我が名は物部布都である。 (べあべあ)
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第1話 黒髪

この話には作者の趣味が過分に含まれます。(古代ファンではありません


 肌寒い夜だった。

 月光が少女を照らしている。

 

「夜が甘美であるのは、秘するからだとは思わないか?」

 

 そう言う少女の口元は、光が妖しく反射していた。

 

「独り占めするのもいいが、分かち合うのもいい」

 

 細く白い指が口元の光を拭うと、指先に付いた光が舐め取られる。舌の上で唾液と混じり合い、程よい苦味と甘味を少女に伝えた。

 

「しかし、分かち合えばすぐに無くなってしまう」

 

 少女は足元に目をやると、小さなため息を吐いた。

 微動だにしない肉体が一つ。所々に人ではあり得ない特徴があった。

 

「よく喋れる程度には稀なやつであったのに、少しもったいないことをしたか」

 

 布都は足元のそれに向かってしゃがみ込み、顔を下げる。灰色の髪が血に触れたが気にした様子もなく、舌を這わせた。

 

「……あぁ」

 

 先程よりも、強く深い香りが鼻腔を満した。

 酔ったような恍惚の表情を浮かべた布都は、手を胸に突き刺し、ゆっくりと侵入させる。深く入る毎に液体が溢れ出て、熱が白い蒸気として目に見える形で出てきた。

 手を引き抜くと、そこにはお目当ての果実があった。

 

「……堪らないな」

 

 そう言うと、かぶりついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 この国がまだ日本という名前を持っていなかった頃。

 邪馬台国が滅亡した後、内乱状態になったこの国をまとめ誕生したのが、ヤマト政権という政治組織であった。 

 この政治組織は、六世紀頃には九州から東国まで勢力を拡大し、権勢を誇った。

 勢力拡大には武力による衝突が主であったが、この国の拡大に関しては少し事情が違っていた。

 

 絶対的な課題として生存があった。

 人を回避しなければならなかった。人と人とで争うよりも優先すべきことがあった。

 刃が通じない程の頑強な皮膚、骨ごと食いちぎるような牙と顎力。夜になればそれらは現れ、人を襲った。

 人間同士でいがみ合っていることを続けていられるような環境ではなかった。

 人間は手を取り合った。

 そうした動きにより、ヤマト政権の拡大し、仮初めともいえるくらいに人の生存が確保され、人は思い出したように人間同士で争うようになってきていた。

 

 争う理由は権力だった。

 ヤマト政権には氏姓制度という身分制度がある。豪族には、例えば蘇我氏といったように()が与えられ、また(せい)という地位や職を表す名を与え序列もつけられた。

 その中の(おみ)(むらじ)という二つの姓が、ヤマト政権のなかでも中心的存在の豪族に与えられ、争いの火種となっていた。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 その言葉には、諦観と憤りがあった。

 

「――馬鹿らしい」

 

 布都は気に食わないでいた。己の置かれた現状とその扱いにである。

 布都は物部氏という豪族の長の娘として誕生した。物部氏というのは連に値する姓を持ち、その連の中でも大連というより中心的な存在となっている。

 その高すぎる身分がゆえに、自由とは程と遠い環境にいた。だが、布都は自由が欲しいのではなかった。煩わしいものを嫌っていたにすぎない。布都にとっての煩わしいものというのは、人と人との関わりであり、それを強制されることがどうにも耐えられなかった。

 物部の子ともなれば、その数は多い。物部の氏族とは幸運なことに、才能を認められた者は多く、どれもが並以上の何かを持っているとされていた。布都はその中でも格別であった。

 

 ――まるで粘液のようだ。

 

 父の物部尾輿の視線からは常に期待というものが混じっていた。それは次第に氏族中に伝搬し、家人のほとんどが似たような視線を送るようになっていた。布都にとっては、見えない重しが肩にのしかかっている想いだった。自然、布都はそういう視線から逃れるかのように、身を隠すようになった。

 

 威勢表すように大きな物部の屋敷で、気忙しい足音が響き渡っていた。

 

「姫様はいずこに――」

 

 幾人かの者たちが布都を探し回っている。

 布都は屋敷のはずれにある一室にいた。部屋には凹凸があり、身を隠すことが出来た。布都はそれを利用し、壁に背を預けながら身を潜めてだらけていた。

 とはいえいつかは見つかるだろう。そう思うと布都はあらゆる全てに対して気が乗らない。

 

「――布都はどこにいる」

「まだ、見つからず――」

「隅々まで探せ!」

「っは! すぐに」

 

 布都の名を、名指し呼び捨てで口に出せる者はごくわずかである。

 

(父上まで探しているとなれば、面倒事だな)

 

 あまり気の長い方ではない尾輿は、部下がきびきび動くことを好むがその逆をひどく嫌う節があった。

 その大きな声のやりとりは布都にまで聞こえてきており、眉間に皺が寄ったが動きはしなかった。布都は、家臣に対して辛く当たることもないが優しくもない。あまり関心を持っていなかった。

 布都が顔を上げると、闇夜のような黒い髪が肩を撫でる。髪の指先で掴むと、気怠げにいじった。やがて戸を開かれると、部屋の中に少し踏み込んだ人間が中の様子を確認するやいなや、すぐに出ていった。

 布都は戸を恨めし気に睨んだ。

 

「ここにいたのか。――探したぞ」

 

 探すなとは言えなかった。少なくともこちらには用はない。

 

「……何用でしょうか」

 

 目が合うと、尾輿は眉を寄せて咳ばらいをした。

 

「参内せよ」

「何故でしょうか?」

 

 参内とは朝廷に出仕することである。

 面倒事だと思っていた布都だったが、予想を超えていた。

 布都の視線を直に受け止めた尾輿は、後ろへ引きそうになる身を堪えて答えた。

 

「……お前を一目見てみたいというものが多くてだな」

「それこそ何故でしょう? 跡取りでもないただの子供をわざわざ見たいなどと、宮中の方々がお思いになるとは考えられませんが」

 

 そう言う布都に、尾輿は言葉が詰まった。

 だが尾輿は引きたくはない。なんと言おうと押し通すつもりである。

 

「政治というのは、いわば関係性だ。お前も物部の人間であるなら、そういう機会も訪れよう。お互いに顔を把握していくのも政治の延長上なのだ。――いいな?」

 

 布都は黙った。

 

(子供騙しとしてもどうであろうか) 

 

 酷い口上で、茶番に無理やり付き合わされそうな状況が気に食わない。

 

「……兄上はどうされるのです?」

「あいつも連れていく。お前一人ではないから、心配することはない」

 

 布都は息を吐くと、しぶしぶといった様子を隠さずに頷いて見せた。

 そんな布都の態度に尾輿は不快感を示さず、喜色を浮かべた。

 

「おお、ようやく来るか。――それは良い」

 

 言うやいなや、尾輿はさっさと部屋から出ていった。

 

 ――これは兄上も苦労しているだろう。

 

 布都は兄の苦労を想った。

 立場には責務があるらしい。馬鹿々々しいと思わないでもないが、特権を享受出来ている自覚もあった。だからといって、興味のないものは興味がない。

 布都は隣に向かって口を開いた。

 

「――止めてくれても良かったのでは? 兄上」

 

 兄上と呼ばれた男は、初めから同じ部屋にいた。

 布都の横で、壁に擦りつくように身を隠していた。

 

「いや、話を振られなかったからな」

「では振られていれば、止めてくれたと?」

「もちろんだ。兄とはそういうものだろう」

 

 男は物部守屋といった。布都の兄であり、次期当主としての扱いを受けている。

 

「では今からでも遅くありますまい。偶々見えない位置にいたから会話に参加しなかった理由と一緒に話されると良い」

「おいおい。ここから追い出す気か? しばらくここでゆっくりするつもりなのだが」

「兄とはそういうものでは?」

「過ぎ去った時には勝てない。時を追いかけるのは負けたやつがするものだ。そこに兄妹はない」

 

 普段、布都はあまり雑談を行わない。話し相手がいなかった。だが例外はいた。その例外が横にいる兄の守屋で、諧謔(ユーモア)の調子がよく合った。そして何よりは、他人が大事に想っているものを、大したものだと思っていない点において仲間であった。

 

 そんな守屋としても、話が合う存在というのは少なく、布都と会話をするのを好んでいた。

 物部氏の子息ともなれば、自分と同じ身分の者すらほとんど存在していない。しかし同じ身分であれば、同じ尾輿の子としては幾人かいる。現状、物部の次の長となるのは守屋とされており、守屋にとっての他の子供というのは敵でしかなかった。実際に暗殺されそうになったことも多々あり、守屋にとって屋敷の中は落ち着く空間とはいえなかった。

 

「父上は結局のところ、どうしたいのと思っているのでしょうか」

 

 守屋は一拍間を開け、答える。

 

「物部という存在を頂点にしたいのだろう」

 

 それに何の意味があるのだろうか。属するという欲がない布都にはそれは分からない。

 だが、参内した際に一体なにをさせられるのか。おおよそ予想がつかないわけでもない。

 

「……されば我らはさしずめ見世物でありますな」

「言うな。悲しくなるだろう」

「そんな感傷的なものをお持ちだとは思いませんでしたが」

 

 目が合う。

 守屋の眼はおだやかとは言えなかった。

 

「……見世物というのは己の意思で動けないものだ。どうにもやりきれないこともある」

 

 絞りだしたような声。

 布都はもう一度茶化した。

 

「さすが体験されてる方の感想は違いますね」

 

 守屋は茶化しには付き合わないで話を続ける。

 

「世代一つ早く生まれていたらと、今でも思ってしまう」

「おや、それは望みすぎでは?」

「ん?」

 

 また目が合う。

 

「……お前に言われると、なんだか新鮮に聞こえるな」

 

 守屋には生まれた境遇を考えたら現状に満足するべきだという風に聞こえた。 

 

「ああ、言葉が足りませんでしたな」

 

 布都はにやりと笑って見せると、人差し指を立てて、くるりと回す。

 

「兄上には何か欲しいものでも? いらぬものばかりと思っていましたが」

「……ふむ」

 

 守屋は頷いた。

 

「……そうか。いや、そうだな」

「良き人生とはいらぬものを取り払ったものではないかと。反対につまらぬ人生とはそれらを取り払え無かった人生かと」

 

 守屋は思わず笑みをこぼした。

 

「年寄りのようなことを言う」

 

 たしかにと思った布都は、簡潔に理由を述べる。

 

「執着が無いからでしょう」

 

 そういうものかと、守屋は頷いた。

 




 布都ちゃん
この物語の主人公。
歴史上では蘇我馬子と妻となってたり、異母兄弟の妻となってたりあやふやな人。ちなみに前者の場合では、とじこの母になってたりする。

 物部守屋
布都の兄。読み方はもりや。どこかで聞いたことがあるような……。



 舞台は古墳時代の最後の方です。
 物語の都合上、文化の発展度が少々早まっていたり。
 その辺りは寛容にお願いします。


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第2話 見世物

 馬車などという楽な乗り物はなかった。

 この地には元々馬という生き物は存在しておらず、馬がこの地に入ってきたのも最近のことであった。いくら物部氏といえどもまだ所有していない。

 

 布都を連れた物部の一行は朝一から歩いていた。

 布都は朝が嫌いだった。夜が明けるというだけでも気分が良くないのに加えて、朝というのはどうにも騒がしさの前触れのようで好きになれない。それを朝に起こされた挙げ句、歩かされている。

 目的地に着かない限りはこの気怠い歩み終わらないが、着いてもまた気怠いものが待っていた。到着して布都が連れて行かれたのは宮中の宴会場のような広場だった。

 そこでは音曲が奏でられ、愉快そうに酒を片手に談笑している者たちが多くいた。

 

(なんとつまらないことか)

 

 広場には屋根だけの建物が四方にあり、自然とその屋根に人が集まり、そのままその集まりが勢力分布図のようになっていた。分かりやすく、臣と連とで分かれている。

 物部氏も大連として屋根の中心で、大いに談笑を楽しんでいた。

 布都はそこに混じらない程度に距離を取っていたが、着いた当初からずっと視線が向け続けられている。あからさまではないにしても、布都には鬱陶しかった。

 

「はぁ……」

 

 そして単純に視線の数が多い。見世物になった気分に徐々に我慢が出来なくなり、布都は不機嫌を表に出し始めていた。特に、物部尾輿に(よしみ)を得ようと集まってきた者たちからの意図が込もった視線が多かった。

 目が合わないように視線を散らしていると、あることに気づいた。

 

(そういえば子供が多いな)

 

 そもそもこういう場に来ない以上、比率など知りもしないことだったが、見渡すとやけに多かった。耳を澄ましてみると、どうやら今回が特別にそういうものであるらしかった。

 自分たちの未来を自慢するかのように、我が子を自慢し合っていた。謙虚な言葉で迂遠に自慢するその言葉の遣い方が布都にはどうにも気に入らない。隠した欲が隠せていない上に自己を取り繕おうする精神が、ひどく醜く感じた。

 

 その中に自身の父の物部尾輿も含まれているのだから、布都としてはため息も出ない。尾輿は自慢に返ってくる返事を、気分良く愉快に受け止めていく。

 その度、集まる視線が増えていく。

 

 ――不快極まる。

 

 話のダシ、それか酒のつまみ。布都は、口に入れられ噛み砕かれる食べ物を想像した。

 しかし、まだ始まったばかりである。

 

「あの、話をしても――」

 

 布都に言わせるところの積極性が長所だと勘違いした阿呆が近づいてきた。

 一人話しかけに来たと思うと、好機とばかりに数が増えた。

 

「私は――」

「布都姫でありますよね――」

 

 大方親に何か吹き込まれているのだろう。返事の有無に関わらず、しつこく話しかけてくる。

 身分的にもまともに相手もする必要もない。布都は時が過ぎゆくのだけを待った。

 そうしてると、

 

「――布都よ。こちらに来い」

 

 ついに尾輿に呼ばれた。

 愉快なことが起きないのは分かっている。

 

「はぁ」

 

 義務を果たすしかなかった。少なくとも今は、まだ。

 

「ほぉ、そちらが――」

 

 目が合う。尾輿と同じくらいの年の男。先程から視線だけは送ってきたくせに、初めて見るかのように、上から下へとじっくりと見られた。

 

「布都よ、挨拶をせぬか」

 

 頭を下げるだけにとどめた。

 

(口を開けば呪詛が出そうだ)

 

 尾輿は取り繕った。

 

「いや、悪くは思わんでくれ。この子はいつもこのような感じでな」

「なるほど、将来は大物かもしれませんな」

「いやいや、これが中々大変でしてな」

「うちの息子の嫁に欲しいくらいですよ」

「おお。そう言っていただくと、親としても安心出来る」

 

 自分のことを、自分を置いて話している状況。

 布都は頭を下げたまま聞いている。

 こういう目にあうのは分かっていたが、ここまで不快な気分になるとは思わなかった。

 

(これ以上は付き合いきれない)

 

 一つ息を吸い、一言絞り出す。

 

「――ではこれにて」

 

 そう声を発すると、すぐさま背を向け歩き出す。

 ようやく顔を上げると、少しすがすがしい気持ちになった。義理は果たした。少なくともやるべきことはやった。それが期待通りではないとしても。

 

 ――何処か。

 

 見渡すと、再び会話の機会が訪れたとばかりに、どこぞ子息らがこちらに意識を向けているのが分かった。冗談ではない。

 これに毎度のごとく付き合ってる兄を想うと、布都は素直に感心した。その兄は、若いやつらが集まっている中心で談笑をしていた。

 

(行くわけにもいかない)

 

 布都は行き先を見失ったままだった。

 大いに困ったが、その矢先、場の空気が変わった。

 確認してみると、広場に武具が運び込まれ、それによって人の興味が移動していっていた。

 どうやら見世物が始まるらしい。

 すぐに手を挙げたどこぞの子息らが、広場の中央で棒で打ち合ったりと、自身の才を見せ始めた。

 

(その手の棒と何が違う)

 

 自身を誇示するための道具。振り回しているのは棒か自分か分からない。

 布都は、周りの視線は中央に集まってることに気づいた。

 

(逃げるなら今だろう)

 

 休憩場のような場所があることは先所に教えられていた。

 向こうと、先着がいた。

 若い男。年は守屋と同じくらい。

 目が合う。

 

「――っち」

 

 抜け出せたと思ったのに、人がいる。

 布都は無表情のまま、瞳に不機嫌さを映つして見せた。何処かへ行けと、言外にそう伝える。道理で言えば、去るのは後から来た自分の方であることが分かっている。言葉には出来ない以上、視線で察してもらうしかない。察しさえすれば、身分を考えてすぐに何処かへ行くだろう。

 が、男は和らげに笑うだけで動かなかった。

 細い体つきの男である。おそらくは病弱であるために広場の見世物に参加出来ずに抜け出してきたところか。そう、布都が算段をつけたところ、

 

「ああ、先ほどずいぶんとつまらなそうにしていた方ですね。お戻りになられると皆さん喜ぶと思いますよ」

 

 と、攻撃してきた。喧嘩を売っているらしい。

 

「……名を名乗れ」

 

 睨めつけながら言うも、

 

「人に名を聞くのならば、まずは自分からではないでしょうか?」

 

 意にも介さず返してきた。

 

「我が名は物部布都である。それ、名乗ったぞ」

 

 名乗ると同時に、催促する。

 

(何処の誰かは知ったことではないが)

 

 売られた喧嘩は買った。

 だが、

 

「なるほど。物部の姫様でしたか」

 

 目の前の男は態度を変えずに、その次を続けた。

 

「私は蘇我馬子といいます。これもなにかの縁。どうでしょうか、仲良くしませんか」

 

 布都は即答出来ず、何度かまばたきをした。

 布都は政治には疎い。知ろうとしなかったので知識がない。それでも蘇我の名前くらいは知っていた。そして馬子という名が誰を指すのものかも加えて。

 

「……仲良くと申されても、お互いの立場がそうはさせないでしょう」

 

 馬子は少し驚いたような仕草をした。

 

「まさか、その様な言葉が返ってくるとは」

 

 布都は眉をひそめた。

 何だかつまらないことを言った気がする。いや、気のせいではない。

 

「蘇我馬子、でしたね」

 

 馬子という男をじっと見た。

 名と顔を憶えた。

 

 ――兄上とはずいぶんと違う。

 

 守屋は押せども動くこともないどっしりとした力強さを感じるが、馬子には押してもするっと躱されそうな掴みどころのなさを感じた。

 

「――で、馬子殿はあれに参加しないので?」

 

 人に殿とつけたのはこれが始めてだった。だがしっかりとやり返す。

 

「さぞご活躍されるに違いないと思うのですが――」

「いえ、私は不参加にしてもらいました。荒事は得意ではなくて」

 

 馬子はやんわりと受け止めてみせた。

 

「では、貴方の武器は言葉であると?」

「まさか。私が出来ることは微笑んでいることくらいですよ」

「政治ですか」

「貴女もでは?」

 

 布都は目を丸くした。

 

「他者の欲を理解出来ない者には無理なものです。貴女なら充分な素質がある。やり合うが楽しみですね」

「いえ、あまり興味がないので」

 

 たった今先程、馬鹿にすらしていたものである。

 布都は自分にそういう部分があるようには思えなかったが、目の前の男が言うのならそうなのだろうかと思わないでもなかった。が、自分の言葉に嘘もない。

 

「興味がないですか。それはまたどうしてでしょう?」

「他人を操ってやりたいことがないからでしょうね」

「ふむ。しかし私としては、やりがいのある相手がいた方が嬉しいのですけどね」

「兄の守屋がいます。充分ではないかと」

「こういうのは多ければ多いほどいいのですよ。その少なさに一度でも嘆いたことがあるのならば、誰だってそう思はずです」

「……貴方に負けるために参加しろと?」

「――まさか。楽しみませんかと、お誘いをしているのです」

 

 馴れ合いと欲が混じり合った醜悪なものが政治だと布都は思っている。この先も変わらずにそういったものに関心を持てる気はしない。

 布都は首を振った。

 

「まぁ、気長にいきます」

 

 馬子は話を終わらせずに、続けた。

 

「そういえば、恋愛も政治も緩急が大事なんですよ。知ってました?」

「知ってるとお思いで?」

「さて? なにしろ初対面ですので」

 

 布都は脱力し、息を吐いた。

 

 ――敵わない。

 

 口では相手の方がずいぶんと上手であるらしい。

 苦笑し、布都は白旗を上げた。

 

「今日は負かされました」

「おや、ひどく負けず嫌いな方と思ったのですが」

「負けたものは仕方ない。認めて次の勝負をする方が、まだ勝てるというもの」

「では?」

 

 やる気になったのかと、馬子の期待交じりの声色に、布都は否定を込めた笑みで返す。

 

「呼ばれているようなので、行くだけですよ」

 

 肩をすくめて見せる。

 参加するのが億劫でしかがなかったお遊びも今ならそうでもない。

 

「――布都! どこにおったのだ! 探していたのだぞ」

 

 布都は駆けつけてきた尾輿には目線すらやらず、そのまま中央へと歩み出た。用は分かっている。

 

 ――何か。

 

 見渡すと、矢の的が目に入ったので決めた。

 

「弓を」

 

 近くにいた何処かの家人にそう言うと、すぐに持ってきた。

 受け取った弓を二度振って見せると、用が済んだのでそのまま返した。

 その布都の行為を、矢がないと言外に伝えていると受け取ったのか、

 

「――い、今すぐ矢もお持ちします」

 

 と、家人が慌てて取りに行こうとしたが、布都は止めた。

 

「いや、必要ない」

「はい?」

「返すぞ」

 

 布都はそのまま中央の広場から背を向け去っていく。

 何事かと布都を止めようと動こうする人間もいたが、その全てが足を止めて同じ方向を見た。

 音だった。カランと小気味の良い音、木が鳴る音。

 そこには、木の的が四つに割かれ、地面に倒れていた。――いつ切ったのか。そう思うも、布都のやった動作の中でそれに当たるのは、弓を軽く振っていたような動作のみ。皆、理解せざるを得なかった。

 布都はそれまでの見世物を、真に見世物にしてみせた。

 出て行く布都を止めようとする者はいない。

 

 ――帰るか。

 

 布都の足取りは軽くなっていた。

 



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第3話 焼べる

 結果的に途中退場となった布都は、さてどうしたものかと考えていた。

 予想とは反して満足のいくものになったが、自分をここまで連れてきた父連中はそうではないだろうと思えた。あの兄ならばなんとか収めれるかもしれないと思わないではないが、さすがに頼り過ぎもよくない。

 そんな時、後ろがにわかに騒がしくなった。そして、その騒がしさから聞き覚えのある音が発せられていることに気づいた。

 ちらりと控えめに振り返ると、たしかに物部氏の一団だった。

 

 ――引き戻しに来たか。

 

 身構えたが、妙なことに皆顔に喜色を浮かべており、中でも尾輿は喜色を通り越して浮かれているようにも見えた。

 

「――布都よ、一人歩きとは関心せんぞ。いかに物部の娘といえど、それすら分からん愚か者もおるからな。まあお前にとっては有象無象だろうがな」

「はぁ」

 

 生返事をする布都に気づかない様子で、尾輿はさらに続けた。

 

「演目というのは終わりが肝心だ。逆にいえばどうであろうと、締めさえ素晴らしければ成功だ。それには観客の面を見て確かめると分かりやすい」

 

 周りにいる者も嬉しそうにざわめき立つ。

 

「蘇我のやつらは見ものでした」

「蘇我稲目のやつにいたっては、顔を顰めておったわ。これほど気分の良いこともないぞ!」

 

 衆目の中、堂々と歩いていく物部の一団。

 そこには、ヤマト王朝の中枢から天下を腰にぶら下げて帰るような勢いがあった。

 我らが中心であり、我らこそが天下であると。

 それはそれで一体何なのかと気になった布都が守屋に視線をやると、ただ一人いつもと変わらない調子の守屋が布都に近寄った。

 

「お前が出ていった後、父上は『それでは失礼』と一言だけ発して宮から出た。ただ、それだけだ」

 

 布都は己の疑問が解消された。

 物部尾輿が考えてであろう、我が子を使って物部の威を示すという目的は十二分に果たされた。そうである以上は、思う通りの展開ではなかろうが非礼があろうが捨て置ける範囲のことでしかない。ただただ自分の自慢したいものを自慢したかった。そして結果として、これ以上ない形で望みが叶った。そうである以上はあの場に残る必要も無く、またそれはあの場は物部の場であったという認識を周りに与えるようなことにもなる。

 布都にとっては心底どうでもいいことだったが、面倒が無くなったのであれば歓迎出来る。

 気が楽になった布都に、守屋は言葉を付け加えた。

 

「良いことばかりということも無さそうだぞ」

「――それはどういう?」

 

 その疑問は、当事者から解消されることになった。

 

「布都、次の狩りに参加せよ」

 

 尾輿が間に入ってきた。

 

「一体、何故――」

「心配することはない。それまでに準備はする。腕の良い術士を師として寄越すから、しっかりと習うといい」

「無用です」

「ならん。狩りとはいえども、相手は妖魔だ。甘さは死に繋がる。我々はお前を失うわけにはいかない」

 

 だったら参加させるなと思いつつも、どう断ったものかと頭を働かせる。

 見かねたのか、守屋が助け舟を出した。

 

「父上、布都はこの通りまだ幼き身。――まだ早いのでは?」

「いや、そんなことはない。あの場で可能性を見た。この才はいち早く磨かれなければいけない。今からでも遅いくらいだろう」

「しかし、万が一のことがあれば」

「万全を期す。それ以外はない」

 

 これは難しそうだと守屋は謝罪を込めて布都を目を見た。

 

「……その師という者に教わることが無い場合はどうすればいいのでしょう」

 

 布都は腹を決めた。

 

「その時は別の師を寄越そう。もっとも、一番の者を寄越すゆえその心配はない」

「分かりました。しかし、教わるものが無いと判断した場合は勝手にやらせてもらいます」

「ならん」

 

 布都は返事をしなかった。

 ここまでくれば言葉ではなく事実が必要になる。布都は知っている。己が師など必要のない存在であると。少なくとも物部にいる存在する者からは。

 以降の道中、布都は口を開くことはなかった。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 それから3日も経たなかった。

 

「どういうことだ?」

 

 問い詰めるような尾輿に、平服する男は自身の抱いた驚愕を言葉に乗せて答えた。

 

「――私のような者に教えれるようなことはすでに、いえ、始めからありませんでした」

「それほどか」

「言葉にすれば損じるほどに」

 

 尾輿の疑念の中に期待が混じった。

 

「詳しく言え」

「我らが学んでようやく覚えることを、あの方は始めから知っておいでなのです。我らが教えを乞いたいと思うほどに。まだあの方のことを、誰も分かってはいないのです」

 

 主に言うには突っ込んでいるが、本人に非礼の意識はない。可能な限り自分の驚愕を伝えることの方が忠義に沿っていると確信している。

 

「やはり天より授かった才か」

「才とは、人に対して申すものです」

 

 男には畏怖の念。

 

「神には才能という言葉は使いません。私にとってはあの方も同様に、才という言葉を使うには適切とは感じられないのです」

 

 天才とて人に使う。少なくとも、天や神には使わない。

 

「名を言うのも憚れるくらいにか」

「ご容赦願いたく」

 

 敬称を付けようとも礼を損じているように感じられる。近くにいるだけでも、居心地の悪い。佇まいを正さなければと思わされる緊張感。

 

「やはり見て確かめる必要があるな」

「訂正が必要です」

「何だ?」

「あの方のそれは見れるものではありません。研ぎ澄ませた感性をもってようやく感じることが出来るものなのです。天とは理解するものではありません。そもそも可能ではないのです。我らにとって、天とは、最大の努力を労することでようやくその一端を感じることが出来るだけなのです」

 

 迂遠な言い回し。要するに、

 

 ――格の問題だ。

 

 尾輿はそう理解した。能力ではない、生まれ出た時に始めから備わっているもの。――俺ならば、いや俺くらいか、尾輿はそう思った。

 尾輿はそれらを見せないように奥に隠し、よく言ってくれたと言わんばかりの表情で、

 

「お前の言うことはよく分かった」

 

 と言って、頷いて見せた。

 

「だが、俺は物部の長として知らねばならない。これは俺に課せられた義務だ」

 

 尾輿は臣下の男を下がらせると、血が薫ってきそうな笑みを浮かべた。

 野心は善悪を必要としない。必要とするのは欲望。善悪とは他人に理解させる道具でしかない。

 

「天佑とは努力によって勝ち取るものだ」

 

 尾輿は手を強く握りしめた。

 

 



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第4話 前々日談

 布都の眼前には、澄んだ泉があった。波紋も起きないような、静かな所だった。

 泉を囲うように木々が茂っており、その空間を陽が照らし出すように差している。

 人の欲には際限がないものだ。父よりそう教えられた布都は、何か違うなぁと、しみじみ思った。なにより初めて食った謎の甘い餅がえらく美味かった。

 

「うぅむ」

 

 茶を啜ると苦味の他に、新緑を感じさせる香りがあった。きっとこの茶も貴重なのだろう。たいへん美味しく、味わったことがないものであった。

 茶といえば葉の香りをどうにかしてお湯に移しただけの手間がかかる大して美味くないものだと思っていたが、なかなかどうして今飲んでいる茶は美味だった。きっとこういうのを本物のというのだろうか。しかし、こういうものをしれっと独占してるというのは何ともいい身分だなあと思わないでもなかった。自分にではなく、横の男に対してである。

 

「どうです? なかなかいいものでしょう?」

 

 男は柔和な笑みで布都にもう一つ差し出した。

 

「いや、結構。舌が慣れると困る」

 

 惜しい気がしないでもないが、一度断った以上はと布都は未練を断った。

 ここには二人しかいない。

 

「――馬子殿はいつものこのようなものを口にしているので?」

「そうですね。貿易はうちの管轄なもので、美味しい特権のようなものとでも言えましょうか」

「そう聞くと、蘇我が羨ましく思えますね」

「おや、物部でも似たようなものでは?」

 

 蘇我は貿易を、物部は国内の物品を。それぞれ集めて朝廷に貢いでいる。互いに特権に与れている。

 

「うちはもう少し血なまぐさいので」

「それは共通の課題といえますね」

「誰しも土と血が好物なようで」

「なるほど。しかし、あの方ならどうするでしょうか」

「兄上のことですか?」

「はい。あの方なら、どのような形であれ上手くやるでしょう」

 

 きっとそうだろうなぁと頷きつつ、布都は意外な気がした。

 

「随分と、評価してらっしゃるのですね」

「数少ない特技というやつです。人を見るのが好きでして」

「――では?」

 

 布都は目を流し、馬子の目と合わせた。

 

「どう見ていいか分からないというか、定めてしまうと損してしまうような気持ちになりまして」

 

 言葉の意味が分からず、布都は首を傾げる。

 

「損、ですか?」

「ええ。私は決めるということがどうにも嫌いのような気がして」

「それすらも曖昧ですね」

 

 馬子は大きく頷くと、立ち上がった。

 

「――しかし、おかげで取り逃すことも減りました」

 

 数歩歩き、馬子は振り返る。

 

「そろそろ帰りましょうか。間違いが起こらないとは限りませんからね。あの人の命は失うには惜しい」

「その間違いが起こらないと踏んだからこその判断だと思いますが」

「それでも急ぐことに越したことはありません」

 

 布都は立ち上がり、馬子に付いていくことにした。

 細い身の背は頼りなかった。それが弱さに見えないのはこの人によるものだろうと布都は思った。

 決めるのが嫌いというのは、言ってしまえばどんな時でも最後の一手は残しているようなものではないだろうか。つまり、目に映るものを信じていない人なのだ。苦労するだろう。自分はどうだろうか。

 

 ――いや。

 

 今は考えない方がいいような気がして、止めた。

 顔を上げると、集団を成した鳥たちが夕焼け前の空を飛んでいた。時間の進みは思っているより早かった。

 

 

 

 

 

 

   ◇◆◇

 

 

 

 

 

 布都と馬子が蘇我の屋敷に戻ると、ざわめきたった。どうやらもう帰ってこないと本気で思っていた者もいたようで、ざわめきが慌ただしくなり、やがて騒ぎにまでなった。

 走り回る音の中に、力強く確かな足音が混じっていた。

 

「何を言っている。蘇我の者はまだ恥を重ねようというのか」

 

 それは布都にとって聞き覚えのある、よく通る声だった。

 

「――布都よ。戻ったか」

「ええ、蘇我の居心地は如何でしたか、――兄上?」

「それが茶も出らんどころか、まともに会話も出来ないらしい」

 

 守屋の後ろには困り顔の男が数人。馬子の指示を求めて、視線を送っていた。

 それに対し、馬子は言葉を発さずに、『退がれ』と顎で奥を指した。

 

「し、しかし――」

 

 馬子の眉間にシワが寄る。

 

「っ失礼しました」

 

 馬子の機嫌を損なうわけにはいかない彼らは、大人しく退がるしかなかった。

 馬子はそれを見送ると、守屋に頭を下げた。

 

「これは無作法をしたようで、――申し訳ありません」

 

 頭を下げられた守屋は表情を変えずに言った。

 

「いや、気にしてはいない。そういうものだろう」

「えぇ、そういうものです。彼らが去る必要があったことも、あなたが彼らを鬱陶しく感じたのも、まだ誰も死んでいないことも」

 

 本来ならば、この場で正しかったのは下がらされた彼らだった。しかし、正しさという物差しは俗人のものである。二人は、正しさというものが誰かに用意されたものだということを知っている。

 

「俺はとぼけられるのは好かん」

「はて」

 

 首を傾げる馬子に、守屋は眉を寄せた。

 

「今更ながらようやく気づいたわ。まったく情けのないことだ」

 

 この状況は元々、守屋側の仕掛けたものだった。守屋と布都の二人で蘇我の屋敷に押しかけるという、通常ならあり得ない行動。そのまま馬子と布都が外出までするという事態。それらの流れは全て守屋の考えた通りの筋書きだった。悪ふざけにしてはやり過ぎているが、若気の至りということで押し通すことにした。

 事態としてはその筋書き通りに進みはしたものの、守屋にはやられたといった感覚があった。

 

 ――試したな。

 

 事前に用意したというのは考えすぎだろう。しかし、ある程度の予測くらいはあったのではないか。少なくとも負けない程度の予防策のようなものがあってもおかしくはない。事実、これは勝ちでも負けでもなく、引き分けともいえない。ただうやむやになった。だが向こうにとっては、ちょうどいいから器でも測ってやるかといった感じだっただろう。敵として見合う存在であるかを。

 知った以上はこのままとはいかない。やれらた以上はきちんとやり返してみせるのが誠実な対応だろう。

 

「今度はそちらがうちに来るというのはどうかな」

 

 守屋は馬子の反応を期待したが、馬子は何でも無い言った様子でありながら、

 

「それはお断ります」

 

 きっぱりと断った。

 

「ん?」

 

 守屋としてはてっきり乗ってくると思っていた。

 馬子は表情を変えずに、微笑を保ちながら言う。

 

「やはり、相手は選びたいものです」

「相手?」

 

 訝しむ守屋に、馬子は親愛すらこもって見える表情を浮かべて見せた。

 

「あなたに殺されるのであればまだしも、――それ以外の方では足りませんね。この矮小な命となれど、やはりもったいなく感じます」

 

 守屋は、馬子の命の惜しみ方に外見では分からない狂いを見た気がした。

 

「……選民思想の持ち主とは意外だったな」

「それは我々が言う台詞ではないでしょうねえ」

「まぁ、その通りだが」

 

 階級があり、身分がある。才能があり、上下がある。

 両者ともにその頂点にいるという自負があった。今日、二人はそれを知り合った。

 馬子は満足していた。

 

「それにしても今回のことは驚きました」

「そうは見えなかったが」

「ああいう時は流れに逆らわないようにしています。不思議とそうするほうが結果的に上手くのでね。――私としては、布都姫もこっちの側だと思っているのですが」

「布都が? まさか、真逆だろう」

 

 話半分にぼやっと聞いていた布都は、顔を上げた。

 

「……なんと失敬な。唐突に話を振られたかと思えば」

 

 布都は反論しようと難しそうな表情をしたが、

 

「……まぁ、よく分かりませんが。同意するのも癪なので、そのどちらでも在りたくないと答えましょうか」

 

 特に論ずることが見つからなかった。

 考えたこともないかった。つまりは自分にとってどうでもいいことなのだろうと思った。

 

「そもそも、あらゆる言説にさほどの意味を感じません。我々には絶対的基準というものが天より与えられているわけではないのですから」

 

 語りながら、気づいた。

 

「地上に産み落とされたその時から、我々に与えられたものは全てに対する不信です。あらゆるものに対して疑問を持ちます。おそらく全ての人間が同じでしょう。しかし、その疑いからは暫定的な答えしか得られません。つまり、個人の願望を逸脱しきれないのです。――なので、『どちらでも在りたくない』と答えるのがまだマシな答えと言えるでしょう」

 

 手に入らないからこそ求めるのだと。それが空虚に感じるからこそ、退屈なのだと。

 布都は口を閉じた。

 



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第5話 闇夜

 さすがに泊まる気まではない。

 帰らないと後が面倒である。そもそも抜け出すようにして来ているので、このまま戻ったとしても面倒が待っている。どちらにしても面倒には変わりはないが、軽いに越したことはない。

 守屋は周りに聞こえるように言った。

 

「――では、このあたりで帰るとしよう」

 

 言い終わると、守屋は背を向けて歩き出した。

 

「帰り道には充分に気をつけてください」

 

 馬子も言い終わると背を向けた。

 互いに用はなく、もうこれ以上のことはないと周りに示している。

 

 布都と守屋が屋敷を出ると、空はすでに柿のような暗い橙色をしていた。遠くの空でカラスが鳴いており、夜の訪れを告げていた。

 二人の歩いている道は草木が除かれただけの人道で、両脇には人が隠れることが出来るくらいの木々が立ち並ぶように茂っている。

 しばらく歩くと、守屋は足を止めて口を開いた。

 

「鳥がどうして鳴くかを考えたことがある」

 

 長く伸び切った影が、暗闇と混じり合い出し、輪郭だけがようやく分かるくらいに陽が落ちてきた。

 

「考えているうちに気になった。あれこれと予想してみたのだが、いまいち気に入る答えが出ない。お前ならどう考える?」

 

 同じように足を止めた布都は、守屋を少し見上げると、

 

「泣きたいから泣いてるのでは?」

 

 首を傾げて、そう答えた。

 守屋は鼻を鳴らすと、「まぁ聞け」と言って布都に顔を向けた。

 

「俺は2つに絞ってみた」

 

 守屋は左手の人差し指を立てた。

 

「1つは、恐怖だ。一人では耐えれないから仲間を集めている」

 

 立てた指を一つ増やし、守屋は続ける。

 

「もう1つは存在の主張だ。自分がここにいるということを自分で確かめている」

 

 言い終わると、守屋は腰に下げた剣の柄を握った。腰をひねり、すっと剣を抜くと、木々に対してに剣先を向けた。

 

「――お前らはそのどれかに当たるかな」

 

 木の輪郭が揺れて、膨れる。分離して、人形に成った。

 手の先から伸びる鋭利な影。武器を持っている。

 

「……気づいていたのか」

 

 守屋は肩をすくめた。

 

「やはり俺はあいつに比べると、少し小さいのかもしれんな。思わず、ほっとしてしまった」

 

 守屋は顎を上げると、影たちを見下すようにして見た。

 

「敵は弱いに越したことはない。俺は強敵に喜ぶような精神を持ち合わせていないようだ。ここで殺してしまうのがもったいないくらいに、()みし(やす)そうだ。自尊に、怒りと焦り、どれも俗っぽくて、あまりにも丁度良い」

 

 影たちの持つ武器は槍や弓のようであったが、その内の一つに剣として捉えられない影があった。剣とは武器ではあるが、殺傷のしやすさだけでいえば槍や弓に劣る。それでも剣を持つ人はいる。それは地位の証明でもあったからだ。豪族の、それも長やその限られた親族にしか持てないもの。それが剣であった。

 守屋は剣を横にすると、剣を持っている影の首の高さに合わせた。

 

「……何かの間違いで、お前が蘇我の長となってくれたらどれだけ楽だったことだろうか。――だが、お前はここで死ぬ。何と残念なことだろうか」

 

 その言葉に、影たちは殺気立った。

 

「――今すぐ殺してやる」

 

 憎悪を向けられた守屋は首を振って見せた。

 

「悪いが、それは無理だ。お前たちには到底勝ち目がない」

 

 嘲笑が起こる。

 

「この暗さで、我々の数が分からないか。二人で何が出来る」

「例え、俺が一人であってもそれは現実には起こり得ない。というより、もし俺が一人であるならば、お前たちはもっと早く死ぬことになるだろう」

「何を言っている」

「やはり勿体ないな。その理解の悪さに、思わず惜しくなるよ」

「……問答は止めだ」

 

 あたりはすっかり暗くなっていた。夜と言い切るにはまだわずかに明るさがあるが、表情が見えなくなる程度には暗い。

 

「――広がれ」

 

 影たちが動き出す。

 

「お前らの運命は用意されている。例えここで死ななかったとしても、あいつに手抜かりはないだろう」

 

 言い終えると同時に、飛来音。

 守屋は剣を振った。

 金属のぶつかる音と、地面に落ちる音。

 

「面倒だな」

 

 守屋は舌打ちした。

 

(直接来ればいいものを)

 

 守屋はもう少し挑発してやるべきだったかと後悔した。

 

「兄上。あまり遅くなると、父上たちへの言い訳を増やす必要が出てきますよ」

「まったく面倒ばかりが増えていく」

 

 守屋は地を蹴った。

 姿勢を四足動物のように低くして駆ける。

 身構えた影を確認した守屋は、速度を緩めて敵の目前で上半身を起こした。

 守屋の行動の変化に、影は堪らず武器を振るった。こう暗くては目からでは正確な情報は入ってこない。通常より予測する幅が大きくなる。その予測が困難になったがために、恐怖を払うようにして武器を振るっていた。その結果は、空気を揺らした音がしただけであった。

 守屋は、振るわれた武器と入れ替わるようにしてその空間に入り込み、剣を振った。

 どさりと鈍い音がした。

 

「よくもっ」

 

 使命と仲間の仇をとろうという意思が載った銅矛が、守屋に目掛けて差し込まれた。守屋はそれを半身を引いてかわすと、銅矛の戻り際に柄の部分を片手で掴み取った。そのまま力ずくに一気に引き、柄の元にある肉体を引き寄せる。その到達地点に、杭のように剣を差し込むと、敵の腹部に深く突き刺さり、生温い液体が守屋の手を濡らした。

 剣を引き抜くと、守屋は事が終わったとばかりに、剣に付いた血を払った。払っただけで落ちなかった分に関しては、倒れている敵の衣服を裂いて、拭き取り始めた。

 その様を見せられ、激昂した者が一人だけいた。

 

「何をやっている! ささっとあいつを――!」

 

 手に持った剣を振り回し、周りを見る。

 

「なっ」

 

 いるはずの者が誰も居なかった

 それがどういう意味であるか、察した。

 

「こんなはずじゃっ」

 

 逃げるしかない。それ以外に生命を維持する術がない。背を向け、全力で駆け出した。

 守屋はつまらなさそうに鼻を鳴らすと、その背を冷めた目で見た。

 

「――布都」

 

 影が一つ起き上がる。その影である布都の手からは血が滴っていた。

 

「必要はありませんよ」

「ん?」

 

 布都は獰猛な笑みを隠さない。

 

「死にかけを一人、逃しております。せいぜい血をバラ撒いてることでしょう」

 

 守屋は額を抑えた。

 

「……そういうのが、好きなのか?」

「まぁ、えぇ」

 

 どこか嬉しそうに答える布都に、守屋はため息をついた。

 

「周りには隠しておけよ」

「善処します」

 

 狼とも野犬とも違う、低い遠吠え。

 間を置かずに、叫びという形でもって結果が知らされた。

 



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第6話 踏み入れる

 数日が経った。

 その日は、影まで照らすような日差しが強い日だった。

 門番や稽古に励む兵、室内で難しい顔をしている者まで、多くの汗を流していた。皆険しい顔をしているが、その中で一番険しい顔をしていたのは布都であった。

 布都は大きな瞳を限界まで細めていた。

 地面から跳ね返ってきた日光が、瞳から痛みを伴って差込んできている。

 

「――姫様、日差しが強いご様子。もうお部屋に戻られては」

 

 布都は一人ではなかった。後ろに二人いた。

 護衛ではない。監視である。

 

「お前らが居なければ何処へでも戻ってやるとも」

 

 布都は振り返りもせずに言い放った。昼夜問わず監視されており、鬱陶しくて仕方がない。

 

「――なりません。ご当主様より言いつけられておりますので」

 

 監視役の男は感情を見せない声で答えた。

 

「何より、この度のことは姫様の行為がもたらした罰でもあります。甘んじて受けるべきかと」

 

 もう一人の男が、硬い声でそう続けた。

 

「もう外の空気は充分でしょう。戻りましょう」

 

 そう言われたが、外に出たばかりである。戻るにしては早すぎる。とはいえ、強すぎる日差しに布都も戻る気になっていた。監視役の存在のせいで、毎夜ほとんど寝付けていない。

 だが、粘りたかった。

 

「……もうすこし歩く」

 

 戻れと言われれば戻りたくなくなる。たとえそれが自分を苦しむものであっても、従うのを嫌った。

 布都は数歩だけ歩くと、止まった。

 寝不足がここまで気を悪くするものだとは思わなかった。

 

「貴方の立場は決して自由ではありません。それは守屋様といえども同じことです」

 

 あの夜の後、夜が更けすぎており誤魔化せなかった布都と守屋は尾輿に説教を喰らうはめになっていた。捜索隊まで出ていた上に、二人の衣服には血がいたるところに付着しており、大事になった。罰ということで、守屋は親しい仲の豪族の元へと一時的に預けられることになった。これにより、次期当主とされていた守屋の立場が揺らいだと、尾輿の他の子息らが活気づいている。

 

「分からんなぁ」

 

 布都は独り言をこぼした。

 

「お分かりにならないというわけにはいけません。姫様には反省を求められておりますゆえ」

 

 独り言というのは誰かに向かって言うことではない。返事など求めてはいないし、その存在も認めることはない。布都は無視した。

 

「ですので――」

 

 何やらまだ何か言っているらしい。きっと聞こえの良いご立派なことを言ってるのだろう。恐らくはどこでも聞けるようなありきたりなものを。

 目でなく耳までやられては堪らない。布都は戻る気になった。

 

「お前たちの取り柄は、あれだな。忠誠なのだろうな」

 

 布都が振り返りそう言うと、二人の男は誇らしげな顔を見せた。

 言葉通りに受け取ったらしい。布都は辟易とした。打てどもまったく響かない。

 

「父上は血を見るのが好きらしいな」

 

 到底理解は出来ないだろう。希望が血を流すのだ。

 

(兄上としては楽になったのかもしれないが)

 

 守屋が完全に掌握するためには排除すべき存在がいる。

 消すなら早い方がいい。やるなら被害者を装う方がいい。人心は加害者には向かいづらい。

 意味が分からないといった様子の二人に、布都は色々と馬鹿らしくなって部屋に戻ることにした。

 

 ――今夜だ。

 

 夜の静寂が好きだった。

 決めてしまうと、寝れるような気がした。夜更けまでにはまだ少しある。布都は久方ぶりに気分良くまぶたを閉じた。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 闇の中。

 布都は、己の存在を知覚した。

 目を開けると、暗闇だった。鈴のような虫の音に、遠くから響いてくる蛙の音。

 

 ――悪くない。

 

 衣擦れの音も立てずにゆらりと起き上がると、同じ室内に見張りとして立っている男を認識した。

 気配を探ると、中と外で一人ずつ立っていることが分かった。

 夜更けということもあってか、意識が薄い。

 布都はさっと近づき、腕を掴んだ。

 掴まれた見張りの男は、ぎょっと意識を覚醒させたが、

 

「うっ――」

 

 突如として襲ってきた不快感に耐えれずに意識を手放した。

 床から鈍い音が響いた。

 物音に反応した外の見張りが中に入った来たが、それも同じように腕を掴んだ。

 

「なっ――」

 

 布都は掴んだ腕から直接霊力を流し込んでいた。耐性の無い者に霊力が入り込むと、扱えない力が外に出ようと体内で高速で巡り回る。それはわずか一、二秒のことでしかないが、意識を失うには充分だった。

 布都は掴んだ手で何かを払う仕草をすると、地を蹴った。塀に飛び乗り、さらに次へと飛び乗っていき、――闇に紛れた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 

 月は雲に遮られ、あまり顔を出せないでいた。

 布都は、そんな月明かりの乏しい闇の中を思い思いに進んでいく。跳んで駆けていくその様はいかにも自由といった感じだったが、布都としてはあまり気分は良くなかった。

 

(気が利かない夜だな)

 

 足を止めると、額に浮かんだ汗を指で拭った。

 風がなく、粘り気のある空気。そのうち降り出しそうな空。

 濡れるのは避けたい。木の下にでも逃げ込むしかないかと、山に向かった。

 夜に出歩くものは少ない。あまりにも命の危険が高い。夜に出歩く者は避けられない用命を受けた悲運な者か、日中には歩けなくなった社会から弾かれた賊となった者くらいである。そんな賊ですら夜の山にだけは近づかない。夜の山に入れば間違いなく妖魔に遭遇する。証明が必要ないくらいには人類は血を流していた。

 布都は山のふもとまでたどり着いた。

 山の始まり。静寂を装っているが、内には妖しさが渦巻いているのが分かった。

 その激しさがふもとまでやって来ていた。

 

(待ちきれなかったらしいな)

 

 布都は愉しげに顔を歪めた。

 隠すことすらしないいくつもの気配が、布都を手招くように待ち構えている。布都が歓迎に応じて森に足を踏み入れるやいなや、気配の一つが飛び掛かってきた。ぎょろりとした目玉に、裂けたような口。猿のような顔だけがやけに大きく、胴体との均衡が取れていない。

 布都は触れることを厭った。身を躱し距離を取ると、手刀の形を作った手を、猿顔の妖怪に向けて荒く振った。

 

「ギャ、ッギャギャ――」

 

 顔に深い裂傷を負った猿顔の妖怪は、顔から様々な液体を撒き散らしながら暴れまわった。ただ痛みを誤魔化すためだけのようなでたらめな動き。そうやって暴れまわった結果、木に衝突し、その衝撃で裂傷箇所から内容物が溢れた。転倒間際には、狂ったように手足をバタつかせていたが、それも次第に収まっていき、やがて静かになった。

 

「――醜いな」

 

 日中に見たら、さぞ気味の悪いことだろう。

 血が匂ってきた。苦いがほのかに甘い、そんな香りだった。

 発生箇所は一つしかない。押し返すように鼻を鳴らしたが、あまり意味はない。すぐにまた入り込んでくる。見た目と違って匂いはあまり嫌ではなかった。

 

「これと変わらないと考えると少し嫌だが、まぁいいか――」

 

 血の匂いに釣られたか、周りから感じる気配の数が増えていた。

 気の高ぶりを感じる。

 口元の歪みに獰猛さが増す。

 高ぶったものを周囲に発した。

 ざざっ、と葉が擦れる音が立ち、連続していく。

 気配が遠ざかっていった。

 

「――っち」

 

 楽しもうとしたからだろうか。布都は後悔した。 

 気の高ぶりが邪魔をしたようだった。

 人を脅かす妖魔も対して人と変わらないらしい。

 

「冗談ではないぞ。こんなものが自由であるはずがない」

 

 それでも布都は奥に足を踏み入れるしかなかった。捨てるものはなく拾うものしかない。

 そう思ってここまで来たというのに、拾おうとしたものは指に引かかりもせずに落ちていった。

 とはいえ、まだ山に入ったばかり。生い茂る木々は未知を隠している。

 

「まだ出だしだな」

 

 肩を落とすにはまだ早い。

 現実なんてものはいつも否定してやるくらいで丁度いい。

 そう思えば今の出来事も思慮の外へと出ていった。

 

 



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第7話 瞬き

 自然を感じると、摩耗した感覚が研ぎ澄まされるような気分になった。気配を感知する範囲と精度が増していく。 

 

(思っていたより賑やかだな)

 

 深く入ると、いたる所で小競り合いが起こっているのが分かった。距離が近づけると、波紋のように小競り合いが外へ外へと移動していく。布都は当て付けのようにわざと近づくようにして歩いて行く。いつか堪りかねて一斉にこっちに向かってくるかもしれない。多少の期待があった。

 しかし布都が思うよりも妖魔というのは堪え性があるのが、遠のいていくばかりで起こるものが起きない。

 そうやって歩いていると、人道に出た。

 道は人が4、5人歩けるくらいの少し大きなものだった。山に入る場合は生存性を上げるために集団で入る。物部氏も護衛として関わっているものだった。人間が歩く山道というものは、いざというときの為に走れるように整えられていなければならない。布都はその道に従って歩き始めた。結局のところ、道は分かりやすいに越したことはない。

 

 

 

 感覚に何かの違和感が生じた。

 布都は足を止めた。目を細めて、続く道の奥を見る。

 出会いというのはいつも唐突であるらしい。当然だが、人は常に自分の想定外の出会いを想像しているわけではない。要は、それを歓迎するか忌避するか、それだけでしかない。

 少なくとも、今回にあたっては布都は前者だった。

 草木の輪郭でさえも捉えられる感覚が告げたのは、ひどく歪で無理に組み合ったかのような人の形をした何かだった。

 

「――これはこれは、こんなに月が綺麗な夜に人間と出会うとは」

 

 僧の姿をした男だった。

 互いに向き合う。

 

「月なら隠れているだろう」

 

 視線だけで上を指す。月は雲に隠れて見えない。

 

「隠れるているものを存在しないとは言わない。目に見えるものだけを真であると思うことに人の限界がある」

「求道者のようなこと言うな。流行っているのか?」

「そのようなもので括ってくれるな。不快だ」

「そんな格好をしていてよく言う」

「……未開の地ではこんなものだろうな。未知を自分たちの知っている何かに当てはめたがる」

 

 僧の男はうんざりした表情で言う。

 

「海まで渡り、苦労した甲斐が無い。よもやここまでとは」

 

 布都は良いことを聞いた。

 

「海というと、ずいぶんと遠くから来たのか?」

「お前には知る必要がないことだ」

 

 男は視線を降ろしため息を吐くと、再び布都に向き直った。

 

「だが、まあお前でも悪くはないか。多少だが力を感じる。それにどうせなら男より女のが良い」

 

 布都は察した。

 

「食人は関心しないな」

「それはお前が人であるからだ」

「人ではないような口ぶりだな」

「知る必要すらないと言ったはずだ。お前等は家畜を殺すときにわざわざ説明をするのか?」

「喋る能力があるのなら聞いてみたいだろう。喋れない猿より喋る猿の方が幾分か上等だ」

 

 布都は殺意を表に出した。

 男は驚きで体を強張らせてしまい、布都の動きに反応出来ずに上体を反らしてしまった。

 即座に懐に入り込んだ布都は、引っ掻くように右手を振った。

 

「っが――」

 

 男は腹が裂かれて、倒れそうになる体を支えようと、重心を後ろから前にやった。

 前にかがむように動く男の身体。布都は、その首元に目掛け、左手を振った。

 男の喉笛が割かれ、喉と口から血が溢れだす。湿りのある音が発せられる。泡立った音と地面に粘液が落ちる音。

 布都は血がかかるのを嫌がって、距離を取った。

 

「気にすることはない。我はお前に期待するところなど無かった。何なら言葉を使えたことを褒めてやろう」

 

 倒れ伏した男を見下ろしてそう言うと、山の奥に向かって足を進めた。

 

 

 

 周囲は非常に静かだった。

 どうやら山の妖魔達は今の出来事で逃げ去ってしまったらしい。虫の音さえ聞こえてこないのは違和感があったが、気にしても仕方がない。己の浅い息遣いと小さな足音のみが、周囲に起きた動きを耳に伝えてきている。

 だから、布都は気づかなかった。

 それが気配もなく、己の体に到達したことを。背から腹部にめり込んだ鈍い音でようやくそれを知った。遅れて痛覚が体の異変を訴えてくる。前に一歩、ふらつきそうになる体を拒否するように強く踏みしめる。

 振り返ると、気が天に向かうように湯気のように立っていた。

 

「――慣れてはいないようだな」

 

 男は不敵に笑っていた。

 布都の腹部に埋まったものが、中で振動する。

 

「っぐ」

 

 激しい痛みに声が出る。

 抑え込もうとすると、逃げるようにずるっと抜け出して男の元へと飛んでいった。

 

「殺し合いとは殺せば終わりであるが、我々の世界での死と人間の死は同じではない。肉体がすこし壊れたからといって死にはしない。不滅に近い肉体などそう珍しいことではないのだ。――分かるか? 詰ませたものが勝者であるのだ。ようやく勝負の理を出来たお前にもう一つ、次は詰みを教えてやろう」

 

 男はそれを得意げな笑みを浮かべて続ける。

 

「――あぁ、失礼。あの程度の児戯で喜ぶお前に理解出来るかは怪しいものだな」

 

 布都は男を睨みつけた。視線に殺意が載っている。

 屈辱から生まれた怒りが、痛みなど薄れてしまう程に布都の中の全てを支配していた。

 

 ――ただでは殺さん。

 

 どうしてやろうか。布都の思考はそれに染まった。

 裂く、潰す、抉る――。きっとそのどれであっても足りない。全てであってもそう。臓腑が沸き立つ程の熱。頭には凍える程の冷たさ。どうしようもなく、目の前の男を凄惨に殺してやりたかった。

 

「心配することはない。お前も直に拙僧の一部となるのだ」

 

 僧の男は法衣の中から、蛇の尾のような触手を布都に目掛けて出した。

 布都は後ろへ地を蹴り、距離を離しざまに二本程触手を切り落とすと、右に地を蹴った。少し遅れ、布都の居た地には触手が突き刺さり、いくつかの穴を作った。

 布都は腹に手をやり、掴むように血を取ると霊力を混ぜ、腕を振って刃のようにして飛ばした。男は触手を盾のようにして防いだが、刃にあたった触手が大きく割かれ緑色の液体を撒き散らした。陸に揚げらてた魚が跳ねるように、触手が跳ね回った。

 

「防いだにしては、ずいぶんと痛そうだな」

 

 布都は、顔をしかめる男に言い放った。

 

「その気色の悪いのとずいぶんと似合っているじゃないか。品性を表しているのか?」

 

 言い終わるやいなや、触手がまた布都に殺到する。布都はまた同じように躱す。

 

「芸がないな」

 

 そしてまた同じように触手を二本切り落とした。

 が、

 

「――どうかな」

 

 切り落ちた触手の向こうから、先程自分の腹部に穴を開けたモノが飛んで来ていた。

 間に合わない。体制がそこから脱出することを許さない。このまま受ければ、今度は額に穴が開く。そう覚った布都は比較的すぐに動かせた片手を額にやり、飛来物を掴み取ろうとした。が、その飛来物は途中で急降下して、先程空いた穴の箇所に入り込んだ。衝撃は、すぐに通り抜けた。布都は貫かれたことを知った。

 

「言っただろう。児戯と言ったのはそういうとこだ。まったく同じなわけがないだろう。己のことしか考えない者を子供というのだ」

 

 布都は膝をついた。

 足に力がいかなかった。どうやっても胸のあたりでつっかえるようで、立ち上がれない、大きく息を吐き出す。血が混じっていた。

 地面が濡れた。生温い液体。どろっとしたそれは、まばゆい生命が含まれていた。

 人間にとって血は特別な意味を持つ。己の過去と未来の存在の証明であり、生の意味。布都にとっては、ただの液体。己を構成するものではあれど、己ではない。もう一度、大きく吐き出すと、立ち上がった。感覚がぼんやりとして、不思議な気持ちよさを感じた。己の肉体から力が湧いてくるのが分かった。

 男は口元をほころばせた。

 

「運が良い。雛だったわけだ。喰うには最高の餌だ」

 

 ほころばせた口元から、舌が蛇のように伸び出た。嬉しそうに、ちょろちょろと細やかに揺れている。

 

「そして残念だが、もう仕込みは終わっている」

 

 言い終わるやいなや、布都の腹部からまばゆい光が溢れた。

 布都の体はビクリと小さく跳ねると、再び地に沈んだ。

 

 

 

 

 倒れ伏した布都の元まで、男はやってくると様子を確認した。

 息はなく、鼓動も止んでいた。

 

「死んだか。まさかあれで形を崩さないとは驚きだ」

 

 男は極上の餌を前に、舌なめずりをした。

 蛇のように長い舌と、その裏に人の舌があった。

 男は人でもあり、妖怪でもあった。霊力を持つ人間でありながら、妖力を持っていた。決して同居しないはずの属性を一つの肉体という容れ物に収めていた。人魔が混じった化け物であったが、致命的ともいえる弱点があった。それは男は霊力、もしくは妖力を使って術を発動することが出来ない。その二つの性質は互いを拒絶する。しかし、何らかの要因によって混ざりあった場合、拒絶の際に力が爆発的に増幅される。つまり操作と抑制がうまくいかなければ、容れ物である肉体が吹き飛ぶことになる。

 人を超えるために妖魔を宿すことに成功した男にとっては絶望であったが、しばらくするとこれは必殺の武器足り得ることに気づいた。男が二つの力を安定させる為に支払った努力と年数は少なくはない。そんなものを他人の体に急に流し込めば、どうなるか。男はそれを必殺の術として昇華した。

 

「しかし惜しいな。もう少し育っていればさらに良いものになっていただろうに」

 

 男の術は敵を独鈷杵という術具で貫く必要があった。それが可能な程度の力の差でないと、術は使えない。基本的な術は使えない以上、男は術具と耐久力をもって戦うしかなかった。その耐久力のために、妖怪も人も喰らった。どちらかに力の量が偏ると、抑制が難しくなってしまう以上は偏りなく喰らうしかなかった。妖怪を喰らうにはさほどの問題はなかったが、人は問題が多かった。数が少ない上に、護衛等も付いている場合が多い。その上、当人の戦闘能力も高い。まさしく布都は極上の餌だった。

 

「さて、喰うか」

 

 布都の髪を掴み上げようと触れた、その時――。

 男の体に電撃が走った。

 何が起こったのかと、男が布都を見た時、見知らぬ力が布都から湧き出していることに気づいた。

 霊力とも、妖力とも違う、力。

 ゆらりと肉体が起き上がると、目が合った。

 瞳には生気がなく、こちらを見てはいるようではいるが違和感があった。見られているというよりは、観察されているような、そんな感覚。

 男は自分がいつの間にか距離を取っていることに気づいた。

 

「何だお前は――」

 

 返答はなかった。

 意図も分からないまま、ただ瞳がこちらを向いていた。

 男は気に食わなかった。訳は分からないが腹立たしかった。

 

「……もう一度、殺してやる」

 

 死んだはず。男にはその疑念で頭が満たされている。

 疑念を払拭せんと、男は独鈷杵を放った。

 

「…………」

 

 独鈷杵が布都にまで到達すると、静電気が起きたような小さな衝撃音を発して、一切の独鈷杵が力を失って地に落ちた。

 男は驚きを大きく露わにした。

 

「っ馬鹿な、そんなはずが」

 

 男は力の属性に気づいた。

 布都から発っせられている力には電がともなっていた。

 操るどころか発することさえも出来ないとされるもの。男は気づいた。

 

「神力……」

 

 口に出してなお、信じられない。

 

「いや、だが――」

 

 否定が出来ない。

 証人もまさしく自分であった。

 

「っがぁ――」

 

 光を見た。

 身体の悉くが硬直した。

 視界は白に覆われ、感覚はその機能を失い、ただ異常だけを告げた。

 何かが近づいてくるのが分かった。

 たった少しの間。けれども恐ろしく長い間。

 何かに身体を触れられたのが分かった。身体はまともに機能していなかった。なぜ自分が、自分を触れている何かを感ずることが出来るのかが分からなかった。視界の白が徐々に薄れ始めると、青白く発光する少女が見えた。生気のない顔に、薄く弧を描いた真紅の口元。瞳はこちらを向いて、何かを視ていた。紅く濡れる指の腹を舐め取る姿。

 

 ――喰われた。

 

 男は己の死を悟った。たがそれより前に、目に映る光景に魂が奪われた。

 己の死のことなど、隅にやってしまえる程に、魂が惹かれた。

 神というのはそういうものらしい。その超越に呑まれた。畏ろしかった。

 意識が消えた。

 

 少女は、この場を後にした。

 夜空はいつの間にか月が出ており、少女の姿を和らげに照らした。

 

「……意識がないわけではなかったが、まぁ似たようなものであったか」

 

 灰銀の髪に、紺碧の瞳の少女。

 人のようだが、人と言い切るには違和感があった。

 

「つまるところ、己は己を知ったに違いない。うむ、そうであろう」

 

 何度かうなずくと、布都はちろりと舌を出して血に濡れた唇を綺麗にして、満足そうな表情を浮かべた。

 

 

 

 



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第8話 村

 山の頂には興味はなかった。

 近づけば近づく程にあらゆるものが減っていく所に用が出来るはずもない。この世の娯楽とは煩雑としたものから生まれるということを布都は知っている。だからこそ嫌がりつつも、否定まではしない。退屈するよりはマシだと思っている。

 どれくらい歩いたことか。夜が過ぎ去りつつあり、辺りが白んできていた。

 代わり映えしない道中にそろそろ飽きが勝ってきた頃、水の音を聞き取った布都は、自分が喉が渇いていることに気づいて音の方向にへと向かった。

 しばらく歩くと、川が見えた。 ゆるやかな川から流れる水の音に、鳥のさえずり。どうやら夜は完全に明けたらしい。

 布都は口や手の汚れを洗い落とすような人らしい行為を行った後、ようやく手で川の水を掬って口に運ぼうとした。――その時だった。地響きのようなな低い振動音、遅れて圧力のある水の音。右に視線を動かすと、木々の高さまで伸びるような渦を巻いた水の柱が蛇のようにうねっていた。

 

 ――どこだ。

 

 布都は大きく後方へ飛び下がりながら、感覚を研ぎ澄ませたが、原因となっただろうものの存在を感知することが出来なかった。一つ分かることは、近づけば逃げるだけだった妖魔と違って襲ってくるということ。それはつまり、向こうは勝算があると思っているということ。

 

 ――面白い。

 

 いかなる術であるか。対処法に攻略法。布都の頭脳が回転する。謎を解く気分である。

 地面に、木々と、渦巻く水の柱は触れるもの全てを削り取っていた。

 布都は触れると己が戦闘不能になる程の傷を負うことを覚った。

 

 川の氾濫というのは人にとっては生存に大きく関することであった。それが生に繋がることもあれば、死に直結することもある。川の多いこの地において、川にまつわる伝説には事欠かない。布都はそれを知らないが、特段知る必要もなかった。酒に酔いつぶれる大蛇もいなければ、大層な剣もいらない。ここで必要なのは、度胸とでもいうべき行動力であった。

 布都は川に飛び込んだ。

 川を相手にしながら川に飛び込む愚行とでもいう行為。しかし、生き延びるのではなく、敵を打ち倒すという目的においては最適解であった。

 川の外からでは分からなかった敵の存在も、川の中に飛び込んでしまえば感知出来た。外からでは分からない程に川となっている存在であったが、実体しては決して川ではなかった。異がたしかにあった。異はさらなる異を追い出さんと、荒々さを増し天地さだからぬまでに流れを激しく狂うわせたが、ついぞ追い出すことはかなわなかった。

 

 布都は兄が矢を放つ姿を思い出した。

 後に弓削りという二つ名を持つ兄の矢は、他の者のそれとは明らかに性質が違っていた。速射でもなく、必中でもない。矢を視たものに射手の意を感じさせる特異な矢。射るだけで事が足りるそれは、未だ発展途上という認識の守屋の評価を難しくしていた。

 

 布都は矢をつがえた。

 霊子で組まれた弓に矢。川の異に向かって、青白く発光したそれが飛んでいった。

 速度十分。激流に影響されずに正確に向かった矢は、異の肩口をかすった。

 流された距離のせいで避けるまでの猶予があった。しかし、効果は十分だった。

 異は川から逃げるように出た。

 布都はすぐさまそれを察知すると、同じく川から出て己が矢の如く飛びかかった。

 矢は避ければすむが、布都ではそういはかない。不幸にも一度だけ避ける動作を許されたが、二度目はなく、鮮血を川べりに晒すことになった。

 

「あっけないとはいわない。これでも楽しめたほうだ」

 

 半魚のような妖魔の腹を裂き、食指が向くものを掴み上げ口に運んだ。

 舌の上で十分に転がし、酔いそうな香りと少しの苦味を堪能すると、布都は満足そうに頷いた。

 

「前に食った魚は鮮度が悪かったのであろうな。これは悪くない」

 

 指先を舐めると、

 

「しかし、見た目は酷いな。とても美味そうには見えん。ゲテモノの方が味が良いなどという輩がいたが、あれは間違いではなかったということなのだろうか」

 

 首をかしげた。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 喉を潤し、腹も満たした。

 およそ考えうる楽しみは一通り満たしたような気がする。ただ、このまま物部の屋敷に帰るのは気が進まない。そもそも帰るという感覚に違和感がある。人は場所に帰るのか、それとも人か。もしくは、そのどれでもない何かか。

 

 ――解き明かすことに意味があるかな。

 

 結局のところ、自分が一番何を求めてるかなんて分かりはしない。欲しいものを全て手に入れてしまったらようやく分かることなのかもしれない。欲が際限なく増大していく人間という存在には難しいことかもしれないが、どこかで事足りたと偽りでもしないと欲に潰されてしまう。欲の発生源が内から出たものなのか、それとも外から植え付けられたものなのか、それさえ見極めることが出来れば取捨選択は可能のように思える。

 つまるところ、他人の欲しがってるものを己も欲しがるように誘導されてることに気づけばそれでいい。

 

 ――飽くまで寄り道するのもいいか。

 

 好みの欲が見つからなければ、見つければいい。必要なのは楽しもうとする意思くらいであろう。

 布都は難しくは考えない。適当に歩いていれば向こうから出迎えてくるだろうと思っている。それが外れだろうが当たりだろうが、関係はない。

 布都は出迎えに挨拶をした。

 

「そこの、一体何か用か?」

 

 布都の視界の端の茂みが、わずかに動いて子供が出てきた。およそ十歳弱といったところの少年。裕福そうには見えないが、食い物に困ってる様子でもない。

 

「いや、お前こそこんなところで一体なにをしてるんだ」

 

 警戒心を露わに、少年はそう言った。

 

「お前に答える必要があるとでも?」

「聞かれたことには答えるものだろう!」

「知らぬ法だ。我は採用していない」

 

 少年は顔をしかめた。

 

「……お前はいいやつじゃないな。嫌なやつだ」

「こちらからするとお前はそのどちらでもないがな」

「じゃあどうして話しかけたんだよ」

「理由が必要か?」

「もういい。お前と話してると気分が悪くなる」

「そうか? これでも充分期待はしているのだが」

「はぁ?」

「お前には興味はないが、お前という存在が現れたことには興味がある」

 

 布都は少年の方を向いているが、見てはいない。状況に対して話しかけているような、半ば独り言のような会話になっている。

 

「さて、案内くらいはしてくれるのだろう?」

 

 少年はその傲慢さが信じられなかった。しかし、その言葉を聞いた時、己の中に仄暗い思いが湧き出るのが分かった。少年はそれに対しほとんど無自覚である上に、隠す技術もなかった。

 布都はようやく笑みを見せた。我が意を得たりとばかりに、未来の歓待を期待した。

 

 その村はぽつんとあった。

 外敵が多いこの時代において、村というのは生存戦略の結果のような集合の仕方をしているが、その村は虚空に突然現れたかのように存在が異質だった。山のふもと、そこで夜を過ごすには辺りに木々が多すぎた。土地がほとんど切り開かれていない。いつでも何かが忍び込めるような、そんな村だった。

 

「ここが俺たちの村だ」

 

 布都が村の敷居を超えた時、肌に何か当たるような感覚がした。

 

「見ての通り、特に何もない村だけど夜を過ごすくらいは出来る。飯も多少はある」

「ふむ」

 

 布都は袖に両腕を通し合い腕を組むと、周囲を見回した。

 村の中で小さな畑を耕している男に、狩りの帰りなのか、弓矢と獲物を担いでいる少人数の集団。そのどれもが布都を一瞥すると、視線をどこかへやった。人並みではない容姿に釣られた、というわけでもなさそうだった。

 

 ――悪くない。

 

 期待外れとはいかなさそうだった。

 

「夜、何か食ってくだろ? 日暮れまで待ってくれたら、用意出来るから待ってろよ」

「ん? あぁ、そうしようか」

 

 村の中で夜まで待っていて欲しいらしい。

 こう分かりやすいと、存分に乗ってあげたくなった。

 肉を焼くと、脂が焼ける香りに食欲が存分にそそられるが、これも似たようなものだろう。こういうのは馬鹿にでもなったがごとく、素直に堪能するのがいい。布都は言われた通りの小屋に入り、望まれている通りに外に出ずに中でゆっくりすることにした。

 不満があるとすれば、話し相手が変わらないことだろうか。飽きがきている。

 

「その、身なりから考えると、結構身分が高いんだろう?」

「そう思うなら、言葉遣いを改めねばな」

「あ、そうか、えっと……」

「冗談だ。今まで通りでよい。いつもは顔を上げさせるにも許可を出す必要があるのでな、こういうのも新鮮でよい」

「そっか、そんなに……」

 

 少年の顔に期待が滲む。

 

「それもただの高貴な身分というだけではない。我は特別である」

「特別?」

「妖魔の類からするとヨダレが止まらぬような存在とでも言おうか」

 

 驚きで、少年は大きく口を開けた。

 布都は笑みを深くする。己の立場を得意気に話しているからだと、向こうは思っているのだろう。

 

(あと少し勘の良い者であれば、あからさまに欲しい情報をくれることに何かしらの違和感を持っただろうに)

 

「それより、少し疲れた。一人になりたい」

 

 そう言うと、布都は目を閉じて壁に寄りかかった。いかに勘が鈍い者でも伝わったようで、少年は小屋から出ていった。

 

 

 

 扉が開く寸前、気を察知した布都は目を開けた。

 

「っ起きてたのか」

「悪いか?」

「……いや、丁度良かった。飯の用意が出来たから来てほしい」

 

 布都は立ち上がると、夜の静けさの中にひっそりと蠢くものを感じた。

 

 ――どうやら本当に用意が出来ているらしい。

 

 布都は村の中で一番大きな家屋にまで案内された。

 

「ここだよ」

 

 扉が開けられ、中の様子が見えた。広い間が一室のみであった。篝火が焚かれており、揺れ動く影から数人の人間がいることが分かった。

 

「肝心の食事が見えないが」

「後から運んでくるよ」

「そうか」

「……先に入って待っててよ」

 

 どう考えても罠に等しい死地である。

 布都は中に足を踏み入れた。

 すぐに扉が閉められ、追加で硬質な物音が一つ立った。中からは開けれないようにしたのだろう。

 気にせず進むと、左右に壮年の男が二人ずつ座って、表情の読めない顔でこちらを見ていた。

 

「何か?」

 

 返事はない。

 

 ――焦らしてくるな。

 

 催促してやろうかと、殺意を表に出そうとした辺りで、ようやく出てきた。

 奥の隅にある扉が開かると、卵に顔の絵を薄く書いたような男がやってきた。広間の奥の中央まで歩くと、嬉しそうに布都を見て言った。

 

「これは素晴らしい」

 

 上質な着物を着ており、地位の高い豪族の若い長のような出で立ちだった。

 男は線のような目と口を三日月のように歪め、言った。

 

「いくつか質問しても?」

「こちらの質問に先に答えるのであればな」

「分かりました。では、どうぞ――」

 

 布都にとって知らなければけない情報はない。

 質問をする理由など、戯れ以外になかった。

 

「昼間は見かけなかったが、どこに?」

「村の者と一緒に狩りに行っておりましたよ。……では、こちらの質問ですが」

「――まだ終わってはいない」

 

 布都はさえぎった。

 

「……どうぞ」

 

 顔の線がひくついた。どうやら感情はあるらしい。

 布都は笑みを作ってみせた。

 

「悪いが、忘れた」

「え?」

「つまりだ、あれこれ考えたが面倒になった」

 

 布都は笑みを深くし、殺意を表に出した。

 

「馳走になれるというから、わざわざ乗ってやったのだ。そろそろ頂くものを頂こうじゃないか」

 

 布都の横で座っていた男がざっと立ち上がる。

 

「生存に必要なものは勘所だぞ。……お前等は正しく働かせれるかな?」

 

 言い終わる前に、布都の両手は血に濡れた。布都へ飛びかかろうとした男が二人、地に伏した。

 布都は奥の男を指すと、

 

「あぁ、お前にはその必要はないがな」

 

 ぽたぽたと指から血の滴らせながら、死の宣告を行った。

 布都は返答を待たない。そのまま前へ一つ短く跳躍し、素手で頭から二つに身体を割いた。

 すると、後ろから悲鳴が上がった。

 

「な、何てことしやがる!」

「開けろっ! ――早く、開けろ!!」

 

 男二人は怯えに満ちた顔で、扉に殺到した。

 扉を力任せに叩く。壊してでも、ここから逃げなければならない。男たちは必死だった。

 外から物音がして扉を開くと、男たちは一斉に飛び出した。

 

「ど、どうしたんだよ」

 

 扉を開けた少年が聞くと、

 

「っあいつ、やりやがったっ」

 

 男たちは振り返ると、これから起こる惨事に身を震わせた。

 

「何人持ってかれるか分かんねえぞ……」

 

 少年は不安に支配された。

 何か尋常じゃないことが起こったことは分かったが、結局のところ何が起きたかが分からない。

 ただ、どうしてか自分が何かやってしまったような、そんな予感だけがした。

 

「お前の連れてきたあいつ! あいつがやりやがったんだよ!」

 

 分からない。何か世界と自分が遠くなったかのよう。ただ一つ、気になった。

 

「――父ちゃんは?」

「ああ? もうすでにやられちまったよ」

「え?」

 

 分からない。分からないままでいたい。

 

「とにかく、やべえぞ。ロクに残ってやしねえが、女子供を集めるしかねえ」

 

 残酷な生存戦略がここにあった。

 

「全部持ってかれることがないことを祈るしかねえ」

 

 命とはその他の命の上に成り立っているものである。その有り方に多少の差異があることもあるが。

 

「全員集めるぞ。寝てるやつがいたら叩き起こせ」

 

 村は決して広くはない。すぐに集まった。

 事態の説明を受け、皆、深刻な顔をしている。助かるのか、助からないのか。そして誰が助かるのか。それでも逃げ出す者だけはいない。

 

「……にしても静かだな。もしかして逆にやられちまったんじゃないのか?」

「馬鹿いえ。そんなわけがあるか。相手は神だぞ」

「……あんなのでもな」

「やめろ。それを言うと耐えられなくなっちまう」

 

 地が揺れた。

 木が破裂する音を奏でながら、衝撃を周囲に伝えた。

 見上げた先、屋根二つ分程高い位置に、二つに裂けた卵のような顔、その下には肉が地面まで連なっていた。

 口の線が上下に裂けると、地響きのような音で言葉を発した。

 

「――寄越せ。あらゆる全てを」

 

 村人は絶望した。

 自分たちがあの一部になる時が来てしまったのだと、覚った。

 

「はてさて」

 

 村人が集まるよりも早い頃から、小屋の屋根の上で座っていた灰銀の髪の少女は、愉しげに細指で唇を撫でて眺めていた。

 

「随分と醜いなぁ」

 

 どちらを指して言ったのかは分からない。



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第9話 不満足

 村人たちは、逃げるために距離を取った。人間としての本能だった。命の危険からは逃避するように出来ている。だがそれは絶対命令ではない。必死の状態とわかった上で、立ち向かうこともある。

 少年が吠えた。

 

「ふざけるなっ! 父ちゃんを返せよ!」

 

 布都をこの村にまで連れてきた少年だった。その目には、妖魔に組み込まれて間もない原型を保ったままのよく見知った肉体が映っていた。もう助からないということは分かっていた。だが、今ここでそれに気を取られるわけにはいかなかった。意地であることくらいは分かっていた。到底太刀打ち出来ないことも分かっている。それでも背を向けるわけにはいかなかった。

 

「馬鹿野郎っ、さっさと逃げるんだ!」

 

 少年の腕を引っ張られ、無理矢理遠ざけられる。

 

「何でだよ! 父ちゃんがいるんだぞ!」

「諦めろ! 生きたまま喰われたやつなんかいやしねえんだ。あれは絶対に死体しか喰わねえ」

「違う、そうじゃない!」

「いいからこい! お前まで死んじまったらどうする! 生き残るためには何でもする、それがこの村の掟だろうが」

 

 少年は奥歯を割れんばかりに噛み締めた。

 

「……っでも」

 

 否定しなければならなかった。整理のつかない感情に涙が溢れる。

 

「……大体、どこに逃げるっていうんだよ。村から出れば必ず死ぬって」

「それをやる」

「え?」

「生き残ったやつ全員で逃げりゃ、一人くらいは生き残れるかもしれねえ。こうなった以上はやるしかねえんだ」

 

 少年が顔を上げると、覚悟を決めた顔の男が見えた。

 

「ごめん」

「今はそういう時じゃない」

「うん、ごめん」

 

 事の発端は自分のせいだと少年は謝った。それが伝わったかどうかは分からないが、とにかくのんびりしている時間は無かった。

 ここには二種類の人間がいた。生きるために逃げる事を決意した者たちと、生きるために頭を下げた者たちだった。

 化け物に向かって老いた一人の男が跪いている。

 

「仮面様、どうかお鎮まりください。我らはあなた様に忠誠を捧げた身、どうかこれ以上は――」

 

 正しさなんて分かりはしない。そんなものは過去にしか存在しない。

 あがいた結果が過去になってようやく分かる。

 老人の言葉に化け物が返事をした。

 

「ならば、その忠誠を見せろ」

 

 土の根ような手足を使い、屋根で優雅に眺めていた少女を指し示した。

 

「そいつを引きずり下ろし、我が下に差し出せ」

「ははっ」

 

 屋根の上の少女、物部布都は笑みを見せた。

 身を隠すどころか、身動き一つしない。

 

「射落すのだ!」

 

 老いた男の命令で、老人の周りにいた者たちが駆け回り、弓矢を準備すると布都を狙って弓を引き絞った。

 

「ここまで緩慢だとあくびも出ないぞ」

 

 布都はずっと待ってあげていた。

 それは矢を射掛けてもそうだった。避ける気にもならなかった。また、実際に射掛けられた矢は外れた。

 

「それじゃ野兎も狩れん」

 

 布都は屋根から飛び降りてみせた。

 

「そら、もう一度やってみるといい」

 

 大きく手を広げ、そう言い放った。

 一歩踏み込むと、周囲の人間は一歩引いた。

 

「と、取り囲め!」

 

 布都の目的は初めから変わらない。どう楽しむか。それ以外にはない。だからこそ、予想を超えるものを期待している。

 目を細め、周りを確認する。

 自分を囲む人間たちの腰は引けていた。少し遠くの気配は動きを止めていた。

 

(さてどうなることか)

 

 微笑を見せた。それが合図となった。

 

「押し倒せ!」

 

 距離が詰まる。

 布都は微笑を引っ込めた。

 右腕を伸ばし、組み伏そうとやってきた者の頭を掴み、潰す。もう片方の手で、吠えながら突進してきた男の首を割いた。身を回転させ、落ちゆく頭を蹴り飛ばし、指示を出した老いた男に当てて昏倒させると、動きが止まった。

 ほんの少しの間の動作。場の空気を変容させるには充分だった。

 

「うそ、だろう――」

 

 怯えから出た現実の否定。言葉を発した者に向かって、布都に目を合わせ舌なめずりをして見せた。

 

「っひぃ」

 

 布都はわざと酷さを出して殺して見せていた。怯えを仮面の化け物に対してだけではなく、自分に生ませるため。

 恐怖は二分された。

 布都はそれ以上を望んだ。仮面の化け物に対する恐怖を自分へと塗り替えてやりたかった。

 

「も、もう嫌だ――」

 

 一人、耐えきれなかった男が逃げた。

 

「――忠誠は、どうした」

 

 地面が震えるような声。

 地中から生えた木の根のような手足が、逃げた男の腹を貫いた。

 

「っ――――」

 

 男の名を叫ぶ声。

 村人にとって極限の状態だった。逃げれば死、従っても死。動かないでいることが、延命出来る唯一の方法だった。だがそれも数秒だけであることは分かっている。分からないはずもなかった。生死の狭間、人はその在り方を変えることがある。

 逃げた男が腹部を貫かれた時に男の名を叫んだ者の表情が、悲嘆から悲憤に変容した。

 

「――何故だ、どうしてこうなる。生きることさえも選べないのか」

 

 返事はない。

 

「ただ生を願っただけじゃないか。その為に必死に生きてきただけじゃないか。もう俺の娘もいない。どうしてこうなるんだ」

 

 この村で生きるには常に犠牲が必要だった。

 外敵から守ってくれる代わりに、生贄を出さねばならなかった。逃げたものは全て惨たらしく殺された。そのうえで、罰として生き残った者にさらなる生贄を要求した。

 租税は命によって行われていた。

 

「今だ! 射掛けろ!!」

 

 火が降った。

 最初に逃げたはずの者たちが戻って来て、火を灯した矢を仮面の妖魔に向かって射掛けていた。

 

「お前ら、大丈夫か!」

「な、なんで、戻って」

 

 少年が前に出て答えた。

 

「意地だから」

 

 生きることを考えるなら、あのまま逃げ去ってしまうのが一番確率が高かった。それでも戻ってきた。

 

「生きるとか死ぬとかじゃない」

 

 このまま、逃げて終えてたまるかと、腹が立った。それが生存本能を越えた。

 

「あのクソ野郎に一矢報いてやらないと、この先絶対に納得出来ない!」

 

 恐らくは死ぬことになるだろう。皆、そう想っている。一度は決死の覚悟で逃げることを決めた上で、それを翻してこの場に戻ってきた。死の恐怖はもう通り越して来ていた。

 

「愚か者め――」

 

 怒りを表す妖魔に、緊張した顔の村人たち。その中に一人だけ愉快そうに口元を撫でる少女、布都がいた。

 

「悪くない。良い土産話が出来た」

 

 布都の中で人間という存在の印象が上書きされた。

 少し前からなんとなく変容してきていたものが、形を帯びてきた。

 布都は村人たちに向かって口を開いた。

 

「――見守っているのと、手を貸すのとどちらがいいか選ぶがいい」

 

 答えは聞かなくても想像出来る。

 

「しかし、手を貸す場合は我を主と仰げ」

 

 鬱陶しくて拒んでいた存在を、今なら所持してもいいという気になった。

 

「ど、どうする――」

 

 そうは言うも、時間はない。この瞬間、もしくは数秒後、いつ仮面の化け物が襲いかかってくるか分からない。

 死ぬ覚悟はしてるが、決して死にに来たわけではない。だが頷こうにも、手を貸すといった少女の手は仲間の血で濡れている。

 一瞬の逡巡。

 答えは出ている。後は納得の問題である。

 少年が声を張るために顔を上げた。

 

「頼むよ!」

 

 注目が少年に集まる

 

「あいつをぶっ倒せるなら、なんでもいい!」

「あ、あぁ!」

「そうだ――」

 

 周りの全てが呼応した。

 布都は面白かった。染み込んだ恐怖が上書きされる様、恐怖が払われる様。命の輝きを初めて見た。人がひどく崇高なものにすら見えた。

 

 ――いかんな。

 

 乗せられそうになる自分を抑えた。

 これは元々、己の欲を満たすだけの行為であるはずだ。思い上がった者を地に落とし、踏みにじる。断末魔を聞きながら、腹を満たす。そういうもののはずだった。

 

(しかし、この高揚はなんだろうか)

 

「聞くがよい。我が名は物部布都である。それが、これよりお前たちの主の名となる」

 

 己は人の上は立たない。そう決めたはずだった。兄を見て、その生き方は自分には性に合わないと、そう思ったはずだった。

 己を支持する声を受けると、少し気恥ずかしげに鼻を鳴らした。

 

「……さて、義務を果たそう」

 

 布都は仮面の妖魔に向き直った。

 後ろに村人が集う。

 

「何をすれば――」

 

 村人たちの顔の緊張は解けてはいない。

 己に出来ることであれば行う。決して人に放り投げたつもりはなかった。やるべきことを行う。それが目的に繋がるのであれば、何であったとしても。

 その覚悟を持って布都の指示を待った村人たちだったが、布都の返答は簡素だった。

 

「少し離れていろ。巻き込まれても知らんぞ」

 

 振り返りもせずにそう言った。

 

(気の昂りというのも問題だな)

 

 ただの人間がやる気を出したからといって、妖魔に勝てるはずもない。死にたいのであれば別だが、そういうわけでもない。恐怖は恐怖としての重要な役割がある。それを忘れてはいけない。

 それより、少し気がかりなことがあった。

 布都は視線を上げた。

 

「なぜ攻撃せずに待っていた?」

 

 布都の声は大きくはない。しかし、天から告げられる言葉のかのようによく通った。

 仮面の妖魔は答える。

 

「人間の心というものが移ろいやすいものであるということを知っているからだ」

 

 物理的に上から発せられる、地響きのような声。同じようで、まったく違っていた。

 言い終えると、仮面の妖魔は肉の触手の一本を周りによく見えるように掲げた後、地面に突き刺した。触手は地面を掘り進み、村人たちの固まっている地面から勢いよく飛び出した。

 

「なっ――」

 

 反応が遅れた村人の一人を絡め取って、上に掲げた。

 

「――聞け。もう一度、我が元に頭を垂れろ。そうすれば命は助けてやる上に、これまで通り守ってやる」

 

 続ける。

 

「否と言えばこいつを潰す。 特別に何度も問うてやろう」

 

 絡め取られた村人の苦痛から出る声が響き渡る。

 

「最後の一人まで、問うてやる。すぐに答える方が得だ。犠牲は少ないに越したことはないだろう」

 

 絡め取る力が増したのか、苦痛の声も増した。

 

 ――さて、どうなるか。

 

 布都は視線だけを後ろに向けると、村人たちの顔には恐怖ではなく憤怒の色が現れていることが見て取れた。

 

 ――ならば。

 

 布都は構えた。

 

「受け止めに行くやつを決めろ」

 

 腕を振るう。

 青白い刃が飛翔し、村人を捉えていた触手を容易く通化した。

 触手と共に、村人が落ちていく。

 慌てて駆け出しった村人が仲間を受け止める。一命を取りとめた村人は周りに礼を言うと、すぐさま自分の足で立ち上がり妖魔に向かって睨みつけた。

 それは明らかな敵意であって、そこには毛ほども順従さはなかった。

 

「分かった。ならば死ね――」

 

 皆がこれからのことに覚悟を決めた時、布都は不敵な笑みで右腕を上げていた。

 青白い刃が、仮面の妖魔の割れていた部分に到達し、血が吹き出し怒りの叫びが上がる。

 

「痛みがあるのかよく分からないな。もう少し、傷つけてみるか」

 

 痛がるそぶりより、怒りだけを表に出す妖魔に布都は続けて攻撃した。

 複数の青白い刃が一斉に妖魔を襲い、妖魔の体中から血を吹き上げた。

 

「ふむ、腹立たしさが勝ってるというよりは、そもそも大して痛みを感じていなさそうだな」

 

 布都に向かって、上から下からと触手が、その身体を貫かんと殺到した。

 

「うーむ、醜くく情けない叫びでも上げてくれたら満足出来るのだが」

 

 襲ってきた触手を、くるりくるりと身を回転させて避ける。その際に、次々と両断された触手が地に落ちた。

 

「これじゃつまらんぞ」

 

 見上げ、そう言う布都は、さらなるを求めた。

 

「ところで、――お前、頭が高いんじゃないか?」

 

 布都はそう言って指を妖魔の仮面に向かて指すと、炎が燃え上がった。

 

「あの鈍い刃が刃の役割しか持たないとでも? お前のほうがはるかに鈍かったわけだ」

 

 炎に包まれた触手が布都に向かっていく。

 布都は薄い笑みを浮かべたまま動かない。

 そんな布都に目掛けて、上から押しつぶそうと触手が降ってきた。布都に到達すると、地響きが起きた。

 

「足りないな」

 

 布都は、降ってきた触手を右手一本で受け止めていた。触手が逃げようとうねるが、布都に触れらている箇所だけが動かない。

 

「――調子に乗るな」

 

 怒りを表すように触手の速度が上がった。風を押しのける音と共に、布都の両側から触手が挟むように迫ってくる。

 布都は掴んでる触手を下に引き寄せると、真上に飛び上がった。

 

「力も、速さも、――知恵も足りない」

 

 追いかけてきた触手を足場代わりに、蹴って仮面に接近する。

 仮面の化け物は後ろへ仰け反った。

 

「その上、心も足りていない」

 

 布都は手を目一杯に広げて仮面に覆いかぶせ、勢いそのまま、地面に押し倒した。

 視界いっぱいに土煙が起こった。

 村人たちからは、どうなったのかの様子が分からない。来るなと言われた以上は行けない。どうすると周りを確認すると、皆同じようだった。

 

「――行こう」

 

 誰かがそう言った。

 一度、言葉になれば我慢は出来なかった。皆頷き合うと、駆け寄った。

 

 

 

 布都は仮面に足をかけ、ぐっと上半身を折って顔を近づけた。

 耳は無いが、耳元で囁くようにして言った。

 

「恐怖がどうとかと言っていたが、どうだ、――今の気分は?」

 

 仮面から軋む音がする。

 

「怖いのならそう言ってみろ。すぐに楽にしてやるぞ?」

 

 布都はくつくつと笑った。

 返答は無かった。布都が足に力を入れると、仮面から出る軋む音が大きくなった。

 

「残念だ。どうなぶってやろうと考えていたのだが無駄だったな」

 

 布都はかけた足を外すと振り返った。

 

「トドメはお前たちでやるがいい」

 

 そう言われた村人たちに依存はなかった。自分たちの手でやれるのであればそれに越したことはなかった。

 もう興味をなくしていた布都は、その様子を見るわけでもなくぼんやりと空を見上げていた。

 

「はぁ」

 

 ただ消滅を待っているようで、つまらなかった。満足には程遠かった。得るものはあったが、最後の最後で肩透かしをくらってしまった。

 

(もう少し遊ぶか)

 

 布都は帰りを延期した。

 

 

 



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第10話 変化

 結局のところ、布都はどうして帰ることを延期したのかは分からなかった。何となくその方が良いような気がしただけという曖昧なものしか浮かんでこなかった。

 

「自分が何を望んでいるか。その答えをハッキリと持っている者はいるのかな」

 

 布都は手頃な岩に腰掛けながら、そう呟いた。

 右膝を曲げ、左の太ももの上に置いている。両手は後ろにやって岩に手をつけて重心を後ろに流していた。

 首を上げるといつも変わらない夜空が見えた。

 

「何か、お悩みですか」

 

 布都は1人ではなかった。周りに幾人かいた。村にやってくる妖怪等への見張り番である。

 

「屋敷に戻らなければいけない気がするが、気が進まない」

「何か懸念でも?」

「ない。……と思うのだが、実のところあるのかもしれない。このままでも悪くない気がするものの、どうしてかそれでは良くない気がする」

「では答えは出てるようなものです」

「戻るべきか」

「はい」

 

 村人はうやうやしく頭を下げ、礼を取った。

 

「我らはどこへなりとも付いていきます」

 

 周りの村人たちもならって同じように頭を下げた。

 

「念を押さずともよい。明日の朝にでも発とう」

「承知しました」

「一応言っておくが、つまらない所だ。その上に命の危険もある」

「つまらないかどうかはさておき、命の危険であれば今でも充分かと」

「たしかに」

 

 布都はくすりと笑うと、立ち上がった。

 

「じゃあ、我は寝る。お前たちも上手くやれ」

「っは」

 

 決めた以上はやる。布都はそう思うも、そう思わないではいられないくらいには気がすすまなかった。義務というのはそういうものかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 山を降り、人道を通り、その集団はかなり目立った。

 しかし、その歩みが邪魔されることはなかった。

 先頭を行く者に、皆が気後れした。灰銀の髪に空のような瞳、己とは違う存在に皆が道を開けた。どこの誰かと聞きに来た者も、ただ一度名乗るだけで去っていった。

 屋敷の前までたどり着くと、門前で護衛と一緒に父の尾輿が待っていた。

 布都が立ち止まると、互いに目が合った。

 少しの間、無言が続いたが尾輿が先に口を開いた。

 

「……布都、で間違いないか」

「感じたままに判断するのがいいでしょう」

 

 尾輿は眉を寄せたが、布都は変わらず無表情だった。

 

「後ろのは我の部下です。寝食の用意をお願い出来ますか?」

「ああ。その程度であれば問題ない。すぐに用意しよう」

「助かります」

 

 布都は振り返ると、目だけ合わせた。村人たちが頷いたのを見ると、前を向き直した。

 

「では我は休みます」

 

 布都は屋敷の中へと歩いていった。

 自室へ行く途中、首を傾げた。

 尾輿の様子が前とは違っていた。前のままだと、あのまま長々と問答することになっただろう。しかし、一番最初の問い以外は何もなかった。人が変わるには何かきっかけが必要になることを布都は知っている。

 

(何かあったな)

 

 てっきり何かしら言い合いするものとばかり思っていた布都は、気がかりになった。

 

(後で聞いてみるか)

 

 部屋に入ると、懐かしさが香りとともにやってきた。

 腰を下ろすと、壁に寄りかかり目を閉じた。

 力が抜けていく感覚がして、思いの外自分が疲れていたことを布都は知った。

 

(少し寝よう)

 

 意識がぼんやりと輪郭を失い、まどろみの中に溶けていった。

 

 

 

 そうしてしばらく経った頃、部屋の扉が開いたことで布都は目を開けた。

 

「――お前が布都か」

 

 知らない男だった。年は少しばかり上。目の力が強く、身体は鍛えていそうな肉付きだった。

 布都は口を開かなかった。頭の中で既に数度殺した。

 

「おい、俺の言葉が聞こえていないのか。お前が布都かと聞いている」

 

 布都にとって、二度言われようが催促されようが自分が行動する要因にはならない。脅威も興味も毛ほどに感じない。

 布都は見ることすらやめた。

 

「……そうか、後悔するぞ」

 

 去ったのが分かると、布都は立ち上がった。

 日差しが眩しかった。

 

「教育がなってないな」

 

 開けたままになっていた扉を閉めると、そう言った。

 部下を何人か連れていたが、どれも同じような態度だった。

 

(もしやこれか?)

 

 尾輿の変容の原因が分かった気がした。

 この後、また同じことがあった。それにより布都は確信した。

 

(このままでは物部氏が内部から壊れるな)

 

 身の程を超えた欲というのは己を滅ぼすが、欲によっては周りを巻き込むことになる。

 

(さっさと兄上を呼び出さば片がつくだろうに)

 

 自分を特別な存在だと勘違いしたやからほど面倒なものはない。理想を無理に現実として当て嵌めようとするから、歪が生まれる。関わって良いことはない。

 

 しばらくすると、また同じようなのがやってきた。

 

「――お前が」

 

 何か言っている男の横に、まだ十を越えたくらいの童男がいた。緊張しているようで、表情が硬かった。子供とはいえ、女のように線が細かった。

 

 ――おや?

 

 何かを感じ取った布都は、身を近寄らせた。

 

「名は?」

「――あ、えっと、贄個といいます」

「そうか」

 

 名前を聞くと、布都は身を引いて元の位置に戻った。

 その様子を見ていた贄個の横にいた男が、気分良さげに鼻をならした。

 

「お前の弟だ。お前を越える才能の持ち主だとも言われている。態度を改めるなら早い方がいいぞ」

 

 何か言っている男を無視して、布都は贄個によく見えるようにして指を立てた。

 

「見えるか?」

 

 びくびくとしていた贄個が目を大きく開くと、

 

「は、はい!」

 

 かしこまったようにそう答えた。

 

「充分だ」

 

 布都は微笑んだ。

 満足した布都は、虫を払うような手付きを行った。

 

「もういいぞ。去れ」

 

 布都は退出を促した。

 

「いい加減にしろよ――」

 

 そう言って踏み出した男を、布都は鬱陶しそうに睨んだ。

 

「っ」

 

 睨まれた男は、息が喉で詰まった。そのまま逃げるように部屋を去っていった。

 今度は扉は閉められた。

 

 

 夕方になった。

 夕食は運び込まれずに、別室で取ることになった。

 案内された部屋の中には、父ともう一人。布都は記憶を辿って、その者が物部氏の中で最高の術師であることを思い出した。己の師として数日接することになった男だった。

 

「来たか」

 

 空いた席は一つ。

 布都は座った。

 

「念入りに人払いはしてある。近づく者があればすぐに排除する手筈だ」

「何か聞かれたくないことでも?」

「いや。お前が好きに喋れるようにしただけだ」

 

 布都は首を傾げた。

 

「深くは聞きませんが、あまり意味を感じませんね」

「聞こう」

「聞かれたくない話など持ち合わせていませんので」

「まぁ、そうだろうな。――こちらから話そう」

 

 尾輿は真面目な顔で口を開いた。食事にはまだ手をつけていない。

 

「……兄弟には会ったか?」

「ええ」

「どうだった」

 

 伺うような視線。

 布都は素直に答えた。

 

「特に。顔も大して憶えていませんね」

「……そうか」

「ああ、でも一人だけ顔を憶えてますよ。優れた術師になるでしょう」

「お前がそう言うのであればそうなのだろう」

「聞きたいことはそれですか?」

「ああ」

 

 尾輿は黙り込んだ。

 横の術師が尾輿の盃に酒を注いだ。

 尾輿は一気に呷った。

 

「あいつを呼び戻す」

「よろしいので?」

 

 誰を指しているか、疑問は浮かばなかった。

 

「必要があるだろう」

「我は傍観に徹するか怪しいですが」

「どうせ結果は変わらないだろう」

 

 尾輿は深くため息を吐いた。

 

「悪くはないんだ悪くは……」

 

 布都は食事を口に運びつつ、この父にも情というのものがあるとはと少し感心した。

 

「いなくなってから分かる何とやらですか?」

「それだけなら良かったが、な」

 

 これまでの人生を氏族の維持、強化を第一に考えてきた尾輿にとっては、跡継ぎの問題での内輪揉めが信じられなかった。揉めるというのが分からないでいた。こんなものは勝ち取る以外にないと思っている尾輿からすると、寝ながら遊んでいるようにしか見えない。この程度のことに時間をかけているようでは、物部としての政治は到底務まらない。

 

「血が多く流れるでしょう」

「……出来るだけ最小限にしたいのだ。長期化するも、大きくなるも、必要ない血が流れる」

 

 尾輿は布都を見た。

 その意図は明確だった。尾輿は小さく言う。

 

「有望な者は残してほしい」

 

 布都は眉を寄せた。

 

「それを兄上にやらせるつもりで? ご自分でやった方が早いでしょうに」

「次の長がやる方が収まりが良いだろうからな」

「ああ、そういうことですか。我としては兄上が望めばそうするだけです」

「充分だ」

 

 恐らく結果的にそうなるだろう。布都は、面倒そうな顔で事を終わらせる守屋を思い浮かべた。

 

「ではそろそろ――」

 

 布都は立ち上がった。

 去り際に振り返ると、

 

「前よりずいぶんと話しやすくなりましたね」

「少し弱っているだけだ。歳のせいにしておけ」

「そうですか。人とは変化するもの。これが旅路で得た一番大きなものかもしれません」

「旅か、良いな。羨ましくすら思える」

 

 尾輿が少人数で外に出るようなことがあれば、いたるところから刺客が訪れることになる。

 布都は部屋から出ると、部屋に残っている尾輿は大きく息を吐いた。

 

「……疲れたな」

 

 横の術師がいたわる。

 

「肩に乗るものの重さからすれば仕方がありませんよ」

「まぁ、な。……あいつの言葉ではないが、あいつ自身も前より話やすくなっていた。旅のせいかな」

「私の目からでもお変わりがあったように感じました」

「髪の色からして違うしな。……で、どうだった。贄個と比べてどれだけ違う」

 

 わざわざ同席までさせた理由がそこにあった。

 

「難しい答えになりますが」

「何を言おうと構わん。今更腹など立てるわけもない」

「……では失礼して。贄個様はあと数年もすれば私の座を譲れる程の才気を感じさせます。これぞ物部が神の恩寵を受けている証とでも言えましょうか」

「聞こえが良い話だ」

「しかし、姫様に関しましては何も分かりませんでした」

 

 尾輿は術師をまじまじと見た。術師の男は神妙な顔を下に向けていた。

 

「……人が神を測ることが出来ないのと同じです。私などが力を測ろうなどど、畏れ多いことです。私があの方の名を口にすることは、これから先に一切無いでしょう。私にとってそれは不遜を超えております」

 

 尾輿は言葉が見つからなかった。

 

「分からないことが分かる程度の私が何を言うかと思われるかもしれませんが、あの方の進む道が物部の道となるでないかと」

「その分からないことが分かる程度が分かるやつはお前の他にいるか?」

 

 術師は首を縦にも横に振らなかった。

 

「分かった」

 

 尾輿にはその答えが何を意味するかを理解出来た。どちらも正しくないというだけだった。

 

「俺がまだ生きていることが一番の証拠だな」

 

 汁物を口に運ぶと、すっかり冷えていて、喉を伝う感覚がありありとした。

 

「この機会に毒も入れれないとはな」

 

 尾輿は食べる気を失って、立ちが上がった。

 外はすでに暗くなっていた。

 



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第11話 とある日常

 数日後のこと。

 布都が目を覚ましたのは昼だった。

 布都としては日暮れまで寝ていたかったが、そうはいかないらしく、飯の用意がどうたらと理由をつけて起こされた。せっかく起きたのだからと、昼食は無視して元村人の部下たちの様子でも見に行くことにすることに決めた。

 何が入っているか分からない飯など取る趣味はない。例え人が用意出来る程度の毒だったとしても、まんまと摂取してやるのは面白くない。

 

「確か、贄個だったか。あいつを呼べ」

 

 言付けられた家臣は一瞬だけ困惑を浮かべたが、すぐに表情をしまい込んで頭を下げた。よく言いつけられているようだった。

 

 贄個はすぐに来た。

 

「――姉上、何のご用でしょうか」

 

 生真面目な顔を布都に、向けてそう言った。

 

「少し付き合え」

「承知しました」

 

 贄個は従順だった。

 

 向かったのは、布都が連れてきた人間たちの住む集落だった。布都らが住む屋敷からは十分程度歩く必要がある。

 辺りにはこういう集落がいくつもあった。力を持っている何らかの長たちの集落である。各豪族はこうやって中央集権的に部族を配置して、自分たちの領土を主張している。物部の本邸に近い程、その集落に住む人間の重要度が上がる傾向があった。

 布都と贄個が目的の集落に着くと、既に入り口で出迎えている男がいた。

 

「調子は悪くなさそうだな」

 

 布都がそうやって声をかけると、顔を上げて口を開いた。

 

「良い所を貰えましたので」

「そうなのか?」

 

 生まれつき姫様な布都には集落の良し悪しは分からない。辺りを見渡すと、破壊されたやぐらと、人より高い木の塀があることが分かった。

 

「期待されているような立地ですよ。それに戦闘を意識してるとしか思えない作りです」

「しかし、ところどころ壊れているように見えるが」

「丁度良く無人になるような出来事があったのでしょうね」

 

 話しながら中に入っていくと、見かける人間それぞれが何かしらの作業に励んでいた。 

 

「ずいぶんと忙しそうだな」

「後片付け、掃除に追われてます」

 

 布都は皮肉気に笑って見せた。

 

「増えたんじゃないか?」

「はい。作業が終わりません。穴を掘るのも楽じゃありませんし」

 

 男も布都と同じように笑って見せた。

 

「だが油断はしないことだ。こいつの様なのが来たら、素直に逃げることだ」

 

 男は意識を贄個に向けた。

 

「――そちらの方は?」

 

 許可を得た男は、ようやく布都の後ろを歩く贄個について聞いた。

 

「弟、だそうだ」

「これは気づかないとはいえ失礼致しました」

 

 男は頭を深々と下げるも、目線は上に向けていた。

 贄個は恐縮したように言った。

 

「どうか頭を上げてください。自分はただ姉上に付いてきただけですので……」

 

 男は顔を上げると、贄個に視線を合わせた。その後、視線を外し、布都に合わせた。

 

「では、これからのことはこの方ではないと?」

「恐らくな」

「……片付けがいつ終わるのか気になるところですが」

「それは我にも分からない。ただ父上にやれと言われた以上は、少々時が早まっても問題は無いだろう」

 

 贄個は困惑を表に出して布都を見た。

 

「その、話が見えないのですが」

 

 布都は説明不要と笑った。

 

「知人がいないことを祈っておけ」

 

 年少とはいえ、聡い贄個はそこで気づいた。

 

「これ以上待つのも焦れったいな。何かないか」

「向こうも焦れているとすれば、機を待っていることでしょう。頃合い的に飯でも装いましょうか」

「我がやろう」

「お願いします」

 

 布都はその辺にあった廃材に火を付けた。

 煙が天に向かって上がっていく。辺りで作業していた人間が集まり、少し声を大きくして雑談を始めた。

 これまで贄個は良くも悪くも守られていた。行動の自由は少なかったし、何をするにしてもぞろぞろと護衛が付いた。だからこそ、護衛無しで出歩けると布都の誘いに乗ったわけだが、まさかこのような事態になるとは思ってもなかった。聞かされてはいるも、それは聞かされる内容でしかなかった。

 

「その、本当にそのようなことが起きるのでしょうか?」

 

 贄個は願望も込めながら布都に聞く。

 

「気になるなら直接聞いてきてもいいぞ。もしかしたらお前の味方かもしれん」

 

 布都はけしかける。

 

「そうであれば話合いでどうにかなるかもしれん。やってみるか?」

 

 贄個は迷う素振りをするも、諦めて息を吐いた。

 

「……皆のためにと修練に励んだつもりだったのですが」

「己のためだろう。お前の言う皆とはお前の思う皆でしかない。お前がこれからしなければいけないことは、お前の思う皆の範囲の設定だ。喜べ、お前からは資質を感じる」

 

 贄個は息を呑んだ。

 これまでの人生で褒められ続けられてきたが、まるで初めて褒められたみたいに嬉しく感じた。

 贄個は心を決めた。

 

「出来れば兄上でないと良いのですが……」

 

 布都は甘いなとは思いつつも、口には出さなかった。瞳に覚悟が現れていたのが見えていた。

 

「知っている人がいなくなるのは悲しいことです」

 

 贄個は記憶を思い返した。己の栄達の為とはいえ、自分を庇護してくれた兄には情がある。しかし、やられたらやり返さなければならない。でなけれ物になり土になるだけである。この状況自体が間違っていると思うも、それを口にしたところで何も変わらない。何をどうすればいいかも分からないが、力がいることだけは分かった。

 考える暇はこの場ではなかった。

 動きがあった。

 

「――来ます」

 

 儀礼的な言葉だった。言葉がなくても、殺意を持って迫り来る人間が見えている。周囲では既に金属音が鳴っていた。中央にいる布都達には門からやってきた敵が迫っている。

 

「姉上っ」

 

 どう動くつもりなのかと布都を見た贄個の目には、特に関心が無い様子の布都が写った。

 号令がかかった。

 

「今だ、――投げろっ」

 

 門からやってきた敵に四方八方から石が襲った。投石は非常に有効的な飛び道具だった。弓矢のような準備がなくとも可能で、威力も高い。

 実際、足止め以上の効果を出した。投石のみで敵はすべて地に伏した。

 

「……まさか、このような」

 

 と、倒れた敵の一人が、たどり着くことさえも出来ず、また周囲の壁の穴から侵入した仲間も引きずられて運ばれていく様を見て、絞り出すように言った。

 

「一応、情報を聞き出します」

「まあ、大したことは喋れないだろうがな」

 

 何事もなかったように事後処理を行っている様を見て、贄個は驚くしかなかった。

 話を振られた。

 

「出番がなくて不満ですか?」

「っえ? あ、いえ、そんなことは――」

 

 何と返していいか分からなかった。

 そんな贄個に布都が助け舟を出した。

 

「知っているのと体感するのとでは違うということだろう。うすうすとはいえ、お前は知っていたはずだ。ただそれを実際に見たことがないために、どうなのかを分からないでいただけなのだ」

 

 言葉に困った。しかし、何か言わなければならないと、今の思いをそのまま口に出した。

 

「その、……これから先もまた同じことが起きていくのでしょうか?」

 

 これを何度も見ていくのはとても辛いことだと思った。例え見なくても起きていくだけでも同じように辛いことだと思った。

 

「数回、いや、もしかしたら一度で済むかもしれない。後者だと我も助かるのだが」

「……姉上も嫌なのですね」

「愉快ではない。面倒事というのは楽しめないと不愉快にしかならない。まぁ、成るように成る、そう思っているよ」

「そのように考えるのですね。てっきり――」

 

 贄個は口をつぐんだ。布都の表情がどこか投げやりだったからだ。まるで諦めたようで、でも諦めきってはないような複雑な表情だった。

 

「何の為に生きて、何のために死んでいくか。それが分かればどれだけいいことか」

 

 布都は自嘲した。

 それを考えたことがない人間がいるだろうか。何をするにしても意味を見出だそうとするのが人間である。納得がいく答えが出ない布都は問い続けている。

 

「まあ暇人の戯言だろうな」

 

 余裕がないとそんなことを考えたりはしない。恐らくその余裕がない状況こそが愉快な時ではないだろうか。布都は過去を振り返るとそう思った。命のやり取りの間だけはそのようなこと考えることはなく、いかに敵を殺すかだけが全てだった。

 

「他に、――まだあるだろうか」

 

 あるのであれば是非堪能したい。少なくとも退屈はしないだろう。そう思って。

 

 



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第11話 

途中


 しばらく経った昼のこと。

 目に差し込んだ陽光が溢れるかのような明るい日だった。

 眩しさを嫌った布都は、部屋に引っ込んで読書にいそしんでいた。ここ最近は書物を読むだけの生活しかしていない。

 兄弟関連の面倒事は向こうから勝手に消えてくれた。守屋の帰還の件が広まるとすぐだった。布都としては面倒事がなくなったは良いが、やる事がなく暇をしていた。そんなわけで、大して興味があったわけでもない読書に励んでいる。この頃の書物というのは、つまり仏教の経典になるわけで、立場上入手困難であるが、尾輿に言ってみたところすぐに手に入れてくれた。

 

「しかし、よくもまぁ――」

 

 人とは変わるものだなぁとしみじみ思わずにはいられない。

 仏教の経典といえば、物部氏の対抗馬である蘇我氏の扱う武器のようなものだった。政治と宗教は等しいと言ってよく、仏教というのは単純に物部氏を邪魔に思う氏族が神道の代わりに崇めるもので、それを物部氏の人間が読むというのは反逆の意思があると疑われるようなものであった。

 そんなものを当主自らが入手するのは、戦略的に考えてみれば当然であるが、以前の性格からすると別人のような振る舞いである。

 

「わりと面白いが」

 

 引っかかるところもある。けれども、書かれてある内容は布都の退屈を紛らわすには充分だった。

 

「しかしこれは、政治には使えないな」

 

 布都は書物を手放すと、天井を見上げた。

 

「この世の全てがまやかしであり思い込みであれば、位も身分もあったものではない。人は生まれながらに等しくなく、等しくないものを等しいとするのは無理がある。馬子殿はこれをどうするつもりだろうか。面白いかたちであれば良いが……」

 

 そうやって思案していると、部屋の戸が開いた。

 知らない男である。面倒事に違いないと、布都は自分の失敗を悟った。本邸にいるからこうなる。そう思った。部屋の外で立っているやつらは、相手の身分によって簡単に飾りと化すのである。そしてその飾りはわざわざ取り払われたようだった。

 戸を開けた男は、部屋に入ると膝を付き笑顔を作った。

 

「今日は日柄も良く……」

 

 布都は吐き捨てるように言った。

 

「要件だけを言え」

 

 好みでない人間が多い布都だが、この手の悪意を善意のような気色の悪い笑顔で包み隠したやからが特に嫌いである。卑しさが表に出ていて、目に映るだけで気分が悪くなった。

 

「――おめでとうございます。姫様の婚約が決まりました」

 

 布都は感情を込めずに言った。

 

「そうか。それで父上は何と言っている?」

「今頃さぞお喜びになっていることでしょう」

 

 布都は呆れた。せめて既に諒解は取ってあるくらいは言えなかったのだろうか。天井のシミを数えているような気持ちになった。

 

「さぞつまらない男なのだろうなぁ」

「失礼ですよ。立派な血筋の方で――」

「そうじゃない。お前を遣わせた阿呆のことを言っている」

 

 男から笑顔が消えた。

 

「――我が主を馬鹿にしましたか?」

「どうした? お前の主は我の父上ではないのか?」

「……とにかく婚約は決まりました。あまりワガママ言いませぬように」

 

 布都からため息を我慢出来なかった。

 

「……お前には過ぎた任だったな。とても務まらない」

 

 呆れを通り越して悲しくなってきた。

 

「いいか? お前程度を寄越したお前の主は人の能力を見る目が余程ないか、お前程度のやつしか部下にいないかのどちらかだ。とてもじゃないが、この遊びに参加出来る能力を持っていない。長生きしたけりゃ畑の雑草でもむしっていろ」

 

 顔を赤くして口を大きく開けた男に、布都は殺気をぶつけて黙らせた。

 

「――次、何か言えば殺す。脅しと思うな」

 

 顎で奥を指し、退出を促した。

 

「ば、馬鹿にするのもいい加減にっ」

 

 布都は腕を振った。霊力の刃が飛び出し、男の身体を切り裂いた。

 

「ぁがっ――」

 

 倒れる男を、ただただ不快といった表情で布都は見た。そのまま袖を鼻に押し当てた。

 

「……しまった」

 

 布都は自分の失敗に気づいた。

 

(蹴飛ばせば良かった)

 

 触れるどころか近寄るのも厭んだせいで、自室に血溜まりが出来てしまった。その上、男の臓腑から出た臭いが部屋に広がっていく。

 外はとても明るそうである。内も外も不快だった。

 

(せめてニオイが無ければ。それか首を落とすとかでも良かったはずだが、なぜ考えて動かなかったのか)

 

 布都は立ち上がった。

 

 

 




いつも通り時代関連は甘くお願いします。


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第12話 森の森の森

 雲海、樹海、海という言葉はそんなところにも使われる。

 海より離れた物部一向は、森の奥深く、樹海といえるようなところにまで足を踏み入れていた。辺りの景色は木と木と木。道なんてものはなく、進めるところを進んでいく。天までありそうな背の高い木々が太陽をさえぎり、辺りは暗く湿っていた。

 足場には木の根がいたるところに、布のように波打っていた。その間を苔の生えた緑の石ころがごろごろしている。

 木々の海中を進む。

 ずっと歩いていく。

 変わり映えのしない景色。視界を越えたころの輪郭までがぼやけていくような感覚。そのうち自分はどこへ向かっているのかと問いたくなる。

 しかし、物部一向には迷うようなそぶりはない。所々足を止めつつも、淡々と進んでいく。

 術があった。

 山霊の声を聴く。

 それが術。

 別の言葉を使うなら、山と一体になる。

 もっと分かりやすくすると、山の中の気、木や土や岩等からそういうものを感じ、それを印としてアタリをつける。所々止まるのは、術氏が気を感じるため。円になって座り、目を閉じ隣の者と手を拳を合わせる。意識を澄ませてしばらくそうしていると、なんだかぼんやりと感じてくる。

 これもまた物部の秘術の一つだった。

 布都は参加しない。ただ付いてきているだけ。意識はほとんどそこに無い。

 布都は、そう遠くない所から発せられる気の正体についてずっと考えていた。

 

 ――願わくば面白いものを。

 

 初めて感じる気だった。

 ドロッとした何か。へばりついたらもう二度と取れないような。呪詛か、瘴気か。負に偏り過ぎて、思わず身を引いてしまうような、そんな。

 

 ――うぅむ。

 

 嫌いではない。が、好きでもない。

 さっさと見に行ってみるのも手であるが、それだと暇潰しが無くなってしまう。のろのろとした歩みに、まだしばらくは付き合わければならない。

 意識が現実に無い分、木の根はびこるデコボコの地では大変歩きづらかったが、足元に意識を向けると今度は退屈に潰されそうになる。

 救いは、徐々に近づいていること。

 

 ――しかし、どうであろう。凡俗術士どもが気づけば、避けようと道を変えるのではないか?

 

 布都の危惧は的中した。

 

「――これはっ」

 

 まずは贄個だった。

 

「この先には得体の知れない、……それも凶悪なものを感じます」

 

 一行の足が止まる。

 ざわつく。

 

「確証が得たいので、皆さんも探ってみてください」

 

 そうして、術士たちが円陣を組み、意識を研ぎ澄ませ始めた。

 

「――っ」

 

 そして一斉に震えあがった。

 皆口にして言う。

 

「道を変えたほうがいい」

 

 と。

 尾輿も頷いた。

 

「分かった」

「――待ってください」

 

 さえぎったのは守屋。

 

「何だ」

「引き返さないのであれば、実際に目で確かめてみるべきです」

「犠牲が出るかもしれんのにか?」

「元より、そういう旅であったはず。それに、後ろに危険を放置していく方がよほど怖いかと」

「うむ、たしかにそうだが」

「――我らには優秀な術士がいるはず」

 

 守屋はそこまで言うと、尾輿に寄って、耳元で囁いた。

 効果的だった。

 尾輿は一行の顔を見渡すと、

 

「――行こう。大厄をなすものならば、いずれ知ることになる。早めに知っておいた方がいいかもしれん」

 

 と言った。

 皆頷いた。

 

 ――さて、何と言ったのやら。

 

 布都は鼻を鳴らした。

 どうやら上手くいっているらしい。いや、協力してくれるらしい。

 その訳は分からないが、とにかくこれでいい。気分は晴れないが、いいとするしか他に思いつかなかった。

 

「では僕が――」

 

 贄個が前に進み出て、先導を始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 行くこと数分。

 ただならない雰囲気。誰もが感じた。

 術士にはその方向まで。

 贄子にはその存在まで。

 布都には――。

 

 ――まずそうだな。

 

 人間の五味で例えるなら、ひどく苦く、それでいて酸っぱい。その上、臭い。大外れを盛大に引いた気分になった。

 唾液が引っ込む。

 なんでこんな所にまで来たんだろうかと、いまさらの問いが布都の中に浮かぶ。まったく楽しくない。義務感しかないこれまでの行程。一体何なのだと。どうしてこんなつまらないものに付き合わせれられなければいけないのかと。

 足は動いている。それは、やがて視認可能な距離にまで――。

 周囲から声が上がる。

 

「な、なんだあれはっ」

 

 人、――ではない。だが二足歩行の、人が着るような服の、イノシシ頭の――。腕には剛毛が生え茂り、先には岩をも砕きそうな大きなヒズメが。

 妖怪。

 その言葉が即座には頭に出てこなかった。

 出てきた後も、何故かしっくりとこなかった。

 が、今はそれどころではない。

 対象はこちらを向いているようだが、見ているようには思えない。といか敵意を感じられない。

 皆顔を見合わせる。

 どうするべきか。

 先頭をきった者がいた。

 

「やりましょう」

 

 言うやいなや、贄個は走った。

 腰にさげた剣に手をかけ、振り抜く。剣先が空で弧を描き、その軌跡が光を帯びる。

 それは光刃となって、正体不明の妖怪のようなものへと飛んでいった。

 速度、鋭さともに充分。――と思われたが、肉を切り裂く前、触れた瞬間に弾かれ四散した。

 

「――ならばっ」

 

 贄個の足は止まらない。

 さらに駆け、化け物のそばまで詰め寄る。

 剣が光り、音が出そうなまでに輝く。

 一閃。

 直接斬った。

 胴体が上下に割かれる。

 贄個は後ろへ退がり距離を取る。

 

「よくぞ!」

 

 歓声が周りから上がるが、贄個の表情は緩まない。

 手ごたえはあった。が、どこか妙だった。

 上手く言えない何かがあった。

 ただ斬っただけ。そんな、感覚。

 して、それは当たった。

 その光景は――。

 

「み、見よ!」

 

 歓声が別のものに変化した。

 真っ二つになった化け物。その割かれたところから、タコの触手のようなものが生える。そして、その触手同士が絡み合い引き合う。

 胴がくっついた。

 贄個は強く言った。

 

「火だ!」

 

 その言葉に呼応し、術士は皆一斉に力を練る。

 

「今です!」

 

 贄個は合図を出した。

 牛ほどの大きさの火球が飛び出す。

 贄個は自らも火球を作り、火球を合体させた。

 それにより倍以上に膨れ上がった火球は、化け物を飲み込んだ。

 熱が溢れる。

 風をともない、肌に当たる。

 火が去ると、真っ黒になった化け物が変わらず立っていた。

 焦げ臭い。

 

「や、やったのか?」

 

 誰かがそう呟く。

 

「そうなんじゃないか?」

 

 おそるおそる、数人近寄る。

 火に飲まれ真っ黒になって動かない様は、死んでいると思えた。

 だが、贄個には妙な感じがあった。まるで初めから何も変わってないような、そんな感じ。

 あの化け物が反応を見せたのは、胴を斬られた時のみ。自己修復のために動いた。もし、あれが生きているとして、黒焦げの状態から修復としたらいったいどうするのだろうか。それはもう、体を入れ替えるようなこと。しかしそんな事が可能だとは到底思えない。実際に似たようなことをする生物といえば、サナギからかえる蝶や蛾のような――。

 勘だった。

 例えばあの剛皮がサナギのような、もしくは防御のための殻のようなものであったとしたら。一度見せたあの触手のようなものが本体であったとしたら。

 まずい。

 

「――待ってください!」

 

 意識が、逸れる。

 

「え?」

 

 化け物から、無数の触手が伸びる。硬い殻を突き破ったそれは、真っ黒のイソギンチャクのよう。

 伸びた触手は、近寄っていた数人を瞬く間に貫いた。

 貫かれた人間の皮膚が、その箇所から黒く変色していき。

 叫び声すらロクに上げれずに、地に倒れた。

 皆、総毛立つ。

 そんな中、始めからずっと平静でいた者がいた。

 くすんだ水色の瞳に、多少の好奇心が宿っていた。

 前へ。一つ飛び、腕を振った。

 鍛え抜かれた刀剣のような鋭さ。光の刃が、空間を裂いていく。そのまま障害物など無かったかのように、化け物の頭部を寸断した。

 

「おい、布都っ――」

 

 近くにいた尾輿が、咎めるような声を出した。

 布都は意に介さない。

 布都は化け物を見ている。

 あまりに綺麗に斬られすぎて、まだ乗っかったままの頭部。動こうとしてようやく落ちる。

 

 ――ウスノロめ。

 

 動きも、敵意を解するのも、何もかも。全て。

 反応するしか能がないのか。

 

「くくっ」

 

 それでもせっかくの暇つぶし。

 可能である全てで持って楽しませるがいい。 

 

 ――生存本能くらいはあるのだろう?

 

 斬られたら戻るように、火を浴びれば抵抗したように。

 

「さっさと来い」

 

 黒い触手が伸びてくる。蛇行しながらゆっくり。

 と、急に加速。

 布都は身をよじり、かわす。

 さらに数本、伸びてくる。

 それもかわす。

 倍数伸びてくる。

 腕を振り、全て切断しきる。

 幾度か繰り返す。

 

 ――埒があかん。

 

 布都は地を蹴った。

 大きく前へ出る。

 一飛びで本体まで迫らんとするほどの跳躍。

 迎撃に伸びてくる触手。

 最中。

 腕を一振り。複数の刃が生まれ、空間を狂い舞う。

 伸びてきた触手は全て切り刻まれ地に落ちる。

 跳躍する布都の下には、今まで切り落としてきた触手が落ちている。

 布都の視界、下の下、ぎりぎり映った。

 バラバラになっていた触手たちが互いに重なり合っていく様。やがて大きな球体となった。

 布都は化け物の本体とその球体の間に降り立った。

 着地した布都の耳に、何かが破裂したような音が飛び込んでくる。

 確かめる前に、回避行動に移る。

 地を蹴り、跳ぶ。

 その間、身をねじり後ろを見る。

 球体から太い針のような触手が飛んで来ていた。

 切り裂く――、手段は取れない。

 伸びてきたわけでなく、切り離され飛んできている。斬ったところであまり意味はなさない。

 手を前につき出す布都。すると、霊力で作られた薄い水色の壁が現れる。

 触手が壁にぶつかると、はじけた。

 が、その間、その奥で先ほどの球体が膨張しているのが見えた。

 大きく、大きく、膨れ上がった、――かと思えば急に凝縮したかのように縮こまる。

 して、手榴弾のように破裂した。

 当たれば体が黒く変色し、即座に死に至る。そんなものが放射状に飛散される。

 それは布都だけでない。離れた位置にいる者たちも同様。しかし距離があるため、被害は抑えられる。近距離にいる布都は、避ける事はかなわない。布都は壁を持続させ、致死針の飛来に備える。

 挟まれている布都が、片方に専念すれば当然もう片方がその隙を狙う。

 布都も警戒を怠ってはいない。

 背から迫ってきた触手に気づいた。

 空いた手をつき出し、霊力の壁を作った。

 壁にぶつかった触手ははじかれる。

 両面に壁をはったおかげで、布都は無傷だった。

 が、それでも防戦一方。

 とにかく位置が悪い。

 

 ――どうする。

 

 とりあえず一度敵の攻撃が止まるのを待つか、それとも壁を全身を包むように広げるか。

広げるか。

 そうしている間に、敵の攻撃が止んだ。

 本体から切り離された方がやせたように小さくなっていた。

 周辺に散る触手の肉片はない。

 次はない。

 そう見た布都が、本体を見据え、どう殺してやろうか思案し始めた時。

 本体から伸びる触手の一部が地中へ入ってるのが見えた。

 布都ははっとした。

 同時。

 地中から布都に向かって触手が伸びてくる。

 一瞬の硬直を、気力で振り払い、体に指令する。

 足に力を入れ、後ろに飛ぶ。

 同時に身をよじる。

 かわした。

 着地の寸前。

 触手は急激に曲がった。

 

「っぐ」

 

 触手は布都の肩口を貫いた。

 ぞわりと、何かが這いまわるような感覚が布都を襲う。

 力を集め、肩口へと集中させる。

 触手が消えた。

 

 ――いつ以来のことか。

 

 思えば、敵の攻撃をまともに受けたのをは久しぶりのことで。

 

 ――悪くない。

 

 笑みがこぼれる布都。

 そんな中、身体全体が脈打った。

 布都の動きが止まる。

 目の端に黒いものが映る。

 瘴気。

 腕。皮膚の上。煙のように広がっていた。

 

 ――これは。

 

 再度、霊力を肩口に向けて集める。

 黒煙が苦しむように揺らでいく。

 だんだん押し込められ、傷口まで押されていく。

 が、途中で止まった。

 凝縮した瘴気と霊力とで拮抗している。

 

「っち」

 

 布都は力を解放した。

 いつもは体の奥深くに隠していたそれ。

 通常状態とは比にもならないほどのそれ。

 霊力と、妖力。

 妖力が瘴気と混ざり合い、霊力が包み込む。

 抑えてたものを解放し、布都は高揚感に包まれた。

 吐く息が心地良い。

 

 ――さて、どうしてやろうか。

 

 殺す算段を気分良く考える。

 布都は輪郭のぼやけた瞳で化け物を見ようとした。

 

「ん?」

 

 そこには何もいなかった。

 気を追うと、離れていっていることが分かった。

 逃げたらしい。

 これから楽しもうというところだというのに逃げられた。

 

 ――つまらん。

 

 世界は優しくない。肩透かしもいいところである。布都の眉間にしわが寄る。

 

「あ、姉上、無事ですか?」

 

 何か寄ってきた。

 

「あ?」

 

 ――そういえばこいつ……。

 

 布都の目が愉悦で細まる。

 

「――いっ」

 

 後退るのが見えた。

 ため息が出た。

 

「はぁ」

 

 色々台無し。

 ここまで上手くいかないものとは。

 もうどうにでもなれ。

 布都はこれでもかなり我慢している。つもりだった。



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第13話 転機

 物部の一行はあの化け物との遭遇後、すぐに退却を決めた。

 未知とは怖いものである。

 脱落者も確かに出たが、物資もまだある中で退却を決めたのはこの先の未知を恐れたからである。その恐怖の未知は、近くにもいた。

 物部布都。

 周りから見た布都の戦闘は、あきらかに人の戦う様ではなかった。

 味方ではあるがどうなんだろうか、と。そう思わせるほどの異質さが布都にはあった。

 物部一行の中で、布都の周囲には行くときより間が空いている。その中でももっとも遠くにいるのが弟の贄個だった。贄個はあの時の布都の瞳をまともに見ている。あれは人の目ではない。そう思わざるにはいられないような、恐怖を通り越して畏怖に達しそうなほどの差を感じた。贄個は自身の能力に自負があった。自分より強く、そして上手く力を扱える者を見たことが無かった。そしてその可能性があるとしたら、姉の布都だと思っていた。だが、あの時に見たものは期待していたものとは程遠い、いや――近いとか遠いですらでなかった。まるで道そのものが違うようなもので。なまじ力がある分、布都のそれを周りの人間より、深く感じてしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 家に帰った後も、布都に対する周りのよそよそしさはあったし、また強まった。

 布都はずっと考えている。

 放って置いてくれるようになったのはいいが、前より居づらくなった現状。

 どうやってこの居心地の悪さから解放されようか。

 

「罰というなら、甘んじて受け入れよう」

 

 罪の意識などないのにそんなことを言ってみる。

 罰も受ける気などさらさらない。ついでに言えば、被害者のつもりも加害者のつもりもない。意味のない言葉遊びを一人でやらなきゃいけないほどに暇だった。

 自分一人しかいない自室でくるくる回ってみたりする。

 意味はない。

 が、意味があるというのは何であろうか。何に対して意味があるというのだろうか。人生というものに意味が見出せない布都にとっては、全てにあてはまることである。部屋で無意味にくるくるするのも、飯を食うのも人と話すのも何も変わらない。

 

 ――楽しめるか否か。

 

 今が楽しくない分、強くそう思った。

 意味の有無はどうでもよく、ただそれを楽しめるかどうか。それだけであると。

 

「布都、何をしている」

 

 声がしたので部屋の入り口を見ると、守屋がいた。

 回るのをやめた布都。口を開く。

 

「何かしているように見えましたか?」

「退屈をしているように見えたが」

「これは敵わない」

「よく言う」

 

 守屋は少し真面目な顔をした。

 

「それで、肩は、いや身体は無事か?」

 

 視線は化け物の攻撃が刺さった布都の肩。

 

「ええ、幸いにて何とか生きております」

「あいつの攻撃を受けたものは、全身が黒く変色して皆死んだ。お前が無事であるのは、その身体に宿る力の所為か?」

「その通りであります。――が、そうでもない様子で」

「どう言う事だ?」

 

 布都は右袖をまくった。

 青空に浮かぶ真っ白な雲のような皮膚の色。

 

「この通りですよ」

 

 布都がそう言うと、青空は陰り雨雲が現れた。やがて灰色から墨色にまで変色し、それは右手の先から顔の半分まで侵食した。

 

「っな」

 

 驚きを見せる守屋。

 布都はにやりと笑う。

 

「抑えつけておかぬとこのようになります。面倒な同居でございますよ」

「……本当に無事なのか?」

「特にどうということも」

「……そうか」

 

 守屋は難しい顔をして目を伏せた。

 布都は聞いた。

 

「それで、本当は何の用で来たのですか?」

「いや、大したことではない」

「というと?」

「……お前が家を出ようとするなら、その前に俺だけにでも一言言っておけと、そう言いに来ただけだ」

「はて、出るなどと言いましたかな?」

「いずれそうなる。父による婚姻ではなく、自分の意思でここから出て行くだろう。あの樹林での戦闘は、お前の目論見も、周りの目論見も、はるかに超えた。もはや同じ生き物であるかとすら思わせるほどに。しかし、それがゆえにお前の望みは叶うであろう」

「……次期当主である兄上には出て行かれると困るのでは?」

「次期、ではない。もう当主だ」

「おやこれはいつの間に」

「ついさっきだ」

「それはそれは」

「だから言いに来た。お前が己を我と呼び、偽り無く我を通し続けるのなら、俺はお前を肯定しよう」

 

 守屋が何を言っているのか、布都は分からない。

 

「物部布都が物部布都である限り、俺に口をはさむ権利はない」

「権利ですか」

 

 やはり分からない。

 

「――とにかく、出て行くときには俺に一言かけろということだ。忘れるなよ」

「ええ」

 

 布都は相づちのような返事をした。

 言うだけ言うと、守屋は部屋を去っていった。

 残された布都は守屋の言葉を思い返すが、やはりいまいち真意が分からない。暗に家を出ろと言われたのは分かったが、それ以外がどうにもつかめない。だからといって、追いかけて聞き直すのも違う気がした。

 布都は寝転がって、大の字になった。

 

 ――明日考えよう。

 

 布都が目を覚ましたのは、夜か朝か分からないその境のような頃だった。

 夢を見た。

 夜空に浮かぶ暗雲と一体になってふわふわと浮いていた。月が眩しく綺麗で。夜空は澄んでいた。

 ゆめうつつ。

 起きた布都は、外を見た。

 夢か現か定かではない中、朝と夜との境を見ていた。

 それは思いつきやひらめきのように現れた。

 妙案とは突如として去来してくるものらしい。布都はそう思った。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 日が昇りきると、布都は朝廷へと向かった。

 布都が政治色の強い場所に来るのはたいへん珍しく、いつもにもまして注目をあびたが、気にせずずかずかと中へ中へと入りこんでいく。

 そして。

 

「――やあやあ、馬子殿。ご健勝かな?」

 

 目当ての姿を発見するやいなや、ひょうひょうと近づいた。

 周りにも人がいる。

 それはもう大きな注目をあびた。

 馬子殿、といえば蘇我馬子。すなわち物部氏の最大のライバルともいえる存在。物部氏でいうところの守屋が、蘇我馬子。細身で温和な印象を受けるが、権謀術策の政治の舞台上で最上位の存在である。天皇の次に名が挙がるのが守屋や馬子である。

 そんな馬子に『あの』物部布都がまるで友達に近づくかのように寄っていった。人の視線を集めない方がおかしな話である。

 

「……これは布都姫。私に何の御用の様でしょうか」

 

 知らない仲でもない。

 立場もあって親しくしたこともないが、互いにどこか通じるものを感じ取っていた。

 それは言うなれば裏の顔とでもいうべきか、それとも――。

 

「うむ! 我と婚姻を結ぼうぞ!」

 

 布都は、実に楽し気に、あり得ないことを言い放った。

 場の空気が瞬間冷凍された。

 馬子ですら思考が追いつかなかった。

 布都は政治なぞと。ロクに表舞台には出ていないが、実際は馬子と渡り合える者は布都くらいなものである。

 が、その馬子は布都の真意を読もうとするまえに固まってしまっている。

 

「何ともいい立場ではないか。我ながら妙案であろう? うむうむ」

 

 『いい立場』、その言葉に馬子の思考がようやく稼働してきた。

 布都は馬子にさらに近寄ると、人差し指を内側に曲げた。

 顔を近づけろ。

 その意を汲みとって、馬子は腰を下した。

 布都は耳元でささやく。

 

「最近耳が聞こえすぎてな」

 

 馬子は布都の真意を理解した。

 要は敵も敵、さらにその一番上のとこに行けば煩わしい物部のあれやこれやから逃れられる。

 布都は思っている。

 豪族を単体で見た時に一番は物部氏である。だとというのに、さらなるを求めるのは欲が過ぎるのではないか。上も下もこれでは、兄上も苦労するだろう。

 それはともかく。

 

「……いいでしょう。乗りますよ」

 

 硬直が解けた馬子は、目に楽しそうな表情を浮かべていた。

 

「あなたが政治に興味がないようで、実のところ私はだいぶ暇をしていたのですよ」

「それは残念。今後もそのつもりはございませぬ」

「問題は『暇』の部分ですので」

「へぇ?」

 

 布都はにやにやと笑った。

 そら、似たもの同士であったと。

 互いに、いわゆる夫婦というものになるとは微塵も思っていない。打算と遊びに満ちた婚姻関係である。つまらぬ世であれば、いっそ混ぜかえしてしまえ。さすれば少しは楽しめるかもしれない。

 この事はすぐに周知され、朝廷は揺れるであろう。

 真面目くさった顔で政治遊びしてるやからの驚く顔を想像するだけで、布都は愉快な気分になれた。さすがの兄上もこれは想像してなかったのではないかと思うと、もっと愉快になった。

 しかし子など一笑に付した布都が、他人のとはいえ子どもに興味を持つなど、誰が想像出来たことであろうか。




やぁーっと次なる東方キャラが次話で出ます


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第14話 とじこ

 初対面の人間に言う事は様々であろうか。

 明け透けに言ってしまうと、そのほとんどが『あなたはどちら様でございましょうか?』ではないだろうか。

 布都はまさしくそれに直面していた。

 二つの意味で、である。

 

「お前が女狐だな! 蘇我に何をしに来た!」

 

 布都は敵地という名の新しい住まいで、それまでの様々のものを意に介せずにのんびりとしていたが、どたどたと元気な足音と勢いよく開かれたふすまと威勢のいい声に、

 

「何じゃ、ちっこいの」

 

 至極めんどくさそうに答えた。

 

「ちっこいのではない! 私には屠自古という父上に貰った名がある!」

「そうか、ではちっこいの。何の用じゃ」

 

 布都はなんとなく分かってきた。

 可愛い可愛いクソガキが可愛さあまって暴走しにきただけだと。

 

「だからちっこいのじゃないと言っている! どうやって父上をたぶらかしたのかは知らないが、私がいるからにはそう上手くはいかないぞ」

「何がどう上手くいかないというんじゃ?」

「それは、だから、その」

「その?」

「う、うるさいっ」

「何がうるさいのか? ほれ、言ってみろ」

「う、うぅぅ」

 

 言葉に詰まったかと思えば、大きな目がうるんできた。

 からかったらからかったまま面白いように反応するので、布都は少し愉快になってきた。

 布都は唇を舐めてみせ。

 

「お主の父上の味はどのようなものであろうな?」

「は?」

 

 そして、いかにも悪そうな顔を作った。

 

「っな!?」

 

 これまた素直に反応するちっこいの、つまり屠自古に、布都はせっかく作った悪い顔が崩れそうになるほどに楽しくなってきた。

 感情のまま、顔が赤くなったり青くなったり。そんな屠自古を見ているだけでも忙しい。

 

「――ところでお主、最後に父に会ったのはいつじゃ?」

「き、昨日の夜?」

 

 思わず、正直に答える屠自古。

 布都は吹きだしそうになるの抑え、さらにたたみかけた。

 

「そうかそうか。今朝、我のご飯はえらくご馳走だったぞ?」

「は?」

 

 「何言ってんだこいつ」と、屠自古の顔にはまったく隠されていない形で怪訝な顔になった。

 

「いやぁ、美味かった美味かった」

 

 布都はお腹をぽんぽんと叩いて見せた。

 その後、わけが分からないと顔に出ている屠自古を見ると、にやりとまた悪い顔を作った。

 ――父が喰われた。そう理解した屠自古の目が大きく見開かれた。

 

「ぬ」

「ぬ?」

「ぬぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁ!」

 

 間の抜けた奇声と共に、走って突っ込んできた。

 布都は突っ込んできた屠自古に手を伸ばし、頭を抑えた。

 それでもまだ声を上げながら前進を止めない屠自古に、布都は決壊した。

 

「ぶはっ――」

 

 屠自古は、自身を抑えていた手に力が抜け、何事とかと顔を上げると、上には布都がおらず、足元にうずくまるように倒れているのが見えた。

 布都は細かくけいれんするように、お腹を押さえ震えていた。

 笑いが止まらない。

 このような阿呆初めて見たと、呼吸が苦しいほどに笑った。

 生涯ここまで笑ったことなどない布都だが、今はそんなことに気づけるような状態ではなかった。笑止ならぬ笑死しそうになっていた。

 屠自古は何だかよく分からないが、馬鹿にされていることは分かった。

 だが、目の前にうずくまる者にどうかしようという気も起きなかった。

 足音。

 男の声。

 

「……これは何事でしょうか?」

 

 その声色は困っている色をしていた。

 

「ち、父上っ!? 生きていたのですか!?」

 

 娘にいつの間にか死んだことにされていたその人、つまり蘇我馬子である。

 声は困惑そのものであったが、目は何やら面白いものを見つけたような色を映していた。

 何やら驚いている娘に、笑いが止まらない様子の布都。

 何となく状況がつかめてきた馬子は、

 

「勝手に殺さないでくれないかな?」

 

 柔らかな声。駆け寄ってきた屠自古の頭を優しく撫でた。

 

「父上っ、父上っ、今です! 今ならあの女狐を倒せます!」

 

 うずくまる布都から吹きだす声が漏れる。布都は笑いを堪えつつ、顔を上げた。

 

「……えぇっと、――お主の名はなんじゃったかな」

「屠自古だとさっき言ったばっかりだろう! さてはお前馬鹿だな!」

 

 「ぶふっ」とまたもや吹きだす布都であるが、

 

「屠自古か。よく覚えたぞ。して、我は女狐でなく、布都じゃ。そう呼ぶがいい」

「女狐!」

「布都」

「女狐!!」

「布都」

 

 布都は考えた。

 

「……そう言えば、お主は馬子殿の子だったの。であれば、我は義理とはいえ母であるな。母上、そう呼んでくれてもよいのだぞ?」

「ふざけるな! 誰がお前を母などと呼ぶか!」

「母上」

「女狐」

「母上」

「女狐」

「布都」

「ふと。――あっ」

 

 またまた布都は吹きだした。

 

「……いずれ母と呼ばせてやろうぞ?」

「うっさい、ふと!」

 

 顔を真っ赤にし、ぶすくれながら部屋からどたどたと逃げ去っていく屠自古の小さな後ろ姿を布都はにまにまとした笑みで見送った。

 そのままの機嫌のまま、馬子に話をふる。

 

「おや、馬子殿。生きておったのですか?」

「ええ、ちょっと黄泉返ってみました。おかげで面白いものも見れました」

 

 面白いものとは、布都は少し思案して――

 

「我もあのように面白い者は初めて見ましたなぁ」

 

 思い返すと、くつくつと笑いが出てきた。

 

「いえ、貴女の方ですよ」

「我が?」

 

 きょとんとするも、すぐに意味が分かった。

 

「……あぁ、実に面白かったので――」

 

 また笑いが出てきた。

 こんなに愉快な気持ちになったのはいつ以来であっただろうか。

 

「馬子殿の子とは思えない、……いや、なるほどあれは馬子殿の子でしょう」

「というと?」

「少々形は違うものの、感じる雰囲気からする根の部分は同じ」

 

 馬子は興味をそそられた相づちをうつ。

 布都は少し羨ましそうな目をして言った。

 

「あれは上のくらいの人間ほど気に入いるでしょう」

 

 人と人との軋轢に疲れた人間ほど、あのように真っ直ぐなものは輝いて見える。

 あんなに喧嘩腰だったのに、不思議とすんなりふところまで入り込んでしまう。

 屠自古の父、蘇我馬子には、誰かを惹きつけるような武はない。むしろ、どちらかというと病弱で細身である。であるのに、隆盛極まる物部氏と対する位置に居続けているというのが馬子の並外れた才覚。温和な印象ではあるが、立ち位置から考えて見た目通りであるはずがなく、であるが、どうしても当人から受ける印象は押せば倒れるのではないかというくらいの雰囲気の柔らかさ。

 どういった手を使って物部氏に対抗し続けているか、そんなこと布都にとってはどうでもいい事であった。馬子がどういう人間であるか、必要な情報はそれだけで充分だった。馬子を知れば、結果が見える。結果に至った手段などせいぜい書物か何かに記する程度のものでしかなく、そうでもしなければ人の記憶にも残らない。文字ではそうそう表せないものこそが重要だった。

 

「ではさしずめ貴女は壁の上で下に向かって睥睨しているお姫様といったところでしょうか?」

「いえ、我の下には誰に居ませんよ」

 

 布都は謙遜するように首を振った。

 

 ――上下左右居らぬだがな。

 

 今度は少し寂しそうに首を振った。



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第15話 おやばか

「気をつけた方がいいですよ」

 

 布都の部屋にやって来た馬子の第一声はそれだった。

 

「……それは我に言っておるのか?」

 

 部屋には、布都とその膝の上に屠自古。

 遊んでいたというか、話していたというか。

 とにかく、二人の表情は楽し気であった。

 

「鬼が出たという噂が」

「ほう」

 

 布都は馬子の方へ上半身だけ傾けた。

 

「もしかすると都にもやってくるかもしれないとのことで。今朝廷では遷都も視野に入れて話し合われていますよ」

「なるほど。鬼であれば、そうなりましょう」

「ただの遊びで済めばいいのですが」

「で、そいつはどういったやつなのです?」

「『楽しませろ』と、それだけだそうで」

「さもなくば、といったところか――」

 

 布都の表情に獰猛さが混じった。

 

「会ってみひゃいもほ――」

 

 屠自古が布都の口を両側に引っ張った。

 

「――何をする」

「……別に」

 

 頬をふくらませ、顔をそむける屠自古。

 

「んん? なんじゃ? 寂しかったのか?」

「違うっ」

「じゃあ、何か? 我に恨みでもあったのか?」

「そ、それも違うっ」

「んぅ? じゃあ、言ってみるがよい」

「……ぅー」

 

 のけ者にされたことに腹を立てたことくらい布都にはすぐに分かっていた。だがしかし、どうしてもからかわなければ気が済まなかった。こんな好材料そうそうない。

 獰猛さもかき消され、可愛くて可愛くて仕方ない飼い猫を愛撫するような表情に変わった。

 言葉を発することが出来ずに、うめくことしか出来ない屠自古。もう布都は我慢が出来ない。

 屠自古から声が上がる。

 

「――っわ、何」

 

 頬ずりをした。

 まだ幼い屠自古の頬はたいへん柔らかいものだった。

 

「離れろ!」

 

 屠自古が渾身の力で布都を引き離そうとする。

 とても布都が引き離されるような力ではなかったが、布都は屠自古から離れた。

 

「いやぁ、すまんすまん。ついな」

「何がつい、だ!」

 

 屠自古は、布都から顔を背けると、「まったく!」と顔を赤らめた。

 まんざら嫌そうでない様子がまた布都の心をくすぐった。

 

「さて――」

 

 布都は立ち上がった。

 

「ふと?」

 

 見上げる屠自古に、ふっと笑いかけると、

 

「少し、散歩に行ってくる」

 

 布都は部屋から去った。

 残された屠自古と馬子は顔を見合わせたが、馬子は少し難しい顔をした。

 

 ――まさか。

 

 いや、やはり、というべきか。

 しかし相手は鬼であれば、人のみでどうこうできるものではない。

 へんにつついて怒らせれば、辺りが更地になるかもしれない。

 その時布都はこの世にはいないかもしれない。

 失敗したか、馬子にそんな想いがよぎった。が――。

 

「――少しゆっくりしてからにする」

 

 布都の声。

 戻ってきた。

 そして屠自古を抱き上げ、話しかけた。

 

「なぁ、屠自古。鬼とはどういうものか知っておるか?」

「馬鹿にするな。そのくらい知っておる」

「じゃあ、言うてみい」

「鬼はあれだ、強いやつだ」

「他には?」

「……あと、怖い」

「おや? お主は鬼が怖いのか?」

「怖くなんてない!」

「それはそれは。ならお主には怖いものなんてないのか?」

「ないに決まっている!」

「そうかそうか」

 

 布都はけらけら笑う。

 挑発されればそのまま綺麗に乗っかる。

 なんと愉快な奴だろうか。

 屠自古を床に降ろすと、頬に手をやりはさんだ。

 

「何をするっ――」

 

 喜怒哀楽。

 人にはばかることさえも、自分の心から素直におこなうのであろう。

 怖いものはないと言い張った顔を恐怖に染めるのも、これ以上ないくらい満面の笑みにするのも、どれもきっと面白いのだろう。

 布都は顔がころころ、いや物理的にむにゅむにゅ変わる屠自古の顔を見てそんなことを思った。

 屠自古の手が布都を打とうと顔に迫る。

 それを布都はつかみ取り、

 

「――少し、外に出らぬか?」

 

 と言うと、「いいだろう馬子殿?」と、視線で送った。

 馬子はこくりと頷いた。

 

「あまり遅くならぬようお願いしますね」

「うむ」

 

 まだ行くとも言っていないのに、勝手に行くことにされて不満を覚えながらも、屠自古は嬉しさを隠せなかった。

 

「やぁやぁ、相変わらずの人ごみじゃ」

 

 都。

 雑踏の中。

 恥ずかしさもあるのか、弱い力で屠自古は布都の手を握っていた。

 

「何かほしいものはあるか? なんでも買ってやるぞ?」

 

 およそこういうのを親馬鹿というのである。

 もしくは可愛い孫に何でも買い与えて親を困らせるおじいちゃんおばあちゃんといったところなのかも。

 

「別にいらぬっ」

 

 顔を背ける屠自古。

 頬が赤い。

 欲しいものは、手に入っていた。

 

「ん? もしや腹が減ったのか? そうであろう?」

 

 「うむうむ」と謎に頷きながら、布都は飯屋を目指し始めた。

 腹なんてへってないと言ってやりたかった屠自古であったが、何も言わずについていくことにした。

 だってそうではないかと、屠自古は言い訳したかった。蘇我馬子の娘である。外になんてそうそういけるものなんて無かったうえ、どうにも他人行儀な女中やほとんど会ったことがない母親、それに比べてこの物部布都という変なやつはよく会いに来るしこっちから押しかけても嫌な顔もせず、それどころかなぜかは分からないが嬉しそうに、むしろうざったいくらいに歓迎する。

 母と呼んでもいいぞと言うわりにはちっこいし、姉というにはなんか婆くさいし、でも実際に婆というには綺麗で若くて――、なんていうかよく分からないやつには違いなかったけども、嫌なやつじゃなかった。

 理由は分からないけど好かれているのは分かったし、会いに行ってやるのも悪くはない。

と、そんな具合に始末をつけた。屠自古は共に歩く布都から少し離れつつも、手は離さないでいる。

 

「なぁ、布都」

「ん、なんじゃ?」

 

 端正な顔立ちが覗き込んでくる。

 

「なんかやたらと人に見られてないか?」

「気のせいじゃろ。そもそもそういうもんじゃ」

 

 気のせいじゃないじゃないか、屠自古は布都から顔をそらした。

 人の注目が布都に集まっているのは分かってはいるけど、どうにもそれが嫌な気分になった。何も気にしていない様子の布都がなんだか恨めしい。布都のくせに。

 

「ほれ、あそこにしようか」

 

 手をつないでいるので、半ば強制的に店に入ることになった。

 だいたい腹が減ったなどとも言っていなければ、何が食べたいなどとも言っていないというのに、――あぁ、やっぱりこいつは勝手なのだと。

 屠自古は、不快ではないが不満が湧いてくる感情に居り合いがつけれない。

 

「適当によい」

 

 しばらく待つと、食事が出てきた。

 出てきたものを見て、屠自古が顔を歪める。

 

「……げっ」

 

 思わず声が漏れた。

 

「ん? なんぞどうかしたか?」

「……別に」

 

 屠自古は川魚が苦手だった。どうしても特有の生臭さが受け付けない。無理矢理食べると、泣きながら戻してしまう。

 屠自古の持つ箸先がうようよとさまよう。

 

「うむ、結構うまいぞ?」

 

 渋い表情の屠自古をしり目に、布都はぱくぱく食べていく。

 

「……あまり腹がへっていない」

「あれ? そうだったか?」

 

 なんだか腹が立ってきた。

 でも――。

 

「半分食べるから、もう半分は――」

「そうか、ではそうしよう」

 

 言い終わる前に、布都は箸を伸ばし、魚を半分持っていった。

 美味しそうに食べる布都、

 

「……うぅ」

 

 屠自古は覚悟を決めた。

 

 

 

 

 

 

 飯屋から出た二人は、都の市を歩いていた。

 活気のある路であるが、屠自古の顔はすぐれなかった。

 体の中身を取り換えたい気持ちにすらなっている。

 後悔はないが、やっぱり気持ち悪いものは気持ち悪い。手から伝わる柔らかな感触が吐くことをためらう。

 『布都め。母などと名乗るのなら、もう少し察しろよ』と、屠自古は内心で毒づいた。

 そんな布都の足が急に止まった。

 必然、屠自古の足も止まる。

 さては心でも読まれたかと焦った屠自古であったが、布都の視線はずっと奥の方にあった。人の向こうの向こうの向こう。人ごみを超えた先であろうか、布都の目はどうももっと遠くを見ているようだった。

 

「なるほど。お主、よほど父親に可愛がられているようじゃな?」

「は?」

 

 急に何を言い出すのだと、屠自古は怪訝な顔をした。

 こいつなら心くらい読めそうだと思った矢先に、今の言葉である。思考が追いついていかない。

 再度布都が歩むにつれ、屠自古もついていく。

 して、分かった。

 

「やぁ、馬子殿。このような所で奇遇、――というわけもあるまい?」

 

 布都はにやにやと、まるで机の引き出しの奥に隠していた日記帳でも見つけたかのような悪い顔をした。

 

「ちょっと所用がありましたで。これさえなければ、始めからついていくつもりでした」

「ふぅむ? 忙しい身は辛かろう、でございますな?」

 

 布都はまだからかうつもりである。

 

「いえ、公務ではないのです」

「というと?」

「少々、面白そうな話を聞いたので」

 

 布都は笑みを収め、目をぱちりまばたいた。

 この蘇我馬子という人間が面白そうと判断する話とはなんぞや。

 布都の興味が向いた。

 

「厩戸皇子という人物を知っていますか?」

「ウマヤト? 存じませぬな」

「でしょうね。私も先ほど初めてお会いしましたから」

「それが馬子殿の言う、面白い話と?」

「えぇ。近いうちに貴女は知るかもしれません」

「……ほぉ」

 

 布都の書物やら伝承やらなにやら様々なものが詰め込まれている頭には、人の名前はほとんどない。その中に、人が加わるとすれば、よほどの人物であるということになる。

 馬子はそれを布都に伝えた。

 わざわざ自らが会いに行って確かめてまで、である。

 それはつまり――。

 

「どっちで?」

「貴女を知った時と同じで、どちらも、です」

 

 蘇我馬子という男はやはり人の中で生きたいのだ。

 布都は馬子の楽し気な瞳を見てそう思った。

 自分と競い合えるような、そんな人物を待っているのだ。

 布都は少し申し訳ない気持ちになった。

 武においては馬子は凡夫にも劣るが、こと知、政治においては比類するものがいない。それがゆえに、本気になれるような相手を探している。才、能力を全て使い切らせてくれるようなそんな相手。

 布都は当初その相手、好敵手として目を付けられていたことは分かっていた。今では諦めた様子であるが、心の底から諦めきれている様子でもないのも分かっていた。

 本当によく分かっていた。

 今の布都と馬子の関係は、敵対していない好敵手というような存在であった。

 しかし布都にはその馬子の望みを叶えてあげるつもりがない。そのことがどうにも布都に罪悪感を覚えさせた。

 だから布都はその全てを飲み込み、新たに見つかった好敵手になりそうな人物の到来を祝福することにした。

 

「なるほど。であれば、我はいつも通りに過ごしておきましょう。馬子殿がそこまでいうのなら――」

 

 馬子は柔和な笑みで深く頷いた。

 話が一段落すると、布都は手をぐいぐいと引かれた。

 手を繋いだままであったので、屠自古の仕業である。

 つまらなさそうにふくれているので、理由はすぐに分かった。

 

「おぉう、すまんすまん」

 

 繋いでない方の手で、頭を撫でる。

 

「そろそろ昼ご飯にでもしますか。良い頃合いでしょう」

 

 布都が顔を上げる。

 

「あ、すまん。もう食べてしまったあとでな」

「これは早いことで」

 

 話まじりに何を食べたか聞く馬子。

 

「……おや、それは珍しい」

 

 馬子は屠自古を覗き込むように見た。

 屠自古は目を逸らす。

 

「……どうかしたのか?」

 

 首を傾げる布都。

 

「――ばかふと」

 

 屠自古の頬はほのかに赤かった。



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第16話 温もり

 夜。

 大きな焚き木が周囲を照らしていた。

 木が燃えると、煙が上がる。

 煙とは微細な粒子の固まりのことだが、この粒たちは祈りだった。

 一つ一つが集い、ゆらりゆらりと天へと昇っていく。

 周りにはたくさんの人の群れ。

 熱の周りをぐるぐると回りながら、踊っている。

 祈りは集い形となって、天へと昇る。

 今宵は豊穣を祈る大祭。

 夜の都は多くのかがり火により、明るく輝いていた。

 

 

 

「――熱心なことだな」

 

 人通りの中、布都は横目にしながらそう言った。

 これは都を挙げての祭り。

 人は浮かれ騒ぐ。

 食べて飲んで踊って。気分の高揚に酒も合わさり、都は大変賑やかだった。

 参加しているようで心がそこにない。布都は周囲の空気に溶け混じっていないことを感じていたが、そもそもそういう柄でもないのでどうでもよかった、のだが――。

 布都には、自身の傍らの存在がたいへん興奮しているのが分かった。

 それもう今にも駆け出しそうなほどに。

 

「布都っ、布都っ、あれが食べたい!」

 

 名前を呼ぶ度に跳ねる屠自古。かがり火を受け、大きな瞳がいっそう輝いていた。

 屠自古の指す先には、鳥の肉を串焼きにしているところであった。

 して、布都であるが、

 

「我は銭を持っておらん。馬子殿に頼め」

 

 三人だった。

 布都に屠自古に馬子。

 はた目からは完全に仲良し親子である。

 馬子は屠自古に優し気な笑みを向けた。

 

「銭は必要ありませんよ。あれはうちの者ですから」

 

 いわゆる顔パスというやつである。

 

「ですから、貴女でも構わないと思いますよ。知らない者なんていないでしょう」

 

 布都も超がつくほどの有名人。物部でもあり蘇我でもある、うまく分類できない存在。

 

「――父上っ、布都っ、早く早く!」

 

 もう待てないとばかり、屠自古は二人の手を引っ張った。

 そして目当ての物まで駆け寄り、手に入れるやいなや口いっぱいに頬張った。

 並んで歩く布都も、一緒に串焼きを食べる。犬歯で挟み、そぎ取るように串から引き抜く。妙に様になっているその姿を、馬子が面白そうに見ていた。

 どんどん都を練り歩く。

 身分もあり、これまで屋敷からあまり出してもらえなかった屠自古はもう楽しくて仕方がない。あれは何だ、これは何だと、指して回り、それに対し馬子が律儀に答えていく。

 

「父上父上、あれは?」

 

 屠自古がとあるくらい一角を指した。

 人がもぞもぞ動いているのが見える。

 

「あー、あれは……」

 

 布都が屠自古の顔の前に手をやった。

 ひらひらとした袖が屠自古の視界を覆う。

 

「あまり見ん方がよいぞ?」

「何でだ?」

「じきに分かる」

「何だよ」

 

 布都はうけけけと笑い、屠自古の耳元でささやいた。

 

「そりゃ、暗い所であるから」

「はぁ?」

「大人になれば分かる」

 

 子どもにとって、これほどつまらない言葉もない。

 屠自古の中に反感が湧く。だいたいお前も子どものような外見してるじゃないかとか、そういうことが思い浮かぶ。でも、布都はひどく子どもっぽくなく、年寄りクサい喋り方をして、――結局、歳というものを分からなくさせて。

 

「……んだよ。じゃあ、私もちゃんと分かるようになるんだろうな?」

「あぁ、もちろん。……そうであるな」

 

 途端、布都は難しい顔をした。

 

「おい、布都」

 

 屠自古が心配するように声をかける。

 

「いや、何でもない」

 

 布都は串を放ると、屠自古の頭を撫でた。

 

 

 

 

 夜は深まり、かかり火は盛大に焚かれる。

 火の光を受けた人の影は長く伸び、地を行き交う。

 祭りはまだまだ終わらない。

 

「我こそはっ――」

 

 とある一角に、人だかりが出来ていた。その奥から勇ましい声が聞こえる。

 ちらりと視線をやった布都だったが、大して興味をひかれなかったので通り過ぎようとした。が、布都の足が止まった。

 正確には止められた。

 屠自古が布都と馬子の袖を掴んでいた。

 屠自古の顔が好奇心で満ちている。

 

「行きましょうか」

 

 馬子もそう言えば、布都に断る意思は湧かない。

 近づけば、自然と人だかりが割れて最前列付近にまで移動できた。

 人の囲いの中では、一人の男が剣を持っていて立っていた。

 この時代、剣は誰でも持っているものではない。ある程度の身分、もしくはそれらに許可されたか。

 

「あれは何をやるんだ?」

 

 屠自古の疑問に、布都は答えない。

 馬子に視線をやるも、同じよう。

 そうこうしているうちに、動きがあった。

 剣を持った男は、細い布を取り出すと、目に被せてぐるりと回した。目隠しである。その後、ふところから土を固めて作ったであろう丸いものを取り出した。

 周りの見物人もおおよそ見当がついた。

 

「では――」

 

 男はそう言うと、構え、手に持つ的を投げ、剣を振った。

 見当が辺り、観衆から声が上がる。

 人が大きく喜ぶときは、想像以上のことを見たとき体験したときである。

 見物人の中にも、数日練習すれば出来そうだと思った者も少なくない。それでも声が上がるのは、次を期待してのこと。

 当然、男も分かっていた。

 男は目隠しを外し、大きく手を広げる。

 

「集まってもらったのは、芸を見せるためではない」

 

 芝居がかった声色。

 

「見せるのは、強さ。よって、挑戦者を求む! 今この場において、我こそが最強だと宣誓しよう! 倒せば、その者が最強であろう!」

 

 歓声が上がる。

 

「武器は自由だ。なんなら素手でもよい。その時はこちらも素手でお相手しよう」

 

 その言葉に、観衆の中にいた血気盛んな男が飛び出した。

 すぐに勝負は終わった。

 その後も、続々と挑戦者が現れたが誰も男を倒すことは出来ない。

 

「なぁ、布都布都」

「やらんぞ」

「な、何故だ。すっごい強いって聞いたぞ」

「気のせいだ。それか人違いか」

「じゃあ、その腰のものは何だ」

「これか?」

 

 布都の腰には剣が差してあった。屠自古の知っている布都は、いつもそれを持っていた。

 

「これはお守りみたいなものだ。ほれ、しょっちゅう差しとるだろう?」

「使えもせんのにか?」

「ただの貰い物だ」

 

 蘇我に行くと決まった日に、守屋から貰ったもの。えらく大事そうに渡すから、何か粗雑には扱えない。

 

「だから、振り回すことしか出来ん」

「むぅー」

 

 子どもは親のかっこいいところを見てみたいものである。

 諦めきれない屠自古は馬子の方も見た。

 

「父上」

 

 馬子は即座に首を振った。

 馬子は戦闘が苦手である。身の上もある。怪我でもしたら、大事。ここは諦めてもらうしかない。

 

「ほれ、屠自古――」

 

 布都が腰の剣を抜いた。

 

「な、何だそれは」

「剣だぞ?」

 

 刀身は石に見紛うほどにくすんでいた。切れ味は想像がつく。

 

「さて、……怪我で済めばいいが」

 

 布都が一歩前に出た――ところで、屠自古が布都の袖を掴んで止めた。

 

「や、やっぱいい」

「そうか?」

 

 布都は鈍色の剣を眺めて、

 

「このボロ剣を振るういい機会だと思ったのだがな」

 

 と笑った。

 

「――そう言うな」

 

 後ろから声がした。

 知った声だったので聞きとれた。

 人ごみでも知ったものは案外聞き取れるものである。

 囲いの外。

 布都は馬子たちからすっと距離を離し、声の主に歩み寄った。

 

「これはどうも」

「久しぶりだな」

 

 兄の守屋。

 

「ええ。しかし、護衛の姿が見えませんが」

「ほれ、あそこだ」

 

 知った顔だった。

 弟の贄個が、観衆の中を抜って中心へ向かっている。

 

「勝負にならんでしょう」

 

 布都は先の件で、贄個の実力を知っている。ちょっとやそっと武技に優れているだけでは、張り合うことすらかなわない。そもそも、並みの武具では身を傷つけることでさえ難しい。

 

「そりゃ、普通にやればそうだろうが、当然加減はするだろうさ」

 

 ある種の無情でもある。

 

「……ならばやる意味なの無いのでは?」

「楽しみたいんだろう」

「よく分かりませんが」

 

 視線の先。

 贄個は、力を制限するどころか使うそぶりすら見せずに戦っていた。

 

「負けそうですが」

「そうだな」

 

 贄子はおされにおされていた。

 名高い物部の、それもその中でもさらに名高い人間が挑戦してきたのであれば、挑まれた人間の方がやる気が高まっていた。これではどちらが挑戦者か分からないが、とにかく、当人にしてみれば名を広める絶好の機会である。

 

「……あれは変わったのか?」

 

 布都は眉を寄せる。

 まとう雰囲気が変わったように感じた。

 

「勝つことだけが全てでは無いと知った。そう言っておったぞ」

「――分かりません」

「何がだ?」

「人とは変わるものでしょうか?」

「それは俺が答えるには過ぎた質問だ」

 

 打ち合いは激しさを増す。

 戦う両者の顔には笑みがあった。

 一方では純粋に楽しそうに。もう一方では功名心の現れた笑み。

 高い剣戟の音が響き、勝敗が決した。

 

「参りました」

 

 負けた贄個が満足したように頭を下げる。

 何やら少し言葉を交わしたのち、戻ってきた。

 

「あ――これは姉上。見てらしたのですか」

「うむ。物部の威を示す素晴らしい戦いであったな」

「これは手厳しい」

 

 負けたことを言っているが、贄個は笑顔だった。

 作ったようなものではない。

 

「なんだか変わったな」

「そうですか?」

「気色悪さが無くなったわ」

「やはり、手厳しい。いや、ですがその言葉が本当に嬉しいです」

「変なやつだな。そこはいきり立つか、口をきかなくなるところであろう」

「不思議ですか?」

「ああ」

「そうですか。それは良かった」

「は?」

「姉上にも分からぬことがある。それを知ることが出来たので、やはり良かったと」

「なんじゃ? 今度は我を怒らそうとしとるのか?」

「そんなわけありません。――しかし、少し聞いてみたいことがあります」

「言ってみるがいい」

 

 贄子は少し改まり。

 

「私と同じ条件で、姉上は今の者に勝てたと思いますか?」

「負けるだろうな」

 

 布都は即答した。

 

「潔いですね。試してみなければ分からないとそう答えるかと」

「負けるさ。勝つ気がない」

「その気があれば?」

「やってみなければ、――と言いたいところだがやはり負けるだろうな。勝てる要素がなさすぎる」

 

 布都は鼻を鳴らした。

 

「……では、命のやり取りであればどうです?」

「そりゃ分からん。命をやり取りするというのはそういうものであろう?」

「それは幾重もの経験によるもので?」

「どうかな」

「実は私も最近ちょこっと抜け出したりするのです」

「へぇ?」

「森深くまで行けば、時々妖怪に会えます。そうしているとふいに、姉上のことを思い出しました。多分同じことをしていたのではないかと」

「さてな。そうかもしれんし、そうじゃないかもしれん。しかし――」

 

 ――……この辺りで妖怪が?

 

 気になるところではあったが、まぁなくはないことだし、自分も経験したことであって。

 

「しかし?」

 

 贄個が不思議そうな顔をしている。

 

「あぁ、なんでもな――」

 

 言葉の途中、布都は強い力でぐいっと引っ張られた。

 

「布都! いつまで話しているつもりだ!!」

 

 さらにぐいぐい引っ張られ、

 

「行くぞ!!」

 

 屠自古。

 小さな力。抗う気はおきない。少しの名残惜しさはあるも、やはり抗う気はおきない。

 

「悪いな、今日はここまでだな」

「はい、元気そうでよかったです」

 

 布都は屠自古に引っ張られて馬子の元まで連れてこられた。

 

「いやぁ、途中から射殺すような視線を送っていましたよ」

 

 とは馬子。

 

「なるほど。何やら熱い視線を感じていたわけはそれか」

「なっ。ち、違う!」

 

 布都は目を丸くして見せる。

 

「そうか、では別の誰かであったか。我は人目を引くゆえ、そういうこともあろうな」

「お、お前は、父上のその、あれだろう?」

「んん?」

 

 いいずらそうな屠自古。

 口が小さく開かれる。

 

「……どっかに行ってしまうのか?」

 

 目が合う。

 懇願するようなそんな瞳。

 布都は一瞬硬直したのち、ふっと笑った。

 

「さぁな。それは我にも分からんことだ」

「何故だ」

「分からないことであるから」

「答えになっていない」

「答えなぞ、気に入る形にはなっていないものだ」

「分からんぞ」

「そう、それでいい」

「むぅー」

 

 布都は屠自古の頭をわしわしと撫でた。

 

「そろそろ帰ろうか」

 

 満足したと。

 間違いなくこの身の内は満たされた。

 なるほどこれが幸福なるものかと、そう思えるほどに。

 ここしばらく楽しい日々を過ごしたと、間違いなくそう思う。

 であるが、その上で足りていないものがあった。

 満ちているはずなのに、不足を感じる。

 今にはなくて、前にはあったもの。

 

 ――久しく食っておらん。

 

 唇を舐める。

 五臓六腑、体の深いところまでに染みわたるあの美味さ。

 

 ――あぁ、飢える飢える。

 

 心は満ちているのに。

 その心が求める。

 あたかも欠乏に気づいたかのように。

 

 ――久しぶりに血にでもまみれようか。

 

 生暖かい血を浴びる。

 そんな温もりもまた、偽らざる物部布都の楽しみ。




月三回更新という低い所で安定していたのに、それさえも危うくなっていた。でもまぁ、なんとか間に合ったのでよかろうなのだ。


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第17話 鬼

 星は巡る。

 その軌跡を追えば一つの線になり、それはまるで空を掻いたように、もしくは細く腫れ上がったように。

 夜が廻り時を示す。

 時は背中を押すように迫ってくるのか、それとも前を行くように先を走っているのか。それとも共にあるのか。行くものか来るものか。

 

 ――百鬼夜行とはこういうことか?

 

 とは布都の皮肉。

 生き物には生存本能がある。それはそのまま生存のために働くものであるが、だからといってそれがいつも生存に繋がるかどうかは決まっていない。

 生き物、もしくは生き物だったものが、おおよそ同じ方向に走る、飛ぶ。

 夜。

 山道。

 都からは近くはなくも、それほど遠いというでもない山。

 人が切り開いた痕のある道を行く。

 

 ――愉快。

 

 布都はあの夜の欲求に従い、翌日の夜、屋敷を抜け出していた。

 血にまみれたくて仕方がない。一度その欲求に気づけば、なかなか我慢する気にはなれない。今の平穏な暮らしもまた満足のいくものであったが、それでも足りないものを見つけてしまったのならば、それにあがらうことを選ぶことなんて出来ようか。

 

 ――数日居らんだったなら、屠自古はなんと言うだろうか。

 

 なんとも久しぶりに見る有象無象の妖怪の波。

 思えば久しく来てなかったと、布都は思うもそれどころではない。

 前には見つけるのも困難になっていた妖怪どもが、溢れるほど、いやむしろ溢れて押し出されてきたかのように布都の元までやってきていた。

 違うのは、そのどれもが布都に目がけて来たのではなく、何かから逃げてきたかのようであること。

 しかしその先が物部布都。

 皆、死んだ。

 

「一体、何から逃げてきたというのか。その先が我であれば意味をなさぬというに」

 

 恐怖ゆえに逃げて来たのか、それとも恐怖から逃れに来たのか。

 死とは平等に死であるからゆえに、救いにもなりえた。

 

 ――どうせなら我から逃げればいいものを。

 

 嫉妬というには違うけれども少し似た苛立ち。

 深まる夜。

 山の奥深く。 

 その先へ。

 道標は川の水流のように流れてくる妖怪の群れ。

 景気づけだと、派手に殺傷していく。

 蒸すような温かみのある臭気が、収まりきれなくなったように、濃く、濃く、広がっていく。

 血に酔っていく。 

 

 ――勘違いの阿呆を見に行くか。

 

 元よりそのつもり。

 鬼とやらが見たかった。その後は深くは考えてはいない。なるようになるであろうと、そのくらいしか。

 生も死もその程度でしかなかった。少なくとも、すこし前までは。

 屠自古に会うまでは。

 

 ――なんとも。

 

 寂しく思ってほしいと思っていることに、布都は気づく。それについて明確な言葉が出せないことに困惑した。

 悲しんでいる顔は見たくない。そうなるのであれば、いっそ忘れ去ってほしい。

 いつものような照れが交じったような笑みのままでいてほしいとすら思えてくる。

 時が止まって、永遠にあのほがらかな楽しい時間が続いてしまえばいいのに。

 その想う全てを肯定しながも、布都は足を前に進める。

 楽しければ、もっと楽しもうとするのが人に備えられた欲であると。

 延々に満足せずに欲に準じて追い回す。片方が満ち足りれば、もう片方の隙間を埋めようとする。

 

 ――あぁ、心が躍る。

 

 目の前では鮮血が吹きあがる。

 逃げてきた妖怪を一つ残らず殺傷する。

 

 ――血も、肉も、踊り上がって天へと昇ってしまえ。

 

 布都は口元をつり上げる。

 楽しくて仕方がない。

 得ることが出来ない、その両方を掴んだ、そんな気がした。

 

「お」

 

 声が出た。

 多少距離はあるが、感じた。

 叶うことが約束された期待ほど気分がよくなることもそうない。

 前菜を心良く楽しんでいる最中に、主菜の芳醇な香りが鼻腔を喜ばせるような。

 遠くとも感じるその気は、まさしく最上級。

 少なくとも今までで最高。

 きっとそう、たぶんそう。おそらく、間違いなく、そう。楽しみ。

 足が自然と早くなる。

 地を蹴り、空を跳ぶ。

 もう雑魚妖怪など放って。

 早く進むと、さらに早く早くと足が進む。

 視界がぼやけ線や面になっていく。

 風音が強くなる。

 そして、

 

「――ほう」

 

 着いた。

 後ろ姿。

 思わず感嘆が出る。

 いびつなコブのような岩の上に座るそれは、まさしく――。

 

「鬼か」

 

 それは振り返る。

 額から角が様はまさしく鬼。

 

「人か――」

「どうかな?」

 

 軽口。

 

「ようやく来たか。その姿、巫女か何か?」

「違うが」

「そうか。まぁ、いい。待ちに待った」

 

 鬼が立ち上がった。

 向かい合う。

 

「生贄、ではななそうだな」

「あ?」

 

 さっきから話が通じていない気がしていたが、どうやら本当にそうらしい。

 

「人にしてはそれなりの力を感じる。我は、ここよりずっと東からやって来たのだ。なに気負うことはない。お前程の巫女はいくらか見た。――さて本題だ。我を楽しませるがいい。もちろん命がけでな。満足出来なければ、お前たちの町を滅ぼす。これが鬼の遊びぞ」

 

 布都は深くゆっくり息をした。

 なんだかよく分からないが、今生最高に侮辱された気がした。

 

「堅くなる必要はない。鬼と人、そこの差は天と地より広い。それは道理。しかし、お前はお前の全てを見せて我を満足させねばならない。その為にお前は我の元に来たのだろう」

 

 布都の表情から喜色の面だけが抜け落ちていき、瞳が極度の冷気をもって鬼を見据えた。

 

「何を固まっている。さっさと来んか」

 

 その言葉に布都の何かがキレた。

 布都は口を開く。

 

「――お前は、角を折り、顎を砕き、四肢をもぎ、腸を引きずり出したのち、肝を喰らって殺してやる」

 

 誰に口をきいている。

 

「興がそがれた」

 

 寸前まで楽しい気分だったのに。

 もう――。

 

「死ね」

 

 布都の抑えていた霊力が解放され膨れ上がる。それに妖力も混ざり、説明のつかない混沌としたものになる。

 

「空想の道理に溺れて消えろ」

 

 腕を振り。一閃。

 黒い刃。

 それは鋭い刃、ではなく、空間を吸い込むようなそんな異質さを持っていた。

 

「んん?」

 

 鬼はその飛刃を手でつかみ、握りつぶした。

 

「これは面白い」

 

 鬼の口元が歪む。

 

「もっと見せてみるがよい。楽しめそうだ」

 

 布都の脳が怒りと冷たさを保ちながら、目の前の光景に相手が鬼であるということを再認識させるに至った。

 

 ――くそが。

 

 布都は跳躍した。

 宙に上がった布都は、そのままとどまり、大きく手を広げた。

 鬼を中心とした風の渦が起こる。

 竜巻。

 霊力が練り込まれた鋭い風は刃となり、岩ごと周囲を切り裂く。

 が。

 衝撃。

 空間が揺れるような音と共に、掻き消える。

 

 ――殴ったのか。

 

 見ていたからそう思った。

 だが、それが真実なのか疑う気持ちもあった。

 しかし、たしかに殴っていた。

 鬼は無傷。

 布都は目の前の者が鬼であることを、また再認識させられることになった。――いや、ここでようやく鬼というものを理解させられた。

 理不尽なまでの力。

 およそ人の身では届きうることが出来ないだろうと思わされる程の差。

 単純に、傷を負わせることすら出来ないかも知れない。文字通りの必死でようやく傷をつけられるのではと。だとすれば、どうやって倒すまで至るのかと。いや、どうしようもないという答えが出るのみであると。

 

 ――それでも。

 

 布都は地に手を着いた。

 鬼の足元から土が盛り上がり、鬼を跳ね上げる。

 宙に浮いた鬼に向かって、地面から伸びた土の矛が殺到し、――砕ける。

 即座に炎を作り、地に降り立ったばかりの鬼に向かって発射する。――も、腕を払われて霧散する。

 

 ――これが、これが鬼なのか。

 

 悔しかった。

 悔しくて仕方がなかった。

 よもや、

 

 ――この物部布都が全力を出さねばならぬのか。

 

 布都は息を吐いた。

 

 ――おののけ。

 

 布都か立ち昇るものが一気に増す。

 布都の瞳が鬼をねめつける。

 

 ――お前が誰に向かって何を言ったのか、分からせてやる。

 

 こいつは、我をご機嫌伺いに来た巫女くずれと思ったのだ。

 こいつは、我を他の人間と同一と見た上に、それらの為にやってきたのだと思ったのだ。

 こいつは、我が万に一つにも敵うことがないと、そう思ったのだ。

 

 鬼と人である、という理由だけで!

 

 ――こいつのこいつたる部分をずたずたに引き裂いたのち、殺してやる。

 

 許されることではなかった。

 憤怒を込め、それでも抑え、想いを口にする。

 

「届く、届かぬではない。上に居たつもりでもなったか木偶。増長が行き過ぎて角が伸びたのか? 思い上がるなよ」

 

 誰に口を聞いたか?

 

「我は物部布都である。道も無くば理もない」

 

 何かを握りつぶすように、手を握る。

 

「また、未知も無くば断りもない。一切のそれが更新されることなく、ただ前もって決まっていた事実が訪れる」

 

 見据える。

 

「お前のくだらない敗北という死」

 

 それが事実であると。

 

「教えてやる」

 

 口を歪め。

 

「我は物部布都。それだけよ」

 

 宣言した。

 布都は駆ける。

 即座に鬼のふところに寄り、遅れて向かい撃ってくる拳に構わず掌底を放った。

 空に打ち上げられた鬼、両手に力を練る布都。

 鬼は布都を見下ろし、布都は鬼を見上げる。

 そこには物理的なものと、精神的なものが同一していた。

 布都は示す。

 

 ――お前が上に居るのではない。

 

 ただそう思うだけであると。

 そもそも基準が違うのだと。

 上も下も、右も左も、どこかひっくり返してしまえば狂ってしまう。基準とするものを変えてしまえば、全てが変わる。そんなものでしかないのだと。

 

 ――勘違いに我を付き合わせた報いを受けろ。

 

 布都の両手から視認可能になった力が鬼へ向かって放たれる。

 それは二対の蛇が絡み合うように鬼へと向かう。

 霊力と妖力。およそ合わさることのないそれが、自然と共生したように存在している。そしてそれを覆うように禍々しい瘴気のようなものが包んでいる。

 威力だとか貫通力だとかそういうものではなく、ただただそれを受けてはいけないと、鬼にそう思わせるものがそれにはあった。

 空中で身をよじり避けようとする鬼であったが、叶わない。

 布都の放った光線は周囲を巻き込むように進み、わずかにかわしたはずの鬼は空間ごと引き寄せられた。

 鬼の横腹を存在が矛盾しているような光線がえぐった。

 

「ぐっ」

 

 鬼が地に落ちる。

 轟音と土煙が舞い上がる。

 鬼は立ち上がると、ゆっくりと口を開いた。

 

「お前は、――何だ?」

 

 布都はせせら笑う。

 

「愚か者め。物部布都、そう言ったであろうが」



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第18話 鬼、そして鬼

 鬼は腹に触れると、かすかに笑った。

 

「認めよう。お前のようなやつは初めて見た」

 

 和らげな声。それに反する力の胎動。

 鬼から出た圧が空間を押しのけ、布都に到達する。

 髪が肌が神経が心が、振動を受ける。

 

「お前は楽しめそうだ」

 

 ――この圧。

 

 人の域を優に超えていた。

 

 ――我の三倍、いや四、五……。

 

 布都は鼻で笑った。

 鬼と人。その差は歴然。

 

 ――ここまでの差であれば計るだけ無駄なことよ。

 

 黙ったままの布都。鬼は声をかける。

 

「なに、心配することはない。その全てを出し切って見せよ」

 

 と、誘う鬼。

 布都は眉間にしわを寄せた。

 

 ――しかし、こいつまだ分かっておらん。

 

 その差が絶大なれど、無限ではない。また、力と力をぶつけ合うようなものでもない。

 布都は鬼の言うままにしてやるのも癪だと思った。 

 

 

「――そちらから来たらどうだ? よもや怖くて仕掛けられぬではないのであろう?」

 

 にしても雑な挑発。

 しかし、

 

「――よかろう」

 

 効果はあった。

 鬼が踏み込む。

 地が爆ぜ、音を置き去りに――。

 すぐさま布都の目前にまで。

 音、そして。

 

「ふんっ」

 

 拳が迫る。

 身を反らし、躱す。

 が、風圧で吹き飛ばれる。

 塵が吹き飛ぶように、布都の身体はすっ飛んだ。

 張り合うことすらかなわない。

 力と力。両者の間では拮抗すらせずに砕ける。

 布都には躱す以外に術は無い。

 地と水平に、布都は木の側面に足をつき、勢いを止めた。

 

「まだだ」

 

 鬼はすでに眼前にまで迫っており、次なる拳を繰り出していた。

 視認するやいなや、布都は木を蹴る。

 が、またもや風圧で飛ばされる。

 

「気を緩めるなよ。すぐに終わってしまう」

 

 布都は数度身を回転させた後、地に立った。

 鬼が再度迫ってくる気配はない。

 

 ――終わってしまえ。

 

 布都はそういう気分になった。

 まるで、壁に話しかけているような。

 

 ――さっさと喰って仕舞いにするか。

 

 鬼と人。

 そこには確かに覆ることのない差があるのかもしれない。

 しかし、人と一括りにして物部布都という個人を見れていないのであれば、届きうる刃を見落とすことになるかもしれない。

 

 ――我が勝ち、生き残る。

 

 布都は気を固めた。

 腰にさげていた刀を引き抜き、地面に投げ捨てた。しょせん戦闘には役にはたたない飾りである。布都にとっては多少とはいえ、重りにしかならないものを提げたままで戦うほど目の前の鬼を舐めていない。

 布都の勝利は、鬼の生命を絶えさせること。敗北とはその逆、自身の生命が絶えることである。

 固めた気というのは、その二つ。

 殺すか殺されるか。

 これはただの遊びではない。

 正真正銘、命を賭けた遊びである。

 二者択一。

 血に酔うよりも気持ちよく酔える、布都の知る唯一の方法。

 

 ――屠自古。

 

 賭ける必要の無い命に、する必要のない戦闘。

 それでもせずにはいられなかった。

 

 ――もし我が帰らなかったらどう思うだろうか。

 

 満たされてしまった。

 存在そのものを慈しんでしまうような。

 思いは想いに。

 想いは恐れに。

 自分が変わって別の何かになってしまうような。

 そんな怖さに突き動かされ死地にまで来た。

 それで分かった。ちゃんと知ることが出来た。

 今この場おいても、自分が何も変わっていなかったということ。そして、おそらくこのまま生きて帰りまたあの屋敷に戻れば、また変わらない自分を知ることになるであろうということ。

 それら全てが自分の一部。

 

 ――充分。

 

「そら、さっさと来い」

 

 布都の挑発。反応した鬼が再度迫る。

 布都は足を地から離さない。逆に根を張るように、地面に力を流す。

 鬼の拳。

 布都は身を揺らし、躱す。

 今度は吹き飛ばない。

 布都はそのまま手を伸ばす。

 その手は黒く染まっていた。

 全てを腐蝕させてしまいそうな禍々しさ。

 鬼は本能でそれが決して触れてはいけないものの類であると覚った。次なる攻撃を繰り出そうと、前のめりになっていた体勢を崩して後ろへと跳ぶ。

 間髪を入れずに布都は追う。

 一気に詰め寄ると、手刀を振るい下ろした。

 鬼の頑強な皮膚は、布都の手の侵入を肩口から許した。傷すら滅多に負うことのないはずの鬼の剛皮が、溶けるように崩れていく。

 人の攻撃など、到底届きうるはずがない。そういう考えから更新できずにいたから、鬼は当たることになった。いや、避けれなかった。注意さえ向ければ認識出来ていたはずの死をみすみす見逃したのである。

 布都の手がさらに奥深くへと沈んでいく。

 その手が黒く染まっていたのは、侵入したその時だけで、肉に分け入った時にはすでに元の白さを取り戻し、同時に鬼の体内の液体により赤く染まっていた。

 布都の手が目的の物に達する。

 肝。

 ぐぶりと音を立てながら、抜き取る。

 

「――が、ふっ」

 

 たたらを踏む鬼。

 布都は口を開くと、鬼の首に噛み付いた。

 剛皮は多少は抵抗したが、深手のうえ肝まで取られた状態では耐えられずに噛み千切られた。

 布都はそれを吐き捨てると、鬼の首の傷口に、空いた方の手を突っ込む。そのまま身を回転させると、鬼の首が胴と離れた。

 一回りすると、布都の目に落ちていく鬼の首が映った。その様子を見ながら持っていた肝を喰らう。

 

 ――ああ。

 

 身に快感が染みわたる。

 それは得も言えぬ快楽。

 身が体が、歓喜する。

 それにともない、心も喜ぶ。

 でも、

 

 ――満ちていない。

 

 屠自古の顔が浮かんだ。

 喜んだはずの身体と心に不足を見つけた。

 布都は、口元を袖で拭うと、傍にあった木に腰を掛けた。

 抗えない脱力感。

 

 ――さすがにくたびれた。少しゆっくりしよう。

 

 瞼がゆっくり落ちた。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

「なぁ、そろそろ起きないか?」

 

 布都の脳が言語を知覚した。

 

 ――妙な気配だ。

 

 確かめようとすると、まるで煙を掴んだかのようにとらえようが無かった。

 

 

「いやぁ、しばらく眺めてたんだけど、そろそろ動いてるとこが見たくなってねぇ」

 

 目を開き、半身起こす。

 すぐそこにいた。

 童女のような姿に、大きく伸びた枯れ枝のような二本の角。

 

「誰だお前」

「見て分からないかい? ――鬼だよ」

「そんなもの見れば分かる」

「そうかよ」

 

 ――圧がない。

 

 布都はいぶかしんだ。

 鬼であれば周囲を押しつぶしてしまうほどの圧があるものだと思っていたし、事実さっきの鬼はそうだった。

 

「我に何のようだ」

 

 同胞の敵討ちにしては、どうにも纏う雰囲気が軽い。寝てる間に攻撃してこなかったのもそうで、なんというか、妙に妙である。当の鬼は手に持っているひょうたんを、しきりに口に寄せてぐびぐび飲んでいる。鼻につくほどの酒の臭いから、中身が酒であるということは分かるが、やはり目の前の生き物がよく分からない。

 

 ――酔ってるからか?

 

 笑みを絶やさず、楽しそうにすら見える。

 

「それ、お前がやったんだろ」

 

 鬼は視線を、布都が殺した鬼に向けた。

 

「さぁな。そんなもの初めて見たわ」

「おいおい。そういうのはよそうぜ」

「ならば、分かりきった問いなどせぬことだ」

「お前、嫌なやつだな」

「褒めても何も出らんぞ」

「どうやら真までそういうやつらしい」

 

 布都は立ち上がる。

 その動作もじっと見られた。

 気味が悪い。

 

「――いい加減用件を言ったらどうだ?」

「じらされるのは嫌いなたちか?」

「ああ。逆なら好みであるが」

「それなら私もだ」

 

 鬼はうれしそうに笑う。

 

「ただ聞きたかっただけさ」

 

 もう一度、鬼は死体に視線をやった。

 

「――どうやってやった? およそ人になせるものじゃない」

 

 笑みは絶えていない。が、どこか刺すような空気がかすかに混じった。

 

「言わなかったか? それが倒れていることに、今さっき気づいたばかりだ。もしやそれ、死んでおるのか?」

 

 口を――、首回りを――、真っ赤に染めた布都が嘲笑しつつ、そう言う。

 

「なるほどなぁ。……まぁ、いいか。これは始めに伝えていなかった私の落ち度でもある」

「ん?」

「私は萃香、見ての通り鬼だ。そんで、鬼ってのは基本的に嘘が嫌いだ」

 

 布都は首を傾げて見せた。

 

「……そんなもの知っているが?」

「そうかよ」

 

 鬼、萃香は首を振った。

 鬼という言葉を聞いただけで、顔色を変えるのが人間である。

 しかしどういうわけかこの目の前の人間は、挑発さえしてくる。そもそも鬼なんてものは、嘘をつかれると直感的に分かってしまい、内に怒りの芽が生えてくるものであるが、不思議と目の前いる嘘を吐いているはずの妙な人間には腹が立たなかった。

 その理由も萃香には何となく分かっていた。

 答えは至極簡単で、目の前の人間が嘘をついていないから。とはいえ、真実は言っていない。ただただ純粋に目の前の人間は、自分の心に嘘をつかずに、相手にもつかずに、真実の出来事を言葉に換えていないだけで、その実ずっと本心を言っていた。

 そして、布都は直接それを口にした。

 

「――ところで、いい加減かかってきたらどうだ? 図体のように気の小さい鬼だな。でかいのは角だけか?」

 

 最初から喧嘩を売っていたにすぎなかった。

 

「我は物部布都である。物言いはつまらなかったが、あの鬼の肝はたいへん美味かった。この幸運に感謝して、元気におかわりといこう」

 

 闘気を露わにする布都。

 萃香は顔色を変えない。

 

「んー。それも悪くはないんだが、ちょっとその気分ってわけでもないんだなこれが」

 

 懐かしむように、倒れている鬼を見る。

 

「そいつ、……まぁ馬が合ったというわけでもないが、それでも付き合いはあった方だ。私がこの近くにいたのも、こいつの力を感じて来たのもそうだ。ちょっと様子を見に来ようかと思えるくらいはあったんだ。だからさ、聞きたいんだよ。どういう風にやったのか。何も復讐しようって腹じゃあない。なぁ、聞かせてくれないか?」

 

 正面。目が合う。奥まで見ようとする意思が伝わる。

 

「アイツの最期。そしてその経過。鬼を殺す人間なんて聞いたことがない。ああでも酒に毒を入れたとかは無しだよ。周辺で暴れてほしいならそれでもいいんだけどさ」

 

 布都は目を細める。

 

「教えてほしいか?」

「ああ」

「ならば言おう」

 

 布都は口を歪め、

 

「毒を使ってだな?」

 

 せせら笑う。

 

「策を弄し、罠に嵌め、毒を盛り、動けないところを執拗にいたぶってやったわ」

 

 これまた明確な挑発。

 萃香は頭を掻いた。

 

「うーん、話が進まないなぁ。どうしてそこまで本当のことを言わないのか」

「馬鹿め。言う義理も必要もないわ」

「まぁそうなんだけどねぇ。いやなんていうか、ほんとにやる気はないんだ。なぁ、もう楽しんだろ? そろそろいんじゃないか?」

 

 歩み寄ろうとする萃香。――だったが足を止める。

 布都から立ち上る気が一気に上昇する。

 

「やる、やらないは、お前の決めることじゃあない――」

 

 布都から立ち上る気が、鬼の萃香の足を止めた。全てを浄化するかの如く清らかすぎる霊気に、全てを覆い隠し惑わすような妖気が混ざり合っている。

 

「おいおい、なんだそりゃ――」

 

 その萃香の疑問は言葉として答えられることなく、形として、語る意思なしというもので答えられた。

 人の身体から妖気が出てくるというあり得なさ。そしてそれが、相反するはずの霊気と混ざっているというさらなるあり得ないさ。

 萃香はそこに見過ごしてはいけないものを感じた。

 何か違う。何かを修正しなければならない。そう、根本から。

 

「お前、何だ――?」

「あぁ?」

 

 疑問には答えられず、二つの気が混ぜられた光弾が萃香に迫る。

 腕を振り、手の甲で軽くはじく。

 脅威、ではない。

 だが、問題ないとするのはよくない。勘がそう告げる。

 萃香は諦めて、付き合うことにした。

 

「言葉で聞けないのなら、もう仕方がない。こうなりゃお前の望む形で聞いてやる。加減が難しいんだからな? うっかり死ぬなよ?」

 

 萃香は闘気を表した。




難産&難産
そして難産

遅くなりすぎて申し訳でござる


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第19話 致死毒

いつもの倍くらいあります(平均換算)


 鬼にも階級のようものがある。

 それは力の強さというかケンカの強さで決まるような大雑把なものであったが、それなりにしっかりとした上下の関係があった。口の上では軽く接していても、その奥にどこか尊敬や畏怖があった。

 そんな鬼の間で、一番に名が挙がるような存在が萃香である。

 酒好きの鬼といえども、萃香ほどいつも飲んでいる者はいない。いつも酔っていて、頬が赤い。そんなことから、酒呑や朱点だったりと呼ばれていたりする。

 未知や恐怖の権化である鬼の中でも特別に目立つ存在。

 今、萃香はその力を人、――それも一個の人間に向けようとした。

 

「脅しじゃないんだからな? くたばんなよ?」

 

 見た目は童女。振り上げる拳もまた同じ。

 だが振るうと、軌道に接していた空間が擦られ叫びを上げる。拳の前にあった空間は押し出され、空気の弾となって布都の肉体に向かう。

 

「――っ」

 

 布都はとっさに半身をずらし避けた。

 その瞬間、先ほどの鬼との差を感じさせられた。

 

 ――当たれば終わる。

 

 身体が吹き飛ばされるような攻撃ではなく、当たったその箇所が吹き飛ぶであろう。

 

「お、いい反応をするな。まぁ、そうでもなきゃ、ほとんど無傷で鬼なんて倒せないだろうけどな」

 

 余裕を見せる萃香。布都は舌打ちを我慢した。

 

「そら、次いくぞ。避けろよ――」

 

 萃香はゆったりとした動作で振りかぶり、また殴った。

 言語では表現しがたい音と共に、布都に向かって空気が襲う。

 およそ人の身では視認出来ようはずがないそれ、しかし布都は避ける。およそ勘と、極限までに高まった集中力がそれを可能にさせている。

 

「よーし、次は連続でいくぞ」

 

 瞬間、布都は川にでも飛び込むように横へ跳び、接地前に手を着き、もう一度跳んだ。

 認識からだいぶ遅れて後ろから木々の砕ける音が聞こえてくる。

 砕けた木々の倒れる音まで聞いている余裕はなかった。

 布都はまた回避行動に移る。

 空間の叫び声に呼応したように木々が悲鳴の声を上げていく。

 

 ――どうやって近づけばいい? いや、近づいた所で危険が増すだけか?

 

 絶対的な力の差をここまでありありと見せられると、さすがの布都も策と呼べるようなものがまったく浮かばなかった。

 どうしようもない。

 そんな言葉が出てくるのを抑えようとするも、抑えきれずに脳裏を支配する。

 決死で近づいた所で、傷を負わせることが出来るのかさえ怪しかった。至近距離で攻撃動作などしようものなら、代わりに半身がふっとばされそうな予感もしてきた。小石が大岩を砕こうと玉砕するが如き真似ではないかと。多少の傷をつけることが出来たとしても、それと引き換えに自身が砕けてしまってはなんの意味もない。

 

「ふぅ」

 

 息を吐く。脳裏の思考を外に出すように。

 

 ――そのようなこと考えていては死ぬだけ。

 

 欲しいのはやらない理屈ではなく、敵を殺す理屈。ぐだぐだと危険ばかりに思考を巡らせていては、いつまで経っても状況は改善されないだろう。

 だからといって考えを止めて突っ込むような無策無謀をすれば、そこで全てが終わる。

 

 ――何でもいい。

 

 そう思った布都は、腰にさげていた刀を手に取ると地面に落とした。

 少しでも身軽にするため。

 手が思い浮かばないのなら、出来ることは現状を思いつく程度で最善化することくらい。とはいえ、身に着けていたものを外すことくらいしか思いつかなかった。

 布都の葛藤にも似た思考をを読んだかのように、萃香は攻撃動作を止めて口を開いた。

 

「ん、満足したかい?」

 

 その言葉で、布都は硬直した。

 腹の奥から立ち上った熱が脳を貫く。

 身体が前傾姿勢を取り、――止まる。

 

「――ふぅ」

 

 大きく息を吐く。

 

 ――落ち着け、落ち着け。

 

 念仏のように唱える。

 もう一度、息を吐き、言葉を吐く。

 

 ――思考を変えろ。

 

 熱に従ってしまえば、火中に飛び入る虫と同じ結末が待っている。一時の情動で捨てるほど、現世に未練が無いわけでもない。まだ得ていないものがある。

 

「満足したことなど無い。それともお前はあるとでも?」

 

 くりっとした瞳を見つめる。

 

「当然。今この瞬間もね」

「何故」

「私が私であるから」

 

 その表情、声色からは、微塵の混じり気も感じられない。

 

「酒に喧嘩。これがあれば私は満たされるのさ」

「偽りなく?」

「ああ」

 

 布都には分からない。

 

「納得いっていない様子だな」

 

 酒も喧嘩も知っている。布都にとってもよく親しんだものだ。そしてそれらが、満ち足りたと感じた瞬間から抜け落ちていき、決して内に留まらないものであると。

 

「人間というのはいい。可能性の塊だ」

「何が言いたい」

 

 焦らされるのは嫌いな性質である。

 

「教えてやるよ。お前はまだ可能性の中にとどまっていたいのさ。満ち足りたければ、これでいいと、そう思うことだ」

「そんなものは――」

「そう、つまらないだろう。でもそこに満足がある。要はそう思えるかどうかさ」

「思えるはずがない」

「正しさなんかない。好き嫌いの問題にすぎないのさ」

「馬鹿らしい」

「いや、真実だ」

「何故」

「それが真実だから」

「どうしてそう言い切れる」

「知っているから」

「何を」

「それが真実であると」

「阿呆らしい」

「そうでもない」

 

 ふざけた問答だと、布都は思った。無駄だったとすら。

 

「――いや、違うな。阿阿呆にでもならなければ分からないことがあるのさ。特に賢いと思ってるやつには近づきようがないものでね」

 

 布都はこの無駄とさえ思える問答を切り捨てられない。

 

「あれこれ考えるのを止めにして、衝動で行動してみなよ。きっと楽しいぜ」

「今衝動で動けば死ぬが?」

「そうだな。でも、そうじゃないかもしれない」

「言いたいのはそれだけか?」

「はやるなよ。せっかく楽しくなってきたのに」

「さっき言ってたことと違うようだが?」

「いや、違う違う。満ち足りた上でさらに楽しむのさ。酒にはつまみがいるだろう?」

「そうか? なくともいけるぞ。何もなくとも月でも見てればそれでいい」

「なんだよ。分かってるじゃあないか。うんうん、やっぱそうだと思ったんだよな」

 

 ――遊ばれているのか?

 

 いい加減頭が痛くなってきた。

 

「お前は分かってるけど気づいてないだけなのさ。つまみがないから、月を見る。これは誤魔化しでも妥協でもない」

「分からん」

「そんなはずはない。一度でも、満ち足りたようなことが本当にないか? その後にそれを打ち消そうとしただけじゃないか? ただ認めたくないだけで」

「知らん」

「いいことを教えてやる。満ち足りる方法なんていくらでもあるのさ。その中で好きなものを選んで、好きな楽しみ方をすればいい。お前が認められないのは、その方法か、それとも楽しみ方、それらを見つけられていないだけってこと。言っただろ、衝動で動いてみろって。――ここを使い過ぎなんだよ」

 

 萃香は頭を指して見せた。

 

「食うことや飲むことが好きなやつは出来るものだよ。なぁ、物部布都」

 

 少しだけ分かってきた。思い当ることは無くは無い。

 しかし、それを初対面の奴に言われたことがなんとなく気に入らない。

 

「その時、その瞬間を、舐め干すように楽しむ。何かをする時、それが一番楽しくなるように自分を沿わせるのさ」

「要は気分次第ってことになるが?」

「いいんだよ。それが一番大事なんだから。行うことそれ自体が楽しければ、その楽しさを全力で楽しめれば、それで満足出来ないなんてことはない」

 

 酒に酔うような、刹那的快楽。

 

「そら、楽しもうぜ。楽しまなきゃ生きてても損だぜ」

「酒に酔ったように行き、醒めれば死ぬのか?」

「ほら、お前はやっぱり分かってた。――最高だろ?」

 

 分かっているけど、気づいていない。

 布都の中で、萃香の放ったその言葉がようやく溶けた。

 この瞬間が永遠に続いてもいいと思えるほどの瞬間を求める。その求めてる瞬間もまた素晴らしく、なによりその瞬間は一つではない。どれも違った快楽があって、その楽しみ方も一様ではない。それを追い求めるのが人生とするならば、なんと良き生を送れるのだろうか。

 

「お、いい顔で笑うじゃないか。惚れてしまいそうだよ」

「ならば惚れてしまえばいい」

 

 布都の笑みがすこしずつ――。

 

「おいおい」

 

 官能的なものを孕んだ異質なものへと変貌していった。

 生とは繋ぐこと。死とは絶えること。

 布都の笑みのそれは、あきらかにその対のもの両方を有していた。

 

「――ゆくぞ」

 

 視線が交差する。

 

 ――なんなら、惚れさせてやる。

 

 物部布都という存在が心に魂にこべりついて終始気になってしまうくらいに。

 

 ――我も忘れずにいてやろう。

 

 この瞬間を何度も思い出すように。

 

 ――萃香という存在を残すことなく味わおう。

 

「この瞬間を永遠にと願えるように――」

 

 布都は駆けた。

 そこまで離れていない距離。

 一瞬。

 詰め寄る。

 

「っ!?」

 

 慌てたような鬼の反撃、布都は確信する。

 何かを警戒しているような動き。いや間違いなく、警戒している。それが何かはだいたい見当はつくものの、確証まではない。

 視線が交差すると、互いに地を蹴って距離を取り合った。

 きっとそいうことなんだろう。

 

 ――この駆け引きこそが、対話なのだろう。

 

 言葉を必要としないがゆえ、心の対話になり得る。

 それでもやっぱり言葉を要したくなるもので。

 布都は反撃した鬼に言う。

 

「何だ、恐れているのか?」

「まさか。私は鬼だぞ? 恐れられるのはこっちだ」

「そうか。確かにそうに違いないであろう。――でも、もし恐れることがあればどうか」

 

 布都は、数歩近づく。

 

「それはきっと、恐れられる者が恐れるようなそんなもの。――としか言えない、説明不可の存在であろうよ」

「それがお前だってか?」

「違うか?」

 

 萃香はにやっと笑った。

 

「そうだと嬉しいな。正直期待してるんだなこれが」

 

 萃香から発せられる妖気が爆発的に上がる。

 人が、とか。妖が、とか。そんな分け方がどうでもよくなるほどの力の奔流。

 布都はもう一歩踏み出す。

 ざわめく木々に地の数々。

 恐怖はある。でも怖くはない。その矛盾。

 布都の口が歪む。

 何故楽しいのかも分からない。

 でも今楽しんでいることは確かで。

 今ここで飛び掛かっていくのもいい。――が、布都はこの状況でもさらに言葉を交わしたくなった。

 

「こういう高揚感は初めてかもしれん」

「お、そりゃいい。ま、私は何度かあるけどな」

 

 相手は鬼である。人の世で暮らしてきた者には遭遇し得ない体験もするであろう。

 

「そうか」

 

 萃香は鼻を鳴らした。

 

「気に障ったかい? だが人間相手には初めてだよ」

「ふむ?」

「妖怪や神に仙人。こいつらと喧嘩するのは楽しい。つええからな。でもただ強いってだけじゃあ、やっぱりちょっとなぁ? ――お前なら、もう分かるだろう?」

「まあ」

「そうそう。ここよりずっと北に妙な連中がいたんだ。そいつら人間のくせに強かったんだが、やり合うとこれがまた楽しくないのなんの。最後の喧嘩がそれだから、人間とやるのはなんとなく気乗りしなかったんだが、お前を見ているうちに気が変わったよ」

「惚れたか?」

 

 二度目。

 

「ああ、惚れさてくれ。そんで、そのあとに飲もうぜ」

「生きていたら、だろう?」

「当然」

「そろそろ――」

「ああ――」

 

 命を放り出すかのような戦闘だというのに、わざわざ合図をして互いに確かめ合った。

 手を取って歩くのも、刃を交わし合うのも、そう大きくは変わらない。違いは形だけ。もっとも互いがその気であれば、であるが。だが布都と萃香の両者はすでに諒解を終えている。

 

 まず布都が動いた。

 短く地を蹴り、距離を詰める。

 対する萃香は身体を弛緩させたまま、布都の行動を待っていた。酒気のする吐息が心地良く、状況も合いまって精神的高揚がそのまま萃香の集中力に繋がった。

 どちらかが動かない限り戦闘にはおよそならないが、先に動いたのは人間の布都。

 鬼か人間か、そのどちらかが仕掛けるといったら、ほとんど人間からだろうが、この二人の場合は少し事情が違う。鬼や人間といった種族ではなく、ただの個人の性格によるものでしかなかった。萃香は興味を持ったものに対して、少し観察してから動き出す癖があり、布都は身を放るようにして対象を確認しようとするところがあった。布都は、想像通りで終わってしまうほど退屈なものはないと考えている。これの一番の対策は想像しないことであるが、無策ではすぐに潰える。布都はその狭間にいる。

 駆け寄る途中、布都は息を吹いた。

 肺で練られた霊力が、口から吹きだされ外気と混じると火と変じた。

 それは萃香の視界から布都の身体を隠すには充分だった。

 燃え吹きあがる炎。

 明かりが灯され、森の一部に光と影が出来た。

 対する萃香は瓢箪の中身をくいっと口に含んだ。

 迫る布都。

 合わせて萃香は口に含まれていたものを吐いた。

 鬼を酔わす程の酒に、鬼の妖気。それらが練り混ざり焔と化す。

 布都のそれは風船のよう。

 萃香のそれは槍のよう。

 いや、槍とするにはあまりにも強靭。その火は暗闇を強引に押しのけ、視界を焼くほどに周囲を照らした。

 やぶれた風船は空気に溶け混じり、突き破った槍は轟々と燃えさかる。あまりの熱に、地面の草々が耐えれず縮こまり頭を垂れる。

 その攻防の間に、炎に姿をくらませていた布都は萃香の側面、死角から迫っていた。

 

「っ――」

 

 腕を振るう。

 手刀。

 限界まで研ぎ澄まされた霊気。それは刀匠が幾年も掛けて打ち鍛えた刃のようにして手を纏う。

 布都の判断は簡潔だった。斬撃をいくら飛ばしても斬れぬ。ならば、直接斬る。

 速度充分。遅れて気づいた萃香にはもはや避けることが叶わないだろう。

 これが通じるかどうかで、次の攻めが変わる。

 ところが萃香は防ぐ手立てを見せない。

 不審ながらも、振るう腕を止めない布都であったが、――気づいた。

 萃香が拳を握った。

 攻撃と攻撃の交差。

 すなわち、痛み分け。

 

 ――否。

 

 死と傷は等価ではない。

 だが、ここで引けるだろうか。布都の中にそんな思いがよぎる。

 死の直前の刹那。

 身体は本能を叫び訴えた。避けろ、逃げろと。

 意思は吠え猛る。引くな、行けと。

 本能に準じるなら、そもそもこの戦いはしてはないけない。そもそも鬼に近づこうとしてはいけない。

 布都は、叫びを採った。

 攻撃を止め、回避行動へと移行する。

 両断せんと萃香目掛けて縦を向いていた布都の手が、動きそのままで向きを変え手の平を見せた。刃状にあった霊気が手の平に集まり、布都と萃香の間の空間を一枚の板を叩くようにして衝撃を放った。

 互いの身体が浮く。

 萃香はわずかに。布都は大きく。

 宙の浮きざまに、布都は足でも同様のことを行い、さらに距離を取った。

 

 ――臆したのではない。

 

 自分にそう言い聞かせる。

 あのままであればおそらく死、もしくは最低でも戦闘不能の状態に陥っていたであろう。

 

 ――適切だったはず。

 

 布都の眉間にしわが寄る。

 

 ――しかし、何故。

 

 納得できていない。どこか引かかりを覚える自分がいるのか。

 理屈でなだめようとしても、それで理解しても、どこかしこりがある。そんな自分に戸惑う。

 その葛藤を払拭するように、再度突っ込む。

 強くなる悲鳴の訴えを無視して、猛る意思に添う。

 

 ――もう出し惜しみはするまい。

 

 布都の半身が黒く染まっていく。

 先ほどと同様に、布都は近づきざまに息を吹いた。

 違ったのは炎ではなく、霧のようなナニカであること。

 黒い灰だか小蠅だか判断つかないものが、吹き出し萃香へと向かう。

 

「っ――」

 

 ぎょっとした萃香だったが、即座に回避行動をとった。

 萃香のいた後、その地点にあった草木が一気に腐蝕したかのように、その形を崩した。

 布都はもう迫っている。

 回避先の萃香に、接近し、黒く染まった腕を伸ばしていた。

 萃香は向かい撃たずに、避けた。

 穢れ。もしくは、世界から出た膿のような。形容しがたいものを感じさせる。

 さらに追撃しようとする布都に、萃香は見せた。

 腕っぷしだけではない萃香としての本領を。

 萃香の姿が霧のように薄れていく。

 

「なっ」

 

 布都の動きが止まる。

 

「わりぃな。それはまずそうなんでね」

 

 姿を消しながらそう言う萃香は、布都がどうやって鬼を殺すことが出来たかを知り、驚愕と恐怖を覚えた。鬼同士で喧嘩するときでもめったに使わない能力を人に使うくらいには。

 

「……どこにいる?」

 

 これでは攻撃のしようがないと動きを止める布都に、萃香は答える。

 

「まあ反則みたいなもんだ。そっちのも見せてもらったし、説明はするさ」

 

 布都は周囲を見回しながら、警戒を怠らない。萃香の気配をそこら中から感じている。

 

「私はあらゆるものの密度を自由に操れるのさ。自分も含めてな」

 

 布都は鼻を鳴らした。

 

「反則じゃないか」

「そうでもない。お前のそれを見たらな」

 

 布都の半身を黒く染めていたものはもう引いていて、自身の髪色に似た霊気すら漂いそうな白々とした肌に戻っている。

 

「だが、あまりおすすめはない。お前、もう長くないぞ。そしてその力を使えば使う程、残りの時間が大きく削られていくはずだ」

「自分の身体のことくらい自分がよく分かっておる」

「だったら何故そんな無茶をする?」

「焚きつけたやつが何を言うか」

「まぁ、そうか」

 

 布都は深い笑みを作ると、唇を舐めた。

 

「それに先ほど少し伸びたしな。鬼というのはたいそう美味なるものであった」

「で、私も喰おうってか?」

「涎が滴るほどに」

「目が悪くなったかな? 見えないが」

「ならばさっさと姿を現して、目ではっきりと見るがいい」

「そうさな、気が向いたらな」

 

 ただ乗り気じゃない、というよりは何かある。

 

「よもやそのまま去る気ではないだろう?」

「そうなんだがなぁ。どうにもなぁ」

「臆したか?」

「ま、そうなるな」

「認めるのか?」

「さすがに死ぬかもしれんし」

「覚悟の上じゃないと?」

「いいや、そういうんじゃない。ケンカってのはそういうもんだってのは重々承知だし、だからこそ楽しい。でもだからって、命を捨てるのは面白くない」

「面白くない?」

「死んだら楽しめねえだろ?」

「まあな」

「その塩梅が、意地を採るなって方に傾いているのさ」

「ふむ」

 

 姿を現さない理由。なぜそのまま仕掛けてこないか。

 布都は答えにたどり着いた。

 気乗りはしない。そう思いながらも、布都の塩梅は意地に寄っていた。

 布都は大きく空気を吸うと、体内に溜めた。

 布都の半身が黒く染まる。

 染まる部分が、回数を増すごとに広がっていくのを布都は知覚している。

 

「おいおい、またかよっ」

 

 何かする。と、霧状の萃香は警戒を強め、布都から離れるも――。

 周囲に黒い霧が急速にまき散らされ。わずかに汚染される。

 ぞわりと、気味の悪い不快感を自身の一部から感じると、萃香はその部分を自分から切り離した。繋がりを失ったそれはただの粒子となり、萃香は肉体の一部を失なった。

 引くのが遅かったと後悔する萃香だったが、これで終わりと決まったわけではない。次があるかもしれない。後悔するのは後でいい。自らも病む致死の猛毒。何故その当人が生きているのかさえ怪しくなってくるほど。

 

 夜の森。立ち込める黒霧により、視界は皆無に近かい。

 未来はまさしく未知。暗雲轟々として先は見えずとも、高揚感は増すばかり。今、この一瞬を刻々と――。

 



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第20話 灰銀

 闇の濃霧は突如として晴れた。

 閃光が走り、触れたもの全てを光に染め上げていった。

 月光より激しい潔癖な力の奔流。

 全てを侵してしまう禍々しさがあるのなら、全てを拒絶してしまう清らかさもある。

 よく似ているのにひどく違っていた。

 

 閃光が去ると夜の森が戻った。

 正も負もない。ただの壊れた自然。

 虫の音すら聞こえない静寂の間。そこには人と鬼だけが息をしていた。

 身体を霧状から肉体に戻した鬼が言う。

 

「色々と反則だな。どうして成り立っているか、今その理由を知る必要はないけどさ。しかし、興味は尽きないな」

 

 布都が答える。

 

「肉体を霧のように出来るのもよっぽどであろうよ。さすがに人の身では無理がありそうだ」

 

 と、自身を人の身と称した布都は、極限まで高めた霊力により全身が光り輝いている。透けるような白い肌は、もはや本当に透けているのではないかと本気で疑ってしまうくらいに生気に満ちていた。月光を集めて形作ったような、そんな肌。裏を返せば、そこまでしないといけなかったということにもなる。自らの毒に侵されないためにも。

 

「――ま、実は私にも反則技ってのはあるんだけどな」

 

 萃香はそう言うが、鬼の段階で人にとってみればすでに反則であり、そのうえその能力もまた充分に反則であるといえるわけだが。

 まだあるのかと、布都は諦念混じりの想いが湧いた。

 

「――でだ、何度か見せたように集めたり散らしたり出来るわけなんだけど、それって別に私の身体だけじゃないんだ」

「うん?」

 

 言葉の意味は理解出来るが、いまいちピンとこない。

 

「ま、全部言っちまったんじゃ面白くないだろ?」

「要は体験に勝るものなしと」

「そういうこと」

 

 ――だが。

 

 それで死ぬ気もない。

 布都は聞いてみる。

 

「それは致死なるものか?」

「ああ。おそらくな。でも、それ自体はそうじゃない。だが限りなくそれに誘うものだ」

「なるほど。相分かった」

 

 事前運動として、身体を少し動かす。

 

「じゃあ、タネあかしといこう」

 

 必要なのは度胸と理性。

 暴くは死と生の道。

 それには何よりもまず歩いてみることだといわんばかりに、布都は前へと駆けた。

 直進、――ではない。左右に跳びながら進む。

 相手を惑わそうとする。これは、即座に前へと詰め寄ることが可能であると、互いに認知し合っているから意味のある動作。そしてその後に必殺へと繋がる攻撃手段を持っていることも。

 萃香は警戒せざるを得ない。

 駆け引きとは相手に打撃を与えるものがないと成立しないものである。

 

 ――芸が無いのは好かん。

 

 ただ飛び掛かるだけでは、迎撃され、人の身ではそのまま戦闘不能になる。これまでの二回は、炎を吐いたりと目くらましをして虚を突いて近寄ったが、また同じというのは面白くない。面白くないどころか、対応されて手痛いことになるかもしれない。鬼の一撃という負うリスクはあまりにも高い。

 攻め手が決めきれない布都は、次第に萃香の周囲を大周りに回り始めた。近づきすぎると、危ない。が、距離を離したところで有効打は無い。

 対する萃香は動かない。

 訳があった。

 布都が見せた例のものを警戒している。布都のアレは、萃香を充分に警戒させ、軽はずみな行動を許さない抑止になっていた。

 よって萃香は、布都の動向を注視している。

 こうして生まれた膠着であるが、布都にとってこの状況は絶対的に不利だった。

 鬼と人、その体力も歴然。それも今動き続けているのは布都である。そのうえ、先ほどの攻防で布都は命を大きく削るようなことまでしている。それだけでなく、そもそも布都にとってこの戦いは連戦である。それも鬼との。

 

 ――どうする。

 

 布都に焦りが生じる。

 多少動き回ったところで、萃香の認識からは出られそうにない。それは実際に萃香の背側に周った時に感じた。

 突破口が見つからない。

 とはいえ、何かはしなければならない。

 

 ――やるしかない。

 

 布都は仕掛けた。

 萃香の死角から飛び上がり、萃香の上空へ。

 布都はその動きを、萃香が把握していることは分かっている。

 しかしそれでも、どうにかしなければいけない。

 策は――。

 

「それで、どうするんだい」

 

 迷いも何もかも見透かしたような言葉が布都に耳に入ってくる。

 手の平の上で踊らされているような気がして、相当に腹が立つが、ほかに案がない。

 全力でやるのみ。

 布都の全身が高まった霊力でさらなる光を帯びる。

 萃香の頭上、そこから真っ逆さま、頭を下にして手を伸ばす。

 まるで稲妻のよう。布都は地へと急降下した。

 着地、――同時に布都の手の平から伝わった力が電気が走るように地面を割り、その隙間から炎が噴き出させる。

 地を蹴り、距離を取る萃香。そのまま宙へ。

 当然のごとく避けられた布都であるが、分かっていたことなので焦りはない。

 すぐに次の行動へと移す。とにかく攻め立てて突破口をつくらなければならない。

 霊力を練り上げ肺に集め、吐き出す。

 水弾。

 人一人分くらいは飲み込める水の塊が萃香へと向かう。

 その速度、それなり。遅くはなかった。――が、萃香は余裕をもって避ける。

 余裕を残しつつも、萃香は警戒を解いていない。

 もし何かしらで動きが封じられる、もしくはそれに類するようなものがあれば、死ぬこともあり得る。現状の余裕は全てその予期せぬ何かに備えている。実際、布都の繰り出している攻撃は鬼にとっては有効打にはなり得ないものだったが、それでも警戒を続けている理由がそれだった。

 地が割れ、木は腐り枯れ果て、土草は焦げている。

 その全てが布都がやったものであるが、一顧だにしない。

 布都は、とにかく攻める。

 水弾を吐き出したと同時に、飛び寄っていた。

 最中、手を振りかぶり、萃香に到達するタイミングを見計らって振り下ろす。

 が、水弾を回避し布都の動きを注視していた萃香に、やはり距離を取られる。

 それでも、さらに詰め寄る。

 思考が介在する間もない速度。引かれればその分寄り、そしてさらに寄る。

 追い抜かんとするほど。

 時間がない。

 少なくともこうして全力で戦える時が。

 焦燥の中、布都は急きたてられるように攻めた。

 しかし、酔ってふらついただけの動きに見える動作に避けられ、苛烈に攻めようとも霧のように四散され、中々捉えられない。

 

 ――おのれ!

 

 業を煮やした布都は、全ての力を足に集中させ、萃香に体当たりをするがごとくに突貫した。

 ブラフもなにもない。全てを前進に注いだ。

 結果。

 捉えた――ように感じた瞬間、月が見えた。その瞬間、時の進みがゆるやかになった。視界が回転する。意識はまだそのゆるやかな時にまだあった。

 身体に強い衝撃が伝わり、ようやく意識が現在に追いついた。

 木を背もたれに、地面に座っているように体がある。

 状況は分かったが、それしか分からない。

 いまいち動かない思考を捨て、立ち上がろうとする、――も、足が、手が、思うように動かない。

 

 ――な。

 

 ここでようやく痛みを感知した。

 額に強い痛み。

 記憶を辿る。

 あの時、萃香の指が見えていた。

 弾かれた中指。それが額へ。

 

 ――ああ、そうか。

 

 脳への衝撃により回復しきれていない思考で、ようやく布都は現状を理解した。

 

「効いたみたいだな」

 

 けらけらと笑いながら萃香は言った。

 続ける。

 

「言っただろ? 反則は持ってるって」

 

 布都にはその反則が分からない。

 今まで見たものを利用されただけのように思えるし、またこの失敗は自分が突っ込みすぎた結果だろうと思っている。

 

「萃密ってさっき言ったけどね、別にそれって私の体だけが対象じゃないんだよね」

 

 萃香はふふっと楽しげに笑った声が聞こえる。

 

「人の意思だって集めたり散らしたり出来るのさ。――例えば、どうやって攻めようかと思ってるやつの意思を散らしてやると、そいつには迷いが生じる。逆に集めてやると、だんだん攻めることばかりに注意が向く。後は言葉や行動で誘導してやれば、術中に綺麗にはまる」

 

 萃香は得意気に話す。

 

「こうやって種明かしをしても、まったく問題ないくらいの反則だろ? そう思わないか?」

 

 布都は返事をしない。

 

「鬼と喧嘩する時にだって、ほとんど使わないんだぜ? これ。勝負が面白くないうえに、鬼ってのはどうも腕っぷしでぶつかり合うのが好きなやつが多くてどうにもウケが悪いんだ。でも、私はそうは思わない。例え搦め手だろうがなんだろうが、そいつが真剣にやってりゃ、それは称賛に値すると思うし、やっぱり敬意を払うべきだと思うね。そう意味では、さっきお前が殺ったやつとは、意見が合わなくてねぇ。――喧嘩ってもんはそうじゃない。そいつの持てる全てをぶつけ合ってこそじゃないか。そう思わないか?」

 

 布都は動かない。

 万全に動けるためには少しだけ時間がいる。

 ゆっくりと呼吸を繰り返す。一つ一つ意識して、ゆっくりゆっくりと。呼吸により気を取り入れ、身体のすみずみに送り込むように。

 諦めたから、動かないんじゃない。動けないから、動かないんじゃない。

 次に動くために、動いていないだけ。

 萃香の長話をこれ幸いと、回復の時間に当てていた。

 

「で、どうする? 続けるか? ――って、そりゃ失礼か?」

 

 その通りだと言わんばかりに、布都は立ち上がろうとする動きを見せた。

 脚に力を入れ、地面を押す。

 布都の身体はふわりと持ち上がり、――前のめり。全身が地に伏した。

 

 ――な。

 

 回復した。そう思った。

 だが布都は、焦げ混じりの大地の匂いを嗅くことになった。

 

 ――ここが限界なのか?

 

 夜の森。焼け焦げた地面、そして遠巻きに囲む緑。

 吹き飛ばされた布都は、ちょうどその境にいた。腰より上は不毛の大地、腰より下は緑。

 

 ――くそ。

 

 限界という言葉を出してしまった自分に苛立った。それに屈してしまえば、それこそそこが限界になってしまう。多くを逸脱した自分が、その枠を、蓋を、自らこしらえようとするのは何たることか。それが――。

 

 ――物部布都であろうか?

 

 布都は肘を立て、地面に突き刺さんばかりに押し当てた。

 体を起こし、もう一度鬼の前に立とうと。

 

「――っぐ」

 

 地面を押す力は悲しいほどに非力で、わずかに上体を浮かせただけにとどまった。その後の再び地面に接した衝撃で思わず苦悶の声が出てしまうほどに、肉体は弱っていた。

 

「やめとけって。寿命がさらに縮まる」

 

 布都は諦めない。

 ここで折れてはいけない。

 布都はその一心で、また起き上がろうと――。

 だが、

 

 ――あぁ……。

 

 腕が、肘が、上がらない。もうその力も残っていないようだった。

 もう倒れている事しかできない。

 うつ伏せ。なんとか首をわずかに動かし、右に向ける。

 視界が少しひらけ、息も軽くなった。

 

「良いさまだと思うぜ? あ、侮辱してるわけじゃないぞ? 本気で思ってる」

 

 声色からそれは分かった。

 

「それでも、それでも――っていう、お前の強い意思の表れ。でもその意思でもどうにもならないくらいの肉体の限界が訪れた。これは仕方がない。生きてるってのは、肉体を持ってるってのは、そういうものさ」

 

 言っていることはよく分かる。でも、それでも――とさらに思ってしまう自分と、それを諦めさせようとはしたくない自分を、布都は自身の中でせめぎあっているのを感じている。ただ、肉体はもう動きそうにない。

 もうこうやって考えていることしか出来ない布都だったが、それの終わりも感じ始めてきた。視界が次第にぼやけていく。霧がかかったように、視界もぼやけていく。目が覚めた時、はたして自分が自分であるか保証がない。――また、その危惧さえもぼやけていく。

 薄れゆく自己。布都は視界の先の先。置き捨てられていた骨董品に目がいった。この状況で何故、そう思うこともなく、ただ目に入ったそれを意識、思考の中へと入らせた。

 

 ――名も知らぬ。

 

 一振りの剣。

 物部を出る時に渡されたもの。

 

 ――色々あった。

 

 物部の人間に、蘇我の人間。様々な人間がいた。そのどれとも心を引かれるようなのは、いない――わけでもなかったが、それが今なんだろうか。

 初めは兄の守屋だった。総じて優秀である。そんな評価をしていた。現実的かと思えば、理想的だったりして、かと思えばやっぱり現実的で、と印象をなんども更新した。小さなころは、そんな兄から特別構われる自分がどことなく誇らしく感じたこともあった。でも少しずつ成長し、見える世界が広がるにつれてそれもどこか空虚に感じていった。気づけばすでに山頂に立っていたような、その登る楽しさも辛さもしらぬままそこにいた。おそらく兄も似た様に思い、自分に目をかけたのだろうと思った。結局のところ、人の中にあって人の中に居なかった。そんな同士だったのだと。でも少し違った。自分とは違って兄は人としての活力に溢れていた。そう、自分とは違って。

 喉が渇いて仕方がなかった。

 

「――お、おい。立って大丈夫なのか?」

 

 次は蘇我馬子だった。

 これもまた同士だと思った。渇きを覚えているところも同じだと、そう思った。でも少し、いや根本的なところが違った。馬子という人間は、つまらないなら面白くしてやろうというそういう気概があった。自分にはまったくなかったそういうもの。渇きを癒やそうと血に濡れて、本質的な飢餓から目を背けようとした自分とはまったく性質が違っていた。

 

「……その剣、大事なものだったのか?」

 

 そして屠自古。

 特に目立った才は思い浮かばなかったが、何故か一緒に居ると楽しかった。その時だけは、自分という人間が一端の人間であるかのように感じて、認めづらいとこはあるも、正直嬉しいと思った感情は否定出来なかった。あれだけ喜怒哀楽を素直に外へと表すことが出来たら、どれだけ幸せなんだろうかとそう思った。

 

「お前、意識がないのか?」

 

 満たされるとはどういうこと何だろうかと、考えたことが何度かある。その都度答えを出そうと苦心するも、どうにもしっくりいかなかった。全力で走って摩擦で燃え尽きるようなものだと思ったこともある。生死の狭間、極限の境。そこはたしかに燃えるような感触があった。でも、鎮火してしまえば何てことはなかった。ならば、常に燃やせばいいと思って、炎の中に身も心も投じたこともあった。が、思い通りの結果は得られず、外皮だけ燃えて痒い思いをするだけに終わった。その後蘇我に来て、言葉に上手く表せない心の感触を覚えて、こういう満たし方もあるのだと思った。それは酷く悲しいほどに幸せで、あまりにも空虚だった。満たされる、その瞬間から抜け落ちるような、説明の出来ない矛盾のような錯誤。自分は、自分が自分たるものが分からなくなった。

 でも、我はここにいる。

 

「そのナマクラでどうしようってんだ? おい、来るなら迎撃すんぞ? いいのか?」

 

 どうしてこんなところにいるのか。そんなのはもう分かった。よく分かった。ただ幸せになりたかっただけだった。我は、私は、幸せこそ、一番に求めていた。心が満ち足りて、身が躍るような幸せを。自己を強く規定して意識しようと我などと自分を呼んだが、おそらくそれは自分というものが雲ほどに掴めないと気づかないままに思っていたからだろう。

 ああ、そうか。なんだ理解出来たじゃないか。

 満たされるということとは――。

 

「お、おい! いいのか? 本当にいいのか?」

 

 我は我を思う。身体の訴えも、意思の訴えも、その両方を受け取るものも。およそ考えた先にはない。思考せずともここに在る。ただ我を感じるというだけで全て結する。

 

 ――そういえば身体が軽い。意識も今までないくらいに透き通っている。邪念がないからだろうか? いやそもそも邪念というのは――。

 

「っと、つい考えてしまったな」

「意識あるのかよ! てかおい、これ以上近づけば本当に攻撃するぞ!? いいのか!?」

 

 視界は良好。景色はいつもと変わらずとても流麗。木々がその生命力を誇り、草木も負けじと生い茂る。空は闇にして、その生命力を失わず輝々とそれを示す。月は魔性を帯びながらも、その神秘さを地上へと光として届けている。

 空気は冴え冴え、纏わり憑くようにして世界に寄り添っていた。

 布都は空気と混じり合ったように、前へと進む。

 それは萃香の意識の範疇を超えた。

 気づいたら目の前にいた。それが萃香が感じた布都の認識だった。

 

「っわ!」

 

 布都は"ナマクラ"を振るう。

 名も知らない"ナマクラ"。しかし、それが何であろうか。思えば自分もそうではないかと。人が名付けた名前は、文字通り人が名付けた名前。それが自己を規定するものではない。自己はあくまで自己。自己と他者と区別をつけるために付けただけのものにすぎない。

 こんなナマクラ。何故兄上は物部を離れる自分にわざわざ渡したのだろうと思う。おっと、考えてはいけない。どこまでも思い、想い、我を自己を私を――薄く消え去っていくのだ。

 満ちていく。

 我が身は我であり。また、我が心も我である。すなわち、我の持つ剣も、衣服も、周りの全てもまた変わらずに我であろう。そうであろう。

 身が皮が、突き破られ、我が飛び出した。

 そう、これこそが物部布都である。

 

「我は物部布都。言わねばならぬ理由もないが、そう宣言する方が親切であろう」

「……お前」

 

 消え失せたはずの自己が轟々と唸る。

 魂の絶頂。高揚感。

 場の全てが歓喜し、迎える。

 

「ここが遠くも目指した頂きである。心して掛かれ。幸福の絶頂ぞ」

 

 手に持っている剣を振りかぶる。

 名が無いのなら我が付けてやろう。我の剣それで充分であろう。恰好をつけるのなら布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)か?

 萃香は今までに覚えの無い恐怖を感じ、すぐさま飛び退った。

 理解が追いつかないが、とにかく触れてはいけない。"ナマクラ"にそう感じた。

 理解は本当に追いついていなかった。

 萃香は目視した。認識した。けれども理解するまでに、何故か絶対的な遅延を感じた。

 世界が布都を後押しするかのようにするすると空間を通ってきて近づき、剣を振り下ろす。確実に認識していたのに、理解が遅れる。慌てた頃には、もう剣は通過していた。

 フツ。

 そんな音が耳に届いた。

 

「それ、死ぬぞ?」

 

 萃香は気持ち悪さを感じた。まるで自分の中に異物が入ったような気持ちの悪さ。何なのか分からないが、それに物部布都を感じた。仮にも鬼である。研ぎ澄まされた剣だろうが、霊気で強化ようが、傷を負うことも難しい頑強な皮膚である。それが何も細工もないような"ナマクラ"に抵抗なく寸断されるなどありえない。

 が、そのありあえないが目の前どころか自分の身で起きた。

 

「っおい、おい」

 

 萃香引くことしか思い浮かばなかった。いや、正確には考える間もなく、勝手に身が後ろへと退いた。ケンカというのは身と身、心と心、それらがぶつかって当り前。そうやって楽しむものだと思っていた萃香が、その全てを恐怖により拒否して退いた。

 剣戟の類なら、例えもしあり得なく斬られたとしても霧状になれば無効化出来る。しかし、さっきの剣戟、いや剣戟なのかさえ怪しいものは、斬るというよりかは、……そう、割り込まれた。自身に他者が割り込んできて、そのまま通り過ぎていった。そんな感触だった。触れた地点は、もう無い。霧状にして戻すことが叶わない。すなわち、斬られる度に自身を失う。

 萃香は頬に伝い落ちる滴を感じた。

 

 ――冷や汗ってやつか?

 

 萃香はその滴を指でぬぐった。

 

「……いや、そうだよな。全てをぶつけてこそケンカだよな」

 

 意地がある。萃香は、およそ初めての死の危機に腹をくくった。死に繋がる可能性があるケンカは幾度となくやってきた。だが、死に直面するようなケンカは初めてだった。

 ここで逃げるなんて今までの全てを捨てるようなものだ。そう思った萃香は死へ繋がる底へと身を投げた。

 

「私も酔狂でね。今まで最高にわくわくしてるよ」

 

 恐怖の混じった笑顔。でも、間違いなくそこには歓喜もあった。

 

「――行こうか」

「――ああ」

 

 萃香は本気を出した。

 散じていた自分を全て一身に萃める。身が木々を優に越し、山へと到ろうする前に集まりだし、凝縮され、元の身体になる。

 気が溢れんばかりに充溢し、鬼の身体といえどもはち切れんばかり。

 

「中々」

 

 そう口にした布都には、怯えもなくば勇ましむ意思もない。

 ただ前へと進み剣を振り上げる。

 

「おう」

 

 答える萃香は、来る布都に目がけて剛腕を振りかぶる。

 交差する刹那。

 布都は身をよじり、萃香の腕を躱す。

 ――が、暴的な圧は避けれず、左肩より先が吹き飛んだ。

 衝撃を堪える暇もなく吹っ飛んだおかげで、布都はその刹那の間に剣を振り下ろし、剣先を萃香に当てることが出来た。

 その後、遅れてきた衝撃に全身が包まれ、布都の身体は飛ばされた。

 最中、布都は灰銀の輝きを見た。




やーっと鬼編終わりです
長かったです

ようやっと神子ちゃんが出せそうです
仲良くなれるかは、……えふんえふんですが。


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第21話 様々な

 屠自古は見慣れた床の木の節をじっと見ていた。他にすることがない。というより、したいことがない。そんなわけで見飽きた床をじっと見ていた。

 そんなところに、

 

「――屠自古」

 

 扉が開き、思わず期待いっぱいに振り向いたが――。

 

「ち、父上でしたか」

「おや、誰か待っていたのかな?」

「いえ、そういうわけでは……」

 

 尻すぼみになる声。

 素直になり切れない素直な子どもとは可愛いものである。

 馬子は、膝を曲げ屠自古と同じ目線になると微笑んだ。

 

「安心しなさい。彼女は屠自古のことを嫌いになったわけじゃないのだから」

「父上、わ、私はっ」

 

 屠自古は慌てふためいた。

 別にそんなことを心配したわけじゃないとはっきりと言いたかったが、言葉に出来なかった。言ってしまうと、もっと遠くに行ってしまうような気がした。

 

「んん? 続けてごらん」

 

 催促される。

 でも、今の気持ちを言葉にしたくはない。

 

「別に何でもないです」

「本当にそうかい?」

「もちろんです!」

 

 はっきりと答えてやった。

 だいたいなんでこんな目に会わなければいけないのか!

 布都のくせに! 布都のくせに!

 

「ま、好きにしなさい。――それじゃ、私はもう行くから」

「え、もう行くのですか?」

「これから政務だ。その前にちょっと顔を見に来ただけさ」

「そうですか……」

 

 あぁ、またつまらない毎日が始まる。

 同じものを見ているはずなのに、何か違う。

 屠自古は馬子を見送ると、目を閉じて天を仰いだ。

 色は薄く淡泊で、音は乾いていてもの悲しい。

 どうしてここまで違うのだろうと、屠自古は上げた顔を下げた。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 物部本邸。

 そういうところであるので、まさか何者か襲ってくるとは誰も考えない。それでも見張りはいる。必然、やることなどロクにない。

 よって、門兵は緩んでいた。槍を重心を託して、雑談するほどに。

 

「――おい、聞いたかよ」

「何がだ?」

「うちの姫様。いや、元姫様だけど」

「ああ、その話は俺も聞いたぜ」

 

 人とはうわさ話が好きものである。

 

「しばらく姿を見せてないらしいな」

「そうそう。もしかして、蘇我のやつらに消されたんじゃないかって上が話してるのを聞いたぜ」

「いや俺もすぐにはそう思ったが、あの姫様がそう簡単に消されるたまかと思うとどうにもなぁ」

「そうか? いかに姫様が凄かろうと、敵の真ん中にいたんじゃどうにもならんだろ?」

「あぁ、お前はあの遠征にいなかったんだっけか」

「っていうと、あれか?」

 

 物部ではあの遠征といえばすぐに伝わる。

 

「そう、あれだ。あの場であれを見たやつは、姫様が消されたなんて言われてもそう簡単には信じられないぜ?」

「うーむ、それほどなのか?」

「そりゃ凄いといえば贄個様もいるがね。でも姫様はそれとは少し違った感じがしたよ」

「まあ、なんか地に足が着いてても浮いてるような方だったが」

「それもそうだが、なんて言うかその、……上手く言えねえな」

「おいなんだよ」

「仕方ねえだろ。一応立場もあるんだ」

 

 そんな門兵がいる後ろ、中央の屋敷でも同一人物について話がされていた。

 部屋に二人。

 贄個は守屋に訴えた。

 

「兄上、煙の無いところに火は立ちません。これはきちんと姉上の所在を確かめる必要があるのでは?」

「では蘇我を疑うというか?」

「そ、そういう訳ではありませんが、念のためということで……」

「あいつの放浪癖など、前からだろう」

「前とは違います! 姉上は今蘇我の身の上です。その身の所在が分からないとあれば、必ずや周りの者たちがあらぬことを考えます」

「今のお前のようにか?」

「私は、別にそういう訳では」

「ではどういう訳だ?」

 

 贄個は、少なからず瞠目した。

 兄と姉は共に仲が良さそうだったというのに、どうしてこうなのか。心を掛けていないようにしか見えない。

 

「答えれぬか? お前はあいつのことを分かっておらん」

「……それはどういう意味でしょうか」

「言葉のままだ」

 

 そう言われると、言えることが出ない。

 そんな贄個に、守屋は続ける。

 

「だいたいお前のお遊びからすると、お前はあいつの無事を信じていないとおかしいのではないか?」

「っ――。信じています! ですが、いやだからこそっ、確かめねばいけないとそう思うのです」

「まあ、これ以上は言わん。無駄であるからな」

 

 守屋は話を切り上げた。

 

「とにかく余計なことはせずにおることだ」

 

 贄個は従うしかなかった。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 時は流れる。

 身も心も絶えず更新され、移ろいでいく。

 

「屠自古、少しいいかな?」

 

 屠自古のあてがわれた部屋にやってきた馬子は、声色の読ませない声で中へと語りかけた。

 

「返事がないようですね」

「寝ているのかもしれない」

 

 同行人と話す馬子。

 二人だった。

 

「せっかく来てもらったのに、悪いね」

「いえ。――ああでも、それこそせっかくなので顔くらいは拝もうかと」

「じゃあ――」

「はい」

 

 扉を開けると、屠自古が机につっぷすような形で寝ていた。柔らかな頬が机に負けている。

 

「これはこれは大変可愛らしい」

「自慢の娘でね」

「ええ、これは自慢したくもなるでしょう」

 

 静かな寝息。普段は可愛さが大いに勝るが、黙っているとふと貴族らしい美しさを感じさせる。

 口がわずかばかり開かれる。

 

「うぅん……、ふとぉ……」

 

 馬子は少し目を大きく開けると、眉間にしわを寄せ目を細めた。

 

「……失敗したかなぁ」

「馬子殿?」

「失礼。気になさらないでいただきたい」

 

 同行者にとっては、初めて見る馬子の表情だった。いつも怜悧さに笑顔を蓄え、隙が無いのに親しみやすいという、ある種の完成された顔をしていた。でも今見せた表情は、ひどく人間臭いものが含まれていた。

 

「――とにかく、今日はどうもありがとうございました。とても可愛らしいものも見れて、しばらく幸せにすごせそうです」

「それは良かった。今度はちゃんと意識のあるうちにお連れしよう」

「いえ、顔は憶えたのでそれにはおよびません。しれっと無関係を装って親しくなるのもいいかもしれない。寝言の人物が誰かは分かりませんが、私が屠自古の一番になってみせましょう」

 

 馬子は笑った。

 

「それは楽しみですね。願わくば、もっと楽しいことになればいいのですが」

 

 同行者は頭を下げ、礼を示した。

 

「では、私はこれで」

「ええ。体には気をつけて」

「はい。そちらこそお気をつけください」

 

 去る同行者を見送りながら、馬子はふと一つの言葉が浮かびそれを口にした。

 

「言い忘れていましたが」

「はい?」

 

 振り返って目が合う。

 

「泣かせたら酷い目にあうかもしれませんよ?」

「おぉ、それは怖い」

 

 笑って返す同行者だが、

 

「そうでなくても、そんな目に合うかも知れませんがね」

「ほぉ?」

「少なくとも、私はそうなることを願っているのです」

 

 馬子がまた人間臭い表情を出した。

 

「っと、引き留めて悪かったですね、厩戸殿」

「いえ、貴方のお話ならば是非というとこ」

 

 同行者、厩戸皇子は去っていった。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 山は見上げるものであり、また登るものでもあった。

 そして登ったあとは、その結果を誇らんとばかりに景色を見下ろすもの。

 

「どうだ良い眺めだろ?」

「雲が下にあるとは、少し驚いた」

「だろう? 普段上にあるものが下に見えると、気分の良いものさ」

「はて? 雲が我の上にあるとはおもっておらぬが」

「物理的な話をしているんだよ」

「それは悪かったな」

「まったく。ノリが良いのか悪いのか判断が付きづらい」

「ノリは良いが、他者をからかいたくなる性質と言えばいいか?」

「ああ、その通りみたいだな!」

 

 景色がつまみだと言わんばかりに、二人は飲んでいた。鬼をも酔わす酒ともなれば、人の身ではひどく辛かったものだが、次第に慣れていった。

 

「なあ、布都。お前はこれからどうするつもりだ? 鬼ともケンカ出来る人間なんて聞いたことねえ」

「特にはないぞ。ずっと、ずっと、前からな。ただ何となく生きてきた。せめて楽しい思いくらいはしていたいと、それくらいだ」

「なるほどなぁ……」

「酒に酔うような快楽とはこれを突き詰めたものだろう?」

「そうだけど、ちっとばかし違うかもな」

「ほぅ?」

「いや、私にも上手くは言えねえんだが、なんか足りねえって感じかな?」

「ふむ。ならば、その足りないを見つけるのがこれからの我の目的であるな」

 

 目的なんて無くても生きていける。だが、それが無くては人生に彩りが欠ける。

 

「ならば我は近いうちに人の世界に帰らねばなるまい」

「お前がそう思ったのなら、きっと探し物はそこにあるんだろうよ」

「というより、久しく見ていない顔に会いたくてな」

「お、そいつ強いのか?」

「ただの人間」

「んだよ」

「だが、我の娘である」

「え、お前子ども産んでたのかよ」

「義理だぞ」

「? よく分からん」

「人間には色々あるというやつだ。とにかく可愛くて可愛くて仕方がないのだ」

「へぇ? それじゃその可愛いやつとずっと離れているお前は、今はそいつが恋しくて仕方がないわけだ?」

 

 布都はほがらかに笑ってみせた。

 

「どうにもそのようであるぞ? お主との旅も楽しかったがな?」

「おいおい、私が嫉妬したみたいにするなよ」

「おお、これはすまん。存外、我、モテるようでな?」

「っけ」

 

 萃香は分かりやすく吐き捨てた。

 

「ん? ってことはだ」

 

 萃香は意地悪を思いついた。

 

「そういえば人間といえば、雄雌でつがいを作るだろう?」

「そうであるが?」

「じゃあいずれその可愛い娘もつがいを作るわけだ?」

 

 布都は、二度、三度、瞬いた。

 言ってる意味が理解出来ない。いや理解出来ているけれども、受け取りたくなかった。

 それにより遅れて返事をした。

 

「屠自古は可愛い。それは間違いないが、だからといって他のやつが、いや、なんというか、あれだ、そんなやつが現れたら、その何だ? うん、――潰す」

「わお」

「生まれてきてしまった大失態を悔いてもらうしかない」

 

 真顔で言う布都であったが、そこまで言い終わるとまたほがらかに笑った。

 

「っま、そんなことはあり得ないと思うがな!!」

 

 そんな台詞を残して。




幕間のような


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第22話 帰郷

 萃香と別れた布都はゆるりと人の世界へと戻ってきた。

 向かったのは蘇我の屋敷。

 道中、かなりの多くの視線にさらされた。

 

 ――無理もない。

 

 かなりの間、姿を見せていなかった。それが物部の姫であり、蘇我馬子の妻という存在であれば当然というもの。

 とはいえ付き合う気なんてさらさらなく、視線を無視して歩き、屋敷に着いた。それからも注目は終わらない。えらく驚いた顔の門兵をしり目にして、そそくさと自室に向かう。いくら視線は気にならないといっても限度がある。鬱陶しいと思うのは避けれない。

 むすっとした表情で歩く布都。

 自室に入ると、匂いがした。

 

 ――これは。

 

 鼻の奥から脳天、そして身体の中心にまで、酸いというと違うけれども似たような感覚が走る。

 

 ――懐かしいのか。

 

 ふと、物部の屋敷に行っても同じように感じるのだろうかとも思ったが、もう出歩く気にはなれなかった。部屋の空気が身体の隅々まで行き渡ると、途端に気力の全てが沈静化し睡魔を覚えた。それはこの空間と同一になりたいと思うほどのものだった。

 布都はさっさとと寝具を用意すると、そのままするりと夢の世界に入った。

 これは一種の至福であろう。夢の入り口で布都はそう思った。いや、極楽と言った方が良かったか? と、好きでもない仏経典での知識を巡らせながら……。

 

 

 

 

 

 

 蘇我の屋敷は当然大騒ぎになった。

 死亡説や誅殺説、様々あったわけだが、当の本人はひょっこり一人で帰ってきている。当然騒ぎにもなる。

 とはいえ、そうそうに部屋に籠った布都に会いに行こうとする者はいない。用事という用事もないし、正直に言ってしまえば少し怖いというのもあるだろう。普通ではないというのはそういうことである。ただまあ、例外というのはいるもので――。

 知らせを聞くやいなや部屋を飛び出した者がいる。

 その者は思考がぐるぐると回っている。

 思えば、屋敷内で走るなんてことはもう無くなっていた。周りの視線、礼儀や品に意識がいくようになってきている。それでも走り出した。あれこれ考える前に、体が勝手に動いた。気持ちが背を押すのではなく、気持ちが胸ぐらをひっつかんで身体を動かしたかのよう。

 一目散。部屋の前に着くやいなや、扉を横にすっとばす。

 

「――布都っ!!」

 

 いた。

 ただ、寝ていた。

 屠自古にとってはそれは少しの安心を覚えさせるものだった。心の準備など出来ているはずもなく、ただ衝動で駆け出していた。何と言えば、何を話せばとか。相手は何思っているのだろうかとか、自分は忘れられたわけではとか。そのような事が言葉になる前のぼんやりした状態で屠自古の脳裏を駆け回り、確かめたくない怖さの中でもただ会いたい見たいという一心で駆けていた。

 

「……布都?」

 

 屠自古の見た布都は、前と変わりがなかった。すやすやと寝具に身をくるんで寝ていた。時はある程度経ったかのように思われたが、それでも布都に変化は見られなかった。といっても、見たことがない布都を見たには違いなかった。

 目を閉じ黙って寝ている布都は、どこか神聖というか生気がないというか、そんな不思議な感触を抱かせるものだった。

 起こすどころか、触れるのもためらわれるその様。

 屠自古は少しの間見つめた後、踵を返すしかなかった。

 そのあと父の所へ行き、事の顛末を語った。

 

「寝ていて、話せませんでした」

「疲れているんだろう。起きるまでそっとしておきなさい」

「……はい」

 

 屠自古はひとまず頷くことにした。政務で忙しいところに押しかけてきているわけである。そのくらいの分別はついている。

 そして立ち去るその寸前。

 

「あぁ、そうそう。明日は例の人が屠自古に会いたいって言ってたから、空けておきなさい」

「はい。――て、父上っ?」

「うん?」

「その、例の人って……」

「君が都をぶらついている時に絡まれた時に助けてくれたあの人だよ」

「し、知っておられたのですか」

「私は全てを知っているんだよ」

「父上が言うと冗談に聞こえません」

 

 馬子は笑って流した。

 屠自古は知る由もないが、その全てが仕組まれたことである。仕組まれたというと策略的であるが、実際は当事者の一人である厩戸皇子が企画した演出というやつである。馬子はそれに乗っただけ。

 

「じゃあ今日はもうゆっくりしておきなさい。明日にそなえてね」

「はい、そうします」

 

 屠自古は自室へと帰った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時というのは流れるものである。

 緑が茶へ、茶が緑へ。

 時などというのは人間が勝手に感じているものであるが、人間がいなくても大地は芽吹きを繰り返す。人間なんてものはその上にいるものでもなければ、ましてや下にいるものではない。単純に共にあるものである。時の移ろいに合わせて芽吹いて咲いて枯れゆくものである。その流れに則していないのなら、自然の中にはいない。つまるところ、人間ではない。妖怪、それとも神、もしくは仙。

 

「うぅむ」

 

 目覚めた布都はうねった。

 長い夢を見ていた気がする。

 全てが溶け込んで自らの正体も分からなくなって、でもそれを知覚している自分は在るというような。時の中にいるのに、時の中にいない。妙な感覚。

 起きると全てが固定されて見えた。

 木の天井。

 身を起こすと、知っている部屋が見えた。

 

「――そうか」

 

 帰ってきたのだと、改めて思った。

 膝を立て、手をつき起き上がろうとすると、

 

「ぅぎゃ」

 

 横に転倒した。

 

 ――二、三日くらいは寝ていたようだ。

 

 思いのほか疲れていたのだろうと得心すると、布都はもう一度立ち上がろうとした。

 全身の感覚がぼんやりとしている。数日眠りこけていたからだと、布都はすぐに理解したが、また倒れた。

 今度は立ち上がりきったあとのことだった。

 重心のバランスが取れずによろけてしまい、それを修正出来なかった。

 

「ぎゃ」

 

 二度の転倒の理由は確かにあった。

 布都は左の袖を右手で握りしめた。

 布都の右手は抵抗なく左袖を掴みきった。

 そこには袖しかなかった。

 腕はない。

 萃香に消し飛ばされたきり。

 

「慣れたと思っていたのだが、存外そうでもないらしい」

 

 その萃香としばらく旅をしていたのである。布都としては、まさか帰ってきたあとに腕がないことに煩わされるとは思わなかった。

 今度こそと立ち上がると、しっかり立ち、前を見据えた。目的が決まった。

 

 ――馬子殿に頼んで、服を用意してもらおう。

 

 袖が長くひらひらしたものが欲しかった。

 今も同じ特徴を持つものを着てはいるが、旅の途中に見繕ったものである。生まれも育ちも高貴な布都としては品質が大いに気にくわない。

 布都は、馬子の元へと向かった。

 

「――ということで、服が欲しいのですが」

「それは構いませんが」

 

 馬子にしてみれば久しく顔を見せたと思ったら、いきなり服を新調したいと言われ、さすがに理解が追いつかなかった。そもそも、布都の言う『ということ』とやらも分からない。

 

「――ああ、屠自古には会いましたか?」

「いえ?」

 

 帰るやいなや寝て、起きるやいなやここに来た。

 出会ったのは、すれ違った人間を勘定にいれなければ馬子だけといってもいいくらい。

 

「貴女が帰ってきたと聞いて、飛んで会いに行ったそうですが寝ていてそのまま引き返したそうで」

「ほぉ、それはもったいないことを」

 

 その時の顔を見たかったと、布都は純粋に惜しんだ。

 

「ずいぶん寂しがっていましたよ」

「ふむ。……まあ、ゆっくりと待ち構えていることにしましょう」

 

 その方が面白そうだと、布都は悪い笑みを見せる。

 

「――それで、どうでした?」

「はて、何をでしょう?」

「鬼、ですよ」

 

 布都はきょとんとした表情を作ったあと、にっこりと笑ってみせた。

 

「気の良いやつでしたよ」

「そうですか」

 

 馬子はおぼろげであるが何となく分かった。少なくとも、鬼に会ったのは確実らしいとも。布都から感じるものも、変わらない様であるが少し雰囲気が軽くなったような気がした。

 

「鬼というのは酒や喧嘩好きなようで、我々が思っているよりはるかに即物的というか生を謳歌しているというか、まあとにかく愉快なやつらでした」

 

 布都が他者についてここまで喋るのは珍しいことだった。

 馬子は少し意外に思い、続きを引き出そうとした。

 

「鬼と面白い交流を楽しんだようですね」

「うむ。視界が広がったというよりか、今まで見えていたものがより見えるようになったというべきか。とにかく、良い出会いであったと思えます」

 

 布都がここまで物事を好意的に判じ、かつ言い切ることはそこまでない。

 続ける。

 

「ただ、鬼というものに固執するのはよくないかもしれませんね」

「というと?」

「種族問わずに面白いものは面白いということです」

 

 裏を返せば、種族問わずにつまらないものはつまらない。

 布都はにこやかな表情を一転させ、含みのある笑みを浮かべる。

 

「もう少し言うと、つまらないものはせめて糧になるのが義務でしょう」

 

 そう言う布都に、敢えて馬子は改まった様子で言った。

 

「布都姫。もし、面白いけれど気に入らない者が現れたらどうしますか?」

「……? そのようなことが有り得ますので?」

 

 馬子ははっきりとした声色で、

 

「きっと」

 

 と、短く答えた。




来月も三回は更新出来るように尽力します


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第23話 願望がそれを否定する

 屠自古は迷っていた。

 会いたいけれど、行きたくない。

 一度目に訪ねた時は、寝ていて話せなかった。二度目に訪ねた時は、部屋には居なかった。それどころか家の者が掃除をしているところに遭遇して、恥かしかった。人の気配がしたから思わず名前を呼んだのに、まさか本人がいないとは思わなかった。家人から子どもを見るような目で見られて恥ずかしかった。

 

「そうだ」

 

 屠自古は決意した。

 向こうから会いに来るまでは、自分から行かない!

 

 ――布都のくせに! 布都のくせに!!

 

 何度目かは分からない呪詛のようなもを心で唱えながら、屠自古はどたどたと廊下を走った。

 別に布都に会わなければいけないわけでもないと。別に会いたい人は他にもいるのだと。

 

 

 

 

 

 

 それで布都であるが、屠自古を待っていた。

 いつか来るだろうと思っていたが、一向にこない。聞いた限りでは、何度か来たのだと言う。だが間が悪かったみたいで、直接会えていない。

 しかし自分から行くより、向こうから来る方が多分面白いことになるだろうと、外出もせずにしばらく待っていたのだがさすがに飽きてきた。

 

 ――都にでも遊びに行くか。

 

 朝ではあるが、空は曇り模様。

 雨が降るかも知れないというのに、何故そんなことを思ったのかは分からないが、とにかく行こうと思った。

 退屈には勝てない。

 

 ――ただ待つだけというのはいかんな。

 

 ということで、都に向かった。常人をはるか超える速度、けれども布都にとっては別段急いでるわけでもない速度。

 都に着くと、久しぶりという気分と相変わらずという感想が出てきた。

 相変わらずといった感じの人通り。にぎやかさ。

 良好な空模様でもないのに、よくもまぁ人が集まっているものであると感心しながら、歩く。妙な新鮮感に浸りながら、布都はしばらく散策をしていた。

 

 ――なにやらよく見えるな。

 

 色映りが良いといったところか。布都には人の気のようなものが前より色濃く見えた。

 とはいえ、しばらくすると次第に見飽きてきた。

 

 ――いっそあいつも連れてくればよかったか。

 

 と、思うも。

 

 ――とはいえ、あの角は隠せまいか。

 

 一人では飽きてしまうものも、二人ならば、誰かとならば。なんて考えれるくらいには、他人を意識に入れるようになっている。

 そんなわけで、一人ではつまらないし帰ろうかと思案し始めたころ、なんとなくであるがとある一角に目が入った。

 それは背伸びをしたために周りの人間に意識が入ったからかもしれないし。天啓のようなものかもしれない。注目を浴びているのはいつものことで、もうすでに慣れて気にしないでいたのだけれども、不思議とその注目に意識が入って、その注目がまた別のところにあって、その別のところというのに視線をやってしまったがために――。

 

「あ、とじこ――」

 

 少し遠くであるが、知った姿を見て思わず名前を口に出し、そのまま寄って行こうとした時だった。

 

 ――な、なんじゃあ、あいつ!?

 

 そこには屠自古と、その横に変な頭をした変なやつがいた。男、だろうか。――よく分からなかった。とても中性的で、判断つかない容貌だったが、着ている服は男物だった。

 繰り返すが、布都は注目を浴びていた。

 これは今は少し修正が必要で、矢が殺到するかの如くに注目が刺さっていた。

 物陰に半身を隠し、顔だけ出している。

 怪しいどころではない。

 そんな奇行をしている者を見かけたら、とりあえず見てしまうだろう。どうしてそのようなことをしているかとか、どんなやつがとか。

 思わず二度、三度と見てしまっても不躾だと自戒はしないだろう。それどころか四度、五度、見る者さえ少なくない。

 初めは何か変な事をしているやつがいる。次には、身なりがいい。その次には、その身体的特徴からとある名前が思い浮かぶ。そして、いやそんな馬鹿な事がと打ち消す。だが、目に移る光景が証拠となり困惑する。ついには、疑問を抱きつつも認めざるを得なくなる。

 あれは"あの"物部布都ではないか、と。

 そしてその物部布都も似たような思考が脳内で巡回していた。

 初めは屠自古の横になにかおまけがいる。次には、身なりがいい。その次には、その身体的特徴からとある疑惑が出る。あれは誰だと。よもや屠自古の――と。そして、いやそんな馬鹿な事がと打ち消す。だが、目に移る惨状が証拠となり困惑する。ついには、疑問を突き飛ばして認めずに記憶を消そうと思い始める。

 あれは"単なる"思い違いではないか、と。

 

 ――いや、しかし……。だが――。

 

 かくして、物部布都は答えに至った。

 

 ――否定出来ない。

 

 ゆらり揺れるように身を反転し、生気の感じられない表情のまま駆けた。足だけが雄弁に、その他は寡黙に。

 答えの出せない疑問について考えるのは止めだと。確かめに行くのだと。思わず逃げるように走り去ってしまったことを、正当化した。

 悩みは後ろから来るか、前から来るか。

 走る布都には、後ろから追って来るようにしか思えない。

 屋敷に飛んで帰り、自室に籠り、部屋の隅で頭を抱えて小さくなって、ああでもないこうでもないと、悩み果てていた。しばらくすると、やはり答えは出ないと屋敷を出た。

 そして、どたどたと政治の中心に分け入ると、

 

「馬子殿ーーーーーー!」

 

 すがりついた。

 ぎょっとした馬子は、とにかく人払いをした。

 

「馬子殿、馬子殿、なんですかあいつ、なんですかあいつ」

 

 布都の瞳は潤んでいた。

 

「えぇっと、どうしましたか?」

「『どうしましたか?』じゃござらん! 屠自古が、どこの馬か牛の骨とも分からんようなやつと!」

 

 ここで馬子は全てを理解した。

 

「ああ、それはおそらく屠自古の婚約者です」

「婚約者? ああ、なるほどそうでしたか。――ん、婚約者? じょ、冗談を……」

「貴族の、それも蘇我の娘ですから」

「それはそうですが」

「相手も良き者を選びました」

「そんなものは存在しませぬ」

「いえ、それが大そうな人物になるでしょう。歴史に名を残すような者ですよ」

「しかし屠自古とは関係ありません」

「ですが、向こうも気に入っているようです」

「冗談でありましょう?」

「いえ、冗談ではありません。私も認知した者です。なんでも悪漢に絡まれていたところを助けてもらったそうで――」

 

 動転している布都は話を理解するので精一杯で、その話のおかしさに気づかなかった。蘇我の娘が悪漢に絡まれる機会なぞ、あえて作りでもしないとあり得ないことに。

 

「武も知もその両方とも傑出しています。また、この国における仏教の第一人者とも言えるでしょう」

「――ぶ、仏教?」

「居場所は、上宮――」

 

 布都は、

 

「おや」

 

 いなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 法が、世界が、裁けない悪があった時どうするか。

 布都なら間違いなく「そんなもの知ったことか」と一瞥もしないだろう。

 が、事にもよる。

 布都は世界の大悪を誅せんと駆けた。もう悩みは後ろから追ってきていない。前にある悪を打ち砕かんと走るのみだった。

 

 ――怠け者の神め!

 

 強く踏み込み

 

 ――神道らしく、神を想ってやろうではないか!

 

 地を蹴り上げ、

 

 ――お前が動かぬというのであれば!

 

 空を跳ぶ。

 

 ――精々信徒らしく、我が代わりに罰してやる!

 

 蒼を誇る空に、

 

 ――おお、謳おうではないか! 血の杯を掲げ、高らかに!

 

 その姿を刻まんと、

 

 ――怨敵の首と共に!

 

 意思を示す。

 

 ――隠り世の門をいざ開かん!

 

 布都は、突貫した。

 

 

 

 

 目的地へとたどり着いた布都は、覚えのある気配に向かって突っ込んだ。

 塀を飛び越え、閉ざされる木の板を蹴り飛ばし、

 

「おんどりゃぁ!」

 

 耳か角か分からんものが生えた頭に、飛び蹴りした。

 

「っ!?」

 

 が、外した。

 

「避けるでない! このガキャ!」

 

 睨みつけ、叫ぶ布都。

 蹴りかかられた方は当然というべき疑問を発した。

 

「いったい何ですか、貴方は!?」

 

 と叫びつつ、状況把握に努めようとした時、すぐに結論は出た。

 灰銀の髪に、実体がないような白い肌。白いぶかぶかとした装束は明らかに高級品。それも一部の中のそのまた一部の者くらいではないと手が入らないようなもの。

 そんな特徴に該当する者といえば、一人しかいない。

 物部布都。

 幼少の頃からその力を認められた天才。

 今では物部を名乗りながら蘇我の中心部にいるという妙な立ち位置。

 殴りかかられた厩戸皇子が知らないわけがない。

 何故なら――。

 

「いいでしょう! その挑戦受けようではありませんか! 全人類の頂に立つことが決まっている私が、まず貴女を超えたという事実を作ることによってそれの第一歩としましょう!」

 

 布都はちょっと冷静になった。

 

「――お前、阿呆か?」

 

 なんだか触ってはいけないものを触ってしまったような感覚になった布都であるが、目の前から感じる力はそれなりのものだった。

 

 ――はて?

 

 いぶかしむ布都。

 

「驚くのも無理はないでしょう。この美貌にこの力。神は私に二物を与えたというか、神が私なのかもしれません」

 

 布都はもう一度同じことを思った。

 

「お前、阿呆か?」

 

 それに対し、心外とばかりに、

 

「なんということでしょうか。――いや、そういうものですね。そうですね。地を行く人間が如何にして天の意思を知れるのでしょう。そう、知ることなど出来はしない。でも、聞き伝えでなら知ることは可能。まず手始めに貴女に教えて差し上げることにしましょう」

 

 布都は、目まいがした。

 

 ――こんなのが屠自古の……?

 

 目の前が真っ暗になりそうだった。

 

 ――屠自古、許せ。お主の婚約者は夢幻だったのだ。

 

 地に足をついていながら、頭は雲と一緒にふわふわしている。なんたる悲劇であろうか。布都はこの悲劇を呪わずにはいられない。どうして自ら屠自古に恨まれるようなことをしなければいけないのか。

 

「――無情なり」

 

 そう小さく呟いた布都は、身体を捻り、右腕を振るった。

 瞬間、鋭利な刃が飛ぶ。

 人間を二つに分けるには充分すぎる程の鋭さ。

 それは――。

 

「何です、これは」

 

 飛刃が近くに寄った瞬間、散じた。いとも簡単に防がれ、――いや防ぐ動作すらなかった。まるで飛刃が怯え散らしたかのようで。

 

 ――まだ奥があるな。

 

 そう判断した布都は、とりあえず暴いてやろうと思った。

 

「嫌なやつめ。性別すらよく分からない分際で屠自古に近づこうとは、思い上がり過ぎてそのまま天に召されれば良かったものを」

「天と一体なのが私なのです。性別がどうたらと、下々の者が気にするところには私はいないのです。――しかし、私は寛大なので教えてさしあげましょう」

 

 仰々しく手を広げ、

 

「今現在、私は便宜上により厩戸と名乗っています。しかし、私は、私を神子と名付けました。神の子たる私が時を経て成長した時には、子が取れて神となるでしょう。さて、その時性別というのはそれほどに大事なことなのでしょうか? しいていうなら、私の性別は神子です。――いかがです?」

 

 布都は頭が痛くなった。

 

 ――こいつの前にいる我、可哀想。こいつの話を聞いている我、可哀想。

 

 つい現実逃避しそうになったが、逃避するわけにもいかない。

 言葉が使えぬとあれば、残る方法は一つ。

 

 ――したことはないが、折檻の方くらいは知っておる。

 

「思い上がったガキにはお仕置きが必要であるな」

「道理を知らない無知には、優しく説き諭すのが必要でしょう?」

 

 戦意が乗った視線が交差した。

 了解を得たことを確認出来た両者は、部屋を飛び出た。

 部屋の外、ひらけた場所に互いに距離を取りつつ降り立った。

 人が集まってくる。

 

「……知っていますか? 若者を邪魔するだけの存在は捨てられて仕舞いですよ?」

「真っ直ぐ歩くことも出来ない赤ん坊を正してやるのも義務であろう」

「それを大きなお世話というのです」

「見るに堪えなくてな?」

「耐える必要はありません。さっさとご退場されればよろしい」

「本性が垣間見えているぞガキめ」

「シワが目立ちますよ御婆ちゃん」

 

 自分を特別で崇高な存在だと勘違いしている排他的なガキ。これが現状の布都のする、厩戸、いや神子への評価。

 

「まずその勘違いを正してやろう」

 

 右手を開き、小指から順にゆっくり内に折っていく。

 高まる霊気に、周囲の地面の小石が震え出す。

 

 ――己がただの人間であることを嫌でも実感させてやる。

 

 布都は真っ直ぐ突っ込んだ。

 敵はそれなりに力を持っている。が、人である。

 

 ――ん? そういえば。

 

 布都は人間とまともに戦ったことはない。加減がいまいち分からない。一撃で殺しては意味がない。

 布都は、

 

「っ!?」

 

 吹っ飛んだ。

 

「おや、強すぎましたか? これでもかなり手加減してるつもりだったのですが……」

 

 空中で体勢をたてなおし、地面に足をつくと、神子を睨みつつ状況の把握に努めた。

 距離はまだあるといったとことろで、対象から黄色い光が壁のように発せられ、そのままぶつかってきた。

 

「……中々面白い冗談を吐くな。髪型もそうだが、笑いを取りにきているのか?」

「ええ。ですがこの度では私が笑わされていますね。まさかこれほどに差があるとは思いませんでした。この世に生を受けたその瞬間から私は頂にいたのやもしれません」

 

 悲しく笑う神子だったが、布都にはそこに自惚れが見えた。

 

「思い上がり過ぎもいい加減にしておけ。よもや我が全力だとは思っていないだろうな」

「ええ、その程度理解しているに決まっているじゃありませんか。で、その上で言っているのです。――この程度なのかと」

 

 今度は失望を表す神子。

 そこには混じり気が無かった。

 布都には覚えのあることだった。

 

「っふ」

 

 笑いが出た。

 

「どうかしました?」

 

 そのままくつくつと口元を隠し笑い続ける布都に、神子はそう聞いたが返答はなくただ笑い声だけが発せられた。

 

 ――馬子殿は上手く言ったものだな。

 

 面白いけれども気にくわない者。

 愚かさも正しくつけあがればなるほど面白いらしい。

 ただ気にくわないとすれば。

 

 ――屠自古はまだ嫁には出さん。

 

 笑いを止めると、布都は改めて神子を見据えた。

 偏見を少し止めてみると、なるほどその力はかなりのもの。雑魚妖怪と比べるまでもないだろう。布都は反省した。さっきはあまりにも加減しすぎたと。布都は考えを改めた。そこそこの妖怪とやるくらいにしてやろう、と。

 

「お前、モテるであろう?」

「否定はしませんが」

 

 どうしてそのようなことを急に? と、首を傾げる神子。

 

「残念だが、屠自古は諦めろ」

「そう言われると、ますます欲しくなりますね」

「ならば我を負かしてみるがいい」

「雑作もないことで――」

 

 瞬間、布都から感じられていた霊力がはねあがった。

 

「ならば、決死の試練に挑むがいい。せいぜい心を強く保つことだ。折れるのが増長した鼻だけで済むといいな?」

 



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第24話 間合いの中

 布都は足を上げ、地を踏みしめた。

 地に霊力が行き渡る。

 神道からなる物部の秘術は自然を利用するものがほとんどである。必然、自然について知らなければ扱えない。この場合の知るというのは、書物を読んで知識を得るとは違う。感覚的に理解しているかどうかとなる。

 布都は少しだけ移動すると、一度足を上げ、地面を踏んだ。霊力が点穴を衝き、地が震える。

 きしみを上げる地面に、神子は危険を感じ取った。

 即座に空中へ浮かび上がり、

 

「皆の者! 早くこの場から立ち去りなさい!」

 

 周囲の見物人に注意をうながした。

 それにより、ようやく現実に思考が追いついた見物人らは逃げ出す。

 その間も事態は進行している。

 酷くなる震え。やがて地面に亀裂が走り出し、ついに割れる。

 割れる大地を見下ろす神子は、余裕を持ってその様を見ていた。

 唯一の懸念は周りの人間の被害だけだった。自分を襲ってきた敵により、死傷者が出たとあっては外聞が悪い。その危険さえ取り除かれれば、もう心配はなかった。

 

「なるほど、これが物部の術ですか。私でなければ最低でも体勢くらいは崩せたでしょうね」

「予兆というやつだ」

「はて?」

「その自信満々の面が割れるところだよ」

 

 詭弁、奇策、搦め手。布都はその全てを扱う。楽しむため、必要であるため。理由はいくつかあるが、今回の場合は後者。必要だった。

 布都が萃香との戦闘で負った代償は少なくない。片腕の欠損だけでなく、単純な全身の疲労もあった。むしろその方が大きい。全力、限界、それらを超えて行使された肉体は形とその機能を保てているものの、元のように動けるような状態までは回復しなかった。鬼と対等に遊ぶというのはこういうことらしいと納得した布都であったが、少し残念に思うところもあった。しばらくはこういった遊びは出来ないと思えば、そうも思う。だが鬼と遊んだあとならば、ある程度の妖怪では遊んでももう大して楽しめないだろうとも思った。

 それなのに、今、戦闘している。

 あくまで強気な台詞を吐いている布都だが、その内心はどうして自分は戦っているのだろうかと自問していた。理由なぞ考えることもなく自明であるが、それでもどうしてこうなったんだろうかと思ってしまう。体がだるい。地割れを起こしたときもそう。力任せに霊力でもなんでも地面に流せばよかったものを、わざわざ極小の労力でそれをおこなおうとするくらいにはだるい。

 

「はぁ」

 

 しかしここで引くことは出来ない。目の前に大悪がいるのにそれを処さないというのはこの世の倫理に反する。万人が泣こうが知ったことではないが、その中にあの子が入ってくるなら話は別である。

 

「この世の全てが理知によって解明されると思っているようなお気楽なやつに理外の理を教えてやろう」

「それを為すのが、――不老不死です」

「……不老不死だと?」

 

 突然の言葉。

 布都は引っかかりを覚えた。

 

「よもやそれを……?」

「ええ、私はそれを目指しています」

「笑えないな」

「はて」

 

 やはり言葉では埒が明かない。

 

 ――本当に笑えない。

 

 不死ほどつまらなく、恐ろしいものがあろうか。簡単な話、寝たくても寝ることが出来ないようなものだ。枯れない花があれば不気味だろう。長寿こそ目指しけれ、そこに不老に不死となれば、時間の獄に入れられるに等しい。

 時の移ろいに慣れてしまった時、それは心が摩耗した時であろう。一瞬の開花、燃える激情。それらが生の醍醐味だろうに。

 

「世の摂理を知らんのか」

「貴女は知っているような言い方で」

「少なくとも人は死ぬ」

「私が人を超えれば済む話」

「身体がどうかなったとしても、中身までもが変わるかな」

「初めから違うとは考えませんか」

「そもそも何のために生きたい」

「生を全うするため」

「そうかよ」

 

 布都は唾を吐き捨てた。

 忌々しさ。しかし――。

 心を落ち着かせようと、ゆっくり息を吐く。

 吸って吐いて、吸って吐いて。

 

 ――不死、か。

 

 理外のものを無理やり理内に押し込めれば、どうしても歪みが生まれる。その歪みとどう付き合うつもりなのか。

 

「確かめてやる」

 

 目を閉じる。

 暗闇が訪れる。

 視界が閉ざされたことにより、他の感覚が澄む。

 音、臭い。霊力。

 その流れに耳を傾ける。

 せせらぎ。水の音。

 混じり合い、発露する。

 光。球。たゆたう霊魂。

 当てもなく、ゆらゆら揺れ動く。

 水面に浮かぶ葉のよう。

 心象が言葉になり、やがて形になる。

 身が宙へと浮く。

 周囲は無音なるとも賑やか。輪郭はおぼろげで、光輪のように淡い。

 瞼を開けると、暗い雲より抜け出てきた光が瞳に入ってくる。

 死とは――。

 

「その間合いは絶大なりとも極小。寄り添うように近いが、触れるには遠すぎる。ゆらり揺らめいて、現世旅。――さぁ、戯れようじゃないか」

 

 割れた地面から、ぼんわりとした光が続々と浮かび上がってくる。輪郭のぼやけたそれらはどんどん数を増し、夜空に浮かぶ星々のように地面を彩る。

 

「お前、モテるのだろう? 随分と好かれてるようだ」

 

 『何に?』とは神子は言えなかった。

 物部の秘術は神道から来ている。神道は霊魂を重んじる。思考を加速させる欠片はこれで充分だった。

 

「まさか――」

「人気者は大変だな?」

 

 布都は嗤った。

 戦闘は理屈ではない。ただの力比べでもない。意思や思念の交流である。

 布都の解釈するには、騙し合いである。それに到らなければ、戦闘とは見做さない。

 

「恐れるからこそ、招き寄せるのだ。それ、行くぞ?」

 

 布都は人差し指を伸ばし、ひょいっと上げた。

 それを合図に、周りの球状の光が神子へとゆっくり進みだす。

 

「っ!」

 

 こんなにもはっきりと目に見える形で死が迫る光景に、神子は堪らず。

 

「このような虚仮威しにっ」

「おや、ひどいことを言うじゃないか。理解しないから恐怖が生まれるのだ。拒絶せずに話しかけてみたらどうだ?」

 

 馬鹿を言えと怒鳴りたいところだったが、それどころではない。ゆらめく光はどんどん迫ってきている。

 神子は分からなくなった。

 目の前に対峙している存在は一体何者なのか。何か根本的な思い違いをしているのではないだろうか。

 

 ――何故。

 

 そんな思いが神子の胸の内に満ちる。

 知識の上では知っていた。幼少のころから才知を認められた存在。自分と似たような経歴を持っている。違うところと言えば、変わり者と知られ(そし)られるところか。しかしどうしてだろうか、この異質さは。噂で聞く変わり者なんてものじゃない。死霊と戯れる者など聞いていない。明らかにこの世の存在ではない。死は忌避すべきもの。よって、目の前の物部布都とかいう存在もまた同じ――。

 

「日陰者は日陰に帰れ。ここは天照らす天道の元。死なぞ、一部の隙も無く入る余地などない!!」

 

 剣を抜き放つ。

 薄暗い天候の中でも、少し霊力を流すだけで輝かんばかりの光を放つ霊剣。あらゆる手を利用し、苦労して手に入れたシロモノである。まずは暗雲から消し去って――。

 

「――天道は我にあり!」

 

 剣を高らかに掲げ、まっすぐ上に光を放つ。

 多分に霊力を含んだ光は、分厚い雲を蹴散らし太陽を暴いた。

 

「――次は、そのつまらない詐術の番です」

 

 掲げた剣を横に傾けると、陽の光を受け反射した。多大に込めた霊力の剣が反射した光は、灼熱の光線と化した。

 光が布都へ――。

 

 「っ!」

 

 防御姿勢をとる暇もなく、布都は光に灼かれた。

 それでも霊力で障壁くらいは作ることが出来た。だが、その急ごしらえの障壁は即座に壊され緩衝材程度の役割しか果たさなかった。

 布都は地面に叩きつけられる。

 数度転がる。動きが止まると、仰向けに。

 宙に漂わせていた光も全て掻き消える。

 空が見えた。

 気味の悪い空。芋虫のような雲が身を寄せ合っている。光さえも隙間を見つけることが困難なほどに押し合っている。そんな空に一カ所だけ穴があいている。まるで腸を破かれたよう。そこから差す光はさしずめ血であろうか。

 頬が緩む。

 

 ――楽しくなってきた。

 

 空に開いた穴は、だんだん雲によって塞がれていっている。欠損は埋められるものらしい。

 

「やはり詐術の類。よくもまぁ、あのような偽りを言ったものです」

「偽り、か」

「まだやりますか? もう貴女の手は理解しました。詐術の類は通じませんよ」

 

 小さく笑いが飛び出る。

 見破られたところで何一つ問題はない。そもそも防衛過剰な相手とその心理を突いた策でしか無かった。目的は相手の対応を見ること。その対応で相手の心を見ようとしただけ。目的は充分に果たしている。

 ゆっくり立ち上がる。

 身がところどころ焼け焦げているが、問題はない。もう、問題はない。

 身の心配をする時期は過ぎた。

 

「一応断っておこうか」

「何がです?」

「我は人を殺したことがある」

「戦闘を経験したことがあれば、よくあることでしょう」

「そういう意味ではない。何故この場面で言うか、それが重要である」

「……脅しでしょうか」

「いや、覚悟をうながしただけである。せいぜい楽しませるがいい」

 

 唇を舐めると、土の味。唾と一緒に吐き捨てる。

 ゆっくり息を吐くと、酒気のようなものを感じる。心が浮つき、身が軽くなる。視界は淡く歪み始め、全てが好ましく想えてくる。

 

「くふ」

 

 全てを肯定するということは、全てを否定することに等しい。

 成り立ちはしないのだから。

 

「集中は切らすなよ。まぁ、それだけ臆病ならば問題はないだろうが」

「――臆病、と言いましたか?」

 

 霊力の糸を操り渦を起こす。

 風。

 吹き荒ぶ風は、地面の砂を巻き上げ、自身と共に流れゆく。

 

「今度は何の詐術でしょうか? 偽りばかりで実のないものに、私は――」

 

 実はあった。風に乗った砂がそれ。

 見えない攻撃は知っていれば対応は出来るが、知らない攻撃は対応のしようがない。

 目に砂が入り込み、思わず閉じてしまった神子に、布都は即座に距離を詰めた。

 

「――阿呆め、敵から目を離すな」

 

 その言葉を聞いた神子は、理解した。

 焦り。

 その前に、対処を。

 敵が来る。来た。

 やる事は一つ。

 霊力を急速に高め、殻のように具現させる。

 

「下だぞ」

 

 薄く目を開け、下を見る、が。――いない。

 

「阿呆」

 

 上から強い衝撃。

 とにかく出力を上げ、防御する。

 防殻は破られていない。

 

「っち、硬いな」

 

 言葉の後、衝撃が和らぐ。

 遠ざかるのが見えた。

 

「せっかく良いものを持っておるのに、全然使い切れておらんな。お前の知覚はちゃんと上から来る我を感じていたはずだ。なのに言葉一つでお前はそれを無視して、下を見たのだ。神の子が聞いてあきれる」

 

 神子は言い返せない。

 全てが事実だった。

 けれど、事実はまだある。

 

「……それでも私は無傷です。貴女とは違う」

 

 如何に近づこうとも、防殻を破れない限りは負傷することはない。であれば、一方的に攻撃を与えられるのはこちらのほう。

 神子は現実と推測で心の落ち着きを取り戻してきた。

 だが布都にとっては取るに足らないこと。

 

「――然り。けれども、絶対はない。およそ駆け引きなんてものは、頼みとするものが破られた時に最高潮になるのだ」

 

 全てを払った果ての果て。極上の果実。

 

「さて、次はどうやって攻めてみようか。特に何か思い浮かぶというわけでもないが、何もしないというのも暇であるし。はてさてどうしたものか」

 

 一切の焦りが見えない布都の表情。

 神子は嫌になった。

 永遠に延々と続きそうな攻防のように感じられた。

 それこそ冗談ではないと吐き捨てたかったが、口に出す労力が躊躇われた。この先そこまで続くか分からないのであれば、少しの体力も温存すべきだと思った。しかし、そんな永遠なんて望むわけがない。逃れる術はある。簡単な話、こちらも攻撃を仕掛けて相手が活動出来なくしてしまえばいいだけのこと。そう思い到ると、いくらか楽になった。そう、これは永遠なんかではない。終わりはちゃんとあって、そしてその終わりはある程度自分で左右できる代物であると。

 息を吐くと、気持ちが落ち着いた。

 

「……次はそちらが防ぐ番です」

「ほぉ!」

 

 神子の言葉に、喜色に富んだ返事をする布都。

 むっとしつつ、神子は剣を布都に突き付ける。

 霊力がふんだんに込められたそれは光り、あふれんばかりの輝きを放った。その輝きだけで目を灼かんばかり。

 

「うむうむ。なるほど霊力の総量だけでいえば我より上であろう」

「当然です」

「しかしそれだけだ。別に今までになかった話じゃない」

「……何が言いたいので?」

「体験と経験の積み重ねで熟していくものが食べたいのだ。だからこうせっせと教えてやっているのだ」

「上からですね」

「経験不足どころか、戦闘が初めてなんじゃないかとすら思っている。かぶりつきたくなる衝動を必死に抑えているのを褒めて欲しいくらいなのだが」

「気持ちのいい比喩ではありませんね。人に向かって食べるだとか」

「比喩なのだが、比喩でもなかったりする。いや、微妙な塩梅でな? 出来れば真に死の恐怖を味わって欲しかったのだが、どうにもこれが難しい。加減するには強すぎるが、本気で殺るには経験が足りてなさすぎる。人間なんてのは腹でもぶち破ったら、大抵死ぬのだ。少しの隙を突けば、造作もない。さすがに我も困ってきた」

「……ならば止めませんか。そもそも私は望んでいない」

「うーむ、それもいい気がしてきた。どうにも昂った気持ちが抜けてきてなぁ」

 

 腕を組み首を傾げる布都。そこからは緊張感の無さが見て取れた。本当に気分では無くなってきたらしく、威圧感や異物感といったようなものがかなり薄れている。

 神子は正直ほっとした。

 気の隙間、そこを衝く。堅固な守りを破る最善の方法。

 布都は衝かれた。

 

「っ好機!」

 

 宙を浮く布都の後方の地面から穴が開き、何かが飛び出した。

 人、いや仙。いや仙でもなく、邪仙。

 

「素敵ですわね! こんな素体が手に入るなんて!」

 

 その邪仙は神子も見知った姿。

 

「霍菁莪っ!」

 

 水色の衣服に身を包み、いつも楽し気に笑顔を携える仙人。師でもある。正直その思考や素行は相いれないが、それでも仙道を知り、また教えてくれる。無下には出来ない。そんな存在が――。

 

「がっ」

 

 布都は受けた衝撃に血と声で反応した。

 背から手が突っ込まれ腹を突き破られている。

 布都の肉体は決して堅いわけではない。霊力で補強することで、ある程度頑強に出来るが、身体事体はさほどではない。何より、布都の今の肉体は万全とは程遠い状態にある。

 

「っな」

 

 首を後ろへやると、ようやくその姿を確認出来た。

 

「えー、神子様を助けに来た者ってところでどうでしょう?」

 

 楽しげな声色。子どものような純粋な笑み。

 腕が引き抜かれる。

 再び襲う衝撃に布都の肉体は耐えられずに、地に落ちた。

 

「菁莪! 何故!」

 

 神子は即座に詰め寄った。

 

「はて、何故と申されましても……」

 

 対する菁莪は、人差し指を頬に当てて首を傾げてみせた。

 

「お邪魔でした?」

「もう戦いは終わるところだったのだ!」

「――あら、神子様。それはいけませんわ。『終わるところ』では、まだ終わってはいません。ちゃんとお教えしたはずですよ?」

「そんなことはいい! それよりっ」

 

 神子は飛び越してきた布都を振り返った。

 布都は地面に倒れ伏し、その周囲に血だまりを作っていた。どう見ても致命傷。助かる見込みは感じられない。そう、死とは突然襲ってくるもの。そんなの到底許容出来るものではない。だからこそ、この邪仙を師と仰いだ。だが、この結果はどうだろうか。納得出来るものなのか。

 

「神子様? お顔がすぐれませんよ? たった一つの命に頓着されるようでは、人の上に立てません。天より人を見下ろす者がそれでどうするのです?」

「理屈は分かるが……」

 

 しかし、と続けようとした神子、そして菁莪は、上から頭を糸でつり上げられたかのようにびくっと跳ねて緊張した。

 それは禍々しさとしか形容出来ないものだった。

 立っていた。

 

「……仙はまだ喰ったことが無くてなぁ?」

 

 血に飢えた獣の舌なめずり。天上へと昇るような恍惚の笑み。

 

「婿は下がっておれ。巻き込まない自信はない」

「は?」

 

 婿、そう呼ばれたのが自分だと分かった神子であるが、問題はそこではない。

 

「何故、立って……」

 

 ひん死の重体だったはず。いや、今でもそう見える。でも何故――。

 

「もう、抑える必要もないようだ――」

 

 布都は、笑みを凶悪のものに変えた。

 それは完全に捕食者の笑み。

 神子から布都の身の心配が消え去り、逆に菁莪への心配へと移った。

 その菁莪の顔は険しい。普段の笑みは完全に消えていた。

 

「……獣を飼いならすのは趣味じゃないのですけど」

「代わりに我が腹の中で飼ってやる」

 

 布都から気がほとばしる。

 霊力に妖力が混じっていく。

 

「さて、仙人狩りの時間だ」

 

 はためくだけだった左袖が浮き上がり、中から黒いもやが出てくる。触れるもの全てを腐蝕させてしまうようなそれ。

 明らかな劇物。

 菁莪は大きな計算違いを覚った。

 

「ま、待って――」

 

 待たれない。布都は行動を――。

 

「ちょ、ちょ――」

 

 菁莪は全力で逃げ出した。

 布都は追った。

 

「えっと、私は……?」

 

 一人になった神子はその場で立ちぼうけになった。



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第25話 欲望と策謀

 風を頬で感じた。

 ようやく落ち着いてきた、らしい。

 

「なんとまぁ……」

 

 激動の一日だった。そしてどこかではまだ激動真っ最中なのであろうと。平穏な一日がやたら物騒な客により吹き飛んでしまった。思えば、今日は何をする予定だったかしらん。うふふ。

 ふざけていると、思い出した。

 そして同時に予定が直に現れた。

 

「皇子! 来ました――って、えぇ!?」

 

 声の方に視線をやると、人が集まっていた。

 そして、その人垣を押しのけこちらにやって来る少女。和らげな緑の衣服に、活発そうな瞳。そう、蘇我屠自古。会って、お茶でもゆっくり飲むはずだった。

 なのに、この惨状。荒れ果てた地。恐怖や驚愕の顔の人々。人は天災には逆らえないというが、彼女らがそうなのかもしれない。

 

「っわ、っよ、っせ」

 

 割れ地の上で飛び飛びに足を運ぶ。

 地が割れてるせいで、尋常じゃなく足場が悪い。しかしそんなことは屠自古にはどうでもよかった。それより何故か黄昏ている婚約者の方が気になった。

 

「ど、どうされたのです?!」

 

 屠自古は肩を揺さぶった。

 

「え、ああ、綺麗な空だなぁと思いまして」

「は?」

 

 空は鈍色一色。使い古された刀剣の類の方がまだきらめくかもしれない。

 

「……その、君の親はどちらとも凄い人だね」

 

 想いをそのまま言葉には出来ず、伝わりようが無いくらいの遠回しになった。きっと空のせい。

 

「え? あ、いや、父上はともかく母上は知りませぬ! ロクに顔も見たこともないですし!」

「ん? 君の母はあのもののべ――」

「っ違います!!」

 

 鼻息荒く否定した屠自古。

 

「あいつは断じて母などとは!! あいつは、その、あれです! 布都です!」

「……そうですか」

 

 その権幕に、神子は思わず改まった。

 どうやら親子仲は悪いらしい。色んな意味で。

 

「今しがたまで、その布都さんはここにいらしてましたよ」

「え、そうなのですか?」

「ええ」

「どうして今は居ないのですか? もしかして私が来るのを知って!?」

「いや、それは無いでしょう。さすがに未来を見るなどと――」

「いやあいつならやりかねません」

 

 さえぎる屠自古。

 

「……嫌いなんですか?」

「嫌い、というわけでもないような気がしないでもありませんが、……いややっぱり嫌いです!」

 

 神子は目を丸くした。

 表情豊かだとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。でもこれは多分、あの人物が関わっているからこそなんだろうと思うと、やはり好ましくはない。

 だから少し意趣返し。

 

「――いやぁ、大変でしたよ。貴女を嫁には出さんと暴れ放題で」

「……え? 布都がですか?」

「ええ」

 

 目も口も丸くする屠自古。

 

「もしかして、この辺りの……」

「ええ、そうです。貴女の母がやっていったことですよ」

「は、母ではっ!」

 

 顔を真っ赤にして抗議する屠自古。そこからは複雑な喜び模様が見て取れた。とにかく認めたくないらしい。

 あることを思いつく。

 神子は悪い笑みを浮かべた。

 

「今度、遠くに遊びに行きましょうか。お母さんも連れて」

「え? 布都もですか?」

 

 認めていることも気づいていないのかどうか分からないが、とにかくこれは復讐になる。

 

「当然です。私たちの旅のおまけに連れて行きましょう」

 

 神子は笑みを濃くする。

 あの化け物にも弱点があるようで、思い返せば例の件の発端はそれが要因だった。目の前で存分にいちゃいちゃしてやろう。そんで泣かせてやろう。たぶん最高に愉快だろう。

 

「お、皇子?」

「ん? ああ、何もないですよ」

 

 神子は心で誓った。

 

 ――絶対、泣かす!

 

 気分がすこぶる良くなってきた。

 勝手に頬がゆるむ。

 いけないいけないと手で包み込むが、抑えられない。

 道中に散々いちゃついて涙目になったあいつに、「歳をとると涙もろくなると言いますからね」と言ってやろう。続けて「それで何か感動するような光景でもあったのですか? 伯母上?」と付け加えてやろう。さぞ愉快だろう。

 ……その前に、師を失うことになっていないといいが。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 驚くものを見た時の反応とは人それぞれだろうか。その反応が幾通りかは分からないが、その数は多くはないだろう。思考や理性を飛び越えて本能に近いところまでやってきた衝撃。それは天より遣わされた神の子を自称する前衛的な髪型の持ち主をも、その他大勢と同じような反応を示すものだった。

 それほどまでに目の前の光景は――。

 

「ねぇ~、布都様ぁ~」

「寄るな。失せろ」

 

 猫なで声で布都に纏わりつく菁莪。

 

「そう言わずに~」

「ええい鬱陶しい!」

「あぁんっ」

 

 軽く振り払われただけのように見えたが、菁莪は吹き飛ばされたように地に倒れ。

 

「痛いですわぁ。これはもう責任を取ってもらわないとぉ」

 

 追われていたはずの者が追っているというかなんていうか、仲直りしたのだろうか。そんな変なことを思ってしまう。

 目が合う。

 

「お、おお! これはこれは婿殿。よくぞ会えたな!! この偶然に我も神に感謝したいところだ!」

 

 ここは上宮。どう考えても厩戸皇子に会いに来る以外に来る機会がない場所。会いに来たというよりは、連れてきたという方が正しいようで。

 

「……どうも。何の用でしょうか」

 

 邪仙に足首を掴まれながら、気にした様子無くそのまま引きずって来る様は中々に異様。

 帰りたい。家はここだけども。

 

「いや、な? 顔を見たくなってな?」

「昨日の今日ですが」

「いやいや、あんのクソガキがどのような面しているのかと思うと気になって気になって思わずな?」

 

 良く分からないが、別段仲良くする気はないらしい。

 

「どうも、天に愛された素晴らしい面です。ではご用件は済ませられたでしょう。出口はあちらです」

「そうかそうか。我もこのような火を点けたくなるような場からはさっさとおさらばしたいのだが、ちょっと土産があってな」

 

 見るからに、土産は足元のそれ。

 

「いりません。連れて帰ってください」

「あら、神子様。それはちょっと傷つきますぅ」

 

 心底楽しそうに悲しそうに、菁莪は言う。

 

「私は貴女様に惜しみない愛を捧げた身。それを物のように――」

「知識だけ置いて、その方とご一緒にされて下さい。どうやら愛に飢えているようなので」

「おいおい、感心せんな。師に向かってその口の利き方はどうかと思うぞ婿殿? ここはやはりそういった部分の教育も兼ねて、師としばらく寝食を共にするのはどうだろうか」

「身の危険を感じますので、お譲りしますよ。私の代わりに、常識や礼でも習うといいのではないのでしょうか」

「あいにく、それらとは無関係になるように生きている」

「ああ、そのようですね」

 

 菁莪がようやく起き上がる。

 

「私を取り合いになさるのはたいへん結構なことですが、この身は一つですので交代で我慢してくださいな」

 

 この邪仙から本当に学ぶべきはこの精神性ではないだろうか。

 

「そうですわ、神子様」

「はい?」

 

 表情を変えた菁莪。何か用事があったらしい。

 

「北の方へ旅をしようかと思いますの」

「そうですか」

 

 ただの報告だった。

 

「神子様も高貴なお人。準備も色々ありましょう」

「はい」

 

 何か食い違った。

 すぐに理解した。

 

「……どうして私が行くことになっているのです?」

「あら、師が旅出ると言えば弟子は走ってついてくるものですわよ。仙道とはそういうものです」

「怪しいことで」

「なんと! 私をお疑いですか!?」

「……はぁ」

 

 どうやら頷くまでこの調子が続くようである。これも力を得るまでの辛抱。

 

「分かりました。行けばよいのでしょう行けば」

「はい!」

「しかし私にも公務があります。……予定を作るのも一苦労ではないというのに」

「申し訳ございません。ですが、神子様にも益のある話だと確信しているのです」

「それはどのようなもので? もし本当にうまみがあるなら、気分も乗るのですが」

「それは――」

 

 霍菁莪は嘘はつかない。ただ伝えることをわざと伏せたりする。言うことと言わないことを意図的に操れば、嘘をつく必要もないというわけだ。騙されて動くのではなく、自らの自己決定により動く。少なくとも、当人はそう思う。

 

「おい、聞いておらんぞ」

 

 そんな中、布都が口をはさんだ。

 顔をしかめている。

 布都にすれば、話が違うとすら言いたくなることだった。 

 そしてその言葉の意図するところ、それを菁莪がすぐに感じ取った。

 

「あら布都様、『私たち二人で』とは言っておりませんでしたわよ。それとも二人っきりをお望みでしたか? ぁあ、それは気が回らず……」

「ずいぶんと口が回ることだ。これを師と仰げば、それはそれは大そうな人物になるであろうな」

 

 それは明らかに神子に向けて言っていた。

 

「耳が痛いですね」

「おや、それはどちらの耳が痛いのか」

「……貴女は舌の上に毒でも乗ってるのでしょうか」

「絶品のな」

 

 布都は舌を出して見せた。

 

「あら、それはたいへん興味ありますわ。是非とも味わいたいもので」

 

 すかさず寄る菁莪。

 距離を取る布都。

 実に嫌そうな顔を浮かべている。

 知ってる者からすれば、おそろしく珍しい表情である。

 話が進まない。

 神子は話を切り出す。

 

「で、どうして北なのですか?」

「――かの地では神が統治する国がある、と言われていますのはご存知でしょう?」

「ええ、誰でも知っているような噂ですね」

「さて、私は仙でございます。ある程度の事は対処可能」

「探りに行ったのですね」

「ええ。ですが、すぐに帰ってくるはめになりました」

「貴女ほどの人が?」

「仙であり続けるとは、畢竟死なぬことです。危ない橋は渡らないことです」

「ならば、そもそも行かなければ良かったのでは」

「それが、そこの神は剣を欲しているとも、もしくは手に入れたとも、そんな情報を得たので」

「それが欲しいと?」

「ええ、貴方の為に」

 

 そこに含まれた意味を神子は感じ取った。

 

「……そうですか。それは仕方ありませんね」

「そこらの霊剣とは違い、正真正銘の神の剣です。全てを断ち切る剣。まさに剣というべきものです」

「――それをどうやって手に入れるつもりで? その神が既に持っているにしろ、探している段階にしろ、目的がかち合うことになりますが」

「それはもう、頑張って譲ってもらうのですよ」

「……貴女らしいことで」

 

 明るい展望が見えない旅。

 北に行くにつれ、危険が大きくなるのは周知のことである。基本的には未知の妖怪が多くなる。そんな危険を冒してまでたどり着いたところで、その先にさらなる危険がある。北の向こうに国があるという噂は、菁莪の感じからどうやら本当であるらしいが、それだけ。

 しかし、そんな不確定なものにあの布都が参加するというのが気になった。

 黙って聞いている布都に問いかけてみる。

 

「貴女はどうして菁莪に賛成したので?」

「興味があった、ではいかんかな?」

「足らない、と答えましょう」

「ではこう答えよう。損じたものを得るためにと」

 

 布都は左袖を掴んで見せる。

 

「それで菁莪の話に乗ったわけですか」

「そんなところにしておいてくれ」

 

 当たっているとも言えないが、外れているわけでもないらしい。少なくとも、菁莪が関係しているのは確かだ。でなければ、今そこで殺し合いが始まっているだろうし。

 

「まあまあ、よろしいではありませんか。思ったが吉日です。早い出立を――」

「ですから私は公務が」

「あら、別に神子様を置いていってもよろしいのですよ? 旅の仲間は他にもいますし」

「……他とは?」

 

 この面子に入っても大丈夫というか、わざわざ菁莪が連れて行こうとする人物の名が思い浮かばない。

 

「屠自古様とか、お誘いしたのですが」

「――死にたいのか?」

 

 布都が詰め寄った。

 

「――まさか。私はとことん生きて飽くまで楽しみたいのです」

「ならば妙なことはするな」

「いえ、これは私からのお節介のようなものですわ」

「……どういうことだ?」

「もうすでにこのヤマト王朝の重臣たちは、北の向こうの国を認知しています」

「噂で、だろう」

「いいえ、私がきっちり証拠を持ち帰ってきたのですから」

「証拠?」

「その証拠は喋ることが出来ますので。少し舌足らずな感も否めなかったのですが、子どもの方が持ち運びに便利でしたので」

 

 物騒な内容はさておき、布都はそれが意味するものを感じ取った。

 

「……つまり、王朝は土地を欲しがったという訳か」

「さすがは布都様。ご理解が早くありますね」

 

 大軍が動く。そして自分たちも。

 理屈を理解出来た布都の気分は良くない。

 危険を乗り越えた先には、国がある。国があるということは、そこには住まう民がいる。民がいるということは、それにともなう文明がある。つまるところ併合して、それら全てを手に入れてしまおうというわけである。

 菁莪がどういう手口を使ったかは、布都には知り得ることではなかったが、おおよその見当はついた。人の欲を突くのが上手い邪仙は、おそらく例の国を魅力的な土地と説き、その国力は大したことないと説いたのであろう。後はそれの説得力を上げるために、子どもを連れてきて、想定通りのことを喋らせた。

 

「お前、ロクな死に方はせんな」

「仙人ですから」

「ふん」

 

 一人の邪仙の欲が国を動かした。その欲はあまりにも純粋で、自分のためであり他人のためでもあった。

 国を挙げての北征が始まる。

 名だたる重臣が兵を率い、権力争いをも引き連れて、足を時を進める。

 まがりなりにも一つの国として、味方として共同体として。

 剣を槍を矛を。北に向けようと。

 邪仙は裏の無い笑みを携え、飽くまで楽しもうとする。それ以外に生きることでやることがあるだろうかと言わんばかりに。



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第26話 流れる時

 団結はそれだけで力になる。

 例えそれが真ならざるとも、手を取り合えば充分に効果は発揮される。少なくとも、妖怪が跋扈する世界で、人の住む世を作ることが出来た王朝であればそれなりに。何と言っても、物部と蘇我が手を組んで一つの作業に取り組んでいる。字面だけで言えば、平和の幕開けのようなものだが、実際の内容は恐ろしく物騒。

 北の地を征服する。

 人は理屈だけでは動かない。それは人の集合体である国も同じだった。

 ヤマト王朝は欲で動いている。

 木を刈り倒し、材木とする。大規模な伐採が行われた。大人数が動くならば、それだけの食料もいる。火も起こさなければならない。後続のためにも、道をつくらなければならない。

 物部氏を中心とする集団が先行し、安全を確保する。その後に蘇我氏を中心とする集団が、人が休めるように地をならしていく。

 協力という素晴らしき行為。

 人を殺し、隷属させ、土地を奪う。

 その為の協力。

 この恐ろしい集団は大まかに物部と蘇我の両派に分かれている。この国家的計画には、多くの重臣も同行しており、物部氏で言うと守屋自ら氏族を率いている。蘇我では、馬子の名代として蘇我系の神子が来ている。これには政治的な思慮が様々付随しているが、ややこしいことは置いておいて、神子が代わりを務めているというのが大きなことだった。

 布都も集団の中にいる。が、蘇我の集団より外れ、物部の集団に身を置いていた。

 いる理由はただ呼ばれただけ。わざわざ呼んでくるというところに少し興味が湧いたからいるにすぎない。

 ということで、布都は守屋と歩いている。

 弟の贄個は先遣隊を率いていて、この場にはいない。

 物部氏としては、力を見せつけるいい機会であるため意欲は高い。その中心にいる守屋と布都だけが冷めている。

 

「まさかこんな大所帯になるとは思いませんでした」

 

 と、布都が遠回しに愚痴を言うと守屋も乗った。

 

「まったくだ。しかし、この状況では代わりに誰かを行かすわけにはいかん。代わりを立てれた蘇我が羨ましい」

 

 個々の能力を高めることに主眼を持つ物部氏は、それにともなってか性格的にも我が強い。これらの上に立つのは、さらに個と能力を持つ者である。よって集団としては、協調が不得意。能力を考えると力を発揮出来ていない。そんな問題があった。

 それでも周りの氏族より格段に強いので、集団としての能力向上をしようとはならない要因になった。なまじ強いため、誇りが生まれる。その誇りが我を強め、他者との連携を拒む。それにともなう連携下手の言い訳として、弱いから群れるのだというものが採用される。

 とはいえ物部氏の昨今の戦闘能力向上は著しい。贄個が普段から、物部の術を周りの人間に教えている。これが功をそうし、格段といえるほどの向上に繋がっている。

 その贄個の元なら簡単な連携くらいは可能であっても、氏族として大きなまとまりになると不足があった。そうなった場合にはやはり当主の守屋が必要となった。

 実績や能力を知らなくても、その人物に心酔してしまうような現象。不思議と目が行き魅かれてしまう。それを俗にカリスマ性と呼ぶが、守屋の場合はどうだろうか。――少し違う。氏族の未来。象徴。そういうったものに近かった。

 皆、守屋を通して別のものを見ている。

 物部氏にとって幸運だったのは、この当主が実利を考えることが出来て、かつおよそ人の上に立つ際に必要な能力が軒並み高かったこと。そしてなにより、現実を見ているくせに妙に理想論者であったこと。人は希望が無ければ、前には進めない。理想が必要だった。理想に向けて音頭をとってくれる人が必要だった。

 そうでなければ、蘇我との政争に心が耐えられなかった。寝返る味方、増えていく敵。天皇の周りのほとんどが蘇我の親戚。それどころか、新たな天皇ですら蘇我系。天皇の母は馬子の姉である。物部にとっては、時を増すごとに政情は不利になっている。

 物部氏族の危機感は尋常なものではない。

 個を貴ぶのに、個では敵わないと理解させられる。

 拒むには理想がいる。

 それも大きく強固な理想が。

 守屋は実に分かりやすい答えを用意した。

 『強い者が勝つ』

 最終的にはこうなるはずだと。

 

「俺の代わりがいれば幾分か楽だったのだがな」

「これはまた贅沢なことを」

「見せつけられると、言いたくもなる」

 

 身分が高い者は妻子帯同である。が、守屋は単身である。そんな余裕はない。

 

「大海に身を投げ、浮くか沈むか。出た結果が天命である。――これでは我が氏族の未来は明るくないな」

「兄上は未来はないとお思いで?」

「分からんさ。まだ賭けることが出来る以上は結論を出すにはまだ早い」

「……ずいぶんと時の進みが早くなりましたなぁ」

「ああ、昔に比べてずいぶん早くなった」

 

 はっきり言う守屋。が、渋みがある。

 

「進まない時なんぞ魅力に欠けるが、何とも情の無いことだ」

「待てと言っても待ってはくれませんから。――ああそうです、不老不死でも目指してみればどうでしょう?」

「いずれ全てが朽ち、その後に自分だけ残るか。ぞっとする話だ。それならば何をするにしても意味をなさない。その瞬間、身動きが取れなくなってしまうわ」

「然り。然り」

 

 布都は少し気分がよくなった。

 

「憎悪でもなく理屈でもない。けれども敵対する以外にない関係。まるで時がそうさせてるようですな」

 

 布都は守屋が蘇我を嫌っているわけではないのを知っている。もちろん好きでもない。好悪によるものではない関係。

 

「時か神か、はてさて何か。とにかく、当事者としては存分に役割を果たそう」

「兄上の考える『物部守屋』の役割とは?」

 

 一拍。

 

「――漠然としていて上手く言えんな」

「そういうものですか」

「ああ」

 

 守屋は改まった。

 

「……天命というものがある。俺はそう思っている」

「はい」

「だが、その天命というものは、俺の思うにだが」

「はい」

「そう細かく決まってないのではないかと思うのだ」

「では何と?」

「受けた天命、――それに縛られるか使用するか」

 

 難しい顔の守屋。

 

「上手く言えないが、そんな感じだ」

 

 説明不十分だと自分でも思うのか、さらに言葉を続ける。

 

「……天の意思の結果に人間が振り回されることがあっても、結果それ自体が定められているわけではない」

「我は天の意思とやらを感じたことが無く」

「当然だ。意思が意思について考えるか」

「それはどういう」

 

 布都は理解が苦しくなってきた。

 

「そのままだ。俺が、――いや親父殿がそう感じ、息子の俺が引き継いだことだ。物部の当主である俺がな」

「我は道具ではありませんが」

「道具などであって堪るか。我を通してこその物部布都だ」

「なんとも釈然としませんが」

「酔っ払いの戯言とでも受け取れ」

「おや、酔っておられたので?」

「現実にな。内腑が痛むわ」

「それはそれは」

 

 分からないものを分からないままにしておく。それもまた一興。

 布都は守屋から距離を離した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日暮れも近い。

 茜は、人の手が及んでいない林の中でも差した。

 人は言う、暮れが不安で帳は恐怖だと。

 先の見えない不安が恐怖と化す。

 ヤマトからの一向は予想をはるかに上回る速度で北へと進んでいた。妖怪の来襲などの危険がほとんどなく、拍子抜けしていた。北というのは、妖怪が跋扈する大地という当初の観念が崩れ去るほどだった。

 原因は分からない。分からないが、進めるならよし。けれども、進むたびに言い様にならない不安が募る。やがて恐怖に変貌しそうなそれを必死に押し留めて、前へ進む。皆前へ進んでいる。ならば足を進めるしかない。一人取り残される恐怖よりましだと、多くの者は思っている。

 当然例外もいる。

 

「皇子、皇子! 外の世界とはこのようなものございますか!」

「えぇ、そのようですね」

 

 例えばそう、とある蘇我陣営のとあるお偉いさんだったりとか。

 そのお偉いさんらが都から離れたのは初めての事だった。何でも初めてのことというのは、期待や不安で心がいっぱいにあるものである。

 それでもいっぱいになったはずの片隅に欠けたものを感じていた。

 

「布都も来ていると聞いたのですが、……あいつはどこにいるので?」

「ああ、あの方なら物部方にいるそうですよ」

「な、何故です?」

「何故って、物部だからではないでしょうか」

「でも、あいつは、父上のっ――」

 

 言葉は続かなかった。言葉にしたくなかった、でも言葉にしないでもいられなかった。随分と布都とは言葉を交わしていない。会ったと、ちゃんと言えるのはどれだけ前の事だろうか。でもあの時は代わりに父がいた。そして今はいない。

 言いようのない不安、けれども一人でもない。だから、何か紛らわそうと話しかけようと――。

 

「――神子様」

 

 突然現れた何者かに、先を越された。

 

「っわぁ!」

 

 驚く――も、そっちのけで会話が始まる。

 

「そろそろ近づいてまいりましたわ」

「その貴方の言う、例の国ですか」

「はい。もうビンビンですのよ」

「すぐというわけですか」

「いえ、正確にはもう少しあった気がするのですが、不思議ともうすでに色濃く感じられるくらいに近寄ってると言ったところでしょうか」

「つまり?」

「楽しくなりそうです

「……そうですか」

「ああ、一応言っておきますが、死なないようにお願いいたしますね」

「それは問題ありません」

「それはよかったです。全てを捨てて逃げるくらいの度量がないと、上には立てませんから」

「言わなくても分かっています」

 

 そこにいるのにのけ者にされるというのは、気分の良い体験ではない。割って入る。

 

「――っ皇子、この者は一体何ですか」

「っあ、えーっと、それはですね……」

 

 何やら言いにくそうにたじろぐ様が実に怪しかった。妙齢の、それも美しい女。もしや――。

 突如、首周りに生暖かいものが包み込んできた。

 手。

 

「ひっ」

「どうも、初めまして?」

 

 びくっと身体が跳ねるも、身を腕で包み込まれ、振りほどくにも勇気が要った。

 

「菁莪娘々と言いますの。どうぞよろしくしてくださいね?」

 

 好感度全開な声の感じ。なのに背筋が震える。

 

「わ、私は、ベ、別に……」

「別に?」

「ひぃ」

 

 急いで離れ、この場で唯一安全な背中に貼りつく。

 

「お、皇子、あの者は怪しい、――怪しいですよ!」

「あら酷い。私のどこが怪しいのでしょう?」

「全部だ全部!」

「あれれ、嫌われちゃったのでしょうか?」

 

 至極残念そうに頬に人差し指を当て首を傾げる様に、少し後ろめたさを覚えつつも同情は出来そうにない。

 

「菁莪、あまり屠自古をいじめないでやってください。そういうのには不慣れなのですから」

「それは失礼しましたわ。あまりにも可愛らしいので、つい」

「あんまり揶揄ってると、怖い保護者が出てきて苦労しますよ。知っているでしょう?」

「あの方、急に切り替わるので見極めが難しいのですよねぇ」

「その割にはずいぶんと迫っていたみたいですが」

「境界を見極めたかったので」

「なるほど。それで何か分かりましたか?」

「これがまったく」

「駄目ではありませんか。一応人伝手に聞いた話では、普段は温厚だそうですよ」

「その者は幻でも見ていたのではないですか?」

「私もそう思う、と言いたいとこですけどね」

 

 人間第一印象が大事。だが第一印象は所詮第一印象。時を重ねていくごとにあるべくものへと変化していく。そして、あの蘇我馬子という人物が下した判断は、一考を超えたものとしていいはずだ。だが同時に軽口に悩まされているだけという線もある。当人にとっては、そんなつもりは無かったと本気で言うかも知れない。ただこちらが勝手に深読みして勝手に悩み果てただけだと。

 そんな悲しいこともそうない。

 手の平で踊らされるのは絶対に避けたいが、勝手に踊っているだけという無様はもっと避けたい。

 

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 物部側の役目は先行偵察のようなものであるが、その補給を全て他者任せにしているわけでもない。自分たちでもある程度の食糧は持ってきているし、水だって汲んでくる。奥深くまで言った後に、食料の提供を拒否されたらどうなるかは自明である以上、当然の自衛措置である。

 布都も川辺を探して歩いていた。

 探そうと思えばすぐに見つけれる布都は、集団からは離れて歩いていた。一人の方が気が楽だし、なにより足を引っ張られることもない。

 感覚を澄ませば、すぐに川のせせらぎの音すら聞こえてくる。

 あとはそこへ向かって歩いていくだけ。

 わざわざ知らせてやらなくても、いずれ他の者も気づくだろうと教えに行ってやるつもりもない。すれ違えば、方向くらいは教えないこともないが。

 何かあればそのまま死につながるような地で一人でいるというのは、実に変なこと。もし一人でいるような者を発見したならば、まずは疑いから入るだろう。

 だから布都も、木々を抜け川を目にした瞬間、疑った。

 視界には、川辺で背を向けた状態で、しゃがみつつ水面を覗き込んでいる者が。

 布都の疑惑は強みを増す。

 人のような生き物がいるならば、川を探そうと感覚を澄ませた時に発見しているはずである。なのに実際に目にするまで分からなかった。

 一見無防備な背中があまりにも危険に感じる。分かっている危険とは違う、正体不明な危険。分からないからこその危険。予想が出来ない。

 未知は既知にする為には、行動を起こすのが近道。

 布都は口を開いた。

 

「そこで何をしている」

 

 無防備な背が動いた。

 

「――それはこっちの台詞だと思うけど?」

 

 正面を向いたそれは、ただの少女のようだった。もちろん"ただ"とつけるとおかしい所がある。この国では見ない、金色の髪。その上に奇妙な帽子。

 

「では何者だ?」

「それもこっちの――、いやいいや。通りすがりの女の子ってことにしとかない?」

「ではその通りすがりの女の子はここで何をしていたのだ?」

「うん? ただ見ていただけだよ」

「水面をか?」

「そう。正確には川の流れだけど」

「おもしろいのか?」

「面白いというか、興味があるのさ」

「ふぅん」

 

 子どもはそういうものが好きであることは布都も知っている。そして目の前の少女が、いわゆる『子ども』でもないことも知っている。だが、そういうことにして欲しいらしく、その様子を崩さない少女。これ以上問いかけても仕方がないので、手段を換えることにした。

 

「こんなところで、どうする気だ? 夜も近い。迷えば死ぬことになると思うが」

「確かにその通り。お互いにね」

「そうだな」

 

 話の平行線。

 

「……まぁいいや。少し歩み寄ろうか。――でだ、迷子ってわけじゃあないんだろう? もし迷子なら道案内でもしてやってもいいよ。もう用事は済んだし、戻ろうと思ってね」

「迷子というわけじゃないが、もしお前が帰り道の心配をするなら同行してやってもいいぞ」

「いいね、そういうの好きだよ。私の周りはお堅いやつばっかりで、話しててもつまらないんだ」

 

 互いに歩み寄る。

 

「私は、諏訪子。そっちは?」

「我の名は布都。ただの通りすがりだ」

「ふぅん」

 

 じろりと上から下まで舐めるように見られる。

 

「良い剣を持ってるね。ちょっと興味あるな」

「残念だが良い剣ではない。なんなら触らせてやってもいい」

「本当に?」

「ああ」

 

 布都は腰を前に出し、諏訪子に抜かせようと促した。

 

「……やっぱやめた」

「いいのか?」

「つまらないからね」

「そうか」

 

 二人は川を発った。

 少し歩き、物部氏の集団まで行くと、布都は出迎えた守屋に意味ありげな目配せをして「道案内をしてくれる迷子を連れてきました」と言った。守屋はただ頷いた。

 守屋は布都が去った後に、顔をしかめ呟いた。

 

「よく分からんが、――今更やれることなぞそう多くはないだろう」

 

 想いを振り切るよう、首を振る。

 何も見えないが、きっとそうなのだろうと。認知すら出来ない者に道案内をさせる程度には腹は括り終えている。なるようにしかならないと。




説明文が多くなりました。
直接書いた方が少なく済んだのですが、遠回しに書いてる以上いきなり名前をがんがん出しても変になるのでこのように。というか天皇名出すと時代がくっきりしちゃうので避けたかったり。

そして実は本文中にカタカナを出したのがこの話で初めてだったり。


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第27話 進む行程

 それから、幾度か過ぎた日の夜。

 林の中に点々と明かりが灯っている。

 先頭を行く物部は、常に未知と言う不安と戦っていた。後発組は、物部の残した後を辿るだけでいいが、先行く物部はそうもいかない。安全など定かではない場所で、限りなく最善の状態で休める地を探すしかない。

 そんな物部氏一行も、夜が深まった今、休息地を見つけ腰を下ろしていた。

 周囲を探索し、大丈夫であろうと贄個が結論を出した結果、この場で休息を取ることになった。術者の実力とと信頼性を重ね合わせた時に、物部氏の中では贄個が一番である。布都は相変わらずあまり干渉していない。周りから見た布都は、先頭にはいるが何やらぶつぶつとひとり言を言っているように見えていた。力のある者は、布都の横にぼんやりと不思議な存在を感じることが出来て、それが布都が言う迷子という者であるというのは分かったが、実際それが何なのかはまったく分からないままだった。

 そんな布都は重心を地に下ろし、木に背を預け、目を閉じていた。

 他の者も似たような体勢である。いつ何があるか分からない状況では、すぐに立ち上がれることが望ましいわけである。明日の為にゆっくり休息をとろうとして、明日が来なかったら本末転倒なわけである。

 

「しかし、だいぶ大所帯じゃないか――」

 

 横から声がしたので布都はうっすら目を開けると、諏訪子が辺りを見回しながら立っていた。

 

「何だ、見て回ってきたのか?」

「ざっくりね」

「何か面白いものでもあったようだが」

「まぁねー」

 

 言葉とは裏腹に、諏訪子は少し難しい顔をした。

 

「ただ、私の勘はよく当たるはず、――だったんだよなぁ」

 

 腑に落ちない。答えは合っているはずなのに、合ってなかったように思える。複雑で端的に言い表せない。

 諏訪子の表情は猜疑に満ちていた。

 が、布都には関係ない。

 

「勘など外れることを前提にするものであろう」

「――それは普通の人間の理屈でいいんだよ。私が気になるのは、私の勘が外れたかもしれないってこと」

「お前は巫女か何か」

「いやいや、そんなんじゃあないね。近いと言ったらそうなんだけど、そこには絶対的な隔たりがあるんだなこれが」

「……まぁ、言う気がないのならいくら詮索しても予想にしかならんか」

「そういうこと。物分かりが良くて助かるよ」

 

 気分良さそうにした諏訪子に、布都はまた質問を投げてみる。その身の正体について聞いても、答えてくれないであろうことは分かっている。なので、簡単なことを聞いた。

 

「あとどのくらいで着く?」

「もう近いよ。この感じなら明日一日歩いてれば、着くだろうさ」

 

 朗報に、気が楽になった。

 この集団野宿は色々と面倒なもので、元の屋敷生活を何度も思い出してしまっていた。

 

「ってなわけで、明日に備えてよくよく眠るといいよ――」

 

 声だけ聞こえた。

 意味深に思え、何事か問うてみようと目を凝らしてみたが、やはり姿がなかった。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 朝になり、進行が再開されると、そう時を起たずして家屋群のようなものが見えてきた。

 家人に調べさせたが、その全てが空だった。生活をしていた名残りはあるが、どれもが時が経っていた。

 

「捨てられた村だろう」

 

 それが結論になった。

 ここではそれ以上の判断は出来ないと、調査は打ち切りになった。細かい調査は後発組みがやるだろうと先を急いだ。

 ようやく近づいたという気の逸りもあって、無人の家屋などにいつまでも構っていられない。

 近づいたという感触は全体の中に広がっている。

 家屋群から進めば進むほどに、一行の緊張感が増していく。集中力が研がれ、感覚が澄ませられる。

 敵地にやってきた。そう思えば、皆自然とそうなった。

 ただ、この頃になると不思議な何かを気のせいと言うにはあまりにもはっきりとした形で感じられる者が多くなってきた。

 気持ちの昂りからくるものではない。進んでいるのに、どこか迷い込んで来てしまったような感覚。何らかの領域に入ったというような――。

 それは、間違いではなかった。

 諏訪子の声。

 

「さて、頃合いかな――」

「んん?」

 

 横を行く諏訪子が布都の疑問の声に応答せず、前へと駆けて振り返った。

 

「ひとまずは遠くより長きの旅ご苦労」

 

 風で布がはためくように、辺りにざわめきが起こった。急に声が聞こえてきた、音が直接やってきた。

 

「姿を見せなかった非礼を詫びたいところ、と言うと嘘になるか。まあでも、見せてあげるから感謝してくれ」

 

 光があふれ、その中心から一人の少女が現れた。

 

「どうも、私は諏訪子。――神だよ」

 

 疑うより他に納得するしかなかった。神が顕現するということの意味を思い知らされた。およそ有り得ないが有り得ている。そんな現実。

 存在そのものが異質だった。

 

「……何じゃ? 我は騙されていたのか?」

 

 ざわめき困惑する中、布都は表情を変えずに首を傾げていた。諏訪子の視線が布都に行く。

 

「勘の鋭さとその理解の速さには驚かされるけど、それは私の助けにもなる」

「ううん?」

「さて私は神なのだけれど、神というのがどういう存在かは皆もご存じだと思う」

 

 布都も、周りも、話についていけない。

 

「私はどちらかと言うと、君らにとっての味方になり得るのさ。何故なら、計画通り行けば君たちはここで皆死ぬ予定だ」

 

 物騒な話。仔細は分からずとも、何となく分かる。

 

「おっと、怒りを私に向けるのはよしてくれよ。計画したのは私じゃあない。協力したのは事実だが、別に好き好んでやったわけじゃない。ある程度言う事を聞かなきゃいけない関係のやつがいてね、そいつの要請なのさ」

 

 見えてこない話を次々とする諏訪子。

 

「一応言っておくけど、私は信仰の強い地ならかなりの力が出せる。おそらく今君たちが想像したよりもはるかずっと強いものがね」

 

 手を広げ、身振り手振りで説明していく。

 

「でだ、ちょっと諸事情で私には仕返してやりたいやつがいるんだ。だから君たちには私の味方をしてもらいたい。協力すれば、私から君たちを害することはしないと約束しよう。そしてもし協力を得られないのでれば、当初の予定通り死んでくれ。恨み辛みを深く残して死んでくれると、私の糧にもなるからありがたい」

 

 具体的なことがまったく見えてこない。

 布都が口をはさむ。

 

「よく分からんが、負け犬の世話をしろというわけか?」

「本当に驚かせるね。でも、少し違う。正確に言うと、負け犬の世話をしている負け犬の私の世話をしてほしいのさ」

「ややこしいな」

「ま、そいつ神奈子って言うんだけどさ、そいつの計画に付き合ってやってるんだ。ただ、言われたとおりにやるのも面白くなくてさ?」

 

 首をかしげ、おどける諏訪子。

 が、布都は意に介さない。

 

「何だお前弱いのか? それならお前を倒して、さっさと去ることにするが」

「……言っておくけど、神の間の話だ。人間じゃどうにもならないと思うね。大体私の負けたやつは軍神なんだ。真っ向からやり合ったら到底勝ち目はない」

「だがそいつも負け犬なのだろう?」

「それも神同士の勝負の話。人の物差しで測ると死ぬよ」

「ずいぶんと死を使って脅すじゃないか」

「定命の者に対するいい文句だと思ってね? 遊びに付き合わないやつは疎まれるのさ。神に疎まれるのは嫌だろ?」

「神遊びなんぞに無理矢理付き合わそうとする神など、人から疎まれるだろうよ」

「神なんてのはそんなもんさ。だから諦めて私に付き合えよ。悪いようにはしないって」

 

 布都は守屋を見た。

 この集団の決定権は守屋にある。である以上、自分の判断を探る前に、さっさと確認しておいた方がいい。

 結果、守屋は頷いてみせた。

 意味するところは好きにしろ。

 布都はげんなりした。

 

 ――覚悟を決めるにしても、限度があるだろう。

 

 自分の決定で多くの人間の進退が決まる。それも生死というもの。

 今まで散々避けてきたものが、避けづらい形で自分に降り掛かってくる。実に面白くなかった。

 

 ――愚痴は聞かんぞ。

 

 布都は口を開いた。

 

「付き合ってやる。――ただし、我は別に考えろ」

 

 それが最大の譲歩。

 

「気が向かなければ、我だけでも去る」

 

 その全てを置いて帰ることが、その時出来るのかどうかさだかではない。それでも口にしないと仮初めの納得すら出来なさそうだった。

 諏訪子は分かっていた。

 

「うん、分かった。それで構わない」

 

 ここが合意点であると。

 

「とりあえずでも参加してくれるなら、それでいい。充分だ」

 

 話は終わり。

 口の次は足の出番。

 足を進めなければ、話は進まない。

 一行は内に様々なものを秘めながら、その地へと向かった。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 それから少し時間が経ってのこと。

 

「み~こ様っ」

 

 神子の後ろにどこからともなく現れた菁莪が、抱きついた。

 神子は、殺気立つ護衛を下がらせ、殺気立つ屠自古の頭を撫で、

 

「――何か朗報ですか?」

 

 と言った。

 

「はい、それもう!」

 

 菁莪は神子の前に回り込むと、手を合わせ頬に当てながら、実に嬉しそうに話しだした。

 

「後は神子様の許可次第ってとこです!」

 

 何度も頷く神子。

 

「そうですか、ご苦労です」

「いえ、そんなわざわざ言われるような……」

 

 神子は咳払いをした。

 

「――で、当然何の話か聞かせてもらえますよね?」

「もちろんですわ。でないと話が進みませんものね」

「えぇ、本当に」

 

 神子は人の心が読めたらどんなに楽になるだろうかと、そう思わされた。本気で身に着けてみようかとも。

 よそに、菁莪は語りだす。

 

「――今から行く国の国主に話をつけてきたというわけです」

「国主と?」

「はい、つまり神ですわね」

「……詳しく」

「おや、気になりますか? そうですわね、その気の誘引がなんとも魅力なもので――」

「早く」

 

 神子の声色に怒気が混じり、菁莪は両の手の平を広げて見せた。

 

「神子様、神子様」

「何ですか」

「申し訳ありませんが、そちらの可愛らしい方も」

「……あぁ、分かりました」

 

 神子は屠自古の背を押した。

 

「少しの間だけ、離れていてください。二人きりじゃないと出来ない話があるようなので」

「は、はい」

 

 屠自古はぎこちなく頷くと、小走りで離れていった。途中でちらちら振り返ってみたが、どうにもならない。

 

「――で、そこまでの話とは何んでしょう」

 

 改まった神子に菁莪は、

 

「神遊びですわ」

 

 短く答えた。

 

「遊び、ですか?」

「そう、遊び。辺りの人間にはいい迷惑な話ではありますが、これはたいへん利用出来ます」

「知ってることを話してください」

「かいつまんで話しますと、復讐の手伝いを復讐で邪魔されそうなのを邪魔をするというところです」

「ややこしいですね」

「人を使って何かをしようとしてる神と、それを邪魔しようとしてる神。私はその前者から頼まれごとをされたわけです」

「何を」

「頭が付いた手足が欲しいとのこと」

「手が足りないと?」

「そうらしいですわよ。わざわざ向こうから頼みに来るくらいですから」

「もしかしてこの遠征は――」

 

 菁莪は神子の唇に人差し指を当てた。

 

「見返りは簡単ですわよ。生命の保護と、その神の加護。事が上手くいけば、今まで探していた剣もいらなくなるという副次結果もつくので、悪い話じゃありません」

「わざわざ断る必要もない話であるのは、間違いなさそうで」

「はい。ですから――」

「乗った上でどうやってこちらの利益を最大化させるか、ですか」

「素晴らしいですわ!」

「私もそろそろ慣れてきました。特に最近環境に揉まれたせいだと思いますが」

「喜ばしい限りではありませんか。そしてこれは一つの神子様の復讐にも繋がりますわよ」

「復讐? どうしてです?」

「この間の勝負では、実質負けでしたでしょう? やり返す機会ではありませんか。構図としては蘇我対物部の分かりやすい図ですし」

「……なるほど」

 

 神子は分かった。理知過ぎた。今までは経験が追いついていなかったために手の届かなかったところに、理知が届くようになった。だから菁莪の言った狙いに一つ言っていない部分があることに気づいた。思えば露骨ではあった。

 気づけば、色々と疑うことが出てきた。

 そもそももっと前から目をつけていたのではないかとか。思えば登場の仕方が良すぎるとか。

 

 ――我欲に忠実過ぎるからこその邪仙か。

 

 到ったからこそ、もう一つ思考が進んだ。

 

 ――ならば、私にとっての最大の利益とは。

 

 それは少し難しい問いだった。

 いくらか答えは出来たけれど、そのどれもが最大とするには不足なものばかりだった。

 

「で、神子様? どうします?」

「ああ、話は受けましょう。そうではないと話が進まないようです」

「では、そのように計らって来ますわ」

「はい」

 

 神子は、ふわりと浮かび上がり遠くなっていく菁莪の背中を見送る。

 

「いつか欲の重みで地に落ちる時がくるのでしょうか」

 

 地に落ちるにしても、知っている知識を渡してからにしてほしい。

 神子は肩落とした。

 

「上は扱いづらい者しかいないようで……」 



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第28話 人

 夜が去った。また訪れるまで。

 物部が来た。いつまでかは知らず。

 諏訪子に案内された物部一向は、ここまで来てようやく自分たち以外の人間の姿を見ることが出来た。

 家屋が立ち並ぶ町というか、村というか。町にしては活気がなく、村にしては大きすぎる。見かける人々はそのどれもが痩せており、こちらを無感情に見ているだけだった。

 

「敵対の意思すら見えないとは、不気味すぎる……」

 

 と、不安が言葉になり、口に出す者も少なくない。

 少なくともこちらは侵略者のはず、なのにどうして抵抗がないのか。

 

「警戒は怠るなよ」

 

 動揺する者たちを引き締めようとする者。

 

「一度、引き返して後ろと合流した方が……」

 

 怯える者。

 

「何をお考えなのか……」

 

 守屋がいるであろう方をちらちらと見る者。

 不気味過ぎる状況に、各自の心がまとまりを乱し始める。

 そもそもこの家屋群の地も奇妙だった。文化が違うという一言だけでは片づけられない違和感があった。

 やたらと大きな路地、そこら中にある社のようなもの。その周りに家屋と畑等が散っている。まるで社を中心として、複数の村が重なっているよう。

 それは無視出来るものではなかった。

 

「兄上、あの社から妙なものを感じます」

 

 前方で指揮を執っていた贄個も、守屋の元にやってきて報告をしに来ていた。

 

「……だろうな」

「分かるのですか?」

「村の構造を見れば、あれが何かしらの意味を持っていることは分かる。少なくとも、神を見た後だ。疑わずにいる方がおかしい」

「なるほど。で、兄上はどのようになさるつもりで?」

「どうもせん」

「は?」

 

 ぎょっとして聞き返す贄個。

 

「むしろどうすることが出来ると言うのだ。もう我らは賭けた後よ。あの神が足を止めろと言うまでは、黙って進むしかあるまい」

「しかし、それでは――」

「もう遅い。このまま引き返し、ヤマトの地まで逃げるか? 物部は求心力を失い、蘇我に戦うことすら出来ずに敗北するだろう」

「いえ、そこまで引かずとも、少し引きそこで待つだけでよいのではないでしょうか」

「我らは先鋒だ。何故、先鋒か。後ろを頼れば、逃げ帰るのとそう大きくは変わらない。我らは我らでやるしかないのだ」

「……だからの賭けですか」

「ああ」

 

 物部の名声が掛かっている。これが物部を支える大きな柱にして、蝕む病。

 

「賭けの対象は一つだけでしょうか? 二つ、いえ三つにすることは出来ませんか?」

「諦めろ。お前の言いたいことは分かるが、どの道この状況では失う方が多い。物部が王朝でどのような立ち位置であるかを忘れるな」

「ですが――」

「くどい」

 

 食い下がろうとする贄個を守屋はさえぎると、もう一言付け加える。

 

「もう一度言おう、"この状況"では失う方が多い。以上だ」

「……よく理解しました。私は私の責務を果たします」

 

 贄個が前へと戻っていく。

 鼻を鳴らす守屋の横に、諏訪子が蛇のようににょろりとやって来ていた。

 

「……へぇ、聞いてたよりはるかに理知的じゃないか」

「神が何の用だ」

「いやぁ、やっぱ人間って面白いって思ってね。花は咲くときと散り際が美しいけれど、人間はどうかなってね」

「悪趣味なことだ」

「人は好きだよ。ただ人のとは違って、神としての好きだけど」

 

 何とも安心出来ない言葉。

 守屋は横目だけでちらりと見ている。

 

「だからさ、一応言っておこうと思ってね」

 

 神とかいうものがわざわざ前置きを置くなど、不吉以外に何があるだろうか。守屋は即座に覚悟した。

 

「私の裏切りは初めからバレてる」

「ああ」

「驚かなくて安心した」

「予想の範囲内だ」

「じゃあもう一つ、向こうは蘇我を味方に引き入れて私に対抗しようとしているみたいだよ」

「……確定と思ってもいいのか?」

「いいよ。私の知り得る限りの情報からするに、間違いないとまで言えるほどだ」

「そうか」

 

 神と神の戦い、物部と蘇我の戦い。

 

「……ここが明暗になるか。それとも布石に終わるか」

 

 リスクの高い賭けなんてものは、何度もしたくないもの。そんな賭けは一度で済ましてしまいたい。賭けに勝ち続けられると思うほど愚かでもないし、負けると決まったわけでもないのに絶望するほど怠惰でもない。

 

「出来る限りことをする。要は何をするか、それだけだ」

 

 上手くいくときというのは、案外その直前まで不安でいっぱいだったりするものだ。不安で細心なくらいが良いのだろう。慢心は知を暗くして失敗を招く。

 しかし、結局のところ――。

 

「神にでも祈るか」

「お、信心深いね。良い事だ」

「別にお前に祈るわけじゃない」

「それでも、さ。いや私に祈ってくれて構わないのだけど」

「何の神かも分からんのに信仰できるか」

「おっとそれは失礼。私は土着神、まぁ――祟り神さ」

 

 諏訪子の口が深く割れ、濃い笑みを表した。蛇のような長い舌がちろりと顔から首まで出てくる。

 

「一重に神なんて言っても、色々さ。祟り神もまたそう。上も下もある。小さな神々を従える私はこの地では、最上級の力を持っているのさ」

「それは頼もしいことだが――」

「そう、懸念の通り。相手は軍神。まともにやり合えば負ける。数をそろえたあいつに勝つのは、正攻法じゃ駄目だろうね。それで負けたやつが言うんだから、間違いはない」

「では正攻法ではない策が知りたい」

「それは私も考え中。ただ勘の赴くままに動いただけにすぎない。考えるのはこれからさ」

「なんとも行き当たりばったりなことだ」

「それでも、やるのさ」

「……神も人もそう変わらないということか」

 

 空は青かった。

 

 

 

 

 

 

 布都は少し離れたところで話していた。

 わざわざ物陰に隠れてひそひそと。

 

「――というようなわけなんですけど、どうでしょう? 私と組みませんか?」

「……私たちと言わないのが肝か」

「お目が鋭いことで」

「あちこち飛び回ってご苦労なことだな。努力家だとは知らなかった」

「仙は努力の賜物でございますゆえ」

「ならば我には向いていないな」

「ご謙遜を。人と死を超越すれば、それはおよそ仙ですわ」

「化け物と何が違うのか知りたいものだな」

「品性、でしょうか?」

「よく分かる解説でびっくりした」

 

 密談である。長話は出来ない。

 すぐに話は終わり去っていった。

 布都は集団へと戻ると、複雑な表情をしている守屋に近寄った。

 

「なにやら浮かない様子ですが」

「ああ、布都か。少し思うところがあってな」

「聞いても?」

「ああ」

 

 守屋は少し遠くを見るような目つきをした。

 

「実際に神なんてものと言葉を交わしていると分からなくなってな」

「何がです」

「何に頼り、何に賭すのか。全てを奮うにあたいするものかどうか。そんなとこだろうか」

「なんと兄上らしくもない。迷いを言葉にするとは」

「……神のせいだろう」

「ならば揺さぶった神を信仰して、根の強い信心でもって事に当たるほかありますまい」

「それが出来たら苦労はしないのだが」

「……本当に迷っておられるようで、少しびっくりしました」

「そうか。悪いな」

「いえ、我のことならばお気遣いなく。ただ――」

「分かっている。下には見せられない。組織の頭が迷えば、手足は不安で堪らなくなる」

「ですが迷ったままでも」

「それも分かっている。良い結果はつかないだろう」

 

 時が進んでいく。時代が変化してく。

 今でも大連の地位にふさわしいだけの力をもっている物部氏。個々の能力は他の豪族と比にすらならない。なのに、時が進むにつれて味方は減り敵が増えていく。最大の敵が時であるように感じる。その潮流を上手く使っている蘇我は見事というほかないが、問題はその潮流自体である。

 妖怪を追い払い、人の生活圏を広げていく。その先頭こそが物部氏であったが、いざそれが叶い、人の生活圏が増え人口も増えていくと、人と人との繋がりが強くなってきた。妖怪を前にすれば、人は人同士として結びつき合うが、人が人を前にすれば、人は人の勢力で結びつき合う。

 人が安心を掴んでいく今、比例するように物部の名声は薄れていく。少なくとも、こんな地まで遠征するはめになるくらいに。もし、このままこれが加速していき、物部がいなくても妖怪から身を守れるんじゃないかと思われるようになれば、そこが物部の最期だろう。

 人の繁栄が物部の衰退を生んでいく。

 それに対し、物部が必死に力をつけたとしてどれほどの意味を持つだろうか。何とも見当ちがいな努力をしているようにしか思えなくなる。それでもそうするくらいしか出来ないのも現状。もし、蘇我から力を持った傑物でも出てくればそれすらも崩れてしまう。

 守屋は思わざるを得ない。

 人の下について、人の意に応えるだけならばどれだけ良かっただろうかと。自由に人を動かせる立場にいながら、何一つ動かせないない現状じゃなければと。

 物部独力で国と渡り合えるような力を持つしかない。

 でもそれだといずれ国と敵として扱われる。それこそ今まで追い払ってきた妖怪のように物部が追い払われるだろう。

 

「ままならんな……」

 

 光明が見えずに呟く守屋。

 何一つ関わる気が無かった布都も、こう滅びの道を見せられてくると、どうにも言葉にしづらい感情が浮かんできた。

 子どもの頃はめいいっぱい遊ぶことが出来るが、年を重ねて大人になってくるとそれが少しずつ叶わなくなってくる。様々なしがらみが足に纏わりつき、心をも蝕む。

 布都は時の流れを感じた。

 ただ、布都は守屋とは少し価値観が異なる。

 

「時は平等ですよ、兄上」

 

 布都は守屋の目を直視した。

 

「いずれ、皆等しく滅びを迎えるのです。物部も蘇我も」

「早いか遅いかだと?」

「ええ、それだけでしょう。であるなら、滅びる前に綺麗に咲けばいいではありませんか」

「どう咲くがいいと?」

「それは兄上が好きなようにすればよいでしょう。未来は未来です。未だ来ていないものです。であるならば、物部も蘇我もどちらが先かは分からない。もしかしたら、手を取り合うやもしれなければ、同時に滅ぶかもしれない。――不確定、素晴らしいではありませんか」

「個として、自由に動いてきたお前だからこその言だな。物部を名乗り続けるお前の結論であるなら、それもまた物部の一つだろう。心に留めておこう」

「雲は晴れましたか?」

「いや、足が軽くなったくらいだな」

「それはそれは」



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第29話 気にくわないもの

 時も足も進んでいく。

 どちらも進む以外に術を知らない。

 進めば、変わり映えのしない光景にも変化が見えてきて、視線が行く。

 境の分かりづらい村の集合群を抜けると、さらに大きな村が見えてきた。とはいえ、見える範囲での変化はそうない。ただ大きく多くなっていったくらい。とても大きな村、――都といってもいいのかもしれない。だがそこには商業施設等の建物が見当たらない。相変わらず民家と社のみ。ただそれが大きな円を描くように寄り集まっていて、その中央にと大きな社がそびえ立っていた。

 その中心付近にまで物部一行はたどり着いた。

 

 ――どうするか。

 

 予想と大きく違う展開に戸惑う人たちを置いて、布都は別行動をとった。

 少し離れると、空を見上げた。 くすんだ空は如何様にも姿を変えそうだった。

 

 ――自分は必要ない。

 

 そう思った。

 諏訪子と名乗る神はどこに行ったかは知らないが、姿が見えない。侵略しに来た集団に対し、抵抗の一つもしない民衆にこちらとしても何かすることもなく、淡々と行軍が進んでいく。神が危害を加えないと言ったのをどこまで信用するかという問題でもあるが、実際として危険が見られないとあれば、気も変化してくるというもので。

 つまるところ、何かあると思っていたのに何もないので肩透かしをくらって退屈になった。

 集団行動などしていては、見つけられたかもしれない楽しみを逃してしまう。布都にとっては、別行動をとるには充分すぎる理由だった。

 木を隠すなら森の中。見られたくないものは煩雑かつ小さなところに隠すもの。幾重もの戦闘の経験によって磨かれた勘を頼りに、隅の方から探索していく。

 隠したいものというのは、陰気なところに持ってくものである。気分がそうしたがるのか、それとも陰気という属性が為にそこへ行きたがるのか、それは分からない。

 民家に挟まれた狭い路地。

 日中のほとんど影が差すせいで、地も空気も湿っている。

 布都は、話しかけられた。

 

「あんた、外から来たのか?」

 

 くたびれた男。頬がこけていて、目だけがぎょろっと力を感じさせた。まともに立つのも辛いのか、壁に背を寄り座っている。よく見ればまだ若いことが分かる。

 

「……そうだが何だ?」

「そりゃ良かったな」

「何故?」

「ここまで来るってことは、そういうことなんだろ? 安心しろよ、ここに居る限りは殺されはしねえ。神様がいるからな」

 

 離しているだけで陰気が移りそうな男に、話を止めたくなったが、向こうから快く情報をくれるようなので乗ることにした。

 

「……何かしてくれるのか?」

「そうだ。守ってくれる」

「それは結構なことだな」

「だろう? 俺もここに来てから妖怪なんぞ見もしなくなった」

 

 布都は、小さく鼻で笑った。

 妖怪からは襲われるだけではなく、襲い襲われるそういう関係にある。神に祈りを捧げつつも、武器を研ぎ、術を錬磨し、妖怪を払わんとしてきた大和の者たちとは考えが違いすぎる。神に守られるかわりに、牙を捨てるなど考えられないこと。それとも、実際に守られてみればそうなるものなのだろうか。

 

「……ただ、死なないというわけでもねえ」

「どういうことだ?」

「あんた、見たところ良いとこの出だろ? 何だってこんなとこに追いやられたかは知らないが、ここじゃ身分なんてない。神か人かだけだよ」

「早く話せ」

「そうかよ」

 

 男がよろよろと立ち上がった。

 笑みを浮かべているが、ひどくぎこちない。

 

「命の安全を命で買ってるのさ。ここにいれば殺されはしない。神は人を殺さない。つまらない話だ」

「どうやって買う?」

「そりゃ信仰だろう」

 

 ――信仰とは何なりや。

 

 と、問おうとしたが先に答えが返ってきた。

 

「簡単なことさ、期待に応え続ければいい。命を削って捧げるような祈りを捧ぐのさ」

「本末転倒であろう?」

「はは、まったくだ。だが、向こうの理屈はこうさ、『元に還っている』だとよ」

「頭がおかしいんじゃないか、その神は」

「まったくその通り! と言いたいところだが、それは人の尺度だろう」

 

 神の尺度を採用したような言葉。

 

「お前はそれでいいのか?」

「良いも悪いもない。ここに来てしまった以上は、受け入れるしかない。自分の番が来るのその時までただ生きるだけ。逃げれば、妖怪に喰われて死ぬだけさ」

「この周囲に妖怪は少なかったが」

「運が良かっただけだろう。現に逃げた奴は全て屍で戻ってきた」

「見たのか?」

「いくらかな」

 

 思ったより饒舌だなと思いつつ、続きをうながす。

 

「そう言えば、いくらか人に会ったが口を利こうとしなかったな」

「そりゃ簡単だ。長いやつほどそうなる。話すことなんてない。ただその時が来るまで生きているだけだ」

「お前もいずれそうなるのか?」

「……冗談じゃねえ。って言いてえところだが、どうしようもねえ」

「なるほどな」

「命を削って命を買ってるんだ。命を買うのを辞めて、外に飛び出せば削る命が無くなる。これじゃどうしようもない。お前さんも覚悟はしておいた方がいいぜ」

「なるほど、よく分かった。あいつが命を使って脅してきたわけがな」

「……何の話だ?」

「ああ、気にしなくていい。こちらの話だ」

 

 布都は不思議だった。

 少し不快になっている自分が不思議だった。

 他人に、それも出会ったばかりの他人に情でも感じたのだろうか。不思議で堪らない。でもその前に。

 

「――お前何だ?」

 

 布都は男を蹴り飛ばした。

 男の形が崩れ、小さな蛇の集まりとなって周囲に散って行った。

 

「いやぁ、おみごと!」

 

 声の方向。横を見上げると、民家の屋根に諏訪子が座っていた。

 

「……不快な茶番だな。気分が悪い」

「そうだろ? えぇっと、物部布都だっけ? 想像の通りさ。蛇の集合体に術をかけたものだ」

「霊魂だけ本物でか?」

「そう。彼はちょうど昨日に元に還ったのさ。そこに私がちょちょいと細工をしたというわけだ」

「で、我にあんなものを見せたわけを聞こうか」

「……ひどいもんだろう?」

 

 諏訪子は顔をしかめていた。

 

「この地は元は私の地だったんだ。祟り神だなんていっても、祟ることしかしないわけじゃない。ちゃんと人に恩恵だって与える。言ったろ? 私は人が好きだって。でも、それがために負けたのさ。この地と私の神力を奪いに来たやつにさ。私が私だけのために戦えば負けはしなかったけれど、そうすればこの地は不浄の土地になってしまう。人なんてとても住めるものじゃなくなる」

 

 気づけば、諏訪子は地上に降りていて、目の前に立っていた。

 

「元のあいつは悪いやつじゃないって知ってはいるんだ。でも、今のあいつは復讐で眼が眩んでる。あいつの下についた私は従うしかない。あいつの目的が叶えば済むと思ったけれど、その前にこの地の人々が持たない。だから私は賭けた」

「物部にか?」

「そう」

「何故?」

「勘だよ」

「真面目に言っているのか?」

「真剣だよ。これ以上ないくらいに。全てをその勘に委ねたのさ」

「どこかで似た話を聞いたな」

「私も聞いてたよ。だからやっぱり私の理知より私の勘を信じようと思った」

「理知を信じればどうしていた?」

「もう一個の集団の方に交渉に行っていたかな? なんかすごく力を持ったやついるだろ?」

「今からでも遅くはないぞ?」

 

 諏訪子の言っているやつが誰だか分かると、笑いが込み上げてきた。

 

「っくく、神に頼られたとあれば、それはもう気持ちよく返事をするだろう」

「なるほど、そういうやつか。でも、もう遅いみたいでねぇ」

「それは残念だったなぁ」

「そうでもないさ。あいつが選んだってことは、私には合わなかったろうし」

「ん?」

 

 諦念を混じらせ諏訪子は笑い、呟く。

 

「……過去と遊ぶのは神のやることじゃない」

 

 悲しいことや辛いこと、たくさんあった。けれども、神が直接人間に干渉しすぎるのは神格を弱めることに繋がる。神格が弱まれば、他の神に下されることもあればその存在を保てなくなることにもつながる。

 それでも耐えきれなくなった想いが身を動かした。

 

「私はね、神も人も巻き込んで遊びたいんだ。もちろん皆笑いながら」

 

 失敗すればどうなるか。考えなくても分かる。

 

「神が祈るなんて馬鹿な話だろ? でも毎日祈った。川に神力を流して吉兆を見た。そしていつも変わりがなかった流れに揺れが出来た。その揺れがどういうものかははっきりと分からないけれど、私の勘はそこに賭けるべきだと言った。だから私は動いている。私は勘に従っているのさ」

 

 眉をわずかに寄せ聞いている布都。

 諏訪子はじっくり見る。

 

「上手く隠しているけど、秘めた力は相当。私の勘は良い方向にあると思ったね」

「我より上のやつもいたんじゃないか?」

「……そう。だから正直勘が外れたのかと危惧したよ。でも今なら大丈夫。賭けられる」

「理由が分からん」

「簡単さ。こいつに賭けたのなら失敗しても仕様がないと思えたからさ」

「失敗してはいかんだろう」

「至極その通り。でもそこが重要なのさ。失敗することを考えていては成功しない。余計な思考はいらない。理屈が出てくる場面じゃない。失敗した時の覚悟はすでに終わらせた。あとは全力で事に当たるだけ」

 

 雰囲気は軽くとも、言葉は重い。

 

「その全力があの不快な真似か?」

「それも一環。輪の外にいるからちょっと不安になってね」

「お前の願い通りに動いてくれるかと?」

「平たく言えばそうなる」

「言わないと?」

「動きを縛るつもりはない。むしろ存分に動いてくれていい。けれど方向だけはある程度同じところを見ていて欲しかったんだ」

 

 改まる諏訪子。

 布都は存念を素直に言うことにした。

 

「別にお前と敵対しようとは思ってはいない。これから別な事情でも入らなければであるが」

「ああ、それでいいよ」

「一応改めて聞いておくが、お前の目的は復讐だったか?」

「そう。すごく簡単に言った形だけどね。もう少し言葉を足すなら、あいつの復讐の阻止」

「つまりこういうわけだ」

 

 諏訪子の言動と、この地の現状。

 

「この地の民を使って何かしようとしているのを止めたい、――そういうことだな?」

「うん、当たり。あいつの計画通りにいけば、この地の民は持たない。怨恨を集めて神具に封入して武器にするのが計画。その怨恨のためにこの地の民は苦しまされている。そのために生かされている。で、その怨恨を操れるのは私だけというわけ」

「で、あれこれと迷っているうちにこうなったと?」

「……始めはただの信仰合戦。でもそれじゃ土着神には勝てない。だからあいつはあいつを信仰しなければ生きられないようにしたのさ。妖怪を使ってね」

「生死による恐怖か」

「ま、そんな感じで、徐々に押され、最後は力押しさ」

 

 要は分野が違う。神と言うのは漠然と神ではなく、何かしらを司る神である。諏訪子は土着神、もしくは祟り神。そんな諏訪子の攻撃手段といえば祟ることであるが、相手が神であれば如何ほどの効果があるか。しかし、土着神として強く信仰され多くの神を従えている諏訪子はこの地ではまさしく最上位の力を持っていた。その気になれば神さえも祟り滅してしまえるくらいの。しかし、それほどの力を祟りとして現世に出してしまえば、辺りはとても人の住める地ではなくなる。それは本意ではない。結果、諏訪子は畑違いの戦いをするしかなく、結果敗れた。

 諏訪子はため息を吐いた。

 

「前に会った時はもっと大らかというか、気が大きいけど気さくなやつだったんだ。だから油断してたというのもある。どこか様子が違うあいつのことを、ちゃんと考えなかったのが失敗の要因だった。……でもまだ失敗出来る。最後の一回が残っている」

 

 えらく重いこと。

 

「物部にとってはえらく鬱陶しい話だ」

「似た物同士ってところだろ?」

「馬鹿言え。失敗出来る回数がわずかに違う」

「それは失礼――」

 

 話はそこで途切れることになった。

 布都も諏訪子も空を見上げた。

 

「そろそろだね」

「……物騒な空だ」

 

 天がうごめいていた。

 

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 

 不穏な空も、不浄な空も、同じく空。

 空だけはずっと続いている。

 上を見上げてみれば、見えるものは空のはず。

 布都は目を険しくした。

 後発組がたどり着いたらしい。それに合わせて空が変わり空気が変わった。何かが起こる。

 見上げた空の違いに気づけるのは一体どれだけか。

 

「これが神というやつか」

 

 天候を変えるとかいう次元の話ではない。

 性質そのものが変えられたような変わりよう。

 

「それだけあいつも本気だってことさ」

 

 常人には見えない力の渦が、空に蓋をしたように覆っている。その力が集まる中心に何かがいる。それが何かは考えずとも分かる。

 

「あとは事を起こして、あそこに流れる力が増やすだけというわけか」

「その通り。それで一時的にあいつは強大な力を得る」

「一時的に、か」

「そう。所詮入れ物には合わない力だ。抑え留めておき続けるのは無理がある。だから入れ物を用意して、それに移す。あとはそれを使って復讐するっていうのが、あいつの計画」

 

 ぼやかされると、聞きたくなるもの。

 

「その入れ物とやらは用意出来たのか?」

「ああ、多分ね」

「多分?」

「私にははっきりとは分かっていない。あいつの方が詳しいしね」

「ずいぶんといい加減なことだな」

「やるのはあいつだ。私は所詮ちっぽけな土着神さ」

「ふぅん」

 

 まだある。

 

「それで、結局どうするつもりだ?」

「私かい?」

「それもだが、その計画とやらもだ」

「簡単な話さ。人と人を争わせて、怨恨を加速させる」

「争うもなにも、ここのやつら無気力すぎるであろう」

「誤算だったろうね。人という者を理解していなさすぎたんだろう。ただ生きているだけじゃ、人間に活力は湧かない。存在することそれ自体に意味を持つ神とは違う」

「じゃあどうするつもりだ」

「もう想像はついてるんじゃないかい?」

 

 布都は睨んだ。

 

「お前――」

「おっと、やめてくれよ。私は嘘は言っていない」

 

 布都は諏訪子の言葉を思い出した。「私からは君たちを害することはない」という言葉を。

 

「……誘導はすでに済ませたというわけか?」

「嫌だな、私は手足の一部のように動いただけだよ。他にもいるって」

「それに加担するようなやつは、よほど性根が悪いな。裏でこそこそと、自分は直接手を下さずに人だけを動かすらしい」

「待ってくれよ、私が直接どうこうするわけにもいかないだろう? 私は私の出来る範囲で全力をしているだけだよ」

 

 嘘はなくとも、やはり意地が悪い。

 

「蛇のように長い舌のわけが分かった気がする。器用に包んでしまえるのだろうな」

「おいおい、一体何だって言うんだ。所属感が強い人間にはとても見えなかったのに、どうしてそんなに当たってくるのさ」

「知るかよ」

 

 布都はふてくされた。

 そんな疑問は自分の中でもあった。その違和より、不快が勝った。

 

 ――余計なことを。

 

 そう思った時、布都は不快の訳を理解した。

 物部と蘇我。その争いを、どこからか出しゃばってきた神が自分たちのいざこざで余計な手を出してきた。

 

 ――気にくわない。

 

 どちらにも情のようなものがないわけではない。でも、争っている以上はどうしても勝ち負けは出る。それはそれで仕方がないものだと思っている。でもだからこそ、その結果をよそ者がちょっかい出してきたのが気にくわない。

 人と人とが、その知性と情熱を傾けて競い争っているところに、神が自分たちの都合で邪魔をしてくる。例え勝敗の結果が変わらなかったとしても、不快感は拭えない。

 布都は自分の言ったことを思い出した。

 協力するかどうかの時、「気が向かなければ、我だけでも去る」と言ったことを。

 

 ――去ってやろうか。

 

 それも悪くないと思える。

 ただその時は間違えなく、形成は蘇我に一気に傾く。

 そこには神子がいる。そして邪仙がついている。

 いくら物部が精強であると言っても、この場ではかなりの不利を被る。

 

 ――駄目だ。

 

「……結局は、我も個を押し通すことが出来ないのか」

 

 そもそも個とは、他の個がないと区別出来ない。集団がないといけない。生物が自分しかいないのであれば、個という概念を感じることも出来ないかもしれない。人は人を感ぜずには、連帯感も疎外感も感じることが出来ない。個を強く感じたければ、集団を意識するのが一番。そしてその集団の滅びを見ることを喜べそうにはない。それがどちらとしても。

 

「少し、修正がいるようだ」

「ん?」

 

 酔った様に、その場を最大限楽しむのが良いと思った。でも今ではそれだけでは不足があると思った。少なくとも、人が人として生きるには足りない。

 

「結末に納得してやる」

 

 それが例えどんなものでも。

 

「そうやって我は我を通して見せよう」

 

 答えは更新されていくもの。

 だから今はこれでいい。

 人が願いを持って全力で走るのなら、その結末がどんなものであれ納得するしかない。やり切ったのであれば、そうするしかない。叶うことを願わない限りはきっとそう。

 

「変えてやる――」

 

 布都は最後だけ吐き捨てた。



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第30話 理解

 呪いと願いはどう違うのだろうか。もしくは願いの一種なのだろうか。恨み辛みが意思を押し、呪いへと到る。手を合わせ、願おう。『世に幸あれ!』と。

 もう発端など誰も分からない。気にしている暇などない。ことが始まってしまえば、切っ掛けなどそう大事なことではなかった。ただ目の前の敵を撃ち払う。殺す。感情をぶつける。幸あれ。自分に、他人に。

 

 喧噪の声。

 怒声と悲鳴が飛び交っていた。

 

 ――どうしてこうなったのだろう。

 

 贄個は力を奮いながらも、脳裏ではそう思っていた。

 始まりは分からない。ただ、何かしらのいさかいがあった。知らせ受け、事を荒立てるのはまずいと急行したはず――。

 

「どうしてっ……」

 

 来るのなら、迎えなければならない。そうしないと仲間が死ぬ。だが、代わりに相手が死ぬ。例え自分が殺さなくても、仲間がとどめを刺す。

 夢は無残だった。理想は汚れた。

 戦うことでは決して得られない結果を求めた。

 独りでは立っていられないことは分かっていた。だから、同じ人間ならば手を結びあえると思った。少なくとも、妖怪を前にしては人間という一つの塊になれるのだからと。

 だが、結果はこれだ。

 上がる断末魔。地を濡らす鮮血。

 一帯の温度が上昇し、熱気を纏う。

 襲い来る鉄器。

 

「くそっ」

 

 やられるわけにはいかず、反撃。

 その度に人が死ぬ。

 伸ばした手は星どころか、月にさえ届かなかった。空を掻いただけの手は、人を殺すだけだった。

 見上げた空は禍々しく、とぐろを巻いていた。

 地に在る身体で、手をいくら伸ばそうと届くはずがなかった。声が空まで響くわけもなかった。天の意思は聞こえない。自分たち人間がアリの喧嘩を見ているように、天もまた同じように見ているのかもしれない。聞こえるはずがない。届くはずがない。

 世界は何一つ変わらない。自分の見えるところを世界と呼ぶ人間なら世界が変わる。でもいつかは気づかされる。我々とて天からすればアリに過ぎないということを。

 どれだけ力をつけようとも、どれだけ人の上に立とうとも、変わらない。

 空は地上から怨恨を吸い取っていた。

 

 ――どうすれば。

 

 解は簡単だった。争いを止めればいい。

 でも手段は無かった。声は届かない。

 最上の策とは、自然とそうなったように事が進むことをいうらしい。

 では自然とはなんだろうか。神だろうか。

 恨みを吸い取るのならば、神への恨みも吸い取ってもらいたい。

 この渦に飲まれるしかない罠に嵌めた全てに。――幸あらんことを。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 物部勢が押し、蘇我勢が押されている。

 

 ――旗色が悪い。

 

 熱が迫ってくる。

 

「お下がり下さい!」

 

 必死の形相でやってくる家人。

 なんだか人の尊厳なんてものを考えてみたくなる。

 人は誰だって自分が一番大切だろうと思う。そうでなくても、近しい人。家族や恋人、もしくは主。そういうものを上げるのではないだろうか。

 どれも大事などれも大切な、そんな人間たちがあっけなく倒れていく様を見ていると、価値とか尊厳とかそういうものを考えたくなる。

 昨日笑っていた顔が浮かぶ。声が浮かぶ。

 人と人とが争っているのに、この不条理感一体何なのだろうか。人とはこんなに簡単に動かなくなってしまうものなのか。物になってしまうものなのか。知識の上では至極簡単なことでも、現実でこうも見せられると自分が実のところでは何も知らなかったのだと、知ったつもりでいたことに気づかされる。

 だから、間違っていなかった。

 

 ――不老不死しかない。

 

 この唾棄すべき現実から離れるには、やはりそれしかない。

 

「お、皇子っ」

 

 抱きついてくる屠自古の頭を撫でる。

 

「私のそばにいれば心配はありません」

 

 ただ、これは一体どうしたものだろうか。物部の強さ、想定の倍どころではない。個々の能力が高すぎる。仮にも訓練を受け武器を持った兵たちが、ろくに抵抗もできずに倒れていく。組織的な動きが保てなくなってきた。旗色があまりにも悪すぎる。少なくとも、前にいるとはいえ、総大将である自分の眼前まで敵が来ているくらいには。

 

「っ皇子!! おさがり下さい! ここは持ちません!!」

 

 叫ぶ家人。

 

「くそ! 物部め!」

 

 恨みをぶつける家人。

 体勢としては受けの構え。現実は、構えではなく押されて凹んだにすぎない。

 

 ――このままではまずい。

 

 あまり前には出ないようにと言われていたが、この際仕方がなかった。

 

「落ち着きなさい! ――ここには私がいる!」

 

 屠自古を置き、前へ踏み出し、剣を抜く。

 次に次にと攻め寄ろうとしていた物部の兵を、抜き放った剣の放つ光彩だけで吹き飛ばす。

 

「そこの者」

 

 近くにいた家人に目配せをする。

 意味を理解した家人が屠自古を連れ、後ろへと下がっていく。

 

「敵は強い。まずはそれを理解しましょう。そしてこちらには私がいる。次にそれを理解しましょう」

 

 まだ期は熟していない。もう少し場が温まってから、颯爽と登場して注目を集めた方が良かった。まだあまり目立つなとも言われてもいる。だが、状況がそれを許さない。

 

「敵の頭を狙え! あいつだ!!」

 

 敵の声。

 明らかに注目を浴びる。

 頭を狙うのは常套手段。やはり効果的。

 

「しかし、ただの頭だと思ってもらっては困りますね。画期的で前衛的な素晴らしい頭です。見るも考えるも惚れ惚れするかのような――」

 

 言い切る前に、火球がいっぱい飛んでくる。

 やはり適切な判断だったらしい。これは他の者では到底対処不可能な攻撃。それがわざわざ集まってくれて対処が楽になった。

 

「残念ですが、まだ虫の羽音の方が勝る」

 

 鬱陶しいだけと暗に告げる。

 剣を収め、片手をつき出す。

 球体を広げるようなイメージで力を発すると、具現した光の膜が火球とぶつかり打ち消す。芸も仕込みもない。込められた霊力に差がありすぎるだけ。

 

「これで持ち直しました。さて――」

 

 結局人を動かすのは気である。

 

「おおっ」

 

 蘇我陣営は今の攻防の間で、完全に組織として復活した。

 

「来るなら構いませんが、次は攻撃します――」

 

 行動の果ては補填不可能な代償。すなわち死。双方にそれが強く伝わり、簡単に手を出せない状況が生まれる。

 膠着。

 

「まずは一旦戦いを止めませんか? やるならここではないと思いますが?」

 

 その問いかけには、神子が思ったより早く応えがあった。

 飛び上がりたくなった程の感情を抑え、贄個は言う。

 

「――賛成する。我らも本意ではない」

「どうも」

 

 神子は微笑んだ。

 地上はこれでいい。

 空を睨み、神を想う。

 

 ――馬鹿め。

 

 思わず、どっかのおっかない母を思い出すようなそんな笑い方に変じてしまう。

 

 ――使えると思ったか。この私を。

 

 人間を争わせて怨恨を生ませようなどと、雑な計画を立てたものだ。協力する見返りが、命の保証と神の加護による物部への勝利? ふざけてる。我々のことを何一つ理解していない。これを裏切りだと思うなら勝手にするがいい。少し賢くなったねと大いに馬鹿にしてやる。

 人は人のために生きていて、神のためには生きていない。神のために祈りを捧げても、神の啓示に従っても、人は人としか生きられない。人は人のために生きている。人形にはなり切れない。人形にすらなれなかった結果が、ここに住む無気力な人間たちだ。

 

「我々の生き方は我々で決める。上が勝手にごちゃごちゃと口を出すものではない!」

 

 再び剣を抜き放ち、頭上に座する大渦の空に剣戟を放つ。

 

「天を解せないのならば、神に代わって私が天に寄り添おう――」

 

 渦は破られ、散り散りに。

 怨恨と言う名の計画が、その形を保てずに地上に降り注いだ。

 太陽の光が地上へと伸びてきた。

 

「――愚か者」

 

 空が震えた。

 伝搬するように空気が震え、地が震え。心が揺れた。

 

「ヒトが私の邪魔をするか」

 

 空に複数の影。

 大きなそれ。地上に降ってきている。

 

「煩わしい。ヒトはヒトと遊んでおれば良いものを」

 

 影。いや、大きな柱。

 

「天網恢恢疎にして漏らさず。――報いを受けよ」

 

 柱は各地に円周上に降り注いだ。

 船が岩礁に乗り上げたかのような揺れが地上で起こる。

 力の高まり。

 柱と柱で結ばれた結界が出現。

 

「生きて出られると思うな。帰るところに還してやろう」

 

 顕現。

 声の主が姿を現す。

 雲が裂かれ、光が漏れる。差した光から、ゆっくり降りてくる。

 赤と青の服に、紫がかった青の髪。背には謎の輪。遠くて表情までは分からないが、醸し出す雰囲気は剣呑そのもの。

 

「まずはお前からだな」

 

 目が合った、そんな気がした。

 

「我は八坂加奈子。またの名をタケミナカタ。――神への裏切りの代償は大きいと知れ」

 

 名乗りよりも、後半の言葉のほうに。

 

 ――何を言うか。

 

 神子は侮蔑の面を作って見せた。

 同じところに立っていすらしないのに、裏切りとは何か。始めから利用するだけだったはずだろう。

 

「初めから協調関係ですらなかったというのに、厚かましいことで。ああ、もしやどこぞ邪仙の言いくるめられたのでしょうか? だとすれば、お笑いものです」

「――愚弄するか」

「いえ、現象について論じただけですよ」

 

 馬鹿は言われなければ気づかない。馬鹿は自分の無知を容認出来ない。何という素晴らしき馬鹿の輪廻。ぐるりと回る終わりなき輪。背負っているのが馬鹿の輪とはお笑いでしかない。

 

「背中の感性について語りたいところですが、今の私は少し忙しい」

 

 この場で、この状況で、主犯である神に向かって言う言葉は簡単だった。

 

「邪魔者はさっさと退場してもらいましょう」

 

 神子は、我ながら性格が悪くなったと内で愚痴りながら、その全ての責を師と義母に押し付けることにした。

 

「理を解せない神に、神たる資格なし。さっさと落ちて頭を垂れるがいい」

 

 ここは神地ならぬ人地。

 

 ――神遊びがしたいのなら、よそでやるがいい。

 

 笑みが深まる。

 そして気づく。

 

「なるほど。決めるのは地位でも力でもなく、意思のようですね。何だかわくわくしてきました」

 

 下にいる者から愚弄されたとあれば、毛穴から怒りが吹き散らすかのような想いをするのは無理もないことかもしれない。

 八坂加奈子と名乗った神は、威厳を保ちつつも抑えきれない怒りを放っていた。

 

「――望みを叶えてやろう」

 

 訳すると、殺す。

 だが神子は笑みを解かない。

 

「ならばさっさと退場なされるといい」

 

 意に介してやらなかった。望みというのなら、『どっか行け』である。

 これでもかと馬鹿にしてやりたい。そんな思いが神子の中に湧く。あのおっかない義母だったら、何と言っただろうか。そんなことまで考える。

 しかしそんな余裕はない。

 神を舐めているわけなど決してない。

 むしろ自分より力を持った存在だとはっきりと認識している。そう、だからこその挑発。相手を知るため、そしてちょっと楽しい。ああ、なんだかあの人が少しづつ分かってきた気がする。結局のところ、楽しいのだ。自分の方が上だと確信している相手を煽り憤慨させ、翻弄する。

 

「おや、何もしないのですか? ひょっとして神というのは、偉そうにする以外に出来ることがないのでしょうか? こんなものを崇拝している者は頭がどうかしているようで」

 

 嘲り嗤う。

 それで相手がどういう性質の者かが分かってくる。

 怒るか、流すか、もしくはそのどれでもないか。

 ハッタリとかそういうものじゃない。ただ相手を知ろうとするだけのもの。それに少しの楽しみを加えただけ。今なら分かる。戦いとはどういうものかを。

 だからこうしよう――。

 

「――天道は我にあり! 俗物はさっさとそこを退くが良い!」

 

 上空の一切のものを押しのけ、自分に光を差させる。

 この場の主役が自分であると示すように。

 この世で一番輝き、その先もずっと輝き続ける存在。

 

 ――それこそが私。

 

 その他は脇に溢れる演出に過ぎない。気に喰わぬのであれば、同じ舞台に立つしかない。入り口はいつだって歓迎一色。もちろん出口も同様。

 

「――俗物はお前だ。ニンゲン」

 

 耳の触りが良くない言葉。嫌な予感がする。

 

「言葉を持ちえたことで勘違いしてしまったのか、それとも見苦しい勇気か。どちらにしても、過ぎたことだ」

 

 思わず力が入る。

 この神とやらは何一つ理解出来なかったらしい。

 もう少し加えてやろう。

 

「そうやって空に浮かんでないと、不安で仕方ないですか? 見下ろしていないと、自我すら保てないですか?」

 

 引きずり下ろす必要もない。

 その滑稽な様を自覚させるだけでいい。

 

「頭の悪い者ほど高いところが好きだと、どこかで読んだ気がします。今考えてみると、なるほどそのようで――」

 

 言葉の途中、風が起こる。

 

「――分際を知れ」

 

 奥で蠢きがあった。

 




次話は7日以内に出します


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第31話 響き

 奥の轟きは、地響きを奏でた。

 風の音。

 大きく、強い。

 風は地表をまくり上げ、木々や砂や生き物全てを吸収し大波のように寄ってくる。

 自然の前では、人と植物も土砂も区別されない。

 神が自然の権化であるならば、その行いもまたそうのようで。

 神子は少し首を傾ける。

 

「なるほど、やはり神とは人間を理解しないものであるらしい」

 

 神は知らない。人がいかに自然と向き合ってきたかを。無情な様を何度も目の辺りにしても、それでもと前を向き足を進めてきたかを。川の流れを操作し、堤防を作り、またそれらを壊されようとも何度も挑戦してきた。

 

「ただ流されゆく小石のような存在と思うな」

 

 神子から霊力がほとばしる。

 天にも届くような絶大さ。

 

「――救世の道はここから開かん」

 

 剣が高らかに掲げられ、溢れていたそれに集束される。

 

「人を知るといい」

 

 波と化した風を斬ろうと構えた、ところ――。

 背後の気配が動いた。

 

「力の見せ所だ! 気を抜くなよ!」

 

 複数の人影が前に出てきた。

 それは、今、戦っていたばかりの物部の術士たち。

 

「これは物部と蘇我ではない、人間と神そうだろう?」

 

 振り返りながら言う男。

 神子は然りと頷いた。

 妖怪の前では組織の枠が無くなり人間という種になるように、神の前でもそうだったらしい。

 

「享けうる害も利も、ことごとく受け入れれなければいけない時は終わった。今ここで人が神から独立し、己が足で立ったことを証明してみせよう!」

 

 迫る風に対し、突如現れた大きな壁が立ちはだかった。

 物部の術士が作り上げたその壁は、明らかに強い意思と共に熟練された技を感じさせるものだった。即座に強大な壁を出現させれる技量を見れば、周りの蘇我の兵たちも、今まで手加減をされていたことに気づく。

 ゆるやかに下がっていた敵愾心が、さらに加速して下がった。

 この行為をもって、仲間意識が人と神とで完全に分かれる。

 

「――信仰とは何か」

 

 神子は目前まで迫って来た風を前にして、小さく言う。

 

「神とは人とは」

 

 風は強大なれど壁もまた強大。

 暴風の響きが地を揺らそうとも、人の心までは揺らせなかった。

 

「答えは、そう」

 

 風と壁がぶつかる。

 音が増し、壁の端の方から風が舞い込む。

 決して軽いものではない。

 けれども、人々は前を向き続けた。

 

「ただの意思に過ぎない」

 

 風は霧散した。

 同時に壁も解かれる。

 辺りの興奮も前に、神子はすでに前傾姿勢をとっていた。

 踏み込み、地を蹴る。

 眼前。

 一閃。

 剣戟は光の線となり、神を通過した。

 さらに一閃。

 斬られた断面が白い筋として現れた。

 神から憤怒の表情が出る。

 

「邪魔をするかニンゲン!」

 

 叫ぶ神。

 神子は目を細めた。

 

「おや、ようやくそれっぽい感情が見れましたね。初めからそうしていれば、愛嬌があったと思いますよ」

「これは依り代にすぎぬ。神はお前らと違って実体に縛られることはない!」

「もしや中身がないから、そのように弱いので?」

「弄るか」

「悔しいのであれば、もう一度やってみますか? しかし私も暇ではないので、その前に斬らせてもらいますが」

「ニンゲンっ」

 

 憤怒に苦味が混じる。

 

「依り代と言ったわりには、効果があったようで。ああ、そういえば弱っていたのですっけ? ――敗れて、逃げて」

 

 人の気にしているところを突く。

 師は優秀だった。人を感情を逆なでにすることに関しては優秀過ぎると言ってもいいほど。もう一人もそう。およそ悪癖としてしか認められないことであったけれど、実際に試してみると何とも気分の良い事であった。

 

「さてどうします? 何やらもう私の勝ちのようですが」

 

 さらに挑発を重ねてみると、ふと憤怒の表情が引っ込んだ。

 教えてくれていないこともあったらしい。

 急に我に返ったかのような変化。

 何事だろうか。

 分からない。

 神の口がゆっくりと開かれる。

 

「……諏訪子。あれだ」

 

 固い表情。視線が横へ。

 そこには、少女がいた。

 

「それは最終手段だって、自分でも言ってただろ」

「今がそれだ。どのみちこのままでは――」

「知らないぞ」

「時はそう長くは待ってくれない。私が私として存在し続けるために、必要だ」

「だから言ったんだ。お前は焦りすぎだって。結局焦ったせいで、何もかも足りなくなったじゃないか。お前は馬鹿だよ、加奈子」

「そうかもしれない。だが、そうじゃないかもしれない。所詮自己を規定出来なくなった神なんて大したものじゃない。おかげで、いくらでも汚れられる」

「……忠告はしといたからな」

「ああ」

 

 不穏な会話。

 楽観視した覚えはなかったが、底冷えのするような何かを感じた。

 視線が戻る。

 

「――ということだ、人間諸君。もうごちゃごちゃとしたのは抜きだ。分かりやすくいこう。皆死ぬ。それでいい。ずいぶん分かりやすくなった」

 

 重たいのに軽い、軽いのに重たい。

 違和が重なっていく。

 

「皆と言いましたか? 残念ですが、他は知らずとも私は死にません。というか、神もそうでしょう」

「いや、死ぬ。お前らのとは少し意味が異なるだけだ。それを踏まえて、もう一度言おう。皆死ぬ。上手くいけば生きる。私か、お前たちか」

「話が見えませんね」

「言葉でなく現実で語ってもいいが、少し急だな。一度行ってしまうともう後戻りは出来ない上に、無い時間がさらに時間が無くなる。残っている時間を燃やすような行為なのさ」

「それをするということで?」

「そうだ。そして、どうあっても邪魔をするのだろう?」

「邪魔をしないとどうするのです?」

「死んでもらう」

「邪魔をすると?」

「死んでもらう」

「我々がどうすると思います?」

「死人はどうにも出来ない。ただの力の一部となったものに意思などは存在しない」

「では我々は生きましょう。過去の英雄。私だけはそう呼ばれないのです」

「望みは?」

「さて?」

 

 公然には出来ない。

 代わりに笑って見せる。

 

 ――不老不死。

 

 そんな言葉を隠して。

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 神を蝕む力。およそ適正頼りのそれは、加奈子の神としての属性とは合わないものだった。本来、神格の高い神ならばある程度なら耐えきるのだが、諏訪子のそれは特別。

 だからこそ加奈子は、諏訪子を下に付けようとしたし、成功もした。その代償に、残りの時間が大きく削られることにもなったが目的さえ果たせば全ては良しと出来た。

 だがそれは正真正銘の最期の手段だった。

 文字通りの最期。実行すればそれが最期。

 当初はそれに耐えうる道具を手に入れて、それに憑依させるつもりだった。だが、事が急変しそれも上手くいかなくなった。道具はまだ認識出来ておらず、人間の反意にも受けられない。保険で打った手も駄目だった様子。

 毒を食らわば皿まで。

 こうなればさらに怨恨を喰らって少しでも力を得るしかない。全ては目的を果たさんがために。

 

「――諏訪子」

「残念だよ」

「悪いな」

「まったくだ。せっかく色々考えてやってたのに、台無しだ。私の徒労をねぎらうには、一言じゃ足りないね」

「そう言うな。もう最期なんだ」

「ほんと馬鹿なやつ」

「そうだな」

「……はぁ。言っとくけど、私の勘はまだ死んじゃいないんだけどね」

「だがもう待ってられない」

「そーかよ。これだけ言って駄目なら、もう仕方がない」

「ああ」

 

 諏訪子はゆっくりとまばたきをした。

 

「――サヨナラ加奈子」

 

 地上から黒いモヤが湧き出す。

 触れるだけで身が汚れるようなそれは全て八坂加奈子に向かっていった。

 収まり切れず、溢れる。

 それは全盛期をも超える力、なれども時限付きの力。

 加奈子は想像を超えると充分に想像していたそれに叫んだ。

 苦悶。

 想像で補えるものではなかった。

 想像を超えるものを、いかに想像を超えるものとして想像したからといって想像し得るだろうか。加奈子は自身に集まった力を留めておくことすら困難だった。

 

「っぁ――」

 

 それは誰の声か。

 加奈子の身体から押し留めておけなかった力が、周囲に散った。力は怨恨。怨恨は帰るべきところに帰ろうと、ありもしない故郷を探し、たどり着いた。怨恨の元は――。

 

「っあ、ああっあ――」

 

 そこらじゅうから叫び声が上がる。

 生きたまま火で炙ったかのような断末魔。

 人から生まれたものは人に帰るらしい。

 加奈子から溢れ出したそれらは、周囲の人間無差別にやって来た。

 怨恨に包まれた人は叫び終わると、人の形を保ったまま、動かなくなった。

 

「ぉ、おい! 大丈夫か! 返事をしろ!」

 

 似たような声が辺りから上がる。

 返事はない。

 ただ、動かない。

 物部の人間から、思い当る者が出てきた。それは悪い予感。

 

「――っ近づくな! 絶対に!」

 

 それは例の戦闘が色濃く記憶に残っていた贄個だった。

 

「何もしなければ事は荒立たない!」

 

 樹海の戦闘。手を出すまで大人しかった異様の妖怪。

 贄個の中で繋がった。

 

「とにかく距離を離せ!!」

 

 それは悉く正解だった。

 

「――何故知っている」

 

 加奈子はようやく抑え留めることが出来て、周りを認識出来るようになってきた。しかしそうなると、何故か自分が諏訪子との戦闘により苦労したことを人間が既に学習済みかのように動いている。

 

「決して、決して、手を出すな!!!」

 

 贄個の叫びに、皆が従う。

 加奈子にすれば、驚くべきことだった。諏訪子の領を侵略しに来た時に、動物を掛け合わせ穢れを含ませたものは恐ろし手こずらされたものだった。手さえ出さなければ、何もないないなどと、どうして戦闘の最中に思い至るだろうか。しかし、それを人間がやっている。それも事前に知っていたかのように。

 

「たったの一回でも、攻撃に当たれば終わりだぞ!」

 

 知っているといっても、その度合いがある。明らかにこの人間は知りすぎている。

 

「――そうか、お前たちはすでに体験していたのか」

 

 理由は分からずとも、理解はした。しかしせっかくだ。活かさないにしてはもったいない。

 

「敵味方の判別付かない。そんなことも知っているのだろうな?」

 

 加奈子は怨恨に呑まれた人間たちに向かって、腕を振る。

 風の刃が飛び出し、巻き散る。

 それを起点として、動き出した。

 

「っぁあっぁあっあああああ――――」

 

 喉が限界を超えて響きを発する。

 この世の不吉の全てを詰め込んだかのような共鳴が、周囲で鳴り渡る。

 もうそこには意思はない。ただの反応だけ。与えられた衝撃を吐き出すだけのモノと化した。そのモノが周囲に当たり散らすように衝撃を発し、それに触れた別のモノがまたそれに反応し、衝撃を発する。

 

「これはっ」

 

 放って置いていいはずがない。しかし、どうするか。およそ人間が関わっていいものではない。だからといって逃げることが出来ようか。柱で円状に張られた結界が絶望を具現化したの壁のように感じられた。

 

 ――どうしたって逃れられない。

 

 そんな想いが周囲の人間に伝播する。

 が、その周囲には入らない人物がいた。

 首を傾げると、頭から伸びる二本の角が斜めに空を掻いた。浮かぶは不敵な笑み。吐き出すそれもまた同じ。

 

「道が一つに絞られたというのに、一体どこを向いているのです?」

 

 不思議な安心感、そして勇気があった。

 

「見る方向は皆同じでしょう?」

 

 指導者とは何か。英雄とは。偉人とは。

 

「下ではなく、前」

 

 人に道を、歩く方向を。

 

「迷ったのなら、私が指し示してあげましょう」

 

 剣が掲げられ、前へと向けられる。

 それだけで充分だった。

 沈みかけていた人たちは立ち直った。

 

 ――今この場で立たないでいるなんて、どうして出来ようか。

 

 突如友人が化け物なったとしても、自らの運命を予感させられても、ただ前を指し示されるだけで立つことが出来た。支えられたとしても、立ったのは間違いなく自分の足。前にふみ出すには充分だった。

 

「おおお――」

 

 喚声。

 影も光も全て吐き出した。

 身一つ、心一つ。

 

 ――皆と共にあらん。

 

 その先には、

 

「死ぬことは許しません。生きて私の雄姿を見るのです!」

 

 神子は気持ちよく駆けた。背中に心地よい圧を感じた。

 手始めにと、前方にいたソレに斬りかかる。

 緩慢なソレは、容易に神子の剣の侵入を許した。

 が、それだけだった。

 

 ――この、手応え。

 

 神子は理解した。

 もはや肉体は機能していない。まったく別のものが人体の形を取っているだけ。よって肉体の破壊は意味をなさない。浄化させきるように、消す以外にない。

 が、それにはあまりにも――。

 

「……手間のかかる」

 

 周りの数全てを相手していれば、霊力は尽き切るだろう。それどころか、足りるかどうかも怪しい。すぐに物部の術士を頼るのが最善の策であると覚ったが、問題はその後である。これらは明らかにあの加奈子という神が吐き出した余剰である。もし同じ原理で倒さなければならないのだとしたら、とてもじゃないが持たない。可能性があるとしたら、周りの全てを放って置いて、今ある全力で神に向かうしかない。

 

 ――策が……。

 

 もしここで神以外のものを無視すればどうなるか。全てが上手くいった時、名声はどうなるか。人は元凶より直接自分に近いの恐怖の方が優先される。誰だって自分に向いた凶刃から救ってくれた人間の方を重く見る。よってこの場合だと神を倒したとしても同程度であろう。神子にとってそれは事後処理の観点からすると避けたい。折半に持ち込みくらいじゃ足りない。どちらの戦闘にも自分が都合良く顔を出すしかないが、どうだろうか。それだと大前提の神に対抗出来るかどうかが怪しくなる。

 考えている時間はない。

 徐々に徐々に、安地は減っていく。

 後方はおそらく結界の壁ぎりぎりにいるだろう。

 前は敵の鬱陶しさに有効打は与えれない。

 物部勢が果敢に攻撃を開始するも、状況を打開するというほどではない。このまま何事もなくいけば、もしかしたら――なんてところだ。

 そんなことをあの神が許すはずがない。

 結局のところ、神を相手にしなければならない。

 

「嫌な立場だ」

 

 無事に帰れたとしても、蘇我馬子とかいう化け物に何を言われるのやらと考えると、ひどく億劫である。

 

 ――そう言えば。

 

 化け物といえば、もう一人。



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第32話 転回

遅れまして、遅れまして、申し訳……。


 押し殺した悲鳴。声を出すのさえも恐ろしい。自己の存在が一時的に無くなってしまえばと思えてくるような状況。しかし、現実そのようなことは起こらない。彼、彼女らの存在は確かに現実世界に在って、世界の物理法則の中にある。肉体は壊れるものだった。

 恐怖を感じる以外に許されるものが限りなく少なかった。悲惨だった。抵抗出来ない死がすぐそこにあった。戦うことが出来ない。ならば逃げるしかない。しかし結界がこれ以上先に行くことを妨げていた。逃げることが出来なければ、他に何が出来るというのか。

 神は区別しない。その神から吐き出された怨恨もまた同じく。

 怨恨は非戦闘員の集団にも飛んできた。

 逃げようにももうすでに結界の端。身を押そうが、人でつっかえるのみ。

 

 ――どうして。

 

 屠自古は呪うしかなかった。

 自分を抱えてここまで連れて来た人が――。

 

 ――どうしてっ。

 

 急に投げ飛ばされ、この身だけは助かった。

 振り返ると、人の形が崩れていく様が見えた。今の今まで自分を抱えてくれていた腕は黒く染みわたり、そこから気味の悪いぶよぶよとした芋虫のようなものが毛みたいに生え出てきた。妙な水音がすると、動き出した。

 身体が捻られ、続いて腕のそれが振り回される。

 屠自古はとっさにしゃがんだ。

 上から音と風が通過するのを感じると、背中の血液が後ろへ飛び出るような感覚がした。

 辺りを見渡すと、周りを見ると人が減っていた。

 

「ぁ」

 

 人は減っていない。

 減ったと思った人たちは、吸いついたようにバケモノから腕から伸びたそれにくっついていた。それは人をくっつけたまま上に掲げられていて、おそらくそのまま下に振り下ろすのだろうということが分かった。身がすくむ。自分だけ助かった罰かもしれない。もうたくさんだ。少しだけ生き長らえたせいでこんなに怖い思いをするのなら、もういっそ何も感じなくなる方が――。

 

「――お、ここにおったか。見つけるのに苦労した」

 

 気づけば目の前に影。

 すぐに分かった。

 揺れる灰銀の髪。ただ一人しか知らない。

 

「どうしてっ」

 

 直前まで何度も思ったことが、別の意図で口から出る。

 

「どうしてとはなんじゃ?」

 

 何事もなかったように首を傾げる布都。この場に似つかわしくなさ過ぎて、どう反応していいのか分からない。

 

「こう密度が高いと上手く探せんかったな。うむむ」

 

 どうしてアレに背を向けていられるのだろうか。屠自古は泣きそうになるくらいにわけが分からなかった。

 

「ん? ああ、あれが怖いのか」

 

 布都は首を後ろに向ける。

 

「まったく、危うく馬子殿にどやされるところだった。馬鹿め」

 

 布都の身体が向き直ると、待ち構えていたようにバケモノより触手が生えて針のように伸びてきた。布都がそれをそのまま素手で受け止めたその時、バケモノの全身が光が内から溢れて霧のように掻き消えた。

 

「は?」

「ほれ、助けてやったんだぞ。――感謝の言葉はまだなのか?」

「いや、そのっ――」

「なんと……、素直に礼も言えないとは我悲しい」

 

 とてつもなく下手な泣き真似を見せられる屠自古。

 まだ下手な真似は終わらない。

 

「およよよ。育て方が悪かったのであろうか、それとも元が恐ろしく残念だったのであろうか」

「おま、おまえっ」

 

 いきなり現れて助けられて驚いているうちに、気づけばもの凄い罵倒されている。

 感情が追いつかない。言いたいことなんて、いくらでもあったのに、そのどれもが今では出てこない。

 

「い、今までどこにっ」

 

 やっと出てきた言葉はそれだった。そんなこと聞いたところでどうにもならないことは、言ってすぐに分かった。それに自分から聞いたのに、その答えも理由も聞きたくなかった。

 

「『どこ』と言われると、そうだな。……どこであろうか? 実のところ我にもよく分かっていない。行き着くところが分かっているようなそんな生き方もしてみたかったのかもしれんと、今更に思うところである」

「一体何を」

「っと、これはいかん。関係のない話をした。――というわけで、こういうのはどうであろう?」

 

 にやりと笑い、

 

「どこかと問われると答えづらいが、今はここにいる。うむ、どうであろう?」

 

 納得のいく答えが出来たといった表情の布都に、一発ぶちこんでやりたくなった。今はここにいても次にはいなくなってるかもしれないのに。やっぱり何も分かっていない。

 

「待つのは嫌いだ」

「では走って追いかけてみるか? それともぴょんと飛んでしまうか?」

「追いつけなければどうする」

「知るかよ」

「は?」

「待つのが嫌なのだろう? なら追いつくかどうかなんて関係あるまい」

 

 話の本質が分からないまま、乗ってみたが、何だか話が進みすぎてる。

 

「それに生憎我は追いつかなかったことがない。そら、行くぞ」

「え、どこに――」

 

 布都との距離が近づく。

 

「待つのが嫌なのだろう? なら迷う必要も探す必要もあるまい」

 

 不敵な笑い。

 

「あの素敵頭の計画はめでたくご破算よ。我がちょっと良いところ見せてやろうと思っただけで全てを掻っ攫われるのだ」

 

 手が伸びてきて、

 

「目印は非常に見やすい。天にそびえる変な頭である」

 

 一気に引き寄せられる。怪し気だけど柔らかな香の匂いがした。

 

「――空を行く我に障害はないのだ!」

 

 片手で引き上げられ、足が宙に浮いたと思うと、すでに空にいた。

 

「え、う、ちょっ」

「落ちたところで死にはせん」

 

 それはお前だけだろうと言いたくなったが、恐怖で口に出来ない。

 感じる風がどんどん強くなっていく。

 目を開けているのも怖くて、掴まることしか出来なかった。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

 見えないけれど、聞こえる。

 風音に他の音が混じっていく。

 人の声や物音。木を切り倒したような音が、まるで地面を叩いているかのようにそこら中で起こる。

 

「――やぁ、生きておるか?」

 

 風が止み、布都が喋ったことで、屠自古は目を開けた。

 布都の白い衣服が見え、そこから視線を伸ばすと、その光景が見れた。黒い鞭のようなものが地面をどんどんと叩いていたり、人がそれに対抗している様子が。

 屠自古が神子は無事だろうかと心配した時、

 

「見ての通りですが?」

 

 その声がして、

 

「っえ!?」

 

 目が合った。

 しかし、すぐに逸らされ。

 

「……どういうつもりです?」

「安全な所へ連れて来たのだが?」

 

 二人で話し始めた。

 

「ここが安全に見えると?」

「言葉を変えると、マシなところへ連れて来た」

「……そういうことですか」

 

 この場で安全な地などない。ならば一番マシな所はどこか。それは守る意思がある人間で、かつ力を持っている者のそば。

 

「で、貴方はどうするつもりで?」

「わざわざ聞くのか?」

「楽しそうだったので」

「つまらないものを楽しもうとする勤勉さと謙虚さを身に着けようと思ってだな?」

「ならさっさと諦めることをおすすめしますよ。それは無駄というものです」

「ちょっと見ないうちに口が悪くなったな。舌の上で毒でも転がして舐めてるのか?」

「たいへん美味ですよ? 舐めてみます? 口移しでもいいですよ?」

「阿呆め」

 

 噛み切られたいのか。言外にそう言う布都の表情は、言葉に反して楽しそうだった。

 

「じゃあ――」

「うむ」

 

 遊びはそこそこ。やることはやらなければいけない。

 布都は、神子へと屠自古を押しやった。

 

「私のそばから離れないように」

 

 神子は片手で屠自古を抱き寄せ、もう片方の手で剣を持ち、前へ突き付けた。

 

「――道は光が通った軌跡」

 

 もう神子は神の対処を布都に任せた。よって力の配分をする必要がなくなる。

 

「影は退くがいい」

 

 剣から発せられた光はその一切を押しどけ、放射状に広がっていった。

 周囲に極光が走り渡り、怨恨のバケモノは大きく打撃を受けたようにのけ反った。

 布都はその間を駆け走り、神へと向かう。

 事態が動いたと、周囲の人間は絶望の訪れを遅れさせるだけ時間が、本格的に変わっていくのを感じた。

 だが、それを感じたのは人間だけではなかった。

 

「――絶望の産み方を知っているか?」

 

 上空より見下ろしていた神から、黒いもやが溢れ出す。

 

「望みというのは順序通りに絶えさせると効果的だ」

 

 走り寄っていた布都に、もやが迫る。

 それが人をバケモノへと変異させたものであると、皆すぐに分かった。

 布都は避けない。

 

 ――全てに通じる術などない。

 

 そのまま突っ切った。

 

「っ」

 

 神をも含めた周囲の驚愕は無視。布都はただ神を見ていた。

 手を握りしめ、霊力を練り上げる。

 

「やはり火がいい」

 

 拳に火が宿る。

 投げつける。

 火は神にまで到達すると、火柱となって周囲を焼いた。

 正確には火は神を除いたその空間のみを焼いた。熱は神には届かなかった。保有している力が違い過ぎる。今では、先ほどの神子の斬撃でも傷をつけられるか怪しい程に、神の中では力が充溢していた。それこそ抑えきれずに吐き出してしまうくらいに。

 

「うぅむ」

 

 布都は首をひねった。

 周囲の人間も、それが攻撃に値すらしなかったことに気づいた。

 だが布都にはそんなことはどうでもよかった。

 気がかりを口に出す。

 

「何か反応しないのか? これじゃつまらんぞ」

 

 そんな布都を、神は無表情で見つめている。

 

「……何か言ったらどうだ?」

 

 それの返答もない。一体何なんだと言いたくなったが、返事がない以上はかける言葉もない。

 口は利けるはずだった。さっきまで喋っていたわけであるし、布都には理由が分からない。

 結論から言うと、慣れから生じる思考の偏りであった。

 布都がどうしたものかと考え出したところで、神が口を開く。

 

「――お前は何だ?」

 

 問われた布都は、

 

「何だかよく聞かれる気がするな。いつも思うのだが、そういうのは口で説明出来るものなのか? もっと言うと、神に分からないものがただの人に答えられるものなのか?」

 

 逆に聞き返した。

 

「それはお前がただの人ではなく、理より外れた存在だからだ」

「……確かに我は気づいたときから仲間外れだったが、いつの間にか理からも断りを入れられていたとは思わなんだな」

「言葉遊びが好きなようだ」

「好かんのか?」

「非生産的だ。何も産まない」

「娯楽を産んでいるだろう」

「そんなものは仮初めの享楽に過ぎない。真なるものは人間には分からんだろうな」

「これはこれは、よもや風流を理解しておらぬとは。風が肌を撫で、水音が耳を潤わす。そんな楽しみを知らんのか? 風の神と聞いたが、それは偽りであったか? まぁ、実に信用にならない情報源ではあったが」

「――何だと?」

 

 段々と感情を見せ出す神、加奈子に、布都は気分が良くなってくる。

 

「――ああ、そういえば随分とゆっくりとしてるじゃないか、急ぐんじゃないのか?」

「急いで欲しいのか?」

「なるほど、急げなかったわけか」

「何故そう思った」

「適当に予想を言っただけだが?」

 

 にまにまと勝ち誇った顔をする布都。加奈子の目に熱が生まれる。

 

「どうやら当たりだったようで何より。どうせ抑えるのに手一杯で馴染むのに時間がかかるのだろう? ろくに人間を知らないやつがそんな力を得るからそうなる」

「お前は――」

 

 布都の言い草に、加奈子は自身の疑問に一つの答えが出た。

 

「あれを避けたのでも弾いたのでもなく、取り込んだというのか」

 

 答えとばかりに、布都の中身のない袖が盛り上がる。

 

「種も仕掛けもあるが、そのどれもよく知らん」

 

 袖の先から黒いもやが溢れ出す。明らかに受けた量を上回っていた。

 

「さて、満腹なところ悪いがおかわりはどうだろうか? きっと美味いぞ」

 

 布都の放ったもやが加奈子に襲いかかる。

 

「っ――」

 

 避ける加奈子。

 

「遠慮することはない」

 

 さらに放つ布都。

 

「元は欲しかったものだろう? 何を避ける必要がある」

 

 布都も動いた。

 加奈子の避けた先。

 始めから知っていたように、そこへ向かっていた。

 

「物語の終わりなんてものはあっけないものだ」

 

 一瞬の煌めき。

 フツ。淡泊な音。張り詰めた糸を切ったような、そんな音。

 光を斬ったかのよう。周囲にいた者すべては、瞬きにも似た一瞬の暗転、そして光を見た。灰銀の輝き。

 そして皆が気づいた時、神は落下していて、布都は剣を抜いていた。

 剣は淡くくすんだ雪色の光を放っていた。

 

「猶予なくやってくる断絶には、感情が追いつかないものだ」

 

 落下する神は二つに割れていた。断面から怨恨が勢いよく吹きだしている。

 布都は見下ろしながら、剣を腰に戻した。

 知っていたが故に気づいた者が、その名を言った。

 

「――布都御魂剣」

 

 物部守屋の声だった。



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