柄で色黒の、不思議な言葉遣いの男性が、なんとか顔を上げた男の首に手を伸ばす。

 

「――話せ。貴様(きさん)らの正体と目的を、残さず(のこさんと)吐け!!」

 

 急激な口調の変化と共に、雇い主は男の首を掴み上げていた。無理やりに持ち上げられる鎧姿の襲撃者。腹部の傷穴が広がったのか、槍を伝うようにして多量の血液が流れ出る。足元にできた血の沼が踏みつぶされて、飛沫が辺りへと散った。

 

「おま、え……北部人、か……」

貴様(きさん)ら同郷の者だろうと、容赦はせん。さぁ、吐け!!」

 

 雇い主と同郷の人間、つまりはこの襲撃者たちは北部の出だというのか。

 

 要求も何もない、ただこちらを殺すことだけを目的としたような行動。これまでに何度か耳に挟んだ、ヴァローナにおける唐突な北部人の増加。そして、にわかに聞こえてくる受付の外の喧騒。その全てを繋げる細く小さな線を幻視し、しかしまさかと思い留まる。

 

「……おまえは、憎く(にっか)ないのか。我らを……隔て分断したこの壁と街がっ。だから……俺たちは立ち上がっ――」

 

 血を吐いてせき込みながらも、襲撃者の男は大声で叫ぶ。痛みか憎しみか、その顔を大きくゆがめ、長槍の柄を血が伝い濡らす。そして最後に目を見開いた男は、歪み切った表情のまま一言も喋らなくなった。力なく垂れ下がる手足と首。しかしその瞳だけは、強い意志を宿したまま虚空へ向けて怨念を放つかのように開け放たれている。

 

 

 唐突に訪れた静寂の中、外で響く喧騒が再び耳についた。中途半端に開かれたままの扉の向こう。その遠くの方から、何人もの大きな声が聞こえている。それはカタリナ様の演説に湧く熱狂的な市民の声なんかじゃなく、もっと阿鼻叫喚とした混沌の中で逃げ惑う、何人もの悲鳴と叫び声。

 

「……ツカサちゃんとナインちゃん。まさかアンタ達がそんな傭兵紛いのことも出来るだなんて、アタシは知らなかったわ」

「マスターも、そんな扱いの難しそうな槍を使いこなす人だなんて、思いもしなかったですよ」

 

 襲撃者の死体から槍を引き抜いた彼は、少しばかり強張った笑顔を浮かべていた。彼だって気が付いているはずだ。今ここを襲撃してきた人間が、場当たり的にこの受付所を襲ったわけがない。この男が言い残した、"俺たち"という言葉。それは、きっとこの場で倒れ伏したたったの三人のわけがない。

 

 床に突き刺さったナイフを引き抜いたナインが僕の隣へと並んだ。僕は両手に剣を、雇い主は長槍を、ナインは小ぶりなナイフを握り締め、一様に受付所の出口を見据える。その外に広がっているであろう更なる修羅の現場、そこへ今から飛び込む。

 

「マスターじゃなくて、ヨードル・リグリス。これから生死を共にするんだから、ヨードルと呼びなさい。どう見ても今外で起きていることは普通じゃないわ。さっきみたいな殺しあいが、中央広場の至る所で起きているのかもしれない」

 

 それはもはや、殺しあいの域を超えた完全なる反乱だ。ヴァローナに紛れ込んだ北部人の多くが引き起こした、この街そのものに対抗するための白昼堂々の武装蜂起。幾多もの人間が一堂に集うその場で発生したそれによって、一体どれほどの血が流れているのかなど想像もつかない。

 

 しかし一つだけ言えるのは、このままここに留まっていたらまた次なる襲撃が起こるであろうということ。逃げる場所が限られたこの閉鎖空間で、閉じこもったまま嵐が過ぎるのを去るのを待ち続けるだなんて、遠回しな自殺行為に他ならない。

 

「……これから安全な場所を探して逃げるわよ。アンタたち、覚悟は良いわね」

 

 悲鳴と怒声が響き渡る広場に続く道、そこに面した扉に手をかけたヨードルが、最終確認とばかりに振り向いた。覚悟もなにも、生き残るためにはここから出るしかないのだ。そんな分かり切ったこと、もはや聞かれるまでもない。

 

「ええ、絶対に逃げきってみます」

「……私はツカサを護るためになら、地獄にだって突撃する。もう、準備は出来ている」

 

 双剣とナイフを構えて頷いた僕たちの姿を、ヨードルは満足げに眺めて頷いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14. 戦場で人を殺すということ

「……みなさい、アレを。やっぱり外もただ事じゃなさそうよ」

 

 商工会の建物の影から見える様相。ヨードルが指差すヴァローナ市民の憩いの場は、想像を上回る凄惨具合だった。いくつかの建物に隠れているから全体像は見回せないが、その中から垣間見えた一部分だけですらも酷く惨たらしい。

 

 何人もの倒れたまま動かない人達。あのたくさんの人達は、きっとカタリナ様の演説を聞こうと集まった聴衆の一部だ。その体や周辺には真っ赤な血が石造りの地面を鮮やかに染め上げている。そして女子供も関係なく、体のわきに寸断された頭部がごろりと何気なく転がっている異常さ。

 

 風に乗って、濃密な血の臭いが運ばれてくる。それと共に、火までもが使われたのか僅かに感じる焦げ臭さ。喉の奥から襲いくる吐き気を無理矢理に飲み込んだ。ああいう風になりたくなければ、こんなところでえずいている場合ではない。

 

 襲撃者の一団は、もう既に別のところに移動をしたのだろうか、悲鳴や叫び声はもはやほとんど存在していない。ただ彼らが残した虐殺の現場だけが、確かにこの場をきっかけとして武装蜂起が起きたという事実を物語っていた。

 

「ツカサ、大丈夫だよ。私がついてる」

 

 手を覆うナインの温もりが、ほんの少しだけ心を落ち着かせた。ここにいるのは僕だけじゃない。僕なんかよりも荒事に慣れているであろうナイン、それに恐らくはヨードルだってあの長い槍のことから考えるに相応の経歴をもっていることだろう。

 

「……ヨードルさん、逃げるための宛はあるんですか?」

 

 今の僕たちには足りていない情報が多すぎる。分かっているのは、警備の兵もいたであろう中央広場で平然と虐殺蜂起が始まったということと、それを起こした元凶たちは次なる場所へと向かったということ。これほどまでの事態にも関わらず辺りの不自然な静けさが、それの何よりもの証拠だ。

 

 一体武装蜂起した襲撃者たちは何処に向かったのか。そして生き残った市民は何処に集まっているのか。いや、そもそも敵の規模や指導者、それに狙いまでもが全て分からない。暗中模索を体現したかのような状況下、録にヴァローナの地理も把握しきれていない僕たちにとって、ヨードルの決定が唯一の道しるべだ。

 

「選択肢は二つあるわ。一つ、このまま街壁の外へ向かう。そして二つ、このまま街の路地裏で様子を見る」

 

 案の定、ヨードルにはある程度の指針があるようだ。逃げるか、それとも様子をうかがうか。通りの外を見据えながら、彼は小声で口を開いた。

 

「どのみち、往来を歩くのは危険過ぎるわ。ついてきなさい」

 

 表通りの殺戮現場に背を向けて、路地裏に向けて歩きだす。薄暗く治安の悪いというイメージの空間が、今は僕たちの存在を隠匿する最大の武器となる。それでも一体何が出てくるかも分からない状況下、周辺へいっそうの注意を払いながらヨードルの後を行く。

 

 

 

「……あの武装蜂起、間違いなく北部人が引き起こしたものね。さっきの奴が言っていた話、恐らくあれが動機よ」

 

 長槍の先を構えたまま先を行くヨードルの話に耳を傾ける。さっきの話とは、北部人の襲撃者が話していた、この街や城壁に関してのものだろうか。僕やナインは、正直なところなんでこんな事態になっているのか全貌はおろか断片的な部分すらも把握しきれてはいない。だからこその、すべての行動がまるで暗中模索。せめて、切っ掛けくらいは知っておきたかった。

 

「アンタたちは、この街と北部人の関係について何処まで知ってるの?」

「……数十年前ここがまだ北部諸国だったころ、アストランテ王国が諸国に対抗するために築いた砦が、ヴァローナだということくらいは」

 

 ナインと共に路地の両脇を警戒しながら彼の質問に答えた。この辺りの知識は、まだクアルスに住んでいた頃に聞いたことだ。手紙の代筆業なんてことも行っていたから、ヴァローナ向けのものだって担当したことはある。その時に依頼者から聞かされた、この街の成り立ち。大まかな流れは間違っては無かったようだ。

 

「成り立ちはそうよ。その後時は流れ、結局ここはアストランテとフラントニアの緩衝地帯となった。じゃあ、アタシたち北部人はどうなったと思う?」

 

 曲がり角の先を慎重に注視しながら、再びヨードルが問いかけてきた。ここが二大国家の緩衝地点となった以上、北部諸国はそのどちらかに吸収をされたはずだ。山脈の間を縫うようにして形作られた天然の街道、それを守護するためにこのヴァローナという街は機能をしている。そこに北部人がどうとか、そのような思惑なんて存在するのだろうか。

 

「北部人の諸国連合は二つの大国に併合されたの。元は同じ民族だったけど、この砦によって大きく寸断されてしまった。元々諸国同士仲がいいわけでは無かったけど、それが完全に別の国同士になってにらみ合いの緩衝地帯にされてしまった。それが数十年前の話。祖父母の世代が戦士だった頃の、本当に昔の話よ」

 

 いわば、自分達の意思とは関係のないところから仕向けられた対立の中に組み込まれたということ。もとが一つのまとまった国であったならば分断されることもなかったのかもしれないけど、北部諸国という名前の通りにそれぞれは完全なひとまとまりというわけではなかった。それら小国の集いが二つの大国に線引きされたことに、確かにわだかまりが生じないはずがない。

 

「……確かにその頃からのわだかまりはまだ残ってるわ。旧北部諸国の中央にあるこの街に、北部人の割合が少ないのも多分そのためだもの。でも、こんな酷いことを起こすほど根が深かっただなんて……」

 

 大分街の中央を走る大通りから離れただろうか、ちらほらとみすぼらしい身なりの人々の姿が目にはいる。彼らはきっと、大通りの方で一体何が起きたのかだなんて知らないのだろう。誰も彼も、長槍を構えて路地を急ぐヨードルを見た瞬間に、蜘蛛の子を散らすようにして路地の奥へと姿を消していく。

 

 果たして、武装蜂起した一団は何処に向かったのか。それは、彼らがこの街や砦に良くない感情を持った人々の集まりだということを念頭におけば、おぼろげながらにも予想は浮かぶ。

 

「連中、おそらく狙いは砦本体よ。あの砦は言わば民族分断の象徴。前々から積もり積もった感情はあったに違いないわ。でも何故襲撃が今になってなのかは……正直、アタシも分かりかねるわ」

 

 この街の存在意義といって過言ではない北部への要衝を成す砦は、ヨードルの話を聞く限りでは武装蜂起の目的になって何らおかしくはない。

 

 堅牢な城壁と幾多もの防衛兵器に護られた砦を落とすには、その内部から攻め込むのがもっとも攻城戦に際して被害が少ないだろう。カタリナ様の来訪に合わせて街の外から訪れる人間が増えるところに乗じて、彼らもまたヴァローナへと紛れ込んだのか。

 

 歩いた距離や方角から言って、路地裏の出口はもう少しに違いない。ヴァローナの南方城壁に面したエリアは、街の主要な出入り口ということもあって中央広場ほどではないが開けた空間が広がっていたはずだ。虐殺の現場から逃げおおせた市民が集まっている可能性は高く、そして現在の僕たちの位置から言って安全な所へ避難をするためにはそこへ行くのが最善の策だろう。

 

 

 

 しかし、再び陽の光が差し込む路地裏の出口が近付いてくると共に、僕たちの見通しが甘かったということをこれでもかというほどに思い知らされた。聞こえてくる喧騒、そして悲鳴。受付所の中で耳にした、中央広場で起きていた武装蜂起と共に響いていた狂乱の調べと、完全に同じ性質のもの。

 

 幾多も重なった金属の音と、更に聞こえてくる何かの激しい爆音。その音が鳴るたびに一体どれほどの人が犠牲となっているのかだなんて想像もつかない。しかし現に、修羅の巷は場所を移して再び現れたのだ。それも遠く離れたところなんかじゃなくて、僕たちが行こうとしているその場所で。

 

「まさか連中、砦を落とす前に街を塞ぐ気……?」

 

 その光景を見つめながら、ヨードルが呆然とした様子で口を開く。助けて、死にたくない。その叫び声をかき消すかのように老婆の背中が槍で貫かれ、兵士の首が削ぎ落とされる。未だに路地の死角で身を潜めることしか出来ない僕たちを尻目に、幾多もの人が殺され、辺り一面を赤い色で染めていく。

 

 槍や剣で武装して市民へ切りかかる武装蜂起の一団に対抗している兵士の数は、ヴァローナの街の規模を考えたら明らかに少ない。精々が街門防衛の兵士のみで対抗しようと集まっても、その倍を超える反乱者たちを押しとどめることすらも出来ない。それに、ヴァローナの兵を率いているはずである始祖族の将官の姿すらも、何処にも見つけることは出来なかった。

 

「あ、あんなに人が殺されてるのに、兵隊は何を……」

「……彼らは、きっと真っ先に砦本体の守護に回ったのよ。たぶん、カタリナ様も一緒にね。この街の存在意義たる砦を落とされるわけにはいかない。でも、連中の最初の標的は――」

 

 結果として、砦の守備を優先して兵を回さなかった街の出口が、この有様だと言うのか。命からがら逃げだそうとする人々の後ろから、幾多もの凶刃が迫り容赦なく命を狩っていく惨たらしい現場。彼らを護るはずの兵も数で押され、頼みの綱の始祖族すらもここにはいない。

 

 何もできず、何も分からないまま殺されていく市民たち。彼らには戦うための武器は無く、抗うだけの意思もない。ただそこにいたというだけで死というものが降り注ぐ、なんという理不尽さ。そこにいるのは僕たちではなく、でもまるで自分自身に理不尽な暴力が突き付けられているかのような気持ちの悪さに襲われた。

 

 

 そしてまた、一組の親子へと襲撃者たちの一人が剣を向けた。脚を挫いて地面に転び、それでも子供だけでもを護ろうとその身で抱きかかえた女性。その親子のどちらもを殺すがために、その襲撃者が剣を振り上げ――

 

「……しょうがない。アンタたち、ことが鎮まるまでここで――ツカサちゃんっ!?」

 

 世界から色が無くなり、見据えているのはその親子の姿だけ。一体何が起きたのかだなんて、自分自身のことなのにまるで分からない。でも確実に、自分を自分足らしめていた箍が、消えて失せた。

 

 気が付いた時には、僕の体はいつの間にか地面を蹴り出して、小さな路地裏から虐殺の最中へと飛び出していた。保身、生存、安全。自分という人間を成していたはずの哲学がその瞬間だけは崩れ去り、それどころかこれから行こうとしているのはふとした拍子で呆気なく命を落とす地獄の入り口。そこへ向けて、バランスの悪い二振りの剣を両手に白昼堂々と突き進む。

 

「次はお前――」

「邪魔をッ、するなァ!!」

 

 この身を遮るものなんて存在しない。闖入者である自分に待ち受ける襲撃者の刃たちを屈み飛び越し、時に剣を打ち付けて走り続ける。散乱した殺しの跡地を飛び越えて、ひたすらに前へと突き進む。

 

 体が熱い。まるで走馬燈、全ての景色がスローモーションで過ぎ去るかのような錯覚の世界。何故僕はここにいるんだという疑問の脇で、あの親子は何としてでも助けなければならないという強迫染みた決意が燃え盛る。

 

 死を覚悟しながら死に抗うその姿、そこへ容赦なく振り下ろされる剣。僕という存在は、それだけは決して受け入れることは出来ないのだ。圧倒的な拒絶感が、すぐにここから逃げ出せと叫ぶ理性を無理やりに押さえつけて僕の足と腕を否応なしに動かす。

 

 僕の目の前で、その行為は絶対に許さない。その光景を、この僕に見せるな。声なき叫びをあげて、今まさに命を狩り取らんとしている一人の襲撃者に向けて飛び掛かった。剣を手に振り上げられた腕、そして親子を見下したその首。ひけらかすように示されたそれらの標的に目掛け、両手に握り締めた双剣を容赦なく振るった。

 

 

 肉を穿つ感触、それが剣の柄を通して体へと伝わるのは僅かに一瞬。降り下ろした両手の剣は、何にも遮られることなく対象を確かに切り裂いた。抵抗も何も存在せず、地面へと足をつけて振り向いたその先にいたのは、手そのものを剣と共に取り落とした男の姿。

 

 まさに殺さんとしていた親子と僕の姿を焦点の合わない瞳で見つめたその直後、剣で穿った首の後ろから血が噴き出してその巨体が倒れ伏す。色が戻った世界に描かれる真っ赤な血の飛沫。その光景が、僕自身を再び呼び戻す。

 

「……に、逃げてください!!」

 

 震える声で、幼子を連れた若い母親にそう言い渡すことが、今の僕に出来る全てだった。この僕自身が手を下した死骸から、止めどなく血が流れ出す。それはまるでクアルスの路地裏で目にしたフィンのようで、そしてこの男を殺したのは――

 

「――かたくう(仇を討つ)っ!!」

 

 纏まらない思考の中でも、背後から近づく更なる反乱兵の存在には気が付くことができた。強い訛りをもった声と共に振るわれた剣を、すんでのところで受け止める。二振りの剣から僅かに滴る真っ赤な血、それが柄までつたり手を濡らす。人をこの手で殺したという事実に悲観や絶望をする暇もなく、突きつけられるのはここが虐殺のど真ん中という事実。つい数秒前まで路地から見えた地獄の空間の最中に、僕はいる。

 

 更に剣を押し込もうとした男の首を突き破るように、ナイフの刃が喉から飛び出す。ザクリという音、それと共に頬のすぐ脇を走る血の筋。途端に力を失うその体が、横へ向けて蹴り飛ばされた。そして目の前には、戦場には不釣り合いなほどに幻惑的な桃色の髪がなびいていた。

 

「アンタたちっ、ボサっとしていないで行くわよ!!」

 

 ナインへ向けて襲い掛かろうとした襲撃者の体を貫き刺した長槍。ヨードルもナインと共にこの地獄のど真ん中へと駆けつけていた。薙ぎ払われる長槍が近づこうとする武装蜂起の襲撃者たちをけん制し、ヨードルは人々が逃げ惑う先に存在する城門を指さす。唯一とも言っても良い街の出口には、完全な封鎖はされてはいない。

 

 今こそ強行突破の時間だ。この混乱の最中に突出してしまった僕のせいで今この瞬間に行動をするしかなくなってしまったが、それでも一歩目を踏み出したという事実に変わりはない。今しがた逃がした親子を追うようにして走り出し――

 

 

 網膜を焼き世界を白い暗闇に塗りつぶす、黄金色の激光。それと共に訪れる、人の体を容易に弾き飛ばさんばかりの衝撃波と全身に叩きつけられる爆音。咄嗟に腕で視界を覆おうが、目を閉じた中の世界も紫色の光の残像が脳裏を蝕む。ピリピリという異様な空気の震えが剣を辛うじて握り締める手に響き、そして爆音で一時的に麻痺した鼓膜が、耳鳴りの中で声を拾う。

 

「市民を守ろうとするその心意気はお見事。でも、身の丈に合わない蛮勇があなたを死に誘います」

 

 この場に似つかわしくない拍手の音、そして嫌に落ち着いた窘めるかのような声。ようやく戻ってきた己の視界に映ったのは、見るも無残に黒く焦げ付き炎が燻る、自分の手で殺した男の死体。そして声の聞こえる方に首を振り向いて、その姿を見つけてしまった。

 

「……人間族の兵だけで砦全てが落とせるわけがない。だから絶対にアンタみたいのが混じっているとは思ってた。でもまさかここで会うだなんて、アタシらとことんついていないわね」

 

 まるで儀礼用のような装飾鎧に身を包んだ一人の女。武装蜂起した一団の先頭に立ち、金色の髪の毛を風に揺らす姿に舌打ちをする。この距離でもはっきりとわかる、人間族とは決定的に異なる先端の尖った耳。その手に持った巨大な十字剣が、淡く黄色に瞬いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15. 強行突破

 黄色い光をまとわせて不安定に揺れる巨大な十字剣。その刀身から稲妻が瞬き、石造りの地面を容易く焦がしヒビを入れた。秘めたエネルギーの大きさを予感させる、今この瞬間も生成し続ける小さな稲妻と雷鳴。その異様な光景に唾をのむ。これが、この始祖族が保有する霊剣なのか。

 

 思えば、最初から警戒をしておくべきだったのだ。雷にうたれて紫色の火傷が顔に刻まれた死体から漂う、人の肉が焦げるすえた臭い。受付所を出たときに中央広場から感じた焦げ臭さは、この女がもたらしたものなのだ。剣や槍で切り裂くよりも、よほど効率的に敵を殺しそして制圧させるだけの能力。人が密集する空間において、雷の一撃は容易く何人もの命を瞬時に奪うことだろう。

 

 今更になって気が付いた、周辺の異様な光景がその証拠だ。黒く焦げたいくつかの遺体。全てが剣をその体の脇に転がした、元は逃げる市民を守るために武装蜂起に立ち上がった兵士や傭兵たちなのだろう。そんな武装を施した屈強な存在たちでさえ、始祖族という規格外の暴力の前では枯れた藁のように無力な存在へと成り下がる。

「――アンタたち、援護しなさい!!」

 

 こんな化け物と戦うだなんて、冗談じゃない。避けることなど不可能な雷を操る始祖族など、到底敵う相手ではないことくらい理解できる。長槍で牽制し、そして一気に退却する。僕らに出来るの最善は、ひたすらに逃げるということ。

 

 もはや敵に囲まれつつある状況下、逃げる先は始祖族とは正反対の方向。数多くの人々が殺到するヴァローナの城門を先に見据えた。ヨードルと共に多少の反乱兵の壁を突破することは、少なくともこの始祖族を相手取ることよりもよほど現実的な選択肢だろう。

 

「さぁ、せたこれたく(刺し殺されたく)なきゃ――」

 

「――やかましい。そのまま逃がすわけがないでしょう」

 

 ヨードルが槍を振り上げた瞬間、それに呼応するかのごとく鳴り響く爆音。視界の中に伸びた黄金の光筋が細かく裁断されたかのように枝分かれし、そのうちの幾つかが両手に構えていた二振りの剣へと直撃する。途端に全身を駆け抜ける、手を焼くかの如き痛撃。剣を取り落とすには、十分すぎる代物。

 

「よ……ヨードル、さん――しっかり、してっ!!」

 

 未だに感覚の残らない足を、気合で持ちこたえる。僕は良い、たかだか雷光の余波を受けただけなのだから。だが僕に向けて走った電光の本体が、構えていた長槍に直撃したヨードルは、絶対に僕よりも酷い状況にあるに違いない。彼の大柄な体が、まるで糸の切れた人形のように膝をつく。頑丈で野太い長槍を形作る木製の柄は、雷光の直撃によって見るも無残に黒ずみ縦に裂け、その先端は焼け落ちて地面に突き立てられいた。

 

 まるで痙攣するかのように肩を細かく動かすヨードルの元に、足を引きずって何とか近寄る。彼を起こさなきゃ、ヨードルはまだ生きている!!

 

「早く逃げて、ツカサっ!!」

「ここまで来てっ、この人を置いては――行けるわけが無いだろう!!」

 

 しかし同じくナイフを取り落としたナインが僕の袖を掴んだ。懇願するかのような彼女の視線。ナインだって、雷光の余波を見に受けて満足に動けないはずだ。それでも何とか僕を連れていこうと、その袖口を引いて城門へ向かおうとする。

 

 にじり寄る反乱兵たち。もはやその剣先は警戒して構えられることもせずに、ただ手負いの獣に止めを刺すがごとく淡々とした雰囲気すらも感じさせる。でも、後ろ楯のなかった僕らに働き場所をくれて、高々知り合って数日の僕たちを見捨てずにここまで一緒に来た彼を、このまま殺させるわけにはいかない。

 

「……あん、た……馬鹿、よ。アタシ、なんて……放って、おきなさいよ」

 

 引き攣った口を辛うじて動かして、ヨードルが怒ったように、そして呆れたように馬鹿だと続けた。彼の手の皮は黒く炭化し、肉の焦げる臭いに彼自身が顔を顰める。その肩の下へ腕を差し込み、なんとか持ち上げようと踏ん張ると、ほとんど彼の体全身が麻痺しているのか想像以上の負荷が全身を襲った。置いて行けだなんて、そんなことは出来ない。その一心で、ようやく感覚がまともになってきた両の足へ力を込め、再び前を見据える。

 

「皆、剣を下げなさい。身の丈に合わない蛮勇を扱う哀れな存在。ですがその意志に免じて、直接私が手を下してあげましょう」

 

 霊剣の切っ先が、こちらに向けられた。雷光と雷鳴、黄金色にほとばしるそれがところ狭しと巨大な刃の表面を駆け巡り、この身を焼くのをまるで今か今かと待ちあぐねているかのよう。

 

「フラントニア帝国軍中佐、閃雷のマオ・リーフェン。私の剣をもって、あなた方を裁断します」

 

 それは旧北部諸国のどの国の名前でもなく、このアストランテと双璧を成す大国の名前。ヨードルが話していた北部人蜂起のきっかけに関する違和感が、今になってほどけつつある。

 

 ああ、そういうことだったのか。積年のわだかまりを抱えた北部人たちを立ち上がらせて、今日という瞬間に膨れ上がったその恨みを投じるように差し向けた存在。その彼らの扇動者は、北部人ではなくフラントニア帝国の命を受けた者。このアストランテ王国と長年対立を続けてきたというフラントニア帝国にとって、要衝の地ヴァローナを陥落させることはそれがたとえどんな形であろうと間違いなく戦略的な意味合いは高い。

 

 霊剣に集結する雷の密度が上がった。満足に動けない僕たちをまとめて消し去るには十分すぎるだけのそれに、あの始祖族に率いられていた反乱者たちすらも距離を置き始める。それは大気を震わし、離れたここまでもその小さな衝撃が届く。

 

「さあ。覚悟なさい――」

 

 処刑を待つ罪人かのような有様。もはや僕たちに対抗するような意思や方法がないことを分かり切った、下界を見下ろすかのごとき視線が向けられる。ああ、確かにここまで追い込まれてしまったのならば、今までの自分ならば生きることを諦めていただろうさ。しかし、今はせめて足掻くだけの最後の力は残っている。

 

「――ナイン!!」

 

 叫ぶよりも早く、彼女は僕の手を握りしめていた。ナインが顕現した黒剣は、僕自身でもよく分からないほどに戦うための能力を最大限引き出し、そして始祖族の霊剣に打ち合えるほどの堅牢さをもつ。この女を倒すまではいかなくても、この状況を打ち破るだけで良い。ヨードルを連れて、この包囲網から抜け出すその一瞬さえ得られれば。そのために僕はまた剣をとる。

 

 きつく握りしめた彼女の手が熱くなる。無力な人間たちを前に自分の優位を確信して疑わない始祖族、その慢心を利用させていただこうじゃないか。クアルスの路地で見た白い光が再び眼前で瞬き始め――その頭上からナインの剣とすらも比較にならない熱量を感じ取った。

 

 

 その爆炎はまるで、空に浮くもう一つの太陽。いや、太陽は決して大地に降り注ぎはしないし、ましてや黒と紅が入り乱れたような色合いなどではない。その火炎は寸分の狂いなくこの広場を目指して降り注ごうと紅蓮の尾を引き――

 

「あれだけやってまだ動けるだなんて、活きのいいことですね」

 

 頭上から迫る赤黒い炎と地上から放たれる金色の雷撃。その二つがぶつかり合うと同時に、まるで顔を焼くかのような熱波が飛散した。ナインの剣を顕現させるという行為を中断するほどの、命の危機すらも感させる強烈な衝撃。

 

 黒剣を顕現をさせる寸前だったナインが、自身の体と共に僕を突き飛ばした。あの始祖族に直撃するかと思われた炎は、彼女の放った雷の直撃を受け流して僕らの目の前にと着弾した。地面に倒れ伏したその頭上を通過する、爆風と熱気。その奔流が通り過ぎた後に爆心地へ目を向けると、大地へと降り立った炎塊が割れ、その中から声が響き渡った。

 

「――やっと見つけた。殺してやる」

「処分しそこなったと思ったらそちらから来ていただくとは、手間が省けますね。感謝します」

 

 始祖族の注意は完全に僕たちから逸れ、雷を纏わせる十字剣の切っ先はこの場に表れた黒い炎へと向けられていた。まるで蛇のようにうねる火炎を割り、纏わせる炎よりも更に深い黒紅色の鉾槍が姿を現す。長大なその武器を手に反乱兵の始祖族と向き合うその人に、僕は心当たりがある。

 

「剣姫カタリナ・フォン・アストランテ。今度は外しはしません」

「間諜風情が、偉そうにすんなよ」

 

 赤黒い髪を熱波の中に揺らし、その手には自身の髪色を写したかのように深い紅色へ染まるハルバードを構える、剣姫カタリナ・フォン・アストランテ。背中を覆う黒いマントはところどころが焼け、そして鎧にも黒ずんだ傷が幾多も走る。しかしそれでも、身にまとう闘志は欠片もくすんではいない。

 

 昨日の夜に見た彼女の本質は、あのマオと名乗った始祖族と対峙する姿に現れている。あれは、死に瀕しそうな僕たちを助けるために表れたようなくちではない。むしろ市民の存在など頭の片隅からも外し、ただ敵を打ち倒そうとする凶暴な力の具現とすらも言えてしまう。

 

 果たして彼女が何故この広場に駆け付けたのか、そんなことは分からない。しかし、そのおかげで僕たちへの注目は確実に無くなった。だからこそ、この場からは早急に逃げ出さなければならない。手負いのヨードルを連れ出せるタイミングは今だけで、それに下手にここへ留まっていたら二人の始祖族の殺しあいに巻き込まれて命を落としかねない。

 

「皆、離れなさい。私の戦いを邪魔することは許しません」

 

 戦いの火蓋が切って落とされる間際、反乱兵たちが一斉に蜘蛛の子を散らすように距離を取る。それが、僕たちにとっても千載一遇の好機となる。

 

「ヨードルさん!! 痛いかもしれませんが我慢を――」

「舌を噛みたくなければ黙ってなさい!!」

 

 ヨードルの肩を支えようとした次の瞬間、逆に胴が抱きかかえられていた。両脇に僕とナインの二人ともを抱えた彼は、そのまま雷にうたれた後とは思えないほどに全速力で走り出した。下手に喋れば、彼の言う通りに舌を噛みかねないほどの揺れ。彼の巨体が全力で走り出したというのに、向かい合う二人の始祖族は視線すらも寄越さない。

 

 向かうは元来た道。反乱兵が集結しつつある城門は、武器すらも失った手負いの獣同然の状態ではまず突破は敵わない。ならば、せめて敵のいないところへと向かうのは必然だ。路地裏の入り口を目指してひた走る僕たちを更に追おうとするものなど一人たりとも存在せず、僕たちは抱き抱えられたままその一画へと飛び込んだ。

 

 揺れる視界の中で最後に見たのは、ぶつかり合う金色の十字剣と赤黒色の鉾槍、そしてカタリナ様の体を蝕まんと包み込む幾多もの雷撃の姿だった。

 

 

* * *

 

 

「彼は寝ているだけだよ。命に別状は無い」

 

 石の床に横たわる大きな体のヨードルは、ほとんど動かずにいた。しかしその胸部はわずかに上下しており、ナインの言う通り最悪の事態にはなってはいないようだ。容体が急減することも無さそうな様子に安堵のため息を漏らすと共に、酷い火傷を負った彼の両手を見て歯噛みする。せめてものの処置として包帯を巻いたものの、きちんとした診療所で診なければならない状況なのは明白だ。

 

 満身創痍の中で僕とナインを担いだままあの場から逃げおおせた彼は、路地の中頃でとうとう力尽きて気を失い倒れてしまった。人けのない中をなんとかナインと共に彼を運び、ここヴァローナの最北端に位置する砦まで連れて来れたのは、ひとえに反乱者たちが南部の城門近くに陣取っていたからである。

 

 物々しい砦の城門前、そこから出てきた武装済みの正規軍たちがヨードルと僕たちを城門内に招き入れた。ヨードルは流石は商工会の重役だけあって顔が広く、彼ら軍部の人間からもそれなりに認知をされていたのが幸いしたようだ。そのまま同じく逃げてきた市民と共に砦の一画へと連れてこられ、こうして彼の状態を診ている。

 

 周囲の市民たちは、あの襲撃から逃れてきたにしては明らかに数が少ない。きっと、街の出口までが遠かったから最後の策としてこの砦の方にまで来たのだろう。幸い酷いけがを負っている人は少ないようだけど、それはつまり手負いとなった人々はそのほとんどが中央広場にて殺されてしまったということなのかもしれない。

 

「……ここまで追い込まれてしまった。あなたはどうしたい?」

「ナイン。僕はこのまま手招いているのは嫌だ。このままここにいたとしても、いつかはあのフラントニアの始祖族がやってくる」

 

 反骨精神だけはある。でもその具体性は致命的なほどに欠けている。

 

 このままヨードルを見捨てて僕たちだけでヴァローナを脱出するか。しかし街の出口は反乱兵たちが押さえており、それに彼を見捨てたならば僕たちが砦まで逃げてきた努力の全てが無駄になる。ならばあの反乱兵たちを打ち倒すか。仮に筆頭の始祖族をどうにかすれば、あとは数の問題で抑え込めるかもしれない。でも、そもそもあの雷を自在に操る始祖族をどうにか出来る道筋は存在するのだろうか。

 

 おそらく、選ぶべきは後者の選択肢。もしかしたらカタリナ様があの始祖族を撃破しているかもしれないし、それにこのヴァローナという街における自分自身の足跡を探ってすらいない段階で、街そのものを帝国に奪われるわけにはいかない。選択肢は決めた、あとはその方策だけだ。

 

 

「……彼も随分手ひどくやられたな。将官殿が君たちの話を伺いたいそうだ。ついてきてくれ」

 

 大部屋の入り口から入ってきた兵士の一人が、ヨードルの状態を見て顔を顰めた。元々僕たちがこの砦に招き入れて貰えたのは、多分気を失っていたヨードルを連れてきたこと以上に、一体街で何が起きているのかを少しでも把握をしたいという思惑があるのだろう。恐らく伝令すらもまともに機能をしていないこの状況下、あの始祖族のことをこの目で見た僕たちの話は、少しでも状況突破に役立つかもしれない。

 

 

 

 砦は街の中でもっとも高い建物だ。その最上階層まで来れば街のほとんどを見渡せるほど。この離れた位置から見ても、中央広場に転がる遺体の姿までもが目に入る。現状では反乱兵の一団は未だに城門近くに陣を置いているのか、まだ砦の直面までは侵攻してきてはいないようだ。

 

 その街を見渡せる砦の回廊にて、僕とナインは一人の始祖族と向かい合っていた。城門エリアから逃げる直前に見たカタリナ様の格好よりもよほど落ち着いた、一般の兵士よりも少しばかり目立つ装飾が施された鎧に身を包む、片腕を失った若い見た目の男。現在進行形で戦乱の最中にある街の景色から視線を外し、彼の切れ長の瞳がこちらの姿をとらえた。

 

「……私の知古の者が世話になったね。私がこの砦の守護を任されている、イーリス・ディ・ヴィンターだ」

 

 彼が、ヴァローナの軍を統率する将官であるという。まるで普通の人間のような穏やかそうな雰囲気であるが、その尖った耳や手に持った小さいながらも淡く光る剣の存在から、やはり彼は将官という立場に違わず始祖族の一人であるのだろう。

 

「単刀直入に聞こうか。街は、そして敵将はどうなっている? そしてあの王女殿下は――いや、そちらは聞くまでもないな」

 

 途中まで開いていた口を、イーリスはため息と共に閉じてしまった。やはり、カタリナ様のことは正式な将官である彼は把握をしているのだろう。

 

 演説の最中に起きた一斉蜂起に際しマオと名乗った始祖族の奇襲を受けて戦線離脱を余儀なくされたのは、急な襲撃を予想をしていなかったで済む話だ。だけどまさか、その後兵によって砦の中まで運ばれたところで、意識を取り戻して護衛の一人もつけず街へ飛び出していったなんて。よく言えば勇猛、その実は制御の効かない苛烈さ。

 

「僕たちが見てきた範囲でお話しします。北部人を中心とする反乱兵たちは、中央広場で蜂起した後城門付近にて虐殺行為を継続。警備の兵士も数で上回られ、城門は恐らく彼らの支配下に置かれました」

 

 街の状況は完全に彼らの思うがままであるといって過言では無いだろう。この砦が十分なほどに兵力が集中している分、街自体はその真逆ということになる。砦の守護に注力し過ぎた結果が、あの虐殺騒動なのだ。

 

「……そして敵の指導者は、フラントニア帝国の軍属と名乗った、雷を自在に扱う始祖族です。ヨードルは、その始祖族にやられました」

「彼は今でこそ現役を退いているが、昔は名の知れた勇士だった。その彼があそこまで追い込まれたということは……やはり、厳しいな」

 

 イーリスの顔が露骨に険しく歪む。敵に始祖族がいるということと、それに対抗しうるはずの戦力をもった始祖族の将官がこの場にとどまっているということの双方が、事態の深刻化につながっているのだろうか。頭を振った彼は、切っ先を下に下ろしたままその霊剣を僕に見えるように差し出した。

 

「私の能力は、自身の霊剣の欠片を介して遠方の人間が聞いた音を知覚するというものだ。砦を外部の脅威から防衛することにかけては私に勝るものはいないと自負しているが、こうも懐に暴力の権化が侵入されてはな……せめてカタリナ様がこの場にいたら良かったんだがね」

 

 まるで他人事のようにそう続けるイーリスの言葉。それを責任感の欠如と断ずるか、それとも本当に手詰まりになってしまったと考えるべきか。ただ、事実あのマオに対抗しうるだけの戦力は砦にはいないのだろう。堅牢な砦そのものについては彼ら反乱兵に始祖族の戦士を一人加えたところで攻め落とされることだけは無いだろうが、だが街の状況は悪化の一途に違いない。そしてこのままこまねいていれば、下手をすれば更に敵の兵が増強される恐れすらもある。膠着状態は、間違いなくこの砦にとっては悪手である。

 

 

 このヴァローナを陥落させることも無く、そしてあの始祖族をどうにかできるための唯一の鍵。それは、今はこの場にいないカタリナ様の存在だろう。ヨードルが最後の力を振り絞って僕たちを広場から連れ出したその間際、彼女はマオに戦いを挑んだ。思えばカタリナ様があの始祖族の注意を引き付けてくれたおかげで僕らはここにいるのだから、命の恩人と言えるかもしれない。

 

 果たしてその起死回生の一手はどうなっているのか。それを考えるよりも早く、表情を一気に険しい顔に変化させたイーリスが重々しく口を開いた。

 

「……中央広場に放った兵士の耳から今聞いたよ。カタリナ様が、広場にて磔とされているらしい」

 

 僕たちは、その最後の一手でさえも失ったというのか。彼の視線は、僅かに聞こえる不気味なほどの歓声に沸いた中央広場へと向けられていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16. ヴァローナを護る砦

 戦姫カタリナが倒された。その知らせは、この始祖族の将官からですらも望みを失わせるには十分過ぎるものだったようだ。舌打ちを一つならした彼は、戦乱の渦巻く街から視線を外し踵を返した。焦りの中に何かの決意を秘めた様子で僕とナインの横を通り抜ける間際、僅かに聞こえる小さな声が耳へと届く。

 

「君たちは今のうちにどこかへ逃げた方が良い。いずれこの砦の前まで連中がやってくるよりも前にな」

 

 そう言い残して砦の中へと去っていくイーリスの姿を、僕はただ黙ったまま見送ることしかできない。砦、ひいては街の守護を任された彼が、非戦闘員である僕たちに逃げろと正直に喋った意味を考えると、どれほど状況が切迫しているのかは明白だ。

 

 砦に残存する兵力自体は、街に蔓延る反乱兵の数よりもよほど優勢なのだろう。しかし相手は、投石器やバリスタといった砦の防御兵器が有効に使える城壁の外側ではなく、砦の背後にある街の中へと侵入を果たしてしまった状態だ。そもそも武装蜂起が可能なくらいの数の人間をヴァローナに紛れ込ませてしまった時点で、困難な状況になってしまったのだ。

 

 ならば砦からも兵を出して直接反乱兵を叩くのか。しかしそれを困難にするのが、敵の始祖族の存在だ。単身で無計画な突撃をした挙句敵の手に落ちたカタリナ様を欠いたヴァローナ正規兵にとって、マオという始祖族はどう足掻いたって対抗することは出来ないのだろう。相手が建物の入り組んだ街中にいるのだから、遠くから弓矢で制圧することも叶わない。そうなれば接近して戦うしかなく、そしてただの人間があれに太刀打ちできないことは僕にだって分かる。

 

「……現実的な選択肢は、このまま路地裏に逃げ出して隙を見つけて街の外へと逃げることなんだろう。そんなこと、分かってるよ」

 

 手負いのヨードルも、まだ僕の過去を探していないヴァローナさえも見捨てることが、自分が生き残るための最も安全で可能性のある道であることだなんて、考えなくても分かっている。たとえここが北部人の手に落ちようが、それで何人もの市民が死んでしまうことになろうが、そしてフラントニア帝国に制圧され二度とこの地を踏めなくなろうが、自分が生き残ることに比べればどうってことは無い。

 

 なのに、僕はその一歩目を踏み出すことができずにいる。何故だ、敗北が半ば決定したこの街を見捨てることに抵抗を感じるのは。確かに僕は、ただ流されるまま強者に踏みつぶされるような矮小な存在からは少しでも脱却したかもしれない。でもカタリナ様が居ない今、この状況を打破するだけの手の内はたぶん残されてはいない。

 

 それでも、胸の内から逃げるなという意志が強く沸き起こる。世話になった恩人を見捨てるな、そしてこの街を見捨てるな。自分という人間の器の大きさに収まりきらない、まるで英雄思想のような様相。それはひどく不気味で、しかし無視をするには大きすぎて――

 

「この街は、昔の僕にとって何か特別な意味があったのかな。逃げなきゃと分かっているのに、でも自分の本心は逃げ出すことに大きな抵抗を感じているんだ」

 

 もしかしたら、もう何処かに置き忘れて消えてしまった自身の過去の残り香が、ぎりぎりのところで僕の意志を繋ぎ止めているのかもしれない。"要衝の地ヴァローナを護れ"、そんな勇ましくて英雄のような考え方がツカサという人間の中に浮かび上がるだなんて、もはやそれしか考えられない。僕の過去を知る人物であるナインならば、その一端でも知っているのか。今は具体的な内容はいらない、ただイエスかノーかだけでも僕は知りたかった。

 

「……うん。ツカサと私は、以前にここへ来たことがある。あの時は、この空を見上げていたよ。そして、まだ私たちは――この街を明け渡しちゃいけない」

 

 まるで霧の中を掴むかのような話。僕は、自分の知らない過去の中で一体何を思いながらヴァローナの空を見上げていたというのだろう。この晴れ渡った青い空、その向こう側に一体何を見たのだろうか。

 

 でもこれではっきりした。ツカサという人間は、確かにこの街に対して何もしがらみなど存在しない。しかし自分の過去を探すという目的を達成するためには、絶対にひいてはいけないんだ。

 

 再び自分の中の決意に火が付いたのを実感する。この街は、絶対にフラントニア帝国には渡さない。そのためにやらなければいけないのは、あの始祖族を無力化するということ。僕の心境の変化を理解したのだろう、淡く微笑んだナインが僕の手を握りしめた。

 

「カタリナ様は倒され、敵は雷を操る強力な始祖族。この僕らに、まだやり様はのこされているのか?」

「ゼロじゃないよ。まだ、私とツカサがいる。それにあの女の能力は、絶対何処かに隙がある」

 

 ナインの言葉からは、確信染みたものが感じられた。体のどこだろうが掠っただけでも身体の自由が奪われる雷撃が、避けることも不可能な速度で繰り出される。しかもそれが、まるである程度の距離を挟んだところから牽制をかけるかのように放たれるような、決して目の前にしたくはない敵。黒炎を身に纏い攻勢をかけたカタリナ様でさえも勝てなかった相手。しかし、ナインはその綻びの一端を見たというのだろう。

 

「……あの広場で、何人もの兵士が焦げにされていただろ。みな武装をしていたのに碌に抵抗も出来ずにだ。それにヨードルだって、一撃で――」

 

 その瞬間に、頭の中に違和感が走った。確かにヨードルは、たったの一撃で戦闘不能にまで追い込まれた。彼の手はまるで炎に焼かれたかのように火傷が走り、その上一部が炭化をしたほど。しかし彼は周囲に転がっていた雷の犠牲者のような、全身を雷に打たれて即死をしたわけじゃない。

 

「そう、あの男自身は雷に打たれてはいない。雷が直撃したのは、あくまで槍の先端。彼はその余波を受けたに過ぎない」

 

 何故あの始祖族はヨードル自身へと雷を落とさなかった。まさか、手加減をしてただ動けなくすることが目的だったのか。動けなくなった僕たちを直接霊剣で処断するため――いや、本当にそうなのだろうか。

 

「それに、城門前の広場で雷に打たれて死んだ人たちを思い返してみて。何かがおかしいと思わない?」

「……あの時周辺にあった犠牲者は皆兵士で、黒く焦げていて……」

 

 思い返すだけで、吐き気がこみ上げてきそうなほどの酷い光景。何人もの犠牲者が生前の面影を感じられないほどに黒焦げになり、周辺に漂う肉の焼ける異臭。全員が兵士だったにも関わらず、一人残らず碌に戦うことすらも出来なかったのだろう。まるで墓標のように、それぞれの脇に剣が転がっていて……

 

「……あの場に、雷に打たれた市民は居なかった。全員残らず兵士だけで、しかも決まってその脇に剣が転がっていた」

「そう。犠牲者は全員剣を持った兵士。じゃあ、逆に槍を持ったヨードルは何故助かったと思う? 私は、もう女の能力の欠陥に気が付いたよ」

 

 ナインが断言するあの始祖族の弱点。それは、犠牲になった兵士たちとヨードルの違いに大きな鍵があるのだろう。それは一体何だ。長さか、それとも構造か。

 

 ヨードルの状況は一体どうだった。彼は、その槍を構えていた手をやられている。しかし手が全て焼かれたわけではなく、その一部が黒く焦げる程度ですんでいる。全身を黒く焼かれた兵士との違いは明白。ならば彼が持っていた長槍の柄と、兵士たちが持っていた剣の違いは一体――

 

「――そうか、材質か」

 

 彼の長槍は、黒く塗りつぶされた木材で構成されていた。だからこそ、あの雷の直撃を受けた柄は、金属で構成された先端部とは明確に異なり炎を上げて燃えていたのだ。しかし兵士たちが扱うような一般的な剣は、刀身からその柄も含めて全体が金属で作られている。

 

 ヨードルの槍の柄が木製だったことが雷の威力を減衰させ、そして逆に金属製の先端部が雷撃の対象となった。そして剣という武器を持たない市民はあの始祖族の攻撃の対象外となり、犠牲者は全員その武器を近くに落としていたのだ。

 

「……恐らくあの女が生み出す雷は、私たちが思っているほど自由に扱えるものじゃない。仮に金属製のものに狙いをつけて放つものならば、逆にそれを利用して阻害することだって不可能じゃない」

 

 そして思い出す。あの始祖族が率いる一団が、乱入してきたカタリナ様を対峙をした時。あの女はこう話していた。"私の戦いを邪魔することは許さない"。それは一見して、始祖族同士の戦いに何人たりとも介入は許さないという意思の表れなのだとその時は思った。しかしもし僕とナインの推測が正しいのであれば、あれは周囲の兵が保有している剣に含まれる金属が、自身の能力に干渉することを防ぐためだったのではないだろうか。

 

「あの女は無敵じゃない。それに私たちは、決して無力なんかじゃない。あの将の男に言いに行こう、私たちならば出来るって」

 

 その顔に浮かぶ淡いながらも力強い笑顔を見て、僕は何かを思い出したような錯覚に陥った。新鮮なようで懐かしい。これもまた、僕の知らない記憶の持ち主が垣間見た光景が生んだ幻なのだろうか。彼女に手を引かれたまま、僕もまた歩き出す。イーリスという始祖族に、自分たちを信じてくれと説得をするために。

 

 ナインは、砦の尖塔へと戻るその間際にふと横を流し見た。街の北部の開けた大地へと向けられた、いくつもの防衛兵器。その中に立ち並ぶ幾つかの巨大なバリスタとその弾となる大型の槍。照らされる太陽を反射して、バリスタの矢の先端が鈍く輝いた。

 

 

* * *

 

 

「君たちは避難してきた市民だろう。ここから先は君らは入れん。今の状況を理解しているならば、我々の邪魔はするな」

 

 僕のような兵士ではない一般の人間は、この砦の中にいるということが特例のような状態だ。基本的にこの砦に普段いるのは兵士や雇われた傭兵、そして領主などの上流階級の人たちだけであり、一般人はそもそも入ることすらかなわないという。街が襲撃されて逃れてきた市民が受け入れられたのは、状況が切迫していたからに過ぎないのだ。

 

 だからこうして内部を自由に動くことは勿論のこと、始祖族の将官に謁見しようなどという行為は、断じて許容されるべきではないことは分かっている。だけど、僕はどうしても彼に会わなければならない。決意を決めた顔で僕たちの前から姿を消したイーリスの元に行って、あの始祖族を倒すための作戦に関して彼を説得しなければいけないのだ。

 

「お願いです。ヴィンター閣下への謁見をお許しください。あの反乱兵を取りまとめる、フラントニアの始祖族について話したいことがあるんです」

「……フラントニアだと? 馬鹿々々しい、そのような戯言を話すだけならばとっとと大部屋に戻れ!!」

 

 砦の中央へと続く通路を塞ぐ兵の眉が吊り上がった。彼からしても、この異常事態にわけのわからない訴えをするような市民など邪魔で仕方が無いだろう。しかし、だからといって僕は諦めるわけにはいかない。強行突破をかけようと姿勢を低く落とすナインの肩を掴み、せめて話し合いで通してもらえないかとなおも引き下がった。

 

「兵隊さん、あなたも聞いているはずだ!! 敵の首領は、強力な始祖族の戦士だ。それを倒さない限り、僕たちは反乱兵を駆逐することは出来ない!!」

「……お前、そこに直れ!! これ以上そのようなことを喋るのならば容赦はしねぇぞ!!」

 

 彼は、とうとう剣を構えた。この切迫した状況下、この話が同じく砦の中に避難してきた市民に伝われば混乱は拡大するだろう。だからこそ、強制的に黙らそうとするのか。どうすればいい、この男を説得して、あの将官に再び顔を合わせるためには――

 

 

「――君、剣を下ろせ。彼の言っていることが本当だと、君ももう把握していることだろう」

 

 しかし、こちらから強行突破をするまでもなく、イーリスはその姿をまた僕たちの前へと見せた。砦の小部屋の中から出てきた彼の顔は、険しく皺が刻まれている。片腕を兵士の肩にやって退かし再び僕の前に立った彼は、先ほどよりも感情の見えない無機質な瞳でこちらに目をやった。

 

 ああ、これはクアルスでも見た、冷徹な始祖族そのものだ。僕たち人間とは異なる立場に位置する、支配階級にある者達の視線。さっきまでの、僕たちに目線を合わせてヨードルを救出したことを感謝した彼の姿はそこには無く、ヴァローナの街の守護のためだけに使命を燃やす一人の始祖族がいた。

 

「君たちとはもう話すことは無い。あの始祖族が強力な雷撃を扱い、ただの人間が太刀打ちできないということだけが分かれば、もうそれだけでいい」

 

 人が変わったかのように、その視線は感情を宿していない。ただ淡々と砦の外を見つめ、ため息を吐く姿。でも、僕はこの人の頭の中に浮かぶ考えを垣間見た。カタリナ様が打ち倒されたと知った瞬間に見せた、決意に染まったあの表情。あれは恐らく――

 

「――ヴィンター閣下、あなたがあの始祖族に捨て身で戦いを挑もうと、カタリナ殿下の二の舞です」

 

 人間では決して勝てない相手にどう挑む。イーリスは、自分の霊剣で彼女に立ち向かおうという答えをだしたのだ。確かに、雷撃を抜きにしたってあの女は霊剣という強力な武器を扱う強敵で、それだけの要素で人間の多くは太刀打ちできない。だからこそ、彼は決して直接的な戦いには向いていない小さな霊剣で、大きな十字型の霊剣を扱う始祖族に戦いを挑もうとしている。

 

 砦の将が自ら敵に戦いを挑む。それは一見して美学のようで、彼が負けたその瞬間にこの砦は陥落したも同然となる。どう考えても彼があの女に勝てるとは思えない。イーリスは、霊剣だけではなくその能力だって直接的な戦闘に向いているとは到底言えないのだから。

 

「ならばどうするのだ。君たちが代わりに行くか? 思い上がりも甚だしい、どうせ死体の山が余計に積み上がるだけだ。確かに私は戦闘が得意な性質ではない。だが君のような人間族よりは、よほど適任だろう」

 

 まるで僕たちを挑発するような言葉。嘲るような笑いを浮かべて、ひたすらに冷徹な視線をこちらに投げかける。しかしついさっきに彼は、僕たちに逃げろと言っていた。これは今ならばまだ引き返せるぞという、彼なりの親切心なのかもしれない。そして僕は、彼のその親切を二度にわたって踏みにじることになる。

 

「……いいえ、僕たちが代わりに行かせていただきましょう。その発言は間違っている。殿下よりは、僕の方がよほど適任だ」

 

 

 それが引き金となった。彼の隣に控えていた兵士が剣を振りかぶった。最早僕たちは許容する範囲を超えたのだろう、首をそのまま切り落とさんと銀色の刃が迫る。僕は、それを待っていた。

 

「――遅い!!」

 

 これまでも妙に身についていた体の動かし方は、ナインの黒剣を握り締めてから飛躍的に向上をした。効果的な剣の打ち合い方なんてさっぱりだけど、単純な剣の軌跡を読み切ることは難しくはない。剣が空振りして体勢を崩したその兵士の脇を走り抜ける間際に、その腰へ残ったもう一本の剣の柄を握り締める。

 

 まるで体の内面からどのように動けばいいのかが自然と浮かぶ、薄気味の悪い感触。しかし今はそれを使いこなすほかはない。兵士から奪い取った剣を手に壁へ足を掛けて蹴り出し、上下反転した世界の中で剣を振りかぶる。つかの間の浮遊感の最中、目を見開いて僕の姿を見るイーリスと、そして何が起こったのかも把握できていない兵士の後ろ姿を目に焼き付け――

 

 耳に焼けつくような、甲高い金属音が手元から響き渡った。体重そのものを乗せて打ち付けた剣は、兵士から武器を取り落とされるには十分すぎる威力を持つ。地面へと落下する彼の剣の柄を空いたもう片方の手で握り締め、そして再び地面へと足をつける。己の手から剣が無くなったことにようやく気が付いた兵士に、僕は両手に剣を構えた状態で再び向き合う。

 

 

 いつの間にか、予備のナイフを構えたナインも僕の隣へと控えていた。僕たちに向き合うのは、丸腰になってしまった兵士と、そして霊剣を顕現させてその切っ先をこちらに向けるイーリスの姿。

 

 僕の目的とは、イーリスの前で兵士をけしかけて僕を襲わせて、それをいなすことで僕自身の力を彼に認めさせることだ。彼が、本当にただの冷徹な始祖族ならば、秩序を維持するために僕たちを決して見過ごそうとはしないだろう。だから、これからの行動は賭けに出るしかない。

 

「……もう一度、お願いします。僕たちを、閣下の代わりに行かせて下さい。決して無策じゃない、僕たちにはある考えがあります」

 

 彼らとの間に、手に持っていた剣を投げ捨てる。石に刃が打ち付けられる耳障りな音が響き、それらは兵士の足元へと転がっていった。ナイフを構えたままのナインは置いといて、少なくとも僕は完全に手ぶらの状態へと後戻りだ。地面に落ちた剣を素早く拾い上げてその切っ先を再び構えた兵士は、たぶんすぐに僕を殺せることだろう。同じ策は二度も通用しないし、それに今度はイーリス自身も霊剣を構えている。

 

 自分の命そのものを賭け、僕はイーリスの言葉を待つ。彼がひとたび指示を送れば今度こそ僕の首は胴体と泣き別れをするだろうし、そうじゃなくて彼自身が僕を処断するかもしれない。数秒間の空白が流れ、手に浮かんだ汗を握り締める。さあ、どう出てくる。イーリスの眉が険しくひそめられた瞬間、僕は唾を飲み込んだ。

 

「……君たちが間諜の類じゃないだけでも、私は幸運だったようだ。時間がない、君たちの話とやらをまず聞かせて貰おうか」

 

 賭けに勝った、たったのそれだけで張りつめていた緊張の糸が一気にたわみそうになる。しかし本当の闘いはまだ始まってすらもいない。決して僕とナインだけでは行うことの出来ない作戦は、この砦の守護を取り仕切る彼の協力が不可欠なのだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17. 雷光の中へ

 ヴァローナを南北に縦断する巨大な大通りを、僕は一人きりで歩いている。こんな街の中心部だというのに、前後左右何処にも通行人の姿など見えやしない。否、人だったら、この目的地に掃いて捨てるほどにいるのだ。皆が捉えた敵将の前で陣を張り、そして砦からの使者を待ちその陥落に向けて始祖族の元で士気を高めていることだろう。

 

 目的地は、その敵の最中。街の中心部に広がる市民の憩いの場であり、今はその市民たちの多数の遺体が転がっているであろう中央広場。大通りの中頃まで歩いて来れば、もうその光景は嫌でも目に入る。ところどころが赤く染まった石畳の広場に、何人もの武装をした北部人たちが集結をしている。広場の中心にて彼らが囲う高台の上に、その人は見せしめのようにつるし上げられていた。

 

「……見つけた。広場中心の高台にカタリナ様、その西方に反乱兵」

 

 連れ添っている誰かに伝えるわけでもなく、ただ淡々と事実を述べる。広場を囲う建物の高さ、標的のいる場所、そして彼らの配置。その全てが、幸いに今のところは計画から外れるものではない。

 

 反乱兵たちはその全てが寄せ集めの集団には見えないほどに整然と並び、一人の首領がその前で立っていた。この遠く離れたところからでも分かる、金色に光る十字剣。磔にされたまま死体のように身動きひとつしないカタリナ様とは対照的に、あの始祖族の女は時折その霊剣をふるわせながら反乱兵の前に立っている。

 

 彼らは待っている。人質として捕らえたカタリナ様と、砦の無血開城。その二つを天秤にかけさせて、どちらを選ぶのかという問いに対する答えを。そんなもの、砦の将官ならば選択肢など無いも同然だというのに、彼らは律儀に今まで待っている。

 

 それはきっと、カタリナ様を護るべき街にすらも切り捨てられた哀れな始祖族の戦士に仕立てあげて、そしてこの場で殺すため。アストランテの兵士たちの中で英雄視されている存在を無様に辱しめて殺すということが、一体彼ら北部人にどれほどの意味があるのかはわからない。でも、そんなことのために、抵抗の一切ない彼女はその視線たちの先で縛り上げられて無理矢理に立たせられている。

 

「敵の始祖族は、カタリナ様のすぐ前にいる。ああ、これならば――行けるッ」

 

 僕のような人間族が強力な始祖族を打ち倒すためには、その戦場を端から自分にとって有利な場へとするのが鉄則だ。もう僕は、その鉄則の下で始祖族を一人打ち倒している。だから今度もそれに乗ろうじゃないか。この中央広場において、カタリナ様を公に殺す場を作るというその慢心を、利用させてもらおうか。

 

 地面を捲りあげるほどの力で蹴りだし、敵兵に満たされたその場に向けて走り出した。決して一人きりなんかではない。僕の両手にはナインという名前の黒剣が、懐にはイーリスの霊剣の欠片が、そしてずっと背後には――虎視眈々と中央広場を見据える彼らがいるのだから。

 

 

* * *

 

 

「……それが、君たちが推測する敵の弱点か」

 

 イーリスは古ぼけた机に手をつき、探るような視線を向けてきた。

 

 あの始祖族は決して無敵なんかじゃない。縦横無尽に走る雷には、必ず弱点と対抗策があるはずだ。僕の主張は良く言えば希望に満ちていて、悪く言えば絶対的な根拠にかける机上の空論。それを受け入れてもらうのは、簡単なことではないだろう。

 

「仮にそれが本当だとしよう。奴の雷を打ち破ったとして、そのあとはどうなる。敵は巨大な霊剣を保有している。それに君たちが太刀打ちできるとでも?」

 

 霊剣は、それ自身が強靭でとてつもなく鋭利な特性を持つ強力な兵器だ。そして始祖族たちの振るう霊剣には、それ単独でも特異な能力が備わっている。例えばクアルスで対峙したアリアスならば、彼自身が扱う強力な火炎の他に、霊剣を複数生み出して投てき武器として扱う錬成という能力。きっと、あの始祖族も雷撃の他に何らかの特殊な能力が備わっているのだろう。

 

 こればっかりは、実際に自分の目で確かめなければ分からない。もしかしたら、雷撃など比ではないとんでもない隠し玉を抱えている可能性だってある。だからこそあの始祖族を打ち倒すにあたって未だ未知の能力の正体次第では最大の障壁になるのだ。そして、僕はその不測の事態に備えた考えも保有している。

 

「……詳細はお話しできませんが、霊剣と打ち合うだけなら不可能ではありません。それに、まだこちらには切り札があります」

 

 イーリスが放った兵を通して聞いた中央広場の状況が、僕たちが最後に切ることが出来るカードの存在を伝えてくれた。戦姫カタリナ・フォン・アストランテは、一人の護衛もつけずに単騎で突撃した結果マオと名乗った始祖族に再び敗北し、現在敵の手に落ちて中央広場にて磔にされている。

 

 ただ、彼女は殺されてはおらず、まだ生きているのだ。全身を雷にうたれたために意識はなく、肌には幾つもの火傷が走り、赤黒い髪や鎧の各部は黒く焦げ付いた無惨な姿。果たして交渉のカードに使おうとしているのか、それとも公の場で処刑をするために生かしているのかはわからない。それでも、彼女は五体満足でそこにいる。

 

 仮にその身柄を解放して意識を取り戻させることが出来たのならば、非常に心強い戦力となるだろう。彼女がマオに負けたのは、ひとえにあの敵を理解しないままに無謀な突撃を行ったからだ。これから僕たちが行う戦い方を彼女が徹底をするのならば、少なくとも一方的にむざむざと敗北を喫することは無いと信じたい。

 

「つまり、カタリナ様を解放すると。それこそ夢物語だ。中央広場には始祖族だけではなく武装蜂起した反乱者たちが集結している。よしんば君がその壁を突破してカタリナ様の元にたどり着いたとして、そこは数多くの敵に囲まれた修羅の巷だ。どうやってそこで戦う?」

 

 普通に考えれば、敵が密集している中に飛び込んでその将へ戦いを挑むだなんて、非現実的にも程がある無理な話だ。ただでさえ強力な始祖族に加えて何人もの反乱兵を相手取るのは、どう考えたって量と質の双方で圧倒をされている。

 

 しかし相手取ろうとしているのは、ただの戦力に長けた始祖族などではない。雷の使い手にして、巨大な十字剣型の霊剣を武器とする強大な敵。だがそれは言い換えれば、変哲のない人間族の反乱兵たちと連携を取ることを不得意とするということも意味する。

 

「……あの始祖族は、恐らく自分の戦いに反乱兵たちを介入させないでしょう。ただ彼らが剣を片手に存在するというだけで雷撃という能力は事実上封じられる。だからきっと、カタリナ様を解放した僕に対峙しているのは、あの女一人だけです」

 

 その光景を幻視する。幾多もの兵士たちの前で、意識が戻らず動く様子のないカタリナ様とただの人間族である僕、それと向かい合うは十字剣を構えたマオ。それはきっと絶望的な光景。でも、何人もの兵士の相手を一度にするよりもよほどマシだ。

 

「そしてその瞬間に――ええ、これは分の悪い賭けに過ぎません。でも仮にこの作戦が失敗したところで、僕とナイン、そしてもう捕らわれの身となったカタリナ様の三名しか失われない。ベットするには、ちょうどいい塩梅だとは思いませんか」

 

 無論、僕はあの始祖族の打倒に失敗するつもりなんてない。無策でイーリスがマオに戦いを挑むよりも、ナインの黒剣という隠し玉を持った僕の方が単騎での勝率はまだ高いだろう。でもこの作戦にはイーリスの同意が不可欠で、そして彼の協力が無ければ終始反乱兵たちの土俵で戦いを挑むことになる。

 

 だからイーリスをどうにかして頷かせる必要がある。リスクというものを考えれば、実質的に初手で動くことになるのが僕とナインだけというこの計画は、元々の作戦から考えればよほど良いものだろう。確かに確実性は薄いかもしれないが、それと同時にイーリスにとって失うものも少ない。

 

 さあ、その頭を縦に振れ。僕の願いが通じたのか、目を瞑って数秒間の沈黙を保っていたイーリスは、諦めたようにその口を重々しく開いた。

 

「……ああ、私もその計画に乗ってやろうじゃないか。だからこそ、それには掛け金が必要だ」

 

 イーリスは、自身の霊剣を顕現させていた。刃の一部が不自然に欠けたレイピアのような細長い短剣といった出で立ちのそれを机の上に置き、イーリスはその霊剣の柄へと力を込めた。それはまるで精密に組み合わさった積み木を崩すかの如く、霊剣の柄の半分近くが本体から分離を果たした。分離した柄の一部は当然霊剣の輝きを失ってはおらず、そして彼自身の体にも何ら異変は起きていない。

 

 彼のいきなりの行動に唖然としか出来ない僕をしり目に、彼はその淡く輝く破片をこちらへと差し出してきた。精巧に作りこまれた小物のような、不可思議な紋様を表面に走らせて白く淡い光を発するその破片が、僕の手のひらへと乗せられる。

 

「君の言う計画とは、こちらとの連携が必須だろう。私の霊剣の破片は、君の聴覚を通して私自身へと音を伝える。これを君に預けよう。なに、心配は無用だ。たとえ君が殺されてその破片が砕かれたところで、私の残ったもう一本の腕が霧散するだけのことだ。」

 

 それは、彼の最大限の協力を引き出したということだろう。彼の霊剣の破片を握り締め、そしてそれを懐へと仕舞い込む。このおかげで、僕は砦の方に適切なタイミングで支援を要請することが出来る。何の感慨もなく淡々とした表情を続けるイーリスが、とても心強く感じた。

 

 

「しょ、将官殿!! 敵の反乱兵から要求が!!」

 

 その話の切れ間を狙ったようなタイミングで小さな部屋と通路を隔てる扉が音を立てて乱雑に開かた。その直後に飛び込んできた一人の砦の兵士。彼の発したその一言を聞いて、驚きよりもとうとう来たかという感慨が先に浮かんだ。この膠着状態において、絶好の人質を取った敵がとるような行動など一つしか存在しない。

 

「案外敵の動きは素早いじゃないか。内容を伝えよ」

「え、ええ――戦姫カタリナ様の命とヴァローナの砦、そのどちらかを選べ――です」

 

 シンプルでありながら彼らの狙いを端的に伝えるその文言、それは端からこちらが出すであろう答えを知っての上で送りつけてきたとしか思えないもの。明け渡してしまったら二国間の要衝としての役割を失うほどのこの砦と、アストランテの王族とはいえどもたった一人の戦姫。真っ当な将ならば、天秤にかけることすらもすないような状況だ。しかしイーリスは、その兵士の言葉を聞いて、むしろその顔に深い笑みを浮かべた。

 

「……我々の答えを直接教えてやろうじゃないか――ヴァローナ正規軍将官イーリス・ディ・ヴィンターが命じる。ツカサ、そしてナイン。私の命の元、敵将マオ・リーフェンを打倒せよ」

 

 

* * *

 

 

「――き、来たぞ!! 全員傾聴、砦の兵だ!!」

 

 真っ正面から小細工抜きでの突撃。そんな無謀とも言える行為が敵に見つからないわけがない。前倒の姿勢のままに動かし続ける脚、そして見る間に縮まる敵の陣との距離。一歩踏み出すごとに、見る間に上がる景色の流れる速度。こんな状況だというのに、自分の体のあまりの軽さに、異様とも言える高揚感が沸き起こる。

 

 敵兵の叫びが伝搬し、僕という闖入者へと向けて彼らが剣先を並べて陣を組み始める。しかしそれは小規模な人数の奇襲ならばまだしも、それよりもずっと素早く接近するたった一人の襲撃者には到底釣り合うものではない。

 

 多勢に無勢、数の差だけはどうやったって覆ることはない。だからこそ、極限まで見極めなければならない。敵兵たちの位置を、そしてその中にあるはずの僅かな隙間を。戻ることは考えずに、ただその陣を突き破り中央に到達することだけを目標とすれば良い。

 

「たったの一人きり、馬鹿め!! 覚悟ォ――」

 

 そして、狙いを定めた。僕というたった一人で敵陣に突撃する愚か者を下そうと、血で薄汚れた剣を振り上げて突出してきた一人の敵兵。覚悟なんて、していなかったらこんなところに来るわけがないだろう。己を鼓舞するために、僕は敵兵に目掛けて精一杯の笑顔を向けた。

 

 限界まで姿勢を落とし、眼前まで迫る地面の姿。その体の上を敵兵の剣が通過し、風切り音だけを置き去りにする。これでまずは一人を抜いた。これで前後左右が敵だらけ、もう僕の体は敵陣の中にあり、引き返すことはすでに叶わず突破する他はない。

 

 倒れそうになる間際に地面へと黒剣を突き刺してバランスを取り、次なる標的へと目をつけた。心臓を目掛けて繰り出される槍。その切っ先を飛び上がってかわし、槍の柄を足場にしてさらに己の体を前へ前へと突き進ませる。

 

「速すぎて手に負えん!! リーフェン様を守れ!!」

「か、囲め!! 奴はたったの一人、押し込めば――」

 

 帰還は考えずにただ突き進むだけ。きっと、地獄へと向けた片道の往来だ。この陣をたとえ突破することは叶っても、振り向いたら決して抜け出すことの出来ない堅牢な人の壁があることだろう。

 

 これは、敵を倒すのではなくただその先に行くためだけの捨て身とも言える突撃に過ぎない。それでも、絶対に脚は止めない。敵兵たちが僕の行動を一騎当千の武人の襲撃と思っているうちは、彼らは絶対に僕を止められない。反乱兵たちの顔に浮かぶ理解の出来ないなものを前にした警戒感が彼らの剣先を遅らせて、そしてただ突き進むだけの僕にわずかばかりの猶予を与えるのだ。

 

「――さぁ、取った!!」

 

 兵士たち、そして未だに陣の奥で動じずに待機をしているであろう始祖族に向けて言い放つ。立ちはだかる最後の兵士たちの横を駆け抜けて、目の前に見えるは高台への石造りの段差。その頂へと手をかけて、一気に飛び上がった。つかの間の浮遊感の中でようやく視界へと入れた、磔にされたカタリナ様の姿。報告の通りの、敗北したその姿のままに両手を木の柱へと括り付けられた、まさに捉えられた敵将といった出で立ちだ。

 

 そしてついに、高台へと両の足を付けた。何人もの兵士を抜き去りたどり着いた目的地。その上に立ちあがり、カタリナ様が磔にされた柱へと一歩近づいた。その背後で、雷の弾ける鋭い音が鳴り響く。僕の動きだけではなく、この身を縊り殺そうと勇む反乱兵たちをも牽制するかのような、威圧というものをそのまま音にしたかのような響き。

 

「こちらを向きなさい。せっかく拾った命をまた捨てに来るとは、まったく愚かしい」

 

 言われるがままに、背後へと振り向く。巨大な十字剣が吐き出す雷、そしてそれを構えるのは装飾鎧へ身を包んだ一人の始祖族。再び、僕はこの動く理不尽な暴力の権化の前に姿を出したのだ。

 

 闖入者を排除しようと徒党を組んでいた反乱兵たちは高台にて向かい合う僕たちを遠巻きに眺めている。彼らの前に広がっている光景とは、臨戦態勢の始祖族を前にする、縛り付けられたまま意識のない敵将とその前に立ち尽くす愚かしい一人の人間の青二才という構図だ。彼らが手を下さずとも、始祖族の首領はこの闖入者に碌な抵抗も許さぬままに殺すだろう。だからこその、敵陣のど真ん中に一対一という歪な状況が出来上がったのだろう。

 

「僕は、ヴァローナの砦の将、イーリス・ディ・ヴィンター将官閣下の使いだ。殺すのは、閣下の言を伝えてからにして貰おうか」

 

 黒剣を構えたまま、そう高らかに宣言する。こんな異様とも言える派手な登場をしておいて砦の使いを自称するなど、無理のある話だ。当然のように押さえきれない嘲笑を漏らす反乱兵たち。そして始祖族の女も、愚かしい物を見つめるような呆れと失望を混ぜた視線をこちらに向けた。

 

「……ヴァローナでは使者は敵陣の中に飛び込むのが慣例なのか、それともあなたの気が違えたのかは問いません。ただ使者を名乗るのならばその伝言とやらを教えていただきましょうか」

 

 しかしこの女は食いついた。その一言を聞いて、いつの間にか浮かんでいた笑みを深くする。これでようやく、舞台は最後の仕上げを除いて全て組み上がった。あとはその仕上げを行うだけ。黒剣を逆手に持ち替えてカタリナ様が縛り付けられた柱の前に立ち、始祖族の金色の瞳を睨みつけた。

 

「――戦姫カタリナ様の命とヴァローナの砦、我々はそのどちらをも取る。街を蹂躙した貴様たち反乱兵、そしてその愚か者どもを焚きつけた帝国の間諜、ここでその全てを処断する」

 

 砦を出る間際に言い渡されたその言を一字一句違わずに言い切ると同時に、黒剣を持った両手を後ろへと突き出した。確かな手ごたえ、それはカタリナ様を柱へと縛り付ける縄のもの。縄を切り裂かれて体を支えるものが無くなった彼女の体が力なく高台の上に転がり、その直後に前後左右全ての方から響くあらんばかりの罵声。

 

 マオという始祖族が居なければ、彼らはその手に持った剣や槍で僕の体を原型を留めないほどに蹂躙するだろう。貴様ら壁の中の人間に生きる価値はない、その男を殺せ、見せしめに首を砦に放り込め。口々に彼らが吐き捨てたそれは、聞き取れたものだけでもこれだけある。一気に燃え上がった彼らの怒りとは裏腹に、マオが十字剣の切っ先を僕に向けた。

 

「言いたいことはそれだけですね。ならば、彼らの願いを叶えることとしましょう。もう邪魔が入ることはありません。あなたと戦姫、その双方を我らが処断します」

「……ええ、これで全て"準備は整った"」

 

 彼女の剣が雷光で光り出す。今だ止まない罵声に混じる、雷光の弾ける乾いた音。それを目の前にしながらも、はっきりと僕は宣言した。それは目の前で処刑の執行のために雷光を集約させている彼女に向けてだけではなく、懐にしまっているイーリスの霊剣の破片にも向けている。

 

 これで、イーリスは僕たちの状況を把握したはずだ。全ては計画通り。カタリナ様が捕まっていた高台の上で、解放された彼女と僕は敵の始祖族と向かい合い、今まさに雷光によって僕たちを処刑しようとしている。あとは、彼が最後の仕上げのための引き金を引くだけ――いや、もう彼はその引き金を引いたはずだ。

 

「終わりです。せめてもの慈悲として、苦痛もなく死なせてあげま――」

「――終わりではなく、ここからが始まりだ!!」

 

――ツカサ。計画通り、全部この場所に目掛けて降ってきている!!――

 

 一度は下げた二振りの黒剣を再び構えると同時に、耳にその音が届く。目の前で威圧的に光る雷の鳴き声に混じり、幾多もの獰猛な風切り音が頭上から聞こえてきた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

18. 本性

「――総員広場奥へと退避、頭上を護りなさい!!」

 

 やはりこの女は気が付いたようだ。頭上から迫りくる、幾多もの刃たちに。即座にその指示に従って一斉に引いていく反乱兵たちとは異なり、僕とマオは互いに向かい合ったまま高台から一歩も動かない。そして直近までに訪れる、幾つもの巨大な矢が空気を切り裂いて降り注ぐ音。僕たちは互いに黒剣と十字剣を構えた。

 

「あなたごとバリスタの標的にするなど、正気ですか!?」

 

 正気だとも。僕のような人間族の青二才が始祖族の戦士に挑もうだなんて、むしろこんな手を使わなければ可能性すらもその手に得ることは決してない。

 

 中央広場へと突入してくる矢の姿が、とうとう澄みわたった空を背景にして姿を現す。街の外に向けられていたバリスタを用いた、中央広場に向けての一斉射。通常の矢とは比較にならない破壊力のそれが、この広場に目掛けて一気に弾着し始めた。

 

 高台を構成する石畳すらも砕きながら地面へと突き立てられる巨大な槍のような大きさの矢。幾つかは広場を囲う建物の屋根に遮られるが、それでも砕かれた屋根の破片までもが広場へと飛び散り、死角であるはずの広場の端へと転がった。武装蜂起で虐殺された市民の死体、打ち捨てられた屋台の残骸、そして逃げ遅れた反乱兵。その全てに分け隔てなく、飛来した鋼鉄の長槍は容赦なく穿ち、堅牢なはずの石が敷き詰められた地面へと深々と突き刺さる。

 

――ツカサ、来るよ!!――

 

 バリスタの矢の雨は、無差別にこの広場を蹂躙するように降り注ぐ。それは決して僕に対しても例外ではなく、青々とした空を突き進み矢じりをこちらに向けて一直線で迫りくる鋼鉄の矢じりを見据える。未だ倒れ伏したまま動く様子のないカタリナ様の体を護るために砦の方角に向けて立ちふさがり、黒剣をその矢に向けて構えた。

 

「ああ、落とす。ナインだけが頼りだ!!」

 

 普通だったら目で捉えることも困難なほどの速度で突き進むバリスタの矢、その先端がこの体を穿ち抜くその瞬間に、黒剣を薙ぎ払った。まるで細かなずれをナインが修正してくれたのかと思うほどに刀身がこれ以上ない瞬間に矢の先端へと打ち合わされ、その直後に伝わる異常とも言える重厚な衝撃。ただ打ち合わせただけなのに腕そのものを持っていかれそうな重さに耐えて、黒剣を振り抜く。

 

 瞬きする間もなく、反らしたバリスタの矢が背後の地面へと突き立った爆音が響き、それと共にはじけ飛んだ幾つもの地面の破片が背中にぶつかった。しかし安心している暇はなく、続く二本目の槍の姿を目の当たりにする。

 

 次なる槍を落とすために黒剣を振りかぶり、その傍らでこの計画の詳細を思い起こした。

 

『砦にあるバリスタの矢の半分を、マオと僕だけが高台にて向かい合う状況を作った直後に中央広場へ一気に撃ち込む』

 

 それこそが、雷を操り腕一つ動かすことなく周囲の敵を攻撃するという始祖族の能力を封じるための唯一の手段。再度弾き飛ばしたのは、威力を極限まで高めるために矢じりから胴体までの全てが鋼鉄によって作られた、砦を護る敵陣殲滅用の重バリスタで運用される巨大な矢だ。高所から落着するそれは容易く石の地面を穿ち、そのたびに広場へと鋼鉄の柱を打ち立てていく。

 

 撃ち込む矢の数は、砦へ大量に蓄えられたそれの半数にも上る。その一部は周囲の建物に阻まれたり着弾地点が大きく逸れてしまうが、多数は中央広場の高台付近に突き刺さる。僕と始祖族の双方が自身に降り注ぐ矢を迎撃をする最中、周辺の状況は大きく変化をしていた。幾多もの鋼鉄の矢がハリネズミのように地面から生え、それぞれが日の光を鈍く反射する。

 

 

「……これで撃ち止めですか。ヴァローナの敵将も、使者ごとバリスタで撃とうとは驚きですよ」

 

 辺り一面には地面に撃ち込まれた大量のバリスタの矢が散在し、そして空から更なる矢が降り注ぐことも無い。砦にある残弾の半分というのは伊達ではなく、変わり果てた光景の中央広場がそこには広がっていた。矢が何本か直撃したのだろうか、カタリナ様が縛り付けられていた柱は中ほどから微塵に砕かれ、そして広場だけではなくその外周の建物にも穿たれた跡が生々しく刻み込まれている。

 

 僕と同じく自身に迫ったバリスタの矢を全て払い落とした敵将が、霊剣を天高く掲げた。迸る雷光と雷鳴。それは僕の黒剣へと目掛けて雷を落とす合図。十字剣の全体を覆った金色の雷光を見せつけるかのように掲げた女が、ゆっくりと切っ先をこちらへと下ろした。

 

「でもそれもお終いのようですね。あなたを差し出した愚かしい敵将は、私が後ほど始末をしてあげましょう。だから、あなたはここで眠りなさ――っ!?」

 

 霊剣から雷が放たれ、視界が金色の染まる寸前に目を瞑る。真昼の太陽からさえも光を奪わんとする、凄まじい雷光と耳を劈く爆音。しかしそれに続くはずの命を奪う雷撃はこの身へとは伝わらない。それはもう予想をしていたこと。まだ雷鳴の残り香がピリピリと肌を刺激する中で、再び瞼を開けた。

 

 僕は、ようやくこの女の鼻をあかしたのだ。蓄えた雷撃が対象に直撃するどころか霧散したことに目を見開くマオの姿を正面に捉える。今やここは、避雷針としての役割を与えられた幾つものバリスタの矢によって強固な耐雷防御に覆われた空間と化した。圧倒的優位にいるという誇示を崩さぬままにあくまで僕を処断する対象としか認識していなかったこの始祖族は、初めてその優位さがもはや維持されていないと知ったのだ。

 

 両手の黒剣を構えなおし、そして足へと力を込めた。周囲に突き立てられた幾多もの鋼鉄のバリスタの矢、それらを縫うようにして標的に接近する最短経路を思い浮かべ――地面を蹴り出した。

 

「くっ、雷が!! ですが、あなたなどそんなものが無くとも――」

「言えよ、"無くとも"何だっていうんだ!?」

 

 確かにただの武器で挑めば、この女の霊剣とやりあうなど不可能だろう。でもナインならば、この黒剣ならばそれに追いすがることができる。再び電光を纏おうと光りだす十字剣を前にして、僕は背中を向けるどころか一抹の迷いもなく黒剣を打ち付けた。

 

 返ってきたのは、まるで堅牢な岩を切りつけたかのような手応えの無さ。しかしその衝撃と共に蓄えられていたであろう雷が再度周囲へと弾け、それらはこの身を蝕むことはせずに全てが突き立てられたバリスタの矢の胴体へと吸い込まれるようにして消えた。

 

 霊剣を押し留めるべく、二本の黒剣へ全身の力を込める。押し込むたびにほとばしる雷撃、そして敵の顔に浮かぶ驚きの表情。それはすぐに憤怒へと染まり、この膠着状態すらも長続きはしなかった。

 

「……鋼鉄の矢。それで私の全ての力を封じた気ですか――うぬぼれるな、人間族が!!」

 

 まるで動く壁を前にしているがごとく、押し留めていた十字剣が万力のような威力と共に押し出された。到底押さえきれないそれにたたらを踏み、姿勢が完全に崩れ散るよりも前に後方へと飛び上がる間際、振り抜かれた十字は電光を再び纏い始めていた。

 

 地面に足が着き、もう一度突撃をしようとしたその鼻先に雷の火花が瞬く。マオの構えた十字剣は無作為に周辺へと雷を飛ばし、その切っ先が寸分の狂いなくこちらへと向けられる。

 

「確かにただの雷は周辺の鉄で阻害されます。ですが――」

 

 十字剣の切っ先から幾度となく周囲のバリスタの矢に向けて細かな雷が伝う。完全に敵の制御下から外れた動きのそれは、絶対にこの身を狙って焼くことはない。だというのに、冷や汗がほほを伝う。

 

――逃げて!! 奴のもう一つの能力、それは、――

 

 視界を焼くほどにまで明るさを持ったその剣先が僅かに震えるその間際、頭の中にナインの叫び声が響いた。逃げろ、それは一体何処へだ。いや、そもそも何から逃げれば良い。そんなことは、まるで巨大な弩のように構えられた始祖族の霊剣を見た瞬間に、本能で理解を強制させられた。銃身を成す十字剣の先端が眩く輝き――

 

「――紫電一閃、消し飛びなさい!!」

 

 それはまさに、雷光そのもの。雷を吸引するはずの鉄柱の全てを無視した、十字剣の先端から一直線に放たれる雷撃と熱線。体の僅か右を通過したそれは、直撃を避けたというのに火傷をしたのかと錯覚するほどの強烈な電熱を空気を通して伝えた。穿たれた建物の壁を中心に、異様な焦げ臭さが立ち込める。その雷撃線を放った十字剣は、再び雷光が集結していた。

 

 それは、この戦いが始まる前から危惧していた、雷撃の他に霊剣自身が保有しているこの女のもう一つの能力。片方の能力が事実上封じられたために、次なるそれが姿を現したのだ。

 

――あいつの剣が持つ特能は、自身の能力の強制投射。持ち主の能力が雷ならば、たとえ電磁的な阻害があっても、それすらも突き抜けて何かに直撃するまで突き進む――

 

 つまり、人間族である僕が始祖族に立ち向かうために用意した最終手段すらも無効化する、酷い理不尽にまみれたものだということ。たとえ奴の雷が強力だとして、自然現象の延長に過ぎないそれは天然の雷と同じく避雷針たちに吸引されて然るべきだ。しかしあの女の隠し玉は、それすらも超越するのだというのか。

 

 立っていた場所を、再び光線のような雷撃が通過する。僕が出来るのは、ただ敵が構える十字剣の射線上から逃げるということだけ。体勢を崩しながら横っ飛びで避けたその先で、更に雷光を纏わせてこちらに向けられた霊剣の姿を見て歯噛みする。

 

――落ち着いて。確かに能力の投射は強力だよ。でもその投射は剣の先にしか行えない。そして投射の瞬間には、剣を銃座として固定しなければならない。だから――

 

「肉薄すれば、そこが死角になるッ!!」

 

 走り出したその脇を、雷撃を宿した熱線が通過する。髪の毛を焦がさんとするその勢いに決して怯まずに、脳内に聞こえるナインの声だけを頼りにマオを目掛けて突撃する。彼女の言う通り、奴はまるでバリスタのように巨大な十字剣の切っ先をこちらに構えていて、そしてそんな巨大なものは高速で接近する僕の身をどうやったって捉えられるわけがない。

 

 仕掛けが分かれば、あとは単純だ。軌跡の分からない雷よりも、全ての障壁を突き破ろうとも直進しかできない雷撃線の方がよほど対処は容易い。電光を纏い再び能力を投射しようとマオがこちらを捕捉するよりも早く、幾多ものバリスタの矢の柱を縫って、再度黒剣を構えて飛び掛かった。

 

 碌な狙いも付けずに放たれた雷撃線の上で、黒剣の切っ先を標的に向けた。いくら強力無比な威力を誇ろうとも、ここまで近づかれてしまったら牽制の効果すらもない。

 

「小癪な……人間が!!」

 

 今度は決して打ち負けない自信があった。隠しきれない尊大さと共に苦し紛れで振るわれようとした十字剣の背を、全力を持って黒剣で打ち据える。途端に剣の表面を覆っていた雷光が弾け消え、長大なその刀身を削るかのようにして更に敵の懐への接近を敢行する。

 

 その瞬間、世界の全てがゆっくりと流れだす。火花を散らして十字剣の表面を撫でつける黒剣、それと共にマオの胴体へ目掛けてもう片方の剣を振りかぶる。目を見開く敵将、その首元は全くのがら空き。後ろから追う敵の十字剣が僕を薙ぎ払うよりも先に、その首を穿ち抜くのは簡単なこと。この僕に、出来ない訳がない。スローモーションの世界の中で、ただ一片の容赦もなく縊り殺すことだけを考えて剣を振るい――

 

「リーフェン様に、手ェ出すな!!」

 

 後方の反乱兵により投てきされた一本の槍が手元を狂わせた。首の皮を薄く切り裂くに留まった直後、即座に槍を弾き落とすために黒剣を振るい――強烈な衝撃が背中を打った。肺から押し出される熱い空気、迫りくる地面の石畳。打ち付けられる寸前に受け身を取ってなければ、間違いなく気を失ったであろう衝撃が次の瞬間に全身へと伝わった。

 

 地面に手をかけて起き上がり、そして振り返ったところで目に入る、雷光を纏わせた霊剣の切っ先。それは寸分の狂いなくこちらへと向けられていて、強烈に瞬いたのとこの場所から飛びのくべく足に力を入れたのは同時。しかし、僅かに動き出すのが遅れた。

 

「――ヂィッ」

 

 左足の片隅に響く激痛、噛みしめた歯の間から漏れ出るうめき声。それは紛れもなく雷撃線に焼かれたということ。もはや痛覚を通り越して感覚全てが無くなったかのように、己の左足はただ膝から下がぶら下がっているだけ。片足でなんとか体を支え、目の前を見据えた。

 

「……ここまで私を追い詰めた人間は、あなたが初めてです。その点だけは敬意を表しましょう。ですがその蛮行、もはや生かしておくことはかないません」

 

 薄く切り裂いた首筋から血を流しながらも、始祖族の女はこちらに霊剣の先端を向けていた。そして今この瞬間、僕と対峙をしているのはマオ一人だけではなくなっていた。周囲を護るかのように集結する反乱兵たち、その全員がこちらに向けて剣先を並べている。四面楚歌、この状況に堪らず舌打ちを鳴らす。

 

 ただの荷物となり下がった左足を引きずってマオと戦おうにも、その周囲にいる兵士たちが必ず介入をしてくる。彼らが退避していたのはこの始祖族の扱う雷撃能力を阻害しないためであり、その能力が地面に突き立てられたバリスタの矢で封じられた今、彼らが律儀にそれを見守る理由は無くなった。彼らに現状を把握させないままに敵将を葬り去るという戦法は、ここにして潰えたのだ。

 

「さあ、幕引きと行きましょう。ここまで粘ったのは結構。しかし死に際までも無様に足掻くのは、これまでの自身の行動に泥を塗りますよ。この状況、あなたにもはや微塵も勝ち目は無い」

 

 首から垂れる血を手で拭ったマオは、初めてその眼に嘲りを宿した。この女の本質は、戦いの中で既に見え隠れをしていた。一見すれば、蜂起する機会を伺っていた北部人を導いた、ある意味では人間たちを導く理想的な始祖族としての在り方。しかしその本性は真逆。こいつは人間というものを見下し、そして自分には決して害をなすことも出来ない矮小な存在と信じて疑わないのだ。

 

「あんたの本質は、指導者ではなく独裁者だ。いつまでそうやって、自分を無駄に飾り立てる? あなた方北部人は、何故そうまでしてこの始祖族に付き従う?」

「……何を話そうが、あなたはここで私が殺す。私に挑んだその瞬間から、それは決まっていたことだ。最期に言い残すことはありますか」

 

 確かにこの女の言う通り、この状況では僕が敗北する未来しか待っていないだろう。敵将を打ち倒すどころか、ここから離脱をすることすらも叶わないだろう。敵はマオだけではなく、その周囲に付き従う何人もの反乱兵たちを含めた全てなのだから。

 

 しかし僕は再び顔に笑みを浮かべる。この女は、そして反乱兵たちは、まだ何も分かってはいない。自分たちがこの広場に何を呼び込んでしまったのかを。それは果たして、黒剣というイレギュラーを抱えた僕か、それとも砦からのバリスタの矢の一斉射か。いや、そんな生易しいものではない。そもそもヴァローナの将官にその決断をさせたのは、僕たちにまだもう一つのカードが残っていたからだ。

 

「――最期に言い残すこと? そんなの、お前が言えよ」

 

 不意に聞こえた、不遜な響きの声。これこそが、僕が切れる最後のカード。

 

 瞬間的に沸き起こる、とてつもない熱波。視界の中で急激に沸き起こる、黒と紅の二色で彩られた荒縄のような炎。反乱兵たちを飲み込むようにして突き進むそれは、バリスタの矢が突き立てられた空間を瞬時に包囲した。

 

 周辺の光景が、一瞬の間でまるで煉獄のような様相へと変化を遂げる。今やこの赤黒い炎で包まれた中には、体の各部を炎に蝕まれてのたうち回る反乱兵の他に、たったの三人しか地に足をつけて立ってはいない。再び黒剣を構えて、無理やりにその場へと立つ僕。こちらへと向けていた十字剣を帯電させ、即座に後ろへと振りかぶるマオ・リーフェン。

 

「ほら、雷はどうしたんだよ。散々ボクの身を焦がしたアレは。ああそうか、使えないのか」

 

 そしてその霊剣は、重厚な音を響かせて十字剣の大きさに勝るとも劣らない巨大さの鉾槍に阻まれた。赤黒い炎をその刀身に纏わせる一層の深い紅色に染まったハルバートは、圧倒的な破壊力を宿していたはずの十字剣を打ち据えてなお押し返さんばかり。

 

 これ以上ないタイミングで意識を戻した戦姫カタリナ・フォン・アストランテが、赤黒い炎の中で獰猛な笑顔を浮かべていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

19. 黒紅色の戦姫

 黒紅の火炎により隔絶された高台の上で、二人の始祖族の戦士がしのぎを削り向かい合う。打ち合わされるのは、巨大な十字剣と鉾槍の形をとった二振りの霊剣たち。両者がぶつかるたびに、黒く染まった炎と金色の雷光が火花に混じって周囲へと飛び散った。

 

 まさに規格外といって過言ではない。災厄という言葉ですらもお釣りが出るほどの剣戟の前で、痛む足を引きずり立ち尽くす。カタリナ様の放った炎により、それに飲み込まれた哀れな反乱兵数名の死体が置き去りにされた以外は、この場所は他の兵たちから完全に切り離されている。春が明けたばかりで肌寒いはずの空気は黒い炎に煽られて、焼けつくような熱気が頬を刺す。

 

 両者の戦いはあたかも互角のように始まったが、その実では明確に片方が有利な展開で進行をしている。カタリナ様は、どんなに勇猛に見えても意識を取り戻したばかりの状況。いくら本人の実力が高かろうが、未だ雷撃を封じられただけに過ぎないマオを打倒するのはそう簡単ではないはずだ。

 

「どうしました。威勢がいい割に、その程度ですか?」

 

 雷光をまき散らしながら振り抜かれた十字剣の勢いに負けて、カタリナ様の鉾槍が大きく弾かれた。続けざまに迫る巨大な刃を、鉾槍の長大な柄が寸でのところで受け止める。

 

「……生憎、ボクは散々甚振られた後の寝起きなもんでねッ!!」

 

 このままただ遠巻きに見ているだけでは、そもそもの地力に劣るカタリナ様が敗れるのは必至。そんな死の最中に敢えてこの僕が取り残されたというのは、偶然などでは無くて彼女が狙ってやったのだろう。劣勢に立たされながらも獰猛に笑う彼女の視線が、一瞬だけ僕の顔を捉えた。僕にとって強力な始祖族の戦士であるカタリナ様がジョーカーであるように、彼女にとっても僕の存在がジョーカーになり得る。

 

 まともに動くかも怪しい左足を引きずりながらも、黒剣を再び構えて機を伺う。二人の始祖族が剣戟を交わす極限空間の中、必ずや飛び込むだけの間が出来るはずだ。それにどのみちこの始祖族を打ち倒さなければ、この街の砦と同じように僕の命運も簡単に消えて無くなるのだから。でも地面につける両の足はもはや真っ当な感覚は無に等しく、一瞬の間だけでも動いてくれる保障すらもない。

 

――大丈夫。あなたがたとえ過去を全てを忘れたとしても、あなたの体は全部覚えているよ。全てを感覚に委ねて、そして行こう――

 

 頭の中に聞こえるナインの声は、僕から正気という名の理性を奪う麻薬のように甘く響く。自由に動かない足を動かす、白を黒と断じるような歪さ。しかし自分の体は、そんな無理を通すことが可能だと言わんばかりに姿勢を低く構えた。それはまるでナインの言うように、自分の意志とは無関係のような自然さ。

 

 いつの間にかに自然と二振りの剣を対象に向けて構えていた。自身の体が一体何をしようとしているのかすらも分からないのに、自分はその行動の中身を知っているかのような気味の悪さ。しかしそのいびつさに頭を抱える暇はなく、状況は刻々と移り変わる。

 

「まずは、戦姫から消しましょうか――」

 

 その視線の先、動きが鈍ったカタリナ様へ向けて、マオが雷撃投射をするために十字剣をまっすぐに構えたその瞬間。引き絞られた弓を穿つような衝撃が自分の足から響いた。気が付けば爆発的な加速、蹴り出した感覚すらも残らないほどの向かい風。ただ一歩蹴り出しただけだというのに、異常なほどの速度でもって標的が近づく。

 

「――愚か者め、かかりまし――ッ!?」

 

 まるで僕の奇襲を予見していたかのように、雷光を纏わせたままの十字剣を振りかぶってマオがこちらへと振り向く。迸る雷撃を残像のように空間へと焼き付けてそのままこの身を両断すべく巨大な刃が迫り――その剣の軌跡すらも追いつけないほどの速度の突撃の最中、黒剣をその体に向かって突き立てた。装飾鎧の切れ間に見えた腹部へと走らせた黒剣が撫でたのは決して柔らかな肉ではなく、恐らくはそのうちに着込んだ帷子。しかしその僅かな瞬間の中に、確かな手ごたえがあった。

 

 爆発的な速度で突き進む体は自分自身のコントロールも効かないほど。マオの脇を通り抜けた直後に極端に姿勢を低く保ち、石畳の地面に黒剣を突き立ててようやく止まる。焦げ臭さすらも立ちこませる石埃を払いカタリナ様の真横で再び後ろを振り返ると、そこには片手で鎧の隙間を抑えているマオの姿が目に入った。黒剣の一撃で帷子を僅かに切り裂いたのだろう、手の隙間から僅かに赤い血が流れ出し、ようやく明確な憤怒に染まった瞳がこちらを見据える。

 

「……絶対に殺す。この私に人間が二度も傷をつけるなど、断じて許しておけるものか!!」

 

 もうそこには尊大な口調で自分を飾り立てる姿は無く、ただ僕というたった一人の人間に向けて全力をもって殺意を向ける始祖族がいた。猛然と駆け出して石畳ごと叩き切らんと振り抜かれた霊剣は、しかしこの体にまで届くことは無かった。

 

「そぅら、化けの皮が剝がれた――ねぇっ!!」

 

 雷撃の弾ける音と共に鳴り響く甲高い金属音、その直後に耳へと届いた戦姫の声。目をあげたその前で、カタリナ様が十字剣の前に立ちふさがり、その一撃を鉾槍の刃で受け止めていた。続けざまに打ち付けられる十字剣の連撃を受け止める彼女の顔は、苦悶の歪みが僅かに浮かび上がっている。しかしそれすらも、引き攣るような獰猛な笑顔が無理やりに覆っていた。

 

「……正直、反乱兵どもをここから切り離しながらコイツの相手をするのはここらが限界さ。でも、君ならばコイツを任せられる!!」

 

 隠しきれない怒りと共に滅茶苦茶に振るわれる十字剣から漏れ出す雷撃は、カタリナ様の鉾槍を伝い彼女の手を容赦なく焦がしていた。しかしそれでも、彼女は今この瞬間にだってその連撃を受け止めている。その彼女が限界だというのだから、本当にそうなのだろう。

 

 恐ろしいくらい異様に軽い体は、たとえその一部が雷撃線で焼かれていようがまだまだ動く。何故か、今の自分にはマオという本性を現した苛烈極まる始祖族すらも相手取ることが可能だという自信があった。だからこそ、彼女に反乱兵たちの牽制に注力してもらうことが必要だ。

 

「反乱兵を足止めしてください。この女は、僕が止めを刺す」

「はっ、流石はボクが副官と見込んだだけはある。その大口の叩き方、ボクは嫌いじゃないよ!!」

 

 ついさっきに自分の体に巻き起こった不思議な感覚は、まだありありと残っている。急激な加速、そして鎖の帷子すらも引き裂くほどの鋭い一撃。それは決して偶然の産物などではなくて、無意識の中で確かにこの体が狙って引き起こしたこと。それを再び披露するだけの気概は、まだ十分残っている。

 

 カタリナ様の鉾槍の上からギリギリと押し込まれる十字剣。黄金に煌めく雷光の奥で憤怒の表情を浮かべて彼女と僕を見据える敵将。段々と勢いが弱まる黒炎の向こう側からにじり寄る反乱兵たち。それらを目の前にして、黒剣を再び強く握りしめる。手の中に返ってくるのは、無機質でありながらもまるでナインに握り返されたかのような有機的でもある不思議な感触。機は、熟した。

 

「――いくよ、スイッチ!!」

 

 最後の仕上げと言わんばかりに鉾槍を大きく振るい、それと同時にカタリナ様が視界から消えて失せた。敵将の十字剣の軌跡から離れた彼女が反乱兵に切りかかると同時に、マオの血走った目ととうとう視線が重なる。途端に霊剣の表面で波打つ雷撃の密度が濃く、そして明るく移り変わった。

 

――魔素を用いた瞬間的な身体強化、その感覚は取り戻した。後は、それをツカサの意思のままに操るだけ――

 

 再び力を込めた足そのものが、まるで得体の知れない何かに覆われたかのような不思議な違和感。ただ足を動かして飛び出すのではなく、その何かと連動させるのだ。それがコンマ一秒の最中で頭に刻み込まれた確かな感覚。

 

 標的を見据え、全身を覆う不可思議な何かを解放した。今度は、自分自身の動きを己の頭が掌握下に置く。飛び出すと共に構えた黒剣の狙う先は、封じられているはずの雷撃を無作為に散らして暴れる巨大な霊剣。あれをどうにかしなければ、懐に潜り込むことはかなわない。理不尽な暴威を形にしたようなそれに、しかし今度は打ち負けることは無いという確信を胸に駆ける。

 

「死ね、人間。あなたには命乞いすらも許さない!!」

 

 吐き捨てられた罵りと共に、押し寄せるは黄金色の荘厳な霊剣。重厚な盾をも紙のように切り裂くであろうそれに、全身全霊をもって黒剣を打ち付けた。両手から伝う、異様なほどの衝撃。黒剣どころかそれを握りしめる手ごと吹き飛ばさんばかりのそれを前にして、しかし一歩たりとも後退などしない。

 

 重く、そして堅牢。一度は城塞の壁のように僕と黒剣を押し退けたそれに、二度も負けてやる道義はない。ただ力を込めるのではなく、全身を包み込む不可視の膜にも自分の意思を伝えこむ。この重厚な霊剣を打破するだけの力を、今ここに示せ――

 

「なっ、あなたのどこに、そんな力がっ……!!」

 

 心臓を中心に響く息苦しさにも通じる鈍痛、その直後にまるで爆風に煽られたかのように全身が押された。均衡はその瞬間に破られて、十字剣の刀身が一面に雷光を散らしながら押し戻されていく。今この瞬間だけは単純な力比べでも相手に対して優勢、だがいくらその巨大な盾と化した霊剣を押し込もうが本体たる始祖族には一片たりとも刃は届かない。ならば、自身のこの力が維持できなくなるその前に盾をこじ開けるだけ。

 

 まるで霊剣そのものを削り取るかのように、黒剣の刃を接合面に走らせた。巨大な十字剣の表面から舞い上がる金色に煌く粉塵と細かな雷撃。マオが苦悶の声をあげると同時に、十字剣そのものをもたった一本だけの黒剣がだんだんと横へと押しのけていく。

 

「人間、がっ……この私の尊厳を砕くなど、認めは――」

「――尊厳を砕く? 自惚れるなよ。僕はただ、自分にとっての障壁を排除するだけだ!!」

 

 きっともう限界が近いのだ。無視できなくなった左足の痛み、そして黒剣を握る手でさえも震える。だから不可視の膜が消えて失せるその前に、ようやく見えた最終標的を穿たなくてはならない。片手一本でマオの十字剣を退け、相手の目を真正面から見据える。憤怒と驚愕、今に至ってようやくそこに恐怖という感情が付け加えられた。ふと気を抜けば黒剣を握る腕ごと十字剣に両断されるその最中で、右手に持った黒剣で止めを刺すために構える。

 

 障壁もなにも存在しない敵の首筋に目掛けて黒剣を突き出したのと、押さえつけていた十字剣から辺り構わず雷撃が飛び散ったのはほとんど同時。雷撃は指向性を持たず、周囲のバリスタや石畳、それどころかマオ自身の体さえも焼きながら無差別に広がる。突き出した腕、そして黒剣を握る右手もその雷撃に飲み込まれ――しかし僅かに残った不可視の膜が無理やりにその手の中に黒剣を固定した。

 

「……にんげ――ん……わたしは、どうし、て――」

 

 そして切っ先は、標的を穿ち抜いた。胸部を覆い隠す鎧のその上、喉の中央へ突き立てられた黒剣。異様な動きの代償か、それとも直前に走った雷撃のためか、黒剣を握り締める右腕にはもはや力は入らない。精々後に出来ることは、首に突き立てた黒剣を引き抜くという行為だけ。

 

 黒剣で穿ち抜いた裂傷からとめどなく鮮血を吹き散らし、焦点の定まらない目でマオは僕を見据えている。その光景を捉えていた視界が一気に暗くなり、そして両足からふっと力が抜けた。これが、無理やりに体を自分の能力以上に動かし続けた代償なのだろう。倒れるその間際に、気が付けば僕の体は横薙ぎに吹き飛ばされていた。地面にぶつかる寸前に、それは首から血をまき散らすマオが薙ぎ払った霊剣に黒剣ごと弾き飛ばされたのだと知る。

 

 もはや両手には黒剣は握られておらず、たとえ残っていたとしてもこれ以上戦うだけの体力はない。ようやく全身に刻み込まれた雷撃の火傷による痛みが走り出し、しかし這って逃げるだけの余力も残されていない。苦悶の声もあげられず、目の前には幽鬼のように首と口から血を垂れ流しながら霊剣を振り上げる敵将の姿。弱弱しく静電気のような小さい雷を漏らすだけにまで堕ちようと、ただ振り下ろしただけで動くことすら出来ない僕を引き裂くには十分すぎる。

 

「……せめ、て……みち、づれに――」

 

 だがその霊剣は、僕の体を最期に引き裂くことは無かった。突如としてわき腹を蹴り飛ばされ、抵抗も何も出来ずに石畳の上に投げ出された、圧倒的な蛮力を振るっていた始祖族の戦士。それを成し遂げたのは、黒紅の髪を揺らす戦姫だった。

 

「往生際が悪い奴は嫌いだよ。ここがお前の、運の尽きだ――まさか、本当に始祖族を打ち倒すだなんてね」

 

 彼女に頭を抱き起されながら、地面へと倒れ伏したマオへと目を向ける。うつろな目はもう何も映してはおらず、穿たれた首元には黒ずんだ血と共にくすんだ黄色に光る小さな結晶が付着していた。アリアスと同じだ。その裂傷を中心として結晶が広がり、霊剣さえもが巨大な結晶の集合体へと変化を遂げ始めている。開きかけた口が何かを話すよりも前に、そこから流れ出す血に混じる結晶がマオの口内から顔全体へと広がっていく。

 

「……敵の将はこれで死んだ。でも、ちょっとヤバイかもしれない」

 

 強気な笑いの中で、カタリナ様が周囲を見渡しながら言った。もう何人もの仲間や首領すらも倒されたというのに、反乱兵たちは未だに剣を構えて虎視眈々とこちらを狙っている。彼女が縊り殺した幾つかの死体を乗り越え、そして燃え盛る黒紅色の炎を剣でかき散らす男たちの闘志は、こんな状況にも関わらず消えてなどいない。

 

 もはや僕の体は満足には動かず、それどころか極度の貧血のような頭痛が響き立ち上がることすらも叶わない。そしてカタリナ様も疲弊しているということは重々に分かっていたことだ。強力な始祖族を打ち倒したところで、僕たちはとうとう万策尽きたのだ。反乱兵たちが己の犠牲を考慮せずに押し寄せれば、たとえ霊剣で相手をしようが限界はすぐに訪れる。

 

「……敵将が倒された今、兵たちが砦に籠る理由は無くなった。分かるだろう、お前たちの数倍の兵が押し寄せてくるんだ。なあ、ここらが潮時だろう?」

 

 反乱兵たちの先頭に立つ男へそう諭すように言いながらも、彼女は顕現させたままの霊剣を決して下げてはいない。きっと、それは彼が言おうとしている答えを既に理解をしているからなのだろう。

 

(おい)たちは、もう後が無いんだ。砦を攻め落とすことが叶わなくなった今、せめて貴様(きさん)らを冥途の土産にしよう」

 

 せめてもの抵抗、脇に転がったままの黒剣へと手を伸ばす。しかしもうまともに動きやしない体を引きずったところで、どうしようもないのは明白だ。彼らは己の命すらも投げうって、僕たちを道連れにするだろう。

 

「この砦を落とすという甘言に乗るなど、さぞ(おい)たちは愚かに見えるだろうな。だが貴様(きさん)のような百年を優に超える命の始祖族に、何十年の間抱え続けてきた祖父母の無念を晴らさんと命を捨てる(おい)たちのことなど理解も出来んだろう」

「……ああ、愚かしい。あの間諜風情もそんな始祖族の一人。お前ら北部人のことなんて理解していなかっただろうに。結局お前たちは、あいつや帝国にいい様に使い捨てられただけなんだよ」

 

 何人もの反乱兵たちが、黒紅色の炎を割って僕たちへと剣を向けた。その先頭を行く男は、挑発とも受け取れそうなカタリナ様の言葉に激昂することも無く、ただ淡々と首を振った。彼の足が、ただの乱雑な黄色い結晶の集合体と化したマオの死骸を何の感慨も無しに踏みつける。パキパキと音を立てて潰れる結晶片を蹴散らして、男の視線が僕を射抜く。

 

(おい)たちには、君のような力はない。だから何かを成し遂げるためには平然と命を捨てる。悪くは思うな――」

 

 今まさに先陣を切りだそうとした間際、彼の腹を尖った刃が穿ち抜いた。僅かに飛び散った血が目の前へと降り注ぎ、強制的に言葉を中断された男が倒れ伏しながらも後ろへ振り返り――口元から血を流しながら達観したように笑った。

 

「――ああ、ちょっとばかしか(おせ)かった、か」

 

 その呟くような一言が彼の断末魔となった。ピクリとも動かなくなった男、そして彼に突き立てられた槍が投げられた場所へ向けて、ここにいる全員が視線を向ける。

 

 朦朧とした意識を繋ぎ止めて見た視線の先、そこはこの中央広場の入り口。砦から駆け付けたであろう何人もの兵士の姿が、そこにはあった。幾多もの死体が転がり、そしてバリスタの矢が突き立てられた広場の前で、逃げ場所を塞ぐように彼らは陣形を取る。その先陣に立ち、両腕を包帯で巻きながらも今しがた長槍を投げた大男が、距離をとったここでもはっきりと聞こえるほどの大声で吠えた。

 

貴様(きさん)らの好き放題(しほで)は終いじゃ――全軍突撃!!」

 

 あの人は病み上がりの癖をして、まるで砦の兵の隊長かのように真っ先に突撃をしていく。無茶苦茶を通り過ぎで無鉄砲にすらも見えたヨードルを先頭にしてすべての兵が駆け出した瞬間を見届けて、限界に達した意識がぷっつりと途絶えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

20. 誰かが見た夢

――ピピピピッ ピピピピッ

 

 目覚まし時計から無機質な電子音が響き渡った。同じフレーズが数秒間流れるごとに段々と音が大きくなるそれは、そのすぐ脇で布団を被って寝ている僕を起こすのには十分なものだった。布団の中からニュッと腕を伸ばし、枕元の小棚上をごそごそと弄り、右往左往した後漫画やゲーム機と一緒に置かれた目当ての目覚まし時計を掴んだ。

 

「……寒い」

 

 時計上のボタンを押してアラーム音を止め、少しばかりの間温かみが残る布団の中でもぞもぞと動く。僅かに開いた布団の中に入ってきた寒気は、目覚ましの音以上にこちらの眠気をそぐには十分すぎる代物だ。こんな平日にだらだら二度寝をする余裕なんて無いんだから、とっとと起きるほかはない。

 

「起きなくちゃ……眠い」

 

 しかし勢いが良いのはここまでだった。のそのそと布団から起き上がり、ベッド脇に置いてあったモコモコの羽織を引っ掴んで着込んだ直後、背筋を丸めながら歩き出した。ただでさえ寒さが深まる年の瀬で、その上今年は例年よりもずっと寒さが強いと連日ニュースで言っている始末。

 

――年の瀬……? 今は、冬が明けた初春だ――

 

 ふと頭の中に違和感が過るが、それは一瞬の間のこと。今はともかくしゃきしゃきと動かなくては。自分よりもずっと早起きをしている両親が、下のリビングルームで朝食をとっているはずだ。それに乗じてとっとと準備をしなければ、遅刻をしてしまうかもしれないのだから。

 

 

* * *

 

 

『――日本重工業が、四葉工業医療部門の買収を検討していることが、21日明らかになりました。昨年秋から四葉工業の医療部門は業績不振に陥っており――』

 

「これ検討じゃなくて、ホントのところはもう既定路線だよ。おかげで連日面倒な会議が――おお、起きたか。おはよう、司」

 

 テレビで流れる朝のニュースを顰め面で眺めていた父親が、トーストを片手に声をかけてきた。ここ数日、父親が家に帰宅する時間は半年くらい前と比べて随分と遅くなっている。その理由についてあまり聞いたことは無かったけど、どうやら今テレビで話していることのせいなんだろう。

 

「おはよう、コーヒー湧いているから注いで頂戴ね――大変ね、あなたの所属も変わるんでしょ?」

「肩書だけだ。仕事内容はそう変わらんさ。多少の人事異動に巻き込まれるかも知れんが、そうなっても引継ぎのため最低でも一年は転勤も無いだろう」

 

 両親が共にニュースの内容に興味津々で、軽めの挨拶も過ぎれば二人そろって転勤やらなんやら入り組んだ話をしている。一方で僕ときたら、父親の言うように最低限一年の間は引っ越しも無いのだろうから特に不安なことも無かった。来年に控えた大学受験、それが過ぎれば親元を外れて一人暮らしをすることだって世間的に見れば珍しくも無い。少なくともその瞬間まで待っててもらえれば、そこまで大きな影響は無いはずだ。

 

――大学受験だって? 今僕が目指しているのは、己の過去を知るというただその一点のみのはずだろう――

 

 再び頭に何か不思議なものが浮かんでは消えていった。何の変哲もないこの日常を真っ向から否定するかのような可笑しな考え。それは果たして、起きる寸前まで見ていたのかもしれない夢か何かに引っ張られてるのだろうか。

 

「司、体調でも悪いのか。そんなしかめっ面して」

「……いいや、たぶん変な夢を見ただけ。そうだ、今日ちょっと帰るの遅くなるからね」

 

 無理やりに話題を変えるがために、母親へと声をかけた。内容の一片すらも思い出せないような夢なんかに意識を裂くことは馬鹿らしいし、それに本当に今日は帰る時間が遅いのだから実際知らせておいた方が良い。

 

「あっ塾ね。分かった、夕飯はお父さんと同じくらいで考えておくわ」

「そういえば、司。もう志望校は決めたのか? もう来年くらいに控えてるんだから、そろそろ第一志望くらいは絞っていた方が良いぞ」

 

 テレビから意識を戻した父親が、ふと思いついたようにそんなことを聞いてきた。志望校、それは今後の人生を決めるうえでかなり重要な決断になると日々家や学校の双方で耳にタコができるくらいに聞かされている話だ。そんな中で最も行きたいと願う対象の第一志望となると、ある程度は高望みをしたうえで決めろとも言われている。

 

「……今のとこは東都工科大学で考えてる」

「良いじゃないか。あそこの出身者はうちの部署にも何人かいるよ。ただかなりの難関大学だから、気を引き締めていかんとな」

 

 時折の模試や定期テストの渋い結果から言ったらそれなりに攻めた選択肢ではあるけど、父親の評価自体は上々みたいだ。気楽に高校生活を送れるのももうそろそろお終いで、これからはどんどん受験というものを頭に入れて過ごしていかなければならない。少なくとも、そのレベルの大学を第一志望に据えている以上、避けては通れない道なのである。

 

 

 朝食を食べ終えて準備を全て整えたら、あとはもう家を出るだけだ。鞄を肩にかつぎ、そして玄関の取っ手を握り締めたその瞬間、ふとした違和感に襲われる。今朝起きてからずっと続く違和感、それは果たして夢の中で見たのかもしれない情景と現実のギャップに頭が混乱しているだけだろう。しかし今感じたのは、ただそんなギャップに戸惑うというものではなく、何処かノスタルジックなもの。

 

 この扉を開けるその前からずっと続いていたその感触が、扉に手をかけた瞬間になってピークとなる。今朝の光景は普段から繰り返されてきた日常から外れるものじゃなく、それは本当に何の変哲もないものだ。それだというのに、こうやって家を出る直前になって何故かそんな日常に対して不可思議なノスタルジーを抱くのだろう。

 

 気が付けば、熱くなる目頭。まるで涙を流しているかのような感触だというのに、目をこすっても手は塗れず、玄関脇に立てかけられた鏡をみても自分の顔に涙なんて一滴たりとも浮かんではいない。ただ自分の体の内面だけがボロボロと涙を流すかのような、隔絶の激しいギャップ。

 

「じゃあ、行ってきます」

 

 別に今この瞬間にこの日常に切なさを感じる必要は無いのだ。学校や予備校から帰ってくれば、またこんな家族との光景はまた繰り返されるのだから。この光景は、これからもずっと見ることになるであろう日々の一コマに過ぎず――

 

――本当に、そうかい? 本当に僕は、これからもその日常の中にいるのか?――

 

 その扉を開けてはいけない!! そこで僕はようやくこの光景の本当の意味に気が付いた。また目が覚めたら、この現状を把握したという記憶は消えて失せてしまう。手を止めようとしても、涙を流し続ける内面の僕の意志とは裏腹に、"僕"の手はドアノブを握り締め――

 

――だって今の僕が居るのは、――

 

 玄関の先に見えた明るい太陽の姿が、この住み慣れていた家で見た最後の光景だということを思い出した瞬間に、全ての意識が潰えてしまった。

 

 

* * *

 

 

 目を覚まして始めに感じたことは、節々に響く鈍痛だった。それも急激な運動をした後の筋肉痛とかそういう類のものではなくて、痺れとかでうまく体を動かせないときのような性質のもの。ただ上半身を支えて起き上がるという行為だけで手一杯など、一体何が起きたというのか。

 

 窓辺から差し込む光は、既に十分な高さを持っている。となれば、今は別に朝早くというわけでは無く――そこまでを考えたところで、ようやく自分が寝かされていた部屋が見慣れたものではないということに気が付いた。

 

 ヴァローナに来てから借り受けていた商工会の宿舎の片隅にある小部屋よりも、よほど広々とした空間。下手すれば、仮にも一軒家だったクアルスで住んでいた小屋よりも見た目の広さは勝っているのではないのかというほどだ。調度品一つとってもどれもが高価そうで、それに地面へ敷かれたマットがこの部屋の上質さをありありと物語っている。こんな空間、自分には全くの無関係だし場違いといっても過言じゃない。

 

「……ツ、カサ――」

 

 そして足に感じる重さの正体を目に入れた。自分が寝かされているベッドの縁に腰かけたまま、僕の太ももを枕にして寝息を立てる薄桃色の頭。小さな寝言を漏らしぐっすりと寝ているナインを見る限り、少なくともこの状況がどこかに拉致監禁されているというわけでもないことは予想できる。

 

 

 ならば、何故自分はここに寝かされているのか。記憶の中の最後の光景とは、果たして何だったのだろうか。砦の将官であるイーリスに敵を打倒する策を進言し、そしてその策に乗っ取って中央広場に奇襲をかけて――

 

 その瞬間に、猛烈な吐き気が喉の奥から押し寄せてきた。また僕は、己の手で人を殺した。敵将の喉に突き立てた黒剣、その生々しい感触はまだこの右手にありありと残っている。

 

 首と口の両方から血を流しながら、虚ろな目であの始祖族は僕を見つめていた。それは瞳から色がなくなり、そして全身が黄色い無数の結晶に覆われるその時まで。まるでつい数秒前の出来事かのように、目をつぶればその光景が生々しく甦る。

 

「……はっ――なんだよ、こんなの」

 

 疑問しか浮かばない。あの瞬間を思い出しただけでここまで手が震えるというのに、なんであのときの自分は何の躊躇いもなく敵を殺したんだ。それはマオを相手にしたときだけでなく、母子を刺し殺そうとした反乱兵に対したってそう。彼らを前にした僕は、逃げようという意思ではなくただ打倒しようというその一心に突き動かされていた。

 

 そんなの、港町の外れで読み書きを教えながら慎ましく暮らしていたつい数日前の自分とは全く重ならない。ならば霧の中に見え隠れする過去の自分という幻影。それは果たして、僕が考えていたよりもずっと――

 

 

「おっ、起きてる。やぁ、気分はどうだい?」

 

 泥沼に沈み行く意識を引き上げたのは、そんな明るい声だった。いつの間にか部屋の扉は開け放たれており、そこに立っているのは黒い色をベースにした軍用の軽装に身を包んだ一人の女性。窓から吹き込んだ風が、その女性の長い黒紅色の髪の毛をふわりと揺らした。

 

「カタリナ、殿下……」

 

 正直なところ、気分は最悪だ。過去の自分という今もっとも明かさなければならないものが、今の自分と想像以上に隔絶した存在である可能性が示唆されたのだから。でも今はこの国の頂点に立つ王族の御前だ。失礼は許されない、その一心でこの気持ちの悪さを飲み込んだ。

 

「まぁ、呼び方は追々変えれば良いや。君の名前は聞いたよ。ツカサだっけ、君も無茶をしたよね。あそこで気を失ってから、今日でかれこれ四日になるよ」

 

 彼女のいうあそことは、恐らくはヨードルが中央広場に駆け付けたあの瞬間か。記憶の限りで残っているのは、あれが最後の光景だ。彼が砦の兵を引き連れているのを見た直後に、ようやく事態は僕の手のひらから出ていってくれたのだという安心感により気を失ったのだろう。

 

 そこから四日間眠り続けていたというのは驚きだが、その一方で当然なのかもしれないとも思う。文字通り自分の体の限界を超えた動きというものをこの身でやったのだから、むしろ今もこうして五体満足でいることに感謝をしたほうがいいかもしれない。痛む足や雷撃に焼かれた両手でさえも、あの瞬間に感じ取った不可視の膜を通したら自由に動かせたほど。その代償と考えれば、軽いものだ。

 

 起き上がろうと手に力を込めたが、想像していた以上に腕に力が入らない。ただ上体を起こすだけで一苦労なのだから、これは立ち上がった直後にそのままぶっ倒れかねないだろう。

 

「……すいません。力が入らないので、このままの姿勢でよろしいでしょうか」

「別に構わないさ。まだ寝てるのかなって様子を見に来ただけだし、今の状況については砦の兵が後々言いに来るだろうしね。ところで、夢見でも悪かったのかい?」

 

 中腰に屈んだカタリナ様が、僕の目の端を指さしてそう言った。彼女の手の先をなぞるようにして触れた自分の目。そこには、いつの間にか流れ出ていた涙が付着していた。それが伝う先にまで指を下ろしていけばいつの間にか頬をも通り過ぎ、ふと襟の下を見てみれば流れ落ちた涙が染みを作っていた。

 

「――えっ。なに、これ……」

 

 いつの間にか頬を濡らしていた涙、しかしそれが新たに瞼の中から生み出される様子もない。果たして、あの修羅の巷を生き延びたことに対する感動か、それとも人をまた殺したということに対しての苦悩の最中に気が付いたら泣いていたのか。はたまた彼女の言う通り、もはや欠片も記憶に存在していない何かの夢で涙を流したのか。今残っているのは、ただ僕が何故か涙を流していたという痕跡のみ。そして理由すらも分からない。

 

「あの始祖族に対峙して生き延びたどころか打ち勝ったんだから、うれし涙の一つということにしておけばいいさ」

 

 部屋の片隅に置いてあった椅子を運んできた彼女は、それをベッドの脇に置いて座った。結局のところ理由の分からない涙でしかないのだから、カタリナ様の言うような割り切りをして深くは考えないことにするのが賢明だろう。

 

「さて、まずは礼を言わなきゃね。ツカサ、助けてくれてありがとう。君があの時イーリスを説得して駆けつけて無ければ、ボクは間違いなく死んでいた。頭に血が上ると直情に従って行動してしまう。昔っからの悪い癖さ」

 

 少しだけバツの悪そうな顔を浮かべて、カタリナ様は正直にそういった。てっきり、手助けは必要ないだなんて風を装うのかと思っていたから意外だ。

 

「ボクも、あの後丸一日ぶっ倒れていたんだ。色んな所に火傷して、こうやって歩き回る許可をもらったのもつい昨日。それでも、生きているか死んでいるかじゃ大違いさ」

 

 よく見れば、軍服の袖口から包帯にまかれた箇所が見えていた。彼女の霊剣を伝いマオの雷がその腕を焼いたのだろう。もしかしたら、そもそもが彼女の能力や霊剣は、敵の雷を扱うという能力と相性が悪い代物であったのかもしれない。

 

「君もそこの子には起きたら感謝を伝えると良いさ。君がここに運ばれてからずっと彼女はそこを離れていないんだ。朝から晩、そして次の日の朝までずっとね」

「そうか、ナインが……」

 

 未だに起きる様子もないナインへと目をやる。いつ起きるかも分からないのに、ずっとここに付き添っていてくれたのか。その親切さに感謝をすると同時に、少しだけ胸が痛くなった。彼女の中の僕、もう記憶から消えた過去の自分は、そこまで彼女にとって大きな存在だったのかもしれない。

 

「……それだけじゃない。君があの時倒れた後、乱戦の最中に反乱兵が君に剣を振りかぶった瞬間に、この子は唐突に戦場へと現れてその兵を殺したよ」

 

 ふと、カタリナ様の声が堅くなる。彼女がナインを見つめる目には、柔らかさではなく何かを見極めようとする意思がある。ナインがあの戦場で僕を救った、つまり黒剣として顕現した状態を彼女自身が解除をしたということ。

 

 倒れ伏した僕のすぐ近くで戦っていたカタリナ様は、もしかしたらその瞬間を目にしたのかもしれない。黒い双剣という形状を解き、白光と共に現れたナインの姿を。

 

「病み上がりのところ悪いけど聞かせて貰おうか。黒い双剣と入れ替わるように現れたこの少女と、君が扱っていたその黒い双剣状の"霊剣"のことについてね」

 

 真紅の双眼がじっとこちらを捉えた。そこに浮かぶのは有無を言わさぬ強い意志、そしてナインと僕へ抱くとある予感と確信。この僕ですらも知らないような話、ナインが顕現した黒剣のことを始祖族しか扱うことの出来ない霊剣だと言い切るだけの根拠が、この人にはあるのだろう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

21. この空は何処へと通じてる

 全てを見透かそうとするようにこちらを見つめるカタリナ様に、初めて警戒感を抱く。彼女がそれを明かして何をするつもりなのかは分からない。しかし仮にも始祖族へ対抗できる手段、つまりはこの国の秩序を崩しうる存在であるナインのことを、始祖族であり王族でもあるカタリナ様が放っておくわけがない。

 

 おそらく露骨に警戒心が顔に出たのだろう。カタリナ様は「なにもとって食うつもりはないよ」と言いながら少しだけ表情を柔げたが、それでも彼女の本心への疑惑は拭えない。

 

「……始祖族の霊剣とまともに打ち合える代物なんてそう多くは無いさ。武器になんて到底ならないような堅牢な城壁とかを除けば、神器と呼ばれる古代のアーティファクト、それか同じ始祖族の霊剣くらいしかない」

 

 淡々と、しかしよどみなく彼女は言い切った。剣や斧と言った普通の人が手で運び扱えるような武器は、始祖族の霊剣に打ち勝つことはまず出来ない。幾多もの反乱兵たちがカタリナ様に各々の剣で挑みかかり、剣ごと両断されたのは、カタリナ様が卓越した戦闘能力を持っている以上にそれだけ霊剣と普通の武器には隔絶した差があるということだ。

 

 その逆立ちしてもひっくり返らないような理論は、前々から僕も知ってはいた。クアルスで暮らしていた頃、ことあるごとに始祖族には逆らってはいけないとアンナさんやフィンに聞かされていた。彼らの扱う霊剣の堅強さは、その理由の一つでもある。

 

 時折言われた、相当に腕の立つ剣の達人でも無ければ始祖族に対抗すらできないという話。その真実とは、単純な打ち合いになったらまず霊剣に対しては勝ち目がないということ。剣を極力打ち合わすことなく仕留めるような化け物染みた腕前でもない限り、勝負にもならないのだ。

 

「じゃあ、君の扱っていたあの黒い双剣は何だ。恐らくは古代の神器と考えるのが妥当――君と背中合わせで戦ってた時はそう思っていた」

「しん、き……?」

 

 その不思議な単語に思わず聞き返す。さっきも彼女が言っていた神器、それ自身に全く聞き覚えが無かったわけでは無いが、何故今この場で話に上るのかは分からなかった。曰く、忘れ去られた古の時代の遺産として出土する物品。文献にすらも残らない古代文明の存在を証明する、数少ない証拠品。しかし実物は当然見たことは無いし、それどころか神器というものの実態すらも良くは知らない。

 

「神器なんて君たち人間にとってみればただの遺産か何かだろうがね、そいつらの正体はボクたちの霊剣に対抗できるような強力な兵器だよ。そしてその情報は、一部を除けば隠匿された話さ」

 

 さも当然のことのようにカタリナ様が言った内容は、僕にとってみれば目を見張るようなものだった。ただの古代の遺産だと思っていたものが霊剣に対抗できるような代物だということも、そしてそれが敢えて一般市民には広まってはいないということも。そしてそれを平然と知ってしまった僕は、どうすればいいのか。

 

「でもボクは考えを改めた。君の扱っていたあれは神器でも、ましてや見た目通りのただの剣ですらない」

「……その根拠は何ですか?」

 

 正直、僕はナインの正体を全く知らない。そしてその正体について、今この瞬間まで何の違和感を抱かずに過ごしてきた。

 

 冷静になって考えれば変な話だ。始祖族の霊剣に対して打ち合えるというだけでも異常だというのに、その正体は僕と変わらないくらいの歳と思われる少女。どちらか一つを取っただけでも、到底普通とは思えないはずのことを、表層意識ではおかしなことと考えてはいたけど、それを受け入れている自分もいた。

 

「君も気が付いているくせに。神器は、言ってしまえば素材から製作者すらも不明な、それでもただの兵器だ。決してその子のように人の形なんて取りはしないんだ」

 

 あきれたような笑いと共に、彼女はナインへと視線を流した。やはりこの人は見ていたのだ。気を失った僕を護るために、無理やり剣から人の形へと変化したナインを。

 

「流石に王族のボクでも、人が剣に変身するなんて御伽噺でも無ければ知らないさ。でも、それによく似たものならば心当たりがある」

 

 軽く振ったカタリナ様の手には、次の瞬間に大きなハルバートが握られていた。黒紅色にゆらめく陽炎をまとい、彼女の身の丈に合わないほどの長さを誇る存在。何もない空間に突如顕現したそれは、カタリナ様が指を打ち鳴らした途端に再び蜃気楼のように消えて失せる。

 

「有機的なヒトの体と無機的な剣、どうしても重ならないはずの二つを橋渡しする存在、それが霊剣だ。ここ数日色々と考えたけど、この子の本質は霊剣であるという結論に達したよ」

 

 僕たちの会話などつゆも知らずにこうこうと眠り続けるナインを見た。確かにカタリナ様の言い分は分からなくもない。霊剣に対抗でき、そして人の身と剣を行き来する存在。それが霊剣に通じるというならばそうかもしれない。

 

「……でも、彼女は始祖族ではないですよ。そしてそれを扱った僕も、ただの人間です。霊剣が始祖族の魂の具現化した存在である以上、殿下の言うことは矛盾があります」

 

 いつの間にか、ナインのことをなんとかひた隠しにしようという意思は薄くなり、僕は自分が抱いた疑念をそのままに口へと出していた。

 

 霊剣はその成り立ちから考えて当然始祖族にしか扱えず、僕たち人間にとっては縁もゆかりもないはずのものに違いない。だからナインの正体が霊剣だと考えたら、その前提から崩れてしまう。

 

「単純な話さ。その子が霊剣であると仮定したほうが、そうでないとした時よりも矛盾が少ない。そしてその鍵は、ツカサだ」

 

 しかしその始祖族たる彼女自身が、その致命的な矛盾にすらも是と答える。何かを含ませるような笑顔を浮かべた彼女が、その細い指先を僕の額の前へと伸ばした。触れてすらいないのに、まるで押さえつけられたように動けない。カタリナ様の笑顔には、ただそれだけで否定をすることを禁じられたかのような強制さがあった。

 

「君の戦いかた、あれは見事なものだよ。敵を速度で翻弄し、そして隙を見つけたら力で一気に押しきる――でもそれは、決して天性のものだけじゃない。あの女に致命傷を負わせた時、君は常人の体ではおおよそ出来ない動きをしていた」

 

 見透かすような視線に耐えられず、だからと言ってそれを否定することも出来ず、彼女の視線から少しだけ目を背ける。今思い直しても、あの時の自分が普通ではなかったのは明白だ。足が動かないほどの傷を負いながら、世界が止まったかのように体が軽くなるなど、それは常人からは程遠い。

 

 あの瞬間に感じ取ったこと、それは自分自身を覆う不可視の膜のようなもの。ただ体を動かすのではなく、自身を構成する全てを連動させるという異様な感覚。

 

「おそらく魔素を用いた身体能力の強化。わかっちゃいるだろうけど、君たち人間には逆立ちしたって不可能なはずの、立派な魔術の行使だ」

「……は、はは。何を、言ってるんですか。僕が魔術だなんて――」

 

 乾いた声でそう返そうとしていた頭の中に何かが過る。それは、マオとの殺しあいの中で頭の中に聞こえたナインの囁き。僕の体に訪れた異変のことを魔素を用いた瞬間的な身体能力強化、確かに彼女はそう言っていた。あの時はそんなイレギュラーも切り抜けるための一要素でしか無かったけど、全力を投じて敵を打倒することにだけ専念できていた時とは違って冷静な頭でその言葉を反芻したら捉え方も大きく変わる。

 

「仮にこの子が霊剣そのものだとしたら、彼女が人としての体を持つことも、そして君が魔術を行使できることも無理やりにだけど説明は出来る。彼女は人の身でありながら霊剣を顕現させ、しかしそれは己の手では扱えず。そして霊剣として秘めた能力が、使用者に簡易的な魔術を使わせるというものかもしれない」

 

 それは結局のところ、カタリナ様が思いついた机上の空論でしかない。だというのにその口からすらすらと出てくる文言は、どこか僕の心をつかんで離してくれないような代物だ。妙な説得力、少なくとも彼女の話のなかには一本真っ直ぐ通った理論がある。

 

 ふと、心のなかにとある落胆が過った。もしかしたら、始祖族とも渡り合えた僕の能力は、その全てが自分のものではなくナインによって与えられた借り物に過ぎないのかもしれない。この黒い剣を手放したら、また僕はただの反射神経が良いだけの一般人に逆戻り。その未来を空見し、湿っぽいため息が漏れだす。

 

 一度その方向に考えが向いてしまえば、後に待っているのは終わりのない思考の迷路だ。結局今こうやって旅に出た自分を構成しているのは、その意思は無くしたはずの過去の記憶に引きずられ、そして力はきっと自分のものではない借りてきた物。

 

 今の自分自身を突き動かす過去を取り戻すという行動のなかに、どこまで今現在の自分の意思があるのだろうか?

 

「……とまあ好き勝手話してきたけど、どのみち彼女がイレギュラーな存在なのは変わりない。そしてボクも、そんな話を揚々と他人にバラす気はない。その上で、ツカサに忠告しておくよ」

 

 その迷路に僕が引き込まれるように促したのも、そして頭を引き上げさせたのも、この彼女だった。考えがまとまらないぼんやりとした頭を上げたその前で、真剣な顔を浮かべたカタリナ様が目に入る。

 

「自分自身について、一度よく考えるといいさ。普通ならば扱えない魔術を使えることの意味と、そして君と彼女のあり方を。君は果たしていつまで彼女を使い、そして――」

 

 言葉を一度切ったカタリナ様は、こうこうと寝息をたてて起きる様子のないナインを一瞥した。彼女が初めてその目に宿す、明確な懸念の眼差し。

 

「――いつまで彼女に使われ続けるのかな」

 

 露になった自分の脆弱性に、彼女の言葉は容赦なく突き立つ。高々顔を見知って一日の、それも立場としてかけ離れた王族にして始祖族である彼女に、何がわかるというんだ。そんな見透かしたような視線で、知ったような口を叩くな。そう声高に叫ぼうとする心のなかで、でも僅かなれど綻びは存在をしている。

 

 確かにこの僕には失われた記憶がある。そしてきっと、ナインはその過去の僕に面識がある。でも言えるのはそこまでだ。僕は、ナインが過去を取り戻すことに協力してくれているものだと信じている。どこか違和感を抱えた日常を捨てて、本当の自分を探す旅路に身を投げたのも、全ては彼女の存在ありきのこと。

 

「彼女の本心なんて全く知らない。でもボクは、君がいつの日か霊剣擬きに使い潰されないことを願ってるよ。せっかく見つけた面白い人間を、そんな不条理に潰されるのは面白くないからね」

 

 でももしナインが、彼女自身の別の目的のために僕を使っているのだとしたらどうなる。果たして今ここに、ナインを全面的に信じるに足る証拠はあるのか。

 

 僕はこの少女のことを、これからもずっと盲目的に信頼して良いのだろうか?

 

 「また明日も来るよ」と言い残してカタリナ様が部屋から去っていった後もそんな疑問がゆっくりと頭のなかを回り続けていた。部屋に聞こえるのは、ナインの小さな寝息と、時折窓の外から来る訓練している兵士たちの掛け声だけ。当然僕の疑問に答えてくれる人など、存在はしなかった。

 

 

* * *

 

 

 四日間という長さは、自分自身の歩くという感覚を鈍らせるには十分過ぎるものだったようだ。夕焼けで紅く染まったヴァローナの街並みを見下ろしながら、砦の外郭の屋根を廻る道を倒れないようにゆっくりと歩く。

 

 多分カタリナ様が知らせてくれたのだろう。軽めの食事を持ってきてくれた給士の人に無理を言って、こうして砦の内部という制限のもとで外の空気にふれることができている。どうやら完全にここを出るためには砦の将であるイーリスの許可がいるらしく、その上今日は彼の予定が全て埋まっているから、最低でも明日にならなければ街に戻ることはかなわない。

 

 この砦からでも見える、中央広場の姿。もう市民たちの姿は戻っているようだけど、つい数日前はあの場所はこの世の地獄へと化した。この背後にいくつも備えられた大型のバリスタから射出された大槍によって地面にいくつもの孔があき、そして流石に今は分かりやすい痕跡は残ってはいないだろうけど多くの市民があそこで殺された。

 

 今日一杯はずっと忙しいというイーリスは、あの武装蜂起の後処理に追われていることだろう。犠牲になった市民への対処だけでなく、要衝の地としての防衛力の建て直しもきっと急務に違いない。それを考えたら、確かに僕に割くような時間はそう簡単には出てこないのも納得だ。

 

 

 ふと、バリスタの脇に放置された木箱をみつける。朽ちてはおらず、座るにはちょうど良い大きさ。疲れた脚を休ませるために、そこへ腰かけた。ただでさえ人手が足りないだろうから周辺には見張りの兵の姿はなく、ここにいるのはただの僕一人。夢の世界に落ちたままのナインも、起こさないように部屋へと残してきた。

 

 思えばクアルスの街を飛び出してきてから今に至るで、一人きりになって物思いにふけるという時間は中々になかった。今くらいは、こうして誰もいない空間に身を置きたかった。

 

「……空、ね。山間の地から見えるだけの、ただの夕暮れじゃないか」

 

 砦から街の城門、さらにその外側へと目を向けると目にはいる、星が見え始めた夕暮れの空。方角から言って、その遥か先にはきっと海が続いているのだろう。心が奪われるほどではないが綺麗な光景。今感じているのは、そんなところに過ぎない。

 

 ヴァローナを護るために力を貸す、その決断を下したのも同じ場所でのことだった。ナインに言われた、過去の自分はこの空を眺めていたという話。この街に、過ぎ去りし日の中の僕は何を残したのだろうか。この空は、きっと今の自分とは異なる感情だって抱いていたのかもしれない。

 

 僕には、そんな過去の記憶に残された思念をなぞることしかできないだろう。

 

「馬鹿らしい。過去の自分に成り代わるだなんて、冗談にもならない」

 

 まるで、自分を納得させるがために自然とそんな言葉が口をついた。確かに僕は、過去の自分を取り戻すがために旅に出た。それは、本当の自分を知らなければ命が尽きるその日にきっと後悔をするから。自分自身すらもしらずに命の灯火が果てるのは、多分悔やみきれないのだろうから。

 

 でもそれは、いなくなった過去の自分を再び蘇らせることとは重ならない。これから取り戻そうとしている過去は僕にとってはあくまでも知識であり、決して経験などてはない。

 

 そして、多分ナインは僕を通して過去の自分を見ているのだろう。彼女の何気ないしぐさに言動を見てみればわかる。それはただ単に同じ目的を持った人間同士でのものに収まるものではないのだ。だからだろうか、彼女の言葉は僕を通した別人に向けての物に聞こえてしまう時がある。

 

 

 もともとナインに対して違和感を覚えるだけの土壌はあった。そしてさっきのカタリナ様の言葉によって、疑念という芽が出るにまで至ってしまった。

 

「使い潰される、か……」

 

 カタリナ様に言われた言葉を、そのまま反芻するようにして口にした。ただ利用されるよりもよほどひどい、まるで消耗品か何かのような言われよう。

 

 彼女のその言葉の根拠は、黒剣と化したナインの特性だ。本来であれば魔術を使えることの出来ない人間族がそれを行使する、そんな不条理は何かの代償があってもおかしくはない。ナイン単独では戦えず、だからそれを扱える人間が消耗品なのではないか。おそらくそれが、彼女が言わんとしていたことだろう。

 

 

 だけど結局のところ、それが本当かどうかなんて分からない。ナインの本心なんて、出会って高々数日の僕になんか分かりはしない。彼女はあくまで僕の目的に協力をしてくれてる同行者に過ぎず、少なくとも今の僕にとってはまだ日の浅い付き合いでしかないのだ。

 

 少なくとも今の段階では、彼女の本性を疑うも信用するも、それは自己満足の域を出ない。本当だったら、そんなものを抱くような段階にすら達してないのだから。

 

「……もし彼女に使い潰されそうになっても、そのときに考えれば良い。どちらに振れるでもなく、距離を保てばどうとでもなるさ」

 

 誰も聞き手がいない空間に、自分の声だけが響く。もし彼女が自分の目的のために僕を使おうというのならば、僕も自分の過去を知るために彼女を使えば良い。

 

「過去の自分、僕はお前の痕跡が残るこの街を救ってやったぞ。いつの日か、今度は僕の深層に巣くうお前を日の下に明かしてやる」

 

 何処へと続いてるかも分からない空、その果てに向かって吐き捨てた。この行動に然したる意味なんてない。見知らぬ過去を探すというこの旅路は、今この瞬間の僕の意思で行っているんだと自分に言い聞かせるだけだ。

 

 

* * *

 

 

 太陽が沈み行くと共に、冷たい外気が牙を向き始める。道を行く人々に寒さを感じさせる風が街の隅々を過ぎ、そして砦の外周にまで到達する。

 

 外郭通路に積もった塵が強めの風に吹き流される。その中、一人木箱に座ったまま街並みを眺めていた黒髪の青年ツカサは、肌寒さを覚えているのだろうがその場を動こうとはしなかった。

 

 一番星が瞬き始めた東の空を眺める彼の視線には、険しさが浮かんでいる。きっと同じ空を見上げていたであろう記憶から消えた自分に向けての宣戦布告。その決意を噛み締めるために、ツカサはじっとその空を見上げていた。

 

「……」

 

 そして夜の幕が上がり始めた外と壁一つを挟んだ砦の内部で、壁に寄りかかった少女はなるべく音をたてないよう静かに息を吐いた。ツカサがいる所からは死角になったその場所で、吹き込んできた冷たい風が彼女の薄桃色の髪を揺らす。

 

 眠りに落ちたままに"見えた"彼女を置いて砦の外郭へ向かったツカサを追うようにして、彼女もそっと彼の後をつけてここにたどり着いたのだ。彼女が立っている場所ならば、ツカサに気が付かれることも無く彼の独り言も十分に聞き取ることは出来る。だからツカサが過去の彼自身へ向けた独白だけでなく、少女へ抱く揺れ動く心から漏れ出た言葉も全てがナインの耳へと届いていた。

 

「……あの女……っ」

 

 彼女は小さく呟きながら険しい表情を浮かべる。でもそれは、ツカサのようにある種の決意に満ちたものなどではない。眉間に皺を寄せてそして唇を噛みしめた、何かへと憎悪を抱くかのような歪んだ貌。ツカサの前では決して浮かべはしないような表情を晒す、それほどまでに憎しみを抱かせる何かが彼女の内面に渦巻いていた。

 

 

 そして間もなく、ヴァローナの街並みからは太陽の明かりが姿を消した。ツカサが肌寒さに耐えられなくなり木箱から立ち上がるその頃には、砦の中へと戻る回廊には最初から誰もいなかったかのように人影一ついなくなっていた。




城塞の街ヴァローナ

アストランテ王国の北部に存在する、山間の中に開かれた城塞都市。
隣国であるフラントニアとの国境付近にあり、要衝の地としての役割も与えられている。
そのため北部に向けた大きな砦があり、街には兵士や傭兵の数が多い。
街そのものは王国北部の中核都市であることもあり広大で、南北に走る大通りや街の中心に位置する広場が特徴的。
なお食物の流通は外部交易でほぼ全てを賄っており、一般に手に入る食糧の質は港町のクアルスとは比べるまでもない。

その昔、ヴァローナは周辺の旧北部諸国連合に対するけん制として王国が整備したという経緯から、
現在でも北部人と現住民の間には隔たりが存在する。



始祖族 (2)

始祖族は二種類の特徴的な能力を使うことが出来る。
一つは始祖族自身が持つもので、戦闘力に長けた物には雷撃や火炎を生み出すもの、支援能力に長けた物として他者との聴覚の共有というもの等がある。
二つは彼らが保有する霊剣に宿るもので、霊剣の分離や錬成、一つ目の能力を強化するといったものがある。
二種類の能力を組み合わせることにより、彼らは人間族とは隔絶した戦力を誇る。


二つ目の街での戦乱を終わらせたところで二話目は終了です。次からは、恐らく主人公立身出世ルートに足を掛けるかと。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話「深層の森林地帯リオパーダ 不穏の足音」
22. 飼い犬と副官


「……ナイン、準備はいいね?」

 

 遥か彼方の山の頭にようやく太陽の明かりがかすかに見えるだなんて、クアルスにいた時も流石にまだ寝ていたような時間だ。それに部屋の空気ですらも、しっかりと着込んでなければ凍えてしまうほど。そんなまだ日の登りきらないような早朝のひと時に、僕は声を潜めて隣に並んだ薄桃色の髪の少女に問いかけた。

 

「うん、大丈夫。見張りの兵はいないし、まだ兵士たちの訓練も始まってはいない」

 

 耳に手を当てて廊下の音を聞き取った彼女は、どこか自信に満ちた様子でそう返した。確かに人の気配が無いのは勿論のこと、窓の外からは日が昇ったあとにはいつも聞こえていたような兵の訓練で剣を打ち鳴らすような音も聞こえてはいない。

 

 その窓へと手をやって、外の様子を確認する。明け方の薄暗い空間が広がり、開け放たれた窓辺から身を震わせる厳しい寒さが吹き込んだ。

 

「じゃあ、見つからない内にとっとと行こうか」

 

 人の体一つならば容易に通ることの出来る窓からならば、外に出ることは簡単だ。元々この部屋は誰かを軟禁するために作られたというわけではないようで、ただの宿泊室であるここから逃げ出すことはそう難しい話ではない。

 

 さて、こんな朝っぱらに一体僕たちが何を企んでいるのか。それは何を隠そう、療養にために与えられた砦の一室からの脱走である。何も思いつきや酔狂でこんなことを画策しているのではなく、これはきちんとした考えの元である。

 

 

* * *

 

 

 切っ掛けは昨日の昼頃の話だ。

 

 ヴァローナでの武装蜂起後、数日間の気絶状態から目覚めたのが一昨日の出来事。その時、僕はカタリナ様から幾つかの忠告を受けた。その内容の如何については一旦置いておくとして、その時に彼女はまた来るよと言っていた。給仕の人に聞いたところ、砦でのカタリナ様の役職は特務将官というものらしい。

 

 そんな色々と仕事を抱えていそうな大層な肩書から言って、彼女のまた来るよといういう発言はおそらくはリップサービスみたいなものだと考えていたけど、それに反して彼女は昨日に再び現れた。それも一人だけじゃなくて、その脇にこの砦の将であるイーリスも連れたって。

 

 恐らくは彼は詰まった予定を無理やりにこじ開けてくれたのだろう。僕に宛がわれた部屋の中で、机に向かい合って僕とナイン、そしてイーリスとカタリナ様が向かい合う。彼が最初に口にした言葉、それは僕への感謝だった。

 

「まずは感謝を述べさせてくれ――ありがとう。君のおかげで、ヴァローナの砦は守られたよ」

 

 あの日、イーリスは砦で部隊の統括にあたっていた。懐に忍ばせていた彼の霊剣の破片を通してこっちの戦況を把握し、作戦として立てておいたバリスタの一斉射、そして頃合いを見計らった砦の全兵力の突入を指揮した。

 

 しかし今になれば、よくもまあ彼のような堅い立場の人が僕のような人間族の若者の話に耳を傾けてくれたものだと思う。彼を説得するために行ったことと言えば、わざと砦の兵をけしかけてそれをいなして見せたくらい。とてもじゃないが化け物染みた敵の始祖族の戦士を打ち倒せるような保証は出来なかった。

 

「……全ては閣下が僕とナインを信頼してくれたからです。きっと、僕たちだけの力ではあの敵将に歯は立たなかったと思います」

「謙遜はよせ。今や君は立派な始祖殺しだ。それほどの存在が王都でさえ一体どれほどいることか……君は、もっと自分を誇るべきさ」

 

 始祖殺し、その肩書は僕にとってはひどく重たいものだ。人間の身でありながら、始祖族を打ち倒すほどの力を持った戦士をさす呼び名。これまでの戦乱の最中で敵対する始祖族を打倒した古強者や、実際に始祖族を殺したわけでは無くとも実技訓練で打ち倒したことのある者が呼ばれると聞いたことがある。

 

 言ってしまえば、クアルスでアリアスを撃破した時点でもうそう呼ばれるだけの下地はあったのだ。そして何人もの兵士の前でマオを打倒したことで、僕は数少ない本当に始祖族の戦士を殺した人間として認知されるに至ったのだろう。

 

 

「ヨードルから君について少しだけ聞いたよ。まだこの街に来て日が浅いのに、何故ヴァローナを救おうとしたんだ? もし私が力のないただの市民だったら、自分の命を優先して間違いなく街から逃げ出ただろう」

 

 いくらか武装蜂起後の街の様子について話を聞いた後に、イーリスはそんなことを問いかけてきた。僕が身の丈に合わないような戦いに身を投げた理由を聞こうという質問。今まで腕を組んだまま窓の外に目をやっていたカタリナ様もこの話題には興味を惹かれたようで、いつの間にか真紅の瞳をこちらにじっと向けていた。

 

「……過去を探しているんです。失った記憶の破片を探し求めて、今はその旅路のほんの始まりなんです」

 

 ほとんどは真実を、そして敢えて一部だけは隠して話した。確かに今の僕の状況は、自分の過去を探すための旅路の途中である。しかしその一方で、ナインの手を取った瞬間から、クアルスに自分の居場所が無くなったからという理由もある。

 

「僕すらも知らない自分の過去を知る彼女の協力の元で、僕はこの街にたどり着きました。昔居たことがあるというヴァローナを、よく知らないままにフラントニア帝国へと落とされたくはなかった……ただ、それだけです」

 

 自分という人間が、こんな要衝の地であるヴァローナに果たしてどんな用があったのかは想像もつかない。でもナインは、確かにここは何かしらの縁があることを示唆しているのだ。せめてあと一月の間、路銀が貯まるまでの間はヴァローナでの自身の痕跡を探したい。

 

 今回の無謀とも言える戦いも、結局は目標を邪魔する障壁を排除したに過ぎない。決してこの街の誰かを救いたい、そんな思惑なんて無かった。そう言外に匂わせた。

 

「だが、ヨードルは君が殺されそうになっていた親子を率先して助けたとも言っていたよ。君の行動は動機がどうであれ、英雄的なものさ」

「あれは……何故あんな行動をとったのか、僕自身にもわかりません」

 

 自分の体を死地に向かって突き動かしたほどの、強い衝動。イーリスには分からないとは言ったものの、実はその正体については心当たりがある。

 

 ナインと出会ってから今までの日々で、これまでの自分ならば絶対に取らなかったであろう選択をいくつかしてきた。その度に思う、記憶にないはずの過去の自分の影。きっとそれが、今回も僕には似つかわしくない英雄的な行動をさせたのだろう。

 

 

 ふと、イーリスの顔に少しばかりの険しさがさした。彼の切れ長な視線が僕とナインを捕らえ、そして直後に隣へ控えている――獲物を前にした肉食獣のような笑顔を浮かべたカタリナ様を一瞥した。

 

「……今回の一件、君には感謝をしている。だが同時に、ひどく大きな悩ましさも感じている。それは、君たちの扱いだ」

 

 声のトーンも少しばかり落ちて、イーリスはそう言い切った。彼の言葉を頭のなかで反芻すること数秒、ここにきてようやく僕は自分でも気が付いたのだ。武装蜂起の鎮圧に際して、介入したことによる弊害を。

 

「君たちの働きは凄まじい。特にツカサ、君は作戦骨子の立案だけでなく敵陣に単独で突撃し、仕舞いには始祖族である敵将を撃破した。君の働きは、言葉で言い表すのも困難なほど大きいものだよ」

 

 言葉の上だけをみれば、まるでこの功績を称えるかのよう。しかし実際はそうではない。始祖族ではない普通の人間であることはおろか、傭兵や正規兵といった専門ですらないこの僕が、身の丈に合わない戦果をあげた。

 

 こんなただの市民が戦乱で活躍してしまったことに爽快や喜びを感じるほど、おめでたくはない。始祖族が人間族の市民を統治するこのアストランテにおいて、訓練された熟練の武人ならまだしもそこらの一般人が始祖族を打ち倒したとなればどうなるか。程度の大小はどうであれ、この国の価値観にヒビが入るのは間違いない。

 

「……僕を、どうするのですか?」

 

 最悪の展開が頭の中に過るやいなや、震えた声が口から漏れ出た。僕の目の前にいるのは、人間族とは価値観が違う支配階級たる始祖族だ。彼らは、国を統治するためであれば非情な選択だって容易に取る。常識にヒビをいれるような存在など、排除されたって何らおかしくはない。

 

「安心しろ。君に危害を与える気はない。仮にそうしたところで、君の存在を砦の兵達が知った現状では反乱意識を芽生えさせるだけだ」

 

 それはつまり、選択はしなかったけど検討はしたということ。やはり彼もまた、冷徹さを持った始祖族であるということを改めて思い知らされた。

 

「だが君をそのままにしておくにはいつか綻びが来る。だから私は一つの結論に達した。それは――」

 

「――やっとボクの番か。前置きが長いんだよ」

 

 うんざりしたような、それでいながら揚揚とした様子で、カタリナ様は今までずっとつぐんできた口を開いた。そんな一言を残したかと思えば、まるで肉を前にした獣の如く、身をやや乗り出して彼女は真紅の瞳で僕の顔を捉えた。

 

 

「ツカサは覚えているよな。初めて会った夜に、ボクが君に言ったことを」

 

 彼女の言うとおり、僕はしっかりと覚えていた。出自も怪しい僕に対して、アストランテ王国第三王女殿下の副官にならないかという異様な提案なんて、忘れたくとも不可能な代物だ。

 

 カタリナ様から逃げ切って住処へとたどり着いてからナインにフクカンとは何ぞと聞いてみて、ようやく事の異常さに気がついたものだ。

 

「あの時の提案をもう一度言う。君、ボクの副官になれよ。ツカサの身分を保証し、秩序崩壊の種を減らすにはとっておきの方法さ」

 

 副官とは、軍部において部隊長などの高い階級職の仕事を補佐する人員のことらしい。ナインいわく、戦うだけではなく部下たちの調整など複雑な業務をもつ将校は、一部を肩代わりさせるために副官を持つことがあるとか。

 

「君らの雇い主から聞き出したよ。少なくとも、事務作業については申し分無い。そしてそれ以上に――ツカサ、君には興味がある」

 

 だが彼女は、ただ将官としての事務的な業務を補佐するだけがために副官を欲しているわけではない。この人は、間違いなく戦乱にて彼女と共に動き回る兵士を求めている。

 

 あの時と一緒だ。逃がすつもりなど欠片も無いと語る、見開かれた深紅の瞳。まるで体全体を押さえつけられているかのような錯覚。

 

「……それに、仮にも王族のボクは君のような特殊な人間を抱えるに足る立場にいる。ボクならば、君をうまいこと匿いながら扱うことが出来る」

 

 ふと、カタリナ様の笑顔が深くなる。彼女の言葉の行間を読むのは容易い。この人は、僕とナインの特殊性を実際にその目で見てしまった。きっとナインという存在と始祖族の霊剣の関連の秘密保持を、ぼやかしながらもちらつかせているんだろう。

 

 

「今日は体が本調子じゃないだろう。明日の朝、良い返事を期待してるよ」

 

 そのあとも幾つは言葉を交わしたものの、結局はそのまま僕たちの身柄はカタリナ様の下にいくという方向性が変わることはなかった。一晩の間で覚悟を決めろということだろう。去り際に彼女が小声で「選択肢は無いけどね」と呟いていたことから考えても、これが実質的な強制であることは明らかだ。

 

 つい前日に、彼女は僕がナインによって良いように使われている可能性を示唆した。でもそのカタリナ様自身も、自分をうまいこと扱おうとしているのではないか。明かしたら危険そうな弱味を握られた分、余計に質が悪く感じる。

 

「……ツカサ。私は、あの始祖族の女は危険だと思うよ」

 

 果たしてそのナイン自身はどうなのかというと、彼女はカタリナ様の提議に対して難色を示していた。一体それはどうしてなのか。そう聞くまでも無く、ナインは僕の目を見据えてしっかりとその考えを話しきった。

 

「あの女についていく。それはつまり、ツカサが今以上に戦乱へと巻き込まれていくということだよ」

 

 彼女が王族でありながら副官という存在を要するような軍の立場である以上、殿下に付き従うということは戦いに直面する機会も多くなることに直結する。今が平静の世であれば問題は無かった。しかし現実は、要衝の地であるこの街で帝国の勢力が武装蜂起をけしかけた。もはやこれは平静などとは程遠く、ヴァローナでの出来事が早馬で伝えられた暁にはきっと国の中央はてんやわんやだろう。

 

「それだけじゃない。始祖族と私たちは、決して同じじゃない」

 

 後になって考え直してみたら、このあとに続く言葉が最も心を揺り動かすものであった。

 

「……人間は、馬車を引く馬や猟を補佐する猟犬に対して、親愛を感じることはあっても自らと対等だとは決して思わない。それと同じ、アイツは私たちとは違う生き物――あの女にとって、ツカサは"多少興味深い犬"でしかないのかもしれないよ」

 

 始祖族と僕たちの価値観は異なっているけど、もしかしたら始祖族の中でも変わり者かもしれないカタリナ様であれば何かしら通じ合うものがあるのかもしれない。しかしそんな考えも、この一言で幻のようにフッと掻き消えてしまった。

 

 思い返してみれば、傭兵たちから一緒に逃げたあの夜だってカタリナ様の反応は面白そうな玩具を前にしたかのようだった。種族の違いという側面から考えてそのあり方を否定する気は無くとも、自分が関与することに良い気はしない。

 

 それに、そんな存在に対して自分を預けることが出来るのか。副官になるということは、カタリナ様の元に下るということだ。命のやり取りが交わされるような戦場で、果たしてあの人が"多少興味深い犬"に対してどこまで気を払うというのだろうか。無いとは願いたいものだが、つまらなくなったから見殺しにするだなんてことが起きない保証は何処にも無いのだ。

 

 

 僕が旅に出た目的とは、自分の過去を知るためだということだ。仮に身分の保証はされたとして、今後の行動の幅は間違いなく狭まるだろう。彼女の軍門に下ることとなれば、果たして何処まで目的から遠ざかることとなるのか。

 

「今ならば、まだ引き返せるよ」

「……垂らされた手綱を放り出すってことか」

 

 今の僕には選択肢が無い、強制といって差し支えのない状況。だけどまだ、彼女の副官になるという話は確定されたわけじゃない。一晩の間に決意を固めろという時間的な猶予だけは与えられた。だから首を縦に振るよりも先に、そもそも問題を放り出してしまうという荒技が残されている。

 

 

「――私は、あなたを戦乱に巻き込みたいわけじゃない。ツカサと一緒に、私の知る昔のあなたの痕跡を探したい。私の望みは、ただそれだけなんだよ」

 

 彼女の囁きは、僕にとって都合がよすぎる物だ。口で話す言葉とは裏腹に、腹の内に本当の望みを抱えていてそれを明かしていないのかもしれない。カタリナ様だけじゃなくて、ナインも僕を何らかの形で利用している可能性は捨てきれない。

 

 そんなことは頭では理解をしているのだというのに、彼女の言葉は思わず信じてしまいたくなるのだ。カタリナ様の言葉によってナインの在り方に疑念を自覚したにもかかわらず、まるで思考がそう操作されているかのよう。

 

 

 夜明けと同時にこの部屋を脱出しようなどと本気で計画を練ることとなったきっかけは、きっと艶めかしいほどに甘く聞こえてしまったナインの言葉なのだろう。

 

 

* * *

 

 

「……本当に脱出しちゃったよ。というか、脱出できちゃったよ」

 

 これまでの経緯を思い返しながらこそこそと動き回っている内に、僕たちは借り受けている商工会の宿舎前へとたどり着いていた。小声で本当にあの砦から脱出できてしまったことに驚きの念を呟いていると、隣を歩くナインが不思議そうな表情で首を傾けた。確かに何らかの荒事に慣れているかもしれない彼女ならばここまでの道筋は普通なのかもしれないけど、僕にしてみれば色々と無茶のあるものだった。

 

 そもそもが部屋から出た後の経路について、僕自身は細かいことはあまり考えてはいなかった。砦と市街地との間は、それなりに高さのある壁で一面が仕切られている。それを突破するために、適当に出入り口付近に潜伏し、兵士によって開門された辺りでこっそりと出ていこうとくらいは考えていた。

 

 しかしナインは、あろうことかその壁をよじ登って乗り越えるという荒技を提案した。おそらくは彼女にとってはそれが普通の選択であり、しかもやってみたら案外行けてしまったというのがたちが悪い。

 

 

 未だ周辺は夜明け直後で薄暗く、それでもって山間の湿気により街は朝もやに覆われている。だから周辺は輪をかけて人けが感じられず、この商工会宿舎であってもそれは変わらない。古びた扉に手をかけたが、僕たち以外に活動している人は誰もいなさそうだ。

 

 先の武装蜂起で商工会の受付所も大きな損害を被った。広場での一斉蜂起と共にこの街の流通をも麻痺させようと攻め入ってきたのだろう。反乱兵によって受付担当一人が殺され、受付所のロビーは戦闘によって大きく荒れた。しかし受付所と隣接するこの宿舎は大きな被害は見受けられず、古びた内観や軋んだ音を立てる階段など何も変化はない。

 

 

 一旦は自分たちの借り受けた部屋へと戻り、ヴァローナから他の街に移動するための準備をする。これが、ナインと共に話し合って決めた今後の方針だ。いきなりヴァローナの深部に潜伏をするよりも、一応は拠点を持っておく方がよほど堅実だ。それにこの街を出る前に、自分の痕跡を探しておいた方が良いだろう。

 

 然したる意味は無いけども、古びた狭い階段をなるべく足音を立てないように歩く。王族の言葉を破って僕たちはこの場所にいる。見つかったらただじゃ済まない、それだけは理解をしているつもりだ。追手が出てくる前に荷物を纏め、次の街へと移動するべきだろう。

 

 

 そんな今後の指針を頭の中に思い描きながら、廊下の一番奥の古びた部屋の扉に手をかけ――部屋の中に目を向けた瞬間に、僕は扉を開けてしまったことを後悔した。反射的に扉を閉じようとした手は、その奥からこちらを見据える真紅の双眼により痺れたかのように動かなくなる。

 

「――ツカサ、罠だっ!!」

 

 背後にいたナインの行動は素早かった。部屋の内部を僅かに視認した瞬間に彼女は腰元へと手を伸ばし――しかしそこに括り付けられていた投てきナイフを手にするよりも先に、僕は彼女を制す。そして、ゆっくりと両手を上に上げた。

 

「……ナイン、手出しはしちゃ駄目だ。これはもう、完全に向こうの勝ちだよ」

 

 どうやら、僕たちはまんまと嵌められたようだ。人けが無かっただなんて全くの錯覚だったかのように、後ろからいくつもの扉を開け放つ音が鳴り響く。恐らくは、"目の前の人物"があらかじめそれぞれの部屋に手配しておいた砦の兵士たちが、ずっと息を潜めていたところから一転して僕たちが逃げられないように廊下を固めていることだろう。

 

 その仕掛け人であろう、古ぼけたベッドに腰かけて僕に向かって微笑みを向ける、黒紅色の長髪を窓辺から差し込んだ朝日で照らしあげる女性。組んでいた足を解き、昨日と同じ黒い軍服に身を包んだ彼女は、僕たちに向けてゆっくりと歩みを進めた。

 

「やあ、遅かったじゃないか。一晩ゆっくりと考えた結果は、やっぱりこれか」

 

 砦から抜け出した脱走者を見つけたというのに、彼女――戦姫カタリナ・フォン・アストランテは場違いなほどに朗らかな笑顔を浮かべている。そのギャップが、彼女に対して異様な警戒感を抱かせた。

 

 冷や汗が伝い動けないままにいる僕の顔を、カタリナ様は満面の笑みを浮かべたままに覗き込む。鼻と鼻がくっつくほどの距離に、絶世の美女の端正な顔が間近に見える。こんな状況でも無ければ思わず顔を赤くしそうなものだけど、目の前にいるのが逃げ出そうとしていた始祖族且つこの国の王女ということを考えれば、きっと僕の顔は青ざめていることだろう。

 

「君を引き込むには一筋縄ではいかないと思ってた。だからイーリスに、あえて君の監視をほとんど外させたのさ。きっと君にはただボクに従うことは無く砦から逃げ出すだけの意志もあり、でも一旦自分の拠点に戻るだけの堅実さもある。ボクの予想は、これで全部当たっているよね?」

 

 僕の周囲を軽やかな足取りで一周した彼女は、再びその顔を目の前へと突き出してきた。僕たちの行動は全て、殿下たちの手のひらの上から外れることは無かったということか。まさか逃げ出してここに来ることすらも織り込み済みで、更に前もってこの場所で待ち伏せていたなど、もはや笑うしかない。

 

 ちらりと後ろに目を流す。僕と同じくじっと身動き一つせずにカタリナ様を見つめるナインは、まったくの無表情で感情が読み取れない。でも懐に伸ばした手は微動だにせず、何か動きがあればすぐ様にナイフを抜き放てる臨戦態勢なのだろう。だけど相手はカタリナ様だけではなく廊下に控えた兵士もいて、更にカタリナ様自身が強大な能力を持つ始祖族の戦士だ。だから、彼女に事を起こさせるわけにはいかない。

 

 

「じゃあ聞こうか。一晩悩み抜いて、こんな状況にまでなった君の考えを」

 

 もう、心を括るしかない。殿下はやろうと思えばいつでも僕たちを害すことが出来るというのに、一見して無防備なほどに朗らかに笑みを浮かべるだけ。それはつまり、もう欲しい玩具は手に入ったも同然だということ。いくら歯噛みしようが、彼女の意志は変わらないのだ。

 

「……ええ、分かりました。しっかりと考え抜いて、そして今もこうして熟考をした結果――」

 

 敢えてこうやって逃げさせて、本当の意味で退路を塞いできたのだ。だから、今この瞬間だけは彼女が欲していることを言ってやるしかない。口角が吊り上がるカタリナ様を見据えながら、僕は自分の口で自身を縛る一言を吐き出した。

 

「――ツカサとナインの両名は、カタリナ・フォン・アストランテ第三王女殿下の副官を拝命させていただきます」

 

 満足げに笑うカタリナ様を前にして、僕は心の中で考えを巡らせていた。今はこの人の下に付くことを容認して、いつの日かその命を打ち捨てて元の身分へと戻ろうと。そしてきっと殿下はそんな心に秘めた考えすらも看破しているのではないかという確信染みた予感が、彼女の笑顔を見ているうちに内心を過った。

 

 

 こうして僕の身分は、兵隊とは関わりのない商工会の受付所で事務作業の見習いに勤しむ一般市民から、第三王女付きの副官としての命を受けた特務尉官へと姿を変えたのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

23. 決して英雄などではない

 殿下の元で副官になるという表明をした後は、身元の整理に追われた。元々大してありもしない荷物をまとめるのは苦ではないが、こんな短期間とは言えどもお世話になったヨードルには真っ先に話を伝えに行きたいと殿下に頭を下げた。

 

 にべもなく却下されることも覚悟の上だったが、案外彼女は首を即断で横に振ることもなく赦しをくれた。勿論僕とナインには監視の目として兵士が付くこととなったが、それでも一度脱走を企てた人間に自由が与えられたというのは破格の処遇だろう。

 

 

 ヨードルの身柄は、砦の中から商工会の受付所からほど近い診療所へと移されていた。もう一週間近く前になるあの武装蜂起の場面で、彼は僕以上に痛手を負っている。なんたって両手が黒く焦がされるほどの雷が直撃し、普通ならば絶対安静のはずだというのにマオを打ち倒した直後に中央広場へと殺到した兵士たちの最前部には彼の姿があったほど。気を失う寸前に見た光景のためか、両手を包帯で巻きながらも長槍をかざして走り出すヨードルの姿は今でも目に焼き付いている。

 

「……ツカサちゃんには言ったわよね。彼らはアタシと同じ北部人。同郷の人間がやったことには、けじめをつけなきゃいけない」

 

 しかしその代償は大きかった。応急処置すらも満足ではない状態で更に体を酷使した結果、彼はもう槍を握れなくなってしまった。手の先の感覚が消え失せて、槍どころか小さなペンを持つこともままならない。

 

 診療所に訪れた僕を出迎えるために起き上がろうとした彼の巨体が崩れ落ちた瞬間、その異常に気が付いたのだ。ぎこちなく体を起こそうとする最中、ベッドのすそを掴もうとして力なく空振りする彼の手のひら。その後に、彼はぎこちなく苦笑いをしながら自身の状況を述べたのだ。

 

「こんくらいやすい物よ。だってまだ腕以外は元気で、生きてこうやって街並みを眺めていられるもの」

 

 肘から先の自由が奪われたというのに、彼は穏やかにそう言い切った。敵将の持つ雷撃の強大さが、今になって目の前に突き出された気分だ。ヨードルの命こそ奪われなかったものの、もろに直撃した腕は筋肉を動かすこともままならない傷を残したのだから。

 

 それとは裏腹に、僕は幸運にも目立った後遺症も無くこうやって自分の足で地面を踏みしめている。あの強力な雷撃が腕や足を掠め、戦いの終盤では膝から下が動かなくなるほどにダメージを受けたのにもかかわらずだ。それがただ後ろめたく、少しだけ俯く。

 

「そんな顔を浮かべないでちょうだい。自分のなすべきことをやって、その結果がこれってだけの話。むしろ荒事から身を置いたこの生活に、ようやく本当の意味で向き合えるかもしれない良い機会よ」

 

 意味も無く謝ろうとした僕の言葉を封じるように、彼は窓の外の遠くを見ながら言う。この街の守護を取り仕切る将官のイーリスは、ヨードルのことを古い友であると同時に昔は名の知れた勇士であったとも言っていた。どれほどの修羅場を潜ってきたのかも分からない彼だけど、羽を休ませると言うその姿には確かな説得力があった。

 

「つい数日前に雇ってくださいと頭を下げてきた大人しそうな若い男の子と女の子が、今じゃ立派な始祖殺しなんてね。アンタたちのおかげで、あんなことがあったのにヴァローナはまた活気を取り戻している。感謝こそすれ決して恨みなんてないわ」

「……この街が、好きなんですね」

「当然、大好きよ。傭兵をやめた後もこの街に身を捧げてきた。それは槍を持てなくなったこれからも変わらないわ」

 

 彼はそう即答した。北部人である彼が故郷ではなくヴァローナという街に人生を捧げるだけの理由は知る由もない。でも確かに彼にとってこの街は、たとえ体の自由を奪われようが護るだけの何かが存在するのだろう。

 

 

「……ツカサちゃんはこの街とは関係のない人のはず。だけどアンタは、命を顧みずにただ親子を助けるがために殺戮の中へ飛び込んだ。あの日、アタシはツカサちゃんのことを傭兵のようだと言ったけど、訂正するわ」

 

 診療所の一室の中に流れる静かな空気に乗せるようにして、ヨードルは言葉を紡ぐ。思い出すのは、あの戦いの中で初めて明確に敵の兵に己の意志で刃を向けた瞬間だ。それが戦場の狂気に蝕まれた僕がとった凶行なのか、それとも失ったはずの過去の記憶に引きずられたが故なのかは未だに答えは出ない。

 

「アンタの在り方は、傭兵じゃなくて英雄よ。遥か昔、世を滅ぼそうとしていた悪魔たちから民衆を救うために戦った大英雄プリムス様と同じ……戦姫様がツカサちゃんを欲したのも、分かる気がする」

 

 あんな曖昧な――根拠の分からない強迫染みた衝動に突き動かされたゆえの行動が、そのような言われ方をするのは、正直に言って本意ではない。彼の言う大英雄プリムスの話は、それが創作か事実かはさておき古文書に残る限りの最古に生きた紛れもない偉人の英雄譚だ。

 

 世界を滅ぼさんとしていた強力な魔将やそれらを束ねる魔王との間で繰り広げた幾多もの戦いは、大英雄を崇める宗教によって長きにわたって言い伝えられ、今でもほとんどすべての市民が知っていると言っても過言じゃない。

 

 そんな完全無欠な英雄と、僕のような自分の行動の理由すらも分からない半端者は、決して重なるものじゃない。それに英雄ならば、理不尽な暴力が人に降りかかるのを決して看過しない。だから武装蜂起で幾多もの人間が殺されるのを自分の命のために黙殺し、そしてクアルスの街でフィンがアリアスに殺されたことすらも防げなかった僕は、英雄という肩書に比したら役者不足に過ぎる。だから――

 

「――ツカサは、英雄じゃないよ」

 

 僕は英雄じゃない、そう僕の口が発する前に隣からその言葉が響いた。感情を一切含まないとても平坦な声。そんな冷徹さすらも匂わせる言葉を発したのは、ずっと僕の後ろで話を聞いていたナインだった。

 

「英雄なんかじゃなくていい、ツカサは一人の人間だ。有象無象に英雄でいることを強いらせられる姿は……私がさせない。そんなツカサは見たくない」

 

 彼女が言わんといていることの半分も理解は出来てはいないだろう。それでも、ナインもきっと僕と同じように英雄という呼び名がもつ重さを感じてくれたに違いない。だからこそ、彼女は明確な意思をもって英雄という言葉を否定してくれたのだ。

 

「……英雄であるというのは、きっととても大変なことよ。プリムス様も絶対に苦労をしたはず。でもあなたの成し遂げたことは他者からみてそう呼びたくなるものなの。多勢に無勢、それも敵将は無双の始祖族。そこへ飛び込んで、時間を稼ぐどころか敵将を打ち倒す……」

 

 ゆっくりと口上にあげられた自身のやってきた出来事。僕がもし、砦のなかで敵の襲撃に怯えていた市民の一人だったら、そんな状況をたったの一人でひっくり返した存在がいたらどう思うだろう。

 

 たとえその人物がどう取り繕おうが、きっと僕だって心のなかで感じるはずだ――

 

「……ツカサちゃんの意思とは関係なしに、みんなあなたを英雄だと考えるわ。帝国の脅威が増すこのご時世、人は新しい英雄を求めてる。アタシですらも、あんたたちがもしかしたらこの国をも変えるかもしれないなんて思ってる」

 

 彼のような歴戦の勇士がそんなことを本心から言うはずがない、そうどこかすがるような視線で彼を見つめても、ヨードルはただ首を振るだけ。

 

 昨日にイーリスやカタリナ殿下が言っていたのは、そういうことだったんだ。ヨードルや砦の兵士のように、もしかしたら僕の存在を知る人たちが英雄という虚像を僕へと求めたならば――。

 

 もはや、自分自身だと言うのに自由に動くこともままならない。もしかしたら、この診療所の部屋の外で待機している兵士たちも、そんな熱にあてられたのではないか。そんなことを考えた瞬間に、自分が取り返しのつかない場所に至りつつあることを思い知る。

 

 

「アタシは、いつの日かアンタ達が自分自身のたち位置に向き合えることを、この街で祈ってるわ」

 

 最後にかけられた彼の言葉は、激励であると共に、中途半端なたち位置に居続けることへの警告である。無言で後ろを歩くナインを伴い砦に向かいながら、頭の中でそんなことをずっと堂々巡りのように考えていた。

 

 

* * *

 

 

「うん? ボク達は明日にはここを発って王都へと向かうんだよ。言ってなかったっけ」

 

 副官としての記念すべき最初の指令、これからの雇い主となるカタリナ殿下に言われたのはそんな突拍子もない一言であった。

 

 

 

 再び逃げ出そうなんてそぶりも見せずにただ兵士たちに従うまま砦へと戻ってきた僕たちを、カタリナ殿下はすぐに彼女の自室へと呼び出してきた。将官などという役職なのだからきっと何人もの部下を従えているのだろう、そんな予想は早々に裏切られることとなる。

 

 兵士たちに案内された方向は、イーリスたちと中央広場への突入に向けた作戦会議を行った、砦の中枢からはやや離れたところに向けてだ。同じ砦の中だと言うのに、まるで隔離されたかのような東塔の入り口に差し掛かったところでようやく違和感が芽生えた。

 

 殿下は、本当にこの砦の将官の一人なのだろうかと。イーリスと同じく砦の守護を司る将官という役職なのに、いくらなんでも彼女の私室は兵たちの居住区から離れすぎだ。それに、この東塔そのものも他の兵の気配なんてほとんど感じられない。

 

 

 ナイン共々彼女の部屋へとたどり着くやいなや、兵士たちが出ていったことで僕たち三人だけが取り残された。どこかまた警戒心を露にして目を細めるナインと、真逆に僕たちを興味深そうに眺めて口角をあげるカタリナ殿下。そんな二人に挟まれた僕は、ただひたすらに殿下がなにか喋るのを無心で待ち続けた。

 

 明らかに思っていたのと何かが違う。仮にも僕は、このアストランテ王国の高貴なる血族の一員である第三王女カタリナ・フォン・アストランテの軍部における直属の配下となったのだ。だからもっと格式ばったパフォーマンスでもあるのかと思っていた。例えば、何人もの目の前で肩口を剣で叩くとか、そういうものだ。

 

 しかし気が付けば、こんなどう動いて良いのかも分からない有様だ。僕の短く貧相な記憶の中には、始祖族それも王家の血縁者に対してどのようにふるまえば良いのかなどという情報は欠片も存在しない。下手に口を開くわけにもいかず、カタリナ殿下がようやく椅子に腰を下ろしたことで少しばかり肩の荷が落ちる始末。

 

「さてと、これで君たちはボクの副官だ。早速だけど、最初の任を与えようか――コホン、明日の出発よりも前に、ヴァローナに残されたツカサの痕跡を見て回ろうか」

 

 そんなさも当然のように、ヴァローナを後にすると言ってのけた殿下の宣言に思わず聞き返したことで、あの冒頭の言葉へと続いたのだ。

 

 

「……あの、殿下はヴァローナの将官になられたのでは?」

 

 数秒間考えて、そんな疑問を口にする。カタリナ殿下は、つい数日前にこのヴァローナへと訪れてこの砦の将官へと就任したはずだ。だからそんな来て早々にヴァローナから出るとは何故なのか。

 

 すると彼女は、「正確には違うのさ」と言いながら少しばかりの苦笑いを浮かべた。

 

「確かにボクは将官待遇だけど、この砦の正式な所属じゃないんだ。ちゃんとした肩書きは、特務将官。代替の人員が配置されるまで臨時でいろんな土地で任に就く、まぁ言ってしまえば便利屋さ。加えて通常の将官とは違い直属の部隊も持たない、身軽なもんだよ」

 

 ちらりとナインを見ると、彼女も不思議だと言わんばかりに首をかしげている。まるでフリーランスの傭兵のようなたち位置に、この国の第三王女であるカタリナ殿下がいるのは、どう考えても不自然な話だ。

 王都サンクト・ストルツには、軍部のなかでも誉である近衛隊が存在する。軍人であると同時に王族であるカタリナ殿下は、そんな近衛隊の指揮官であってもおかしくない。いやむしろ、こんな特異な状態に比べればよほど自然とすらも言える。

 

「元々、イーリスの下には別に数名の始祖族の将官補佐が就くはずだった。でも南部の軍備を維持するために彼らはまだ動けないでいる。ボクに宛がわれた役割は、そんな穴を埋めるということになっている」

 

 だからこその、"特務"将官ということなのだろう。必要に応じて各地を渡り歩き、その場所の主戦力として力をふるう。だが結局何故彼女がそんな立場にいるのかは聞くことは出来なかった。聞けば答えてくれたのかもしれないが、そもそも僕にはカタリナ殿下へそんなことを尋ねる勇気など無い。

 

 

「伝書鳥を飛ばして王都に武装蜂起の件を伝えたら、案の定すぐに答えは帰ってきたさ――特務将官カタリナは、即時王都へ参上されたし。海路は海流が不安定ゆえ、陸路により参られよ」

 

 カタリナ殿下は、机に置かれた一枚のごわごわとした紙をつまみ上げながら読み上げた。赴任してからまだ数日の将官を再び呼び寄せるとは、国の中央は相当今回の一件を重く見ているのだろう。もっとも早い伝達手段である伝書鳥を使うだけでなく、帰路についても指定してくるなどただ事ではない。

 

 しかし、陸路を使うという決定に関してだけは幸いであったかもしれない。海路となると港町クアルスを発着する連絡船を使う可能性が高く、そうなれば僕は再びあの街へと行くことになっていたのだ。フィンを見殺しにして、そしてジャンヌさんにも背を向けた、きっと僕という存在がもう居てはいけない場所。住み慣れていた街を、僕は自分の手で禁足地へとしたのだ。

 

 

 一端この話は仕舞だと言わんばかりにカタリナ殿下は手をポンと叩いた。

 

「さて、君たちは過去を探していたんだっけ。色んな場所に散らばった、ツカサ自身すらも知らない過去の断片を」

「……そうです。ですが、明日にヴァローナを出発するとなると――」

 

 少し言葉を切って、ナインを流し見る。僕は、ヴァローナという街に自分の痕跡がどれほど残っているのかを知らない。だから今日一日で過去の断片を探しきれるのか、それどころか最悪今この時に探さなくても支障はない程度のものなのかすらも分からない。だから、唯一過去の僕を知るというナインに判断をゆだねるほかは無い。

 

「……どうしても、この街で一か所だけツカサに見せたい場所がある」

 

 彼女は少しだけ考える素ぶりを見せた後に、小さな声で囁くように言った。その言葉を聞いて、少しだけドクンと心臓が鳴った気がした。彼女がそう言ったということは、きっと本当にヴァローナには僕が関与していたであろう場所があったんだ。

 

 クアルスの海辺で漁師たちに命を救われてから今日にいたるまで、初めてこの半年間以外の痕跡を見つけたのだ。表情だけは努めて平静さを保っていても、内心はざわめきだしたまま。

 

「でも、私たちだけではきっと行けない場所にある。だから……」

 

 口惜しい、そうありありと表情に出してカタリナ殿下へ視線を向けるナインとは対照的に、殿下は笑顔を深くして楽し気に頷いた。

 

「ふぅん、ボクならば行けるところかい。良いよ、連れてってやろうじゃないか。君らの過去探しとやらは、暇つぶしとしちゃあ十分過ぎる娯楽だ。それに言われなくても付いていく気だったさ」

 

 ヴァローナにおいて僕とナインが行けないけど殿下が入れるところとなると、自ずと候補は限られてくる。それは中央広場近辺や薄暗い路地の奥地なんかではなく、立ち入るのに身分が必要な場所。恐らくは僕たちが今居る、この砦の敷地内のどこかということだ。

 

 殿下が僕の過去を探すという行為を、宝探しか何かのように思っているのは、こちらとしては都合が良い。彼女の興味が続く限り、きっと副官としての身分でいる内も合間を縫って過去の痕跡を探し続けることが出来るかもしれない。

 

「じゃあ……ナインだったっけ。君、その場所まで案内してくれよ」

 

 今や、この部屋の中で殿下が最も僕の記憶をたどる行為に乗り気へとなっていた。そんな不可思議な状況に困惑さは勿論あるが、それ以上に今は利用をしようという思いが強い。せめて彼女が乗り気でいる内にある程度の情報が揃えられれば良い。

 

 それまでは、僕は彼女の副官でいつづけよう。彼女が僕の過去を探すという行為どころか、きっと僕という存在そのものに飽きるであろうその日まで。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

24. 旧き時代の遺跡と痕跡

 ナインが向かった先、それは想像していた通りこの砦を囲む壁の内部であった。だから目的地につくまでの間は、当然砦の中を歩くことになる。道すがらで出くわした砦の兵士たちは、カタリナ殿下の姿を見やいなや即座に壁際に寄って敬礼を向ける。その上、殿下の元につく副官となった僕たちにもそれが向くものだから、どうしても居心地の悪さは否めなかった。

 

 ただの一般市民からひとっ跳びでの身分の変化、それも戦姫とも呼ばれる見目麗しい第三王女付きの副官となったのだ。砦の兵士たちから見れば当然面白くは無いはずだし、多少のやっかみ程度ならば覚悟はしていた。

 

 しかし結果は正反対。待っていたのはどこか距離を感じる敬礼姿。それも王女殿下の前だからと仕方なくやっているようなものではなく、本当に彼らの態度からは不思議な仰々しさを垣間見た。それと同時に、ヨードルに言われた言葉が頭の中に過る。英雄、そういう立ち位置に僕は足を延ばしかけている。

 

 彼らの視線に含まれている感情は果たして畏怖か畏敬か。しかしそのどちらであろうと、まるでささくれ立った心を逆に撫でつけるかのような不快感は、完全に消えて無くなることはなかった。

 

 

 そのまま砦の本体を通り過ぎ、敷地内の端であろう一画へとたどり着いた。ふと横を見れば、さっきまで僕たちがいた東塔の姿が目に入る。砦の正面から回ったため大分遠回りとなってしまったようだ。目の前に立ちふさがる砦の防御壁の向こう側には、きっと北へと続く山間の森林や原野が広がっているのだろう。そのずっと先には、古くから対立関係にあるフラントニア帝国の地があるのだ。

 

「……ホントに、こんなところにツカサの痕跡があるのかい?」

 

 胡散臭そうな声で、カタリナ殿下は周辺を見回しながらつぶやいた。執務室を出たときの意気軒昂とした雰囲気とは一転して、彼女は先導するナインを疑問符の浮かんだ視線で見つめている。それもそのはず、僕たちが現状で立っているのは砦の端、それも主戦場となるような壁の上ではなく人けのあまりない本当の隅っこだ。

 

 周囲を見渡しても、あるのは精々が防御壁へ上るための階段や矢倉、それに砦本体から続く回廊の端っこや用途の良く分からない小さな古ぼけた建物くらいのようなものくらいだ。

 

 こんな場所に、果たして過去の自分は一体何を残したのだろうか。というか、何かを残しようがあるような場所には到底思えない。そんな疑問も他所に、ナインは目の前に建つ砦からは孤立した建物へと足を進める。

 

「……この小屋はなんでしょうか」

「さあね。ただまぁ、見た感じじゃ古代の遺跡か何かだろう」

 

 ナインに続いて、僕と殿下もその古びた小屋へと近付く。遠目にみたらただの風化して打ち捨てられた廃屋としか思えなかったが、近くで見ると確かにヴァローナの一般的な建築物と比べると変わった点がいくつか見つかる。

 

「壁を見てみなよ。石や煉瓦じゃなく、木や金属ですらもない。こんなもの造りが出来るのは、古代人くらいなものさ」

 

 建物全体を這うようにして包み込む蔦を掻き分けて、建物の表面をさらけ出す。確かにその材質は彼女が言ったどれとも一致しない、不可思議なものに見える。しかしそんな未知の物体だというのに、何故かそこまで特異的なものには思えないほど、この建物は古びた廃屋としてこの場所に溶け込んでいるように見えた。

 

 

「聞いたことがあるかもしれないけど、このヴァローナは元々街全体が一つの巨大な遺跡をもとに造られているんだ」

 

 手持ちぶさたな中で遺跡を眺めていると、殿下はそんなことを口にした。それは初めて聞いた、そう顔に浮かべているとカタリナ殿下はくすりと小さく笑みを浮かべる。

 

「ここだけじゃないよ。大きな街の多くはその内部や近くに古代の遺跡を内包している。でもヴァローナの凄いところは、街の全土が遺跡の上に位置しているんだとさ」

 

 それはまた、随分と壮大な話だ。思い返せばクアルスの路地裏から続いていた巨大な廃墟郡も、もしかしたらただの旧市街ではなくて途中から古代遺跡に繋がっていたのかもしれない。そしてヴァローナではそんな遺跡の姿が見えないと思ったらまさかの足の下にあるというから驚きだ。

 

「……ですが、この遺跡は手付かずのまま放置をされていますね」

 

 ふと、そんなことを考える。この小屋は、壁一つとっても正体不明の材質で形作られているというくらいの代物だ。中を探せばもっと重要な古代の失われた遺産があってもおかしくはない。だから、こんな放置された状況に違和感が芽生える。

 

「そりゃ、そうせざるを得ない事情があるんだ――でりゃっ」

 

 急に会話が途切れたかと思えば、真横から強烈な熱波が押し寄せる。それがカタリナ殿下の霊剣が具現化したのだと理解をすると同時に、黒炎をまとった鉾槍が遺跡の壁へと打ち付けられた。

 

 いきなりの事態に思わず後退る。壁をうち据える衝撃音、それと共に飛び散る黒紅色の焔。周囲の壁を包み込んでいた蔦たちは見るまもなく煤と化し、一面に満ち溢れる暴力的な熱気。

 

「な、何を――」

「――そんな攻撃では、この壁は絶対に破れない」

 

 いつの間にか遺跡を見終えていたのか、背後からナインの声が聞こえる。そしてどこか冷めたような響きの言葉通り、カタリナ殿下の霊剣は遺跡の壁に突破口を築くことはなかった。

 

 鉾槍に絡まっていた炎が消え失せ、遺跡の表面が露になる。だが確かに蔦や埃こそ無くなったものの、壁自体には傷どころか強烈な熱による変色すらも起きてはいない。鋼を切り裂くほどの霊剣が叩き付けられて痕一つ付かないという結果に、思わず目を見開く。

 

「その通り。通常の武器は勿論、霊剣だってこの有り様だ。まぁ、こんなので開くことが出来れば歴史学者たちも苦労もしないんだけどね」

 

 灰色の壁面に突き立てていた霊剣を再びかき消した殿下は、直接壁面へと手を這わせた。この有り様を見せられれば、少なくとも古代遺跡をこじ開けるなんてことは到底不可能なことだということが嫌でも理解できる。

 

「さっき、ヴァローナは遺跡の上に造られたと言ったよね。こんな堅牢な外壁が、地下一面にまで広がっている。だからどうやったって、この中は暴くことも出来ないのさ」

 

 結局この遺跡は、開けることもうち壊すことも出来なかったから、こんな砦の隅で廃墟のような状態で放置されていたのだろう。そうなれば、何故ナインはそんな箸にも棒にもかからないような遺跡へと来たのだろうか。

 

 

「……ツカサ、遺跡にさわってみて」

 

 浮かんだままの疑問は他所に、彼女は僕の右手を掴み、蔦や埃が取り除かれた遺跡の壁面へと押し当てた。手のひらに密着する、焔に焼かれたためかほんのりと熱を持った壁の表面。

 

 石のような荒さはなく、鉄や煉瓦のようなざらつきもない。だからといって氷のようにまっ平らというわけでもない。そんな不可思議な感触が手のひらの全体から伝わってくる。でもそれは特異的なもののはずなのに、何故か僕には違和感のあるような感触には思えなかった――だが、それだけだ。

 

「なにか、頭の中に浮かぶものはあった?」

「……いいや、何も思い出せない。何一つ、この光景は記憶にないよ」

 

 ナインの問いかけに、僕は正直に答えた。とてもそうは見えないにしても、一応は僕に所縁のあるところへと連れてきてくれたのだ。嘘とは言わなくともせめて取り繕う言葉をと思い浮かびはしたけれど、彼女の強い視線を前に飲み込んだ。

 

 彼女が知りたいのは真実だ。曖昧に取り繕った虚言じゃなく、本当に僕がこの場所を覚えているのか否かということだろう。

 

「……そう、なんだ」

 

 確かに過去のどこかで僕はナインと共にこの遺跡を訪れていたのかもしれない。だけど、僕にはそれを信じることの出来る証拠はない。たとえ彼女の言っていることが本当だとしても、どうしてもこの場所の記憶なんて存在しないのだから。

 

 言葉途切れに呟いた彼女は、どこか寂しそうに見えた。そりゃあ、そうだろう。ナインと共に行動していたであろう昔の自分は、今の僕に置き換わられて何処にもいない。わざわざ記憶に残っているかもしれないと見せてくれた場所であるこの遺跡も、今の僕にとってはただの怪しげな廃墟でしかない。

 

「……折角連れてきてもらったのに、何も覚えていなくてごめん。ここは昔の僕にとってどんな場所だったのか、聞いてもいいかな」

 

 だからせめて、伝聞でもいいから自分の欠片を拾おう。元より僕は過去の自分に戻ろうだなんて思ってはいない。失われた記憶を、記録として手に入れる。それが出来れば、十分なんだ。

 

 

「ここは――私とあなたが、この街の景色を見た最後の場所だよ」

 

 ナインは、街の中心部の方角を向きながら話す。砦と市街地を隔てる高い石壁、そしてその上にわずかに見える沈み行く日の光。街に溢れる人々の営みなど、こんな僻地からは見ることもかなわない。そんな光景が、記憶の中の僕が最後に見たヴァローナの姿だというのか。

 

「ふぅん、殺風景どころかなんも見えないじゃないか。しっかしここに立ち入ったとなると、ツカサの過去はある程度類推出来るね」

 

 そのナインの肩に顎を乗せるようにして、カタリナ殿下も同じ方向を見つめていた。そのもとも子もない言いように、少しばかりのため息が漏れる。しかしそれ以上に、過去に繋がるという手がかりに興味を引かれた。

 

「おそらく階級はヴァローナ正規兵、もしくは傭兵部隊の一員。各地を渡り歩いていたとなると、多分後者だろう」

 

 いつぞやに、僕は自分自身の正体が本当は荒事に慣れた人間だったのではないかと疑ったことがある。いや、アリアスを殺めたその時から、疑いは確信へと近付きつつある。今の殿下の話は、さらにその駒を大きく進めるだけの価値があった。

 

 ナインは僕が自分の手で真実に到達することを望んでいるのか、彼女から何かを言うことはない。だから、僕が人間族の傭兵か何かだったというのはただの推測に過ぎない。でもたとえ仮定だとしても、過去の自分に関するおぼろ気な像があるかないかでは心の持ちように雲泥の差があるのだ。

 

「……この場所での所縁はこれだけ。でも、あなたがここを知らなかったというのは、それも大切な情報なんだよ」

 

 再び見た彼女の表情は、先ほどとは違って晴れやかなものだった。自惚れかもしれないけど、ただ僕を安堵させるがために向けたのかもしれない淡い笑みは、でもむしろ僕を追い詰める。

 

 僕は、ナインのことを信用しきれていない。たとえ僕の過去に関する確定的なことを話せないなりに、手がかりを探すがための協力をしてくれる彼女も、今やカタリナ殿下と同じく疑念を向ける対象だ。だから純粋にして無垢なその顔にすらも、潜んでいるかもわからない本性を探そうとしてしまう。

 

「……大丈夫。まだ手がかりはあるよ……それに例えあなたの記憶が戻らなくても――」

 

「それじゃ、戻ろうか。案外先は長そうだし、楽しみも続きそうだ」

 

 ナインの小さな声は、快活そうに響く殿下の声に上書きされた。淡い微笑みを消して帰路に向けて歩き出すナインを、言葉もなく眺める。

 

 無償の――いや、無償に見える親切心は、恐ろしいものだ。アリアスのように、いつの間にか親切だと思っていたものが、殺意をぎらつかせて刃を剥くことだってある。だから僕は自分自身の正体もそうだけど、それ以上に彼女の本心を推測しなければならない。

 

 ナインは、もし僕の記憶が戻らないという結末を目にしたらどうなるんだろう。そんな恐れにも似た感情が、砦の東塔へと歩く道すがら、頭のなかを支配していた。

 

 

* * *

 

 

「さて諸君。旅程を確認しようか」

 

 両腕にのし掛かるのは、多量の乾物を詰め込んだ麻袋だ。干し芋に魚の干物、味よりも保存の効きやすさを目指した食糧である。そんなものをせっせと馬車に詰め込むなかで、その馬車の屋根に腰かけた人物から声がかかる。大事な話なのは分かりますがせめて後でしてくれませんかねという本音も、この人相手にはぐっと飲み込むしかない。

 

「……また後程じゃ駄目ですか」

 

 しかし淡い桃色頭の少女は僕よりも勇気があった。そしてもしかしたら常識が少し足りていないともいうかもしれない。野宿用の装備を荷台に押し込んだナインは、声の主――カタリナ殿下へと少しばかり鋭い視線を向けた。

 

「別に良いだろ。君らは荷物を運んでるだけだし、何しろボクは待ってるだけで退屈してるんだ」

 

 まるで聞き耳持たずといった有り様。こっちが夜が明けて間もない中で王都へと旅路に向けた最終準備をしているというのに、まったくもって良い身分だ。

 

 無論、ここらはイーリスに率いられた何人かの兵の目がある以上、王女殿下である彼女が一緒になって力仕事をするのは威厳に関わるなんてのは分かってる。だからせめて、こっちの仕事が一段落するまで威厳を保ちつつ静かにしてもらいたいものだ。

 

「……ったく、何が陸路を使えだ。しかもろくに宿場町の無い行路を指定しやがって」

 

 これから乗り込むことになる馬車に詰め込まれた物資の数々をみて、殿下は視線を険しくして吐き捨てた。彼女がここまで刺を含ませるのも、これから行く道を考えれば納得だ。

 

 

 ここ城塞都市ヴァローナから王都サンクト・ストルツへと行くには、普通ならば陸路と海路を織り混ぜる。中継地である港町クアルスに向かう道は交易の要だけあってか通行しやすく、更には港から王都へと船も出ているという。実際に、カタリナ殿下がヴァローナへと来たときはこの経路で来たらしい。

 

 しかしこの経路の難点は、時間がかかる上に到着時期も不透明だということ。海路を使う以上直線的な行き方ではなく、南からの暖流の影響が多い初春の時期は南方の王都に向けた航行は気候に左右されやすい。

 

 それを考えれば、内陸を通って直接ヴァローナからサンクト・ストルツへ行くのは、一見して合理的に思えるかもそれない。道順だけ見れば確かにほぼ直線的な移動だし、何より海路を織り交ぜないから単純な行き方に見える。しかし、こちらのルートには一つ重大な問題がある。

 

 

「第一の目標、それは中継地点であるリーベンハイム伯爵領まで無事に到達すること。ただ時間がもったいないから王族としてではなくただの旅の一行としていくよ。だから大規模な補給は望めない」

 

 目的地まで最速で到達するためには、地方領主に顔を見せて回るわけにはいかず、当然道中での補給作業もなるべく減らす必要がある。だからこうやって馬車に物資を万歳にしているのだ。でもこれよりもずっと、旅路を困難にする要素が控えている。

 

「……そんでもって第二の目標。この道における最大の難所、リオパーダの踏破だ」

 

 深層の森林地帯リオパーダ。その名前は僕も知っていた。王国の南西部と北東部を寸断するようにして広がる、ひたすらに広大な森林。ナインを連れたってクアルスから逃げ出した時に、より情報が得られるであろう王都ではなくヴァローナを選択した元凶でもある、旅人にとって過酷な空間だ。

 

 僕自身、体験したわけじゃないから詳細については知らないことばかりだ。しかし聞こえてくる話は、どれ一つとっても眉を顰める代物だった。広大な森林ゆえに宿場など皆無であり、闇夜のように鬱蒼と茂る森の中僅かに残された街道もいつ木々に飲み込まれるか分かったものじゃない。そして規模そのものが非常に大きいために並の行軍速度では一日で踏破など出来ず、ちんたらしてると宿場のない中で夜を明かす必要がある。そして中でも最たるものが――

 

「チッ、"オオカミ"退治なんて、今回はそんな暇も無いだろうに」

 

 心底面倒そうに、殿下は吐きすてるように言った。オオカミ、そう表現されたものがただの野生で暮らしているような狼の群れというわけでは無いことを、僕は知識として知っている。

 

「ツカサとナインは聞いたことがあるかい? リオパーダは連中が数多く住まう魔境だ。それでもって、今年はまだ近衛隊による魔獣漸減作戦も行われてはいない。だからその中を通ってこいなんて、普通に考えりゃ正気の判断じゃない」

 

 リオパーダに広がる森林は、決してただの木々の集合体ではない。始祖族の振るう絶大なる力の源である魔素、そんな得体の知れないものが満ちているのだ。今なお成長を続けているという無数の巨木たちによって排出されるそれらは、その場所にいる生物たちにすらも影響を与える。

 

 この森林を通過しようと試みる旅人たちにとって最大の障害となるのは、森そのものよりも魔素によって変異を遂げた狼たちの群れだと聞いたことがある。通常の野生動物たちとは違い、比較にならないほどの大きな体格や身体能力を持ち、その上表皮は鎧のように堅牢という。

 

 その危険さは王国も頭を悩ませているようで、毎年春には始祖族を主体とする討伐隊が組織され、これでようやく街道としての体を成しているほど。そして僕たちが行こうとしているのは漸減作戦が実行される前の、リオパーダが最も危険な時期だ。これらをすべて踏まえれば、殿下がいらいらとした雰囲気を隠そうともしないのも納得だ。

 

 

「――殿下、準備の方は完了されましたか」

「ああ。ヴィンター卿、彼らがせっせと働いてくれたからこっちは万端だ。すまないね、緊急時とはいえ馬車を拝借することになって」

 

 そんな悶々とした空気は、馬や兵を連れたったイーリスが来たことで一旦はなりを潜めた。兵たちが四頭もの馬を馬車に括り付けていく傍らで、イーリスは若干険しい表情で僕たちを見つめていた。今回の王都に向けての旅路に参加をするのは、当事者である殿下とその副官である僕とナイン、そして後は馬車を操作する御者だけだ。王族の旅路にしてはかなりの小規模。何せ同行する兵士はおろか、護衛さえも付けないという徹底ぶり。

 

「……過酷な旅路になるでしょう。本当に兵を付けなくともよろしいのでしょうか」

「要らないよ。下手に人員が増えれば余計に踏破が難しくなる。それに、ボクや彼らが戦った方がよほど戦力になる」

 

 驕ったようにではなく、至極当然のことだと言わんばかりに彼女はイーリスに言い放った。あなたの所の兵はいらない、それは受け取り様によっては侮蔑になりかねない。しかし一方のイーリスや作業を終わらせた兵士達は、当然赤面するようなことも無く彼女の発言を受け入れたように頷いた。

 

「……戦姫様に加えて、始祖殺しとその相方。確かに、何も知らずに襲い掛かるような輩は死にに行くようなものでしょう」

 

 淡々としたように彼は言うが、その名で呼ばれるこちらとしてはあまり心地の良いものではない。始祖殺し、それも実際に始祖族の将をこの手で殺めた存在。彼の隣で姿勢を正してこちらを見つめる兵士の視線は、もはや場違いなところに居る一般市民を訝しむような類のものじゃない。

 

 まるで歴戦の戦士を前にしたかのような反応は、傭兵か何かだったかもしれない僕自身の過去を覗き見られているようで、ありていに言えば気分が悪かった。

 

 

「ただ、当然ですがくれぐれも油断はなさらぬよう。かの地の過酷さは殿下も理解されているとは思いますが、想定を超える事態は何時だって起こりうる。それらを跳ね除けて無事に到着されることを、この地から願っております」

 

 全ての準備は完了した。これから十日を優に超える長旅に耐えられるほどの物資、そして賊や獣の襲撃に備えた予備の武器。馬車に繋がれた四頭の馬は出発を今かと待ちわびて鼻先から熱い白息を吐き出す。馬車の屋根から飛び降りたカタリナ殿下は、出発を見届けるべく整列した兵たちの先頭に立つイーリスの前に立った。

 

「たったの数日だけど、君たちには世話になった。ボクの代わりの将官補佐が正式に配備されるまで、そっちも戦の種火には気を付けろよ」

「こちらこそ、殿下に訪れていただき光栄でした。ここは北辺の要衝、再び殿下が訪れるような事態にならぬよう、このイーリス・ディ・ヴィンター、押し寄せる戦火から国をお守りしましょう」

 

 固く握手を交わす彼らを、兵士たちと共に黙って見つめる。あんなに別の世界の話だと思っていた始祖族や戦争という物に、これからさらに深くかかわっていくのだ。一見して神秘的にすら見えたその世界、この旅路はそこへ飛び込む第一歩となることだろう。

 

「そしてツカサ、そしてナイン。殿下の矛となりそして盾になり、君たちの中に見た光が幻ではないことを証明して見せてくれ――総員傾注!! 殿下の旅路の成功へ向け、我らヴァローナの民はこの北辺の地からお祈りしています」

 

 彼の言葉と共に、全ての兵士が一斉に足を打ち鳴らして直立する。鎧と剣がこすれる音が一瞬だけ響き渡り、後に残るはイーリスの宣言の残響のみ。その多数の視線を背後に受けながら、カタリナ殿下へ続いて馬車へ乗り込む。御者が鞭を打ち鳴らす音と共に景色が動き出す。まだ夜が明けて間もない街並み、そして城門の外側へ向けて動き出したのだ。

 

 

 たった数日間、それは人生の長さを考えたら一瞬のような短さだ。しかしこの街で刻み込まれた記憶と経験は、そう簡単に消え去るようなものではない。砦から城門まで続く大通りを走る最中で、中央広場に降り注いだバリスタの矢の群れを幻視する。これからは、きっとさらに戦乱の中へと赴くことになるのだろう。このヴァローナで直面した以上のことがきっと待ち受けている。それでも、立ち止まるわけにはいかない。

 

 己の過去を取り戻すその日まで、死んでやるわけにはいかない。この旅路を乗り切ることがまずはその第一歩目なのだ。未だに武装蜂起の痕跡が残る中央広場から視線を外し、まだその姿も見えない深層の森林地帯がある方角に向けて、意味がないと知りながらも睨みつけた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

25. 地上の冥府

 城塞都市ヴァローナを出発してから7日が経過した。旅路の半分は過ぎたといって間違いはない。リーベンハイム伯爵領地の最西端にある宿場町を出たのが今朝の出来事だ。ここから難所であるリオパーダを抜けるまで、宿の無い過酷な旅路が待っている。

 

 周囲の景色は森林地帯に差し掛かっていることを示すように、木々が林立していた。ひとたび横を見ればまるで出口なんて無いかのような鬱蒼とした様子は、クアルスからヴァローナに向かう街道のものよりも遥かに広大な森が続いていることを予想させる。しかし、こんな雰囲気の場所ですらリオパーダの鬱蒼とした森林にはまるで劣るという。

 

「アッシは何度か行ったことがあんがね、あの森はこの比じゃねぇんだ」

 

 そう話すのは、隣で馬車の手綱を操る御者の男だ。さすがに7日間も馬車に揺られていたらやることもなくなる。賊の襲撃が無かったのは幸いではあるが、最後の宿場を出てからは対向の馬車にも会わないとなると飽きも来る。

 

 リオパーダに入るまで英気を養うということでカタリナ殿下は仮眠しており、その隣でナインと雑談をし続けるのは建設的ではないし殿下の邪魔になる。だから、結局僕たちは御者のとなりに腰をおろし、後学のためと馬車の操舵を観たり御者と話に花を咲かせていた。

 

「なんせ一面が夜のように暗ぇ。こんな木漏れ日なんてほとんどねェのよ。おまけに何処からともなく獣の遠吠えが聞こえる……始祖様を乗せてでもなければ、こんな道など選択肢にも上がらねぇ」

 

 ハオランと名乗った御者の男が、おどけたように大袈裟な身震いを見せる。彼の話はいくつか聞いただけでも、リオパーダが想像していた以上の危険地帯であるという認識が深まった。

 

 現状の見立てでは、リオパーダ地帯を踏破するのに丸一日以上かかる見通しだ。広大な上に起伏にとんだ一帯は、例え馬四頭の力であろうともそれだけの時間を要する。旅路を決するための勝負は恐らく明日になる。今日中にリオパーダの入り口付近までたどり着き夜を明かし、そして明日中に深層部を一気に踏破するのが目下の目標だ。

 

 

「……その大規模な森は、何処まで拡がっているの?」

 

 横で一緒になって話を聞いていたナインが、そんな問いかけを口走った。おそらくはアストランテ王国の中部を半分覆い隠すほど、そんな壮大なスケールなんだろうと思っていた予想は、しかしハオランの答えでそれすらも見通しが甘かったと思い知る。

 

「そうだな……リオパーダだけでも帝国領土の一部を飲み込んでいる。その上フラントニア帝国の奥地も、ここみたいな広大な森が広がっているんだとよ」

 

 一見して平然としているナインとは対照的に、僕は驚きが隠せない。人の手を拒む深層の森林が、リオパーダ以外にもあるということは、今まで知るよしもなかった。

 

「深層森林の出現が古代文明の崩壊の一因だって言ってる学者さんもいるくらいだ。この世界には、そんな代物が幾つもあるんだから笑えねぇよ」

「……それはまた恐ろしい話ですね。文明一つを滅ぼすだなんて」

 

 ヴァローナで見た遺跡のことを思い出す。始祖族の霊剣や魔術によって打ち破れないような堅牢な建築物を造るほどの文明。それすらも飲み込むという逸話が存在するなんて、リオパーダのような深層の森林地帯の扱いはもはや災害級なのだろう。

 

 人々の間で語り継がれている大英雄プリムスの伝説にも、鬱蒼とした森林というものは登場していた。国や街を呑み込まんとする森林を絶大な力により切り開き新たな集落を興し、そして人々に安寧の住みかを与える。なるほど、ただ強大な敵を打ち倒すだけではなく民を導くとなると、流石は原初の英雄、全ての人民の王として君臨するだけはある。

 

「神話世界から今日まで、深層の森ってのは逸話に事欠かないんよ。この国の王都サンクト・ストルツは英雄プリムス様が最初に森を切り開いて造った街だし、リオパーダの中には手付かずの古代遺跡が数多く眠ってるって噂だ。それに――」

 

 

「――森林により隔絶された西方の地には伝説の竜の国がある、とかね」

 

 操車台と客室を仕切っていた布が払われると同時に、あくび混じりの声が聞こえた。目の端に付着した涙を乱雑にぬぐい、さっきまで寝息をたてていたはずのカタリナ殿下が眠そうな顔で姿を表す。

 

「失礼しました。煩くしすぎまし――」

「違う違う。もうそろそろリオパーダだろ。それにずっと寝っぱなしだと流石に疲れる」

 

 邪魔だったわけではなかったことにひとまずは心のなかで胸を撫で下ろす。何処までも同じような森の続く道では、深層の森林がどこから始まるのかはさっぱりわからない。しかし彼女のような魔術を手足のように扱う始祖族には、その森が放つ魔力か何かを捉えるから分かるのかもしれない。

 

「カタリナ、様。竜とは一体……?」

「……ツカサはまだしも、ナインの敬語は大概付け焼き刃だね。まぁボクは気にしないけど。それで、竜だっけ。そもそも竜ってのは――」

 

 竜、そんな荒唐無稽な存在なんておとぎ話のなかでしか聞いたことはない。人よりも遥かに巨大で強靭な体を持ち、強力な魔術を思うがままに操り、そして大きな翼を操り天を思うがままに駆け巡る伝説のような生き物。

 

 プリムスの英雄譚において、彼らはかの大英雄と共に強大な敵と戦う存在として描かれていた。時に人の体という形もとって、竜達は世界を滅ぼさんとする魔将たちへと立ち向かったのだ。

 

 だがそれが語られているのは、真実かどうかも怪しい古代から語り継がれている英雄譚。羽ばたきで竜巻を起こすやら森一つを焔で焼き尽くすやら、流石は神話というような強大さ。そんな天災級の存在と手をとった英雄プリムスがすごいのか、はたまたそうまでしなきゃ倒せなかった魔将たちがすごいのか、僕には知る由もない。

 

 僕に推測できるのは、もしプリムスの元となった偉人が存在するのならば、おとぎ話の竜のモチーフになった者も存在するのかもしれない、ただそれだけだ。

 

 

 そんな伝説の生き物である竜が国を作り、しかも深層の森林地帯の果てにあると噂されているのだ。もしそれが本当ならば、リオパーダのような森は人にとって荷が重すぎる。

 

 ただでさえ魔力により異常な成長を遂げた獣たちが闊歩するうえに、その奥地には神話の生き物がすくう。そんな森が国のど真ん中や諸国の西側に鎮座する。そりゃあ、いつまでたっても大陸西側の姿も明らかにならないわけだ。

 

「……一応、竜は存在することになっている。百年ほど前に、竜の血族が王都に訪れたという記録があるんだ。父上――現アストランテ国王も、幼い頃にその目で見たと言っていたよ。でも、ボクのような若者は王族であっても見たことはないし、それが神話のような生き物であるかはまるで分からない」

 

 そこまでを話し終えた彼女は、表情を険しくして馬車の向かう先へと視線を移した。いつの間にか木漏れ日は深まってきた木々によって弱くなり、顔に吹き付けられる湿った風は深い木々を予想させるように喉奥を濡らす。

 

 そして遥か先に見えるほの暗い街道は、ただ明るさが無いだけではなく白い靄がかかったかのように視界を遮る。それを見た瞬間に、思わず生唾を飲み込んだ。

 

 

「……霧か。話には聞いてたけど、あれじゃ視界も何もあったもんじゃないよ」

「へぇ、この季節は特別濃いんで。リオパーダを抜けるまでは、ずっとあんなのが続きます」

 

 朝のクアルスに広がっていたような霧とは、きっと根本的に質が違う。前後左右が白と黒の闇で覆い隠されるような、そんな圧迫感がリオパーダにはひしめいているのだろう。

 

 そんな視界すらもままならないような深層の森林が、もう目と鼻の先に迫ってきている。頭上に伸びる木々の間からわずかに見えた景色でもわかる、全てを圧倒しかねないほどの巨木が林立する地帯へと入りつつあるのだ。なるほど、確かにそこらの森とは比較にならない危険さというのが、ようやく体感として心へと収まる。

 

「……王都の連中め、本当に酷い行路を指定してきたな。賊どころか、少し街道から外れただけでおしまいだ。皆、心してかかるよ」

 

 今さら後戻りなんて出来やしない。この先にある王都へ到達するには、容易く命を落としかねない危険と神話世界の逸話に溢れたこの深層の森林を抜けるしかないのだ。

 

 

* * *

 

 

 嫌な予感というものは、往々にして現実のものとなる。リオパーダへ入る間際に感じた、この霧の深い森で何かが起こるかもしれないという予想は、今まさに形となって牙を剥いていた。

 

 白靄にかすれた異様な光景のなか、吐息の音が生々しく響き渡る。これは決して危険な状況に追い込まれた自分自身が吐き出したものなどてはない。馬車が全力で駆けるなか、馬や客車の車輪ではない、何かかが地面を走る気配を感じる。

 

「右側、くるよ!!」

 

 甲高く響くはカタリナ殿下の叫び声。手に持った剣の柄は手汗と霧でぐっしょりと濡れて、しかし滑り落とさぬよう一層強く握りしめる。白い闇の中に見え隠れする朧げな影と気配、それが一段とはっきりとした輪郭を現した。

 

 

 一瞬の刹那。濃い灰色の巨体が霧の中から飛び出した。纏わりつく霧を振り払うかの如く、馬車と並走していたその巨体はひと際大きく飛び上がる。強靭な体を見せつけるかの如く宙を舞い、研ぎ澄まされた刃のような牙と爪が馬車へと襲い掛かる瞬間――

 

「しつこい――連中だ!!」

 

 その軌跡に目掛けて突き出されたカタリナ殿下の鉾槍が、深々と灰色の胴体中央部に突き刺さった。霧の中に一瞬だけ飛び散る赤色の水滴、そして短く響く悲鳴のような鳴き声。鉾槍に心臓を穿ち抜かれたその襲撃者は、しかし瞬時に振り落とすには聊か巨大に過ぎた。

 

 仲間の死骸が投げ捨てられるその隙を縫い、霧の中から更なる襲撃者の姿が露わになる。カタリナ殿下の上半身を引き裂きかみ砕かんと大口を広げた新手。そんな獰猛な死というものが迫っているというのに、彼女は恐怖などではなく逆に殺気をその眼に滾らせ続ける。

 

「ツカサッ!!」

「わかって……ますよォ!!」

 

 殿下に言われるよりも早く、両の手に握り締めたものを振りかぶる。ごうと霧を切り裂いて振るわれるは、鈍くくすんだ色の軌跡を描く青銅の金属棒。

 

 刃のような牙が殿下を穿つその前に、その襲撃者の顔面に向けて杖を打ち据えた。青銅の棒身を伝った衝撃は、生き物を殴打したとは思えないほどに鈍くそして硬い。しかしのどが潰れたようなうめき声が聞こえ、そして霧の中に見え隠れしていた巨体が姿勢を崩して地面へと叩きつけられた。

 

 一瞬の攻防の中で露わになった巨大な獣の姿を目に焼き付ける。あれがこのリオパーダの森で群れを成して脅威を形成する、魔力により異常な成長を遂げたオオカミだ。尾を抜いた体長が自分の身長に到達しかねないほどの巨体は、短い悲鳴を残して再び霧の中に消え失せた。

 

 

「くッ……」

 

 手のひらに未だに残る感触に舌うちを鳴らす。手の骨の、その芯まで響かんばかりの強烈な衝撃は、数少ない頼みの綱である青銅の棒を取り落としかねないほど。だから、その痺れに気を取られていた僕は、更に襲い掛かってきていた巨体に気が付くのがコンマ数秒だけ遅れてしまった。

 

 霧を破って表れる、三頭目の巨大な狼の口蓋。棒を構えるよりも先に、その大あごは僕の頭を寸分の狂いなくかみ砕く――その暴虐的な死という未来は、頬の僅かに右側を通過した刃によって呆気なく潰えた。

 

「……ツカサには、手出しさせない」

 

 標的を逃がした頭は、巨体と共に馬車の縁へと打ち付けられた。口蓋の上側に突き立てられた巨大なナイフからはとめどなく鮮血が流れ出し、馬車やオオカミの体毛を容赦なく赤く染め上げる。いくらその全身を頑強な毛皮や筋肉という鎧で包もうとも、生き物の規範から外れない以上は口の中まで堅牢のわけがない。

 

 生命維持のための急所を穿ち抜かれた巨体は、反撃どころか不規則に痙攣を続けるばかり。ようやく棒を手に体勢を直した僕の隣で、ナインはオオカミの巨体に足を向ける。

 

「はっ、面白いッ!! 容赦の無さでは、君ほどの逸材はそうそう居ない!!」

 

 細身の彼女のどこにそんな力があるのか。オオカミの巨体は彼女の蹴りによって呆気なく宙に浮き、すぐに地面に打ち付けられ霧の中へと消えていった。その様は、まさにただの作業と言わんばかりのもの。更なるナイフを両手に持ち、表情には何の感慨も無くナインは淡々と周囲に注意を払う。殿下が場違いに嬉しそうな声をあげても、眉の一片も動きはしない。

 

 

 速力を落とさずに走行を続ける馬車の上で、眉間から流れ出した汗を拭うことなく青銅の棒を構えて気配に耳をすませる。扱いなれない武器、そしてこの奪い去られた視界。与えられた条件は最悪と言って過言ではない。しかし、それでも抵抗をしなければオオカミの群れに縊り殺され、そして彼らの腹を満たす肉片になり下がる。そんなことは真っ平ごめんだ。

 

 馬の吐息と車輪の立てる音の他は、若干の沈黙が流れる。つい先ほどに始まったオオカミの襲撃は、第一波に続いて第二波はしのいだのかもしれない。しかしそれでも、油断は出来るわけがない。一旦は気配が遠のいた霧の中、しかし街道と並走して奴らはまだ森林を縫うようにして虎視眈々とこちらを狙っているかもしれない。

 

「一端は、連中を追い払えやしたか」

「多分ね。でも油断はしないことだ。一息ついている最中に、何処からともなく頭を食いちぎられたら嫌だろう」

 

 この異常な状況下でも顔色一つ変化さえずに淡々と馬たちの操舵を取り続けていたハオランが、ようやく一息を吐いて表情を渋らせる。彼はこの場にいる中で最もリオパーダになれている人間だ。その彼がまだ表情を崩さないということは、ここのオオカミたちはこんなもので引き下がるほど軟な連中ではないということだ。

 

 彼がひとたび手綱を揺らせば、馬たちの走る速度は途端にゆっくりとしたものへと変わる。彼らもまた、オオカミの襲撃という事態に動じることもせず、ハオランの指示に従い続けた強者たちに違いは無いのだ。

 

「……随分長く追い回されました。すぐに次の襲撃があれば、こいつらも流石に持ちやせんよ」

 

 一見すれば変わらぬペースで歩き続ける彼らであっても、その実は全速力での走破を強いられたがために相当体力を消耗してしまったのだろう。ハオランの険しい顔つきは、それをありありと物語っている。

 

「そりゃそうだけど、どこで休ませるというんだい。街道のど真ん中で休息していたら、今度こそ逃げきれないよ」

「……アッシに心当たりがあります。この近辺には、リオパーダ中央部を貫く大河に流れ込む支流がいくつか存在しやす。アッシの記憶が正しければもうそろそろ、リオパーダに僅かしかない休憩所として使える川の中州があるはずです」

 

 馬たちのペースが落ちたおかげで、周辺を流れる音がある程度は耳に届くようになる。霧に満ち溢れた空間において、音というものは実際に目で見るよりも多くの情報を伝えてくれる。木々の間を弱弱しい風が吹き抜ける風と共に、僅かな水の流れるような音が耳へと届く。

 

 決してそれは濁流のような全てを押し流すような性質のものではなく、きっとハオランの言う通りに中州まで行ける程度のごくごく浅い川であるのだろう。

 

「……良いよ、そこに行こう。こんな霧のど真ん中よりかは、周囲が川の方がいくらかは奇襲の恐れも少ないだろうからね。それに水場があるということは……あの妙な汚れもいくらかはマシになるだろう」

 

 結局、誰の反対意見も出ることは無く、ハオランの先導の元でその中州へと向かうこととなった。リオパーダに突入してからは初めてとなる、街道から外れた道を行き始めるその最中、僕はこの襲撃が起きる寸前の出来事を思い出していた。

 

 

 きっと、この場にいる皆がどこかしらの違和感を覚えているはずだ。リオパーダに差し掛かってからいくらかまでは安定していた旅路と、先ほどの襲撃の間にあったとある出来事。僅かな間だけ取った休息と、その直後に現れた獲物を襲うにしては異常に殺気立ったオオカミたちの群れ。

 

 そしていつの間にか、この馬車の荷台の後方部に塗りたく垂れていた大量の血液。飲み水のいくらかを犠牲にして洗い流したとはいえ、その場所には未だに木目を犯すどす黒い血痕が鎮座しているのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

26. 不穏の足音

 あれは今からわずかに前、リオパーダに差し掛かってからある程度の距離を進んだときのことだった。

 

 

 

 馬車が深層の森の中へと続く道を進むにつれて木漏れ日は木々で遮られて弱々しくなり、そして立ち込める霧もまた白く濃密に辺りを埋め尽くしていく。汗をかいたわけでも無いのに頬や首筋は湿り気を帯び、そして森そのものの冷たい空気と合わせて容赦なく体温を奪っていく。

 

 リオパーダに差し掛かる間際、ハオランやカタリナ殿下に散々この場所の危険性を改めて叩き込まれたおかげで、周囲の音や気配を全て聞き逃さないように神経をとがらせていた。

 

 この霧が立ち込める僅かに傍には、獲物を探し回る狼の群れがうろついているかもしれない。もしかしたら、狼のような魔獣化した他の凶暴な野生動物すらも現れるかもしれない。それどころか、この霧を切り裂いて伝説の生物である竜でさえも姿を現すかも――一度そんなことを考えると、もはや嫌な予感は留まるところを知らない。

 

 

 こんな緊張感が心の中をずっと駆け巡っている理由の一つとして、この深層の森林を踏破するにあたって宛がわれた武器にもあった。扱いやすさという点においては、剣化したナインの黒剣、百歩譲って同じような大きさの双剣が何故か僕には適している。しかしカタリナ殿下に「巨大な狼に短剣で挑もうだなんて死ぬ気かい?」と言われたことで、結局は双剣とはかけ離れた得物を手にしていた。

 

 馬車の中に詰め込んでおいた非常用の武器の一つ、身の丈ほどの青銅の棒。それが僕に与えられた新たな相棒だ。棒術なんて心得てはいないが、確かに霧の中何処から襲い掛かってくるかも分からない獣の相手をするならば、攻撃範囲の狭い双剣よりかは安全かもしれない。

 

 

「……まだ襲撃は無さそうだね。一旦休息をとるよ」

 

 見た目の割には取り回しが悪くない一品を両手で抱えながら霧の中に目を向けていると、後ろからカタリナ殿下の声が響いた。リオパーダに入ってから馬たちはずっと歩きっぱなしだ。今後狼の襲撃があったときに逃げきるだけのスタミナを確保するには、確かに彼らにも休息をとってもらわなければならない。

 

 決して広いとは言えない街道、その脇ではなく中心で馬車は動きを止めた。ここがクアルスとヴァローナ間のような人通りの多い場所ならば街道の端や外で休息をすべきだが、ここはそんな賑やかさとはかけ離れたスポットだ。故に対向車の存在など気にする必要もない。

 

「ナインはハオランさんと共に馬の世話を頼む。僕は馬用の水を取ってくるから」

 

 僕と同じく周囲の警戒に就いていたナインへ指示を飛ばす。ここまでの道すがらで無駄に馬車での旅を続けてきたわけでは無い。いくらかは休息の取り方やするべきことなんかは頭に入れたつもりである。

 

 馬の休息には、食糧を与えるだけではなく十分な水も一緒に取らせる必要がある。そのためリオパーダに入る前に、多量の水を桶に入れて荷台に詰め込んでおいたのだ。それを取ってくるべく客車の中へと頭を突っ込んだ――その瞬間に、異様な臭いが鼻をついた。

 

 濃密に鼻を刺激する、生臭い鉄のにおい。木々の間から漂う森の空気を覆い隠さんばかりのそれに、瞬間的に僕は鼻を覆い隠した。間違いなく血の匂い、しかもかなりの大量な血液から漂ってきているであろう強烈さ。

 むせかえりそうな異臭に顔を顰めながらも、その元を探る。まさか、狼の群れの食べ残しの近くに馬車を止めてしまったのだろうか。だけど馬のような動物が、人間ですらもここまで顔を顰めるほどの地の匂いに気が付かないはずが無い。客車内から外へ身を乗り出そうとした間近、その元は思いのほか近くで見つかった。

 

「なっ……」

 

 思わず、口から叫び声が漏れ出そうになるのを寸でのところで押しとどめた。血の匂いの在処、それは馬車の真下どころかもっと近くに存在していた。荷台の隅、今まさに外に出るために足を掛けようとしていた場所。そこに、茶色い木目を赤黒く塗りつぶした血の海が広がっていた。

 

 衝動的に口元を塞ぐ。それは異様に過ぎる光景だ。一体この血は誰が流したものなのか、そもそも何故こんなところにどす黒い血が付着しているのか。瞬間的に頭は思考停止状態に陥り――そして数秒の間をおいて我に返る。

 

「――で、殿下ッ!! 血っ、血が付着しています!!」

 

 咄嗟に口をついた言葉、それは思い返してみれば支離滅裂なもの。でもそれだけ僕は気が動転していたのだ。リオパーダといういつ狼の群れに遭遇するかも分からないような空間において、こんな濃密な血の匂いを放置しておくなど、さあ襲ってくださいと言わんばかりの暴挙である。馬に与えるはずの水桶を一つ手に取り、カタリナ殿下が来るのを今かと待ちわびる。

 

「ツカサ、一体どうし――許可する、その水桶ですぐ洗い流せ!!」

 

 御者台の上からこちらを覗き込んだ彼女は、何が起きたと驚くよりも先に状況を把握してこちらの意図を汲んでくれた。必ずしも水源が常に身近ではないこの旅路において水は貴重品だ。その多量の水が入った桶をもって、血のりの元へ向けて傾けた。途端に赤く染まる水と共に、多少なりとも血の汚れは洗い流されていく。それでも、木の中にまで染み込んだ赤黒い染みまでは取れることは無かった。

 

「……なんだ、これは」

「分かりません。水桶を持っていこうと客車内を覗いたら……」

 

 果たして、いつからこの有様だったのか。そもそも、一体何故この場所に血のりが残されているのか。周辺を見回してみても、少なくともすぐ近くや馬車の中には、その血の主と思わしきものは見つからない。ただその場にべったりとした血が付着していたという結果だけが残されている異常さ。

 

 まるで誰かが多量の血をこの場に垂らして、そして人知れず立ち去ったとしか言いようがない。無論、そんなことをするような生き物が果たしているのかも分からないし、少なくともずっと御者台で周囲の警戒にあたっていた僕たちの誰かがやったわけも無い。

 

「……チッ、ちょっと洗ったところで臭いは取り切れないか。ツカサ、馬に水をやったらすぐに出るよ」

 

 彼女の言う通り、まだこの客車内には血の臭いが残っていた。彼女の焦り様、それは僕も全くの同感だ。霧と木々の香りが充満するこの深層の森林において、僕たちは隠しようもないほどの血生臭さを漂わせる存在へとなり果てた。それがどのようなことを意味するのかを、理解できないほど馬鹿ではない。

 

 

 念のためにと休息を早めに切り上げてから、狼の群れによる襲撃が始まったのは、それから早々の出来事であった。

 

 

* * *

 

 

 ハオランが知るという浅い川の中州に向かう林道の中で、僕はあの血塗られた汚れについて考えていた。まずはいつあの血の汚れが出来たのか。上から水をかけただけで大半が流れ落ちたことから考えて、僕が見つけた時にはまだ付着してそう時間も経過していなかったんだろう。つまり最低でもリオパーダに入った後に、何らかの要因で付いたということになる。

 

 ならば次に気になるのは、一体どうしてあの血のりが付いたのかということ。あれは飛び散った血飛沫の一部だなんて生易しいものではなく、荷台の一部をべっとりと染め上げるほどの多量な血だ。その血の主であろう動物の遺骸が見つからなかったことを考えると、二つの可能性が考えられる。

 

 一つ目は、この馬車の荷台でとある動物が力尽きたという可能性。狼の群れから逃げきった動物が走行中の馬車の荷台に命からがら逃げこみ、しかし血を流し過ぎて力尽きた後に遺骸がそのまま地面に投げ出されたといったところだろう。馬車の速度そのものはそこまで速くはなかったから、瀕死の獣が気配を消して近付いてきたという違和感を除けば無い話ではない。

 

 そして二つ目、こちらについては前者とは明らかに異なる。何者かが、この場所に獣の血を擦り付けて立ち去ったという可能性。最初からこの馬車に何らかの印をつけるがための行為だとすれば、この場に遺骸が残されていない理由にもなる。一見すれば、前者よりもあり得そうに見える考えではあるが、ならば誰がやったのかという疑問が残る。

 

 少なくとも旅路の一行は全員そんなことをやる機会は無かったはずだ。それに間違いなく狼の群れを呼び寄せかねないそれをやるなど、自殺行為に他ならない。逆にその狼の群れへの印とするならば、とある存在が浮き上がる。それは、群れから離れて獲物を探していた狼そのもの。この馬車を見つけて、群れ本体を呼び寄せるがために口に加えていた獣の血をわざと残していった。一番現状で可能性が高いのは、それだろう。

 

 

「あり得ない話ではないよ。ここいらのオオカミはそこらの連中よりもずっと賢い。そんな狡猾なことも、もしかしたらやってくるかもしれない」

 

 殿下にここまでの考えをかいつまんで話してみると、そこまで突飛なものではないということがわかった。獲物をそのまま襲うのではなく、マーキングを施して群れで一斉に襲い掛かる。そんな獣離れした、まるで人間の狩人のようなやり口に思わず閉口する。

 

 ただ一頭あたりの体格が優れているだけではなく、思考すらも普通の狼に比べてよほど狡猾となると、もはやそれはただの狼の群れの規範から外れた危険性を持つことになる。散々リオパーダの狼は余所のものよりも危険なものだと自分に言い聞かせてきたが、それすらも見通しが甘かったと言わざるを得ない。

 

「……アッシは、それでも何かがおかしいと思いやすよ。連中は確かに頭は良い。だから獲物の狩り方だけじゃなく、その危険さも瞬時に判断するんです」

 

 しかしハオランはどこか納得がいかないと顔を顰める。なだらかな下り坂をゆっくりと歩く馬たちを指示しながら、彼はこちらへと振り返った。

 

「例えば火。リオパーダの狼から身を守るには、火をくべておけばある程度は効果があるというのは知れた話です。連中がこの森で脅威足るのは、その強さだけではなく無理な狩りをしないということもあります。近衛隊の漸減作戦からも生き残ってきたのが今の連中だ。だから余所の狼と比べれば、強さよりも生存性が突出しているんです」

 

 そこまで行くと狼たちは野生の獣というよりも、基礎的な社会性をとった人間の民族に見えてくるほどだ。ただそのハオランの言葉を是とするならば、一点だけ不可解な点がある。彼がわざわざ例に挙げた火というもの。先ほどの狼の襲撃が始まって早々に、カタリナ殿下は威嚇としてごく小規模ではあるけど彼女の霊剣に火花を走らせた。しかし効果のほどは全くなく、合計で少なくとも四頭の狼を殺すまで襲撃は続いた。

 

「おっ、中州が見えてきやした――それで話の続きですが、確かにここの狼は生き残るための能力が非常に高い。ですがさっきの連中はそれに当てはまらない。普通ならば襲撃の最中で激しい反撃があれば、そして少なくとも一頭でも殺されれば群れはすぐに撤退していきやす……最初は、冬明けで連中もなりふり構わず襲い掛かっている、血の話を聞くまではそう思っていやした」

 

 霧の向こう側、そこにはようやく木々の切れ間が存在していた。相変わらず視界は霧によって白い闇に包まれたままではあるが、それでも少し先を流れている極々小さい川やその岸の存在くらいは容易に見てわかる。

 

「……四頭も殺されるまで追いすがってくるなんて、普通じゃない。連中は最初からアッシらを獲物として狙ってはいなかった、そうは思いませんか」

 

 中州に続く川の深さは、霧で良くは見えないものの馬は当然馬車でさえも踏破できるほどには浅そうなものだ。特に速度を緩めるようなことも無く馬車が動き続ける中で、ハオランは若干声を低くしてそう言った。

 

 狼たちは僕たちを獲物としては狙っていないのではないか。その可能性は、僕の頭の中にも違和感という形でしこりとなっていた。何頭もの狼がかわるがわる襲い掛かり、馬ではなく馬車上の人間に狙いを付ける。それは食料を得るというよりもむしろ、僕たちを縊り殺すのが目的としたほうがまだ説明がつきそうだ。

 

 自分たちが命を落とそうとも襲い掛かるなど異常極まりない。ただ縄張りに侵入しただけでそこまでのヘイトを買うわけがない。そこまでの彼らの怒りを買った覚えなど――

 

 

「あの血は手負いの獣が流したものか、それとも狼が目印のためにつけたものか。アッシは、もう一つ考え付きました――アレは、何者かがアッシらを狼に襲わせるために擦り付けた、他でもない狼の血じゃないでしょうか」

 

 その瞬間、バラバラだった要素がひとまとまりになると共に、猛烈に嫌な予感に襲われた。

 

 そもそもの切っ掛けである、馬車の隅に擦り付けられた血の汚れ。あれは瀕死の獣が流したものや獲物のマーキングのために狼がつけていったものではなく、ハオランの言う通り狼の血そのもの。その臭い――同族から流された大量の血を嗅ぎつけた狼たちは、僕たちを同族殺しの危険な存在であると察知したはずだ。その敵討ちに出てきた彼らはたとえ何頭かが殺されようと襲撃を諦めず、そして小休止の今へと至る。

 

「あそこまで怒りを買うとなると……もしかしたら、あの血はただの狼ではなく子供のものなのかもしれません。まあ、結局はアッシの想像に過ぎやせんがね」

 

 一つだけ腑に落ちない点、それはそもそも誰がそんな血を擦り付けたのか。狼の血を残していくなど殺気立ったオオカミの群れが現れるのはもはや必至であり、確実に彼らに僕たちを襲わせるには申し分の無い一手だ。仮にハオランの言うことが正しければ、一連の事態には仕掛け人がいる。それも、僕たちに確実に害を成そうとしているような者が。

 

 馬車の下から水たまりを乗り越える音や感触が響く中、嫌な予感はピークになっていた。そんな存在がいるというならば、狼から命からがら逃げ出して再度休息に赴こうとする僕たちはどう見えるだろうか。

 

「……ここらは余計に霧が濃いですね。足元に注意を――」

「――全員、武器を取れ。全周警戒、直ぐにだ!!」

 

 ハオランの言葉を遮って、カタリナ殿下が叫ぶと共に霊剣を顕現させた。黒と紅色の炎を纏わせた鉾槍が白い闇を切り裂いて姿を現し、紅の軌跡が霧の中に描かれる。彼女も気が付いたのだ。現状における、最悪の可能性を。

 

「ツカサッ、剣を!!」

 

 もはや、青銅の棒だなんて無駄に長いだけの得物は使い物にならない。ナインが投げて寄越した小ぶりな二振りの剣、それの方が現状ではよほど役に立つ。柄を握り締めて目の前に構えたその後ろで、ハオランの息を飲む音が聞こえる。

 

「な、何を――」

「分かるかい。君の言ったことが本当なら、ボクたちはリオパーダに入った瞬間から悪意ある者に付け狙われているんだ。狙って起こした狼の襲撃、その後の臨時の休息。ボクが襲撃者ならば、その瞬間を狙う」

 

 中州へと到達した馬車の上で、カタリナ殿下が険しい視線を周囲に向けながら言い切った。もう少し早く気が付けばだんて、たらればの話だ。周囲に何も遮るもののない川の中州など、確かに水を嫌う狼のような野生動物の襲撃は防げるかもしれないが、相手が人間の暗殺者ならば話は別である。

 

 ここまで狡猾で周到な手を取るような存在など、人間以外にあり得ない。死角など存在しない馬車という標的に対して、敵は霧の中のどこに身を潜めているかも分からない。ようやく状況を把握したハオランが顔を青ざめさせる中、僕とナイン、そしてカタリナ殿下がそれぞれの武器を手に周囲に目を向ける。

 

 一体何処から何が飛んでくるかも分からない。それどころか、本当に一連の事態を引き起こしたような敵がいるかも分からないのだ。しかし僅かにでもその可能性が存在するのであれば、対処をしなければならない。

 

「……ボクは一端下へと降りる。ツカサ、ハオランを頼むよ」

 

 鉾槍を手に、彼女が水音と共に中州へと降り立った。最も戦略的な価値が高い王族である彼女よりも、僕やナインが周辺の警戒に行った方が普通だ。しかし正直なところ、もっとも突然の襲撃に対応できるのもカタリナ殿下に違いはない。だから、彼女の言う通りにただ従う。

 

「な、なぁ坊主……アッシ達は、大丈夫なのか!?」

「静かに。下手に騒ぐと、狙われますよ」

 

 大丈夫かどうかなど、むしろこっちが聞きたいくらいだ。そんな本音を飲み込んで、ハオランの口を閉じさせる。ただ周囲の音や気配を瞬時に察知できるようにただ静かにして貰いたい、その一心だ。

 

 

 頬を濡らす霧と冷気は激しさを増すばかり。川の中州は伊達ではなく、森の中よりも一層に濃厚な霧が水面から立ち上り、視界を容赦なく白く塗りつぶす。自分が唾を飲み込む音、それどころか小さく抑えているはずの呼吸の音でさえも妙に大きく聞こえた。

 

 何処だ。どこにいる、どこから来る。いるかも分からない襲撃者は。白い霧の中に視界を這わせ、目を動かし続けてただ姿の見えない襲撃者の姿を探る。それでも目に映るのは、その影どころかただ水面から立ち上りゆらめく霧や、その奥に塔のようにしてそびえる何本もの巨木だけ。

 

 意味も無く首を動かして周囲を探る。ハオランの他には、御者台の左舷側で投てき用ナイフを手に同じようにして警戒を続けるナインの姿が目に入る。周囲に見える人影など、精々がここにカタリナ殿下を入れた三名だけ。

 

 

 ふと視界を上へと向ける。まさか空から来るわけなどはないが、それでもそのまさかがあったら――その瞬間、反射的に僕は手に握り締めていた双剣を振るった。心臓を掴まれたような感覚、それを身に受けながらも剣先は霧を裂き――

 

 確かな手ごたえと、そして乾いた金属音。もはや視界に僅かに映り込んだ"それ"が何かも分からぬままに薙いだ剣が、確かにそれを弾いた。そしてほぼ同時に、右後ろから聞こえるハオランの短いうめき声。

 

「――ツカサ!!」

「来るなっ、何か……何かがいる!!」

 

 双剣で弾き落としたもの、それは直前に空中で僅かな日の光を反射して煌いた一本の短刀だった。突き刺さる寸前で弾き、それは御者台の一画に深々と突き刺さっている。

 

 そして同時に飛来したもう一本の短刀は、ハオランの額に突き立っていた。僅かな血飛沫を噴き上げて御者台に倒れ伏した彼の体が、目を見開いたまま細かく痙攣している。言葉一つ発しないそれは、もう手遅れだということを示していた。

 

 

 短刀が飛んできた空間へと目を向けた。当然、襲撃者の姿などそこには無い。しかし、間違いなくまだ短刀を投てきした誰かはその近辺に隠れているはずだ。

 

 それは、周辺の川や中州を警戒していた僕たちを嘲笑うかのような場所。今の今まで僕たちがこの状況において唯一の安全な場所と信じていたはずの馬車、その屋根の上だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

27. 霧の中から忍び寄る殺意

「――下へッ」

 

 考えたのは僅かに一瞬だった。直感に従って導き出した行動は早急なるこの場からの退避。馬車の御者台から背後へと飛び出し、その直後に訪れる浮遊感。首筋に浮かんだ汗を、霧混じりの冷たい空気が撫でつけておぞましいほどの寒気を与える。

 

 両足が川に着地すると同時に、激しい水しぶきが周囲へと飛び散った。驚くほど冷たい水が足首までを覆い、その流水の最中でも足を取られまいと腰を低く落とす。

 

 視界は霧という名の白い闇に包まれて、今しがた自分が乗っていた馬車すらも掠れて見えるほど。足元の川からこんこんと立ち上る霧によって、もはや目で捉える光景は白く塗りつぶされている。しかしこれは僕だけじゃなく、襲撃者だって同じ状況のはずだ。

 

 身を守る唯一の拠点であったはずの馬車自体に襲撃者が潜んでいた以上、あの御者台にて敵を迎え撃つよりも我彼共にどこにいるか分からないという状況の方がまだマシだ。この濃密な霧は、たとえ遮蔽物の無い川の中心だとしてもこの身を隠すことは不可能なんかじゃない。

 

 

 直後に僅かな間を置いて、背後に水が弾ける音が聞こえた。背中にあたる仄かな温かさ、たったのそれだけで焦燥感が拭われて何とか冷静さを保つことが出来る。ナインと共に、背中合わせにそれぞれの武器を構え、そして霧の中に潜んでいるであろう何かの気配に意識を向ける。

 

 霧の向こうに見える馬車へと視線を向けた。濃密な霧の中でも、朧気ながらもその概形だけは何とか捉えられる。僕たちをこの状況へと追い込み、そしてハオランを殺した襲撃者は、きっとまだあの馬車にいる。その存在を認知してから今に至るまで、その姿を一切捉えることすらも叶わなかった敵が、あそこにいるのだ。

 

 

 僕たちは移動の要である御者を殺されるという状況に至っても尚、今の今までその襲撃者の姿を見ていない。それどころか、ハオランが殺されるという決定打によってようやくその実在が確定したほどだ。

 

 襲撃者は一体いつからあの馬車に潜んでいたのか。それはおそらく、獣の血が馬車に塗りたくられていることが分かった時の少し前だろう。僕たちをつけ狙うどころか、ずっと気配を殺して狼の襲撃を受けていた時すらも行動を共にしていたかもしれないことに、猛烈な気味の悪さを感じた。

 

 それと同時に、こっちには四人もいたにも関わらず誰一人としてその姿を捉えていない。驚愕ではあるがまごうことの無い事実だ。つまり敵は、そんな芸当を可能にするほどの隠密行動が出来るということ。だから例えこのどちらの視界も白く塗りつぶされているはずの空間でさえも、こちらが気が付くことなく突破してくることだってあり得なくはない。

 

 もしかしたら、僕やナインが目を凝らして敵の姿を探しているこの状況をしり目に、襲撃者は音や気配も無くすぐ近くに忍び寄ってきているのではないか――そんな最悪なシナリオが頭を過るほどに、焦りと恐怖が口からうろたえた悲鳴をあげさせようと心の中を駆け巡る。

 

 

――ぱしゃり――

 

 僅かに冷たい風が吹き流れる音に混じり、今確かに何かが水面に落ちる音が響いた。その小さな音の発生源は、霧の向こうに見える馬車の近く。双剣の柄を握り締める拳に力が入り、音も無く生唾を飲み込んだ。

 

 姿勢を低く落とし、白い靄の一点に意識を集中させる。その白闇の中に僅かな動きがあれば、すぐさまに対応が出来るように。視界の端で微かに煌いたナインの投てきナイフも、襲撃者が迂闊な動きをすれば容赦なくその喉元に目掛けて突き立てられる。それほどの今できる万全の姿勢のまま、未だ姿も見えぬ敵を見張る。

 

――ぱしゃり――

 

 続けざまに聞こえる、水面を踏み抜く音。一歩たりとも動いてはいない僕とナインは、その音の源にはなり得るはずが無い。顔を見合わせたのは僅かに一瞬。この膠着状態はようやく崩れ出し、敵は動き出したのだ。

 

 

 大まかな敵の位置は、恐らくは馬車の近く。それが分かっていたからこそ、その周辺から飛来した何本もの短刀の存在に気が付くことが出来た。隠密とは程遠くまるで笛のような音を吹き散らして、静寂を切り裂き突き進む短刀の群れ。扇状に放たれたそれは、まるで狙いなどつけていないかのようにてんでバラバラの場所で水面を激しくたたいた。

 

「……ッ!!」

 

 舌打ちを寸前で飲み込む。突如崩された静寂さ、それは敵の位置を知るための数少ない情報である水面を踏みしめる音をかき消すには十分過ぎるものだ。視点すらも周辺に着弾した短刀に気を取られ、果たして襲撃者本体がどこにいるのかをこの一瞬のうちに見失った。

 

 音が聞こえないのならば、もはや目を凝らすしかない。晴れることの決してない白い霧の中のどこかに、幾多もの短刀を構えてこちらの命を狙う者がいるはずだ。霧という絶対的な存在を除いたら、この川の中州という空間には身を隠すものなど存在しない。敵がこちらを殺すために近づくということは、こちらもその姿を絶対に視界に捉えることが出来るに違いない。

 

――ぱしゃり――

 

 再び水面を踏む音が聞こえた直後に、耳障りないくつもの笛の音がそれを上書きした。霧の中へ僅かに差し込む日の光を反射して鈍く輝く多数の短刀。狙いも無く無茶苦茶に放たれたであろうそれらは甲高い音を発しながら霧中を突き進み――そのうちの一本の切っ先は僕の正面を捉えていた。

 

 それをどうするか、もはや考えるよりも先に自ずと僕は構えていた双剣をふるっていた。そのまま指をくわえていればこの腹を捌かんとしていた短い刀身に向け、右手に握り締めた剣を打ち付ける。柄を通して手に伝わる衝撃は感覚を僅かに痺れさすだけで、甲高い金属音を残して呆気なく短刀は弾き飛ばされた。

 

 

 木々で両岸を囲まれたこの異様な空間に、短刀を弾いた音が幾度も響く。決して大きくはなく、それでも水面が弾けるようなものとは性質の異なる音。その残り香が消え失せる寸前に、冷や汗が額に浮かぶのを自覚した。

 

 僕は短刀を弾いた――否、弾いてしまった。そして発生した甲高い金属音は、この白い闇の空間において僕の位置を知らしめるには十分過ぎる。もはや、"どちらもが互いの位置を把握していない"という均衡は、この一瞬によっていとも簡単に崩れ去ってしまったのだ。

 

 再びどこからともなく飛来する短刀、しかしそれの切っ先はさっきまでのような出鱈目の方向に向けたものなどではない。その全てが、僕とナインの場所を捉えているかのようにして剣先を揃えて飛来する。こんな視界があやふやな中で、その全てを捌き切るだなんて到底不可能なほどの量。もう、腹を括るしかない。

 

 

「ナイン!! こっちへッ」

 

 水音を立てないなんてそんなことはもう言っていられないし、最早静寂を保つことに意味など無い。飛来する短刀の群れを躱すために横へ飛びのいた直後に、何本もの短刀が笛の音を残して霧の中へと消えていった。水面を踏みしめた瞬間に沸き起こる激しい水音、しかしそんなものを気にしてなんかいられない。

 

――ぱしゃり、ぱしゃり――

 

 再度聞こえる水を割る音。先ほどまでよりもずっと近く、その上に幾度も連続して響き渡る。しかしその僅かな足音を辿ろうとしても、こちらに向けて絶え間なく飛来する短刀によって意識を集中させることすらも叶わない。

 

 どこだ。どこにいる、どこから来る!! 明確な殺意を滾らせて今まさに近づきつつある襲撃者は一体何処だ。両足を冷水に濡らして無様に逃げ惑う僕たちを嘲笑うがごとく、短刀は正確にこちらのいる場所を射抜き、そのたびに大きな水音を鳴らしてどんどんと馬車から離れた場所へと追い込まれていく。

 

 短刀の笛の音は段々と短くなり、きっと敵は目を凝らせばもう視界にいるはずだ。それでもなお、白い霧は襲撃者の姿を頑なに覆い隠し、ただ僕たちだけがあてもなく川の中を逃げ続ける。そしてとうとう、投てきされたナイフの音に紛れたひと際大きな足音すらも両の耳へと届いた。ようやく訪れたその瞬間に音の発生源を凝視して――驚愕と共に思わず息を飲んだ。

 

 

 誰も、そこにはいない。

 

 霧の向こうにかすれた、それでも確実に視線が届く場所。その誰もいないはずの地点から、水が弾ける音が響いた。飛び散る水滴と、確かに誰かがその場所を踏みしめたはずの雑音。しかしその音の主だけが場に不在の、とてつもなく異様な光景。

 

 決して見間違いなどではなかった。再び耳に届く主のいない足音、それと共に発生する水面の乱れ。誰かが間違いなくそこにいるのだというのに、その姿はどこにも見当たらない。まるでその人物だけがこの空間から消し去られたかのような――

 

「……透過の能力、始祖族だ!!」

 

 ナインの言葉を理解した瞬間、心臓を鷲掴みにされたかのような寒気が全身に襲い掛かった。霧に紛れて気配を消すというものなどではなく、文字通り姿そのものをかき消した存在。決して人間には出来るはずのない芸当さえも、さも当然のように成し遂げる、それが始祖族の恐ろしさだ。

 

 そして気が付いた時には、足音と水面の揺れは遥かに近くまで来ていた。全力で蹴り出せば一歩目で短剣でさえも攻撃圏内に入るほどの近さの先に、僅かな川の揺れを残して、音も気配も無い空間が目の前に立ちふさがる。その場には人どころか何も存在していないように、霧にまみれた川の中州の姿が見えるだけ。

 

 しかしもはや、己の視覚ですらも信用には値しない。この目に映るもの以外の全てが、目の前の空白の空間に警笛を鳴らしていた。間違いなく、そこに何かがいる。今まで散々僕たちを追い回してきた、視界に捉えることの出来ない何かが。

 

 

「――シィッ!!」

 

 その眼前で突如水しぶきが上がるのと、ナインがナイフを投てきしたのはほとんど同時。一直線に突き進むナイフが何かに弾き飛ばされるその間際、その一瞬だけ目の前の光景に乱れが訪れた。霧の中に浮かび上がる朧げな人影と、ナイフに向けて打ち付けられる半透明の長剣。乾いた音が響いた直後に消え失せた人影は、間違いなく襲撃者の姿を如実に示しているのだ。

 

 再び煙に巻かれたように掻き消える人影、しかし水面の乱れは狂いなくこちらへと向かってきていた。敵は決して己の目で捉えることは出来ず、その上始祖族だというのが本当ならば霊剣を保有している。逃げなければ間違いなく殺される、その一心で後ろへと駆け出して――鼓膜に響く刃が空を切り裂く音。

 

 もはや条件反射といっても良い。寸分違わず後ろから首を掻き切るであろうその見えない軌跡を幻視して、双剣の片割れを空中へと突き出した。

 

 

 次の瞬間に沸き起こる、ひと際甲高い無機質な音。まるで腕を持っていかれたかのように重い衝撃が剣を通して伝わり、同時に顔を顰めて舌打ちを漏らす。無理な体勢から辛うじて押しとどめた敵の刃。ここまでしても尚、打ち付けてある敵の剣はその形すらも浮かばない。

 

 目を見開いて己の双剣を見つめた。ヴァローナの砦でイーリスから直々に渡された武器の数々は、決して安物のわけがない。そうだというのに、その刀身にはまるで脆い焼き物であるかのように容易くヒビが入っていく。まるで打ち合わせた箇所が削り取られているかのような感触。剣の片割れが両断される寸前に、その柄を放り出して後ろへと飛びのいた。

 

 眼前で根元から寸断された片方の剣先が宙を舞い、そして不可視の霊剣の切っ先が前髪の僅かに先を通過する。残ったもう一本を手にして、再度距離を取るために川の底を蹴り出した。

 

 

 これこそが、始祖族のもう一つの恐ろしさ。自然の摂理を外れるかのような魔術だけではなく、彼らの扱う霊剣はそのものが非常に恐ろしい兵器だ。いくら造りがきちんとした鋼の剣であっても、霊剣の強度には決して叶うことなど無い。打ち合わせたところで、粗悪品の如く簡単に両断されてしまう。

 

 散々知識として知っていたものを、今こうしてこの身で体感しているのだ。右手に残された一本の剣も、きっと同じ末路を辿る。いや、その前に不可視の霊剣を見切ることすら叶わずに首を切り裂かれる方が早いかもしれない。

 

 ただ見えない敵を前にして後ろ向きに逃げ続ける、それだけではいつか限界が訪れる。そんなことは分かり切ってはいても、今はそれでいなし続ける他は無い。不可視の霊剣が空を切る音を聞く、その極限状態でも僅かに残された冷静な思考を回し続けなければ現状の打破なんて出来はしない。

 

 

 考えろ。目の前の敵は、何故今になってこんな接近戦闘を仕掛けてきたんだ。我彼共に姿を見つけられなかった状況で、この敵は一方的に僕たちの位置を把握できるはずだ。なのに、何故わざわざハオランをやった時のように僕たちを遠方から距離を保って殺しに来ない?

 

 わざわざ川の水を踏み鳴らし、姿が見えないという絶対的な利点を打ち消してまで近づいてきたのか。それは言い換えれば、あの敵にはそうせざるを得ない事情があったのか?

 

「――さあ、こっち!! ツカサ、来て!!」

 

 霧に満たされた中州一帯に響き渡るナインの大きな叫び声と共に投げつけられるナイフ、それと呼応して一瞬だけ止む剣戟の雨。飛びのいた視界の先には再び朧げな人影が見えて、彼女が投てきしたナイフが弾き飛ばされた。その瞬間を逃がさないように、ナインと共に敵がいると思われる方向に視線を向けながら、しかしそれとは逆の方向へと駆け出す。

 

 

 再び霧の中に掻き消えた襲撃者に舌打ちをする。あの敵の違和感はまだほかにもある。何故、ナインの投げナイフを防ぐときに一瞬だけその姿を現すんだ。一回だけならばまだしも二回目だってそう。ただ姿を消すからといっても、あの敵の行動はこちらの死角から忍び寄って音や気配も無く殺し去るという物とは程遠い。

 

 このちぐはぐな敵の戦い方こそが、何かの鍵になるはず――その思考は強制的に中断させられた。再び敵の居る場所から投げつけられた一本の短刀。至近距離からの投てきにもはや避ける間もなく、気が付いた時にはそれを弾くために残った剣を振り上げていた。

 

 同時に僅かに感じる、鋭い刃が空気を切り裂く音。それは今しがた弾き飛ばした短剣のものではなく、がら空きになった僕の胴体に目掛けて振り下ろされた不可視の霊剣。全てを悟った時には、その必死の一撃を避ける手立てなど何処にも存在しては――

 

 

「――ナイン、ナイスアシスト!!」

 

 白い霧を無理やりに紅へと塗りつぶさんとする刃が、僕の目の前を通過していった。霧の持つ冷気が一瞬のうちに熱気へと変化して、その直後視界の中央に黒紅色の長髪が緩やかに揺れていた。

 

 今まで僕たちから離れていた所にいたはずのカタリナ殿下の振るう鉾槍が、淡い黒紅色の炎を僅かに纏いながら眼前へと振るわれる。それは、刃の届く範囲にいるものを焼き払う暴虐的な攻撃だ。しかし届く範囲一杯を薙ぎ払うその切っ先に手ごたえは無く、ただ白い靄の中に黒い軌跡を残したのみ。

 

「逃げられた……否、一端距離を離されたか」

 

 彼女の炎が燃え盛る音が過ぎ去った後は、再び川の中央には静寂が訪れていた。水が流れる小さな音のみが聞こえ、先ほどまで一方的な襲撃があったなんて嘘だったような静けさが広がる。

 

「殿下……ありがとうございます」

「礼ならばナインにしなよ。彼女があの時叫び声をあげなければ、霧に阻まれて君たちの場所すらも分からなかったんだから」

 

 カタリナ殿下の言葉は、まさにその通りだった。姿を消すことが出来る敵の姿どころか、自分たちが乗ってきた馬車すらも見えないほどの濃厚な霧が辺りを覆っている。精々、霧の向こうに辛うじて見える巨木の群れによって岸がどこにあるのかくらいしか分からない。

 

 視界が覆い隠された状況では、もはや音にしか頼ることが出来ない。ついさっきまで僕たちがあの姿の見えない敵の位置を足音で判断していたように――そこまでを考えたところで、何かが頭を過った。それは、襲撃の最中頭の中を駆け巡っていた襲撃者に関する違和感を説明しうる何か――

 

 

「……一端体勢を立て直す。アイツをどうにかしない限り、リオパーダを抜けるだなんて無理だ」

 

 馬車のあった方ではなく、巨木の生い茂る岸に向けて歩き出す殿下に続きながら、僕は今しがた頭を過った考えを整理していた。あの姿の見えない始祖族を打ち倒すには、その能力を打ち破らなくてはならない。その一端を、僕は今までの戦いできっと――否、間違いなく垣間見ているのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

28. 不可視

 息がつまりそうなほどに鬱蒼と木々が詰まる森の中で気配を殺す。頭上から差し込むべき日の光は巨木たちの葉で遮られ、僅かに地表へ到達したものも立ち込める霧をぼんやりと照らすだけ。川の岸にあがって少し離れただけでこの有り様だ。下手に馬車から離れれば、自分の場所を見失うのは想像に容易い。

 

 木々の奥から、水の流れる小さな音と共に川が微かにのぞく。まるで何事も無かったかのように、淡々と白靄を吐き出し続ける川の中洲。襲撃を受けて御者を殺害されたことが嘘だと思うほどの、不気味な静けさだ。

 

 姿の見えない襲撃者の存在は、ただこの場にいるかもしれないというだけで僕たちに苦痛を強いるには十分すぎた。ひとことも発すること無く、各々が耳をすませて得物を霧に向けて構える。その切っ先の先にいるかも分からない、もしかしたら直ぐとなりで音もなく嘲笑っているかもしれない敵を警戒するために。

 

 僕たちが相手をしている敵に関して判明しているのは、姿を完全に消し去ることが出来る能力を持った始祖族ということだけ。オオカミの襲撃が起こるよりも前から一団を狙い、好機が訪れるまで息を殺していた。

 

 

 そんな見えざる驚異をそのままにしていては、リオパーダを踏破することなど到底かなわない。こちらは御者をすでに殺されている。慣れない馬の操舵を残存する人員で行いながら刺客を相手取るなど、不可能なのは目に見えていた。

 

 だからこそ、この場で敵を撃破しなければならない。この地上の冥府を突破するには決して避けては通ることが出来ないから。だがここは霧で覆われているためにただでさえ見晴らしが悪い。姿を消すという能力に加えて周囲の環境までもが敵に味方をする、一見して相手の土俵そのものとも言える空間だ。そして逆に言えば、勝機はその土俵から相手を引きずり降ろさなければ決して訪れない。

 

 敵の最大の誤算は、第一撃で僕を殺せなかったことだ。敵が平然と姿を消しているということすらも気が付かずに、襲撃者の出現に警戒していた僕は、結果的にこうして生き延びてここにいる。加えてたとえ断片的にだろうと、この身には敵と一度戦ったという経験がある。

 

 僕に残されたのは小さな剣が一本だけ。敵の霊剣に破壊をされて柄だけにかった片割れはすでに捨て置いた。カタリナ殿下やナインと共に、白い霧の奥に向けてその切っ先を向け息を忍ばせることしかできない。しかし、そんな膠着状態だからこそ頭のなかを回すことができる。

 

 

 考えろ、あの敵を打ち倒す方法を。思い出せ、襲撃の最中で感じ取った違和感を。

 

 姿の見えない襲撃者は、その能力から言って奇襲に特化した存在に違いない。オオカミの襲撃の最中にまったく気配をかけらも見せることなくいなしたほどの実力だ。事実、ハオランが殺された瞬間でさえも敵が透明で見えないということが可能性さえも思い付かなかったほど。

 

 だからこそ、その後の敵の戦いかたは今になって思えば不自然きわまりないものに思えてしまう。川の中洲という特殊な立地だから水面を叩く音がするのは仕方がない。だけどそこからの行動は最早隠密さがかけらも感じられないものへと変化を遂げた。

 

 笛の音を撒き散らす短刀を投てきし、奴は静かだった森の川辺を耳障りな音で染め上げた。姿が見えぬゆえの霧に紛れたものとは程遠い、自身のたてる足音をさらに大きな雑音で覆い隠すというちぐはぐなもの。その上、自身の大まかな位置をさらけ出しかねないほどに短刀を投てきし続け、しかも途中まで狙いも碌につけていないというありさま。

 

 奴の攻撃はある瞬間を境にして明確に激化した。無作為に放たれた短刀を打ち払った直後、これまでバラバラの方向に目掛けて投げられていた短刀が僕とナインに目掛けて集中して投てきされだしたのだ。最初こそ、互いに白い霧に隔たれた中で音というものによって僕たちの場所を発見するための措置なのだと考えていた。でも今になって、その点にこそ僕は違和感を抱いている。

 

 一度僕たちの大まかな場所を把握しておきながら、何故あの敵は短刀を投てきし続けたんだ? ある程度まで接近をすれば、音に頼らずとも良い。いくら濃密な霧が周辺を覆い隠しているとはいえども僕たちの姿はおぼろげながらにも見えたはずだ。それにも関わらず、敢えて自分の位置を知らしめるような行動の意味は何だ?

 

 それだけじゃない。奴は、ナインが反撃として至近距離から投げつけたナイフを弾き飛ばした時、瞬間的にその透明化能力を解除していた。一度だけならまだしも、二度目もまた奴は姿を現した。

 

 敵の戦い方は、隠密性に特化した能力とは必ずしも一致しない行動が多すぎる。何故、そんなちぐはぐな行動をしたのか。僕たちを甘く見ていたのか、それともそんな行動をしなければならないような状況だったのか。もし後者ならば、奴にそんなことを強いた要因は一体――

 

 

「チッ……埒が明かないな」

 

 囁くような小さな声で、カタリナ殿下が悪態をつく。視線だけを動かして流し見すると、ハルバード状の霊剣を僕と同じく虚空に向けて構えたままの彼女が険しい表情を浮かべて周囲に視線をはわせていた。

 

「霧が無ければ丸ごと焼き払ってやるっていうのに」

 

 彼女の小さな独り言に、僕はある種の納得を感じていた。カタリナ殿下と同じく炎を能力として扱っていた始祖族に、一人だけ心当たりがある。クアルスの街で衛兵に紛れ込んでいた、輸送船の襲撃から始まる一連の事件を引き起こした元凶であるアリアス。あの人もまた霧で覆われた地下の遺跡空間では炎の魔術が弱体化し、結果として僕とナインはあいつを撃破することができた。殿下のような炎を扱う始祖族にとっては、このような湿気は魔術を制限させるものなのだろう。

 

「……ツカサ、それにナイン。この襲撃、ボクはかなり面倒に仕組まれたものだと思う」

 

 殿下のその言葉に、僕とナインは思わず目を見合わせた。仕組まれたもの、つまりは街道で旅人を襲う盗賊のような、突発的な行動とは根本的に異なるということ。

 

「敵はおそらく、何らかの方法によって姿を消すことが出来る始祖族だ。そんなものが襲い掛かってくるということは、きっとどこかの息が掛かった暗殺者ということに違いは無いだろう」

 

 それが本当ならば、僕にとってはこの短い人生で二度目となる暗殺者との遭遇ということになる。そして一度目のアリアスについては偶然付け狙われたようなものだけど、二回目の今はきっとカタリナ殿下の一行の一員として命を狙われているということなのだ。

 

「さっきまで奴がどこの息が掛かった輩なのかを考えていた。仮にもボクはアストランテの第三王女で、且つ戦姫などという通り名が付くほどだから、帝国からしてみれば出来れば殺したい存在だろう。だからフラントニア帝国から刺客だ――最初はそう思っていた」

 

 殿下が一端言葉を切った。フラントニアといえば、数日前のヴァローナで遭遇した北部人たちの武装蜂起を企てた、始祖族の戦士マオ・リーフェンが属していた帝政国家だ。元来から隣接するアストランテ王国との間でにらみ合いが続いており、殿下が王都に呼び戻されるのもきっと帝国絡みの件だろう。

 

 その帝国が今回の仕掛け人ではない、殿下はその可能性を示した。ならば本当の黒幕は誰なのか、そんなことは深く考えなくとも自ずと結論は出てくる。この一件に関与しうる、フラントニア関係以外の始祖族を動かせるような存在なんて――

 

「……ボクたちがこのタイミングでリオパーダを通ると知っていて、尚且つボクの能力の欠点を把握している奴。そんなの、フラントニアよりもむしろアストランテの方が怪しいに決まってる」

 

 内心でまさかと思い立ったことを、カタリナ殿下は容赦なく口に出した。一国の姫が、自分の国に対して疑心を抱く。そんな通常では考えられないようなことすらも、殿下は平然と述べて顔を顰めていた。

 

「この予想がどこまで的を得ているかなんて分からない。それに、今この場で僕たちを害そうとする理由すらも不明さ。でも覚悟はしておいた方が良い。ボクたちに刃を向けているのが、下手すりゃこの国そのものなのかもしれないよ」

 

 最初に言っていた、面倒に仕組まれたというもの。それは、今回の王都サンクト・ストルツへ向かうという行為そのものが何らかの罠である可能性すら存在するということである。殿下が顔を顰めていたのは、それらの可能性を考えたうえのことなのだろう。

 

 

「……どのみち、敵は出来れば殺さずに何かを聞き出したいところだ。だから君たち、くれぐれも奴の奇襲で簡単に死んではくれるなよ。透明な敵なんてこっちは音を探すしか出来ないんだから、耳が減るのは痛手だ」

 

 結局は、敵を見つけなければ話は始まらない。殿下の言う通り、この白靄に満ちた空間で敵を見つけるには音を頼りにしなければ――

 

「――音を頼りに……もしかして、奴も同じなんじゃ」

 

 気が付けば、僕は考えていたことをそのまま小声で口から吐き出していた。濃密な霧の中、視界が使えなければ周囲の状況を探るには音を頼りにするほかはない。そして透明な敵を相手取っていた僕たちは、例え目の前にいる敵でさえも視覚が頼れないならば音で探るしかない。

 

 しかし、もしかしたら敵ですらもそれは同じなのではないか。自分の位置を知らしめるリスクがあるにもかかわらず、短刀を投げつけて僕たちにそれを弾かせることで、その音で僕たちの場所を把握する。霧による視界の遮蔽が働かない距離ですらも、奴はそれを続けた。

 

 何故そこまでして音に頼るのか。逆に、音に頼らなければならないのか。聴覚にこだわるということは、逆に視界が潰されているということ。

 

 まさか、と思い立つ。もしかして、あの敵は己が姿を消しているときには自身の視界も一切が潰されるのではないのか。ナインが投げつけたナイフを防ぐために姿を現したのは、迫りくるナイフを正確に叩き落すがために能力を限定的に解除したのではないか。敵の違和感という乱雑でバラバラだったピースが繋がれていく。

 

 

「……ツカサ。私も今、きっと同じことを考えている。ものを見るとは、つまり光を己の目で捉えるということ。そして光は周囲に満ち溢れている。奴が姿を消すということは、敵の後ろから来る光が敵本体に遮られずに私たちの目に届いている。じゃあ私たちの姿を映した光は、どうなると思う?」

 

 ナインは、僕と同じくあの敵の能力の綻びに気が付いたのだ。始祖族の能力は決して万能ではない、それはこれまでに出会ってきた始祖族たちによって経験的に理解をしている。ならば、僕たちが相手をしている刺客だって、その規範から外れることは決してないのだ。

 

 僕たちを映した光、それはきっと奴が姿を消している間は透過してしまう。つまり敵の目でその光を捉えることは出来ず、奴は何もその眼で捉えることは出来ない。奴は能力を発動させている限り、この空間における光のやり取りから完全に孤立する。

 

「多分、あの敵は姿を消している限り、私たちを"視る"ことが出来ない。戦況の全てを音で把握して、そして音で対処できない場合には瞬間的に能力を遮断する。それが、きっとあの敵の能力の綻び」

 

 僕たちは、結局のところ同じ負担を背負って戦っていたに過ぎない。姿を消した相手を前にして視覚が殆ど意味を為さない僕たちと、姿を消し去る代償として己の視界を黒く塗りつぶして戦っていた襲撃者。

 

「……何となく理解はできたよ。要は敵も能力を使っている時には目が見えていないんだろう。だからどっちも足枷を付けた状態で戦っていたと」

 

 カタリナ殿下もどうやら僕たちの考えている内容を察したようだ。しかしその上で、殿下は未だに険しい表情のままでいた。問題はそんなハンデを負ってもなお、敵が戦いなれているということだ。確かに土俵は同じ、でもそれはあくまでも相手のホームグラウンドのままだ。

 

 これまで、アリアスやマオという強大な始祖族たちと戦ってきて、僕はある一つの考えが欠かせないと気付きつつあった。それは、相手の強みを奪うということ。敵と同じ土俵で戦っている限り、地力の違う人間族に過ぎない僕は始祖族の魔術に決して叶わない。だから、こちらの土俵に戦いを引き込む他はない。

 

 

 敵の能力の弱点は分かった。ならば次は、敵の能力を無効化することを考えなければならない。あの襲撃者は、どうやって己の姿を消し去ることが出来るんだ。そしてそれは、僕たちの小手先の戦略で打ち消すことが出来るようなものなのか。

 

「……始祖族の能力は、強力ではあるけど自然の摂理から外れることは無い。透明になるということは、光がその存在に干渉されないということ。でも、普通の光は絶対に人間の体を通過することは出来ない。だから、"透明化"なんていう言葉がそもそも間違っている」

 

 ふと、ナインがそんなことを小声でつぶやいた。彼女は、マオの時にも率先してその能力の綻びを見抜いていた。だからこそ、もしかしたら既にナインは気が付いているのかもしれない。敵の能力、その全容を。

 

「きっと奴はその身に何かをまとっている。光を折り曲げて、己の存在だけを周囲から隠しうる、そんな何かを」

「つまりどうにかしてその"何か"を引きはがせば良い、そうだね?」

 

 そこに来てようやく、カタリナ殿下の表情が獰猛な笑顔に染まった。今まで散々息を殺して敵から隠れていたことへの反動なのか、獲物の首筋に噛みつかんとするほどの凶暴さが見て取れるほど。

 

 恐らくは奴の能力の正体は、完全に透明になるというわけでは無く、光に干渉して周辺の風景から消え去るというものなのだ。だからその能力を発動しうる魔力的な障壁を取り除ければ、ようやくこちらのレベルに落とし込むことができる。

 

「……敵の弱点と能力の鍵、その両方を一気に攻める方法を思いついた。散々こっちを追い回してくれた奴に、誰を敵に回したのかを頭に刻みつけ、目に物を見せてやろうじゃないか――君たち、反撃の時間だ」

 

 仮にも己の上官だというのに冷や汗を感じるほどに、彼女は凶暴な笑みを浮かべて舌なめずりをしている。戦姫とまで言われた存在が、ついに敵に向けて牙をむいたのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

29. その眼に焼きつけろ

「……分かっているだろうが、このままじゃ八方塞がりだ。ツカサ、悪くは思うなよ」

 

 静かに水が流れゆく音に混じり、一人の女性の声が霧の満ちた川辺に響いた。その淡々とした言葉に抑揚は無く、ゾッとするほどの冷酷さを隠そうともしていない。

 

「そん、な……お、囮だなんてっ」

「二度も言わせるな。君はボクの副官なんだろう? ならば、その立場をわきまえろよ」

 

 その冷酷な言葉を向けられているのであろう若い青年は、対照的に上ずったような返答をするのがやっとであった。その明らかに動揺をした様子の彼をさらに追い詰めるように、彼女――カタリナ・フォン・アストランテは感情を感じ取らせない底冷えするような声色で言い放つ。

 

 

 じりじりと後ずさる青年――ツカサのかかとに、川を流れる冷たい水が触れる。彼の装備は、この近くのどこかに隠れているであろう始祖族を相手取ることを考えたらもはや丸腰と言って差し支えがないほど。軽めの革の鎧に、一本だけになった双剣の片割れ。

 

「こんなっ、死にに行くような……殿下、どうかお考え直しを――」

 

 それでもなお彼女の考えを変えるために懇願をしようと口を開いた彼の目の前に、黒紅色の切っ先が突き出された。白い霧を切り裂くようにして顕現した、猛烈な熱気を放つ鉾槍。カタリナの霊剣が放つ熱気を目の前にし、ツカサは唾を飲み込んだ。

 

 例えこの場所が彼女の能力を制限する濃い霧のなかであろうと、やろうと思えば霊剣の目と鼻の先にいるツカサは容易く全身を焼き払われるだろう。もはや、彼には選択肢など与えられてはいないのだ。

 

「簡単な話だ。死ぬほど危ない目に遭うか、ここで骨の髄まで焼かれて灰になるか。どちらが賢明なのかが分からないほど、君も愚かじゃないだろう?」

 

 気まぐれに揺らされた鉾槍の尖端が彼の目の前に赤黒い軌跡を描く。反論の言葉どころかその意思すらも拭い去られたツカサに、彼女は哀れみどころか蔑む視線すらも向けず、ただ淡々と川辺を指差した。

 

「じゃあ、さっさと行って奴を誘きだしてくれよ。なるべく大きな足音をたてるのも忘れずにね」

 

 ただ言われるがままに、ツカサは黙って頷くことしかできなかった。踵を反して川の中洲に向けてつま先を向ける最中、彼の足は遠目に見てもわかるほどに震えている。しかしそれは、これから踏み出す先のことを鑑みれば、むしろ正常な反応と言えた。

 

 しんと静まり返った川の中、霧に紛れて文字通り姿を消し去った襲撃者は虎視眈々と彼らを狙っているのだ。ツカサはそんな存在に身を差し出す、命の保証など存在しない囮として差し向けられるのだから。

 

 

 

 震える足先が、川の水面を打ち鳴らす。歩調がてんでばらばらのその音は、内心に抱える不安と恐怖を隠しきれていないかのようだった。静けさが広がるこの空間だからこそ、その足音は嫌に周辺へと響き渡った。

 

 ある者はその音につられて襲撃者が姿を現さないかをじっと眺め――そしてある者は、白い霧と不可視の壁に紛れたその奥でほくそ笑んだ。

 

 霧を身にまとい周囲から完全に消え失せたまま、襲撃者は獲物を今かと待ち受ける。たとえ能力の副作用によって自身の視界すらも闇の中に落とされようとも、その聴覚は十分すぎるほどに獲物の位置を暗闇の中に捉えていた。このしんと静まり返った川の中ならば、歩調の乱れた足音を聞き逃すわけがない。

 

 

 川の流れに紛れるようにそっと足を踏み出して、襲撃者はゆっくりと歩きだした。方向は、おぼつかない足取りで川を進む獲物の向かう先。獲物である人間族の青年は、襲撃者を誘きだすどころか、その襲撃者が霊剣を手に待ち構えているところに歩いているのだ。その事実に、不可視の始祖族は笑みを深めた。

 

 青年が歩き出す前にカタリナへ向けたせめてもの陳情とその結末から考えて、きっと彼はまともに戦えるような準備もなくこの川辺に放たれたのだ。最初の襲撃を御者一人を殺害されながらも何とか乗り切り、幾度も攻撃をいなしたほどの青年であっても、与えられた任は結局その程度。

 

 どんなに理不尽に見えようと、これがこの国の常だ。圧倒的な力を誇る始祖族に対して、人間族の戦力はどうしても劣る。それゆえに始祖族は支配階級足り得て、人間族は彼らの統治のもとに行動する。

 

 戦力には優れない人間を囮にして敵を誘い、そして敵を狩るために始祖族が後ろに待機する。それは何らおかしなものではない。今この場において始祖族がアストランテ王国の姫であることからしても、むしろ当然とも言える選択である。

 

 

 ゆえに想定通りだと襲撃者は不可視の霧のなかで口角を上げる。不覚にも自身の存在を悟られたとしても、膠着状態を保っていればあの王女はいつか青年を差し出すはずだ。この場において真っ先に取り除いておかなければならない障壁、そして標的のひとつである存在を。

 

 乱れた歩幅のためか不規則に響く水を踏みしめる音が、段々と近くなる。襲撃者は、自身の体と共に不可視の存在と化した己の霊剣を構えた。世界を成しているのは、耳に届くわずかな音だけ。しかしたったのそれだけで、死の淵を怯えながら歩くことしか出来ないような人間を一人殺すには十分すぎた。

 

 

 微かに霧を穿いた霊剣は、それを扱う者にすらも目視することはかなわない。それでも、音もなく振り上げられたその切っ先は、獲物の体へと寸分の狂いなく向けられていた。

 

 獲物の動きから言って、完全に不意討ち。そしてたとえ直前で悟られようとも、獲物の青年に残されたのはただの小降りな剣が一本だけ。先ほどのように初撃を弾かれようが、ひとたび霊剣に力が込められれば通常の剣は敵うわけがない。後方で待ち構えるカタリナが異変に気がついたころには、獲物は霊剣に穿ち抜かれた後だろう。

 

 

 不可視の刀身が霧のなかを翻る。ほぼ確定した勝利を見据えた霊剣が、獲物に向けて一切の躊躇なく突き出され――

 

「……ッ!?」

 

 ――あわれな獲物の青年を切り裂くどころか、その刃は完全に押し止められていた。目の前で甲高い音が響き渡り、襲撃者は白い闇の中で目を見開く。押し込もうが何をしようが、霊験は硬い岩に阻まれたように微動だにしない。

 

 襲撃者の額に冷や汗が浮かぶ。霊剣の一撃を完全に防ぎきる、それはけっしてあの小ぶりな鉄の剣であるはずがない。完全に囮でしかなかったはずの青年が何故この霊剣の一撃を防げるのか。そんな疑問が襲撃者の頭を過った瞬間、目の前からその答えが返された。

 

「――あててやるよ。何故だって、そう思ってるだろ。何で戦う力も身を守る意思も、なんも無いはずの人間族が、霊剣を完全に抑えきっているのかって」

 

 目の前から聞こえてきたのは、見えない敵の影に怯えて足を竦み上げていた青年の声なんかではない。この期に及んで現状を把握できていない襲撃者に向けて、力強く、そして自信に満ち溢れた、"女性の声"が降りかかる。

 

 その瞬間に襲撃者は理解をさせられた。誘い出されたのは相手ではなく自分である。そしてその自身の目の前には、この場において最も相対してはいけなかった人物が刃を出して向かい合っているのだ。霊剣の向こうから熱気が伝う間際に剣を引いて逃げ出そうとした襲撃者に、もう退路など残されてはいなかった。

 

「ところがどっこい、君が相手をしているのは彼じゃない、ボクだ――さあ、こそこそと隠れてきたその面を、この場でおがませてもらおうか!!」

 

 カタリナの声に呼応して巻き起こる凄まじい熱気と強烈な上昇気流。冷気の漂う空気は瞬時に灼熱の熱風へと変わり、彼らの周囲だけから霧という存在が完全に消え失せる。そして、見る間に消え去っていく霧に混じってその熱波の中心にて風景が乱れた。

 

 まるでその場所にいきなり出現したかのように、人の姿が浮かび上がる。カタリナの鉾槍を不可視の霊剣で受け止めながらも、叩きつけられた熱気に髪や頬を焼かれた人影。熱で縮れた白髪を振り乱し、不可視という絶対的な能力を根本から拭い去られた若い男が目を見開いた。

 

 透明化という能力を無理やりに拭い去られたことでようやく開けた視覚という情報。その眼が捉えた真正面に、黒紅色の髪を揺らして獣のような笑みを浮かべているカタリナがいた。

 

「やあ鼠君。お前が刃を向けたボクこそが、カタリナ・フォン・アストランテだ。それじゃあ紹介しよう。その眼に焼きつけろ、ボクの優秀な副官を――」

 

 彼女の言葉が終わらぬうちに、彼らの後ろから水面を蹴る音が聞こえた。目の前にいたのがあわれな人間族を囮にしたはずのカタリナであるなら、ではその居るはずの青年は何処にいる。猛烈な悪い予感を抱き、始祖族の男はカタリナの霊剣を前にしながらも振り返り、そして息を飲み込んだ。

 

 両手に白い霧の中でも目立つ漆黒の双剣を構え、姿勢を低くして川を突き進む姿。黒剣の切っ先を寸分の狂いなく襲撃者へと向けたその人物こそ、間違いなく囮にされていたはずの青年――ツカサだった。

 

 

* * *

 

 

 殿下が持ち出した提案、それは単純にして奇想天外な代物だった。

 

『敵が透明に紛れるならば、こっちは虚像を使うのさ』

 

 襲撃者は完全に姿をくらますことが出来る、究極の隠密能力を持った存在だ。そしてその能力の代償として、おそらく姿を消している間は己の視界すらも闇に塗りつぶされる。

 

 きっと襲撃者は馬車を取り残してきた川の中洲近くで姿を霧にくらませて潜伏し、こちらの出方をじっとうかがっているはずだ。そしてその最中では、聴覚こそが周囲の様子を知るための方法に違いない。

 

『奴の把握する状況を、現実からずれたものにする。安い猿芝居だろうと、奴の聴覚に虚像を作るには十分すぎる代物だ』

 

 つまり、あえて相手に聞こえるような声でこちらの間違った状況を話し、それにより敵の耳を嘘の世界で塗りつぶすということ。

 

 なんという博打に満ちた作戦だろう。現在の状況が、ただの潜伏上手な暗殺者に相対するものであれば選択肢にも上るはずがない。でも敵が文字通り姿を消すことが出来る始祖族であるからこそ、子供だましの悪巧みは強力な刺客を打破する戦略に成りえる。

 

『……じゃあ始めようか。ボクは陽動でツカサは急襲。ナインは、ツカサの補助を頼んだよ』

 

 

 そうして作戦は開始された。無茶とも言える囮としての任務を言い渡され絶望する人間族の青年と、それを無慈悲に言い放ち意見具申されようと判断を変えることのない始祖族の戦士。そんな取ってつけたような立ち回りを、僕とカタリナ殿下は川のほとりで演じて見せた。

 

 あえて聞こえるほどの声でやり取りを終えたら、震える足取りで僕は川の水を踏みしめる寸前まで歩き、直後にカタリナ殿下と入れ替わる。まさに"恐怖に怯える人間族"のようにわざと乱れた足取りで川を進む殿下を注視しながら、ナインを黒剣として実体化をさせる。

 

 その結果、囮として丸腰で川を歩き続ける哀れな人間の青年と、それを後ろから見つめる始祖族という虚像が出来上がった。その実態はまるで真逆。敵が誘きだされる瞬間を待ち望んで黒紅の鉾槍を構えて中洲へ向かう殿下と、その襲撃が起きた瞬間に駆けつけるべく黒剣を構えて待ち続ける僕。

 

 

 そして予想通り、敵は誘きだされた。必殺の初撃を鉾槍で容易く防がれた上に、お返しとばかりに至近距離から放たれた熱波によって奴の能力を維持していた魔術が霧散する。

 

 霧の世界に浮かび上がる奴の姿。透明化を解除されながらも未だに不可視を維持している霊剣で、カタリナ殿下の鉾槍を受け止める若い男がそこにはいた。敵の位置はこれでもう間違えようもない――機は熟した。

 

 

 

「――それじゃあ紹介しよう。その眼に焼きつけろ、ボクの優秀な副官を」

 

 水底を駆ける足はより速く、敵へ叩きつける剣檄はより正確に。殿下が作り出した好機を決して無駄になどできはしない。あの敵はここで無力化しなければならない。同じ手は、二度とは通用しないのだから。

 

「……人間が始祖族に立ち向かうなど、しゃらくさい真似を!!」

 

 襲撃者が初めてその口を開いた。カタリナ殿下の鉾槍から逃れるようにして身を引いた敵が、とうとう僕と相対する。全身を瞬間的に殿下の炎に包まれて、その身はきっと万全ではないのだろう。それでも、なおも透明化を保ち続ける不可視の霊剣の脅威は変わらない。

 

 全身全霊で打ち倒す。僕が出来ること、そしてやらなければならないことは、それが全てだ。己の足を包み込む魔力の膜が、この体に爆発的な加速を与える。

 

――それがあなたの力。同じ土俵ならば、あなたが負けるわけがない――

 

 がむしゃらで無茶苦茶でも、自分が出来ることの全てを出しきる。例え両手に剣を構えて敵と戦う自分を真の自分と認められなくとも、今だけは生き延びてこの深層の森林を抜けるために信じ込む。僕は、この敵に勝つための能力を持っている。

 

 例えそれが借り物に過ぎなくとも、そんなことはどうでもいい。僕はこの男を倒す、今はただそれだけなのだから。

 

 

 耳の鼓膜が悲鳴をあげた。霧を晴らすかのような、とてつもなく甲高い音。眼前の不可視の霊剣に向けて魔力による身体能力強化をあわせた一撃を叩き込んだ刹那、剣檄の音が辺り一帯を支配した。

 

「な、んだっ……その、剣はっ!?」

 

 敵の動きよりもその先に全身全霊で叩きつけた一撃で敵を封じ込め、直後に男の目付きが驚愕に染まった。この剣は、敵の霊剣に容易く引き裂かれたようなただの武器などではない。少なくとも二人の始祖族に打ち勝ってきた、ナインという不可思議な存在が顕現させたものなのだ。この世の常識で説明の出来ない代物が、この世の理に従わなければならない道理もない。

 

 黒剣を更に不可視の刀身に向けて押し込んだ。男が両手で握りしめる姿の見えない剣に対して、どうすればその実体を脳裏に写すことができるか。答えは簡単だ。その剣の先端までの形を剣檄の中で推し量るのみ。

 

 不可視の霊剣、その切っ先に向けて片方の黒剣を滑らせた。耳障りな軋みが鳴り響き、反撃の機を伺う敵の動きをもう片方の剣でぎりぎり押し止める。剣先までをなぞり終えた、たったのこれだけでその大まかな形状が頭に叩き込まれた。

 

「にん、げん……ッ!! 貴様は、一体何者――」

「そんなこと、僕が知るか。今は自分たちの身を守るために、お前を打ち倒すだけだっ!!」

 

 敵の霊剣、それは剣先に返しもなにもない、本当にただ透明であるだけの長剣だ。その刀身は、敵が構えた直線上にしか存在しない。これならばたとえその刀身が目視を出来なくとも、敵を無力化できる。決して殺すことはなく、そして戦力を確実に奪う箇所だけを切り裂くことが出来るはずだ。

 

――敵の動きは精錬されてはないよ。つまり、視界のある中での戦いになれてはいない――

 

 敵が能力によってその姿を消し去ることができるというのならば、僕は素早さによって己の姿を消し去ってやるまでだ。姿を消して視界外から音も無く奇襲することに特化し過ぎ、互いを目で見て戦うということにすら慣れぬ相手であれば、この僕にだってその眼を欺くのは不可能じゃない。

 

 再び足元に、そして足全体を覆う魔力的な存在へと力を込める。ナインの剣を持つことで発動できる無理やりな魔術は、ヴァローナの街で起きた戦いの最中片足を焼かれたときとは異なり万全のものとして扱える。

 

 

 敵の動きを封じ込めた黒剣から伝わる重さが僅かに軽くなった瞬間、両足へと込めた力を一気に開放する。それは眼前の襲撃者に向けてではなく、まったくの真逆。後方へと飛びのいた直後に、足を止めることはなく更に川底を蹴り出す。

 

 しのぎを削っていた相手が急に身を引いたならば、きっとその動きを追おうと敵は視線を動かすだろう。だけど飛びのいたその先には、すでに僕の姿は無いはずだ。

 

 敵の視界から逃れるために姿勢を限界まで低くして、その直度一気に横へと駆け出す。横の動きだけならばまだしも、加えて縦に大きく動いたならば人間というものはまるで視界から消え失せたかのように錯覚をする。極限まで素早く敵の死角へと動き、そして――

 

「ど、どこへ消え――」

 

 あらぬ方へ向けられた霊剣とこちらを捉えすらしていない視線。その死角から、黒剣を構えて一気に飛び掛かった。狙うは霊剣で隠れてはいない、そして確実に戦う能力を奪い去る体の一部。始祖族の男がこちらをわき目で捉えるよりも早く、霊剣の届かぬ場所から滑り込む黒剣。

 

「――ッ、ア……ァああッ!!」

 

 全力で振るわれた黒剣は、標的を何の抵抗も無く寸断を果たした。目標を穿ち抜き、そして黒剣を振り抜き切ったと同時に響くうめき声。黒い剣の通り道に残される赤いすじが白い霧の中に描かれ、うめき声が掠れた悲鳴へと変化を遂げる。

 

「……あ、あぁ……俺の、腕がぁ!!」

 

 再び上げた視線の先で、その男は霊剣を構えるどころかとてもではないが臨戦態勢からはかけ離れた姿で立ち尽くしている。すでに霊剣はかき消したのだろう。小刻みに震える手で、もう片方の腕をきつく押さえつけている。そしてその腕は肘から先が消えて失せ、代わりにとめどなく鮮血が流れ出していた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

30. 深層の森の伝説

 ついさっきまで霧に紛れてこちらの命をつけ狙っていた始祖族の襲撃者は、もはやこれ以上戦えるとは言い難い有様だ。肘の先から流れ出る血によって姿を消すことも潜伏することも叶わず、それどころか取り落とした腕の先を拾うことも出来ないだろう。その焦燥した始祖族をしり目に、場違いな拍手の音がした。

 

「ツカサ、よくやった。殺さない程度に抵抗が出来ないよう痛めつける。全くもって上出来だ」

 

 一歩引いたところでこの戦いを見つめていたカタリナ殿下は、至極満足げに笑顔を浮かべたまま拍手をしている。腕を切り落とされて血を垂れ流し、そして完全に戦意を喪失した男が顔を上げた先へと、殿下がわざとらしくゆっくりと歩み寄る。

 

 そして男が何かを言おうとして口を開いたその瞬間に、いつの間にか顕現していた殿下の霊剣が血を流し続ける腕の末端へと押し当てられていた。赤熱した刀身は容赦なく肉を焼き、直後に絶叫が響き渡る。あたりに漂う人の肉の焦げる臭い、それに思わず顔を顰めた。

 

「血は止まったか? 話を聞く前に失血死されちゃあ困るからね」

 

 確かに血は止まったのだろう。しかしその拷問染みたやり方は、男の思考を塗りつぶすほどに苦痛を伴ったはずだ。開きかけた口は再びうわごとの様にうめき声を発するのみ。その有様を前にしても殿下は手に鉾槍を顕現させたまま、その切っ先を男の首筋近くに構えた。一歩でも男が不振な動きをすれば、そしてカタリナ殿下の気分が少しでも変われば、彼女の霊剣は容易く首を切り裂きその肉を炎に包み込むことだろう。

 

「じゃあまずは、お前がどこの誰なのかを聞こうか――とは言うものの、お前がどこから来たのかは正直ある程度目安はついている」

 

 肩を震えさせ浅い呼吸を繰り返す男が視線を上げる。その眼に浮かぶのはきっと腕を切り落とされたことによる憎しみや怒りなどではなく、無抵抗な状態でカタリナ・フォン・アストランテを前にしたという恐れの念なのだろう。

 

 そうでも無ければ残った片腕だけで地面へと平伏するわけがない。すでに殿下の顔からは笑顔は消え失せて、感情を推し量ることすらも出来ない冷徹な視線を向け、不格好に水面へ額を付けんばかりに頭を下げる男を見据えていた。

 

「ボクが王都に向け移動しているという情報だけじゃなく、そのルートどころかボクの弱点までもを把握していて、それに姿をくらます能力を持った始祖族となると……アストランテ王国側の人間だ。多分王都近衛隊、その隠密部隊の間諜といったところだろ」

 

 よどみのない口調で殿下が男の所属を予想した。やはり、さっきに言った通り彼女はこの襲撃者がフラントニア帝国ではなく王都の人間であると踏んでいるのだ。それもこれから行くことになる王都の守護を司る、王室直属の精鋭部隊である近衛隊。本来であれば、王族であるカタリナ殿下に決して刃を向けるはずのない存在だ。

 

「……お答えすることは、出来ません」

「いい心がけだ。直接肯定するわけでも無く、その場しのぎの嘘も言わない。ただ――」

 

 黒紅色の刀身が男の肩に触れると共に、苦悶に呻くくぐもった声が響く。軽鎧の上からも伝わる熱は容赦なく男の肩を焼き、そして革の鎧に黒ずんだ焦げ跡を残した。

 

「そう強情だと無駄に苦痛だけが嵩んでいくよ。たとえお前が王国に仕える軍人だろうと知ったことか。利用価値が無いと分かれば、あとは殺すのみだ」

 

 ゾッとするような声色。あれが、僕を副官として迎い入れたカタリナ・フォン・アストランテの軍人としての一面なのだ。殺すという宣言にきっと嘘は無く、膠着状態が続けば彼女は何の感慨も無くその首を刎ねることだろう。

 

――本当、恐ろしい姿。普段は覆い隠しているけど、あの人は冷徹な始祖族に違いは無いんだよ――

 

 どうせ僕にしか聞こえないというのに、それでも小さなナインの声が頭の中に聞こえた。殿下があの男から情報を聞き出すまで、何か予想外のことが起きた時に対処をするためにもナインは黒剣化したままで両手の中に納まっている。僕からすれば彼女も時折見せる冷徹さは中々のものだろうと思うが、それでも人間族と始祖族というある種の定まった壁に比べればいくらかは低いだろう。

 

 

「次の質問に移ろうか。お前の目的は何だ――いや、聞き方が悪いな。お前はボクというある意味では重要な標的が居ながらも、ボクではなく副官を狙い殺そうとした。何故、高々人間族の若者をお前のような間諜が狙った?」

 

 カタリナ殿下の質問の意図は、言われてみればおかしなことだった。この中州にまで逃げのびてきてからというものの、あの男はカタリナ殿下を意図して狙ってはいない。その一方で、明確に僕やナインに対しては攻撃を仕掛けてきた。ハオランを殺害したときから、殿下を僕だと誤認して襲い掛かった時まで、その行動は一貫している。

 

「思い返せば、確かにヴァローナを出る前に王都に向けて飛ばした伝書に副官を任命し王都へ連れていく旨は書いた。反乱の鎮圧に貢献した、興味深い人間たちだとだけ認めたよ。だが、たったのそれだけでお前がリオパーダにまで殺しに赴いてきた理由が分からない」

 

 彼のような間諜が己の一存で対象を襲うわけがない。つまり殿下の伝書に目を通すことが出来た何者かが、この男に命じたのだ。カタリナ・フォン・アストランテの一行の襲撃――いや、僕とナインという存在の抹消を。

 

 

 そして思い出す。僕とナインが港町クアルスで遭遇した一連の事態を。あの町でナインの奪還を試みていたのはアリアスだけではなかった。

 

 月の出る夜の下で、僕はかけがえのない存在の一人であったジャンヌさんと死合いを演じた。ナインを引き渡せと要求した彼女と、それを拒絶した僕。それゆえに僕は高々半年と言えどもあの住み慣れた街を後にして旅に出た。ジャンヌさんが所属するクアルスの衛兵。彼らもまた、ナインという存在を欲した存在である。

 

 そしてまた、このリオパーダという深層の森林においてナインを標的とした刺客が現れたのだ。この少女は、一体どれほどの勢力に追われているのだろうか。アリアスが属していたであろう組織とアストランテ王国が彼女の存在を知り、そして手中に収めようとしている。そしてその隣にいる僕という存在も、始祖族の襲撃者が送り込まれたことから考えて標的となっている可能性は捨てきれない。

 

 カタリナ殿下という強力な存在が味方でいる内に把握をした方が良いはずだ。僕たちが一体誰に、そして何故追われているのかを。自分が陥っている状況を知らない限り、いつまでたっても逃げ出すことなど出来やしないのだから。

 

 

「喋れるうちに吐けよ。誰に言い渡されたんだ?」

「……それは、この口が裂かれようと――ッ」

 

 尚も口を噤もうとする男の口を開かんと、再び殿下の霊剣が振るわれた。狙うは、黒く焼け焦げた彼の肘の近く。一度は止血されたその傷口から骨を抉り出すようにして、鉾槍が残った腕の先を切り裂いた。思わず目と耳を覆いたくなるような凄惨な光景、でもその男が発する言葉はその全てを聞かなければならない。

 

「……わ、たしの……標的は、殿下では……ありません」

 

 再び鮮血を垂らし始めた傷口を抑えた男が、喉の奥から絞り出すようにして言う。掠れたような声の中で、彼は確かに認めた。僕やナインが、今回の襲撃の標的であるということを。切り裂かれそして肉を焼かれるという苦痛に耐えかねて、途切れ途切れの息遣いを繰り返しながらもようやく口を割る気になったのだろうか。

 

「ほぉ、いい子だ。じゃあその仕掛け人を言ってもらおう――」

「――任務は、遂行する。殿下、ご無礼をお許しください」

 

 しかし再び顔を上げた男の目には、確かな意志が宿っていた。その言葉と同時に男の姿が掻き消え、直後に振るわれた殿下の霊剣が何も存在しない空間で弾かれて淡い炎がまき散らされた。闇雲に振るわれる鉾槍の切っ先は、霧を切り裂くばかりで標的に掠ることすらも無い。

 

 驚愕と共に冷や汗が伝う。あの重症の中で、奴は再び透明化を行うだけの魔力を身に纏わせたというのか。深い傷を随所に負ったというのに不可視の霊剣を残った腕に持ち、尚も僕たちをつけ狙おうというのか。

 

 再び視界から完全に消えたその姿は、もう決してこの目で捉えることは出来ない。敵はこの身のすぐ近く、明確な殺意と決死の覚悟を持って霊剣を構えて僕を切り裂こうとしているはずだ。飛び掛かろうと思えば不可能ではない距離を置いたどこかにいる敵を探そうにも、水面の揺れに気を取られれば本命の霊剣による一撃を防ぐことはかなわない。

 

 そんなにして、この僕を殺したいのか。そんなにも、僕の存在が邪魔だというのか。ただ自分の過去を探すためだけにナインの手を取ったこの選択が、命を狙われるほどまでに非難をされなければならないものなのか。

 

 再びこの身にふりかかった理不尽。それに絶望や憤怒を向ける時間すらも僕には与えられない。音を立てれば狙われ、そしてこの場に立ちつくしていたらいい的だ。だからこそ、敵が一歩目を踏み出したその瞬間に逃げれなければ――

 

 

 途轍もない速さで風を切り裂く何者かの気配。それに伴って聞こえる荒い吐息。それを感じ取った瞬間に、思わず振り返った。そして"自分の後方"から近付く、気配どころか足音すらも隠そうとはしない闖入者たちの姿が目に入れる。

 

 白い霧の中に浮かび上がる、濃い灰色の巨体。己の存在を隠し立てする意図など欠片も感じさせぬほどに太い脚が水面を切り裂き、そして咆哮をあげた。無意識のうちに竦み上がるほどの威圧感が発せられ、この中州に残響が伝う。そして気配はその一体だけではなく、その後ろからさらに複数の灰色の姿が露わになった。

 

 その正体は、リオパーダの森にすくうオオカミたち。つい先ほどに僕たちの馬車を襲撃したと思われる群れの一部が、全速力で僕たちに向けて駆けていた。気が付いた時にはもはや手遅れで、その巨体が見せる牙や爪をその眼で捉えながら黒剣を構え――

 

「――なっ――助け――」

 

 その体の横を駆け抜けていったオオカミの巨体が、何もない空間に目掛けてその巨体でもって飛び掛かった。直後に聞こえる襲撃者のうめき声。何かを押さえつけているであろうその姿はまさかという予感を抱かせ、その声はオオカミが巨大な口を開け放ち自身の足元へ噛みついた瞬間に絶叫へと変化を遂げた。

 

 僕は、ただ黒剣を下に下げて放心することしかできなかった。最初の一頭に続いて更なる数のオオカミが殺到し、そして一様に何かを――あの男の体に噛り付いているのだ。否、そんな生易しいものでは無い。オオカミたちの激しい息遣いに上書きされてもはや聞こえなくなった男の声、そしてその口にこびり付いた血の汚れ。ただただ容赦なくあの始祖族の体は巨大なアギトたちにかみ砕かれ、そしてその腹を僅かに満たすだけ。

 

 

「……奴らがアイツに夢中になっている内に行こう。アレはきっと、連中なりの報いなんだ」

 

 今まさに僕の命を奪わんと霊剣を構えて透明化した敵が、呆気なくオオカミたちに食い殺される。たとえ姿は消すことが出来ようと、その腕から滴る血の臭いだけは彼らに対して隠せるはずもない。もはやうめき声すら聞こえはせず、肉を貪る有機的な音がまき散らされるだけだ。

 

 僕たちをこの中州にまで追い込む切っ掛けとなった馬車へ塗りたくられた血液の正体を、ハオランは一つだけ予想をしていた。もしかしたら、あの男は本当に僕たちをオオカミに襲わせるために幼体を殺しその血を擦り付けたのではないだろうか。だからこそ怒り狂ったその群れがナインや殿下がそのうち何頭かを殺害しようともしつこく追いすがり、そしてこうして本当の仕立て人を食い殺しているのかもしれない。

 

 中州の中央に置かれたままの馬車にまでたどり着いた時には、オオカミたちの群れのほとんどが川のほとりから森の中へと消えていた。埋葬をする余裕も無いために御者台に乗せられたままのハオランの遺体を川に流し、そして一頭も欠けることなく無事であった馬たちの手綱を手に取る。まさかハオランの操舵を観察していたことがこうもすぐに役立つとは、何とも皮肉なことだった。

 

 

 

 ただ濃密な霧が満ちる中を馬車で走るだけの道すがらで、僕は手綱を握りながら思い返していた。あの襲撃者が結局誰の命を受けて僕とナインを狙っていたのかも分からず、そしてその襲撃者自体にも逃げられるどころかオオカミたちの腹の中へと収まってしまった。結局詳細は分からず仕舞いだけど、少なくとも何者かが僕たちを狙っているということだけははっきりとした。それもきっと、目的地である王都サンクト・ストルツに居る何者かに。

 

 僕は、今までカタリナ殿下に対して自分に関する詳細を語ってはこなかった。ただ半年以上前の記憶が無いということ以外は、きっとあの人は僕のことはほとんど知らないだろう。僕はそれでも良いと思っていた。いずれ遠くない日、いつか彼女が僕に飽きを抱いたときに呆気なく見放されるのだろうから。

 

 だけど、僕とナインが抱えるこの問題がクアルスに居た頃から続いているのであれば、仮にも雇い主であり主人である殿下に知らせておくのが筋だ。だから話そう、一体クアルスで何があったのか。旧市街の最深部で戦った謎の始祖族のことや、その後の衛兵たちとの間で起きたこと。僕とナインが、一体どういう状況でヴァローナへと逃れてきたのかを。

 

 

 そしてその後リオパーダという深層の森林地帯を突破する後半の道すがらでは、何事も起こることは無かった。

 

 

* * *

 

 

 リオパーダの中央近く、ツカサたちが始祖族の視覚と戦いを繰り広げた中州は、今は完全な静けさに包まれていた。もはやこの場で争うような存在もおらず、残されていた始祖族の遺骸はその全てがオオカミたちによって跡形も無く処理をされていた。

 

 ここには人どころか生き物の姿も見当たらない。それは森に住まう獣たちだけではなく、河に暮らしているはずの魚たちもその姿を見せてはいない。だからこそ、しんしんと水が流れる音や木々の葉擦れだけが僅かに聞こえるのみ。獣は深い森の中へと身を隠し、そして魚は水面の奥深くへと閉じこもる。

 

 まるでこの場にいるすべての生き物が何かの脅威を予感しているかのようにして、その身を目立たせないような場所へと隠していた。だからこその、普段以上の異様な静けさが一帯を包み込んでいた。

 

 

 その最中に、ばさりという微かな音が響いた。それは、決して風によって森の木々が揺れたためなんかではない。たとえ小さなものでも静けさを塗りつぶすには十分過ぎて、それどころか同じような音が繰り返し段々と大きくなっていく。

 

 水面が、そして川辺に張り出した木々が揺れる。白い霧に覆い隠された空から舞い降りる巨大な影が、僅かにしか差し込まない陽の光を遮った。逃げ遅れた獣たちは、もはやその場でただ見つからないようにじっと息を忍ばせる他はない。

 

 二対の屈強な足が川底を踏みしめた直後、その巨体を中心にして一際大きな風が吹きすさぶ。白靄のなかに僅かに浮かび上がる純白の存在が、まるでくつろぐかのように大きな翼を広げた。

 

『――においがする』

 

 真白の体とは対照的な深紅の角が生えた頭を揺らし、その持ち主は周辺を見回した。当然この場にはその巨大な生き物を除いて生き物など存在せず、ここで行われた戦いの痕跡すらも一見すれば残ってはいない。

 

『魔力のにおい……とても懐かしく、そしてきっと危険なにおい』

 

 しかしその嗅覚は、魔力の痕跡を捉えていた。この森に満ち溢れる魔素に紛れて未だに中洲近くへ留まっていた、森の住民以外がここへ残していった確かな痕跡。鋭敏な感覚はそれをかぎ分けて、紅色の瞳が僅かに細められた。

 

『……やっぱり、何かが始まる。人間たちが、何かを始めようとしている』

 

 それだけを言い残した巨大な生き物は、再び翼をはためかせて空へと身を滑らせた。一際大きな風に紛れて魔力の痕跡すらも霧散し、純白の巨体はあっという間に霧の向こう側へと姿を消した。




深層の森林リオパーダ

アストランテ王国を東西に分断する巨大な森林地帯。
生い茂る木々はどれも桁違いに大きく、そして立ち込める霧が視界を遮る。
それだけでなく巨木によって排出される魔素により獣たちが異常に成長し、街道の通過にあたって障害となる。
そのため、毎年春過ぎに王都からの遠征部隊が漸減作戦を行っている。

リオパーダのような深層の森林は大陸西部に数多く存在しており、人々の踏破を頑なに拒んでいる。
森林に飲み込まれて古代文明が滅亡した、森林の最果てに竜が住まう国がある等、伝説には事欠かない。


プリムスの英雄譚

この大陸で広く言い伝えられている、遥か昔の時代に大英雄プリムスが残した伝説。
地域によって多少の差異はあるものの、概ねはプリムスという名前の英雄が人々を救い導いたという内容が伝えられている。

彼は幾多の仲間や竜を率いて世界を滅ぼさんとする魔将たちへと挑み、人々を災厄から救った。
それだけでなく、深層の森林を切り開き、人々に安息の地を与えたという。



いく手を阻む森を抜けたところで三話めは終了です。次は王都で、本格的な戦乱に巻き込まれていきます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話「地を統べる都サンクト・ストルツ 開戦」
31. 古から続く巨大都市


「陛下、城門から報告です。ヴァローナよりカタリナ殿下がお戻りになりました」

 

 曇天の下に広がる庭園で、一人の士官が膝をついていた。

 

 数百年以上もの間アストランテ王国という巨大な国の中枢であり続けた王都サンクト・ストルツ。古の時代から続くと言われるその広大な都は、灰色の雲の下にあろうと旧来から姿を変えない数多くの建造物により厳かな雰囲気を放っていた。

 

 海岸線から内陸に向かうなだらかな丘陵地帯までをその身に納めた王都は、ヴァローナのように全周を堅牢な城壁で街の内外を完全に仕切っていた。古来から続くこの強固な守りこそが、建国以来この王都が決して外敵に攻め込まれることが無かった所以の一つでもある。海路、そして陸路。この都に続く道はいくつかあれど、そのすべては一度城壁に点在する門を通してのみ内部へと入ることができる。

 

 

 そのいくつかある城門の中で王国北東部へと続く街道に立ちふさがる方角を眺め、壮年の男が目を細めた。目の前で膝をつく士官から伝えられた報告、それは彼が待ち望んでいた存在がようやく帰ってきたということだ。

 

「カタリナは壮健か」

「報告では、カタリナ殿下並びに副官二名は異常無しと伺っております」

 

 淀みなく帰ってきた返答を耳に入れた男は、喉を震わせて笑う。まるで慈しむように、そして愉しげに。街を見下ろす庭園の中に、彼のくつくつとした笑い声だけがしばらくの間響いていた。

 

 分厚く空をふさぐ雲は一層暗さを増していき、一滴の雨が額を濡らすと同時に男は士官へと振り返った。ぽつぽつと降り始めた雨が顔や銀色の髪を濡らしはじめようと、決してそれを乱雑に振り払うこともしない。水滴が滴り落ちるしわが刻み込まれた貌、しかしそこには老いというよりも底を見せない深い意志が感じられた。

 

「実に良い日だ。そう思わないか、クーベルト」

「……ええ。カタリナ殿下の到着で、ようやく状況が動きましょう」

 

 雨が降り始めた中で男は口角を吊り上げた。その足はすでに庭園の入り口へと向かい、それに連れだって士官もまた歩き出す。小雨が段々と石造りの地面を激しくたたくようなものへと変化を遂げようと、足取りは乱れることも無く笑顔は決して消えはしない。ようやく待ち望んでいた存在が王都に揃い、思い浮かべているシナリオが始められるのだから。

 

「余の元へ集うよう、各員に通達せよ」

「仰せのままに」

 

 

 庭園と城を繋ぐ回廊で、士官は敬礼をしたまま男を見送った。武人たる硬い表情を崩さずに姿が見えなくなるまで直立をし続けた彼は、ようやくその影が見えなくなったところで疲れたようにため息を吐いた。少しだけばつの悪そうに険しい顔をした彼の元に、回廊の脇に控えていた兵士が歩み寄る。

 

「佐官殿、私どもが手配いたしましょうか」

「……そうだな。カタリナ様以外については諸君らに伝言を任そう」

 

 額を揉みながら、彼は対象となる人物の名前を兵士へと伝えた。今回の話し合いに向けてこの国の各地や軍部から呼び寄せられた重鎮たち、その中にはこの国の王族の名前も当然のように含まれている。それらの名を列挙するうちに、兵士の額に汗がにじんだ。

 

「……承知しました。早急に対応します」

「頼む。それでカタリナ様は……城門を抜けた後、馬車を検問に託してそのまま何処かへ行った。そうだったな?」

 

 彼――ギュンター・クーベルトの表情が優れないのは、決してこの国の重鎮たちを集めるという行為の重責に悩んでいるからなどではない。それはひとえに、召喚しなければならない面々の中の一人、カタリナ・フォン・アストランテの行方が不明である故だ。

 

 普通であれば、王都からの召喚に応じたならばたどり着いたその足でまずはこの宮殿にまで訪れて然るべきだ。しかしそんな常識に必ずしも合致をしないのが、カタリナという存在である。クーベルトは、それを痛いほど理解をしていた。

 

「検問の報告では、伝書に記されていた副官と思わしき二名の若い男女を連れて市街地に向かったとあります。とりつく島も無かったそうで……」

「普通ならばその検問の兵を叱咤すべきなのだろうが、カタリナ様相手ならば大目に見よう」

 

 人員の再配置に伴い防御が手薄になったヴァローナへ特務将官として派遣されたカタリナを急きょ王都へと呼び戻す。それも一日でも速く到着させるために、危険な陸路を指定する。かなりの異例な対応ではあるが、言い換えればそれだけの状況であるということ。だからこそ、速やかに陛下の御前へと連れてこなければならない。

 

 日が沈む前までに、殿下を何とかして見つけ出してこの宮殿へと引きずっても連れてこよう。それが出来るのは現状己しかいない。それが、長年カタリナという人物と関わってきたクーベルトが出した結論だった。

 

「カタリナ様は、私がどうにかしよう。殿下の行きそうなところは、いくつか心当たりがあるからな」

 

 軍衣を翻して回廊を足早に歩き出した彼の表情は、やや苦々しいものだった。

 

 

* * *

 

 

 王都サンクト・ストルツ。アストランテ王国において最大と言われる巨大な都市を一目見た印象は、ともかく大きいしすごく栄えているなといったものだった。街を囲む城壁の堅牢さは城塞都市ヴァローナにも匹敵し、そもそもの広さについては東部の中核であったクアルスが丸ごと入ってもなおもお釣りがあるくらいだ。

 

 街に入る前、それこそ街道から遠目にその姿を捉えた時点で巨大都市の姿は異様に目に映った。縮尺を間違えたかのようなスケール感、それは街中に入ってからもずっと続いていた。

 

 言いたくはないけど、こうして実物を見るとクアルスとは大違いだ。田舎と都、大袈裟かもしれないけどそう言いたくなるほどの差がある。

 

 例えば、僕たちが歩いてきた道の両脇に立ちふさがる建物郡だってそう。ただの雑貨店や宿屋が立ち並ぶこういった繁華街地区は、当然交易が盛んなクアルスにだってあった。でもその屋根の高さや奥行きといった規模が明らかに巨大なのだ。

 

 馬車を検問所に預けてから今まで、ずっと僕の視線は物珍しさに踊らされてあちらこちらへとふらふらしていたことだろう。まるで小さな農村から生まれて初めて街へとやって来た民のようだ。

 

「……ところで殿下、ここで時間を潰してよろしいのですか?」

「ツカサ、今のボクは殿下じゃない。ちょっと良いとこ出の町娘カタリナだ」

 

 ヴァローナを出発し、深層の森林リオパーダで襲撃を受けつつも何とか抜けて、ようやく目的地である王都にたどり着いた僕たちがいるのは、何故か一件の酒場だった。

 

 外観よりも広目の内部に加えて、客の数もかなりのものだ。まだ日も落ちていないというのに酒場のなかはグラスをうちならす音や喧騒で溢れかえっている。ならば客層はどんなものかと注目すれば、荒々しそうな雰囲気をまとわせる屈強な男の人が多数派だ。

 

 そんな如何にもといった大衆酒場において、僕たちは完全に少数派の客だ。そもそもの面子からいって、フードを被ったままの若い女性と大人しそうな少女、そしてそこらの客よりもがたいの細い僕といった荒事とは無縁そうな面々。一番正体が知れたら問題そうな殿下自身が、今は街娘という設定で振舞っているほど。それに机の上の物だってせいぜいが簡素な軽食とパンくらいなもの。酒盛りをしている連中に比べれば随分とおとなしい。

 

「……カタリナさん。僕たちの最終目的地は、宮殿ですよね」

「そうさ。あのデカブツ、城門からでもよく見えやがる」

 

 街全体が小高い丘のようになっているため、その頂に広がるこの国の施政の地である宮殿の姿は街に入った瞬間からかなり目についてはいた。だからこそ、そこにたどり着かず酒場に迷い込んだなんてわけはないのだ。そもそも殿下自身が第三王女という肩書きなのだから、迷うはずも無いのだけど。

 

 カタリナ殿下は酒場の内部を興味深そうに観察しており、ナインも時折周囲を見回したりふと僕の方をじっと眺めて二三雑談を交わしたり。つまり、この状況に違和感と居心地の悪さを感じているのは僕だけということになる。

 

 

 現状の僕たちは旅や商売でここまでやって来たのではなく、急な用により王都に召喚された状態だ。それにその途中で王国の息がかかった暗殺者により襲撃を受けるという事態にまで見舞われた。だから、こんなところで時間を潰すほどの余裕は本来無いはずである。

 

 しかし上官であるカタリナ殿下がそうなのだから、現状彼女の副官でしかない僕はその意向に従うまでだ。ただ、少なくとも意見の具申くらいはする。

 

「ならば、宮殿まで急いだ方が――」

「伝令には明日までに到着しろと書かれてた。つまりその伝令に従うならば、今日中に行かなきゃならないわけじゃない」

 

 しかし返ってきたのは、にべもない怪しげな理論のような何かだ。きっとこういうものを屁理屈って言うんだ。

 

 

 一応、理由も何もなくこんなところにいるわけではない。わざわざ酒場に入ってこうして周囲を観察しているのは、殿下曰く市井に流れる情報の収集のためである。

 

 周辺の席で酒を飲む屈強な男たちは、どうやらその大半が傭兵を生業としている人々であるらしい。そんな客が集うこの場所も、そんじょそこらの普通の酒場というわけではない。ここは、仕事の斡旋場も兼ねた傭兵ギルドの受付本部であるとか。

 

「ここはヴァローナとは違って傭兵専門のギルドが存在する。正規兵と傭兵の区分けがしっかりとされている証拠さ」

 

 たったの数日間だけとはいえ、僕はヴァローナの街で傭兵と接する場所で働いていたから分かる。ヴァローナでは商工会が傭兵のあっせん事業までを担っていたが、王都では独立したまとめ役というものが存在するらしい。

 

 確かに年がら年中傭兵部隊という物が組織されて正規兵と傭兵が事実上殆ど同じ立ち位置にいたあの街と比べたら、王都のように独自の軍が精鋭部隊として組織されているような環境では傭兵に関する価値観も大分違うのだろう。

 

「眺めているだけでも得られる情報は多いよ。ここには随分と腕前の良いであろう連中が集まっている」

「……そんなことも分かるんですか?」

 

 果たして、そんなこと僕にとってはさっぱりだ。確かに屈強でガタイの強そうな人々がそろっていることに間違いはない。でもそれはヴァローナの街だって同じことだ。何なら、彼女と会ったその日にカタリナ殿下が罵詈雑言を吐き捨てた傭兵の人々とパッと見でそう変わるようなものには感じられない。

 

「さてどうかな。ナインは分かるかい?」

「品行。私たちのような非戦闘員のような見た目の一団がいても、遠巻きに見ることはあっても絡んではこない。この時点で、ここにいる集団は最低限の統率は取れていることが分かる」

 

 一方のナインは即答だった。確かに彼女の言う通り僕たちがこの机についてから今まで絡まれてはこなかったが、それが彼らの品行の良さというものにまで頭は行き着かなかった。確かに言われてみればその通りであるが、やはりどうにもそっちの方向に関しては彼女たちほどには頭が回らない。

 

 しかし傍から見れば僕たちは非戦闘員の集団なのか。その実態は、この王国の第三王女にして戦姫とまで言われる苛烈な戦士、儚げな見た目とは裏腹に敵兵を容赦なくナイフで屠る少女。そんでもって自分で言うのもなんだけど、完全な自力ではなくとも始祖族を二名葬った始祖殺し。もし僕が完全な第三者で尚且つその実態を把握していれば、何も言わずに遠ざかるような顔ぶれである。

 

「正解だ。実戦での力はどうであれ、兵としての統率は問題無いだろう。そして言い換えるなら、それだけの人員をここに集めるだけの事態をギルドが想定しているってことさ」

 

 傭兵が必要になる事態、つまり正規兵だけでは対処ができないほどの戦乱。どこか含み笑いを浮かべてこちらを見つめる殿下が考えていることは、王都にたどり着くまでの道すがらで話し合ったことから考えて何となく察することはできる。

 

 

 リオパーダを抜けた日の夜、僕は自分とナインのことをカタリナ殿下へと包み隠さず伝えた。ナインと僕が出会った切っ掛けのスターランテ号海難事故、その仕掛け人であるアリアスや衛兵たちとの闘い、そしてナインがいくつかの勢力に追われているということも、全てを話したのだ。

 

 その全てを聞いて殿下は一つの考えを口にした。ナインをつけ狙う勢力は二つに大別される。一つは、リオパーダで襲撃してきた始祖族の男やクアルスの衛兵団が関与している、アストランテ王国に関係する勢力。そしてもうひとつ目はアリアスが属していたであろう、おそらくフラントニア帝国に関与する組織。

 

 クアルスで平穏な日々を過ごしてきた僕には知る由も無かったが、ここ最近アストランテ王国の各地で不審な事件が多発しているという。そしてその大半が、フラントニア帝国の工作員が関与している疑いがあるらしい。今までは事件そのものが小規模だったが次第に激化し、クアルスの事件やヴァローナでの武装蜂起はその極致だという。思い返せば、ヴァローナで対峙した始祖族の戦士は、自身のことをフラントニア帝国の軍人だと名乗りを上げていた。

 

「最近になって激化する帝国の工作活動、急すぎる王都への呼び出し、そして極めつけは傭兵の増強。繋ぎ合わせて見ると、王国が何を考えているのか何となく予想はつくだろう」

 

 そこまで言われたら、殿下の言わんとしていることは誰だって分かるはずだ。対フラントニアに向けた急激な軍備。傭兵を動員するだけではなく、将官級のカタリナ殿下までもが呼び出されると来れば、もしかしたらただの予備的な対抗措置には済まないかもしれない。

 

 頭の中に、戦争という二文字が過る。今までたったの半年程度とはいえ戦乱とは無縁の環境で平和に暮らしていた身からすれば、戦争というものは対岸の火事よりも身近ではないものだった。だからこそ、今は真逆にその戦の可能性が燻る中心に向かいつつある現状が、実感として認識するのが難しい。経緯はどうであれ、カタリナ殿下の副官となったからには覚悟を決めなくてはならないのは分かっている。それでも、僕の頭の中にある一市民としての価値観はそう簡単に消えるものじゃあない。

 

 

 

「しっかし、ここの酒場に君らの痕跡が無いとはねぇ。ナインの髪の色なんて、相当目立つような代物なのに受付全員が知らんと来たか」

 

 来る嵐の予感に額に皺を寄せていると、殿下がシミジミとした口調でそんなことを言った。その内容は、僕たちが追うもう一つの謎であり僕にとってみれば現状における最終目標である、ツカサという人間の正体についてだ。

 

 情報収集と言った通り、カタリナ殿下は傭兵を眺めるだけじゃなく食事を注文する前にいくらか受付の人間と言葉を交わしていた。その最中で彼女はギルドの受付に僕やナインの姿に見覚えが無いかをそれとなく聞いていたのだ。

 

 僕はともかく、ナインの薄桃色の髪の毛はそうそう他にいやしない特徴だ。過去の自分が彼女と行動を共にしていたのならば、ナインの足取りを追えば僕にも繋がるであろうという戦略は、受付担当の知らぬ存ぜぬという一言で即座に潰えてしまった。

 

「ナインはツカサの過去を知っているんだろ? こう答えを知っている人間がすぐ近くにいるのにそ謎解きを続けるのは不思議な感覚だ。ああ、答えは言わなくていい。困難な問いの答えを探すのは暇つぶしには十分過ぎるからね」

「……これは、ツカサ自身が答えを見つけるのが重要。私は、答えは言えなくともそれを探すことへの協力は惜しまない」

 

 ナインがヴァローナで僕に縁があったという遺跡に案内してくれた時に、カタリナ殿下は一つの可能性を口にした。それは、僕やナインが傭兵稼業として各地を渡り歩いていたということ。ならばヴァローナに次いで傭兵が活発に活動しているであろう王都ならば、更なる手がかりがあるに違いない。その狙いは初日にして頓挫をした形だ。

 

 ナインの言う通り己の過去を知るという行為は、自分の手で探すからこそ価値があるといって過言ではない。それこそが今の自分を突き動かす意志の原点なのだから、そこばっかりは曲げるつもりもない。でもいくら何でも手がかりが無さ過ぎるとなれば、やはりナインにまたヒントを与えて貰わなければ前に進む切っ掛けすらも怪しいのが現状である。

 

 

「んじゃ食事も終わらせたことだしそろそろ行こうか。この酒場以外にも、ツカサに関する痕跡がありそうな場所はきっと――」

 

 立ち上がって次は何処に行こうかと言いだそうとした殿下の動きが、不自然に止まった。こちらもつられて、空になった食器をまとめる手を止めてしまう。楽しげだった表情はいつの間にかやや険しいものへと変化し、剣呑な目つきは酒場の一点を見据えている。

 

 ナインと顔を見合わせ、どちらもが首を傾げあう。周辺の傭兵や客たちに何か不審な動きがあったわけでは無いし、ナイン自身も心当たりがないといった様子だ。ならば殿下の視線の方向に何か怪しいものがあるかというと――そこには酒場に出入りする客に混じって、背の高い一人の男が立ち止まりこちらに顔を向けていた。

 

「……チッ。面倒な奴に見つかったな」

 

 その面倒な人というのは、きっと彼に違いないだろう。というか、それ以外に考えられない。なんたってこちらにまっすぐと視線を向けたまま大股で歩み寄り、その上カタリナ殿下に勝るとも劣らない非常に険しい表情を浮かべているのだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

32. 王女と騎士

「一介の町娘に何の用だよ、クーベルト卿」

 

 頭や肩口を雨で濡らしたその壮年の男は、どうやら殿下と関係がある人物であるみたいだ。彼が一歩ずつこちらに近付くと同時に、その周辺の喧騒が鳴り止んでいく。周辺の傭兵たちとは対照的に軍衣を身にまとい、そして街中だというのに腰元へ目立つように剣を差した姿。それは明らかに、この酒場においては異質な様相だった。

 

 クーベルト、そう殿下が呼んだ彼の表情は、控えめにいっても機嫌が良さそうには見えない。細められたまぶたの奥から、殿下に向けて鋭い視線が向けられている。そして対するカタリナ殿下自身が、どうみてもそこらの町娘とは思えぬほどに肝が据わった態度で彼を待ち受けていた。

 

「お言葉ですが、ただの町娘達が貴女様のような力を持っていれば、この城下町は向こう千年難攻不落の聖域となるでしょう」

 

 そして彼は間違いなく座ったまま剣呑さを身に帯びた自称ただの町娘であるフードの人物を、この国の第三王女カタリナ・フォン・アストランテと認識している。だからといって彼もまた始祖族なのかと言われれば、特段尖りもしていない耳のかたちからして間違いなく人間族だ。その格好や知識から考えて、このクーベルトという男の正体がおぼろげながらに掴めてきた。

 

 この都には、近衛隊と呼ばれるアストランテ王国軍の中で最強と名高い精鋭部隊が存在している。実物は未だかつて見たこともなく、噂話の中でそんな強力な兵隊たちがいると聞いたことしかない。そしておそらく、目の前のこの男はその近衛隊の一員だという確信があった。

 

「質問に答えろよ。何の用があって、こんな傭兵の酒場にまで足を伸ばしてきたんだ」

「お戯れを。私が王都に到着された殿下を探す理由など、一つしかございません」

 

 ギルドの受け付けという傭兵にとっては実質的な縄張りの中心にいる異物を前にして、彼ら傭兵達はそれを排斥するどころか遠巻きに眺めるだけ。いつの間にか酒場の喧騒は鳴りを潜め、二人の会話は決してうるさくないにもかかわらずいやに目立って聞こえていた。

 

 傭兵たちの様子から考えて、クーベルトが城門の兵士のようなただの正規兵であるわけがない。近衛隊、それもかなりの地位にいるような将校なのではないだろうか。

 

「カタリナ殿下、至急宮殿へとお向かいください。陛下がお待ちです」

 

 彼がその名前を口にした直後、わずかな間だけ喧騒に再び火が灯った。王都から遠く離れたヴァローナでさえ、殿下の名前と偉業は兵と名のつく人全てが知っているようなものだった。ならばこの城下町であれば、もはや知らないはずがない。

 

 それらをただうるさそうに一瞥した彼女が、もはや隠す意味も無いとばかりに頭を隠していたフードを乱雑に取り払う。露になる黒紅色の髪と始祖族であることを主張する尖った耳。再び静まり返る周囲を尻目に、カタリナ殿下の視線は鋭さを増した。

 

「……ふぅん。もうすぐ日が沈むというのに、そんな時間から御前会議か。確かに各地に散らばった面々を呼び寄せる事態は急ぎの用だということは知っている――」

 

 音も無く立ち上がった殿下が彼の前に並び立つ。いつの間にか、この酒場は二人が放つ威圧感に押されて静まりかえっていた。傭兵の集うはずの場所に放り込まれた異物、そのすぐとなりで僕はただ黙って推移を眺める他はない。

 

「だがボクは反対だ。指定された時間は明日のはずだ。この時間から急く必要は無いだろう」

「これは私などではなく陛下のご意志です。ご理解頂きたい」

 

 すぐとなりから聞こえるカタリナ殿下の寒気がするほどに冷たい声に、クーベルトという男は一歩も引かずに言葉を返す。将官どころか王族たる存在にここまで立ち向かうあたり、やはり彼は近衛隊のただの兵であるわけがない。

 

「クーベルト、まさかボクがただ予定の時間前だからと駄々を捏ねているだけと思ってはないだろうな。この中途半端な時間から御前会議をやったところで、規定路線の話を聞くだけの中途半端なものにしかならない。ボクは、そんなことを望んじゃいないんだよ」

 

 嘲るように口の端を上げる彼女とは対照的に、クーベルトの顔は微動だもしない。それがまた、彼の放つ不気味さに拍車をかける。

 

 御前会議、それは言葉の通りこのアストランテ王国を収める国王の前で行われる重鎮たちの話し合いだ。ヴァローナにまで派遣されていた殿下を呼び戻した理由など、それが行われるからに違いないとカタリナ殿下自身が断言をしていた。そんな重要な場において彼女がやろうと企てていることは、ひとつだけ心当たりがある。

 

「この王都のどこかに、このボクに対して害意を企てている者がいる。それもそこらの有象無象じゃなくて、ある程度の力を持った輩だ」

 

 そこにきて、初めてクーベルトの表情に変化が見られた。僅かにまぶたが見開き、きっと少なからずとも驚きを感じているのだ。

 

 殿下がこの王都に向けた伝書の内容を知り得て、なおかつ刺客として始祖族の戦士を差し向けられるほどの存在。疑わしいのは要人を付け狙うような小悪党などではなく、もしかしたら御前会議に参加をするほどの立場の存在だ。だからこそ、きっと殿下は一歩も引きやしない。

 

「刺客に背中を向けながら戦えなど、冗談にすらならない。だからボクは譲れないよ。この夕暮れ時から御前会議を開いてみろ。色狂いに傲慢、会議そのものはまだしもボクの話をあの連中がまともに聞くかよ」

 

 彼女の口から飛び出した貶めるような言葉が一体誰に向けたものなのかは僕が知る由もない。しかし彼女の表情はたしかにその誰かへの侮蔑を浮かべて、嘲るように口角をあげていた。

 

 殿下の言わんとしていることをまとめると、こんな日が沈みかけの時間からではなく、明日に時間的な余裕をもって話し合いに臨みたいということだろう。多分に穏健的な脚色をしているけど、ただのわがままではないというのは事実だ。

 

「……そうならば、なおさら早急に向かうべきです。殿下の身を狙う者の存在は、すぐに陛下へお伝えするべき――」

「――ボクはあの伝書を知り得た全員を疑ってるんだ。たとえ誰が相手であろうと、そこに例外はない」

 

 

 その言葉に目を見開いたのはクーベルトだけじゃない。ざっと見回した限りの傭兵達どころか、副官という地位に身を置いた僕でさえも驚きを隠せないでいた。それはつまり、この国を治める王でさえも疑いを向ける対象であるということ。たとえ明言を避けたとは言えども紛れもない背信発言だ。

 

 対照的に表情を欠片も崩さない殿下からは、言い表しようのない異様さが漂っていた。この人と初めて顔をあわせたその時から、自身の知る始祖族という規範にとらわれない存在として記憶に刻み込まれた。しかしその第一印象さえも、殿下の全容を知るには不足をしていたらしい。こんな衆人環視において王への疑念を口にするなど、一市民の僕から見ても普通とは言い難い。

 

「……殿下、いたずらに立場を悪くするような発言は控えたほうが……」

「黙れよ。余計な口出しはするな。これはボクが決める問題だ」

 

 思わず口をついた言葉も、彼女はいとも容易く遮った。向けられたのはまるで人が違うかのようなゾッとするほどの鋭い視線。人間族の僕やナインと気さくに言葉をかわしている時のそれとはほど遠い、立場の違いを隠そうともしない始祖族のそれだ。

 

「……なんだよ。ツカサだけじゃなくてナイン、君もボクに異を唱えるのか?」

 

 しかし横で推移を伺っていたナインは、それでも尚険しい視線を殿下に向けていた。釘を指すような言葉にもまるで怯んだ様子はなく、それどころか殿下とは対照的に感情を見せない冷徹な雰囲気を醸し出している。

 

「私とツカサは数日前までただの庶民に過ぎなかった。だから殿下の発言の如何についてはおそらく理解が及ばない。しかし少なくとも、あなたが今冷静さを欠いていることはわかる」

「……あまり調子に乗るなよ。いくら庶民だろうと、言って良いことと悪いことの分別くらいはあるだろう。まさかボクの身分を忘れたとでも言うのか?」

 

 明確な剣呑としたプレッシャーが両者から放たれる。それは先ほど殿下が国王への疑念を呈して生まれた雰囲気を飲み込んで、周囲の空気が重くなったような錯覚すらも感じさせる。

 

 元々が苛烈な性格であると知ってはいた殿下の様子は元より、物静かな性格だと思っていたナインの変貌に目を見張る。今や一歩たりとも引く姿勢を見せず、それどころか宥めようとする僕を手で制するほど。

 

「私は、この主張を変える気は一切無い。それでも尚考えを変えないというのならば……外の雨にうたれてでも頭を冷やすべき」

「……よくもまぁ、そこまで言い切ったものだ。良いだろう、教育してやるよ。即刻外へ出ろ」

 

 彼女が机に押しあてた手から紅炎が舞い上がる。教育、それが言葉通りの意味であるなどとは到底思えない。ただの人間が束になってかかっても勝ち目がない苛烈な始祖族の戦士であるこの人のたがが外れたら、僕たちに命の保証はない。それだというのに、ナインは殿下につられて席を立った。

 

「な、ナインが出過ぎた真似をしてしまい――」

「――ツカサ、ここは私に任せて」

 

「カタリナ殿下!! たとえ無礼が過ぎようと、ここで手を下すのはっ」

「彼らは仮にもボクの副官とした存在だ。その処断にとやかく口を出されるいわれは無い」

 

 根拠など無いにもかかわらず任せろと言うナインに押され、そしてクーベルトもまた殿下を止めることなど到底叶わず。気が付けば僕はナインに腕を引かれて酒場の出口へと大股で向かっていた。出口までの空間を遮る者は一人とてなく、一瞬のどよめきは殿下が後ろを振り返った途端に立ち消えた。

 

 寸分の迷いなく殿下に続いて、ナインは僕の手を引いて出口へと歩く。それが一体どのようなことを意味しているのかを分からないはずもないのに、気が付けば周囲は湿った雨のにおいで満たされていた。酒場のなかからは何人かの視線だけが向けられている。こんなことに誰も巻き込まれたくなんてないはずで、当然の判断だ。

 

 

 小雨が頭を濡らすなか、酒場の前の小さなスペースで殿下がこちらを向いた。ナインがあそこまで焚き付けてしまった以上、もはや後戻りは出来ない。それでも尚一抹の希望にかけて地面に手を付けようとした瞬間に、カタリナ殿下の表情が変化していた――冷徹で激情な無表情から、憤怒どころか満面の笑みへと。

 

 そして直後に、あろうことか彼女は僕たちに背中を向けて全力で走り出した。

 

「ナイン、良くやった。さっさと逃げるよ」

 

 先ほどまでの殺気は何処へやら、酒場に背中を向けて日が暮れていく大通りへと彼女が駆け出し、ナインもまた僕の手を掴んだままそれに続いた。何がどうして、あの私刑一歩手前の状況から集団逃亡へと変化したのか。唯一僕だけが、この状況を理解できてはいなかった。

 

「殿下、いったいこれはっ」

「……もしかしてツカサは気が付いていないのかな? あそこから離れるために、ナインが一芝居うってくれたのさ」

 

 その一言に、大通りを駆け抜けながらも思わずあんぐりと口を開けてしまう。つまりあの険悪だった雰囲気は全てが作り物で、その立役者が今僕の手を引いているこの少女だというのか。

 

 肝心の彼女はどこ吹く風とばかりに表情ひとつ変えずにいる。あの空間で、一人だけ本気で殿下の制裁に覚悟を決めようとしていたのが、まるで馬鹿らしい。これもまた、僕自身がカタリナ殿下の人となりを掴めていないからだろうか。

 

「配下への制裁に見せ掛けでもしなきゃ、アイツからは逃げ切れないよ。クーベルトも、伊達に人間の身で上級佐官をやっちゃいない」

 

 人々をかき分けた先に見えた小さな路地の入り口、人けが途端に薄れる空間を仕切る壁に手をついた。戦姫ともうたわれるカタリナ殿下がそうとまで断言するほどの存在とは、果たしてあのクーベルトという武人は想像もつかない実力者なのだろう。

 

 そんな人と対峙し、しかも不意をついて逃げ出した。今更になって、とんでもないことを仕出かしたのかと身震いが沸き起こる。

 

「本当に、彼に着いていかなくとも良かったのですか?」

「さっきも言った通りさ。元々の予定は明日だし、きちんと朝から余裕をもって話したい。それに前もって相談した相手が悪の親玉なんて笑えないだろ。みんなひっくるめての、明日の朝に行きましょうってことさ」

 

 再び言外に、この国の王だろうが誰だろうと疑念は消さないと彼女は言い含めた。だがふとした違和感が頭をよぎる。誰も信用はしないと言うわりには、殿下はその理由をクーベルトには普通に話していた。彼が何かを企てるほとの地位にいるかは分からないけども、あっさりと内容を知らせるには疑問も残る。

 

 

 

「彼は信用しても大丈夫なのですか」

「……しまった、無意識でアイツを疑うのを忘れてた。与えられた権限から言って、上級佐官の地位にいる奴も完全な白じゃない。ただまぁ、本音を言えばアイツは無いと思いたいね。なんたって――」

 

 その瞬間、体が後ろへと思い切り引っ張られた。同時に目の前を通りすぎる、まるで黒い暴風。中途半端なところで区切られた言葉、それを上書きするかのような風の過ぎ去る音。それがなんなのかを理解するよりも先に、しのぎを削る耳障りな響きが聞こえた。

 

「……なんの、真似だッ、クーベルト!!」

 

 瞬きをした先にいたのはつむじ風などではなかった。カタリナ殿下が咄嗟に構えた鉾槍と剣を重ねた、日暮の路地裏に溶け込む軍衣を纏った男。気配ひとつなくこの場へと現れたクーベルトの姿が、そこにはあった。

 

 一瞬の間をおいて、助けなきゃと不釣り合いな思考を浮かべた僕の体が再び後ろから引かれた。ただ無言で首をふるナイン、それが意味することは――

 

「勅令につき、貴女を拘束します。ご覚悟を――」

 

 再び聞こえたのは、剣檄の音ではなく人体を殴打する鈍い音。振り抜かれた足は殿下の腹部を捉え、巨大な鉾槍ごとその体は吹き飛ばされて壁へと叩きつけられた。顕現していた霊剣が霧散し、糸が切れた人形のように殿下が地面へと投げ出される。その呆気ない結末に、目を見開く。

 

 異常、ただその言葉しか出てこない。完全な不意討ちとはいえども、ろくに反抗する間もなくカタリナ殿下がやられたというのか。始祖族の戦士として名を馳せて相当の戦力を誇っていたはずの、あの殿下が。

 

 ただ地面に投げ出されてピクリとも動かない彼女を一瞥したクーベルトが、まるで次の獲物を見つめるようにして視線をよこす。その瞬間に、僕はほぼ無意識の中で姿勢を低く構えていた、

 

「……あなたが、カタリナ殿下と僕たちに刺客を向けた黒幕ですか」

 

 示しあわせたわけでもなく、ナインもまた投てきナイフを構えてクーベルトの様子を伺っていた。あれは小手先の戦いかたでどうにかなる相手じゃない。それどころか、仮にナインを黒剣として顕現させたところでどうにかなるかも怪しい。

 

 でも最悪なのは、ただ背中を向けて逃げ出すと言うこと。足場が無いために屋根に駆け上がることはまず不可能。そして路地の中に入ってしまった以上、人混みに紛れる前に追い付かれるのは目に見えている。

 

「君たちはカタリナ殿下の副官、それで間違いないか?」

「こちらの質問に答えろ。お前が刺客を差し向けたのか。何故私たちを狙う」

 

 警戒心と殺気が込められたナインの声が響こうと、クーベルトは表情を変えることなく淡々とした視線をこちらに向けていた。

 

 一撃とは言えどもカタリナ殿下の霊剣とやりあった剣へと目をやる。光沢の無い、この暗い路地裏と同化したかのような異様な見た目。その剣をあろうことか鞘にしまい、クーベルトが言葉を発した。戦う意志が無いのか、それとも剣すらも要らないと言うのか。しかしたとえどちらであっても、警戒が消えるわけがない。

 

 本当にこの男が刺客を差し向けたのならば――僕たちの命すらも狙っていると言うのならば、もはや一刻の猶予もない。何かの行動を起こそうとした瞬間をねらい、この場を離脱するしかない。しかし路地の奥へはこの男が立ちふさがり、大通りに行くには追い付かれる。そして上に逃げることも敵わない。ならば、たとえ勝ち目など欠片もなくとも僅かな隙を作るがために挑むしかない。

 

 伸ばされたナインの手を掴む。あの異常な敵に挑むのならば、こちらも最善の刃を手に取るしかない。逆の手に握りしめた片割れの剣は撒き餌さにして、ナインを黒剣とする他は――

 

 

「君らをどうこうするつもりは無い。それに俺はその刺客などとは関係ない。信じるかどうかは君たち次第だがな」

 

 張りつめていたはずの緊張感は、向こうの側から無理矢理に霧散をさせられた。臨戦態勢で構えるこちらとは対照的に、淡々とした話口のまま背中を向けたクーベルトは、地面に倒れたまま動かないカタリナ殿下へと手を伸ばした。

 

「まさか本当に殿下が副官を得たとはな。それもヴァローナでのたったの数日間での出来事とは、どんな心境の変化があったのか想像もつかん」

 

 ぐったりと気絶をしたままの殿下を両腕に抱えて振り返ったクーベルトの姿は、確かに僕たちへ更に害意を及ぼそうと考えているようには到底見えない。しかし、ならば何故この人はついさっき僕たちを急襲したのか――ふと、一つの可能性が頭に浮かび上がる。

 

「……ならば、僕たちを――いや、殿下を攻撃したのは」

「先程も言った通りだ。こうでもしなければ殿下を捉えることは叶わん。このお方には御前会議に参加をしてもらわなければならない。他の重鎮に召集をかけてしまった以上、たとえ殿下であろうとその一存で明日には移せまい」

 

 完全に想像した通りじゃないか。その言葉を聞いて、思わず深いため息が口をついた。この人の言うことを完全に信じるのは危険かもしれないけど、それ以上にカタリナ殿下の体を大事そうに抱えた人物を前にして臨戦態勢を続けるのも馬鹿らしい。

 

 未だに何か動きがあればすぐさまナイフを投げつけんとばかりに警戒心を露にするナインの肩に手をおく。すくなくとも、今この瞬間にクーベルトは僕たちには危害を与えることはないだろう。それさえわかれば、とりあえずは十分だ。

 

「副官という立場ならば、君たちもまた殿下に付き添い御前会議の場に赴くことも可能だ。ただ付いてくるかは好きにしろ――と言いたいところだが、殿下が目覚めた時に君たちがいないとひと悶着がありそうだな」

「……ぜひ、同伴させてもらえます」

 

 仮にも副官を拝命したという立場上、仕えるべき存在を放置したまま立ち去るのはいただけない。それに、その御前会議という場において、もしかしたら僕たちをつけ狙う存在の一端が知れるかもしれない。結局僅かな間の思考でたどり着いた結論は、彼の後について行こうというものだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

33. 御前会議

「……結局来ちゃったか」

 

 呟くような小さい声を耳が捉えた。それを発したのは、この広い円卓の間で僕たちの目の前で腰を下ろしている人物だ。声色こそは一見して淡々とした感じであるカタリナ殿下ではあるけども、つい少し前の様子を思い出せばよくもまあここまで落ち着いてくれたものだと胸をなでおろす。

 

 

 クーベルトと共に王都の中央にそびえる宮殿に向かったのはつい先ほどの話だ。小雨の降り止んだ日暮れの曇天の下で、女性を抱き抱えた大柄な男とその後をほとんど無言で着いて歩く若者二人。後者はともかく前者の絵面は強烈だったようで、行き向かう人々の視線が時折向けられていた。彼が近衛隊だと主張する格好でもなかったら、きっと宮殿にいくよりも前に兵の詰所に寄り道していたかもしれない。

 

 宮殿に近付くにつれて活気は静かなものへとなり、周辺の建物もどことなく厳かさを増していく。このまま敷地のなかまで入れば安泰なのだろう、そう思った矢先にカタリナ殿下が目を覚ましたのだ。

 

『はなせ!! かっ捌いてやる!!』

 

 人通りの多い商業地区だったならば、間違いなく物議をかもしたであろう物言い。優雅や気品とはかけ離れた殺気だった様子は王族どころか始祖族とすらも思えなかったほどだ。

 

 放せば本当に霊剣を顕現させてクーベルトに叩きつけていたであろう彼女は、三人でかわるがわる事情を説明することで何とか手負いの獣のごとき警戒心をしまってくれた。クーベルトが淡々と、ナインが無感情で、そして僕が宥めることを最優先にかいつまみ。そうこうしてるうちに気がついたら宮殿の土地に足を踏み入れていたのだから、かなり気を使っていたのだろう。

 

 

 宮殿とはいわば聖域である。一介の市民はその門の先にはそうそう入れず、堅牢な城壁で囲われたサンクト・ストルツの中で更に厳重な警備が敷かれている。王都から遠く離れたクアルスに住んでいた頃は、まさか自分がここに訪れることになるとは欠片も想像してはいなかった。

 

 巨大な建物に入るや否や視界に飛び込む異様に大きい広間はおろか、特別な許可を得た者や一部の高位の軍人でもなければ立ち入りなど到底出来ないその奥に向けて歩みを進める。遥か頭上に見える絢爛な絵が描かれた天井や色とりどりの硝子で飾られた大窓など、目に見えるすべての代物が自身のような存在が場違いであるとありありと伝えてくる。おそらく御前会議が行われるであろう円卓の間にたどり着くまで、緊張のあまり生きた心地がしなかった。

 

 

 

「この己が先に席へ着き貴様は四半刻も遅れるなど、いつの間に偉くなったものだなぁ、カタリナよ」

「遅れたことは謝る。だがここは王の下、机に着く全てのものが平等足る円卓の間だ。位の高低を論ずる場じゃない」

 

 現状でひどく胃が痛いのは、場違いさを自覚し緊張のあまり引き起こされたというだけではない。視界に映っているのは、深みのある赤色に塗られた円卓の姿だ。僕とナインは、円卓に着いたカタリナ殿下の後ろで立ち控えている。王族の副官という立場の者は御前会議という高貴な場に入れる特異な立ち位置であるが、席は当然用意されているわけもなく、こうして己が仕える存在の後ろで淡々と立ち続けるのだ。

 

 ただ立っているだけならば別にいい。問題は、目の前に座る上官が向かいの方から投げつけられた喧嘩へ盛大に乗ってしまったこと。嘲るような雰囲気をもって殿下に言葉を投げたのは、カタリナ殿下と同じく紅色の机に着いている美丈夫だ。

 

 その座っている位置しかり、そもそもカタリナ殿下への言葉遣いもしかり、どう考えてもあの人は殿下と同じ王族に違いない。そして投げ返された喧嘩の火種を受けながらも、激昂よりもむしろ嘲りの笑みを深めるその様子から考えて、どうみても良好な間柄には見えないのだ。

 

「この己を前にしてその言い種、度胸だけは半人前から脱したな。だが相も変わらず身の程は知らんときたか」

「何度も言わせるなよ。同じ円卓に腰を下ろす相手に身の程を知れなんてナンセンスだ。たとえ最も王座に近い兄上だろうとそれは変わらない」

 

 現国王の子息達の中で頂点に位置する存在、それはつまり第一王子ということになるのだろうか。そんな高貴な存在に対してあからさまな不和の態度を取る殿下に冷や汗が伝う。

 

「その態度については多目に見てやろう。だが貴様などに兄呼ばわりされるなど反吐が出る」

「そうよ。貴女がここに居ることも本当ならば受け入れ難いというのに。せめてその耳障りな音を吐き出す口を閉じなさいな」

 

 果たして、僕の上官はこの円卓に座する面々の中で誰か親しい存在はいないのだろうか。露骨に表情を歪めて吐き捨てた件の美丈夫に同意するかのごとく、同じく紅の机に着いていた妙齢の女性までもが嫌悪感を口にする始末。この女の人もまた、王族に連なる高貴な人物なのだろう。

 

 どう控えめに見ても親交のある一族の集いには見えないこの環境に、まさかという予感が頭をよぎる。もしかするとカタリナ殿下がまるで傭兵のように各地へ飛ばされる立ち場にいるのは、その地位や権力が磐石ではない故ではないだろうか。僕には王族などという雲の上の存在がとのような関係にあるかなんて知らない。しかし殿下がここまで他の子息と険悪なのが自然な光景にも到底見えないのだ。

 

 これがただ単に仲が悪いだけのことなのか。目の前で繰り広げられる険悪な空気は、もしかして自身の想像よりももっと根が深い可能性だってある。

 

「だいたい、貴女のその後ろの人間は何なのかしら。この場に無関係な者は入れるはずもないことは知っているでしょう?」

「彼らは無関係じゃない、このボクの副官だ」

 

 そして当然とも言うべきか、この円卓において露骨に立場が悪いカタリナ殿下の後ろに控えていた僕とナインにも話が飛び火してきた。副官だと言い返したら、その女性のわざとらしい呆気にとられた様子が直後に嘲るような笑みへと塗りつぶされた。

 

「まさか、それが副官だと言うの? 仮にも王族の端くれである貴女が、人間族を副官に置いているなんて嘆かわしいわ」

 

 殿下がこの場に来る前に酒場で口にしていた"あの連中"という言葉が誰を指していたのかが、なんとなく分かった気がする。嘆かわしいという言葉とは裏腹に明らかに見下したような雰囲気を隠しもしないあの女性と、その様子を見ながら淡く笑みを浮かべている美丈夫。どう見ても友好関係とは言い難い彼らが、カタリナ殿下にこの会をすっぽかすという強硬策を取らせようとした元凶なのだ。

 

 強張りそうな顔をなんとか平静に保ちながら突っかかってきた彼らの背後に目をやると、こちらと同じように立ったまま控えている副官たちの姿があった。そして当然とも言うべきか、彼らの耳は僕のような人間族とは明確に違う尖った見た目をしている。あからさまでは無いにせよ、こちらを伺う彼らの視線からは僕たちを下々の存在としてみているのが感じられた。

 

 当然いい気分はしない。だけどそれ以上に、彼らの考えも真っ当なものだとも思う。始祖族と人間族には、決定的に異なる側面がある。このアストランテという国においては、少数の強力な始祖族が無力な多数派である人間族を統治することで歯車が回っている。そしてこの場は、この国を実際に動かす立場にある面々が揃っている宮殿の円卓なのだ。その一員である王女カタリナ殿下の副官を一介の人間族の若者が拝命するなど、彼らから見れば役者不足であるといって過言では無いのだから。

 

 

 

「……陛下がお見えになりました。皆様、どうかご静粛に」

 

 このまま泥沼のように続くのではと危惧していた険悪な空気は、円卓の間に入ってきたクーベルトの言葉によって無理やりに中断した。言い争いの渦中にいた王族たちや、円卓の後ろに置かれた長机についていた重鎮のような面々が整然と姿勢を正して大部屋の入り口に視線を向ける。それと同時に円卓の間にいるすべての人が胸に手を当てて敬礼をし、見様見真似で慌ててそれに続く。

 

 

 僅かな間を置いて姿を現した壮年の人物を見て抱いた率直な感想は、浮世離れをした神聖であるというものだった。名のある画家が神話世界を描いた絵画からそのまま這い出してきたかのような、荘厳にして神秘的とも感じ取れる雰囲気。銀色の髪と刻み込まれた皺は、まるで古来から言い伝えられた名のある老神かのよう。

 

 あの王はこちらを一目たりとも見てはいない。それにも関わらず、まるで蛇に睨まれた蛙のように指先までが僅かな間とは言えどもピクリとも動かない。一目見た瞬間からこの人物こそがこの国を統べる王であると理解をさせられた。

 

「余が最後か。これで全員揃ったな」

 

 決して大きくはないはずの声が、この広い部屋の端にまで響き渡る。王という存在から発せられる雰囲気はもはや威圧感と言い換えても過言ではないほどに濃密なものだった。意識を保たなければ、もしかしたら自ずと首を垂れてしまうのではと思わせるほどの、畏敬の念を抱させるほどの物だ。

 

「では始めようか。何、時間は取らせ――」

「――父上。僭越ながら御前会議に先駆けてお伝えしたいことがあります」

 

 だからこそ、眼前の人物が王の言葉を遮って手をあげて立ち上がった瞬間、まるで目の前が真っ白になるほどの困惑さが頭を襲った。この人は一体何をやっているんだ。確かに言わなければならないことがあるとは言っていたにせよ、それは王の言葉を遮ってまで行うのか。冷静に自身の立場を考えればむしろカタリナ殿下の行動に同意をすべきなのに、その瞬間だけは僕は彼女を非常識だと感じてしまった。

 

「カタリナッ!! 貴様、状況を弁えろ!!」

「皆が一堂に会したこの場所でなければなりません。どうかお許しを」

 

 烈火の如き剣幕で声を上げる第一王子の声など聞こえないと言わんばかりに、カタリナ殿下は臆することなく言葉をつづけた。ただひたすらに王の方にだけ顔を向けて、他のものは何も存じないという姿勢。

 

「……遠路遥々ここまで来たのだ、許可しよう」

 

 呆れと憤慨で険しい顔を浮かべる他の王族たちと、困惑さを隠そうともしない重鎮たち。そんな混沌とした空気になりそうだった大部屋は、あっさりと許可を告げた王の一声で再び静まり返る。今や彼らの視線は、王ではなくカタリナ殿下へと向けられていた。

 

「ありがとうございます。それでは単刀直入に――このカタリナ・フォン・アストランテに刃を向けた者が、この王都サンクト・ストルツにいる」

 

 円卓から立ち上がり周囲を見回したカタリナ殿下は、感情の見えない声で淡々とそう告げた。ぐるりと部屋全体を見回しながら、王族や陛下、そしてクーベルトたちが座る長机にまで視線を向けて。その瞬間だけ、円卓の間からは息を飲む音すらも消え失せた。

 

「そしてその不届き者は、恐らくこの御前会議に参加できるほどの立場を持った者だ」

「ま、待ちなさい!! 貴女、一体何を言っているの!?」

 

 僅かな空白を置いて、円卓に座する面々から早速待ったがかかる。カタリナ殿下を遮って声を上げたのは、先ほどから険悪な口撃を仕掛けてきた王女だ。

 

「貴女に刃を向けたとか、この中に仕掛け人がいるとか、下らない絵空事も大概になさい。ここにいる人々は貴女の妄言に付き合えるほど暇じゃないのよ。これ以上無為に時間を使うのならば――」

「余計な茶々を入れるなよ。ボクは父上の許可を得て話している。ただまあ何か証拠がなければ信じることも出来ないならば仕方がない。ツカサ、例の物を」

 

 言われるがままに、腰元に括り付けている荷物入れから拳二つ分ほどの小包を出して彼女に手渡した。一応宮殿に来るまでの道すがらでどんなことをするのか聞いてはいたけれど、あの小包の中身が彼女の思うほど劇的に状況を良くするとはあまり思えないのが正直なところだ。

 

「……何なの、それは?」

「今に開けてやるさ。さて、一体何が起きたのかだけど単純なことだ、ヴァローナからここに来るまでの途中で刺客に襲われた」

 

 小包を片手に、円卓の周囲を添うようにして殿下が歩き始める。王族が刺客に襲われたという事実がどれほどのものなのかは、どよめきが走った重鎮たちの様子を見れば分かる。王族だけではない、この間にいるすべての存在の視線を受けながら、彼女は淡々と口を紡ぎ続ける。

 

「出没場所はリオパーダ、構成は始祖族が一名。どう考えても野盗やその類じゃない。ボクは立派な暗殺計画だと推測している」

 

 王の座する場所の後ろを通り過ぎ、なおも彼女は淡々と円卓に沿って歩き続ける。王子たちは表情を険しくし、長机の面々が発するざわつきは段々と大きくなっていく。たとえ彼女が暗殺者など返り討ちにするような戦姫と謳われる存在であろうと、そもそも暗殺計画が実行されたということそのものがあってはならない問題なのだ。

 

「出没場所やタイミングから言って、間違いなくボクがリオパーダを通って王都に向かうことを把握していた。だから、ヴァローナにいるボクに届けられた伝書の内容を把握しうる面々――それこそこの御前会議に出る資格がある者が怪しいとボクは見ている」

 

 立ち止まった彼女は、真紅の瞳で大部屋全体を見渡した。副官の身でありながら、まるで心臓をわしづかみにされたかのような寒気が体を襲う。途端に大きくなったざわめきは、再び歩き始めた彼女が口を開くと同時に下火へと変わる。

 

「腕を切り落とし剣を突きつけたボクに向けて、わざわざ殿下と呼ぶような素直な男だった。そんな奴をけし掛けたのは、一体誰なんだろうね」

「……仮に貴女の話が本当ならば見過ごせない問題よ。でも、それをいきなり信じろと言われたところで出来るわけが無いでしょう」

 

 いつの間にか背後にまでやってきていたカタリナ殿下に向けて、件の王女が声をあげる。ざわめきの中でもひと際通る声は確かにもっともなものであり、第一王子もそうだと言わんばかりに頷いた。そして僕は確かに目に入れたのだ、カタリナ殿下の顔にあの獰猛な笑顔の片りんが浮かぶ瞬間を。

 

「アデリナ姉様が言うことももっともだ。じゃあ見せるよ。証拠と言い切れるかは微妙なところだけど、始祖族の刺客が来たことくらいは示せるかもしれない」

 

 カタリナ殿下は、持っていた小包を王女の目の前へと置いた。ごとりという固い音が響き、王女――アデリナという名前なのだろう――は訝しんだ様子を隠さずにそれへ手をやった。あの小包の中身は、カタリナ殿下に言われてリオパーダでの戦いの直後にその場から持ち帰ったものだ。それはつまり――

 

「一体何――っ!!」

 

 薄汚れた布が取り払われた瞬間、アデリナ王女は声にならない叫び声を上げた。眼前にそれを置いたまま錯乱したように頭を抱えるアデリナ王女に彼女の副官が駆け寄り、大広間に緊張が走る。重鎮たちは一体何事だと騒ぎだし、きっと小包の中身が見えているのであろう第一王子と国王は表情を固くした。

 

「……カタリナ。"それ"は一体何だ?」

「ボクを襲った刺客の左手、それが結晶化したものさ。姉様には少し刺激が強かったか」

 

 言葉とは裏腹に、カタリナ殿下は悪びれた様子もなく軽薄に笑みを浮かべる。机に置かれた小包から、くすんだ灰色の結晶が見えていた。襲撃者自身はオオカミの腹に収まってしまったが、戦いの最中で切り落とした左腕はせせらぎの中で結晶と化していた。つまりあれが、リオパーダでの襲撃の後にあの場から持ち去った襲撃者の残骸だ

 

 僕にとってみればただの不思議な色合いの結晶体であっても、彼ら始祖族からすれば死体の肉体の一部だ。あれを僕のような人間に置き換えてみれば、小包を開けたらいきなり切り取られた誰かの左手が入っていたようなものだ。そう考えれば、あの驚きようも同情できてしまう。

 

「また崩壊もしていないだろう。だからそいつは死んでからまだ数日しか経っちゃいない。これで、とりあえずボクが始祖族の襲撃を返り討ちにしたくらいは信じてもらえるだろうか」

「……ああ、それは事実であるようだ。しかし、それを一体誰が企てたのかまでは予想はしているのか?」

 

 尚も眼前に置かれた襲撃者の残骸に焦燥したままのアデリナ王女を見かねたのか、国王が合図をするや否や彼女の副官が小包を取り去った。それを見届けながら、国王がカタリナ殿下へと目を移す。果たして、犯人は一体誰なのか。そう問われた殿下は事態の急変に未だざわめきの冷めやらない重鎮たちを一目見た直後に、即座に首を振った。

 

「それは分かりません。なのでこの場においてボクがやれることは、あくまでも警告です」

 

 再び自身の席へと戻ってきた彼女は、大部屋の全体をぐるりと見渡した。彼女の視線が通り過ぎるや否やざわめきはなりを潜め、長机に座る面々は自身の関与はないとそれぞれが目で訴えかける。それを軽く受け流した殿下は、今の今まで状況に流されっ放しでただ眺めることしか出来ていなかった僕やナインの肩をポンと叩いた。

 

 

「一体何処の誰かも知らない。もしかしたらこの場に居ない人物かもしれない。だけどもし再び襲撃があろうと、ボクがやることは同じだ――何人何十人と刺客を送り込もうと、その全てを淡々と殺してやる。そしていつの日か大元にたどり着き、その首を掻っ捌いてやる。この戦姫と、そして彼ら始祖殺しを、あまり舐めるなよ」

 

 獰猛に笑みを浮かべるカタリナ殿下、無表情に金色の瞳を向けるナイン、そして一見して普通過ぎる雰囲気の僕。見方によってはどれも危険そうに捉えられる面々に向けられた視線は、立場の悪い王族や高々人間族の副官たちに対しての物とは思えないほどの仰々しいものであった。




某中世クラフトゲーに熱中して遅れました


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

34. 開戦

 居心地が悪いっていうものにも、色々なタイプがある。それは例えば、周囲から敬意のある羨望が込められた眼差しを浴びたり、はたまた逆に目の上の瘤に向けるような負の感情をぶつけられたりだ。そして今感じているのは、どちらかというと後者に近いものだった。

 

 カタリナ殿下のとんでもない宣誓を間近で聞いたのがつい少し前の出来事。国王や王子達、加えて十を超える重鎮の前という生きた心地のしない環境においてあの発言。もはや理解が追い付かないがままに、僕の身は御前会議が行われている広間の外へと移動させられていた。

 

 御前会議の本題が始まる直前、僕たちのような副官たちは退出をさせられた。だから広間の外の廊下には、僕だけではなく他の副官職の始祖族たちも待機をしている。当然この場にいる者たちでの会話は一切が行われず、ただただ黙したままに御前会議が終わるのを待つのみ。

 

 しかし、話し声が無かろうと各々の意識までが完全に無となるわけはない。僕の思い違いでなければ、恐らくこの面々のいくらかが僕とナインの両名に対して僅かに意識を向けていることは感じ取っていた。それは時折向けられる鋭い視線であったり、腕を組んで静かにため息を吐く姿であったり。そしてそれらは、総じてあまり好意的でないことが間違い無いだろう。

 

 彼ら始祖族と僕たち人間という種族間の確執、僕たちにつけられた始祖殺しという肩書、カタリナ殿下の宣戦布告のような発言、はたまた王室でも異質なカタリナ殿下の副官という立場そのもの。挙げだしたらきりが無さそうだ。ざっと思いつくその全てが、きっと彼らのような由緒正しい始祖族たる正統的な副官たちにとって気に入らないのかもしれない。だからこそ、一言も口を開かない広間の外において、妙な居心地の悪さを感じてしまうのだ。

 

 

 

「――、――――」

 

 そんな状況故、否が応にでも僅かに聞こえる部屋の中の話声が現状唯一の憂さ晴らしだった。重厚な扉に分厚い壁を介した、内容が分からない程度には微かに聞こえる中の声達。僕とナインはまだしも、始祖族という高貴な身分である他の副官たちすらも同席を許されない場で話されるような議題だ。相応の機密保持が求められるのか、もしくはかなり王国の運営に影響を与える話か、そんなところだろう。そして僕は、前もってカタリナ殿下から彼女の考えを聞いていたから、王子達を緊急招集してまで開催されたこの御前会議の議題についての予想は立っていた。

 

 "開戦"

 

 それは国王が下す命令としては、国内外全てに及ぼす影響が最も大きいものの一つに違いない。そんなとんでもない予想を導き出すパーツを、ここに来るまでの道すがらで僕たちはいくらか体感している。クアルスやヴァローナで直面したフラントニアのものと思われる工作行為、そして王都サンクト・ストルツに集結している熟練の傭兵たち。きっとこの御前会議が始まるよりも前に、王国の中枢はすでに戦に向けた準備を進めていたに違いない。だから今日が終わったその瞬間から、王国の空気はガラリと変わるだろう。

 

 考え出したら悪い予想が止まりそうもないこの状況、どのようにして僕自身は関与していくのだろうか。そして隣に立つこの少女は、今の状況を一体どのように捉えているのだろうか。僕と同じく、出会ってからこの場に至るまでの間に様々な事柄に巻き込まれたナイン。きっと僕なんかよりもずっと事態の先を見据えているのだろうが、わき目で見えた無表情さからは何も読み取ることは出来ない。

 

「――ッ!!――――――!!」

 

 にわかに、御前会議の間が騒がしくなった。それと同時に、廊下に並ぶ他の副官たちが目を見開く。これは、いやな雰囲気だ。分厚い壁越しですらも肌へと伝わる、熱せられた空気。きっと宣誓というよりも煽動、驚愕というよりも熱狂。

 

 クアルスという国境線から離れた土地で高々半年の間だけ過ごしてきた僕にはきっと理解出来ない、国と国との間に横たわる確執。既に不満の燻りがあった土壌は、ちょっとした火種を投げ込んだだけであっという間に燃え広がるというのだろう。たとえ王国の中枢で現実を見据え人民を取りまとめている彼らであろうと、一度焚きつけられたら一緒くたになって燃えてしまうほどの背景があるんだ。

 

「……カタリナ殿下の予想通りだよ」

 

 熱狂的な声に紛れるかのように、ナインが表情一つ変えずに言った。まるで煽られた大衆のような騒ぎへと発展しつつある声々を聞き分けたのだろう。フラントニアへ鉄槌を、アストランテに栄光を。まるで定型文のような熱狂ぶりだ。

 

 果たして、この狂乱の中でカタリナ殿下はどうしているのだろうか。熱気に当てられたその中に、どこか冷めた雰囲気を纏って視線を鋭くする姿を幻視する。僕には、あの人が一緒に熱狂の中に居るとは到底思えやしなかった。

 

 

 こうして、きっと何千何万もの民衆を巻き込むであろうフラントニア帝国との開戦決議は、扉一枚隔てた向こうで呆気なく執り行われたのだ。

 

* * *

 

 

「呆気ないってのはまさにこのことさ。全員、熱病に侵されたみたいに騒ぎやがって」

 

 カタリナ殿下は、赤黒い髪の毛を乱雑に掻きむしりながら苛々とした様子でそう吐き捨てた。すっかり日も暮れて、灰色を通り越して闇に染まった窓の外からは、叩きつけるような雨の音が聞こえている。そんな雨音に負けじと、彼女は調度品の机をカツカツと指で弾き再度舌打ちを鳴らした。

 

 御前会議が終了し、各重鎮や王子たちがそれぞれの副官を連れたって去り行く中、カタリナ殿下もまた僕とナインを連れて臨時に宛がわれた部屋へと向かった。その道すがら、僕たちを案内していた兵士が一緒にいる最中でさえも、彼女は明らかに納得をしていないと言わんばかりに憮然とした表情を保っていた。

 

 そして部屋の中に僕とナイン、そしてカタリナ殿下だけになった瞬間、とうとう我慢をしていた言葉が決壊したかのように流れ出したのだ。国王が内々に告知をした開戦決議、それに批判的な視点を取るという行動。ともすれば造反とも受け取られるそれも、王族としてだけではなく始祖族としても異質である彼女ならばむしろさもありなんと見えてしまう。

 

 ヴァローナで出会ってから今日に至るまで、この人に対する僕の認識とは、好戦的でありながら大局的な見地も保有しているというものである。だからこそ、きっとこの人は開戦という決定そのもの以外に何らかの不満を抱いているのだろう。

 

「まぁボクが王都に召喚された時点でこうなることは分かっていた話だけどね。さて、君たちはどう感じた?」

「……決定が性急すぎる。御前会議とは名ばかりの、開戦自体が既定路線に見えた」

 

 数秒の思案の後、ナインが口にした不審な点。満足げに頷いた殿下の様子から見て、きっとこの場にいる全員が同じ認識を共有していたようだ。御前会議とやらが本当に"議論"の体をしているかは甚だ疑問ではある。しかし、仮にも国の要である王子たちや他の重鎮たちを呼び寄せた上で、あの僅かな間に開戦を告知したというのは、随分と性急な行動に見えてしまう。

 

 殿下によれば、あの場にいた重鎮たちは王都の大臣級の貴族だけではなく、主に王国南部の統治を任された領主たちやその代理であるようだ。つまりは、実際の戦争において派兵を行い戦闘に参加をする面々だ。そんな彼らに対して、開戦を呼び掛けて満場一致で即時賛成というのは違和感が付き纏う。

 

「ナインの言う通り。開戦はもはや既定路線だったんだろうね。だから実務面を司る面々には内々に意思決定が伝えられていた可能性がある。そうなると、下手すりゃ明日の開戦告知から数日の間に総計数万単位の王国軍が編成されるかもしれない」

 

 数万もの兵、その規格外のスケール感はもはや想像すらも及ばない。ヴァローナでの争いで経験した数百人が決起した殺しあい、その何倍もの人数が戦いに参加をする。そんな大規模の戦乱がもう目の前に迫っている。急に、気の遠くなるような感覚が全身を走った。

 

 ヴァローナですらも、何人もの死体をこの目で見た。逃げ遅れた市民や彼らを守るべく始祖族に挑んだ何人もの兵士が呆気なく命を散らした。果たして次は、一体何人が死ぬ? そして僕は、きっと今度は戦の中枢に近い場所で黒剣と化したナインを振るい足掻くことになる。敵の首筋を穿いたあれだけこびりついていたはずの感覚は段々と己の両手から消えつつある。次は、一体何人を殺すのだろう――

 

 

「いつだって、ボクは後出しじゃんけんに巻き込まれる立場なのさ。それが、この上なく気に入らない。きっとボクらに与えられる役割は、いつもと何ら変わらんだろうさ――あぁ、何時ものって言われてもツカサたちはまだ知らないよね?」

 

 いつの間にか淀んだ水のように停止していた思考が、カタリナ殿下の声で冷や水を浴びせられたかのように再び引き起こされた。二、三回のの瞬きの後、どこか怪訝そうな表情を浮かべた殿下の質問に答えるべく軽く頭を振った。

 

「……今までの殿下と同じということは、各地を転戦するということですか?」

「ふぅん、中々いい線を行っている。そういう便利屋という立場に、恐らく変わりは無いだろう」

 

 元々、殿下と初めてあった時の肩書とは、ヴァローナに派遣されてきた特務将官というものだった。その実態とは、正式な将官や将官補佐が配属されるまでの間、当該地域の防衛戦力として力を振るう便利屋だ。それを踏まえると、国家間の戦争においても適宜戦力が手薄な箇所へと宛がわれる、かなり流動的な戦力として扱われるのではないか。その予想は、大元において違いは無かったようだ。

 

「主戦場は、西部から南部にかけての平原地帯だろう。ある程度の広がりは覚悟した方が良い。あそこは昔っからキナ臭いからね。あとはリオパーダも一応国境だけど、あんな深層の森林で事を構えるほど両国は馬鹿じゃない」

「……ヴァローナは無いんですか。あの街こそ、対フラントニア帝国への要所のはずです」

 

 真っ先に浮かんだ疑問を口に出すと、殿下は「それは無い」と首を振った。

 

「曲がりなりにも、あそこは天然の城塞として非常に優秀な立地だ。そして内部からゲリラ的に攻め落とそうなんて搦め手すらも通じなかったんだ。ということは、帝国の連中もそこに主戦力は置かないだろう」

 

 少なくともイーリスがヴァローナの兵士や傭兵団を率いている限り、大崩れはしない。カタリナ殿下は、そう結論付けた。そうなると、彼女の言う通りこれから向かうことになるのは、この王都よりもさらに南西側の地域なのだろう。未だ地図の中ですらも覚えきれてはいない、完全に新規の領域へと。

 

 

 

「さてと、そろそろボクは晩餐会とやらに行かなきゃならない。こう見えても肩書は第三王女、ある程度のお行儀の良さは必要だからね」

 

 現状をある程度確認し終えたあたりで、彼女はそう嫌そうな雰囲気を隠すことも無くそう言った。王の血族やそれに近しいもの達のみで行われるであろう晩餐会、そんなものに参加をするわけがない僕とナインは果たしてどうすべきか困惑していると、どうやらこの後兵士が僕たちを案内してくれるそうだ。

 

「案内しに来る兵士を大人しく待っていてね。勝手に出歩いたらそれこそ面倒なことになる。それと、恐らく君たちを迎えに来るのは人間族の一般兵だ。御前会議の待ち時間みたいな居心地の悪さはきっと無いはずさ」

 

 そう言い残した彼女はそのまま部屋を後にして、僕とナインの二人だけがここに取り残された。

 

 殿下が出ていってから数秒後に互いに目を見合わせて、そしてほぼ同時に首を傾げあう。勝手に出歩いてはいけないという制約がある以上、いつ来るかも分からない兵士が来るまでは夕飯もお預けということだ。幸いにも空腹感に苛まれてもいないけど、それよりも手持ち無沙汰というのが大きい。

 

「……次は南西方面か。考えようによっては、各地を巡る切っ掛けになるかもしれない」

 

 ふと、そんな言葉が口をつく。今まで、王国東部のクアルスと北部のヴァローナ、そして中央部の王都サンクト・ストルツとめぐってきた。結果として、僕自身の正体に結びつく確固たる痕跡にたどり着くことは出来なかったが、それでも全く進歩が無かったわけでは無い。だからこそ、どんな理由であろうと未だ足を延ばしたことの無い土地へと行けることはプラスに考えるべきだ。

 

「ねぇ、ナイン。過去の僕は、南部や西部でも何かしらの――」

 

 

「――ツカサ。逃げ出すならば今の内だよ。この国の戦乱なんかに巻き込まれなきゃいけない理由なんて、貴方には存在しないんだよ」

 

 顔を上げて僕の両目をじっと見据えた彼女の表情には、言いようのない険しさが浮かんでいた。

 

「ツカサは、英雄じゃない。今引き返さなきゃ、あなたはもっと沢山の人を殺さなきゃいけない……きっと、また人を殺すことの痛みすらも感じられなくなる」

「……まるで修羅か何かだね。過去の僕は、そんなとこまで堕ちていたのか」

 

 記憶喪失によって消し去られた過去の僕が、きっと想像もつかないほどの業を背負っているのだろうとは薄々勘付いてはいる。今引き返さなきゃ、また同じような道を歩む。それは僕の正体を知る彼女だからこそ出来る、精一杯の警告なんだろう。

 

 不思議なものだ。僕を通して"過去の僕"というものに囚われているのであろうナインが、そこへ行きつきかねない行動を警告するだなんて。普段の無表情さからは考えられないほど、その視線はこちらを鋭くとらえて離さない。

 

「僕は、人殺しで英雄に成り上りたくなんて思っちゃいない。でも、現実的に考えて今はこの副官という状態に身を置くしか無いんだ」

 

 自分を納得させるように、そして彼女に何とか言い聞かすように、ゆっくりと喋りつづける。可能ならば、僕もこんな意味不明な地位を放り出してしまいたい。始祖族という圧倒的な力を持つ存在たちが収める国において、僕のような人間が出張る意味や妥当性なんて存在するはずが無い。

 

「一度副官になることを受け入れた以上、今逃げ出したら今度こそカタリナ殿下は敵に回るよ。そもそもナインや僕には、現状殿下以外にもはや味方は居ないんだ」

 

 次は一体何処から刺客が来るかも分からない。もしかしたら、この薄暗い部屋の外には既にそんな輩が居る可能性だってあるのだ。そんな、カタリナ殿下を除けば四面楚歌な状況。ここで殿下すらも敵に回したら、もはや僕たちは日陰を歩くしか生きる道は無くなる。

 

「……ツカサ、ごめんなさい」

「謝んなくても良いさ。クアルスで手を取った時から、そんなこと覚悟の上だ。なぁに、殿下からの興味が無くなるまでの辛抱さ」

 

 だからヴァローナで誓ったように、ほとぼりが冷めるまではカタリナ殿下の元に居るべきだ。たとえ戦乱に巻き込まれようと、今の自分の至上命題である「過去を解き明かす」という目的のためには、絶対に足を止めやしない。

 

 やや俯いていたナインが、ふと背を向けた。その先にはこの部屋の出口。きっとあそこから飛び出して追手を全て振り切ったら、一瞬の自由と引き換えにして今度こそ完全なお尋ね者だ。

 

「……あなたが望めば、いつだって一緒にこんな境遇から逃げ出すよ」

「どうしようも無くなったら、そうさせて貰おうかな。だけど、それは少なくとも今じゃない」

 

 僕がどうせ今すぐに逃げることに首を縦に振らないのは分かっていたのだろう。深くため息を吐いた彼女は、背中を向けたまま小さく頷いた。

 

 

* * *

 

 

「そうだ。君にはその選択肢しか残っていない」

 

 部屋の扉の外で、口の端を吊り上げた人影がいた。顕現しかけた鉾槍をかき消して、彼女は声が漏れ出ないように口元を抑えて笑顔をひた隠す。

 

「だけど残念でした。君のような面白いヤツを、そう易々と手放したりはしないよ」

 

 きっとこの部屋の中で葛藤の最中に居る青年の表情を想像した彼女は、暗闇の中で笑い続ける。人けのない部屋に放置して、逃げ出そうと思えば決して不可能ではないという状況を与えてもなお、ツカサという青年はこの場に居ることを選択した。それも、この状況から逃れるのがただ怖いからなんていう消極的で後ろ向きなものではない。

 

 彼を突き動かしているのは、戦争で成り上ってやるという野望でもなく、それどころか大多数の無力な人間のように戦火という驚異から逃げ出そうという怯えでもない。あくまでも己の目的のために戦乱へと身を置き、そしていつの日か逃げ出してやろうなんてことすらも画策している。そんな、英雄とも弱者とも、修羅でも覇道でもないあり方。それが、カタリナ・フォン・アストランテには面白くてたまらない。

 

「だから、これからボクのモノとして動いてもらうよ。なぁに、悪いようにはしないさ」

 

 ツカサの心境を陰ながら聞き取ったことで一旦は満足したのだろう。ようやく王族の晩餐会が開かれる場所へと向けて足を向けたカタリナは、これから会うことになる嫌な面々を思い浮かべながらも、未だに思い出し笑いを浮かべながら上機嫌という様子で歩き去っていった。

 

 だからこそ、彼女は最後まで気がつかなかった。ツカサに背を向けて薄暗い廊下を見つめていたナインの金色の双眼が、いつの間にか憎悪に染まっていたということに。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。