東京喰種八雲之道中 (ちやばん)
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董香の奇妙な邂逅

何と無く落としてみる。


 その日の喫茶店『あんていく』は何時も通りにコーヒーの香りを漂わせる営業日であった。

 

 お昼時。店内に居る客は誰もが小洒落た格好をした真っ当な社会人に見え、彼等は皆一様にコーヒーをお供に書類に向き合っていたり、本を読んでいたり、話に花を咲かせたり、はたまた難しい顔でノートパソコンに目を向けていたりと様々な雰囲気を纏いながら喫茶店と言う環境を堪能していた。

 

「コーヒー下さい」

 

 今しがた入ってきた様子で椅子の背にコートを掛けた男性が一人、窓際の日の当たる席に座り、注文を伺おうと近付いてきた片分け髪の少女に向けてそう言った。

 テーブルに向かう途中で出されたその注文を聞いた彼女は客である男性に静かに頭を下げると、カウンターで佇む初老の男性に内容を伝える。

 

 間もなく、彼が注文したコーヒーが御盆の上に乗せられてやって来る。持ってきたのは同じく片分け髪の少女。

 

「ご注文のコーヒーです」

 

 そう言ってテーブルにコーヒーを置く。男性はそれを見て小さく頭を下げ、鞄から取り出した本を開いた。

 どうやらここには読書をしに来たらしい。彼女はその邪魔をしない様にか、静かに礼をすると別の仕事に取り掛かる為に席から離れていく。

 

 一連の作業は営業日の『あんていく』で少女、霧嶋董香が幾度と無く行ってきた仕事内容の一つであった。

 

 彼女は帰ったお客のテーブルを綺麗にし、残ったカップや皿をカウンターに運び終わった所で店長である初老の男性に話し掛ける。

 

「店長、やはり…」

 

 しかめ面をして鼻を僅かに擦る仕草をして見せる董香。

 この行為を前にしてに全てを察した様子の店長と呼ばれる男性、芳村は小さく相槌を打って難しい顔をした。

 

「耐えられそうかい?トーカちゃん」

 

「耐えられると言うか気が散ります…これ近いですよね」

 

「そうだね。ゆっくりとだけど移動もしている様子だ」

 

 二人が話している内容の要は、店内に迄潜り込む

様にして漂ってくるとある『匂い』であった。

 彼等は人とは違う喰種(グール)と呼ばれる存在で有るため、殊更この《匂い》には敏感だった。

 それはともすれぱ董香が言う通りに、気が散る程に濃密で、喰種としての本能を呼び覚ましてしまいそうな感覚に陥りそうな物である。

 

 その《匂い》の正体。それは喰種であるならば誰もが嗅いだ事の有る《人間の血》の匂い。

 それが朝方の営業前からずっとこの辺り迄漂っていたのだ。しかもその濃度は心無しか僅かずつだが強くなっている様にも思えた。

 

 故に二人はこの事態を不審に思う。この鼻を刺激する強烈な血の匂いは一体何者が漂わせているのだろうと。

 

 移動している事から死体である事は考えにくく、しかしながら喰種が嗅覚に優れるとはいえ離れた場所にも関わらず血の匂いが漂ってくると言うのは、尋常では無い出血量をしている事を自然と思い浮かばせる。それは言ってしまえば致死量の出血以上の筈だ。

 

 ではそれら条件を当て嵌めた上で該当する正体が有るのかと言えば、二人は一切思い浮かばなかった。そもそも条件からして難しいのである。

 

 死体では無くとも、致死量以上の血を流して尚かつ動き回っている存在───そんな物は正しくゾンビ以外有り得ない。

 

 嗅覚からの情報しか得られない現時点の彼等にとって、この答えは有り得ないと断ずる他無かった。

 しかし、現に夥しい血の匂いを伴った何かがこの近辺、ないしこの街を闊歩しているのは確かであると言う事は事実として受け止める。

 

 結局の所、幾ら考えても目で見なければ確実な答えが出る筈も無く、二人は仕方無くその匂いを我慢しながら職務を継続する事にした。

 その際芳村に我慢を言い付けられた董香は非常に不愉快そうな顔をしていたが、渋々これを受け入れざるを得なかった。

 

カランカラン。

 

 董香と芳村の相談事が切り上げられたと同時に、新しい客が店内に入ってくる。

 入口の扉が開けた瞬間に、まるで蓋を開けた梅干しの容器の様に共に店内へと入り込んでくる血の匂い。

 

「い、いらっしゃいませ」

 

 董香は引き攣った営業向けの笑顔を見せながら客を迎える。

 入って来た一般客は店員の引き攣り笑みに首を傾げながらも、近場の席に腰掛けてコーヒーを注文していく。

 それを受けながら、この日の仕事は結構しんどい事に成りそうだと彼女は悟った。

 

 それから時間が経つにつれて客はポツリポツリと清算を済ませて帰ったり、入れ替わりの客が入ったりと傍目には普通の営業が続いていく。

 それと比例して董香の機嫌もみるみる内に悪くなりつつあった。

 

 

 

 

 

 

────────────────

 

 

 

「糞ッ、どこからだッ…」

 

 董香は走っていた。路地裏を、表の通りを、屋根を。凡そ人が歩ける店の近辺を余す所無く探している。目的は当然の事ながら『血の匂いの正体』であった。

 

 事の経緯はこうだ。仕事合間の休憩を取っていた董香だったが、考えれば考える程に、これ以上強烈な血の匂いを漂わせる存在をこの20区に彷徨かせるのは他区から危険な喰種を誘き寄せる事に成り得ると言う結論を自己の中で導き出した。

 その結論を出してからの彼女の行動は早く、有耶無耶な返答をする芳村を何とか説得し、事態の収束をする為にその正体を突き止めようと動いていたのである。

 

 ひたすら嗅覚を頼りに街中を走り続ける彼女。しかしその甲斐あってか匂いは次第に強烈に成っていく。その繰り返しで彼女は匂いの正体に近付いている感覚を掴んでいた。

 

 そうしている内にいつの間にか裏路地の前へとやって来た董香。しかし、そこで不意に彼女は足を止めてしまう。周りには少なくない歩行者が他にも居たが、視線を集めている事を無視する程の違和感を目の前に感じていたのである。

 

 『あんていく』から結構離れたその路は、如何にも獲物を暗がりへ誘い込む捕食者の様な雰囲気を醸し出していた。誘い込まれた馬鹿な獲物を待っているかの如く。

 

ゴクリ。

 

 強烈な血の匂いに誘われた形でこの場にやって来た董香は、緊張で唾液を飲み込んだ。それと同時に疑問を覚える。

 

───もしかして、これ罠じゃない?

 

 薄暗い奥行きを見せる裏路地の前で、その奥から漂う匂いを嗅ぎ取りつつもそう警鐘を鳴らす自分が頭の中にいた。

 

 何しろ状況が出来過ぎているのだ。広範囲に広がる血肉の匂いに、まるで誘い出すかの様に路地裏で強まるその匂い。そして自身はその匂いにまんまと釣られてこの場に立っている。

 

 相手が白鳩ならこの状況は非常に、どころか致命的に不味い。 何せ現時点に於いて彼女は顔を隠すマスクを付けておらず、顔を見られればそれ即ち特定される事を意味するのだから。

 

「───戻るか」

 

 静かに下した判断。現時点に於ける分を勘案した結果に彼女が導いた答えである。

 

 この場合、選択肢は戻るか進むかしかないが彼女は戻る選択を選んだ。それはリスクとリターンを考えれば簡単に分かるロジックであった。

 

 もし進むを選択した場合のリターンは、匂いの正体を突き止める事が可能と言う物だが、そこには非常に大きなリスクが有る。

 それは匂いの正体が白鳩───喰種捜査官だった場合に被る痛手だ。彼等に素顔を見られれば殆ど死んだも同然を意味する喰種の世界では、このリスクを背負ってでも何かをしたいと言うのは並大抵の覚悟では有り得ない。それは彼女にとっても同様であり、故にそれは『匂いの正体』と『面割れの危険』を秤に掛けた結果導き出された自然な答えであった。

 となると進むと言う選択肢を除けば答えは一択、『戻る』となるのである。

 

 また戻ってもこの機会が無くなる訳では無く、匂いが消えないのであれば、今度はちゃんとマスクを持って来れば良いだけである。今回は勢い任せに飛び出しただけで、準備が殆ど出来てなかっただけなのだから。

 

 董香は小さく舌打ちすると、来た道を引き返す様にして踵を返す。その顔はもう匂いに無関心ですと言わんばかりの表情が張り付けられていた。

 

「…さぁて仕事しなくちゃなー」

 

 まるでこの裏路地から出て来た人の様に然り気無さを装いながら彼女は歩き出していく。心の中には勢い任せだった自身への苛立ちも有ったが、そんな事はおくびにも出す事は無かった。

 

 しかしそんな彼女が気を抜いた瞬間にである。

 

 視界にとんでもない違和感が写ったのは。

 

「ん…?」

 

 思わず口を衝いて出る呆けた声。董香は視界に映るその存在に目が釘付けになった。それはもう自然体を装う事を一時忘れる程に。

 

 それは彼女が来た道とは対向から来ていた。

 

───まず前提として、この東京と言う大都会は少なからず奇抜な格好をする人は存在している。それはハロウィーン然り、サッカーの大会然りであり、その時々のイベントが有れば彼等は派手で奇抜な格好をしてどんちゃん騒ぎをする。しかし、それらの格好は究極的には一時的な物。イベント時の若気の至りの様な物だ。

 

 それはオタク達がするコスプレもまた然り。イベント時に浮かれ気分でコスプレをして会場で人気者になろうと思うのもまた一時的な格好である。当然の事ながら常日頃にコスプレをして街中を歩き過ごす人はそうそう居ないだろう。居たとしたらそれは相当の変人奇人の類いである。

 

 だが、彼女の視界に入るそれは明らかにそんな類いの存在だった。少なくともその人物の格好を初めて見た人は全員がまず最初にそう思うに違いない。

 

 石突きが三方向に丸みを帯びた先端が鋭い物と言う特徴をした桃色の日傘。その傘の露先は赤い紐が露先同士を結ぶ様に緩く繋がっている。そしてそんな奇抜な傘をさしているのは、奇妙な格好した金髪の女。

 

 一番下には純白のドレスを着て、その上にエプロンの様な前後に宗教的な陰陽玉の図と、二つの奇妙な線───八卦の図を入れ込んだ掛け物を掛けている。

 

 顔の詳細は董香の方からは傘に隠れて見えなかったが、性別の判断はその女の胸の膨らみ、覗く金の髪、歩き方から彼女はそれが女であると判断した。

 

 そんな奇妙で非現実的な存在が遠くの方向から彼女の方へと近付いて来るのである。端的に言って、人間だろうが喰種だろうが不審に思わずには居られる訳が無い。現に、少なくない歩行者の誰もが女の側には近寄る事は無かった。

 

「何アイツ…」

 

 董香は困惑しながらも見詰めていた。その女を。そして観察していた。その詳細を。

 

───身長が高い。確実に180センチは超えてる。90にも行ってるんじゃ…本当に女?

 

 視線を動かして彼女は近付いて来る女の足元を見る。膝丈近くまでの黒いブーツを履いていた。歩く度にヒラヒラと中を覗かせるスカートの間からその詳細の情報が取れたのだ。

 

 彼女が見た所ではハイヒールでは無い上に、ブーツと言っても底上げや厚底のブーツと言う訳でも無かった。つまりはだ。

 

───殆ど素であの身長か…あんな格好の上にその身長って何のホラー映画だよ。そりゃ近寄りたく無いのも分かるわ。

 

 そこまで観察した所で彼女は頭を振って思考を切る。ここへ来た目的を思い出したのだ。

 血の匂いは未だに強烈で、一時的に変人に気を取られたとは言え状況が変わった訳では無い。

 

 そうして気持ちを切り替えてから、来た道を戻る為に歩き出す。

 即ちそれは女が来る方向とは逆の道を行く事であり、その意味する所は女に背中を向ける事であった。

 

「変人に関わってる暇は無い」

 

 数十秒程そうして歩きながら、手持ち無沙汰な彼女は目を彼方此方に動かしつつそんな独り言を呟く。

 後方では恐らく女が同じ方向に向かって歩いている事だろう。視線が自身に向かうかもしれないと思うと、何処と無く気味の悪さを感じてしまう董香。

 

───結局、準備不足で正体掴めずか。くそ、考えなしに突っ走らなければ良かった。店長も苦笑いするだろうなぁ。

 

 考え事をしながら、ふと、何と無しに後方を確認してみる董香。

 それは、もしかしたら自身と同じく無闇な突撃を起こしたお馬鹿な喰種が居るのでは無いかと言う不安と、奇天烈な格好をした女を今一度目に焼き付けておこうと言う二つの感情が起こした無意識の行動だった。

 

───は?

 

「嘘でしょ」

 

 

 

 何の構えも無く振り向いた彼女の視線の先に居たのは、あの奇天烈な格好をした女と特徴的な白いコートを着ている二人の男───喰種捜査官だった。

 

 捜査官の二人は問題の裏路地から出て来た様子で、丁度その路地の手前で女と対峙している。

 

 その手には喰種なら誰もが嫌悪感を覚える武器の収納庫であるアタッシュケースを携えていた。

 

 二人と対峙している女はと言うと、機嫌が良さそうに傘をくるくると右手を動かして軸を回転させながら、空いている左手て黒扇子を開き口元を隠し笑っている。

 

 その光景を端的に表すと『異様』であった。

 

───やはり罠か?

 

 董香は近場の壁に寄りかかり、携帯電話を弄る振りをしながらその様子を伺いつつそう内心で呟いた。

 一目見た限りではそう結論付けるのが最も容易な判断だろうが、この状況に於いて冷静に彼等のやり取りを見る彼女は一つの疑問を覚える。

 

───だとしたらあの女は何?

 

 何やら談笑する貴婦人の様相で喰種捜査官と相対する女を見て沸いた疑問であった。

 

 その問いが沸き上がれば、自然と視線はその女の顔の方へと向かっていた。

 

 捜査官二名は女を険しい表情で見ながら何やら言葉を掛けているが、当の彼女は静かに扇子で口元を隠すのみ。

 

 今一つ分からない女の顔を一度確認したい所だった董香だが、顔の下から半分は扇子で、目元は傘で隠れると言う絶妙な角度でその女の顔は隠されていた為に現状、不用意に動いて注意を引く事の出来ない彼女には確認が出来なかった。

 

 軈て、会話を切り上げた二名の捜査官は手を振られながら、女が来た道を何とももどかしそうな表情をしつつ去って行く。

 

 女は董香に背を向ける形でその二人が視界から消える迄その手を振り続け、彼等が完全に視界から去った所で日傘をクルリと一度回転させるとゆっくりと後ろへと振り返った。

 

 

「うわ…すご…」

 

 その瞬間の事である。覗き見る様にしていた董香が彼女の顔を確認出来たのは。

 

 揺れる金色のウェーブが掛かった長髪の間から見えたその顔は、異質な程に整った美しさを持っていた。

 

 優し気だが何処か怪しさのある切れ長の目に、長い睫毛。

 

 美術品の様に滑らかにスッと筋の通った鼻。

 

 そして瑞々しい唇は慈愛を湛える仏の様な静かなアルカイックスマイルを見せている。

 その異様な美しさに董香は柄にも無くそんな呟きを発していたのだった。

 

 今日日、美人や美女なんて言う存在は元の顔が優れなくとも化粧で幾らでも誤魔化せる様な時代であるが、董香は遠目ながらその女が化粧をしていない事を直ぐに見抜いた。

 

 同じ女だからなのか、それともその女の堂々たる雰囲気が彼女にそう見抜かせたのかは分からないが、彼女の中の直感がそう囁いたのである。

 

───モデル顔負けの身体つきにルックス…何かムカつく。

 

「て違う違う…其れよりも先ずはアイツが何者か知る方が先」

 

 思わず思考が脱線仕掛けたが、董香は頭を手で押さえて考えを戻し、今一度目を鋭くさせてバレない様に注意を払いながら問題の女を見てみる。

 

 女は機嫌良さげに傘をくるくると手首で回しながら、扇子を閉じて懐に仕舞う。

 

 そうして扇子を仕舞った所で裏路地の方へと顔を向け、小さな笑顔を深めながらその中へと歩を進め始めた。

 

「え、どういう事?」

 

 その様子を終始観察している董香は自らの予想と違う状況が構築されていく様を見て横目ながら僅かに首を傾げてしまう。

 彼女の予想であれば、あの裏路地から漂う血の匂いは喰種捜査官の罠の可能性が充分に有った。現に先程の捜査官二名はその裏路地から出て来ていた筈である。

 

 しかし、そこにイレギュラーが有るとすればあの奇妙な女の存在であった。

 

 董香が初めは只の変人と括っていたその女は、(罠が張られていると思っていた)裏路地から出て来た喰種捜査官と親しげに笑みを浮かべながら会話を交わし、あまつさえその二人の背中を見送る様にして手を振りながら別れているのである。

 

 もし女が罠に誘い込まれた馬鹿な喰種ならばその状況は有り得ない物だ。

 

 そもそも捜査官が自ら罠にかかり掛けた獲物の前に出て来て会話だけをして去っていく訳が無い。罠を仕掛けたのであれば、確実に誘い込んでから襲い掛かる筈。

 

 だが結果はご覧の通りであり、女は何事も無かったかの様に二人を見送ると、静かに人知れず裏路地の中に足を踏み入れようとするではないか。

 

 この場を前にして、董香は自らが導いた予想と、現状が結び出す答えは違うのではないかと思い始めて居た。

 少なくとも、完全な罠と言う点では何か引っ掛かりを覚える様な胸のつっかえである。

 

「どうする」

 

 戻って自らの失態を聞いた店長の苦笑いを見るのも彼女としては構わなかったが、もう僅かで裏路地に入ると言う女の正体が暴ける可能性がある。

 そして何より女が関わっているであろう匂いの正体を突き止められるかもしれないとも思っていた。

 

───白鳩が態々罠を仕掛けた場所から身を晒す何て馬鹿な事はしないだろ。なら現状、この匂いに関わっているのは白鳩よりもあの女の可能性の方が高い。

 

「賭け要素も有るけど、慎重に───」

 

───音を立てずに尾行すれば大丈夫か。

 

 裏路地の中にその女が完全に消えるの待ちながら、そう呟こうとした瞬間。

 

 

 女が傘を僅かにずらした。

 

 

 その際日傘の生地が動いた事で、彼女と董香との間の視線の隔たりが消えて行く。

 

 隔たりの向こうで女がどの様な顔をして、何処を見ているのかは董香には分からなかったが、兎に角視線を遮る物理的な膜が消えた。

 

 そして彼女は見るのである。

 

 今しがた迄見せていた優しげな笑顔が、まるで凍った様な無表情に変わり、女の見開かれた暗い深紫の瞳が静かに、しかし確実に自身の瞳を覗き込んでいるのを。

 

 その瞬間、時間が異様に引き延ばされる感覚に董香は侵されていく。

 

「───くっ…」

 

 何れだけ経ったのか。咄嗟に我に返った董香は慌ててその瞳から視線を反らす。恐らくはもう遅いと分かっていても、反らさずには居られなかった。

 

 奇妙な感覚で鼓動が速くなるのを感じる。

 

───何だあの眼…心を覗き込まれて居る様な不気味な感じがした…。

 

 理解の出来ない何かが彼女目掛けて襲い掛かって来る感覚だった。

 計らずも息が切れる。嫌な汗が沸き上がって来た。

 

───今なら何か分かる気がする…アイツの周りに人が寄らない訳が。

 

 一度視線を刺されたからなのか、董香は女の周りにドロドロとした不気味な雰囲気を感じ取っていた。

 まるで全てを呑み込む闇で出来た沼の様な感覚である。それは彼女が離れて居たから分からなかっただけで、恐らく近くを歩けば余程鈍感な奴以外は直ぐにその異質な雰囲気に気付く筈だ。

 だからあの女の周りには人が寄り付かなかったのだろう。

 

 速くなる鼓動に小さく口を開き、深呼吸をして抑えながら彼女は無関心を装う。今下手に動けば不審さが増すばかりであると理解しての判断だった。

 

「……」

 

 董香を見たその女は何を思ったのか、裏路地の手前数歩で完全に足を止めると、微動だにもせず、無遠慮な視線を彼女に向け続ける。

 不気味な視線に晒されながら、董香は冷や汗が出てくるのを感じた。

 これ迄、物理的な戦闘による恐怖を感じた事は幾度か有ったのだが、この状況の恐怖はその何れとも違う奇妙で背筋が凍る様な恐怖だった。

 

───何だアイツ…ずっと此方見てる…さっさと行けよ。

 

 喰種が人を喰らう捕食者と言う事を彼女はその身を以て理解していたが、それでもあの女からは理解不能な不気味さを感じるのである。

 董香は必死に無関心を装い、この場を切り抜けようと考えた。

 

───不味い、不味い…何とかやり過ごさないと…くそっ…本当はコソコソして柄じゃないけど…ここは電話が掛かってきた振りをしてやり過ごすか…。

 

 丁度良く弄っている振りをしていた携帯電話を見ながらそう考えた彼女は、直ぐ様誰かから電話が入った風を装い、携帯電話を右耳───即ち女の視線を感じる方の耳へと当てる。

 そして視線を切る様にしてその女に背中を向けて歩き出すと、相手が居るかの様な演技を一つ入れてやる。

 

「もしもし霧嶋ですけど」

 

 傍目から見れば普通の電話越しの会話をした休日のバイト中の女子高生と言った様に見えるが、彼女の内心は馬鹿げた道化を演じざるを得ない自身に何処と無く苛立っていた。

 当然の事ながら電話越しに相手等居る訳も無く、一人芝居を続ける行為に空しさを覚えるが、その苦しみに耐えながら何とか相手の意識から外れようと女から離れる様に背を向けて歩き続ける。

 

「───あぁ依子。御免今バイト中でさ」

 

 一人芝居につい出て来てしまった親友の名前。何て馬鹿な事をしているんだと内心で思いながらも、この状況をさっさと切り抜けようと足を早めた。

 

───ビビッジーッ!ビッガガッ!ビーピー!

 

 その時、耳元に近付けていた携帯電話から可笑しな電子音が鳴り始める。

 思わず彼女は眉を潜めて携帯電話を見詰めてしまったが、直ぐにその音は止まり、再び無音となってしまう。

 

「…故障か?」

 

 立ち止まり、携帯電話の画面を見る董香。通話画面でも無く、只の待ち受け画面である其れを少しの間ジッと見詰めていると、前触れも無く着信が入って来た。

 

 店長からか。最初はそう思った董香だが、直ぐに違うと直感する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故なら着信画面がバラバラな形の0で埋め尽くされていたのだから。

 

───何これ。

 

 ゴクリと息を飲む董香。心無しか、画面内の0が歪んで蠢いて居る様に見える。彼女はこれは明らかに普通では無いと直感していた。

 

「───出る、か」

 

 静かに携帯電話を掴む手を強める。あからさまに緊張していた。

 かつてこれ程意味不明な状況に陥った事が有っただろうかと彼女は記憶を反芻しながら、恐る恐る電話を耳元に近付けて行こうとした。

 

 その時である。

 

───ポンッ。

 

 彼女の右肩に何者かの手が置かれたのは。

 

「うわぁああっ!」

 

 予期せぬ何かの接触で緊張が爆発した董香は、勢い良く飛び跳ねて直ぐ様その場から距離を取る。

 そして十分な距離を稼いだ所で顔を青くしながらその正体を睨み付けた。

 

 そこに居たのはあの奇妙な女だった。彼女は美しい笑顔を浮かべながら左手で日傘をさし、董香の肩を叩いた右手を左右に振っていた。

 

「こんにちはお嬢さん、初めまして。わたくしヤクモユカリと申しますの。いきなり肩を叩くのは失礼でしたわね、ごめんなさい。それにしても今日は良いお天気ですわよね。良ろしければ一緒にお茶でも如何かしら?」

 

 美しくも奇妙な女、ヤクモユカリは董香に向かってそう言った。

 しかし、当の彼女は目の前の状況が良く呑み込めて居らず、険しい顔をしたまま固まっている。

 

───移動した?!あの距離を音も無く?!

 

 董香とヤクモユカリの間にあった距離は少なくとも50メートル以上は有った。

 その距離を、喰種の自身に気付かれる事無く、それも音すら立てないで背後を取られた事が衝撃だった。

 

 董香がヤクモユカリを見上げたまま固まっていると、彼女は首を傾げて董香の目の前で右手を振り始めた。どうやら意識確認をしている様子である。

 

 董香は軽くトラウマを植え付けられた気分だった。こんな運動とは無縁そうだが不気味な女に背後を取られたのだから当然だろうか。背中に冷たい物が走る。

 

「あら、気絶しているのかしら…えいっ」

 

 しかし董香が思考停止で固まっている間も時は進んでおり、遂にヤクモユカリは彼女を再起動させるためか、人差し指で固まったままの彼女の鼻に優しく触った。

 

「っ何すんだよ!」

 

 漸く衝撃を呑み込んで再起動を果たした董香。彼女はヤクモユカリが伸ばした右手を叩き払い、睨み付けながら自らの鼻に異常が無いか確かめる為に鼻を触った。

 不意打ちだった為、諸に喰種の力で叩いてしまうのだが、その次の瞬間にその事に気付く董香。

 

 しかしそんな彼女を他所に、目の前のヤクモユカリは事もなしに払われた右手を静かに見詰めると、一度握ったり開いたりを繰り返して再び彼女に笑顔を向ける。

 

「黙り込んで動かないものだからつい遊び心が出てしまったの。御免なさいね?」

 

 そして柔和な笑顔を湛えたまま、友好的に行きましょうと言ってヤクモユカリは右手を差し出してくる。握手を求めていた。

 

「何?私今から用事有るんだけど」

 

 しかしながら嫌悪感を表した董香は拒絶する様にその手を無視すると、にべもなくそう言い放つ。

 彼女は全く警戒を緩めては居なかった。正体はどうであれ、目の前の存在が何やら異質なモノだと言う事には直感で気付いていたのである。

 もしかしたら携帯電話の異常も、この女の仕業ではないかとも予想していた。どんな手品かは知らないが、この奇妙な女の異質性からすればそんな事は造作も無い悪戯の様にも思えたのである。

 

 すると諦めたのか潔く手を引いては翻り、董香に背中を向けるヤクモユカリ。

 

「用事…今から?嘘だわそんな…だって貴女にとっては匂いを追ってここに来る事それ自体が火急の用事なんだから───」

 

「?!」

 

 心臓が跳ねる音がした。董香はヤクモユカリの言った事に酷く動揺してしまい、思わず身構えてしまう。ともすれば一触即発の状況である。

 しかし、ヤクモユカリはそんな反応で構える彼女を無視して、ゆっくりと振り返り。

 

「───ね?」

 

 そうして言葉の最後を区切る所で上半身を捻って董香に顔を向けたヤクモユカリ。

 彼女は、再びその奥の奥を覗き込む様にして無表情に成りながら董香の瞳を見詰め始めた。

 

 その瞬間、再びあの気味の悪い感覚が全身を走り抜けるのを肌で、ドロドロとした雰囲気をヤクモユカリが纏ったのを董香は直感で感じながら、それでも尚向けられたその瞳を振り切れなかった。

 

 身体が何故か言う事を聞かないのである。それはまるで脳の信号を丸ごと身体が拒絶しているかの様であった。

 

 ヤクモユカリの瞳に刺されて動けない董香は、その無感情の瞳と向き合う様にして同じくヤクモユカリの瞳を覗き込む。

 ヤクモユカリの瞳の中は、まるで底無しの闇の様な深さを湛えていた。今にも溢れんばかりの深淵の闇である。

 そんな異質の中を動けずに見詰めていると、董香は自身の思考力が段々と落ちていくのを犇々と感じていた。

 

───飲み込まれる。景色が真っ暗に、真っ暗に成っていく…あれ、私、わたしって───

 

 やがて次第に朦朧としていく意識。視界がぼやけ始め、何故だか眠くなってしまう。

 それと同時に、自分と言う存在が消えていく感覚に陥った。

 

 その中で体を翻したヤクモユカリが、茫然とする自身の目と鼻の先で小さく手を叩くのを彼女は消えそうな意識で見詰めていく。

 

───パンッ。

 

「はい、なんちゃってぇ!」

 

「…え?」

 

 次の瞬間。気付くと今迄の事が無かったかの様に、ヤクモユカリが目の前で手を合わせながら笑顔を浮かべていた。

 今の今迄確かに有った様な気がした気味の悪い感覚も、ドロドロとした雰囲気も、全てが綺麗さっぱり無くなっている。

 

「良く見ると何だか御給仕服の様な格好ね、お仕事の途中だったのかしら?御免なさいね引き留めちゃって」

 

「え?え、えぇ…」

 

 何をされたのかも、何が起こったのかも、何もかも訳が分からずつい相槌を打ってしまう董香。

 視線を動かして目の前の女の全身を見渡すが、何の異変も存在しない。視界に写っているのは奇天烈な格好をして柔和な笑顔を浮かべるヤクモユカリだけである。

 

「あら大丈夫?ボーッとしてる様子だけど…お姉さんがお仕事先迄送ってあげましょうか?」

 

「い、いらないわよそんなの」

 

「そう?なら良いけれど」

 

 心配そうに眉を八の字にして中腰に成りながら顔を覗き込んで来るヤクモユカリの言葉を咄嗟に拒否する董香。

 そして彼女は今一度意識をハッキリとさせる為に深呼吸を行う。その気の抜け様はまるで『目の前の女が警戒対象であると言う事を忘れている様な気の抜け様』だった。

 

 その様子を静かに見詰めるヤクモユカリ。彼女は董香が深呼吸が終わるのを待って居る内に、エプロンの様な掛け物の中に手を入れて、そこから一枚の紙を取り出した。

 そして、深呼吸を終えて意識がハッキリし出した董香に向けてその紙を差し出す。

 

「ふぅ…」

 

「じゃあハイこれ私の名刺。暇な時にでもいらしてね?」

 

「ん?」

 

 董香は何気無く差し出されたその紙を見て疑問符を浮かべた。

 その紙は紫色の下地をした名刺であった。下地の上には白文字で『何でも屋さん兼飴屋さん』の文字と、『八雲紫(永遠の18歳)』と言う文字、それと電話番号と大まかな場所の位置が記されている。

 

 董香は年齢云々な所を丸々無視した上で其れを一瞥した後、ヤクモユカリ──八雲紫の顔を見返す。

 今の董香の顔は完全に無表情だった。

 

「何これ」

 

「何って、名刺よ?何の変哲も無い」

 

 董香の雑な問いかけにそう答えた八雲紫は、確認する様に名刺の裏表をヒラヒラと翻し、「可笑しな所が有るかしら」等と口にして目を細めて名刺を観察し始める。

 そんな事じゃないと董香は思わず頭を抱えそうになってしまった。

 

「いやだから、いきなり名刺ってふざけてんのって聞いてるの」

 

「あらお嬢さんたら何て失礼な事を仰るのかしら。これはちゃんと真剣な社交よぉ。大人の世界なのよぅ」

 

「クッこの…」

 

「まぁまぁ、そうカッカせずに。あ、そうだ。職場は直ぐそこですのよ?お時間有るのでしたら覗いてみるかしら?」

 

「職場?何処よ」

 

 悪戯を仕掛ける子供の様な口の軽快さでヒラリヒラリと董香を振り回す八雲紫。

 そしてそこで不意に出て来た職場の話。この女の職場何てきっとロクでもないだろうと内心思いながらも、董香は何処かその話に興味を湧かせていた。

 

 ここまでで忘れてはならない事の発端は強烈な『血の匂い』が『あんていく』に迄漂っていた事であり、それは今現在も漂っている事に変わりは無い。

 結局その匂いに釣られる形でこの場迄やって来た董香なのだが、その正体を知っている可能性の有る八雲紫が働く職場には間接的に興味、いや警戒的な意味合いが強い潜入欲を持ってしまうのである。

 

 故に彼女は話を聞く事で八雲紫の正体、『血の匂い』の正体、そのどちらをも突き止めようと思った。

 

「ほらぁ名刺をよく見てごらんなさいな。大まかな位置が分かるでしょう?」

 

 八雲紫は先程迄ヒラヒラと動かしていた名刺を滑らせる様に董香へと投げた。

 投げられた名刺を「まともに渡せよ」と小言を呟きながらも受け取った董香はそこに描かれた大まかな位置を見る。

 

 そして数秒後、その場所を理解した所で勢い良く八雲紫に顔を向けた。

 

「…は?!」

 

 だが、そこに居ると思っていた八雲紫はもう既にその場に居らず、董香は音も跡形も無く消えた女を探して辺りを見渡した。

 すると遠くに見える件の裏路地から董香を呼ぶ様に手招きをする八雲紫の手が見えた。

 

「マジかよ…いつの間に」

 

 董香は顔を引き攣らせる。喰種の鋭敏な感覚にも察知されずに難なく瞬間移動をして見せる八雲紫の不気味さに彼女は僅かに身震いしてしまう。

 

「八雲紫…」

 

 今一度名刺を確認するが、その職場の場所は確かに裏路地の奥であった。

 董香は僅かに考えを巡らせて、もしもの時の撤退方法を頭の中で構築しながら、小さく覚悟を決める。

 そして、招き寄せる八雲紫の手を追う様にして彼女は走り出した。

 

 その誘われるまま走り出す少女の後ろ姿は、宛ら誘蛾燈に吸い寄せられる美しい一匹の蝶の様であった。

 彼女が裏路地の直ぐ手前迄辿り着くと、招く様に動いていた八雲紫の手はその中に引っ込んでいく。

 

 

───移動するッ!

 

 そう確信した董香は、今度はその動きを見逃すまいと直ぐ様裏路地の中へと曲がり、そこで八雲紫の姿を探す。

 しかし、そんな彼女の行動を笑うかの様に裏路地の中には既に誰も居らず、同じ様に奥に見える曲がり角から八雲紫の手が招いているだけで、人影らしい人影は一切確認出来なかった。

 

「くそっ」

 

「早くいらして~…」

 

 裏路地に移動する八雲紫の姿を確認出来なかった事で小さく舌打ちをした董香。

 その上そんな彼女を小馬鹿にした様な軽快な声が曲がり角の方から小さく響いてくる。

 

 薄暗闇の裏路地の奥から聞こえるその声と、誘う様に振られる手の動きは、状況が状況なら一端の都市伝説にでもなれそうな不気味さを持っていた。

 

「気味悪いな…」

 

 小さくそう呟きつつも、再び歩みを進めていく。もう移動方法を突き止めるのは面倒だと切り捨てていた。

 そうして呼ばれるがまま曲がり角近く迄やって来れば、再び八雲紫の手は彼女は引っ込んでいく。しかし今度は急いで走る事はせず、その角から顔を覗かせる様にして先を確認した。

 

 

 

 

 そこには昔を感じさせる二階建ての建物が一つ、現代的な建物の間に収まる形でひっそりと建っていた。

 しかし、完全に周りの建物が邪魔をして日陰に覆われている。

 

 董香はその前で八雲紫と二人の成人男女がやり取りしているのを見つけ、隠していた身を晒し出した。

 

「ここがアンタの職場?」

 

「来たわね、えーと…」

 

「───霧嶋董香」

 

「そうそうトーカちゃんトーカちゃん。ここが私の職場よ」

 

───何が『そうそう』なのよ…。

 

 董香が八雲紫の背中に問い掛けると、彼女は笑顔で古い建物を指して馴れ馴れしくもそう言った。

 胡散臭い感覚満点の笑顔を向けられた董香は、内心で訝しげながらもその建物を観察していく。

 

 古臭く、正しく場違いな雰囲気すらあるその建物のガラス戸を見ると、そこには『八雲商店』とプリントがされていた。

 董香はそれを見て更に胡散臭いと思ってしまう。

 

 そうして少しの間、古臭い建物を観察していると、八雲紫と今の今迄やり取りをしていた様子の男女が董香に会釈してくる。

 

「初めまして霧嶋さん。僕は吉野文人と言います」

 

「はぁ…どうも」

 

 優しげな雰囲気と物腰をした男、吉野文人の言葉に適当な生返事で頭を軽く下げる董香。

 すると、今度は快活そうな女が前に出て来て右手を彼女に差し出してくる。

 

「私は吉野薫。この人の妻なの、宜しくね霧嶋ちゃん」

 

「はぁ…よろしく」

 

 差し出された手を軽く握って握手を交わしながら、董香は二人を観察していた。

 二人とも普通の人と言う感じであり、どう考えても普通じゃない八雲紫が構える胡散臭い職場には何処をどう見ても壊滅的に似合っていないと感じる。

 

「あの、此処で何をしているんですか」

 

 董香は二人に聞いた。率直な疑問を。

 

「あら、私に聞いてくれないの?」

 

 しかし八雲紫がそれを間から割って入る。彼女は自らを指しながら笑顔を浮かべて董香に聞いた。

 文人と薫はどうしようかと苦笑を浮かべていた。

 

「アンタは胡散臭いから嫌」

 

 そんな紫を押し退けて董香はそう突き放すが、しかしその対応を見ていた吉野夫婦の表情は何処か不安そうで、慌てる様に紫の顔色を伺っていた。

 まるで彼女の指示を仰いでいるかの様子である。

 

「ぶぅ…まぁいいですわ、それなら二人に説明は任せるわね。───大丈夫よぉ二人とも、安心しなさいな。彼女になら打ち明けても問題には成らないからね」

 

 董香の言葉を唇を突きだして態とらしく一度非難すると、直ぐ様表情を晴れやかな顔に切り替えた紫。

 彼女は不安そうに自身を見詰めて指示を求める吉野夫婦を困った様な、それでいて不安を取り除く様な美しい笑顔で向き合うと、夫婦の肩を気付け程度に軽く叩いてそう言った。

 

 董香は黙ってその様子を見ていたが、このやり取りで三人の関係性を理解する。

 それは吉野夫婦と八雲紫の立場では明らかに八雲紫の方が上で、二人は彼女の下働きの様な立場だと言う事である。

 二人が何者か分からない董香では有ったが、何はともあれ八雲紫の許しは出たらしく、二人から情報を聞き出そうと狙いを定めた。

 

「わかりました」

 

「紫さんが言うなら」

 

 紫に肩を叩かれた二人は先程迄の不安そうな顔は何処へやらと毅然な顔に戻り、静かに頭を下げる。

 それを見た紫は笑顔で手をヒラヒラと振って制すと、懐から銘柄不明の煙草を取り出した。

 

「えぇお願いね。私は少しコレを嗜んで来ますわ」

 

 そしてそう言うと、彼女は裏路地から程近い表の通りに有った喫煙スペースに向かって歩いて行く。

 

───煙草何て吸うのかアイツ…でも煙草の匂いは染み付いて無かったけど。

 

 鼻歌交じりで煙草と日傘片手に表の通りへ歩いて行く紫の背中を嫌な物を見る様な目で見詰めながらそう思った董香。

 その様子は煙草の匂いは紫の衣服には微塵たりとて染み付いて居なかった事が少し気になると言った所だった。

 

 それから紫が元来た道に姿を消す迄それを見詰めていると、同じく吉野夫婦も紫を見詰めて居た事に気付く。

 

───八雲紫とこの夫婦の関係って何なの?雇い主?家族?従兄弟?知り合い?

 

 無言で夫婦二人を見ながら董香は思考を始める。しかし、それを遮る様にして紫が消えた曲がり角を見詰めていた文人が徐に小さく口を開いた。

 

「全く不思議な人だ…紫さんは」

 

「え?」

 

 それはぼんやりと独り言を呟く様な声音だった。思考に気を取られて上手く聞き取れなかった董香は疑問符を浮かべて聞き返すも、彼は静かに彼女に向き直るだけで言葉を反復する事は無かった。

 

 代わりに、彼は董香を真っ直ぐに捉える。そして暫く見詰めた後に、意を決した様に再び口を開いた。

 

「霧嶋さん。僕達は喰種です」

 

「?!」

 

 唐突な告白。殆ど言葉を交わしていないにも関わらず、その様な事を打ち明けた文人に董香は目を見開いて声を荒げてしまった。

 しかし彼は構わず続ける。

 

「別に隠さなくても構いません、此処に居るのは喰種だけですから。霧嶋さんも喰種ですよね」

 

「───違うと言ったら?」

 

「紫さんが許可したと言う事はそう言う事で間違い無いでしょう」

 

 僅かに正体を有耶無耶にしようとする董香の苦し紛れの言葉に、文人はやけに確信めいた声音でそう断言した。

 その目は彼女の瞳を見据えて離れない。

 

 隣で見ている薫も文人の断言に頷き、その断言を尚更自信有りげに肯定して見せる。

 

 両者の間で暫しの沈黙が流れた。そして遂に董香が堰を切る様にして口を開く───。

 

「───あーはいはい、そうだよ。私も喰種、これで満足?と言うか其れなら私がここに来た理由も大体察しが付くと思うけど」

 

 そこには対外的な仮初めの人の良さは無く、素の彼女が出ていた。

 ぶっきらぼうな物言いで董香が二人に返す様に問い掛けると、文人では無く薫の方が得意気に笑った。

 

「察してるわ。匂いでしょ?此処まで来たらもう殆ど血の匂いだらけで他の匂いがしないものね」

 

「そう、それ。遠く迄届いてるんだよこの匂い。ここに来て思ったけど異常に濃い血の匂いでしょコレ。鼻が可笑しくなりそう。人間も気付くでしょ此処まで強いと」

 

 鼻を抑えてその強烈さを表現する董香。本来喰種にとって血の匂いとは『良い匂い』に分類されるのだろうが、今回ばかりは見逃せなかった。

 此処まで強烈に広範囲で匂いを撒き散らすのは、喰種も白鳩も呼びかねない危険な事態と思えたからである。

 

 しかし対する薫はその言葉を聞くや否や、事も無しに小さな瓶をポケットから取り出して、それを董香に見せて言った。

 

 董香から見るとそれは、無色透明な液体が入った只の硝子容器の瓶でしかなかった。

 

「大丈夫よ、この匂いは人間には一切感じられない匂いらしいから」

 

 そして薫は、その瓶を怪訝そうに見る董香の目の前で開いた。

 すると途端に、血の匂いとは似て非なる強烈な刺激臭がその瓶の中から溢れ出てくる。

 

 董香はその強烈な匂いに顔を抑えると、数歩後ろに後退った。

 瓶から漏れ出た匂いはまるで、獣の血と臓物をその瓶の中に圧縮してギッチリと詰めた様な、鼻の奥を鋭く貫いてくるすえた匂いである。

 

「何それ!ちょっ、臭い!蓋して蓋ッ!」

 

「アハハ…ゴメンね。此れが一番手っ取り早い説明かと思って」

 

 嫌そうな顔をする董香に鼻を摘まんで謝った薫は、言われた通りに直ぐ様その瓶に蓋をして、その臭気を手で払って霧散させていく。

 董香もそれに倣い手で匂いを払おうと何回か手を振って、漸くマシに成った所で不審物を見る目を瓶に向けた。

 

「何なのソレ。酷い匂いだけど、まさかソレが?」

 

「そう、コレがその匂いの元。紫さんが造ったんですって。名前は『血香瓶』。喰種にだけ感知可能な人間の血肉の香りを撒き散らす液体を詰めた物、なのだそうよ。ただ余り近くで嗅ぐと今みたいに鼻が曲がりそうな匂いがするから、人間の血肉と判断できる距離で嗅ぐなら物凄く離れないといけないの」

 

「血肉の匂いを撒き散らす…それで、その匂いで私の様な喰種を誘き寄せて、何がアンタ達の目的なの?」

 

「私達、と言うよりは紫さんの目的と言う方が近いかもね。その為にも私達と彼女の邂逅から話そうかな───彼女、数年前迄はCCGの白鳩だったの」

 

 薫の口から唐突に明かされた衝撃の言葉。その瞬間、思わず董香は少し思考が停止してしまった。

 しかしそれも束の間の事で、その重大な言葉を頭が理解した時、彼女自身の表情は怪訝な物から憤怒も驚愕とも取れる苛烈な物に変わっていく。

 

「───はぁ?!アイツが?!何で黙ってたんだよ!!私顔見られたんだけどッ!!」

 

「まぁまぁ、当然の反応だけど落ち着いて聞いてちょうだいよ。彼女はもう捜査官じゃないから危なくないわ」

 

「いや意味分かんないって!何で元白鳩と喰種のアンタ等が仲良くつるんでるんだよ!と言うか何でそんなに落ち着いて居られんの?!」

 

「それは私達が紫さんと奇妙な縁が有ったからかな」

 

「は?」

 

 やんわりとした雰囲気でそう言う薫に対して相槌を打つ文人。その反応を見て、苛烈な表情から何やら胡散臭い物を見る物に変えた董香。

 

 その内心は明らかに二人に対して不信感が有ると言った様相だった。

 

「そうね、教えてあげる、私達と紫さんの話…それが無いと話が続けられないでしょうし。トーカちゃんも気になるでしょ?───あれは今から六年位前だったかしら、その当時の私達は3区から各区を命がらがらに成りながらも巡って、20区に入って来たばかりの頃だった…」

 

 薫はそんな彼女の表情に構わずに、途切れる事無く過去を振り返る様な仕草を見せながら言葉を続けていく。

 

 それから彼女達にまつわる一つの昔話が始まった。

 




八雲紫のクロスオーバー増えろー


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