とある昭和の學園都市 (臓物ちゃん)
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大正十二年九月一日。

 

残暑の蒸し暑さが残り、早朝の驟雨も止んだ午前十一時五十八分。東京都八王子市を震源としたマグニチュード七・九の直下型大地震が関東一円を襲った。激烈な揺れは大地を波打たせ、人々は立っているのも儘ならなかった。

後に言う「関東大震災」である。

 

這う這うの体で逃げ出した人々を、容赦ない火災が襲った。軍本所被服廠跡地の惨劇は有名で、木造建築が多かったこの時代、火災は拡大しながら火災旋風をなし、避難場所であった跡地に逃げ延びていた人々は、息する間もなく灰塵になりながら巻き上げられた。

 

特に被害が著しかったのは震源付近の東京西部近辺であった。山々は崩壊し、雪崩落ちた土石流が家屋を押しつぶした、道という道は壊滅し、救援もままならぬ状況となった。火災は山火事になって何もかもを焼き尽くし、男も女も子供も踏みにじられ、川に逃れた人々は次々と押し寄せる群衆に押し潰されて皆溺死した。

 

最終的な全壊約十三万戸、全焼約四十五万戸、死者・行方不明者は約十四万人に及んだ。まさに未曾有の大被害と言ってよい。

 

震災の後も悲劇は続いた。大杉栄虐殺や亀戸事件、流言による朝鮮人の殺害は言うに及ばず、戦後恐慌に追い討ちをかけた震災不況が発生し、この打撃は後に昭和金融恐慌に繋がることになる。

 

斯様な人災を含め、帝都はもはや曠野と同義語になり、八万人以上の避難民が溢れかえった。帝都の復興こそが帝国の急務となり、時の山本権兵衛内閣は「帝都復興審議会」を設立。内相兼帝都復興院総裁・後藤新平を中心として全力で復興に取り組んだ。江戸時代以来の帝都の大改革を遂行し、復興と共に道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。

 

しかし、復興院が頭を悩ませたのは震源に近い東京西部の壊滅的被害である。どこが道だったのかさえ解らぬ有様で、夜になれば瓦礫に埋もれた人々の呻き声が辺り一帯に反響した。ここ一体は原生林や畑作地帯が多く、御一新以降も開発の進んでいない土地でもあったため、どのように復興すべきかどうかの目処も立っていない状態であった。

 

そんな折、一人の異人が災害さめやらぬ帝都を訪れ、ある計劃を持ちかけてからというものの、この被災地は「内地満州」と呼ばれる程の数奇な運命を辿ることになる。その計劃とは即ち、東京西部全域にひとつの巨大な街をつくり、日本全土のあらゆる教育機関・研究組織を集結させて、科学発展に邁進する一大完全独立教育研究機関を設立せんとする奇想天外な復興案であった。

 

何故このような妄言の如き立案を政府が承認したのかは、大正最大のミステリーとして後世でも研究が続けられているが、詳しい経緯は解らぬままである。しかし一説によれば、八紘一宇を唱え戦前最大の新興宗教『国柱会』の総帥を務めていた宗教家・田中智學が陰で動いていたと言われており、故にその研究機関も、智學の「學」の一文字をとって「學園都市」と名付けられたのだというのがその説の根拠なのだが、それは空想に過ぎるというものであろうか。

 

兎にも角にも、その案が復興院で採用されてから、僅か五年後の昭和三年の辞典で『學園都市』が完成したというのだから、驚嘆の二文字以外に思いつく言葉がない。何しろそれは帝都復興記念章が制定された昭和五年よりも早いからである。

 

建設にあたっては、土地問題などで棚上げになっていた後藤新平の「帝都復興計画」が応用された。被害の甚大だった多摩地域を中心とする東京・神奈川・埼玉・山梨の土地をすべて国が買取り、自動車時代を見越した一〇〇㍍道路の建設やライフラインの共同溝化、当時としては珍しい以外の何者でもなかった風力発電用の風車の大量建設など順調にその形を整えていった。最終的には総面積が東京の三分の一を占める巨大な円楼都市が出来上がったのである。

 

しかし、問題は設立後である。學園都市における科学の邁進は凄まじいものがあった。国連調査団の報告によれば都市内の科学は外部より数十年は進んでおり、調査団の一因として學園都市を訪れたアインシュタイン博士は、その魔術に等しい最先端科学技術を見て「人間以外の何もかもが変わってしまっている」とコメントしたという。

 

學園都市は大日本帝国の有様を大きく変えた。いや、完全に変貌させた。他国と比べ物にならない科学技術は逐一軍部で応用され、軍事技術力は如何なる誇張もなく世界最高となった。學園都市から関東郡に提供された超能力者と駆動鎧は満州事変を容易に進め、中国の南京国民政府を壊滅にまで追い込んだ。その横暴な態度は各国の非難を浴びる事となり、昭和八年には大日本帝国は国際連盟を脱退するに至った。

學園都市という極東に花開いた異端の存在を中心として、世界各国の情勢は緊張を増し、世界大戦は一歩直前にまで迫っていた。

 

そして、昭和十年七月二〇日。関東大震災の発生と同じ土曜日。

 

そんな各国の思惑など露知らず、學園都市に住み「不可思議な右腕」を持つ、本作の主人公である中等学校五年生・上条当麻は、一人の耶蘇教の少女に出会うことになる。

 

 




小説を投稿するのは初めてですし、二次創作も初めてです。至らぬ部分もあるでしょうが何卒よろしくお願いいたします。


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第壹話  都市と都市 The_City_&_The_City

一九三五年。昭和十年。

満州国、大連埠頭。

 

 

「いいか、言葉だ」

 

体中に空いた無数の穴から血をだくだくと流す瀕死の男は少女の肩に手をかけ、最後の力を振り絞って言葉を伝えようとしていた。

 

「いいか、茵蒂克絲(インディ・クェァスー)、Dedicatus-545。言葉を忘れるな」

 

大連は港の都市である。三年前に蜃気楼の如く満州国が現れる前から、それこそ青丘古国の時代から、遼東半島の最南端に位置するこの地は港として栄えてきた。広大な水面を行き交う巨大な船舶たちが月明かりの下に浮び、満鉄が建設した鉄筋コンクリート製の倉庫が、うっすらと青白く光りながら防波堤に沿って整列している。

しかし倉庫たちの沈黙を、夜の静寂を打ち破るように、荒々しい靴音とけたたましい中国語の怒声、そして複数の銃声の反響が、喧騒が埠頭の一角に充満する。

そしてとある古びた倉庫の片隅の一室、樽や木箱の積まれた小さな部屋で、もうすぐ命の潰えるであろう男は、少女に最後の言葉を残そうとしている。

 

「たとえ私の存在すらも忘れても、己の言葉だけは決して忘れるな、克絲(クェァスー)よ。おまえだけが持つその言葉が、記憶の氾濫からも記憶の障害からも、おまえを守ってくれるはずだ」

 

少女は頷く。何度も何度も、涙と鼻水を垂らしながら泣き声を必死に堪えて、埃まみれの顔で頷き続ける。

男は少女の肩から手を離すと、震える手で懐から、辛うじて血に汚れていない紙を取り出し、少女に渡す。

 

「日本に、北一輝(ベイ・イーフゥイ)という男がいる。私は、南京で彼に会い、彼と一緒に戦った。船で、彼の元へ行け。彼とその養子が、おまえを、守ってくれるはずだ」

 

少女は小さな手で紙を握り締める。もう涙は流しておらず、鼻水をすすりながら、最後に力強い意思を瞳に湛えつつ頷いてみせた。

行け、と男が絶え絶えに声を搾り出す。少女は壁に空いた僅かな隙間に身をくぐらせ、一路船を目指す。駆け足の音は徐々に小さく、遠くなっていく。

その音を聞きながら男は満足そうに笑い、吐血する。胸を抑えても溢れる血を止められない。出血量は限界を超えている。混濁した意識の中、耳から流れ込んでくる騒音は次第に大きくなっていく。

扉が蹴破られる。男はもう動く力がない。

銃声。鉛玉が体を貫く。銃声、銃声、銃声。何発も貫く。肩を頭を胴体を足を腕を貫く。四九発の弾丸を内蔵した胴体はくるくると周り、血と肉が四散させながら地面に転がった。

男の眼は何も捉えていない。既に人間の形すらしていない。しかし脳細胞の最後の一片がその活動を終えるその瞬間、男はある人物の名を、唇の剥げた口から零すように呟いた。

 

当麻(ダンマー)

 

そして二度と動くことはなかった。

 

 

   ***

 

 

「死のう死のう死のう死のう――」

 

 

夕暮れに赤く染まった夏空の下、陽炎で世界がゆらゆら揺れている。蝉の声はあちこちで反響し、そしてそれに負けじとしているかのように、法衣を身につけた若い群衆が太鼓を破れんばかりに叩きながら、學園都市第七学区の目抜き通りを死のう死のうと不吉な呪文を唱え練り歩いていた。

 

額に玉のような汗を浮かべ、ただ一念に体を揺らしながら虚無的な念仏を唱え続けるこの奇妙な集団――「日蓮会殉教衆青年党」という立派な名があるのだが世間では「死のう団」としか皆呼ばない――は通り過ぎる人々の冷淡な視線には一切目もくれず、自分の世界に没入してしまっている。当然、ボサボサ頭に学生帽を被った青年が向ける、不審げというか落胆に近い眼差しも、彼らは気にもとめなかった。

 

(これが仮にも最先端科学を誇る学園都市の光景かよ……)

 

いや、二〇世紀かどうかさえ怪しいじゃないか……と、学校の帰りに不幸にもこの不気味な行進に遭遇してしまった北当麻(きたとうま)は、学生服の詰襟を正しながら心の中でそう毒づいた。

 

自殺することで国を救うという不惜身命の極北を行き、一時は血盟団に並ぶテロ組織と称されたこのカルト教団は、当然といば当然だが以前から警察にひどく睨まれており、昭和八年七月に教団員は一斉逮捕され、特高による無残極まりない拷問により壊滅した。しかし、学園都市を拠点として青年党の生き残りが活動しており、このように白昼に突如として湧いて出てゲリラ・デモを行なうことも今日び珍しくなかった。

 

いや、珍しくはないにしても奇怪なことには変わりはない。

行進の隣では茶筒型の電動塵箱が駆け回りながら路上の塵芥を自動で回収しており、幟の背後には和蘭もかくやというほどの巨大な三枚羽の風車が風の力で電気を作っている。軟式飛行船(ツェッペリン)は洋物映画『フランケンシュタインの花嫁』の、主演(ボリス・カーロフ)の継ぎ接ぎだらけの顔がでかでかと剃られたポスターをぶら下げている。とても百鬼夜行の類(カルト)が出てくるような世界ではない。

 

なにしろここは、SF作家(ガーンズバック)の白昼夢さながらの科学の総本山、大東亜の中心、學園都市なのだから。

 

(嗚呼、これでも今日の不幸の中では一番強度が低いのだ……)

 

未来都市(メトロポリス)で狐に化かされたような気まずさを胸に抱えつつ、当麻は死のう団が後方に去っていくのを確認しながら、そう心の中で呟かずにはいられなかった。

 

昭和十年七月二〇日、仏滅かどうかは忘れたが、すべてはこの日が悪いのだ。

 

この日は当麻の通う中等学校の開校記念日であり、せっかくの夏期休暇中だというのに全校生徒が校舎に集められ、校長の戯言やら訳のわからぬ儀式やらの続く、全生徒にとっての苦痛の時間がようやく終わったかと思ったら、その後、特別講演とのことで断崖帝国大学教授の福来某とかいう輩の長丁場が始まり、やれシュレディンガーだシュナイダーなどと毛唐の名前を聞いているうちに眠くなり、立ったままウトウトしてたところに竹刀が飛んできたのだった。

 

そして帰り道、あまりにむしゃくしゃした性で、書店で表紙を見ただけで地雷と分かった自費出版のエログロ本……『ドグラ・マグラ』という題からして訳のわからぬ本を衝動買いし、慙愧の念とともに飯屋に入り茶漬けを頼んだら、間違えて苦瓜と蝸牛の名状しがたきもの(ラ ザ ニ ア)が出てきた始末である。

そして死のう団だ。そのうち黒猫が梯子の下を通って鏡が割れて夜に蜘蛛を潰すハメになるのではないかと、生来の不幸体質の当麻は夕焼けの下で冷や汗をかいていた。

 

「さて、この後どうするか……」

 

まだ暗くなるには時間が早いし、家に――義父が「高天原」と称する流行りの健康住宅――帰るまえに時間をいろいろ潰して腹の伊太利料理(ラザニア)を消化したいという思いもあるが、これ以上金銭を浪費すると確実に残りは悲惨な夏休みになるのだろうなという確信もある。しかしどの選択肢を選ぼうとも悲惨な結末が待っているように当麻には思えたが、結局当麻はお金を使わずに紅に染まった學園都市内をぶらぶら歩いて時間を使うことにした。

 

 

   ***

 

 

自然と足は、国際謝恩塔の聳え立つ復興記念公園にたどり着く。

赤レンガで道が綺麗に舗装され、庭園も整えられたこの公園は、未来が増殖し流線型が繁殖する學園都市において、当麻が唯一落ち着ける場所だ。

長い影を落とす巨大化したペン先のような白亜の国際謝恩塔を見上げつつ、木陰のベンチに腰掛ける。そこで『ドグラ・マグラ』をパラパラとめくればいかにも学生といった素敵な午後の完成だ。何か尻でバナナの皮のようなものを踏んだ気もするが、そんな小さな不幸をいちいち気にしていたら生きていけない。別にバナナの皮を踏んでコケたわけでもないのだし、こんなもの洗濯すればすぐに落ちるはず――

 

 

「そこ、塗りたてよ」

 

 

『胎児の夢』の章にさしかかったところで、凛と鈴のような声が当麻に降りかかってきた。

顔を上げる。

身長五尺三寸。十三、四くらいの婦女子で、肩まである茶色の髪に活発そうな整った顔立ち、身につけている黒を基調としたセーラー服から名門常盤台の生徒であることは推定できるが、お嬢様と呼ぶには気がひけるような、うんざりというか「またお前か」といった感じに眉間に皺をよせている。

当麻は彼女を知っている。かれこれ一ヶ月近く顔をあわせているが、実のところ当麻はまだ相手の名前をよく覚えていない。名字も名前も「み」から始まるというところまでは思い出せるのだが、どうも喉のところで記憶がひっかかってしまっている。

 

「……どちら様でしたっけ?」

 

御・坂・美・琴(み・さ・か・み・こ・と)。山梨県御坂山地のミ・サ・カ。いい加減覚えろド莫迦(バカ)ッ」

 

眉をつり上げ、幼児に説明するように一字一句区切って発音する。見間違いでなければ、額から一瞬青白い火花が破裂音とともに散った。

 

「まあそれはそうと……」

 

美琴は急に肩を下げて表情を和らげた。

 

「それよりアンタ――そこのベンチ、ペンキ塗りたてよ」

 

「えっブッブブッなんだってブッグホッ」

 

突然の衝撃発表に弾かれたように立ち上がり、噎せながら当麻はズボンの後ろ側を確認しようとその場でグルグル回り始める。

 

「バッカねぇ、ちゃんと確認しないから……

 

 

 

まぁ、嘘なんだけどね」

 

 

 

「えっ?」

 

「不意打ちッ!」

 

「はッ!?」

 

少女の怒声を聞いて条件反射的に体が身構える……と同時に、激しい閃光が当麻の網膜を焼いた。

その刹那、汽車に等身したが如き激しい衝撃で爆音が当麻を容赦なく襲う。

実際には光速で飛来したため肉眼での目視は不可能のはずだが、瞬間当麻は電撃の槍が背後でベンチが吹き飛ぶ壮大な音がして、革靴が一尺ほど公園の土を抉る。後ろにひっくり返りそうになるのを踏ん張りながら、飛び散った土煙が弾丸のように当たるのを肌で感じた。

 

「な……何しやがるッ!」

 

「うっさい、不意打ちよ。さっきちゃんとそう言ったでしょ」

 

濛々とあがる土煙の中、全く悪びれてないどころから苛立ちすら含まれている少女の声が聞こえた。

 

"RAIL-GUN"

超電磁砲(ちやうでんじかはう)』。

 

學園都市研究機関及び国際連盟超能力監察機関(ジュネーヴ)は彼女のいまの能力をそう呼称している。もっとも大日本帝国(このくに)は一昨年に国連を脱退したばかりだが。

奇術師の天勝が『魔術の女王』などと呼ばれていた時代が数千年も昔に思えるような、ニコラ・テスラも腰を抜かす圧倒的破壊力と応用力を兼ね備えた三二万八五七一分の一の才能。十億ボルトもの電流を自在に操り、落第をも引き起こせる雷神さながらの「強度伍」の力は、人口二三〇万の學園都市内でも第三位に匹敵するというのも頷ける話である。

噂によると、独逸(ドイツ)の新生ナチス政権は講和条約(ヴェルサイユ)があるにもかかわらず、機械でこの能力を『超電磁砲(ちやうでんじかはう)』を再現し、兵器化を目論んでいるらしい。

 

しかし、いまも電撃を周囲に漂わせている当の彼女は、憤怒と疑念の入り交じった形相を浮かべ、犬歯をガチガチと鳴らし当麻を――電撃を喰らったはずののに、傷ひとつついてない当麻をきつく睨むのであった。

 

「こーなるのよね結局、訳がわからない。肉は焼けば焦げる、肉は叩けば爆ぜる。それがこの世の真理じゃなかったの」

 

「肉呼ばわりとは失礼だな、一応年上だぞ」

 

身構えた状態のまま服の塵を払いつつ、当麻は心底うんざりした様子でそう応じた。黒焦げになったバナナの皮がポトリと尻から落ちる。

 

『幻想殺し』。

 

右手に触れたものならば、超能力でも霊能力でも、神法仏法問わず打ち消してしまう異端の能力。

しかしこの『幻想殺し』という何のひねりもない名称は彼の義父である思想家・北一輝(きたいっき)が勝手に命名したものであり、學園都市の機関に正式に認定された能力ではない。現に學園都市での当麻の位置づけは「強度零」である。しかし今まさに、美琴渾身の雷撃の槍を右手を翳しただけで打ち消してしまった、この状態を何らかの能力の仕業と言わずして何と言うべきか。当麻はこの一ヶ月間ずっと彼女の目の敵にされ、道真(おんりょう)さながらの連続電撃攻撃を右手の不可思議な能力でからがら切り抜けてきたのである。

しばらく奇妙な睨み合いが続いていたが、根負けしたのか美琴は溜息ひとつついて腰に手を当てた。

 

「まったく、自覚しなさいよ。自分が強度伍相手に連勝してるってこと。強い人間には強いことの責任が伴うのよ」

 

「何言ってんだよ、婦女子の念力防いだくらいで連勝も蓮根もあるか」

 

そう余裕を見せつけるためにおどけてみせる当麻を尻目に、美琴は欧米人のように大げさに首を振りつつ肩をすくめ、

 

「全く呆れるわねアンタ、その調子じゃ戦場だと真っ先に弾除けよ」

 

「おいおい、軍隊で優遇されるのは強度参以上だろ。軍人になるつもりはねーよ」

 

(第一義父(オヤジ)が手放すわけないだろうし……)

と続けようと、チラを美琴の顔を見ると、彼女は顎を上げて鼻を鳴らしいた。口元が緩んでいる。

非常に不吉な予感が当麻の中を電撃のように駆ける。これは、自分が完全に優位に立ったときの顔だ。

 

「へぇー……アンタ、知らないんだ。学徒出陣の噂」

 

「ガク、なんですって御坂さん。いま何か物騒な言葉言いませんでしたちょっと先生」

 

「誰が先生よ。でもね……ムフフ、でもね、ここは教えてあげてもいいけどでも、さすがに重要度が高いから、ここはどうかしらねー」

 

美琴はもはや完全に鼠を前にした猫の顔である。いままで弄ばれた分散々いたぶってやろうという魂胆なのは明白である。「窮鼠猫を噛もうが猫平気」という川柳一瞬脳裏に浮かんだがそんなことはどうでもいいのだ。

 

「あー、御坂さん御坂先生ここはひとつ、偶然持ち合わせていた重版出来絶賛発売中の……もうすでにボロボロだけどこの『ドグラ・マグラ』でどうでしょう」

 

「ごめん、それもう持ってる」

 

(コイツ……ものすごいデカい獲物を釣ろうとしているッ!?)

 

 

結局、カルピスを瓶ごと一本という爆弾級のカードを引き抜かれ、当麻はほぼ五体投地に近い格好で項垂れるのだった。

 

「まぁこういう情報はほんっとぉーに強い人間にしか流れてこないんだけど、強度零のアンタがあんまりにも不便だから特別に教えてあげてもいいわ」

 

ホクホク顔のくせによくそんなことをのたまえるものだ。

 

一夕会(いっせきかい)って知ってるかしら」

「知らん」

「真顔で即答すんじゃないわよ……まぁ、それが帝国陸軍内部で秘密裏に作られた政治結社ってのは、つい最近私も知ったんだけど。で、その一夕会の中心人物である陸軍省軍事調査部長の東條(とうじょう)少将が政府中枢に働きかけて、學園都市の能力者を含む学生たちを大量に大陸に送り込んで、日支戦争の消耗品(こやし)にしようってわけ。以上」

 

「な……」

 

な、なんだってー、の「な」ではない。何をいまさら、カルピス返せ……の「な」だ。

 

だいたい満州事変だって、石原(いしはら)参謀が集めた超能力者たちのおかげで成功したんじゃないか。義父は軍部とのコネも強いらしく、実家には頻繁に軍服を来た男たちの姿が見受けられ、一、二度話たこともある。だから海の向こう側で軍人と超能力者が何を進めているかは曲がりなりにも知ってはいるし……

 

 

待てよ。

いま『含む学生たち』とか言わなかったか?

 

「そうよ。そうじゃなきゃアンタに教えるわけないじゃない」

 

何をいまさら、といった顔を今度は美琴がした。

 

「江戸幕府が忍者減らしたのと同じ要領ね。戦争が超能力者に、一研究機関であるはずの學園都市おんぶにだっこってのは軍部にとってはすごく気に入らないことみたい。何しろ主導権が握られちゃってるってのはね。でも五・一五みたいにクーデター起こしても勝目はないから、間接的に弱体化させようって寸法ね。いざ戦争状況になればどんな理屈も通用するだろうし」

 

「ならそんなこと……學園都市が許すわけんじゃないか」

 

当麻は上擦った声で反論を試みる。確かに三年前の五・一五事件のときは軍部はほとんどお咎め無しだったが、そんな無茶な案件が通用するとは到底思えない。

 

「俺達は『神様の計算(ブラインド・ウォッチメイカー)』ウンタラカンタラのための貴重な実験動物なんだから」

 

「モルモットが二三〇万匹も必要だと上の連中が考えていればね。政治ってそんな単純なものじゃないの。……知ってる、アンタ。例の金融恐慌以降、飢饉の進む東北じゃ、捨てる目的で学園都市に子供送り込む家庭も出てきたそうよ。今じゃ置き去り(チャイルドエラー)っていって都市内じゃ社会問題みたい。黒子も忙しくて悲鳴をあげてるわ」

 

『黒子』というのは誰を指すのかは知らないが、そんな話を当麻は全然知らなかった。

 

 

「人数を絞りたいという『上』の意向と、軍部の意向とが重なったとき、何が起こると思う?」

 

 

皮肉な笑いを顔に貼りつけた少女は、まるで何かを既に達観してしまったかのようだった。

なんだそれ。

なんでこいつは、こんな何気ないといった顔でいられるんだ?

 

(ポチョムキンの村だ……)

 

幼い頃、義父から教えられた話を思い出す。十八世紀末期、ロシア帝国女帝エカテリーナは併合した新しい領土を見て回り、美しい農村の風景を楽しんだ。側近ポチョムキン公が病人や年寄りや貧乏人を追い払い、何もかもを立替させて新たに作り直した、表面だけの村の光景を。

『大東亜聖地祝祭都市』の異名を誇る學園都市。その輝く未来都市のジオラマに、さっき見た死のう団の行進が重なる。

 

「ふーん、アンタ、顔青くなってるわね。まあ無理からぬことだけど、少なくとも學園都市なら人海戦術(「突っ込めー!」「うおー!」)の戦争なんてやらないだろうから、運がよければ生き残れるんじゃない……

って、もう門限間近じゃん! じゃあ例の一升瓶忘れずによろしくー」

 

(ちょ、その運がないんだようこっちには!)

 

と言うまえに、美琴は長い影を引きずりながら走り去ってしまった。

遠くで鴉が鳴き、蝉の泣き声と交じる。

だというのに、公園の時計の分針が進む音さえ聞こえてきそうなほど辺りは静寂に満ちていて。

そこに学生服の少年が一人残されている。

まるでそこだけ世界が静止したかのように。

 

しばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて当麻は吹き飛んだベンチを元の位置に戻し、『ドグラ・マグラ』の吹き飛んだページを探して元の位置に挟む。そうやって夕暮れの下、黙々と作業しているとやるせなさに似た感情が腑の底からこみ上げてきて、近くにあった気を思い切り殴ると飛び立った蝉が小便をかけてきた。

 

不幸だ。

 

 

「……帰っか」

 

 

とにかく帰って、使用人(おてつだい)風斬(かざきり)さんが作ってくれる夕飯食って宿題やって銭湯行って、寝よう。

うん、そうだ。何しろ俺は時代に流されるのが常の小市民だ。先を悩んでたって仕方ない。戦争が始まって戦地に送られたって、朝食食った後に銃撃ったり撃たれたり、殺ったり殺られたりするだけの退屈な日常が続くだけだ。そうなんだ。

 

奔流する時代の中を、頭を掻きつつトボトボと帰路につく少年の遥か上空を、駆動鎧の編隊が飛行機雲を描きながら滑空していった。

 

 

   ***

 

 

そして少年は、世界を変える少女と出会う。

 

 

 




ひっじょーに投稿が遅くなってすまなすぎる。小説書くのって大変ね。今度からもっとテンポを上げてがんばるんで生暖かい目で見守ってください。

ちなみに、作中の「ガーンズバック」っていうのは二〇世紀初期に活躍した、未来都市とか描くイラストレーターさんで、ウィリアム・ギブスンの『ガーンズバック連続体』でネタにされています。こういう小ネタを挟むのがわたくし大好きなのです。というわけで4649。


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第貳章  くらやみの速さはどれくらい Speed_of_Dark

 どんなに日照りで蒸し暑い日でも夜がこんなにも涼しくなるのハ學園都市上層部が気象をコントロールしてゐるからだと云う話を聞いた事があるが、諸葛孔明や陰陽師じやあるまいし、むしろ自然が多いからだらうと北当麻ハ思う。

 

 そこが上海やベルリンなどの大都市と學園都市の違いだ。産業革命の淘汰圧によつて森ハ削られ末路ハ石炭、と云うのがひた走る世界の現状だが、斯様な伐採が続けば麗しい瑞穂の国も禿山と化してしまうだらう。田中正造公も言うとをり、『真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞる』ものなのだ。

 

 學園都市とて日嗣の臣民、その事を憂ゑないわけハなく、様々な環境対策に取り組んでゐる。風力発電や黒煙を吐かない車もその一環だが、赤煉瓦や石棺のような混凝土の建造物に挟まれ、古からの木々や祠があちこちに残つてゐるのハ嬉しゐものである。やはり緑に触れてこそ日本民族だ。

 

 ちなみに震災を生き延びた木造建築物も多々残つてをり、義父が「高天原」と呼ぶ我が家もその一つなのだが、そこハ新築でゐゝのでハないかと思う。

 

 銭湯もそんな震災を生き延びた建造物のひとつだ。真つ直ぐに伸びる煙突ハ、煤で形作つた渋い模様が年季を傳えてゐる。

 

 それこそ当麻ハ震災の前からここに通いつめてゐる。富士に松を眺めて湯船に浸かると、今日一日の不幸が皆溶け出して実に幸福な気分になれるのだ。

 

 尤も、蓬髪を丹念に洗つてゐる最中に石鹸を盗まれる等の不幸ハ此処でも襲つてくるのだが、其れでも当麻にとつてハ一日で最も心の底から落ち着ける場所なのだ。

 

 

 だから、銭湯を出た時も、当麻ハ実に上機嫌だつた。

 

 

     ***

 

 

 御天道様も唾を吐く七月二十日、びりゝゝ女に肉体攻撃と精神攻撃の両方を加えられ、這うヽヽの体で帰宅した当麻ハ、親切で優しい風斬さんが夕食を温め直してくれていた。

 

「ヤア当麻さん。お帰りなさい。どうしたの、その土埃まみれの格好。転んだの?」

 

 柔和な笑みで暖かい言葉をかけてくれる風斬さん。有難也ヽヽヽ、地獄に仏とハ正に此の事。当麻ハ欷歔の泪を流し風斬さんの豊満な胸に縋り付く――と云うのハ、この齢でハ遉に恥かしいので、鼻水を啜り上げて礼を言うと、そのまま洗面所で嗽手洗をした。

 

 東條陸将の如き丸眼鏡を掛けた風斬氷華さんハ、北家が学園都市に引っ越してから雇った、温厚で引っ込み思案な性格のお手伝いさんであるが、今やその比類のない働きぶりがこの家がどちらに傾くかを左右してゐると言っても過言でハない。

 

 なにしろ大黒柱の義父たる革命家先生の主な収入源と云うのが実業家や軍人からの寄与というのだから、安定した生活を送りたい当麻にとつてハたまつたものでハないのである。

 

 喧嘩や仲違という程でハないが、何となく当麻が義父と会話し辛いのも其れが理由の一つであり、また義母も体の都合により頻繁に会える境遇でハないので、結果的に精神的に頼れるのハ風斬さんしかゐないのだ。

 

 アゝ此の境遇こそが、養子たる北当麻最大の不幸なのかも知れぬ。

 

 

 餡のたつぷりとかゝつた酢豚を御菜に白米をかきこめば、又々歓喜の涕泣止めど無く当麻を襲つた。

 

 そうして腹も膨れたところで、桶を片手に悠々と銭湯へ向かつた。

 

 湯船の中でも酢豚のしつかりとした触感が歯に残つてゐて、学校の長話も戦争の事も綺麗さつぱり忘れてしまつた。

 

 嫌な事ハさつさと忘れてしまうのが当麻の美点であり欠点なのだが、そうでもなければ次々と襲いかゝる不幸に対応できないだろ、と心の片隅で愚痴を零しつゝ、桶を抱えて銭湯を出れば、夜ハとつぷりと暮れて、空にハ宵闇月と星々が輝いてゐた。

 

 

 あれがDeneb、Altair、Vega。合わせて夏の大三角だが、白鳥と鷲と琴を一緒くたにする事に何の意味があるのかてんで判らぬ。

 

 寧ろ織姫星と彦星のほうが当麻にとつて馴染みが深いが、併し七月七日の七夕に両星が接近した例が無い。

 

 くつきりと天の川が広がる星空を見上げながら斯様な事をぼんやり考えてゐると黒猫が当麻の前を横切り、思わず「ゑんがちよ切つた」と言つたが果して西洋の不吉に東洋のオマジナヰが拮抗できるだらうかと悩む。

 

 

 と、その悩みが霧散する位、実に旨そうな匂いが当麻の鼻をついた。

 

 帰り道の中程にある、騒音の少ないリニア・モウタアカアの趨る高架橋の下に、屋台がぎつしりと軒を連ねてゐた。

 

 子を担いだ顔色の悪い母が小麦粉の塊を売るやうな貧相なものから、座布団まで敷いて寿司を売つてゐる豪華なものまで、芋を洗うように立ち並び、暖簾から漏れる提灯や電球の光、そして客たちの喧騒が闇を優しく照らしてゐた。

 

 夕飯ハ食つたばかりだが、牛すじの一本でも食べたい気持ちになつた。

 

 昼の伊太利料理野郎への報復も兼ねて、当麻ハとりわけ目をひく客引きをしてゐる御田屋の暖簾をくゞつた。

 

 

「へいらつしやい」

 

 奇抜な客引きに比べ、屋台の店主ハ実に硬派そうな顔立ちだつた。尖つた顎の下にハ力強い首と頑丈な胸が伸びてゐる。頭ハ当麻と同じ様な蓬髪であつた。

 

 店主ハ椅子に座つた当麻の顔をジロリと睨み、

 

「学生に酒ハ出さんのよ、未成年の飲酒ハ科料よな」

 

「ヰヤ、ちよつと小腹を満たしたいだけさ。こちとら合成酒も買う金もねえよ」

 

 当麻がそう切り返すと、店主ハ納得した様な失望した様な顔で頷き、注文を訊いた。

 当麻ハ牛すじと卵とハンペンを頼んだ。

 

 当麻以外に客ハゐなかつたので、あいよ、の声とともに注文の品ハ直様出てきた。

 

 卵を箸で割って、ふうゝゝと息を吹き込んでから口にしたがまだ熱い。しかし出汁の染みた白身と程好い硬さの黄身が交り合い、実に旨い。

 

 こういう些細な事に幸せを感じられれば不幸とて何のその、と生来の積極思考(ポジテヰブ・シンキング)が忽ちのうちに戻ってきた。

 

 

「そういや、此処の店ハ面白い客引きをしてゐるね」

 

 牛すじを噛みヽヽ、当麻が気になつてゐた事を訊くと、店主ハ首を傾げ、

 

「客引き?そいつハ変よ、この店ハ俺が一人で切り盛りしてゐるんだぜ」

 

 本当に知らぬ存ぜぬな面をしてるので、今度ハ当麻が訝しんだ。

 

「そりやあ変だ。屋根の上に女子を乗せて客引きとハ、上手い事を考えたものだと思つたんだが」

 

「何、屋根とハ」

 

どうやら店主ハ本当に知らないらしい。一升瓶に詰めた清水を硝子洋盃に注ぎながら頻りに首を捻つてゐる。

 有り得ぬ、有り得ぬ。でハ当麻が確かに見た、屋根の上に覆い被さる様に寝そべつていた少女ハ一体。

 

 断りを入れ、もう一度暖簾の外に出てみれば、アゝ間違いない、夢幻でハなく確かに白髪の少女がうつ伏せに屋台の屋根の上に乗つてゐるでハないか。

 

 而も少女ハ当麻を見て、ゆつくりと唇を動かし、斯様な文句を絞り出したのだ。

 

 

「をなかへつた」

 

 

     ***

 

 

 少女に飯の一つも奢れぬようでハ日本男児とハ呼べぬ。

 

 と、至極真当な精神を持つ当麻ハ、いま会つた許りの見知らぬ少女に御田を奢つてゐるのであつた。

 

 アゝ皇国を担う男子の熱き男気に胸打たれん許りだが、アヰンシユタヰン博士唱える宇宙の特異点の如く次々と御田を口蓋へ詰め込んでゆくその健啖ぶりに、モシヤ此奴この御田屋のサクラでハないかと当の北当麻青年ハ疑い始めたが、併しだからと言うて、此のまゝでハ三歩も歩けぬと泣くか弱い乙女をどうして見捨て置く事が出来やうか。

 

 

「美味!」

 

 頬に辛子がつく程ほどの純心な食いつぷりに、当麻の訝しみハ霧散した。此奴、本当に腹が減つてゐたのだ。

 

「あれだよね、然りげ無く疲労回復の為に酸つぱい味付けしてる所がニクいよね」

 

「ふ、そちらのお客ハ違いが解るよな。全くもつて其の通りよ」

 

 店主胸を張り呵々大笑してゐる間に、当麻ハ屋根の上で行き倒れしてゐた奇妙奇天烈な少女をじろゝゝと観察した。

 

 歳ハ十四か十五か。肌ハ純白髪ハ銀髪と、人目で毛唐と解る外見だ。初雪の様に透き通つた膚に碧色の瞳で、実に可愛らしい顔立ちだ。

 

 併し最も目を引くのハその服装だ。浦上教徒や内村鑑三不敬事件以来、十字教ハ国家神道に睨まれ実に肩身の狭い思いをしてゐるが、この少女ハ寧ろ誇るように白い修道服を着飾つている。

 

 優美に刺繍された金糸ハ欧米の教会というよりも震旦の織物を連想させる。斯様な高価そうな服を着た少女が、行き倒れするなど有り得るだらうか。

 

 

 この毛唐少女、ハテ何者。

 

 

「まずハ自己紹介をしなくちやゐけないね」

 

 当麻が海蘊を箸で啄きながら少女の正体を訊き倦ねてゐると、鍋底大根をほふゝゝと咀嚼しながら向こうの方から切り出してきた。

 

「私の名前ハね、茵蒂克絲(インディ・クェァスー)つて言うんだよ?」

 

「何だその妙竹林な偽名ハ」

 

 当麻ハほとゝゝ呆れ返つた。米国でハ反日法が猛威をふるつてゐるそうだが、この毛唐も飯の恩義も知らずに此方を莫迦にしてるのか、と幾分腹が立つた。

 

「震旦語でヰンデツクスじやないか。目次か御前ハ」

 

「うゝん、そう言われても茵蒂克絲ハ茵蒂克絲なんだよ。日本語だと禁書目録と訳せばゐゝのかな……。て云うか君、震旦語が解るの?」

 

 今度ハ茵蒂克絲が目を丸くした。震旦の語を使う事から、彼女が満州か上海か、或ハ英国統治下の香港から着たのでハないかと推測する。

 

「義父が昔南京にいてな、今でも震旦服を着込んでるくらい向こうに…つて、俺の事じやあないだろ。マア名前ハ置いとくとして」

 

 御前ハ何処からやつてきたか、と次に訊こうと思つたが、これ以上深く突つ込めば恐ろしい面倒事に関わるハメになるぞと、脳髄の直感を司る部分に警報が鳴り響いた。

 

 そもゝゝ毛唐と一緒に居る事自体、国連を脱退した此の国に生きる者として白い目で見かねられない。

 

 此処ハ一飯之徳を積むだけにして、取敢えず最も気になつてゐる事だけ訊いて解散としよう、と脳内の算盤彈きの後に当麻ハ質問を変えた。

 

「で、何故屋台の上で、夜だと云うのに日向ぼつこしてゐたんだ。て云うか店主、気づかなかつたのかよ」

 

「知らぬ存ぜぬよ。リニア・モオタアの騒音が無くとも、此処にハ人の活気から来る騒音がある。確かに何か小さい砂袋が落ちてくる様な音ハ上からしたが、本当に軽い音で、石か何かだらうと思い気にも留めなかつた――」

 

 当麻ハ少々冷たくなつたハンペンを口に含む。

 

 確かに人のざわめきハ大きく、酒呑みの莫迦笑いから猫の鳴き声、おそらく軍靴であらう雑多な靴音に遠くのラヂオから児玉好雄の歌声が重なる。

 

 併し当麻ハ此の小さな屋台の周りだけ、毛唐少女の茵蒂克絲を中心に無音になつた様な気がした。

 

 店主が口を次ぐ。

 

「御前さん、どうやつて、否、どうして屋根の上に降りてきたのよ」

 

 

 若し高架橋から飛び降りたのであれば小音で済む訳もなく、茵蒂克絲ハ屋根を突き破り哀れ御田の海に溺れ白衣ハ汁に汚れる筈である。

 

 でハ超能力で落下速度を緩めたのかと思えば、ならば高架橋から飛び降りねばならぬ事情とハ一体何か。

 

 茵蒂克絲ハ俯きながら、後者の疑問に答えてくれた。

 

「……追われてゐたからね」

 

 

 追われてゐた?

 

 フム、と店主ハ他人事ゆえか、其の一言でもう納得した様だが、無論当麻は絶句した。箸からハンペンの欠片が落ちる。

 

 脳内の警報ハ今や内側から耳を劈かん許りだ。

 

「えつと、顔も知らない様な人達だつたんだけどね?日本にハ来たばつかりだから勝手が解らなかつたし、兎に角追つてくるから逃げたんだよ?高架橋に登つてまで追つてくるから、之ハ本格的にまずいなつて思つて、遣り過す為に此処に伏せて隠れてたんだけど……」

 

 茵蒂克絲の身振り手振り付きの説明も、当麻ハ最早まともに聞いてハゐない。

 

 胃袋を雑巾絞りされる様な苦痛に、血流が逆流して心の臓が爆ぜんかと思われた。

 

 

 

此の国で、人を、それも年若い少女を高架橋の果まで追う様な人間ハ一種しか居らぬ。

小林多喜二を二年前に虐殺したあの組織しか。

 

 

 

問、アゝ不幸薄幸、如何なる前世の業により、特別高等警察に追われたる少女と遭遇するとハ北当麻、北辰にも大日如来にも見捨てられたるとハ。此の天が与えた悪夢の如き試練に、如何に対処するべきか。次の三つから選択せよ。

 

甲、多少権力者にコネのある義父に相談する。(之ハ論外。義父も嘗てハ特高に追われた見也)

乙、このまゝ逃げる(之も問題外。食い逃げで普通の警官の出番也)

丙、可及的速やかに支払い迄の段取りを終わらせ、爽やかな気持ちで少女と別れた後に全速力で家に逃げ帰り、少女と会つたと云う事実を抹消する(地味極まりない作戦が、この状況から逃げるにハ丙に丸をつけるより他無し)

 

 

 

 斯様にして非情な決断を脳内でした当麻だが、彼の不幸極まり無き事ハ無間地獄の如き也。現実ハ恐るべき四つ目の選択肢を選んだのだ。

 

 

「店主さん、御免なさい。店を勝手に使つてしまつて」

 

「何、ゐゝのよ。困つたらお互い様よ。礼ならこの太つ腹の兄さんに言いな」

 

 店主ハ阿呆なのか莫迦なのか心臓に毛が生えてるのか、この期に及んでもまだ飄々としてゐる。

 こうやつて御田を菜箸で啄いているその瞬間にも特高が殴り込んでくるかも知れないのに。

 

「それもそうだね」

 

 少女ハ曇のない真つ直ぐな瞳を当麻に向けた。

 

 

「お兄さん。ごはんを食べさせてくれて、ありがとう」

 

 

 そう言いながら、純粋無垢としか表現しようのない微笑みを顔全体に浮かべた。口元にハ大根の切れ端がまだ付いてゐる。

 

 当麻ハ眩暈を起した。

 

 「そうだ。こつちハ自己紹介したけど、まだそつちの名前を訊いてなかつたんだよ。私ハ少し変な名前だけど、お兄さんハ凄く優しいから格好ゐゝ名前なんだらうね」

 

 当麻の心臓が一つ上まで跳ね上がる。

 

 果して此処で名乗るべきか。名乗れば不幸に更に深入りする事になるのハ明白だ。だが如何に毛唐と言えど、この不思議な少女を見捨てる事等出来るだらうか。併し特高ハ怖い。ヰヤ待てよ、義父も特高に追われてるんだから同じか?ヰヤゝゝ、此方ハ本当に追われているのであり彼方ハ過去形であつて――。

 

「俺の名ハ――」

 

 思念がぐるゝゝと頭蓋骨の中で渦を巻き、喧騒が益々遠ざかつていく様に思える。落ち着け、落ち着け当麻。不幸等今に始まつた事でハ無いだらう。

 

 まず自分の心臓を落ち着ける為に、自分で瓶から水を汲むと一息に飲み干した。

 

 

 

 「ヤ、お客さん、そつちハ――!」

 

 酒の入つた瓶ですよ、と店主が慌てゝ言おうとしたのだが時既に遅し。

 

 本邦一有名な名も無き猫の末路の如く、自分が酒に滅法弱い体質だと知らなかつた当麻ハ、瞬く間に溺死する様に泥酔し、意識に渾沌の帳が落ちて寝て伏せたのであつた。

 

 

 不幸也ヽヽヽ、南無阿弥陀仏ヽヽヽヽヽヽヽ。

 

 




なんか調べる事多ッ!ってなって更新遅れに遅れたら、タッチも変わりました。より戦前的に、てなわけで。後から他の章も手直し致しますのでご了承の程よろしくお願いします。今年中に更新できてよかったっす。来年もなんとか頑張るウオーッ!
それにしても『伊藤計劃×禁書目録』めっちゃ面白いな。


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