トワ殿って呼ばないで (Washi)
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本編
第1話 東方からの留学生


 もうすぐ4月。ライノの花が満開に咲き誇り、エレボニア帝国中を淡い桃色に染め上げる季節だ。また、学生にとっては新たな1年のスタートの時期でもある。

 帝都ヘイムダルから鉄道で30分。トリスタという町にて校舎を構えるトールズ士官学院においても、それは同じだった。

 

 そのトールズで今年2年生となるトワ・ハーシェルは、同時にその年における生徒会長でもあった。周囲の推薦を断りきれず、平民生徒ながらも会長の座に就くこととなった。平民と貴族が入り乱れるトールズにおいては、中々珍しいことだった。

 生徒会長になってからというものの、トワは大忙しだった。仕事の引き継ぎ、新年度に向けた準備、新入生を迎える準備などやることは山ほどあった。

 現に入学式が数日後に迫った今も、1人で生徒会室に篭って書類仕事をこなしている。今はちょうど、今年から新設される特別クラス、Ⅶ組についての資料を確認中だ。

 

 Ⅶ組とは、理事であるオリヴァルト皇子の肝煎りで新設されるクラスだ。本来クラスは平民と貴族とで分かれているが、Ⅶ組に限ってはその境界が撤廃される。様々な背景の学生を集めることで、次世代の融和の礎を作ろうというのがその目的だ。

 他にも、ラインフォルト社が開発した次世代戦術オーブメントであるARCUSのテストする為のクラスでもある。

 

 実を言えば、トワはこのⅦ組の行く末に関してはかなり気にかけている。それもその筈、このクラスの試運転にトワは参加した身なのだから。ある意味では、Ⅶ組の先輩のようなものだ。

 それに、様々な立場を身分に関係なく集める以上、様々な問題も起きるだろう。Ⅶ組に振り分けられた学生の中に留学生が2人もいるのがその証拠だ。しっかりサポートしなければと、やる気満々だった。

 

「おーい、会長様。調子はどうだ?」

 

 ノックもなしに扉が開き、平民生徒の証である緑のジャケットを着た長身の男が入ってきた。クロウ・アームブラスト。トワの親友の1人であり、先の試運転を共にこなした仲間だ。学院内ではサボリ魔の遊び人としても有名である。

 

「もう、その呼び方は止めてよクロウ君。……うーん、分かってはいたんだけど、やっぱり大変かな。まあ、好きでやってるんだけどね」

「断りきれずに会長やってる割には元気なこった。さすがのお人好しっぷりだな」

 

 皮肉たっぷりに、かといって嫌味っぽさは微塵も感じないもの言いにトワは苦笑する。どれも結果だけ見れば事実なだけに、反論の余地がなかった。

 クロウはトワが作業している机まで近づくと、広げられている書類を一瞥する。そしてとある書類群に目が止まった。

 

「お、こいつはもしかして例のクラスのメンバー表か?」

「うん、そうだよ。色々と大変そうな立場の子も多いから、ちゃんと確認しておこうと思って」

 

 ほーん、と興味があるのかないのかよく分からない返事をしながらクロウは資料を手に取った。本当は生徒会メンバー以外に見せてはいけないのだが、まあ試運転に関わったクロウならいいかとトワも咎めはしなかった。

 

「なるほどな……ふんふん……げ、帝都知事の息子と四大名門の息子が一緒かよ。こりゃ荒れそうだな…………ん? なんだ、留学生が2人もいるのか」

「うん、そうなんだ。1人はガイウス・ウォーゼル君。ノルド高原の出身なんだよ」

「ああ、この学院作った獅子心皇帝様所縁の地か。そりゃ興味深いな」

 

 トワは同意する。獅子心皇帝とも呼ばれるドライケルス大帝が獅子戦役の際にノルド高原にて挙兵したのは、帝国の人間ならば誰でも知っている話だ。ワクワクしない筈がない。

 

「それともう1人は……あん? なんだこりゃ。イズモ王国? どこだそこ?」

 

 クロウは眉をひそめ、後ろ髪を掻きながら首を傾げる。それに対し、トワは苦笑いを浮かべる。知らないのも無理はない。なにせ、トワですらそれほど詳しいことを知っているわけではないのだから。

 

「えっとね、イズモ王国は東方にある国の1つなの。出雲流って東方剣術があるらしくて、その開祖様が作った国なんだって」

 

 トワの説明に興味を示したらしく、クロウは続きを促す。トワは最近確認した資料に書いてあったことを噛み砕いて説明をする。

 

 東方の国、イズモ王国。通称イズモ。険しい山々に囲まれながらも豊かな土地と水源を持つ、東方でも1、2を争う豊かな国だ。剣の達人が興した国なだけあって刀鍛冶が盛んで、帝国にまで流れてきている太刀も多いらしい。また、茶器や酒の生産でも有名なようだ。ユミルに負けず劣らずの温泉が多数あり、東西の交流が活発だったころは観光客でいっぱいだったらしい。西ゼムリアでは東方文化と一纏めにしてしまうが、その中でも和風と呼ばれる文化の中心地とのことだ。

 

「それでね! イズモは専制君主制なんだけど、留学にいらっしゃるのはイズモの王太子様なんだよ!」

「はぁ!? 王太子って……マジかよ」

 

 目を丸くするクロウ。トワは身を乗り出して、何度も頷いた。それだけ興奮しているのだ。クロウから見れば、きっと目をキラキラと輝かせているように見えたことだろう。

 

 留学生の名はムネノリ・タナカ。イズモ王家の第一位の継承権を持つ男子だ。帝国とはほとんど縁のないイズモからとはいえど、本物の王太子が留学に来るのだ。トワにとっては興奮するなという方が無理な話だった。

 

「そりゃ、確かに驚きだが……なんでまた帝国くんだりまでお勉強しにいらっしゃるんだよ?」

「えっと、確か志望動機には西方の最新の導力学と、帝国の文化を学びたいからだって。共和国は東方文化が浸透しすぎてるからこっちを選んだんじゃないかな?」

 

 トワがヴァンダイク学院長から聞かされた話では、なんとあの《剣仙》ユン・カーフェイからの推薦が《光の剣匠》経由でもたらされたらしい。そこに帝国政府が間に入ってイズモと交渉し、留学が受け入れられることとなったそうだ。

 

「なるほどな。それで、なんでお前はそんなに嬉しそうなんだよ? もしかして玉の輿でも狙ってんのか?」

 

 ニヤニヤとからかうような口調で話すクロウにトワは頬を膨らませる。自分をなんだと思っているのだろうか。

 

「むぅ、そんなんじゃないよ。わたしのお祖父ちゃんが東方からの移民だって話は前にしたでしょ? だから前々から東方には興味があったんだけど、帝国だと東方に関する書籍ってそんなにないの。だから、直接色々とお話を伺えればなって思うの」

 

 西ゼムリアの最西端に位置するからか、帝国に伝わる東方の情報は驚くほど少ない。せいぜいが一部の食文化や建築様式、それと八葉一刀流のような武術関連のことだけだ。

 でも、そんなものでは足りなかった。トワはかねてからもっともっと東方について知りたいと思っていた。生活、住居、習慣、学問、スポーツなど、あらゆることを。

 

 そういう意味では今回の王太子の留学の知らせは幸運だった。イズモとて東方を構成する国の1つでしかないが、きっと様々な話を聞くことができるだろうと期待していた。

 

「それで、きっとこっちの文化や習慣には不慣れでいらっしゃると思うから、色々サポートして差し上げたいなって思うんだ」

 

 本当に、本当に楽しみだ。必要な書類仕事がまだ片付いていないのに、早く入学式にならないかなと思ってしまうくらいには。

 

 その後、クロウと休憩がてらお茶をしたトワは、ウキウキとした気分で仕事に戻るのであった。

 

 

 

 

 トールズ士官学院の入学式当日。見事な快晴で、小鳥のさえずりが心地よい。新入生となるリィン・シュバルツァーは、町中を包んでいるライノの花に圧倒されていた。先ほどなど、駅の前で立ち止まってしまい、他の新入生の金髪の女子とぶつかってしまったほどだ。

 

 故郷のユミルは帝国最北端に位置するせいか、この時期はまだ雪が多い。それはそれで趣があったが、トリスタの町並みも素晴らしかった。この町で新しい生活が始まるのだと思うと、とても穏やかな気分だった。

 

「失礼、そこの者。少々よろしいか」

 

 突然背後から声をかけられ、もしかしてまた通行の邪魔になってしまったのかと思い、謝ろうと慌てて振り向く。

 

 振り向いた先にいたのは、リィンと同じく赤い上着の制服を着た男子だった。いや、男子というのは語弊があるかもしれない。その男は、偉丈夫とも言うべき立派な体格と身長を兼ね備えていた。リィンとて身長は決して低くないが、それでも見上げる必要があるほどだ。

 肩より少々長いくらいの黒髪を後ろで纏め、三つ編みにしてある。眼光は鋭く、歴戦の剣士のような威圧感があった。もしリィンが剣の道に携わってなかったら、恐怖で震えていたかもしれない。

 

「すまない。もしかして邪魔だったか」

「ああ、いや。こちらこそすまぬ。そうではないのだ。少々、尋ねたいことがござってな」

 

 あまり聞きなれぬ言葉遣いだった。もしかして他国の出身なのだろうかリィンは考えつつ、快く応じる。

 

「かたじけない。拙者、ムネノリ・タナカと申す者で、今年から”とりすた”の”とーるず”なる学び舎で世話になることになったのだが、それはこの町でよいのだろうか。見たところ、そなたも拙者と同じ制服を着ていると愚考した次第なのだが」

「ああ、ここがトールズのあるトリスタだ。っと、そうだ。リィン・シュバルツァーだ。よろしく頼むよ」

 

 リィンは握手をしようと手を差し出す。それを見たムネノリは判然とせぬ様子で眺めていたが、得心がいったかのように手を叩くと、両手で握り返した。その顔は、やけに嬉しそうだった。

 

「よろしくお願い致す! おお……これが握手というものでござるか。相手の気持ちがしっかり伝わるようで、なかなかよいものだな」

「……もしかして、東方からの留学生なのか」

 

 方言とも言うべきリィンとは異なる言葉遣い、そして握手に感動するその態度。東方剣術である八葉一刀流を学んでいたリィンは、それらのヒントからムネノリが東方出身なのではと推測した。

 そして、その推測は正しいようだった。

 

「うむ! 西方の最新の導力学を学ぶべく、東方のイズモより参った。それにしても、エレボニアは素晴らしい国でござるな! 拙者、帝都の街並みを見たときなど、そのあまりの荘厳さに開いた口が塞がらなかったでござる! まるで絵画の世界が飛び出してきたかのようでござった!」

 

 身振り手振りを交えながら熱く語るムネノリを見て、思わずリィンは顔が綻ぶのを感じた。リィンは帝都の出身ではないが、自分の国の首都を褒められてるのだ。嬉しくない筈がない。

 

(さっきの子もそうだけど、制服の色も同じだし、もしかしたら同じクラスなのかもしれないな)

 

 そうなればいいなとリィンは思う。八葉を学ぶ身としては、東方出身のムネノリともっと話をしてみたいと思った。

 

「っと、そろそろ学院に向かわないと入学式に遅れるな。よかったら、ムネノリも一緒に行かないか」

「願ってもない申し出でござる! 是非、お願い致す」

 

 再度リィンの両手を握ってブンブンと振り回す。どうやらかなり握手を気に入ったようだ。体格の違いゆえかリィンの体は前後に揺れたが、悪い気分はせず、困ったなと苦笑するだけだった。

 

 

 

 

「……へぇ。じゃあ、ムネノリは出雲流という剣術を学んでいるのか」

「うむ。西方では《剣仙》殿の八葉一刀流が有名だと聞き及んでいるが、東方剣術は他にも無数に存在するでござる。特にイズモは出雲流の開祖が興した国ゆえ、出雲流から修めるのが一般的でござるな」

 

 学院での道すがら、リィンはムネノリからイズモの話を聞く。特に興味を惹かれたのは八葉一刀流以外の東方剣術についてだったが、それ以外の話題も大変面白かった。ムネノリに自身が八葉一刀流を学んでいたことを明かせずにいることに申し訳ないと思いつつも、彼の話に聞き入っていた。

 

 当初、出雲流は刀剣術だけだったらしいが、後に様々な武器の達人がイズモに入り、総合的な武器術に発展したこと。流鏑馬という、馬を走らせながら矢を射る競技が人気なこと。食事はどれも美味く、”ナットウ”なるものが特におすすめだということ。話は多岐に渡った。

 

 そうやって学院に通ずるであろう坂道を歩いている内に、学院が見えてきた。歴史を感じさせる、大きな石造りの建物だった。

 

「おお! これがトールズ士官学院か! 見事な石造りでござるな!」

 

 案の定と言うべきか、ムネノリは大はしゃぎだった。まだ会って間もないが、リィンはムネノリがどういう人間なのかを分かってきた。

 

「イズモだと、石造りの建物って少ないのか」

「いかにも。地震が多い国ゆえ、石積みだと崩れてしまう恐れがあるのだ。揺れに強い木造が中心でござるな。最近は免震・耐震の研究も盛んでござるが、まだまだ発展途上ゆえ」

 

 なるほど、とリィンは頷く。言われてみれば、東方風の建物は木材をふんだんに使っている。木材が豊富なのもあるのだろうが、そういった実用的な理由もあるようだ。

 

 さらに坂道を登っていくと、正門らしきものが見えてきた。いよいよだなと思い、期待に胸が膨らむ。

 

「ご入学、おめでとーございます!」

 

 正門をくぐったところで、どこからか女子のものと思しき高い声が聞こえた。すると、横から黄色のツナギ姿の恰幅のよい男子と、亜麻色の長髪に緑の制服を着た小さな女子生徒が現れた。

 どちらも、なんと言うか不思議な佇まいだった。恐らくは先輩なのだろうが、片方は制服を着ていないし、もう1人は年上なのか怪しいくらいの外見だった。

 

「うんうん、2人が最後みたいだね」

 

 女子生徒はリィンとムネノリを交互に見ると、満足そうに頷いた。

 

「えっと、まずは……君がリィン・シュバルツァー君だよね?」

「は、はい、初めまして。えっと、どうして自分の名前を?」

「ちょっと事情があってね。すぐに分かると思うから、今は気にしないで」

 

 なんとも要領を得ない回答だったが、女子生徒が困ったような顔をしているのを見て、とりあえずは納得しておく。まあ、きっと色々あるのだろう。

 

 続けて、女子生徒はムネノリの方を向いた。視線を向けられたムネノリは、なぜか胸を撃たれたかのようにたじろいだ。

 

「それとそちらが……ムネノリ・タナカおう……なんとお呼びしましょう?」

(え……?)

 

 女子生徒が突然言葉遣いをより丁寧なものに変えたのを見て、リィンは驚きを隠せなかった。もしかしなくても、ムネノリはやんごとなき家柄の出身なのかもしれない。

 

(さっきまで思いっきりタメ口で話しちゃったけど……大丈夫だろうか)

 

 ちらりと視線をムネノリに向ける。そこで、リィンはしかめっ面をしていたムネノリを見てギョッとする。もしかしたら、怒っているのかもしれない。

 ところが、しばらく見ていると、どうもそういうわけではなさそうだということに気づいた。

 

「…………」

 

 先ほどまであれだけ賑やかだったムネノリが、黙ったままずーっと女子生徒を見つめていた。真顔での彼の視線は少々厳つく、子供が見たら逃げ出してしまうだろう。もっとも、その視線を向けられている女子生徒は困惑した様子で首を傾げるだけだった。

 

「あ、あの……?」

 

 女子生徒が呼びかけても、ムネノリは答えない。ひたすら視線を女子生徒に固定している。さすがにずっと見つめられているのは恥ずかしかったか、彼女は視線から逃がれるように顔を反らした。

 

 それからしばらくして、ようやくムネノリが口を開いた。

 

「……き、貴殿の名は?」

「え? えっと、トワ・ハーシェルと申します」

「そ、そうか。と、トワ殿か……う、む………………」

 

 トワと名乗る女子生徒から名前を聞いたムネノリはぶつぶつと周囲には聞こえない声でなにかを呟いていた。トワに名を聞いたときも、快活明朗なムネノリにしてはやけに歯切れが悪かった。はっきり言って、不気味だった。

 

「ムネノリ? どうかしたのか」

 

 見かねて、リィンは声をかける。今まで通りの口調で話しかけてしまったが、さっきまでも文句は言われてなかったし、まあいいかと思った。

 

 声をかけられたムネノリはというと、リィンの言葉に答えることもせずに、再び沈黙してしまった。そもそも、リィンの言葉が聞こえていたかも怪しかった。視線だけは相変わらずトワの方を向いていたが。

 

 リィンにはもうお手上げだった。それはムネノリ以外の2人も同じようで、リィンと同様に沈黙を保つ。

 

「——トワ殿!!」

 

 気まずい空気が流れる中、それをぶち破ったのはその原因であるムネノリだった。周囲に聞こえてしまうほどの大声を上げると素早い身のこなしで屈み込み、トワの右手を両手で勢いよく握りしめた。

 ムネノリの大声が響き渡ったせいか、周囲にポツポツと居た新入生らしき学生たちが一斉にリィンたちに注目する。

 

「え? え!?」

 

 男子に突然手を握られたからか、周囲の注目を集めてしまったからか、トワは顔を仄かに赤く染めて目を丸くしている。

 呆気に取られたのはリィンも同じで、ムネノリの奇行に言葉が出なかった。豪快な性格だろうとは思っていたが、完全に予想の斜め上の行動だった。

 

 もっとも、これは序の口だったことをすぐに知ることとなる。

 

「せ、せ、せせせ……」

「せ?」

「——せ、拙者の妻となっていただけぬだろうか!!!」

 

 ————時が止まったような気がした。衝撃の発言に観衆はピタリと動きを止め、しーんと静まり返った。リィンも、その観衆の一部になったかのように動けずにいた。観客に成り下がったリィンの目には、周囲が暗くなり、2人にスポットライトが当たっているようにさえ見えた。

 

 主役の1人であるトワは、目をパチクリとさせていた。急激な場面の変化についていけていないようにも見えたが、やがて何を言われたかを理解したらしい。灼熱の溶岩が水の中に放り込まれたかのように、一瞬で顔をリンゴのように真っ赤にした。

 

「————え、えぇえええ〜〜〜〜〜ッ!!??」

 

 トワの絶叫が、最北端のユミルまで聞こえそうなほどに木霊した。それを遠巻きに眺めながら、リィンはとんでもない同級生を持ってしまったな、と他人事のように思っていた。人、それを諦めの境地と呼ぶ。

 

 

 

 入学式から数時間後、衝撃のニュースがトールズを揺るがした。留学生の王太子、生徒会長に正門でプロポーズ! と。

 

 こうして、トールズは慌ただしくも新しい1年を迎えるのであった。

 

 



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第2話 ムネノリという男(前編)

 妻となって欲しい。そうムネノリに請われたとき、トワはその言葉の意味をすぐには理解できなかった。まだまだ先のことだろうと思っていた類の言葉だったせいか、思考が追いつかなかったのだ。

 しかし幸か不幸か、トワの優秀な頭脳はすぐさまその意味を咀嚼し始めた。

 

 妻……つまりは結婚。王太子と結婚。その結果はイズモの王妃あるいは夫人。場合によっては、将来は王后。帝国の平民から、イズモの王后へジョブチェンジ。ウルトラ玉の輿。

 数珠つなぎのように次から次へと言葉が浮かび、情報が整理されていく。

 

 そしてたった今、自分は他国の王太子からプロポーズされたのだとはっきりと理解した。その瞬間、トワの頭は羞恥と混乱で爆発した。風呂でのぼせたかのように体が火照り、顔が耳の端まで熱くなった。

 

「——え、え、えぇえええええ〜〜〜〜〜〜ッ!?」

 

 おそらくは、これまでの人生の中で最も大きな絶叫だった。告白すらされたこともないのに、いきなり求婚——それも他国の王太子から——されたのだ。免疫のないトワには列車砲の直撃並みの衝撃だった。

 

 入学式があることも、周囲の視線があることも忘れ、なぜ、なぜなのかとクラクラとする頭を全力で空回りさせる。右手からじんわりと伝わるムネノリの体温が胸をドキドキとさせた。

 

「せ、せ、拙者、貴殿の美貌に惚れ申した! 貴殿ほどの麗しい女子を見るのは初めてでございます!! 満開の桜ですら、貴殿の美しさの前では枯れ木同然でございましょう!」

 

 桜……確か東方に生息しているライノに似た木で——ではなく!

 

「そ、そ、そ、そんなことないよッ! そ、それに急に、お、奥さんに、なんて言われても、その……困るよ!!」

 

 あまりのパニックに敬語を使うことも忘れていたが、当のトワはそんなことを気にする余裕すらなかった。自分でもなんて答えたいのか分からぬまま、困惑ばかりが深まった。

 

「どうか、どうかお願い致します!! このムネノリ、一生をかけて貴殿をお守りすることを誓い申し上げます!! ですから、どうか——」

「——そこまでです」

 

 周囲から見ればピンク色に見えていたであろう路上の劇場は、唐突に終わりを告げた。

 

「ごふぅッ!?」

 

 比喩ではなく、空から人が降ってきた。その人影はムネノリの脳天に踵を叩き込み、建物が崩れるような轟音と共に彼の頭を大地に沈めた。トワの手は自由になったが、代わりにムネノリはうつ伏せのまま地面でピクピクと震えていた。

 

「え、えーと……ご無事ですか?」

 

 次々と移り変わる展開になにがなんだか分からなくなるが、とりあえず安否確認だけは行う。それに対して、ほとんど呻き声に近い声でムネノリは返事をする。一応、生きているようだ。

 これは……入学式の会場の前に医務室に連れて行った方がいいのだろうか。

 

「別にこれくらい、いつものことですから心配無用です」

 

 すたっ、と倒れたムネノリの隣に誰かが降り立った。それは、トワと同じくらいの体格の少女だった。浅黒い肌に肩で切り揃えた綺麗な黒髪で、宝石のような深みのある紫の瞳をしていた。

 なによりも特徴的なのが、7分丈の黒いタイツと着物に似た意匠の上着を着ていたことだった。着物と比べて、随分と動きやすそうに見える。明らかに西ゼムリアでは見られない格好だ。彼女が東方出身であることは想像に難くなかった。

 

「トワ・ハーシェル様。兄上が失礼を致しました。兄上に代わってお詫び申し上げます」

 

 深々と、少女は90度近くまで頭を下げた。その丁寧な対応に、トワは慌ててパタパタと両手を体の前で振る。

 

「い、いえ。大丈夫です……えっと、殿下の妹君ということでしょうか」

「はい。シノと申します。この度は兄上の護衛の忍として共に参りました。どうぞよろしくお願いします」

 

 シノと名乗った少女は再びお辞儀をする。忍という言葉に疑問を抱くも、とりあえずはトワもお辞儀を返し、改めて名乗った。

 

「基本的には姿を見せずに護衛をするので顔を合わせる機会は少ないと存じますが、御用がございましたら兄上の近くで名前をお呼びください。ああそれと、既に半ば王族からは外れていますので敬語は不要です。年下ですし」

「じゃあ、シノちゃんって呼ぶね。それで……さっきのことなんだけど」

「兄上の暴走に関しては気にしないでください。女性経験ゼロゆえ、女性の口説き方を存じていないので。そもそも、アプローチをかけること自体初めてですし」

 

 そう言いながら、シノはムネノリの制服の襟首を掴んだ。どこにそんな力があるのか、巨漢のムネノリの上体が軽々と浮き上がった。護衛として選ばれただけはある。

 

「それでは兄上を会場まで運び込みますのでここで失礼します。会場はどちらでしょうか」

「あ、えっと……ここから真っ直ぐあっちの方に進んだ建物だよ」

「了解です。それでは」

 

 会釈をすると、シノはズルズルとムネノリを引きずっていった。自身と同じくらいの体格の少女に、ヴァンダイク学院長に負けず劣らずの体格の男子が引きずられる。その光景はかなり異様だった。体の節々があらぬ方向を向いていたりするが、大丈夫だろうか。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ! その前に荷物を——」

 

 ようやく観客から復帰したジョルジュが、武器を回収するために小走りで2人を追いかけた。その場に残されたのは、トワとリィンの2人だけだった。

 

「えっと……大変ですね」

 

 リィンから飛び出たのは当たり障りのない言葉だった。なんと言葉をかければいいのか分からないのだろう。トワが逆の立場であっても、きっとそうであったに違いない。

 

「うん……ありがとう。その……とりあえず荷物を預かっていいかな?」

「ああ、案内にあった通りですね。長物なので、お気をつけて」

 

 とりあえず、仕事をしよう。そう現実逃避したトワはリィンから荷物を受け取り、その背中を見送るのであった。

 入学式が始まってもいないのに、試運転の際の特別実習のような疲れが両肩にのしかかった。しかも、問題はなに1つ解決していない。

 

 とりあえず分かっているのは、ムネノリから東方のお話を伺う目論見は脆くも崩れ去ったということだけだった。

 

 

 

 

 次の日。トワの周辺の環境は劇的に変化した。

 

 トールズ士官学院に東方の国の王太子が留学生としてやってきたこと。そしてその王太子様が入学式に生徒会長であるトワにプロポーズしたこと。それらの話は瞬く間に広まり、既に学院はその話題で持ちきりとなった。

 

 同じクラスの同級生たちはヒューヒューと盛り上がった様子ではやし立て、廊下を歩けばトワの姿を見た学院生たちがワイワイと小声で話し出す。新入生たちの中には、トワの姿を見ようと教室まで押しかける者もいた。

 

 現に生徒会室に向かっている今も、周囲からヒソヒソ話が聞こえる。チラリと目だけで周囲を見渡すと、無数の好奇心による視線を感じた。少しでも目立たぬよう、顔を伏せながら廊下を歩く。

 

(うう、恥ずかしいなぁ……)

 

 穴があったら入りたいとは、こういうことを言うのかと実感していた。以前、美術館で伯爵の夫人が街中を恥ずかしい格好で歩き回ることを強要されている様子の絵画を見たことがあるが、トワの心境はその夫人とそっくりだった。

 

「と、トワ殿ー!」

 

 ビクリ、とトワの肩が跳ねた。今、一番顔を合わせづらい御方と思しき声が聞こえた。振り向くと、トワの予想通りの人物が立っていた。

 

「殿下。その……お疲れ様です」

 

 案の定、そこにいたのはムネノリだった。ワッ、と周囲がざわめく。周囲の盛り上がりに比例して、トワは顔がどんどん熱くなるのを感じた。

 ……まともにムネノリの顔を見れない。なんと言うべきか、昨日のことがあるので気まずい。

 

「はい! お疲れ様でございます! 昨日は申し訳ございませぬ。トワ殿のあまりの可憐さにこのムネノリ。少々我を忘れてしまいました」

「そ、そうですか……」

 

 ムネノリの言葉に、トワは顔をうつ向かせてしまう。褒められるのが嬉しいというよりは、恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。周囲の反応が気になってしょうがないのだ。

 

「それで、その、なにか御用でしょうか」

 

 手短に話を終わらせてこの場から一刻も早く立ち去りたくて、トワの方から要件を尋ねた。

 

「うむ。実はお詫びも兼ねて、トワ殿にこれをお渡ししたいと思ったのです」

 

 すっ、とムネノリは手に持っているものを差し出した。それは、1輪の赤バラだった。帝国女子であれば必ず知っているであろう、『熱烈な求愛』の花言葉を持つ品種だった。

 

「グランローズ……」

「その通りでございます! 花屋で尋ねたところ、帝国では求愛の証にこのバラを贈る習慣があると聞きました!」

 

 周囲から黄色い歓声が上がった。確かに、グランローズを男子から贈られることは女子にとっての憧れの1つだ。トワだって小さいころ、そういう憧れを抱いたりもした。しかし、今はそれを受け取る気にはなれなかった。

 

 その、なんというか……トワとしては出会ったばかりでお互いのこともよく知らないのに、こんなにグイグイ来られてもどうすればいいのか分からないのだ。

 

「あの、お気持ちは大変嬉しいのですが、その……わたし、まだ進路を決めかねている身でございまして……今はまだ、殿下のお言葉に対して確かなお返事をすることができません。そのような段階でこのようなものをいただくのは……その、些か時期尚早かな、と……」

「うっ、そ、そうでございますか……」

 

 なるべく丁重にトワが断ると、ムネノリは尻尾を垂らした犬のように落ち込んだ。その様子に胸がチクリと痛んだが、前言を撤回するわけにもいかなかった。ただの学生が、いきなり妃になる決断などできないのだ。

 

「……あの、トワ殿。せ、せめてお詫びの証としてだけでも受け取っていただくわけにはいきませぬか。ただの1輪の花としてでよいので」

「ぅ……えっと……」

 

 先ほどと比べると随分と控えめに、再びバラが差し出された。本当はここできっぱりと断るべきなのだろうが、相手が他国の王太子であること、そして1度は断ってしまったがゆえの罪悪感がそれを邪魔する。

 

「そういうことでしたら……頂戴致します」

 

 そして結局、トワは受け取ってしまった。ムネノリは輝く太陽のような満面な笑みを浮かべ、満足そうに帰って行った。

 

 その後、グランローズを持って生徒会室に現れたトワを見た他の生徒会メンバーは、仕事を忘れて大騒ぎするのであった。結局、仕事の進行が1日分遅れた。

 

 次の日、学院では『グランローズ事件』として反響を呼んでいた。

 

 

 

 

 次の事件は『グランローズ事件』の2日後に起こった。再び、ムネノリがトワの前に現れたのだ。昼休みにトワが中庭で昼食をとり終えたときのことだった。今度は、手元に本を持っていた。相当読み込んだのか、かなりの数の付箋が貼られていた。

 

「どうかされましたか」

「うむ。えっと…………少々お待ちくだされ」

 

 しばらく言い淀んだあと、ムネノリは手に持っていた本を開いた。おそらく、暗記していた内容を忘れたので急いで確認しているのだろう。

 

 待っている間、トワはこっそりとその背表紙に目を向ける。背表紙には、『ヒツジンでも分かる、必勝求愛マニュアル!』と書かれていた。

 

(えーっと……)

 

 ……突っ込みたいことが瞬時に100個ほど浮かんだ。アプローチする相手の前で恋愛本を開くのはどうなのだとか、そんなタイトルの本を本当に読み込んだのかとか、もっとマシなタイトルの本はなかったのかとか……とにかく枚挙に暇がなかった。

 

 付箋の数からして真剣なのは伝わる。しかし女子側のトワとしてはどうしても複雑な気分だ。仮に百年の恋であっても、冷凍庫に入れたコーヒーのように冷めてしまうのではないだろうか。

 

「おお、あった、これでござる! ごほん……その、トワ殿」

「はい、なんでしょう?」

「——月が綺麗でございますな!」

 

 ………………10秒ほど、沈黙が流れた。トワの頭の中で、ムネノリの言葉が反響する。その言葉の意味を考えるが、答えは出なかった。

 

 ヒツジンでも分かるとのことだが、少なくともトワには全く分からなかった。もしかして自分はヒツジン以下なのだろうか。

 ムネノリの顔を見ると、どうですかと言いたげに自信に満ち溢れていた。どうやら、相当悩み抜いた末にこの言葉を選んだようだ。トワは意味を理解できなかったが。

 

 トワは空を見上げてみる。雲1つない見事な快晴だった。

 

「……その、月はまだ出てませんけど」

「ぇ……あ、そ、そうでございましたな! これは失敬!」

 

 ようやく自らのミスに気づいたのか、ムネノリは慌てて謝罪したあとに必死の形相で他のページを確認し始めた。そもそも何故、昼休みを選んだのだろうか。

 

 その後もムネノリは本からいくつかの言葉を抜粋するが、どれもトンチンカンな内容だった。居た堪れなくて、まずその本を使うのを止めるべきなんじゃないかと言い出すか迷ったが、立場上なんとなく言い出せなかった。

 

 結局、半ば暴走状態と化したムネノリは再びシノに沈められて教室に連行された。電光石火の早業だった。

 

 そして一部始終を誰かが見ていたのか、次の日には『満月快晴事件』として学院中に知れ渡っていた。

 

 

 

 

 それ以降も、ムネノリのアプローチは続いた。所構わず声をかけてくるものなので、必然的に周囲の注目を集め続けた。そして結果的にそれらが新しいニュースとして学院に投下される為、求婚騒ぎの話題はいつまで経っても色褪せず、沈静化する気配はなかった。

 

 入学式から既に2週間。今となっては、心休まる場所は寮の自室と技術棟だけだった。

 今はその数少ないオアシスである技術棟で、かつての試運転を共にした仲間であり、親友でもある3人とお茶をしていた。

 

「ふふ、それにしても随分と情熱的なアプローチを受けているじゃないかトワ。惜しむらくは、入学式の決定的な瞬間に立ち会えなかったことだね」

 

 親友の1人、アンゼリカは心底愉快そうにカップを傾ける。体のラインに沿った革製のスーツを纏った上で足を組むという、四大名門のご息女にあるまじき所作だが、不思議と優雅さは損なわれていなかった。

 

「むぅ、アンちゃんだって実家のお見合い話断っている癖に」

「それはそれ、これはこれさ。それに半端者にトワを任せるつもりは毛頭ないが、彼ならば問題ないだろうしね。入学時の座学は4位。それになんでも、模擬戦であのラウラ君と引き分けたそうじゃないか」

 

 そう、そうなのだ。言い方は悪いかもしれないが、もしムネノリが帝国の悪徳貴族のような人物であったのならば、とっくにきっぱりと求婚を断っていただろう。それがたとえ異国の王太子という身分であったとしても。しかし、実際はその真逆なのだ。

 

 剣の達人を祖に持つムネノリの剣の腕は同世代では断トツで、同じく学年最強と目されていた《光の剣匠》のご息女であるラウラ・S・アルゼイドとの模擬戦で引き分けとなる激戦を繰り広げたらしいのだ。

 実際に目撃したわけではないが、教官のサラ・ヴァレスタインがそう言っていたのだから間違いないだろう。

 

 次に、座学だ。王族として相当な英才教育を受けていたのか、入学時の成績はエマ・ミルスティン、マキアス・レーグニッツ、ユーシス・アルバレアに次ぐ4位だった。

 授業では導力学や歴史、文学系など帝国固有の範囲で苦労しているようだが、全体的には優秀な部類だ。

 

 それでいて、人格者でもある。なんでも、現在は一学生の身であるから特別扱いは不要だと公言しており、タメ口だろうと全く気にしていないそうだ。少なくとも、己の身分を笠に着ているような話は聞かない。

 実際、トワも1度は敬語は不要だと言われたことがあった。しかし、イマイチ距離感が掴めないでいるのと、生徒会長という立場もあって敬語を続けている。

 

 とにかく、総合的に見れば好感の持てる人物なのは間違いない。ついでに王族なので財力もあるだろう。強いて言うのならば、恋愛のアプローチの拙さが弱点だ。アンゼリカが認めるのも不思議ではない。そしてだからこそ、困るのだ。

 別に優良物件として確保しておきたいという打算的な発想は、女神に誓って存在しない。単純に、悪い人ではないと分かっているからこそ、強く拒絶しようにも良心が邪魔するのだ。

 

「というかよ、なにが不満なんだよ? マジもんの玉の輿じゃねぇか」

 

 以前生徒会室でトワのことをからかったクロウが問う。ちなみに数日前、トワとムネノリが上手くいくかどうかの賭けごと(もちろん、ミラを賭けてたわけじゃない)の胴元をやっていたのを見つけたので、捕まえて説教したばかりだ。

 

「不満というか、悪い御方じゃないのは分かるけど……いきなり奥さんになってくださいーって、言われても困っちゃうよ……」

「僕も見てたけど、本当に出会った直後に求婚されてたもんね。そりゃ、困るだろうさ」

 

 唯一の目撃者であるジョルジュがフォローを入れてくれた。彼は中立の立場だが、どちらかというとトワ寄りだ。

 

「それに、もし仮にお受けしたらイズモの王妃か夫人でしょ? なんていうのかな、私みたいな平民がいきなりそんな立場になるのはイズモの人たちに申し訳ない気がするし……」

「トワの器量なら問題ないだろうがね。確かに、いきなり東方の異国に嫁ぐともなれば不安になるのも無理はないかな。そんな風に迷うトワも健気で愛しいがね」

 

 アンゼリカが納得した風に頷く。もっとも、彼女は本気で結婚に賛成しているわけではなく、単に面白がっているだけだろう。ムネノリを認めているのは本当だろうが。

 

「ま、こんなちっこい王妃様が来てもイズモの連中も困るだけだろうしな」

「いや、別に体の大きさは関係ないと思うけど」

 

 ジョルジュが呆れた様子でクロウに突っ込む。

 

「むしろ、君みたいな男が婿入りする方が迷惑がられるんじゃないかい? ギャンブルで国庫を使い果たしそうだ」

「……言っておくけどなゼリカ。俺はミラを使ったギャンブルは1度もやったことねぇからな。ていうか、お前に嫁がれるのだって似たようなもんだろ。女ばっかに構ってたら、世継ぎができなくなっちまうだろ」

「いやいや、私だって四大名門の娘だ。女としての最低限の義務は果たすさ。もっとも、それとは別に楽しませてもらうのも確かだが」

「よりタチが悪いんだよ!」

「あはは、まあまあ」

 

 クロウの皮肉にジョルジュが突っ込み、アンゼリカが皮肉を返し、クロウがそれに応じ、ヒートアップしたところでトワがなだめる。これが4人の日常だ。

 やっぱり、この4人でいるときは落ち着く。トワが大変なときでも、こうして普段通りでいてくれることがなによりも嬉しかった。

 

 トワは技術棟にいる間、ひたすら笑い続け、たっぷりと心身をリフレッシュさせるのであった。

 

 

 

 

 入学式から3週間くらいが経とうとしていたある日の放課後、トワは調べ物の為に図書室へと来ていた。何人かの学院生がトワを見るが、少なくともヒソヒソ話をすることはなかった。図書室だからだろう。トワは幾分か緊張が和らぐのを感じた。

 

 目当ての本がある本棚を求めて、2階に上がる。図書室は何度も利用している為、おおよその配置は把握している。

 背表紙のタイトルを確認しつつ、必要な本をピックアップしていく。パラパラと内容を確認しながら取捨選択していた為、それなりに時間を要した。

 

(うん、これで大丈夫かな)

 

 数冊の本を抱えたトワは、落とさないように注意しつつ階段を降りようとする。しかし、踊り場に差し掛かったところで思わず足を止めてしまった。

 

(で、殿下だ……)

 

 1階の読書用のテーブルに、読書をしているムネノリがいた。図書室に入ったときにはいなかったので、きっとトワが本を選んでいる間に来たのだろう。

 

(うぅ……どうしよう)

 

 トワはムネノリからは見えづらい場所に身を隠しながら、その様子を伺う。本を持ち出すには1階の受付で貸し出し手続きが必要なのだが、ムネノリはそのすぐ近くに陣取っているのだ。今は読書に集中しているようだが、手続き中に気づかれてしまうかもしれない。

 

 いや、別に声をかけられるのは構わないのだ。元々、ムネノリと話したかったのはトワも同じだ。ただ、アプローチされてしまうのが困るのだ。度重なるアプローチのせいか、トワはムネノリへの苦手意識が芽生えていた。

 

 ムネノリが図書室を去るまで待つ? しかし、まだ生徒会の仕事が残っているのに時間を無駄にしたくない。それに、相当な数の本をテーブルに置いている。当分去りそうにない。

 

(でも、あんなに本を積まれてるなんて、勉強熱心だなあ。……なんの本を読まれてるんだろ?)

 

 打開策が見出せずにいたせいか、トワも勉強熱心な気質なせいか、ふとした拍子にムネノリが読んでいる本の内容が気になってしまった。

 2階を移動し、ムネノリの頭上に立つ。吹き抜けとなっている為、上からでも見えるのだ。チラリと積まれている本の背表紙に目をやる。すると、意外なラインナップだった。

 

(精霊信仰、魔女の伝承……それと、農学? なんの関係が……)

 

「——イズモの為です、トワ様」

「ッ!?」

 

 本のタイトルに気を取られていたら、突然横から小声で声をかけられた。びっくりして大声を上げそうになったが、それを見越したかのように口が誰かの手のひらで覆われた。

 

「驚かせて申し訳ございません。シノです」

 

 横にいたのはムネノリの妹のシノだった。立てた人差し指を唇に当てて、静かにするようトワに促していた。

 返事ができないトワは、代わりに頷く。するとシノはトワを解放した。自由になったトワは、同じく小声で応じる。

 

「ありがとう、シノちゃん。えっと、一体どこに? さっきまで、全然見かけなかったのに」

「それはまあ、私、忍者ですから」

「そ、そうなんだ……」

 

 その忍者とやらがなんなのかはよく分からないが、それ以上は聞けなさそうな雰囲気だった。

 2人は少しばかりムネノリから離れた場所に移動すると、小声で話を再開した。

 

「それで、イズモの為って?」

 

 トワはシノに問う。そういえば、なぜトワの考えていることが分かったのかを聞こうとして……止めておいた。また「忍者ですから」で済まされそうな気がしたからだ。

 

「……トワ様は、東方の現状をどの程度ご存知ですか」

「え、うーん……最近は東方からの移民が多くなってきた、というのは知ってるけど……」

 

 その移民の増加の背景に経済の悪化などが思い至ったが確証はない。つまり、トワも多くは知らないのだ。

 

「では、東方の一部の地域で砂漠化や干ばつが進行しているというお話は?」

「……え?」

 

 寝耳に水だった。そんな話、聞いたこともなかった。

 

「数十年前と比べて、多くの地域が居住に適さなくなっているそうです。実際、数十年前には存在したいくつかの小国は消滅して他の国に併合されています」

 

 つまり、移民が増加している理由は東方で人が住める場所が減っているから、ということらしい。想像していた以上に深刻そうな事情に、本を抱えている腕に力が入った。

 

「……幸い、イズモではまだその現象は確認されていません。しかしここ数年、イズモでの収穫量は減少傾向です。おそらくは無関係ではないでしょう。今はまだ無視できる範囲ですが、20年後、30年後にはどうなっているか分かりません」

 

 シノは一瞬ムネノリに視線を向けると、話を続ける。

 

「理に至った達人方は口を揃えて龍脈の枯渇が原因なのでは推測しています。私はまだその域に至っていないので感じ取ることはできませんでしたが、なにか霊力的な力が関係しているということだと思います」

「霊力……それは、導力とはまた違うのかな?」

 

 導力社会でずっと暮らしていた身だからか、トワには霊力というものがどういうものなのかピンと来なかった。東方武術である泰斗流を修めたアンゼリカであればなにか知っていたかもしれない。

 

「分かりません。ただ、導力は地中から掘り出すことができる七耀石からもたらされるエネルギーで、エネルギーを使い果たしても自然と回復します。ですが、無から有が生ずるとは考えづらいと兄上は仰っていました。それが龍脈や霊力となにか関係があるのではないかとお考えです——だからこそ、兄上はイズモを守る手立てを求めて帝国を留学先に選ばれたのです」

 

 シノ曰く、決め手となったのは導力技術、農業技術、そして各地に残る精霊信仰だったそうだ。

 エレボニア帝国は西ゼムリアにおいてあらゆる分野の最先端を行く大国である。その大国で得られる導力技術の中に、何かしらの手がかりがあるかもしれない。農業についても同様で、東方には存在しない画期的な農法があるかもしれない。

 また、帝国各地には女神信仰とは別の精霊信仰が多数残っている。他にも魔女の伝承など、暗黒時代や中世に存在したと言われる錬金術や魔術に関する手がかりも多い。

 

 ムネノリはそれらは霊力となにかしら関係があったのではないかと睨んでおり、それを調べようとしている。

 最先端の技術の学習と、霊力に関する解明。それらを同時に進めるには、エレボニア帝国が適していたということらしい。最高峰の導力技術を持ち、長い歴史を持つリベール王国も候補に上がったそうだが、調べられる国土の広さを考えて帝国に決めたようだ。

 

「……そういう訳で、まだ比較的自由である王太子の身である内に留学を決意されたのです」

「そう、だったんだ。……ごめんね、もっとちゃんと東方のことを調べてれば、砂漠化のことくらいは分かっていたかもしれないのに」

 

 トワは、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。入学式の前は、しっかりムネノリをサポートしないといけないと思っていた筈なのに、ムネノリたち東方の人間が抱えている事情を全然分かっていなかった。東方からの留学生という言葉に、自身も浮かれていたのかもしれない。

 

「気にしないでください。少なくとも今のイズモは平和そのものですし、それはそれとして兄上も最後の自由だと言わんばかりに学院生活を満喫する気満々ですから。現に今、トワ様に熱を上げておられますし」

 

 ジトーという効果音が聞こえそうな半目でシノはムネノリを睨んでいた。それに対し、トワは「あはは」と苦笑を返すしかなかった。シノのフォローのおかげで、少し元気が出た。

 

「教えてくれてありがとう、シノちゃん。でも、なんでわたしにそんな話を……?」

 

 確かにきっかけはトワが疑問に思ったことだったが、まだ出会ってそれほど経っていない自分にここまで詳しく事情を説明してよいのだろうかとも思った。

 

「……トワ様に、兄上のことを誤解されたくなかったのです」

「誤解?」

「別に兄上がトワ様に熱を上げようと、結果的にトワ様がお断りすることになっても構いません。ですが、兄上が異国の地で色恋に現を抜かしたいが為だけに留学したとは思われたくなかったのです。私は心の底から、兄上の王族としての振る舞いを尊敬していますので」

「あ……」

 

 胸にストンと落ちるように全ての点が繋がった。確かに、もし自分が叔母や叔父、従兄弟のカイのことを誰かに悪い風に誤解されていたら、誤解を解こうとするだろう。それと同じことだったのだ。

 

「兄上の迫り方は控えめに見ても最悪だと思いますし、行き過ぎてるようでしたら前みたいに私が諌めます。ですので……あまり嫌いにならないでいただけると、その、嬉しいです……」

 

 最後の最後で恥ずかしくなったのか、シノは淡く頰を赤らめて明後日の方向を向いてしまった。きっと兄の為に、精一杯勇気を出したのだろう。不覚にも、トワはその仕草が可愛らしいと思った。

 

「……うん、ありがとう」

 

 トワは改めて、お礼を言った。すると、シノは軽く会釈だけして忽然と姿を消した。

 

 トワは、視線をムネノリに向ける……いや、向けようとした。

 

(……あれ? もういらっしゃらない……)

 

 長話が過ぎたのか、ムネノリの姿はもうなかった。おそらく、軽く本の内容に目を通したあと、必要な本だけを借りて行ったのだろう。

 

(……少し、お話できればと思ったけど)

 

 元々、ムネノリに悪い感情は抱いていなかった。無論、悪い人だとも思ってなかった。でも、少し……ほんの少しばかり、迷惑だな……と思っていたのも紛れもない本心だった。

 

 求婚をお受けする訳にもいかず、かと言って邪険にすることもできない。そんな板挟みの中で続くムネノリのアプローチとそれに関連する学院の姦しい声に、少しばかり心労が溜まってしまったのも事実だ。先ほどムネノリを避けようとしてたのも、結局はそれが原因だ。

 

 だが、トワが思っていた以上に高潔な御方であることを今、知った。それと、東方の現状も。

 

(……わたしも、わたしなりに調べてみようかな)

 

 アプローチのことはさておき、ムネノリの留学の背景を知って黙っていられるほどトワは冷たい人間ではない。むしろ、周囲から呆れられるほどのお人好しだ。是非とも、力になりたいと思った。

 

(ああでも、調査は明日……ううん、明後日くらいからかな。まだまだやらないといけないことがあるし)

 

 決意をしたはいいが、今のトワは生徒会長。会長としてこなすべき仕事がどっさりとある。明後日までは他のことに構っている余裕はなさそうだった。

 

 とにかく今はやるべきことを片付けよう。そう決めたトワは、貸し出し手続きを済ませて生徒会室に戻った。今でも周囲からの関心は絶えなかったが、図書室に入る前までよりは気にならなかった。

 

 

 

 

 

 

 ——ところが次の日、問題が起こった。早朝、トワがベッドから起き上がったときのことだった。

(うっ……頭、痛い……)

 ズキズキと痛む頭、焼けるように熱い喉。そして体温計が指し示した『38.4』という数字。疑いようもなく、トワは風邪をひいてしまっていた。

 

 



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第3話 ムネノリという男(後編)

 38度4分。れっきとした風邪だった。本格的に生徒会長の座を引き継いでから随分と忙しくしていた為、知らない内に疲労が溜まっていたのかもしれない。長いこと病気とは無縁だったので、完全に油断していた。

 

 頭が痛い。視界がぼーっとする。喉が痛い。寒気がする。汗が気持ち悪い。

 トワは荒い呼吸を繰り返しながら、なんとか頭を回転させる。

 

(どうしよう……今日までに終わらせないといけない仕事があるのに……)

 

 会長のトワにしか処理できない、今日中に提出しなければいけない書類がいくつかある。提出されなかった場合、多くの人に迷惑がかかってしまうような書類だ。

 

(……行かないと)

 

 今日だけは、なんとしても登校しなければならない。幸い、今日は授業の数自体は少ない。悟られないように注意しながら、必要な仕事だけ終わらせて、さっさと帰って休めばいい。

 

 トワは鉛のように重い体を気力で動かし、薬を飲んでから登校するのであった。

 

 

 

 

 Ⅶ組の教室。丁度、授業が終了して昼休みに入ったところだった。リィンは軽く伸びをして、体をほぐす。

 

(ふう、今日の授業も大変だったな。日に日にハードになるから、付いていくだけでも一苦労だ)

 

 流石は帝国でも随一の名門トールズだ。そういう意味では、留学生であるガイウスやムネノリは立派なものだと思う。入試の成績は上位で、今もしっかり授業に付いて行っているのだから。

 

 ——もっとも、どうやらムネノリは学業とは別になにか問題を抱えているようだ。自分の席でぐったりとしながら、ため息をついていた。

 その理由をリィンは容易に察した。というより、学院生の中でそれを察することができない者など存在しないだろう。

 

「はあ……一体、どうすればよいのだろうか……」

「どうしたんだムネノリ。元気がなさそうだが」

 

 見かねたリィンは声をかける。ムネノリがイズモの王太子であることは周知の事実だが、一学生として接して欲しいというムネノリの要望に従い、タメ口を続けている。

 

「リィン殿。いや、失礼。みっともないところを見せてしまったでござるな」

「気にすることないさ。なにか悩みでもあるのか。よければ相談に乗るけど」

 

 素知らぬ顔をしながら、リィンは問いかける。他のⅦ組のみんなも興味があったのか、絶賛喧嘩中のアリサに至るまでの全員が退室を中断し、虫が蜜に吸い寄せられるようにムネノリの方に集まった。あっという間に9人分の輪ができあがる。

 

「そうですよ、ムネノリさん。皆さんに話している内になにか妙案が思いつくかもしれませんし」

 

 エマが慈愛に溢れた微笑みを携えながら、優しい言葉をかける。しかし、その笑顔の裏からなにやら邪な気配が漂うのは気のせいだろうか。

 

「う、うむ……そうであろうか」

「そ、そうよ! ほら、私たち同じⅦ組の仲間じゃない? 助け合うのは当然よ!」

 

 アリサが熱弁する。よく見ると、目をキラキラとさせている。そのあからさまな態度のおかげで、将来は朴念仁と呼ばれることが確定しているリィンにも彼女の意図が理解できた。要は、ムネノリの色恋に興味津々で、とにかく首を突っ込みたいのだろう。きっと、エマも同様だ。

 

「かたじけない。そういうことであれば、聞いてもらってもよいだろうか」

 

 しかし当事者ゆえか、ムネノリは裏の意図に気づくことはなかった。Ⅶ組の熱い絆(?)にほだされたムネノリはポツポツと語り始める。もっとも、なにを相談されるかは分かりきっているが。

 

「実は拙者……トワ殿を妻として迎えたいがため、ずっとアプローチを続けているのでござるが、トワ殿はうんともすんとも言ってくださらぬのだ。それどころか、最近は避けられているような気さえするのでござる」

「ふん、なにか失礼なことでもしたんじゃないか。そもそも、衆目がいるど真ん中で求婚すること自体、どうかしてると思うが」

 

 そんな至極真っ当な指摘をするのはユーシスだ。正直、彼がこの場に立っているのは意外だった。クラス全員の悩みでもあるマキアスとのいがみ合いも、不思議なことに今はしていない。

 

「ふむ、そうだろうか。リィンの話によれば、真正面から想いを告げたのであろう? 中々に情熱的で、好感が持てると思うが」

 

 武人気質で比較的考え方がムネノリに近いラウラが反論する。模擬戦で引き分けたこともあって、ラウラの中でのムネノリの評価はだいぶ高いようだった。

 

「ちなみに、ムネノリは他にどんなアプローチをしたの? 噂では、いくつか聞いてるけど……」

 

 エリオットが問う。噂というのは、いきなりグランローズを贈ったとか、支離滅裂な愛の言葉を囁いたとかなど、失敗が目に見えて浮かぶようなエピソードばかりだった。ちなみに、リィンはなぜグランローズを贈ったのか分からず、エリオットに聞いてから自身の不調法を知った。

 

「うむ。恥ずかしながら恋愛ごとは初めてゆえ、この書物を取り寄せて勉強しておったのだが……」

 

 そう言って、ムネノリは『ヒツジンでも分かる、必勝求愛マニュアル!』という本を取り出した。

 ——次の瞬間、アリサは本を取り上げてゴミ箱に放り捨てた。

 

「な、なにをするでござるか!? それは5000ミラもした貴重な……!!」

「あんな本に5000ミラも使ってんじゃないわよ! あんた、女心舐めてるでしょ!」

 

 アリサが吠える。鬼も逃げ出す凄まじい気迫にムネノリは叱られた子供のように黙りこくってしまった。他の女性陣もフィー以外はうんうんと頷いていた。

 

「ま、まあ、本の選定ミスに関しては同感だが……積極的にアプローチするのがそんなに悪いことなのか。僕からすれば、凄く勇気のある行動だと思うが」

「いえ、マキアスさん。確かにアプローチは大事ですが、物事には段階があります。女性というのは、男性の外見よりもむしろ内面を気にするんです。ムネノリさんがプロポーズしたのは会ってすぐですよね? 会長からすれば外見だけで選ばれたという風にも見えますし、そもそも会長はムネノリさんがどんな方なのか分からない訳です。戸惑われるのも、無理はありません」

 

 理路整然としたエマの説明に、リィンはなるほどと感嘆の声を漏らす。つまり、自分にとって本当に最良な相手なのか分かるまでは、女性は簡単には首を縦に振らないみたいだ。

 

「そうなると、まずは互いのことを知っていくのが大事ということになるな。出会ってすぐということは、ムネノリは一目惚れだったのだろう?」

「それは……その……うむ……だが……」

 

 ガイウスの質問に、ムネノリはもごもごと口を動かしながら言い淀む。図星だったようだが、それだけではないような気配も感じた。ただ、リィンがそれを追求する前にアリサがムネノリの机を両手で叩いた。

 

「とにかく! 今のあんたに必要なのは愛を囁くことじゃなくてコミュニケーションをとることよ! 生徒会の手伝いでもなんでもいいから、話すきっかけを作りなさい!」

 

 アリサの発言を皮切りに、女性陣がヒートアップし始めた。あーでもない、こーでもない、と作戦を話し合ってはムネノリに指示を出していく。ムネノリも生真面目な性格な為か、次々とメモを取っている。唯一、フィーだけは眠そうにまぶたをこすっていた。

 

 いずれにせよ、男性陣は蚊帳の外に追いやられてしまった。手持ち無沙汰になったリィンたちは、彼女らの分も含めて昼食を買って来るべく教室をあとにした。

 帰って来るころには、おおよそのプランは纏まっていたのだった。

 

 

 

 

 放課後。窓から差し込んだ夕日が廊下を染め上げ、グラウンドからは部活動に勤しむ活気のある声が響いている。

 

 そんな中、ムネノリは生徒会室の前までやって来た。アリサたちに背中を押された為だ。実際のところ、行けと命じられたの方が正しいが。

 

 ムネノリの前にはしっかりと閉じられた生徒会室の扉。今のムネノリには、それは天にも届きそうな巨大な城門のように見えた。

 

 緊張で喉が乾く。嫌な汗が背中を伝う。最近トワに避けられていることを思い出し、本当に入って大丈夫なのだろうかと葛藤する。

 

(……いかんいかん! せっかくⅦ組の皆が知恵を出し合ってくれたのだ。拙者が及び腰になってどうする!)

 

 パンパンと両手で頬を叩いて気合を入れる。武術においても、敢えて相手の懐に飛び込むのが正解なことが多々ある。きっと今の状況は、それと同じだ。

 

(念の為……念の為に、最後にもう1度アレを確認しておくでござるか)

 

 ムネノリはごそごそと己の懐を漁ると、手のひらサイズの小さな巻物を取り出した。スルスルと開くと、表題には『Ⅶ組恋愛十ヶ条』と書いてあった。アリサたちが纏めたものを、ムネノリが巻物に書き写したのだ。

 ムネノリは、そこに書かれている内容に目を通していく。

 

 一:求婚や求愛の類は一切行わないこと。

 二:この十ヶ条を会長から見える場所で読まないこと。

 三:会長と世間話を行うようにすること。自慢話などは論外である。

 四:会長の身体的特徴について言及しないこと。

 五:会長を夕食に誘うこと。もしここで断られたら別の日に昼食に誘うこと。

 六:双方が食べたいものが食べられる場所を選ぶこと。

 七:今回だけでいいから奢ること。

 八:ちゃんと寮まで送ること。

 九:送り狼にならないこと。

 十:最低でも十ヶ条を3回読み直すこと。

 

 十ヶ条に従い、ムネノリはその場で3回読み直す。ちなみに、空き時間にも頻繁に確認していたので、これで読むのは通算10回目だ。

 

「……よし。行くでござる」

 

 書かれている内容をしっかりと頭に叩き込み、巻物をしまうと、いよいよ覚悟を決める。

 ムネノリは力強く、生徒会室の扉をノックした。

 

 …………ところが、いつまで経っても扉が開く様子はなかった。再度ノックを行うが、結果は同じだった。

 

(……留守でござるか)

 

 そう結論付けざるを得なかった。せっかく奮い立たせた気持ちが萎むのを感じる。どうしてこうも上手くいかないのだろうと、思わず溜め息が出る。それとも、恋愛というのは元々こういうものなのだろうか。

 

 とにかく、不在なのであれば日を改めて挑戦するしかない。そう思ったムネノリは踵を返そうとする。

 

 ——その瞬間、生徒会室の方からガタンと大きな音がした。多くの重い荷物が一斉に床に落ちたような音だった。誰かが中にいるのは明白だった。

 

 居留守を使われた線もあったが、生徒会の者がそんなことをするとも考えづらい。

 ならば賊なのかもしれないとムネノリは考えを飛躍させた。王族としての教育を受けてきた為、ムネノリは常に最悪の可能性を想定する。

 

 もしそうなのであれば取り押さえてやる。ムネノリは迷わず生徒会室の扉を開いた。

 

 緊急用として懐に忍ばせてある脇差に手をかけながら、ムネノリは生徒会室全体を素早く確認する。不審人物がいればすぐさま拘束するつもりだった。

 

 ……結論から言えば、それは賊でもなんでもなかった。ムネノリは大きく目を見開く。

 

 ムネノリの目に映ったのは、数多の本と共に床に崩れ落ちているトワの姿だった。

 

「——トワ殿!」

 

 賊のことも十ヶ条のことも忘れ、ムネノリは真っ直ぐトワに駆け寄った。

 

 

 

 

 ムネノリが生徒会室にたどり着く少し前のことである。

 

 無理をしていたせいか、トワの体調は時間が経てば経つほど悪化した。それでもトワはそのことをおくびにも出さず、仕事を続けていた。

 たとえ高熱であっても、本人がそれを本気で隠そうとすれば意外と気づかれないことをトワは経験で知っていた。そして実際、その通りだった。

 

 トワにとって幸運だったのが、いつもの3人が不在であることだった。クロウとアンゼリカはサボりで街へ繰り出しており、ジョルジュは昨日から技術棟に缶詰めだ。もし3人の誰かがトワの側にいれば、トワの体調不良に気づけただろう。しかし、実際はそうはならなかった。

 

 生徒会メンバーですらトワの異変に気づくことなく、己の仕事を終えた者から次々と下校してしまった。そして今、生徒会室にいるのは仕事のペースが鈍化していたトワだけだった。

 これによって、誰かがトワの症状に気づく可能性がほぼ消滅した。

 

「はぁ……はぁ、はあ……」

 

 もはや仕事どころではなかった。体は睡眠による休息が必要だとしきりに訴え、トワに強い眠気をもたらす。ほんの少しでも気を抜くと、視界が揺らぐ。地獄の釜で体が煮られているかのようで、熱くて、痛くて、苦しくて仕方がなかった。

 

 そんなときだった。不意に生徒会室の入り口からノックが聞こえたのは。

 

(……誰、だろう。出ない、と……)

 

 トワは立ち上がろうとする。しかし、できなかった。体に力が入らず、生まれたての子鹿のように四肢が震える。

 

「うっ……くっ……っ……」

 

 再びノックがした。決して、急かすほどの間隔ではない。単にトワが出るのが遅すぎるのだ。

 

(早く、出ないと……行っちゃうかも)

 

 このままだと、相手は不在だと思って立ち去ってしまうかもしれない。もしかしたら重要な用事なのかもしれないのだ。なんとして出なければならない。

 机の淵に体重をかけるようにしながら、ノロノロと進んでいく。

 

 ところが、トワの体はもう限界だった。無理を押して朝から夕方まで働いていたトワの体は、もはや動けるようにはできていなかった。

 

「ぁ……!」

 

 導力が切れたように、ガクンと体から力が抜けた。その際、腕が積み上げてあった本の山にぶつかり、トワと一緒に崩れ落ちる。

 ガタゴトと本が立て続けに床に落ちる音と共に、トワは床に倒れた。

 

 直後、入り口のドアが開く。ぼんやりする視界をそちらへ向ける。幸い、まだ微かに相手を判別する余力は残っていたようだ。

 

「——トワ殿!」

「っ……で、殿下…………」

 

 現れたのはムネノリだった。驚いたように目を丸くしている。

 

「大丈夫でございますか!? お怪我は!?」

 

 ムネノリは一瞬でトワの側に駆け寄ると、ゆっくりとトワの上体を抱き起こす。彼の腕は力強く、それでいて優しかった。

 

 大丈夫です。そう伝えたかったが、上手く唇が動かない。そしてそれを伝えるよりも先に、ムネノリの手のひらが額に当てられていた。

 

「……すごい熱でござる、すぐにでも休まなければ。……念のためお聞きしますが、歩けますか」

「えっと……っ……はぁ、ぅ……ん……はぁ」

 

 足に力が入らない。やはり、もう無理そうだった。トワは力なく首を横に振った。

 

「そうですか。では——シノ!」

「ここに」

 

 音もなくシノが現れた。

 

「トワ殿を医務室までお連れする。その役目は拙者より女のシノの方がよいだろう。だから——」

「それなのですが」

 

 ムネノリの言葉をシノが遮った。

 

「ベアトリクス教官は1時間ほど前に出張で帝都に向けて発っております。現在、医務室は機能しておりません」

 

 どうやら、最悪のタイミングだったらしい。ベアトリクス教官と会ったらすぐに風邪だと見抜かれてしまうと思い、今日は医務室に近づかなかったのでそのことを知らなかった。

 

「そうか。なら、トワ殿の自室にお連れしろ。それと着替えなどの世話を頼む。拙者もすぐに向かう」

「ま、待って……まだ、わたしがやらないといけない仕事が……」

 

 ほんの2、3点ほどだが会長である自分にしか処理できない仕事が残っている。それを放置したら、大変なことになってしまう。特に、Ⅶ組が。

 

「そんなもの、サラ教官にお任せすればよいのでございます。先ほども暇しておりましたゆえ、事情を話せば分かってくれましょう」

 

 そういう訳にも、と反論したかったが、ムネノリの有無を言わせぬ鋭い眼光にさすがのトワも黙らざるを得なかった。

 

「引き継ぎ等に関しては拙者がやっておきます。トワ殿は早くお休みください。——シノ」

「承知しました」

 

 シノはトワに小さめのタオルケットをかけると、背中に手を回す。次の瞬間、トワはシノによって抱え上げられた。いわゆるお姫様抱っこだ。タオルケットは体を温めるだけではなく、スカートに対する配慮でもあったようだ。

 

「わ……」

 

 同じ体格にも関わらず、シノは軽々とトワの体を支えていた。そのまま、トワを抱えて歩き出す。——ただし入り口ではなく、窓の方へ。

 

「ぇ……シノ、ちゃん……?」

「体調を考慮して、一刻も早くベッドで寝かせることを優先します。目を回さぬよう、目を瞑っていてください」

 

 シノは窓を開けた。——そして全く躊躇することなくそこから飛び降りた。

 

「ッ〜〜!?」

 

 トワは言われた通りに目を瞑る。視界が真っ暗になる。ただ、風を切る音からして、シノがかなりの速度で移動しているということは分かった。

 

(……なんだか、眠くなって来ちゃった)

 

 無理に張り巡らせていた緊張の糸が切れたからか、本格的に睡魔が襲って来た。もう、あらがえそうにない。

 

 小さな腕の中で揺られる中、トワはゆっくりと意識を手放した。

 

 

 

 

「う……ううん……」

 

 トワはゆっくりと目を覚ました。まだ熱でクラクラするものの、先ほどと比べればだいぶ楽になった。しばらく寝ていたおかげだろう。周囲を見渡すと、内装ですぐに寮の自室だと気づいた。どうやらベッドで寝かされていたらしい。

 

 明かりは消えており、光源は窓から差し込む月明かりだけだ。もうすっかり夜らしい。

 

「お目覚めですか」

「え……あ、シノちゃん……」

 

 横にはシノがいた。全く気づかなかった。どうやら、運び込んでくれたあとも側にいてくれたらしい。

 

「どうぞ、スポーツドリンクです。お飲みください」

 

 いつの間に用意したのか、シノはコップになみなみと注がれたスポーツドリンクを差し出した。トワは頷き、上体を起こす。よく見ると、今着ているものは寝巻きだった。

 

「このパジャマ、シノちゃんが?」

「はい。体をお拭きしたあと、無礼を承知でクローゼットから引っ張り出しました。申し訳ありません」

「あ、えっと、怒ってる訳じゃなくて……むしろ、ありがとうって言いたかったの。……飲み物、いただくね」

 

 シノからコップを受け取り、ゴクゴクと一気に飲み干してしまった。自覚が薄かったが、相当喉が乾いていたようだ。喉を通る冷たい感触が心地よかった。

 

「少しは元気になられたようでよかったです。今、兄上をお呼びしようと思いますが、部屋に入れても大丈夫ですか」

「うん、平気だよ。えっと、もしかして殿下もこの寮にいらっしゃるの?」

 

 元々クロウがしょっちゅう部屋にお邪魔している為、男の人を招き入れるのは慣れている。それよりも、ムネノリが寮にいることの方が気になった。

 こうしてトワがベッドで休むことができるのは、全てムネノリのおかげだ。なるべく早くお礼を言いたかった。

 

「はい。今ごろ、夕餉の用意をしているかと存じます。呼んで参りますので、少々お待ちください」

 

 最後にシノはトワにもう1度横になるように促すと、トワの額に濡れタオルを乗せた。ひんやりとしていて、とても気持ちがよかった。

 トワが安静にしていることを確認したシノは退室する。しばらく待っていると、再び扉が開いた。

 

 現れたのはムネノリだった。その両手はトレイで塞がっていた。シノは、もう隠れてしまったようだ。

 

「トワ殿……具合はいかがでございますか」

「はい、先ほどよりはずっとよくなりました。お気遣いいただき、ありがとうございます」

「それはようございました。……夕餉を用意したのですが、食欲の方はいかほどでございますか」

「はい、なんとか——」

 

 食べれそうです……そう言おうとした瞬間、ぐぅ〜と部屋に空腹時のお腹の音が響いた。それが誰のものなのかは言うまでもない。

 

 みるみる内に顔から火が出たかのように熱くなり、トワは恥ずかしさのあまり布団で顔を半分隠してしまった。

 

「ぅ、も、申し訳ございません……その、朝からほとんど食事を摂っておりませんでしたので……」

「いえいえ構いませぬ。腹が空くのは元気になりつつある証拠でございましょう。ささ、たくさん食べて体力を取り戻しましょう。……一旦、明かりを点けますぞ」

 

 トワに断りを入れたムネノリは明かりのスイッチを切り替える。明かりの強さは控えめにしてくれたようだが、夜の暗さに目が慣れていた為、少し眩しかった。

 

 ムネノリはトレイをベッドの近くの台に置く。東方風の蓋のされた小さな土鍋と、すりおろしたりんごの入った器が乗っていた。

 ムネノリは土鍋の蓋を外す。ふわり、と卵と思しき優しい匂いが鼻をくすぐった。

 

「わぁ……」

「卵粥とりんごのすりおろしです。イズモでは定番の病人食でございます」

 

 卵粥はとてもおいしそうだった。卵で包まれた米は1粒1粒が金色に輝いており、見ているだけで涎が出そうだ。付け合わせのすりおろしりんごも、瑞々しくてとても甘そうだ。

 

「すごいです。これは、殿下自ら?」

「左様でございます。小さいころより料理を趣味としておりまして、シノが風邪を引いたときなどによく作っておりました」

 

 ムネノリは近くの椅子に腰掛けると、スプーンで粥を掬う。すると、そのスプーンの先をそのままトワに差し出した。

 

「あらかじめ少し冷ましてありますのでそのまま食べれます。ささ、どうぞ」

「ぇ……! でも、これって……その」

 

 俗に言う、”あーん”にあたるのではないだろうか。それは、いくらなんでも恥ずかしかった。トワが食べられずにいると、ようやくムネノリもなにをしているか気づいたのか、突如取り乱す。

 

「も、申し訳ございません! シノのときのことをを思い出していたら、つい同じように……! 失礼しました……!」

 

 どうやら悪気はなかったらしい。嘘がバレた子供のような慌てようだった。

 その様子がなんだか微笑ましくて、思わず頰が緩んでしまった。

 

「ふふ……あははっ。いえ、気にしないでください。わたしの方こそ、わざわざ作っていただいたのに失礼しました」

「あ、いえ、その……とにかく! どうぞお召し上がりください」

 

 ばつの悪そうな顔をしながら、ムネノリはすりおろしりんごの器を一旦下ろすと、残った粥をトレイごとトワに差し出す。トワも体を起こしてトレイを受け取ると、それを膝の上に乗せた。

 

「いただきます」

 

 早速、粥を掬って口に運ぶ。柔らかくなるまで煮られた米と、卵のコクのある甘みが渾然一体となって口の中で広がり、心をほぐす。端的に言って、非常に美味だった。熱さもほどよく、とても食べやすかった。

 

「おいしい……! おいしいです、殿下……!」

「そ、そうでございますか。そ、それはよかったでございます」

 

 ムネノリは顔を真っ赤にしながら指で頰をかいていた。

 トワは引き続き粥を口に運ぶ。時折、甘みの中に鋭い酸味が混じっているのが分かった。それがアクセントになって、するすると食が進む。

 

「えっと、この酸っぱいのは……?」

「それはイズモから持ち込んだ梅干しでございます。梅という木から生る果実を塩漬けしたあとに日干ししたものです。そのまま食べると非常に酸っぱいのですが、刻んで混ぜることでちょうどよい塩梅となるのでございます」

「へぇ、そうなんですか」

 

 思いがけずして、東方の食べ物を1つ知ることができた。梅干し……覚えておこうとトワは思った。トワもそれなりに料理ができる為、新しい食材は気になるのだ。

 

 その後もトワは次々と粥を口に運び、すりおろしりんごと合わせてあっという間に完食してしまった。お礼を言うと、ムネノリは嬉しそうに頷いていた。

 

 

 

 

 ムネノリから漢方という東方の伝統的な薬をいただき、あとはもう寝るだけとなった。明かりは再度落とされている。ムネノリは、念のためトワが寝つくまでは部屋にいてくれるそうだ。正直に言えば1人は少々心細かったので、ありがたかった。

 

 しかし……それはそれとして、落ち着かないのも事実だった。風邪が快方に向かっていることで心に余裕が戻ってきたからか、実は今はとんでもない状況な気がしてきたのだ。

 

 夜、男の人と部屋で2人っきり。それも、相手は自分に求婚してきた男性。クロウでさえ、トワの部屋を訪れるときはちゃんと節度をわきまえている。少なくとも、自身が寝ようとしているときまで部屋に残っていたことはない。

 

 別に、ムネノリのことを疑っている訳ではない。これまでの言動や伝聞からして、そんなことはしないという確信はある。だが、それとは関係なしに恥ずかしさが込み上げてくるのも事実だった。寝返りを打ったフリをして、ムネノリに背中を向けてしまう。

 

(うぅ……眠れない。でも、今からシノちゃんと代わって欲しいって言うのもすごい失礼だし……)

 

 ベッドの中で悶々としながら、目を固く閉じてなんとか眠ろうとする。しかし、眠気はあるにも関わらず、一向に眠れそうになかった。カチ、カチ、と時計の針が動く音だけが響き渡る。

 

「……トワ殿、まだ起きていらっしゃいますか」

 

 ふと、ムネノリの声が静寂を破った。トワはすぐに体の向きを変え、ムネノリと向き合った。

 

「はい。どうかなさいましたか」

「……その、ですな…………今まで、申し訳ございませんでした」

 

 突然、ムネノリが丁寧に頭を下げた。それに驚いたトワは慌てて体を起こす。

 

「え、え? その、急にどうされたんですか」

「求婚のことでございます。……今日、Ⅶ組の仲間たちに色々と諭されたのです。お互いのことをよく知らずに求婚し続けるなど言語道断であると。それに、そのやり方にも問題があると」

「……それは」

 

 確かに、それらはトワの抱いていた所感と一致していた。引き続き、ムネノリは語る。

 

「拙者、イズモでは外見ばかりが大人の女どもに、王族であることを理由に強引に迫られることが頻繁にございました。それゆえ、拙者は長いこと恋とやらに辟易としていました」

 

 まあ、その女どもの大半は最終的にシノに追い払われておりましたが、とムネノリは付け加える。その光景を想像すると、僅かに笑みが漏れた。

 

「そんな拙者の前に現れたのがトワ殿でした」

「え……」

「恥ずかしながら拙者、人に恋慕の情を抱くのは初めてでございました。トワ殿を一目見たその瞬間、まるで自身が生まれ変わったような衝撃が身体中を走ったのです。それはもう、自分では抑えがたい衝動のようなものでございました」

「う……そ、そうでしたか」

 

 ムネノリの言葉がストレートに響く。今までのアプローチと違って周囲に誰もいないからか、ムネノリの言葉をすんなりと受け入れてしまう。その情熱にあてられたのか、鼓動がうるさいくらいに速くなった。

 

「……ですが、振り返ってみると結局、拙者のやっていたことはイズモのはしたない女たちと同じでした。舞い上がって、トワ殿のお気持ちも考えずに……本当に、申し訳ございません」

 

 再び、ムネノリが頭を下げた。それを見たトワは最初、なんて言葉をかけるべきか分からなかった。気にしていないと返すのは簡単だが、今すべき返事はそうではない気がした。

 

 ——ふと、ある考えが浮かんだ。前からずっと聞きたかったこと。それを聞いてみるのはどうだろうかと。

 少し悩んだが、この場の勢いに任せて聞いてみることにした。

 

「あの、1つだけお伺いしてもよろしいですか」

「なんなりと」

「では……その、なぜ、わたしだったのでしょうか。なぜ、初対面だったわたしを……」

 

 ずっと、プロポーズされたそのときからトワの根底にあった疑問。それをついに問いかけた。外見だけが要因だったのか、それとも……。

 

「それは……」

 

 それを聞いたムネノリはしばらく無表情で黙り込んでいた。急かすようなことはせず、トワはじっくりと答えを待つ。

 やがて考えが纏まったのか、慎重に言葉を選ぶかのように、ムネノリはゆっくりと口を開いた。

 

「一目惚れゆえ、最初は外見がほぼ全てだったことは否定しませぬ」

 

 僅かに、落胆の気持ちがトワの心を満たした。やっぱり、そうなのかと……。

 

「——ですが、それだけではございませんでした」

「……え? それは、どういう……」

「あれは、直感をも超えた女神のお告げかと錯覚するような感覚でした。実はあのとき、こうも思ったのです。——この方を置いて、他にはいないと」

 

 ドクン、と一際強く胸が鳴った。求愛の為の言葉ではなく、ムネノリ自身が真剣に考え、導き出した言葉だと分かったからこそ、トワの心が強く揺さぶられた。

 

「……それに、他の先輩方やリィン殿から聞きました。トワ殿が生徒会長としてどれだけ身を粉にして働いて下さっているかを。拙者たちⅦ組の為に色々と働きかけて下さっていることを。拙者自身、トワ殿がお忙しくされている様子を幾度となく目撃しております。いずれは玉座を継ぐ者として、心から尊敬致します」

 

 トワは……すぐには返事ができなかった。感極まったと言えばよいのだろうか。外見以外もちゃんと見ていてくれていたのだと、心が満たされる気分だった。将来は王となる御方からいただいた言葉は、生徒会長のトワには最大級の賛辞だった。

 

「っ……ありがとう、ございます」

「……少しばかり、話が長くなりすぎました。また風邪がぶり返してはいけません。そろそろ、お休みになられた方がよろしいかと」

 

 ムネノリに促され、トワは再びベッドに潜り込んだ。だけど休む前に、1つだけ言っておきたいことがあった。トワはムネノリの顔を真っ直ぐに見つめる。

 

「——ムネノリ君。今日はありがとう。それと、お休みなさい」

「ぇ、あ、な、なあ……ッ!?」

 

 狼狽するムネノリを余所に、トワは再び背を向けた。なんだか、ちょっとした悪戯が成功したみたいで面白かった。

 

 敬語を外したのは、いい加減線引きをするのを止めようと思ったからだ。それと、王太子としてのムネノリではなく、1人の男の子としてのムネノリと向き合うようにしたいと思ったからだ。

 ムネノリがどんな人なのかをもっと知りたい。その為の前準備だ。そう、それだけだ。

 

 まだ体調は万全ではない。でも、決して悪い気分ではなかった。次第に、睡魔が強くなってきた。

 

(今度……ちゃんとお礼……しない……と……)

 

 徐々にまどろみに呑まれ、トワはついに眠りに落ちた。その眠りは、とても穏やかなものだった。

 

 次の日、当然のようにトワの体調は完全に回復した。

 

 

 

 

 その後、トワは仕事の合間にムネノリを生徒会室や技術棟に招き、一緒にお茶をするようになった。親友の3人は雑談に興じる2人を見て、微笑ましそうな表情で見守るのであった。

 

 

 

 



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第4話 ご機嫌斜めな妹君(前編)

 自由行動日を間近に控えた5月の半ば。新入生たちはだいぶ学院生活に馴染み、生徒会の忙しさもピークは超えた。

 先月の終わりには記念すべき第1回のⅦ組特別実習が実施され、大成功と大失敗が報告された。ちなみに、ムネノリはリィンたちと同じA班としてケルディックに赴いた。

 

 聞くところによると、男女同室であることに女性陣以上に大反対だったらしい。曰く、「夜を同じ部屋で共にしてよいのは夫婦のみでござる!」などと言ってみんなを呆れさせたようだ。

 終いには自分だけ野宿しようとしたのを他のみんなで必死に止めたようだ。最終的にはシノが物理的にベッドに縛り付けることで解決したらしい。

 

 ちなみに、その報告を聞いたトワはあの風邪の日の夜はどういう解釈だったのだろうかと頭を悶々とさせたりもした。

 

 ともあれ、トールズ士官学院は順風満帆なスタートを切っていた。その中でも特筆すべきが、トワとムネノリの距離感の変化だ。

 

 トワが言葉遣いを改めたその日以降、2人が言葉を交わす機会は格段に増加した。今は求婚する王太子と求婚される平民の関係ではなく、仲のよい先輩と後輩となっていた。

 当時は学院中大騒ぎの大ニュースだったが、最近は周囲の盛り上がりもひと段落し、2人のことは日常のものとして受け入れられるようになった。

 

 ときには昼食や夕食を共にし、ときにはムネノリが生徒会の仕事を手伝う。和やかに雑談を交え、2人とも楽しそうに笑顔を浮かべていた。それを頻繁に目にする生徒会のメンバーはやれやれと苦笑いを浮かべるしかなかった。

 

 

 そんな2人の様子を、片時も離れずに見守っている少女がいた。少女は影に溶け込み、2人を視線で捉え続ける。ただ、気のせいか、その視線はムネノリに向けられている機会が多いような気がした。

 

 

 

 

 お昼前。平民生徒用である第2学生寮の1階。そこには、自炊をする学生の為のキッチンが設けられている。広い上に設備もしっかりしており、複数人で調理していても全く苦にならない。

 

 そんなキッチン内が、甘いものが焼けているときの香ばしい匂いで満たされている。発生源は備え付けられているオーブンからだ。その使用者であるトワはエプロンを着けたまま、しきりに時計を確認していた。近くには洗い終えた調理器具がきっちりと並べられている。

 

「うーん、そろそろかな……」

 

 トワは緊張しながら、オーブンを開いて中からトレイを取り出す。トレイには、丸い形をしたクッキーが大量に並んでいた。冷めて固くなるのを待ってから、その内の1つを手に取る。

 

「上手く焼けてるかな…………うん! 大丈夫そうかな」

 

 サクサクとした軽い食感。砂糖の甘みに支えられたバターの香ばしい風味。クッキーを作るのは久しぶりだったが、しっかりと焼けたようだ。

 

「あとはもっとちゃんと冷ましてから、袋に詰めて……えへへ、喜んでくれるかなあ?」

「……おお、いい匂いがすると思ったらトワじゃねぇか。なに作ってンだ?」

 

 トワがクッキーの出来に満足していると、同じ寮の仲間でもあるクロウが入ってきた。発言から察するに、匂いに釣られたらしい。

 

「お、クッキーじゃねぇか。もしかして、お前が作ったのか」

「えへへ、うん、そうなの。やっと纏まった時間が取れたから、久しぶりにね」

 

 今日は生徒会の仕事はなく、午前中の授業もない。絶好のタイミングだったのだ。

 

「ほぉん。どれどれ、1つ貰うぜ」

 

 クロウはトワの返事を待たずに1つ手に取ると、口の中に放り入れる。多めに作ってあるので、少しくらいなら大丈夫だ。だが、その食べ方はいただけない。

 

「ああ、ダメだよクロウ君。もっとお行儀よく食べなきゃ」

「固いこと言うなって……ふむふむ。おお、美味ぇじゃねぇか」

「ほんと? よかった。自分でも味見はしたんだけど、これなら平気かな」

 

 クロウはこの手のことではストレートに感想を言うタイプだ。変に気を遣ったりはしない。そのクロウが美味しいと言っているのであれば、本当にそうなのだろう。自信を持って渡すことができそうだ。

 

「しっかし、なんで急にクッキーなんか……ははーん、なるほどな」

 

 クロウの顔がいつもの悪巧みをしているときのニヤついた表情に変化した。それを見て、トワはやましいことがないにも関わらず慌てて言い繕う。

 

「ち、違うの! これはちょっとしたお礼のつもりで、そういうつもりじゃ……!」

 

 そもそも、ムネノリだけじゃなくてシノにも渡すつもりなのだ。断じて、クロウが想像していそうな理由ではない。

 

「別になんも言ってねぇけど? ま、でもこれはゼリカにも報告だな」

 

 その態度はいかにも『言わなくても分かってる』と言っているかのようだった。そしてトワの直感だが、きっと全く分かってない。

 最後に「クッキー美味かったぜ、頑張れよ」とだけ言い残してクロウは姿を消してしまった。トワは弁明する暇すらなかった。引き止めようと伸ばした手が行き場をなくして宙を彷徨う。

 

「うう、もう……本当にそんなんじゃないのに……」

 

 最近、噂などが沈静化した代わりに色々と知らないところで誤解を招いている気がする。それを解くのは多分無理なんだろうなあ、とトワはがっくりと肩を落とすのであった。

 

 

 

 

 放課後。トワはクッキーの入った袋を2つ持って旧校舎に向かっていた。最初はⅦ組の教室を訪ねたのだが、トワのクラスのHRが終わるのが遅かったからか、既に教室にいなかったのだ。

 

 念の為リィンたちに所在を尋ねたところ、日課の鍛錬の為に旧校舎に向かったことをリィンが教えてくれた。旧校舎を使っているのはフェンシング部に配慮してのことで、どうやらリィンが旧校舎の鍵を貸しているらしい。

 それを聞いたトワは、目敏く袋に気づいたアリサたちの追求を躱しつつ、旧校舎へと進路を変更したのだ。

 

 鍛錬中にお邪魔するのは失礼かとも思ったのだが、なるべく早く所在が分かっている内に渡しておきたかった。休憩中などを見計らって渡せば、問題ないだろうと考えた。

 

 しばらく細い坂道を進んでいくと、旧校舎の姿が見えてきた。トワは正面の入り口に近づく。最初は草を踏む自身の足音くらいしか聞こえなかったが、次第に別の音も耳が捉え始めた。

 

 金属が震え、火花を散らすような音。士官学院生として幾度となく実技訓練を受けているトワにはその正体がすぐに分かった。これは、刃物がぶつかり合う音だ。

 

(この音、ムネノリ君だよね……? ということは、相手はシノちゃん?)

 

 外からも聞こえるということは、階段部屋の前の広場を使っているのだろう。危険を考慮してか、絶えず構造が変化している地下は利用していないようだ。

 

 入り口の鍵を確認する。鍵はかかってない。一応合鍵を持ってきたが、不要だったようだ。トワは音を立てないようにそっと扉を開けた。

 

(あ、いたいた!)

 

 校舎内の1階の広場に入ったトワは、早速目当ての人物を見つけた。

 

 ムネノリは、リィンと比べると短めの刀を2本構え、呼吸を整えつつ、対面のシノとにらみ合いをしていた。かなり集中しているらしく、トワに気づく様子はない。

 

 邪魔してはいけないと思い、一息つくまでその様子を見守ることにした。それに、学年最強の称号を2分するムネノリの実力がどの程度のものなのかも興味があった。

 

 先に動いたのはシノだった。刀身が真っ直ぐな小刀を逆手で構え——突然姿が消えた。

 

(——え?)

 

 トワは自分の目を疑った。瞬いていないのにも関わらず、その姿を見失ったのだ。それはまるで、教官であるサラの動きを見ているかのようだった。トワだったら、決して反応できない速度。きっとなにもできずにやられてしまうだろう。

 

 しかし、ムネノリはそうではなかった。シノが消えた瞬間には既に、刀を背後に向かって振り抜いていた。けたたましく金属が弾ける。体重と姿勢の差で押し負けたらしく、シノが不安定な体勢で宙に放り出されていた。

 

 ムネノリはその隙を見逃さず、すぐさま跳躍。両手の刀をシノの胴体に叩きつけた。一瞬、やりすぎなのではと心配になったトワだが、それがただの杞憂であることをすぐに知ることになる。

 

 攻撃を受けたシノは、厳密にはシノではなかった。細切れになったシノだったものは、ただの丸太だった。原理は分からないが、丸太を身代わりに回避したことだけはトワにも分かった。シノのあまりの早業に、試運転を通して数々の修羅場を潜り抜けたトワですら戦慄を覚えた。

 

(すごい……シノちゃん、こんなに強かったんだ)

 

「ごふぅ!?」

「——追撃が遅いです、兄上」

 

 そんな早業を披露したシノが、ムネノリの晒した特大の隙を逃す筈はなかった。ムネノリの背後に出現した彼女は彼の後頭部を蹴り飛ばす。ムネノリはまるでボールのように数回に渡って地面をバウンドし、向かいの壁に衝突した。そしてそのまま、動かなくなった。

 

 まさしく一蹴。学年最強の1人と謳われるムネノリが、その妹にあっさりと敗北した瞬間だった。

 

 予想外の結果にトワはしばらくその場を動けなかったが、ムネノリがズタボロになっているのを思い出して我に帰る。

 

「ムネノリ君っ!」

 

 容態が心配になったトワは急いでムネノリに駆け寄る。ムネノリの側に跪くと、彼の頰を軽く叩いて意識を確認する。幸いにもすぐに彼の目は開き、トワ自身の姿が瞳に映った。焦点も合っているし、ひとまずは大丈夫そうだ。ほっと胸を撫で下ろす。

 

「お、おお……トワ殿で、ございますか。これは、恥ずかしいところをお見せしました……」

「そんなことより、怪我は大丈夫!? すごい頭の打ち方してたし、医務室で診てもらった方が……」

「——以前にも申し上げましたが、これくらい普通です。心配するようなことはありません」

 

 気づいたら、シノが隣に立っていた。驚くべきことに、あれだけの動きを見せたのに一滴も汗をかいていなかった。

 

「それで、何の御用ですか。見ての通り、今は鍛錬中で忙しいのですが」

 

 ”鍛錬中”という言葉を特に強調しながらシノはトワを問い詰める。言葉の節々から、少しばかり棘を感じる。確かに、一息つくのを待たずに鍛錬に乱入してしまったのはトワの方だ。もしこの光景が本当にいつも通りならば、悪いことをしてしまったと思う。

 

「えっと、ごめんね、急にお邪魔しちゃって。その、実はこの前の看病のお礼に2人にクッキーを焼いたんだけど……」

「え……」

 

 トワは手に持っていた袋をシノに見せる。それを見たシノは、ぜんまいの止まったおもちゃのように動きを止めた。微動だにしないところに彼女の実力が垣間見えるが、一体どうしたのだろうか。

 

「えっと、シノちゃん……?」

 

 いつまで経っても言葉を発しないことに不安を覚えたトワは、シノの目の前で手を振る。それからしばらくして、シノはようやく復帰した。

 

「い、いえ……すみません。それで、その袋ですが、本当に——」

「——トワ殿ぉおおおッ!!」

 

 シノの声を、復活したらしいムネノリの咆哮が遮った。その咆哮は広場で何度も反響し、さながら魔獣の叫喚のようであった。トワはビクリと肩を跳ね上げる。

 

「む、ムネノリ君?」

「ま、ま、まさか、それはトワ殿が手ずから焼かれたものということでございますでしょうか!!」

「う、うん、そうだけど……」

 

 なんだかムネノリの言葉遣いがおかしい。元々東方風の言い回しで分かりづらい部分はあったが、そういうのとは違った方向で変だった。

 ムネノリから発せられる妙な威圧感に、トワは後ずさる。もしかして、甘いものが苦手なのかもしれない思った。ところが、そんなことは全くなかった。

 

「お、おお……トワ殿の手作りの菓子を賜るときが来ようとは……このムネノリ、天にも昇る喜びでございます!」

「あ、あはは……うん、ありがとう。でも、あんまり畏まるのは止めてほしいかなあ、とか思ったりするんだけど……」

 

 なんてことはない。いつもの発作だった。ムネノリは気持ちが昂ぶると、こんな感じでクライマックスに差し掛かったオペラ歌手のようになってしまう。ちなみに、トワ相手限定の現象ではなく、Ⅶ組でもしょっちゅうのことのようだ。

 以前はムネノリの過剰な称賛に逃げ出したくなるほどの恥ずかしさを覚えたものだが、今となっては慣れてしまった。トウは苦笑いを浮かべて受け流す。

 

「はい、どうぞ。湿気っちゃうから、早めに食べてね」

「は、ははぁ! ありがたく、頂戴いたしますりますぅ!!」

 

 まるで1億ミラの壺を前にするかのような震えた手つきで、ムネノリは仰々しい態度で袋を受け取った。

 

「ありがたき幸せに存じます! この贈り物は大事に保管し、これより王家の家宝と致しましょうぞ!」

 

 ムネノリの発作はますますヒートアップしていた。普段ならこの辺りでシノが止めに入るのだが、今日はまだそのつもりはないようだ。代わりに、トワの方から諭すことにする。

 

「腐っちゃうからダメです。ちゃんと今日か明日までに食べ切ること。いーい?」

「う……は、はい、かしこまりました。……では、早速いただき——」

「——お待ちください、兄上」

 

 突然、シノが割り込んだ。

 

「どうしたの、シノちゃん?」

「……王家のしきたりでは、こういう場合はまず護衛が毒味をするのが決まりです。トワ様を疑うわけではありませんが、しきたりなので」

「いや、しかし、シノ……」

「兄上は黙っててください、大事な話なので。……構いませんね?」

 

 ムネノリを一言で沈黙させたシノはジロリとトワを視線で射抜く。……気のせいだろうか、なんだか今日は全体的にシノの態度が冷たいように思える。毒味の理屈は分からないでもないが、今までそんなことをしている素振りがあっただろうか。

 トワは何度か学食でムネノリと昼食や夕食を共にしているが、シノが事前に毒味をしていたことはなかったように思う。

 

「……うん、いいよ」

 

 不審に思いつつも、トワはシノの提案を承諾することにした。正直、作ったものに対して毒味をすると言われるのは複雑だが、色々と事情があるのかもしれないと納得しておいた。

 

「ありがとうございます。最後に確認しますが、そちらの袋は私に向けたものということでよろしいのでしょうか」

「うん、そうだよ。でも、どっちも同じ数だけ入ってるから、どっちが誰のとかは特に決めてなかったかな」

「そうですか。ですが念の為、袋も交換しましょう」

 

 そう言うや否や、シノはトワから袋を受け取ると、ムネノリが持っていたものと交換してしまった。ムネノリは必死に手放すまいとしていたが、再び頭を蹴られて倒れてしまった。呻き声を上げているので無事ではあるみたいだ。少しずつ、ムネノリの頑丈さを理解してきた。

 

 シノはムネノリが持っていた方の袋を開けると、中からクッキーを1枚取り出す。

 

「それでは、いただきます」

(毒味なのに”いただきます”でいいんだ……)

 

 思考が変な方向に逸れたトワを余所に、シノはクッキーを口に入れた。クッキーが口の中で砕ける軽妙な音が辺りに広がる。毒味だからか、何度もしっかりと噛んでいるようだ。やがて、シノはこくんと飲み込んだ。

 

「……ふむ」

 

 毒味を終えたシノは、なにかに没頭するかのように黙り込む。毒の効果が現れないかを待っているのだろうか。もちろん、毒なんて混ぜてないので絶対になにも起きない。ラジオのクイズ番組の正解発表のときのような心持ちで、トワはシノの判決を待った。

 

「…………」

 

 結局、判決は下されなかった。何を思ったのか、シノはもう一枚手に取って口に運んだのだ。

 

 もぐもぐ、サクサク。そして再び飲み込む。

 

「……うん」

 

 そして——更にもう一枚、取り出した。

 

「.……あの、味は全部一緒だから1枚だけで大丈夫だと思うよ?」

 

 このままだと全部食べてしまいそうな勢いだったので、トワはおずおずと待ったをかけた。すると、ピタリとシノは動きを止めた。

 

「…………失礼しました。特に、問題はなさそうです」

 

 なにやら葛藤があったようだが、シノはクッキーを袋に戻した。そして、毒味に使った方の袋を倒れているムネノリの側に置いた。交換しなくてよいのだろうか。

 

「……兄上。少し早いですが今日の鍛錬はここまでにします。それでは」

 

 なぜだか早回しのテープのような早口で告げると、シノは姿を消してしまった。結果的に数が多くなった方の袋を持ち去って。

 

(…………あれ? もしかして、気に入ってもらえたのかな?)

 

 シノが去ってからしばらくして、トワはようやく彼女のとった一連の行動の意味に気づく。どちらかと言えばそうであってほしいという願いでもあったが、意外にも筋が通っていた。

 

「あ、あ、ああぁああ……。トワ殿の、トワ殿のクッキーが2枚も……減って……っ」

 

 ようやく復活したムネノリは、袋の中身を見てさめざめと泣いていた。まるで金貨が奪われたような悲しみようだった。

 

「あわわ、な、泣かないでムネノリ君! また今度作ってあげるから!」

「ほ、ほんとでございますか……」

「うん、ほんとだから! だから、ね? 元気出して?」

 

 トワはポンポンとムネノリの背中を優しく叩く。それからムネノリが立ち直るまで、もうしばらくかかった。

 

(……でも、なんでシノちゃんはあんなにご機嫌斜めだったんだろう?)

 

 真意を問える相手は、もうこの場にはいなかった。

 

 

 

 

「それはアレさ。俗に言う、ヤキモチというやつだね」

 

 翌日、事の顛末をトワから聞いたアンゼリカはあっさりとそう答えた。2人は今、喫茶店のキルシェにてお茶をしている。トワは、ミルクを少しばかり入れたコーヒーを口にする。

 

「うーん、やっぱりそうなのかなあ……」

「なんだ、トワも最初から気づいてたんじゃないか」

「昨日の夜、ずーっと考えてて、一応そうなんじゃないかなあとは思ってたんだけどね。違うかもしれなかったし、アンちゃんに聞いておいてよかったよ」

「ふふ、それは光栄だね」

 

 人の本質を見抜くことに長けたアンゼリカと意見が一致している以上、間違いなさそうだ。

 

 ムネノリの話では、シノはまだ12歳らしい。ちなみに、それを聞いてシノと同じ体格のトワは少なくないショックを受けたがそれは今は置いておく。

 とにかく、そんな歳頃の少女が護衛の為に単身で異国の地に来ているのだ。身のこなしからして特殊な訓練を受けているのは分かるが、それでも淋しさは感じる筈だ。そんな中で護衛の対象であり、兄でもあるムネノリの存在は大きな心の支えなのではとトワは予想している。

 

 その2人の間に結果的に割り込んでしまったのがトワだ。思い返せば、あの日以来かなりの頻度でムネノリと話し込んでいた気がする。ちょうど1回目の特別実習が実施されたこともあり、お互いに話題には事欠かなかった。護衛のシノは、その様子をずっと遠巻きに眺めていたことになる。

 

 もしトワがシノの立場だったら、なにを思うだろうか。決まっている。淋しい、疎外感、混ざりたい……そんなことを思うのではないだろうか。

 

 特に、今にして思えば昨日の鍛錬にお邪魔したこと自体がまずかった。見方を変えれば、あれは兄弟水入らずで過ごせる数少ない時間とも言える。そこにトワという異物が乱入してしまったのだ。機嫌が悪くなったとしても不思議ではない。

 

「はあ、失敗しちゃったなあ。自分のことばっかりでシノちゃんの気持ちのこと、全然考えてなかった」

 

 大人びたところがあるし、忍びなどの不思議な面にばかり気を取られて、シノが年下の女の子であることをすっかりと忘れてしまっていた。少なくない罪悪感がトワの心の内で燻る。

 

「こう言ってはなんだが、過ぎてしまったことはどうしようもない。トワはこれからどうしたいんだい?」

「もちろん、謝りたいよ。でも、それだけじゃないの」

 

 トワは1拍置いてから告げる。

 

「わたし、シノちゃんとも仲良くなりたいんだ」

 

 紛れもない本心だった。風邪のときは大変お世話になったし、その前の日もムネノリの密かな決意について教えてもらった。そんなシノと仲良くなりたいと思うのはごく自然な感情だ。

 

「でも、あんまりいい方法が浮かばなくて……」

 

 それがトワの悩みの種だ。さすがに真正面から「ヤキモチ焼かせるようなことしてごめんなさい。これからは仲良くしたいです」とは言えない。シノの神経を逆撫でするだけだろう。

 

 だからこそ、こうして女性の扱いに長けたアンゼリカに相談しているのだ。一通りの話を聞いたアンゼリカはコーヒーを飲むと「ふむ」と頷く。

 

「まあ、そうだね。1ついい案があるよ」

 

 早くも解決案が思い浮かんだようだ。是非教えて欲しいと、トワは懇願する。

 

「いやなに、別に難しい話ではない。それとも、トワは会長の仕事に忙殺されて頭から抜け落ちてしまっているのかな? こういうときには打って付けの日がもうすぐやってくるじゃないか」

「打って付けの日? ……あ、そっか!」

 

 そうだ、すっかり忘れていた。なんで思いつかなかったんだろう。

 トワの様子を見ていたアンゼリカは、貴族子女らしい優雅な笑みを見せる。

 

「そうさ。明後日は”自由行動日”。そこまで言えば、あとは分かるだろう?」

 

 トワは、力強く頷いた。

 

 

 

 

 忍であるシノの仕事は、兄のムネノリのことを陰ながらお護りすることだ。ゆえに、授業中の今も窓を介してムネノリの姿が見える位置の木の上に隠れている。偽装も施しているので、シノが動かない限りは周囲に気づかれることはない。

 シノは油断なく周囲を警戒する。学院の敷地内でそれはやりすぎと言われるかもしれないが、そういう慢心が最悪の結果に繋がるのだ。忍として長年訓練を積んできたシノは決して気を抜かない。

 

 その一方で、思考が時折横に逸れてしまっていることも自覚していた。思い出されるのは、昨日の旧校舎での自身の大人気ない態度のことだ。

 

(トワ様……私のこと、お嫌いになられたかな……)

 

 さすがに、毒味は言い過ぎだった。すぐにでも撤回すればよかったのだが、あのときは原因不明の苛立ちが心の大部分を占めていて、どうにも抑えが効かなかった。

 トワと同じ場所に留まるのが憚れたこともあって、日課の鍛錬も途中で打ち切ってしまった。

 

(……折を見て、謝罪しないと)

 

 そう思った直後のことだった。

 

「シノちゃーん! いるー!?」

「ッ!?」

 

 足を滑らせて落ちるかと思った。まさか、こんなタイミングよく現れるとは……。

 

 聞き間違える筈もない。それは、トワの声だった。彼女はシノの潜んでいる木のすぐ近くまでやってくると、しきりにシノのことを呼び続けている。

 

 授業中のクラスが多い為か、トワの周囲には誰もいない。だが、きっと近くの教室からは聞こえているだろう。傍から見れば、路上で叫んでいるだけの変人だ。

 確かに、用があればムネノリの近くで声をかけて欲しいとは伝えた。だが、まさかこんな形になるとは思わなかった。

 

「うーん、おかしいなあ。ムネノリ君の教室の場所からして、この辺だとは思うんだけど……」

 

 どうやら、かなり正確にシノの潜伏場所に見当をつけているようだ。さすがは、トールズ士官学院の首席と言ったところだろうか。

 ただ、もしこのままシノがだんまりを決め込めば、当てが外れたと見て立ち去ってしまうだろう。

 

 正直、かなり迷った。折を見て、とは思ったがいくらなんでも急過ぎる。ちゃんと話せるか分からなかった。このまま、やり過ごすのも手だ。

 

 ……だが、できなかった。困ったように眉をひそめながら、キョロキョロと周囲を見渡すトワを見て、沸々と罪悪感が湧いてきた。

 

「——お呼びですか、トワ様」

 

 結局、シノは偽装を解いてトワの側で姿を見せた。

 

「あ、シノちゃん! よかったあ、ここで合ってたんだ。もしかしたら間違ってるんじゃないかって思っちゃった」

 

 シノの姿を見つけたトワは、花が咲くような笑顔を見せた。まるで、昨日のことなどなかったかのようだ。

 

「その……なんの御用でしょうか」

 

 ここで謝るべき……それは分かっていた。だが、今のトワがなにを考えているのかが読めなくて、思わず言葉を引っ込めてしまった。代わりに、無難な言葉で応じてしまう。

 

「うん、あのね。シノちゃんって、明後日は空いてたりするかな?」

「明後日……ですか。空いてるもなにも、私は兄上の護衛なので兄上のご都合次第ですが」

「それなら大丈夫! さっきムネノリ君に通信で聞いてみたんだけど、なにも予定は入れてないみたいだから」

 

 そういえばと、ムネノリが廊下でARCUSを使って通信していたことを思い出す。シノから見て背を向けていたので、唇を読むことができなかったのだ。どうやら、トワと話していたらしい。

 

「あ、それでね、シノちゃん——」

 

——明後日、3人で帝都にお買い物に行かない?

 

 目の前の同じ背丈くらいのお姉さんは、そんなことを告げるのであった。

 

 

 

 



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第5話 ご機嫌斜めな妹君(後編)

 5月の自由行動日。その早朝。シノはムネノリと共にトリスタの駅へと向かっていた。トワの誘いで、帝都へと出かけることとなった為だ。

 

 服装はいつもの護衛用の軽装ではない。柄のついた、紅紫が基調の袴を穿いている。イズモの女学生に化ける為の服なのでそれほど上等なものではないのだが、かろうじて私服と呼べそうなものがこれしかなかったのだ。履物も、草履ではなくブーツにした。

 ちなみにムネノリはトリスタのブティックで西ゼムリアの服をいくつか見繕ったらしく、チノパンにボーダーシャツにジャケットと、かなりかっこつけていた。

 

 普段は隠れながらムネノリの姿を追うのだが、今日に限っては肩を並べて一緒に歩いている。このような形で歩くのは随分久しぶりだった。

 

「あの、兄上。本当に私も一緒でよろしいのですか。兄上も、トワ様と2人っきりの方がよいのでは?」

 

 こうして姿を隠していないのは、ムネノリとトワの要望だ。3人で遊びに行くのだからシノも隠れてはいけない。トワはシノを誘った日、そう言った。

 だが、トワはムネノリが妃にと望んでいる相手だ。ならばせっかくの自由行動日、2人で過ごせるように配慮するのがムネノリの妹であり、護衛の自分の役目なのではと思う。

 ところが、ムネノリは間を置かずに首を横に振ると、口元を緩めた。

 

「よいのだ。思えばシノが正式に忍になってから、ずっと苦労をかけっぱなしでござったからな。偶には任務を忘れて羽を伸ばすのもよいだろう」

「……御意」

 

 ……シノは分かっている。ムネノリに、そしてトワに、気を遣われていることくらい。それくらいしか、トワがシノを誘う理由がない。

 やはり、謝らなければ。幸いというべきか、今日は1日中トワと一緒だ。機会はいくらでもある筈だ。

 

 そうこうしている内に、駅が見えてきた。約束の時間の30分前だ。イズモの人間は時間にうるさいので、これくらい早く来るのが普通だ。少なくとも、遅いということはあるまい。

 

 ところが、シノの予想を裏切って駅の入り口には既に先客がいた。その先客はシノたちに気づくと大きく手を振った。

 

「2人ともおはよう! えへへ、いいお天気だねー!」

 

 トワだった。顔を輝かせながら大きな声でシノたちを呼んだ。まだ少し距離があったので、シノとムネノリは会釈でそれに応える。そして距離が詰まってから、再度挨拶をする。

 

「おはようございます、トワ殿。まさかこんなにも早くいらっしゃるとは思いませんでした」

「そんなこと言ったらムネノリ君たちもそうだよ。私もさっき着いたばっかりだったから、びっくりしちゃった」

 

 屈託のない眩しい笑顔を浮かべるトワ。周りの者まで笑顔にしてしまう明るさだ。兄のムネノリが惹かれるのも納得である。

 シノ個人としても、トワという人物には好感を持てる。王である父が納得するかは別にして、ムネノリの相手としてもふさわしいだろう。

 

 ……なのに、なぜだろう。なんで、トワを見ているとこんなにも胸がモヤモヤするのだろう。曇った窓ガラスのように、自分の心が分からない。己の感情を御するのは、忍としての基本なのに。

 

 そうやってトワのことをジロジロ見ていると、トワがそのことに気づく。トワは、シノの方へと向き直る。

 

「どうしたのシノちゃん……って、わあ……! シノちゃん、その服、可愛い〜! それってイズモの私服なの?」

 

 トワは両手を合わせ、目を星々のように光らせた。あまりの勢いの強さに、シノは思わずたじろいだ。

 

「は、はい。これはイズモの女学生の格好で、…………? そういえば、トワ様も今日は私服なのですね」

 

 膝下くらいの丈の白いスカートにチェック柄のシャツ、そしてその上にベージュの上着を着ている。髪を結ぶリボンも、いつもの単色ではなく色柄のついた鮮やかなものだ。全体的に、普段よりも少々大人っぽさを感じさせる装いだった。身長は変わってないが。

 

「えへへ、そうなんだ。立場もあるから最後まで制服とどっちにするか迷ったんだけど、今日だけは学院のことは忘れようって思って。えっと、どうかな?」

「ええ、よくお似合いだと——」

「女神に勝るとも劣らない御姿でございます!」

 

 またムネノリの発作が始まった。一々シノの言葉を遮らないと気が済まないのだろうか。

 

「…………」

 

 また、胸の内から嫌な感情が湧く。妹の前なのに、なんでそんなにそっちばかり……。

 

「……ムネノリ君」

「——ぁ。あーいやー、その、よくお似合いでございます」

「え……」

 

 なんと、トワが一声かけた瞬間、ムネノリの発作はあっという間に治まった。シノですら蹴り飛ばさないと止められないのに、トワはたったの一言で止めてしまった。思わず、感心してしまう。

 

「うん、ありがとう。シノちゃんの服も可愛いよね?」

「う、うむ! シノの髪の色ともよく合っておる。忍の道を選んでなければ、今ごろ毎日のようにそのような服を着てたのでござろうなあー!」

 

 突然シノのことを褒め称えるムネノリ。さっきまで気づいた素振りすらなかったのに、調子のよいことだ。基本、男というのは気が利かない生物なのだ。忍の訓練の座学で、そう教わった。

 

「……そうですか。ありがとうございます」

 

 ただ、悪い気分ではなかった。むしろ、いい気分だ。胸のモヤモヤもどっかに行ってしまった。我ながら、単純だとは思う。

 

「ふふ。少し早いけど、そろそろ出発しようか。帝都に着くころには、お店も開き始めると思うし」

 

 年長者のトワがきっちりと話を纏めると、出発を促した。3人はチケットを購入し、帝都に向けて発つのであった。

 

 

 

 

 入学式のときは、まずはカルバード共和国に入り、クロスベル自治州経由の鉄道で直接トリスタまで向かったので、帝都は鉄道の窓越しからしか見ることができなかった。

 それでも、赤煉瓦で統一された巨大な街の風景は、イズモの街しか知らなかったシノの心に深く刺さったものだ。それはムネノリも同じだろう。

 そして、今はその巨大な街のど真ん中に立っていた。帝都ヘイムダルの中央駅に降り立ったシノは、目の前の光景に圧倒されていた。

 

「……すごい」

 

 どこを見ても赤煉瓦、あるいは石積みの建物。道は丁寧に舗装され、歩道は全面に綺麗な模様が描かれている。中央の巨大な花壇を始めとして所々に花が咲いており、規則的に並べられた街灯と合わせてよいアクセントとなっている。

 少し先には導力車が数台停まっていて、その更に先の大通りでは何台もの導力車が道を行き交っていた。人の行き交いもかなり多い。

 

 まさしく赤煉瓦の迷宮。そう形容するにふさわしい、西ゼムリア最大の規模を誇る大都市だった。

 

「えへへ。ようこそ、《緋の帝都》ヘイムダルへ。と言っても、ここはまだ駅前だけどね」

 

 トワが2人の前に躍り出ると、両手を大きく広げて見せる。その様子は、どこか誇らしげだ。

 

「入学式の際も窓から見ておりましたが、実際に近くで見ると迫力が違いますな。絵画の世界に迷い込んだかのようでございます」

 

 ムネノリの称賛に、シノも今回ばかりは同意する。こくりと頷いた。

 

「よかったあ。実はわたし、帝都育ちなんだ。だから案内はどーんと任せてね!」

 

 トワは胸を張り、その上に己の手のひらを乗せる。起伏は乏しいが、頼もしさはしっかりと伝わった。

 

「よろしくお願い致します、トワ殿。それで、まずはどこに向かいましょうか」

「やっぱり最初はヴァンクール大通りかなあ。ここから真っ直ぐ進んで行くと、たくさんのお店が並んでる大通りがあるんだ。あ、そうそう! 帝都での移動にはあの導力トラムを使うんだよ!」

 

 トワが指差した先には、鉄道の車両より何回りか小さい箱型の乗り物があった。箱の窓越しに、何人かが乗っているのが分かる。

 

「あれは、もしや小さな鉄道のようなものでございますか」

「うん。帝都民の基本的な移動手段みたいなものかな。あれに乗れば、帝都のどこにでも行けるの」

 

 「さ、行こう」とトワはシノたちを先導する。シノたちはそれに続き、導力トラムに乗ってヴァンクール大通りへと向かった。

 

 

 

 

 ヴァンクール大通りは、駅前の光景のスケールをそのまま数倍に拡大したような場所だった。

 より巨大な建物の数々、数倍の交通量、そして数倍の人。帝都が初めてのシノでも、ここが帝都の大動脈にあたると簡単に理解できた。

 

「おお、ここがヴァンクール大通りでございますか。……ん? あちらに見えるのは、もしやバルフレイム宮でしょうか」

「うん、そうだよ。近くに広場があるから、あとでそっちにも行こうね」

 

 ムネノリとトワが会話をしている中、シノは周囲の様子を観察する。警戒と呼んでもいいかもしれない。護衛という役職上、自然とそうなってしまうのだ。

 

 シノは周囲を観察して得られた情報を分析する。

 

(……やっぱり、注目されてる。主に私が)

 

 3人の近くを通り過ぎようとする人々が奇異の視線をシノに向けている。原因は、この東方の服装だろう。

 周囲でシノと同じような格好をしている者は1人もいない。当然だ。ここは西ゼムリアの最西端。東方文化とは最も縁のないエレボニア帝国の首都なのだから。

 

「……? どうしたの、シノちゃん」

「いえ……この服が、余計な注目を集めているみたいです」

「あー、そっかあ。珍しいもんね、シノちゃんの服。可愛いと思うんだけどなあ……」

「……やっぱり、私は隠れてます。私が一緒では、目立ち過ぎて街を歩きにくいと思います」

 

 それに、事前に仕入れた知識が正しければ、エレボニア帝国とカルバード共和国は様々な権益を巡って対立している。そして共和国では、東方文化が浸透しているのをこの目ではっきりと見た。

 このままだともしかしたら、共和国の人間と間違われて問題が起きるかもしれない。

 

「わわ、それはダメだよ! 今日は3人で遊びに来てるんだから! シノちゃんも一緒にいないと」

「ですが、この服では……」

「服……あ、そうだ!」

 

 なにか思いついたのか、トワはシノの手を取ると急に歩き出した。それも、そこそこの早歩きで。虚を突かれたシノは引っ張られるようにして付いて行く。その後ろに、ムネノリが続いた。

 

「あの、一体どちらへ?」

「ブティック! 《ル・サージュ》っていう、有名なお店の本店があるんだ」

 

 シノを引っ張りながら、トワは顔だけをこちらに向けた。

 

「服が目立つなら、目立たない服に着替えればいいんだよ」

 

 

 

 

「あ、これ可愛いー。どうかな、ムネノリ君?」

「うむ。よいと思いますぞ」

「むー、ムネノリ君さっきからそればっかり。それだけじゃ分からないよ」

「し、しかし……本当にそう思っているのでございます。こればかりはなんとも……」

 

 トワが店内に膨大に並べられている服の中から見繕い、ムネノリに確認する。それを繰り返しながら、トワはその手に少しずつ服を増やしていった。

 その間、シノは2人の後ろを付いて歩くだけだった。自分の為の服選びの筈なのに、どうにも口出しできそうな雰囲気ではなかった。

 

 店内を見渡す。服、服、服。服ばかりだ。王族出身のシノにとって、服は買うものではなく用意されているものだった。忍となってからも、服はあくまで支給されるものだった。この女学生の格好も、変装用に支給されたものだ。

 だから、こうして服だけが並んでいる店というのは、なんだか見ていて不思議だった。近くのハンガーラックに目をやる。いくつかの種類のトップスがサイズ別にかけられている。

 

 なんとなく、その内の1着を手に取ってみた。名札を確認すると、レース付きの白ブラウスと赤のカーディガンと記されていた。

 

「あー! シノちゃんが持ってるの、すごい可愛いー!」

「え……あ、いえ、別にそういうつもりではなく……」

 

 店内を1回りしたのか、トワがシノのもとに戻ってきた。小走りで駆け寄ってシノが手に持っている服を確認すると、顔を綻ばせる。

 

「でも、絶対似合うと思うよ! ね、ね、そろそろ試着してみない? ほら、色々選んでみたんだ」

 

 トワはその手に持っている服をいくつか広げて見せる。どれもこれも、シノは初めて見るデザインの服だった。

 

「しかし……」

「着てみるだけだから! ほら、こっちだよ!」

 

 微かな抵抗も虚しく、トワに再び連れ去られてしまった。この店に入ってから、なんだかトワのテンションが妙に高い気がする。

 

 試着室に連れられたシノは、トワからいくつかの服を押し付けられ、カーテンをかけられてしまった。全ての服を試着するまでは、ここから出してはくれないだろう。

 

(……仕方ない)

 

 どうせ街を歩くために1着は購入しなければならないのだ。観念したシノは、穿いている袴の帯を解き始めた。

 

 

 

 

「うんうん。とてもよく似合ってるよ、シノちゃん!」

「……さっきも同じようなことを仰っていたと思うのですが」

「だって、本当に似合ってるんだよ!」

 

 着替えたシノを見てはしゃぐトワの横で、ムネノリが複雑な顔でトワを見ていた。多分、服を選んでいたときのやりとりを思い出しているのだろう。女はときに理不尽なものだ。座学でそう習った。

 

 ちなみに、今着ているのは自分が手に取っていた服だ。ボトムスには花柄のショートパンツを合わせてもらい、ついでにキャスケットという帽子まで頭に乗せられた。

 

 鏡で自分の姿を確認する。東方出身の自分に西ゼムリアの服はどうなのだろうかと思っていたが、案外悪くない。この服装ならば目立つことはなさそうだった。

 再度別の服に着替えるのも面倒だし、とりあえずはこれでいいだろう。帝国民に変装する為の服が必要だったと本国に申請すれば、公費で落ちる筈だ。

 

「うーんと……じゃあ、これと、さっきのあれと、あれでいいかな」

「……? なにを……」

 

 シノの呟きが届く前に、トワは「すみませーん!」と店員を呼んでしまった。

 

「はい、いかがなさいましたか」

「えっと、今この子が着ているものと、これと、これのお会計をお願いします」

「はい、かしこまりました」

「え、え……?」

 

 とんとん拍子で話が進む。まるで、トワが会計を済ませるつもりのような口ぶりだ。

 

「お、お待ちくださいトワ様。まさかトワ様がお支払いをされるつもりですか」

「うん、そうだよ? あ、大丈夫。ミラは多めに持ってきてるから」

「そうではなく! 任務に必要だと申請すれば公費で落ちます。トワ様がご負担される必要は……」

 

 かなり久しぶりに声を荒げてしまう。そこまでしてもらう訳にはいかないし、そこまでする理由が分からない。機嫌を取ろうとしているつもりなら、余計なお世話だ。そう言おうとして——。

 

「うーん、そういうんじゃなくて、わたしとしては仕事の為の服じゃなくて、シノちゃんが着る為の服をプレゼントしたいんだけど、ダメかな?」

「ぇ……」

 

 心がさざ波のように揺れ、口ごもる。かなりの不意打ちだった。

 

 忍としてではなく、自分が着る為の服。そんなこと、考えもしなかった。それに、トワはシノに服を贈りたいと言った。その言葉に、嘘は感じられなかった。

 

「……しかし、さすがに全額は」

「——ならば、拙者も半分出そう」

 

 そう申し出たのは、ムネノリだった。その提案にはトワも驚いたのか、両眉を上げていた。

 

「さすれば、これらはトワ殿と拙者からの贈り物ということになる。偶には兄らしいこともしてあげたいゆえな」

「兄上……」

 

 兄として。その言葉は、無自覚ながらも兄に対して淋しさを感じていたシノの心を熱く満たした。 

 服を貰って嬉しいのかは……よく分からない。だが、ムネノリからの贈り物であれば、なんであれ嬉しいと思ってしまう。

 

「………………本当に、よいのですか」

 

 最後の確認。それに対し、ムネノリとトワは迷わず頷いた。シノは、深々と頭を下げた。

 

 

 

 

 ブティックを出たあと、シノたちは午前中の残りの時間を百貨店に費やし、そこで昼食も済ませた。しばらく休憩を取ってから、3人はドライケルス広場へとやって来た。

 

 バルフレイム宮の、神々しさすら感じさせるその佇まいに圧倒されながら、シノはトワと共にゆっくりと広場を歩き回る。

 ちなみにムネノリは2人から離れ、憲兵に止められないギリギリの場所でバルフレイム宮を眺めていた。身元を明かせば入れる可能性が万分の一くらいはあるだろうが、そのつもりはないようだ。

 

 広場にはいくつかの屋台が立っており、軽食や飲み物などを販売していた。故郷のイズモでも屋台は数多くあった。まだ離れて1ヶ月半だが、なんだか懐かしい気分だ。

 そう思っていると、ある屋台が目に入った。

 

「あ……」

「どうしたの、シノちゃん」

「いえ、なんでも……」

 

 少し先に、《レイトン》という屋台があった。クレープという食べ物を売っているらしい。べったら焼きのような生地で、クリームや果物を包んでいた。とても、いい匂いがする。

 

 ただ、クレープを食べたいとは言い出せなかった。食べてみたいことを知られるのもそうだし、その為にしばらく待たせてしまうのも嫌だと思った。

 非常に、非常に名残惜しいが、諦めるしかない。シノはそのまま屋台をやり過ごそうとして……。

 

「あ! ここのクレープ、すごく美味しいんだよ。シノちゃん、一緒に食べない?」

 

 トワがシノを引き止めた。彼女の口からもたらされた素晴らしい提案に、シノは光の速さで喰いついた。

 

「…………別に、構いませんが」

 

 そう、トワが食べたいのだから仕方なくだ。仕方なく、一緒に食べるだけ。それだけだ。それはそれとして、早く食べたい。 

 

「よかった。えっと、色々な味があるんだけど、シノちゃんはどれを食べる? 分からない食べ物の名前があったら言ってね」

 

 シノは屋台に置かれたメニューを凝視する。バナナ、バナナチョコ、イチゴ、3種のベリー……色々あって悩んでしまう。

 最初なので、おすすめと銘打たれているものがよいだろうか。そうなると、バナナチョコとイチゴになる。だが、昼食後なのに2つも食べられるだろうか。ミラも、そんなに余裕はない。

 

「うう……」

 

 どっちだ。どちらにする。メニューの写真を見比べる。だが、決められない。このままではトワを永遠に待たせてしまう。早急に決めないといけない。なのに、シノの視線はイチゴとバナナチョコを行ったり来たりしてしまう。

 

 頭が沸騰しそうだ。止むを得ないが、クジかなにかで決めるしかない。そう思ったとき、トワが口を開いた。

 

「……ねえ、シノちゃん。わたしはイチゴにしようと思うんだけど、よかったら食べ比べしてみない? 色んな味が食べたいなって思っちゃって」

「え……」

 

 トワから発せられた衝撃の言葉に、シノの動きが止まる。それは、つまり……シノがバナナチョコを買えばどちらも食べることができるということだ。すばらしい。

 またもやシノは光の速さで喰いついた。

 

「はい。とてもよい提案かと存じます。では、私はバナナチョコにします」

 

 かなりの早口でそう告げるのであった。

 

「うん、了解。じゃあシノちゃんにはベンチの場所取りお願いしてもいいかな? シノちゃんの分も一緒に買ってくるから」

「かしこまりました」

 

 シノはその場を離れると、そわそわとスキップ混じりに空いたベンチに向かった。

 だがその途中で、妙な違和感を覚えた。なんだか、都合がよすぎる気がしたのだ。

 

(……あれ? そういえば、クレープを食べようと言い出されたタイミングも、かなり遅かったような……)

 

 もしかして、と思ってしまった。さりげなく振り向いてトワの様子を探ってみる。だが、普通に列に並んでいるだけで、その表情からはなにも読み取れなかった。

 

(……ありがとうございます)

 

 それでも、ムネノリ越しにトワの仕事ぶりをずっと観察していたシノにはある種の確信があった。トワが、シノの考えを察してくれたということを。だから、心の中で礼を言った。

 

 その後、結局押し切られる形で奢られてしまったシノは、2つの味のクレープに舌鼓を打ちながら、ムネノリが戻ってくるのを一緒にベンチで待った。

 

 ちなみに、2人で話をする絶好のタイミングだったのだが、シノはクレープに夢中ですっかり忘れていた。気づくのは、ムネノリと合流したあとだった。

 

 

 

 

 それからも、3人で様々な場所を訪れては楽しい時間を過ごし続けた。そして最後に足を運んだのは、マーテル公園という場所だった。帝都の中だとは信じられないくらいに緑で溢れていて、家族連れや恋人と思しき人々の姿が目立つ。帝都の人々にとっても、憩いの場であるようだ。

 

 既に日は傾き始め、空は茜色に染まりつつある。今日も、もうすぐで終わりだ。

 

「いやー、堪能したでござるなー。これでも帝都の半分も回ってないというのが信じられんくらいでござる」

「……ええ、そうですね」

 

 聞くところによると、帝都は16からなる街の区画に分かれているらしい。その中で、今日回ることができたのは駅前を含めて5個程度だ。人口80万の大都市というのは、半端ではなかった。

 

 慣れない街で歩き回ったせいか、シノもくたくただった。ムネノリと並んでベンチに座り、遠くの景色に焦点を合わせる。

 

 ちなみに、トワは現在席を外している。なんでも、一応実家に顔を出しておくらしい。すぐに戻ってくるとのことだったので、ここで待っているのだ。

 

「……どうでござったか、今日は?」

 

 ふと、ムネノリが声をかけてくる。その声は、とても優しげだった。

 

「……まあ、そうですね。よい気分転換にはなりました。兄上は、トワ様と2人きりで過ごせなくて残念だったかもしれませぬが」

 

 少しからかうような口調で返事をする。ムネノリは朝のときとは打って変わって、分かりやすいくらいに狼狽えた。顔を真っ赤にして叫び出す。

 

「あ、いや、その……別に! トワ殿とご一緒する機会はきっと他にもある! あんまり生意気なことを言うでない!」

「失礼しました。……今日は、ありがとうございました。私の為に、時間を割いていただいて」

「……礼はトワ殿に言ってくれ。元々、トワ殿の提案だったのだから」

「やはり、そうでしたか……」

 

 薄々というか、はっきりと勘付いていた。そもそも、こんな大都市で遊ぶことを迷わず提案できる者など、3人の中では帝国人のトワしかいない。自明の理というやつだ。

 

「……すまなかったな。淋しがっていることに気づかなくて。お主が忍として優れているがゆえに、まだ12であることを忘れておった」

「……いえ。それに、私自身も今日までなんで苛立つのか分かっていませんでしたし」

 

 今日、1日中兄のムネノリの側で過ごしたことで、ようやく自分の心が分かった。自分で認めるのは癪というか恥ずかしいが、要はムネノリがトワに取られて淋しかったみたいだ。

 変な話だ。トワにはムネノリのことを嫌いにならないで欲しいと言っておきながら、いざその距離が縮むとそれを疎ましく思っていたということになる。

 

 トワのことは好きなのに、嫌いだとも思ってしまっていた。その相反する感情も、今日の自由行動日でだいぶ好きの方に傾いたように思う。

 そんなシノの心情を察したのか、ムネノリはシノの頭を撫でる。

 

「……拙者はそなたの兄だ。立場が変わろうともそれだけは決して変わらぬ。それは、忘れないで欲しい。そこで、提案なのだが……」

「……? なんですか」

「……これからは、隠れるのを止めてみないか。確かに護衛の任は大事であるし、いざというときは拙者も頼りにしている。だが、別に隠れながらやる必要もあるまい。さすれば、拙者とシノの時間も自然と増えよう」

「……よろしいのですか」

 

 恐る恐る、問いかける。その提案はシノにとっては魅力的であると同時に、毒でもあった。少女としてのシノと忍としてのシノがせめぎ合う。

 しかし、ムネノリはあっさりと肯定する。

 

「他に見ている者もおらぬしな。どうせなら、部屋も第三学生寮に移すとよい。トワ殿やサラ教官にお願いすれば、なんとかなるでござろう」

 

 それに、とムネノリは続ける。

 

「せっかくトワ殿と一緒に服を贈ったのだ。ちゃんと着て、見せてもらわねば困る」

 

 そう言って、ムネノリは笑った。なるほど、道理だ。

 シノだって、服に全く興味がないという訳ではない。いただいた服も、折を見て着てみるつもりだった。だがどうせなら、誰かに見てもらう方が何倍もよい。

 

「ええ、ちゃんとお見せします」

「うむ、頼むぞ」

「——ごめん、お待たせーっ!」

 

 話が終わるタイミングを見計らったのかどうか分からぬが、ちょうどよいところにトワが姿を現した。それなりに急いで戻ってきたらしく、軽く呼吸が乱れていた。

 

「はぁ、はぁ……ふー。ごめんね、遅くなっちゃって。実は、叔母さんたちがウチで夕飯食べていかないか、って言ってるんだけど、どうかな?」

「おお、それはまことでございますか!?」

 

 ムネノリの発作が起こりかける。まあ、今日は1日中我慢してもらったのだ。さすがにもうよいだろう。

 

「う、うん。ここから帝都の西側にあるヴェスタ通りにある《ハーシェル雑貨店》というところが実家なんだけど……」

「是非、お願い致します! トワ殿のご家族とご対面でございますか。武者震いがしますなあ! ささ、行きましょうぞ!」

「え、え、待ってムネノリ君! 別にそういう意味での招待じゃ……!」

「——トワ様」

 

 暴走して先行してしまったムネノリを追いかけようとしていたトワを強引に引き止める。振り向いたトワはシノの真剣な目つきに気づいたのか、足を止める。

 

「どうしたの?」

「……先日は無礼な態度を取ってしまい、大変申し訳ありませんでした。それとクッキー、大変美味でございました」

 

 深々と、頭を下げた。それに驚いたのか、トワは1歩後ずさってしまった。

 

「あ、あれはシノちゃんはなにも悪くないよ! むしろ、わたしが謝らないといけないことで……! ごめんなさい!」

 

 トワまで頭を下げてしまった。もしかしたら、シノの苛立ちの原因を見抜いていたのかもしれない。だが、ここで退く訳にはいかない。

 

「ですが、毒味は言い過ぎでした」

「わたしだって、鍛錬中にお邪魔しちゃったし」

「クッキー、枚数が多い方を持って帰りました」

「また焼けばいいし、美味しかったならなによりだよ」

「しかし……」

「でも……」

 

 なぜか、2人して頭を下げ合う。それがずっと続くかと思っていたとき……。

 

「っ……」

「あいたっ!」

 

 同時に下げた頭がぶつかってしまった。互いを見やりながら、額をさする。そしてふと、目が合った。

 

「……ふふ」

「あはは……」

 

 笑いが込み上げてきた。それはトワも同じようだった。2人して、よく分からない感情に突き動かされて笑い合う。

 

 とてもくだらない、子供のヤキモチ。結局、それ以上でもそれ以下でもなかったのだと思う。トワのことは、間違いなく好きだ。なんだか、気分がスッキリした。

 

「ねえ、シノちゃん。改めて、お友達として仲良くなりたいなって思うんだけど、どうかなあ?」

「……そうですね」

 

 シノはしばし考える。そして、被りを振った。

 

「大変嬉しい申し出ですが、きっとそれは無理かと存じます」

「え……」

 

 シノの返答がショックだったのか、トワの表情が萎んでいく。

 少し意地悪な言い方をしてしまった。完全に萎んでしまわない内に残りを言ってしまおう。

 

「だって……トワ様は、将来は私の義姉となる方なのですから。そうですよね……義姉上?」

 

 たっぷりと”義姉上”の部分を強調して言い放った。トワはシノの言葉に目を白黒させ、ポカンと口を開けていた。ここまで彼女が呆気に取られるのも珍しい。面白いものが見れたと思い、歩き出す。

 

「……ええ!? そ、それって……ま、待ってシノちゃん! わたし、まだシノちゃんの義姉になるって決まった訳じゃ……っ!」

「ということは、考えてはおられるのですね。よかったです、兄上も喜ばれます」

「そうじゃなくてー! ふええっ、なんて言えば伝わるの〜!?」

 

 兄が赤の他人に奪われる訳じゃない。自分に、新しい義姉が増えるのだ。最初から、そう考えればよかっただけの話だった。

 きっと、この人しかいないとシノは思った。だからこそ、なにがあってもシノはトワの味方をすると今、決めた。

 

 必死に弁解の機会を求めるトワを無視しながら、シノは停留所へと向かうのであった。

 

 

 以降、シノは住まいを第三学生寮に移し、姿を隠すことも止めた。そしてシノのトワへの”義姉上”呼びを巡って一悶着あったのは、言うまでもないだろう。

 

 

 

 

<おまけ・ハーシェル家にて>

 

 トワは心底後悔していた。ムネノリという特大の爆弾を、ハーシェル家のど真ん中に招き入れてしまったことに。普通の夕食だった筈の食卓は、もはや宴会の様相を呈していた。

 

「しっかし、トワ! あんたやるじゃないかい、外国の王子様を捕まえちまうなんて!」

 

 叔母のマーサが酒場のおっさんのように愉快に笑う。夕食だからか既に酒が入っており、顔が赤い。こうなったマーサは、基本的に誰にも止められない。

 

「ち、違うの叔母さん! まだ、わたしとムネノリ君はそういう関係じゃなくて……!」

「なーに言ってんだい! 家まで招いたってことは、トワだって満更でもないんじゃないか!」

「っ〜!? お、叔母さんッ!!」

 

 言い返せず、トワは苦し紛れに叫ぶ。元々形勢不利な話題の上、相手は育ての親でもある。とてもじゃないが、口では勝てそうになかった。

 

「しかし、君みたいなしっかりとした子がトワを貰ってくれるなんてねえ……。トワを、是非ともよろしく頼むよ」

「はっ! お任せください義伯父上! 必ずや、トワ殿を幸せにしてみせます!」

「ははは、いい返事だ。ほら、君も飲みたまえ。まあ、これはただの『小麦で作ったジュース』だけどね」

「ありがたく頂戴致します! いやあ、故郷でも『米で淹れた茶』はよく飲みましたが、こちらも中々趣のある味でございますなあ!」

 

 男性陣の伯父のフレッドとムネノリも、2人だけでかなり盛り上がっていた。そしてトワの知らない内に、話がどんどん手に負えない方向に進んでいた。

 ……それと、見逃してはいけない光景を見たような気がするが、マーサを躱して2人のもとまで辿り着くのは無理そうだった。

 

「……ふん! 王太子だかなんだか知らねぇけど、トワねーちゃんは簡単には渡さないからな」

「いくらですか」

「はぁ?」

「いえ、兄上と義姉上の仲を認めていただくには『山吹色のお菓子』をいくつお渡しすればよいのかと……」

「そんな生々しい話じゃねえよ!? ていうか、歳ほとんど変わんねえんだからそんな話し方するなよ!」

 

 カイとシノは、それなりに和やかに会話を楽しんでいるようだった。会話の中身がもっと子供らしい内容だと、より嬉しいのだが。

 

「それで!? 式はいつ挙げるんだい? たとえ式場がイズモだったとしても、必ず行くからね!」

「だから違うの! うう、誰か助けて……」

 

 結局、トワたちがトリスタに戻ったのは、門限のかなりギリギリだった。そして次の日、クロウやアンゼリカに根掘り葉掘り聞き出されたのは言うまでもない。

 

 

 

 



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第6話 幕間 穏やかな日々

<にがトマトで暗殺できる男>
<小さな女神様>
<レックス切腹未遂事件>

上記タイトルの短編集です。




<にがトマトで暗殺できる男>

 

 Ⅶ組の2回目の特別実習が終わってから1週間弱。突然、ムネノリが言い出した。東西の料理の交流の食事会がやりたいと。ムネノリが是非ともイズモの料理を披露したいと言ったのだ。どうやら、バリアハートで様々な帝国料理を食べて触発されたのが原因らしい。

 

 中間試験が近いこともあり、よい息抜きになりそうだとⅦ組の全員が賛成した。西にあたる料理は、料理が得意なメンバーが担当することとなった

 

 それだけに留まらず、ムネノリは愛しのトワにも食べてもらいたいと考えたのか、彼女を食事会に招待した。無論、クロウたちも一緒にである。彼らは快く承諾した。

 

 そして、悲劇は起こる。手ぶらでは申し訳ないと考えたトワが気を利かせて、ある料理を持ち込んだことで。

 

 

 

 

 いただきます! という言葉を合図に食事会が始まった。各々、わいわいがやがやと自由に料理を皿によそっていく。トワがテーブルを見渡すと、見慣れた帝国料理に混じってムネノリが作ったと思しき東方料理がいくつかあった。詳細を隣に座っているムネノリに問う。

 

「今日作ったのは、天ぷら、筑前煮、すき焼き、焼き鳥などでございます。ささ、お皿を。お食べになるものをよそいましょう」

「ほんと? ありがとう、じゃあお願いしちゃうね。天ぷらとすき焼きと……シーザーサラダが食べたいな」

「はっ、お任せを」

 

 皿をムネノリに渡す。するとムネノリはその大きな体を活かして、少し遠くに置いてあるそれらを軽々とよそっていく。料理が盛られた皿をトワは礼を言って受け取った。

 

 まずは天ぷらから食べてみよう。見たところ、揚げ物のようだ。見た目はフリッターによく似ている。タネは、かぼちゃとえびと、細切りにされた野菜を纏めたものだ。

 

「天ぷらはそこの天つゆにつけてからお食べください」

 

 ムネノリが指差したのは、配膳された器に注がれている薄めた醤油のような見た目のソースだった。温かいからか、少し湯気が出ている。

 トワは言われた通りにかぼちゃの天ぷらの端をつゆにつけ、一口食べる。サクリ、と衣が裂けた。

 

「ん〜! 美味しいー!」

 

 薄氷を踏むような衣の軽い食感、ほくほくとしたカボチャの甘みが口の中で広がる。そこに出汁の効いた温かい天つゆの風味が合わさり、舌の上で極上のハーモニーを奏でる。

 野菜に衣をつけて揚げただけの筈なのに、驚くほど美味しくなっていた。

 

「ほう、これは……」

「へえ、イズモの料理って初めて食べたけど、この天ぷらって言うの、美味しいわね」

 

 舌が肥えてそうなユーシスやアリサにも好評なようだった。他のみんなも次々と天ぷらを皿から取っていく。

 

 しばし天ぷらを堪能したトワは、次にすき焼きに目を移す。肉や野菜などが、醤油の色をしたスープで煮込まれた料理のようだ。

 

「こちらのすき焼きは、溶いた生卵につけて食べることが多いのですが……トワ殿は生卵は平気でしょうか」

「え、生? うーん、生は……ちょっと、どうかな……」

 

 対面に座っているシノを見ると確かに、溶いた卵につけて食べている。実は、トワは目玉焼きは半熟よりも完熟が好みだ。趣向のこともあり、卵を生で食したことのないトワには些か抵抗があった。

 

 ただ、これに関しては他のみんなも同じらしい。東方文化と関わりを持ったことがあるリィンとアンゼリカは平気そうだったが、それ以外ではフィーくらいしか生卵を試していなかった。帝国では、基本的に野菜以外の食材を生で食べるという概念がないのだ。

 

「では、そのままでお召し上がりください。無論、そのままでも味はしっかりついてますので」

「うん、ごめんね?」

 

 ムネノリの厚意を無下にしたことに対して謝罪してから、すき焼きに手をつける。薄切りの牛肉を取って、口に運ぶ。

 牛肉を噛んだ瞬間、醤油ベースの甘い汁が溢れ出した。適度にサシの入った牛肉の脂のコクと調和し、肉が口の中でほどける。

 

「うん! このままでもとっても美味しいよ!」

「光栄でございます」

 

 自身の郷土料理を美味しいと言われて嬉しいのか、ムネノリは鼻を高そうにしていた。実際、イズモの料理はとても美味しかった。

 

 ……ただ。

 

「う……ムネノリ。この、ネバネバしたものはなんだ?」

 

 マキアスが小鉢に盛られた腐った豆のようなものをスプーンで取り出す。その顔は、明らかに汚物を前にするような表情だった。トワの目の前にも同じ小鉢があるが、凄まじい臭いだ。

 

「納豆でござる! 大豆を発酵させたもので、今日の為に用意したのだ。海苔と米で巻いて食べると美味いでござるよ」

「そ、そうか。すまないが……僕は遠慮しておこう」

 

 残念ながら、納豆は不評だった。リィンやアンゼリカですら手をつけず、平気そうに食べているのはシノとフィーだけだった。ムネノリの好物だったらしく、だいぶ落ち込んでいた。

 

 

 

 

「そういえば、トワ殿もなにか料理を持ってこられたと聞きましたが?」

「あ、うん。そうなの。さすがに手ぶらはどうなのかなって思って。その、よかったら食べてみる?」

「もちろんでございます! トワ殿の料理ならば、たとえ天地が引っくり返っても食べますぞ!」

 

 相変わらず、大げさだ。でも、それだけ言ってくれるのは作った側としても嬉しい。

 

「あはは、ありがとう。でも、ごめんね。時間がなかったから、あんまり凝ったものじゃないんだ」

「いえいえ構いませぬ。それで、トワ殿がお作りになられた料理はどれでございましょう?」

「えっと、あそこに置いてあるトマトと玉ねぎのマリネなんだけど……」

 

 トワは器を指差す。そこには、ダイス状のトマトとみじん切りにした玉ねぎのマリネがあった。きっと野菜がメインのメニューは少ないだろうと思い、口直しも兼ねてさっぱりする味の料理を選んだのだ。また、ちょうどトマトが安かったからでもある。

 

 ——カラーン、とスプーンがテーブルに落ちた。それなりの高さから落ちたせいか、大きな音が響き渡り、周囲の注目を集めた。そのスプーンを落としたのは、ムネノリだった。

 

「ぁ、ぁ、あ……そ、そうで……ございます、か……」

「……? どうしたの、ムネノリ君」

 

 なんだか様子が変だ。突然手を震わせ、顔にはびっしりと汗が浮かんでいる。まるで、丸腰で手配魔獣に遭遇してしまったかのようだ。

 

「い、いえ。なんでもないでございますよ……は、ははは」

「……おや、どうしたのですか、兄上。たとえ天地が引っくり返っても、召し上がられるのでは?」

「し、シノ! お主知っててそんなことを……!」

 

 からかうようなシノの声。ムネノリが咎めるように叫ぶ。なにか隠したいことがあるようだ。

 

(…………あ、もしかして)

「……ははーん。なるほどな。そういうことか」

 

 トワと同じタイミングで、クロウもなにか思い至ったらしい。ニヤニヤと口元を歪めている。

 

「な、なんでござるか」

「いや、お前さんよ……トマト、苦手なんだろ」

 

 そして思い至った内容も、全く同じだった。図星だったのか、ムネノリは雷で打たれたかのように飛び上がった。

 

「ま、ま、ま、まさか! このムネノリ、苦手なものなど……!」

「ええ、苦手ですよ。典型的な、ケチャップ以外のトマト成分は一切受け付けないレベルです」

「お、おい、シノ!」

 

 本人は隠そうとしていたが、身内のシノにあっさりとバラされてしまった。ムネノリはますます狼狽える。

 しかし、正直に言って意外だった。納豆ですら食べるムネノリに、苦手な食べ物があるとは思わなかった。

 

「ほらほら、どうしたムネノリ君よお? 愛しのトワの作った料理だぞ? 食べねーのかよ?」

 

 面白いものを見つけたと言わんばかりに、悪意たっぷりの表情でクロウが畳み掛ける。それだけに留まらず、クロウはムネノリの代わりにマリネをよそって彼の目の前に置く。

 ムネノリの顔は、もはや失神直前だった。それを知ってか知らずか、シノがさらに煽る。

 

「急いだ方がいいですよ。食べなかったら、義姉上は兄上と縁を切ると仰られてますので」

 

 仰ってない。ちなみにシノは普通にマリネを食べていた。

 

「あ、う……ぐ、ぐぅううう……ッ!」

「あ、あの……別に無理して食べなくてもいいよ? 苦手なものがないか聞かなかった、わたしが悪いんだし……」

 

 基本的に好き嫌いに対してはダメだよと諭すトワだが、さすがに今のムネノリにそれを言う気にはなれなかった。なんとか、この場を収めようとする。

 

「——ぬわああぁあああ!!」

 

 突然、奇声をあげたムネノリが立ち上がった。そしてあろうことか、懐から小刀を取り出した。

 

「申し訳ございませぬ! しかし、トマトは! トマトだけは……! こうなったら、もはや腹を切ってお詫びする他……ッ!!!」

 

 ムネノリは鞘を放り捨てる。白銀の刃が、周囲の光を反射してギラリと煌めいた。間違いなく、本物の剣だ。

 

「腹をきる……って、えぇえええ!? ま、待ってムネノリ君、そんなことしちゃダメぇええ!!」

 

 ムネノリの暴走を止めようと、トワは全力で抱きつく。しかし、体格と力の差のせいか、ちっとも止められそうになかった。まるで親子のじゃれ合いのように体が振り回される。

 

「お、落ち着けムネノリ!」

 

 そこにリィンやガイウスと言った男性陣が加わり、ようやくムネノリを押さえ込むことに成功する。それでも暴れようとするムネノリを必死になだめ続けた。

 

 ムネノリを追い込んだクロウは腹を抱えて大爆笑しており、シノは黙々と焼き鳥を食べていた。

 ちなみに、アンゼリカは「そうか、私も切腹しようとすればトワに抱きついてもらえるのか!」と平常運転だった。普段は突っ込み役のジョルジュは、料理に夢中でそれどころではなかった。

 

 1つだけ確かなのは、トワは自分の料理をムネノリに食べてもらえなかったということだった。

 

 以後、時間を見つけてはトマト嫌いでも食べられる料理の研究をするトワの姿があったとか。

 

 

 

 

<小さな女神様>

 

 ある日の放課後のことである。クロウはムネノリの部屋にお邪魔し、ブレードで遊んでいた。トワ繋がりで知り合った2人だが、案外馬が合ったようで、こうして時折交流を行なっている。

 

「ほい、オレの勝ちっと……」

「む、むう……無念」

 

 ムネノリはガクリと項垂れる。クロウがゲームに慣れているというのもあるが、単純にムネノリが弱かった。どうも、ゲーム関係は苦手のようだ。

 

「そういや、シノはどうしたんだよ? いつもお前にべったりなのに、今日は寮にもいなかったが」

「兄弟仲がよいのは認めますが、べったりのように見えるのは護衛の任もあるからでござる。今日は、トワ殿に西ゼムリアの料理を教わりに行っているのです」

「はーん、なるほどな。最近はトワにも懐いてるもんな」

 

 先日、自由行動日にトワと一緒に帝都に行った日から、トワとシノはかなり仲良くなった。見た目こそ似てないが、傍から見れば本物の姉妹のようだ。

 

「しっかし、実際のところどうなんだよ? お前さん、トワとなんか進展とかないのかよ?」

「進展!? な、な…………が、学生の身でそんなことを考えるとは、破廉恥でござる!」

「いや、そりゃ飛躍しすぎだろう」

 

 とりあえず、大した進展はないということがよく分かった。帝都に一緒に行くくらいだから仲良くはなったのだろうが、どうもまだ友人の範疇を脱していないようだ。

 

(ムネノリに関しちゃ分かり切ってるが……トワはこいつのこと、どう思ってんのかねー)

 

 結局、求婚に関してはトワは返事を曖昧にしたままだ。責任感の強いトワのことだからそのまま有耶無耶にすることはないだろう。しかし、果たしてその気があるのかどうか。

 別にクロウとしてはどっちに転んでもよいのだが、一応ムネノリならば安心して任せられるだろうとは思っている。そういう意味では、やや賛成寄りだ。

 

「っと、もうこんな時間か。悪ぃな、このあと《キルシェ》で大事な用事があるんだわ」

「件の競馬の話ですか。言っておきますが、くれぐれも……」

「わーってるよ。そもそも、ミラを賭けたことは1度もねぇよ。ったく、トワみてーなこと言いやがって」

 

 ムネノリとトワは体格含めてあらゆる点がバラバラだが、まじめな優等生という1点だけは共通している。クロウからしてみれば堪ったものではない。小言を言われる前に退散するに限る。

 

「ンじゃな。また明日な」

「うむ、また明日」

 

 クロウは手短に別れを告げ、第三学生寮を去った。

 

 ただ、このときクロウは気づいていなかった。ムネノリの部屋に寄る前に、トワに見つからぬように調達したばかりの『お宝』が入った紙袋を忘れていったことに。

 

 

 

 

 ムネノリが紙袋の存在に気づいたのはクロウが去ってしばらくしてからだった。ふと、ベッド近くの台に置かれているのを見つけたのだ。色が台と似ている為か、同化していてすぐには気づかなかった。

 

「クロウ殿の忘れ物でござろうか」

 

 手に取ってみる。大きさや感触からして、紙のようなものが入っている気がするが、定かではなかった。

 

「一応、確認してみるでござるか」

 

 クロウに限ってない気はするが、万が一何かしら重要な書類などが入っていた場合、今すぐにでも渡しに行かなければならない。

 クロウには悪いと思いつつも、ムネノリは確認の為に紙袋を開いた。

 

(これは、雑誌……? …………っ!?)

 

「な、な、な、なんだこれは!?」

 

 予想外のものが目に入って飛び上がったムネノリは、紙袋の中身を部屋中にぶちまけてしまった。何冊もの雑誌がそこら中に散らばる。それ自体は問題ではない。問題は、雑誌の種類だった。

 

(ぐ、ぐ、ぐらびあ……ではないか……!)

 

 表紙にでかでかと印刷された、艶かしいポーズをとっている水着姿の女性の写真。あるいは際どいラインまで服をはだけた女性が寝転がっている写真。

 間違いなく、西ゼムリアでグラビア雑誌と呼ばれているものだった。一応最低限のラインは守られているものの、全体的にかなり挑戦的な内容だった。

 

 悶々とする感情を頭を振って振り払い、元凶であるクロウに恨みの念を送る。

 

(く、クロウ殿め……! こんなものを拙者の部屋に持ち込むとは……!)

 

 気を遣って中身を確認したのに、裏切られた気分だ。

 これらの雑誌は今すぐに取り纏め、燃やしてしまおう。そう思い、ムネノリは極力中身を視界に入れないようにしながら、拾い集める。ぶちまけたのが自室の中でよかった。このような状況を他人に見られた日には、破滅である。

 

 ——そんなムネノリを嘲笑うかのように、ドアからノックが響いた。ムネノリは銃を突きつけられたかのように固まる。すると、扉越しに声が聞こえた。

 

『ムネノリ君、いる?』

「と、トワ殿!?」

 

 思わず叫んでしまった直後、己の失態を悟る。これで居留守は使えなくなった。

 

『よかったあ、いてくれて。えっと、入ってもいいかな?』

 

 最悪のタイミングだ。ムネノリの手には拾い上げた大量の不健全な雑誌がある。今トワが入室してしまえば、それが彼女の目に入るのは必然だ。

 もし、もし……トワにこんなものを手に持っているのを見られたら。最悪の想像をしてしまう。

 

——『……ふーん。殿下はこういう女性がお好きなのですね。わたしなんかではなく、エマちゃんにでも求婚されたらいかがですか。わたしではご期待に沿えませんので』——

 

(確実に、縁を切られてしまう……!)

 

 それだけは避けなくてはならなかった。そして、それを避ける為には雑誌の存在を隠し通すしかなかった。

 場所を吟味している暇はない。近くにあったベッドのマットレスの下に、全ての雑誌を潜り込ませた。外部から見えないことだけ確認し、トワに返事をする。

 

「う、うむ! どうぞお入りください!」

 

 カチャリと扉が開く。遠慮がちに、トワが部屋に入ってきた。

 

「ごめんね、突然お邪魔して。実はシノちゃんがお料理を作ったんだけど…………どうしたの?」

「な、なにがでございますか!?」

 

 声が上ずる。心の準備がほとんどできておらず、平静を保てない。

 

「なんだか、すごい汗だけど……もしかして、具合が悪いの?」

「い、いえ! 断じてそんなことはありませぬ! 拙者はすこぶる健康体でございます!」

 

 軍人顔負けの直立不動の姿勢をとり、はっきりと宣言する。動揺を隠そうとした為か、思ったよりも大声が出てしまった。

 

「そ、そう? なら、いいんだけど……」

 

 ひとまずは納得してもらえたようだ。顔に疑問符を浮かべつつも、それ以上踏み込んでくることはなかった。ムネノリは内心安堵のため息をつく。

 

「それで、いかがなされましたか」

「あ、うん。実は、シノちゃんが1人でお料理を作ったんだけど、もうすぐお夕飯の時間だし、一緒にどうかなって」

「シノが? ほう、それは楽しみでございますな。是非、ご一緒させていただきます」

 

 シノはサバイバル訓練の一環として最低限の調理スキルは兼ね備えているが、日常的に料理をするようなことはしない。

 そんなシノがトワのサポート付きとは言え、1人だけで料理を作り上げたのだ。兄のムネノリとしては非常に興味深かった。

 

「えへへ、よかった! シノちゃんも喜ぶと思うよ。あんまり待たせちゃ悪いし、早く行こっか」

 

 トワに同意し、外出の準備を行う。その間、ムネノリはトワに気づかれなかったことに胸を撫で下ろす。また、クロウとはじっくり話をする必要があることを再認識した。

 

 そうして、トワと一緒に部屋を出ようとしたそのとき——部屋の片隅に、拾い切れていなかった雑誌が落ちているのが見えてしまった。かなりの死角にあった為、気づけなかったのだ。

 

「ッ!? しまっ……むぐ!」

 

 すぐに声を出してしまう自身の間抜けな口を両手で押さえつけるが、もう遅い。トワはムネノリの声をはっきりと聞き取り、足を止めてしまった。その顔は、不安に染まっていた。

 

「……ねえ、本当に大丈夫? やっぱり、無理してるんじゃ……」

「そ、そんなことはございませぬ!」

 

 再度否定するも、今度ばかりはトワの疑いの表情は晴れなかった。その理由が純粋に自身の体調を心配してのことであることに、言いようのない罪悪感を覚える。ムネノリの頭の中は、トワが雑誌の方を向きませんように、という祈りで埋め尽くされているのに。

 

「……ねえ、ムネノリ君。わたしが風邪を引いちゃったときのこと、覚えてる?」

 

 突然、トワは話題を切り替える。その声は、先ほどよりも真剣味を帯びていた。

 

「わたし、あのときのこと、すごく反省してるんだ。あのときムネノリ君が言ってたように、教官の方々を頼ればよかったのに、自分でやらなくちゃーって頑なになっちゃって。それで結局、ムネノリ君にお世話になっちゃって」

 

 もしや、これはムネノリが体調不良を隠していると確信していて、どうにか説得しようとしているのでは? そんな考えがムネノリの頭を過ぎった。同時に、罪悪感が倍加した。

 

「わたし、嬉しかったんだ。あのとき助けてもらって。だから、わたしもムネノリ君の力になりたいの。男の子だから仕方ないのかもしれないけど、あんまり隠そうとしないでほしいな……」

 

 頼りないろうそくの火のように揺らめくトワの瞳。その瞳が語る想いの重さと、心底くだらない真実のギャップに、ムネノリの心が締め上げられるように痛む。なんだか、本当に体調が悪くなってきた気さえしてくる。

 

「……お気遣いはありがたいのですが、拙者、本当に大丈夫なのでございます」

「……本当に。嘘だったら怒るよ?」

「女神に誓って本当でございます」

「……分かった。でも、疲れが溜まってるかもしれないから、ここで休んでて。シノちゃんと2人で、お料理をここまで持ってくるから」

「え!? いや、それは……」

 

 それはそれで、非常に不味い。雑誌の存在が発覚する可能性が高まるし、忍のシノならばベッドの下のものまで、いとも容易く発見してしまうだろう。

 なんとかして言いくるめなければと頭を回転させるが、さすがに時間が足りなかった。なにも思いつかない。

 

「大丈夫だよ。そんなに重いものじゃないから。ムネノリ君はベッドで休んでて」

「ッ!? お、お待ちを……!」

 

 トワは気を利かせようとしたのか、クロウの訪問のせいで乱れていたベッドを整えようとする。そして、それは今のムネノリにとって最悪の気遣いだった。

 

「んしょっと……ん、あれ? これ、なんだろう…………、〜〜ッ!?」

 

 シーツのシワを伸ばそうとトワがマットレスを軽く持ち上げたその瞬間——ピタリと動きが止まった。そのまま、無言で一言も発さなくなった。

 

 静かに、ムネノリは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

 

「あの……トワ殿?」

 

 返事はない。そして、それが何よりも恐ろしかった。まるで、怒った母親を前にしているような心境だった。

 

(ここまでか……)

 

 ことここに至っては隠し通す術はない。潔く散る他ない。場合によっては、切腹も辞さない。そんな覚悟で、トワの判決を待った。

 

 ……ところが。

 

「……んしょ、んしょ」

 

 何事もなかったかのように、トワはベッドメイクを再開した。軽蔑の言葉が飛んでくることを予想していただけに、その反応はムネノリを困惑させた。

 

 状況を理解できないまま、ムネノリはその場に立ち尽くす。そうしている間に、トワはベッドメイクを終え、ムネノリに向き直る。その顔は、嫌いなトマトを連想させてしまうほど真っ赤だった。

 

「え、えっと……その……じゃあ、ムネノリ君は休んでて。す、すぐにお料理持ってくるから!」

 

 何度も噛みながら早口で告げたトワは、その場から逃げ出すように退室しようとした。

 

 ——そこでムネノリは気づく。トワが、敢えて見なかったことにしようとしてくれていることに。おそらくは、男であるムネノリのことを気遣って。

 

 これまでも度々トワを女神にたとえたが、今この瞬間は本物の女神だった。彼女の周囲から神々しいオーラが見えた。

 

「——申し訳ございませぬぅうううッ!!!」

 

 良心の呵責が天空の遥か上空まで積み上がったムネノリは、女神の前で全ての罪を曝け出し、懺悔を行なった。それを聞いた小さな女神は、慈悲深い心で罪人を許すのであった。

 

 

 

 後日、クロウはトワにみっちりと絞られた。当然、彼の『お宝』は一切の慈悲をかけられずに全て焼却処分された。こうして、女神は人の子らを悪魔の誘惑から守り切ったのだった。

 

 余談だが、彼と『お宝』を共有する予定だった同志たちは、人知れず涙を流した。その理由を語る者はいない。

 

 

 

 

<レックス切腹未遂事件>

 

 7月の自由行動日のことだった。トワはいつものように、生徒会室で仕事をしていた。すると、まるで銃声と錯覚するような音と共に扉が開いた。

 

「トワ会長!」

 

 姿を現したのはリィンだった。彼とムネノリには、生徒会で対応しきれない依頼などを自由行動日に処理してもらっている。2人が加わってくれたおかげで、とても助かっている。

 そんなリィンだが、その表情には焦りが浮かんでいた。今にも火事だと言い出しそうなほどだ。

 

「どうしたの、リィン君? なんだか、すごい焦ってるみたいだけど」

「ええと、なにから説明したらいいか……その、ムネノリがレックスを捕まえて写真を見て修羅に落ちて……」

 

 要領を得ない説明だった。相当混乱しているようだ。とりあえず、ムネノリとレックスが関係あるのは分かった。

 

「……とにかく! 一緒にグラウンドに来てください! 走りながら説明します!」

「え、え? リィン君!?」

 

 リィンはトワの手を取ると、強引に生徒会室の外へと連れ出し、走り出す。全く状況が分からないトワだが、なにかしらの緊急事態ということは理解した。

 表情を引き締め、自分の足で走りながら話を聞く。幾ばくか落ち着きを取り戻したのか、リィンは順序立てて説明を始めた。

 

 事の発端は写真部の部長からの依頼だったらしい。なんでも、1年生で写真部所属のレックスが女子生徒を際どいアングルで隠し撮りを行い、あまつさえその写真で男子生徒と取引している疑いがあり、その解決をリィンたちに頼んだようだ。

 

 その話が本当であれば、大変な事態だ。万が一教官陣にバレるようなことがあれば、少なくとも停学は免れないだろう。女のトワとしても、看過できる話ではない。

 

 ただ、依頼自体は既に解決したようだ。グラウンドの用具入れの裏にいたレックスと男子生徒を拘束し、証拠の写真を確保することに成功したのだ。一瞬、逃げられそうになったらしいが、ムネノリの一声でシノが追い掛け、あっという間に縛り上げてしまった。

 

 そこまではよかった。その後はおそらくは部長が内々に処罰を下し、それで丸く収まっていた筈だ。トワも、きっと追求はしなかっただろう。

 ところが、実際はそうはならなかった。なぜならば、証拠となる写真の中にトワが仕事中の写真も混じっていたのを、ムネノリが見つけてしまったからだ。

 

 トワ自身は全く知らなかったが、会長であるトワのファンはそれなりにいるようだ。もっとも、ムネノリの存在の影響で規模は縮小しているらしいが。

 

 とにかく、トワの盗撮写真を見つけたムネノリとシノは激怒。レックスのことを激しく糾弾した。そのときに2人が発した怒気は大地を砕き、割れた空が落ちてくるのではと錯覚するほどだったとリィンは語る。

 

 そして、その結果……。

 

 

 

「えっと……リィン君。これ、なんなのかな?」

 

 グラウンドに着くと、他の部活の邪魔にならない場所に白幕が四角状に配置されていた。そのせいで、その中の様子を知ることができない。だが、間違いなくムネノリが関わっていると確信した。

 そしてなぜだか、ドンドコドンドコと東方風のドラムの幻聴が頭の中を流れた。

 

「……切腹です」

「…………え」

「ムネノリはレックスをあの幕の中心に座らせると、こう言いました。『切腹を申し渡す』と」

 

 切腹。中世におけるイズモの処刑方法の1つだと以前、ムネノリに教えてもらった。罪人が小刀を己の腹部に突き刺したあと、介錯人がとどめを刺すらしい。

 

 もし、もし……ムネノリがレックスに言い放った切腹が言葉通りの意味ならば……。

 

「えっと……形だけで本当にやる訳じゃ、ないよね?」

「……分かりません。ですが、ムネノリの目は本気でした」

 

 しばし沈黙。そういえば、食事会のときのムネノリも腹を切って詫びようとしていたことを思い出す。あのとき手に持っていたのは、正真正銘の真剣だった。

 

 つまり……冗談では済まされない可能性がある。

 

「急いでリィン君! 2人を止めないと!」

「は、はい! 分かりました!」

 

 嫌な予感のしたトワは全力で白幕へと向かう。リィンもそれに続く。足はリィンの方が速い為か、先に白幕の中に突入したのはリィンだった。少し遅れて、トワも中に入る。

 

 中にはレックスとムネノリ、シノがいた。どこから持ってきたのか、中心には畳が何枚も積み重ねられ、ちょっとした台のようになっていた。

 

「——最期に、言い残すことはあるか」

 

 既に処刑間近と思しきセリフがムネノリから漏れた。それでも一応、間に合ったようだ。

 

 レックスは畳の上で正座させられ、顔を涙と鼻水で汚していた。レックスの後ろには、ムネノリが刀を1振り構えて立っていた。その近くに立つシノは、レックスが逃げ出さないようにする為か、視線を彼の方へと固定していた。

 

「うっ、うぅっ……お願いだムネノリ……許してくれよぉ……もう、やんないから……」

「ああ、許すとも。貴様が潔く腹を切ればな」

 

 本気の声音でむせび泣き、許しを乞うレックスだが、まるで聞き入れられる様子はない。それどころか、ムネノリは早く腹を切れと急かすだけだった。

 

「待って、ムネノリ君!」

 

 トワは慌てて叫ぶ。すると、ようやくトワの存在に気づいたのか、ムネノリが視線をこちらに向ける。

 

「おお、トワ殿ですか。ちょうどよきタイミングでございます。これから、トワ殿の女神にも等しい御姿を隠し撮るなどという厚顔無恥な真似をした不届き者に、責任を取っていただくところです」

「やりすぎ! やりすぎだから! 罰は生徒会としてちゃんと与えるから、こんなことはしないで!」

「なにを仰いますか! これでも物足りないくらいでございましょう! それでも、同級生のよしみで打ち首ではなく、せめて切腹で済ませようとしているのではありませんか!」

 

 ダメだ。ムネノリとしてはこれでも手心を加えているつもりのようだ。いつにも増して、聞く耳を持ってくれそうにない。

 

 問答をしている間も、処刑は止まらない。雰囲気に呑まれたのか、1国の王太子による命令だからか、レックスは近くに置かれていた小さな台からあるものを取り出す。柄がなく、布で包まれた刀身が剥き出しの小刀だった。明るい日差しの中、刃が死神の鎌のように光る。

 

 もはや、一刻の猶予もなかった。

 

「リィン君、ムネノリ君を止めて!」

「はい!」

 

 リィンは弾けるように駆け出す。真っ直ぐに、レックスを救おうとして——。

 

「させません」

「なっ、くっ! どいてくれ、シノ! このままだとレックスが……!」

「当然の報いかと」

 

 シノに阻まれてしまった。どういう訳だか、今日ばかりはストッパーのシノも暴走側のようだった。膠着状態に陥り、リィンはレックスに近づくことができなかった。

 

(ど、ど、ど、どうしよう!?)

 

 サラ教官を呼ぶのはどうだろうか。いや、通信を使っても今からでは間に合いそうにない。そもそも既に酒場で戦力外になっている可能性もある。

 周囲に助けを求めるのは? 確実にシノを突破できる人間がいる保証がない。それに、状況を認識してもらうのにどれくらい時間がかかるか分かったものでない。

 

 そうなると、そうなると……。

 

(あ、そうだ、これだ!)

 

 咄嗟の閃きが頭を過った。もうこれしかない。トワは大きく息を吸う。そして両手でメガホンを象り、力の限り叫んだ。

 

「ムネノリ君! もし止めなかったら、もう口利いてあげないんだからぁー!!!」

 

 晴天の中、マイクでも使ったかのようなトワの大きな声が木霊した。なぜか、山の中でもないのに声が何度も反響した。

 

「な……ッ!?」

 

 ——ムネノリの手から刀が滑り落ち、その場に崩れ落ちた。トワの絶交予告に、ムネノリはこの世の終わりのような顔をしていた。彼にとっては死刑宣告にも等しかったようだ。

 

 次の瞬間には、トワの前で史上最も芸術的な土下座を披露するムネノリの姿があった。

 

 

 

 その後、レックスの件はトワが個人的に対応し、写真及び感光クオーツの破棄とレックスの1週間の停部で済ませた。

 

 また、風の噂でそのことを聞いたトワのファンたちは、ムネノリを恐れてひっそりとファンを辞めたと言われている。

 

 

 

 



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第7話 イズモからのお嬢様

 帝都の夏至祭を目前に控えたある日のこと。トワは生徒会長として学院長のヴァンダイクに呼び出され、学院長室を訪れていた。

 ヴァンダイクの告げた連絡に、トワは首を傾げた。

 

「イズモからのお客様、ですか」

「うむ。帝都の夏至祭に合わせて、夏至祭前からしばらく帝都に滞在するらしい。それで、そのお客様はムネノリ君とも知音の仲らしくてのう。滞在中、学院にも顔を出したいとのことじゃ」

 

 なるほど、とトワは頷く。帝都とトリスタは鉄道を使って30分の距離だ。導力車であっても、1時間以内には辿り着くことができる。トールズに顔を出したくなるのも道理だ。

 

「予定では、明日の13時ごろに正門まで導力車でいらっしゃる。その時間はワシは学院を離れておってのう、対応ができんのじゃ。済まぬが、代わりを頼みたい」

「そういうことでしたら、喜んで承ります。お客様のお名前はなんでしょうか」

「ツバキ・マツナガと言うそうじゃ。ああ、それと、これは本人の要望らしいのじゃが、明日の約束の時間までムネノリ君には名を伏せておいてほしいそうじゃ。なんでも、ムネノリ君を驚かせたいのだそうじゃ」

 

 苦笑混じりでヴァンダイクが告げる。それに対し、トワも同じく苦笑を返すしかなかった。

 

 ムネノリと親しく、イズモから帝都まで来れるということは、そのツバキという者はかなり裕福な家の出なのだろう。それにしては、中々お茶目なことを考える方だと思った。

 もっとも、トワにもアンゼリカ・ログナーという、四大名門の出身のお嬢様であるにも関わらずかなり破天荒な性格をした親友がいるので、それほど驚くことはなかった。

 

「そういう訳じゃから、出迎えにはムネノリ君も一緒にいてくれると助かる。済まぬが、よろしく頼むぞ」

「はい、了解しました」

 

 こうして、トワは生徒会長として、イズモからの新たな来訪者を出迎えることとなった。

 

 

 

 

 翌日の13時の5分前。トワはムネノリとシノを伴って、正門で待機していた。本格的に夏に入り始めたこともあり、少々暑い。特にトワは日差しが苦手で常に冬服を着用しているので尚更だ。

 

「しかし、イズモからの来客でございますか……うーむ、誰でござろうか」

 

 隣に立っているムネノリはうんうんと頭を唸らせている。どうやら来客の正体について考えているらしい。約束通り、ツバキ・マツナガの名は彼らには伝えていない。

 

「おおかた、兄上の妃の座を狙う名家の女たちでしょう。しつこい連中です」

 

 シノは、どうにもどんな相手が来るのかを決めつけているように思える。それどころか、最初から追い払うつもりなのか、指でクナイという忍のナイフを回転させている。さすがに失礼にあたるので止めさせた。シノは終始不満そうだったが。

 

 そうやって待っている内に、坂の向こうからブロロ、と導力車の走行音が聞こえてきた。音がどんどん近づいてくる。こちらに向かっている証拠だ。

 

 車が姿を現わす。黒塗りの、ラインフォルト社の高級車だった。高い身分の貴族であればどの家でも所有しているほどの人気モデルだ。

 試運転の際、ルーファス・アルバレアの厚意で同じ車に乗せてもらったことがあるが、席があまりにふかふかで落ち着かなかったことを覚えている。

 

 車は正門に側面を向けるような形で停車する。車の窓にはスモークがかかっていて、外からでは誰が乗っているかは分からない。

 運転席のあるドアから、ガタイのよさそうなサングラスの黒服の男が出てくる。ボディガードも兼ねているのだろうか。男は後部座席のドアに手をかけ、丁寧に開いた。

 

 ……この時点でのトワは、ツバキ・マツナガという人物を、茶目っ気がありながらも上流階級の人間のようなお淑やかな人だと考えていた。具体的には、メアリーやエーデルのような。

 

 その予想が裏切られたのは、車内から弾丸のように飛び出してきた人影を見た瞬間だった。

 

「ム! ネ! ノ! リ! 様ぁああ!」

「な、お前、つば——ぐむぅうッ!!」

 

 人影がムネノリの腹部に突き刺さり、彼の体がくの字に曲がった。勢いそのままに、トワたちの後方へと倒れ込んだ。

 

「ああ! イズモを離れられてから早3ヶ月、ずっとお会いしたかったですわ、ムネノリ様!」

「ま、待てツバキ! ぐっ、おい、やめい!!」

 

 ムネノリがもがく。それを押さえつけているのは、着物を着た女の人だった。腰まで届く艶のある黒髪が、走る馬の尻尾のように揺れている。

 

「えっと……」

 

 トワは言葉が出なかった。その長い髪や雰囲気は確かにメアリーたちに似ている。だが、その態度はまるでマルガリータがヴィンセントに向けるそれのようであった。

 

 あまりのギャップに、思考が硬直する。

 

「しまった……この方がいたんだった……」

 

 シノはと言うと、手で顔を覆って項垂れていた。発言から察するに、彼女にとっても予想外の人物だったようだ。

 

「えっと、シノちゃん。この方が、ツバキ・マツナガというお人で間違いないんだよね?」

「はい、その通りです。……もしかして、義姉上は知ってたんですか」

「うん、ヴァンダイク学院長からね。でも、先方がムネノリ君を驚かせたいから秘密にして欲しいって頼まれてて……ごめんね?」

「……きっと、驚かせたいからではなく、兄上が知ったら逃げ出すと知ってたからですよ。はぁ……」

 

 シノが溜め息をつく。彼女がここまで露骨に憂鬱そうな表情を見せるのは非常に珍しかった。最近はシノの心の機微も察せるようになってきたが、元々それほど顔には出ないからだ。

 

「いい加減離れぬか、ツバキ!」

 

 体勢を立て直したムネノリは力づくでツバキと呼んだ女性を引き剥がす。彼女は「ああん、殺生な……!」と名残惜しそうな声を出した。その声は妙に艶かしかった。

 

「こちらにおわす方はこのトールズ士官学院の生徒会長であるぞ! そなたもマツナガの娘なら、礼儀を弁えぬか!」

「生徒会長? ……あら、これは失礼しましたわ」

 

 それまでの暴走はどこへやら。彼女はトワの姿を認めると、すくっと立ち上がる。その佇まいは、貴族生徒と同じように気品に溢れていた。煌びやかに、彼女の周囲で星が舞う。

 

 綺麗な人だと、トワは素直にそう思った。

 

(それに……スタイルもすごい…………いいなあ)

 

 女のトワから見ても、完璧すぎるほどに完璧な容姿だった。エマが相手であっても、正面から張り合うことができるだろう。密かに、小さくない敗北感を味わう。

 

「お話はヴァンダイク学院長から伺っておりますわ。ツバキ・マツナガと申します。よろしくお願い致しますわ」

 

 優雅に一礼。一分の無駄も感じられない、高度に洗練された所作だった。その美しさに見惚れていたトワだったが、しばらくしてから挨拶を返していないことに気づき、慌てて応じるのであった。

 

 その後、ツバキがトワが自身より2つ上の19歳だと知って驚く場面もあったが、出会いは概ね和やかなものだった。

 

 

 

 それが嵐の前の静けさであることを明確に認識していたのは、シノだけだった。

 

 

 

 

 厄介な人が来てしまった。ツバキが姿を現したとき、シノが最初に抱いた感想だった。

 

 立ち話もなんだからと、トワの提案で生徒会室に移動した為、ツバキは現在来客用のソファで寛いでいる。向かいのソファにムネノリが座り、その後ろにシノは立っている。

 シノはムネノリの身辺に注意を払いながら、視線をツバキの方へと向ける。

 

 

 ツバキ・マツナガ。イズモでは1、2を争う巨大企業グループであるマツナガ財閥のご令嬢だ。マツナガ財閥はあらゆるサービスや商品を展開しているが、中でも火薬、茶器、酒で有名だ。

 

 その財力は凄まじく、下手な名家よりもよっぽど強い権力を持っている。対立関係にあった名家がいつの間にか消滅したり、先祖代々の土地が買い上げられたなんてこともよくある話だ。

 そして、その権力の一部を自由に行使できるのが、跡取りとして周囲から認められているツバキ・マツナガだ。

 彼女の経営者としての素質は本物で、烈火のごとき苛烈な手腕をもってマツナガ財閥の規模を更に拡大。今では西ゼムリアにも勢力を伸ばしていると言われているほどだ。今、目の前にいるのがその証拠だろう。

 そしてどういう経緯かは知らぬが、ムネノリに対しては周囲が燃え出すほどの情熱的な恋慕感情を抱いており、イズモではムネノリが辟易するほどのアタックを重ねていた。ちょうど、他の女共にも纏わりつかれていた時期だったので、ムネノリは彼女に見向きもしなかったが。

 本来ならばツバキとて追い払う対象だったのだが、なぜか王である父がツバキを気に入ってしまい、シノですら彼女を追い払うことはできなくなってしまった。

 もし、ムネノリがトワと出会うことなくイズモで暮らしていたならば、父の意向で確実に婚約者になっていたであろう相手、それがツバキだ。

 

 そして、今この場にはムネノリが求婚中のトワがいる。もしツバキがそのことを知れば、なにが起こるか分かったものではない。

 

 トワがお茶の準備を進める中、シノはひっそりと冷や汗を流しながら事の推移を見守っていた。

 

「……それで? なんの用でござるか。もしや、父上の差し金か」

 

 不機嫌……いや、どこか煩わしい様子でムネノリが問う。いつもの快活明朗なムネノリの姿は影を潜めていた。

 

「いえいえまさか。帝国での商談がございましたので、これ幸いと寄らせていただいただけですわ。陛下のお考えではありません」

 

 一方のツバキは涼しげな様子だ。ムネノリの眼光に動じることもなく、扇子を開いて己を扇いでいる。

 

「ああ、ですが……最近、こうは仰られてましたよ、ふふ」

 

 憎たらしいほどの満面の笑みを浮かべ、扇子で口元を隠したツバキは目を細める。

 

「——わたくしを、ムネノリ様の婚約者にしてはどうか、と」

「なっ!? なにを勝手に……!」

 

 ムネノリがその続きを叫ぶことはなかった。

 

 ガシャン、と陶磁器が割れるような音がした。シノはすぐに気づく。お茶の準備中だったトワが、ティーカップを落としてしまったようだった。

 綺麗な装飾がなされていた筈のカップは、床で無残な欠片となって散らばっていた。

 

 

 

 

「ご、ごめんなさい! すぐ片付けますから!」

 

 自身の犯したとんでもない失態に体温が上昇するのを感じながら、トワは急いで破片を拾い集める。

 

「手伝います」

「う、うん。ありがとうシノちゃん」

 

 シノが掃除に加わってくれた。彼女と協力しながら破片を拾う。その間も、トワの心はグラグラと揺れていた。

 心臓がバクバクとうるさい。それでいて、どこか息苦しい。破片を拾っている間、常に胃が締めつけられるような感覚に囚われた。自分でも理解できない感覚に戸惑ってしまう。

 

「——まあ、今はこの話は置いておきましょう。いずれにせよ、ムネノリ様が帰国されるまでは保留となっていますので」

 

 話の続きが耳に入る。婚約者候補の話を聞かされたときは驚いたが、少なくともムネノリがトールズにいる間はその心配はないようだ。トワ自身も気づかぬ内に、体の強張りが弱まる。

 

 破片を集め終わり、それらを袋に纏める。それでようやく、トワはお茶の準備を再開した。

 幸い湯はほぼ沸いていたので、そう時間はかからないだろう。沸くのを待っている間、ちらりとムネノリたちの方を盗み見る。

 

「ところで、ムネノリ様。もうすぐ帝都では夏至祭でございますが、ご予定はいかがですか」

「生憎、学院のカリキュラムで忙しい。そなたに付き合っている暇はない」

 

 Ⅶ組の特別実習が夏至祭の期間と被る関係上、ムネノリの言っていることは事実だ。しかし、ツバキが諦める様子はない。

 

「それでも1日くらいはなんとかなりますでしょう? ねえ! ねえ! 是非、一緒に見て回りましょう! わたくし、素敵なお店を知ってますのよ!?」

「行かぬと言っている! この、ひっつくでない!」

 

 ツバキは器用にテーブルを飛び越え、ムネノリに抱きついた。色っぽく体をくねらせながら、グイグイと体を押し付けている。

 ムネノリはツバキを引き剥がそうとしているが、体勢の関係かなかなか上手く行ってない。傍から見れば、男女がイチャついているようにしか見えなかった。

 

(……別に、わたしはムネノリ君の話をお受けした訳じゃないし。……うん)

 

 今のトワとムネノリの関係性はあくまで先輩と後輩、あるいは友人。恋人でも、婚約者でもなんでもない。だから、ツバキがどのようにムネノリに迫ろうと自由だ。もし、目の前にいるのがリィンとアリサであれば、微笑ましく見守っていただろう。

 

 なのに……今の2人を見ていると、どうにもモヤモヤする。ムネノリにその気はないと分かっているのに、小骨が引っかかったかのように胸がチクチクと痛む。

 

「……お湯、沸いてますよ」

「っ!? わわ……!」

 

 まだ側にいたシノに指摘され、慌てて導力ポットを止める。お湯が沸騰していることにも気づかないほど、向こうに気を取られていたようだ。

 

 紅茶を淹れ、人数分のカップに注ぐ。それらをトレイに乗せて、テーブルまで運んだ。コトリ、とカップを置いていく。そのころにはツバキは抱きつくのを止め、ムネノリと並んで座っていた。

 

「どうぞ」

「どうも。それで、ムネノリ様。帝都のホテルの最上階のレストランなのですが……」

 

 ツバキは最低限の礼を言うだけで、トワにほとんど関心を示さなくなっていた。そんなことに時間を費やしていられないと言わんばかりに、ムネノリにアプローチを続ける。

 

「だから行かんと言ってるだろう。何度言えば分かるでござるか」

「ムネノリ様が”はい”と言ってくださるまでですわ。何度断られようと、ムネノリ様への情愛の念は些かも衰えませんわ。むしろ、ますます深まるばかりでございます。……ムネノリ様は、わたくしのことがお嫌いですの?」

「そうは言っておらん。だがな……」

「つまり愛しているということですわねー!! よかったですわー!」

 

 ツバキはムネノリの腕に絡みつく。むぎゅり、と押し付けられた胸元の膨らみが形を変える。そのせいなのか、ムネノリの顔が赤くなっていた。

 

(……むー)

 

 なんだか、面白くない。以前、ムネノリの暴走を止める為に思わず抱きついてしまったことがあったが、こんな風には反応してくれなかった。将来は王ともなる御方が公平でなくてどうするのだ。

 

 ——そのように、ムネノリたちに気を取られていたときのことだった。ムネノリの前に置こうとしたカップのバランスが崩れた。

 

「あ……!」

 

 気づいたときには、もう遅かった。

 

「〜〜ッ!? あちちちぃ!?」

 

 淹れたて熱々の紅茶が、ムネノリの膝のあたりにかかった。ズボンに染み込み、ムネノリは跳ね上がる。

 

「ご、ご、ごめんなさい! 大丈夫!?」

 

 懐からハンカチを取り出し、濡れた部分に当てる。火傷しているかもしれないし、早く冷やさなければならない。またやってしまったと思いながらも、まずは現状をどうにかしようと動き出す。

 

 ……いや。動き出そうと、していた。

 

「……そこの貴方。トワ・ハーシェルと言いましたわね」

 

 ツバキに呼び止められた。その声は、怒ったサラのときのように、非常に高圧的だった。

 

「は、はい。その通りで……」

「貴方、客人の前で何回ミスをすれば気が済むんですの? トールズの生徒会長と言うから優秀な方かと思いましたのに、侍女の真似事すらできませんの?」

「す、すみません……!」

 

 今日だけ偶々失敗が重なってしまった。実際はそれだけなのだが、そんな言い訳を聞き入れてくれそうな雰囲気ではないし、するつもりもない。代わりに、深く頭を下げた。

 だが、ツバキの追求はそこで止まらなかった。

 

「それに、この紅茶……」

 

 ツバキは無事な自身のカップを手に取ると、口をつけた。その間、終始眉間にしわができていた。

 

「……不味いですわ」

「え……」

 

 ツバキの言葉に背筋が冷える。試しに自分のカップを手にして試飲してみる。そして、彼女の言う通りだとすぐに思い知った。

 

(う……本当だ。蒸らしの時間が、全然足りてない)

 

 また1つ、重大なミスをしてしまったことに気づく。2人の会話が気がかりで、蒸らした時間を正確に把握してなかったのだ。

 

「こんなことだと思いましたわ。湯が沸いてから出てくるまで、やけに早かったですもの」

 

 はぁ、とツバキが深いため息をついた。その表情は、明らかに呆れと怒りが混じったものだった。

 

「……全く、使えませんこと。もういいですわ。ムネノリ様の面倒はわたくしが見ますので、貴方はどっか行ってなさいな。いても邪魔ですので」

「ッ——」

 

 息がつまる。心臓が抉られるようだった。こんな冷たい言い方をされるのは初めてだった。ツバキの氷のような視線に、心が萎縮する。

 

「おい、ツバキ! 貴様なにを言ってるか……!」

「お、お待ちください殿下!」

 

 ムネノリが激昂しかけたのを制止する。ツバキに配慮して、言葉遣いも変える。

 

「と、トワ殿。しかし……」

「……全部、わたしが悪いんです。しばらく他の仕事を片付けて参りますので、ツバキ様がお帰りになるときは通信をください。——では」

 

 これ以上この場に留まっても客人であるツバキの機嫌を損ねてしまうだけだ。手短に挨拶を済ませ、逃げるようにして生徒会室から出て行くのであった。

 

 

 

 

 トワが退室した直後、シノがムネノリに近づくと、ツバキには聞こえない小声で耳打ちしてきた。

 

『義姉上が心配です。あちらに付いててもいいですか』

『……ああ、頼む』

 

 次の瞬間、シノが姿を消す。トワのことは、シノに任せよう。ムネノリは、ツバキの方を対処せねばならない。

 

「さあさあ、ムネノリ様。まずは茶のかかってしまった場所を見せてくださいな。火傷されているといけませんので」

 

 砂糖のように甘ったるい声を出しながら、ツバキはムネノリのズボンの裾を上げようとする。もう、トワの存在など忘れてしまったかのようだ。

 

 ムネノリは、無言でツバキを手で制した。

 

「どうかなされました? ご心配せずとも、誰にも言ったりは……」

「——貴様は、なにをしたか分かってるのか」

「む、ムネノリ様……?」

 

 あのツバキが後ずさる。それくらい、ムネノリが発した声には怒気が込められていた。

 腸が煮えくり返るかのようだった。もしここが異国の地でなければ、その場で手打ちにしていたかもしれない。トワの存在を強く感じる生徒会室だからこそ、自制がかろうじて効いた。

 

「なにって……さっきのトワとやらのことですの? 別に、当然のことではありませんか。カップを割り、湯が沸いたことに気づかず、淹れ方を間違え、あろうことかムネノリ様に茶をこぼす始末。無礼にもほどがありますわ」

 

 ツバキの言い分を聞き、一応はなるほどとムネノリは頷く。今回の件だけを見れば、ツバキは正しいのかもしれない。

 

 だが、ムネノリは知っている。トワがあのようなミスをしたのは初めてであることを。トワが、普段どれだけ頑張っていて、皆を助けているかを。

 そしてそれ以上に、トワを慕うムネノリの心が、ツバキの言い分を、あるいはトワへの態度を許すことができなかった。感情とは、理性だけで止められるものではないのだ。

 

「それ以上トワ殿を侮辱するようなことがあれば、斬るぞ」

「なっ!? お待ちくださいな! 仮にもわたくしは陛下に婚約者候補として認められてますのよ!? そんなわたくしを斬ればどうなることか……!」

「拙者は貴様をそのようには認めておらん! 拙者が心に決めたのはただ1人! トワ殿だけだ!」

 

 とうとう我慢できず、ムネノリは立ち上がり、魔獣の咆哮のような大声で叫んだ。ムネノリの心に呼応するかのように、ビリビリと空気が震えた。

 普通の人であれば、その覇気に呑まれて気を失ったことだろう。もっとも、ツバキはそんな人間ではないことをよく知っていた。

 

「…………は?」

 

 暗い、水底のような冷たい返事。周囲が凍りついてしまいそうなほどの殺気が部屋を覆った。

 

「……どういうことですの?」

「言葉通りの意味だ。拙者が見初めたのはトワ殿だ。お主ではない」

「——ッ、ふざけないでくださいまし!」

 

 今度はツバキが吠える番だった。ムネノリはそれを真っ向から受け止める。

 

「わたくしは! わたくしはムネノリ様をお慕いするようになってから、ムネノリ様にふさわしい女となるべく、何年も何年も必死に己を磨いて参りましたわ! それがどうして会って数ヶ月の女に劣ることになりますの!?」

「それが人の心というものでござろう。……とにかく、拙者はトワ殿を伴侶として選んだ。トワ殿の返事がどうなるかはまだ分からぬが、少なくともそれまではお主を相手にはせぬ」

 

 これがムネノリの最大限の譲歩だった。それを受けたツバキは、黙したままムネノリを睨みつける。しばらくすると扇子を閉じ、先端をムネノリの方へと突きつけた。

 

「……つまり、トワ・ハーシェルはまだムネノリ様の求婚をお受けしていないのですね?」

「そうだ。だが、必ず射止めてみせるつもりでござる。言っておくが、拙者は本気でござるよ」

「そんなの、わたくしだって同じですわ! ……とにかく、わたくしは認めません。あの者に、想いで負けているなどと」

 

 ツバキは踵を返す。向かう先は廊下に繋がる扉だった。

 

「待て。勝手にどこに行くつもりだ」

「少し話し合いに。言っておきますが、この件ばかりは口を挟まぬようお願い申し上げますわ。正真正銘、女同士の話し合いなので」

 

 そう言い残すと、ツバキは鼓膜が震えるような大きな音で扉を閉め、姿を消した。

 

(トワ殿……)

 

 残念ながらもうすぐ授業なので、ツバキの釘刺しを抜きにしてもこれ以上追うことはできない。心配だが、あとはシノに任せるしかない。少なくともシノが側にいる限り、直接危害を加えられるようなことはないだろう。

 

 まさかこんなことになるとは、と頭を抱えつつ、ムネノリも生徒会室をあとにした。

 

 

 

 

 学生会館を飛び出したトワは、中庭のベンチに座っていた。握った拳を膝に乗せ、俯いたままだ。その隣に、途中で追いついたシノが座っている。

 

「……という訳です。ツバキ様は執念とも言うべきレベルで、兄上に固執しています」

「……そうなんだ」

 

 トワは、シノからツバキのことを聞いていた。やってきたシノに、突然説明を求めたのだ。ムネノリを慕うツバキという人間のことを、知りたかったのだ。

 

 ツバキに追い出されたことは、もちろんショックだった。だが、自業自得であるのも事実の為、今ではだいぶ落ち着いた。

 

 それよりも、ムネノリにあそこまで熱烈に想いを寄せる女性がいるという事実の方が衝撃だった。 

 看病のときのムネノリの話では、近寄る女性はシノが追い払っていたと聞かされていたので、意表を突かれる形となった。

 

(……返事、しないと……ダメだよね)

 

 今までは、そういう対象は自分1人しかいないと思い込んでいた。だから、自身が卒業するくらいまでに返事をすればよいと思っていた。だが、違った。

 ツバキという存在がいる以上、トワも態度をはっきりとさせなければいけない気がしたのだ。あれだけの想いを持つ女性がいるのに、トワばかりがムネノリに甘えて、いつまでも返事を保留にする訳にはいかない。

 

(でも……わたしは、ムネノリ君のことをどう思ってるの? ツバキさんの想いを押し退けられるだけの気持ちを、持ってる?)

 

 生徒会室で、不機嫌になってしまったことは認める。原因がツバキがムネノリに迫っていたからであることも、中庭で気持ちを落ち着けている内に気づいた。

 

 だけど、その想いの強さがいかほどのものなのか、はっきりしなかった。

 

「……私は、義姉上がいいです」

 

 ポツリとシノが呟いた言葉に、トワは顔を横に向ける。目の前にはシノの瞳が映っていた。

 

「こんなこと言われても困るのは、分かっています。ですが、紛れもない本心です。私の義姉は、義姉上を置いて他にありません」

「……うん、ありがとう」

 

 胸の辺りが温かくなるのを感じた。シノの言葉は、素直に嬉しかった。そしてだからこそ、早く答えを出さねばならないと思う。

 

 そう考えていると、正面から草を踏む音がした。そちらを向く。すると、先ほど別れたばかりの人物が立っていた。

 

「ツバキさん……?」

「ここにいましたの。あまり遠くでなくてよかったですわ」

 

 どうやら、ツバキはトワのことを探していたらしい。閉じていた扇子を開く。

 

 先ほどと同じように、その眼光は鋭い。だが、不思議と冷たさは感じなかった。むしろ、その瞳の奥からは燃え上がるほどの熱い決意を秘めているようにさえ見えた。よく、ムネノリがこんな瞳を見せていたからすぐに分かった。

 

「——なんの御用ですか。もしまた、あね……トワ様を侮辱するつもりでしたら、私も黙ってはいませんが」

 

 音もなく立ち上がったシノがトワを背中に隠す。一触即発の雰囲気が辺りを包む。

 

「別に、そんなつもりはありませんわ。わたくしはただ、ハーシェルさんとお話がありますの」

「どのような話ですか。もし、それがトワ様に理不尽な要求をするものでしたら……」

「……シノちゃん。心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ」

 

 密かにヒートアップしていたシノを手で制し、トワは立ち上がってからシノの1歩前へと進み出た。

 シノの心遣いはありがたかったが、ツバキの瞳を見ていたら、自分が前に出ないといけない気がしたのだ。真っ直ぐにツバキを見据える。

 

「どのようなお話でしょうか」

「ムネノリ様から聞きましたわ。なんでも、ムネノリ様から求婚されたようですわね?」

「……はい。入学式のときに」

 

 やっぱり、とトワは思った。きっと、ムネノリとの関係性を問われると思っていた。そしてそれはツバキからすれば快く思わないことに違いない。

 生徒会室で見せたあの眼光と共に問い詰められるのを覚悟する。問題は、それに対する答えをまだ出せていないことだった。

 

 ……ところが、ツバキの口から飛び出したのは予想外の言葉だっだ。

 

「単刀直入に申し上げましょう。——わたくしと勝負しなさいな」

「勝負……?」

「ええ、その通りですわ」

 

 ツバキは開いたままの扇子をトワに突きつける。そして、肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべて、こう告げた。

 

 ——どちらがムネノリ様の伴侶にふさわしいか。白黒はっきりさせましょう、と。

 

 

 

 





<トワの年齢について>

閃の軌跡 物語開始時の日にち:3/31
トワの設定年齢:18歳

閃の軌跡Ⅲ 物語開始時の日にち:4/1
トワの設定年齢:21歳

以上の情報から、トワの誕生日を4/1と仮定し、既に19歳ということにしています。



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第8話 本当の想い(前編)

 ムネノリをかけて勝負しよう。ツバキの提案は、詰まるところそういうことだった。突然の提案に、トワは思考が停止する。

 

「負けた方は、潔くその身を引く。これでどうです? ああ、貴方が敗北した場合はそれに加えて、ムネノリ様の求婚を断っていただきますが」

 

 ツバキは淡々と勝負の詳細を話し続ける。未だ困惑から立ち直れないトワは、黙って聞いているしかなかった。

 

「こういうときの定番は決闘なのでしょうが、その優劣だけでどちらがふさわしいかを決めるのはナンセンスですわ。種目別の5番勝負。これでいかがでしょう?」

(どうでしょう、って言われても……)

 

 困ってしまう。それが正直な感想だった。いきなりムネノリをかけて勝負しろと言われても、口ごもるしかない。あまりに一方的な話だ。簡単には頷けない。

 そうやってトワが「えーと……」と答えに窮していると、シノがサポートに入った。

 

「その種目はどのようにしてお決めになるのでしょうか。ツバキ様の独断で決められるようなことは……」

「そんなことはしませんわ。あくまで堂々と、正面から勝たなければ勝負する意味がありませんもの。そうですわね……ムネノリ様が信頼する5人に、それぞれの種目を決めさせればよいのでは? もちろん、双方が納得できる種目に限りますわ」

「ふむ、なるほど。それならば、公平にはなりますね」

 

 当事者である筈のトワを差し置いて、話が進んでしまう。その間、トワはあまりちゃんと話を聞いていなかった。詳細なルールの取り決め以前に、勝負を受けるかどうかで頭を悩ませていたからだ。

 

(わたしに、その資格があるのかな……)

 

 未だあやふやな己の気持ち。一方、ツバキは全身全霊でトワに挑もうとしている。ムネノリの求婚相手という、彼女から見れば大きすぎる筈の壁に対して。はっきり言って、重みが違う。

 

「それで、貴方はどうしますの? 言っておきますが、受けなければわたくしの不戦勝とみなして、貴方には敗者の義務を遂行していただきますわ」

「わたしは……」

 

 究極の選択をツバキが突きつけてきた。受けなかったときの条件を考えれば、受けた方がいいに決まっている。それは分かっている。

 だが、どうしても踏ん切りがつかなかった。受けてもいいのか。受けるにしても、勝てるのか。そんなことばかりが頭の中を渦巻く。

 

「……ツバキ様。少し、トワ様とお話をしてもいいですか。すぐに済みますので」

 

 そんなトワを見かねたのか、シノが声をあげる。それを聞いたツバキは不機嫌そうに顔をしかめながらも、「少しの間だけですわよ」と言ってその場から離れてくれた。

 トワは、体から余計な力が抜けるのを感じた。無意識の内に体を強張らせていたようだ。

 

「……ありがとう、シノちゃん」

 

 問題の先延ばしに過ぎないが、それでも助かった。あのまま沈黙を続けていたら、不戦敗と見なされていたかもしれない。

 トワのお礼に対して、シノは小さく首を横に振る。

 

「気にしないでください。私から義姉上にお願いしたいことがあっただけですから」

「お願いしたいこと?」

「はい。勝負を、受けていただきたいのです」

 

 シノの視線が真っ直ぐにトワを捉える。その瞳は、真剣そのものだった。

 予想通りの言葉ではあった。だが、シノの期待通りの言葉を返せるかと言われると、話は別だ。トワが黙っていると、続けてシノが言葉を紡ぐ。

 

「別に、勝負に勝ったあとに結論を出せばいいだけではありませんか。なにをそんなに迷われているのです?」

「うーんと、シノちゃんの言うことは分かるよ。……でもやっぱり、それはツバキさんに悪いと思うんだ。あんなに真剣なのに、そんな理由だけじゃ勝負を受けられないよ」

 

 だからこそ、それに値するだけの理由を持っているかを考えていたのだ。その肝心な理由が、思い至らないのだが。

 

「……理由なら、ありますよ。義姉上が受けるに値するだけの、理由が」

 

 ところが、なんとシノはそこに切り込んできた。思いもよらぬ切り返しに、トワは何度かまばたきをしてしまった。気になったトワは続きを聞く。

 

「……兄上は、ツバキ様との結婚を望まれていません。ですが、義姉上が身を引かれれば、その未来はほぼ確定します。なにせ、父上に気に入られているのですから」

 

 ムネノリ自身が、ツバキと結ばれることを現時点では望んでいない。それを改めて聞かされたトワはシノの言わんとしたことに気づいた。それは、トワにとっては盲点だった。

 なにせ、トワ自身の思いつきでそれを理由にすると、ただの傲慢な発想に成り下がるからだ。お人好しの彼女が思い至るわけがない。

 

「義姉上がどうしても望まれないというのであれば……誠に残念ではありますが、致し方ありません。ですが、せめて兄上の意思で相手を決められるように、協力してはくださりませんか」

 

 トワ自身の為ではなくムネノリの為。その理屈は、迷いに囚われていたトワの心に一筋の光を差し込んだ。

 あくまで、ムネノリを助けるだけ。それならば問題はないのではないか。そんな声が心の奥底から聞こえてくる。いい、ダメだ、と天秤が右へ左へと傾く。

 

「……だめ、ですか」

 

 そんなトワの心の葛藤に決定打をもたらしたのは、シノが見せた迷子の子猫のように揺れる瞳だった。滅多に感情を表に出さないシノが、誰にでも分かるくらいに不安な表情を見せていた。それがトワの良心を大きく揺さぶった。

 

「……うん、分かった。勝負、受けてみるね」

「っ! ありがとうございます!」

 

 シノは勢いよく頭を下げた。よほど嬉しかったのか、顔を上げたときのシノの顔は日光を浴びたひまわりのようであった。

 

 勝てるかどうかは定かではない。ツバキのことをよくは知らないのだ。現時点では、不利か有利かすらも分からない。そんな勝負なのだ。

 だが、やるからには全力で。それがトールズでの学院生活を通して培った信念だ。シノの想いを背負うのであれば、なおさらだ。

 

(頑張ってみるね……ムネノリ君)

 

 

 その後、トワはツバキのもとへと赴き、勝負を受けることを伝えた。

 その話はすぐにムネノリに届けられ、彼はさらに頭を抱えることとなった。ムネノリは一応は反対したが、トワとツバキが既にやる気になっていた為、止められなかった。

 

 種目を提案する審査員を5人選べと言われたムネノリは散々迷った結果、シノ、リィン、クロウ、アンゼリカ、ジョルジュを選んだ。基準は、トワやムネノリとの関わりが深いかどうかであった。

 

 種目はその日の内に決められ、翌日から勝負が行われることとなった。ちなみに、勝負をする時間を確保する為に、急いで仕事を片付けに帝都に戻るツバキの姿があったとか。

 

 

 

 

 翌日。いよいよ勝負の時間となった。空いている教室に当事者のトワとツバキ、そして審査員であるアンゼリカとシノが集う。それぞれの審査員の時間の都合に合わせて勝負を行なっていく予定だ。賞品のムネノリはⅦ組が授業中の為、この場にはいない。

 

 張り詰めた空気の中、審査員の代表でもあるアンゼリカが口を開く。その表情は、いつになく真剣だ。

 

「さて、では始めようか。まず最初に宣言しておこう。審査員のほとんどがトワと親しい間柄にあるが、贔屓は決してしない。審査は公平であり続けることを、ログナーに名において誓おう」

 

 貴族子女としてはかなり型破りなアンゼリカだが、貴族としての誇りは人一倍強い。そんな彼女が誓うからこそ、その言葉にははっきりとした重みが感じられた。

 

「ルールの確認と行こうか。ルールは5番勝負、つまりは3本先取した方の勝利だ。勝負の種目は約束通り、私たちが決めた。順番はシノ君、ジョルジュ、私、クロウ、リィン君となる。いいかな?」

 

 トワとツバキは同時に頷く。アンゼリカは「よろしい」と2人の同意を認める。

 

「というわけで、1番目の勝負はシノ君だ。シノ君、あとは頼むよ」

「かしこまりました」

 

 アンゼリカが下がると、シノが前に出る。すると、彼女は2人に茶封筒を見せた。

 

「私の提示する種目は”学力勝負”です。教養がない者に、兄上を任せることはできませんから。どうでしょうか」

「うん、大丈夫だよ」

「異議なし、ですわ」

 

 誰がどう見ても公平な種目だ。文句など出る筈がない。

 

「了解しました。内容はアンゼリカ様やジョルジュ様に協力していただき、数年前のトールズの中間試験から抜粋しました。帝国特有の科目等は弾いてあります。模範解答も拝借しておりますので、ご安心を」

「……えっと、シノちゃん。それは、ちゃんと教官方に許可をいただいてるもの、だよね?」

「もちろんです。サラ教官からイズモの名酒1本で買い上げたものです」

「それ、大丈夫って言うのかなあ……」

 

 もっとも、こんなことに手を貸してくれそうな教官と言ったらサラくらいしか思いつかないのも事実だ。生徒会長としてはどうかと思いつつも、渋々見なかったことにした。

 

「では、距離を取って席についてください。試験時間は、60分です」

 

 シノの言葉に従い、2人はそれぞれ席につく。席は離れているものの、2人とも最前列に座った。シノが問題と回答用紙を配る。

 

「それでは、始めてください」

 

 それを合図に、2人は問題に取り掛かるのであった。

 

 

 

 

(ふふ……この勝負、もらいましたわ)

 

 問題を見たツバキは、その瞬間から勝利を確信していた。それくらい、自らの学力に絶対の自信があったのだ。

 

 元々マツナガ財閥の跡取りとなるべく英才教育を受けていたのに加えて、それすらも生温いと思えるほどの修練を重ねてきた。その修練の中には、当然学問も含まれている。

 全ては、ムネノリの為に。努力に努力を重ねたツバキの学力はムネノリすらも上回る。事実、中にはトールズの2年生向けの問題も含まれているにも関わらず、彼女の鉛筆の動きは淀みなかった。ムネノリやリィンと同じ17歳としては、かなりのものだろう。

 

 そして、だからこそ気づかない。気づけない。この学力テストという種目自体が、公平性を考慮した上で、ツバキの自信を逆手に取ったシノの巧妙な罠であることに。

 要は、侮っていたのだ。西ゼムリアの大国であるエレボニア帝国随一の名門、トールズ士官学院において、入学当初から主席であり続けているトワ・ハーシェルの実力を。

 

 

 

 試験が終わり、採点が終わる。採点を担当したアンゼリカから、シノが答案を受け取る。

 

「それでは、発表します。先に、ツバキ様から発表致します。ちなみに、ご存知かとは思いますが、200点満点です」

 

 シノが片方の答案に目を通す。そちらがツバキの答案なのだろう。ツバキは一切の不安を感じることなく、堂々と発表を待つ。

 

「ツバキ様————189点です」

「……実際、なかなかすごい点数だ。試しに私も挑戦したが、170点代止まりだったからね。17でこれは、尊敬に値するよ」

(ふっ、当然ですわ)

 

 アンゼリカの手放しの絶賛にツバキは気分が劇的によくなる。当然の結果とは分かりつつも、褒められれば嬉しいに決まっている。

 

 189点。割合で言えば、90%オーバーだ。普通に考えれば勝ちはほぼ確定な点数だ。普通であれば。

 

「では、次にトワ様の点数を発表します」

(ふん、あんなしょうもないミスを連発する方が、わたくしに勝てる筈がありませんわ)

 

 ツバキにとっては未だトワが客人の前で粗相を重ねた間抜けという印象が強い。自分の方が上だと考えてしまうのも、ある種当然のことだ。

 ツバキが余裕な態度で発表を待つ中、シノがトワの答案を確認する。

 

「トワ様————196点です。おめでとうございます」

「はぁあああああっ!?」

 

 頭を鈍器で殴られたかのような衝撃だった。ツバキは飛び上がり、絶叫をあげる。それを聞いたトワがビクリと肩を跳ね上げるが、そんなものは知らない。

 

「どういうことですの!? 採点ミスでもしてるんではなくて!?」

「そんなことはないさ。念の為、2回確認しているんだからね。いやあ、さすが私のトワだよ」

「ちょっと! その発言は贔屓ではなくて!?」

「いやいや、勝者に祝いの言葉を投げかけているだけさ。なにもおかしくはないだろう?」

「ぐぬぬ……」

 

 その後、ツバキはゴネにゴネてトワの答案を自身で採点したものの、結果は同じだった。

 

 こうして、学力勝負の結果はトワの快勝に終わった。以後ツバキは猛省し、トワを侮ることを止めるのであった。

 

 

 

 

 次の勝負を担当するのはジョルジュだった。勝負の場は第三学生寮のキッチン。シャロンの厚意で提供してもらった。場所からも分かる通り、選ばれた種目は”料理”だった。

 なんだか、私的な理由が混ざっているようにも思える選択だった。

 

「いい奥さんになるなら、できるに越したことはないと思うんだけど、どうだい?」

 

 特に異論なく採用される。トワは制服の上着を脱ぎ、袖をまくってエプロンを着ける。一方のツバキは、着物をたすき掛けにしてから割烹着を上に着ていた。以前、シノが同じ格好をしていたのを見たことがある。

 ともあれ、お互い準備万端である。

 

「お題をもとに、それぞれ1品用意してもらうよ。審査員は僕しかいないから、すまないけど僕だけで判定することになる」

 

 そう前置きしたジョルジュは、お題が『卵』であることを告げて、調理開始の合図を出すのであった。

 

 

 

(うーん、卵かー。どうしようかなあ……)

 

 トワは手を顎に添え、首を傾げる。卵料理と一口に言っても、その種類は多岐に渡る。なにを作るか非常に悩ましいところではある。

 一応、おおよその方針は決まっている。卵料理の中でトワが得意としているのはオムレツ、もしくはその派生であるオムライスだ。だが、トワはなにを中に包むかで悩んでいた。

 

(あ、そういえばこの前試したアレ、とっても上手にできてたよね……)

 

 ふと、最近頻繁に行っているトマト料理の研究のことを思い出す。その成果がようやく実を結んできていて、先日非常によくできたメニューがあったのだ。奇しくも、卵を使った料理でもある。

 

 それで行こう、と思った。ムネノリを巡る勝負である以上、このメニューが一番ふさわしいと思った。

 

 そうと決めたトワは早速、必要な食材をボウルやトレイに集める。卵、トマト、生クリーム、えびなどが収められていく。

 

(じゃあまずは、トマトソースを作らないと!)

 

 手順を頭の中で再確認したトワは、いよいよ調理に取りかかるのであった。

 

 

 ……その背後で、ツバキが妖しく目を光らせていることに気づくこともなく。

 

 

 

「ジョルジュ君、おまたせー」

「おっと、トワが先か。どれどれ」

 

 トワは料理が乗った皿をジョルジュの前に置くと、彼はそれを覗き込んだ。

 

「これは……オムライス? 上にかかってるのはホワイトソースかい?」

「うん、そうだよ。かける用だから、少し固めにしてあるんだ」

 

 焼き目1つない黄金色に輝く卵の隣に、添えるようにしてホワイトソースを置いてある。基本的には好みに合わせて使ってもらう形だ。

 

「じゃあ、さしずめ、『オムライスのホワイトソース添え』ってことかな?」

「えへへ、実はそれだけじゃないんだ。とにかく、食べてみてほしいな」

 

 トワに促されたジョルジュは「なら、お言葉に甘えて」とスプーンを手に取った。彼はスプーンの先を卵に沈み込ませる。卵が割れ、中身が姿を見せる。

 それを見たジョルジュは、「へえ」と声を漏らした。

 

「これは……中にチキンライスじゃなくて、リゾットを……?」

「うん。トマトクリームのリゾットで包んでみたんだ。だから、本当の名前は『トマトクリームリゾットのオムライス』になるかな」

 

 下茹でして皮を剥いたトマトを丁寧に裏ごししたあと、にんにくに香草、少量のストックと調味料で煮詰めたトマトソースを、生クリームで伸ばした。食感をよくする為に、1口サイズのえびも加えた。そのソースを使ってリゾットを作り、卵で包んだのだ。

 

「なかなか面白いね。じゃあ、早速……」

 

 スプーンで卵とリゾットを大きめに掬うと、ジョルジュはそれを口に入れた。期待半分、緊張半分な心持ちで感想を待った。

 

「……うん! 美味しいよ。リゾットの食感は絶妙だし、生クリームでまろやかになったトマトの酸味が舌に優しいね。……もしかしてこれは、ムネノリ君の為に?」

「あはは、やっぱり分かっちゃうよね。これならトマトの持ち味を活かしたまま、トマト嫌いの人でも食べられるかなと思って。よかった、上手くいってて」

 

 元々の始まりは、トマトクリームパスタだった。トマトの食感をしっかりと消し、生クリームで酸味を弱めればムネノリでも食べられると思ったからだ。だが味はともかく、見た瞬間にトマトが入っていると分かっていたら手をつけないのではないかと思い、没となった。

 

 その後、トマトクリームを見えなくする工夫を考えた結果、リゾットにして卵で包むことを思いついた。提供する時点では中身は卵に隠れるし、卵を開いても見た目がチキンライスに似ているので、抵抗が少ないのではと考えたのだ。ただ、そこからの調整が大変だった。

 

 オムライスに合うような食感のリゾットになるように米の固さを調整したり、オムライスにかけるソースの選定だったり。複雑に絡み合った無数の紐を解くような、大変な労力を伴うものだった。

 

 試行錯誤の結果、チキンライスに近い食感を保ったオムライス専用のリゾットが完成した。そういう意味では、もうリゾットではないかもしれない。

 いずれにせよ、苦労して完成させた甲斐があってその出来には自信があった。

 

「ごちそうさま。美味しかったよ」

 

 試食にも関わらず、ジョルジュはあっという間に完食してしまった。

 試食用なので量は少なめにしていたが、このあとの試食に響かないだろうか。そこまで考えて、ジョルジュならば大丈夫か、と悪気はないながらも若干失礼なことを考えたりした。

 

「——ふふ、お待たせしましたわ」

 

 ジョルジュがトワのオムライスの試食を終えてから数分後、ツバキが姿を現した。料理が完成したようだ。皿をジョルジュの前に差し出す。

 それを見たトワは、目をぱちくりとさせた。

 

「っ!? これって……」

「ふふ、どうせなら真っ向勝負ですわ。貴方の集めた食材を見ていれば、おおよその推測はできましたので」

 

 なんと、ツバキは出す料理を被せてきたようだ。トワと同じく、オムライス……と思われる料理だった。しかし、その見た目はトワの知るものとは異なっていた。

 

 まず、チキンライスが卵で包まれていない。形の整えられたチキンライスの上には、プレーンと思しきオムレツが乗っているのだ。ライスに吸い付くように形を変えたオムレツは、その中身のトロトロ具合を物語っている。

 また、卵にはなんのソースもかかっていなかった。皿に、ソースが添えられている訳でもない。

 使っている材料や調理工程はほとんど同じ筈なのに、目の前にあるものは似て非なる料理だった。

 

「これは……オムライス、でいいのかい?」

「この状態をイズモではタンポポオムライスと呼びますわ。まあ、見ててくださいまし」

 

 含みのある言い回しだった。ツバキは小さめの包丁を取り出し、オムレツの縦のラインに沿って刃を入れる。

 すると、オムレツの上部がパックリと裂け、チキンライスを包むようにして割れ広がった。包まれていた半熟の卵が、キラキラと輝く。自然と、舌の上に唾液が溜まるのを感じた。

 

「わあ……綺麗」

「まだまだこれからですわ。仕上げに、ソースをかけますわね」

 

 ツバキは一旦自身の調理場に戻ると、小さめの鍋を持って戻ってきた。温めてあったらしく、湯気が出ている。ツバキは中身をお玉で掬うと、オムライスにかけていく。

 そのソースはドミグラスソースを煮詰めたような色をしていて、細切れの牛肉や玉ねぎが入っていた。トワは、そのソースの正体がすぐに分かった。以前、試運転の際にガレリア要塞で食べた。

 

「ハヤシライス……? いや、この場合だとハヤシソースか」

「ふふ、その通りですわ。そしてもちろん……トマト入りですわ」

 

 そこまで言われたトワはハッとする。わざわざここでトマト入りのハヤシであることを言及した理由。それは1つしかない。

 

「もしかして、ツバキさんもムネノリ君の為に……?」

「……そのムネノリ様の呼び方は気になりますが、今は置いておいてあげますわ。ま、貴方のご想像通りですわ。ハヤシでしたら色の問題もありませんし、トマトの酸味もほとんど出ませんわ。酸味が出ないギリギリまで調整した、特製ハヤシソースですわ」

 

 まさかこんなオムライスの作り方があるとは、夢にも思わなかった。ハヤシライスのソースをオムライスにかけるという発想にも驚いている。

 イズモの人間は食にこだわるというのは以前の食事会で知っていたつもりだったが、その予想以上だったようだ。

 

「さ、冷めない内にどうぞ」

「ああ、ありがとう。いただくよ」

 

 促されたジョルジュはスプーンを入れる。ハヤシソースの絡んだプルプルの卵が乗ったチキンライスが、口に運ばれていく。

 それを食べた瞬間、ジョルジュの目が明らかに見開いた。

 

「っ!? こ、これは……」

「ふふ、どうですの? ああ、貴方も試食なさる?」

 

 ツバキがトワにスプーンを差し出す。少しはしたない気もしたが、彼女の作ったオムライスへの興味の方が勝った。

 「じゃあ、1口だけ」と言いながらスプーンを受け取り、ジョルジュの反対側から掬って口に入れた。

 

 ——次の瞬間、口の中で鳥肌が立つような旨味が爆発した。

 

(す、すごく美味しい……帝都の高級レストランの料理みたい……!)

 

 スプーンを口に入れたまま固まってしまう。それくらい衝撃的だった。

 

 卵の火加減は当然のように完璧、チキンライスも同様だ。そしてそれ以上に、ハヤシソースがとんでもなかった。

 舌の奥まで突き抜けるような深いコク。おそらくは鍋が焦げるギリギリのギリギリまで煮詰めたことで生まれる、極上の苦味。それが卵と絡むことで、チキンライスの酸味と抜群の相性をもたらしている。

 味の奥行きの階層が複雑過ぎて、調理工程が頭に浮かんでこない。単純な発想だけじゃない。根本的に、技量が違うのだとはっきり分かった。

 

 トワとジョルジュの反応を見て満足したのか、ツバキは自信満々な笑みを浮かべて口を開いた。

 

「わたくし、長年イズモの最高峰の料理人に師事しておりましたの。未だ頂きは遠く、見習いの身ではありますが、少なくとも”ただの家庭料理”に負けるつもりは毛頭ございませんわ」

 

 悔しいが、完全に彼女の言う通りだった。メニューなど関係ない。まさしく、プロとアマチュアの差を痛感させられた勝負だった。

 

 当然、ジョルジュはツバキを勝者とした。これで、1勝1敗となった。

 

 

 

 

 3回戦は放課後まで待たねばならなかった。最低限こなさなければならない生徒会の仕事を終わらせたあと、トワはアンゼリカが指定した場所に向かった。

 

 指定の場所はカフェの《キルシェ》だった。トワが到着すると、そこにはツバキ、アンゼリカ、そしてムネノリとシノがいた。

 意外にもツバキはムネノリとベタベタしていなかった。どうやらアンゼリカに止められたらしい。勝負が決着するまでは、過度な接触は禁止だと言われたそうだ。

 

「さて、まだクロウの番が残っているし、手短に済ませよう。私の選んだ種目をこれさ」

 

 アンゼリカは全員の集まったテーブルにどん、となにかを置く。それはカフェのメニューの1つであるパフェだった。だが、それだけではさすがにどんな種目なのかは分からなかった。

 

「えっと、アンちゃん。これをどうするの……?」

「ふふふ、なぁに。決まっているじゃないか」

 

 やけにもったいぶったアンゼリカは、唐突に立ち上がる。そしてトワとツバキを見比べたあと、ムネノリに向かって手を差し出し、高らかに宣言した。

 

「題して、”あーん勝負”だ! 先にムネノリ君にパフェをあーんして食べさせた方が——!」

「アンちゃん、ちょっとこっち来て」

 

 トワは間髪入れずにアンゼリカを店の外に連れ出した。トワは両手を腰に当て、頰を膨らませながら問い詰める。

 

「ねえ、アンちゃん。これはツバキさんにとっては真剣な勝負なんだよ? さすがにこれは、失礼だと思うんだけど」

「いやいや、そんなことはないさ。一見ふざけているように見えてしまうのは仕方ないが、これにはちゃんとした理由があるのさ」

 

 問い詰められる側のアンゼリカは平然とした様子で受け答える。未だ納得できないトワは、その理由を聞く。

 

「まず、夫婦……というよりは、恋人同士であーんをするのは至って自然だ。特に私たちのような年齢ではね。ならば、どちらが先にあーんできるかで競うのはなんら不思議ではない」

 

 詭弁だ。真っ先にそう思った。散々アンゼリカに振り回されてきた身であるトワは、こういうときの彼女の言葉を簡単には信用しない。続きを促す。

 

「それにトワ。シノ君から聞いたが、君は自分の為ではなくムネノリ君の為に戦っているそうだね?」

「それは、そうだけど……それがなにか関係あるの?」

「大ありさ。さっきも言っただろう? あーんは本来であれば恋人同士で行うもの。もしかしたら、トワ自身が気づいていない気持ちに気づけるかもしれないよ?」

「わたしの、気持ち……?」

 

 勝負中の今ですら定かではない、己の気持ち。それが分かるかもしれない。ずっとそれがしこりになっていたこともあり、トワはあっさりその言葉に釣られた。それでも、半信半疑だが。

 

「……分かった。やってみる」

「それはよかった。ああ、そうだ。なんなら予行練習で私にもあーんを……」

「やらないからね」

 

 先ほどまでの言葉が一気に胡散臭くなったが、それでも結局はトワの人の好さが上回り、同意することとした。ちなみに当然と言うべきか、ツバキはあっさりと同意した。

 

 

 ただ————

 

 

「む、ムネノリ君……そ、その……うぅ…………あ、あーん……」

「はいムネノリ様、あーん!」

 

 この手のことに関して、かなり積極的なツバキと比較的消極的なトワ。どちらが勝つかなど火を見るより明らかだった。

 トワが羞恥で躊躇している内に、ツバキがあっさりとムネノリの口にねじ込んだ。僅か3秒で決着が着いた。

 

 これで1勝2敗。ツバキが王手をかけた。

 

 

 

 

「ククク、ちゃんと俺まで回ってきてよかったぜ。せっかく種目を考えたのに必要ありませんでした、じゃあんまりだからな」

 

 第二学生寮のラウンジで待ち受けていたクロウは開口一番、そう言った。確かに、どちらかが3回戦までにストレートで勝利していたらそこで勝負は終了。4回戦以降は不要になっていた。

 ちなみに放課後で時間ができたからか、アンゼリカたちもまだ一緒にいる。

 

「……クロウ殿。念の為言っておきますが変な種目は選ばぬようお願いします」

「分かってるっての。お前は俺をなんだと思ってンだ」

「以前、拙者の部屋に……」

「だぁああ!! あんときゃ悪かったっつの! クソ、事あるごとに持ち出しやがって……」

 

 ムネノリとクロウがぎゃあぎゃあと騒いでいる中、トワは沈黙を保っていた。なにせ、あと1敗したら負けてしまうのだ。下ろしている両手をぎゅっと掴み、せわしなく親指を揉み合わせている。

 

「……ほら、しっかりするんだトワ。まだ負けたわけじゃないだろう?」

「アンちゃん……?」

 

 そんなトワの背中をポンポンと叩いたのは、先ほどまで審判を務めていたアンゼリカだった。

 

「試運転のときだって、色々と危ないことはあったが、なんとか乗り越えただろう? 諦めなければ、どうにかなるものだよ」

「アンちゃん……うん、ありがとう。でも、審判のアンちゃんがそんなこと言っちゃダメだと思うんだけど……」

「なーに、もう私の種目は終わったし、審判代表なんて形だけだ。審判としての贔屓はしてないし、問題はないだろう」

 

 その理屈はどうなのかなと思うトワだったが、既に元気付けられてしまった以上、なにか言うつもりはなかった。

 

「ンじゃ、4回戦の種目発表だ。勝負には、コイツを使ってもらう」

 

 クロウがテーブルに置いたのは、トランプとカジノのチップを模したプラスチックのコインの山だった。

 

「最初はブレードも考えたんだが、あっちはまだまだ新興勢力だからな。昔からよく知られているポーカーで勝負してもらうぜ。このコインはチップ代わりだ。これでどうだ?」

 

 賭け事やゲームが好きなクロウらしい提案だった。勝負の趣旨とはもはやなんの関係もないような気がするが、少なくとも公平性は保たれている。

 

「わたしは大丈夫だよ」

 

 ポーカーならクロウたちとよく遊んでいるので慣れている。それに戦績もそれなりにいい。トワは迷わず同意した。

 

「……ええ、いいでしょう」

 

 一方のツバキも、やや迷った様子を見せながらも承諾の意を示した。もしかしたら、カジノとかを快く思っていないタイプなのかもしれないと、トワは思った。

 賭け事に反対なのはトワも同じだが、ミラを賭けないならただのゲームだ。問題はない。

 

「よっしゃ。ルールは基本のクローズド・ポーカーでいいな? 30分勝負して、コインを多く所持していた方の勝ちだ」

 

 その後、2人にはコインが均等に分けられ、向かい合って座る。ディーラーも務めるクロウの主導のもと、勝負が開始した。

 

 ……そしてすぐに、トワはツバキが迷いを見せていた理由を知ることとなる。

 

 

 

「ふっふっふっ、レイズですわ!」

 

 明らかに自信があります、と言わんばかりの顔でツバキはレイズを宣言する。それを見たトワは、カードの交換を終えてもワンペアのままの己の手札を見る。

 

「ドロップです」

「……勝負しませんの?」

「はい、降ります」

「…………そう。まあ、いいですけど」

 

 ツバキは不満げな顔をしながら、トワが出したコインを回収する。出したコインは最低限なので、大した痛手ではない。

 

 ——開始15分の時点で、ほぼ大勢は決していた。ツバキはもうそれほどコインを持っていない。一方のトワは、山のようにコインを持っていた。多少負けが込んだくらいじゃビクともしないくらいの差がついている。

 

 別にトワが異次元的な強さを誇っている訳じゃない。実際クロウたちと4人でやるときは、単純な勝率はアンゼリカの方が若干上だ。

 そうではなく、ツバキが異常に弱いのだ。具体的には、なにを考えているのかが顔を見るだけで丸分かりなのだ。揃っている役が顔に書いてあるように見えるレベルである。

 

 役が弱ければ一瞬落ち込んでからブラフを張ろうと強気になり、役が強いと明らかに機嫌がよくなる。それでいて、役が弱いときでもトワのドロップ狙いでやたらと張り合ってくるので、彼女のコインは溶けるように減っていった。

 

 きっと、ツバキは自分が弱いことには気づいているが、なぜ自分が弱いかは分かっていないのだろう。でなければ、いつまでも同じミスをする筈がない。

 

 ディーラーのクロウに目をやると、彼ですら引きつった笑みで場を眺めていた。結果論ではあるが、ポーカー勝負はトワにとっての事実上の不戦勝だった。

 

 

 

 そのまま奇跡的な逆転劇が起こることもなく、トワが開始20分で完勝した。そして、あまりにも不憫だったので、勝負が終わったら問題点を教えてあげようとトワは思った。

 

 ともあれ、これで2勝2敗。リィンが受け持つ最終戦までもつれ込むこととなった。だが、今日はもう夜遅いので、リィンには種目の確認だけとって明日の放課後へと持ち越すこととなった。

 

 

 

 そして、第三学生寮の自室にいたリィンから提案された種目は、”1対1の模擬戦”だった。

 

 

 

 



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第9話 本当の想い(中編)

 最後の勝負が”1対1の模擬戦”であることがトワとツバキによって承認された為、今日は解散となった。もう空は真っ暗だ。

 

 ツバキは導力車を呼び出し、帝都に戻った。トワも今は第二学生寮の自室にいる。

 

 明日は模擬戦に加えて通常の授業でも実技がある為、今は導力銃の整備を行っている。入学当初から使い続けている護身用の小型の導力銃だ。ジョルジュによって様々な面で細かなカスタムが施されており、トワに合わせて最適化されている。

 トワは分解した銃のパーツを机に並べ、異常がないか確認しつつ、丁寧に清掃していく。それを終えたのちに、パーツを組み立てて元の銃の形に戻した。最初は説明書がなければできなかった組み立ても、考え事をしながらでもできるレベルに達していた。

 

 当然、トワが考えを巡らせているのは明日の模擬戦のことだ。トワは、解散直前にシノから聞かされた情報を思い返していた。

 

 

 

 

「はっきり言ってしまえばこの模擬戦、義姉上が不利です」

 

 ツバキが去ったあと、シノは開口一番そう告げた。

 ツバキの情報を語ろうとするシノを、最初は公平性を理由に留まらせようとしたが、「あくまで一般的な情報をお伝えするだけです。ツバキ様も今ごろ義姉上のことを調べているでしょうし、問題ないかと」と反論された。

 アンゼリカにも確認したが、情報収拾の範疇に留めるならば問題ないとの判断を下した。一応はお墨付きをもらったということもあり、トワは場を食堂に移し、シノの言葉に耳を傾けた。

 

「ツバキ様は薙刀使いです。義姉上は薙刀はご存知ですか」

「うん。東方のハルバードの一種だよね?」

「まあ……そうですね。補足すると、切っ先が太刀と同じようになっていて、長柄武器の中では斬撃に特化しています。刀身と柄の長さのバランスは流派によって異なりますが、イズモ出身のツバキ様も例に漏れず出雲流ですので、刀身の長さは50リジュ、柄は170リジュが基本です」

 

 つまり、全長は220リジュということになる。長身のガイウスが用いる十字槍よりは短いし、斬撃が主体である以上、突きが主体の槍よりはリーチは短いだろう。それでも、近接武器としてはかなりのリーチだ。

 

 シノがトワが不利だと評した理由を理解する。チームを組んでの戦闘ならばともかく、1対1の戦いでは後衛タイプのトワは前衛タイプのツバキに対して極めて不利だ。

 連射と威力に優れたライフルならば後衛であっても十分に前衛と張り合えるが、護身用で単発ずつしか撃てない小型導力銃の弾は、武術を修めた者には簡単に見切られてしまう。かと言ってアーツで戦おうにも、駆動中に距離を詰められるのがオチだ。

 

「ツバキさん本人の実力はどれくらいなの?」

「私の見立てでは、アンゼリカ様に少し劣るくらいです。それと出雲流は東方武術ですので、当然気功による身体能力の上昇も行うことができます」

「アンちゃんと同じくらい……」

 

 試運転の際、アンゼリカはチームにおけるアタッカーを担っていた。遊撃的に動きつつ、ここぞというときに強烈な一撃を魔獣等にお見舞いしていた。実際、実技授業の模擬戦でそれを受けたクロウはグラウンドの端まで吹っ飛んだこともある。

 

 仮にトワがアンゼリカと模擬戦を行っても、勝利は難しいだろう。実力差に加えて、相性が悪すぎる。同じことがツバキに対しても言えるだろう。

 勝利を諦めているわけではないが、現状をきちんと認識しておく必要はあった。

 

「それと……これに関しては裏が取れていないので推測の域を出ませんが、ツバキ様はARCUSを所持している可能性があります」

「え……それは、本当? まだ量産体制も整えてないって話だったけど」

 

 今のところARCUSを所持している者はそれほど多くない。未だ試験段階で、そのARCUSの試験を行う為にⅦ組が存在するのだから。

 

「もちろん、エプスタイン財団が新たに発表したエニグマⅡを用いている可能性の方が高いです。ですが、マツナガ財閥は西ゼムリアの大企業とのコネクションも多いです。もしかしたらラインフォルトとも……といったところです」

「うん、分かった。注意しておくね」

 

 リンク機能がなければ、同じ世代の戦術オーブメントであるARCUSとエニグマⅡに決定的となるような性能差は存在しないだろう。そういう意味では、1対1となる明日の模擬戦ではあまり気にする必要はないかもしれない。

 だが、どんな情報でもなにかしらの役に立つことを生徒会の活動を通してよく知っていたトワは、頭の片隅に留めておくことにした。

 

 それからも夕食を摂りつつ、細々とした情報をシノから受け取るのであった。

 

 これが、1時間前の出来事だ。

 

 

 

 

 無策で挑んだら絶対に勝てない。それがトワの出した結論だった。だからこそ、その差を埋める為の策を練っているところだった。

 

(アレは、リスクが高すぎるから最終手段かな…………うーん、ジョルジュ君、まだ技術棟にいるかな? 多分、フィーちゃんはもう寝てるから明日かなあ……)

 

 慎重に積み木を積み上げるようなつもりで、シノから聞いた情報を分析しつつ、対処法を練り上げていく。その為に必要な要素を洗い出し、整理していく。

 

 そんなときだった。コンコン、とドアがノックされた。

 

「はーい?」

『……トワ殿』

「え、ムネノリ君?」

 

 声ですぐに分かった。意外なお客さんだった。小走りでドアに駆け寄って開ける。見上げた先に、ムネノリの顔があった。自室の明かりに照らされた彼の顔が、こちらを向く。

 

「夜分遅くに申し訳ございません。ただ、その、いても立ってもいられず……。少しだけ、話す時間をいただいても?」

 

 堅苦しく、途切れがちな喋り方だった。どこか、気まずそうにも見えた。

 

「うん、大丈夫だよ。どうぞ、入って」

「ああいや、ここでいいのです。アンゼリカ殿に言い含められておりますので」

 

 勝負中過度な接触は禁止。確かにアンゼリカはそう言っていた。どうやら、ムネノリにとっては部屋に入ることもその範疇のようだ。

 トワは僅かに目を伏せ、分かったとだけ返した。

 

「えー、それで、ですな……」

 

 ムネノリは右手で後頭部を掻きながら顔を横に向け、言い淀む。他ならぬムネノリの話だ。トワは催促することもなく、じっくりと待つ。

 廊下からひんやりとした空気が流れ込む中、ようやくムネノリが口を開いた。

 

「……こんなことになってしまい、申し訳ございませぬ。拙者がトワ殿に迫ったことを知られたばかりに、ツバキに絡まれた上、妙な勝負まで受けさせてしまいました……」

「……もしかして、シノちゃんから?」

 

 ムネノリはコクリと頷く。どういった経緯でかは分からないが、トワが勝負を受けた理由を聞いたようだ。

 

「トワ殿がそういうことを気にされない方なのは分かります。ずっと、近くで見ておりましたから。ですが、それでは拙者の気が済まないのです。もう最終戦なのに今さらなにを、と思われるかもしれませんが……」

「そ、そんなことない! そんなことないよ!」

 

 トワはブンブンと強く首を横に振る。むしろ、謝らなければならないのはトワの方だ。トワがムネノリへの態度をはっきりさせていれば、あるいは最初から穏便に済んでたかもしれないのだ。

 

 お互いに謝り合う。だが、空気がどんよりするばかりでなんの解決にもならなそうだった。会話が途切れ、次の言葉がなかなか出ず、場が沈黙に包まれれる。

 そんな中、トワはおずおずと口を開いた。

 

「……あのね、ムネノリ君。わたしもずっとムネノリ君にちゃんとお返事してないこと、申し訳ないって思ってるんだ」

 

 迷った末に、とうとう胸の内をムネノリ本人に明かした。今のムネノリの心中を察することはできなかったが、話を聞くつもりはあるようで、目を逸らさずにこちらを見ていた。

 

「ムネノリ君はわたしにとって大事な人だよ。それだけは自信を持って言える」

 

 ムネノリと話すのは楽しいし、一緒にいると落ち着くのは間違いない。生徒会関連でもすごくお世話になっていて、頼りにしている。妹のシノとの仲も良好だ。

 

「でも、いつも考えちゃうの。仮にお受けしたとき、自分の立場や生活がどう変わっちゃうのかなって。妃になるって、どういうことなのかなって」

 

 ムネノリへの返事を考えるとき、結局はいつもそこに行き着いてしまう。きっと、普通の恋人同士のようにはいられない。色々なしがらみや問題が待っているに違いない。それらを意識すると、途端に深い霧に包まれたかのように自分の本心が見えなくなるのだ。

 

「……でもね、今はちょっとだけこう思ってるの。明日のツバキさんとの勝負で、なにか見えるかもしれないって」

 

 上流階級の生まれのツバキは、きっと妃になるということがどういうことなのか分かっている。覚悟だって、決めているに違いない。

 以前、アンゼリカに武術家同士は拳を交えれば相手の本心が分かるものだと教わった。トワは武術家ではないが、ツバキと正面から戦ってみればきっとなにかを感じる筈だ。相手の想いと覚悟が。

 そうすれば、自ずと自分の気持ちも見えるかもしれない。最終戦までもつれ込んだとき、ふとそう思ったのだ。

 武術を学ぶ身であるムネノリならばトワの言わんとすることは理解できる筈だ。事実、ムネノリはすぐさま頷きを返した。

 

「トワ殿……」

「……大丈夫! 絶対に負けたりしないから!」

 

 それでも不安そうに顔に陰を落とすムネノリを安心させるように声を張り、自分の胸の辺りを拳で叩く。力を入れすぎて、ちょっと痛かった。

 

「だからムネノリ君は、信じて見守っててほしいな。……ね?」

「……分かり申した」

 

 渋々といった様子だが、ムネノリは納得してくれたようだ。

 

「ありがとう、ムネノリ君」

「いえ、他ならぬトワ殿のお言葉ですから。……それでは、拙者はもう行きます。ゆっくりお休みになってください」

 

 挨拶を交わしたあと、ムネノリは第二学生寮を去った。それを自室の窓から確認したトワは、ジョルジュがまだ部屋に戻ってないのを確認してから、技術棟へと向かうのであった。

 

 

 

 

 次の日の放課後。夏に入って日の時間が伸びた為か、まだ周囲は明るいままだ。

 

 最終戦の舞台として選ばれたのはグラウンド。本日はラクロス部が休みだった為、そのスペースを借りた形となる。

 

 トワとツバキは、それぞれの得物を持って相対していた。トワはツバキを観察する。彼女の瞳からは油断は一切感じ取れない。厳しい戦いになりそうだと思った。

 

「すみませーん! ここからは戦闘エリアなので下がってくださーい!」

「観戦してえならこのラインに入るんじゃねーぞ! 巻き込まれちまうぞー!」

 

 アリサやクロウが声を張り上げる。その声に従うように、緑や白の制服を纏った学院生たちがゾロゾロと下がる。

 ……そう、そうなのだ。実はどこからか勝負の話を聞きつけた学院生たちが続々と集まり、まるで闘技場の様相を呈してしまっているのだ。

 それで元々観戦予定だったクロウや時間の空いていたⅦ組のメンバーが総出で整理しているのだ。おかげで勝負に支障はないが、かなりの大ごとになってしまった。

 

「まあ、色々とギャラリーが増えてしまったがやることは変わらない。両者、準備はいいかな?」

「うん、大丈夫だよアンちゃん」

「無論ですわ」

 

 アンゼリカの確認に両者は頷く。模擬戦の審判は代表のアンゼリカと提案者のリィンが務める。戦闘エリアを出てしまうか、参ったをするか、ダウンしてから10秒以内に立ち上がることができなければ、敗北となる。それ以外は基本的に制限はない。

 

 トワは先ほどまで授業だった影響でいつもの制服姿であるのに対し、ツバキは戦闘態勢と呼ぶにふさわしい格好だった。

 東方由来の白い道着に袴を穿き、手甲や胸当て、額当てなどの防具も着けていた。トワが銃使いであることを調べたのだろう。軽装ではあるものの、明らかにトワよりは重武装だった。

 

「では双方……構えて」

 

 アンゼリカの指示に従い、得物を構える。トワは導力銃を両手で握って相手に向ける。ツバキは薙刀を下段に構える。

 

 途端、空気が入れ替わったかのように場がしんと静まり返った。観衆たちも士官学院生。真剣勝負が始まるときにまで騒いだりはしないようだった。緊張した面持ちで、その瞬間を待つ。

 

「——始め!」

 

 火蓋が切って落とされた。トワの銃が弾を撃ち出し、ツバキは土を蹴って突進した。

 

 

 

 

 ツバキは勝負開始と同時に眼前に迫った銃弾を柄で弾く。鉄棒を叩きつけられたような強い衝撃に手が痺れるが、戦闘に支障を来たすほどではない。ツバキは1息に距離を詰めた。

 

 最初のころとは違い、油断はしない。トワが侮ってはいけない相手であることは思い知らされている。最初から全力で仕留めに行く。トワがアーツ主体の銃使いであることは昨夜散々調べた。そういう意味では近接タイプのツバキは圧倒的に有利だが、彼女はそれ以上にトワの作戦立案能力を警戒していた。

 本来の彼女は指揮官タイプ。チームでこそ真価を発揮する。昨年の試運転のレポートを確認したところ、その多くの戦闘において彼女の立てた作戦が勝利の鍵になっていた。認めるのは癪であったが、単純な駆け引きではトワには勝てないとツバキは判断した。

 

 だからこその速攻を狙う。なにかさせる前に倒す。多少の被弾は覚悟して、最短距離でトワに迫ったのだ。実際、それは上手くいったようだ。

 

「ッ——!?」

 

 トワはアーツの駆動に入ったままだった。どうやら銃弾で牽制して距離を取らせた隙にアーツを撃つつもりだったらしい。だが、ツバキが選んだのは突進だ。アーツは間に合うまい。

 

(もらいましたわ!!)

 

 下段の構えから斬り上げる。刃のない模擬戦用の刀身なので斬れることはない。だがまともにヒットすればかなりのダメージとなるだろう。

 

 ——無論、当たればの話だが。

 

「なっ……!?」

 

 岩を叩くような手応え。それはそうだ。事実、ツバキの攻撃はトワとの間に突然地面から出現した岩の槍に阻まれたのだから。

 それは、トワのアーツの発動が間に合ったことの証左だった。

 

(下級アーツとはいえ、なんて駆動速度ですの!?)

 

 ツバキの把握していない情報だった。あれだけ緻密に調査をしたのに、まさか漏れがあるとは。一瞬、思考が止まった。そしてその隙を逃すトワではなかった。

 

 カチャリ、と銃口が眼前に向けられていた。

 

「くっ——!」

 

 咄嗟に体を捻る。銃口が火を吹いたのはその直後だった。鼓膜が破れそうになる轟音と共に銃弾が肩を掠る。模擬弾ではあるものの、かなりの衝撃が肩に走った。

 

 堪らず、ツバキは距離を取る。未知の情報を抱えたまま接近戦を挑むのは危険だと判断したのだ。無論、その判断自体は正しい。

 

 だが、それこそがトワの狙いだったのだと、彼女の周囲に張り巡らされつつある岩の槍の迷路を見て、気づくのであった。

 

 

 

 

 緒戦の攻防をジョルジュと並んで見ていたクロウは度肝を抜かれる。トワが選んだ戦術もそうだが、あの驚異的な駆動速度にである。

 

 下級アーツといえど、1対1の戦いではその駆動時間は致命的な隙となる。それはツバキが速攻を狙いにいったことからも明らかだ。

 だが、トワのアーツはコンマ数秒で完成していた。駆動速度を上げるクオーツをセットしていても、ここまでにはならない。

 

「おいジョルジュ。お前トワのARCUSになにしたんだよ」

「あ、やっぱり分かるかい?」

「たりめーだろ。あんなデタラメな調整ができるとしたら、おめーさんくらいだからな」

 

 ジョルジュの導力機器に対する知識、技術は学生離れしている。当然だ。なにせ以前はルーレ工科大に所属していたのだから。試験段階のARCUSになにかしらの改造を施せるとしたら、ジョルジュか教官のマカロフしかいない。

 そしてトワがどちらを頼るかと言われれば、それはジョルジュに決まっている。

 

「昨晩、トワに技術部として依頼を受けてね。アーツの威力とエネルギー効率を犠牲に、アーツの駆動速度を限界まで高めてある。もちろん、クオーツの構成も駆動速度に特化している」

 

 トワの方を見ると確かに、まだ下級アーツを少しばかり連発しただけなのに早くもARCUSにEPチャージャーを挿している。余裕のある内に補給したとも考えられるが、それだけではないのも確かだろう。

 

「大体どれくらい犠牲になってンだ?」

「消費エネルギーは約3倍、威力は半分になっている。トワはアーツ適正が高いからそれでも連発が可能だし、十分な威力が出るけど、僕とかがやるのは自殺行為だろうね」

 

 なるほど、とクロウは納得する。おおよそ、トワの戦術が見えてきた。

 既に戦闘エリアはトワの発動した岩の槍で埋め尽くされていた。それはさながら巨大な柱が無数に立ち並んでいるかのようであった。

 

「くっ、このっ!」

 

 ツバキが薙刀を振ってトワを狙う。しかし、トワは石柱に身を隠してしまい、切っ先が弾かれてしまう。その隙を狙って、側面に回り込んだトワが射撃とアーツで攻撃する。ツバキは薙刀を振り回して斬り払おうとするが、柄の先が柱に引っかかってしまった。完全には回避できずに、1発アーツを喰らってしまっていた。

 

 つまりはこういうことだ。前衛のツバキでも決して妨害できないような駆動速度を手に入れたトワは、それを利用して自身に有利な陣地を構築したのだ。

 長柄武器である薙刀は槍等と同じように、狭い空間では性能を活かしきれない。トワは地属性アーツで地形を変えてしまうことで、薙刀に不利な空間を作り出した。

 しかも柱の並びはトワが決定している為か、彼女は淀みなく柱の間を走り抜けて行く。一方のツバキは、いちいち柱の位置関係を確認してから移動しているようで、全くトワに追いつけていない。

 そうやって移動に手間取っているツバキ目掛けて、下級アーツが雨あられのように降り注ぐ。威力が半減しているとはいえ、堪ったものではないだろう。

 

 トワは大量の弾丸とEPチャージャーを消費しているものの、現在は無傷。対するツバキは被弾を重ね、ダメージを蓄積させている。

 

 戦況は、徐々にトワの優勢へと傾いていった。

 

 

 

 

 早くも4本目となった使用済みのEPチャージャーを懐に仕舞いながら、トワはアーツの連打を続ける。アーツの飽和攻撃に、ツバキの迎撃は全く追いついていなかった。数発に1発の割合でヒットし、彼女を後退させる。

 

(EPチャージャーは残り2本。ここまでは、作戦通りだけど……)

 

 予想はしていたが、消耗が激しい。一応は優勢だが、ここに来て補給面で不安が出てきた。予算の問題で、そんなに潤沢に物資を調達できなかったのだ。

 

 使い切る前に倒せるか。それが問題だった。

 

(多分、どこかで上級アーツを混ぜないとダメ。でも、どうやって時間を稼ごう……)

 

 さすがに上級アーツともなれば、駆動特化の今でも約10秒の駆動時間を要する。いくら地形を作り変えたとはいえ、そこまでの時間的余裕はない。

 攻撃を続けながら次の手を考える。そうこうしている内に、またもやEP残量が少なくなってきた。銃の牽制に切り替え、補給を始める。

 

 ——そんなときだった。突如、ツバキがいると思しき場所から竜巻が巻き起こった。土埃が濃霧のように周囲に拡散し、視界を悪くする。雷鳴の直後のように、ビリビリと空気が震えた。

 

「っ!? まさか……!」

 

 背筋に悪寒が走り、トワは物陰から身を乗り出してツバキを目視で確認する。予感的中だった。

 

 ツバキは、アンゼリカが見せるのと同じような黄金の闘気をその身に纏っていた。つまり、彼女に気功を使わせてしまった。そうさせないための飽和攻撃だったのだが、おそらくは攻撃のリズムを読まれてしまったのだろう。補給に合わせられ、発動を許してしまった。

 

「はぁあああ!!」

 

 大の男ですら怯えさせるような掛け声と共にツバキが突進を開始した。その進路には無数の柱が立ち塞がるが、彼女は止まらない。

 気功で強化された豪腕で薙ぐ。たったそれだけで、ツバキの進路を阻んでいた柱は粉々に砕け散った。アーツの威力が落ちている為、岩の槍は比較的脆くなっている。さすがに気功で強化された1撃には耐えられなかったようだ。

 次から次へと岩を砕き、1直線にこちらに向かってくる。このままでは数秒もしない内にツバキの薙刀の餌食だ。

 

(いけない! 距離を取らないと……!)

 

 それを阻むべく、補給を終わらせたARCUSでアーツを発動させる。圧縮された水の塊が宙を駆け、ツバキに殺到した。斬り払うにせよ躱すにせよ、距離を取るくらいの時間は稼げる筈だ。

 

 ——だが、ツバキはここでトワの予想を大きく裏切る。なんと、迎撃の体勢どころか、躱すそぶりすら見せなかったのだ。

 

「っ、ぐうう……! わたくしの覚悟を……甘くみるんでないですわぁああ!!」

「ッ!? 嘘……!?」

 

 ツバキはそのままアーツの雨へと突っ込んだ。両手では足りぬほどの水の弾丸が彼女を穿つ。だが止まらない。止められない。まるで戦車のように、激しい砲火に晒されながらも突き進む。

 

「わたくしが……わたくしが! 必ずムネノリ様を、射止めて……あぐぅ……ぅ、あぁああ!」

 

 ダメージは確実に与えている。決して軽いダメージでもない筈だ。

 客観的に見ればトワが圧倒的に有利な状況。しかし、気圧されているのは明らかにトワの方だった。執念ともいうべきムネノリへの想いが、今まさにトワに牙を剥こうとしていた。

 

 息を呑む。ツバキの気迫に怯んだトワは一瞬、足を止めてしまった。1秒にも満たぬ短い間だが、戦闘中においては致命的すぎる間だった。

 

 トワが我に返ったときにはツバキは眼前に迫り、2人の間にある最後の石柱を薙ぎ払おうとしていた。

 

「せいっ!」

 

 一閃。煌きと同時に岩がトワの方へと炸裂した。岩は石つぶてと化し、天然の散弾となってトワに襲いかかった。

 

「うっ、くっ……!」

 

 広範囲の面攻撃。トワにそれを回避する術はない。体を丸めて少しでもダメージを軽減するくらいしかできなかった。全方位から拳で殴られるかのように、次から次へと石つぶてが直撃する。それほど打たれ強くないトワにはかなりのダメージ。一瞬でダメージレースで追いつかれてしまった。

 

「今度こそもらいましたわ!」

 

 ツバキが中腰で構えた。ゾクリ、とトワの本能が危険信号を発した。なにか、来る。決して喰らってはいけない一撃が飛んでくると直感で理解した。

 

 咄嗟にARCUSを駆動。限界までチューンされた内部機構が唸りを上げる。本来ならば決して間に合わないタイミング。しかし、驚くべきことに今のトワのARCUSは間に合ってみせた。大量のEPと引き換えに、絶対防御のアーツを発動させた。

 

 ——”アダマスガード”。達人レベルの技でもない限り、どんな物理攻撃だろうと1度だけ完全に防ぐことができる。

 今のARCUSで絶対防御がどこまで働くかは分からないが、少なくとも致命的なダメージを負うことは避けられるだろう。

 

 …………そう、思っていた。

 

「出雲流奥義——」

 

 静かにツバキが唱えた瞬間、彼女の暴力的な闘気の嵐が一気に澄んだ。研ぎ澄まされた刃のように、鋭く、冷たく引き絞られていく。

 

 それが最高潮に達したとき、ツバキの体がバネのように弾けた。

 

「——月影!」

 

 ——不可視の1撃が絶対防御と衝突。防御を剥がされる。これでトワを守るものはなにもない。

 

 ——柄が蛇のように足に絡みついたかと思うと足が払われる。必然的に体が宙に浮く。

 

 ——さらに薙刀の切っ先が弧を描く。遠心力を利用して素早く上段に構えたツバキは力強く前に踏み出す。それはさながら処刑人が斧を振り被っているかのようだった。

 

 ——そして気づく。空中では、攻撃を避ける術が存在しないことに。必中必殺の1撃が、スローモーションで迫ってくるように感じた。

 

(しまっ——)

 

 ハンマーで思いっきり振り下ろされたような打撃がトワの腹部に突き刺さる。遥か上空から地面に叩き落とされたかのような衝撃。轟音と共に、トワは大地に沈められるのだった。大爆発のように、土埃が吹き荒れた。

 

 

 

 



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第10話 本当の想い(後編)

 月影。出雲流薙刀術における奥義の1つだ。同じく出雲流を学ぶムネノリは当然、その奥義を知っている。

 1撃目で相手の防御を崩し、2撃目で相手を宙に浮かせて回避不能にし、3撃目で仕留めることを目的とした、必殺の3連撃だ。技の性質上、アーツによる完全防御も意味を為さない。なにせ、1撃目自体がそれを見越して用意されたものなのだから。

 

 まともに奥義を受けたトワの体が地面に叩きつけられ、まるでゴムボールのように弾んだ。2転、3転し、戦闘エリアの端まで吹っ飛ぶ。そしてそのまま、うつ伏せで動かなくなった。

 観衆の間で動揺が走ったのが分かった。そしてそれは、ムネノリの隣で観戦していたシノにとっても同じようだった。

 

「義姉上!」

「待て、シノ」

 

 トワに駆け寄ろうとしたシノを強引に止める。振り返ったシノは、必死の形相で声を荒げた。

 

「なぜ止めるのですか! 早く義姉上を医務室へお連れしなければ!」

「まだ勝負は終わってない。今駆け寄れば棄権扱いになってしまう」

「兄上の薄情者! 今の義姉上を見て、まだそんなことを言うのですか!!」

 

 トワの制服は所々破け、全身が土で汚れている。ダウンによるカウントが開始しようとしても一向に立ち上がる気配はない。

 誰がどう見ても続行は不可能。シノは暗にそう主張した。しかし、ムネノリは首を横に振る。シノの鋭利なナイフのような眼光にも怯まず、諭し続ける。

 

「それを決められるのはトワ殿だけであろう。拙者たちではござらん」

「っ、ですが……!!」

 

 それでも納得はできないといった様子だった。今のトワを見てなにもせずにいることなどできない。そう言いたげだった。

 随分、感情豊かになったものだと思う。シノがこうして再び感情を表に出せるようになったのも、全部トワのおかげだ。

 

 痺れを切らしたシノはとうとう力づくでムネノリを押し退けようとする。そんな彼女を止めるべく、ムネノリはあることを告げる。

 

「……見守っててほしいと、言われたのだ」

「——え」

 

 ピタリ、とシノの足が止まった。昨夜のやり取りが、脳裏にフラッシュバックする。

 

——『だからムネノリ君は、信じて見守っててほしいな。……ね?』——

 

 その内容を、そっくりそのままシノに伝えた。するとシノは落ち着きを取り戻し、駆け寄ることを止めるのであった。

 

「……義姉上が、そのようなことを」

「本当は拙者だって今すぐにでも駆け寄りたい。だが、それは許される行為ではなかろう。ツバキにとっても、トワ殿にとっても。——見守るのでござる。最後まで信じて」

 

 ムネノリが視線をトワへと戻す中、既にカウントは半ばまで到達しようとしていた。

 

 

 

 

 全身が痛む。内臓が潰れるかと思ったほどの腹部への一撃は、確かにトワに決定的なダメージを与えていた。呼吸器官が異常を訴え、思うように酸素を取り込めない。息が苦しい。

 

「……っ……はぁ……」

 

 思えば、試運転のときもここまでの大ダメージを負ったことはなかった。強力な魔獣とは何度も戦ったが、前衛のアンゼリカとジョルジュがいつも守ってくれた。偶に危ないときもクロウが囮となって攻撃を引きつけてくれたので、トワが危険に晒されることはほとんどなかった。

 それはチームとしての完成度を証明すると同時に、今みたいな強烈な攻撃に対する耐性が低いという弱点を生み出すことにも繋がってしまった。

 

 きっとアンゼリカやジョルジュならばすぐに戦線復帰できたのであろうが、トワは立ち上がることさえできなかった。

 

「——1」

 

 審判のアンゼリカによるカウントダウンが開始する。カウントが10に到達する前に立ち上がることができなければ、その時点で敗北となる。

 立ち上がらないと。立ち上がらなければならない。トワは両手に力を入れる。

 

「ぅう……くっ……はぁ……っ」

 

 僅かに、体が浮く。だがそれだけだった。腹部に槍で刺されたような激痛が走り、力が抜けて再び崩れ落ちてしまった。

 

「——2」

 

 (負けないって……約束、したのに……)

 

 どうしても、体が動かない。耐え難い痛みに体が苛まれ、まるで言うことを聞かない。ツバキは捨て身でアーツの嵐に突進し、見事耐え抜いたというのに。自身はたった1回攻撃を受けただけで、戦闘不能に追い込まれてしまった。

 

「——3」

 

 これが、覚悟の差ということなのだろうか。想いの強さの違いがそのまま結果として出ただけなのだろうか。

 ツバキの覚悟のほどは先の特攻で十分に知ることができた。リスクを冒してでも勝利を信じて突き進む強烈な信念。戦いを通して、それを嫌というほど思い知らされた。

 

「——4」

 

 もうすぐカウントが半分になる。にも関わらず、体を起こすことすらできないでいる。それどころか、視界がどんどん暗くなる。今にも気を失ってしまいそうだった。そんな自分が不甲斐なくて、瞳から熱いものが込み上げてくる。

 

(ごめんね……ごめんなさい、ムネノリ君。わたしじゃ、届かないみたい……)

 

「——5」

 

 敗北したら、もう今までのようにムネノリと接することはできないだろう。意識を手放す前に、ムネノリの顔を見ておきたかった。彼が立っていた場所を思い出しながら、なんとか顔だけでも動かしていく。それに加えて視線をギリギリまで端に寄せたことで、ムネノリの姿を見ることができた。

 

「ぁ——」

 

 その姿を見て一瞬息が止まった。彼の瞳は一片たりとも揺らいではいなかったのだ。王族の風格漂う力強い眼光でトワを捉えていた。ドクンと胸が高鳴る。

 

——『だからムネノリ君は、信じて見守っててほしいな。……ね?』——

——『……分かり申した』——

 

「——6」

 

 ムネノリは、まだ見守ってくれている。こんなにも惨めな姿を晒しているのに、まだ信じてくれている。それが…………たまらなく嬉しかった。

 

 いつもそうだった。出会ったばかりのころからトワに全幅の信頼を寄せ、ときにそれが暴走することもあったが、その想いは常に真っ直ぐだった。

 

——『——せ、拙者の妻となっていただけぬだろうか!!!』——

 

 初対面のときは、それはもう驚いた。他国の王太子にいきなりプロポーズされるなんていう、絵本みたいな出来事が実際に起こってしまったのだから。

 

 あのころのトンチンカンなアプローチも、今となっては懐かしい。グランローズも、今なら本来の意味で受け取れるかもしれない。というより、ちょっと欲しいとすら思った。

 

——『あれは、直感をも超えた女神のお告げと錯覚するような感覚でした。実はあのとき、こうも思ったのです。——この方を置いて、他にはいないと』——

 

 看病してもらったときのことを思い出す。そのころはムネノリに対して酷い態度をとり続けていたにも関わらず、彼はとても熱心に看病してくれた。粥を作り、寝るまで一緒にいてくれた。

 それに、あのときかけられた言葉には色々とドキドキさせられた。思えば、それがきっかけだった。1国の王太子ではなく、1人の男の子として接しようと決めたのは。

 

「——7」

 

 それからは、よく一緒にお茶をするようになった。生徒会の仕事も手伝ってもらうようになった。ムネノリから聞くイズモの話はとても面白く、予定していたお茶の時間を過ぎてしまうことも多々あった。

 

 シノを加えて一緒に帝都に遊びに行ったこともあったし、ムネノリのトマト嫌いを直そうと奮闘したりもした。定期的に暴走する彼を止めに学院中を駆けずり回ることもあった。

 そのいずれの出来事も、とても楽しいものであった。それらの日々を、当たり前のものとして受け入れていたくらいには。ずっと、隣にいて欲しいと願うくらいには。

 

 そんな日々の続きは、今にも失われようとしている。あとカウントが3つ進めば、ムネノリの側には一生いられなくなる。

 …………ムネノリの特別でいることが、できなくなる。

 

(……そんなの、やだよ)

 

 突然、四肢に力が戻り始めた。燻っていた炎に燃料が注ぎ込まれたかのように、心が激しく燃え上がった。それは決して突然ではなく、偶然でもない。それは、最初からずっとトワの胸の内にあったものだ。たった今それを認識し、それを理由に力を引き出せるようになっただけのこと。

 

(ダメダメだな……わたし。こんな簡単なことにも気づかなかったなんて)

 

 妃になったらどうなるか分からない? そんなの当たり前だ。未来の自分がどうなるかなんて、誰にだって分からない。

 ツバキとの覚悟の差? 想いの抱き方など人それぞれ。元より他人と比べられるものではない。

 

 妃だとか覚悟の差とか、そんなのは些事だったのだ。未来の自分の気持ちや他人の気持ちではなく、今の自分の気持ちと正直に向き合うだけでよかったのだ。今、この瞬間こそが最も大切にすべき宝物だったのだ。

 

(わたしは……ムネノリ君のことが好き。それだけでよかったんだ……)

 

 ようやく、想いを自覚する。ずっとずっと前から、トワはとっくにムネノリに惹かれていたのだ。叶うならば、ずっと側にいたいと願っていたのだ。彼の特別であり続けたかったのだ。どうでもいい理由でそれが見えなくなっていただけ。

 

 ……ムネノリが好き。勝負に負けられない理由なんて、それで十分だ。

 

(勝ちたい……それでムネノリ君に、伝えたい……!)

 

 誰にも渡したくないという暗い感情ですら今は愛しく、トワに活力をもたらした。苦痛が和らぎ、四肢に完全に力が戻った。

 今ならば、立ち上がれる。

 

「——8」

「うっ、くぅうう……!!」

 

 腕に力を込め、上体を起こす。周囲からどよめきの声が漂った。いつの間にか落としていた銃を探し、手に取る。

 

「——9」

 

 足でしっかりと大地を踏む。はしたない姿勢だったが、今は気にしない。そのまま飛び上がるようにして、トワは立ち上がった。同時に、懐に閉まってあったあるものに手を伸ばした。

 

 どよめきが、歓声に変わった瞬間だった。

 

 

 

 

(……まさか、立ち上がってくるとは思いませんでしたわ)

 

 トワが立ち上がったことに心の底から驚いたツバキだったが、顔には出さないで薙刀を構え直す。

 

 奥義を用いた以上、ツバキはあそこで決めるつもりだった。実際、同格の相手との模擬戦でこれを受けて立ち上がってきた者はいなかった。後衛で打たれ弱い筈のトワが復帰したのは、それこそ奇跡のようなものだ。素直に尊敬に値する。

 

 誰が見たって、今のトワはボロボロだ。あちこち擦りむいているし、緑の制服はあちこち破れ、呼吸は全力疾走のあとのように乱れている。だがしっかりと両足で立ち、右手で銃を構え、未だ冷めぬ熱い闘志を秘めた瞳でこちらを射抜いている。

 手を抜いていい要素は、微塵もなかった。

 

(……認めましょう。貴方がムネノリ様に見初められるに足る器を持っていることを。ですが、勝つのはわたくしですわ……!)

 

 今度こそ、決める。さすがに2度の大技には耐えられないだろう。トワに打開策をとらせまいと、迷わず突進した。先ほどと同じく、捨て身の覚悟だ。

 

 ——その判断が却って仇となった。トワは突如、懐から黒い筒状のものを放り投げた。宙で弧を描き、ツバキの眼前に迫る。その筒の正体を知った途端、目を大きく見開いた。

 

(っ!? これはまさか……スタングレネード!?)

 

 そうだと気づいたときには遅かった。絶妙な距離感で投擲されたそれを斬り払うことも出来ず、ツバキの五感は脳を揺さぶる強烈な閃光と爆音に奪われた。

 

 

 

 

 閃光と爆音がツバキに直撃する。仕掛けた側のトワは当然対策を取っていたのでほとんど影響を受けていない。目を開き、ツバキが行動不能になったことを確認する。急いでARCUSに最後のEPチャージャーを挿し、満タンにする。

 

 スタングレネードは、今朝フィーからお菓子と交換で調達したものだった。万が一の仕切り直し用として用意してあったが、結果的にかなり攻撃的な用途で使うこととなった。捨て身の突進を見せたツバキにならば、必ず成功すると思っていた。

 

 トワはARCUSを駆動させる。選んだアーツは、最も適性の高い地属性の上級アーツだ。トワが最後に選んだ作戦は至極単純。上級アーツを当てることだ。

 ツバキとてダメージは蓄積している。トワと同様、次に大技を受ければ必ず沈む。

 

 失敗はできない。スタングレネードを切ってしまった以上、仕切り直しは不可。アーツを躱されてしまえば、EP切れで事実上の詰みとなる。なにがなんでも発動して当てなければならない。

 

 この作戦で1番の要となるのは駆動時間を稼ぐこと。スタングレネードによる五感の消失はおおよそ6秒。補給に1秒かかったので、5秒の駆動時間を確保できることになる。

 問題は残りの5秒だ。幸いというべきか、ダメージの影響がかなり出ていたようで、ツバキは回復に7秒を要した。追加で1秒稼ぐことができたのだった。

 

 ——残り4秒。

 

「っ、この! させませんわ!」

 

 ツバキが突進を再開する。まだ後遺症が残っているようで、その足取りはふらついている。それでも視線ではしっかりとトワを捉え、一応は真っ直ぐにこちらへ向かっていた。

 

——残り3秒。

 

 トワが戦闘エリアの端まで飛ばされたおかげで、それなりに距離がある。間合いまで距離を詰めるには最速でも1秒は必要だ。もっとも、ツバキはスタングレネードの影響が残っているので最高速度は出せないだろう。

 結論から言うと、1.5秒を稼げた。

 

——残り1.5秒。

 

(ここが、勝負……!)

 

 既にツバキは自身の間合いにトワを収めている。再び奥義を放とうとしているのか、闘気が収束を始める。先ほどと同じように、本能的な恐怖が身を駆け抜ける。だが、トワは怯むことなくツバキを視界に捉え続ける。

 ここで目を逸らしたら終わりだ。奥義が放たれるギリギリまでツバキを引きつける必要がある。その瞬間を、ひたすら待つ。

 

(まだ、もうちょっと引きつけて……!)

 

——残り1秒。

 

 ……これからやろうとしていることは、賭けと呼べるかすら分からない無謀な試みだ。失敗すれば敗北が確定し、たとえ成功してもそれだけでは勝利が確定しない。チームとしての戦闘であったならば、絶対に用いない類の作戦だ。

 それでもトワは迷わなかった。覚悟を決めた。残った時間を稼ぐにはそれしかないと判断し、実行に移した。

 

(……ここ!)

 

 トワのARCUSが発光する。アーツの発動の合図ではない。アーツはまだ駆動中だ。トワが発動したのは、ARCUSだけが持っている特別な機能の方だった。

 

 ——次の瞬間、2人の間に線が繋がった。当人同士でしか感じ取ることのできない、不可視の閃光の線が。

 

「っ——!?」

 

 ツバキの動揺が伝わってきた。彼女の心の内が手に取るように分かる。慣れ親しんだ感覚だ。

 

 究極の連携を目的とした、言葉を交わさずにお互いの考えを感じ取れる機能。今のトワとツバキの間には、ARCUSによる戦術リンクが結ばれていた。

 

「な、なんですの……これ!?」

 

 明らかにツバキの動きが鈍くなる。きっと戦術リンクを使った経験がないのだろう。この感覚に慣れるまでにはそれなりの修練が必要だ。たとえばトワが試運転に参加したように。Ⅶ組が特別実習を行っているように。

 

 これこそがトワの秘策中の秘策。戦術リンクによる思考の先読みだった。トワはツバキがARCUSを持っているかもしれないというただ一点に賭け、戦術リンクを結ぶことを試みたのだ。

 

 どれほど相性が悪くても、一瞬くらいならば戦術リンクは繋がる。かつてのクロウとアンゼリカ、あるいはユーシスとマキアスがそうであったように。そして戦術リンクに関してはトワに一日の長があると確信していた。一瞬だけでも繋がれば、相手の思考を読むのは容易かった。

 

 ……もし、ツバキが使用しているのがエニグマⅡだったらそもそもリンクは繋がらず、不発に終わっていた。ツバキの攻撃に反応すらできず、そのまま敗北していただろう。

 だが、ツバキはARCUSを持っていた。トワは賭けに勝ったのだ。相手の動きさえ読めれば、激しい動きがとれない駆動中であっても攻撃を避けられるかもしれない。絶体絶命の状態から、微かながらも勝利の可能性を繋ぎ止めることに成功したのだ。

 

 リンクを通して伝わってくる。これからツバキが放とうとしている技のイメージが。必殺の奥義が描く薙刀の軌道が。

 

 ——直後、リンクが断絶した。元々すぐに切るつもりだったが、どうやら相当相性が悪かったようだ。とにかくこれで、トワの行動が読まれる心配はない。

 

(来るのは、威力重視の大振りの3連撃……!)

 

 トワが駆動中であるが為に、確実に倒し切る威力を持つ奥義を選んだみたいだ。先ほどと違い、防御を崩す為の攻撃は存在しなかった。好都合だ。威力重視であれば結果的に大振りになり、躱せる可能性が増す。

 

「くっ——!」

 

 奥義を読まれたことを理解したのか、ツバキは顔を歪ませる。だが今更止めることもできないだろう。そういうタイミングを狙ってリンクを繋いだのだから。

 無理に止めれば反動で多大な隙を晒し、アーツの発動を止められる可能性は消滅する。ゆえに、ツバキは真っ向から奥義を放つしかなかった。

 

——残り0.8秒。

 

「——豪爪牙!」

 

(来る……っ!)

 

 ——1撃目。下段からの鋭い斬り上げ。体を半身に反らす。僅かに反応が遅れ、切っ先が胸元を掠めた。ブローチや第1ボタンが弾け飛び、胸元が少し開く。

 

 ——2撃目。風を切り裂く轟音と共に切っ先が回転し、横薙ぎへと変化した。先読みしていたトワは屈んで避ける。それでも髪を纏めていたリボンが裂かれてしまったらしく、数瞬遅れて髪がふわりと舞った。

 

 ——残り0.3秒。アーツ発動間近のARCUSが発光を始める。

 

(3撃目は、上段からの振り下ろし……!)

 

 トワの先読みが正しい証拠に、切っ先は円運動で上段へと変化しようとしている。トワはそれに備えて動き出す。

 

「——っ、舐めるな!」

 

「え!?」

 

 魂を揺さぶるツバキの咆哮。——直後、薙刀の軌道がねじ曲がった。

 

 驚くべきことに、本来の奥義の型を完全に無視して強引に斬り返してきたのだ。体に相当な負担がかかる筈なのに、ツバキはその負担を執念でねじ伏せてきた。

 それはさながら、決められた運命に逆らうかのようであった。

 

 無理に軌道を変更した分、急所に当たるコースではない。だが虚を突かれたトワに躱す術がないのも事実だった。

 

 未だ十分な威力を保った砲弾のごとき一閃がトワの右肩に叩き込まれ、骨が砕けるような衝撃と共に旋風が舞った。

 

 

 

 

 奥義の急激な軌道変更のせいか、ツバキの手首の腱はミチミチと悲鳴を上げ、ナイフで滅多刺しにされたような痛みが走っていた。薙刀を握っていることですらつらい有様だ。1週間は、まともに薙刀を振るうことができないだろう。

 

 だがその甲斐あって、最後の1撃はトワの右肩に直撃した。無理な軌道修正で威力は半減したが奥義は奥義。トワのアーツ駆動を止めるのに十分すぎる。というより、加減する余裕がなかったのでもしかしたら骨にヒビを入れてしまったかもしれない。

 

(とにかく、これで…………ッ!?)

 

 ツバキは言葉を失った。まさか、ありえないと口が開きっぱなしになる。指先が、カタカタと震え出した。

 

 ——駆動は、解除されていなかった。トワは痛々しいほどに顔を歪め、その瞳に涙を浮かべていた。しかしその目は敗北を訴えておらず、闘志でみなぎっていた。

 

(気合いで耐えたというんですの……!? わたくしの、奥義を……!)

 

 常識的には不可能な真似だ。それだけアーツ駆動というのは繊細な集中力を要するのだ。人によってはナイフで浅く切られただけで駆動を解除してしまうくらいだ。

 そんなアーツ駆動を、トワは奥義を受けてもなお持続させてみせた。一体どうすればそんなことができるのか。

 

(……そう。そういうことですの。それが貴方の想い、ということですのね)

 

 ストン、と胸に落ちるように全てを理解した。彼女もまた、自分と同じだったのだ。

 究極的なまでの意地の張り合い。それを制したのが、トワだったというだけ。

 

 トワのARCUSが青白い光を放ち出す。アーツの発動の合図だ。

 

(見事でしたわ……トワ・ハーシェル)

 

 不思議と、悔しさはあまり感じなかった。それは、本来の実力の倍は発揮した上で上回られた結果ゆえかもしれない。天地創造を思わせるような大樹の暴虐の嵐に呑み込まれながら、ツバキの意識は消し飛ばされるのであった。

 

 

 

 

 上級アーツが直撃したツバキの体が宙を舞い、地面に転がり落ちた。今のところ、立ち上がる様子はない。……もっとも、ダウンを確認する必要はない。

 

「——場外。ツバキさんのいる場所は、定められた戦闘エリアの外にあたります」

 

 開始からずっと沈黙を保っていたリィンが静かに宣言する。その内容は、あらかじめ設定されていた敗北条件と一致していた。

 事実上の主審であるアンゼリカが頷く。直後、高らかに宣言した。

 

「——勝者、トワ・ハーシェル!」

 

 場が一斉に歓声で爆発した。耳鳴りがするくらいに、場が盛り上がる。

 そんな中、トワはまだ自身の状況をはっきりと認識できていなかった。

 

(……やった、の?)

 

 本当に、ツバキに勝ったのだろうか。捨て身の特攻に加え、奥義の型をねじ曲げるなんていう芸当を披露したあのツバキに。

 1度は気圧されてしまうほどの執念を見せつけたあのツバキに。

 

 だが、どれほど待っても判定が覆されることはなかった。観衆は、しきりにトワの勝利を祝福していた。

 

(そっか……勝ったんだ、わたし……!)

 

 ようやく、トワは自身が間違いなく勝利したのだということを実感する。心が昂り、喜びで満たされ始めた。

 それが最高潮に達したとき、トワの頬が自然と緩み始めた。今にも飛び上がりそうなくらいに興奮してきた。なんなら、この場で歌い始めてもいいとすら思った。

 

「やっ——ッ!?」

 

 ——だが、興奮も束の間のことであった。ふらり、と体勢が崩れる。

 

(あ、あれ……力が、突然……)

 

 勝利したことで緊張の糸が切れたのか、気力だけで支えていた四肢から力が抜けた。自身にはどうすることもできず、地面に倒れそうになった。

 

「トワ殿」

 

 それを、支えてくれる者がいた。逞しくて、温かい腕で体が包まれる。この感触は覚えている。1度だけ、生徒会室で経験していた。

 

「……ムネノリ君」

「お疲れ様でした。見事な戦いぶりでございました」

 

 ムネノリが微笑む。戦いの疲れが吹き飛んでしまいそうな、優しい笑みだった。そうだ。この笑顔をずっと見ていたくて、頑張ったのだった。

 

「えへへ……約束……守ったよ……」

「ええ、ちゃんと信じて見守っておりました。ありがとうございます」

 

 話している間にも徐々に意識が遠のく。今度こそ本当に限界を迎えてしまったのだろう。もっとムネノリと話していたいのに、抗えそうにない。どうやらムネノリもそれに気づいたようだ。

 

「まずはゆっくりとお休みになってください。話はそれからにしましょう」

「う……ん…………ありが、とう……」

 

 視界がゆっくりと黒と溶け合っていく。ムネノリに抱きかかえられたまま、トワは深い眠りへと落ちた。

 

 

 

 

 トワが目を覚ましたときには、空は夕焼けで染まっていた。ベッドの近くに開いたままのカーテンがあるのを見て、ここが医務室であると気づいた。どうやらベッドで寝かされていたようだ。服も清潔なものに着せ替えられていた。

 

「あら、ようやく目を覚ましましたの」

 

 隣から声が聞こえた。それは先ほどまで模擬戦の相手であった者の声。トワは顔を向ける。

 

「ツバキさん……」

「敬語は不要ですわ。ここはイズモではありませんし、そもそもわたくしが年下なのですから」

 

 ツバキはトワと同じく、ベッドで寝かされていたようだ。ただトワと違うのは、既にベッドに腰掛けられるくらいにまで回復しているということだろうか。

 まだ完全に回復したわけではないが、礼儀としてトワも上体だけは起こした。

 

「じゃあ……ツバキちゃん?」

「…………まあ、いいでしょう。わたくしが要請したことですし、文句は言いませんわ」

 

 呼び方に不満があったらしい。だが呼び捨てはさすがにどうなのかと思うトワは、結局はちゃん付けを続けることにした。

 

「えっと、ツバキちゃん……ベアトリクス教官は?」

「ここにいますよ」

 

 ふと疑問に思ったことを口にすると、すぐにペアトリクスが2人の前に姿を現した。

 

「全く、真剣勝負とはいえ2人とも無茶をしすぎです。特にハーシェルさん。生徒会の仕事だってやりすぎなくらいなのですから、もっと体を大事にしなさい。体にスペアはないんですよ?」

「う……申し訳ありません」

 

 完全にベアトリクスの言う通りだった。今になって思えば、無茶をしすぎた。その事実を突きつけられて、身が縮こまる思いだった。

 

 一方のツバキは謝りつつも、あまり反省しているようには見えなかった。ベアトリクスが本気で怒っているときの怖さを知らないからかもしれない。

 

「……まあ、幸い2人とも打撲までで済んでいます。今回は多めに見ましょう。ですがハーシェルさん、次はありませんからね」

「あはは、ありがとうございます」

 

 そうは言いつつも、きっと大怪我したらちゃんと診てくれるのだろう。その辺も汲んだ上でお礼を言う。

 

「さて、私は他の皆さんを呼んできますね。ちゃんとここで大人しくしてるんですよ」

 

 それだけ言い残したベアトリクスは医務室を去った。取り残された2人の間に、気まずいのとは少し違う、不思議な沈黙が漂う。

 

 先に口を開いたのは、ツバキの方だった。

 

「……お見事でした。わたくしの完敗ですわ。まさか万全を期す為に入手したARCUSを逆手に取られるとは思いませんでしたわ」

「……ううん。あれは偶々ツバキちゃんがARCUSを持っていたから上手くいっただけで、戦術的にはわたしの負けだったと思う。あそこまで捨て身で突進してくるなんて思わなかったし」

「謙遜は不要ですわ。その僅かな可能性に賭け、結果として貴方は勝利を掴んで見せた。それが全てですわ」

 

 ツバキのきっぱりとした物言いに、トワは言葉を止めた。これ以上無闇に弁解しても、相手に失礼だろうと感じた為だ。その代わり、ただ一言だけ返す。

 

「……ありがとう」

「よろしい。それこそが勝者の振る舞いというものですわ」

 

 毒気も敵意もない、透き通るような微笑みを携えるツバキ。相変わらず、女のトワですら見惚れるほど綺麗だった。

 

「……1つ確認ですわ。ムネノリ様には、まだ?」

 

 ドキリと胸が鳴る。数秒もしない内に体の芯が熱くなってきた。そうだ……自分は想いを自覚したのだった。模擬戦の間は気にならなかったが、いざそれを意識すると恥ずかしくなってきた。

 

「その様子だとまだのようですわね」

「ぅ……だって、さっき自覚したばかりだし、言う暇もなかったから……」

「言い訳はいりません。まったく、このわたくしから勝利をもぎ取ったのですから堂々となさい。さっさと伝えてしまいなさいな」

「う、うん……」

 

 それは分かっている。分かっているが、それで顔が熱くなるのを止められるわけではない。否応なしに鼓動が速まるのを感じた。暑くもないのに手汗が滲んでくる。

 

「……さて、わたくしはそろそろ行きますわ」

 

 言いたいことは言った、と言わんばかりにツバキは立ち上がる。

 

「え、でもベアトリクス教官が……」

「別にわたくし、ここの所属ではありませんもの。お世話にはなりましたが、いつ出て行くかはわたくしの勝手ですわ」

 

 その理論はどうなのかと思った。そしてこのまま見送ってしまった場合、きっと怒られるのはトワの方だ。できれば止めて欲しかったが、多分止められないのだろうなと思った。

 

「さっきのお言葉、お忘れなきよう。でないとわたくし、側室くらいにはなってしまいますわよ?」

 

 退室直前、ツバキは振り返って悪戯っぽい笑みを浮かべた。側室……つまりは夫人ということだろう。さすがにそれは面白くない。

 

「む……そ、そんなこと、させないもん」

「ふふ、その調子ですわ。……では、ごきげんよう」

 

 その言葉を最後に、本当にツバキは部屋を出て行ってしまった。嵐みたいな人だな、と密かに思った。

 

 静けさが部屋に戻る。ツバキに煽られたせいか色々と考えてしまい、どうにも落ち着かない。

 自身の鼓動はますますうるさくなり、トクン、トクン、と鳴り響く。体はのぼせそうなくらいに熱かった。

 

(うん……ちゃんと、伝えないとだよね……)

 

 それが勝者の権利であり、義務だ。考えを整理したトワは心の準備をしようと深呼吸を始める。

 スー、ハー、と息を吸っては吐いていく。一向に気持ちが落ち着く気はしないが、やらないよりはマシだった。このまま続ければ、かなりよくなるだろう。

 だが、時間というのはせっかちらしく、トワが落ち着くのを待ってはくれなかった。

 

 ——コンコン、とノックが響いた。

 

「は、はい!?」

 

 ノックがしたということは、ベアトリクス教官ではない。体に緊張が走り、上ずった声で返事をする。

 

『トワ殿? 入ってもよろしいですか』

「〜〜っ!?」

 

 心臓が飛び出しそうだった。その呼び方をする人物は1人しかいない。あたふたと呂律が回らず、言葉になっているかも怪しい感じで入室を促した。幸い通じたようで、ドアが開く。

 

「トワ殿。お加減はいかがですか」

 

 案の定、ムネノリだった。逆光でもないのに彼の顔が眩しい。まともに直視できない。耐えきれず、俯いてしまった。

 

「う、うん、平気だよ……。その、他のみんなは?」

「あー、いや、その……実は1人で行ってこいと言われてしまいまして……」

「そ、そうなんだ」

(気を遣いすぎ、気を遣いすぎだよみんな……)

 

 頭を抱えたくなった。いくらなんでも急展開すぎる。もっとこう、他の人と挨拶を交わしつつ、それとなく2人きりにしてもらって……というのを考えていたのに、いきなりリハーサルなしの本番だった。

 なにを伝えるべきかは分かっている。だけど、どうやってそれを伝えればいいのかが全然分からなかった。言葉が喉元で詰まって、なかなか出てこない。

 

 ムネノリが近くの椅子に腰掛けたあとも沈黙が続く。あまりに静かなものだから、自身の鼓動がムネノリに聞こえてしまっているのではないかと気が気でなかった。チラチラと様子を窺うも、なにを考えているかはよく分からなかった。

 

 ……このままではいけない。いつ横槍が入るかも分からないのだ。トワはシーツをぎゅっと握った。

 

(よ、よーし! ツバキちゃんにだってああ言われたんだし、頑張らないと!)

 

 そもそもこちらが年長者だ。こういうのは、自分から切り出すのが筋というものだろう。意を決して、口を開く。

 

「「——あの!」」

 

 声が重なった。まるで示し合わせていたかのように綺麗に重なった。決意が揺らぐ。

 

「え、な、なに、ムネノリ君!?」

「あ、いや、トワ殿の方こそ!」

 

 互いに先手を譲り合う。しかし相手に譲ってばかりで、一向に会話が始まる気配がなかった。

 やがてそれが永遠に終わらなさそうだと感じたとき、どちらからともなく会話が止まった。

 

「いやー……はは」

「えへへ……」

 

 それが可笑しくて、互いに笑い合う。少しばかり、いつもの雑談のような雰囲気が戻ってきた。

 

 ……なんだか心が落ち着いてきた。今なら、ちゃんと言えそうだった。きちんと、ムネノリの顔を見る。

 

「……ねえ、ムネノリ君。わたし、まだちゃんとお返事してなかったよね。……聞いてもらっても、いいかな?」

「う、うむ……」

 

 険しい顔つきでムネノリが頷く。きっと、緊張しているのだろう。いざというときはとても頼りになるのに、随分と可愛らしい反応だと思う。そう思ってしまうこと自体、トワがムネノリを想っている証拠なのかもしれない。

 

 入学式からもう4ヶ月近く経っている。これだけの長い間、ずっと待っていてくれた。その誠意に応えるべく、トワはしっかりとした口調で告げた。

 

「——好きです。わたしも、ムネノリ君のことが大好きだよ」

 

 夕日が差し込む中、トワはついに想いを伝えた。心臓が心地よく弾む。胸がポカポカする。こうして口にすると、恥ずかしさもあるが、同時にとても幸せな気分だった。

 

 一方のムネノリは、顔が赤く染まっていた。それが夕日によるものだけじゃないと信じたい。

 

「ま、真で……ございますか」

 

 震えた声が返ってくる。トワは自信を持って頷いた。

 

「妃になったときの自分の気持ちがどうなってるかは分からない。でも、そんな先のことは関係ないの。今のわたしは、ムネノリ君のことが好きだよ」

 

 そういうことはいざそのときになったら考えればいい。今、トワはムネノリと恋人になりたいのだ。だから、想いを告げた。

 

 ムネノリの返事を待つ。元々がムネノリの求婚に対する返答なので、返事を待つというのもおかしいが、とにかく待つ。

 

 ムネノリはしばらく石のように固まっていた。なかなか復活しない。部屋の時計の秒針が何度も鳴る。そのまま1分が経ってしまいそうだった。

 

 少しばかり心配になってきたそのとき——ムネノリは全く身動きしないまま涙を流し始めた。ドキリ、と今までとは別の意味で胸が鳴った。

 

「うっ、ぐっ、うぅうう……っ!!」

「え、え!?」

 

 ムネノリは目に大粒の涙を浮かべ、ポロポロと頰から流れ落ちては床に水たまりを作っていた。声も完全に涙声になっている。

 トワはおろおろと、どうすればいいのか分からず狼狽える。

 

「ど、どうしたの……!?」

「嬉しいのでございます……! それ以外に、言葉が浮かびませぬ……! 他のどんな言葉で拙者の気持ちを表現しても、きっと陳腐に聞こえてしまいそうなくらいに嬉しいのでございます……!!」

 

 その間も、ムネノリはワンワンと子供のように泣いていた。どうやら、歓喜に震えていただけのようだった。心配していたような事態ではなかったことに、心底安堵する。

 

 随分と待たせてしまったのだと、今の彼を見て思った。きっと、心のどこかでは常に不安を抱えていたに違いない。もしかしたら断られる日が来るのではないか、と。

 自分は幸せ者だ。泣いて喜んでくれるほどに自分のことを想ってくれる人がいる。彼みたいな相手、きっと2度は出会えまい。

 

 トワはムネノリを安心させようと、彼の右手を両手で包んだ。手の甲をさすって、ムネノリを落ち着かせていく。

 

「ありがとう、待っててくれて。ありがとう、好きになってくれて。わたしも、とっても嬉しいよ」

「はい! はい……!! お約束、致します……! トワ殿を絶対に幸せにすると……! イズモでも絶対に守ってみせると……!」

 

 ムネノリの左手がトワの手の上に重ねられる。とても大きくて、力強くて……優しかった。しばらく、こうしていたい。

 もう言葉は必要ない。既に両想いなのだ。手から伝わる体温だけで十分だった。そのまま、2人は医務室でいつまでも寄り添い続けるのであった。

 

 

 こうして、2人は正式に恋仲となった。その知らせは翌日には学院中に広がり、多くの祝福の声と少数の男子の悲鳴で包まれることとなった。

 

 

 余談だが、トワたちが医務室にいる間、アンゼリカやクロウたち盗み聞き賛成派と、シノやリィンたち盗み聞き反対派の間で熾烈な争いが廊下で繰り広げられていたとかいなかったとか言われている。もちろん、トワとムネノリがそれを知ることはなかった。

 

 

 

 



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第11話 幕間 幸せな日々

<交際1日目>
<名前の呼び方>
<楽しい女子会>
<イズモの嫁入り修行>

上記4本。




<交際1日目>

 

 ツバキとの勝負に勝利し、トワとムネノリが晴れて恋仲となった翌日の放課後。2人はトリスタで一緒に過ごす約束をしていた。またの名を初デートと言う。待ち合わせはトールズの正門だ。

 

 どうやらHRが終わるのはトワが先だったらしく、まだ正門にムネノリの姿はなかった。カバンを抱えたまま、校舎に背を向ける形で待ち続ける。

 

(うう……なんだかドキドキする)

 

 こうして正門で待ち合わせするのは初めてではない。カフェでお茶をするときなどは、今と同じように正門に集まっていた。

 なのにどうしてなのだろう。妙に緊張する。髪型が気になってしまい、手鏡を使って何度も整える。まだなのだろうかと校舎の方を見ては、ムネノリの姿がないことに落胆と安堵を同時に覚える。

 

 恋人になったから、なのだろうか。そのことを意識するだけで鼓動が速まる。喉が乾き、暑さとは違う理由で汗が滲む。1秒1秒が、とても長く感じる。

 

(大丈夫、大丈夫……いつも通りにすれば、大丈夫だから……)

 

 深呼吸を繰り返す。数秒後にはまた緊張に呑み込まれるだろうが、少なくとも今は気持ちが落ち着いた。

 

 もう1度校舎の入り口を確認しようと思い、体ごと振り向いた。そして、それがいけなかった。

 

「おおう!?」

「わわ!?」

 

 驚きの声が2つ上がる。1人はトワ。そしてもう1人は待ち人のムネノリだった。いつの間にかすぐ近くまで来ていたようだ。不意打ちのように現れたムネノリに、トワの平静はいとも容易く吹き飛ばされた。

 

「お、驚かせてしまい申し訳ございませぬ! その、普通にお声をかけようとしただけでございまして! だ、断じてやましいことはなにも……!」

「う、うん、分かってるよ!? わたしの方こそごめんなさい! 急に振り向いちゃったりしちゃって……!」

 

 お互い、まるで喜劇に混ざっているかのように慌てふためく。血の巡りが速くなり、一瞬で胸の高鳴りが最高潮に達した。普通に挨拶ができるようにと頭の中で予行練習をしていたのに、全く意味がなかった。

 

 それから2人が落ち着くには、さらに数分を要したのだった。

 

 

 

「うう、いきなり失敗しちゃった。ごめんね、せっかく……その、初めてので、デート……なのに」

 

 語尾が消え入るように小さくなる。”デート”という単語を口にするのが意外と恥ずかしかったのだ。昨日出せた勇気は一体どこに行ってしまったのだろうかと思ってしまう。

 

「いえ、拙者の方こそ……」

 

 気まずい沈黙が流れる。混乱から立ち直りはしたものの、緊張までが消えたわけではなかった。それどころか、ますます強くなったと言える。

 

 カバンを抱えたまま自身の指を絡み合わせ、指同士をせわしなく動かす。視線は地面に固定されたままだ。

 ムネノリの様子を窺うことはできないが、なんとなく視線をこちらには向けていないような気はする。

 

 一向に状況がよくならない。このままだと、なにもしないまま日が落ちてしまいそうだ。そう思ったとき、思わぬところから助けが入った。

 

「はぁ、なにをされているのですか……」

 

 シノだった。久しぶりに音もなく現れた彼女は、呆れている様子を隠そうともせずにジト目をトワたちに向けていた。

 

「し、シノ……」

「せっかく気を遣って今日は隠れていましたのに、なんなんですかまったく……子供じゃないんですから、もっとしっかりしてください。ここは男の兄上がエスコートするところですよ。昨晩あれだけしつこく言い聞かせましたよね?」

「う、うむ……面目ない」

 

 うな垂れて12歳の妹に説教されるムネノリ。その言葉はトワに向けられたものではないが、どれも彼女の心にも突き刺さるものだった。深く、反省する。

 

 シノの説教が終わるころには、どんよりとした疲労感に包まれていた。

 

 

「……まあ、今日はここまでにしておきましょう。兄上、今度こそ義姉上をお願いしますよ」

「う、うむ! かしこまってでござる」

「その意気です。では、左のお手を。義姉上は右を」

「え? う、うん……」

 

 意図が理解できないまま、トワは言われるがままにおずおずと右手を差し出す。するとシノは2人の手を強引に引き寄せ、無理やり2人の手を繋げてしまった。しかも、いわゆる恋人繋ぎで。

 

 重なる手のひら、絡まる指。ムネノリの指に力が入るのが分かった。

 

「ふぇえ!?」

「な、な、なにを……!?」

「手間を取らせたことに対する罰です。トリスタでは可能な限りその状態で過ごすようにお願い申し上げます。……それでは」

 

 引き止める間もなくシノは姿を消してしまった。場に残ったのは、恋人らしく手を繋いだトワとムネノリだけだった。

 

(ど、どうしよう……!?)

 

 バクバクと心臓が震える。確かに、こうして手を繋げたのはうれしい。だが体が緊張で硬直してしまい、この先どうすればよいのか分からなくなった。

 ……もっとも、それはトワだけだったようだ。

 

「……そ、その、トワ殿」

「は、はい!?」

 

 思わず、敬語になってしまった。それを見たムネノリは、苦笑いを浮かべた。

 

「……そろそろ行きませぬか。夏なのでもうしばらく余裕はありますが、急がないと日が暮れてしまいます」

「あ……」

 

 繋いでいる手が、ぎゅっと握られた。暑さと緊張のせいか汗ばんでいたが、全然嫌じゃなかった。むしろ、こうして彼の大きな手で包まれていることに強い安心感を覚える。

 少しずつ、心の平穏が戻ってきた。体から余分な力が抜ける。

 

「……うん、行こっか」

 

 トワも握り返す。気持ちはしっかりと伝わったようで、ムネノリは顔を輝かせた。

 そうしてようやく、2人は坂を下り始めるのであった。

 

 トリスタではゆっくりと色々な店を見て回ったり、再びグランローズを贈ってもらったり、カフェでいつも通りお茶をしたりと、幸せな時間を過ごすことができた。

 初デートは、かろうじて成功であった。

 

 

 

 

<名前の呼び方>

 

 恋人になってから何日かが経ったときのことだった。その日はトワの自室で雑談に興じていたのだが、ふとした拍子にトワがあることをムネノリに聞いたのがきっかけだった。

 

「そういえばムネノリ君。ムネノリ君って普段は誰にでも”〜殿”って呼ぶのに、どうしてツバキちゃんのことは呼び捨てなの?」

「ああ、そのことでございますか。別に、大した話ではございませぬが……」

 

 特に隠すことでもなかったらしく、ムネノリはあっさりと教えてくれた。

 

 出会ったばかりのころは、ツバキのことも”ツバキ殿”と呼んでいたらしい。子供のころ、ツバキの父が彼女を連れて挨拶に来たのが出会いのきっかけらしく、それ自体は特別珍しいことではないようだ。実際、同じ時期には似たようなことが何度もあったとのことだ。

 

 ところが、親同士の仲がよかったことも手伝って、ムネノリの父はツバキのことを大層気に入ったらしい。それだけならばともかく、当のツバキもムネノリに本気になったらしく、かなりしつこく付きまとうようになったそうだ。

 

 そして初めて出会ってからツバキに呼び捨てで呼べと要請され続けること約10ヶ月、とうとうムネノリの方が折れたらしい。子供のころの10ヶ月など、永遠にも等しい時間だ。すごい忍耐力だなあ、と思うトワだった。

 

「まあ、そんなわけでツバキだけは呼び捨てで呼んでおります」

「へえ、そういうことだったんだ。…………ねえ、ムネノリ君」

 

 ……実のところ、ここまではトワにとってはただの前座だ。本題に入る為の前振り。ツバキの話もある程度は予想していたものだった。聞きたいのは、もっと別のことだ。

 

 トワはいよいよ本題を切り出す。普段よりやや低めの声で、ゆっくりと問いかける。ちょうどそのとき、ムネノリは紅茶の入ったカップに口をつけていた。

 

「——わたしのことは、呼び捨てで呼んでくれないのかな?」

「ッ!? ゴホッ、ゴホッ!!」

 

 案の定、ムネノリはむせる。同時に、彼が座っていた椅子がガタンと揺れ、顔が煮えたトマトのようになっていた。

 そして驚くべきことに、そんな様子のムネノリをトワが心配することは一切なかった。それどころか、半目で彼のことを軽く睨む。

 

 ……なんてことはない。つまり、トワは少しばかりヤキモチを焼いていたのだ。唯一ムネノリに呼び捨てにしてもらっているツバキに対して。

 なぜ恋人になった自分が呼び捨てではないのだと、不満だったのだ。

 

「そ、その、それは……ですな……」

 

 しどろもどろに言葉を濁すムネノリに対してトワは口でへの字を作る。確かにトワという人間はお人好しとだとか、無欲だとかよく言われる。だが彼女だって怒ることもあれば、嫉妬を抱くことだってある。これは、そんなトワから飛び出したささやかなわがままだった。

 

 ……だが、それでも根っこが変わるわけではないので、困った様子のムネノリを見ていたトワはすぐに態度を軟化させた。

 

「……ダメ、かな?」

 

 そしてついにはわがままを言っていることに対する申し訳なさが上回り、早くも謝罪モードに入ろうとしていた。

 それを見たムネノリは、慌てて立ち上がる。

 

「い、いや! そんなことはありませぬ! ……ごほん!」

 

 ムネノリは何度か咳払いをする。その後「あー、あー」と声の調子を確かめていた。もしや、呼び捨てで呼ぼうとしてくれているのだろうか。期待を胸に、トワはその瞬間を待ち続けた。

 

 そして、ついにムネノリの口が開く。

 

「と、と、と、トワ………………様」

 

 結果は大きな後退だった。赤の他人でも簡単に分かるくらいに、トワはあからさまに肩を落とす。

 

「……もう知らないもん」

「も、申し訳ございませぬ! こ、これは決して故意ではなく……! トワ殿が相手ですと言えなくなってしまうと言いますか!」

 

 ムネノリが弁解を続ける。その言い分自体は理解できるのだが、残念だと思う気持ちに変わりはなかった。ムネノリがトワを宥めようとするが、効果は薄い。トワは完全に拗ねてしまっていて、ムネノリから顔を背けていた。

 さながら、浮気のバレた夫とそれに怒った妻のような構図だった。

 

 ……ところが、ムネノリのとある一言で形勢が逆転する。

 

「——それにお言葉でございますが! トワ殿も拙者のことを”ムネノリ君”と呼称するではありませぬか! 拙者に呼び捨てを求めるのでございましたら、トワ殿もそれに倣うのが筋というものでは!?」

「え、ええっ!?」

 

 ムネノリの言葉に驚愕するものの、確かにムネノリの言う通りだと思った。相手にだけ求めて、自分はなんの対価も出さないのはフェアではない。ムネノリに呼び捨てにしてほしいなら、まずは自分から呼び捨てにしなければならない。

 

「えっと……む、む、むね……」

 

 ドクン、ドクン、ドクン。心臓が破裂しそうだ。トワは手のひらを胸に添え、大きく深呼吸をする。平常心だ。4文字、たった4文字言うだけだ。なにも難しくはない。

 

「ムネノリ………………さん」

 

 トワも後退してしまった。

 

「そら見たことですか! トワ殿だって言えないのではないですか!」

「うう……だ、だって……恥ずかしいんだもん……!」

「拙者も同じでございます!」

「で、でもムネノリ君はツバキちゃんのことはちゃんと言えてるでしょ!? わたしは今まで呼び捨てで名前を呼んだことなかったもん!」

 

 それを境に口論がヒートアップする。見方を変えれば、初めての痴話喧嘩とも言えた。

 口論開始から30分後、結局どちらも相手の名前を呼び捨てで言えなかったので、この件に関してはひとまず保留ということになった。

 

 

 密かに2人の様子を見守っていたシノは大きくため息を漏らすのであった。

 

 

 

 

<楽しい女子会>

 

 早いもので、ムネノリと恋人になってからもう1週間以上だった。具体的には帝都の夏至祭が終わり、もう間も無く夏季休暇が始まろうとしていたころのことだ。

 

 トワはいつものように生徒会の仕事が山積みで、前が見えなくなりそうなくらいに高く積み上げた書類を抱えて廊下を歩いていた。と言っても、ここまで仕事が溜まってしまうことは珍しい。そしてこれまた珍しいことに、その原因はトワ自身にあった。

 

 実は、最近は最低限の案件を片付けるばかりであまり仕事をしていなかったのだ。普段の彼女を知る者からすれば信じがたい出来事だが、それが事実だった。

 

 無理もない。ムネノリとトワは交際を始めたばかりなのだ。仕事人間のトワであっても、恋人との時間を優先したいと考えるのは自然なことだ。

 カフェで遅めのティータイムを楽しんだり、ムネノリの自室で静かに過ごしたり、一緒に夕飯を作って食べたり。内容自体は今までの延長のようなものだが、互いの心の距離が違った。より親密で甘い時間を過ごしていた。間違いなく、それらの時間は幸せだった。

 

 その幸せの代償が目の前で抱えている書類の山だった。覚悟はしていたものの、かなりの量だった。夏季休暇を丸々空ける為には、しばらくは仕事に専念するしかない。よってそれらを急いで処理すべく、トワは奔走していたのだった。

 

(えっと、この書類を確認したら整理して、必要なものにサインして……)

 

 廊下を早足で進みながら、仕事の流れを整理する。——そんなとき、急に横から現れた両腕がトワの抱えていた書類を取り上げてしまった。考え事をしていたせいで接近に全然気づかなかった。トワは顔を上げる。

 

「アンちゃん……?」

「やあ、トワ。随分たんまりと書類を抱え込んでいるみたいだったからね。少し手伝わせてもらうよ」

 

 横にいたのはアンゼリカだった。トワが運ぶのに苦労していた書類の束を軽々と抱えていた。さすが泰斗流を修めているだけはある。

 

「ありがとう、アンちゃん。でも全部は悪いよ。半分だけで大丈夫だよ」

「ふふ、なーに、これくらい平気さ。戦闘で装着する手甲の方が重いくらいだ」

 

 アンゼリカから半分だけでも書類を取り返そうとするが、するりと躱されてしまった。身長差のせいもあるが、泰斗流で鍛えられた体捌きが相手では、トワがどれだけ頑張っても書類に手が届かなかった。まるで雲を掴もうとしているかのようだった。

 

「……ほんとにいいの?」

 

 取り戻すことを諦めたトワは遠慮がちに問う。アンゼリカはすぐさま頷いた。

 

「もちろんだとも。任せてくれたまえ」

「……じゃあ、お願い。えへへ、ありがとう」

「どういたしまして。さあ、行こうか」

 

 2人並んで歩き出す。目的地はもちろん、生徒会室だ。現在は本校舎の2階なので、まずは下に降りてから中庭に出る必要があった。

 他愛のない会話を交わしながら歩き続ける。

 

「ところでトワ。少し話は変わるが、ムネノリ君とはどんな感じなのかな? そろそろ、熱い口付けでも交わしているころなんじゃないかい?」

「ふぇええ!? し、してない! まだそんなことしてないよ!!」

 

 ど直球で放り込まれた質問に肩を跳ね上げたトワは、かなりの大声で答えてしまった。心の準備ができていなかったせいか、羞恥で顔が熱くなってきた。

 

 一方のアンゼリカは、薄っすらと笑みを浮かべていた。その目はまるで、獲物を見つけたときの肉食獣かのようだった。

 

「なに、照れることはない。君と私の仲じゃないか。まあ、そういう初々しい反応もまた、君らしくていいとは思うがね」

 

 じりじりと近寄ってくる。アンゼリカから発せられる妙な迫力に、トワは「あはは」と乾いた笑みを浮かべながら後ろに下がる。

 

 なんとなく分かってきた。アンゼリカがなにを狙っているのかを。この場から早く逃げた方がいいと直感が告げる。でないと、厄介ごとに巻き込まれるぞと。

 ただ、その警告は少しばかり遅かったようだ。——両肩を後ろからがっちりと掴まれた。

 

「ふふ、逃がしませんよ会長。ちゃんと全部聞かせてもらいますから」

「ええ、その通りです。さすがにしばらくはお邪魔するわけにいきませんでしたが、そろそろ構いませんよね?」

 

 アリサとエマだった。面白いものを見つけたと言わんばかりに目を妖しく光らせ、口角を上げる。

 

「ちなみに逃げても無駄。会長の足じゃ私に勝てないから」

「……無礼は承知ですが、背後も固めさせていただいてます。ご観念を」

 

 そしていつの間に現れたのか、フィーがトワの正面を、背後でラウラが待機していた。これでⅦ組の女子までもが勢揃いだ。

 完全に包囲されてしまった。たらり、と背中に冷や汗が流れる。

 

「え、えっと……アリサちゃん、エマちゃん、ラウラちゃん、フィーちゃん? な、なんのことかな?」

「ムネノリとのことですよ。確かに、盗み聞きしようとしたのはよくなかったですよね。なら、直接お話しを伺えればなと思いまして」

「ええ。武人として恥ずべき行いでした。深く反省しております」

 

 なにやら不穏な単語が聞こえた。それを追求しようとしたが、フィーがそれを遮ってしまった。

 

「……スタングレネード交換してあげたし。ちゃんと対価が欲しい」

「え、フィーちゃん? 確かお菓子と交換でいいって……」

「それはスタングレネード自体の値段。取引してあげたことに対する対価がまだ」

「ええー!?」

 

 まるでクロウみたいな屁理屈だった。あるいは、この中の誰かにそう吹き込まれたのかもしれない。フィーはフィーで、トワとムネノリのことに興味津々なようだった。

 

「別に取って食いやしないさ。ただ、医務室でのこととか今までの蜜月の時間のこととか色々お話を聞かせてもらうだけさ」

 

 おそらくは主犯のアンゼリカが目の前に立つ。彼女が抱えている書類がトワに触れてしまうほどの近い距離だ。

 

「あ、あのね、アンちゃん……わたし、まだ生徒会の仕事が残ってて……」

 

 物理的に逃げるのは不可能。しかし、それでもなおトワは抵抗を試みる。実際、仕事をしないとまずいのも事実だ。

 ところが、アンゼリカはまるで予想通りとでも言うかのように笑うだけだった。

 

「心配無用だ。君以外の生徒会のメンバーとじっくり話し合ったところ、トワの分の仕事も請け負ってくれるそうだよ。これから話してもらう内容を一言一句違わず彼らに伝える代わりにね」

 

 トワの知らないところでがっつり裏切られていた。もはや、逃げ場はなかった。

 

「さあ、会長。楽しい”女子会”といきましょうか」

「お菓子もたくさんご用意しましたので、何時間でも大丈夫ですよ。うふふ……」

「うう……」

 

 こうして、第三学生寮に連行されたトワは、5人の姦しい乙女たちに根掘り葉掘り恋人としてのムネノリとのことを聞き出されるのであった。恥ずかしすぎて、いっそ死んでしまいたいとすら思った。

 

 6人中5人にとっての楽しい”女子会”のさなか、トワは裏切り者に絶対に”お説教”をしなければと固く誓うのであった。

 

 

 

 

<イズモの嫁入り修行>

 

 ムネノリとの交際を始めたのと同時に、トワはシノからある修行を課せられるようになった。今現在も、その修行の最中だ。

 トワは自室でシノの監督のもと、修行を進めていた。

 

 目の前の机には2つの小さな器が並べられていた。片方は山盛りのポップコーンが作れるほどのトウモロコシで満たされ、もう片方には5,6粒のトウモロコシが転がっている。

 

 トワの手には削られていない細い鉛筆のようなものが2本収められている。片端のみ先細くなっている。東方で”箸”と呼ばれる食器らしい。この2本の棒で食べ物を挟んで、口まで運ぶそうだ。カルバード共和国はもちろんのこと、クロスベルの一部でも浸透しているようだ。

 

 帝国人のトワはと言うと、明らかにその扱いに苦戦していた。慣れない手つきで箸を動かし、山から1粒摘む。プルプルと先を震えさせながら隣の器に移そうとする。

 

「あ……!」

 

 ところが力の入れ方を間違えたのか、箸が交差してトウモロコシがこぼれる。そのままテーブルから床へと落ちてしまった。シノがそれを拾う。

 

「失格です。また、最初からやりましょうか」

「うう……」

 

 これでもう5度目だ。シノはトワが5分以上をかけて移したなけなしのトウモロコシを山に戻してしまった。拾った粒も同様だ。あっという間に振り出しに戻ってしまった。

 

「お箸、すごく難しいね……。東方の人たちって、みんなお箸を使えるの?」

 

 鉛筆が使えるのだから箸だってすぐに使えるようになるだろうと最初は思っていたが、それは全くの勘違いだった。たった1本増えただけで、こんなに難しくなるとは。フォークがいかに扱いやすい食器であるかに今さら気づいた。

 

「もちろん地域差はあります。スプーンと併用する地域もありますし、素手で食べるのが文化の国も多いです。ただ、イズモは基本的に箸のみです」

「そうなんだ。すごいなあ……」

 

 トワはただただ感心するばかりだ。なんでも、トウモロコシのような小粒なものを器から器へと移す訓練はイズモでは幼少のころから行うらしい。

 19歳のトワがこんなにも四苦八苦しているのに、イズモではどんな子供であっても労せずできてしまうのだ。12歳のシノに指導されているのがその証拠だ。

 

「感心している場合ではございません。早く次を始めてください」

「う……はい」

 

 鬼教官と化したシノに従い、訓練を再開する。力を入れすぎず、かといって抜きすぎないようにしながら慎重に摘む。

 

 イズモの嫁入り修行。トワが課せられている修行はつまり、そういうことだ。

 箸の扱いを始めとした食事作法、その他の礼儀作法、茶道、華道、香道、楽器、踊り、詩……上流階級の人間であればあるほど、多くの教養や技能を身につける必要があるそうだ。その辺りは帝国の貴族と同じだ。

 

 問題は、トワがイズモの文化で育った人間じゃないということだ。嫁入り修行を行うにあたって身につけなければならないことがたくさんある。

 

 そして、その指導の役目を買って出たというか指導をすると言い出したのがシノだ。忍の訓練を受ける前は姫として育てられていた為、最低限の知識や技能は持っているらしい。

 

「義姉上のことはそう遠くない内に本国へ報告しなければなりません。その場合、年始年末の長期休暇に呼び出される可能性が高いです。名家の娘どもにやっかみを言われない為にも、きっちりと修得する必要があります」

 

 そういうことらしい。トワもそれについては同意だし、理由はどうあれイズモの文化を深く学ぶことができるのは嬉しい。それだけ、ムネノリへの理解も進むのだから。

 

 既に茶道や詩なども習い始めているが、そのいずれも大変興味深く、面白いものであった。料理もムネノリから教わっていて、イズモ料理のレパートリーを増やしているところだ。

 

 ただ……そんな中で、箸だけが異様に難しかった。

 

「あ……!」

 

 また失敗してしまった。これで6度目。こうも上手くいかないとさすがに気持ちが沈んでくる。

 

「……まあ、イズモの人間であっても最初はみんなそんなものです。ある瞬間からいきなりできるようになるので、諦めずに練習を続けましょう」

「シノちゃん……うん、ありがとう」

 

 シノに励まされ、「よーし」と気合いを入れ直す。

 

 もしこれがツバキに知られようものなら、『あーらハーシェルさん、貴方こんな基本的なこともできないんですの? せっかく身を引いて差し上げましたのに、わたくしの見込違いだったのでしょうか』なんて言われそうだ。仮にも勝者であるトワが、そんなことを言われるわけにはいかない。

 

 負けるものか、とトワは訓練は再開するのであった。もっとも、気合いを入れたからといって急激に上達するわけでもなく、完全に修得するのはもっと先のことであった。

 

 

 

 



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第12話 ミシュラム・ワンダー・ランド

 もうすぐトールズ士官学院は夏季休暇に入る。多忙な学院生活を送っているトールズの学院生たちにとっては、数少ない貴重な連休の時期だ。貴族限定ではあるものの、帰郷が許されるし、そうでなくとも外泊届などを利用すれば学院を離れてしばらく遊びに行くこともできる。

 

 《帝国解放戦線》を名乗るテロリストの出現という暗いニュースはあるものの、全体的には連休前特有の浮ついた空気だった。

 

 そして、本来ならばそれを注意する立場の筈の生徒会長、トワ・ハーシェルも例外ではなかった。

 

 

 

 

 夏季休暇開始の1週間前のことだ。第三学生寮のラウンジにて、サラは頭を抱えていた。原因は目の前に立っている小さな生徒会長様だ。

 

「……で、一体どういうことかしら?」

「えっと、なんのことでしょう?」

 

 サラの問いに対して、首を傾げる生徒会長ことトワ。それは見たサラは嘆息する。サラからすれば、トワがとぼけているようにしか見えなかったのだ。

 

「……昨日、ムネノリから夏季休暇の外泊届が提出されたわ。それも職員室ではなく、あんたみたいにこの場所でね。行き先はクロスベル。理由は”最新の導力技術を見て回りたい為”。留学の理由と一致してるし、護衛もついてるから別に問題ないわ」

 

 続けて、サラは手に持った書類を突きつける。たった今、トワから提出されたものだ。それはムネノリが出したのと同じく、外泊届だった。そして行き先は……クロスベルだった。

 

「あんたの理由は、”通商会議の随行団に参加するにあたって、現地の視察を行いたい為”。はっきり言って、ムネノリの理由よりよっぽどしっかりしてる。これなら、許可を出すのもやぶさかではないわ」

「ほんとですか!」

 

 トワの顔がぱっと明るくなる。しかしサラは「ただし!」と前置きする。

 

「ほんとにそれが理由ならの話よ! 行き先と外泊予定日どころか、泊まる予定の宿まで一致してるじゃない! それで理由だけが別々なんて、そんなことあるわけないでしょうが!」

「う……」

 

 トワがたじろぐ。そもそも、職員室ではなく第三学生寮まで渡しに来ている時点で不自然だ。やましいことがありますって口に出して言っているようなものだ。

 

 トワとムネノリが付き合っているのは周知の事実だ。その事実と今回の件を照らし合わせれば、2人がクロスベルに遊びに行こうとしているのは自明の理だ。

 というより、まるで偽装をする気がない偽装の仕方だ。生徒会長のトワならばもっと上手くやることもできた筈だ。

 良心の呵責ゆえなのかもしれぬが、自身のことが甘く見られている気がしてならない。行動の節々に、サラなら適当に見逃してくれるのではという魂胆が見え隠れする。

 

「とにかく、本当の目的を話しなさい。あんたらに協力するかしないかの話はそれからよ」

「その……ごめんなさい。でも、まったくの嘘ではないんです。帰る前に現地を色々と見て回ろうと思っているのは本当で……」

「そんなこと分かってるわ。あんたら2人とも真面目だからね。その辺りは信用しているわ。私が聞きたいのはメインイベントの方よ。いいから白状しなさい」

 

 回答を急かす。トワは顔を仄かに赤らめ、「えへへ」と照れ臭そうにはにかむ。見てるこっちが恥ずかしくなる。

 

「実は……2人でミシュラム・ワンダー・ランド(M・W・L)に行きたいなあ、と思ってまして……」

「却下」

「ええ!? な、なんでですか!?」

 

 あまりに素早い返答に驚いたのか、トワは目を白黒とさせながら理由を問う。だが仮にも士官学院生。いくら表向きの理由がしっかりしているとは言え、テーマパークできゃっきゃっ、うふふ、なんてふざけたことを認めるわけにはいかない。

 断じて、トワの幸せそうな表情にムカついたとか、2人がM・W・Lで遊んでいる光景を想像したら眩しすぎて目が灼けそうだったとか、そんな私怨的な理由ではない。

 

「お願いします! なんとかなりませんか!?」

「ならないわよ! 2人の申請は却下! とっとと帰りなさい!」

 

 しっ、しっ、と手を振ってトワを追い払おうとする。しかし、トワも簡単には引き下がらない。あーでもない、こーでもないと交渉が続く。サラは、一歩たりとも譲歩しなかった。私怨を抜きにしても、やはり教官としては認めがたかったからだ。

 

「うう……できれば、この手は使いたくなかったんですけど……」

「なに、力づくでもぎ取ろうって言うの? いいわよ、相手になってあげるわ。別にムネノリと2人がかりでもいいわよ」

 

 強硬手段の気配を感じたサラは敢えて挑発する。戦術リンク込みであっても、2人だけならばなんとかなる。

 しかし、トワは「いえ……」とサラの予想を否定すると、生徒会長らしい凛とした態度で告げる。

 

「……サラ教官の生徒会への依頼の件数、他の教官方の3倍はありますが、その点についてはどうお考えですか」

「な……!? あ、あんたまさか……!」

「はい。申請を許可していただけなかった場合、今後一切サラ教官からの依頼は受け付けませんので。もちろん、手伝ってもらってるリィン君にも強く言い聞かせておきます」

 

 方向性は違えど、間違いなく強行手段だった。仮にサラが生徒会からの支援を打ち切られた場合、完全に仕事がパンクしてしまう。

 

「ちょっと卑怯よ! 教官を脅すなんて!」

「……ごめんなさい。でも、どうしてもムネノリ君と一緒に行きたいんです。ちゃんと節度は守りますから……なんとかなりませんか」

「うぐぐ……」

(愛って怖いわね……この子にここまでさせるなんて。でも、どうしたものかしらね……)

 

 サラは悩む。悩みに悩む。今までと同じ快適な教官ライフか、地獄のデスクワークか。8:2くらいで不正を見逃す方向に傾いていたが、大人としての最低限の責任感がそれを思い留まらせる。

 

(……まあ、この子は絶対に大丈夫だと思うし、ムネノリも特別実習で男女同部屋に猛反対するくらいだし……信用してもいいかしらね)

 

 2人の気持ちも分からないでもない。外国ではあるものの、鉄道で日帰りが可能な距離である。帝都からの空の便もあるので、万が一のときがあってもすぐに駆けつけられる。

 

「一応確認するけど、宿の部屋は別室? 特別実習とはわけが違うから、同室は認めないわよ」

「はい、大丈夫です。ちゃんと別室です」

「……ならいいわ。夜になる前に宿に戻ること、それと裏通りには絶対に近づかないこと。この2点はちゃんと守ってちょうだい。クロスベルの裏の顔、知らないわけではないでしょう?」

 

 トワはコクリと頷く。随行団に同行する以上、彼女ならばクロスベルについての下調べも始めていることだろう。これだけ言っておけば大丈夫な筈だ。

 

「ああ、それと、なにかあったらあたしにちゃんと連絡すること。なんなら遊撃士協会のクロスベル支部であたしの名前を出してもいいわ。いいわね?」

「はい! サラ教官、ありがとうございます!」

(人のこと脅しておいてよく言うわよ、まったく……)

 

 そう口に出してしまいそうだったが、心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべるトワを見ていたらそんな気は失せてしまった。

 

(……若いっていいわね)

 

 今日はヤケ酒だな、とトワの幸せオーラに胸焼けを覚えながらこのあとの予定を決めるのであった。

 

 

 

 

 そしていよいよ、その日が来た。夏季休暇3日目。朝早くに駅前に集合したトワとムネノリは、早速列車に乗り込み、クロスベルへ向けて出発した。

 

 2人並んで仲良く席に座り、列車に揺られながら雑談に花を咲かせる。持ち込んだ菓子を一緒に食べたり、ブレードやトランプで遊んだりした。

 

 ケルディックを越え、双龍橋を渡り、ガレリア要塞を抜ける。そして国境を越えたその瞬間、多くの高層ビルが立ち並ぶ大きな街が見えてきた。その中でも1本だけ抜きん出て高く、青いシートに包まれたビルがあるのが印象的だ。

 

「あ! 見えてきたよ、ムネノリ君」

「みたいでございますな。あの異様に高い建物が、通商会議の会場と聞きましたが?」

「うん! オルキスタワーって言うんだって。もう完成はしてて、通商会議のときにお披露目になるみたい。今のところ、西ゼムリア大陸で1番高い建物なんだって」

「まあ、見るからにそうでしょうな……」

 

 確かに、とトワも同意する。クロスベルは近代に入ってから目覚ましい発展を遂げた、帝都などと比べれば非常に新しい都市だ。多くの建物が近代的なデザインで、帝国で言うラインフォルト本社みたいな高層ビルがたくさん建っている。

 それらの高層ビルが平凡に見えるほど、オルキスタワーは摩天楼とも言うべき高さを誇っていた。クロスベルの新たなシンボルとされるだけはある。

 

「しかし、トワ殿が通商会議に参加されることになるとは。議題こそイズモとは無縁でございましょうが、拙者も気になっていたところです。さすがでございますな」

「あはは、そんな大したものじゃないよ。参加すると言っても、どちらかと言うと勉強させてもらう立場だし、足を引っ張らないことの方が心配かなあ」

 

 トワが通商会議の帝国代表の随行団に参加するという話はアンゼリカたちはもちろんのこと、ムネノリにも伝えてある。言いふらすような話でもないが、別に隠すような話でもない。

 

「トワ殿でしたら大丈夫でございましょう。拙者もイズモでは少しばかり政務に携わっておりましたが、トワ殿の働きぶりは拙者よりもずっと上でございます」

「えへへ、ありがとう」

 

 そう言ってもらえるのは素直に嬉しかった。頰が自然と緩んでしまう。

 

『——間もなく、クロスベル市に到着致します。お降りになるお客様は……』

 

 アナウンスが車内に響き渡った。そろそろ到着するみたいだ。列車が緩やかに減速していく。

 

 トワとムネノリは忘れ物がないようにと荷物の確認を行いながら、到着を待つのであった。

 

 

 

 

 クロスベル駅に到着したトワたちは、先に宿のある東通りに向かい、荷物を預けてから港湾区の波止場へと移動した。ミシュラムには波止場から出る定期船で向かうらしい。IBC主導で運営されているらしく、なんと定期船の船賃は無料だった。

 

 ちなみに一緒ではないものの、シノも市内にはいるようだ。最初は一緒にどうかと誘ったのだが、『今回は遠慮しておきます。市内は帝都同様に通信が使えるそうなので、なにかあれば連絡してください。すぐに駆けつけられる場所におりますので』と断られてしまった。

 最近シノには気を遣わせてばかりだ。今度なにかお礼をしなければと思う。

 

 長い列に混ざりながら定期船を待つこと10分。汽笛と同時に船が姿を現した。ミシュラムが高級リゾートの側面も持つからか、船の内装は非常に豪華だった。

 普通の私服で来た自分たちは浮いているのではと心配してしまったが、自分たちと同じような格好の人たちもいっぱい乗っていた為、杞憂だった。ミシュラム目当ての観光客も多いのだろう。

 

 2階の船外から見える景色を楽しんでいると、最初は遠くにあったミシュラムの姿が徐々に鮮明になってくる。大きな城、観覧車、不気味な館など、アトラクションと思しき建物がたくさん見える。

 ワクワクがどんどん大きくなる。早く着かないかな、と子供みたいなことを考えてしまう。アトラクションについてはあらかじめ調べてあるし、絶対に行ってみたい場所にも印をつけてある。わざわざ朝早くにトリスタを出たのだ。回れるだけ回らなければならない。短い間に何度も何度もパンフレットを確認する。

 

「トワ殿、別にミシュラムは逃げませぬよ」

 

 苦笑いを浮かべたムネノリに諭される。心の内を見透かされたトワはドキリと肩を竦ませる。

 

「う……。やっぱり、分かっちゃう?」

「ええ、見るからにそわそわしておりましたので」

 

 恥ずかしい。浮かれていたのはバレバレだったようだ。帝都育ちゆえに夏至祭のようなお祭りには何度も参加したが、こういうテーマパークに行くのは初めてなのだ。どうしても気分が高揚してしまう。

 

「ムネノリ君は、こういうテーマパークに行ったことはあるの?」

「はい。規模はM・W・Lに及ぶべくもございませぬが、イズモには『桜屋敷』と呼ばれる小さなテーマパークがございまして。これが子供にはちょうどよくてですな、何度か行っておりました」

 

 なんでも、導力革命の10年後くらいにできた古いテーマパークらしく、イズモの建築様式をベースとした造りのようだ。

 

「そうなんだ、なんだか面白そう。そっちにも行ってみたいなあ」

「ええ、トワ殿がイズモにいらしたときにご案内しましょう」

 

 そうこうしている内に、到着のアナウンスが耳に入った。待ち望んでいる瞬間がもうすぐ訪れることに、トワは胸を踊らせるのであった。

 

 

 

 

 入場ゲートを潜る。次の瞬間、目の前に広がっていたのはエンターテイメントの聖地とも呼ぶべき華やかな世界だった。

 

「わぁああ……!」

 

 マスコットキャラのみっしぃを模した花のカーペットが2人を出迎え、踊り出したくなるほどに陽気な音楽が2人を歓迎する。

 ちょうどみっしぃが広場に来ていて、子供たちに好き放題に蹴られている。確か、そういうものなのだとパンフレットに書いてあった。

 楽しい絵本の世界。そう形容するしかないほどの素晴らしい場所だった。

 

「これは……すごいですな。『桜屋敷』など、遠く及びませぬ」

 

 テーマパークに行った経験のあるムネノリにとっても圧巻であったらしい。さすがは、天下のIBCが大量の予算を注いで設立したテーマパークということだろうか。

 

「ところで、トワ殿はよいのですか」

「よいって、なにが?」

 

 首を傾げると、ムネノリが意地の悪い笑みを浮かべる。その仕草はクロウそっくりだ。よく一緒に遊んでいるからか、色々と影響を受けているのかもしれない。

 ムネノリは、みっしぃの方を指差す。

 

「あそこにいるみっしぃでございます。あのように蹴るのが習わしなのでございますよね? 蹴ってこなくてよいのですか。トワ殿ならギリギリ混ざれるかと存じますが」

 

 つま先で蹴った。力の限り蹴った。みっしぃではなくムネノリの脛を。ムネノリが飛び上がる。

 

「あいつつつ!?」

「もう! そんなところまでクロウ君に似ないでよ! これでも気にしてるんだからね!?」

「も、申し訳ございませぬ!」

 

 ムネノリの謝罪に、トワは「よろしい」とそれを受け入れる。まあ、内容はともかく、こうして冗談やら軽口を言い合えるのは楽しいので、特に根に持つようなことはせず、水に流す。

 

「それよりも、そろそろ行こう? わたし、回りたいところいっぱいあるんだから!」

 

 トワは印をつけてあるパンフレットをムネノリに見せる。それを彼は「ふんふん」と興味深げに覗き込んでいたが、次第に表情を曇らせた。一体どうしたのだろうか。

 

「あの……トワ殿? 見たところ、ほぼ全ての場所に印がついているように見えますが?」

「うん、そうだよ?」

「さすがに、時間が厳しいのでは……」

「大丈夫! ちゃんと並ぶ時間とかも考えて計算してあるから! ここに書いてある通りに回ればギリギリ間に合うよ!」

 

 ムネノリの懸念にトワは明快な回答を返す。パンフレットとは別に手帳に記入しておいた今日のスケジュールを彼に見せる。M・W・Lに関するあらゆる情報を分析した上で何度もシミュレーションを重ねた完璧な計画表だ。ムネノリが心配するようなことは決して起こらない。

 

「そ、そうでございますか……」

「うん! ほら、最初はあっちのホラーコースターからだよ! 人気だから、空いている今の内に行かないと!」

 

 トワはムネノリの手を取り、ホラーコースターのある不気味な屋敷の方へと駆け出す。少し遅れるようにしてムネノリも追従する。

 

 楽しい1日の始まりだった。

 

 

 

 

 ホラーコースターを始めとした列が生まれやすいアトラクションを先に済ませたトワたちは、休憩も兼ねて鏡の城までやってきた。基本的には最上階を目指して歩くだけでいいようだ。途中、2つのスイッチを起動させないと開かない扉がある辺り、カップル向けを意識しているらしい。

 

「わぁ、リベールのお城みたい」

 

 幻想的な内装を見てそう思うトワであった。その城の中どころか、リベールに入国したことすらないが。

 

「トワ殿は、リベールに行ったことが?」

「ううん、ないよ。でもお城は写真で見たことはあるんだ。真っ白で、とっても素敵なの。……そういえば、ムネノリ君って最初は帝国かリベールかで迷ってたんだよね?」

「もしやシノから聞きましたか……まあ、そうですな。こと導力技術に関しては、リベールが頭抜けているようでございましたから」

 

 帝国人のトワとしては悔しいものの、それは一種の事実だろう。特に飛行艇の技術に関しては他国の追随を許さず、リベールが誇る《高速巡洋艦アルセイユ》は現在も世界最速記録の更新を続けている。通商会議の際も、リベールの代表団はアルセイユに乗って来るのではないかと言われている。

 

「ですが、今は帝国を選んでよかったと思っておりますぞ」

 

 ムネノリにぎゅっと手を握られる。言葉にせずとも、それで十分だった。トワは頬をほんのりと熱くしながら微笑んだ。

 

「えへへ……うん、ありがとう」

 

 その後、最上階まで上ったトワたちは、『いつまでも一緒にいられますように』と願いごとをするのであった。

 

 

 

 

 屋台で買った軽食で昼ごはん(一旦外に出てレストランで食べるムネノリの案は時間の都合で当然却下された)を済ませたあと、2人は占いの館を訪れた。

 

 女子というのは占いの類が好きなことが多いが、トワもご多分に漏れずその1人であった。しかも、最近入った占い師が百発百中と聞かされてしまえば、入らずにはいられなかった。

 

 並んでいる間、自然と話題は占いに関することが中心となった。

 

「占いでございますか。西ゼムリアでは、水晶球を使った占いが主流と聞きましたが?」

「他にもタロットカードとかが人気かなあ。東方は、また違うんだよね?」

「そうですなあ、東方と一口に言っても様々ですが、イズモでは陰陽道を用いた占いが採用されておりますな」

「陰陽道?」

「イズモで独自に発展した占術でございます。それを修めた者を陰陽師というのですが、中世では重用されていたと聞きます」

 

 占い師が昔は重宝されていたというのは、どこでも同じらしい。そういう視点で歴史を調べてみるというのも、案外面白いかもしれない。

 

「次の方、どうぞー」

 

 案内係に声をかけられる。どうやらトワたちの番のようだ。促されるまま、占いの館と呼称される天幕の中に入った。

 

 中は神秘的な雰囲気を保つ為か薄暗かった。そんな中で、正面で朧げに光る水晶球と揺らめくロウソクが印象的だった。

 

「いらっしゃい。さあ、こちらの席へ」

 

 女性と思しき声が響く。よく見ると、水晶球の奥に布で顔を隠した女性がいた。多分、この人が占い師なのだろう。すごい美人だと、トワは思った。

 

 トワたちは用意されていた椅子の腰掛ける。

 

「あら、可愛らしいお客さんね。そちらの殿方は、もしや……?」

「は、はい。えへへ、そんな……感じです」

 

 噂されるだけはある。一目でトワとムネノリの関係を見抜いてしまった。もっとも、この状況でそれを見抜けぬ者などいないということに、純粋なトワは気づけなかった。

 血液型を聞かれたのでそれを伝えると、占い師は頷く。

 

「さて、今日はなにについて占うのかしら?」

「えっと、ムネノリ君。どうしよっか」

「入りたいと希望したのはトワ殿ですし、トワ殿が占いたいことで構いませぬよ」

「ほんと? ありがとう、それじゃ甘えさせてもらうね」

 

 実は、聞きたいことはもう決まっている。昨日の時点で、とっくに決まっていた。

 

「じゃあ……その、わたしたちの今後のこととか……お願いします」

 

 照れで言葉を詰まらせながら占いの内容を伝える。天幕が暗いせいで占い師の表情はよく分からなかったが、なんとなくクスリと笑った気がした。

 

「わかったわ。それでは見てみるわね……」

 

 占い師は両手を水晶玉に向かって掲げ、そっと覗き込む。そのいかにも占いっぽい所作に、トワの乙女心はときめきっぱなしだった。

 

「そうね…………きっと、多くの困難が待ち受けているでしょうね。2人の関係を邪魔する者が、きっと現れるわ」

 

 ぎくり、と心臓が鳴る。きっと、イズモの妃になるにあたっての障害のことを言っているのだろう。半ば予想通りではあったが、こうしてしっかり宣言されると動揺してしまう。

 

「……だけど、貴方達ならきっと大丈夫ね」

「え……?」

「貴方達からは、互いへの強い信頼が感じ取れるわ。相手を信じて耐える心。それさえ持ち続けていれば、どんな困難も乗り越えられるわ」

「信じる心……」

 

 ARCUSの戦術リンクを繋ぐ上でも重視される部分だ。心の中でそれを反芻する。

 

「……ありがとうございました。心にしっかりと留めておきます」

「どういたしまして。またのお越しを」

 

 こうして、2人は占いの館をあとにするのであった。

 

 

 

 

 もうすぐ日が落ち始めようとしているころ、ムネノリたちは広場に並ぶ土産物などを確認していた。帰りの客で混み出す前に選んでおこうという魂胆だ。目の前を歩くトワが1つ1つ物色しては、ムネノリに確認する。

 

「うーん、シノちゃんはどんなのがいいかなあ?」

「あれで結構可愛いものが好きですからな。みっしぃ関連のグッズであれば喜びましょう」

「そうなると、みっしぃよりみーしぇの方がいいのかな……あ! 見て見て!」

 

 なにか見つけたのか、トワは小走りで近くの屋台に駆け寄る。どうやらみっしぃグッズを中心に揃えた店らしい。その中に並んでいるものからあるものを手に取る。

 

「このみーしぇの耳のカチューシャ! すっごい可愛いよね!?」

 

 ピンク色をした猫の耳のようなカチューシャが差し出される。それを受け取って角度を変えて観察してみる。確かに、可愛らしい意匠をしている。

 しかし、シノが着けているところは想像しづらい。もっとも、仮に贈れば誰もいないところでこっそり着けるのであろうが。

 

(待てよ? もしや……)

 

 ふと、あることを思いつく。ムネノリは、じっとトワの顔を眺める。おそらくは、いけそうだ。

 

「……? どうしたの?」

 

 トワはきょとんとした表情を返す。こちらの真意を見抜けていないのだろう。好都合である。

 ムネノリはトワの質問に答えることはなく——素早くカチューシャをトワの頭に装着した。

 

「え……?」

 

(おお……これは)

 

 みーしぇのふさふさの耳を生やしたトワが誕生する。——とてもよい。率直にそう思った。あざとさの塊だが、それもまたよい。

 

「……ふぇええ!?」

 

 やがてなにをされたのか気づいたのか、トワは顔をあっという間に赤面させ、目を丸くする。カチューシャを外そうと、その手が頭へと伸びた。

 

「——外してはいけませぬ!」

 

 トワを大声で静止する。雰囲気に呑まれたのか、「は、はい!」と気をつけの姿勢をとってくれた。

 

 ——すかさず、ムネノリは密かに用意してあった導力カメラを取り出し、パシャリと撮影した。

 

「ッ!? ちょっとムネノリ君! なにしてるの!」

 

 我に返ったトワがカメラに手を伸ばす。無論、渡すつもりのないムネノリは彼女の手を躱す。

 

「ご心配なさらずとも、この写真は誰にも見せませぬ! 後生大事に致しますぞ!」

「そもそもこの世に残しちゃだめなの〜っ!」

 

 ぴょん、ぴょん、とジャンプしてムネノリからカメラを取り上げようとするが、身長差が身長差だ。ムネノリが軽くカメラを上に持ち上げるだけで、トワでは絶対に届かない高さになる。

 そして、その跳ね回る姿もねこじゃらしを前にした猫のようでとても可愛らしかった。パシャパシャと連写する。

 

「う、うう……。む、ムネノリ君のいじわる……」

 

 しばらくして、カチューシャを外したトワは憔悴した様子で目を潤わせていた。頬染めと相まって、凄まじい破壊力だった。抱きしめたい衝動に駆られる。しかし、それは叶わなかった。トワが怒ってそっぽを向いてしまったからだ。

 

 その後、拗ねたトワはつーんと口を尖らせ、ムネノリが宥めても褒めても聞く耳を持ってくれなかった。彼女の無言の抗議は、少しずつムネノリの心に突き刺さっていく。

 

 やりすぎたと焦ったムネノリは、最終手段として多くの観光客がいる広場のど真ん中で完璧な土下座を披露し、見事トワの許しを得るのであった。その代わりものすごい勢いで休憩所まで引っ張られ、そこでアイスをごちそうする羽目になったが。ちなみに、カメラのことは有耶無耶になった。

 

 

 

 

「えへへ、楽しかったねー!」

「ええ、まったく」

 

 日が傾き、水面が夕日を反射してキラキラと輝く。ミシュラムだけではなく、クロスベル市全体が視界に収まる。そう、2人は1日の締めくくりとして観覧車に乗っていた。

 今はちょうど頂上辺りで、まるで飛行艇に乗っているかのような絶景が眼下に広がっていた。ムネノリにお願いして、カメラに何枚か収めてもらう。カチューシャのことは、今は保留だ。

 

 ゆらゆら、ゆったりと観覧車が回る。小さい車内に2人きり。まるで、世界に自分たち2人だけがいるかのような感覚。幸せいっぱいで、なにもせずとも笑みが漏れる。

 

「夜の部には花火もあるらしいですが、どうされますか」

「ううん、ミシュラムで部屋をとってるわけじゃないし、サラ教官にも夜は遊ばないって約束してるから。降りたら宿屋に戻ろっか」

「御意にございます」

 

 既に土産は購入してあるので問題はない。もっとも、土産に関しては明日もクロスベル市を見て回るつもりだが。

 

「しかし、トワ殿にクロスベルに行こうと誘われたときは驚きました。夏季休暇にどこか行きたいとは拙者も考えておりましたが、まさか帝国の外になるとは」

「あはは、あのときはごめんね? 急に言い出しちゃって。でも、年末年始の長期休暇はムネノリ君、イズモに戻らないとなんでしょ? わたしも今年度で卒業だし、この夏季休暇を逃したら当分一緒に来れないなって思って。だから、ちょっと思い切っちゃった」

 

 シノの話ではもしかしたらトワもムネノリの帰郷について行くことになるかもしれないらしいが、いずれにせよクロスベル行きは不可能だ。だからこそ、脅迫じみた手段を使ってでもクロスベル行きを実現させたかったのだ。

 

「ビーチの方がまだオープンしてなかったのは残念だけど、すごく楽しかったよ。ムネノリ君は、どうだった?」

「ええ、拙者も楽しませていただきました。明日の市内巡りだって楽しみでございます」

「……そっか。よかった」

 

 トワは未だシートがかけられたままのオルキスタワーの方へと目を向ける。思いを馳せるのは、今後のこと。

 

 西ゼムリア通商会議、それに関連したクロスベルとの国際問題、《帝国解放戦線》の出現、革新派と貴族派の対立、イズモでの自身の立ち位置。きっと、これから自分の周囲の状況は目まぐるしく移り変わる。それこそ、激動の時代と称されるかもしれないくらいに。

 

 その前に、確固たる思い出が欲しかったのだ。恋人としての幸せな思い出が。これさえあれば、きっと頑張れる。乗り越えられる。そう、思うから。

 

「……ムネノリ君」

「なんでございましょう?」

「また、来ようね。今度はビーチにも行きたいな」

「……ええ、そうでございますな。必ず、行きましょう」

 

 向かい合う互いの距離が縮む。観覧車が高度が少しずつ下がる中、2人の影がそっと溶け合うのであった。

 

 

 

 



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第13話 王太子の宿命

 夏季休暇を終え、トワとムネノリの新しい関係がひとまず落ち着いてきたころ、帝国より遥かに東に位置するイズモにおいて、ある異変が起こっていた。異変の中心地は王の住まう王城。木材や瓦、白の漆喰で構成された巨大な城だ。突然の事態に、城内は騒然となっていた。

 

 ムネノリには2つ下の弟がいる。名をトキノリと言い、兄が留学で国を空けている間の穴埋めを引き受けていた。体は兄と比べて頭1つ分小さく、剣の腕も劣るものの、内政に関する能力は群を抜いている。兄と同様に国や民を思い遣ることができる立派な人物で、ムネノリが安心して国を留守にできた理由の1つだ。

 

 そんなトキノリは、寝不足による頭痛に眉をひそめながら、城内の1室で医者からの報告を受けていた。部屋の周囲は信用できる忍で固め、明かりは最小限にし、正座で向かい合って小声で話す。

 

「……それで、父上の容態はどうだ?」

「芳しくありません。日に日に衰弱しております。言葉にするのは大変心苦しいのですが、このままでは、いずれ……」

「……そうか。いや、よく正直に申してくれた」

 

 無論、医者を責めるようなことはしない。変に誤魔化されるよりはずっと対応がしやすい。父親の危篤を知り、心が荒波のように揺れるものの、王族としての責任感でそれを抑え込む。

 

 王である父が突然倒れた。それが2日前のことだ。それまですこぶる元気であった王が倒れたことで城内は大混乱。徹底的な緘口令が敷かれたことで一般には知れ渡っていないが、それも時間の問題だろう。

 この緊急事態の対処の司令塔となっているのが、トキノリだった。

 

「父上と話はできそうか」

「難しいかと。今は昏睡状態が続いております。お目覚めになられたら連絡を差し上げることは可能でございますが、会話ができるかはそのときになるまで分かりません」

「……分かった。今日も遅くまでご苦労だった。部屋に戻るとよい」

 

 医者は一礼をし、退室した。足音が遠ざかったのを確認したトキノリは、鉛のように重苦しいため息をついた。

 

「……誰ぞある」

「ここに」

 

 周辺に控えていた忍の1人が姿を現す。

 

「……毒を盛られた可能性はいかほどか」

「毒味役を中心に調査を進めている途中でございますが、濃厚かと」

 

 やはりそうか、と思うトキノリであった。イズモにとって、最悪の事態である。

 

「……そうなると、家老や諸侯の中に裏切り者がいるのだろう。探せ」

「御意」

「ああ、それと、出立の用意をしてくれ。表はしばらく影武者に任せる」

「承知致しました。行き先はどちらに……?」

「まずはツバキ殿のところだな。それを終えたら——」

 

 ——兄上を迎えに行く。そうはっきりと告げるのであった。

 

 

 

 

 8月18日。ミリアムとクロウが編入するというサプライズはあったものの、Ⅶ組は概ね平穏な日常を送っていた。この時期は貴族生徒は領土運営を学ぶという名目で帰郷が許されているものの、Ⅶ組の中で帰郷した者はいなかった。

 それは貴族どころか王族であるムネノリも同様だ。そもそも、トワと恋人になってまだ約1ヶ月。なりたてのころと比べれば落ち着いたが、それでもまだまだ可能な限り一緒にいたいと思う時期だ。2人の関係はシノを経由して本国へ知らせてあることもあり、帰るつもりはなかった。

 

 ……事態が動いたのは、午後の帝国史の授業中のことだった。突然教室にノックが響き渡った。

 

「はい、どうぞ〜」

 

 授業を担当しているトマスが応じると、扉が開く。扉の向こうから現れたのは、教頭のハインリッヒだった。

 

「おほん。すまないね、授業の邪魔をしてしまって……」

「いえいえ〜。なにか御用でしょうか」

「あーいや、君にではなく、ムネノリ・タナカ君に用があるのだ」

「拙者でございますか」

 

 指名されたムネノリが返事をすると、ハインリッヒは「そうだ」と頷きを返す。

 

「イズモからお客様がいらっしゃっている。至急、会議室までついて来たまえ。緊急ゆえ、授業は公欠扱いとするので心配は無用だ」

「はぁ……かしこまりました」

 

 またツバキだろうか、と疑問を抱えながらもムネノリは立ち上がる。ついでに編入初日にも関わらず居眠りをしているクロウの頭に消しゴムを投げつける。「いてっ!?」という声が聞こえたが無視して退室した。

 

 ハインリッヒの後ろをついて行くこと数分、会議室に到着する。ハインリッヒは扉の前に立ち、体をムネノリの方に向ける。ちなみに身長はムネノリの方が高いので、彼がハインリッヒを見下ろす形となる。

 

「先方の要望で私は中には入らん。職員室にいるので、終わったら連絡するように」

 

 そう言い残すと、ハインリッヒはその場を去ってしまった。入れ替わりのように、シノがその場に現れる。彼女はハンドサインで耳を貸すよう求めたので、それに応じる。

 

(……会議室の周辺が精鋭の忍小隊で固められています)

(なに? それは真か?)

(はい。護衛としては過剰戦力です。おそらくは盗聴を警戒した布陣。はっきり言って、ただごとではありません)

 

 シノの言う通りだ。秘密裏にとは言え、他国でここまで警戒するあたり、相当重要な話に違いない。ムネノリは警戒心を一段階引き上げる。

 シノは姿を消さずに、そのまま側に控える。万が一のことを考えて、すぐに動ける位置に陣取っているのだろう。

 

 意を決して、扉をノックする。『どうぞ』という声が返ってきた。その声には心当たりがあった。シノと顔を見合わせる。様子を見る限り、彼女も覚えがあるようだ。扉の向こうにいる人物の正体を確信する。

 

 ムネノリは扉を開いた。そして扉の向こうにいたのは、予想通りの人物だった。

 

「……久しいな、兄上。シノも元気そうでなによりだ」

「トキノリ……!」

 

 弟のトキノリだった。まさかこんなところで会うことになるとは思わなかった。4ヶ月ぶりの再会だった。嬉しさのあまり、ムネノリはトキノリの両肩をポンポンと叩く。

 

「おお、少し背が伸びたのではないか!? 顔立ちも、ちょっとばかり立派になったな!」

「兄上が国を空けてから多忙の毎日だったからな。多少は成長するさ」

 

 そう言って苦笑いを浮かべるトキノリの目元には隈が浮かんでいた。ここのところ、あまり寝ていないようだ。おそらく、今回の訪問と無関係ではないだろう。

 

「しかし、シノの話では随分と警戒しているようだが、なにかあったのでござるか」

「さすがにシノは気づくか。……話すと長くなる。とりあえず座ってくれ。イズモの茶葉を持ってきたんだ。シノ、頼めるか」

「はい、かしこまりました」

 

 シノが茶葉をトキノリから受け取り、会議室に備え付けの器具を使って用意を始める。ムネノリとトキノリは席に着く。

 

「さて、なにから話したものか……。とにかく、心して聞いてくれ」

 

 トキノリは肘を己の膝を乗せ、両手を組みながら、ぽつぽつと語り始めた。そして彼の口からもたらされた情報は、ムネノリを驚かせるのに必要十分だった。

 

 

 

「……なんたる、ことだ」

 

 声が、震える。大声を出さなかったのが奇跡と思えるほど、衝撃的な話だった。胸にポッカリと穴が空き、真っ暗闇に迷い込んでしまった気分だ。シノも同じようで、瞳をグラグラと揺らしながら顔を真っ青にしていた。声を出さぬのは、忍ゆえだろう。

 

 父が危篤。しかも、昏睡状態が続いている。それだけでも重大な事態なのに、加えてなにかしらの陰謀が働いているかもしれないという懸念。最悪の場合、戦が発生しかねない国家の一大事だ。

 

「犯人は分かっているのか」

 

 それでもムネノリは動揺をなんとか胸の内に仕舞い込み、表向きは毅然とした態度を作る。それこそが王族の義務だと父に教えられた通りに。

 

「絞れたが、いずれの者も行方不明だ。あるいは、もう消されたのやも知れぬ。今は家老や諸侯の身辺を調査中だ。途中経過となるが、怪しい家がいくつかある」

「もうそこまで進展しているか。さすがトキノリだな」

「嬉しい言葉だが、実は他にも悪い知らせがある。……周辺諸国も、なにやら妙な動きを見せている。軍事演習などを理由に、戦力が移動を続けている」

「ッ!? それは、つまり……」

 

 そこまで言われて分からぬムネノリではない。それら2つの情報から導き出される最悪の可能性は1つだけだ。

 

「ああ、内乱どころか、周囲の国家全てが同時に襲いかかってくるかもしれぬ。理由は……まあ、東方でまだ生きている土地が欲しいのだろうな」

 

 トキノリの言葉にムネノリは同意する。要は、東方における生存競争が始まろうとしているのだ。

 

 イズモは荒廃が進む東方の中で数少ない、その影響をほとんど受けていないとされている国だ。実際はイズモも影響を受けているのだが、それも微々たるもの。砂漠化が進行している国からすれば熟れた果実のようにしか見えないだろう。

 

 生き残る為には国を捨て移住するか、未だ豊かな土地を奪うしかない。周辺諸国は、後者を選択したかもしれないということだ。

 

「王が倒れれば、少なからず国は混乱する。王太子の兄上も不在。そして拙者は、戦はあまり得意でない。仕掛けるには、絶好の機会だろうな」

 

 内通者が現れたのは保身か、権力欲か。陰謀が真実であれば、そんなところだろう。

 

「……イズモの防備はどうなっている?」

「山岳地帯の要塞に兵を詰めてある。仮に今すぐに戦が発生しても、簡単には突破されない」

 

 イズモは国境が山岳で埋め尽くされており、加えて要塞も築いている。戦力も基本的には防衛に特化しているので、防衛体制を固めていれば並大抵の攻撃は跳ね返す。

 

 だが、それは国内の指揮系統が安定していればの話だ。内乱が発生した場合、その守りは容易に崩れ得る。

 

 指導者が必要だ。倒れた王の代わりに国をまとめ、内通者を捕らえ、戦に備えられる人物が。そしてそれこそが、トキノリが秘密裏に帝国までやって来た理由だろう。

 

「……ヴァンダイク学院長に話をしに行かなければな」

「兄上……! では……!」

「うむ。留学を切り上げ、至急イズモに戻ろう」

 

 ムネノリは迷わず決断する。それこそが王太子としての務めだ。この留学にしても、元々国の将来の危機に備えてのものだ。場合によっては王位を継ぐ必要もあるかもしれないほどの危機。未だ必要とする知識は得られていないものの、優先順位が変わった以上はやむを得ない。

 

「お主は先にイズモに戻り、危機に備えろ。拙者も準備が整い次第、すぐに発つ」

「どれくらいになりそうだ?」

「そうだな……さすがに今すぐは失礼であるし、不審に思われるだろう。父が病であることを理由にして……自由行動日がある4日後くらいが妥当であろう」

「4日後……ならイズモに戻るのは5日後くらいだな。承知した」

 

 それからも、取り急ぎ今後の危機対策案を詰めていく。互いに若いとは言え、既に政務に携わっている身。その上、ムネノリはトールズでの生活を通して多くの新しい知識を取り込んでいる。案が煮詰まるのにそう時間はかからなかった。

 

 一方で、その間ムネノリは頭の片隅で常にトワとのことを考えていた。他国の人間とは言え、彼女はムネノリの恋人であり、事実上の婚約者だ。今日にでも話をする必要があるだろう。

 

(年末年始にお越しいただくのは、諦めた方がいいでござるな……)

 

 懸念が当たってしまった場合、そのころには戦はとっくに始まっている。さすがにそんな状況で呼ぶわけにはいかない。

 

 事態が落ち着くまで数年はかかるだろう。それまでずっと待たせてしまう恐れがあるのだ。トワならば、きっと待っていてくれるという信頼に基づく確信はある。だが、それに甘えて何年も待たせるわけにはいかない。その辺りも含めて、きっちりと話し合わなければならない。

 

 ——ところが、そんなムネノリの算段はトキノリの次の一言で崩壊することとなる。

 

「ああ、そうだ。状況が状況だからな、既に正妻となっていただく方も決めてある。顔合わせの為に帝都のホテルに滞在されているから出立前に合流してくれ。簡易にだが、帰国後に式も執り行う」

「………………は?」

 

 カチリ、と脳のあらゆる思考回路が停止した。

 

 ……今、トキノリはなんと言った? 正室と言ったような気がするが、聞き間違えだろうか。というより、聞き間違えの筈だ。なぜならば、ムネノリは既にトワのことを知らせている。トキノリがそれを知らないわけがない。

 

「お相手はトクカワ家のアヤメ殿だ。最初はツバキ殿に話を持って行ったのだが、きっぱりと断られてしまってな。理由を尋ねても『約束だから』の一点張りで……妙よな、あんなに兄上にこだわってたのに……」

 

 トクカワ家。財力こそマツナガ家に及ばないものの、王家と同じルーツを持つ由緒ある家系だ。四大名門で言うカイエン公の立ち位置にあたり、名家としては最大級の勢力だ。政治的な理由を考慮すれば、妻として最もふさわしいとすら言えるだろう。

 

 だが、そんなことムネノリにとってはどうでもよかった。問題は、先ほどの言葉が聞き間違えでなかったということだ。

 

 まるでトワの存在などなかったかのように淡々と話を進めるトキノリ。沸々と、腹の奥から煮え立つものを感じる。拳を握り、痛いくらいに爪を食い込ませる。

 

「出立のときにアヤメ殿と少し話をしたが、とてもお淑やかで綺麗な方だったぞ。きっと兄上とも上手くやって——」

「——拙者が正室として選んだのはトワ殿だ! 文でもそう伝えた筈だ!! 忘れたのか!?」

 

 立ち上がり、声を張り上げる。窓ガラスが震え、カタカタと音が鳴った。しん、とその場が静まり返る。真夏の日差しで熱された会議室の熱がジリジリと肌を焼き、汗が滲む。

 

 ……トキノリはと言うと、しばらくは目を丸くしていたものの、すぐに呆れた様子で片眉を上げ、盛大なため息をついた。その態度がさらにムネノリの神経を逆撫でした。

 

「その態度はなんでござるか!?」

「……あのなあ、兄上。そのトワ殿とやらのことは確かに聞いている。だが、今の状況で彼女を正室に迎え入れる利点がないだろう?」

「利点……利点だと? トキノリ貴様、トワ殿のことを損得勘定で考えているのか!?」

「当たり前だろう。今のイズモを纏めるのに力のある家の支援は不可欠だ。トクカワ家の娘を正室に据える恩恵を考えれば、トワ殿では力不足だ」

 

 帝国人かつ平民のトワと、代々続くイズモの名門トクカワ家の娘であるアヤメ。妻にした場合、どちらがより大きな影響力を持つかなど、一目瞭然だ。トワがろうそくの火だとしたら、アヤメは山一帯を焼き尽くす業火のようなものだ。

 そんなこと、少し考えればすぐに分かることではないか。トキノリはそう言いたげな表情だった。 

 

 ムネノリは唇を噛む。彼とてそんなことは分かっているのだ。ただ、感情がそれを許容できないというだけで。

 トキノリはその能力が政務に特化しているせいか、ムネノリと比べて合理主義的な側面が強い。思い遣りの心は無論ある。だが、必要とあれば切り捨てることもできる。今回の意見の食い違いも、それに端を発したものだった。

 

「兄上、分かってくれ。これが最善なんだ」

「ぐっ……! いや、だが、拙者はトワ殿を……!」

 

 遠い異国の地でようやく見つけた、大切な人。いつまでも守ると約束した、最も愛しい人。桜のように美しいあの笑顔。

 それを、諦める。正式な妻とすることができなくなる。そんなこと……認められなかった。

 

 正室と側室が一般的だった時代とは違う。正室にならないというのは、一般的な意味での妻になれないのと同義だ。そんなこと、交際を始めたばかりのムネノリには耐え難い事実だった。

 

「——やはりダメだ! 正室の話は受けられん!」

「兄上、なにを言うか!? 国が残るかどうかの瀬戸際かもしれぬのだぞ!?」

「アヤメ殿を迎えずとも、拙者の力でイズモを守ってみせる! 心配無用だ! とにかく、お主は早く城に戻れ! いいな!? 行くぞ、シノ!」

 

 これ以上の口論は無駄だし、時間がないのも事実。ムネノリは強引に話を打ち切って、ズンズンと扉に向かう。

 

「待て兄上! シノ! お主も兄上になにか言ってくれ!」

「……申し訳ありません、トキ兄上。私が義姉と認められるのは、トワ様だけです」

 

 ムネノリを説得することを諦めたらしいトキノリはシノに援護を求める。だが無意味だった。シノは完全にトワの味方のようで、すぐさま断っていた。

 

 ムネノリはシノと共に廊下に出ると、バァン! と扉を力任せに閉じるのであった。

 

 

 

 

「くっ……兄上、シノ。一体どうしたと言うのだ……」

 

 1人会議室に取り残されたトキノリは散々な結果に毒づく。まさか、アヤメを迎えることを拒絶されるとは思わなかったのだ。

 

 ムネノリは常にイズモの行く末を案じており、留学のきっかけもそれに由来するものだ。女に言い寄られることに辟易していたムネノリが現地の娘と交際を始めたと聞いたときは驚いたが、それでも国の為ならばアヤメを優先してくれると思っていたのだ。

 それは、自分なりに国に貢献することを考えて忍になったシノも同様だと思っていた。信じていた。

 

 それが結果はどうだ。2人ともトワ殿、トワ殿と、取りつく島もなかった。このままでは、非常にまずい。

 

(いくら兄上でも、1人で今のイズモを纏めるのは無理だ……。民を安心させる為にも、力のある家との縁を持つのは必要不可欠)

 

 いずれは王のことは民にも知れ渡る。そのとき、王家はまだまだ安泰だから心配はないと内外にアピールする必要があるのだ。その手段の1つが、王太子であるムネノリが正室を持つこと。

 他国の平民と、イズモ有数の名家の娘。民から見たとき、どちらがより安心するは明白だ。

 

 ムネノリより政治感覚に優れるトキノリは確信している。ムネノリには、ツバキやアヤメのような者との結婚が絶対に必要だということを。なんとかして、実現させなければならない。

 

(……トワ殿と言ったか。確か、この学院の生徒会長という話だったな)

 

 手紙に書かれていた情報を思い出す。写真も同封されていたので顔も分かる。トキノリを案内したハインリッヒに掛け合えば、なんとかなるだろう。

 

(将を射んと欲すれば……というやつだな。気は進まぬが、やむを得ん)

 

 トキノリも彼なりに、イズモの為にと覚悟を決める。

 そうしてトキノリは、再び会議室にやって来たハインリッヒに、ある頼みごとをするのであった。

 

 

 

 

 放課後。HRを終えたムネノリは早速生徒会室に向かう。理由はもちろん、トワに会って帰国の話をする為だ。

 

 表向きの理由は既にヴァンダイクとハインリッヒに伝えてある。事情が事情なので、特に揉めることなく留学の中断は受け入れられた。今ごろ、帝国政府にも連絡が行っていることだろう。学院生たちには明日、HRなどを通して伝えられる予定だ。

 

(トワ殿には申し訳ないことになってしまったな。出立前に、どこかで纏まった時間がとれるとよいが……)

 

 交際1ヶ月にして、離れ離れになることが確定してしまった。埋め合わせになるかは分からないが、せめて最後にどこかで2人きりで過ごしたい。なにより、ムネノリ自身がそうしたかった。言うまでもなく、この突然の別れにムネノリの胸は張り裂けそうだった。

 

 生徒会室の扉が見えてくる。この4ヶ月で何度も出入りした、慣れ親しんだ場所だ。留学生という事情もあって生徒会入りは遠慮していたが、紛れもなくムネノリはその一員だった。トワと最も多くの交流を重ねた場所で、会う度に互いの心の距離は縮まった。

 

(ここに来れるのも残り数回か。名残惜しいな……)

 

 イズモにとっての緊急事態にも関わらず、ムネノリの心は落ち着いていた。そうあるべしと心がけているからでもあるが、なによりもトワの存在が大きかった。

 トワがいれば、なんだってできる。頑張れる。乗り越えられる。どんな困難も、必ず解決して堂々とトワを迎え入れてみせる。そんな風に、自然と心が奮い立つのだ。

 

 扉の前にたどり着く。いつも通りコンコンとノックをすると、『……どうぞ』という言葉が返ってくる。ムネノリは遠慮なく入室する。

 

「っ!? む、ムネノリ君……」

「お疲れ様です、トワ殿。……どうされました?」

「ううん。なんでも、ないよ……」

 

 ムネノリの入室にやけに驚いた様子だったが、どうしたのだろうか。そう思うも、答えは出なかったので頭の片隅に追いやった。

 

「それで……どうしたの?」

「……実は、お話しておきたいことがございまして」

 

 決意が揺らがぬ内に話を切り出す。これを伝えるのは、学院生の中ではトワが最初となる。さすがに陰謀が働いているかもしれないという秘匿情報を明かすことはできないが、話せるだけ話すつもりではいる。

 

 ——話すつもり、だった。

 

「……アヤメさんのこと?」

「なっ……!?」

 

 だが、トワから発せられた思いもよらぬ言葉に頭が真っ白になった。

 

 なぜ、彼女がその名を知っている。そんなこと、ムネノリの口から漏らしたことは1度もない筈だ。なにせ、ムネノリだって先ほどまでその名を知らなかったのだから。

 加えて、ヴァンダイクに説明した表向きの理由の中にもアヤメの名は登場しない。もし、トワに彼女の名を知る機会があるとしたら、それは……。

 

(っ!? ま、まさか……!?)

 

 脳裏に弟のトキノリの顔が浮かぶ。信じたくない可能性。その一方で、それしかないとムネノリの冷静な部分が真実を告げる。

 

 ……背筋に嫌な汗が流れる。まるで、既になにかが手遅れになっているような感覚。料理をオーブンに入れて加熱を始めたあとに、致命的な失敗に気づいてしまったときに似た恐ろしさ。

 

「と、トワ殿……? その、もしや……」

「うん…………聞いたよ、全部。トキノリ様から」

 

 絶句。ムネノリは、言語機能を失ったかのように呆然とするのであった。

 

 ……知られてしまった。恋人であるトワに、トキノリが勝手に決めた正室のアヤメのことを。まさか、彼がそこまでやるとは思っていなかった。完全な不意打ちだった。

 

「っ……ぁ……ちが」

 

 なにか、言わなければならない。だが、すぐには言葉にならなかった。どのように言えばトワを傷つけないかを考えすぎるあまり、言い淀んでしまう。

 

 真夏にも関わらず寒気がする。動悸で息が苦しい。急速に喉が乾く。足元が、どんどん暗くなるかのようだった。

 

「えっと、その……えへへ。最初、聞いたときはびっくりしちゃった。ムネノリ君、弟さんがいるなんて全然教えてくれなかったもん。目元とか、すごいそっくりだよね」

 

 いつも通りのような、それでいて少し早口な調子でトワは言葉を紡ぐ。その笑顔は、少しばかりぎこちない。

 

「事情はちゃんと聞いてるよ。アヤメさんと結婚しないと、イズモが危ないんだよね? なら、仕方ないと思うな。アヤメさんのこと、帝都で待たせてるんでしょ? できるだけ早く準備して、迎えに行ってあげないとだね」

 

 ……違う。そうではない。トワの口から聞きたいのは、そんな言葉じゃない。

 

「わたしのことは全然気にしなくていいからね? そもそも、わたしみたいな庶民が王妃様になるなんてのが、無理のあるお話だったんだから」

 

 トワの口数が増え、どんどん早口になる。それでいて、声の勢いは比例して衰え続けているのが分かる。

 

「あ、それと、はいこれ。昔、シノちゃんにイズモのことを聞いてから、ずっと帝国の錬金術や精霊信仰について調べてたんだ。どこまで参考になるか分からないけど、持って行ってくれると嬉しいな」

 

 どさり、とバインダーで纏められた書類が机に大量に置かれる。普段のムネノリであれば垂涎ものの資料だが、今はそんなものどうでもよかった。

 

「わたしがイズモの為にできることはこれでおしまい。だから、だからね……もう、わたしとは——」

「——その先は言ってはいけませぬ!!」

 

 おぞましい言葉が告げられようとしたその瞬間、ムネノリはようやくショックから回復する。力の限り声を張り上げ、トワの言葉を止める。そのまま喋り出す隙を与えぬよう、ムネノリは立て続けにまくし立てる。

 

「アヤメ殿と結婚せずとも、イズモは必ずや守ってみせます! トワ殿のことも何年も待たせるつもりはありませぬ! ほんの1、2年で立て直してご覧に入れましょう!」

「……ムネノリ君、聞いて」

 

 聞かない。聞きたくない。

 

「トキノリになにを吹き込まれたのか存じませぬが、心配は無用でございます! イズモは攻めるに難く、守るに易い険しい山々で囲まれております! たとえ周囲の国全てが敵になったとしても、易々と追い返すことができまする!」

「……ねえ」

 

 無視する。トワに、話す機会を与えてはいけない。

 

「ですから、ですから……! トワ殿は安心してお待ち——」

「——聞いて!! ムネノリ君!!」

「ッ——!」

 

 悲鳴のような叫び声にムネノリの声がかき消される。今までに聞いたこともないような悲痛な響きに気圧され、黙らざるを得なかった。

 

「……あんまり、わがまま言っちゃダメだよ。多分、トキノリ様の仰っていることは本当だと思うんだ。イズモみたいな形の国を纏めるには、四大名門みたいな大きな家との縁が必要だと思う」

 

 学生ではあるものの、トールズの生徒会長を務め、ムネノリが認める政務能力を有するトワの意見に反論ができなかった。できる筈もない。ムネノリも、心の奥底ではそれを理解しているのだから。

 

「わたしじゃ、その役目は果たせない。アヤメさんとの結婚は、しないとダメだよ」

「……お待ちを……どうか、どうか…………」

 

 これからトワがなにを言おうとしているのかを、苦しいくらいに理解できてしまう。最も恐れている言葉を、言おうとしている。

 

 ムネノリは縋り付くような気持ちで必死に懇願する。しかし、その声に力はほとんどなかった。王太子としての使命に阻まれ、本当の気持ちが表に出せなくなっていく。

 

「だからね——」

 

 トワはまっすぐこちらを見る。その顔は、ムネノリを宥めるときに見せる、「しょうがないなあ」と言いたげな、なにかに困っているときのような笑顔だった。

 

 心臓が、潰れそうだ。その先を、言って欲しくない。やめてくれ、言わないでくれと心が悲鳴を上げる。ミシミシと心が軋む音がする。

 

 だが、トワは一瞬だけ言葉を止めたあと、躊躇なく言い放つのであった。

 

「——今日で終わりにしよう、むね……ううん…………終わりに、しましょう……殿下」

 

 無情にも決定的な一言が、下されるのであった。

 

 空が、今にも降り出しそうなくらいに真っ黒だった。

 

 

 

 

 



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第14話 壊れた関係

 トワがムネノリに別れ話を切り出す少し前。まだ授業が終わっていないころのことだ。

 

 トワは授業中にハインリッヒに呼び出され、会議室まで案内された。なんでも、イズモからのお客さんがトワと話をしたいのだそうだ。

 

 おそらくは、ムネノリの関係者だと思った。トワと話がしたいということは、ムネノリとの関係を知っているということだろう。それを知る為には、ムネノリかシノから聞くしかない。一応ツバキという線も考えられるが、彼女はあまりそういうことを言いふらすイメージはない。

 

 結論から言うと、トワの予想自体はあっていた。しかし、そのお客さんは予想以上の身分の御方だった。

 

 

 

 

「お初にお目にかかる。拙者、イズモの王子のトキノリと申す。兄のムネノリが世話になっている」

 

 まさかのムネノリの弟だった。継承権第2位。紛れもなく、イズモからの最上級のVIPだった。

 

 トワは最大限の礼をもって挨拶を交わす。トキノリは楽にしてくれと仰ったが、ムネノリとはこの場にいる事情が違う。譲歩した上で、「トキノリ様」と呼ぶこととした。

 

 トキノリはいきなりは本題に入らず、最初は他愛のない世間話を振ってきた。学院でのムネノリやシノの様子のことだ。トワが正直に、ムネノリが学院生活を満喫していることを伝えると、とても嬉しそうにしていた。

 

 話題は移り、ムネノリとトワの関係についても言及される。やはりというべきか、シノを経由したムネノリからの報告で2人の関係については知っていたらしい。ムネノリの弟に知られていたという事実がこそばゆく、トワは照れ笑いを浮かべた。

 

「そうか、トワ殿と兄上はクロスベルにも行ったのか。拙者もここに来るときに列車から見たが、大きな街だった。ただ、西方の街はまだ慣れなくてな。どれもこれも同じように見えてしまう」

「きっと、わたしたちから見た東方の街のように映っておられるのですね。なんとなくですが、分かります」

 

 和やかに会話が弾む。しかし、わざわざ授業中に呼んだのだ。これだけの筈がない。

 

 実際、その通りだった。いよいよ、本題へと入る気配を感じる。トキノリは穏やかな顔を引っ込め、眼光鋭く真剣な顔を浮かべる。その目元は、ムネノリそっくりだった。トワも同様に居住まいを正して心の準備をした。

 

「……まず最初に断っておくが、これからする話はそなたが兄上の恋人だから伝えるということを理解してくれ。兄上はともかくとして、決して他言は無用だ。よいな?」

「はい、かしこまりました」

 

 トワは力強く頷く。出会って間もないトワが示せる、精一杯の誠意だ。一応それはトキノリに伝わったらしく、彼も頷きを返した。

 

「では、伝えよう。拙者が帝国まで来た理由を。そなたを呼んだ理由を。実はな……」

 

 順序立てて、トキノリは話し始める。最初は真剣な顔で聞いていたトワですら驚きを隠せないほどの衝撃的な内容が彼の口から語られる。

 

 王が毒殺されそうで、今にも戦争が起きそうだという、イズモの現状を。

 

 

 

 

「イズモで、そんなことが……」

「ああ。正直、今でも信じたくはない。だが、事実なのだ。そしてそうである以上、対策を講じなければならない」

 

 淀みのない受け答え。ムネノリと同じく、彼もまた王族なのだなあと実感する振る舞いだった。

 

 トキノリから聞かされた話は、帝国人のトワとしても他人事ではいられない内容だった。現在の帝国も共和国との対立や、革新派と貴族派の確執、《帝国解放戦線》の出現など、内憂外患とも言える問題が山積みだった。

 

「先ほど兄上とお話した。その結果、兄上はイズモに戻る決断をなされた。出立は4日後とのことだ」

「っ!? そう、ですか……」

 

 一瞬胸が強く弾むも、トワは努めて平静に言葉を返した。ムネノリが帰国する必要があることは、朧げながらも理解できたからだ。

 

「すまぬな。まだ1ヶ月経つかどうかという時期に、こんな話を持ち込んでしまって」

「い、いえ! お気になさらないでください! これが仕方がないということなのは、分かっておりますので」

「そうか、かたじけない……」

 

 トキノリは深々と頭を下げる。そんなことをさせてしまっているのが申し訳なくて、トワは慌てて顔を上げるようにお願いした。ムネノリに負けず劣らずの実直さだった。

 

「……実は、もう1つ伝えねばならぬことがある。いや、頼みがあるのだが……聞いてくれるか」

「……? はい、わたしにできることでしたら」

「ああ、そなたにしかできぬことだ」

 

 トキノリの瞳がトワをがっちりと捉える。相当重要な話らしい。それも話の流れから察するに、今のイズモに関わる重大な事柄。

 イズモは恋人のムネノリの故郷だ。加えて、トワは生来のお人好しでもある。

 自分がイズモの助けになれるならば、助力を惜しむつもりはない。トワはそんな、強い決意を秘めていた。

 

 ——だがまさか、その決意の源泉が揺るがされる一言が飛び出してくるとは、夢にも思わなかった。

 

「兄上を説得してほしいのだ。アヤメ・トクカワ殿との縁談を承諾するようにと」

「……?」

 

 ……たった今、なにを頼まれたのかをトワはすぐには理解できなかった。1秒、2秒と沈黙が続く。

 

 少しずつ、少しずつ、何秒もかけてゆっくりと言葉の意味を消化していく。

 

(えっと……つまり……ムネノリ君がアヤメさんという方と…………え?)

 

 胃が素手で握られたかのように締め付けられる。胃酸が逆流しそうな感覚を押さえ込みつつも、トワの頭は混乱の極地に達した。

 

 待て、落ち着こうと己に言い聞かせる。今、自身が頼まれたのはムネノリを説得することだ。説得の目的は、彼がアヤメという人との縁談を受け入れるようにすること。そして、その話をムネノリの恋人であるトワに持ちかけている。

 

 …………つまり、暗に……………別れろ……という、ことなのだろうか。

 

「あの……トキノリ様、それは……」

「トクカワ家はイズモ有数の名家でな。誰が敵になるかも分からない今、確実に信頼の置けて、かつ強い力を持っている家との結びつきを強めたいのだ。その為の縁談だ」

 

 震えた声で発せられたトワの問いかけを無視してトキノリは話を進める。その声は平坦で、和やかに会話をしていたときの彼の面影は微塵もなかった。その二面性に、トワは心の奥底が冷えるような感じがした。

 

「無理を申しているのは分かっているつもりだ。それを承知の上で、どうかお願いできないだろうか。この縁談に、イズモの今後が関わってくるのだ」

 

 それは……なんとなくだが、理解できる。これでも政治に関しては色々と勉強してきたつもりだ。力の強い家が1つでも明確に味方をしていると内外に知らせれば、それだけで抑止力になるし、場合によっては他にも味方になる家も出てくるかもしれない。

 

 しかし……やはり簡単には頷けなかった。ようやく両想いになり、交際を始めてまだ1ヶ月。しかもシノの監督のもと、自分なりに嫁入りの準備のようなものも進めていた。トワとて真剣なのだ。

 

「トキノリ様。その……わたしには、そんなこと……」

「——どうかお願い申し上げる!! なにとぞ、なにとぞ!!」

 

 消極的な否定の返事をしようとしたそのとき、トキノリはそれを先読みしていたかのように動き出す。なんと、彼は椅子から飛び降りるようにして床に正座し、土下座の姿勢をとったのだ。その姿勢に乱れは存在せず、全身から研ぎ澄まされた誠意が醸し出される。

 

「えっ!? あ、お待ちください! そんなことなされないでください!」

「いいや、止めぬ! 拙者の頭で気が済むのならば、いくらでも下げようぞ!」

 

 イズモでは土下座は最大級の謝罪や懇願の意を伝えるときに用いられるそうだ。その国の王子であるトキノリに土下座をさせてしまっているという状況に慌てふためいたトワは、彼の側に跪いてなんとかして止めさせようとする。

 

 しかし、止まらない。どれだけ宥めて止める気配がない。トワが承諾するまで、てこでも動かぬという決意がひしひしと伝わる。

 

「もし望むのであれば、全てが済んだあと、拙者は腹を召そう! それでいかがだろうか!?」

「ダメ! ダメです、そんなこと! そんな簡単に命を捨てようとなさらないでください!」

 

 それどころか、ますます発言がエスカレートするだけだった。なぜイズモの人間はそんな簡単に腹を切ろうとするのか。もっと命を大事にしてほしい。

 

 そう思っていたのだが、次にトキノリから飛び出した発言にハッとさせられることになる。

 

「イズモを守るには、どうしても、どうしてもアヤメ殿との結婚は必要なのだ! それくらい、家同士の縁というものが強力なのだ! 拙者の命でイズモが守れるのなら、喜んで差し出す所存!」

「っ……!?」

(違う……命を粗末に扱ってるんじゃないんだ。それくらいの覚悟がいる事態なんだ……)

 

 文字通り、命がけでイズモを守ろうとしているのだと理解する。トキノリの発言1つ1つに、尋常ならざる重みを感じる。これが、王族というものなのだろうか。同時に、彼がイズモを深く愛しているのだと分かった。

 トワが帝国を大事に思っているのと同じだ。あるいは、それ以上なのかもしれない。

 

 また、トキノリの命がけの姿勢から、ムネノリとアヤメの結婚が成立しなければイズモが滅ぶかもしれないということを強く実感した。少なくとも、国が大きく荒れてしまうことは間違いないだろう。トワの想像以上に、家のつながりがイズモでは尊ばれているのだと理解させられた。

 

 つまり、今のトワは1つの国の運命を左右する立場にいる。恋人を渡したい渡したくないどころの話では済まないのだ。両肩に重石を乗せられたかのようだった。

 

(わたしが身を引けば、イズモが守れる……)

 

 自分とて真剣だと思っていた。しかし、それがおままごとに見えてくるくらいには重大さのスケールが違った。

 もし、自身のわがままを突き通した末にイズモが滅んでしまったら。きっと、トワは一生自分を許せないだろう。決して、取り返しのつかない失敗となる。

 

(ムネノリ君……)

 

 好きな人の故郷を守る。代わりに、その人は自分以外の女性と結ばれる。その光景を想像すると、ズキリと胸が痛む。

 

 だけど、しょうがない。そうするしかない。ムネノリと別れることとて胸が張り裂けそうだが、自身の選択でイズモが滅ぶかもしれない恐怖と比べれば……なんてことは、ない。

 

「……分かり、ました」

「ッ!? 真か!?」

 

 トキノリが顔を上げる。トワは「はい……」と肯定する。

 

「放課後……わたしの方からムネ……殿下に別れを切り出します。そうすれば、殿下も観念するかと存じます」

 

 とうとう、同意してしまった。ムネノリとの関係を終わらせることに。ムネノリが他の女の人と結ばれることを認めることに。胸の中心に、刃物が刺さったかのような激痛が走る。

 

「よく、決断してくれた……! すまぬ、つらい選択をさせてしまって。この償いは、いずれ必ず……!!」

「いえ、気にされないで、ください……わたしはイズモと殿下が無事でいられれば、それ以上は望みません」

 

 真っ赤な嘘だ。だけど、そう言うしかない。今すぐにでも「やっぱり無理です!」と叫びたい衝動を強引に抑えつけ、精一杯の愛想笑いを浮かべる。

 

 これが、最善だ。個人の欲が、大多数の命より優先されることはあってはならない。正しい選択を、した筈だ。

 そう己に言い聞かせる続けるも、トワの心が晴れることは一向になかった。

 

 そして、トワは約束した通りに、放課後の生徒会室でムネノリに別れを告げるのであった。

 

 

 

 

「……では、まだ生徒会の仕事が残っているので失礼します」

 

 自失呆然とし、完全に沈黙してしまったムネノリの姿に筆舌に尽くしがたい罪悪感を覚えるも、トワはいくつかの書類を抱えて生徒会室を飛び出す。事実、仕事は存在するのだが、それ以上にムネノリの顔を見ているのがつらかった。あの場に留まっていたら、前言を撤回してしまいそうだった。

 

 学生会館を出て、早歩きでその場から離れようとする。

 

「——義姉上!」

 

 すたり、とトワの行く手を阻むような形でシノが立ち塞がる。その瞳に涙を浮かばせ、眉間にしわを寄せている。どうやら、先ほどのやりとりを聞いていたようだ。

 

「……もう義姉じゃないよ、シノちゃん」

「そんなことありません! 私にとっての義姉は、義姉上だけです!」

 

 シノがブンブンと首を横に振る。その度に涙が周囲に撒き散らされ、夕日を反射して儚く輝く。

 

 これが、トワの選択の結果。自身よりずっと年下の女の子を泣かせてしまった。大の為に、小を切り捨てたのだ。心が揺さぶられる。だが、決意までは揺らがなかった。

 

「……ありがとう。でもやっぱりダメだよ。そんなの、アヤメさんに失礼だもん」

「っ、それは……! ですが!」

「……今までありがとう。帝都に一緒に遊びに行ったとき、とても楽しかったよ」

 

 シノの横を通り抜ける。今度は……邪魔されなかった。

 

 その代わり、通り抜ける瞬間に微かに聞こえたシノのすすり泣く声が、いつまでも耳にこびりつくのであった。

 

 

 

 

 ムネノリが留学を切り上げるという話は次の日、HRを通して学院生たちに伝えられた。留学の中断の理由は、王である父が体調を崩されたから。大事はないが、念の為にイズモに戻るという形となった。

 

 だが、それは真実ではない。そして、その真実を知る者は極めて少数。学院長であるヴァンダイクにすら伝えられていない。それを知っているのは、HRで告知された時点ではトワだけだ。

 

 そして、その人数は少しばかり増えることになる。その日の昼休み、ムネノリはミリアムを除くⅦ組の全員と、トワの親友であるジョルジュとアンゼリカを旧校舎の広場に集めた。ミリアムは昨日編入したばかりなのと、情報局出身ゆえに信用ができなかった。見張りはシノに任せてある。

 

 ムネノリは全員集まったのを確認したあと、自身が帰国する本当の理由を語った。戦争の危機であること、イズモを纏める為に政略結婚を行うこと、そして……トワとの関係が壊れてしまったこと。全て包み隠さず話した。

 

 それは、トワに知られた以上はアンゼリカたちにも伝えるべきだという義務感でもあるし、単純に己の心の内を1度吐き出してしまいたかったという自分勝手によるものでもある。

 

 最初はこの場にトワがいないことを疑問に思っていた一同も、話を終えるころにはその理由を理解する。その反応は様々だった。

 ムネノリの痛みに共感するかのように沈痛な面持ちを浮かべる者、腕を組んで目を閉じたまま神妙に沈黙を保つ者、涙を浮かべる者。本当に様々だった。

 

 そんな中、最初に口火を切ったのはマキアスだった。彼は怒っているような、それでいて悲しんでいるようにも見える複雑な表情をしていた。

 

「君は、本当にこれでいいのか!? これでは、ハーシェル会長があんまりにも……!」

「……やめておけ。リンクを繋がずとも、今のムネノリの心境くらい貴様にも分かるだろう」

 

 マキアスが感情のままに叫び出しそうとしたのを制したのはユーシスだった。冷静に諭されたマキアスは言葉に詰まり、「……すまない」と萎んだ声を返すのであった。

 

 マキアスは昔、貴族関連のゴタゴタで姉のように慕っていた従兄弟を失った過去がある。帝都での実習の際、本人から聞いたことだ。もしかしたら、今の状況がそのときと重なっているのかもしれない。

 

「……でも、こんな終わり方はあんまりよ。なにか、方法はないの!? もっと穏便に済ませられる方法は……!」

 

 アリサが叫ぶ。Ⅶ組の女性陣の心情を代弁しているらしく、エマたちも小さく頷くことで同意を示してしていた。恋愛方面で陰ながらムネノリを支えたり、トワから根掘り葉掘り2人のことを聞き出したりと、彼女らもムネノリの痛みが理解できてしまうくらいに強く関わってしまっていた。

 

「しかし……国の一大事ともなると、やはり……いや、すまない。忘れてくれ」

 

 ガイウスが途中で口を閉ざす。クロスベルほどではないにしろ、帝国と共和国の狭間で揺れているノルドの出身の彼はイズモの事情を理解できるのだろう。

 

「その、アヤメさんだっけ? その人との結婚は、本当に必要なの? 僕には、その理由がいまいち分かりづらいというか……」

「まあ、必要だろうな。帝国で言えば四大名門のいずれかを革新派の味方につけるようなものだ。その影響力は計り知れん。加えて言えば、世継ぎの問題もある」

 

 貴族社会に精通しているユーシスがエリオットの問いに答える。おそらくは、そう遠くない内にムネノリは玉座を継ぐ。その際、世継ぎが生まれれば民は安心する。そのお相手がイズモ屈指の名家出身であればなおさらだ。

 

「……なあ、ムネノリ。今日、トワ会長とは話したのか」

「いや……声をかけようとしても通商会議や生徒会の仕事を理由に逃げられてしまうのだ。言葉遣いも、戻してくださらぬ」

 

 普段のムネノリであれば考えられぬ、消え入りそうな声。それが今の彼の心情を物語っていた。問いかけたリィンもそれに釣られるように顔を曇らせた。

 

「ま、オレたちにできることはなんもねーよ。少なくとも、ここであーだこーだ言ったってなんの解決にもならんだろ」

「クロウ先輩! それは、そうかもしれませんが……!」

 

 見方によっては冷たいともドライともとれるクロウの反応にリィンは苦言を漏らす。だが、クロウの言い分にも一理あるのも事実だった。

 

「トワはイズモとムネノリを天秤にかけて、断腸の思いでイズモを選んだんだ。そこら辺をちゃんと汲んでやるべきだろ。オレたちも、ムネノリも」

 

 1つの国の存続に関わるかもしれない重大な決断。軽々しく個人が立ち入るべきではない。そう、言いたいのだろう。

 

 それはムネノリを含めて、この場の全員が理解していたようだ。水の中に閉じ込められたような、重苦しい沈黙に包まれるのであった。

 

 ——だからこそ、だろう。誰も気づくことはなかった。途中でアンゼリカがその場から忽然と姿を消していたことに。

 

 

 

 

 トワは昼休みにも関わらず、なにも食べていなかった。実を言うと朝食も飛ばしている。食欲が微塵も湧かないのだ。今日口にしたものと言えば、水を1杯だけだ。

 

 その代わり、トワは生徒会の仕事を淡々とこなしていた。本来はまだ期限に余裕があるタスクにまで手を出し、自ら多忙な状況を作り上げていた。普段であっても忙しくしている彼女だが、今はその倍は働いていた。

 

 ……そうすれば、余計なことを考えずに済むから。自分の決断の正否を問わなくていいから。悲しい思いを仕事の山で覆い隠すことができるから。

 

 トワが勝手に仕事を増やしているだけなので、当然他の生徒会のメンバーはいない。生徒会室にいるのは彼女だけだった。

 

 そんな状況に変化が現れるのは昼休みがもうすぐ終わろうとし、そろそろ教室に戻ろうかと考えていたころのことだった。

 ノックもなしに、いきなり扉が開いたのだった。心臓の鼓動が乱れる。もし扉の前から現れたのがムネノリだった場合、逃げ場がないからだ。

 

「やあ、トワ。やっぱりここにいたね」

 

 現れたのはアンゼリカだった。どういうわけか、彼女はトワがここにいることが分かっていたらしい。とりあえず、予想していた人物でなかったことに安堵する。

 

「アンちゃん、どうしたの? もうすぐ、お昼休みも終わっちゃうけど……」

「いやなに、ちょっと走りたい気分でね。よかったらトワもどうだい? ちょうどサイドカーも完成したから、後ろで掴まっている必要もない」

「え、でも、このあとわたしは授業があるし……というか、アンちゃんもでしょ?」

「私はあの男と違って単位はちゃんと取っているからね。いつも通り、問題はないさ。トワは言うまでもないだろ?」

 

 確かに、トワは毎日しっかりと全ての授業に出席している。仮に今日、残りの授業を欠席したところで卒業には些かの影響もない。

 

 しかし、そもそもちゃんと出席しているのはトワが真面目な優等生だからだ。単位が問題ないからと言って、堂々とサボるような人間ではない。

 実際、トワの返答は消極的だった。

 

「でも……ちゃんと授業は出なくちゃだし……」

「ふふ、なんなら私に無理に連れ出されたとでも後で言えばいい。ほら、そんなつまらない書類仕事なんて放って置いて行こうじゃないか」

「あ……! ちょっと……!」

 

 アンゼリカに腕を掴まれ、無理やり生徒会室から引っ張り出されてしまった。つんのめりそうになりながらも、どうにかアンゼリカの歩調に合わせる。

 

 結局、精神的に不安定だったこともあって、トワは状況に流されるようにサイドカーに乗ってしまい、アンゼリカの運転で街道に繰り出してしまった。

 

 

 

 

「ふふ、どうだいトワ? 私の後ろからではなく、正面から風を受け止める心地は?」

「……うん、気持ちいいよ」

 

 バイクのエンジンが唸りを上げる。見渡しのよい街道の景色が絵本のページのようにパラパラと過ぎ去ってゆく。バイクが走ることで生まれる強風に煽られ、後ろで結んである髪がたなびく。

 

 今の天気は曇りだ。日光は出ていない。しかし真夏の為、気温はそれなりに高い。じっとしてても少しずつ汗ばむ程度には暑い。それゆえ、体を駆け抜ける風はとても気持ちがよかった。その気持ちに嘘偽りはない。

 

 だが、その一方で完全には気が晴れないのも事実だった。心の奥にしこりが残っているかのように、どこか居心地の悪さを感じていた。

 

「ああ、トワと2人きりでツーリングとは、なんて幸せな時間なんだ。このまま帝都まで行ってしまおうか。久しぶりに新しい服でも見繕ってあげよう」

「ダメだよ、アンちゃん。せめて、次の授業までには戻らないと」

 

 アンゼリカの提案を間髪入れずに却下する。現在進行形で行われている授業はサボってしまったものの、やはり授業は受けないとダメである。少なくとも、トワはそう考えていた。

 

「どうしてもダメかい? 別に、今日くらい……」

「絶対にダメ! もうすぐ自由行動日なんだから、行くならそのとき……っ!」

 

 そこまで言って思い出す。ムネノリの出立の日が自由行動日である22日であったことに。思わぬ形でムネノリとのことを思い出してしまい、言葉に詰まってしまった。

 

「……そうだね。確か、もう少し先に休めそうな大きな木があった筈だ。そこで休憩したら、戻ろうか」

 

 トワが不自然に言葉を止めたことでなにか気を遣わせてしまったのだろう。アンゼリカはあっさりと方針の変更に応じてくれた。ここで追及してこなかったことに、密かに安心する。もっとも、仮に問い詰められたところで上手く説明できる気がしなかったが。

 

 アンゼリカが言っていた通り、しばらく走ると一際大きな木が見えてきた。その周辺は開けており、腰を下ろして一息つくにはちょうどよい場所だった。

 

 バイクの速度が徐々に緩んでいく。サイドカーが付くと重量が増すせいか、減速のタイミングは以前より早かった。

 

 大木の近くにバイクを停め、2人並んで根元に座り込む。相変わらず空模様はどんよりとしていたが、雨が降りそうという感じではなかった。それでも、早めに戻った方がいいのかもしれない。

 

「いやー、走った走った。ありがとう、トワ。いい気分転換になったよ」

「えっと、どういたしまして……でいいのかなあ?」

 

 トワは苦笑いを浮かべる。気分転換になったのは、トワも同じだ。少なくとも、生徒会室にいたときよりはマシになったと思う。

 

「でも、急にどうしたの? サイドカーのテスト自体は、もうジョルジュ君とやったんだよね?」

「ああ。まあ、そうだね。あのときは操作性の違いに苦労したものだが、今回は上手くできてよかったよ」

 

 どうやらもうコツを掴んだらしい。さすがだなと思うトワであった。

 

「それよりも、今回誘った理由だったね。——こういうことさ」

「えっ!?」

 

 突然のことだった。アンゼリカはトワを抱き寄せるようにして肩を掴む。それに驚く間もなく強引に引き寄せられ、トワは自身の顔をアンゼリカの胸元に押し付ける形になっていた。早い話が、彼女に抱き締められていた。

 

「ちょ、ちょっとアンちゃん!?」

「いいから、ほら」

 

 ポンポン、と背中を叩かられる。まるで子供のような扱いだ。いきなりどうしたのだと、戸惑いがトワの心の中に生まれる。

 

「——私は君の決断に対してなにか言うつもりはない」

「ッ!?」

 

 息を呑む。まさか、という思いだった。まさか、ムネノリとの間に起こったことを知っているのかと。アンゼリカの顔を見る。すると苦笑いを浮かべて「さっき、本人から聞いたのさ」と教えてくれた。

 

(あ……だから、ドライブに……)

 

 そして気づく。アンゼリカには全て見抜かれていたのだ。トワの葛藤や苦しみを。仕事に没頭することで無理やり悲しみを誤魔化していたことを。生徒会室に現れたのが、その証拠だ。

 我慢する必要はない。そう、言われているかのようだった。

 

「アンちゃん、わたし……わたし……!」

 

 堰にヒビが入ったかのように、少しずつ心が漏れる。あと少しのきっかけがあれば、完全に歯止めが効かなくなってしまうだろう。

 

「なにも言わなくていい。私にできることは少ないが、こうして胸を貸すくらいはできる」

 

 再度、背中を叩かれる。それが起爆剤となってしまった。目の奥がジンと熱くなった。

 

「う……ぐすっ……ひっく……ぁあ……!」

 

一度涙腺が緩んだら、もう止まらなかった。あっという間に視界が滲み、熱いものが頰を伝う。顔を見られたくなくて、アンゼリカの胸元へと埋める。涙で彼女の服が濡れてしまうが、文句を言わずに背中をさすってくれた。

 

「わたし、これでよかったのかな……っ!? もしわたしのせいでイズモがなくなっちゃったらと思ったら、怖くなっちゃって……!」

「そうだね、そりゃ怖いさ。何万もの命を左右するかもしれないのだから」

 

 アンゼリカはトワの決断を否定も肯定もせず、ただただ自身の気持ちに共感してくれる。みっともないと思いつつも、その優しさに甘えてしまう。どんどん心の内を吐き出してしまう。

 

 誰も見ていない街道のど真ん中だからか、嗚咽が押さえられない。子供のときみたいに、情けない声を出してしまう。

 

 これが、失恋の痛みなのだろうか。いや、そもそも失恋と形容するかでさえ定かでない。関係を終わらせたのは、トワの方からなのだから。

 いずれにせよ、トワは恋人を失った。今も大好きな恋人を。それもたったの1ヶ月でだ。そのダメージは計り知れなかった。

 

 イズモが滅ぶのが怖かった。結果的にムネノリを喪ってしまうかもしれないのが怖かった。でも、本当は別れたくない。ずっと、一緒にいたい。一緒にやりたいこと、行きたい場所はまだまだたくさんあった。できることならば、イズモにだってついていきたい。

 あらゆる感情が入り混じり、トワの頭の中で竜巻のようにグルグルと回る。

 

 世界が終わってしまったかのような気分だった。悲しみが洪水のように溢れて止まらない。1日だけとは言え、無理に我慢していた分その反動は凄まじかった。まるで涙が決して尽きぬのではないかと思えるほどだった。

 

 少しずつ曇り空が黒みがかっていく中、トワは全ての感情を涙で流し切るまで泣き続けた。結局、次の授業どころか、その日の残りの授業を全てサボってしまうのであった。

 

 

 

 



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第15話 それぞれの想い

 ムネノリが旧校舎で帰国の本当の理由を語っていたときのことだ。いつの間にかアンゼリカが姿を消していたことに驚きを覚える一同だったが、彼女が退室したことに唯一気づいていた者がいた。

 

 それはクロウだ。彼はアンゼリカが姿を消す直前、彼女と目配せを交わした。試運転を通して幾度も戦術リンクを繋いできたこともあり、仕草だけでも簡単な意思疎通ができるようになっていた。

 

 アンゼリカの目はこう語っていた。トワのことは引き受けるからムネノリを頼む、と。クロウは小さく頷くことで同意を示した。

 それからしばらくして、アンゼリカは音を立てずに旧校舎から出て行ったのだった。

 

 

 

 

 昼休みの終了が近づき、一同は自然と解散を始める。みんな、何かしらムネノリに対して気遣おうとしているのは顔を見ればわかる。

 しかし、かける言葉がないようで、後ろ髪引かれるようにムネノリの方へ最後まで視線を向けつつも、旧校舎を出て行くのであった。

 

 中に残っているのはクロウとムネノリだけだ。それを確認したクロウはすたすたとムネノリに歩み寄る。

 

「よっ、少し話さねーか、ムネノリ」

「クロウ殿……しかし、もうすぐ授業ですが……そもそも、単位が危ないからⅦ組の編入したのでは?」

「わーってるつーの。今回だけだよ。話が終わったらすぐに教室に戻りゃなんとかなるだろ」

 

 クロウは近くの段差に座ることを提案する。しばらくは悩んでいたムネノリだったが、結局はクロウの案に乗り、腰を下ろすのであった。

 時間もないので、早速本題へと入る。クロウは迷わず切り出した。

 

「さっきも似たようなことを言ったが……お前さんは分かってンだろ? トワの奴がどんな思いで決断したか」

「……もちろんです。拙者とイズモの為でございます」

「だな。そんで、それが最適解であることも分かってるわけだ」

「……うむ」

 

 ここまではただの事実確認。ムネノリが心中を吐露しやすくする為の考えの整理だ。

 

「そんじゃ、お前さんはどう思ってンだ? 今回の件について」

「どうもなにも……たった今クロウ殿が言われたではないですか。これが最適解だと。トキノリもトワ殿もそれが分かっていた。分かってなかったのは、拙者だけです」

 

 模範解答が返ってくる。だがクロウが聞きたいのはそういうことではない。

 

「ああ、悪ぃ。聞き方が悪かったな。そういうことじゃなくてな……いいとか悪いとか関係なしに、ムネノリがどう思っているのかを聞きてぇんだ」

 

 ムネノリが目を見開く。返答はすぐには返って来なかった。ムネノリが沈黙している間、クロウも黙って待ち続ける。しばらくすると、「そんなの、言うまでもありませぬ」とムネノリが口を開く。

 

「認められないに決まってるではないですか! それどころか、生涯をかけて守ると誓っておきながら、その相手に貧乏くじを引かせてしまう有様! 情けなくて、今すぐにでも腹を切ってお詫びしたいくらいです!」

「いや……別に腹は切んなくていいんじゃねーか」

 

 この4ヶ月の間、ムネノリが謝罪代わりに切腹しようとした回数は両手の指では足りない。誠意は伝わるかもしれないが、言われる側としては気が気でない。

 というか、少し前まで恋人だった男がいきなり目の前で腹を切って死んだら、それこそ生涯のトラウマとなるだろう。

 

「まあ、とにかく……お前はこの決定が嫌で嫌でしょうがねーわけだ」

「それはそうに決まっております! ですが……ですが! 拙者は王太子です! 個人の感情よりも、民を守ることを優先すべきです」

「本当にそうかぁ?」

「え……?」

 

 まさか否定されるとは思っていなかったのだろう。ムネノリは虚を突かれたかのように呆けた声を出した。理解が追いついていないであろうムネノリに対して、クロウは自分の考えを伝える。

 

「別に、正しいことだけをしなくちゃいけねー決まりなんてねーだろ。やりたいことをやるのも1つの選択じゃねーの?」

 

 大局的な視点で見れば正しかったとか、少数が犠牲になる代わりにより多くの人を救えるだとか、合理性に基づく選択というのはどうしても強力な説得力を持ってしまう。

 だが、短期的に見た場合、あるいは切り捨てられた少数から見た場合、それは必ずしも納得のいく選択というわけではない。人の心というのは、合理性だけで動くものではないからだ。

 

 それはクロウ自身がよく分かっている。なにせ彼もまた、自分が納得できないという理由だけで、そう遠くない内に帝国に混乱を巻き起こそうとしているのだから。

 それが正しいことではないと理解しつつも、個人の感情や矜持を優先したのだ。だからこそ、ムネノリを唆す。感情の赴くままに動いてもいいんじゃないかとささやく。

 

「いや、しかし、それではイズモの民が……!」

「ま、そうだな。何万もの命がかかってるもんな。別に国を捨てろとか言うつもりはねーよ。でもよ……なんでもかんでも合理的に判断したって疲れるだけだと思うぜ」

 

 よいしょ、と掛け声と共に立ち上がる。伝えるべきことは伝えた。あとはムネノリ次第だろう。別に、ムネノリに自分と同じ選択をしろと強要しているわけではないのだから。

 

「最終的に決めんのはお前さんだ。誰も文句は言わねーよ。ただ、ちょっとくらいはオレの言うことも考えといた方がいいと思うぜ。お前さん、ちょっと真面目過ぎるからな」

 

 それだけ言い残して、クロウは出口に向かう。出る直前にムネノリの様子をチラリと窺うと、真剣な面持ちでなにかを思い悩んでいるようだった。しばらく1人にしておいた方がよいだろう。

 

 クロウは旧校舎を出て教室に戻るのであった。結局、ムネノリが戻ってきたのは次の授業の終わりころだった。

 

 

 

 

 納得がいかない。こんな形で終わっていい筈がない。いや、終わってほしくない。それがシノの正直な気持ちだった。

 

 半ば外れているとは言え、シノも一応は王族。トキノリの言い分自体は理解できる。だが、納得できるかは別の問題だった。

 

 シノはトワのことが大好きだ。作ってくれるお菓子は美味しいし、とても優しくて気が回るし、可愛いし、お菓子は美味しいし、なによりもお菓子が美味しい。

 

 シノには血の繋がった姉はいない。だがトワのことは本当の姉のように慕っていた。本気で義理の姉になってほしいと思っていた。だからこそ”義姉上”と呼んでいたのだ。

 

 ただのわがままだということは分かっている。もしかしたら、結果的にイズモに大打撃を与えてしまうかもしれない。ついでに言えば、アヤメという人になにかしらの恨みがあるわけでもない。

 

 それでも、取り戻したかった。トワにはムネノリの側で笑っていてほしい。ずっとずっと、義姉上と呼び続けたいのだ。それが忍となって感情を閉ざすことを心掛けてきた、12歳の少女の唯一の願いだった。

 

(きっと……私は王族としても、忍としても失格。でも、それでもいい。もし戦になったら、私が他のみんなの何倍も働けばいい)

 

 だから、シノは動き出す。彼女が望む結末に少しでも近づくように、できる限りのことをする。

 

(まずは、アヤメ様にご挨拶。それと、ツバキ様にも相談を…………あれ? 導力通信ってどこまで行けば通る? もしかして、本国まで戻らないとダメ?)

 

 やるべきことを1つずつ確認し、その達成手段を整理していく。ずっとトワの側で仕事ぶりを見ていたせいか、スムーズに整理が進む。

 

 整理が終わったシノは早速行動に移る。帰国間近の為、教官たちはムネノリのことをそれとなく気にしてくれるだろう。それにもうすぐVIP待遇になるので、帝国正規軍からも護衛が出る。つまり、シノが側にいる必要はない。

 

 シノはムネノリに一言も告げることなく姿を消した。ムネノリが旧校舎から教室に戻る直前のことだった。一応、『先に本国に戻っています』と記した書き置きをムネノリの机に残してはおくのであった。

 

 

 

 

 トワとムネノリが秘密裏に別れてから3日が経過し、8月21日となった。

 

 出立は22日だが、妃となるアヤメとの顔合わせの為に21日……つまり今日の放課後にトリスタを発ち、帝都で1泊することになっている。夫婦となる為、部屋はアヤメと同室だ。

 そして22日の早朝に帝都の駅から列車に乗り、イズモへ向かう予定だ。早い話が、帝国に来たときに使ったルートを逆に辿るだけである。

 

 

 ……ちなみに、言うまでもないかもしれないが、今日までの間に2人の関係が改善することはなかった。

 

 

 トワは無理に仕事に没頭することは止めたものの、ムネノリを避けていることに変わりはなかった。偶然廊下で遭遇しても、「お疲れ様です、殿下」とだけ言ってそそくさと横を通り抜けてしまう。

 顔を合わせないことで極力、悲しみがぶり返さないようにしていた。アンゼリカに泣きついた日、トワは決めたのだ。自分の決断に最後まで責任を持つことを。

 

 

 一方、ムネノリの方も手をこまねいていた。クロウの言葉を忘れたわけではない。だが、彼に助言された通りに好き勝手やるのには躊躇があった。国を守るべきだという理性と、トワと一緒にいたいという欲望の狭間で心が揺れる。

 そのせいで、廊下でトワとすれ違っても声をかけることすらできなかった。その度に胸が苦しくなったが、どうしようもなかった。そもそも自分がどちらに向かいたいのかすら分からないのだから。

 

 

 膠着した状態が続いたまま、時間を浪費してしまう。1時間、また1時間と運命のときが近づいてくる。ムネノリがトールズの学院生として過ごせる最後の1日が終わろうとしている。

 

 ……仮にこれが三流作家が書いた物語であったのならば、なにかしら都合のよい奇跡が起きてイズモはいきなり危機を脱し、婚約の件が有耶無耶になり、トワとムネノリは元の鞘に収まっていたことだろう。

 

 しかし、実際にはそんなことは起きない。起きる筈もない。現実は、ただただ残酷に2人を引き裂こうとするだけだった。

 

 ……なにも起こらぬまま、いよいよ放課後となってしまうのであった。

 

 

 

 

「……みんな、世話になったな」

 

 放課後。トリスタの駅の前にて、ムネノリは荷物を纏めた滑車付きのトランクと共に立っていた。彼の目の前には、Ⅶ組のメンバーやアンゼリカたち、そして教官のサラが横に並んでいた。見送りの為、駅前まで来てくれたのだ。

 

 ……ただし、トワの姿はなかった。生徒会の仕事があるからなのか、それとも単に顔を合わせたくないのか。いずれにせよ、この場にはいない。半ば予想通りとは言え、微かながら期待も抱いていただけに落胆は大きかった。

 

「こちらこそ。ムネノリとの鍛錬のおかげで太刀への理解が深まったし、出雲流からも色々と学ばせてもらったよ」

「うん。よき好敵手であり、よき仲間であった。無論、これからもずっとそうだ」

 

 武術的な交流の多かったリィンとラウラが言葉を返す。≪剣仙≫が生み出した東方剣術の集大成とされる八葉一刀流、それと帝国の武の双璧の1つであるアルゼイド流。それらの使い手と交流できたことは、ムネノリにとっても大変貴重な経験であった。

 

「……元気でね。イズモの料理、おいしかった」

「風と女神の導きを。健闘を祈っている」

 

 フィーとガイウスが続く。ノルドの各地に残されていた遺跡や伝承はムネノリにとって黄金に等しい価値を秘めていた。きっと、イズモの将来的な危機に役立つだろう。

 

「バイバーイ! また会おうねー!」

「帰りもお気をつけて。機会があれば、また帝国にいらしてください」

「そうね。何年後になるかは分からないけど……そのときはⅦ組のみんなで集まりましょう」

「だったら、東方の楽器とかも持ってきてほしいな。料理のときみたいに、交流会とかしてみようよ」

 

 ミリアムはなんの裏も感じない満面の笑顔を浮かべる。一方のエマ、アリサ、エリオットは困ったような笑みを作っていた。だが、かけられた言葉自体は温かかった。

 

「もしなにかあれば連絡してくれ。できる限り力になろう」

「そうだな。家の力は貸せんが、俺個人の力でよければいくらでも貸そう」

 

 マキアス、ユーシスの助力の申し出に力強く頷く。Ⅶ組との学院生活で得たこの絆はとても大切な、一生モノの宝物だ。 

 

「アンゼリカ殿、クロウ殿、ジョルジュ殿にも世話になりました。ジョルジュ殿の導力機器のお話、大変参考になり申した」

「僕の話が役立ってよかったよ。卒業後は各地の工房を回る予定なんだ。近くまで行くことがあったら、連絡させてもらうよ」

「それを言うのならば私も大陸一周をする予定でね。是非、イズモに寄らせてもらおう」

「俺は別にそんな予定はねーが……ま、その内見に行ってやるよ」

 

 先輩組の言葉に「そのときは歓迎させていただきます」と答える。招ける状況なのかはそのときになるまで分からないが、できることならば1度は招きたいと思った。

 

「ま、頑張りなさい。きっとあんたなら大丈夫だから」

「サラ教官……ありがとうございます」

 

 深く、頭を下げる。飲んだくれだったり、色々と大雑把だったり、トワに仕事を押し付けてばっかりと、問題も多かったが、それ以上に頼りになる素晴らしい教官だった。サラの豊富な経験に基づく数々の助言は今もムネノリの心に深く刻み込まれている。

 

 学院に来て日が浅いミリアムはともかく、別れ際だからか、他のみんなは誰1人として暗い話題は出さなかった。純粋にありがたかった。

 トワのことに関しては今も思うところは色々とあるが、この場ではみんなの気遣いに甘えることとした。

 

「……殿下。そろそろ時間となります」

 

 護衛の指揮を任されているクレア・リーヴェルトが駅から姿を現す。特別実習を通して知り合った縁で、彼女が担当することになったらしい。

 

「承知しました。では……みんな、また会おう」

 

 最後に大きな挨拶を交わし、ムネノリはトランクを持って駅の中へと消えた。その直前、第二学生寮や学院に続く道の方へと視線を向けたが、そこから誰かが現れる気配はなかった。失意に呑まれたまま、列車に乗り込むのであった。

 

 

 

 

 列車に揺られること30分。ムネノリは帝都に到着する。

 

 ムネノリはヘイムダル中央駅にある鉄道憲兵隊の詰所で明日の護衛の段取りの説明を受けたあと、導力車によってホテルまで送り届けられた。ムネノリが泊まる部屋の隣に隊員が詰めているので、用があれば呼んでほしいと言い含められた。

 

 ムネノリは部屋の扉をノックする。しばらくすると、扉が静かに開いた。

 

「……お待ちしておりました、ムネノリ様。アヤメと申します。まずは、お部屋へどうぞ」

 

 アヤメ・トクカワが姿を現した。焦げ茶の腰まで届く長髪で、ツバキと比べると大人びた印象を感じさせる女性だった。確か年齢はムネノリの1つ上だった筈だが、20代くらいのようにも思えるほど、その雰囲気には落ち着きがあった。

 

 ムネノリは部屋に入り、トランクを部屋の隅に置く。部屋はスイートルームであり、かなり広々としている。

 

 そんな中、キングサイズとは言え、1つだけしかないベッドを見て気が重くなる。確かに夫婦となる仲なのだから問題はない。しかし、ムネノリはアヤメに対してまだそこまで割り切れていない。気づかれないように小さく、ため息をついてしまう。

 

 リビングに備え付けられているソファに腰を下ろすと、少ししてからアヤメが目の前のテーブルに湯呑みを置く。淹れたてらしき湯気の立ったお茶が入っていた。

 

「かたじけない」

「いえ、妻として当然のことですから」

 

 アヤメは静かに微笑む。その笑みは、野にひっそりと咲く1輪の花のようであった。

 

 ”妻”という言葉に吐き気を催すような拒否感を覚えつつも、茶をいただく。さすがは名門のトクカワ家の娘といったところか。文句なしに美味かった。

 

 アヤメはムネノリから1人分離れた位置に座る。すると、深々と丁寧にお辞儀をした。正座でかしずかないのは、ここが帝国のホテルだからだろう。

 

「改めまして、トクカワ家より参りましたアヤメと申します。妻として精一杯ムネノリ様をお支えする所存でございます。これから、なにとぞよろしくお願い致します」

「……ああ、よろしく頼む」

 

 少し、ぶっきらぼうな返しになってしまったかもしれない。だが、どうしたってアヤメを歓迎することはできなかった。反発する磁石のように、自然と心が不快感を示すのだ。

 

 別に、アヤメが悪いというわけではない。挨拶を交わしたあともしばらく会話を続けるが、彼女がいわゆる”イズモの理想の淑女”としてのあり方を体現している立派な女性だということは、すぐに分かった。

 

 気遣い、言葉遣い、容姿、所作……その全てが完璧だと言ってよい。イズモの男であれば、100人中99人が心奪われてしまうだろう。ただ、ムネノリがその99人の中にいないだけだ。

 

 たとえアヤメがどれだけ美しく、賢く、優しくとも関係ない。ムネノリが心に決めていた女性はトワなのだ。たったそれだけの未練がましい想いが、アヤメを受け入れることを拒絶してしまう。

 

 そしてそれは、知らない内に態度にも現れてしまっていたようだ。

 

「……ムネノリ様? 聞いておられますか」

「っ!? す、すまぬ。なんでござるか」

 

 どうやらいつの間にかアヤメの話を聞き逃していたらしい。慌てて謝る。怒らせてしまったかもと思うムネノリであったが、彼女は全く気にしていない様子だった。笑みを崩すこともなく、再度問いかけてくれた。

 

「夕餉はどうされましょうか。一応、ホテル内のレストランの席を予約してはおりますが」

「あ、ああ……夕餉であるか。そうだな、予約しているのであれば、そこにしよう」

 

 あとで隣の隊員たちに知らせておけば大丈夫だろう。

 

「かしこまりました、では1時間後に伺いましょう。それと……今宵はどうなされますか」

「どうとは、なにがだ?」

「夜伽のことでございます」

「なっ……!?」

 

 突然横から鈍器で殴られたかのようだった。全く予想もしていなかった言葉に声を失う。だが、アヤメの質問は妃という観点から見ればなんらおかしいものではなかった。というより、それも妃の大事な務めだ。

 

 もし仮に今すぐに王が亡くなってムネノリが玉座を継いだ場合、後継者の問題を考えておく必要がある。万が一があってもまだ弟のトキノリがいるが、やはり実子がいるに越したことはない。

 

 しかし…………ムネノリは頷けなかった。頷かないといけなかったのに、頷けなかった。脳裏に涙を浮かべたトワの姿が映り、頷くことを拒否してしまった。

 

「……すまぬ。今はまだ、そんな気にはなれぬ」

「そうですか、かしこましました。……お疲れのご様子ですし、食事の時間までベッドで休まれてはいかがでしょう? 時間になりましたらお呼び致します」

「……そうだな、そうさせてもらおう」

 

 今度こそ機嫌を損ねたかもしれないと思ったが、そんなことはなかった。それどころか、アヤメに余計な気遣いまでさせてしまった。

 

(早く、慣れねばな……)

 

 自己嫌悪に苛まれながらもアヤメの言葉に甘えてベッドに向かい、横になる。眠気はないが、寝ているフリをしていればアヤメとしゃべらずに済む。今は話し続けても、きっと彼女に負担をかけてしまうだけだ。ムネノリはゆっくりと目を閉ざした。

 

 

 

 

 アヤメとの気まずい時間はまだまだ続く。食事の席でも会話は弾まず、懸命にムネノリに話題を振っていた彼女も次第に口数が少なくなっていった。

 

 部屋に戻り、寝る直前になるころにはお互いにほとんど無言だった。ベッドの近くの小さな明かりだけが、寝室をぼんやりと照らしていた。

 

 寝巻き姿になったアヤメがベッドの端に腰掛ける。ムネノリが元々反対側に座っていたので、互いに背を向け合う格好となっている。

 

 今のアヤメの表情を窺うことはできない。だが、今のこの状況が彼女の心の内を物語っている気がした。

 

(イズモの為にもアヤメ殿を大切にすべきと分かっているのに、なぜこんなにもアヤメ殿をないがしろにしてしまうのだ……)

 

 努力はした。したつもりだ。だが、なぜだか上手く話せない。舌が口内に縫い付けられたかのように、言葉が出ない。

 今もそうだ。せめて気を遣わせたことに感謝の一言でも言えればと思うのに、体が石になったかのように一向に行動に移せない。

 

 そんな自分が嫌になる。義務か私欲かすら選べずにいる自分が。これでは、結局はアヤメとトワの2人を同時に傷つけているのと同じだ。

 

 そんなムネノリの心の内を察しているのかは分からないが、アヤメも同様になんの動きも見せなかった。人形のように、背後でじっとしているのを感じる。

 

 ムネノリは明かりの奥の方に焦点を合わせたまま、頼りない光源をじっと眺めていた。時が動かず、沈黙だけが場を支配する。

 

 ——そんな沈黙が破られたのは、均衡が10分ほど続いてからのことだった。ふと、アヤメが口を開いたのだ。

 

「……ムネノリ様。1つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」

「……うむ」

 

 ”アヤメのことが嫌いなのか”。そう、聞かれると思った。そう思われてしまうだけのことはしてしまっている。下手するとこのまま破談もあり得る。無意識の内に体が強張った。

 

 だが、そうではなかった。アヤメから投げられた質問は、予想の遥か上を行くものだった。

 

「——ムネノリ様は、今もトワ様を愛されているのですか」

「ッ!? ど、どこでそれを……!?」

 

 体に雷が落ちたような衝撃だった。勢いよく振り向くと、アヤメは居住まいを正し、ベッドの上で正座をしていた。そして苦笑いを浮かべつつ、ぽつぽつと語り始める。

 

「実は2日前、シノ様が部屋にいらっしゃったのです」

「シノが……ここに?」

 

 確か書き置きにはイズモに戻ると書いてあった筈だ。まさか嘘をついたのだろうか。そう思っていると、アヤメは「もちろん、そのあとイズモに戻られましたよ」と補足した。単に寄り道をしただけのようだ。

 

「シノ様が、ムネノリ様とトワ様の仲のことを教えてくださいました。お話を聞く限りでは、仲睦まじかったようですね」

「いや、まあ……その、すまぬ」

 

 遠回しに肯定してしまう。アヤメの瞳を見ていたら、後ろめたさで嘘をつけなくなってしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 

「ふふ、お気になさらず。とても幸せそうで、聞いているこちら側としても微笑ましかったくらいですから」

 

 そのように真正面から言われるのはさすがに恥ずかしく、ムネノリはそっぽを向いて頬をかく。話題を逸らそうと、ムネノリの方から質問を振る。

 

「しかし……シノの奴はなにゆえ、ここに? まさか、トワ殿とのことを教える為だけにアヤメ殿のもとへ?」

 

 それではただの嫌がらせになってしまう。だが、シノは此度の決定に反発していたし、まだ12歳だ。その可能性は十分にある。もしそうであれば、シノに謝罪させねばなるまい。

 

「いえ……実はシノ様はおふたりのお話をされたあと、こう仰られましたわ。『アヤメ様に恨みはありません。ですが、私が義姉上とお呼びできるのはトワ様だけです』と」

「な……!! す、すまぬアヤメ殿! まさかあいつがそんなことを言うとは!」

 

 もっと最悪なことをしていた。ムネノリは慌てて頭を下げる。イズモに戻ったら、よーく言い聞かせておかなければならない。

 

「面を上げてください。確かに最初は驚きましたが、私とて政略の道具とされている身。親しい者と結ばれたいというお気持ち、少しは分かるつもりです。シノ様の話しぶりから察するに随分とトワ様に懐いていたようですし、無理もありませんわ」

 

 なんと、そこまで言われてもアヤメは怒らなかったようだ。とんでもない懐の深さだ。迷いまくりのムネノリにはもったいないくらいの器量である。

 

「そんなわけで、シノ様からトワ様のことを色々とお聞きしたわけですが——実際のところ、どうなのですか。ムネノリ様は、今もトワ様を……?」

「…………うむ、そうだ」

 

 とうとう、はっきりと肯定してしまった。トワを愛していることを。諦めきれずにいることを。よりにもよって、妻となる者の目の前で。男としても、王太子としても最低だ。

 だが、それこそが不変の事実なのだ。ムネノリは今も、そしてこれからもきっと、トワだけしか愛せない。その気持ちをどうすることもできないことを、アヤメと共に過ごすことで再認識してしまった。

 

「だが、拙者は王太子だ。自分の勝手で、イズモを危機に陥らせることはできぬ」

「ええ、そうかもしれません。——ですが、少しくらいの勝手はよいのではないでしょうか」

「なに……?」

 

 思わぬ言葉にムネノリはアヤメに続きを促す。一体どういうことだ、と。

 

「なにも、0か100で考えなくともよいと思いますわ。人の生はたったの1度きり。たとえ王太子であっても……1割くらいは自分のわがままの為に使ってもよいと存じます」

「っ……!」

 

 アヤメの言葉にハッとさせられる。そんな考え方があるなど、思ってもみなかった。

 

(そういえば、確かクロウ殿は……)

 

——『別に、正しいことだけをしなくちゃいけねー決まりなんてねーだろ。やりたいことをやるのも1つの選択じゃねーの?』

 

 数日前、クロウに言われた言葉がフラッシュバックする。ここに来てようやく理解した。クロウが言わんとしていたことの本当の意味を。

 

 イズモか、トワか、ではない。イズモも、トワも……そんな選択もあるのではないだろうか。もちろん、ちゃんと現実味のある計画に基づいた上での、だ。

 どちらかを選ばなくちゃいけない決まりなんてない。どちらも選んでしまったっていいのだ。無論、その為の障害は多いかもしれぬが。

 1つ、大きな問題があるとすれば……やはりアヤメの存在だ。

 

「だが、アヤメ殿はそれでよいのか。拙者にその道を勧めるということは、つまり……」

 

 どういう形であれ、ムネノリとアヤメが夫婦であり続けることはないということだ。それはトクワカ家にとっても都合が悪い。それに、このままではアヤメにメリットがない。

 

「ふふ、そうですね。——ところで、実は私も1割だけ、叶えたいわがままがあるのですが、聞いていただけます?」

「……? うむ、なんだ?」

 

 なぜ自分に? と思いつつもムネノリは頷いた。

 

「実はですね……」

 

 アヤメは一拍置いた後、答える。

 

「無礼を承知で申し上げますと私——ムネノリ様よりもトキノリ様の方が好みですわ」

 

 そう言って、くすりと笑った。いたずらっぽい、無邪気な笑みだった。

 

「——は」

 

 それを聞いたムネノリはしばらくの間言葉を失った。それはショックを受けたからでも、怒りを感じたからでもない。

 

「はは、ははは……!」

 

 心底愉快で、おかしかったのだ。ムネノリは数日ぶりに腹を抱えて笑い出すのであった。呼吸ができずに苦しくなってしまうくらい、大声で笑い続ける。

 お淑やかな方だと思っていたところに、まさかこんな大胆不敵な発言をねじ込んで来るとは夢にも思わなかったのだ。

 ムネノリが思っていたよりも、お茶目な人物だったようだ。

 

 ——同時に、道筋が見えた。守りたいものを守りきり、欲しいものを手に入れることができる、最善の道が。

 トワに我慢を強いることに変わりはない。だが、永遠にではない。どこまで縮められるかはムネノリ次第。そして、最終的にはトワの返答次第だ。

 

「……では、そういうことでよいのだな?」

「ええ、そういうことでよろしゅうございます」

 

 互いに頷き合う。これから行うのは、2人だけの謀りごと。WinWinの関係となる為の取引相手。この瞬間から共犯者となった2人は、初めて心の底から笑い合うのであった。

 

「……しかし、そなた。最初からこのつもりで?」

「シノ様のお話を聞いたとき、ムネノリ様のお気持ちを確かめようと決めておりました。もし、ムネノリ様がトワ様のことを諦めていたら、進言するつもりはございませんでした。ムネノリ様に倣って、私も諦めようと」

「そうか……感謝する、アヤメ殿」

 

 アヤメを愛することはできないかもしれない。だが、選ばれたのが彼女でよかったとも思った。きっと、仲良くやっていけるような気がする。

 

「……差し当たって、まずは文をしたためんとな」

「導力通信でなくてよいのですか」

「伝えたいことがまだ纏まっておらぬ。それに……手紙の方が長持ちするゆえな」

 

 ムネノリはベッドから立ち上がる。リビングに戻って、手紙を書く為だ。

 

「拙者は居間で作業をしておるから、アヤメ殿は——」

 

 もう休むとよい。そう言おうとした瞬間だった。——バァン! と玄関の扉が凄まじい勢いで開いた。ムネノリは咄嗟に刀に手を伸ばし、アヤメを後ろに隠す。

 

 ……結論から言うと、警戒は不要だった。

 

「——ムネノリ様!! あなたはなにをやっているのです!? 見損ないましたわよ!!」

 

 現れたのは、なにか猛烈な勘違いをしているらしいツバキだった。そしてその後ろにはシノがいた。その手にはピッキングツールがあった。隣に鉄道憲兵隊が詰めているのに、なんてことをするのだと思った。

 

「あの……ツバキ様? 別に私たち、まだなにも……」

「言い訳はいりませんわ! そこに直りなさい! 特にムネノリ様! ハーシェルさんになんてことさせてますの!? あのときの啖呵はなんだったのですか!!」

「……あー、まあ、なんというかだな」

 

 ツバキがここまでやって来た理由を理解する。おおかた、シノから事情を聞いたのだろう。

 

 ……ただ、タイミングが悪かった。ツバキの言い分には確かにぐうの音も出ないが、とにかく来るのが数分ばかり遅かった。なんとも言えぬ気持ちが胸中で渦巻く。

 

 ——結局、ツバキとシノを落ち着かせるのに1時間ばかりを要するのであった。その間、鉄道憲兵隊の者までもが部屋から出てきて、さらに面倒な状況になったのは言うまでもない。

 

 

 

 



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第16話 いつまでも

 結局、トワはムネノリの見送りには行かなかった。通商会議の準備で忙しかったというのもあるが、やはり顔を見てしまうと決意が揺らいでしまうと思ったからだ。

 代わりに、自室の窓からこっそりと覗いていた。ムネノリが駅前でⅦ組やアンゼリカたちに見送られるところを。

 

 いよいよ、遠く離れた場所に行ってしまう。自分から会いに行こうとしない限り、2度と会えなくなるだろう。仮に会えたとしても、その隣にはトワ以外の女性が立っているのだろう。

 

 ふと、近くの棚に並べてある写真立てを見る。

 幼少のころのものや、アンゼリカたちと撮ったものの中に混じって、ムネノリと写っている写真が何枚かあった。ミシュラムでスタッフの人にお願いして撮ってもらったものだ。ここ数日は、極力視界に入れないようにしていた。

 写真に写っている2人は、それはもう幸せそうだった。写真からピンク色の幸せのオーラが可視化されているかのようだった。笑顔が眩しすぎて、直視しているのがつらかった。

 

 ……結局、トワはムネノリの姿が入っている写真を全部伏せてしまった。捨てるまではできないが、飾り続けるのも無理だった。あとで、アルバムかなにかに移してしまおう。

 

 そして、窓際に戻ったころにはもうムネノリの姿はなかった。出発してしまったようだ。

 その瞬間を見逃してしまったが、きっと見ていたら今より胸が苦しかった筈だ。結果的にはこれでよかったのかもしれない。そう己に言い聞かせる。

 

 ……なのに、なぜだろう。

 

「あ……」

 

 ポロポロと、勝手に瞳から涙が溢れてしまうのは。自分でも全く気づかない内に、涙を流していた。

 

「っ……ぐす……ムネノリ、くん……ぅ」

 

 止まらない。アンゼリカに泣きついたときに流しきった筈の涙が止まらない。涙の量を調節する機能が壊れてしまったかのように止め処なく溢れ続ける。

 

 今すぐ部屋を飛び出せば列車の出発には間に合うのかもしれない。でも、そんなことをしてはいけない。

 今すぐよりを戻したいと懇願すれば、あるいはムネノリは国を捨ててくれるかもしれない。でも、そんなことは許されない。

 

 我慢するしかない。全部全部胸の内に仕舞い込んで、痛みが消えてくれるまで抱え込んでおくしかない。

 1度はアンゼリカに対して己の感情を吐き出してしまった。だからこそ、もうそんなことをしてはいけない。

 

 涙を流すのもこれで最後だと、トワはなるべく声を押し殺しながら静かに泣き続けるのであった。

 その後、泣き疲れたせいか、夜は意外にもすんなりと眠りに落ちることができたのであった。

 

 

 

 

 気づいたら、見たこともない場所に立っていた。いや……厳密には違う。そう、確か、イズモ関連の本のどれかの写真で見たことがある場所だった。

 

 目の前の壁は綺麗に切り出された石材が積まれ、レンガのようになっている。石垣、という東方独自の建築様式の1つだった筈だ。主に城の防備の強化に使われる。

 

 石垣の上の方へと視線を移す。5~6階分の高さになるであろう、塔のような建物があった。白い壁と、黒い瓦で構成されていた。ムネノリから聞いたことがある。天守閣、と呼ばれるらしい。

 

 もはや疑いようがなかった。なぜだかトワは、イズモにいた。それも、おそらくは王城に。

 

(いつの間に……こんなところに?)

 

 周囲を見渡す。床一面に砂利が散りばめられ、ポツポツと等間隔で木が植えられている。その更に奥には、ちょっとした高台があった。

 興味を持ったトワはその高台に歩み寄る。石でできた数段の段差を登り、手すりの近くまで行く。

 

「わあ……」

 

 どうやら相当高い場所にいたようだ。眼下には、おもちゃのように小さな建物が規則正しく、無限に広がっていた。きっと、城下町だ。

 道は石材で丁寧に舗装され、大通りは多くの人で賑わっていた。1人1人は小さいが、数が多いおかげで人の動きがよくわかった。ケルディックのような活気を遠くからでも感じ取れた。

 

 近くに川が流れている。2~3人が乗れる程度の小舟がいくつも浮かんでいた。荷降ろしをしている者、なにかを飲んでいる者、身を寄せ合っている者。それぞれの船に、それぞれの物語が見えた。

 

 その更に奥には大自然が広がっていた。いくつもの水田が日光を浴びて輝いている。美しい川と森のコントラストに加え、動物が何匹か川沿いをうろついている。そして青みがかった山々は、なんと全面が木の緑衣で覆われていた。帝国では、見たこともない景色だ。

 

 絵葉書にして今すぐにでも売り出したい。そう思わずにはいられないほど美しい光景だった。感動のあまりその場から動けず、いつまでも眺めてしまう。

 

「——義姉上、ここにおられましたか」

「……え?」

 

 声をかけられるとは思ってなかった。ワンテンポ遅れるような形で振り向く。シノだった。

 

「シノちゃん……?」

「義姉上はこの場所がお好きですね。イズモにいらしてからというものの、いつもこの場所にいますね」

「え、いつも……?」

 

 どういうことだろうか。トワはこの場所に来るのは初めての筈だ。だが、シノの口ぶりも嘘には見えなかった。

 

「どうです、義姉上? イズモにはもう慣れましたか」

「えっと、その……どう、なのかな」

 

 返答に詰まる。慣れるもなにも、今日初めて来たのだ。答えようがない。

 

「それはそうと……兄上がお呼びでございます。二の丸の正門にてお待ちです」

「ムネノリ君が?」

 

 なぜ、ムネノリが呼んでいるのだろうか。ムネノリとトワはもうなんの関係もない筈だ。そういう意味でも、この場にいる理由が分からなかった。

 

 そのような疑問を抱いている間にもシノは「行きましょう」とトワを先導する。呼ばれてしまった以上は行くしかない。道も分からないので大人しく案内に従う。

 入り組んだ城内を歩き回り、緩やかな坂を下っていく。所々、写真で見たことのある光景が目に入った。本当に今、イズモにいるんだなと不思議な感覚に包まれる。

 

「こちらです」

 

 シノの案内が終わる。視線を正面に戻すと、一際大きな木製の扉があった。中世のころは、敵を阻む頼もしい壁だったのだろう。

 門には1頭の馬が繋がれていた。そしてその近くに、見覚えのある後ろ姿があった。……それ以外には、誰も門の前にはいなかった。

 

「おお、おいでになられましたかトワ殿!」

 

 馬の世話をしていたムネノリが振り返った。溢れんばかりの笑顔だった。

 

「お待たせしました、兄上……いえ、陛下」

「ふっ、別に誰か見ているわけでもない。好きに呼ぶといい」

(…………え?)

 

 耳を疑った。ムネノリが陛下? そんな筈はない。だって、ムネノリは王ではなく、王太子の筈だ。……なにかが、おかしかった。

 それに、なぜムネノリはそんな邪気のない笑顔をトワに向けることができるのだろうか。

 

(わたしはもうムネノリ君とは別れて…………あれ、別れたんだっけ?)

 

 記憶にノイズがかかる。そう、別れた……確かに別れた。でも、そのあとどうなった? なぜか……思い出せない。

 

「すまぬな、朝早くから歩き回らせてしまって」

「いえ。すぐに見つかりましたので、大して苦労はしてません」

 

 簡単に2、3言交わすと、シノは姿を消した。残されたのは、トワとムネノリだけだ。

 

「……ねえ、ムネノリ君」

「なんでしょう、トワ殿?」

「わたし……なんでここにいるんだっけ?」

「……? もしや、寝ぼけておられるのですか。珍しいこともあるものですな」

 

 ムネノリは首を傾げる。まるで、おかしいのはトワの方だと言っているかのようだった。

 

「もうイズモに来てから3ヶ月ではありませぬか。それで拙者が王位を継ぎ、トワ殿との祝言を上げたのはもう2ヶ月も前ですぞ」

「——っ!?」

 

 3ヶ月!? いや、まさか……ありえないと首を横に振る。記憶喪失でもないのに3ヶ月分もの記憶が飛ぶわけがない。

 それに、祝言とはどういうことだ。それではまるで、トワがムネノリと結婚したみたいではないか。

 

 ふと、自分の服装を見る。なんと、身に纏っていたのはいつもの制服ではなく、色鮮やかなな柄のついた着物だった。以前、ツバキが着ていたものと同じくらい高価なものだと、着心地ですぐに分かった。

 こんな高価なものを着ていること自体、祝言があったことを裏付けているようにも思えた。もし本当に祝言があったのなら、今のトワは……后ということになるのだから。

 

「最近ではようやくトワ殿も周囲から認められるようになり、だいぶ落ち着いてきました。政務もトワ殿が手伝って下さっているおかげで、大変捗っております」

 

 政務……それだって、やった覚えがまるでない。イズモの者からなにかしら嫌がらせを受けた記憶もない。

 

 やっぱり…………変だ。

 

「ささ、トワ殿。お手を。今日は一緒に市場を回る約束でしたな。昼までには戻らないといけませぬので、早く行きましょうぞ」

 

 ムネノリは馬に跨ると、手をトワの方に向かって差し出す。きっとトワのことを持ち上げて後ろに乗せてくれるつもりなのだろう。

 

 彼の手の感触はよく覚えている。大きくて、剣を振ってできたタコのせいで表面はゴツゴツとしている。だけど、とても優しくて温かいのだ。

 

 ……トワはおずおずと、手を伸ばす。少しずつ、少しずつ近づいていく。あと数リジュで手が重なりそうだ。

 

「……」

 

 もう少し、手を伸ばす。ついに、手のひらが重なった。ムネノリはトワの手を取る。そのまま勢いよくトワのことを引き上げようとする。

 

 ——次の瞬間、トワはムネノリの手を振りほどいた。

 

「トワ殿……?」

「…………いけません、陛下。陛下が取るべき手は、わたしではございません」

 

 ……気づいた、気づいてしまった。気づかなければよかったのかもしれないのに、不幸にも聡明なトワは気づいてしまった。

 

 ……ここは、夢の中だ。都合のいいことが好きなだけ起きる、夢の世界。潜在的な願望が具現化する理想の世界。

 

 ……だが、現実ではない。浸っていたって、目が覚めたときにつらくなるだけだ。

 

「なにを仰っているのです、トワ殿? 他に誰の手を取ると言うのです?」

 

 トワにとっての都合のよいムネノリはなおも彼女を誘う。眉をひそめ、明らかに困惑している様子だ。彼から見れば后のトワ以上に優先すべき女性はいないのだろう。

 

 だからこそ、はっきり否定しなくてはいけない。トワはふるふると首を横に振った。

 

「——陛下の后はわたしではなく……アヤメさんです」

「——っ!?」

 

 ピシリ、と視界にヒビが入った。まるで、ガラスのように。どこからともなく力が加わり、ヒビが全体に広がっていく。ヒビのせいで、ムネノリの顔が歪にズレる。

 

「お、お待ちを……! トワ殿!」

 

 ガラスが割れ落ちていく中、ムネノリは馬から降りて必死な様子でトワに向かって手を伸ばす。しかし、届かない。ガラスが割れたことでトワとムネノリの間に物理的な隔たりが生まれたからだ。割れた視界の奥は、真っ暗な闇だった。

 

「 ……ごめんなさい。でも、お願いです——2度と、出てこないでください」

 

 パリン! と視界が完全に砕け散り、闇しか見えなくなった。

 

 それが、夢の終わりだった。

 

 

 

 

 鳥のさえずりが聞こえる。完全に閉じきれていなかったカーテンから光が漏れ、トワのまぶたに注がれる。眩しさに耐えかねて、トワは目を覚ました。目元をこすりながら、上体を起こす。

 

(…………あれ、なんだろう? なんだか、大事な夢を見ていたような……)

 

 ほんの数瞬前まで確かに覚えていたのに、もう思い出せない。どれだけ記憶を掘り起こしても、それらしいものは出てこなかった。

 

(え……涙?)

 

 目元をこすっていたら、指に大粒の涙がいくつもくっついていた。枕の方を見ると、枕のカバーもまた小さく濡れていた。

 ……昨日泣いた分が残っていたのか、それとも……夢の中でまた涙を流していたのか。今のトワにはどちらなのか分からなかった。

 

 時間を確認すると朝の6時過ぎだった。今日はこれと言って大事な用はない。せいぜいが、リィンのポストに依頼を入れておくことと、通商会議に関する調べ物だろうか。

 とはいえ、目はばっちりと覚めている。寝直せそうになかった。仕方ないので、もう起きることにした。

 

(そういえば今日、帝都を出発するんだよね……)

 

 ムネノリの帰国の予定表を思い出してしまう。確か、7時に出発する列車だった筈だ。それで共和国まで向かい、そこから東方へと戻る段取りである。

 

(昨日、アヤメさんと同じ部屋で寝たんだよね。じゃあ、もしかしたら……)

 

 嫌な想像をしてしまう。もうトワは関係ない筈なのに、そのアヤメという人に対して暗い感情を抱いてしまう自分が嫌になる。

 

(……やっぱり、仕事しよう。確かサイドカーのモニタリングもやるみたいだし、よかったらまた乗せてもらおうかな)

 

 とにかく、もう忘れようと思った。さすがに出発の時間を過ぎてしばらくすれば、諦めもつくだろう。それまでの間、余計なことを考えない為に仕事をしようと決める。無理をしなければ、アンゼリカに咎められることもないだろう。

 

 学院に行くと決めたトワは制服に着替えようと、寝間着を脱ぎ始める。どうせ自由行動日だ。急ぐ用事もないので、のんびりと支度をしようと思っていた。

 

 ——そんな思惑は、次の瞬間には粉微塵に吹っ飛ぶのであった。内側から鍵をかけている筈の扉から金具の回る音がしたかと思うと、勢いよく開いたのだ。

 

「え……!?」

 

 咄嗟に脱いだばかりの寝巻きで胸元を隠す。しかし、その必要はなかった。なぜならば、扉の向こうから現れたのはトワのよく知る女の子だったのだから。

 

「お邪魔しますわ、ハーシェルさん」

「え、ツバキちゃん!? な、なんで……それに、鍵がかかってた筈なのに……」

「私が開けました。忍の前では導力式を除くあらゆる鍵が無意味です」

 

 ツバキとシノだった。鍵はシノが開けたらしい。その為の道具と思しきものを握っていた。トワはシノがピッキングしていたことに全く気づかなかった。噂に聞く怪盗Bのような手際だ。

 

 だが、なぜノックをしてくれなかったのか。そうすれば普通に開けたのに。そう問おうとしたが、ツバキはトワにそんな時間すら与えてくれなかった。

 

「ほら、さっさと着替えなさい! ……シノ!」

「はい」

「え……ええ!?」

 

 なにがなんだか分からない内にシノの手によって強引に制服に着替えさせられてしまう。呆気に取られるあまり抵抗する暇もなかった。

 

「残りは車内で済ませまればよいですわ。ほら、行きますわよ!」

「失礼します」

「わ、わわッ!?」

 

 それだけに留まらず、いつぞやのようにシノに抱えられ、第二学生寮から連れ出されてしまった。入り口には、以前ツバキが乗ってきたのと同じ導力車が停まっていた。

 トワは荷物のように乱暴に車内に放り込まれる。幸い、高級車だけあって車内は広々としていたので変に頭をぶつけたりとかはしなかった。続けて、シノとツバキが乗り込んでくる。

 

「いいですわ、出しなさい! アクセル全開で構いませんわ!」

 

 ツバキは運転席に座っている黒スーツの男に指示を出す。魔獣の咆哮のようにエンジンが唸ると、砲で撃ち出されたかのように急発進した。急な速度の変化に、体が座席に深く沈み込む。

 

 まるで誘拐されたかの如く、トワはトリスタを発つのであった。

 

 

 

 

「ほら、身繕いしますわよ。そこに座ってじっとしてなさい」

 

 車が直進の多い街道に入って揺れが落ち着いたころ、ツバキがブラシやら化粧道具を持ってトワを化粧台の前に座らせる。ツバキが車内のボタンを押したら、近くの棚が変形して化粧台になってしまったのだ。

 

「ま、待って待って! その前に、どこに向かおうとしてるの!?」

 

 拉致同然に連れ出されたトワは、ブラシで髪を解かされながらも状況説明を要求する。後ろを向こうとするトワと、彼女の顔を前に向かせようとするツバキの間でせめぎ合いが起こる。

 

「決まっ、て、る、でしょう……! ムネノリ様のところですわ!」

「え……」

 

 今、一番聞きたくない言葉だった。トワの体から力が抜ける。その隙にツバキはトワを前に向かせ、ブラシを丁寧にかける。

 

「……ハーシェルさん、貴方本当にこれでいいんですの? わたくしとの決闘であれほど必死に勝利をもぎ取った貴方は、本当にムネノリ様のことを諦められますの?」

「っ……」

 

 唇を噛む。ツバキに「血が出てしまいますわよ」と注意されるが止めない。胸の内に渦巻くのは……苛立ち。チクチクと棘が無数に刺さるような、小さなイライラの集合が轟くような感覚。

 

 今更、その話を蒸し返さないでほしいと思った。トワは、もう結論を出したのだから。忘れようとしているのだから。

 

「わたくしは約束通り、本国での結婚の打診を断りましたわよ。それに比べて、貴方はなんて体たらくですの? どうせトキノリ様に言いくるめられたのでしょうけど、それにしたってあんまりな決断ですわ。トールズきっての秀才の名が泣きますわよ」

「……だって」

 

 拳を握りしめる。伸びてきた爪がこれでもかと喰い込んでいるが、あまり痛みは感じない。

 

 トワがなにを考えてこの結末を選んだか、ツバキは知らないのだ。だから、こんなにも無神経なことが言えるに違いない。

 むしろ、ツバキはなぜ結婚を断っているのだ。イズモの危機に、そんな約束を律儀に守っている場合ではなかった筈だ。結果的にアヤメがいたからよかったものの、取り返しのつかない結果になったかもしれないのに。

 

「ムネノリ様もかわいそうに。昨夜ホテルでお会いしましたが、意気消沈とした様子でしたわ。アヤメとの結婚も気が進まなさそうでしたし、見ていて気の毒でしたわ」

 

 背後から「はぁ……」と盛大なため息が聞こえる。その声は間違いなく、トワの神経を逆撫でした。胃の中が胃酸で灼けるかのようだ。

 

「……お願い、もうそれ以上言わないで」

 

 沸々と湧き上がるのを自覚しつつも深呼吸を繰り返し、どうにか理性を繋ぎ止める。努めて冷静な口調を作り、ツバキに黙るように頼む。それでも、普段より声が低くなってしまった。

 

「いいえ、止めませんわ」

 

 だが、ツバキは聞き入れなかった。どこからともなくリボンを取り出し、トワの髪を纏めながら話を続ける。

 

「少なくとも、貴方の本心を聞くまでは止めませんわ。とっとと白状しなさいな。貴方、今でもムネノリ様のことをお慕いしているのでしょう?」

「……さ……い」

 

 静かにしてほしい。なぜ、放っておいてくれないのか。トワは正しい選択をした筈だ。なのに、なぜ今こうして問い詰められているのだ。……それとも、間違っていたとでも言いたいのだろうか。

 

「ああ、それともアレですの……? 本当は金がありそうな殿方なら誰でもよかったとでも? だとしたら、大した執念ですわね」

「っ!? ——そんなわけない!!」

 

 トワは座ったまま振り向くと、喉が痛くなるくらいの大声で叫んだ。

 

 ……挑発だって、分かっていた。本音を引き出す為に、わざと言ったのだと。でも、もう我慢できなかった。例え誤解だったとしても、ムネノリへの気持ちをそういう風には捉えられたくなかった。

 

「好きだよ! 今も昔もこれからも! ずっとずっと好きに決まってる! ムネノリ君以外の男の子なんて、考えられないよ!」

 

 感情が爆発する。小さな火種であっても、1度山火事が起こってしまえば広範囲に容易く燃え広がってしまうのと同じように、あっという間に心が激情に支配されてしまった。無理に押さえつけていたバネが如く、強く弾けた。

 

「でも、だったらどうすればよかったの!? イズモを見殺しにすればよかったの!? そんなことしたら負けちゃうって分かってるのに、それでも無理に嫁げばよかったの!? ツバキちゃん、教えてよ……っ!!」

 

 自分でも無茶苦茶を言っているという自覚はある。だけどトワの口は勝手に泣き言を喚き、周囲に当たり散らす。多分……ここまで激昂するのは生まれて初めての経験だった。

 

 もし、もっとよい方法があるのならば教えてほしかった。自分のわがままを貫き通してよかったのなら、誰かにそう言ってほしかった。だが、今さらそんなことを知ってなんになる。もう、どうにもならないところまで来ている……筈だ。

 そんな思いを子供の八つ当たりのように手当たり次第に喚き散らしてしまった。

 

 一通りの感情を吐き出したトワは、「はぁ、はぁ……」と肩で息をする。トワが僅かばかりの落ち着きを取り戻す間、車内には走行音のみが流れる。それは沈黙と同義だった。

 

 その後、先にトワの言葉に返答したのは、ツバキの方だった。

 

「……1つだけ、わたくしから断言できることがありますわ」

 

 ツバキはトワの八つ当たりに一切臆することなく、扇子を開く。貼られた紙は真っ白で、中心にはただ一言、『忠』とだけ記されていた。

 

「——婚姻があろうとなからうと、わたくし……ひいてはマツナガ家は、全面的に王家を支援する方針ですわ」

「え……」

 

 前提条件が1つ、ひっくり返った。トクカワ家やマツナガ家を全面的に味方につけるには、婚姻が必要不可欠だという前提条件が。

 

「元々、父上は陛下と旧知の間柄。そして、恋慕の情を抜きにしても、わたくしの忠義はムネノリ様にありますわ。結婚などせずとも、最初からお味方しますわ。トキノリ様は、個人の情を軽視しすぎですわ」

 

 トワの中で、ガラガラとなにかが崩れる気がした。瓦礫の隙間から、光が微かに漏れる。もしかして……もしかしてと……自分でも理解できないソワソワとした感覚が渦巻く。

 

「——トワ様、これをお受け取りください」

 

 ずっと沈黙を保っていたシノが懐から便箋を取り出し、トワに差し出した。宛名にはトワの名前がある。そしてその筆跡は……間違いなく、ムネノリのものだった。

 

「これって……」

「今朝、兄上が書き上げた文です。どうか……読んでくれませんか」

「…………うん」

 

 迷った末に、トワは便箋を受け取った。口を破るのではなく、のりがされている部分を丁寧に剥がしていく。普段はペーパーナイフを使ってしまうが、今だけは破きたくなかった。

 

 そっと、中に入っている手紙を取り出す。手紙は、何枚も重ねられた状態で折られていた。相当な文量だ。

 

 トワは、1文字も読み飛ばさないように、ゆっくりと目を通し始めた。

 

 

————

 拝啓、トワ・ハーシェル殿

 

 実は、この手紙を書いている時点で37回目の書き直しとなってしまいました。夜中に書き始めた筈なのに、もう空は白み始めております。ツバキとシノにさっさと書き上げろと急かされている次第でございます。

 とりあえず、拙者に文才はなさそうです。これはこれで貴重な経験でございました。

 

 代わりに、今、頭に思い浮かぶことをそのまま文字に起こします。長くなってしまうかもございませんが、できれば最後まで読んでいただきたいと存じまする。

 

 ……拙者は最初、トワ殿に言われた通りに、王族としての運命を受け入れようとしました。政略結婚であっても最終的に仲睦まじかった例はいくらでもある。だから大丈夫だと己に言い聞せました。

 

 実際に、アヤメ殿と話をしました。とても器量のよい御方でございました。拙者にはもったいないくらい、よいおなごでございます。

 ですが……拙者は受け入れられませんでした。受け入れようとすればするほど、思い浮かぶのはトワ殿の顔でございました。

 

 今ここに、宣言致します。拙者が生涯の伴侶として選んだのは、トワ殿です。トワ殿なしでは生きていけないと感じるほど、貴方に心奪われております。愛に狂っているとは、拙者のような人間のことなのでしょう。

 

 ……ですが、その一方でイズモを愛しているのも疑いようのない事実でございます。王族としても、1個人としてもイズモは守り抜きたいのです。

 ツバキは家を挙げて協力すると言ってはくれましたが、トクカワ家を味方につければイズモはより盤石となります。その意味で、やはりアヤメ殿との結婚は避けられぬでしょう。

 

 ですので、もし……もし、トワ殿が構わなければでよいのですが……お願いがございます。もし聞けぬ願いでしたら……この文を破り捨てて、シノにお渡しください。あとで、シノに事情を伝えておきますゆえ。

 

 

 

 ——待ってて、くれませぬか。イズモを守り、立て直し、土地の荒廃の未来を避け……拙者の王族として務めが全て終わる、そのときまで。

 

 何年かかるかは分かりませぬ。不確かなことを言って、トワ殿を騙すようなことはしたくありません。数年で終わるかもしれませぬし、あるいは10年以上かかるかもしれませぬ。きっとそれは、拙者の努力次第でしょう。

 

 全てが終わったそのとき、拙者は王位をトキノリに譲ろうと思います。きっと、”不運”にもアヤメ殿との子宝には恵まれないので。再び平和な時代が訪れれば、拙者よりトキノリの方が王に向いていましょう。

 既に、アヤメ殿と話はついています。そのときが来れば拙者と離縁し、トキノリに嫁ぐ手筈となっております。

 

 そうしたら、王族としての身分は捨て、ただのムネノリとして会いに行きます。必ず、迎えに行きます。女神に誓って、お約束致します。

 

 もし……承諾…………ば、……シ……………キに…………………………

 

————

 

 そこから先は、もう読めなかった。なにも書かれていなかったからではない。字が汚かったからでもない。

 

 ——涙で視界が歪み、加えて涙が文面に落ちてインクを滲ませてしませてしまったからだ。

 

「っ……ぅ……ムネノリ……っ……く、ん……ッ……!!」

 

 蛇口を捻ったかのように涙が止まらない。アンゼリカに泣きついたときに、あるいは昨夜声を押し殺して1人泣いたときに、涙は枯れ果てたと思っていた。

 

 なのに、溢れ出す。いくらでも溢れ出す。嬉しくて、嬉しくて、狂おしいくらいに嬉しくて……! 涙が、止まらなかった。堪えきれず、口に手をやる。

 

「——どうですの? 心は決まりましたか」

「うん……うん……っ!!」

 

 何度も頷く。壊れた機械のように頷き続ける。

 

 ——伝えたい。手紙ではなく、通信でもなく……言葉で直接。ムネノリの顔を見て、返事がしたい……!

 

「義姉上……」

 

 きっと、手紙を破り捨てなかったことで答えを得たのだろう。シノの呼び方が元に戻っていた。それを訂正する必要は……もちろんなかった。

 

「では、行きましょうか。ムネノリ様の出発は7時。なんとしてでも、間に合わせますわ——いいですわね?」

「御意!」

 

 運転手が返事をする。直後、ただでさえ速かったスピードがさらに上がった。おそらく、法定速度はとっくに無視しているに違いない。

 

「ほら、ハーシェルさん、涙を拭きなさいな。そんなお顔でムネノリ様にお会いするわけにはいかないでしょう? ちゃんと身嗜みを整えませんと」

「うん、ありがとう……!」

 

 ハンカチで涙を拭かれ、再び前を向かされる。自分で見ても、酷い顔だった。涙の跡がはっきり残ってるし、目も充血している。薄くであっても、化粧は必須だろう。

 

 ——もう、迷わない。後悔するような選択は、しない。

 

 ツバキによって化粧を施される中、車は猛スピードで帝都に近づくのであった。

 

 

 

 

 ヘイムダル中央駅のホームに、大陸横断の列車が到着する。ホームに留まる時間はおおよそ15分。トリスタなどの比較的小さな駅には止まらない、特急列車だ。

 

 ムネノリには、最後尾の特別車両が用意されている。そこにムネノリと私服姿の護衛隊員が乗り込み、共和国まで向かう。そこでイズモの護衛が待機しているので、彼らと共にイズモに戻る段取りとなる。

 

(トワ殿……来て、くださるだろうか)

 

 駅の入り口に繋がっている階段を見る。そこから、トワやシノが現れる気配は今のところない。

 

 手紙の返事に関しては、シノに言伝させようと思っていた。だが、シノが反対したのだ。必ずトワを連れてくるから待っていてほしい。そう、シノに言われたのだ。

 だから、こうしてホームで待っている。

 

「殿下? そろそろ、列車に乗り込まれては……」

 

 私服姿となったクレアが声をかけてくる。彼女も、車内で護衛してくれる隊員の1人だ。

 

「先に乗り込んでてくださりませ。出発までには拙者も乗りますので」

「いえ、そういうわけにも……もしかして誰か、お待ちになっているのですか」

「……うむ」

「……分かりました。私が側に控えています。ですが、出発を遅らせることはできませんので、時間までには必ず……」

「ええ、分かっております」

 

 ムネノリは待つ。ひたすら待つ。トワが現れてくれることを祈って、決して階段から視線を外さなかった。

 

 

 

 

 列車の出発の20分前。法定速度を大幅に破った甲斐あって、トワたちは帝都に余裕をもって到着した。だが、問題は帝都に入ってからだった。

 

「この……とっとと動きなさいな……」

 

 ツバキが恨めしげに正面を見る。その視線の先には、長蛇の如き車の列ができていた。早い話が、渋滞になっていた。信号が青にも関わらず、一向に列が動く気配がない。

 帝都は元々交通量が多いが、最近は法整備が進んでいる。ここまで……それもこんな朝早くから渋滞になるのは珍しかった。

 

(あと、少しなのに……)

 

 通常であれば、車で10分程度の距離まで来ている。ちゃんと間に合う計算だったのに、その目論見が崩れようとしている。

 口にはしないが、トワは密かに焦りを覚え始めていた。当然だが、走って間に合うような距離ではない。

 

 導力トラムを使おうにも、この場所から最も近い停留所に向かうには、駅から離れる方角に移動しなければならない。加えて、停留所に到着した瞬間に導力トラムが到着しなければ完全にアウトだ。

 

 八方塞がりの予感を感じる。あともう一歩で届くのに、まるでなにか見えない力に邪魔されているかのように、駅までの道を阻む。

 

「——走りましょう、義姉上」

 

 そんなとき、シノが唐突に口を開いた。そして、彼女の提案に戸惑う。

 

「シノちゃん? でも、ここから走っても絶対……」

「私が義姉上を抱えて走ります。建物の上から一直線に向かえば、なんとか間に合う筈です」

「……ぇ」

 

 なにを言っているのだ、と失礼ながらも思ってしまった。確かに、以前抱えて走ってもらったことはある。だがあれは生徒会室から第二学生寮までの短い距離だ。それに、おそらくは全力疾走ではなかった筈だ。あのときと、状況がまるで違う。

 

「だけど、それじゃシノちゃんが……」

「私なら大丈夫です。絶対に間に合わせてみせます。どうか、信じてくださりませんか」

「……それしかありませんわね。ハーシェルさん、行きなさいな。シノなら、きっと大丈夫ですわ」

「……うん、分かった! シノちゃん、お願い!」

 

 ツバキの後押しもあって、トワは最後の賭けに出ることを決断した。手短にツバキに礼を言ってから車を降りて歩道に出る。

 

「では飛ばします。しっかり掴まっててください」

 

 シノは間髪入れずにトワを抱きかかえると、力強く地面を蹴った。体が大きく宙に浮く。シノは器用に次から次へと踏み台を見つけては飛び上がり、あっという間に建物の屋上に飛び移った。2人分の体重が合わさっているのに、凄い身体能力だ。

 

 そのまま駅に向かって一直線に駆け、屋根から屋根へと飛び移る。景色が風のように流れ、もはやトワには正確な位置の把握すらできない。あとはもう、シノを信じるしかない。

 

 残り13分。トワは、しっかりとシノの首に腕を回した。

 

 

 

 

 出発まで、残り5分となった。まだ、トワたちは現れない。間もなく出発であることを知らせるアナウンスがホームに響いた。

 

「殿下。さすがに、そろそろ……」

「いや……もう少しだけ、お願い致します。もう少しだけ……」

 

 再度クレアの催促を蹴ってしまう。申し訳ないと思いつつも、ここだけは譲れなかった。

 

「……1分前まではお待ちします。ですが、それ以上は無理にでも車内に連れ込みます。……構いませんね?」

「承知しました……ありがとうございます」

 

 頭を下げ、視線を階段に戻す。変わらず、トワたちの姿はなかった。

 

 

 

 

 出発2分前。すたり、とシノは駅前に降り立ち、トワを降ろした。シノは肌を上気させ、夏場ということもあって体のあちこちに汗を浮かべている。息も、かなり荒かった。

 

「はぁ……はぁ……申し訳、ございません。ここからは、義姉上だけで……」

「うん、うん……! ありがとう、シノちゃん!」

 

 こんなにも疲労困憊になりながらも、シノはなんとか間に合わせてくれた。感謝してもしきれない。

 

「列車は……7番ホームの……っ……最後尾の、車両です……急いで……ください」

 

 シノの言葉に頷き、トワは駅の構内に飛び込んだ。人目を気にすることなく、全力で駆ける。途中、改札に阻まれるが……。

 

「——ごめんなさい!」

「あ、ちょっと、君……!」

 

 無理やり飛び越えて先に進む。駅員に呼び止められるが、無視する。あとでいくらでも頭は下げるし、きっと学院にも連絡が行ってしまうが、今は間に合わせることだけを考えて進む。

 

 帝都育ちの甲斐あって、目的のホームまで迷うことはなかった。階段を1段飛ばしで駆け上がり、廊下を全力疾走する。最後尾に出る階段を目指して、決して速度を緩めない。

 

「はぁ……はぁ……!」

(お願い……お願い……間に合って……!)

 

 体温が上昇し、全身から汗が吹き出す。こんなことになるのならば、せめて夏服を着ればよかったと思ってしまうくらいには暑かった。ストッキングも止めておけばよかった。

 

 ——目的の階段が見えてきた。トワは急制動をかけ、階段の手すりを掴みながら直角に曲がる。強引な動きだったせいて体の筋が少しばかり痛んだが、気にするまい。

 足を踏み外さないようにだけ気をつけながら、階段を下りていく。

 

(——いた、ムネノリ君……!)

 

 視線の遥か先。とうとうムネノリを見つけた。——だが、状況はかなり切迫していることを知る。ムネノリは今にも列車に乗り込もうとしていた。実際、時間を考えればいつ扉が閉まってもおかしくない。

 

 もし扉が閉まってしまったら、声を上げても届かないだろう。魔獣対策で車体は分厚く、丈夫に作られているからだ。

 

「————ムネノリ君ッ!!!!」

 

 だから、力の限りの大声で叫んだ。喉がダメになり、声を失ってしまってもいいというくらいの覚悟で、懸命に叫んだ。

 

 ——ピタリ、とムネノリの動きが止まった。そして……こちらを向いた。

 

 

 

 

「……殿下、申し訳ありませんが……時間です」

「……分かり申した」

 

 ついに、トワは姿を見せなかった。それどころか、ツバキやシノも戻ってこなかった。

 

(間に合わなかったか……)

 

 元々、手紙を預けたのが遅すぎたのだろう。間に合わなくとも仕方ない。それでも、落胆の気持ちが胸中で大きくなるのを止めることはできなかった。

 

 これ以上クレアに迷惑をかけるわけにもいかない。もう十分わがままを聞いてもらった。観念して、車両に乗り込むこととした。この瞬間、ムネノリは階段から視線を外した。

 

 ……だからこそ気づかなかった。あとほんの数瞬で目当ての人物が階段の最上部に現れることに。目と鼻の先まで来ていたことに。

 

「————ムネノリ君ッ!!!!」

「ッ!?」

 

 声が、聞こえた。ずっと聞きたかった声と呼び方が。ムネノリは乗り込むのを中断し、体を階段の方へ向ける。

 

 ——いた。視線の先に、トワがいた。必死に階段を下り、こちらに向かってきている。

 

「トワ殿!」

「あ、で、殿下……!?」

 

 クレアを置いて駆け出してしまった。約束を破ってしまった。だが、構わなかった。ここでトワと言葉を交わさずに帰国するくらいなら、いくらでも謝罪をしよう。そう、思った。

 

 1歩、2歩と互いに互いの距離を縮め——ついに、久方ぶりに抱き合うのであった。

 

 

 

 

 ……温かい。全身が、ムネノリで包まれている。たったの数日離れていただけなのに……もう何年も抱擁を交わしてなかったんじゃないかと錯覚するくらい、愛しい感覚だった。

 

「……来て、くださったのですな」

「うん……ツバキちゃんと、シノちゃんのおかげで間に合ったの」

 

 もっと強く抱きつく。この感触を何年経っても忘れないように、己の魂に刻み込む。

 

「手紙……読んだよ。お返事……聞きたい?」

「ええ。是非……聞かせてください。どんな答えでも、受け入れるつもりでございます」

「うん、ありがとう。じゃあ……言うね……」

 

 大きく息を吸う。顔を上げ、ムネノリの目を真っ直ぐに見る。

 

「——待ってる。ずっと……10年でも20年でも、待ってるから」

「っ……まこと……でございますか」

「うん。絶対待ってるから……ずっと、大好きだから……だから——いってらっしゃい」

 

 今できる精一杯の笑顔を浮かべる。気持ちは、晴れ晴れとしていた。ムネノリもまた、爽やかな笑みを浮かべてくれた。

 

「——うむ、行って参ります」

 

 最後に、一際強い抱擁を交わした。……また、目の奥から涙が湧いてくる。せっかく施してもらった化粧が台無しだ。でも、別にいい。こうしているだけで、ムネノリの気持ちは十分伝わって来るのだから。体裁を繕う必要なんてない。

 

 ——自然と、互いに体を離した。もう、言葉は十分に交わした。

 

「……殿下」

「ぁ……クレア殿。す、すみませぬ……約束を破ってしまいました……」

 

 きっと、出発の時間のことだろう。結果的に、トワとムネノリは列車の出発時間を遅らせてしまったことになる。

 ……ところが、クレアから返ってきた言葉は意外なものだった。彼女は薄く微笑む。

 

「……護衛を万全にする為、臨時点検を行っております。5分後には発車しますので、そろそろご乗車をお願い致します」

「……ありがとうございます」

 

 トワも、深く頭を下げた。今回の件で、多くの人に迷惑をかけてしまった。あとで、きちんと謝って回らないといけない。

 

 最後に、トワはムネノリと視線を交わす。トワは微笑んで、コクリと頷く。ムネノリも、頷きを返すのであった。

 

 

 

 

 ——5分後。トワは列車が出発するのを見送った。列車の姿が完全に見えなくなるまで、その場に立ち続けていた。

 

 必ず、また会える。その想いを胸に、トワはホームを去るのであった。

 

 ——空は、見事な快晴だった。

 

 

 

 



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最終話 トワ殿って呼ばないで

 あのホームで、再会を誓った。いつか必ず戻ってくると、言ってくれた。だからこそ、トワは頑張れた。

 たとえ内戦が起ころうとも、帝国が間違った方向に進んでいるように感じられようとも、世界が滅亡しかけようとも。トワはたった1つの想いを胸に、前へと進み続け……乗り越えた。

 

 

 ——あの日から、もう5年の月日が流れようとしていた。

 

 

 

 

 トワが己の職業として選んだのは、教官だった。トールズ士官学院の本校が本格的な軍学校に変化したのと同時に新設された、トールズ士官学院第Ⅱ分校の教官として就職した。

 それは帝国が不穏な道に進もうとしているのを不安に思い、自分なりにトールズの理念を残そうと思ったからであるし、ムネノリを見て自分も帝国の未来の為にできる限りのことをしたいと思ったからだ。

 

 1年目は、それはもう大変だった。帝国西部の情勢の悪化に伴い、その対策として軍人ですらない教え子を特別演習の名目で戦地に送り込まなければならなかった。

 それだけならまだしも、結社の執行者や人形兵器、もしくは名の知れた猟兵団など、明らかに学生が対峙するには荷が重すぎる相手ばかりだった。初回のサザーランド州での実習のときなど、戦死者こそいなかったが、甚大な被害が出た。

 

 ましてや、世界の命運をかけた戦場に赴くことになるなんて、就職したころには夢にも思わなかった。結果的に黒キ聖杯を巡る戦いには敗北し、一時期は本当に世界が終わってしまうのではないかと弱気になったりもした。

 

 それでも、最後には立ち上がり……様々な場所から集まった頼もしい仲間たちと共に、異変を乗り越えた。

 

 その後、クロスベルは独立し、ノーザンブリアも復興の目処が立ち次第独立することになるなど、少しずつ……激動の時代は過ぎ去った。

 

 帝国に残った傷跡は大きかったが、最近ようやく立ち直ってきたように思う。貴族と平民の確執も、四大名門が代替わりしてからは随分と緩和された。トワたちの次の世代になるころには、融和もより進んでいくだろう。

 

 結局、トールズは本校と分校に分かれたままだった。本校にかけた予算があまりにも大きすぎて、しばらくは軍学校として運営されることとなった為だ。

 

 トワは分校の教官として在籍し続け、危険な演習のなくなった2年目からは積極的にトールズの理念を伝え続けた。

 

 異変を潜り抜けた初代入学生たちは卒業し、教官陣の顔ぶれもだいぶ変化した。そんな4年目の半ばである今日も、精力的に指導を行うのであった。

 

 

 

 

 トワと同じく、リィンも第Ⅱ分校に残っていた。帝国が安定し、カリキュラムの整備が進み、入学生が増えたことでⅦ組の本来の役割は消滅したが、それでも引き続きⅦ組の担任を務めていた。

 かつてはブラック企業も真っ青な人手不足に見舞われていた第Ⅱ分校だが、3年目辺りから大幅な増員がされ、ようやく運営も軌道に乗ってきた。

 

 オーレリアやランドルフたちは分校を去ったものの、今でも偶に顔を出しては学院生に指導をしてくれる。もっとも、オーレリアがいきなり剣を取り出して模擬戦をしようとしたときは必死に止めたが。

 

 そして今、リィンは多くの後輩の教官を持つ立場となり、かつてのミハイルのような立ち位置となっていた。大変ではあるものの、やりがいのある仕事だった。

 

 ただ、どうしても慣れないことが1つだけある。それは……後輩の愚痴を聞くことだった。

 

 

 

 

「聞いてくださいよ〜、リィン先輩〜!!」

「ああ、聞いてるって……」

 

 業務を終え、リィンは男の後輩の1人を伴って酒場に来ていた。その後輩はリィンの2つ下の21歳だ。現在進行系で酒に酔い、情けない声を出しているが、これでも遊撃士出身の優秀な教官だ。

 

 後輩はグラスジョッキになみなみと注がれたビールを一気に呷ると、テーブルに叩きつけるようにしてジョッキを置く。中身は空だった。これで確かもう……6杯目だ。そして同じ話をもう3回はしている。

 

「この前〜、トワ先輩に告白したんですよ! 付き合ってください〜って!」

 

 4回目が始まった。もはやなにを言っても無駄だと分かっているリィンは、「ああ、それで?」と適当に相槌を打つ。

 

「そしたら〜、にべなく断られちゃったんですよ〜っ!」

「まあ、そうだろうな……」

 

 実は……この手の愚痴を聞かされるのは、初めてではない。学生、スタッフ、教官問わず、トワは男の間で絶大な人気を誇っていた。その理由を、男であるリィンはよく分かっていた。

 

 ……婚約者のいるリィンですら見惚れることがあるくらい、トワは綺麗になったのだ。元々可愛らしい容姿ではあったが、ふとした拍子に見せる仕草や表情が、妙に艶めかしかった。

 

 身長そのものは5年前となんら変わっていない。だが、年齢を重ねただけの大人の色気は確かにあり、体つきなども女性らしさはしっかりと感じる。それに加えて誰にでも優しく、思い遣りのある性格だ。人気があるのも、無理はなかった。

 

 その一方で、トワはどれだけ情熱的なアプローチをされようとも、決して首を縦に振ることはなかった。撃墜された男の数は後輩を含めればそろそろ2桁に行くのではないだろうか。

 

「そんで理由を聞いたら、『待ってる人がいるの』の一点張り! 誰なんすか、トワ先輩を待たせている男ってのは……!?」

「ははは……」

 

 きっと説明しても火に油を注ぐだけだろうと思ったリィンは、乾いた笑い声を上げるだけだった。

 もちろん、リィンは知っている。トワが誰を待っているかを。そしてその決意がどれだけ固いかも。内戦や異変の際に行動を共にする中で、ずっと彼女の想いを見てきた。

 

 今ごろアイツはなにをしているんだろうか。そう、遥か東で奮闘している筈のⅦ組の仲間に思いを馳せるのであった。

 

 

 

 

 トワの決意は変わらない。10年でも、20年でも待ち続けるつもりでいる。その一方で、周囲の状況は少しずつ、少しずつ変わっていく。

 

 毎年、卒業生を見送っては新入生を迎える。辞める教官もいれば、新しく赴任してくる教官もいる。ときには、同級生からの結婚式の招待状が届く。

 その度に……寂しさを覚えることはあった。教会で幸せそうに夫婦の誓いを交わす同級生を見たり、子供が生まれたときの写真が届いたりすると、少し羨ましかった。自分だけ止まった時間の中に取り残されているような感覚は常に付き纏った。

 

 それでも、トワは待ち続けた。申し訳ないと思いつつも他の男性からのアプローチを退け、叔母たちに心配されながらも、ただ一途に待ち続けた。

 きっともうすぐ、もうすぐだと毎日言い聞かせながら。

 

 

 

 

 今日も教官としての1日が終わる。トワは職員室で明日の授業の準備を進めながら、他の教官たちが退勤するのを見送っていく。窓からは夕日が差し込んでいた。

 

「お疲れ様です、トワ先輩。他のみんなはもう?」

「あ、リィン君。うん、今日は全体的に上がるのが早かったかな」

 

 少し席を外していたリィンが職員室に戻ってきた。今部屋にいるのは2人だけだ。

 

「先輩もあまり遅くまで残らないようにお願いします。仕事がたくさん残っているようでしたら俺も手伝いますから」

「うん、ありがとう。でも大丈夫、私も少ししたら寮に戻ろうと思ってるから。リィン君こそ、あまり仕事抱え込んじゃダメだよ? もうすぐ結婚式なんだから、体調には気をつけないと」

「……そうですね、気をつけます」

 

 リィンは苦笑いを浮かべる。実は、リィンはもうすぐアリサと結婚する予定なのだ。あの異変以降、急速に距離を縮めた2人は晴れて恋人となっていた。

 本当はもう少し早く結婚する予定だったのだが、2人の関係者が嫁入りか婿入りかで相当揉めてしまい、なかなか婚約が成立しなかったのだ。方や男爵家の長男、方やラインフォルトの1人娘、それも当然と言えるだろう。

 最終的に、パトリックがエリゼに婿入りし、彼女が男爵家を継ぐ決意をしたことで、リィンはラインフォルトへ婿入りするという形で決着がついた。

 

「それにしても、リィン君もいよいよ結婚かあ……なんだか感慨深いなあ……まだ気が早いかもしれないけど、おめでとう」

「はは……ありがとうございます」

 

 照れくさかったのか、リィンは頬を掻きながらまたも苦笑いを浮かべていた。その癖だけは、ずっと昔から変わらないままだった。

 

「じゃあ、俺もそろそろ上がります。戸締まり、よろしくお願いします」

「了解。お疲れ様」

 

 それを最後に、リィンは必要な荷物だけ持って退室した。これで部屋に残ったのはトワ1人だけとなった。

 

 なんとなく、窓から外を見る。夕焼けが、とても綺麗だった。

 

(あのリィン君も結婚かあ……時間が経つのって、早いなあ……)

 

 今までも式に出席したり、子供の写真が届いたりはしていたが、同じ職場の人間ではなかった。毎日のように顔を合わせるわけではない。だから、そのときそのときは哀愁の念に包まれたものの、一時的なものだった。

 

 だが、学生時代も深く関わり、職場も同じであり、親友にも等しい後輩であるリィンがいよいよ結婚するとなって、本格的に時間の流れを実感する。

 

 何年でも待てる。でも、やっぱり寂しいものは寂しいのだ。

 

(早く……来ないかなあ……)

 

 そんなことを、思ってしまうくらいには。

 

 

 

 

 本校舎を出たリィンは寮の方へと歩いていた。入学生が増えたことで寮が増設されたりもしたが、リィンは変わらず赴任時と同じ建物で寝泊まりしていた。なにも考えずとも寮まで戻れるくらいには、慣れ親しんだ場所だった。

 

 なんとなく、リーヴスの町のど真ん中で立ち止まる。町は夕焼けで染まり、店によっては閉店の準備が始まっていた。住人と学院生が混ざって和やかに会話をしていたり、学院生たちが夕飯を求めて近くの食事処に入っていくのが見える。

 

 ……間違いなく、平和だった。激動の時代は終わろうとし、今度こそしばらくは平穏な時代を謳歌することができるだろう。

 

 その過程でリィンは多くの罪を抱えてしまったが、仲間に支えられ、こうして今も変わらず教官としてこの場所に立っている。それがなによりも有難かった。

 

 少しずつ、償えばいい。そう、彼女に想いを告げられたときに言われた。どこまでできるかは分からないが、それでも教官としてできる限りのことを続けて行こうと思うのであった。

 

「——失礼、そこの者。少々よろしいか」

「ぇ……」

 

 突然、背後から声をかけられた。だが、リィンはこの声のかけられ方に覚えがあった。確か、トールズの入学式の日のときだ。そして、そのときリィンに声をかけたのは……。

 

 ゆっくりと振り向く。リィンの予想が正しいことを確かめるかのように、ゆっくりと。

 

「ぁ——」

 

 偉丈夫の男が、立っていた。高身長のリィンですら見上げなけれならないほどの大男。男は堂々と胸を張り、威風堂々とした笑みを携えていた。

 

「少々道を尋ねたいのだが、よろしいか」

「——あっちの道を進んだ先の校舎の、職員室にいるよ」

 

 リィンはたった今通って来た道を指で示す。彼が尋ねたいことなんて、それしかないだろう。なにせ、5年ぶりなのだから。

 

「かたじけない。では、後ほどまた」

 

 男は簡潔に礼を述べると、校舎へ向かって歩き出した。その大きな背中をリィンは見送る。

 

(先輩……もうすぐみたいですよ)

 

 ときおり寂しげな、憂いを含んだ笑みを浮かべていた先輩のことを思い出しながら、リィンは再び寮に向かって歩き出した。

 

 

 

 

 そろそろ上がろう。そう思ったトワは、部屋に持ち帰るバインダーを纏め、戸締まりの準備を始める。窓が開いていないか確認し、明かりなどを落とす。

 

 日は既に落ちかけている。まだ微かに夕日が差し込んでいるものの、部屋は薄暗かった。

 

 最後に忘れ物がないかだけを確認し、部屋を出ようとした。だがその直前、ガチャリと扉が開いた。トワは先ほど出て行ったリィンが戻ってきたのかと思い、顔をそちらに向ける。

 

「リィン君? もしかして忘れ——っ」

 

 ——バサリ、と手で抱えていたバインダーが床に落ちた。大事な書類がいくつも纏めてあったが、そんなことがどうでもよくなるくらい、衝撃的なものを目にしていた。

 

 男が、立っていた。全体的に薄暗いせいで顔はおぼろげにしか見えない。だが、これ以上ないくらいに見覚えがあった。

 

(嘘……)

 

 まさか、まさか、本当に……? と、半信半疑なトワは口を両手で覆う。だが、見間違える筈もない。これだけは、絶対に間違えない自信があった。

 

「トワ殿……」

 

 5年ぶりに聞いた声。目の奥が、ジンと熱くなった。

 

「ムネノリ……くん……?」

「ええ、その通りでございます」

 

 肯定が返ってくる。疑惑が確信に変わった瞬間だった。もう……我慢できなかった。

 

「——ムネノリ君!!」

 

 床に散乱したバインダーを飛び越え、駆け出す。ムネノリは逃げることなく、その場で待ち構える。トワは迷わず彼の胸元に飛び込んだ。

 

 ……温かい。触れる。彼の匂いがする。夢じゃない、幻なんかじゃない。紛れもなく、ムネノリ本人だ。ずっとずっと、待っていた温もりだ。

 

 数年ぶりに……涙が出た。目の奥が熱くて熱くて、堪えられない。でも、許して欲しい。それだけ、我慢し続けたのだから。

 

「やっと……全てを終えることができました。拙者、もう王族のムネノリではございません。トワ殿と同じ、ただの平民でございます。……もう、后にはなれませんな」

「ううん、別にいい……! そんなの、どうだっていい……! だって、ムネノリ君がここにいるから……! 側にいてくれるなら、それでいい……!」

 

 后なんて立場、微塵も興味はないし、未練もない。こうして抱き締め合っているだけで、こんなにも幸せなのだから。

 

「もう、どこにも行かない? ずっと、帝国にいられるの?」

「トワ殿がそれを望むのなら」

「もう、絶対に浮気しない……?」

「うぐ……トワ殿、もしやアヤメ殿とのこと、根に持たれてますか。そもそもアヤメ殿は、最初からトキノリのことを……」

「でも、結婚したんだよね? 形だけでも、いかがわしいことだってしたんだよね?」

 

 トワの言葉にムネノリは言葉を詰まらせる。それは肯定を意味していた。トワが唇を尖らせると、ムネノリは慌てて「申し訳ございませぬ!」と己の非を認めた。

 それを聞いたトワはすっ、と頬を緩める。多少の嫉妬はしてたとはいえ、元々怒っていなかったトワはすぐに彼を許した。

 

 ……それからも、2人は抱き合ったまま互いの近況を伝え合う。トワは内戦のことや異変を乗り越えたことを。ムネノリは戦を終わらせ、龍脈が復活したことを。イズモだけでなく東方全土に、再び平穏な時代が訪れようとしているようだった。

 

 もう少しで、完全に日が落ちる。今日は、トワの部屋に泊まってもらおう。ただ、職員室を出る前に1つだけ言いたいことがあった。

 

「ねえ、ムネノリ君。1つだけお願いがあるんだけど、いいかな?」

「1つと言わずいくつでも。拙者にできることであればなんでも叶えましょう」

「そっか、えへへ。じゃあ、1つ目のお願い」

 

 トワはムネノリを見上げる。5年前の別れ際でもそうしたように、彼の瞳を真っ直ぐ見つめる。再会したら、絶対に最初に言おうと決めていた願いを、ようやく口にする。

 

「——トワ殿って呼ばないで」

 

 それを聞いたムネノリはしばらく目を丸くしていた。それはかつて、ヤキモチの末に要求し、結局叶えられなかったこと。当時の言い分を守るのであれば、本来はトワの方から呼び捨てにしなければならない。だが、これはトワの”お願い”なのだ。ムネノリに拒否権はない。

 

 やがてそれを理解したのか、ムネノリは目元を緩めるとしっかりと頷いた。そして静かに口を開き、その2文字を告げる。

 

「——トワ」

「うん…………ムネノリ」

 

 トクン、と胸が心地よく弾む。鼓動が、少しずつ速くなる。もう24なのに、まるで学生時代に戻ったかのように顔が熱くなる。絶対、他の人には見せられない顔をしている。

 

 ……でも、とても幸せだった。待っていてよかった。諦めずに戦い続けてよかった。だって、こんなにも幸せなご褒美が待っていたのだから。

 

 日が落ち、影と暗闇の境界があやふやになる。それらが完全に溶け合ってしまうその直前、身長差のある2つの影は綺麗に重なるのであった。

 

 いつまでも、いつまでも——

 

 

 

 




終わり


お気に入り、感想、評価……ありがとうございました。プロットを作成していたとはいえ、
ここまでコンスタントに投稿できたのはそれらが励みになったおかげです。

番外編などを投稿する可能性がないわけではありませんが、ひとまずここで完結とします。
改めて、ありがとうございました。




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