春に芽吹く梅の花 (プロッター)
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金盞花(キンセンカ)

 西住みほが転校した。

 その情報は、光のような速さで黒森峰女学園全体に知れ渡る事になった。

 生徒が1人転校するというのは、頻繁にあるような事ではないが、どの学校でも起こりうる事だ。なので、普通ならばその転校した生徒と別に親しくもない生徒は、『そうなんだ』とか『どうしてだろうね』と言ってその話題はおしまいになってしまうだろう。

 だが、西住みほに限ってはそうはいかなかった。

 みほは、高校戦車道における強豪校として全国に名を馳せている黒森峰女学園の戦車隊で、副隊長を務めていたのだ。これだけであれば、そのみほが転校してしまった事は黒森峰女学園における戦車道履修生の間でしか話題にならないだろう。

 だが、それだけではなかった。

昨年の7月に行われた第62回戦車道全国高校生大会。黒森峰女学園は、前人未到の10連覇を目指していた。

 その決勝戦。相手は、黒森峰と同じように強豪校として知られているプラウダ高校。だが、対戦相手は別に気にすることではない。

 問題はその試合中。プラウダ高校の戦車が、みほが車長を務めるティーガーⅠの前を走行するⅢ号戦車J型を攻撃し川へと転落させる。それを見たみほは、フラッグ車であるにもかかわらず自らの戦車を降りてⅢ号戦車の乗員を助けようと川へと飛び込んだ。

 司令塔である車長を失ったティーガーⅠはその後どうすることもできず、プラウダ高校の戦車の砲撃を受けてしまい大破。そのティーガーⅠは先ほども述べた通りフラッグ車であったために、黒森峰女学園は敗北。

 プラウダ高校が優勝してしまい、黒森峰女学園の悲願の10連覇の夢は叶わなかった。

 この試合中にみほが取った行動は、ごく普通の一般人が見れば褒められたものだと思う。勝ち負けにこだわらず、自分の身を挺してまで仲間を救おうとしたのだから。選手の鑑と評する者も一部いたぐらいだ。

 だが、黒森峰女学園ではその意見は通用しない。

 そもそも黒森峰女学園は、日本戦車道における二大流派の一つ・西住流の息がかかっており、『撃てば必中 守りは固く 進む姿は乱れ無し 鉄の掟 鋼の心』をモットーとする西住流の影響を大きく受けている。黒森峰の隊長も西住流の後継者であるので、いわば黒森峰女学園の戦車道履修生は、ほぼ全員が西住流の門下生のようなものだった。

 そして西住流には、勝利を貴び犠牲無くして勝利は得られないという精神が根付いている。

 つまり西住流からすれば、みほは先の決勝戦で、黒森峰の勝利のために犠牲になったⅢ号戦車とその搭乗員にかまけて、黒森峰の勝利をみすみす逃してしまったというわけだ。

 当然ながら、西住流師範がそれを許すはずもない。たとえその人物が副隊長であっても、自分の娘であっても、師範―――西住しほは厳しい言葉をみほに浴びせた。

 それだけなら、恐らくみほは耐えられただろう。戦車道の世界に限らず、師範とその門下生がぶつかるというのは、割とよくある話だった。

 だが黒森峰女学園は、決勝戦を前にして『10連覇の夢は叶ったも同然、前人未到の領域に足を踏み入れた』と確信していた。

 自分の学校が他のどの学校にも成し得なかった偉業を成し遂げられると知れば、戦車道履修生でなくとも喜びを、期待を、希望を胸にしていた。

 それが、たった1人の起こした、たった1つのイレギュラーによって全て水泡に帰してしまったのだから、学校全体が落胆ムードに包まれてしまうのも必然と言える流れだ。

 加えて、勝敗がかかっているフラッグ車の車長は、日本でも由緒ある戦車道流派の直系の人間だった。勝利は約束されているはずだったのに、その人物が原因で黒森峰の勝利を逃してしまったのだ。

 黒森峰戦車隊にかかっていた期待は、失望や呆れなどの負の感情へ変わってしまった。

 最初はそれも小さな火であったが、その火は次第に大きくなっていき、ついには、そのイレギュラーを起こした張本人である西住みほ本人に不満がぶつけられてしまう。

 直接罵詈雑言がみほに向けられたというわけではない。ただ、陰口が目立つようになった。

 10連覇の夢を踏みにじった。

 裏切り者。

 西住流の面汚し。

 黒森峰の恥さらし。

 理不尽とも、言いがかりとも言える言葉もあったが、なまじ陰口であったために反論する事も難しい。

 中には、本当に面と向かって先ほどのような言葉を述べたり、机にカッターで傷をつけたり、上履きにゴミを詰めるなど、直接みほに害を与える輩までいたぐらいだった。

 挙句の果てには、戦車隊の隊長でありみほの実姉でもある西住まほは、みほを庇うような真似を一切しなかった。

 最後の頼れる存在とも言える姉のまほにさえ見放されてしまったみほは、ショックのあまり戦車道を辞める事を決意し、2年生になるのを待たずして黒森峰を去ってしまい、戦車道とは無縁の学校へと転校してしまった。

 みほが去った後は、一部の人間を除いて悲しむことは無く、むしろ『清々した』と言う生徒が多かったという。

 

 新学期を前にして、桜の木が芽吹き始める頃。

 黒森峰女学園学園艦にある1つの公園、桜の木の下に設えてあるベンチに、1人の少女が座っていた。

 やや癖のある、赤みがかった茶髪のショートヘアのその少女は、黒森峰女学園指定の黒のジャージを着ている。今は春休み期間中であるので、普通の人が見ればこの少女を見れば『トレーニングでもしていたのかな?』と言う感想を抱くだろう。

 事実彼女は、先ほどまでジョギングをしていたのだ。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 運動をした後なので顔がわずかに上気していて、額にも汗が浮かんでいるが、少女はそれを拭う事もせずに、ただ地面をじっと見つめている。傍に立つ桜の木は、満開とは言わずとも五分咲き、良くて七分咲きぐらいには咲いているというのに、少女の顔はそれとは対照的に暗く沈んでしまっていた。

 ジョギング中はこんな顔じゃなかったのに、と少女は思う。ジョギングをしている間だけは、自分の中にあるモヤモヤとか、頭の中を支配している嫌な思い出から目を逸らすことができたのだから。

 でも、いざ息が上がって休憩がてらベンチに座ると、目を背けていたものが一気に押し寄せてくる。否応なくそれを思い出してしまう。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 少女の名は、赤星小梅。この春から、黒森峰女学園2年生に進級する事が決まっている。

 そして、彼女は黒森峰女学園で、戦車道を履修している戦車隊の一員だ。

 もっと言えば彼女こそが、昨年の全国大会の決勝戦で、川に転落したⅢ号戦車の車長だった。

 

「・・・・・・・・・・・・う」

 

 自分の胸を、掴む。

 思い出すのは、西住みほの事だった。何もしていない時、ふと考えてしまうのはこのことばかりだ。

 みほは、自分たちのミスで川に落ちてしまった自分たちの事を助けるために、フラッグ車の車長であるにもかかわらず戦車を降りて川に潜って、自分たちを救ってくれた。

 でも、それは黒森峰女学園では、西住流では“道から外れた行動”と決めつけられてしまい、みほは矢面に立たされてしまった。

 そのみほが受けた仕打ちは、思い出すだけで涙が出てきてしまう。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅は、小梅を救ってくれたみほが皆から非難されているにもかかわらず、何もできなかった。

 何もできないまま、みほは黒森峰を去ってしまった。

 自分にとって大切な人が困っているのに、何もできない自分が情けなくて、悔しくて、悲しかった。

 

「・・・・・・・・・・・・うっ、ううっ・・・」

 

 堪える事の出来ない涙が、とめどなくあふれてくる。視界が歪み、地面に涙のシミがいくつもできる。手で目を抑えても、涙は止まらない。

 

「うぁ・・・・・・・・・・・・あぁ・・・・・・・・・・・・」

 

 声が漏れ出る。誰かに聞かれてしまうかもしれなかったが、それを気にする余裕など今の小梅にはない。

 あふれる感情のままに涙を流し続ける小梅の耳に、誰かの足音が入り込んできた。

 通りすがりの誰かだったら別にいい。でも、学校の誰かだったら嫌だった。今の小梅の服は黒森峰のジャージなのだから、黒森峰の生徒だというのはすぐにわかってしまう。もしかしたら興味を抱かれて深い詮索をされるかもしれない。でも小梅は、今はこの胸の中にある思い出に、感情には触れてほしくはなかった。

 足音が近づいてくる。

 でも、ここは黒森峰の学園艦なのだから、生徒に会う可能性は比較的高い。

 さらに、足音が近づいてくる。

 このまま、自分の前を通り過ぎてほしい。今の自分には、構ってほしくなかった。1人で、泣かせてほしかった。

 でも、それとは裏腹に足音の主は、小梅の近くで歩を止めてしまう。

 それでも、構わず小梅は涙を流し続ける。嗚咽を洩らして、俯いたまま顔を上げようとはしない。

 

「・・・・・・大丈夫ですか?」

 

 足音の主であろう人物は、声を掛けてきた。その声は、男のものだ。

 誰に?決まっている、小梅にだ。

 声を掛けられても、顔を上げたくはなかった。でも、声の主は一向にここを離れる気配がしないので、涙ぐみながらも顔を上げて、その人の顔を見る。

 声を掛けてきたのは、小梅より少し背の高い、けれど自分と同じような年頃の少年だった。短い黒髪に、優しそうな目が特徴的だ。着ている服は、白のシャツに黒いデニムと、決して悪い印象は抱けない。

 その少年は、心配そうな顔で小梅の事を見下ろしていた。

 

「どこか・・・具合でも悪いんですか?」

 

 それだけの言葉だったが、小梅にとってはもう随分と聞いていないような優しい言葉だった。

 あの決勝戦以降、友達とは疎遠だったし、あの時一緒に戦車に乗っていた人たちも今はもういない。

 小梅は今、この黒森峰学園艦で孤独に近かった。

 そんな中。この名前も知らない人は、小梅に優しい声を掛けてくれた。

 それがどうしようもなく嬉しくて――――

 

「・・・・・・・・・・・・う、うぁぁ・・・」

「え、ちょっと、本当に大丈夫ですか!?」

 

 小梅はまた、涙を流してしまった。

 少年は、本当に小梅がどこか体調が悪いのかと心配して救急車まで呼び出そうとしたが、それは流石にやめてほしいと小梅が涙混じりに制止した。

 さらにこの状況が変に見えたらしく、公園の外を歩いていたおじいさんから疑惑の眼差しを向けられてしまい、さらなる混乱を招いてしまった。

 

 やがて小梅の涙が収まって呼吸も整い、一息ついたところで、声を掛けてくれた少年にお礼とお詫びをする。

 

「ごめんなさい。なんだか、迷惑をかけてしまって・・・・・・」

「いえ、大丈夫です。僕の方こそ、急に声を掛けたりしてすみませんでした」

 

 少年もまた頭を下げる。謝りたいのは小梅の方だったのに、少年にまで謝らせてしまうとは。また小梅は、自分のちっぽけさを嘆きそうになる。

 

「名乗りもしないで、すみません。僕は織部春貴(おりべはるき)。この春から高校2年生になる、ただの学生です」

 

 相手が名乗ったのだから自分も名乗らなければならない。小梅はそう思い、自分も名乗ることにした。

 

「私は・・・赤星小梅って言います。見ての通り黒森峰の学生で、私ももうすぐ2年生になるんです」

「・・・と言う事は、同い年ですか」

「そうなりますね・・・」

 

 同い年だからと言って、初対面であることに変わりは無い。それは置いておき、織部は改めて尋ねる。

 

「それで・・・・・・さっきはどうしたんですか?随分・・・泣いていましたけど・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 言われて小梅は、また思い出してしまう。

 これまでのみほと自分を取り巻く環境、そして今に至るまでの経緯。

 そして胸の内に暗い感情が浮かび上がり、目頭が熱くなってきてしまう。

 

「あ、話したくないなら、無理に話さなくてもいいですよ。嫌な事を思い出させてしまったみたいなら、素直に謝ります」

「いえ・・・大丈夫、です・・・・・・」

 

 口では大丈夫と言っていても、小梅は目を抑えて涙が流れないように堪えている。

 織部はそんな苦しんでいる小梅をどうにかしたかった。目の前で女の子が泣いていて、黙って見過ごせない。

 織部はそこで、かつて自分が涙を流した時に親からしてもらった事を思い出し、それを実行する。

 

「・・・・・・ちょっと、失礼します」

 

 織部は、小梅の背中を優しく撫でた。小梅からすれば予想外の出来事だったのだが、驚きはしたものの忌避感は抱かず、不思議と安心するような気持ちになることができた。

 込み上げてきた涙も、徐々に引いていく。

 胸の内に渦巻く暗い感情も、晴れていく。

 織部の手を背中に感じた小梅は、自分でもリラックスしていると分かる。

 少しの間背中を撫でた織部はやがて、手を離す。小梅は、少し目が赤くなってしまっていたが、それでも自分の事を慰めてくれたことに関しては礼を言う。

 

「ありがとうございます。少し、楽になりました」

「それはよかった」

 

 せっかく小梅が落ち着いたのだ。これ以上深入りをしてまた悲しませるわけにはいかない。

 だから織部は、何も聞かずに笑顔を小梅に向ける。

 

「・・・・・・心配をかけてしまって、すみませんでした」

「いや、元気になったようでよかったです」

 

 小梅が頭を下げるが、織部は気にしていない風に手を振る。

 

「何かお詫びをしないと・・・・・・」

「いやそんな・・・・・・お詫びが欲しくてああしたわけでもないですし」

「でも・・・・・・」

 

 小梅がせめて何かお礼がしたいと言うが、織部はそれをやんわりと否定する。別に格好つけているとか良いところを見せておきたいとかそう言うわけではなくて、単純に恐れ多いからだ。

 小梅も、相手が善意で断っていると知り、これ以上押し付けるのも悪いと思って、改めて感謝の言葉を述べることにした。

 

「・・・・・・ありがとうございます」

「では、僕はこれで」

 

 織部は踵を返して公園を出ようとするが、その背中を小梅は呼び止める。

 

「あ、あのっ」

「はい?」

 

 1人で泣いていた小梅の事を心配して声を掛けて来てくれて、お互いに名前を知り、泣きそうになった自分の事を慰めてくれてくれたのだ。これっきりで別れてしまうというのは少しもの悲しい。

 

「・・・・・・また、会えたりしますか?」

 

 小梅の言葉を受けて織部は少し考えるが、やがてふっと笑って答えた。

 

「・・・会えます。きっと」

 

 そして織部は会釈をして、公園から去って行った。

 その織部の背中を、小梅は見えなくなるまで見つめ続ける。が、織部が曲がり角を曲がった事で背中が見えなくなってから、小梅はふと思った。

 ここは黒森峰女学園の学園艦で、先ほどの織部のような同年代の男子がいるという事自体稀だ。

 きっと織部も何らかの理由があって、一時的にここにいるのだろう。

 という事は、春休みが終わってしまえば織部はここからいなくなってしまう。

 それは織部も分かっていた事だろうに『きっと会える』と言ったのは、おそらく社交辞令か小梅を傷つけないための心遣いだろう。

 それに気づき、小梅は少し肩を落とす。だがすぐに頭を振って、もう会えないのが寂しいとか悲しいとかそんな考えを払拭する。

 初めて会った人なのに、何を当てにしているのか。

 今自分の中に渦巻く心配事や不安要素は、すべて自分で何とかしなければならないものだ。

 見ず知らずの人に頼ろうなんて、生ぬるい。

 小梅はそう思い、ジョギングを再開した。

 先ほどまでは感情のままに涙を流していたのに、今は頭が冷静に働いているあたり、小梅も真面目な校風で通っている黒森峰女学園の生徒の1人だと言える。

 けれど、先ほどまで背中に当てられていた織部の手の感触と温かさだけは、忘れられなかった。




キンセンカ
科・属名:キク科キンセンカ属
学名:Calendula officinalis
和名:金盞花
別名:カレンデュラ、ポットマリーゴールド
原産地:地中海沿岸
花言葉:失望、悲嘆、寂しさ、別れの苦しみ


赤星小梅編、スタートです。
全体的に暗い幕開けとなりましたが、
ここまで読んでくださりありがとうございます。

ご指摘、ご感想等があればお気軽にどうぞ。


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小町藤(コマチフジ)

 逃げ出したい。

 心の中ではそう叫んでいるが、現実ではそんなことは許されない。廊下を歩く織部の視線はタイル張りの床に向いたまま、前を歩く先生の歩調に合わせて、織部も仕方なく脚を動かしている。だが織部には、その脚がまるで自分の意志に反して動いているような感覚だった。

 階段を上りいくつもの教室を通り過ぎて、やがて1つの教室の前にたどり着く先生と織部。

 先に先生がドアを開けて教室の中に入っていく。織部は教室の中から見えない位置で、先生から呼ばれるのを待つ。

 中で先生が何かを言っているが、緊張感が頂点に達している織部の耳にはろくに内容も入ってこない。

 握りしめられた両の手にも、背中にも、額にも、緊張による汗が滲んでいるのが分かる。

 呼吸が早くなり、胸の鼓動も高鳴る。高鳴る鼓動を抑えようと自らの胸に手を当てたところで。

 

「では、中にどうぞ」

 

 ついに先生から呼ばれて、織部は足を教室の中へと踏み入れる。

 その瞬間、教室にいた生徒たちは驚きの声を上げた。特に、一番廊下寄りの一番前の席に座っている少女など、驚きの余り声も上げられず口を大きく開けていた。その少女に限らず、他の生徒たちも似たように口元を抑えていたり、隣同士でヒソヒソと話をしたりしていた。

 『質実剛健』、『謹厳実直』というモットーが掲げられているこの学校の生徒にしては少々狼狽えすぎな気がするが、無理もない事だと織部自身は思っている。

 何せ、自分はこの学校においては完全なる異端なのだから。言わば、色とりどりの宝石が詰まる宝石箱の中に薄汚い石ころが1つ混ざるようなものだ。

 

「自己紹介をお願いします」

 

 先生に促されて、織部は黒板の前で姿勢を正し、目の前にいる総勢30人以上の生徒全員に顔が見えるように、そして全員に聞こえるように挨拶をした。

 

「今年度から当面の間、黒森峰女学園に留学することになりました、織部春貴と言います。どうぞ、よろしくお願いします」

 

 黒森峰女学園は、校名からも分かる通り女子校だ。

 そして織部は、正真正銘の男。

 だが織部の服は、黒い襟にグレーのシャツと上は女子と同じだが、下は黒のスラックス。シャツの襟には白い十字が縫い付けられている。スラックスとスカートという違いがあるものの、織部の着ている服は黒森峰女学園の制服だ。

 本来ならば、男の織部が女子校に留学するなどあり得ない事だ。ましてや留学先は、勤勉で真面目というイメージが全国で定着している、かの有名な黒森峰女学園。

 だが実際に、織部はこうして黒森峰女学園に留学しており、校長からの許可もある。

 なぜ、このような異例の事態が起きてしまったのか。その経緯は、先生の口から簡単に説明された。

 

「織部さんは将来、日本戦車道連盟に就く事を考えていて、その話が日本戦車道連盟と高校戦車道連盟に伝わり、しばらくの間この黒森峰で戦車道について学ぶ事になりました」

 

 先生の言葉を聞いても、納得できないという生徒は大勢いる。

 見たところ、織部は別に目立ったところはないごく普通の一般的な高校生だ。その高校生の夢が日本戦車道連盟に就くという事はまだ分かる。だが、どうしてその話が急に戦車道連盟にまで伝わるのか。

 それと、将来戦車道連盟に就くために戦車道を勉強するというのも分かるが、なぜ女子校の黒森峰に来るのか。共学で戦車道の授業がある学校は他にもあるというのに。

 分からないことだらけだったが、先生は説明は終わったと言わんばかりに、織部を席に座るよう促す。

 織部に用意されたのは、一番窓際で一番後ろの席だ。あくまで織部は留学生であって、言ってしまえば後付けなので、この位置なのは当然だろう。

 しかし、織部の隣と前の席に座る女子は、織部の事を興味深そうに見ている。織部が『よろしく』と挨拶をしても、相手はぎこちなく返事をするだけだ。織部はこれも仕方ないなと割り切ることにする。

 今日は新学期1日目という事もあり、まずはクラス全員の自己紹介という事になった。

 黒森峰女学園は1年生から2年生に進級する際にクラス替えが行われるが、2年生から3年生に進級する時はクラス替えは無い。つまり(織部はさておき)このクラスにいる生徒たちは、卒業するまで同じクラスと言うわけだ。

 一番廊下側の一番前の席にいる、出席番号1番の生徒が立ち上がり、黒板の前に立つ。織部が教室に入った時口を大きく開けて驚いていた子だ。

 だが、その生徒の顔は織部の記憶にもある、見た顔だった。

 やや癖のある赤みがかった茶髪のショートヘア。着ている服はあの時とは違って黒森峰の制服だが、その顔は忘れた事などない。

春休みに会った、桜の木の下で泣いていたあの子だ。

 

「出席番号1番、赤星小梅です。よろしくお願いします」

 

 飾らないシンプルな自己紹介をする小梅。

教室の中からはまばらな拍手が起き、織部も拍手をする。

 小梅が席に戻ると、その後ろに座る生徒が立ち上がり、前に立って自己紹介をする。内容は小梅と同じように自分の名前と挨拶だけだったが、小梅の時と比べると拍手をする生徒の数が心なしか多い気がする。

 その後も順番にクラスメイトの自己紹介が進んでいき、織部の前の席に座る一番最後の生徒が自己紹介を終えたが、織部は呼ばれなかった。一番最初にこの教室に来た際に自己紹介をしたので、当然と言えば当然のことだが。

 そして、自己紹介をしてきた中で小梅の時だけ拍手が小さかった気がしたのは、織部の気のせいだろうか。

 

 休み時間は、1年生の時に同じクラスだった者同士、クラスは違えど交友があった者同士で話をしている傍ら、織部は1人教室の隅で机に座り、珍しいものを見る目で見られる中で黒森峰の生徒手帳を見ていた。

 小梅はチラチラと織部の事を見ていたが、結局近づきも話しかけもせずに、織部同様1人で休み時間を過ごしていた。

 織部は春休みに小梅とコンタクトがあった事で、休み時間にでも話しかけてみようかと最初思っていた。しかし、自己紹介の際に小梅の時だけ拍手が小さかったことから、クラスの何人かが小梅に対して何らかの感情を抱いているというのが推測できる。

 そしておそらく、その感情とはプラス方面のものではないというのも。

イレギュラーな存在の自分がそんな小梅に声を掛けて、余計小梅に注目を集めさせるのはマズいと思い、話しかけるのは控えることにした。

 

 新学期初日という事もあり通常授業は無く、オリエンテーションだけで半日が経過し、昼食を摂る事無く生徒たちは下校となった。

 織部は新しい環境で、周りからの好奇の視線に晒されながらもなんとか1日を乗り切り、緊張から解放されたことで『ふぅ~』と息を吐き、教室を後にする。

 昇降口までの間でも、織部のクラスの生徒はもちろん、他の生徒からも驚嘆と興味の入り混じった視線を浴びる事になる。

 その多くの視線から逃げるように昇降口へと早歩きで向かい、さっさと靴を履き替えて校門を通り過ぎ学校の外に出る。

 そう言えば昼ごはん食べてないしどうしようかと思ったところで、声がかかった。

 

「織部さん」

 

 その声は、織部も聞き覚えがあるものだ。声を掛けてきた人物を予測し、その声のした方向を見れば、予想通りの人物が立っていた。

 

「赤星さん、どうしました?」

「あの時はどうも・・・」

 

 小梅が頭を下げる。

 あの時というのは、春休みに公園で会った時のことを言っているのだろう。織部と小梅が話をしたのはあの時しかないので、それ以外考えられない。

 

「まさか、こんな形で再会するなんて、思いませんでした・・・」

「・・・そうだね。僕も会えるなんて思わなかったです」

 

 校門の前で向かい合う2人。

 だが、自分たちと同年代の男が黒森峰の制服を着ているのと、“あの”赤星小梅がその男と一緒に話しているのが奇異に映ったのか、周りからの注目を集めてしまう。

 周りからの注目を集めている事に先に気付いた織部が、小梅と話をしたいのはやまやまだったのだが、この状況で話を続けるのは少し気まずいため、場所を移す事にする。

 だが、ただ場所を移そうと言っても理由を聞かれるかもしれない。それを聞かれてすらすらと答えられる自信が織部には無いので、何か適当に理由をつけることにした。

 

「・・・そうだ、赤星さん」

「はい?」

「・・・昼ごはんはまだですか?」

「え、はい・・・まだです」

「良ければ、一緒にどうです?」

 

 昼時だったので食事がてら話をすればいいと思って言ったのだが、これでは余計に周りからの誤解を招くだけではないか。それに、小梅と織部の面識は春休みのあの時、1度しかない。そんな相手から急に食事に誘われたら誰だった怪しむだろうに。

 自分の言った言葉の重さに気付いて、恐る恐る小梅の顔を伺うと、予想通り小梅は拍子抜けしたような顔をしていた。けれど、すぐに表情を綻ばせて織部の事を見る。

 

「・・・ええ、いいですよ。私も、あの時のお礼がしたいですし」

 

 とりあえず、不信感は抱かれなかったようだ。織部は心の中でホッとする。

 けれど、小梅が表情に出さずとも心の中では警戒心を解いていないという事も十分あり得る。

 悪い印象を与えてしまったな、と織部は反省する。

 しかし織部は気付いていないが、小梅は織部が自分を食事に誘ってくれたことが嬉しかったのだ。

 春休みに出会い、もう2度と会うことは無いと思っていた人物とまた会う事できたのだから。

 

 黒森峰学園艦は建学時から西住流と、18世紀頃から西住流と交流があったプロイセン及びその後に生まれたドイツの影響を色濃く受けており、学園艦全体がドイツ気質、つまり勤勉で真面目なイメージがある。

 さらに、戦車道強豪校ということで練習場が広く設けてあり、甲板上の人が生活をする居住区以外のスペースは、全て戦車道の練習場になっていた。

そして勤勉で真面目というイメージ通り、黒森峰学園艦には学生寮の他にはスーパーや病院、書店、コンビニなど必要最低限の施設しかなく、ゲームセンターや映画館などの娯楽施設は存在しない(映画館がある学園艦は稀だが)。

 だが、戦車道の強豪校という事もあって、戦車にまつわるありとあらゆる商品を販売する戦車専門店『せんしゃ倶楽部』、トレーニングジム、そして主に戦車道での疲れを癒すための温浴施設は完備されている。

 また、料理店もある。種類は定食屋、大手チェーンのファミレス、そしてドイツ料理店の3種類しかないが。

 その中で織部と小梅が昼食を摂るために訪れたのは、ドイツ料理店だ。広さはそこそこ。この店は8時から22時まで営業しており、19時を過ぎると黒森峰学園艦名物・ノンアルコールビールの1杯無料サービスが提供される。それ目当てで夕食はこの店で食べる人も多い。

 今はちょうどお昼時と言うのもあって大半の席が埋まっていたが、空いている席も少し残っていた。織部と小梅は店員に2人掛けの空いている席に通される。

 案内された席まで向かう間に、織部は店内を見渡す。春休みに1度黒森峰学園艦を訪れた際にこの店に来た事があるのだが、それでも見慣れない場所に足を踏み入れたので、周りへの関心が高い。

 やはりここは黒森峰学園艦なので、客の半数以上を占めているのは黒森峰の生徒だ。だが、皆食事やお喋りに夢中で織部や小梅には気づいていない。中には、ハンバーグを満面の笑みで食している銀髪の少女もいたが、あんなに美味しそうに食べているのを見れば料理人としては嬉しいだろうし、今食べられているハンバーグもハンバーグ冥利に尽きるというものだろう、等と下らない事を考えながら織部は店内を歩く。

 いくら学園艦全体が勤勉で真面目な雰囲気があっても、そこで生活する人々も四六時中肩肘張って過ごしているというわけではない。そんな生活を続けていれば無駄に疲弊してしまう。なので、黒森峰の人間は各々適度な息抜きの仕方を身につけている。それは読書だったり、身体を動かす事だったり、こういった場所での仲間との談話だったりする。

 やがて織部は、小梅と向かい合う形で案内された席に着く。

 食事に誘ったのは織部の方で、あの場で話をするのは少し人の目が合ったのでマズいと思っての事だったのだ。

 だから、何か話し始めるのならまずは織部から会話を始めるのが普通だろう。

 しかし、いざ面と向かって向かい合うと言葉が出てこない。

 織部の人生で、身内でもない女性と向かい合って座り食事をするという場面に直面したことは1度も無い。初めてのことに対する緊張も相まって、上手い言葉が出てこない。

 何から話そうかと思っていたところで、小梅が口を開いた。

 

「あの・・・・・・織部さん」

「あ、はい」

「・・・改めて、お久しぶりです」

「ああ、そうですね・・・」

 

 織部の記憶に間違いが無ければ、小梅とあの公園で会ったのは新学期が始まる1カ月ほど前ぐらいだったか。

 桜の木の下で泣いていた女の子に声を掛けて、その子の背中を撫でて慰めたなんて経験はそうそうない。織部としてもあんなことをしたのは初めてだったので、あの時のことは、織部の記憶にもしっかりと刻まれている。

 その子とまさか、こんな形で再会する事になるとは思わなかった。

 

「でも、びっくりしました・・・。まさか男の織部さんが、女子校の黒森峰に留学してくるなんて」

「いや、それは僕自身も驚いてます」

「先生はああ言ってましたけど・・・一体どうして・・・」

 

 あの先生の説明では少々説明不足だろうな、とは紹介された織部も分かっていた。あれで納得できる人はそうそういないだろう。

 

「・・・大体は先生の言った通りですよ。でも、少し補足すると・・・。そうですね・・・・・・」

 

 店員が運んできた水を一口飲んで、考えをまとめてから話し出す。

 

「僕は・・・個人的に日本戦車道連盟とつながりがあるんです。それで、僕が将来戦車道連盟で働きたいって話が伝わって・・・」

「戦車道連盟に?どうして・・・・・・」

 

 日本戦車道連盟とは、社会人・学生を問わず国内の戦車道の指導及び管理、さらに公式戦の運営と開催を行っている組織である。その連盟と個人的なコンタクトがあるというだけで驚きだった。

 

「もしかして、家に戦車道連盟の関係者がいるとか?」

「いや、そうではなくて」

「じゃあ、プロ戦車道選手が身内にいるとか・・・」

「そうでもなくて・・・・・・」

 

 そこで、小梅はぐいぐいと質問してしまった事に気付き『ごめんなさい・・・』と小さく謝る。織部はそれに笑顔で『大丈夫だよ』と告げると、話を続ける。

 

「・・・それで、この黒森峰女学園は西住流の影響を大きく受けていて、その西住流の家元の西住しほさんが高校戦車道連盟の理事長も務めているから、その人にも話が伝わって―――」

 

 そこで織部は気付いた。

 織部の話を聞き始めた時は別に変った所の無かった小梅の表情が、今はほんの少しだが陰っている。

 自分が何か変な事を言ってしまっただろうか。いや、織部が黒森峰に来た経緯そのものは誰がどう聞いても変だと思うだろうが、恐らくそれ以外の要因がある。

 だが、何を聞いて小梅は落ち込んでしまったのかは、残念ながら今の織部には分からない。

 

「・・・・・・あ、何か食べましょうか」

 

 とりあえず、この話を続けるのはまずい。そう思い織部は話題を変えることにした。

 

「・・・そうですね」

 

 小梅は、織部の話の中で出てきた“ある単語”を聞いて、自分の顔が沈んでしまっているのは分かっていた。そして、織部はそれに気づいたうえで小梅を気遣って話題を変えてくれた。

 それが小梅には何よりありがたかったし、自分みたいな人のことを気遣ってくれたことが嬉しかった。

 お互いにメニューを見て、悩んだ末に織部はシュニッツェル、小梅はクネーデルを注文することにした。

 そして料理が来るまでの間、またしてもお互いに沈黙してしまう。

 さっきの織部がここに来た経緯の話で小梅が落ち込んでしまったのは、多分“何か”がきっかけになっているのだろう。

 そのきっかけが分からない以上、どのような話をすればいいのか織部には分からない。

 何を話したらいいだろうかと織部が頭を働かせていたところで、黒森峰の制服を着た少女たちが、織部と小梅の座るテーブルの脇を通り過ぎる。

 その少女たちが、小梅を見てヒソヒソと何かを話しているのを織部は聞き逃さなかった。

 そして、小梅がそのヒソヒソ話を聞いてまた落ち込んでしまったのも、織部は見逃さない。

 そこで織部は、確信した。

 最初にあの公園で出会った時も思ったが、恐らく小梅の心には“何か”が突き刺さっている。それは、簡単には取り除けないような大きなどす黒い―――多分過去や記憶、辛い思い出だろう。

 

「・・・・・・赤星さん」

「あ、はい。なんでしょう?」

 

 小梅が落ち込んだ表情を引っ込めて、織部の言葉を待つ。

 まだろくに話もしていない相手に対してこんなことを聞くというのは、少し配慮が足りていないんじゃないだろうか、デリカシーに欠けているんじゃないか、と織部は自問自答する。

 しかし、このままでは小梅の心に突き刺さっている“何か”を知ることができない。それに、小梅はその“何か”にずっと苦しまされてしまうだろう。

 織部はその小梅の心に突き刺さっているものが何かを聞いて、その上で自分が何かできるという保証はない。

 けれど、このまま小梅を放っておくことなんてできない。

 初めて会った時に声を掛けたのも、1人で泣いている女の子を放ってなんておけなかったからだ。

 織部が目の前で苦しんでいる人を助けたいと自然に思えるのは、織部自身が優しい性格をしているのもあるし、織部の“過去”もあるのだが、そのことは今は置いておく。

 だから、少々危ない橋を渡るという事は分かっているが、織部は聞いた。

 

「・・・・・・何か、あったんですか?最初に会った時もそうですが、ひどく落ち込んだ様子で・・・」

「っ・・・・・・」

 

 小梅は、触れてほしくないところに触れられた、と言わんばかりに胸の前で左手を握る。膝に置かれていた右手も、握られる。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅は迷う。

 織部は、最初に公園で泣いていた自分を慰めてくれた時や、先ほど自分が落ち込んでいるのを見て話題を変えてくれたのを見るに、悪い人ではなさそうだ。

 それに、これまでの小梅の態度には織部を心配させてしまうような箇所がいくつもあったのは、自分でもわかっている。織部はそれが心配で先ほどのような質問をしてきたのも、小梅は理解していた。

 そこまで分かっていても、小梅は自分の中にある不安や恐れ、悩みを織部に話すのはまだできなかった。

 それは、いくら織部が悪い人ではなさそうだと思っていても、まだ出会ってから間もない相手に自分の恐れている事や不安な事を告げるなんて、相手からすれば迷惑かもしれないからだ。

 それに、小梅は自分の心の内にある問題は全て、自分の手で解決しなければならない事だと思っていた。

 故に小梅は、こう言う。

 

「・・・・・・ごめんなさい・・・。話すのは、まだ少し・・・・・・」

 

 まだ、と言ってしまったのは、小梅の心にもほんの少しだけ、自分の中にある悩みや不安を少しでもいいから聞いてほしい、言いたいという気持ちがあったからだ。

 小梅の言葉を聞いた織部は。

 

「・・・分かりました。今は、聞かないでおきます」

 

 やはり織部も、出会って間もない、長い時を積み重ねて向き合ってきたわけでもない相手からいきなり『何かあったの?』と聞かれて、何も考えず自分の事をぺらぺら話すようなことを小梅はしないだろうと、思っていた。

 初めて会った時、なぜ泣いていたのかを言わなかった事から、小梅は口が軽いようには思えない。そして今、恐らく小梅は『出会って間もない相手に自分の心中を吐露するなんて相手からすれば迷惑かもしれない』と思っているだろうと織部は考えていた。

 だから、話すのを断られてもショックはなかった。まあ、自分が信用に足りない人物に見えたか、と少し落ち込みはしたが。

 けれど、垣間見えた小梅の落ち込んだ様子は忘れようと思っても忘れられない事だし、初めて出会った時に小梅が泣いている理由もまだ聞いていない。いつかは、小梅自身の口から本心を聞きたいと思い、あえて“今は”とだけ言った。

 そこで店員が注文していた料理を持ってきたので、会話を打ち切ってまずは目の前の料理を食べることに専念する織部と小梅。

 

 織部は、あの公園で最初に小梅の事を見た時、放っておけないと率直に感じた。

 小梅が泣いていた理由は今も分からないが、人目も憚らず泣いているなんて何か大きな理由があるに違いない。

 どうして小梅は、あの時泣いていたのか。

どうして小梅は、度々落ち込んだ表情を見せるのか。

 織部にはそれが分からなかったし、気がかりでもあった。小梅に気があるとかそう言うわけではないが、織部は一度ある事柄が気になってしまうと、それに囚われ拘ってしまう性分なのだ。

 だからといって、小梅の心の中に土足で入り込むような真似はしない。

 織部は小梅が自分から話してくれるまで、待つだけだ。

 平たく言えば織部は、小梅の事を放っておけなくなったのだ。




コマチフジ
科・属名:マメ科ハーデンベルギア属
学名:Hardenbergia violacea
和名:小町藤
原産地:オーストラリア東部沿岸地帯~タスマニア
花言葉:奇跡的な再会


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麝香豌豆(スイートピー)

今回、筆者が独自に名前を付けた、アニメにも登場したモブキャラクターが
出てきます。
ご了承ください。


 食事を終えた織部と小梅は、店の面している通りへと出る。

 会計は、小梅が『最初に会った時のお礼がしたい』と言って、頑なに織部が財布からお金を出すのを拒んだ。織部も女の子に全額払わせるというのは忍びないと思って、小梅が財布を取り出そうとするのを止めさせる。

 最終的に割り勘という結果に落ち着いたが、小梅にはまだ少し負い目があるように見える。織部は小梅の事を思い『気にしなくていい』とは言ったが、恐らくそれでは小梅も吹っ切れないだろう。

 お互いにそれぞれの寮へと向かう間、2人の間に会話はない。

 織部は先ほどの店での会話で、何らかの単語が小梅を落ち込ませる原因になっていると分かっていた。けれど、その単語が何なのかが分からないために、迂闊に話しかけることができない。

 一方小梅は、まだ織部との距離感が掴めていないために、何を話しかけようか迷っていた。落ち込んでいる自分の事を気遣って話題を変えたり、相談に乗ろうとしてくれたのは素直に嬉しかった。けれど、織部とはまだ出会って間もない。それが小梅の中に不信感を募らせる原因となっているため、話したくても話せない。

 そんな調子である交差点に着いたところで、小梅が足を止める。

 

「じゃ、じゃあ・・・私の寮、こっちですので・・・」

「あ、ああ。うん、僕はこっちだから・・・それでは」

「はい・・・・・・」

 

 曖昧な感じで別れてしまう織部と小梅。だが、小梅はそこで振り返って織部の事を呼び止める。

 

「あのっ、織部さん」

「・・・?」

 

 小梅は、織部が心配してくれているにもかかわらず、何も話せない事が申し訳なかった。このままでは恐らく織部は、小梅の事を気にかけたまま、心に蟠りを抱えたままだろう。それを少しでも和らげるために。

 

「・・・また、明日」

 

 笑顔を織部に向けて、明日また会う事を誓い合う。

 最初に会ったあの時、小梅も織部も、もうお互いに会えないと思っていたが今は違う。小梅がいるのと同じ黒森峰という場所に、織部はいる。

 だから、織部が心に蟠りを抱えたまま、もう小梅に会えないとは思わせないように、明日もまた会えるという事を、伝えた。

 

「・・・・・・はい、また明日」

 

 織部も、微笑んで挨拶を返す。そして、背を向けて自分の寮へと戻って行った。

 小梅は、そんな織部の背中を見つめたまま、肩を落とす。

 

(・・・・・・ごめんなさい、織部さん・・・)

 

 まだ本心を話せるほど打ち解けてはいない織部に対して、自分の事を心配させてしまった事を小梅は謝る。

 

(でも、いつか・・・・・・あなたには、私の思いを聞いてもらいたい・・・)

 

 だからこそ、心配をさせてしまった事への償いとして、いずれは自分の口から本心を告げなければならないと小梅は思っていた。

 

 織部は1人で寮へと戻る間、小梅の最後の笑みを思い浮かべていた。

 あの清らかな、澄んでいるような笑み。

 思えば、あのような笑みを見たのは初めてだ。それほど小梅と出会ってから時も経ってはいないが、小梅はずっと落ち込んでいるように見えて、自然な笑顔と言うものを見たのはさっきが初めてだ。

 だから織部は、小梅の笑顔を見ることができて少し安心した。

 笑うこともできないほど落ち込んでいるようでは、流石に自分の手に余ることかもしれないと思っていたから。

 ともかく、いずれは小梅の口から何があったのかを話してもらいたかった。少し図々しいという自覚はあるが、一度小梅が泣いているのを見た以上、その理由は知りたかった。

 けれど、もしその理由を聞けたとしても、その後どうするかは織部にはまだ分からない。

 だが、織部も他人から見れば辛い“過去”を背負ってきた者だ。普通に生きていては経験することができないだろう“経験”から、何かアドバイスができるかもしれない。

 まずは自分が、小梅が本音を話すことができるように、心が開くまで待つことにしよう。

 そうこう考えているうちに、自分の住む寮へと戻ってきた。

 寮と言っても、2人以上で一部屋だとか、門限が決まっているとか、食事は寮の食堂でとか、そう言う寮ではない。ごく一般的な賃貸マンションのようなタイプの寮で、外見は違えど中身は一律して1Kの寮がいくつも艦上にある。どの部屋も一人一部屋で、基本自炊。けれど自炊できない人や、戦車道の訓練等で料理する時間が無い人のために学校の食堂は夜の9時ごろまで開いている。

 寮の形式は基本的にどの学園艦も同じだが、聖グロリアーナのように食堂が付設されている寮があったり、中には一軒家を貸し出してルームシェアを推奨するような場所もある。学園艦上に実家があるという学生も少なからずいるが、どのような事にも例外はつきものだ。

 元々、学園艦が存在する理由の一つに『学生の自主独立心を養い高度な学生自治を行うため』というのがある。なので、一昔前の学生寮のように大人が生活を管理せず、生徒一人一人に一人暮らしという形で自立をさせることで、自主独立心をより高めようという狙いも学校側にあった。故に、どの学校でも寮暮らしは推奨されている。無論、家具家電全てを学生に用意させるというのは負担が大きすぎるので、最低限の家具や家電はあらかじめ支給されている。

 織部が留学中に滞在することを許されたのは、黒森峰の第2女子寮だ。ちょうどよく空き部屋があったので、留学期間が終わるまではここに滞在する事になっている。

 貸し与えられた部屋は、最上階で一番階段より遠い所に位置している。少々不便ではあるが、所詮織部は仮でここに住む事になっているのだ。待遇に愚痴を言う資格はない。

 部屋に戻ると、まだ見慣れていない自分の部屋が目に飛び込んでくる。壁に沿って置かれたベッドに小さなテーブル、ベッドとは反対側の壁に向かって置かれた学習机。何の変哲もない、ごく一般的な間取りとレイアウトだ。

 織部は最初の登校日で緊張し、小梅に面と向き合って食事をして、小梅の泣いた理由と落ち込んだ原因を考えてしまい、知らないうちに気疲れしてしまった。

 ベッドに仰向けに倒れこみ、天井を見上げる。

 

(・・・・・・ここまで、来たのか)

 

 織部は、寝転んだまま自分の制服を触る。1年生の間通っていた高校の制服とは正反対のグレーのシャツを握り、自分は間違いなく黒森峰にやってきたのだと改めて実感する。

 ほんの少しの間だけ、織部は目を閉じてここに来るまでの事を思い出す。

 前に1年間だけ通っていた高校では、自分の真剣さと誠実さを認めてもらうために、必死に勉強をしてきた。それは、一般教養のみならず、戦車道の事もだ。

 黒森峰への留学が決定した時は、クラスの男子共からは嫉妬と羨望の入り混じった視線を向けられた。戦車道を知らない人からすれば黒森峰は、ぶっちゃけ『女子のレベルが高いお嬢様学校』という認識だ。そんな学校に行けるなんて、羨ましい、代わってほしい。そんな悲喜こもごもな思いを背に受けて織部はここまでやってきた。

 だが織部は黒森峰に別に遊びに来たわけではなく、将来のための勉強をしに来たのである。『周りが女の子ばかりだ!』なんて純粋には喜ばないし、心の中で喜びもしない。

 中学の時は、明確に決まった将来のために、そして“失った3カ月”を取り戻すために人並み以上に努力を積み重ねてきた。

 そして戦車道に初めて出会った時―――

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 そこで織部は、思い出しそうになる。

 織部が戦車道と出会う事になった、そもそものきっかけを。

 

「・・・・・・・・・・・くっ」

 

 あの時のことは、4年以上経った今でも思い出すだけで胸糞悪い。虫酸が走る。

 織部は立ち上がって制服から私服に着替え、夕食の食材を買うために財布と携帯を持って準備する。一応、1年生の間にいた高校でも自炊はしていたので、新天地であっても生活できるスキルは持っている。

 だが織部は、頭の片隅に浮かび上がった過去の思い出を払拭するかのように、乱暴に玄関のドアを閉めてスーパーへと向かった。

 

 夜、小梅は自分の部屋の布団の上で、目を開けたままだった。

 思い出すのは、織部の事だ。

 初めて出会った時も、今日一緒に食事をしたことも、小梅にとっては全てが新鮮に思えた。落ち込んで泣いていた自分に声を掛けて来てくれたこともそうだし、今日のように家族以外の男の人と2人で食事をしたというのも初めての出来事だったから。

 けれど、自分の表情はどこか沈んでいたという自覚はある。それで織部を心配させてしまったのも、分かっていた。

 織部には悪い事をしてしまった、と小梅は思っている。

 だが、小梅にはもう1つ思う事がある。

 どうして織部は、そこまで自分の事を気にかけてくれているのだろうか?

 単純に小梅の事を心配していて、小梅が悲しんでいるその理由を知りたいという気持ちもあるのだろう。

 でも、それだけとは小梅は思えない。

 織部の事を考えながら、小梅は静かに眠りに就いた。

 

 翌朝、目覚まし時計の音で織部は目を覚まし、ベッドから身を起こす。

 手早く制服に着替えて、テレビを点けながら朝食の準備をする。時間短縮のために、朝食はシリアルと決めていた。

 シリアルを食べながら、織部はテレビのニュースを見る。政治、経済、芸能、様々なニュースが織部の耳に入ってくるが、一学生の自分が関係あるようなニュースは1つとして流れなかった。

 朝食を食べ終えると後片付けをさっさとし、身支度を終えてからドアを開く。海の上にある故に潮の香りが漂う風が吹き、織部の身体を撫でる。

 そして、自分が出たのと同じタイミングで、隣の住民も顔を出した。

 その人物は、スラックスとスカートの違いはあれど黒森峰の制服を着ており、後ろにはねたセミショートの、黒に近い茶髪の少女だった。その少女もまた、同じタイミングで玄関から出てきた織部に気付いたのか、こちらを見る。そして。

 

「ああ、織部。おはよう」

 

 織部はここで、この少女が自分の名前を知っていることに違和感を覚える。

 織部は昨日、クラス内で自己紹介をしただけで、他のクラスの生徒に挨拶はしていない。とすれば、この少女は織部と同じクラスの人物という事になる。だが、昨日自己紹介をした織部のクラスメイトはゆうに30人を超えている。30人の顔と名前を全て1日で覚えるほど織部の記憶力は良くないため、この少女の名前は相手には申し訳ないが覚えていなかった。これに加えて誕生日まで覚えられていたら、正気の沙汰ではない。

 

「おはようございます。えっと・・・・・・」

 

 名前が分からず困っていたが、少女は織部の気持ちに気付いたのか手を挙げて謝る。

 

「・・・ゴメン。まだここにきたばっかりだから、名前を憶えていないのも当然か」

 

 ふっと笑いながら少女が改めて名を告げる。

 

「私は根津。戦車道をやってる」

「戦車道を?」

「ああ」

 

 織部と、根津と名乗った少女は、同じクラスでせっかく朝挨拶をしたのだからということで一緒に学校へ登校する事にする。

 話題はもちろん、根津が名乗った時に言った戦車道の事だった。

 

「根津さんも戦車道を?」

「そう、ポジションは車長で、乗ってるのはマウスだ」

 

 マウス、と聞いて織部は我が耳を疑う。

 マウスは、ソ連の新兵器に対抗するためにドイツが開発した『史上最強の超重戦車』と謳われる戦車だ。その重量は、黒森峰の主力戦車パンターG型のおよそ4台分、最大装甲は240mmと、とにかく一言で言えば『とんでもない戦車』だった。

 ちなみに、黒森峰の所有する戦車は全てドイツのもので最低でも3輌ずつあるが、マウスに限っては1輌しかない。理由は、マウスの巨大さ故に維持する事が難しいのもあるし、装甲の厚さは魅力的だが自重で動きは鈍く実戦にはあまり向いていないし、しかも試作車輌が2輌しかできなかったという経歴からだ。

 そのたった1輌しかないマウスの車長だなんて、織部は会えただけで妙に感動してしまう。

 

「あのマウスの車長だなんて・・・すごいです」

「いやいや。でも、マウスは普段練習にも試合にもあまり参加しないから、最近は専らパンターの車長を務めているよ」

 

 謙遜してはいるが、褒められて悪い気はしないのだろう、根津の唇が少し歪んでいる。

 

「でもすごいですって」

「それほどでも。ところで、“あの”って言う事は、マウスの事は知ってるのか?」

「ええ、一応」

 

 やはり、将来戦車道連盟で働く事を夢見ていて、そして戦車道の名門校の黒森峰に留学するのだから、戦車の事は覚えておいて損はないと思い、戦車道の事と戦車の基本スペックについて勉強はしてきた。と言っても、覚えているのはドイツ戦車と、他の国の有名な戦車ぐらいだったが。

 

「しかし、まさか黒森峰に男が留学してくるとはね。どうやったらこんなことできるんだ?」

 

 根津の疑問は当然と言える。女子校に男子が留学してくるなんて話は、まるで聞いた事がない。

 なぜそんなイレギュラーが通ってしまったのか。それには深い理由があるのだが、織部にとってそれは誰にでもおいそれと喋っていいような事ではない。

 なので織部は、適当にはぐらかすことにした。

 

「まあ、色々ありましてね」

「ふーん」

 

 根津はそれ以上深くは聞いてこなかった。あまり細かい事は気にしない性分なのだろうか。

 そこで昨日小梅と別れた交差点に差し掛かり、ちょうどタイミングよく小梅と出会った。

 

「おはよう、赤星さん」

「やっ、赤星」

 

 織部と根津が声を掛ける。しかし、小梅は。

 

「お、おはようございます・・・」

 

 2人の姿を見て少しびくりと震え、ぎこちなくお辞儀をし、そのまま走り去ってしまった。

 

「・・・?」

 

 小梅は、織部と根津の2人―――具体的には根津の方を見て何か怯えたような表情をしていた。それに気付いた織部は根津の顔を見るが、根津はキョトンとしていた。

 

「最近、赤星はあんな感じなんだよね」

「?」

 

 根津の少し残念そうな、心配そうな声を聞いて織部は根津の方を見る。

 

「なんか・・・たまにあるんだよ。避けられているような感じが」

「避けられてる?」

「そう。特定の人を避けてるって言うか・・・・・・」

 

 小梅が人を避け始めたのは、去年の全国大会―――もっと言えば、去年副隊長が黒森峰を去った後からだ。

 実を言うと根津は、小梅が人を避けている理由については心当たりがあった。

 

「・・・・・・心配だ」

 

 根津がポツリと漏らした言葉を織部は聞き逃さなかったが、決して深入りはしない。

 自分は今は黒森峰の人間だが、あくまで仮で、昨日転入してきたばかりの新入りだ。ぽっと出の新入りがあれこれ聞いては印象を悪くしてしまう。それに、根津にも触れてほしくないところがあるかもしれない。

 迂闊に聞くのは得策ではないので、織部は何も聞かないことにした。

 

 1年生であれば、今日もまたオリエンテーションになるのだが、2年生以上はもう今日から一般授業に入る事になった。ちなみに織部は、春休み中に学校についての案内を受けていたので、勝手が違って分からないとかどこに何があるのか把握できないとか、その点については心配しなくて大丈夫だった。

 1時限目から5時限目までは普通の授業、6時限目は選択科目だ。

選択科目は、戦車道、華道、茶道、書道の4つの中から選ぶのだが、やはりここは戦車道の強豪校、戦車道を選択する生徒は大勢いた。

 選択科目以外の授業は、織部は1年の間は別の高校に通っていたものの、内容自体は普通の高校と大差ないので、何とかついていくことができた。

 ただ、今日ではないが週に2、3回ある“ドイツ語”の授業だけは理解に苦しんだが。

 後で根津に聞いた話によれば、建学時と比べると黒森峰とドイツの交流は若干疎遠になりつつあるが、それでも交流はまだ続いている。さらに、世界的に見てもドイツは戦車道に強い国とされており、黒森峰卒業後にドイツに留学してさらに戦車道を学ぶ生徒もいるらしい。だから、ドイツ語の授業があるのだ。

 だが織部は、ドイツ語なんて『Guten Tag(こんにちは)』とか『Danke(ありがとう)』ぐらいの簡単な単語しか知らない。置いて行かれないように、予習も視野に入れておくことにした。

 ともあれ、通常の授業は特に問題ないので織部は一先ずホッとした。

 

 4時限目を終えると、昼休みになる。

 生徒の皆がドイツ人気質―――強い責任感と正義感を持ち、勤勉で真面目、しかも学校のモットーは『質実剛健』『謹厳実直』なので常に緊張感を持って生活している。が、休み時間はやはり適度に息抜きをするようで、休み時間になったばかりの教室の中は和やかな雰囲気に包まれている。

 これからもちろん、織部は食堂へ行って昼食を摂るつもりだ。

 けれど、1人で食べようとは思っていない。周りに女子しかいない状況で男子がたった1人で昼食を摂るというのは良くも悪くも目立つ。悪目立ちしたくない織部はそれを避ける事にする。

 それに、小梅の事が気がかりだった。今日は今のところ、昨日のドイツ料理店の時のように陰口を叩かれている様子は見えないが、根津が今朝言っていた『特定の人を避けているように見える』という言葉が織部の頭に引っ掛かったままだ。

 確かに根津の言う通り今朝、同じクラスであるにもかかわらず織部と根津と一緒に登校しようとはしなかった。小梅が別の人と待ち合わせをしていたり、急いでいたという可能性もあるが、あのぎこちない小梅の様子ではそのどちらの可能性も考えにくい。

 とにかく、小梅から真意を聞きたかった。

 そう思い織部は席を立つが、その前に織部に声がかかった。

 

「織部」

 

 その声の主は根津。織部に向かって手招きをしている。どうやら、誰かが織部を訪ねてきたらしい。

 仕方ない、小梅を誘うよりもまずはその来訪者の用件を伺うのが先だ。

 そう思い織部は根津が手をこまねいているドアへと向かい、ドアから顔をのぞかせてその来訪者の顔を見る。

 その人物は、焦げ茶色のミディアムヘアーで、織部とほぼ同じ身長。女性的な体つきが目を引くが、その瞳は大の大人でも怯みそうなほど鋭く、キリっとした表情で織部の事を見ていた。

 その人物は、日本戦車道に置いて名を知らない人はいない人物だ。

 もちろん、織部はその人物の名を知っていた。

 

「西住、まほ・・・・・・さん?」




スイートピー
科・属名:マメ科レンリソウ属
学名:Lathyrus odoratus
和名:麝香豌豆
別名:香豌豆(カオリエンドウ)麝香連理草(ジャコウレンリソウ)
原産国:イタリア・シシリー島
花言葉:別離、門出、ほのかな喜び、優しい思い出


根津・・・アニメ本編12話に登場したマウス車長。
『おい軽戦車!そこをどけ!』の人。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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吾亦紅(ワレモコウ)

 西住まほは、黒森峰女学園の戦車隊の隊長を務めている3年生だ。

 西住の姓から分かるように、まほは日本戦車道における二大流派の一つである西住流の師範・西住しほの直系の娘であり、後継者として期待されている存在だ。

 去年の全国戦車道高校生大会では優勝を逃すも、大会でのMVPに選ばれ、さらに国際強化選手としてメディアから注目されており、全国に名を馳せている。

 小学生の頃の戦車道大会ではドイツ代表と戦い勝利し、最優秀選手に。才覚は幼いころからあったらしい。

 性格は西住流の跡取りと言う事と、黒森峰という強豪校のリーダであるがゆえに生真面目で厳格、かつ冷静沈着。戦場では取り乱さず、例え不測の事態に陥っても慌てることなく的確な指示を味方に下す。

 まほの家系、経歴、性格全ては戦車道の世界では広く知れ渡っており、専門家曰く『高校戦車道において彼女の右に出る者はいない』らしい。

 そんなまほは今。

 

「・・・・・・」

 

 食堂で、織部の目の前で黙々とカレーライスを食べていた。

 いきなりあの超がつくほど有名な西住まほに呼び出されたことに驚く暇もなく、『君と少し話がしたい』と言われた。

 何を言われるのかと思いおっかなびっくりついて行けば、食堂でそれぞれメニューを注文して、こうして席に向かい合って座り食事を食べている。

 話をしたいと言ってきたのはまほの方なのだが、肝心のまほがカレーライスを食べるのに集中していて、話しかけるタイミングがまるで掴めない。織部の手元にあるフライ定食には全く手が付けられていない。

 

(・・・・・・・・・気まずい)

 

 今も周りからの視線は感じる。

 何しろまほの総じてクールな性格は、校内の非戦車道履修生からすれば『カッコいい憧れの人』、戦車道履修生からすれば『尊敬する頼れる隊長』と捉えられている。故に同性からの人気も非常に高く、熱っぽい視線をまほは多方向から向けられている。

 加えて織部は、本来黒森峰にはいないはずの男子だ。だから余計に注目を集めやすい。

 しかし、あの西住まほと面と向かって座っているだけで緊張感マックスだというのに、その上他から視線を集めているなんて、織部の心は押し潰されそうだ。

 どうしたものかと思っていたところで、まほが最後の一口を食べ終える。口をナプキンで拭き、水を飲んで一息ついたところでまほが織部の事を見据える。

 

「織部君」

「あ、はい」

 

 姿勢を正し、話を聞く態勢に入る。何を言われるのかはまだ分からない。その口からついて出る言葉が聞く前から怖い。

 けれどここで印象を悪くしてしまえば、今後この黒森峰での生活が保障されず、最悪元居た学校に送り返されてしまう。

 とにかく、一言一句聞き逃さず、どんなことを言われても動じないでいよう、そう決意した。

 

「改めて、黒森峰戦車隊隊長の西住まほだ。よろしく」

 

 普通に右手を差し出される。最初はどうしていいのか分からず戸惑ったが、織部は単純に握手を求められているのだと思い至り、慌てて汗が滲んだ手をハンカチで拭いてから、そっと差し出された右手を握る。

 

「・・・・・・初めまして・・・織部春貴です」

 

 握手をした直後、遠い方から黄色い歓声が聞こえた気がする。だがまほは気にせず、そして織部もその声を聞きつつも意識はそちらには向けず、まほの顔を見つめる。

 やがて手は解かれ、お互いの差し出されていた手はそれぞれの膝の上に置かれる。

 

「いきなり呼び出してしまってすまない」

「いえ・・・それで、話とは一体・・・?」

 

 まほの謝罪を聞きつつ、やっと本題に入れると思いながら織部は用件を伺う事にする。まほは、織部の顔を見つめながら告げる。

だが、まほは織部が緊張しているのを感じ取り、大人でも怯むような険しいものではなく、女性的な穏やかな表情を浮かべる。

 

「いや、大した用ではないんだ。ただ、君が黒森峰に戦車道を学ぶために来たという事を聞いて、直接話をしたくてね」

 

 学校の先生は、織部が黒森峰に戦車道についての事を学ぶために留学してきた事は当然知っている。そして、黒森峰の誇る戦車隊の隊長であるまほに話が行くのもまた当然と言える。そのまほが、黒森峰に『戦車道を学びたい』と言ってやってきた男に直接話を聞きに来るというのは、あまり変な話とは言えない。

 どうやら自分は、無茶振りをされることも詰問されることも無いようだと思い、織部は一先ずホッとする。

 

「・・・・・・君は、『戦車道を学びたい』という理由でここに来たのは聞いた。だが、なぜ黒森峰に来ようとしたんだ?戦車道を学べる学校は他にもあるのに」

 

 まほの疑問は誰もが抱く事だろうと思う。

 日本において戦車道のカリキュラムがある学校は至る所にある。その中には無論、共学の学校だってある。しかし、なぜ織部はそれらの学校に行かず黒森峰に来たのか。しかも、2年生から。

 その理由は、今朝根津には話さず、昨日小梅には少しだけ話した事だった。

 

「・・・僕は、日本戦車道連盟と個人的なつながりがあるんです」

「日本戦車道連盟と?」

「はい・・・。僕は将来戦車道連盟に就きたいと思っています。それを日本戦車道連盟に相談したところ・・・・・・日本戦車道連盟の理事長は黒森峰は高校戦車道連盟の理事長を務める西住しほさんがバックについていて、しほさんともつながりがあるという事で黒森峰に掛け合ってみた結果・・・留学という形で僕がここに来ることが許可されたんです」

「・・・・・・にわかには信じられないが・・・」

 

 まあそれも仕方がない、と織部は苦笑した。

 何しろ、戦車道は乙女の嗜み、女の世界だ。戦車とは無縁の男であるはずの織部が、簡単に日本戦車道連盟とかかわりを持つなど身内に関係者がいない限りできないだろう。

 それはまほも思ったようで。

 

「・・・どうやって、日本戦車道連盟に繋がりを作る事なんてできたんだ?」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 まほがそう尋ねてきたのは、純粋な興味からだろう。

 だが織部にとって、そもそも日本戦車道連盟とかかわりを持つきっかけとなった出来事は、織部が思い出したくもないような過去が原因だ。

 織部が口を閉ざしてしまうと、まほは『ああ』と声を上げて話しかける。

 

「何か話したくない理由があるというのなら、話さなくてもいい」

「?」

「皆、何かしら心に抱えているものがあるからな・・・」

 

 そう語るまほの顔は、先ほどまでの穏やかな表情とは違い、僅かに暗かった。

 まほは黒森峰の戦車隊隊長で、西住流師範の娘であり後継者だ。自分のような一介の高校生には分からない葛藤や悩みを抱えているのだろう。

けれど、まほの『話さないでいい』という言葉はありがたかった。織部だってなるべくあの時のことは話したくなかったから。

 

「・・・すみません」

「いや、気にしなくていい。本当ならもっと色々話したいところだったのだが・・・もう時間が無いな」

「色々?」

 

 まほの言葉を問い返すと、まほは先ほどまでの暗い表情を消してふっと笑う。

 

「黒森峰に男子が来たのは初めてらしいからな。戦車隊の隊長としてでも西住流の後継者としてでもない、1人の学生として純粋な興味があったんだよ」

 

 織部は少し安心する。

 まほの肩書は西住流後継者、国際強化選手、戦車隊隊長とどれをとっても織部には程遠い存在だった。そんな肩書を3つも持つまほなど、やはり自分の様な一学生とはまるで違う、遠い世界の人間だと思っていた。けれど、こうして留学生―――しかも黒森峰ではありえないはずの男に興味を抱く辺り、まほも自分と同じ学生なのだなと、少し安心したのだ。

 まほは名残惜しそうに食堂の壁にかけられている時計を見る。

 昼休みの時間は限られているし、まほは戦車隊の隊長だ。おそらく何か別の用件があるに違いない。まほも学生の1人であるというのに、休み時間もろくに休めないとは気の毒に思える。

加えて織部はまだ昼食に口を付けていない。織部の昼食を摂る時間も考えてまほは、話を打ち切ってしまったのだ。

 

「・・・・・・今日の6時限目は選択科目だ。君は戦車道を見るのだろう?」

「もちろんです」

 

 まほの質問に織部は当然と言わんばかりに答える。

 

「今日の予定は、殲滅戦ルールの模擬戦だ。君には、今日は隊員と一緒に審判をやってもらおうと思う」

 

 新学期が始まって一番最初の戦車道の授業からいきなり殲滅戦の模擬戦とは、流石強豪校。初日から厳しいものだ。

 それにしても、他の隊員と一緒とはいえ織部が審判をやるというのは寝耳に水。いくら戦車道についての勉強をしているとはいえ、審判まではマークしていなかった。初日は見学ぐらいだと思っていたのに。

 

「集合は授業開始時刻の5分前だ。それまでに格納庫の前に集合するように」

「あ、はい」

「じゃあ、またあとで会おう。いきなり呼び出して、済まなかった」

 

 そう言うとまほはトレーを持って席を立ち、返却口へと言ってしまった。

 随分と足早に去って行ってしまった気もするが、やはり他に用事があったのだろう。

 織部は心の中で『西住隊長頑張れ』と思いながら、すっかり冷めてしまったフライ定食に手を付けようとする。しかし、そこで自分に向けられている視線を感じた。

 その視線を感じ取り、織部が辺りを見回す。やがて自然と目に入ったのは、空の食器が載ったトレーを持っている小梅だった。

 小梅は何か不安そうな目でこちらを見ていたが、織部が小梅の姿を視認したことに気付いたのか、逃げるように返却口に食器を返し食堂を出ていってしまう。

 

(・・・・・・何なんだ?一体・・・)

 

 

 教室へと戻る間も、織部は多くの生徒からの注目を集めてしまう。やはり、女子校という場所に男という異分子がいるのが目立つ原因となっていて、こればかりはどうしようもない。皆がこの状況に慣れるまでどれだけの時間がかかるか分からないが、ともかく今は視線に晒されるのを耐えるほかない。

 まるで無数の視線が矢のように突き刺さる中で、織部は何とか教室にたどり着く。それは教室に着いても同じだったが、こちらに寄ってくる人が2人。

 1人は根津。もう1人は根津より少し背の高い、緑がかった薄茶色のミディアムヘアーの少女だ。頭のてっぺんで跳ねているアホ毛が特徴的。

 彼女の名前は斑田。彼女もまた戦車道履修生であり、パンターG型の車長だ。アホ毛が特徴的だったので織部は斑田の事は覚えていた。

 

「織部、大丈夫だった?」

 

 根津が聞いてくるが、織部は別に死地に赴いたわけでも、尋問を受けたわけでもないので笑って言葉を返す。

 

「別に何もなかったよ。普通に話をしただけ」

「でも隊長と2人っきりで話するって、相当ハードル高いよね・・・」

 

 織部の言葉を聞いて、斑田が苦笑する。確かに、戦車隊の隊長であり国際強化選手やら西住流の跡取りやら肩書がすごすぎる人物と2人だけで話をするなんて、緊張しないはずがない。下手すると面接なんかよりも緊張するんじゃなかろうか。

 それから授業開始の予鈴が鳴るまでの少しの間、織部は根津と斑田と話をした。別に内容は他愛も無いもので、戦車道や黒森峰の事を話した。黒森峰の練習は大変だとか、少し校則が厳しすぎないかなとか。強豪校であっても、勤勉で真面目と評されていても、やはり学生らしい悩みは抱えているようだ。それを知って織部は安心に似た感覚を得る。彼女たちもまた、自分と同じ高校生なのだ。

 だが、ここでも織部はなぜか視線を感じてしまう。その視線の主は、顔を見なくても、その視線の下を辿らずともわかるような気がした。

 

 5時限目終了の鐘が鳴ると、続く6時限目の選択科目に向けて各々準備に取り掛かる。しかし、織部と同じクラスの小梅、根津、斑田を含めた十数名の生徒は、授業終了の号令が終わるや否やすぐに鞄を持って更衣室へと走っていく。他のクラスメイトはゆっくりと席を立ち他のクラスメイトと雑談をしている。

 だが、織部は次が選択科目であるのと、自らを戦車道履修生と言っていた根津と斑田が出て行ったのを見て、今教室から出て行ったのは戦車道を選択している人か、と織部は納得する。

 それと同時に、織部は小梅も戦車道履修生だったのかと気づいた。

 これまで何度か話をしてきたのに、そんな話は聞いていない。いや、小梅が自分から話さなかったし、織部が聞かなかったのもある。けれど、織部がここに来た理由が『戦車道を学ぶため』と言ったのだから、その場で小梅が『自分も戦車道履修者です』と言っても別に違和感はない。

 だが、小梅は言わなかった。単に自分の事を話すのが苦手なタイプなのか、それとも自分が戦車道履修生だと知られたくないのか。

 そんな当てもない事を考えているが、織部は自分も5分前には格納庫前に集合するように言われていたのを思い出し、自分も急いで格納庫へと向かう。

 織部が着いた頃には既に何十人といる戦車道履修生が、襟と袖が赤く縁取られた黒のタンクジャケットを着て整列しており、さながら本物の軍人のように姿勢を正して立っている。

 どこに並べばいいのか分からなかった分からなかった織部は、とりあえず端に立つことにする。

 ここでもやはり織部は女子校にいる男子と言う異分子であるがゆえに注目を集めてしまう。だが、その注目も次の瞬間消えてしまう。

 

「全員、気を付けッ!」

 

 突如聞こえた声。それを聞くとその場にいた全員が、視線を前に向けて姿勢を正す。

 織部も他の皆と同じように姿勢を正すが、やはり自分以外の人はこの戦車隊に入って1年以上経っているのだから、自分と違ってきっちりしているように見える。

 ちなみに1年生は、どの選択科目を取るか決める期間が1週間設けてあるため、新入生が戦車隊に入るのは最短でもあと1週間後だ。

 話を戻し、今皆の前に立っている生徒を見る。その少女は、銀髪を肩まで伸ばしたつり目の少女だ。

 彼女の名は逸見エリカ。春休み前に黒森峰戦車隊の副隊長になった人物だ。だが、織部はその顔をここではないどこかで見た覚えがある気がする。けれど、どこで見たのかは思い出せない。

 そのエリカの隣には、昼休みに織部と食事をして話をしたまほがいる。その顔には先ほど見せたような穏やかな様子はなく、凛とした表情をしている。

 やがて6時限目開始の鐘が鳴ると、直後に点呼が始まる。エリカがクリップボードを手に、1人1人点呼を取っていく。最初に呼ばれたのは小梅だったので、恐らくは五十音順で呼んでいるのだろう。

 

「赤星小梅!」

「ハイッ!」

 

 小梅は、初日の自己紹介の時とはまるで違うような、はきはきと大きな声で返事をした。織部は『あんな声も出せるんだな』と感心した。

 その後も順調に点呼は続いたが、織部の名は呼ばれなかった。初日なので名簿に載っていなかったのかもしれない。

 

「隊長、点呼終わりました。全員います」

「よし」

 

 そこでエリカは一歩引き、代わるようにまほが前に出てくる。

 

「新学期になり、皆それぞれ新しい生活が始まって何かと慌ただしいと思うが、戦車道の訓練はいつも通り行う。心してかかるように」

『はい!』

 

 まほの言葉に全員が声を上げて頷く。

 全員の返事を聞くと、ちらっと端に立っている織部を視界にとらえる。織部は、まほが自分の事を見たのに気づいた。

 

「・・・そして今日より、新たに1人戦車隊に加わる事になった者がいる」

 

 そう言ってまほが、今度ははっきりと織部の事を見て、そして頷いた。それは恐らく『前に出て来い』というわけだろう。

 逆らえるわけもないので織部はゆっくりと前に立つ。簡単な自己紹介だけで済ませる事にする。だが、前に出た織部は当然ながら注目を集める。ましてや女子校にいるはずの無い男なのだから、興味深げな視線を向けられるのも仕方がない。

 昨日の新学期初日の自己紹介や今日の食堂の時など比ではない数の視線に晒されながらも口を開く。

 

「初めまして、織部春貴です。戦車道の事を詳しく学びたくて、留学してきました。よろしくお願いします」

 

 織部が頭を下げると、整列している隊員も頭を下げる。そこで、『これで大丈夫ですか』という意味も込めてまほの方を見ると、まほは小さく頷く。問題ないらしい。

 織部は安心して列に戻り、それを見届けるとまほは今日の訓練内容を説明する。

 今日の訓練は模擬戦で、試合形式は殲滅戦、場所は荒野だ。

 黒森峰学園艦の甲板上の、住民の居住スペースは最小限に抑えられており、それ以外のスペースは全て戦車道の演習場になっている。演習場の種類は荒野、草原、市街地。話によれば聖グロリアーナも戦車の演習場を所有しているらしいが、あそこは居住スペースと演習場を半々で分けているために演習場の広さは黒森峰よりも狭い。

 

 織部は黒森峰に来る前に、戦車道に関して一通りの勉強はしてきた。歴史や起こりはもちろんのこと、ルールやレギュレーション、戦車道連盟の組織形態まで幅広く学んだ。それら全てを覚えているかと言われるとその自信はないが、まったくの無知と言うわけではない。

 だが、いきなり審判を務めるというのは予想外だった。戦車を操縦しろと言われるよりは幾分マシではあるが。

 そして今、審判用の高台に織部は立っている。

 その隣には、今回の試合の審判長である小梅が立っていた。

 審判は基本1人では行わず、最低でも3人以上で行うものだ。今回模擬戦を行う場所は荒野“のみ”なので試合を行う範囲は狭く、審判も最低限でいいという結論になった結果、3人+織部が審判を行う事になった。ちなみに、黒森峰は試合を行う場所が広いため、時には荒野、草原、市街地全てに跨って試合を行う時もある。その時には審判の人数も増やす。

 黒森峰同様戦車道の強豪校と知られている聖グロリアーナは、1人でも多くの履修生を試合に参加させるために、審判役は1人と決めている。けれど、やはり聖グロリアーナと黒森峰では戦車隊の規模が違い、黒森峰の方が人員は多い。だからこうして模擬戦にも審判を3人に任せることができる。

 審判役は、首には双眼鏡とホイッスル、そして襟の部分には通信用のマイク、耳にはイヤホンを装備している。各審判が状況を俯瞰し、戦車が撃破される度にそれを審判長へ連絡。最終的に審判長が試合を行っている選手へ通達するシステムだ。

 審判用の高台は、試合会場の周りにいくつか設置されており、1つの高台につき1人の審判が立つ。

 つまり今、審判用の高台には織部と小梅の2人しか立っていない。

 

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 お互いに何も話さず試合開始を待つだけ。

 何かを話しかけようとは、思わない。小梅は恐らく、これから審判を務めるにあたり、どのようなプレーも見逃してはならないから、集中している。

 織部はその集中を乱すような真似をするわけにはいかない。自分はあくまで今日は見学で、サポートをするわけではない。それに、審判を見学させるという事は近々織部を審判に命ずる可能性が十分に考えられる。だから今後の為にも、小梅の一挙手一投足は目に焼き付けておかねば。手にはメモとペンを装備している。

 織部自身も集中しようとするが、そこで。

 

「・・・・・・織部さん」

 

 当の小梅から声を掛けられた。織部はハッとして小梅の方を向く。

 試合場を見据えている小梅の顔はどんな風なのか、後ろに立っている織部には分からない。

 

「・・・織部さんが良ければ、何ですけど・・・」

 

 小梅は目の前に広がる荒野を見たまま、織部の方は見ずに言葉を紡ぐ。織部は、その言葉をちゃんと聞き届ける。

 

「・・・・・・今日、一緒に帰りませんか?」

 

 小梅の言葉は、なんてことはない、ごく普通のお願いとも言えるものだった。

 けれど、織部にはそれが不自然でならない。

 春休みに一度出会ったものの、昨日は沈んだ表情を幾度となく見せ、今朝は根津と一緒にいた織部を避け、昼休みはやたらと織部の事を見ていた、およそ良好な信頼関係が築けているとは言い難い小梅が、急に『一緒に帰ろう』と言ってきたのが、不自然だった。

 けれど、小梅にも何か考えがあるのかもしれないし、もしかしたら小梅の本心を聞けるかもしれない。そう思って織部は、小梅のお願いを聞き入れた。

 

「・・・いいですよ。一緒に、帰りましょう」

 

 そこで、腕時計が試合開始時刻である15時を指したので、小梅が無線のスイッチを入れる。

 

「試合開始!」

 

 

 西住流は何があっても前に進む流派。

 そんな言葉をどこかで聞いたような気がする。だが、それはどこで誰が言っていたのかなどというのはどうでもよくて、先ほどまで行われていた試合はまさにその言葉通りのものだった。

 どちらのチームの戦車も、整然と並んで前進し、敵とぶつかりそうであっても怯まず前進。後退という文字はない。高火力を持って相手を叩き潰し、沈黙させる。

 黒森峰の所有する戦車の大半は重戦車と言う事もあり、どれも装甲は厚く火力は高い。そんな戦車隊の猛攻に耐えうる戦車隊はそうそういない。さらにその戦車隊を率いる隊長も、いかなる事態に陥ろうとも冷静に策を練り、指示を出すというのも相まって、黒森峰はまさに“王者”と呼ぶにふさわしい風格を漂わせている。

 先ほどまで行われていた模擬戦も、決して退かない戦車同士のぶつかり合いがあちこちで起きた。上から見ているだけでも、白熱した試合が行われたのが分かった。あくまで織部は審判の小梅の見学もといサポートだったが、それを忘れてつい試合に没頭してしまっていた。小梅が他の審判係と通信を交わしていたのは覚えているが、何て言っていたのかは覚えていない。勉強しに来たというのにこれでは本末転倒ではないか。結局メモも半分ぐらいしかかけていない。

 そんな模擬戦の事を思い出し、自分の行いを反省しながら、織部は小梅と一緒に帰路に就いていた。

 今の時刻は18時過ぎ。模擬戦が終わったのは17時すぎなのだが、審判長である小梅は試合を俯瞰的に見ていたということで戦闘詳細を書いておくように指示を受けていた。小梅によれば、もっと遅くなる時もあるらしい。

 小梅は、模擬戦終了後の全体ミーティングが終わった後で着替えて、教室に戻り戦闘詳細を書いた。手書きなのは、筆跡が書いた本人の証明になるのと、万が一データを紛失した場合に取り返しがつかなくなってしまうかもしれないからだ。これも恐らく織部が後にやらされるのではないかと思うと、ちょっと不安になる。

 そして30分ほどで詳細を小梅が書き終えると、小梅はまだ残っていたまほとエリカに報告書を提出し、織部と合流して2人で学校を後にした。

 帰り道で、同じ黒森峰の生徒に会うことは無かった。他の選択科目は既に終わってしまっているし、戦車道の履修生も既に帰ってしまっているだろう。

 家路を歩く2人の間に会話はない、と思ったのだが。

 

「・・・どうでしたか?最初の戦車道の授業は・・・」

 

 意外にも、小梅が話しかけてきてくれた。

 先ほど小梅から『一緒に帰ろう』と誘われるまでは、小梅の言動に不可解な点があったので戸惑っていたのだが、今こうして普通に話しかけられたのが意外だった。

 織部は驚いた様子を見せずに言葉を返す。

 

「・・・いきなり、サポートとはいえ審判なんて、ハードル高いなって思いました」

「ですよね。西住隊長、結構厳しいところがあるから・・・」

 

 厳しいところがあるというのには同意する。何せ西住流の跡取りで黒森峰の隊長なのだから、なよなよしていては隊長など務まらないし、優しすぎては真剣さに欠けてしまう。

 

「でも多分、織部さんも今後審判をする事になると思いますよ」

「やっぱり、そうですよね・・・」

 

 織部がこの先の事を考えて少し落ち込むが、小梅は微笑んで織部を励ます。

 

「何か分からないことがあったら、何でも聞いてくださいね。私も戦車道履修生ですから」

「・・・・・・・・・・・・はい」

 

 小梅の言葉は素直に嬉しかったが、同時に織部の頭には痛烈な違和感が生じていた。

 その違和感の正体は、なんとなくわかる。

昨日小梅は自分の事を話すのを躊躇い、今朝は避けるような態度を取っていて、日中は織部に対して視線を向けるだけで話しかけても来なかった。

 だが急にさっき『一緒に帰ろう』と誘ってきて、さらに『何でも聞いてほしい』と言ってきた。

 この前日から今日の夕方までと、その後の小梅の2つの行動がどうしてもかみ合わない。

 他人からすれば織部の考えすぎだと思うかもしれないが、織部はその“過去”故に疑り深い性格をしている。

 だからこそ、小梅のさっきの言葉に違和感を覚えたのだ。

 そこで後ろから声を掛けられる。

 

「織部君、赤星さん」

 

 振り向いてみれば、そこにいたのは斑田だった。手にはコンビニ袋を提げている。

 

「今帰り?」

「はい、戦闘詳細を書いていて」

 

 斑田の質問に答えるのは織部。

 その質問に答えるべきは、実際に詳細を記録していた小梅だと思うのだが、当の小梅は胸の前で小さく手を握っている。

 

「斑田さんは?」

「夕飯のおかずが足りなくて・・・ちょっと買い足しに」

 

 何気なく織部が斑田に話しかけると、斑田は普通に答えてくれる。

 そこで。

 

「あの、織部さん・・・」

「はい?」

 

 小梅が突然、会話に割って入る。

 

「ちょっと、急用を思い出しちゃって・・・これで失礼します・・・」

「あ、はい・・・・・・」

 

 小梅は、織部の返事を聞いたか聞いていないか微妙なタイミングでその場を去って行ってしまう。

 あとに残されたのは織部と斑田のみ。

 

(・・・・・・)

 

 やはり、小梅の行動には不可解な点がいくつもある。

その中でも、斑田と出会った直後に、『急用』と言って織部と別れてしまったのが最大の疑問だ。誘ってきたのは小梅の方だというのに、一体どうしたことか。

 

「・・・・・・最近ね」

 

 織部が頭を働かせていると、斑田が声を掛けてきた。織部は一旦思考を中断して斑田の話に耳を傾ける。

 

「・・・・・・どうも赤星さん、そそっかしいというか危なげというか・・・」

「どういうことですか?」

 

 織部が問うと、斑田はうーんと悩むような仕草を取って、自分の考えを述べ始める。

 

「ずっと前・・・私たちが入学して戦車道を始めた時は、こんな感じじゃなかったのよね。そりゃ、入学したての入隊したてで緊張はしていたけど・・・。今は・・・それとはまた違う感じがするの」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 まるで、と斑田は付け加えてから、言った。

 

「何かに怯えてるみたいで・・・・・・」

 

 

 早歩きで寮の自室に戻った小梅は、鞄を床に置き、ベッドに倒れこむ。

 

(・・・・・・何してるんだろう、私・・・)

 

 今日一日の自分の行動を振り返り、嘆息する。

 朝は根津と仲良さげに登校していた織部を避け、昼食の時間はまほと何らかの話をしていた織部の事を見ていて、昼休みの終わりの方でも、根津、斑田と話をしていた織部を注視していた。そして戦車道の時間、織部に『一緒に帰ろう』と言ったにも拘らず、途中で斑田が現れたら自分だけ帰ってきた。

 小梅にも分かる。これは、自己中心的と言うものだ。

 

(・・・・・・・・・・・・)

 

 小梅は、恐れていたのだ。

 もしも、織部がまほや根津、斑田と話をして、小梅の素性や過去の過ちが知られてしまったら、真摯に向き合おうとしていた織部もまた小梅から離れ、他の黒森峰の生徒のように自分を責めるかもしれなかったから。

 だから小梅は、織部に対して少しでも良い印象を持ってもらいたいと思ったから、一緒に帰ろうと誘い、『分からないことがあったら聞いてほしい』と言ったのだ。

 けれど、その帰路でも斑田に会ってしまい、怖くなってその場から逃げてしまった。

 斑田は根津同様、去年小梅が入学した時から一緒に戦車道を始めた生徒であり、去年の全国大会決勝戦にも参加していた。終盤で起きたあのイレギュラーの事も当然知っている。

 だからこそ、小梅は斑田にどう思われているのかが怖くて、面と向かって話す事もできなかった。故に、さっきは『急用』という名目で逃げ出したのだ。

 それは根津に対してもそうで、だから今朝、小梅は織部と根津の事を避けてしまった。

 あの忘れもしない全国大会決勝戦から実に10カ月ほど経過しているが、小梅の心はその10カ月前のイレギュラーと、そこから派生した辛い過去に縛られてしまっている。

 

「・・・・・・・・・・・・はぁ」

 

 その日、小梅は制服から着替えず、食事もせずにそのまま眠りに就いてしまった。




ワレモコウ
科・属名:バラ科ワレモコウ属
学名:Sanguisorba officinalis
和名:吾亦紅、吾木香
別名:地楡(チユ)
原産地:日本、朝鮮半島、中国、シベリア
花言葉:変化、もの思い、愛慕


斑田・・・アニメ本編11話に登場したパンター車長。
『脇にヘッツァーがいるぞ!』の人。

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牡丹一華(アネモネ)

 黒森峰女学園は、土曜日と日曜日は休業日となっている。しかし、戦車道の訓練とは土曜日であっても行われている。休みの時間を割いてでも訓練をし鍛錬に励むとは流石強豪校と言える。

 しかし今日は土曜だが、戦車道の訓練も休みだった。というのも、どの生徒も新学期が始まって間もないので、何かとバタバタする時期だ。そこへさらに戦車道の訓練も重ねるというのも酷なので、今日だけは戦車道は休みになった。強豪校で戦車隊の練度が抜群と言われていても、その戦車を動かすのは当然ながら人間で、その人間が倒れてしまって戦車隊が動かせなくなってしまっては本末転倒。それは学校側も十分承知の上だったので、この休日の処置が施されたのである。

 そんな土曜日、織部は起床して朝食を食べてからしばらくの間は寮にいた。しかし、貴重な休日を1日寮で過ごすというのも無駄に思えてならなかったので、10時を回った今は学園艦内を散策している。散策と言っても、黒森峰学園艦の大半は戦車道の訓練場が占めているので、行動できる範囲は他の学園艦と比べると少ない。甲板より下―――艦の内部へ行けばもっと色々見ることができるのだが、どこを歩いているのか分からなくなって遭難してしまう可能性もあったので、それは諦めた。

 仕方なく織部は、黒森峰の街並みを歩いている。黒森峰はドイツと交流があった事でドイツ風の雰囲気ではあるが、街並みは現代日本と同じである。石造りの建物とか、石畳の道路だとかそんなものはない。

 織部が当てもなく船尾の方へ向けて歩いていると、道の先がフェンスで仕切られているのが見えた。どうやら、あのフェンスの向こう側は訓練場らしい。

 フェンスに近づいてみると、白い看板が掛けてある。その看板には、『これより先、戦車道訓練場につき一般人の立ち入りを禁ずる』と書かれていた。後はありきたりな事しか書かれていない。

 仕方ないので、引き返そうと思ったところで、織部の目に小さな花壇が目に入った。

 

(こんなところがあったのか)

 

 その花壇は、横幅が10m、奥行きが2mほどの大きさしかない。けれど、咲いている花はどれも丁寧に手入れがされているようで、萎れた花も枯れた花も無い。鮮やかな色が織部の目に飛び込んでくる。

 真面目な校風の学園艦に、こんなメルヘンチックな場所があるとは。しばしの間見惚れていると、自分と同じようにしゃがみ込んで花壇の花を見ている少女がいるのに気づいた。

 その少女は、織部同様休日であるにもかかわらず黒森峰の制服を着ていて、花壇の花を穏やかな眼差しで見つめている。少し癖のある、赤みがかった茶髪のその少女は小梅だった。

 

「赤星さん」

 

 織部が声を掛けると、小梅はびっくりした様子で織部の事を見る。

 

「あ、織部さん・・・・・・」

「こんにちは」

 

 織部が挨拶をしながら歩み寄るが、小梅は先ほどまで浮かべていた笑みを消し、また申し訳なさそうな、困ったような表情を浮かべる。

 傍に織部が来たところで小梅も立ち上がり、織部と対面する。

 

「・・・・・・昨日は、すみませんでした」

「?」

 

 小梅は謝る。織部は、謝られるような事をしただろうかと記憶をたどるが、覚えはない。

 

「・・・・・・私から一緒に帰ろうって誘ったのに、急用で帰って・・・」

 

 そのことか、と織部は思った。けれどそれは別に謝るような事ではない。あの時は疑問に思ったが、もしかしたら本当に急用だったのかもしれないし。

 

「別にいいですよ。気にしていないですから」

 

 真意を聞きたいという本音を抑えて、織部は笑って言う。その笑顔と言葉に、小梅は胸が締め付けられる感覚に陥る。

 織部を騙しているような感じがして、罪悪感に押し潰されそうだった。

 最初にあの公園で会った時も、ドイツ料理店でも思ったが、織部は純粋に小梅の事を心配してくれている。おそらくは損得勘定などせずに、小梅の身を案じて、小梅に何があったのかを尋ねたのだ。

 その織部を欺いて過ごすなど、小梅には耐えられなかった。

 だから小梅は。

 

「・・・・・・・・・・・・織部さん」

「?」

 

 小梅は、顔を俯かせて織部の顔を見ず、織部の首元辺りを見ながら、言った。

 

「・・・・・・少し・・・お話をしても、いいでしょうか」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 その言葉を、織部は心のどこかで待っていた。

 小梅は恐らく、自分の事を全て話す決心がついたのだろう。その決心をつけたきっかけが何なのかは織部には分からなかったが、小梅は勇気を振り絞って織部に全てを話す決意を固めた。

 それは、尊重しなければならない。

 

「・・・いいですよ」

 

 織部が答えると、小梅はホッとしたように息を吐く。

 ここで立ったまま話すというのも何だったので、織部と小梅は花壇の近くにあったベンチに座る事にする。

 その前に織部が、自動販売機で缶のカフェオレを2つ買い、1つを小梅に渡す。小梅はそれを受け取り財布からお金を出そうとしたが、織部はそれを拒む。

 織部が小梅の隣に腰かけると、小梅は渡されたカフェオレの缶を握る。

 しかし、小梅はすぐには口を開かない。

 これから話す事は、人にぺらぺらと喋っていいような事ではないし、小梅自身もあまり触れたくはない、もっと言えば思い出したくもない辛いものだった。

 それを自分から話すには、相当の覚悟が要る。

 織部だって、小梅が話す事がどれだけ重いかはなんとなく想像がつく。織部が聞こうとしても小梅自身が話すのを拒むような話だ。自分にだって話したくないような辛い過去があるのだから、その気持ちは分かる。織部1人で受け止め切れるような内容かも分からない。

 しかし織部は、これ以上小梅が思い悩み、暗い表情を浮かべている姿など見たくなかった。

 小鳥のさえずりが聞こえ、遠くから車のクラクションが聞こえてくる。

 やがて、小梅は口を開いた。

 

「・・・・・・織部さんは、去年の戦車道全国大会の決勝戦の事を、知ってますか?」

 

 小梅が切り出してきたのは、昨年の夏に行われた第62回全国戦車道高校生大会の事だった。そしてその決勝戦の事は、織部も覚えている。

 

「・・・・・・はい」

 

 決勝戦は、衝撃の結末と言うに相応しいものだった。試合中に川に転落した黒森峰のⅢ号戦車の乗員を、フラッグ車であるティーガーⅠの車長であり黒森峰戦車隊の副隊長・西住みほが、自分の戦車から降りて助けに行ったのだ。

 車長を失ったティーガーⅠは、対戦しているプラウダ高校の戦車の砲撃を受けて撃破。黒森峰は敗北し、悲願の10連覇の夢は叶わなかった。

 あの試合の様子は全国にテレビ中継されており、その頃から既に戦車道連盟に就く事を夢見ていた織部もその試合はテレビで見ていた。だから、あの時転落した戦車を助けに行ったのが副隊長のみほだというのも知っている。

 織部が頷くと、小梅は缶のプルタブを開けて、カフェオレを一口飲み、飲み口を見つめる。

 

「・・・・・・あの時転落したⅢ号戦車には、私も乗ってたんです」

 

 小梅の告白を聞いて、織部は息を呑む。

 あの試合に参加した黒森峰の隊長・副隊長の事は分かっていたが、あの時転落した戦車の乗員については知らなかったからだ。

 

「・・・副隊長―――みほさんは、私たちを助けるために、フラッグ車にも拘らず戦車を降りて川に飛び込んで・・・。そのせいでフラッグ車は撃破されて黒森峰は準優勝・・・」

 

 自嘲気味に話す小梅。けれど織部は何も言わず、自分もプルタブを開けてカフェオレを一口飲む。

 

「西住流は、何があっても前に進む流派・・・。そして、犠牲無くして勝利は得られないという考えが根付いています」

 

 織部は西住流という流派については勉強をしてある。だからその基本的な教えや教訓については知っていた。

 そして黒森峰のバックには西住流がついている事も知っている。それに黒森峰の戦車隊の隊長と副隊長の西住まほ、みほは西住流の人間であり師範・西住しほの娘だ。故に、黒森峰戦車隊も自然と西住流の教えに則り戦う事になる。

 

「その西住流の・・・しかも直系のみほさんが、川に落ちた私たち・・・。言ってしまえば、犠牲の私たちを助けようとしたんです。自分の車輌がフラッグ車であるのに、です」

 

 小梅のカフェオレの缶を握る手に力が入る。

 

「黒森峰戦車隊には、黒森峰女学園の『誰も成し得た事の無い全国大会10連覇』という期待がかかっていました。昨年までずっと優勝し続けていたから、今年も優勝できる、と黒森峰全体がそう思っていました。けれど、みほさんの起こした行動のせいでそれも叶わず・・・。黒森峰戦車隊に向けられていた期待や希望は、失望や呆れに変わってしまいました・・・」

 

 織部にとって想像することは、なんとなくだができる。

 他の誰にもできないことを自分が、自分たちが成し遂げられるというのは並々ならぬ達成感、優越感を得ることができる。それは黒森峰の校風云々という話ではなく、学校という組織全体での話だ。だから黒森峰に限らずどの学校も、大会での優勝や入選などに拘る。

 その上黒森峰の戦車隊は前年度まで9連覇を果たしており、その上日本戦車道を代表する西住流の権化とも言うべき強さを誇っていたのだから、黒森峰は戦車隊に対して安心感にも似た感情を抱いていたのだろう。

 今年も優勝できる、と。

 10連覇の夢は叶ったも同然、と。

 けれどそれは、みほの起こしたたった1つのイレギュラーによって阻まれてしまった。

 それが要因で黒森峰の連覇はストップ、10連覇も夢と消えてしまった。学校全体が落胆ムードに包まれてしまうというのも想像に難くない。

 

「・・・・・・それで、私たちを助けたみほさんは、師範から責められました。西住流の教えに反する行動をとり、挙句勝利を逃してしまったのだから・・・」

 

 師範―――西住しほの事も織部は知っている。まだ会った事は一度もないが、日本戦車道連盟曰く、西住流師範と言うだけあって厳格な性格をしており、何か悪い噂を立てようものなら容赦なく吊るし上げにされるというのがもっぱらの噂だった。悪事や謀が一切通じない、鉄の心を持った人物だと、日本戦車道連盟理事長は言っていた。

 

「・・・・・・そして、みほさんは学校側からも糾弾されて・・・。学校の期待を裏切り、10連覇の夢を踏みにじった、西住流の恥さらし・・・・・・そんな心無い言葉を陰で言われていたのを、私は何度も聞きました・・・」

 

 この時小梅は、自らの足元を見ていたせいで織部の手が震えている事には気づいていない。

 

「・・・・・・中には、みほさんに正面からそんな言葉を浴びせる人もいました。そして、机をカッターで傷つけたり、上履きにゴミを詰めたりする人も・・・・・・」

 

 小梅はみほとは違うクラスだったので、その事態に直面した時のみほの顔がどんなものだったのかは分からない。

 しかし、決して笑みを浮かべてなど、喜んでなどいないだろうというのは馬鹿でも分かる。

 その時のみほはどんな気持ちだったのか。

 勝利よりも仲間を助ける事を優先したみほだ。仲間想いで心優しい性格をしているというのは想像できる。

そんな人が、自分が正しいと思ってした行動が皆から否定されてしまう。

 その時のみほの気持ちは、想像を絶するだろう。

 

「そして、黒森峰の隊長であり、みほさんの姉であるまほさんも、糾弾されるみほさんの事を庇う事もせず、守ろうともせず・・・・・・。唯一学校で血の繋がりがあって、みほさんが信頼していたまほさんから見放されたと思ったのかもしれません・・・。みほさんは、黒森峰を去ってしまいました・・・・・・」

 

 小梅の瞳から、一筋の涙が頬を伝う。小梅はそれを指で拭い、カフェオレをまた一口飲む。そして話を続ける。

 織部は、カフェオレに口もつけずに小梅の話に耳を傾けている。その表情に、僅かに怒りや悲しみの感情がにじみ出ている事に小梅は気付いていない。

 

「でも、みほさんがいなくなったからと言って、戦車隊への強い風当たりが収まることはありませんでした・・・・・・」

 

 小梅は、織部の方を一度見る。織部は真剣な目つきで、小梅の話に耳を傾けている。

 これから言う事は、先ほどよりもさらに話すのが辛い内容だ。けれど、ここまで来てしまって言わないわけにはいかない。

 

「・・・・・・非難は、あの時川に落ちてしまったⅢ号戦車の乗員・・・・・・つまり、私たちに向けられたんです」

 

 小梅が目を伏せる。また、涙が流れ出そうだった。

 織部はカフェオレの缶を左手に持ち、初めて会った時と同じように、右手で小梅を落ち着かせるためにその背中を撫でる。

 それで気分が幾らか落ち着き、小梅は話を再開する。

 

「そもそもあなた達が川に落ちなければ、こんなことにはならなかったって・・・・・・」

 

 小梅の缶を握る手の力が一層強くなる。

 

「あなた達が戦車道をやらなければ、こんなことにはならなかったって・・・・・・」

 

 涙があふれ出そうな小梅の目がギュッと閉じられる。

 

 

「・・・・・・あなた達が黒森峰に来なければ、こんなことにはならなかったって・・・・・・!」

 

 

 ベコッ、という音が響いた。

 その音に驚いて小梅がその音がした方向―――自分の真横を見れば。

 目元をひくひくと震えさせて、缶を握っている織部の姿がその瞳に映った。

 おそらく織部も、その時の小梅の悔しさが、辛さが分かるのだろう。だから、昨日まで見せていた穏やかな雰囲気から一変して、こうして怒りを露わにしている。

 

「・・・・・・あの時Ⅲ号戦車に乗っていた人たちは、私を除いて皆黒森峰から去ってしまいました・・・。黒森峰10連覇を成し遂げられなかった事に対する責任・・・周りからの非難に耐えかねて・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 織部は何も言わない。

 

「私も度々、みほさんが受けたような嫌がらせをされました・・・。そして、私の周りからは自然に人が離れていき・・・・・・。いつしか私は、黒森峰ではほとんど孤独になってしまっていて・・・」

 

 ふと気づけば小梅の握りしめられた左手には、小梅の背中を撫でていた織部の右手が重ねられていた。

 それに驚き織部を見る小梅は、織部もまた瞳を閉じて涙を流しているのを見た。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅の話に感化されたのか、それとも何か別の要因があるのか。しかし、小梅は話を続ける。

 

「・・・・・・私は次第に、黒森峰の誰もが私のことを嫌っている、私の事を妬んでいると思い込むようになってしまいました。だから昨日は、織部さんと一緒にいた根津さんを避け、昼休みにまほさんと何かを話していた織部さんが気になり、帰り道で斑田さんから逃げた・・・」

 

 織部は涙を拭き、そう言う事か、と昨日の不可解な小梅の行動に合点がついた。黒森峰の誰もが小梅の事を嫌っていると思い、小梅は織部が根津や斑田、まほから小梅についての悪い噂を聞かされていると思い込んでしまったのだろう。

 実際は、それとは全く逆の話をしていたのだが。

 

「そして、織部さんが根津さん達と親しくしているのをみて、織部さんもまた、皆さんと一緒に私の事を責めるんじゃないかって思って・・・・・・っ」

 

 目を閉じ、しかしそれでも涙をにじませながら語る小梅の手を、織部は優しく包むように握る。小梅はその手を振り払おうとはせずに、その手を甘んじて受けている。

 

「・・・・・・初めて織部さんに会った時、何も事情を知らない織部さんは私の事を慰めてくれました。それが、すごく嬉しかったです・・・。だからこそ、新学期初日にあなたと再会できて、本当に嬉しかった・・・」

 

 そして、と言いながら小梅は瞳を開ける。

 

「あなたとのつながりを、断ちたくはなかった。あなたとは、離れたくなかった・・・だから織部さんには、私の下から離れてほしくないと思って昨日、織部さんと一緒に帰りたいと言いました」

 

 これで、全てが腑に落ちた。

 小梅が織部に何かを話そうとしなかったのも、根津や斑田と一緒にいた織部を避けたのも、まほと話をしていた織部の事を見ていたのも、全ては自分の事を慰めてくれた織部まで自分の下から離れてほしくなかったから。自分たちがあの全国大会でのそもそもの敗因と知れば、織部もまた小梅から離れてしまうと思ったから、何も話さなかった。

 小梅の心に突き刺さっていたものとは、あの忘れられない全国大会での出来事と、それに伴い自らが糾弾されている事による悲しみ、苦しみ、痛みだったのだ。

 今、全てを話しきった小梅の心はぐちゃぐちゃだろう。今も小梅は俯きながら涙を流し、小梅の手は、繋がりを決して切りたくないと言わんばかりに、織部の手に絡みついている。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 織部は、自らの手の力によって凹んでしまった缶の中にあるカフェオレを全て飲み切ってから、小梅に話しかける。

 

「・・・・・・話してくれて、ありがとう」

 

 話を聞く前の敬語ではない。素の口調で話す。

 それはつまり、相手とは対等な立場でありたいという心の表れだ。

 小梅に言いたいことはたくさんあった。けれど、その前に聞きたいことが1つだけあった。

 

「・・・・・・でも一つだけ、聞かせてほしい」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅が、顔を上げて織部の事を見る。涙に濡れてしまっているが、その瞳は織部の事をしっかりと見ていた。

 その小梅の顔を見て、織部は問いかける。

 

「赤星さんは・・・そこまでの仕打ちを受けて、周りから人がいなくなっているにもかかわらず、どうしてまだ黒森峰に残っているの?」

 

 他のⅢ号戦車の乗員も、そしてみほも、転校という形で黒森峰を去り現状からの打破に成功した。

 しかし、同じ仕打ちを受けているにもかかわらず小梅は今なお黒森峰に残り、戦車道を続けている。

 先の織部の質問は、小梅の両親からも聞かれたことだった。

 小梅が自分を取り巻く環境を親に相談したところ、両親は『そこまで辛いのなら辞めてもいい。逃げてもいいんだよ』と言ってくれた。

 だが小梅は、決して逃げようとは、戦車道を辞めようとはしなかった。

 その理由は、例え黒森峰で孤独になっても、どんなひどい仕打ちを受けても、揺るぎはしない信念があるからだ。

 

「・・・・・・それは」

 

 小梅は、織部の手を握ってはいない、反対の手に力を籠める。たとえカフェオレの缶を握っていても、その間を握りつぶす勢いで力を籠める。

 そして、織部の顔を見て告げる。

 

「私が黒森峰から、戦車道から逃げてしまえば、みほさんのあの時の行動は全て無駄になってしまいます。勝利ではなく、仲間を助ける事を優先したみほさんの行動が、間違っていたと否定してしまうから」

 

 力強く語る小梅の顔から、織部は決して目を逸らさない。

 

「だから私は、みほさんの行動が・・・・・・“みほさんの戦車道”が間違っていなかったと証明するために、今も戦車道を続けているんです」

 

 その言葉を聞いた瞬間、織部が微笑んだ。

 突然、悲しみや怒りから一転して笑みを浮かべた事に対して小梅は驚く。

 

「・・・・・・強い信念を、赤星さんは持っているんだね」

 

 織部が言うと、小梅はまた申し訳なさそうにうつむいてしまう。

 

「・・・でも、私はみほさんの事を助けられなかった・・・」

 

 みほが矢面に立たされている中で、小梅は何もすることができなかった。みほを庇う事も、助けることもできなかった。

 

「・・・・・・私もまたみほさんの側につけば、同じように責められると思ったから・・・。でも、結局はみほさんがいなくなった後私も責められた・・・」

 

 まるでみほを助けなかった事の罰だと言わんばかりに、小梅もまた黒森峰から責められることとなった。

 

「・・・・・・いや、その気持ちは分かる」

「え・・・・・・?」

 

 織部が、小梅の手を優しく握る。

 

「・・・誰だって、そうだ。自分に火の粉が降りかかるのを恐れて、逃げようとする・・・。それは別に恥ずべき事じゃない」

「・・・・・・・・・・・・」

「ひどい仕打ちを受けていれば、自然と心も荒んでいって、人を疑うようになるのも分かる」

「・・・・・・・・・・・・」

「孤独になれば、誰でもいい、自分じゃない誰かを自分の支えにしたいと思うようにもなる」

 

 織部のその言葉には、なぜか重みを感じられる。まるで、自らもまた経験したかのような。

 

「・・・赤星さんの行動は、全部間違ってるとは思わない。赤星さんは人として、自分を保っていられるような手段を取ったに過ぎないよ」

「・・・・・・・・・・・・」

「『あなたが黒森峰に来なければよかった』なんて間違ってる。そんなの、絶対違う」

 

 それと、と織部は付け加えた上で小梅に問う。

 

「みほさんには、お礼は言ったんでしょ?」

「それは、もちろんですっ!」

 

 つい声を荒げてしまったが、それだけは断言できる。

 あの試合の後、落ち込むみほに小梅を含むⅢ号戦車の乗員全員でお礼を言った。そして、自分たちのせいで勝利を逃してしまった事に対する謝罪もした。

 それを受けてみほは、泣きそうになりながらも笑顔を浮かべて、こう言ってくれた。

 

『みんなが無事で・・・よかった・・・!』

 

 織部は小梅の返事を聞いてにこりと笑う。

 

「・・・・・・多分みほさんは、赤星さんからお礼を言われただけで十分だったと思うよ。助けた人から感謝されれば、それだけでみほさんの行いは間違っていなかったって、伝わったんじゃないかな」

 

 織部が微笑み、小梅は何かに気付いたような表情になる。

 

「それに赤星さんは・・・黒森峰の誰からも嫌われてるって言ってたけど、それは間違ってる」

「え・・・・・・?」

 

 根津と斑田には申し訳ないが、あの2人と話したことは今なお自らは孤独だと思っている小梅には知らせておくべきことだった。

 

「・・・昨日、根津さんと斑田さんと話した時、2人とも赤星さんの事が心配だって言ってたんだよ」

「・・・・・・!」

「赤星さんが何かに怯えている、何かを避けているみたいで心配だって言っていた。本当に嫌っているのならそんなことは言わないし、心配したりもしない。ましてや、新参者の僕なんかにそれを言いもしない。西住まほさんだって、昨日は僕に黒森峰に来た理由を聞いてきただけだ」

 

 パキン、と音を立てて織部の手の中の缶が元の形状に戻る。

 

「少なくとも根津さんと斑田さんは、赤星さんのことを嫌ってはいない」

 

 それに、と付け加えて織部は言う。

 小梅の事を安心させるために、小梅の心を支配する悲しみや痛みを少しでも和らげるために、告げる。

 

「・・・・・・小梅さん」

 

 小梅の事を名前で呼ぶ。

 それは小梅と対等な立場でありたいという願いの表れと、小梅が今なお織部が自分の事をどう思っているのかを恐れているであろうことから、小梅の不安や恐怖を解きほぐすためのサインだ。

 小梅はそのサインに―――自分の事を名前で呼んでくれたことに気付く。

 

「僕は・・・初めて小梅さんに会った時、どうして泣いているのかが気になった。昨日一昨日と避けられるような態度を取っていたのが、気になって仕方なかった」

「・・・・・・」

「それで今、泣いていた理由、僕たちの事を避けていた理由を聞いて、それでも小梅さんの中に強い信念があるのを知って・・・・・・小梅さんの事を嫌いになんてならないよ」

「!!」

 

 その言葉を聞いて、小梅の目が見開かれる。

 

「・・・・・・みほさんの戦車道が間違っていなかったことを証明する、っていう強い信念を持っていて、自分が辛い環境にあるにもかかわらず今を耐え抜いている・・・。誰にでもできるような事じゃない、凄い事だよ」

 

 小梅の視界が歪む。

 

「そんな人を嫌いになんて、なれるはずがない。責める事なんてできない」

 

 だから、と言って織部は、笑う。小梅を安心させるために。

 

 

「僕は小梅さんから離れたりはしない。傍にいるよ」

 

 

 小梅の視界が完全に涙で歪み、思わず俯いてしまう。

 言った後で、織部は気付いた。

 これではまるで愛の告白ではないか。プロポーズとも取れてしまう言葉ではないか。

 軽はずみな事を言ってしまったと思い、織部は謝ろうとするが。

 その前に小梅が織部に抱き付いてきた。

 

「・・・・・・」

 

 織部はどうしたことかと思ったが、小梅は織部の胸の中で泣いている。

 小梅の言う通りだとすれば、小梅は(自身がそう思い込んでいたというのもあるが)周りから責められ遠ざけられて、孤独に近かった。

 そんな中で織部に、小梅の行いが、誰にも告げた事の無い信念が認められた。

 理解者とも言える人ができた事で小梅は安心や幸福感に似た感覚を得て、小梅はその嬉しさが抑えきれなくなり、織部に抱き付いたのだ。

 抱き付かれた織部も突然のことに動揺したが、無下に突っぱねる事はしない。今なお胸の中で泣いている小梅を慰めるために、織部は優しく小梅の背中を撫でる。

 小梅は、織部に背中を優しく撫でられて、涙をこらえる事ができなくなった。

 最初に会った時も小梅は背中を撫でられたが、あの時は小梅の泣きそうになった感情を抑えるため、落ち着かせるためだった。けれど今は、小梅の感情を抑えようとはせず、今だけ、ずっと堪えていた感情を解放させるために、後押しする形で小梅の背中を撫でている。

 少しの間、小梅は織部の胸の中で泣き続けたが、やがて顔を離す。まだ涙で瞳が潤んでいるが、それでも織部の顔を見て笑う。

 

「・・・・・・春貴さん、ありがとうございます」

 

 小梅もまた、織部の事を名前で呼ぶ。それもやはり、織部の事を信頼し、対等な立場でありたいからだろう。

 

「私の本音を聞いてくれて・・・みっともないところを見せてしまいましたけど・・・」

「いや、これで安心したよ」

 

 織部は首を横に振り、微笑みながら告げる。

 

「ずっと気になっていたから・・・小梅さんは何について思い悩んでいるんだろう、何が小梅さんをあんな不安な表情にさせているんだろうって。それが知れてよかった」

 

 心底安心したように織部が言うと、立ち上がって自分と小梅の空になった空き缶をゴミ箱に捨てる。

 再び小梅の横に腰かける織部。

 小梅はハンカチで瞳に浮かんだ涙を拭う。

 それを見て織部は、小さく息を吐く。

 

「・・・・・・小梅さんが話したんだから、僕も話さないと不公平ってもんだよね」

「?」

「・・・・・・どうして僕が、黒森峰にこれたのか。どうして僕が日本戦車道連盟とつながりを持っているのか」

 

 そう言えば、と小梅は思った。

 初日にあのドイツ料理店で聞いた時織部ははぐらかし、途中で聞くのを止めてしまったが、それは確かに気になるところではある。

 昨年の全国大会の様子を織部が見ていたのもそうだし、織部の家族には戦車乗りがいるわけでもなく、関係者がいるわけでもない。

 そんな織部が、どうして戦車道連盟で働きたいと思うようになったのか。

 そしてなぜ、そんな織部が日本戦車道連盟とつながりを持っているのか。

 だが、当の織部の表情は陰ってしまっている。

 

「わ、私の事は良いですから、無理に話さなくても・・・」

「・・・・・・僕自身、この話しをするのは少しつらい。でも、小梅さんも僕と同じように話すのが辛いことを、勇気をもって話してくれたんだ。だから、僕も話したい」

 

 それに、と織部は言葉を切って小梅の事を改めて見つめる。

 

「小梅さんには、全部知っていてもらいたいから」

 

 そう言われてしまうと、小梅も反論できなくなってしまう。

 織部は正直な話、自分が戦車道の世界に触れたそもそもの理由を自分から話すのは嫌だった。あの時の思い出は今なお織部の心に突き刺さっており、簡単には消せないものだった。

 だからこそ、織部はそれから目を背けて今まで生きてきたが、その思い出がきっかけで戦車道の世界に触れて、戦車道に携わる仕事に就く事を決意した。

 故に、その思い出と織部は切り離す事の出来ないものとなっている。

 しかし、その思い出は人に気軽に話せるほど明るいものではなかったので、これまでは話してはこなかった。

 けれど、今小梅の本音を聞き、小梅が強い信念を持っていることは分かった。そして自分と同じような環境にいた事も、また知ることができた。

 織部は小梅の事を、十分信用していた。

 だから、自分の過去を話すことができる。

 

「・・・・・・そうだね・・・どこから話そうか・・・・・・」

 

 ふぅ、と息を吐いて空を見上げて、やがて織部は顔を小梅に向ける。

 そこで小梅は、織部が悲しそうな笑みを浮かべているのをみた。

 

「・・・・・・中学の頃なんだけどね・・・」

 

 そして、織部はこれまで話してこなかった自分の過去の扉を開く。

 

「僕は・・・・・・いじめられてたんだよ」




アネモネ
科・属名:キンポウゲ科イチリンソウ属
学名:Anemone coronaria
和名:牡丹一華
別名:花一華(ハナイチゲ)紅花翁草(ベニバナオキナグサ)
原産地:地中海沿岸
花言葉:見放された、見捨てられた、はかない恋、恋の苦しみ


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彼岸花(ヒガンバナ)

 織部の性格は、自他ともに認めるほど真面目だった。

 小学生の頃から織部は将来の事を見据えて勉強に励んでいて、教師からの評価は専ら『真面目で手のかからない生徒』だった。

両親も織部の真面目ぶりを評価してくれたし、織部自身が真面目でありたい、ふざけたくはないと意識していたからでもある。

 親友と呼べる友達も、織部の真面目ぶりを『いっそ面白い』と評して気に入ってくれたし、なんだかんだでクラスの中では人望もあった。

 しかし、学級委員長などには立候補したりはしなかった。真面目であっても、クラスの皆を率いるようなリーダーシップは織部には無かったし、人の上に立って責任を負う覚悟もまた持ち合わせていなかったからだ。

 ちなみに織部は、このころから戦車道連盟で働くことを夢見ていたわけではない。将来は堅実に働こうと考えていたが、具体的にどんな職に就きたいかはまだ決めてはいなかった。

 

 小学校を卒業し、中学校に進学しても織部の真面目な性格は変わることなく、新しい学校の新しいクラスでも、織部の立ち位置は『大人しい真面目な奴』だった。

 けれど中学生とは、今までは小学生だった子供が一皮むけるような時期であり、壁を一つ越えたような時期でもあり、はっちゃけたいと思うようになる年頃だ。

 だが織部はその真面目な性格ゆえ、皆がふざけたりはしゃいだりしても、あくまで真面目を貫き通して自分だけは普通でありたいと思っていた。

 それが、一部からすれば面白くないと思われたらしい。

 だから、織部はいじめの対象とされてしまった。

 いじめの原因は大きく分けて、主に容姿・外見によるものか、性格によるものかのどちらかだとされている。

 織部がいじめられる原因は、後者だった。

 さらにいじめを助長するのは、主に相手が自分とは違う、自分にはないものを持っているからという嫉妬や劣等感だ。

 この2つの原因と要素が合わさり、織部はいじめられることとなってしまったのだ。

 

 

「僕がいじめられる理由が、『ただ真面目なのが気に食わなかったから』って聞いた時は、本当にショックだったよ」

 

 織部の言葉を聞いて、小梅は口元を手で抑える。

 いじめという単語自体は知っている。いじめの事件がニュースに取り上げられたのも、何度も目にしている。

 そして、度が過ぎたいじめによって被害者が自ら命を絶つというケースもまた、報道されたのを覚えている。

 だが、小梅がその被害者をこの目で見るのは初めてだった。

 今目の前にいる織部の過去は、もしかすると自分以上に、凄惨なものではないだろうか。

 

「僕自身、普通に生きているつもりだった。なのに、それが気に入らないって理由だけで僕がいじめられることが、どうしようもなく理不尽だった」

 

 

 織部に対していじめを仕掛けてきたのは、別に織部とは親しくもなんともなかった、ただの同級生だった。

 教科書を破かれ、ノートは捨てられ、鞄はプールに投げ入れられ、筆箱の中身は壊された。机にカッターで傷をつけられ、ロッカーを荒らされた。

 直接的な暴力ではなく、陰湿な嫌がらせが主だったが、織部の精神をすり減らすには十分だった。

 織部は前に述べたような事をされる度に担任に相談して、担任から注意がいったという話だが、いじめは止まる気配を見せなかった。

 さらに織部に対するいじめが始まった事で、周りにも変化が起きた。

 クラスの誰もが、織部を遠ざけるようになったのだ。露骨に遠ざけているわけではなく、話しかけてもそっけない、あるいは無視される事が急激に増えた。

 その理由は織部自身も分かっている。皆、巻き添えを喰らいたくはないからだ。それは別に恥ずべきことではないのは織部も分かっている。

 ただ、織部自身も周りから遠ざけられたことで、誰かを頼るような事もしなくなった。それは周りを巻き込みたくないという考えもあったし、別の考えもある。誰かが、織部がいじめている奴の事を悪く言ったと根も葉もないうわさを立てるのではと邪推したからだ。

 だから織部は、クラスの皆から離れていった。小学校以来の親友さえも、遠ざけた。

 それほどまでに、織部は疑り深くなっていた。

 

 

「・・・・・・あの時は、僕自身精神的に追い詰められてた。友達に相談する事もできなくなるぐらい人を疑うようになっていて、僕以外は皆敵、あいつらの仲間だと思い込んでた」

 

 小梅は、織部のその自嘲するような言葉を聞いて、先ほど自分に向けて言っていた言葉を思い出す。

 

『自分に火の粉が降りかかるのを恐れて、逃げようとする・・・』

『ひどい仕打ちを受けていれば、自然と心も荒んでいって、人を疑うようになるのも分かる』

 

 あの言葉は、やはり織部自身も経験していたからこそ、ああして重みを感じさせるような話し方で言うことができたのだ。

 織部の表情は、その自分が過ごした苦痛な日々を思い出しているからか、苦しみをかみしめるかのような表情で、斜め下を見つめている。

 そんな織部を落ち着かせるように、今度は織部の右手を包むように小梅は左手を重ねる。

 

 織部は徐々に、体調不良による授業中の退室、早退や欠席が増えていき、遂には学校に行くこともできなくなった。

 織部の状態を心配した教師と家族からは『一度家に戻った方がいい』と言われて、織部は学園艦を離れてしばらくの間は実家に戻ることにした。

 実家に戻った事で緊張の糸が切れ、さらに周りは敵しかいないと思っていたクラスから解放されたことにより、織部は随分と久しぶりに家族の前で声を上げて泣いた。

 それからしばらくの間は、カウンセリングのために病院へ行くとき以外は、家で勉強あるいは読書をして大人しくしていた。

 しかし、やはり根が真面目である織部は、このままずっと休んでいるわけにはいかない、早くどうにかしないと、と思うようになった。それと同時に、自分をいじめた奴らが家にまで押しかけてくるのではないかと、根拠のない恐怖に襲われることとなってしまった。

 

 

「・・・・・・学校に行かなくなってから1カ月はそんな調子だった」

 

 小梅は、織部がどんな性格なのかはある程度理解しているつもりだ。小梅の事を真剣に心配して、過去と現状を聞いたうえでそれでもなお小梅の傍にいると言ってくれた。

 織部は心優しく、真面目な性格をしているのは小梅自身よくわかっていた。

 だからこそ、織部が休学中は遊び呆けずしっかり勉強していたのだろう。そして、いつまでもこのままではダメだと焦っていたのも納得できる。

 しかし、そんな状態の織部はどうやって復帰したのだろうか。

 

「・・・でも、ある日僕は出会ったんだよ」

「?」

 

 まるで小梅の心の中を読んだかのように、小梅の方を見て、微笑を浮かべる。

 

「戦車道とね」

 

 

 織部が学校に行かなくなってから1カ月が過ぎたある日。

 家に籠りっきりの織部は、いつまでも引きこもっているようではだめだと思い、少しずつ行動範囲を広げようとした。

 カウンセラーに相談したところ『あまり遠出しなければOK』という許可が下り、織部は積極的に外出するようにした。

 だが、外出している最中でも、あいつらと会ったらどうしようと不安になる事は幾度となくあった。それでも、そんな根拠のないような事に怯えていてどうする、と自らを奮い立たせた。

 外出を始めてから数日後、とあるフェンスで囲まれた草原の横を織部が歩いていると、『ズゥゥゥゥン・・・』と、遠くの方から腹に響くような音が聞こえた。その音のした方向は、フェンスの向こう側。近くには、『戦車道演習場につき、関係者以外立ち入り禁止』と書かれたプレートが取り付けてある。

 なるほど、さっきの音は戦車の砲撃音か、とだけ織部は思った。

辺りを見れば、すぐ近くに演習場を見渡せる二階建てのコンクリート造りの無機質な建物が建っていて、その屋上には戦車道のファンらしき何人もの人が、双眼鏡で演習場を見ていた。あの建物は、見学用の施設なのだろう。

 だが、その見物人たちも双眼鏡を仕舞い建物から出てくる。どうやら、さっき織部が聞いた音が決定打となって演習は終わってしまったらしい。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 なんとなく、織部がフェンス越しから演習場の中を見る。だが、はるか遠くの方で煙が上がっているのが見えるだけで、肝心の戦車の姿は見えない。まあ、このフェンスのすぐ近くで撃ち合いなどしていたら、うっかりフェンスを突き破って外にまで砲弾が飛んでくるかもしれないので、当然と言えば当然か。

 戦車の姿が見えないと分かると、織部はすぐにその場を離れることにした。

 だが、その近くに建ててあった掲示板を見て足を止める。

 どうやら、今現在試合を行っているのは“黒森峰女学園”と言う学校と、“大学選抜チーム”というグループらしい。高校生と大学生、恐らくは経験も知識も違うチーム同士で試合をする事もあるのか、と織部は心の中で少し驚いた。強化試合と書かれているため、恐らくは黒森峰女学園とやらの練度向上が目的だろう。

 そして、その黒森峰女学園と大学選抜チームの試合は今日が初日で、5日後まで続くらしい。

 改めて振り返ってみれば、織部は戦車道など名前を聞いた事があるだけで、どんなことをやっているのか、その内容をこの目で見た事は無かった。

 ニュースで戦車道の大会が行われていたとか、プロ戦車道の選手が結婚したなどという話をチラッと聞いた事はあるが、真剣に聞いたことは無い。

 織部が通っていた学校のクラスにも、戦車道をやっている女子がいたような気もする。

 しかし、男である織部は自分に戦車道など関係ないと思い、あまり深く戦車道の事を知ろうとはしなかった。

 家族には別に戦車乗りも、戦車に関わる仕事をしている人もいない。

 戦車道とは女の世界であり、男の自分が入る余地はない。

 そう思っていたのだが、今、練習とはいえ自分の目の前で戦車道の試合が開かれていた。

 

(・・・・・・明日も試合はあるんだよな)

 

 単純に、興味が湧いてきたのだ。こんな時ぐらいでしか、ぶっちゃけ時間に余裕がある今ぐらいでしか戦車道に触れる事なんてできはしない。

 とりあえず、明日もここに来ようかな、と織部は心の中で思った。

 

 その翌日、織部は親から双眼鏡を借り、昨日と同じ場所―――演習場近くにある2階建てのコンクリートの建物にやってきていた。昨日同様、戦車道ファンが自分の他にも大勢いる。年齢も性別もばらばらだったが、これから始まる戦車道の試合を今か今かと心待ちにしている。男女の比率は1:2と言った具合で、女性は若い人が目立つが、逆に男性は中年以上の人がほとんどで、織部のような成人していない者はいない。今日は平日で学校が普通にあるので、傍から見れば織部の方が浮いているのだ。

 織部も他の皆と同じように、首から提げた双眼鏡で演習場を覗きこむ。

双眼鏡の先には、戦車がいた。両チーム共に10輌ずつ、合計20輌の戦車が向かい合っている。一方のチームの戦車は黄土色、もう片方のチームの戦車は鈍色だ。もっと目を凝らしてみれば、黄土色の戦車隊の前には黒の、鈍色の戦車の前にはグレーのタンクジャケットを着た女性が数名立っている。

 両チームの選手が挨拶を交わすと、それぞれ戦車に乗りこみ距離を取る。お互いに、試合開始地点へと移動するのだろう。織部は、どちらの戦車隊の動きを見るか悩んだが、黄土色に塗られた戦車の動きを見る事にする。

 やがて、試合開始の号砲が上がり、黄土色の戦車隊が草原を前進する。

 織部の近くで同じように双眼鏡を覗き込んでいたファンの人たちも、『おぉっ』とか『始まったな』とか言っている。織部はそれ等の言葉を軽く聞き逃して、黄土色の戦車隊から目を逸らさない。

 ほどなくして、黄土色の戦車隊が砲撃を始めたのだろう、砲塔から煙を上げる。それに連動するかのように、遠くから砲撃の音が織部の耳に届く。昨日と同じように、腹に響くような低い音だ。

 だが、相手のチームも砲撃を始めたようで、黄土色の戦車隊の近くで土煙がいくつも起きたり、戦車の車体に火花が散る。

 それでも黄土色の戦車は怯むことなく前進を続け、その最中でも砲撃の手を緩めない。

 その戦車が進む先に双眼鏡を向ければ、相手の鈍色の戦車隊も同じように砲撃をしながら黄土色の戦車隊の方へと向かっている。

 両者の距離はどんどん狭まっていく。地面に着弾する弾の数も減っていき、それに反して戦車を掠る弾の数が増えていく。

 そしてお互いの距離がほぼゼロになり、黄土色の戦車隊の1輌が放った弾が、鈍色の戦車隊の1輌に直撃して大破させる。そして撃破されたことの証である白旗が揚がった。

鈍色の戦車隊はそれに怯んだようで、前進を停止する。しかし砲撃は止めずに続けている。

 だが、黄土色の戦車隊はその砲撃を傾いた装甲を利用して弾き、なお前進を続ける。

 黄土色の戦車隊は決して退かず、敵の砲撃に怯まず、目の前に並ぶ鈍色の戦車隊へと肉薄して砲撃を続け、また1輌撃破する。

 

 

「・・・・・・一気に引き込まれたんだ」

 

 織部がその時のことを今でも覚えているかのように、その目にわずかな輝きを見せながら話す。小梅はその織部の顔から目を離さない。

 

「あんな大きな鉄の塊が動いて火を噴いて敵を倒している姿をみて、男心をくすぐられたっていうのもある。でも、それ以上に引き込まれるものがあったんだ」

「?」

 

 小梅が首をかしげると、織部は笑って言う。

 

「どれだけ撃たれても決して退かず、攻撃を弾き、前へ進み続ける戦車がすごく格好いいと思ったんだよ。いじめられて、学校に通えなくなって、前に進むことができなくなった僕にとっては、その戦車がすごく輝いて見えたんだ」

 

 

 その翌日も、織部は戦車道の演習を見学した。

 撃破された戦車の修理もあったのだろう、参加していた戦車の種類は昨日とは少し違っていたし、どれが何という名前の戦車なのかは全く分からなかったが、それでも試合はのめりこむぐらい見入っていた。

 演習が終わった後、家に戻った織部は戦車道の事を調べて、有名な戦車の名前だけは覚えた。そして、戦車道連盟の公式サイトから配信されていた戦車道の試合も観た。

 こんな風に、1つの事に熱中して脇目も振らず集中するのなんて、人生で初めてかもしれなかった。

 その翌日もまた、織部は演習の見学をした。どちらの戦車隊も、動きがパターン化するということは無く、昨日とも一昨日ともまた違った戦い方を見せてくれる。

 戦車道というのも奥が深いものだと、織部は実感した。

 そして演習最終日、その日の天候は生憎の雨。平日の昼と言うのも相まって、織部以外に見学をしている人は誰一人としていない。

 織部は雨合羽を着ながら双眼鏡を覗き込む。こんな天候でも戦車道の試合は行われるのだから、戦車道の世界も厳しいのだなと織部は思った。学校の体育などは雨が降れば体育館でとなるけれど、戦車道と学校の体育を一緒にするのも野暮だなと苦笑する。

 やがて雨が降りしきる中で試合が始まり、両チームの戦車が前進を開始。距離を詰めると砲撃を開始する。

 雨の中でも、装甲を貫けば黒煙が上がり、装甲が砲弾を弾けば火花が散る。雨雲のせいで少し暗くなっている下での火花や煙は、割と絵になる。

 そして演習が終わり、織部が踵を返して帰ろうとしたところに、その人物は立っていた。

 織部よりも身長がやや高い、恰幅のいいその人物は、黒い紋付き袴を着ていて頭には帽子を被っており、黒い傘を差している。歳は50前後と言ったところだろうか。

 織部は最初その人物をスルーしようとしたが、その人は明らかに織部の事を見ていたので、無視するわけにもいかなかった。

 どうしたものかと悩んでいると、向こうから声を掛けられた。

 

「君、最近よく見るね」

「え?はぁ・・・・・・」

 

 織部が気の抜けた返事をすると、その男は後頭部を掻いて済まなそうな笑みを浮かべる。

 

「ああ、すまない。急に話しかけてしまって」

 

 男は謝りながら、懐から1枚の小さな紙を取り出して織部に差し出す。名刺のようなサイズのその紙を織部が見ていると、その人物は名乗った。

 

「私は児玉七郎。日本戦車道連盟の理事長をやっている」

 

 その後織部と、児玉と名乗った男は、雨の中で話すのも厳しいので、見学をしていた建物の1階へと移動する。

 児玉によればこの建物は、戦車道の演習を見学したい人のために戦車道連盟が建てたもので、1階部分は休憩スペースになっている。中にはいくつかの木製のベンチと自動販売機が1つ設置されている。

 織部と児玉は、ベンチに座り話を始める。

 聞けば児玉は、初日から演習が行われている間ずっとここで試合を見ていたらしい。織部が気付かなかったのも、試合に見入ってしまっていて周りが見えていなかったからだろう。

 

「すまないね、急に声を掛けたりして」

「いえ・・・・・・」

 

 児玉理事長は、少し困ったような顔で織部に話しかける。

 児玉曰く、織部のような若い男子が戦車道に熱中しているのが珍しかったらしい。戦車道は乙女の嗜みなので、男性からの人気は低い。いたとしても、児玉のような大人が多いという。だから織部が珍しく見えたのだ。

 

「・・・・・・」

 

 そこで織部は、自分がここにいる経緯を思い出す。

確かに今この見学施設にいるのは戦車道にハマって試合を見たかったからではあるが、どうして戦車道にハマったのか。

 それはやはり、忘れる事の出来ない自分が受けたいじめのせいだ。

 織部の表情に陰りが差したのに気づいたのか、児玉が話しかけてくる。

 

「何か、悩みでもあるのかな?」

 

 織部はここで悩む。自分の今置かれている状況を話すべきか、話さずにおくべきか。

 織部は、入学当初は別に軋轢も無かった者がいじめを仕掛けてきた事で、半ば人間不信になっていた。だから、この初対面の児玉に全てを話すというのも憚られた。

 しかし織部は、戦車道に出会ったおかげで、閉塞していた日々から抜け出すことができたのだ。色を失っていた織部の日々に、戦車道という名の色が付いたのだ。

 そしてこの児玉は、その戦車道のトップとも言うべき人物。

 ここで、繋がりを持っておきたかった。

 家族以外、友達すらも信用できない織部は、人生で初めて熱中した戦車道に携わる人物と新しく関わりを持ちたかった。

 だから織部は、全てを話すことにした。

 

「・・・・・・実は、僕は・・・」

 

 自分がいじめられたこと、それによって今は学校に通っていない事、そしてそんな中で戦車道の世界に引き込まれたことを正直に話した。

 

「・・・戦車が、どれだけ撃たれても一歩も引かずに前に進み続けている姿が、とても格好良くて」

「・・・・・・そうか」

「それで、戦車道にハマったんです」

 

 児玉は織部の生い立ちを聞いて、気の毒だと思った。そして、どうにかしてあげたいと思った。

 いじめを受けて学校にも行けない目の前の少年が、戦車道の世界に触れて活力を取り戻し、前へ進みだそうとしている。少年の心を動かしたのが、児玉自身が携わっている戦車道なのだから、とても他人事で済ます事はできない。

 だから児玉は、織部にこんなことを聞いた。

 

「・・・・・・織部君」

「?」

 

 織部が児玉の顔を見上げる。児玉は、その織部の顔を真剣な目で見つめてこう言った。

 

「もっと、戦車道について詳しく知りたいかい?」

 

 

「あの時は、信じられなかったよ」

 

 空を見上げる織部。影の伸びている方向は変わっていて、小梅と出会って話をし始めてから大分時間が経ったのが分かる。

 けれど、小梅の左手は変わらず織部の右手を包むように握っていて、小梅は織部から目を逸らしていない。

 織部の過去を真剣に聞いてくれている。

 

「偶然にも理事長と会って、僕を取り巻く環境の事を話して・・・戦車道連盟の本部に招待されるなんて」

 

 戦車道連盟の本部は、基本的に特別な事由が無い限りは行かないものだ。

 戦車道連盟は、全国各地に支部がある。プロ・アマチュアを問わず、大体の用事は管轄内にある支部で用事を済ませてしまうからだ。

 小梅ですら、本部には行ったことは無い。そんな場所に織部が行ったことがあるとは。

 織部の話には、驕りや自慢と言った感情は見受けられない。あるのは、辛く苦しいものではあるが忘れる事の出来ない過去を思い出した事による、悲哀や懐古だ。

 

「それで連盟の本部を見学させてもらって・・・。そこで、ネットとかには載ってない、戦車道の具体的な歴史を教えてもらって、戦車道とは本来どういうものなのかを教えてもらって・・・」

 

 そして、と言いながら織部はまだなお小梅の手に重ねている右手を握る。

 

「・・・・・・僕も将来は、僕の人生を変えた戦車道に携わりたいと思うようになった」

 

 

 その意思を児玉に伝えると、児玉は笑みを浮かべた。

 閉ざされていた織部の将来が、戦車道によって開かれたのだ。

 児玉は目の前にいる、男でありながらも戦車道の道を志す少年を見て、その夢を応援したくなった。

 当然ながら、理事長を務めている児玉は戦車道の事を愛している。

 その愛している戦車道によって、織部は閉塞されていた日々から抜け出したのだ。そして、新しい未来を見つけたのだから、これほどまでに嬉しい事も無い。

 児玉は、織部の今置かれている環境を鑑みて、『できる限りサポートしたい』と織部を応援する旨を伝えた。

 織部は、将来の方向性が固まったことで、3カ月ぶりに学校に戻る決意を固めた。

 戦車道にハマって、日本戦車道連盟本部に赴いて、それで決まった自分の将来の夢の事を話すと、織部の両親は背中を押して応援してくれた。

 学校に復帰する際はやはり緊張した。またいじめられるのではないか、本当に夢を叶えられるのか、という不安に襲われた。

 けれど、信用していなかった小学校からの親友が織部の傍にいてくれた。

 織部が“そう思っていた”だけで、織部の親友は織部の事を心配してくれていたのだ。

 だから、織部が復帰した日には笑って迎えてくれたし、また一緒に遊ぼうと誘ってくれた。

 織部も、その時は涙浮かべながらも、笑って『うん』と答えてくれた。

 そして、織部も真面目一辺倒ではなく、少しだけだが柔軟に富むようになった。言ってしまえば、妥協を覚えたのだった。前までは『こうでなければだめだ』『こうしなければならない』という考えに縛られていたのだが、今では『別にそうでなくてもいい』『できないこともある』と考えるようになったのだ。

 けれども織部は、3カ月のブランクを取り戻すために勉強を今まで以上に頑張った。

 後に聞けば、織部をいじめていた連中は、『真面目なのが気に入らなかった』のと『織部の困る様を見るのが面白くてやった』らしい。だが、流石に教師や保護者から何かを言われたのか、いじめはいつしか無くなっていた。

 一方で児玉は、本来の業務の傍らで、織部が戦車道連盟に就く事ができるような道を模索していた。

 戦車道連盟に所属している人物のほとんどは女性だが、男性もわずかに在籍している。しかし、その男性というのは家族に戦車乗りがいたり、母親が戦車道連盟で働いていたり、妻がプロ戦車道の選手だったりと、皆何かしら戦車道とかかわりがある者だ。

 織部の家族は戦車道とは無縁の、ごく一般的な家庭だ。だからこそ、どうすれば戦車道とつながりを持つことができるのかが、課題となっていた。

 さらに言えば、(どの企業や会社にも言える事ではあるが)戦車道連盟も馬鹿では就けない。相応の知識と教養が必要である。先ほどのように何かしら戦車道と縁がある男性も、やはり並大抵の学校卒ではなく、一般以上のレベルの学校を卒業していた。

 だから織部も、戦車道の事が学べて、なおかつ平均をはるかに上回る学校で勉強させる必要がある。

 やがて児玉は、戦車道の強豪校で教養を重ねればいいという結論に至った。戦車道の強豪校とは大概レベル―――偏差値が高く、規模の大きい学校であるからだ。

 しかし、それもまた実現不可能に近い道である。何せ、戦車道の強豪校とはほぼ女子校であるため、そこに男の織部が入学する事など不可能、あり得ない事だ。

 戦車道のカリキュラムが組み込まれている共学の学校もあるにはあるのだが、そこは大体偏差値が並みかそれ以下だ。

 けれどこれ以外の道が思いつかない児玉は、ダメもとで頼み込んでみることにした。

 その頼む相手は、“あの”西住流が後ろについている戦車道の強豪校・黒森峰女学園。

 西住流の家元は高校戦車道連盟の理事長を務めているため、日本戦車道連盟理事長の児玉とも面識が、繋がりがある。

 そして、黒森峰女学園の戦車隊は、織部が戦車道の世界に踏み込むきっかけとなった黄土色の戦車隊が所属している。

その繋がりと織部の想いに賭けて、児玉は頼むことにしたのだ。

 だが黒森峰女学園の校長及び西住流師範の西住しほに最初頼んだ際は、当然ともいえるが却下された。やはり、どんな理由があれ女子校に男子を入学させるなど前代未聞であるからだ。

 それでも児玉は、戦車道に心動かされて人生の道を再び歩き始め、新しい未来を見つけた1人の少年の事を放っておくことが、その少年に諦めろと言う事ができなかった。

 その熱意を伝えると、やがてしほと校長は、1つの提案をした。

 高校1年生の間の織部の学業・素行を確認し、黒森峰と西住流が問題ないと判断した場合は、留学という形での転入を許可する、と。

 

 

「その話が届いたのは中学2年の時。それ以降、1日の勉強時間が前の倍以上になったよ」

 

 織部が苦笑しながら話す。小梅は閉口したまま、織部の話を聞いている。

 織部が黒森峰に来た経緯が、自分の想像以上に規模の大きなものだったからだ。

 日本戦車道連盟と繋がりを持った経緯も、黒森峰に留学できたのも、そして黒森峰の試合を見たのがきっかけで織部の人生が変わったのも、全てが小梅の予想外だった。

 

「1年生の間だけでも普通の高校に通っていたんじゃ、箔はつかない。だから、頭のいい・・・言ってしまえば偏差値の高い学校を目指すようになったよ。そのために塾にも通い出して、友達と遊ぶ暇も惜しんで勉強漬けになったよ」

 

 受験に合格したら、反動で皆と結構遊んだけどね、と乾いた笑身を浮かべながら織部が話すが、小梅は全く笑えなかった。

 織部の言っていた日本戦車道連盟に繋がりがあるという話は、嘘ではなかった。

 そしてその日本戦車道連盟の理事長が織部のために黒森峰に、あの西住しほに頭を下げて織部を転入させたいと頼み込んで、条件付きでそれが認められた。

 今織部がここにいるという事は、その条件をクリアしたという事だろう。

 

「友達と別れるのは寂しかったけど、どうにか平均よりもレベルの高い高校に入ることができたよ。でも、それで終わりじゃない。そこからさらに1年間は勉強を続けて、いい成績を取らないと黒森峰に行けなかったから。黒森峰に認められなかったから」

 

 織部の額に冷や汗が浮かんでいる。あの、中学2年の頃の黒森峰への条件付き転入の話が上がった時から今に至るまでの自分の努力と苦労の日々を思い出したのだ。

 

「・・・それで、僕の努力が認められて、黒森峰で本格的に戦車道の勉強をすることができるようになって、僕はここにいる」

 

 人並外れた努力の積み重ねによって織部は今ここにいるのだと思うと、小梅は怯えにも似た感覚に陥る。

 いじめという決して忘れられない辛い過去を背負い、それを人生の転機としバネに変えて、ここまでのし上がってきた。

 そんな織部の事を、小梅は尊敬せずにはいられない。

 

「・・・・・・すごい」

 

 自然とそんな言葉が小梅の口から漏れ出ていた。

 

「・・・僕は、ここまで僕を導いてくれた戦車道連盟と、僕のことを認めてくれた黒森峰女学園、そして西住流の師範には感謝している。理事長の児玉さんと、黒森峰の校長にはもうお礼を言ったんだけど、師範の西住しほさんにはまだお礼が言えてないんだ」

 

 しほの名前を聞いた途端、小梅の肩がビクッと震える。織部は、しほの名前を出したのは軽率だったかと反省した。

 小梅は、西住流の教えに反した行動をとったみほがいなくなってしまったのを悔やんでいて、恐らく西住流に対して恐怖心を抱いている。それをあおるような発言は控えるべきだと織部は改めて思った。

 

「・・・・・・戦車道に触れたそもそもの理由は、僕がいじめられていたからだ。だから、これはあまり話さないでいたんだよ」

 

 織部が締めると、小梅は尊敬に満ちた表情を織部に向けてくる。

 

「・・・・・・春貴さんって、すごい人だったんですね・・・」

「僕は別に・・・・・・ただここに来たくて努力をしてきただけだよ」

「・・・・・・・・・・・・それなのに、私は春貴さんの事を・・・」

 

 小梅はまだ、織部を自分の都合で自分の下から離れさせないようにしたことを悔やんでいる。そしてさっきの話を聞いて、尋常ではない努力を積み重ねてきた織部を利用しようとしたことに対する罪悪感が、どっと押し寄せてきたのだ。

 

「小梅さんは、そんな罪悪感に苛まれる必要はないんだよ」

 

 それでも織部は、小梅の事を許してくれた。

 

「僕だって、繋がりが欲しくて児玉さんに話をした。そして小梅さんも、僕との繋がりを断ち切りたくなくて、昨日みたいに言葉をかけてくれて、今日僕に話をしてくれた」

 

 織部が笑いながら小梅に話しかけてくれる。小梅は、なお笑って小梅の事を責めない織部から目を離すことができなかった。

 

「小梅さんは人として、何も間違った事はしていない。だから僕は小梅さんを責めたりはしないよ」

 

 織部が、真っ直ぐな瞳を小梅に向けて告げる。

 その言葉に嘘偽りがない事は、小梅にも分かる。

 だから小梅は、また謝って織部を困らせるようなことはせずに、感謝の気持ちを言葉にした。

 

「・・・・・・ありがとう」

 

 

 小梅の心には、今なお去年の全国大会の出来事が突き刺さっている。

 しかし今、それを上書きするかのような別の何かが芽生えてきていた。

 織部は、初めて出会った時小梅の身を案じて声を掛けてくれて、その背中を撫でてくれた。

 新学期に再開した日には、様子のおかしい小梅の事を心配して何があったのかを聞いてきた。

 小梅が根津や斑田を避けて、織部を繋ぎとめようとして、疑心暗鬼に陥って織部を疑っても、織部は小梅の事を見捨てようとはしなかった。

 そして『離れたりしない。傍にいる』と言ってくれた。その言葉はとても胸に響いたし、忘れることは無く、小梅の心に残っている。

 織部は自分と同じ―――いや、それ以上の過去を背負っていて、それでも戦車道の世界に触れて、戦車道に携わりたいという夢を抱いて、誰にでもできるようなものではないほどの努力を積み重ねてここまで来た。

 そんな織部に対して小梅は、尊敬だけではない、多くの感情を抱いていた。

 その中でも一際大きな感情が芽生えているのだが、小梅はその正体にはまだ気づいてはいない。




ヒガンバナ
科・属名:ヒガンバナ科ヒガンバナ属
学名:Lycoris radiata
和名:彼岸花
別名:曼殊沙華(マンジュシャゲ)天蓋花(テンガイバナ)、リコリス
原産地:中国
花言葉:悲しき思い出、諦め、独立、情熱


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西洋薄雪草(エーデルワイス)

 お互いに自分の事を全て打ち明けて話をしている間に、気づけば時間は正午を過ぎてしまっていた。

 話も一区切りついたので、織部と小梅は、新学期初日にも訪れたドイツ料理店に向かう。定食屋でもなくファミレスでもない、ドイツ料理店を選んだのに深い意味はない。ただ、新学期に再会した時と違い今の織部と小梅の2人はお互いに相手の事を知っている。あの時のように相手が何を考えているのか、そしてどうしてここにいるのか分からないのではない。

 店に入り、席に通された2人は向かい合って座る。

 席に着き、店員がメニューと冷えた水、おしぼりを置いてその場を離れると、織部も小梅もメニューには触れないで座ったままだ。

 織部も小梅も、相手の事を聞いて、言いたかったことは全て言ったつもりだ。

 

「・・・・・・私の事を、洗いざらい誰かに話したのなんて、初めてでした・・・」

「僕も、僕の過去を全て誰かに一から話した事なんてないよ」

 

 そこでお互いに笑い合い、水を一口飲む。織部は息を吐き、明かりが灯る電灯を見上げる。

 太陽ほど眩しくはない、しかし直視し続けるのは少し厳しいそれを少しの間見上げて、やがて顔を小梅に向ける。

 

「・・・正直、僕の過去は僕自身あまり触れないようにしていた」

「?」

 

 小梅が首を傾げ、織部は話を続ける。

 

「僕が戦車道に携わりたい、戦車道連盟に就きたいと思ってここまで来たのは確かだけど、その触れたきっかけはいじめられていたからだ。これは、忘れる事はできない」

 

 コップを持つ織部の手に自然と力が入る。だがガラスを握り砕くほどの握力を織部は持ち合わせてはいないので、冷えた水の温度が織部の手から身体に伝わるだけだ。

 

「そして戦車道連盟に就きたいと思うようになったきっかけ―――つまり僕がいじめられていた事を思い出すと、必然的にどうしてそうなったのか、何をされたのかまで思い出しちゃうものだから」

 

 寂しそうに笑う織部の顔を見て、小梅もまた思い出す。

 織部の口から告げられた、中学で何をされたのかを。その内容はあまりにもひどく理不尽で、自分が受けた苦痛と同等かそれ以上に辛いものだったのかを。

 

「・・・・・・・・・・・・私・・・」

 

 小梅は、織部に対して酷な事をしてしまったと気付く。

 小梅は心に蟠る過去と現状を全て話した。それによって、小梅が全て話したのだから織部も全て話すべきという事になり、織部自身も話さなかった―――悪い言い方をすれば隠していた、織部がどうして黒森峰に来ることができたのか、どうして身内に戦車道関係者がいないにもかかわらず戦車道連盟と繋がりがあるのかを全て話した。

 極端に言ってしまえば小梅が、織部が過去のトラウマに触れるようにしてしまったのだ。

 だが、織部は小梅が悪い、小梅のせいとは毛頭思っていない。

 

「小梅さんが気に病むことは無いよ。きっかけっていうのは忘れちゃいけない事だし、あれのおかげで今の自分があると思ってるから、今はそこまで辛くはない」

 

 それに、と言いながら織部は小梅の方を見る。

 

「小梅さんは、僕と同じように色々仕打ちを受けても、自分の心の中にある強い信念を持って今までずっと黒森峰で頑張ってきた。僕と同じように今を生きようと頑張っている人がいるから、僕も頑張れる」

 

 辛い、消えない、決して忘れる事の出来ない過去を背負っていても、その過去と向き合って今を生きている織部が、小梅には輝いて見えた。

 だから小梅は、何も言わずにはいられない。

 

「・・・春貴さんは、私の事をすごいって言ってくれましたよね」

「?」

「でも、織部さんもすごいと私は思います」

 

 織部が小梅の方を見る。小梅は織部の目を真っ直ぐに見つめて告げる。

 

「・・・過去に春貴さんがされたような事を他の人がされれば、誰だって傷ついて、ふさぎ込んでしまいます。でも、あなたはそこから自分の力で這い上がって、夢を叶えたいって一心で努力を積み重ねてきて、この黒森峰にまできた・・・。とてもすごい事だと思います」

「・・・・・・・・・・・・」

「誰だって、過去の嫌な出来事からは目を背けたいものですけど・・・春貴さんは、きちんと夢を持つようになったきっかけだからという理由でその過去を忘れず、真摯に向き合っている・・・。春貴さんはとても、心の強い人です」

 

 小梅に言われるが、織部は首を横に振る。

 

「・・・僕は、一度不登校になった・・・。本当に心が強い人は、そうならなかったと思う」

 

 今度は小梅が首を横に振って、織部の言葉を否定する。

 

「でも、それを乗り越えて新しい夢を見つけて、また同じような目に遭うんじゃないか、という不安に打ち勝って、学校に戻ってきたのもまた心が強い証拠です」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅の顔を、呆けた様子で見る織部。

 “心が強い”と言われた事など一度も無かった。家族や周りからは『よく頑張った』とか『すごい努力家だ』と言われたことは何度もあるけれど、『心が強い』とまで言われたことは無かった。心が強ければ、不登校になどならなかっただろうから。

 小梅自身も辛くて苦しくて悲しい過去を経験しているからこそ、同じような過去を背負う織部に言えるのかもしれない。

 しかし、小梅が自分の事を素直にすごいと言ってくれたことに対しては、ちゃんとお礼を言うべきだと思った。

 

「・・・そう言ってくれたのは、小梅さんが初めだよ。ありがとう」

 

 織部が笑みを浮かべて、小梅に感謝の言葉を告げる。

 その織部の笑顔は、とても優しくて、温かい気持ちになれるものだった。

 小梅は、自分が織部に会うまでずっと俯いて周りから目を逸らし、泣いてばかりいた。だから、今織部の浮かべているような笑顔を随分と久しく見ていない。

 

「・・・・・・」

 

 織部の笑顔を見ているうちに、顔が熱くなってしまい、つい目を逸らしてしまう。だから、織部が怪訝な表情を浮かべているのも見えない。

 だが、小梅がどんなことを考えているかなどつゆ知らず、織部はさらに追い打ちをかける。

 

「・・・・・・不思議と、小梅さんになら色々話せる気がする。僕の過去の事も、弱音も」

 

 余計に顔が熱くなってしまう小梅。そんな事言われたの生れて初めてだったし、織部の優しい笑顔がまだなお頭から離れていないので、余計に恥ずかしくなる。

 そしてつい、小梅も本音をこぼしてしまった。

 

「・・・わ、私も・・・・・・春貴さんになら全部、話せるような気がします・・・」

 

 言った後で小梅は『しまった』と思う。少し踏み込み過ぎたと思ったからだ。

 だが、織部は驚きはしているものの、不快な感情を抱いているようには見えなかった。

 

「・・・・・・じゃあ、これからもっと色々話していこう」

「・・・・・・そう、ですね」

 

 そこでまだ料理を頼んでいない事を思い出し、2人はテーブルに置かれたメニューに手を伸ばす。

 だが、そこで2人の指先がほんのわずかに触れて、小梅がビクッと自分の手を引っ込める。

 

「あ、ごめん・・・」

「い、いえ・・・・・・大丈夫です・・・・・・」

 

 メニューは1つしかないので、どちらが先にメニューを決めるか織部は悩んだが、小梅が右手を引っ込めたままなので、とりあえず先に織部が何を頼むかを決めることにした。

 その最中で小梅は、織部の指先と触れてしまった自分の右手を左手で握る。

 さっき花壇の前で背中を撫でてもらったり、左手を包み込むように握ってもらったというのに、少し指先が振れただけで緊張してしまうなんて。

 さっき織部の笑顔を(いい意味で)直視できず、織部の言葉に動揺してしまって、少し指が触れた程度でここまで焦ってしまうなんて。

 これではまるで―――

 

「はい、小梅さん。僕は決めたから。ゆっくり決めていいよ」

「あ、どうも・・・・・・」

 

 自分の行動を、ある感情を抱いているかのように例えようとしたところで、織部からメニューを手渡された。小梅は写真付きのメニューを凝視して、織部の事を考えるのをいったん止めようとするが、先ほどの織部の笑顔と言葉が頭から離れない。

 そんな中でどうにか何を頼むかを決めて、織部が店員を呼んで注文する。

 さて、『色々話したい』と織部は言ったが、小梅はどうもさっきからもじもじしていて織部と視線を合わせようとはしない。

 何かまだ気がかりな事でもあるのだろうかと思ったのだが、今までのように小梅の表情には愁いも苦しみも見られないのでどうもそう言うわけではないようだが、織部には小梅が今何を思っているのか皆目見当がつかない。

 そこで、織部はじろじろと小梅の事を見てしまっている事に自分で気付いた。

 陰口に晒されていた小梅にとって、何でもないような時間や場所で人から注目されるのは少し怖いのだろうか、と織部は思い、小梅から視線を逸らす事にする。

 結果、2人は料理が来るまでの間も、料理が来てからも、目線を合わせずお互いに相手の顔を見ないで過ごすこととなった。

 

 昼食を食べ終わり、会計を済ませて(またも割り勘)店を出て、織部と小梅は揃って空を見上げる。

 今朝、花壇の前で小梅と会った時から少し時間が経ち、それに伴い太陽の位置も大分変わってしまっている。それを踏まえても、小梅には空がさっきまで―――今日織部に会って話をするまでとは違ったように見えた。

 やはり、小梅が自分の心に突き刺さっていた過去と、今の自分を取り巻く現状を織部に話し、心の中の蟠りが無くなった。そして織部が『離れたりしない、傍にいる』と言った事で、自分の傍に誰かがいてくれる事に安心感を得た事で、小梅の心の負担が大きく軽減されたのだ。心に余裕ができた事で、空が違ったように見えるのも気のせいではないのかもしれない。

 小梅と同様に空を見上げる織部もまた、小梅と同じような感覚―――空の色が違うような感覚を得ていた。

 この後は特に用事もないので寮に戻ろうと思い、寮の方向へ足を向けたところで。

 

「織部君、赤星さん」

 

 自分たちの事を知っているかのような呼び声。振り向いてみれば、そこには同じく制服姿の斑田と根津が立っていた。

 声からして織部と小梅に声を掛けてきたのは斑田の方で、根津は右手を挙げて挨拶をしてくる。

 

「根津さん、斑田さん。こんにちは」

 

 織部は根津と同じように片手を挙げて挨拶をする。だが、織部が横目に小梅を見れば、小梅は少し怯えたような表情で、斑田と根津の顔を見ずにわずかに下の方を向いている。

 いくら織部が『根津と斑田は嫌ってはいない』と言っても、それが本当かどうかは定かではない。だから、こうして小梅が怯えてしまうのも仕方ないと言えば仕方ない事だ。

 

「2人とも、どうしたの?」

 

 根津が世間話でもするかのように聞いてくるが、小梅はビクッと震える。

 別に織部と小梅の間にやましいことは何一つとしてない。ただ2人で話をしていただけなのだが、その話している内容は余りにも重すぎるものだった。だから、人においそれと話せるような内容ではない。

 

「まあ、ちょっと色々・・・」

 

 適当にはぐらかす事にする織部。

 そこで斑田と根津は、小梅の怯えた表情を見て何かを感じ取った。

 

「・・・まあ、深くは聞かないでおくよ」

 

 根津が頭の後ろで腕を組みながら言うと、織部も小梅も内心ほっとした。

 

「ところで、お2人は何を?」

 

 織部が聞き返すと、斑田は頬を掻き困ったような笑みを浮かべながら答える。

 

「私たち、戦車道博物館に行こうとしたんだけど、今日設備のメンテナンスで休みだったんだよね」

「戦車道博物館?」

 

 聞いた事の無い建物の名称を聞いて、織部が頭に疑問符を浮かべる。

 

「あれ、行った事無い?黒森峰の戦車道の歴史とか、戦車のレプリカとかがあって面白いとこだけど」

「・・・・・・そもそも聞いた事も無かった」

 

 そんな場所があるなんて知らなかった。

 織部は黒森峰に留学する事が決まった際に、黒森峰女学園の事については事前調査をしていたつもりだったのだが、学園艦内の施設までは把握することができなかった。

 春休みに一度、下見に訪れた際にもその戦車道博物館の存在に気付けなかった。織部は、自分の詰めの甘さを痛感する。

 

「で、明日改めていこうと思ってたんだけど・・・良ければ明日、織部も一緒に来る?」

 

 根津から誘われて、織部は少し考える。

 明日は日曜日で、戦車道の訓練はない。新学期が始まって間もないので宿題を出されているわけではないし、懸念すべきドイツ語の授業の予習も1日かけてやるようなものでもない。

 それに戦車道博物館は、将来戦車道に携わる者として行っておくべき場所だろうと直感で思ったので、頷いた。

 

「迷惑でなければ・・・いいのかな?」

「いいよいいよ」

 

 根津が笑い、斑田もうなずく。

 そこで。

 

「あ、あのっ」

 

 これまで沈黙していた小梅が声を上げる。根津と斑田はもちろん、隣に立っていた織部も少し驚く。

 しかし小梅は、声を上げたはいいものの、胸の前で手を握り視線は根津と斑田の首元辺りに向けて、何かを言いたそうにする。

 そこで織部は、小梅が何を言おうとしているのか、分かったような気がする。

 先ほど小梅と話した際に、自分が小梅に対して何と言ったのかを思い出し、さらに今の状況を見直して、小梅の言いたいことを理解する。

 だが織部がそれを代弁する気はさらさらない。あくまで織部は、小梅が自分から言うのを待つだけだ。

 やがて小梅は、か細い声で告げる。

 

「私も・・・一緒にいいですか?」

 

 織部はそれを聞いて、少しだけ唇を歪める。

 根津と斑田は、一瞬驚いたように口を小さく開けるが、すぐに笑みを浮かべて。

 

「・・・もちろん、いいよ」

「多い方が楽しいしね」

 

 2人とも頷き、小梅の事を受け入れた。

 小梅はその瞬間、瞳にわずかに涙をにじませて、笑みを浮かべてお辞儀をした。

 

「ありがとうございます!」

 

 

 その後、途中まで4人は一緒に歩き、やがて途中の交差点で織部と根津、斑田、そして小梅の3手に別れた。織部と根津は同じ寮で、斑田と小梅はそれぞれ別々の寮だったからだ。

 さよならの挨拶もほどほどに他の2人と別れた織部と根津は、少し歩いてから寮へと入り込む。ホールでエレベーターを待つ間、根津は織部に話しかける。

 

「・・・赤星、少し変わった気がする」

「・・・・・・」

 

 織部は根津の事をちらっと見るだけで何も言わない。根津も返事や相槌を期待しているわけではなかったようで、さらに続ける。

 

「前は食事に誘っても断ったり、あまり赤星の方から話しかけたりもしなかったんだよ。だからさっき、自分から『私も一緒に』って言ったのがすごい新鮮に思えた」

「・・・・・・そうだったんだ」

 

 口ではそう言うが、織部はどうしてそうなったのかは想像がつく。

 花壇の傍で話した時に織部が、『少なくとも根津と斑田は小梅のことを嫌ってはいない』と小梅に言ったことで、小梅の中にある根津と斑田に対する不安や怯えが幾らか晴た。そしてさっき、それが本当なのかどうかを小梅の方から確かめようとしたのだろう。

 本当に根津と斑田が小梅の事を嫌っているとすれば、小梅から言っても断るだろうから。

 だが根津と斑田は、小梅の勇気を持った言葉を受け入れて、一緒に戦車道博物館へ行くと約束してくれた。

 織部が傍にいると言って、小梅が孤独から解放されても、まだ周りとの間に溝があるのに変わりは無い。そして、その溝があったままでいいとも小梅は思っていない。

 戦車と言うチームワークの塊に乗っていて、その戦車がいくつも集う戦車隊に所属している以上、周りから孤立していてはこの先やっていけない。だから小梅は、壁を取り払おうとして自分から声を掛けたのだ。

 そして根津と斑田は、小梅の勇気を持った言葉に応えて、一緒に戦車道博物館へ行くと約束してくれた。

 

「・・・・・・まさかとは思うけど」

「?」

 

 チン、と甲高い音が鳴り、エレベーターの扉が開いたところで、根津が何やら意味深な笑みを浮かべて織部の方を見た。

 

「織部が何か言ったの?」

 

 根津の推測は外れてはいない。むしろ的中している。

 けれど、あの時あの場所で話した事は、いずれは同じ戦車道を歩む根津にも話さなければいけない事ではあるが、小梅の口から話した方が良い事だ。だから、織部からは何も言わない。

 

「・・・少し、アドバイスをしただけだよ。小梅さんが何やら思い詰めていたようだから」

「ふーん・・・・・・」

 

 エレベーターに乗り込みながら織部ははぐらかす。しかし根津はまだなお織部の事を見ており、このまま見られ続けられるのも少々いたたまれないので、話題を変えることにする。

 

「・・・ところで、明日は何時に集まろうか?」

「ああそうだ、忘れてた。まあせっかくの休みだし、遅めにするかな?」

「それがいいかもね」

 

 貴重な休みなのでゆっくりしたいという根津の意見で、待ち合わせは10時半に戦車道博物館前とした。しかし織部はその博物館の場所が分からなかったので、その30分前に根津と寮の前で待ち合わせて一緒に行くこととなった。

 

「赤星と斑田にも伝えなくちゃだな。でも赤星のアドレス私知らないんだよな・・・」

「ああ、だったら僕が送っておくよ。アドレス知ってるから」

「あ、そうなの?じゃあ任せた」

「分かった」

 

 織部と小梅は、先ほどのドイツ料理店でアドレスを交換したのだ。

 少し遅いお近づきの印―――というより、お互いに他人に気安く話せないような自らの過去を知っているので、その絆の証という感じのものだ。

 エレベーターが目的の階に到着して、2人はエレベーターを降りて長い廊下を歩く。根津の部屋は織部の部屋の隣なので、その部屋の前に着くと根津が『また明日』と言って部屋に引っ込む。織部もその隣の自分の部屋に入る。

 玄関のドアを閉めたところで、織部は大きく息を吐いた。

 もしかしたら今日は、人生でも五本の指に入るくらいの重要な日になったのかもしれない。

 小梅が自分の事を話し、織部もまた自分の事を話した。小梅には強い信念がある事を織部は知り、小梅は織部の事を心が強い人だと言ってくれた。

 心が強いと言われたことは素直に嬉しい。一方で織部もまた、揺るぎない信念を抱いて黒森峰に留まっている小梅も心が強い人だと思っている。

 

(・・・・・・言っておいた方がいいのかな)

 

 小梅も心が強いというのは、言っていなかった。ただ単に言い忘れていただけである。何かの機会に、言っておいた方がいいだろう。小梅も喜ぶ、と思う。

 織部の話を聞いた小梅は、『皆から嫌われている、遠ざけられている』という恐怖や不安を振り払い、勇気を振り絞って根津と斑田に声を掛け、明日会う約束を結んだ。小梅がどんな気持ちなのか、どんな過去を背負っているのかを分かっていたからこそ、根津と斑田に声を掛けるのに、どれだけの覚悟や度胸が必要だったかはある程度織部にも想像がつく。

 それが根津と斑田に受け入れられたのは、小梅の話を聞いて涙を流し、怒りを露わにするほどに小梅に共感した織部も嬉しかった。

 と、そこで織部のポケットの中の携帯が震える。回数からしてメールだ。

 靴を脱ぎながら部屋に上がり、画面を開けば。

 

『新着メール:赤星小梅』

 

 早速メールを開く。

 

『今日はお話を聞いてくださり、

 ありがとうございました。

 心の中に溜まっていたモヤモヤが無くなって、

 心が軽くなった気分です』

 

 最初の文を見て、織部もホッとする。

 心の中にある蟠りとは、簡単に晴れないものだ。それは織部自身も蟠りを抱えていたからこそわかる。他の事をして気を紛らわそうとしても、必ず思い出してしまう。

けれど、心の負担を減らすためには声に出して誰かに話すというのが一番良い。相手が親身になってくれればなお良い。

 織部も、自分が話し相手になり、小梅の不安の捌け口となる事で小梅の負担を減らせたと思うと少しホッとした。

 画面をスクロールする。

 

『さっき根津さんと斑田さんに声を掛けられたのも、

 春貴さんからの言葉があってこそです。

 あなたの言葉が無ければ、

 私は2人に声を掛けられませんでした』

 

 少し違う、と織部は思った。

 確かに織部は『多分根津と斑田は小梅のことを嫌ってはいない』と言ったが、だから仲良くしろとまでは言っていない。

 小梅が2人に話しかけたのは、間違いなく小梅の決意の上での事であり、小梅の意思によるものだ。織部はただ、きっかけを作っただけに過ぎない。

 

『春貴さんがいなければ、春貴さんの言葉が無ければ、

 私は恐らくずっと独りで、誰を信じることもできず、

 ただ泣いているだけの日々を送っていたと思います』

 

 さらにスクロール。

 

『多分、春休みに春貴さんと会わなければ、

 こうはならなかったでしょう。

 だから、改めてお礼をさせてください』

 

 そして最後に。

 

『本当に、ありがとう』

 

 最後の文を見て、織部の胸が温かくなったような気がした。

 確かに、あの春休みに織部が小梅に声を掛けなければ、こうはならなかっただろう。小梅はずっと独りでいて、織部もまた小梅と関わることは無かった。

 あの時小梅に声を掛けたのは、小梅が過去に涙を流していた織部自身とよく似ていたのと、泣いている小梅を無視することができなかったからだ。

 あの時の織部の行動から今があると考えると、中々感慨深い。

 そして織部は、別に小梅に対して特別な事をしたつもりは何もない。ただ小梅がどうして涙を流し、悲しい表情を浮かべているのかその理由が聞きたかっただけだ。

 小梅の話を聞いた後で織部がしたことは、少しだけ小梅の周りの人の事―――根津と斑田が小梅に対してどんな印象を抱いているのかを話し、そして強い信念を持っている小梅の事を嫌っていないと言っただけだ。ああしろこうしろと命令した覚えはない。

 織部がアドバイスのような事を言えたのは、小梅が自分から全てを話そうとしたからだ。そして勇気を振り絞って根津と斑田に声を掛けたのも、やはり小梅自身だ。

 全ては小梅が選んだ道だ。織部は差し詰め、その道を示す道標とでも言うべきものだ。

 だから、織部はそのことをきちんとメールに書き、ついでに明日の待ち合わせ時間も書いて、メールを返信する。

 

 

 小梅は寮の自室に戻ってからすぐにメールを送って、コーヒーを淹れようと電気ケトルでお湯を沸かしていた。

 粉末のコーヒーとカップを用意しているところで、小梅の携帯がメールの着信を告げる。画面を開くと。

 

『新着メール:織部春貴』

 

 自然と、小梅は速いスピードでメールを開いていた。

 

『僕も話を聞いてもらえて嬉しかった。

 それに、僕の事を心の強い人と言ってくれたのも、

 すごく嬉しかったよ』

 

 出だしの文章を見て、小梅は微笑む。

 メールをスライドする。

 

『小梅さんは、僕の事を心の強い人と言ってくれたけど、

 僕からすれば、強い信念をもって黒森峰に留まっている

 小梅さんも、とても心の強い人だと思う』

 

 だが、その一文を見て、小梅の呼吸が止まる。

 目を見開き、その文章を脳に刻み込む。

 

『根津さんと斑田さんに声を掛けることができたのは

 僕の言葉のおかげだって言ってくれたけど、

 言葉をかけようと決意したのは他ならない、小梅さんだよ』

 

 さらに画面をスクロールしていき、次に表示された織部の文を見て、思わず声が出そうになり、口元を抑える。目頭が熱くなってくる。

 さらにメールをスライドする。

 

『小梅さんが勇気を振り絞ったからこそ、

 根津さんと斑田さんはそれに応えてくれた。

 明日皆で一緒に出かけられるのも、

 小梅さんが勇気を出して一歩踏み出した結果だ』

 

 抑えられなかった。

 小梅の瞳から涙が流れるのを。

 最後には明日の待ち合わせの時間が書いてあったが、それが読めないくらいに小梅の視界は歪んでしまっていた。

 携帯を持ったまま跪き、もう片方の手で目からあふれる涙を拭う。

 織部の言葉に、嘘偽りはないのだろう。小梅の話を親身になって聞き、自身の過去も話し、お互いに腹の内を曝け出し合ったのだから、嘘をつくとは思えない。

 だからこそ、織部の正直な気持ちが記されているこのメールが、とても嬉しかった。

 他の誰かからかけられたどんな言葉よりも、一際胸に響く言葉で、心を温めてくれる言葉だった。

 どれだけ涙を拭っても涙は収まらず、涙で顔がぐしゃぐしゃになりながらも、小梅の頭には織部からの言葉が残っている。織部の笑顔を覚えている。

 泣きじゃくりながらも、小梅は笑い、心に浮かんだ正直な言葉を、口にする。

 

「・・・ありがとう・・・・・・春貴さん・・・・・・っ」




エーデルワイス
科・属名:キク科ウスユキソウ属
学名:Leontopodium alpinum
和名:西洋薄雪草
別名:―
原産地:ヨーロッパアルプス等
花言葉:勇気、大切な思い出


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蓮華草(レンゲソウ)

 翌日の10時前に、織部は寮の前で、黒森峰の制服を着て待っていた。

 これから向かう戦車道博物館は黒森峰女学園の管理下にあるので、この博物館を訪れる黒森峰の生徒は大体制服を着ている。制服で入場しなければならないというルールがあるわけではないのだが、この博物館はラフな格好で入れるような空気ではないので、皆自然に制服で入場するようになった。

 織部はその暗黙のルールのようなものは知らなかったのだが、留学中の身である織部が下手な私服で学園艦内を出歩き、妙な印象を抱かれると厄介なので、今日も織部は制服にすることにした。

 根津と待ち合わせていたのは10時だが、その5分前には織部は寮の前で待つ。やがて時間になると根津が降りてきた。根津もまた、黒森峰の制服を着ていた。

 

「お、時間ぴったり」

「根津さんこそ」

 

 根津が手を挙げて挨拶をしてきて、織部はペコッと頭を下げる。

織部は根津に案内される形で博物館に向かう。途中までは黒森峰女学園への通学路と同じだったが、黒森峰女学園近くの交差点を曲がり脇道にそれると『艦内連絡階段』という看板が掲げられた階段を降りて学園艦の内部に入る。

 艦の内部は車の行き来はできないものの、多くの人が通行できるように道は広い。ここよりさらに下層―――船底に近くなるともっと道は狭くなり、それこそ“通路”と表現するに相応しいぐらいの幅になる。

 『あっちには戦車の部品倉庫』『あそこは緊急用備蓄品』と簡単に根津から案内をしてもらいながら織部が進んでいくと、やがて博物館の入口に着いた。真面目な黒森峰の雰囲気と、戦車道特有の厳かな空気が合わさって、全体的に暗い感じの入口だったが、それが逆にこの博物館は“本物”だという印象を与えてくれる。

 入口の前では既に小梅と斑田が待っている。まだ待ち合わせの5分前だというのに、やはり黒森峰の真面目な校風に中てられているのだろうか。この2人も、黒森峰の制服だった。

 

「待たせたね」

「全然、今来たところだから」

 

 根津が声を掛けると、斑田が小さく手を振って応える。

 小梅は、織部の姿を認めると深々とお辞儀をする。小梅が織部に対して、丁寧すぎるような気もする挨拶をしたのが変に見えたので斑田も根津もキョトンとする。

 しかし織部だけは、どうして小梅がそのような態度を取ったのか分かるような気がした。

 織部は小梅に対しては何も言わず、ただ笑いかける。小梅も、返すようにニコッと笑った。昨日までのようにどこか愁いを帯びたものではない、純粋な笑顔だ。

 根津と斑田は、小梅の笑顔を見てどこかホッとしたように一息つく。

 そして4人は、入場料を払い(黒森峰生なので割引)博物館の中へと入っていった。

 

 入場してから最初の方は、戦車道とは、戦車道の始まりとは、戦車道の歴史とはどのようなものか等を展示している。

 このあたりに関しては、織部が戦車道連盟の本部を訪れた際にも学んだことなので流して見てもいいのだが、既に訪れた事があるであろう斑田と根津は真剣になって戦車道の年表や概要を見ている。メモまで取っている徹底ぶりだ。

 織部と小梅は、2人を置いて先に行くというわけにもいかなかったので、戦車道の遷移を読む事にする。

 やがて根津と斑田がメモを取り終わると、4人は次のブースへ向かう。

次は、黒森峰女学園の戦車道の歴史だ。これは織部も初めて見るものなので、注意深く読む事にする。根津と斑田も、先ほどと同様に真剣に年表を見てメモを取っている。

 黒森峰女学園設立の経緯は複雑なものであるが、実に興味深いものだった。第一次世界大戦の頃にまで遡るとなると、流石に歴史を感じる。

 織部と小梅は、並んで年表や説明文を読んでいく。その中で、黒森峰女学園の歴代の戦車隊隊長が記されているスペースを見つけ、そこには現・西住流師範の西住しほの名もあった。

 黒森峰女学園設立に西住流が関わっているところで何となく予想はついていたが、やはり黒森峰戦車隊の隊長は、西住姓の人が多かった。西住姓ではない人もいたが、その人たちも恐らくは、西住流の門下生なのかもしれない。

 織部と小梅が表を見ているその横で、根津と斑田はやはり一心不乱にメモを取っている。お互い一言も話さずにパネルを見つめてメモを取るその集中具合ときたら、授業中とさして変わらないような気がする。

 やがて2人がメモを取り終えたのを見計らって、織部が2人に話しかけた。

 

「随分、真剣にメモを取っているね」

 

 その言葉を聞いて、根津が苦笑する。

 

「実は西住隊長から、今度新しく入隊する子たちにここを案内するように言われてね」

「そうなんですか」

「ああ。それで、事前調査って事で一応重要なポイントだけでも抑えておこうと思って」

 

 しかし、事前調査だけでもメモまで取るとはやけに真剣だと織部は思う。そんな事を聞いてみると、斑田がはにかみながら答える。

 

「まあ、先輩なのにどもったりしたら格好悪いし、それに・・・ウチの戦車道の事をよく知ってもらいたいから」

 

 なるほど、先輩や経験者としてのプライドもあるし、何より純粋に黒森峰の戦車道を知ってもらいたいという気持ちもあるのか。

 確かに自分の学校の良さを知ってもらいたいという気持ちは分かる。それに新しく入隊するという事は、やはり黒森峰の戦車道に憧れているからだろう。だから、そんな人たちに少しでも自分たちの良さを知ってもらいたいから、根津と斑田はこんなにも真剣になっているのだろう。

 

「案内は斑田さんと根津さんで?」

「いや、私らの他に後2人、一緒に案内する人がいる」

 

 そこで織部は小梅の方を見るが、小梅は首を横に振る。小梅は案内をしないらしい。

 少し歩けば、『歴代隊長のコメント』というコーナーが顔写真付きで設けられていた。どの隊長も、現隊長の西住まほのようにきりっとした表情で写っている。微笑を浮かべている人も何人かいるが、大半は凛々しい表情だ。変な風に笑っている人など1人としていない。

 その中には西住しほの写真もある。コメントでも触れられているが、どうやらしほが隊長を務めた際に全国大会で黒森峰が初優勝を成し遂げたらしい。

 織部はしほには、実際に会ったことは無い。いずれは会って、自分の黒森峰留学を認めてくれたことにお礼を言いたいのだが、しほは西住流本家のある熊本にいるだろうし、中々会うのは難しいだろう。

 なんて事を思っていると、メモを終えた根津が『次行こうか』と言って歩き出す。斑田がその後ろに続き、織部と小梅もその後に続いた。

 次のゾーンは、黒森峰の戦車のレプリカが展示されている場所だ。レプリカと言うよりも、使用しなくなった戦車からエンジンや通信機器、実弾を取り外しただけ―――いわば静態保存されている状態だ。

 展示スペースの一番最初に展示されていたのはティーガーⅠ。今現在の隊長の西住まほの乗っている車輌で、今のところ実践投入されているのは1輌だけだ。

 次に展示されているティーガーⅡはティーガーⅠの発展形で、ティーガーⅠと比べると斜め向きの装甲が目立つ。これは副隊長の逸見エリカの搭乗車輌で、これも今のところ1輌だけ実戦投入されている。

 その次は、黒森峰の主力戦車とされているパンターG型。斑田が『私の戦車だ』と小さく呟く。

 その隣にいるのは、

 Ⅲ号戦車J型。

 

「あっ・・・・・・」

 

 その戦車を見た瞬間、小梅の全ての動きが止まり、根津と斑田も少し気まずそうな目で小梅の顔を見る。織部もまた小梅の身を案じるように、隣に立ったまま小梅の事を見る。

 ほんの少し前までの和やかな空気が変わってしまった理由は分かる。このⅢ号戦車は、去年の全国大会決勝戦で小梅が乗っていた車輌だ。そしてあの時、川に落ちた車輌だ。

 当事者の小梅はもちろん、試合に参加していた根津と斑田、そして小梅から話を聞いた織部もそれは覚えていた。

 この戦車を見た事で、小梅はあの時の事を思い出してしまったのだ。

 小梅以外の3人の誰もが、そう思っていた。

 チラッと織部が小梅の方を見る。小梅の瞳は揺らぎ、息が早く、手は小さく震えている。

 そこで織部は、自分の言った言葉を思い出す。

 

『僕は小梅さんから離れたりしない、傍にいるよ』

 

 そうだ、あの時は言い方が少しストレート過ぎたが、そうすると自分に誓ったではないか。小梅に言ったではないか。

 ああ言った以上小梅の傍にいなければ、また小梅は自分は孤独と思ってしまうかもしれない。せっかく持ち直してきた小梅の心が、また傷ついてしまうかもしれない。

 だから織部は、震えている小梅の手を優しく握る。

 小梅は少しビクッとして織部の方を見ると、織部は小梅のに優しく微笑みかける。

 その様子を見ていた根津と斑田は気付いた。

 織部は、小梅の“事情”を知っている。

 そしてそれは、誰かから言われたのではない、小梅自身から言われたのだと。

 

「・・・・・・ありがとう、春貴さん。大丈夫です」

 

 やがて落ち着いたのか、小梅が織部に告げると織部は頷き、次の戦車のレプリカの方へと移動する。

 根津と斑田はお互いに小さく息を吐いて笑うと、2人の後についていった。

 ほかにあるレプリカはヤークトティーガーやヤークトパンター、ラングにエレファントと、重戦車と駆逐戦車がメインだった。しかしマウスのレプリカだけは無く、あるのは原寸大のパネルだった。根津は残念がっていたが、所有数が1輌しか無いのだから仕方ない。

 その次のコーナーは戦車の部品や機器類だ。戦車本体から取り外されたエンジンも展示されている。

 戦車道の勉強をある程度してきた織部でも、エンジンの名前に関しては『呪文か何かかな?』という印象しか持てなかった。通信機器についても同じで、多分このボタンはこれをするためなんだろうな、という事しか分からない。

 

「そう言えばさぁ」

 

 根津がヤークトパンターに搭載されていたエンジンを見ながら思い出すかのように言う。

 それは、先ほど小梅が落ち込んでしまった事により少し重くなってしまった空気を明るくしようとしている風にも思えた。

 

「西住隊長、小学生の頃から戦車のエンジンとか装甲とかの基本スペックを覚えさせられたんだって」

「えっ」

 

 いくら西住流の後継者だとしてもそこまでするかと織部は思ったが、師範のしほは相当厳しい人物だというのは聞いていたので、それぐらいするのかと、ある種納得に似た気持ちになる。

 斑田が根津の言葉を聞いて思い出したように言った。

 

「あー、確か自家用戦車が何台もあるんでしょ?」

「そうそう。それでもう小さいころから乗り回してたって」

「家大きかったよね。もう城かって言うくらい」

 

 ちょっと一般家庭―――というか戦車道界隈でも聞いた事の無いような単語が聞こえた気がするのだが、『西住流だから』という理由で何でも通りそうな気がする。

 かといってこれ以上普通とは違う西住家の話を聞いていると、感覚が可笑しくなりそうだったので話を強引にでも変えることにする。

 

「根津さん達もエンジンの種類とか覚えてるの?」

「いやいや、流石にそこまでは」

「装甲の厚さとかなら覚えてるかな」

 

 織部が聞くと根津と斑田は手を横に振りながら苦笑して応える。小梅もあははと乾いた笑い声を出していたので、恐らくは同じなのだろう。

 その後も根津と斑田は主要な機器類の名前と説明をある程度メモし、織部と小梅は2人で一緒に様々な展示品を見て回った。

 時折小梅が、『この通信機は扱いが難しいんですよ』とか『ポルシェティーガーって言うエンジンがハイブリッド形式の戦車もあって・・・』と説明をしてくれた。普通に勉強しているだけでは分からないような事を教えてくれるので、織部はその小梅の話を真剣に聞いた。

 そして、『大体こんな感じかな』と斑田がメモを見返しながら根津と話をする。根津もうんと頷いて『本番はよろしくね~』と笑いながら斑田の肩を叩く。斑田は『あんたもやるのよ』と呆れ気味に言ってから笑う。

 どうやら事前準備は無事に終わったようだ。織部も小梅もホッとする。

 博物館を出て通路を歩いて階段を上り、甲板上に出て時計を見れば時刻は13時過ぎ。根津と斑田が入念に調査をしていたことで、割と時間が経っていたらしい。

 

「このままみんなでお昼食べにいこうか」

 

 振り返りながら斑田が言うと、根津は『いいね』と同意、織部と小梅も笑ってその意見に賛成した。

 ここで小梅は、自分がごく自然に昼食に誘われたことが、とても嬉しかった。少し前までは自分は孤独だと思っていたので、こうして友達に食事を誘われるというごく当たり前のことに縁が無かったのだから。

 初日に織部から食事に誘われたことがあったが、あれはカウントしていない。あの時はまだ織部と小梅は友達という関係ではなかったし、春休みに出会った時のお礼をしたいという気持ちがあったからだ(お礼は果たせなかったが)。

 ともあれ、4人は黒森峰学園艦にある3つの食事をする店の内1つ、チェーンのファミレス店にやってきた。ドイツ料理店と比べるとこちらの方がリーズナブルだし、ドリンクバーもある。

 4人掛けの席に通されると、織部は小梅の横に、斑田は根津の横に座って、各々メニューを開いて何を食べるのかを決める。全員がメニューを決め終えると、織部が店員を呼んで注文する。最後には全員でドリンクバーを頼む。

 そして、4人がドリンクバーで思い思いの飲み物を持って再びテーブルに座ると、根津と斑田が息を吐く。

 

「とりあえず、事前準備はこれでオッケーかな」

「重要なポイントは抑えてあるしね」

 

 斑田と根津がメモを見返しながら呟き、飲み物をストローで飲む。2人とも飲んでいるのはカフェオレにアイスティーと、織部の偏見的なものはあるが女性的な飲み物の気がする。そんなことを思っている織部の飲み物はアイスコーヒー、その隣に座る小梅も同じくアイスコーヒーだった。

 

「2人とも、1年の時から戦車道を?」

 

 織部が聞くと、斑田はメモから目を離して織部の方を見る。

 

「そうよ。ウチの学校は、1年で選択科目をどれにするかを決めて、卒業するまでは基本変えられない。ひたすら極める感じね」

「まあ、皆大体戦車道を選ぶね。ウチは戦車道の強豪校で通ってるし、戦車隊に憧れて入学する子も大勢いるよ」

 

 そして斑田が、自分が入学した時のことを思い出すかのように、微笑む。

 

「私もここの戦車道に憧れて入学したんだよね。でも、最初は何度もくじけそうになったよ」

「あー、私も同じ。私たちが入隊した時から西住隊長だったんだけど、隊長容赦なくてね~」

 

 根津も腕を組みながら苦笑して過去の事を思い返す。

 やはり、西住流の後継者というのだから戦車の指導に関しては徹底しているのだろう。

 そこで織部は、隣に座る小梅の事を見る。小梅も、始めたての頃は斑田や根津と同じ感じだったのだろうか。その時その場にいない織部は推測するほかない。

 

「実際、何人か辞めちゃう子もいたしね」

「え?」

「選択科目は基本変えられないって話だけど、戦車道に限ってはその限りじゃない。ウチの戦車道のきつさで辞める子も結構多いから、戦車道が始まってから1週間の間は猶予期間って事で、他の選択科目に変えることも認められてるんだ」

 

 という事は、この場にいる織部を除く3人は、まほの厳しい訓練に耐えてこうして戦車道を続けているという事になる。それだけで織部にとっては驚嘆に値するものだ。

 思わず織部はつぶやく。

 

「よく、乗り切れたね・・・」

「まあ、簡単じゃなかったよ。斑田の言う通り心が折れそうになった事も何度だってある」

 

 根津がカフェオレを飲んで喉を湿らせてから、腕を組んで振り返るように話す。

 

「でもそういう時、支えになったのは・・・・・・同じ道を歩く仲間だな」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 そう言って根津は小梅の事を見る。斑田もまた、小梅の事を見ていた。その2人が小梅の事を見ているのに、織部は少し遅れて気付く。

 

「覚えてる?赤星」

「?」

「私らは赤星と一緒に戦車道を歩み始めて、挫けそうになってもお互いに励まし合って・・・支え合ってここまでやってきた」

 

 根津が言うと、斑田もうんと頷く。

 小梅は、急に話を振られたことに若干戸惑うが、根津と斑田が世間話のような軽いノリで話しているような事ではないのは小梅にも織部にも分かった。なので2人は、ストローから口を離して根津と斑田の事を見る。

 

「ずっと一緒に頑張っていたからこそ・・・・・・気になってたんだよね。赤星の事」

「えっ・・・・・・?」

 

 突然の根津の告白に驚く小梅。隣に座る斑田が根津の言葉に頷いて、小梅の事を見て話す。

 

「去年の全国大会の事は、試合に参加した私たちも当然知ってる・・・。その後、元副隊長とあなたがどんな目に遭ったのかも」

「・・・・・・・・・・・・」

「あの時私たちは、あなたの事を助けることができなかった・・・。同じ1年生で、一緒に戦車道を始めた仲間だったのに・・・・・・」

 

 根津と斑田も、小梅の事は救いたかった。けれどやはり2人も、責められるのが怖かったのだ。

 黒森峰の中には小梅も、みほも間違った事はしていないと言う人は少なからずいた。けれどその人数は、2人の事を間違っていると責めた人の数よりも圧倒的に少なかったため、次第に埋もれていってしまった。

 みほと小梅を擁護する人の中に、根津と斑田も含まれていたという事だ。

 

「だから、さ・・・赤星、ずっと1人で思い悩んでいたみたいで・・・中々声かけ辛かったんだけど・・・」

「・・・昨日織部君と2人でいるのを見て、少し心を開いたのかな・・・って思ったの。それで昨日、赤星さんが自分から、私たちと一緒に博物館に行きたい、って言ったのを聞いて・・・本当に安心した」

「・・・・・・・・・・・・」

「それで博物館でⅢ号戦車を見て・・・赤星さんがあの時の事を思い出しそうになった時、織部君が赤星さんと手を繋いで、赤星さんは落ち着いて・・・・・・あの時の事を、乗り越えられたんだな、って思った」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 今思い返すと、織部もあの時は少し恥ずかしい事をしてしまったなと思う。

 いくら落ち着かせるとはいえ、恋仲でもない小梅の手を意識して握ってしまうとは。おまけに周りには根津と斑田もいたというのに。

 誤解されるのではないかと思ったが、根津と斑田はどうやらそこまでの関係とは思っていないらしい。

 

「赤星。私らは今、ホッとしてるんだ」

「そう。赤星さんが前みたいに明るさを徐々に取り戻して、元の赤星さんに戻りつつあるのがね」

 

 元の小梅、という言葉を聞いて織部はふと思う。

 最初に会ったのは泣いている小梅だったので、本来小梅がどのような性格なのかを織部は知らない。だが、みほを守れなかったことを悔やんでいるあたり、仲間想いな性格だというのは分かる。

 しかし、それは今すぐに知るべきではない。それほど長い期間ではないが、自分が黒森峰に留学している間に、ゆっくりと知って行けばいい事だ。

 

「・・・・・・根津さん・・・斑田さん・・・」

 

 小梅が、震えるような声で2人の名を呼ぶ。

 

「今まで助けてあげられなくて、ごめんなさい・・・」

「また・・・・・・一緒に頑張ろう」

 

 斑田が謝り、根津が少し恥ずかしそうに言って、2人はにこりと笑う。

 それを見て小梅は、泣き出しそうになるが堪えて、はにかむように笑って返事をした。

 

「・・・・・・はいっ」

 

 織部は心の中で安堵する。

 これで小梅も、もう自分の事を孤独だと思う事も、皆から嫌われていると思う事も無くなるだろう。

 初めて会った時のような泣き顔を浮かべる事も、恐らくは無い。

 小梅の傍にはちゃんと、小梅の事を案じ、見てくれていた人がいたのだ。

 小梅は孤独などではなく、小梅の事を見てくれていた人はちゃんといて、自分から遠ざけてしまっていただけの事だ。

 だが、織部から根津と斑田が心配していたと聞かされ、その2人からも直接心配していたと告げられたことで、小梅の心に突き刺さっていたものも取り除かれたに違いない。

 その証拠に。

 

「はぁ・・・・・・にしても新入隊員の説明、上手くいくかね・・・」

「根津さんと斑田さんなら、絶対上手くいきますよ」

「・・・赤星さんがそう言うのなら、大丈夫かな・・・」

 

 今小梅は、怯える事も、距離を置こうともせず、気軽に根津と斑田と話をしている。そしてその顔には悲しみを帯びているような笑みではない、穏やかな笑みが浮かんでいた。

 織部はその笑顔を見て、小梅は本当に、あの去年の全国大会から続いていた負の連鎖から抜け出せたのだと実感した。

 織部も少しだけ笑いながらアイスコーヒーを一口飲む。

 

「織部はどう思うよ?」

 

 根津から急に話を振られた。

 織部は感傷に浸るのは後にしようと考えて、3人の会話に混じる。話題はさっきと同じ、新入隊員への説明会だ。




レンゲソウ
科・属名:マメ科ゲンゲ属
学名:Astragalus sinicus
和名:紫雲英(ゲンゲ)翹揺(ゲンゲ)
別名:翹揺草(ゲンゲソウ)蓮華(レンゲ)
原産地:中国
花言葉:あなたと一緒なら苦痛が和らぐ、心が和らぐ


これにて、前編は終了と言った感じです。
次回からは、黒森峰の日常も織り交ぜて物語を進めていこうかと思います。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。







黒森峰モブガールは後2人残っています。


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(ススキ)

さおりん誕生日おめでとう。
この作品には全くと言っていいほど出てこないけどね!


「あの子が落ちなければ優勝できたのに・・・」

 

 廊下を歩く私の耳に、心無い言葉が否応なく入り込んでくる。

 

「助けた子もそうだけど、そもそも落ちた方も・・・・・・」

 

 私はその言葉に何も返さない。実際周りが言っている事には一理はある。

 本を正せば、あの時私の戦車が、攻撃を受けたくらいでバランスを崩して川に落ちなければ、副隊長―――みほさんが戦車を降りて、狙い撃ちされる事も無かったのだから。

 

「あいつのせいで・・・10連覇が・・・」

「情けない・・・」

「黒森峰の面汚しめ」

 

 中には、戦車道履修生ではない者がそんなことを言ってきたが、『試合に出てもいないのに好き勝手なことを言うな』とは言えない。

 私は人の悪口なんて言ったことがほとんどない。もし言えたとしても、自分の立場が余計に悪くなるだけだ。それに、相手を傷つけてしまうかもしれない。

 今、私が傷ついているのと同じように。

 

「あの子と一緒に、出ていけば清々したのに」

 

 ここに、みほさんはいない。

 そして、あの時私とⅢ豪戦車に乗っていた仲間も、もういない。

 一緒に戦車道を始めた他のみんなも、私から離れていく。

 私は、暗闇へと続いていく孤独の道を、歩いていた。

 私の心は疲れ切っていた。

 心無い言葉を陰で叩かれ、悪意に満ちた目で見られ、周りから人が離れていく今の状況に、身も心も疲弊していた。

 もう、何も見たくない。

 もう、何も聞きたくない。

 でも、そんな私の思いとは裏腹に、周りからの言葉は容赦なく私の耳に入り込んでくる。

 

「そもそも、あの子が戦車道をしなければ・・・」

 

 私の、戦車道という私が選んだ道を否定されそうになる。

 目をギュッと閉じる。両手で耳を塞ぎ、音を遮ろうとする。

 でも。

 

「あんたなんか、黒森峰に来なければよかったのよ・・・!」

 

 その言葉は、私の心に、鋭い剣のように深く突き刺さった。

 私の中で、何かが音を立てて切れそうになる。

 目を開き、手をだらりと垂らす。

 私の心は、今の言葉で崩れてしまって―――

 

 

「それは違うよ」

 

 

 不意に、そんな優しい言葉が私の耳に滑り込んできた。

 崩れかけた心が、元通りになる。

 そして、私の右手が優しく誰かに握られる。

 その人物を見れば、その人は私に優しく微笑みかけてきてくれた。

 

「君は、ここにいていいんだ」

 

 もう片方の手で、私の頬に触れる。いつの間にか、私の瞳から溢れ出ていた涙を拭ってくれたのだ。

 

「君は、決して孤独なんかじゃない」

 

 そして私と目線を合わせるように、少し屈んで、私の目を見る。

 その目は、陰口を叩いていた人たちのような悪意に満ちた目ではなく、とても穏やかで、優しい目だった。

 

「僕は君から離れない」

 

 その人は、私の事を優しく抱きしめてくれた。

 

「僕が傍にいる」

 

 瞬間、暗闇に包まれていた私の歩いていた道の先が、光り出した。

 そして、その光は私たちを包み込むように広がっていき、暗闇を打ち消していく。

 光が完全に私の視界を支配するその直前。

 私の事を抱きしめてくれた人が、ニコッと笑ってくれた―――

 

 

 私の耳に、目覚まし時計のアラームが聞こえてくる。

 薄っすらと重い瞼を開けてみれば、カーテンの隙間から太陽の光が差し込んでいる。

 眠気で重い体を起こして、背伸びをする。

 

(・・・・・・・・・・・・夢、か)

 

 先ほどまで見ていたビジョンは、夢だった。

 実体験ではなく夢だったと認識すると、なんとなく身体から力が抜けてしまい、またベッドに倒れこんでしまう。

 

(・・・・・・・・・・・・・・・心地良い、夢だったな・・・)

 

 見ていて気持ちのいい、そして寝覚めの良い夢を見たのも随分と久しくなかった。

 どうしても寝る前に部屋を暗くし、横になるとあの時の事を思い出してしまいそうになったからだ。

 戦車が川に落ち、光を遮られ、真っ暗な戦車に閉じ込められてしまった時の事を。

 寝る前にそんな不安な気持ちになってしまうものだから、見る夢もあまり心地の良いものではなかったし、寝覚めも悪かった。

 だから、先ほどのような気持ちで起きることができたのが、随分と久々に感じたのだ。

 

(・・・・・・・・・・・・・・・起きなきゃ)

 

 でも、いつまでもこんな風に寝てはいられない。

 すぐに起き上がり、陽の光が漏れ出しているカーテンを開く。カーテンを開けば、眩しい太陽の光が私の身体を照らし出す。

 

(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 少し前の私なら、朝が来る事が怖かった。

 また、陰口を叩かれて、悪意に満ちた視線に晒され、皆から避けられる、孤独な1日が始まってしまうと思っていたから。

 だから私は、朝が嫌いだった。

 でも、今は違う。

 私は独りじゃなかった事に気付かされた。

 私の事を、ちゃんと見てくれていた人がいた。

 そして、私の中にある揺るぎない信念を認めてくれる人が、私の傍にいると言ってくれた人がいた。

 

(・・・・・・春貴さん)

 

 さっき見た夢の中に出てきた、私の手を握ってくれた人は、私に微笑んでくれたのは、私の事を抱きしめてくれたのは、春貴さんだった。

 春貴さんの言葉は、私の胸に残っている。私の事を忌み嫌う人の陰口に上書きするような形で、今なお私の心の中に残っている。

 春貴さんは、暗闇にいた私の事を引き揚げてくれた。そして根津さん、斑田さんとまた前のような関係に戻ることができた。

 春貴さんにはもう、感謝しきれないくらい感謝していた。

 

「・・・・・・ありがとう」

 

 気づけば自然と言葉に出てしまっていた。

 少し恥ずかしくなってしまい、私は壁に掛かっていた制服を手に取り着替える事にする。

 けれど、私はさっきまで見ていた夢の事、そして春樹さんの事を忘れる事は、決して無かった。

 

 

「おはよう根津さん」

「おはよう、織部」

 

 玄関を出ると、根津とばったり会った。確か新学期2日目の金曜日も偶然会ったから、生活パターンが類似しているのだろうか。

 そして、また流れで一緒に登校する2人。

 

「今日体力テストだったっけ」

「あー、そう言えば・・・・・・」

 

 根津がなんとなく切り出してきた話題を聞いて、織部はビクッと身体を震わせる。配布された時間割表を見て分かっていた事なのだが、今日は新学期最初の体育の授業がある。新学期が始まって最初の方の体育の授業は大体個々人の体力を調べるためのテストがある。

 それは織部が中学生だった時も、1年だけ通っていた高校の時もあった事だ。

 

「織部は体力あるほう?」

「いやー、僕は運動はからきしで・・・」

 

 歩きながらそんな話をして、交差点に差し掛かったところで横合いから声がかかった。

 

「春貴さん、根津さん」

 

 この黒森峰学園艦で、織部の事を名前で呼ぶ人物は今のところ一人しかいない。

 だから織部は、その人物が誰であるかを推測した上で、その声のした方向を向く。

 

「おはよう、赤星」

「小梅さん、おはよう」

 

 やはりそこにいたのは小梅だった。

 しかし、その表情は昨日までとは違う。昨日まではその表情に愁いや恐れを帯びていた感じがしていたのだが、今はそれらが感じられない。これが彼女本来のもののような、優しい笑顔だった。

 小梅は織部と根津の下へと駆け寄り、織部の隣に並び3人で学校へと向かう。

 そこで根津が、気になった事を2人に聞いてみる事にする。

 

「そう言えば2人とも、名前で呼び合ってるんだな」

「・・・・・・そうだね」

 

 思い返してみれば、先に相手の事を名前で呼んだのは織部の方だ。初めて小梅の事を名前で呼んだのは、小梅の今を取り巻く現状と過去についてを聞いた後。小梅と対等な立場でありたいという思いと、小梅の事を安心させるために、織部がそう呼んだ。

 そして小梅もまた、織部と同じ立場でありたくて、そして織部を信用して織部の事を名前で呼ぶようになった。

 

「赤星の事を知ってるのもそうだし、もしかして2人とも知り合いだったの?織部がここに来る前から」

 

 根津が当然の疑問を投げかけると、織部は簡単に、しかし小梅の触れてほしくはない場所には触れないように話す事にする。

 

「春休みに僕がここに来た時、一度会ったんだ。それでそこで少し話をして」

「へぇ~」

 

 小梅は、織部が自分が泣いていたことを悟られないように話をぼかしているのに気付いた。小梅はそのことに心の中でだけ『ありがとう』と告げる。

 根津は織部の言葉を疑わずに、学校に向けて歩くのを再開した。織部と小梅も一緒に行く。

 その途中でさらに斑田とも合流し、4人で一緒に何気ない話をしながら学校へと向かう。

 それは他の生徒からすれば別に何の変哲もない、ありきたりな風景だが、ごく一部の人―――小梅からすればそれは久しく体験していない事だった。

 あの全国大会の前から、小梅は西住みほとも親交があったため、時々みほと2人で登校する事もあった。それ以外にも途中で出会った同じクラスの人と登校する事だってあった。

 けれどあの全国大会決勝戦後、みほは周りから孤立し、小梅もまた孤立してしまった。だから、今のように誰かと一緒に登校するというのは、去年の全国大会以来だった。

 

「今日体力テストだっけ?」

「そうだったね・・・。はぁ・・・」

「春貴さん、不安なんですか?」

「僕はてんで運動がダメでね・・・」

「まあ、戦車道やってると体力自然につくぞ」

「ああ、そうかも。私も最初は・・・・・・」

 

 朝日が照らす、黒森峰女学園へと続く道を、4人は並んで登校していく。

 その様子を、同じく黒森峰の制服を着ていた何者かがじっと見ていたが、4人はそのことには気づかなかった。

 

 

 迎えた体力テストの時間。織部のクラスの生徒全員は体操着に着替えてグラウンドに集合していた。

 織部は、1年の間に通っていた学校の体操着を着ている。

 すでに準備運動は済ませてあるので、後は教師から何のテストをやるのか指示を受けるだけだ。しかし、グラウンドの中央に設置されている競技用のタイマーを見て、織部を含むクラスの全員は、今日何のテストをやるのか大方の予測はできていた。

 やがて教師がやってきて、今日のテストは持久走だと告げる。その瞬間クラスメイトからは落胆交じりのため息が上がる。それは織部も同じだった。

 織部は今朝小梅たちと話したように、運動が苦手だ。特に、長距離走など相性が悪いにもほどがある。

 だが、高校1年の時の体育の成績はどうにか平均レベルだったのと、それ以外の科目では比較的高い水準を誇っていたので、どうにかして黒森峰に来ることができたのだ。

 しかし授業は織部の意思など無視して進む。

 クラス内で自由に二人一組に分かれ、一方が走りもう一方は記録するという形になった。

 織部は根津とペアを組む。小梅は斑田と組むことになった。意外にも、小梅は自分から斑田と組もう誘っていた。少しでも、クラスに溶け込もうとしているのだろう。

 織部はそれを見て安心したが、それはさておき今から始まる持久走に集中しなければならない。

 今回の持久走は、クラスの内の半分の人数が走り、もう半分が記録という形になっている。女子よりも走る距離が500m長い男子の織部は、強制的に後半とされた。なので、織部は前半はペアの根津の記録をする事になる。ちらっと目をやれば、小梅も前半で走るようだった。

 やがて前半戦がスタートする。持久走でいきなり全力疾走するような阿呆はいないようで、全員ジョギングぐらいのスピードで走っている。根津もその例に漏れず、自分の体力とペースを考えてしっかり走っているようだ。

 1周する度にその時間を記録していく織部。他の後半戦に参加する生徒も同じように、用紙にタイムを書いていく。

 ただ、中には運動音痴の生徒もいるようで、集団から離れてしまったり途中で走るスピードを落として歩く生徒もいる。その生徒たちを見て織部は親近感を覚えた。

 集団の先の方を見ると、小梅の姿が目に入った。小梅は息も絶え絶えに走っているというわけではなく、息も上がっておらず、姿勢も崩さず一定のペースを保ちながら走っている。

 そう言えば、初めてこの学園艦で小梅に会った時、彼女はジャージを着ていた。普段からジョギングをしているとすれば、走り慣れている小梅にとってこの持久走はあまり苦ではないのかもしれない。

 なんて事を思っていると、根津がまた1周したのでそのタイムを織部は記録する。

 やがて一番最初に走り終えた生徒が膝に手をついて、肩で息をする。ペアらしき生徒が『お疲れさまー』と言いながら肩をさする。

 根津も一着ではなかったが走り終えて、織部の下に来た。

 

「お疲れ様」

「いやぁ、やっぱり持久走はしんどいな」

 

 そうは言いつつも、1000m走ったというのにあまり息も上がっていない。やはり今朝言っていた通り、戦車道で体力がついたのだろうか。

 前半に走った生徒が全員走り終えると、少しの間休憩し、やがて後半戦が始まる。

 根津からの『頑張れ』という激励を背中に受けて、織部はスタートラインに立つ。

 隣には小梅とペアを組んでいる斑田が立っており、身体を解している。織部も屈伸をして、長距離走に備える。

 黒森峰のグラウンドは1周200m。持久走で女子の走る距離は1000m、男子は1500m。つまり、織部は他よりも2周半長く走らなければならないのだ。それを考えるだけでも織部は憂鬱になる。

 全員スタートラインに立ち、準備が整ったのを確認すると、教師がライカンピストルを撃った。

 織部だって別に最速記録を更新したいとか、格好よく走って良いところを見せたいとかそんな願望は無いので、普通に走ることにする。

 1周目は別に問題ない。2周目もまだ大丈夫。ただ3週目あたりで息が上がり始める。なので、織部はペースを落として呼吸を整える事にする。

 織部の先を走る斑田との距離はどんどん離れていき、後ろの方にいた女子からも追い抜かれていく。しかし、この際男としてのプライドは捨てて自分の体力を回復させることに専念する。

 4周目を過ぎた辺りで体力が少し戻ってきたので、ペースを少し上げる。斑田とは半周ほどの間が開いている。しかし、周りを気にしていると知らず知らずのうちにペースが崩れる。

 今は周りのことは考えず、自分の事を考えていればいい。

 だが、少しペースダウンをして体力がわずかに戻ったとはいえ、やはり万全と言うわけではない。すぐにまた息が切れてしまい、スピードが落ちる。さらに何人ものクラスメイトに追い抜かれる。

 やはり、織部の体力はあまり無かった。

 ついに1000m走り終えた女子が出てしまった。その生徒は織部とは面識が無かったが、ふらふらと走っている織部を見てくすくす笑っている。プライドをとうに捨てた織部でも少し恥ずかしい。

 やがて斑田も走り終え、ペアの小梅がとった記録を見てふむふむと頷く。

 それを尻目に、織部は5周目を終えて6周目に突入する。後、2周と半分。

 教師は女子が全員走り終えたのを確認して、残る走者の織部を見る。両者ともに走り終えたペアは、記録用紙を教師に渡して解散となり、まだ走っている織部の事は気にも留めず着替えたり水を飲んだりするためにグランドから去っていく。

 間もなく6周目も終えて、7周目に入る織部。しかし限界が近い織部は、視界がぐらぐらと揺れていて、胸が張り裂けそうなくらい鼓動が高鳴り、呼吸する事すらも苦痛になってきていた。

 思えば、高校1年の時の体力テストでもこんなザマになっていたような気がする。いや、もっと前中学の頃もこんな感じだった記憶がある。

 とにかく、今はそんな事を考えている場合ではない。倒れそうになるのを必死に堪えて、脚を無理やりにでも動かし、前へと進む。

 と、そこで走っている織部の視界に、グラウンドの脇に立つ小梅の姿が目に入った。隣には斑田もいる。

 普通に考えれば、お互いに走り終えているのだから小梅も斑田もここに残っている必要はないのだが、なぜ2人はまだ残っているのか?

 そんな事を考えていると、小梅が胸の前で織部と視線を合わせながら笑い、小さく手を振った。

 それを見て織部は、無性に嬉しくなる。

 

(・・・・・・もう少し、頑張ろう)

 

 自然と、ペースが上がる。体力も、ほんのわずかだが回復したような気がした。

 7周目に入り、後は1周半。前の織部ならいよいよ限界を迎えて歩くスピードと変わらない速度にまで落ちてしまうところだったが、今回はなぜかスピードがあまり落ちていない。

 なぜか、小梅の笑顔と手を振っているのを見てから、活力がわずかに戻った気がする。

 どうしてなのか、それは分からないまま織部は走り続ける。

 やがて、遂に7周半走り終える。そこで立ち止まらずに、スピードを下げてクールダウン。ゆっくり歩いてスタート地点に戻る。

スタート地点に戻ると、タイマーは既に止められていて、教師は『お疲れさん』と言って根津から記録用紙を受け取る。

 膝に手をつき肩で息をする織部の背中を、小梅が優しくさする。

 

「大丈夫ですか?」

「・・・・・・ありがとう、小梅さん・・・」

 

 そこで、根津と斑田が教師に言われてタイマーを運ぶように言われたのを見て、織部も手伝おうとする。しかし、2人はそれを手で制した。

 

「こっちは大丈夫だから。織部君は体を休めてて」

 

 そう言う斑田だが、彼女もさっき走り終えたばかりで疲れているだろうに。

 だが、そうこうしているうちに根津と斑田はタイマーを運んで行ってしまった。疲れなど感じさせないように。

 小梅は織部に、『先に戻りましょう』と言う。織部も、今さら手伝うのも何だったので、小梅と共に教室へ戻る事にした。

 

 

 昼休みに入り、食堂で昼食を摂ったり昼寝をしたりして、黒森峰の生徒たちはつかの間の休息を満喫している。

 だが、食堂で織部はテーブルに突っ伏して死んでいた。

 隣に座る小梅はもちろん、向かい側に座る根津と斑田も心配そうに織部の事を見ていた。

 

「体力無いって聞いてたけど、本当だったんだな」

 

 根津が愉快そうに言いながらうどんを啜る。その隣に座る斑田は、織部の事を心配そうに見ながらカレーライスを食べている。

 

「言ったでしょ・・・運動はだめだって・・・」

 

 突っ伏しながら織部が呟くと、隣に座る小梅が過去に思いを馳せるように視線を上に向ける。

 

「私も前は、織部さんみたいに運動が苦手でした・・・」

「あー、私も。でも、戦車道初めて自然と体力ついた感じかな」

 

 小梅の言葉に斑田が同調する。根津も、うどんを食べながら頷く。昔から運動が得意で体力があるという女子はあまりいないらしい。

 

「・・・・・・どうにかして、体力をつけないと・・・」

 

 織部がぼやきながらゆっくりと起き上がり、自分の頼んだ唐揚げ定食に手を付ける。何か策を考えなければ、織部は間違いなく皆から置いて行かれてしまう。

 一方、小梅は織部と同じく唐揚げ定食を食べながら、別の事を考えていた。

 

「・・・・・・まあ、今日の戦車道も頑張れ」

 

 根津が笑いながら織部に話す。

 織部は、頭に疑問符を浮かべた。一体、何を頑張るというのだろうか?

 気になって斑田の方を見ると、斑田も気まずそうに織部から目を逸らしている。

 小梅は根津の言葉の意味と、斑田の気まずそうな目の理由を知っていたので、少し織部には酷だという事は分かりつつも話す事にする。

 

「今日の戦車道・・・走り込みなんです」

 

 もしかすると、今日は命日になるかもしれない。

 織部はふとそう思った。

 

 

 

「すまない、スケジュール表を渡していなかった」

 

 迎えた戦車道の時間。集合して点呼を終えた後で、まほが少し済まなそうな表情をして、A4のプリントを織部に渡してきた。そのまほの恰好は、黒のタンクジャケットではない、黒森峰の校章がプリントされた薄いグレーのタンクトップに、同色のハーフパンツを着用している。副隊長のエリカや、格納庫前に集合していた隊員たちも、まほのようなスポーツウェアや学校指定の体操着を着用している。

 そして、体育の時間に着たものと同じ体操着を着ている織部は、呆然とした表情でスケジュール表を受け取る。そのスケジュール表によれば、確かに毎週月曜日は走り込みとなっている。

 戦車を動かすには、相応の体力も必要だ。戦車と言う密閉された空間で、長時間集中力と忍耐力を使い続けるにはスタミナが要る。そのために、身体を鍛えるためにこの走り込みはあるのだ。

 準備運動を終えると、早速走り込みがスタートする。走り込みのルートは、学園艦を縁取るように伸びている遊歩道と、速度無制限のアウトバーン(自動車高速道路)だ。

遊歩道はともかく、なぜ速度無制限のアウトバーンがあるのかと言うと、それは“ガス抜き”のためである。

 黒森峰は真面目な校風と雰囲気で通っているため、自然とそこで暮らしている人間も真面目に生きるようになる。しかし、四六時中ずっと肩肘張っているというのは中々に辛く、ストレスも溜まりやすい。そのストレスを発散するために、このアウトバーンがあるのだ。

 学園艦の甲板上は私有地と言う事で、免許を要する乗り物を動かすのに免許は必要ない。本来なら免許の必要な戦車も無免許で動かせる(公道で走る際は免許がいる)。だから自動車も無免許で運転する事が可能なのだ。尤も、事故を起こした際は全て自己責任となってしまうのだが。

 それはともかく、今織部は他の戦車道履修生と一緒になって学園艦の外周遊歩道を走っている。スピードは先ほどの持久走と同程度だが、それでもやはり皆と比べるとペースは遅い。現に織部はどんどん後ろから追い抜かれている。

 走り込みを始める前、まほから休憩は各自取って構わないと言われたのだが、だから休憩を頻繁に挟んでろくに走らずに今日はおしまい、と言うわけにもいかない。

 そんな態度が誰かに見られ、学校に知られれば最悪強制送還されかねない。それは流石に織部も困るので今は大人しく走っている。

 だが、やはりペースは徐々に落ちていた。一緒にスタートした小梅、根津、斑田も今は先に行かせていた。別に格好つけたわけではなく、他よりも体力の無い織部に合わせて走っていては、他の皆の鍛錬にはならないと思ったからだ。

 しかしてやはり、織部自身の体力も限られている上に低いので、今は競歩に近いスピードで走っている。

 

「・・・・・・ぜぇ・・・はぁ・・・」

 

 ほんの少し前に持久走をしたばかりなので、息も絶え絶えと言わんばかりに走っていると。

 

「あのー、大丈夫?」

 

 横合いから声を掛けられた。声に聞き覚えは無い。

 横を見ると、自分と速度を合わせて走っている、眼鏡をかけたショートボブの黒髪の少女だった。

 

「いえ・・・・・・大丈夫・・・・・・です・・・・・・」

 

 息も絶え絶えに織部が答えるが、その少女は織部から目を逸らそうとはしない。

 

「いや、全然大丈夫そうじゃないから。一先ず休んだほうがいいよ?」

 

 仕方なく、少女に言われて立ち止まる。柵に寄り掛かって深呼吸をし、呼吸を整える。4月が始まって間もないのに、体中が汗ばんでいた。

 声を掛けてきた少女も、織部の横に立った。

 

「話をするのは初めてだね」

「そう・・・ですね」

 

 少し呼吸が整ってきたので、織部も少女を見て返事をする。

 少女の言う通り、織部は彼女の顔をクラスでも見た事がない。しかしここにいるという事は、紛れもなく彼女も戦車道履修生と言う事だ。

 

「私は三河。2年生で、Ⅲ号戦車の車長だよ」

「Ⅲ号戦車・・・・・・」

 

 三河と名乗った少女が口にした戦車の名前を聞いて、織部は思い出す。

 そう言えば、小梅が去年の全国大会決勝戦で乗っていたのも、Ⅲ号戦車だった・・・

 

「どうかした?」

「え、いや、何でもないよ・・・」

 

 何かを勘づかれそうになったので、織部は適当に誤魔化す。三河もあまり踏み込まず、ふぅと空を見上げる。

 

「織部は走り込みは初めてでしょ?」

「うん。それに加えて、今日の4時間目が持久走だったから余計に辛くて・・・」

「あー、そりゃ苦痛だねぇ」

 

 話してみると、三河は割と打ち解けやすい性格のようだ。唯一の男である織部に対してこうして臆面も無く話してくれる。寮の部屋が隣同士の根津や、同じクラスの斑田ともまた違う感じだ。

 歩き出し、徐々にペースを上げていこうとする織部と三河。

 

「私もケッコー体力が無い方でねぇ。最初の頃の走り込みなんて汗だくで泣きそうになった」

「そうだったんだ・・・・・・」

「でもま、毎週こんなことをやってたからか自然と慣れてきて、体力も付いてきた」

 

 こんなのに慣れるのも少し怖いけどね、と三河が苦笑しながら走る。

 並走する織部も、こんな学園艦外周の走り込みに慣れてしまうのも少し恐ろしいと思う。

 その後も三河は織部と並んで走り、織部が疲れてペースを落とした際にも一緒にペースを落とし、まほから指示された外周道路3周を終えると格納庫の前に戻った。既にほとんどの隊員たちは戻っており、付き合わせてしまった三河に対して申し訳ないという気持ちが込み上げてくる。

 

「いやぁ、疲れたねぇ」

「そう・・・だね・・・・・・」

 

 いい汗をかいたと言わんばかりに三河が腕で額に浮かぶ汗を拭う傍らで、織部がぜぇはぁと呼吸をする。今日は下手すると帰った直後に疲れの余り寝てしまうかもしれない。

 

「ごめん、僕のペースに合わせちゃって・・・それでだいぶ遅くなって・・・」

「ああ、いいのいいの。気にしないで」

 

 織部が謝るが、三河はあっけらかんと手を振り他の生徒と合わせて整列する。織部もまた、定位置だった列の一番端に立つ。

 全員いるのを副隊長のエリカが確認すると、まほによって解散を命じられる。まほだって、エリカだって外周道路3周を走り終えたばかりで疲れているだろうに、汗1つ掻いていない。やはり、隊長副隊長クラスは格が違う、と織部は思った。

解散を告げられると、履修生たちは伸びをしたりストレッチをして身体を解し、着替えるために校舎の方へと戻って行く。

 織部もそれに倣い、軽くストレッチをしてから校舎へ戻ろうとしたところで。

 

「春貴さん」

 

 小梅が織部の下に駆け寄ってきた。小梅も走った後なので、汗で髪が額に引っ付いている。

 織部は最初に、完走し切った事に対するねぎらいの言葉を小梅に言う事にする。

 

「小梅さん・・・お疲れ様」

「春貴さんも・・・・・・持久走で疲れていたのに・・・大丈夫ですか?」

「どうにか、ね」

 

 織部は首を回して疲れを取ろうとする。その様子を小梅は心配そうに見ているが、その視線に気付いた織部は心配ないと言わんばかりに微笑む。

 

「でも、体力はこの先つけた方がいいよね・・・」

「そうですね・・・走り込みは毎週ありますから・・・」

 

 どうしたものか、と織部が顎に手をやって考える。

 そこで小梅は、昼休みの時も考えていたことを、織部に話してみる。

 

「あの、春貴さん・・・」

「ん?」

 

 校舎に向かって歩きながら、何でもないように小梅が聞く。

 

「よろしければ、夜のジョギング、ご一緒にどうですか?」

「・・・・・・え?」

 

 突然の小梅の誘いに、織部は驚きを隠せない。

 小梅は、結論を急ぎ過ぎてしまったと自省して、改めて織部に話す。

 

「えっと、私も実はあまり体力がある方ではないので・・・週に2,3日夜にジョギングをして基礎体力をつけるようにしてるんです・・・」

 

 織部は何も言わない。少し図々しかったかな、と小梅は今更になって思う。だが、ここまで言って最後まで言わないというわけにもいかないので、つまり何が言いたいのかを告げる。

 

「ですから・・・・・・その時は織部さんもご一緒にどうでしょうか・・・・・・なんて」

「・・・・・・」

 

 織部の方を恐る恐る見てみれば、織部はあっけにとられたように目を開いている。

 急にそんな事を言われれば当然だよね、と小梅がしょんぼりとして思ったが、すぐに織部は微笑みこう言ってきた。

 

「そうだね・・・・・・小梅さんの迷惑にならないのなら・・・一緒にいいかな?」

 

 思いがけず織部がやりたいと言ってきたので、誘った当の小梅が一番驚いている。

 

「そ、そんな迷惑だなんて・・・・・・」

 

 織部には自らの事を卑下してほしくなかったので、慌ててフォローする小梅。そして、小梅はできるだけ笑って、織部のお願いとも言える言葉に応える。

 

「・・・・・・分かりました。では、一緒に走りましょう」

 

 織部は、小梅が自分から織部の事をジョギングに誘った事が嬉しかった。

 最初に会った時や、新学期に再会した時のような、悲しげな表情で周りと距離を置いていた小梅が、親しくなった織部を自分から誘ってくれたことが、だ。

 小梅は自らを孤独と思う事をやめ、周りとも少しずつだが接し始めている。

 そうなるまでには、織部の言葉もあったが、やはり小梅自身が自分から動き出した事が大きい。

 少しだけだが、小梅の成長―――というより小梅が立ち直るのに力を貸すことができて、織部は嬉しかった。

 

 小梅が織部をジョギングに誘ったのには2つのわけがあった。

 1つは、先ほど織部が言っていたように織部が基礎体力をつけるためにどうしようかと悩んでいたから。

 小梅は、織部が力をつけられるように協力したくて、織部をジョギングに誘った。そして織部はその誘いに乗り、一緒にジョギングをする約束をしてくれた。

 もう1つのわけは・・・・・・正直小梅自身もどう説明していいのか分からないようなものだ。

 先ほど学園艦外周の走り込みから戻ってきた時、織部は三河と共に走り戻ってきた。

 織部と三河が楽しそうに何かを話しているのに気付いた小梅が、その2人の様子を見て、少しだけだが胸が痛んだ。

 小梅はもう、織部が他の人から小梅についての悪い噂を聞かされていると思い込んだりはしない。

 だというのに、小梅はなぜか、あの2人が仲良さげに話しているのを見ると、胸が痛んでしまう。

 どうしてだろうか。

 それはまだ、小梅には掴めなかった。




ススキ
科・属名:イネ科ススキ属
学名:Miscanthus sinensis
和名:薄、芒
別名:尾花(オバナ)(カヤ)(カヤ)
原産地:日本、中国、朝鮮半島、台湾
花言葉:活力、心が通じる


三河・・・アニメ本編11話、12話に登場したⅢ号戦車車長。
『お前らの火力で装甲が抜けるものか!』の人。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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白粉花(オシロイバナ)

 持久走と走り込みのダブルコンボを喰らった日から2日後。

 夜の8時、織部はジャージに着替えて、朝登校する際に小梅たちと合流するいつもの交差点にいた。

 4月が始まって間もないので、まだ夜は少し肌寒い。白い街灯が、暗くなった学園艦の道を照らしている。

 柔軟体操をしながら、織部は辺りを見回す。

 今朝、根津と一緒にここへきて小梅、斑田と合流し、ほんの数時間前の帰宅する際に小梅、斑田と別れた。ここ数日で見慣れたこの場所も、夜になるとまた違った感じがする。

 やがて、織部の下に駆けてくる人が1人やってきた。目を凝らしてみれば、その人物は見覚えのある黒のジャージを着ている。

 

「こんばんは、春貴さん」

「こんばんは、小梅さん」

 

 小梅は織部と挨拶をすると、その場で織部と同様に柔軟体操を始める。

 小梅の準備が整ったところで、織部の隣に立つ小梅。2人が見据えているのは、街灯しか明かりのない目の前に広がる暗い道だ。

 

「では、行きましょう」

「うん、分かった」

「疲れたら無理せずに、遠慮なく言ってくださいね」

 

 そう言って小梅が先行して走り出す。織部は小梅とスピードを合わせて横に並ぶ形で走りだす。小梅は織部の体力があまりないことを考慮して、走るスピードがかなり抑えられている。織部でも十分追走できる速度だ。

 こうして織部と小梅はゆっくりと、夜の黒森峰学園艦を走り出した。

 

 小梅は週に2,3回のペースで、夜のジョギングをしている。

 その理由は基礎体力をつけるためであるが、毎日はできない。戦車道の訓練は毎日あって、訓練内容によってはジョギングができないほど疲れてしまう時もある。それにあまり気合を入れて走りすぎると、翌日疲れの余り起き上がれなくなってしまうからだ。

 毎日となると少し難しいが、週に2,3回程度であれば続けることができる。だからこのペースでやっているのだ。

 走るルートは一応考えてはいるが、いつも同じルートだと味気ないので時々変えることもある。

 今走っているのは住宅街の中だが、少し走れば商店街に入る。

 

「まだ大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫」

 

 小梅は度々、こうして織部の事を気にかけて話しかけてくる。織部は特に嘘をつく事もせず、まだ大丈夫であることを伝える。

 走り始めてからおよそ15分ほどで、商店街にやってきた。商店街は特有の街灯も相まって、先ほど走っていた住宅街よりも明るく感じられる。

 学園艦における店舗というものは大きく分けて3種類。スーパーマーケット、個人商店、コンビニの3つだ。学園艦における大体の食料品と、簡単な衣料品は学園艦内で栽培、養殖、製造されている。その他の物資は、物資を運ぶ専門の船が接舷したり、港に寄港する際に船に積み込まれる。

 スーパーマーケットは、品数は豊富だがレパートリーはあまりなく、商店街は種類は沢山あるものの仕入れている数は少ない。そしてコンビニは、スーパーマーケットでも商店街でも買えないようなものを売っている。そんな形で、釣合が取れていた。

 今2人が走っている商店街も日中は賑わっているのだが、陽も落ちてしまった今、多くの店はシャッターを閉めて営業を終えている。学園艦の上で利用客にも限りがあるので仕方ないのだが、どこか寂しさを感じた。

 商店街の長さはおよそ500m。その商店街をおよそ数分ほどで通り抜けると、また暗い住宅街に戻る。

 商店街を抜けると左折し、さらに進むと今度は整備された小川に突き当たる。

 小川の脇には整備された遊歩道が敷かれており、小梅と織部は並んでその遊歩道を走る。静かな夜に小川のせせらぎが聞こえ、とても落ち着いた気持ちになる。走り続けていて少し火照った身体が、夜の空気とこの小川のせせらぎで涼しくなる。

 だが、身体が涼しくなってもスタミナは回復しないので、どうしても少し速度が落ちてしまう。

 

「あ、少し休憩しましょうか」

 

 織部の速度が落ちたのを素早く感じ取った小梅が、速度を落とす。織部はその厚意を甘んじて受ける事にし、同じように速度を落とす。

 少ししてから2人は立ち止まり、近くにあったベンチに腰掛ける。

 

「ごめんね・・・僕も一緒に走らせてもらって、それにペースも合わせてくれるなんて・・・」

 

 ベンチに座り、呼吸が整ったところで織部が小梅に話しかける。

 だが、織部の言葉を聞いて小梅は首を横に振った。

 

「春貴さんが謝ることは無いですよ。春貴さんの力になりたいと思って、私が春貴さんを誘ったのがそもそもなんですから」

 

 力になりたい、と言われて織部はふと思った。

 これまで織部が小梅に真摯に向き合ってきたのは、小梅の悲しそうな表情の理由が知りたいというのもあったが、その根っこにあるのは小梅の力になりたかったという気持ちだ。

 その小梅から今、力になりたいと言われて織部は、小梅はやはり変わったと思う。

 そして今までは分からなかったが、小梅は元来友達想いで心優しい性格をしているというのだなと、織部はそう思った。

 助けられなかったとはいえ、皆から糾弾されていたみほを助けようとしたことからも分かるが、何よりこうして織部の力になりたいと自分から考えて、それを行動に移すのだから、実行力もあると見える。

 

「ありがとう、小梅さん」

 

 

 5分ぐらい休憩してから、2人は再び走り出した。この川沿いの遊歩道は結構距離があり、しばらくの間はこの道を走った。

 途中すれ違う人はおらず、今は織部と小梅、2人だけの時間を過ごしている。

 やがて、目の前にフェンスが現れた。どうやらこの先は演習場になっているらしい。

 遊歩道もここで途切れ、ここから左へ行くと学園艦外周の遊歩道へ、右へ行けば住宅街の方に入る。

 小梅は左へと曲がり、織部もそれに続く。

 少し走れば、2日前に戦車道の時に走り込みをした遊歩道へと出てきた。すぐそばには、速度無制限のアウトバーン。さらにその向こうには、星明りが輝く夜の空と、海が広がっている。

 しかし、この遊歩道は街灯がポツポツとしか建っておらず、道は薄暗く。2日前の走り込みで走った際は陽が出ている状態だったのでまだ視界が利く状態だったのだが、今はそれも難しい。

 とにかく視界が利かない以上、何があるかは分からないので慎重に走るべきだ。

 そう織部が思った矢先に、アクシデントが起きた。

 

「あっ!」

 

 隣を走っていた小梅が躓き、転倒する。

 織部は少し小梅を追い抜く形になってしまい、慌てて立ち止まって小梅の傍へ駆け寄った。小梅は、辛そうに足首を抑えている。

 小梅が躓いた箇所には、少し段差のようなものができている。昼間なら気付けたのだが、この暗さでは見つけられないのも仕方ないだろう。

 

「大丈夫?」

「大丈夫・・・・・・っ・・・!」

 

 織部が問うと、小梅は何でもないように答えようとする。しかし口では大丈夫と言っているが、小梅の表情は苦しそうに歪んでいる。足首を押さえているあたり、怪我をしてしまったに違いない。

 

「・・・・・・ちょっと、ごめん」

 

 織部は小梅に断りを入れて、小梅の足元に回りジャージの裾をめくる。見れば、少し赤く腫れてしまっていた。挫いてしまったらしい。

 

「・・・・・・これじゃ、走るのは無理そうだね」

「いえ、大丈夫です・・・」

 

 小梅の主張を、織部はやんわりと首を横に振って否定する。

 

「これ以上無理に走っても、傷が余計に痛むだけだよ」

 

 優しく諭されてしまい、小梅は何も言うことができなくなってしまう。

 織部はゆっくりと立ち上がり、周りを見渡す。

 

「・・・・・・戻るしかないね。歩ける?」

「・・・・・・」

 

 小梅は立ち上がろうとするが、脚に力を入れようとすると挫いた箇所が痛む。歩く事もままならなかった。

 それを見て、歩くのも無理そうだと判断した織部は、参ったなぁと思う。

 捻挫はたとえ症状が軽くても、少し休んだだけでは治らないだろうし、ちゃんとした手当てをしなければならない。だが手当をしようにも手元には何もないし、それを調達しようとしても、小梅をここに置き去りにするわけにもいかない。

 ならば織部が小梅を連れて、戻るしかない。

 だが、小梅は足を怪我していて歩く事はできない。

 ではどうする?

 答えはすぐに見つかったが、それは少し織部には・・・いや、男にしてはハードルが高すぎるものだった。

 

(・・・・・・やるしか、ない)

 

 だが、このままぐずぐずしていては小梅の症状が悪化しかねない。

 だから、織部は腹を決めて小梅に背を向ける形で、小梅の前に屈みこむ。

 

「・・・・・・え?」

 

 小梅は最初、織部の行動の意味が分からないようだったが、やがて理解する。が、それが意味するものはとてつもなく恥ずかしいものである事もまた、同時に理解した。

 

「えっと・・・・・・それは流石に・・・・・・」

「いや、小梅さんは歩けない・・・。支えて歩くのも少し難しい。なら、この方がいいと思って」

 

 織部は前を向いたまま話す。織部の顔は今、赤くなってしまっていて、こんな顔は流石に小梅に見せるのが少し恥ずかしい。

 やがて小梅は、意を決したように織部の背中にくっつき、肩に手を置く。織部は、その小梅の脚―――膝の裏辺りを持ち、ゆっくりと立ち上がる。

 おんぶだ。

 

「・・・・・・じゃあ、歩くよ」

「・・・・・・はい」

 

 織部はゆっくりと、来た道を引き返す。

 くどいようだが、織部は体力が無い。だから自分で言いだした身ではあるものの、多大な体力を消費する、人ひとりを背負って歩くというのは織部にとっては苦行にも等しい。先ほどまで走っていたのだからなおさらだ。

 人を背負うというのは織部も初めての事だったので、最初に小梅を背に立ち上がった時は、どうにか後ろにひっくり返りそうになるのを堪えた。

 しかし体力を要する事は当然分かっていたし、女性に向けて重いというのはデリカシーに欠ける。だから織部は、黙々と前へと歩き続ける。

 そして、それ以上に懸念すべきことがあった。

 

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 背中越しとはいえ、小梅が背中に密着しているこの状態は、織部も少し恥ずかしい。

 少し目をずらせば、織部の肩に置かれている小梅の細く白い手が見える。背中には、小梅の着ているジャージのものではない、何かふんわりとした感触がある。それについては深く考えないことにした。

 そして何より、織部の右肩に小梅が顎を乗せる形で頭を置いている。それはつまり、超至近距離に小梅の顔があるということだった。自分の使っているものとは違う、小梅の髪からシャンプーの香りがほのかに匂い、小梅の吐息がものすごく近く感じられる。

 それらの要素が、織部から集中力を奪っていく。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 思えば、小梅とここまで距離を詰めた事などなかった気がする。花壇の前で本音を告げ、小梅の方から抱き付いてきた事はあったが、今のように顔まで近づいているということは無かった。

 加えて織部は、女性経験があまりない。思春期に突入した時も、それ以前も勉強漬けで、その後はいじめに遭い不登校、復帰後も勉強あるいは友達との交流。さらに高校に進学しても女性との付き合いはほとんどなかった。それ故、こうして女性と密着している状況に出くわす事自体が初めてだったのだ。

 春休みに小梅に話しかけた事も、下心などなく純粋に小梅の事を心配していただけの事であり、あれも織部からすれば相当に勇気のいる事だった。

 

「は、春貴さん・・・」

 

 織部に背負われている状態の小梅が、恥ずかしそうに声を発する。小梅だって、こうして血のつながりの無い男におぶさっている事など経験した事がないだろうに。

 ちらっと織部が小梅の顔を横目に見れば、小梅の顔は赤く染まってしまっている。それは決して、足の痛みなどではないという事が織部にも分かる。

 

「ご、ごめんなさい・・・。私、重くて・・・・・・」

「い、いやいや。全然そんな事無いって」

 

 自嘲気味に話す小梅の事を慰めようと織部が言うが、説得力に欠けてしまう。織部の歩くスピードは通常よりも遅いし、小梅の脚を持つ手も少し震えているのが織部自身分かる。

 

「と、とりあえず・・・小梅さんの部屋まで送るよ。どこにあるの?」

「え?そんなのいいですよ、春貴さんの迷惑ですし・・・」

 

 織部の申し出を小梅は慌てて否定する。

 だが、織部は首を横に振る。

 

「迷惑なんかじゃないよ。僕はただ、小梅さんの事を助けたいんだ」

「・・・・・・!」

 

 織部の言葉を聞いて、小梅は言葉を失う。

 何か失言をしてしまっただろうかと織部は思うが、それはともかく早く小梅を部屋に送り届けなくては。ろくに手当てもできていないのに挫いたのを長時間放置するのは流石にマズい。一刻も早く小梅の部屋に戻って、何らかの処置を施さなければ。

 と、そこで。

 

「?」

 

 織部の肩に置かれていた小梅の手が首に回る。

 そして、織部の首元に顔を寄せる小梅。そろそろ織部と小梅の顔がくっつきそうになる。

 

「・・・・・・ありがとう、春貴さん・・・」

 

 織部は歩きながら、小梅の言葉に耳を傾ける。

 

「私、あなたにずっと助けられっぱなしで・・・・・・何もできなくて・・・」

「・・・・・・」

 

 織部の事を強く、抱きしめる小梅。背中に当たるふわりとした感触が強くなるが、そんな事はもうどうでもよかった。

 

「私・・・・・・ダメですよね、こんなんじゃ・・・」

「そんなことない」

 

 小梅が悲しそうに言うが、織部が即座にその言葉を否定する。

 その強めの言葉を聞いて、小梅も『え・・・』と言葉を洩らす。

 

「前にも言ったと思うけど、小梅さんは強い信念をもって、辛い状況に耐えながらもここに留まっている。ダメだなんてことは無い」

 

 それと、と言いながら織部が少し体をかがめて体勢を少し整え、再び歩き出す。

 

「小梅さんは、今の状況を変えようと自分から動くことができている。根津さんと斑田さんに声を掛けたのもそうだし、僕の事をジョギングに誘ってくれたことだってそう・・・。何もできていないなんてことも無いよ」

 

 織部からは、小梅の顔は見えない。何せ、織部の顔の真横に小梅の顔があるのだから。

 けれども、小梅は少し嬉しそうな顔をしているというのが、なんとなくだが分かる。

 

「そんなに自分を卑下しない方がいい。空しいだけだから」

 

 住宅街の方から走ってきた道を逆戻りする織部と小梅。その道の少し先に、あの整備された小川が見える。その先を、織部はじっと見つめたまま歩く。

 小梅は、その織部の言葉が真剣味を帯びているのを感じ取る。やはり、織部自身もいじめられた時にそのような事態に陥ったのだろう。

 でもこれ以上、小梅は何も言わない。ただ目を閉じ、さらに織部の顔に寄り添う形でこう言った。

 

「・・・・・・ありがとう」

 

 涙はもう、流れない。

 

 

 その後、道中で休憩を何度か挟み、そして小梅から案内してもらい、ようやく小梅の寮に着くことができた。

 小梅はここまでで大丈夫と言っていたのだが、まだ見るからに足の痛みは引いていないし、このまま無理に歩かせて症状を悪化させるのも悪いと思ったので、織部は部屋まで送る事にした。

 小梅の暮らす寮の外見は、織部の寮とはまた別だったがそこは別に気にしない。

 エレベーターで目的の階まで昇り、降りてからはまた廊下を歩く。もう遅い時間であったため誰とも出会うことは無かったし、会わなくてよかったと織部も小梅も思っていた。もし見られれば、あらぬ疑いをかけられるに違いないと思っていたからだ。

 そして、『赤星』と書かれたプレートが掲げられている部屋の前に到着した。

 小梅がカギを開けて、織部がドアを開き中へと入る。

 

「少し散らかってますけど・・・」

 

 そう言って小梅が、部屋の電気を点ける。暗かった部屋が明るくなり、部屋の全貌が明らかになった。

 間取りは織部の部屋と同じだが、家具の位置や色合いが違う。織部の部屋はシックなタイプの色合いだが、小梅は女の子らしいパステルカラーでまとまっている。床にはちり一つ落ちておらず、散らかってるなんてとんでもない、十分片付けられていた。

 ともかく織部は、ベッドに小梅を下ろして横にさせる。

 

「湿布とかはある?」

「あ、そこの机の下に・・・・・・」

 

 横になりながら、小梅が机の下を指差す。そこには小さな木箱が置いてあった。織部が断りを入れてその箱を手に取り、蓋を開ける。中に入っていたのは絆創膏や胃薬などの医薬品で、湿布も入っていた。

 使用期限を見て問題ないことを確認すると、小梅の下へと寄り、またジャージの裾をめくって患部を露わにする。そして、静かに優しく湿布を貼る。

 瞬間、今まで熱かった患部が冷やされて、小梅は思わずふぅと息を吐く。

 

「軽い捻挫みたいだからそんなにひどくはないけど、あまり温めてもだめらしいし、風呂は止めた方がいいね」

「・・・そうですね、今日は身体を拭いて寝る事にします」

 

 そこまで言って、小梅が顔を赤らめる。それと同時に、織部も気づいた。

 この場に織部がいては、小梅が体を拭けないという事に。

 

「・・・・・・じゃあ、僕はこれで。ゆっくり休んでね。」

「・・・・・・あ、春貴さん」

 

 踵を返して部屋から出ようとしたところで、小梅に呼び止められる。振り返ると、小梅は申し訳なさそうに笑っていた。

 

「ごめんなさい・・・私が誘ったのに、こんなことになっちゃって・・・。それに、ここまで連れてきてもらって・・・・・・」

「小梅さんは何も悪くないよ。僕がやりたくてやったんだから」

 

 そこで織部は、自分は全く気にしてない、不快に思っていないと証明するためににこりと笑ってみせる。

 その織部の顔を見た小梅は。

 

「春貴さんは・・・・・・本当に・・・」

 

 そこで言葉を切って、穏やかな笑みを見せてこう告げた。

 

「心の強い・・・・・・優しい人なんですね」

 

 その言葉を聞き、その顔を見た瞬間、織部の顔が熱くなるのを感じた。

 思わず口に手をやるが、それが逆に小梅には不審に思えてしまったらしい。小梅が首をかしげると、なぜか織部にはその所作も可愛らしく見えてしまう。

 小梅の顔を直視することができず。

 

「じゃ、じゃあ僕はこれで・・・。なんかあったら、連絡してね」

「あっ・・・・・・」

 

 小梅が何かを言おうとしたが、織部はそのまま部屋を出て、つかつかと廊下を歩き階段で1階まで降りて、エントランスで大きく息を吐き、壁に背中を預ける。

 天井を見上げ、顔を手で覆う。

 まだ顔は熱い。

 

『心の強い・・・・・・優しい人なんですね』

 

 優しい笑顔であんな言葉を言われたのは初めてだ。

 その言葉が心の中にこだまし、心から消えない。

 そして小梅の笑顔もまた、忘れられない。

 連鎖的に、ここまで小梅を背負ってきた時の事を思い出す。

 超至近距離で小梅の声を聞き、吐息を顔の近くで感じ、背中に小梅の感触があって―――

 

「!!!」

 

 頭を振って邪な考えを払おうとする織部。

 考えがまるで変質者のそれだ。

 変な事を考える頭を冷やすために、とりあえず外に出る織部。涼しい海風が織部の身体を撫でるように吹く。

 

(・・・・・・もしかしたら)

 

 1人の少女の言葉が胸に響き、その言葉が心に残っていて、その子との思い出が突如奔流のようにあふれてくる。

 それはさながら―――

 

(いや、それは違う・・・・・・)

 

 だが織部は、その自分自身の抱いているような感情を否定する。

 “そう”と決めつけるのはまだ尚早だし、もしそうだったとしても小梅からすれば迷惑かもしれないからだ。

 だって、織部と小梅はまだ出会ってからそれほど時間も経っていなくて、そんな人からの想いなんて信用ならないだろうから。

 とにかく、変な考えを頭から追い払うために、少し自分で走ろうと思い、暗くなった道を走り出す。

 

 

 小梅は、織部が部屋を出て行った後も、ドアの方を見ていた。

 ふと足元を見ると、そこには織部の貼ってくれた湿布がある。少し触れてみると痛みがあるが、織部が貼ってくれたことを思い出すと、痛みもわずかだが引いてくる。

 

「春貴さんは・・・・・・」

 

 走っている最中に自分のミスでこけた小梅の事を助け、さらに怪我を心配して寮まで送って、そして湿布まで貼ってくれるとは。

 自分の事を顧みない行動をとった織部に、小梅は感謝しきれない思いだった。

 そして、思い出すのはここに来るまでの道中、織部におぶさっていた自分の事だ。

 

「・・・・・・!」

 

 あの時はとても恥ずかしかった。まさか男の人におぶさるなんてこと、一生無いだろうと思っていたのに。

 でも、あの時感じた織部の背中は、自分よりも少しだけだが大きくて、温かかった。

 そして何より、安心した。

 

「もしかして、私は・・・・・・」

 

 ここ数日、織部とは随分といろいろあったと思う。

 でも、織部からかけられた言葉も、織部が小梅に対してどんな行動をとったのかも、全て覚えている、全部大切な思い出だ。かつて孤独を感じていた時のように忘れたい事など1つも無い。

 どれも、忘れたくはないものだ。

 1人の男性の事を想い、その人との思い出を大切にし、さらに言動全てが輝いて見える。

 そんなのまるで―――

 

「まさか、そんなことはないか・・・・・・」

 

 だが小梅は、その自分自身の抱いている感情を否定する。

 “そう”と決めつけるのは尚早だし、もしそうだったとしても織部からすれば迷惑かもしれないからだ。

 だって、小梅はもう織部に色々世話になってしまったのだから。

 とにかく、変な考えを頭から追い払うために身体を拭こうと考え、小梅は汗を拭くためのウェットティッシュを取り、ジャージのジッパーを下した。




オシロイバナ
科・属名:オシロイバナ科オシロイバナ属
学名:Mirabilis jalapa
和名:白粉花
別名:夕化粧(ユウゲショウ)
原産地:南アメリカ
花言葉:恋を疑う、内気、臆病


10話過ぎてもまだ1週間過ぎていない・・・

作中の時間の進みが遅い事に関しては大変申し訳ございません。


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白苧環(シロオダマキ)

西住まほ隊長、誕生日おめでとう。
作中でもその時期になったら、まほ隊長の誕生日ネタをやりたいと思います。


 逃げ出したい。

 心の中ではそう叫んでいるが、現実ではそんなことは許されない。廊下を歩く僕の視線はタイル張りの床に向いたまま、前を歩く先生の歩調に合わせて、僕も仕方なく脚を動かしている。だが僕には、その脚がまるで自分の意志に反して動いているような感覚だった。

 階段を上りいくつもの教室を通り過ぎて、やがて1つの教室の前にたどり着く先生と織部。

 先に先生がドアを開けて教室の中に入っていく。僕は教室の中から見えない位置で、先生から呼ばれるのを待つ。

 中で先生が何かを言っているが、緊張感が頂点に達している僕の耳にはろくに内容も入ってこない。

 握りしめられた両の手にも、背中にも、額にも、緊張による汗が滲んでいるのが分かる。

 呼吸が早くなり、胸の鼓動も高鳴る。高鳴る鼓動を抑えようと自らの胸に手を当てたところで。

 

「では、中にどうぞ」

 

 ついに先生から呼ばれて、僕は足を教室の中へと踏み入れる。

 およそ、3カ月ぶりに戻ってきた教室の中は、驚きの空気に包まれている。

 30人近い生徒の視線が僕の下に殺到する。

 その中で数人、僕に向けて下卑た笑いを向けてくる奴がいるのに気づいた。

 そいつらは、僕の事をいじめていた連中だ。

 この3カ月で自分の新しい目標が見つかり、自分の人生を大きく変えるものと出会ったが、それでもそいつらの顔を忘れたことは無い。

 そして、自分のされてきた事を思い出す。

 僕はあいつらに、何をされた?

 

「うっ・・・・・・」

 

 思い出そうとすると、吐き気が込み上げてくる。

 身体が揺れ、バランスを崩しそうになる。

 ダメなのか。

 僕はやっぱり、来るべきではなかったのか。

 また僕は、いじめられてしまうのだろうか。

 

 

「そんな事無いよ」

 

 

 崩れかけた僕の身体を支えるように、誰かが僕の手を握る。

 その手を握った人の顔を見れば、その人は僕に向けて優しく微笑んでくれていた。

 

「あなたは、強い意志と夢を持って、ここに戻ってきた」

 

 その人は、僕の事を真っ直ぐに見つめて、優しく言葉をかけてくれた。

 

「それに、あなたには・・・・・・友達がいる」

 

 その言葉に、クラスを見渡せば、僕の友達の姿が目に入った。

 皆は、さっきの奴らの下卑た笑みなんかじゃない、もっと純粋な笑みを浮かべてくれていた。

 僕が戻ってきた事を歓迎してくれているような笑みだ。

 僕はあの時、誰を信じることもできず、友達すらも遠ざけていた。

 でも、皆は僕の事を、ずっと友達だと思ってくれていた。

 

「そして、私もいる」

 

 その言葉に振り返ってみれば、僕の手を握ってくれているその人は、優しく笑ってくれた―――

 

 

 耳元で、目覚まし時計のアラームが鳴り響く。

 はっと目を覚まして、体を起こす。

 目の前に広がるのは学校の教室ではない、自分の部屋。わずかな間だけ借りている黒森峰女学園学生寮の一室だ。

 

(夢・・・・・・だったのか)

 

 今さっきまで見ていた光景、感じたものは全て夢だったと思うと、急に体から力が抜ける。

 

(随分、久々にこの夢を見たな)

 

 自分がいじめられ、3カ月ぶりに学校に戻った時の夢だ。

 この夢は、学校に戻ってからしばらくの間は幾度となく見たものだったが、いつしか見なくなってしまったものだ。

 この夢を見る度に、また自分はいじめられるのではないか、また学校に行けなくなるのではないかという恐怖が蘇ってきた。

 そんな夢を久々に見てしまうとは、どうしたというのだろうか。

 

(心地良い・・・・・・夢だったな・・・・・・)

 

 この夢から醒めた時は、大体嫌な汗が体中に浮かび、最悪の気分になる事が多かった、というかほとんどだった。

 しかし今は、そんな事は全くなく、むしろ清々しい気分だった。

 その理由は、大体想像がつく。

 

(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 あの、僕の手を握って言葉をかけて、優しく微笑んでくれた人は、小梅さんだった。これまで、あの時の夢を見た際にはいなかった人だ。だから、寝覚めの気分が良かったのだろうか。

 小梅さんの言葉・・・『心の強い、優しい人』という言葉は今なお僕の胸に残っている。

 小梅さんの微笑みも、忘れていない。

 だが、どうして夢にまで見たのか。

 それは、分からない。

 

(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 とにかく、いつまでもこの状態でいるわけにはいかなかったので、起き上がってカーテンを開く。太陽の光が差し込み、部屋の中を明るく照らした。

 

 

 織部が部屋を出ると、同じタイミングで根津が隣の部屋から出てくる。もうほとんど毎日こんな調子なので、2人は特に気にしなくなった。

 

「おはよう、織部」

「おはよう、根津さん」

 

 そして2人でしばし歩き、いつもの交差点で小梅、斑田と合流する。

 だが。

 

「お、おはようございます・・・」

「あ、ああ・・・おはよう」

 

 織部と小梅は、お互い視線を合わすことができずにぎこちない挨拶を交わす。その様子を見ていた根津と斑田は、『どうして?』と言った具合に首をかしげる。

 根津と斑田は知る由もない事なのだが、昨夜織部と小梅は一緒のジョギングをした際、怪我をした小梅を背負って寮まで行き、手当てをしたのだった。

 あの時織部は小梅を助けたい一心だったし、小梅も怪我の方を気にしていたから気付かなかったが、あれは状況からすれば仕方ないとはいえ、客観的に見れば随分と踏み込んだ行動だったと思う。

 織部だって、小梅だって、異性にあそこまで接近し、接近された事など一度たりとも無い。

だからこそ、昨日の事は随分と深く印象に残っているのだ。

 しかし、よそよそしい態度ばかり取っていると周りに疑われかねないので、お互いに極力普段通り過ごそうと、それぞれ思った。

 

「「・・・・・・・・・・・・」」

 

 もっとも、根津と斑田には『何かあったな』と既に感づかれてしまっていたが。

 

 

 

「では次の問題を・・・・・・・・・・・・織部さん」

 

 週に2回あるドイツ語の授業で、織部は初めて教師に指されてしまった。

 織部は黙って立ち上がり、問題の答えを述べようとする。

 問は、日本語『私はあなたに会うことができて、とても嬉しいです』をドイツ語に訳せと言うものだったが、先ほどやった内容にもかかわらず織部には分からなかった。

 初めての授業にもかかわらず難易度が高い。1年生の頃からドイツ語の授業を受けていれば話は別なのだろうが、織部は今日初めてドイツ語の授業を受けるのだから分からないのも当然ではある。いくら予習をしたとしても、発音までは分からなかった。

 答えるのに時間がかかってしまったので、教師から座るように言われてしまった。

 ただでさえ唯一の男と言う事で周りから浮いている織部がミスをしたので、周りからくすくすと笑われてしまい、恥ずかしくなってしまう。

 

「じゃあ、赤星さん。答えて」

「はい、『Ich freue mich sehr, dich zu sehen.』です」

「はい、正解です」

 

 発音がきれいすぎで何を言っているのか分からなかったが、教師が黒板に答えを記していくので、織部はそれをノートに書き記す。

 それにしても、教師から急に指名されたにもかかわらず、淀みない発音で答えた小梅の事を、織部は素直にすごいと思ったし、同時に少し悔しくも思った。

 予習するだけでなく、誰かドイツ語が得意な人に聞いてみるか、と織部は決めた。

 

 

 昼休み、織部、小梅、根津、斑田の4人で昼食を摂っていると、根津が織部に話しかけた。

 

「やっぱりドイツ語は厳しいか」

「・・・そうだね。英語は得意だったんだけど・・・」

 

 織部の得意科目は文系で、その中でも特に国語と英語が得意だった。ドイツ語も英語と同じ外国語なので、慣れてしまえばどうということは無いのだが、慣れるまでの道のりは遠そうだった。

 

「皆はドイツ語、得意なの?」

「まぁ・・・人並みには」

「私も、それほど得意ってわけじゃないけどね」

 

 織部が問うと、根津と斑田はそう答えた。織部からすれば、日本人なのにドイツ語を理解して話すことができる事自体がすごいのだが。

 そこで、隣に座る小梅はどうなのかを聞こうとする。

 しかし、織部は今朝から小梅とは少しぎくしゃくしたようなやり取りしかしていない上、昨夜の事もあったのでなかなか顔を合わせられず、声を掛ける事もままならない。

 というより、自分の夢に小梅が出てきた事で変に意識してしまっていた。

 小梅も、なぜか織部の方をちらちらと伺うだけで自分から話しかけようとはしてこない。

 織部の前に座る根津は、織部がどうしたものかと悩んでいると勘違いして、こう言った。

 

「ドイツ語の得意な人に聞くとかどうだ?」

 

 根津の提案は一理ある。けれど、根津と斑田は自称“人並み”で小梅に至っては分からない。クラスの中でドイツ語の授業は1年の時から大得意なんていう人も聞いた事がない。

 

「戦車道にいるんだよ」

「戦車道に?」

「ああ、直下の事?」

 

 直下、と言うのは名前だというのは分かるだろうが、それが誰なのかは分からない。1人1人と挨拶を交わしたわけではないので、戦車道で名前を知っているのはここにいる人を除けばまほとエリカ、そしてこの前の走り込みで一緒に走った三河だけだ。

 

「まあ、後で紹介するよ。悪い奴じゃないから、教えてくれるはずさ」

「はぁ・・・ありがとうございます」

 

 

 

 そして、戦車道の時間になった。スケジュールによれば、今日は戦車の整備を行う事になっている。

 黒森峰女学園には機甲科という学科が存在し、戦車の日々のメンテナンスはこの機甲科が担当している。

 だが、戦車道履修生―――整備を専門としない、戦車で戦う事をメインとする隊員たちが整備をする事もある。

 それは、試合中に整備を要する事態になった際に、迅速に行動できるようにするためだ。

 戦車道の試合において、戦車が攻撃を受けた際、当たり所によっては撃破判定を受けてしまう事がある。しかし、攻撃を受けた箇所、あるいは損傷の度合いによってはその場で修理して直すことができれば試合を続行することができる。例えば、履帯を切られたとか、転輪が外れたとかであればまだ直せるので、撃破判定には至らない。尤も、エンジンやモーターなどの動力部に大きな問題が起きてしまった場合は、隊員でも中々直すことができないのでお手上げとなってしまう事はある。

 以上のような理由で、隊員も戦車の整備をするのだ。機甲科など専門の整備員が存在しない学校は、搭乗員が日々の整備もかけ持つ。

 エリカが点呼を取った後で、まほが全員にそれぞれ自分の戦車の整備にあたるように告げると、隊員たちは早速格納庫の中に進み、自らの戦車へと向かう。

 そしてまほが、織部に歩み寄ってこういった。

 

「織部は、皆の手伝いをしてくれ」

「わかりました」

 

 戦車に乗らない織部からすれば、この時間にできる事は人の手伝いぐらいだろうというのは想像がついていたので別に驚きもしない。

 誰を手伝うか少し考えたが、多少気心の知れている小梅や根津、斑田あたりの手伝いでもしよう。そう思い、その3人を探そうとしたところで。

 

「うぬぬぬぬ~・・・・・・!!」

 

 誰かのうめき声が近くでした。

 顔を向けると、そこには茶色いマニッシュショートの少女が、鉄板のようなものを持ち上げようとしていた。

 織部は即座に駆け寄り、手伝うことにした。

 

「手伝いますよ」

「あ、ごめん・・・・・・そっちを持ってくれるかな・・・」

 

 腕をプルプルと震えさせながら訴えてくる少女。織部は急いでその少女の反対側に回り、鉄板に手をかける。そして、持ち上げようと力を入れる。

 が。

 

「んっ!?」

 

 この鉄板、めちゃくちゃ重い。腰が砕けそうになる。

 一体何キロあるのだろうか。思わず織部は少女に問う。

 

「え?えっと、30キロぐらい・・・?」

 

 30キロと聞いて織部は音を上げそうになる。

 だがそう言うわけにもいかないので、力を込めてこの鉄板をどうにかして持ち上げる。

 膝あたりの高さにまで持ち上げると、横に移動を始める。そして近くに止めてあったヤークトパンターの転輪の下に置き、切れている履帯に繋げるように置く。運んでいたのは、履帯の一部と言う事か。

 

「いやぁ助かったよ、ありがとう」

「いえ・・・・・・これしき・・・・・・」

 

 少女が汗を拭きながら織部に礼を述べるが、その織部は自分の腰を叩いている。あれだけ重いものを持って腰を痛めなかったのは、織部にすれば奇跡に近い。

 

「あ、名乗りもしないで急に手伝わせちゃってごめん。私は直下、2年生でこのヤークトパンターの車長だよ」

 

 織部が体を起こして、少女と顔を合わせたところで、少女が名乗った。

 直下、という名前を聞いて織部は思い出す。

 

「・・・・・・あなたが、直下さん・・・?」

「あれ、私の事知ってるの?」

「根津さんから、ドイツ語が得意と聞いて」

「あー、まあ得意と言えば得意・・・かな?」

 

 せっかくなので織部は、直下の手伝いをすることにした。これから履帯を繋ぎ直すらしい。織部は履帯を持って抑えるように言われ、直下はハンマーで履帯を繋げるピンを打つ。

 その際、他のヤークトパンター搭乗員と力を合わせて履帯を持ち上げ、履帯を繋げるピンの穴を合わせるという事をしたのだが、その時冗談抜きで織部の腰が折れそうになった。これは本格的に体を鍛えないとならないか、と織部は思った。

 履帯を繋ぎ終えると、今度は砲身の掃除と転輪にグリースを塗る作業に入る。砲身掃除は別の搭乗員が、織部は直下と共に転輪にグリースを塗る事になった。

 塗り方を教わって、織部が左の転輪、直下が右の転輪にグリースを塗る。だが、多分戦車の整備では単純作業に入るであろうこの作業も織部は初めてだったので、経験者の直下よりも遅くなってしまう。直下が先に塗り終えると、織部の下へとやってきた。

 

「結構大変でしょ?」

「そうですね・・・割と骨が折れる・・・」

 

 直下が織部の横にしゃがみこむ。織部はそのままグリースを塗り続ける。

 そこで直下もグリースを一緒に塗り始めた。

 

「ごめんね、手伝ってもらっちゃって」

「いや、隊長から皆の手伝いをするようにって言われたから」

「まあ、戦車に乗ってないから仕方ないか・・・」

 

 直下はこうして、黒森峰に留学して来て孤立気味(だと直下は思っている)の織部の事を気遣って、積極的に話しかけてきてくれる。

 聞けば、直下も最初はドイツ語が嫌いだったようだが、英語と同じ感覚で覚えていったらしい。

 

「私文系が得意でね」

「僕も文系・・・英語とか国語が得意なんだけど、ドイツ語はどうも勝手が違って・・・」

「まあ、1年の時から勉強していればもっと分かりやすいんだろうけど・・・2年から突然始めるんじゃ、そりゃ難しいよね」

 

 

 

 パンターG型で整備をしていた小梅は、そこから少し離れた場所にいるヤークトパンターの方を見ていた。

 具体的には、ヤークトパンターで作業をしている織部の事を、見ていた。

 ここ数日、小梅はやたらと織部の事が気がかりだった。

 登校する時は、昨夜の事を思い出して話す事ができず、食堂でもまた上手く話せなかった。

 

(・・・・・・どうしてだろう)

 

 なぜだか小梅は、織部の姿を自然と目で追う事が多くなった気がする。

 ドイツ語の授業でも、織部からは見えなかったが、織部が立ち上がった際に小梅は織部の事をちゃんと見ていた。

 そして今も、小梅は織部の姿を探していた。

 織部の姿を見つけてみれば、織部は直下と楽しそうに話をしている。

 

(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 この前三河と織部が話していた時、小梅は胸が少し痛くなってしまった。

 そして今も、直下と楽しそうに話をしている織部を見ると、どうしてか心が痛んでしまう。

 なぜ、こんなことになってしまうのだろうか。全く分からない。

 

「赤星さん、ちょっといい?」

「あ、はい」

 

 戦車の中から斑田が顔を出して小梅に声を掛ける。小梅は思考を切り替えて斑田に顔を向ける。

 

「悪いんだけど、ちょっと新しい雑巾何枚か見繕ってきてくれない?」

「分かりました」

 

 小梅は立ち上がって、雑巾が置かれている倉庫へと向かう。

 そこで、ちらっと織部の事を見る。

 

「ドイツ語って、カッコいい響きの単語が多いって印象があるかな」

「分かる!ボールペン一つとったってKugelschreiber(クーゲルシュライバー)だもんねぇ」

「特に2をZwei(ツヴァイ)って言うのもカッコいい」

「確かに!」

 

 織部と直下は、何やらカッコいいドイツ語の響きの話で盛り上がっている。

 やっぱり、胸が痛む。

 でも斑田からの頼まれごともあるので、小梅は倉庫へと向かうことにした。

 織部と直下から、目を逸らすように。




オダマキ
科・属名:キンポウゲ科オダマキ属
学名:Aquilegia spp
和名:苧環
別名:糸繰草(イトクリソウ)、アキレギア
原産地:日本、アジア、ヨーロッパ
花言葉:あの方が気がかり(白)


直下・・・アニメ本編11話に登場したヤークトパンター車長
『うちの履帯は重いんだぞー!』の人。

これにて黒森峰モブガールズは全員登場しました。
今後も話に絡んできますので、よろしくお願いします。

また、筆者の今作や過去作の誤字修正をしてくださった方、
ありがとうございます。
この場を借りて、お礼申し上げます。


感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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天竺牡丹(ダリア)

 夕方。戦車道が終わり、織部たちは帰路に就く。

 昨日までは織部と小梅、そして根津と斑田と、織部のクラスメイトだけで帰っていたのだが、今日は違った。

 

「いやぁ、やっぱり戦車の整備は疲れるねぇ」

「本当、特に履帯が重いのなんのって」

「直下のヤークトパンターは特に履帯が外れやすいからな」

「呪われてたりして」

「そんな非科学的な・・・」

 

 今ここには、先に述べた織部のクラスメイトの他に、直下と三河もいる。聞けば、この2人は同じクラスで、根津と斑田、小梅とも面識があったようだ。だからこうして、普通に皆で帰っている。

 事の発端は、戦車の整備中に話が盛り上がった織部と直下が流れで一緒に帰ることになり、そこで根津と斑田に小梅、そして三河とばったり会ってそれで全員で帰ろうという事になったのだ。

 

「みんな、車長をやってるんだね」

「ええ、最初に適性試験を受けて、どのポジションに向いているのかを調べて、それから黒森峰の保有する戦車の数を考慮して振り分けられるんです」

「そうだったんだ・・・・・・」

 

 ここにいる女子が全員、それぞれ車長を務めているという事に、少し感動する織部。

 実力で車長になるのではなく、それぞれの能力に応じてポジションを割り振られるというのは、適材適所と言うヤツだろう。

 もし自分が戦車に乗るとしたら何だろうな、と織部はろくでもない事を考えていると、三河がちょっと気まずそうに話を切り出してきた。

 

「ちょっと聞いたんだけど・・・」

「どうした、急に」

「明日・・・・・・師範が来るらしいよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、織部を除く5人の周りの空気が凍り付く。

 織部はどうしてこんな雰囲気になっているのかが分からなかったが、この中でも一番ショックを受けているのは斑田だった。

 すがるように手を震わさせて三河に問う。

 

「え、それ・・・・・・本当・・・?」

「・・・・・・さっき、西住隊長が副隊長に『明日は師範が来るから・・・』って話してた」

「冗談だろ・・・・・・」

 

 根津も手で頭を押さえている。

 小梅も不安そうな表情になってしまっているし、直下だって形の良い眉が垂れてしまっている。そしてこの話を振った三河本人も少し青ざめていた。

 

「師範って言う事は、西住しほさん・・・?」

「そうです・・・」

 

 織部が確認するように聞くと、小梅は気弱そうに答える。

 織部はしほには会った事はまだないが、戦車道連盟理事長の児玉からは、『鉄の心を持った人』と説明を受けている。

 

「会った事はまだないけど、どんな人なの?」

「「「「怖い人」」」」

 

 織部が問うと、根津、斑田、三河、直下の4人は揃ってそう告げる。小梅も、曖昧に笑っているが、おそらくは同意見と言う事だ。

 

「目を逸らしたら最後、生きては帰れない・・・」

「まるで重戦車に砲身を突きつけられたような恐怖・・・」

「口答えなどしようものなら、終わり・・・」

「その威圧感だけで人を倒せそう・・・」

 

 恐怖映画のキャッチコピーのような事を言っているが、いくら戦車道で有名な西住流の師範だからと言ってそこまで怖いものだろうか。

 

「いやぁ、でもあの西住隊長も恐れる人だよ師範は」

「西住隊長が?」

 

 西住隊長―――まほの高校生離れした経歴と肩書はもちろん知っている。食堂で一緒に昼食を摂った時はあまり感じなかったが、戦車道の時にまほは黒森峰戦車隊隊長の名に相応しく凛々しく、そして逞しく振る舞っている。

 そんなまほさえも恐れるような人物だと聞くと、むしろ逆に会ってみたくなる。

 そう考えていたところで交差点に差し掛かり、ここで直下と三河が別れる。彼女たちは同じ学生寮に住んでいるらしい。

 その後は、前と同じように織部と小梅、根津と斑田の4人で帰る。だが、話題はやはり師範しほの事、ひいては明日の訓練の事だった。

 

「明日は確か、砲撃訓練だったっけ」

「外したら、絶対何か言われそう・・・」

 

 根津も斑田も怯え過ぎではないかと、織部も心配になった。

 そこで織部は、小梅にも話を聞いてみる事にする。だが、まだ夢の事を忘れてはいないので少し恥ずかしい。けれど、いつまでもこんな事では支障が出てしまう。

 

「・・・小梅さんは、どうなの?」

「・・・・・・そうですね・・・こう言ってしまうのは何ですけど、やはり師範は怖い方です」

 

 小梅ですら“怖い人”と称するとは、いよいよもってしほの恐ろしさに興味が出てきてしまう。

 ただし、織部もしほには会いたかった。

 なぜなら、黒森峰への留学を許可してくれたのは、黒森峰女学園の校長と、その後ろに就いている西住流の師範であるしほだからだ。

 黒森峰への留学を許可してくれたことに対するお礼をまだ直接言えていないので、会ってそれを言いたい。

 相手がどれだけ怖い人だろうと、最低限の礼を尽くすのがマナーと言うものだ。

 

 

 翌日、迎えた戦車道の時間。

 織部たち隊員は整列して、隊長のまほから今日の訓練内容についての説明を受ける。

 だが、西住しほらしき人物の姿は見えない。ただ単に遅れているだけなのか、それとも来ることができなくなってしまったのかは分からないが、それに気を取られてはならない。

 まほも、しほが来るとは言ってこなかったので、昨日の話は三河の聞き間違いかなと織部は思った。

 だが、そんな事を考えているうちにまほが指揮を下し、隊員たちが格納庫に停車している戦車へと乗り込んでいく。

 今日の訓練内容は、スケジュール表にもあった通り砲撃訓練。

 戦車に乗らない織部は、審判用の高台から練習を見学してレポートを書くようにと、双眼鏡を渡された。

 織部は指示に従い、双眼鏡を首に提げて高台へと向かう。

 その織部の後ろには、同じように小梅がついてきていた。

 

「そういえば・・・小梅さんは練習に参加しないの?」

 

 一昨日の訓練も、今日と同じような砲撃訓練で、そして小梅もまた織部と同じように高台からの見学だった。

 昨日の整備の際はよく見ていなかったが、織部は今日もまた小梅が一緒に見学をする事に少し疑問に思ったのだ。

 だが、その質問は逆に小梅を苦しめてしまったようで、小梅の表情が陰る。

 そして、その表情を見た瞬間、織部の心がズキッと痛んだ。

 

「・・・・・・実は私・・・戦車には乗ってないんです」

「え・・・・・・」

「・・・・・・あの全国大会で川に落ちて以来・・・」

 

 なぜ戦車から降ろされたのか、想像はつく。

 黒森峰からすれば、そもそも小梅の戦車が川に落ちたせいでフラッグ車の車長であるみほが戦車を降り、助けに行ったのだ。周りから見れば小梅たちも悪いと思うだろう。

 その責任を取らせる形で戦車から降ろしたと考えれば筋は通る。

 そして、恐らくそう決定したのは、隊長のまほだ。

 

「・・・・・・悔しくは、ないの?」

 

 織部の問いかけに、小梅は逡巡するが、やがて口を開いた。

 小梅は戦車隊にいる以上、立派な戦車乗りの1人だ。しかも、あの全国大会ではⅢ号戦車の車長を務めていたのだから、多少なりとも悔しいとは思うだろう。

 悔しくない、と言ってしまえば小梅が戦車隊にいる意義を失ってしまう。

 

「・・・・・・・・・・・・悔しい、ですよ」

 

 小梅の言葉に、織部はどこか安心していた。

 まだ小梅は、戦車道に対しての意欲が残っている。

 

「でも、仕方ないです・・・」

 

 だが、小梅が悲観的な言葉を続ける。

 

「黒森峰が10連覇を逃したのは、よくよく考えてみれば私が川に落ちたせいなんですから・・・。それで私が戦車から降ろされたのも、仕方ないです・・・」

 

 小梅は、自分が戦車を降ろされた理由を分かっていた。そしてそれを、仕方が無いと受け入れてしまっている。

 でも、小梅の中には戦車道に対する意欲が、熱意がまだ残っている。

 織部はその小梅の想いを無駄にしたくはない。

 

「・・・・・・ごめんなさい、私はこっちなので・・・」

 

 そう言って小梅は、織部が登る高台とは別の高台へと向かって行った。

 織部は、少し悲しげなその背中に向けて何も言葉をかけることができず、織部もまた自分も指示された高台へと昇った。

 高台は練習場を一望できるようになっており、今回は荒野での射撃訓練だったので意識を荒野に集中する。

 双眼鏡を覗き込めば、十数両の戦車が荒野へと向かっている。先頭を走るのは隊長であるまほの乗るティーガーⅠ。その後ろに副隊長エリカのティーガーⅡ。さらにその後ろに多種多様な戦車が続く。

 前と同じように音や振動なんかは凄いんだろうな、なんて思っていると。

 カン、カン。

 何か音が聞こえてきた。

 金属と硬いものが当たるような音だ。織部はその音を直感的に、誰かがこの高台の鉄製の階段を上っていると思った。

 しかし、訓練が既に始まったこんな時間に一体誰が?

 けれど織部はそれについては一旦置いておき、移動を続けている戦車隊に目を向ける。戦車は、横一列に等間隔で並び、その先にある的へと砲塔を向けている。あと少しすれば、砲撃が始まるだろう、と思っていたところで。

 

「!?」

 

 ゾクッ、と得体の知れない悪寒が走る。

 一体、なぜそんな感覚に陥ってしまうのか。

 そして今なお、階段を上る何者かの足音は聞こえており、その音は徐々に大きくなっていっている。確実に、織部のいる頂上へと近づいていた。

 まさか、謎の悪寒の正体とは、この今なお階段を上ってきている何者かによるものだというのか。

 そんな悪寒を感じさせるような人物とは一体、誰だ?

 気づけば織部は、目線を戦車隊から足下の階段に向けていた。まだ砲撃の音は聞こえてこない。

 次第に階段を上る足音は大きくなっていき、やがてその階段を上ってきた人物が姿を現した。

 まず最初に、長く艶やかな黒髪が目に入った。次に、その人の顔が明らかになるが、その瞳はとても鋭く、僅かに皴があるが顔のパーツから年上の女性だというのが分かる。その人の体つきは、女性的なメリハリのある体に黒いスーツを纏っている。その服装がさらに大人びた雰囲気を醸し出していて、織部よりははるかに年上だというのが分かる。

 だが何より、この女性の放つ威圧感は何だ?この女性からは、ただならぬ威圧感が感じられる。

 気づけば織部の心臓はバクバクと高鳴っていたし、汗が額と背中から噴き出していた。

 そこで織部は、昨日根津たちが言っていたことを思い出す。

 

『その威圧感だけで人を倒せそう・・・』

『まるで重戦車に砲身を突きつけられたような恐怖・・・』

『明日・・・・・・師範が来るらしいよ』

 

 さらに、この前戦車道博物館で歴代隊長の写真を見た時、ある一人が今織部の下にやってきた女性と似たような顔つきをしていた気がする。

 となると、もしかしてこの女性が―――

 

「あなたが、織部春貴さん?」

 

 この女性が何者なのか、分かりかけたところでその女性から声を掛けられた。

 

「え、あ、はい・・・・・・」

 

 織部は気の抜けた返事を返す。しかし、彼女の鋭い―――隊長のまほよりも鋭い視線を向けられて、目を逸らせない。

 織部がここにいる事は、恐らくは校長、あるいは隊長のまほから聞いたのだろう。

 

『目を逸らしたら最後、生きて帰れない・・・』

 

 昨日直下の言っていた言葉を思い出す。あの時は大げさな、と思っていたのだが、あながち嘘でもなかったなと織部は内心思った。

 確かにここで目を逸らすと、取り返しのつかないことになってしまいそうだった。

 

「私は西住流の師範、西住しほです。会うのは初めてね」

「あ、初めまして・・・・・・」

 

 言葉自体は柔らかい雰囲気がするのだが、声が低いので怒気を孕んでいるように聞こえてならない。

 もはや本能だけで挨拶をする織部。

 けれど織部は、しほが織部の黒森峰への留学を許可してくれたことを思い出し、そのことを話す。

 

「あの・・・・・・今回は、僕の黒森峰への留学を許可してくれて、ありがとうございます」

 

 その言葉だけは、例えしほの事が怖くても、その威圧感に怯えようとも、素直に頭を下げて告げる。

 目を瞑っていたので分からなかったが、しほから放たれる威圧感が、少しだが緩んだ気がする。

 

「頭を上げなさい」

 

 別に織部は怒られているわけではなく、ただお礼を言っただけなのだが、しほの言葉を聞いて自分が怒られている感覚に陥りそうになる織部。

 頭を上げると、しほは既に練習場へと目を向けていた。

 

「後学のためにここへ来たのだから、戦車道の訓練は真剣に見る事よ」

「・・・・・・はい」

 

 織部は今回の演習を見た感想をレポートに記さなければならない。そのためには訓練を全部見届けなければ書けないだろう。

 だが、隣に尋常じゃない威圧感を放つしほがいるせいで、訓練に集中することができない。双眼鏡を握る手には汗が浮かんでいるし、鼓動も高鳴って胸が張り裂けそうだ。

 戦車の砲撃音が響くが、それすらも緊張感が振り切っているせいで聞こえてこない。

 今だけ、時が進むのが非常に遅く感じられてしまう。

 そんな状態―――西住しほの放つ強烈な威圧感に中てられる事数時間、ようやく戦車道の訓練も終わった。既に陽も傾いていたのだが、昨日までと比べると倍以上の時間がかかっていたような気がする。

 半ばしほから目を離す形で試合を見ていた織部の額は、汗で湿っていた。

 

「終わりのようね」

 

 だが、しほが唐突に言葉を発したのでビクッとしてしまう織部。それを知ってか知らずか、しほが織部に話しかける。

 

「あなたは、多くの人たちが認めた特例という形で、黒森峰への半年の留学が許可されている身。それを忘れないでおきなさい」

「・・・・・・はい」

 

 そう言ってしほは、階段を下りて行った。

 

「・・・・・・・・・・・・はぁ・・・・・・はぁ・・・・・・」

 

 しほの前で満足に呼吸することもできなかったせいで、思い出すかのように呼吸をする織部。

人生でも一、二を争うぐらい緊張した環境から解放された事で、身体から力が一気に抜ける。

 膝から力が抜け、体勢を立て直すことができず、そのまま織部は倒れこんでしまった―――

 

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・・?」

 

 目を開くと、知らない天井が目に入った。

 そして鼻を突く、消毒液の香り。

 周りが白いカーテンで仕切られている。

 どうやら、ここは保健室らしい。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 情けない話だ。まさか、しほの威圧感に押され、緊張から解放されたことによる疲労感と過呼吸で倒れてしまうなんて、体力が無いにも限度というものがある。

 最後に記憶しているのは、あの高台で倒れたところだ。そして今保健室にいるという事は、あの場から誰かが自分を運んでくれたという事になる。

 戦車道の勉強をしに来たというのに、しほから『多くの人たちから認められているということ忘れるな』と言われたばかりだというのに、その戦車道で迷惑をかけてしまうとは本末転倒。

 とにかく、この事はすぐに謝るべきだと織部は思った。具体的には、隊長のまほ、それに自分をここまで運んでくれた人に。

 今が何時なのかは分からないが、周りがカーテンで仕切られていては時計も見えないし、外の景色も見えない。

 だから、起き上がってカーテンを開けようとしたところで、布団が少し重い事に気付く。

 その違和感に気付き、自分の身体―――お腹の辺りに目を向けると。

 

「・・・・・・すぅ・・・・・・すぅ・・・・・・」

 

 布団にうつ伏せで、タンクジャケットを着たままの小梅が眠っていた。

 起こそうとするが、小梅の安らかな寝顔を見て織部も起こす気が無くなってしまう。

 しかし、どうして小梅がこんなところで眠っているのだろうか。

 それは単純に小梅が織部の事を心配しての事だというのはおおよそ見当がつくのだが、まさか小梅がここまで運んできてくれたのだろうか。

 そうだとしたら、小梅にも謝らなければならない。

 しかし小梅を起こすに起こせない織部は、小梅の心地よさそうな、安らかな寝顔をじっと見つめる。

 同時に、織部の心の奥底から、愛おしいという気持ちが込み上げてくる。

 

(・・・・・・・・・・・・何なんだろう、この気持ち)

 

 昨日、夢に小梅が出て来て変に意識してしまい、今こうして小梅の寝顔が可愛らしく、愛おしいと思えてしまう。

 少し前の自分からすれば、考えられないような事だ。

 頭ではどうしてそんな気持ちを抱いてしまうのだろうかと考えているのだが、それよりも心は、愛おしい小梅に触れたいと願っていた。

 今までも抱き付かれたり、おんぶをしたり、手を握ったりしたのだから今更少し触れるぐらいのことに何の遠慮があるのかと思うが、織部は心の中で『ごめん』と言いながら手を小梅の頭へと伸ばし、優しくその頭を撫でる。

 

「ん・・・・・・・・・・・・春貴さん?」

 

 それで目が覚めてしまったのか、小梅が目を開き体を起こす。

 

「あ、ごめん・・・・・・起こしちゃったかな」

 

 小梅が体を起こし、織部の顔を見ると、心底安心したような表情を浮かべてくれた。

 安堵や不安が入り混じったその表情は、むしろ綺麗だと織部が思った矢先に。

 

「よかった・・・・・・本当によかった・・・・・・!」

 

 小梅が織部に抱き付いてきたのだ。

 あの時、花壇の前で話をした時と同じように、小梅に抱き付かれた織部。だが、あの時とは少し違い、織部は小梅に対して原因が分からない愛おしさを抱いている。だから、ものすごく恥ずかしいし、それに愛おしいという気持ちがさらに湧き上がる。

 だが、小梅がここまで喜んでくれているという事は、どうやら織部は小梅に多大な心配をさせてしまったらしい。それはこんな状況でもわかる。

 だから、織部はまずはこう言う。

 

「・・・・・・心配させて、ごめん」

「・・・春貴さんが倒れているのを見て・・・・・・とっても心配しました・・・・・・」

「・・・・・・本当に、ごめん」

 

 小梅が織部の事をぎゅっと抱きしめる。織部もそれに応えるように、小梅の背中に手を回して優しく抱きしめる。

 そこで、気になっていたことを聞いてみた。

 

「・・・小梅さんが、僕をここまで運んできてくれたの?」

 

 そう聞くと、小梅は織部から身体を離して事情を説明する。

 小梅はどうやら、訓練が終了しても格納庫に戻ってこない織部の事を不審に思い、織部のいた高台を昇って、織部が倒れているのを発見したらしい。

 そこでまほに急いで連絡をし、駆けつけてきた根津と共に織部を下まで運び、そこから担架で保健室に運ばれた。

 

「・・・・・・一体、どうして倒れてしまったんですか?」

 

 小梅に聞かれて、織部は返答に詰まる。

 実際はしほの威圧感に中てられたことによる過呼吸と疲労が原因なのだが、素直に言ってしまうと脆弱と思われるかもしれない。

 だが、織部は小梅の純粋な瞳を見て、嘘がつけなくなってしまう。

 

「実は・・・・・・」

 

 結局織部は、全部正直に話すことにした。

 織部が倒れた理由を聞いた小梅は、あははと苦笑する。

 

「根津さんや斑田さんの言っていた事って、あながち間違いじゃなかったかもしれないですね」

「まったくだね・・・・・・」

 

 織部も苦笑する。最初、根津や斑田、三河に直下の話を聞いた時は『そんなバカな』と思っていたのに、今自分はこうして倒れて保健室に運び込まれている。

 これも笑いの種として戦車隊で話されるかもしれないが、まずはその前に迷惑をかけたまほたちに謝るべきだった。

 そう思い起き上がろうとするが、小梅に手を掴まれた。

 

「今はまだ、楽にしていた方がいいですよ」

「でも、西住隊長に謝りに行かないと・・・」

 

 織部がすぐに立ち上がろうとするが、小梅はそれを優しく引き留める。

 

「今何時?」

「7時半過ぎです。2時間ぐらい眠っていましたけど・・・多分隊長はこちらに来ると思いますよ」

 

 織部が時間を聞くと、小梅は腕時計を見ながら答える。

 本来ならばもう下校時刻は過ぎており、生徒はみな帰ってしまっているはずなのだが、まほも残っているというのだろうか。そうなれば、余計まほに迷惑をかけてしまっていることになる。

 まほと、そして自分の事を看てくれていた小梅に対して申し訳ない気持ちがさらに込み上げてきてしまうが、その時だった。

 織部のベッドを囲っていた白いカーテンが、外から開かれる。そして、そこに立っていたのは、タンクジャケットではなく黒森峰女学園の制服を着たまほとエリカだった。

 

「気がついたか」

 

 まほが織部の顔を見て、安堵したように告げる。しかし隣に立つエリカは、少し不機嫌そうだ。まあ、戦車道を勉強しに来た織部が倒れて戦車道に迷惑をかけてしまったのだから、仕方ない事だ。

 

「先生の話じゃ、重度のストレスと疲労だそうよ。まったく、曲がりなりにも戦車隊の1人が、情けない」

「面目次第もございません」

 

 エリカの言葉に、織部は素直に頭を下げざるを得ない。そして先生とは恐らく保健の先生の事で、織部がしほの威圧感に中てられて倒れたとは気づかれてはいないようだ。

 

「すみません、自分の身体が弱いせいで、こんな迷惑をかけてしまって・・・戦車隊の皆さんにも心配をおかけして・・・・・・なんとお詫びしたらいいのか・・・」

 

 まほに向けて頭を下げる織部。

 まほがしほほどではないが厳しい人物だというのは知っていたので、何らかの叱責を受ける事は予想できるが、意外にもまほの口からついて出たのは。

 

「いや、こちらにも君の異変に気付けなかった責任がある。すまなかった」

 

 ここに来るまでに聞いたイメージや肩書からは想像できない、まほの優しい言葉に織部は拍子抜けする。隣に立つエリカも、まほの言葉を聞いて『仕方ない』とばかりに肩をすくめている。

 割とお咎めが少なかったことに織部が安堵するが、同時にある事を思い出した。

 その思い出した事とは、2つの小梅の言葉だ。

 

『黒森峰の隊長であり、みほさんの姉であるまほさんも、糾弾されるみほさんの事を庇う事もせず、守ろうともせず・・・・・・』

『私が戦車から降ろされたのも、仕方ないです・・・』

 

 もし、今目の前にいるまほが素の姿であり、先ほどのまほの言葉が本心だとすれば、どうしても引っかかってしまう。

 訓練の前に小梅の言った、小梅を戦車から降ろした事はともかく、矢面に立たされているみほの事を庇わなかった事が、どうしても理解できない。

 だが、それは今聞くべきことではない。ただでさえ訓練中に倒れてしまい迷惑をかけてしまったというのに、その上余計な詮索をして印象を悪くしたくはなかった。

 

「次の休日はゆっくり休んだ方がいい。せっかく寄港するのだし、出かけて気分転換をするのもいいかもしれない」

 

 確か、黒森峰の航行スケジュールに寄れば、次の日曜日は寄港するらしい。日曜日は戦車道の訓練も無いので、十分に体を休めることができる。

 

「赤星も、無理のないようにな」

「あ、はい」

「では、私はこれで」

 

 そう言うとまほは、エリカを連れて保健室を出ていった。

まほたちが保健室を去って少ししてから、織部と小梅も保健室を出て帰路に就いた。

陽はとうに落ちてしまっていて、道を照らすのは電柱に取り付けられた街灯のみ。そんな薄暗い道を織部と小梅は並んで歩いていた。

 しかし、お互いに相手の顔を見れずにいる。

 お互いに知らない事だったが、織部も小梅もあの夜のジョギングでの事を明確に覚えているし、おまけに織部は夢に小梅が出てきてしまった事で変に意識してしまっていた。

 だが、並んで帰っているあたり忌避感情を抱いてはいないという事は明らかだ。

 結局、お互い何も言えないままいつも別れる交差点に差し掛かる。そして、必然的に小梅と織部はそれぞれ別方向へと向かう事になる。

 

「じゃあ、僕はこっちだから・・・」

「あ、はい・・・では・・・・・・」

 

 織部は小梅と別れると、足早に自分の寮へと戻る。

 だが、脳を支配しているのは『なぜ』という言葉だった。

 なぜ、小梅に対して後ろめたい気持ちになってしまうのか。

 なぜ、小梅の事を考えると切ない気持ちになってしまうのか。

 なぜ、小梅が夢に出てきたのか。

 分からないことだらけだった。

 今のように、1人の女性の事を想い、そして悩むことなど人生では一度も無い。

 というか、夢に小梅が出てきてしまったせいで小梅の事を考えてしまう事が増えた。

 一体なぜ、小梅の事を意識してしまうようになったのか、それが分からず悶々としながら織部は寮の自室に戻った。

 

 

 小梅は、ドアを閉めて鍵をかけ、部屋の明かりを点ける。1年以上住み続けていて見慣れてしまった部屋が、小梅を迎え入れる。

 だが、同時に小梅は思う。

 あの時織部も、この部屋に来たのだな、と。

 そう思うと顔が熱くなる。

 昨日今日と、織部の事を、織部との思い出を振り返るたびにこうして顔が熱くなってしまう。

 まったく、どうしたことだろうか。

 鞄を床に置き、ベッドに腰かけて足下を見る。足の痛みはもうすっかり無くなっていて、日常生活に支障はない。腫れも引いている。

 だが、どうしてだかその挫いた場所を見る度に、織部の事を思い出してしまう。

 小梅が夜道で躓き足を挫いて、織部が小梅の事を背負って部屋まで送ってくれた。

 あの時小梅は、織部の身体に密着して・・・・・・

 

「っ・・・・・・!」

 

 無性に恥ずかしくなってしまい、ベッドに倒れこんで目を閉じる。

 だが、目を閉じても織部との思い出が瞼の裏側に映し出される。

 その中でも、花壇の前で織部に自分の過去を告白した時の事と、織部に背負われた時の事を鮮明に思い出してしまう。

 胸が高鳴り、切ない気持ちになってしまう。

 

(これは・・・・・・・・・・・・)

 

 なんとなくだが、自分の抱いている気持ちが分かってきた。

 なぜ、織部の事ばかりを考えてしまうのか。

 なぜ、織部の事を想うと切ない気持ちになってしまうのか。

 

(・・・・・・・・・・・・好き、なのかな)

 

 心の中で問うが、答えるものは誰もいない。




ダリア
科・属名:キク科ダリア属
学名:Dahlia spp
和名:天竺牡丹
別名:―
原産地:メキシコ、グアテマラ
花言葉:不安定、移り気、気品、華麗、優雅


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曙升麻(アスチルベ)

 学園艦から港へと伸びるタラップを、織部と小梅、そして同じクラスの根津と斑田、さらに戦車道で交流ができた直下と三河が歩く。

 

「2週間ぶりの陸地だな」

「いやぁ、色々買い物したいねぇ」

 

 久々の陸地を見渡しながら根津が呟き、直下が背伸びをしながら歩を進める。

根津は赤のセーターにクリーム色のミディスカート、直下は青のシャツに白のジャケットと紺のデニムを着ている。

 

「今どのへんだっけ?」

「ええと、ここは・・・・・・」

 

 三河が、どの港に寄港したのかを斑田に尋ねる。斑田は、周りを見て目立つ建物を探す。

 三河は緑のロンパース、斑田は白のワイシャツに青のチノパンだ。

 

「ここは・・・・・・大型のショッピングモールがあるのか」

「お昼もここで食べれそうですね」

 

 スマートフォンでこの寄港地の情報を見る織部と、そのスマートフォンを覗き込む小梅。

 織部は、白のシャツに黒のジャケットと青のスキニージーンズ。小梅は、薄いオレンジ色のペプラムトップスに白のゴアードスカート。

 1週間前に戦車道博物館に行った時とは違って今は全員私服だった。戦車道博物館とは違い、寄港先での外出は全員制服でなければならないという暗黙のルールも無い。真面目な雰囲気の空間に縛られていたせいか、今日のような息抜きの日は、皆黒森峰のしがらみから解放されたいようで、こうして私服を纏っている。

 織部は、当初制服で来ようとしたのだが、1人だけ制服だと逆に気を遣ってしまうと直下に言われたので、仕方なく私服で来ることにした。

 6人はタラップを降りて、港に足を踏み入れる。

 

「さて、どうする?」

「買いものでしょ」

 

 根津がどこへ行くかを聞いてみると、直下が当たり前のように言う。織部を含むほかの人も異論はなかったので、先ほど織部が調べた大型のショッピングモールへと向かう事にした。

 そして織部は、どうしてこうなったのか、昨日の事をふと思い出す。

 

 

 

「これにて訓練を終了する。明日はしっかり休養を取るように。休む事も立派な訓練だ」

『はい!』

 

 まほの言葉で戦車隊の訓練が終わり、全員が解散となった。隊員たちは、やっと緊張から解放されたという風に、大きく息を吐いたり腕を伸ばしたりしながら後者へと戻って行く。

 見学だけとはいえ、織部も1週間続いていた戦車道が一区切りついた事で、ほんの少しだが心が軽くなった。だが、しほによって倒れてしまった事に関しては、もはや黒歴史ともトラウマとも言わんばかりの思い出となっている。

 とにかく、そのことを少しでも忘れたいと思い、明日の休日はゆっくりしようと思っていた。

 織部が校舎へ向かう近くで、直下が斑田に話しかけていた。

 

「明日どうしようか?」

「寄港するし、出かけるのもいいかもね」

 

 黒森峰学園艦が寄港するペースはおよそ2週間に1回と、他の学園艦と比べると短い間隔で寄港する。その理由としては、黒森峰学園艦そのものに原因があるとされている。

 黒森峰学園艦の住民数は全体で約10万人。これは全国の学園艦の中でもトップクラスであり、住民の多さに比例して物資の消費も早い。だから、不足した物資を積みこむために寄港する間隔が狭いのだ。航行中に物資を運ぶタンカーが接舷して、直接物資を補給する事もあるにはあるが、タンカーの航行ルートを黒森峰学園艦の航行ルートに合わせるというのは割と手間がかかるので、大体の物資は寄港する際に補給する。

 さらに寄港する間隔が短いのにはもう1つの理由がある。それは、黒森峰学園艦に暮らす住民の、心のゆとりを作るためだ。

 黒森峰学園艦はドイツと所縁のある学園艦で、そこで暮らす住民もドイツ人のように勤勉で真面目、強い責任感と正義感を持っており、あまり融通が利かない性格の人間が多い。だからこそ、皆ストレスをため込みやすい性質だったりする。黒森峰学園艦の薬局では、胃薬の売り上げが一位だとかいう信憑性があるのかないのか分からない噂まで流れている始末だ。

 噂の事はさておき、ストレスを溜めやすいからこそ、息抜きが必要だった。いくら速度無制限のアウトバーンがあっても、それだけでストレスを解消できるとは到底思っていない。

 だから、息抜きの機会を増やすために黒森峰学園艦は寄港する間隔が狭いのだ。

 

「あー、ショッピングもいいかもね」

「ショッピングか、いいな」

 

 直下がつぶやくと、それを耳ざとく聞き取った三河が会話に参加する。そしてごく自然に根津も会話に加わった。

 

「じゃあ明日は皆で出かけよっか」

「いいね、そうしよう」

「私も、それでいいと思う」

「じゃ、何時にどこで待ち合わせる?」

 

 どうやらあの車長4人組は、明日は港町でショッピングを楽しむ方針で行くらしい。

 女の子に限らず、女性と言うものは買い物が好きというのは全国共通らしいな、と織部は心の中でだけ思った。

 さて、自分はどうしよう。

 

「あ、そうだ赤星さん」

 

 そこで直下が、同じように校舎に向かい近くを歩いていた小梅にも声を掛ける。

 

「はい?」

「赤星さんも一緒にどう?」

「・・・・・・へっ?」

 

 言葉をかけられた小梅は、信じられないものを見るような目で直下の事を見る。が、直下は決して冗談で話しかけているのではないのが表情から分かる。傍にいる根津、斑田、三河も同じような表情だった。

 

「・・・・・・・・・いいんですか?」

「もちろん」

 

 確認するように、遠慮するように小梅が聞き返すが、直下は笑顔で頷き、他の皆もまた笑って首を縦に振った。

 

「・・・・・・では、ご一緒させてください」

 

 小梅が笑顔を浮かべて、深々とお辞儀をする。それを見ていた織部は、感慨深い気持ちになった。

 織部が最初に会った辺りは周りの人を信じられず、自分から距離を置いていたというのに、今では周りから先ほどのように普通に休日を一緒に過ごそうと誘われるまでに至っている。

 もはや、出会ったばかりのおどおどした、もの悲し気な表情を浮かべていた小梅の姿はない。あるのは、優しい笑顔が可愛らしい一人の女の子だ。

 

(・・・・・・・・・・・・)

 

 と、そこまで考えて織部は頭を押さえる。

 なぜだか、自然と小梅の事を見てしまいがちになってしまっていた。いや、今日に限らずここ数日なぜか小梅の事を目で追う事が多くなってしまっている。

 もちろん、出会った時から小梅の悲し気な仕草が気になっていたというのもあるのだが、その悲しさが無くなった今でも気になって仕方がない。

 どうしてなのかと唸っているところで。

 

「あの、もしよければなんですけど・・・」

「どうかしたの?」

「春貴さんも、誘っていいですか・・・?」

 

 なんか聞き捨てならないような言葉が聞こえた気がする。織部は改めて小梅たちの方を見るが、根津たちは別に不快な表情をしてはいない。

 

「いいよいいよ。大勢で出かけた方が楽しいし」

 

 三河がそう言ったが、皆も同意見らしい。それで小梅は安心したようで、織部の方へと歩み寄ってきた。

 

「春貴さん・・・・・・あの・・・・・・」

「・・・・・・」

 

 足を止めて、小梅に正対して話を聞く織部。何を話していたのか、織部を何に誘おうとしていたのかは聞こえていた。けれど、あえて聞こえていなかったふりをする。

 

「もしよければ明日・・・・・・皆さんと一緒に、出掛けませんか?」

 

 縋るような、懇願するような小梅の瞳、そして根津たちの挑むような期待しているような視線を受けて、織部の頭の中から『断る』という選択肢が消滅する。

 

「・・・・・・分かった、行こう」

 

 

 

 そして今、こうして織部は小梅たち5人と一緒にショッピングモールを訪れている。

 昨日小梅から誘われた時、織部の頭には『断る』という選択肢はなかったが、『断ったら小梅はどんな顔をするだろうか』とは考えていた。多分だが、小梅は悲しんでしまうだろうというのは容易に想像がつく。

 女の子を泣かせるなんて男としてはタブーであるので、誘いを断るわけにはいかなかった。

 それに、小梅が悲しむ顔を織部は見たくないという考えが織部の根底にある。一緒にジョギングをした日に見た小梅の笑顔を見たからか、小梅の悲しむ表情を見ると織部の心も痛む。

 小梅が悲しむと、なぜか織部も悲しくなってしまう。

 どうしてこんな気持ちになってしまうのか織部には分からない―――いや、分かりかけていた。

 

「織部、どうかした?」

「へ?いや、なんでもないよ」

 

 だが、難しい顔をしていたのが不審に思われたのか、根津から声を掛けられる。

 すでに織部たちはショッピングモールにたどり着いており、今は館内マップを前にしてどの店に行こうかと思案しているところだ。

 このショッピングモールはかなり規模が大きく、ほぼすべてのジャンルの店舗があり、映画館まであった。

 三河が『この映画気になってたんだよね~』と映画の上映スケジュールを見ながら呟く。その後ろから根津が『おっ、面白そう』と覗き込む。一方で、斑田と直下は映画に乗り気ではないらしい。

 

「映画館ってなんか眠くなっちゃうんだよね」

「分かる、それで映画の内容半分も覚えてられなくて」

 

 乗り気でない人に映画を強要するというのは良くないので、映画組と買い物組に分かれることになった。三河と根津が映画、直下と斑田が買い物だ。

 

「どの映画を見るんですか?」

「これにしようと思うんだけど」

 

 小梅は映画にするか買い物にするか悩んでいるようで、三河にどんな映画を見るのかを聞く。三河が指差したのは、最近話題になっている恋愛系の映画だった。

 三河や根津はそう言った映画とは縁遠いと思っていたのだが、意外にもそうでもなかったらしい。しかし深くは詮索しない。

 

「・・・・・・私も、見ようかな」

 

 小梅はその映画が気になったらしく、映画を見る事に決めたらしい。

 織部はと言うと。

 

「じゃあ僕は、直下さん達と一緒に行くよ」

 

 織部は、先ほど直下と斑田が言っていたように映画館で映画を見ていると眠くなってしまう性質だ。アクション映画など音がすごい映画ではそうならないが、多分それほど大きな音が出ないであろう恋愛系となれば話は別だった。

 少々高めな料金を払って映画館に入っても、眠ってしまい内容が頭に入ってこなければ何だか損した気分になってしまうので、今回は遠慮しておくことにした。

 だが、この時小梅がなぜか少ししょんぼりとしたような表情をしている事に織部は気付いていない。

 映画組が予め回りたい店を選んでおき、買い物組は極力そこを避けるようにして見て回る事に決まる。映画が終わるのは12時すぎなので、映画組と買い物組は映画が終わったあたりの時間に映画館の前で待ち合わせる事になった。

 そして、2組に分かれて行動を開始する。この時、小梅が名残惜しそうに織部の事を見ており、織部もまた小梅の視線に気づいて小梅に小さく手を振った。

 

 

 織部と直下、斑田は特にあても無くショッピングモールを練り歩く。

 日曜日なので家族連れが多く、おまけに広いため少し離れると迷子になってしまいかねなかった。

 

「さて、どこ回ろうか」

「そうだねぇ・・・」

 

 織部は別にどこへ行くかなどとは決めていなかったので、斑田と直下の行くところについてくスタンスを取ろうとする。

 その直後、横合いから犬の鳴き声が聞こえた。唐突な事に織部はもちろん、斑田と直下もびっくりした。けれど、その泣き声がペットショップから聞こえてきたものだったので、驚いて損したと3人は思う。そして、興味本位でそのペットショップに入ってみた。映画組のここに行きたいというリストには入っていなかったので問題ない。

 子犬や子猫、ハムスターやリスなどの小動物、さらにペット用品を販売しており、愛くるしい姿を見ることができる。

 

「可愛い・・・・・・」

 

 直下がガラスケース越しの子猫を、頬を赤く染めて見つめている。人差し指をガラスにくっつけると子猫はその指に鼻をくっつけるかのようにガラスに近づく。直下が『ほぁ~』と声にならない声を洩らした。

 一方で斑田は、別のショーケースに入れられている子犬にゆるみ切った表情を見せている。そんな斑田の様子を子犬は珍しそうなつぶらな瞳で見つめていた。

 2人とも結構すさまじい顔をしているのだが、それは言わぬが花と言うものだ。

 織部も適当に中を見てみる。子猫がこちらを見てガラスに足をつけているのが可愛らしい。

 織部の実家はペットを飼ってはいないし、寮もペット禁止であるため、動物と触れ合う機会は皆無だった。だから、このペットショップという空間も織部からすれば異空間だし、加えて傍に気心の知れた女子がいるというのだからなお妙な感じがする。

 しばしの間直下と斑田が小動物の可愛さを堪能したところで、ペットショップを出る。入店してからおよそ30分ほど経っており、思った以上に長居したと思う。

 

「やっぱり猫可愛いかったなぁ~。私はやっぱり猫派」

「私は犬派かな。織部君は?」

「僕は・・・・・・犬派かな」

 

 ペットショップを後にした3人の話題は、犬派か猫派かだった。とはいえ、直下が猫のショーケースを、斑田が犬のショーケースをかじりつくように見ていたので大体見当はついていたが。

 

「そう言えば、西住流の本家って、犬飼ってるんだよね」

「え、そうなの?」

「うん、柴犬を1匹。名前は知らないけど、笑ってるような顔してる犬だよ」

 

 本家で飼っているという事は、まさかしほも世話をするのだろうか。あの西住しほが犬と戯れている姿など織部にはまるで想像できない。

 しかし、犬とは忠誠心のある生き物で、ちゃんとしつけをすれば飼い主に忠実になる。その点を踏まえると、西住流にピッタリ、と言えるかもしれない。

 

「時々隊長も散歩するって聞いた」

「想像できないよねぇ」

 

 そんな事を話しながらぶらぶらと歩いていると、続いてやってきたのは100円ショップだ。ここに寄りたいと言い出したのは斑田の方で、少し小物系を揃えたいとのことだった。

 学園艦にも100円ショップはあるのだが、向こうは規模が狭く品数も少ない。反対にここははるかに広いし、品数も多かったので、色々見て回ることができる。

 織部としても、少し見てみたいと思うところはあったので後に続く。

 

「こんなものも100円で買えるのか・・・」

「驚きだよねぇ」

 

 織部が商品棚を見る横で、直下が一緒に見物する。

 調味料やお菓子なんかは、もしかしたらスーパーよりも得かもしれない。普段使える日用品やアイデアグッズも100円で売ってるのだから、需要が高まっているのも頷ける。海外から来た観光客がおみやげを100円ショップで買うなんて話も聞いた事がある。

 

「うちって大体100円ショップで揃えちゃうな。食器とか文房具とかも。家計に優しいし」

「ああ、それはそうかも。僕の所も百均で揃えればよかったかな」

「でもこういう店のものってあんまり長持ちしないって思われがちだからね」

「確かにそんなイメージがあるな。最近はどうなんだろ?」

「そうでもないよ、意外と物持ちがいいし」

 

 織部と直下がそんな話をしている傍らで、斑田は既に買い物を終えたらしく、手にはレジ袋を提げていた。

 

「そろそろいくよ」

「あ、うん」

「分かった」

 

 斑田に促されて、織部と直下が店の外に出る。

 そして次はどの店に行こうかと歩いている最中、直下が織部に話しかけてきた。

 

「織部君って結構話しやすいんだね」

「そう?」

「いやぁ、知っての通り黒森峰って女子校だからさ、男子と話す機会なんてほとんどなかったんだよ」

「そうね、だから最初はちょっと話しかけるのも勇気が必要だったけど・・・。でも話しかけてみたら普通に話せる人で安心したって言うか」

「そんな僕を未知の存在みたいに言わなくても・・・・・・」

 

 確かに織部も、そう言ったところはある。黒森峰は戦車道の強豪校として全国に名を馳せているし、それを差し引いても黒森峰はお嬢様学校なので、そこに所属する女子と普通に話をするなんて恐れ多かった。

 だが、小梅や根津、斑田たちと話をすると無駄に心配する必要も無かったぐらい、問題なく話すことができた。彼女たちだって自分と同じ人間で高校生だったのだ。

 もしも留学中独りぼっちだったらどうしようという心配も杞憂に終わってしまったので、安心だ。

 織部たちはそんなことを話しながら、次の店へと向かった。

 

 

 

「いやぁ、面白かったねぇ」

「恋愛ものってあんまり見ないけど、確かにな」

 

 12時すぎ、無事映画を見終えた三河と根津、そして小梅の3人は映画館から出てきた。待ち合わせ場所にまだ織部たちは来ていない。

 三河と根津、小梅は途中で眠ったりなどせず、ちゃんと最後まで映画を見届けて、今こうして3人で出てきたところだ。

 

「赤星さんはどうだった?」

「・・・とても、心温まる話でした」

「だよねぇ。特にヒロインが結ばれた時の感動と来たらもう・・・!」

 

 映画のストーリーは、旅先で出会った男女が恋に落ちるが、ヒロインは難病に罹り何年もの間寝たきりになってしまう。そんな中でも主人公は真摯にヒロインに向き合い、毎日のようにヒロインの下へと通いつめる。やがてヒロインが成功率五分五分の手術を受けることとなり、手術は成功しヒロインは見事快復して主人公と結ばれた、といった感じだ。

 小梅はこの手の映画を見た事がなかったので、最初に三河がこれを見たいと言った時は、興味本位で見てみたいと思い三河についてきたのだった。

 けれど実際見てみれば、すごく引き込まれる内容だったし、見てよかったと思える映画だった。

 だったのだが、一つ気がかりなことがあった。

 

(・・・・・・どうして春貴さんの事を、思い出すんだろう・・・)

 

 映画の中にいる主人公は、寝たきりになってしまったヒロインを見捨てず、毎日のように会いに来て話をして、手術を恐れるヒロインの事を優しく励まし、手術が成功して施術室から出てきたヒロインの事を優しく抱きしめていた。

 だが、その主人公の姿を見る度に、なぜか小梅の頭の中で織部の姿がちらついたのだ。

 どうしてそう考えてしまうのか、小梅は何となくだが掴めていた。

 織部は黒森峰にやってきた最初の頃は、小梅に真摯に向き合い話を聞き、アドバイスをしてくれたり、大事な事を教えてくれたりしてくれた。

ヒロインに真摯に向き合う主人公の姿が、織部と似ていたから、主人公に織部を重ね合わせてしまったのだろう。

 しかしそれは、後から思い返してみると―――

 

(すごい、恥ずかしい・・・・・・)

 

 たまらず顔を押さえる小梅。それを見て根津が心配そうに声を掛けた。

 

「どうした赤星、大丈夫か?」

「大丈夫、大丈夫です・・・・・・」

「気分でも悪いの?」

 

 三河にまで心配されてしまったが、別に気分が悪いわけではない。むしろその逆で、なぜか心が温まったのだ。感動的な映画を見たからというのもあるし、それよりももっと別の“何か”を考えてしまったからだ。

 そこで、向こうから見知った3人がやってくるのが見えた。

 

「・・・・・・・・・」

 

 だが小梅はなぜか、その3人の姿と様子を見たとたんに、またあの胸の痛みに襲われた。

 小梅が目にしたのは、斑田、直下と楽しそうに話している織部の姿だ。手には、どこかの店で買ったものが入っているのであろう買い物袋を提げている。

 

「ごめん、待たせたね」

「全然。そっちはどんなとこ回ったの?」

 

 斑田が声を掛けると、三河は気にしてない風に答え、映画を見ている間にどの店に行ったのかを聞く。

 

「まあ色々とね。ペットショップとか、百均とか」

「あー、ペットショップか。私も見たかったな」

「じゃあ後でまた行く?」

「いいね、行こうよ」

「小梅さんは?」

 

 正体が分かりかけている胸の痛みに苦しんでいたところで突如織部に声を掛けられ、小梅はうろたえる。

 

「え、あ・・・すみません、考え事をしてて・・・何の話を・・・?」

「このあとペットショップに行こうかって話。小梅さんはどう?」

 

 そんな小梅の事情などつゆ知らずに織部が笑って話してくれる。

 それだけ、ほんのそれだけのことなのに、小梅の胸の痛みは引いていった。

 

「・・・そうですね、私も行きたいです」

「じゃ決定。その前にまずはご飯だね」

「三河・・・さっきポップコーン食べただろ」

「あれは別腹だよ」

 

 三河が小梅の答えを聞くや否や歩を進めて、1階のフードコートへと降りていく。織部たちもその後に続いた。

 

 

 フードコートは多くの店が出店しており、和洋中にファストフードなどなんでもござれな感じである。

 織部たちも、それぞれ思い思いの料理を注文して、同じテーブルで食べて、それぞれ話に興じている。映画は面白かったかとか、ペットショップにどんな動物がいたのかとか、またあの映画を見たいとか、他愛も無い話をした。

 そんな中で、小梅は織部と向かい合う形でミートパスタを食べていた。しかしその表情には少しばかりの陰りが生じており、パスタを食べる手も遅い。

 そんな折、向かい側に座る織部が小梅の顔を覗き込んできた。

 

「小梅さん、大丈夫?気分でも悪いの?」

 

 だが、意識していた織部の顔がいきなり眼前に現れたので、小梅は慌てて顔を逸らす。

 

「い、いえ・・・何でもないです」

 

 そして逃げるようにパスタを食べる小梅。織部は少し小梅の態度を不審に思ったのだが、やがて自分のラーメンへと視線を移す。

 どうしてこんな態度を取ってしまうのか、織部は分からなかった。

 だが、そこでたこ焼きを食べ終えた三河が気楽そうに言った。

 

「そう言えば、織部君と赤星さんって、2人とも名前で呼んでるよね」

 

 今さらながら、他の誰もが触れていなかった事柄に触れられて、織部と小梅は動揺する。

 その話に最初に乗ったのは斑田だ。

 

「確かにそうね・・・。気づいたらもう2人、名前で呼び合ってるんだもの」

「前々から思ってたけど、結構2人って付き合い長いのか?」

 

 根津も気になったようで、隣に座る織部に話しかけてくる。

 だが、その理由を話すのは少し憚られるものだ。何せ、そもそも織部が小梅を名前で呼ぶようになったのは、織部が小梅の事過去を聞いたうえで小梅を安心させるためと、小梅と対等な立場でありたかったからであり、小梅もまた、同じような理由だ。

 けれどそれを話すうえでは、恐らくこの場の全員が知っているであろう、小梅の過去、ひいては去年の全国大会決勝戦の事を思い出させてしまうのは必至だった。せっかく和んできた場の雰囲気を曇らせるわけにはいかない。

 だが、織部と小梅が黙っていると、直下がとんでもない発言をかましてきた。

 

「まさか付き合ってたりして」

 

 その直後、4人の視線が織部と小梅に殺到する。

 だが、そんな事実は存在しないので、2人は顔を赤くしながらもこう答えた。

 

「「付き合ってない(ません)!」」

 

 織部と小梅の主張に、4人は苦笑する。4人も本気でそう思っているわけではないようで、『ですよねー』と言った具合にまたおしゃべりや食事に戻る。

 しかしこの時、小梅は内心では凹んでしまっていた。

 意識していた織部から、『付き合っていない』とすっぱり切って捨てられたからなのだが、織部とは付き合っているわけではないので凹むことは無いはずなのに、なぜかそれが少しもの悲しかった。

 どうしてそんな気持ちになってしまう?

 

(やっぱり私は・・・・・・)

 

 一方で、織部も少しばかり傷ついてしまっていた。

 『付き合っていない』と否定したのは事実だったから仕方がない。小梅にもそれを否定する権利は当然ある。というより小梅は否定するしかない。

 だが、普段あまり声を荒げない小梅があそこまで必死になったのは予想外だった。

 それほどまでに、織部と付き合っていると思われるのは嫌だったのだろうか。

 小梅とは色々話をしたのだが、それでも小梅にとってはただの知人程度の存在だったという事か。

 

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今、何を考えた?)

 

 今、織部は小梅に特別に思われていると思い込んでしまっていた。

 それはとても、他人から見れば烏滸がましい事だ。

 けれどどうして、そう思ってしまう?

 それは、織部自身も小梅の事を意識していたという事に他ならない。

 思わず、額を押さえる織部。だが、それが不審に見えたらしく、今度は小梅が織部の顔を覗き込んできた。

 

「は、春貴さん・・・?どうかしたんですか・・・・・・?」

 

 だが、織部はとっさに顔を逸らす。

 

「・・・・・・何でもないよ」

 

 この2人のやり取りを見ていた根津、斑田、三河、直下の4人は、特に示し合わせたわけでもないが全員こう思っていた。

 

((((こりゃ、時間の問題かな))))

 

 

 

 昼食を終えた6人は、まずは映画組も寄りたいと言っていた、レディース服の店舗へと向かった。だが、この店で織部にできる事は何もないので、大人しく店の外で待つことにする。

 およそ数十分後、満足いく買い物ができたようで5人は笑顔でそれぞれ袋を手に提げて店の外に出てきた。

 続いて皆が訪れたのは書店だ。昨今は電子書籍が流行り出し、紙媒体が衰退しつつあるという風潮があるが、それでも紙媒体の需要は割と高い。だからこういう書店もそう簡単に無くなりはしないだろう。

 書店で中を見回っていると、斑田が話しかけてきた。

 

「織部君ってどんな本読むの?」

「んー・・・色々読むかな。小説も漫画も、とくにジャンルは問わないよ」

「漫画とか読むんだ。意外・・・」

 

 とは言っても、織部が留学するにあたって黒森峰に持ってきたのは数冊ほどの小説で、漫画の類は持ってきていない。

 そして今、織部には欲しい本も無かったので、なんとなく店の中をぶらぶらと歩く事にする。

 一方、直下と小梅はそれぞれ本を1冊ずつ買っていた。直下はファッション雑誌、小梅は文庫本サイズの本を1冊。どうやら小梅は、先ほど見た映画の原作となった小説を買ったらしい。

 買い物が終わったのを確認すると、次に訪れたのは戦車道ショップだ。ただ、ここは別に買い物をするというわけではなく、ただ店の中を見て回るだけだ。

 世間一般では戦車道は、茶道・華道・書道と比べるとマイナーな存在であり、競技人口は全盛期と比べると減少しているのが実態だ。それでも、一部の選手とファンの根強い人気があって戦車道は今も続いている。独自の流派が存在し、競技人口は世代や年齢を問わず、大会も開かれているので人気がないということは無い。今この戦車道ショップにも、織部たちの他に何人かお客が入っている。

 黒森峰学園艦にも戦車道ショップはあるが、規模はここよりも少し狭い。本物の軍服のようなジャケットやコート、戦車の部品のレプリカ、戦車のプラモデル、さらにシミュレーションゲームなんてものも置いてあった。壁際にはテレビが設置されており、スポーツニュースが流れている。

 

「そういえばさ、昨日私見たよ。隊長の出てたニュース」

「ほんと?」

 

 三河がテレビを見上げながら、ふと呟いた。その話に食いついたのは斑田。2人の会話を聞いて、織部も昨日の訓練の事を思い出す。

 昨日の訓練では、テレビ局が取材に来ていた。事前の説明も無かったので織部を含む隊員は少し驚いたが、カメラが回っているからと言って目立つような行動などはせず、いつも通りの訓練を貫いた。

 そのテレビ局が、昼休憩の際に隊長のまほにインタビューをしたと、まほの近くにいた三河が言っていた。インタビューの内容は分からなかったので、昨日そのスポーツニュースを見たらしい。

 

「『戦車道の強さの秘訣は?』って質問に、『諦めない事と、どんな状況でも逃げ出さない事です』って答えてた」

「さっすが隊長。クールだねぇ」

「後、『西住流に逃げるという道はありません』って」

「よく言ってるよね~」

 

 三河たちが、昨日のインタビューの事を話している傍らで、小梅はなぜか、ほんの少しだけ悲しそうな顔をしていた。

 その顔の真意は織部にはつかめなかったが、この話をこのまま続けるのは少しマズいと思い強引にでも話題と場所を移すことにした。

 

「そろそろ移動しようか。ペットショップにも行くんでしょ?」

「お、そうだった」

 

 織部の提案に対して特に疑問を抱かなかった4人は、ペットショップへと向かう事にする。

 そしてこの時、小梅は織部が自分を気遣ってくれたことに気付いた。だから、織部と視線が合った時、小梅は織部に優しく微笑む。

 織部も、小梅が織部の考えに気付いたと認識し、大丈夫と言った具合に手を小さく挙げた。

 そして6人は、ペットショップへやってきた。店員が、またやってきた織部、直下、斑田の姿を見て少し驚いた様子を見せたが、織部はすまなそうに苦笑する。

 直下と斑田は、先ほども見たショーケースを覗き込んでいる。どうやらあの2人は、あの2匹を気に入ったらしい。

 三河と根津も、それぞれお気に入りの動物を見つけたようでそれぞれショーケースを覗き込み、『可愛いなぁ』などと呟きながらガラスをつついて中の犬や猫の興味を惹こうとしている。

 小梅はと言うと、ショーケースの中にいる小さな柴犬を見つめていた。その小梅の顔は雄弁に『可愛い』と言っている。

 織部は先ほどの昼食の時、小梅と気まずい空気を作ってしまい、少し微妙な距離ができてしまったので、何とかして小梅との距離をまた縮めたいと思った。

 だから織部は、少し恥ずかしかったが、小梅の隣に立って同じショーケースを見る。そして、先ほど直下と斑田が話していたことを小梅にも聞いてみることにした。

 

「・・・・・・小梅さんは、犬派?それとも猫派?」

 

 織部の質問に、小梅は少し悩むそぶりを見せてからやがて答える。

 

「猫も好きですけど、どちらかと言えば・・・犬派、ですね。忠誠心があって、賢くて」

「僕も、犬が好きだね。大体小梅さんと同じ理由で」

「・・・そう、なんですか」

 

 織部と似たような理由で犬が好きという事実に、小梅は少し嬉しくなる。

 

「でも、学園艦で寮暮らしだから飼えなくて。実家でも飼っていなくて・・・。いつか飼ってみたいなぁって思ってるんです」

 

 こんな自分本位な夢を語っても織部は迷惑だろうとは思っていたが、小梅はショーケースの中にいる子犬の事を見つめながら話を続ける。

 

「でも、犬を飼う事になったとしても、責任をもって育てられるか、しつけられるかが心配で・・・」

「それは、大丈夫なんじゃないかな」

 

 小梅の言葉に、織部が答える。

 大丈夫というのは、飼うことへの不安やしつけ云々の事だろう。

 しかし、何を持って織部は大丈夫と言っているのか。

 

「小梅さんは優しい人だから、誠意をもって接すれば、おのずと飼う犬も答えてくれると思うよ」

「・・・・・・・・・」

 

 織部に言われて、小梅はまたショーケースの中を覗く。子犬が何か物欲しげな目で小梅の事を見つめていた。

 

「私は優しくなんて・・・」

「優しいよ。それだけは言える」

 

 どうして、と言った風に小梅が織部の方を見る。

 織部は少し恥ずかしそうに頬を掻きながら、呟く。

 

「前に小梅さん、僕の事を『心の強い優しい人』だって言ってくれたでしょ?」

 

 その言葉は小梅自身も覚えている。何せ、色々あったジョギングをした日の事だったのだから。

 

「人の事を素直に褒められるのは、優しい人にしかできない事だと僕は思ってる。それに、みほさんの事を救いたかったのも、やっぱり小梅さんが優しいからだ」

「・・・・・・・・・」

「それに僕が倒れた時、看ていてくれたんだもの」

 

 だから、と言って織部は改めて小梅の顔を見据える。

 

「小梅さんも、心優しい人だよ」

 

 呼吸が止まったような気がした。

 時が止まったような感覚に陥った。

 面と向かって、微笑みながらそんな言葉をかけられて。

 自分の事を、心優しいと言ってくれて。

 それはとてもシンプルな言葉だったけれど、どんな言葉をかけられるよりも嬉しくて。

 

「さて、そろそろ帰ろうか。時間もいい感じだし」

 

 根津が腕時計を見ながら告げると、ショーケースに張り付いていた直下と斑田、そしてハムスターのケースを見ていた三河が我に返ったかのように根津の方を見る。織部も、店の中にある時計を見れば、そろそろ日没が迫っているような時間だった。随分とペットショップに長居していたらしい。

 

「じゃあ、帰ろうか」

「・・・・・・・・・はい」

 

 織部が小梅に告げると、小梅は少し呆けたように返事をして織部たちと共に、ペットショップを後にした。

 

 

 学園艦に戻るまでの間、私はずっと春貴さんの背中を眺めていた。

 春貴さんは、根津さんや直下さん達と何かを話しているみたいだけど、今の私には何を話しているのかは聞こえない。

 今私が考えている事とは、ここ数日で私の中に芽生えた、ある感情だ。

 春貴さんと話をして、皆で戦車道博物館に行って、一緒にジョギングをして。

 春貴さんと一緒に過ごして、思い出を重ねているうちに、私の中でこの感情は、知らない間にどんどん大きくなってきていたみたいだ。

 春貴さんの言葉が胸に強く残り、春貴さんとの思い出が私の頭を駆け巡って、春貴さんの笑顔が忘れられない。

 映画を見る前に、春貴さんと別行動となってしまった時は少し悲しくなった。

 それは、春貴さんと一緒に過ごしたいと思っていたからだ。

 映画を見た時、ヒロインに真摯に向き合う主人公の姿に、春貴さんの姿を重ねてしまった。

 直下さん達と楽しそうに話をしている春貴さんを見て、少しだけ胸が痛んでしまった。

 それは、嫉妬していたからだ。

 でも、さっきのペットショップで、春貴さんから『心優しい人』と言われて、呼吸が止まるような思いになった。

 そして、同時に胸が張り裂けてしまうくらい、鼓動が早くなってしまった。

 今なら分かる。

 どうしてそうなったのか。

 それは全て。

 

 

 春貴さんに恋をしているから。

 

 




アスチルベ
科・属名:ユキノシタ科チダケサシ属
学名:Astilbe × arendsii
和名:曙升麻
別名:泡盛草(アワモリソウ)
原産地:ドイツ
花言葉:恋の訪れ、自由


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黄花浜匙(イエロースターチス)

 朝目が覚めてみると、目の前に広がる光景が少し違うように見えた。

 部屋の家具の位置も、全体的な色合いも、昨日とは何ら変わっていないというのに、全てが昨日までとは違って見えてしまう。

 起き上がり、カーテンを開くと太陽の光が差し込んでくる。目を細めて、太陽の光を体全体で受け止める。やがて目が慣れて、外に広がる景色が目に入る。もう見慣れた街並みのはずなのに、なぜかこれも新鮮に思えた。

 

「・・・・・・・・・」

 

 どうしてなのか、その理由は大方予想できる。

 自分の想いに気付いたからだ。

 

「・・・・・・・・・」

 

 昨日私は、春貴さんに恋をしているという事に気付いた。

 いや、その片鱗はずっと前からあったのだから、正しくは“認めた”と表現した方がしっくりくる。

 昔、私が中学の頃に実家に帰省した際、母が『恋をすると世界が見違えるぐらい輝いて見える』と話していた記憶がある。

 思春期に入った私に昔の自分の事を重ねての発言だとは思うが、あの時は初恋もまだだったので、いまいち実感が持てなかった。

 でも今は、母の言葉は正しかったというのが分かる。

 現に今、私の目に映る全てのものが、前よりも輝いて見えているのだから。

 それこそ、去年の全国大会直後、全てを悲観的に見ていた時とは比べ物にならないくらいだ。

 

「・・・・・・はぁ」

 

 思わず、息が漏れる。

 でも、いつまでも物思いに耽っているわけにはいかない。まずは着替えて学校に行く準備をしなければ。それと朝食の準備も。

 でも、不思議と着替えている間も、朝食を作っている間も、私の心はなんだか温かい感じがした。

 朝食を食べ終えて身支度をし、時間になったらいよいよ学校へ出かける。

 いつもみんなと待ち合わせる交差点に向かう私の足取りは、いつもよりも軽いのが分かる。

 やがて待ち合わせの交差点に着くが、まだみんなの姿はない。時計を見れば、どうやらいつもより少し早めに来てしまったらしい。

 浮かれすぎたかな、と思いながら皆を待つことにする。

 数分経ったところで、交差点の向こうから斑田さんが来た。

 

「あれ?赤星さん?」

「斑田さん、おはようございます」

「今日は少し早いんだね」

「ちょっと、早めに起きちゃって・・・」

 

 そうして斑田さんと2人で後の2人を待つ。

 けれど、ほどなくしてその2人は来た。

 

「おはよー」

 

 まず最初に挨拶をしてきたのは、少し眠そうな顔の根津さん。休み明けで少し辛そうだった。

 そして、根津さんの隣を歩くもう1人。

 

「おはよう、小梅さん、斑田さん」

 

 春休みに初めて会った時と変わっていないはずなのに、なぜか昨日よりもほんのわずかだけど、輝いて見える春貴さんの姿が目に入った。

 私は、春貴さんの姿を目にした途端、鼓動が早くなって、ほんの少し顔も熱くなってしまう。

 でも、それは決して気取られないように、あくまでいつも通りにあいさつをする。

 

「おはようございます、春貴さん、根津さん」

 

 私自身、普通に挨拶をしたつもりなのだけれど、春貴さんは『ん?』と何かの異変に気付いたらしい。

 

「小梅さん・・・なんだか嬉しそうだね」

「え・・・そうですか?」

「確かに、なんかちょっと明るくなったって言うか・・・・・・」

 

 春貴さんの隣に立つ根津さんも、同じように気づいてしまったらしい。

 私の傍に立つ斑田さんも頷いた。

 

「今日も少し早くに来ていたし、何かいいことでもあった?」

「えっと・・・・・・それは・・・・・・」

 

 もちろんあった。

 何せ、自分の春貴さんに対する想いと感情に気付いてしまい、しかもそれが恋、愛情という限りなく幸せに近いものだったのだから。

 

「まあ、ゆっくり休んでリラックスできたみたいで何よりだよ」

 

 春貴さんは余り深く追求しようとはせずに話を切り、学校へ向けて歩き始める。私はその隣を歩き、斑田さんと根津さんがその後ろを歩く。

 

「織部の方こそ大丈夫か?身体の方は」

「何とか。この前はホントごめんね・・・心配かけたりして・・・特に根津さんなんて・・・」

「気にしないでいいさ。にしても、まさかあんなとこで倒れてるとはね」

 

 先週、春貴さんが高台で倒れていたのを見つけたのは私だけど、保健室まで運んだのは私と根津さんだ。春貴さんも土曜日の訓練で根津さんに謝ったし根津さんも気にしなくていいと言っていたけれど、春貴さんは改めて根津さんに謝った。

 

「疲労とストレスねぇ・・・私たちも気を付けないと」

 

 ちなみに、春貴さんが師範の威圧感に中てられたせいで倒れたという事を知っているのは私だけだ。他の人―――西住隊長やエリカさん、他の戦車隊の人たちには、疲労とストレスで倒れたと伝えてある。

 内容はどうであれ、私と春貴さんだけが知っている秘密、と思うと少しだけだが嬉しくなる。優越感が生まれてしまう。

 嬉しくて心躍り、スキップしそうになるのを堪えながら、私は春貴さん達と学校へと続く道を歩いて行った。

 

 

 今日の戦車道の訓練は外周遊歩道の走り込みで、本来ならば織部もそれに参加するはずだったし、織部自身もそうだと思っていたが、今日は違った。

 

「知っての通り、我が校はドイツとの縁があって、使用している戦車もすべてドイツのものだ。主力戦車はティーガーⅠとⅡ、戦車隊を構成している戦車の4~5割はパンター。他にはヤークトティーガーやヤークトパンターなどの駆逐戦車も―――」

 

 織部は今、研修室でまほの講義を受けていた。

 受けているのは織部だけではなく、織部と同じようにタンクジャケットではない、黒森峰の制服を着ている同年代の女子が何十人以上といる。

 今日は、今年度から黒森峰に入学した生徒が戦車隊に仮入隊する日だ。正式に入隊するまでには1週間の猶予があるので、まだ“仮”だ。故にタンクジャケットも支給されない。

 入隊するかどうかは新入隊員自身が決める事だが、入隊するかどうかに関係なく全員に隊長自らが戦車隊と戦車道の事について講義をするのが、黒森峰の―――戦車隊の常だった。

 この講義はまほから『受けろ』と言われたわけではなく、『受けるか?』と問われて織部が頷いた結果織部も受講することとなったのだ。ただ、新入生は男子が留学している事など知るはずもないので、今なおまほの講義を受けている新入隊員たちのうち数名がこちらの様子をうかがっていた。

 織部もその視線には気づいているが、無視を決め込み講義に集中する。

 戦車道の事については一通り勉強してきたし、黒森峰の戦車道については戦車道博物館で調べたが、何度も聞いておいて損はない。

 皆のおかげで黒森峰にいられる以上、それに応えるためにも戦車道には何よりも真剣に打ち込むべきだと思ったからである。

 将来自分の望む場所で働くためにも、常に研鑽をしていかなくてはならない。

 

 

 途中10分程度の休憩を幾度か挟み、講義はおよそ3時間で終了した。

 次に行うのは適性試験。戦車に乗った際自分がどのポジションに相応しいのかを決めるものだ。

 戦車に乗らない織部がこの試験を受けても意味はないので、今度は手伝いに入る。今回この試験進行を手伝う根津と直下が試験用紙を一枚ずつ配っていくので、織部も同じように配っていく。織部たちが試験用紙を配っている間に、まほは試験の内容を説明する。

 全員に配り終えたところで、適性試験が始まった。

 その間、織部たちは試験を受けている生徒たちに不審な動きがないかを見張る。これは中間試験などの成績に反映されるものではないが、戦車での自分のポジションを決めるための、戦車道においては学校の成績以上に重要なものだ。他人に合わせて試験に答えてしまうと、試験結果に支障が出かねない。それは当然まほも試験前に説明したのだが、念には念と言う事でこうして見張っている。

 試験は大体30分ほどで終わり、織部たちは試験用紙を回収する。そこで、新入隊員たちは解散となった。

 試験を手伝った織部と根津、直下は試験用紙を回収して、別室にある判定用の機械に通す。

 この判定する機械は、戦車道の授業がカリキュラムに組み込まれているほぼ全ての学校に支給されている。戦車道の授業があるにもかかわらずこの機械がない学校―――例えばつい最近になって戦車道を始めた学校などは、それぞれ自由にポジションを決める形をとる。

 根津と直下の案内で織部が試験用紙を、判定用機械のある部屋へと運ぶ。

 その機械がある部屋に運び終えると、機械に通すのはやり方を事前にまほから教わった根津と直下だ。機械に試験用紙を通すと、マークシート方式の回答を機械がスキャンして最適なポジションを書き加えていく。1枚目の試験用紙にはスキャン後、ポジションの場所に“通信手”と新たに書き加えられていた。

 

「・・・・・・さて、今年は何人残るかな」

 

 膨大な量の試験用紙を前にして、根津がポツリと呟く。

 残るか、というのは恐らく、1週間を終えて正式に戦車隊に入隊するのは何人か、という意味だろう。

 

「・・・・・・去年は、半分ぐらい辞めちゃったからね・・・」

 

 直下が残念そうにつぶやく。

 確か、黒森峰戦車隊は練習の厳しさの余り辞める人が多いという話だ。しかし、黒森峰は強豪校として全国に名が知れている。簡単な道程では戦車に等乗れないだろうというのは、戦車に乗らない織部でも分かる。

 

「私らだって、皆には続けてほしいと思ってるよ?でも、如何せん、隊長が厳しすぎるからなぁ」

「まあ、西住流の後継者だし、仕方ないよね」

 

 根津も直下も、もう仕方がない、というように苦笑した。

 確かに、皆戦車道を歩みたくて、黒森峰の戦車道に憧れてここに入学して、戦車隊に入ったのだから、続けてほしいという思いはあるのだろう。でも現実はそこまで甘くもなく、やはり強豪校ゆえにと言うか、訓練は厳しいもので容赦なく新入隊員をふるいにかける。

 その訓練の上で残る人は、やはり心の底から戦車道を愛し、また黒森峰の戦車隊に入りたいと願う人だということだろう。

 という事は、今織部の目の前にいる根津も直下も、そう言う思いがあって今なお戦車隊で活躍しているという事か。

 そう思うと、何だがこの2人がとてもすごい人物だと思えてきた。

 

「・・・・・・2人とも、結構すごい人だったんだね」

「?」

「どうしたの、急に?」

「いや、ちょっとね」

「なんだそれ」

 

 根津が苦笑し、直下もあははと笑う。そして、次の用紙をスキャンさせた。

 

 

 数十分ほどで、全ての書類をスキャンし終える。後は全ての用紙をポジション(車長、砲手、装填手、通信手、操縦手)ごとに分ければ、この作業も終わりだ。

 この仕分けは織部にもできる事なので、積極的に手伝う。そのせいなのかそうではないのか、仕分けもまた数十分ほどで終わった。

 ポジションごとに書類を箱に分けて、後はこの書類をまほのいる部屋に持って行けば、それで今日の作業はおしまいだ。

 と、その時部屋のドアがノックされた。

 織部が先んじて立ち上がり、ドアを開けるとそこにいたのは小梅だった。

 

「あれ、小梅さん。どうしたの?」

 

 マラソンの後のせいで少し額に汗を浮かべているが、着ているのは黒森峰の制服。ジョギングを終えたという事か。

 

「春貴さん達のお手伝いがしたくて・・・」

 

 小梅の言葉は本心であるが、他の考えもある。

 今日の訓練はジョギングだったのだが、小梅は斑田、三河と一緒に走っていた。

 けれど本音を言わせてもらえば、織部と一緒に走りたかった。この前の夜―――小梅が転んでしまったあの日はあまり走れなかったので、その挽回がしたかったし、何よりも少しでも織部と一緒に時間を過ごしていたかった。

 小梅はもう、自分は織部の事が好きだという事に気付いているし、認めている。だから、好きな人と少しでも一緒にいたくて、先ほどのジョギングの時間も一緒にいたかった。

 けれどもそれは叶わず、今日小梅は織部と走れなかった。だからせめてと思い、こうして手伝いに来たのだった。

 独りよがりとも、自分勝手とも思うかもしれないが、それでも、織部と一緒にいたいという気持ちは抑えられなかった。

 

「ありがとう。でも、作業はもう終わっちゃって、後は書類を西住隊長の所に運ぶだけだから・・・・・・」

「あ、そうでしたか・・・・・・」

 

 少しシュンとしてしまう小梅。

 それを見た直下が。

 

「あー、ごめんね織部君。私たちちょっと用事を思い出しちゃって、悪いんだけど織部君が西住隊長の所に持って行ってくれないかな?」

「え?」

「え?」

 

 直下の言葉を聞き返したのは、織部だけではなく根津もだ。だが根津は、直下に何か耳打ちされると、『ああ』と納得した。

 

「そうだな、織部が運んできてくれ。赤星は織部を隊長のいる部屋まで案内して」

「え、ええっ?」

 

 いろいろ言いたいことはあったのだが、織部は仕方なく小梅と一緒に試験用紙の箱を持ってまほのいる部屋へと向かった。

 窓の外はもうすでに暗くなってしまっている。早く帰りたいものだ。

 

「小梅さん、大丈夫?ジョギングしたばかりなのに・・・」

「私は大丈夫です・・・それより、春貴さんこそ大丈夫ですか?」

「いや、これぐらいどうって事無いよ」

 

 今、織部は試験用紙が入った箱を3つ、小梅は2つ運んでいる。

 はじめは織部が全ての用紙の入った箱を持って行こうとしたのだが、小梅が『私も持ちます』と言ってきた。しかし、走り終えて間もなく疲れているはずの小梅に負担を強いるわけにはいかなかったので、全部持つと織部が言った。が、そこまでではないが大きい箱を5つ持って腕が震えている織部を見て、小梅が何も言わずに箱を2つ持ち、今の状況に至る。

 後で、ちゃんとお礼を言っておかないとな、と織部は心の中で思っていると、『あ、ここですよ』と言われて立ち止まる。

 『隊長室』という、戦車道の隊長専用の部屋があるとは、戦車道強豪校は徹底していると織部は思った。だが、ここは織部も来た事がないので少し緊張する。

 ノックをして、中からまほの『どうぞ』という声が聞こえると、ドアを開く。

 中は、1度入った事のある黒森峰の校長室と同じぐらいの広さがあり、応接用のソファと執務机が用意されてある。高校生の身分でこれだけの設備が揃う部屋を持てるとは、流石と言うかなんと言うか。

 

「失礼します。適性試験の結果を持ってきました」

 

 要件を告げると、まほの代わりにエリカが言葉を発した。

 

「ご苦労様、そこの机の脇に置いといて」

「はい」

 

 織部と小梅が、持ってきた箱を応接机の脇に置く。そこで、何かの書類に目を通していたまほが顔を上げて織部に声を掛けてきた。

 

「根津と直下はどうした?2人にも手伝いを言っておいたはずなんだが」

「2人でしたら、用事があると言って先ほど急ぎ帰ってしまいました」

「そうか・・・・・・」

 

 まほは少し考えこむような仕草をとる。一言隊長であるまほに言っておくべきだったんじゃないだろうか、と織部は少し思った。

 やがて、まほが顔を上げて織部に言った。

 

「織部、すまないが書庫に行って、未使用のファイルを5冊ほど持ってきてくれるか」

「あ、はい。いいですよ」

「書庫とファイルの場所は、赤星から聞いてくれ」

「分かりました」

 

 織部は部屋を出て、小梅の案内で書庫へと向かう。おそらくは、あの適性試験用紙をファイリングするためだろう。

 書庫は、隊長室から少し離れた場所にあり、中には棚がいくつもあって窮屈なイメージがある。ドアを開けた途端に、紙と埃の匂いが鼻を突く。長時間いると息が詰まりかねないと織部は思い、早く空のファイルを見つけることにした。

 そう思い、それがこの中のどこにあるのかを小梅に聞く。

 

「小梅さん、ファイルはどこに・・・」

「えっと・・・確か、あの棚の上かな・・・」

 

 小梅が指差したのは、真正面にある棚の上。『業務用ファイル』と書かれた段ボールがあった。

 おそらくあれだろうが、織部が背伸びしても届かないような高さにある。何か踏み台のようなものはないかと辺りを見れば、二段の脚立があった。けれど、少しガタが来ていて不安しかない。

 けれどこれを使わなければあのファイルの箱は取れない。織部より背が低い小梅が脚立無しで箱を取る事など不可能だし、こんな見るからに危ない脚立に小梅を乗せて怪我でもさせるなんて論外だ。

 迷わず織部はその脚立を持って来て、その上に乗る。

 

「き、気を付けてくださいね」

 

 小梅も脚立が少し危なっかしいというのが分かっているのか、不安そうに織部に声を掛けてくる。だが織部は、危ないとは分かっていても脚立に乗り、段ボールを手に取る。

 せめてこの時だけは耐えてくれと、脚立に祈っていた。

 だが、織部の祈りもむなしく、脚立から『メキッ』という不穏な音が聞こえた瞬間、織部はバランスを崩した。

 

「あっ・・・・・・」

 

 両手で段ボールを持っているためどこかを掴んで体勢を整えることもできない。重力に従い床に落ちるしかない。

 

「危ない!」

 

 その瞬間、小梅が駆け出して、織部を支えようとする。

 だが、それでは小梅も巻き添えになってしまう。織部はファイルの事は諦め咄嗟に手を離し、小梅を守るような形で手を伸ばそうとする。

 そして倒れこむ織部と小梅。

 

「・・・・・・だ、大丈夫?」

「え、ええ・・・。何とか・・・」

 

 小梅が床に仰向けになって倒れながら頷く。織部はその上で、小梅の顔の近くの床に手をつけて、小梅の上に覆いかぶさるような形で四つん這いになっている。

 

「「・・・・・・・・・・・・・・・」」

 

 これは、傍目から見れば誰がどう見ても織部が小梅を押し倒しているようにしか見えない。

 当然、当事者である織部も小梅もそれは分かっていた。普通ならばすぐにでも織部はどかなければならないし、小梅だって拒絶する反応を見せるものだ。

 普通なら。

 

「「・・・・・・・・・・・・・・・」」

 

 だが、織部は押し倒されている状態の小梅の顔から目が離せなかった。

 少し癖のある赤みがかった茶髪も、少し垂れた感じの目も、灰色の瞳も、薄桃色の唇も、全てが織部の視線をくぎ付けにさせる。

 今のように人を押し倒しているような状況はもちろん、他人の顔から目が離せなくなってしまう事など、織部は今までで一度も無かった。

 今の織部には、小梅がとても魅力的な存在に見えてしまう。

 ずっと目に焼き付けておきたいと思えてしまうくらい、小梅は綺麗だった。

 対する小梅は、なぜか押し倒されているこの状況が、どうしてなのか、まったく不快と感じていない。それどころか、ずっとこのままでいたいとさえ思えてしまう。

 しばしの間、織部は小梅にくぎ付けになってしまい、小梅は今の状況のまま嫌がるそぶりを見せる事もなかった。

 だが、先に冷静になったのは織部の方だ。

 

「ご、ごめん!わざとじゃないんだ!本当にわざとじゃない!本当にごめん!」

 

 慌てて小梅の上からどいて、散らばったファイルと空の段ボールを集める織部。小梅はやっと思い出したように体を起こす。

 

「だ、大丈夫です・・・。ところで春貴さん、怪我はありませんか?」

「あ、ああ。大丈夫、大丈夫だよ」

 

 織部は極力小梅と目を合わせないようにファイルを集める。段ボールに入っていたファイルもちょうど5つだったので、段ボールは後で破棄してしまえばいい。後は、壊れた脚立の事も報告しないと。

 なんて事を考えながら織部はファイルを持って隊長室へと戻る。先ほどの小梅とのお見合い状態になった事を思い出さないようにするためだ。

 再び隊長室に戻り、ファイルを渡し、書庫の脚立が壊れたことを報告したところで、織部と小梅は帰っても良いと告げられた。

 2人は教室に戻り、自分の荷物を回収しようとする。

 陽もとうに落ちてしまい、外は真っ暗で、誰もいない教室。声も通りやすいこの状況で織部は、小梅に話しかけた。

 

「・・・・・・小梅さん」

「・・・はい?」

 

 だが、目線は合わせられない。目線を、顔を合わせたら、先ほどの書庫での出来事を思い出してしまいそうになるからだ。だから、織部が見据えているのは小梅の後姿だ。

 

「さっきは、本当にごめん。あんなことしちゃって・・・」

 

 書庫でのことを謝る織部。だが、小梅は首を横に振る。

 

「・・・大丈夫ですよ。私は気にしてませんし、それに春貴さんに怪我がなくて何よりです」

 

 普通なら、あんなことをされれば誰だって拒絶するだろうに、小梅は全くそのようなそぶりを見せない。いや、もしかしたら心の中では織部の事を軽蔑しているのかもしれないので、とりあえず今度何か埋め合わせをしようと思った。

 

「でも、僕も何かお詫びをしないと・・・・・・」

「そんな・・・私は気にしてませんから・・・・・・」

「いや、でも・・・・・・」

 

 そこで、小梅が振り返って織部の方を向く。

 だが小梅の顔を見た途端、織部の脳裏に先ほど小梅を押し倒す形になってしまった事をふと思い出してしまう。

 そして、あの時間近に見た小梅の顔を、思い出す。

 

「・・・・・・っ」

 

 たまらず、顔を逸らしてしまう織部。

 そして小梅もまた、織部の顔を見てしまい、自らが押し倒される体勢となってしまったさっきの事を思い出す。

 あそこまで織部の顔を間近に見てしまった事など、いや男の人の顔にあそこまで接近した事など今まで無かった。あの夜のジョギングの時は背中越しだったからノーカンだ。

 ともかく、小梅もまた間近に見た織部の顔を、また思い出してしまい顔を赤らめてしまう。

 

「・・・・・・と、とにかく・・・今度何か、お詫びをしないと、僕としては申し訳ないというか・・・・・・」

 

 織部が小梅と視線を合わせず、申し訳なさを感じさせるような話し方で言うと、小梅もまた織部とは目を合わせようとはせず、小さく呟いた。

 

「・・・そう、ですね・・・。では、いつか・・・・・・」

 

 そう言って小梅は、鞄を持って教室を出ていってしまった。

 織部は、何も声を掛けることができず、その背中を見送る事しかできなかった。

 そして、机に手をついて先ほどの事を思い出してしまう。

 あの、小梅の顔を間近に見てしまった事を。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 男として最低な事をしてしまい、罪悪感が湧き上がってくるが、それ以上の感情が罪悪感を上書きするかのように現れる。

 それは、あの時間近に見た小梅の事がとても可愛らしく、愛おしかったという感情だ。

 途端に顔が熱くなってしまい、思わず顔を押さえる。

 そして前に小梅と至近距離で接した時、夜のジョギングで足を挫いた小梅を背負って小梅の寮まで戻った時の事も連鎖的に思い出す。

 あの、小梅の体温を、吐息を肌で感じて。

 

『心の強い・・・・・・優しい人なんですね』

 

 あの時言われた、今も忘れてはいない言葉を思い出す。

 余計に顔が熱くなり、しゃがみ込む。

 なんだ、これは。

 どうしてこんなことになってしまうのか、どうしてこんな気持ちになってしまいうのか。

 それは、なんとなく気付いていた。

 あの、小梅を部屋に送り届けた後で、織部自身はその感情に気付きかけたが、自分からその感情に目を逸らした。

 だが、今はその感情からは目が逸らせない。

 どうやら、自分は。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・恋、したのか」

 

 小梅に、恋をしたらしい。

 

 

 陽も落ち、電柱に取り付けられた街灯が道を照らす中で、根津と直下は並んで寮への道を歩いていた。

 

「赤星さん、上手くやったかな」

「・・・・・・さあ、それは赤星次第だな」

 

 あの時、小梅が手伝うと言ってきた時、真っ先に小梅の意図に気付いたのは直下だ。

 直下は当初、小梅が手伝いに来たのは純粋な善意によるものだと思っていた。小梅は1年生の頃から共に戦車道を始めた仲で、あの全国大会決勝戦以降は少し疎遠になってしまっていたが、小梅が優しい性格をしているというのは元より知っていた。だから、あの時手伝いに来たのも、最初は小梅が進んで手伝いに来たものだと思っていた。

 だが、織部が『作業は終わった』と聞いて小梅が落ち込んでしまったのを見て、直下は思った。

 もしや、小梅は作業を手伝いに来たのかもしれないが、別の理由もあったのではないかと。

 そしてその理由とは恐らく、織部にある。

 ショッピングモールで織部と小梅が何やら甘い雰囲気を醸し出していたので、もしかしたらと思い、先ほどのように2人を引き合わせることにしたのだ。

 

「まだ2人とも好きだって決まったわけじゃないのに、直下もせっかちだな」

「いやぁ、なんかあのまま赤星さんを無下に追い返すのも気が引けたし」

 

 先ほどのような事を言ったからと言って、直下は小梅が織部の事を好いていると決めつけたわけではない。それを見極められるほど直下の目はよくはない。根津も同様だ。

 これからどうなるのかが楽しみだな、と直下と根津が思ったところで、後ろから誰かが走ってきた。

 振り向くが、薄暗いせいで顔が見えない。しかし、その走ってくる何者かとの距離が近づくにつれて、その人物の顔が見えてきた。

 

「あれ、赤星さん?」

「どうした、そんなに急いで」

 

 直下が挨拶をしようとしたが、小梅は2人に目もくれず、返事もせずそのまま通り過ぎていってしまった。

 だが直下と根津は、通り過ぎていった小梅の顔がどんなものだったのかを、見ていた。

 その顔は、とても赤かった。

 

「・・・・・・脈あり、かな」

「どうだろうな」

 

 直下の、実に面白そうにつぶやいた言葉に根津は肩をすくめる。

 

 

 途中で直下、根津に会ったような気がするが、そんな事はどうでもいいと言わんばかりに小梅は駆け足で寮の自分の部屋に戻る。

 ドアを閉めて鍵をかけて、靴を脱いでベッドに倒れこむ。

 頭の中を占めているのは当然、書庫でのハプニングだ。

 あの時小梅は、織部に押し倒される形で倒れた際、織部を突き飛ばそうとも、どくように言ったりもせず、ただただあの体勢のままでいた。

 傍から見ればシャレにならないような、事案とも取れるような体勢だったにもかかわらず、当の小梅はまったく不快感など抱かなかった。

 本当に何故だか、織部が近くにいるというだけで心が安らいでしまったのだ。あんな体勢であっても、小梅は織部に安らぎを覚えてしまっていた。

 枕に顔を押し付けたまま、声にならない声を上げる。

 少しして、枕から顔を離す。

鏡が無くても、自分の顔は赤らんでいて、瞳は揺らいでいるというのが分かる。

 やがて、小さく息を吐いてから、呟いた。

 

「・・・・・・こんなにも、好きになるなんて・・・」

 




スターチス
科・属名:イソマツ科イソマツ属
学名:Limonium sinuatum
和名:花浜匙
別名:リモニウム、チース
原産地:ヨーロッパ、地中海沿岸
花言葉:愛の喜び、誠実(黄)


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篝火花(シクラメン)

今回登場する(セリフなし)モブキャラクターの名前は、
熊本県の地名由来です。
予めご了承ください。


「本日の訓練はここまでだ。解散!」

『お疲れ様でした!』

『お疲れ様でした・・・』

 

 陽も傾き、水平線の向こう側に太陽が落ちるところで、黒森峰女学園戦車隊の訓練は終了した。

 まほの号令で、全員が挨拶をする。けれど、その挨拶の声量も2種類あるように織部には聞こえた。

 まだ余力を残しているかのような、威勢のいい挨拶は恐らく2年生以上の隊員のもので、もうへとへとと言わんばかりの疲労感を漂わせる挨拶は多分新入隊員のものだろう。

 しかしそれも無理のない事だ。

 昨日、適性試験結果が受験者全員に返され、それぞれが指定された戦車の、指定されたポジションについて、いきなり訓練が始まったのだ。最初は2年生以上の先輩が操縦や砲撃を教えたが、すぐに新入隊員だけで戦車を動かすこととなった。

 昨日は基本動作だけで訓練は終わったのだが、今日はそれ以上に濃い訓練となった。

 最初はまほの指示で進行方向を変える走行訓練を行ったのだが、その方向を変える指示の間隔が異常なまでに狭く、急な進路変更指示についていけない戦車は置いてけぼりを喰らうこととなった。

 その後は砲撃訓練。目標との距離や照準器の見方、角度の計算などは初日の講義で教えていたので、ここでの先輩のサポートは当然と言わんばかりに無かった。的に命中させる生徒もいれば、命中させられない生徒もいる。外したらエリカから怒号が飛んできたらしい。

 新入隊員の中には戦車道経験者もいただろうが、この訓練の厳しさは相当堪えたに違いない。校舎へと向かう新入隊員たちの足取りは重い。

 対照的に、2年生以上の隊員たちは『疲れたねー』とか『お腹空いたなぁ』とか言っている。もう慣れっこなのだろう。

 

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 そんな中で、織部と小梅は2人並んで校舎へと歩いていた。

 一緒に戻ろうとどちらが言ったわけでもないし、元々約束していたわけでもないのだが、こうして今2人で歩いている。

 だが、どちらも話しかけたりはしない。

 小梅はやはり一昨日の、過失とはいえ書庫で織部に押し倒されたことを覚えていて、あの時の事を思い出すとろくに話す事もできないのだ。

 そして織部は、自分が小梅に恋している事に気付いていたので、好きな人に対する距離の取り方が分からず、前は普通に話せたのに今では話せなくなっていた。

 そしてもう一つ、話しかけられない理由はある。それは、小梅は今日もまた戦車に乗ることはできず、新入隊員の訓練を見学することしかできなかったからだ。

 小梅は結局、未だ戦車に乗せてもらえずにいる。今、新入隊員が戦車に乗り始め、自分は戦車に乗ることができない小梅の事を想うと、迂闊に話しかける事も難しかったのだ。

 このままではいずれ、新入隊員が小梅の実力を上回ってしまうかもしれない。

 そうなれば、まだ小梅の中に残っている戦車道に対する意欲も、劣等感や悔しさなどで消えてしまう事も考えられる。

 そして最悪の場合は、小梅が戦車道を辞めてしまうかもしれない。小梅が『西住みほの行動が間違っていなかったことを証明する』という意志が残っている限りそれはないだろうが、万が一の可能性もあり得る。

 だが、今まで小梅を奮い立たせてきたのはその強い意志だ。それが無くなってしまえばどうなるかは今の織部には分からないが、いい方向に転ばないという事だけは分かる。

 どうにかして、小梅を戦車に乗せてあげたかった。

 でも、織部一人ではどうすることもできない。

 そして、小梅自身がこれからどうしたいのかも、織部には分からない。

 

「・・・・・・あの、春貴さん」

「はい」

 

 考え事をしている最中で、隣を歩く当の小梅から話しかけられた。

 

「あの・・・・・・よろしければ、なんですけど・・・・・・」

 

 歯切れの悪い言葉を小梅が告げる。

 一昨日の出来事以来、織部と小梅はろくに言葉も交わせない状況にあった。朝会う時も、昼食を共にする時も、帰り道でも、言葉を交わす事が以前より少なくなってしまった。

 その異変には根津や直下、斑田に三河も気づいていて、2人は喧嘩でもしてしまったのかと思っている。

 実際は全くの逆で、お互いに知る由もないがお互いに相手の事を好いているのだ。しかし互いに恋愛経験が乏しく、というか無いため相手との距離感を掴めずにいた。

 その結果、周りからは喧嘩してお互いに口を利かなくなってしまったとみられているのだ。

 そんな状況下で小梅が話しかけてくるとは思わなかった。

 

「今夜・・・また、一緒に走りませんか・・・?」

 

 小梅から告げられたのは、ジョギングの誘いだった。

 先週夜に一緒にジョギングをしたが、途中アクシデントに見舞われて中断することとなり、小梅の考えたルートを完走する事は叶わなかった。どころか、小梅と急接近する事になってしまったので、あの時の事は忘れてなどいない。

 そしてそれは、小梅も覚えているだろうに、また誘ってきてくれた。

 確かに、織部の体力は全くと言っていいほどついてはいないので、少しでも体を鍛えておきたい。

 それに、小梅が何も声を掛けてこなければ、織部だって小梅に何かを話しかけることもできなかっただろう。新入隊員に後れを取っている小梅自身がこの先どうしたいのかを聞く事なんてできはしない。

 何より―――

 

「・・・いいよ。僕も、少し小梅さんと走りたいと思ったから」

 

 少しでも好きな人と一緒にいたいから。

 それこそが、織部が小梅からの誘いを受けた最大の理由だ。だが、馬鹿正直に『小梅と一緒にいたいから』と言って誘いを受けるような真似は流石の織部もしない。だから、『一緒に走りたい』と少し言い方を変えたのだ。

 しかし、その言葉だけでも小梅の顔を赤くするには十分だった。

 

「じゃ、じゃあ・・・・・・8時にいつもの交差点で・・・・・・っ」

 

 そう言って小梅は、校舎へと走り去っていってしまった。

 何がいけなかったのだろうか、と思いながら織部が歩いていると、不意に背中を叩かれた。

 

「・・・・・・やるじゃん」

 

 その主は三河。何やら意地悪気な、全てを知っているような、そんな笑みを浮かべていた。

 だが織部は、三河の言葉の意味が分からなかったので聞き返す。

 

「どういう事?」

「・・・・・・本人は気付いていないと来たか。こりゃ道は険しいねぇ~」

「???」

 

 三河が織部に対して呆れたかのように苦笑してまた背中を叩き、校舎へと戻って行く。

 三河は、先ほど小梅が織部を誘った(何に誘ったのかは分かっていない)のを見て喧嘩しているわけではないという事に気付き、そして小梅が顔を赤らめていたのを見て、小梅が織部に対しどんな感情を抱いているのか、おおよその見当をつけていたのだ。

 一方、何が何だかさっぱり分からない織部は、エリカに注意されるまで呆然と立ち尽くし、考える事しかできなかった。

 

 

 8時、織部は小梅に指定された場所で待っていた。着ているのは当然ジャージ、夕食は少し早めに済ませたので走っている最中に気持ち悪くなるという事も無いだろう。

 街灯の下で待っていると、黒森峰のジャージを着た小梅が駆けてきた。

 

「お待たせしました・・・」

「大丈夫、待ってないよ」

 

 そして2人で準備運動をして走り出す。今夜走るルートは、前走った住宅街と商店街を経て川沿いを走るのではなく、艦の中央部にある大通りを往復するらしい。

黒森峰学園艦の全長はおよそ9000mあり、その内戦車道の訓練場にスペースが取られているので、大通りはせいぜい全長が4~5000m。その半分以上を往復するらしいので、走る距離は大体4~5キロぐらいか。

 織部と小梅は今、その中央通りを船尾に向けて、この前と同じように、隣同士並んで走っている。大通りは学園艦縁遊歩道とは違い街灯もそれなりに設置されているので道が明るく、足元を取られるような事にはならないだろう。

 無言で、最低限の呼吸以外に何も口から発さずに、2人は夜道を走る。体力の無い織部が走ったまま話しかけると、息切れで何を言ってるかわからなくなってしまうからだ。

 数十分ほど走ったところで、フェンスに突き当たる。この先は、戦車道の演習場だ。後はここから折り返して来た道を逆戻りするのだが、ちょうどいいのでここで休憩する事にする2人。

 そして目に入ったのは、あの花壇だ。

 

「「・・・・・・・・・・・・」」

 

 足が吸い寄せられるかのように、織部と小梅はその花壇へと歩み寄る。そして、お互いの過去を告白した日のように、ベンチに2人並んで座る。

 少しの間沈黙していたが、やがて先に口を開いたのは小梅だ。

 

「・・・・・・新入隊員の皆さん、頑張ってますね」

 

 その話題を選んだ理由は分からないが、小梅の本音を聞くには好都合だと織部自身は思った。

 

「小梅さんも入隊した時、あんな厳しい訓練を受けたって事?」

「・・・・・・ええ。あの時のことは、思い出すだけで冷や汗が出てきます・・・」

 

 冗談めかして言う小梅に、織部は安心する。まだ心に余裕がある、それほど追い詰められてはいないという事だ。

 

「やっぱり・・・小梅さんもすごいよ。あんな訓練、僕だったらとても耐えきれない」

「そんな、私なんて・・・・・・」

 

 小梅が少し照れるように微笑み、視線を下に向ける。

 その顔を見て、織部は心が安らぐと同時に、痛んだ。

 このように可愛らしい笑みを浮かべられる小梅も、過去に心に大きな傷を負い涙を流し、そして今は苦悩を抱えていると思うと、やりきれない気持ちになってしまう。

 だからこそ、何とかしてあげたいと織部は思う。

 小梅がこのまま、苦悩を抱えたまま戦車道の日々を過ごしていくのは見ていられない。黙っていられない。

 だから、織部は小梅がこれからどうしたいのかを、聞きたかった。

 できる事なら、織部は小梅の力になりたかった。

 

「・・・・・・小梅さんも、戦車に乗りたい?」

 

 少し間を開けてから織部が問いかけると、小梅は夜空を見上げて、小さく呟いた。

 

「・・・・・・はい」

 

 やはりまだ、小梅の戦車道に対する意欲は消えてはいない。

 

「でも・・・・・・」

 

 否定的な接続詞が口をついて出たので、織部は少し不安になる。

 

「前にも言いましたけど・・・やっぱり私が戦車に乗れなくなったのは私自身のせいですし・・・」

 

 そんなことは無い、とは断言できない。

 黒森峰から見れば、黒森峰が優勝を逃したそもそもの原因は小梅の乗っていたⅢ号戦車にあるとみているし、学校の生徒たちもそうだと信じてやまない。

 それによって小梅がひどい仕打ちをこれまで受けてきた事も事実。根拠のない言葉で慰める事も難しかった。

 

「・・・・・・今は新入隊員の指導が続いていて、いつかは、私を超えるんじゃないかな、って思うんです」

「・・・・・・・・・」

 

 自嘲気味に話す小梅の言葉に、織部は心がズキッと痛む。

 小梅の過去を知っているから、小梅の意欲を知っているから、何より小梅の事が好きだから、小梅が悲観し、諦めるような事を言うのが辛かった。

 

「そうなれば、戦車に乗せてもらえない私はいずれ・・・・・・」

 

 俯いて、そして、告げた。

 

「戦車隊から、外されてしまうかもしれませんね・・・・・・」

 

 織部の目が見開かれた。

 黒森峰の戦車隊は厳しい。それは新入隊員に対する訓練から見てもそうだし、隊長、さらにその隊長の師範から見てもそうだというのが分かる。

 その厳しい戦車隊の中で、戦車に乗せられない人物よりも実力が上の者が入れば、その実力が下の者は外されてしまう可能性だって十分に考えられる。

 もし、それに則り小梅が戦車隊から外されてしまえば、小梅の『みほの戦車道が間違っていないことを証明したい』という信念も、その信念を掲げて自分に辛い状況であっても今まで黒森峰に残り続けていた小梅のこれまでの事も全て、無駄の一言で片づけられてしまう。

 そんな事、織部は黙って許せるはずがなかった。

 それを証明するかのように、織部は隣に座る小梅の手を握る。小梅への恋心に気付いて恥ずかしいとか、そんな感情は二の次だ。

 しかし、手を握られた小梅の方は顔を赤くして織部の事を見たが、織部の表情には照れやからかいと言った感情が見えず、至極真剣な表情で小梅の事を見据えていた。

 

「そんな事、させない」

「・・・・・・・・・・・・え?」

 

 織部の真剣みを帯びた声に、小梅は怯みそうになる。でも、その顔から目が離せない。

 

「小梅さんは言ったよね。『みほさんの戦車道が間違っていないことを証明する』っていう信念を持っているからこそ、黒森峰で耐えてきたって」

 

 織部の言葉に小梅は頷く。

 

「小梅さんが戦車隊から外されれば、その信念も、これまで小梅さんが黒森峰で耐え忍んできた事も全部無駄になる。そんな事、僕が絶対にさせない」

「・・・・・・春貴さん」

「これまでの小梅さんの努力、信念を無かったことに何てしたくない。だからもし、赤星さんが戦車隊から外されるなんてことがあったら、僕が全力で、阻止する」

 

 織部の言葉に、嘘偽りはないのだろう。表情と声のトーンから、織部が真剣に告げているのが小梅にも分かる。

 でも、小梅には一つ解せない事がある。

 

「・・・・・・どうしてそんなに、私の事を・・・?」

 

 織部はどうして、ここまで小梅の事を気にかけてくれているのか。

 小梅に何があったのかを話すまでは、織部は小梅の事を気にかけてくれていた。その後も、織部は小梅の事を見捨てようとはせず、小梅から離れようともせず、ずっと真摯に小梅に向き合ってくれている。

 そして今、織部はまた小梅の本音を聞いて、小梅の力になりたいと言った。

 一体どうして、織部はそこまで小梅の事を気にかけ、小梅の力になろうとしている?

 それが、小梅には分からない。

 

「・・・・・・前に言ったよね。僕はいじめられていたって」

 

 忘れるわけがない。あの時、この場所で聞いた織部の過去の事は、話を聞いた小梅の心に残っている。ましてや好きな人の過去の事を、忘れるはずはなかった。

 

「僕はあの時、理不尽な理由でいじめを受けて学校に行けなくなって、ひどく落ち込んだよ」

 

 過去の事を思い出し、表情を陰らせる織部から、小梅は目を逸らさない。

 

「僕自身が辛い体験をして落ち込んでいたからこそ、同じように悩み落ち込んでいる人の事を放っておけないから」

 

 それに、と告げて織部はつばを飲み込み、そして告げた。

 

 

「僕は小梅さんの事を、大切な人だと思ってるから」

 

 

 小梅は、その言葉を聞いた瞬間、心臓が飛び上がったような気がした。

 それほどまでに織部の言葉は、小梅の心に響いた。

 一方織部はそこまで言ったところで、小梅の手を強く握っていたことに気付き、慌てて手を離す。

 

「・・・・・・ごめん、なんか偉そうに言っちゃって」

「・・・・・・そんな事、無いです」

 

 だが、小梅が再び手を握ってくる。突然小梅に手を握られて、先ほどは一切気にしていなかった柔らかい手の感触と温かい体温を感じたことに、織部の心臓が飛び出しそうになる。

 

「偉そうなんかじゃ、全然ないです。私の事を心配してくれて、私の事を放っておけなくて、それでさっきみたいに私のために力を貸してくれるって言葉を聞いただけで・・・・・・」

 

 そこで少し俯いて、やがて言った。

 

「私は、嬉しいですよ」

 

 微笑み、告げたその言葉に織部は心を射抜かれたような感覚に陥った、ような気がする。

 しばしの間、小梅に見惚れていると、小梅自身も手を繋いでいたことが恥ずかしくなって、そっと手を離した。

 そして、2人はまだジョギング中だったことを思い出し、立ち上がる。

 

「・・・・・・じゃあ、走りますか」

「・・・・・・そうだね」

 

 2人は何だか気恥ずかしい気持ちになりながらも、走り出す。先ほどまで走ってきた中央通りを逆方向に走るのだ。

 再び隣同士で走っている中で、小梅は先ほどの織部の言葉を思い出していた。

 

『同じように悩み落ち込んでいる人の事を放っておけないから』

『小梅さんの事を、大切な人だと思っているから』

 

 あの言葉を聞いた時、小梅は確信した。

 やっぱり、織部は心優しい、強い人だと。

 そしてそこに、小梅自身は惚れてしまったのだと。

 自分と同じ境遇に陥って悩み、もがき苦しんでいる人を放っておけず、助けようとしている織部の生き方に、小梅は深く感銘を受けて、そして恋慕の情を抱いてしまったのだ。

 

(・・・・・・やっぱり、好きなんだなぁ)

 

 一方で織部は、どうすれば小梅が戦車に乗れるようになるか、考えていた。そして、小梅が戦車隊から外されないようにするためには、どうすればいいのかを考えていた。

 だが、その答えは見えかかっていた。

 しかしそれは、織部自身の立場を危うくしかねない手段だ。故に、すぐに行動に移すのは難しい。だが、ぐずぐずしていると、新入隊員たちが育ってしまい、小梅の立場もまた危うくなる。

 けれど、留学という形で半年間の間黒森峰にいる織部自身と、みほの戦車道が間違っていないと証明するために黒森峰で耐え続けてきた小梅、どちらの立場を優先するかなど、織部にはわざわざ選ぶまでも無い事だ。

 この時織部は、小梅を助けるために自分の将来さえも棒に振ろうとしている事に気付いてはいなかった。

 

 

 翌日の戦車道の訓練開始時、織部は新入隊員の人数が減っているように感じた。

 おそらくは、昨日の訓練で心折れた人が辞めてしまったのだろう。いくら1週間猶予があってその間に戦車道を諦める事は自由と言っても、流石に早すぎやしないかと織部は思わなくも無かったが、本人に無理強いをするのはいけないので深くは考えないことにする。

 だが、人数が減った新入隊員への追い打ちと言わんばかりに、今日の訓練は新入隊員と上級生隊員の、草原地帯での模擬戦だった。

 また随分と厳しいスケジュールだなと織部は思ったし、新入隊員もざわついたが、まほはちゃんとこの訓練の意義を説明する。

 戦車を動かすうえで大切なものはチームワークだ。それは戦車内でも、自分の属するチームでも重要である。その重要性を学び、理解してもらうために今日の訓練は模擬戦なのだ。

 それで新入隊員たちは納得したようだ。ただ、今日試合をするのは新入隊員の半分ぐらいであり、残りの新入隊員はまた明日模擬戦を行うようだ。

 今回見学する生徒は、大人数用の高台へと向かう。

 エリカが見学する生徒を連れて行くのを見送ると、まほは次に審判役を決める。

 

「審判長は赤星」

「はい」

 

 まずは小梅が審判長に任命される。これまでの模擬戦でもそうだったのでこれは妥当だ。

と思っていたのだが。

 

「副審は・・・織部と八代で頼む」

「・・・・・・はい」

 

 今、まほは間違いなく織部を副審に任命した。

 これまで織部は一度も副審をやった事などない。模擬戦の際は大体小梅の後ろについて審判の仕事を見ていただけだったので、いきなり副審を任されるとは思わなかった。

 隊員たちに準備に取り掛かるように告げると、隊員たちは戦車に乗りこんでいく。

 そこで織部は、まほに呼び出された。

 

「急な事だが、君にもいずれは審判長をやってもらいたいと思ってる。だから今回は、副審をお願いしたい」

「なるほど」

「審判のやり方は、赤星から聞いてくれ。赤星が審判歴が長いからな」

「分かりました」

 

 そして、今日の訓練後には簡単な報告書を出すように指示を出すと、まほもまた自分の戦車であるティーガーⅠに乗り込んだ。模擬戦、しかも新入隊員相手に隊長自ら参戦するとは、手加減する気が無いらしい。

 それはともかく、織部は小梅の所に向かう。小梅は、通信用のインカムと双眼鏡を人数分用意し、織部と、今回副審を任された八代と言う生徒に渡す。

 八代はもう副審に慣れているようだったが、織部はまだ不安だった。だから、小梅に聞く事にする。

 

「副審は、双眼鏡でフィールドを確認して、どの地点でどちらのチームのどの戦車が撃破されたかを、審判長・・・私に報告するんです。各戦車への通達は私がします」

「・・・なるほど、分かった」

 

 その後、織部は北、八代は東、小梅は西の高台に上って模擬戦を監視する。

 織部のいる高台からは、他の新入隊員が見学をしている高台が見える。皆、興味津々と言ったように演習場内を走る戦車の様子を見ている。

 西側に展開された部隊は、まほ率いる上級生チーム。戦車数は6輌。

 東側に展開されているのは、新入隊員たちのチーム。戦車数は同じく6輌。

 ルールは殲滅戦。どちらかのチームが全滅すれば勝ちだ。

 この試合の詳細は報告書に記さなければならないので、一部始終を注意深く見ていなければならない。審判長の小梅も報告書を書いていたのだから、恐らく織部の書くものは今後審判長となる時のための練習のようなものだろう。

 やがて試合開始時刻となり、審判長の小梅が試合開始の宣言をした。

 

 

 模擬戦の結果、勝ったのは上級生チームだった。

 まあ、大半が戦車道初心者で構成された新入生チームが、既に最低でも1年以上経験している隊員がほとんどの上級生チームに勝つことは、元々難しかったのだ。

 ただ、もう少し手加減をしてやってもいいんじゃないかとは織部も思った。

 上級生チームの動きはいつもと同じく切れがあり、初心者相手であっても容赦なく攻撃を仕掛けていた。まだ戦車に乗り始めて2日ぐらいしか経っておらず、命中率もそれほどではないので、上級生チーム相手に砲撃しても、新入生チームも撃破するのは1輌がやっとだった。

 訓練後、織部たち審判も格納庫の前に戻り、他の隊員たちと共に整列をする。試合をしたらしき新入隊員たちは、自車が撃破された衝撃で煤や灰を被っており、疲れ切った顔をしていた。中には、撃破された衝撃とショックで泣きじゃくってしまっている隊員もいる。

 

「今日の訓練はここまでだ。模擬戦を行った者は、今日の試合の事を忘れず次に臨むように。では、解散!」

『お疲れ様でした!』

『お疲れ様でした・・・』

 

 昨日と同じように、はきはきとした挨拶をする上級生組と、疲労困憊と言わんばかりの挨拶をする新入隊員組。

 織部はインカムと双眼鏡を返そうと思ったが、場所が分からないので小梅に聞く事にする。

 小梅はちょうど、八代からもインカムと双眼鏡を受け取ったところだったので、自分も渡そうと思った。ついでに、置いてある場所も聞いておきたい。

 

「小梅さん、これありがとう」

「あ、はい」

 

 そう言って双眼鏡とインカムを渡したところで、不意に織部の手と小梅の手が触れ合った。

 

「「!!」」

 

 瞬間、小梅の顔が真っ赤になり、織部から双眼鏡とインカムをひったくるように受け取ってそそくさとどこかへ行ってしまった。審判で使った道具を片付けに行ったのだろうが、あの状況では一緒に行っても気まずい空気になってしまうので、追わずに織部は教室に戻って報告書を書くことにした。

 教室に行く前に隊長室でまほから報告書の原紙を貰い、教室で報告書を書き始める。

 日時、天候、模擬戦の目的、戦闘の流れ、総評・・・書く事は多岐にわたり、少しの時間では終わりそうも無かった。

 だが、めげずに記入していく織部。試合中に書いたメモを取り出して戦闘の流れを大まかに書いていく。まほも精密なものを期待してなどいないだろうが、それでもできる限り丁寧に書く。

 そこで、教室の扉から、タンクジャケットから制服に着替えた小梅が入ってきた。

 

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 先ほど、手が触れてしまった事で気まずくなってしまい、声を掛けることもできず言葉をかけることもできず、黙々と報告書を書く作業に戻る織部。小梅も、自分の席で報告書を書き始めた。

 織部は報告書を書いたのは今回が初めてだが、それでも小梅より先に書き始めていたので、書き終えるのも小梅より早かった。

 そして、あまりまほを待たせるのも申し訳ないと思ったので、先に出す事にする。

 明かりが最低限しか灯っておらず、陽が傾いて薄暗くなった廊下を歩き、階段をいくつか降りて隊長室の前に着く。

 ノックをしようとしたところで、中から声が聞こえた。

 

『今年の新入隊員はどうでしょうか、隊長』

 

 聞こえたのは、副隊長のエリカの声だ。

 

『・・・多少動きにムラがあり、砲撃の腕もまだまだだが、筋は良い』

『そうですね。4号車のパンターも、こちらの履帯を正確に撃ち抜いてきましたからね』

『2号車のⅢ号も、命中こそはできなかったがこちらの車輌に掠り傷を追わせてきた。あれは、もう少し鍛錬を重ねれば十分命中を狙える』

 

 2人はどうやら、今日の模擬戦での新入生チームの動きを振り返っているらしい。

 

『後は・・・最終日までにどれだけ残るかが疑問ですね』

『西住流の戦車道は、他のように甘くはない。それについてこれなければ、それも仕方ない事だ』

『はい、それは重々分かっております』

 

 やはり、西住流を背負っているからこそ、訓練には、いや戦車道には一切の手心を加えないのだろう。だから先ほどの模擬戦でも、新入隊員相手に一切手加減をしなかったのだ。

 戦車道の世界とは、やはり厳しいものだなと思いながら、ノックをしようとする。

 ところが。

 

『織部に副審を任せましたが、どうでしょうか』

『彼にはいずれ、審判長をやってもらおうと思っている。今回はそのための予行演習のつもりだったし、今後しばらくの間は織部に副審をやってもらうつもりだ』

 

 いきなり自分の話題を出されたので、ノックするのに戸惑いが生じる。だが、その内容は事前に織部に伝わっていた事だったので、別に驚きはしない。

 

『それと、赤星の件ですが・・・』

『ああ、赤星は・・・』

 

 だが、エリカが切り出した話題を聞いた瞬間、織部は急いでノックをした。

 

『入りなさい』

 

 エリカから許可をもらい、織部はドアを開けて中へと入る。

 

「失礼します。今日の模擬戦の報告書の提出に来ました」

「ご苦労だった。初めての審判はどうだ?」

「・・・正直、緊張しましたが、今後回数を重ねて慣れていきたいと思います」

「・・・そうか、分かった」

 

 まほが織部に話しかけながら報告書を受け取る。およそ数分で報告書を読み終えると、顔を上げて織部と顔を合わせた。

 

「初めてにしては上手く書けている。これなら問題ない」

「ありがとうございます」

 

 織部が頭を下げると、脇に控えていたエリカが『フン』と鼻で息を吐く。何か面白くない事でもあるのだろうが、織部はエリカとはまだ交流が全くと言っていいほどないので性格もまだ分からない。エリカが何を考えているかはとりあえず置いておくことにした。

 だが、織部は褒められても先ほどのエリカとまほの言葉の続きが、『赤星の件』という言葉が気になって仕方がなかった。

 だから、聞かずにはいられなかった。

 

「・・・・・・西住隊長」

「なんだ?」

 

 まほが、小梅をどうするのかを。

 

「少々・・・お話があるのですが、よろしいでしょうか」

「構わないが、どうかしたのか?」

 

 まほが特に深く疑いもせずに織部からの話を聞く態勢に入る。

 だが、そこで織部はチラッとエリカを見る。この話は、あまり他人には聞かれたくないものだった。エリカの性格が分からない上に親交が少なく赤の他人に近い存在のエリカから、これからまほと話をする際に色々織部も問い詰められてしまうかもしれない。

 そんな織部の視線に気付いて、まほがエリカに話しかけた。

 

「エリカ、すまないが少し席を外してくれ」

「・・・はい、分かりました」

 

 エリカは、気が乗らないようだったが大人しくまほの指示に従い、隊長室を出ていった。

 これで、今この隊長室にいるのは、まほと織部だけだ。

 

「・・・で、話とは何だ?」

 

 まほが聞いてくる。

 織部は、まほのような、自分と同じ高校生とは思えないような立場と肩書を持つ人物と真正面から向き合い、胸が張り裂けそうなくらい鼓動が高まっていた。

 そして、これから自分が言う事は、下手をすればまほの癇に障るかもしれないし、余計なおせっかいなのかもしれない。そして、それが原因で自分が元居た学校に強制送還されるかもしれなかった。

 もしかしたら織部は今、中学1年生の時の不登校から復帰する時以上に緊張しているかもしれない。

 でも、恐れていては何もできない。何も言えない。このままではじり貧だ。

 だから、勇気を振り絞って、告げた。

 

「聞きたいことが、あります」

「聞きたい事?」

 

 まほが聞き返す。

 織部は、まほの目を見据えて、言った。

 

「・・・赤星小梅さんの事についてです」

 

 




シクラメン
科・属名:サクラソウ科シクラメン属
学名:Cyclamen persicum
和名:篝火花
別名:豚の饅頭、篝火草(カガリビソウ)
原産地:地中海沿岸
花言葉:気後れ、遠慮、内気、はにかみ


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白菊(シラギク)

黒森峰の話を書く以上、あの時の事はちゃんと書いておくべきだと思ってました。
また、この話で書かれているあの時の真相はあくまで、筆者独自の解釈です。
予めご了承ください。


 少し織部より遅れて報告書を書き終えた小梅は、急ぎ足で隊長室へと向かっていた。もうすぐ陽は完全に沈み、外は暗くなってしまうだろう。

 待たせてしまうと申し訳ないので、小梅は急いで隊長室に向かう。

 だが、隊長室の前にたどり着くと、真っ先に目に入ったのは、壁に背を預けて腕を組んで立っているエリカだ。エリカの表情は、何か考え事をしているようで険しい。

 それを見て小梅は、エリカに尋ねた。

 

「どうかしたんですか、エリカさん?部屋の外で・・・」

「・・・織部が隊長に何か話があるみたいで、席を外すように言われたのよ」

「そうだったんですか・・・」

 

 しかし、副隊長のエリカを同席させないような話とは、何だろうか。それほどまでに重要な話のか、それとも個人的なものなのか。

 小梅も気になったが、今はエリカの言う通り話をしている最中なので小梅も入る事はできない。大人しく、エリカと一緒に部屋の外で待つことにした。

 

「・・・・・・気になるわね」

「?」

 

 だが、エリカがボソッと呟く。

 エリカは、みほが黒森峰を去ってからみほの代わりに副隊長になり、戦車道の際はまほの傍で補佐を務めていた。みほが去る以前からも、戦車隊では車長として高い実力を誇っていてまほから一目置かれていた。だからまほと接する機会もそれなりに多く、今こうして合理的に副隊長を務めている。

 だが、そんなエリカがまほから『席を外してほしい』と言われたのは初めての事だ。最初は異を唱えようとしたのだが、基本的に上下関係を大切にするエリカも隊長の命とあらば従わないわけにもいかないので、大人しく外に出た。

 そして、ずっと2人が何の話をしているのかを推測し、考えていたのだ。

 

「・・・何の話をしているのかしら」

「さあ・・・・・・」

 

 まだ黒森峰に来てからまだそれほど時間も経っていない織部が、唐突にまほに話があると言ってエリカを外に出して、今織部はまほと2人きり―――

 

「まさか!」

 

 エリカが何かに感づいたように目を見開く。小梅は何事かとエリカに目をやる。

 エリカは、とんでもない事に気付いてしまったようにわなわなと震えていて、口元に手をやっている。

 一体、どんな予想をしたというのか。小梅も少し気になってエリカの方を見て、目で『どうしたんですか』と問いかける。その視線に気付いたのか気付いていないのかは分からないが、エリカは唇を震わせながら、言葉を紡いだ。

 

「・・・織部・・・告白する気かも」

 

 エリカの脈絡も突拍子もない予想に、小梅も肩透かしを食らう。一体どういう理屈でそんな結論に至ってしまうのか。

 とりあえず、その発想に至った経緯を聞く事にする。

 

「な、なんでまた・・・・・・」

「・・・・・・西住隊長はとても魅力的な人よ。一目惚れしてしまう可能性だって十分にあり得るわ」

 

 分からなくもない。小梅も1年以上まほの下にいたので見慣れてしまったが、まほは非常に整った顔立ちに、魅力的な身体と、同性からも羨ましがられるような外見をしている。さらに文武両道、西住流の後継者で国際強化選手という輝かしい戦績も併せ持つ。それ故に学内の女子からの人気が高く、バレンタインデーの時はチョコを大量に貰っていて、時には告白されるなんてことも多々あるぐらいだ。

 女性からもそうなのだから、当然男も心惹かれるような存在だろう。

 

「しかも織部・・・前に一度隊長と食事をしたそうじゃない。それで一層惚れたって言う可能性も・・・」

「・・・・・・」

 

 前に何度か、小梅はエリカの私服を見た事がある。良く言えば随分と育ちの良さそうな服を着ていた記憶がある。

 それに黒森峰女学園は、戦車道の強豪校という点以外にも、レベルの高いお嬢様学校として名を馳せている。

 これらから推測できることは、エリカは相当なお嬢様―――しかも箱入り娘の部類に入るのだろうと考えられる。

 エリカは恋愛などしたことも無いだろうから、推測でしかものを言えないのだと、小梅は思った。

 先ほどの安直とも言える発想も、そう考えればまあ頷ける。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 しかし、なぜかエリカの推測でしかない言葉を聞いたら、小梅の胸がちくりと痛んでしまう。

 その理由はやはり、織部の事を好きであるからだ。

 同時に覚えるのは、もしも織部が本当にまほに告白をしてしまったら、という恐怖にも似た焦燥感だ。

 もし、織部がまほに告白でもしたら、小梅のこの内にある大きな気持ちはどうしてしまえばいいというのだ。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅が1人であれこれ考えていると、エリカが隊長室のドアに耳をくっつけて中の話を聞こうとしていた。

 それは流石にやめておくべきだと小梅は思う。

 

「エリカさん・・・それはちょっと・・・・・・」

「黙りなさい、中の話が聞こえないでしょ」

 

 エリカは普段は落ち着いているのだが、一度スイッチが入ってしまうと他のものには目もくれずそれに集中するタイプ、直情的な性格をしていた。

 こうなったエリカはてこでも動かないだろう。小梅は、エリカを扉から引き離すのは諦める。

 そして、小梅も中の織部とまほに『申し訳ない』と謝りながら扉に耳をくっつける。

 

(・・・・・・春貴さんが、隊長に告白するとは思いたくないけど、心配だから聞いているのであって・・・)

 

 と、誰に対して説明しているのか分からないような口調で小さく呟く小梅。

 それは置いておき、小梅は中から聞こえてくる会話に意識を集中する。

 

『・・・赤星小梅さんの事についてです』

 

 

 

 織部の言葉を聞いたまほは、織部の顔が恐怖や怯えなどに染まってしまっているのに気付いた。

 そんな顔をしている理由は、薄々とだが分かる。

 まほは自分の立場を弁えているつもりだ。自分がこの黒森峰の戦車隊でどんな立場なのか、戦車道の世界ではどんな存在なのか、そして自分はどう思われているのかを大体理解しているつもりだ。

 その人物と向き合って話をしているのだから、怯えるのも緊張するのも無理はない。

 だが、聞きたいことが小梅の事だとはどうしたことか。

 

「赤星の何を聞きたいんだ?」

「・・・・・・赤星さんを、どうするつもりですか」

「どうする、とは?」

 

 まほが問うと、織部は制服の裾を握って俯く。

 今から自分の言う事は恐らくおせっかいかもしれないし、もしかしたら織部がそれについて言及したことで逆に小梅の立場が危うくなるかもしれない。その事実に今更気付いて、織部は軽はずみなことをしてしまったと後悔してしまう。

 けれど織部は、ここまで話して『やっぱりいいです』とは言えない。それは時間を割いてくれたまほに対しても失礼だ。

 それに、もしも小梅の立場が悪くなったりでもしたら、その時は全力で織部は小梅の味方をすると心に誓っている。『全力で阻止する』と小梅にも言った。

 だから、決して織部は小梅の事を見捨てるつもりはない。

 

「・・・・・・赤星さんは僕が来た時から、模擬戦では審判、通常訓練では監視と、戦車には乗りませんでした。おそらく、何らかの理由があって戦車には乗っていない、あるは戦車から降ろされたのだと、僕は思っています」

「・・・・・・・・・・・・」

「新入隊員の皆さんが育っていき、その人たちが赤星さんの実力を超えてしまえば、赤星さんは戦車隊から除隊されてしまうのではないか、と僕は不安に思ったんです」

 

 実際、小梅自身からどうして戦車を降ろされたのか、推測ではあるもののその理由を聞いてはいるのだが、それは今言ってはならない。

 そして今、織部はまほの口からついて出てくる言葉を聞くのが怖かった。

 何も言ってこないまほの言葉を待つのが、怖い。それなりに空調が聞いており心地よい風が吹いていて過ごしやすい温度のはずなのに、背中に汗が滲んでいるのが分かる。

 さらにまほがどんな顔をしているのかを知るのが怖くて、視線を下に逸らしてしまう。

 

「いや、そうはならない」

 

 だが、まほが発した言葉は、織部の推測を否定するものだった。

 それを聞いて、織部の視線が上がり、まほに向けられる。織部が無意識のうちに握りしめていた拳も、解かれていた。

 

「君は、去年の戦車道全国高校生大会の決勝戦の事を知っているか?」

「・・・・・・はい。テレビで見ていました」

「・・・あの時、対戦していたプラウダの戦車から攻撃を受けて、川に落ちた戦車がいた事も知っているか?」

「ええ」

 

 知らないわけがない。小梅自身の口から、教えられたのだから。

 

「あの戦車の車長は、赤星だった。赤星の戦車が落ちてしまった事で、後ろにいたフラッグ車のみほ―――元副隊長が赤星たちを助けようとし、戦車を降りた。それでフラッグ車は撃破されて、我が校は優勝を、10連覇を逃した」

 

 淡々とその時の事を語るまほの顔は、悔しそうに見える。

 彼女は去年も黒森峰戦車隊を隊長として務めていたのだから、他の誰よりも優勝を逃したことを悔いていて、誰よりも深刻に考えていたに違いない。

 

「我々が勝てなかったそもそもの原因は、赤星の車輌が川に落ちてしまった事だ。雨で天候が悪かったうえに、走行していた道も状態が悪かったとはいえ、川に落ちたのは不注意から来たものだ。だからその責任を取らせる形で、赤星たちをしばらくの間戦車から降ろし、雑務や補助的な役割を任せて、信用を取り戻すように命じた」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 それは、やはり想像の通りだった。そしてその雑務や補助的な役割とは、模擬戦での審判や、毎日の訓練の報告書の作成、さらに戦車の手入れなどだろう。

 しかしそうだとすれば、あの全国大会から実に10カ月以上たった今も戦車に乗せないというのは、罰則としては少々長すぎると織部は思っていた。

 小梅の性格から、信用を回復するために任された役割を、怠惰な態度でやっていたとは考えにくい。現に、この前織部が最初に小梅と審判を務めた時、小梅は真剣に審判を務めて、報告書も分かりやすく丁寧に、そして綺麗に書いていたではないか。

 

「だが、それともう一つ、理由がある」

「?」

 

 まほの続く言葉に、織部は耳を傾ける。前のめりに聞き入りそうになるが、そこは流石に場を弁えて辛抱する。

 

「赤星は恐らく、自分のせいで黒森峰が10連覇を逃したという事に対する責任を強く感じている。それと同時に、あの時川に落ちてしまった事で、戦車に対する忌避感―――一種のトラウマを抱いているのかもしれない。そう思い、しばらくの間戦車には乗せないでいたんだ。機を見計らって、また戦車に乗せようと思ってる」

 

 まほが少し俯き、やがて顔を上げて織部の顔を見る。

 

「来週から、新入隊員たちが正式に配属される事になる。赤星には、新入隊員たちの指導をしてもらおうと思ってる」

「・・・・・・じゃあ」

「赤星は車長として実力もそれなりにあるし、それ以外の役割・・・審判や報告書の作成も難なくこなせる。それらの指導をしてもらおうと、思っていたところだ」

 

 だから、と言ってまほは手を組んで椅子に背を預ける。

 

「赤星を除隊させるという事はしない」

 

 

 

 部屋の外でその言葉を、織部とまほの話を聞いていた小梅は、冗談抜きで涙を流しそうになった。

 それは、自分が戦車隊から外されるという不安が取り除かれたことによる安心感から来るものもあるが、それ以上の気持ちもある。

 それは、織部が小梅の身を真剣に案じていて、西住まほという自分たちとは住む世界が違うような相手に対しても物怖じせず、小梅の今後の事を聞いた事が、嬉しかったのだ。

 織部は『同じように悩み落ち込んでいる人の事を放っておけない』という言葉通り、小梅の事を心配してくれていたのだ。

 思わず肩を震わせ、涙が流れそうになるのを堪える。

 隣にいたエリカは、肩を震わせている小梅に気付いてふっと小さく笑う。

 どうやら織部が気になっているのは、まほではなく小梅の方だったらしい。

 織部がまほに告白するかもしれないという心配も取り除かれたので、ドアから耳を離し大人しく待とうとしたが。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・え?」

 

 まだなお中の様子に耳を傾けている小梅が呆けたようにつぶやいた言葉を聞いて、エリカもまた先ほどと同じように耳を扉にくっつけ、中から聞こえてくる話声に集中する。

 

 

 自分の唇が笑っているのが、織部自身にも分かる。

 織部の心配は、小梅の心配は、全て取り越し苦労だったようだ。

 緊張感が失せて、肩の荷が下りた事で、織部は1つ息を吐く。

 

「・・・・・・そうでしたか・・・。よかった・・・」

 

 そこで、ふっとまほが笑った、ような気がした。

 

「・・・・・・随分、赤星の事を気にかけているようだな」

 

 そう言われて、無礼だとは知りながらも織部は視線を逸らして頬を掻く。まさか正直に小梅が好きだからなんて言えるはずもないので、はぐらかす。

 

「・・・・・・赤星さんは、ここに留学してきたばかりの僕に色々な事を教えてくれましたし、僕に優しく話しかけてきてくれました。だから、その赤星さんの事が心配で・・・・・・」

「・・・なるほど」

 

 まほは一応それで納得したらしい。

 

「・・・正直、赤星の事は気にかけているつもりだった。だが、この前君と赤星が一緒に登校して、赤星が笑っているのを見かけて、安心したよ」

 

 そう言えば黒森峰に来たばかりの時、小梅たちと一緒に登校している際なんだか視線を感じたような気がしたが、あれはまほのものだったのか。

 だが、まほのその安心したような言葉を聞いて、織部の心の中にはまた疑問が芽生える。

 小梅の事を考えて、戦車に乗せないでいたという事は、まほはちゃんと人の事を気遣うことができるという事になる。特に自分の隊員の事をまほは真剣に考えているということが分かる。この前織部が倒れて保健室に運ばれた時も、まほは謝ってきた。それは、仮とはいえ織部もまた黒森峰戦車隊の一員だったから、という理由が大きいのだろう。

 そこまで考えると、やはりどうしても小梅のあの言葉を思い出してしまう。

 

『黒森峰の隊長であり、みほさんの姉であるまほさんも、糾弾されるみほさんの事を庇う事もせず、守ろうともせず・・・・・・』

 

「織部?」

 

 考え込んでいると、まほから声を掛けられてしまった。

 

「まだ何か、聞きたいことがあるのか?」

「あ、いや・・・ええと・・・・・・」

 

 織部は、“それ”を聞くか聞かないか迷う。

 多分だが、高確率で“それ”を聞くとまほの機嫌を悪くしてしまう。そうなれば、織部の今後の身の振り方も少々真剣に考えなければならないだろうし、最悪の場合は強制送還されるかもしれない。

 ここは聞かない方が賢明だ。

 しかし。

 

「こうして、面と向かって2人だけで話せる機会も、あまりないだろう。自分で言うのもなんだが、私は他の皆と比べると少し忙しい身だからな。今のうちに、聞きたいこと、聞いておきたい事は聞いた方がいいと思う」

 

 まほに言われ、踏みとどまっていた織部の背中が、とんと押されたような感じがしてしまう。

 だから織部は、聞く。

 聞いてしまう。

 

「・・・・・・西住隊長は、赤星さんの事を真剣に考えていたという事は分かりました。でも、それでまた一つ、疑問が生まれました」

「疑問?」

 

 織部は、まほから視線を逸らし、少し下の方を見ながら言葉を紡ぐ。

 

「・・・・・・どうして、赤星さんの事を真剣に考えられたのなら・・・」

 

 今でも、織部の理性は『聞くな』と言っている。心を引き留めようとしている。叫んでいる。

 けれど、織部の言葉は止まらなかった。

 

 

「・・・・・・どうして、西住みほ元副隊長の事を、守らなかったんですか」

 

 

 まほの肩が、ピクッと動いた。

 まほの周りの空気が変わったのが分かる。

 織部は今、間違いなく、まほの中の触れてはいけないものに触れてしまった。

 

「・・・・・・・・・どういうことだ」

 

 先ほどの柔らかい雰囲気が全く感じられない、捉え方によっては怒りをにじませるような声を聞き、織部は胃袋が縮んだような感覚になる。だが、ここで黙っていては余計状況を悪化させかねない。だから、この疑問を口にしてしまった事に最大級の後悔を感じながらも、素直に言うほかない。

 

「・・・・・・西住隊長は、去年の決勝戦で優勝を逃した原因を作った西住みほさんが学校から糾弾され、他の生徒から心無い言葉を浴びせられて傷ついて痛いにもかかわらず、一切擁護しなかったと、聞きました」

 

 その情報の出どころは小梅なのだが、それは口が裂けても言えない。この疑問はあくまでも織部自身の中にある疑問であり、それに小梅を巻き込むわけにはいかないからだ。

 

「先ほどの赤星さんの処遇を聞いて、西住隊長は優しい人だというのが分かりました。なら、どうして西住みほ元副隊長を庇わなかったのか、それが疑問に思えてならなかったんです」

「・・・・・・・・・・・・・・・そうか」

 

 まほが、小さく息を吐く。

 怒っているんだろうか、怒っているんだろうなぁ、と織部は思っている。何せ新参者の自分が、いきなりこんなことを聞いたのだから、無礼にもほどがあるだろう。

 そろそろ、真剣に強制送還されるのではないかと心配し出したが、俯いていた顔を上げたまほの表情を見て、織部は少し驚いた。

 あのまほが、戦車道の訓練中は真剣な表情を決して崩さないまほが、少し悲しげな表情を浮かべていたからだ。

 

「・・・・・・これから話す事は、他言無用にしてもらいたい。これを厳守できるのであれば、その理由を話そう」

 

 織部は、自分で言うのもなんだがこういう約束事はよく守っていると思っている。その真面目な性格もそうだし、相手に嫌われたくないという気持ちがあるからだ。

 織部だって今の自分の立場が惜しいし、悪印象をまほに与えたくもないので首を縦に振る。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・はい」

 

 その返事を聞くとまほが立ち上がり、応接スペースのソファに織部を通す。これから話す事は、長くなってしまうという事だろう。

 まほに向かい合う形で織部も座る。

 

「・・・・・・先ほど織部の言った通り、黒森峰が10連覇を逃した原因は、フラッグ車の車長だったみほが赤星の車輌の搭乗員を助けるために戦車を降りて、司令塔を失い動けなくなったフラッグ車を狙われて撃破されたからだ」

「・・・・・・はい」

 

 それもまた、小梅から聞いていた。

 織部は、黒森峰の外部から来たにも拘らず、黒森峰の戦車道の事情に深くかかわっていることになるのだが、それは一先ず置いておく。

 

「そして、それが原因でみほが皆から糾弾されていたのも、私は知っていた。みほは副隊長だったからな。戦車隊の中でも露骨ではないがみほの事を悪く言う輩がいた事も、知っていた」

「・・・・・・だったら」

 

 知っていたにもかかわらず助けないというのは、流石に冷酷すぎる。だが、そうなれば先ほどの赤星に対する気持ちと行動、さらにはまほ本来の性格と矛盾する。

 

「・・・・・・だが、庇わなかったんじゃない。庇えなかったんだ」

「・・・・・・え?」

 

 しかし、意外なまほの言い方に織部は身を乗り出す。

 まほの言い方では、本当はみほの事を庇いたかったというニュアンスが含まれているように聞こえる。

 

「・・・・・・知っているとは思うが、西住流は何があっても前に進み続ける流派、犠牲無くして勝利は得られないという考えが根付いている。そして、西住流の影響を大きく受けているこの黒森峰の戦車隊も、同じような考えがある」

 

 隊長の私自身西住流の人間だからな、と冗談めかしにまほが言うが、今は笑えない。

 

「あの決勝戦で川に落ちた赤星の戦車は、黒森峰が勝つための犠牲になった、と西住流は捉えていた。だから、その犠牲を救おうとしたみほが、勝つことを貴ぶはずの西住流のみほが責められるのも、仕方がない事だった」

「・・・・・・」

「だが、黒森峰から、それも試合に参加してもいない、それどころか戦車道をやっているわけでもない生徒からも責められるのは、少し私も腹が立っていた。当事者でもないのに、あの試合に出ていたわけでもないのに、戦車に乗る者の覚悟や気持ちを全く知らない者が好き勝手に責め立てる事が、悔しくて腹立たしかった」

 

 今明かされる、あの時のまほの感情を聞いて、織部も驚く。

 やっぱりまほも、1人の少女だったというわけで、妹が責められていることに対していい感情を抱いてはいなかった。

 ではどうして、まほはみほの事を庇わなかったのか。

 

「だが・・・・・・私は黒森峰の隊長で、西住流を体現しているような存在だ。その私がみほを庇ってしまえば、みほの行動は間違っていなかったと証明するようなもので、それはつまり・・・西住流の教えそのものが間違っていると周りに誤解されかねない」

「・・・・・・あ」

 

 西住流には犠牲無くして勝利は得られないという考えがある。

 だが、周りから見ればみほは、その犠牲を助けようとするために行動を起こし、黒森峰を敗北へと追いやった。

 そのみほを、西住流を体現しており、西住流の後継者でもあるまほがみほを庇い、みほの行動は間違ってはいなかったと言ってしまえば、それはすなわち西住流の考え、教えを否定する事に繋がる。

 そうなれば、西住流に対する不信感を生み出してしまい、黒森峰戦車隊もさらに混乱してしまうだろう。

 自分たちの信じていた教えや考えは、間違っていたのだと。

 

「・・・・・・それに私はあの頃、信用が失墜してしまっていた黒森峰戦車隊を立て直す事に必死になってしまっていたから、みほを気にかけることができなかった・・・。これは、言い訳に近いな」

 

 自省するかのように言うまほに、織部は『いえ・・・・・・』という弱気な言葉しかかけられない。

 

「みほは、師範―――私のお母様からも非難された。その時私は、お母様の側についた。それは私が西住流の跡取り筆頭であるし、私自身西住流そのものであると自負していたから。加えてお母様に歯向かう事を、私自身心のどこかで恐れていたからだ」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・周りに西住流の教えが間違っていると思われたくなかったから、私はみほを庇えなかった」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・私と同じ西住流だからと、私の妹だからと、1年生であるにもかかわらず副隊長を任せ、あれやこれやと負担をかけ、挙句みほを庇う事も、守る事もできなかった・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「結果みほは黒森峰を去ってしまい、戦車道とは無縁の学校へと転校した・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「私は、妹のみほと西住流のメンツを天秤にかけて、私は西住流を選んだ」

 

 まほは失笑し、そして、言った。

 

「姉として、失格だな」

 

 悲痛な表情で語るまほの気持ちは、西住流の人間ではなく、本来黒森峰の人間でもない織部の想像を絶するものだろう。

 織部みたいな外部生が聞いていいような、触れていいような話ではなかった。

 今さらながら、この話を切り出したことを後悔し、そしてまほにも辛い事を思い出させてしまった事を申し訳なく思う織部。

 

「どうしてだろうな、君にここまで話せたのは」

 

 悲しみの混じった笑みを浮かべるまほ。織部はその顔を直視できず、俯いてしまう。

 

「君はあの時まだ黒森峰にいなくて、黒森峰戦車隊の事情を深く知らなかったから、かもしれない。今はもう全てを知ってしまっているが」

「・・・・・・一つ、言わせていただいてもいいでしょうか」

「?」

 

 織部がおずおずと言葉を紡ぎ出す。

 そして、小さく息を吸い込んで、織部個人としての気持ちを告げる。

 

「・・・みほさんの行動は、確かに西住流としては間違っていたかもしれません。でも、人として間違った行動はしていなかったと僕は思います」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 まほは何も言わない。織部の言葉を待つ。

 

「命の危険な状況に陥った人を、迷いもせず助けに行くなんて、誰にでもできる事ではありません。それをやってのけたみほさんは、人として間違った事はしていない、むしろ正しい事を、誇れることをしたというのが僕個人としての意見です」

 

 そこで、まほの表情を覗う。まほは真剣な眼差しで織部の事を見ており、織部の話を集中して聞いている。

 

「・・・・・・西住隊長、あなたはどう思っているんですか?みほさんの行動を」

 

 織部に問われたまほの答えは、決まりきっていた。

 

「・・・・・・私も同じだ。みほは、人として正しい事をしたと思っている。姉としても、誇らしい」

 

 それを聞いた織部は、小さく笑う。

 

「さっき、西住隊長は言いましたよね?みほさんを庇えなかった、と。という事は、あなたは本心ではみほさんを助けたいと、庇いたい、と思っていたんですよね」

「ああ、その通りだ」

 

 織部の言葉にまほは即答して頷く。

 

「そして、みほさんが矢面に立たされているのを見ているのが辛かったと」

 

 頷くまほ。

 

「守りたいという気持ちがあったのなら、妹のみほさんが責められて辛い気持ちがあったのなら、あなたにも妹を想う気持ちがあったという事です」

 

 まほの目が、僅かに見開かれる。

 

「あなたは、姉失格なんかじゃない」

 

 そこまで言ったところで、織部は出しゃばりすぎてしまったと気付き頭を下げる。

 そしてここで、深入りしてしまった事を謝る。

 

「・・・・・・元々部外者の僕が黒森峰の事情に深入りし、あなたに辛い事を思い出させてしまって・・・申し訳ございません」

「・・・・・・いや、気にしなくていい」

「・・・・・・どんな罰も処遇も、受ける覚悟です」

 

 あのまほに、年上で、世界レベルの実力者であるまほに偉そうに諭すような真似をするなど、分を弁えていないにもほどがある。そして、おそらくは黒森峰の多くに知られてはならないだろうみほとまほに関する真実を知った以上、織部も今後自由に動けるかどうかは定かではない。

 黒森峰から去るように言われても、おかしくはない。

 織部はその覚悟を持ったうえで、全てを聞いたのだ。だから、どんな罰も受ける覚悟はできている。

 だが、まほはふっと笑った。

 

「・・・・・・心配しなくていい。君を悪いようにはしない」

「・・・・・・?」

「君は戦車道連盟と黒森峰、そしてお母様―――西住流師範に認められてここにいるというのは既に知っている。ここまで来るのに、多大な努力や積み重ねてきたものがあるのだろう。その上でここに来た君を、無碍に追い払う事などしないさ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 口ではそう言っているが、内心何と思っているかは分かったものではない。

 他人の、特に身分が自分とは違う者の言っていることを素直に信用できないのは、織部のいじめられて以来染み付いてしまっている悪い癖だと自覚している。

 だが、まほは嘘をつくような人間ではないというのはもう分かっていた。なのであまり深く疑いはしない。

 

「・・・・・・みほには、まだ私の気持ちを伝えてはいない。伝える前に、みほは黒森峰を去ってしまったからな」

 

 まほの気持ちとは、本当はまほ自身みほを守りたかったということだろう。

そして伝えたい事とは、あの時のまほの本音と、守れなかったことに対する謝罪の気持ちだろう。

 だがみほは、まほの考えとみほに対する想いに気付けず、まほに見捨てられたと早とちりしてしまい、それ以外の要因も重なって黒森峰から去ってしまったのだから。

 

「いつかはみほに直接会って、この気持ちを伝えたいと、そしてあの時守れなかったことを謝りたいと思っている」

 

 真実を知り、もはやただの留学生という立場ではなくなった織部は、まほから真実を聞き出して話させてしまった責任と言うものがある。

 だから織部は、まほの言葉を、決意を、背中を押して認める。

 

「僕は、まほさんを応援しますよ。いつか、その気持ちを告げられるといいですね」

 

 

 

 話は終わり、まほは部屋の外で待機しているであろうエリカを呼び戻そうとした。

 だが、部屋の外にいたのは報告書を持っていた小梅だけで、エリカの姿は無かった。小梅にエリカがどこにいるかを聞いてみると、『気分が悪くなって先に帰り、隊長には申し訳ないと伝えてほしい』と小梅が伝言を預かっていた。

 織部はその小梅の言葉に何ら疑問を抱かなかったが、まほは違ったらしい。何かを考えるかのように、顎に指をやっていた。

 しかしまほは疑問を一先ず置いておき、小梅の報告書を預かって織部と小梅は帰っていいと指示を出す。

 指示を受けた2人は、教室へ鞄を回収し、今現在帰路に就いている。

 

「・・・・・・春貴さん」

「何?」

 

 帰り道で、小梅が春貴に話しかけてきた。

 今日の模擬戦の事でも聞いてくるのかと思いきや、当てが外れた。

 

「・・・・・・ちゃんと私の事を、考えてくれていたんですね」

「・・・・・・・・・・・・え」

 

 頭が真っ白になってしまう。

 このタイミングで、まほと話をした後でそんな言葉を言われて、どうしてこんなことを言われるのか、その理由はすぐに分かった。

 

「・・・・・・聞いてたの!?」

「・・・・・・はい」

 

 あのまほとの話が聞かれたという事は、色々と厄介だ。

 とりあえず目下最大の懸念事項は、みほとまほの真実だ。あれは、口外するなと言われているし、もし他の皆に知られたら状況は決して良い方向に転がりはしない。

 

「・・・・・・西住隊長の話は―――」

「大丈夫です。誰にも言いませんから」

 

 まあ、小梅は決してこのような重要な話を吹聴するような性格ではないと分かっているので、それに関しては安心する。

 それともう一つ気がかりな事は、織部が小梅のこの先の事を心配し、まほに直接小梅をどうするのかを訊ねたあの話を聞かれたのだ。

 できればあれは小梅には聞かれたくなかったし、それだけ小梅を気にかけていたという事で、織部が小梅に向けている感情にも気づかれてしまう可能性が非常に高い。

 他人への好意、恋心とはその相手には、自分から言わない限りは決して知られたくないものだ。でなければ、相手の自分を見る目が変わってしまい、これまで通りの関係を維持することができなくなって、その想いを告げる事が困難になってしまうから。

 織部が小梅を好きだという事が気付かれているか、それが気がかりだった。

 

「・・・・・・春貴さん、本当に・・・私の事を考えてくれていたんですね・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 とりあえず、織部の恋心は知られていないようだ。けれど、本人に聞かれていたのはすさまじく恥ずかしい。

 心の中で恥ずかしさに悶えていると、右手に柔らかい感触。

 突然の感触に驚いて織部が自らの左手を見れば、小梅の左手が繋がれていた。

 小梅も勇気あるものだったようで、顔が赤くなっているのが街灯に照らされて分かる。

 そんな小梅が顔を織部の方に向けて、微笑み、こう言った。

 

「・・・・・・本当に、ありがとう」

 

 織部は、言葉では返さず行動で答えを示すことにした。

 小梅に向けてにこりと笑い、繋いだ手をギュッと握り、いつも別れる交差点まで共に歩いた。




キク
科・属名:キク科キク属
学名:Chrysanthemum morifolium
和名:家菊(イエギク)
別名:星見草(ホシミグサ)千代見草(チヨミグサ)
原産地:中国
花言葉:真実(白)


確認も混めて。
この作品のメインヒロインは、小梅です。小梅です。


感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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瑠璃唐綿(ブルースター)

 休日を挟んだ週明け。

 月曜日の訓練メニューは学園艦外周の遊歩道走り込みで、今格納庫前に集合している隊員たちは全員、体操服やジャージなどの動きやすい服装に着替えている。織部もまた、ジャージだった。

 しかし、走り始めるその前に隊長のまほが集合をかけた。そして今のまほは、この前見たような黒森峰の校章がプリントされたタンクトップではない、いつものタンクジャケットを着ている。傍に立つエリカも同様、他にも数十名の隊員がタンクジャケットだった。

 

「今日から、正式に新入隊員が配属される事になる。ここまでの訓練、よく頑張った」

 

 まほに言われて、新入隊員たちが全員頭を下げる。人数は、最初に入ってきた新入隊員の3分の2ぐらいだ。これだけの人数が、あの厳しい訓練をよく耐え抜いたと、織部自身も感慨深い気持ちになる。何せ、見てるだけで厳しいと分かる訓練だったのだから、実際に戦車に乗っていた隊員たちも辛かったろう。

 それを乗り越えて今日、正式に皆は黒森峰戦車隊の一員として迎え入れられたのだ。

 隊員たちも拍手をして新入隊員を温かく迎える。厳しいイメージのある黒森峰でも、それぐらいの祝う気持ちはあったようだ。

 拍手で迎えられ、これまでの苦労と努力が認められたことで、新入隊員たちは涙ぐんでいた。

 

「新たに入隊した者はタンクジャケットの採寸、それ以外の者は通常通り走り込みだ」

『はい!』

 

 正式に入隊と言う事で、いよいよあのタンクジャケットが支給される事になるのだ。黒森峰戦車隊に入ることを望む者にとっては、誰でも一度は袖を通したいというあのジャケット。これで、もう立派に黒森峰戦車隊の一員として認められる。

 新入隊員たちが採寸の為に校舎へ向かうのを横目に見ながら、元居た隊員たちと織部は走り込みを始めた。

 コースはいつも通り、学園艦を縁どるような遊歩道。4月も半ばを過ぎて、気温が順調に上がってきているので、春先であっても脱水症状などに気を付けなければならない。

 今遊歩道を走る織部も、自分の体調を十分に考慮して無理のない程度に走っている。

 そしてその隣には、小梅がいた。

 

「大丈夫ですか?春貴さん」

「まだ大丈夫。問題ないよ」

 

 早く走り終えれば何か褒美があるというわけでもないが、わざわざペースの遅い織部に合わせて走る事も無いだろうに。小梅のためにもならないだろう。織部はそう思っていた。

 織部のその考えに小梅は気付いたのか、小梅は織部に笑いかけてきてくれた。

 

「私の事は心配しないでください。私もこうしてゆっくり走る事で、ペースを乱さずに済んでいますから」

「そうか・・・・・・」

 

 一応、小梅が大丈夫だというのならそれでもいいかと織部は割り切って、走る事に集中する。

 途中何人かに抜かれていくが、織部も小梅も対抗心を燃やすことなくペースを守って走る。黒森峰学園艦はやたらと広く大きいので、この学園艦を縁取るような走り込みのコースで周回遅れになるという事は無いはずだ。

 

「・・・・・・あの、小梅さん」

「はい?」

 

 今、織部と小梅の周囲には人がいない。目視できる範囲では、少し先の方を走っている生徒が1人いるが、この距離では声は聞こえまい。後ろを見ても、走っている生徒の姿はない。

 

「・・・・・・この前は・・・・・・本当に、わざとじゃなかったんだ。でも、あんな事をして・・・・・・」

 

 切り出した話題は、織部が小梅に対する恋心に気付いてしまったきっかけとなった事故、書庫で故意ではないとはいえ小梅を押し倒してしまった件だ。

 あの事故が無ければ、織部は自身の内にある気持ちを認める事も、気持ちに気付く事もできなかったのだが、同時に小梅に対してひどい事をしてしまったという自覚もある。罪悪感だってもちろんある。小梅の心に傷を負わせてしまったかもしれないと、今でも不安でならない。

 好きな人にあんなことをしてしまったのだから、悔やむに悔やみきれない。

 

「・・・・・・私は、大丈夫です。気にしていませんよ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅が織部に笑いかけてくれる。それだけで、織部は報われたような気持ちになるし、そして何よりその笑顔にくぎ付けになってしまう。小梅に出会ってから、もの悲しげな顔や憂鬱そうな顔を見ることが多かったからか、最近になって見せてくれる笑顔がとても新鮮に感じる。そして、そんな小梅の笑顔が、織部は好きだ。

 

「・・・・・・むしろ、嬉しかったというか・・・」

 

 小梅がボソッと何かを呟くが、織部には聞こえなかった。聞き返すと、小梅は少し顔を赤らめて『何でもないです・・・』とだけ言う。

 それはともかく、あの時も言ったが織部は何かお詫びがしたかった。それは小梅に対して悪い事をしてしまった事による償いと言うのもあるし、小梅に嫌われたくないという気持ちの表れでもある。

 

「でも何か、小梅さんにはお詫びをしたくて・・・・・・」

「・・・・・・私は本当に、大丈夫ですから」

「けど・・・・・・」

 

 小梅は、織部が社交辞令とかではなく、本当にお詫びがしたいと思ってそう言っているという事に気付いている。

 本当に小梅はあの時の事を不快に思ってなどいない、むしろ心地よかったとさえ思っている。

 だからお詫びなんていらないと思っているのだが、ここで断ると織部はなお気にしてしまうかもしれない。だから、ここは織部の厚意を受けた方がいいかな、と思った。

 そして何より。

 

「・・・・・・分かりました。では、お詫びと言っては何ですが・・・」

「?」

「私と―――」

 

 告げられたお願いの内容を聞いて、織部は少し首をかしげる。

 

「・・・・・・そんな事でいいの?」

「ええ、それでOKです。これで恨みっこなしにしましょう」

「・・・・・・・・・・・・分かった」

 

 何より、これで織部との距離を少しでも縮められたらいいな、と思ったから、小梅は織部の厚意を受け入れたのだ。

 

 

 ゆっくりと走ったからか、織部と小梅は全体でも最後の方で走り込みを終えた。格納庫の前に戻った時には既にほとんどの隊員たちが戻っていたが、織部と小梅が一緒に帰ってきたのを見て、三河と直下が何やら訳知り顔で笑っていた。織部は何も見ていないふりをして整列する。

 新入隊員たちは、採寸が終わった後は解散となったらしい、既にその姿はない。

 まほが訓練終了の号令をかけ、隊員たちは挨拶をして帰り支度を始める。だが、その段階でまほが小梅に声を掛けてきた。

 

「赤星、制服に着替えたら隊長室に来てほしい。話がある」

「・・・・・・はい、分かりました」

 

 呼び出しを受けた小梅。そして校舎へと向かう小梅の足取りは重い。

 この前まほから話を聞き、新入隊員の指導を小梅に任せるということが分かっていたので、恐らくまほはこれからそれを小梅に言うのだろう。

その話は小梅が外で聞いていたので、新入隊員が正式に入ったこのタイミングで話されることとは、これから話す話もそれだと小梅自身も分かっているはずだ。

 だが、隊長と一対一の状況で話をするというのがやはり緊張するのだろう。その気持ちはよくわかる。織部だって、この前しほと一対一で訓練用の高台にいた時、緊張のあまり倒れてしまったのだから。

 これからの状況に対する緊張を隠せない小梅に対して、織部はその小さな肩に優しく手を置いた。

 

「?」

 

 小梅が織部の顔を見上げる、織部は小梅に対して優しく微笑んで見せる。

 

「・・・・・・大丈夫。そんな心配することは無いと思うよ」

 

 その言葉で緊張がほぐれたのか、小梅は前を歩くまほの背中を見据えて、大きく頷いた。

 

 

 まほと話を終えた小梅は、織部と共に戦車を停めてある格納庫を訪れていた。明かりもついていない格納庫の中は薄暗く、注意しなければ躓いたり戦車にぶつかりそうだ。

 そんな中を小梅は、慣れているような足取りで進んでいく。織部はかろうじて見える小梅の背中を見失わないように後についていく。

 やがて小梅は、1輌の戦車の前で立ち止まった。その戦車は、黒森峰戦車隊特有の黄土色に塗られている。黒森峰の校章と、前面の傾斜装甲が特徴的なその車輌は、黒森峰戦車隊の半数以上を占めている主力戦車・パンターG型だ。

 小梅はそのパンターに歩み寄り、手入れされている装甲に手を触れる。

 

「・・・・・・乗れるんだね、遂に」

「・・・・・・はい」

 

 先ほど、小梅はまほから2つの話を受けた。

 1つは、新入隊員の指導をする事。と言っても、これは分かっていた事だし、小梅一人で担当する事でもないので、別に問題はない。

 そして、もう1つの話とは、この新入隊員指導を機に、戦車にまた乗る事ができるようになった事だ。

 その話を聞いた後、小梅は笑みを浮かべて、はきはきとした声でこう言った。

 

『ありがとうございます!隊長のご期待に沿えるよう、頑張ります!』

 

 およそ10カ月ぶりに戦車に乗る事になった小梅。搭乗する戦車は、あの全国大会決勝戦で乗っていたⅢ号戦車ではなく、このパンター。

 戦車が変わったのは、恐らくまほなりの気遣いだろう。あの時落ちた戦車に対して小梅は、あまりいい思い出がないだろうから。

 事実、この前戦車道博物館に行った際、小梅は展示されていたⅢ号戦車のレプリカを見た途端、あの時の事を思い出してしまったから、まほの気遣いも正解と言える。

指導をする事、戦車に乗る事が決まったと織部に伝えると、織部もまるで自分の事のように喜んでくれた。

 小梅のここまで積み重ねてきた努力がついに報われる。ついに、1人の戦車乗りとして復活することができるのだと。

 そこで明日からの指導を前に、小梅は一度自分の乗る戦車を見ておきたいと申し出て、今こうして格納庫にやってきたのだ。

 

「ちょっと、良いですか?」

 

 小梅が断りを入れると、小梅は戦車をよじ登る。そしてハッチを開けて、戦車の中へと滑り込んだ。

 車長の席に座った小梅は、どこか懐かしい気持ちになる。

 乗っていた戦車はあの時とは違うが、鉄と油の匂いは変わらないし、皆よりも少し高い位置に座って車内を見渡す感覚も、以前と同じだ。

 戦車の手入れで中に入った事は何度かあったが、それはまだ戦車に乗る事を認められていない時だ。認められた今、またこの車長の席に座ると、その時とは違う、懐かしい感覚が蘇ってくる。

 

(ああ・・・・・・)

 

 暗い車内を見て、そして空気を感じて、小梅は目を閉じる。

 

(・・・・・・戻って来たんだ・・・)

 

 わずかな間だけだが、パンターの車長席に座っていた小梅はやがて席を立ち、戦車から降りた。

 地面に足をつけると、織部が顔を綻ばせて小梅の事を見ている。その織部の表情の理由が小梅には分からず首をかしげると、織部が小梅の事を見たまま告げる。

 

「今の小梅さん、すごくいい顔してるよ」

「へっ・・・・・・そうですか?」

「うん。何だか、生き生きしてる感じだ」

 

 織部に言われて、小梅は顔に手をやる。自分では気づかなかったがまさかそんな恥ずかしい顔をしていたとは。

 一方で織部は出会った初めの頃は暗い顔をしている印象が強かった小梅が、最近では笑顔を見せるようになったことに心底安心し、また嬉しかった。

 そして今、再び戦車に乗る事になり、小梅の顔は一層輝いて見える。

 その顔を見た織部がこんなことを言った。

 

「その顔、僕は好きだ」

 

 その言葉を聞いた直後、小梅が顔を赤くして俯いてしまう。

 そして発言した織部本人も、バカなことを言ってしまったと後悔していた。『顔が好き』なんて、遠回しに告白しているようだし、どころかただの面食いと思われるかもしれない。

 だが、ここでその言葉を否定してしまうと今の小梅の顔は全然輝いてもいないというニュアンスで取られてしまう。

 

「えっと、好きっていうのはそう言う意味じゃなくて・・・・・・」

 

 織部が取り繕うとするが、俯いていた小梅は織部の顔を見て、にこりと笑った。

 

「・・・・・・ありがとう、嬉しいです」

 

 その顔を見ただけで、織部はほんの少し体が軽くなり、あれこれ深く考えるのはやめておいた。

 一度発した言葉を撤回して忘れさせるのは不可能に近い事だし、そして何より小梅の生き生きとした表情が織部は好きであることに変わりは無い。それに小梅も少々恥ずかしがりはしたが、嬉しそうにしていたので良しとすることにした。

 小梅は、再び戦車を見上げて大きく頷く。

 そして、織部に向き直った。

 

「じゃあ、行きましょうか」

「・・・・・・分かった」

 

 小梅に促され、織部と小梅は格納庫を出て学校を後にして、次の目的地へと向かった。

 

 

 

「・・・本当に、こんな事でいいの?」

 

 向かい合って座る織部と小梅。

 過失的に押し倒してしまった事に対するお詫びがこんな事でいいのかと改めて不安になり、聞いてみたのだがその小梅自身は十分だと言わんばかりに頷いた。

 

「ええ、これで十分ですよ」

 

 小梅が告げたところで店員が料理を持ってきた。織部の前に置かれたものはハンバーグ、小梅の前に置かれたのはカリーヴルストだ。

 小梅がお願いしたこととは、織部と一緒にご飯を食べるという事だった。

 食事をする場所は別に決めてはいなかったので、とりあえずあのドイツ料理店という事になり、今こうして2人はその店にいる。

 織部としては、好きになった小梅と一緒に食事をするという事自体は別に嫌ではない。むしろ小梅と一緒に時間を過ごせるのだから嬉しい。

 しかして、お詫びがこの程度の事でいいのだろうか。

 

「そんなに気にしなくても大丈夫ですよ。あの時の事は、もう私も気にしていませんから」

「そう・・・・・・それならいいんだけど・・・・・・」

 

 あの時の事を小梅は気にしてないと言った事に織部は安心したが、本当に何とも思っていないというのはそれはそれで傷つく。なんだか自分が男として見られていないような気がするからだ。

 

「~♪」

 

 そんな織部の気持ちなどつゆ知らず、小梅は美味しそうにカリーヴルストを食べている。まあ、小梅が気にしていないと言っているのだし、食事を楽しんでいるようだし多くは言わない事にしよう。

 そう思い、織部もハンバーグを食べることにする。出来立てで熱かったがとても美味しい。ライスに乗せるとまた格別だ。

 そんな感じでしばしの間ハンバーグの味に舌鼓を打っていると、小梅がこちらを見ている事に気付いた。

 

「・・・・・・どうかした?」

 

 気になったので小梅に尋ねると、小梅は『な、何でもないですよ』と言ってヴルストと一緒に皿に載っているポテトを齧る。

 だが、小梅の言葉が嘘だというのに織部は気付いていた。

 小梅は、織部に話したい事があるということだろう。だが、小梅は今食事を楽しんでいるし、うっかり辛い話を切り出させてしまうとせっかくのご飯も不味くなってしまいかねない。だから、食べ終わるまで待つことにした。

 少しの間、織部と小梅がそれぞれ自分の料理を食すことに集中し、やがて食べ終わり水を飲むと、小梅がかしこまって姿勢を正す。

 やはり、何か話したいことがあったようだ。

 

「・・・・・・少し、私の話を聞いてもらっても、良いですか?」

「・・・いいよ。話してみて」

 

 小梅は間違いなく何かに困っている、あるいは不安を抱いている。

 小梅に惚れてしまった以上、織部は小梅の力になりたかった。いや、惚れた事を差し引いても、新学期初日から寄り添うようにしてきた織部は、小梅の中にある不安や恐れを取り除いてあげられるように、力になりたかった。たとえ、織部に何もできなくても、話だけは聞いてあげたかった。

 

「明日から・・・私は新入隊員の皆さんと一緒の戦車に乗って、皆さんの指導役になるんです」

「・・・・・・」

 

 織部もその話は聞いていたので、素直にうなずく。けれど、このタイミングで話して来るという事は、小梅の言いたいことがなんとなくだが織部には分かった。

 

「それで、やっぱり不安なんです・・・。皆が、私についてきてくれるかどうか・・・私が、ちゃんと指導できるかが。後輩なんて今までいた事ありませんでしたし・・・」

 

 やっぱりそう言う話かと織部は思った。小梅の優しい性格と過去の経験から、小梅はあまり楽観的に物事を考えられないと織部は分かっていた。だから明日からの新人指導に対して及び腰なのだというおおよその予想もほんのわずかだがついていた。

 だからと言って織部は小梅の事を笑ったりはしない。同じ立場に織部が立ったとしたらと想像し、織部だって同じように人を指導する立場に立ったことなどないので、いざ経験者として人にものを教えるとなると尻込みしてしまうのも分からなくはない。

 でも、そんな織部でもほんの少しだけだけだが言えることはある。

 

「・・・・・・僕も、人を指導したことなんてないから、あれこれこうした方がいいなんて指図する事はできない」

「・・・・・・」

 

 小梅も、ただ自分の不安な気持ちや思いを聞いてほしかっただけであって、アドバイスまで求めてはいない。

 もう、自分はこの短い期間で織部に頼りすぎてしまい、助けられ過ぎていると小梅は分かっていた。

 自分の過去を聞いてもらって、戦車道博物館では気持ちを落ち着かせてもらって、夜のジョギングでは怪我をした自分の事を介抱してくれて、そして何より、織部の言葉が黒森峰で失意のどん底にいた小梅の事を救ってくれて。

 だからこそ、その真摯で優しい織部の事が好きになったのだが、これ以上織部の手助けを必要とするのは少々烏滸がましい。

 でも、織部は。

 

「だけど、1つだけ言わせてほしい」

「?」

 

 織部はそう前置きをして、こう言った。

 

「無理して厳しく教えようとはしないで、いつも通りの小梅さんで教えていけば、いいんじゃないかな」

「・・・・・・いつも通りの、私・・・?」

 

 確認するように小梅が聞き、織部は頷く。

 

「無理に厳しくしようとすると、逆に自分自身が罪悪感や申し訳なさで辛くなる。いつも通りの優しい小梅さんで教えてあげれば、教わる側も付いてくるはずだよ。黒森峰に入学して、その戦車隊に入って1週間の特訓を耐え抜いたんだから、そこまで反発的な態度も取らないと思うし・・・あくまで推測だけどね」

「・・・・・・・・・・・・」

「だからまあ・・・・・・舐められるような事は無いとは思うけど・・・。ともかく、教える側だからって変に気張ったり厳しくしようと取り繕ったりもしないで、いつも通りに教えればいいと思うよ」

 

 小梅自身、不安だったが強豪校である黒森峰の一車長として、そして先輩として厳しく接していこうと考えていた。

 だが、普段からあまり怒ったり厳しくしたりしない、どちらかと言えば物腰が柔らかい小梅はその厳しく指導するという事に対して不安を抱いていた。それが、先ほど織部に話した事にもつながっている。

 だが、織部から『無理して厳しくしなくてもいい』という言葉を聞いて、肩の荷が下りたような気持ちになった。

 

「それと、自分一人だけでやって行こうとも思わない方がいい」

「・・・・・・え?」

「小梅さんだけじゃないんでしょ?他に新入隊員の指導をする人は」

 

 今年入った新入隊員の指導をするのは、何も小梅だけではない。根津や斑田達同期の車長に、もちろん3年生だって行う。

 

「躓きそうになったり、行き詰ったりしたら、迷わず皆を頼った方がいいよ。なんでもかんでも、1人で抱え込まない方がいい」

 

 そうだ。今まで―――小梅自身が黒森峰で矢面に立たされて自分を孤独だと思い込んでいた時、小梅は誰にも相談しようとはしなかった。

 

「・・・・・・皆に頼ろうとはせず、全部自分一人で抱え込もうとすると、いずれまた・・・・・・昔みたいになるよ」

 

 織部はそれを、小梅から話を聞いて分かっていた。だからそれを、あえてもう一度教えた。

 小梅はそれに気づき、またその時の事を思い出して、空になった皿に目を移す。

 

「それに・・・・・・僕だっている」

 

 小梅が顔を上げて織部の顔を見る。

 

「話を聞いてあげるくらいだったら、僕にでもできる。今みたいにね」

 

 まるで、具体的に小梅の力に慣れないことを悔やむような、悲しい笑みを浮かべながら織部が肩をすくめる。

 

「僕だって今こうして偉そうに言ってるけど、人を指導した事なんて一度も無い。だから僕の言葉が正しいなんて確証はどこにもないし、小梅さんがその通りにしないといけないなんて事は無い。だから僕の言ったことは、単なる一個人の意見として聞き流しても・・・・・・」

「いいえ」

 

 織部の言葉を遮る形で、小梅が口を開く。

 そして、今なおもの悲し気な顔をしている織部に向けて笑みを浮かべてこう言った。

 

「私は・・・・・・これまで何度も春貴さんの言葉に救われました・・・。春貴さんの言葉を信じてきたから、今の私があって、だから・・・・・・」

 

 小梅は、織部の顔を真っ直ぐに見据えて、告げた。

 

「春貴さんを・・・・・・春貴さんの言葉を、信じます」

 

 一瞬、ほんの一瞬だけ、織部は少し呆けたような表情を浮かべる。だが、小梅から信じると告げられて照れくさくなり、思わず視線を下に逸らす。

 

「・・・・・・僕なんかの言葉を信じてくれて・・・ありがとう」

 

 その言葉に小梅は、笑って見せた。

 

 

 翌日から、まほの言った通り小梅は新人指導に当たることとなった。

 前に述べたように、新人の指導をするのは小梅だけではない。だが、実際に同じ戦車に乗って直接指導をするというケースは少ないようで、根津に斑田、直下や三河は誰の指導をするかの指示を受け、無線機で指導をする形をとるらしい。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅の搭乗するパンターに乗っている4人の新入隊員たちは今、そのパンターの前に整列している。全員1週間の特訓を耐え抜いた、真に黒森峰戦車隊に入りたいと願っていた子たちだろう。

 全員姿勢を正しており、目は真っ直ぐに小梅の事を見ている。その目だけで、誰もふざけているつもりがないというのが分かる。あの1週間の訓練で気が引き締まったのか、それとも元からそう言う性格なのか。それは、これから知っていけばいいことだ。

 

『いつも通りの小梅さんで教えていけば、いいんじゃないかな』

 

 織部のあの言葉は、肝に銘じている。変に取り繕ったりせず、無理に厳しくしようともせずに、織部の言ういつもの優しい小梅の態度で接していけばいい、という意味で織部は言ってくれた。

 

「・・・私が、このパンターの車長で、皆さんの指導役を仰せつかった赤星小梅です。よろしくお願いします」

『お願いします!』

 

 小梅が自己紹介をすると、威勢のいい返事が返ってくる。仮入隊の時に聞いたような覇気の無い挨拶ではなかったので、内心小梅は少し驚いていた。正式に入隊し、タンクジャケットも支給されたことで黒森峰戦車隊の一員になったという自覚が強くなったようだ。

 

「これから皆さんとは、一緒のチームで動きますので、協力していきましょう」

『はい!』

「では、それぞれのポジションについてください」

『了解!』

 

 小梅が告げると、4人の新入隊員はパンターに乗り込み、それぞれの定位置につく。

 小梅も最後に乗り込もうとしたところで、格納庫の脇に立っていた織部と目が合った。

 織部も小梅に気付いたようで、小さくガッツポーズを取った。おそらくは、『頑張って』と言っているのだろう。

 小梅もそれに、ガッツポーズで返し、うんと頷いてからよじ登って戦車に乗りこむ。そして車長席に座って車内を見回す。既に定位置についている隊員たちが、前をじっと見て待機している。

 小梅は、去年Ⅲ号戦車の車長として戦車に乗っていたころを思い出していた。

 入隊直後の適性試験で“車長”判定が出て、まほから車長に任命された時は面食らい、できるわけがないと不安になっていた。けれど、同じく車長に選ばれた根津や斑田たち同期の皆に励まされて車長の任務を全うし、全国大会に出られるほどの腕前を身につけた。

 そしてふと、今はここにいない人物の事も思い出す。

 

(・・・・・・みほさん)

 

 西住流の直系で、隊長のまほの妹だからという理由もあったが、西住みほもまた小梅と同じ車長だった。

 あの全国大会決勝戦以前から小梅はみほと交流があった。親友・・・とまでは言えないがそれなりに関わりのあった、知人とも言える関係だった。

 だからこそ、川に落ちた自分の事を助けてくれたみほの事を今も尊敬してやまないし、みほが黒森峰を去ったと知った時はひどく落ち込んだ。

 それから織部の手助けを受けて小梅は立ち直り、みほのあの時の行動が、みほの戦車道が間違っていなかったと証明したいから、今こうして戦車に乗っている。

 その信念は揺るぎなく、これから先曲げるつもりもない。

 だから小梅は、これからも、自分の戦車道を歩み続けるのだ。

 

(私も・・・・・・頑張ります!)

 

 車内に取り付けられているスピーカーから、隊長であるまほから前進開始の指示が下る。

 小梅は、車長として操縦手及び同乗している乗組員たちに指示を出した。

 

戦車、前へ(パンツァー・マルシュ)!」

 




ブルースター
科・属名:キョウチクトウ科ルリトウワタ属
学名:Oxypetalum coeruleum
和名:瑠璃唐綿
別名:オキシペトラム、トゥイーディア
原産地:ブラジル、ウルグアイ
花言葉:信じあう心、幸福な愛


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幸福木(マッサンゲアナ)

 織部が黒森峰に来てから1カ月ほどが経過した。

 自分以外男子がいないという状況にも慣れ、戦車道の活動も軌道に乗り、どうにか留学生活に身体が馴染んできた感じだ。

 しかし、まだ懸念すべきことはある。

 それは、授業の事だ。それも、ドイツ語の。

 ドイツ語以外の科目は、織部が元々通っていた高校とは何ら変わらないので別に問題はない。ただしドイツ語の授業に関しては黒森峰に来て初めて受ける授業なので、他とは勝手が違う。このドイツ語の授業は本来ならば1年生から受けるものであるため、2年生からは1年生の頃に習った文法を用いることが多々ある。だから、1年生の時の授業を受けていない織部は苦戦していたのだ。

 なぜ、今頃そのことについて悩み始めているのか、その理由は当然ある。

 

(・・・もう中間試験か・・・結構早いもんだなぁ)

 

 戦車道の訓練も無く、さらに2週間に1度の学園艦が寄港している今日、どこにも出かけずに学習机にノートと教科書を広げている織部は、机の前で忌々し気に考えていた。

 織部の言葉の通り、もうすぐ中間試験の時期だ。具体的には次の連休明けで、まだ2、3週間ほど猶予があるのだが、そんな猶予はあって無いようなもの。

 他の科目はどうにかなるだろうが、ドイツ語に限っては基本すらわかっていないので、全部理解するまでにはかなりの時間を必要とする。実際、毎日の訓練後も予習復習を繰り返しているのだが、あまり身についていない。

 中間試験が近くなったので訓練の時間も通常より少し短めだが、それでもまだ足りない。

 せめて1年生の教科書でも誰かに借りられればいいのだが。

 

「・・・ダメだ、まったくわからん」

 

 椅子に背を預けて天井を見上げる。

 これは、1人でどうこうできるような問題ではない。もしかしたら、次の試験では赤点を取ってしまうかもしれない。だが、織部の成績は黒森峰にはもちろん、織部の元居た学校にも全て知られる。もし赤点など取ったら、どうなるか分かったものではない。

 それに加えて織部は赤点を取った事などこれまで一度も無い。だから、一度も取った事がない、言わば劣等生の証とも言えるそれを取るのが、取ってしまうのが怖かった。

 とにかくこのままではだめだと思い、誰かに教わる―――最悪1年生の時の教科書があれば貸してもらうことに決めた。

 確か、直下がドイツ語が得意と言っていたので、まずは直下に聞いてみる事にする。早速、電話をしてみることにした。

 ちなみに、直下や斑田、根津と三河の連絡先は、最初に寄港してみんなで一緒に買い物に行った時に交換している。

 直下の携帯に連絡するのは連絡先を交換して以来初めての事だ。加えて、ドイツ語の教科書を貸してもらい、あわよくば教えてもらおうなんてちょっと馴れ馴れしい、図々しいと織部自身も思う。それ以前に直下もテスト勉強中かもしれないのでその邪魔をする形になってしまうが、相応のお礼はするつもりだ。それは流儀とかではなく、基本中の基本の行動だ。

 スマートフォンを取り出し、直下の連絡先を引っ張り出し、通話ボタンを押す。4,5回コール音が鳴ったところで直下が電話に出た。

 

『もしもし?』

「あ、直下さん?今大丈夫?」

『大丈夫だよ。どしたの?』

「えっと・・・・・・実は折り入って頼みがあって」

『何々?』

「直下さんさえよければなんだけど・・・・・・」

『?』

 

 用件を言おうとする前に、やはり相手の迷惑にならないかが不安になるが、迷惑だと思えば向こうが断るだろうし、まずは聞いてみることにした。

 

「・・・1年生の時のドイツ語の教科書って、ある?」

『え?あるけど・・・・・・あ、もしかして試験に向けて?』

「うん・・・・・・基礎も分かってない感じだから、せめて教科書さえ見れば分かるかなって・・・」

『なるほどねぇ』

 

 そこで直下が考え込むように唸る。そして『あ、そうだ』と小声でつぶやいたのは幻聴ではないような気がする。

 

『ごめんね、織部君。今見たんだけど、教科書がちょっと私のメモとか書き込みが多すぎて読みづらくて、人には貸せない感じなんだ』

「あ、そうなんだ・・・」

 

 では別の人からでも借りればいいか、と織部は思った。ここで『じゃあ直接教えてよ』と言えるような豪胆さも図太さも織部にはない。

 次は同じクラスの根津か斑田にでも聞いてみるか、と思っていたところで。

 

『赤星さんに借りてみたら?赤星さん、教科書は大事にするタイプだし』

「・・・・・・え」

 

 突如小梅の名が出た事に困惑する織部。

 

『ごめんね。私が教えられたらいいんだけど、こっちも手一杯なんだ』

「あ、そうなんだ・・・・・・分かった。ごめんね、忙しいところ声掛けちゃって」

 

 そうして、直下との電話は切れた。

 そして、直下の言った通り、小梅に聞いてみる事にする。画面をスライドし、電話帳から小梅の連絡先を表示させる。

 だが、直下に電話をする際には感じなかった緊張感を、織部は抱いていた。

 直下同様、連絡先を交換して以来織部は初めて小梅に携帯で連絡をする。ただそれだけなのに、なぜこんなにも緊張してしまうのだろうか。

 頼む事も、1年生のドイツ語の教科書を貸してほしいとお願いするだけ、何も疚しい事などないはずなのに。

 ここまで電話をかけることを躊躇するとは、恐ろしいものだ。

 しかしこのままスマートフォンを手に持ったまま硬直し続けていると、完全にタイムロスとなってしまうので、意を決して通話ボタンを押す。

 

 

 中間試験までまだ2週間以上あるとはいえ、早めに対策をしておくに越したことは無い。

 そんなわけで小梅は、2週間に1度の寄港日で訓練も無い今日この日、机に向かって試験勉強をしていた。

 小梅の苦手科目と言うのはこれと言って無い。黒森峰独特のドイツ語も、問題なくこなすことができている。なので今、小梅は満遍なく全ての科目の試験範囲を復習している。だが、まだ試験まで2週間以上あるのでこれから試験範囲は増えるかもしれない。そのことも考慮して、試験勉強を続ける。

 一区切りついたので、背を伸ばして小休止をしたところで、スマートフォンが電話の着信を告げた。手にとって画面を見ると、織部の名が表示されているのに気づき、目を見開いた。

 なぜ、どうしてこんな時に電話をかけてくるのだろう。

 とにかく、織部を待たせるわけにもいかないので電話を取る。

 

「も、もしもし!」

 

 つい声が裏返ってしまった。

 

『あ、小梅さん・・・?今、大丈夫・・・?』

 

 だが織部はそんな小梅のテンパりをあまり気にしていない、逆に後ろめたさを感じさせるような口ぶりで話しかけてきた。

 どうやら織部は別に緊張しているわけではないようで、小梅も一つ咳ばらいをし、一度落ち着いてから改めて織部の話を聞く態勢を取る。

 

「・・・大丈夫ですよ。どうかしましたか?」

『えっと・・・・・・折り入って頼みがあるんだけど・・・・・・』

 

 織部からこうしてお願いをされる事は、これまで無かったと小梅は記憶している。

 これまで小梅は、幾度となく織部に助けられてきた。直接的な行動で助けられたこともあったが、多くは織部の言葉によって、小梅の心は救われてきた。

 だから少しでも、そのお礼がしたいと思っていた小梅は、この織部からお願いされる事は願ってもない事だった。

 

「・・・いいですよ。私にできる事であれば、何でもしますから」

『・・・・・・ありがとう。で、お願いしたいことはね・・・・・・』

 

 一体何を言われるのか。

 小梅は期待半分、不安半分で身構えるが、織部の口から告げられたのは。

 

『ドイツ語の教科書を、貸してほしいんだ。1年生の時の』

 

 その、実にシンプルなお願いごとの内容を聞いて、小梅も少し肩透かしを食らう。

 だが、そのお願いをしてきた理由も小梅にはなんとなくつかめていた。

 

「ああ・・・・・1年の授業を受けてないから、基本が分からない・・・って感じですか?」

『そうなんだ。で、教科書を見れれば、少しでも分かりやすくなるんじゃないかなって』

「それでしたら・・・・・・」

 

 小梅は『貸しますよ』と言おうとして、考える。

 このままそう答えて、貸すのは簡単だ。

 だけど、それだけで織部とのやり取りは終わってしまう。織部との距離は、今のままで終わってしまう。

 小梅の心には、織部の事が好きだという想いが根付いている。だから、少しでも織部との距離を縮めたいと、思っていた。そのためには、今のままではいられない。何か少しでも、織部との距離を縮めるきっかけが欲しかった。

 故に、小梅はこう言った。

 

「・・・私の部屋に来ますか?教科書を貸すついでに、基礎的なところも教えますよ」

『・・・・・・え?』

 

 織部からすれば意外過ぎる小梅の提案を聞き、呆けたような声を洩らす織部。

 だが、小梅も先ほどのような言葉では少々恩着せがましいようなニュアンスを含んでいるように聞こえてならないと自分で思ったので、補足した。

 

「あ、えっと・・・・・・教科書を読んだだけでも分かりにくいところはあるかもしれませんし・・・だから、それを補う形で、私も教えます」

『・・・・・・・・・・・・・・・』

 

 補足している中で、どんどん小梅は自分の発言が踏み込み過ぎたものだという意識が強くなってきて、そして何より何も言わない織部の反応を知るのが怖かった。

 その恐怖のあまり、自分の言ったことを撤回しようとする小梅。

 

「って、ご、ごめんなさい。私――――」

『ううん、是非』

 

 織部の答えを聞いて小梅は一瞬硬直する。だがその硬直状態から解放したのもまた、織部の言葉だ。

 

『小梅さんが教えてくれると、僕も助かる』

 

 よかった。

 織部が、小梅の提案に対して不快感を抱かずにいてくれたことが、よかった。

 

「・・・・・・わ、分かりました。では、私の部屋まで・・・来てください」

『うん。準備をしたら、すぐに行くよ』

「あ、私の寮の部屋は・・・・・・」

『覚えてる、大丈夫だよ』

「・・・はい、では後程・・・・・・」

 

 通話が切れて、小梅は机に突っ伏す。

 随分と、緊張する電話だった。

 1つのお願いを受け入れて、1つの提案をしただけだというのに、とてつもないほど心が疲れた気がする。

 でも、いつまでもぐずぐずしているわけにはいかない。

 間もなくこの部屋に、織部が来る。

 この前のジョギングの時とは違い、正式に織部がこの部屋に来るのだ。

 少しでも部屋を綺麗にしないと。

 そう思い小梅は椅子から立ち上がって、戸棚から掃除機を取り出した。

 誰がどう見ても、部屋は綺麗に見えるのだが、それは気分の問題というような感じだ。

 

 

 電話が切れた後、織部は手の中のスマートフォンをしばしの間見つめていた。

 そして、先ほどまでの小梅との会話を思い出す。

 ただ教科書を貸してもらうだけのはずが、小梅の部屋へ赴いてドイツ語の事を教えてもらう事になった。

 自分は今、夢の中にいるんじゃないのかと錯覚する。

 だけど、通話履歴には間違いなく教先ほどの時刻で小梅との通話記録が残っている。夢ではないようだ。

 

「・・・なんてこった」

 

 小梅の部屋に行くのは2回目だが、1回目はジョギングでケガした彼女を部屋に送り届けるために行ったのであって、正式にお呼ばれしたわけではない。

 ただし今回は、その正式にお呼ばれしたケースだ。

 となると、ただ勉強道具を除いて手ぶらで行くのは少々忍びない。

 行く途中で何かお菓子でも買わないと、と思い至り、鞄に勉強道具と財布、携帯を突っ込んで部屋を出ようとする。

 が、部屋を出るためにドアノブを回そうとするその寸前で、織部は肝心な事に気付いた。

 女の子の部屋に上がるなど、ましてや好きな子の部屋にお邪魔する事など、織部の人生の中ではこれまで一度も経験したことの無い事だ。人を好きになった事などないし、ジョギングの時は意識する暇もなかったので、ちゃんと招待を受けて行くのに関してはこれが初めてだ。

 これまで人に恋した事などない自分が女の子の部屋に行くなんて、ちょっと前からすればあり得ない事だった。

 一大イベントと言っても過言ではないこれからの出来事に対しての覚悟が、足りなかったと織部は悔いた。

 さしあたり、まずは服をもう少し外向きの良い服にしようと思い至って踵を返し、タンスの中をひっくり返す勢いで服を選びなおした。

 

 

 およそ5分ほどかけてどの服を着ていくかを考えてから再度出発し、途中コンビニに寄りお菓子を買って、記憶を頼りに小梅の暮らす寮へと向かう。エレベーターを昇り、そして『赤星』のプレートが掲げられた部屋の前に到着すると、すぐにインターホンを押さずに1つ深呼吸をする。

 そして、指をガタガタと震わせながらインターホンを押す。電子的な音が響き、少ししてからドアが開いた。

 

「・・・・・・こんにちは」

 

 扉を開けたのは他ならない、小梅だ。白のニットのトップスに青のデニムを履いている。これで小梅が制服で出てきたら、同じく私服の自分の立場が無くなると心配していた織部は、小梅の私服姿を見て安堵する。

 

「ごめんね、急にこんなこと頼んじゃって」

「いえいえ、気にしないでください」

 

 そこで織部は、手に提げていた勉強道具が入っていた鞄とは別のビニール袋を掲げる。

 

「これ、お菓子。良かったら食べて」

「あ、ありがとうございます・・・さ、どうぞ」

「お邪魔します・・・」

 

 おっかなびっくり靴を脱ぎ、小梅の部屋に足を踏み入れる。部屋は、件のジョギングの時とは変わっていない、パステルカラーで纏められた小梅の部屋。

 部屋に通されたはいいものの、どこに座っていいのかも分からず織部が立ち尽くしていると、小梅がリビングテーブルの前に座るように促してきたので、そこに遠慮がちに座る。小梅が織部の真正面に座って、お見合い状態となってしまった。

 

「・・・・・・えっと、今日はごめんね。急に押し掛けてくるみたいな形になっちゃって・・・」

 

 座った直後、まずは突然上がり込んでしまった事を謝罪する織部。

 だが小梅は手を横に振って笑った。

 

「いえ、迷惑なんてことはありませんよ。春貴さんの力になれるのなら、私は・・・・・・」

「?」

 

 小梅が何かを言おうとしたが、そこで小梅がハッとしたように立ち上がり、戸棚からカップを二つ取り出した。

 

「お茶を出しますね。コーヒーでいいですか?」

「え、そんなお構いなく・・・・・・」

 

 変に他人行儀な言葉が出てしまい、小梅が小さく吹き出す。

 おそらく織部は、織部は小梅に教えを乞うためにここへ来たのだから、もてなしを受ける事に対して後ろめたさがあるのだろうと小梅は考えている。

 だが、ここに誘ったのは小梅だし、何も出さないというのも小梅にとっては罪悪感を覚える。

 そして織部が教科書の有無について聞いてきたように、織部もまた試験勉強中だというのが分かる。ならばせめて、今だけは少しでもリラックスしながら勉強してもらいたいと思い、コーヒーを出すのだ。

 

「大丈夫ですよ。春貴さんはゆっくりしててください」

「ゆっくりとしてられないんだけどね・・・今の時期は」

 

 コーヒーの粉末をカップに注ぎ、その1つを織部の前に置いて、既に沸いていたお湯をカップに注ぐ。そして冷蔵庫から砂糖とミルクのカップを取り出し、テーブルの中央に置く。

 

「・・・・・・いただきます」

 

 控えめに、テーブル中央のミルクと砂糖を手に取り、自分のカップに混ぜる織部。そして一口飲むと、ほろ苦い味が口の中に広がり、自分でも緊張していた心が落ち着いたような気がする。

 小梅も自分のコーヒーにミルクと砂糖を混ぜて、一口飲む。そして、お互い同時に『ふぅ』と息を吐く。

 

「・・・・・・ふふっ」

 

 示し合わせたわけでもなく、同時に息を吐いた事が可笑しくて、小梅は口に手を当てて小さく笑う。織部も同じようで、少し顔を下に向けて唇を歪めた。

 ほんの少し、2人の間に漂う雰囲気が和んだところで、織部が本題を切り出す。

 

「・・・・・・本当に、教えてもらってもいいの?小梅さんにも、勉強があるのに・・・」

「大丈夫ですよ。私だって、春貴さんの力になりたいですから」

「でも・・・・・・」

 

 なおも織部はごねるが、小梅はそんな織部をよそに1年生のドイツ語の教科書を取り出し、さらには小梅のものであろうノートも取り出した。

 

「では、始めましょうか」

「・・・はい。お願いします、小梅先生」

 

 冗談半分、感謝半分で小梅の事を“先生”と呼ぶと、小梅は照れ臭そうに笑い、教科書とノートを開いた。

 ノートを一緒に持ってきた理由は、その時の授業内容がほぼ全て記録されていて、要点をそれぞれが分かりやすくまとめているからだ。ただ教科書を読んだだけでも分かりにくいので、試験勉強をする際は自分のノートを見返した方がいいという者も多い。

 そう思うと、やはり小梅の部屋に来たのは良かったのかと思った。それに、小梅の字は丁寧なので読みやすく、またカラーボールペンを使い分けて書かれているので要点もまた分かりやすい。こうしてカラーペンを使っているのもまた女の子らしいなと織部は思った。

 学年の最初の方は簡単な挨拶と数字の数え方。これに関しても織部はある程度簡単なものだけしか覚えていなかったので、この段階でも十分学ぶところはあった。

 さらにはアルファベット、母音と子音の発音、各種文法など基礎的な内容を小梅から教わることとなった。

 織部はそれ等の事を学んでいる間に、1年生の間のドイツ語の授業を受けたかったと叶うはずもない願いを思い浮かべ、さらにドイツ語の予習を黒森峰に来る前にしておけばよかったと後悔した。

 しかし小梅の教え方はとても丁寧で、分からないところがあってそれを聞くと丁寧に答えてくれるし、『ここは今習っているところと繋がってるんですよ』と、今現在の学校で習っているところに繋げてくれる。

 織部はそれを余すところなくメモに記し、さらにはノートに独自の補足を付け加えていく。

 やはり、小梅の部屋に来て、小梅に全てを教えてもらうことができて、本当によかったと改めてしみじみと思った。

 そうして勉強会―――というより織部が小梅からレクチャーをしばらくの間受け続け、コーヒーが無くなったところで時計を見ると時刻は既に正午を回っていた。

 

「あ、もうこんな時間か・・・・・・」

 

 壁にかけられた時計を見上げて織部が声を洩らす。そこで小梅も教科書を一度閉じて立ち上がった。

 

「ではお昼ごはんにしましょうか」

「何か買ってこようか?」

 

 先んじて織部が鞄の中の財布を取り出し、十分な額のお金が入っているのを確認したところで、小梅が織部の動きを手で制した。そしてキッチンに向かい冷蔵庫の中を見ながら小梅が呟く。

 

「作り置きのものでよければ、食べますか?」

「へ?」

 

 どうやら小梅は、作り置きとは言えお手製の料理を織部に振る舞うつもりらしい。それは織部からすればとても魅力的な事だったのだが、少しハードルが高すぎる。

 だから無理にでも織部が何か買ってくるべきなのだが、そこで織部は考えてしまう。

 ここで断ると、織部が小梅の料理を不味いと思っていると、小梅に思わせてしまうかもしれない。それで小梅を傷つけてしまったり凹ませてしまうのは最大のタブーだ。

 そんな事を悶々と考えているうちに、小梅がてきぱきと2人分の食器を取り出して、冷蔵庫から取り出した器を電子レンジに入れて温めている。いよいよ断ることが難しくなってきたので、大人しく待たざるを得ない。

 やがて、織部が先ほどまでの勉強を振り返っていると、テーブルに昼ごはんが用意された。

 炊飯器の音はしなかったから、椀によそられた白米は恐らく冷凍していたものだろうが、みそ汁と肉じゃがは多分、小梅の手作りだろう。そして先ほど電子レンジで温めていたのは、この肉じゃがだ。

 

「さあ、食べましょう」

 

 小梅が手を合わせて、いただきますの姿勢を取る。織部もそれに倣い手を合わせる。そして、2人で『いただきます』と告げて昼ご飯を食べ始める。

 織部はまず、みそ汁を一口飲む。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 織部は自炊をする方ではあるが、みそ汁に限ってはインスタントで済ます傾向がある。それは織部自身みそ汁を作るのが苦手というのがあるし、手間がかかるからというのもある。

 学校の食堂で提供されるものも大体インスタントだし、寮生活を強いられて実家に帰る機会が少なくなった今、一から作ったみそ汁を飲む機会もめっきり無くなって、手作りのみそ汁を飲んだ事など、随分と久しく感じられる。

 つまり、何が言いたいのかと言うと。

 

「・・・・・・すごく、美味しい」

「え・・・・・・みそ汁だけで・・・?」

 

 小梅が驚いたように言うが、織部は確かにこのみそ汁がとても美味しいと感じていた。

 織部は自分がグルメだとは思っていないし、相当舌が肥えているとも思っていない。だけれども、このみそ汁は今まで飲んだみそ汁の中で、一番美味しいと思う。もしかしたら、自分の母の作ったもの以上かもしれない。

 

「いや、本当に美味しいよ」

「・・・ありがとうございます」

 

 小梅も、まさかみそ汁だけでここまで褒められるとは思わなかったのだろう。恥ずかしそうに、そして嬉しそうに笑う。

 次に織部は、肉じゃがに箸をつけて、じゃがいもを口に放り込む。

 温かいじゃがいもの硬すぎず柔らかすぎもしない食感に加えて、肉じゃが特有の調味料の合わさった風味が口に広がり―――

 

「・・・・・・」

 

 胃袋を掴まれた、ってこんな感じなのかな。

 織部はふと思った。

 

「・・・・・・すごい美味しいよ、これ」

「本当ですか?よかった・・・・・・」

 

 ごはん、肉じゃが、みそ汁を食べる箸が止まらない。

 

「小梅さんって、料理が得意なんだ?」

「得意と言うほどじゃないんですけど・・・あんまり自信ないですし」

「自信持った方がいいよ。これ、すごい美味しいもん」

 

 織部が肉じゃがとみそ汁を褒めると、小梅も少し嬉しそうに頬を緩める。

 

「・・・・・・私の料理を褒めてくれたのは、春貴さんが初めてです・・・。とっても・・・嬉しいです」

 

 おそらくだが、小梅の料理スキルは寮生活で培われたものなのだろう。料理だけに限らないが、寮生活をしていると自然と家事スキルが上達するというのは、織部に限った話ではないらしい。

 ふと頭に浮かんだ率直な感想を、口に出す。

 

「いいお嫁さんになりそうだね」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 沈黙。

 そして、織部の心がバキッと音を立てて折れたような気がした。

 今、自分は何て言った?

 なんか、とてつもなく恥ずかしいセリフを吐いた気がする。

 ついさっき自分が言ったセリフを思い返し、とんでもないことを言ってしまったと気付いて青ざめる。

 

「・・・・・・ご、ごめん。変な事言って・・・わ、忘れてくれると―――」

「・・・・・・春貴さん」

 

 織部の苦し紛れの発言にかぶせる形で、小梅が言葉を発する。織部も、その小梅の謎の威圧感を放つような言葉に怯み、黙り込む。

 

「・・・・・・そう言う事は、あんまり言わない方がいいですよ」

「う・・・・・・そうだよね。ごめん」

 

 諭されて地味に凹む織部。確かにさっきの発言は軽はずみなものだったと後悔しているし、女の子にそう言ったことを軽々しく口にするものではないと反省し、致命的な女性経験の無さが浮き彫りとなってしまった。

 

「・・・・・・それに・・・」

 

 ボソッと、小梅が織部から視線を逸らし、頬を赤らめながら何かを呟く。

 

「・・・・・・本気にしちゃいますから」

「・・・・・・えっ?」

 

 そこで小梅は逃げるようにご飯をかきこんでいく。織部も、小梅の言葉の真意は見えなかったし、これ以上深く追求すると余計地雷を踏みかねないので何も言わないことにし、織部も食事を再開する。

 少しの間、お互い無言で食事を進めていると、沈黙に耐えかねたのか小梅が口を開いた。

 

「・・・・・・そう言えば、どうして私に聞こうとしたんですか?」

 

 それは、ドイツ語の事だろう。織部は、別に隠すような事でもないので正直に話す事にする。

 

「最初は、得意だって話してた直下さんに教科書を借りようと思ったんだ。でも、教科書がメモだらけで人に読ませられないって言われて。それで小梅さんは教科書を大事にするタイプだし聞いてみたら、って言われて、それで小梅さんに聞いたんだ」

「そう・・・だったんですか・・・・・・」

 

 最初から自分を頼ってきてくれたわけではないことを知り、小梅も少し落ち込む。もしそうだったのなら、織部は小梅の事を思ってくれていた、と考えられるのだがそれは違った。だけど、そう考えるのは少し自分勝手だ。

 

「でも、小梅さんに教わってよかったよ」

「え?」

「小梅さん、丁寧に分かりやすく教えてくれて・・・ただ教科書を借りただけじゃここまで学ぶこともできなかっただろうし。それに・・・・・・」

 

 そして織部は、テーブルの上に広げられている食事を見て、微笑む。

 

「小梅さんの手料理も食べられたし」

 

 小梅の心が、温かくなったような気がした。

それは、温かいご飯を食べ方からとかそう言う陳腐な理由などではなく、織部の真っ直ぐな言葉が、織部の表情が嬉しかったからだ。

 自分の手料理を誰かに振る舞った事も、それを褒められたことも、小梅はこれまで一度も無かった。

 けれど、その最初の相手が織部で、本当によかったと今は思える。

 織部が、小梅の料理の腕を素直に褒めてくれたから。

 織部が、小梅の料理を食べて笑顔を見せてくれたから。

 そして何より、織部の事が大好きだから。

 

「・・・ごちそうさまでした」

「・・・お粗末さまでした」

 

 昼食を食べ終わり、織部が挨拶をすると小梅もそれに返す。

 食器は、織部が率先して洗う事になった。当初は小梅が洗おうとしたのだが、料理を出してくれたことへのお礼と言う事で、織部がスポンジと洗剤を借りて始めた。織部が真面目な性格をしているのは重々承知の上だったので、ここで小梅は織部の厚意に甘えるする。

 食器を洗い終えて、少し食休みを挟んでから勉強を再開する事にする織部と小梅。

 

「・・・小梅さんも、ドイツ語が得意なの?」

「私は・・・・・・それほど得意ってわけではないですけどね」

 

 食後のコーヒーを飲みながら織部が問うと、控えめに答える小梅。やはりちょっと前まで外国語は英語しか分からなかった織部からすれば、十分褒められたものだと織部は思う。

 

「でも、一番ドイツ語が得意なのは、エリカさんかもしれませんね」

「エリカさんって・・・・・・副隊長の逸見さん?」

「はい」

 

 未だ織部とエリカの間に交流はほとんどない。だからエリカの人となりを織部は全く知らないし、エリカはどこか人を寄せ付けないような、さながら孤高の狼のような雰囲気を醸し出しているので気楽に話しかけることもできない。

 それほど肝が据わっているわけでもない織部は、自ら進んでエリカに近づこうとはしていなかった。

 

「確か、1学年末の試験ではエリカさんが1位だった記憶が」

「そんなにすごい人なんだ・・・」

 

 織部も勉強は―――特に戦車道連盟に就くと決め、黒森峰に来るまでは人並み以上に頑張ってきたのだが、1度だけクラストップ10に入ったのが関の山だった。

 おそらく黒森峰の1学年の生徒数は、織部の元居た学校よりも多いだろう。そんな中で1位になれるというのだから、エリカは相当秀でた成績を修めているということだ。

 

「エリカさんには教わろうとはしなかったんですか?」

 

 小梅から純粋な瞳を向けられて、織部は少し目を逸らす。

 

「・・・・・・逸見さんがドイツ語が得意だとは知らなかったし、あの人は少し近寄りにくいというか・・・」

 

 近寄りにくい、と言うと小梅がくすっと笑う。

 

「確かに・・・エリカさんはちょっと厳しいイメージがありますね。それもまた、真面目な黒森峰らしいとは思いますけど」

「そうだけどねぇ」

 

 そこまで話したところで、食休みを終えて再び勉強会を始める。

 1学年後半に進むにつれ文法が複雑になっていき、織部も理解に苦しむことになってしまったのだが、小梅はそこを丁寧に教えてくれたのでどうにか理解することができた。

 途中で織部が買ってきたお菓子を開けて2人で食べ、小梅からレクチャーを受ける事数時間、ようやく今現在織部たちが学んでいる内容へと繋がった。そこで織部と小梅はコーヒーを一口飲み、一息入れる。

 

「・・・・・・ありがとう、小梅さん。これでなんとかなりそうだ」

 

 織部が心からの感謝の念を込めて小梅に頭を下げて、お礼を告げる。

外を見れば陽も傾いていて、間もなく日没ぐらいの時間帯だ。

 いつまでもこうして小梅の部屋に居座っていては、小梅の迷惑になるだろうし、何より小梅が自分の勉強を進められないだろう。今日だってつきっきりで織部にドイツ語を教えてくれたというのに。

 

「じゃあ、僕はそろそろお暇するかな」

 

 織部が勉強道具をまとめて鞄に詰めて、立ち上がる。

 その時一瞬、小梅がほんの少し残念そうな顔をしているように見えたのは、目の錯覚だと織部自身は思った。

 

「・・・どうかした?」

 

 だが、思わず聞いてしまう織部。まほとの話の際も痛感したのだが、頭に浮かんだ疑問を即座にぶつけるのは少し改善した方がいいかなと、自分で思う。

 けれど、質問を受けた小梅は何でもないと首を横に振った。

 玄関で靴に履き替えたところで、織部はもう一度小梅にあいさつをする。

 

「今日は本当にありがとう。僕なんかのために、色々教えてくれて、その上ご飯まで頂いちゃって」

「いえ、気にしないでください」

 

 そこで小梅が、少し悲しそうな笑みを浮かべて俯いてしまう。

 

「私も、春貴さんの力になれてよかったです。春貴さんには、いつも助けられていたから・・・」

 

 織部は、別に小梅に恩を売ろうとか後々揺すろうと思って小梅に優しくしてきたつもりは微塵もない。ただ純粋に、小梅を助けたかったから、悲しい表情を浮かべていた小梅の力になりたかったからだ。

 だから、小梅に恩義を感じさせていると知った今、少し織部はもの悲しくなってしまう。

 同時に小梅も、今まで織部から励まされたこと、支えられたことを思い出し、感傷を覚えているだろうと思う。

 だから織部は、少し恥ずかしかったがある行動に出た。

 

「・・・・・・・・・・・・あっ」

 

 小梅の頭に優しく手を置き、そして静かに撫でる。

 前にもやった、背中を撫でるのと同じように、気持ちを落ち着かせるための行動だ。

 撫でられている小梅も恥ずかしいのか、頬がわずかに赤くなっている。もちろん撫でている織部本人も恥ずかしい。

 だから撫でるのもほどほどにして、手を離して小梅と視線を合わせる。

 

「・・・僕の事を考えてくれて、ありがとう。本当に、嬉しいよ」

 

 その言葉を受けて、小梅ははにかみ、そしてニコッと笑った。

 

「・・・良ければまたいつか、ウチに来てくださいね」

「・・・・・・ありがとう。じゃあ、またいつか来るよ」

 

 そう言って織部はドアを開けて小梅の部屋を出て、自分の部屋へと帰って行った。

 

「・・・・・・」

 

 ドアが閉められた後、小梅は自室に戻り、小梅と織部のカップを洗面台の流しへと置く。

 そして、先ほどまで織部が座っていたスペースを見る。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 自然と小梅の脚がそこへ向かい、ぺたんと織部が座っていた場所に座る。わずかだが、織部の温もりが残っていた。

 そして、自然と笑ってしまう小梅。

 1日試験勉強でつぶれると思っていた休日に、まさか織部が自分の部屋にやってきて、その上自分の料理を褒めてくれるなんて、夢にも思わなかった事だ。

 試験前だというのに、今まで覚えた事がすっぽりと頭から抜け落ちてしまいそうなくらい、今日という日はとても充実していた。

 自分の手料理を振る舞う機会など結婚でもしない限りは一生ないだろうと思っていたのに、こうも簡単にその機会が訪れてしまうなんて。

 しかもその相手が好きな人となると、それはまるで恋人同士のようで。

 もっと言えば、家族のようで――――

 

「っ!」

 

 その家族、というフレーズに思い至った直後、自分の顔が真っ赤に染まったのが分かる。

 まだ付き合ってもいないのに、告白すらしていないのに、そこまで考えるなんてあまりにも早すぎる。時期尚早にもほどがある。

 けれど、その考えはしばらくの間小梅の頭から離れることは無かった。

 

 

 家路を歩く織部は、周囲に注意しながら今日の勉強で使ったノートを見返していた。

 小梅のノートをほぼ全て書き写し、さらにそれを何度も見返して自分の知識として蓄積していく。疑似的に織部は、1年生のドイツ語の授業を受けた事になり、今やっている2年生の内容もどうにか噛み砕いて学習できている。

 これは、教えてくれた小梅のためにも下手な点数は取れないなと織部自身思っていた。次の試験では、恥ずかしくない点数を取れるようにしようと、胸の中で決意を改める。

 それにしても、と織部は夕暮れの空を見上げる。

 ただ教科書を貸してもらうだけのはずが、まさか小梅の手料理まで食べるに至るなんて、夢にも思わなかった。

 おそらく一生、女の子の手料理を食べる機会に巡り会う事などないと思っていたのに、この歳でそれが実現するとは思いもよらぬことだ。

 しかも、その手料理を作ってくれた相手が好きな人など、それはまるで恋人同士でする事ではないか。

 もっと言えば、それは家族ですることのようで―――

 

「・・・・・・!」

 

 家族、という単語が頭に浮かんだ瞬間、ノートで顔を叩く。恥ずかしさを、赤くなった顔を落ち着かせるためだ。

 まだ付き合ってもいないのに、告白すらしていないのに、そんな事を考えるなんて色々段階をすっ飛ばし過ぎだ。時期尚早にもほどがある。

 

「織部君、何してんの?」

 

 と、そこで横合いから声を掛けられた。ノートを顔から離し、声のした方向を見ると、ジャージ姿の直下がいた。

 

「直下さん、こんにちは」

「こんにちは。で、何してたの?」

「いや、ちょっと・・・・・・変なこと考えてた」

「?」

 

 正直に話す事なんてできやしないので誤魔化しに徹する織部。直下も『ふーん』と言っただけで深入りはしてこなかったのでとりあえず安心する。

 

「直下さんは?ジョギングでもしてたの?」

「ううん、トレーニングジムに行ってた。試験勉強に煮詰まっちゃって、ちょっと気分転換にね」

「へぇ~」

 

 そう言えばこの学園艦には、戦車道隊員が自由に使えるトレーニングジムがあると聞いた事がある。おそらく直下は、そこに行ったのだろう。

 

「織部君は?どこかで勉強してたの?」

「ああ、小梅さんの部屋で勉強を―――」

 

 そこまで言って織部は、しくじったと後悔する。

 だって、織部の言葉を聞いた直下の顔がいやらしいほどににんまりと笑っているのだから。

 そこで織部は確信した。

 直下は、織部の気持ちに気付いている。

 そして今朝、直下が織部の『教科書を貸してほしい』というお願いを断って小梅に聞くように仕向けたのも、明らかに気づいてしたのだろう。

 図られた。

 

「・・・・・・そかそか。小梅さんと2人っきりで勉強会ね」

「あの、語弊を生むような言い方はやめてくれないかな」

「いやいや、2人の仲が進展したようで何よりだよ」

「何を言って・・・」

「まあ、私は応援するから、頑張ってね~」

 

 織部の抗議の声など届かず、直下は織部に背を向けたまま手を挙げて、自分の寮へと帰って行ってしまった。

 一方で織部は、先ほど頭の中に浮かんだ妙な考えを払拭しようと、駆け出した。

 




マッサンゲアナ
科・属名:キジカクシ科ドラセナ属
学名:Dracaena spp
和名:ドラセナ
別名:―
原産地:熱帯アフリカ
花言葉:隠しきれない幸せ、幸福(ドラセナ・フラグランス)


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薫衣草(ラベンダー)

最終章第2話の公開予定日が発表されましたね。
随分先ですが、筆者は気長に待つことにします。

読者の皆様も、ゆったりとこの作品を読んでいただければと思います。
完結はまだまだ先ですが、よろしくお願いします。


 間もなく連休を迎える日の夜。

 黒森峰戦車隊副隊長・逸見エリカは、ドイツ料理店のテーブル席の1つで、頬杖を突きながら考え事をしていた。

 エリカは戦車隊の副隊長として、隊長である西住まほの傍に控え、普段の事務や訓練ではまほの補佐を務めている。訓練中の指示も半分ほどはエリカが下していた。

 そのエリカが副隊長に任命されたのは、2年生に進級するよりも前、春休みに突入する前からだ。

 新学期に入ってからではなく、そのような中途半端な時期に副隊長になったのはなぜか。

 理由は単純、その春休み前に元副隊長の西住みほが黒森峰を去ってしまったから。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 みほがまだ副隊長として黒森峰にいた頃―――いや、みほと同い年のエリカが戦車隊に入隊したての頃、エリカは1年生にして期待の新人とされていた。

 性格は勤勉で真面目、適性試験で車長の判定が出たエリカは指揮能力も高く、新人に任せられる雑務もそつなくこなしていた。同じ戦車に搭乗する乗員と共に戦車隊の中で頭角を現していき、遂には1年生でありながら戦車隊でナンバー3の地位にまで上り詰めた。いわば、エリカはたたき上げとも言える。

 先輩たちは、エリカの頑張りを素直に評価し、彼女こそが次の副隊長に相応しい、もう先輩たちの実力を超えていると、誰もがそう言っていた。前の副隊長が3年生であったために、新学期に入ってから副隊長不在の期間が続いていた。だが隊長であるまほは、副隊長を新2、3年生の中から選ばず、入隊希望者が正式に入隊してから決めるとしていた。

 だが、隊長のまほは、副隊長に自らの妹であるみほを指名した。

 みほは、言わずと知れた西住流の直系の娘であり、まほの妹でもある。隊長のまほが西住流の後継者筆頭とされており、その妹であるみほは後継者の第2候補。そう考えれば、みほが副隊長に任命されるのも、ある程度納得はできる。

 だが、エリカは頭では納得しても、心では納得していなかった。

 みほはエリカと同じく適性試験で車長判定が出ていて、戦車に乗っている間は真剣に戦車道に取り組み、搭乗員に的確な指示を下している。指揮能力と状況判断能力で言えば、エリカに劣らない、いやむしろエリカより上だろう。

 だが、同じく西住流でみほの姉であるまほのような厳しさは余り見受けられず、むしろその逆、少し優しく柔らかい、和やかな雰囲気がした。

 それは普段の学校生活においても同じだった。戦車に乗っている間は凛々しいのに、戦車を降りたらそれが嘘のようにおっちょこちょいで、よくドジを踏んでは周りからくすくすと笑われている。戦車に乗っていない時のみほは、危なっかしいという印象をエリカは抱いていた。もし戦車道とは無縁の者がみほの姿を見たら、彼女が西住流の後継者第2候補とは誰も思うまい。

 だが、だからこそ、そんなどこかぽわぽわしていて頼りないみほが副隊長を務めているというのが、エリカは気に食わなかった。

 誇り高き西住流の人間であるはずのみほが、普段はドジでおっちょこちょいで危なっかしい行動をとり、戦車道では厳しさの欠片も見せない。彼女が声を張り上げて指揮を下している時など、まったくと言っていいほどない。

 エリカは元々、西住まほに、西住流に憧れて黒森峰に入学した。だからこそ、自分も西住流のような人間でありたいと願い、普段から真面目に、そして自分にも他人にも厳しくしている。

 もしかしたら自分は、みほ以上に西住流に近い人間なのかもしれないと、心の中でだけ思う事は幾度となくあった。

 だから、西住流のイメージとは全くかけ離れた雰囲気のみほが、西住流の影響を色濃く受けている黒森峰をまほと共に率いているというのが、エリカは気に入らなかったのだ。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 一方でまほは、そんなエリカの心情を知ってか知らずか、副隊長補佐と言う立場をエリカに与えてみほをサポートさせた。エリカは知らないが、高い実力を誇り、皆から次代の副隊長として期待されていたエリカを、ただの平隊員の立場に留まらせておくのは少々惜しいと判断したまほが、エリカに補佐の立場を与えたのだ。

 しかしそれは、却ってエリカの中に燻るみほへの嫉妬に近い感情を助長させてしまった。

 みほに近い場所にいればいるほど、本来の西住流と、みほの間にある大きな差を痛感することとなり、エリカは次第にみほに対して敵愾心にも似た感情を覚えていった。

 だがある時、隊長のまほが席を外し、エリカとみほと2人きりになった時の事。

 

『・・・・・・逸見さんは、戦車道・・・好き?』

 

 と、みほが聞いてきた。

 エリカは何をふざけた事を、と表情に表しながら皮肉交じりにこう言った。

 好きじゃなければ、わざわざここまで来ないと。

 

『・・・私も、戦車道は好きだよ』

 

 もし、みほが『私は嫌い』などとほざいたら、エリカは本気で頬をひっぱたいただろう。

 西住流の直系であるみほが『戦車道なんて嫌い』と言ってしまえば、それは師範、そして姉であるまほへの背反の意思を示し、西住流のこれからを背負う意志が全くないと言っているも同然。

 

『でも、最近の逸見さんは・・・・・・そうは見えない』

『・・・・・・・・・・・・・・・なんですって?』

『だって・・・・・・戦車に乗ってる時も、すごく不機嫌そうな顔をしていたから』

 

 どうやらみほにも、人を見る目はあったらしい。そしてエリカ自身、そんな顔をしているとは思ってなかった。みほへの嫉妬心や敵愾心に心を支配されているせいか、無意識にそんな顔をしてしまっていたようだ。

 そしてその理由の一端にみほがあるとは、当の本人は知る由もない。

 

『戦車に乗るのが好きなら、どうしてそんな顔をしてるの・・・?』

 

 その理由はあんたにあるのよ、とエリカは思ったが口には出さない。

 

『戦車に乗るのが好きなら、その気持ちは大切にした方がいいと思う』

 

 私に説教する気か、とエリカは最初思ったが、語るみほの顔が戦車に乗っている時以上に真剣なものであることに気付き、大人しく聞く事にする。

 

『戦車に乗る事を嫌いになると、自分がどうして戦車道を歩んでいるのか、自分はどうして戦車に乗ってるのか、それが分からなくなるから』

『・・・・・・・・・・・・・・・』

『自分の道を見失わないために、その戦車に乗るのが好きっていう気持ちは、ずっと大切にした方がいいと私は思うよ』

 

 そうかもしれない。

 どうやらエリカは、みほに対する敵対心に気を取られ、大切な事を忘れてしまっていたようだ。

 エリカ自身も、戦車道を愛しているという事を。

 戦車道を愛し、西住まほを尊敬し、西住流に憧れて、自分は黒森峰に来たのだという事を。

 だがみほに対する嫉妬心や敵愾心が芽生え、次第にそれを忘れてしまっていたらしい。

 その気持ちを思い出させてくれたことに対しては、みほに礼を言わせてもらう。

 

『・・・・・・ありがと』

 

 だが、みほの表情は曇っていて、ぼそぼそと何かを言っていた。

 エリカは読唇術を持たないため何を言っているのかは分からなかったが、こう言っているようにも思えた。

 私みたいにはなってほしくないから、と。

 ともあれ、それ以来エリカのみほに対する暗い感情は幾分か晴れ、名前で呼び合うまでには親しい関係となった。ただ、最初にみほがエリカの事を名前で呼び、エリカはそれが釈然としなかったが、釣られる形でみほを名前で呼ぶようになってきた。

 みほはエリカの事を友達と思っていたようだが、エリカからすればみほはそこまで親しい存在ではない。

 ただ、エリカにとってのみほは、戦車に乗るうえで大切な事を思い出させてくれた恩人とも言える。けれど西住流ながらもその頼りないみほがエリカは気に入らなかったので、友達とまでは言えない。言うなればライバルとも言える存在だ。

 そしていずれは、戦車の練度ではこの頼りないみほを超えて、西住流を、この黒森峰を率いて見せると心に誓い、みほは越えるべき存在となった。

 だが、みほの事をそう認識した後で、あの事件が起きた。

 第62回、戦車道全国高校生大会の決勝戦の事だ。

 雨の降りしきる中で、あの時、エリカの車輌はみほの車輌のすぐ後ろについていた。そしてみほの車輌の前には小梅の車輌がつき、エリカと小梅の2人で護衛をしていたのだ。

 隊長であるまほと残りの車輌とは、相手のプラウダの主力部隊の手によって引き離されてしまい、みほたちはなんとか主力と合流しようと川沿いの舗装されていない道を走行していたのだ。

 しかしそこを狙いプラウダの別動隊がやってきて攻撃を仕掛けてきた。小梅のⅢ号戦車はフラッグ車を守ろうと応戦したが戦車の足元を狙撃されてバランスを崩し、川へと転落した。

 前の車輌がいなくなった事で、フラッグ車のみほは攻撃のチャンスを得た事になる。それにまだ彼我の距離はかなりあったので、相手に一撃をお見舞いした後で後退すればまだ勝機もあったかもしれない。

 だが、あろうことかフラッグ車のみほは攻撃、後退の指示も出さず、戦車を降りて川に落ちた小梅の戦車の搭乗員を助けようとしたのだった。

 その様子を見ていたエリカは『何やってんの!』と冗談抜きで叫んだが、みほは止まらず川に飛び込んだ。

 だが、エリカの脳はすぐに状況を再認識して、このままではフラッグ車はただの的になってしまうと瞬時に思い至って、操縦手に急いでフラッグ車の前に移動して盾になるように指示を下す。けれど、土手のような形になってしまっている道の脇を進むのは、いくら練度の高い操縦手でも難しく、前に出るのに大分時間がかかった。それでも、どうにかして前に出ようとしたが、タッチの差でフラッグ車は狙撃され、撃破判定を受けた。

 それはすなわち、黒森峰が負けた事を意味していた。

 10連覇の夢は、断たれたのだ。

 試合後、まほを含めてフラッグ車が撃破された時の詳細を深くは知らない黒森峰戦車隊の隊員は『まさか負けるなんて・・・』とそれなりのショックを受けているだけで、憤りはしていなかった。

 だが、あの場所にいたエリカは違った。

 

『あなた、一体どういうつもりなの!?どうしてあんなことをしたの!?』

 

 エリカはみほに詰め寄り、胸倉をつかむ勢いでみほに問う。

 

『・・・・・・私は・・・』

 

 エリカの怒号と周りからの視線に晒されて、みほは涙を額ににじませるが、真っ直ぐな瞳でこう言った。

 

『・・・・・・仲間を・・・皆を、助けたかったの・・・!』

 

 雨の音と、歓喜に満ちたプラウダ高校の戦車隊の声が、その場にこだました。

 その後、みほは試合を見ていたしほによって西住流本家に呼び出され、みほは自分の行動を叱責された。

 そして、試合の詳細を知った黒森峰戦車隊のメンバーは黒森峰の優勝を、10連覇を逃したみほの事を責め立て、さらには戦車隊に所属していない普通の生徒たちも学校の偉業を砕いたみほの事を批判した。

 まほは、みほに責任を取らせる形でしばらくの間は戦車に乗せなかった。みほがフラッグ車を降りる事になった直接の原因を作った車輌の車長の小梅とその搭乗員も、また同じように罰せられた。

 だが、その罰則期間が終わってもみほは戦車に乗ろうとはしなかった。

 そしてある時、みほはエリカにこんな言葉をこぼした。

 

『私はもう・・・西住流には、戦車道には向いていないのかも・・・』

 

 エリカは、その言葉にはただ『さあね』としか答えなかった。

 一時の間はみほに対して親しみを抱いていたエリカも、あの決勝戦でのことをきっかけにみほと話をする機会も激減し、副隊長補佐としてみほの傍にいる時以外はみほには近づかなかった。

 やはり、エリカの心の底には西住流に対する憧れが根付いており、黒森峰の優勝を逃してその西住流の教えに反した、西住流の直系のみほの事をエリカは嫌うようになった。

 そして、ほどなくしてみほは戦車の訓練を休むことが増えて、やがて戦車隊を、黒森峰を去る準備を始め、春休み前に黒森峰を去ってしまい、エリカは新学期から副隊長になるようにまほから告げられた。

 

「お待たせしました、ハンバーグセットでございます」

 

 そこで、エリカの意識は店員の声と目の前に置かれたハンバーグの美味しそうな匂い、そして鉄板とソースによるジュージューという音によって現実に戻された。

 とりあえず、今まで考えていたことは放り投げて、今は目の前のハンバーグを食すことに専念しよう。でないと、せっかく来たのに食事が美味しくなくては損をした気分になる。

 ナプキンを膝の上に乗せ、手を合わせていただきますをし、セットてついてくる野菜スープを一口飲む。温かいスープと野菜の風味がエリカの身も心も温める。

 次にナイフとフォークを手にし、ハンバーグを切り取る。ハンバーグにナイフを差し込むと、肉汁があふれ出してエリカの食欲をそそる。切り取ったハンバーグをフォークで刺し、そして口に運ぶ。

 

「・・・・・・美味しい」

 

 自然と笑みがこぼれる。そこで一口ライスを食べて、またハンバーグを切り取って口に運ぶ。二口目も美味しい。

 エリカの好物はハンバーグだ。ずっと昔からそうだった。だが、それは決して口外しない。

 何故って、子供っぽいと思われるからだ。実際、中学生の頃『好きな食べ物は?』と友人に聞かれた際にハンバーグと答えたら、『意外と子供っぽいんだね』と言われた。その時は少し恥ずかしかったし、確かに子供っぽいとは自分でも思った。

 けれど好物を簡単に忘れるのも変えるのも難しいので、以降エリカは自分から好物を誰かに話すという事をしなくなった。

 今も、皆から気付かれないように私服に着替えて、さらに髪型も少しいじって、一見逸見エリカだとは分からないようにしながら1人でハンバーグを食べに来ている。

 ハンバーグは好きだが、カロリーも高いので週に1度しか食べない。そう言う縛りをつけているあたり、エリカは自分に厳しいとも言える。

 ともあれ、副隊長として隊員たちに厳しく接し、真面目な態度で学業に励んでいるエリカの好物がハンバーグとは、決して悟られたくは―――

 

「逸見副隊長、お疲れ様です」

 

 間違いなく、自分の名を呼ばれてエリカは顔を上げる。上げてしまった。

 その目線の先にいたのは、留学というイレギュラーな形で黒森峰にやってきた男子・織部春貴。そしてその横には赤星小梅、さらにその後ろには根津、斑田、直下、三河と、エリカの同期の車長たち。そしてさっきの声は男のものだったから、自分が逸見エリカだと真っ先に気付いたのは織部という事になる。現に、傍にいる小梅や根津たちは、『え?この人がエリカさん?』と言った感じで戸惑っている。

 髪型を変えて、普段とは少し違う感じの私服を着ているというのに、なぜバレてしまったのか。それは素直に気になる。

 

「・・・・・・よく、分かったわね」

「目元とか、髪の色とかがなんとなく似ていると思いまして」

 

 なるほど、確かにそこはどうにもならない。だが、今日だけ見られたのならば、自分の好物がハンバーグだとは気づかれないだろうし、特に問題はない。

 エリカは織部たちから視線を逸らし、ハンバーグを食べる事に再び専念する。

 それは決して食い意地が張っているわけではなく、『今は話しかけるな』という意思表示だというのは織部たちも理解したので、大人しく織部たちは通された席へと向かう。

 エリカが織部たちと話をしたくなかったのは、好物を食べてる最中という理由も少なからずあるが、それ以上の理由はある。

 それは、織部の事が気に食わないからだ。

 そもそも、先ほどまでみほが黒森峰から去るまでの経緯を思い出していたのは、この前偶然聞いてしまった、織部とまほの話だ。

 まほは、みほの事を本当は庇いたかったのだが、西住流のメンツと黒森峰戦車隊の事を考えて庇わなかった、と言っていた。

 エリカからすれば、まほは尊敬し、敬愛している人物であり、心酔していると言っても過言ではない。

 だがその尊敬しているまほとは、西住流の教えや考えを尊重し、邪道を一切認めず、いかなる時も前に進み続ける、凛々しく気高い人物だ。

 しかしそんなまほが、黒森峰の、西住流の教えに反する失態を犯した妹の事を庇いたかったなどと言ったのは、完全にエリカの予想を超えてしまっていた。

 まほは恐らく、西住流師範のようにみほの事を責め、厳しく当たるだろうと思っていた。次期西住流師範となるであろうまほも西住流の教えが染み付いていて、犠牲を助けようとしたみほの事を叱責するだろうと思っていたのに。

 

『みほは、人として正しい事をしたと思っている。姉としても、誇らしい』

 

 西住流としては間違った事をした、と言っていたが、『人として正しい』とまで言うとは思わなかった。

 西住流の人間であるまほならば、みほの行動を褒めはしないと思っていたのに。まほはあの時確かにそう言った。

 エリカの尊敬するまほとは先に言ったような性格で、姉妹だからと優しく接するような事は、甘やかすような事はしないと思っていたのに。

 この話を聞いて、エリカは自分の尊敬するまほがどんな人物なのか分からなくなってしまい、あの時は小梅を一人置いてその場を離れてしまった。

 そして、まほの言葉からみほの事を思い出し、先ほどのように過去の事を思い出す機会が増えた。

 それと織部に何の関係があるのか、と問われたらエリカは即答できる自信がある。

 2年生新学期から留学という形で黒森峰にやってきた新参者の織部が、黒森峰の事情を、まほの心情を何も知らないくせに、まほの苦悩に満ちていたであろう過去を思い出させて本音を吐き出させ、さらにはエリカの中にある西住まほという人間のイメージを崩したからだ。

 要するに、新参者のくせに黒森峰戦車隊の内情を嗅ぎまわし、引っ掻きまわしている織部が気に食わないのだ。

 実際の所、織部はただ小梅の事を心配し、そこから連鎖的に黒森峰戦車隊の事情を深く知り、さらにみほとまほの間にある確執の真実を知ってしまったのだ。

 さらに織部の内にある行動原理は、“自分と同じように辛い境遇にある人を助けたい”という気持ちなので、織部には悪意はないし、罪も全くとは言わないが無い。戦車隊の内情を嗅ぎまわったり引っ掻きまわしているというつもりも自覚も無い。

 だが、そんな事はエリカが知るはずもない。織部の事を、小梅の事を知らない、言ってしまえば蚊帳の外のエリカからすれば、先ほどの織部に対するような印象を抱くのが自然とも言える。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 無意識に、ハンバーグに突き刺すフォークに力が入ってしまっていた。エリカはフンと鼻で息を吐きそのハンバーグの欠片を口に放り込む。

 とにかく、今のエリカは、迷っていた。

 この先どうするのか。

 そしてこれから、まほとどう向き合って行けばいいのか。

 

 

 テーブル席に着き、各々何を頼むか決めて店員に注文した後、織部たちは雑談に興じていた。話題は専ら、連休明けの中間試験についてだ。

 

「やっぱ物理は分かりにくいな。何とかの法則だの何エネルギーだのと、やたらと難しい単語を使って表現が回りくどい」

 

 根津が不貞腐れながらぶつぶつと文句を言っている。隣に座る織部はお冷を飲みながら、一理あると頷く。

 

「どの科目に重点を置くかっていうのがポイントだよね。得意科目に力を入れるか、苦手科目に力を入れるか」

「私は苦手科目に力入れるなぁ。得意科目は大体点が取れるからそんなに勉強しなくても平気だし、苦手科目でちょっとでも点を取っとけば得だし」

 

 直下と三河は、何の科目に力を入れて勉強するかを話している。

 

「織部君は、何か嫌いな科目ってあったりするの?」

「数学と物理に生物・・・理数系全般が苦手だね」

「へぇ・・・意外ですね。苦手科目なんて無いと思いました・・・・・・」

「いやいや、フツーにあるよ苦手な科目ぐらい」

 

 小梅と斑田は、織部の知られざる苦手科目を聞いて少しばかり驚いていた。

 どれだけ織部が勉強を頑張ってここまで来たと言っても、織部にだって苦手な科目はある。それは先ほど言った通り、理数系の科目だ。根津の言った通り表現がどうも回りくどいような気がするし、化学式なんて何かの呪文にしか聞こえない。数学だって、公式を覚えるのに苦労するし、グラフの作成も困難を極める。

 それでも、何とかものにして平均以上の点を修めて、どうにかここまでやってきた。

 

「せっかくのゴールデンウィークも試験勉強と訓練に潰れるなんて、ついてないねぇ」

 

 心底がっかりしたように三河が呟く。

 中間試験は、ゴールデンウィーク明けの最初の週に行われる。おそらくは去年もそうだったのだろうが、この時期に中間試験となるとゴールデンウィークに手放しに遊ぶ事などできはしない。中間試験抜きにしても、戦車道の訓練があるから、やはり世間一般よりゴールデンウィークに対する期待度は、薄いのだろう。

 そして、さらに気にするべきことがあった。

 

「中間試験を超えたら、次は全国大会・・・なんだっけ」

 

 そう、中間試験を乗り越えた先にあるのは、戦車道全国高校生大会だった。おそらくは、小梅にとって、まほにとって、そしてここにはいない西住みほにとって、人生の分岐点とも言えるであろうイベント。

 当然、黒森峰は参戦する。去年の雪辱を果たすために、そして、去年潰えた前人未到の10連覇を再び目指すために。

 

「まだ、誰が試合に出るかは決まってないけどね」

 

 三河が背もたれに背を預けて天井を見上げながら呟く。

 最終的に誰が試合に出るのかを決めるのは、隊長と副隊長だ。日々の訓練の内容を顧みて、さらに過去に行われた模擬戦、練習試合での戦果も加味し、そして隊全体の戦車性能のバランスも考えて、試合に参加する戦車と選手が決められる。

 去年出られたからと言って、今年も出られるという保証はない。模擬戦や練習試合で戦果を挙げたからと驕り、研鑽する事を忘れる輩は大体代表から弾かれる。そんな人物は、真面目な黒森峰にはいないと思っていたのだが、やはりそう言う事がたまにあるらしい。人間の性と言うやつか。

 だからと言って、戦車道の経験がまだ浅い1年生が全く試合に出ないという事も、無いらしい。

 現に、ここにいる織部以外の車長たちは全員織部と同じ2年生で、去年の全国大会の時は1年生だった。実力のある1年生であれば、2年生や3年生の先輩を差し置いて大会に出る事も可能なのだろう。

 黒森峰戦車隊は完全に実力主義であるために、先輩が後輩よりも上に立つことはもちろん、後輩が先輩を超す事だってある。

 逸見エリカがその代表的な例に当たる。彼女は入隊してからめきめきと力を伸ばし、先輩たちを追い抜いていった。そして今、3年生を差し置き副隊長の命を受けてまほの横にいる。

 

「私は・・・・・・今年出られる可能性は低いですね・・・。去年の事もあるし、私の車輌は私以外1年生ですから・・・」

 

 小梅が少ししょんぼりとしながら話す。確かに、戦車に乗る事を再び認められたからと言って去年の事が帳消しになったわけではない。

 そして、小梅が車長を務めるパンターの搭乗員は砲手、操縦手、通信手、装填手の全員が今年入ったばかりの1年生。過酷な最初の1週間の訓練や、その後の通常訓練を乗り越えたからと言って、じゃあ大会にも問題なく参加させられる、と簡単にはいかないだろう。

 

「赤星さんが一番大変だよね。搭乗員全員を指導するなんて」

 

 直下が心底心配そうに小梅の事を見る。

 直下の言う通り、搭乗員がほぼ全員1年生と言う戦車は極稀だ。他の戦車は大体、1人か2人が新入隊員でそれ以外は全員2年生以上の経験者で構成されている。

 当たり前だが、1年生の新入隊員が入ったという事はそれとは反対に3年生の隊員は卒業していなくなってしまったという事になる。そうなると、1車輌内で個々人の学年が混在している戦車は、卒業してしまった隊員による欠員、穴ができてしまう。それを補う形で新入隊員が入るのだ。

 本当にゼロから、全員が1年生の新入隊員ばかりで構成された戦車は正直言って戦力にはならず、実際の試合では単なる囮程度の戦果しか期待できない。

 隊全体の練度が高い水準であることを基本とする西住流―――黒森峰戦車隊はそれを良しとはしない。

 にも拘らず、今回小梅は自分以外が1年生と言う構成の戦車に乗る事を命ぜられた。

 それは、まほが暗に小梅の戦車に対して戦力外通告を出しているという捉え方もあるが、小梅はそうは思えなかった。

 もっと別の目的や、狙いがあるのではないかと小梅は思っている。

 

「でも、小梅さんの戦車は短い期間で大分伸びてきているよ。動きも射撃の精度も、他の戦車に引けを取らない」

 

 小梅が戦車に乗る事になって以来、通常訓練での監視役や模擬戦での主審・副審は織部に任せられることになった。と言っても、その役割を務めるのは織部1人ではなく、ほかに数人同じ役に就く者はいる。模擬戦で主審を務めた事だって1、2回程度しかない。

 ともあれ、織部は戦車の動きを高台から監視する機会が前よりもさらに増えた。織部はもちろん監視役・審判として全ての戦車を俯瞰的に見ているが、とりわけ小梅の乗るパンターの動きには注意していた。

 その理由は至極単純に、気になっているからだ。小梅以外全員が新入隊員という不安要素の強い戦車がどれだけの戦果を挙げられるのかが気になったし、長いブランクが明けてから戦車に乗った小梅がどれだけ頑張っているのかもまた気になったからだ。

 小梅の戦車の動きや射撃精度は、最初はやはり新入隊員が多い事もあって粗があるように見えた。だが、それらもすぐに克服されたようで、実力をめきめきと伸ばしていき、1カ月近くたった今では他の戦車よりも少し劣る程度、あるいは互角と言った強さに、織部は見えた。

 ところが、織部が率直な意見を言ったら、なぜか隣に座っている根津が何やら生暖かい目を織部に向けてきた。その目の真意を聞こうとすると、先に根津が口を開いた。

 

「随分と、赤星の戦車は熱心に見てるんだな」

 

 指摘を受けて、織部はハッとする。

 黒森峰戦車隊の戦車の数はおよそ50輌以上。その戦車全車輌が一度に訓練をするわけではないし、まだ乗員がいない故に稼働状態ではない戦車もあるが、1度に訓練をする戦車の台数は20輌前後。その中で小梅が乗る戦車は当然1輌だけ。しかも小梅の乗る戦車と同じパンターは結構いる。その1輌を即座に見つけて、さらにその戦車の変化を感じられるのは、その戦車を熱心に観察していてこそできるような芸当だ。

 つまりは、織部はその戦車に意識を大きく向けているという事になる。

 

「あ、いやそれは・・・・・・」

 

 弁明という名の言い訳をしようとするが、既に根津、斑田、直下、三河の目は『全部分かっている』と如実に言っていた。

 そして肝心の小梅はと言うと。

 

「・・・・・・春貴さん、私の事を見ててくれたんですね・・・」

「あ・・・・・・うん」

 

 まさかその理由の根底にあるのは小梅の事が好きだという感情だという事を、小梅には絶対に悟られたくはない。

 

「・・・・・・すごく、嬉しいです」

 

 頬を赤くし、瞳を揺らす小梅は、どうやらその根底の感情には気づいていないらしい。

 一先ず織部はホッとした。

 そこで、店員が料理を運んできたので、織部たちは食事に専念する事にした。

 

 

 織部たちの話がチラッと聞こえたが、エリカは気にせずに会計を済ませた。

 ああして織部は、まるで元から黒森峰にいたかのように皆の輪に溶け込んでいる。それは恐らく、織部自身が真面目で人から嫌われにくい性格をしているからだろう。

 織部と共に審判をしたことがある隊員たちも、それなりに織部と話をする機会はあったらしいようで、今の根津達ほどではないが織部とは親しくなった。

 だが、エリカ自身はまだ織部の事を認めてはいなかった。むしろその逆、織部の事を嫌っていた。

 西住流師範や黒森峰、日本戦車道連盟から認めれて黒森峰に留学する事が認められたのは聞いていたが、その目的はあくまで戦車道の勉強をするためだ。それは、黒森峰の内情を知る事とは決してイコールでは結ばれない。

 エリカが織部に求める事とは、ただ戦車道に関する知識を学び戦車道のサポートをする事だけで、去年の全国大会以来複雑になってしまった黒森峰戦車隊の内情を探り事態をややこしくする事など望んでいない。

 だが、織部はまほの真意を聞こうと深入りして、まほ自身も辛かったであろう全国大会の事を思い出させ、本音を浮き彫りにした。留学生の、部外者の、門外漢のやるべき事の範疇を超えている。

 それがエリカは嫌いで、気に食わなかった。

 考えが態度に現れてしまったのか、千円札をバンとカウンターに叩きつける。店員がビクッと怯えたようにレジスターを動かし、おつりを恐る恐るエリカに渡す。

 そんな店員の事などエリカの眼中にはない。あるのは、今なお根津や小梅たちと楽しそうに話をしながら料理を食べている織部。

 エリカは小さく舌打ちをし、店を出て行った。

 

 

 ゴールデンウィーク前の最後の戦車道の訓練が終わる。整列し、号令を終えると隊員たちは各々校舎へと戻って行く。

 今日の訓練は10対10の模擬戦で、ルールはフラッグ戦。各チームフラッグ車を決めて、その車輌を護衛しつつ敵チームのフラッグ車を狙う試合方式だ。近くに開催される全国大会に備えての事だ。

 新入隊員たちもこのフラッグ戦は初めてだったようで、その初めての試合方式に少し緊張していたようだ。だが、そこはしっかりと先輩隊員が指導してくれた。

 それはさておき、明日からはゴールデンウィーク。世間では羽を休める貴重な休みだが、黒森峰戦車隊は通常通り訓練があるので休みも何もない。ただ、中間試験が近い事とせっかくのゴールデンウィークだからという理由で、訓練の時間は少々短くなる。

 戦車隊に属さない、そして何か部活動をやっているわけでもない者は皆、普通にゴールデンウィークを満喫するのだろう。

 

「審判役は、模擬戦の報告書を書いて提出したらあがっていいぞ」

「分かりました」

 

 まほから指示を受けた織部と2人の審判役の生徒は、皆と同じように校舎の方へと向かって行く。

 エリカの目に映る織部の傍にいるのは、今日審判をした隊員たちだ。恐らくは報告書をどう書くかを話し合っているのだろうが、和やかな感じがしていた。

 

「あ~、ゴールデンウィークも訓練かぁ」

「試験勉強もあるし、実家にも帰れないよ~」

 

 ぶつくさ不満げな事を言っている隊員たちもまた目に入る。というか、よくよく見ればその隊員たちは自分の乗るティーガーⅡの乗員ではないか。

 

「あんた達、そんなに不満があるんなら辞めてくれたってかまわないのよ」

「あ、し、失礼しました!」

「気を付けます!」

 

 エリカがキッと睨みつけて言うと、その文句を垂れていた隊員たちはこぞって姿勢を正して敬礼をエリカに向ける。

 基本的に上下関係を大切にする戦車隊の中では、同じ年齢であっても立場が上の者に対しては戦車道の時間だけは敬語を使う。エリカは副隊長なので、3年生の先輩もエリカに対しては敬語を使っている。

 

「試験が近いからって練習で手を抜いたり腕が鈍ったりしたら許さないから」

「・・・・・・はい、分かりました」

 

 エリカの配下にある隊員は、少し反省したのか肩を落として校舎へと歩いて行った。

 そして、その話声が聞こえたのか、織部がエリカの方を見ていたが、エリカはそのことには気づかなかった。




ラベンダー
科・属名:シソ科ラベンダー属
学名:Lavandula angustifolia
和名:薫衣草
別名:クンイソウ
原産地:地中海沿岸
花言葉:不信感、疑惑、沈黙、期待、私に答えてください


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秋海棠(シュウカイドウ)

 ゴールデンウィーク中の黒森峰戦車隊の訓練は、普段の休日の訓練と比べると時間が短い。

 それは中間試験が近いからという理由のほかに、せっかくの連休なので少しでも身体を休めてほしいという理由もある。黒森峰戦車隊に属しているのは当然ながら人間で、しかも育ち盛りの学生だ。休みもしっかり設けられている。

 では練習自体を休みにすればいいのにと思うかもしれないが、そうもいかない。翌月からは、戦車道全国高校生大会が始まる。既に登録を終え、後はトーナメントの抽選を待つだけとなった今は、大会に備えて少しでも練度を向上させるために、ゴールデンウィークであっても戦車道の訓練を行っている。

 現在、砲撃訓練の様子を監視している織部も、本音を言わせてもらえば休みたかったのだが、そんなわがままを言ってられるような立場ではない。多くの人が認めた上で織部はここにいられるのだから、それを決して忘れずに戦車道の訓練に取り組んでいる。

 少し離れた場所、しかも地上から少し高い場所に立っている織部でも、砲撃の音や空気の振動は感じ取れる。それほどまでに、黒森峰戦車隊の砲撃訓練は熾烈だった。

 織部の役目は戦車の動きを監視する事だが、最終的には報告書に訓練の内容、各車輌の動き、砲撃の命中精度、隊全体の動きの精密さを記す。流石に全車輌全ての動きを事細かに書くとなると、報告書の指定されたスペースには書ききれないので、良くも悪くも目立っている戦車の動きだけを記録するようにまほから言われている。

 織部はその指示通り、監視する対象を絞り込んでいた。しかし、どの戦車も練度が高く的を外す戦車はほとんどと言っていいほどない。流石は強豪校の黒森峰、動かない的が相手なら絶対に外しはしないという事か。

 とするとだ。小梅が車長を務めている、小梅以外が全員新入隊員の戦車の実力も、他の戦車に追いついてきているという事になる。最初は不安要素が多かったのだが、こうしてみると、意識しなければどのパンターがその車輌なのかが区別できないほどに、周りとの足並みを揃えていた。

 その高い実力とは、小梅の指導方法が良いからなのか、それとも新入隊員たちの持つ素質によるものなのか、どちらなのかは定かではない。だが織部は、できれば小梅のおかげ、もしくはその両方によるものであってほしいと思っていた。小梅は謙遜するかもしれないが、小梅に自信をつけてほしかった織部は、小梅の指導法のおかげであの戦車の力が伸びてきていると小梅に言いたかったし、小梅にはそう思ってほしかった。

 そうこうしている内に、並んで的に向けて砲身を向けていた戦車隊が向きを変えて、格納庫のある方角へと向かって行く。どうやら訓練が終わったらしい。気づけば太陽の位置も水平線に近づいている。いつの間にか、随分と時間も経っていた。

 織部は今日の報告書はどう書こうかと考えながら高台を降り、集合場所の格納庫へと向かう。

 

 

 まほによる訓練終了の号令がかかれば、後はもう隊員たちは解散となり家路につく。

 一方で織部は学校に残り、まほから命ぜられた報告書作成の作業に取り掛かる。入力はパソコンではなく手書きなので、長時間文字を書き続けていると手が痛くなる。最近では帰ったら風呂で手を温めるか薬を塗るか、それとも冷水や冷凍のパックで冷やすかに限る。

 しかし手の痛みなんかには気を取られず、織部は報告書を書き進めて行く。日時と天候、訓練内容に具体的な訓練の流れ、特筆するべき車輌の動き、評価するべき点と改善するべき点、最後にまとめ―――

 と、そこで教室のドアが開く。入ってきたのは小梅だ。

 

「春貴さん、お疲れ様です」

「小梅さん・・・どうしたの?何か忘れもの?」

 

 休日の訓練をする時、大抵の隊員は自分の教室には寄らずに隊員専用のロッカールームに直行してそこで着替えをし、荷物はそのロッカーに置いておく。

だから、隊員が教室に立ち寄る事はほとんど無いはずなのだが、小梅は今こうして織部たちのクラスにいる。織部が忘れものでもしたのかと聞いたのはそのためだ。

 

「いえ、ただ・・・・・・」

 

 小梅がもじもじと自らの指をいじり、織部から視線を逸らす。

 だが、今は報告書を書いている最中なので、小梅には申し訳ないが報告書を書き終えるまで待ってもらうことにした。

 まずは報告書を丁寧に書く。書き終えると、再三自分で見直して妙な言葉遣いや誤字が無いことを確かめて、そしてまほの所に持って行く。

 まほに提出し、OKが出れば織部も帰ることが許される。今のところ、書き直しと言われたことはまだない。まほが大目に見ているのかそれとも織部の報告書の出来が良いのかは分からないが、多分前者だと織部は思っている。

 今日もまた、まほからは一発OKを貰った。

 だが、書き直しを言われない理由は気にしていてもしょうがないので、大人しくまほの厚意に甘んじて帰り支度を始める。と言っても、通常の学校がある日とは違って今日は訓練だけだ。持ってきているものの量もそれほど多くはないので、片付けも手早く終えて、教室で待っていた小梅と共に学校を後にする。

 校門を出てもしばらくの間、小梅からは何も話しかけてこない。

 先ほど小梅が話しかけてきた時、小梅が何か言いにくそうな態度を取っていたので、織部は何か相談したい事があるのではないかと勘繰った。

 小梅が戦車に乗る日の前日、織部は小梅に『話を聞くぐらいだったら僕にもできる』と言ったから、織部自身小梅からの相談や話は絶対聞くと誓っていた。

 小梅からどんな相談を受けるのかを予測しながら、小梅と2人並んで歩く。

 思えば、こうして小梅と2人だけで下校する事は随分と久々な気がする。大体は、同じクラスの根津や斑田、あるいは戦車隊でも交流のある三河と直下も一緒に帰ることが多い。休みの日は大体隊員たちはロッカールームから直帰するので、恐らく根津たちもそうして帰ったのだろう。

 だからと言って織部は別に傷ついたりはしない。皆それぞれ、1人で帰りたい日もあるだろうし、絶対に一緒に帰らなければならないという決まりがあるわけでもないのだから。

 だが、織部の記憶している限り小梅と2人だけで帰るのは、前に織部がしほの威圧感によって倒れた日以来だったと思う。

 あの時は、自分の事を小梅が心配して看てくれていて、織部が無事だと知って小梅が抱き付いてきてくれたのが、恥ずかしかったのもあるし同時に嬉しくもあった。恥ずかしいというのは、情けない理由で倒れてしまった事を知られてしまったから。そして嬉しかったのは、女の子と触れ合ったからとかそう言う下衆な理由ではなくて、自分の事を切に心配してくれていたという事だ。

 思えば、あの時から小梅に対する恋心の兆しがあったのかもしれない。あの時以来、小梅の事を考える事が増え、小梅の事を意識するようになったのだから。

 小梅と出会ったのは3月で、再会したのは4月。再会してから実に1カ月以上が経過している。出会った初めの頃と比べて、小梅との距離はどうなったかと言われると、自惚れているわけではないが少しだけ近くなったような気がする。

お互い腹を割って過去の事を告白し、それぞれ辛い過去を背負い、傷ついた心を持っていることを知って、幾度となく言葉を交わしてきた。最初の頃の他人行儀な付き合い方はもう、していない。

 そして今は、出会った当初とは違い、織部は明確に小梅の事が好きだという気持ちがある。いずれは、その気持ちを全て小梅に告げたいと思っている。もしも受け入れられなかったら、などというのは考えるだけ無駄だ。それを恐れて機を逃し、留学期間を終えてしまっては元も子もない。

 いつか、その時が来たらその気持ちは包み隠さず告白するつもりだ。

 

「春貴さん」

「え?」

 

 そんな物思いに耽っていると、小梅から話しかけられて現実に引き戻される。そして周囲を見れば、そこはいつも小梅たちと朝登校する際に待ち合わせる交差点だった。

 いつの間に、こんなところまで来てしまったのか。

 

「どうかしたんですか?」

「いや、ごめん。ちょっと考え事をね・・・・・・で、何かな?」

 

 今まで考えていたことは一先ず置いておき、小梅の話を聞こうとする。もうここまで来てしまったのだが、多分小梅は織部に何か話したい事があるのだろうし、それを聞くのがまずは先決だ。

 ところが。

 

「あ、いえ・・・・・・私の寮はこちらですので、では・・・・・・」

 

 小梅は、何も話をしようとせずに織部と別れようとしていた。何か相談事でもあるのかと思っていた織部にはそれが解せなかったので、少し待ったをかける。

 

「え、何か話したいことがあって一緒に帰ったんじゃ・・・?」

 

 思わず、織部の考えて思っていたことを告げると、そこで小梅は少し申し訳なさそうな顔をする。

 

「あ、ごめんなさい・・・・・・。私、ずっと春貴さんに頼りっきりで、色々悩みとか打ち明けて、そう思わせてしまわせてしまったんですね・・・すみません」

「???」

 

 事態が掴めない織部は、ただ頭に疑問符を浮かべるほかない。

 小梅は今度は、顔を赤くして視線をわずかに下に逸らし、織部から目を外す。

 

「でも、今日は違うんです。悩み事を話したいとか、相談事があるとか、そう言うのじゃないんです・・・」

「?」

「今日はただ私が・・・・・・」

「?」

 

 織部が、何か言い淀んでいる小梅の言葉を待つ。

 そして小梅は、ギュッと拳を握って自らの本音を告げた。

 

 

「春貴さんと、一緒に帰りたかったからなんです・・・・・・」

 

 

 織部は硬直した。

 心に、頭に、脳に、小梅の言葉が響き渡る。ついさっきまで小梅との思い出に思いを馳せていたから、なおさら。

 

「・・・・・・で、では・・・私はこれで・・・」

 

 言った当の小梅も無傷では済まなかったようで、少し恥ずかしそうに手を振って、自分の寮へと戻って行った。

 織部は、『あ、うん・・・』という生半可な返事しか返せず、小梅の後姿を見る事しかできなかった。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・反則だよ、その言葉は」

 

 自分の顔が赤くなっているのが、鏡を見なくても分かる。鼓動が早くなっているのが、胸に手を置かなくても分かる。

 思わず顔がにやけてしまい、それを誰にも見られたくなくて、地面に顔を向ける。頭に手を置く。

 今の小梅の言葉だけで、織部の中にある小梅への恋心は一層燃え上がった。

 半ば本能で織部は自分の寮へと歩んでいく。

 あの一言、たった一言だけで、織部の心と頭は小梅との思い出で満たされていった。そして、小梅の見せてくれる優しく愛らしい笑みは、消えることなく織部の頭に焼き付いている。

 おそらく、これまで小梅から聞いた言葉の中で一番目か二番目ぐらいに嬉しい言葉だった。

 心が満たされるのを実感しながら、織部は自分の部屋へと戻った。

 

 

 自分の部屋に戻った小梅は、ドアを閉めた直後、顔に手をやって蹲った。

 まさか、あんなことを言ってしまったなんて、自分でも驚きだ。

 あの時、織部と一緒に帰っている最中、小梅の内心では困惑してしまっていた。一緒に帰るのは良いが、何を話せばいいんだろう、何を言えば織部は答えてくれるのだろうと悩んでしまい、結果何も言い出せずに終わってしまった。織部も何かを考えているのか全然話しかけてこなかったので、無言で帰る結果に終わってしまった。

 だが、織部はどうやら、小梅が何か相談事があって織部に教室で話しかけて一緒に帰ったのだと勘違いしてしまっていたようだ。それは、これまで小梅が何度も織部を頼り織部に相談を持ち掛けてしまってきたから、仕方のない事だった。

 その織部に対する申し訳なさと、自分の事を心配してくれたことに対する感謝の気持ち、そして小梅の本音がないまぜになった結果、あの言葉が飛び出たのだ。

 

『春貴さんと、一緒に帰りたかったからなんです・・・・・・』

 

 今思い返してみても、すさまじく恥ずかしい。

 そして何より、織部からすれば迷惑だったかもしれないと今になって思う。

 『一緒に帰りたかったから』というのは小梅の紛れもない本音だが、それは見方を変えれば小梅の自己満足によるものと捉えることもできる。

 織部はそんな事は思わないかもしれないが、小梅自身はそれでは済まない。

 高揚感や恥ずかしさに代わって、罪悪感が心の内から湧き上がり、織部に対して申し訳ない気持ちが大きくなっていく。

 靴を脱いで部屋に上がり、鞄を床においてベッドに腰かける。

 

(私、だめだな・・・・・・。春貴さんの事が好きなのに、春貴さんの負担になってばっかりで・・・)

 

 負担になっている、とは何度も相談事を持ちかけたりして、弱音をぶつけてしまっている事も含まれる。

 1つ息を吐き、窓の外を見ればもう日も暮れて暗くなった空が広がっている。一番星が光り輝いているのが見えたが、それは今の小梅には見えていなかった。

 

 

 翌日、訓練は休みの日だった。

 試験前のゴールデンウィークで、貴重な休みの日。どう過ごすのかは生徒個人の自由だったのだが、真面目な人間が多い黒森峰では、大体試験勉強にその1日を費やす。この状況で遊びに行くのは相当自分の学力に自信がある者か、お気楽者だろう。

 織部はそのどちらでもないので、大人しく自室で学習机に向かって座り勉強をしている。不安だったドイツ語も、小梅から直々に教えてもらい、さらに教科書も借りられたので何とかなっている。

 ここまでしてもらったのだから、悪くても平均点以上はとらないと小梅に示しがつかない。赤点なんて論外だ。

 そして織部の懸念している試験科目はドイツ語以外にも理数系科目がある。ただし、これは平均点以上は取れているので、ドイツ語と比べるとそこまで苦戦はしない。

 集中して勉強を続け、休憩がてら少し背伸びをして壁を見れば、既に時刻は昼に近づいている。集中力を高め過ぎて逆に疲れてしまい、息が詰まるような思いをしていた織部は、気分転換も兼ねて昼食は外で摂ることに決めた。

 行く先は、ここ1カ月で随分と馴染み深くなったあのドイツ料理店。今日は何を食べようかと思いながら歩き、店の前に着くと見覚えのある人がいた。

 

「小梅さん、斑田さん」

「こ、こんにちは・・・」

「ああ、織部君。ごきげんよう」

 

 小梅は薄い緑のペプラムブラウスにベージュのデニム。斑田は白のオフショルダートップスに青のジーンズ。

 やはり女性の服の着こなしは、男の自分なんかとはまるで違うな、と織部は明後日の感想を抱く。

 

「2人とも昼ごはん?」

「そう、試験勉強の息抜きも兼ねてね」

「・・・途中で斑田さんと会って、どうせだから一緒に食べようかって誘われたんです」

「へぇ~」

 

 偶然出会った友達に一緒にご飯を食べようと誘われるのも、周りと距離を置いていた少し前の小梅からすれば考えられない事だっただろう。それが自然なこととなり、小梅もまたそれを受け入れているあたり、大分変わったものだと織部は思う。

 

「よかったら、織部君も一緒にどう?」

 

 斑田が織部も誘ってくれる。

 思いがけない出来事に、織部も少し気分が高揚する。斑田にそうやって誘われたことは、織部も斑田とは親しい関係であるという事の証であるのが嬉しいし、そして小梅と一緒にいられるというのもまた嬉しい。

 ところが。

 

「赤星さんも大丈夫?」

「・・・私は・・・・・・」

 

 斑田に聞かれて小梅は、拒むようにどもったのだ。

 その反応を見た織部は、心が刀で斬られたような痛みに襲われる。

 元々、小梅は自己主張の激しくない、大人しい性格をしていると言える。突然斑田から尋ねられ意見を求められて、僅かながらに慌てた。それだけならまだ分かるのだが、小梅の表情は戸惑いや拒絶を示すように曇っていたのだ。

 自らの経験した重い過去から、織部は人の表情の変化には敏感だ。だから、小梅の表情の変化にもいち早く気付いた。

 理由は分からないが、今小梅は織部と食事をすることを望んではいないという事だ。それなのに無理に同席するのも忍びないし、小梅を傷つけるわけにもいかないので、織部はただこう言うしかない。

 

「・・・・・・ごめん、ちょっと今日は・・・」

「そう・・・分かった。じゃあね」

 

 織部がそう言うと、斑田も名残惜しそうな様子を少し見せて、小梅と共にドイツ料理店へと入っていった。

 こんな空気でなお同じ店に入るのも少し気まずいので、織部は仕方なく別の店に行こうとする。

 だが、その道中で考えている事は先ほどの小梅の表情だ。

 どうして小梅は、あんな表情をしたのだろうか。何か、嫌われるような事をしてしまっただろうか。

 昨日の小梅の『一緒に帰りたかったから』という言葉に浮かれていたことが嘘のように、織部の表情は曇ってしまっていた。

 嫌われたのだとしたら、その原因を突き詰めて改善しなければならない。

 だが、小梅から拒絶されるような、嫌われるような行動をとった記憶は織部には、無い。それは少々自尊心が強すぎるとも言えるが、小梅を傷つけるような言動をした覚えは本当に全くないのだ。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 ふと、美味しそうな匂いが鼻を衝く。近くには、黒森峰学園艦にある3つの飲食店の一つ、定食屋があった。思えば、織部が黒森峰に来てからこの店に来たことは一度も無いので、せっかくの機会だと思い定食屋に入る。

 ファミレスや先ほどのドイツ料理店とは違い、最低限の人数でしか経営しておらず、店員が直接席に案内してくれるということも無い。空いている席に自由に座っていいスタイルを取っていたので、織部も空いている席を見つけて適当に座ろうとする。

 と、そこで。

 

「おっ、織部」

 

 まるで自分の事を知っているかのような呼び声。その声のした方向を見れば、そこにいたのは根津だ。赤いタートルネックのセーターに黒のデニムを着こなす根津は、自分よりも少し年上のように見える。

 

「織部もここで?」

「あ、うん・・・・・・」

「一緒にどうだ?」

 

 根津が何の気なしに聞いてくる。別に社交辞令とかではなく、純粋に織部と食事をしたいようだったので、織部もそれに乗っかることにする。

 小梅に拒絶され、少し凹んでいた織部が1人で食事をするのも少し寂しかったので、根津の誘いを受けたのはそう言う理由もあった。

 どうやら根津は、席に着いたはいいものの何を食べるのかに悩みかれこれ10数分は迷っていたらしい。織部もメニュー表を見てみると、かなりメニューが多かったので確かに迷うのも無理はないと思った。

 織部も根津と同じように悩み、そしてしばしの間悩んでお互いに生姜焼き定食を頼むことにした。

 セルフサービスの水を2人分持ってテーブルに置き、織部も一息つく。

 と、そこで。

 

「どうした、随分と落ち込んでるみたいだけど」

 

 根津から指摘されて、織部は自分の目元を押さえる。

 まさか、人から指摘されるくらいには表情に出てしまっていたとは。自分はどうやらポーカーフェイスが苦手らしい。

 

「何かあったのか?」

「いや・・・・・・何でもないよ」

「・・・・・・本当か?」

 

 疑わし気な目で問いかけてくる根津。隠し事をするのは少し得意ではないのだが、しらを切り通す事にする。まさか落ち込んでいる原因が小梅に拒まれたから―――女の子に拒絶されたからなんて知られれば、恥ずかしさのあまり織部は死んでしまうだろう。機を紛らわせるために水を一口飲む。

 ところが。

 

「赤星と何かあったのか?」

 

 飲んでいた水が器官に入り込み、思いっきり咳き込む。他の客や料理をしていた店員がこちらを見るが、織部はそんな事を気にも留めない。

 それより問題なのは、なぜ根津がそのことに気付いているのかだ。

 

「・・・・・・図星か」

 

 織部の反応・・・動揺したのを見て、ニヤッと笑う根津。言い逃れができなくなった織部は、一つ咳払いをし、真剣な表情で根津に聞き返す。

 

「・・・どうして、そう思うの」

「いやぁ、最近織部と赤星って仲良さげだから、もしかしたらと思ったんだけど。まさか本当にそうだとは」

 

 カマをかけられたか、と織部は内心で舌打ちする。

 

「・・・で、赤星と何があったのさ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 根津も野次馬根性で聞いているわけではなく、織部の事を心配して聞いているのだろうし、織部はその厚意を無下にしないで素直に相談することにした。

 

「・・・さっき、ドイツ料理店の前で小梅さんと斑田さんに会って。斑田さんから一緒にお昼を食べようかって誘われたんだけど、小梅さんはあまりいい表情をしなくてね」

「・・・・・・・・・・・・」

「何か、悪い事でもしたのかなぁ、って少し気になってたんだ」

 

 はぁ、とまたため息をつく織部。

 織部が留学してから1カ月と少しが過ぎたが、こうして織部が落ち込む様を根津は見た覚えがない。ドイツ語の授業で苦戦していたことはあったが、あの時とはまた違うベクトルの悩み方だ。

 

「要するに織部は、赤星の事が気になってるのか?」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 ぽかんと口を開ける織部。

 確かに織部は、小梅の事が気になっている。というか好きだ。それを他人から指摘されると、少しだが恥ずかしい。

そして根津の言う『気になってるのか』と言う質問は、十中八九『好きなのか』と同義だろう。

 ここでそれを否定してしまう事は簡単だが、せっかく相談に乗ろうとしてくれている根津を裏切ってしまう事にもなる。それに、織部が小梅と仲がいいという事に気付いていれば、おのずと織部が小梅にどんな感情を抱いているのかにも、気づくだろう。

 だから織部は、多少の恥を忍んで首を縦に振った。

 

「・・・うん」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 根津は、まさか女子校の黒森峰で色恋沙汰についての相談をする事になろうとは思ってもいなかった。加えて、根津は恋をしたこともされたことも無いので、推測でしかものを言えない。悪く言えば信憑性に欠けるので、アドバイスは慎重を期するものだ。

 

「・・・赤星が、少し前までは私たちを遠ざけるようにしてたってのは、知ってるだろう?」

「・・・うん」

「その赤星が最近になって、また普通に接してくれるようになった。ちょうど、織部がウチに留学に来てからだ」

 

 やはり根津も、小梅と同期で同じ車長として付き合いがあったからか、小梅の事をよく見てくれていたようだ。

 

「で、これはあくまで予想なんだけど、織部が赤星に何か言ったんじゃないかって私は思ってるんだけど、違う?」

「・・・・・・・・・・・・うん、その通り」

「まあ、何を話したのかは敢えて聞かない。それで、赤星が再起できたのは織部のおかげでもあるっていうのは、傍で見ていた私にも分かる。多分だけど、同じクラスの斑田も分かってるんじゃないかな」

 

 織部は根津の話を静かに聞いている。根津も、織部がしっかり話を聞いているのを確認し、話を続ける。

 

「だから赤星も・・・織部に対しては恩義みたいなことを感じているかもしれない。だから、そんな織部の事を簡単には嫌わない、と私は思うな。織部がよっぽど何か変なことを言ったりやらかしたりしない限りは」

「・・・・・・そう言うものかな」

「私から言えるのは、それぐらいだ。後は実際に小梅に聞いてみないと分からん」

 

 話が終わったところで、店員が2人分の生姜焼き定食を持ってきてくれた。こんがり湯気の立つたれの染みた肉が食欲をそそる。

 話は一旦お終い、とばかりに根津が『いただきます』と手を合わせて、みそ汁を啜る。

 織部も、まずは腹ごしらえをしようと思って根津と同じように手を合わせ、みそ汁を一口飲む。

 だが、そのみそ汁はどこか物足りないと感じる織部。

 その理由は分かっている。小梅のみそ汁を飲んで美味しいと感じ、脳と舌がそれを記憶してしまったからだ。

 それに、あの時食べた肉じゃがの味も覚えてる。

 もはや、完全に織部の胃袋は小梅の手料理によって掴まれてしまっていた。小梅に惚れてしまったせいとも言えるが、どうやら自分は完全に虜になってしまっているらしい。

 これほどまでに、小梅の事を好きになってしまうとは。

 だが、その好意は恐らくは一方通行なのかもしれないな、と織部は思う。両思いだなんて楽観的に考える事はできない。

 今現在、織部の抱いている感情は現状では片思いとしか言えない。小梅が自分の事を好いていてくれたら、それ以上に嬉しいことは無いが、その可能性は低い、と言うか無いだろうと織部は思う。

 ならば小梅から好意を向けられるような男になれれば話が早いのだが、どうすればいいのか、織部には全く見当もつかなかった。

 

 

 同時刻、斑田は小梅と向かい合って座り、コーヒーを飲んでいた。ほろ苦い風味が口に広がり、脳を否が応でも覚醒させる。

 そんな斑田の前で、小梅は縮こまるように座っていた。テーブルに置かれているコーヒーには口も付けていない。

 ついさっきまで普通に話をしていたというのに、今はこのような事になってしまっている。

 こうなってしまったのは、店の前で織部と会ってからだ。偶然にも織部と会って、一緒に昼食に誘おうと思ったら小梅がどもり、織部は誘いを断った。その後から、小梅は今のように落ち込んでいる、ように見えた。

 

「・・・・・・赤星さん、織部君と何かあったの?」

 

 斑田が聞いてみると、小梅が肩をビクッと震わせて斑田の方を見る。どうしてそう思うのか、と目で問いかけてきていたが、織部と話した後でこんなことになってしまっているのだから、逆に織部と何かあったと考えない方が不自然だ。

 

「・・・・・・・・・・・・はい」

 

 小梅は自分の反応で全て悟られてしまったと諦めて、大人しく頷く。

 

「・・・・・・私で良ければ、相談に乗るけど?」

 

 斑田が申し出ると、小梅は内心で安心していた。

 ちょっと前まで自分は孤独だと思っていたのに、今はこうして斑田が自ら進んで相談事に乗ろうとしてくれている。まるで、自分が黒森峰に入学し、戦車隊に入隊した当時のようだ。

 それも、織部が真摯に小梅と向き合って、小梅が再起できるように促し、協力し、助けてくれたからだろう。

 けれども、その織部に対して先ほど小梅は少し失礼な態度を取ってしまった。

 それを思い出し、また少し気が沈む。

 

「・・・ありがとう、斑田さん。良ければ・・・・・・聞いてもらってもいいですか?」

「うん、いいよ」

 

 そこで小梅は、コーヒーを一口飲む。頭をすっきりさせて口の中を湿らせて、話し始める。

 

「昨日の訓練の後・・・・・・私と春貴さんは、一緒に帰ったんです。それで春貴さんは、私が何か相談したい事があって一緒に帰ろうとしたって思っていたみたいで・・・。それで私は、『私が春貴さんと一緒に帰りたかったから』って言いました」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 なんだ惚気話かよ、と斑田は頭の片隅で思わなくもなかったが、それは置いておきコーヒーを一口飲む。

 

「・・・私が今こうして、斑田さんや根津さん・・・他の戦車隊の皆さんとも打ち解けられているのは、春貴さんのおかげなんです。春貴さんが、私の過去を聞いて私を励ましてくれて、私の傍にいてくれたから・・・私は今、立ち直ることができたんです」

「・・・・・・・・・・・・」

「それなのに・・・私が何か悩みを抱えていると春貴さんに思わせてしまって、それなのに私が『一緒に帰りたかったから』って個人的な理由で春貴さんを誘ってしまって、それが自分勝手な事だと思ってしまったんです」

 

 コーヒーカップをソーサに置く斑田。だんだんと話が、小梅の抱えている悩みが見えてきた。

 

「だから・・・・・・春貴さんに対して申し訳ないって気持ちが大きくなっていって、それでさっき・・・・・・」

「・・・さっきのような態度を取ってしまった、と」

「・・・・・・はい」

 

 それでその結果、織部もまた少し落ち込んでその場を去って行ってしまった。同時に小梅も、織部を落ち込ませてしまった事で自責の念に囚われる結果になってしまった。

 ふむ、と斑田は少し洩らして顎に手をやる。

 斑田は、小梅の織部に対してどんな感情を抱いているのか、おおよその見当はついていた。ただし、そうなのかと実際に本人に聞くのは他人の心中に足を踏み込むような所業であるし、もし違っていた場合は早とちりした自分が恥ずかしくなる。

 だが、聞かない事にはアドバイスのしようが無い。

 だから斑田は、言い方に気を付けて小梅に問う。

 

「・・・・・・赤星さんは、織部君の事が気になってるの?」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 ここで斑田の言う『気になってる』とは、『好き』とほぼ同じ意味を持つ。

 小梅自身、織部の事は好きであることに変わりは無い。しかしそれは他人には知られたくなかった。だが、もう後戻りはできないし、小梅がそれを肯定したところで、斑田はそれを織部に言いふらすような真似はしないと思っている。

 それに斑田は、好奇心で小梅の話を聞いたわけではないというのも、斑田の態度で分かる。だから小梅は、斑田を信頼して、言った。

 

「・・・・・・・・・・・・はい」

 

 よもや女子しかいないはずの黒森峰で、恋愛の相談をする事になろうとは、斑田は夢にも思わなかった。しかし今は、織部という男子が留学してきた事で状況は変わっている。人生何が起こるか分からないとは、よく言ったものだ。

 けれど、斑田は恋愛経験が無いので具体的なアドバイスをする事は難しいし、あれこれした方がいいと言っても説得力に欠けるだろう。

 だから、あくまで推測で物事を判断し、どうすればいいのかを伝える事しかできない。

 

「・・・さっき、赤星さんが立ち直るのに織部君が力を貸してくれたって言ってたよね」

「・・・・・・はい」

「赤星さんと織部君が具体的に何を話して、どんな言葉を交わしたのかは私には分からない。でも、何て言ったらいいのかな・・・・・・」

 

 斑田も慣れないことをするので要領が上手く掴めず、言葉をどう伝えればいいのか悩む。

 腕を組み、目を閉じて、過去の事を思い出し、どう伝えればいいのかを考える。

 

「・・・・・・織部君が黒森峰に来た時、赤星さんはまだ・・・・・・去年の事で落ち込んでたでしょう?」

「・・・・・・はい」

「でも今は、その時の面影が全くと言っていいぐらいに無い。それだけ赤星さんが自信を取り戻して立ち直って、昔みたいになったんだよ」

 

 小梅がコーヒーを飲む。斑田もまた、同じようにコーヒーを飲む。少しぬるくなってしまっていたが構わない。

 

「その赤星さんの傍には、織部君がいた。きっと織部君も、赤星さんが立ち直ったのを見て喜んでくれていると思うよ。顔や行動に表さなくても」

「・・・・・・」

「だからこそ、赤星さんがさっき織部君を拒むような事をしたから・・・。織部君も、少しショックだったんだと思う。何せ、今までずっと赤星さんに近しかった自分の事を拒まれたんだから」

 

 斑田の言葉を聞いて、小梅はますます落ち込んでしまう。なおの事、あの時小梅は織部を拒むべきではなかったと思う。

 どうすれば、この償いができるのだろう。

 

「でも、赤星さんに『一緒に帰りたかった』って言われて、織部君は迷惑だったなんて思ってないんじゃないかな?」

「え・・・・・・?」

 

 斑田が言うと、小梅は顔を上げる。

 

「言ったでしょ?赤星さんが立ち直るのに織部君は力を貸したって。赤星さんが最初に織部君と会った頃、赤星さんも織部君を遠ざけていたんじゃない?」

 

 確かに、織部が小梅の真実を知ったら、織部は小梅の敵に回ってしまうかもしれないと思い、織部を真実から遠ざけて自分の事を話そうとせず、一線を引いていた節がある。

 今思えばそれも、ひどい事をしてしまった、織部を信用しなさ過ぎていた、と思うところがある。

 

「だから今になって赤星さんが自分から織部君と一緒に帰ろうって誘ってくれたことは、嬉しい事だったんじゃないかって私は思う」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 斑田は、もう1つの可能性を考えていた。

 それは、織部が小梅の事を好きであったら、という可能性だ。もしそうだとしたら、小梅から一緒に帰ろうと言われて嫌なはずはないだろうし、さっき小梅から拒まれて落ち込んでしまった事も、好きな人に拒絶されてショックを受けたという事で筋が通る。

 ただし、ここにはいない人の感情を勝手に決めつけるのはしてはいけない事だというのは分かっているし、そうでなかった場合は小梅を傷つける事にもなりかねない。

 だからその可能性は、胸に秘めたまま言わないでおく。

 

「私は・・・・・・・・・・・・どういたらいいんでしょうか・・・・・・」

 

 力なく小梅が呟く。

 しかし、斑田はその問いに対する答えは1つしかないと考えていた。

 

「・・・・・・織部君に、さっき拒んでしまった事を、謝った方がいいと思う」

 

 

 

 その日の夜、小梅は自分のスマートフォンとかれこれ10分ほどにらめっこしていた。画面に表示されているのは、織部の連絡先だ。

 斑田に昼言われて、織部の事を拒んでしまった事を謝ろうとしていた。さらに、織部がどう思っていたのかは置いておき、自分の都合で織部と一緒に帰った事についても、一言謝っておきたかった。

 だが、いざ電話をかけるとなると踏ん切りがつかなくて、こうして固まってしまっている。

 早く謝らないと、ずっとなあなあな関係が続いてしまい、織部と関係が崩れてしまいかねない。それだけは嫌だった。

 そう思うと、やっぱり伝えなくちゃダメだと思い、勇気を振り絞って発信ボタンをタップする。

 しばらくの間コール音が鳴り響く。繋がってほしいと願い―――

 

『もしもし』

 

 出た。つながった。

 携帯を握る手に力が入るが、あくまで冷静を装って話す。

 

「ご、ごめんなさい。こんな夜遅くに・・・あ、お時間大丈夫ですか?」

『大丈夫、問題ないよ。それでどうかしたの?』

 

 織部の声は柔らかい。

 その声を聞くだけで、小梅は安心感を覚えてしまう。これまで幾度となく小梅の事を助けて、救ってくれた織部の声は、安らぎを感じさせてくれる。

 

「・・・・・・昼は、すみませんでした。春貴さんに、ひどい態度を取ってしまって」

『・・・ああ、あの時の事ね。大丈夫、気にしてないよ』

 

 織部は、本当に気にしていない風に言ってくれているが、本当のところはどうなのかは分からない。

 だから、続ける。

 

「昨日、春貴さんと一緒に帰りたかったからって言ってしまって・・・それで私の勝手な理由で春貴さんを巻き込んでしまった事が申し訳なくって・・・・・・それでさっき・・・・・・」

『・・・・・・そう言う事だったんだ』

 

 何を言われるんだろう、小梅は得体の知れない恐怖に襲われる。

 次に織部の発する言葉を聞くのが怖く、時間が止まってしまえばいいとも思ってしまう。

 

『・・・・・・昨日の小梅さんの言葉を聞いて、僕ね・・・』

「・・・・・・」

 

 そこで織部は言葉を切って、はっきりと告げた。

 

『すごく、嬉しかったよ』

 

 小梅の呼吸が止まりそうになる。

 

『会った最初の頃は周りの人をあまり信じないでいた小梅さんが、進んで僕の事を誘ってくれたのが、嬉しかった』

 

 それは、昼に斑田が言ってくれたことと同じだ。

 

『それにね・・・・・・僕個人としても・・・』

 

 すると今度は、照れくさそうに言葉に詰まる織部。小梅は、ゆっくりとその言葉を待つ。

 やがて織部はこう言ってきた。

 

『・・・・・・小梅さんと一緒に帰りたかった。もっと言えば、小梅さんと一緒にいたかったよ』

「・・・・・・・・・・・・」

 

 多分、今の自分の体温を計ったら、平熱を超えてしまっているかもしれない。

 そう思えるほどには、小梅の身体は温かくなっていて、同じくらい心も温まっていた。

 今の織部の言葉は、今まで織部から言われた言葉の中でも一際心に響いて、何よりも嬉しい言葉だった。

 

『だから、小梅さんは気に病む必要なんてないよ』

「・・・そう、ですか」

『絶対そうだよ』

 

 その後、少しの間話をして、電話は切れた。ただ、通話が切れても、小梅はしばらくの間手の中にあるスマートフォンから目が逸らせなかった。

 そして頭が沸騰しそうになるぐらい熱くなって、机に突っ伏した。

 

 

 通話が切れても、織部はしばらくの間手の中にあるスマートフォンから目が逸らせなかった。

 自分はさっき、自分の本心を包み隠さず告げた。

 小梅と一緒に帰りたかったという事。

 そして、小梅と一緒にいたかったという事。

 今思ってみれば、随分とクサい事を言ってしまったと思う。そしてそれが、ものすごい恥ずかしい。

 だけどもう後戻りはできない。

 その言葉は、いつか小梅に告白する時への覚悟の表れでもあり、自分の意志確認ともなった。

 

「・・・・・・・・・絶対、言わないと」

 




シュウカイドウ
科・属名:シュウカイドウ科シュウカイドウ属
学名:Begonia grandis
和名:秋海棠
別名:瓔珞草(ヨウラクソウ)
原産地:中国、マレー半島
花言葉:恋の悩み、片思い


根津と斑田は、ここに留学に来てから比較的付き合った期間が長いので、
ここで織部と小梅2人の悩みを聞く役として登場させました。


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弟切草(オトギリソウ)

今回はアニメ本編4~5話の抽選会に当たる話です。
少し長めですが、よろしくお願いします。


 中間試験も終わり、それまでの試験に対する緊張感や不安などの気持ちから解放された生徒たち。だがホッとしたのもつかの間、すぐに試験が返ってきて生徒たちは悲喜こもごもな反応を見せる。

 織部もその例に漏れず、返ってきた試験を見て『うわー』とか『よしよし』とか小声でつぶやく。全体的に平均以上の点数は取れているので良しとしよう。特に、得意と自負している現代文は96点と全科目で一番点が取れたのでそれだけでも満足だ。反対に一番点が取れなかったのは物理。元々理数系が苦手だった故だが、一応平均点以上は取れていたので及第点と言ったところか。

 そして、生徒一人一人に学年、クラス、科目ごとの順位が記された紙が渡される織部の学校とは違い、黒森峰は学年順位が廊下に貼りだされる。休み時間に興味本位で織部が廊下の外に出てみれば、その順位が記された模造紙を前に人だかりができていて、ざわざわと話している様子が見える。

 だが、織部は見に行こうとは思わない。あくまで留学生であり、正式には黒森峰の生徒ではない自分の成績は順位には載っていないだろうと思ったし、他人の成績に興味も無かったからだ。

 すると、人だかりから小梅、根津、斑田の3人がやってきた。根津は渋い表情をしているが、斑田は少し口元がにやけていて、小梅は微笑んでいた。三者三様の反応を目にして織部も、ほんのわずかだが3人の出来栄えに興味が湧く。それは、自分の成績が順位に反映されていないことによる、一種の羨望の気持ちもあった。

 

「どうだった?」

 

 織部が聞くと、斑田はうんと頷く。どうやら、斑田は自分の成績が納得いくものだったらしい。

 一方で根津は、はぁと小さく息を吐く。あまり芳しくはなかったようだ。

 そして小梅は苦笑する。予想通り、という意味かそうではなかったのか、判断はつかない。

 深くは尋ねないことにした。

 

「織部は見ないのか?」

「多分僕の名前は載ってないと思うから・・・」

 

 根津が問いかけるが織部は首を横に振る。

 ところが、小梅は『あれ?』と首をかしげて言った。

 

「春貴さんの名前、ありましたけど?」

「え?」

「確か、47位ぐらい・・・」

 

 隣で根津が『私より上だと・・・!?』と驚愕している。

 一方で織部は、自分の名前もあった事に少し驚く。しかし同時に、少々女っぽいと言う自覚はあった織部の名前を多分200人以上いる中からよく見つけられたものだと織部は思った。

 そしてそう思ったのは斑田も同じらしい。

 

「よく織部君の名前見つけられたね。あの中から」

「私の近くにあったので・・・」

 

 斑田の顔が、少し小梅を試すように笑っているのに織部は気付いていたが、何を試そうとしていたのかは織部には分からない。

 斑田は、小梅が織部の事を好きだという事を知っていたので、ちょっとしたからかいも含めていたのだが小梅にはそれは通用しなかったらしい。事実、小梅の順位は52位と織部のすぐ近くだったのだ。

 

「まさか、織部に負けるとは・・・・・・」

「そんな心底屈辱的に・・・」

 

 ちなみに、斑田の成績は37位、根津は56位だった。根津は織部より順位が低い事を悔やんでいたが、200人近い2年生の中でこの順位は上位と言っても過言ではない。落ち込むことは無いのだが、やけに対抗心を燃やす根津の心情が、織部にはあまり理解できなかった。恐らく、元来根津は負けず嫌いな性格をしているのかもしれない、と言う事に織部はしておいた。

 

 

 戦車道の訓練が終わった後、織部は小梅、根津、斑田、三河、直下といつものメンバーで帰路に就いていた。4日間の中間試験期間中は戦車道の訓練も無かったので、こうしてこの6人で帰るのも随分と久しく感じる。

 だが、そんな帰り道で一際目立っているのは三河だ。“どんより”という言葉が似合う雰囲気を纏っている。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「どうしたの、三河さん・・・」

「実はねぇ、数学で赤点ギリギリの点とっちゃったんだって」

 

 三河に織部が問うと、直下が苦笑しながら答える。確か、三河と直下はクラスが近いからそう言う話もしたのだろう。三河は直下の言葉を聞いて、傷口に塩を練りこまれたかのように身体をぶるぶると震わせている。

 しかして、赤点ギリギリと言う点に縁がない織部も、そのショックは分からなくもない。もし自分も同じような点を取ったりしたら、今の三河のように落ち込んでしまうかもしれない。

 

「・・・・・・・・・・・・まさか・・・途中から解答欄がずれていたなんて・・・」

『・・・・・・・・・・・・』

 

 どうしようもないケアレスミスを聞き、全員黙り込んでしまう。途中から、というのが不幸中の幸いだろう。これでもっと最初の方から間違えていたなんて言ったら、赤点どころではなかった。

 流石にこの雰囲気に晒され続けるのが苦しいのは誰も同じだったようで、斑田が話題を提供した。

 

「ところで、今年もまた副隊長が1位だったね」

「ああ、そうだったな。やっぱすごいなあの人は」

 

 斑田の話題に根津が乗っかる。そして副隊長とは他ならない、逸見エリカの事だ。前に小梅が、エリカはドイツ語が得意と言っていたが、学年1位を取るほど勉強ができるというのは知らなかった。

 やはり副隊長となると、馬鹿ではやっていけないのだろう。

 とすれば、隊長のまほも学力は秀でているに違いない。3年生の知り合いがいないので確かめようも無いのだが。

 

「そう言えば、明日の訓練隊長と副隊長がいないって言ってたね」

「・・・・・・全国大会の抽選会があるからね」

 

 直下が思い出したかのように呟くと、三河が多少ショックから立ち直ったのか(しかし声のトーンは低い)補足する。

 今日の訓練終了時の号令で、まほは『明日、土曜日の訓練は走り込みに変更する』と言った。その理由は先ほどの三河の言葉のように、第63回戦車道全国高校生大会のトーナメント抽選会が開かれ、まほとエリカがその抽選会に参加するからだ。

 その抽選会は首都圏にある大型アリーナで行われる。今現在黒森峰学園艦は九州の近くを航行していて、その抽選会の会場まで行くには半日ほどかかる。抽選会は日曜日の昼から行われるので、土曜日に移動をしておかないと抽選会には間に合わない。だから、明日の訓練は隊長であるまほと、副隊長のエリカがいないのだ。

 隊長及び副隊長が不在で、戦車に乗って訓練を行うと色々と面倒な事になってしまうので、明日の訓練は予定を変更し、走り込みとなったのだ。土曜に本来やるはずだった訓練―――走行・砲撃訓練は次の走り込みの日と入れ替わる。

 また、1日中走り込みを続けるというわけでもなく、明日の訓練は特例として午前中だけだ。

 

「誰が代表に選ばれるのかな」

「いやぁ、去年選ばれたからって今年も選ばれるとは限らんしなぁ・・・」

「隊長と副隊長は当然として・・・後は誰かな」

 

 直下達は、代表入りできるかどうかが心配らしい。聞けば彼女たちも去年の大会には参加していたという。

 一方で小梅は、少し沈んだ表情を浮かべている。全国大会にはあまりいい思い出が無いからだろう。というか、あの大会がきっかけに小梅の人生は大きく狂ってしまったのだから忘れていないはずがない。

 その小梅の表情にいち早く気付いた織部は、周りに気付かれないように、そっと肩に手を置く。小梅がそれに気づき、織部を見上げると小梅は、織部が微笑んでいるのを見た。

 織部が何を意図して小梅の肩に手を置いたのか、分かるような気がする。織部が小梅の事を気遣っての事だ。

 それが嬉しくて、小梅もまた小さく笑う。

 実際は、それぞれの心情を知っている根津と斑田が、織部が小梅の肩に手を置いているのに気づき『順調に近づいてるな』と内心で呟いているのだが。

 

 

 抽選会当日、エリカはまほと共に、抽選会が行われる会場―――さいたまスーパーアリーナに来ていた。

 空を見上げれば青空が広がり、夏が近づいてきているのを感じさせてくれるが、最低限の照明だけが点けられている薄暗いアリーナに足を踏み入れれば、その空の明るさも関係なくなる。

 今、このアリーナにはその席を全て埋め尽くすほどの、自分と制服は違えど自分と同じ高校生が訪れていた。

 この抽選会に参加する、すなわち全国大会に出場する各校の選手たちを全員収容させるつもりでこのアリーナを抽選会の会場に指定したのだろうが、そんなに大勢で来る必要も無いだろうとエリカは思っていた。現に、黒森峰から代表としてやってきたのは自分とまほだけだ。来るのは最低限、隊長・副隊長クラスの人間だけで十分だ。

 そんなエリカの考えなど無視して抽選会がスタートする。最初にくじを引くのは、昨年度の優勝校・プラウダ高校だ。

 プラウダ高校は、昨年の全国大会で黒森峰が敗北を喫した、10連覇の夢を潰した因縁深き決勝戦の相手だ。

 今年は、絶対に勝つ。去年の雪辱を果たして見せる、とエリカは心の中で誓い、拳をぐっと握りしめる。

 隣に座るまほの表情は相変わらず凛々しいが、心の奥では今年の優勝に対する意思が固まっているのだろう。

 くじの結果、プラウダ高校は3番枠となった。そしてくじを引いた、随分と背の低い少女がステージから降りると、次は我ら黒森峰女学園の番だ。

 

『黒森峰女学園代表の方、前へ』

 

 プラウダ高校の代表がステージから降りたところで呼び出され、まほが席を立ってステージに向かう。そして淀みない動作でステージに上がり、ゆったりとした動作で迷いなくくじを引くまほ。

 

『黒森峰女学園、13番』

 

 プラウダ高校とは離れたブロックに入ってしまったので、いきなりぶつかるという事は無い。だが恐らくは今年も、あのプラウダ高校が勝ち上がってくるだろうとエリカは思っていた。何せ去年の優勝校だ、決して侮れない。それを差し引いてもプラウダは四強の一角と知られている。そうそう容易く負けはしないだろう。

 まほが戻ってから、順調に去年参加していた学校がくじを引いていく。聖グロリアーナ、サンダース大付属、継続、知波単、アンツィオ、BC自由、コアラの森、ヴァイキング水産、マジノ・・・。後半に進むにつれて、悪く言えばそれほど強くはない学校へと移っていく。

 この時点で、黒森峰の1回戦の相手は知波単学園に決まった。

知波単学園は、個々の練度は高いものの取る作戦は“とにかく突撃”と、それぞれの戦車の特徴や能力を全く生かさない、無鉄砲にもほどがある戦法を仕掛けてくる。ただ真っ直ぐ、具体的な術もなく突っ込むだけなので玉砕する可能性が非常に高く、ここ最近では1、2回戦落ちが続いている。ただしこの全国大会に参加している期間は非常に長いため、期間だけ見れば中堅クラスではあるものの強豪とは言えない学校だ。そろそろ、長年の経験を生かして戦術を変えてくるかもしれない。

 ともあれ、さほど脅威ではない学校が1回戦の相手に決まった事でエリカは内心安心したが、それを見透かしているかのように隣に座るまほはエリカの方を見ずステージを見たままこう言った。

 

「どこが相手であれ、決して敵を軽視せず、油断するな」

 

 それはよくまほから、そして師範のしほからも聞いた言葉だ。相手を舐めて侮ると、逆に足元をすくわれやすい。そうならないために、西住流は決して戦う相手の事を侮らず、常に全力で戦う。

 そして、次に呼ばれた学校は。

 

『大洗女子学園代表の方、前へ』

 

 去年は全国大会に参加してはいない、それどころか聞いた事も無い学校だ。

 そう言えば、この前に見た戦車ニュースサイトで、『大洗女子学園、20年ぶりに高校戦車道連盟へ再加盟』という記事があった記憶がある。

 戦車道ニュースサイトは、その名の通り戦車道に関するありとあらゆる情報が集まるサイトで、プロリーグ選手や専門家も愛用している。

 文科省が、数年後に日本で開催される戦車道世界大会に向けて全国の学校へ戦車道に力を入れるように要請したことも、そのサイトに載っていた。という事は、大洗女子学園はその要請を受けて戦車道を復活させたという事か。

 それにしても、いきなり全国大会に出るとは、少し自分たちの立場を弁えてはいないのではないかとエリカも思う。

 この全国大会は、戦車道のイメージアップも兼ねているという話を聞いた事がある。だから、イメージダウンにつながるような学校、例えば風紀が乱れている学校や無名校は参加しないことが暗黙のルールになっている。

 その暗黙のルールに逆らって参加するとは、大胆というか、馬鹿と言うか。まあ、その暗黙のルールそのものを知らないという可能性もあるが。

 さて、そんな大胆不敵な無名校の人物とはどんな輩なのか。エリカが頬杖をついてフンと鼻で息を吐き、その人物の顔を見てやろうと思ったところで。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」

 

 変な声が出た。

 だって、今壇上に登った、大洗女子学園の代表と思しき生徒は。

 

(・・・・・・・・・・・・なんで・・・・・・・・・・・・)

 

 見覚えのある栗色のショートヘアで、

ちょっと頼りないおどおどしたような顔の人物は、

 

(・・・・・・・・・・・・あんたが・・・・・・・・・・・・)

 

 エリカにとっての越えるべき存在であり、

 ライバルとも言える存在であり、

 そして友達とまでは言えないが親しい存在でもあり、

 西住流の後継候補ナンバー2で、

 隣に座るまほの実の妹である、

 

(・・・・・・・・・・・・こんなとこにいるのよ)

 

 

 西住みほだったのだから。

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 隣に座るまほの方を見ると、表情も体勢も変わってはいないが、瞳が揺れているのが分かる。それは明らかに、動揺しているという事だ。

 忘れるはずもない、みほは少し前までは黒森峰の生徒で、黒森峰戦車隊の副隊長で、そして去年黒森峰が優勝を逃す事になってしまった大きな原因でもある。

 黒森峰を去り、戦車道とは無縁の学校に行ったはずなのに、なぜここにいる?

 なぜ、あのような失態を犯し、黒森峰では糾弾されて矢面に立たされ続け、戦車道の道を諦めたはずなのに、なぜまた戦車道をやっている?

 

『大洗女子学園、8番』

 

 いつの間にか、みほはくじを引き終えていた。そして大洗女子学園と最初に当たる学校は、サンダース大付属高校。強い、というイメージよりも戦車の保有台数が多く資金が潤沢にある、いわばお金持ちというイメージが強い学校だ。しかし黒森峰、プラウダ、聖グロリアーナと並ぶ四強の一角とされている学校で実力もそれなりにある。

 だが、当のサンダースは完全に1回戦は勝ったも同然と言わんばかりに喜びの声を上げ、拳を突き上げていた。完全に油断しているが、相手は聞いた事も無い無名校なのだからそうなるのも当然か。

 だがエリカは、サンダースの事など、どうでもよかった。

 大洗女子学園がどこと戦うかなど、どうでもよかった。

 ただエリカの心の中で渦巻いている事はたった一つ。

 なぜ、みほがここにいる?

 分からないことだらけで、色々な感情がごちゃ混ぜになってしまい、胃袋の中がぐるぐるとかき混ぜられるような感覚に襲われる。

 それでも、自分の中にとある感情が芽生えたのだけは分かった。

 それは、どうしようもない、怒りだった。

 

 

 戦車喫茶『ルクレール』は、戦車道を嗜んでいる人や戦車道愛好家、ミリオタの間では有名な店だ。店舗の中は戦車一色、戦車の砲弾や転輪が飾られていて、そこかしこに軍事用品が置かれている。店員は全員軍服を着用し、提供されるケーキは戦車の形を模している。そのケーキを運んでくるのはドラゴンワゴンのラジコンと、戦車と言うよりは軍隊のイメージが強い。

 しかしてこのルクレールも、その内装の奇抜さ、面白さが口コミで話題となり、今では一般の客も訪れる事が多くなっているらしい。そしてこれを機に戦車道に興味を持つ人も多いそうだ。

 そんなルクレールの目玉と言えるメニューは、戦車を模した形のケーキ。種類も豊富で目移りしそうだ。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 だが、そのルクレールに訪れていたエリカとまほは、互いにコーヒーしか頼まず向かい合って座っている。

 抽選会が始まる前、移動中の新幹線の中ではこのルクレールの事を調べ上げて、普段の訓練で疲れているであろうまほを労わる形で、2人でお茶を楽しもうと思っていたのに、それも台無しだった。

 どうしてそうならなかったのか、どうして今は2人とも何も言えずにあるのか、その理由は単純明快。

 先ほどの抽選会で、エリカはみほの姿を見た。まほも、見ていたのだろう。

 他人の空似かと思ったが、あまりにも容姿とおどおどした様子が似すぎている。とてもそうだとは思えない。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 エリカは一つ溜息をついてコーヒーを飲む。

 エリカと共に黒森峰戦車隊に入隊し、副隊長補佐として傍にいて、戦車に乗るうえで大切な事を教えてくれたみほ。

 いつしか自分の乗り越える存在として、ライバルに決めたみほ。

 去年の全国大会で黒森峰が敗退する直接の原因となったみほ。

 そして戦車道から遠ざかり、道を諦めたみほ。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 まほも何を考えているのかは分からないが、恐らくまほの胸中もごちゃごちゃだろう。何せ、まほはみほの事を庇いたかったにも拘らず、西住流のメンツを保ち黒森峰戦車隊を立て直すために庇わなかったのだから。

 あの時の事がきっかけで戦車道に背を向けたみほがまた戦車道を歩んでいる事は、姉としては嬉しい事なのかもしれないが、この大会に参加している以上は黒森峰と戦う可能性だって無きにしも非ず。

 去年は同じ仲間として戦っていたのに、今回は敵として戦う事になる。

 かつての仲間としても、姉としても、複雑な思いを抱えているだろうに。

 

「エリカ」

「あっ、はい」

 

 うんうん悩んでいると、まほが話しかけてきた。みほの事について考えていると気付かれてしまったのか。

 そう思ったのだが、どうもそうではないらしい。

 

「そろそろ、時間だ」

「分かりました」

 

  エリカとまほは、ここに来るまでに新幹線を使ってきた。無論、帰りも同じ手段で帰る。熊本から東京まで行くのには相当費用が掛かる。移動費は全て学校が賄ってくれるが、その額も限られているため、この抽選会には2人で新幹線で来ているのだ。飛行機は新幹線よりもはるかに早いのだが、逆に費用が新幹線よりも高い。

 それはさておき、今から出ないとその新幹線の時間に間に合わない。だからまほは、店を出ようと伝票を手に取り立ち上がったのだ。

 エリカも残りのコーヒーを飲み干して、席を立ちあがる。

 また4時間以上新幹線に拘束されるのも少々疲れるなぁと思いながら店を出ようとしたところで。

 

 

 楽しそうに同じ学校の仲間とケーキを食べているみほの姿を見た。

 

 

 脳裏に、みほが言っていた言葉がよぎる。

 

『戦車に乗る事を嫌いになると、自分がどうして戦車道を歩んでいるのか、自分はどうして戦車に乗ってるのか、それが分からなくなるから』

『自分の道を見失わないために、その気持ちは、ずっと大切にした方がいいと私は思うよ』

 

 戦車に乗るうえで大切な事を教えてくれたみほが、今目の前で名前も知らないような学校の仲間たちと仲良く楽しそうにお茶を楽しんでいる。

 

『私はもう・・・西住流には、戦車道には向いていないのかも・・・』

 

 黒森峰を去る前に、学校中から糾弾されて絶望的な状況にいたみほがポツリとこぼした言葉を思い出す。

 そう言っていたみほが、向いていないと言って辞めてしまった“戦車道”の全国大会に出場するためにここにいる。

 

『・・・・・・私と同じ西住流だからと、私の妹だからと、1年生であるにもかかわらず副隊長を任せ、あれやこれやと負担をかけ、挙句みほを庇う事も、守る事もできなかった・・・』

『姉として、失格だな』

 

 まほがこの前、織部に話したあの時の真実とまほの真意を思い出す。

 まほだって妹であるみほの事を思っていたにもかかわらず、西住流、黒森峰戦車隊の鎖に縛られて庇うことができなかった。

 そんな事など全く知らないとばかりに、まほの想いを妹であるにもかかわらず何一つ理解していないみほが今、新しい仲間と一緒に実に楽しそうにケーキを食している。

 それを見てエリカは。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 自分を見失ってしまいそうなほどの憤りを覚えた。

 何も知らずに笑っているみほに対して、怒りが込み上げてくる。

 黒森峰が10連覇を逃した原因を作り、黒森峰を去り、戦車道を辞めると言っていたみほが無名校でまた戦車道を始めて、今度は黒森峰の敵になろうとしている。再び黒森峰が歩み始めようとする連覇への道を、みほが塞ごうとしている。

 みほがどうしてまた戦車道を始めたのか、そんな理由は知らないが、今のエリカにはもうそういう風にしか見えない。

 前を歩くまほは、みほに気付きながらも通り過ぎようとしている。あの時、織部との話でまほは『いつか謝りたい』と言っていた。それはまほも再会を望んでいたということだろうが、こんな形での再会など望んでいなかっただろう。

 でも、エリカは自分の、みほに対する怒りを抑えきれず。

 

「副隊長?」

 

 声を掛けてしまった。

 エリカが声を掛けた事で、まほも立ち止まり、件のみほもその声のした方向を見る。そしてみほは、声を掛けた人物が黒森峰で親しかったエリカであり、その傍には自分の姉でもあるまほがいるのを見て、驚愕に表情を染めている。

 

「ああ・・・“元”でしたね」

 

 エリカが声を掛けてしまった事で、まほも自然と注目を集める結果になってしまう。

 

「・・・お姉ちゃん」

 

 みほがまほの事を呼んでしまったために、まほもみほを無視できなくなってしまった。

 だからまほは、何か一つ、言葉をかけることにした。

 

「・・・・・・・・・・・・まだ戦車道をやっているとは思わなかった」

 

 まほは、普段から必要最低限の事しか口にしない。メールであってもそれは同じで、端的過ぎるメールを目にした隊員たちは恐れおののくという噂をエリカも耳にしたことがある。

 この前織部に全てを話した際は、全てを話す必要性があったという事であそこまで言葉が出てきたのだが、普段のまほは大体こんな感じだ。

 要するにまほは口下手なのだ。

 

「お言葉ですが、あの試合でのみほさんの判断は間違ってはいませんでした!」

 

 随分癖の強いショートボブの少女が立ち上がって抗議の声を上げる。恐らくはこの子も、大洗で新たにできたみほの仲間だろうが、こんな黒森峰の人間ではない部外者がみほの何を知っているというのだ。みほといた期間は、自分たちの方が上だ。まだ出会って2カ月ぐらいしか経っていないだろうに、みほの理解者を気取るのか。

 

「部外者は口を出さないでほしいわね」

「・・・・・・すみません」

 

 ショートボブの少女は、エリカの言葉を聞いて肩を落とす。

 

「行こう、エリカ」

「あ、はい。隊長」

 

 エリカは、まほが新幹線の時間を気にして急かしているのかと思ったが、実際はそうではなかった。

 まほは未だに、みほに対してあの時守れなかったことが申し訳ないという気持ちがある。その気持ちを伝えるのには、今の空気は少し悪すぎる。改めて場を設けて、謝ろうとしたのだ。

 謝るうえで相手に悪い印象を持たれてしまっては、相手に信用してもらえない。本当に申し訳ないと思っているのかと、疑われる。

 つまり、まほはみほには嫌われたくはなかったのだ。

 まほがカウンターへと向かい会計を済ませようとする。エリカもそれに続こうとするが、それでもみほに対する怒りは収まっていない。

 流石にこんなところで声を荒げてみほを責めるような真似はしない。それだけの良識と理性をエリカは持っている。周りに人がいる状況で嫌味を言うというのも良識の範囲内なのかと問われれば答えにくいが、それは今どうでもいい。

 

「1回戦はサンダース付属と当たるんでしょ?無様な戦い方をして、西住流の名を汚さない事ね」

 

 去り際に吐き捨てた言葉を聞いてみほが何も言えずに俯く。だが、その言葉に反発したのはみほの向かい側に座る、ウェーブがかった明るい茶髪のロングヘアの少女と、腰まで伸ばした黒い髪の背の高い少女だ。

 

「何よその言い方!」

「あまりにも失礼じゃ・・・!」

 

 この2人の抗議の声も、事情を全く知らない人間の言葉だと思うと、蚊に刺された程度にしか感じられない。

 

「あなた達こそ戦車道に対して失礼じゃない?無名校のくせに」

 

 無名校、と言われて2人は言葉に詰まる。この程度の事に言い返せないようではまだまだだ。

 彼女たちは暗黙のルールを知らないらしいが、20年ぶりに戦車道を復活させたような新参者の無名校が、いきなり全国大会に出るなんて自分たちの立場を弁えていないとしか言えない。

 

「この大会はね、戦車道のイメージダウンになるような学校は、参加しないのが暗黙のルールよ」

 

 だからそれをあえて教える。

 そして、自分たちの出しゃばる場所ではないという事を認識させる。

 

「・・・・・・強豪校が有利になるように、示し合わせて作った暗黙のルールとやらで負けたら恥ずかしいな」

 

 そこでボソッと言葉を発したのは、こんな状況でも顔色一つ変えずにケーキを食べている、長い黒髪に白いカチューシャの目立つ背の低い少女だ。

 その言葉にエリカが反応し睨みつけるが、その少女は全く意にも介さないとばかりにケーキを食べている。

 

「もし、あんた達と戦ったら、絶対負けないから!」

 

 明るい茶髪の少女がエリカを指差して宣言する。

 どうやら口だけは達者なようだが、それもサンダースや他の学校との試合に勝ち続けなければ叶わない事。自分たちの立場や戦力を顧みずに勢いだけで言葉にするのは賢明とは言えない。

 それに、自分たちの事を“あの”黒森峰だとは知らないらしい。あまりにも愚かだ。

 

「・・・頑張ってね」

 

 だからエリカは鼻で笑い、西住流の端くれなりに、無名校なりにせいぜい頑張れと、口だけの応援の言葉を口にして、エリカはその場を去って行った。

 店を出る際に、聖グロリアーナの連中とすれ違う。聖グロは女子校のはずなのに同い年ぐらいのスーツの男を連れていたがそんな事は気にも留めず、まほとエリカは駅へと向かった。

 帰りの道中、実に6時間以上もの間、まほはエリカに一切何も話しかけてこなかった。

恐らくは妹のみほを中傷して、大洗女子学園を無名校と侮ったエリカの事を快く思っていないのだろう。だが、今だけは、エリカはまほにどう思われていようが構わない。自分の中に燻るみほへの怒りは、あそこで直接ぶつけなければ、どこで爆発していたのか分からない。

 新幹線で熊本に戻って、連絡船で学園艦に戻り、長時間の移動と思いがけない邂逅で疲れていたエリカが、自分の部屋に戻って発した第一声は。

 

「・・・・・・絶対、認めないから」

 

 

 

 週明け最初の訓練は、土曜日に行うはずだった走行訓練と砲撃訓練だ。月曜日の訓練と土曜日の訓練を入れ替えて、一昨日の土曜日は走り込みだったのだ。

 そして今週から、全国大会に向けてスケジュールが変更される。だがそれは、後日伝えられることになった。

 隊員たちが整列したところで、訓練開始の宣言がされるかと思ったが、その前にトーナメント抽選会の結果が伝えられた。

 

「1回戦は、知波単学園と戦う」

 

 その学校の名前を聞いた直後、上級生が整列しているあたりが少し安堵したような雰囲気になる。織部は知波単学園がどんな学校なのかはうろ覚えだったが、確か突撃を貴ぶ学校だったか。そして上級生の雰囲気から、それほど脅威ではない学校だというのは分かる。

 

「相手が誰であろうと決して油断はするな。そして我々は、我々の戦い方を貫く」

 

 まほが告げると、その上級生たちも安堵した雰囲気を改めて緊張した面持ちになる。

 

「我が校から全国大会に参加する車輌は、まだ決めてはいない。だが、皆の訓練の出来栄えを見て判断する。では、訓練を開始する。全員、戦車に乗り込め」

『はい!』

 

 号令がかかり、全員が戦車に乗るために格納庫へと向かう。織部はまたいつも通り目元ペンを片手に高台へと昇り、訓練の様子を監視する。

 全国大会参加車輌を決めるという事もあり、どの車輌も動きが活発になってきていて、車輌の動きにも積極性がある。どの戦車も、的に向かって砲撃するとほぼ中心に命中している。

 それはほぼ新入隊員で構成された小梅のパンターも例に漏れず、もはや先輩たちとほぼ同じぐらいの力量にまで育っている。それは新入隊員たちの努力の成果だけではないだろう、小梅の教え方が上手いからかもしれない。

 小梅の事を、ここに留学してきたばかりの頃から見てきたのだから、小梅が、小梅の戦車がここまで成長しているのがすごく織部としては嬉しい。

 だが、小梅の戦車ばかりを見ているわけにもいかないので、織部は他の戦車にも目を向ける。各車輌の動きや砲撃の命中精度を大まかに記録して、それを報告書に記録する。

 さらに走行訓練では、対戦車隊のために生み出されたパンツァーカイルと言う楔形の陣形を形成し、前進するというプログラムを行った。この陣形は、敵戦車隊のを突破する際に有効であり、黒森峰戦車特有の強固な装甲と機動力、そして個々人の高い練度によって完成されるものであり、黒森峰はこれを得意としていた。

 そしていつものように、陽が傾き空が朱色に染まるまで訓練が続き、やがて戦車隊は格納庫前へと帰還してくる。織部も高台を降りて他の皆と同じように整列し、訓練終了の挨拶が終われば戦車隊は解散となる。黒森峰に来てもうすぐ2カ月になるが、大分このパターンにも慣れてきた。

 小梅や根津たちもあとは着替えて帰るのだろうが、織部はやはり報告書を書く仕事が残っているので、教室へ向かう事にする。

 しかし、大分長い間報告書を書いていたことでこれにも慣れてしまっていた。何を書けばいいのか、読む人はどんなことを知りたいのかを考えて書けば、おのずと内容は埋まっていく。

 意外と早く書き終わったので、まほを待たせることも無いと安堵し、報告書を急いで持って行く。

 ノックして隊長室に入れば、まほが椅子に座って各戦車のリストを見ているところだった。

 

「今日の訓練の報告書を持ってきました」

「ご苦労。確認する」

 

 まほが織部から報告書を受け取って、数分かけて読み、やがて織部の顔を見て頷いた。

 

「上出来だ」

「ありがとうございます」

 

 そこで織部はもう帰っても大丈夫かと思って踵を返そうとしたが、そうはならなかった。

 

「織部、少しいいだろうか?」

「?」

「エリカ、すまないが・・・・・・」

「・・・・・・分かりました」

 

 エリカに聞かれたくないような話があるという事か。エリカは、まほが何かを言い終わる前にそれを察し、不服そうに部屋の外へ出ていく。その時、織部とのすれ違いざまに織部の事をキッと睨んできた。織部に何か不満でもあるのかもしれないが、織部はこれまであまりエリカと接していないのでどこで嫌われたのかは皆目見当がつかない。

 とにかく、まほとの話に今は集中しなければ。

 

「どうだ、戦車隊には慣れたか?」

「ええ、そうですね。皆さん良くしてくれてるので、大分馴染んできました」

 

 まほが織部の事を気遣って近況について聞いてくるが、本題はそんな事ではないだろうというのは織部にも分かる。でなければ、エリカをわざわざ部屋の外に出させた意味がない。

 織部がそう思っている事に気付いているのか、まほは『ふぅ』と一息つき、やがて口を開いた。

 

「・・・・・・少し、話を聞いてもらいたい」

「はい。なんでしょうか」

 

 前と同じように、まほが織部を応接スペースに通す。そして同じようにまほに向かい合うように織部が座る。

 

「昨日、私とエリカが全国大会の抽選会に行ったのは、話したな?」

「はい」

「それで―――」

 

 それからまほは、昨日の出来事を話した。

 黒森峰を去り、戦車道の道を諦めたはずのみほが全国大会の抽選会場にいた事。

 みほは大洗女子学園と言う名前も知らない学校の代表としてくじを引き、間違いなく全国大会に出場する事。

 そして戦車喫茶『ルクレール』で再会し、エリカが大洗の生徒に対して挑発的な言動を取り、険悪な雰囲気でお互い別れてしまった事。

 それら全てを、織部に話した。

 その上で、まほは語る。

 

「あの時、ルクレールで会った時、私は黒森峰でみほを守れなかったことを謝りたかった。だが、エリカが大洗側に悪い印象を与えてしまった事で、謝る事も難しくなってしまった」

「・・・・・・確かに、謝る側の態度が悪ければ、いくら謝っても誠意が伝わりにくいですからね」

「ああ・・・だが、エリカの気持ちは分からなくもない。エリカは、まだみほが黒森峰で副隊長としていたころ、副隊長補佐としてみほの傍にいた。だから、エリカがみほに対して怒っているのも、分かる」

 

 仮にエリカがみほと面識がある関係だったとしたら、エリカがみほに、大洗に敵意を向けているのも分かる。何しろ、親しかったはずのみほが黒森峰の優勝、10連覇の夢を打ち砕き、戦車道を辞めると言って黒森峰を去ったはずなのにまた戦車道を始めて、今度は黒森峰の敵という形で黒森峰の連覇への夢を防ごうとしているのだから。

 

「・・・・・・西住隊長としては、どうお考えなんですか」

「・・・・・・そうだな」

 

 織部に問われ、まほは少し考える。目を閉じて考えを集中し、自分の考えを纏める。

 

「・・・怒りを全く感じていないと言えば、嘘になる」

「・・・・・・・・・・・・」

「みほは、黒森峰を去る時、私に言ったんだ。『もう、戦車道はできない』と」

 

 自分が正しいと思っていた行動を黒森峰から否定され、師範である実の親からも叱責され、周りの人間すべてが自分の敵だと思い込み、黒森峰で唯一血のつながっている、敬愛するまほにも守ってもらえず、見放されたと思っていたのなら、みほがその“道”を選んだことも頷ける。

 

「お母様は、みほが戦車道を辞める、黒森峰から転校すると言った時、『それがあなたの選んだ道なら、仕方のない事』と言って、表向きでは反対はしなかったが、内心ではどう思っていたのかは分からない。私も、黒森峰でのみほを取り巻く環境は分かっていた。だから、無理に引き留めずに背中を押して、送り出した」

「・・・・・・・・・・・・」

「だが、そう言ったにも拘らずみほは、また戦車道を続けていた。それも、今度は黒森峰の敵として・・・。自分の言った言葉を曲げ、しかも私たち黒森峰の敵となってまた姿を現した事に、私も少しは怒りを覚えた」

 

 だが、とまほは言葉を切って、ふっと笑う。

 

「それ以上に、嬉しかったんだ。みほが、また戦車道の道を歩んでいることが」

「・・・・・・?」

「私もみほも、小さいころからずっと戦車に触れながら成長してきた。西住の人間という事は関係ない、私たちと戦車は切っても切れないような関係にある」

「・・・・・・・・・・・・」

「みほも昔はやんちゃでな、満面の笑みを浮かべて戦車に乗っていたんだよ。あの時は、本当に戦車に乗るのが好きで、楽しかったのだろう」

 

 過去を懐かしむかのように、遠い目をするまほ。その時の事は、忘れた事などないのだろう。

 

「しかし、西住流の後継者として本格的に戦車の訓練を始めると、その笑みを見る機会も次第に少なっていき、遂にはそんな笑みなど知らないという風にみほは引っ込み思案になってしまった」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・これは言ってはいけないのかもしれないが、西住流の後継者候補という立場が、西住流という家系が、みほを縛ってしまっていたのかと私は思っている」

 

 まほも、みほが去ってからみほの事をすっぱり忘れたわけではなく、ちゃんとみほの事を思っていたのだろう。遠い地に行ってしまった唯一無二の妹の事を、しっかりと案じてくれていたのだ。考えてくれていたのだ。

 

「みほが戦車道を辞める、もう戦車には乗らないと言った時は私も心配だった。戦車と一緒に成長してきたみほが、戦車から離れてしまったらどうなってしまうんだろう、と」

「・・・・・・・・・・・・」

「だが、どんな理由なのかは分からないが、みほが戦車に乗ると知った今は安心してる。もしかしたら、西住流の空気に染まる黒森峰とは違う場所で戦車道をしていれば、みほもかつての明るさを取り戻せるのではないか、と考えている」

 

 確かに、人が成長する過程において大切なことは、周りの環境という要因も大きく関わっているという話は聞いた事がある。

 西住流というしがらみに縛られて育ったみほは、明るさを徐々に失ってしまったのだろう。そして今、違う環境で戦車に乗ればみほもかつてのように明るい性格に戻ってくれるのかもしれない、とまほは考えているのだ。

 

「だからだ、ルクレールで仲間と一緒にお茶を楽しんでいたみほを見た時、安心したんだ。黒森峰では見られなかった笑顔を浮かべていて、楽しそうにケーキを食べていたんだ」

「それは・・・・・・よかった、と言えるんでしょうかね」

「そうだな・・・。どうやら、大洗という環境がみほを少しだけだが変えてくれたらしい」

 

 ただ、とまほは言葉を切る。

 

「やはり私は、みほにあの時の事を謝りたい。みほが変われたからと言って、過去の事が全てチャラになったわけではないからな」

「・・・・・・・・・・・・西住隊長はやはり・・・」

「?」

 

 ここまでの話を聞いて、素直に思った事を織部は口にする。

 

「妹想いなんですね」

「・・・・・・ああ、自分でもそう思う。だが、だからこそ、あの時の事は謝りたい」

 

 まほも、ただ自分の中の考えを聞いてほしいということだけで、明確な答えやアドバイスを織部に期待はしていないのかもしれない。

 だが、話を聞いた以上どうにかしてあげたいと織部は思っていた。

 今、まほはこの先どうすればいいのか、悩んでいる。いや、どうすればいいのかは分かっているのだが、本当にそれでいいのかが分からないのだ。

 だから今、第三者に意見を求めている。

 

「・・・・・・西住隊長は、みほさんと仲を戻したいとお思いで?」

「・・・・・・ああ、そう思っている」

 

 やはり姉妹である以上、黒森峰や西住流で苦楽を共にしたのだからその縁が拗れたままでいるのは嫌なのだろう。

 

「なら、その謝りたいという気持ちは大切にしたまま、機を見て謝るしかないですね・・・。それも、次に会った時・・・」

「・・・・・・だが、みほを含めて大洗は、恐らく私たち黒森峰に対していい印象を抱いてはいないだろう。それにみほは、黒森峰でみほの事を守らなかった私の事を、多かれ少なかれ恨んでいるかもしれない」

「・・・・・・それについても、改めて謝罪すればいい。西住隊長のような、僕やみほさんよりも1年長く生きていて、国際強化選手や西住流の後継者など一介の高校生が背負わないようなものまで背負う貴女みたいな人が、誠意をもって、真剣に謝れば、その想いも伝わるはずです」

 

 織部の言葉に、まほは少し驚いたような顔をしたが、やがて小さく笑って目を閉じる。

 これで、決まった。

 織部の言葉で、この先自分が何をするべきなのか、分かった。

 

「・・・・・・話を聞いてくれてありがとう。決心がついたよ」

「・・・・・・それはよかった」

「ああ。君のおかげだ」

 

 まほは立ち上がる。ただ、織部は1つだけ聞いておきたかった。

 

「西住隊長」

「ん?」

「1つ、伺ってもよろしいでしょうか」

「なんだ?」

 

 ここまで話してもらって何だが、それでもこの事については聞いておきたかった。

 

「どうして、僕に話そうと思ったんですか?」

 

 その問いに対するまほの答えは、織部に話す前から決まっていた。

 

「君は私が話したことで、黒森峰で唯一私とみほのあの時の真実を知っている人間だ。だから、みほとのことを色々話す事も、相談する事もできる」

「・・・・・・」

「それに、立場上私は人に相談する事が難しい。戦車隊の隊長である私が部下に悩みや相談事を打ち明けてしまえば、部下に対して気を遣わせてしまうから。だが君は、留学生という正式には黒森峰戦車隊から外れた形でここにいる。他の隊員とは違うから、話せるんだ」

「・・・・・・そうですか」

 

 織部も、まほの言葉を聞いて大体理解した。真実を知っている人間だから、事情を知っているから相談事をする事もできるし、色々とアドバイスをしてくれる。

 ただ、“唯一”というのは少し違うが。

 ともあれ話が終わり、まほが外にいるであろうエリカを呼び戻す。それと入れ替わる形で織部が帰ろうとするが。

 

「織部」

 

 エリカに呼び止められた。織部が『はい?』と返事をして振り向くと、エリカは。

 

「後で話があるの。付き合いなさい」

 

 敵意に満ちた目で織部の事を見ていた。

 その目には、織部も見覚えがある。

 中学生の頃、自分をいじめていた連中のしていた目と同じだ。あの目の鋭さ、冷たさは今も覚えている。思い出すだけで、背中に怖気が走る。

 

「・・・・・・分かりました」

 

 だがまほの前で逆らう事などできないし、そのエリカの目は反対する事を認めないとばかりに鋭く冷たかった。

 ともかく織部は、隊長室の外でエリカの事を待った。

 それほど時間も経たずにエリカが部屋から出て来て、織部を見ると顎で『ついて来い』と命令し、歩き出す。織部もその後に、何も言わずについていった。

 

 

 同時刻、小梅は教室で織部の事を待っていた。

 訓練終了の号令の後、小梅の戦車の乗員と軽いミーティングをした後で、タンクジャケットから制服に着替え、教室に戻り織部とまた一緒に帰ろうと誘おうと教室に来てみれば、織部の姿はなかった。ただ、織部の鞄はまだ机にかけられたままだったので、恐らく報告書を出しに隊長室に行っているのだと思い、大人しく教室で待っていたのだ。

 文庫本の小説を読んでいると、廊下から足音が聞こえてくる。織部かと思ったが、足音は2つ聞こえてくるのでそうとも限らない。

 教室のドアの窓からチラッと外を覗えば、不機嫌そうなエリカの後ろを織部が黙ってついて行っていた。

 その瞬間、言い知れぬ不安が小梅を襲う。

 あの2人の険悪な雰囲気から、何かマズい事が起こりかねないと、小梅の勘が言っている。

 そしてそのマズい事とは、織部が危険にさらされるであろうことだ。

 2人が小梅のいる教室の前を通り過ぎたところで、静かに聞こえないようにドアを開き、織部とエリカの後姿を覗う。2人は、2つ隣の教室のドアを開けて中に入り、ドアを閉めた。

 そこで小梅は教室を出て忍び足で、その教室の前に立ち、中から聞こえてくる話声に耳を傾けた。




オトギリソウ
科・属名:オトギリソウ科オトギリソウ属
学名:Hypericum erectum
和名:弟切草
別名:鷹の傷薬、血止め草
原産地:日本、中国、朝鮮半島
花言葉:敵意、恨み、秘密、迷信


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風信子(ヒヤシンス)

今回も長いですが、今作品のターニングポイントでもありますので
最後まで読んでいただければと思います。


 教室に入ってから、陽が沈み暗くなった空に覆われている窓の外を見たまま、エリカは織部に背を向けて何も言わない。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 正直言って、この居心地の悪さは、監視用の高台にしほと2人だけで立っていた時と同じぐらいだ。エリカの背中から感じられる威圧感や、燻る怒りが後ろに立つ織部にひしひしと伝わってくる。

 先ほどのエリカの目を見て分かっていたことだが、どうやらエリカは織部に何か言いたい事があるらしい。それが決して愛の告白だとかそう言う明るい話題ではない事は馬鹿でもわかる。

 やがて、エリカは小さく息を吐いて話し出した。

 

「1つ、あなたに聞くわ」

「・・・・・・はい」

「あなたは、どうして黒森峰に来たのかしら?」

 

 何を聞かれるかと思えば、そんな事か。と感じたが、無意味にそんな事を聞いてくるとは思えない。だが、正直に答える事にする。

 

「・・・・・・戦車道の事を学ぶためです」

「そうね。で、あなたはさっき隊長室で何をしていたのかしら?」

 

 理由は分からないが、エリカは確実に怒っている。

 それだけは先の言葉で織部も分かった。

 だが、隊長室でしていた事は、報告書を出したのと、まほと話をしていた事だ。報告書を出した事はエリカも知っているだろうし、聞きたいことはもう1つの事だろう。

 

「・・・・・・西住隊長と、話をしていました」

「そうよね」

 

 一体、何が言いたいのか織部にはまだ分からない。

 ここで、ようやくエリカが振り向いて織部に正対し、冷たい瞳を織部に向けて、口を開いた。

 

「さっきの話は、西住隊長には申し訳ないけど、聞かせてもらったわ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 それではまほがエリカを外に立たせた意味がない。だって、まほはあの話を聞かないでほしかったから、織部にしか話せなかったからエリカを外に出したのに。

 

「・・・もっと言えば、あなたが赤星の後の処遇を隊長に聞いた時も、私は全部聞いていたわ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 恥ずかしい、と同時に聞き分けが無いなと思う。

 副隊長を務められるエリカほど賢い人物であれば、織部がまほに小梅の事をどうするかを聞いた時点で、織部が小梅にどんな感情を向けているのか気付いている可能性が高い。

 だが、あの時もまほは、エリカに席を外させた。それなのに話を盗み聞きしていたとは、随分とあの時のまほの指示が不服だったと見える。

 

「・・・・・・黒森峰に戦車道の勉強をしに来ただけのくせに、随分と戦車隊の事情に、西住隊長に深入りしていたじゃない」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 確かにあの時、織部は小梅を心配するあまり本来なら聞かなくてもいいような事を聞いてしまったし、まほの事情についても深く聞きすぎてしまったと思っている。織部の中に浮かんだ不安や疑問を消化できず、つい聞いてしまった。

 結果織部は、正式には黒森峰の人間ではないのにもかかわらず、黒森峰戦車隊の事情を深く知りすぎてしまった。

 

「赤星の件に関しては置いておいて、問題は西住隊長の事よ」

「・・・・・・・・・・・・」

「偉そうに西住隊長に色々とアドバイスして」

「・・・・・・・・・・・・」

「西住隊長の事を何も知らないくせに、よくも色々と言えたものね」

 

 エリカの言葉には棘が間違ってはいないが、“偉そう”という言葉に関しては心外だ。

織部はただ、まほから話を聞いてしまった以上、何の助言も感想も言わずにおしまいとするのが心苦しく、また織部自身がそれを許せなかった。

 それに、織部も本当にまほの力にどうにかしてなりたかった。だから、少しでも力になれればと思ってアドバイスをしたのだ。

 だがエリカはそれを、偉そうにアドバイスをしていたと捉えていたらしい。

 

「ここにきて1カ月ぐらいしか経っていないのに、ただ西住隊長の話を聞いた上で全部知ってるように知ったかぶって、隊長の理解者を気取ってアドバイスする事が、たかが留学生のすることかしら?」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 

 

 小梅は教室の外で、唇を噛みしめてエリカの言葉を聞いていた。

 内心で小梅は、エリカの言っている事は間違っていると確信していた。

 小梅もあの時、執務室の外で話を聞いていたが、織部は本心からまほの力になりたいと思って話を聞いて、アドバイスをしたのだと分かっている。

 織部は黒森峰に来てから小梅に真摯に向き合い、小梅の話を聞いて、時にはアドバイスをして、そして小梅をここまで導いてくれた。

 織部は小梅が立ち直るのを、しっかりと支えてくれた。織部は真面目に、真剣に小梅を支えてくれていた。

 その織部が、まほに対してだけはエリカの言うように偉そうに知ったかぶりアドバイスをしているとは到底思えない。

 織部だって、真面目にまほと向き合ってくれていたのだろう。

 それを伝えたかったけれど、脚はすくんで動かないし、ここで自分が出て行ってしまえば、事態はさらにややこしくなるかもしれないと思った。

 だから何もできず、唇を噛み、拳を握ってただ中から聞こえてくる話を聞くしかない。

 だが、そこでふと、人の気配を感じて辺りを見渡す。

 そこにはなんと、ドアに背を預けるように、件のまほが立っていたのだ。

 小梅は驚いて声を上げようとするが、まほが口元に人差し指を添えて『静かに』とジェスチャーで伝える。

 小梅も口を閉じ、声を上げず、中の話に耳を傾ける。

 

 

 

「何も言い返さないって事は、そう言う自覚があるって事かしら?」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 この時織部は、昔の事を思い出していた。

 中学の頃、自分がいじめられていた時だ。今と状況は少し違うが、廊下で4~5人に囲まれて、今のエリカのように色々といちゃもんをつけられて詰問され、心無い言葉を浴びせられていた。

 あの時の恐怖感や不快感を思い出し、胃の中がかき混ぜられるような感覚に襲われる。

 

「あなたは本来黒森峰の人間じゃない。だから黒森峰戦車隊の事情を深く知る必要も無いのよ?それは分かってるのかしら?」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 エリカの容赦ない冷酷な言葉が、織部の心に槍のように突き刺さる。

 

「なのに、西住流の人間じゃない、それどころか戦車道を歩んでいる女でもないあなたは、留学生としての分を弁えずにズカズカと隊長に深入りして、過去の傷をえぐるような真似をして、恥ずかしくないの?」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「大体、あなたが来てから戦車隊の雰囲気も弛んでるように見えるわ。普段愚痴をこぼさないような隊員も、文句を垂れるようになって。あなたのせいで、名誉ある黒森峰の風格が崩れてきているのよ」

 

 エリカは黒森峰戦車隊に誇りを持っていると同時に、高い理想を抱いている。だから、こうして理想と現実がかけ離れてきていることに焦りを覚えて、その原因であろう織部を責めているのだ。

 しかし織部からすれば、それは言いがかりにも近い。

 それなのに、何も言い返せない。

 過去に自分が経験したことを思い出してしまい、あの時感じた恐怖や怯えの感情が浮かび上がって口の中が干上がっている。

 

「抽選会であの子・・・西住みほを見た時、西住隊長も動揺してたわ。もしかしたら、あなたが隊長に話をさせて、あの時の事を思い出させたから余計に動揺したのかもしれない」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「あなたはただ戦車道の勉強をしに来ただけ。それなのにあなたは、黒森峰戦車隊の内情を嗅ぎまわってひっかきまわして、西住隊長を動揺させて、戦車隊を弛ませて・・・あなたは戦車隊に迷惑をかける一方よ」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 何も言えない。

 勝手なことをと言い返す事は簡単だが、その勝手なこととする根拠はない。エリカの言葉には、追い詰められて不安定になっている織部には信憑性があるようにも感じられる。いや、どころか全てその通りだと思えてしまう。

 文句を垂れる隊員が増えたという言葉も、ゴールデンウィーク前にエリカに叱られている隊員を見てそう感じたし、内情を嗅ぎまわっているという言葉も、見方を変えればそう見えてしまう。

 今まで織部が接してきた小梅、根津、斑田、直下、三河、そしてまほも言わなかっただけで、織部にはそう言う印象を抱いているのかもしれない。

 全く感じていなかった周りへの猜疑心が、織部の中で頭をもたげる。

 

「私だって、西住隊長の力になりたいのに、でも、何もできなくて悔しいのに・・・・・・・・・あなたは・・・・・・・・・」

 

 エリカが悔し気に言う。

 確かに、まほの傍にいた期間はエリカの方が織部より長い。だからこそ、まほが苦しんでいる事に気付けなかったのが悔しくて、同時に織部がそのエリカを差し置いて核心に近づいていたのが腹立たしいのだろう。

 エリカの気持ちも、織部には分からなくもない。

 

「ほんと、あなたなんて・・・・・・・・・・・・」

 

 

 

 小梅は、エリカが何と言おうとしているのか、直感で察した。

 その言葉とは、あの全国大会で矢面に立たされて傷つき、疲弊しきっていた小梅の心を折った言葉だ。

 その言葉は、黒森峰に来た小梅の心を折り、黒森峰に小梅がいる理由を奪い取った、どんな言葉よりも傷ついた言葉だ。

 その言葉を聞いてしまったら、織部はまた心が傷つき、心を閉じてしまうだろう。

 だって、織部にとって黒森峰は、黒森峰戦車隊は、いじめられて心を閉ざしていた織部自身を変えてくれたのだから。

 

 

 

「あなたなんて・・・・・・・・・・・・黒森峰に来なければよかったのよ」

 

 織部の瞳は見開かれた。

 頭の中が真っ白になってしまった。

 小梅の事も、これまで黒森峰で過ごしてきた時間も、まほからの相談事も、黒森峰に来るまでに積み重ねてきた努力も、黒森峰が自分を変えてくれたことも、戦車道を好きになったきっかけも、すべて頭から抜け落ちた。

 

「待ってください」

 

 そこで、後ろから声を掛けられた。エリカがその声のした方向を向き、織部はが力なく振り返ると、そこに立っていたのは小梅だった。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 織部は何も言葉を発しない。むしろ、今の話を小梅に聞かれてしまった事は大きな失態だ。さっきのエリカの話を聞いたら、誰だって織部に対して敵意を抱いてしまうだろう。小梅とてそれは例外とは言い切れない。

 小梅が歩み寄ってくる。何を言われるのか、あるいは何をされるのか。織部は不安だった。

 だが、小梅は織部を庇うように織部の前に立ち、エリカに向かい合った。

 

「どういうつもりかしら」

 

 エリカが腕を組んで聞くが、小梅は毅然とした態度で一歩も怯まずにエリカの事をキッと見る。

 

「エリカさんには、確かに春貴さんの事がそう映っていたのかもしれません。春貴さんがどう見えるのか、それは人それぞれにあると思います」

 

 では小梅も、同じように思っているのだろうか。織部が思うが、小梅はほんの少し織部の顔を見る。

 そして、僅かに笑って見せたのだ。

 

「でも私にはそうは見えません。春貴さんは、黒森峰に来てから、あの全国大会以来沈み込んでしまっていた私の事を心配して声を掛けてくれました。そして、私に真摯に向き合って、私の話を聞いてもなお私の事を信じてくれて・・・私の事を支えてくれました」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「春貴さんはずっと私の事を支えてくれて、そして私は立ち直って、また皆さんと仲良くできるようになって、今も戦車に乗ることができています。もしかしたら、春貴さんがいなかった私はいつか戦車隊を、黒森峰を辞めていたかもしれない。戦車に乗る事だって永久になかったかもしれない・・・。だから私には、春貴さんが誰かに迷惑をかけてるなんて、思えません」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 織部もエリカも、何も言わない。

 

「そして、春貴さんが隊長の話を聞いたのも、絶対に興味本位や好奇心で聞いたのでも、西住隊長に近づくためでもありません」

 

 小梅の言葉に、エリカは疑問符を浮かべる。

 小梅は、織部には申し訳ないと思ったが、言うことにした。

 

「・・・・・・春貴さんは、過去に心に大きな傷を負っています。多くは私の口からは言えませんが、その傷を負ったから、春貴さんは西住隊長の話を聞いて、アドバイスができたんです。それは春貴さんが心から隊長の事を心配しての事で・・・」

 

『僕自身が辛い体験をして落ち込んでいたからこそ、同じように悩み落ち込んでいる人の事を放っておけないから』

 

 あの言葉が嘘ではないのは、もうこれまで織部と接してきたから分かる。

 だから、小梅は織部が本心からまほの力になりたいと思って話をしたのだと思っている。

 

「私はそう、織部さんの事を信じてます」

 

 力強い目と言葉でエリカに告げる小梅。

 対してエリカは、冷ややかな目はそのままに、小梅の後ろに立つ織部に話しかける。

 

「・・・それで?赤星にここまで言わせておいて、あなたは何か言えないの?」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 織部は、小梅が助け船を出してくれたことは嬉しいが、小梅の言葉を聞いても、エリカの織部に対する認識が間違っているとはまだ言えない。

 今の状況はエリカに分がある。このまま中身の無い言葉を返してもすぐに一蹴されるだろうし、織部はエリカを納得させられるだけの言葉が見つけられない。

 仮に見つけたとしても、それが本心からくる言葉だったとしても、エリカから見れば悪く見える織部の言葉を全て信じろと言うのも難しかった。凶悪犯の『反省している』という言葉が最初は信じられないように。

 そうなれば、いくら言葉を紡いでも無駄なだけ。

 だから織部は、この場では身を引くしかなかった。

 

「・・・・・・確かに、逸見さんの言う通りだ。僕は留学生で、部外者で、門外漢の分際で出しゃばりすぎていたのかもしれない」

「春貴さん・・・!」

 

 小梅が織部の方を振り返って織部の名を呼ぶ。それは織部を引き留めるように、考え直すように告げているのだが、織部もそれは分かっている。

 だが、これ以上言い争いを続けては小梅にも危害が及びかねない。小梅を守るためにも、織部は身を引くのだ。

 

「・・・・・・小梅さんの気遣いも、言葉も嬉しかった。でも、よく考えてみれば逸見さんのように考えるのが普通だと思う。どうやら僕は、黒森峰のお荷物なのかもしれないね」

 

 ふん、とエリカが鼻で笑う。

 

「別に、今すぐ黒森峰から出て行けとは言わないわ。私にはそんな権限も無いしね。今後は、出しゃばった行動は控えるようにしてもらいたいものね」

「・・・・・・そうします」

「要は、余計なことはするなって事よ」

 

 織部が力なく答えると、エリカもまた振り返って窓の外を見る。

 

「報告書は出したわよね?なら、今日はもう帰りなさい。そして、少し頭を冷やしなさい」

「・・・・・・分かりました」

 

 織部は踵を返して、教室の外へと出て行った。外で教室の壁に背を預けていたまほにも全く気付かずに。

 小梅も、織部を追いかけるように教室の外へと出る。

 誰もいなくなった教室で、エリカはハァとため息をつく。

 言いたいことは言えた。

 だが、それでも心に雲がかかっているような気がするのはなぜだろう?

 というより、まさか自分が個人を、しかも男を呼び出して相手に対する不平不満を真正面からぶつけるなんて、冷静さを欠く行動だったと頭の冷えた今では思う。

 やはり、みほと再会したのが原因だろうか。

 そう思うとなぜか悔しくなり、机を忌々し気に軽く蹴った。

 

 

 エリカと別れた後、織部は教室に戻って鞄と荷物を回収し、帰路に就いた。帰り道を歩く織部の足取りは重い。

 そんな力なく歩く織部のすぐ後ろを、小梅が続く。

いつものように並んで歩いてはいない。なぜなら、今の織部の顔は恐らく、普段の明るさを全く感じられないだろうし、小梅もそんな落ち込んだ織部の顔を見たくなかったからだ。

 織部はまず間違いなく、エリカの言葉を受けて心に相当なダメージを負っている。『気にしないで』とか『春貴さんは何も悪くない』とか言っても、今の織部には空しく聞こえるだけだろう。

 そう思う理由、それはやはり小梅が織部の過去を知っているからだ。

人一倍真面目な織部は、小梅の過去を聞いて我が事のように涙を流していたことから、あらゆる事態を深刻に受け止める傾向があるというのが、人の言葉を真面目に受け取る性質を持っているのが分かる。だから先ほどのエリカの言葉も、言いがかりと考えずに全てを正しいと受け取ってしまい、そして自分の行いを全て否定されたと思い込んでしまっている。

 それに気づいているからと言って、何もできない、何も言葉をかけられない小梅は自分の事が悔しかった。

 結果小梅は織部の横を歩くことができず、そして何も話しかけることができず、ただ後ろからついていく事しかできなかった。

 だけど、このままではだめだと小梅は思っている。このまま織部を放っておくことなんて、できないと思っている。

 小梅は、これまで織部に幾度となく助けられ、織部の言葉に救われてきた。周りとの繋がりがほとんどなく孤独だった小梅の事を、織部は救い、小梅と皆との繋がりを取り戻してくれた。

 そんな小梅を救ってくれた織部が、未だかつて見た事がないほど落ち込んでいる。

 だから、織部によって救われた小梅が、今度は織部を助ける番だ。

 小梅は、このまま織部を放っておけば、織部はまた過去にいじめられていた時のように、周りを信じなくなっていき、この先の夢への道も断たれてしまうだろう、諦めてしまうだろうと思っていた。

 それだけは、絶対にさせたくなかった。織部がここまで必死に積み重ねてきたものを、全て無駄にしてしまう事なんて、できるはずがない。

 そんなの、悲しすぎる。

 それに小梅は過去、黒森峰で責められていた恩人であるみほの事を守れずに、ただ何もすることができず、みほが黒森峰から去っていくのを止められなかった。

 また自分の前で、自分にとっての大切な人が去ってしまうのが、小梅はもう嫌だった。

 だから小梅は、今度は絶対にそうはさせないと誓う。

 

「・・・・・・小梅さん」

 

 そこで初めて、織部が話しかけてきた。小梅は少々驚きはしたが織部の言葉に耳を傾ける。

 

「・・・・・・僕はこれで」

 

 気がつけば2人は、いつもの交差点にいた。黙々と考え事をしながら歩いているうちに、ここまで来てしまったのか。

 だが、ここで織部をこのまま行かせてしまっては、もう2度と織部に会えないような気がしてしまう小梅。根拠はないが、今の織部からはそんな感じがしてならない。

 だから、ここは引き留める。

 

「・・・待って、ください」

 

 自分の寮へと向けて歩き出す織部を呼び止める小梅。織部は立ち止まり、黙って後ろを振り返る。

 たったそれだけ、それだけだったのに、小梅は妙な寒気を覚えた。

 今の織部は、小梅の話を聞いてくれていた時のような優しい顔を浮かべておらず、またあの時の穏やかな雰囲気も無い。幾度となく小梅に向けてくれた笑顔もすべて偽物だったかのように、何の感情も浮かばない顔をしている。

 普段気性の穏やかな人が見せるこの虚無感は、妙な寒気や恐ろしさを感じさせる。

 だが、小梅はそれには決して怯まず、屈しない。でなければ、織部を助ける事なんて、できないから。

 

「・・・・・・少し、付き合ってもらってもいいですか」

 

 小梅が告げる。

 織部は、顔色一つ変えずに。

 

「それは、今日必要な事なの?」

 

 言い放った言葉には、『今は関わらないでほしい』という意味が込められている言葉に、小梅は気付いていた。

 そして、あの織部がここまで冷酷な言葉を放ったことが、何よりショックだった。

 それでも、例え普段の織部とまるで違っていても、決して後ずさりはしない。臆さない。

 

「・・・・・・はい。どうしても、今日でなければいけません」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 今、織部は何を思っているのだろう。黙っている織部が、小梅の事を冷めた瞳で見る織部が何を考えているのか、それを考えるのが怖い。

 だが、織部は少し目を閉じて、息を小さく吐いて言った。

 

「・・・・・・分かった」

 

 まだ織部は、小梅の話を聞くぐらいの情は残っていたらしい。この誘いすらも断られていたら、恐らく本当に小梅には打つ手がなかった。

 とにかく、今は織部と話をすることが先決だ。ただ、ここでは少し話しにくい。もっと、話しやすい場所に行こう。

 小梅は『ついてきてください』と織部に告げて、歩き出す。小梅の後ろの方から足音が聞こえてくるので、ちゃんとついてきているのだろう。途中何度か振り返っても、確かに織部は小梅の後ろを歩いている。

 しばしの間歩き続け、やがて着いたのは。

 

「・・・・・・・・・・・・ここ?」

「はい、ここです」

 

 お互いに、自分の抱える過去の傷を告白し合った、あの花壇だ。

 小梅が先んじてベンチに座り、手で座るように促すと、織部も小梅の横に大人しく座る。

 

「・・・・・・大丈夫ですか」

 

 小梅が真っ先に告げたのは、織部を気遣う言葉だ。それだけで、織部の心の中の疑念や緊張感が晴れるとは思っていなかったが。

 

「・・・別に、問題はないよ」

 

 織部は応えてくれた。それだけの事だが、嬉しかった。

 まだ織部は、完全に心を閉ざしてはいない。

 ほんの少し、小梅が織部の顔を覗き込んでみると、織部の表情は悲しんでいる、というより困惑している、という表現がしっくりくるような顔をしていた。

 恐らくは、自分がしてきたことは間違いだったのかと答えの無い疑問を延々と考えているのだろう。

 だがそれが分かったからと言って、具体的にどんな言葉をかければいいのか、小梅には分からなかった。

 今の織部は、どんな言葉をかけられると傷つくのか、どんな言葉をかけられれば気が楽になるのか、小梅には分からない。

 

(そう言えば・・・・・・・・・・・・あの時は・・・・・・・・・・・・)

 

 ふと、自分が織部と出会った時の事を思い出す。

 あの時は、泣いていた小梅を織部が慰めてくれたけれど、小梅自身はなぜ泣いていたのか、何が起きたのかを話すのが辛かった。

 それでも織部は、そこで小梅から離れはせずに、小梅の話を聞こうとしてくれた。

 だけど小梅も、心の辛い部分に触れられるのが怖くて、そして出会ったばかりの織部を信用できなくて話そうとはしなかった。

 あの時の織部の気持ちはどうだったのだろう。今の小梅のように、どうすれば相手の心の傷に触れないように、何を話せばいいのか迷っていたのかもしれない。

 だとすれば、織部はその不安を抱えながら小梅と向き合ってくれていたという事になる。

 たとえ、その傷に触れられたことで相手に恨まれる事になろうとも、その可能性を顧みずに小梅と話をしてくれた。

 そして今、小梅は元の性格に戻りつつあった。

 そこまでして小梅に向き合ってくれた織部、そしてその織部の優しさや誠実さを思うと、改めて嬉しく思うし胸が温かくなる。

 さらにそんな織部の事が好きだという想いが込み上げて来て増幅していく。

 だけど今、その織部は落ち込んでしまっている。

 優しく話をしてくれた織部と今の織部を見比べると、その変貌ぶりを見ると小梅の心が痛む。

 好きな人を、自分の事を救ってくれた人を助けてあげたい。

 落ち込んでいる織部を見ると、なぜか胸が締め付けられる。小梅もなぜか悲しくなってくる。

 そう思い小梅は、織部の事を優しく抱きしめる。

 

「・・・・・・何を―――」

 

 突然の小梅の大胆な行動に織部も驚き声を出そうとするが、その声もまた途切れる。

 織部を抱きしめた小梅は、織部の傍で、泣いていたのだ。

 ここ最近は、久しく見る事の無かった小梅の泣き顔。最後に見たのはいつだったか。

しかしなぜ、今またその顔を見せてしまったのか、織部には全く分からない。

 

「・・・春貴さんは今・・・エリカさんの言葉を聞いて傷ついてるって私にも分かる・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「でも、春貴さんがそうして落ち込んでると、どうしてか私も、心が痛い・・・」

 

 涙ながらに、小梅は声を洩らす。

 その小梅の話し方が変わったが、それは些末な問題だ。

 その言葉で、織部の中で温かい気持ちが、再び芽生える。

 心の中に渦巻いていた暗い感情が、霧散する。

 

「春貴さんは、エリカさんの言葉が正しくて、春貴さんのこれまでしてきた事が間違っていた、って思ってる・・・のかな」

「・・・・・・・・・・・・うん」

 

 織部は頷いてくれた。

 織部がどう思っているのかを考えてそれを直接聞くというのは相当に危険な賭けでもあったが、織部は応え頷いてくれた。

 

「・・・春貴さんのこれまでしてきた事は、間違ってはいない。これだけは、絶対に言える」

「・・・・・・・・・・・・」

「春貴さんが私の話を聞いてくれたから、私と一緒に悲しんでくれたから、私に向き合ってくれたから・・・私は救われて・・・。今私は、また皆と一緒に戦車道を歩むことができてる。根津さんや斑田さん、三河さんや直下さんと、一緒に笑い合えてる」

「・・・・・・・・・・・・」

「だから、春貴さんの言葉も、行動も、間違ってない・・・私が、それを証明してる」

「・・・・・・でも僕は」

 

 小梅の言葉を聞いていた織部が、小さく呟く。小梅はその言葉を聞き洩らさないように注意深く耳を傾ける。

 

「・・・・・・・・・・・・思い出させたくないような事を思い出させた。小梅さんに辛い過去を思い出させた」

 

 織部は言い訳をするが、小梅は首を横に振り、そして織部を抱きしめる力を少し強くする。織部の体温が伝わってきて、織部の心臓の鼓動も伝わってくる。反対に、自分の体温も、心臓の鼓動も伝わっているのだろう。けど、そんな事は気にしない。

 

「過去を話すには必ず、その過去に向き合わなくちゃいけない。過去に何が起きたかを、思い出さなくちゃいけない。でもそれは、決して春貴さんのせいじゃない」

「・・・・・・・・・・・・」

「私が、春貴さんに全部話したいと思って、自分から自分の過去を見つめなおす事に決めた。西住隊長だって、きっとそう。だから・・・春貴さんは何も悪くない」

「・・・・・・・・・・・・でも、西住隊長にも、小梅さんにも全てを思い出させた。無理に話さなくてもよかったのに・・・」

「それも違う」

 

 また、ギュッと抱きしめる。

 

「私は、私の事を本当に、心の底から心配してくれている春貴さんを信じる事にした・・・。だから、私は全てを話すことにしたの。私は、春貴さんも私から離れるんじゃないかって、少し恐れていたけど・・・。でも、春貴さんは私から離れないで、ずっと今日まで傍にいてくれた・・・支えてくれた・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「それだけで、過去を思い出したせいで傷ついた心なんて、もう直ってる・・・もう、私の心は痛んでない」

 

 小梅は、今なお流れる涙を止められないが、同時に織部も少し震えているのを感じる。

織部も今、泣きたいのを堪えているのだろう。

 でも、今この場には織部と小梅しかいない。だから、泣いてもいいと言わんばかりに小梅は織部の背中を優しく撫でる。

 

「・・・春貴さんは、私の事を、心を救ってくれた。私の事を助けてくれた・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「だから今度は、私が春貴さんを助ける番・・・・・・今ここには、私しかいない。だから・・・・・・泣くのを我慢しなくてもいいよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どうして」

 

 震える声を織部が洩らす。それだけで、織部も泣きたいのが分かる。

 

「・・・・・・どうして、僕の事をそこまで信じてくれるの・・・?」

 

 どうしてか。

 その理由はただ1つだけだ。

 けど、それを言うのはもう少し後に、もっと良い雰囲気で言いたかったのだが、隠しても仕方はないし、隠すと余計に織部は不安になってしまう。

 それに織部も馬鹿じゃない、いずれは小梅のこの気持ちに気付くかもしれなかった。

 だから、言うしかない。

 

「・・・・・・春貴さんは、私の事を心配して、私の話を聞いてくれて、私の事を救ってくれて・・・。そして、いつも私の傍にいてくれた。私が悩みや心配事を打ち明けても、春貴さんは誠意をもって、私の事を考えて、それで私を・・・支えてくれた。私の傍にいてくれた」

 

 そこで小梅は、織部を抱きしめていた腕を解き、そして織部と向き合う。

 織部の顔は今にも泣きだしそうに歪んでいて、瞳が揺らいでいる。そして小梅もさっきまで泣いていたのだから、涙で濡れてしまっている。

 でも、今から告げる言葉は大切な、小梅の人生でも初めて言う言葉だ。

 だから、しっかりと、小梅自身の強い意思を込めて、告げる。

 

 

「そんな春貴さんの事が・・・私は大好きだから」

 

 

 その言葉は、小梅の気持ちを伝えるには、その言葉だけで十分だった。

 そしてその言葉に、織部の心は射抜かれたような感覚に陥る。

 同時に、堪えていた涙が、溢れ出てきた。

 小梅がまた、優しく織部の事を抱きしめてくれる。背中に手を回して、優しく撫でてくれる。最初に会った時、泣いていた小梅の事を織部が撫でてくれたように。

 織部もまた、小梅の背中に手を回して強く抱きしめる。それは少し痛いくらいだったけど、小梅は何も言わず、織部の抱擁を受け入れる。

 泣きじゃくり、嗚咽を洩らし、強く抱きしめる織部は、涙ながらに言葉を紡ぐ。

 

「ありがとう・・・・・・」

 

 今言える精いっぱいの気持ちを伝える。

 

「・・・・・・ありがとう・・・」

 

 何度でも、その言葉を伝える。

 

「・・・ありがとう・・・・・・」

 

 また、壊れかけた自分の心を救ってくれたことを。

また、孤独になりかけた自分のことを。

 小梅に冷たく当たっていた自分の事を。

 許してくれて、そして救ってくれたことに。

 

「ありがとう・・・・・・・・・」

「・・・もう、十分だよ」

 

 小梅が告げて、織部の背中を優しく撫で、子供をあやすかのように静かに優しく叩く。

 織部は、涙を拭い、小梅に抱きしめられたまま、静かに、だけど小梅に聞こえるように告げる。

 

「・・・小梅さん、僕からも言わせてほしい」

「・・・・・・うん」

 

 さっき小梅が言った言葉を忘れてはいない。その言葉に対する返事は、きちんと返すべきだ。

 そしてその返事は、当然。

 

 

「僕も、小梅さんの事が好きだ。大好きだ」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、織部を抱きしめる小梅の力が少し強くなった気がする。

 織部のすぐ横で、小梅がすすり泣いている声がする。

 小梅も、嬉しかったのだろうか?

 

「・・・・・・嬉しい・・・」

 

 そんな織部の疑問に答えるかのように、小梅がこぼす。

 

「・・・・・・私たち、両想いだったんだ・・・」

「・・・・・・そうだね」

「・・・・・・恋人同士、って事なのかな」

「・・・・・・そうなる、のかなぁ」

 

 さっきまで落ち込んでいたのが嘘のように、織部は小梅と抱き合ってこうして恋人同士になれた事を喜び、お互いに気持ちを確かめ合っている。

 だが、それでも織部は聞いておきたかった。

 

「・・・・・・告白しておいてなんだけど、本当に僕でいいの?」

「春貴さんじゃなくちゃ・・・・・・嫌です」

 

 先ほどとはまた違う話し方になる小梅。恐らくは、先ほどの話し方が素なのかもしれないが、これが話しやすいのであれば止めはしない。

 

「さっきみたいに落ち込んで、小梅さんに辛く当たる事だって、これから先あるかもしれない・・・」

「その時は、また私が助けます」

「僕なんて、心はすごく脆くて弱いよ。それなのに真面目過ぎて、小梅さんを縛るかもしれないし・・・」

「私は、春貴さんが真面目に私と向き合ってくれてたんですから・・・私は、春貴さんの真面目さもまた・・・・・・好きです」

「・・・・・・・・・・・・」

「それに、私の事を真剣に考えてくれている春貴さんが、私を縛りつけるような事はしないって、私は信じてますから」

「・・・・・・そっか」

 

 小梅はここまで、織部の事を信用して、好いてくれている。

 織部は、いつの間にか自分がここまで小梅に想われるほどになっていたことに少なからず感動したし、そして何よりも嬉しかった。

 

「むしろ、私の方こそ、私なんかでいいのかなって・・・」

「?」

 

 今度は、小梅が小さく告げて、そして怯えるように織部とさらにくっつくように抱きしめる。

 

「・・・私だって、何度も春貴さんに助けられて、春貴さんの負担になってるんじゃないかなって・・・・・・」

「・・・・・・言ったはずだよ。僕は小梅さんの傍にいるって。それに僕は、小梅さんを助けたいからそうしてきた。負担だなんて思ってないよ」

「・・・・・・重い女なんて・・・」

「全然、思ってない」

「・・・・・・本当に、私で・・・?」

 

 どうやら小梅の不安はまだ拭えてはいないらしい。

 その不安を解消するために、織部は小梅の頭を優しく撫でる。

 

「・・・・・僕は、本当に小梅さんの事が好きだ。だから小梅さんの事を重いなんて全く思わないし、僕を頼って話をしてくれることを、嬉しく思ってる」

「・・・・・・・・・・・・」

「だから、これからも、よろしく」

 

 そこで織部と小梅は、抱き合いながらも笑みを浮かべる。

 お互いが、お互いの事を好きでいてくれて、そして相手の欠点を補い合い、支え合っていくことを誓い、言葉にして、それぞれの相手に対する気持ちを、知ることができたから。

 それが、とても嬉しかった。

 

 

 訓練が終了してから大分時間が経ってしまい、空には月が浮かんでいた。

 しかしそんな事は気にせずにしばしの間、お互いに自分が抱く相手への気持ちを確かめ合いながら抱き合う。

 そうしてどれだけ時間が経っただろうか、不意に2人は恥ずかしくなって身体を離し、それが可笑しくてお互いに笑みを浮かべる。

 そして、花壇に咲く花を見れば、どうしてだか、2人を祝福しているかのように、笑っているように見えた。

 だが、いつまでもここにいるわけにはいかない。明日がまだある。

 小梅が織部の行いを認めてはくれたが、エリカの言葉も忘れていないわけではない。周りの人全てがエリカのように織部の事を見ているとは思いたくはないが、少なくともエリカは織部に対してああいう印象を抱いている。エリカが傍にいるまほからも、そう見えていたのだと思う。

 なら、これからはあまり目立つ行動はしないようにする。ただ言われた通りの事をするだけでいい。余計な詮索はしないでおけば、エリカやまほには悪く映らないはずだ。

 そんな事を考えている織部は今。

 

「・・・・・・本当にいいの?」

「大丈夫ですよ、私がこうしたいと望んたことですから」

 

 小梅の部屋にお邪魔していた。そしてテーブルの前でそわそわしながら座っている。

 改めて思うと、女の子の、それも好きな人の部屋に上がり込むなんて割と踏み込み過ぎているような事にしか思えてならない。

 相手が、恋人であるのならばなおさら。

 そして、今からしてもらう事を考えると、余計に織部の心は落ち着かない。

 

「・・・お待ちどうさまです」

 

 そう言って小梅は、出来立ての肉じゃがが盛られた皿をテーブルの真ん中に置く。湯気立つ肉じゃがの匂いが織部の鼻腔を刺激し、食欲を駆り立てられる。

 さらにはみそ汁と炊き立てのご飯、さらにはキュウリの酢の物が添えられる。

 

「では、食べましょう」

「・・・うん」

 

 小梅が織部に向かい合う形で座り、お互い手を合わせて。

 

「「いただきます」」

 

 みそ汁の椀を手に、一口飲もうとする前に織部が小梅に話しかける。

 

「・・・ごめんね。またご馳走になっちゃって・・・」

「いえ、気にしないでください。さっきも言いましたけど、私がこうしたいと思ったからですし・・・それに、春貴さんが私の料理を褒めてくれたのはとても嬉しくて、だからまた食べて喜んでもらえたら、と思ったんです」

 

 右手に箸を持ち、左手にみそ汁のお椀を持ってそのみそ汁を見たまま小梅が呟く。だが、すぐにハッとしたように織部に向き直った。

 

「って、ごめんなさい・・・。私・・・・・・」

 

 自分の都合で織部を呼んだことを申し訳なく思っているのだろう。だけど織部は全然そんな事は気にしていない。むしろその逆だ。

 

「気にしないでいいよ。僕だって、小梅さんの料理は食べたかったし、それと・・・・・・」

 

 そこで織部が言い淀み、先の小梅と同じようにみそ汁を見る。

 だが、すぐに顔を上げて告げた。

 

「・・・僕らはもう恋人同士だ。だからそんな気遣いや遠慮は、しなくてもいいんだ」

 

 その言葉で、小梅も不安が無くなったのか、小さく笑った。

 

「・・・・・・そうですね。私たち・・・・・・恋人、同士ですものね」

 

 言っていて何だか恥ずかしくなる。織部も同様に、少しこそばゆくなってしまい、みそ汁を飲んで逃げることにした。

 

「・・・・・・やっぱり、美味しい」

 

 いっそ懐かしさすら感じてしまうみそ汁の味に、また涙腺が緩みそうになる。だがここで泣いてしまっては、せっかくの小梅の手料理を堪能できないので、必死に堪える。

 次に食べるは肉じゃが。前に食べたのは作り置きだったが、今目の前にあるのは間違いなく作りたてのもの。作り置きのものでも十分美味しかったのだから、作りたてもさぞ美味しいだろう。

 そう思いながら一口食べる。

 

「・・・・・・・・・・・・美味しい、すごく」

「ありがとうございます」

 

 小梅が律儀にお礼の言葉を告げる。そこで織部は、前に思っていたことを口にする。

 

「この前・・・初めて小梅さんの肉じゃがを食べた時にね・・・」

「?」

「・・・胃袋を、掴まれたような感じがしたんだ」

 

 織部の言葉に、小梅は吹き出し、そして小さく笑う。

 

「この肉じゃが・・・・・・小梅さんが自分でレシピを?」

「いいえ・・・母から教わったんです。小学校の時、まだ学園艦暮らしで親元から離れていないときに」

「そっか・・・・・・」

 

 何気なく織部が聞くと、小梅はちょうど、母から教わっていた時の事を思い出す。

 その時は、学園艦で1人暮らしをするためには家事スキルが必要だと言われて色々教わった。料理についても、一通り教わって、今まで何とかやってこれた。

 今こうして、人に振る舞うことまでは考えていなかったが、改めて母から料理を教わってよかったと思う。

 

「・・・・・・・・・・・・春貴さん」

「?」

 

 そこで小梅は、この前最初に織部がこの部屋で一緒にご飯を食べた時の事、そこで織部から言われたことを思い出す。

 

「前に春貴さんがここにきて一緒に昼ご飯を食べた時、何て言ったか覚えてますか?」

 

 小梅に言われて、織部は思い出す。

 確かあの時、織部は。

 

『自信持った方がいいよ。これ、すごい美味しいもん』

『・・・・・・すごく、美味しい』

『いい―――』

 

「・・・・・・・・・・・・覚えてる」

 

 『いいお嫁さんになりそうだね』と、あの時織部はそう言った。

 あれは随分と軽はずみな発言だったが、決して嘘ではないと織部自身は思っている。実際に織部の胃袋は掴まれて、すっかりと虜になってしまっているのだから。

 

「・・・・・・あの言葉を聞いた時は、私すごく嬉しかったんですよ?」

 

 何を言われるのか、織部は不安に襲われる。

 やはり小梅には、あの言葉は不愉快だったのかと怯える。

 

「あの、あの時は―――」

「でも、同時に私は・・・・・・」

 

 怒られるのを、嫌われるのを恐れて先に謝ろうとするがそれを阻む小梅。あの時と同じだ。

 

「・・・・・・それが・・・・・・将来の、その・・・・・・私の“相手”が・・・・・・」

 

 そして織部の方を見て、言った。

 

「・・・・・・春貴さんだったらいいな、って思ったんです・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 思考がフリーズするが、すぐに再起動する。

 そして小梅の言った言葉の意味を、改めて考えなおす。

 今話している内容とは、小梅に対して『いいお嫁さんになる』と言ってしまった事。

 それについては小梅は嬉しいと言っていたし、その上でその“相手”が織部ならいいとも言っていた。

 となると、小梅が何を意味して言っているのか、大体つかめた。

 だが、それと同時に。

 

「・・・・・・・・・・・・え、それは・・・・・・つまり・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・はい。私は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅は言葉を切り(溜めたとも言う)、そして言った。

 言ってしまった。

 

 

「将来春貴さんとは・・・・・・・・・・・・結ばれたい・・・・・・。結婚したい、と思っています」

 

 

 夢を、この先の自分の望みを、小梅は告げた。

 ちょっと前までは、周りの人を遠ざけ遠ざけられて、戦車にも乗せてもらえず、この先の夢なんて抱く事もできなかっただろうに。

 今こうして、小梅は幸せな未来を思い描き、それを素直に告げることができるまでに、持ち直している。もしかしたらこれが小梅の本当の姿なのかもしれない。

 だけど、そこまで先の事を見据えているとは、織部も予想外だった。

 そこまで小梅が、積極的に物事を考えているとは、思ってもいなかった。

 頭の中で織部は『うわああああ・・・!』と恥ずかしい声を上げる。いや、口から小さく『うわあああ・・・』と漏れ出す。

 だって今日一日だけで色々と起こりすぎて、脳がオーバーヒートしそうだった。

 だがしかし、このまま何も言わないというのは男が廃る。

 それに織部自身、小梅と“そうなりたい”とは思っている。

 だから、決して軽はずみなんかじゃない、覚悟を持って、言うしかない。

 

「・・・・・・僕も・・・・・・小梅さんとは・・・・・・・・・」

「・・・・・・」

「・・・・・・将来、そういう関係になりたい、と思ってる」

 

 ストレートに言えなかった辺り、織部も意気地なしだった。そんな自覚はある。

 

「“そういう関係”って?」

 

 でも、小梅は逃がしはしなかった。しかも聞いてきている小梅の顔が緩んでいるあたり、絶対にからかっている。

 『くっ』と恥ずかしさのあまり心の中で毒づいてから、織部は観念して自分の感情を、想いを白状する。

 

 

「・・・・・・僕も小梅さんと同じだ。将来は、小梅さんと結婚したい」

 

 

 織部だって、こうして人を好きになった事なんて無かったし、恐らく今後、他の誰かを好きになる事も無いだろう。

 それほどまでに、織部は小梅に恋をしていた。愛を抱いていた。

 小梅の笑顔に心底惚れてしまい、胃袋を掴まれて虜になってしまって、黒森峰で強い信念を掲げて懸命に生きる姿に共感して感銘を覚えて、その姿に惹かれたのだ。

 それで小梅から全ての想いを告げられて、織部も自分の中にある想いを告白した。

 そして今、恋人同士となることができ、さらにその先のことまで小梅は見据えていることを知った。

 織部だってここまで小梅と向き合ってきて、小梅の事を好きになって、やっと恋人同士になれたというのに、小梅以外の人と結ばれるなんて考えられなかった。それに、小梅が自分以外の誰かと結ばれると想像すると、胸が茨で締め付けられるかのようにズキズキと痛む。

 

「・・・・・・小梅さん以外の人と結ばれるなんて、考えられない」

「・・・・・・私もです。春貴さんとでないと・・・・・・」

 

 その想いを織部が告げると、小梅もまた同じように言ってくれる。

 小梅にそこまで想われているなんて、そう思うとまた涙があふれ出そうだ。

 

「・・・・・・ごめんなさい、からかうようなことを言って」

「・・・いや、おかげで踏ん切りがついた。覚悟を決められたよ」

 

 少し試すように織部に問いかけた事を、小梅が謝る。だが、織部の言う通り、あの質問があったから、織部は覚悟を決めたのだ。

 これから先、小梅と共に、歩き続ける道を。

 

「・・・・・・結婚を前提としたお付き合い、か」

「・・・・・・そうですね」

 

 お互いに笑みを浮かべてお辞儀をして、食事を再開する2人。

 周りからすれば、まだ“その事”を考えるのは少し早すぎる、まだ若すぎると思うだろう。

 だから、織部と小梅は今こうして恋人同士の関係でいる。

 だけどいつかは、『思っている』『したい』じゃない、本当の自分の決心を告げなくてはと、お互いに思っていた。

 それまでは、そう遠くはないかもしれないその時までは、今の関係でいよう。

 恋人同士の関係で。




ヒヤシンス
科・属名:キジカクシ科ヒヤシンス属
学名:Hyacinthus orientalis
和名:風信子
別名:ヒアシンス
原産地:地中海東部沿岸
花言葉:悲しみを超えた愛、遊び、ゲーム、スポーツ


あの全国大会の渦中にいて、みほと関わりのあった小梅の話を書く以上、
あの時の状況や、周りのみほに対する考えを書く必要がありました。
また、その黒森峰を率いているまほとエリカの話も書く必要が出てきました。
結果、この話の本題と言える『主人公と小梅の恋愛』からズレている内容になってしまいました。
大変申し訳ございません。



なお、まほの性格が割と柔らかいのは、
まほは妹想いで礼儀正しいから、根は優しいのではないか思ったからです。


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蓬菊(タンジー)

 織部が教室を出て行ってからしばらくの間、エリカは教室の窓に寄り掛かり、外を見ながら考え事をしていた。

 昨日の思いがけない、抽選会場とルクレールでのみほとの邂逅で怒りを覚え、それが収まらぬうちに織部とまほが話をするのを聞いてしまって、少し頭に血が上って織部に色々と言葉をぶつけてしまった。

 だが冷静になった今でも、間違った事は言っていないとエリカは思っている。

 黒森峰戦車隊は、いや戦車道を歩む者は皆、元来指令に忠実で、礼儀正しく謹厳実直で、生真面目であるべきものだ。

 それなのに、織部が来てから戦車隊の空気は弛んできている。この前ゴールデンウィークを前に愚痴や文句をこぼしていたのもそうだし、ドイツ料理店で織部や根津たちがやたらと賑やかに食事をしていたのもそうだ。ちょっと前までは、数名で食事をしに来るような事はあっても、あんな風に和やかで賑やかに食事をする輩はいなかった。

 そして何より、エリカが敬愛して心酔しているまほに取り入ろうとしている。まほの過去を無理やりにでも浮き彫りにして、知ったような口を利いて、まほの全てを理解しているような口ぶりでアドバイスをして。

 それが留学生のすることか。戦車に乗ることもできない男のすることか。あの時黒森峰にいなかった人間の分際で、まほの事を何一つ知らないくせによくもずけずけとものが言えたものだ。

 釘を刺したのでもうそんな事はないだろうが、とにかく次そんな事があったら今度はガツンと言ってやる。

 そう心に誓って教室を出たところで。

 

「エリカ」

「はいぃ!?」

 

 幽霊にでも出くわしたようなリアクションを取ってしまったが、そこに、教室のドアに背を預けて立っていた人物がまほだということにはすぐに気づけた。

 

「た、隊長!?どうなさったのですか・・・?」

「・・・・・・」

 

 どうしてこんなところにいるのか、当然の疑問をぶつけるがまほは何も答えない。

 そして、ある心配事が浮かび上がる。

 先ほどの織部との話を全て聞かれていたかもしれない、という事だ。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 だとすれば、それほど厄介なことはない。まず、まほと織部の話をエリカが盗み聞いてしまった事を知られるのはマズいし、まほのことを考えて織部に対して詰問し非難したこともエリカの独断だから都合が悪い。そして、エリカ自身がまほの力になりたかったと言うのも聞かれていては、それは本心であっても恥ずかしい。

 

「・・・・・・隊長室で、エリカと織部の雰囲気が悪いと感じて来てみたんだが、こうなったか」

「・・・・・・・・・大変申し訳ございません」

 

 どうやら、ほぼすべての話を聞かれたようだ。もはや言い逃れもできない。

 

「エリカは今日やこの前の私と織部の話を盗み聞いていたようだが・・・これで、相子だな」

「・・・・・・・・・」

 

 まほが盗み聞きをしていた事を白状するが、そんな事は些末な問題だ。

 エリカがまほたちの会話を盗み聞いていたのがバレてしまった。隊長であるまほの指示に従わなかったのは、副隊長として致命的過ぎる。いや、副隊長どころか隊員としてもだめだろう。隊長の命令に反した行動をとったのだから。

 

「織部に対し、色々と言葉を突きつけて、かなり棘のある言葉をぶつけていたな」

「・・・・・・・・・」

 

 どうやらまほは、今までの一連の流れの事を快く思っていないらしい。

 これは、謹慎か、小梅やみほのようにしばらく戦車から降ろされてしまうのか、もっと悪ければ除隊なんてことも考えられる。

 普段から悲観的な思考にはならないエリカも、戦車道やまほが

 

「・・・誤解を招かないように、1つ言っておく。いや、もう遅いのかもしれないが・・・・・・」

「?」

 

 まほが隊長室に向けて歩き出す。エリカはその斜め後ろについて、歩きながら話すまほの言葉に耳を傾ける。

 

「織部が私の事を何も知らず、私のざっくりとした話を聞いて、それだけで全てを知ったような口で私に助言をしてきたというのは、確かに1つの見方ではある。だが私は、過去の傷を抉られたと考えていたりも、深入りしてきた事に対して怒っていたりも今はしていない」

「・・・今は・・・?」

 

 まほのちょっとした言葉の言い換えにエリカは首をかしげる。

 

「・・・確かに最初、『みほをあの時どうして守らなかったのか』と聞かれた時は、少しだけだが私も不快に思った。あまりにも、唐突に聞いてきたからな」

「じゃあ・・・・・・・・・」

「だが、私は心のどこかで望んでいたんだ。誰かが、私の話を聞いてくれることを」

「・・・・・・・・・!」

 

 織部も知らないであろうまほの本音を聞いて、エリカは目を見開く。

 

「みほが黒森峰を去ってから、私は未練や後悔を感じていたんだ。みほを守れなかった事、西住流とみほを天秤にかけて西住流を取ってしまった事を。姉としてあれは本当に正しい行動だったのか?と、何度も自分に問うていた」

「・・・・・・・・・」

「ずっと、後悔していた。そしてそれは、誰にも打ち明けられなかった。戦車隊の隊長として皆を率いる私が弱音を吐き、その上あの時の私の心情や本音を聞いたら、やっと立ち直りかけていた戦車隊はまた混乱してしまうだろうからな」

「・・・・・・・・・」

「自分の後悔や未練を誰にも話せずに、ただ胸の奥で蟠りが大きくなっていく日々を過ごしていて・・・そんな折、織部が多少無礼ではあったが真意を聞いてくれた。それが、どこか私は嬉しかったんだよ」

「・・・・・・・・・」

 

 階段を下りて長い廊下を歩き、隊長室の前に戻る。エリカが先んじてドアを開けて電気を点けると、まほはエリカに応接ソファに座るように促す。エリカは一言『失礼します』と告げてソファに座り、まほもまたエリカに向かい合うように座る。

 

「織部は私の事を何一つ知らない、とエリカは言っていたしその通りだと私自身でも思う。だが、織部にはなぜか、全てを話せそうな気がしたんだ。興味本位でも、好奇心でもない、もっと別の理由があって織部は私の話を聞いてくれたと、私は思っている」

「・・・・・・・・・」

「その“別の理由”は織部自身しか知らない事だが、赤星の言っていたことが正しいとすれば、織部が過去に負った大きな心の傷と関係しているのかもしれないな」

 

 あの時は異端の存在に加担する者の言っている事など、とエリカは半分聞き流してしまっていたが、確かにそんなことを言っていたような気がする。

 果たして織部のその過去に負った大きな心の傷と言うのは、どんなものなのか。もしかすると、小梅やみほが負った傷と同じぐらい、深く苦しいものだったのかもしれない。

 

「それと、エリカ」

「はい」

「エリカは、織部に『西住隊長の事を何も知らないくせに、よくも色々と言えたものだ』と言っていたな?」

「・・・・・・・・・・・・」

「それは、エリカ自身にも当てはまる事だというのは忘れるな」

 

 ビクッとエリカの肩が震える。

 

「エリカだって、織部の事を何も知らないはずだ。織部と特別深い関係にある赤星や、同じクラスで親しい根津や斑田はともかくとして、エリカはまだ織部と話した機会もそれほどない。私の記憶している限りでは、報告書を出す時とかそこらで、しかも一言二言、業務的な話しかしていないだろう。普段の訓練や日常生活においても織部の行動を注意深く観察していたとすれば話は別だが」

「・・・・・・・・・」

「だが、私の話を聞いて助言をしてくれた織部の事を、先入観だけで悪しき存在だとして織部の全てを知った気になり、戦車隊の空気が弛んでいる原因と一方的に決めつけて、先ほどのように織部を責め立てたのはあまり褒められたものではない」

「・・・・・・・・・」

 

 返す言葉も無い。

 まさに正論であり、反論する材料も何一つ見つけられない。

先ほどの自分の行動はやはり冷静さを欠くものであって、今改めて思い返してみれば具体的な証拠がないにもかかわらず、随分と自分の偏見と憶測だけで責め立ててしまったものだと思う。

 あの時の会話でそこまで見通していたまほは、やはり自分とは住む世界が違うと思う。伊達に国際強化選手をやっておらず、西住流の後を継ぐ覚悟を背負ってはいない。

 エリカは目を閉じて、顔を下に向ける。

 

「そして、戦車隊の空気が弛んでいるという話だが、それもまた仕方のない事だとは思う」

「・・・・・・・・・」

「確かにエリカの言う通り、黒森峰は栄誉ある戦車隊であるとは私も思っているし、私は自分の戦車隊に誇りを持っている」

「・・・・・・・・・」

「だが、その戦車隊に所属するのは紛れもなく人間だ。サイボーグでもロボットでもない。多少、環境の変化や疲れなどを嘆いて愚痴を洩らす事も、致し方ないと思っている」

「・・・・・・・・・」

「私たちは戦車隊の隊員である前に、普通の学生だ。だからこそ、学生生活を謳歌する権利は誰にでもある。その権利まで奪ってしまっては、まだ身も心も完全に成長し切ってはいない私たちは恐らく、どこかで壊れてしまうだろうな」

 

 まさしく、言う通りだ。

 戦車隊に所属している者は皆礼儀正しく、忠実で謹厳実直であるというのは確かに理想的ではある。しかし、それが現実に反映されてないからと言って、他人を責める事は間違っていると、今では分かる。

 ましてや織部のせいだと決めつけて、織部ただ1人を責め立てるのも正しいとは言い難い。

 

「・・・・・・・・・私は・・・」

 

 まほから指摘されてはっきりした。

 エリカの行動は、織部1人だけを責めたのは、間違っていたのだ。

 1年以上まほの傍にいたエリカこそ、まほの事を、戦車隊の事を誰よりも、少なくとも織部なんかよりも考えていたと思っていたのだが、それはただの思い上がりに過ぎなかったという事か。

 そして、織部がまほに、戦車隊に悪影響を及ぼしていると思い込んでしまい、織部の事を理解しようともせず、エリカの先入観、価値観を真正面からぶつけてしまった事も、正しくはなかった。

 

「・・・・・・・・・どうしたら、いいんでしょうか」

 

 口では聞いてみるが、どうすればいいのかはもう頭では分かっていた。

 だけど、何か1つでもいい、背中を押してくれる何かが欲しかった。

 

「・・・織部は恐らく、エリカの言葉を受けて大きく傷ついてしまっている。廊下の外に立っていた私にも気づかないほどなのだから、ひどく落ち込んでいるだろう」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「もしかしたら、その織部の心の傷を、抉るような真似をされたと思っているかもしれない」

 

 本当にそうだとすれば、エリカは織部と同じような事をしてしまったという事になる。まほに深入りし、過去の事を思い出せた織部と同じような事を。

 そして、他人が思い出したくもない記憶を無理やりにでも思い出させたり、抉ったりすることは無暗にしてはいけないという事はエリカにも分かる。

 

「ならば、どうすればいいのか・・・それは、エリカ自身が見つけるべきことだ」

「・・・・・・・・・」

 

 自分で考えて行動する力をつけさせる、というのがまほの考えだ。

 だが、だからと言って自由にやれと無責任なことは言いはしない。

 

「エリカがどんな道を選んだとしても、それがエリカ自身が正しいと思っているのであれば、私はエリカを応援するさ」

 

 それで、エリカの決心はついた。

 明日、エリカの取るべき行動は決まった。

 けれど話はそれだけでは終わりではなかったらしい。

 

「・・・それとエリカ」

「・・・・・・はい?」

「エリカが、私の力になりたいと思っているとは思わなかった」

「・・・・・・!」

 

 忘れかけていたが、エリカは思い出した。

 あの時自分の言っていた言葉を。

 

『私だって、西住隊長の力になりたいのに、でも、何もできなくて悔しいのに・・・・・・・・・』

 

「エリカも私の部下だと思ってしまい、多くを話しては来なかった。だが、それが逆にエリカを苦しめているとは思わなかった」

「いえ、私は・・・!」

 

 エリカが必死に取り繕うとするが、まほはその様子が少し可笑しく見えたのか小さく笑う。

 

「・・・これからは、なるべくエリカを頼ることにするよ」

「・・・・・・・・・はい」

 

 まほがエリカを頼るという事は嬉しかったし、そのまほの思いは無駄にしたくはない。だからそのまほの言葉は、否定せずに受けることにした。

 だが、エリカの中にはまだ悩み、というかしこりが残っている。

 それはみほのことだ。まほから言われて、織部に対して行った事は間違っていたと認めてそれは改めるべきだとしても、みほの事は許したわけでも認めたわけでもない。

 まほがみほの事をどう思っているのかは、織部との話を聞いて分かった。

だがエリカがみほの事をどう思うのかは別の話だ。

 エリカ自身は、どうしたいのか。それはもう見えている。

 しかし、それが本当に正しい事なのかどうかは分からない。けれど、人にどう言われたところでそれを曲げるつもりはない。

 だけど誰かにそれを告げて、自分の言葉と決意を改めて確認した上で確固たるものにして、この先自分の取るべき行動を、進むべき道を確かなものとしたい。

 では、誰にそれを告げるのかと言うと。

 

(・・・・・・不本意だけど。本当に不本意だけど)

 

 その誰か、とは1人しか思いつかない。

 こんな言葉を親しい者に言うと引かれてしまうし、事情を知らない者からすれば何の話だか分からないだろう。ましてや戦車隊に関わる者でないと話も通じやしない。

 では、それほど親しいわけではないが、みほの事情をおおよそ知っていて、黒森峰戦車隊の事も大体掴んでいる人物が良い。

 そしてこの黒森峰で、西住まほという偉大と言っても過言ではない人物から話を受けて相談に乗っている人物。

 だが黒森峰における交友関係はまだ薄く、思いの丈をぶつけても周りに言いふらそうともしない人物。

 それは、織部だ。

 

 

 翌朝、織部と小梅は普段と同じように根津、斑田と一緒に登校していた。

 特にこれと言って変わった事を話してはいない。そろそろ訓練が厳しくなる時期だとか、現文の小テストが不安だとか、夜に見たカーチェイス映画が面白かったとか、他愛も無い話をしていた。

 だが、織部も小梅も自分たちの関係を自分から進んで話したりはしない。何しろ、恋人同士になれただけにとどまらず、さらにその先のことまで見据えているとなれば、そんな重要な事はおいそれとは話せない。

 それに今は全国大会前で皆多かれ少なかれ緊張している。そんな時にそんな重大なことを言っては誰でも動揺するだろう。それで優勝を、黒森峰が再び連覇を目指す最初の大会に負けてしまっては元も子もない。

 だから決して、この事は他言無用、織部と小梅2人だけの秘密だ。

 なるべくなら周りにはそのことは気取られたくはない。

 ないのだが。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 今、織部と小梅は隣同士で歩いているが、その距離はほとんどゼロに近い、というかほとんどゼロだ。もう肩と肩がくっついている。手を繋いでいないのが不自然なぐらいだった。

 ちなみに昨日、小梅の部屋で小梅と一緒に夕飯を食べた織部は、夕食を作ってもらったお礼として皿を洗った後、特に小梅には何もせずに自分の部屋に戻った。その日だけで色々ありすぎたせいで、少し気持ちの整理をしておきたかったからだ。

 別に、小梅に対して疚しい事は何もしていない。手なんて出せるはずもない。

 もしかしたら、本当にもしかしたら、“何か”を期待していたのかもしれない小梅は、それが少し不満だったという事か。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 そして同じくこの場にいる根津と斑田も当然、その小梅と織部の距離が近づいているという事に気付いていた。2人とも戦車道履修生でしかも車長だから、というのは関係あるのかないのかは分からないが、普段から周囲に注意して気を配っている根津と斑田が2人の変化に気付くのは容易だった。

 ただ、根津も斑田も、それぞれ織部と小梅から恋についての相談を受けているために、お互いが恋愛感情を抱いている事は知っている。だから今、織部と小梅の距離から2人とも、こう思っていた。

 

((ああ・・・・・・上手く行ったんだな))

 

 去年の全国大会以来周りから責められ落ち込んでいた小梅も、今こうして持ち直し、さらには恋人までできた。その恋人とは、小梅が立ち直れるように手を差し伸べて傍にいてあげた人物なのだから、心配する事も無い。小梅だって、今は楽しそうに話をしいるし、ちゃんと笑っている。全国大会後に無理やり見せるような、悲しみを隠して押し殺しているような笑みではない、心の底から楽しいと思っているのが分かる笑顔だ。

 もう小梅は、あの時の事に囚われて落ち込んではいない。この黒森峰に入ってきた時のように、優しい笑みを浮かべているぐらい立ち直ることができている。

 そうなることができたのは、少なからず織部のおかげだろう。

 その織部と結ばれる事ができたのなら、根津も斑田も心配はしない。

 そして同じ戦車道を歩んでいて、同じ戦車隊に所属しても、他人の恋路を邪魔する事はできない。

 だから、根津と斑田は、織部と小梅に向かって言える言葉は1つだけだ。

 

((・・・・・・お幸せに))

 

 

 

 学校では、周りから見れば織部と小梅の間には別に何も変化が見受けられないように見える。授業中はもちろん、休み時間でもちょっと話をしているぐらいだ。それは前から見た光景なので、深く考えはしない。それに織部も小梅としか話をしないというわけではなく、近くの席に座る生徒とも話をしている。一応、クラスには馴染めてきた感じだ。

 織部も小梅も、今朝の事はともかくとして、周りにお互いの関係を気取られて変に茶化されたり噂されたりする事で悪目立ちするのは嫌だ。だから不用意にベタベタしたりはしない。

 しかし、明確な変化が起きたのは昼休みだ。

 その変化をもたらしたのは織部でも小梅でもない。教室の外から来た人物だ。

 

「織部いる?」

 

 昼休みの鐘が鳴って、授業道具を机に仕舞い、さあ食堂へ行こうかと立ち上がったところで、訪問者がやってきたのだ。

 その人物はドアに近い、一番廊下側の一番前の席に座っていた小梅に話しかける。

 しかし、その訪問者を見て小梅は少し驚いたし、席を立って今まさに昼食を食べに行こうとしていたクラスの者たちも驚いている。

 その人物は、色々な意味で有名だからだ。

 成績が学年トップであることも、黒森峰では珍しい銀髪も、可愛いというより凛々しいという表現が合う顔をしている事も、黒森峰が誇る戦車隊の副隊長と言う事も、全てが周知の事実だ。

 

「・・・なんですか、逸見さん」

 

 自分の名前が呼ばれたことを耳ざとく聞いた織部は、ドアの前に立つその訪問者・逸見エリカの前に立つ。

 

「少し話があるの、来なさい」

 

 相手に選択の余地を与えずに強制力を伴うような言葉で相手を誘う口ぶり、昨日と同じだ。

 しかしエリカは昨日、(恐らくだが)織部に対するありのままの不満を全てぶつけたはずだが、まだ何か言いたい事があるというのか。

 正直、また昨日みたいに責め立てられて心が傷つくのは耐えられないが、逆らうこともできるはずはない。大人しく従う事にする。

 

「・・・分かりました」

 

 織部は大人しくエリカに付いていこうとする。

 と、そこで。

 

「待ってください」

 

 小梅が席を立ち、エリカに声を掛ける。その場を去ろうとする織部とエリカが歩を止めて小梅に向き直る。

 

「・・・私も、一緒に行ってもいいですか」

 

 織部とエリカの雰囲気があまり良くなく、昨日のような事になってしまいかねないと思った小梅は、また織部が落ち込んでしまうのを恐れた。だから、今度は織部の横に立ち、織部が挫けそうになったら支えるために、小梅は立ち上がったのだ。

 エリカは、小梅を一瞥してからすぐに歩き出す。

 

「・・・・・・好きにしなさい」

 

 その言葉を聞いた直後、小梅は立ち上がり織部の横に並んでエリカの後についていった。

 その様子を根津や斑田を含め、小梅と織部のクラスメイトはほぼ全員が好奇の眼差しで見ていたが、織部も小梅も、エリカだってそれは特に気にしなかった。

 食堂に向かっている生徒たちの流れに逆らってエリカと織部、小梅が向かったのは屋上だった。まだ昼休みが始まったばかりなので人気は無い。そしてエリカは、入ってきたドアの鍵を閉めて、織部と小梅の逃げ場を無くした(と2人は思っている)。

 空を見上げると青空が広がり、海の上にいるから当たり前ではあるが涼やかな潮風が織部と小梅の頬を撫でる。だが、そんなのは気休め程度にしかならない。

 邪魔者が入らないようにすると、エリカはまた織部の前に立つ。

 その眼は、昨日のように敵意や悪意に満ちてはいないように見えるが、それでも鋭い。

 小梅は、隣に立つ織部の手をそっと握る。織部だって、昨日のエリカとの話を忘れていないはずはない。だから、また同じように糾弾されてしまうのではないかと不安になっているだろう。その不安を少しでも和らげるために、小梅は織部の手を握ったのだ。

 ただ、それは当然前に立つエリカには見られている。エリカはその様子を見て、小さくため息をつく。

 織部が、小梅の処遇をどうするのかをまほに聞いていた時点である程度理解し、昨日小梅が織部を庇ったのを見ておおよそ見当がついたが、2人はどうやら“そういう”関係らしい。

 しかし今、それはどうでもいい事だ。

 

「・・・・・・最初に言っておくわ。今日は別に、あなたを責めるために呼び出したわけじゃない」

「・・・・・・?」

 

 渋い表情でエリカに正対している織部の顔を見て、少し誤解させてしまっているようだと思ったエリカは、まずその誤解を解くために初めに告げる。

 昨日のようにまた糾弾されると思っていた織部はエリカにそう言われたことで、緊張や不安が解けると同時に疑問が浮かぶ。何のために自分を呼び出したのだろう、と。

 

「・・・むしろその逆、あなたに謝りたいと思っているのよ」

「・・・謝る?」

 

 一体、何を謝るというのだろうか。

 そこでエリカが、少し溜めるように下を向き、やがて決心がついたのか織部の顔を真っ直ぐに見て告げた。

 

「昨日の私とあなたの話、西住隊長に聞かれてたわ」

「!!」

 

 織部が小梅の事を見る。小梅は少し申し訳なさそうに俯く。小梅も、まほが聞いていたことは知っていたらしい。

 それによってまた別の恐怖が織部を襲う。

 昨日のエリカの言葉を聞いていたのなら、まほだってエリカと同じ考えを持っているに違いない。何せ、まほは織部から直接話を聞かれたのだから、エリカよりも状況を理解している。

 それにあの話を聞いたとなれば、織部の過ちや態度を再認識させることになり、織部の待遇も改めて考え直さなければならなくなるだろう。そうなれば、もう何度目かも分からないが強制送還の可能性も考えなければならない。

 せっかく小梅と恋人同士になれたというのにもうお別れかと思うと、悲しくなる。

 だが、どうもそうではないらしい。

 

「・・・・・・あの後、隊長から言われたのよ。織部が西住隊長の事を何も知らないように、私もあなたの事を知らないって。それで、気付いたのよ」

「?」

「・・・私も、あなたの事を何も知らなかった。何も知らないで、色々と勝手なことを言ってしまった。戦車隊の空気が弛んでいるって言った事も、黒森峰戦車隊を引っ掻きまわしてるって事も・・・・・・全て私がそう思い込んでいて、その原因をあなた1人だと決めつけていただけで・・・それであなたを傷つけたのかもしれなくて・・・」

 

 エリカが少し頭を掻き、やがて観念したかのように目を閉じて頭を下げる。

 

「・・・・・・昨日の事は、悪かったわね。ごめんなさい」

 

 正直な話、織部はエリカのような厳しそうな人が自らの非を認めて素直に謝ってくるとは思わなかった。いや、厳しい人だからこそこうして自分の過ちを認めてそれをすぐ謝罪することができるのかもしれない。

 ただ、このままの空気でいるのも少々気恥ずかしい。

 

「でも・・・・・・逸見さんに言われて、僕は逸見さんの言う事がどちらかと言えば正しいかもしれない、とは思いましたよ。隊長に深入りしたのだって・・・」

「いいえ・・・。西住隊長は、あなたが話を聞いてくれたことに対しては感謝しているわ」

「感謝・・・?」

「ええ。誰にも相談できず、話すこともできなかった心配事、悩みを話せてよかったって」

 

 一介の高校生である織部とは身分の違う、まほのような偉大な人物から、又聞きであってもそのような言葉が聞けただけで、織部は黒森峰に来た価値はあったのかもしれない。

 自分の行動は、恐らくは間違っていなかった。そう思うと、傷ついていた心が癒されていくように感じられる。

 そこで小梅が、織部の方を見て優しい笑みを浮かべているのに織部は気付いていない。

 

「・・・・・・ただ、私はもうあなたの事を昨日言っていた風に思いはしないけど、人によっては私と同じように見えるかもしれない、っていうのは忘れないように」

「それは、もちろん」

 

 エリカから謝れたからと言って、まほから感謝されたからと言って、織部の行動は全部正しいとは言い切れない。エリカから言われたことは頭に入れておいて、今後は余り誤解されるような行動はしないようにするべきだと、織部自身では思っている。

 

「・・・・・・で、ちょっと1つ、私の話を聞いてもらってもいいかしら?」

「話?」

「別にあなたを責めるわけじゃないわ。単なる決意表明ってところかしら」

 

 エリカが腕を組み、指で自らの腕をトントンと叩く。どうやら、自分の頭の中で言葉を纏めているらしい。やがて指を叩くのを止めて口を開いた。

 

「・・・・・・みほ・・・西住みほが、無名校を率いて大会に出るっていうのは、隊長から聞いてるわよね?」

「・・・・・・はい」

 

 その時、隣にいた小梅が驚いたように息を呑んだのに織部は気付く。昨日、エリカがぽろっと言っていたのであまり深くは尋ねはしなかったが、まさかそれは本当だったというのか。

 

「みほさんが・・・・・・?」

 

 小梅が驚くのも無理はないと、織部もエリカも思っている。

 あの全国大会で小梅の事を助けたのは他ならぬみほであり、その事実はあの場所にいたエリカと、小梅から話を聞いた織部は当然知っている。

 その後みほがどのような仕打ちを受けていたのかもエリカと小梅は知っているし、みほが自分で『戦車道には向いていない』と言っていたのも聞いた。

 その言葉に対して小梅とエリカは、それぞれ全く正反対の感情を抱いている。

 

「・・・・・・抽選会であの子を見た時・・・私はどうしようもない怒りを覚えていた。戦車に乗るうえで大切なことを私に教えてくれたあの子が戦車道を辞めたのも、『向いていない』って言って隊長にも『戦車道はできない』って言ったのにその言葉を曲げたのも、私には許せなかった・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅の手が少し震えているのが、手を繋いでいる織部には分かる。

 小梅にとって恩人であるみほの事をあまり快く思っていない人を前にして、その上その人物がみほの事を悪く言っているのだから、やるせない気持ちになるのも無理はない。

 その小梅を少しでも安心させるために、織部は繋ぐ手に力を籠める。

 

「そんな西住みほが、あの子のせいで砕かれた10連覇の夢をまた目指そうとする黒森峰の邪魔をするっていうのなら・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・私は容赦なくあの子を叩き潰すわ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 執念、という言葉が似合うエリカの言葉には、固い意志が籠められているのが聞いているだけでもわかる。

 

「・・・・・・悪いわね、こんなことを急に話して。今のはただの、私の意思の確認って感じだから」

「・・・いえ」

 

 織部はそれほど怖くはなかったが、隣に立つ小梅は完全に怯え切ってしまっている。恩人の事を『容赦なく叩き潰す』と告げたエリカに対して恐怖心を抱くのも、無理はない。

 織部だって、そんな言葉を放つ女子高生なんてこれまでの人生で会った事などない。

 

「・・・・・・まあ私も、少し聞いてほしかったのかもね」

「はい?」

「赤星や西住隊長みたいに、自分の考えや悩みとか、そう言うのを」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 エリカのは考えや悩み、というよりも決意表明といった感じだろう。

だが、言葉にする事で自分の決めた事を改めて認識して、自分がこの先歩む道をブレずに突き進んでいくことができる。

 だからエリカは、織部にそのことを告げたのだろう。

 全国大会でエリカの目指す、黒森峰の優勝と、もう1つの目標を。

 

「何か言いたい事があるなら、言ってくれても構わないわよ」

 

 エリカが不敵な笑みを浮かべる一方で、織部は口をへの字にして何と言うべきかを迷っていた。

 隣に立つ小梅は完全に動揺しているし、織部はあの時のみほの行動は、西住流としては間違っていたとしても人としては間違っていないと思っている。だが、みほが10連覇の夢を潰したというエリカの言い分もまた間違ってはいないし、否定したとしてもエリカは止まりはしないだろう。

 

「・・・・・・それが、逸見さんの決めた道であるならば、止めはしません」

「・・・・・・・・・・・・ふん」

「ただ、1つだけ・・・・・・」

「何かしら?」

 

 昨日ではない、ゴールデンウィーク前のエリカの様子を見て、思った事を言わせてもらうことにした。

 

「・・・・・・逸見さんは確かに、先輩方を差し置いて副隊長を任されるのですから、実力のある方なんでしょう」

「・・・・・・・・・・・・」

「ですが、あなたが実力ある人と認められたのは、あなたが努力してきたからであると同時に、あなたと同じ戦車に乗る仲間が逸見さんについてきて共に成長することができたから、というのも忘れない方がいいですよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 エリカは黙って織部の言葉を聞いている。今の織部の言葉がどこまで信用してもらえるのかは定かではないが、とりあえずこの前のエリカを見て不安に思った事だけは、言わせてもらう事にする。

 とはいえ、余計なことはしないと思った矢先にこうしてエリカにアドバイスをしているあたり、意志薄弱と言うやつか。

 

「仲間に厳しく当たるのは副隊長としての威厳があるからかもしれませんが、厳しく押さえつけて接していくと不信感や反抗心を生んでいき、いずれ仲間は離れていきますよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 少し考えこむエリカ。思い当たる節があるのか過去の記憶を顧みているのだろう。

 一方で小梅は、みほが戦車道を続けていたことと、エリカの決意を聞いて心が揺れ動いていたが、それでも織部の『仲間は離れていく』という言葉に重みを感じていた。

 それはやはり、織部がいじめられていた時、周囲の人間を織部が信じなくなったことで人が離れ離してしまった時があるから、重みが感じられるのだろう。

 エリカも、小さく息を吐いて呟いた。

 

「・・・・・・確かに、そうかもしれないわね」

 

 戦車は1人だけでは動かせないし戦えない。搭乗員同士の連携とチームワークが無ければ、まともに戦えはしないだろう。

 エリカは副隊長であり、ティーガーⅡの車長でもある。その車長が威圧的で厳格な態度で同乗者たちに厳しく当たっていては、同乗者たちもエリカに対して恐怖心や反抗心が募っていくだろう。そうなってしまっては、いずれ連携力は乱れて戦車の動きが悪くなり、実力を発揮することもできず撃破されてしまうだろう。

 エリカの尊敬するまほのティーガーⅠも高い実力を誇っているが、その実力の裏には確かな乗員同士の連携やチームワークがあるのだろう。

 まほに憧れて、まほのような戦車乗りを目指すのならば、まほのように連携力を重要視した方がいいだろう。そのためには、仲間への信頼を大切にせねばなるまい。

 織部の言う事にも一理あったので、エリカはうなずいた。

 

「・・・・・・時間を取らせて、悪かったわね」

 

 昼休みという貴重な時間を取らせてしまった事に関しては素直に詫びて、エリカは織部たちとすれ違い、屋上のドアの鍵を開けてドアを開けようとする。

 その前に。

 

「・・・織部」

「はい?

「・・・・・・私に対する敬語は、戦車道の時だけでいいわよ」

 

 と、エリカは織部に言葉をかける。予想のはるか上の言葉を聞いて面食らうが、エリカはすぐにこちらへ向き直って指差す。

 

「勘違いしないでよ。ただ戦車に乗っていないときに敬語で話されると変な気分がするだけで、そこまであなたと仲良くなりたいとかそう言うわけじゃないから」

 

 そう言い残してエリカは去って行った。ツンデレに聞こえなくも無かったが、何も言うまい。

 後に残ったのは織部と小梅のみ。

 だが、小梅の瞳は揺れている。恩人のみほが戦車道を続けているという事は驚きだろうし、そしてその恩人のみほをエリカが全力で叩き潰すと、真正面から戦うと宣言したことに対しても動揺しているのだろう。

 小梅の心中は今、色々と混ざり合ってしまっているだろう。それは今の小梅の不安そうな表情から見て取れる。

 織部はそんな小梅の肩を優しく抱き寄せる。

 小梅が少し、ピクッと震えたのが分かる。恐らくは突然の織部の行動に戸惑っているのだろう。だが、すぐに気持ちが落ち着いたようで、織部に身を預けるように首を傾ける。

 

「・・・・・・お昼ごはん、食べに行こうか」

「・・・・・・はい」

 

 小梅だって、また新しい悩みを抱えているだろう。動揺して気持ちの整理がついていない今それを言わせるのは少し小梅にとっては酷だ。

 だからまずは、昼ご飯を食べて気持ちを落ち着かせるべきだ。小梅から話を聞くのは、少し気持ちが落ち着いてからでいい。

多少時間がかかっても構わない。

 小梅と恋人同士になり、将来結婚まで見据えている今、いやそれ以前から小梅の傍にいると誓ったのだから、小梅が思い悩み落ち込んでいるのならば自分が支えると心に決めている。

 だから小梅を見捨てるような事は決してしない。

 小梅が苦悩を、葛藤を抱えているのなら、織部は小梅と共にそれと向かい合っていく。

 それは小梅の恋人としての義務だと、織部自身は思っていた。




タンジー
科・属名:キク科ヨモギギク属
学名:Tanacetum vulgare
和名:蓬菊、蝦夷蓬菊(エゾヨモギギク)
別名:―
原産地:ヨーロッパ、中央アジア
花言葉:あなたとの戦いを宣言する、抵抗、婦人の美徳


フラグではない。
決してフラグではない。


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桃天竺葵(ピンクゼラニウム)

 6月に入り、織部が黒森峰に来てから実に2カ月が経過した。

 たった2カ月、留学期間は半分も過ぎていないというのに、1年分ぐらいの出来事を体験したと織部自身では思っている。

 だが、そんな織部の事など放っておいて、第63回戦車道全国高校生大会はスタートした。

 出場校は全部で16校あり、1回戦は合計8試合ある。1回戦第1試合は6月1日に開催され、試合は1日1試合と決められており黒森峰は第7試合、つまり6月7日に行われる。最後の第8試合は6月8日に開催予定だ。その後2回戦までは少しだけ間が空く。

 全国大会が近くなってくると、黒森峰戦車隊の1週間の訓練内容も全国大会に向けて変わっており、模擬戦が主となっている。

 模擬戦のルールは大方10輌対10輌のフラッグ戦だ。

 全国大会が近くなる前までは模擬戦はあっても殲滅戦ルールだし、1チームの車輌数も5~6輌程度だったが、ここにきて模擬戦の規模が大きくなっている。それは全国大会のルールはフラッグ戦というのと、2回戦までの出場車輌数の制限は10輌となっているからだ。全国大会に近い形で模擬戦を行う事で、全国大会の試合に慣れてもらう。これが模擬戦の規模を大きくした理由だ。

 そしてその模擬戦を行う2つのチームの内1つは、全国大会1回戦に出場する戦車だけで構成されている。

 その1回戦に参加する車輌は、6月を迎える前にまほとエリカが、全隊員の訓練の出来と過去の戦歴、そして全車輌のスペックのバランスを考慮して決定した。

 1回戦に出場するのはティーガーⅠとティーガーⅡが1輌ずつ、パンターが4輌、Ⅲ号戦車が2輌、そしてヤークトパンターとヤークトティーガーが1輌ずつの合計10輌。それらで構成されたAチームと、それとほぼ同格の戦車で構成されたBチームとで試合を行う。

 全国大会前の訓練と比べると、戦車1輌1輌の動きが俊敏になっているように見えるし、攻撃も積極的になっている。1回戦に出場する戦車も、そうでない戦車も等しくそう見える。

 1回戦に出場する戦車は、本当の試合でしくじる事がないように練度を上げるため。その相手を務める戦車は、出場する戦車が、同じ戦車隊の仲間が強くなれるように。

 この2つのチームはそれぞれの理由は少し違えど、根本的には全国大会で勝つために研鑽しているのだ。

 織部も一時とはいえ戦車隊の一員であるため、模擬戦では専ら審判員に駆り出されている。最近では審判長を務める事が多くなった。

 そのうえ最近は休日返上で訓練を行う事が多くなっているので休む暇もない。

 だが、織部は決して愚痴をこぼしたりなどせず真剣に審判を務めている。

 戦車に乗っている皆が全国大会での優勝に向けて、また日々戦車に乗って頑張っている。織部はそれに少しでも力になろうと、真剣に審判を務めているのだ。

 

 

 ここ最近では模擬戦は割と本格的なぶつかり合いを見せ、終わった頃には既に陽は水平線に半分隠れてしまっていることが多い。これでその日の訓練は終わりかと思いきやそうもいかず、少しの間休憩を挟んだ後は、ミーティングが始まる。

 このミーティングは、試合に参加したすべての隊員と審判員が参加して、この模擬戦全体の総評、評価点と改善点、そして次の模擬戦での目標を話し合うものだ。

 審判員も参加するという事は、当然審判長だった織部もこのミーティングには参加する事になる。

 と言っても、審判員は試合の全体的な流れを発表するだけであり、後は実際に試合に参加した者の意見を聞くか、ちょっとした補足をする程度だった。

 だが、織部も試合中に取ったメモを見返しながら、試合全体の流れを大まかに、ただし要点はしっかりと押さえて報告する。

 何時にどこで交戦が始まったのか、いつどの車輌が撃破されたのか、そして最後に決着がついたのはいつなのか、といった情報を正確に伝える。

 隊長のまほは、審判長の織部からの報告をもとにして全体の総評を話す。

 まほは模擬戦にAチームの隊長車として参加していて、自分のチームに絶えず指示をしていたにもかかわらず、敵味方を問わず試合に参加していたほとんどの戦車の動きを注意深く観察しており、それぞれの戦車の評価するべき点と改善するべき点をマークしている。

 そしてその評価は自分自身の戦車にも下しており、隊長だからと驕り高ぶる事は決してしない。自分の戦車の力を謙遜する事も驕る事もしないまほだからこそ、隊員たちはその背中についていけるのだろう。

 ミーティングの時間は内容にもよるが、長くて1時間、短くて30分と言ったところだ。今日のミーティングは1時間弱で終わった。

 ミーティングが終わって窓の外を見れば陽は沈んでしまっており、黒森峰学園艦は民家や寮の明かりと街灯を除いて明かりが無くなって、すっかり暗くなっている。

 ついこの間までであれば織部は報告書を書くために少し残るのだが、この時期報告書は翌日に出して大丈夫だとまほから言われている。織部も一時の間だけだが戦車隊の一員なので、大会前でハードになった訓練に付き合って夜の7時ぐらいまで学校に残っている。その織部を気遣っての事なのだろうし、エリカが無言で『指示に従え』と訴えかけてきたので大人しく下校する。

 1人残って報告書を書く前とは違い、今では他の皆と一緒に下校する事が多くなってきた。それは別に構わないのだが、その反面小梅と一緒にいられる時間がなかなか少なくなってきた事は少し残念だった。

 恋人同士になったのだからデートの1つでもしたかったが、大会が近いせいで今は休日返上で訓練が続いている。

 訓練を休んでまでデートをするわけには当然いかないので、もっと恋人らしいことをしたいという本音を押さえつつも、織部と小梅は戦車隊の訓練に取り組んでいる。

 

 

 6月4日。この日は随分と久しく感じられる、訓練が無い完全に休みの日だった。

 全国大会での試合が近いのに訓練もせずにどうして休むのか。

 それは、連日の訓練で隊員たちが疲弊しているからという事で、まほが隊員たちを気遣い訓練を無しにしたのだ。本番の試合で乗員たちが疲労困憊で戦車をろくに動かせないなどという事になれば、どこが相手でも太刀打ちできなくなってしまうだろう。

 なので今日は、試合前のリラックスと疲労回復のために休みになったのだ。

 そして何より、今日この黒森峰に隊長のまほと副隊長のエリカはいない。

 その理由は、今日行われる全国大会の1回戦第4試合の対戦カードが関係している。

 今日試合を行うのは戦車道四強校の一角であるサンダース大付属高校と、大洗女子学園だった。

 大洗女子学園は、20年ぶりに戦車道を復活してその上全国大会にまで出てきたので、戦車道ニュースサイト上では実力未知数のダークホースとされていた。

 だが、まほとエリカにとってはダークホースなどと言う認識ではない。なぜなら、その大洗女子学園には黒森峰とも関係が深い西住みほが所属しているのだから。

 つまりまほとエリカは、このサンダース対大洗の試合を見に行ったのだ。

 まほは心の奥ではみほの事を心配している。反対にエリカは、みほに対して怒りを覚えている。

 要は2人とも、みほの事が気になって試合を見に行ったのだと、織部は思っている。

 そしてまほは、機会があればみほと話をしようとしているのかもしれない。

 隊長と副隊長が揃って試合前に不在という状況に戦車隊の多くのメンバーは驚いていたが、まほが先ほどのようにメンバーの息抜きという理由を説明すると一応は納得したようだ。

 ちなみに余談だが、まほとエリカは試合会場の淡路島まで黒森峰の所有するヘリで向かった。しかも操縦するのはエリカ。現代日本の乗り物の運転・操縦免許の取得年齢条件は、昔と比べると低くなっている。だから高校生の身でもちゃんと訓練と講習を受ければヘリや飛行機も操縦できる。エリカもその過程を経て免許を取得したのだろう。

 ともあれ、大会本戦前のつかの間の休息を、隊員たちはそれぞれの方法で満喫している。生憎港に寄港してはいないので港町で買い物を楽しむという事は叶わないが、連日の訓練で疲れ切った隊員たちは、一部を除いて外に出て遊びに出歩くという発想にも至らず、自室で悠々自適にのんべんだらりと暮らしているようだ。普段から真面目である以上、休みの日は思いっきり休みを満喫して真面目ゆえのストレスを発散する、というスタンスのようだ。

 そんな訓練が休みで、艦上に戦車の砲撃の音も響かない日の昼下がり、織部と小梅は1つの公園を訪れていた。

 この公園は、織部と小梅にとってはとても印象に残っている場所だ。

 

「・・・・・・覚えてますか?この公園で、最初に会った時の事・・・」

「もちろん、覚えてるよ」

 

 今2人は、桜の木の下のベンチに並んで座っている。その桜も、季節を過ぎてしまった事で完全に花は散っており、緑色の葉が広がる枝を覆っている。

 貴重な休日に年頃の男女が2人きりで出かけているこの状況だが、デートと表現するのは少し違う。

 元々、織部は貴重なこの1日の休日は自室でゆっくり過ごそうと思っていた。

 小梅をデートに誘おうという選択肢も考えたが、今学園艦が航行している場所から陸地まで行くのは連絡船で数時間ほどかかるし、小梅も訓練で疲れているだろうから無理に出歩いて余計に疲れさせるのも小梅に申し訳ない。だから、デートに誘いたいという気持ちを我慢して自分の部屋でゆっくりと読書を楽しんでいた。

 ところが、昼過ぎになって机に置いていたスマートフォンが震えて、画面を見るとメール着信を告げる。画面を開くと、差出人は小梅、そしてメールの内容は。

 

『今から会えませんか?』

 

 そのメールには『もちろんいいよ』と返信し、待ち合わせ場所を決めて、制服に着替えて外に出る。

 待ち合わせ場所はいつもの交差点。織部が来るとそこには既に小梅が、織部と同じく制服で待っていた。そして小梅と共に歩き、どこで話をしようかと考えながら歩いて目に入ったのがこの公園だ。

 まだ桜が咲いていたころ、小梅も織部も新学期を迎える前。ジョギングをしていた小梅が休憩するためにこの公園のベンチに腰かけて、全国大会の自分のミスがきっかけでみほが、自分が責められている事を思い出して涙を流し、そこで偶然にも織部が通りかかって、泣いていた小梅を慰めるために背中を撫でてくれた。

 あの時の事がなければ、織部と小梅は今のような関係に至る事も無かっただろう。

 そう思うと、奇跡と言ってもいいあの時の出会いに感謝しなくては。

 

「・・・・・・急に呼び出して、ごめんなさい・・・」

「いやいや、僕は暇してたし・・・気にしなくて大丈夫だよ」

 

 小梅が織部を突然呼び出したことに謝罪するが、織部は謝らなくてもいいと言わんばかりに手を横に振る。

 だが、織部の『暇してた』という言葉を聞いて、小梅が少しだけムッとした表情をしたのに織部は気付いていない。

 

「それで、どうかしたの?」

 

 織部は、恐らくだが小梅が何らかの話があって織部を呼び出したのだと思っていた。小梅も織部とただ会いたくて誘っただけという可能性だって無きにしも非ずだったが、織部には小梅が別の意味で織部を呼び出したのだと思えてならなかった。

 織部に促されると、小梅は自然と、織部の左手に自分の右手を重ねる。

 

「・・・・・・みほさん、今試合をしているんですよね」

「・・・・・・・・・・・・多分」

 

 重ねて言うが、今日は大洗女子学園とサンダース大付属の試合が淡路島で行われている。

 西住みほが転校先の大洗女子学園で戦車道をまだ続けていることは、エリカによって小梅ももう知っている。

 だが、小梅はそれについてどう思っているのかは分からないし、小梅の口から聞いてもいない。

 

「・・・・・・・・・・・・みほさんが戦車道を続けてるって聞いた時、正直私は、安心しました」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 そして小梅は、ゆっくりと、みほの事をどう思っているのかを話し出した。

 小梅にとってみほは、全国大会で勝利よりも仲間を助けることを優先し、自分を助けてくれた恩人だ。

 あの決勝戦でエリカに詰め寄られた時に言っていた『仲間を助けたかった』という言葉は、小梅の胸に響くものだった。勝利のためならばどんな犠牲も厭わない、手段を選ばないという考えよりも、仲間を大切にしたいという考えはずっと共感できるものだった。

 そして試合の勝敗はともかく、その考えを掲げて実際に行動したみほは、小梅から見ればとても輝いている、太陽のような人だった。

 

「私のせいで黒森峰が負けた、10連覇を逃した・・・。そんな考えも、みほさんの言葉を聞いたら、その時だけは考えられなくなりました」

「・・・・・・それだけ、みほさんの言葉が胸に響いたって事だね」

「はい」

 

 だから小梅は、みほの事を尊敬している。たとえ周りがみほを責め立てようとも、小梅はそんな真似は断じてしなかった。

 だが、やはり自分が責められることを恐れてみほの側に立ちみほを守れなかった。その時の事は今でも悔いている。

 戦車道の流派である西住流に生まれ、戦車と共に育ち、小梅と共に戦車隊に入り、戦車道を歩んでいたみほが戦車道を辞めた事はとてもショックだ。

 

「時々みほさんは、実家で乗っていたⅡ号戦車についての思い出話を話してくれました。だから、みほさんはずっと小さいころから戦車に触れて、戦車と一緒に成長してきたんだと思います。でも、だからこそ、みほさんが戦車に乗るのを辞めると聞いた時はショックでした・・・」

 

 その小梅の言葉に、織部はまほも同じようなことを言っていたなと思い出していた。

 

「でも、戦車道を大洗で続けている、と聞いた時・・・私は本当に、安心したんです。身を挺して私の事を助けてくれたみほさんは、まだ戦車道の世界にいる・・・。仲間を助けたかったと言っていた、太陽のようなみほさんは、まだ戦車道の世界で生きている・・・って」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 太陽のよう、という表現は少し過ぎたかと小梅は自分で言ってて恥ずかしくなったが、織部はまったく気にしていないようだ。

 小梅はさらに続ける。

 

「みほさんが一度黒森峰で辞めたにもかかわらず、また大洗で始めたのはなぜか・・・それは分かりません・・・。でも理由がどうであれ、みほさんがまだ戦車道を続けている事は素直に嬉しいです」

「・・・・・・・・・・・・・・・でも」

 

 織部は、言い淀む。

 小梅が、みほが戦車道を続けている事を嬉しく思っているのは分かった。みほの事をどう思っていたのかも、また分かった。

 だが、そもそも小梅は黒森峰に、みほは大洗に所属している。それはつまり、もしも黒森峰が勝ち上がり、また大洗も勝ち上がって来れば、小梅もいずれみほと戦わなければならないという事だ。

 

「・・・・・・分かっています。この全国大会でみほさんとはいずれ、戦う時が来るかもしれない、と」

 

 みほが率いているとはいえ、大洗の実力は未知数だ。このまま勝ち上がってくるかどうかは分からない。だが、黒森峰と大洗が戦う可能性もゼロではない。

 その時が来たら、小梅はどうするのだろう。

 恩人であり、尊敬しているみほを相手にする時、小梅はどうするのか。

 

「本当は、私を助けてくれたみほさんと戦うのは少し、辛いです・・・・・・」

 

 やっぱり、そう言うものかと織部は思う。敵同士とはいえ、自分の事を助けてくれた人、自分が尊敬する人と戦うのは忍びないだろう。

 

「ですが、私も曲がりなりにも戦車乗りの1人です。だから、例え誰と戦う事になっても、試合には真剣に挑まなければなりません。だから、もしみほさんと戦う事になれば、全力で戦わないと、ならないんです」

 

 辛い戦いかもしれない、と織部は思い小梅を見ると、小梅は少し自分の予想とは違った顔をしていた。

 少しだけ、笑っていたのだ。

 

「だけど・・・・・・正直、みほさんと一緒に戦車道をしていた時から、いつかみほさんと戦ってみたい、とは思っていたんです」

「え?」

「みほさんがまだ黒森峰にいた頃は一緒に戦って、西住隊長とは違う強さを見せてくれたみほさんが素直にかっこいいと思ってましたし、それに何より強い実力がありました。そんなみほさんと一緒に戦う中で、いつかは対戦してみたい、と思うようになったんです」

「・・・・・・・・・・・・」

「模擬戦とかでは大体、私はみほさんと同じチームに配属されてましたから・・・」

 

 少し照れくさそうに笑うが、小梅の決意も見上げたものだと織部は思う。

 もし自分が、小梅と同じような立場になり、みほのような関係の人物と戦うなんてことになれば、恐れ多かったり遠慮したりでまともに戦えないだろう。

 それでも小梅は、臆することなくみほと戦う決意を固めた。

 多分だが、織部が何を言っても小梅はその決意を諦める事はしないだろう。

 というより、織部は端から小梅の決意を否定するようなするつもりはなかった。人の道を外れたり手段を選ばないような真似をするつもりだったら流石に引き留めるが、小梅はそんな事はしないというのは分かっているし、小梅は優しい性格をしているというのも知っている。

 だから織部から小梅に言える言葉は。

 

「・・・・・・僕は、小梅さんを応援する。小梅さんの傍から離れない。だから・・・頑張って」

「・・・・・・はい」

 

 織部の言葉を聞いて、小梅はゆっくりと織部に身体を預けるように傾ける。小梅の体温が伝わってきて、少しドキドキする。

 

「ただ、私が代表に選ばれればの話なんですけどね・・・」

 

 1回戦の黒森峰対知波単の試合に出場する戦車と選手は既に決まっているが、小梅は選ばれなかった。織部の身近にいる人の中で選ばれたのは、斑田、三河、直下だ。

 小梅の戦車は何度も言うように小梅以外が新入隊員だ。もう他の先輩たちの戦車と変わらないぐらいの実力を誇っているが、それでも実戦に出すのはまだ少し不安なのだろう。

 ちなみに代表に選ばれなかった根津だが、根津はそもそもマウスの車長であり、普段パンターに乗っているのは、マウスの運用性があまり良くないために訓練で周りと合わせるのが難しいからだ。当然、試合ならば根津は本来の車輌に乗るように言われる。マウスが出るのは決勝戦ぐらいだ。

 そんなわけで、小梅と根津は1回戦には出場しない。この先、小梅が代表に選ばれるのかも、分からない。

 しかし、選ばれなかったらというのは考えるだけ無駄だ。

 

「・・・・・・・・・・・・それで、ここからは別の話なんですけど・・・」

「ん?」

 

 織部から身体を離して、小梅が織部の方を向く。その小梅の表情には、先ほどは感じられなかった恥じらいが見て取れるが、一体どうしたことか。

 

「・・・・・・私たちの事なんですけど・・・・・・」

 

 この小梅の言う“私たち”とは、間違いなく織部と小梅のことを指している。それは考えなくても分かる。

 何か問題や不都合でも起きてしまったのだろうか。

 

「・・・・・・私の親に・・・私たちが付き合っているって事、話しておいた方がいいですよね・・・」

 

 男と女が付き合っている以上、親にはいずれ話さなければならないし、ましてや織部と小梅は結婚を前提に付き合っている。なおの事、それも早いうちに親に話しておかなければならないだろう。

 そして場合によっては、織部が実際に小梅の両親と会うという事にもなる。

 

「・・・そうだね。なるべく、早いうちに話した方がいいかも」

「ただ、私の親って結構心配性で・・・。認めてくれるかちょっと微妙で・・・・・・」

 

 もし認められなかったとしたらどうするか。

 諦めるなんて選択肢は存在しない。認められる男になれるよう研鑽するだけだ。親の反応が悪いままで、強引に通して結婚するとなると自分のためにも相手のためにもならない。

 できる事なら、小梅の家族とも仲良くしていきたいと織部は思っている。相手の家族から認められないまま、悪い印象を抱かれるというのはとても嫌だ。

 直接小梅の両親に会う事になれば、挨拶も含めて小梅との交際を認めてもらいたい。

 

「でも私は・・・・・・春貴さんとの、その・・・・・・結婚、を認めてもらえるように、全力で説得します」

 

 小梅がぐっと腕を構える。

 その小梅の気遣いは嬉しかったが、織部も他人ごとではない。

 

「僕も話さないとなぁ」

「・・・春貴さんのご両親ってどんな方なんですか・・・?」

「いやぁ、変わったところはないよ。ごく普通の親、だと僕は思う」

 

 そうは言うが、織部は親の事を尊敬している。

 中学の頃、織部がいじめられていた時に織部を気遣って実家に戻るように言って、そして戦車道連盟に就くと決めた時はその背中を押してくれた。どんな時でも織部の事を心から思ってくれている、優しい親だ。

 けれど時々親とする電話で織部が勉強漬けだと言うと母親は、『彼女の1人でもできればいいのにねぇ』という事がたまにあった。

 黒森峰に留学すると言った時も、『出会いを期待しているわね』と有難迷惑な発言をしてきた。

 確かにその電話をした時はまさか本当に彼女ができて、あまつさえその先のことまで決めているなんて思わなかったし、親もそこまで思ってはいなかっただろう。

 織部も、近いうちに親と話しておかなければならないと思った。

 

「・・・早ければ、今日の夜にでも電話しようかなと。それで、その後にどうなるのかは、また伝えます」

「・・・僕もそうするかな」

 

 普段の日に話さなかったのは、戦車道の訓練で疲れているからだ。疲れた状態で電話をしていては、言いたいことも言えずに有耶無耶な感じで電話をしなければならないし、真剣さも伝わりにくい。

 織部は、今日の夜に親に電話する事が早くも心配になって胃がキリキリと痛む。

 

「それと、春貴さん・・・」

「何?」

 

 そこで、織部の手に重ねられていた小梅の手に少し力が入る。まだ何か不安な事でもあるのかと思ったが、どうもそうではないようだ。

 

「・・・今日、お休みでしたよね」

「うん、そうだけど・・・・・・」

「・・・・・・ちょっと私、期待してたんです。自分勝手かもしれないけど・・・・・・」

「?」

 

 微妙に要領を得ていない小梅の言葉に、織部が首をかしげる。すると小梅が、また織部に身を預けるように自分の身体を傾ける。

 

「春貴さん・・・・・・デートに誘ってくれるかなって」

「!」

 

 小梅もやはり、そう考えていたのだ。

 恋人同士だからこそ、2人で一緒にいたいと思う事もまた同じだったのだ。

 だけど、織部は別にデートに誘うのが面倒だからとかそんな理由で小梅を誘わなかったのではない。それだけは伝えておく。

 

「いや・・・・・・小梅さん、いつも戦車の訓練で忙しくて、疲れてるかなって思ったんだ・・・。それで、そんな疲れてるのに外に出歩いて振り回したりしたら、小梅さんにとっても迷惑なんじゃないかと思って・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・小梅さんの事が心配だったんだ。だから、誘えなかった。それで、小梅さんが落ち込んじゃったのなら・・・・・・ごめん」

 

 織部の手に重ねられていた小梅の手から力が抜ける。

 そして、小梅が少し体を横にずらして、織部の身体にぴったりとくっつく。また小梅との距離が縮んだことに少し心臓が跳ねるが、小梅は決して離そうとはしない。

 

「・・・・・・やっぱり春貴さんは、優しい人です」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 そして小梅は、息を少し吸って告げた。

 

「そう言うところが、私は好きですよ」

 

 よかった、と織部は思う。

 何に対してよかったのか、それはたくさんある。

 小梅と付き合えたこと、小梅が立ち直ってくれたこと、小梅が自分の事を信じてくれていること。

 そのどれをとっても、織部にとってはとても嬉しかった。

 

「・・・・・・でも、やっぱりデートはしたかったです」

 

 そうだよなぁ、と織部は思う。何せ織部自身、デートがしたいと思っていたのだから。今のこの状況もデートに近いのではと思ったが、制服を着ている時点でイメージしているデートとは全然違う。

 

「だから・・・・・・ほんの少しだけお願いを聞いていただけますか?」

「お願い?」

 

 小梅がゆっくりと身体を離して、織部の顔を見る。織部もその視線を受けて小梅の顔を見る。

 

「実は、黒森峰の1回戦の日、私の誕生日なんです」

 

 衝撃の事実に織部は目を見開く。

 1回戦―――黒森峰と知波単が戦う日となれば、1週間もない。というか明後日だ。

 恋人としてそれは祝わなければなるまい。何か、プレゼントを渡さなければと思い至るのも、ごく自然な流れだ。

 だが明後日までに、学園艦という物資に限りがあるこの空間で用意できるものなど、たかが知れている。いや、当日なら試合のために寄港するから寄港先で何かが買えるかもしれない。

 早くも何をあげれば小梅は喜ぶかという考えの沼にはまり込むと、小梅が織部の肩に手を置いてきた。そこで織部は、ハッと我に返る。

 

「それで、その日に1つだけ春貴さんにお願いしたい事があるんです。プレゼントではなくて」

「え?」

「プレゼントとかは、用意させるのも少し気が引けますし・・・・・・」

「いや、そんな事・・・・・・」

 

 プレゼントの事に関しては別に気にしなくていいのに、と織部は思う。気遣いとか遠慮だとか、もう織部と小梅は親しい関係になれたのだから、そんなのは気にしなくて大丈夫なのに。デートに誘わなかった事はともかくとして。

 だけど、小梅の真っ直ぐな目で見つめられてそんな考えも雲のように散ってしまう。

 

「1つだけ。その1つだけのお願いを叶えてもらえれば、それだけで私は十分なんです」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 こうも力強く言われては、織部も何も言えない。そのお願いとは何なのかは分からないが、聞き入れる以外に道がない。

 

「・・・・・・分かった。それで、そのお願いって?」

 

 当然の疑問を織部がぶつけると、小梅少し恥ずかしそうに顔を赤らめて視線を逸らす。織部はその理由が分からないが、小梅が小さく呟いた。

 

「それは・・・・・・当日のお楽しみです」

 

 

 

 その日の夜、織部は自分の部屋で大きく息を吐いた。

 夕食を終えて、後片付けをし終えてお茶を飲み、ひと呼吸整えたところで、織部は親に電話をした。今は、電話をした後だ。

 黒森峰に来てから何度か電話をしているというのに、話す内容が内容なだけに普段の3倍ぐらいは緊張したし、脈も速かったと思う。

 最初は特に当たり障りのない近況報告。

 そして本題の、黒森峰で彼女ができた、という話に移ると電話をしていた母親の第一声は。

 

『エイプリルフールはとっくに過ぎたわよ?』

 

 実に腹立たしいジョークを告げてきた。

 だが、織部が根気よく何度もそう言うと、母はようやく伊達や酔狂で言っているのではないと悟り『あらあらあら、まあまあ・・・・・・』と実に嬉しそうに声を弾ませた。そして、どんな子なのかとか、どうやって知り合ったのか、どこが好きなのかとかを根掘り葉掘り聞かれた。親に隠し事をするのは苦手な織部は仕方なく、包み隠さずすべて話した。ただ、流石に『小梅が黒森峰で絶望的な状況にいた』というのを話すのは小梅にも申し訳ないので、『小梅が悩んでいたところに自分が声を掛けて、そこから仲が進展した』とだけ話した。それだけで母親は納得したらしい。

 そしてさらにその先の話、結婚することまで考えている、と話した時の母親は。

 

『ええええええええええっ!!?』

 

 これまでで聞いた事の無いような大声をあげた。電話の向こう側から父の『なんだどうした!?』と慌てふためく声が聞こえてきたぐらい、母も父も動揺していた。

 それからどうにかして宥めると、こう言ってくれたのだ。

 

『随分と、いい子と巡り会えたじゃない』

 

 そして最終的には『来られるのなら一度ウチに来てもらいたい』と言った。確かに、電話越しでこんな重大な報告をして、それで『はいそうですか』と納得できるはずもない。ちゃんとその相手―――つまりは小梅の話も聞いて、それに親と向かい合ってちゃんと話をしなくては駄目だろう。

 それについては小梅と話をして、さらにいつなら行けそうなのかをメールで送ると言って、電話は切れた。

 そして今、時間にすれば10分程度の通話内容を思い出して、またため息を1つ吐く。何度も何度も『彼女作りなさい』と言っておいて、いざできたと言えば『エイプリルフールはとっくに過ぎた』だ。まさかあんな反応を示すとは思わなかった。

 ただ、しきりに『よかったじゃない』と言ってくれたのは素直に嬉しい。やはり、自分の事をちゃんと考えてくれていたようだ。

 と、そこでスマートフォンが電話の着信を告げる。親が何か言い忘れたのだろうかと思い画面を見ると、小梅からの電話だった。

 

「もしもし?」

『あ、こんばんは。今、大丈夫ですか?』

「うん、大丈夫だよ」

 

 確か昼に公園で会った時小梅は『夜に親に電話をする』と言っていた。その言葉と、小梅がこのタイミングで電話をかけてきたという事は、やはり親に話すのが不安だったのか、それとも・・・。

 

『さっき、ウチの親と電話で話をしました・・・』

「・・・・・・・・・・・・・・・で、何て言っていた?」

 

 ものすごい不安に襲われる。背中から嫌な汗が噴き出す。

 認められなければ認められるような男になるまでだ、と考えてはいたのだが、小梅の両親が小梅の彼氏及び結婚相手に求めるスペックがどんなものかは分からない。もしかしたら自分の想像をはるかに超える様なものなのかもしれない。

 もしそうだとしたら、小梅に相応しくなれるように織部自身は誠心誠意努める。だが、もし、自分には到底不可能なぐらいその基準が高かったら・・・・・・?

 そんな不安な考えがおよそ2~3秒で頭をよぎるが。

 

『・・・「いい人に出会えたんだね」って言ってくれました』

 

 次に発した小梅の言葉は安心感を覚えるような口調で、何より小梅自身もホッとしているような口調だった。

 

『色々、春貴さんとの思い出を話したんです。どうやって出会ったのかとか、どんな性格をしているのかとか、どこが好きになったのかとか・・・・・・』

「あ、僕と同じだ」

『え?じゃあ春貴さんも・・・・・・?』

「うん、さっき電話した。随分と驚いてたよ」

『それで、その・・・・・・なんて言ってました?』

 

 小梅もまた、織部と同じような不安を抱いているのだろう。

 それに気づいた織部は、その不安をすぐに解消できるように結論を述べる。

 

「『随分といい子に巡り会えたじゃない』って。小梅さんのとこと似てるね」

『そうですね・・・・・・ふふっ』

 

 小梅が笑い、織部も小さく笑う。

 少しの間沈黙が訪れて、やがて小梅が口を開いた。

 

『私の両親は・・・・・・私が黒森峰でどんな状態だったのかを、おおよそ知っています。だからこそ、その状態から私を救ってくれた春貴さんに・・・・・・その・・・・・・』

 

 黒森峰でどんな状態だったのか、とは小梅が織部に出会うまでにどんな仕打ちを受けていたのか、ということだろう。そして小梅の両親はそれを知っている。

 だが、小梅は何かもごもごと口ごもるが、やがて意を決したかのように言った。

 

『・・・・・・すごく、感謝しているって、すごく興味があるって言ってました』

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 どうやら悪い印象を抱かれてはいないらしい。それだけで、まずは一安心だ。

 

『それで、できれば私の実家に来て、挨拶がしたいと』

 

 それもある程度予想はしていたから、そこまで驚きはしない。織部だって、小梅を実家に連れてきてほしいと言われていたのだから。

 

「・・・・・・僕も同じだ。小梅さんに、ウチの実家に来て挨拶したいって、ウチの親は言ってた」

『・・・・・・どこも、同じみたいですね』

「そうだね」

 

 また少し笑い、そこで小梅が問いかける。

 

『それで・・・・・・春貴さんが良ければなんですけど、両親と挨拶をするというのは・・・・・・』

「もちろん、構わないよ」

 

 やはり、結婚まで考えているのだから親には直接言わなければならないだろう。自分の覚悟を、小梅とずっと一緒にいるという覚悟を、小梅と生涯を共にする覚悟をきちんと話して認めてもらう。それが一番、事をスムーズに収められる。

 

「・・・・・・で、ウチもまた同じなんだけど・・・」

『はい、私もできれば・・・・・・いいえ、ぜひ春貴さんの両親と話したいです』

 

 そしてそう思うのは小梅も同じだったようだ。

 だが、実家に行くとなると日帰りでは無理だろう。行きと帰りの移動の時間、さらにはそれぞれの両親と話をする時間を考えれば、3~4日が目安だ。そんな長い間の休みがあるのは直近では、そして織部が黒森峰にいる間では夏休みしかない。

 聞けば、戦車隊は夏休みも戦車道の訓練があるが、少しの間訓練がない期間があるらしい。その期間隊員たちは、ペースが遅れている夏休みの課題を進めたり、実家に帰ったりするようだ。

 では、織部と小梅がお互いの両親に挨拶に行くのはその時にという事に決定された。

 その詳しい日にちは7月の頭あたりに隊長のまほから連絡を受けるまでは分からない。その日にちが決まったら、お互いが実家に挨拶に行く日をそれぞれの実家に伝える、という形になる。

 

「・・・小梅さん」

『はい?』

 

 話が終わり、後は電話を切るだけという段階になるがその前に織部が小梅に話しかける。

 もう一度、自分がどれだけ本気なのか、どれだけ自分が小梅のことを思っているのかを、伝えるために。

 

「・・・・・・僕はもう、小梅さん以外の人と結ばれるなんて考えられない」

『・・・・・・・・・』

「だから僕は、どんな事があっても小梅さんに、小梅さんの家族に認められるような男になる。だから、その・・・・・・・・・心配しないでほしい」

 

 織部の決意を聞いて小梅は。

 

『・・・・・・・・・ありがとう、春貴さん』

 

 そして最後に一言。

 

『やっぱり私、春貴さんの事・・・・・・・・・大好きです』

 

 

 

 陽が沈み暗くなった海を航行する、黒森峰女学園への連絡船のデッキの上で、まほは静かに海を眺めていた。

 まほは、大洗女子学園対サンダース大付属の試合を見届けて自らの暮らす黒森峰学園艦に戻っているところだ。だが、行きはエリカの操縦するヘリに乗ってきたのに、どうして帰りは船なのか。

 それは、エリカがヘリを操縦し、大洗のメンバーを何人か茨城の病院まで連れて行ったからだ。

 どうしてそんなことをしたのかと言うと、大洗のメンバーの一人の親族が倒れて病院に運び込まれたという話を聞き、一刻も早く病院へ向かうためにまほが乗ってきたヘリを使うように言ったのだ。

 そもそも、まほとエリカがこの試合を見に来たのは、恐らくみほが隊長を務めている大洗の実力をこの目で確かめてみるためであり、あわよくばみほに直接会って“あの時”の事を謝りたかったからだ。

 エリカがついてきたのは、エリカもやはりみほの事が気になっていたのだろう。ルクレールでの事やこの前の夜に教室でエリカが織部に放った言葉でそれはあらかた分かった。

 肝心の試合は最初、サンダースが“不自然なほどに”大洗の先手を取って追い込んでいた。だが意外にも先に相手の戦車を撃破したのは大洗で、これにはまほの隣で観戦していたエリカも驚いていた。

 そして隠れていたサンダースのフラッグ車を先に見つけた大洗はこれを全車輌で追撃。サンダースはさらにその後ろを4輌で追尾して、試合はまさに鬼ごっこの様相を呈した。

 最終的には丘の上から大洗のⅣ号戦車が、サンダースのフラッグ車のシャーマンを僅差で撃破し、大洗が勝利となった。

 四強校の一角を、20年ぶりに戦車道を復活させたダークホースが破った事で、今頃戦車道ニュースサイトは大騒ぎだろう。

 だが、サンダースが大洗の戦車を追撃する際、残っている8輌全てで追わずにその半分の4輌だけで追撃していた。あの時、サンダースの残存車輌全てで追撃すれば大洗も勝つことはできなかっただろう。

 サンダース戦車隊の隊長であるケイという少女とまほは面識がある。ケイはフェアプレイ精神に溢れており、卑怯卑劣という言葉とは無縁の存在だ。その寛大な性格は割と有名で、他校のスパイさえも責めずむしろ『また遊びに来てね!』と、あっけらかんとそのスパイに言ったという噂を聞いた事がある。

 だが大規模な戦車隊の指揮能力は確かで、何十輌といる戦車隊を自らの手足のように自在に動かすケイの指揮は、もしかしたらまほよりも上かもしれない。

 そんなケイが大洗を追撃する際、何も考えずに半分の車輌で追うとは考えにくいので、恐らくは何か大洗に後ろめたい気持ちがあったのだろう。弱小校だと侮ったのでも、弱小校だからと手を緩めたわけでもない、もっと別の理由があるとまほは考えている。

 ともあれ、大洗はサンダースを下して2回戦進出を決めた。それには少なからず隊長であるみほの力もある。

 だからみほに対して労いの言葉をかけるために、それと少し話もしたくて、まほは帰る前にみほの下へ行こうとした。

 そこで、まほはある場面に出くわした。

ルクレールでも見た、白いカチューシャと長い黒髪が特徴の小柄な少女。その少女が『おばぁ』と呼ぶ恐らくは親族が倒れて病院に運び込まれたと。そしてすぐに病院に行きたいけれど、大洗学園艦はすぐには動けず、どうすることもできないと。

 そこでまほは、ねぎらいの言葉をかける事も、みほと話をする事も忘れて自分たちの乗ってきたヘリを使って向かう事を具申した。

 大洗に対して悪い印象を抱いているエリカは最初、それに対してごねた。だが、自分たちと同じ戦車道を歩む者が困っているのならば、それに手を差し伸べるのもまた戦車道だと考えているまほはエリカにこう言った。

 

「これも戦車道よ」

 

 それでエリカは一応納得したらしく、渋々ながらもヘリを準備して、その小柄な生徒ともう1人、明るい茶髪のウェーブヘアの少女を乗せて、茨城・水戸の病院へと飛び立って行った。

 流石にこんな状態でみほの事を労ったりあの時の事を話したりするのは憚られるので、多くは語らずにまほはその場を去って行った。まほの去り際にみほが何かを言っていたが、まほがヘッドセットをつけていたのとヘリのローターが回転する大きな音で聞こえなかった。

 

(あれでよかったのだろうか)

 

 あの時は、あれが最善の手だと思いまほはそうした。あの時あの場所にいたのに何もしないというのは非情が過ぎると思うし、自分の考える戦車道と言うもののイメージに反していると思ったから、ヘリを使うように言った。

 あの行動が大洗のみほたちから見れば、どう見えたのだろう。みほたちの表情から驚いているという事は分かったが、それ以上の、どんな感情を抱いているのかは分からない。

 しかし悔やむべきは、また話ができなかった事だ。

 もうこの先、みほと会う機会はほとんどないだろう。2回戦も見に行ければいいのだが、流石にそう何日も大会期間中に戦車隊を放っておくのはだめだとまほは思う。

 となれば恐らくだが、次に会うのは本当に黒森峰と大洗が戦う時となるだろう。

 だが、黒森峰と大洗はブロックが離れており、直接対決するとすれば決勝戦しかない。大洗が決勝まで勝ち上がるには、また四強校の一角であり去年の優勝校であるプラウダ高校とまた戦う事になる。

 サンダースを倒したとはいえ、大洗は本当に強いとはまだ断言できない。それについては大洗の実力次第だ。

 そしてもう一つ、懸念すべきことがあった。

 まほの母であり西住流師範のしほに、みほが戦車道を続けていることを知られたら、大事になるだろうという事だ。

 みほが黒森峰を去り大洗へ転校する際、その転校先の学校の名前は一応しほにも伝えていた。

 そして、みほはもう戦車道をしないから大洗へ転校する、という話もしほは聞いた。

 その転校先の大洗が戦車道を復活させ、高校戦車道連盟に再加盟した際は、当然高校戦車道連盟の理事長であるしほにもその話は伝わる。

 だが、しほも一人の親だ。実の娘であるみほの言葉を信じて、例え転校先の学校が戦車道を復活させたとしても、みほは戦車道を再び歩むことはないだろうと思っているかもしれない。

 大洗も全国大会参戦直後は、実力が分からない学校という認知だけで、別に取り立てて騒がれる事も無かった。ましてやその学校の隊長やメンバーが戦車道界隈に公になるという事も無かった。

 けれど、大洗が強豪校のサンダースを倒してしまった事で、大洗は注目を一気に集める事になるだろう。そうなれば、みほが戦車隊を率いているという事がしほに知られるのも時間の問題だ。このまま勝ち進んでいけば、確実に戦車道の何らかの媒体からしほにバレる。

 そうなれば、しほが確実に怒るのは目に見えている。ただでさえ去年の全国大会で失態を晒したというのに、戦車道をしないという言葉を曲げて無名校でも戦車道を始め、西住を名乗って隊を率いるみほがどうなってしまうのかは、まほには分からない。ただ、みほのためにならないことになるという事だけは分かる。

 だから何としても、しほには知られたくなかった。

 だが、そのためにはどうすればいいのか、まほには分からない。まほ1人では答えを見つけることができない。

 誰かに相談すればいいのだが、エリカはみほに、大洗にいい印象を抱いてはいないから相談できない。なるべく頼ると言ったのだがそれも叶いそうにない。

 では、事情をある程度知っている織部に話すべきかと思ったが、それもだめだとまほは思う。

 この前のエリカと織部の話を盗み聞いて、織部はエリカから見れば黒森峰の事情を引っ掻きまわしていると思われている。エリカがあの後織部と何か話したのかはまほの知るところではないが、エリカは織部に対してもまだいい印象を抱いていないと思う。

 そこで自分が相談を持ち込めば、また織部はエリカに何か言われて傷ついてしまうかもしれない。

 だから織部に何かを相談するのも、少し気が引けた。

 

(どうすればいい・・・・・・・・・私は・・・・・・・・・)

 

 思考の沼にハマりかけるが、明後日は黒森峰の初戦だ。こんなところで躓いてしまっては、西住流の面目丸つぶれ。それこそしほから叱責を受けるに違いない。

 頬を小さく叩き、不安や恐れは一先ず考えないようにする。

 明日の訓練は戦車の最終確認、明後日は知波単との試合だ。

 今は目の前の試合に集中する。でなければ、先の事を悩む事すらできはしない。

 やがて、少し離れた場所に黒森峰学園艦の艦影が見えてきた。




ゼラニウム
科・属名:フクロウソウ科テンジクアオイ属
学名:Pelargonium zonale
和名:天竺葵
別名:―
原産地:南アフリカ
花言葉:決心、決意(ピンク)


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撫子(ナデシコ)

小梅の誕生日が6月6日と言うのは
この小説の独自設定です。予めご了承ください。


 大会6日目の6月6日。空は厚い雲に覆われて太陽の光は地上に届かず、昼にも拘らず試合会場は少し暗めだった。

 今日は黒森峰女学園の初戦、相手は知波単学園だ。それ以外にも織部にとっては重要過ぎるイベントがあるのだが、ひとまずそれは置いておき、まずは目の前の試合に集中する。

 高い機動力を駆使して敵布陣の弱点を狙い攻撃して敵陣を突破し、後続と共に敵の後方へと進入して揺さぶりをかけて敵陣を分断する電撃戦を得意とする黒森峰と、真正面からの突撃を得意とする知波単学園。

 戦車道を深く知らない者からすれば両者の戦法は似たようなものと思うかもしれないが、実際は似て非なるものだ。黒森峰は「弱点」を探りそこを狙う。知波単は特別な事はせずにただ敵に向けて突っ込む。

 

『これより、1回戦第7試合、黒森峰女学園対知波単学園の試合を開始します』

 

 観戦席の前に設置されているモニターに、並んでいる両校の選手が映される。そして両校の隊長が一歩前に出て挨拶をし、握手を交わす。

 そして互いに戦車に乗りこんで、スタート地点へと向かう。

 試合を行うのは山岳地帯。と言っても、頂上から麓まで木が生い茂る山と言うわけではなく、頂上付近だけ木が生えていないので半分は禿山のような感じだ。

 両校は、この山を挟むようにそれぞれ東と西からスタートする。お互いの間に山が聳えているので、双眼鏡でも相手の動きを読み取ることは不可能に近く、いかにして早く敵に近づくのかがポイントとなる。

 両校の車輌がスタート地点につくと、それまで盛り上がっていた観客席も静まり返る。

 織部を含め、1回戦に参戦しない黒森峰戦車隊の面々は、観戦席の最後列に立って試合を見ている。席に座りはしないと言うあたり、礼儀正しすぎやしないかと織部は思わなくも無かったが、自分だけ座るのも何か違うので織部も文句を言わずに立っている。

 観ている戦車隊の人数は、全員と言うわけではない。ごくわずか、10人にも満たないぐらいの数だ。この中で織部と親しいのは小梅を除けば根津だけだった。

 観ていない理由は恐らく、試合の結果が見えているからだろう。

 

『試合開始!』

 

 審判長の声が響き、両戦車隊は前進を開始する。

 

「知波単はどうやって戦うんだろうなぁ」

 

 織部の2つ隣に立つ根津が腕を組みながら考える。織部と根津の隣、つまり二人に挟まれる形で立っている小梅も何か考え込むかのように『うーん』と可愛らしくうなっている。

 すると、モニターに両チームの俯瞰図が映し出される。恐らく、どちらかの陣営は山の北側を周り、もう片方は南側を回り込む、あるいは一方が山を登り他方は山を迂回するのだろう。

 と思ったが、その予想は外れて両校ともに山を登り始めた。それも何の迷いもなく。

 観客たちは黒森峰と知波単が共に山を登り始めて、これは真正面からのぶつかり合いが期待できると一斉に盛り上がった。

 

「あー、なるほどそう言う事か」

「え?」

 

 根津が何か納得したかのように言葉を洩らす。

 

「隊長は知波単が山を越えてくると踏んで、真正面からぶつかることにしたんだよ」

「・・・・・・どうして」

 

 そんな事が分かるの、と言いかけたが途中で織部も状況を把握した。

 

「知波単はどんな時も突撃戦法をとる、まあ悪い言い方をすれば単純だ。だから、知波単は山を迂回するよりも山を越えた方が距離的に近いからって事で山越えをする事に決めたんだ」

「・・・・・・山を挟んでいると、相手の出どころが分かりにくい。だけど相手の動きがある程度分かっているなら、その敵がいる場所に向けて進み敵を撃滅する・・・・・・。隊長はそう考えたって事ですね」

「そう言う事」

 

 小梅が補足し、根津が頷く。

 スタート地点にいる黒森峰からすれば、知波単は山の向こう側にいて姿を視認する事はできない。ならば相手はどういうルートでこちらに来るのかをある程度予想しなければならない。南から回ってくるか、北から回ってくるか、はたまた山を越えてくるか。

 だが、知波単学園は突撃戦法に頼る故に動きが直線的でなおかつ単純だ。だから恐らくは、相手に遭遇するまでの時間が早い山越えのルートを通ってくると、隊長のまほと副隊長のエリカは読んだのだ。そして知波単からすれば、黒森峰の戦車隊が山の麓を迂回する形で前進していたとしても、標高の高い山の頂上から見つけてそちらへ向かう事もできる。

 だから知波単は山を越えてくると、まほたち黒森峰は読んだのだ。

 ここで黒森峰は山を迂回して知波単の後ろから奇襲するという手は使わない。山を迂回するにしても時間がかかるし、仮に回り込んだとしても、山を登り始めている頃には知波単は既に山を下りているかもしれない。そうなれば後は、知波単の動きを読みづらくなる。

 それに戦車の燃料も無尽蔵にあるわけではないので、無駄な動きは極力避けたい。

 そして黒森峰の得意とする電撃戦は迅速な行動からなるものである。試合開始から少しの間は『そんなに早く敵に遭遇することはないだろう』という相手の心の油断を突いて、事を優位に運ぶことができる。だが時間が経てば経つほど相手も緊張感を覚え始めていき、弱点を集中的に攻撃して敵陣突破を図るという黒森峰の戦法も通じにくくなるだろう。

 それらの点を踏まえてまほたちは、知波単と同じように山を登っているのだ。

 しかし、黒森峰戦車隊の多くは不整地に適した走行能力があるとはいえ、重戦車が主だ。その機動力は、中戦車や軽戦車と比べると見劣りしてしまう。

 それでも全く走破性が良くないというわけではない。黒森峰の機甲科の生徒たちがほぼ徹夜で整備した戦車もちょっとやそっとでは不調を起こしたりはしない。だが流石に、ヤークトティーガーのような重駆逐戦車は山を登るのに少し手間取っている。

 やがて、両校が山を登り始めてから数十分が経過したところで動きがあった。

 先に山を登り終えたのは知波単学園の戦車だ。モニターには九七式中戦車チハ(新砲塔)と表示されている。

 あのチハこそが、知波単学園戦車隊の主力戦車だ。だがその性能は黒森峰と比べると劣っているので、黒森峰のような強豪相手に運用するには、ただ真正面からぶつかっても意味がない。何か策を練るべきなのだが、知波単はそれすらもせず真っ向勝負で挑もうとする。

 何輌か知波単の戦車が山を登り終えると、今度は反対側から黒森峰のパンターが先に山頂に達した。恐らくは、まほが偵察のために先に行かせたのだろう。

 すると、パンターの姿を視認したであろう知波単の戦車隊は一斉に発砲を開始。

 砲撃が始まった事で観客たちは一斉に盛り上がる。

 だが両者の距離は余りにも離れすぎているし、チハが決定打を命中させるにはもっと近づかなくてはならない。今はせいぜい掠るのが精いっぱいだ。

 1輌目のパンターに攻撃が集中している間に残りの黒森峰の戦車も山を登り終えて、こちらも発砲を開始する。そして砲弾の雨あられに臆することなく、黒森峰戦車隊は前進して知波単学園戦車隊に近づいていく。

 砲弾を受けながらも前進する黒森峰戦車隊を見て、織部は思い出していた。

 中学1年の時、学校に行けなくなった時、黒森峰と大学選抜の試合を見た時、黒森峰の戦車が敵の攻撃に臆することなく前進していたあの練習試合の事を。

 やっぱり、あの戦車の動きには感動や羨望に似た感情を覚えてしまう。

 あの戦車の動きを見て自分の人生は変わったのだ。

 自分の止まっていた時は動き出したのだ。

 あの時の気持ちをまた思い出し、間近で黒森峰の試合を見ている今。やはり自分は、黒森峰に来ることができてよかったと、心の底から思っていた。

 試合の方だが、黒森峰のほぼすべての車輌が登り終えたところで本格的に砲撃を始めた。それにより状況も少し変わっている。

 黒森峰と知波単との間には、圧倒的な戦力差がある。火力にしても装甲にしても、戦車の性能の面では知波単の方が劣る。ここで知波単は、一旦退いて作戦を練り直した方が賢明かと思われるが、当の知波単はそうはいかなかった。

 全車輌が、一斉に黒森峰戦車隊に向けて前進を始めたのだ。

 あれこそが、知波単学園戦車隊の名物、突撃だ。

 

「あー、出ちゃったか。突撃」

「あの状況では、悪手以外の何物でもないですね・・・」

 

 根津が呆れたようにつぶやき、小梅も苦笑しながら言う。確かに小梅の言う通り、この状況での突撃は無謀としか言いようがない。

 そんな突撃してくる知波単の戦車隊をものともせずに黒森峰は砲撃を続行。

 突撃してくる合間も知波単の戦車隊は砲撃を続けているが、撃破に至る命中弾は皆無だった。

 そんな知波単戦車隊に攻撃を続ける黒森峰戦車隊。その中の1輌のパンターが砲撃し、チハ新砲塔を1輌撃破した。

 それを皮切りに、Ⅲ号戦車にヤークトティーガーやヤークトパンター、さらにはまほの乗るティーガーⅠやエリカのティーガーⅡも知波単の戦車を次々と撃破していく。

 その中で、せめてもの足掻きとボロボロになった知波単の九五式軽戦車が発砲し、ヤークトパンターの履帯を切断した。だが、それは九五式軽戦車も狙っていたわけではないだろうし、その程度ではヤークトパンターも怯まずお返しとばかりにその九五式軽戦車に攻撃する。それで九五式軽戦車は撃破された。

 今回1輌だけ投入されたヤークトパンターには直下が乗っている。いつも履帯が重くてしんどいと愚痴る直下は、また戻った後で愚痴るんだろうなぁ、と織部と小梅と根津は心の中で思った。

 そんな事を考えていると、知波単の最後に残った車輌・・・フラッグ車が撃破された。そのフラッグ車を撃破したのは、先頭にいたまほのティーガーⅠだ。

 「弱点」を探る前に決着がついてしまったな、と織部は思った。

 

『知波単学園フラッグ車、走行不能。よって、黒森峰女学園の勝利!』

 

 アナウンスが告げるが、観客たちは歓声の1つも上げはしない。

 モニターに表示されている知波単学園側の戦車すべてに×印がついていた。フラッグ戦のはずなのに、知波単の車輌が全滅してしまっている。これではまるで殲滅戦だ。

 それに対して、黒森峰側は1輌も撃破されてはいない。ヤークトパンターが履帯を切られた程度だが、そんなものは些末なことだ。

 その黒森峰の圧倒的な強さを目の当たりにして、観客たちも息を呑んでいるのだ。いくら戦車の性能や作戦に差があると言っても、ここまで強いとは。

 これが黒森峰。

 これが西住流。

 誰もが恐れおののいていた。

 そしてモニターに映っているのは、死屍累々と言わんばかりに煙をあげて擱座している知波単学園の戦車隊。その戦車隊を前にして、ティーガーⅠのキューポラから身を乗り出して、無茶な突撃戦法のなれの果ての姿を表情一つ変えずに眺めるまほの姿。

 凛々しくも険しくも見えるその表情を見て織部は、6月に入って気温もそれなりに上がってきたというのにうすら寒さを感じた。

 

 

 試合が終わり挨拶を交わせば、両校ともに解散となる。黒森峰も知波単もそれぞれの車輌を引き連れて自分たちの学園艦へと戻る。

 ただ、知波単陣営は全車輌大破という有様なので、回収には時間がかかりそうだ。一方で黒森峰はヤークトパンターの履帯が切れてしまったのでそれに手間がかかるが、特に支障は出ないだろう。

 黒森峰の戦車が学園艦に戻る際に、織部や試合に参加しなかった戦車隊員は戦車の搬入を手伝う。手伝うと言ってもせいぜい誘導する程度だ。

 どの戦車も目立った外傷はないが、弾を掠めたせいで所々塗装が剥げている。明日か、あるいは今日の夜にでも塗装を塗りなおすだろう。

 最初に戻ってきたのはまほのティーガーⅠ、次いでティーガーⅡ、さらにパンターやⅢ号戦車にヤークトティーガーが続き、最後に戻ってきたのは予想通りヤークトパンターだ。

 ヤークトパンターの履帯が切れたのは山の頂上付近だったので、回収車が向かうのには時間がかかり、それだと黒森峰の撤収作業全体が遅れる。それに履帯が切れた程度だからすぐに直せるので、自力で履帯を繋いでからすぐに山を下りて戻ってきたのだ。

 やがてすべての車輌の搬入が終わり、隊員が全員戻っているのを確認すると、撤収作業は終了する。

 その後は、試合に参加した隊員たちで今回の試合のミーティングを行う。このミーティングには、織部も自主的に参加させてもらった。ただし、皆と一緒に椅子には座らず、壁際に立ってミーティングの様子を見学させてもらうというだけだが。

 試合に参加した隊員たちは、勝ったからと言って浮かれてはいない。内心では喜んでいるのかもしれないが、それは決して面には出さない。自分の感情を押さえて冷静でいるのもまた、真面目な黒森峰生らしい。

 ミーティングの内容は大方試合の流れの確認と評価点、改善点を指摘し最後は次の試合に向けての全体的な指標と、普段の訓練の模擬戦後のミーティングとさして変わらない。

 改善点は、試合を見ていた織部には無いようにも見られた。だが、山を登る際にどうしても登坂能力に差が出て陣形が崩れるとまほは言っていた。陣形が崩れた場合、そこを突かれて敵が反撃したり逃げるかもしれないからだ。

 そしてその改善点の指摘を受けたのは、ヤークトティーガーの車長と乗員だ。

 重駆逐戦車だからとはいえ、ヤークトティーガーの不整地での最高速度は、他の戦車の不整地の最高速度と比べると低い。それが今回の陣形の若干の崩れの原因だ。

 ヤークトティーガーの車長も少し落ち込むが、次以降今日のような不整地での試合となった時は、ヤークトティーガーの装甲の厚さを生かし、前衛としてフラッグ車の前を行かせるという結論をまほが出した。それ以外の改善点は特になく、ミーティングは1時間ほどで終了して、後の時間は自由時間となった。

 試合に参加した斑田、三河、直下の3人は温浴施設で汗を流すと言っていた。

 忘れてはならないが今は6月で気温も上昇してきている。それにタンクジャケットは厚手の生地でできているし、戦車の中も通気性はさほど良くはない。だからどうしても汗で服が蒸れてしまうし、それに戦車を動かすのは重労働なので試合後に風呂やシャワーで汗を流し疲れをとるという人も割と多かった。

 試合に参加しなかった根津と小梅、そして織部は特にやる事も無いので一度自分の部屋に戻った後で、3人で集まりドイツ料理店でお茶を楽しんでいた。

 最初に誘ったのは根津で、『暇だしどうだ?』という言葉で、断る理由もなく織部と小梅は合流したのだ。

 

「いやぁ、フラッグ戦のつもりが殲滅戦になっちゃったね」

 

 コーヒーを飲みながら根津が呟く。織部と小梅も、隣同士で座りながら小さく頷く。黒森峰が強いという事は知っていたし、相手が相手だったとはいえ、フラッグ戦で敵車輌を全て殲滅してしまうとは織部も思わなかった。そして小梅も、まさじゃそこまで行くとは考えてはいなかっただろう。

 

「織部は黒森峰の公式戦見るのって初めてだっけ?」

「テレビで見た事は何度かあるけど、生で見たのは初めてかな」

 

 中学1年の時、初めて黒森峰の戦車隊を見たがあれは練習試合だったし、全国大会などの公式戦は大体テレビで見るか戦車道公式サイトに配信されている動画から見るぐらいだ。

 公式戦を生で見たのは、自分で言ったように今回が初めてだった。

 

「どうでした?初めての生観戦は」

「いや・・・・・・なんて言うか、すごかった」

 

 生観戦と言っても、モニターを通してのものだったのだがそれでも実際に観戦席で試合を見たのは人生初体験だった。テレビだと遠目からのカメラで見るだけで分からなかった観客の熱気は間近に感じられたし、全国大会という大きな枠組みの中での試合だったから、模擬戦とは違う緊張感も感じられた。

 

「やっぱりすごいなぁ、戦ってるのを改めて見ると」

「今さらか・・・・・・」

 

 黒森峰に来てから実に2カ月もの間、何度も戦車の訓練や模擬戦を見てきたのに今更感がある感想を聞いて根津が呆れたように笑う。

 そこで、温浴施設から帰ってきた直下たちが合流する。

 

「やー、お待たせ」

「あーお腹空いたぁ・・・」

 

 直下が声を掛けて来て、三河がお腹を押さえながら席に着く。後ろから斑田も顔を出していつものメンバーが揃った。

 三河の発言で思い出したが、試合が始まったのは10時ぐらいで、割と早い決着だったけれど終わったのは12時過ぎ。その後は撤収やらミーティングやら風呂で汗を流したやらで、試合に参加したメンバーはまだ昼食も食べていないのかもしれない。

 小梅たち試合を観戦していたメンバーは、撤収作業が終わってから適当に食事を摂り、ミーティングにも参加していた織部は自室でシリアルを食べて一先ず腹を満たしたのだ。そして食べ終わったところで根津に誘われて今に至る。

 となると、試合に参加した直下、三河、斑田の3人は、朝食から何も口にしてはいないという事になるだろう。

 三河と直下、斑田がそれぞれ空いたスペースに座る。並び順は小梅、織部、斑田。その向かい側に三河、根津、直下の順だ。三河は席に着くなり早速メニュー(主にお菓子系)を広げて『何にしようかな~』と呟いている。

 

「こんな時間に食べると夕飯が腹に入らないぞ」

「いやいや、食べないとやってられないって」

 

 根津が一応の忠告をするが、三河は止まらない。直下と斑田は、アイスコーヒーだけを頼むようだ。2人は大丈夫なのだろうか、と思って尋ねる。

 

「2人はお腹空いてないんだ?」

「空腹もピークを過ぎればどうにかなるしね」

「それにあまり食べ過ぎると太るし」

 

 太る、と斑田が自分のお腹をさすりながら言うが、別に気にするほどの事じゃないと織部自身は思う。しかし、多くを言うと女子のデリケートな部分に触れかねないので黙っておく。

 さて、三河も何を頼むか決めたようでそこで店員を呼び、3人は注文する。

 後は頼んだものが来るまで適当におしゃべりだ。

 

「まったく、何でうちの戦車は履帯が切れやすいのかね」

 

 直下が頬杖を突きながら実に不機嫌そうにつぶやく。

 やっぱりその話題を出してきたな、とその場にいる直下以外の全員はそう思っていた。

 黒森峰の損害としては、あの直下のヤークトパンターの履帯が切られたことぐらいだ。

 

「前の練習試合でも履帯切れたわよね」

「整備が手抜いたんじゃないの?」

 

 斑田が思い出すようにつぶやいて、三河がからかうように話しかける。

 

「手抜きなんてことは無いと思うけど、なんでだろな~」

「にしても軽戦車にやられるとはねぇ」

 

 根津もまた、三河と同じように意地の悪い笑みを浮かべて呟く。

 あの時の状況を俯瞰的に見ていた根津は、直下の戦車の履帯は知波単の九五式軽戦車の攻撃によって切られたものだと知っている。

 

「よりにもよって軽戦車か~・・・チハならまだよかったのに」

「まあ軽戦車に一杯食わされるなんてそんなにない経験だしいいんじゃないの?」

 

 やけに軽戦車にやられたことを根に持っているようだが、それについての理由はある。

 全国大会は、知っての通り全国の戦車道を嗜む学校が参加する大会であり、どの学校もそれなりの自信を持って参加している。そしてその全国大会での優勝とは誰もが憧れるものであり、皆その優勝目指して全力で挑む。

 そうなれば、どの学校も自分の学校の持てる最大の火力で参戦するだろう。となれば、例え軽戦車を所有している学校でも他に中戦車や重戦車を所持していれば、わざわざ軽戦車を投入しようとはしない。

 軽戦車は足回りは良いとしても装甲や火力に乏しいので主戦力とはなり辛い。だから必然的に、特別な事情がある学校を除けば全国大会で軽戦車を登用する学校は少ないのだ。

 特別な事情とは、予算の都合で軽戦車しか揃えられなかったり、戦車の保有数が少なくて軽戦車も運用しないと戦えないなどだ。豆戦車を主に運用するアンツィオ高校や、戦車道を復活させたばかりの大洗女子学園などがそれにあたる。

 今日試合をした知波単学園は、元日本陸軍が所有していた戦車で部隊が構成されているため、統一性の面もあり軽戦車が投入されたようだ。

 それに引き換え黒森峰は、重戦車や中戦車を主に運用していて、軽戦車をほとんど所持していない。故に黒森峰戦車隊のほとんどのメンバーは、自分たちの戦車の圧倒的な火力と強固な装甲に自信を持っていて、軽戦車など恐れるに足りないとしか認識していない。

 だから、校内模擬戦で軽戦車と戦うことはないうえ公式試合で軽戦車と戦う事は稀であり、その軽戦車から一撃を貰うというのは少し屈辱的なのだ。直下が九五式軽戦車から一撃を受けて履帯を切られたのを悔しがっているのはそのせいだ。

 そこで、直下達3人の頼んでいたアイスコーヒー+三河の頼んだクルーラーというドイツのお菓子が来ると、早速三河はクルーラーにかぶりつく。実に美味しそうに食べているのでこちらの腹も空いてきそうだ。

 そこで。

 くきゅ~、という可愛らしい小さな音が聞こえてきた。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 その音がした方向は、織部の隣。だが斑田からではない。

 小梅だ。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 織部の視線に気付いたのか、小梅が少し恥ずかしそうに顔を赤くして窓の外を見る。

 テーブルを挟んで向かい側にいる三河はその音には気づいていないらしい。恐らく小梅は、三河がクルーラーを美味しそうに食べているのに触発されて空腹感を覚えたのだろう。

 だが、ここで織部は小梅に『お腹空いたの?』なんて直球な言葉を投げたりはしない。空腹を悟られるというのは男女問わず恥ずかしいし、食い意地が張っていると思われかねないからだ。

 だから織部は、メニューを手に取りバウムクーヘンを頼む事にした。

店員を呼び注文を終えると、隣に座る斑田が問いかけてきた。

 

「織部君も昼食べてないの?」

 

 それに対して織部は、少しばかり嘘を交えた本音を告げる。

 

「昼はシリアルで軽く済ませたんだけど、三河さんが食べてるのを見てたら少しお腹空いちゃって」

 

 と言うと、斑田は納得してくれたようだ。他の皆も深く疑いはしない。

 ただ、小梅は『まさか』と一抹の期待を抱いて織部の方を見る。

 言葉とは難儀なもので、先ほどのような織部の言葉を普通に男が言えば、『育ち盛りなのかな』と他人から思われるが、女が言うと『結構食べる方なのかな』と少し違う印象を抱かれやすい。そして結構食べる方と女性が言われれば恥ずかしくも思うし、言った人を失礼だという人もいる。女心は実に複雑怪奇だ。

 男女でどうして印象が違うのかは分からないが、これはよくある話だ。今に限った話ではない。

 やがて頼んだバウムクーヘンがやってくる。よく見る輪の形をしているのではなく、3切れぐらいに小さく切り分けられていた。

 一つをフォークで刺して、口に含む。ふわりとした食感とほんのり甘い味が口に広がる。

 そこで織部はバウムクーヘンの味を堪能しながらも、小梅が自分とバウムクーヘンに視線を向けていることを見逃しはしない。

 そんなほのかに甘いバウムクーヘンを2つ食べたところで、フォークを皿に置き、小梅に話しかける。

 

「1つ食べる?」

 

 織部は、小梅のお腹が鳴った音を聞き、小梅も少しお腹が空いているという事に気付いている。なので今こうしてさりげなく(?)バウムクーヘンを差し出して、少しでも小梅の腹を満たそうとする。

 これを小梅が好意的に取るか有難迷惑と取るか、それは分からなかったがあの音を聞いた以上放っておけなかった。

 そして小梅は。

 

「じゃあ・・・いただきますね」

「うん、いいよ」

 

 小梅はフォークを手に取ってバウムクーヘンに差し、口に入れようとする。どうやら迷惑とは思ってはいなかったようだ。

 少し話が逸れるが、根津と斑田は、それぞれ織部と小梅が親密な関係―――恐らくは恋人同士であることを知っている。だから今、小梅と、小梅にバウムクーヘンを渡した織部の事を微笑ましいものを見る目で見ている。

 直下も、中間試験前に織部を小梅とくっつけようと図った事から、織部と小梅2人の関係について別に疑問視はしない。

 だが、三河に至ってはクラスが違うために2人がそう言う関係になっているという事を知らないので、なぜ織部が悩みも迷いもなく小梅にバウムクーヘンをあげたのかが理解できない。

 だから、空気を読んでなるべく口にはしない他の3人に対して、三河は割と純粋に疑問を口にし、率直にものを言える。

 さらに織部も小梅も意図していなかったが、小梅は先ほどまで織部が使っていたフォークを使って残ったバウムクーヘンを食べた。

 それはすなわち。

 

「・・・・・・間接キス」

 

 クルーラーを食べていた三河がボソッと呟くと、小梅の顔が真っ赤になる。織部が飲んでいたコーヒーを噴き出さなかったのは、織部自身褒められたものだと思う。

 動揺したのは小梅と織部だけではない。根津と斑田は、小梅のように真っ赤にはならずとも、少しだけ頬を赤くして目を逸らしているし、直下は織部と目を合わせようとしない。事の発端を作った三河は、特に何も気にせずにアイスコーヒーを飲んでいた。

 一つ咳払いをしてコーヒーカップをソーサーに置き、ちらっと小梅の方を見る。

 未だ小梅の頬は赤いが、織部の視線は小梅の唇に向いている。

 前に書庫で過失的に押し倒してしまった際にも凝視してしまったが、今はあの時よりも魅力的に見えてしまい―――

 と、そこで織部は自分の目を押さえる。

 今自分は、踏み入れてはいけないような思考に足を踏み入れそうになった。

 邪な考えがよぎった自分の事を恥ずかしく思い、コーヒーを一気に飲む。

 その後は、何だかぎくしゃくした雰囲気のまま時間が過ぎて行き、5時ごろになって解散となった。

 

 

 その日の夜、織部は小梅に呼び出されて、ある場所を訪れていた。

 そこは、あの花壇だ。

 呼び出された経緯についてだが、自分の部屋で夕食を食べ終えて一息ついたところで小梅からメールを受け取り、そして今こうしてここにいる。

 花壇の近くのベンチで、座る事無くお互いに向かい合う織部と小梅。

 どうして呼び出されたのか、織部にはおおよその見当がついている。

 

「・・・・・・誕生日おめでとう、小梅さん」

「ありがとう、春貴さん」

 

 今日は小梅の誕生日だ。それは前に小梅から直接聞かされたことなので知っていたが、そのお祝いの言葉を言ったのは今が初めてだ。

 周りに人がいる中でその言葉を告げてしまうと、周りは小梅に対して気遣ってしまうだろうし、小梅もそれは望んではいない。自分の誕生日だからと周りから特別扱いされることを望むような、自分勝手な性格を小梅はしていないのを織部は重々承知していた。

 だから今、こうして周りに誰もいない状況で初めて、その言葉を口にしたのだ。

 

「・・・・・・本当に大丈夫なの?別に何もプレゼントとか用意していなくて・・・」

「ええ、大丈夫です」

 

 小梅から1つの“お願い”を聞き入れる事を条件に、プレゼントは用意しなくていいと言われた。織部はその言葉に従い、プレゼントの類は用意していない。もし用意したとしたら、小梅も少し織部を気遣わせてしまったと心を痛めてしまうだろうと思ったからだ。

 しかして、織部にはその“お願い”がどういうものなのか、まったくもって予測できなかった。無茶なことを言いはしないだろうが、自分に叶えられる範囲のお願いであることを望むほかない。

 

「・・・・・・それで・・・教えてもらいたいんだけど・・・・・・」

「・・・・・・はい」

「・・・・・・お願いって?」

 

 本題に入る織部。あまりの緊張に、冷や汗が垂れるが、対照的に小梅は少し微笑んでいる。

 

「・・・・・・その、お願いっていうのはですね・・・」

「うん」

「・・・・・・・・・えっと、春貴さんさえよければ、何ですけど・・・・・・」

「?」

 

 小梅からのお願いだというのに、織部の意思を確認してきた事で、余計織部は分からなくなった。

 何だ、一体小梅は何を要求してくるつもりなのだ。

 謎の恐怖心に織部が襲われている合間に、小梅は織部にゆったりとした動作で歩み寄ってくる。

 

「・・・・・・私の・・・」

 

 一歩、また一歩と歩いてくる小梅。

 まだなお分からないお願いの内容が怖くて、小梅が一歩近づいてくるたびに、じりじりと自分の体温が上がっていくのが分かる。

 そして、織部との距離がほぼゼロになったところで歩を止める。そして、織部の顔を見上げて目を閉じる。

 この小梅の体勢、どこかで見たような気がする。映画や小説の中で、こんなシーンがあったような。

 その自分の見たものの記憶を掘り出して、恋愛経験のない織部でも、このポーズが何のサインなのかが分かった。

 そして、小梅は。

 

 

「・・・・・・私の、初めてを貰ってください」

 

 

 いろいろと勘違いしそうなセリフだったが、ここで小梅の言う“初めて”とは何なのか、もう織部にも分かった。

 つまりは、小梅はキスをしてほしいという事だ。

 その瞬間、織部の中に戸惑いや感動、喜びや焦りの感情が生まれる。

 戸惑いとは、小梅の大胆な行動に対するもの。

 感動とは、小梅がそういう願いを伝えられるほどに自分の事を好いているという事に対するもの。

 喜びとは、キスの申し出が純粋に嬉しかったことに対するもの。

 焦りとは、自分が相手でいいのかという事に対するものだ。

 

「・・・・・・え、いや・・・その・・・・・・」

 

 突然の申し出に、織部も動揺を隠せない。だって織部だってそんな事などした事がないし、どうすればいいのか分からない。いや、キスがどういうものかは知ってはいるが色々と心の準備が必要である。

 

「・・・・・・嫌・・・ですか?」

 

 キスの体勢を解き、普通に向き合う小梅。そして不安そうな目で織部の事を見上げる。

 

「いやそんな、嫌じゃないよ。むしろ僕だってそうしたいと思ってるんだけど・・・・・・色々と心の準備が・・・・・・」

「・・・?」

「それに、本当に僕なんかでいいの・・・・・・?」

 

 一番気にするところはそこだ。

 ファーストキスは人生で1度しかない。そう簡単に捧げていいようなものでもないだろう。女の子ならなおさらだ。

 ただ、自分以外の男が小梅とキスするのを想像すると虫酸が走るが、自分みたいな男に捧げていいのかとも不安になる。

 だが、小梅はニコッと笑う。

 

「・・・私たち、もう恋人同士ですもの。それに・・・将来は・・・・・・」

「・・・・・・あ、そうか」

 

 そうだ、将来織部と小梅は添い遂げる事を見据えている。そうなれば、キスもする機会だってあるだろう。

 だとすれば、今キスする事には何ら違和感もないはずだ。

 

「それに・・・・・・春貴さんになら、私は・・・」

 

 そこまで小梅が織部のことを想ってくれている事に、織部は感動に似た気持ちになる。

 誰かから愛され、また自分もその人の事を愛するというのは、とても心地良いものだ。

 

「・・・・・・ありがとう、小梅さん」

 

 織部が、自分の事を切に想ってくれている事を嬉しく思い、笑みを浮かべてその言葉を告げる。

 そこで、小梅はもう一度瞳を閉じてくいっと顔を上に向ける。

 もう、腹は決まった。

 小梅の両肩に優しく手を置く。

 そして、ゆっくりと小梅の顔に自分の顔を近づけていく。

 先ほど、ドイツ料理店で自分の使ったフォークを小梅に渡してしまい、それを小梅が使った事で三河から『間接キス』と指摘されて、あの時はものすごい焦った。そしてあの後小梅の唇を意識してしまい、そんな考えが浮かんでしまうのは自分でも割と変だと思っていた。

 しかし今からするのは、間接ではない直接のキスだ。

 小梅の可愛らしくも綺麗な薄桃色の唇に、自分の唇を近づけていく。

 織部も瞳を閉じる。

 そして唇が触れる寸前で、織部が小さく、だが小梅には聞こえるように、告げた。

 

「・・・・・・小梅さん、大好きだ」

 

 2人の唇が重なり合う。

 少しの間、時間にすれば1分にも満たない間、唇を重ねて、やがてどちらからともなく顔を離す。

 そこで織部は、小梅が静かに、音もなく涙を流しているのを見た。

 

「あ、え・・・・・・何か間違ってた・・・?もしかして嫌だったり・・・」

「あ、違います・・・そうじゃなくて・・・」

 

 小梅が涙を拭い、微笑む。

 

「嬉しかったんです・・・・・・。初めての相手が、春貴さんで本当によかったって・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「春貴さんを好きになれて、良かったって・・・・・・」

 

 織部の胸に熱いものが込み上げてくる。

 そして堪らず、小梅を抱き締める。少ししてから、小梅が織部の背中に腕を回す。織部は、小梅の髪を優しく撫でて、そして言った。

 

「・・・・・・僕も、嬉しかった。小梅さんが最初の人で」

「・・・・・・ありがとう、春貴さん」

 

 夜に花壇の前で抱き合う織部と小梅の頭上に、一筋の流れ星が輝いた。




ナデシコ
科・属名:ナデシコ科ナデシコ属
学名:Dianthus superbus var.longicalycinus
和名:河原撫子(カワラナデシコ)
別名:大和撫子(ヤマトナデシコ)
原産地:東アジア
花言葉:純愛、大胆、貞節


6月6日・・・梅の日
もう2カ月以上過ぎちゃったけどごめんなさい
リアルの時間と作中の時間のズレに関しては気にしないでいただけると、
嬉しいです


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紫丁香花(ライラック)

 全国大会の1回戦は全て終了し、次は2回戦となる。2回戦の第1試合は、1回戦第8試合から4日後だ。

 黒森峰女学園は2回戦の第3試合、継続高校と戦う。継続高校は戦車道四強校から外れているが、戦車道が盛んと聞いているし、1回戦を勝ち抜いたのだからそれなりに強いのだろう。

 だがやるべきことは、黒森峰の取るべき戦法は変わらない。戦況によっては変わるだろうが、基本的なスタンスは圧倒的な火力と装甲を持って相手を叩き潰す電撃戦だ。

 黒森峰が知波単に勝った時、既に相手は継続高校だという事は分かっていたので、2回戦に向けての作戦会議は知波単戦の翌日に行われた。

 そして、2回戦の投入可能戦車数のレギュレーションは1回戦と同じ10輌なので、2回戦に参加する車輌は1回戦と同じくメンバーの交代も無く全車続投だった。

 1回戦の前もそうだったが、試合に向けての作戦会議は織部も参加している。

 まほによれば、継続高校は手強い相手であり、去年の練習試合でも手を焼いたという。

 継続高校の主力であるBT-42突撃砲は主砲口径114mmで機動力も高く、とても厄介だ。他にはソ連製の車輌を複数所持しており、さらに快速戦車のBTシリーズも所有している。過去に行われた練習試合では、高い機動力で敵戦車隊を翻弄する戦法を取り、さらにその複雑な動きで常にフラッグ車を守りながらも攻撃を多方向から仕掛けてくるという。

 黒森峰の基本スタンスは先ほど述べたような電撃戦。さらには敵戦車の挑発に乗せられることなくフラッグ車の位置を見失わずに追撃し、多方向からの攻撃に対しても対応するという事になった。

 織部は作戦会議に参加して、黒森峰だけにとどまらず全国大会で過去に行われた試合を全て記録している黒森峰の情報の充実ぶりに感心したし、そして1回戦の作戦会議でも思った事だが、彼我の戦車の口径と貫徹力と装甲、さらに機動力などの全てのスペックを考慮した上で作戦を練るまほを含めた戦車隊のメンバーには本当に頭が上がらない。

 いくら戦車道の事をちょっと齧ったぐらいの織部でも、作戦を考える頭までは持ち合わせてはいない。

 その高い計算力と判断力、思考力は自分と同じ高校生のものなのかと、織部は恐れにも似た感情を抱いてしまう。

 

 

 そして、継続高校戦を2日後に控えた日。

 1回戦を突破した程度では、黒森峰も浮かれてはいない。戦車隊に所属しているか否かを問わず、黒森峰の生徒たちの多くは、自分の学校の戦車隊の強さを知っている。戦車隊に所属している者はもちろんの事、属さない人だって黒森峰が戦車道で非常に強いという事は知っている。黒森峰にいる人間は皆、黒森峰戦車隊に絶対の信頼を置いている。相手にもよるが、よほどの事がない限り1回戦ぐらい勝って当然とばかりに安心しきっていた。

 9連覇という偉業を成し遂げたからこそ、絶対の信頼を置いているからこそ、その信頼を裏切ったみほは糾弾されてしまったのだ。

 だが、去年の決勝戦でのアクシデントの事を知っている2、3年生からすればそのアクシデントを引き起こしたみほがいないことから、今年こそは大丈夫だろうと思っている。

 今年こそは優勝できる、また連覇の道を歩き出せる、と思っている。

 そんな全国大会期間中にもかかわらず校内の空気もそれほど普段と変わらない中で、今日も昼休みの訪れを告げる鐘が鳴る。

 生徒たちは各々席を立ち食堂へ行ったり、事前に用意した昼食をお気に入りの場所で食べようと教室を出たりする。中には数人で固まって教室で食べる者もいた。

 織部は普段ならば食堂へ行き、自分の気分に合うメニューを頼んで同じクラスの根津と斑田や、戦車道を通じて仲良くなった直下や三河と食事をする。

 だが、今日は勝手が違った。

まず、織部が今向かっているのは食堂ではない。目的地は、黒森峰女学園本校舎のすぐそばにある戦車の格納庫だ。

 重い扉を開けると、静かに戦う時を待っている何輌もの戦車がいた。その巨大な鉄の塊の放つ威圧感は、圧倒されるほどだ。

 織部はそんな格納庫の中を進んでいく。多くの戦車の間を縫うように歩き、そしてその人物はいた。

 

「ごめん、待たせちゃって」

「いいえ、大丈夫ですよ」

 

 織部は、小梅と待ち合わせをしていたのだ。

 どうして同じ学校の中で、しかもこのようなあまり人の寄り付かない場所で待ち合わせをしていたのか。

 その答えは、小梅の手の中にある白い布に包まれた小さな箱にあった。

 

「ちょっと回りくどかったかもしれませんけど・・・・・・」

「まあ、事情が事情なだけに仕方ないよね」

 

 言いながら、織部は小梅の傍に歩み寄り、丁度椅子くらいの大きさの木箱に座る。そして小梅もその隣に座って、持っていた小さな箱の1つを織部に渡した。

 その白い包みを膝の上に乗せて、静かに丁寧に包装を解く。中から現れたのは、薄いピンク色の中くらいの箱だった。その箱の蓋を開くと、中には。

 

「・・・・・・わ」

 

 まずその箱の左半分には、白いご飯。右半分には、唐揚げとアスパラのベーコン巻、ほうれん草のおひたしと小さく切られたリンゴ。

 至極理想的な、お弁当だ。

 

「・・・もしかして、全部手作り?」

「・・・はい」

「すごいね・・・・・・僕にはとてもできそうにないや・・・」

 

 小梅も同じように自分の分の包みを開けて弁当箱を開く。そして2人そろって手を合わせ、『いただきます』をする。

 織部は先ほどの授業と授業の間の休み時間に、小梅から『お弁当を作ってきましたので、一緒に食べましょう』と誘われたのだ。せっかく作ってきてくれたのだから、その厚意を無駄にしないために織部はその誘いに二つ返事で乗る。

 だが、人目につくような場所で食べるのは少し恥ずかしい。

 それと、小梅に対する去年の全国大会優勝を逃した非難の目や陰口がまだ完全に消えたわけではない。小梅が明るさを取り戻したことでそれらも鳴りを潜めているが、ごくたまにそんな輩を見る事がある。

 その小梅が唯一の男と弁当を食べているところを見られれば、調子に乗っていると非難されるやもしれない。

 織部の前では小梅も明るく振る舞っているが、内心ではどうなのかは正直なところ、把握できていない。その小梅の事を考えて、今こうして戦車の格納庫というあまり人の寄り付かない場所で食べることにしたのだ。

 さらにそれを悟らせないために、あえて2人とも別々にここまでやってきたのだ。

 回りくどかったが、一応念には念だ。

 それは置いておき、まずは唐揚げを1つ口に含む。カリッと揚げられていて、ほのかな

にんにくと醤油の味がする。

 

「・・・うん、美味しい」

「それは良かったです」

 

 どれをとっても美味しい。織部の口に合わないものなど1つとしてなかった。パクパクと食べていく織部を見て、小梅も微笑む。

 半分ほど弁当を食べたところで、織部がふと自分の目の前にある戦車を見上げる。

 その戦車は、隊長のまほが搭乗するティーガーⅠだというのは見た目で分かったが、よく見るとまほの戦車とは違うのが分かる。

 まほのティーガーⅠの車体番号が『212』なのに対して、今目の前にあるティーガーⅠの車体番号は『217』だ。数字の色も、赤ではなく白である。思い返してみれば、この車輌は練習には1度も出ていない気がする。

 

「この車輌って、誰のなのかな」

 

 だから、ぽろっとそんな疑問を口にする。

 ところが、その織部の何気ない言葉を聞いた途端、小梅の箸が止まった。それを視界の端でとらえていた織部は、気になったので小梅の方を向く。

 小梅は、少し寂しそうな悲しそうな表情をしている。そこで織部は、何か自分がマズいことを言ってしまったという事に今更ながら気付いた。

 

「あ、ごめん・・・僕・・・・・・」

「・・・いえ、春貴さんは悪くありませんよ」

 

 そこで織部も箸を置く。小梅が、目の前にいるティーガーⅠを見上げながら、思い出すように告げた。

 

「この車輌は・・・・・・みほさんが乗ってた車輌なんです」

 

 今はもうこの学校にいないみほの事を思い出して、感傷的になってしまったのだろう。織部は弁当箱を膝の上に置き、小梅の背中を優しく撫でる。

 

「みほさん・・・・・・すごく優しい人だったのに・・・・・・」

 

 いつかみたく背中を撫でられて気持ちが落ち着き、自分の気持ちや思いを素直に吐き出せるようになったのだろう。かつてを思い出すように、言葉を小梅が洩らした。

 

「・・・小梅さんは、みほさんと仲が良かったんだっけ」

「・・・・・・はい。クラスは違いましたけど・・・戦車道では割と交流がありました」

 

 ぽつぽつと、小梅が黒森峰にいた時のみほの事を話しだす。

 みほは、入隊当初はおどおどした性格が目立っていて、姉であり隊長でもあるまほから副隊長に指名された際、先輩方からは割と不評だった。

 自分たちを差し置いて副隊長になったのに、あの頼りない性格は何なのかと。

 あんなので黒森峰の副隊長が務まるのかと。

 だが、同期のメンバーからすればみほのそんな性格は親しみやすいと捉えられていたらしい。そしてそう感じていたのは小梅も同じだった。

 隊長であるまほは厳しく、本人は自覚していないだろうが言動も威圧感があるので、近寄りがたいイメージがあった。

 しかしみほはそれとは正反対で、ほんわかとした柔らかいイメージと少しドジな一面が逆に親近感を持てるという事で、同期メンバーは割とみほに対しては親しくしていた。たまに、食事を一緒に摂る隊員もいたという。小梅も数回ほど、昼食を食堂で一緒に摂った事があるという。

 ただし、みほは自分が誇り高き黒森峰戦車隊の副隊長であるという自覚を持ち、西住の名を背負っている以上は姉と同じようにしなければならない、という強迫観念に近い感情を抱いていたせいで、中々積極的に皆に話しかける事は難しかったようだ。食事だって、自分から誘うのではなくほとんど誘われてばかりだったらしい。

 親しい間柄の人が、友達がほとんどいなかった。

 そして、あの全国大会決勝戦でみほが間違いを犯してしまった事により、先輩方からの風当たりは前よりもはるかに悪くなってしまった。

 そして戦車隊に属していない小梅やみほの同級生は、ある事無い事、流言飛語やイメージを鵜呑みにしてみほを責め立てた。

 しかし一方で、戦車隊に所属していてみほの事―――みほがどんな性格でどんな人物なのかを知っている隊員たちは、みほの事を責めはしなかった。その中には当然、小梅も含まれている。

 みほの性格を知っているからこそ、みほがあの時どうしてそんな行動をとったのかを理解できて、みほの気持ちも知っているからこそ、責められなかった。

 だが、小梅がそう考えていたように、みほを庇えば自分たちもまた先輩隊員や学校から責められることも分かっていた。みほの事を庇う人の数は、みほを責める人よりも圧倒的に少なかったからだ。

 みほに庇う事も、近づき守る事もできず、ただ手をこまねいて事態を見ているだけで時は過ぎてしまった。

 

「・・・・・・みほさんって、慕われてたんだ」

「主に、私たち同期からですけどね・・・。三河さんや根津さんは、1年の誇りだって言ってました。直下さんや斑田さんも、口ではそう言わなかったけど、同じだったんじゃないかなって思います」

 

 まほのように隊員全員から慕われているのではなく、決して多くはないけれどそれなりの人数から慕われていたみほ。

 でも、自分の立場や姉との比較のせいで、親しい友達は作れなかったというのが、少し悲しかった。

 

「みほさんにも、友達や親友って呼べる人がいれば、また違っていたのかもしれないですね・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 みほには頼れる人が、親しい人が黒森峰にはいなかった。

 自分の姉であるまほも、自分を見捨てたと思い込んでしまい、誰かに助けを求めることもできなかった。

 その苦しさや悲しさは、常人には耐えがたいものであるに違いない。

 

「私が・・・・・・助けられたかもしれないのに・・・・・・」

 

 俯く小梅。

 織部は、身体の位置を少しずらして、小梅の横にぴったりとくっつく。

 そして優しくその肩を抱き寄せた。

 

「・・・・・・過ぎた事を、『かもしれない』って可能性の事を悔やんでも仕方がないし、そう思えるだけで小梅さんは凄いよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「それに、みほさんは大洗でもどうにかやってるって話だから・・・。小梅さんが前の事に囚われて悩む必要はない、と思うよ」

 

 織部の肩に頭を預ける小梅。そして少しの間その体勢でいて、小梅は気持ちを落ち着かせた。

 そうして数分ほど経ち、小梅は織部に一言『ごめんなさい』とだけ言って謝るが、織部は笑って首を横に振る。そしてまた、残りの弁当を食べる事にした。

 2人が弁当を食べ終わったのは、5時限目の予鈴が鳴る20分前。

 

「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした」

「すごく美味しかったよ。ありがとう」

「どういたしまして」

 

 聞けば小梅も、弁当を作る事は初めてだという。弁当箱を持っていたのは、母から念のためと持たされていたらしい。妙なところで役立ったのかな、と織部は思った。

 包装を元通りにして、洗って返すことを約束すると、少しの間沈黙が訪れる。

 

「・・・・・・なんか僕、小梅さんには世話になりっぱなしだね・・・」

「え?」

「いや、こうやってお弁当を作ってもらったのもそうだし、何度か夕飯をご馳走になってるのだって・・・男としてそれはどうなのかなって」

 

 織部が少し落ち込むが、小梅は織部の手を握ってそんなことは無いとばかりに首を横に振る。

 

「前にも言いましたけど、私が本当に、こうしたいと思ってしたことです。春貴さんが気に病むことは無いです」

「でも・・・・・・」

「それに、春貴さんはもう十分すぎるほど私の力になってくれました。私がここまで立ち直ることができたのも、春貴さんのおかげです」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「だから、私に世話をかけさせてるなんて思わないでください」

 

 小梅の言葉は純粋に嬉しい。その言葉に嘘もお世辞も無いのは、小梅の目を見ればわかる。

 だけど、申し訳なさと言うものはあった。

 

「でも何か、僕は小梅さんにお礼がしたい。僕にできる事なら・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅も、織部が心からそう思っているというのは、これまで織部と付き合ってきて分かる。だからこそ、そう決めた織部も簡単には折れないだろうというのは分かっていた。

 だから、ほんの少しだけ自分のお願いを聞いてもらうことにした。

 

「・・・でしたら、1つお願いしてもいいですか?」

「いいよ、言ってみて」

 

 すると小梅はまず、織部に少し体の位置をずらして小梅と離れるように言った。織部はそれに従い、人一人分だけ横にずれる。

 すると小梅は、座っている織部の腿に頭を乗せる形で寝転んだ。

 世間一般で言う膝枕と言うものであった。

 

「・・・・・・重くないですか?」

「・・・・・・いや、全然」

 

 お願いがこれとは、本当にいいのだろうか。

 小梅とこうして触れ合えることは願ってもいない事だったので問題ないのだが、唐突な事に少し織部も拍子抜けしたものだ。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 寝転ぶ小梅は安らかに笑って目を閉じている。うっかりすると寝てしまいそうなぐらいだ。

 その小梅の可愛らしい笑顔に、つい愛おしさを覚えた織部は小梅の頭を優しく撫でる。小梅は嫌がる事無く織部の手を受け入れている。

 

「・・・・・・小梅さんってさ」

「?」

 

 少しだけ、思った事を口にする織部。小梅は目を開けて、織部の顔を見る。

 

「・・・意外と、甘えん坊さんなんだ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅がそっぽを向くように目を瞑る。そう言うところもまた可愛らしいなあ、と思いながら織部は小梅の頭を撫でる。

 その間、織部は一応周りにも目を配っていた。もし見られてしまえば色々と面倒な事になりかねないからだ。ただ、例え戦車道履修生でも昼休みにここまでは来ないようで、人の気配はない。

 数分ほど経ったところで、小梅が起き上がった。あまり長時間の事でもなかったので、脚も痺れてはいない。

 すると。

 

「・・・・・・春貴さん」

「ん?」

「次は春貴さんの番です」

「へ?」

 

 また1人分のスペースを開けて、自らの膝をポンポンと叩く小梅。それは膝枕のジェスチャーなのだろうが、それはちょっと問題があるような気がする。

 

「いや、えっと・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 だが小梅は笑みを崩さずに自分の膝を叩いている。その有無を言わさずと言った形が少し怖い。

 どうやら先ほどの『甘えん坊』という言葉に、少し怒ってしまったようだ。それについては完全に織部に非があるので、抵抗はしないでおく。

 『お邪魔します・・・』と呟きながら、先の小梅のように頭を小梅の腿の上に乗せる。横向きではなく仰向けに寝ている形なので、小梅の顔を見上げる形になる。

 その小梅はと言うと、何だか優しい笑みを浮かべているのだが何も言ってこないのが少し怖い。そして先ほどの織部と同様に、頭を撫でてくる。

 

「・・・・・・重く、ない?」

「いえいえ」

 

 一つ忘れてはならないのだが、織部とは違い小梅はスカートだという事だ。そしてソックスも膝上までは無いので、織部が頭を乗せているのは素肌という事になる。なので、小梅の体温が直接伝わってくるので気恥ずかしい。

 さらに小梅に優しい眼差しで見つめられているのもまた少し恥ずかしく、小梅の顔を直視できない。かといって、ここで顔を逸らしたら小梅の気に障るかもしれないし、というより横に向けたら小梅のスカートの中が見えてしまう事になる。そんな事をして嫌われたりしたら一巻の終わりだ。

 消去法で、織部は目を瞑ることにした。目を合わせるのが少し恥ずかしいというのもあるし、小梅の膝枕にどこか安心感を覚えて、その上頭を一定のリズムで撫でられていて眠気が出てきたというのもある。

 それに気づいたのか、小梅が話しかけてきた。

 

「あ、眠かったら寝てもいいですよ。まだ予鈴が鳴るまで時間はありますから」

「・・・・・・予鈴の少し前に戻らないと、授業に間に合わないかな」

「そうですね・・・・・・じゃあ、予鈴の5分前に起こしましょうか?」

「・・・・・・大丈夫?寝ても」

「大丈夫ですよ」

 

 最終確認をして小梅がOKすると、織部も大人しく目を瞑った。女子校の、しかも人気のない格納庫で、女の子の膝枕で昼寝をするというのはいささか奇異な感じがするが、そんなことを考えている間にも少しずつ織部の意識は遠のいていった。

 格納庫にある時計を小梅は見上げる。5時限目の予鈴が鳴るのは15分後だから、10分間はこのままだ。

 織部は目を閉じて、僅かな間の仮眠を取ろうとしている。

 小梅は、そんな織部の寝顔を見つめる。

 寝顔とは、その人の素直な表情を見ることができると誰かが言っていた。今眠っている織部の寝顔も、いつも見せるような笑顔とは違って、穏やかな雰囲気を見せてくれる。

 今織部の見せているような優しい表情も好きだな、と思いながら小梅はまた、織部の頭を撫でる。

 そうして、静かで穏やかな昼休みは過ぎて行った。

 

 

 時間は少し戻って、昼休みが始まって間もなくの時間。

 食堂の一角にいつもの4人―――根津と斑田、三河と直下が集まり昼食を食べていた。だが、いつもいるはずの人が2人もいない事に真っ先に気付いたのは直下だ。

 

「織部君と赤星さんは?」

 

 それぞれ料理を頼んで席に着いてから問う直下。三河も気になっていた様で、当たりを見回して、いない2人の姿を探す。

 問われた根津と斑田は、お互いに顔を見合わせて苦笑し、言うべきか言うまいか悩んだが、直下と三河は茶化したり言いふらしたりするような奴ではないと知っているので話すことにした。

 根津が話す。

 

「2人で一緒にご飯食べてる」

「へぇ~」

 

 直下は納得したようにうなずいてカレーライスをスプーンで掬い、三河も納得したようにうどんを啜る。

 が、一拍置いたところで三河の動きが止まる。

 

「・・・・・・今、何て?」

 

 三河が、箸でうどんを挟んだまま真顔で根津に問いかける。それに答えたのは斑田だ。

 

「だから、2人だけでご飯食べてる」

「・・・・・・それは、お弁当って事?」

 

 直下の、半ば本能だけの質問に斑田は頷く。その隣に座る根津は、直下から視線を逸らし、少し気まずそうな顔で言う。

 

「多分、手作りの」

 

 三河の手に持っていたはずの箸が、音を立ててテーブルに落ちた。

 

「あ、くっついたんだ?」

 

 三河が今頃になって事態に気付く。直下はある程度そんな片鱗が見えていたのでそこまでショックを受けてはいない。三河の反応が逆に面白くて、斑田と根津はくっくっと笑う。

 三河と直下は、2人の反応を見て図星だと察したらしい。三河が箸を手に取りうどんを啜る作業に戻る。

 

「・・・・・・そっかー、2人ともくっついたのか」

 

 三河が感慨深そうにうどんを啜る。直下はカレーを一口食べると斑田に尋ねた。

 

「いつから付き合い始めたの?」

「たぶん最近かな。それより前から、それっぽーい感じだったけど」

 

 答えてから斑田はとんかつを一切れ口に含む。隣に座る根津は、回鍋肉を食べるのに集中している。

 

「いやぁ、赤星さんなら納得というか・・・・・・」

「まあ、それは分かるかも」

 

 カレーの海からじゃがいもを回収し、口に含む直下の言葉を聞いて、三河も頷く。そして油揚げを一齧り。

 

「赤星さん優しいから、織部君はほだされちゃったのかもね」

「・・・・・・それだけじゃないと思うぞ」

「え?」

 

 2人の事情をそれほど深くは知らない三河が推論でものを言うが、そこで根津が水を差した。

 

「ほら・・・・・・知ってるでしょ?赤星が去年の全国大会から、落ち込んでたの」

「ああ・・・・・・うん」

「それで、織部がここに来てから少しの間は大体前みたいな感じで、それで同じクラスの私らもちょっと避けられてたんだよね、赤星から」

「後で、ちょっと周りを信じられなかったって聞いたけど」

 

 斑田が補足すると、三河と直下も思うところがあったのか、箸を止める。スプーンを置く。

 

「・・・・・・それで、何を話していたのかは分からないけど、織部が赤星と話をして、赤星は立ち直れたらしいんだ」

「・・・・・・なるほど、じゃあ・・・」

「その事があって、多分2人はお互いに惹かれ合ったんじゃないかな」

 

 斑田がまとめると、なるほどとばかりに三河と根津は頷いた。

 確かに、最近の小梅は去年の全国大会決勝以前の時に近くなっている。そう感じたのは、やはり織部が来てからだ。

 とすると、根津と斑田の言う事は正しいのだと思う。

 

「・・・・・・先越されたか」

 

 根津が一足先に回鍋肉を食べ終えてボソッと呟く。何について越されたのか、それは聞かなくても分かる。その言葉を聞いて斑田たちは苦笑した。

 彼女たちも高校2年生。そう言う浮いた話については敏感だし興味津々で、自分たちもまたそうなりたいと思うものである。

 

 

 2日後、2回戦第3試合の黒森峰女学園対継続高校の試合は、湿地・平原エリアで行われた。

 1回戦同様、試合に参加しない小梅と根津、そして織部と数名の戦車隊員はまた観戦席で観戦だ。

 試合開始の挨拶の様子がモニターに映し出された時、織部は違和感を覚えた。

 まず、継続高校のメンバーが着ているのがおよそタンクジャケットとは言えないような服だった。着ているのは継続高校の校章がプリントされている水色のジャージだ。

 あれがタンクジャケットなのかと思ったが、横から小梅が説明した。

 

「継続高校は、ちょっと資金に乏しい学校で、タンクジャケットを買うお金も無いらしいんです」

 

 そんな学校もあるのか、と織部は思った。織部の元居た学校は進学校とも呼べる学校で貧乏というイメージはなく、黒森峰は言うに及ばず。

 何かしらの問題を抱えている学校もあるのだな、と織部は思った。

 黒森峰の隊長であるまほと、継続高校の隊長である水色と白のチューリップハットを被った少女が握手をする。

 そして両校ともにスタート地点へと移動する。

 継続高校の戦車のフラッグ車はT-34/85。その隊長はBT-42へと乗り込んだ。

 そして試合開始の号砲が鳴ると、両チームの戦車は動き出す。

 湿地帯を挟むように南北からスタートする黒森峰と継続の戦車隊。高い機動力を誇る継続のBTシリーズはそれぞれ左右に展開し、残りの車輌はフラッグ車を囲むように円形隊形で前進する。

 一方で黒森峰は綺麗なパンツァーカイルを描いて湿地帯へと向かう。この時、1回戦での反省を生かしてフラッグ車のティーガーⅠの前にはヤークトティーガーが先行している。これなら、前方からの攻撃からフラッグ車を守ることができるからだ。

 だが、今現在走行している草原は、湿地に近い事もあり地面はぬかるんでいて、速度があまり上がらない。隊全体の速度は、整地を走っている時よりも低かった。だが、速度を遅い戦車に合わせる事で隊全体のスピードは落ちるが、楔隊形を維持したまま進むことができる。

 少し時間が過ぎると、ヤークトティーガーが継続の戦車隊を捉える。すでに有効射程に入っていたので発砲する。しかし、継続の戦車はひょいっと横に避ける。

 そこで、黒森峰戦車隊の横合い、左右両方から砲撃を受けた。その砲撃の主はBT-5とBT-7だ。

 だが、モニターにBT-5とBT-7のスペックが表示されると、小梅の隣に立つ根津はフンと鼻で笑った。

 

「主砲45mmって、八九式以下か」

 

 八九式、とは大日本帝国軍の戦車だ。だが、中戦車とは名ばかりで貧弱な装甲と火力のせいでしばしば弱いと評価される、もはや軽戦車ぐらいのスペックだ。それは織部も小耳にはさんでいる。

 他の一部の隊員同様、根津も軽戦車を下に見る傾向があるらしい。

 それはさておき、肝心のBT-5とBT-7から砲撃を受けた黒森峰の戦車、主にパンターだが45mmで撃たれた程度ではびくともしない。ただ、鬱陶しかったので砲塔を旋回させてBTシリーズを狙い撃つ。ただし動きがすばしっこく、攻撃が当たらない。

 そして今度は、前方のT-34シリーズとBT-42で構成された主力の戦車隊が攻撃してくる。これにより黒森峰は注意力を二分される事になる。横に展開しているBTシリーズも放っておくと履帯を狙って動きを止めかねないし、ゼロ距離まで接近を許すと45mmと言えどただでは済まないので、無視を決め込む事も難しい。

 前進しながら側面と前方の敵と応戦する状態になっているが、行進間射撃もできないことは無いのでどうにか応戦する。渡河に適した場所を見極めて湿地帯を前進する黒森峰だが、そこに隊長車だがフラッグ車ではないBT-42が突っ込んでくる。

 BT-42をティーガーやパンターが狙うが、BT-42は不規則な動きをして簡単に照準が定まらない。

 

「あのBT-42・・・結構動きがいいですね。去年よりも動きが良くなってる・・・」

 

 織部の隣に立つ小梅が呟く。

 聞けば去年の練習試合には小梅も参加していたという。その時は全く動きの読めない相手だったために、かなり苦戦を強いられたらしいが、その時よりもあのBT-42の動きは良くなっているとの事だ。

 そこで状況が変わる。

隊列の後方にいたパンターの1輌が、横合いから攻撃を仕掛けていたBT-5の履帯と転輪を狙って砲撃し、破壊したのだ。

 BTシリーズはクリスティー式のサスペンションを利用しており、起動輪と接地転輪をチェーンで結ぶことで、履帯無しでも走行する事が可能となるらしい。その速度は、履帯をつけている時―――装軌時よりもはるかに早い、というのが小梅と根津からもたらされた知識だ。

 だが、先のBT-5は接地転輪もやられてしまっているため装輪状態にはできない。だから完全に動きが止まり、そこにとどめとばかりにⅢ号戦車が弾を撃ちこんで撃破した。

 

『継続高校、BT-5走行不能』

 

 まずは1輌継続の車輌が撃破され、観客席からは感嘆の声が上がる。

 だが、今度は継続のⅢ号突撃砲G型が発砲し、エリカのティーガーⅡの横を掠める。実際には、Ⅲ号突撃砲が発砲する直前でティーガーⅡが少し横に逸れて砲弾を避けたのだが、それは果たして予測したのか、はたまた勘なのか定かではない。

 黒森峰と継続の間の距離はどんどん縮まっていく。その間も先頭を行くヤークトティーガーは発砲を続けていたが中々攻撃は当たらない。

 反対に継続の戦車の多くは命中弾とはいかなくとも掠めたり弾かれる事が何度かあるくらいにはよく狙ってきている。

 そこで、隊の中ほどを走行中のパンターの1輌が、BT-42の砲撃を受けて白旗を揚げた。

 

『黒森峰女学園、パンターG型1輌走行不能』

 

 観客がどよめく。1回戦では知波単相手に圧勝した黒森峰の戦車が割とあっさり撃破されたことが、驚きだったらしい。

 さらにBT-42はまほのティーガーⅠに向けて突撃砲の名の通り向かってくる。そこでティーガーⅠのすぐ後ろに控えていたⅢ号戦車がティーガーⅠを守るように横に出てBT-42の進路を妨害する。

 BT-42はすぐに向きを変えて一旦黒森峰戦車隊から離れた。

 BT-42の闖入で黒森峰戦車隊は多少陣形が乱れたが、すぐに持ち直して再び前方のフラッグ車を狙う。

 横合いから撃ってくるBT-7を2輌のパンターが協力して狙う。一方の砲弾は外れたが、もう一方の砲弾は命中して、BT-7は走行不能となった。

 そして前方の主力に目を向ければ、KV-1という重戦車がフラッグ車を守るように走っている。さらに長距離攻撃を可能とするⅢ号突撃砲J型に、攻守優れたT-34シリーズ。

 そこでティーガーⅠとティーガーⅡ、そして先頭のヤークトティーガーが連携攻撃に出た。まず、ティーガーⅠとティーガーⅡがKV-1の左右の足元を狙う。

 足元に着弾したことでKV-1は少し動きが鈍る。そこをヤークトティーガーが狙い撃ち、撃破した。

 フラッグ車を守るように走っていたKV-1が撃破され行動不能となった事により、後ろを走るT-34も停止せざるを得ない。

 そこでBT-42が旋回して再び黒森峰戦車隊を狙ってきたが、そこでヤークトパンターが速度を上げてBT-42に不意打ち気味にぶつかる。

 すると、狙ったのかどうかは定かではないが、BT-42の起動輪の1つが外れて片側の履帯が止まり、割と速度が出ていたBT-42がスピンする。そしてついには横倒しになった。

 起動輪が無ければ履帯を回すことができず、走ることができない。クリスティー式特有の装輪走行も、起動輪が無事でないとできない。というかそもそも、横倒しになった15t以上ある戦車を起こす事などできるはずもない。

 BT-42からシパッと白旗が揚がる。

 

『継続高校、BT-42走行不能』

 

 継続高校の隊長車がやられたことで、観客席からも歓声が上がり、根津も『おっ』と声を上げた。

 敵の頭、隊長車を潰した事で指揮も落ちる。今のはファインプレーと言うべきものだ。

 指示が無くなったことで継続の戦車隊も動きが鈍り、黒森峰戦車隊の肉薄を許してしまう。

 後は、黒森峰戦車隊自慢の火力と装甲で敵を殲滅するだけだ。

 

 

 

『継続高校フラッグ車、走行不能。よって、黒森峰女学園の勝利!』

 

 決着がついたのは、BT-42が撃破されてから少し時間が経ってからだ。

 隊長車がやられたからと言って、あっけなくやられるほど継続高校の一枚岩は脆くなかった。

 黒森峰戦車隊に包囲されても最後の最後まで抵抗し、Ⅲ号戦車を1輌撃破してきた。

 だが、継続のフラッグ車であるT-34/85を撃破したのは、ティーガーⅠとティーガーⅡだった。具体的には、ティーガーⅡがT-34/85の履帯を切り、動けなくなったところを狙ってティーガーⅠがゼロ距離で撃ち抜いた。

 最後の方は混戦になったが、見ごたえのある試合だったようで観客席からは拍手が上がっている。試合を見ていた織部と小梅、根津や他の隊員も拍手を送っていた。

 パンターが2輌やられてしまったので、今回の撤収作業は少し時間がかかるだろう。

 撤収作業を手伝うために、織部たちは観客席から去って行った。

 

「次は準決勝か」

 

 根津が撤収に向かう最中で誰に向けたわけでもないだろうが呟く。根津の言う通り、次は準決勝だ。相手は確か、(セント)グロリアーナ女学院だったか。

 

「次も勝てるかね」

 

 その言葉には、織部も小梅も答えはしなかったが、勝てると2人は思っていた。

 知波単の試合を見ても、先ほどの継続の試合を見ても黒森峰は強いというのは分かるし、練習での洗練された動きだって個々の練度の高さの表れだ。

 その黒森峰が、負けるはずがないと織部も小梅も思っている。

 たとえ相手が強豪であってもだ。




ライラック
科・属名:モクセイ科ハシドイ属
学名:Syringa vulgaris
和名:紫丁香花(ムラサキハシドイ)
別名:リラ、花丁香花(ハナハシドイ)
原産地:ヨーロッパ島南部
花言葉:思い出、友情、謙虚


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土筆(ツクシ)

 黒森峰女学園は、戦車道に力を入れている名門校だ。

 その黒森峰に属する戦車隊のメンバーは、誰もが自分の隊に誇りを持っており、黒森峰学園艦の真面目な気風と相まって、全員が生真面目で勤勉、そして何より忠実だ。

 戦車道に力を入れているからこそ、全ての戦車道を取り入れている学校の戦力や過去の戦績等一通りのデータは揃っているし、情報は逐一更新されていき常に新鮮だ。

 だから、戦車道全国大会の情報だって否が応でも最新のものが入ってくる。

 戦車道連盟が発行している戦車道新聞だって、いつも最新版が隊員たちに提供される。

 

「「「「「「・・・・・・・・・」」」」」」

 

 今日も戦車道で模擬戦を終えて、ミーティングを終えてから帰路に就いた織部と小梅、そして根津たちいつもの4人は、練習で疲れたので夕食は外にしようかという斑田の意見に全員賛成し、ドイツ料理店にいる。

 夜の7時を過ぎたので、水と一杯のノンアルコールビールが6人分用意されて全員の前に置かれる。だが、誰もそのノンアルコールビールにも水にも口を付けない。

 見ているのはテーブルの上に広げられている、正式には昨日発行された戦車道新聞だ。

 その一面の見出しは。

 

『大洗女子学園、奇跡の快進撃!』

 

 1回戦で大洗女子学園が、四強校の一角であるサンダースを破ったのは記憶に新しい。だがその勢いはとどまるところを見せず、続く2回戦のアンツィオ高校との試合でも大洗女子学園は勝利した。

 昨年度までアンツィオ高校は、所有する戦車が快速戦車CV33にM41型セモヴェンテ自走砲とそれほど強くはなく1回戦落ちが続いていた。だが今年は2回戦にまで進出し、2回戦ではアンツィオの秘密兵器・P40型重戦車を投入して大洗との戦いに臨んだ。

 さらに、アンツィオ戦車隊を率いる隊長の安斎千代美は、中学時代はブイブイ言わせていて戦車道界隈でも有名であり、アンツィオにスカウトされて入学した後は衰退していた戦車隊を立て直し、今の規模にまで復活させた。容姿こそふざけているが、安斎千代美はそれだけの実力を持っている。過去に黒森峰はアンツィオと対戦した事があるようで、その時戦いアンツィオに勝ったまほは、『甘く見ない方がいい』と言っていたという。

 サンダースに続き、その安斎千代美率いるアンツィオ戦車隊を大洗女子学園が倒したのは、戦車道の世界に衝撃を走らせた。

 新聞の記事には、この大洗女子学園を率いている隊長の事も記されていた。

 それはすなわち。

 

『初戦で四強校の一角であるサンダースを下し、2回戦ではあの安斎千代美が率いるアンツィオも破った、破竹の勢いで勝ち上がる大洗女子学園を率いている隊長は、西住みほだ』

 

 織部の右隣に座る根津が、新聞の記事を凝視している。

 

『西住みほは、その名の通り西住流の直系に当たる人物である。しかし、昨年の第62回戦車道全国高校生大会では黒森峰女学園に所属し、副隊長として黒森峰戦車隊を率いていた。その彼女がなぜ、黒森峰を離れて大洗にいるのかは定かではないが、その原因の一端にあるのは昨年の全国大会で彼女のとった行動があるとされる』

 

 織部の向かい側に座る直下が、まじまじと記事を読み進めている。

 

『彼女は昨年の決勝で、対戦していたプラウダ高校戦車隊の攻撃を受けた黒森峰の1輌の戦車が川に落ちた際、自ら戦車を降りて救出に向かったが、彼女はフラッグ車の車長だった。その隙を突かれてフラッグ車を撃破された黒森峰は優勝を逃し、前人未到の10連覇の夢を絶たれた。しかし勝利よりも仲間を助けることを選んだ西住みほは、スポーツマンの鑑だと一部の戦車道ファンや専門家は評価している』

 

 織部の左隣に座る小梅が、表情を曇らせる。

 

『とはいえ、西住流は“犠牲無くして大きな勝利は得られない”という考えが根付いているため、この西住みほの行動は黒森峰と西住流からすれば完全なるイレギュラーだとされる。この一件があって西住みほと黒森峰及び西住流と何らかの確執があった事は想像に難くない』

 

 織部の右斜向かいに座る三河がメガネの位置を正す。

 

『恐らくは優勝を逃した直接の原因としての責任を取る形で黒森峰を去り、大洗へと転校した西住みほは、その新しい地で戦車道を再び歩み始めたということだろう。ただ、西住みほが再び戦車道を歩み始めた理由や経緯などについては一切不明であり、それは本人と彼女の周りにいる人物しか知らない事だ』

 

 織部の左斜向かいに座る斑田が、つばを飲み込む音が聞こえた。

 

『とはいえ、20年ぶりに復活して、戦力も十分とは言えない西住みほが大洗女子学園を率いて強豪校を次々倒して準決勝まで進出したことに関しては紛れもない事実だ。これには西住みほの人並み外れた計算力や統率力など、隊長としての資質が揃っているという事が見てとれる。その能力は、他のどの強豪校の隊長にも勝るとも劣らないほどだと、専門家はコメントをしている』

 

 織部は沈痛な面持ちで記事を読み進めていく。

 

『一部の専門家は、他のどの学校の戦車隊隊長に負けずとも劣らずだと評価しており、人材育成能力については他のどの学校の隊長も追随を許さないほど秀でていると高く評価しコメントする専門家も少なからずいる』

 

 テーブルを囲む全員が、記事から目を逸らさず最初から最後までじっくりと読む。

 

『大洗女子学園の準決勝の対戦校は、昨年度の優勝校であるプラウダ高校だ。去年黒森峰に所属していた西住みほからすれば因縁の相手である。強靭・高火力な重戦車を多数有するプラウダ高校に対して、西住みほ率いる大洗は果たしてどんな戦略で戦うのかがとても気になるところであり、その戦いにファンや専門家の期待が膨らんでいる』

 

 最後には、件の大洗女子学園の隊長である西住みほと、次に大洗が戦うプラウダ高校の隊長・カチューシャの写真があった。

 その場で記事を読んでいた全員が、小さく長く息を吐いて、背もたれに身体を預ける。

 長時間集中して記事を読んでいたので、口の中の水分が飛んでしまっていた根津が、水を一口飲んで、呟いた。

 

「まさか・・・・・・西住が率いていたとはね」

「うん・・・名前も知らない学校のはずなのに、やけに強いなあと思ったら・・・」

 

 根津の言葉に応えるのは、水をちびちびと飲む直下。

 

「・・・何で、大洗でまた・・・?戦車道はもうしないって言ってたはずなのに・・・」

「確か隊長もそう言ってた」

 

 斑田は水にもノンアルコールビールにも口を付けないが、反対に三河はぐびぐびと水を一気飲みしてグラスをテーブルに置いた。記事を読むのに集中しすぎて、根津以上に喉が渇いてしまったらしい。

 

「「・・・・・・・・・・・・」」

 

 一方で、小梅と織部はみほが戦車道を続けていて、しかも大洗を率いていたという事を知っていたのであまり驚きはしないが、この4人にそれがバレてしまった事が不安だった。

 みほが黒森峰を去る前、根津と三河はみほの事を同期の誇りだと言っていたし、直下と斑田も同じだったのかもしれない、と小梅は話していた。

 だが、今みほが新たに大洗を率いていると知ったら、この4人はどう思うだろうか。それが怖い。

 

「・・・・・・織部と赤星はあんまり驚いていないとこ見ると、知ってたのか?」

 

 2人の反応の薄さにいち早く気付いたのは根津だ。

 

「・・・・・・西住隊長から聞いていたんだ。抽選会で見たって」

「私はエリカさんから・・・・・・」

 

 申し訳なさそうに織部と小梅が言うが、向かい側の直下が『責めてるわけじゃないよ』と取り繕う。

 

「西住隊長の事だし、混乱を避けるために口外するなとか言ってたんでしょ?」

 

 鋭いことを言う三河。大体その通りだったので織部は頷く。

 

「・・・・・・まあ、先輩方は怒るだろうねぇ」

「現にこの記事見た先輩、ロッカー蹴ってたもんね」

 

 そういう人が出てくるだろうとは、織部も小梅も分かっていた。

 聞けば、そのロッカーを蹴っていた先輩は、みほが学校から糾弾されたのを恨み、黒森峰に復讐するために大洗で戦車隊を率いてきたと言っていたらしい。被害妄想もいいところだが、一応先輩だったので何も言えなかったとのことだ。

 では、今この場にいる織部と小梅以外の4人は、この事をどう思っているのか。

 みほが戦車道を続けていることをどう思っているのか。

 あの全国大会決勝戦でみほのとった行動を、どう思っているのか。

 それは、織部にも小梅にも分からない。

 

「・・・・・・皆さんは・・・どう思っているんですか?」

 

 たまらず小梅は、特定の誰に向けてと言うわけではないが問いかけた。

 その直後、織部と小梅以外の全員の肩から力が抜けたように、嘆息した。

 

「・・・いや、別に西住を責める気はないよ」

「そうね・・・・・・西住さんが黒森峰に復讐するためだとか、そんな私怨で戦車にまた乗るなんてことはしないと思う」

 

 根津が結論を告げ、斑田も補足する。

 直下はうんうんと頷く。

 

「何かもっと、別の理由があるんじゃないかって私は思うな」

「西住さん、そんな恨みとか怒りとかジトっとした感情とは無縁な感じだったしね」

 

 三河の言葉に、確かにと根津たちは頷く。

 小梅も、まだ黒森峰にいた頃のみほの事を思い出す。確かにみほはどこかポヤンとしているところが目立っていたし、戦車に乗っている間も凛々しかったが、怒ったりすることは無かったし、怒鳴り声を上げた事など一度たりとも無い。三河の言っている事は正しいと思う。

 織部はこの4人は、発言からしてみほに対して悪い印象を抱いてはいないのではないか、と思った。

 とすれば、去年の全国大会決勝でのみほの行動についても、それほど怒ってはいないのではないかと考える。

 

「去年の事だって、赤星たちを助けたかったって言ってたぐらいだもんね」

「仲間想いなんだよ、西住さん。そんな人がウチの学校に復讐するためだけにここまで勝ち上がるかな?」

 

 根津と斑田が、去年の決勝戦の事を思い出している。やはりみほの名を聞いて思い出すのは、あの時の事か。

 小梅の顔が少し暗くなってしまうが、それを敏く見た織部は小梅の手を優しく握る。

 そして、小梅の表情の変化に気づいたのは直下も同じだったようだ。

 

「あ、私は別に西住さんを責めてはいないよ。去年の事だって、西住さんの事をある程度知ってたから、まああの場面ならそうするだろうなとは思ってたし」

 

 直下の言葉に、三河と根津、斑田も頷く。

 あの時、黒森峰のフラッグ車が撃破された時の状況は、あの場所にいたエリカが試合後のミーティングで全て話した。そのミーティングに参加していた直下たちも、それによってあの状況を知ることとなった。

 だが、同期の直下たちはみほがどんな人物なのかをおおよそ分かっていたから、みほの行動に関しては責め立てたりはしなかった。さらに言えば、学校中からみほが糾弾されても、根津や直下たちはみほを責めはしなかった。

 それはやはり、みほの性格を知っているから、みほがあの時とった行動についても“みほならそうするだろうな”と思っていたから、ショックでもなかった。

 優勝を逃し、10連覇の夢も断たれたことに関しては、確かに悔しかった。だが、みほの行動と性格に理解を示していたから、怒り狂うということは無く、怒りの矛先をみほに向けるのも違うと分かっていた。みほに対して怒りを覚えていたのは、みほの事をほとんど知らない人間だ。

 つまるところ、みほは同期の一部―――少なくともこの場にいる織部と小梅以外の4人からは、別に恨まれても責められてもいなかったのだ。けれどもみほは、小梅と同じように自分の周りに味方はいないと思い込んでしまい、それが黒森峰から去る原因の一つとも言える。

 

「・・・まあ、エリカさんは絶対キレてるよね」

「・・・・・・うん、怒ってたよ」

 

 三河が苦笑いしながら、質問とも取れないような聞き方で小梅と織部に話しかけると、織部も少し苦笑しながら答えた。具体的に何と言っていたかについては、一応エリカの事を考えておいて言わないでおく。

 

「いやしかし・・・・・・あのおっとりしてる西住に、こんな力があったなんてね」

 

 根津が感慨深そうに、改めて新聞の記事を見る。力と言うのは、やはり無名校を率いて準決勝まで勝ち上がってきた事についてだろう。

 記事によれば、大洗戦車隊のメンバーはほぼ全員が戦車道をするのは今年度に入って初めてだという。だとすれば、大洗で唯一の戦車道経験者であり隊を率いるみほは、その初心者たちを僅か数か月ほどで全国大会で通用するレベルになるまで育て上げた育成能力があるという事になる。

 さらに、サンダースやアンツィオといった全国大会常連校を凌ぎ、さらには練習試合で(セント)グロリアーナをあと一歩のところまで追い詰めるほどの作戦を練る頭脳を持ち、そして(戦車の総数が少ないとはいえ)個々の戦車の性能を把握しそれを十分に生かして運用するほどの指揮能力も併せ持っているという事だ。

 どの試合でも相手や観客の度肝を抜くような展開と作戦を見せ、ある専門家は西住の名を背負っているとは思えない型破りなタイプだと評価していた。

 どれも、黒森峰にいた時には分からなかったみほの力だ。

 黒森峰では、西住流という縛りがあったせいで、その柔軟性に富み臨機応変に対応できる、型破りな力を存分に発揮する事ができなかったのだと、織部と小梅、そしてここにいるごく一部の黒森峰生はそう思える。

 もしかしたら、みほは黒森峰にいるべきではなかったのかもしれない、とさえ今は思えた。

 だが、皆の間に流れる緊張や安堵、様々な思いが混ざった雰囲気は、三河の腹の虫によってかき消された。

 それで全員の緊張が取れて、閑話休題とばかりにメニューを手に取ってそれぞれどの料理を注文するかを決める。

 全員が自分の食べるものを決めて、店員を呼び注文を終えると、小梅がノンアルコールビールを飲む。小梅に限らず、未成年の女子高生がジョッキを傾けてビールのような色の液体を飲むというのは、普通の進学校に通う織部の目にはどうもミスマッチに映ってしまう。

 とはいえ、織部だってここにきて何度かこの黒森峰学園艦で製造されたノンアルコールビールは何度も飲んでいるので、今さらどうこう言えはしない。

 ノンアルコールビールを飲み、少し慣れてしまったほろ苦い味が口の中に広がる。

 そこで、三河が興味ありげに身を乗り出して織部に質問をした。

 

「全然関係の無い話なんだけど・・・」

「ん、どうした三河?」

「気になっていたんだけどさ・・・」

「?」

 

 織部がジョッキをテーブルに置いて三河を見る。三河は、目をキラキラさせて単刀直入にこう聞いた。

 

「織部君と赤星さんって付き合ってるの?」

 

 織部の隣で小梅が『ん゛っ・・・!』と聞いた事も無いような声を上げて咽る。織部はすぐに小梅の背中をさすって呼吸を落ち着かせる。

 小梅があからさまに動揺しているのを見て、三河の隣に座る直下が窘める。

 

「・・・・・・三河さん、直球過ぎるよ」

「他にどう聞けっていうのさ、気になるでしょ」

「そりゃ気になってたけど・・・」

 

 気づけば直下も興味ありげに織部と小梅の事を見てくる。小梅の背中をさすって呼吸を整えている間に織部は根津と斑田を見るが、2人のにやけ顔は『全部知ってるぞ』と語っていた。

 小梅が呼吸を落ち着かせると織部と顔を合わせる。顔には若干の不安が混じっており、その顔は『話しても大丈夫だろうか』と言っているのが分かる。

 話す事で皆との関係が拗れてしまうのではないかと心配しているのかもしれないが、そうはならないのでは?と織部は思っている。

 ここにいる人は織部を含めて、小梅の事を心配してくれていた。そして、今ここにはいないみほの事を性格も含めてちゃんと理解していたから、悪い人ではないというのはもう分かる。

 だから、織部と付き合っているからと言って排除したり拒絶したり、あるいは嫉妬の念に狂うという事も無いはずだと織部は思っている。

 仮にもしそうなったとしたら、織部は全力で小梅を守るつもりでいる所存だ。

 その意思を小梅の手を優しく握る事で示し、そして織部は告げた。

 

「・・・・・・付き合ってる」

 

 言った本人だけれども、織部はすごい恥ずかしい。小梅だって恥ずかしい。そんなわけで2人の顔は少し赤い。

 三河が『ほっ』と声を上げ、直下が『わー』と小さく呟きながら口元を押さえ、根津と斑田は『やっぱり』と言わんばかりに頷く。

 根津と斑田は、それぞれ織部と小梅から悩みの相談を受けていたので、2人がそうなるだろうというのは予想できたし、この前登校した際2人の距離が確実に縮んでいたのを見て、2人は付き合っていると予想が確信に変わった。そして今、本当に付き合っていると織部自身が告げた事で、その確信も間違っていなかったと認識した。

 三河は、根津と斑田の反応が薄い事に気付き問いかけてくる。

 

「あれ、2人は知ってたの?」

「あー、ええとね・・・」

 

 斑田が頬を掻きながら小梅の方を見ると、小梅は意図が掴めずにキョトンとする。一応、小梅から相談を受けた事については誰にも言っていないのだが、小梅と織部の交際が公になった今隠す必要も無いと思い、話すことにした。

 

「・・・赤星さんから、織部君が気になってるって相談を受けてね。それでまあ、多分こうなるんだろうなぁ、とは思ってた」

「え?」

 

 声を上げたのは織部だ。小梅の方を見ると、小梅もそのことを思い出して少し頬を赤くして俯く。

 それはまだ全国大会が始まる前、織部とのちょっとしたすれ違いが起きてしまった時、ドイツ料理店で斑田にそのことに関して相談を持ち掛けた事だ。

 その時の事を思い出して、小梅は縮こまる。

 だが、根津がさらに追い打ちをかけた。

 

「ああ、斑田もか。私もさ、織部から相談されたんだよ。赤星の事が気になってるって」

「え?」

 

 今度は小梅が反応を示し、織部は対照的に顔を押さえる。

 それはまさに、小梅が斑田に相談を持ち掛けた時と同時刻、定食屋で根津に相談したことだ。

 

「でまあ、この前皆で登校する時、なんか2人の距離が縮まってるなぁってことに気付いて、それでくっついたのかと思ってね」

「そうそう、だからそんなに驚かなかったよ」

 

 今この瞬間、織部は小梅が斑田に相談していたことを、小梅は織部が根津に相談を持ち掛けていたことを知った。

 そしてその時から、既に織部と小梅は両想いだったということにも気づき、恥ずかしくなってしまう。

 だって、相手の事が好きになって、そのことで悩み別の誰かに相談していたなんてことを、その相手に知られるというのは相当恥ずかしいからだ。

 

「あ、そうだ気になってたんだけど」

 

 三河が身を乗り出して織部に聞こうとする。

 今は自分の恥ずかしさを処理するだけで精いっぱいだというのに、これ以上何を聞いてくるのかと、織部は恐怖心のような感情に支配されながらも三河を見る。

 

「織部君って、赤星さんのどんなとこが好きなの?」

 

 その手の質問はいずれされると思っていた。

 この質問に関しては三河に限らず、直下や根津、斑田も気になっていたらしい。

 織部と小梅は知らないが、小梅と織部がどうしてくっついたのかを根津たちはあらかた理解している。織部が小梅と話をして、それで小梅が立ち直った事から見当がつく。

 とすれば、小梅が織部を好きになる理由も、真摯な態度と真面目な性格だからだとある程度推測できるが、織部が小梅のどこを好きになったのかは、根津たちは分からない。

 だから根津や斑田も、そこのところは気になっていたのだ。

 

「・・・・・・いや、それは・・・・・・」

 

 だが、当の織部はそれを言うのを憚られてしまう。今自分の隣にその付き合っている人がいるというのに、その人の前でどこが好きなのかを話すのは、結構ハードルが高いものだ。

 できる事なら適当にはぐらかしてこの場を退けたいのだが。

 

「・・・そう言えば、私もそれは聞いていませんでした」

 

 意外や意外、小梅までもが興味を示してきた。

 思い返せば、織部があの時あの花壇で告白した時、小梅が織部のどこを好きなのかをちゃんと言っていたのに対して、織部は半ば小梅に便乗する形で告白した。だから、小梅のどこが好きなのかを、小梅には伝えていなかった。

 小梅の言葉を聞いた事で、『おいおいどういうことだよ』という4人分の視線が織部に殺到する。その上織部のすぐ隣からは『聞きたい』という小梅の真剣な眼差しを向けられて、まさに四面楚歌。

 小梅にちゃんと言っていないことから、変に誤魔化すという事もできなくなり、織部は大人しく、全部白状することにする。

 

「・・・・・・初めて小梅さんと会った時、小梅さんは泣いてたんだ」

 

 泣いていた、と言う言葉を聞いて織部以外の面々が少し落ち込む顔を見せる。泣いていた理由については、心当たりがあったからだ。

 

「・・・それから少しの間小梅さんと話をしたりしても、小梅さんはあまり笑ってはくれなくて・・・笑っても、少し悲しそうな笑顔と言うか、そんな感じの顔をしていて」

「・・・・・・」

「でも、初めて小梅さんが、本当に心から笑ってくれた時・・・。小梅さんって、すごく可愛らしく笑うんだ、って思ったんだ」

 

 その時の事を思い出して、少し笑う織部。小梅も、『可愛らしく笑う』と言われて少し恥ずかしくなる。

 一方で、言い出しっぺの三河は『それでそれで?』と好奇心を隠さずに続きを促す。

 

「それに、小梅さんは強い信念を持ってる。黒森峰で、独りぼっちに近い状況にあっても、決してその信念だけは曲げずに、それだけは見失わずに今まで懸命に黒森峰で生きてきて、今は戦車に乗ってる」

 

 その信念―――西住みほの行動は、みほの戦車道は間違ってはいないということを証明するという信念は、言わない。その信念は、例え小梅の理解者で、小梅の恋人であっても、本人以外の誰かがおいそれと他人に言ってはならない事だ。

 

「それに・・・・・・責められた僕を庇ってくれるぐらい優しい」

 

 それはエリカに詰問され、責められた時の事。その翌日で責めた事について、エリカは自分が間違っていたと謝ってきたが、あの時小梅が織部の事を庇ってくれたのに変わりは無い。

 織部が真摯に向き合っていたから、小梅は織部の真面目さ、誠実さを理解して、臆さずエリカに面と向かって意見することができた。

 

「・・・強く優しい心と、優しい笑顔・・・僕はそんな小梅さんのことが好きだ」

 

 力強く、真っ直ぐな瞳をして告げた織部の言葉。

 初めて聞いた自分を好きな理由。それを聞いた小梅は胸を打たれ、織部と繋いでいる手を強く握る。そして、それだけにとどまらず身体をずらして織部と肩をくっつけてきた。

 それは自分の事を好きになってくれたことが嬉しい故の、気持ちの表し方の1つだ。

 一方、理由を聞き届けた三河を含め4人は、少し恥ずかしそうに顔を逸らす。

 三河も、当初からかうつもりで織部に聞いたのだが、思いのほか割と真剣に語られてしまったのでどう反応を返していいのか困った。

 ただ、惚気とも違う恋の話をされた事で少し顔が熱くなり、ノンアルコールビールを飲んで気を紛らわせようとする。

 根津、斑田、直下の3人も三河と同じように、恥ずかしさをノンアルコールビールのほろ苦さで消そうとし、グイッとジョッキを傾ける。

 けれどどこか、そのノンアルコールビールは少し甘かった気がした。

 

 

 黒森峰女学園の準決勝の相手は、聖グロリアーナ女学院。黒森峰、サンダース、プラウダと並ぶ四強校の一角。また、準優勝の経験もある強豪だ。

 イギリスと提携している故か所有する戦車は全てイギリスのもので、主力戦車は装甲の厚いマチルダⅡ、機動力の高いクルセイダー、そしてフラッグ車は攻守ともに優れたチャーチルだ。

 加えて、準決勝のレギュレーションは15輌に増えた。使用できる戦車の台数が増えるとなると、取れる戦略の幅も広がるという事だ。

 今度の相手は、知波単はともかく継続のように“ちょっと手こずる”程度の強さではないだろう。

 過去の資料から見ても、準決勝にはほぼ毎年進出しており、それが他の学校の追随を許さないほどの実力の証明となっている。

 聖グロリアーナの強さは隊長のまほも認めているようで、作戦会議では隊員たちに対して『これまで以上に気を引き締めて、緊張感をもって試合に臨むように』と告げた。

 レギュレーションが変わった事で、黒森峰も戦車の台数を増やした。具体的には、パンターとⅢ号戦車を1輌増やし、さらに新たにⅣ号駆逐戦車―――ラングを2輌、そして重駆逐戦車エレファントを1輌参戦させて、フルの15輌で試合に挑むこととなった。

 この新たに追加されたパンターは、小梅の車輌ではなかった。やはりまだ、小梅の車輌は全国大会に安心して出せるほど実力がついていないという事なのだろうか。

 真意を確かめる術はないが、当の小梅はへこたれることはなく、隊内での訓練に励んだ。試合に選ばれなかったのならば、練習で試合に出る皆の実力がつくように、精いっぱいサポートをするだけだ。選ばれなかったことに拘って先へ進めないようでは意味がない。

 今は耐え忍び、黒森峰が勝つことを願うほかない。

 

 

 迎えた聖グロリアーナとの準決勝。

 試合を行うのはだだっ広い荒野。草花も生えず、枯れ木が数本生えているだけ。おまけに天気は曇りと、1回戦よりも暗然たる空気に試合会場は包まれていた。

 それのせいか、観戦客たちも騒ぎ立てることなく静かに試合開始の合図を待つ。

 既に隊長同士の挨拶は終わり、両校ともにスタート地点へと移動している。

 黒森峰の隊長のまほと、聖グロリアーナの隊長の金髪の少女はどうやら顔見知りのようで、試合開始前の挨拶でも一言二言言葉を交わしていた。何を言っていたのかは観客席に立つ織部たちには聞こえなかったが、少なくとも挑発し合っているような感じではなかった。

 お互いに試合開始地点へと移動して、それから少し時間が経ってから試合が開始する。

 広い荒野を挟み、黒森峰は窪地から、聖グロリアーナは小高い丘からスタートする。

 聖グロリアーナの戦車は不整地に適した走破能力を有しており、不整地でも整地とほぼ変わらない速度を持って走行することができる。その点を踏まえると、黒森峰が少々速さで後れを取ってしまう事になる。

 ただ、黒森峰にはラング、ヤークトパンター、ヤークトティーガーと長射程、高貫徹力の戦車がいる。反対に聖グロリアーナの戦車の射程はさほど長くはない。つまり、黒森峰は聖グロリアーナの射程外から戦車を狙い撃つことができるのだ。

 とはいえ、彼我の距離が開けば開くほど、命中する確率は下がるし、当たっても決定打とはなり得ない。なので、あまり有効射程外から攻撃するのは望ましくはないのだ。

 モニターの向こうに映る黒森峰は、聖グロリアーナの進んでいる場所を予測し、そこを目指して最短ルートで向かっている。やはり、得意の電撃戦を仕掛けるつもりだ。

 モニターが俯瞰図に変わり、距離は離れているものの両者が一直線上に向かい合うようになったのが分かる。それでも両者は前進を続ける。お互いに、肉眼で見える距離にまで詰めてから砲撃を始めるのだろう。

 黒森峰が最短ルートを通った事で、恐らくだが聖グロリアーナの予想する接敵時間よりも早く戦闘が始まるだろう。そうなれば、奇襲とまではいかずとも先手を打つことができる。

 そして黒森峰戦車隊の先頭を行くヤークトティーガーが、聖グロリアーナの戦車が有効射程より少し外側の地点に到達すると発砲した。聖グロリアーナのマチルダⅡはこれを回避する。

 

「あれは牽制だな」

「多分、そうですね」

 

 モニターを見る根津と小梅が呟く。

 ヤークトティーガーも、有効射程ギリギリにいるマチルダⅡの撃破を狙ってはいなかったのだろう。根津の言う通りあれは恐らく牽制で、あわよくば撃破したい、と言う心積もりのはずだ。

 牽制をしたのには理由がある。相手の戦車の近くに着弾させることで相手を怯ませ動きを鈍らせる。また、砲弾の届く距離に敵戦車がいると思い込ませて『狙おうと思えばいつでも狙える』と言う事を相手に示している。強豪校の聖グロリアーナがその程度の脅し、というよりも警告に屈するようなやわな精神で戦いに挑んでいるとは考えにくいが、少なくとも相手の陣形の妨害にはなるし、大なり小なりの恐怖心を植え付ける事だって可能だ。

 さて、聖グロリアーナ戦車隊は浸透強襲戦術―――敵の攻撃を厚い装甲で受け流しつつ前進し、敵をじわじわと侵攻するスタイルをとる。黒森峰と似ているが、黒森峰が“素早く”動くのに対し、聖グロリアーナは“ゆっくり”と動く。これが明確な2校の差だ。

 聖グロリアーナはこれまでの試合では、フラッグ車を精鋭で護衛し、残りの車輌で攻めていく戦術を取っているのだが、今回は少し違った。

 

「総当たり・・・?」

「聖グロリアーナにしては珍しいですね」

 

 黒森峰とは若干異なるが、V字型の陣形を形成して、黒森峰戦車隊に突っ込んでくる。もちろん、フラッグ車はすぐにやられないように陣形の後ろ中央に位置している。

 そのV字陣形の先頭を行くのは足の速い巡航戦車・クルセイダーだ。その後方にチャーチルが控えているので、まずはその戦車を撃破しようとヤークトティーガーが発砲する。既に聖グロリアーナの戦車隊はヤークトティーガーの有効射程に入っている。ティーガーやラングの有効射程にはまだ入っていないので、少しの間はヤークトティーガーが聖グロリアーナ戦車隊と応戦する事になる。

 だが聖グロリアーナ戦車隊もただではやられず、ヤークトティーガーの砲弾を避けていく。やがて致命傷にならないと分かっていても、後ろのティーガーやパンターが砲撃を始める。

 そしてついに、両戦車隊が激突した。

 

 

 その後の試合は、混戦と表現するに相応しいものとなった。

 すばしっこいクルセイダーは黒森峰の陣形を崩そうと戦車に体当たりをかまして来た。

一方で黒森峰のパンターとⅢ号戦車は、クルセイダーとマチルダの侵攻を阻止しようと、時には砲撃し時には前進して戦車をぶつけて、聖グロリアーナの戦車の動きを妨害して、撃破した。

 終盤近くになると、隙を見て1輌のマチルダⅡがエレファントの後ろに回り込み、装甲の薄い箇所をゼロ距離で狙撃して撃破した(このマチルダⅡは近くにいたパンターによって撃破された)。エレファントのような重駆逐戦車がやられた時には、織部はもちろん小梅も根津も少し驚いたように目を見開いた。

 終いには、聖グロリアーナのクルセイダーの中でもものすごくよく動くクルセイダーが真正面から突っ込み、両校のフラッグ車であるティーガーⅠとチャーチルの間に道を作って、ほんのわずかな時間だけの1対1の状況を作り上げた。

 その1対1の状況で、どちらの戦車もほぼ同じタイミングで発砲する。

 結果は。

 

『試合終了、黒森峰女学園の勝利!』

 

 モニターに映されているのは、白旗を揚げて黒煙が上がっている、聖グロリアーナのフラッグ車・チャーチル。僅差で、黒森峰が勝ったのだ。チャーチルの砲弾は、ティーガーⅠのウィークポイントから少しズレたところに撃ち込まれていて決定打とはならなかった。

 観客席から拍手が上がり、織部たちも同様に拍手をする。

 そして、両校の選手が挨拶をしたところで、また拍手喝采。それが終わると撤収作業に入るので、織部たちもそこを離れることにした。

 撤収作業に向かう道すがら、根津が話しかけてきた。

 

「やっぱり、流石聖グロって感じだな。ウチの戦車が7割近くやられるなんて」

 

 確かに、1回戦や2回戦とは違い、この準決勝で黒森峰の戦車は多くが撃破された。パンターが4輌にⅢ号戦車が2輌、さらにエレファントとヤークトパンターが1輌ずつ。中でも一番ショックなのはエレファントがやられた事だ。

 もっと言えば、倒されたⅢ号戦車には三河が、ヤークトパンターには直下が乗っている。相手が強豪校とは言え、ここまで損害を受けては評価が見直されてしまうかもしれないだろう。下手すれば決勝戦には出られないかもしれない。

 けれど、斑田のパンターはやられはせず、むしろクルセイダーを1輌撃破する戦果を挙げた。それに三河と直下だって、それぞれクルセイダーとマチルダⅡを1輌ずつ撃破している。その功績は認められるはずだ。

 

「でも、聖グロリアーナがあんなに総当たり戦を仕掛けてくるとは少し驚きました」

「それは言えてる。去年とは全然違ったからな」

 

 小梅も言ったように、少数精鋭でフラッグ車を護衛する事無く聖グロリアーナは全車輌で黒森峰の戦車とぶつかった。過去とは違う戦い方に、驚いたのは織部たちだけではなく、去年も聖グロリアーナの試合を見て、あるいは実際に戦ったであろうまほも同感だろう。

 とりあえず、積もる話は後にして、試合に参加しなかった戦車隊の面々は撤収作業を手伝うために、合流地点へと足早に向かった。

 

 

 翌日からの訓練は、走行・砲撃訓練と小規模な模擬戦と、比較的軽めになった。

 と言うのも、聖グロリアーナ戦でかなり戦車を消耗し、稼働できる戦車の数が少ないのと、隊長であるまほが不在であるからだ。

 昨日の試合の後にミーティングを行ったのだが、まほは師範・西住しほに呼び出されて急遽熊本の本家に戻ったのだ。

 なぜ全国大会という気の抜けない時期にまほをわざわざ呼び戻すのか、それは副隊長のエリカでさえも知らされていない。まほに近しいエリカでも知らないのだから、ただの一隊員の皆も分かるはずがない。

 ともかく、まほが不在の間は副隊長のエリカが指揮を執ることとなった。だが、隊員たちの疲労と戦車の稼働状態を鑑みて、予め訓練のメニューはまほによって指定されている。まほも、戻るのは恐らく大洗女子学園とプラウダ高校の準決勝の後になると言っていたので、帰ってくるのは早くても4日後だ。その後は、また大会期間中の特別訓練に戻る。

 その間、副隊長のエリカが隊長代理として指揮を執るのだが、何を思ったのか小梅と織部を補佐に回してきたのだ。正確に言うと、小梅は訓練で副隊長として隊全体に指示を出し、織部は雑用を任された。やれ書類をもってこいだの、やれ戦車の修繕状況を確認しろだのと容赦なく織部をこき使い、片時も心が落ち着かない。

 ただ、指示に従い行動を終えるとエリカは必ず、『ありがと・・・』とだけ言ってくれる。これで労いの言葉の1つも無かったら流石にムッとするが、その言葉を聞けただけで悪い気も起らない。

 それはさておき、自分と同じ高校2年生の女子が、高校生には不釣り合いな椅子に座り、机の上に資料を広げて一心不乱に読みふけっている。まだ決勝戦の相手も決まっておらず、使用する戦車も具体的には決まってはいないのだが、それも分かっているだろうにエリカは決勝戦の作戦を考えているようだ。

 

「・・・随分、熱心に資料を見返していますね」

 

 何の気なしに織部が言うと、エリカは戦車のスペック表を読みながら言う。

 

「隊長がいないからってうかうかしてられないわ。少しでも決勝戦で勝てるように作戦を練って、戦車を万全な状態に戻してすぐにでも練習できるようにして、今年こそ優勝できるようにしたいのよ」

 

 そこで、持っていた資料を机に置き、少し寂しそうにエリカが呟く。

 

「・・・もう、隊長は来年には卒業しちゃうんだから」

 

 その言葉に、織部のハッとする。

 忘れがちだが、まほは織部と同じく高校生で、一つ年上で高校3年生だ。とすると、留年でもしない限り今年はまほにとって最後の全国大会となる。

 その最後を優勝で飾りたい、まほに有終の美を飾らせたいとエリカは心から願っている。そう思うと、エリカはまほの事をとても尊敬し、敬愛しているのが分かる。

 そこで小梅が、いつの間にか淹れた緑茶の入った湯呑をエリカの手元に置く。エリカは『どうも』と一言だけお礼を言ってお茶を啜る。

 一方で織部は、エリカの様子をじっと見ていた。

エリカは、副隊長と言う立場もあるがまほの最後の大会で優勝を届けたいと思う心を持っている。そして今目の前で、恐らくは一般人からすれば全く何のことかさっぱり分からない資料を読みふけって頭をフル回転させて作戦を練っているその姿は、織部や小梅と同じ高校2年生には見えない。

 総じて、織部の目にはエリカがすごい人物に見える。

 

「・・・逸見さんってすごい人なんですね」

「はぁ!?」

 

 思わず口に出してしまった。それは当然エリカの耳にも届き、動揺したエリカは書類を手元から落としてしまう。

 

「な、なに言ってんのよ急に・・・」

「あ、すみません。ただ、今こうして作戦を考えているところとか、西住隊長に有終の美を飾らせたいと思うところとか、僕みたいな普通の高校生とは違ってすごいなぁと」

「・・・そうですね。普段のエリカさん見てると、本当に私と同じ高校2年生なのかな、って思う事が何度かありますよ。それだけ、エリカさんがすごいって思います」

 

 小梅も織部に同調して、恐らくは普段から思っていたであろう心中を吐露する。

 それを聞いてエリカは。

 

「べ、別に褒めても何も出ないわよ!」

 

 と言いつつ、恥ずかしいのか嬉しいのか少し顔を赤くして、文字を書くペンは先ほどよりも格段に速くなっている。

 さては照れ隠しだろうか、だとすると可愛いものだ。普段から気丈に振る舞い自分にも相手にも厳しいエリカの知られざる一面を見て、織部も小梅も内心ではほっこりする。

 

 

 その後は特に何事もなく訓練と補佐の仕事が終了し、家路につく織部と小梅、そしてエリカ。ただ、エリカは先ほどのやり取りが恥ずかしかったのか、先にそそくさと帰ってしまった。

 そして途中までは織部と小梅の2人で帰り、いつもの交差点で別れ、織部は自分の部屋にたどり着く。

 荷物を置き、制服から部屋着に着替えていざ夕食の準備を、としたところで鞄の中の携帯が電話の着信を告げた。

 おそらくは親だろうな、と思いながら画面を開くと。

 

『着信:西住まほ』

 

 まず織部は、特例として黒森峰戦車隊に入った際にまほの事を聞いている。そして、最初にまほと話をした際に、もしものためと、何かの縁と言う事で連絡先を交換した。それ以来、電話はおろかメールすらもしてこなかったのに、唐突にそのまほから電話がかかってくるとは思わなかった。

 加えてまほは今、西住流の本家、つまりまほの実家に戻っているはずだ。その実家から電話してくるとは何事だろうか。戦車道の話なら副隊長のエリカに電話すればいいのに―――

 予想外の人物からの着信に不意を突かれて、少し動揺するがすぐに我に返って電話に出る。

 

「はい、もしもし。織部です」

『織部か?すまない、こんな時間に』

「いえ、大丈夫です」

『今時間は大丈夫か?』

 

 本音を言わせてもらえば、夕食前なので少しお腹が空いていて、せめて夕食の後にしてほしかった。だが、いきなりのまほからの電話となれば普通ではないと察したのでそれは後回しにする。

 

「問題ないですよ。それで、何か?」

『・・・・・・単刀直入に言うが、冷静に聞いてほしい』

 

 わずかに間を開けて、まほが電話越しでもわかるぐらい真剣なトーンで言葉を発する。その口調と来たら、普段織部と話すときのようではなく、さながら戦車に乗っている時と同じぐらい真剣味を帯びていた。

 

「・・・・・・はい」

『・・・いいか』

 

 そのまほの尋常ではない真剣さから、何か重大なことを言われると瞬時に理解した織部は、身構えてまほから告げられる言葉を待つ。

 そして、少し時間を置いてまほが、告げた。

 

 

『みほが、勘当される』

 

 




ツクシ
科・属名:トクサ科トクサ属
学名:Equisetum arvense
和名:杉菜(スギナ)
別名:地獄草(ジゴクソウ)
原産地:北半球暖温帯地域
花言葉:驚き、意外、向上心


(もっとらぶらぶ作戦の話とは言え)
みほは誕生日に黒森峰の皆からビデオレターを貰うあたり、
そこまで黒森峰から嫌われていないんじゃないのかな、と思っています。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。
そして誤字報告をしてくださった方々、本当にありがとうございます。


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衝羽根朝顔(ペチュニア)

 制服に着替えて、鞄を肩に提げ、ドアを開ける前に一度ストップして玄関の壁にかけてある鏡の前で自分の姿を見る。顔に目ヤニやよだれの跡と言った汚れはない、制服も綺麗だ。少し跳ねている後ろ髪はくせ毛で、学校もそれは分かっている。だから頭髪検査では引っかからない。

 見た目に問題が無いのを確認し、玄関のドアを開ける。外に出れば、潮の匂いが少し混じった風を感じられる。朝日と共にこの潮風を浴びると『朝が来たんだなぁ』と実感がわく。

 そして自分の部屋の左隣を見れば、ここ数カ月で随分と親しくなった、黒森峰には本来いないはずの男子だ。

 

「や、織部」

 

 去年の全国大会決勝戦以来ふさぎ込んでしまった赤星を励まし、立ち直らせて、あまつさえ小梅と付き合うようになった。日本戦車道連盟に就く事を夢見ていて、そこと繋がりがあって黒森峰に半年の留学が許可された、実に不思議な経歴の男だ。西住隊長とは違う意味で、こいつは本当に自分と同じ高校生なのかと疑問に思う事が多々ある。

 だが経歴が不思議でも、ごく普通の顔立ちに、性格は至って真面目で優しく、ここが黒森峰と言う女子校でなければ目立ちもしないような人物だ。

 

「・・・おはよう、根津さん」

 

 だが、そんな織部の挨拶が少し落ち込んでいるように聞こえたのは、私の気のせいだろうか?

 ともあれ、その小さな引っ掛かりは深く考えずに並んで学校へと向かう。織部がここにきて数日の間は随分と珍しいものだと思ったが、今となってはほとんど毎日一緒に登校している。

 

「今日確か、体育バレーだっけ?」

「・・・・・・」

 

 いつものメンバーである赤星、斑田と待ち合わせる交差点まで無言で2人きりで歩くというのも気まずいので、適当に話題を探して話しかける。

 ところが、織部からの反応がない。試しに、1度名を呼ぶ。

 

「織部?」

「・・・・・・あ、ゴメン。何?」

「いや、今日バレーの授業があるって」

「あ、ああ。そうそう、そうだね。まあ、運動音痴なりに頑張るよ」

 

 なんだ、この違和感は。

 先ほどの私の言葉には一切反応を示さず、もう1度名を呼んでも反応が遅れている。2カ月以上織部と接してきて、少なくとも織部は人の話はちゃんと聞くし、呼びかけにも応じるという事は既に分かっている。

その織部が無反応、あるいは薄い反応を示すというのは少し考えられない。

 織部の様子が変わったのに気づいているが、その原因が分からないまま、私と織部は既に赤星と斑田が待っている交差点へと向かった。

 

 

 

「・・・・・・勘当?」

『・・・ああ』

 

 携帯の向こう側から告げられた不穏な単語に、織部は思わず聞き返す。まほは、実に苦しそうな口調で答えた。

 織部は馬鹿ではない。進学校に通っているうえに黒森峰に来るために成績を上位にまで自力で上り詰めたのだから、勉強だってそれなりにできる。

 だから、今この場でまほが言った“勘当”とはどういう意味なのかも、知っている。

 

「・・・・・・それは、親子とか師弟の縁を切るという意味の勘当で?」

『その通りだ』

 

 だが信じられないので、念のためにまほに聞き返す。まほは、先ほどと変わらぬトーンで答えた。

 

「・・・つまり、みほさんは西住“流”の人間じゃなくなる、と言う事ですか?」

『いや、西住“家”の人間ではなくなる』

 

 師弟関係が解消されるのなら、こう言っては何だがまだマシだ。まだ西住家の人間として、過ごすことができるのだから。

 だが、親子の縁を切られるとなればそれは耐え難いものだろう。悪い言い方をすれば、みほは西住家とは無縁の存在となり、身寄りが1人もいなくなる。

 

「・・・・・・どうしてそんな事に・・・?」

『・・・みほが全国大会に出場していることが、お母様にバレた』

 

 そこで、織部の肩がピクッと震える。

 

『・・・・・・みほの転校先の大洗が高校戦車道連盟に加入すれば、その話は当然高校戦車道連盟理事長のお母様にも届く。恐らくだが、この時点でお母様はみほの事を疑い始めた』

「・・・・・・・・・・・・」

『だがお母様も、最初はみほを信じていたんだろう。「もう戦車道はできない」と言っていたみほの言葉を信じて送り出し、転校先に戦車道のカリキュラムが無いのを知っていて、たとえ戦車道を始めたとしても戦車道はやらないと、お母様は信じていた』

 

 親が子を想い、信じる気持ちは分かる。織部自身は親でもないけれど、織部の親がある時『親は子供を信じるものだ』と言っていた。

 

『全国大会に大洗が出場すると聞いた時も、深く疑いはしなかった。だが、お母様は気付いてしまったんだ』

「?」

『2回戦の後に発行された戦車道新聞だ』

 

 

 

 体育の時間は嫌いではない。

 身体を動かすと気分がすっきりする気がするから体育は好きだし、今の体育の科目であるバレーボールも中学の頃は好きだったので文句はない。

 中学では、そんな自覚はなかったけれどクラスでは結構上手かったらしくて、周りからは褒めちぎられたものだ。

 ともかく、得意なバレーボールなので気を引き締めていこうと思っていたが、ゲームが始まった直後、ぼんやりとしている同じチームの織部君の姿を認めた。

 そしてその真正面、反対側のコートにはサーブを打つ準備をしている敵チームのメンバーが。

 

「織部君、前!」

「・・・・・・・・・え?」

 

 私が注意しても時すでに遅し。相手チームのサーブは、織部君の顔面にクリティカルヒットした。

 『うっ』といううめき声と共に、体育館の床に倒れこむ織部君。私はすぐさま織部君に駆け寄り、上半身を起こして支えるが、鼻血は出ていないし目にけがも負っていないように見える。ひとまずは安心だ。

 

「ごめん、斑田さん」

「謝らないでいいよ。それより、どうしたの?」

 

 織部君が気弱そうに謝るが、別に謝られるような事をした覚えはない。むしろ織部君の方が気になった。相手チームのサーブに一切反応を示さず、私の注意の声を聞いてもすぐに反応しない。

 

「・・・・・・何でもないよ、ちょっと考え事してたんだ」

「・・・今はゲームに集中した方がいいよ。あんまり気を抜くと、本当にケガするから」

「うん、そうする。ごめんね」

 

 あの織部君が、授業中に別の事を考えるとはずいぶんと珍しい事だ。

 授業中でも指されたらすぐに立ち上がって答えをすらすらと述べ(ただしドイツ語に難あり)、体育の授業でも別にサボったりはせず集中しているし(体力はともかくとして)、戦車道だって試合の審判を頑張り整備も手伝う織部君が、授業中に別の考え事をして、挙句自分が被害を被るとは。

 赤星さんと付き合い始めて浮かれたのかと思ったけれど、そうは思えない。2人が付き合い始めてから少し経つけれど、これまでそんな弛んでいるような事は無かった。

 もっと何か別の理由があるのではないかと思ったけれど、私にはその“別の理由”が全く想像もできない。

 

 

 戦車道新聞、と言われて織部は思い出す。確かに、この前発行された戦車道新聞の見出しには『大洗女子学園、奇跡の快進撃!』と書かれていた。そして記事には、その大洗女子学園を率いる隊長の記事も―――

 

「・・・・・・あ」

『・・・君も読んだだろうが、あの記事にはみほの写真が載っていたし、今大洗を率いているのはみほだとも記されている。そして去年の決勝戦の事も、書かれていた』

「・・・・・・・・・」

『お母様は戦車道にまつわる資料は全て読む。その戦車道新聞にだって目を通していた。それで・・・・・・気付かれた』

 

 悔しそうな、辛そうなまほの顔が、電話越しでも目に浮かぶ。

 どうして今までしほに言わなかったのか、それは聞かなくても分かる。まほほど聡い人物であれば、みほが戦車道をまだ続けているとしほに知られればどうなるかなどすぐに想像できる。離れていてもみほの事を想うほど妹想いなまほは、“そうなる”のは望むところではない。

 みほが悪い立場に立たされないように、みほの事はしほに言わないでおいた。強いて言えば、ずっと隠してきた。

 だが隠しきれず、みほの事はしほに全てバレてしまった。

 

「・・・・・・・・・隊長は、大丈夫なんですか」

『・・・私は特に咎められなかった。だがみほは・・・黒森峰で優勝を逃して西住流の名に泥を塗り、お母様の信頼を裏切って大洗で再び戦車道を始めたとして・・・・・・』

 

 

 

 現文、ドイツ語、公民、物理と4連眠くなる授業を切り抜けて、迎えた昼休み。昼食の時間は、授業の時間のようにいつ指されるのかと緊張感をもって過ごすのではなく、気兼ねなくゆったりとリラックスして過ごすことができるので、この時間が一番落ち着く。

 隣のクラスの直下と合流し、さらに別のクラスの根津と斑田、そして赤星さんと織部君と合流して食堂に向かう。ちなみに、赤星さんと織部君を呼び捨てにしないのは、別に距離を置いているからとかそう言うわけではない。どうにも、呼び捨てで話せないような雰囲気がするのだ。根津は2人の事も呼び捨てにしているけれど。

 ともあれ、いつものメンバーで食堂へと向かい、各々好きなメニューを頼んで席に着く。

 だが、今日はいつもとは少し違う気がした。

 今この場にいる私を含む6人の食事の量は、根津はがっつり、赤星さんと斑田は若干少なめ、織部君と私は普通といった具合だ。

 根津は大盛りのラーメンとチャーハンを食べているし、赤星さんと斑田は生姜焼き定食のごはん少な目。私は普通のきつねうどん。

 ところが織部君に至っては違った。

 

「・・・・・・それだけでいいの?」

 

 思わず私が問いかけるが、織部君は『ちょっと食欲無くてね・・・』としか答えずそそくさと食事を始める。

 だが、不審に思っていたのは私だけではないらしく、直下、根津、斑田、そして赤星さんも織部君のトレーの上の料理(?)を見て、言葉を失っている。

 まずは白米とみそ汁、これは別に問題はない。

だが、後に載っているのは納豆とほうれん草のおひたし。以上。

 誰がどう見たって育ち盛りの男子高校生にしては少なすぎると思うだろう。

 いつもなら織部君は、普通の定食ぐらいなら問題なく食べてしまうのに、なぜ今日に限ってこんな少量なのだろうか。今日だけ気分が悪い、食欲がないと言えばそれまでなのだが、織部君がここに来てからこんなことは初めてだったので、少し信じられない。

 ダイエット、減量と言う可能性は真っ先に排除する。見るからに織部君は太っていないし、むしろ痩せている気がする。その上織部君は体力がないと自負しているから、なおさら食べなければ駄目だろうに。

 うどんを啜るが、織部君の食事が気になってあまり味に集中できない。他の皆も同じようで、それぞれ自分の頼んだものを食べながら織部君の様子をちらちらと窺っている。

 いつも通りのメンバーで、いつも通りの場所で昼ご飯を食べているはずなのに、痛烈な違和感があった。

 

 

 

『次の準決勝でみほが勝てば、勘当は見送られる。だが、負けてしまうと間違いなく勘当されるだろう』

「・・・・・・でも、大洗の準決勝の相手は・・・」

『ああ、昨年優勝したプラウダ高校だ。その上レギュレーションも変わったから、プラウダはまず間違いなく15輌で挑む。大洗はその半分以下だし、性能も劣る。勝つ可能性は、限りなくゼロに近い』

 

 まほから事実を淡々と告げられて、織部の気分もずんずん沈んでいく。もはや、みほの勘当は避けられないだろう。

 だが、それでも気になる事はある。

 

「・・・勝てば、勘当が見送られるというのは、どうしてですか」

 

 しほからすれば、みほは西住の名を背負いながらもその教えとは全く違う戦い方をする、邪道のような存在。その邪道と取れる戦い方を世間に知らしめてしまい西住流について間違った認識を広めている状態にある。

 それでもまだ、勘当を見送る可能性があるのはどうしてだろうか。やはり親としての情なのか、それとももっと別の理由なのか。

 

『・・・おそらくだが、お母様はみほに期待をしている』

「え?」

 

 期待、と言う言葉を聞いて織部も少し呆ける。勘当するつもりでいながら、みほに期待をしているというのはどういうことか。矛盾しているようにしか聞こえない。

 

『・・・みほが西住流本来とはまるで違う戦い方をしているとはいえ、サンダースやアンツィオと言った強豪を破ったのは紛れもない事実だ』

「・・・・・・・・・」

『もしかしたらお母様は、みほの中に可能性を見出しているのかもしれない』

「可能性・・・?」

『西住流の人間でありながら、臨機応変に事に対応して作戦を遂行し、勝利を勝ちとる。それもまた、西住流の戦車道の、1つの道と言えるかもしれない』

「・・・・・・・・・」

『私が言うのもなんだが、西住流本来の戦い方は“高い火力と厚い装甲をもってして、何があろうとも前に進み続ける”流派。だがそれは言い方を変えれば、力任せにごり押して敵を倒す直線的な戦い方だ。無論、作戦はまた別に用意するがそれらは全て西住流の基本のスタンスに則ったもの。だから、あまり回りくどい手は使わないし、逆に搦手に弱いところもある』

 

 まほは西住流の後継者筆頭として、日々精進している。だからこそ、西住流の、黒森峰の戦い方を熟知しているし、そしてその欠点、デメリットをも把握している。

 だから先ほどのような事が言えるのだ。

 

『その西住流の教えを受けているみほが、柔軟な発想と臨機応変な対応を可能として、強豪校を2校も破った』

「・・・・・・・・・・・・」

『だとすれば、西住流の戦い方の欠点を補うような力を持っているみほに、お母様は可能性を見出しているのかもしれない、と私は思う。あくまで私の推測だが』

 

 

 

 聖グロリアーナ戦で損傷した愛機・ヤークトパンターが戻ってきて、私は少しホッとした。

 西住隊長がいない、まだ修理が終わっていない車輌がある、そして聖グロリアーナという強敵との試合で皆疲れてしまっている、という3つの理由から、今日の訓練は整備だけだ。ここ最近は模擬戦やらなんやらで疲れるし帰る時間も遅くなってしまうので、嬉しい事だ。

 さて。ヤークトパンターは、私が戦車隊に正式に入隊してから乗ってきたので愛着がある。履帯が切れやすくて、しかも重くて少し参ってしまうが、それも愛嬌と言う事にしている。

 だから今、こうして目の前に修理を終えて戻ってきたのを見ると安心したのだ。

 と言うわけで、機甲科の人が修理した際にチェックはしているだろうけれども、念のために各パーツの点検を行う。車内はもちろん履帯や転輪、後は砲塔内の掃除もしておかなければ。

 他の皆には通信機や砲身、他内部の点検をお願いし、私は足回りを見る事にする。そう何度も履帯が切れてはいくら愛嬌があっても参ってしまうので、丁寧に見なければと思いしゃがみ込む。

 そこで、何か重い、金属類が床に落ちる大きな音が近くでした。

 何事かと思い振り返ってみれば、そこにはいそいそと落とした工具を回収している織部君の姿があった。どうやらさっきの音は、工具箱を落としたことによるものらしい。

 私は履帯の点検をいったん中止し、織部君に歩み寄って道具を片付けるのを手伝う。

 

「手伝うよ」

「ごめん・・・・・・」

 

 工具箱の中には細かいパーツも入っていた様で、割と広い範囲に広がっていた。回収には手間取ったけれど、どうにか工具は全て見つけられたようだ。

 だが、思い出してみれば織部君が工具箱を落としてしまうなんて初めての事だ。前々から、何度か工具箱を落とす隊員の人は何人もいたし、いつも工具箱を落とす人と言うのもあまりいない。

 だけど、織部君みたいな真面目な人がこうして工具箱を落とすというのは、あまり想像がつかなかった。

拾った工具を箱に戻し、蓋を閉める織部君。

 

「ありがとう、助かったよ」

「気にしないで。それより、大丈夫?」

「何が?」

 

 何が、ではない。

 昼のやけに少ない食事もそうだし、真面目な織部君がこうして工具箱を落とす事自体も珍しい。というか初めてだ。それにさっき斑田さんから聞いた話では、体育でも考え事をしてバレーボールが顔に直撃したという。

 どう考えたって、普通ではない。

 

「気分でも悪いなら・・・」

「いや、大丈夫。大丈夫だから・・・・・・」

 

 そう言って織部君は、半ば無理やり会話を打ち切って工具箱を持って行った。向かう先には三河さんのⅢ号戦車がいる。

 織部君とは知り合ってもうすぐ3カ月ぐらいになるが、それでも分からないところはある。生真面目な性格で、将来は戦車道連盟に就き、そして赤星さんと付き合っている、とここまでしか知らない。

 織部君が今何を考えて、何を思っているのかは本人しか分からない。だから昼の事も、体育の授業での事も、先ほど初めて工具箱を落としたのも、どうしてなのかは分からない。

 疑問が尽きず数多の中に残ったまま、整備の時間は過ぎていく。

 

 

 勘当なんて言葉、小説の中でしか聞いた事がなかったし、実際に現実で聞く事も無いだろうと思っていた。大地主とかお金持ちとかいう自分とは全く違う身分の家族の話で、進学校に通っていて黒森峰に留学していても所詮は一般家庭出身の自分とは縁の無いような話だと思っていた。

 だが、今まほから聞かされたことは紛れもない事実だろう。西住流とみほの間にある確執は聞いているし、しほが厳格な人物なのかも知っている。そして西住家がただの家庭とはまるで全然違うというのは百も承知。“勘当”と言う言葉が出てくるのも、頷けてしまう。

 

『・・・・・・こんなことを君に話して・・・申し訳ないと思っている』

「・・・・・・・・・・・・」

 

 正直な話、ただの友達ぐらいの関係の人であればこんな重い話を聞かされると辟易してしまうだろう。もしかしたら途中で遮ったり投げ出したりするかもしれない。

 だが、織部は違う。友達と言うのは少し違うが、西住流と黒森峰戦車隊の事情を知りすぎてしまっている。その発端には織部の知りたいという知識欲もわずかにあったが、それを知っているまほもこうして織部に話をしてきたのだ。

 そしてなぜ話をしたのか、その理由はこの前聞いた。黒森峰でみほとまほの全国大会決勝戦後の真実を知り、正確には黒森峰の人間ではないからだ。

 織部は知らないが、まほは前まで織部がまたエリカに責め立てられることを考慮してあまり相談を持ち掛けなかったのだ。実際、エリカはもう織部の事を内情偵察やスパイ扱いはしておらずすでに和解しているのだが。

 それはともかく、また話すようになったのは。

 

『・・・誰かに話せずにはいられなかった。この話を自分の胸だけにしまっておくには、私はまだ弱い』

「・・・・・・・・・隊長は、弱くなんて・・・」

 

 あのまほが自らの事を弱いというのならば、自分は一体何なのだと織部は思う。もはや形容することもできないほど貧弱か。

 だが、まほが電話の向こう側で首を横に振っているのが分かる。

 

『いや、皆からは“西住流後継者”や“国際強化選手”などと囃し立てられているが、今日やこの前のようにこうして君に話をしている時点で、私もまだまだだという事が分かる。本当に強い人とは、誰にも弱音を吐いたりこうして相談したりはしないだろう』

「・・・それは、違うと思いますよ」

『何?』

 

 まほの言い分を聞いて、織部は口を挟む。まほは少し困惑したようだが、それでも織部は素直に思った事を口にする。

 

「本当に強い人は、自分だけで問題や悩みを抱え込まずに、素直に人にそれを話すことができて、皆と協力することができる人です」

『・・・・・・・・・・・・』

「だから、今こうして僕に自分の悩みや弱音を話してくれた西住隊長も、強い人ですよ」

『・・・・・・・・・・・・』

「逆に全部を自分一人で抱え込もうとし、1人で全てを成し遂げ解決しようとする人は、いずれどこかで壊れてしまい、失敗します。たとえ今が成功していても」

 

 前の僕がそうだったように、と織部は心の中で付け加える。

 中学でいじめられていた時、周りを信じずに自分1人だけでやっていくしかないと思い込んでしまった結果、織部は心と体を壊してしまい学校に通えなくなってしまった。あの時、自分1人だけでどうにかしようとせずに、友達を頼っていれば少しは状況も変わっていたのかもしれない。

 今となっては確かめる術はないけれど、全てを自分一人で抱え込もうとする人こそが一番強い人だとは、少なくとも織部は思えなかった。

 あくまで織部の持論だったが、心が不安定な今のまほにはそう思っていてほしかった。

 

「・・・・・・すみません、知ったような口を利いてしまいました」

『・・・・・・いや、その言葉を聞けただけでも、君に話をした価値があると言うものだよ』

 

 織部の言葉で、まほも少し緊張が取れてしまったらしい。

 思えば、ただの留学生で、まほとは住む世界が全然違う一般平民の自分がまほに意見してアドバイスをするという事自体、稀であり烏滸がましい事だと思うが、それをくよくよ気にしていてはまほの力になる事はできない。

 力になるのは、まほの本音を聞いてしまった以上は避けては通れない道だ。本音を聞いたうえで後は自分1人でどうにかしろ、というのは無責任だ。

 

 

 

「織部、聞いてるの?」

「・・・・・・あ、はい。なんでしょう?」

「いや、だからパンターの資料を持ってきてほしいんだけど」

「わ、分かりました。すぐに」

 

 私の指示を聞いて、弾かれたように棚から資料の挟まれたファイルを取り出す織部。その資料にはパンターのスペックと各搭乗員の適正能力が全て記されているので、膨大な量となっているのだ。

 フラフラしながら資料を抱えて机に置く織部。私は一言『ありがと』とだけ言って、資料に目を落とす。

 

(・・・・・・それにしても)

 

 織部の事は最初、いけ好かない男だと思っていた。私の尊敬する西住隊長に取り入ろうとして近づき、思い出したくもないだろう去年の事を思い出させて、全てを知ったような気になってアドバイスなんてした、分を弁えていない男だと。

 だけど、その西住隊長から私自身のその認識も間違っていたと気付かされて、柄にもなく頭を下げて謝った。それ以来、織部とはまあ友達とまではいわずともそれなりの関係を築いている。

 今こうして隊長が不在の時は、唯一の男子で戦車に乗らないからという理由で補佐を任せている。ただ織部1人では不安なので、恐らく織部と親密な関係にある赤星も補佐を務めてもらっている。

 昨日まで、織部は真面目に補佐を務めていたし、通常の訓練の時でも審判を務めて、整備の際は皆の手伝いを進んでしている。これらから、織部は真面目な性格だというのが分かる。尤も、この黒森峰に異例の留学を決めた時点で相当な人だというのは分かっていたが。

 その織部が、考え事をしていたのか何なのかは分からないが、私の指示を無視して突っ立っていたのがどうも腑に落ちない。戦車の整備の時間で工具箱を落としたのも、またそれと関係があるようで気になる。

 何より、織部を見る赤星の顔が少し不安そうだった。

 間違いなく、織部は何かを抱えている。

 だが、所詮織部と知り合ってからまだ3カ月も満たない上に赤星や根津たちほど接してもいない私には、何を考えているのか全く見当がつかなかった。

 

 

 陽が沈んでから少しして、織部と小梅は昇降口に来て帰る準備をしていた。

 今日の訓練は戦車の整備だけだったので、戦車隊のメンバーは日没前に帰宅することができた。だが、織部と小梅は隊長代理のエリカの補佐役だったために、エリカの指示があるまでは帰ることができなかったのだ。そのエリカから、先ほど『帰ってよし』との指示を受けたので、2人はその指示の通りに帰宅する。エリカはまだ残って資料を読むらしく、織部と小梅は隊長代理で副隊長とはいえ、随分と張り切っているとしみじみと思った。

 織部は靴を履き替えて帰ろうと思ったところで。

 

「春貴さん」

「ん?」

 

 小梅に声を掛けられた。織部は別に疑う事無く小梅の方を見るが、小梅の顔が少し不安な色に染まっているのに気づく。

 

「・・・・・・ちょっと、うちに寄っていきませんか?」

 

 小梅も、今日の織部の様子がおかしかったのには気づいていた。そして織部自身、今日は調子が悪かったという自覚がある。小梅はそれを悟り、織部を誘ったのだ。

 こうなると、誘いを断ってしまえば余計小梅の事を心配させかねない事は織部にも分かる。

 だからここで、小梅の誘いを断りはしなかった。

 

「・・・・・・いいの?」

「はい」

 

 念のため、小梅に本当に大丈夫なのかを聞いておく。小梅が頷くと、織部は小梅と並んで小梅の部屋へと向かう。

 学校を出て、人気の無くなった通学路を戻り、小梅の部屋へと到着する。

 部屋に上がり、鞄を置くと小梅が先に冷えた緑茶を2人分用意してくれた。織部は『ありがとう』と言いながら、小梅に向かい合うように座る。

 織部が緑茶を飲んで一息ついたのを見計らって、小梅が単刀直入に聞いてきた。

 

「・・・・・・春貴さん、何かあったんですか?」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 織部の今日の行動が、いつもと違って妙だった。体育の授業でも、昼食の時も、戦車の整備の時も、エリカの補佐をしていた時だって。

 小梅が織部の事を見ていたからこそ、織部の違和感にいち早く気付くことができ、こうして今それを訊ねている。それだけ、小梅と織部は近しい存在だということを示していた。恋人同士なのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが。

 織部も、こうなった小梅に隠し事はできないと思い全てを話そうとする。

 

「・・・・・・・・・考え事をしていてね・・・。それで、ちょっと」

「考え事?」

 

 だが、その考え事の内容を話すには、みほが勘当されるという事を話さなければならない。そうなれば、みほの事を案じている小梅の事だから確実に動揺してしまうだろう。

 けれどここまできて、全てを隠すというのも難しい。それに、まほに『強い人は自分1人で問題を抱え込まない』と言ってしまったので、隠すというのも少し後ろめたい。

 そして恐らく、あやふやに答えても小梅は引かないだろう。

 

「・・・冷静に聞いてほしいんだ」

「?」

 

 まほのように前置きをして、小梅に心の準備をしてもらう(本当に準備ができているのかは分からないが)。

 そして、一度唾を飲み込んで、告げる。

 

「・・・・・・みほさんが、勘当される」

 

 小梅が息を呑んだのを、織部は確かに感じた。

 小梅の目が見開かれたのを、織部は自らの目で確かに見た。

 そして、織部はまほから聞いた事を全て話した。まほには心の中で申し訳ないと謝り、まほから聞いた内容をかみ砕いて小梅に伝える。

 だが、話を聞いているうちに小梅の顔が曇っていき、小梅が落ち込んでいくのがひしひしと伝わってくる。

 そして全てを話し終えた時には、小梅は目を閉じて、俯いてしまっていた。

 この話は、小梅を動揺させるには、十分だった。勘当と言う言葉の重みは、そしてそれによってどうなるのかは小梅も理解している。

 だが、みほが次の準決勝で勝てば、みほの勘当は見送られるという、僅かな希望だってある。その相手は昨年の優勝校と言う点を除けば、まだチャンスはある。勝つ可能性は、ゼロではない。

 

「・・・・・・・・・そんな話だったんですか」

 

 それは小梅も分かっているようで、顔にはまだ不安な様子が表れているが、どん底まで落胆しているということは無かった。

 しかし織部の考え事の内容は分かったが、なぜ織部がそこまで悩んでいるのかが、小梅にはまだ分からなかった。

 

「・・・・・・でも、どうして春貴さんがそこまで悩んでいるんですか・・・?」

 

 はっきり言ってしまえば、この話を聞いたからと言って織部が悩みに悩み、日常生活に支障をきたすほど考え込む必要はないのだ。何しろ、織部にできる事など、ほとんどないのだから。

 だが織部は、真剣にこの話について悩んでいる。それはなぜなのか。

 

「・・・・・・西住隊長に、何か具体的なアドバイスをできればよかったのに、できなかったんだ」

 

 なぜ、まほが織部に相談を持ち掛けたのかは、小梅も聞いた。西住流ではない、正式には戦車隊の一員でも黒森峰の人間でもない織部であれば、そう言った同じ枠組みの中にいるからこその遠慮やためらいを感じずに話せると。

 だが織部も、相談に乗っている以上はどうにかしてまほの中の蟠りを、完全に消すには至らずとも軽くしたいと思っている。だから、何かアドバイスの1つでも言えればよかったのに、織部が言えたのは、そうして心配なことを素直に吐き出せるまほが強い人とだけ。

 その織部の言葉で、まほは最後に『心が少し軽くなった』と言っていたが、みほの勘当についてまほがどうすればいいこうすればいいとは言えなかった。

 恐らくまほの中にはまだ、それについての心配事が燻っている。

 それが織部は、悔しかったのだ。

 

「僕がもっと・・・何か言えればよかったのに・・・。そうすれば、西住隊長だって悩まなくても済んだのに」

 

 織部の、頭を押さえながら悔やむような言葉を聞いて、小梅は何も言わない。

 だが、すっくと立ちあがり、ゆっくりと織部の下に歩み寄る。そこで織部は顔を上げて小梅を見上げると、小梅は織部の後ろに腰を下ろし、優しく織部を後ろから抱き締めてきた。背中に何か柔らかい感触が伝わってくるがそんな事は二の次だ。

 

「?」

「・・・・・・春貴さんのその気持ちは、西住隊長の力になりたかったって気持ちは、すごく尊いものだと思う」

「・・・・・・」

「でも、力になりたいからって1人で全部を抱え込んで、そこまで落ち込むことは無いよ」

 

 恐らく小梅は、信じている大切な人に対してはこうして、普段とは違う話し方で喋るのだろう。

 前に落ち込み果てていた織部を励まし、告白した時もこの話し方をしていた。どうやら小梅は、織部に対して大事な話をする時は、この話し方になるのだろう。

 それはともかく、織部に相談を持ち掛けたまほは当然、悩んでいる。

 だが、織部はそのまほ以上にもっと思い悩んでいる。相談をされた側が、相談する側以上に悩むというのは、別に悪い事ではない。だが、それで日常生活に支障をきたすほど悩むのは少し違うと、小梅は思っていた。

 

「それに、春貴さんが相談を受けたからって、絶対に何かアドバイスをしなきゃいけない、って事も無い」

「・・・・・・」

「春貴さんは真面目だから、何かアドバイスをしなくちゃって、思い込んでるのかもしれないけど、そんな事はないんだよ」

 

 小梅の言う通り、相談を受けた以上、何か1つでもアドバイスをしなくちゃならない、という法も規則も存在しない。だが織部は、真面目であるからこそ何かまほに具体的にこうした方がいいというアドバイスができなかったことを、悔やんでいる。

 その織部の思い込みを、小梅はどうにかして解きたかった。だからこうして、織部と触れ合い、そして話をする。

 

「・・・・・・それに春貴さんは、西住隊長に『強い人だ』って言った。それだけで西住隊長も、安心したんじゃないかな」

「・・・・・・」

 

 みほの勘当について、まほにどうこうした方がいいとは言えなかった。だが、その問題についてまほが自分の中の悩みを織部に打ち明けた事を、織部は素直に強いと言った。

 小梅は、それだけで十分なのではないかと言って、織部に錘のようにのしかかっている悩みや不安を取り除こうとした。

 

「・・・・・・」

「あまり、自分1人だけで全てを抱え込もうとしないで。前に春貴さん、私に言ってくれたでしょ?」

 

 小梅が戦車に再び乗る事が決まり、後輩の指導役を任された時、織部が言った事だ。『全部自分1人で抱え込もうとすると、昔みたいになる』と。

 その言葉を教えた当の織部が自分1人で考え込んでしまうというのも、ちゃんちゃらおかしいものだ。

 

「・・・・・・そうかもしれない」

 

 織部も、少しだが緊張が解けたようで、小さく息を吐いた。

 

「・・・ありがとう、小梅さん。ちょっと、気が楽になったよ」

「・・・良かったです」

 

 そう言って小梅は腕を解く。織部の顔を見れば、先ほどまでの焦りや不安などの表情はなく、憑き物が落ちたかのように落ち着いていて、少し明るかった。

 その織部の顔を見て安心した小梅は、『さてと』と言いながら立ち上がり、キッチンへと向かう。そしてオレンジのエプロンを装着して。

 

「もういい時間ですし、晩御飯にしましょう。ちょっと待っててくださいね」

 

 どうやらこのまま2人で夕食にするつもりらしい。それについては賛成だし嬉しい申し出が、しかし譲れないことが織部にもあった。

 

「僕も手伝うよ」

「え、いえ・・・・・・春貴さんは・・・・・・」

 

 座っていていい、と言おうとする小梅を優しく手で制する。

 

「流石に、何度も何もしないでただ待つだけっていうのは忍びないから、何か手伝わせてほしいな」

 

 小梅が“そうしたい”から、料理を作るのは分かる。だからと言って、それは織部が何もしなくていいという理由にはならない。

 男の織部が1人ただ何もせずに食事が出てくるのを待つというのは、少々不遜だと自分でも思う。だから、手伝いを進言したのだ。

 そして真面目な織部は、こうなっては引こうとしないのも小梅は分かる。

 

「・・・・・・では、春貴さんは野菜を切ってもらえますか?」

「もちろん」

 

 言われた通り、織部は小梅から渡された野菜を手際よく切っていく。極力自炊している織部にとってはそれは造作もない事だ。一

方で小梅は、冷蔵庫から新たに肉を取り出し、織部が切った野菜と共にフライパンで炒める。

 やがて織部が野菜を切り終えると、今度は野菜と肉を炒めるのを小梅が織部にバトンタッチし、小梅は別の料理を作り始める。味噌を取り出したので、恐らくはみそ汁だろう。

 せっかくだし、作り方を横目にでも見ておこうかな、と思っていると小梅が少し笑っているのに気づく。

 

「・・・どうかした?」

 

 野菜を炒める手を止めず、小梅の事を横目に見ながら尋ねると、小梅がその笑みを崩さずに呟いた。

 

「・・・こういうの、なんだか新鮮だなって、思ったんです」

「・・・まあ、確かにね」

 

 女子校の学園艦の寮で、男女が2人でキッチンに立って料理をするというのは、かなり違和感がある。しかしそれを新鮮と捉えるか間違っていると捉えるかは人次第で、小梅は前者の方のようだ。ましてや隣に立つのは、自分の恋人なのだしそう考えるのは自然と言えるだろう。

 ところが。

 

「・・・・・・結婚したら、こんな感じなのかなって」

 

 織部にとってその言葉は流石に予想外。野菜を炒める菜箸を落とさなかったのはファインプレー。

 小梅の言葉を聞いた途端に織部は恥ずかしくなり、フライパンの中で炒め混ぜられる野菜に目を落とす。ちらっと、気づかれないように小梅の様子を見れば、小梅も顔が真っ赤になっていて盛大に自爆していた。

 けれど今、小梅の顔を直に見たらすごい変な顔をしていると言われるに決まっているし、自分でもそんな顔をしている自覚はある。

 

「・・・・・・そう、なのかもね」

 

 気の利いた事も言えずそんな曖昧なコメントしかできない自分が少し悲しい。

 織部と小梅は、将来そうなる事をお互い誓い合っている。だから小梅の先ほどのような言葉が出てくるのもなんら不思議ではないのだが、普段大人しい小梅がそのような大胆な発言をするのが、意外過ぎて仕方がない。

 この前の膝枕と言い先ほどの言葉と言い、付き合えば付き合うほど、小梅の意外な一面を垣間見ることができる。

 

「・・・・・・・・・意外と積極的で、大胆なんだね。小梅さん」

 

 恥ずかしがっている小梅に追い打ちをかけるかの如き言葉。

 それがせめてもの、織部の仕返しだった。

 

 

 

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

 

 食事を終えて、食器を洗い終えて、帰る段階に差し掛かる。

 あの後、お互いやたらと恥ずかしがっているのが可笑しくなって少し笑ってから、特にアクシデントもハプニングも無く料理は完成して2人は夕ご飯を食べた。

 

「・・・・・・ありがとうね、ごはん」

「いえ、春貴さんも作ってくれましたから」

「僕はそんな・・・・・・ただ野菜を切って炒めていただけだし」

 

 実際、織部の手伝った事と言えばそれぐらいで、他には皿を並べるぐらいの事しかしていない。後は大体小梅がやってくれたが、小梅はそれだけで十分と言ってくれた。

 もう少し自分でも料理の腕をあげて、お礼に何か振る舞いたいなと織部は頭で考えながら、靴を履いて部屋を出ようとする。

 そこで。

 

「春貴さん」

「ん?」

 

 小梅に呼ばれて立ち止まり、振り返る。

 その直後、小梅が小さく口づけをしてきた。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 あまりにも、不意打ち過ぎてすぐに反応できない織部。対する小梅は、唇を離すと優しい笑みを浮かべていた。

 

「・・・また明日」

 

 そう呟いた小梅の言葉に織部は。

 

「・・・うん、また明日」

 

 それだけしか返せず、恥ずかしそうな、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべて、織部は部屋を出て行った。

 そして、織部が部屋を出てしばらくの間は、小梅はその場に立ち尽くしていた。

 数秒。

 十数秒。

 数十秒。

 1分。

 

「~~~~~~~~~~~~~!!」

 

 やがて小梅は、声にならないような声を上げて顔を真っ赤にし、しゃがみ込んでしまった。

 自分がどれだけ恥ずかしい事をしたのか、どれだけ恥ずかしいことを言ったのかを思い出し、恥ずかしくて穴があったら埋まりたいほどだ。

 そして、部屋に戻った織部がこの小梅と同じようなリアクションを取った事を小梅は知らないし、小梅もこんなリアクションをしたことを織部は知らない。




ペチュニア
科・属名:ナス科ペチュニア属
学名:Petunia x hybrida
和名:衝羽根朝顔
別名:ペツニア
原産地:南アメリカ
花言葉:心の安らぎ、あなたと一緒なら心が和らぐ


周りから見た織部の印象を改めてはっきりさせる意味も兼ねた今回の話。

感想・ご指摘等があればどうぞ。


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羽団扇豆(ルピナス)

今回名前が出てきた、根津たちを除く黒森峰戦車隊のメンバーの名前は、
全員熊本県の地名由来です。
あくまで今作品オリジナルの名前ですので、原作とは一切の関係はありません。
予めご了承ください。


 雪の降りしきる中、観客席に座る誰もがモニターを見つめている。先ほどまでの『頑張れ』や『負けるな』と言った激励の言葉も今はなりを潜め、緊張した面持ちで声も上げない。

 それは観客席の後ろの方に陣取るまほとしほも同じで、この2人もモニターをじっと見つめている。

 2人を含め観客全員が見ているそのモニターは、上下で2分割されていた。先ほどまで、上半分に映されていたのは、広い雪原をプラウダ高校の戦車隊から逃げ続けていた大洗女子学園のフラッグ車・八九式中戦車。下半分に映されていたのは、雪の集落を大洗女子学園の少数精鋭から逃げていたプラウダ高校のフラッグ車・T-34/76。

 八九式はプラウダのIS-2からの砲撃を受け、T-34は待ち伏せていたⅢ号突撃砲から砲撃を受けて、両車輌ともに黒煙を上げてモニターの映像はぼやけている。

 黒煙が晴れる。

 IS-2に撃破されたと思われていた八九式は、装甲が吹き飛び、履帯も切られていたが、かろうじてまだ動けていた。

 一方で、Ⅲ号突撃砲から砲撃を受けたT-34は、パシュッという甲高い音と共に白旗を揚げた。

 

『試合終了、大洗女子学園の勝利!』

 

 モニターに大きく大洗女子学園の校章が表示され、さらに“WIN”という文字が浮かび上がる。

 緊迫していた雰囲気が緩み、観客席からは歓声が上がり、誰もが拍手をする。

 結果を見届けたまほも、決して表情には出さないが安心する。

 

 

 今回の試合は、実に危なっかしかった。

 大洗は戦車が1輌増えたが、それでも15輌いるプラウダとの戦力差は倍以上。加えて、慣れない雪原戦だから慎重に戦うべきだったのだが、大洗は早期決着を目論みまとまって前進。

 だが、プラウダの釣り野伏戦法に大洗は嵌った。

隊を囮と伏兵に二分させて、囮部隊を敗走しているように見せかけて伏兵のいるポイントまで相手を誘導。そこで追ってきた敵チームを包囲殲滅する、戦車の保有数が多いプラウダが得意とする戦法だ。

 大洗は、集落にある古びた教会風の建物にあえなく撤退。そこでプラウダの隊長・カチューシャからの降伏勧告を受け、3時間の猶予が与えられる。

 最初、そこでしほは、帰ろうとした。

プラウダは、戦車の性能、数、練度の全てにおいて大洗を上回っている。その上フィールドのコンディションは雪とプラウダに有利。しかも教会の周りはプラウダに包囲されていて、外へ出ようものなら途端に蜂の巣にされるだろう。

 誰がどう見ても、大洗に勝機などなかった。

 しほは黒森峰出身で、黒森峰戦車隊が強く発展する黎明期を作った人物だ。それに西住流の師範でもある。故に、戦局を冷静に分析する能力も、彼我の戦力差を考える頭脳も、試合の結末を考える洞察力も、まほを遥かに凌ぐ。

 だから、今の大洗がプラウダに勝つ可能性など限りなくゼロに近い、というかほとんど無いと分かっていた。

 自分の言葉を曲げて、新しい地で勝手に戦車道をはじめ、世間に“間違った”西住流の力を広めたみほが、今ここで負けてさらに恥をさらす等、見るに堪えない。

 勘当を言い渡すためにここへ来たが、それはいずれ本家に呼び出してすればいい事だ。

そう思いしほは席を立ったが、まほはそれを止めた。

 まほはこの状況でも、まだみほの事を、みほたち大洗を信じていた。

 ただ、猶予時間の間にみほを含めた大洗の隊員たちが珍妙奇天烈な踊りを始めて、それがクローズアップされてモニターに映し出された時は、まほも心の中ではひどく動揺した。隣に座っているしほは一切の表情を失っていたが、あれは確実に心の中で困惑していると、みほより1年長くしほの傍にいるまほには分かった。

 ともあれ戦車を直した大洗は、猶予の3時間が終わると、プラウダの包囲網で一番厚い層を突いて突破。38(t)が囮となってプラウダの戦車隊を単騎で相手にし、1輌破損、2輌撃破の戦果を挙げるがすぐさま別動隊に撃破されてしまった。

 そしてプラウダの戦車隊から逃げることとなる大洗は、窪地を脱出したところで隊を二分させて、プラウダ戦車隊からフラッグ車と護衛2輌はひたすら逃げ、残りの2輌はプラウダのフラッグ車を狙う。

 この時、観客席のまほとしほを除く観戦客はほぼ全員が大洗を応援していた。判官贔屓と言うヤツだろうか。

 やがて大洗のフラッグ車・八九式の護衛は全員IS-2に仕留められたが、八九式は驚異的な手綱さばきでプラウダ戦車隊の砲撃を避け続ける。その動きはもしかすると黒森峰以上にキレがあるぐらいで、まほも感嘆の念を抱いた。

 一方で隠れていたプラウダのフラッグ車のT-34は集落の外周をぐるぐると逃げ回っているだけだと気付いた大洗はⅢ突を雪の窪みに埋めて待ち伏せさせる。

 そしてT-34が近づいてきたところで発砲。同時に、八九式を追っていたIS-2も発砲し、今に至る。

 

 

 当初、しほはみほに勘当を言い渡すためにここに来た。だがそれは恐らく、みほが負けた時だろうとまほは思っている。

 だからみほが、大洗が勝利を収めた今、しほがどうするのかを身構えて待つ。しほがみほに期待しているというのも可能性の話で、まほの希望的観測でしかない。

 だから、しほの口を突いて出る言葉を、まほは静かに待つ。

 

「・・・勝ったのは相手が油断したからよ」

 

 その口から出た言葉にはしほの厳しさが籠められており、決してみほの事を評価しているわけではないというのが分かる。

 だが、そのしほの言葉は少し違うというのがまほの素直な気持ちだ。

 

「いえ、実力があります」

「実力?」

 

 しほが聞き返す。モニターが変わり、チームメイトから笑顔で囲まれるみほの映像が映される。そしてみほも、笑顔を浮かべて皆と話している。黒森峰では見られなかった、みほの素顔だ。

 

「・・・みほは、マニュアルに囚われず、臨機応変に事態に対処する力があります」

 

 こうしてしほに意見をする事は、全くと言っていいほどなかった。それこそ、まだ西住流の後継者と言う自覚も薄かった幼いころぐらいしか、こうして母に意見をする事はなかった。

 だが、それは今はどうでもいい。みほの力をしほに伝え、認めさせたかった。

 

「みほの判断と・・・心を合わせて戦った、チームの勝利です」

 

 まほの言葉を聞き、少しだけ考えるように黙るしほ。そして、言った。

 

「あんなものは邪道・・・。決勝戦では、王者の戦いを見せてやりなさい」

 

 どうやらしほは、みほの勘当を見送るつもりらしい。やはり、プラウダを破った事で新しい可能性を見出し始めているのかも知れない。真意は分からないが、まほは一先ずホッとする。

 

「西住流の名に懸けて・・・・・・」

 

 みほが勘当されなくて安心しているのは確かだが、これで黒森峰の決勝の相手は決まった。

 まさかとは思っていたが、こうして直接戦う事になるとは最初、それこそ抽選会の時は思わなかった。強豪校を3校退け、確実に強くなっている大洗。そして、素人の集まりをこうして全国大会決勝まで引っ張り上げてきたみほ。

 みほが新天地で才能を開花させここまで成長できたのは姉として誇らしい。流石は私の妹だと、胸を張って言える。

 だが、戦車道についてまほは妥協も譲歩も遠慮も手加減もしない。

 それは、自分と共に歩んでくれる同じ戦車の搭乗員、戦車隊の仲間たち、さらに黒森峰の戦車道に憧れて新たに入隊した隊員たちにも失礼だからだ。

 戦車隊の皆は、まほの事を慕い、信じているからこそまほについてきてくれている。その皆の思いを蔑ろにしないためにも、まほは全力で試合に挑む。

 たとえ相手が友であろうと、恩人だろうと、血のつながりのある家族であろうと。自分と戦う相手には力の限りを尽くし、正々堂々と戦う。

 それが、まほにとっての礼儀だ。

 だから、みほの成長を見たい、みほの力を世間に認めさせたいと言う私情は胸にしまい込み、モニターの中で仲間と共に笑い合って勝利を喜ぶみほを見ながら、決意を告げた。

 

「必ず叩き潰します」

 

 

 

 朝、通学路を歩く織部と小梅、そして同じクラスの根津と斑田。彼ら彼女らの話題は、もちろん昨日の準決勝の事だ。

 

「まさかプラウダにまで勝っちゃうとはねぇ・・・」

「強いな大洗・・・」

 

 斑田と根津が感慨深そうに呟く。2人は、同期だったみほが大洗を率いていると知って、その動向が気になったのだ。プラウダ相手にどう戦うか、そして勝敗の行方が気になった。

 そしてそれは織部と小梅も同じで、昨日の訓練が終わり、自室に戻ってからすぐに準決勝の試合結果を確認した。

 結果は、プラウダが敗北し、大洗が勝利した。

 戦車道ニュースサイトのトップにはこの試合の結果が表示されていて、さらには『大洗女子学園、優勝なるか』という記事も関連記事とされていた。

 その記事を見てみれば、大洗女子学園のような戦車の台数も練度も圧倒的に劣る無名校が、強豪校を3校も下したというのは前例がなく、しかもその1つは昨年の優勝校ときたものだから、誰もが大洗女子学園の強さを認めることとなった。サンダースやアンツィオを倒したのはまぐれと評価した評論家も、その認識を改めさせられる。

 そして今、大洗女子学園は優勝まで狙えるとまでされていた。相手が過去9連覇を成し遂げた、高校戦車道最強とされる学校であっても、破竹の勢いで勝ち進み圧倒的な戦力差をものともせず勝負をひっくり返してきた大洗女子学園なら、もしかすると・・・と。

 他にも、この全国大会に出場したほぼすべての学校が大洗の優勝を信じているとか、大洗女子学園の地元の町は盛り上がっているとか色々と書いてあった。

 

「・・・・・・でもまあ、そうやすやすと優勝は逃したくないね」

 

 その大洗の決勝戦で戦う相手は自分たち黒森峰だ。そして黒森峰だって優勝を狙っている。優勝して、志半ばで閉ざされた10連覇の夢をまた叶えるためにまた進みだす。だから、大洗が破竹の勢いで勝ち進んでいるからと言って、奇跡を起こすかもしれないからと言って、優勝を譲るつもりなどこれっぽちもない。

 根津も斑田も、今この場にいない直下と三河も、それにエリカだって、目前に迫る優勝を目指して全力で戦う。

 だが、そこで織部は自分の隣を歩く小梅の姿を見る。

 小梅は、最近になって見せるようになった笑顔ではなく、何かを考えているような表情だった。

 何を考えているのか、織部には少しだけだが分かる。

 小梅は、みほがまだ戦車道をやっていて大洗を率いていると知った時、『みほとはいつか戦いたいと思っていた』と言っていた。それが現実のものとなっているのだから、少しは嬉しいのかもしれない。

 ただ、その試合に小梅が参加できるかどうかはまだ分からない。決勝戦に参加する車輌は、恐らく今日まほが黒森峰に帰ってきていれば発表されるかもしれない。決勝戦のレギュレーションは、準決勝からさらに5輌増えた20輌となるからまだチャンスはある。だが、実際どうなるのかは、定かではない。

 もし選ばれなかったら、小梅はただ指をくわえて黒森峰と大洗の試合を観戦するだけとなってしまうだろう。自分を助けてくれて、自分が戦いたいと待ち望んでいた人と戦う場が設けられているのに自分は参加できない、それがどれだけ切ない事か。

 織部もどうにかしたかったが、策が思い浮かばない。まほに直訴するという手もあるが、『余計なことはするな』というエリカの言葉を忘れてはいないし、自分が他の人物からどう見られているのかも分からないので、それはできるだけ控えるべきだ。

 とすれば、本当に手詰まりとなってしまう。

 どうすればいいのか悶々と悩んでいる間に、黒森峰の校門をくぐった。

 

 

 戦車道の時間になり格納庫の前に集まると、まほは既に帰ってきていた。

聞けば、昨日の準決勝は北緯50°を超えたところにある会場で行われたらしい。そこは日本の領土ではないが、ロシアと交友関係にあるプラウダ高校が全国大会の間だけ貸してもらっている場所だったそうだ。だとすればプラウダが有利になるように仕組んだ可能性もあるが、試合会場は戦車道連盟監視下でのルーレットで決められるので、不正のしようはない。もし不正だったとしたら大問題だ。

 それはともかく、日本よりも北にある試合会場から黒森峰学園艦までの長時間の移動で疲れているだろうに、それすらも感じさせずまほはいつものように凛々しく毅然とした態度で皆の前に立っている。タフな人だと、織部は素直に思った。

 そして今日は訓練終了後のミーティングで、予想した通り決勝戦に参加する車輌を発表する事となった。まほが不在の間にエリカが立案した作戦を基に、さらにまほが大洗の試合を直接観てどのような戦い方でどのような戦車を使えば勝利するかを綿密に計算して、そして試合に参加する戦車が決められる事となった。

 この時織部にはもう、小梅が代表に選ばれることをただ祈るしか、願う事しかできなかった。

 迎えたミーティングの時間。会議室に全ての車輌の車長+織部が集められ、全員が真剣な眼差しでまほとエリカを見ている。

 

「ではこれより、決勝戦に出場する車輌とメンバーを発表する」

 

 まほが懐からメモを取り出し、エリカがホワイトボードに板書する準備をする。

 

「ティーガーⅠ1輌、ティーガーⅡ2輌」

 

 まほの乗るティーガーⅠは確定、そしてエリカのティーガーⅡもそのまま。そして同じティーガーⅡが1輌追加された。

 

「パンターG型6輌」

 

 パンターが1輌追加投入される。そして小梅の乗る車輌もパンターなので、もしかしたら、本当にもしかしたら小梅が参加できるかもしれない。

 

「Ⅲ号戦車J型3輌、Ⅳ号駆逐戦車/70(V)ラング4輌」

 

 Ⅲ号戦車はそのまま、そしてラングが2輌追加。

 

「ヤークトパンター1輌、ヤークトティーガー1輌、エレファント1輌」

 

 ヤークトパンターと重駆逐戦車2輌はそのまま。これで19輌だから後1輌はどの車輌だろうか。

 そしてその最後の車輌とは。

 

「マウス1輌」

 

 その車輌の名を聞いた瞬間、会議室内の誰もが息を呑み、驚愕に顔を染めた。

 たった今、まほが試合に参加させると告げた車輌は、史上最強の超重戦車。練習にも出ることは無かった、黒森峰の隠し玉にして切り札だ。

 そして決勝で対する大洗の練度は、恐らくこの場にいるほぼ全員が理解しているだろうが、戦車そのものの性能はたかが知れている。もちろん、マウスの装甲を抜くことができる車輌など1輌たりともいないという事だって承知している。それ以前に数だって、黒森峰の半分もいないのだから戦力過剰もいいところだ。

 だがまほは、躊躇なくマウスを投入すると告げたのだ。それには間違いなく、大洗を叩き潰し、黒森峰の優勝を確固たるものとするという意志が籠められているのに気づかないほど、黒森峰戦車隊のメンバーも愚かではない。

 空気がざわついたが、やがて落ち着いたのを確認すると、次にまほは試合に参加するメンバーを発表する。

 

「では次に、決勝戦に参加する車輌のメンバーを発表する。今回、車長の名前を呼びその車長の乗る車輌のメンバー全員が参加する事とする」

 

 ごくり、と誰かがつばを飲み込んだ音が聞こえた。

 

「ティーガーⅠは私が。ティーガーⅡには、エリカと宮原」

 

 エリカがホワイトボードに名前を書いていく。ただ、ティーガーⅠの下にはまほの名は書かず“隊長”とだけ書いていた。エリカ自身の事も、“逸見”と表記する。

 

「Ⅲ号戦車は三河、横島、松橋」

 

 三河の名が呼ばれる。織部は、知り合いの名が呼ばれた事で少しだけだが嬉しさを抱いていた。

 

「Ⅳ号駆逐戦車は不知火、八代、菊池、竜北」

 

 ホワイトボードに名前を書き進めていくエリカ。名前を書き終わるのを見計らって、まほは次に進む。

 

「ヤークトパンターは直下、ヤークトティーガーは水俣、エレファントは鏡」

 

 直下もまた、連続で出場が決まる。嬉しいやら緊張するやら、抱く感情は様々だろう。

 

「マウスは根津」

 

 元々、根津は黒森峰の所有する唯一のマウスの車長であるため、これについては驚きはしない。根津も、本来乗る車輌に乗れてもしかしたら嬉しいのかもしれない。

 そして最後は、気になるパンターの乗員だ。

 

「パンターは斑田、天水、波野、姫戸、豊野―――」

 

 これでパンター6輌のうち5輌は決まった。しかもこの5輌は準決勝にも参加していた。

さて後1輌は、誰が乗るのか―――

 

 

「赤星」

 

 

 その名を聞いた瞬間、織部は自分の呼吸が止まったという事を覚えている。

 この戦車隊で赤星と言う苗字の人物はたった1人しかいない。

他ならない、赤星小梅だ。

 

(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 心の中で織部は息をつく。これで、小梅が試合に参加できなかったら、と言う心配事は無くなった。

 そして今、決勝戦に出てみほと戦う事が決まった小梅はどんな気持ちなのだろう。嬉しいのだろうか、それとも不安なのだろうか。

 何はともあれ、これで決勝戦に参加する車輌とメンバーはすべて決まった。代表に選ばれなかった隊員は、恐らくは残念がっているだろう。だが、選ばれた隊員も浮かれてはいない。

 代表に選ばれたという事は、黒森峰の期待と覚悟を背負い、全国優勝をかけて粉骨砕身して戦うことを誓い、約束するという事だ。生半可な気持ちでは挑めない、重要な戦いだ。

 そして代表に選ばれた者は、隊長のまほと副隊長のエリカからその実力を認められ、期待され、買われたというわけだ。その期待を裏切らないためにも、全身全霊を込めて戦う。

 その意思を、代表に選ばれた者たちは全員が抱いている。

 目に見えない闘気のようなものが、この会議室に漂っていた。

 

 

 翌日から、また試合に向けての模擬戦へと変わった。だが、20輌対20輌の模擬戦は相当見ごたえがあるもので、迫力あるぶつかり合いを見せてくれる。

 その中でも、異様な空気を放っているのは、他ならぬマウスだ。主力のパンターよりもはるかに大きいサイズで、動く音が普通と全然違う。普通の戦車の音が『ドドド・・・』だとすれば、マウスは『ガゴゴゴ・・・』だ。それだけ重量があるという事だろう。あんなのに轢かれたらひとたまりもない(マウスに限らず戦車に轢かれたらそうなるだろうが)。

 肝心の模擬戦の様子だが、やはり高火力の黒森峰でもマウスには歯が立たないようで、どれだけ撃ってもびくともしない。履帯を狙っているが、マウスの履帯は他の戦車と違い、側面の上半分も守られていて、露出している部分が少ない。だから、狙いにくいのだ。唯一の救いは、マウスの動きが鈍いことぐらいだろうか。

 そしてマウスと同じチームの1輌のⅢ号戦車が、虎の威を借る狐とばかりにマウスの後ろから敵戦車にちょいちょい攻撃を仕掛けている。それで近くに着弾したらマウスの後ろに引っ込んで機を待つ。実にいやらしい戦い方だが、マウスの装甲の厚さを利用しているので合理的とも言える。

 さて、小梅の所属するパンター部隊だが、纏まりつつもフラッグ車を守れる位置について敵戦車に砲撃を続けている。そして守られているフラッグ車のティーガーⅠも隙を見て発砲し続けている。仲間に当てるフレンドリーファイアなどと言う初歩的なミスはしない。

 激しい撃ち合いが続き、やがてマウスの所属するチームがフラッグ車を撃ち抜き勝利した。

 ちなみに、実際の決勝でもフラッグ車はまほのティーガーⅠに決まっている。難攻不落の超重戦車マウスをフラッグ車にすれば負けないんじゃないだろうか、と織部は思わなくも無かったがまほはそれを良しとはしないらしい。

 どれだけ打たれ強いマウスであっても、様々な戦局をひっくり返してきた大洗が、何らかの策を弄してマウスを撃破してくる事だってあり得る。そしてマウスの強さは隊の誰もが理解しており、『マウスがフラッグ車だから安心して戦える』と一種の油断を生んでしまうかもしれない。そこを突かれて負ける事も無きにしも非ずだ。

 その油断を作らないために、そして自分が黒森峰の勝敗を背負っているという強い自覚を持つために、まほはフラッグ車を自分の車輌に決めたのだ。

 そこで織部は、フラッグ車がやられて試合が終了したことを全車輌に告げて、格納庫へ戻るように指示して監視用の高台を降りて、ミーティングへと向かった。

 

 

 大洗とプラウダの試合から4日後に、戦車道全国大会決勝戦は行われる。

 場所は、富士山の麓にある演習場で、様々な地形を有しており範囲も広大だ。一部のファンからは戦車道の聖地と呼ばれている。陸上自衛隊の訓練場が近くにあり、毎年夏の終わりに一般公開される大規模演習は世間でも有名だ。

 その決勝戦を明日に控えた今、その富士演習場に一番近い学園艦が寄港できる港・清水港へと黒森峰学園艦は航行している。対戦相手の大洗女子学園艦は、地元大洗に寄港してそこから電車で来るらしい。清水港は規模が他と比べて小さく、学園艦クラスの巨大船舶は1隻しか寄港できないらしい。

 星がきらめく夜空の下で、織部と小梅はあの花壇を訪れていた。発端は織部が小梅から『少し会って話がしたい』と言われた事。大事な試合の前に少し不安な気持ちになってしまったのだろう、と織部は思い、その小梅の呼びかけに応じた。

 その会う場所に指定されたのが、この花壇だ。

 不思議と、この花壇の前なら色々と本音を話せるような気がした。それはやはり、最初に自分たちの辛い過去を正直に話し、そして2人が自分の素直な想いを告白できたからだろう。2人ともこの場所には、安心感を抱いていた。

 

「・・・・・・こんな時間に呼び出して、ごめんなさい」

「いいよ、気にしないで」

 

 時刻は間もなく21時。明日の試合に備えて今日はゆっくり休むようにとまほから言われたのだが、こうしてこんな時間に外へ出歩いている辺り2人ともそれを破っているような感じがしないでもないが、それは今は関係ない。

 

「・・・・・・緊張してる?」

「・・・・・・・・・はい」

 

 ここに来るまでの間、織部は小梅が何を考えていて、何を話したいのかをずっと考えていた。そして小梅の事を少しずつ分かってきた今、小梅は恐らく明日の決勝戦の事について考えていて、それについて織部と話がしたかったのだろう。

 話をする、と言うよりは小梅の不安を織部に聞いてもらう、と言う言い方の方が正しい。

 そして、織部もそれは分かっているのだと、小梅も理解していた。

 

「・・・・・・迷惑だったり、しませんか?」

「いやいや、全然」

 

 それが不安で小梅は聞くが、織部は即答して首を横に振る。

 

「小梅さんが不安になっているのなら、僕はそれを取り除けるように全力で向き合うよ。それはもう、今までも、そしてこれからも同じ。だから、遠慮なんてする必要はないんだ」

「・・・・・・・・・」

「・・・話してごらん?」

 

 優しい笑みを浮かべる織部。その笑みを見て小梅は、涙腺が緩みそうになるが堪える。

 そして自分は、つくづく織部の事が好きなのだという想いが、胸の奥から込み上げてくる。

 自分の座る位置を横にずらし、織部の横にぴったりと寄り添うようにくっつく小梅。そして、少しずつ話し出した。

 

「・・・・・・この前、私が代表に選ばれた時・・・最初はすごく、嬉しかったんです」

「・・・・・・・・・」

 

 まほが決勝戦に出場する車輌とメンバーを発表し、小梅の名が呼ばれた時。小梅は最初は嬉しかった。

 ただし徐々に、同じぐらいの不安も感じてしまうようになっていったのだという。

 

「・・・去年の事を、思い出してしまって」

「・・・・・・やっぱり、忘れられないよね。そう簡単には・・・」

「はい・・・。あれが原因で、私の黒森峰の人生は大きく変わってしまいましたから・・・」

 

 もう過去の事、と簡単に割り切ることは不可能なぐらい、あの時の事は小梅の心に深く杭のように突き刺さっているし、それは簡単には取り除けないという事ももう分かっている。

 

「・・・春貴さんに出会って、私の話を聞いたうえで、私の傍にいてくれるって聞いて・・・。それは、本当に嬉しかったんです・・・。そして・・・・・・私と恋人同士になって、それだけで・・・あの時感じた悔しさや悲しさを塗り替えられるくらい、幸せな気持ちになれたんです」

「・・・・・・そこまで、僕の事は・・・」

「・・・・・・それぐらい、春貴さんの事が好きです」

 

 正直、ここまで言われると織部は滅茶苦茶恥ずかしい。小梅の顔を直視できない。今の織部の顔は緩んでいるし、夜で暗いだろうが顔だって赤いだろう。

 

「でもやっぱり・・・その決勝戦に参加するって決まると、やっぱり不安な気持ちはどうしても浮かんできてしまうんです・・・。また、あの時みたいになったらどうしよう・・・って」

「・・・・・・・・・」

 

 小梅が味わったような壮絶な経験と同列に語るのは少し無礼かもしれないが、織部は自分が中学の頃にいじめられ、不登校から復帰する時の事を思い出す。

 あの時も織部は、またいじめられたらどうしようと不安に襲われ、前日は眠れないぐらいの恐怖に苛まれたものだ。

 同じような目に遭うという根拠はないし、そんな確証も無いのだが、不思議なことに人とは悪い方向へと物事を考えてしまう。特に、真面目な織部だったからこそなおさら。

 そして目の前にいる小梅もまた、織部と同じような事になっている。

 

「・・・また、あの時みたいに仲間の足を引っ張ったらどうしよう、私のせいで優勝を逃したらどうしよう、って・・・・・・」

 

 織部の左腕から、小梅が泣きそうなぐらい震えているのが分かる。小梅は今、押し寄せる大きな不安に囚われている。放っておいてしまうと、心が砕け散ってしまいそうなぐらい、小梅の心は脆く、弱ってしまっている。

 ならば、自分はどうするべきだろうか。そう考えて、織部は優しく小梅の肩を抱き寄せる。ただ少しくっつくような先ほどより、ずっと距離は縮まっている。抱き寄せる肩を、優しく叩いて気持ちを落ち着かせる。

 

「・・・落ち着いて、小梅さん」

「・・・・・・・・・」

 

 あくまで優しく、丁寧に話しかける。小梅の緊張や、不安を解きほぐすように、一定のリズムで、優しく小梅の肩を叩く。

 少しずつ、小梅の震えは収まっていく。織部は、自分の思う事を、素直な小梅に対する気持ちを伝える。

 

「・・・・・・小梅さんは今、不安や恐怖と戦っている。暗い気持ちから逃げないで、ちゃんと向き合ってる。小梅さんは強いよ」

「・・・でも、春貴さんに相談してしまって・・・」

「それは全然悪い事じゃない。むしろ僕だって嬉しいよ」

「え・・・?」

 

 空いている手で織部は頬を掻き、少し恥ずかしそうにそっぽを向きながら答える。

 

「・・・・・・こうして、小梅さんっていう恋人が、自分一人で何でも抱え込まないで、僕を頼ってくれているのが、嬉しいから」

 

 照れ隠しをするかのように、織部が『あはは・・・ちょっとクサかったかな』と苦笑いを浮かべながら呟くが、そんな事は全くなかった。

 今の織部は、小梅の目には格好良くしか映らない。今なら、自分の全てをこの人に捧げられそうな気分だ。

 その小梅の気持ちを知らずに、織部は続ける。

 

「・・・過去の事を思い出して、不安になる事は決して悪い事じゃない。むしろ、過去の失敗を忘れず覚えているから、この先成長していくことができる」

「・・・・・・・・・・・・」

「そして小梅さんは強い。だから、あの時みたいなことにはもうならない。僕はそう思う、そう信じてる」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 目を閉じて、織部の言った言葉を反芻する。

 自分は今、成長している過程にある。その過程で、過去の失敗を思い出して不安に苛まれているところなのだ。

 そして織部もまた、その言葉の通りここまで成長してきたのだろう。中学の忘れられない出来事があったからこそ、人よりも努力し続けて成長を遂げ、今この黒森峰にいる。

 織部だから言える言葉だ。

 

「・・・小梅さんは、とても強い人だよ。そしてこれから、もっと強く成長できる。だから、もう失敗はしないはずだ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 先ほどとは違う、心の中で蟠るモヤモヤは、無くなっていた。

 だがそれでも、小梅の表情は晴れていないようで、その顔を見た織部もまた、少し不安な表情になる。

 そこで織部は、少しだけ、小梅を勇気づけるためにある行動に出た。

 

「・・・・・・小梅さん」

「?」

 

 小梅が織部の顔を見たところで、織部は小梅にキスをした。

 それほど長い時間ではない。つい先日、織部が小梅の部屋を訪れてそして帰る時に小梅から不意打ち気味にされたキスと同じか、それより少し長い程度。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 そして唇を離し、小梅に向かい合う。小梅の顔からは、不安は消えていた。

 

「・・・これで少しは・・・不安は収まったかな・・・?」

 

 それに対する小梅の答えは。

 

「・・・・・・はい、もちろんです」

 

 先ほどの不安や恐れを感じさせない、優しい笑み。それを見れただけで、十分だ。

 だが、先ほど自分のした行動があまりにも恥ずかしすぎて、顔を逸らす織部。小梅の不安が晴れた事に関しては嬉しいが、あれについてはもう忘れることもできないし、取り消す事も叶わない。

 

「・・・・・・春貴さん」

「・・・?」

 

 そんな恥ずかしさに悶える織部に、小梅が声を掛ける。

 何だろう、何を言われるのかが、今の織部にとっては恐ろしい。いや、まだ何か不安を抱いているようであれば織部は最大限の力を尽くして小梅に向き合うが、さっきの行動について色々言及されるのは、傷口に塩を塗り込むような所業だ。

 だから、おっかなびっくり小梅に顔を向けると。

 小梅が織部の両頬に手を添えて、今度は小梅の方からキスを仕掛けてきたのだ。

 だが、お互いの唇が重なり合う時間は、先ほどよりも長い。むしろ、本当に初めての、ファーストキスの時よりも、ずっと長い。

 前よりも少し強く唇を重ねる2人。

 少しの間キスを続け、やがて小梅の方から唇を離す。

 小梅の顔は少し上気していて、

 

「・・・・・・さっきの、お礼です」

 

 一本取られた、とばかりに織部は小さく笑って目を閉じる。

 

「・・・・・・明日の試合、頑張ってね」

「・・・・・・はいっ」

 

 もう、小梅の顔に不安はなく、目にも恐れや心配などの気持ちはない。後は試合に臨むだけだ。

 黒森峰戦車隊の一員として、勝利をもぎ取るために全力で戦う。

 その強い意志は、織部とつなぐ手に籠められていた。

 

 

 黒森峰学園艦は、清水港に夜中の2時ごろに寄港した。

 そして、試合に参加する戦車の積み下ろしを始めたのは早朝5時半。まだ日も昇っていない時間なので作業は慎重を期したが、どうにか全車輌を無事に降ろすことができた。後は近くの貨物駅から、戦車を貨車に乗せて東富士演習場の最寄の駅まで運ぶ。

 ちなみにマウスだが、その重量は188tと破格の数値を誇っており、流石にこれほどの車輌は普通の貨車でも運べないので、大物車と言う特別な貨車で別口で運ぶ事になっている。だから、会場入りするのは他と比べて遅い。

 そして会場に向かうまでの間、専用列車に乗り込み黒森峰隊員たちは駅へ向かう。

 その道中、誰もが姿勢を正して私語の1つも口にせず黙って目的地に着くのを待つというほど黒森峰も堅苦しくはない。早朝5時半から戦車の運び出しをしていたこともあり、試合前に英気を養うために仮眠をとる者や、朝食を食いそびれてサンドイッチを食べる者もいる。織部の知り合いの中で、前者には直下と根津がそれに当たり、三河は後者に当たる。斑田はチームメイトと話しながら外の景色を眺めていた。

 そんな中、小梅は少し窓を開けて外の流れる景色を見ながら目的地へ着くのを待ったが、その中で。

 

「・・・・・・赤星さん」

「?」

 

 隣に座る、小梅が車長を務めるパンターの操縦手の玉名が話しかけてきたのだ。

 

「今・・・・・・少々お時間よろしいでしょうか?」

「はい、大丈夫ですよ。どうかしましたか?」

 

 小梅がパンターの車長に復帰し、こうして1年の後輩の指導をするようになってから随分経つが、大分打ち解けることができた。最初はそれこそ、小梅は後輩の指導をした事も無かったし、後輩たちも小梅が1年先輩と言う事で遠慮する事が多くて、奇妙な距離感で接してきた。けれど、今ではそこまで緊張感を抱かずに話をすることができる。でなければ、今ここで小梅に話しかける事などなかっただろう。

 

「・・・私・・・こうした大きな大会に出場するなんて初めてで・・・しかもそれが決勝戦っていう黒森峰の優勝が懸かった試合だなんて・・・それで、正直ちょっと不安になってるんです」

 

 そこで小梅は、ちらっと近くに座る、自分と同じ戦車に乗る搭乗員の表情を覗う。確かに、少し緊張の色が見て取れた。

 無理もない話だろう。おそらく彼女たちにとっては初めての公式戦で、しかもそれが決勝戦と言う大舞台だなんて恐れ多いにもほどがある。

 加えて相手は強豪校を次々と打ち破った大洗女子学園だ。だから自分たちの腕が果たして通用するのかと、恐れているのだろう。

 

「どうすれば・・・・・・緊張しないでしょうか・・・・・・」

 

 初めての公式戦で緊張してまともに戦えなかったらと不安になっているのだろう。

 だが正直言って、完全に緊張をほぐす方法はない。緊張しないと思い込んでも心のどこかで、緊張を感じてしまう。

 だが、緊張を“無くす”方法はないが、緊張を“和らげる”方法はある。

 

「・・・私も、最初に公式戦に参加する時は緊張してました」

「赤星さんも?」

「はい。その時は、皆さんと同じように緊張してましたよ」

 

 でも、と言って少し窓の外を見る。すぐにトンネルに入って真っ暗になってしまった。

 

「・・・自分がどうにかしなくちゃ、って思ってたんですよ。あの時は」

「?」

「他に、仲間がたくさんいるのに」

 

 黒森峰の一員だからと言う強い自覚を持ってしまい、自分がどうにかしなければと思い込んで、余計に緊張をしてしまっていたのだ。

 だが、自分の周りには、共に戦ってくれる多くの仲間がいた事に気付いたのだ。

 

「全てを1人でやろうとは思わないでください。皆さんと、仲間と力を合わせて、勝利を目指しましょう」

 

 その言葉は、織部から教わった言葉を少しもじったものだ。自分1人で全てを抱え込もうとはしない、自分には共に戦う仲間がいる事を忘れてはならない。

 それは誰に対しても言える言葉だ。

 

「・・・・・・でも、もし負けたら・・・」

 

 そう思う事自体は悪い事ではない。負けるビジョンが見えないと思う事も悪くはないが、それは見方を変えれば驕り慢心していると捉えられる。

 だが、負けると不安になっていると、その不安は試合に表れ、本当に負けてしまいかねない。

 

「・・・負けてしまったら、と言うのは可能性の話です。それに惑わされて勝機を逃しては、元も子もありません」

「・・・・・・」

「それに、ただ戦って負けるよりも、仲間と力を合わせて戦い負けた方がずっといいです」

「・・・・・・・・・」

「だから、勝つことを第一に考えてください。そして仲間と力を合わせる事も、忘れないでください」

 

 小梅が告げると、玉名は小梅の言葉を目を閉じて理解し、良く噛み砕いて理解する。

 

「・・・分かりました!」

 

 先ほどまでの不安はもうない、自信に満ちた表情を浮かべる玉名。

 そして、近くに座る他の搭乗員たちも、同じような顔だ。中には、笑みすら浮かべる人もいる。

 トンネルを抜けると、もうすぐで演習場の最寄り駅につく。

 車内のアナウンスがそれを告げると、前方車輌にいたまほが小梅たちの車輌にやってきた。

 

「もうすぐ到着だ。準備をするように」

『はい!』

 

 まほの言葉に、全員が大きな声で答える。いつの間にか、寝ていたはずの根津や直下、他の隊員たちも起きていた。

 もうすぐで、大洗女子学園との決戦の地へとたどり着く。

 立ち上がり、車輌のドアへと向かう隊員たち。その眼にはやはり、絶対に勝ち、優勝をもぎ取るという意志が籠められていた。

 やがて列車は減速して、駅へと進入していく。




ルピナス
科・属名:マメ科ルピナス属
学名:Lupinus spp.
和名:羽団扇豆
別名:昇り藤、立ち藤、葉団扇豆(ハウチワマメ)
原産地:南北アメリカ、地中海沿岸
花言葉:あなたは私の安らぎ、いつも幸せ、想像力、貪欲


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鈴蘭水仙(スノーフレーク)

書きたいシーン・描写がいくつもあり、
取捨選択できなかった結果このような長さになってしまいました。
予めご了承ください。

黒森峰モブガールズのシーンは書きたかったんです(土下座)


 両校挨拶の時間が間もなく迫ってきている。

 天気は快晴、夏が近づいているものの気温は暑すぎず寒すぎずと、過ごしやすい陽気で絶好の試合日和だ。

 第63回・戦車道全国高校生大会決勝戦が行われる、富士演習場の外に設けられた観戦席の近くには、多くの出店が並んでいた。軽食系の屋台に違和感はなく、応援グッズもさほど不思議ではない。だが、戦車のプラモデルまで売っている出店もあってそれについては驚いた。

 さらにその近くには撮影用の戦車まで停められている。小さな子供が戦車の上に乗って、保護者らしき女性が写真を撮っている。

 そして、“報道”と白く書かれた赤い腕章をつけた、大洗女子学園の生徒らしき女生徒がマイクを握って、同じ制服を着たカメラを肩に担ぐ生徒の前で何やら熱心にインタビューをしていた。

 それらを横目に見ながら、織部は観客席に向かい、その最後列に立つ。準決勝まで一緒に見ていた小梅や根津も今回は試合に参加するのでここにはいない。他の隊員たちはまた別の場所で観戦している。

 改めて観客席を見ると、これまでの試合以上に多くの観戦客が詰め寄せていた。やはり、高校戦車道最強と謳われる黒森峰と、奇跡の快進撃を見せる大洗の試合の結末が気になる者が多いのだろう。今や、戦車道ファンや試合に参加する生徒の親族に限らず、戦車道の事を深く知らない一般人までもがこの試合を観に来ていた。

 そしておそらく、黒森峰の関係者を除けば、ほとんどの観客たちがこの場で応援するのは大洗女子学園だ。

 戦車は一概に強いとは言えず、構成する隊員はほぼ全員が今年始めたばかりの新人同然、対する相手はどこも強豪校という、絶望的な戦局を幾度となくひっくり返して勝利を勝ち取り、ここまで上り詰めた。

 普通に考えても奇跡に近い大洗の戦いは、誰もが惹かれるものであり、その集大成となるこの決勝戦を一目見ようと、これだけ大勢の人間がここへ観に来たのだ。

 画面が切り替わり、両校の生徒が挨拶をする草原が映される。

 そこで自然と、観客たちの声も小さくなっていき、すぐに誰もが黙り込んでこれから始まる試合に意識を集中させる。

 織部も、固唾をのんで試合開始を待った。

 

 

 

『両校隊長、副隊長、前へ』

 

 審判が告げると、隣に立つ西住隊長と私が前へ歩き出す。同様に、大洗からもあの子ともう1人、黒髪ショートボブに片眼鏡の少女が歩いてくる。その子が副隊長なのだろう。

 そして、審判長の前で私たちは立ち止まり、相対して。

 

「・・・お久しぶり」

 

 私が先に“挨拶”をすると、みほは力なく項垂れる。ルクレールの事を未だに覚えているのだろうか、それとも何かほかに後ろめたい事があるのか。いや、むしろ後ろめたい事ばかりなのだろうが、そんな事はどうでもいい。

 

「弱小チームだと、あなたでも隊長になれるのね」

 

 みほが少し表情を曇らせ、片眼鏡の副隊長がムッとした表情をする。

 

「・・・本日の試合の審判長を務める、蝶野亜美です」

 

 私が“挨拶”を終えたところで、緑色の軍服を着た長身の女性が前に出る。確か、去年の全国大会決勝戦でもこの人が審判長を務めていた気がする。

 それが私の記憶違いだったとしても、この人の事は元々知っている。今は陸上自衛隊の富士学校富士共同団戦車教導隊の教員で、階級は1等陸尉。元々戦車乗りで、学生時代は数多の伝説的な戦歴を残し、今では実業団チームでその力を振るっている戦車道のスペシャリストだ。しかもこの人、西住流に教えを乞うていた時代があった。だから同じ西住流を信ずる者として、戦車乗りとしても見習うべき場所がたくさんある。

 

「一同、礼!」

 

 その蝶野教官が姿勢を正し、号令をかける。

 隣に立つ隊長はもちろん、私も自然と姿勢を正す。たとえ目の前にいるのが憎たらしい倒すべき相手だとしても、こうして一度冷静になって礼を尽くす準備をする。このあたり、普段の戦車道の活動で身に染み付いているものだ。

 

「よろしくお願いします!」

 

 最初にみほが挨拶をして頭を下げる。そして、私を含めたその場にいる全員が、挨拶をした。

 

『お願いします!』

 

 そして頭を上げると、蝶野教官は笑みを浮かべて頷く。

 

「それでは、両チーム試合開始地点へ。お互いの健闘を祈るわ」

 

 そう言って蝶野教官は、副審を連れて審判の立つ場所へと向かって行った。

 

「行くぞ」

「はい」

 

 隊長に促されて、私もみほたちから背を向けて、自分たちの乗る戦車へと向かう。

 ただしその前に。

 

「・・・・・・たまたまここまで来たからって、いい気にならないでね」

 

 まだみほがこちらを見ているのに、私は気付いている。だからその上で、私はくぎを刺しておく。みほに限っては無いだろうが、今まで勝利してきたからと浮かれて、自分たちの力を過信しているとは思わせないように。

 

「見てなさい。邪道は叩き潰してやるから」

 

 みほの事を一瞥して、私は言い放つ。

はっきりと、みほの戦車道が西住流にとって邪道であるのだと改めて認識させる。

 これでいい。

 こうしてみほの、大洗の敵意を煽り、全力を出させる。みほと大洗が邪道ではないと必死に否定してもがき、戦えばいい。

 そしてその上で、黒森峰の圧倒的な力をもって叩き潰す。みほの邪道な戦い方は間違っていて、黒森峰の、本来の西住流の王者の戦い方こそが正しいと思い知らせる。

 もっとも、みほがこの程度の煽りに乗らない可能性だってあるが、彼女だって曲がりなりにも戦車乗りの1人だから全力で試合に臨むだろう。

 だから私は、“念のために”大洗を煽り全力を引き出させ、さらに私たちを倒すべき相手と認知させて闘気を引き出させる。私が大洗、ひいてはみほを煽ったのはそう言うわけだ。

 だけど私は、私たちはその闘気も押し返し、蹂躙して、みほの戦い方を真っ向から否定する。最も強く正しいのは本来の西住流の戦い方なのだと、知らしめる。

 それで私のこの大会の、優勝とは別のもう1つの目標・・・邪道を行く西住みほを叩き潰すという目標は成就する。

 小さく息を吐き、これから始まる試合に向けて気を引き締める。

 そうして、私の戦車の搭乗員が待つ場所へと向かおうとしたところで、1人の隊員が私とすれ違い、大洗の方へと駆けていった。

 

「待ってください、みほさん!」

 

 

 

 私は、みほさんの下へと駆け出していた。そして名前を呼ぶと、みほさんは振り向いてくれた。

 およそ半年ぶりの、みほさんとの再会。少し、背が伸びているような気がした。それは単に身体が成長したからと言うのもあるだろうし、別の面でも成長したところがあるのかもしれない。

 

「あの時はありがとう・・・」

「・・・・・・・・・・・・あ」

 

 みほさんの事は慕っていたけれど、付き合いはそれほど多くはなかった。隊内の模擬戦で同じチームになった時や、食堂で食事を共にしたことが数回あるだけ。そしてあの大会で助けてもらった時。友達とまではいかない、顔見知りといった具合の関係だ。

 そしてみほさんは、私の言葉を聞いて思い出したのだろう。去年の全国大会の事を。

 大事な試合前に、酷な事を思い出させてしまうかもしれないと思ったけれど、止まる事はできない。

 

「あの後、みほさんがいなくなって、ずっと気になってたんです・・・。私たちが迷惑かけちゃったから・・・・・・」

 

 迷惑、どころではすまないような事態に陥ってしまったのだけれど、それ以上の言葉が今の私には見つけられなかった。

 でも今、みほさんに会って言いたかった言葉はそれじゃない。

 春貴さんには、みほさんという強敵と戦う事をずっと望んでいたと言ったけれど、それでも他に言いたいことはあった。

 

「でも・・・・・・」

 

 今、直接みほさんに言いたい言葉は。

 

「みほさんが、戦車道辞めないで良かった・・・!」

 

 幼いころから戦車と共に成長してきて、戦車とは切っても切れないような関係だったみほさん。

 でも自分たちのせいで、その戦車のそば、戦車道から逃げ出すきっかけを作ってしまった事が申し訳なかった。

 だから戦車道を辞めず、また新しい地で戦車に乗っていることが、本当に嬉しくて、喜ばしかった。

 そして黒森峰で戦車に乗っているみほさんの姿は、普段のおどおどした様子と比べてもはるかに凛々しくてしっかりしていて、逞しかった。それこそ私の目には、西住隊長よりも輝いて映っていた。

 みほさんがその輝きを失わずに、今も戦車に乗っている。そのことが嬉しかった。

 言っている途中で、嬉しさのあまり涙が浮かんでしまったけれど、それは今は気にしない。

 みほさんは、私の言葉を聞いて少し驚いたような顔をしていたけど、やがてにこりと笑った。

 

「・・・私は、辞めないよ」

 

 その言葉を聞いて、私は少しホッとした。

そして涙を指で拭い、みほさんにまた一歩、近づく。

 

「・・・みほさん、すごいです・・・。サンダースやプラウダを倒すなんて・・・」

「ううん・・・結構、皆に助けられたところがあったから・・・皆の力があって、私たちはここまでこれたんだよ」

 

 決して胸を張らずに謙遜して、仲間の力があってこそと、仲間との協力を大切にしている、みほさんらしい言葉だった。

 変わってないなぁ、と私は思う。

 黒森峰での模擬戦の時も、西住隊長もそうだけど、みほさんは決して手柄を自分によるものとせず、皆のおかげと言っていた。

 自画自賛、我田引水と言う言葉とは程遠かったみほさんは、今目の前にいる。

 

「赤星さんも・・・戦うん、だよね。ここにいるって事は」

「はい・・・・・・全力で戦わせてもらいます」

 

 私が右手を差し出すと、みほさんは少しだけ戸惑いながらも右手を差し出して、握手を交わす。

 

「私も、全力で戦うよ」

 

 上手く笑えていると思う。

 何せ私は、恩人とも言うべき人と全力で戦うと宣言してしまったのだから。恩義を感じているならば、ここはみほさんに花を持たせるべきだ。

 けど、戦車道は常に全力で挑むことが礼儀だ。手加減や接待なんてもってのほか。だから私も、全力で戦わないといけない。

 そしてそれは、みほさんも分かっているはずだ。

 

「赤星さん・・・・・・少し変わったね」

「へ・・・?」

 

 握手を解くと、斜め上の言葉を受けて、私は首をかしげる。どこか変わったようなところがあっただろうか?

 

「何だか・・・前よりも自信がついてるって言うか」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 みほさんは黒森峰にいた間も、チームメイトとして私の事を見ていてくれたのかもしれない。そのことに今さら気付いて、少しばかり感動の涙を流してしまいそうだ。

 だけどそれは必死に堪える。

 そして、自信がついてるという言葉については心当たりがあった。

 

「・・・・・・大切な人のおかげで、自信を持つことができましたから」

「大切な・・・人?」

 

 もちろん、その大切な人の名は言わない。

 今度はみほさんが首を傾けたところで。

 

「みぽり~ん!」

「行きましょう!」

 

 大洗のメンバーがみほさんを呼んでいた。

 みぽりん、というのはみほさんのニックネームだろう。黒森峰ではそんなニックネームすら付けられる事も無かったのに、そう言った気の置けない仲間、友達ができたという事だ。

 黒森峰ではできなかったものを新しい場所で掴み取ることができたのを知り、それも嬉しかった。

 

「じゃあ行くね」

「はい」

 

 そう言ってみほさんは、私に背を向けて大洗のメンバーが待つ場所へと小走りに向かって行った。

 私も、黒森峰の皆がいる場所へと踵を返して戻って行く。

 

 

 観戦席に設置されたモニターには、その“挨拶”の一部始終が映されていた。だが聞こえたのは、両校の挨拶の『お願いします』という大きな声だけで、エリカがみほに向けて放った言葉も、小梅とみほが何を話していたのかも、観戦席には聞こえない。

 だが、小梅とみほが話しているのを見て、織部は自然と顔がほころぶ。

 みほのおおよその事を小梅の口から聞き、みほもまた壮絶な経験をしたであろうことは織部も分かっている。もしかしたら、去年のみほが取った行動は、みほ自身でも疑問視しているのではないかと、織部は考えていた。

 だが、こうして小梅と再会して、小梅から何かの言葉を受け取ったみほが晴れやかな顔を浮かべていたのを見るに、小梅から告げられた言葉はきっと、そのみほの中にある疑問を晴らすものだったのだろうと、推測できる。

 みほと再会して、小梅は恐らくみほに直接言いたかったであろう言葉を言うことができ、みほもそれで少しでも自信がついたのだと思うと、織部は自分の事でもないのにとても嬉しかった。

 そしてみほと小梅の関係が拗れることなく、お互いに正々堂々と戦えるのだと思う事で安心感を覚えた。

 後は小梅たち黒森峰と、みほたち大洗が全力で戦うだけだ。

 

『試合開始まで、あと10分です』

 

 

 

 試合開始の号砲が鳴る。両チームの戦車が前進を始めて、観客席は静かに盛り上がり始める。

 さて、恐らく今最も注目を集めている大洗だが、車輌数が8輌に増えているし、元々いた車輌も少し変わっている。正確には、三式中戦車チヌとポルシェティーガーが新たに追加されており、隊長車でありフラッグ車でもあるⅣ号戦車に増加装甲―――シュルツェンが装備されて色も変わっていて、さらに38(t)が駆逐戦車ヘッツァーに改造されていた。

 試合開始直後の両者の距離はさほど近くはなく、両陣営が真正面からぶつかるとすれば、その両陣営の中間あたりにある森になるだろう。だが大洗は、森の中は視界があまり利かないので、敵の動きを認識しづらい事を知っている。そして、大洗は黒森峰よりも戦力が低いという事を承知しているだろうし、森は迂回するだろう。

 だが黒森峰は、得意とする速攻の電撃戦を仕掛けるために森の中をショートカットして最短距離で大洗へと接近する。

 知波単の時もそうだったが、敵は恐らく、両者の距離は離れているからそこまで早く接敵することはないだろうと思っている。その油断を突く形で仕掛けるのだ。

 そして試合開始からわずか十数分で、黒森峰の全車輌は大洗の全ての車輌を有効射程内に捉えられる距離まで近づき、早くも整然とした砲撃を始めた。

 ただし、正面からではなく大洗の横合いから。正面からだと敵に見つかる可能性が高くなってしまい、奇襲が失敗する確率が高くなる。横からなら、前から攻めるよりも奇襲の確率が高くなる。

 大洗の戦車隊は、予想外に早い奇襲を受けて戸惑い、動きが鈍っている。すぐにジグザグ走行を始めて、黒森峰の戦車から捕捉されないように動くが、黒森峰の砲撃は激しく、どこを走っていても当たりそうな勢いだ。

 そんな中、新しく大洗に投入された三式中戦車が動きを止めた。この状況で止まるのは自殺行為に等しいのだが、戦意喪失と言うわけではないだろう。早くもトラブルだろうか。

 すると今度は急にバックして、大洗のフラッグ車・Ⅳ号戦車の後ろに出てくる。そこで、黒森峰のティーガーⅡの砲撃を受けて三式中戦車はスピン、白旗を揚げた。

 

『大洗女子学園三式、走行不能!』

 

 だが、あの三式がバックしたおかげで大洗はフラッグ車が撃破される事も無かったので、決して無駄死にではなくむしろファインプレーと言うべきだ。観客席からも拍手が上がっており、もしかしたら黒森峰の砲撃を読んでいたのだろうか。だとしたら、やはり侮れない。

 

 

 

「・・・・・・すみません、外しました」

 

 エリカの車輌の砲手が、心底申し訳なさそうにエリカに告げるが、エリカが獰猛な笑みを浮かべていることに気付き、砲手は少し疑問を抱く。

 エリカがそんな顔をしているのには、2つの理由がある。

 1つは、大洗の貴重な戦力を早い段階で削ぐことができたからだ。黒森峰の20輌と比べて、大洗は僅か8輌しかいないから戦力差は単純に2倍以上。なのでたとえその性能が悪くても1輌1輌が貴重な戦力だ。おまけに三式中戦車はスペックもそこそこいいので、これで大洗の戦力は大分落ちる。

 

(・・・そうこなくては、ね)

 

 そしてもう1つの理由は、ここであっさり勝負がついてしまっては面白くないからだ。

 まだ自分たちは、強豪校を幾度と破った大洗の戦いを見ていない。その戦いを見ずに勝負がついてしまっては面白くはない。そして何より、邪道を歩むみほたちがこの程度で潰れてしまっては倒し甲斐が無い。

 

「・・・・・・三式を仕留めただけ上出来よ。これで大洗の戦力は落ちるわ」

「・・・・・・はい」

 

 砲手は、エリカも少し変わったと思っている。

 ちょっと前までのエリカなら、みすみすフラッグ車を仕留めるチャンスを逃したからと叱責してくるだろうに、こうして怒らなかった。

 それが不思議だな、とだけ思う。

 

 

 黒森峰の集中砲火から逃れた大洗は少しでも黒森峰を撒くために森を抜け、一斉に煙幕を張って黒森峰の視界を鈍らせる。これで大洗の戦車隊の様子は、観客すらも分からなくなった。

 大洗の向かう先には土でできた高地があるため、そこへ陣取って上から黒森峰を狙うつもりだろう。だが、大洗にはポルシェティーガーがいる。ポルシェティーガーは足回りが弱く速度も遅いので、高地を登るにはどうしたって大洗の足を引っ張る事になる。すぐに高地へ到達することはないだろうと思い、弾薬の節約も兼ねて黒森峰も追撃は急がず機銃掃射だけで、砲撃はしない。

 だが、煙幕が晴れると既に大洗戦車隊は高地の中腹よりも上あたりまで登っていた。よく見ると、ポルシェティーガーをⅣ号、Ⅲ突、M3がワイヤーで引っ張り上げていた。煙幕を張っている間に仕掛けて、登る速度を速めていたという事か。

 続けて大洗は、先行する八九式とルノーが煙幕を張りながら蛇行運転をして、大洗戦車隊全体を見えないように煙で覆う。これで追撃の可能性を完全に無くすというわけだ。

 黒森峰も、大洗が想定していたよりも早く進んでいることに少しばかり焦りを感じたのか、榴弾で煙幕を払おうとする。

 だが、進撃する黒森峰戦車隊の横合いから砲撃があった。砲撃してきたのはヘッツァー。ヤークトパンターに命中して履帯を切断する。また直下が愚痴るだろうなぁ、と織部は心の中でだけ思う。

 続けてヘッツァーは近くを走るパンターを狙い砲撃し、またしても履帯を切る。そこで流石に頭にきたのか、黒森峰の戦車がヘッツァーに向けて発砲する。だが、上手い具合にヘッツァーが後退してしまい射線を外れる。仕方なくヘッツァーの撃破は諦めて、大洗の本隊を追う。

 ヘッツァーの奇襲と言う名の時間稼ぎによって、黒森峰が高地麓に到着した時には既に大洗は陣地を構築していた。だが黒森峰はその程度で勝ち目を見失うほどやわではないので、じりじりと前進して大洗を追い詰める。

 大洗は黒森峰が登ってくる間に砲撃を続け、遂にⅢ突がⅢ号戦車を1輌撃破した。さらにⅣ号戦車がⅢ号戦車を撃破する。そしてⅢ突がさらにラングを1輌撃破。いかに最強の黒森峰と言えど、地の利を得ている大洗相手には少し苦戦するようだ。

 数の上では圧倒的に不利な大洗が黒森峰の戦車を3輌撃破したことで、観客席は盛り上がっている。あまり戦車道に明るくない一般人は、もうこの時点で大洗が勝てるかもしれないと思い込んでいた。

 ところが、黒森峰はフラッグ車の前にヤークトティーガーを出し、前を守る。これまでの試合で、速度の遅いヤークトティーガーを前に出してそれに合わせるように進めば、陣形を乱すことなく、そしてフラッグ車を守ることができると学んだ。黒森峰でもトップクラスの装甲の厚さを誇るヤークトティーガーで前を守れば、フラッグ車がやられる心配も無い。

 大洗の戦車もヤークトティーガーを狙って撃つが、弾かれるばかりでまるで効いていない。

 黒森峰の陣形は、大洗を取り囲むように展開されているので逃げ道は無い。後は、十分に近づいたら一斉に発砲して、それで終わりだ。

 

 

 履帯と転輪を直して、ようやく動けるようになった直下のヤークトパンターは高地を目指して進んでいた。通信を聞く限り、まだ決着はついていないらしい。

 

「ふぅ~、間に合ったぁ」

 

 黒森峰の勝利の時、全国一に返り咲いた瞬間に、自分は履帯を直していましたと言うのも情けない話だ。せめて勝利の瞬間はその場にいたい。

 そう思い、今なお砲撃戦が繰り広げられている高地へと直下たちは急行していた。

 ところが、後ろの方から別の戦車の駆動音が聞こえてきた。その音のする方向へ目を向けると、そこには先ほど履帯を切ったヘッツァーがいた。

 

「あっ、またあんなところに!7時の方向、例のヘッツァーよ!」

 

 ヤークトパンターは前面固定砲塔であるがゆえに、前方以外の方位にいる敵戦車を狙うには車輌ごと向きを変えなければならない。だから後ろにいるヘッツァーを狙うためにヤークトパンターは信地旋回をするのだが、その速度は遅い。

 のろのろと信地旋回をしている合間にヘッツァーがまたしても履帯を狙って撃ってきた。憎らしい事にそれは命中し、またも履帯が切れる。

 

「うわぁぁ!直したばっかりなのにぃ!」

 

 車内から『また切られたの~?』という疲れ切ったような呆れたような乗員の声。そしてその横を勝ち誇ったかのように悠然と突き進むヘッツァー。

 ただ撃破するのではなく、こちらの労力と根気を削り取るような戦略がそこはかとなく腹が立つ。

 

「このー!ウチの履帯は重いんだぞー!!」

 

 腕を振って抗議の声を上げるが、それがヘッツァーに聞こえるはずもない。

 そしてこの時直下は、履帯を切られた事に対する憤りと、早く履帯を直して戦線に復帰しなければと思い込んでしまったせいで、ヘッツァーが主戦場に向かっているという報告を怠ってしまった。

 

 

 ヤークトティーガーの動きに合わせるように徐々に登っていく黒森峰の戦車隊。既に3輌撃破されてしまったが、こちらにはまだ17輌もいる。“あれ”を除けば16輌だが、特に支障はない。

 それに、フラッグ車の前にヤークトティーガーがいる以上やられる心配も無い。

 だから落ち着いて、大洗の戦車隊へと近づいていく。

 そこでパンターに乗る斑田は、自軍の戦車のエンジン音とは違う、異質なエンジン音が聞こえたので、ちらっと外を見る。すると、真横に。

 

「な、何!?」

 

 ヘッツァーがいた。しかも自分たちと同じような向きで、大洗側に砲塔を向ける形で。後ろから来たという事か。

 だがこのヘッツァーがどこから来たかと言うのは些末な問題だ。敵戦車が自分たちの隊列にしれっと混ざっている事自体おかしいし、ここまで接近を許してはどの戦車もいい的になってしまう。唯一の救いはフラッグ車のティーガーⅠより少し離れた場所にいることぐらいだ。

 だが、とにかくこのヘッツァーは早く始末しないと取り返しのつかないことになる。

 

「11号車、15号車!脇にヘッツァーがいるぞ!」

 

 普段、斑田は穏やかな話し方をしているのだが、この時ばかりは焦ってしまい荒々しい話し方になってしまった。ついでに余りの驚きで、砲手の肩を何度も踏みつけているのだが、その砲手も今の状況に驚きを隠せないので何も言ってこない。

 ようやく事態を飲み込んだ周りのパンターがヘッツァーを狙おうと旋回させるが、そこでヘッツァーは発砲する事無く前進し、黒森峰の隊列を縫うように走り抜ける。

 

「くそっ、同士討ちになるから撃てない!」

 

 ヘッツァーの動きが不規則過ぎて、下手に発砲すると味方に当たって撃破しかねない。だから迂闊に撃つことができなかった。

 

『こちら17号車、自分がやります!』

 

 そこで、隊列の外側にいたパンターが向きを変えてヘッツァーを狙い撃とうとするが、その隙を突かれて大洗のⅣ号戦車に側面を撃たれて撃破されてしまった。

 

『申し訳ありません!』

『私がやります!』

『待て、Ⅲ突こっち向いてるぞ!』

 

 17号車がやられた事で他の戦車がヘッツァーを狙おうとするが、頂上にいる大洗が完全に動きを止めたわけではない。別の戦車がヘッツァーを狙おうとする戦車に忠告し、指揮系統が乱れ始める。そこでさらに、一度砲撃を止めていた大洗の戦車隊が砲撃を再開してきた。

 

『うわぁまた撃ってきた!』

『何やってるんだ!』

『ヘッツァーどうにかして!』

『Ⅲ突が先だろ!』

『ちょっとこっちこないで!』

 

 完全に指揮系統が崩壊してしまった。無線はしっちゃかめっちゃか、陣形もごちゃごちゃになっていて、普段の黒森峰からすれば考えられないような失態だ。

 継続高校戦でも敵の戦車が陣形を乱して来ることはあったが、今回のようにいつの間にか隊列に混ざっているという事態ではない。だから不意を突かれて、こうして余計混乱しているのだ。

 やはり黒森峰は、基本に忠実で訓練を幾度となく繰り返してきたのだが、それはどこかマニュアルやルール、決まり事に頼りがちなところもあった。そのマニュアルに無い事態に陥ってしまった事が、混乱を生んでいる原因だろう。まほの言っていた『搦手に弱い』と言う言葉の通りだ。

 

 

 

「車長、どうしたら!?」

 

 小梅のパンターの通信手が、顔を困惑に染めて小梅に指示を仰いでくる。今も無線機からは混乱している仲間の声が聞こえてきているが、小梅はまだ冷静さを保っていた。

 

「落ち着いて!冷静に、ヘッツァーを先に狙いましょう。ヘッツァーの75mmは向こうにとって貴重な高火力砲です。残しておくと後々厄介になってしまうので、早めに倒しておくべきです。ですが、仲間に当てる事だけは絶対に避けてください」

「分かりました!」

 

 砲手が返事をする。そして小梅は、操縦手の玉名に指示を出した。

 

「敵のⅢ突は固定砲塔ですから、射線上に入らないように注意して、お願いします」

「・・・やってみます!」

 

 玉名も自信のある返事をしたので、小梅はひとまず安心する。

と言っても、ヘッツァーは縦横無尽に走り回っているので、あのすばしっこい戦車を狙うのは難しいし、それに加えて味方に当たらないように撃つというのはハードルが上がる。

 撃破は難しいと、小梅は思っていた。

 

 

 陣形が崩れたのを大洗は見逃さず、大きく乱れた黒森峰の右側へと大洗の戦車は一目散に向かう。ポルシェティーガーを先頭にしてⅣ号がそれに続き砲撃から守る。ヘッツァーは大洗が逃げ出したのを見ると、またしても姿をくらませてしまった。

 黒森峰が隊列を立て直す間、エリカのティーガーⅡが先んじて大洗を追いかける。それと同時に、まほは三河の乗るⅢ号戦車を市街地付近の森林へと偵察に向かわせた。

 エリカのティーガーⅡは大洗の戦車を追うが、途中で動力系に異常が発生。履帯と転輪が外れてしまい、停止してしまう。だが修理可能な故障なので白旗は上がらない。

 ティーガーⅡはティーガーⅠの改良型として主砲口径が大きくなっていたり前面装甲が厚くなっているが、やはり車輌の重量故に足回りやトランスミッターの故障が相次いでいた。今回もそれが原因だろう。

 エリカが癇癪を起して地団太を踏むが、隊員たちはそれについては何もコメントせずに黙々と足回りを直す作業に集中した。

 

 

 黒森峰を振り切った大洗の戦車たちは、川を渡りさらに距離を引き離そうとする。その先には石橋があり、さらにその向こうには市街地がある。局地戦に持ち込んで有利に立つつもりだろう。

 ゆっくりと川へと入り進みだす大洗の戦車たち。ところが、そこで思わぬ出来事が起きた。

 M3が川を渡っている最中に停止したのだ。

 織部は最初、これもこの試合で既に多くの奇策を披露した大洗の作戦かと思ったが、他の車輌も同時に止まったのを見て、どうもそうではないらしい。

 盛り上がっていた観客たちも、上げていた歓声を抑えて、心配そうにどよめき始める。そこで、M3は恐らく何らかのトラブルに見舞われて動きを止めてしまったのだという事に、会場の誰もが気付いた。

 だが、戦車が止まったからと言って川の流れは止まるわけでもない。しかも川を流れる水の色が濁っていることから、昨日はどうやら上流の方で雨が降ったようで、川の水量も勢いも増しているようだ。

 その2つの要素が重なり、M3が川の流れに押されて傾き始める。このまま何もしないでいると、M3は横転してしまうだろう。そうなれば、密閉されてるわけでもない戦車の内部に水が入り込み、中の乗員は溺れてしまうだろう。最悪の場合は命に係わる。

 ここで織部は、去年テレビ中継で見ていた黒森峰対プラウダの決勝戦の事を思い出した。

 あの時も、戦車が水辺で窮地に立たされ、その時あの場所にいた隊内で高い地位にいるみほが決断を迫られた。

 勝利か、仲間か。この究極の二択にみほは立たされた。

 そして今の状況は、みほにとってはかつて経験したものと似たシチュエーションになっているだろう。

 ここでみほは、どういう行動に出るだろうか。仲間を見捨てて先へ進むか、それとも仲間を助けるために留まるのか。

 織部は自然と前のめりになって、モニターを見つめる。

 やがてモニターが俯瞰図に変わると、黒森峰の戦車隊が近づいてきている様子が映された。このまま速度を変えずに進めば、ものの10分程度で追いついてしまう。

 観客たちは声を上げて『来るな黒森峰ー!』と叶うはずもない願いを叫んだり、『早く早く!』とまくしたてたりした。

 織部は今現在黒森峰の人間なのだから黒森峰を応援するべきなのだが、今織部の頭からどちらを応援するかなどと言う考えは完全に抜け落ちてしまっていた。

 今気になっているのは、これからみほがどうするのかだ。

 

 

 戦車の中で、みほは葛藤を抱えていた。

 ウサギさんチームのM3がエンストを起こし、進めなくなってしまった。だが、車長の澤梓は『自分たちの事は良いから先に行ってほしい』と言った。

 けれど戦車は川の流れに押されて傾き始め、このままでは横転する。かといって助けに行くと、引き離した黒森峰がまた迫ってくる。

 このままぐずぐず迷っていては、ウサギさんチームは助からないし、どころかこのフラッグ車も撃破されて大洗は負ける。そうなれば、これまで積み重ねてきた事は全て水泡へと帰して終わりだ。

 合理的にも戦略的にも考えれば、このままウサギさんチームは置いてそのまま前進する方が正しいのだろう。もしも、今この場にいるのが自分ではなく、西住流たる自分の姉のまほであれば間違いなくそうする。

 けれどみほの本心は、助けたいと叫んでいた。仲間を切り捨てて、犠牲にしてまで勝利するなんて非情なことは、みほにはできない。

 だけど思い出すのはやはり、去年の全国大会の事だ。あの時みほは、助けたくてあの行動に出た。しかし結果的に黒森峰は負け、自分の母親からも責められ、姉には見捨てられ、黒森峰では糾弾されて、最後には耐えられず去ってしまった。

 今回はまた少し事情が違うが、負けてしまうと自分が絶望的な事態に陥ることに変わりは無い。いや、今回は自分だけではない、自分の学校の人たちを最悪の事態に陥れてしまう事になる。

 でも、みほ自身は―――

 

「行ってあげなよ」

 

 頭の中がぐるぐると渦巻き、正しき答えの無い問いの答えを出そうと必死に頭を働かせているみほの耳に、優しい口調の言葉が滑り込んできた。

 見れば、そこには穏やかな笑みを浮かべる沙織の顔があった。

 

「こっちは私たちが見るから」

「沙織さん・・・・・・」

 

 沙織は、優しく笑う。その笑顔には、どこか安心感を覚えるようなものがあった。

 思えば、彼女が声を掛けてこなければ、みほはずっと友達もできなかっただろうし、こうして戦車に乗る事もできなかったかもしれない。

 大洗で一番付き合いの長く、気の置けない、親友である沙織から告げられて、みほの中に淀む葛藤や悩みが晴れたような気がした。

 そして、改めて皆の顔を見てみれば、誰もが自信に満ちた顔を浮かべている。穏やかな表情が目立つ華も、普段は眠そうにしている麻子も、物腰の低い優花里も、皆がみほの事を見てくれている。

 そしてそれは、みほの事を信じていると、言葉に出さずともそう言ってくれている。

 それで、みほの中で踏ん切りがついた。

 息を吸って、そして優花里に告げた。

 

「優花里さん、ワイヤーにロープを!」

 

 優花里は、少し瞳を潤ませたが、その言葉を待っていたとばかりに大きく頷き、そして大きな声で返事をした。

 

「・・・はいっ!」

 

 

 

 沈黙していた大洗に動きがあった。フラッグ車のⅣ号戦車のハッチが開き、中から隊長のみほが姿を現したのだ。そしてもう1人の搭乗員からワイヤーとロープを渡され、ロープの先端をワイヤーに結び付け、もう1つの端を自らの腰に結び付ける。

 観客たちが、またもざわつき始める。一体、何を始めるつもりなのかと。

 みほは、傾き始めているM3を見据えて、一歩踏み出す。

 そしてみほは。

 

「!!」

 

 跳んだ。

 観客たちが歓声を上げる。立ち上がってみほの事を応援する者まで現れた。中には手を合わせて祈る者もいる。

 織部も、目を見開いてみほの行動を見る。多分だが、別の場所で試合を観ている黒森峰の隊員たちも、同じように驚いているだろう。

 みほは、Ⅳ号から隣のルノーへと飛び移り、さらに跳んで隣のⅢ突へと飛び移る。そしてさらに跳び、乗員たちが車外に出たM3へ飛び移る。みほは、腰に結んでいたロープを解き、M3の乗員と力を合わせて引っ張りワイヤーを手繰り寄せる。

 そこでモニターが切り替わり、黒森峰戦車隊が川の近くにある丘を越えようとしている映像が流れた。

 観客たちがどよめき、大洗を急かすような歓声を、黒森峰に止まるように叫ぶ声を上げる。

 モニターが再び大洗の戦車に変わり、大洗の、少し離れた場所にいるヘッツァーと固定砲塔のⅢ突を除いて他全ての戦車が、黒森峰の迫る丘に向けて砲塔を回転させて牽制射撃をしている。これで黒森峰の動きを止めるつもりのようだ。

 

 

 黒森峰ほどの強豪校であれば、川と言う足下の不安定な場所から放たれる牽制射撃程度、避けて進んで大洗へと肉薄する事など造作もない事だ。

 そして冷静に考えてみれば、今フラッグ車の車長であり隊長であるみほは、自分の車輌を離れて故障車の救助に集中している。つまり指揮系統が鈍っている今は、フラッグ車を仕留める絶好のチャンスだ。

 けれど黒森峰はそのチャンスを前にしても、進まず、攻撃もせず、丘の手前で停車していた。

 その理由としてはやはり、先ほど述べたようなチャンスを狙う事がアンフェアだと分かっているからだ。

 黒森峰は言わずと知れた戦車道の強豪だ。だからこそ戦車道に対しては何処よりも誰よりも礼儀を尽くすし、正々堂々と、汚い手は使わずに戦う。

 確かに今のフラッグ車は牽制射撃をしているとはいえ無防備だ。そして、そのフラッグ車に車長はいない。

 けれど車長のいないフラッグ車は、決して万全な状態とは言えない。そんなフラッグ車を狙って撃破して勝利し、優勝して日本一に輝いたところで、それが胸を張って誇らしげに自慢できるかと問われれば、恐らく黒森峰の誰も首を縦には振らないだろう。

 極論を言えば、整備もままならないボロボロの状態で試合に出場した敵の戦車を撃破して、ただ達成感や勝利した喜びだけを感じられるかと問われるのと同じことだ。

 それに、去年の決勝戦で勝利よりも仲間の命を優先したみほの行動はスポーツマンの鑑と評価されていた。今の行動もまた、恐らくこの試合を観ている多くの人からすればスポーツマンとして、戦車乗りとして、いや人として、間違った事は何一つしていない素晴らしい行為だろう。

 だがそのみほの行動を逆手にとってフラッグ車を撃破すれば、黒森峰には恐らく称賛などないだろうし、むしろ逆に責められる。みほの人間性とスポーツマンシップを利用して、非情な勝利を掴んだと。

 事実、去年の全国大会で、みほが救助に行った隙を突いてフラッグ車を撃破し優勝したプラウダ高校には、ファンや一部の評論家から多くの批判と非難の声が向けられた。

 だがこれに関しては、プラウダが一切動じなかったのと、敗北した黒森峰が抗議せずむしろこの結果をすんなりと受け入れてしまった事で自然と沈静化してしまった。

 けれど今度は、しばらくは沈静化しないだろう。何しろ今救助をしているのは、去年と同じみほなのだから。そしてみほの来歴も既に戦車道新聞で知られているし、これまで起こした奇跡から知名度も去年より高くなっている。どんな言葉が黒森峰に浴びせられるか分かったものではない。

 強豪校の戦車乗りとして、戦車道を愛しているからこそ、黒森峰はみほが戦車の救助が終わるのを待った。

 

 

 キューポラから身体を乗り出して、みほがM3を救助するのを見届けた小梅は、目に滲む涙を指で拭った。

 

(・・・・・・やっぱり)

 

 さっき挨拶をした後で会った時は、少し背が伸びたとか成長したなと思っていた。

 けれどやはり、根っこの部分は変わってはいなかった。

 仲間を大切に思い、勝利よりも仲間を助けることを選択したみほの本質は、黒森峰の時と変わっていなかった。

 それが小梅は、嬉しかったのだ。

 あの時のみほは、まだ死んでいない。

 大洗で、生きていると。

 

(・・・・・・みほさん、素敵だな)

 

 

 

 大洗は全ての車輌をワイヤーでつなぎ、全車輌でM3をけん引する。そして、みほが準備を終えて再びⅣ号に乗り込んだのを確認すると、同時に大洗の牽制射撃も無くなったので黒森峰は再び前進を開始。追撃するも、M3のエンジンが元に戻って再び動き出したため、撃破は叶わなかった。

 そして大洗は林へと進路を変えて、別行動をとっていたヘッツァーと合流して石橋を渡る。だが、最後尾を行くポルシェティーガーがスピードを上げて石橋を崩してしまった。これで黒森峰は迂回せざるを得なくなる。

 やがて大洗の戦車たちは市街地へとやってきた。

 大洗には射程の長い長砲身のⅢ突や、機動力の悪さを除けばティーガーとほぼ同格のポルシェティーガーがいる。けれど数の上では圧倒的に不利なため、開けた場所で戦うと形勢が悪い。だから視界の利かない市街地で敵の意表を突き、少しでも有利に戦うのだ。

 だが、市街地に入ったところで大洗の前方に、黒森峰が偵察に出させていたⅢ号戦車が姿を見せた。市街地戦に入る前に片付けておこうと決めた大洗はこのⅢ号戦車を追撃する。

 Ⅲ号戦車は、廃墟と化した団地の中を不規則な動きで走り回る。後ろからの大洗の砲撃も軽々と避けて突き進む。そして角を曲がり、交差点を過ぎたところで停止した。

 Ⅲ号戦車が追い詰められて停止したと思い込んだ大洗は、交差点の手前で停車してⅢ号戦車に狙いを定める。

 だがそこで、大洗から見て左方向から『ズゴゴゴ・・・』と言う音と共に何かが出てきた。

 

(・・・・・・来た・・・)

 

 この時織部は、自分の頬が緩んでいることに気付いていた。

 ゆっくりと横から姿を現してきた、迷彩模様が施されたそれは最初、壁とも門とも見えた。だが、やがて履帯と砲塔、砲身が姿を現してそれが戦車なのだと誰もが理解する。

 観客席がざわつき『・・・何アレ』『あんな戦車いるの・・・?』などと言う困惑した声が上がる。

 織部だって、最初にこの戦車の存在を知った時は驚愕したものだ。だがこの戦車は実際に試作されたもので、実在する。空想上の兵器ではない。

 あれこそが黒森峰の隠し玉にして切り札の、史上最強の超重戦車・マウスだ。

 どうして織部が笑っているのかと言うと、やはり男としてはあのようなデカくて強い鉄の塊が動いているところを見ると、男心をくすぐられるからだ。

 そして大洗が、このマウスを相手にどう戦うのかが楽しみで、自然と笑みをこぼしているのだった。

 その大洗はマウスの存在を認めると後退を開始。マウスの128mm砲の威力はすさまじく、近くの窓ガラスが砕け散った。惜しくもヘッツァーより少し外れた場所に着弾したが、その威力は大洗を震え上がらせるには十分だ。

 果敢にも、大洗の先頭にいたルノーはマウスに向けて発砲するが、前面装甲240mmに空しく弾かれて、逆にゼロ距離射撃を喰らいひっくり返って白旗を揚げてしまった。

 そしてマウスは前進を開始し、大洗へと追撃を仕掛ける。Ⅲ突がルノーの仇とばかりに発砲するがこれも弾かれ、返り討ちに遭い撃破された。

 これで大洗は残り5輌。

 

 

 マウスから2輌撃破したと報告を受けて、エリカはニヤリと笑う。

 先ほどの高地ではⅢ号を2輌、ラングとパンターを1輌撃破され、他にも多くの奇策によって随分と振り回されてしまったが、これで決着がつくだろう。

 先ほどは簡単に勝負がついては面白くはないと思ったが、これ以上戦いが長期化するとこちらがやられかねない。

 もう十分、大洗の戦いは見届けた。

 これで決着をつける。

 

 

 マウスの後ろにつくⅢ号戦車に乗る三河は、得も言われぬ優越感を覚えていた。

 奇跡を何度も起こしてきた大洗を、自分の目の前にいるマウスが圧倒している。

三河の役目は偵察と、大洗をマウスの前におびき寄せる事だったので既に目的は達し、後はマウスのサポートだけだ。

 三河からすれば、尻込みしている大洗を見ているのは楽しいし、必死で砲撃して抵抗する様子もまた面白い。

 三河は恐らく指摘されると怒るだろうが、中々にS気質だった。

 大洗はマウスを相手に後退し続けて、遮蔽物に身を隠してもマウスによって遮蔽物が破壊されてさらに逃げる。そして全車輌で力を合わせて砲撃しても全くの無意味。大洗で一番火力の高いポルシェティーガーの砲撃すらも焼け石に水。

 どうやらこのⅢ号戦車の操縦手もこの状況を楽しんでいるようで、マウスの後ろで蛇行運転しながらチラチラと自分の車体を見せている。

 

「お前らの火力で装甲が抜けるものか!」

 

 遂には楽しさのあまり得意げに宣言し、高らかに笑う三河。

 けれど少し悪ふざけが過ぎたようで、蛇行運転している最中にポルシェティーガーに撃ち抜かれて自分のⅢ号戦車は撃破されてしまった。

 前を行くマウスの車長の根津が『アホ』と言っていたような気がした。

 

 

 廃墟の団地を抜けた大洗の戦車隊5輌は、広い道に1列に並んでいた。

 マウスが団地を抜けてその大洗の戦車たちを視認すると、そちらに向きを変えて前進する。

 そこで大洗の戦車も前進を開始。中でもヘッツァーが速度を上げて向かってくる。近距離まで接近して一発お見舞いするつもりだろうか?そう思ったが、ヘッツァーとマウスの距離は縮まっていくのにヘッツァーが速度を全く落とさない。このままでは衝突するぞ、と誰もが思った矢先。

 ヘッツァーとマウスが正面衝突を起こした。いや、ヘッツァーがマウスの下に砲身をねじ込み、さらにヘッツァーの全面傾斜装甲を使ってマウスの前面を持ち上げている。織部は『!?』と驚きを顔に表し、観客席もどよめいた。

 

「なんだ!?」

 

 マウスに乗る根津は、突如マウスが後ろに傾いた事に驚く。他の乗員も困惑しているようで、操縦手が『前に進めません!』と叫んでいる。

 外では、M3とポルシェティーガーがマウスの側面に回り、機銃と主砲を撃ってマウスの注意を逸らそうとする。撃ち抜かれるはずはないと分かっていても鬱陶しかったので、砲塔を右に向けて2輌を撃破しようとするが、発砲と同時に避けられて不発に終わった。

 そして、マウスの砲塔が右に向いた隙を突き、八九式がヘッツァーを踏み台にしてマウスに乗っかった。

 マウスの内部にもその振動が伝わり、根津を含めた乗員はさらに混乱する。何だ、一体何が起きているのだ。

 八九式は、マウスの上という極めて狭いスペースで、驚異的な操縦技術で旋回し、マウスの砲塔の横にぴったりとつける。

 この一連の動きに、観客たちは『おおお!』と歓声を上げる。大洗が無駄にこのような事をするとは誰も思っていないので、もしかするとマウスを撃破するつもりなのかと誰もが期待していた。織部も、のめりこむようにモニターを注視する。

 一方、車体の上に八九式が載っていると知った根津は気が気じゃなかった。こんな方法で足止めされるとは思っていなかったし、それに自分の戦車の動きの邪魔をしているのは、あの中戦車とは名ばかりの貧弱な八九式だ。

 

「おい軽戦車!そこをどけ!」

 

 だからキューポラから身を乗り出して、八九式に文句をつける。

 だが、のぞき窓から黒いショートヘアの少女と金髪の少女が顔をちらっと見せて。

 

「ヤです。それに八九式は軽戦車じゃないしぃ」

「中戦車だしぃ」

 

 根津の頭の中で何かがプチンと言う音を立てて切れたような気がした。

 

「くそッ、振り落としてやる!この!」

 

 砲塔を強引に回して八九式を落とそうとするが、八九式も履帯を回転させてその場に留まる。

 そしてマウスの足元からはメキメキと何かがきしむ音が聞こえてくるが、それは恐らくヘッツァーによるものだろう。何せ、マウスの重量は188tもある。その重量に耐えられる戦車などそういない。

 だが八九式に気が向いている間に、敵のⅣ号戦車が土手に上がってマウスの後部にあるスリットを上から狙い砲撃した。そしてマウスは炎上、白旗を揚げて擱座することとなった。

 その瞬間、観客席からは大歓声が上がった。何せ、化け物じみたスペックを持つマウスを撃破したのだから。やはり、これまで幾度となく窮地を乗り越えて勝利を掴んできた大洗の実力は本物なのだと、誰もが痛感する。

 そして織部も、一時とはいえ黒森峰の人間なのだから黒森峰の応援をしなければならず、マウスがやられた事について悔しがったりするべきなのだが、織部は素直に大洗に向けて拍手をしていた。

 これを他の黒森峰生に見られたら何を言われるかは分からないが、そうせずにはいられなかった。

 しかし大洗は、代償として、マウスの重量によって動力系が壊れてしまったヘッツァーを失うこととなってしまった。

 

 

 

「マウスが!?市街地へ急げ!!」

 

 まさかマウスまで撃破されるとは思わなかった。悔し気な根津の報告を受けて、エリカは追従する戦車たちに急いで大洗のいる場所へと向かうように命令する。

 大洗がこれまで多くの奇策と閃きで窮地を幾度となく乗り越えてきたのは周知の事実。その上完全無欠と思われていたマウスさえも倒したとなると、いよいよもって黒森峰の旗色が悪くなってくる。

 そしてもしかしたら、黒森峰が負けてしまうかもしれない。そうなれば、まほの最後の全国大会で有終の美を飾るということもできなくなってしまう。

 と、黒森峰が勝つビジョンが見えず負けてしまうと思い込んでしまったエリカは、自分の膝を叩く。まだ勝負はついていない、気弱になってどうする。そんな事を考えてると本当に勝てなくなる、と自分を奮い立たせる。

 やがて、街道をゆく大洗の戦車隊を発見し、これを追跡する。だが、狭く入り組んだ住宅街を走り回るせいで中々攻撃できない。攻撃して敵戦車を撃破すると、道を塞いでしまうからだ。

 

 

 大洗が市街地に黒森峰を誘い込んだという事は、おそらくここで決着をつけるつもりなのだろう。観客席に座る誰もが、勝敗が決まるのはもうすぐだと気付いて、前のめりになり、モニターを凝視する。

 織部とてそれは例外ではなく、瞬きの頻度が少なくなったように自分でも感じる。

 序盤の奇襲を最低限の犠牲で切り抜け、高地包囲網をかいくぐり、川では仲間との絆を見せて、さらにマウスを仕留めた大洗の戦いには、今や誰もが引き込まれている。織部だって、目を離せずにいた。

 そしてさらに、大洗は驚きのプレーを見せる。

 住宅街を行く黒森峰の後方にいたエレファントの前に突如、M3が姿を現して発砲。即座に姿を消す。エレファントはこれを追撃するが、M3は住宅街を高速で移動し、角を3つ曲がってエレファントの後ろへと移動。エレファントはこれに気付き信地旋回で迎え撃とうとしたが、道幅が狭すぎてそれができない。

 そして、エレファントの背後を撃ったが厚い装甲に阻まれる。が、直後に装甲の薄い薬莢排出口を集中攻撃してエレファントを撃破した。

 

 

 

『エレファント、M3にやられました!』

「何やってんの!!」

 

 鏡車長からの報告にエリカは食って掛かる。

 マウスに続き重駆逐戦車を1輌やられるとは流石に想定していない。これで黒森峰の戦力もまた下がってしまった。

 

「フラッグ車だけを狙え!」

 

 まほがいつもと変わらないような口調で隊に命令を下す。まほは、恐らくエレファントが挑発に乗せられM3を相手にしてしまい返り討ちに遭ってしまったと思った。

 ならば早めにフラッグ車を倒して決着をつけなければ、この先黒森峰は翻弄され続け、戦力は確実に減っていく。

 

 

 フラッグ車と引き離されてしまったティーガーⅡと2輌のパンターが、八九式と遭遇する。最初、ティーガーⅡの車長の宮原は相手にしようとしなかったが、機銃掃射共に車体をこすりつけてきたので、無性に腹が立った。その相手が、自分のティーガーⅡとは違う、貧弱な八九式と来たらなおさらだ。

 宮原は、同じく行動をしていた斑田と協力して八九式を挟み撃ちにしようとするが、躱されてしまう。そして八九式は、蛇行運転をしながら逃げるので追撃することとなった。

 フラッグ車だけを狙えと言う、まほの命令は頭に入ってこなかった。

 

 

 M3は、今度はヤークトティーガーに狙いを定めた。一本道を行くヤークトティーガーの背後を取ってM3が発砲するが、厚い装甲に弾かれる。

 するとヤークトティーガーは速度を上げて、次の交差点を右に曲がった。そして、M3に気付かれないように超信地旋回で向きを180度変えて、交差点の傍でM3を狙う。

 だが、M3は交差点前で急停車しヤークトティーガーの砲撃を避けた。観客たちは、M3の驚異的な洞察力と危機回避能力に感嘆の声を上げる。

 だが、ヤークトティーガーはじりじりとM3に迫り、一本道を押し戻すような形でM3と向き合いながら前進する。ここでM3はヤークトティーガーにくっつくいて距離を詰め、128mm長砲身が車体に向かないようにした。その間もM3は発砲し続けるが、前面装甲250mmはゼロ距離でも抜けない。

 だが、モニターが俯瞰図に変わると観客たちは『おっ』と声を上げる。

 そしてM3は突き当たったT字路で左に曲がり、そこでヤークトティーガーに撃ち抜かれて横転、撃破された。

 ところがヤークトティーガーは、M3が曲がったT字路の先にあったのが干上がった人口の川であることに気付き、直前でブレーキをかけるが時すでに遅し。ヤークトティーガーは川へと転落し、砲身が根元からへし折れて上下逆さまにひっくり返り行動不能となった。

 重駆逐戦車を2輌も撃破したM3に観客席から拍手が送られる。

 

 

 

『こちらヤークトティーガー!M3を撃破しましたが、川に転落して行動不能!』

「はぁ!?」

 

 ヤークトティーガーの車長・水俣からの悲痛な報告に、エリカは顎が外れそうな勢いで口を開く。頭に血が上っていく。

 あんな中戦車如きに重駆逐戦車が2輌もやられるなど信じられない。ヤークトティーガーに至っては何たる間抜けとしか言いようがない。もはや、黒森峰の戦力は半減してしまったと言っても過言ではなかった。

 一方でエリカたちは今、まほを先頭に、逃げるⅣ号を追っている。Ⅳ号が向かう先は学校で、どうやらここまでおびき寄せて決着をつけるようだ。

 校舎の脇を抜けて、やがて中庭へと続く通路にⅣ号が入っていく。まほのティーガーⅠがそれに続き、エリカたちも付いて行こうとしたが、ティーガーⅠが入った直後にポルシェティーガーが脇から現れこの通路を塞いでしまった。

 エリカたちが困惑するが、ポルシェティーガーが発砲してきた。

 大洗の本当の狙いは、フラッグ車同士の一騎打ちだったという事か。

 しかし、この程度で怯むほど黒森峰も軟弱ではない。この番人の如きポルシェティーガーを倒してまほの下へ向かうだけだ。

 エリカのティーガーⅡと、共についてきたラング、パンター2輌、ヤークトパンターでポルシェティーガーを集中攻撃する。途中でさらにラング2輌とパンターが1輌ずつ応援に来て、合計8輌でポルシェティーガーと戦う。けれどポルシェティーガーの装甲は厚く、火力も高いので簡単には撃破できない。そして、ラングを1輌撃破された。

 

「何やってんの!失敗兵器相手に!」

 

 いつまでたっても撃破されないポルシェティーガーに腹が立ち、エリカがとんだ逆方向に毒づくが、それでも倒せないものは倒せない。

 

「隊長、我々が行くまで待っていてください!」

 

 エリカがまほに向けて、勝負を早まらずに仲間の到着を待つようにアドバイスをするが、当のまほからの返事が来ない。

 そして、エリカと共にポルシェティーガーに向けて発砲する戦車の中には、小梅の乗るパンターもあった。

 小梅は、キューポラから身を乗り出して、今なお砲撃を受けながらも反撃しているポルシェティーガーを見る。具体的には、そのポルシェティーガーの奥にある中庭の方向を。

 

(・・・・・・この先で、みほさんと隊長が・・・)

 

 共に全力を出して戦っている。

 だが、エリカの言う通り自分たちの到着を待ってからみほの相手をした方が、勝率ははるかに上がる。

 それなのになぜ、まほは勝負を急ぎ1人で戦うのだろう。

 だが、その理由が小梅には少しだけわかるような気がした。

 まほは恐らく、奇跡を見せてここまで勝ち上がってきたみほの力を試し、その目で見てみたいのだ。

 その気持ちは、みほの事を戦車道の実力者として少なからず評価し、みほの事を強敵と認めているからこそだと思う。

 試合開始直前、まほが黒森峰の全車輌に向けて言っていた言葉がある。

 

『グデーリアンは言った。“厚い皮膚より速い足”と』

 

 あの言葉は、迅速な行動が勝利の鍵を握るという、黒森峰の電撃戦を得意とするドクトリンを改めて隊員たちに再認識させる言葉だ。

 そしてこの言葉を言うのは、まほが真に強者と戦う時だけ。だからまほも、みほと大洗を強いと認めたという事だった。

 そして黒森峰も、王者と呼ぶにふさわしい戦い方と実績があると自負している。その王者が、強者相手に仲間の到着を待ってから戦いを仕掛けるというのは、怖気づいたと感じられてしまうかもしれない。

 まほだって、自分がどんな肩書を背負い、どんな立場に立っているのか、その自覚はある。だからこそ、勝負を急いでしまったのだろう。

 それは悪い事ではない。

 けれども、それは危険だ。

 

「装填スピード早めに。ターレットリングを中心に狙ってください。あのポルシェティーガーを早急に撃破し、一刻も早く隊長の下へ増援に向かいましょう」

「はい!」

「分かりました!」

 

 小梅が指示を出すと砲手と装填手からはきはきとした返事が返ってきて、小梅は小さく頷く。そして小梅の指示通り、ポルシェティーガーのターレットリングを狙い始める。だが距離が少し離れているのでなかなか撃ち抜けない。

 十数分もの間、ポルシェティーガーもしぶとく砲撃を続け、近くにいた別のパンターとラングまで撃破してきた。これでこの足止め役のポルシェティーガーだけで、3輌もの戦車を失ってしまった事になる。

 だが、ポルシェティーガーを撃破しようとする黒森峰の戦車たちは、必死に装填と砲撃を繰り返し、砲弾の雨をポルシェティーガーに向ける。

 流石に前面装甲が100mmと厚くても、マウスに劣る装甲では何度も何度も滅多撃ちにされては装甲が削れて行く。そしてついに、エリカのティーガーⅡが装甲を貫き、さらにダメ押しで小梅のパンターがターレットリングを撃ち抜き、ポルシェティーガーは黒煙を上げて行動不能となった。

 それと同時に、八九式に振り回されていたもう1輌のティーガーⅡとパンター2輌から八九式を撃破したと連絡が入った。

 これで残りの大洗の車輌は、フラッグ車のⅣ号戦車ただ1つ。対する黒森峰の残りの車輌はティーガーⅠ1輌とティーガーⅡ2輌、パンター4輌、ラング1輌、ヤークトパンター1輌の合計9輌。随分と削られたが、これだけあればいかに相手が奇跡を何度も起こした大洗であっても、Ⅳ号1輌撃破する程度容易い事だ。

 エリカは八九式を撃破した小隊に、急いで学校へ向かうように指示を出し、自分たちはまほの下へと向かおうとする。

 ところが。

 

『ポルシェティーガーが邪魔で通れません!』

 

 パンターに乗る波野車長が報告したように、中庭へと続く通路は撃破されたポルシェティーガーが塞いでしまっていた。大洗はここまで計算して、ポルシェティーガーに道を塞がせたという事か。

 

「回収車急いで!」

 

 エリカが無線機に向けて怒鳴りつける。

 だが回収車が置かれている地点から少し離れてしまっているので、回収車が来るのは相当先だろう。

 エリカだってそれは分かっているようで、少しの間は腕を組んで貧乏ゆすりをして待っていたが、すぐにしびれを切らして無線機を掴んだ。

 

「赤星、八代、協力なさい!」

 

 まずエリカは、車高の低い八代のラングをポルシェティーガーの前に移動させ、エリカのティーガーⅡが砲身を後ろに向けてそのラングの横に垂直につける。そして後ろから小梅のパンターがティーガーⅡを押し、ポルシェティーガーを強引に乗り越えようとした。

 

「今行きます!待っていてください、隊長!!」

 

 ポルシェティーガーとラングの上をガリガリと不快な音を立てながら前進するティーガーⅡのキューポラから、エリカが上半身を出して必死の形相で叫ぶ。もうちょっとで天井に頭を擦りそうになるのも気にせず。

 ここまでエリカが必死になるのには当然理由がある。それは最後の大会でまほを優勝させたいという陳腐な理由ではない。

 まほは、昨年の大会の結果みほを守り切れずにいた事に後ろめたさを感じていて、ずっと後悔をしているし、少なからず責任も感じている。

 その上で、この大会で妹であるみほに負けて優勝を逃したりしては、まほは恐らく自分に自信を無くしてしまうだろう。

 そうなってしまえば、まほはこれまでの鉄の強さを保てなくなり、周りからの評価も見直されてしまうかもしれない。

 それどころかエリカの尊敬して敬愛して心酔する、鉄のように強い意志を持つ“西住まほ”と言う存在が無くなってしまう。

 そうなってしまえば、エリカはこれまでのようにまほと接する事などできないだろう。

 それだけは、絶対にダメだった。耐えられなかった。

 だからエリカは、まほとみほが撃ち合いを繰り広げている場所へと突き進む。

 そして、中庭に到達する直前で、巨大な砲撃音が2つ聞こえた。

 

 

 黒煙が上がり、僅かな間視界が利かなくなる。戦車道で鍛えた耳目も、今この時だけはさほど役に立たない。

 だが、その黒煙も時間が経つにつれて収まっていき、風に流されて薄くなっていく。

 そして私の目に入ったものは、2つ。

 1つは、キューポラに身を隠して、怯えるような目で顔の上半分を見せるみほ。

 そしてもう1つは―――

 

(・・・・・・・・・そうか)

 

 今の私は、どこかすっきりしている気がした。

 黒森峰でみほを守れず、みほが戦車道を辞めて黒森峰を去ると決めた時も大した言葉もかけられず、そのまま送り出してしまった。

 その時から、私は心のどこかで、みほに対する申し訳なさを感じていた。

 その暗い思いと共に私は戦車道を歩み続け、今こうしてそのみほと力の限りを尽くして戦った。

 その結果は、目の前にある。

 

(・・・・・・・・・みほ)

 

 この試合に限った話ではないが、みほのチームは、皆強い絆で繋がっている。仲間を信頼し合い、助け合い、手を取り合って勝利を目指して戦って。そして誰一人として仲間を見捨てることなく、勝利する。

 それが、みほのチームの戦い方。

 みほが黒森峰では見つけることができなかった、みほの戦い方。

 大洗と言う新しい地で見つけた、“西住流”と言う戦車道ではなく、“みほ”の戦車道。

 そしてその見つけた戦車道は、本来の西住流を超えるほどの強さを持っていた。

 

(・・・・・・・・・本当に)

 

 黒煙が晴れる中で、私は目を閉じて、そうしみじみと思う。

 私のティーガーⅠの砲撃は、Ⅳ号戦車の動力部より少しズレた場所を撃っていた。

 みほのⅣ号戦車の砲撃は、ティーガーⅠの動力部を確実に撃ち抜いていた。

 

(・・・・・・・・・強くなったな)

 

 ティーガーⅠの上で揺らめく白旗が、みほの強さを証明していた。

 

 

 

『黒森峰フラッグ車、走行不能。よって・・・・・・・・・』

 

 観客席からは声の1つも上がらない。観客の誰もが、瞬きをしない。ただじっと、静かに、告げられる試合の結果を待つ。

 そして審判長から告げられたのは。

 

『大洗女子学園の勝利!!』

 

 瞬間、大地を揺るがさんとするような大歓声が観客席から湧き上がった。

 誰もが立ち上がり、拍手で大洗の優勝を祝福し、応援グッズを天に向けて放り投げ、それでもまだ興奮は収まらずに雄たけびを上げる者までいる。

 出店の方からも歓声が聞こえて、彼らもまた何らかの媒体を使って試合を全て観ていたのだろう。

 そして、織部はと言うと。

 

「・・・・・・ふぅ―――――――」

 

 大きく長く、ため息をついた。

 モニターに、まほとみほの一騎打ちの様子が流されて、Ⅳ号戦車のシュルツェンが弾け飛ぶたびに、その最中で大洗の戦車が撃破されたというアナウンスが流れる度に、つばを飲み込み、心臓が跳ねた。

 それほどまでにこの試合に夢中になり、集中してしまっていた。恐らく、これほどまでに引き込まれるような試合は無かっただろう。

 そして、この試合を観ていて別に自分が参加していたわけでもないのに尋常ではないほどの緊張感に支配されていた。それが試合が終わった事で、その緊張から解放された事で息を吐いたのだ。

 観客たちの歓喜の様子も少し落ち着いたようで、溢れんばかりの拍手を大洗へと送る。織部もそれに倣い、激戦を制した大洗へと拍手を送った。

 織部も本来なら黒森峰の味方をしなければならないところだろうに、大洗を応援してしまっていたのだが、言わぬが花だろう。

 

 

 黒煙を上げて擱座したティーガーⅠに背を向けて、まほとティーガーⅠの乗員がその場を離れる。後ろの方では、ボロボロのⅣ号戦車から身を乗り出したみほと、他の乗員たちが抱き合って勝利を喜び分かち合っていた。

 そんなみほとまほの両者を視界に入れながら、エリカはまほにどう言葉をかけていいのか分からなかった。

 想定しうる中でも最悪の結末となってしまった。まほの最後の全国大会は優勝で飾れず、みほに敗れた事で自信を失ってしまっているかもしれない。

 まほだって戦車乗りの1人なのだから悔しがっているだろう。そんなまほに何か気の利いた事でも言えたらいいのに、自分の不器用さがこんなところで露呈するとは。

 

「行くぞ、エリカ」

「・・・・・・・・・」

 

 まほが、いつものように、変わらないような風で呼び掛けるが、今のエリカにはそれが無理をしているようにしか見えない。

 何も答えられずに硬直していると、

 

「・・・・・・エリカ」

 

 まほが、エリカの肩にぽんと手を置いてきた。慌ててエリカがまほを見ると、まほの顔には笑みが浮かんでいた。満面の笑み、と言うものではないが、僅かに微笑むその姿は、エリカもあまり見た事がなかったものだ。

 

「・・・・・・私の事は気にしなくていい。大丈夫だ」

 

 どうやらエリカの心配事は、見透かされてしまっていたようだ。そしてそのまほの言葉には、無理をしているようにも取り繕っているようにも聞こえない。

 戦車道の世界は厳しい。西住流と言う流派に身を置いているのならなおさらだ。

 その世界の中で、まほが国際強化選手として、全国大会常連として、西住流後継者筆頭として生き抜くことができたのは、自分自身に強い自信を持っていたからだ。過信や妄信ではない、自分を強く保ってきたから。

 自分に自信を持てなくなったら、その時点で終わりだ。この先この世界で生きていく事など難しいし、西住流を継ぐことなどできないだろう。

 まほがみほの事を気にかけていたことは知っているし、そのみほに負けた事でまほはショックも受けている。だが、みほの成長と強さを見ることができて、嬉しさの方が悔しさに勝った。

 それに、戦車道に限らず勝負の世界での敗北はつきものだ。1度負けただけで全て終わりと思い込んでしまっては、心はすぐに潰れてしまうだろう。

 この敗北を機に、自分たちの戦いの欠点を浮き彫りにして、次に向けて学習する。たとえ泣きたくても、それはその後でも遅くはない。

 

「・・・・・・さあ、行くぞ」

「・・・・・・はい」

 

 エリカも、まほが多くのものを背負っているのを知っているし、だからこそ心が強いという事に、改めて気付く。

 そうだ、自分の尊敬するまほはこの程度でへこたれはしない。まほの事を過小評価してしまった事を自省し、エリカはまほの後を追った。

 

 

 試合前の戦車の整備をしていた場所から、最後に決着がついた市街地までは大分距離が離れてしまっていた。なので、回収車を待って格納庫に帰ってきたころには既に陽も傾き始めていた。

 別の回収車でⅣ号と共に帰ってきたみほたちは、同じ大洗のメンバーから多くの賞賛の言葉をかけられて迎え入れられていた。

 まほは回収車を降りて、待機していた大きな荷台のついたトラックに乗ろうとする。荷台には既に、黒森峰の一部のメンバーが乗っていた。他のメンバーは、既に閉会式を行う場所へと向かっている。このトラックも、閉会式の会場へ向かう予定だ。

 だが、後ろから声を掛けられた。

 

「お姉ちゃん!」

 

 先ほど、廃校舎の中庭で撃ち合いをする前も聞いた、そして忘れる事の無い声。振り返ってみれば、みほがこちらに向けて小走りに寄ってきた。

 そしてみほは、まほの前に立つと何を話せばいいのか分からないような、困惑した表情を浮かべる。

 まほとしても、話したいことは山ほどあった。ずっと言えなかった、“あの時”の本当の事も話したかった。

 けれど、みほはたった今黒森峰を破り、全国優勝を決めたばかりだ。だから、あの時の事を思い出させて暗い気持ちにさせるのも酷だったし、それに話をするにはここは人が多すぎる。

 

「・・・優勝おめでとう」

 

 だから言うべきは、みほの実力を素直に称える言葉だ。

 まほからその言葉を受けたみほは、驚いたように顔を上げる。

 

「・・・完敗だな」

 

 できるだけ優しい表情で、できるだけ優しい声で、告げる。

 みほは少し困ったように笑っている。

 黒森峰の事を覚えているから、その黒森峰と一戦交えた事に対して後ろめたさを感じ、その上で姉を負かしてしまったのだから、余計にまほとの距離感が掴めずにいるのだろう。

 そんなみほの事を安心させるために、まほは右手を差し出す。

 みほは、まほの意図に気付いて少し遠慮がちに同じように右手を差し出し、そしてお互い優しく、そして力強く握手をする。

 少し、手が大きくなったかな、とまほは思った。

 

「みほらしい戦いだったな・・・。西住流とはまるで違うが」

「・・・そうかな?」

「そうだよ」

 

 何をとぼけたように言うのか。この試合で見せた大洗の戦いは、西住流で教わるような事ではない。どう考えたって、みほが独自で編み出したものだ。

 黒森峰を去っても、自信の無さや自分を過小評価するところは変わっていないな、とまほは思った。

 そこでみほは、自分の後ろの方を見る。そこにいたのは、みほと同じⅣ号戦車に乗っていたメンバーだ。そしてその全員が、少し不安そうな表情をしている。

 確かに、あの4人とまほが実際に会ったのはあの戦車喫茶ルクレールだったし、その時の印象はエリカの発言もあって最悪そのものだった。それに恐らく、あの4人はみほの黒森峰での出来事を知っている。だから余計に、その黒森峰のまほと話をしているみほの事が心配なのだろう。

 

「・・・じゃあ行くね」

「ああ」

 

 みほも、その4人を心配させまいとすぐに戻って、安心させようとする。それをまほは分かっていたので、引き留めもしなかった。

 だが、みほが皆の下へ向かおうとするところで、振り返って笑顔を見せた。先ほどのように困惑が混じったものではない、純粋な笑顔だ。

 

「お姉ちゃん」

「ん?」

 

 みほは、笑顔で告げた。黒森峰では決して見せる事の無かった、心からの笑顔だ。

 

 

「・・・やっと見つけたよ!私の戦車道!」

 

 

 その言葉は、みほが自分の道を見つけて、この先も迷うことなくその道を進むことができると感じさせてくれるように、力強かった。

 

「・・・うん」

 

 まほは、みほの成長を実感して、頷いた。

 

 

 トラックの運転席で2人の会話を聞いていたエリカも、小さく笑った。

 黒森峰でみほの犯した失敗を目の前で見て、その失敗を無かったことにしようというつもりで新しい場所・大洗で戦車道を再び始め、あまつさえ黒森峰の敵として現れた時は、それはもう憤ったものだ。

 だが、この試合で黒森峰の予想をはるかに超えるような戦いを見せ、さらに去年の全国大会でみほが取った“勝利よりも仲間を選ぶ行動”を見せられ、そして本来みほがいるべき黒森峰、ひいては西住流を体現するまほを超えて、勝利をもぎ取った。

 こうも勝利を目の当たりにさせられ、自信を持ってみほが自分の戦車道を見つけたと言うと、かつて感じた憎しみや怒りと言った感情も湧いてこない。これ以上みほに対して恨みや憎しみを抱くのは、最早僻みや逆恨みと言うものだ。

 あるのは、ただ大洗とみほの事を認めるという気持ち、決意だけだ。

 ただし、『みほは凄かった』とか『私たちの完敗ね』とストレートに言えるほどエリカも素直ではない。

 織部にも見せたが、エリカは若干ツンデレの気がある。

 

「・・・次は、負けないわよ!」

 

 だから、こうして一度負けを認める事でみほの実力を認める。そして、次に戦う時は今度こそ勝つという意志を込めて、言葉を投げかける。

 これが今のエリカにできる、精いっぱいの賞賛だ。

 それに対してみほは、『はい!』と返事をして、大洗の仲間の下へと戻って行った。

 

 

 トラックの荷台で小梅は、静かに涙を流していた。

 去年の全国大会でのみほの行動は、黒森峰で否定され、拒絶され、悪と決めつけられてきたが、この試合でもみほは同じ行動を起こして、その上で勝利を勝ち取った。

 みほの掲げ信じる戦車道をこの試合で見て、そしてみほがそれを自分の戦車道だと胸を張って言い張ることができるようになったのが、嬉しかった。

 そして小梅は、去年の全国大会でみほのとった行動を無駄にしないために黒森峰に残り、そして“仲間を見捨てない”というみほの戦車道が間違っていなかったことを証明するために今日まで黒森峰の戦車道で生きてきた。

 そして今日、そのみほの戦車道が間違っていなかったことが証明されて、それもまた嬉しかった。

 だが同時に、黒森峰は優勝を逃してしまったのもまた事実で、それが少し悔しくもあった。

 嬉しさと悔しさが入り混じって、小梅は泣いているのだった。

 隣に座る斑田も、小梅の気持ちが少なからず分かっているからか、優しく肩を撫でてくれた。

 やがてまほが助手席に乗り込んで、トラックはゆっくりと動き出す。

 

 

 

『優勝、大洗女子学園!!』

 

 観客席前に設けられたモニターの手前で、大洗のメンバー全員が表彰台に立ち、隊長のみほが大きな戦車の刺繍が入った優勝旗を手に持ち立つ。ふらつきそうになったが立て直して、しっかりと観客席を見る。

 そして観客席からは、割れんばかりの拍手が送られ、大洗の隊員たちもそれに恥じないように誇らしい表情を浮かべている。ただ1人、副隊長は涙を流して他の人の陰に隠れていたが。

 少し離れた場所では、合流した織部を含む黒森峰の隊員たちが同じように拍手を送る。優勝できなかったことに悔しさをにじませる者、全力で戦ってすっきりしたと笑う者、来年こそは優勝するという意志を固めた者。誰もが、大洗やみほに対して悪い感情を抱いてはいないように見えた。

 この中にはみほの事を恨んでいた人もいたのだろうが、この試合でどうやら認識を改めるようになったらしい。やはりこうして華々しくみほなりの戦車道を見せつけられてその上優勝を取られたとなると、その実力を否が応でも認めざるを得ない。

 王者であるが故に、力のある者の実力を素直に認めるものなのだろう。

 織部もまた、大洗に向けて惜しみない拍手を送った。

 そして織部の隣に立つ小梅も、涙ぐみながら拍手を送っていた。

 

 

 その表彰式が行われている場所から少し離れた場所に、しほはいた。

 この試合の一部始終を見て、みほは大洗で自分なりの戦い方を、戦車道を見つけて、そしてそれは黒森峰、西住流よりも強いという事をしほは知った。

 勝利よりも仲間を優先したみほの行動をまた見て、やはりみほはそう言う優しい心の持ち主だったのだという事を、改めて知ることとなった。

 優しい心の片鱗と言うものは、西住流の名を背負う者としての鍛錬が始まった時から見えていた。戦車を動かすときや敵を撃破する時、どこかしら躊躇いが見て取れたから。それは、みほが優しすぎるからだと、みほの師である前に母親でもあるしほには分かっていた。

 だが、みほの中には優しい心の他に、本来の西住流とは違った才能が眠っていたのだと、しほはこの戦いで気付かされた。

 おそらく、その才能は黒森峰にずっといたままでは開花することはなく、腐らせるだけだったのかもしれないと、今では思う。

 だから大洗に転校して、そこで新しく戦車道を始めた事は、その才能を開花させる結果につながったのだから間違ってはいなかった、と考えられる。

 勘当すると宣言した自分が、今になって少し恥ずかしく思えてくる。随分と大人げなかったな、と。

 今こうして、みほの才能は西住流をも超えるものだったという事を知って、もうみほの事を勘当しようなどとは微塵も思っていない。

 しほは、去年の全国大会でみほが犯した失態を西住流の師範として厳しく批判した。

 しかしみほの母親としては、誇らしい行動をしたと思っていた。けれど、師範として厳しく接しなければと思い込んでしまった結果、みほを責めるだけになってしまった。

 あれも今思えば、褒められたものではないなと思う。

 だけどこの決勝戦では、そのしほが叱責した行動をまた繰り返し、その上で今度は勝利したのだから、去年のみほの事も全部が全部間違っているわけではなかったのだ、と思う。

 西住流に属しているのだから相応の戦い方をしろと一方的に責めたが、西住流と言うしがらみもまた、みほの才能を殺してしまっていたのだという事を痛感する。

 西住流の直系の娘だからと厳しくした結果、その才能を発揮する場所を与えられず、色々とプレッシャーを押し付けるばかりで、みほの本当の力や才能を認めようとはしなかった。

 だが今はもう、みほの事を、みほの力を認めるしかない。

 

(西住流・・・ではないわね。これは・・・・・・)

 

 これまでの試合でみほが見せた、度肝を抜き、予想の斜め上を超えるような戦い方を思い出して、少し考える。

 みほの戦いは、みほ独自で編み出したものだ。

 そう、言うなれば。

 

(西住みほ流・・・かしらね?)

 

 だが、自分のネーミングセンスの無さに自分で可笑しくなる。

 

「・・・・・・・・・ふふっ」

 

 しほは、大洗に向けて、才能を開花させその結果を見せてくれたみほに対して、しほにしては珍しく優しい笑みを浮かべて、拍手を送った。

 夕焼けに照らされるみほたちの背中は、とても誇らしいものだった。




スノーフレーク
科・属名:ヒガンバナ科スノーフレーク属
学名:Leucojum aestivum
和名:鈴蘭水仙
別名:―
原産地:ヨーロッパ中南部
花言葉:汚れなき心、皆をひきつける魅力、純粋、純潔


これにて、この作品での1つの山場である全国大会編が終わりました。
あの全国大会を黒森峰目線で書いたつもりでしたが、いかがでしたでしょうか。

さて、山場を一つ越えましたが、まだこの作品は続きますので、最後までお付き合いいただければと思います。
次回からは全国大会のクールダウンのような感じで、少し暗めだったりシリアス(当社比)だったりな話ではなく、明るくて、ほんのり甘い話になるかと思いますので、
今後ともよろしくお願いします。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


ここから小梅のターン。


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雛罌粟(ポピー)

誤字報告をしてくださった方々、本当にありがとうございます。
筆者の確認不足と、筆者の使うPCの変換の悪さが引き起こしてしまったものです。
誠に申し訳ございません。


 激戦が繰り広げられた、全国大会決勝戦から一夜明けた翌日。黒森峰女学園は通常通りの登校日だった。例え戦車に乗って決死の戦いを繰り広げたとしても、学園艦に戻ってきたのが夜になって疲れ切っていたとしても、授業は普通にあるのだ。

 だが、少なくとも今織部の周りにいる小梅、根津、斑田の3人は疲れなど感じていないかのように、いつも通りに振る舞っている。ただ、少し肩や首を回しているのを見るあたり、少しばかり疲れを感じているようだ。

 織部も、観戦席で試合を観ていただけなのだが、何度も繰り広げられる急展開のおかげで無闇に緊張し、精神的に疲れてしまった。だが、実際に試合に参加した小梅たちと比べれば自分の疲れなど小さなものだろう、と思いここは耐える。

 そして4人が校門をくぐったところで、後ろから直下と三河に声を掛けられた。

 

「おはよー・・・」

「おお、お疲れのようだね」

 

 覇気のない挨拶を三河が駆けて、根津が苦笑気味に答える。直下もあくびをしながら手を挙げて挨拶をする。2人は疲れがあまりとれていないようだった。

 昇降口で靴を履き替えて教室に向かうが、学校の雰囲気はいつもと変わらない。

去年の全国大会決勝戦でも敗北したが、その後は負け方が負け方なだけにギスギスした雰囲気が漂っていた。

 だが、今年はその様子はない。今年も黒森峰は優勝を惜しくも逃してしまったが、黒森峰が力の限りを尽くして戦った結果の敗北なのだから、受け入れるほかないのだ。

 そして、かつて黒森峰にいたみほが大洗に転校してそして黒森峰から勝利を勝ち取ったと聞いても、怒り狂う者はほとんどいなかった。流石にここで、黒森峰と全力でぶつかって優勝を修めた大洗とみほを責めるのは、負け惜しみにもほどがあるし、そして醜いと自覚しているからだ。

 だったら去年、戦車隊に属してもいないのに流言飛語を鵜呑みにしてみほを責めた事も、みほがいなくなったからとその矛先を小梅に向ける事も十分醜いと思える。けれど、彼女たちはまだ身も心も完全に成長し切ってはいない高校生なのだから、仕方ないと言ってしまえば仕方がない。

 織部たちは何事もなくクラスに到着した。織部は自分の机について鞄を置き、教科書を机の中に入れて、全国大会は終わってしまったのだということを改めて思い出す。そして、昨日の全国大会の後の事をふと思い出した。

 

 

 閉会式も終わって黒森峰の隊員たちは、全員最初に戦車を運んできた格納庫に集まったが、未だに戦車は全て戻ってきてはいない。

 その理由は、ここから遠く離れた場所で撃破されてしまっている戦車もいるからだ。特に、干上がった川に転落して上下逆さまになってしまったヤークトティーガーと、入り組んだ住宅街のど真ん中の狭い道で立ち往生してしまっているエレファント、そして188tにも及ぶ重量のマウスの回収には手間取っている。

 おかげで本来の完全撤収完了時刻を1時間以上過ぎて陽も落ちた今も、まだ撤収は終わっていない。

 しかもその予定時刻を大幅に過ぎたせいで、清水港へと向かう特別列車のダイヤにも乱れが生じ、今は鉄道会社と相談してダイヤを組み直している最中だったので先に帰るという事もできない。完全に足止めを喰らっていた。

 戦車の回収は戦車道連盟が代行しているので手を抜いているということはないだろうが、それでもやはり遅かった。

 そして、回収班の班長から完全撤収まで後1時間ほどかかるとの連絡を受けたまほは、学園艦に戻ってからやろうと思っていた、反省会を含めたミーティングをこの格納庫ですることにした。

 近くにいたエリカを呼び、待機していた隊員たちを集合させて整列させる。織部は、列の外側で皆と同じ姿勢で立ち、まほの話に耳を傾ける。

 

「皆、疲れているところで申し訳ないが、撤収にはまだ時間がかかるようなので、今からミーティングを行う」

 

 それについては隊員としても別に問題ない。何しろ1時間以上待機していたので、そろそろ暇を持て余してしまっていたところだ。その待ち時間を有効活用する事に関しては、特に異論はない。

 

「まずは皆、ご苦労だった―――」

 

 そうして、ミーティングは始まった。

つい先ほど、黒森峰の優勝は夢と消えてしまったのにもかかわらず、それを嘆く事も悲しむ事も悔しがる事もせず、こうして心を切り替えて試合を冷静に見返し、次の糧にしようとしている。

 その切り替えの早さ、そして失敗を嘆かずに次に生かそうとする姿勢は、同年代の織部から見ても本当に立派なものだと思う。普通なら、悔しさに打ちひしがれてしばらくは立ち直れないだろうに、ここにいる者は多少涙を流して目を赤くしてしまった人はいるものの、話も聞けないほど悲しんでいるというわけではない。

 肝心のミーティングだが、最初に反省するべき点は大きく分けて2つだとまほは言った。

 それは、『挑発行動にあっさり乗せられたこと』と『不測の事態にすぐに対応できなかったこと』だ。

 前者に当たるのは根津のマウス、鏡のエレファント、水俣のヤークトティーガー、そして宮原のティーガーⅡだ。

 マウスは、ヘッツァーの足止めを受けた時にM3とポルシェティーガーの挑発砲撃に乗せられて砲塔を横に向けた結果、八九式が車体に載るスペースを作ってしまい撃破に繋がった。

 エレファントは、M3の挑発に乗せられて住宅街に誘い込まれ、さらにM3の機動力で後ろに回り込まれ、そして発想の転換によって薬莢排出口を撃ち抜かれて撃破された。

 ヤークトティーガーもまた、M3の挑発砲撃を後ろに受けて、正面から戦いM3を撃破したものの川に落ちて走行不能となった。

 ティーガーⅡも、八九式の接触と機銃の挑発に乗せられて、する必要も無いのに相手をしてしまいフラッグ車から離れてしまった。

 フラッグ戦は、フラッグ車を仕留めればすべてが終わりである。だから、マウスはともかく他の3輌はフラッグ車ではないM3と八九式の挑発に乗せられず、フラッグ車を狙う事だけに専念していれば、結果は違っていたかもしれない。

 そして『不測の事態にすぐに対応できなかったこと』については、試合序盤での高地包囲戦の時だ。あの時、ヘッツァーが隊列に混ざってしまっていたことで混乱してしまい、さらにその混乱を突いて大洗が発砲したことで余計混乱し、陣形を崩してしまい大洗の逃走を許してしまった。

 継続高校戦のように、目に見える範囲から陣形を崩すかのように突撃してきたのにすぐに対応できたのは、そうなった場合の訓練をちゃんと受けていて、その時どう対処するかのマニュアルがあってそれに従ったからだ。だが、今回は気付かれずに、そして他の戦車に混ざるように、後ろという注意力のあまり及ばない場所から来た事で、不測の事態に陥ってしまったのだ。

 この2つの点についてまほは、今までのマニュアルや規則に頼りきりだった訓練から、もう少し柔軟性に富んだ訓練を取り入れようという事になった。

 その後の評価点で挙げられたのは、試合の本当に序盤、森の中をショートカットし、大洗の不意を突く形で奇襲攻撃を仕掛けた時の事。あの時は迅速な行動をすることができ、あそこで三式中戦車を撃破できたのは上々の戦果だとまほは評価した。

 各戦車の動きも、挑発に乗せられたことと不測の事態に陥って混乱した時のことを除けば、皆迅速な移動をすることができ、キレもあってこれまでの戦いより動きが良くなっていたと評価した。

 そして、最後に。

 

「・・・・・・・・・私のティーガーも、勝負を急がず仲間の到着を待ってから相手と戦っていれば、負けなかったのかもしれない」

 

 いつになく気弱なまほの発言。普段とは違う言葉に、隊員たちは少し戸惑う。

 まほは続ける。

 

「・・・・・・・・・皆は、私の指示に忠実に従ってくれた。そして勝利を目指して戦ってくれた。だが、フラッグ車を守れなかったのは私の責任でもある」

 

 そして。

 

「・・・すまなかった」

 

 頭を下げたのだ。これについては流石に隊員たちも動揺を隠せず、ざわつく。エリカに至っては必死に『頭を上げてください!』と駆け寄る。

 そして、まほが顔を上げると、本当に心の底から悔しそうな顔を浮かべていた。

 まほの同期すらも、まほのこんな顔は見た事がなかったし、頭を下げるという行為もまた初めての出来事だ。

 だがまほは、自分を信じて皆が付いてきてくれたことを知っている。だから、その皆の信頼を裏切る形になってしまった事を悔やみ、謝ったのだった。

 もっとも、この行為はまほを信頼する人からすればあり得ないような行動だったため余計に心配する結果となってしまったのだが。

 

 

 

「春貴さん?」

 

 小梅の呼び声に、織部はハッと顔を上げる。見れば、小梅が心配そうな顔をして織部の事を覗き込んでいた。

 

「・・・・・・どうかしたんですか?」

 

 どうやら、小梅の事を心配させてしまっていたらしい。織部は笑って首を横に振った。

 

「何でもない、大丈夫だよ」

 

 だが、小梅はそれだけでは納得してはくれなかったようだ。やはり以前に、まほからみほの勘当騒動についての話を聞かされた際に、他全ての事がおろそかになって小梅を心配させてしまった前科があるからだろう。

 あの時織部は『何でもない』と言って小梅たちを余計に心配させてしまったが、今回は別に聞かれると色々と面倒な話でもないので、素直に打ち明ける。

 

「昨日の事を思い出してね」

「・・・試合の事、ですか?」

「それもあるし・・・隊長の事も」

 

 隊長の事、と言う言葉だけで小梅は何の事なのかを理解したようだ。

 

「・・・西住隊長があんなことをするとは・・・」

「・・・・・・小梅さんも見た事がなかった?」

「ええ・・・。入隊してから一度も」

 

 やはり、まほが頭を下げるというのは相当貴重、というか無かったことらしい。そして小梅よりも1年長く戦車隊に属する先輩たちも見た事がないというのは、反応を見れば分かった事だ。

 

「隊長・・・・・・少し変わった気がします」

「・・・そうだね」

 

 まほが変わったのには、恐らくみほが関係しているのだろう。試合が終わった後、まほとみほが話をしていたのを小梅は知っているし、みほが西住流ではない、自分の戦車道を見つけた事もまた知っている。

 そして、みほの戦いをその眼でしかと見届けて、みほが自分の戦車道を見つけた事を口から聞いたまほも、自分の中で何かが変わったのかもしれない。

 そこで織部は、一旦思考を切り替えて手の中にある弁当箱に目を落とす。箸で小さなハンバーグを取り、口に放り込む。美味しい。

 時刻は昼休み、場所は戦車の格納庫。いつかのように織部と小梅は、2人だけで昼ごはんを食べていた。そして手の中にある物から分かるように、小梅が今回もお弁当を作ってきてくれたのだった。

 試合で疲れているのは小梅も同じだろうに、わざわざこうして織部と2人きりの時間を作るために弁当を作ってきてくれたことに、織部は涙しそうになる。

 残すなんて真似は断じてしない。

 

「・・・・・・みほさん、自分の戦車道を見つけられたようで、良かったです」

 

 小梅が白いご飯を口に含み、咀嚼して呑み込んだところで小さく呟く。

 まほが変わった理由を考えて、そこで自然とみほの事に思い至ったのだろう。織部はその場にいなかったので知らなかったが、みほは自分の戦車道を見つけて、もう迷いはしなくなったらしい。

 だが、織部もみほの試合中の行動は見た。勝ち負けにこだわらず、川で動けなくなったM3の乗員を助けに行ったあの行動は、観客席の誰もが応援し、称賛していた。織部自身も、つい心の中で『頑張れ』とエールを送っていた。

 その行動は、去年の決勝戦、まだ黒森峰にいた時のみほのとった行動と同じだ。そしてその行動の上でみほは勝利した。

 去年と大きく違うのは、みほと大洗のチーム全体の絆が深く、固かったことだ。大洗の誰もがみほの事を信じ、みほがどんな人物なのかを知っているからこそ、背中を押して助けに行くようにし、そしてみほを守るために牽制射撃をしてきた。

 黒森峰では、先輩方から反感を受けていたことと、みほ自身他人とのつながりが薄かったから、あのような事態に陥って、結果を残せなかったのだろう。

 

「・・・やっぱり、去年みほさんが小梅さん達を助けに行ったことも、本当は間違いじゃなかったのかもしれない」

 

 そう告げると、小梅も頷く。

 前に小梅が言っていた、小梅が絶望的な状況に置かれていても黒森峰に残る理由は、『みほのあの時の行動が間違っていなかったことを証明する』ため。

 そして昨日の決勝で、みほはあの時と同じ行動をして、その上で勝利を収めた。それはすなわち、みほの行動は間違っていなかった事の証明にもつながる。

 だから去年のみほの同じ行動も、様々な要因が合わさって悪い結果になってしまったが、本当は間違っていなかった、かもしれない。まだ“かもしれない”と表現するのは、本当の正解が明確ではないからだ。

 ただ、恐らく、それは正しいことだろう。みほが大洗で築き上げたチームでの信頼と絆、みほが主体となって戦ってきた大洗というチーム、そしてみほの『仲間を見捨てずに最後まで戦う』と言う信念。

それが、みほが見つけた戦車道だ。

 みほはもう、西住流と言う枠組みの中にはいない、別の道を歩んでいる。その道の上では、正しい事なのだ。

 だけどそれでも、織部は1つ気がかりな事があった。

 

「・・・・・・でも、悔しくは、ないの?」

 

 小梅も試合の前には『みほと戦いたい』と言っていたし、何より一人の戦車乗りなのだから、試合に負けた事について少なからず悔しいと思っているだろう。

 

「・・・ちょっとだけ」

 

 小梅は控えめにそう告げる。だけどその小梅の顔には、悔しそうな表情ではなく、優しい笑みが浮かんでいた。

 

「・・・でも、みほさんが自分なりの戦車道を見つけられたのがそれ以上に嬉しくて・・・そこまで悔しくはないです」

 

 それに、と告げて箸を置く。

 

「みほさんの去年の行動が間違っていなかったって証明されたから、それだけで十分ですよ」

 

 織部はその小梅の頭を、優しく撫でる。

 勝負に負けた事に大して悔しがらずに、相手の成長を素直に喜ぶ小梅は、やはり優しく強い人なのだという事を改めて理解した。

 そこで2人は、この話はおしまいとばかりに再び弁当を食べる。

 黙々と弁当を食べ進み、昼休みの終わる10分前辺りで2人とも食べ終わった。

 

「ごちそうさまでした、美味しかったよ」

「お粗末様でした、そう言っていただけて嬉しいです

 

 美味しかったというのは紛れもない本心だが、同時に申し訳ないと思っている。何しろ、小梅だって昨日は試合に参加して疲れているだろうから。

 それでも小梅はこうして織部のために、労を惜しまず弁当を作ってきてくれた。

 それだけ織部が、小梅にとって大切な存在であるという事が嬉しくて、熱い気持ちが胸の奥から込み上げてくる。

 織部としては、何か小梅にしてあげたかった。それを小梅は望まないかもしれないが、それでも何かしたいと思わずにはいられなかった。

 だがそう思っていると、先に小梅が呟いてきた。

 

「・・・・・・今日から少しの間・・・訓練、ありませんよね」

 

 その言葉を聞いて織部が小梅の方を見ると、小梅は少しだけ、顔を赤くして視線を下に向けていた。

 小梅の言う通り、今日からおよそ4~5日の間訓練はなかった。それは大洗との戦いで損傷してしまった戦車の修理と、隊員たちの疲れを癒すための休養期間でもあるのだ。

 普通なら、来年優勝するために、今からでも少しでも強くなるために訓練を始めると思ったのだが、意外としっかり休みは設けてあるようだ。週1で休みがある辺りでそれは分かっていたのだが、真面目な校風だから隊員=生徒の事もちゃんと考えているのだ。

 

「・・・・・・・・・」

 

 そこで織部は、ふと思い出した。確か、次の土曜は学校も訓練も休みだったはずだ。そして、その日は学園艦が寄港する日。昨日も清水港に寄港したのだが、その際は戦車道履修生は休むこともできなかったし、物資の補給もしていなかった。だから履修生を労う形で寄港する事になっている。

 少し前までは、全国大会期間中で忙しかったからと遠慮して、一緒に出掛けることも憚られた。だが今は、その遠慮の必要も無い。堂々と、小梅を誘うことができる。

 

「「・・・・・・あの」」

 

 そう思い、小梅に声をかけたが、ほぼ同時に小梅からも声をかけられた。気まずくなってお互い顔を逸らすが、先に気まずさから戻ったのは小梅の方だ。

 

「・・・春貴さん」

「・・・ん?」

 

 織部も気まずさから脱し、小梅と向き合う。

 

「・・・・・・もし、よろしければ・・・何ですけど・・・」

「・・・・・・・・・」

 

 小梅の表情と、何か少し申し訳なさそうな感じがする話し方。そして先ほど訓練がこの先少しの間無いという事を確認したことから、小梅が何を言いたいのかを織部は察する。

 

「・・・今度の、土曜・・・」

「待って」

「え・・・?」

 

 流石にそれを、女の子に言わせるのは格好悪すぎる。

 だから、多少強引に小梅の言葉を遮るが、それでも織部は優しい表情を崩さずに、小梅の顔を見る。

 

「僕から言わせてほしい・・・」

「・・・・・・・・・」

 

 小梅も、織部の意図に気付いて口を閉ざす。

 

「小梅さん」

「・・・・・・はい」

「・・・・・・次の、土曜」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 息を吸って、告げた。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・僕と、デートしてください」

 

 それに対する小梅の答えは。

 

「・・・はい」

 

 花が咲く、と言うありふれた表現しか織部にはできなかったけれど、そんな表現が似合う、実に可愛らしい笑顔を小梅は織部に向けてくれた。

 

 

 織部と小梅が戦車の格納庫で昼食を共にしているのと同時刻、食堂で根津、斑田、直下、三河のいつもの4人は食堂で昼食を摂っていた。

 だが、4人の顔は苦渋に満ちている。

 その原因は、昨日の全国大会決勝戦で4人が犯した失態(?)が原因だろう。

 まず、豚の生姜焼き定食をもりもり食べている根津。普段よりも食べるペースが速い気がする。

 彼女はマウスに乗って大洗のルノーとⅢ突という比較的良性能の戦車を2輌撃破して、大洗の戦力を大きく低下させた。だが、大洗の連携攻撃によって最強と思われたマウスも撃破されてしまった。

 根津は別に、撃破されてしまった事について不満はない。大洗全体の力が、マウス単体の力を上回っていたという事にしている。

 それでも根津が許せないのは、あの八九式だ。軽戦車のような貧弱なステータスしかないにもかかわらず、マウスの上に載って砲塔を動かせなくさせられた。

 しかもその八九式の乗員からも煽られた。まさに屈辱だ。

 要するにあんな軽戦車(正しくは中戦車だが)に一杯食わされたことが気に食わないのだ。

 

「軽戦車め・・・・・・軽戦車め・・・・・・軽戦車め・・・」

 

 白米をかき込んではそう呟き、みそ汁を啜ってはそう呟き、肉を食べてはそう呟く根津の姿は、さながら呪詛を唱えているようにも見える。

 その隣の三河は、『ずーん』と言う効果音と額に縦に引く線が似合いそうな顔でうどんをちびちびと啜っていた。

 彼女のⅢ号戦車は大洗の偵察と誘導のために先行して市街地に張り込んでいたが、マウス登場後に調子に乗ってマウスの後ろから挑発行動をした結果、隙を突かれて撃破された。

 あの時Ⅲ号戦車が撃破されなければ、マウスを単独にさせる事も無く、大洗の連携攻撃を妨害する事だって可能だった。

 結果的に三河のⅢ号戦車撃破が、マウス撃破につながったとも言える。

 

「私はなぜ、あんな馬鹿なことを・・・・・・」

 

 あの時の事は、三河の中の黒歴史ファイルにしっかりと保存される事になるだろう。

 そんな三河のはす向かいに座る斑田。彼女はサバの味噌煮定食をもそもそと食べている。

 斑田は試合序盤での高地包囲戦で、ヘッツァーが隊列にしれっと混ざっているのに一番最初に気付き、他の戦車に知らせたのだが、焦ったあまり砲手の肩を足蹴にしてしまった。

 それだけならまだしも彼女の焦った様子の報告が原因で、他の戦車の焦りを助長させるような事になり、結果的に戦車隊全体の列を乱す結果となってしまった。

 自分のせいで包囲網を解いてしまったのだと思い込んだ斑田は、それで少し落ち込んでいるのだった。

 

「ヘッツァーめ・・・次会ったらただじゃ済まさないんだから・・・」

 

 恨みがましく呟き鯖の身を解す斑田の横で、直下はため息をつきながら並盛りのカレーを一口食べる。

 直下もまた、昨日の試合で苦汁をなめた記憶がある。

 彼女のヤークトパンターは、試合序盤でヘッツァーからの奇襲攻撃を受けて履帯を切られ、隊列から遅れる事になってしまった。

 そして履帯を直して高地へと向かっている最中でもヘッツァーにまた履帯をやられ、置いてけぼりを喰らい、序盤は全くと言っていいほど戦力にはならなかった。

 自惚れているわけではないが、自分がいれば高地でももう少し戦果を挙げられたのではないかと思うと、悔やむに悔やみきれない。

 

「・・・あそこで、私がもっと・・・・・・・・・」

 

 ぶつぶつ言いながらカレーのルーを白米にかける直下。

 そして全員が、タイミングを合わせたかのように大きなため息を1つ吐く。

 そのため息と、4人の醸し出す暗い雰囲気が合わさって、彼女たちの近くのテーブルには誰も座っていなかった。

 

 

 その4人の様子は、食堂に入った時から見えていたが、あまりにも近寄りがたい雰囲気なので少し離れた場所に座るエリカ。

 彼女の前には、鯖の味噌煮定食。

そして彼女の前に座るのは、大盛りのカレーを食すまほだ。

 

(隊長と一緒にプライベートで食事・・・それは嬉しいんだけど・・・何かしら、この緊張感は・・・)

 

 普段、エリカは1人で、あるいはクラスで気心の知れた仲の人と昼食を摂る。

 まほと昼食を共にすることもこれまで何度もあったが、それは戦車道に関する話し合いをする時だ。戦車道の訓練メニューについて話し合いながら、次の試合での作戦を練りながら、大体その傍らで食事をしていたのだ。

 だが今日は、戦車道の訓練はなく、この先数日も訓練はない。それでもまほがエリカを食事に誘ったという事は、まほのプライベートでエリカを誘ったという事だろう。

 戦車道ではなく、プライベートで誘ってくれたことに関しては、エリカにとってはとても嬉しい。だが、そのプライベートでまほと接する事など今まで無かったので、どうすればいいのか分からずにいたのだった。

 

「・・・どうした、エリカ。食べないのか?」

 

 目の前に置かれた定食に一切口を付けないエリカを不審に思ったのか、まほがカレーを食べる手を止めてエリカを見る。

 

「あ、いや・・・何でもないですよぉ~・・・」

 

 不意に話しかけられたので少し声が裏返ってしまう。その反応を見て、エリカも緊張しているのだとまほは理解した。

 

「・・・急に誘ったりしてすまなかった」

「い、いえいえ。隊長が謝るような事では・・・!」

 

 いきなり誘われた事については流石に面食らったが、それでまほが罪悪感を抱く必要はない。エリカは必死に手を横に振ってまほは悪くないとアピールする。だが、まほは少し哀し気な顔をする。

 

「・・・昨日、みほたち大洗に負けて、自分たちはどうして負けたんだろうと、私なりに考えていたんだ。それはこちら側が挑発に乗せられたこと、私自身が勝負を急いだこと・・・それら全ては忘れてはならない敗因だ」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 エリカは、昨日のミーティングでそのどちらもまほが指摘していたのを覚えているので、否定するのは単なる慰めにしかならないと思い何も言えなかった。

 

「だが・・・・・・・・・黒森峰と大洗には、戦車の数や性能、練度とは違う、大きな差があるのに気付いたんだ」

「?」

「それは、つながりだ」

 

 水を飲んで、喉を湿らせるまほ。

 

「・・・黒森峰は上下の繋がりを重んじているのに対し、大洗は横のつながりを大切にしている。川で動けなくなったM3を助けに行ったのも、恐らくはみほの独断ではなく、みほの仲間が信じてみほの背中を押したものだ」

「・・・・・・・・・」

「あの時の牽制射撃も、恐らくはみほの命令ではなく、みほを信じた大洗の皆の意志だ。それこそ、上下関係だけで成り立っている隊ではできないようなことだ」

 

 エリカはふと、去年のあの忌まわしい全国大会決勝戦の事を思い出す。

 あの時、みほが自分の乗るフラッグ車を降りた後、みほの戦車は身動き一つとれなくなった。司令塔となるみほがいなくなったことで、何をすればいいのか分からなくなってしまったからだ。

 あの時、乗員とみほとの間に信頼関係が築けていなかったから、みほの突然の行動に困惑して、どうすればいいのか分からなくなったのだ。

 

「・・・・・・戦車の火力や装甲、緻密な作戦も大事だ。しかし、ただそれだけで勝ち上がれるほど戦車道の世界も甘くはない、という事かもしれないな」

 

 そう言ってまほが肩をすくめて小さく笑う。信じがたいが、まほの言っていることはあながち間違っていないのかもしれない。みほのいる大洗がそれを実践したのだから。

 

「・・・だから私たちも、戦車道での訓練を変えるだけじゃなくて、横のつながりを作る事も始めていきたいと思っている」

 

 もちろん、横のつながりが皆無と言うわけではない。エリカの同期の根津や斑田たちは仲がいいし、今年新たに入った1年生たちも、独自のコミュニティを作っている。だが、まほの言いたいことはそう言う事ではなく、隊全体で、学年の差も気にせずに繋がりを作りたいという事だろう。

 

「・・・まずは、私とエリカの2人で始めていきたい」

「・・・はい」

 

 まほの意図が分かり、エリカも笑って頷く。

 だから今日、まほは自分を誘ったのかと。昼食を共にして、隊長副隊長の関係ではなく、少しでもエリカと親しくなりたいと、思っていたという事だ。

 そこで、まほが右手を差し出してきた。その意味をすぐに理解してエリカも、右手でその差し出された手を握り返した。

 ようやく緊張が取れたことで、エリカが箸を取り少し冷めてしまった鯖の味噌煮を口に含む。味噌の甘辛さと鯖の味が口に広がる。

 

「・・・ではまず手始めに・・・エリカ」

「あ、はい」

 

 そこでまほが話しかけてきたので、エリカは一旦箸を止める。だがまほが、『食べながらでいいぞ』と言っていたので、お言葉に甘えてみそ汁を啜る。

 ところが。

 

「私の事を名前で呼んでみてくれないか」

「げほっ、げほぉ!?」

 

 みそ汁が変なところに入り込み思いっきり咽る。幸いにも鼻から吹き出すという事は無かったので、乙女(?)の尊厳は死守した。

 

「ああ、すまない。驚かせたな」

「・・・はぁ、けほっ・・・いえ、大丈夫です・・・こほっ」

 

 少し咳き込み、滲んだ涙をハンカチで拭いながらも、首を横に振るエリカ。

しかしいきなりにもハードルの高い要求をしてきた。一体どうしてそうなったのか。

 

「・・・手っ取り早く、他人と打ち解けられる方法をクラスの友人に聞いてみたんだが・・・皆『名前で呼び合う・・・とかかな?』と言われてな」

 

 まほは武人、戦車道の世界に生きる人間と言う印象が強いが、人付き合いだってちゃんとしている。彼女が隊長を務める戦車隊では隊の皆から敬われる存在ではあるが、クラスの中では普通に級友と接する事が多いし、友達だっている。

 そんな当たり前のことにエリカは気付いたが、それは一先ず置いておく。

 

「だから、戦車隊でも親しいエリカには名前で呼んでもらいたかったんだが・・・」

「た、確かにそうですけどダメです!そんな、隊長は私が尊敬する人で、そんな人をファーストネームで呼ぶなんてそんな恐れ多いというか・・・」

 

 中途半端に大きな声で力説してしまって、周りから好奇の視線に晒されるが、エリカは縮こまるように手をもじもじと合わせて小さくなる。

 まほは『ふむ・・・』と顎に手をやって考える仕草を取る。こうした仕草もまほがやるとやけに絵になるのはどうしてだろう。

 

「・・・そういうものか。いや、すまなかった。自然とエリカの事は名前で呼んでいたから、誰でもそう言うものだと思っていたんだ」

「・・・尊敬しているというか、その前に私は隊長よりも一つ年下ですから名前で呼ぶのも少し変です」

「確かに・・・・・・・・・難しいものだな」

 

 唸るまほ。どうやって打ち解けられるのかを考えているのだろう。

 エリカもまた、白いごはんを食べて少し考える。こういう時は率先して部下であり後輩でもある自分が何か意見を出さないと、と思い考えた末にエリカは『あっ』と言って箸を天に向けた。

 

「?」

「・・・隊長、カレーライスがお好きなんですか?よく召し上がっているところを見ますが・・・」

 

 何の脈絡もないエリカの質問。ただ、エリカが投げやりに聞いているようには見えないのでまほは正直に答える。

 

「え?ああ、そうだな。私が好きなのは・・・カレーだな。辛口でもいける」

「そうなんですか・・・私は中辛が精いっぱいですね・・・」

「まあ、普通はそうなんだろうな。そう言うエリカは何が好きなんだ?」

「私は、ハンバーグが好きです。ちょっと子供っぽいと思われるかもしれませんが・・・」

「いや、好物は人それぞれ自由だ。とやかくは言わないさ」

 

 まほが言ったところで、エリカが箸をいったんご飯茶碗の上に置いて仕切り直す。

 

「と、こんな感じで話していけば自然と打ち解けるのではないでしょうか?」

「・・・ああ、そう言う事か。急に話を変えたから、エリカがこの話題にうんざりしてしまったのかと思ったぞ」

「それについてはすみません・・・ただ、一度こういう話をしましょうって言ってしまうと身構えてしまうかもしれませんでしたので」

「そうか・・・・・・」

 

 そしてまほは、にこりと笑ってエリカに言った。

 

「・・・じゃあ、これからもっといろいろな事を話していこうか」

「・・・はい、もちろんです」

 

 そうしてエリカとまほは、これまでする事も無かった他愛も無い雑談をしながら、昼休みの時間を過ごしていった。

 近くで黒いオーラを噴出する車長4人組を視界から逸らしながら。

 

 

 戦車道の訓練は昨日のまほの言葉通り無かったので、織部と小梅、そして根津他いつものメンバーを含む戦車隊員たちは、陽が沈む前に帰路に就いた。全国大会期間中は、陽が完全に落ちて夜空の下で帰ることが多々あり、そうでなくても訓練がある日は大体陽が落ちる直前まで帰れなかった。だからこうして、まだ陽の高いうちから帰るのがとても新鮮だったし、元々黒森峰戦車隊にいる人にとっては随分と久しい事だ。

 そして皆と別れて自室に戻った織部は、鞄を置いたところでベッドに腰かける。

 昼休み、織部は小梅と次の土曜にデートをする約束をした。

 異性と2人きりで出かける事なんて全くなかったし、ましてやその相手が自分の好きな人となればなおさらだ。

 まだその当日は先なのに、もう織部の心は踊りだしてしまっている。下手すれば身体も踊りだしそうだった。

 だが、織部だって高校2年生、年頃の男の子だ。人生初のデートと言う一大イベントを前にして、浮ついてしまっても誰も責められまい。

 織部は数分ほどふにゃけた顔を浮かべていたが、やがて徐々に普段の表情に戻る。

 浮ついてしまったが、冷静に考えてみれば自分だけが楽しむようではいけない。ちゃんと、相手―――小梅の事も楽しませなくてはだめだ。

 だからまずは、土曜に寄港する港を調べて、その近くで小梅も気に入りそうな場所を探す。

 絶対に、小梅をがっかりさせたり悲しませたりするような事は避けなければならない。

 お互いに告白してから、すぐに戦車道全国大会に向けての練習と、その大会期間に入ってしまったせいで、恋人としてできることをあまりできなかった。だから明日、今までできなかった分を帳消しにできるぐらいの事をしないとならない、織部はそう思っていた。

 実際には、もう既に色々と恋人らしいことをしてきたし、それ以上の事もやったのだが、その事実は今だけは考えていなかった。




ポピー
科・属名:ケシ科ケシ属
学名:Papaver rhoeas
和名:雛罌粟
別名:虞美人草(グビジンソウ)、コクリコ、シャーレイポピー
原産地:ヨーロッパ
花言葉:いたわり、思いやり、陽気で楽しい、恋の予感


変わっていく黒森峰
その兆し、的なものを書いてみました。


感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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紫鬱金香(ムラサキチューリップ)

 かれこれ3回は自分の姿を鏡の前でチェックした気がする。服の色調やバランスは、自分で言うのもなんだが己のイメージと合致しているし、特に違和感はないように見受けられる。

 鞄の中にはもちろん貴重品、そして今日のために作った“ある物”。これだけは絶対に忘れてはならない。

 学校に行く時でさえこうして部屋を出る前に持ち物の確認なんてしないのに、今日と言う日に限って何度もするのは、それだけこれから始まるイベントに対する意気込みが他とは全く違うという事だ。

 よし、と気合を入れてドアを開き、空を見ると、少し雲が広がっているが晴れ間も見えている。

 普段よりも軽やかな足取りで待ち合わせ場所へ向かう織部。途中で顔見知りの誰かと会うことはなかったが、もし会っていたとすればその人は間違いなく、織部の事を変な奴と思うだろう。

 そしてものの数分で待ち合わせの交差点に着くと、既にその人は待っていた。

 その人は、手にはブラウンのキャンバストートバッグ。そしてその身には白のブラウスにオレンジのパネル・スカートを着ていた。パネル・スカートの下地はオレンジだが、その上から縫われている同色の布は編み目が大きく少し透けていて、膝上数センチほどが透けて見える。

 

「おはようございます、春貴さん」

 

 その人、赤星小梅は織部の姿を見ると笑って手を振ってくれた。織部も手を振り、近づく。

 

「ごめん、待たせちゃった」

「いえいえ、今来たところです」

 

 定番ともいえるやり取り。お互いに吹き出して、閑話休題。

 今日こそが、小梅との初めてのデートの日だ。織部の人生での経験トップ5に入る重大な出来事だ。

 今日行く場所は、一応事前に候補に挙げた上で小梅に聞き、ちゃんと小梅も大丈夫だという許可も貰っている。

 後は、織部の持ってきた“アレ”を小梅が気に入ってくれるかどうかだ。それ以外の憂いは何もない。

 学園艦は夜のうちに既に寄港している。もうすぐそこには陸が広がっているはずだ。

 挨拶もそれなりに切り上げて、織部と小梅は、学園艦と陸地を結ぶタラップが接続された階層へと降りようとする。

 と、そこで小梅が織部に向けて手を差し出してきた。織部はその意図をすぐに理解して、手をつなぐ。小梅の手の温もりが織部に伝わり、また織部の温かさを小梅も感じる。

 お互い、相手が傍にいる事を強く感じながら、歩き出す。

 小梅も全国大会で気を引き締めていたから、戦車道の訓練が少しの間無かったからと言って疲れていないとも限らない。

 だから今日は、お互い2人で楽しむ事と、小梅の疲れを癒す事も忘れずに過ごそうと、織部は誓う。

 

 

 

「「「・・・・・・・・・」」」

 

 そう誓ってからおよそ5分後、タラップの前で織部と小梅は、私服のエリカと出会った。出会ってしまった。出鼻をくじかれるとはこう言う事なのだろうな、と織部はぽやんと考えた。

 エリカは、普段は伸ばしたままの艶やかな銀髪をポニーテールに纏めていて、服はフリルのついた白いワンピースに、頭に白いつば広のキャペリンと言う帽子を被っている。そして肩には薄いクリーム色のショルダーバッグを提げている。意外にも、エリカの好きな色は白系らしい。

 そしてその全体の雰囲気から、エリカの育ちの良さが窺える。ツンツンしている普段のエリカとはまた違う感じのイメージがギャップを引き出していた。

 だが、知られざるエリカの一面を見れた事については一先ず置いておき、織部と小梅の状況がバレてしまった事がマズい。

 気まずくて織部も小梅も何も言葉を発せられない。エリカも、イメージとはかけ離れた服装をしていることがバレてしまって恥ずかしいのか、こちらと目線を合わせようとはしない。

 

「・・・エリカさんも、出かけるんですね・・・」

 

 気まずさに耐えられなくなり、小梅がエリカとは目を合わせようとはせずに話しかける。エリカも同様に、視線を逸らしながら答える。

 

「・・・ちょっと、プレゼントを買いにね」

「プレゼント?」

 

 織部が気になって聞き返すと、エリカもようやく気まずさから脱したのか織部の顔を見て頷く。

 

「・・・この前聞いたんだけど、7月1日、もうすぐ西住隊長の誕生日なのよね」

「あ、そうだったんだ」

「だから副隊長として、何かプレゼントしないと、と思ったのよ。学園艦はそんなプレゼントになりそうなものなんて売ってないし、売っていたとしても『あれか』って言われやすい。だから、こうして寄港した時に買おうと思ったのよ」

「なるほどね」

 

 織部も小さく頷いた。エリカもそれで話しは終わりとばかりにそそくさと歩き出して、港町を目指す。

 そして、織部たちの方を振り向かずに歩きながら言った。

 

「あんたたちも、デートも別にいいけどプレゼントの1つくらいは用意した方がいいんじゃないかしら?」

 

 その言葉に、織部も小梅も少し考える。

 織部は確かに、正式な隊員ではなく、所属するのも半年だけとはいえ、世話になっているから何もしないというわけにはいかない。

 小梅も、自分の力を認めてくれて戦車にまた乗せてくれて、その上実力を全国大会に必要だと判断して決勝戦にまで参加させてくれた。

 2人とも、まほに対しては恩を抱いている。だから、エリカの言葉の通り何かプレゼントを贈って感謝の気持ちを伝えなければと、自然に思っていた。

 だが、織部と小梅はお互いに手を繋いでいることを思い出す。そして2人は、今日はデートをするのだということを再認識する。

 まほへのプレゼントも大事だが、まずはお互いに今日と言う日を楽しむことが大事だと思い至って、2人は歩き出した。

 

 

 港町でショッピングも魅力的だと思ったが、織部が小梅を誘ったのは自然公園だ。この自然公園は規模が結構広く、大きな池や遊歩道が整備されていて、休憩できる東屋もいくつか点在している。

 寄港地が決まってから、その近くのデートに向いていそうなスポットをリサーチしてここを見つけて、念のために大丈夫かを小梅に聞いて、小梅も賛成してくれたのでここに行くことにしたのだ。

 港町から十数分ほどバスに乗って、バスを降りてから少し坂を上ったところにその公園の入り口はあった。空には少し、雲が広がっている。

 そして園内に入ると、緑と言う落ち着いた色も相まって少し涼しく感じる。そして、心が少し落ち着くような感じがした。

 園内のマップを目にすると、中央に大きな池があり、その池の周りに遊歩道が敷かれて、東屋は一定間隔で設置されている。そして、織部たちが入ってきた入口の反対側には、海を見渡せるような見晴らし台があるようだ。

 織部と小梅は、時計回りで池の周りの遊歩道を歩く事にした。

 2人で並んで遊歩道を歩きながら、織部と小梅は自然の音に耳を傾ける。風に揺られて木の葉が揺らぐ音や、鳥のさえずり、池の水の音・・・普段はあまり意識を向けて聞けるようなものではない音を聞いて、心が安らぐ。

 

「・・・のどかだね」

「・・・そうですね」

 

 織部がなんとなく呟き、小梅も答える。小梅も穏やかな表情を浮かべ、自然の音を楽しんでいるようだ。

 しばしの間、自然の音に心安らぐのを感じながら歩くと、網で仕切られたスペースの横に差し掛かる。そこには一匹のレトリーバーが飼い主であり夫婦でもあるような男性と女性と一緒にフリスビーで遊んでいる。

 そこで織部は、小梅がそのドッグラン―――と言うよりレトリーバーをじっと見ているのに気づいた。

 

「・・・やっぱり、犬が好き?」

「・・・はい。とっても、可愛いですから」

「・・・そうだね」

 

 まだ織部が、小梅の事が好きだという事に気付いておらず、小梅が織部の事を好きだという事に気付いた日。根津たちと一緒に寄港先のショッピングモールのペットショップに入った時だ。

 『いつか飼ってみたい』と小梅は言っていたし、その時小梅は『ちゃんと育てられるかが心配』とも言っていた。

 

「小梅さん、いつか犬を飼ってみたい、って言ってたよね。前に」

「・・・・・・はい」

 

 織部は前を向いて歩きながら、話しかける。小梅も、ドッグランから目を逸らして、織部と同じように前を向き答える。

 そして織部は、少し視線を上にあげ、少し雲が多くなってきた空を見上げながら、気恥ずかし気に告げる。

 

「・・・・・・将来、飼おうか」

「・・・・・・・・・え?」

 

 織部の方を見ると、織部は耳まで顔を赤くしていて、小梅と目を合わせようとはしない。

 小梅は最初、織部の言った言葉の意図が伝わらなかったが、次第にその意味を理解していき、遂には小梅の顔も赤くなった。

 将来とは、結ばれた後のことだと。

 そのことを匂わせるような話は全くと言っていいほど今までしていなかったし、そして将来結ばれることをお互い願い告げたのは、2人が告白をした日で、それは小梅の方からだった。

 だから小梅は、織部の口からそんな言葉を聞けたことが驚きだったし、何よりも嬉しかった。

 織部はちゃんと、考えていてくれたのだ。あの時の流れで言ってしまったのではなく、本当にそうなりたいと願い考えてくれていたのだ。

 それがなおのこと嬉しくて、小梅は織部とつなぐ手に力を籠める。そして、織部との距離を気持ち少し近づける。

 2人は、池の周りをゆっくりと歩いて行った。

 

 

 それから少し歩いたところで、“見晴台”という看板が立てられたスペースにやってきた。その名の通り、そこは見晴らしがよくて、港町が一望できる場所だ。巨大な黒森峰学園艦も見える。

 

「学園艦ってホントに大きいね」

「ホントですね・・・黒森峰は特に大きいって言われてますから・・・」

 

 街を見渡せるようなこの場所にあるベンチに2人は腰かけた。時間はお昼時より少し前だが、2人はここでお昼ごはんにする事にした。

 織部と小梅は、互いにそれぞれのバッグから何かを取り出す。織部は、青い布の袋を、小梅は白い布に包まれた箱を取り出して、それぞれ相手に渡す。

 中身は弁当だ。

 前日、織部が前に何度か小梅に弁当を作ってきてもらった事のお礼がしたくて、今日と言う日だけは自分が弁当を作りたいと申し出たのだ。しかし小梅もただでは退かず、最終的にお互い相手の分の弁当を作ってくるという事に落ち着いた。

 そして今、お互いに相手の作ってきてくれた弁当を膝の上に乗せて包装を解いていく。その段階で織部が小梅に話しかけた。

 

「先に言っておきたいんだけど・・・・・・」

「はい?」

 

 小梅が袋の口を開くために紐を引こうとするが、その手を止めて織部の方を見る。

 

「・・・弁当なんて作ったことはなかったし、小梅さんみたいに手の込んだものも作れなかったから・・・。ちょっとがっかりさせちゃうかもしれないけど・・・」

「そんな事はないです」

「え?」

 

 小梅は、織部の顔を見据えたまま微笑む。

 

「春貴さんが昨日、私のためにお弁当を作りたいと言ってくれただけで、私は嬉しかったですから。だから、がっかりなんてしません」

 

 織部が小梅の言葉に感涙しそうになるが、その横で小梅は袋のひもを引き、袋から中身を取り出す。

 中に入っていたのは。

 

「おにぎり・・・ですか?」

 

 袋の中には手のひらより少し小さいサイズのおにぎりが2つと、小さな箱が入っていた。そしてその箱の蓋を開くと、ウィンナーとポテトサラダ、そして少し形がいびつな玉子焼きが入っていた。

 玉子焼きの形が少しだけ歪んでいるのを見て、小梅は織部に尋ねる。

 

「もしかして、手作りですか?」

「・・・・・・・・・初めてなんだけど、ね。形が悪くてゴメン」

 

 視線を合わせるのが恥ずかしいのか、それとも綺麗に作れなかったことが申し訳ないのか、織部は小梅の方を見ないで謝る。

 だが、その程度で謝る事なんて無かったのに、むしろ小梅からすれば嬉しい事なのに。初めて作ったという事は、多分織部は小梅のために慣れないことに挑戦して、少しでも喜ばせようとしたのだろう。

 その心遣いを小梅は、素直に嬉しく思う。

 

「・・・ありがとう」

 

 一方で織部も、小梅の持ってきた弁当箱の蓋を開ける。左半分には白いご飯。そして目を引くような、目玉焼きの乗ったハンバーグ。そしてミニトマトと、茹でたブロッコリー。そして、前と同じく小さく切られたリンゴ。いつもながら、どれも美味しそうだった。

 やっぱり自分とは違うんだな、と織部はしみじみと思った。自炊しているから簡単な料理も多少できるとは言え、ハンバーグなんて凝った料理はほとんど作らない。

 だから少しだけ、小梅の事が羨ましかった。

 

「・・・どうかしたんですか?」

 

 気づけば織部は、自然と小梅の方を見ていた。そして小梅はそれに気づいて、織部に問いかける。

 

「・・・いや、こうして手の込んだ料理を作れる小梅さんが、羨ましいなって思って」

 

 素直に自分がどう思っていたのかを告げると、小梅は苦笑した。

 

「私だって、最初は料理はそう得意じゃなかったんですよ?自分なりに頑張って・・・ここまでこれましたから」

 

 やはり元から料理が上手と言うわけではなかったのだろう。前に小梅の母から教わって、さらに学園艦での一人暮らしで磨きがかかったと言っていたから、小梅も努力を重ねてきたという事か。

 

「僕も・・・もうちょっと料理のスキル上げようかな・・・」

 

 料理のスキルは別に持っていて無駄にはならない。織部も、こうして身近に料理上手な人がいるから、少しでも腕を上げたいと思い始めるようになった。

 そこで小梅がある提案をした。

 

「よかったら今度、教えましょうか?」

「え、いいの?」

「はい、もちろんです」

 

 小梅が本当に厚意でそう言ってくれたことに、織部はもちろん気付いている。

 そして織部と小梅は、この程度の事で気遣い遠慮するような関係ではない。だから織部はそれを断らず、その恩恵に素直に預かる事にした。

 

「・・・そうだね。よければ・・・教えてくれるかな?」

「はいっ」

 

 そこで2人は、手を合わせていただきますをし、それぞれ相手が作ってくれたお弁当を食べる。

 織部はまず、ハンバーグ。箸で小さく切り、一口食べてみると。

 

「・・・やっぱり、美味しい」

「ありがとうございます」

 

 素直な気持ちを告げると、小梅は笑って頷いてくれた。

 そして小梅は、ラップをはがして織部の作ってきたおにぎりを一口食べる。

 

「・・・美味しいです」

「え、そうかな・・・。ただのおにぎりなんだけど・・・」

 

 織部はそう謙遜するが、少し塩が利いていて、そして具の鮭フレークが味に彩りを加えていて飽きさせない。

 おにぎりを1つ食べ終えたところで、小梅が織部に尋ねた。

 

「ところで、どうしておにぎりなんですか?」

「あ、嫌だった?」

 

 小梅の質問に、織部は少し申し訳なさそうな顔をする。だがこれは質問の仕方が悪かったっとすぐに気づき、慌てて謝る。

 

「あ、そうじゃなくて、ごめんなさい・・・。ただ、私のみたいに普通にごはんにするんじゃなくて、どうしてなのかなって・・・」

「ああ、そう言う事・・・」

 

 織部が安心したように息を吐き、『えーっとね』と迷うようにつぶやいてから答える。

 

「僕の作った弁当は、ちょっとおかずが少なめだから。おにぎりにして、少しでもお腹いっぱいに近づけるようにしようと思ったんだ」

 

 確かに、ただ白米を盛り付けるよりも、おにぎりにした方が量が同じであっても普通に盛り付けたのに比べると食べた気になる。

 今、小梅の膝の上にある箱の中だけのおかずと合わせて、白米を同じ量にすると、少し物足りない感じになってしまうだろう。そこでご飯をおにぎりにすれば、多少食べた気になれる、と織部は考えたようだ。

 ちゃんと、小梅の事を考えてくれた織部は、優しいのだと再認識する。

 そして2人は、目の前に広がる景色を見ながら、お互いに自らの恋人が自分のために作ってくれた弁当を堪能した。

 

 

 ものの2、30分ほどで2人は弁当を食べ終えて、そしてまた池の周りの遊歩道を歩く。

 ところが、歩いている最中で織部の肩に一滴の水が落ちる。さらに頭や腕にまで水が落ちてきて、空を見上げてみれば雲が広がっている。そして見上げた顔にも水は落ちてきた。

 ここまで来れば、雨だという事が馬鹿にでもわかる。

 そして最悪な事に、今2人は傘を持ち合わせてはいない。

 

「ちょっと、屋根のあるとこまで走ろう」

「あ、はいっ」

 

 織部が小梅の手を引いて一緒に走り出す。だが、すぐに雨の勢いが増していき、服がじわじわと湿っていく。

 そんな服の湿気の気持ち悪さと水分を吸った服の重さに耐えながらも、織部と小梅は少し走り、やがて屋根のある東屋へやってきた。

 ベンチに座り、一息つく織部と小梅。雨の音は強く、東屋の屋根を雨が叩く音が大きく聞こえる。しかし、少し離れた場所には晴れ間が広がっているので、ただの通り雨のようだ。

 スマートフォンで天気を確認しても、雨雲はそれほど広くはない。少し待てば止むだろう。

 

「通り雨みたいだし、ここで―――」

 

 少し休もう、と言おうとしたところで織部が小梅を見ると、織部は首を勢いよく回して小梅から視線を逸らす。

 小梅がその織部の行動を不審に思ったところで、小梅は気付いた。

 先ほど雨の中を走り、決して少なくない量の雨水に晒された小梅の服は、水を吸って小梅の肌にぴったりとくっついている。そして、小梅の白のブラウスも雨で透けてしまっていて、小梅のつけている水色の下着まで薄っすらと見えてしまっていた。

 

「ッ!!」

 

 慌てて自分の身体を抱くように腕で隠すが、時すでに遅し。織部の反応からして多分、見られてしまった。

 

「・・・本当に、本当に・・・ゴメン」

 

 織部が視線を合わせようとはせずに、ハンカチを差し出して来る。小梅はそれを受け取り、自分のハンカチと一緒に身体を拭くが、気休め程度にしかならない。これは本格的に、乾くのを待たねばならないだろう。

 今話をするのは気まずすぎる。だから織部も小梅も何も言うことができない。雨の音が一層大きく聞こえて、2人の間に妙な距離感が生まれるような気がする。

 

「・・・春貴さん」

 

 そこで小梅が、話しかけてきた。織部はちらっと、小梅の方を見る。まだ服は完全には乾ききっていないようで、見られたくない部分は右腕で隠し、もう片方の手を織部に借りたハンカチを返すために伸ばしていた。

 織部は、極力小梅の方を見ないようにしてそのハンカチを受け取る。水を吸って少し湿ってしまっていた。

 

「・・・乾くまで、少し待とうか」

「そう、ですね・・・」

 

 先ほど言えなかったことを改めて言うが、小梅は恥ずかしそうに答えるだけだ。それは無理もない。

 何とかこの状況を変えたかったが、何一つとして打開策が見つからない。頭をこれでもかと言うほど回転させても、何も思い浮かばない。

 そこで小梅が、ボソッと話しかけてきた。

 

「・・・・・・見苦しいものを、お見せしました・・・」

 

 何を思ったのかそんなことを言ってきた。

 それに対して織部は即座に『そんな事はない』と反論したかったが、そこで一瞬迷う。

 もしそう言ってしまえば、織部が逆に小梅の身体に興味があるという事になってしまう(全くないわけではないが)。それは考え方次第では、織部が小梅の事を『そういう目』で見ていると捉われかねない。

 だからと言って『そうだね』なんて返してしまえば、小梅は自分に自信を無くしてしまうだろう。それに織部は見苦しいとは思ってもいない。

 素直に答えれば織部の評価は落ちる。かといって否定すれば小梅の評価が落ちる。

 世間一般で言う“詰み”状態だ。

 だが、そこで織部は1つの解をはじき出した。

 

「・・・まあ、仕方ないよ。急な通り雨だもの、予報にもなかったし・・・」

 

 こうして自然と天気の話に流れを変えて、答えを誤魔化す。我ながらにいい発想だと、織部は思っていた。

 だが、そうはならなかった。

 

「・・・・・・春貴さん」

「何?」

 

 織部が、ようやっと話題が変わったと思い返事をしたら。

 

「・・・・・・否定はしないんですか」

 

 少し哀しさを帯びるその言葉を受けて、ビシリという音が織部の心の中で聞こえた。

 全然話題を変えられていなかった。むしろ答えなかった事で、小梅の気分を害してしまったのかもしれない。

 

「あー・・・そうじゃなくて、えっと・・・・・・」

 

 正直に答えなければ、恐らく小梅は落ち込む。だが答えたら答えたでどう思われるか分からない。

 何とか答えようとするが、『自分が小梅の事をいかがわしい目で見ていると思われたくない』という考えと『小梅の不安や恐れを晴らしたい』と言う考えがせめぎ合い、どう答えればいいのか分からなくなる。

 だが織部が悩む時間が延びると、小梅は一層自信を持てなくなってしまうだろう。だから早いところ答えるべきだった。

 そして、小梅が悲しむより自分の尊厳が傷つけられた方が幾分マシだと思い至った織部は、観念して告げる事にした。

 

「・・・・・・引かないでね?」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 あらかじめそう前置きしたのは、せめてもの抵抗だった。

 

「・・・見苦しいなんて思わなかったよ。全然」

 

 だめだ、やっぱり自分の価値が貶められたのは否定できない。もしこの事が黒森峰と織部の元居た学校の連中にバレたら、間違いなく晒上げにされる。何を言われるか分かったものではないし、女の敵と認定されても抵抗できない、受け入れざるを得ない。

 何より小梅からの好感度は絶対に下がったと断言できる。

 もう終わりだ、そう思ったところで。

 

「・・・・・・ふふっ」

 

 小梅が小さく笑った。

 それにどういう意図があるのか分からなかったが、織部は余計不安に襲われる。何で笑うのか、分からない。

 

「・・・大丈夫ですよ、春貴さん。私はそれぐらいで引いたりも嫌ったりもしませんから」

「・・・・・・本当に?」

 

 そんな織部の心配を見越してなのか、小梅がそうフォローしてくれる。けれど、まだ織部の不安はぬぐい切れていない。

 そこで小梅は、少し横にずれて織部との距離を近づける。肩に少し、しっとりとした感覚を覚えて、小梅の服はまだ完全に乾ききっていないのだという事に気付く。そして何より、今小梅の方に目を向けてはならないと織部は思う。

 だから、首が棒で固定されているかのように、織部は小梅の方は見ず正面、あるいは少し斜め向こう側を見る。

 

「・・・本当ですよ」

 

 安心感を抱かせるような小梅のゆったりとした声。織部も、小梅がそう言ってくれているのだからあまり邪推するのはよそうと思い、織部も小さく息を吐いて目を閉じ、雨の音に意識を向けた。

 小梅も、織部の肩に顔を寄せて目を閉じ、織部と同じように雨の音を楽しむことにしたようだ。

 やがて数十分ほど経ち、雨の音は聞こえなくなり、雨も止んでいた。織部が立ち上がり、空を見上げると晴れ間が見える。雲もそれほど目立っていない。

 そして、ゆっくりと小梅の方を見ると、服は完全に乾いているようで下着も透けてない。そのことに内心安心して、手を差し出す。

 

「じゃあ、行こうか」

「はい」

 

 小梅が織部の手を取り、立ち上がって公園の散策を再開した。

 

 

 午後3時過ぎに、織部と小梅は港町へ戻ってきた。そして今は2人並んで、通りに面する店を見て回っている。

 それは小梅が『少し店を見て回りたい』と言ったのもあるし、今朝エリカに言われたまほへの誕生日プレゼントを探すというのもある。

 織部も小梅も、まほに対して少なからず恩義を感じている。だからそう言う日に贈り物をして少しでも、恩を返さないとならないという考えが2人の中に芽生えていた。

 だから織部と小梅は、プレゼントによさげなものが揃った店に入っては商品を見て、まほへの贈り物に合うかどうかを調べる。

 学園艦は明日までここに寄港しているので明日改めて買いに来ても別にいいのだが、二度手間になってしまうので今日の内に済ませようと、2人は結論を出したのだ。

 

「小梅さんは、何を贈るの?」

 

 小梅がまほにプレゼントをする事は知っている。それで何を贈るのかを、聞いておきたかった。

 

「そうですね・・・・・・何か実用的な・・・万年筆みたいなものでしょうか」

「なるほど・・・・・・」

 

 織部はそれを聞いたから、自分も同じものを買うというわけではない。むしろその逆だ。

 他人へのプレゼントが小梅と被ってしまったら相当気まずいものだ。先に小梅に何を贈るのかを決めてもらい、その上で織部はそれを避けて贈り物を選ぶことにした。

 今織部たちがいるお店は、女性向けのアクセサリーや小物等を販売する店。ここには万年筆は売っておらず、小梅の目当てのものはない。織部も、この手のアクセサリーはまほとはアンバランスだと思い買わないでおく。

 しかし小梅本人は、こういうものにも少し興味はあるようで、心なしか表情が生き生きとしている気がする。

 小梅が見ているのは、髪飾り。小梅の髪は少し癖があるから、少し気になってしまうところがあるのかもしれない。

 

「何か欲しかったりするの?」

 

 小梅に近寄り、尋ねる織部。小梅は、アクセサリーを見たまま、小さく頷いた。

 

「少しくせのある髪が、ちょっと邪魔かなって思うところがあるんです・・・」

 

 自分の前髪を指先でいじる小梅。

 

「その癖のある髪も、僕は可愛いと思うけどね」

 

 嘘偽りない感想を口にすると、小梅が頬を赤くして俯いてしまう。流石に少しストレート過ぎたか、と織部は反省するが嘘を言ってはいないしお世辞でもないので撤回する気はない。

 そこで織部は、ふと1つの髪飾りが目に入った。

 

「これとかどうだろう?」

「・・・え?」

 

 織部が手に取ったのは、薄いピンク色の5枚の花弁と、黄色い雄蕊が特徴の髪飾りだ。そしてこの花が何かは、小梅も知っている。

 梅の花だ。

 

「・・・・・・小梅さんに似合うんじゃないかな」

 

 織部は、気まぐれや直感でこれを選んだとは到底思えない。小梅が目で、『どうして』と問いかけると、織部は『んー・・・』と考えるように小さく唸ってから、ぽつぽつと答えだす。

 

「・・・・・・小梅さんの名前にも入っている花だし、それにこの花・・・可愛らしくて、それでいて綺麗で・・・小梅さんに似てる気がしたから」

 

 織部も、柄にもないことを言ってしまったという自覚があるようで、少し顔が赤くなっている。

 だが、小梅はその織部の言葉が全て伊達や酔狂ではないという事は分かっている。だから、織部が自分の事を考えてこの髪飾りを選んでくれたことを嬉しく思い。

 

「・・・では、春貴さんの言葉を信じで、これを買いますね」

 

 小梅は織部が選んでくれた髪飾りを手に会計をしようとする。それを織部は見逃さず、小梅に手を差し出した。

 

「それ、ちょっと貸してくれる?」

「?はい」

 

 小梅は織部の意図が掴めず、とりあえずそれを織部に渡す。そして織部はそれを、レジに持って行って会計を済ませてしまった。

 

「・・・・・・あ」

 

 そして、白い紙袋を小梅に差し出す。

 

「はい、どうぞ」

 

 小梅は成すがままにその紙袋を受け取るが、少しだけ、本当に少しだけ拗ねたような表情で織部の事を見る。

 

「・・・春貴さん」

「なに?」

 

 その小梅の表情に気付いているのか気付いていないのか、微笑みながら小梅の事を見る織部。意地悪でやったつもりではないのは小梅も分かっているのだが、それでも少し織部の悪戯っぽい行動が少しだけ、ズルいと思った。

 

「・・・後で、お返しを楽しみにしてくださいね」

 

 小梅もまた、少し悪戯っぽく言うと織部は苦笑した。

 

「・・・楽しみにしてるよ」

 

 織部からすれば、自分の行動について反省も後悔もしていない。それに、先ほどの悪戯っぽく笑う小梅もまた可愛らしかったので、それが見れた事についても良しとしておこう。

 そう思っていると、店員の初老の女性から温かい目で見られているのに気付き、織部と小梅はそそくさと店を出る事にした。

 店を出て少し歩くと、文具屋が目に入った。小梅の買いたいものである万年筆も文房具の一種だから、売っているかもしれない。

 そう思って織部と小梅は文具屋に入る。本屋とはまた少し違う落ち着いた感じがし、陳列されている品も普通のチェーン店とはまた少し違う。その店の一角に万年筆は置かれており、分かっていたが桁がそこらの文房具とはまるで違う。いいものでは5桁もしていた。

 小梅の財布事情は織部の知るところではないが、恐らくは安いものは買わないだろうと、織部は予想する。安価なものだと逆に壊れやすかったり寿命が短かったりして、あまり使う人の役に立たない。少しでも値が張るものの方が丈夫で長持ちする。

 やがて小梅は、深緑色に塗られ金の意匠が施された万年筆を手に取った。ちらっと値段を見ると5桁には及ばないがそこそこ高いものだ。

 そして小梅は、織部にとられないように用心深く持ちながら会計に進む。

 織部も、ここでは払わないでいるつもりだった。と言うのも、小梅はまほに恩義を抱いているから、そのお礼の品も自分自身の手で買い求めて、そして手渡ししたいだろう。優しい小梅だからこそだ。

 だからここでは、織部はあえて何もしなかった。

 店長のおじさんにラッピングをしてもらい、それをバッグに入れて小梅は、織部に店を出ようと促した。

 店を出ると、太陽は少し傾き始め、空も茜色に染まっている。織部も自分の分のまほへのプレゼントを買うはずだったのだが、これまでいろいろな店を回ってきてもいまいちどれもピンと来ていない。

 文具店を出て、小梅と共にしばしウィンドウショッピングを楽しんで、あと少しで学園艦にたどり着いてしまう。明日に持ち越しかなぁ、と織部が思ったところで一軒の店が目に入った。

 それは、時計店だ。

 

「・・・・・・ねえ、小梅さん」

「はい?」

 

 一応念のために、小梅に聞いてみる。

 

「西住隊長って・・・時計とか持ってるかな。試合中」

「え?ええと・・・・・・持っていない、ような気がします・・・」

 

 小梅の記憶している限り、まほは戦車に乗っている際に時計を見ない。そして腕時計などをしているのも見た事がない。平時ならともかく、試合中に携帯で時刻を確認するなどという事はしない。

そこで小梅は気付いた。どうやら織部は、時計をプレゼントするつもりのようだ。

 織部と小梅は時計店に入る。その店はデジタル時計ではなく、文字盤と針のアナログタイプの時計を主に販売していて、壁に掛けられている時計はチクタクと心地よい音を奏でており、振り子の揺れる様子も見ていて気持ちがいい。

 だが、このような据え置くタイプの時計は、まほが持っている可能性が高く、その場合は完全に無駄となってしまうので選択肢からは外す。

 となると、自然と選択肢は携帯型の時計へと絞られていく。そして、目についたのは懐中時計だ。金属製特有の煌めきと、精巧なデザインは惹かれるところがある。

 まほが懐中時計を首に提げる情景をイメージしても、違和感はない。むしろ合う。

 値札を見ると、やはり良い物は5桁が当たり前だ。先ほどの文具店で見た万年筆よりもはるかに高く、戦慄しそうになる。中には6桁に届きそうなものまであった。

 だが、中には小梅が先ほど買った万年筆より少し高い程度のものがあったので、それにする事にした。色もデザインも悪くないし、店主のおじいさんに聞けば『他よりは安いけど、それでも十分いいものだ』と言っていたので、その言葉を信じて買った。

 決して安くはない出費だが、感謝の気持ちを示すには十分だろう。

 これで、2人とも贈り物は買うことができた。

後は、帰るだけだ。

 

 

 

「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした」

 

 その日の2人の夕飯は、小梅の部屋で2人で作り、2人で食べた。どうも、日中ずっと2人で過ごしていたものだから、夕食だけ別々というのも少し割り切れないので、小梅の提案で2人で小梅の部屋に向かった。

 最初、小梅は織部にゆっくりするように言ったのだが、織部はそれを良しとせずに手伝う事を申し出た。小梅も、織部がそう言うだろうと思っていたのか、引き下がらずに手伝いを承諾した。そして、小梅からも少し料理をレクチャーしてもらったので学ぶべきところの多く、何一つ無駄のない時間を過ごせた。

 そして2人で協力して夕食を作り、一緒に食べて、後片付けをして今は緑茶(冷たいの)を飲んで一息ついているところだ。

 

「今日は楽しかったです・・・ありがとうございます・・・」

「いやいや、お礼なんて。僕も楽しかったよ」

 

 ハプニングと言えば、雨のせいで自然公園で立ち往生を喰らい、男がやすやすと見てはいけないようなものを見てしまった事ぐらいだが、他には別に問題はない。2人でお互いの手作り弁当を食べられたし、小梅にプレゼントを買ってあげる事もできた。懸案事項だったまほへのプレゼントも問題なく買えたので、何も案ずることはない。

 少ししたら織部もお暇し、それで今日のデートは全て終わる。

 だが、小梅は緑茶を一口飲んだところで、じっと織部の事を見つめる。それに織部は気付いて、お茶のカップを置いて小梅に顔を向ける。

 

「どうかした?」

「・・・・・・」

 

 そこで織部は気付く。小梅が少しだけだが、笑っていることに。だが、その笑みは安心感ではなく、それとは別のものを予感させるような意味ありげなものだった。

 そう認識した途端、織部に緊張が走る。何か粗相をしてしまったのかと思い込み、今までのデートでの流れを思い出す。

 だが、やはり失敗というような粗相というような出来事はやはり、ブラウス越しで不可抗力とはいえ小梅の下着を見てしまった事しか思い当たらない。あの時は気にしていないと言っていたが、やはり気に病んでいるのかもしれない。まあ、見られたくないものを見られたのだから当然とも言えるだろう。

 

「・・・・・あの、小梅さん。さっきは・・・・・・」

「春貴さん」

 

 先んじて謝ろうとするが、それを小梅が遮る。そして小梅は、おもむろに紙袋を取り出した。それは、織部がアクセサリー店で小梅に買ったものと同じだ。

 

「これを・・・・・・」

 

 まさか、気に入らなかったのだろうか。それとも、代金を織部が払った事が気に食わなかったのか。

 不安と疑問が頭の中で渦巻くが、そんな織部をよそに小梅は袋を開けて、梅を象った髪飾りを取り出す。

 

「・・・お返しを楽しみにしていてください、って言いましたよね?」

「・・・・・・あ、うん」

 

 気に入らなかった、と言うわけではないらしい。だが、その髪飾りを織部に差し出してきた。

 

「・・・・・・そのお返しの前に、これを私の髪につけてもらってもいいですか?」

「・・・それぐらいなら・・・いいけど・・・」

 

 小梅の意図が掴めないまま、織部は髪飾りを手に取る。そして一度立ち上がり、テーブルを回って小梅の傍に座る。テーブル越しでやるのは少し難しいからだ。

 

「どこにつければいい?」

「・・・・・・このあたりで」

 

 小梅が、左目にかかる前髪を指差す。そして小梅は目を閉じた。

 織部は、髪が乱れないように慎重に髪飾りをつける。その過程で小梅の髪に触れざるを得なかったのだが、小梅の髪はとても肌触りが良くて、男の自分なんかとはまるで違うと織部は思う。触れていてとても心地良いものだったが、あまり長いと逆に小梅を不安にさせかねないので、早々に終わらせる。

 つけ終えると、小梅の前髪少し横に払われて、髪飾りがアクセントになって美術的センスに自信のない織部も『いい感じ』だと見える。

 

「終わったよ」

 

 織部が告げると、小梅は目を開いた。

 そして今、織部は小梅に髪飾りをつけるために座っていたから、小梅との距離は近い。

 つまり。

 

「・・・・・・んっ」

「!」

 

 小梅が織部の不意を突き、織部の唇を奪うには十分の距離だった。

 突然の出来事に織部も動揺を隠せない。不意打ち気味のキスはこれで二度目だけれども前兆が無かったから心の準備もできていない。

 けれどその焦りや動揺すらも、こうして唇を重ねるだけで薄れていってしまい、他の事が考えられなくなってしまう。

 やがて、唇を離した小梅はいつか見た悪戯っぽい笑みでこう告げた。

 

「・・・お返しです」

 

 不意打ちなのも含めて、だろう。一本取られた、とばかりに織部が小さく笑うと、小梅も同じように笑う。

 

 こうして、2人にとって初めてのデートは、幕を閉じた。

 




チューリップ
科・属名:ユリ科チューリップ属
学名:Tulipa spp.
和名:鬱金草
別名:ウッコンソウ
原産地:中央アジア、北アフリカ
花言葉:不滅の愛(紫)


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赤熊百合(トリトマ)

西住隊長誕生日おめでとう!(2ヶ月半遅れ)


 織部と小梅がデートをした土曜の翌週から、戦車道の訓練は再開された。

 最初の月曜日は、スケジュールの都合と、休みで鈍ってしまったであろう隊員たちの体を復活させるような形でランニングだった。5日ほどの休みを経て、隊員たちの全国大会での試合とパワーアップ練習での疲れも完全に抜けたようで、ランニングでは誰もが普段通りの走りを見せていた。

 かくいう織部も、体力の無さは相変わらずだが、それでもここに来た当初よりは少し早いペースで走ることができている。小梅とは付き合い始めてから何度も共に夜ジョギングをしているし、少しは成長してきたという事だろうか。

 そしてジョギングの翌日からは、全国大会期間中の濃度の濃い練習ではなく、その前のような基礎中の基礎ではあるが重要な基盤となる訓練が行われる。砲撃訓練や、迅速な行動ができるように制限時間内に陣形を構築することができるようにする訓練、さらには模擬戦などだ。

 ところが、その練習で、何度か“不測の事態”が起きた。

 陣形を構築する訓練の際、最初のまほの指示は楔形隊形の構築だった。隊員たちはその指示に従って、決められた手順に従い戦車を動かして陣形を構成しようとする。

 しかし、あと少しで楔形隊形が完成するというところでまほから通信が入った。

 

『隊左前方より敵戦車乱入。楔形隊形から1列縦隊に隊形を変え、敵戦車を撃滅せよ』

 

 唐突な隊形変更と敵戦車乱入と言う事態に、隊員たちも困惑する。そして車長が周りを見れば、カラーリングが黒森峰本来のどの車輌とも違うⅢ号戦車が1輌だけ隊列を大きく外れている。あれが、敵戦車―――つまりは仮想敵だろう。

 その戦車は発砲してくることはなく、ただ黒森峰戦車隊の中をウロチョロ走るだけだ。

 だが、こうして訓練中に敵戦車が妨害してくる事など隊員たちは知らされていなかった。おそらくこれは、隊長であるまほの抜き打ちだろう。

 そしてこのウロチョロ走るⅢ号戦車の動きは、隊の中ほどのパンターに乗る斑田には見覚えがあった。全国大会決勝での高地包囲戦で黒森峰の隊列にさらっと混じり、そして隊列を乱したあのヘッツァーだ。

 忌々しいヘッツァーの事を思い出して頭に血が上りそうになるが、まずはまほの言われた通り1列縦隊を構築しようとする。これで敵戦車を列から外して集中攻撃するつもりだろう。楔形隊形ではフレンドリーファイヤーの可能性もある。

 まほの指示通り、1列縦隊になってから敵戦車に攻撃を開始する。だが、動きの良いⅢ号戦車はすぐに演習場の森の中へと消え去ってしまった。

 訓練の後で、まほは不測の事態に対応するための訓練だとネタを明かし、このようなことは事前に言わないでおいた方が実際にそのような局面に当たった際に冷静に対処できるという事で何も言わないでおいたのだ。確かに、たまに行われる防災訓練も、事前に『ある』と言ってしまって生徒たちの緊張感も全くと言っていいほどない。

 だから、あえて先に言わなかったのだ。隊員たちもそれで納得し、大きく息を吐く。

 ちなみに、あのカラーリングの違うⅢ号戦車に乗っていたのは三河だった。足回りも悪くなく、そこそこの火力と装甲を持っていて、黒森峰以外の学校が所有する主力戦車全体の平均的な性能だから、選ばれたらしい。

 そしてまほは、今後ともこのような訓練は何度かやっていくと告げ、隊員たちに緊張が走る。

 不測の事態に冷静に対処し、柔軟に戦い方を変えることが目的とまほは言っていたが、この試みは隊員たちを緊張させるには十分なものだ。何しろ、こんなドッキリにも似た訓練は前代未聞だし、それがいつ起きるのかも周知されず分からないからだ。故に、これからの訓練は今まで以上に緊張感をもって取り組むこととなるだろう。

 

 

 7月1日。今日はまほの誕生日だが、それでも訓練は通常通りに行われる。訓練を休みにして隊長の誕生日を祝おうとまで、黒森峰戦車隊も緩くはないし打ち解けてもいない。

今日の訓練は10輌対10輌の模擬戦だったのだが、そこでも“不測の事態”が起きた。

 まほの乗る隊長車であるティーガーⅠの動力系と無線機に異常が発生するという事態が起きた。ティーガーⅠは動きを止めてしまい、さらに隊長からの指示も聞けなくなったことで、まほのチームの戦車たちはそれぞれ自身の判断で戦うこととなってしまう。

 まほのチームのメンバーたちは最初はどうするか迷ったが、副隊長のエリカ率いる敵チームの攻撃は続く。やがて隊を二分して、フラッグ車を守る隊と敵を攻撃する隊に分けて戦闘を再開するが、やはり半数だけでは敵チームとは戦えず、敗北を喫してしまった。

 その日のミーティングで、まほの車輌に異常が起きたというのは嘘で、不測の事態にどう対応するのかをまほが見極めるものだったと明かされる。これもまた、臨機応変な対応力を養うためのものだった。

 試合の結果はまほのチームが負けてしまったが、チームが指示なしで隊を二分するという結論に至ったのは良かったと評価し、後はそれで勝てるようになればなおよしと、まほは言っていた。

 

「・・・・・・西住隊長、随分思い切った行動に出ましたね・・・」

 

 ミーティングも終わって、自分たちの教室に戻った織部と小梅。小梅は、織部の隣の席に座って、織部が報告書を書き終えるのを待っている。

 

「・・・どういう心境の変化だろう」

 

 織部がレポート用紙から目をそらさずに呟くと、小梅は『んー・・・』と少し考えこむように可愛らしく唸って、やがて答えを見つけ出した。

 

「全国大会で、みほさん達大洗の打ち出した奇策に何度も嵌められて、それでじゃないでしょうか?」

 

 確かに、決勝戦後のミーティングでも、今後はマニュアルに囚われない、柔軟性に富んだ訓練を取り入れていくと言っていた。それが、ここ数日の訓練での作為的なアクシデントだろう。

 

「・・・・・・そう言う事かぁ。でも、西住隊長のチームの人は、生きた心地がしなかったんじゃないかなぁ」

 

 織部が苦笑しながら言うと、小梅もあははと困ったように笑う。

 模擬戦でまほのチームにいた隊員たちは、まほの車輌が撃破された際に土下座するような勢いで謝っていた。それだけまほを守れなかったことがショックだったし、不測の事態に対応できなかった自らの事を不甲斐なく思っていたのだろう。

 実際にはまほもそのような結果になる事は理解していたようで、あまり悔しがってはいなかったし、謝ってきた隊員たちを責める事もしなかった。

 確かにいきなりこのような事態になって、冷静に対処できる人間は黒森峰にはそういない。まほもそれは十分理解していたから、咎めはしなかったのだろう。

 それにしたって、随分と大胆な事をするなと織部は素直に思う。

 

「よし、書けた」

「じゃあ、行きましょうか」

 

 織部がペンを置き、書き上がった報告書を見直して特に問題ないのを確認すると、レポート用紙と、机の中に入れていたラッピングされた小包を取り出す。小梅も織部の準備ができたのを確認すると小さな紙袋を持って、織部と共にまほのいる隊長室へと向かう。

 小梅が織部の事を待っていたのは、一緒に帰りたかったからと言う理由もあるが、別の理由もある。

 それは、今からまほに誕生日プレゼントを渡すためだ。

 1人で渡しても別に構わないのだが、2人ともそれぞれまほには世話になっているという共通点がある。だから一度に渡してしまった方が手間がかからないし、まほの時間も取らせないで済む。

 そう言うわけで2人は隊長室へと向かい、無事に到着するとノックをする。中からまほの『入れ』と言う声が聞こえると、織部はドアを開いて入室する。

 まほは、織部が小梅と一緒に入室するのを見ると、少し怪訝な表情をした。その傍らに立つエリカは、織部と小梅がそれぞれ小包と紙袋を持っているのを見て、フッと小さく笑う。どうやらエリカは、自分が織部と小梅にまほへのプレゼントを用意するように促したから、何を持っているのか分かったらしい。

 

「本日の報告書です」

「ご苦労。確認する」

 

 まほが報告書を受け取り、読み進めていく。そして報告書から目をそらさずに、まほが織部に話しかけてきた。

 

「急な事だったが、良く書けている」

「・・・ありがとうございます」

 

 急な事とは、あの偽の動力系異常だろう。織部も、審判として高台で試合を観ていた時、突然まほのティーガーⅠが動かなくなって何事かと慌てたものだ。

 最終的には演技だったと打ち明けたが、それでも驚いたものだし、試合の最中であれだけ驚いたのは忘れはしないだろう。

 

「・・・うん、問題ない。ありがとう」

「いえいえ」

 

 まほが頷き、報告書を机に仕舞う。

 さて、ここからが本題だ。織部が小梅にちらっと目配せをすると、小梅は織部の傍に寄ってきて、まほの前に立った。

 

「ん?どうした?」

 

 まほが小首をかしげると、小梅は紙袋から、ラッピングされた箱を取り出し、それぞれ手に持つ小さな箱をまほに差し出す。

 

「西住隊長、お誕生日おめでとうございます」

 

 小梅が代表して言うと、まほは嬉しそうに、ではなく少し困惑したような顔をしていた。

 

「・・・誕生日、知っていたのか?」

「エリカさんから聞きました」

 

 まほがエリカの方を見ると、エリカは瞳を閉じて微笑み、小さく頷く。

 

「・・・西住隊長は、私をまた戦車に乗せてくれましたので、そのお礼も含めて・・・」

 

 小梅が言い終えると、次は織部の番だ。

 

「僕は、西住隊長や戦車隊の皆さんにもお世話になっていますから・・・感謝の気持ちも籠めて」

 

 まほは、少し呆けたような顔をするが、やがて小さく笑う。

 

「・・・2人とも、ありがとう」

 

 まほは、小梅と織部のプレゼントを1つずつ受け取る。

 その横でエリカは、この前まほと話したことを思い出す。

 昼食をプライベートで共にした時、黒森峰戦車隊でも横のつながりを作っていきたいと、まほは言っていた。

 最近ではエリカも、まほと一緒に下校したり食事をしたりすることは増えてきたが、今こうして小梅と織部がプレゼントを手渡した事で、また一つ横のつながりが増える事になるだろう。

 この2人はそれを恐らくは知らないだろうが、図らずともまほの考えに加担する形となった。

 そしてまほも、新しい繋がりを得た事で1つ成長できるだろう。

 

「開けてみてもいいか?」

「はい」

「もちろん、良いですよ」

 

 まずまほは、小梅のプレゼントの包装を解く。青いケースに入っていたのは、金の意匠が施された深緑の万年筆だ。

 

「・・・ありがとう、大切にする」

 

 まほが万年筆を見て笑うと、小梅もまたにこりと笑った。

 そしてまほは、その万年筆のケースを閉じて机に置き、次は織部のプレゼントを開ける。

 ところが、包装を解いた後に出てきた長方形の桐の木箱を見て、まほも少し驚いたようだ。まさか、こんな高級そうなものが入っているとは思わなかったのだろう。

 そして木箱を開けてまほは。

 

「・・・これは」

 

 まほだけではない。その傍らに立つエリカも、僅かに目を見開いている。

 その木箱の中身は、織部はもちろん知っているし、あの時あの場所に一緒にいた小梅だって知っている。

 だが、そのプレゼント―――金色に塗られた懐中時計はまほを驚かせるには十分なものだ。

 

「・・・・・・」

 

 まほは、しばしの間その手の中にある懐中時計を見つめる。蓋を開けば、時計の針が正確に時を刻んでいる。

 エリカは、ちらっと織部の方を見て少し皮肉っぽい笑みを浮かべていた。その表情は織部には、『やるじゃない』と言っているようにも見える。

 

「・・・・・・これ、いくらしたんだ?」

 

 おそらくこの懐中時計、まほの予想を超えるような品だったのだろう。思わず聞いてきたまほには気付かれないように、織部は心の中で達成感を抱く。

 

「1万もしませんでしたよ。ですが店の人曰く、とてもいい品だそうです」

 

 ちなみにこの懐中時計が仕舞われていた木箱だが、店主のおじいさんがサービスしてくれたものだ。

 『自分用かい?』とおじいさんに問われた織部は『お世話になっている人への贈り物です』と答えると、店に余っていた木箱に収めてくれたのだ。しかも無料で。『それなら、少しでも見た目はよくせんといかんよ』と言って渡してくれたおじいさんには感謝感激だ。

 

「・・・そうか」

 

 まほは、手の中で静かに時を刻む懐中時計を、優しい笑みを浮かべて眺める。

 そして実際にその懐中時計を首から提げて、その懐中時計を愛おしそうに見つめる。

 だが、織部に向けられていたエリカの皮肉っぽい笑みが、『ムキー』という表現が似合うような顔に変わっていることに、織部も小梅も気づいていない。

 

「2人とも、ありがとう」

 

 まほが笑い、織部と小梅も、笑ってお辞儀をする。その言葉を聞けただけで、プレゼントを贈った価値は十分にある。

 最後に挨拶をして、帰ろうとしたところでまほが『そうだ』と思い出したように声を上げた。

 

「赤星・・・少し話したい事がある」

「はい?」

 

 小梅が顔を上げる。そしてまほは、織部にも顔を向けた。

 

「織部にも、聞いてほしい」

「?」

 

 織部も呼ばれた事には少し驚く。

 織部と小梅がまほに顔を向けたところで、まほはエリカにちらっと目をやる。するとエリカもまほの視線に気づき、小さく頷いた。どうやら、まほがこれから話す内容はエリカにも聞いてほしい事なのか、あるいはエリカは既に聞いた話なのだろう。

 

「実はな・・・・・・・・・」

 

 

 

 まほから1つの“話”を聞いた織部と小梅は、陽も沈んですっかり暗くなってしまった通学路を並んで歩き、帰路に就いていた。

 

「西住隊長、喜んでいましたね」

「いやぁ、いらないとか言われたらどうしようかと思ったよ」

 

 織部が苦笑いを浮かべて、天を仰ぐ。

 まほからされた”話”はともかく、まほに喜んでもらおうと思ってあの懐中時計を買い求めたのは事実だが、突っ返される事態にはならなくて心底ほっとした。

 それにまほが首から提げて喜んでいたのは事実だから、織部も『贈ってよかった』と今は思っている。決して安い出費ではなかったが、相応の対価は得られたと、織部自身では思っていた。

 

「あ、そう言えば気になったんですけど」

「ん?」

 

 小梅が、少し未前かがみになって織部の顔を覗き込むようにして問いかける。

 

「春貴さんの誕生日って、いつなんですか?」

 

 小梅は、自分の誕生日を祝ってもらい、さらにまほの誕生日も今日でプレゼントを渡したことから、織部の誕生日を知りたくなったのだろう。

 だが織部は、その質問をされると少しだけ表情を曇らせてしまった。今は夜でも、近くにいる小梅にはそれが分かった。

 

「・・・・・・9月、30日」

「あ、まだ先なんですね・・・」

 

 答える織部は、少し悲しそうだった。けれどまだ過ぎてはいない。今度は小梅が織部の事を祝う番だ。

 だが、次に織部が言った言葉は、小梅も動揺するものだった。

 

「・・・・・・僕の黒森峰での留学が終わる日だ」

「・・・・・・・・・・・・・・・あ」

 

 そう、小梅は失念しかけていたが、織部は元々黒森峰の人間ではない。あくまで一時的に黒森峰の生徒として登録されていて、正式には黒森峰とは違う別の学校の人間だ。

 それはエリカも言っていたことだし、織部が新学期に黒森峰で挨拶をした際に言っていたことだから、言ってないから小梅も知らないというわけではない。小梅だって、それは分かっていたはずだ。

 そしてそれは、織部と小梅も離れ離れになってしまう事とイコールで結ばれる。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 その事実に気付き―――いや思い出し、小梅もまた落ち込んでしまう。それを見た織部は、自分の発言で小梅を落ち込ませてしまった事に罪悪感を感じて、取り繕うように笑って小梅の気分を持ち直させようとした。

 

「・・・でも、まだ3カ月ぐらいある。だから、それまでは―――」

 

 だが、織部が何かを言う前に小梅が織部の右手の指をきゅっと握る。強く手をつなぐわけでもなく、抱き付きもしない、今まで起こした事の無い行動を受けて、織部も何も言えなくなる。

 そして小梅の瞳は、寂しそうに、悲しそうに、海のように揺れていた。そして、縋るように織部の事を見つめる。

 

「・・・・・・3カ月“しか”ないです・・・」

 

 物の捉え方にもよるが、どうやら小梅には織部といられる残りの期間があと3カ月“しか”ないと思ってしまっているらしい。

 しかし織部が留学を終える日以降、もう織部と小梅は会うことはできない、今生の別れとなる、と言うわけではない。携帯という連絡を取る手段があるし、海の上の学園艦で暮らしているから簡単に会えないとはいえ、会おうと思えば会いに来る事もできる。それに、将来は結ばれることを約束したのだから、2度と声が聞けなくなるわけでも、会えなくなるわけでもない。

 だがそれでも、自分の傍からいなくなってしまうというのはとても辛く悲しいだろう。ましてや小梅にとって織部は、失意の底にいた自分に手を差し伸べて、救ってくれたかけがえのない存在だ。そして初めて自分の事を“大好きだ”と言ってくれた、最初にして最後の小梅が愛する、恋人だ。

 だからこそ、離れ離れになってしまうのが余計辛いのだ。

 

「・・・我儘だっていうのは分かってます。でも、やっぱり・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「春貴さんとは・・・離れたくない、です」

 

 恐らくの話だが、織部と小梅が恋人同士でなく、ただの知り合い、良くて友達ぐらいの関係ならば、ここまで小梅は頑なに織部と離れることを嫌がりはしなかっただろう。

 だが2人は既に親密な関係にあり、お互いに相手の事を心から好きでいる。自分のこれからの人生を共に歩む人と誓い合っている。

だからこそ、僅かな間でも離れてしまうのが苦しくて、悲しくて、耐えがたいものなのだ。

 そしてそう思うのは、小梅だけではない。織部だってそうだ。

 

「・・・・・・僕も、小梅さんとは離れたくないよ」

 

 右手の指を握る小梅の手を優しく解き、そして両手で小梅の手を優しく包み込む。

 

「・・・・・・でも、それで僕たちの関係は終わるってわけじゃない」

「・・・・・・」

 

 小梅は何も言わずに、織部の言葉を聞く。

 

「・・・・・・僕たちは一度離れ離れになっちゃうけど、それでもその先で、ずっと一緒にいられるようになる」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 それでもなお瞳を揺らす小梅を、織部は優しくゆっくりと抱き締める。小梅は、嫌がる素振りも見せず、ただ織部の抱擁を甘んじて受け入れる。

 

「・・・僕が帰るまでの間、できる限り小梅さんと一緒にいる。もっと、たくさんの思い出を作る。だから・・・・・・悲しまないでほしい」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 とはいえ、織部が黒森峰から去るまでの間にできる事は、そう多くはない。今織部が言ったように、小梅の傍にいてやれるぐらいの事しかできない。多くの思い出を作るというのも、織部と小梅が離れ離れになっている間の寂しさを埋めるためのものだ。ありていに言えば、慰めだ。

 それは、小梅も分かっていた。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 織部が黒森峰から去るのは避けられない事だ。小梅1人でどうにかできる事ではない。

だから、小梅は織部が黒森峰を去る日をただ待つ事しかできない。

 これ以上、自分のわがままを突き通すのは織部にとっても迷惑だし、何より無駄でしかない。

 だから、避けられない織部とのひと時の別れを受け入れる悲しみを押し殺して、小梅は織部の身体に身を寄せた。

 

 

 その日、小梅は織部を自分の部屋に誘った。

 もう小梅の部屋は何度か訪れて見慣れてしまったが、それでもやはり身体の方は慣れない。何しろ、女の子の部屋に上がった事なんて、小梅と知り合う前までは皆無だったからだ。

 さて、織部が小梅の部屋に来たのには、『小梅とできる限り一緒にいる』という言葉からのものでもあるし、まだ他の理由もある。

その1つは、ここ最近ではもう慣れてしまった、小梅と一緒にご飯にするから。

 そしてもう1つは、今織部の取っている行動にある。

 

『もしもし?』

「あ、もしもし母さん?春貴だよ」

『あら。どうしたの?珍しい』

 

 スマートフォンの向こうから聞こえてくる、自分をこの日まで育てくれた者の声。織部の母だ。

 織部に小梅という彼女ができ、そしてその彼女と結婚することまで見据えていることを伝えて以来の電話だが、母の調子は別に変った様子はない。

 ちなみに母の『珍しい』という言葉だが、普段電話をする際は母から織部に電話を掛ける事が多い。だから織部から電話をかけた事が、母からすれば珍しい事だったのだ。

 

「えっと、夏休みの話なんだけどね?」

『うん』

 

 と、小梅が織部のスマートフォンに耳を寄せてきた。何を話すのかが気になっているのだろうが、小梅との距離が急接近しているので織部の心臓はものすごく高鳴っている。

 

「そっちへ少しの間帰ろうと思うんだよね」

『それは別にいいけど・・・黒森峰の予定は大丈夫なの?』

「ああ、それは大丈夫。夏休み最後の2~3週間は休みになってるから」

 

 今日の訓練終了後、まほから夏休みの予定について発表された。織部が先ほど言ったように、夏休みの最後の2~3週間は訓練が無い。それまでの日は、月曜から土曜まで戦車道の訓練がある。本当に訓練が無いのは日曜日だけだ。

 無論、織部も一時とはいえ戦車隊の一員であるから訓練には参加しなければならない。

 

「8月の・・・21日から24日まで。その間帰ろうと思うんだけど、いい?」

『ちょっと待ってね・・・・・・ああ、大丈夫よ』

 

 どうやらカレンダーを見ていたらしい。少し電話口から離れたような感じがした。

 そして織部は、本題を切り出す前に1つ確認したいことを聞いてみる。

 

「それでさ・・・・・・その日って、父さんいる・・・?」

『・・・そうね、いるわね。でも何で?』

 

 これで、最初の前提条件である『織部の両親がいる』ことは確定した。あとは、その本題を告げるだけだ。

 織部は、小さく深呼吸をして、そしてその本題を告白した。

 

「・・・・・・その日・・・彼女を、連れていきたいんだ。それで、父さんと母さんに紹介したい」

『・・・・・・・・・・・・』

 

 電話の向こう側の母が、息をのんだように思える。

 傍にいる小梅は、果たして織部の母がどのような言葉を発し、どのような反応をするのかが気になって止まないのだろう。瞳が揺れている。

 やがて電話越しから、小さく息を吐くような音がした。

 

『・・・そう、そうなの・・・。分かったわ、お父さんにも伝えておく』

「・・・・・・ごめん」

 

 なぜか謝らずにはいられなかった織部。だが、織部の母は呆れるような笑うような口調で続ける。

 

『謝る事なんて無いわよ。むしろ嬉しい事。だって、我が子に彼女ができたんだもの』

「・・・・・・そういうものなの?」

『そういうものよ。あ、ところで』

 

 何かを思い付いたかのように呟く母。織部は『?』な顔をしたが、やがて母が嬉々とした語調で聞いてきた。

 

『彼女さんの写真とかはないの?』

 

 そう聞かれて、織部も『そう言えば』と思う。

生憎、写真の類は持っていないが、今まさに傍にその彼女である小梅がいる。

 

「あー・・・無いね」

『あら・・・残念』

 

 そこで織部は、この会話を聞いているであろう小梅に目を向ける。小梅も、織部の視線に気づき、そして小さく頷いてきた。

 そのサインを織部は理解して、母に話しかける。

 

「今傍にいるんだけど・・・話す?」

『あら、いいのかしら?』

「ああ」

 

 そして織部は、小梅にスマートフォンを渡す。受け取った小梅は小さく頷き、小さく咳き込みそして話し出した。織部も先ほどの小梅と同じように、スマートフォンに耳を近づけて会話に意識を向ける。

 

「もしもし」

『あ、はい。もしかしてあなたが?』

「はい。春貴さんとお付き合いをさせていただいている、赤星小梅と申します。電話越しで失礼します」

『あらあら・・・ご丁寧にどうも~。春貴の母です~』

 

 こうして改まって『付き合っている』と言われると、どこかこそばゆいところがある。そして女性はどうしてか、電話をする時は大体声のトーンが少し上がり、声も少し間延びした感じになる。

 

『そうですか・・・あなたが・・・。本当に春貴と付き合っているんですねぇ』

「はい・・・恐縮ですが・・・」

『いえいえ・・・夏休みはウチに来てくれると息子が・・・』

「ええ。一度直接お会いして、ご挨拶させていただきたいと思いまして」

『ああ、そうでしたか・・・。分かりました、お会いするのを楽しみに待ってますので~』

「はい、どうかその時は、よろしくお願いします」

『ええ、ウチもお待ちしておりますので~』

 

 相手に見えているわけでもないのにぺこぺこと頭を下げる小梅。と言っても、織部もよくやる事なので別に悪くは思わない。だだ誰も同じなのだなと思う。

 そこでまた、母が代わるように言ったので織部にスマートフォンを渡す。

 

「もしもし?」

『あんた・・・随分といい子じゃない』

「・・・・・・僕もそう思うよ」

 

 織部が少し、現実味が無さそうに告げると、隣に立つ小梅がくすっと笑う。

 何はともあれ、これで話をする場の準備はできたし、親の印象もそう悪くはない。

 

「じゃあ、また詳しい時間とかが決まったら連絡するよ」

『分かったわ。じゃあ、またね』

 

 そして、電話は切れた。

 その瞬間、織部と小梅は大きく息を吐く。緊張感が切れたからだ。相手の家族と話した小梅はもちろんの事、織部も家族に重大な事を発表するのだから緊張した。

 胸に手をやれば、少し鼓動が早くなっている。

 

「・・・・・・お母さん、優しい方ですね」

「・・・そうだね。たまに変な冗談かましたりするけど」

「え?」

 

 冗談と言って思い出すのは、彼女ができたと最初に電話した時だ。『エイプリルフールはとっくに過ぎた』と言われたアレだ。

 

「・・・・・・後は、小梅さんの方だね」

「・・・はい」

 

 織部の親に話は通した。

後は、小梅の親だ。そうすれば、お互いに話をする場は全て整い、直接話をすることができるようになる。

 

「多分私の親は、春貴さんの事を悪く思ってはいない、とは思いますけど・・・」

 

 それでもやはり、小梅だって心配なのだろう。自分のスマートフォンを握る小梅の手は震えている。

 親と大事な話をするのが少し緊張するのだろうし、根底にあるのは恐らく、もし小梅の両親が織部の事を認めなかったら、という不安だろう。

 織部は、そんな小梅の震える手を優しく握る。

 

「・・・小梅さん」

「?」

「・・・・・・もし、小梅さんの両親が僕を認めなかったとしても、僕は認められるように努力する」

「・・・・・・」

 

 真っ直ぐに小梅の目を見据えて、決して目をそらさずに、自分の決意を告げる。

 

「僕はもう・・・小梅さん以外の人と添い遂げるつもりは無い。だから何としてでも、僕は小梅さんと結ばれるように、誠心誠意努める」

 

 織部の言葉を聞いて、小梅は僅かな間目を見開き、口を小さく開けたが、やがて真剣な表情になって小さく頷いた。

 織部の言葉で、恐らく勇気がついたのだろう。そしてまずは、小梅が両親に話をしなければ事は始まらない。

 小梅は、スマートフォンの画面をスライドさせ、“お母さん”と登録されている電話番号に、繋いだ。




トリトマ
科・属:ツルボラン科シャグマユリ属
学名:Kniphofia uvaria
和名:赤熊百合(シャグマユリ)
別名:トーチリリー、クニフォフィア
原産地:南アフリカ
花言葉:恋するつらさ、あなたを思うと胸が痛む


小梅・織部と小梅の家族の電話の内容ですが、
織部の母との電話とほぼ同じと受け取っていただけると幸いです。
同じなのにわざわざ書くと冗長だと思いましたので省略しました。


感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。
誤字報告をしてくださった方、本当にありがとうございます。


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芍薬(シャクヤク)

久々に劇場版ガルパンを4DXで鑑賞したところ、
首を痛めてしまいました・・・。


今話中の各キャラクターのコスチュームですが、
戦車道大作戦ともっとらぶらぶ作戦を参考にさせていただきました。


深夜テンションで書いたので少しおかしなことになっているかもしれませんので、
予めご了承ください。


 夏休み前最後の避けられないイベント、期末試験。中間試験と比べると試験科目が多く、勉強のバランスと方法を中間試験よりも考えないと、失態を犯してしまう可能性が高い。

 試験前だから戦車道の訓練も一時中断となっているが、やはり学校から自分の部屋へ戻ってから勉強できる時間とはどうしても限られていて、少しの時間で全てを叩き込もうと必死にあがく。

 試験勉強の仕方は人それぞれで、ちゃんと準備期間よりも前から復習を繰り返しバランスよく勉強する用意周到な者もいれば、準備期間から勉強を始める者もいるし、前日に一夜漬けで頭に入れる者もいる。それに加えて、自分なりに効率の良い勉強法を持っていればより知識が頭の中に入ってくる。

 度重なる努力の末に織部も自分なりの勉強法を見つけて、効率よく勉強ができている。

 肝心の試験当日も、特に躓くところはなく無事に試験を終えることができた。苦手な理数系科目も、理解に苦しんだドイツ語も、自己採点でのミスがせいぜい3つか4つという結果だった。

 テストが帰ってきても、満点の科目はなかったが、全体的に高い点数を取ることができ、織部の周りの女子は『おぉ~・・・』と小さく呟いていた。

 学年成績も中間試験の47位から39位に上がっていて、小梅や斑田も『すごい』と言ってくれた。根津はまた、思うように成績が上がらなかったようで織部の事を嫉妬と羨望の混じった目で見ていたが。

 三河も、中間試験での解答欄がズレるという失態はやらかさずに赤点はどうにか回避。直下も問題なかったようだ。

 そして1位は、中間試験と変わらずエリカ。こうして1位を維持できるのは凄いものだと、織部たちは素直に思う。

 さて、期末試験も終わった事で、生徒たちは緊張感から解放されて、夏休みまでの少しの間はいつもの学生生活に戻る。戦車隊の隊員たちも戦車に再び乗るのだが、試験勉強によるプレッシャーと緊張感で不満が溜まっていたのか、初日の砲撃訓練では皆憂さ晴らしとばかりに力強く砲撃し、戦車の動きも少しばかり勢いがいい。

 規律や風格を重んじるエリカは黙っていないだろうな、と織部は高台で訓練を監視しながら思った。けれど、表情を表に出していないのもあるかもしれないが、報告書を提出した際、特に不満を抱いている様子は無かった。最近も、エリカは少し丸くなったように感じる。織部が報告書提出のために隊長室を訪れた際などは、エリカと業務的な話ではなく、雑談程度の話も多少するようになった。前に小梅とのデートを見られ、エリカの知られざるプライベートを見て、お互い気遣う事も無くなったからだろうか。

 そして中間試験が終わった後の日の夜、小梅から一通のメールが織部の下に届いた。

 内容を確認すると。

 

『次の寄港地に、大型のリゾート施設があるのですが、

 もしよろしければ次の日曜日、

 2人でそこに行きませんか?』

 

 プールでのデートのお誘いだった。

 

 

 最後にプールに入ったのはいつだったか。

織部は、目の前の広いプール、そしてそこで遊ぶ大勢の人たちを見渡してそんな事を呆然と考える。

 中学では体育の授業の一環でプールがあったし、数少ない親友たちと学園艦のプール施設―――市民プール程度の規模だが―――に遊びに行ったこともある。

 けれど高校に入ってからはプールの授業が無くなり、加えてプール施設のようなものも無かったため、風呂以外で水に入る事が無かった。それに、黒森峰に留学するために学力をさらにつけなければならなかったので、遊ぶ暇なんて最低限しかなかった。

 さらにくどいようだが織部は体力がなく、運動音痴だ。だから小・中学校の水泳の授業では専ら初心者用のコースで練習し、初心者用の課題をこなしていた。

 中学の時はどうにか中の下くらいのレベルにまで成長することができたが、それ以来泳いでいないので恐らくは鈍ってしまっているか、あるいは完全に泳げなくなっている。だから、自発的にプールへ行こうともしなかった。

 それにこうして、大型のプール施設に訪れたことはない。中学校で親友と行ったプールも所詮は市民プール程度の規模だったのでそれほど大きくなかったし、夏場のピークで芋洗い状態だったから泳ぐこともままならなかった。

 今いるこのリゾート施設はそれとは比べ物にならないくらい広くて、スライダーとか飛び込み台とか様々なアトラクションもある。

 今織部の目の前で遊んでいるのは、休日だからかもしれないが、家族連れやカップル、グループ等多くの枠組みだった。

 

「・・・・・・・・・さて」

 

 そんな事を考えていたのだが、やはり頭の大部分を占めているのは、今日、ここで、小梅と、デートを、するという事だ。

 プール施設でデートとなれば当然水着となる。織部は元々、黒森峰でプール授業がない事は聞いていたので水着の類は持ってきていなかったから、今着ているのはレンタルのパーカーとトランクスの水着だ。

 そして水着なのは小梅も同じ。織部はもちろん小梅の水着姿など見た事がない。だからどんな水着なのかというのは、織部の想像をかきたててやまない。

 そして自分の恋人の水着とは、ある種男のロマンのようなもので、生涯で一度は目にしたいものだ。

 だがまだ見ぬ小梅の水着の事ばかり考えていると助平と思われかねないので、別の考え事をしていたのだ。

 そしてついに。

 

「・・・お待たせしました、春貴さん」

 

 忘れることはない、小梅の声。そして間違いなく、小梅は今水着を着ている。

 見てみたいという男の本能と、見ていいのだろうかという織部の本質が葛藤を生み、やがて覚悟を決めて振り返る。

 そこにいたのは。

 

「・・・あれ?」

 

 水着姿の小梅がいる。それは分かり切った事だ。

 ところが、小梅以外にも人はいた。

 それは織部のクラスメイトの根津と斑田、戦車道で付き合いの増えた三河と直下。

 そして驚きなのは。

 

「やあ、織部。たまたまそこで皆と会ってな、どうせだから皆で楽しもうと思ったんだ」

 

 他ならない戦車隊隊長のまほと、珍しく、本当に珍しく申し訳なさげな曖昧な表情をするエリカがいた。

 織部は頭の中で『え、ええ~・・・・・・・・・』と落胆の声を上げるしかなかった。

 

 

 事の発端は5分前。

 水着に着替えた小梅は、鏡の前で自分の姿を何度も見直して変なところがない事を確認して、いざと思い足を踏み出そうとする。

 と、そこで。

 

「あれ、赤星さん?」

 

 自分を知っているかのような声。そしてその声にも聞き覚えがあるのでそちらを見れば、自分同様水着の三河たちいつもの4人がいた。

 

「皆さん・・・・・・・・・」

「赤星さんも遊びに来たんだ?」

 

 直下が聞くと、小梅は『えーっと・・・』と顔を赤くしてどもる。

 その瞬間、直下たちは察した。

 小梅の性格は1年生の頃に一緒に入隊して(一時距離を置いていたとはいえ)一緒にここまできたから、小梅がどういう性格なのかをある程度理解している。だから、小梅がたった1人でこのような大型リゾート施設に遊びに来るとは考えにくい。とすれば誰かと来ていると自然に考えられる。

 そこまで考えれば、おのずと答えは見えてくる。

 小梅にできたかけがえのない存在、織部と一緒に来ている。

 つまり小梅は、織部とのデートでここに来たのだ。

 

「あー、ゴメンゴメン。私らには構わなくていいから、赤星はゆっくり楽しんでいいからね~・・・」

 

 根津がわざとらしい口調ではぐらかそうとして、小梅も自分がどうしてここにいるのか、気づかれてしまったと気付いた。

 そして根津たちは、自分と織部を気遣ってわざと別行動をとろうとしているのだ。その気遣いに感謝し、多くは言わないで根津たちと別れようとするが。

 

「・・・ああ、聞き覚えのある声がしたと思ったら、赤星たちもいたのか」

 

 黒森峰戦車隊の者ならば、忘れるはずの無い、聞き間違うはずの無い声。

 そして反射的に全員気を付けの姿勢をとってその声の主へと振り返る。

その人物はやはり、西住まほその人だった。そして後ろに控えるように、エリカもいた。

 

 

 

「そう言う事ね・・・」

「はい・・・・・・・・・」

 

 織部はプールサイドに立って、ビーチボールで遊んでいる根津たちを眺めながらどうしてこうなったのかを小梅の口から聞いた。

 確かに、貴重な休日に、期末試験の後で息詰まっていた学生たちが息抜きのために、寄港地のこのような大型施設に来る事は何らおかしくはない。

 だから今のように小梅と織部が、根津やまほたちと鉢合わせる事だって十分にあり得る話だった。その可能性を考えていなかった織部たちが迂闊だったという事だ。

 

「すみません・・・・・・・・・」

 

 だがそれは小梅が謝る理由にはならない。

 織部はすぐに小梅をフォローする。

 

「小梅さんは何も悪くないよ。こういう時もあるって事にしよう」

「・・・・・・そう、ですね」

 

 小梅も織部の言葉で落ち込みからは脱したらしい。

 

「・・・・・・それで、ですね。春貴さん」

「・・・・・・何?」

 

 改まって小梅が織部に話しかける。そこで、もじもじと何かを躊躇う様子を見て、織部も小梅が何を言いたいのか、おおよその想像がついた。

 

「・・・・・・水着、変じゃないですか?」

 

 織部の目の前に映る小梅は、濃い目のピンクに白のドット柄の、白いリボンとフリルのホルタービキニに身を包んでいる。先ほどは、小梅以外に人がいたのを見てあまり注目してなかったが、今こうして改まって聞かれると目視せざるを得ない。

 

「・・・・・・」

 

 よく、男性は女性の裸あるいは裸に近い恰好を見ると興奮のあまり鼻血を出すというが、あれは興奮による過度な血圧の上昇によるものだと医学的に理論づけられたが、実際そうなるケースは稀、というか全くないらしい。

 そして今の織部だが、普段よりもはるかに肌を露出させている小梅を見て・・・正直興奮はしている。うっかりすると『おぉ・・・』と声を洩らしてしまいそうだ。しかし、血圧が上昇して鼻血を出すという事態にはならない。

 自分の胸に手を当てながら、縋るような目で織部を見る小梅。

 織部からすれば、スラリと伸びる手足も、そこそこ大きく形の良い胸も、戦車道の成果なのか引き締まったお腹も、全てが魅力的で煽情的だ。

 けれどそれを悟られたくはないので、頭の中でパンツァー・リートを大音量で鳴らしまくって、湧き上がる欲望や興奮を冷ましにかかる。

 落ち着いたところで改めて小梅の水着を見るが、織部からすれば変なところなんて1つも無い。だからその問いに対する答えは決まっている。

 

「・・・変じゃないよ。すごく似合ってる。可愛い」

 

 素直に答えると、小梅は嬉しそうに笑って、顔を少し赤くした。

 

「ありがとうございます・・・よかった・・・」

 

 安堵するように息を吐く小梅。

 そこへ、1人の人物がこちらへスイーッと泳いでくるのに織部と小梅は気付いた。その人物は、織部たちの傍まで来ると水面から顔を上げて織部たちを見上げた。

 

「どうした、2人は入らないのか?」

 

 黒のクロスホルタービキニを着たまほだ。先ほど、最初にここで会って見た時は驚きのあまり何も思わなかったのだが、まほは十分に魅力的なプロポーションをしている。かつて三河から、まほは学校内外男女を問わず皆の人気者だと言っていたが、確かに容姿端麗、文武両道、謹厳実直と、男と女どちらも惹きつけるような要素を兼ね添えている。

 とはいえ、織部はもう一筋だとはっきりと言えるぐらいには小梅の事を好きでいるので、小梅以外の女性の身体に興味は全くと言っていいほど無い。

 

「そろそろ入ろうと思ってました」

 

 立ったままだとまほを見下すような感じになってしまうので、しゃがみ込んでできる限りまほに目の高さを合わせようとする。

 

「今、皆でビーチボールで遊ぼうとしていたところなんだ。一緒にどうだ?」

 

 まほが親指で後ろを指差す。その先には、ビーチボールを持って何かを話しているエリカと、そのエリカの話を真剣そうに聞いている根津たち4人。一体何をしているのだろう?

 ともあれ、織部は元々ここには小梅とのデートで来たのだし、本音を言わせてもらえば『小梅と2人きりになりたい』と正直に思う。だが、まほから誘われた以上断るわけにもいかないので、大人しくついていく事にした。

 

「そうですね・・・。そうします」

「良いですね」

 

 小梅も同じ考えらしく、織部と共に頷くと、まほは納得したように皆の場所へと泳いで戻っていった。

 そんなわけで、織部はパーカーを脱いでプールサイドに畳んで置いておく。流石にこれを着たまま泳ぐのは難しい。

すると小梅が、なぜかキラキラした目で織部の事を見ているのに気づく。

 

「・・・え、どうかしたの?」

 

 当然の疑問をぶつけると、小梅がポツリと呟いた。

 

「・・・細い」

 

 言われて織部も、そう言う事かと納得する。確かに、本来の織部がいる高校では、体育の着替えの最中にクラスの男子からは『細っ!』と何度も言われてきたし、女子からも『羨ましいぐらい腕細い』とまで言われる事もあった。

 織部としては細すぎて不健康な感じがするし、もっと筋肉をつけていきたいのだがどうも上手く行ってない。

 ともかく織部はパーカーを脱いで軽くストレッチをすると水に入る。そして小梅も同じように準備運動をして水に入ろうとするが、そこで織部は1つ気になった。

 

「小梅さん、水とか大丈夫?怖くない?」

 

 それは、去年の決勝戦でのことを思っての事だ。あれが原因で水に対して恐怖を抱く事だってあり得る。でもそれは杞憂に過ぎなかったようで、小梅は笑って首を横に振りながら水に入った。

 

「大丈夫です、心配してくれてありがとう」

 

 そして2人はまほやエリカ、根津たちと合流し、早速ボール遊びに混ざろうかと思ったのだが、直下が織部を見るなりこちらに近づいてきて、腕をグイッとつかんだ。

 

「え、な、何?」

「私よりも細い!」

 

 直下が驚愕したかのように叫ぶ。何かと思えば、腕の細さに驚いたのか。そして直下は、織部の腕を触って『ほうほう』と呟く。

 

「確かに織部細いな。肉食べた方がいいぞ」

「羨ましいな・・・」

 

 根津と斑田が好き勝手なことを言ってくる。織部自身、自分の身体が細い事は気にしているし、肉を食べたりしているのに一向に身体に還元されない。ストレスで胃を痛める事が多いからだろうか。

 そして織部の背中に悪寒が走る。確か、今織部の後ろには小梅がいたはずだ。そしてちらっと振り返ってみれば、いっそ恐ろしさすら感じるほどの優しい笑顔を浮かべた小梅がいた。

 間違いなく怒ってる。なぜか?それは織部が直下に身体(腕)を触らせているからだ。

 嫉妬しているに違いない。嫉妬してくれるほど好いていてくれるのは嬉しい事なのだが、今の状況は織部の望んだことではないから織部自身に非はない、と思ってる。

 そこで、小梅の様子に気付いた三河が『あー』と声を直下にかける。

 

「直下、その辺にした方がいいよ。織部君困ってるし」

「え?ああごめんね、急に触ったりして」

「いや、別に大丈夫だけど・・・・・・・・・」

 

 気を取り直して、織部と小梅が合流し、まほとエリカ、根津と斑田、三河と直下と共にビーチボールで遊ぶ。

 織部と小梅もそうだが、根津たちだって休日と言うプライベートの時間をまほやエリカと過ごすというのは初めてだろうし、何より普段戦車隊では隊長・副隊長と部下と言う立ち位置なのだから一緒に遊ぶ事など無理とまではいわずとも難しかっただろう。

 それでも、今織部の目の前では普通に一緒になって遊んでいる。多少のぎこちなさや遠慮のようなものはあるものの、表情が硬くて普段の戦車隊の雰囲気と同じということはない。言うなれば、特に気兼ねなく付き合える普通の先輩後輩といった感じだ。

 そしてプールで皆と遊んでいるとなれば、嫌でも皆の水着が視界に入る。

 先ほど会った時にも見たが、根津は黒と青の競泳水着。飾らないデザインだけれど、根津に似合っている。

 斑田は、後ろで結ぶタイプの緑のバンドゥビキニ。フリルやフリンジ、ズレ防止の紐も無い、シンプルでありながらも少し攻めたデザインの水着を選ぶとは、意外なことだ。

 三河は、濃い紫のIバックワンピースの水着。遠めに見るとスクール水着に見えなくも無いのだが、それを口に出すとろくな目に合わないのは確実なので言わないでおく。

 直下は、黄色いチューブトップの水着。こちらも斑田と同じく飾り気のないシンプルなものだったが、普通に似合っている。

 そしてエリカは、黒に近い紫の三角ビキニ。この前見た私服は清楚系だったのだが、打って変わって大人っぽい水着だ。

 

「皆水着とか持ってたんだ。意外」

 

 飛んできたビーチボールをトスして斑田に渡しながらぽろっと呟く。黒森峰にプールの授業はないし、そもそも授業があってもこのような水着はNGだろう。黒森峰のトレーニング施設にはプールがあるが遊ぶためではないし、不可解だ。

 

「いやぁ、乙女の嗜みだよこれは」

「そう言うものなの?」

 

 三河が斑田からのボールを打ち返して直下に渡すと、得意げに人差し指を立ててドヤ顔で語る。その理屈だと、エリカやまほのような戦車道の世界に生きる真面目な2人まであのような水着を用意していたのもまた驚きだ。だが、確かここに入場する前に水着ショップがあったのでそこで買ったのかもしれない。

 しかして、この前の白系で纏めていたエリカのイメージが強くて、逆に暗い色の水着を着たエリカが変に見える。プライベートのエリカを知らない人からすれば“イメージ通り”なのかもしれないが、織部からすればアンバランスに見えてしまった。

 と、そこでエリカの強烈なスパイクが織部の顔面に直撃して後ろにのけぞり、背中から水に沈む。先ほどまでトスだったのに突然スパイクとは、しかも顔面とは。

 

「何すんの逸見さん・・・」

「・・・何か失礼なことを考えてるような気がして」

「冤罪だ」

 

 体勢を立て直して誰にボールを渡そうか織部が考えてると、三河が口元抑えて笑っているのが見えた。どうやら織部が顔でスパイクを受けたのが面白かったらしい。

 そんな三河にお返しとばかりに、織部は三河にボールを渡した。トスではなく、普通に投げて。

 そこからなし崩し的にバレーからドッジボールへと変わって、身体が水に浸かっていて動きが鈍るはずなのにまほの投げた剛速球が根津にヒットして根津を唸らせたり、その次に皆でウォータースライダーを滑った後で三河のメガネが行方不明になって皆で探したり、一休みの際にかき氷を食べた直下が頭痛に苛まれたり。

 だが、悪い思い出ではない。どれも可笑しくて、最後にはみんなで笑い合うことができた。どれも楽しい思い出、良い思い出として蓄積することができる。

 織部がいじめから立ち直れず、小梅も過去に囚われて落ち込んでいれば、これらの思い出は全て悪い事と認識して楽しむ事などできなかっただろう。

 だが、織部は戦車道に巡り会って立ち直ることができ、そして黒森峰で戦車道をさらに詳しく学んで、小梅という恋人もできて、幸せな気持ちでいられる。小梅も、織部が小梅自身の過去や信念を否定せずに認め、そして寄り添いこの先ずっと共にいると言ってくれたから希望を持つことができるようになった。

 だから今、2人はとても楽しかった。そしてそれは2人だけではなく、今この場で遊ぶ根津たちも同じのようで、誰もが生き生きとした顔をしている。あまり表情を面に出さないまほでさえ、僅かに笑っていて楽しそうだ。

 小梅と2人きりでのデートを最初は望んていたが、こうして皆で楽しく遊ぶのも悪くはない。

 だからもう、織部は落胆したりはしていなかった。そして小梅はどう思っているのか、それは小梅もまた笑って遊んでいるのを見て聞くまでもない事かと、織部は思った。

 

 

 昼近くになり、織部たちは全員水から上がって昼食にする事にした。と言っても、店に入って食べるのではなく、屋台が出ているのでそこで適当に食べる事にした。代表して、織部と根津が焼きそばやたこ焼きなど、フライドポテトなどの軽食を買う。手首のICタグで買い、帰る際に代金を精算するシステムだ。後で割り勘にしようと根津たちは満場一致で決め、織部も大人しくそれに従った。

 そして織部たちは、プラスチックのガーデンテーブルと椅子が置かれている休憩スペースへと移動し、そこで昼食にした。ただ、エリカとまほだけはここだけ別行動となり、別の場所で食べている。なんでも、エリカがまほのために好物のカレーを作ってきたらしく、2人で昼食にするらしい。

 遊び疲れたのか、それぞれは大きく息を吐く。

 

「えーと、なんかごめんね?織部君、赤星さん」

「?」

 

 焼きそばを一口食べた斑田が突然謝ってきて、織部は小首をかしげる。

 

「デート、邪魔しちゃって」

 

 たこ焼きを食べていた小梅の手が止まる。織部が箸で挟んでいた焼きそばがプラスチックの器に落ちる。

 

「あれ、2人でデートじゃなかったの?」

 

 根津が飲んでいたコーラをテーブルに置いて違うのかとばかりに目で問うが、それは実際当たっているので否定はしない。

 

「・・・そうだったんだけどね」

「でも、皆さんと遊ぶのも楽しいですよ」

 

 小梅が言ったのは紛れもない本心だろうし、織部も同じ気持ちだから同調して頷く。2人が本当にそう思っているというのが顔で分かったのか、斑田たちも深入りはせずに食事を再開する。

 そこで織部は、気になった事があった。

 

「西住隊長や逸見さんと普通に遊んでたけど・・・意外と皆抵抗はないんだね」

 

 普通なら、隊長クラスの人とプライベートを過ごし、あまつさえ水着で遊ぶというのは気まずいし、遠慮しがちなものだろう。それに皆の反応からして、まほたちとは事前に約束をしていたというわけではないのも分かる。

 だが、この4人は順応して、戦車隊の隊長と隊員という枠組みを超えたように隔たりなく共に遊んでいた。

 

「さっきエリカさんから言われたんだ。隊長は、皆と“横のつながり”を作っていきたい、もっとみんなと打ち解けたいんだって」

「だから積極的に、私たちに声をかけて遊びに誘ったんだって。本当は隊長とエリカさんの2人で来たらしいんだけど」

 

 根津と直下が説明する。さっきまほが織部と小梅を遊びに誘った際に、エリカが根津たちと話をしていたのが見えたがそう言う事か。

 

「信頼関係を作って戦車隊をまた違った方向で強くしたくて、西住隊長はそうしているんだってことも聞いたよ」

「そう言う事なら協力するのはやぶさかじゃないし、まあ西住隊長とも少し仲良くなりたいかなー、って思ったり」

 

 斑田が小さく笑い、三河も少し気恥ずかしそうに笑って告げる。確かに、自分の所属するチームを率いるトップが怖いと、力や実績があれば信頼はされるだろうが、トップとメンバーの信頼関係が築けているとは言えない。まほも恐らく、上下関係を大切にし過ぎている黒森峰戦車隊の風潮を改善するために、こうして隊員たちと接し、信頼関係を気付いていこうとしているのだ。

 それを根津たちはエリカから聞いて知り、そして彼女たちもまた本心では、まほやエリカと打ち解ける事を望んでいた。お互いに根っこのところで相手と打ち解けたいと思っていたからこそ、先ほどのように一緒に遊ぶことができるのだ。

 その事実に気付いて、織部と小梅は小さく笑った。そしてまた、皆と一緒に食事を再開する。

 少しすると織部の隣に座る三河が、小さくため息をついた。

 

「どうかしたの?」

「いや・・・・・・ね」

 

 そこで三河が、自分の胸に手をやり、たこ焼きを食べる小梅と、フライドポテトを美味しそうに頬張る直下の事を見る。具体的には首の下あたりを。

 織部もそれで察しがついた。

 普段は制服やタンクジャケットで分からなかったが、意外にもその2人は着やせするタイプのようで、胸が存外大きい。それは根津と斑田も思うところがあるようで、何か舌打ち的な音が聞こえたのは空耳だろう(2人も十分標準サイズなのだが)。

 当の小梅と直下は困惑した様子で三河の事を見ているが、その自覚のない様子がなおの事三河は悔しかったらしく、苦悶の表情を浮かべている。

 

「あー、そうだ織部」

「何?」

「三河見てて思ったんだけどさ」

「?」

 

 根津が焼きそばの器をテーブルに置き、織部の方に身を乗り出す。

 

「男的に、胸が大きい方が好きなの?」

 

 ところが、その話題はあまりにも唐突で、男の織部を一瞬で窮地に追いやるほどのインパクトがあり、なおかつ他の女性陣のデリケートな面に触れる質問だ。事実、今このテーブルに座る根津と織部を除いた者全員が織部の方へと視線を突き刺すように向けている。ついでに言えば、三河だけは『私を見てってどういうことだよ』と邪念を根津に送りつつも視線は織部に向けている。

 根津は、黒森峰が女子校で、周りに歳の近い男がいないから、同い年の織部がいる今という状況で、先ほどのような男についての純粋な疑問をぶつけることができるのだろう。それに先ほど、打ち解けたいという言葉が出てきて気が緩んだからかもしれない。

 そして根津は、割と大雑把な性格をしている。たまにスカートで胡坐をかいてる事があるので、女の子としてそれはどうなんだろうと織部は度々思っていた。

 さて、先ほどの根津の質問に対する織部の答えは。

 

「あー・・・結構意見が分かれるね。僕の元居た学校でも、たまにそう言う話題はあったけど意見は割れてた」

 

 織部は、休み時間に織部の元居た高校のクラスの男子が『胸は大きいのと小さい、のどっちがいいか』という答えの無い議論で盛り上がっていたのを思い出す。そしてクラスの女子が白けた目でその議論していた男子どもを見ていたのも同時に思い出す。

 

「へぇ~、織部君って進学校から来たって聞いたけど、結構のんびりしてるんだ?」

 

 織部の言葉に食いついたのは斑田。どうやら、勤勉で真面目な黒森峰同様進学校はお堅いイメージがあるらしい。

 

「そうだねぇ。競争意識も少なくはないけど、意外と休み時間とか昼ごはんの時とかはのんべんだらりとしている人も多いし、周りの人を敵対視するって考えもそんなに無かったよ」

「ほぉ~」

 

 根津も頷く。自分の中に根付いていた進学校のイメージが少し変わったようだ。

 

「部活とか文化祭もあったし・・・まあ、勉強漬けの学校生活の息抜きってニュアンスだったけどね」

 

 織部が苦笑気味に言うと、一同は乾いた笑いを浮かべる。

 けれども織部の話は、根津の問にきちんと答えたというわけではなくて。

 

「で、織部君はどっち派なの?大きいのか、小さいのか」

 

 三河が本気で気になっているようで聞いてくる。上手い事はぐらかしたつもりだったが駄目だったようで、つくづく自分は恵まれないと思う。

 正直に答えるわけにもいかないので、織部は仕方なく答える事にした。

 

「ノーコメントで」

 

 

 

 昼食が終わって、流れるプールで遊ぼうと直下が提案し、皆もそれに同意して早速向かおうとするが、そこで織部と小梅はエリカに呼び止められた。

 少し聞かれにくい話があるそうで、皆とは少し離れた場所に行く。そして、あまり人目につかないところで。

 

「なんか・・・ごめんなさいね?今日は2人の邪魔したみたいで」

 

 ああ、その事かと織部と小梅は思った。それに関しては、根津たちからも謝られているのと、既に織部たち2人もこの状況を楽しんでいるので別に問題はないと告げる。そして、まほがどうして皆と遊ぼうと誘ったのかも聞いた事も教える。

 

「隊長、ちょっと鈍感なところがあって・・・。あんたたちが付き合ってるのにも気づいてないっぽいのよ。特別なつながりがあるって事には気づいているけど、付き合ってるとまでは思ってないみたい」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 それは、幸いと言うべきか、そうでないのか。分からないが、まほも悪意があって皆と遊ぼうと提案したわけではないのは百も承知。責める気などさらさらない。

 それにしてもあの西住まほが鈍感とは、意外と面白い一面を持っているものだ。

 

「でも、隊長は本当に黒森峰の戦車隊を強くしたいと思っている。だから、私を昼食に誘ってプライベートな話をいろいろして、誕生日まで教えてくれて、こうして皆と遊びたいって提案して・・・信頼関係を築きたいと思ってるの。それは分かってほしい」

「・・・・・・それは、もちろん」

 

 必死さや、まほの事を本気で案じているかのようなエリカの言葉に嘘や偽りはないのだろう。だから、織部も小梅も素直に頷く。

 みほの戦いを見て、実際にみほと戦い、まほは考えを改め、戦車道の本当の強さとは何なのかを見直した。そして、その答えは皆の協力や信頼関係、さらには分け隔てない繋がりだと、まほは見つけた。

 それを根津たちやエリカから聞いて、織部と小梅は『やはりまほは変わったのだ』と、改めて思った。

 エリカの話はどうやら、織部たちへの謝罪とまほの考えを伝えるだけだったようなので、織部たちはまほたちと合流しようとする。流れるプールで遊ぶと言っていたのだが、どのあたりにいるのかは分からないので、流れていれば会えるだろうと思い、プールへ入ろうとしたのだが。

 

「隊長・・・?」

 

 意外にも、すぐそこ―――流れるプールの外側に皆はいた。だが、なぜかまほと三河が斑田を囲むようにしているし、その斑田は顔を真っ赤にして俯いている。そして一緒にいたはずの直下と根津の姿が見えない。

 何かトラブルでもあったのだろうか。織部は心配になって斑田たちに近づこうとした。

 

「何かあったの?」

 

 その声で、織部が近くにいると気付いたまほと三河、そして斑田。織部の姿を視認するとまず第一声は。

 

「待って!今近づかないで!」

 

 斑田が叫ぶ。突然拒絶された事に織部は動揺するが、逆に本当に何が起きたのかが気になってやまない。

 すると今度はまほが。

 

「来るな!」

 

 割と真剣な、それでいて必死な、戦車道の試合中と多分変わらないようなトーンと顔で告げられて流石に織部もたじろぐ。

 だが、織部より少し前を歩くエリカは、斑田の様子と声、そしてまほの必死さから、何が起きたのかに気付いた。

 織部は斑田に近づきすぎている。このままいけば、恐らくは“見えてしまう”。

 ではどうするべきか。

 コンマ5秒ぐらいでそこまで考えたエリカは足をいったん止める。

 織部はすぐ目の前を歩くエリカが急に立ち止まったのを不審に思ったが、すぐにエリカがこちらを振り返り、次の瞬間脳を貫くほどの激痛が両目に走る。

 そこで織部は、目つぶしを喰らったのだとようやく気付いた。

 声にならない声を上げてのたうち回る織部。目つぶしをされた事など生れてこの方一度もない。ものすごい痛みだ。

 

「目が・・・目がぁ・・・」

「ごめん、本当にごめん!」

 

 有名なアニメ映画のようなセリフを吐く中でエリカが謝るのが聞こえてくるが、視界を潰されてどうする事もできない織部。両目を抑えながらどうすればいいのか分からなかったが、誰かに右腕を握られる。

 

「ちょっと、場所を移動しましょう!」

 

 その声から、織部の腕を握るのは小梅だと分かる。そして織部は、激痛に目を固く瞑り、左手で目を抑え、小梅に右手を引かれて歩き始める。

 その後ろから、直下の『見つけたよ!』とか根津の『早く着けろ!変なことになる前に!』などと声が聞こえてきたが、何がどうなってるのか全く分からない。

 そしてその織部の耳に、三河の『もう十分変なことになったけどね・・・』というぼやきは聞こえなかった。

 

 

 やがて小梅は、人工芝が敷かれた休憩スペースへとやってきた。昼時であればレジャーシートを広げて弁当に興じる客もいるだろうが、その時間帯を過ぎた今は人気はあまりない。

 とりあえず小梅は、未だ目の激痛に苛まれている織部を芝生に仰向けに寝かせ、予め持ってきていたタオルを水道水で濡らす。

 そして織部の傍で正座し、織部の頭を持ち上げて自分の腿の上に乗せる。さらに、目を抑える織部の手を優しくどけて、目の上に冷たいタオルを置く。

 織部の目に心地良く冷たさが伝わり、痛みが和らいでくる。そこでようやく、激痛から解放された織部は改めて今の状況を確認する。

 今、織部はタオルと目を閉じているゆえに視界が断たれている。目を開けようとすれば途端に激痛が走るからだ。だから織部は視覚以外の感覚で状況を捉えるしかない。

 織部は今、わずかな時間だけ仰向けに寝ていた芝生とは違う感触が頭に伝わっている。少し温かく、やわらかい。

 それだけで織部は、今自分は小梅の膝の上で寝ているのだと気付く。

 だったらなおの事、目を開けられない。タオルを払えない。今目を開ければ、水着のせいで布面積が狭く逆に肌が多く露出している小梅を超至近距離で見る事になってしまう。織部の本心としては嬉しいのだが、平静を保ってられるかは分からないし、多分無理だと思う。

 タオルで覆われていても、目を固く瞑って意地でも目を開かないようにする。

 

「斑田さん・・・多分、プールで水着が流されちゃったんだと思います」

「ああ、そう言う事ね・・・・・・」

 

 やはり、ズレ防止の紐がない攻めた水着の辺りで一抹の不安がよぎっていたのだが、こうなってしまったか。

 それなら、斑田の様子も、まほの必死さも、エリカが目つぶしで視界を閉ざしたのも分かる。恐らく男の織部がいなければエリカも目つぶしまではしなかっただろう。

 ともあれ、一連の流れに納得できたので織部も一先ず安心する。何も理由が分からずに激痛にのたうち回るのは、ものすごい損だからだ。

 

「目、痛みますか?」

「うん・・・まだちょっとズキズキする。少しの間は、開けられそうにない」

 

 気遣う小梅を安心させるように、痛みを感じさせないような口調で織部は症状を説明する。

 

「せっかくの休日で遊びに来たのに・・・災難でしたね・・・」

「まあ、こんなアクシデントもあるって事かな」

 

 苦笑する織部だが、小梅はその織部の様子が不思議に思えてならない。

 いくら斑田の姿を見られないためとはいえ、目つぶしなど喰らえば多少なりとも憤るだろうに、織部は怒る様子も見せない。

 思い返してみれば、織部が怒っているところなど見たことがなかった。覚えている限りでは、小梅が初めて織部に全てを話した際に、小梅が学校からいわれのない批判を浴びたという事を聞いて、顔に怒りを見せていた。それ以来織部は、憤りを見せる事も無い。

 

「春貴さんって・・・」

「ん?」

「・・・・・・あまり怒りませんね」

 

 それは織部も思うところがあったようで、織部も『あー、そうだねぇ』とつぶやいた。少し考えこむと、口を開いた。

 

「真面目だからっていう理不尽な理由でいじめられていたからかなぁ。ちょっとやそっとじゃ怒らなくなったような気がする」

「・・・・・・・・・・・・」

「さっきの逸見さんの目つぶしも、斑田さんを守るための事だし、逸見さんも謝ってきたから別に怒っちゃいないよ」

 

 先ほどのエリカの目つぶしも、斑田のあられもない姿を織部に見られないためという、それなりの理由があったから織部も憤りはしなかった。そして、視界が断たれた織部の耳にはしっかりとエリカの謝罪の声は聞こえていたので、怒りも湧きはしない。

 普通目つぶしなんてされたら怒るだろうに。小梅は織部の事を心の強く、そして何よりも心の広い人だと心底思う。

 少しの間、織部は冷たいタオルで目を休め、痛みを引かせる。その最中で、小梅は織部の髪を優しく撫でてくれていた。少しでも痛みが引くようにと願っての事なのか、それともただそうしたかっただけなのか。それは分からない。

 けれども、タオルの冷たさと撫でられる心地良さで、いつしか痛みも無くなっていた。

 やがて、タオルの下で目を開いても痛みが無くなったので、小梅に話しかけた。

 

「小梅さん、ありがとう。もう大丈夫」

「そうですか?よかった・・・」

 

 織部は起き上がり、タオルを小梅に渡す。小梅はそれを受け取り、持っていた小さな防水バッグに入れる。

 

「そろそろ、戻ろうか」

「そうですね」

 

 そう言って小梅も立ち上がろうとするが、少し長い間正座をしていた上に織部を膝枕していたせいで、足が痺れてしまっていた。おかげで上手く立ち上がることができず、力も入らない。

 見かねた織部が、右手を差し出して小梅が立てるように手助けする。

 小梅は手を借りて何とか立ち上がったが、それでも足の痺れは収まらず、むしろ立ち上がった事で否が応でも痺れを全身で感じ、足元がふらついてしまう。

 小梅は思わず、織部の右腕に抱き付いたが、それは織部からすれば非常にマズい事だった。

 重ねて言うが、小梅は今水着で肌の露出度が極めて高い。おまけに今、織部の右腕に小梅は抱き付いている。そして織部は小梅の事を見ていたのだから、今まさに自分の腕に小梅が抱き付いている様子が目に映っている。

 つまり、制服や私服の時は全く気にしていなかったのだが、意外にも大きめな小梅の胸が、織部の腕に当たっている。服越しではあまり感じられなかった未知なる柔らかい感触と、織部と小梅の肌が触れ合っていること、さらに小梅の胸の鼓動が腕を通して伝わってくるのを感じ、織部の脳がショートしそうになる。

 そしてそれは小梅とて同じ。今や小梅の顔はさくらんぼのように赤し、瞳も恥ずかしさでぐらぐら揺れている。だが、ずっとこのままの体勢でいると取り返しのつかないような事態になりかねないので、痺れる足を無理やりにでも奮い立たせようとする。

 けれど織部が先に提案した。

 

「し、痺れが治るまでちょっと休もうよ。そんなに焦らなくていいと思う」

「そ、そうですね・・・・・・・・・」

 

 そこでやっと、小梅は織部の腕を離して、人工芝に座る。小梅は横座りで足に負担をかけないようにし、織部はその横に胡坐で座る。

 織部が座ると。

 

「あの、春貴さんは・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・?」

 

 小梅が織部に話しかけてきた。先ほどまで恥ずかしい事になっていたのに恥ずかしさや気まずさを振り払って話しかけてくるとは、随分と立ち直るのが早いと織部は思った。自分なんてまだ恥ずかしいというのに。

 だが、小梅が立ち直っているのなら、織部もいつまでも恥ずかしさに悶えていないでそれに合わせるべきだと考え、小さく息を吐いて肩を上下させ、気持ちを整える。

 そして小梅は。

 

「大きい方が好きですかっ?」

 

 ものすごい動揺していた。見れば、小梅の顔はまだ赤く瞳も揺れている。思いっきり動揺していると、顔に書いてあった。

 何を血迷ったのかと思ったが、先ほど織部の腕と小梅の胸が接触していたのは紛れもない事実で消せない過去だ。それで、昼の根津の質問をふと思い出してしまったのか、さらに悪魔が囁いたのかもしれない。

 そしてその質問、織部はその時は正直に答えるのも気まずかったから『ノーコメント』と返した。

 だが今、同じ答えは2度と通用しないと織部の勘が叫んでいる。ここは正直に答えるべきだと、織部の理性は判断している。

 

「あー、えっとね・・・・・・・・・」

 

 正直な話、織部の『好み』については誰にも打ち明けた事のない事だ。家族は当然、学校の知り合いや友人などにも話していない。昼食で思い出した、織部の元居た高校のクラスメイトの男子にだって話してはいない。

 やはり織部は根が真面目だから、否定されたり非難されるのが恐ろしくて、そう言った個人の嗜好を開けっ広げにする事無くただ自分の心の中にとどめていたのだった。それが今、崩されようとしている。

 だが、素直に答えた方が身のためだと思った織部は、打ち明けるしかなかった。

 

「・・・・・・特にこだわりはないよ。大きくても小さくても、別に気にしない」

「・・・・・・本当ですか?」

「本当だよ」

 

 よく、身体から始まる恋愛と言うものを聞くが、織部はそのような恋愛に関しては否定的だ。

 確かにそれも一つの手段ではある。だが、一時の感情に任せたり場の雰囲気に流されたりして関係を持っても、相手の本質、腹の底の底はその時は分からない。

 人に限らずあらゆるものの本質は、それに向き合っている時間が長くなれば長くなるほど明瞭となっていく。織部と小梅がそうであったように。

 身体の付き合いだって、何度か付き合いを重ねるたびに相手の良い本質が見えてきてさらに惹かれる、というパターンもあるだろう。だが、逆に相手の本質をしって失望あるいは幻滅し、関係が途絶えるという可能性だって十分にあり得る事だ。その失敗を人生の経験と処理するか、一生モノのトラウマとみなすかは人それぞれだが、織部は絶対後者のパターンになるという自信がある。

 それが怖いから、織部は別段スタイルや容姿にこだわりはない。

 むしろこだわるのは内面、性格の方だ。どれだけ美人でも性格が悪ければ付き合いたいとは思えないし、逆に多少見てくれに難があっても優しい性格をしていればそれでいいと、織部は思っている。

 だから正直言って、織部にとって胸の大小などは些末なことだ。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅はその織部の考えを聞いて、ぽかんとした表情になる。

 何を女の子にダラダラと語っているんだと織部は今更になって自虐気味になるが、そこで織部の右の指先が優しく握られる。

 何の意図があっての事なのかは分からないが、小梅を見ると少し呆れたような困ったような笑顔を浮かべている。

 なんでそんな顔をしているのか気になったが、そんなの、胸の好みについて語ったからに決まってる。こんなこと急に話されて、女の子が困惑しないはずがない。

 また一つ、自分の価値を自分で下げてしまった事に織部は気付いて、自分の情けなさに涙しそうになる。

 その横で、小梅は小さく息を吐いた。だが、それは呆れや侮蔑を孕んだものではなく、逆に安心感を表すかのようなものだ。

 

「・・・・・・良かったです」

「良かった?」

 

 何をどう解釈すれば“よかった”なんてことが言えるのか織部にはさっぱり分からない。だが、小梅は恥ずかしさと安心が入り混じったように頬を赤くして、織部の事を見ていた。

 

「春貴さんが・・・・・・大きい人は嫌いなのかなって心配で・・・・・・」

 

 大きいという自覚はあるのか、と織部は思ったがそれは置いておく。

だが、小梅の心配事は杞憂に過ぎない。

 

「・・・・・・胸が大きくても小さくても、僕は小梅さんが好きだよ。嫌いなんてことはない」

 

 今の自分のテンションがおかしいという自覚はある。見慣れない水着姿に浮かれてしまっているのだろうか。だから発言が多少踏み込み過ぎてぶっ飛んでしまっているのかもしれない。

 一旦冷静になろうと深呼吸をする。今日の自分は変だ。

 

「・・・・・・ありがとう、ございます」

 

 小梅の恥ずかしそうなお礼の言葉も、織部を好いているから当然と言える。

 

 

 少しして、小梅の脚の痺れが引いてから、2人はまほたちと合流した。エリカが目つぶしのお詫びと織部にジュースを一本奢ってくれたのと、斑田がしばらくの間織部と目を合わせようとしなかったこと以外、問題はなかった(ちなみに水着が脱げてしまった斑田の姿を織部は見ていない)。

 その後は気を取り直して、貸し出されている水鉄砲で遊ぶことになった。イメージ通りというかなんというか、まほの命中率がほぼ百発百中を誇り、プロのスナイパーや暗殺者(アサシン)と言っても過言ではないぐらい正確だった。

 他の客の迷惑にならない程度に水鉄砲で戦い、それが意外にも面白すぎて、楽しすぎて、気づけば17時に近づいてきていた。

 目一杯楽しみ、疲れも出てきたのでそろそろ上がろうという事になり、織部と女子陣がそれぞれ更衣室に引き上げていく。だがその前に、織部は小梅と少し話をする事にした。

 小梅以外の女子陣が全員更衣室に戻ったが、更衣室の前で、ただし邪魔にならない場所で2人は向き合う。

 

「今日はその・・・・・・色々とゴメン」

 

 織部が謝るべき箇所は多くある。変な話をしたり、小梅と密着したりと、色々と際どい事が幾度となく起きた。全てに織部の落ち度があるというわけではないが、一応は謝っておかなければなるまい。

 だが、小梅は首を横に振る。

 

「謝る事なんてないですよ・・・私たち2人で遊べなかったのは少し残念ですが、それでも皆さんと遊べてよかったです」

 

 それは確かに言えてる。こうして戦車隊の皆と遊んだことで、距離がまた近くなれたような気がしたし、まほの言っていた隔たりを無くし、横のつながりを作るという事もできたと思う。最後の方の水鉄砲合戦では皆普通にまほやエリカを狙撃していたし、まほも別に怒る事無く真剣に撃ち合いを楽しんでいた。

 無駄な時間だった、とは微塵も思っていない。

 

「でも今度は、2人で遊びたいですね」

「・・・・・・そうだね」

 

 少しだけ、寂しそうにプールの方を振り返る小梅に、織部も同じようにプールを向く。

 織部と小梅が一緒にいられるのは後2カ月と少し。短くも長くもない時間が残されているのだが、それでも2人はできるだけ一緒にいたい。欲を言えば、2人だけの時間を過ごしていたかった。

 だから、今日のプールデートに根津やまほたちが合流したのは、別に悪い事ではなかったのだが少々残念だった。

 だからこそ、また“2人だけ”でこのような場所で遊ぶことを望み口にした。

 それは果たして、織部が黒森峰にいる間にできるのかどうかは、分からない。

 それでも、約束せずにはいられなかった。




シャクヤク
科・属名:ボタン科ボタン属
学名:Paeonia lactiflora
和名:芍薬
別名:貌佳草(カオヨグサ)、ピオニー
花言葉:恥じらい、謙遜、はにかみ

水着回やデート回を書いていると、
女性の服装の名称と言う現実ではほぼ使い道のない知識を得て、
複雑な気持ちに・・・。

この先の構成を立て直す必要ができてしまったので、
次回以降投下が少し遅れる可能性があります。
予めご了承ください。


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花菱草(ハナビシソウ)

 黒森峰女学園も、夏休みへと突入した。

 生徒会や部活動に所属しておらず、赤点などで休み期間中に学校に呼び出される事も無い生徒たちは、学園艦を離れて実家で悠々自適に過ごす者が割といる。あるいは、実家に帰るのも面倒だし友人と過ごしたいと言って学園艦に留まる者もいる。

 だが、戦車隊に所属する者たちは、夏休み期間中も最後辺りを除いて訓練がほぼ毎日行われるので、帰る暇がない。

 それに忘れてはならないが、宿題という悩みの種も当然存在する。戦車隊の訓練と宿題を両立するのは非常に難しく、皆で協力して片付けようという作戦を取る者も多い。

 そして夏休みに入って何週間かが経過したある日曜日。この日は戦車道の訓練が休みの日で、戦車隊に所属する者からすれば宿題を進めるチャンスとも言える日だ。

 だが今、まほ、エリカ、そして小梅の3人は、本土と学園艦を結ぶ連絡船の搭乗口前にいた。今日は休日にも拘らず、3人ともが制服だ。

 やがて、3人の視界に1隻の船が目に入る。

 

「・・・・・・あれか」

「恐らく」

 

 まほが、誰に話しかけたわけでもないのだろうに呟くと、エリカがすぐに返す。

 これから来る人物は、大体この時間に来ると前日連絡していたし、道中でトラブルに巻き込まれたりしない限りは時間通りに来るだろう。まあ、おっちょこちょいなところがあるので寝坊したりする可能性だってあるが。

 その1隻の船―――連絡船を小梅はじっと見つめている。彼女の顔には、多くの感情が宿っていると、この場にいない織部がいれば分かるだろう。それぐらい小梅の顔は緩んでいて、それでいて少し寂しそうだった。

 船はどんどん近づいてきて、遂には黒森峰学園艦と速度を合わせて平行に並ぶように航行し、乗船用のタラップを伸ばす。

 そして連絡船と学園艦を繋ぐタラップを、その人物はゆっくりと歩いてきた。

きわめてごく一般的な、襟に緑のラインが入った白いセーラー服に黒のリボン、そして緑のプリーツスカートという学校の制服。栗色のショートボブに茶色い瞳、少し垂れ目なところが引っ込み思案な性格を表しているようにも見える。

 

「よく来てくれた、みほ」

「・・・お姉ちゃん、久しぶり。エリカさんと、赤星さんも」

 

 その人物とは、かつて黒森峰の戦車隊で副隊長を務め、現在は大洗女子学園の戦車隊を率いる隊長として全国に名を馳せている、西住みほだった。

 

 

 織部は、夏休みの宿題は1科目ずつ終わらせていくタイプだ。中途半端に終わらせて、途中で何か別の科目に手を出すと自分がそわそわして集中できなくなってしまうからだ。

 そして織部は計画的に課題を進めていき、夏休みの終わる2週間前ぐらいには全ての課題を終わらせている事が多い。中学の時、遊び呆けて夏休み終了間際になって泣きを見る人を何人も見てきた。

 黒森峰で提示された夏休みの課題は、織部の本来通う進学校と比べると少しだけ少ない。1年生の時は、進学校レベルの夏休みの課題の多さに辟易したものだが、学力をつけるためと割り切ってどうにか切り抜けてきた。

 しかしながら、あまり集中し続けていると逆に疲れて肩が凝ったり、部屋の中で黙々と机に向かって課題を片付けて、息がつまりそうになる。そんな時は大体、外を散歩したりして気を紛らわせていた。

 そして今、織部は同じように気分転換で外へ出ていた。だが、ただ散歩に出かけたわけではなく、ちゃんとした目的地を立てている。

 その目的地とは、トレーニングジムだ。

 この前プールに行った際に皆から『細い』と言われて、織部は内心では少しショックを受けていた。何度か小梅とジョギングを重ねているうちに体力はそこそこついてきたものの、筋肉の方はからきしだ。なのでこのトレーニングジムで、少し鍛えようと思ったわけだ。

 ちなみに織部は、今日の自分に課した夏休みの課題のノルマを8割がた終わらせている。残りの2割は、ジムから帰った後でも十分こなせる。

 利用に必要なジャージとシューズ、そして学園艦で生活していることを証明するもの・・・学生証などを提示すれば無料で利用できる。織部も、仮発行されている学生証を提示すると、問題なく脚を踏み入れることができた。

 ここは何も、戦車隊の隊員だけが利用できるというわけではなく、この学園艦に暮らす者全員が等しく利用できるものだ。だから、トレーニング用の器具が揃うフロアにも、戦車隊には属していなかったはずの黒森峰の女子や、恐らく非番の教師、さらには身体が衰えないように鍛えている老人、とまでは言わないがそれなりに歳を食っている人もいた。

 とりあえずここでは、男の自分は浮かないようだと一安心した織部は、早速ストレッチに取り掛かる。

 と、そこで織部は見知った人物に出会った。

 

「あっ、織部君」

 

 黒森峰のジャージを着たその人物は、斑田だ。

 

「斑田さん、こんにちは」

「こんにちは。赤星さんは一緒じゃないの?」

 

 いきなり小梅の所在について聞かれる辺り、自分が普段から小梅にくっついていると思われていることが窺える。間違ってはいないのだが、面と向かって聞かれるとこそばゆいものだ。

 そして、今小梅はみほと会っているのだが、まほとエリカからそれは口外しないように言われているので大人しく従う事にし、斑田には心の中で謝りながら誤魔化す。

 

「小梅さんは、今日人と会う約束をしてて」

「ふーん・・・」

 

 斑田は、それ以上深入りはせずに、ストレッチで前屈をする。

 織部も、斑田から少し離れた場所でストレッチを始める。体育の前の準備体操に似たところがあるが、少しばかり違うところもある。

 そしてしつこいようだが織部は運動音痴で、身体も柔らかくない。前屈をするにしても手は足につくほど伸びはせずただ痛いだけだ。果たしてストレッチになっているんだかなっていないんだか、分からない。

 ともかく、運動音痴なりにストレッチをこなしながら、織部は小梅のことを思う。

 夏休み前に、織部はなるべく小梅と一緒にいると約束したが、今日ばかりはどうしようもなかった。

 何せ今、小梅はまほ、エリカと共に、西住みほと会っている。みほと面識のない織部がいても、何の役にも立ちはしないし、いたらいたで逆にみほとギクシャクした雰囲気を作ってしまい、後々のためにならない。

 それに、みほが黒森峰に来るそもそもの理由を考えれば、織部はいないほうが都合がいい。

 だから織部は、誠に遺憾ながら小梅と離れざるを得なかった。

 

 

 まほの誕生日の7月1日。織部と小梅は、2人でそれぞれ誕生日プレゼントをまほに渡した。

 その後2人は帰ろうとしたのだが、その直前でまほに引き留められ、話があると告げられた。

 その話とは、みほを黒森峰学園艦に招くという事だった。

 それについて、エリカは事前に聞かされていたらしく、その話を切り出した際にエリカは驚きもせずに小さく頷いていた。

 まほは、みほと積もる話が色々とあるようで、電話やメールではなく直接会って話がしたいと前々から思っていたらしい。そして、全国大会優勝の祝いも兼ねて呼ぶそうだ。

話をする事について、織部は前に2回ほどまほから『みほときちんと話をして、それから謝りたい』という相談を受けていたので驚きはしない。

 小梅も、一番最初に織部がまほと話をして、まほがみほに対して負い目を感じているのは盗み聞いていたから、意見したりする事も無かった。

 ではどうして、織部と小梅の2人にその事を話そうとしたのか。

 まず小梅だが、まほは小梅が去年の全国大会でみほに助けられたことを知っていて、今年の全国大会決勝戦での試合前の挨拶の後に小梅がみほと話をしていたのを見て聞いていた。だからまほは、小梅はみほと親しい存在だと考えているし、それでみほを招待しようとしているのを伝えたかったのだ。そしてもしみほが来た際は、会って話をしてもいいとまほは思っている。

 織部に話したのは、みほとの確執についてまほが織部に相談していたから、前もって話しておく事にしたのだ。確かにまほの事情を聞こうとしたのは織部の方だが、織部に相談したのはまほの意志だ。だからまほは、自分が相談を持ち掛けて多少なりとも織部を悩ませたのに、相談した相手に知らせず自分たちで勝手に解決してはいおしまい、というのも相談した者に対しては礼を欠いた事だとまほは思う。

 だからこの2人に、まほは話したのだ。

 だが、まだ黒森峰に来てほしいとはみほには言ってない。だから本当に来るのかどうかも分からないし、みほが断る可能性だって十分に考えられる。

 けれど、もしもみほが黒森峰を訪れるとしたら、小梅はぜひ会いたいと言っていた。しかし織部は、みほと面識がないから別に会っても意味は無いので、織部は辞退した。

 そして数日後、まほから送られてきたメールに、みほは了承の返事をして黒森峰に来ることが決定したのだった。

 

 

 

「お姉ちゃんのメール怖かったよ・・・いきなり『黒森峰に来い』なんて・・・果たし状かと思った」

「メールを打つのには慣れてなくてな・・・妹相手に敬語と言うのも少しおかしいし・・・」

 

 連絡船の搭乗口から黒森峰女学園の校舎に向かうまでの間、みほとまほは雑談を交わしている。だが、みほの『メールが怖かった』という言葉については一理あると、エリカも小梅も思っている。何しろ必要最低限の事しか書かないので、慣れなければ恐ろしさを覚えるのだ。車長たちの懇親会とも言える昼食会でさえ、隊員を集めるメールは『昼休み食堂に集まれ』だ。一昔前の軍隊や知波単学園ではあるまいし、そんな威圧的な文面では懇親会と分かっていても恐ろしくてたまらない。

 エリカや小梅は慣れてしまったが、あれは初見で見ればシンプルに言って死刑宣告、百歩譲って赤紙みたいなものだろう。

 ともあれ、みほとまほの間に心の壁のようなものはなく、2人とも気兼ねなく話せているようで、小梅は一先ずホッとした。2人は姉妹なのだし、仲が良い方がいいに決まってる。小梅は一人っ子なので、姉妹や兄弟がいる感覚が分からないが、妹や姉がいるというのも悪い感覚ではないのかもしれないと思った。

 そして聞いた話によればエリカにも姉がいるらしい。だが、仲はそこそこといった具合で、何かにつけてエリカを子供扱いし、エリカ自身はそれが気に食わないようだ。

 姉妹も一長一短だな、と思いながら、4人は黒森峰女学園の校門をくぐった。その直後、みほは立ち止まって校舎を見上げる。

 

「どうした?」

 

 まほは問うが、小梅は一瞬みほの事を心配に思う。みほにとって、去年の決勝戦でとった行動が理由で、黒森峰でされた事、言われた事は忘れられない事だろう。だから、また黒森峰にやってきた事でそれを思い出し、不安定になってしまう事だってあり得る話だ。

 だが、学校を見たいと言っていたのはみほの方だ。なので今更、怖気づいたとは考えにくい。

 黒森峰戦車隊でみほの事を毛嫌いする人は、恐らく今年の全国大会の結末を見届けた事でいなくなったとまほたちは信じているが、念のために学校に人がほとんどいない夏休みの日曜日、戦車隊の訓練も無い日にみほを招いた。だから、人と会う機会はほとんどないと思うのだが、気は抜けない。

 みほは、黒森峰の校舎を見上げてポツリと呟いた。

 

「・・・変わってない」

 

 安心感に似たような気持ちを感じさせるみほの言葉。やはり、どんな経験をしていようとも、ここがみほの母校の1つであることに変わりはない。1年弱ほどいたのだから、ここに懐かしさを感じるのも当然だろう。

 まほと小梅は、心配事も無駄だったと思い心の中で小さく息を吐く。だが。

 

「そりゃ1年も経ってないんだし、当たり前でしょ」

 

 エリカが皮肉るように言うと、みほが少し苦笑する。まほも小梅も、至極まともなエリカの意見に小さく笑い、歩を進める。

 みほも、皆の後に続いていった。

 

 

 訪れたのは、戦車の格納庫だ。この日は先ほども言ったが戦車隊は休みで、機甲科も活動をしていないので、本当にここには猫の子一匹いない、はずだ。

 格納庫の中を歩き、戦車を見ていく。あの決勝戦で激戦を繰り広げ、砲塔がへし折れたヤークトティーガーも完全復活を果たしていた。

 

「まさか、これが川に落とされるなんてね」

 

 エリカがヤークトティーガーを見上げながら呟く。小梅も確かに、ヤークトティーガーがやられたという通信を聞いた時は耳を疑ったものだ。ましてや、川に落ちてひっくり返ったなんて状況、聞いた事も無い。

 

「ウサギさん―――1年生の皆が頑張ってくれたから・・・」

「M3か。あれにはエレファントもやられたからな、侮れない」

 

 格納庫を進んでいくと、パンターやティーガー、Ⅲ号戦車などの主力戦車、ラングにヤークトパンターなどの駆逐戦車もいる。そして何より威圧感を放っているのは、超重戦車マウスだ。難攻不落と思われていたマウスも、大洗の奇策に嵌められて撃破されてしまった。その奇策を思いついたみほのひらめき力と洞察力は、自分を超えているのかもしれないとまほは思う。いや、みほが勝った時点でまほは越えられていると、思っている。

 そして奥の方には、黒森峰にいた時にみほが乗っていた、車体番号217のティーガーⅠがいた。

 

「このティーガー・・・・・・」

 

 みほが近づき、右手をそっとティーガーⅠに添える。まほは、みほの後ろに立ってその背中を見つめる。

 

「・・・・・・もしまた、みほが帰ってくる事があったら、と思って整備していたんだ」

 

 今、格納庫の電灯は点けられているがこのティーガーⅠが置かれている辺りは少し暗くなっている。だから、まほの表情がどうなっているのかは、エリカと小梅、そして戦車を見るみほには分からない。

 

「だが・・・・・・もう大丈夫みたいだな」

 

 けれどそう告げるまほの顔は、多分笑っているんだろうなぁと小梅とエリカは思った。そして、振り返ったみほはまほの顔を見て、みほは少しだけ申し訳なさそうに笑っていた。

 みほは、大洗という新しい地で多くの仲間と友を作り、さらには自分だけの戦車道を見つけた。全て黒森峰では手に入れる事も、見つける事もできなかったものだ。

 最早、みほは大洗にいるべき人材であり、西住流という枠組みでみほの才能を殺してきた黒森峰にはいるべきではないのかもしれない。

 だからまほは、『もう大丈夫』だと言ったのだ。

 

 

 格納庫から出ると時刻はもう昼を少し過ぎている。連絡船の到着は少し遅めだったからか。

 昼食はどうしようかと悩んだところで、食堂が夏休み中で休みだという事にまほたちは気付いた。まだ学校で見たいところはあるかをみほに聞いたが、みほはもう十分だと言ったので、学校を出る事にした。どうやら、戦車を見れただけで十分らしい。

 そんな彼女たちが向ったのはドイツ料理店だ。席に通されると各々料理を頼む。そこでエリカがハンバーグを頼んだのを見て、みほはクスッと笑った。

 

「・・・・・・何よ」

 

 エリカが不服そうに聞くと、みほは微笑みながら言った。

 

「ハンバーグ好きなの、変わってないんだなって」

 

 エリカの口元がひくひくしているのが、エリカの真正面に座る小梅にははっきりと見えている。そしてエリカの隣に座るまほは、うんうんと腕を組んで何に納得したのか分からないようにうなずいていた。

 

「みほがこうして軽口を叩けるようになるとはな・・・。随分変わったと思う」

「そうですね・・・。みほさん、何だか生き生きとしている気がします」

 

 まほの言葉に、小梅も同調する。確かに、黒森峰にいた頃のみほは何処かしら心配なところ―――ドジでおっちょこちょいなところなど―――が目立っていて、それに引っ込み思案な性格も相まって、暗いイメージがあった。だが、大洗に転校した今ではそれが嘘のように、明るく振る舞っている。

 

「そうね・・・・・・・・・確かに変わったわね」

「エリカさん・・・・・・」

 

 肩をすくめて目を閉じ、エリカが鼻息混じりに呟く。みほも、皮肉屋な一面を持つエリカが素直に認めてきたのが少し意外だったらしい。

 だが、ゆっくりとエリカは身を乗り出して、斜向かいに座るみほの鼻を思いっきりつまんだ。

 

「でも、私の好物まで馬鹿にするのはちょーっといただけないわねぇ」

へ、へりははん(エ、エリカさん)・・・いはいひょぉ(いたいよぉ)・・・ばはにひへなんは(馬鹿にしてなんか)・・・」

 

 鼻声のみほの声に、みほの隣に座る小梅が思わず吹き出してしまう。エリカも、みほのみっともない声が聞けて満足したのか、してやったりな顔を浮かべて席に戻る。

 まほはこのエリカとみほのやり取りを見て、内心ではホッとしていた。

 エリカは元来真面目一辺倒な性格をしていて、規律や風格を重んじている傾向があった。だから、織部が来た事で戦車隊の空気が弛んでいることに憤りを感じ、それを織部にぶつけた。さらにエリカは、普段の言葉遣いに若干の棘を含んでいて、接する者は大体畏怖したり敬遠していた。

 だが、今こうしてみほに対して(いい意味での)ちょっかいをかけたり冗談を言ったりしたのを見て、その普段のエリカのイメージも払拭されつつあると思った。期末試験明けで戦車隊の空気が若干緩んだ時も憤りを見せることはなかったし、この前行ったプールでも織部や、同学年の根津たちと普通に遊んでいたので大分打ち解けてきていると実感している。いや、根津たちに限らず、他の隊員たちとも幾分かは打ち解けることができているようにも見受けられた。

 ルクレールではあれだけみほに憎まれ口を叩いていたのが嘘のように、エリカはガラッと変わった。やはりエリカも、あの試合をきっかけに、エリカの中でも何かが変わったようだ。

 ともかく、こうしてみほと普通に付き合いができるようになれたのは、みほの姉であり、エリカの先輩・上司であるまほ個人としては嬉しい事だった。

 

 

 食後に4人が向ったのは戦車道博物館だ。みほもここは訪れた事があるだろうが、どうやらせっかく黒森峰に来たのだからと、ある種のもったいない精神で行きたかったらしい。

 まほ、エリカ、小梅の3人は黒森峰の生徒であるため割引料金が適用されるが、残念ながらみほはもう黒森峰の生徒ではないので、通常料金を払わなければならなかった。

 戦車道の概要と起源、歴史を流し読み程度で見ていき、そして黒森峰女学園と戦車隊の歴史へと移る。歴代の戦車隊長を見ている中でみほが『お母さんだ・・・』と呟く。どうやらしほの写真を見つけたようだ。

 そして先代の隊長はまほも知っており、その下は空欄となっている。どうやら、隊長が卒業した後で、その隊長の写真と来歴が追加されるらしい。まほが卒業すれば、ここに追加されるのだろう。

 みほが歴代隊長の写真を見ていたのに釣られ、エリカと小梅も自然とそこに集まる。

 

「お姉ちゃんの写真も、ここに飾られるんだよね?」

「・・・ああ、そうだな」

 

 みほの問いかけに、まほも少し寂しそうに答える。

 そしてその寂しさを孕むまほの言葉に、エリカと小梅の表情にも陰りが差す。エリカと小梅は、3年生のまほより1つ年下の2年生だ。そしてまほは、2年生の時から隊長を務めていたから、2人が入学した時から隊長はまほだった。それに2人は、まほの事を大いに尊敬している。だから、卒業して、隊長がまほではなくなってしまうというのは少なからず寂しくなるものだ。

 それはまほも同じようで、照明が暗めのこの室内でも、まほの表情が少し曇っているのがみほにも分かる。2年間率いていた隊から離れてしまうのも少し辛く悲しいものなのかもしれない。

 

「あ、なんかごめんね・・・?変な空気にしちゃって・・・」

 

 みほが取り繕うように笑うと、まほも小さくふっと笑い、先へと進む。

 小梅もその後につこうとしたが、エリカの表情が引き締まっているのに小梅は気付いた。一体なぜ、そんな表情をしているのかは小梅には分からない。

 だが、エリカは分かっていたのだ。

 まほが卒業し、除隊すれば、その次の隊長となるのは、現在副隊長である自分になるのだと。

 自惚れているわけではないが、戦車隊の中では自分の才能は他よりも少し秀でているし、だからこそ1年の時はみほの補佐を務めて、みほが去った後副隊長となることができた。

 おそらくは他の隊員の才能が開花してエリカを超えない限りは、エリカが次の隊長となるだろう。

 それを改めてエリカは自覚して、緊張した面持ちでいるのだ。

 

 

 博物館を出ると、4人は適当に学園艦を散策する事にした。商店街でお菓子屋のおばちゃんからなぜかおすそ分けの煎餅を貰ったり、水路の傍の遊歩道を歩きながら川の流れの音をBGMに今の黒森峰戦車隊の話をして、学園艦外周遊歩道を歩きながら大洗の仲間たちの話をして。

 そして気づけば、もう時間は夕方の4時を過ぎている。今黒森峰女学園艦と大洗女子学園艦の航行している場所を考えれば、そろそろ出ないとみほは日付が変わる時間ぐらいに帰ることになってしまうだろう。それに、連絡船の数も限られている。直近の時間の連絡船を逃すと次は夜中になってしまう。

 学園艦外周遊歩道から戻り、小梅にとっては見慣れた、だが懐かしさを感じるあの花壇へたどり着いた。夏を迎えたので、旬を過ぎた花の一部はすでに萎れてしまっている。

 そこで、みほの携帯がメールを受信した。そして携帯の画面を見て時刻を確認したみほが、ポツリと呟いた。

 

「そろそろ、帰らなきゃ・・・」

 

 随分と久しい、みほとの他愛も無い会話は時間を忘れさせるものだった。それはまほ、エリカ、小梅の3人全員がそう感じた事らしく、みほの言葉に全員がハッとしたような表情を浮かべた。

 エリカとしては、みほとの会話は決して不愉快と感じていなかった。全国大会のトーナメント抽選会で再会した時は、自分を忘れそうになるほどの憤りを覚えたというのに、今ではそれも無く普通に話すことができた。あの去年の決勝戦前、砕けた調子でやり取りをしていた時に近い感覚だ。やはりみほの力を認めて、心の中に突っかかっていたものが無くなったからだろうか。

 小梅も、こうして黒森峰でみほと話をすることができてよかったと思う。黒森峰でみほが迫害を受けていた時、小梅は自分がみほの友達でいれば、みほの傍にいていればみほが転校しなくてもよかったのかもしれないとずっと迷い悔いていた。

 だが、新天地でたくさんの仲間を作り、そして自分の戦車道を見つけたみほは今、憑き物が落ちたかのように晴れやかな表情をしている。そんなみほと話ができたのが嬉しかったのだ。

 そして、まほは。

 

「・・・みほ」

「なに?お姉ちゃん」

 

 みほを呼び、足を止めるまほ。みほは立ち止まって振り返り、まほを見ると、まほが先ほどまでの穏やかな表情とは違う、真剣な表情をしているのにみほは気付いた。

 そして小梅とエリカは、遂に話すのか、と気付いた。そして2人はまほに、『少し席を外します』と告げて、その場を離れる。

 まほが何のためにみほをここに招いたのか、2人はそれを忘れてはいなかった。

 今日みほと再会してから今に至るまで、4人はほぼ全ての時間を一緒に過ごしていた。だから、みほとまほが2人きりになる時間ができなかった。

 まほだって、あの時の事を話し、そして自分の思っていたことを伝え、その上で謝りたいと言っていたのだから、それを他人に聞かれるのは嫌だろう。

 そのまほの意図を汲んで、小梅とエリカはその場をいったん離れたのだ。

 2人が視界から外れるのを確認すると、まほはすぅっと小さく息を吸い込んでからみほに言葉をかける。

 

「みほ、今日は来てくれてありがとう」

「え、急にどうしたの・・・?」

 

 エリカと小梅が示し合わせたかのようにこの場を離れ、まほが急に畏まってお礼を言ってきたので、面食らうみほ。それに、みほの知る限りではまほがこうしてストレートに『ありがとう』と言ってくる事自体が珍しい。

 つまり、恐らくまほは何か重要な話をしようとしていることにみほは気付いた。

 

「・・・実はな」

「・・・うん」

 

 涼やかな風が吹き、仄かな潮の香りが鼻腔をくすぐる。花壇に咲く花が揺れるが、みほは決してまほから目を逸らさない。まほも、みほを見据えたまま話を続ける。

 

「今日、みほをここに呼んだのは、みほに言わねばならない事があったからだ」

「・・・・・・?」

「・・・・・・去年の全国大会の後の事だ」

「!」

 

 その話題は、みほが心の奥にしまっていた辛い過去だ。それをまさかまほが引き出してくるとは思わなかったので、みほのショックも大きい。まほだって、みほの表情が硬くなったのを今この目で見たし、それでみほが落ち込む事だって織り込み済みだ。それは実に心苦しい事だが、話をする上でそのことは言っておかねばならない。

 

「・・・あの決勝戦の後、責められていたみほを私は庇う事もせず、みほが黒森峰を去ると決めた時は、ただ背中を押す事しかできなかった」

「・・・・・・・・・・・・」

「ただ、本当の事を話したい」

「本当の・・・こと?」

 

 みほにとって不可解な言葉を聞き返すと、まほは小さく頷く。

 

「あの時私は・・・信用が失墜し、空気や連携が無茶苦茶になってしまっていた戦車隊を立て直そうと躍起になっていて、みほの事を気にかけることができなかった」

「・・・・・・・・・・・・」

「そして、西住流の後継者であり、西住流を体現した黒森峰戦車隊の長である私がみほを庇えば、西住流の教えが間違っていると捉えられるやもしれなかった」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 みほは何も言わない。だが、まほが何を言おうとしているのか、だんだん理解してきたようで、緊張した表情が徐々に驚きを含むようになってきた。

 

「私がみほに言葉をかける事もできなかったから、みほに『自分は見捨てられた』と思い込ませてしまった・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「だけど私は・・・・・・みほのあの時の行動は西住流としては間違っていたけれど、人として間違った事はしていなかった。むしろ、誰にでもできるような事ではないことをやってのけたみほの事を、誇りに思う」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 みほの瞳が揺れ、僅かに潤う。

 

「だが、西住流の名を守るという理由でみほを庇えず、私の妹で同じ西住流だからと色々負担をかけてしまい、私は結局どうする事もできなかった・・・」

 

 そしてまほは、頭を下げて、ずっと言えなかった一言を、正直に、はっきりと、告げる。

 

 

「・・・・・・みほ、本当に・・・・・・ごめん、なさい」

 

 

 こうして畏まり面と向かって謝る事は、まほ自身も慣れていないのだろう。その言葉も、頭を下げる動作もぎこちなくて、普段の凛々しいまほからはまるで想像できないような所作だった。

 まほは頭を下げている間、みほが次に何を言うのかが怖かった。

 今さらこんな姉面をして謝っても、みほの過去が全てきれいさっぱり無くなるというわけではない。みほの中のトラウマが拭い去られるという事も無い。

 決勝戦の後のやり取りで少し昔のような距離に戻ったような気がしたのに、また自分とみほは疎遠になってしまうのだろうか。

 今のまほは、普段では考えられないほどネガティブになってしまっていた。戦車道の試合でも、失敗するビジョンに囚われる事などなく、またネガティブな発想にも至らないのに。

 やがて、みほが言葉を発した。

 

「・・・・・・お姉ちゃんって・・・」

 

 その先に続く言葉は、何だ。

 まほの心は揺れ動き、否定されたり拒絶されるとどうなるのか、分からなかった。

 だが、みほの次の言葉は、まほの予想に反して優しい声とともに告げられたものだった。

 

「・・・・・・本当に、優しいんだね」

 

 まほが思わず、下げていた頭を上げてみほの顔を見る。見れば、みほの瞳からは一筋の涙が流れていたが、その表情は穏やかで優しく、微笑んでいた。

 どうして“優しい”なんて言葉が言えるのか、今のまほには分からない。

 

「・・・覚えてる?ずっと昔、まだ私たちが小学生ぐらいのころ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 みほは今、何を思い、何を考えて、過去の事を思い出すように促しているのか。まほはまだ、不安に囚われていた。

 

「2人でアイスを食べて、私がはずれ棒を引いたらお姉ちゃんがあたり棒をくれて、戦車から落ちそうになった私を支えてくれて・・・。私が寝てるお父さんにいたずらしてお母さんに怒られた時に庇ってくれたり、他にもたくさん思い出があるけど・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 色褪せていた思い出が蘇ってくる。あの頃のみほは、10人中10人がやんちゃと言うほどにはやんちゃだった。あの時はまだ、西住流の後継者としての自覚も薄かったから、背負うものもそんなになかったから楽しかった。

 ついでに、みほが寝ている父にいたずらをした際、しほが割と本気で怒っていたのも思い出して少し寒気を覚える。果たしてそれがみほのいたずらの度が過ぎたからなのか、しほが夫の事を本気で好いていたからなのか、どうなのかは謎のままだが。

 だが、みほにとっては自分で言った思い出は黒歴史に当たるもののようで、少し恥ずかしそうに語っている。

 

「・・・あの時も、お姉ちゃんは、優しかった。そして今も」

 

 そしてまほの事を見据える。みほの話した思い出には全てにまほが関わっており、それらは全てまほがみほを気遣い、想っていたが故の行動が含まれている。

 そのまほの行動が、みほはとても優しいと感じていたのだろう。

 

「まだ私が黒森峰にいた時、お姉ちゃんは陰では私の事を心配してくれていて、今日までずっと、私の事を助けられなかったことを後悔していて・・・。それだけ、私の事を心配してくれてたって事が、お姉ちゃんの口から聞けてよかった」

 

 まほの、みほの事を本当は心配していたという想いが伝わり、そしてみほは、やはり自分の事を陰ながら心配してくれていたまほの事を優しいと、今改めて思ったのだ。

 

「それに、お姉ちゃんが大変だったのだって知ってる。私のせいで、戦車隊がバラバラになりそうだったのに、お姉ちゃんはそれを必死でまとめ上げていた。まだ副隊長だった私は、全部知ってる。だから私の事を気にかけられなかったのも、悪い事だなんてちっとも思ってないよ」

 

 まほの肩が、感動とも少し違う、嬉しさに近い感情ゆえに小さく震える。目頭が熱くなり、涙が流れる前兆が現れる。

 

「・・・・・・ありがとう、お姉ちゃん。私の事、心配してくれていて・・・そして、謝ってくれて」

 

 そして決定的な言葉をみほは告げた。

 

 

「お姉ちゃん、大好きだよ」

 

 

 みほの、心底優しそうな笑顔。それだけで、まほの中の緊張が抜け落ちる。心の中の蟠りが晴れていく。疑念が消え失せる。胸につかえていたしこりの様なものがすとんと落ちる。

 まほは、小さく息を吐いて、久しく流していなかった涙を、音もなく流した。

 

「・・・・・・ありがとう・・・」

 

 許してくれて、みほを守れなかった自分を優しいと言ってくれて、自分の事を分かってくれていて、そしてそんな姉の事を大好きと言ってくれて。

 それらを含めた上での『ありがとう』だ。

 そしてみほは優しくまほの事を抱き締めてくれた。まほも、みほの事を抱き締める。少し力が強かったのか、みほが『お姉ちゃん、痛いよ・・・』と少し照れるように、困ったように告げる。

 だが、みほに対する申し訳なさと、ありがたさがないまぜになって心の底から湧き上がってきて、それが抑えられずみほを抱き締める力も強くなっている。

 2人は少しの間、抱擁を交わしていた。

 

 

 その日の夜、織部と小梅は学園艦を縦に貫くように流れる人工水路に掛かる橋にいた。2人の着ている服はジャージで、先ほどまで走っていたのだという事が分かる。

 すでにみほは大洗へと戻り、もう黒森峰にはいない。

 織部が今日の宿題のノルマをこなして夕食の準備に取り掛かろうとしたところで、小梅から『夜、一緒に走りませんか?』とジョギングの誘いのメールが来た。それに二つ返事で了承し、夕食を摂った後のジョギングの途中である。

 休憩がてらこの橋で立ち止まり、そして小梅の口から今日はどんなことが起きて、どんな結末を迎えたのかを全て聞いた。

 

「・・・そっか。隊長、仲直りできたんだね」

「はい。最後には、みんなで写真を撮ったんですよ」

 

 そうして小梅は、ポケットからスマートフォンを取り出して画面を操作すると、1枚の写真を表示させて織部に見せる。その写真には、実に楽しそうな笑みを浮かべるみほと、小梅。そしてわずかに笑みを見せるまほとエリカが写っていた。

 

「・・・・・・よかった。本当によかった」

 

 織部は写真を見て、本当にみほとまほは仲直りができたのだと実感し、我が事のように嬉しそうに笑い、告げる。織部も、まほから『みほと話をしたい、みほに謝りたい』という相談を持ち掛けられていたから、他人事と捉えられなかった面がある。親身になって聞いたところもあるから、織部にとっても喜びはひとしおだ。

 

「私も、安心してます。隊長とみほさんが、ちゃんと仲直りできて・・・やっぱり、姉妹ですものね。仲が良い方が、いいですよ絶対」

 

 織部も頷く。

 これで、まほの中の不安や後悔は無くなったと言っていい。過去に縛られる事は、もうないだろう。

 と、そこで織部のスマートフォンが電話の着信を告げる。画面を見れば、『着信:西住まほ』だった。

 織部は小梅に断りを入れて少しその場を離れ、通話ボタンを押す。

 

「もしもし、織部です」

『こんな時間にすまない。今、大丈夫だろうか?』

「ええ、大丈夫です」

 

 挨拶もほどほどに、まほが早速本題を切り出した。

 

『みほと会って、色々話をした。それで、やっと・・・・・・謝ることができた』

「・・・・・・良かったですね」

 

 まほの声は、安心したような、やり切ったような感情が含まれているように聞こえた。まほも、今日のようにみほに全てを話して、そして謝る日を心では望んでいたのだと、織部には分かる。

 

『・・・こうすることができたのも、君のおかげだ』

 

 だが、流石に織部自身のおかげと言われる事は予想外であったし、間違いでもあるからそこは訂正させてもらう。

 

「いえ、みほさんに直接謝ったのも、みほさんを黒森峰に呼んだのも、すべては隊長がご自分で判断なさった事です。僕は何もしていません」

『いや、君と最初に話をした時、君が私の事を聞かず、みほの事をどう思っていたのか、と聞いていなければこうはならなかった。君が、あの時赤星を助けたみほが私にはどう見えたのかに気付かせてくれたから、今日謝ることができたんだ』

「・・・・・・・・・・・・」

 

 正論、に聞こえるが織部からすれば少し恥ずかしい。織部自身、別に大したことを言ったつもりはないし、あの時はまほの心に踏み込んでしまって申し訳なかったという気持ちが強かった。

 

『改めて、お礼を言わせてほしい。ありがとう』

 

 あのまほから、こうしてお礼の言葉を素直に言われては、口答えなどできるはずもない。織部も、少し唇が歪むのを自覚しながらも、小さく頷いて答える。

 

「どういたしまして・・・・・・と答えた方がいいんですかね?」

 

 途中で分からなくなってしまったので聞き返したが、『それでいいんだ』まほが小さく笑いながら言い、織部も少し吹き出した。

 それで、電話は終わりだ。

 そして小梅の所に戻ると、小梅は『誰からの電話ですか?』と問いかけてきたので、織部は正直にその相手がまほだったと伝える。

 

「僕としては、特別な事は何もしていないのに、僕のおかげだって言ってくれて・・・」

「でも、私もそう思います」

「え?」

 

 小梅の『そう思う』とは、まほの意見に賛成するという意味だろう。当事者であるまほが言ったのならともかく、小梅までそう言うとは思わなかった。単なるリップサービスか、それともちゃんとした理由があるのか。

 

「春貴さんが、真摯に西住隊長に向き合っていたから、西住隊長は春貴さんに全部を話すことができて、そしてみほさんに謝りたいって思うようになったんだと思います」

「・・・・・・・・・・・・」

「そう思えなかったら、西住隊長も恐らくみほさんとは本当の意味では仲直りはできなかったと、私はそう思います」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅が真っ直ぐな瞳で織部の事を見ている。つまりは織部のおかげでもあると、小梅の目が語っている。

 織部は、小さく頷き、小梅の言葉を素直に受け取る事にした。

 

「ありがとう・・・・・・小梅さん」

 

 自分の事を信じているからこそ、こうして小梅は織部のおかげでもあるのだと告げられる。その信頼に対して織部は、礼を告げた。

 小梅も頷くと、2人はまた走り出し、夜の遊歩道へと姿を消していった。




ハナビシソウ
科・属名:ケシ科ハナビシソウ属
学名:Eschscholzia californica
和名:花菱草
別名:カリフォルニアポピー
原産地:北アメリカ西部
花言葉:和解、希望、成功、富、希望の持てる愛


次回の話は、少し時間が飛びます。
ご注意ください。
感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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(ジンジャー)

書きたいことがいろいろあったので、
少し投下が遅れてしまい、さらに話自体が長くなってしまいました。
申し訳ございません。

色々と踏み込んだ内容となってしまいましたが、
ゆっくりと生温かい目で読んでいただければ幸いです。


 最寄りの駅からバスに揺られる事十数分。織部と小梅が降りたのは、閑静な住宅街のど真ん中にあるバス停だ。すぐそばの道路を走る車の音を除けば、夏にしては涼しい風に揺られてざわめく街路樹の葉の音ぐらいしか聞こえない。

 訪れた事のない、初めての地で織部は困惑と不安に駆られるが、小梅が『こっちです』と勝手知ったる様子で歩を進める。もちろん小梅は、それが当たり前であるかのように、当然であるかのように、織部と手を繋いでいた。

 交差点をいくつか曲がり、やがて『赤星』という表札が掲げられた1軒の家の前で小梅が足を止める。その家は何の変哲もない、ごく普通のデザインの家だが、織部の実家よりも少し大きめだ。

 こここそが、小梅の実家なのだ。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 無意識につばを飲み込む織部。

 なぜこんなところにと問われれば、今日こそが、織部が小梅の両親との挨拶をする日だからだ。

 夏休みがおよそ半分を過ぎて戦車道の訓練が休みとなり、隊員たちはこの期間の間に遊んだり夏休みの宿題を進めたりして過ごす。

 だが織部と小梅は、この期間に差し掛かるまでの間に宿題をほぼ全て終えて、戦車隊の訓練が無いこの時、この日のために心の準備をしてきたのだ。

 だが、どれだけ準備はしてきたと思っていても、どこかしらにおかしなところがあるのではないかと織部は不安になっている。服は失礼のないように、スーツとまではいかないが小梅との最初のデートでも着た、手持ちの中で一番いい服。手には、ここに来るまでの間に買っておいた菓子折り。

 それに昨日も、ここに来るまでの道中でも、小梅はこう言っていた。

 

『そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ。私の両親は春貴さんに会いたがってますし、悪くは思っていないみたいですから』

 

 そう言われても、じゃあ気兼ねなく行ける、緊張なんて感じない、と言えるほど図太い精神を織部は持ち合わせてはいない。小梅がそう言っていても、小梅の両親が本当にそう思っているかは結局は分からないので、昨日の夜は不安と心配でろくすっぽ寝ることができなかった。

 そして、小梅の実家を前にして織部の緊張は最高潮を迎えており、身体の中の臓器や血管までもが小刻みに震えているような感覚に陥っている。

 小梅の両親に認められないのなら、認められる男になるまでだと思い自負していたのに、いざその場を前にするとこうも平静でいられなくなってしまうとは。もしその言葉を言う機会になったら、果たしてちゃんと舌が回ってそう言えるのかどうかも疑わしい。

 緊張のあまり顔が青ざめてしまっている織部の様子に気付いたのか、小梅が織部の手を強く握る。

 

「大丈夫です」

 

 その声に、織部は小梅の方を向く。小梅は、安心させるように織部の手を握っていて、そしてその顔は笑っていた。

 

「何があっても、私は、春貴さんの味方ですから」

 

 それは、例え小梅の両親が反対する事になろうとも、小梅は織部の傍にずっといて、織部と結ばれる将来を信じているのだろう。

 小梅はもう、疑わずに未来を見据えている。そして織部の事を、そこまで好いていてくれている。

 これを男冥利に尽きると言うかどうかは分からないが、今自分が不安定では小梅を不安にさせてしまうし、本当にその未来が閉ざされてしまうかもしれない。

 そうなる前に、まずは自分がしっかりしなければ、と織部は自分を奮い立たせる。一度深呼吸をして、小梅を見る。もう、顔は青ざめてはいない。

 

「・・・・・・もう大丈夫。ありがとう、小梅さん」

 

 その織部の言葉を聞き、織部が頷いて、表情に笑みを戻したのを見て、小梅はインターホンを押した。

 

 

 彼氏・彼女が相手の両親へ挨拶に行くのは、険悪とまではいわずとも緊迫した雰囲気になるのが、織部には容易に想像できた。ごくたまに見るドラマや、よく読む小説でも、和気藹々とした雰囲気は見受けられない。

 そして、相手の両親から色々と質問攻めにされて、重箱の隅を楊枝でほじくるかのように問い詰められる事だって、少なからずあるだろう。

 もちろん織部も、そうなる事態はあらかじめ予想していたし、交際及び結婚を認めてもらうのもそんなに甘くはない、決して簡単な道程ではないという事だって覚悟の上だ。

 だからこれから織部自身が小梅の両親と話をする際も、そんな一時も気が抜けないような感じになってしまうのだろうと思った。せめて、話している最中に、緊張のあまり胃に穴が開くなんてことが起きないように祈るぐらいだ。

 けれど。

 

「君が・・・織部春貴君、だね?」

「は、はい」

「遠いところよく来てくれたね。歓迎するよ」

「ど、どうも・・・」

 

 畳張りの居間に通され、テーブルを挟み織部と、小梅の父親が対面して正座で座る。小梅は織部の隣に座り、織部と自らの父の挨拶を微笑ましく見ている。テーブルの上には、織部の買ってきたお茶菓子が用意されているが、織部は口も付けないし、気が抜けなくて付けられない。

 一見、小梅の父は織部に対して不快な、もしくは疑うような態度を見せてはいないように見える。むしろその逆で、織部に対して実に友好的に接してきてくれている。

話すうえでは小梅の父の顔を見なければならないが、その表情は柔和で、どこかしら小梅に似ているところがあった。

 

「飲み物は、麦茶でよかったかしら?」

「あ、どうも・・・お気になさらず・・・」

「いえいえ、そんな畏まらなくていいんですよ」

 

 木のソーサーと氷の入った麦茶のコップを織部と小梅、そして小梅の父の前に置くのは、小梅の母だ。少し癖のある赤みがかった茶髪は、やはり小梅に似ていると思った。面白いほどに小梅は、父と母の特徴を受け継いでいる。

 さて、小梅の母が小梅の向かい側に座った事で、織部と、小梅の家族全員が一堂に会し、本当の“挨拶”が始まることとなった。

 小梅の父は友好的な態度で接してくれたし、小梅の母も一見すると織部を敵視しているようには見えない。

 だがそれで緊張がほぐれるかと言うとそんなはずはなく、むしろその逆で自分の事を内心ではどう思っているのか、織部は不安で仕方が無かった。

 家族が揃ったので、織部は改めて自己紹介をする事にした。

 

「・・・初めまして。小梅さんと、お付き合いをさせていただいております、織部春貴と申します。よろしくお願いします」

 

 お辞儀をすると、小梅の両親も『ご丁寧にどうも』とお辞儀を返す。織部の中にある語彙力を駆使してできるだけ丁寧にあいさつをするが、変なところはなかったようだ。

 

「小梅から、大体の話は聞きました。しかし、黒森峰で彼氏ができたと聞いた時は、とても驚きましたよ。それに、その先のことまで考えていると聞いて・・・」

 

 小梅の母が織部の方を見ながら苦笑したように言う。確かに、黒森峰は知っての通り女子校だ。そして学園艦という限られた土地にあるのだから、共学でもない限りは同年代の男性は基本的にいないと言っていい。そこで彼氏ができたと聞いて、驚かないはずはない。

 

「小梅は、君は戦車道の勉強をするために黒森峰に来た、と説明していた。だけど改めて、君の口からその経緯を聞きたい。話してもらえるかな?」

 

 小梅の父が織部に問う。やはり、織部の黒森峰に来た経歴は普通の人が聞けば変な事だろう。女子校に男子が留学するのは普通は考えられない。

 織部もそれは聞かれることは分かっていたので、話す準備はできていた。だが、自分が中学生の頃、何をされたのかを話すかどうかは、まだ決めあぐねていた。こんな話をしても同情を誘うようで卑怯と思えるし、暗い話題を出して空気を悪くしたくはない。

 かといって嘘をついて隠し通すのも少し後ろめたい。

 どうしたものかと悩むが、先に小梅の母が話しかけてきた。

 

「小梅が言っていたんです。織部さんは、ずっと小梅の事を支えてくれたって。小梅と同じように、織部さんも傷ついていて、だから支えてくれるんだって」

「そう。だから僕たちは、小梅をここまで元気づけてくれた君の過去を知りたい。もちろん、話せない事があるのならそれでもいい」

 

 小梅の父も、母に同調する。

 どうやら小梅は、織部が過去に受けた事を、はっきりとではないが両親に伝えている。という事は、小梅の両親も織部が過去に何かをされて心に傷を負った事に、恐らく気付いている。

 ならば、隠し通す事はいよいよもって難しくなるだろう。それに隠し通せたとしても、小梅の両親の心に疑問を残す事になってしまう。

 だったらもう話してしまった方が、小梅の両親の胸のつかえを無くすことができる。

 

「・・・・・・分かりました。話します」

 

 順を追って、織部は全て話した。

 中学の頃に織部はいじめを受けて学校に通えず、そこで織部は黒森峰の戦車道を見て、戦車道の世界に引き込まれた。何度か試合を観ているうちに、戦車道連盟の理事長と知り合って、連盟本部を見学したり、理事長と話をしたりして、将来戦車道連盟に就く事を決意した。

 そのためには戦車道の勉強をする必要があり、強豪校での教養を積むために織部は黒森峰に短期留学することとなった。

 戦車道の強豪校には、共学のサンダースやプラウダ等があるはずなのに、なぜ女子校の黒森峰に留学となったのか。それは、織部が黒森峰の戦車の戦いを見て自分を変えたから、という連盟の気遣いもある。

 

「「・・・・・・・・・・・・」」

 

 そこまで話して、織部は一度小梅の両親の顔を見る。案の定、2人とも苦い表情を浮かべていた。

 それは織部がいじめられていたという事実を聞いたから、だと思われる。いや、そうに違いない。一応、どんな仕打ちを受けていたのか詳細は言わなかったが、それでも他人からすれば十分に重い過去だったようだ。

 人が虐げられる様と言うものは、文章で見るだけでも、言葉で聞くだけでも、反吐が出そうになるものだ。ましてやそれが、当事者(被害者)の口から語られるとなれば、その過去の重さや辛さは笑い事では済まされないし、聞き流せるほど軽いものではない。

 

「・・・そうでしたか。そんな事が・・・」

 

 そう呟く小梅の母の言葉は重々しかった。織部の詳細を知っても、どうコメントすればいいのか分からないのだろう。それは別に責められないし、責められる立場に織部はない。

 一方で小梅の父は、大きく頷いて織部の顔を見据える。

 

「そして君は、黒森峰に留学して、小梅に出会ったと」

「はい」

 

 それから織部は、小梅との馴れ初め、そして今日までの経緯を話し出す。

 最初に小梅に出会ったのは新学期が始まる前の3月の春休み。黒森峰学園艦にある公園の、桜の木の下で小梅が泣いていたいのに織部は偶然気付き、そして声をかけたのがきっかけだ。

 その時織部は、泣いている小梅を見て放っておくことができなかった。まず、泣いている女の子を見て見ぬふりして素通りするほど織部も薄情ではなかったし、実際慰めて少しばかり言葉を交わして、昔の自分のように心に“何か”が突き刺さっているのだと気付いた。

 だがその時は深い事は聞けず、一度別れてしまった。小梅も、自分の気持ちに折り合いがついていなかったし、初対面の織部に対して不信感を抱いていたので多くを話す事はできなかった。

 だが新学期で2人は再会を果たし、少しずつ打ち解けていき、やがて小梅は織部に自分の過去何があったのか、最初に出会った公園でどうして泣いていたのかを話した。

 

「小梅さんは、絶望に近い状況にいるのに、黒森峰に居続ける理由を、教えてくれました。試合で小梅さんの事を助けてくれた西住みほという人の行動が、間違っていなかったことを証明するために、小梅さんはどれだけ矢面に立たされても非難を浴びても、黒森峰に残っているんだと」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅の両親は大きく頷く。小梅は、少しだけだが笑っていた。

 

「そんな強い意志を持つ小梅さんを、僕は尊敬せずにはいられませんでした。小梅さんは、心が強くて、それで強い信念を抱いているんだと、気づきました」

 

 そして、自分が責められるのが怖くてみほを庇えず後悔していた小梅に、織部は激しく同意した。自分もまたいじめられていて、周りの人間がいじめに巻き込まれたくないからと敬遠されていたのを覚えていたから、小梅の言っていることも、気持ちも全部が分かった。

 やっとできた、織部という数少ない繋がりを断ち切るまいと必死にあがくその気持ちも、織部には痛いほど理解できた。

 そして小梅の過去の話を聞いてもなお、織部は小梅から離れる事も、嫌いになる事も無かった。

 

「・・・春貴さんは、言ってくれたの。『自分が辛い環境にいるのに信念を持って今を耐える事は、誰にでもできる事じゃない、すごい事だ』って」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅に、織部が実際に言った言葉を言われて織部も少し恥ずかしくなる。

 

「そして春貴さんは、『そんな人を責められるはずが、嫌いになるはずがない、ずっとそばにいる』って、言ってくれた」

 

 そこで、小梅の両親は笑ってくれた。先ほどまでの織部の話を聞いていた時とは、正反対の表情だ。

 だが、小梅の言葉を思い返してみると、織部も少し恥ずかしくなる。まだ小梅とそこまで親しくなかった間柄だったのに、随分と踏み込み、かっこつけた言葉を言ってしまったものだと思う。

 けれど、結果的には本当にずっとそばにいる事になるのかもしれなかった。

 

「小梅さんが強い信念を持って今を懸命に生きているのを傍で見てきて、そして小梅さんが本当はとても心優しい性格をしているのに気づかされて・・・。そして何より、悲しい表情ばかりを見せていた小梅さんが見せてくれた笑顔が、とてもきれいで、可愛くて・・・・・・それで、僕は小梅さんの事が好きになりました」

 

 織部も、ここまで小梅の事を良く言ったことはない。小梅も、初めて自分がここまで言われたので、恥ずかし気に手をもじもじとする。

 

「・・・・・・小梅さんの気持ちが分かる、何て言ったけれど・・・。小梅さんの受けた仕打ちに比べれば、僕の受けたいじめなんて大したことじゃ・・・」

「いや、そうは思わない」

 

 そこで、小梅の父が否定してきた。織部もハッと顔を上げる。

 

「人が傷つけられることに、大きいも小さいもない。織部君は、心を傷つけられる痛みを知っていたから、小梅の気持ちを理解して、小梅の話を聞くことができて、小梅の事を褒めることができたんだと、僕は思う」

「・・・そうね、確かにその通りよ。それこそ誰にでもできる事じゃない、同じように過去に心に傷を負っていた織部君だからこそ、できる事だったんだと私は思うわ」

 

 小梅の両親に諭されて、織部も押し黙る。

 今度は小梅の父が、少し申し訳なさそうな表情を小梅に向けた。

 

「小梅の黒森峰での事情は、あらかたですが電話で聞いていました。どんな状況にあって、自分はどんな気持ちでいるのかを」

 

 恐らく小梅は、最初は全部自分1人で何とかしようと背負い込んでいたのだろう。だが、周りからの敵意やプレッシャー、自らの中で膨れ上がる罪悪感などに耐え切れず、小梅は親へと電話をしたのだろう。その心を押し潰すかのような大きな暗い感情を吐き出すかのように。

 

「本当は、親である僕たちが小梅のところまで行き、直接話を聞いて慰めればよかった・・・。けれど、両親として恥ずかしい話・・・・・・僕らは働いていて、時間が作れなかった」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 悲痛な顔をする小梅の両親。確かに働いている身であれば、学園艦と言う海の上を常に移動し続けている場所まで行く時間を作るのは難しい。

 

「・・・だから僕たちは、ただ小梅に『そこまで辛いのなら辞めてもいい。逃げてもいいんだ』と、逃げ道を作る事しかできず、小梅に向き合って話をすることができなかった・・・」

「・・・・・・私たちでは、小梅を助けることができなかった。小梅が心に負った傷を、癒す事ができなかった」

 

 2人とも、後悔しているという思いが言葉に滲み出ているぐらい、辛そうな口調で話をしていた。

 

「だから、織部・・・いや、春貴君」

「?」

 

「僕ら親にはできなかった、小梅に真摯に向き合って、小梅の心を癒し、そして昔のように笑うまでに小梅を立ち直らせた君には、本当に感謝をしているし、そして何より君を信じている」

「・・・・・・・・・・・・」

「君なら・・・・・・小梅を幸せにしてやれると」

 

 そう告げる小梅の父は、僅かに笑っていた。そして、織部は小梅の父の言葉の“本当の意味”を、理解した。

 だから織部は、いっそう引き締まった表情をする。

 そして小梅の母は、小梅の方を見た。

 

「・・・小梅」

「・・・・・・うん」

「あなたは、春貴さんの事をどう思っているの?」

 

 そう聞かれた小梅は、最初からその質問を待っていたと言わんばかりに、淀みなく答える。

 

「春貴さんは、辛い過去を経験して人を信じられなかった私の事を心配して、私の過去を聞いても私の傍にいると言ってくれたのが、とても嬉しかった・・・」

 

 織部と、小梅の両親は、静かに小梅の言葉を聞く。

 

「迷惑だったかもしれないのに、私が弱音を吐いたりしても春貴さんは優しく、誠意をもって私と向き合ってくれた。私の傍で、私を支えてくれた」

 

 そこで言葉を切り、スッと息を小さく吸い込んで、自分の嘘偽りない正直な気持ちを告白した。

 

「だから、私は・・・優しくて、誠実な春貴さんの事が、大好き・・・・・・ううん、愛してる」

 

 愛してる、とまで言われたのも織部は初めてだ。気恥ずかしい言葉を告げられて、織部も頭がかゆくなる。頬が赤くなっていくのが鏡を見なくても、顔が熱くなるので分かる。

 小梅の両親は、小梅の言葉を聞くと、顔を見合わせてうんと頷いた。

 そして、2人は織部の事をじっと見据える。

 

「・・・・・・春貴君」

「・・・はい」

 

 心臓が高鳴る。口を固くつぐむ。脚の上に置く己の手を強く握りしめる。手汗がにじみ出て、ズボンの手を置いている辺りが少し湿ったが、構うものか。

 今、織部が集中するべきは、小梅の両親から告げられる次の言葉だ。この緊張感は、人生で一度も経験した事が無いものだ。

高校入試の合否発表なんて目じゃないぐらいだった。

 小梅から告白を受けた日、エリカに詰問された時とはまた違う緊張感。

 黒森峰に留学してから少し経ち、しほと2人だけで監視用高台にいた時とも違う緊張感。

 人生で一度も経験したことはないぐらい強く、大きい緊張感だ。

 いつまでもこんな気持ちに苛まれていては、織部の心は押し潰され、砕け散ってしまうだろう。

 そして、織部の緊張がピークを迎えたところで、ついに小梅の父が口を開いた。

 

 

「・・・・・・どうか、小梅をよろしくお願いします」

「小梅を、幸せにしてやってください」

 

 

 小梅の父がそう告げると頭を下げ、小梅の母も続き、同じように頭を下げる。

その言葉はすなわち、織部が認められたという事だ。

 小梅と将来添い遂げる事が、許された、認めらたという事だった。

 

「・・・・・・はい・・・っ!」

 

 嬉しさと、緊張から解放された事で、涙腺が少し緩んでしまい、涙がにじみ出てしまうが、それでも強い意志を込めた返事を返す。そして、自分の中にある感謝の気持ちを勢いの良いお辞儀で返した。

 織部の隣に座る小梅は、嬉しさが抑えきれずに、微笑みながら涙を流していた。今すぐにでも織部に抱き付きたかったのだが、親の前でそれは恥ずかしすぎる。後で、2人きりになった時に、この思いを織部に伝えたい。言葉では伝えきれない嬉しさを、織部に示したい。

 だから今は、とめどなく流れる涙を拭うだけに留めておいた。

 だけど、その涙はこれまでに流したどの涙とも違うぐらい、温かくて、それでいて、泣いていてとても心地がよかった。

 嬉しかったから、だという事は分かりきっている。

 

 

 

「医者・・・ですか・・・また、すごい職業ですね・・・」

「いやいや、そこまで大それたものじゃあないよ」

 

 織部と小梅、2人の交際と婚約が認められた後は、これまでの張りつめた緊迫感などつゆほど感じさせないように、4人でおしゃべりをすることとなった。緊張のあまり口の中の水分が飛んでいたので、織部は氷が溶けて少し薄くなった麦茶を飲む。

 聞けば、小梅の父は医者であり、市内の大きな病院に勤めているようで、受け持つのは消化器内科だと言う。織部が、ストレスで胃を痛めやすい性質なのでもしかしたらお世話になるかもしれない、と冗談めかしに言うと一同は笑った。

 小梅の母は税理士で、両親ともに今なおバリバリ働く現役だった。凄い血筋に小梅は生まれたのだなと、一介のサラリーマン家庭出身の織部はそう思わざるを得なかった。

 医者と税理士と言う、一見何のつながりも無いような職業の2人がどうして結婚したのかそれが気になったが、アプローチを仕掛けたのは母の方からだったと言う。仕事柄、ストレスを溜めやすく胃に不調をきたした際、まだ研修医だった今の小梅の父と出会い、真摯な対応と優しい雰囲気に惹かれたらしい。そして交際を経て結婚したという。

 中々にロマンチックな出会いだなぁと、織部は思ったし、この馴れ初めを初めて聞いたという小梅も同じようなことを思った。

 そんな2人は共働きで忙しい身ではあっても、小梅が中学に進学して学園艦で1人暮らしをするまでの間は、精いっぱいできる限りの愛情をこめて小梅を育てたという。

 そして小梅の両親は、将来織部が戦車道連盟に就くことができるように応援すると、言ってくれた。そう言われては、織部もいよいよ決意を固めなくてはならない。いや、既にその決意は固まっているし、後戻りをするつもりも無いのだが、それでも改めて絶対その夢を実現させると決意した。

 そんな中で、織部はふと、庭に1本の木が生えているのに気づく。その木は花も葉も落ちてしまっていたが、枝の感じからして何の木かは分かった。

 

「すみません。あれは・・・・・・梅の木ですか?」

「ん?ああ、その通りだ。小梅の名前の由来にもなった木だよ」

「え?それ初耳だよ・・・父さん?」

 

 どうやら、あの梅の木が小梅の名のルーツというのは小梅も初耳だったようで、身を乗り出し、困惑したように聞いた。

 そこで小梅の父は、改めて話す事にした。

 

「小梅が生まれるずっと前から、あの梅の木はウチに生えていたんだ。それで、少し調べてみたら、梅の花言葉は多くあり、『約束を守る』や『忠実』、『澄んだ心』など色々、それもいい花言葉ばかりだった」

「・・・・・・そうだったんだ・・・」

 

 小梅が納得したようにうなずく。

 

「それで思ったんだ。生まれてくる子供も、その花言葉にあやかって優しい心を持って育ってほしいと。それで子供の名前には、『梅』という字をつける事に決めた」

「・・・・・・」

「そしてあなたが生まれて、女の子だから、小さな梅の花のように可愛らしく育ってほしいと願い、“小梅”という名前にしたのよ」

 

 感慨深そうに小梅の父が頷き、小梅の母もにっこりと笑っている。どうやら、小梅の名を決めたのは父の方だったようだ。そして、小梅がその花言葉の通りの正確に成長してくれたのを、今改めて実感し喜んでいるだろう。

 小梅も、そこまで自分の事を思ってそう名付けたのだと知って、嬉しいという気持ちが込み上げてくる。

 織部だって、小梅の両親の思い、願いは、しっかりと小梅の中に根付いていると思わずにはいられなかった。

 

 

 気づけばあっという間に夕食の時間になり、花嫁修業という事で小梅と、そのアシストで小梅の母がキッチンに行った。自炊している身だしただ待っているのも気まずいので、織部も手伝うと具申したが、小梅と小梅の母から『ゆっくりしていていいのよ』とやんわりと断られ、今は小梅の父と共に居間でテレビを鑑賞しながら待っている。

 やがて、どこか懐かしさを感じるようなにおいが漂ってきて振り返ってみれば、エプロン姿の小梅が大きなお皿を台所から持ってきて、それをテーブルの上に置いた。ちらっと見てみれば、それはやはり肉じゃがだった。

 そしてそんな事より、食器を運ぶぐらいのことはするべきだと織部が脳で考える前に行動に移す。小梅の母から『気を遣わなくていいのに』と言ってきたが、織部は『いえいえ』と笑いながらせっせと食器を運ぶ。

 やがて全ての料理がテーブルに載り、4人全員で食卓を囲み、『いただきます』と告げて、まずはみそ汁を一口。

 

「美味しいです」

「ありがとう」

 

 どうやらこのみそ汁は小梅の母が作ったもののようだ。そして、メインディッシュの肉じゃがを取り皿に盛り付けて、食べる。

 まず第一に、美味いと感じた。

 その次に、懐かしさを覚えた。

 

「・・・・・・作ったの、小梅さん?」

「あ、はい」

 

 聞いてみると、小梅は頷いてくれた。そして驚いたように、小梅の父と母は織部の方を見た。

 

「小梅が作ったって、どうして分かったの?」

「あー・・・何度か食べた事があって、それでなんとなくそうかなって思いました」

「ほう」

 

 なぜ小梅が作ったと分かったのか小梅の母が聞いて、織部は何度か食べて小梅の肉じゃがの味を覚えたと言う。それに真っ先に反応したのは小梅の父だ。

 

「小梅の料理を食べた事があったんだね?」

「ええ・・・試験勉強中に、小梅さんにドイツ語を教わった時とかで・・・美味しかったです」

 

 織部の言葉に、小梅の両親はふっと小さく笑う。

 

「先に胃袋を掴んだとは、小梅・・・やるじゃないか」

「若いっていいわねぇ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 親に茶化されて小梅が顔を真っ赤にして俯いてしまう。だが、胃袋を掴んだという表現はあながち間違ってはいないし恥ずかしがる小梅も可愛いので、織部は訂正もしないし、助け舟も出さない。

 和やかな雰囲気のまま夕食の時間は進み、そろそろ全員が食べ終わる頃合いになったところで、小梅の母が織部に話しかけてきた。

 

「泊っていくんでしょう?」

「はい・・・・・・小梅さんからは3泊、と聞いていたんですが・・・本当によろしいんですか?」

 

 小梅の両親と話をする事が決まった際、泊りがけになるという事は聞いていたので、一応それなりの準備はしてきたが、それでも泊るというのは少し緊張するし遠慮も覚える。

 

「良いんですよ、もっと春貴さんと話をしたいですし」

「それに明後日は、近くの神社でお祭りもある。良かったら2人で行ってくるといい」

「・・・・・・では、短い間ですが・・・お世話になります」

 

 織部がお辞儀をして、小梅の両親も笑う。

 そして全員が食べ終わると、今度は流石に織部も食器の片づけを手伝い、さらに小梅の父も手伝った。

 その後は皆で緑茶で一息つく。そこで、小梅の父が話題を切り出してきた。

 

「春貴君のご家族の所にも行くのかい?」

「ええ。ここをお暇する明々後日に、そのままウチの実家へ行こうと思います」

 

 その質問に答えるのは織部。織部の実家へ小梅を連れて行くのは、この小梅の実家から帰る日と同じと織部の実家には伝えてある。

 

「僕らはもう、春貴君と小梅が結ばれるように応援する。もし、春貴君のご家族が2人の婚約に反対するようなら、僕らも2人に加勢するよ」

「・・・・・・ありがとうございます」

 

 小梅の父が、小梅の母と共に織部と小梅の応援をしてくれる。それはありがたい事なのだが、夏休み前の小梅と織部の母の電話を聞く限り、そこまで悪い気持ちを抱いてはいないと思うので、その心配も必要ない、とは思いたい。

 そこで、小梅の母がドアを開けて顔を出してきた。

 

「お風呂湧いたけど、春貴君先に入る?」

「いえ・・・僕は一番最後で大丈夫です」

 

 認められても、一番風呂を貰うまでにはまだ織部も気が緩んではいない。一家の大黒柱であろう小梅の父を差し置いて、というのは流石に烏滸がましいし、申し訳ない。

 

「じゃあ小梅先に入る?」

「私も後でいいよ」

 

 小梅も一番風呂を辞退する。となると、先に入るのは小梅の父と母のどちらかだろうと織部は思う。別に自分はいつ入っても構わないし、むしろまだ赤星家の人間ではないので一番最後だろうと適当に考えながら、緑茶を啜る。

 と、そこで小梅の父が。

 

「何なら春貴君と小梅の2人で入ったらどう?」

 

 超ド級の爆弾発言を落とした。

 気管に緑茶が入り込み盛大に咽て咳き込む織部。ゆでだこのように顔が真っ赤になる小梅。

 小梅の父は『あ、冗談だから。本気にしないでいいから』と取り繕うように言ったが、小梅の母から見れば、悪気は本当にないのだろうが、あまりにも2人が動揺しすぎているので“冗談”と称して、半ば本気で言っていたようにしか思えない。

 2人が落ち着いたところで、風呂の順番は小梅の父→織部→小梅の母→小梅と決まり、織部と小梅に動揺という名の最大級の被害をもたらした爆弾低気圧の中心たる小梅の父はそそくさと風呂場へ消えてしまった。

 

 

 一番最後に風呂に入ることとなった小梅だが、現在一糸まとわぬ姿で湯船につかっている。

 既に前に3人入っているので、少し風呂の温度がぬるくなってしまっていたが、それでも十分心地良い温かさだ。追い炊きをするまでもない。

 さて、風呂に入る前は父親の冗談とは思えないような発言に、織部ともどもひどく動揺したが、少し時間を置いたところで風呂に入って身も心もきれいに洗ったので、今では少し落ち着いて―――

 

「~~~~~~~~~!!!」

 

 いなかった。むしろその逆だ。頭の中がごちゃごちゃになるぐらい、動揺していた。

 父が変なことを言ってしまった上に、今こうして実際に風呂に入って余計困惑してしまっている。

 その理由としては、織部が自分よりも前にこの風呂に入ったからだ。もちろんお湯を張り替えてはいないので、かなり強引で飛躍した解釈をすれば、織部と小梅は間接的に一緒に風呂に入った事になる。

 そう考えなければいいものなのに、小梅と織部の交際と婚約が正式に認められた事と、父の自称冗談なぶっ飛んだ発言のせいで意識せざるを得なくなってしまっている。

 

(父さんの・・・バカ・・・!)

 

 気持ちを落ち着かせようと、小梅は頭ごと湯船に身体を沈ませ、目を固く閉じる事にした。

 

 

 風呂上がりの小梅の姿を見て、織部も呆然とその姿にしばし見惚れてしまった。

 風呂上がりで髪が少し湿気っていて、頬も少し紅くなっている、淡い色のパジャマを着る小梅は、どこか可愛らしさと色っぽさを併せ持っているような気がした。

 けれど、まだ先ほどの小梅の父の発言が尾を引いていて、上手く顔を合わせることができない。ちなみに織部の寝間着だが、普通にTシャツとスウェットだ。

 さて、と言いながら全ての元凶の小梅の父は椅子から立ち上がり、壁に掛けられている時計を見る。

 

「2人とも、今日は移動で疲れているだろうしそろそろ休んだ方がいいよ」

 

 確かに小梅の父の言う通り、今日は朝から移動を続けていて、この小梅の実家に着いたのも昼過ぎだった。だから正直、長時間の移動で疲れてはいる。それに両親との話し合いで織部は小梅以上に緊張し、精神的に疲れていた。

 

「・・・うん、そうする」

 

 小梅も疲れているのか、父の意見に従う。織部も少し肩を回して、あくびを1つして気になる事を聞いた。

 

「僕は何処で寝ればいいですかね?空いてる部屋があればそこで構いませんけど・・・」

 

 部屋を出ようとした小梅の動きが止まる。時計を見上げていた小梅の父が織部の方を見る。台所で食器を片付けていた小梅の母が織部の方を見る。

 場の空気が一瞬で変わったのに織部は気付き、織部の頭の中に嫌な予感がよぎる。織部の人生およそ16年間で養われてきた勘が警鐘を鳴らす。

 そして小梅の父が、何をおかしなことをとでも言いたげな表情で織部を見て、決定的な言葉を告げた。

 

「小梅と一緒に寝るといいさ」

 

 それ見た事か。

 織部はその答えをある程度予想していたし、そもそも婚約が認められた時点で予想できたことだ。

 肝心の小梅だが、案の定困惑しきっている。顔なんて風呂上がりにしては赤いし、手は口元に添えられている。無理もない事だろう。先ほどの(織部には本気か冗談かは判別できないが)一緒に風呂に入るという提案よりは幾分マシとはいえ、それでもハードルが高すぎる事だ。

 織部自身心の準備ができていないのと、小梅が明らかに冷静ではないので、言葉には出さず目と表情だけで『それはちょっと・・・』と伝えるが、小梅の両親は笑って織部の事を見ているだけだ。一切表情を崩さないので、困惑を通り越して恐怖に変わる。

 それだけ小梅の父と母は、織部の事を認めているという事だし、織部なら『大丈夫』と信じているという事だ。それは、織部にもハッキリではないが分かる。

 

「・・・春貴さん」

 

 そこで、後ろから声をかけられた。件の小梅だ。

 もしかしたら『ギギギ・・・』という音でも出そうなぐらい、人形みたいにゆっくりと首を回し、小梅の方を見る。小梅はもう、覚悟を決めたというように真っ直ぐな瞳だ。顔はまだ赤いが、それを除けばその顔はさながら、戦車に乗っている時と同じような表情だ。

 

「・・・もし、春貴さんが良ければ・・・・・・一緒に・・・その・・・・・・」

 

 どうやら、『一緒に寝ましょう』と言うのは少し憚られるようで、最後の方はもごもごと口ごもってしまう。

 ここまで女の子に言わせるのも男として情けない事なので、織部も腹を決めて頷いた。

 

「・・・・・・分かった。一緒に寝よう」

 

 

 

 小梅の先導で、織部は小梅の部屋に通された。黒森峰とは違う、ここが本当の小梅の部屋だ。それだけで緊張感が5割増しだし、ましてや一つ屋根の下で一緒に寝るとなるとこれまでとはまるで全然勝手が違う。

 ドアを開けて、小梅が部屋の電気を点けると、部屋が白色LED電灯で照らされる。

 黒森峰の部屋と同様、明るいパステルカラーが目立ち、実に女の子らしいという感じの色合いだ。ホコリやちりも無いし、小梅がいない間も掃除がきちんとされていたというのが分かる。

 違うところといえば、部屋の広さもそうだし、そこそこ大きい本棚があることぐらいか。その本棚には多くの本が収められていて、有名な絵本や小説などがある。恐らく、中学校で学園艦暮らしが始まる前の小学生ぐらいまでで小梅が興味を持った本なのだろう。

 

「ちょっと・・・恥ずかしいですね・・・」

 

 黒森峰では何度か織部がお邪魔しているのであまり気にならなかったのかもしれないが、実家の自分の部屋に家族以外の男を迎え入れるのは初めてだったようで、少し恥ずかしそうだ。

 そして部屋に先んじて入った小梅が、真っ先に学習机の上に置かれていた写真立てを伏せる。恐らく、小梅の幼少期もしくは黒森峰にくる以前に撮った写真なのだろう。

 見られると恥ずかしいから見せたくない、という気持ちは分かる。織部だって、過去の自分が写っている写真を見るのは、自分でも恥ずかしいものだ。小学校や中学の卒業アルバムだって、ろくに開いた事も無い。そして何より自分の写る写真を他人に見せたことだってない。

 だから、幼少の小梅はどんな感じなのかという好奇心はそっと胸に仕舞い、写真立てはスルーした。

 そして小梅は、部屋のベッド―――どう見てもシングルサイズ―――に腰かける。織部もただ突っ立っているわけにはいかないので、致し方なく小梅の横に座る。

 

「「・・・・・・・・・・・・」」

 

 そしてお互い、何も話すことができなくなってしまった。

 これから2人は、一緒に寝る。付き合い始めてから3カ月近くが経過するが、一緒に寝た事など一度たりともない。それは絶対1人で寝る時とは感覚は違うし、2人だけでデートをする時ともまた違う感じになるというのは流石に分かる。

 ちらっと織部は、今自分が腰掛けているベッドを見る。学園艦の小梅の部屋で見たベッドと比べると少し大きいが、それでもシングルサイズのこのベッドは、どう見積もっても2人で寝るには狭い。

とすれば必然的に、織部と小梅は身体をくっつけて寝なければなるまい。

 それが嬉しいかどうかと聞かれれば、織部は嬉しいと答えられる自信がある。だが、そう思っているのは織部だけで、小梅は不安だ、心配だと思っているのではないだろうか?そんな疑念を感じてやまなかった。

 男と一緒に寝るなんて小梅だって初めてだろうし、だからこそ、“何か”されたらと不安を募らせているのかもしれない。

 男の織部ですら委縮しきっているのだから、小梅が緊張しないはずはない。

 やっぱり別の部屋を用意してもらった方がいいかもしれない、その方がお互いのためだ。という考えが頭をもたげたところで。

 

「は、春貴さんっ」

 

 小梅が話しかけてきた。だがその語調には焦りが見え、緊張を隠せていない。織部も一旦思考を切り離して小梅の方を見る。

 

「ね、寝ましょうか」

 

 小梅が織部の手に、自分の手をそっと重ねて問いかけてくる。先ほど見せた、覚悟を決めた時と同様に、小梅は色々と思うところがあるだろうにこうして勇気を振り絞り、そして織部を信じて一緒に寝るように促してくる。

 そこまでされると、別々で寝るという選択肢が雲散霧消し、織部も踏ん切りがつく。

 

「・・・うん」

 

 まず先に小梅が布団に入り、そして織部が『失礼します・・・』と言いながら同じ布団に入る。そして電気を消せば、もうほとんど視界は奪われたも同然だ。

 だが、やはりベッドがシングルなので2人並んで仰向けに寝ると言うのは難しく、身体を横に向けなければならない。

 だから織部は、小梅とは反対側を向き、壁に身体を向ける。小梅もまた同様に、織部と反対側を向いて背中合わせで寝転がる。だがそれでも、身体は触れてしまう。どこが当たってるとかは関係ない。

 電気を消して、一刻も早く眠りに就いてこの緊張感から早く解放されたいと願うこと10分ほど。織部は目が冴えたままだ。

 小梅はどうなのかは分からない。もう寝てしまっているのか、それともまだ起きているのか。分からないけど、もし眠っていたらと思うと『起きてる?』と聞いてみる事もできない。

 明日は寝不足確定か、と織部が諦め、せめて眠りやすいようにと目を閉じたところで、変化が起こった。

 背中越しの小梅が、寝返りを打ったのだ。もしかして寝相があまり良くないのかな?と織部が悠長なことを考えていると。

 布団の中で小梅が織部の事を背中から抱きしめてきた。

 

「・・・・・・」

 

 目を見開く。布団の中で、小梅の身体が織部と密着し、色々と当たっている。これでは眠気の“ね”の字も浮かび上がってこない。

 心臓が胸を突き破りそうなぐらい高鳴る。もしや自分は今日で人生の幕を閉じるのか、と明後日の感想を抱いていたところで、小梅が呟いた。

 

「・・・・・・ずっと、こうしたかった」

「・・・・・・?」

 

 それは寝言なのか、はたまた起きているのか。だが織部はすぐには応えられず、壁を向いたまま、小梅の言葉に耳を傾ける。

 

「私の事を好きになってくれた理由を、経緯を話して、それで私の父さんと母さんが春貴さんの事を認めてくれて・・・・・・それがとても嬉しくて・・・。私の中で、ただただ嬉しいって気持ちがどんどん大きくなっていって・・・それで、こうしたかった・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 次第に、小梅の声が涙ぐんでいるように聞こえてくる。

 

「よかった・・・・・・・・・・・・よかったぁ・・・」

 

 織部を抱くように回された小梅の腕が、きゅっと織部の身体を優しく抱く。

 自分は馬鹿だと、織部は改めて思った。

 あの時、『小梅をよろしくお願いします』と小梅の両親に言われた時、小梅は泣いていたではないか。それだけ小梅は、嬉しかったのだ。それなのに自分ときたら、ただ認められた事だけに気を取られ、“小梅と一緒になれる”という事にまで気付けなかった。

 小梅がどれだけこの事を喜んでいたか、嬉しく思っていたのかを分かってやれなかった織部は今、自分の事を恥じた。

 だから織部は、自分の腰に回された小梅の手を優しく解く。それで織部が起きていると分かり、手を解かれたのが残念だったのか、小梅は『あ・・・・・・』と少し残念そうに声を洩らす。

 そして織部もまた寝転がる身体の向きを変えて小梅に向き合い、すかさず小梅を抱き締める。背中越しではなく正面から。色々と当たっているところが多いが、もうそんなのは気にならない。

 

「・・・・・・ごめん、小梅さん」

「・・・・・・・・・・・・」

「小梅さんが、どれだけ嬉しかったのか、喜んでいたのかに気付けなくって」

 

 抱き締められる中で、織部の言葉を静かに聞く小梅。

 織部は、小梅の本当の気持ちに気付けなくて申し訳ないという気持ちと、自分の中にある大きな“喜び”の気持ちを言葉で示す。

 

「・・・・・・僕も、嬉しかった。小梅さんとずっと一緒にいられるって事が、本当に嬉しかった」

「・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・本当によかったよ」

 

 そして自分の中にある“嬉しい”“よかった”という陳腐ではあるが温かい感情を、抱き締めるという行動で表す。

 電気の落ちた暗い部屋に目が慣れてきたのか、視界が少しずつ回復していき、やがて小梅の顔が薄っすらと見えてくる。という事は恐らく、自分の顔も見られてしまっているのだろうけれど、寝る前に感じていた緊張や不安はもう感じない。織部も小梅も、それぞれ向かい合う相手が穏やかな表情を浮かべているのが分かった。

 そして小梅は目を閉じ、小梅が望んでいることにいち早く気付いた織部は同様に目を閉じて、口づけを交わす。

 伝えられなかった、表現する事のできなかった嬉しさや喜びを決して手放さず、忘れる事などないように。

それから眠りに就くまでのほんのわずかな時間の間、その唇を離す事はなかった。

 

 

 先に異変に気付いたのは織部だ。

 明け方になって、小梅の呼吸が荒くなっているのに気付き、決して8月の熱気にやられただけでは理由がつかないほどに額に汗が浮かんでいる。試しに額をくっつけてみれば、熱い。

 小梅は熱を出してしまっていたのだ。

 小梅の両親が起きてすぐ、その事を織部は伝えた。

 そしてその上で、織部は自分が看病したいと両親に訴えた。それはもう小梅とこの先共に過ごしていくのだから義務に近いものだと、織部は思っていた。その織部の気持ちに気付いたのか、小梅の両親は織部に任せる事にした。

 小梅の母からエネルギー補充用の飲料系ゼリーを渡されて、織部はそれを小梅に手渡す。吸えば飲めるタイプなので、そんなに身体は動かさなくていい。熱で身体を動かすのがだるくなっているだろうから、もってこいだ。

 解熱剤を飲ませて、冷水で絞った冷たいタオルを額に乗せて熱を冷まそうとする。そして小梅は横になると、1つだけお願いをしてきた。

 

「・・・春貴さん」

「ん?」

「・・・・・・手を・・・握ってもらってもいいですか?」

 

 断る理由はない。

 小梅がベッドからゆっくりと出した左手をそっと握ると、小梅は縋るように強く握ってきた。織部は、両手で小梅の手を包み込むように握り、無駄だと分かっていても『早く治ってほしい』と願う。

 そして、小梅は一度眠りに就いた。途中で、小梅の母が様子を見に来たが、小梅の安らかな寝顔と、織部が小梅の手を握っているのを見て小さく笑い、手がふさがっている織部に代わってタオルを交換すると、そのまま静かに部屋を出て行った。

 そして小梅は、空腹によるものなのか、昼過ぎ辺りで一度目を覚まして起き上がった。

 熱を出している場合の定番と言えばおかゆだ。それは織部でも作れるので、小梅の両親に頼んで台所を借りて、おかゆを作らせてもらった。

 ただ、おかゆは作り方はシンプルだが時間がかかるもので、出来上がった時は小梅に開口一番『遅くなってごめん』と告げる。

 小梅が上半身を起こすのを手伝い、少し眠ったのと額をぬれタオルで冷やした事で少し症状が改善したのか、血色は良くなっていたし、汗も引いていた。しかし大事を取って、織部はおかゆを小梅に食べさせる。

 とすると、当然とも言える流れで『あーん』をする事になってしまう。

 

「はい、あーん」

「・・・ぁーん・・・」

 

 こういった事は恋人なら定番なのかもしれないが、付き合ってこの方こんなことは一度もしていない。なので一番最初のシチュエーションが熱を出した時と言うのは、いささかムードに欠ける。

 しかし恥ずかしさや残念さなどは頭の片隅に放り投げる。今は、小梅が元気になれるように努めるだけだ。

 ゆっくりと時間をかけておかゆを食べ終わると、小梅は小さく息を吐く。一応、小梅のお腹を満たす事は出来たようだし、少し体調も戻ってきたようで、織部は一先ず安心した。

 食器を台所に返し、手早く洗ってから、台所と器を貸してくれた小梅の母にお礼を言って、小梅の部屋へ戻る。

 そして小梅の部屋に戻ると、熱で少し体温が上がっていたのと、温かいおかゆを食べた事も相まって少し汗をかいていた。

 熱を出して汗をかいた際はこまめに拭いておかないとパジャマがぐっしょりするし、上がった体温を下げるという意味も込めて、冷たいタオルで身体を拭くのが定石だ。

 小梅もある程度は体のだるさも抜けたので、自分で拭ける範囲は拭くことができる。だが、背中はどうしても上手く拭くのが難しく、誰かの手を借りないとならない。

 と、ここで小梅は織部の事を無言でジッと見つめる。

 まさか、“そういうこと”なのか。いやいや。

 ともあれまずは、小梅が自分で拭ける場所―――脚や身体の前側、腕などは自分でも拭けるぐらいには身体も動くので自分で拭き、そして残すは背中のみ(その間、織部は部屋の外で待っていた)。

 そこで織部は、小梅の母を呼ぼうとしたが、小梅が逆にそれを止める。

 そして、何を思ったのか。小梅がドア越しに。

 

『・・・・・・春貴さん』

「・・・・・・うん?」

『・・・・・・背中を、拭いてもらえますか・・・?』

 

 額に銃口を突きつけられたかのような緊迫感が突如織部を襲う。

 嘘だろマジかと織部の脳は叫んでいるし、ここは小梅の母に頼むのが一番妥当だと思う。

 しかし小梅は織部の事を信頼している。だからこそこうして頼んできたのだ。それにグズグズしていては症状がまた悪化してしまうかもしれない。小梅の母に頼むとしても、小梅は織部が自分で看病したいといった手前頼むのも少し情けない話だ。

 また、将来一緒になるとすればこういう機会にも出くわす可能性だって十分考えられる。その予行演習だと捉えれば何も問題はない、と自分に言い聞かせて織部は部屋のドアを開けた。

 小梅は上半身を起こしてベッドに座っている。それだけなら別にいいのだが、小梅はパジャマの上を脱いでいて、その脱いだパジャマで前の部分を隠している。深く考えるべきではないのだろうが、着けていた下着もそのパジャマと一緒に胸の前に隠しているのだろう。一歩間違えれば、恥ずかしい―――いや、マズい事になってしまいかねないぐらい際どかった。

 だめだ、注視すると取り返しのつかないことになる。絶対に視線を向けてはならない。

 織部は自分にそう言い聞かせながら、タオルを水に浸して絞り、そして小梅の背中に回り込む。

 ただ、小梅の背中は、男の自分なんかと比べると段違いに白くて、肌が綺麗だった。触れると崩れ去ってしまいそうだと錯覚するぐらいだった。

 だが、どこかしらを支えておかないと拭きづらいので、織部はそーっと慎重に、ゆっくりと小梅の肩に触れる。

 

「ひゃっ!?」

「!!」

 

 だが、特に何の前置きも前触れもなく肩を触られた事でびっくりしたのか、小梅が聞いた事も無いような声を上げる。それだけで織部の心臓が一段階跳ねた。咄嗟に『ごめん!』と謝るが、時すでに遅し。小梅も『い、いえ・・・』と肩越しでも分かるくらい顔が赤くなっている。果たしてそれは、熱だけのせいではないだろう。

 しかし早いうちに拭かないとせっかく回復してきた体調がまた悪化しかねないので、白くきれいな背中を傷つけないように、優しくゆっくりと拭いていく。

 満遍なく拭いたところで肩から手を離し、『終わったよ』と告げる。

 そこで、小梅は肩を急に触れられて動揺していたのか、織部の目の前で下着をつけ直そうとしていた

 流石にそれはマズいにもほどがあるので『小梅さんストップ!』と言って気付かせて、踏み止まらせる。小梅もそこで初めて気付き動きを止めて、織部が部屋を出るまで待つ。

 ものの十数秒で小梅が準備を終えて織部を呼ぶと、織部は再度確認を取ったうえで部屋に戻る。小梅が、先ほどの早まった行動が恥ずかしかったのか、それとも熱がぶり返したのか、僅かに顔が赤い。

 それは一応熱のせいという事にしておいて、織部は小梅を横にさせる。布団をかぶせて、自分はベッドの傍らの椅子に座り、小梅の様子を見る。

 そして少しすると、小梅の父と母がノックをしてから入ってきた。小梅の母が様子を訊ねる。

 

「気分はどう?」

「うん、だいぶ良くなってきたと思う。春貴さんが看病してくれたから・・・」

「そうか・・・春貴君が・・・」

 

 小梅の父は、織部の事を見る。その父の視線に織部は気付き、自然とそちらを向く。

 

「君が今日、小梅が熱を出したと言ってから、今の今まで小梅の傍にいて看病をして、君がどれだけ小梅の事を大切に思っているのか、小梅の事を考えているのかが改めて分かった」

 

 そして小梅の父は、母と視線を合わせて頷き、そして織部に向けてこう言った。

 

「やっぱり、小梅の相手は君しかいない」

「ええ。私からも、どうかお願いします」

 

 2人して頭を下げられて、織部は恐縮だが、また自分の事が認められたと思うと悪い気はしない。

 そして織部もまた、将来で小梅の事を託された事で、責任を背負う事になる。その責任と一生向き合う覚悟を決めて、織部は椅子から立ち上がって頭を下げた。

 小梅の両親が部屋を出て、織部が小梅の様子を看ようとすると、小梅は既に身体を寝かせていて、顔を織部に向けないように横に向けていた。

 だが、その小梅の瞳が涙で濡れていたのを見逃さなかった織部は、優しくその涙を拭ってあげた。

 その涙の理由については、あえて何も聞きはしない。

 

 

 翌朝には、小梅の体調は元通りになっていて、生活に支障はなさそうだった。熱を計っても平熱にまで戻っている。

 昨夜も、織部は小梅と一緒のベッドで眠ったが、それは小梅を安心させるという意味合いが強かったし、具合の悪い小梅を心配していたから、最初に寝た時よりも緊張はしなかった。

 それと、熱を出した小梅と昨日はずっと一緒にいた織部だが、熱の兆候はない。体力はないし筋肉もあまりついていないのだが、病気に関しては丈夫な身体なのだろう。

 何はともあれ、小梅の熱が完治したことで、織部も、小梅の両親も一安心した。

 これで、今日の祭りに行くことができるだろう。織部はその話を聞いた時から気になっていたし、小梅さえよければ一緒に行こうと思っていた。その話をすると、小梅は二つ返事で頷き、2人で行くことが決まった。

 祭りが始まるのは夕方からなので、それまでは小梅の実家で寛ぐことになった。寛ぐといっても、リビング(一昨日最初に通された部屋とは違う)でお茶とお茶菓子を傍らに、和気藹々と色々な話をする感じだった。聞く事の無かった小梅の幼少期の話や、織部自身の話も、本当に多くの事を話した。

 そして、間もなく祭りが始まるという時間になると、織部はリビングで待機していた。10分ほど前に、小梅と小梅の母が席を外して、先に祭へ行く準備を終えた織部は今で小梅の事を待っていた。一応、貴重品の類は持つのは当然として、後は小さな肩掛け鞄を持つだけで別に事は足りる。それで準備は終わってしまった。

 そのまま小梅を待つこと数分。

 

「お、お待たせしました・・・・・・」

 

 リビングのドアが開き、小梅の声が聞こえた。織部は座っていたソファから立ち上がり、小梅の方を見る。

 

「随分遅かっ―――」

 

 何かを言おうと織部がするが、それも小梅の姿を見て途切れる。

 今の小梅は、白い牡丹の花の模様が染められている青色の浴衣に白い帯、そして髪には前に織部がプレゼントした梅の花の髪飾りを着けている。その後ろでは、小梅の母がやり切った感を出した笑みを浮かべていた。どうやら、浴衣の着付けで時間を取られていたらしい。

 これまで織部は、女性の浴衣を見たら大体は『風情があるなぁ』としか思ってこなかった。

 だが、今の小梅を前にしてそれぐらいのことしか考えられないかと問われれば、答えは“否”だ。

 

「・・・・・・どう、ですか?」

 

 少し不安げに小梅が聞いてくる。恐らく、自分に自信が無いのかもしれないが、そんな心配はしなくてもいい事だ。

 

「・・・・・・似合ってる。すごい、綺麗だよ」

 

 だから、織部の気持ちをそのまま言葉に表し、伝える。それで小梅の中の心配や不安も無くなったようで、笑ってくれた。

 

「さあ、あまり遅くなると人も多くなっちゃうし、行ってきなさい」

 

 小梅の母が背中を押すように織部と小梅に告げると、2人は早速祭の会場である近くの神社へと向かった。

 もちろん、小梅の履いている靴は普段とは違い、浴衣下駄だ。カラコロと軽やかな音を歩くたびに立てるのは、聞いていて心地が良いものだ。

 そしていざ、祭り会場に来てみれば、祭り開始からそれほど時間が経っていないにもかかわらず、もうすでに多くの人が訪れていた。参道沿いに設置されている屋台は活気にあふれ、ワイワイと訪れた客たちは商品を買い求めている。

 周りを見れば、小梅以外にも浴衣の女性はいるし、男性でも浴衣を着ている人がちらほらいる。男の浴衣っていうのもあまり見ないな、と織部はふと思ったが、それでも小梅とつなぐ手には力を籠めている。

 

「・・・・・・はぐれないようにしないとね」

「そうですね・・・」

 

 屋台で色々食べるだろうからと、昼食は少し軽めに済ませている。それは結果的に正解だったようで、織部も小梅も少し小腹が空いていた。加えて、屋台から漂う料理の匂いが否応なく2人の食欲を駆り立ててくる。

 2人が足を止めたのは、イカ焼き屋台。一本串に刺さっているタイプと、切り分けられているタイプの2種類があった。

 小梅はイカ焼きを食べたい気分だったのと、少しだけ小梅はやってみたい事があった。なので、肩掛け鞄から財布を取り出そうとした織部よりも早く財布を取り出し、切り分けてあるタイプのイカ焼きを1つ買う。

 『タレが飛ばないように気を付けてね~』と出店の人から注意を受けながら、小梅はイカ焼きを受け取る。織部が『僕が買おうと思ったのに・・・』と言いたげな目で小梅を見るが、小梅は小さくウィンクをした。それがとても織部からすれば魅力的だったが、とりあえずイカ焼きは保留にしておいた。

 そして、少し歩くとたこ焼きの屋台。今度は織部が小梅に財布を出させる時間など与えずに素早く買う。

 とりあえずの食料は買えたので、どこか落ち着ける場所で食べようとする。だが、飲食スペースは大体地元の子供たちかおじいちゃんおばあちゃんで埋まっていて、座れる場所など皆無だった。

 仕方なく、参道から少し外れた場所にある芝生に座って食べる事にした。織部たち以外にも、レジャーシートを広げて集まっている人もいるので、シートを持ってくればよかったかなと小梅はひとりごちる。念のため、織部は小梅が座ろうとする場所を手で払い、気持ちだけでもきれいにしたうえで2人でゆっくりと座る。

 留意しておくべきなのは、小梅は完治したとはいえ病み上がりだ。人ごみに揉まれてまた熱がぶり返す事だって考えられる。だからあまり、人混みの中に長時間いるのは少し避けるべきだ。

 

「では、食べましょうか」

「そうだね」

 

 手を合わせて『いただきます』をし、織部はたこ焼きを、小梅は切り分けられたイカ焼きを1つずつ口に含む。

 

「「美味しい」」

 

 2人の言葉がハモり、顔を見合わせて吹き出す。

 どうしてだか、屋台で食べる料理と言うものは普段と比べると美味しく感じる。ましてやそれが、親しい人、好きな人と一緒ならばなおさらだ。

 と、そこで。小梅がイカ焼きの1つを楊枝で刺して。

 

「春貴さん」

「ん?」

「あーん」

 

 ゆっくりと、差し出してきた。

 そう言えば自分も、昨日やったやつだなと思う。熱で小梅が寝込んでいる時だったので、ムードも悪いしロマンの欠片も無かったが、今は違う。小梅もこれがやって見たくて、先ほどイカ焼きを自分で買い求めたのだろう。

 分かっていたが、可愛い人だなぁと思いながらも織部は口を開けて、イカ焼きを食べる。

 

「うん、美味しい」

 

 それは単純にイカ焼きそのものが美味しいというのもあるだろうが、小梅に食べさせてもらえた、と言うのもあるだろう。

 であれば、自分もするのがお決まりのパターンでもある。そして、同じことをされるというのは小梅も分かっていたようで、何かを期待するような目で織部の事を見ていた。

 だから織部は、自分がそうしたいという気持ちを小梅からの期待と合わせて、たこ焼きの1つを楊枝で刺し、そして差し出す。

 

「はい、あーん」

 

 そしてそれを躊躇なく食べる小梅。咀嚼し、飲み込むと笑みを浮かべてくれた。

 

「美味しいです」

 

 織部も頷く。どうやら、織部と同じ気持ちになったようだ。

 そして2人でたこ焼きとイカ焼きをそれぞれ食べ終えて、祭りの終盤の打ち上げ花火までは、祭りの定番ともいえる色々な事に挑戦する事にした。

 まず射的で、小梅が戦車道で鍛えた目を持って5発全弾命中と言う成果を挙げ、店主と周りにいた客を驚かせた。そして景品は、小梅曰くみほが好きだというボコられグマのボコのぬいぐるみ。織部からすれば可愛いというより、痛々しいという印象を抱くデザインだが、小梅は満足したように抱いていた。ちなみに織部だが、2発が限界で景品はキャラメルだった。

 金魚すくいでは、いきなり持ち帰っても飼えないのでただ掬って遊ぶだけにしたのだが、思いのほか織部がひょいひょいと素早く掬うので小梅が『すごい・・・』と驚いていた。店主の若い男性も『兄ちゃんやるなぁ』と言葉を洩らしていた。景品は無かったが、それでも織部はどこか達成感を抱いていた。ちなみに織部なりのコツは、感覚ではなくちょっとした計算を駆使するのだが、口で説明するのは難しい。

 かき氷を買った際は、シロップが自由にかけられる方式になっていたが織部と小梅はともにイチゴ単体にした。2人の後に買った人たちは、平然と3種類以上を混ぜて色がみょうちきりんになってしまう。あれだと味も分からなくなるだろうに、と織部と小梅は思わなくも無かったが、別に楽しければそれでいいかと思い深くは考えなかった。

 他にも色々食べたり遊んだりして楽しんだが、その一方で織部は小梅が病み上がりという事を忘れず、参道から少し外れた場所で何度か休憩を挟んだ。けれど、小梅も既に全快したようで、織部もホッとした。

 そして、最初に訪れた時は茜色だった空も、陽が落ちた今はすっかり暗くなっており、花火が映えるであろう夜空が広がっていた。

 打ち上げ花火は、神社とは反対側の少し離れたところにある小高い丘から上がるようで、それを知っている常連たちは我先にと一番眺めの良いスポットへ移動していった。となれば、そのスポットは既に人でごった返しているだろうし、そんなところへ行ってもまともに花火が見れる保証はないため、織部と小梅はこの祭り会場に留まる事にした。

 すでに祭りも終盤に差し掛かっているからか、商品や景品の無くなった屋台は既に店じまいを始めているし、客のほとんどがその眺めのいい場所へと行ってしまったので、始まったばかりやピークの時間帯ほど人はあまりいない。

 だがそれでも、参道の脇に吊るされている提灯の明かりは煌々と輝いているし、この祭りに合わせてなのか神社の鳥居や本殿もライトアップされている。

 その光景はとても幻想的で、そして何よりも美しかった。織部も小梅もそう思い、スマートフォンを取り出してそれぞれ写真を撮る。

 

「あ、そうだ春貴さん」

「?」

 

 小梅が、少し前へ踏み出して織部を手招きする。成すがままに織部は小梅の下へと近づくが、そこで小梅が織部と肩をくっつけて身を寄せ合い、そしてスマートフォンで自分たちの写真を撮る。不意打ち気味だったが、織部も小梅と2人だけの写真であれば、恥ずかしくはない。織部単体であれば恥ずかしくて消すように言うところだったが。

 人が少なくなっていてちょうどいい具合に撮れたので、小梅はホッとした。

 そして本殿の鳥居まで歩き、そこで振り返って花火が上がるのを待つ。ここでも十分に見えるらしく、人もそこそこいた。ここでも十分に花火は見れそうだが、参道の脇に生える木の枝と葉のせいで少し邪魔くさい気もする。

 

「今日は・・・とても楽しかったです」

「僕だってそうだよ。こうしてお祭りを楽しんだのなんて、正直久々だ」

 

 学園艦暮らしに加えて、勉強漬けだったこともあり、こうして祭りを訪れたのは、恐らくは小学校の時以来だ。久しく感じていなかった祭り特有の高揚感などを抱くことができて、本当によかったと思う。

 

「また・・・・・・来ることができたらいいですね」

「・・・来れるよ、きっと」

 

 未来を夢見る小梅の言葉に、織部も微笑みながら答える。きっと、とは言ったが恐らくはまた来る事がだろう。なぜか、そう思える自信があった。

 

「・・・・・・春貴さん」

「?」

 

 小梅が、織部同様に夜空を見上げながら話しかけてくる。あと少ししたら、この夜空は花火によって彩りが加えられるだろう。

 

「・・・私・・・・・・春貴さんと付き合えて・・・・・・ううん、春貴さんに出会えて、本当によかった」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 その言葉には、多くのこれまでの思い出、そして2人で交わした言葉の数々が籠められているのが分かる。織部自身、小梅とはここに来るまでに多くの事があったと思っているし、その全ては無駄でなかったと、だからこそ小梅と出会えてよかったと胸を張って言える。

 そして、これから先、織部は小梅とまだまだ多くの思い出を作るつもりだ。

 だから織部だって、言う言葉は同じだ。

 

「・・・・・・僕も。小梅さんと同じ気持ちだ」

「・・・・・・・・・・・・」

「もう、言葉にはできないぐらいの思い出を作れたから、小梅さんと出会えて、本当によかったって、自信を持って言えるよ」

 

「・・・ありがとう」

 

 空を見上げながら織部が告げると、織部の頬に柔らかい感触が伝わり、直後に赤い花火が夜空に咲いた。




ジンジャー
科・属名:ショウガ科ショウガ属
学名:Zingiber officinale
和名:薑
別名:生姜(ショウガ)、生薑
原産地:熱帯アジア
花言葉:あなたを信頼する、豊かな心、誘惑


筆者本人は反省も後悔もしています。
作中でぽろっと書いた『サンダースとプラウダは共学』という設定ですが、
あくまで筆者のオリジナル設定です。
次回もまた、挨拶の話になりますので、
感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


夜の方が筆が進む不思議。


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夢百合草(アルストロメリア)

 朝の10時前ほどに小梅の実家を発った織部と小梅は、新幹線と在来線を使って織部の実家の最寄り駅へと向かう。小梅の実家は九州で、織部の実家は関東だから実に5時間以上も移動しなければならない。

 新幹線を降りて在来線に乗り換える際、織部からすれば珍しい事ではないのだが、やはり首都圏の電車の交通量は九州と比べると多いらしく、小梅は人の多さとダイヤの過密さに驚いた様子を見せていた。だが、それだけ駅を利用する客は多いので、はぐれないように織部はしっかりと小梅の手を握り、決して離さない。

 そしてさらに在来線に揺られること数十分。織部の実家の最寄り駅で2人は降りた。そこは、都心とは打って変わって静かな雰囲気のする町だった。一応飲食店やコンビニはあるし、人もそれなりにいるのだがあまり騒々しくはない。

 ここからバスかと小梅は思ったが、どうやら歩いて行ける距離に織部の実家があるようで、小梅の実家への訪問の時とは逆に、織部が小梅の手を引いて歩いて行く。

 10分も歩かずに、『織部』という表札の一軒家の前に到着した。小梅からすれば、自分の実家よりもほんの少し小さい気もするが、それでも立派な家だと思う。

 さて、そんな小梅だが、小梅の実家に行った時の織部同様、委縮しきっている。瞳が緊張と不安でぐらぐらと揺れていて、小梅の手には無意識に力が込められていて、織部の手を強く握っている。その手を握る強さが、小梅がどれだけ緊張しているのかを示していて、織部もどうにかしたいという気持ちになる。

 織部が小梅の両親と話をした際は、比較的良好な関係を築き、かつ波乱も無く認めてもらうことができた(その後に波乱は起きた)。だが、小梅が織部の両親と話をして、同じようになるという保証はどこにもない。

 織部は、自分の親は小梅の事を悪く思ってはいないと言っていたし、一度電話で話した時も嫌な雰囲気にはならなかった。

 だが、それでも小梅の不安は尽きない。

 

「小梅さん」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 織部が話しかける。だが、小梅は緊張のあまり、織部の呼びかけに応える事無く、玄関を見つめているままだ。

 このままでは、実際に織部の両親と会っても緊張のあまりろくに話すことができないだろう。

 何とかしてあげたいと織部は切に思い、考えて、やがて1つの方法を思いつく。

 その方法とは、前に何度か小梅にしてあげてきた事だ。

 

「・・・・・・あ」

「落ち着いて、大丈夫」

 

 小梅の頭に手を乗せて、優しく撫でる。それで、初めて小梅は織部の方を向いてくれた。織部もちゃんと、小梅の顔を見て、そしてなお頭を撫でる手は止めない。

 

「僕は絶対に小梅さんを守る。何があろうと、小梅さんの味方だ」

「・・・・・・・・・・・・春貴さん・・・」

「まあ、ちょっと頼りないところはあるかもしれないけどね・・・」

 

 おどけるように織部が笑い、小梅も少し緊張がほぐれる。

 けれど、頼りない、というのは間違いだ。だって今、小梅は頭を撫でられたことで、心の中にある緊張感が幾分か晴れたし、こうして織部が笑いかけてくれたことで、不安もあまり感じなくなった。こうしてくれるだけでも、織部は十分頼れる人だ。それにこれまでだって、小梅が幾度となく不安な気持ちになった時、織部は傍にいて小梅の事を励まし、支えてくれた。

 改めて、自分が織部の事をどう思っているのか、どれだけ好きなのかを再認識した小梅は。

 

「ありがとう、春貴さん」

 

 小梅が自信に満ちた表情で、織部の事を見上げる。その顔にはもう、不安や緊張はない。

 織部は、その顔を見て少し笑い、それに対して小梅は小首をかしげる。

 

「どうかしたんですか?」

「いや、小梅さんの実家に行った時と同じだなって」

 

 確かにそうだ。小梅の実家を訪れた際も、織部は完全に震えあがっていて、小梅が織部を落ち着かせて、そして踏ん切りがついたところで家に足を踏み入れたのだ。それとほぼ似ている状況に、織部は少し可笑しくなったのだ。

 

「・・・そうですね。ふふっ」

「よし・・・・・・じゃあ行くよ」

「はい」

 

 小梅の緊張も取れたようで、織部は小梅の手を引いて、自分の実家の敷地に足を踏み入れた。

 

 

 織部には兄弟はおらず、父と母の3人家族だ。

 中学・高校のほとんどが学園艦という巨大船舶の上にあり、生徒は皆その学園艦で暮らしている以上、親元を離れて生活する事になる。その例に漏れず、織部も中学からは一人暮らしをしていたのだが、親の性格を忘れたということはない。一度不登校になった際に実家に戻っていたので、忘れるはずはない。それを抜きにしても、よほど仲が険悪ではない限りは親の性格を忘れはしないだろう。

 まず織部の母だが、良い意味で愛想が良い。そして、少し茶目っ気があると織部の父は言っていた。それについては、小梅という彼女ができた事の報告の電話のジョークで分かっている。

 

「まあまあ・・・あなたが小梅さんね?息子がお世話になってます~」

「ど、どうも・・・・・・」

 

 小梅が織部の母と顔を合わせてわずか数分、織部の母は早くも小梅を名前で呼び、リビングで小梅と挨拶を交わしている。

 小梅の家とは違い、畳張りの居間ではなくフローリングのリビングでそれぞれ椅子に座って、特に緊迫した空気でもない。その空気は織部の母の口調からだろうが、小梅もまだ完全には緊張が取れていないようで、まだ少し表情と姿勢が硬い。テーブルに置かれた冷たい緑茶にも、口を付けてはいない。

 

「・・・・・・」

 

 織部の父だが、口を閉じたまま何も言わず、しかしわずかに笑いながらも、織部の母と小梅の話を静かに聞いている。これは怒っているわけでも威嚇しているわけでもないというのは、織部は分かっていた。

 織部の父は、織部の母とは正反対であまり多くは語らない性格をしている。けれど、奔放主義と言うわけではなく、織部がいじめを受けて実家に戻ってきた時も、話を聞いてくれた。

 だから本当は優しい性格をしているのだと、織部は分かっていた。小梅を敵視しているという事も無いはずだ。

 

「春貴・・・・・・随分と可愛い子捕まえたのねぇ」

「捕まえたとか言わないでよ」

「・・・・・・でも春貴に彼女なんて、聞いた時は本当に驚いたぞ」

「早く早くって言っていたくせに」

「・・・・・・それは母さんの方だ」

「でも父さんだって言ってたじゃないか」

「そうよ。春貴に彼女ができたって聞いたとき、父さん小さく『よし、よし』って言ってたじゃない」

「・・・・・・何の事だろうな」

「こっち見て言ってよ」

 

 小梅の実家の時とは違う、織部と両親の淀みない会話を聞いて、小梅の顔がほころぶ。黒森峰にいた時、まほやエリカと話す時とも、根津や斑田たち仲良くなった者たちと話す時とも違う、割と砕けた口調で話す織部の姿が新鮮だったからだ。そして、これが恐らくは織部の本来の喋り方だと思うと、少し可笑しかった。

 と、そこで織部の母が。

 

「あら、やっと笑ってくれた」

 

 小梅を見て織部の母がにこりと笑うと、小梅は慌てて自分の顔を抑える。どうやら小梅はその言葉を悪い意味と捉えてしまったようだが、織部の母は慌てて訂正する。

 

「あ、責めてるんじゃないわよ。ただ、ずっと緊張した感じでいたから・・・」

「でも、仕方ないとは思うよ。僕だっておっかなびっくりだったから」

 

 織部は既に挨拶を終えた身であるから、小梅が緊張しているのが手に取るように分かった。自分だって、最初に小梅の両親と会った時は何を言われるんだろうと不安だったし、実際小梅の両親が好意的に接してきても、逆に後の事が怖かった。

 

「そう言えば、小梅ちゃんのトコにも行ったのよね?」

「そうだよ」

「・・・・・・で、どうだったんだ?」

 

 ここに来る前に、小梅の家で先に挨拶をするというのは事前に伝えてあったから、織部の両親もそれを知っている。だが、その“結果”まではまだ伝えてはいない。

 

「・・・・・・うん」

 

 だが織部は、素直に答えるのには少し乗り気ではなかった。『認めてくれた』と言うのは簡単だし、そうすればこの先の話も円滑に進むだろうが、それを笠に着ているように小梅と織部の関係を認めさせるようなやり方に思えてしまうからだ。織部は本心では、そういうやり方は望んではいない。綺麗ごとかもしれないが、両親にはちゃんと小梅の事を認めてほしかった。

 だが、相手は織部を生まれてから今日この日まで育て上げてきた肉親だ。隠し事など通用しないし、織部の反応で大体事態は掴めた。

 

「・・・・・・そうか」

 

 織部の父が小さく呟き、『バレた』と織部は気付く。まほからみほの勘当の話を持ち掛けられて動揺していた時といい、自分は隠し事が下手なのだと織部は痛感した。

 小梅も織部と同じようで、後は自分がきちんと話さなければいけないと、自分でも分かっていた。

 

「・・・春貴からは、小梅ちゃんがどんな人で、どうやって知り合ったのか、大体は聞いたわ」

「・・・・・・」

「でも、小梅ちゃん自身の口からも、聞いておきたいと思う」

 

 織部の両親も、織部が最初に電話した時に言っていたことが全て出まかせとは微塵も思っていない。それに母は実際に一度、電話越しとはいえ小梅と言葉を交わしている。その時は詳しい話はしていない、ただの挨拶ぐらいだった。

 そして、2人の関係を認めるには、やはりお互いの気持ちを確かめる事が何よりも重要で肝心だ。

 だから織部の両親は、心の中ではどうするかは決めていても、それでも小梅の口から聞いておきたかった。

 

「もちろん、話したくない事があったら、無理して話さなくてもいいのよ」

「・・・・・・別に僕たちは、君を貶めたり、春貴と引き離したりするつもりはない。ただ、結論を出す前に、君から話を聞いておきたいんだ」

 

 2人は、小梅を安心させようと、つとめて優しく低姿勢で話しかける。

 小梅も、織部の両親の言葉で話をする決心がついたらしい。一度、目を閉じて俯き、やがてその目を開いて織部の両親の顔を怯まず、不安や恐れを抑えて、見つめる。

 

「少し、長くなるかもしれませんけど・・・・・・」

 

 織部の母は、笑って頷く。父も、緑茶を一口飲んでから、小梅の顔を見る。

 小梅も、同じように緑茶を飲んで喉を湿らせてから話し出した。

 

「私は・・・戦車道を歩んでいるんです。黒森峰でも、戦車隊に所属しています」

 

 戦車道という言葉に織部の母はあらと口に出す。父はピクッと肩を震わせる。

昨今戦車道は、衰退気味という前の評判を押しのけて、由緒ある伝統的な武芸と誰もが認識している。それはやはり、今年の全国大会決勝戦で大洗女子学園が見せた、奇跡とも伝説とも言える快進撃、そして優勝をもぎ取った事が理由だろう。テレビでも生中継されて繰り広げられた熱戦をきっかけに、誰もが戦車道に興味が湧いたと言っても過言ではない。

 1年ほど前よりも戦車道の話題をテレビで耳にする事が多くなったから、織部の両親も小梅が“あの”戦車道を歩んでいることに驚いているのだろう。

 

「でも私は、去年戦車道の試合で失敗をしてしまったせいで、戦車から降ろされて・・・一緒に戦車に乗っていた仲間も、友達も・・・皆疎遠になってしまいました。何があったのかは・・・・・・すみません、まだ話せないです」

 

 小梅が心底申し訳なさそうに謝るが、織部の両親は『いいんだよ』と言わんばかりに首を横に振り、ゆっくり頷く。

 織部も、無理して話をして、またあの時味わった孤独や苦痛を思い出させるのは、小梅のためにはならないと思っていたから、ここで話すのを止めた小梅の判断は正しいと思っている。

 織部は、小梅の身を案じるように、小梅の方に目を向けて話に耳を傾ける。

 

「学校の皆からも責められて、それでその時の事を思い出すたびに、何度も泣いて、気分も落ち込んでしまって・・・・・・もう自分が、消えてなくなっちゃうかもしれないって、思っていたんです」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 織部の両親は、神妙な面持ちで小梅の話を聞いている。小梅自身が辛そうな表情で話しているからというのもあるし、この2人の子供である織部が似たような境遇を経験しているから、他人事とも言えない。だから、真剣に話を聞くことができるのだ。

 

「春貴さんに初めて会ったのは3月の春休みでしたけど・・・その時も私は泣いてました」

 

 そこで一度、織部の父が織部の事を見る。本当か、と無言で聞いていた。織部も同じく何も言わずに頷いて、嘘じゃないことを伝える。それで父は納得したらしく、小梅に再び目を向けた。

 

「その時春貴さんは・・・私の事を心配して、何があったのかを聞いてくれました・・・。でも私は、その時はまだ春貴さんを信用していなかったし、自分で話す事も辛かったから、何も話しませんでした・・・」

 

 今、小梅は悲しげな表情をしているのかと思ったが、織部は実際に小梅の横顔をちらっと見て少し驚いた。

 小梅は、小さく笑っていたのだった。だがその笑みは、喜びや嬉しさではなく、悲しみを帯びているようなものだった。

 

「でも、新学期になって春貴さんとまた会った時は、正直驚きましたし、嬉しかったです。みんな、私の事を責めたり遠ざけていたから、私と普通に接してくれることが、嬉しくて・・・・・・」

 

 顔を上げて、本当に嬉しそうに話す小梅。だが、すぐに小梅は顔を下に向けてしまう。

 

「でも、もし私の事を知ってしまったら・・・また春貴さんも私から離れるんじゃないかなって、不安になって・・・」

 

 今度は織部の両親が織部の事を見てくる。何が言いたいのかは、子供である織部には分かる。だが、それが分かるからこそ織部も首を横に振った。そんな事は断じてないと。

 親子の間での言葉なき会話を小梅は感じ取り、それが終わってから小梅は話を再開する。

 

「・・・でも、私が何が起こったのかを全部話しても、春貴さんは私の事を嫌いになったりもしないで、離れたりしないって言ってくれたんです・・・」

「あらあら」

 

 織部の母がにやにやと織部の事を見る。ちょっと気まずいので腕を組んで目を瞑り見えないふりをする。

 

「皆から責められても黒森峰に残る私の事を、心の強い人だって言ってくれて・・・。そんな人を嫌いになるはずがないって・・・傍にいるって言ってくれたんです」

 

 その時の嬉しさを思い出したのか、小梅の顔は赤い。それを見て、織部の父と母は『やるじゃない』とでも言いたげなにやけた表情で見ているのが、織部には目を閉じていても分かった。

 

「そして、春貴さんが気付かせてくれたんです。友達と疎遠だったのは、私が周りを信用せずに私の方から遠ざけていたんだって・・・。私の事を心配してくれていたのに・・・それに気づかせてくれたおかげで・・・私はまた、皆と一緒に戦車に乗る事ができるようになりました」

 

 小梅の言葉に、織部の両親も嬉しそうに頷く。語る本人の表情が明るくて、それでいてその時の嬉しさを表現してくれているから、それが織部の両親、そして織部自身にも伝わって一緒に嬉しくなってくる。

 

「それから私は、春貴さんとの付き合いが増えていって・・・励ましてもらったり、話をしたり聞いてもらったり、一緒に走ったり・・・出かけたり。それで・・・・・・私は、私と同じで心に傷を負っているからこそ、心優しく人に接することができる、誠実な・・・・・・春貴さんの事が好きになりました」

 

 照れる。純粋に織部はそんな気持ちになってしまい、少し俯く。自分のどこがどう好きなのかを客観的に目の前で述べられると、控えめに言って恥ずかしい。穴があったら入りたいぐらいだ。

 もしかしたら、小梅の実家で織部が小梅の両親に小梅との馴れ初めを話した際、小梅も今の織部と同じように恥ずかしかったのかもしれない。

 

「告白して、春貴さんも私の事を好きだって言ってくれて・・・とっても嬉しかったです。そして、その先の事も・・・・・・私の両親に、もう春貴さんとの事は話して・・・認めてもらいました」

 

 小梅の言葉を聞いて、織部の両親は心の内で『やっぱりそうか』と思った。先ほどの織部の反応からして大体分かったが、小梅も織部とそうなりたいと心から思っている。それは小梅の表情から見ればわかるし、嘘をついていたり脅され言わされている感じは全くしない。正直に、小梅は本心で言っている。

 織部の父は、ジッと織部の顔を見る。逸らす事も許されないほどの真剣な瞳だ。

 織部の父は一介のサラリーマンで、普段は多くは言葉にしないけれども静かに家族を見守る穏やかな性格をしている。

 だが同時に、父は剣道の有段者でもある。道場を開いているわけではないが、通っている道場での実力は指折りと母は言っていたし、父の書斎には盾や賞状がいくつか飾られている。それに織部が小学校の時、そして不登校で実家にいた時、父は毎日竹刀の手入れをしていたのを覚えている。それだけ、織部の父の実力は高い。

 だからか、こうして織部の父が剣道で鍛えられ研ぎ澄まされた真剣な瞳で見る時は、絶対に逆らえない、口答えができない、目を逸らしてはならない、嘘がつけないしついてもすぐにバレる、と織部は分かっていた。

 

「・・・・・・春貴」

「・・・・・・うん」

 

 少し、ほんの少しだけ、父の声のトーンが低くなった気がする。状況が状況なら説教か、もしくは断罪に見える。

 

「・・・・・・改めて聞く。春貴は、小梅さんの事をどう思ってる?」

「この世で、一番愛してる」

 

 間髪入れずに織部は答える。その言葉には一切の迷いも、つゆほども躊躇いを感じないほど、力強く、自信に満ちていた。

 この言葉と口調に、小梅と織部の母は少しだけびっくりしていた。2人とも、ここまで真面目な表情で、なおかつ力強い口調で言葉を発したのは初めて見たし、初めて聞いた。

 唯一動じていないのは面と向かって話をしている織部の父だ。

 

「もう・・・小梅さん以上の人には巡り会えないと思ってる。他の人と添い遂げるなんて考えられないし、あり得ない。それぐらい好きだ」

 

 ここにきて小梅と積み重ねてきた思い出を、交わしてきた言葉を、織部は忘れるような愚かな男ではない。だからこそ、自分と小梅の思い出は何物にも代えがたいものであり、だからこそ織部は小梅の事だけを想うことができる。

 その気持ちを、織部は言葉に乗せた。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 織部の父は、織部の顔と目を見て、そして言葉と声を耳で聞き届け、どれだけの覚悟や思いを背負って織部がそう言ったのかを、理解した。

 そこでふっと、織部の父の表情と雰囲気が緩んだ気がした。

 

「・・・・・・母さんは?」

「言うまでもないわよ」

 

 問われて織部の母は笑って頷く。2人の意見は一致しているようで、織部の両親は改めて小梅の事を見る。

 母は、また愛想の良い笑みを浮かべて。

 父は、真剣に、だけどもわずかに嬉しさを顔に出して。

 

「・・・・・・春貴は、過去の事が理由で心が弱い。それに、超がつくぐらい真面目だ。親としても心配なぐらいに」

 

 なぜか急に織部自身の話題に移って、織部も小梅も戸惑う。加えて自分の事を褒めてるんだか貶しているんだか分からないような口調で、織部からすれば複雑な気持ちだ。

だが、母は変わらず微笑むままなので、織部と小梅はどういう事態なのかかつかめずにいる。

 

「・・・・・・だからこそ、小梅さん。春貴はあなたの過去に感じた辛さや苦しみを理解して、そしてあなたの事を真っ直ぐ、ひたすら愛すことができるんだと思う」

 

 小梅が目を見開く。織部が、肩を震わせる。

 

「・・・・・・そして、小梅さんがどれだけ春貴の事が好きなのかも、あなたの話を聞いて分かった」

 

 小梅の瞳が潤み、涙が溜まる。小梅の目の前にいる織部の両親の顔が、何だか歪んで見えてきた。

 

「・・・・・・小梅さん」

「・・・・・・はい」

 

 だが、それでも織部の父の声には応じる。例え、堪え切れずに浮かぶ涙で前が見にくくなっても、それだけは怠らない。

 織部の父の言葉を、絶対に聞き逃してはならない。

 そして、告げた。

 

 

「・・・・・・息子を、よろしくお願いします」

 

 

 そこでもう、耐えられなくなった。

 嬉しさの余り、涙を流し、手で抑えてもなおとめどなく涙は溢れて、頭を下げた織部の両親の顔も姿も、見えない。

 織部は、自分もまた嬉しさで涙を額に滲ませても、隣に座る小梅の姿から決して目を離さない。

 自分たちの関係が認められたのは、織部が小梅の両親に話をしたことと、小梅が織部の両親に話をしたこと、そして織部と小梅がお互いに相手をどれだけ想い、慕い、愛し、未来を信じているかが分かってもらえたからだと思っている。

 泣きじゃくる姿を見て、織部は3つの感情を覚える。

 1つ目は、小梅との幸せな未来が約束されて、嬉しいという気持ち。

 2つ目は、自分と小梅との関係を認めてくれた親に対する、感謝の気持ち。

 そして3つ目は、この先自分はもう小梅を悲しませないために、織部自身、そして織部と小梅の望む未来を実現するために努力し、そして必ず叶えるという覚悟だ。

 その3つの気持ちを得ながらも、織部の中にはただただ嬉しいという気持ちがひときわ大きくなっていき、親の目の前という事も忘れて、織部は小梅の肩を抱き寄せた。そして小梅は、織部の胸に顔を埋めて静かに泣いた。そして織部は、小梅を泣き止ませはせずに、背中を撫でてしばしの間、嬉しさや喜びを分かち合った。

 織部の両親も茶化したりはせず、また小梅が泣くのを止めさせたりはせず、ただ愛おしそうな目で2人の事を見つめていた。

 

 

 小梅が泣き止み、落ち着いた頃には日も傾き始めて、夕方が近くなったのだと実感させてくれる。夏特有のセミの鳴き声も収まってきて静かになる。

 ようやく小梅が顔を上げたところで、織部の母は『さて』と立ち上がり夕飯の準備に取り掛かろうとしていた。そこで小梅が手伝いを申し出たが。

 

「ゆっくりしてていいのよ?あなたはもう、家族なんだから」

 

 その『家族』という言葉に、小梅も一瞬だけ固まる。改めて、織部と小梅の事を認め、そして結婚をも認めてくれたから、母も小梅の事を『家族』と表現したのだ。

 だが、それでも小梅は引かずに手伝おうとしたが、最終的には『明日手伝う』という事になった。それで小梅も落ち着き、残った織部、そして織部の父と会話を交わす。

織部の父が剣道の有段者と聞いて小梅は驚き、何で自分は軟弱なのかと織部はますます思う。先ほど、小梅が戦車道を歩んでいると聞いて織部の父がわずかに反応を示したのは、同じ“道”とつくものを嗜んでいるからだろう。戦車は女性しか乗れないのだが、妙な親近感を抱いたらしい。

 織部も昔、父から剣道を勧められたのだが結局はやっていない。その最たる理由は、織部自身人を殴る事が好きではないからだ。それに運動音痴なのもあり、皆についていけないという事で剣道の技術はない。

 そして時間が流れて行き、織部の母が用意した夕食は、種類豊富な揚げ物と、みそ汁、赤飯だった。

 赤飯は吉事を祝う際に食べると言われているが、つまりはそう言う事だろう。揚げ物との食べ合わせがどうなのかはさておき、織部と小梅は恥ずかしいと思うと同時に母の気遣いに少し笑ってしまう。

 揚げ物も赤飯も美味しかったが、確か赤飯は作る前に8時間ほどの下準備が必要だと前にどこかで聞いた事がある。

 とすれば、織部の母は、どうやら織部と小梅が来る前から準備を始めて、織部と小梅の関係を半ば最初から認めるつもりだったようだ。もちろん、無条件で認めるつもりも無かっただろうが、よほどの事が無い限りは認める心積もりだったらしい。

 だが、それについては何も言わなかった。

 

 

 そこから寝るまでは、別段変わったことはない。食事を終えたら織部が食器洗いを手伝わされて、風呂に入る直前でも、織部の父も母も妙なことは言わず粛々と全員風呂に入り、小梅も織部も動揺もすることはなかった。

 そして、寝る段階に入った時だ。

 

「あの、お義母さん」

 

 織部の母を呼ぶ小梅の『おかあさん』という単語のイントネーションが若干違うように聞こえたのは、織部の気のせいではないと思う。

 それはさておき、バラエティー番組を見ていた織部の母は『どうかした?』と問いながら振り返る。

 

「あの、今晩なんですけど・・・・・・」

 

 どうやら小梅は、今夜の寝床についての心配があったらしい。それについては、織部の両親は既にどうするのかを決めていたので、口を開こうとする。

 だが、それより早く小梅が次の言葉を口にしたのだ。

 

「春貴さんと、一緒にお休みさせていただいてもいいですか?」

 

 小梅の方から言ってきた。

 織部からすれば、元々大人しい性格の小梅が自分から大胆な発言をしてくることが少し驚きだった。

 とはいえ、織部個人としても小梅に話したい事があったので、むしろ好都合だ。それに、少し小梅と2人きりの時間を作りたかったから、そう言う意味でも僥倖だった。

 しかし、そこで織部の両親が織部に向けて疑わしいものを見る目を向ける。

 

「春貴・・・・・・分かってるだろうけど、小梅ちゃんに手を出すんじゃないわよ」

「・・・・・・まだそれは早いぞ」

「出さないし出せないよ」

 

 若干食い気味に織部が答えると、織部の両親は『ならばよし』とばかりに鼻から息を吐く。

 そして織部は、良い時間になると小梅を連れて2階へ上がり、自分の部屋の前にやってくる。後はドアを開けるだけなのだが、自分の部屋に女の子を連れてきた事など無い。だから躊躇い、緊張が生じてしまう。

 

「どうかしたんですか?」

「いや・・・・・・すごい緊張して」

「私もそうでしたよ」

 

 小梅に言われて、そうだと思い至る。自分が小梅の部屋に足を踏み入れた時だって、小梅は『恥ずかしい』と言っていた。その時は小梅も、少なからず緊張はしていたであろう。だが、あの時は小梅は意を決して織部を招き入れた。同じく緊張している織部だけが、『やっぱりだめだ』と拒絶するのはフェアじゃない。

 恥ずかしいのは一緒だ。

 

「じゃあ、開けるよ」

 

 腹を決めて、ドアを開けて壁際の電気のスイッチを入れる。暖色系の電気がつき、部屋の全貌が明らかになる。

 部屋の壁紙は飾らない白で、置かれている家具も学習机、服を仕舞う箪笥、本棚、そしてシングルサイズのベッドが1台と、見るからに無駄なものが無い。

 小梅が興味ありげに本棚を見ると、『わっ』と小さく声を洩らした。何しろ、本棚の3分の1ぐらいを占めているのは勉強の参考書だ。小学校辺りから、こうして参考書を買い始めるようになり、自発的に勉強をしていた。中学で不登校になった際も、参考書で勉強は止めていなかったこともある。織部は根本的に、勉強を苦行とは思わず、楽しいとさえ思っていたからだ。

 残りの3分の2はどうなのかと言うと、まずその内の半分は有名どころの小説やマンガだった。しかし、これらの本が比較的下の方、取りにくい位置に収めてある辺り、これらの本を普段はあまり読もうとしない、真面目な人間性が見て取れる。

 そして半分は。

 

「・・・・・・戦車の本、ですか・・・?」

「・・・・・・まあ、ハマった時にちょっといろいろ買っちゃった」

 

 戦車道、もしくは戦車関係の本だった。戦車道のルールブックや、世界各国の有名な戦車の図鑑、WW2の戦術、本当にあった怖い戦車など、色々あった。

 戦車道に触れてその世界に引き込まれてから、戦車に対する探究心が湧いて、そしてこうした書籍を買い求めたのだろう。おそらく、これらの本は1から10まで全て読んだに違いない。途中で飽きて止めることはないと、真面目な織部を見ていればわかる。

 

「そうだ、小梅さん」

「はい?」

 

 そこで織部が、何かを思い出したように小梅に話しかける。

 

「明日、ちょっと小梅さんと行きたい場所があるんだけど・・・良ければ、付き合ってもらえるかな?」

「もちろん、良いですよ」

 

 断る理由はない。織部と一緒であれば、どこだろうと楽しいし、決して無駄な時間にならないという自信がある。

 

「ありがとうね」

 

 そこで織部は、いつものように笑ってくれる。

だが、小梅の頭には引っかかることがあった。具体的に何が引っかかるのかは言葉にできないが、何か小さな違和感があった。

 その違和感の正体が分からないまま就寝時間を迎えて、織部と小梅はまた2人でシングルベッドに寝る。小梅の実家で初めて2人で寝る時とは違い、緊張や不安、焦りはない。小梅の家で慣れてしまったというのもあるし、今さら2人はこのぐらいで遠慮したりするような関係ではなくなったのだ。

 明かりを消し、ベッドに入り2人並んで寝転ぶ。そこで織部は、おもむろに言葉を紡ぎ出した。

 

「・・・・・・僕ら・・・将来、本当に結婚できるようになったんだね」

「・・・・・・ええ、そうですね」

 

 今までは、どれだけお互いに相手の事を好きだと言っても、将来結ばれることを望んでも、それは決して本当に実現できるかどうかは分からなかった。もしかしたら、小梅か織部、どちらかの両親が反対する事だってあり得た話だった。だから、今まではまだ、その将来の事はあくまでも希望だった。

 けれど今日、さっき、織部の両親が2人の事を認めた事で、その想い描く将来も実現する事ができるようになった。

 これまで2人は、その未来の事を考えたり、口にしたりするとき、心のどこかでは『もしもそれができなかったら、叶わなかったら』と大なり小なり考えてしまっていた。

 だが、その憂いも今日をもって必要なくなる。織部と小梅、両者の両親から交際と結婚が認められた事で、そんな心配もすることはなくなった。後はもう、2人のそうなりたいという想いと行動が、それを実現させるだけだ。

 

「・・・・・・今、僕・・・すごい安心してる」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 電気が落とされ、ほぼ暗闇に近い状況の中、織部は小梅の手を優しく握る。

 

「・・・・・・言葉にできないぐらい、嬉しい」

 

 織部はそう言った通り、どう言葉にすればいいのか分からなかった。自分の中にある嬉しいという気持ちや、安堵・安心の気持ち、そして喜びの気持ち。それらをひとつ残らず全て小梅に告げたい。

 だが、それらをどう表現すればいいのか、織部には分からない。ただその感情を羅列しても、薄いと思われてしまうかもしれなかった。

 だからせめてと、小梅の手を握り、その喜びを少しでも伝えようとする。

 一方で、小梅は。

 

「私も・・・同じです」

 

 織部が握る手を、優しく握り返してくれる。

 もちろん小梅だって、嬉しくないはずがない。ずっとその未来を望み、その未来が叶ってほしいと切に願っていた。

 今日、また一歩その未来に近づくことができ、そして後は、織部と小梅の2人でその未来が来る事を疑わず、信じて突き進んでいくだけだ。

 そして何よりも、小梅はその未来が訪れる事が決まったも同然になって、自分の中にある嬉しさや未来への希望に拍車がかかった。

 

「・・・私・・・今からでも、この先の事が待ち遠しいです」

「?」

 

 だって、と言いながら小梅は身をもぞもぞと動かして、布団で顔を少し隠す。その仕草だけで、小梅が少し恥ずかしがっているというのが織部には分かった。

 

「・・・・・・春貴さんと2人で、ずっと一緒にいられたらって・・・“家族”で過ごせたらって考えると、幸せって事しか考えられないですから」

 

 織部の口から、空気が抜けるような笑い声が漏れ出す。

だがそれは決して、失笑や嘲笑などではない。それほどまでに小梅が、織部とのこの先の夢に希望を持っていると、織部の事を好いているのだと、心底思わせてくれることが嬉しかったから。

 そして、自分が小梅と出会って少しの間は、小梅は未来に夢を持つこともできず、悩み後悔して落ち込んでいて、ずっと孤独に近かった。その小梅が今、こうして自分と一緒にいる事を幸せと言って、そして先の夢も見据えるまでに至った事もまた嬉しかったからだ。

 そこまで自分の事を好きでいてくれている小梅の事も、織部は好きだった。

 だから小梅の事を優しく抱きしめて、心の中にある小梅への愛おしさや嬉しさを行動で示す。

 

「・・・・・・ありがとう、小梅さん。僕の事を、そこまで・・・」

 

 小梅も、布団の中だからと、恥ずかしいことを言ったからと嫌がるそぶりは見せず、織部の腕の中で目を閉じて、静かに笑っていた。

 そして2人は、そのまま眠りに就いた。

 

 

 翌日、織部は小梅を連れてある場所へと向かっていた。昨日の言葉の通り、小梅を連れて行きたかった場所だ。

 そこは一応、織部の歩く速さで言えば大体20分ほどで着く場所だが、それは1人だけで歩いた時の時間だ。今は小梅がいるので1人でさっさと行くというわけにはいかないため、小梅と歩調を合わせて歩いている。結果、織部1人で行く時よりも少し時間はかかっていた。だからと言って気を悪くすることはないが。

 やがて2人は、有刺鉄線付きのフェンスで仕切られた広い草原の前にやってきた。

 

「ここは・・・?」

 

 先ほどまでは静かな住宅街だったのに、いきなりこんな平原が姿を現すとは。わけも分からず、小梅は周囲を見渡す。

すると、フェンスに白い看板が取り付けてあるのに気づいた。そこに書いてある文章を読み、小梅はここが何なのかを理解する。

 

「戦車の、演習場?」

「そうだよ」

 

 その白い看板には、『戦車道演習場につき、関係者以外立ち入り禁止』と書かれていた。

 まさかこんなところに、こんな広大な土地があるとは。小梅が少しばかり驚いていると、織部が『こっちだよ』と言って再び歩き出す。どうやら、小梅を連れて来たかった場所は正確にはここではないらしい。

 そして、フェンスに沿って歩道を歩いていると、電光掲示板が立っているのに気付く。織部は『こんなのできたんだ』と呟いた。前に織部がここに来た時は無かったらしい。そしてその掲示板には、『本日、一部区域無料開放中』とあった。恐らく今日は、演習場を使う予定が無いから一般に一部区域を開放しているのだろう。

 さらにそのまま数分ほど歩くと、1つの建物が目に入った。それは、二階建てのコンクリート造りの無機質な建物だった。外側には、階段が付設されており、屋上へと上がることができる。

 織部は小梅を連れて、その階段をのぼり屋上へと足を踏み入れる。そして目の前に広がる草原の演習場を前にして、大きく息を吐いた。

 

「・・・ここは、変わってないなぁ」

 

 先ほどの掲示板を見た時もそうだったが、まるで織部はかつてここに来た事があるような口ぶりだ。広義に言えばここも織部の地元に含まれるのだろうが、それにしたって随分と思い入れがあるように聞こえる。

 と、そこで小梅はハッとようやく気づいた。

 

「もしかして、ここは・・・」

 

 柵を握る織部の背中に小梅は言葉を投げかける。それだけで意味が通じたのか、織部は小さく頷いて、答えた。

 

「僕が初めて、戦車道に触れた場所だ」

 

 不登校だった時、気まぐれにも近い感覚で、家から双眼鏡を持ち出し戦車道を観戦した場所だ。

 あの時、ここで戦車道の試合を観たことで、戦車道の世界に触れ、そして自分の将来なりたいものも見つけるきっかけにもなった。

 そして、その将来の夢を実現させようと強く願い、自分を奮い立たせて不登校から抜け出して、勤勉、努力を重ねて今こうしてその将来の夢が近づいてきている。

 織部が今現在黒森峰に短期留学できているのも、小梅という恋人ができたのも、全てはここで戦車道の世界に触れなければ実現しなかった事だ。

 今の織部を形成しているすべての始まりとなった場所が、ここだ。

 

「ここが・・・・・・」

 

 織部にとっては重要とも言えるこの場所に、小梅を連れてきた理由。それには意味があるのだと小梅には分かっていた。

 

「・・・ここで戦車道に触れなければ、僕は今ここにはいない。黒森峰に来て戦車道の勉強をする事も、小梅さんっていうかけがえのない人もできなかった」

 

 穏やかな風が吹き、緑の草が揺れる草原の演習場を見つめたまま、織部はゆっくりと話す。

 今、織部の目には何が映っているのだろうか。ただ目の前に広がる草原なのか、それとも初めて見た戦車の試合を思い出しているのか。

 

「僕にとっては、人生を変えた場所と言ってもいいぐらいだ」

「・・・・・・そんな大切な場所へ・・・どうして私を?」

 

 小梅は問うが、その答えは何となくだが掴めていた。

 

「・・・・・・小梅さんには、全部知ってほしかったんだ。僕にとっての大切な場所を」

 

 自分にとっての大切な場所を教えるというのは、相手の事を信頼しているからであり、その場所を共有したいという気持ちもある。そして織部にとっては、自分の起源とも言える場所を小梅に教える事で、改めて自分の事を知ってほしいという願望もあった。

 織部と小梅は、付き合い初めてから3カ月以上が経過し、随分と色々相手の知らない一面を垣間見ることができたような気がしていた。

 しかし、それだけではなく、こうしてここに連れてきた事で小梅に自分の事を理解してもらい、織部は2人の信頼関係をより深めたいと思っていたのだ。

 それを小梅は理解して、静かに笑い頷く。

 

「・・・・・・それにここは、景色も良くて気持ちいいからね」

 

 織部が再び、演習場に目を向ける。小梅も織部の横に並び、一緒になって演習場を見渡す。

 見渡す限りの平原で、少し目を凝らせば木々も見える。そして草原の上に広がる空には、雲がいくつも浮かび穏やかな風に乗りゆっくりと流れている。都会だったら、こうして雲の動きをじっくり見る事など叶わないだろう。

 広大な景色と言うものは、見ているだけで心地良さを感じ、癒しにも似た感覚を得るものだ。学園艦だって、船であるがゆえに周りは海に囲まれて、水平線まで何も見えないというぐらいには広大な景色を見る事が何度かある。だが、こうして自分の訪れた事のない、または久しく訪れていない場所で見る景色と言うのはまた格別だ。

 

「・・・・・・本当ですね・・・。風が気持ちいいです」

 

 目の前に広がる光景を見て小梅もそう思ったようで、静かに目を閉じる。頬を撫でる風を感じ、風に揺られ草木の揺れる音を静かに楽しむ。自然の音を、満喫していた。

 少しの間はそうして自然の景色と音を楽しんでいたが、今は8月下旬で暑い時期だという事を、風が止みじりじりと照り付ける太陽の光が思い出させる。2人は少し暑くなってきたので引き上げる事にする。

 階段を降りて1階の休憩スペースに足を踏み入れる。中は空調が効いていてとても涼しく、汗がみるみる引いていく。自販機で飲み物でも買おうかと思ったが、このあと買い物に行ってくるよう母から言われたので、そこで買えばいいかと思い何も買わないでおく。小梅も同じようだったので、財布は結局出さなかった。

 木製のベンチに座り、壁にある掲示板を見る。そこには、宣伝とも言うべきチラシが2枚貼ってあった。

 片方は、大学選抜チームとくろがね工業という実業団チーム―――簡単に言うと社会人で構成されたチームが試合を行うという。場所は今年の全国大会決勝が行われた東富士演習場で、日時は今日、しかも時間的に既に始まっていた。もっと早くに知っていれば、行けたかもしれない。

 そしてもう1枚のチラシには、“全国大会エキシビションマッチ”と記載されていた。優勝した学校が主体となる行事のようで、各学校のホームタウンで行うものらしい。もちろん、町がそれを許可しない場合もあり、その場合は公式の演習場で行う、と小梅が教えてくれた。

 試合を行うのは、今年優勝した大洗女子学園、強豪校の聖グロリアーナとプラウダ、そして黒森峰も戦った知波単学園だ。チラシにはそれぞれの学校の校章と主力戦車が映っており、試合日時は明後日の8月24日、場所は大洗町だ。という事は町が試合を行うことを許可したという事になる。

 実に興味を惹かれるものだが、残念ながらその日は織部と小梅が黒森峰に帰る日だった。列車の切符も取っているし、連絡船の時間も限られている。見に行く暇が無かったので、諦めざるを得ない。

 

「もっと都合が合えばよかったんだけどね・・・」

「そうですね・・・。みほさんの試合、見てみたかったです」

 

 確かに、町そのもので試合をするというのは面白そうだったし、それに強豪校が揃って試合をするというのも興味深い。西住みほの奇策や戦いがまた見れるかもしれなかった。戦車道が好きだから、将来も戦車道に携わる事を望んでいたからなおの事、この試合が見れないのは実に惜しい。

 10分ほど休んでから、織部が立ち上がる。母に言われた通り、買い物に行くのだ。

 

「せっかく久々に帰省したっていうのに使い走りなんて・・・ねぇ」

「まあまあ・・・」

 

 織部が不満そうに愚痴るが、小梅が窘める。

 今朝、小梅と出かけると織部が言った矢先に母から買い物をついでに頼まれてしまったのだ。この炎天下の中、しかも歩きとはいささか苦行とも言うべきだったが、小梅が断る事無く引き受けてしまったので、織部も致し方なく従う事にしたのだ。

 立ち上がり、休憩スペースと外を区切るガラス張りのドアを見つめる。外には道路と、フェンスで仕切られた演習場が広がっているが、太陽の光が全力で照らす日の下の温度と、アスファルトの照り返す熱の度合いは、推して知るべしだろう。

 

「・・・・・・やっぱり飲み物買っておこうか。途中で倒れたりしたらマズいし」

「・・・ですね」

 

 せっかく実家に帰り、やっと小梅との未来を実現できる一歩を踏み出したのに、熱中症で倒れたなんてシャレにならない。

 織部が財布を取り出し、スモールサイズのスポーツドリンクを2人分買って1本を小梅に差し出す。一口飲んでから、ドアを開き、外の世界に足を踏み入れる。

 

 

 昼食についてだが、買い物に行った先のスーパーに併設されているファミレスで済ませた。

 そして肝心の買い物について。

 買った食材の量はそこそこ多かったが、レジ袋は3つで済んだので、小梅に負担をかけさせまいと織部が全てを持とうとしたが無理だった。織部は泣く泣く小梅に袋を1つ渡して、2人並んで帰路に就く。

 ただ、炎天下の中で決して短くない時間歩くというのは流石に戦車道を嗜む小梅であってもきついようで、額に汗を浮かばせながら2人は家路を歩いた。家に着くころには織部は溶けてしまいそうなぐらいだれてしまっていて、小梅も大きく息を吐いていた。その後は、1人ずつシャワーを浴びて汗を流し、夕食の時間までは休む事にした。

 そして今日は、昨日の約束通り小梅が母の料理を手伝う。

 その日の夕食はカレーとポテトサラダ、そして漬物で、漬物以外はほとんど小梅の作ったものだと、織部の母は言っていた。

 さて、肝心かなめなの味についてだが。

 

「・・・・・・美味いな」

 

 カレーについても、サラダについても織部の父がそうコメントした。

 普段から物静かで、こうして料理を食べた時などではあまり感想を口にしない織部の父が、こうして味の感想を呟く事は稀だった。だが、この時は織部も織部の母も同意見だったので、揃ってこう口にした。

 

「「美味しい」」

 

 それに対して小梅ははにかみながら、『ありがとうございます』と言っていた。

 

 

 その翌日、織部と小梅は2人で昨日とは違う場所―――電車で少し遠出してデートでもしようかと思ったのだが、まさかの大雨によってどこかへ出かける事もできず、1日を家で過ごす事になってしまった。

 外は涼しいのだろうが、こんな状況で窓を開ければ家の中が湿気で大変なことになりかねないので、窓は閉め切り除湿で室内の湿度を下げている。結果的に家の中は涼しいので快適だった。

 とはいえ、ただ何もしないというのも少し時間を無駄に使う感じがするので、織部と小梅の2人は、織部の部屋で読書に勤しんだ。織部の読んでいる本はお気に入りの推理小説で、小梅の本は織部の本棚にあった『本当にあった怖い戦車』だ。タイトルが気になって読んでみたらしい。

 織部も小梅も、本音を言わせてもらえば2人でどこかへ出かけたい気分だった。けれど、2人で一緒に、雨の音をBGMに静かに読書を楽しむというのも悪くはない。小梅の思っていたように、織部と一緒ならどこでも楽しかったし、たとえ家で読書になろうとも、それは変わらなかった。織部も同じだったようで、不満や愚痴をこぼしたりはしなかった。BGMにしては、外の雨はいささか強すぎるが。

 結局、雨は1日中降り続け、寝る前になってようやく勢いが収まった感じだ。

 その日の夜も、昨日一昨日と同様に2人で寝たのだが、ベッドに横になってすぐに、織部は小梅に謝った。

 

「・・・・・・小梅さんの実家みたいに、あまり外に行けなくてごめんね」

「そんなこと・・・・・・とても楽しかったですよ。昨日の買い物も、今日の読書も」

 

 それは織部も同意見だった。昨日の買い物も暑かったとはいえ、デートとは違う雰囲気で2人で出かけられたのは楽しかったし、今日の読書のような静かな雰囲気で2人で過ごすというのも悪くはなかった。

 しかし小梅の実家では、1日は熱を出した小梅の看病で潰れたとはいえ、お祭りに行って夏らしいことを経験できた。それだというのに、織部の実家に来れば炎天下の買い物と、大雨の足止めときた。天候のせいとはいえ、せめてと思ったデートができなかった事は悔やむに悔やみきれない。

 それで、小梅の気分を害してしまったかと思うと、不安でならなかった。

 だが、横に寝る小梅はそんな気持ちを一切見せないように微笑んで、織部の事を見つめている。

 

「また今度、埋め合わせをさせてほしいかな」

「大丈夫ですよ。そこまで気にしなくても・・・・・・」

「でも・・・・・・」

 

 小梅がそう言っても、織部の気持ちは晴れない。

 だが、どうにかして詫びたいと思い何かを告げようとする織部の口に、小梅が人差し指を添えて言葉を途切れさせる。

 

「・・・いいんですよ。本当に」

 

 先ほどとは違うような声量。普段よりも少し、嬉しさをにじませるような声に織部も口をつぐむ。そこで小梅は指を離し、天井を見上げる。

 

「・・・・・・春貴さんっていう、私が一番好きで・・・一番愛している人と一緒に過ごせたから」

「・・・・・・小梅さん」

 

 小梅は愛おしそうに目を閉じて、そして笑う。

 

「・・・・・・春貴さんと一緒に過ごせただけで、私は十分幸せですから」

 

 その言葉で、織部の心にかかる靄のようなものが払拭されて、心が晴れやかになった気がする。

 自分の事をここまで想ってくれていて、そして今日のように上手く行かなかった日でさえも、一緒にいることができただけで十分幸せだと、織部を安心させるように言ってくれた。

 だからもう、それ以上織部は何も言いはしない。

 ただ、小梅の身体を優しく抱き寄せるだけだ。自分が好きで、愛していて、なおかつその人もまた自分の事を好きでいるのなら、その人に対する嬉しい気持ちは言葉で伝えるよりも行動で示した方が気持ちが伝わりやすい。

 そして小梅も、穏やかな表情を浮かべる。

 しかし織部の頭には、別の考えるべきことがあった。

 夏休みは後、1週間ほどで終わってしまう。

 そして織部の留学期間が終わるのは9月30日。夏休みが終わる8月31日から1カ月後だ。

 とすれば、織部が小梅と一緒にいられる時間もあとわずかしかない。以前、まほの誕生日で小梅に聞かれた時は、まだ3カ月“も”あると言ったが、今となってはさすがにそうも言ってられない。

 本格的に小梅との一時の別れが近づいてきているのを改めて実感し、織部は恐怖にも似た感情を覚える。

 その時が来たら、自分はどうなってしまうのか。どんな顔をして、どんな言葉を告げて、どんな気持ちになるのか。

 それが怖くなり、小梅を抱き締める力を強くする。

 

「・・・・・・春貴さん?」

 

 それで小梅が少し不安な気持ちになってしまったのか、織部の名を呼ぶ。

 

「・・・・・・ごめん、何でもないよ」

 

 その恐怖を悟られたくはなかったし、織部との別れを再認識させて小梅を悲しませたくも無かったから、織部は嘘をついた。

 しかし織部は、嘘をつくのが下手だった。

だから、何かあるというのは小梅にもすぐに感づかれてしまった。

 けれど、長時間の読書で目が疲れていたことと、織部に抱きしめられて温もりを直に感じてしまった事で睡魔に襲われ、小梅は織部が何を隠しているのかを考える間もなく眠ってしまった。




アルストロメリア
科・属名:ユリ科アルストロメリア属
学名:Alstroemeria spp.
和名:夢百合草
別名:百合水仙(ユリズイセン)、インカの百合
原産地:南アメリカ
花言葉:未来への憧れ、幸福な日々、持続など


あまり多くイベントを書いてしまうと、
話的にだれてしまう感じがしたので、少しだけ端折らせていただきました。
お気に召さない場合は、申し訳ございません。
前の話の時は、このイベントは書いておきたいと考えていたんです。
この作品についても、年内には終わらせる所存でありますので、
最後までお付き合いいただければ幸いです。
感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。




多分次回は、織部と小梅はあまり出て来ません。


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緋衣草(サルビア)

もっとらぶらぶ作戦10巻のカバさんチーム高知上陸回に触発され、
高知に旅行していた結果投稿が遅れました。申し訳ございません。

今回は、劇場版のあるシーンを少し掘り下げた内容になっています。
しほさんメイン回で恋愛的要素は無いので、あしからず。


 戦車道西住流本家、つまり西住みほとまほの実家はとにかくデカいし広い。

 庭だけでも十分広いし、母屋の規模もそこらの家とはまるで違う。蔵や離れだっていくつもあり、少し離れた場所にある西住家が所有する戦車道演習場の規模も足したら、最早家というレベルではないぐらいの敷地面積を誇っているぐらいだ。

 しかし、広い分手入れが行き届いていない、と言うわけではない。庭はきちんと専属の庭師を雇って手入れしているし、頻繁に出入りする蔵は毎日とまでは言わないが割と高い頻度で掃除をしている。使わない蔵も、月に1度ぐらいは掃除をする。

 母屋、蔵を含めた建屋の掃除は住み込みの使用人及び家政婦が代行しており、常に建屋の中は清潔に保たれている。今はここを離れてしまったみほの部屋も、毎日欠かさず掃除されている。

 その普通ではない規模の西住家の一室に、西住流の家元・西住しほはいた。

 しほは、高校戦車道連盟の理事長を務めており、加えて最近になって日本戦車道プロリーグ設置委員会の委員長まで任命され、多忙に多忙を重ねる日々を過ごしていた。ある日は1日中書斎に籠りっきりで書類に目を通し、またある日は首都圏まで日本戦車道連盟本部や、戦車道プロリーグ推進を掲げている文部科学省まで赴き、会議に出席する事だってあった。

 さらに忘れてはならないが、しほは西住流の家元として、門下生を指導する立場にある。

 家元を襲名したのは全国大会が終わった後、7月に入ってからで、それまでは師範だった。家元になったから、門下生を指導するのは次代の師範の役目でもあるのだが、しほにとっては自分が自ら門下生を指導する立場の方が性に合う。だからしほは、今も直接門下生たちを指導していた。

 そんな東奔西走する日々を過ごすしほは今。

 

(・・・・・・どうしたものかしらね)

 

 ローテーブルの上に載せている便箋と万年筆、そして宛先が既に記されている封筒を前にして唸っていた。

 しほは大体、戦車道に関する書類を読む時、もしくは戦車道関係者への手紙を書く時は書斎を使う。書斎なら戦車道の記録やこれまでの書類が一通り保管されているので、何かを調べる際は書斎の方が効率がいい。しほの中では、書斎は戦車道に関する仕事をする際に使う部屋と定義づけている。

 だが、今しほがいるのは書斎ではなく私室だ。床は畳張りで、木製のローテーブルが1つ、壁には『公平無私』と力強く書かれた掛け軸、縁側と庭を隔てるのは障子と、純和風なイメージがある。娘二人の部屋はモダンな感じがするのだが、西住流は基本的に和風のイメージが強い。今しほがいる母屋も、全体的に日本の伝統的な木造建築物がベースになっている。

 では、私室で手紙を書くという事は、その相手は西住流とも、戦車道とも関係ない、プライベートな人物という事になる。

 だが、目の前にある便せんには、“拝啓”の文字はもちろん、何も書かれていないまっさらな状態だ。万年筆のキャップもはめたままで、準備をしたは良いが何を書けばいいのか分からない、といった様子だ。

 実際その通りで、これからある人物に宛てる手紙の書き出しがしほには分からなかった。

 書き出しにすら迷うような宛先とは、いったい誰なのか。

 その答えは、傍に置いてある封筒に記されていた。

 

(・・・・・・後回しにしなければよかった)

 

 その封筒には、『西住みほ様』と記されており、今みほが暮らしている学園艦の住所も書いてあった。

 

 

 しほが、みほに向けて手紙を書こうと思い立ったのは今日ではない。

 発端は1週間以上も前。夏休み後半に差し掛かって黒森峰戦車隊の練習が休みになり、まほが帰省した日の事だ。

 夕食の席でまほが、しほに『少し話をしたい』と切り出して、仕事の兼ね合いもあって20時半頃にしほはまほに客間に来るようにした。

『前進あるのみ』『紫電一閃』と書かれた掛け軸と、イギリスの戦車・Mk.Ⅳの水墨画が描かれた襖がシンボルのこの客間は、昨年の全国大会で“ミス”を犯したみほの事を叱責した場でもあり、また今年の全国大会準決勝前、しほがまほに『みほを勘当する』と告げた場でもある。西住流にとってこの部屋は、客間というよりも重大な話をする場という意味合いが強い。

 約束の時間の直前にまほは襖を開けて部屋に入り、既に待っていたしほの正面にテーブルを挟んで正座する。

 

「あなたから話とは、珍しい事ね」

「どうしても、お話ししたい事がございまして」

 

 交わされる言葉は、事情を知らない人から見れば親子の会話とは到底思えないだろう。2人は真剣な表情をしており、親が子に対しても、子が親に対しても敬語を使うケース事態稀だからだ。もっとまほが幼いころは砕けた口調で話していたものだったが、まほが成長して西住流の中では自分より立場が上だと認識してから、プライベートでも敬語を話すようになったのだ。時として成長は恐ろしいものだとしみじみ思う。

 

「何かしら?」

「・・・・・・みほの事についてです」

 

 まほの、ほんのわずかな躊躇いの直後に告げられたみほの名。それを聞いてしほの肩がピクッとわずかに跳ねる。それを見逃さないまほではない。

 

「みほの何を?」

 

 しほの口調は、変わっていないように思える。だが、相対するまほからすれば、しほの纏う空気が若干変わったのは肌で感じられ、その言葉にも何かの感情が上乗せされていると直感で思う。

 だが、もうここから戻る事はできない。自分の考えて、また不安に思う事を聞き、それからどうするのかを決める。

 

「・・・・・・全国大会でお母様は、みほを勘当するとおしゃっていましたが、その話はどうなったのかが気になりまして」

 

 みほ率いる大洗女子学園、全国大会2回戦のアンツィオ高校戦に勝利し、その功績が戦車道新聞に載っているのを見て、しほは今座っているこの客間で確かにまほにそう言った記憶がある。

 あの時は、確かにみほに対して憤りを感じていたし、西住流の恥をなお晒しているとも思っていた。

 では、今もそう考えているのかと言われると、そうではない。

 

「確かにあの時はそう言ったわ」

「・・・・・・」

「『もう戦車道を続けられない』と言ったにも拘らず大洗で戦車道を勝手に始め、西住を名乗りながらも違う戦いを見せて・・・」

「・・・・・・」

 

 しほの言葉は、一つの見方だ。師範と言う立場で客観的かつ現実的に見れば、みほの行いはそう見えてしまう。だからまほも反論はできず、ただ聞く事しかできなかった。

 

「そんなみほが、去年優勝したプラウダ、もしくは本来の西住流の戦い方をする黒森峰に負ければ、みほの戦い方も結局は間違っていたという事になる。そうなれば・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

「去年の全国大会での失態、勝手に戦車道を始めた事、間違った西住流の戦いを見せた事。これまでのツケを清算させる形で、あの子を勘当するつもりだったわ」

 

 そこでまほは『つもりだった』という過去形の言葉遣いに、疑問符を浮かべる。

 

「・・・・・・けれど、みほはプラウダに勝ち、さらにあなた達黒森峰にも勝利して、優勝をもぎ取った。それは、みほの戦い方が本来の西住流よりも強いという事を証明した」

「・・・・・・」

「・・・・・・私はそれを見て、みほの中には西住流を超えるほどの才能がある事を知った・・・。けれどその才能は、黒森峰では押さえつけられて表に出せず、ずっと腐らせてしまっていたとも同時に気付いた」

「・・・・・・」

 

 しほの言葉に、僅かながらにも嬉しさが含まれているのを、まほは敏感に感じ取った。その嬉しさは、西住流を率いる者としてなのか、それともみほの親だからなのか。それは分からないが、みほを認めているという事だけは分かる。

 

「・・・去年の全国大会と同じ、みほはまた勝ち負けを気にせず仲間を助けに行った。そして勝ったのだから、去年の行動も一概に全部間違っていた、とは言い切れなくなった」

「・・・・・・」

 

 要するに、としほは一区切りして小さく息を吐いた。

 

「みほも、戦い方が西住流とは違うとしても、戦車乗りとしてあなたに勝るとも劣らぬ才能を持っていた。そんなみほを、勘当するつもりはない、という事よ」

 

 目を閉じながら告げたしほの言葉に、まほは内心では大きく息を吐いて安堵した。

 今日まで、みほの事についてはしほが何も言って無かったので不安だったのだが、今こうしてしほから『勘当はしない』と明確に告げられたことで、その不安を抱く事も無くなる。

 まほにとってみほは大切な妹であり、唯一無二の、かけがえのない存在だ。だから、勘当と言う形で赤の他人となってしまうのはとても耐えがたい事だし、今まで通りの自分でいられるかも疑わしかった。

 だから、今のまほの安心感はひとしおと言うものだった。

 

「・・・・・・話はそれだけかしら?」

 

 しほが聞いてくるが、まほはみほの勘当が無くなった事でまた少ししほに聞きたい事ができる。

 

「・・・・・・聞いてもいいでしょうか?」

「?」

 

 しほが話を聞く姿勢になる。まほは自分の聞きたいことを、しほに直接ぶつけた。婉曲表現も、回りくどい聞き方もせず、直球で。

 

「お母様は、みほの事をどう思っているのですか?」

 

 随分と哲学的で、根本的な事を聞いてきたものだと、しほは思う。

 しほがみほの事をどう思っているか、という問いに対する答えは、正直に言うと既に見つかっていた。

 だが、普段の自分の印象からしてそんなことを言うのは柄に合わないし、恥ずかしい。今話を聞いているのはまほだけだから、言っても笑いはしないだろうが、気恥ずかしさはある。

 かといって何も答えなければ、何とも思っていないと捉えられかねないしそれは避けたい。

 だから、多少の恥を忍んで素直に答えるべきだろう。

 

「・・・・・・去年の、全国大会決勝でのみほの行動・・・。あの時私は師範として、みほの事を厳しく叱責しました」

「・・・・・・」

「ですが・・・。あの時の私個人・・・親としての気持ちは、人として誇るべき、立派な事を成し遂げたと思っています」

「!」

 

 まほが驚いたような顔をするが、対照的にしほは内心で顔を抑えるぐらいは恥ずかしい。こうして人の事を正直に褒めるというのは慣れていない事だし、それが実の娘となるとなおのことだ。

 そして、みほの事を『立派な事を成し遂げた』と誰かに言ったのは今が初めてだ。心の奥底ではそう思っていても口に出すのは師範として憚られたので、みほとまほにはもちろんの事、夫の常夫にもこれは言っていない。

 

「自分なりの戦車道を仲間とともに見つけ、西住流であるあなたを超えて、強さを証明したみほは・・・」

 

 相手を褒める自分の気持ちを正直に述べるのは思いのほか恥ずかしいので、急いで結論付けて話を切り上げようとする。

 

「・・・・・・自慢の娘でもあるわ」

 

 まほが笑った。

 自分の目の前では大体思いつめた表情か、キリっとした表情を浮かべていることが多いというのに。今のような話をしている時はもちろん、食事をする時だって表情を崩さないまほが、今まさに笑っている。

 馬鹿にされている、とは思わない。どうやらまほも、しほ自身と同じ気持ちらしい。

 

「それは・・・・・・みほに直接言った方がいいですよ」

 

 まほのアドバイスは、至極まともな事だと思う。

 だが、しほはそれを拒む。

 

「・・・そう言ってみほが驕り、つけ上がっては意味がないわ。みほの事を褒めて、それでみほが才能を失ってしまっては本末転倒。それではあの子がせっかく見つけた戦車道も―――」

「そうはなりません」

 

 しほの言葉を途中で遮り否定するまほ。その顔からは先ほど浮かべていた笑みを引っ込めて、真剣な顔つきでしほの顔を見据えている。

 しほの言葉を遮る事など今まで無かったので少し驚いたが、まほの表情を前にして、しほもそれを責める気は起きない。

 

「私は・・・・・・先月みほを黒森峰学園艦に招き、少し話をしました」

「話?」

「はい。去年のあの決勝戦の後、黒森峰で責め立てられていたみほの事を庇えなかったことを、謝ったんです」

 

 ここでまほは、しほの表情を覗う。しほがみほの事を認めていたのは先ほど理解したが、まほがみほの事を考えていて、みほを守ることができなかったのを悔いているのについてどう思っているのかは、また別の問題だ。ここで叱責の1つでも飛んできかねない。

 しほは、何も言わずに続きを促している。

 

「・・・あの時一緒に戦っていた戦車隊の隊員はともかく、戦車隊に属さない、本当に部外者でさえもみほの事を責め立てていた。それが私はどうしても許せなくて、憤りを抱いていました。けれど、戦車隊を立て直すので手いっぱいだった私は、みほを守ることができず・・・ただ状況を見ていることしかできませんでした」

「・・・・・・それについて、謝ったと」

「はい」

 

 自分のあずかり知らぬところでそんな事があったとは。しほは、少しばかり感心する。

とはいえ、黒森峰学園艦と言う海上の独立した場所にいるうえ、まほも毎日しほと電話をするわけでもないから、まほの近況についてはあまり知らないから仕方ない事だ。

 それにしても。

 

「・・・・・・あなたが、自分からみほを招くとはね」

 

 それが一番の驚きだ。

 自分の事もあるが、まほは親から見ても人付き合いについては少し不器用な感じがする。西住流の後継者、国際強化選手という肩書で敬遠されやすいというところもあるだろうが、それを差し引いてもまほは少々人付き合いが苦手な面がある。

 そのまほが、自分から思い切って人を招くとは思わなかったのだ。相手が妹と言う気心知れた血のつながりのある人だからというのもあるだろうが。

 

「・・・・・・ある人と少し話をして、みほに謝りたいという気持ちを素直に話したんです。それでその人は、誠意を持って謝れば、想いは伝わると」

「・・・・・・」

「その人と相談をして、私の中でみほに謝ろうという決意が固まり、そして私は、みほに謝りました」

 

 そのまほが相談した人物の大体の見当が、しほにはついていた。

 おそらくは、現在黒森峰に留学という前代未聞なケースで来ている織部春貴だろう。

 そう思ったのは、相談した相手の事を“その人”と表現したことだ。戦車隊のメンバーであれば、“隊員から”と言うだろうし、西住流を信奉する逸見エリカという少女だったらしほも知っているのでその名前を呼ぶはずだ。それらのどれでもなければ、おのずと答えは見えてくる。

 だが、どうして織部と言わなかったのかは、しほにとっても少し疑問だったがそれは置いておく。今は、まほの話が先だ。

 

「それで私はみほに謝ると・・・みほは・・・・・・笑ってくれました」

「?」

「私は優しいのだと。昔と変わらず優しくて、みほの事を思ってくれていたのだと」

「・・・・・・」

 

 みほは、姉であるまほの事を信じていて、さらにみほが去る前にまほが戦車隊の立て直しをしていてみほの事を気にかけられなかった事も知っていた。

 まだ2人が幼いころ、しほがいたずらをしたみほを叱る時もまほは庇ってくれた。だから、みほの言っていた、まほが優しいというのも間違ってはいないと、親であるしほは知っている。

 

「みほは、優しい心を持っています。そして、尊大な性格をしてはいません。そうであれば、決勝戦の前で各学校が応援に駆け付け、みほに激励の言葉を贈りはしないでしょう」

「・・・・・・・・・」

「だから、謝られていい気になったり、驕り高ぶるような事も無いと、私は考えています」

 

 まほの言葉からは、真剣さと真面目さ、そしてみほを信じる気持ちが十二分に伝わってくる。

 

「それにみほだって、お母様と仲直りはしたいと思っているはずです」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 それについてしほは、心当たりがある。というか心当たりしかない。

 去年の決勝戦の後、この部屋でみほの事をひどく咎めて以来、みほとはあまり会話をしていなかった記憶がある。電話はおろか、正月や長期休業で帰省した時も、大洗に転校するために荷物を纏めていた時でさえ。

 それは恐らく、みほがしほの事を恐れて必要以上に近づかず話しかけないようにしていたからだろう。これで親子の仲は良いとは、絶対言えない。

 

「みほは恐らく、自分の事を責めたお母様の事を・・・・・・少なからず恐れています。だからこそ、なかなか話を切り出せない・・・・・・・・・」

「だから、私から言うべき、と」

「・・・・・・・・・・・・はい」

 

 まほの言いたいことを先読みして告げると、まほは委縮するかのように顔を少し下に向ける。

 だが、まほの言い分はもっともだ。

 しほとみほとの仲が拗れてしまったのは、元をたどればみほの行動が原因だが、決定的なことは、しほがみほの事を責めてしまい、親としての『人として誇るべき、立派な事を成し遂げた』という気持ちを伝えず、ただ“親”としてではなく“師範”としてだけ厳しく接してしまったからだ。

 師範として厳しくと考えた結果がこれだ。これについては、しほに非がある。

 それにしほ自身、決勝戦でみほの試合を見届けて、そして今日まほの話を聞いたうえでも、みほには謝りたい、そして可能であれば仲直りをしたいという気持ちが自分の中に芽生えつつあった。

 まほの行動を真似るわけではないが、去年のしほが抱いていた本当の気持ちを伝え、そして新しくみほが見つけた戦車道についてはどう思い、しほ自身がみほに伝えたい言葉を伝える。

 その芽生えた気持ちはやがて決意に変わり、まほに向けてこう告げた。

 

「・・・・・・分かったわ」

「・・・・・・はっ?」

 

 しほの言葉に、まほは顔全体で『?』を表す。どういう意味での『分かった』なのかが理解できていないからだ。

 言葉が足りないのは自分も同じか、としほは心の中で嘆息して結論を述べた。

 

「・・・・・・みほに、話をします」

「!」

「私が本当はどう思っているのか、どんな言葉を伝えたいのかを」

 

 

 

 その時そう決意し、そう告げたのだが、しほは未だにその気持ちを伝えられないでいた。

 話をする気が失せてしまったとかそんな無責任な理由ではない。伝える手段が限られているからだ。

 しほのいる熊本の西住流本家と、みほのいる大洗女子学園艦の距離は遠く離れている。おまけにしほは多忙な身であるから、みほと会うためだけに時間を割くというのは難しい話だ。よって、直接会って話すという極めて有効な手段がいの一番に除外されてしまった。

 となれば残る手段の数は少ない。電話か、メールか、手紙、何らかの媒体で連絡を取る事だ。

 ただ、電話だと顔が見えない状態で話をするという事になる。それは少し気まずいし、相手の表情が見えないから緊張する(しほにだって緊張したりする場面はあるのだ)。電話は諦めた。

 メールも、あまり使いたくはない。言いたいことを全て書くとなると膨大な量になるのは必至だし、書いている本人ですら読みにくいという事になるだろう。逆に短くすれば誠意が伝わらない。それに何より、しほは機械音痴の気があり、メールを打つのもあまり得意ではない。だからメールと言う選択肢も諦めた。

 消去法で残ったのが手紙だが、これはこれで悪くない手段だとしほは思う。手書きであれば、書いている人がどれだけ真剣に書いたのかが筆跡で伝わりやすいし、何より自分が気持ちを込めて書けば、相手にだってそれは伝わるはずだ。そしてしほは、各方面へ送る暑中見舞いや年賀状などで、手紙を書く事自体には慣れっこだった。自分が一番しっくりくるやり方なら、苦労はしない。

 そう思ってしほは、みほに手紙を書く事にしたのだ。

 だがそれでも、しほの多忙なスケジュールは変わらず、ゆっくりじっくり手紙を書く時間など無かった。それで遅れた結果、まほと話してから1週間以上たった今日、やっと休める時間ができたのでその時間を使い書こうとしているわけだ。

 いや、正直に言うと多忙というのを言い訳にして、手紙を書く事を遠ざけていたところがある。

 と言っても、手紙を書くのが嫌だったから後回しにしていたというわけではない。むしろその逆で、早く書かないと仲が余計拗れると思っていたので、早く書かないとと思っていた。寝る前や昼食後の食休みなどのほんのわずかな空いた時間でも、せめてメモ程度でも書いてしまおうと思っていたのだ。

 しかし、自分の抱く感情をそのまま文字におこすというのは意外と難しいもので、中々思うように筆が進まず、メモも書けていないのに、普段の執務は驚くほどすらすらとこなすことができてしまった。宿題を前にして猛烈に掃除がしたい欲求に駆られ部屋を綺麗にしてしまう学生と同じ感覚だろうか。

 兎にも角にも、本当に今日1日は予定も無いので、今日こそが集中して手紙を書くチャンスだ。

 みほに何を伝えたいのかは頭の中にある。だが、どう表現すればいいのかが明確になっていない。そして、家族間での手紙と言うのは初めてで、定期的に送っているみほへの仕送りにも手紙など添えていない。故に、書き出しすらもどう書けばいいのか分からなくて、目の前にある便箋には今なお何も書かれていない。

 どう書けばいいのかが分からなず、今なお手紙が書けていない状況を、ついこの前夫の常夫にこぼしてしまったら。

 

『戦車道の事はきっちりしてるのに、他の事は不器用だからねぇ』

 

 と、苦笑しながら言われてしまった。間違ってはいないので、反論もできない。

 常夫は普段は寡黙なイメージがあるが、言う時は結構はっきり言うタイプだという事は百も承知だったし、そういうところがしほは好きなので何も言いはしない。

 話が少し逸れたが、しほは今なお何も書けずにいる。

 誰かにアドバイスをもらうというのも1つの手だろうが、それは少し憚られた。

 ・・・・・・1人、自分と同じく戦車道の家元で、自分と同じく年頃の娘がいて、その娘が戦車道を嗜んでいるという人物を1人知っている。知っているのだが、そいつに相談するというのは論外だ。腐れ縁ではあるが、娘との付き合い方で悶々としているなんて言えばそいつには絶対笑われるに決まってるし、しばらくの間は酒の肴としてネタにされる。実際、そいつは娘との仲は比較的良好なのだから。

 さて、どう書けばいいものかとかれこれ数回はしているため息をついたところで、人の気配に気付いた。

 横を見れば、家政婦の井手上菊代が、冷えた麦茶と氷の入ったポットとガラスのコップの載ったお盆を持って立っていた。

 

「随分と考え込んでいるようですね、家元」

 

 困ったように笑う菊代。だが、その前にしほは言いたい事があった。

 

「・・・ノックぐらいしなさい」

「しましたよ?何度も」

「・・・・・・・・・」

 

 菊代が嘘をついている様子は無い。どうやら、しほが気付かなかっただけらしい。まさか、ノックの音にすら気付かないほど集中し、思い悩んでいたとは。

 菊代はお盆を畳に置き、コップに麦茶を注いでしほの前に差し出す。しほは遠慮もせずに麦茶をひと呷り。それだけで心がスッと冷静になった気がする。

 

「・・・みほお嬢様への手紙ですか?」

 

 言われてしほは、みほの名前と住所が書いてある封筒がそのままになっていたのに今更気付いた。それを見られ、小さく咳払いするしほ。

 

「なるほど、最近の不調はそれでしたか」

「・・・・・・・・・何の事かしら」

「ここ最近、家元は何かとそわそわしているような気がしたので。執務中や食事中も、どこか悩んでいるように見えましたから」

 

 食事中(もちろんこの本家で食べる時)は、そんな自覚はある。みほへの手紙を考えているあまり、あまり料理の味に集中できないことが多々あった。だが、執務中とはどういう事だろう?それが気になったので聞いてみると。

 

「普段よりも書類を読むスピードとか書くスピードが、少し速いと思いまして。違和感があったんですよ」

 

 菊代は、しほが黒森峰で戦車隊に所属して隊長を務めていた時の後輩だ。そして菊代の性格と戦車乗りとしての腕前は、みほとまほを足して2で割ったよう、という表現がしっくりくる。つまり、性格は穏やかだが戦車乗りとしての腕は確かだった。

 そして同じ隊に所属していたからなのか、菊代は他の家政婦や使用人と比べると、しほに対して遠慮や謙遜なく話すことができる。しほもそれはありがたく、菊代の前では素でいられるので安心感を覚えていた。

 そんな菊代は、戦車乗りだったからなのかそうでないのかは分からないが、人の事をよく観察している。ここ数日のしほの様子からそこまで推察したとは。

 

「・・・・・・何故今みほに手紙を書いているのか、という理由は話しておくべきかしらね?」

「そうですね・・・・・・まあ、この前まほお嬢様と何か話をされていたので・・・大体見当はついてます」

 

 つくづく、菊代は洞察力が良いと思い、しほは苦笑する。戦車乗りのままだったら、今頃は優秀な選手だっただろうに。

 しほが黒森峰を卒業して少し年月が経ってから、菊代が黒森峰を卒業すると家政婦養成学校へ入学したと聞いた時には心底驚いたものだ。隊長目線で見れば戦車乗りとして秀でていた菊代が戦車道から離れるとは、と。

 その時、思わず連絡を取って聞いたところ、菊代は。

 

『女心は秋の空、って言うじゃないですか』

 

 大変抽象的でなおかつほんわかとした回答しか得られなかったので、しほは大いに理解に苦しんだ。

 とはいえ、その戦車乗りとしての腕は捨てがたいものだったので、ダメもとで西住家で働かないかと誘ってみたところ快諾してくれたので、こうして西住家でお手伝いをしている。

 しかし時には、西住流の訓練の監督もしてくれていて、しほにとってはありがたい存在だ。だから彼女の給料は他の使用人と比べると少し弾んでいる。

 

「・・・・・・誤解を招かないように言っておくけれど、私はあの子をどうこうするつもりはもうないわ。ただ、少しだけ謝りたいと思うだけよ」

「・・・・・・驚きです」

 

 菊代が、少し驚いたように口元に手を当てて微笑む。確かに、厳格だという自覚のある自分がみほに謝りたいというのは、普段のしほの人となりを知る菊代からすれば驚きだろう。

 

「みほとの関係が拗れてしまったのは、大体は私のせいでもある。だから、こちらから謝り、歩み寄るべきだと、まほに言われてね」

「・・・確かに、家元がみほお嬢様にもう少しやんわりと言っていれば、少し変わっていたかもしれませんからね」

「・・・・・・少しは否定しなさい」

「事実ですし」

 

 去年の全国大会決勝戦は、菊代は会場で直接観戦していたのではなく、テレビ中継を見ていた。だから、みほの行動も知っている。

 そして、みほの事をしほが厳しく責めた事も知っている。

 あの時のみほの行動は、みほとの付き合いがそれなりに長く、みほが仲間を大切にする優しい性格だと知っている菊代からすれば『みほならやりそうなことだ』と思っていた。

 それは親であるしほだって分かっていただろうに、みほの行動は人間としては誇らしいものだと思っていただろうにそれを微塵も伝えずただ責めた。それについては、菊代も少しばかり悲しいと思った。

 

「・・・・・・だからこそ、私自身からみほに伝えたい。とはいえ、電話は緊張するし、メールを打つのも慣れてないし」

「それで手紙にしたと」

「ええ。でも、身内へ送る手紙って初めてだし、どう書いたらいいものか分からないわね」

「それは分かります。私も、学園艦暮らしの時、親に手紙を書く段階でどう書けばいいんだろう、って悩んだ記憶がありますよ」

 

 菊代が昔を思い出すように話し、しほもうんと頷く。しほだって人の子だし、学園艦で生活していた時もあったのだから、菊代の言っていたような事だって経験している。

 だが、その時とは勝手が違う。学生の頃は単なる近況報告だったのに対し、今回のメインテーマはしほがみほに謝る事だ。それは近況報告とは言えない。

 

「何を書いたらいいのか分からないのよ。書き出しとか、文体とか・・・書きたいことはたくさんあるのになかなか取捨選択できないというか」

「無礼を承知で言いますが、面倒くさいですね」

 

 バッサリと切り捨てる菊代。しほも全く持ってその通りだと、苦笑して大きく頷く。

 しほ相手にこんな大胆なことを言えるのは、菊代以外では夫の常夫ぐらいだ。幼少期のみほも遠慮が無かったがあれはノーカンだ。だからこそ、こうして率直かつ的確な言葉が新鮮に思える。

 

「・・・ですが、まあ、そうですね・・・。あまり長ったらしい季節の挨拶やあとがきなんかは、必要ないと思いますよ」

「それは分かるけど・・・・・・」

「でも、家元が本当に伝えたいことだけは、省略したりはせず、正直に、素直に書くべきです」

「・・・・・・・・・」

 

 菊代の言葉に、しほも動きが止まる。

 それは、真理のようにも聞こえたからだ。

 

「そして何より、家元が本当にみほお嬢様に謝りたいという想いと考えを籠めて書けば、それはみほお嬢様にも伝わると思います」

 

 戦車道選手から家政婦の道を歩み始めた理由と同じで、これもまた随分と、非科学的な言い分だった。

 それでもしほは、なぜか菊代の言葉がすとんとお腹の中に落ちて、その通りだ、まったくだと納得できてしまった。

 

「・・・・・・そうね」

 

 そして不思議と、悩んでいる最中はずっと抱えていた黒い靄の様なものが、晴れた気がする。自然と、どんなことを書き、どんな文体で書けばいいのかが、頭に浮かび上がってきた。

 

「・・・・・・あなたのおかげで、どうにか書けそうだわ」

「それは何よりです」

 

 そう告げて菊代は立ち上がる。

 

「では、私は台所にいますので、何か御用がありましたらそちらまで」

「分かったわ」

「麦茶、そこに置いておきますね。では、失礼します」

 

 菊代は挨拶をして、部屋を出て行った。

 そしてしほは、もう1杯麦茶を自分て注いでひと呷りし、小さく息を吐く。せっかくイメージがまとまり、文章も浮かび上がってきたのだ。今のうちに、書いておこう。

 そう思い、万年筆のキャップを取って便箋に文字を書き進めていく。

 しかし、その少し後で庭の方から声と、足音が聞こえてきた。なんと言っているのかは分からないが、その声からしてまほだ。だが、足音は2人分聞こえる。となると、誰かを連れてきたのだろうか?犬の散歩に行くと言っていたはずだが。

 

「まほ?」

 

 そう思い、障子は開けずに声を投げかける。これで外を歩いているのがまほではなかったら恥ずかしすぎるが。

 

『はい』

 

 そう明確に答えたので、外にいる2人の内1人はまほだというのが分かった。となると、もう1人は。

 

「お客様なの?」

『学校の友人です』

 

 まほが淀みなく答える。

 親譲りで人付き合いが苦手、としほはまほの事を評していたが、学校にもちゃんと友人と呼べる人はいたらしい。戦車隊のメンバーを連れてくる事も何度かあったが、ただの友人を連れてくるとは、珍しいものだ。

 

「・・・そう」

 

 しほが納得したように言葉を洩らす。

 だが、その“友人”は何も言わずにまほと共にその場を離れてしまったようだ。

 ここでしほは、少しばかりに頭に引っ掛かりを覚える。

 まほの友人という事は、まほがどんな人物で、どんな家系にいるのかというのを知っているだろう。知らないとしても、この家の大きさを見れば普通の家ではないと思いまほに聞くはずだ。

 仮にそのどちらでもなかったとしても、普通は家の人に会えば(障子越しであっても)挨拶をするのが礼儀というものだろう。

 相当の礼儀知らずか、としほは思いかけたが、黒森峰でそんな不品行な人物はほぼと言っていいほどいない。何度かここを訪れた戦車隊の隊員だって、挨拶は欠かさなかった。

 とすれば、今来たのは誰だ?

 そんな引っ掛かりを抱えながら、しほは再び手紙を書く事に集中する。万年筆だから一文字でも誤字があれば全部書き直しになってしまうので細心の注意を払いながら書いているが、だからといって字が汚くなるという事も、文章が変になるという事も無く、書き進めていく。

 そうして書き進める事十数分。

 

『お母様』

 

 再び障子の向こう側から2人分の足音が聞こえ、その直後にまほの声が聞こえる。

 

『友人を駅まで送ってきます。Ⅱ号戦車をお借りしてもよろしいでしょうか』

「・・・・・・いいわよ。使いなさい」

『ありがとうございます。友人からのお土産を書斎に置いておきましたので、よろしければどうぞ』

 

 そしてまほと“友人”は、自家用戦車の格納庫がある方へと歩いていった。

 ここでもやはり、まほの“友人”は何も言わなかった。『お邪魔しました』の一言も無いとは、無礼を通り越して疑問を感じる。

 そして、“友人”を招いた割には滞在時間が短すぎる。しほの記憶している限りでは、最初にまほが“友人”を連れてきたと言った時間は今から12分前。たった12分しか滞在しないとは、何のためにここに来たのだろうか。

 そこでしほは、『もしや』と思い、万年筆のキャップを戻して立ち上がる。そして向かうは、書斎だ。外で何だか大きなヘリのプロペラの音が聞こえてきたが、それは後回しだ。

 書斎のドアを開けると、まず目に飛び込んでくるのは、西住家が所有する戦車演習場の立体的な全体模型図。そして壁際の大きな本棚には何十冊もの本が収められており、中には日本語ではないタイトルの本もあった。

 そして、自分の机の上には紙袋が1つと、『友人からのおみやげです まほ』とまほの字で書かれた1枚の紙。

 だが、その紙袋には『大洗銘菓 紅子芋(べにはるか)』とプリントされていた。

 大洗。

 

(・・・嘘が下手ね、まほ)

 

 まほの連れてきた“友人”の正体が、今やっと分かった。

 友人というのは真っ赤な嘘で、来たのはみほだったのだ。

 しほに隠れてこそこそ実家に戻ってくるとは、やはり自分はみほからは恐れられているのだなと思う。やはり、早いうちに話しておくべきだったと後悔する。

 だが、それでもみほが何のために、たった12分程度しか滞在しなかったのはなぜなのか。それがまだ分からなかった。

 その理由を考える前に、外から聞こえるプロペラの音が大きくなり、換気のために開けていた窓から風が吹き込んで、グラインドがバタバタと揺れる。

 外を見てみれば、陸上自衛隊のヘリコプター、OH-1が庭にゆっくりと着陸しようとしていた。

 

「家元」

 

 その声にドアの方を見れば、菊代が少し呆れた表情で立っていた。

 菊代は、この少し前に訪問客から急な連絡を受けて、先ほどそれを確認したところなのだ。そしてその訪問客がどんな人物なのかを知っている菊代は、苦笑しているのだ。

 

「蝶野様がお見えです」

「分かっているわ」

 

 無許可で人様の庭にヘリを着陸させる豪胆な人物など、しほの中では1人しか考えられなかった。

 

「客間に通しなさい」

「はい」

 

 そこで一つ、確認をしておく。

 

「あなたは知っていたのかしら?あの人が来る事」

「いえ、ほんの数分ほど前に西住家のパソコンにメールが来まして」

 

 なるほど、それならしほも分からないはずだ。数分前と言えば、まだしほは私室で手紙を書いていたし、しほの部屋にパソコンはない。なぜならしほが、パソコンがあまりできないからだ。

 それはともかく、知っていて言わなかったのなら菊代の事を流石に咎めるが、ものの数分前では仕方がない。

 しほは、そう自分に言い聞かせながら私室に戻り、来客用の服に着替える。と言っても今着ているのは普段と変わらず白いシャツに乗馬用の黒いズボンだ。これに黒いスーツを上に着れば外行の恰好に早変わりだ。

 普段からこの恰好なのは、私服を考えるのが面倒だからとか、私服のセンスに自信が無いからなどという理由ではない、としほは主張している。

 

 

 来客が客間に行った頃合いを見計らって、しほは私室を出て客間へと向かう。そして客間の襖を開ければ、客人・蝶野亜美が座布団に正座し、予め菊代が出しておいたお茶には口も付けていない様子で待っていた。

 しほがその正面に座ると、亜美の左脇には包装された酒瓶が置いてあった。恐らくは手土産だろう。それは常夫と夜にでも楽しむとして。

 

「・・・本日は突然お邪魔し、申し訳ございません」

 

 亜美が頭を下げる。確かにアポなしで、しかもヘリでいきなり訪問してくるというのは失礼極まりない事だ。亜美の人となりや経歴を知らなければ呆然とするだろうし、知っていても怒るだろう。

 

「あなたにしては急な訪問だったけど、それほど急を要する話、という事かしら?」

 

 亜美は西住流の門下生の1人でもあった。だが、豪放磊落な性格がそのまま戦い方に表れていて、西住流本来の戦い方とは少し違う戦い方をしていた。例えるなら、柔軟性に富んでいるみほの戦い方に近い。

 絵にかいたように破天荒な彼女は、黒森峰所属ではなく別の学校の戦車道を嗜み、西住流の分家で教えを乞うていたのだ。分家の様子をちょくちょく見に行くしほも、それを知っている。そんな彼女の学生時代に打ち立てた伝説は数知れず、しほの耳にも届いていた。

 だが亜美は、破天荒で豪放磊落でありながらも、戦車道では礼儀を重んじる性格だ。だからと言って普段の生活では礼儀を欠く行動を取るのかと言うとそうでもない。彼女は自衛隊に所属しているから、無礼な行動は滅多にしないと分かっている。亜美も過去何度か西住家を訪ねた事もあったが、その時はちゃんと事前連絡を怠らなかった。

 そんな性格と過去を知っているから、しほは亜美の今回の行動を失礼極まりないとはそこまで思わず、むしろ何か問題でも起きたのかと心配したのだ。

 

「お察しの通りです」

 

 亜美は、素直に頷き返す。

 多忙な日々に拍車がかかるだろうな、としほは内心ため息をつく。せっかく書き始めることができたみほへの手紙も、またしばらくはお預けになりそうだ。

 だが。

 

「率直に申し上げますと、みほお嬢様の学校が廃校の危機にあります」

 

 しほ自身、自分の目がピクッと震えたのが分かる。それを目の当たりにしても、亜美は全く怯まない。

 

「・・・・・・どういう事かしら」

 

 しほの声のトーンが少し低くなった。

 それでも亜美は臆さずに、大洗女子学園廃校の経緯を述べていく。

 文部科学省が大洗女子学園の廃校を強行し、脅迫とも取れる警告まで出して、何万という人間の生活を奪った。

 廃校撤回を信じて戦った大洗女子学園戦車隊全員の思いを踏みにじり、彼女たちの母校を無くそうとしている。

 だが、生徒会長である角谷杏は、本当に自分の学校を愛しているから、それをどうにか取り消したいと考え行動し、文科省まで足を運んだ。しかし結果は、担当の役人が杏の言葉を意にも介さないとばかりに躱し、無駄に終わってしまう。

 そして杏が次に赴いたのは日本戦車道連盟だった。今年の戦車道全国大会で優勝したのは他ならなぬ大洗女子学園であり、その学校をみすみす廃校にしてしまう文科省の考えと行動に反対してほしいと、懇願したのだ。

 亜美は、杏の言葉に賛成した。今年の戦車道全国大会は、大洗の快進撃もあって過去に類を見ないほどの盛り上がりを見せて、戦車道の人口もあれ以来少しずつだが増えてきている。大洗のおかげで、低下していた日本戦車道の競技人口も回復に向かっていると言っても、過言ではない。

 戦車道再興の立役者とも言える大洗女子学園をみすみす廃校にしてしまうとなると、それを認めてしまった戦車道連盟も、スポーツ振興の理念を掲げて、戦車道に力を入れるという国の方針と矛盾した行動をとった文部科学省も、面目丸つぶれとなってしまう。

 どう転んでも、戦車道のイメージダウンにしかつながらない。

 それを亜美は戦車道連盟の理事長・児玉七郎に伝えたのだが、児玉は相手が文部科学省という国のお役所である以上、迂闊に手が出せないと判断を渋った。

 そこで杏が、亜美と児玉の前で、どれだけ自分と、自分の学校の生徒が大洗女子学園を愛しているのかを話し、自分たちは廃校撤回が確かなものだと信じて全国大会を勝ち上がり優勝したと、力説した。そして、自分の学校を愛しているからこそ、廃校を撤回させたいと力強く告げた。

 その末、児玉も協力すると告げて、1つの可能性に賭ける事にした。

 

「文部科学省は、日本戦車道プロリーグ設置に躍起になっており、その設置委員会の委員長は家元、あなたです」

「・・・・・・・・・」

 

 しほは、黙って亜美の話を聞いていた。その顔は険しいが、別に怒っているわけではない。

 そして、亜美がしほの事を口にした時点で、何が言いたいのかが分かった。

 

「そこで、真に厚かましい事とは思いますが、私共にお力を貸していただければと」

 

 およそしほの考えた通りの結論を、亜美は言った。私共とは、亜美だけではなく児玉、そして杏も含まれているのだろうが、しほほどの洞察力があれば、亜美が“本当は”何を言いたいのかは分かる。

 要するに、高校戦車道連盟理事長及び文部科学省が推進するプロリーグ設置委員会の委員長のしほを味方につけ、その立場を利用し文部科学省に揺さぶりをかけてほしいという事だ。

 

(文部科学省、ね)

 

 そこでしほは、その大洗女子学園廃校を告げた文部科学省の役人・辻廉太の事を思い出す。しほがプロリーグ設置委員会委員長に任命されてから数回会った事があるが、言葉巧みで狡猾なイメージが強く、その手腕は強かで、あまり隙を見せるような男ではない。恐らく杏という少女も、辻に軽くあしらわれたのだろう。

 

(・・・・・・・・・)

 

 その辻の事は置いておき、亜美の話を改めて考える。

 亜美の言う通り、大洗女子学園艦に住む何万人もの住人の生活を考えずにいきなり奪うというのは身勝手と言える。

 加えて、奇跡、伝説とされる快進撃を見せて優勝を勝ち取った大洗の成果を、廃校という形で無にしようとしているのも、腹立たしい。大洗の隊員たちが、優勝できなければ廃校になってしまうという事を知っていたのなら、彼女たちの優勝への思いは他の学校と比べると遥かに強い。だから、あそこまで破竹の勢いで勝ち上がったのだろう。

 その強い思いを、一つになっていた思いを、(自分も大人ではあるが)大人の勝手な都合で踏みにじり、無に帰させるというのは、果たして許される事なのだろうか。いや、許されないだろう。

 そしてこのことが世間に明るみになってしまえば、廃校を強行した文部科学省と、戦車道大会の優勝校をみすみす廃校にさせてしまった戦車道連盟には非難の声が向けられる。そうなれば、戦車道の再興という明るい未来など夢のまた夢の話になってしまう。

 そして何より、しほの中に確固として存在するのは、みほだ。

 みほは黒森峰では自分の才能を開花させることができず、そしてしほを含め多くの人間から自分の行いを否定されて道を見失い、戦車道を辞めてしまった。

 そんなみほが再び大洗で戦車道を始め、その上自分だけの戦車道を見つけたのは、しほも今年の決勝戦を見て知っている。

 みほにとって大洗は、幼いころから触れていたのにもかかわらず嫌いになりかけていた戦車の事を再び好きになれた場所で、自分の戦車道を見つけることができた、大切な場所だ。

 その大切な場所を奪うなど、家元の前にみほの親でもあるしほが、黙っていられるはずが無かった。

 みほを追い込んだ張本人でもある自分が言うのは都合がいいと捉えられるかもしれないが、それでもいい。

 

(・・・・・・・・・少し、久々に、親らしいことをするか)

 

 今まで、しほがしてきた親らしいことなど、それほどない。料理を作ってあげた事は数えられる程度しかないし、西住流師範として忙しかったから一緒に遊ぶ事だってあまりできなかった。世間一般で言う母親のラインを超えているかも疑わしい。

 あまつさえ、みほには厳しく当たってしまって自分の道を見失うきっかけを作ったも同然なのだから、親と言うのも烏滸がましいかもしれない。

 だからせめて、今まで親として大したことができなかった分、みほを助けるために動こうと決意した。

 

「・・・・・・・・・いいでしょう」

 

 しほがそう告げると、亜美もほんのわずかに唇を緩める。

 

「この先の戦車道のために、力を貸しましょう」

 

 そう告げたのも、しほの本音だ。高校戦車道連盟理事長と言うそれなりに上の立場にいる人間は、所属する組織の現在よりも先を見据えて考え、行動するものだ。だから、この先の未来、戦車道が発展することを第一として考え、この言葉を口にしたのだ。

 『娘のために動く』とストレートに告げるのは少し恥ずかしいし、厳格なしほのキャラに合わないから、という意味も若干はあるが。

 

「・・・・・・ありがとうございます」

 

 そして亜美は頭を下げて、予め出されていたお茶を啜る。

 どうやら、みほへの手紙を書くのはまた後回しになってしまいそうだと、しほは心の中であきらめに似た感情を抱き、小さく鼻で息をついた。

 そして、まずはあの狡猾な男に会いに行かねばと思い、今後の予定を伝えるために菊代を呼び出した。




サルビア/サルビア・スプレンデス
科・属名:シソ科アオギリ属
学名:Salvia splendens
和名:緋衣草
別名:セージ
原産地:ブラジル
花言葉:家族愛、知恵、尊重など


菊代さん、確かリトルアーミーでしほさんと同じ黒森峰戦車隊のメンバーって言われてましたけど、今回は先輩後輩という形にしました。

感想・ご指摘等があればどうぞ。




余談
ガルパン総集編の特典の生コマフィルム、自分は戦車道PV直前のシーンでした。ものすごい微妙・・・


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紫陽花(アジサイ)

過去作とは若干時間軸のズレが生じてしまいましたが、
大目に見ていただけると幸いです。

今回も、書きたいことが多くあったのでかなり長くなってしまいましたが、
最後まで読んでいただけると嬉しいです。

また、新たに2人ほど黒森峰の隊員に名前が付いていますが、
今回もまた熊本の地名由来のオリジナルです。予めご了承ください。


 織部と小梅がそれぞれの実家への挨拶から黒森峰に帰った日の翌日、聖グロリアーナ女学園の戦車隊隊長・ダージリンから、まほに一つの連絡が入った。

 

『大洗女子学園が、廃校の危機にあるの』

 

 それを聞いたまほは最初、ジョーク好きなイギリスと提携している聖グロリアーナ特有の悪い冗談か何かかと思ったが、そうではなかった。ダージリンは大まじめだったし、聖グロリアーナ1のスパイ、もとい情報通が仕入れた情報なので確かだと言っていた。普段は若干高飛車な発言もするダージリンだが、その様子も無いのでそれが本当だと思えた。

 そして、ダージリンからすぐに、こうも聞かれた。

 

『あなた、大洗女子学園を助けたくはない?』

 

 問われたまほは、当然その問いには頷き返した。そしてすぐにでも大洗へと赴きたいところだったが、ダージリンは考えがあると言い、今は動かず指示に従ってほしいとまほに告げた。

 まほは、今年の全国大会準決勝で戦った時以前から、ダージリンとも面識がある。黒森峰戦車隊の実に7割を撃破した聖グロリアーナの強さは、まほのみならず黒森峰戦車隊のほぼ全員が知っているし、その聖グロリアーナを率いるダージリンの指揮官としての能力は自分に引けを取らないとまほ自身は評していた。

 そしてダージリンは聡明で、現在よりも先を見る頭脳を備えており、自らの持つ指揮能力と合わせて、みほ率いる大洗に2度も勝っているのだ。

 そんなダージリンが『考えがある』と言ってきたのだ。決して無策な事はではないだろうと思い、まほも大人しくそれに従った。

 その翌日、大洗女子学園の生徒会長である角谷杏(黒森峰との決勝戦でヘッツァーの車長兼砲手だった人物とまほは記憶している)が、文部科学省と日本戦車道連盟に赴いたという情報を聖グロリアーナは手に入れた。どこからそんな情報を仕入れているのかと、ここでまほは内心聖グロリアーナの情報網を恐ろしく思う。

 そこでダージリンは、協力の意思を示した学校に、大洗への短期転校手続きをするように指示を出した。

 戦車道連盟に杏が赴いた時点で、杏は自分たちが全国大会で優勝したという功績を利用して、戦車道を使い廃校撤回を目論んでいるという事はすぐにわかった。

 だが、もし仮に戦車道―――恐らくは戦車道の試合―――で大洗が廃校するか否かを決める段階にまでこぎつけたとしても、文部科学省もただで試合をしてやるつもりはないだろうし、恐らくは大洗が圧倒的に不利な条件で試合を組むとダージリンは踏んでいた。

 今日まで行われた戦車道の公式戦での最多戦車投入数は30輌対30輌の合計60輌で、恐らく文部科学省は、大洗が戦車を8両しか所持していないと知っていても、30輌フル投入するように自分たちがバックにつくチームに指示するだろうと、予見していた。

 だから、協力する意思を示している聖グロリアーナと黒森峰を含めた6校で大洗に加勢して、相手と同じ30輌にまで持ち込めるよう、ダージリンは6校それぞれから大洗に追加させる戦車の台数を決めて、各校に指示を出し、さらには念のため、大洗への短期転校の準備をするように指示を出した。

 そこでまほは、黒森峰戦車隊の一部のメンバーを、夏休みの間だけ地元熊本の天草灘に停泊している黒森峰女学園艦、その内部にある戦車隊員専用会議室へと呼び出した。

 呼び出されたのは、エリカ、直下、小梅、そして織部。さらに、織部を除いたこの3人の戦車の搭乗員と、まほのティーガーⅠの搭乗員だ。幸いにも、織部や小梅を含めごく一部のメンバーを除いた隊員たちは、自主的に黒森峰に残り新体制への移行と来年の全国大会に向けた戦車の練習をしていたので、すぐに集まることができた。

 

「貴重な休日に、呼び出してすまない」

 

 まずまほは、非常招集をかけてまで隊員たちを呼び戻した事に頭を下げて詫びを入れる。だが、エリカを含め隊員たちは非常招集など初めて発令されたものだからただ事ではないと分かっていたので、呼び出された事自体は気を悪くしてはいないし、むしろ心配だった。

 なぜ、非常招集なんてかけられたのかと。

 そして、ここに集まった者たちは、まほの口から大洗が廃校の危機にあると初めて聞かされた。

 聖グロリアーナのダージリンが大洗への加勢を目論んでおり、黒森峰もそれに協力するつもりでいるとも、まほは告げた。

 そのダージリンは、黒森峰からは4輌出すように要請してきた。つまりここに呼び出されたメンバーは、その黒森峰から参戦する4輌に選ばれた戦車の搭乗員だった。

 この4輌を選んだのはまほだが、この時なぜ織部まで呼ばれたのかは、織部自身には分からなかった。

 そしてまほは、織部を除くそれぞれに『短期転校手続き』の書類を渡す。これで、一時的に大洗の生徒になって、戦車道ルールにおける『他チームからの隊員及び戦車の貸与は認められない』という規定をクリアして、大洗に戦力を加えるつもりだ。これも、ダージリンから指示された事である。

 だが、全員に短期転校手続き書類が渡ったところで、まほが注目するように言った。

 

「・・・・・皆をここに呼んだのは、過去これまでの記録から皆が黒森峰の中でも練度が高く、大洗の力になるであろうと私が考えての事だ」

『・・・・・・・・・』

 

 もちろんここに呼ばれたメンバーは、自分たちが呼ばれたのはまほの気まぐれなどではないというのは、非常招集が発令された時点で分かっていた。

 だが、非常招集の内容は大洗を廃校の危機から救うためというのは予想をはるかに超えたものだったし、黒森峰の中で自分たちだけが呼ばれたのは隊内で比較的高い練度だからというのも全く予想していなかった。特に、根津と小梅はその理由を聞いて驚き、もっと驚いたのは1年生ばかりである小梅の戦車の乗員だ。

 しかし、その驚きは表情に出していても声には出さず、胸に秘めたまま、隊員たちは黙ってまほの言葉を聞く。

 

「だが、この短期転校と、大洗に加勢しに行くのは、命令でも、指示でもない」

『・・・・・・・・・』

「私個人の、嘆願だ。わがままと捉えてもいい」

 

 まほは普段の訓練で、指示や命令を下す事はあっても、『~してほしい』『~を頼む』というケースは極稀だった。織部はが報告書を書くようになったのも、まほからの指令だった。

 だから、まほが個人的なお願いをするというのは、今ここにいる隊員のごく一部を除けば初めての事だった。

 

「だから、皆にも当然断る権利はある。もし、これから始まるであろう試合に参加する意思がない者は、外れてくれて構わない」

 

 そう言って頭を下げるまほ。

 だが、まほの前に座っている隊員たちは、誰一人として席を立とうとはしなかった。

 ではどうするのかと言うと、先んじてエリカが懐からボールペンを取り出して、生徒の名前欄に自分の名前を書いていく。保護者の名前は、今から実家に戻って書いてもらう時間など無いので、自分で手早く書いてしまう。

 

「隊長」

「・・・・・・・・・」

 

 そしてエリカは立ち上がり、自分の名前が書かれた短期転校手続きの書類をまほに見せる。

 

「私は、隊長と共に戦います。例え、どんな場所であろうとも、どんな事情があろうとも」

 

 その後ろで、エリカのティーガーⅡ搭乗員たちもそろって書類に名前を書き、立ち上がり書類をまほに差し出す。

 いや、ティーガーⅡの搭乗員だけではない。小梅も、直下も、その2人の戦車の搭乗員も、全員が書類に名前を書いて、その書類をまほに差し出す。

 誰もが、怯えや不安などを抱いていないかのような、爽やかな笑みを浮かべており、まほの事を見る。

 これで、ここにいる全員が大洗女子学園への短期転校を決めた事になり、同時にこれから始まるであろう大洗の試合に参加する事が決定した。ただし、今回は大洗の敵ではなく、味方として。

 その様子を見ていた織部は、小梅やまほ、エリカなどみほと接点のある者を除いて彼女たちが試合に参加する意思を固めたのは、大洗に負けてしまったからなのかもしれない、と思っていた。

 今年の全国大会で優勝を阻まれた黒森峰にとって大洗は、宿敵とも超えるべき相手とも言うべき存在だ。あの時、大洗に負けた瞬間から、次戦う時は今まで以上に強くなり、大洗を倒し優勝旗を持ち帰るのだと、心に誓った。

 その倒すべき宿敵が、大人の都合で勝手にいなくなるなど、納得できるはずがない。

 大洗を倒すのは、黒森峰だ。

 だから、その倒すべき宿敵を守るために、彼女たちは戦いに参加することを決めたのだ。

 頭を上げて、皆の輪から少し外れた場所からまほを穏やかに見守る織部と、自信のある目でまほの事を見つめる隊員たちを前に、まほはできる限りの笑顔で、再び頭を下げて告げた。

 

「ありがとう」

 

 短期転校の準備が整い、さらに戦車道連盟が黒森峰の戦車4輌を大洗に持ち込む事を認めたのをダージリンに告げると、次の情報が出るまで指示を待つように言った。

 その指示を待っている間、なぜか聖グロリアーナから大洗女子学園の制服が届いた。まずは形から、という事なのだろうか。

 ともあれ、自分のサイズに合ったのをそれぞれ見繕い(当然ながら織部の分は存在しない)、後は時が来るのを待つだけとなった。

 

 

  そして、まほの母でありプロリーグ設置委員会の委員長であるしほも味方に付けて、杏は大洗女子学園が大学選抜チームに勝利すれば廃校を撤回するという言質を取り、廃校撤回のチャンスをつかみ取った。

 

 

 試合会場が行われる北海道大演習場へと織部を含む黒森峰の隊員たちは向かっていた。

 ただしその全員は今、地上にはいない。海の上にもいない。

 空にいる。

 

(まさか、飛行船を持ってる学校があるとはなぁ・・・)

 

 夏の夜空を飛ぶドイツの硬式飛行船・LZ129『ヒンデンブルク号』をモデルにした黒森峰が所有する飛行船・LZ130のキャビンで、織部はぼんやりとそんな事を考えていた。

 黒森峰は言わずと知れた戦車道の強豪校で、ドイツと所縁があり、かつお嬢様学校という事は知っていたが、まさかこんなものまで所有しているとは夢にも思わなかった。そして自分が今まさにそれに乗っているなど、それこそ夢としか思えない。

 さらに今、この巨大な飛行船を操縦しているのはエリカだ。乗り物の運転・操縦免許の取得年齢条件は昔と比べると低くなってはいるのだが、まだ成人していない女子高生がこんな空に浮かぶ巨大な飛行船を操縦しているとなると、エリカには申し訳ないが不安で仕方がない。

 その不安と、明日の大学選抜戦との試合に対する緊張感が高まりすぎているせいで、日付を超えようとしている時刻になっても織部は眠れなかった。隊長のまほは、エリカと交代の操縦士を除く隊員全員に睡眠をとるように言っていたのだが、織部はその命令には従うことができなかった。

 そこで。

 

「春貴さん?」

 

 横合いから声をかけられる。黒森峰のタンクジャケットではない、大洗の制服でもない、普通の黒森峰の制服を着る小梅だ。

 

「眠れないんですか・・・?」

「まあ、ね。飛行船に乗るのが初めてっていうのもあるし、明日の試合も緊張するしね・・・」

 

 苦笑しながら織部が窓ガラスの外に広がる夜空を見る。こちらの緊張などまるで考えていないかのように煌めく星が、存在感をアピールしている。

 

「私も・・・緊張してます」

 

 小梅が少し恥ずかしそうに告げるが、それは決して恥ずべきことではないと織部は思う。試合に参加しない自分でさえこれだけ緊張しているのだから、実際に戦う小梅が緊張しないはずがない。

 

「・・・・・・隊長は、後は試合が始まるのを待つだけだって言ってましたけど・・・」

「・・・・・・それだけじゃ、安心できないよね・・・」

 

 まほの言う通り、本当に後は試合が始まるのを待つだけとなったのだ。

 戦車道連盟は秘密裏に、黒森峰を含む大洗への加勢の意思を示す学校の戦車の持ち込みを認め、大洗女子学園側は大洗の戦車隊メンバーに知らせる事無く、そして文部科学省に気付かれる事も無く、今回大洗女子学園側に参戦する戦車隊員たちの短期転校手続きを受理した。

 これで、小梅たち黒森峰戦車隊のメンバーは一時的に大洗女子学園の生徒となり、大学選抜チームとの試合に参戦する事が可能になった。

 他の学校も黒森峰同様に準備が整い、各々の手段で試合会場の北海道へと向かっている。

 

「何せ相手は、あの大学選抜チームだから・・・」

 

 大学選抜チーム、というチームの存在は知っている。前に、大学選抜チームと、くろがね工業という実業団関西地区第2位のチームが試合をするというチラシを見たからだ。

 その後で試合結果を戦車道ニュースで見たが、まさかの大学選抜チームが勝利し、大学生が社会人に勝ったこの試合は、戦車道界隈にも波紋を生んだという。実際この結果を見た織部と小梅も、驚いたものだ。

 実業団、つまり社会人は、織部たち学生の身分からすれば、自分たちよりも長く生きている分経験も知識も上の存在だ。大学生たちは、織部たちより少し年上とはいえ、まだ社会人よりも若い。そして、くろがね工業は関西地区第2位と言うのだからそれだけ強いチームなのだろう。

 だがそれでも、その経験と知識と実力の差を大学選抜チームはひっくり返し、白星をあげた。つまり、その大学選抜チームの実力は高いという事だろう。

 ニュースサイトを見れば、大学選抜チームを率いているのは、島田流という戦車道の流派の次期後継者であるが、13歳で大学生に飛び級した少女・島田愛里寿。戦車道新聞にも彼女の事は“天才”と記されていた。

 この大学選抜チーム対くろがね工業の試合は、今後開催されるであろうプロリーグに合わせて20輌対20輌の殲滅戦ルールで行われたのだが、くろがね工業の車輌のおよそ5割、つまり10輌はまさかの島田愛里寿の乗る巡航戦車・A41センチュリオンが撃破したとあった。たった1輌で10輌も倒すなど、聞いた事が無い。ジャイアントキリングもいいところだ。

 その島田愛里寿及びセンチュリオンの驚異的な戦闘能力、3人の副官の連携攻撃、全体的に大学選抜チームの練度が高かったこと、これらの要素が合わさりくろがね工業は敗れたようだ。例え、くろがね工業の主力戦車が、長射程重装甲のソ連製重戦車・IS‐2であっても、歯が立たなかったのだ。

 総評すると、ただ強い、とにかく強い、滅茶苦茶強いという表現が相応しい大学選抜チームだ。

 そんなチームと戦うとなると、緊張しないはずがない。

 

「西住隊長も、これまで戦ってきたどのチームよりも強いって言ってましたからね・・・」

 

 織部が黒森峰に来てから今日に至るまでに黒森峰が戦ったのは知波単、継続、聖グロリアーナ、そして大洗。織部が来る前にはもっと多くの学校と戦っていたのだろう。

 最強と呼ばれる黒森峰を破った大洗よりも強いとなれば、過酷な戦いとなる事は想像に難くない。

 だが、そうなるのは承知の上で、小梅のみならず、まほも、エリカも、他の学校の皆だって決意を固めて大洗を助けに行くのだ。

 

「・・・・・・でも、どうして大洗は廃校になってしまうんでしょう・・・」

 

 小梅が、織部と同じように窓の夜空を見ながら、悲しげにつぶやく。

今回の騒動の発端は、文部科学省が大洗女子学園の廃校を強行したことにある。戦車道全国大会優勝を果たした大洗の偉業は知っているはずなのに、どうして廃校にしてしまうのか。それが、分からないのだ。

 

「せっかく、みほさんが立ち直ることができたっていうのに・・・・・・・・・」

「・・・・・・小梅さん」

 

 横に立つ小梅の声に、若干の感情の乱れを感じる織部。

 

「みほさんが、自分だけの戦車道を見つけられたっていうのに・・・・・・・・・・・・っ」

 

 織部が小梅の方を見る。肩は震え、拳は強く握りしめられている。

 そんな小梅が抱いている感情は、悲しみではなく、理不尽な事に対する怒りだ。

 小梅と出会ってから、織部は小梅の多くの表情を見てきた。泣いている顔は見ていて織部も悲しくなるし、小梅が笑えば自分も笑顔になれて、温かい気持ちも感じる。

 けれど、喜怒哀楽の中で怒りは未だかつて見た事が無い。それだけ小梅が穏やかで優しい性格をしているというのもあったのだが、今まさに、織部の目の前で小梅は怒りの感情を見せている。

 それだけ、何の罪もない大洗が廃校になり、みほがやっと見つけた自分の居場所と戦車道をまた失ってしまうということが許せなかったのだ。

 小梅がそう思う理由・・・それは夏休みで小梅はみほとまほが和解したのもあるし、全国大会の決勝戦でみほは自分の戦車道を見つけたと告げて、大洗が自分にとっても大切な場所だと言った事にある。

 小梅が怒る気持ちは、織部も痛いほど分かった。

 

「・・・・・・小梅さん」

 

 その小梅の肩に、織部は手を優しく置く。そこで、小梅は織部の顔を見上げた。肩の震えがわずかな時間を置いて収まり、握りしめられた拳も解かれる。

 

「・・・・・・怒りで周りを見失っちゃダメだ。それは決して、いい結果を生まない」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 怒りに任せて戦っても、行動を起こしても、後々の結果は良くはならない。確かに、怒りや憎しみのエネルギーは時としてすさまじい力へと変わるが、大抵は身を滅ぼす結果に、ろくでもない結果に終わってしまう。

 そして怒りは憎しみに変わり、自分を見失い、最悪の場合は周りも見失ってしまう。

 織部は、小梅がその怒りに囚われてほしくはなかった。いつもみたいに、優しく笑っていてほしかった。自分勝手かもしれないが、怒りに囚われて周りを見失い、過去とは別の意味で孤独になるというのだけは、止めてほしかった。

 

「・・・・・・・・・ごめんなさい」

「大丈夫だよ。でも、小梅さんの言い分ももっともだ」

 

 少し感情を荒げてしまい、織部に心配をかけてしまった事を小梅は素直に謝る。

 織部は小梅が謝った事は気にしない。何しろ織部だって、面には出していないが、自分の中で怒りがふつふつと湧いているのが自分でもわかる。それぐらい織部も、今回の文部科学省の強硬策には強い嫌悪感を抱いていた。

 

「そして、だからこそ・・・・・・・・・小梅さんは大洗に、みほさんに協力する。そうでしょ?」

 

 なるべく小梅を安心させるかのように、織部は小梅に微笑みかける。それで、小梅の中の荒立っていた感情も落ち着いてきて、最近見せるようになった笑みを小梅は見せてくれた。

 

「はい・・・・・・・・・もう、みほさんに悲しい思いをしてほしくはありませんから」

 

 黒森峰で糾弾されて悲しい思いを嫌というほど経験して、黒森峰を去ってしまったみほ。そんなみほに対して小梅は、自分が何かできたかもしれないというのに何もできなかったのが悔しかった。

 だから今度は、そんな後悔などしたくないと強く願い、みほへ協力することを決めたのだ。隊長のまほが、小梅と小梅の戦車の練度を高く評価して招集をかけたのは驚きだったが、願っても無い事だ。もし自分が選ばれてなかったとしたら、小梅は自分からまほに、自分も参加したい、行かせてほしいと直談判するつもりだった。

 

「みほさんの積み上げたこれまでの事を、無かったことになんてできません。だから私は、たとえ相手が誰であっても、全力で戦います」

 

 自分の強い意志を籠めて告げられた小梅の言葉に、その意気だ、と考えて織部も小さく頷く。

 織部は、この試合を全て見届けるつもりだ。なぜ自分がこの前の非常召集で呼ばれたのかは分からず、試合会場に行くのかもなお分からないが、これは好都合だった。

 こうして小梅の決意を聞くことができたし、小梅の傍にいられるからなおいい。何より、みほを取り巻く事情はまほやエリカ、小梅から聞いていたから、みほの事も気がかりだった。どんな結末になるのかは分からないが、この事態を知った以上は結末を自分で見据えたかった。

 

「頑張って、小梅さん。応援するよ」

「はい!」

 

 そう言って、小梅は振り分けられた自分の部屋へと戻っていった。

 この飛行船はかなりの魔改造が施されており、推進用の動力は高く、構成する材料は限界まで軽量化できるよう図られており、マウスを除く黒森峰所有の戦車は燃料・弾薬を搭載したままでも、組み合わせ次第では10輌積むことができるまでにグレードアップされている。

 そして、人間が乗り込むスペースにも仮眠用の部屋がいくつも設けてあり、部屋の中には2段ベッドが2台ずつ合計6部屋と、隊長・副隊長用の部屋が1つずつある。

 織部にも一応空き部屋を1つ用意されていたが、1人で部屋を占領するというのも少し気が引けたので、今はテーブルと椅子がいくつも用意されているこのキャビンにいる。

 しかして、眠気は一向に訪れないのでどうしようもなかった。あくびの1つも出てこないので、明日の試合中に眠ってしまわないことを祈るほかない。

 そんなことを思っていると、コックピットへとつながるドアを開けてまほが現れた。手には小さな紙を持っている。

 

「・・・まだ起きていたのか」

「・・・・・・・・・緊張してなかなか眠れないので」

 

 織部に声をかけるが、それは怒っているのではなく、少しばかりの心配が混じっているような声だった。織部が素直に、恥ずかしそうにその理由を告げるとまほは小さく『そうか』と頷く。

 織部の隣に立って、先ほどの小梅と同じように夜空を見渡すまほ。そして、手に持っていた小さな紙に目を落とす。

 何かが書いてあるのが織部にも横目で分かったが、カタカナばかりが書かれていて、薄気味悪い気がする。ホラー映画でよく見るような恐ろしさがあった。

 

「・・・それは?」

 

 たまらず織部が聞いてみると、まほはその紙を織部に見せる。

 

『アキノヒノ ヰ゛オロンノ タメイキノ

 ヒタブルニ ミニシミテ ウラガナシ

 キタノチニテ ノミカワスベシ』

 

「ダージリン・・・聖グロリアーナが発信してきた暗号だ」

「暗号・・・?」

 

 まほ曰く、この暗号文はどこで試合が行われ、どのようなルールで試合が進むのか、その意味が込められているという。前半の部分は、試合が行われるという合図らしい。

 そう説明を受けても、織部はこの3行のカタカナの文にそれだけの意味が込められているなど微塵も思えない。詩的表現をしていても、詩に傾倒しているわけでもない織部には分からないし、すさまじい脳内変換としか思えなかった。こうして織部のような一般人が、これを見ただけでは何のことだか理解できない、と思わせるのがそもそものダージリンの狙いだったのだが。

 織部が説明を受けても困惑している様子をみて、まほも小さく息を吐く。それは決して、織部に呆れているというわけではなく、むしろ逆に同情しているような感じだ。

 

「これによれば大洗と大学選抜チームの試合は、殲滅戦で行われるらしい」

 

 殲滅戦、と聞いて織部も頭の中で『はぁ?』と言わざるを得なかった。

 殲滅戦は、敵チームの車輌を全て倒した方が勝ちという至ってシンプルなルールだ。それは織部も知っている。

 だが、大洗の戦車は元々8輌しかいないのに対し、大学選抜チームはその3倍以上の30輌投入すると発表された。

 社会人チームとの試合によれば、大学選抜チームの主力戦車はパーシング、隊長車はセンチュリオン、斥候はチャーフィーと、大洗のどの戦車よりも比較的性能が良く、センチュリオンは恐らく大洗のみならずどの学校の主力戦車よりも強い。

 そんな戦車30輌を相手に戦うなど、いかに大洗であっても自分から死にに行くようなものだ。

 

「・・・それは、あまりにも残酷では・・・?」

「それは十分わかっている。だが、他に大洗が助かる手はないんだ」

 

 そう、本当にもうこれしか大洗が助かる術はないのだ。

 全国大会の黒森峰との決勝戦など目じゃないぐらいの圧倒的かつ絶望的な戦力差をひっくり返して勝利するという奇跡に近い勝利を収めるほかに、大洗が存続する方法は無い。溺れる者は藁をもつかむ、という表現が相応しく思える。

 

「それで、黒森峰はどうするんですか?」

「何も変わらない。みほを、大洗を助けて勝利し、みほたちにとっての大切な場所を取り戻す。それだけだ」

 

 基本方針に変わりはない。まほの言った通り大洗に加勢して勝利をもぎ取り廃校を撤回させる。たとえ相手が大学選抜チームという最強の敵であっても、だ。

 まほほどの人物がこのぐらいで怯むとは到底思っていなかったし織部も、その通りだと静かに笑って頷いた。

 それにまほだって、小梅同様、いやそれ以上にみほの事を大切に思い、身を案じている。だからこそ相手がどれだけ強くても、みほを助けるためにこうして試合に加勢し、例え文部科学省に目を付けられるというリスクを背負ってでも加勢に向かう。

 

「・・・・・・一つ、聞いてもいいですか?隊長」

「なんだ?」

 

 けれども織部の中には、まだ解決していない疑問があった。それはどうしても、まほしか知らない事だ。

 

「どうして、僕を呼んだんです?」

 

 冷静に考えてみれば、まほが織部にみほとの事について相談したのであっても、今回の試合と織部は無関係に近い。正確に言えばみほの事を知っている織部にとっては無関係ではないのだろうが、試合に参加できず、大洗に短期入学する事も不可能な織部は今こうして試合会場に向かう意味も無い。できる事など何一つ無いのだから。

 それなのに、まほは小梅たちと同様に織部に非常招集をかけ、その上で試合会場に来るように言った。

 なぜなのか、それが全く分からない。

 

「・・・・・・君にみほの事を話したから、だけでは少し説明不足か」

 

 よほど理解力が高くなければ、それだけでは納得できない。確かに、みほの事情はまほから聞いているが、それだけではこの試合にまで呼んだ理由にはならない。

 

「正直な話だが・・・・・・・・・」

「?」

 

 まほが、織部と目を合わせようとはせずに、窓ガラスの外に広がる空を見つめながら言葉をポツリと呟く。

 

「君と話をしてから、安心感を抱くようになったんだ」

「・・・・・・はい?」

 

 唐突な言葉に、織部もまほの横顔を見るしかない。失礼とは思ったが、腑抜けた声を出さざるを得ない。

 だが、それでもなお、まほは織部と目を合わせようとはせず、空を見つめるままだ。

 

「君には何度か色々と相談をしたが、それは皆、普通の人からすれば聞かされても迷惑な事ばかりだっただろうと、自分でも思う。だが、君は真面目に話を聞き、そして真剣に考え、人間として真っ当な答えを私に示してくれた。それだけの事だったが、私にとっては新鮮で、何より嬉しい事だった」

「・・・・・・・・・」

 

 そして、織部の方を向く。

 その顔には、これから始まる熾烈な試合の事などまるで予感させないほどの穏やかな微笑みだった。

 

「君がいると、安心できる。だから、呼んだんだ」

 

 今、自分の目の前にいるのは、本当にあの西住まほなのか?

 西住まほに成りすました誰かではないのか?

 そう思えるぐらい、今のまほの言葉は穏やかで、純粋で、それこそまるで普通の女の子のような言葉だった。少し失礼かもしれないが、普段の謹厳実直たるまほとは程遠い言葉と表情だ。

 なぜ、どうして、そんな言葉をかけてくるのか。それは織部には皆目見当がつかなかったが、そこでまほは踵を返した。

 

「・・・・・・私は少し休む。エリカから休むように言われたからな」

 

 いつものような口調に戻るまほ。だが、織部は返事もできずまほの背中を見ていることしかできなかった。

 

「・・・・・・まだ起きているんだったら、操縦室に行ってエリカの話し相手にでもなってやってくれ。1人で操縦するのは寂しいみたいだからな」

 

 そう言ってまほは、隊長室へと入りドアを閉めた。

 だが、どうにも、腑に落ちない。

 確かにまほの言う通り、織部はこれまでまほの話を聞いていた際、自分でも真面目に、そして真剣に話を聞いていたつもりだった。それは織部自身が元々真面目な性格をしているのはもちろん、相手がまほという偉大な人物だったからでもあるし、相手が本当に悩んでいるというのもある。

 だから、『話ができてよかった』とか『安心して相談できる』とか、それぐらいの社交辞令に過ぎないような言葉を貰えるだけで、十分だと思っていた。いや、そんな言葉を期待して相談に乗っていたつもりはさらさらないが。

 だが、まほからの『君がいると、安心できる』という言葉は、先に述べた社交辞令とは少し意味が違うと織部にも分かる。

 話をして安心できるというのと、いるだけで安心できるというのは全く違う事だ。だからなぜ『いるだけで安心する』とまほが告げたのか織部には理解できなかったのだ。

 ともかく、この場に留まり続けると考えがごちゃごちゃになってしまいそうだったので場所を移す事にする。

 何処へ行くのかと言うと、操縦室へだ。

 ノックして中に入ってみると、驚くほどに静かだった。

 そして、よくテレビで見る旅客機のコックピットのように細々としたスイッチとメーターが付いているというわけでは無く、最低限のメーターや何らかのスイッチが設置されている程度だ。

 操縦室の中央には昔の船舶のような舵がついていて、正面の窓の外に広がる夜空を見ながら、その舵をエリカは静かに握っていた。

 

「・・・・・・何か用?」

 

 エリカが織部の方を見ずに声をかけてくる。

 

「西住隊長から、起きているなら逸見さんの話し相手になってやってほしいって言われてね」

「話し相手、ねぇ・・・」

 

 エリカが呆れたように笑い、舵から手を離して織部の事を真正面から見る。危なくないかと思ったが、どうやら自動操縦システムが搭載されているようで、別に手を離しても問題はないらしい。見かけによらず随分とハイテクだ。

 さて、ここで無下に『さっさと寝ろ』と突っぱねられるのか、それとも『なんか面白い話でもしなさい』と無茶振りをされるか、そのどちらかのビジョンしか織部には見えない。エリカには失礼だが、そんなことを言うイメージを織部は抱いていた。

 

「・・・・・・・・・あの島田愛里寿と戦う事になるとは、思わなかったわね」

 

 ところが腕を組みながら、肩をすくめて呟くエリカの口を突いて出た言葉は、そのどちらでもなかった。

 まほから言われてここにきた織部を放っておいたり追い返すのも、エリカが心酔するまほの意に反する事になると思ったのかは分からないが、一応話しかけてきてはくれたのでとりあえず安心する。黙って2人きりになったり、無茶振りをされたり、追い返されるよりずっとましだ。

 

「島田愛里寿の事、知ってるんだ?」

「当然じゃない。戦車道のニュースはいつも見てるし、社会人チームに勝ったってのも知ってるわ」

 

 確かに、エリカは戦車道の申し子と言ってもいいぐらい戦車道に心血を注いでいる。故に、戦車道の情報は逐一調べているし、次代の黒森峰隊長として黒森峰をより強くするために、他の戦車道チームの戦い方も、黒森峰に取り入れる余地のある戦略を使うチームの試合もマークしている。

 ついでに言えば、エリカの日課のネットサーフィンも戦車道について調べまくった故のものなのだが、それは織部も知らなくていい事だ。

 

「前に、黒森峰は大学選抜チームとも戦ってたね」

「そうなの?まあ、私が入学してから戦ったことはないし、もうメンバーも大分変わっているだろうしね」

 

 織部が言った、過去の黒森峰対大学選抜チームの試合は、中学生で不登校になっていた時、織部が生まれて初めて見た戦車道の試合の事だ。

 だが、エリカの言う通りあれから実に4年以上経っているのでメンバーも総変わりしているだろうし、仮に情報があったとしても役には立たない。

 

「・・・まあ、あの強さは普通じゃないわね」

「それは確かに」

 

 ため息をつきながらそう言うエリカは、島田愛里寿の戦いを思い出したらしい。といっても、実際に見たわけではなく、あくまで仕入れた情報だけで感じた事なのだろう。けれど、織部も戦車道ニュースを見ただけで島田愛里寿の強さは尋常ではないという事が分かった。

 

「副官3人のバミューダアタックとか言う連携攻撃も侮れないし・・・戦車はパーシングとかセンチュリオンとか固いのばっかりだし・・・・・・はぁ」

 

 考えるだけで気が滅入る、とばかりにエリカがまた一つため息をつく。強気なエリカにしては、いつになく弱気になっているように見えた。

 いつもは強気な人の普段は見られないような表情を見れるのは貴重だが、其れだと逆に調子が狂うという気持ちも織部にはある。

 

「不安なの?」

「冗談。隊長とみ―――あの子が手を組めば、相手が天才少女だろうと何だろうと、恐るるに足りないわ」

 

 調子づかせようと思ったのと、心配なのが相まって聞くと、エリカはいつも通りの気丈な態度で言葉を返してきた。

 だが、今のエリカの言葉にはみほの事を高く評価しているかのようなニュアンスがある。

 まだ織部と小梅が2人の両親に挨拶に行く前に、小梅、エリカ、まほの3人はみほと会って、まほはみほに過去の事を謝って、そして最終的に3人はみほと和解したと、小梅から聞いていた。写真も見たので、織部もそう確信している。

 とすると。

 

「逸見さんも、みほさんを助けたいと思ったんだ?」

 

 ところが、エリカは。

 

「バカ言ってんじゃないわよ。私はただ、隊長が戦うのなら私も共に戦うのであって、別にあの子の事なんてそんなに・・・・・・・・・まあ、ちょっとは心配だけど・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・素直じゃないなぁ」

「なんか言った?」

「空耳じゃないかな」

 

 いつか聞いたツンデレのようなエリカの言葉に、ついぽろっと本音を洩らしてしまう織部。その直後に割と本気の殺気を孕んだ鋭い目で睨まれたので、笑って誤魔化す事にする。

 エリカもフンと息を吐き、それ以上は追及してこなかった。

 

「ところで」

「?」

 

 そこで、次にエリカが織部に質問をしてきた。

 

「どうしてあんたまで付いてくるのよ」

 

 試合会場についてくるのはどうしてなのか、という意味だ。

 けれどその質問は、織部自身が知りたいことだった。その答えらしき言葉は一応、まほから受け取っているが、それで織部は全く納得していない。

 

「とりあえず、隊長から来るように言われた」

「ふーん・・・・・・ま、隊長も何か考えがあるんでしょうね」

 

 確かにそう言われたので、先ほどまほから言われた事については黙っておき、そう織部は伝える。織部自身も把握できていないからか、エリカは責めたりはしてこなかった。

 何しろ『安心する』と言われただけなので、本当に意図が掴めない。

 しかしながら、黒森峰を含め多くの高校戦車道の強豪校が大洗に加勢して大学選抜チームと戦うとなれば、見ごたえのある試合になるだろうと、織部は不謹慎かもしれないと感じながら思う。そう言う意味では、来ることができたのは僥倖だ。

 そこで、ノックの後で操縦室のドアが開く。入ってきたのは、エリカのティーガーⅡの砲手だった。長い黒髪をポニーテールにしたその少女の名は、泗水だったか。

 泗水は、操縦室に織部がいる事に少し驚きを見せたが、すぐに表情を戻してエリカに話しかける。

 

「副隊長、交代の時間です」

 

 言われてエリカも、壁に掛けられた時計を見る。織部も見上げると、時刻は既に夜中の2時を回っていた。知らない間に、随分と長話をしていたらしい。

 

「分かったわ、操縦頼むわよ」

「はい」

 

 エリカが泗水に操舵を譲ると、エリカは操縦室を出た。副隊長室に戻って仮眠をとるらしい。織部は泗水とは面識があまりなかったので、エリカと共に戻ろうとする。

 

「明日、頑張って」

 

 一応、エリカが部屋に戻る前に社交辞令程度の励ましの言葉を贈る。するとエリカの動きが止まり、織部を見て不敵に笑った。

 

「言われるまでも無いわ」

 

 そう言ってドアを閉めるエリカ。

 だが、あれでこそエリカだと織部は思う。言葉を受け取っても決して素直には返さずに、若干皮肉を交えて返事をするのが、織部の知るエリカだ。それは皮肉屋と言えるが、つい先ほどや、全国大会期間中にツンデレ的な反応を見せたのでそう言うところもあると見える。

 さて、既に時刻は2時を回っており、北海道の演習場近くの駐留場所には、試合が始まる2時間前の8時に着く予定だ。つまり後6時間はあるのだが、流石にその間キャビンで突っ立っているわけにもいかないので、割り振られた部屋で待機する事にした。ついでに、少し眠っておかないと明日の―――もう今日になったが―――試合は眠気で集中できなかったなんて事にもなりかねない。だから、気は進まなくても眠る事にした。

 だが、到着時刻ギリギリまで眠るという怠けた事はせず、ちゃんと準備を整えて戦車を降ろす際は手伝うべきだ。

 そう考えながら、携帯のアラームをセットして、2段ベッドの下段に織部は横になった。

 

 

 北海道は日の出の時間が本州よりも早いので、黒森峰の飛行船が北海道に到着した時には、もう太陽は朝とは思えないほど高い位置にあった。

 到着の1時間前には、休憩していた隊員たちは起床し、操縦士を除いて全員がキャビンに集合。ミーティングを行い、到着後の段取りと、昨夜ダージリンから受けた試合内容を説明する。

 もちろんその段階で織部は起きてミーティングにも参加したが、織部を除いて、まほとエリカを含めた全員が大洗女子学園の制服を着ていたのが驚きだった。普段は暗い色合いの制服やタンクジャケットを着ている黒森峰の隊員が、白と緑という明るい色の制服を着ているのを見ると変に感じる。

 だが、小梅は普通に似合っているし、直下も別にアンバランスではない。特に小梅の大洗の制服姿は写真に収めておきたいぐらいだったが、今はそれどころではないので後でこっそりお願いしてみようかと画策する織部。

 それはさておき、飛行船は戦車道連盟から秘密裏に指示された場所に駐機された。このすぐそばはもう戦車道演習場なのだが、開会式を行う場所までは大分離れている。加えて、到着予定地は少し風が強かったので、飛行船を固定するのに時間がかかり、戦車を降ろす時間が予定よりも少し遅れてしまった。

 飛行船の格納スペースから降ろされたのはティーガーⅠとティーガーⅡ、そして2両のパンターだ。ティーガーⅠとティーガーⅡにはそれぞれまほとエリカがいつも通り搭乗し、残りの2輌のパンターには小梅と直下が乗る。

 直下の普段乗る車輌はヤークトパンターなのだが、今回の大学選抜戦では恐らく固定砲塔は不利になるとまほが判断したので、整備はしていたが余っていたパンターで挑むことになった。

 それなら普段からパンターに乗る斑田を呼べばよかったのが、戦車隊の中でも直下たちの実力はそれなりに高く、加えて直下の車輌の操縦手は隊内でもマウスを除く車輌のほとんどを操縦できるスキルを持っていたので、今回呼ばれたようだ。

 ともかく、ほとんどの作業が当初の予定よりも大分遅れてしまっていた。今すぐにでも出発しないと開会式に間に合わない。試合前に間に合わなければ全ての策も無駄になってしまう。

 試合に参加するメンバーは、戦車に乗りこむとすぐにエンジンをふかして試合会場へと向かう。

 さて、織部は戦車に乗って行くというわけにもいかず、自力で試合会場まで向かわなければならなかった。けれど歩くにしては遠すぎる。

 幸いにも駐機場の近くには『大演習場東入口』というバス停があり(利用者は全くいないし時刻表もスカスカだが)、運よくバスにも間に合ったのでそれで試合会場最寄のバス停まで向かった。北海道大演習場は度々大規模な戦車道の試合が行われている場所でもあるので、専用のバス停と観戦席が設けられていたのだ。

 織部が試合会場に到着すると、多くの売店が出店しており、観客席には多くの客が座っている。そしてちょうど、織部が到着した時に今回の試合のルールが正面の特設モニターに表示された。それを見て、観客たちはざわついている。

 それはもっともなことで、8対30の殲滅戦など不公平にもほどがあるからだ。だが、なぜだか大洗女子学園側の戦車は表示されたのに対し、大学選抜チーム側の所有する戦車の情報は表示されなかった。

 モニターの上部には、今日の試合は『高校生と大学生の親善試合』と書かれている。どうやら、対外的な試合目的を設けて世間に問題が明るみに出ないようにしているらしい。

 織部は観客席でも比較的人の少ない後ろの方に座った。近くには、『関係者専用観戦席』とロープで仕切られた場所があり、その内側には織部も知る西住しほと、しほの近くには赤い洋服を着た誰かが座っていた。専用観戦席の外側には、自分と同い年ぐらいのスーツを着た青年が座っている。だが、織部の周りにも試合開始直前になるとすぐに観戦客が座った。

 ちなみに今、織部は支給された黒森峰の制服に上着を着て、制服を隠す形になっている。下は普段通りのスラックスだが、上だけ黒森峰の服となると悪い意味で注目を集めかねないので、その対策だ。

 

 

 開会宣言の直前で、黒森峰の戦車4輌が姿を現し、大洗女子学園の制服を着たまほとエリカが戦車から降りた事で観客席は困惑に包まれる。

 だが、大洗女子学園の戦車一覧表に黒森峰から参戦した4両の戦車が追加され、ここで観客たちも黒森峰が大洗の味方に付くと理解し、観客たちは盛り上がり始めた。今年伝説を打ち立てた大洗と、高校戦車道最強と謳われる黒森峰が手を組むのだから、その試合が面白くないはずはないと。

 だが反対に、審判部本部から観戦している文部科学省の辻は憤りを見せていた。

 

「戦車まで持ってくるのは反則だ!」

 

 その隣に座る戦車道連盟理事長の児玉は涼しい顔で扇子を仰いでいる。何しろ、児玉は黒森峰たち他の学校が大洗に加勢しに来る事を知っている、というか児玉が手を回したも同然なのだから。

 

「みな私物なんじゃないですか?私物がダメってルールありましたっけ?」

「卑怯だぞ!!」

 

 児玉が笑いながら言い、辻が食って掛かるが意にも介さない。

 児玉としても、大洗が廃校になってしまうというのは可哀想であり同情せざるを得ないし、また気の毒に思っていた。そして廃校になるよう仕向けた文部科学省の下に戦車道連盟があるため、何かを意見したり反対する事は難しかったのだ。悪い言い方をすれば、戦車道連盟は文部科学省の言いなりになっていたところもある。

 さらに児玉は、今回の大洗廃校の件で目の当たりにした、国のお役所の集う霞が関で染み付いた性格なのだろうが、辻の狡猾で姑息なやり方が気に食わなかった。

 だから、その辻に一杯食わすことができたので児玉は満足しているのだ。

 そして黒森峰を皮切りに、サンダース、プラウダ、聖グロリアーナと言う戦車道四強校、さらにアンツィオ、継続、知波単と言う強豪校が一堂に会し、22輌あった大学選抜チームと大洗女子学園の車輌の差はすぐに埋められて、大洗も30輌揃った。これでようやく、対等な条件で戦うことができる。

 だが、それでもなお辻は文句をつけてきた。

 

「試合直前での選手増員はルール違反じゃないのか!!」

 

 納得がいかないとばかりに辻が喚き散らす電話の相手は、今回審判長を務める蝶野亜美。

 確かに辻の言う通り、これは認められるかどうかがはっきりとしない、極めてグレーラインの加勢だった。

 だが、試合開始前であればこれについて意見することができるのは実際に相手と戦うチームだけであり、主催者と審判はチームの意見を尊重する形になっている。試合中であれば審判及び主催者も異議を唱えることができ、没収試合もしくは退場とすることができる。

 そして児玉は、島田愛里寿と大学選抜チームはこの加勢を認めると、確信していた。

 島田愛里寿は天才と言われているが、同時に彼女は島田流戦車道の後継者、つまり西住まほ同様に島田流の代表でもある。ここで加勢を拒否してしまうと、島田流の名誉に傷がつきかねないので、高確率で加勢を承認するだろう。

 さらに、この試合で大学選抜が勝利しても、この試合を行う“本当の理由”が世間に知れれば、大多数で少数の大洗を蹂躙し、そして彼女たちの居場所を奪ったと批判されてしまう。そうすれば、大学選抜チームとそのチームを率いる島田愛里寿及び島田流も矢面に立たされる。それを考慮する可能性も十分高い。

 何よりも、島田愛里寿も戦車乗りの1人であり礼節を重んじ、試合には平等な条件で挑みたいと思っているはずだ。

 これらの事は全て可能性の話だが、それでも確信に近いレベルの可能性だ。

 そして辻は、亜美から芳しい返事が得られなかったようで舌打ちしながら携帯を切った。

 島田愛里寿は、やはり加勢を認めたらしい。30対30の殲滅戦で、確定した。

 いつになく焦り不満げな辻の様子は見ているだけで愉快だったので、児玉はしてやったり顔で笑っていた。

 

 

 作戦タイムの間、戦車の整備を進めている各校の戦車の中で、小梅はパンターの整備の合間に周りを見回していた。

 小梅のパンターの右隣にはエリカのティーガーⅡ、左隣には聖グロリアーナのクルセイダー、前には大洗のM3リー、後ろにはプラウダのT-34/85。他にも多くの学校の戦車がここで整備を進めている。

 そしてここにいる黒森峰を含めすべての学校は、みほと繋がりのある学校だ。練習試合をした聖グロリアーナ、全国大会で戦ったサンダース、アンツィオ、プラウダ、大洗のエキシビションマッチで手を組んだ知波単、そしてみほが黒森峰にいた時に戦った継続。

 どの学校も強豪校と呼べるほどの強さを誇り、これだけいれば天才少女・島田愛里寿率いる大学選抜チームにも勝てるかもしれない。

 ここにいる誰もが、聖グロリアーナの隊長・ダージリンの提案で大洗を助けに来たのだという事は知っている。

 だが、ここに来たのは強制ではなく、紛れもなくそれぞれの意思だ。皆それぞれが、みほたち大洗がこのまますごすごと戦車道の世界から姿を消してしまうのを、黙って見過ごすことができないからだ。

 大洗に、みほに負けた者は、敗北を糧にして成長し、大洗に勝つために日々研鑽を重ねている。

 大洗に、みほに勝った者は、大洗が成長して、いつか自分たちを超える日を待ちわびている。

 皆にとって大洗とは、ライバルであり、越えるべき存在であり、そして何より同じ戦車道を歩む仲間だ。

 その仲間を守るために皆ここへ集まったのだ。

 そう思うのは、小梅だって同じ。いつかまた成長して大洗に勝つために、そして大洗でみほが見つけた戦車道を守るために、小梅もまた戦う。

 

(今度こそ、みほさんを守るんだ・・・)

 

 夜中、飛行船の中で織部に告げたように、この試合で今度こそ、みほと大洗の皆の居場所を守ると心に誓っていた。

 そして、まほだって同じことを思っている。エリカも口ではそうは言っていなかったが、多分心の中ではそう思っているのだろう。直下もみほの事は認めていると聞いていたから、直下だって気持ちは同じのはずだ(その直下が近くに止まっているヘッツァーを見て歯ぎしりをしていることを小梅は知らない)。

 そこで、操縦手の玉名が整備が完了したことを伝えると、それとほぼ同時に作戦会議を終えた各校の隊長クラスの人たちが戻ってきた。

 整備をしていた小梅たち及び黒森峰の隊員は、自然とまほの下へ集まり、大隊長であるみほが立案した作戦“こっつん作戦”を真剣に聞く。ただ、大真面目にまほが “こっつん作戦”と言った時は、一部の隊員は思わずくすっと笑ってしまったが。そしてなぜか、エリカがしょんぼりとした顔をしている理由は、小梅たちには分からなかった。

 ともあれ、作戦は決まり、中隊の編成も決まった。自分たちの属する“ひまわり中隊”はまず高地を奪取し、高地左右に展開する予定の中隊をサポートする。

 作戦を聞き届けると、全員は戦車に乗りこみ、試合開始地点へと移動して試合開始の合図を待つ。

 その試合開始地点へと向かう合間に、小梅の車輌の砲手である泉が小梅に話しかけてきた。

 

「私たちの腕が・・・大学選抜に通用しますかね・・・」

 

 全国大会決勝戦に出た時もそうだったが、小梅の車輌の乗員は、小梅を除き全員が今年入隊したばかりの新人だ。決勝戦だけとはいえ、全国大会に出場できただけでもすごいのに、こうして大学選抜チーム戦、しかも大洗の廃校撤回をかけた重大な試合にまで参戦するというのは、気後れするものだろう。

 

「でも西住隊長は、皆の腕を信じて、今回私たちに大洗の手助けをしてほしいって言ってくれたんです」

「それは、そうですけど・・・・・・・・・」

「つまりそれは、西住隊長が皆さんの戦車乗りとしての腕が先輩の皆さんよりも秀でていると評価しているという事です」

 

 泉が、その事実に今気付いたように小梅の事を見る。

 小梅は基本的に人を悪く言いはしないし、先ほどの発言も先輩や他の隊員たちの腕を甘く見ているというわけで言ったのではない。泉と、恐らく泉同様緊張している他の乗員の不安を和らげるために言ったのだ。

 そしてこの言葉は、小梅自身にも言い聞かせている。小梅だって、相手が大洗よりも強いとなると気が抜けないし、そんな相手と戦うのは正直不安で仕方がない。その自分自身の不安も抑える形で、小梅は先の言葉を口にしたのだ。

 

「それに、皆さんより1年長く戦車隊にいる私から見ても、皆さんは入隊した時よりもずっと上手くなっています」

「本当・・・ですか?」

 

 泉が不安げに聞くが、ここで嘘をつく理由はない。だから小梅は迷わずに『はい』と言って頷く。

 

「もっと、自分に自信を持っていいんですよ。皆さんは強いんですから」

 

 その言葉に、戦車の中の緊張した空気が緩んだのを小梅は感じた。皆は小梅の言葉で、自信を持つことができたらしい。

 

「・・・・・・全力で挑みましょう。そして、大洗の皆さんの居場所を守りましょう!」

『・・・・・・はいっ!』

 

 戦車に乗る全員から、はきはきとした返事を受け取り、小梅も笑う。

 どうやらもう、緊張や不安は無くなっていたようだ。

 そこで玉名がパンターの速度をゆっくりと落とす。どうやら試合開始地点に到着したらしい。

 小梅はそこで、キューポラから身を乗り出す。前を見れば小高い山―――高地が見える。あそこを先に取れるかどうかが、作戦遂行のカギになる。

 続けて周りを見渡す。既に30輌の戦車は3つの小隊ごとに分かれており、小梅の所属するひまわり中隊は黒森峰とプラウダ、そして大洗のⅢ号突撃砲とヘッツァーが所属する。黒森峰の厚い装甲と高い火力は言わずもがな、プラウダには長射程重装甲高火力のIS‐2、さらにⅢ突とヘッツァーも長射程高火力と、高地からの支援砲撃にはもってこいだ。

 試合開始時刻が迫り、これから始まる激戦に向けて、小梅は気を引き締めて、前を見据えた。

 今度こそ、みほの居場所を守るために、みほが見つけた戦車道を見つけるために、絶対にこの試合には勝つ。

 やがて、試合開始を告げる号砲が鳴った。

 

 

 それはあまりにも唐突で、残酷だった。

 最初の戦闘で、知波単の戦車を2両失いながらも先に高地を奪取した大洗連合チーム。

さあ支援砲撃を始めようとしたその背後で、『ドゴゴッ!!』という巨大な爆発が突然起きた。それはさながら火山の噴火にも見えて、織部の座る観客席では『噴火したぞ!』と勘違いした誰かが叫んでいた。

 そして、またしても高地で大爆発が起きた時、信じがたい、受け入れたくない場面を織部は見てしまった。

 その2回目の謎の大爆発は、パンター2両の近くで発生し、爆風に煽られて、2両のパンターは横転して――――

 

 

『パンターG型2輌、行動不能』

 

 

 

『大洗女子学園

 残存車輌:28→26輌

 行動不能車輌:九七式中戦車(旧砲塔)

        九七式中戦車(新砲塔)

        パンターG型

        パンターG型』

 

 告げられたアナウンス、大洗女子学園側の車輌が2輌失われた事を示すモニター。

 その非情な結果を視覚と聴覚で認識し、織部は一切の表情を失ってしまった。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 あの吹き飛ばされた2両のパンターの内、1両には小梅が乗っている。中は特殊カーボンでコーティングされているので、例え横転しても決して乗員は怪我をしないと知っていたのだが、織部にとって重要なのはそこではない。

 みほに悲しい思いはもうさせないと意気込んでいて、大洗が廃校になるという事実を聞いて普段は見せないような怒りの感情を露わにした小梅が、あのパンターの中にいる。

 どれだけの覚悟を背負い、決意をもってこの試合に小梅は参加したのか、それは小梅の理解者であり、恋人である織部はよく知っていた。

 だから、あんな訳も分からない爆発1つでその小梅の決意と覚悟が踏みにじられたのを目の当たりにして、織部の中でマグマのようにグラグラと煮えたぎるほどの怒りが込み上げてきたのが、自分でも分かった。

 歯ぎしりをして、ギリギリと小さく音を立てている。

 スラックスを、強く握り、皴になる。

 こうでもしないと慟哭を上げてしまいかねない。それほどまでに、織部の中の怒りは大きかった。

 そのすぐ後に降ってきた雨なんて、まったく気にしなかった。

 

 

 その後、大洗女子学園側が急ごしらえの小隊を編成し、あの大爆発の原因について偵察に向かわせた。

 その結果、あの大爆発を起こした車輌の正体は、カール自走臼砲などと言う戦車と呼んでもいいのか分からないような代物と判明し、そのカールの映像が画面に写されると、観客席からはブーイングや野次がそこかしこから飛んだ。

 だが、織部もモニターに向けて、晴らす事のできない怒りの感情を、声にならない大声にのせて発した。

 過去に理不尽な理由で心に傷を負い、普段は穏やかな織部でさえも、これは許すことができなかった。

 

 

 観客席から、戦車道の試合では聞いた事のないブーイングを聞いて、轟音と共に大洗に向けて1トン以上もの砲弾を放ったカールの映るモニターを、審判部本部の児玉は渋い表情で見る。

 

「これを直前になって認可させたのは、この試合のためだったんですな・・・!」

 

 一昨日突然、文部科学省がカール自走臼砲を戦車として認め、試合投入を許可するように申請を出してきた。いや、申請というより命令に近い形だったし、戦車道連盟は、大洗と大学選抜チームの試合が近い今、文部科学省の機嫌を損ねてはせっかく掴んだチャンスを潰されかねないと危惧し、大人しく承認してしまった。

 その結果がこれだ。

 

「言いがかりはよしていただきたい」

 

 隣に座る辻が、足を組んで『計画通り』とばかりに下衆な笑みを浮かべてしれっと返事をする。

 ここで辻を責めても何の解決にもならないので、児玉は不必要に責め立てはしない。

 

「しかし、オープントップなのに戦車と認めていいんですか?」

 

 だが、それだけは聞いておきたかったので児玉が尋ねる。

 戦車道ではオープントップ、つまり選手が車体外部で作業する必要のある車輌は使用できない。カールだって実際は、砲弾の装填と発射は元々乗員が外で作業するものだった。

 

「考え方次第ですよ」

 

 だが文部科学省は、人が外にいなければ使えると判断し、カールに改造を施した。

操縦手席と車長席が設置されている車体下部に新しく砲手席を設け、さらに砲弾の装填を自動装填システムにして車外に人を出さないようにした。

 戦車道の規定で戦車に搭載できる装備は、終戦までにその車輌に搭載する予定だった装備と記されている。しかし目の前のカールの自動装填装置は“装備”ではなく“機構(システム)”であり、乗員の安全を確保するために搭載したものだと主張した。

 そしてこのカールの装甲は10mmの装甲を除けば無いも同然だし、速度は極めて遅く機動性は最悪なため、決して倒せない車輌ではないと理由を付けて強引に認可させてきた。

 だが、結果このカールはこの試合で3輌もの戦車を撃破し、用心深くパーシングを3輌も護衛につけ、確実に大洗を敗北へと近づけている。

 今さらながら、文部科学省の強引で非道なやり方を思い知り、児玉も苦虫を嚙み潰したよう表情を浮かべる。

 ちなみに、大学選抜チームの島田愛里寿を含む大半の隊員は、試合直前で強引にカールを編入させて、フォーメーションや小隊の再編成を余儀なくされた。それが原因で、文部科学省に対して嫌な感情を抱いているのに、当の文部科学省は気付いてはいない。

 

 

 だが、大洗の小隊がカールを護衛小隊ごと全滅させたのは流石の辻も度肝を抜かれたらしく、小さく舌打ちしていた。その横で児玉は小さくガッツポーズをとる。

 観客席では、カールが撃破されて白旗を揚げた瞬間大歓声に包まれる。中には『ざまーみろ!』と叫ぶおっちゃんもいた。

 織部も、両腕を突き上げて『やった!』と声を上げる。

 あんな理不尽な兵器で、大洗を助けたいと願ってここまでやってきた小梅を含めた隊員たちの乗った車輌を3輌も葬ったのが許せなかった。

 だからこそ、そのカールが撃破されて、せいせいした。

 

 

 そして大洗は遊園地に大学選抜チームを誘い込んで試合を有利に運んでいく。地形を最大限に活かし、時には欺瞞作戦を使い、またある時は遊具まで利用して大学選抜チームを翻弄していく。

 大学選抜チームの残存車輌数が10を下回った時には織部も勝てると思っていた。だが、大学選抜チームの島田愛里寿の乗るセンチュリオンが本格的に参戦し、大洗の戦車を瞬く間に次々と撃破していく様は、見ているだけで寿命が縮まるようだった。

 倒し、倒され、また撃破し、撃破され・・・。

 一進一退の攻防が繰り返されているうちに、気付けば残る車輌はみほのⅣ号戦車とまほのティーガーⅠ、そして島田愛里寿のセンチュリオンの3輌だけになっていた。

 織部を含め、観客席の誰もが息をのみ、モニターをのめり込むように見る。モニターの中で戦車が動き回り、砲弾が放たれ、時に接触して火花が散る。Ⅳ号戦車のシュルツェンが剥がれていき、握る手に汗が滲む。

 Ⅳ号戦車とティーガーⅠがセンチュリオンに向けて突進する。そこでティーガーⅠが空砲を放ち、それを後ろにもろに受けたⅣ号戦車が急加速。島田愛里寿の不意を突く形で急接近し、右の履帯と転輪を粉砕されても勢いは止まらず、ゼロ距離でⅣ号が狙撃。

 センチュリオンとⅣ号戦車から白旗が揚がった。

 

 

 

『大洗女子学園 対 大学選抜チーム

 残存車輌:1    残存車輌:0 』

 

 試合が終わり、集計の結果がモニターに映し出される。

 この試合は殲滅戦。先に相手の残存車輌数を0にした方が勝つ。

 という事は、つまり。

 

『大洗女子学園の勝利!!』

 

 審判長の嬉しさを隠しきれないほどの試合結果を聞くと、ほとんどの観客が立ち上がり、声を上げ、腕を突き上げ、抱擁し、喜びを露わにする。

 織部だって、声を上げて喜んだ。

 この試合は本当に見ごたえのあるものだったし、大洗の常識にとらわれない戦いをまた見ることができて嬉しかったし、何より大洗の廃校が撤回される事になったのが、一番嬉しかった。

 しかして、織部の心には突き刺さって抜けない不安がある。

 カールに倒されてしまった小梅の事が、気がかりだったのだ。

 まだ試合が始まって間もないのにリタイアさせられて、みほの力になれたとはとても言えない結果に終わってしまったのだから。

 ほぼ間違いなく、小梅は落ち込んでしまっているだろう。

 そんな小梅に、自分はどんな言葉をかけることができるのか、織部には分からない。もしかしたら、今度ばかりは無理かもしれない。

 織部の周りの人たちはみな純粋に勝利を喜び大洗に拍手を送っているが、織部はそんな不安を胸に抱えながら勝利を称え拍手を送った。

 

 

 

「わーっはっはっはぁ!!」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 大洗の勝利が決まった瞬間、年甲斐もなく立ち上がって腕を振り喜びを体現する児玉。

 その隣でこの世の終わりのような表情で暗澹たる雰囲気を醸し出し俯いている辻。面白いぐらいに対照的だった。

 島田愛里寿の無双と言うべき戦車の連続撃破には児玉も息をのみ、辻がまたしても悪意のある笑みを浮かべていた。

 だが、その島田愛里寿を倒し、大洗の廃校が撤回されることが決まった今、児玉の心は喜びに満ちており、反対に辻は完全に絶望していた。

 大洗の廃校を強行し、さらに大洗を潰すためにカールを無理やり認可させた文部科学省を出し抜けたのは爽快だし、大洗の生徒たちが自分たちの力で自分たちの居場所を取り戻すために戦うというのは、年を食ったせいかもしれないが本当に感動的なものだ。これほどまでに戦車道で喜び興奮したことは、随分と久しい。

 そんな児玉は、文部科学省の失態と言っても過言ではない事態を巻き起こした自分の今後を想像して座ったまま落胆する辻の事など放っておいて、閉会式を行う場所へと鼻歌を歌いながら向かって行った。

 

 

 関係者用に区切られた観客席には、2人の人物が座っている。

 1人は、高校戦車道連盟理事長であり、プロリーグ設置委員会の委員長でもある西住しほ。黒いスーツと乗馬用のズボンがフォーマットの彼女は、この大洗女子学園対大学選抜チームの試合を組むように仕向けた人物の1人でもある。

 そしてもう1人は、しほとは対照的にワンピースにも似た赤い洋服を着る、薄い色素の長い髪の女性。彼女は、大学戦車道連盟の理事長であり、大学選抜チームの隊長・島田愛里寿の実の親で、現島田流戦車道家元の島田千代だ。

 

「次からは蟠りの無い試合をさせていただきたいですわね」

 

 千代もまた、この試合が行われた本当の理由を知っている。

しほから話を受け、文部科学省の辻からも『日本戦車道の発展のために大洗は廃校になるべきだから、何としても勝ってほしい』と言われていた。

 だから、この試合自体が文部科学省と戦車道連盟及び大洗女子学園の思惑が交錯した、何とも靄がかかったように気分の悪い試合だったと思う。試合の内容自体は面白かったのだが。

 もしも、またこうして大学選抜と大洗、というよりは高校選抜の試合を行う事が叶えば、それは政治の蟠りとは全く関係ない試合であってほしいとねがい、そんな言葉を口にした。

 

「・・・・・・まったく」

 

 そう短く返事をするしほは、千代と同じような事を考えてはいたが、内心ではガッツポーズをとっていた。

 みほの学校の廃校が撤回されたのは嬉しいし、みほとまほが協力して戦ったというのも親としては嬉しい。

 加えて、こうしてみほの下にこれまで戦ってきたライバルたちが集まったのを見ると、みほには人望があるという事がよくわかる。まほが、全国大会の決勝戦前に多くの学校の隊長たちがみほに激励の言葉を贈ったと言っていたが、あれも本当なのだと気付かされる。

 しほが素直ではない態度をとってしまったばかりにみほを追い詰めてしまい、黒森峰と戦車道に背を向けるきっかけを作ってしまったしほだが、結果的に今こうしてみほは多くの仲間と戦友を手にし、天才と言われている島田愛里寿に、姉の力もあったとはいえ勝利した。この試合を見ると、みほは本当に強く逞しく成長したのだと実感せざるを得ないし、親として娘の成長を見ることができて嬉しかった。

 みほを突き放す発言をしたことは後悔しているし、そのおかげで今のみほがいると開き直るつもりも毛頭ない。だが、自分が突き放した結果みほは自分の戦車道を見つけ強くなったのだと思うと、人生とは数奇なものだとこの歳で気付かされる。

 みほに宛てて書いている手紙はまだ途中だが、新しく書くことが増えたなと、共に戦った仲間たちと笑顔で言葉を交わしているみほを見ながら、しほはそう思った。

 

 

 閉会式を終えて加勢に来た学校の生徒たちは、次に会うのは敵として戦う時だ、とばかりに大洗のメンバーに向けて不敵に笑いかけ、それぞれの方法で帰って行く。

 だが、まほのティーガーⅠと小梅のパンターだけはそのまま飛行船の駐機されている場所に直帰せず、大洗の戦車隊が乗って帰るフェリーの港まで付いていった。まほが付いていったのはまほ自身の意思でみほも気にしていなかったが、小梅はしっかりとまほに許可を取って、エリカにも断りを入れてある。

 港に着くと、人気の少ないふ頭でみほとまほが言葉を交わす。それを小梅と、みほの乗るⅣ号戦車のメンバーは遠目から見ていた。

 楽しそうに笑って話しているので、険悪な雰囲気はしない。まほが、本当に屈託のない笑みを浮かべているのも、小梅は初めて見た。やはり妹の前だから、本当に素で接することができるのだろう。

 その途中で、まほが何か思いつめた表情でみほに言葉をかける。だが何を言っているのかは、小梅たちには聞こえなかった。

 やがて2人はまた笑い、握手を交わす。そこで大洗のメンバーは、ホッとしたように息を吐き、微笑む。どうやらまだ彼女たちは、みほとまほの仲がギクシャクしているのだと思い込んでいたらしいが、2人が握手を交わしたのを見て、仲直りできたというの実感して安心したようだ。

 みほとまほが握手を解き、話しが終わったのを確認すると小梅はみほの下へと足を踏み出す。

 それにみほは気付いたようで、小梅が十分に自分へと近づくのを待った。

 

「みほさん・・・・・・・・・」

 

 大隊長として、自分のチームの戦車がどうなったのかを大まかに知っているみほは、小梅の乗るパンターがどんな事になってしまったのかを知っていた。

 小梅は、この試合にどんな気持ちと覚悟を抱いて挑んだのか、自分でもわかっている。だからこそ、早々にリタイアして、何の力にもなれなかったことが申し訳なかった。

 もしかしたら、自分は来なくても何も変わらなかったんじゃないかとさえ思える。

 

「私・・・・・・みほさんを助けるためにここまで来たのに・・・・・・ほとんど力になれなくて・・・」

「・・・・・・・・・ううん、そんな事無いよ」

 

 悔しさと哀しさが混ざるような声で、俯きながら小梅が謝ろうとして言葉を紡ぐが、みほはいつもの優しいふわりとした声でそれを否定する。小梅がみほの顔を見ると、みほは笑ってくれていた。

 

「私たちを助けようと来てくれただけで、十分嬉しい。その気持ちだけでも、本当に、嬉しかった」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・小梅さんのパンターが倒されたって聞いた時、私は思ったの。助けに来てくれた小梅さんの思いを無駄にしないために、絶対に勝たなきゃって」

 

 みほは、小梅の事を名前で呼んでくれた。同じ大洗のチームメイトであっても、よほど親しい相手でもない限りは名字で呼んでいたみほが、この前黒森峰に来た時はまだ小梅の事を名字で呼んでいたみほが、小梅の子を名前で呼んだ。

 だが、それについての嬉しさは後回しだ。みほの先ほど言った言葉を思い出す。

 

「お姉ちゃん、ケイさん、カチューシャさん、ダージリンさん、アンチョビさん、ミカさん、西さん・・・皆が助けに来てくれた時、本当に嬉しかった。嬉しくて、本当に嬉しくて、涙が出るくらい・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「それで、皆が私たちを助けに来てくれたから、皆の気持ちは絶対無駄にしないために、絶対この試合に勝つんだって心に決めた」

 

 あの時、試合開始直前で他の学校の戦車が応援に駆けつけて来てくれた時の事を、みほは思い出して顔がほころぶ。

 あの時、黒森峰は最初に到着したので、小梅も他の学校の戦車が駆けつけてきた時は感動にも似た気持ちになった。

 

「だから・・・・・・小梅さんが来てくれたのも、本当に嬉しかったし、小梅さんの気持ちも無駄にしたくなくて、私たちは戦った」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「小梅さんも、私たちを助けたいと思って駆けつけて来てくれたって、私は思ってる」

 

 そうだ。小梅は強くそう考え、決意して、ここまでやってきたのだ。結果はどうであれ、小梅がそう思っていたことに、覚悟を決めていたことに変わりはない。

 みほは、明るい太陽のような笑顔を小梅に向けて言った。

 

「小梅さんが来てくれなかったら、例え小梅さんがそう思っていたのだとしても、その気持ちに気づけなかった。でも小梅さんは来てくれたから、私たちの事を本当に助けたいと思っていたんだって分かったよ」

「・・・・・・・・・」

「その思いがあったから、私も全力で戦って、私たちの学校を取り戻すことができた・・・!」

「・・・・・・・・・」

 

 

「だから・・・・・・来てくれて、本当にありがとう・・・!」

 

 

 ほとんど役に立てなかった自分に対して、こんな温かい言葉をかけられて、嬉しくないはずがない。

 耐えられずに、小梅は涙を流す。それでもみっともなく泣くのが恥ずかしくて堪えるが、みほが優しく抱きしめてくれたことで、もう抑えが利かなくなり、大粒の涙を流す。

 小梅が泣き止むまで、みほは小梅の事を抱き締めて、背中をさすってくれた。

 その様子を、まほは慈しむかのような笑みを浮かべて見ていた。

 小梅のパンターの乗員たちも、本当によかったとばかりに笑い、2人の様子を見つめていた。

 Ⅳ号戦車のメンバーも、一部がもらい泣きしてしまっていたが、それでも二人の様子を静かに見守っていた。

 

 

 日没前に北海道を出発した黒森峰の飛行船は、陽が完全に沈み真夜中と表現するに相応しい時間帯になった今、日本上空を飛行している。

 その飛行船のキャビンに、織部と小梅はいた。2人とも、テーブルを挟んで向かい合って椅子に座っている。日没前にはエリカとまほが話をしているのを見たが、何を話していたのかは2人の知るところではない。

 そしてつい先ほどまで、織部は直下に絡まれて愚痴を聞く役に徹していた。

 せっかく熊本からはるばる助けに来たのに、カールとか言うふざけた車輌にイチコロにされ早々にリタイアしたので、フラストレーションが解消されていないのだ。大洗の勝利が決まり、廃校が撤回されたと聞いた時は、それは直下も喜んだ。けれども、やはりあの撃破は忘れられないものだったらしい。

 そんな直下の愚痴を時間にしておよそ1時間ほど聞かされて、愚痴を吐き出し終わると疲れが出てきて眠くなったのか、織部に『悪かったね』と言いながら自室に戻っていった。あれは恐らく熊本に着くまで起きないだろう。

 絡み酒ってああいう感じなのかな、と苦笑しながらため息をついていると、小梅が部屋から姿を見せて、今現在に至る。

 

「・・・・・・・・・試合、大変だったね」

 

 だが織部は、小梅にどう言葉をかけていいのかもわからなかった。小梅が今回の試合でどんな事態に陥ってしまったのかは忘れてはいないし、それで小梅が凹んでいないとは到底思えない。

 そのことは、小梅にとっても辛い事だろうし、迂闊に触れてほしくは無いような事なのかもしれないが、それでも心が押し潰されてしまいそうなほど心配になった織部は、そう言って話を切り出してきた。極力小梅を傷つけないように配慮しての言葉だった。

 

「・・・・・・ええ、まさかあんな車輌を持ち出して来るとは思いませんでした・・・」

 

 だが、小梅の表情はそこまで落ち込んではいないし、喪失感や劣等感に囚われているような様子も無い。

 織部は、試合の後で小梅とみほが話をしたのを知らない。だから、みほと直接話をして、例え小梅のパンターが序盤でやられたとしても、応援に来た事で小梅の気持ちは伝わったと知り、小梅の中の喪失感や劣等感はもう無くなっていた。

 けれどそれを織部は知らないから、まだなお小梅は落ち込んでいると思い込んでいた。

 

「・・・でも、いくらなんでもひどすぎるよ、あんなの」

 

 試合開始前の夜中に、この飛行船で小梅の気持ちを聞いていたから、織部も小梅の気持ちを分かっていたつもりだ。もう2度と、みほに悲しい思いはさせまいと決意し、過酷な戦いに身を投じる覚悟を決めて試合に挑んだという事も、理解している。

 だから、その小梅があんなバカみたいな車輌に倒された事に憤りを覚え、怒り心頭に発した。そして、その仇のカールが撃破された時はスカッとした。

 だが、にっくきカールがやられたからといってそれまでの過程が帳消しになったわけではなかったので、途端に空しくもなった。

 大学選抜チームに勝った時は達成感を抱くことができたが、それでも小梅がやられた時の事を思い出し、突っかかりを覚えてそれが抜けずにいた。

 

「・・・・・・小梅さんが、どれだけの思いで試合に挑んだか、僕は分かってるつもりだ。だから、あんな車輌にやられたのが、悔しくて仕方ないんだ・・・」

「春貴さん・・・」

「だから、小梅さんも・・・・・・悔しいと思ってるんじゃないかって・・・・・・落ち込んでるんじゃないかって、思ってる」

 

 織部の心配はもっともだった。小梅だって、恐らくあの後でみほと話をしていなかったら、今も立ち直る事なんてできなかったかもしれない

 

「・・・実は私、さっきみほさんと話をしたんです」

「え?」

「助けに行ったのに、あんな有様で・・・。何もできなくて謝ろうとしたんです」

 

 そう言えば、撤収作業をしていた際、まほのティーガーⅠと小梅のパンターだけ帰りが遅かったような気がした。

 試合が終わり、閉会式が終了した後で織部はすぐに飛行船が駐機された場所へと戻っていった。だから、戻ってきたのがエリカのティーガーⅡと直下のパンターだけだったのを疑問に思い直下に聞いてみたのだが、首を横に振っていた。

 いなかったのは、それが理由だと今織部は知った。

 

「ごめんなさい、話してなくて・・・・・・」

「いや、それは別にいいんだけど・・・・・・」

 

 小梅が頭を下げるが、それは織部も気にしてはいない。気になるのは、みほとどんな話をしたのかだ。

 

「それでみほさん・・・私たちが助けに来なかったら、助けたいと思っているのにも分からなかったって言ってました」

「・・・・・・」

「助けに来たから、本当に私たちがみほさんたちの学校と居場所を守りたいと思っていたんだって・・・その気持ちが伝わったって」

 

 気持ちを証明するには行動を伴わなければならない事が多い。

この試合に介入しなければ、試合の前後を問わず、例え誰かが『廃校なんて許せない』と言っていたり感じていても、それは当人には伝わりにくい。

 だが、黒森峰を含め、多くの学校が大洗に加勢したことから、みほたち大洗も、皆が本当に大洗を救いたいという気持ちが直接伝わった。みほが言いたかったのはそう言う事だ。

 

「私たちが駆けつけて来てくれたから、その気持ちを無駄にしないためにみほさんは全力で戦うことができて、絶対に勝つと決意することができて、それで戦ったんです。あの試合で勝てたのは、皆のおかげだってみほさんは言ってくれました」

 

 単純に戦車と隊員が増えて戦力の底上げをしてくれただけではなく、誰もが大洗を救いたいと切に願っていたからこそ、大洗は勝利することができたのだと、そう言っていた。

 

「私が駆けつけてきたのを見て、みほさんも私が本当にみほさん達を助けたいと思っていたんだって気付いてくれました。その思いがあったから勝つことができたんだって・・・」

 

 小梅が笑い、瞳に涙をにじませる。あの時のみほの言葉を思い返して、あの時感じた嬉しさを思い出して、それで涙を見せた。

 

「それで、みほさんは私に、ありがとうって言ってくれたんです」

 

 そうか、と織部は心の中で呟いた。

 小梅の気持ちは、晴れていたのだ。小梅がどれほどの思いを抱えて大洗の応援に駆け付けたのか、みほは分かってくれた。そしてその思いは、確かにみほたちの力となって、勝利という結果を生み出した。

 それを小梅はみほから伝えられて、そこでもう喪失感や劣等感は心の中から消え去ってしまったのだ。

 

「・・・・・・春貴さん」

「?」

 

 織部が感慨深げに頷き、目を閉じていると小梅に声を掛けられて、慌てて顔を小梅に向ける。

 

「春貴さんも私の事、心配してくれてるんだろうなって、思ってました」

「えっ・・・・・・」

「だって、真面目で優しい春貴さんだから、多分心配してるんじゃないかな、って」

 

 まさしくその通りだったので、逆に笑えてしまう。まさについ先ほどまで、小梅は落ち込んでいるのではないかと考えていて、何とか慰めようとしてこの話を切り出してしまったのだから。

 

「みほさんと話をしたって事をすぐに伝えられなかったのは、ごめんなさい・・・それで、春貴さんに心配を掛けさせてしまって」

「謝る事なんて無いよ。僕がただ単に知らなかっただけなんだし」

 

 織部は首を横に振る。確かに心配していたことは事実だが、小梅の話を聞いた今では心配は無用だったと気付き、安心しているのだ。

 

「小梅さんの中の暗い気持ちが晴れているんなら、それだけで十分だよ。みほさんと話をして、小梅さんの気持ちも無駄じゃなかったって気付くことができたのなら・・・」

「・・・・・・・・・」

「僕は、それで十分だ」

 

 あまり、あの時の事を何度も蒸し返したりすると、小梅の中で消え去った暗い感情が蘇りかねない。そうして小梅が落ち込んでしまうのは、織部も望んではいないし、小梅にとっても良くはない。

 それに織部の言葉も紛れもない本心だった。

 小梅が落ち込んでしまっているのなら、その小梅を慰めるのは恋人であり、婚約者(と言うのは些か恥ずかしいが間違っていない)でもある自分の役目だと、織部は自負していた。

 だが、小梅が助けたいと思っていたみほ本人から、来てくれて嬉しかったという気持ちを聞き、小梅が悲しさから脱することができたのであれば、それでよかった。

 小梅の気持ちを救えるのは自分だけだ、というのは思い上がりだし、妄信とも言える。実際には、小梅の周りには手を差し伸べる人が何人もいるのだ。織部とてその内の1人でしかない。

 だから織部は、みほの言葉で持ち直すことができた小梅の笑顔が見られるだけで十分なのだ。

 

「よかったね、小梅さん」

「・・・・・・はい」

 

 そう言って、小梅は優しく笑ってくれた。

 その笑顔だけで、織部は小梅の覚悟と気持ちは報われたのだと、心底思わされる。

 それで十分だった。




アジサイ
科・属名:アジサイ科アジサイ属
学名:Hydrangea macrophylla
和名:紫陽花
別名:ハイドランジア、西洋紫陽花(セイヨウアジサイ)
原産地:日本、アジア、北アメリカ
花言葉:辛抱強い愛情、元気な女性、無情、冷酷など


これにて、この作品のいくつ目かの山場である劇場版編は終了しました。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ですがこの作品は、まだ少しだけ続きますので、
最後までお付き合いいただければ幸いです。

小梅とみほが話をしたのはオリジナルの描写ですが、
小梅を慰める役目はみほの方が、小梅が報われるし後味も悪くないと思い、
こうしました。お気に召さないようでしたら申し訳ございません。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。




余談
役人のシーンは見ていても書いていても楽しいと思うのは筆者だけですかね?


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紫苑(シオン)

前の話で、試合の描写が薄かったと感じる方が多かったかもしれませんが、
前の話のメインはあくまで小梅とみほの事だったので、
それに加えて試合描写も長く書いてしまうと話全体が長くなり、
読みにくくなると思っての事でした。

理事長と役人の2人の描写があったのは、
出番がこの作品では非常に少なく、
今後登場させるのはだいぶ先or無理だと筆者が判断したからです。

そんなわけで今回は、前の話(=劇場版)で描けなかったシーンの
ちょっとした補完+αな話です。


 黒森峰の飛行船が熊本市内にある黒森峰女学園本籍地に戻った頃には、既に新学期の日付、しかも朝の7時になってしまった。

 小学校と大学だけでなく、中学校と高校も陸の上にあった昔のままであれば、このまま学校まで行って始業式に出るところなのだが、残念ながらここからさらに黒森峰学園艦まで移動しなければならない。

 飛行船を駐機すると、次は戦車を降ろして熊本港まで向かい、そこからさらに戦車などの大型貨物を載せることができる連絡船に乗り、天草灘に停泊している学園艦まで戻る。

 熊本港付近は地形が複雑で、学園艦が入港できるスペースが無いのだ。だから、黒森峰学園艦は母校を熊本港としているが、母校に寄港する際は天草灘に停泊してそこから連絡船を使うというのが常だった。

 これだけ時間と手間をかけていれば、普段の登校時間に間に合うはずもなく、始業式にも遅れてしまうのは避けられず、大洗の増援に向かっていた隊員たちが黒森峰に着いた時には既に始業式は終わってしまっていた。

 だが、大洗に短期転校手続きを出した事は黒森峰学園側も知っているし、まほも連絡船で移動している際に学園側に遅れることは連絡しているので、事なきを得たようだ。

 しかし織部は、試合に参加した小梅やまほたちは良いとして、大洗に転校した扱いにはなっておらず、かつ試合に参加してもいない自分は間違いなくアウトだと思った。

 留学先で遅刻と言う失態を犯すとは、と悲観したが、教室に遅れて到着した際に教師から『西住まほから話は聞いている』と言われ、何のお咎めも無かった。恐らくは織部の知らないところでまほが話をつけてくれたのだろう、織部は心の中でまほに感謝しながら大人しく席に座った。

 とは言っても、新学期の日は大体始業式と宿題の提出、そして連絡事項の通達だけで終わりだった。2学年に進級する際はもう少し色々あったが、今日はそれよりも少ない。

 織部たちが戻ったのは始業式が終わった後だったが、宿題を提出するのには間に合い、後日提出という面倒なことにはならなかった。

 

 

 上記の行事が全て終われば、生徒たちは午前中で下校する事になる。そして、戦車道の訓練も、新学期同様今日は無かった。まあ、昨日大学選抜と試合をし、今朝北海道から熊本に戻ってきたばかりで、疲れている小梅と直下他戦車隊員からすればありがたい事だった。

 そして、夏休みで長い間会っていなかった友人と再会したら、大体は夏休み中の話をすると相場は決まっている。だが、下校したのはお昼時だったので、皆は昼食を持ち寄って教室で食べたり、夏休み明けで開放された食堂で食べたり、あるいは学園艦の数少ないレストランで食べたりする。

 気心知れた仲となった織部と小梅、同じクラスの斑田と根津、そして直下と三河はドイツ料理店に行き、そこで思い出話でも語り合おうという事になった。

 そんなわけで、学校からそのままドイツ料理店へと直行した6人は、ピークギリギリの時間に滑り込み、どうにかグループ席を確保する事に成功した。ちょっと時間が経つとすぐに満席になってしまったので、タイミングが良かったと言える。

 全員が注文を終えたところで、三河が話を切り出してきた。

 

「夏休みどうだった?」

 

 夏休み明けに、友達と話す際の第一声はこれに尽きる。だが、ここは普通の学校とは違い戦車道の名門校・黒森峰だ。だから、夏休みの半分以上は戦車道の訓練だったのだし、それはこの場にいる全員が知っている。

 故に気になるのは、訓練が無かった夏休み後半の話だ。

 

「そう言う三河はどうだったんだ?」

「私は実家に帰ってた」

 

 根津が聞き返すと、三河は面白い事なんて何もないとばかりに苦笑する。

 学園艦で生活している間は、家事のほぼ全ては自分でこなさなければならない。けれど実家なら、その手間もなくなる。無論、ただ自堕落に過ごしているというわけではなかったようで、ちゃんと宿題もしていたし、時々親の手伝いもしていたと、三河は言っていた。

 

「私と斑田は学園艦に残ったな」

「うん。街に行ったり、2人で勉強したり、色々あったね」

 

 根津と斑田は、どうやら学園艦に残りつつも2人で少しの間一緒に過ごしていたらしい。同級生で、戦車隊でも同期で何かと付き合いが長いからだろう。

 2人が実家に戻らなかった理由は、親の監視下にいないから割と自由に過ごせるという理由で、学園艦に残っていたのだと言う。しかし親との仲が悪いわけではないと弁明したが、その気持ちは織部たちにも分かる。

 

「直下はどうだったの?」

 

 根津が聞くと、直下は『私はねぇ・・・』と、昨日の試合の事についてはあまり触れないようにしようとしたが、そこで三河がさらに聞いてきた。

 

「そう言えば今朝、遅刻してきたみたいだけど何かあったの?」

 

 そこで直下の動きが止まる。どうやら、始業式で友人の姿が見当たらなかったことを不審に思ったようだ。そして教室に戻ると、鞄を肩に提げた完全に遅刻しているようにしか見えない直下の姿を見て、変に思ったらしい。

 新学期初日から遅刻してくるなど、何かあったとしか考えられない。

 

「あれ、直下さんも?ウチも、織部君と赤星さんが遅刻してきたんだけど・・・・・・」

 

 三河の言葉に、斑田も今日の異変を思い出して思わず口にしてしまう。織部、小梅と同じクラスの斑田も、もちろん2人が遅刻したことと始業式に出なかった事には気付いている。

 そして斑田は、織部も小梅も真面目だから遅刻などしないと思っていたから、余計に怪しく思えた。

 

(ねえ、織部君)

 

 そこで、織部の隣に座る直下が耳打ちをしてきた。

 

(昨日の事、話しても大丈夫なのかな・・・)

 

 おそらく直下は、昨日の試合について、なぜそのような試合が行われたのか、なぜ直下が大洗の生徒として試合に参加したのかを、言い方が悪いが部外者に話しても大丈夫なのか不安なのだろう。

 

(・・・・・・大丈夫なんじゃないかな)

 

 織部も小声で返す。

 昨日の試合はもう過ぎてしまった事だし、あの試合の詳細は戦車道を嗜む者なら遅かれ早かれ知る事だろう。

 それに、昨日の試合は戦車道界の問題を多分に含んでいたのも事実だが、それを今この場にいる事情を知らない根津、斑田、三河の3人に話しても、彼女たちはこの問題をおいそれと世間に広めようとはしない性格をしていると織部は知っている。小梅と直下だってそれは分かっている。

 その織部の考えを直下に小声で伝えると、直下も納得したように小さく頷いた。

 

「直下?」

 

 根津が、織部と直下がこそこそと話をしているのを不審に思い問いかけると、直下は首を横に振って笑った。

 

「何でもないよ。実は昨日、大学選抜チームと大洗の試合があったんだけどね」

「・・・・・・ん?大洗?」

「大洗って、大洗女子学園?」

「なんで大洗の話に?」

 

 だが、直下の言葉を聞いても3人は首をかしげるだけだ。確かに、なぜ直下たちの事を聞いていたのに大洗の話が出てくるのか。

 

「それでねぇ・・・実は私ら、大洗側として参加するように西住隊長に言われて、出場してたんだ」

「「「・・・・・・・・・はい?」」」

 

 見事なまでに3人ハモった。

 だが確かに、直下の説明だけで全て理解しろというのも難しい。何で直下が大洗側として試合に出たのかが理解できないし、試合があったのならどうして自分たちにはその話が来なかったのかがまた分からない。

 なので直下の言葉を補足する形で、昨日の試合の内容をかいつまんで、織部と小梅が話す。

 大洗が廃校になり、それを撤回するために大学選抜チームと大洗は試合を行う事になった。だが、30輌もの戦車と戦うために黒森峰を含めた有志の学校の一部の生徒が大洗に短期入学して、戦車を持ち込み大洗に加勢したのだ。そして大洗は勝利し、廃校を撤回させることに成功した。

 

「私と赤星さんが呼ばれたのは、西住隊長から力になってほしいって言われてね」

 

 直下も『皆より練度が高いから』と正直には言わない。そう言ってしまうと、暗に他の3人の事を『練度が低い』と言っているように捉われかねないからだ。

 

「わっ、ホントだ。サイトにも載ってる」

 

 三河がスマートフォンを取り出して、戦車道ニュースサイトを見る。直近24時間の閲覧数トップのニュースは、その昨日の大洗対大学選抜チームの試合だった。

 そのニュースを開けば、見出しは『日本戦車道史に残る激戦!』と大きく書かれて、記事には昨日の試合の流れが要所だけではあるが記されていた。

 そしてその中には。

 

「カール自走臼砲・・・?」

 

 三河が記事を見てポツリと呟く。それに反応を見せたのは試合に参加しなかった根津と斑田、そして試合で実際そいつの餌食になった直下だ。

 

「あのカールか?」

「あれ戦車じゃないでしょ・・・」

 

 カール自走臼砲はドイツで開発・製造された戦車―――とは言えない代物である。黒森峰はドイツに縁があり、使用する戦車もすべてがドイツ製であるため、自然とドイツの車輌にも詳しくなっていく。

 だが、そのカールが戦車と呼べないようなものだというのは根津、斑田、三河の3人は知っていたから、戦車道の試合に出てきた事が驚きなのだ。

 しかし記事には実際にカールが試合に出たと書いてあるし、関連記事には『物議を醸すカール認可』とあった。

 

「まったくひどいのなんのって」

 

 そこで直下のスイッチが入ったらしく、織部が帰りの飛行船で散々聞かされた愚痴をこぼし出す。

 だが織部としても、直下の気持ちは分からなくもない。まほのような人物から実力を認められて試合に呼ばれたというのは名誉なことだとは思うし、はるばる熊本から北海道に来たのだから相応の結果は挙げたいと直下も思っていただろう。それをカールが全部ぶち壊してしまったのだから、憤るのも仕方がない。

 

「赤星さんだってあれはひどいと思うよね!?ね!」

「あはは・・・そうですね・・・。私もカールがいるなんて思わなかったです・・・」

 

 小梅も苦笑する。

 小梅からすれば、あのカールの砲撃でやられてしまったのは、小梅の中の覚悟や思いを全部踏みにじるほど無慈悲なものだった。あの後、何のケアも無ければ小梅は今なお落ち込んでしまっていただろう。また自信を失くしてしまっていただろう。

 それでも今こうしてあの時の事を笑っていられるのは、試合の後でみほと話をして、来たことが無駄ではなかったと分かったからだ。みほの口からその気持ちが聞けただけで、あの時感じた悔しさや空しさも、無くなってしまっていた。

 そしてそれでもなお落ち込むというのは、小梅の事を励ましてくれたみほに対して失礼だ。だからこれ以上落ち込むわけにはいかない。

 

「あれ、そう言えば・・・・・・」

 

 そこで斑田が何かに気付いたように織部の方を見る。

 

「織部君も行ったの?」

「・・・・・・うん」

 

 今朝、織部と小梅は遅刻してきた。そして織部は戦車隊に一時的かつ特別なケースで入隊している身でもある。

 とすれば、織部も昨日の試合が行われた場所へと向かったと考えるのが自然だ。だが、そうなると別の疑問が浮かんでくる。

 

「・・・・・・聞き方が悪いかもしれないんだけど、何しに?」

 

 斑田が、本当に申し訳ないとばかりに聞いてくるが、その疑問はもっともだった。

 ただでさえ織部は、戦車道連盟の計らいで特例として黒森峰に留学している身分ではあるのだが、流石に大洗にまで転校する事はできない。加えて戦車乗りでも無いため試合には参加できない。整備の腕も持たないために、本当に行っても意味は無いのだ。

 それは織部が一番知っているので、斑田の問いにも気分を害しはしない。

 

「・・・・・・西住隊長から来るようにって、言われたんだよ」

 

 織部も、まほからその理由らしき言葉は聞いた。けれど、それは正直に言ってはいけないと織部の勘が言っていたので、似たようなニュアンスの言葉を言っておく。

 

「まあ、いろいろ勉強になっただろ?昨日の試合」

 

 そこで根津が深く掘り下げずに話しかけてくれたので、話の向きが少し変わった事に織部は心の中で一息つく。そして、根津の言葉にももちろん返事はする。

 

「うん、色々と見どころがあったし、面白かったよ」

 

 そう言ったのは織部の本心である。カールに小梅がやられた時は心臓が止まりそうだったし、同時に久々に抱いた怒りの感情が燃えあがっていた。けれど、カールが小隊に倒された時は爽快感が身体を貫き、遊園地での遊撃戦は見ていて面白く、特に大洗連合の奇策―――観覧車による包囲網破壊、知波単と八九式の連携、橋の下からT28重戦車を撃ち抜くチャーチル、堀を飛び越えたクルセイダーなど―――も全国大会決勝戦を彷彿とさせて面白かった。それに、敵の隊長車のセンチュリオンが大洗の戦車を何輌も倒す姿も、目を見張るものがあった。

 総じて、あの試合が見れただけでもあそこに行く価値は十分あったと、織部は思っていた。

 ちなみに試合中、織部は試合のメモを取っておいた。ただ付いて行ってただ試合を観て楽しんで何もしなかったら本当に来た意味が無くなってしまうし完全なお荷物なので、せめてものという意味でメモを取ったのだ。

 そして、このメモは清書して正規の報告書に記載してまほに提出するつもりだ。そうでもしないと、そのメモも所詮は織部の自己満足となって、黒森峰的に見れば織部があそこに行ったのも無意味と決めつけられる。

 

「あ、そう言えば・・・エリカさんが大洗のポルシェティーガー、プラウダのT‐34と連携攻撃をしてましたね」

 

 試合を振り返るように織部が話していると、そこで小梅が思い出したように告げて、織部と直下も『そう言えば』と頷く。恐らく小梅と直下は、戦車が撃破された後で試合の様子を何らかの手段で見ていたのだろう。

 

「エリカさんがぁ?あのポルシェティーガーと?」

 

 だが、三河が疑わしいとばかりに苦笑する。確かに、エリカが他校の、それも急ごしらえのチームで組んだ戦車と連携攻撃というのは少しイメージしにくい。そして連携攻撃した戦車の内の1輌は、全国大会でエリカが“失敗兵器”と呼んだポルシェティーガーだ。なおのこと信じられない。

 あの時は、足回りが悪いはずのポルシェティーガーが、およそ戦車が出せないようなスピードでティーガーⅡとT‐34をスリップストリームで加速させ、そして連携攻撃でバミューダ三姉妹と呼ばれる大学選抜チームの副官3人のパーシングの一角を倒した。

 サンダースの車輌3輌と、聖グロリアーナのマチルダをいともたやすく倒したバミューダトリオの一角を落とせただけでもすごいと、織部たちは思っている。

 

「最後は隊長とみほさんが協力して・・・すごく、見ごたえがありました」

 

 小梅が試合終盤の事を思い出す。姉妹であるみほとまほが手を組み、天才少女の島田愛里寿に挑んだ時は、小梅は『負けないでほしい』と強く思うと同時に、『よかった』とも思っていた。

 みほとまほの仲がつい最近まではギクシャクしていたのは知っているし、この前まほが自分からみほを呼び謝って、本当の意味で和解できたことを、あの場にいた小梅は知っている。そしてその時その場にいなかった織部も、まほからみほとはどうなりたいのかを聞いたし、どうなったのかも聞いている。

 だからこそ、島田愛里寿と対峙した時にみほとまほのコンビネーションを見た時は、感動にも似た感情を抱いたものだ。あの2人の協力こそが、2人の仲の良さを、絆の強さを体現していると織部は思う。

 大洗女子学園が島田愛里寿率いる大学選抜チームを倒して学校を取り戻せたのは、助けに来た皆が勝利を目指して一致団結したというのもあるが、みほとまほが力を合わせて大将である島田愛里寿を討ったのも大きい。実際それが決定打となって大洗は勝利したのだから。

 そして、ここにいる6人は知らないが、昨日の試合中の事。

 カールを撃破し、大洗連合が高地・湿地帯から廃遊園地へと移動している最中で、自軍の戦力を見直している時の事。8輌もの戦車を失い、みほが自分の責任だと言った時だ。

 

『定石通りやりすぎたな、らしくもない』

 

 まほはそう指摘した。

 全国大会で見せたような破天荒な作戦ではなく、教本に載っているような基本中の基本の作戦を立ててしまい、大学選抜チームの策に嵌ってしまった。

 それはみほが、本来の大洗のように少数で戦うのではなく、30輌という大軍を1度に率いて試合に挑む事が初めてだったからだ。黒森峰にいた時でさえ20輌が関の山だったし、そもそも隊長ではなく副隊長だったので多数の戦車を指揮する機会も、今回が初めてだった。

 結果、どう運用すればいいのかが分からなくて、やむを得ずに定石通りの作戦で戦車を動かすしかなかったからである。

 

『みほの戦いをすればいいんだ』

 

 だが、みほにそう優しく言ったのも同じくまほだ。

 まほは、みほの持ち味が臨機応変な対応力と、柔軟な発想だという事を姉として、そして実際戦って分かっている。その持ち味を、廃校がかかる重要な戦い、不慣れな大連隊の指揮で、みほ自身でも忘れかけていた自分なりの戦い方で挑むという事を、まほは思い出させたのだ。

 その結果、廃遊園地からは大洗連合全体の戦い方がみほなりの戦い方に近づき、そしてそれは応援に来てくれた学校にも伝播して、元々大洗の車輌と応援に来てくれた他校の戦車が力を合わせて、型破りな戦いを見せてくれるようになった。

 おそらくだが、このまほの言葉が無ければ、大洗はさらに戦車を消耗してしまっていただろう。もしかすると、勝てなかったかもしれない。

 まほは、みほの性格や戦い方を分かっていたまほとの仲が良かったから、みほが忘れかけていたことにも気づき、それを教えることができたと言える。

 つまり、大洗が勝てたのは、ひとえに皆が協力したからと言うわけでもなく、みほとまほの仲の良さもあったのだ。

 

「へぇ~・・・私も見たかったなぁ・・・」

「皆、夏休みは結構満喫したんだねぇ」

 

 話を聞いて、三河と斑田が心底羨ましそうに言葉を洩らす。参戦するにしても、他の学校と連合を組むという稀な状況下で戦うというのも面白そうというのは一つの見方ではあるし、観戦するのも30対30の殲滅戦と言うのは盛り上がるものだし、見ている分にも面白い。現に、試合を観ていた織部も楽しむことができたのだから。

 

「ってか、もう9月なんだな・・・」

 

 根津がスマートフォンを閉じようとして、日付をちらっと見て呟く。

 昨日で8月及び夏休みは終わり、今日から9月だ。ざっくりとした季節の分類では、9月に入った今日から秋という事になる。

 だが、根津のその言葉に織部の表情が陰る。

 

「あ、そう言えば・・・・・・」

 

 斑田が、その根津の言葉で思い出したように織部の方を見る。

 

「・・・・・・今月末だっけ、織部君が帰っちゃうのって」

 

 ここで斑田の言う“帰る”というのは、もちろん寮の部屋に帰るというわけではない。留学期間が終わり、黒森峰から去り、元居た学校へと帰るという事だ。織部もそれは分かっていたので、小さく頷く。

 その事実に気付いて、織部の隣に座る小梅の表情が織部以上に陰る。それに気づかないほど、根津たちも鈍感ではなかった。

 だが、このままこの話題を投げっぱなしにして他の話題に移ると余計後味が悪くなるので、少しでも気持ちを盛り上げようと織部に話しかける。

 

「随分長かったねぇ、半年ぐらいかな」

 

 三河が感慨深そうにつぶやく。だが三河も、少しばかり寂しさを抱いてはいるようで、表情は少し暗くなっていた。

 確かに、2学年が始まってから今日に至るまで、織部は共にいたのだ。なぜか女子校にいる男子と言う異物感は否めなかったが、それでも接してみれば普通に話すことができたし、一緒に出掛けた事も、遊んだこともあった。違和感は、とっくの昔に消え去っている。

 だからこそ、自然にこうして溶け込むことができていた織部がいなくなるというのも、少ししんみりしてしまうものだった。

 

「戦車道の勉強をしに来たって言ってたけど、それはできた?」

 

 根津が聞いてくるが、その問いには織部はもちろんと答えることができる。

 戦車隊では最初の頃を除けば審判や監視員を務め、報告書だって欠かさず書いてきた。空いた時間を利用して黒森峰の書庫に所蔵されている書籍を読んだこともあったし、実際に戦車の動きを目で見て確かめる事で、紙の上の字だけでは分からないようなところも飲み込むことができた。

 織部は自分の中に、黒森峰にくる以前よりも、はるかに多くの戦車道に関する知識が蓄積されていると、実感していた。

 

「まさか、彼女までできるとは思わなかったけどね」

 

 珍しく斑田がおちょくるように織部と小梅を見ながら言うが、織部は苦笑するだけだ。この程度ではもはや動じもしない。

 織部からすれば、春休みに小梅に会った事は全くの偶然であったし、新学期から同じクラスに留学する事になったというのも、予想だにしていない事だった。

 だが、それら偶然の積み重ねで織部と小梅は仲を深め、遂には将来結ばれることを誓い合うまでに親しくなれたのだ。

 これまで、織部と小梅が過ごしてきた時間の中で、何か1つでも狂いや間違いがあったりすれば、2人の仲は拗れて、織部と小梅の関係もここまでには至らなかっただろう。そう考えると、男女の付き合いと言うものはバランス的な意味でも危なっかしいものなのだなと、感じざるを得ない。

 

「・・・・・・赤星さんの事はもちろんだけど、私たちの事も忘れないでほしいな」

 

 直下が、少し寂しそうに織部に向けて告げる。

 直下に限らず、根津たちとは、小梅ほどではないが随分と親しい間柄となることができた。特に同じクラスで、黒森峰の留学が始まってから間もなく織部と話し始めた根津と斑田からすれば、数少ない男友達ができて内心では少しばかり嬉しかったのだ。

 そうでない三河と直下も、戦車道の時間ではそれなりに織部と接する時間は割と長かったし、一緒に出掛けた仲でもあるので、ただの留学生、赤の他人とは思えない。

 だから、その織部がもうすぐここを去ってしまうというのも、寂しく感じられるのだ。

 親しい間柄となったからこそ、自分の存在がその人に忘れられるというのはなお寂しいし、自分の存在も結局はその程度だったのだと思うと、余計やるせない気持ちになってしまう。

 だから直下は、先ほどのようなことを言ったのだろう。

 そして、そう思うのは根津たちも同じだった。

 

「・・・・・・忘れるわけないよ」

 

 織部だって、忘れるつもりはさらさらない。忘れられるはずがない。

 黒森峰で過ごした時期は何物にも代えがたい大切な時間であり、そこで築き上げた人とのつながりもまた断ち切れないものだ。そしてここで過ごした時間、経験した事柄の中には辛い事もあったが、全て織部の血肉となって、織部の目指す将来で必ずや役に立つだろう。

 それをあっさり忘れるというのは、あまりにも残酷で、冷酷だ。

 

「・・・・・・?」

 

 その時、織部の左手がそっと握られる。握った人物の正体は、小梅だ。

 小梅は今、ここにいる誰よりも、織部との別れを寂しく思い、恐れている。

 その理由はわざわざ聞くまでも無い事だった。

 小梅が今こうして、織部、そして同期メンバーと食事ができるようになったのは、小梅が立ち直ることができるように織部が傍にいて、小梅の事を傍で支えていたからだ。小梅が戦車に再び自信を持って乗ることができて、新入隊員たちを育て上げ、全国大会決勝戦の参加や、(結果はともかくとして)大洗への増援に小梅の戦車が起用されるまでに強くなれたのも、織部に相談して助言を貰えたからだと、小梅は思っている。

 小梅がここまで成長でき、心に傷を負いながらも今日まで黒森峰でやってこれたのも、織部という心の支えがいたからだ。

 そして、織部に対して抱いていた感情も大きく変わった。自分の傷ついていた心を癒し、過去を聞いても小梅の事を拒絶せず逆に受け入れた織部には嬉しさや喜び、感謝の気持ちを抱いていた。やがて、その気持ちは胸を焼くほどの恋心へと変わった。

 そうして恋心を抱いていたのは織部も同じだったと知り、両想いだと気付いて、お互いに恋人同士になれた時は涙を流して喜んだ。

 そして今や、織部と小梅は将来添い遂げることまで考えている。2人の親は仲を認め、後は織部と小梅がそうなるように行動すれば、それは叶う。

 しかしそれもすぐではない。その前に織部と小梅は、1度離れ離れになってしまう。

 たとえまた会うことができると、将来は一緒になれると分かっていても、それでも離れ離れになってしまうというのが、辛く悲しい。

 そして、心の支えでもあった織部がいなくなってしまうと、自分はどうなってしまうのか、不安だった。また前みたいに孤独になってしまうのかもしれないと思うと、恐ろしくて仕方がない。

 その寂しさや不安を紛らわそうと、織部の手を小梅は強く握っている。

 その小梅の表情が寂しさに染まっているのも、織部には分かっていた。だから、その手を優しく握り返す。

 また少し、話をする時間がほしいと、織部も小梅も思っていた。

 だが、今はその時ではない。

 やがて店員が、6人分の料理をカートで運んできてテーブルに置き、辛気臭い話は一旦打ち切りとばかりに全員がナイフ、フォーク、スプーン、箸を手に食事を始めた。

 

 

 午後の授業と訓練が無いので、エリカはコンビニでサンドイッチを買い、学園艦のトレーニングジムへと訪れ、そこの休憩スペースでそのサンドイッチを食していた。戦車道の訓練が無いからと言って自由気ままに過ごそうと思えるほど、エリカも気楽ではない。

 全国大会も終わり、昨日の激闘も過ぎて、今年度も残すところ後半年となった。つまるところ、隊長のまほを含めた3年生が卒業し、黒森峰戦車隊を引退する日も近づいてきているという事だ。

 そして来年度からは、現在副隊長であるエリカが次の隊長へとなる。これはもう推測ではなく、まほ自身が口にしていたことだ。

 昨日飛行船で北海道から帰る時、まほと2人で話をしていた際にまほがそう言ってきたのだ。大洗への増援にエリカを選んだのは、副隊長と言う立場と実力があったのと、そしてあの試合でエリカの隊長としての資質を見極めるためだったと。

 序盤の高地でのカールによる砲撃には狼狽える事なく冷静に周囲の状況を把握し、廃遊園地の南正門での戦闘では、まほからの明確な指示なしでもどう動きどう戦えばいいかを考えて実際にパーシングを撃破した。そしてその後は、他の学校の車輌と協力して、バミューダ三姉妹の一角を撃破。

 他の車輌と協力したという点を含んでも、あの大学選抜チームの車輌を2輌撃破しただけでも十分だろう。特にそのうちの1輌は戦車道でも有名なコンビネーション攻撃を仕掛けてくるバミューダ三姉妹なのだから、その後すぐに撃破されたとはいえ悪くない戦果だ。

 その点はまほも評価していたし、もう1つ評価できる点があるとまほは前置きして言った。

 そのバミューダの一角を落とす際、エリカは大洗のポルシェティーガー、プラウダのT‐34の2輌と急造のチームを作り、ポルシェティーガーの車長発案の作戦を聞いてそれを遂行した。

 急ごしらえのチームでチームワークなどできるはずがないと鼻で笑ったエリカが、本当に急造の少人数チームで協力して戦車を倒し、たった今その場で決まった作戦を理解して成功させたという事は、エリカが柔軟に事態に対応できたという事になる。

 普段の黒森峰では、敵の攻撃で車両数が減った際に陣形を組み直す事は何度もあったが、それはマニュアルに従っての事であった。それに、黒森峰では試合の最中に今その場で作戦を新たに考えるという事が無い。そうなる前に試合の決着がつくケースがほとんどだったからだ。

 だから、その場で作った少人数のチームで協力したのも、その場で発案された作戦を即座に理解してそれを遂行したのも、全てはエリカの中にあった臨機応変な対応力の賜物だ。

 エリカ自身は気付いていないが、その臨機応変な対応力というのは、エリカがライバル視している西住みほと共通しているものだ。

 何はともあれ、昨日の試合でエリカの挙げた戦果や対応を踏まえた上で、まほは改めてエリカが次代の隊長となり得ると言った。

 まほはそれだけ、エリカに期待をしているのだと、エリカを信じているのだという事は、流石にエリカ自身でも分かる。

 だからその信頼と期待を裏切らないためにも、エリカは決して鍛錬を怠りはしない。

 隊長にもなると隊の皆を率いる責任に耐えられるほど強い心と、試合に集中するための集中力が必要になる。

 どこぞやの隊長の真似をするつもりはないが、『健全な精神は健全な肉体に宿る』というローマの詩人ユベナリスの言葉は至極その通りだと思うので、日頃からボクササイズに励んでいるし、時間が余るとこうしてジムに来ることが結構ある。

 その隊長に相応しい、西住流のモットーにもある鋼の心を宿すために、まずは自分の体を鍛える。そんなわけでエリカはこのジムに来ていた。

 サンドイッチを食べ終わり、そろそろトレーニングを始めようかと立ち上がったところで、テーブルに置いていたスマートフォンがメールの着信を告げる。表示されているのは、つい最近新しく追加されたアドレスだ。

 メールを開くと。

 

『送信者:ナカジマ

 件名:戻ってきたよ

 本文

 こんにちは。たった今、私たちは大洗に到着しました。

 私たちの学園艦、戻ってきてたよ!

 皆が駆けつけて来て、協力してくれたおかげです。

 エリカさん、本当にありがとう!』

 

 メールには写真が1枚添付されており、開いてみると学校の校舎らしき建物が映っている。恐らくはこの学校が、大洗女子学園の校舎なのだろう。校門の、通常は校名が彫られたプレートが取り付けられているであろう場所に何もないというのは少し疑問だったが。

 時計を見れば、丁度昨日の夕方に苫小牧港を出港した大洗行のフェリーが大洗に着いたあたりの時間だ。そこからさほど時間が経っていないという事は、どうやら彼女たちは、早く自分たちの取り戻した学校を見たくて仕方なかったのだろう。

 メールを見て、自然とエリカが笑う。

 昨日の戦いで、彼女たちは本当に自分たちの居場所を取り戻し、輝きもまた取り戻すことができたのだと、そう確信したからだ。

 このメールを送ってきたナカジマと言う人物は、エリカが全国大会で失敗兵器と罵り、昨日の試合でエリカが協力したポルシェティーガー―――レオポンさんチームと言うらしい―――の車長だった少女だ。身長は少しエリカよりも低かったが、3年生なので年上にあたり、先輩と呼んだ方がいいのかもしれない。だが本人は別に上下関係は気にしていないようだったので、試しに呼び捨てで呼んでも何も気にしていなかった。

 さて、なぜエリカがそのナカジマのアドレスを持っているのかと言うと、それはやはり昨日の試合が理由だ。

 エリカは昨日の試合で、廃遊園地でバミューダの一角を落とした後ですぐ撃破された。その後は、脱落したレオポンさんチームのメンバーと、T‐34に乗っていたカチューシャと一緒に試合の結末を見届けたのだ。

 その中でも一番小さいカチューシャが、『試合が見えないから肩車しなさい』とエリカに言った時は、例え相手が(あんなちんちくりんでも)プラウダの隊長で、自分より年上の3年生と言っても『はぁ?』と言わざるを得なかった。ただ露骨に嫌がったら泣きそうになったので嫌々ながらも肩車をする羽目になった。そこにはエリカよりも身長の高い、焼けた肌が目立つレオポンさんチームのスズキもいたというのに。

 そして勝利の瞬間を彼女たちと一緒に見届けて、その時はエリカも内心では本当によかったと思ったものだ。

 今回の騒動の中心でもある大洗に所属するレオポンさんチームのメンバーも喜びの表情を浮かべていたし、エリカと同い年の糸目とそばかすが特徴のツチヤという少女は変な踊りをしていた。ナカジマはわずかに涙をにじませていて、スズキも、小麦色の肌が特徴的なホシノも満面の笑みを浮かべていて、本当に嬉しかったのだという事が分かった。

 もちろん、エリカが肩車していたカチューシャも『ハラショー!ピロシキ!』と言いながら万歳をしていて、『落ちるわよ』というエリカの呆れたような注意も耳に入らないくらい喜んでいた(なぜロシア料理の名前を言ったのかはエリカには分からない)。

 そして、そこにいた全員で閉会式の場所へと戻る途中で、これも何かの縁という事でエリカはナカジマと、いや、ナカジマだけでなくレオポンさんチームの全員、そしてカチューシャともアドレスを交換したのだ。

 大学選抜チームと言う文句なしの強敵との激闘を制し浮かれていたのは否めない。それで、簡単に他人にアドレスを教えてしまったのだろう。

 だが、あの時のナカジマを含め、試合に勝った皆の嬉しそうな顔を思い浮かべるとこのアドレスを消す気も起きない。

 それにこうして、大洗女子学園の廃校は本当に撤回されたのだという事実を知り、そしてナカジマたちもそれを心から喜んでいるのだという事が分かっただけで、アドレスを交換した価値は十分あると思う。

 さて、エリカは至極真面目な性格をしている。だからメールの返信も早い方だ。特にまほから来たメールは、例え内容が赤紙のような恐怖を煽る内容だったとしても、メールを見た瞬間から返事のメールを考えるまである(最新のまほからの赤紙風メールは『非常召集』の4文字だけだった)。

 ナカジマから来たこのメールからも嬉しさがひしひしと伝わってきて、エリカ自身も本当によかったと思うのだが、エリカはナカジマに初めてメールを送るため、文章は慎重に考えて書く。

 

『宛先:ナカジマ

 件名:Re:戻ってきたよ

 本文

 よかったですね。あなた達の学校が本当に戻ってきたと今確信できて、

 私も安心しています。

 他の皆さんにも、よろしくお伝えください』

 

 あまり多くを書くと、携帯の画面が文字で埋め尽くされかねないので、安心したというエリカの気持ちは書いて、その上で送信する。

 しかし、とエリカは思う。

 試合の途中でみほの『チームワークを生かして戦う』という言葉を聞いて『急造チームにチームワークなどあるのか』と疑問に思ったのに、急ごしらえの3輌のチームで協力して敵を倒し、自分が全国大会で“失敗兵器”と馬鹿にしたポルシェティーガーの力を借りたというのも、おかしな話だ。エリカが軽んじていたチームワークと失敗兵器で敵を倒したと思うと、中々に皮肉なものである。

 だからこそ、昨日の試合で自分の中のものの価値観は大きく変わったと思う。まほに隊長としての資質はあったと認められたのも踏まえて、昨日の試合は出て正解だったと、今では思うことができた。

 と、そこでまたしてもスマートフォンがメールの受信を伝える。

 画面を開いて、メールの本文を見ると。

 

「・・・・・・なによそれ」

 

 エリカはクスッと笑みをこぼした。

 そのメールには何と書かれていたのかは、エリカと、送り主のナカジマだけが知っている。

 

 

 その日の晩、まほは寮の自室で電話をかけていた。その電話の相手は、必要以上には自分から連絡を取らない相手だった。

 その相手は1コール半で電話に出た。

 

『もしもし』

「こんばんは。夜遅くに失礼します」

 

 電話の相手はしほだ。家族同士なのだし、もう少し砕けた調子で話してもいいのではと思うかもしれない。だが、いくらしほがみほの事を認めたといっても、まほにとってのしほは母親であり、何より自分が敬意を払うべき西住流の家元だ。だからこの姿勢は、どうしても崩せない。

 

「今、少々お時間をいただいてもよろしいですか?」

『・・・・・・大丈夫よ』

 

 まほが問うと、しほの方から何かガサゴソと言う音がした後で、しほが答えた。

 

「実は少々、お伝えしたい言葉がありまして」

『何かしら?』

 

 まほは、小さく息を吸って気持ちを整えて、昨日みほと話をした言葉を思い返し、そしてその言葉に対するまほ自身の気持ちを伝える。

 

「・・・・・・昨日、みほと別れる前に、少し話をしました」

『?』

 

 昨日の試合の後、大洗行のフェリーが出港する苫小牧港のふ頭で、みほとまほは話をした。随分と久しい、姉妹で交わす遠慮のない話だ。

 駆けつけて来てくれた時は本当に嬉しかったとみほが言えば、大切な妹を助けないはずがないだろうとまほが自信ありげに告げて。

 みほが少しからかい交じりにまほの大洗の制服姿はあまり似合わなかったと言うと、まほはそんな気はしてたと言って2人で笑い合って。

 まほが少し不安げに黒森峰の一件での償いはできただろうかと問うと、みほは気にしないでくれていいと言って、そして私たちのために戦ってくれてありがとうとも言っていた。

 今回の試合、まほはみほの居場所を守るために戦ったという印象が強い。

 黒森峰でみほを守ってやれず、みほの居場所を作る事さえもできなかったまほだ。自分だけの戦車道を見つけた、大洗という新しいみほの居場所がなくなり、そのみほの居場所がまた無くなってしまう事など看過できるはずが無かった。

 黒森峰で居場所を作ってやれなかった身として、そしてみほの姉として、みほの居場所を守るというまほの決意が、今回の試合に参戦した一番の理由だ。

 この試合で黒森峰でのことを償うというわけではなかったのだが、それでも不安になってみほに訊ねるほかなかった。それでもみほは、笑ってくれた。

 だが、今重要なのはそれではなく。

 

「その時みほは、昨日の試合を行うことを許可した念書の中に、お母様の名前が入っていたと言っていました」

『・・・・・・・・・』

 

 今回の試合が行われるようになったのは、みほたちの学校の生徒会長である角谷杏が文部科学省と日本戦車道連盟にまで足を運び、人脈と話術スキルを駆使して、どうにか試合にまでこぎつけたからだ。

 その試合を行う際に杏が文部科学省から念書を取ってきたのだが、そこには5人のサインが書いてあった。

 

『文部科学大臣     牟田正志

 文部科学省学園艦局長 辻廉太

 日本戦車道連盟理事長 児玉七郎

 大学戦車道連盟理事長 島田千代

 高校戦車道連盟理事長 西住しほ』

 

「みほは、念書にお母様のサインがあった事を知ると驚いたと、そして同時にとても嬉しかったと言っていました」

『・・・・・・・・・・・・』

 

 電話越しのしほは何も言わない。直接顔が見えていないので、怒っているのか、それとも反応に困っているのかは分からないが、それでもまほは続ける。

 

「お母様もまた、みほの学校を無くすまいと、居場所を失わせまいと動いてくれたんだと、みほはそう言っていました」

『・・・・・・・・・・・・』

 

 だが、みほの言っていた通りなのかは、まほにも判別がつかない。

 みほの言葉は、あくまで事態をポジティブに捉えたものであり、本当はしほがどう思っているのかは分からない。もしそうでなかったのなら、みほのぬか喜びで可哀想だ。

 だが、まほと話をして、しほもまたみほの事を認めたから、そう思っている可能性は高い。

 

『・・・・・・あの時私が動いたのは、このまま事態を静観していては、日本の戦車道に未来は無いと思ったのもあります』

 

 思ったの“も”ある。

 その含みある言い方に引っ掛かりを覚えるが、まほはとやかく言いはしない。

 しほの言う戦車道に未来は無いという言葉も至極その通りだと思う。全国大会で華々しい成果を挙げた大洗の廃校を強行しては、戦車道と文部科学省のイメージダウンにしかつながらないからだ。

 

『ですが、親としてみほの居場所が失われるのをただ見ているだけというのもできませんでした』

「・・・・・・・・・・・・」

『要はみほの言う通りです。私もみほの、大洗の皆の居場所を守るという思いを胸に動きました』

 

 まほは、目を閉じて小さく頷いた。

 しほもまたみほの学校が無くなるという事を見過ごせずに、戦車道の未来のためというのもあるが、みほのために動いてくれていたのだと思うと、みほがそう思っていたように、まほも嬉しく思う。

 

「・・・・・・ありがとうございます」

『・・・何故あなたがお礼の言葉を』

「昨日の試合は、お母様の力無しでは実現しなかったものです。お母様が動かなければ、私はあの試合に参加する事もできず、今頃大洗の皆は散り散りになってしまっていたでしょう」

 

 そう、あの念書のサインが、誰か1人分でも欠けてしまっては、あの試合自体成立しなかったのだ。だから、その書類にサインして試合を行う事に貢献したしほに対しても、まほは感謝の気持ちを告げずにはいられなかった。

 みほたちが大学選抜チームに勝ち自分たちの学校を取り戻せたのも、ダージリンの呼びかけに応えまほたちがあの試合に参加できたのも、そもそもあの試合が行われる事が決定したのも、しほが動いたからだ。

 だからまほは、そのお礼をしほに告げたのだ。

 

『・・・・・・少しは、親らしいことができたかしらね』

「え?」

『何でもないわ』

 

 何かしほがボソッと言ったが、まほには聞き取れなかったし、しほが何でもないように取り繕ったので追及には至らなかった。

 

『ところで、まほ』

「はい」

『あなたの短期転校手続き書類にまでサインをした覚えは無いのだけれど』

「・・・・・・・・・・・・」

 

 まほの動きが止まる。

 あの時のまほの持っていた短期転校書類のしほのサインは、まほ自身で書いたものだ。みほが最初に持ってきた書類にサインしたのもまほだ。

 その事実を今更思い出して、まほは焦りを覚えた。しほに許可も取らずにこんな行動をとってしまい、叱責の1つでも飛んでくるかもしれない。その事を考えていなかったことを、まほは後悔した。

 

『まあ、いいでしょう。久々に、あなた達が力を合わせて一緒に戦うことができたのが見れて、私としても良かったので』

「・・・・・・お母様、今なんと?」

 

 なんか信じられないような、普段厳格なしほが言いそうにない言葉を聞いた気がしたので、念のために聞きなおすまほ。

 だが、2度目は無かった。

 

『・・・・・・ちょっと、キャッチホンが入ったわ。申し訳ないけど、切ってもいいかしら?』

「・・・・・・・・・・・・はい」

『・・・・・・では、また』

 

 逃げたな。長女の勘で、まほはすぐそう思った。

 電話が切れて、手の中にある携帯を見たまま、まほは先ほどのしほの言葉を思い出す。みほとまほが力を合わせて共に戦うのが見れて、親としてよかったと。

 みほの事を認めているという本心を認め、みほと仲直りをするために歩み寄り始めたしほも、少しずつだが角が取れてきた気がする。

 しほはみほに話をすると言っていたが、それが既になされたのかはまほには分からない。

 だが、まほとしては去年の全国大会以来ギクシャクしているしほとみほの仲が元に戻ろうとしているのが分かるだけで、それだけで嬉しい気持ちがある。

 自分の家族が世間一般とは少し異なるという自覚はまほにある。だが、それでも親子としての絆はあってほしいと同時に思ってもいる。

 だから今回の件で、しほがみほのために動いたというのを知ることができて、しほの中にみほを思う気持ちは確かにあったと知ることができて、本当によかった。

 暗くなった携帯の画面に、まほの慈しむような笑みが映り、それを見たまほは少し恥ずかしくなって携帯を閉じた。




シオン
科・属名:キク科シオン/アスター属
学名:Aster tataricus
和名:紫苑
別名:鬼の醜草(オニノシコグサ)十五夜草(ジュウゴヤソウ)
原産地:日本、中国、朝鮮半島、シベリア
花言葉:君を忘れない、追想、遠方にある人を思う、どこまでも清くなど


次回は、恐らく黒森峰組は未登場です。
代わりにあんこうチーム&しぽちよが出てくる予定です。
感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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美女桜(バーベナ)

みぽりん、誕生日おめでとう!
愛里寿隊長、誕生日おめでとう!(フライング)


前回の予告通り、
今回はあんこうチーム&しほと千代の話です。
お楽しみいただければ幸いです。


 夏休みを残り1週間に控えた日に、大洗女子学園の地元・大洗町で全国大会のエキシビションマッチは開催された。熱い砲撃戦を繰り広げ、店を破壊しては店主を喜ばせた試合の後、大洗女子学園は急遽廃校になると文部科学省に告げられてしまった。

 元々、目立った成績も無く、生徒数も年々減少傾向にある大洗女子学園は、莫大な維持コストのかかる学園艦の統廃合計画の槍玉にあげられた。

 だが、文部科学省からは戦車道全国大会で優勝すれば廃校を免れる“可能性がある”と言われ、その言葉を信じて大洗女子学園は20年ぶりに戦車道を復活させ、そして全国大会で悲願の優勝を果たした。

 けれど文部科学省は非情にも、『廃校撤回は可能性の話であり確約ではない』と冷酷な事実を告げ、大洗女子学園は廃校になってしまい、その翌日に大洗女子学園の住人は全員退去し、学園艦は太平洋上にあるとされるスクラップ場へと移動させられてしまった。

 だが、諦めきれない彼女たちは何とかして廃校を取り消そうともがき、大学選抜チームとの試合に勝てば廃校撤回を“確約する”という話を取り付け、試合に挑んだ。

 けれど試合は絶望的なまでに大洗に不利で、勝ち目など見出せないような試合になってしまった。

 しかしその大洗の危機に駆けつけてきたのは、これまでに大洗と砲火を交え、時にはともに戦った学校の精鋭たちだった。そして試合は対する相手・大学選抜チームと互角に持ち込み試合は開始された。

 激しい戦いの末、大洗は見事大学選抜チームに勝利し、廃校は今度こそ、本当に、撤回され、学園艦も母港・大洗港に戻ってきたのだ。

 

 

 そんな大洗の皆の、決死と言っても過言ではないような奮戦を少しも感じさせないほど、 大洗女子学園艦は太平洋を穏やかに航行していた。波の音は静かで、夜空に輝く星々も煌めいて、大学選抜チームとの死闘など夢だったと錯覚させるほど、平穏だった。

 そしてその学園艦の住宅街の歩道を歩きながら、大洗の戦車隊の隊長である西住みほは夜空を見上げていた。

 こうして海を航行する学園艦から見上げる夜空は、天候が悪くない限りは今のように無数の星々が輝き、今にも降ってきそうなぐらいだ。

 夜空を見上げる機会はこれまで何度もあったというのに、今見上げる夜空はこれまでとは全く違うように、新鮮に見えた。

 

「みぽりん、どうかしたの?」

 

 すると、長い間空を見上げているのが変に見えたのか、一緒に歩いている人物から声を掛けられてしまった。その人物は、明るい茶髪のウェービーヘアの少女・武部沙織だ。

 

「ううん、何でもないよ。ただ、学園艦から見る星空は綺麗だなぁって思ったの」

 

心配そうな沙織を落ち着かせるように、みほは笑いながら首を横に振ってそう言う。

 

「私も、ここから見る星空は好きですよぉ。だってこんなに綺麗な星空、都会じゃ見れないですからね!」

 

 そのみほの言葉に真っ先に反応したのは、かなり癖の強い、薄めの黒のショートボブの秋山優花里だ。彼女は前に、星が良く見えて学校が海の上にあるのも悪くは無いと言っていた。

 

「・・・・・・ちなみに、都会で星空が見え辛いのは、都会の光が明るすぎて夜空までぼんやりと明るくなってしまうかららしい。それで光の弱い5等星や6等星が見えなくなってしまうんだとか」

「そうだったんですか・・・。麻子さんは本当に物知りですね」

 

 みほと優花里の後ろで豆知識を披露したのは、腰まで伸ばした黒髪と白いカチューシャが特徴の小柄な冷泉麻子。

 その麻子の豆知識に素直に驚き感心したのは、麻子と同じように黒い髪を腰まで伸ばしているが、麻子よりも髪が艶やかで、さらに頭の天辺で髪が1本ぴょこんと跳ねている、長身の五十鈴華。

 ここにいるみほを含めた5人は、大洗女子学園戦車隊を代表する戦車・Ⅳ号戦車―――あんこうチームの仲間であり、みほにとってはかけがえのない親友だ。

 

「いや~、でもこうして前みたいに綺麗な夜空が見えるのも、あの試合に勝ったからだよね~」

 

 沙織が腕を伸ばしながら、心底よかったとばかりに呟く。その言葉に同意したのはここにいる全員で、華は沙織の言葉に小さく頷く。

 

「そうですね・・・あの時、他校の皆さんが来てくれなかったら、私たち今頃、ばらばらになっていたかもしれませんね」

「・・・・・・かもしれない、と言うか間違いなくそうなっていたな」

 

 華の言葉に、麻子が付け加える形でボソッと呟く。だがその麻子のつぶやきは全員に聞こえていた様で、その言葉には全員が全く持ってその通りだと頷く。

 生徒会長の角谷杏がやっとの思いでどうにか取り付けてきた試合の条件も、大洗に勝つ隙など与えないとばかりに絶望的に不利だったので、他の学校の皆が増援に駆けつけて来てくれなければ、まず間違いなく大学選抜チームには勝てなかった。

 そうなれば、華の言う通り今頃はこの学園艦も解体され、大洗の仲間たちも各地に散り散りになってしまっただろう。

 

「あの時は・・・皆が来てくれたおかげで勝てたから・・・・・・ありがとうって気持ちも、全然伝えきれてないよ」

 

 みほが、駆けつけて来てくれた皆の顔を思い浮かべながら、微笑む。

 試合が終わった後で、杏たちと共に『ありがとう』を皆に伝えたが、あれだけではまだ感謝の気持ちを伝えきれていないと、みほは思っている。

 大洗へ戻り、学園艦が戻ってきて、文部科学省に問い合わせて廃校は完全に撤回されたことを確認すると、大洗は改めて応援に来てくれた学校に向けて感謝の気持ちを手紙で伝えた。ちなみに手紙を書いたのは、みほだ。

 その手紙には、割とすぐに返事が返ってきた。みほと同じく、手紙で。

 

『おめでとう』

『Congratulations! いつかまた、正々堂々戦える日を待ってるわ!』

『この私が力を貸してあげたんだから、感謝しなさい!でもま、おめでと!』

『こんな言葉を知ってる?「つねによい目的を見失わずに努力を続ける限り、最後には必ず救われる」』

『学校が戻ってきたようで何よりだ。我々も、パスタを茹でて大洗の復活を祝おう!』

『人生は理不尽の連続というものだよ。でもその流れに抗い続けていれば、いつか風が味方をして、最後はその理不尽を打ち砕く。君たちはそれを行動と結果で示したんだ』

『こちらこそ、戦車道史に残るような試合を共に戦うことができて、とても嬉しく思います。いつかまた戦う機会を心待ちにしておりますので、これからもよろしくお願いします』

 

 どの手紙が誰の書いたものなのかが分かるくらい、個性豊かなものだった。

 聖グロリアーナのダージリンのものであろう手紙の最後の方には、追伸という言葉と共に『ドイツの詩人・ゲーテの言葉ですね』と本文とは違う字体で書かれていた。恐らくこの追伸を書いたのは、本文を書いたダージリンの腹心(?)のオレンジペコだろう。

 そして知波単からの手紙は、さながら戦国武将の書状と言うべき紙と文字で書かれていて、最初は何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。最終的にはカバさんチームの元忍道履修生で戦国時代ファンの左衛門佐の助力で解読できたのだが。

 

「でも私は、西住殿の作戦があってこそ、あの島田愛里寿に勝つことができたんだと思いますよ」

 

 優花里がみほの顔を覗き込むようにして言うが、みほは『そんなことないよ』と手を横に振って苦笑する。しかしながら、この場にいるみほ以外の全員は、島田愛里寿を倒すことができたのはみほのおかげだと思っていた。

 最後の島田愛里寿との戦いで、空砲を使い島田愛里寿の戦車との差を一気に詰めてゼロ距離射撃を狙うという作戦をみほは決めた。そしてその作戦は見事に成功し、島田愛里寿のセンチュリオンと、彼女たちのⅣ号戦車は相討ちとなった。それで大学選抜チームの車輌は全滅し、大洗女子学園はみほの姉であるまほのティーガーⅠ1輌だけが残り、殲滅戦ルール適用下なので大洗が勝利した。

 みほのあの作戦が無ければ、恐らく島田愛里寿に勝つのは厳しかっただろう。みほの持ち味である柔軟な発想と破天荒な作戦があったからあの試合には勝つことができた。

 優花里はそう言っているのだ。

 

「でもさぁ~・・・」

 

 そこで沙織が、先ほどまでの嬉しそうな表情とは対照的にげんなりした表情を見せる。

 

「宿題がそのままだったのは想定外だったよぉ~・・・」

「・・・・・・当たり前だろ」

 

 沙織の不満たらたらな言葉に、麻子は冷静かつ率直に意見を述べる。

 夏休みが終わる1週間前、大洗町のエキシビションマッチが行われた日の時点では、沙織はまだ夏休みの宿題を終わらせてはいなかった。その後、学校が廃校になると言われて宿題も有耶無耶になってしまい、結果廃校は撤回されて宿題も通常通り提出となってしまった。

 

「計画通りに進めないからいけないんですよ」

「私はエキシビションマッチ前にギリギリで終わらせました。やっぱり戦車道の試合には、憂いなく参戦するのが一番ですからね!」

「・・・・・・そもそも夏休みの宿題は、7月中に終わらせるものだろうが」

 

 華、優花里、麻子が三者三様の意見を述べると、ますます沙織の表情がどんよりとする。どうやら、自分だけが気楽に宿題を進めていた事にショックを受けているらしい。

 みほは、苦笑しながら沙織に話しかける。

 

「で、でも何とか延長期間に間に合ってよかったね」

「うん、あの時は本当に助かった」

 

 宿題を始業式までに終わらせられなかったので、沙織は教師からお叱りを受けるのかと怯えていた。

 ところが、沙織を含め大洗の戦車隊の全員が学校を救ってくれたことは教師陣も知っていたので、教師なりの感謝の気持ちを表す形で、宿題の提出期限が延長となった。この救済措置に喜んだのは沙織だけではなく、うさぎさんチームに属する1年生の阪口桂利奈や宇津木優季などだった。

 兎にも角にも、その延長期間で沙織はどうにか宿題を終わらせて、お叱りは免れたのだ。

 

「皆のおかげだよぉ~。ありがとうね」

 

 沙織がみほにお礼を告げる。

 延長期間の間に何としても宿題を終わらせようとして、沙織はあんこうチームの仲間にSOSを出した。その呼びかけに応えてみほたちは集まり、沙織の宿題を手伝った。と言っても、筆跡でバレる可能性が高すぎるので、沙織以外が問題を解き、それを沙織が提出物に記した形だ。

 

「・・・・・・感謝してもらいたいものだな」

「だからこうしてご飯を作ってあげようとしてるんじゃない!」

 

 麻子が、いつになくドヤ顔で言うと沙織が半ばムキになって反論する。

 彼女たちが向うのはみほの部屋。そして、沙織の言う通り、沙織の宿題を手伝った事でそのお礼を手料理という形で沙織が示そうとしているのだ。

 みほたちの手には、先ほどスーパーで買った食材が入ったビニール袋がある。だが、みほたちも全部沙織に任せるというつもりは無いので、手伝うつもりだ。

 

「武部殿の料理、美味しいですよね」

「そうですね。あんまり美味しいので、つい食べ過ぎちゃうぐらいです」

 

 今日はどのような料理が出てくるのか、優花里と華が想像を膨らませていると、沙織が振り返って華を指差す。

 

「華ってばいつもたくさん食べてるのに全然太らないよね、ズルい!」

「花を生ける時は集中しているからでしょうか・・・。集中してるとお腹がすくんですよ」

「沙織さんも全然太ってないように見えるけど・・・」

「ダメだよみぽりん!そうやって油断してるとお肉が余計についちゃって、男子に振り返ってもらえなくなっちゃうんだから」

「・・・・・・世の中には、『いっぱい食べる君が好き』って言葉があってだな」

「あれはね、悪魔の言葉なのよ」

「あれも最近は若干ネタ的な意味合いが強くなってますしねぇ」

 

 皆と一緒に、他愛も無い話をしながら下校して、一緒にご飯を作って食べる。

 そんな高校生的にはごく普通な時間を、みほは心から望んでいて、そして楽しんでいた。

 黒森峰にいた頃は、引っ込み思案な性格と、黒森峰戦車隊の副隊長と言うそれなりに高い地位にいて、さらに去年の自分が犯した失態が原因で、友達と呼べる人が全くと言っていいほどいなかった。だから独りでいる事が多くて、その皆にとっての“普通”に憧れている節があった。

 そんな過去があったからこそ、こうして大洗でそのごく普通の生活を送ることができて、何より大洗と言う大切な場所を取り戻すことができて、本当に嬉しかった。

 その嬉しさをみほは噛み締めながら、5人はみほの寮へとやってきた。

 そこでみほは、郵便受けを覗くと1通の封筒が入っているのに気づく。ふたを開けて、その封筒の差出人を見たところで。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 みほの動きが止まった。

 先ほどまで特に支障なく話していたみほが黙り込んでしまったので、沙織たちもさすがに不審に思う。

 

「みぽりん・・・?」

「どうかしたんですか?」

 

 沙織と華がみほを呼ぶが、みほが反応しない。

 そして、みほの身体がふらっと揺れて、そして倒れそうになる。それを慌てて、華と優花里が支えた。

 

「西住殿!?」

「ど、どうしたんですか急に・・・?」

 

 華がみほの顔を見るが、そこで華は見た。

 みほの顔は恐怖に染まり、瞳に光が宿っていない。

 その顔は、華も見覚えがあった。

 まだみほが大洗に来て間もない頃、戦車道を突然復活させると決めた生徒会が、みほに戦車道を履修するように半ば強制的に告げた時に見た、あの時のみほの絶望的な表情だ。

 

「・・・・・・誰からの手紙だ?」

 

 麻子が、みほの様子がおかしくなったのは、今みほが手に握っている封筒が原因だと冷静に分析していた。となると、送ってきた人物に対する怯えをみほは感じていると、麻子は察したのだ。

 

「お・・・・・・か・・・・・・さ・・・・・・」

「え?」

 

 喉が引っ付いたかのように、みほが細々と声を出すが、それが聞き取れずに沙織が思わず聞き返す。

 そしてみほは、沙織の方を向いて、告げた。

 

「・・・・・・お、母さん・・・から」

 

 

 

 みほの部屋は、全体的にパステルカラーで統一されており、棚にはみほのお気に入りである、ボコられグマのボコのぬいぐるみがいくつも並べられている。総じて、穏やかな雰囲気のする部屋だ。

 だが、その雰囲気とは裏腹に、みほたちあんこうチームの面々は緊張した面持ちで、テーブルの上に置かれた、みほの母親である西住しほからみほに宛てられた封筒を見ている。皆の位置は、みほからみて右側に華、左側に優花里、正面に沙織と麻子が並んで座っている。

 

「・・・・・・どうしよう・・・」

 

 みほは、この封筒を開く事を恐れていた。

 大学選抜チームとの試合を行う旨が記載された念書にはしほのサインも書かれていて、その時みほは、しほも大洗を無くすまいと動いてくれたのだと、嬉しく思った。

 だがその後で改めて思うと、しほは恐らくはみほの学校を守るためではなく、日本の戦車道の未来を守るために動いたのかもしれない、と思うようになった。

 元々みほは、去年の決勝戦以来、しほが自分の事を娘として見ているのか疑わしく思っていたし、自分の事を厳しく批判したしほを恐れ、しほとは極力話さないように避けていた部分もあったから、親子間での絆はほぼ無いに等しい。

 そんなみほのためにしほが動くなどと、楽観的に考える事がみほにはできなかった。

 それにみほの名は、世間に知られてしまっている。今年の全国大会で優勝し、その上大学選抜チームとの戦いも制してしまった事で、戦車道の世界で西住みほの名を知らない者はいないとまでされてしまった。

 それをしほがどう思うのかは、しほ自身しか知らない事だ。娘として誇らしいと思うか、黒森峰で失態を犯した分際でと吐き捨てるか。

 だがみほは、後者の方だと思い込んでしまっていた。そんなしほが、このタイミングでどんな内容の書類を送ってきたのか、想像するだけで恐ろしい。

 それにみほはこれまで、しほから手紙はおろか、メールすらも貰ったことはない。たまに送られてくる仕送りにだって、メモの1つも入ってはいない。だからこうして、手紙をもらう事自体が初めての事だったので余計に緊張していた。

 

「・・・・・・みほさんのお母様とは・・・文科省から会長が貰ってきた念書にサインされていた・・・?」

「・・・・・・うん」

 

 華が思い出すように、そして確かめるようにみほに聞くと、みほはぎこちなく頷く。

 華の向かい側に座る優花里は、この中ではみほの次か、同じぐらい戦車道の事情には詳しい。だから、みほの母が西住流の家元だという事も、高校戦車道連盟理事長だという事も知っていた。

 そして戦車道の事情に詳しいからこそ、優花里はルクレールで最初にまほたちと会った時もみほの事を庇い、戦車道が復活して間もないころに、みほと初めて会う前からみほの事を知っていた。

 戦車道の面ではみほの事をここにいる誰よりも理解している優花里は、みほが目の前にあるしほからの手紙を開ける事を恐れている気持ちが、よく分かった。あの決勝戦を見ていたから、みほがあの後どのような末路を迎えたのかは、少し考えれば分かったから。

 だが同時に、みほと違い、優花里自身は親との衝突などとは全く縁が無くて、こうして親子の間で目に見えるほどの軋轢が存在するという場面を自分で経験したことが無い。

 今日まで戦車道では、スパイや情報収集などでみほのサポートに務めていたにもかかわらず、戦車道の問題であり同時に西住家の問題でもあるこの事に関して明確なアドバイスができず、優花里は自分の事が情けなく思えてしまった。

 

「みぽりん・・・・・・大丈夫・・・?」

 

 沙織が、みほの身を案じるかのように問うが、みほは『だ、大丈夫・・・』と答えるだけだ。それが強がりであることは明らかで、内心では怯え切っていると分かっていた。

 沙織も、親からの手紙一つでここまで怯える人物を見た事は無かった。沙織の家族仲は良好で、父親からはよく手紙が送られてくる。けれどその手紙を見る事恐れるなど一度も無いし、むしろ楽しみにしていた面もあった。

 だから、今みほが怯える気持ちを理解できないのが、内心では辛かった。いや、みほが自身の母親を恐れる気持ちは、なんとなく理解できても、手紙を見るのが怖いという気持ちが理解できないのだ。そしてそれが辛い。

 みほの黒森峰での事情を知ってから、今日までみほの傍にいて、せめてみほが普通の女子高生らしい生活が送れるようにと一緒にいてあげる時間が長かった。

 なのに今、沙織自身がみほに対して気の利いた事が何も言えないのが、悔しかった。

 

「・・・・・・みほさんの気持ち・・・私には分かりますよ」

「華さん・・・・・・」

 

 そんな怯え切ったみほに、優しく話しかけたのは華だ。

 

「家族とすれ違いが起きてしまうと、声を聞く事も、顔を合わせる事も、手紙を交わす事さえ怖くなってしまいますからね・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・相手がどう思っているのかが気になって仕方が無くて、それでいつしか家族と“話す事”ではなく“家族の事”を無意識に恐れてしまうようになってしまうんです」

 

 華は、戦車道を始めた事を五十鈴流華道の家元でもある自分の親に告げずにいたせいで、勝手な行いをした罰として勘当同然の扱いを受けてしまった。にもかかわらず華は笑ってそれを、『自分の新しい門出』と評し、涙を見せる事もなく、怯えたりもしなかった。

 そんな華を、優花里は肝が据わっていると言っていたが、内心ではショックを受けていたのだと、華の勘当の下りを知らない麻子を除く全員が今それに気づいたのだ。

 

「でも、だからこそ・・・・・・その家族から認められた時の嬉しさは、ひとしおでした」

 

 華は、最終的にその華道の家元の母親と和解した。繊細で奥ゆかし気な五十鈴流の生け花とは違い、躍動感のある花を生けた華に『五十鈴流とは違う新境地を開いた』と華の母は評価し、そして認めるに至ったのだ。

 だから華は、家族とのすれ違いをみほと同じように経験しているからこそ、みほの気持ちが分かるのだ。

 そして、そのすれ違いを起こしていた家族と和解で来た時の嬉しさを知っているのは、この場では華だけだ。

 みほも夏休みにまほと、そして黒森峰のエリカ、小梅と和解できた。その時の嬉しさは確かに筆舌に尽くしがたいものだったが、今度の相手は姉でも、友達でもない、親だ。それも自分の事を厳しく批判していた。だから前とは違う緊張感や不安にみほは苛まれている。

 

「・・・・・・西住さん」

「・・・・・・?」

 

 そこで、先ほどまで黙りこくっていた麻子が、小さく手を挙げながらみほに話しかけてきた。

 

「・・・・・・西住さんとご家族の間で、何が起きたのか・・・詳しい事は私にも分からない」

 

 みほはかつて、自分が黒森峰で何が起きたのかはここにいるあんこうチームのメンバーにかいつまんで話した。だが、それが原因で家族とはどんな関係になってしまったのかまでは、話していない。だから麻子の『家族との間で何が起きたのかは分からない』という言葉は正しかった。

 けれども、先ほどみほが手紙を見てから様子がおかしくなったのは明らかで、送り主と何らかの確執があった事は麻子からすれば想像に難くない。

 そして。

 

「・・・・・・でも、いずれは西住さん“も”、親と離れ離れになって、二度と言葉を交わすことができなくなる時が、絶対に来る」

「・・・・・・・・・・・・・・・!」

 

 普段は気だるげな印象が強い麻子の、見た事も無いような真剣な表情と、聞いた事も無いような芯のある声。

 みほはそこで、思い出す。麻子の両親は、麻子が小学生の頃に事故で亡くなってしまっている。それも、その事故の前に麻子と両親は喧嘩をしてしまい、仲直りすることができないまま永遠の別れを遂げてしまった。

 小学生と言うまだ幼い年齢で、早すぎる両親との死別は麻子にとってのトラウマとなり、麻子を親しい者を大切に思う性格へと変え、麻子は唯一の肉親である祖母を大切に思うようになった。

 

「・・・・・・これは私の経験上だが、もし、ご両親との仲が悪いまま“そう”なったら、一生拭えない、忘れられない後悔と罪悪感を背負って生きていくことになる」

「麻子・・・・・・・・・」

「・・・・・・だから私は、西住さんにはそうなってほしくはない」

 

 沙織は小学生以来の麻子の幼馴染だ。だから、麻子の両親が亡くなった経緯も、その時麻子がどうだったかも知っている。そしてその時以来、麻子がどれだけの後悔の念を抱えているのかも、幼馴染として一緒にいたから分かっていた。

 だからこそ、そのトラウマを自ら思い出しながらもみほに戒めている今の麻子が、どれだけ“本気”なのかが分かった。

 そしてみほだって、麻子の両親とのことは沙織から聞いた。だから麻子も、他人事とは思えなくてみほに言葉をかけたと分かる。

 そしてもし“そう”なったら、みほは恐らく麻子の言ったように、胸の中につかえを抱えたまま、この先生きていく。

 それに自分が耐えられるかと問われれば、恐らく無理だと答える。みほ自身は、途中のどこかで壊れてしまうかもしれない。

 そして何より、みほも本心ではしほとの和解を望んでいた。夏休みにまほに招かれ黒森峰に行った際、まほから去年の真実を告げられて、まほは頭を下げて来てくれた。

 みほはその時、まほだって多くの背負うものがあった事は元より知っていたけれど、それでもまほが自分から謝ってきた事は、素直に嬉しかった。それに、昔の優しかったまほは今もまだいるのだと思わせてくれて、それが嬉しさを増長させた。

 そして、まほとの和解を遂げて以来、いつかはしほとも仲直りがしたいとみほは本心から思うようになっていた。

 この封筒を最初に見た時は、初めて手にするしほからの手紙という事で驚きと恐怖心が先に来て、その本心を忘れてしまっていたが、この手紙がもしかしたらしほとの仲を取り戻せるような足がかりになるかもしれない。

 みほは、沙織と優花里が自分の事を思ってくれているというのがその目を見て分かるし、華と麻子の言葉を聞いて、みほの中での決意が固まった。

 

「・・・・・・私、この手紙・・・・・・」

『・・・・・・』

「・・・・・・開くね」

 

 みほを含め、この場にいる全員が息をのむ。みほは立ち上がって、棚からカッターナイフを取り出し、封筒の封を丁寧に切る。

 そして、中に入っていた3つ折りの便箋を取り出す。結構枚数があった。

 みほは、爆発物を取り扱うかのように、便箋を開く。イメージしていた筆ペンではなく、万年筆で書かれた文字は、(失礼かもしれないが)意外にも女性的なイメージが強かった。

 そして、みほは文章を読み始める。

 

 

 

『みほへ』

 

『こうしてあなたに手紙を送るのは初めての事なので、

 あなたも驚いているかと思いますが、お元気ですか?

 本家の方は、秋を迎えた今も少し蒸し暑い日が続いています』

 

『普段から手紙やメールを送る事も無かったので、

 こうして手紙が来た事に驚いているかと思います。

 ですが、少しあなたに伝えたい事があって、

 この手紙を書かせていただきました』

 

『昨年の全国大会の決勝戦でのあなたの行動を、

 あの時私は西住流の師範として厳しくしなければと思い、

 あなたの事を責めてしまいました。

 そして自分の行いを否定されたそのことをきっかけに、

 あなたは黒森峰を去ってしまいました』

 

『あの時のみほの行動は、何も正しくなかったと。

 西住流にしてみれば間違いとしか言いようがないと。

 西住流を継ぐ者として恥を知りなさいと。

 私はあなたにそんな言葉を浴びせた記憶があります』

 

『ですが、あなたは今年の全国大会に、

 大洗女子学園を率いる隊長として再び出場しました。

 それを知った時、私はひどく憤ったものでした。

 昨年の全国大会で西住流の名を汚したあなたが、

 戦車道はもうできないと私に告げたあなたが、

 またこうして西住を名乗り戦車の表舞台に立ったことが、

 私にとっては許せませんでした』

 

『けれど、あなたは強豪校に勝ち続け、

 ついには西住流を体現するまほ率いる黒森峰との戦いにも、

 勝利しました。

 そしてその試合の最中でみほは、去年のように、

 動けなくなった仲間を見捨てる事無く、

 助けるために自ら戦車を降りましたね』

 

『正直、その光景を見ていた私は、

 なぜそんな行動をするのかと、疑問に思いました。

 けれどその答えは、みほが仲間を見捨てる事ができない、

 海のように深い心を持っているからと分かりました』

 

『そして、去年と同じ行動をとったあの試合では、

 あなたは様々な奇策を弄して黒森峰を、まほを倒し、

 大洗女子学園を優勝へと導きました。

 勝利よりも仲間を優先した行動をあなたはとり、

 その上で勝利をもぎ取ったあなたを見て、

 昨年のあなたの行動も全てが間違いではなかったと、

 そして私のあなたへの態度は間違っていたのだと、

 そう思い知らされました』

 

『みほは元々優しい性格をしているのだという事実を、

 親として接するよりも師範として厳しく接している内に、

 普通は忘れるはずのない自らの娘の性格を忘れてしまい、

 昨年のあなたの行動を頭ごなしに否定してしまいました』

 

『けれどみほの「仲間を切り捨てることはなく、共に勝利を目指す」

 という西住流ではない、みほ流の戦車道をあの試合で見た事で、

 間違っていたのは私の方だったのだと痛感しました』

 

『みほには、みほだけの才能が眠っていたにもかかわらず、

 師範である前に親でもある私はそれに気付く事すらできなくて、

 その才能を押し殺してしまっていたという事に、気付きました』

 

『何より、みほの去年の全国大会での行動は、

 西住流師範としては間違っていたと評してしまいましたが、

 みほの親としての素直な気持ちは、

 「みほは、人として立派な事を成し遂げた」というものでした。

 自分の身を惜しむことなく人の命を救うという事は、

 誰にでもできる事ではありません。

 仲間を大切に思い、海のように深い心を持つみほだからこそ、

 あのような行動ができたのだと私は思っています』

 

『それなのに、私は師範として厳しくするべきだと思い込み、

 結果あなたの行動の一切を否定してあなたを追い詰めてしまいました。

 どころか、西住流の直系の娘だからと、多くのものを背負わせてしまい、

 にも拘らずあなたがどれだけ思い悩み、苦しんでいるのかに気付けなかった。

 親として、恥じるべきことです。

 いえ、最早親と呼ぶ事すら烏滸がましいのかもしれません』

 

『ですから今、

 私がみほに対して思っている、

 本当の思いをここに書かせてください』

 

『みほ』

 

『今まで多くの事を押し付けて』

 

『あなたの事を追い詰めて』

 

『あなたには何もしてあげられなくて』

 

『あなたの全てを否定してしまって』

 

 

 

『本当に、ごめんなさい』

 

 

 

『夏の終わりの大学選抜チームとの戦いも、

 みほが大洗で自分なりの戦車道と仲間を見つけられたのだと知って、

 だからこそそのみほの居場所を失わせまいと思い、

 あの試合を行うように文部科学省に掛け合いました』

 

『これまで、親らしいことをあまりできなかったから、

 娘の居場所を守ろうと思っての事でした。

 今さら母親面しないでほしいと思うかもしれませんが、

 そう思われても仕方がありません』

 

『そして試合当日に、

 時には共に戦い、

 時には砲火を交えた仲間たちが駆けつけてきたのを見て、

 みほが優しい性格をしているからこそ、皆は来てくれたのだと、

 私はそう思わずにはいられませんでした』

 

『あの試合でもあなたは、自分なりの戦い方を貫き、

 そして最強と言われていた島田流の後継者にも勝利しました。

 まほの力を借りたとはいえ、それでもあなたの力を示すには

 十分でした。

 あの戦いを見て、やはりみほは、

 西住流という器には収まりきらないような、

 無限の可能性を秘めているのだと実感しました』

 

『西住流を体現するまほを超え、

 さらには島田流をも凌駕したあなたを見て、

 私は親としてあなたの本質を何も見抜けていなかったと、

 みほの事を何もわかってやれなかったのだと、

 改めて感じました』

 

『それなのに私は、

 みほに対して西住流としてのイメージと戦い方を押し付け、

 そのみほの中にある才能を潰してしまっていたという事に、

 今になってようやく気付きました』

 

『だからこそ私は、

 みほに対して申し訳ないという気持ちが、

 心の底から湧き上がってきました』

 

『そのみほに対する申し訳なさを、

 この手紙であなたに宛てて書き、

 全てを告白した次第です』

 

『そしていつかは、

 あなたに面と向かって、

 直接自分の過ちを告白して謝りたいと、

 今では強く思っています』

 

『もしも、あなたがまだ、

 私の事を母と見てくれているのであれば、

 ほんのわずかな時間でも構いませんので、

 少しだけ話をさせてください。

 急に話をするのが怖いというのであれば、

 この手紙に返事を書く形でも構いません』

 

『そして、もしもまた熊本の本家に来る時は、

 今度は怯えて隠れてこっそりという事はせず、

 堂々と家の玄関を叩いてください』

 

『最後になりましたが、

 ここまで読んでくださり、

 本当にありがとうございます』

 

『機会がありましたら、

 その時はまたよろしくお願いします』

 

『西住しほ』

 

 

 

 手紙を読み終わったみほの顔は、涙で濡れてしまっていた。手に持っている手紙にも、みほの瞳から溢れる涙が数滴落ちてシミができてしまっているが、そんな事はどうでもよかった。

 自分の娘宛にしては文体が硬すぎるのは、しほがこうして身内に宛てて手紙を書く事に慣れていないことの現れ。

 そしてこの手紙の中に記されていたことは、聞く機会などなかったしほの胸中、本音。

 これまでで一度も聞いた事のない、『ごめんなさい』というしほの言葉。

 みほの実の親、師範としての葛藤。

 しほがみほの事をどのような目で見ていたのか、本当はどんな思いをみほに抱いていたのか。

 その全てを、みほは今初めて知った。

 みほは、本当の本当の本当は、しほからも愛されていたのだった。

 ずっと自分の事を嫌っているのだと思っていたしほの本心を知って、嬉しさがとめどなく胸の奥底からあふれてきてしまい、その嬉しさが涙と言う形で表面化する。

 声を上げる事は無かったが、それでもすすり泣いてしまい、目の前にいる親友の4人には情けない顔を見せてしまっているという自覚はある。けれど、涙はどれだけ堪えようとしても止まらない。

 そこでふわっと、みほは誰かに抱きしめられた。涙ぐみながらも、自らの身体を抱き寄せた人物の顔を見ると、その人物は沙織で、沙織は優しく笑っていた。

 見れば、華も、優花里も、麻子も、沙織と同じように、優しく笑ってくれていた。特に、優花里は涙をにじませていて、普段は笑ったりしないような麻子もほんのわずかに微笑んでいた。

 彼女たちは、みほの手紙の内容を見てはいない。だから、何が書いてあるのかは彼女たちは知らない。

 けれど、みほの怯えにも似た表情が手紙を読み進めている内に驚きへと変わり、やがて頬が紅潮し、遂には涙を流してしまったのを見て、4人は気付いたのだ。

 その手紙に書かれているものとは、みほの中にある怯えや恐れを払拭するような事であり、そしてみほはそれを読んで、心を縛るものから解放されたのだと。

 そしてみほを長い間苦しめていた何かからみほが解放されて、久しく流していなかった涙を流したのを見て、彼女たちも親友として、みほに近しい者として自然と嬉しくなったのだ。

 

「・・・・・・私・・・私ね・・・」

「・・・・・・うん」

 

 沙織に抱きしめられながらも、涙を流していても、みほは言葉を、紡ぐ。

 

「・・・・・・絶対・・・返事、書くよ」

「・・・・・・うん」

 

 沙織は、みほの栗色の髪を優しく撫でる。沙織のその行動で、泣きじゃくるみほも少し落ち着きを取り戻し、少しして涙は止まった。

 

「・・・・・・ありがとう、沙織さん」

「・・・・・・ううん、気にしないで」

 

 みほが身体を離して沙織を見つめると、沙織はニコッと笑った。そして、ハンカチでみほの顔の涙を優しく拭き取る。

 

「・・・みぽりん、可愛いんだから涙は似合わないよ?」

「そ、そうかな・・・・・・」

「絶対そうだって」

 

 涙を拭き終えると、沙織は『さて』と言いながら立ち上がる。

 

「それじゃ、ごはんつくろっか!」

 

 明るく告げる沙織の言葉に、華、優花里、麻子の3人は大きく頷いた。

 

「私はサラダを作りますね」

「ご飯は私が炊きましょう!もちろん、飯盒炊爨じゃありませんよ!」

「・・・・・・私は皿を並べるとしよう」

 

 そう言いながら3人は立ち上がり、台所へと向かう。

 みほも、手紙を丁寧に畳んで封筒に入れ直し、学習机の上においてから、沙織の料理を手伝うために台所へと足を運んだ。

 その日の沙織の、いや、皆で作ったご飯は、いつもよりも美味しく感じられた。

 もしかしたら、みほにとっての人生の中で、一番美味しかったかもしれないと、みほ自身は思っていた。

 

 

 同時刻、都内にあるとある居酒屋。

 ここは地元の特産品を使った料理が有名な店・・・ではなく、全国展開しているチェーン店だ。店のイメージは和風で統一されており、全ての席は個室となっている。席の種類はテーブル席と掘りごたつ、座敷席とパターンが3つあり、メニューも老若男女どの層のニーズにも応えるように豊富だ。

 そんな居酒屋の掘りごたつ席に、西住流家元の西住しほと、島田流家元の島田千代という、戦車道界の重鎮が向かい合って座っていた。

 和のイメージが漂う木製の引き戸の向こうから聞こえる他の客の話声や、店員たちの慌ただしい足音も、今向かい合う2人には聞こえてこない。

 

「・・・あなたから飲みに誘うとは、珍しいですね。西住流家元さん」

 

 くすくすと、上品に笑いながら千代が告げる。その笑みには若干のからかいが混じっていたことは向かい合うしほにも分かっていたが、その程度のことにいちいち反応などしていられない。

 

「・・・私が人付き合いが悪いみたいな言い方をしないでください、島田流家元さん」

「あら、そんなつもりはありませんよ?でも、気を悪くさせちゃったのならごめんなさいね」

 

 口元を手で隠し、実に愉快とでもいうかのように笑う千代。その千代の、そこはかとなくムカつく言い方と笑顔に、しほは若干イラつきながらもお冷を飲む。しほが深読みしすぎてしまっていただけのようで、それが千代にとっては面白かったらしい。

 この2人は、文部科学省が推進しようとしている日本戦車道プロリーグ設置委員会の委員長と、副委員長だ。

 今日、2人がこの東京を訪れていたのは、そのプロリーグ設置委員会を担当する文部科学省の役人が変わったので、その新しい担当と顔合わせをしに来たからだ。

 元々その担当していた文部科学省の役人とは、大洗女子学園を廃校させようと画策していた辻廉太だった。新しい担当は辻のように狡猾でずる賢い印象と言うものはあまり無く、逆に物腰の柔らかい人だった。それが本性かどうかは定かではないが、少なくとも辻よりは信用できそうだと2人は思った。

 辻が担当から外されたのは、恐らくは大洗女子学園廃校が失敗した事による責任を取らされる形なのだろう。異動ならば妥当なものだと思ったし、2人は大洗を廃校にする事を快く思ってはいなかったので同情する余地も無かった。せいぜい新しい場所で頑張れとしか言えない。

 

「それで、私を飲みに誘うなんて、何か話があると捉えてもいいのかしら?」

「・・・・・・話・・・まあ、それに近いかもしれないですね」

「?」

 

 いつになく、要領を得ていないしほの言葉に、千代も笑みを引っ込める。ただ事ではないと、瞬時に把握したのだ。

 戦車道の話をする時でさえ先のように曖昧な言葉を発する事も無かったというのに、どうしたことだ。

 

「・・・・・・一体―――」

「おまたせしましたぁ。焼酎水割り2人前でーす」

 

 千代が何事かを問いただそうと思った矢先に、引き戸が3回ノックされるや否や開かれて、コップに入った水割りの焼酎を2つ店員がテーブルに手早く置いた。千代は愛想笑いを浮かべて店員に笑いかけると、店員も頭を下げて引き戸を閉めて行ってしまった。

 

「・・・・・・まずは、飲みましょう。話はそれからよ」

「・・・・・・そうね」

 

 酒を飲むと、気が大きくなって色々と胸の中にあるモヤモヤを話しやすくなる。それを知っているから千代は酒を勧めたのだ。

 だがしほは、蟒蛇と表現するぐらい酒に強い。だからこの程度で舌が回りやすくなるような事も無いだろうが、無いよりはマシなレベルだ。それに千代だってそこそこ飲む方なので、簡単に酔っぱらって前後不覚になりはしない。

 お互い自分のコップを手に持ち、千代が先んじて掲げる。それでしほも千代の行動の意図が掴めたようで、同じようにコップを掲げて軽く当て、チン、と甲高い音を奏でる。

 

「かんぱーい♪」

「・・・・・・乾杯」

 

 そうしてお互いに一口。水とは違う、多少の辛さを含んだ冷たい液体が喉を通り、心が涼しくなるような気分になる。

 

「・・・・・・で、どうしたのかしら?一体」

「・・・・・・」

 

 千代は一度コップをテーブルに置いて、改めてしほに聞く。しほはと言えば、既にコップの半分ほどの焼酎を飲んでしまって、千代とは目を合わせようとはしていない。

 本当に、どうしたというのだろう。普段の屹然としたしほの姿も今は無く、あるのはしおらしいと表現するに相応しいようなしほがいるだけだ。

 

「・・・・・・子供って、知らない間に成長するものだったと気付かされたのよね」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 何て言った?今。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・酔っぱらうにはまだ早いんじゃなくて?」

「素面、素面よ」

 

 酔って気でも触れてしまったのかと千代は割と本気で思ったが、コップ半分の焼酎程度でしほが酔うはずがない。先ほどの、普段のイメージからは全く想像もつかない発言があまりにも信じられなくてついああ言ってしまったが、どうやらしほは至って本気らしい。

 思えば、しほは普段から冗談など言わないし、酔っぱらっても顔が少し赤くなる以外変化が起きない。

 どうやら、さっきの言葉は紛れもない、しほの本心のようだ。

 

「・・・・・・本当、一体何があったのかしら?」

「・・・今年の高校生全国大会、結果はどうなったか知ってるでしょう?」

「モチのロンよ」

 

 あの全国大会の結末・・・特に大洗女子学園の破竹の快進撃と、伝説と言っても過言ではない戦果は、高校生の間だけではなく戦車道界隈に知れ渡っている。千代も大学戦車道連盟理事長として戦車道の世界に深く携わっている身であるから、大学生とは違う高校生の大会であっても、何が起きたのかは知っている。

 もちろん、優勝した大洗女子学園を率いていたのは元黒森峰の副隊長である西住みほで、今目の前にいるしほの娘だという事だって、知っている。

 

「あの大会でみほの戦いを見て・・・思ったのよ。私はみほの事、何も分かっていなかったんだって」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 千代は、何も言わずにしほの顔を見て話の続きを促す。いちいち茶々を入れてこないあたり、千代も真剣に話を聞いてくれているのだと、しほは理解している。それはとてもありがたい事だったので、遠慮なく話させてもらう事にした。

 

「みほは誰よりも優しい子だった・・・。だから去年の全国大会で、あんな行動に出て・・・。それなのに私は、親としてみほと接しはせず、ただ師範として厳しくしただけだった。それで結局みほは黒森峰から去ってしまって・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「・・・でも大洗で、みほの中にあった才能は開花して、素人の集まりでしかない無名の学校を全国優勝にまで導いて・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「私は結局、みほの親でありながら、みほの中に眠っていた才能に気付けなくて、むしろ突き放してばっかりだったんだって」

 

 そこでしほは、コップに残る焼酎を全て飲み干す。お代わりを注文するのは後にしよう。

 

「・・・大洗でみほは知らない間に、自分の中の才能に目覚めて、西住流のまほを超えるぐらい強くなっていたんだって、しみじみと思ったのよ」

「・・・・・・・・・・・・・・・ふふっ」

 

 そこまで聞いて、千代が小さく笑った。何を笑っているんだと、しほがギロッと千代を睨むが、そんなしほの鋭い眼光などに怯みはせず、千代は可笑しいとばかりに笑う。

 

「あなたの口から、そんな言葉が聞けるとは思わなくてねぇ」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 確かに、自分でも柄にもないことを言ってしまったという自覚はある。酒が入ったせいで、少し饒舌になってしまったのだろうか。

 

「娘の成長に感動するなんて、なかなか可愛いところがあるじゃない。しぽりん♪」

「黙りなさい、ちよきち」

 

 少し調子に乗っているように見えたので、しほは先ほどとは違いいつものようにキリっとした口調でピシャリと告げる。だが千代には、そのしほの姿が照れ隠しにしか見えないので効果が全くない。

 2人がお互いに『しぽりん』『ちよきち』と呼び合うのは、本当の本当にプライベート、戦車道とは全く関係のない時、あるいはからかう時ぐらいしか言わない。

 元々2人は、まだ西住流の家元どころか、師範にもなる前、幼い頃から知っている仲だ。

 西住流と島田流は、全てにおいて正反対。

 西住流は“集”を重視し、島田流は“個”を重視する。

 “和”のイメージが強いのが西住流、“洋”のイメージが強いのは島田流。

 西住流の戦い方は“統率された軍隊”のようと誰かが例え、島田流の戦いは“変幻自在の忍者”のようと誰かが例えた。

 けれども、知名度は島田流よりも西住流の方が上だった。それは恐らく、西住流が“集”に重きをおき、隊で結束して戦うのが、チームワークで動かす戦車を使う武芸である戦車道のイメージに合っているからだろう。

 それは島田流が一番気にしていることであり、島田流は西住流よりも知名度が低い事を気にしていた。それ故、島田流は西住流を一方的にライバル視しているのだ。

 だが西住流は、島田流の事は別にライバルと思っているわけではないし、むしろその逆で、自分たちと同じく日本戦車道を代表する由緒ある流派だと認めている。だからなぜ、島田流がライバル視しているのかがいまいち理解できていない節があった。

 しほと千代はそんな因縁のある両家のそれぞれの直系の娘であったから、幼いころから面識があった。けれど、お互いに先ほどの様なあだ名で呼び合うぐらいには親しい仲だった。

 だが、千代が大人になるにつれて、その西住流と島田流の間にある壁、溝を知り、先代と同じように西住流をライバル視するようになった。

 けれどそれでしほとの仲が拗れてしまったと言うわけではなく、極たまに今のように2人で酒を飲み交わす仲でもある。

 

「でもねぇ、確かにその通りよね。子供っていうのは、時に親の私たちには想像できないぐらい速いスピードで成長するのよ?」

「・・・・・・やっぱり、そういうものかしら」

「ウチの愛里寿を見てみなさい。嫌というほど実感させられるから」

「・・・・・・飛び級なんてさせておいて何を言っているのやら」

「愛里寿はねぇ、中学校、高校程度の器に収まるような子じゃないの。あの子には、無限の可能性があるのよ。その愛里寿のために私は、あの子が活躍できる場を与えただけ、よ」

「・・・・・・親バカも極まれりね」

 

 しほは口ではそう言うが、確かに千代の一人娘、島田愛里寿には多くの可能性を秘めていると思う。

 先の大洗女子学園と大学選抜チームとの戦いで、しほは愛里寿の戦いを改めて目にした。センチュリオンで多数の戦車を一度に相手取り、ほぼ全く被弾する事無く敵を撃滅するその姿は、無双と呼ぶに相応しかった。

 13歳ながら大学に飛び級し、大学選抜チームと言う、全国の大学生の精鋭が揃ったチームの隊長を務め、さらに社会人チームをも破った愛里寿の実力は、千代が評価するのも頷けるぐらいだ。

 

「・・・・・・でもねぇ・・・」

「?」

 

 すると、誇らしげな表情をしていた千代が一変し、表情に陰りを見せて、落ち込んだような口調で話しだした。

 

「愛里寿がね・・・この前、大洗女子学園に興味があるって言ってきたの」

「・・・・・・どういう事?」

「・・・愛里寿も、お宅の2番目が黒森峰を去ってから大洗で才能が花開いた事を知ってるの。だから、その2番目―――西住みほを変えた大洗に興味があるって話」

 

 近くにボコミュージアムもあるしね、と千代が付け加えるが、愛里寿の言葉にも一理あるとしほは思う。

 人が成長するには、もちろんその当人が努力する事が重要だが、周りの環境も大きく影響する。みほが元々秘めていた才能が開花したのは、その環境によるものでもあると、しほは考えていた。

 黒森峰で押し殺されてしまっていたみほの中の才能を開花させ、無名校の素人の集団を優勝まで導くに至ったみほを育てた大洗女子学園と言う場所・環境に興味がある、そう言う事だろう。

 それは別に悪い事ではないだろう、としほは思う。では、なぜ千代は落ち込んでしまっているのだろう。

 

「・・・・・・愛里寿、いきなり大学に飛び級しちゃったから、高校生活とか経験した事無いのよ」

「ええ、それはそうよね」

「でね・・・・・・もしできるなら、大洗に入学したい、って言ってたのよ」

 

 ああ、なんとなく話が見えてきた。

 

「私としては、愛里寿の意見は尊重したいのよ?だって私の可愛い一人娘だもの」

「・・・そうね。約束を果たせなかったのにボコミュージアムを改装したぐらいあなた娘に激甘だものね」

「でもね、学園艦って言ったら寮で一人暮らしでしょ?そうなると、愛里寿と一緒にご飯を食べる事もお風呂に入る事もできなくなっちゃって、寂しくなるのよね」

 

 正真正銘の親バカだと、目の前でコップに残った焼酎を煽りしょぼくれている千代を見ながら、しほは内心でそう評価した。

 娘は13歳と、随分成長した身であるのに依然として一緒に風呂に入っているとは、愛里寿からしても恥ずかしい、と言うか嫌な事だろう。多分だが、千代が無理やり一緒に入らせているような感じがしてならない。

 一方で、娘と一緒にご飯が食べられなくて寂しい、と思う気持ちは多少分かる。まだみほもまほも幼かったころは食卓は2人が賑やかにしてくれたものだったが、2人が成長していくにつれてその賑わいも鳴りを潜めてしまって、今となってはしほと常夫だけで食事する事が多くなっている。常夫と2人きりと言うのも悪くはないが、娘がいないというのは、いささか寂しいものだ。

 

「・・・・・・娘の晴れやかな門出ぐらい、笑って見送りなさい。島田流家元さん」

「・・・・・・分かってるのよ。分かってるんだけど、私の可愛い愛里寿が傍にいなくなると思うと・・・」

 

 よよよと泣き真似をする千代を見て、これを件の愛里寿が見たらどう思うのだろうなと、明後日の考えをしていた。

 そこで店員が、頼んでいた唐揚げと焼き鳥を持って来て、泣き真似をする千代を見てぎょっとした。しほは『気にしないでください』と言いながら料理を受け取り、お代わりの焼酎の水割りを2人分頼む。

 

「・・・・・・ねえ、ちよきち」

「・・・・・・何よぅ、しぽりん」

 

 だがしかし、こうしてしほの目の前で、今こうして娘の愛里寿に対する愛情を臆面もなく曝け出す千代の姿は、しほからすれば少しばかり羨ましかった。

 自分は真面目な故、娘に対する愛情と言うものがストレートに話せない。それにみほに対しては、親としてこれまで接してくることができなかったと自信を持って言えるぐらい、厳しく接していた。結果みほを追い詰めてしまったのだから。

 しほの中にある、みほを認めることができなくて申し訳ないという気持ちを文章に籠めて、みほに手紙を送った。その手紙でしほなりの愛情を示したつもりだったが、千代のようには上手く表現する事はできなかったと、しほは思っている。

 だからこそ、目の前にいる千代のように娘への愛情を隠すことなく伝え、さらには行動で示している姿勢は、しほにとっては―――

 

「・・・・・・あなたのそう、自分の娘の事を素直に褒めるところ・・・・・・嫌いじゃないわ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、千代はガバッと顔を上げる。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・あなただれ?本当にしぽりん?」

「・・・・・・まあ、らしくもないって気はするわね」

 

 苦笑しながらしほは唐揚げを1つ口に含む。揚げたてだったらしく滅茶苦茶熱い、口の中で転がし、はふはふと口の中に空気を入れて冷ます。いい感じに冷まして飲み込むと、仄かなにんにくの風味を堪能する。

 

「ふぅ~ん・・・・・・変わったわねぇ~」

 

 そう言いながら千代は、ねぎまの焼き鳥を手に取り、上品に食べる。ねぎまは密かに狙っていたので、しほは少し凹む。

 だが確かに、千代の言う通り自分は少し変わったのだと思う。

 みほが全国大会で優勝し、まほもみほと自分から和解を遂げて、自分も今のままではいられないと思って行動を起こした。親らしいことをできなかったという事実も認め、娘であるみほの大切な居場所である大洗女子学園の廃校撤回に力を貸した。

 みほが戦車道を見つけてから、自分も変わることができたのだと思う。娘の戦いを見てやっと、自分の考えが変わったのだと思うと、自分も結構頑なだったのだと思う。みほの事を勘当すると告げた事に関しても、あれは自分も冷静ではなく大人げなかったと思うし、若者言葉で言う黒歴史にあたるものかもしれない。

 そして今日、(多少行き過ぎではあるものの)千代の娘に対する愛情を聞いた事で、自分も少し変わるべきだと思った。

 流石に千代のように娘にベタベタするというのは恥ずかしい。だが、もう少し娘に対する態度を軟化した方がいいのかもしれないと、心では思っていた。

 と、そこで店員がおかわりの焼酎を持ってきた。

しほは、カップを受け取ると先んじて掲げ、千代もしほの意図に気付いて微笑み、コップを軽くぶつけ、チンという甲高い音が鳴る。

 まだ、2人の酒の席は始まったばかりだ。




バーベナ
科・属名:クマツヅラ科クマツヅラ属
学名:Verbena spp.
和名:美女桜
別名:ビジョザクラ
原産地:アメリカ大陸の熱帯から温帯にかけて
花言葉:家族の絆、家庭の平和、魅力など


千代の娘への愛情は直球、しほの娘への愛情は変化球。
そして役人は恐らく無事ではない。
Varianteで役人に正論ぶつけた千代さんはかっこよかったです。

次回から話が黒森峰視点に戻ります。
感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。




余談
夏休みの宿題、アヒルさんチームはほぼ全員根性で早めに終わらせるけど、間違いだらけで再提出パターンかもしれないという筆者の想像。


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紫露草(ムラサキツユクサ)

筆者の戦闘描写は今更ですがド下手ですので、
予めご了承ください。


今回の話は正直言って、
自分でもどう思われるか自信がありません。

何卒、最後まで読んでいただければ幸いです。


 大洗と大学選抜チームとの戦いからおよそ1週間、そして織部の黒森峰の留学期間が終わるまで残り3週間。

 朝、織部が学校へ行こうとドアを開けると、ほぼ全く同じタイミングで、隣の部屋から根津が姿を現した。

 

「おはよう、根津さん」

「ああ、おはよう」

 

 本当に示し合わせたわけでもなく、事前に打ち合わせたわけでもないのだが、学校のある日は大体こんな感じだ。こんなことがしょっちゅう起きてしまうものだから2人とも慣れてしまった。

 と、そこで根津が上に広がる空を見上げて呟く。

 

「・・・・・・荒れそうだな」

「・・・・・・そうだね」

 

 空はどんよりとした雲に覆われていて、まだ朝にも拘らず、今にも雨が降り出してきそうなぐらい暗かった。

 そう言えば今朝起きたら、スマートフォンに『大雨の恐れあり』という学園艦が発信している天気予報のメールが来ていた。台風の類ではないので大きな心配は不要だが、天気が崩れるとなると気が滅入ってしまうものだ。

 

「ま、どうにかなる。行こうか」

「うん」

 

 根津が深く考えるのを止めると、織部に早く学校へ向かおうと促し、織部もそれに続いた。

 そして、いつも小梅たちと落ち合う交差点には、やはり既に小梅と斑田が待っていた。これもまた、普段と同じ光景だった。そして、この4人で共に学校へ向かうのも、今日まで何度も目にして、経験したことだった。

 だけどこれは、この場にいる誰にとっても日常ではない。この4人の中にいる織部は、本来は黒森峰にいるべき存在ではない。一時の間だけ黒森峰で生活をしているのであって、本来いるべき場所はここではない人間だ。

 だから、学校のある日はほぼ毎日のように共に登校するのも、今月限りで終わる。それを日常と呼ぶのは、少し違う。

 それはこの場にいる全員が分かっていた。特に、当の織部と、その織部とは恋仲である小梅はその事実を忘れた事など無かった。

 そして織部と小梅は、恋仲と言う親しい間柄だからこそ、その別れの日を恐れ、その日が来るのを少しでも遅く感じたかった。

 しかし時間の流れと言うものは非情なほど早く、既にあの大学選抜チームとの戦いから1週間も過ぎてしまっていて、別れの日が近づいてきているのを実感せざるを得なかった。

 残りは3週間だが、これを『まだ3週間も残っている』と捉えるか『あと3週間しか残っていない』と捉えるかは人によって分かれる。

 だが、織部も小梅も、後者の捉え方をしていた。

こうして2人が顔を合わせ、共に言葉を交わすことができる期間は、そう長くは無いと。

 

 

 根津の予想と天気予報メールは的中し、正午過ぎになると外は大雨となってしまった。

 多くの生徒は『雨すごいなー』とか『傘忘れちゃったよ』とか気楽なことを言っていたのだが、織部を含め戦車隊に属する生徒たちはその程度では済まない。

 黒森峰戦車隊は、今目の前で降っているような大雨の下でも訓練が行われるのだ。

それは、実際の戦車道の試合が台風の暴風域の中でもない限りはどんな天候でも行うからである。実際に、今年の全国大会での大洗とプラウダの準決勝は降雪の下行われ、去年の全国大会決勝は雨の中だった。他にも強風で試合が行われたという事例もある。

 だからこのように天気が悪くても、戦車道の試合は、訓練は行われるのだ。

 

 

 さて、雨の勢いは収まる気配を見せることはなく、そのまま戦車道の訓練の時間へと突入してしまう。

 そんな中で行われる今日の訓練は、草原・森林地帯での10対10のフラッグ戦。隊長のまほ率いるAチームと、副隊長のエリカ率いるBチーム。こうして隊長と副隊長がそれぞれチームを率いて戦うのは、これまで何度も見てきた事だったので、今さら驚きはしない。織部が主審に任命される事についてももう抵抗は無い。

 だが、そのチームを構成する戦車の種類だけは、いつもとは少し違った。

 まほのチームは隊長車兼フラッグ車のティーガーⅠと、パンター3輌、Ⅲ号戦車2輌、ラング2輌、ヤークトティーガー1輌、エレファント1輌。

対するエリカのチームは隊長車兼フラッグ車のティーガーⅡとティーガーⅡがもう1輌、パンター3輌、Ⅲ号戦車3輌、ラングが1輌、ヤークトパンター1輌。

 織部の気のせいかもしれないが、まほのチームに戦力が若干偏っている気がした。これまでの模擬戦では、大体両チームに重駆逐戦車が1輌ずつ配備されるはずなのだが、今回はヤークトティーガーとエレファントの両車輌ともまほのチームに割り振られている。

 これにはエリカのチームのメンバーも若干意表を突かれたようで、隊員たちの顔は困惑に染まっている。

 しかして、エリカだけはいつものように、いや、いつも以上に気を引き締めた表情を浮かべている。

 まるで、戦力に偏りがある事についての“理由”を知っているかのようだった。

 号令が終わると、隊員たちは戦車に乗り込み移動の準備を始める。織部と、別の審判係の隊員が格納庫の重い鉄扉を開けると、外は豪雨と表現するに相応しいぐらい雨の勢いが強く、今が昼だという事を忘れさせるように暗い。あまりの雨の激しさに、織部がひきつるように笑う。

 そして戦車は格納庫から各チームの試合開始地点へと向かう。雨の降りしきる中で、大きな戦車が戦場へと向かう姿は、どこかカッコよさがある。だが、織部もそんな戦車の魅力的な一面を堪能する暇は無いので、監視用の高台へと向かう。

 もう半年ほど監視と審判を務めてきたので、監視用の高台がどんな場所かはもちろん知っている。だから予想できたことだったが、この勢いの良すぎる雨は監視用のスペースにまで吹き込んでしまっていた。屋根などあって無いようなもので、雨具の1つでも持ち合わせていなければ瞬く間に濡れ鼠となってしまっただろう。

 だが、織部もポンチョを1着貸し与えられている。ポンチョは、言ってしまえばレインコートにも似たようなものであり、綿や化学繊維の布にゴムなどで防水性を持たせたものだ。これで、多少雨風を凌ぐことはできる。とは言っても、メモなどの紙類は取り出せば瞬く間にずぶ濡れとなってしまうので、持ち合わせてはいない。今日の報告書も、模擬戦の流れを記憶力だけで覚えて報告書に纏めなければならない。

 無線の周波数を合わせて各車輌と他の審判に連絡が届くようにするが、強い雨のせいで電波状況もあまり良くない。他の審判係の準備が整った事を知らせる連絡が来たのだが、ノイズ雑じりでかろうじて聞き取れるレベルだった。

 そして織部が、審判の準備が整った事をまほに伝えるが、これも円滑にはいかなかった。やはりこちらからの声もノイズが雑じって聞き取り辛いのだろう。

 こんな状況でも模擬戦を決行するとは、厳しいというか、無茶だというか。

 ともかく、試合開始時刻が差し迫り、それでもまほから中止の連絡がこないので、模擬戦は予定通り行われるという事だ。元々織部には何か口出しをする権限も無いので、まほがやると言うのなら織部はそれに大人しく従うだけだ。

 両チームの車輌が試合開始地点で待機しているのを双眼鏡で確認し、時計を見て試合開始時刻ぴったりに、審判長である織部が無線に告げた。

 

「試合、開始!」

 

 その言葉はどうにか伝わったようで、双眼鏡の先にある戦車たちは動き出した。

 両チームとも、フラッグ車を中心に陣形を早急に形成して守りを固める。AB両チーム共にフラッグ車を中心に4輌で円形隊形を構築し、残り5輌を隊前方に逆V字型に配備し、フラッグ車を守りながらも敵を突破しやすい配置になっている。

 だが、フラッグ車の守る車輌の配置は違っていた。

まほは、重駆逐戦車のヤークトティーガーとエレファントをそれぞれ前後に置き、左右はパンターで守りを固めてきた。

 一方でエリカは、ラングとヤークトパンターの固定砲塔の戦車とⅢ号戦車は前方に配備、ティーガーⅡはフラッグ車の後方、他はパンターで守る。

 

(やっぱり・・・西住隊長の方に戦力が偏ってる気が・・・)

 

 ヤークトティーガーもエレファントも、火力と装甲は黒森峰の中でも上級クラスだ。そんな戦車を2輌も同じチームに配備するとなると、倒すためにはただ圧倒的な火力と装甲で攻める黒森峰の戦法は通用しない。ましてや、エリカのチームはパンターとⅢ号戦車、ラング、そしてヤークトパンターと、火力と装甲はまほのチームに劣っていた。だから、少し知恵を絞らないと簡単には勝てないだろう。

 そんなことを思っていると、まほのチームの戦車が発砲を始めた。両チームともに、距離はお互いに目視できる距離まで近づいている。だが先にまほのチームが発砲したのは、射程の長いヤークトティーガーがいるからだろう。牽制か、本当に狙っていたのかは分からないが、これで恐らくエリカのチームも動きを鈍らせるだろう。

 だがエリカのチームは、ヤークトティーガーの砲撃にも臆することなく速度を変えず前進していた。

 織部は、この程度の砲撃でエリカは怯んだり竦み上がるような臆病者ではないと分かっていた。だから、エリカのチームが陣形を崩さずそのまま前進しているのを見ても、別段驚きはしない。

 まほのチームは、絶えず砲撃を続けている。空が厚い雲に覆われ暗くなっていて、さらに雨の降りしきる暗い中で火花が散り、砲弾が炸裂し、硝煙が上がる光景はなかなか乙なものと織部は思った。

 肝心の戦闘だが、エリカのチームが全く発砲しない。確かに両チームともに距離は近づいてきてはいるが、エリカのチームの主力であるパンターやラングが有効打を与えられる距離にまではまだ近づいてはいない。だが近づきすぎると、逆に敵の戦車からも狙われやすいという事になる。火力・装甲の面ではまほのチームの方が一枚上手だから、このまま突っ込めばエリカのチームは返り討ちにあってしまうだろう。

 だが、ここでエリカの隊は進行方向を9時の方向に変えて森の中へと入っていった。

 

(なんだ、何かの作戦か?)

 

 敵前逃亡、とは思えない。エリカの性格からしてそれは無いし、そもそも黒森峰戦車隊はそんな弱虫ではやっていけない。

 黒森峰の隊員たちの中には、敵の前で逃亡する事を恥じるべき行為だと捉え、例え相手がどれほど強くても、試合が終わるまで、自分の戦車が倒されるまでは全身全霊を籠めて戦う、という精神が根付いている。

 だから、相手が隊長であるまほで、おまけに戦車の性能が劣っていても、それでも最後まで懸命に戦うのが常だから、逃げ出したとは思えなかった。

 そして少しして、まほのチームもエリカのチームを追うように森の中へと入っていく。

 

 

 Bチームが森に進路を変えるほんの少し前の、エリカのティーガーⅡ。

 

「・・・いい?私が合図を出したら、全車輌9時の方向へ進路変更。それまで発砲は控えるように」

『了解!』

 

 隊員たちの返事が返ってきたのを聞き、エリカは小さく頷く。

自らの着るポンチョには雨粒が叩きつけられており、戦車の車体にも無数の雨が打ち付けられている。そして、雨のせいで視界も悪く、仮に今発砲できたとしてもこの雨では狙いは定まりにくい。

 それは対戦するまほのチームにも言える事で、この視界の悪い中では離れた敵の戦車に狙いを定め、ウィークポイントをピンポイントで当てる事は至難の業だ。現に今、まほのチームからの砲撃は続いているが、中々当たらない。

 今現在、エリカのチームは斜面の下の方を進んでおり、まほのチームは反対に斜面の上の方から砲撃を続けている。だが、まだフラッグ車の姿は見えない。

 エリカが合図を出すのは、フラッグ車が姿を見せてからだ。

 やがて、相手チームのフラッグ車・・・まほの乗るティーガーⅠが姿を現した。

 

「今!進路変換!」

「はい!」

 

 エリカが通信を発すると、Bチームは指示通り9時の方向へと進路を変えて、林の中へと向かう。この時、まほのチームに戦車の無防備な横っ腹を曝け出す格好となってしまうので、これはリスクを伴うものだった。

 だが、エリカのティーガーⅡを囲うように配備されたパンター3輌ともう1輌のティーガーⅡは、砲塔をまほたちのチームへと向けて、牽制の姿勢を取りながら林の中へと入っていく。

 

「全車輌、速度を上げて前進!500m進んだら事前の打ち合わせ通り円形に散開。そこで作戦指示を出す」

『了解!』

「宮原は、後方を監視して敵チームが追ってきているのを確認したら報告」

『分かりました!』

 

 エリカは試合開始直後に、大まかな動きについてをチーム全体に説明しておいた。それはもちろん、まほのチームには伝えてはいないし、知っているはずもない。

 だが、作戦の詳細はまだ皆には伝えていない。おまけに、自分の考えている作戦は黒森峰では恐らくやった事が無いであろう作戦だ。

 この作戦、エリカのティーガーⅡの乗員にだけはあらかじめ伝えてある。だが、今エリカの目の前でスコープに顔をつけている砲手・泗水は。

 

『・・・・・・分かりました』

 

 不承不承という感じで聞き入れた。

 言いたいことは分かる。エリカの考えた作戦は、黒森峰のイメージとは少しズレているような感じがするとエリカ自身も思っていたし、無謀とも言える作戦だ。

 もっと考えればいい作戦が浮かんだかもしれないのに、なぜこの作戦を思いついて、なぜこの作戦が上手くいくのかと自分でも分からなかった。

 みほと戦って奇策を何度も目の当たりにして、大学選抜チームとの戦いでも大洗の戦いに今度は協力して、自分も大洗に感化されているのかもしれない。そうなると、誇り高き黒森峰の副隊長として情けない話だと、エリカは自分で失笑する。

 

「目標地点まで、後約150mです」

『後方より敵戦車接近!距離、およそ400m!』

「全車輌、これより作戦内容を通達する」

 

 操縦手が目測で作戦開始地点までの距離をエリカに伝え、もう1輌のティーガーⅡ、つまり最後尾の車長・宮原から連絡を受けると、エリカは無線で自軍車輌に作戦を伝える。

 

 

 小梅の車輌の砲手の泉は、スピーカーから聞こえてきた作戦を聞いてぎょっとした表情を浮かべながら、小梅の方を振り向いた。恐らく泉だけではなく、小梅のパンターの乗員はおろか、エリカのチームの隊員たちも同じだろう。

 やがて、泉が小梅の方を振り返って不安そうな顔を見せる。

 

「そんな作戦・・・・・・」

 

 作戦を聞いていた小梅も、泉とほぼ同意見だ。エリカから聞かされた作戦は、これまで実戦はもちろん、模擬戦でもやった事など無いし、黒森峰特有の戦術とは明らかにかけ離れたものだった。

 

「・・・・・・」

 

 だが、ここで議論している時間は無いし、ここまで来て作戦を考え直すというのも無理な話だ。それに、今この場でそれ以上の作戦を考える事など小梅を含めエリカのチームのメンバーには誰もできなかった。

 その事実に気付いて、泉も気を引き締めてスコープを覗き込む。他の乗員たちも、前を見て、ヘッドセットをつけ直して、砲弾を手に持って、戦闘準備を始める。

 各々、作戦を遂行する意思を示したのを小梅は見届けて、小さく笑い頷く。そして咽頭マイクに手をやり、無線を繋ぐ。

 

「パンター1号車、準備完了です」

 

 小梅が伝えると、車内の通信機から、他の戦車の車長からも準備が整った旨を伝える連絡が聞こえてきた。

 そして、全車輌の作戦準備が整ったのをエリカが確認したところで、エリカの指示が下された。

 

『全車輌、煙幕展開!』

 

 

 

 雨の勢いは止まる気配を見せず、織部の立つ高台にも雨は容赦なく吹き込んでくる。

 しかし、雨など全く気にせずに織部は双眼鏡を覗き込んで、両チームの戦車が進入していった森へと意識を集中する。時折双眼鏡のガラスに雨粒が落ちるのが鬱陶しくて仕方がない。

 それにしても、両チームともに森へ侵入してしまった事で、試合の詳細が分かりづらくなってしまう。こうなってしまっては、どの戦車がやられたのかもここからでは判別できず、戦車に搭載されている判定システムに頼りきりになってしまう。

 と、その時。両チームが姿を消した森の中心辺りから、モヤモヤと煙が上がり始めた。

 

(なんだ、あれ・・・?)

 

 誰かの戦車がやられたのかと思ったが、それにしては煙の量が多すぎるし、何より戦車が撃破された時にあげる煙は大体黒い。だが、あの森から立ち込める煙は白かった。

 とすると。

 

(・・・煙幕?)

 

 確かに煙幕は、黒森峰の車輌にも“一応”搭載されている。

 一応、と表現したのにはちゃんと理由があり、使う機会がほとんどないからだ。煙幕を使う時は大体、敵から逃げる際の時間稼ぎや目くらまし、後は陽動にしか使わない。前者は、今年の全国大会決勝戦で大洗がやって見せて、後者は大学選抜チームが大洗との戦いで見せた。

 けれども、黒森峰の作戦は真正面から敵戦車を攻めるのであって、退避行動はとる事があっても逃げる事など無いし、陽動もあまり使わない。

 では、何のために煙幕を使ったのだろうか。

 

 

 まほ率いるAチームは、陣形を3列縦隊に変えて、突如森に進路を変えたエリカ率いるBチームを追尾していた。

 森の中は木が多く、先ほどまでいた草原の時のように、広がった陣形を維持しながら前進する事は難しい。

 やむを得ず、まほは3列縦隊へと陣形を変えて、追尾を続ける。まほの左右はパンター、前後はヤークトティーガーとエレファント。両列の先頭は固定砲塔のラング、最後尾はⅢ号戦車だ。

 あのエリカが臆して逃げたとは思えず、雨で視界が鈍っているとはいえ撃破されるリスクを背負ってまでもまほたちを十分に引き付けてその上で森へと入った事に、まほは直感的に何か策があると感じ取った。

 そして、エリカのチームは速力を上げて引き離し始める。まほたちのチームも森に侵入したところで、エリカのチームの車輌が煙幕を張ったのだ。

 

「煙幕・・・・・・?」

 

 まほのティーガーⅠの砲手が、スコープ越しにエリカのチームの行動に疑問を呈するが、まほはそれでも動じはしない。

 エリカのチームの車輌は煙幕をまき散らしながら一斉に散開し、まほたちのチームの視界を煙幕で遮る。

 先ほど草原にいた時は、痛いほど叩きつけられていた雨も、頭上に広がる木の枝と葉のおかげでほんの少し勢いが和らいできたように感じられる。

 そこで、森の中にエリカたちが進んでいったのは、森の中が木の枝で雨の勢いが弱まっていることを利用して、煙幕が広がりやすくなる事を利用しようとしていたからだと気付く。そして今、まほたちの視界は白い煙幕で閉ざされてしまっている。

 煙幕を張る寸前で、エリカのチームの車輌が四方八方に散開したので、ここで正面に向けて撃っても命中する確率は限りなく0に近い。それに、今まほのチームは縦隊で動いている。下手をするとフレンドリーファイアの可能性も出てくる。なのでまほは、弾薬を無駄に消費しないように自分のチームの車輌に伝えた。

 と、そこでまほはデジャヴュを覚える。

 

(・・・・・・あの時と似ているな)

 

 状況こそ違うが、こうして相手チームが煙幕を張り自分たちの事を翻弄して、そしてまほが発砲を控えるように指示したのは、今年の全国大会決勝戦、大洗との戦いを思い出させる。

 まほも、自分とエリカのチームには戦車の偏りがある事はもちろん知っている。だから、どうやってエリカがこの戦力差をひっくり返すかを見極めるつもりだった。

 しかし、煙幕を使ってくるというのは少し予想していなかった事だったので、ここからエリカがどうするのかを、まほの中に興味が湧いて出てきた。

 そこで動きがあった。

 まほのすぐ左隣を走行するパンターの側面に、機銃弾が当たったのだ。

 

「・・・どこから?」

 

 そのパンターの車長・波野が出所を知ろうとするが、流石に煙幕で視界が見えない状況ではどうしようもない。

 だが、そこで。

 ズガァン!!

 

「!?」

 

 機銃とは比べ物にならないような衝撃を波野のパンターを襲う。そしてその直後、戦車の天井から『パシュッ!』と言う音と共に白旗が揚がったのを波野は見た。

 

「弾着観測か!」

 

 そして煙幕のせいで周りの状況が掴めていないせいで、波野のパンターの後ろを走るⅢ号戦車が、急に前を行くパンターの動きが止まった事にすぐ対処できず、衝突してしまった。

 

 

 

「パンター1号車。1輌撃破しました。位置は―――」

 

 小梅が報告すると、エリカから『了解』と返ってくる。

 円形に旋回して煙幕を張り、敵戦車の視界を奪う。そして、機銃掃射で煙幕の中にいる敵戦車の位置を仮定し、今度は通常弾で砲撃。敵戦車を撃破してその仮定を確信に変えてから、敵車輌の位置を共有して、いつもの黒森峰の戦い方のように包囲網を狭めながら敵戦車を撃破していく。

 ドイツ海軍の使っていた群狼戦術に近い戦い方だったが、あれは元々潜水艦で行う作戦であり、戦車で行うものではない。なのでこれは、煙幕を使ったのも含めてエリカ自身のオリジナルでもある。

 そして、最初に放った通常弾で煙幕をわずかながらに晴らし、敵戦車の位置を分かりやすくする。相手から見つかりやすくなるリスクも生まれるが、先に準備をしていたこちらの方が優位に立てる。

 

『全車輌前進!一斉砲撃!』

 

 エリカの指示と共に、チーム全体の戦車が前進を始める。木を避けながらまほたちのチームへと近づき、そして砲撃を始めてまほのチームの戦車を攻撃する。

 だが、流石は黒森峰の精鋭。すぐにまほのチームの戦車は冷静さを取り戻して迎撃を始める。しかし、不意打ちに近いこれにはすぐには反応できなかった。特に、固定砲塔のラングはすぐに対処できずに、エリカのチームの戦車に側面を撃ち抜かれて白旗を揚げた。

 加えてここは森の中で木が至る所に生えており、思うような進路を取って進むのが難しかった。

 それにまほのチームからすれば、発砲して来ているエリカのチームの戦車は煙幕の向こう側の存在だ。だから、位置を確かめるのも難しい。

 ところが、アクシデントが起きた。

 風が吹いたのだ。

 

「あ・・・・・・」

 

 キューポラから頭を出していた小梅は、その風に気付く。エリカももちろん気付いただろう。風が吹いたから何なのだと言うと、煙幕が風で払われてしまうのだ。

 まほのチームとエリカのチームの間に立ち込めていた煙幕が払われて、エリカたちからまほのチームの状況が明らかになる。

 だがそれは、同時にまほのチームからもエリカたちのチームの状況が見えるようになったという事だ。

 そしてまほのティーガーⅠは、フラッグ車のエリカのティーガーⅡを視界に捉えると迷うことなくそちらへ戦車を旋回させる。

 だが、その前にエリカの車輌は装填を終え、照準をまほのティーガーⅠに合わせていた。

 

「照準良し!」

「装填完了!」

「よし、撃て―――」

 

 エリカは、乗員から砲撃準備が整った連絡を受けると、すぐに砲撃命令を下す。

 だが、何とタイミングの悪い事か、エリカが命令を出した瞬間、砲撃を受けて照準がずれてしまい、撃たれた砲弾は明後日の方向へと飛んで行ってしまった。

 砲撃してきたのは、まほのティーガーⅠの後ろにいるエレファント。あのエレファントも、エリカの車輌を視界に入れるとそちらへ照準を合わせていた。

 何より最悪な事は、この一連の流れでまほのティーガーⅠが装填を終えてエリカの車輌を照準に収めるに十分な時間を与えてしまった事だ。

 

(しまっ・・・・・・)

 

 エリカが負けを覚悟しかけたところで、状況はさらに転ぶ。

 ティーガーⅡの横合いから、1輌のパンターが、ティーガーⅡを守るように飛び出してきたのだ。

 そのパンターから半身を出していたのは、小梅だった。

 

(赤星・・・!?)

 

 エリカが小梅の車輌に、フラッグ車の前に出て守るように指示した覚えはない。となると、小梅は自分の考えで行動したという事になる。

 その直後、小梅のパンターが揺れ、白旗を揚げた。まほのティーガーⅠの砲撃が直撃し、撃破判定を受けたのだ。

 

「私の事は構いませんから、早く!」

 

 マイクも使わず、小梅が大声で言う。エリカは操縦手に止まらず前進するように告げると、ティーガーⅡは前進を続ける。小梅のパンターはティーガーⅡを守る形で前に出てきたのだが、幸いにも角度が斜めになっていたので前進すればパンターを押し退ける形で前進できる。

 偶然か、はたまた狙ったものなのか。それは今はどうでもよかったが、このチャンスを逃すわけにはいかなかった。これでまほの不意を突いた形で、撃破されるのを逃れた事になる。こちらに最初に砲撃を仕掛けたエレファントも、パンターが邪魔になってティーガーⅡを狙えない。それに固定砲塔だから、向きを変えるのもまた時間がかかるだろう。だが、そこまで長い時間は無い。

 正真正銘、これが最後のチャンスだった。

 

「車長!砲弾装填、完了してます!」

「照準良し、いつでもいけます!」

 

 普段よりも装填スピードが速い気がして、『やればできるじゃないの』と内心で苦笑しながら、エリカは正面にいるティーガーⅠ、そして身を乗り出しているまほを見る。

 向こうの戦車も、砲塔をこちらに向けていて、まほもエリカの事を見ている。

 

「「撃て!」」

 

 エリカとまほは、同時に砲撃命令を出した。

 ティーガーⅡとティーガーⅠは、同時に発砲した。

 

 

 

「それでは、今日の訓練は終了とする。解散!」

『お疲れ様でした!!』

 

 模擬戦のミーティングも終わり、格納庫に戻ってまほが号令を行うと、隊員たちは先ほどの訓練の疲れを全く見せないようなはきはきとした声で挨拶をする。その号令が終われば、隊員たちも戦車隊特有の張りつめた空気から解放されて、自分たちの生活へと戻るのだ。

 だが、一部の隊員はそうはいかない。まず隊長のまほと副隊長のエリカはもちろんの事、審判長を務めた事で報告書を提出する義務も生じた織部だって残る。そして、小梅の戦車の乗員たちも自発的にミーティングを行って、戦車内だけでの振り返りを行う。

 

「エリカ」

「はい」

「後で少し、話がある」

「・・・分かりました」

 

 他の隊員たちと同様に織部が引き揚げようとするが、そのまほとエリカの言葉が、どうしてだか気になってしまった。

 元々、エリカは副隊長で、まほの右腕のような存在だ。だから試合が終わった後もまほと一緒に執務室に向かい、まほの補佐を務める。

 だというのに、まほが改まってエリカに話があると告げたのには、何か理由があると思えてならなかった。けれども、あまり深入りするとまた痛い目を見かねないので、その疑問は胸にしまっておいたまま撤収しようとする。

 だが、そのまほが今度は織部に話しかけてきた。

 

「織部」

「はい」

 

 先ほど頭に浮かんだ疑問を頭の片隅へと追いやり、まほに意識を向ける。

 

「今回の模擬戦の報告書、今日提出できるか?」

「はい、大丈夫です」

 

 基本的に織部は、報告書はその日のうちに書き上げて提出する。翌日に持ち越したというケースは、全国大会期間中で訓練終了時刻が普段よりも繰り下がった時ぐらいだ。それ以外の日は、その日のうちに提出できる。

 

「なら・・・提出するのは・・・・・・」

 

 そこでまほは、ジャケットの内側から懐中時計を取り出す。首から提げられている金色のそれは、まほの誕生日祝いで織部が買ったものだ。ちゃんと使ってくれているのは今初めて知ったので、織部は心の中では本当に嬉しく思った。

 

「・・・・・・19時過ぎぐらいにしてほしい」

「?はい、分かりました」

「すまないな、エリカと少し話があるんだ」

「それは別に構いませんが・・・・・・」

 

 報告書を提出する時間を指定するとは、また初めての出来事だ。ただ、その理由はちゃんとまほが説明してくれたので、不満は無い。元々そんなものは抱いていないのだが。

 それで話は終わりかと思ったが、どうもそうではないらしい。まほは、珍しく周りの目を気にするように辺りを見て、そして少し声量を落として織部に告げた。

 

「・・・・・・それと、報告書を出した後で、少し時間を貰えるだろうか?」

「?」

「・・・・・・少し、大事な話がある」

 

 一体、その大事な話の内容が何なのか。それが気になったが、詮索すると藪をつついて蛇を出しかねないので、直接話すまであえて何も聞かないでおいた。

 ともかく、まほから言われたことを留意した上で、教室へと戻り報告書を書き進める事にする。

 しかし今の時刻は17時過ぎ。報告書を出すように言われたのは19時過ぎだから、まだ2時間以上余裕がある。普段は出来上がって見直しが終わったらすぐに提出していたので、なるべく早く書き上げなければと思っていたところがある。けれど今日はその必要もなく、それまでに報告書を書きあげればよいという心の余裕もあった。

 普段から書く内容については過不足の無いように見直しを重ねていたが、今日はじっくり考えながら書くことができる。普段通り、あるいはそれ以上に出来のいい報告書に仕上げようと織部は思った。

 自分の教室へ戻り、電気をつけて自分の席に着き、予め用意しておいた報告書を書き始める。一応、報告書にはどこに何を書くべきかを示す欄があるので、何をどう書けばいいのか分からないなんて事にはならない。それに、もう何度も報告書を書いている身なので、読み手が何を知りたいのかという事はもう分かっている。

 最初の方が書き上がったところで、小梅がやってきた。既にタンクジャケットから制服に着替えていて、疲れている様子も全く見せていない。

 

「お疲れ、小梅さん」

「春貴さんも・・・審判、ありがとうございます」

 

 だが、相手が疲れているように見えないからと言って労いの言葉をかけないというのも失礼だと織部は思う。それに相手が自分に近しい者だからこそ、心から身を案じる気持ちを籠めて告げる。

 一方で小梅も、同じように織部に言葉をかけてくれる。小梅もまた、織部に対して労いと感謝の気持ちを籠めてそう言ってくれた。

 

「あ、そうだ小梅さん」

「はい?」

 

 小梅がさも当然とばかりに織部の横の席に座る。そこで織部は、少しだけ報告書を書く上で分からないことを小梅に聞く事にした。と言っても、報告書に何を書けばいいのか分からない、などという初歩的な質問ではない。

 

「あの森の中での戦闘の流れ・・・もっと詳しく教えてもらってもいいかな?」

 

 まほとエリカの両チームが森の中へ戦闘区域を移動した後、織部のいた監視台から試合の流れは双眼鏡を使っても見ることができなかった。他の審判からも、森の中での戦いは見えなかったと言われた。実際の試合で使うような小型撮影ドローンも無いため、結局審判は森の中での戦闘の流れを知らない。試合の決着も、判定システムの反応で知った事だった。

 その後のミーティングで、試合の流れについては試合に参加した隊員―――主にエリカ―――が報告して、それで森の中の戦闘の大まかな流れは聞き、メモをした。けれど、それだけではまだ内容に不備があるので、改めて試合に参加した隊員に話を聞こうと思っていたのだ。

 

「あ、はい。いいですよ」

 

 小梅から改めて、森の中での戦闘の流れを聞く織部。説明が分かりやすく、それでも要所は抑えた説明のおかげで、大分試合の流れがよくわかる。

 改めて、小梅の説明をメモに記し、試合の流れが大分分かりやすくなったので小梅にありがとうと告げる。小梅は、気にしないで下さいとばかりに笑って首を横に振る。

 ようやく試合の流れが分かってきたところで、織部はぽろっとこぼす。

 

「結構、攻めた作戦だったね」

 

 普段は使わない煙幕を使い、さらに群狼戦術まがいの作戦を仕掛けたというのは、黒森峰が初めて見せるものではないかと織部は思う。

 

「私も正直・・・・・・エリカさんがそんな作戦を立てるなんて思ってもいませんでした」

 

 織部のつぶやきに、小梅は苦笑しながら話す。小梅だってもちろん、黒森峰と西住流を重んじるエリカがあのような作戦を立てた事に驚くほかなかった。試合中は乗員たちを不安にさせないためにも、あまり感情は面に出さなかったが。

 しかし、エリカのチームとまほのチームの戦力の差は明らかだったので、黒森峰の正攻法で攻めても勝率はあまり高くは無かった。だから、搦手を使って勝率を少しでも上げようとしたのだろう。

 

「・・・・・・初めてだよね。模擬戦なのにあんな風に戦力に偏りがあるのって」

 

 試合が終わってもなお、織部にはどうしてまほのチームに戦力が偏っていたのか、その理由が分からずにいた。

 しかし反対に、小梅は何かに気付いているように、思い詰めた表情を浮かべていた。

 

「多分ですけど・・・・・・」

「?」

 

 小梅が何かを言おうとしたので、織部は小梅の方を見る。

 

「あの模擬戦って―――」

 

 

 

 

「今日の模擬戦、中々良かったぞ」

「・・・・・・ありがとうございます」

 

 隊長室の応接スペースでエリカに向かい合って座っていたまほがそう告げる。対するエリカは、あまりうれしくなさそうに告げて頭を下げる。

 心酔するまほから褒められるという事は無上の喜びだが、今この場でそれを表すわけにもいかないし、何よりエリカは少し不安に思うところがあった。

 先ほどの模擬戦では、あの戦力差をひっくり返すために仕方なかったとはいえ、黒森峰、西住流とはまた違う戦法を取ってしまった。煙幕を使ったのはもちろん、前に本で読んだドイツ海軍の群狼戦術を使ったのだって、戦車乗りが海軍の戦いを取り入れるというのはあまり褒められたものではないだろうとエリカは思い込んでいた。

 西住流を、黒森峰の戦いを重んじていたエリカがこうした作戦にしたのは、仕方ないとはいえ、エリカにとっての負い目になってしまった。

 そしてエリカは、この黒森峰、西住流とはまるで違う作戦を取ったうえで失敗した自分が、去年の全国大会のみほに似ていると思うところがあり、それがまたエリカの気持ちを下向きにさせている。

 それにエリカは、この模擬戦が行われた“本当の理由”に、ある程度予想をつけていた。

 

「まさかエリカが、あのような搦手を使ってくるとは思わなかった」

「・・・・・・ですが、結果的に私たちは負けてしまいました」

 

 先ほどの模擬戦、勝利したのはまほのAチームだった。

 最後のティーガーⅠとティーガーⅡの1対1の撃ち合いでほぼ同時に発砲した2輌。  ティーガーⅠもティーガーⅡも互いに相手の動力系を狙っていたのだが、まほのティーガーⅠは、砲撃している最中に僅かに車体の向きを変えていて、直撃しても有効とはならないようにしていたのだった。反対にティーガーⅡは正面に向いたままだったので、動力系にもろに砲弾を受けて撃破判定を受けたのだった。

 

「そう殊勝な態度をとるな。私としても、エリカがあのような作戦を取った事には驚いたが、それだけエリカが成長したという事も分かった」

「・・・・・・・・・」

「あの作戦・・・・・・大洗の戦いからヒントを得たものか?」

「・・・・・・・・・はい」

 

 煙幕を使う作戦は、今年の全国大会決勝戦で大洗が見せた作戦を真似たものだ。2輌の重駆逐戦車を相手にするには、目くらましをして視界を奪い機能させなくするのが一番だと思っての事だった。結果的に、煙幕を張った直後はその2輌を無力化する事に成功し、奇襲には成功した。

 エリカがそうしたのも、やはり大洗の影響を少なからず受けていたからだった。実際に決勝戦で戦い、大学選抜チーム戦で同じチームとして戦ったからだろう。

 だが、それをまほがどう思うのかは分からなかった。多様性を取り入れた事を善とするか悪とするか、それがエリカにとっては怖かった。善であれば良し、悪であればダメだ。

 

「・・・・・・正直な話、黒森峰もこれまでのような戦い方一辺倒では、勝利を目指す事も難しくなっていくだろうと思っていた」

「え・・・・・・・・・?」

 

 まほが腕を組んで告げた事に、エリカは動揺する。弱気な発言をしないまほが、まさか勝利が難しい、もしかしたら負けてしまうなどと、先の事を考えて悲観的になっているのをエリカは初めて見たからだ。

 

「確かに黒森峰は、厚い装甲と高い火力、統率された隊形をもってして敵を撃滅するシンプルな戦法を使う。だが、戦術がシンプルであるが故に、手の内を知られていると逆に対策も取りやすい」

 

 それは、大洗と戦った事でエリカも分かっていたし、まほだってもちろん分かっていることだろう。

 そんな黒森峰とは反対に大洗は、他の人には想像もできないような破天荒な作戦を立てた事でこれまで幾度となく強豪校を破り、さらには最強と言われた島田愛里寿をも打ち破った。それは型にはまらない、敵にとっても想定し得なかった作戦を取った事で相手の不意を突き、勝利のチャンスを自らの手でつかみ取ったからだ。

 

「だからだ。黒森峰も、この先は戦い方を少し考えなければならない、と私は思っている」

「・・・・・・・・・」

 

 少し前のエリカなら、『黒森峰は黒森峰の戦い方を貫くべきです』と言っていただろう。

 だが、まほの言葉は何も間違っていない正論だと思ったし、エリカ自身が黒森峰とは違う戦い方をしてしまった事で説得力が欠片も無くなってしまった。

 

「・・・・・・さっきの模擬戦のエリカの見せた戦いは、黒森峰のこの先の戦いなのかもしれないな」

「・・・・・・そうでしょうか」

「そうだよ、きっと」

 

 ほんのわずかに柔らかい口調のまほの言葉に、エリカもこそばゆくなる。

 

「エリカ」

「・・・・・・はい」

 

 改まってまほがエリカの名を呼び、エリカも姿勢を正す。先ほどまでの、黒森峰の戦い方とは違う戦い方をしてしまった事に対して抱いていた罪悪感は一旦胸に仕舞ってまほの顔を見る。

 

「・・・・・・先の模擬戦・・・あれは、エリカの実力を見極めるためのものだった」

「・・・・・・・・・はい」

「エリカが、私の次の隊長となるに相応しい実力を持っているかどうかを、な」

 

 やはりそうか、とエリカは思った。大学選抜チーム戦の帰りの飛行船の中で、まほがエリカを次の隊長になり得ると言っていた。それから間もなくこうして、明らかに戦力が偏っていた何らかの意図を感じるこの模擬戦が行われたので、なんとなくそうだろうという事は予想していた。

 だが、その結果はどうなのかはまだ分からない。

 恐らくエリカに対する話とは、この事だろう。

 

 

「今度は、エリカが黒森峰を率いる番だ」

「・・・・・・!」

「これからの黒森峰を、よろしく頼む」

 

 

 今この瞬間、逸見エリカは黒森峰を率いる次代の戦車隊長となる事が決まった。この前まほの言っていた『相応しい』ではなく『よろしく頼む』と告げた。

 だが、エリカは。

 

「・・・・・・私で、本当にいいんですか・・・?」

「ああ。エリカでなければ務まらない。そう、自信を持って言える」

 

 これまでエリカは、副隊長として、まほの右腕として戦車隊ではまほの傍にいた。だから隊の事をまほの次に知っているし、そもそもエリカの実力の高さはエリカがまだ入隊したばかりの頃から分かっていた。

 そして大学選抜チーム戦で自分で考え動く力と、急造チームで協力し作戦を成功させる柔軟な対応力も持っていることが分かった。

 加えて、今日の試合でも黒森峰の型にはまらない作戦でまほのチームを翻弄したことで、エリカもまた1つ成長している。

 隊長として持つべき力を持っているエリカが次の隊長になるべきだと、まほ自身が認めたのだ。

 

「・・・・・・引継ぎはこれから、追々やっていくことにしよう」

「・・・分かりました」

 

 これから、エリカは本格的に隊長になるためにまほと共に動き出す。副隊長だった今までとは勝手が違うだろう。

 差し当たり、エリカ自身も変わらなければならないと思っていた。

 自分は、まほとは違って皮肉屋だという自覚はあるし、自分にも他人にも厳しいという事も、分かっている。まほも厳しいと言えば厳しいが、それでも時には優しい一面を隊員に見せてくれる。それが、まほが慕われていた理由でもあるだろう。

 自分も、そうならねばならないなと、まほは思った。

 

「それと、次の副隊長についてだが・・・」

 

 続いてまほがそう口にする。

 副隊長のエリカが隊長となる事によって、副隊長を新しく選ばなければならない。隊長だけでは隊も機能しないとまでは言わないが、それでも代々黒森峰では隊長と副隊長の2人で隊を率いていたし、副隊長までいるのが一般的だ。

 その副隊長を誰にするのか、と言う話だ。

 

「・・・・・・1人、私が推薦したい隊員がいます」

 

 そこでエリカは、おずおずと手を挙げてまほに意見する。まほはそれに気を悪くする事無く、エリカの意見に耳を傾けた。

 

 

 まほから指示された時間になったので、織部は報告書を提出しに来た。隊長室の前にやってきて、ドアをノックする前に時計を見て指定された時間であることを確認すると、織部はここで初めてノックをする。

 

「織部です。報告書の提出に来ました」

『入りなさい』

 

 エリカの声が聞こえ、織部はドアを開けて中へと足を踏み入れる。

 するとそこには。

 

「・・・・・・あれ?逸見さん?」

 

 普段なら、まほが椅子に座り、机に多くの資料を並べて読みふけっているはずだったのだが、なぜか今、普段まほが座っている椅子にはエリカが座っていて、その横にまほが立っている。普段とは逆の立ち位置だった。おまけにエリカはカチンコチンと言う擬音が似合うぐらいに固くなってしまっていて、その椅子に座る事に慣れていないのが明らかだ。

 なぜエリカがその椅子に座っているのか、という疑問が織部の頭に浮かぶが、まほがその疑問を見透かしていたかのように告げた。

 

「今日の模擬戦のエリカの戦いを見て、エリカを次の隊長にする事に決めたんだ。それで、まずは隊長の椅子から慣れてもらおう思ってな」

「ああ、そう言う事ですか・・・・・・・・・」

 

 先ほど織部は小梅と話している時に、先ほどの模擬戦の理由を予想ではあるが聞いた。結果は小梅の想像通り、エリカの実力を見極めるためのものだった。

 今学期も残り半年を切り、3年生たちは卒業後の事を考え始める。あるいはもうすでに決めている人が多い。この時期に、こうして不意に作為的な何かを感じた模擬戦を、ただの日常の一コマと処理するのは難しい。何かあると勘繰るのが自然だ。

 そして小梅は、この模擬戦は“なにか”を試すためだと気付いたのだ。その“なにか”とはエリカの事だったのだ。

 

「では、報告書は・・・」

「ああ、それは私が見る」

 

 まほがそこで前に出てきたので、織部は報告書を差し出す。まほが報告書を読んでいる間に、エリカがまほの目を盗んで椅子から立ち上がった。どうやら、まだこの隊長の椅子に座るのは恐れ多いようだ。

 

「うん、良く書けている。試合の流れも、細かく書けている」

「それは、別の隊員の方から試合の詳細を聞いて書きました。できるだけ分かりやすいように書き上げたいと思いまして」

「・・・・・・そうか」

 

 エリカは、織部の言っていた『別の隊員』が小梅だという事にとっくに気付いていた。2人の関係を見れば当然とも言えるし、先ほどの模擬戦でエリカと同様に最前線にいたのは小梅だ。だから聞くなら小梅が妥当だと思ったのだ。

 

「・・・・・・そうだ、織部。このあと少し、いいだろうか?」

「あ、はい。分かりました」

 

 織部は、このあとまほから少し話があると言われている。なので、このまほの申し出にも別に抵抗は無かった。

 だがここで、エリカの戦車道で養われた勘が働く。

 何か嫌な予感がすると。

 放っておくと、ろくでもない事になりかねないと。

 

「エリカも、今日は上がっていいぞ」

「・・・・・・分かりました。もう少し、片づけを終えたら帰ります」

 

 そう言ってまほは、織部を連れて隊長室を出て行ってしまった。

その後エリカは、気付かれないように2人の後を音もなく追った。

 心の中ではまほに『申し訳ない』と謝りながら。

 

 

 教室の外の廊下で小梅は、窓の外を眺めていた。雨の勢いは少し収まってきてはいるが、それでもまだ傘が無いと辛いほどの量だ。

 一応折り畳み傘は持ってきてはいるが、一緒に帰る織部はどうだろうかと小梅は心配する。もしかすると、相合傘という事にもなるかもしれない。

 織部といられる時間はどんどん短くなっていき、別れの時は着々と近づいてきている。

 その時がきてしまったら、小梅はどうなってしまうのか、どうするのか、自分自身でもそれはまだ分からないし、見つけられてもいない。

 だけど、それでも、別れの日が来る事は知っているからこそ、それまではせめて織部の傍にいたかった。

 それほどまでに、小梅は織部の事を好きでいて、恋していて、何よりも、愛していた。

 と、そこで小梅はあることに気付く。

 

(・・・・・・あれは、隊長・・・?)

 

 中庭を挟んだ向かい側の校舎の1階下―――3年生の教室がある廊下を歩くのはまほ。そしてその後ろを織部が歩いていた。

 そこで小梅の頭の中で警告音が鳴り響く。

 痛烈なまでに、不安が胸の奥から湧き出てくる。

 そのような不安を感じたのは、戦車隊の隊員として養われた危機察知能力ではなく、女の子としての不安な気持ちだ。

 何か嫌な事が起こりそうだと、小梅の中の勘が叫んでいる。行かないと、取り返しのつかないことになってしまうと。

 小梅はその不安を抱いた直後、駆け出す。階段を降りて、廊下を進み、織部とまほが歩いて行った教室へと向かう。

 その織部とまほが入ったらしき教室の前、正確にはドアに、背中をつけて中からは見えないように立っているエリカを見つけた。

 エリカもまた小梅に気付き、小梅に目で『音を立てるな』と指示を下す。それだけで小梅も意図が伝わって、口をつぐみエリカの横に立って教室の中から聞こえてくる音に全神経を集中させる。小梅の立っている位置から教室の中は見えないし、見ようとすると逆に向こうにバレてしまいかねなかった。

 

「・・・・・・急に呼び出して、すまない」

「いえ・・・・・・それは構いません。ですが、一体どのような用件でしょうか?」

 

 窓の外から聞こえる雨の音が大きくなった気がする。雨の勢いが強くなったのだろうか。

 だが、それで中の会話が聞こえなくなるなどと言う事だけは絶対に避けたい。小梅は、聴覚をこれでもかというぐらい研ぎ澄ませて教室の中の会話に耳を傾ける。

 

「・・・・・・その前に、一つだけ私から聞きたい事がある」

「?」

「・・・以前、大学選抜チーム戦に向かう際に、飛行船で君に話したことを覚えているか?」

「・・・・・・はい」

 

 エリカと小梅は、頭に疑問符を浮かべる。そんな会話をしていたというのは今初めて知った事だ。それは、小梅からすれば小梅が部屋に戻った後の事で、エリカからすれば織部が操縦室に来る前の事だったのだから、知らないのも当然だった。

 

「・・・・・・私は君に、『君と話してから安心感を抱くようになった』と、『君がいると、安心できる』と言ったはずなんだ」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 エリカと小梅が目を見開く。あのまほが、そんな言葉を口にするとは到底思えなかったからだ。そんな言葉を言っていた記憶は2人の中には存在しないし、そもそもそんな言葉を口にするイメージが皆無だった。

 そんな恋する女の子のような事をまほが―――

 と、そこでエリカと小梅は同じ推測を立てた。

 まさか、と。

 そんな、と。

 

「あの時君は、私の言葉を聞いてどう思った?正直に、教えてほしい」

「・・・・・・・・・・・・・・・正直に言いますと、どうしてそんなことを言われるのかが、分かりませんでした」

 

 答えるまでに、若干の間がある。

 小梅はそこから、もしかしたら織部も“気付いた”のかもしれないと思った。

 織部の傍にいた小梅から見ても、織部は馬鹿ではないと分かるし、むしろ賢いと思える。学業の面で見ても、人の気持ちを汲み取る面で見てもそうだと言える。小梅の恋心に気付かなかった面では鈍いと思うが、それは今は関係ない。

 

「・・・・・・私は、元々口下手だからな。そう思われても仕方ないか」

「・・・・・・」

 

 まほの少しばかり呆れたような声。もし表情が見えたのなら、失笑しているのかもしれないと小梅たちは思う。

 

「・・・・・・こういうことを言うのは初めてで、私も少し緊張している」

「・・・・・・」

「・・・だから、単刀直入に言わせてほしい」

 

 エリカの額に脂汗が滲む。

 小梅の瞳が不安と焦りで揺れる。

 2人の拳が無意識に握られ、震えている。

 窓の外の雨の音が、聞こえなくなる。

 世界中の音が、止まったように錯覚する。

 

 

「私は、織部・・・君の事が好きだ」

 

 

 今、自分の心臓は動いているだろうか。

 呼吸は、ちゃんとできてるだろうか。

 できていなければおかしい事すらもちゃんとできているかわからなくなるぐらい、心が揺れ動く。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 織部が何も言わない。何を考えているのか、何を思っているのか、告白を受けてどう感じているのか、それは織部以外には誰も分からない。

 だが小梅からすれば、織部が何も言わないことが不安でならないし、何より気になる事がある。

 それは、今の織部の心に、自分はちゃんと存在しているのだろうか、という事だ。

 

「君が初めに私の事を聞いてきた時は、私も少し君の事を悪く思った。人の触れてほしくはない場所に、多少の遠慮や気遣いがあったとはいえ触れたのだからな」

「・・・・・・・・・・・・その時は、すみませんでした」

 

 織部がようやく言葉を発するが、小梅が聞きたいのはその言葉ではなかった。

 

「だが、あの時君は私にどうしたいのかを聞いてくれた。そこで私は、みほと本当は話をして、仲を取り戻したいという事実に気付かせてくれた。そしてこんな私でも、姉失格ではないと、そう言ってくれた」

「・・・・・・・・・・・・」

「誰にもあんな話はしていないし、そんな言葉をかけてもらった事も無かった。だからそれが、私には嬉しかったんだ」

 

 そのことは、エリカと小梅が本当に最初に盗み聞いてしまった、織部とまほの話だった。

 その時のまほの気持ちは分からなかったが、今こうしてその真実を聞くと、またあの時の話が違った風に解釈できる。

 

「その後も君は、私の相談に乗ってくれた。君は、私の本心、『みほに謝りたい』という気持ちを忘れさせることはなく、私の事を応援してくれた」

「・・・・・・・・・・・・」

「そして私は・・・みほと仲直りをすることができたんだ」

 

 その仲直りとは、夏休みでみほを黒森峰に招いた時の事だろう。それは、小梅にとっても、エリカにとっても重要な出来事だったのだから、すぐにわかった。

 

「君に対しては、感謝の気持ちを抱いていた。みほとの関係に悲観していた私の事を慰めて、そしてその上でみほと私が和解することを望み、そして背中を押してくれたことに対して」

「・・・・・・・・・・・・」

「その時以来か、私は安心感を抱くようになった。君に話す事に」

 

 小梅からは見えないが、エリカからは織部が目を閉じて俯いてしまったのが見える。果たして織部が今抱くその気持ちは何なのか、それはエリカには理解できない。

 

「その安心感も、やがては別の“もの”に変わった」

「・・・・・・・・・・・・」

「君の事を考えると、なぜか胸が焦がれるような思いになり、温かい気持ちになれる」

「・・・・・・・・・・・・」

「それが・・・・・・“恋”だと知った」

 

 それが、まほが織部を好きになった経緯、動機、恋の芽生えだった。

 そして、織部が言葉を一切発していないのに、小梅はどうしようもない不安を抱く。織部の心が見えない、本心が、今の織部の気持ちが読めないからだ。

 小梅に対しては常に真摯に向き合い、支えられ、時には支えた織部が、今何を思っているのか。

 

「・・・・・・西住隊長の気持ちは、大変嬉しく思います」

 

 小梅の肩がビクッと揺れる。エリカが横で、息を呑んだ気がする。

 雨の音が、徐々に聞こえてくる。

 

 

「・・・・・・けれど、すみません。西住隊長の気持ちは、僕には受け止められません」

 

 

 それが織部の答えだった。

 心の中の緊張の鎖が切れて、小梅はうっかり息を吐きそうになるが、今ここで音を立ててはならないと言うエリカの命令を思い出して踏み止まる。

 

「僕にはもう・・・・・・心に決めた、将来結ばれることを約束した人がいます。なので、すみません」

 

 そこでエリカが、小梅の方を勢い良く振り返る。だが小梅は、反応しない。

 

「・・・・・・そうか」

 

 まほの口調は、ほんの少し、ほんの少しだけ落胆の感情が雑じっているように聞こえたのは、決して気のせいではないと思う。

 

「・・・急に呼び出して、急にこんなことを話して済まなかった」

「いえ・・・西住隊長が謝る事は・・・」

「・・・・・・やはり、君は優しい男だ」

 

 最後のまほの言葉は、優しさを帯びているように聞こえた。

 そしてエリカは、まほが踵を返して教室を出ようとしていることにいち早く気付き、小梅にジェスチャーで隣の教室に隠れろと伝えると、まほに気付かれないように音を極力立てず隣の教室のドアを開けて身を滑り込ませる。そして、息を殺して存在を消しにかかる。

 ドアの傍に座って外から見えないようにしてジッとする。ドアの外から1人分の足音が聞こえるが、こちらに気付いて立ち止まった様子は無い。その足音の主は、そのまま通り過ぎて行った。

 試しにエリカがドアの窓から外の様子をうかがうが、周りに人の姿は見えない。音をたてないようにドアを開けて周りの様子を広く見ても、人はいない。

 しかし2人は念のため、しばらくその場で様子を見る事にした。

 10秒。状況は変わらない。

 20秒。変化は起きない。

 30秒―――

 隣の教室から『ガタン!』という音が聞こえた。その音を聞いて即座に小梅が、隣の教室へと駆けだす。

 中を見ると、織部の姿が無い。先ほど聞こえた足音は1人分しかなく、最初に教室を出ようとしたのはまほだったのはエリカの様子から分かっていたから、教室には織部が残っているはずなのだが。

 いや、よく見ると織部はいた。整然と並べられた机と机の間、冷たい床に織部は座り込んでしまっていた。

 

「春貴さん・・・!」

 

 小梅が駆け寄ると、織部は手で顔を抑えていて、呼吸もわずかに荒かった。その表情は困惑というよりも後悔という表現がしっくりくる。

 

「・・・・・・もしかして、聞いてた・・・?」

 

 織部が恐る恐る、確認するように小梅に聞くと、小梅は表情を曇らせる。だが、それだけで織部には答えが分かった。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・ごめん」

「謝る事なんて・・・・・・・・・」

 

 織部が何に対して謝ったのかは分からない。だが、ここで織部が謝るのはお門違いだという事は小梅にも分かった。

 

「・・・・・・西住隊長には・・・悪い事をしたと思う」

「・・・でも、春貴さんはちゃんとした理由があって、断ったんですから・・・。春貴さんが気に病むことはないと私は思います」

 

 どうやら、以前プールでエリカが言っていたように、まほは鈍いところがあったらしい。織部と小梅が付き合っていることに気付いていれば、告白などしてこなかっただろう。

 

「・・・・・・初めて告白してきた人が、小梅さんで良かったと、本当に思ってる」

「え・・・・・・・・・?」

「告白を断るのって・・・・・・・・・ものすごく、辛くて、耐え難いものだったんだって、今知った」

 

 織部が生れて初めて告白された相手は、自分も好きだった小梅だった。だから、断ることはなくその返事を受け入れて、付き合う事が決まった。

 だから、先ほどのように告白を断った事など無かったのだ。そして、それがどれだけの罪悪感を生み出すようなものなのか、それを初めて知ったのだ。脚に力が入らなくなるぐらい、脱力感に襲われた。

 物事を真面目に考えすぎる傾向のある織部だからこそ、こうして告白してきた女性を振るという初めての事態に、困惑しているのだ。しかも相手が、“あの”西住まほで、これまで何度か相談を受けて、小梅と同じように向かい合って話していたからこそ、その人の気持ちを裏切るという事が辛く、自分でも哀しくなったのだ。

 その罪悪感、後悔に押し潰されそうになり、織部の瞳は揺れて俯く。

 そんな織部の顔に、小梅は優しく手を添えた。

 そして、まだ困惑している様子の織部に、小梅は静かに唇を重ねた。

 小梅にとっては、織部が小梅と付き合ってくれていることを理由に告白を断ってくれたことが、本当に嬉しかった。

 だがそれでも、自分の付き合っている人が告白されるというのは、とてつもなく心が締め付けられる思いだった。真面目で優しい織部なら、鞍替えするなどという事は無いと分かっていたし、信じていたのだが、万が一、億が一その可能性があったらと、そんな考えが浮かんでしまった。

 悪い言い方をするなら、織部を疑った。

 この口づけは、罪悪感に押し潰されそうになっている織部への慰め、自分の存在を忘れる事無く告白を断った織部に対する嬉しさ、そして織部を疑った事の償いの意味が詰まっている。

 ほんのわずかな時間だけ唇を重ねてから離すと、織部は苦笑とも取れる笑みを浮かべながら、静かに涙を流していた。

 涙を流しているのはどうしてなのか、そこには多くの感情がないまぜになってしまっているのだろうなと、小梅はすぐに分かった。

 

「・・・・・・・・・随分とお熱いようで」

 

 そして、小梅の後ろから聞こえた茶化すような声に、織部と小梅はビクッと肩を震わせる。そして振り向いてみれば、扉に寄り掛かるようにして腕を組み立っているエリカがいた。

 

「・・・・・・・・・逸見さんも、聞いてたんだよね。多分」

「ええ、バッチリとね」

 

 この後、エリカが織部にどんな言葉をかけてくるのか、織部は怖かった。

 エリカがまほを心酔しているという事は分かっている。そのまほを振ってしまった織部を、エリカはどう思っているのかは、なんとなくだが分かる。

 何を言われて責められるのかと思うとまた落ち込んでしまうが、意外にもエリカの表情は怒りではなく、呆れにも似た何かのように見える。

 

「・・・・・・ま、あんたたちが付き合ってるのは知ってたから、断るとは思っていたけどね。隊長が告白なんてしたのは完全に予想外だったけど」

 

 エリカに怒っている様子は無い。むしろ仕方が無いと諦めてしまっているようにも見える。だが、そう見えるだけで内心では織部に対する怒りや憎しみを滾らせているのかもしれない。

 それにかつて、エリカは織部に真っ向から批判を浴びせた事がある。その時の事をエリカは謝ってきたが、今回はまた事情が違う。

 

「・・・・・・僕を責めないの?」

「責める?どうしてよ」

 

 だからたまらず織部が聞くが、エリカはその質問こそ意味が分からないという風に首をかしげる。

 

「隊長があなたに告白したことには驚いたけど、それは隊長自身の意思でもある。流石にそれは私にもどうにもならないし、あなたが悪いってわけじゃない。告白を断ったのだって、赤星と付き合ってるからっていう至極真っ当な理由があっての事だし、今回の事は仕方ないと思ってるわ」

 

 エリカの言葉に嘘は無い。これは紛れもない本心だ。

 まほが誰を好きになるかというのはまほの自由であり、エリカがそれに口出しする資格は無い。その相手である織部の事をエリカはかつて咎めた事があるが、それは織部の事を深く知らないエリカの方にも非があったという事をまほに気付かされてしまった。

 エリカだって織部の事を今では悪い奴ではないと思っているし、小梅と問題なく付き合っている以上性格に難があると言うわけではないのも考えられる。

 だからエリカも、今回の件に限っては織部に対しては何も咎めはしない。

 しかしながら、エリカは一つだけ織部に聞いておきたい事があった。

 

「・・・・・・ねえ、織部」

「・・・・・・何?」

「これは・・・もしもの話だけど・・・・・・」

 

 エリカが珍しく、何かを言うのを躊躇うが、やがてすぐに織部の顔を見て問いかける。

 

「・・・・・・もし、あなたが赤星と付き合っていなかったとしたら、あなたは西住隊長の告白をOKしたの?」

 

 それは、純粋な興味と言うのもあるし、不安というのもあった。

 そしてその質問、小梅も少し気になっていたことだった。もし自分と織部が付き合っていなかったらという事は考えるだけでも寒気が走るが、織部自身がどう動くのか、それもまた同時に気になるところだった。

 エリカの問いに対して織部は、ほんのわずかに躊躇いを見せてから、答える。

 

「・・・・・・断ってた」

「・・・・・・・・・」

 

 エリカの表情を覗うと、無言で『理由を言え』と目で言っている。織部も、流石にこのままではいけないと分かっていたので理由を説明した。

 まほがどれほどのものを背負っているのかは、織部に限らずこの場にいる全員が知っていることだ。西住流の後継者筆頭で、国際強化選手で、黒森峰を率いる隊長だ。隊長という立場はいずれ退くだろうが、それでもその肩書は一介の高校生の背負うそれではないというのが分かる。

 だからこそ織部は、まほが自分とは住む世界が違う人だと思っていて、尊敬する気持ちはあっても、恋心までは抱けなかった。

 そしてそのまほから告白を受けるという事は、その肩書を背負うまほを支えていくことになるのだと思っている。

 だが、織部はそんなまほを支えられる自信が無い。そこまで自分は強い人間だとは思っていないし、もしまほほどの人物がつまずきそうになる場面など織部には想像できない。みほとの関係が拗れた事で相談には乗ったが、自分たちよりも過酷な戦車道の世界に生きるまほがそれ以上の場面に直面して躓いたとして、その時まほの気持ちを受け止められるかと聞かれても、織部は頷けない。

 だから、例え告白されていたとしても、自分にはまほほどの人物の気持ちを受け止める勇気が、自信が無かったから、断っていただろう、と織部は告げた。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 しかし、だからと言って織部が付き合ってる小梅ならまだ大丈夫、などと考えてはいないし、小梅の事をまほとは違って低く見ているとは微塵も思っていない。

 過去にいじめを受けた織部からすれば小梅の辛い過去は痛いほど分かるし、似たような経験をしたからこそより親身になって接することができるし、支えられる。強い信念を持っていることに関してもそうだ。織部はその信念を抱く小梅の事を応援したいと思っていたし、支えたいとも考えていた。

 それ以前に、織部は小梅の事が心から好きだった。小梅だけが持つ魅力の虜となっている。そして小梅もまた、織部の事を心から好きでいて、未来の事までも考えてくれている。

 小梅は、織部が初めて心から好きになった、恋心を抱いた女性(ひと)だ。

 それが、まほと小梅に対する気持ちの、決定的な差だ。

 

「・・・・・・なるほどねぇ」

 

 それも隠すことなく告げると、エリカも納得したように、そして織部をバカにするような笑みを浮かべる。

 

「あの西住隊長の告白を蹴るなんて、モテる男は辛いわねぇ」

「勘弁してよ・・・」

 

 口調からエリカは冗談で言っているのだと分かっているのだが、その『モテる男は辛い』というよく聞くフレーズも、織部にとっては笑えないし、そんな言葉は口が裂けても言えない。実際織部は罪悪感と後悔に押し潰されそうになって辛いことこの上なかったのだし、織部は自分がモテると自信を持って言えるほど自意識過剰でもない。

 心底凹んだ様子でそう言う織部を見ながら、エリカも肩をすくめて息を吐き、そして織部と小梅の2人を視界に捉えながら教室を出ようとする。

 

「まあ、今回の事は秘密にしとくわよ」

「是非ともそうしてくれるとありがたいよ・・・」

 

 苦笑しながら織部が言うが、それに対する返事は告げず、代わりにエリカはドアを開けてから。

 

「・・・・・・赤星と幸せになりなさい」

 

 そう言って、行ってしまった。

 最後の、ものすごく普段のエリカとは違うような応援の言葉に織部と小梅は驚いたが、そう言えば『将来結ばれる』と言ってしまった事を思い出した。

 秘密にしておきたかったことだが、それを言ってしまった事を織部が謝るが、小梅は笑ってそれを許してくれた。

 しかし、こうして知られてしまうと、何としても、絶対に、それを成し遂げないとと思うようになった。いや、元々そうなりたいと強く願っていたのだし今更揺るぎはしないのだが。

 織部も落ち着いたところで、小梅は織部の手を引いて立ち上がらせて、教室に戻って帰り支度をする事にした。

 

 

 まほからの告白は、織部が真っ当な理由で断った。

それについて小梅もエリカもそれを責めはしなかった。だから織部も、気に病む必要は無いはずだった。

 だがそれでも、今日の事はトラウマとまでは言わないが、忘れられない過去として織部の中に蓄積され、忘れてはならない経験として織部の心に焼き付けられることになってしまった。

 一生向き合っていかねばならない、心の傷になった。




ムラサキツユクサ
科・属名:ツユクサ科ムラサキツユクサ属
学名:Tradescantia ohiensis
和名:紫露草
別名:―
原産地:北アメリカ
花言葉:尊敬しているが恋ではない


告白を受けるという事も、断るという事も、
尋常ではない覚悟が必要なのだと筆者は思います。

この物語におけるまほの立ち位置は、
準主人公・サブヒロインな感じでした。


感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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勿忘草(ワスレナグサ)

少し投下が遅れました。
申し訳ございません。


自分で紅茶を淹れ始めたけど、難しい・・・


 織部が黒森峰を去るまで残りおよそ2週間。

 織部と小梅にとっては、確実に一時の別れの日が近づいている。それはさながら、崖に一歩ずつ近づいているような感覚だった。

 そんな折、戦車隊の訓練が無く学園艦も寄港している今日、小梅は織部をデートに誘った。

 最初にデートをした時も、本当は小梅から誘おうと思ったのだが、その時は女の子の小梅に言わせるのは情けないと織部が考えて織部から切り出した。

 だが今回は、本当に小梅の方から誘った。織部も誘おうと思っていたのかもしれないが、それよりも早く小梅の方から織部を誘ったのだ。

 そうまでして急いで小梅が誘った理由、それは2つほどある。1つは、おそらくこの日が織部と陸でデートができる最後の日だから。

 黒森峰学園艦は比較的短い間隔で寄港する。だが、この次に寄港する日は10月に入ってからだ。そして織部は、9月30日の織部の誕生日で黒森峰から去ってしまう。その前に、小梅は何か1つでも織部との思い出を増やしたかった。だから、その思い出を増やすためにデートに誘った。

 そしてもう1つの理由は、織部の抱えている心の蟠りを消し去るためだ。

 この1週間ほど前、織部は黒森峰戦車隊を率いる西住まほから告白を受け、それを小梅と付き合っているという理由で断った。表面上ではあの話は解決したように見えたが、あの時の事は織部の心に罪悪感と言う形で大きな傷跡を残してしまった。

 その翌日からは、織部は一見普段通りに振る舞っているように見えた。クラスメイトの根津や斑田と話す時も、食堂で直下や三河と一緒に昼食を摂っている時も、戦車道の訓練に参加している時でも、特別変わったところは見えなかった。

 だが、随分と長い間織部の傍にいる小梅には分かった。織部は、何でもないように振る舞っているだけで、本当は心の中はグラグラと不安定なのだと。

 織部の見せる笑顔も無理をしているようにしか見えなくて、話す言葉も少し元気が無いように聞こえる。それに気づいているのは恐らくは、小梅だけだ。

 そんな織部を、織部の心をどうにかして小梅は持ち直させたかった。そこで小梅はこの寄港を好機と思い、デートに誘ったわけだ。

 そして織部は、その誘いを快く受け入れてくれて、デートをするに至る。

 またこのデートでは、寄港先でお互いが気になった場所に1か所ずつ行くという事になった。小梅が選んだ場所は、植物園。織部が選んだ場所は、有名な神社だった。何とも、場所のチョイスが正反対と言うべきだった。

 ともあれ、小梅は織部がデートの誘いに乗ってくれたことを内心ではとても安心していた。

 織部の気持ちを持ち直すという目的もあるが、また織部と2人だけで出かけられるというのが何よりも嬉しかった。2人の実家に挨拶に行った時も2人だけの時間を作ることができたが、こうして2人でしがらみ無く出かけられる方が気が楽だ。

 そしてこのデートで、少しでも織部の気持ちが上向きになればいいな、と小梅はそう思わずにはいられなかった。

 

 

 朝の10時すぎに待ち合わせた織部と小梅は、学園艦と港を繋ぐタラップを降りて、一番近いバス停へと向かう。

 織部の服は青のニットシャツに灰色のジャケットとベージュのチノパン。小梅は、クリーム色のコットンニットの上に薄いピンクのカーディガンを羽織り、薄い青のスキニージーンズを履いている。小梅の服は、織部から見れば温かそうだし、最初のデートと比べると少し動きやすさを重視しているように見える。

 

「肌寒くなってきましたね・・・」

「もう9月だしね・・・。ほんの1、2週間ぐらい前は暑かったのに」

 

 海に近い事もあって冷たい風が吹き、織部と小梅はその風を受けて肌寒くなる。小梅は織部と手をつなぐが、それでもまだ温かくはならない。

 バス停に着いても、バスが来るまではまだ少し時間があったのでその冷たい風に晒される事になってしまった。一応、風よけのパネルがあるのだが、気休めにしかならない。

 冷たいベンチに座ってバスを待っていると、織部が隣に座る小梅との距離を少しだけ詰めた。

 

「寒いから・・・・・・少しでも温かくなるかなって・・・」

「・・・そう、ですね」

 

 織部が自分からアクションを起こしたことが少し意外だったけれども、それでもこうして近くにいられる事は嬉しかった。それに、肩をくっつけているだけでも気持ち温かくなれる気がした。

 そしてバスが来ると、まずは小梅が行こうと提案した植物園へとバスに乗って向かう。

 植物園は、学術研究を主な目的として樹木や草花などを生きたまま栽培している場所だ。これから行く植物園もその例に漏れず多種多様な植物を栽培していて、小梅が気になっているのはバラ園らしい。バラの開花する季節は春らしいが、種類によっては環境次第で咲き続けるらしい。その目的のバラ園に咲くのもその類のものだろう。

 バスに揺られる事およそ20分ほどで、植物園にやってきた。入園料は、織部が先んじて小梅の分も払ってくれたので、小梅は財布を出さずに終わった。

 だが小梅としては不服だったので、織部の事をじっと見つめるが、織部はしれっと笑みを浮かべながら入園チケットを小梅に差し出してきた。

 こうして(多少強引だが)さりげない気遣いをしてくれるのも織部の美点であるのだが、今はどうしてだか、無理をしているようにしか見えなかった。

 そんな小梅の中の疑問に織部は気付いているのかいないのか分からないが、小梅に『行こう』と言って、小梅と並んで植物園に入る。

 この植物園の規模は結構広く、半数以上は屋外になっている。屋内エリアには貴重な草花が栽培されており、バラ園もそこにあるらしい。屋外エリアは整備された緑道を歩く形になっていて、花の香りと色を同時に楽しむことができるようになっている。

 園内を歩く織部の隣の小梅は、どことなく普段よりも生き生きとした表情で、咲く花を楽しんでいるように見えた。今笑みを浮かべる小梅は、織部の目分量だが普段よりも2割増で可愛らしかった。

 

「小梅さんってさ・・・」

「はい?」

 

 なので織部は、少しだけ気になった事を聞いてみる事にした。

 

「もしかして・・・こういう花とか・・・好きだったりするの?」

「え?」

「ええっと・・・・・・今とか小梅さん、すごい生き生きとした顔だし・・・そうなのかなぁって。あ、間違ってたらごめんね」

 

 今日の他にも、本当に小梅と出会ったばかりの頃。学園艦の花壇の前でお互いの過去の事を告白した時もそうだった。あの時織部が小梅を見かけた時、小梅は穏やかな表情で花壇に咲く花を眺めていた。

 だから、もしかしたら、と思ったのだ。

 

「・・・・・・花は好き、ですね。色とか形とか違いを楽しむのが面白いですし」

 

 確かに、その気持ちは分かる。花の種類は数えきれないほどあり、花びらの形や花全体のシルエットもそれぞれ違う。その違いを楽しむのもまた、花の楽しみ方の1つだ。

 織部も、こうしてじっくりと見る事はあまり無いが、その“違い”を見るのもまた面白いと思う。

 

「そうだね・・・僕も小梅さんの気持ち、分かる」

 

 織部がそう言って、小梅も笑う。

 園内には、季節を過ぎてしまい萎れてしまった花もあったが、それを帳消しにするぐらい他の花も綺麗に咲いている。桜の木は流石にダメだったが、丁度シーズンなら綺麗に咲いていただろうに、残念だ。

 織部は、小梅と一緒に多くの花を楽しむ。名前を知っている花もあれば、そんな名前の花あるの?というような花まで咲いているので、新しい発見が多い。加えて、色の配置も規則的かつ飽きないように工夫されているので、長い時間楽しめる。

 織部もこうして、花をじっくりと見た事など無かった。学園艦の花壇も、小梅と話す事に意識を割いていたので、花を楽しむ事もあまりなかった。だからこうして、改まって純粋に花を眺め楽しむという事が初めてだったのだ。

 

「結構、種類があるんだね」

「そうですね・・・。ネットで見ましたけどここまで多いとは・・・」

 

 園内を歩き、花の香りと色を楽しんでから少しして、織部がそう呟く。小梅も、この植物園をネットで調べた際に種類が豊富という事は知っていたが、ここまで多いとは思ってもいなかったのだろう。

 やがて2人は、屋内ゾーンに足を踏み入れる。

 だが、次の瞬間温かい空気が2人の全身を撫でるように吹く。やはり屋外では育てられないような植物を栽培しているからなのか、気温は常に一定に保たれているらしい。

 だが、今着ている服のままでは少し暑いので、2人はジャケットとカーディガンをそれぞれ脱いで腕にかけて前へと進む。

 熱帯に生息しているらしき植物は色が屋外のものと比べると鮮やかで、これもこれで悪くないと思う。

 たまに織部が『毒々しいね・・・』と呟くと、小梅が『でも綺麗ですね』と違った感想を告げる。

 そして、そうして屋内エリアを進めばまたドアが現れる。『この先、室内温度は約15度です』と警告文が書かれていたので、2人は上着を羽織り、そしてドアを開ける。

 

「・・・少し寒いね・・・」

「そ、そうですね・・・・・・」

 

 9月に入って肌寒くなったとはいえ、ここはさらに寒い。2人がそれぞれジャケットとカーディガンを着てもまだ足りない。

 なので2人は、自然と手をつなぎ、肩をくっつけて少しでも温かくしようとした。ここに来る前のバス停と同じだ。

 しかし、その中には。

 

「これは・・・・・・」

「わぁ・・・・・・綺麗・・・・・・」

 

 織部と小梅が、思わず声を上げる。それぐらい、目の前の光景は綺麗だった。

 地面にはレンガが敷かれていて、バラの色ごとに区画が分けられている。白のガーデンアーチも相まって、全体的に優雅なイメージが強い。

 バラと言えば赤というイメージが強いのだが、今2人の目の前に咲くバラは赤色だけではなかった。白に黄色、オレンジ、そしてあまり見る事のない緑のバラなんてものまで咲いていた。

 

「こうしてみると、バラって結構色が多いんだね・・・」

「本当ですね・・・。緑のバラなんて初めて見ました・・・」

 

 織部と小梅は、緑のバラを眺めながら、心の底から驚いているかのようにそう言う。この緑のバラ、けばけばしい緑色ではなくて、目に優しいふわりとした緑色だった。だから、見ていて目が疲れるなんてことは無いし、なぜだか穏やかな気持ちになれるものだった。心の中にあるモヤモヤが、水に溶けていくような感覚さえも覚える。

 

「あっ、あれって・・・・・・」

「?」

 

 そこで織部が、何かに気付いたかのように一点を見る。小梅も、織部の視線を追ってその一点へと目を向けると、その視線の先にあるのは、他とはまた区別された花壇だった。そして、そこに咲いているのは。

 

「青い、バラ・・・?」

「初めて見たよ・・・・・・生の」

 

 織部は青いバラは、確か自然には咲かない、遺伝子組み換えなどのバイオテクノロジーで開発されたものだと記憶している。科学技術、遺伝子組み換えによる成果である故に人々の抵抗感が強く、あまり世間では見られないものだ。

 なので、こうしてこんなところで偶然にもお目にかかることができるとは織部も思わなかったのだ。

 小梅も、青いバラがどんなものかは知識として知っていたのだが、実際に見る事は初めてだったようで、自然と足がその花壇の方へと向いていた。織部もまた同じようにそちらへ向かう。

 近くで見てみると、そのバラは青というよりも青紫と言い換えた方がふさわしい色合いで、近くの注釈にも『より青色に近づけるための実験が現在行われています』と書かれている。この植物園はどうやら、植物の研究も行っているようだ。

 だが、それでもこうして普段見る事のない青いバラを見られるだけでも、ここに来る価値は十分にあったと言える。

 小梅は、横で青いバラを鑑賞する織部の顔が、昨日までと比べると少し明るくなっているのを見て、ホッとした。

 

「・・・・・・よかったです」

「?」

 

 青いバラを見ながら小梅がポツリとこぼす。織部はその言葉を聞いて小梅の方を見ると、小梅が安心したような笑みを浮かべていた。

 

「・・・・・・春貴さん、最近ずっとどこか落ち込んでいるように見えたから・・・楽しんでいるのが見れて、ちょっと安心しました」

 

 この時織部は、内心では気付かれてしまったのかと焦ってしまっていた。確かに織部自身、1週間前の事以来少し気分が下向きになっていたという自覚があった。それでもどうにかして上向きにしようと努めてきたのだが、それでも小梅には、気付かれてしまっていた。

 自分が無理をしていたのだという事に。

 

「・・・・・・・・・・・・気付いてた、んだ」

「・・・ええ。もう随分と、春貴さんの傍にいますから」

 

 近しい人ほど、そう言う些細な変化にも気づきやすい。その近しい人が、強いつながりを持っているのであればなおさら。

 

「・・・・・・うん、そうだね。最近は、少し落ち込んでた」

「・・・・・・やっぱり、1週間前のあの事ですか・・・?」

 

 織部が認め、その原因を小梅は恐る恐る聞いてみると、織部は頷いた。

 やがて他にも見物客がやってきたので、一度青いバラの前から離れる。そしてそろそろ本格的に寒くなってきたので、2人はバラ園を出る事にした。もう十分バラは見届けたし、何よりもこれ以上ここにいると本当に風邪を引きかねない。

 バラ園の外に出ると屋外エリアに戻るのだが、バラ園の中よりも温かく感じられ、織部と小梅は『ふぅ・・・』と一息つく。

 そして織部は、屋外エリアを小梅と共にしばらく歩き、やがて空いているベンチを見つけて隣同士で腰を下ろす。

 そして織部は、ぽつぽつと、話し出した。

 

 

 1週間前のまほの告白、そしてそれを断った事で織部は、ひどく動揺してしまった。

 その翌日以降も戦車道の訓練はあるし、織部も報告書を書く事が常となってしまったので、否が応でもまほと顔を合わせて言葉を交わさなければならない。

 だが、その告白の事などまるで無かったかのように、まほはいつも通りの感じで織部と接していた。

 あの告白を断った日の夜、まほがどうなったのかは織部の知るところではない。すっぱりと諦め忘れられたという可能性が高いのだが、もしかしたら涙の1つでも流していたのかもしれない。その可能性だって、女の子として恋心を抱いた事から考えられるものだ。

 そう思うとなおの事、織部の中で罪悪感や不安感が増幅していった。

 加えて、まほが普段通り接している以上、自分もいつまでも動揺していられないし落ち込んでもいられないと、自分を無理やりにでも奮い立たせ、あの時の告白も忘れようとした。

 しかしながら、人間、忘れたい記憶をすんなりと忘れられれば苦労はしない。織部があの時の告白を忘れようとすればするほど、その時の事を鮮明に思い出し、さらに深い罪悪感と後悔の念に駆られる事になってしまって、結果今でも引きずってしまっている。

 だが、この織部の中に蔓延るものは、織部自身が招いた結果なのだ。小梅と付き合い将来の事も約束しているという至極真っ当な理由で断ったのは事実だが、まほという女性をフった事もまた事実だ。その事実は、織部が引き起こしたもので間違いない。

 だから、周りの人間に心配させるのも勝手だと思って、周りには悟られないように平静を装っていた。

 だがやはり、織部も隠し事は苦手だし、そう簡単に感情をコントロールできなかった。

そして、小梅に気付かれてしまった。

 

 

 織部の手は、膝の上で握られている。自分の中にある蟠りを口に出した事で多少すっきりしただろうが、それでもやはり織部の中の後悔、罪悪感は消えはしない。

 その横に座る小梅も、織部の膝の上の手を包み込むように優しく握るが、どう言葉をかけていいのかが分からなかった。自分はフラれた事など無いし、告白をしたのもされたのも、織部が初めてで唯一だった。

 そしてフラれた側が落ち込むという事は聞いた事があるが、フった側がここまで落ち込むというケースは、あまり聞いた事が無い。

 だから正直に言って、明確なアドバイスができるとは小梅自身でも思っていない。ましてや、心の中の後悔や罪悪感を完全に消し去る事だって難しいと分かっているし、まほをフったのももう消せない過去なのだ。

 故に小梅に出来る事は、織部の心の中の“それ”を、軽くさせることぐらいだ。

 

「春貴さん、前に私に言ってくれたこと、覚えてますか?」

「?」

「なんでもかんでも、1人で抱え込まない方がいいって」

 

 あ、と織部は思わず口にしてしまう。

 そしてその言葉、かつて小梅から1度言われてしまった言葉でもある。まほからみほの勘当の話を聞いた際に織部が1人で悩んだ結果、日常生活に支障をきたした時だ。

 

「・・・・・・2回も言われちゃうなんてね・・・」

 

 おどけるように織部が言う。最初にそう言ったのは織部だというのに、そう言った人から同じ言葉を2度も言われてしまうとは、何と情けない事か。

 

「春貴さんは、真面目過ぎだから1人で考え込んで、抱え込むんです」

「・・・・・・うん」

「でも、今回の話は・・・・・・私も無関係とは言い切れないです」

 

 織部がまほの告白を断った理由は、まほに対して恋心を抱いていなかったのもあるが、それ以前に小梅と付き合っていたからだ。人間としての道を外れないためにそのことをまほに告げて断ったので、小梅もこの話とは全く関係が無いとは言い切れない。

 

「だから、春貴さんだけが全てを抱え込む必要はないんです」

「・・・・・・だけど―――」

「それに」

 

 なおも織部が何かを言おうとするが、その前に小梅が言葉をかぶせる。

 

「・・・・・・私、もう春貴さんが何かに悩んで苦しむ姿なんて、見たくないです」

 

 織部の手を包むように握る小梅の手に力が入る。

 自分の近しい人が悩み苦しんでいるというのに自分が何もできないというのは、とてつもなく悔しくて辛いものだ。その相手が、相思相愛の親しい関係となっているのであればなおさらだ。

 

「だから・・・・・・春貴さんが苦しんでいるのなら・・・何かに悩んでいるのなら・・・・・・」

 

 そう言って小梅は、また少し織部との距離を縮める。

 

「・・・・・・1人で溜め込まないで、私に言って」

 

 そう告げる小梅の言葉には、かすかな哀しさを帯びていることに織部は気付いた。

 織部だけの問題だと思っていたのと、小梅に負担をかけさせまいと思っていたから、小梅には何も言わず相談もしなかったのだが、それが却って小梅を落ち込ませてしまう事になってしまった。

 

「・・・・・・ごめん、小梅さん」

 

 小梅の肩を抱き寄せる織部は、本当に申し訳ないという気持ちを籠めて、そう告げる。

 

「・・・・・・これからは、もう少し、小梅さんを頼るよ」

「・・・・・・うん」

「・・・・・・でも、小梅さんも、僕を頼ってくれていいから」

「・・・・・・うん」

 

 恋人とは、共に相手の事を心から愛していて、そして互いに支え合うべき関係なのだと、織部と小梅はそれぞれそう思っている。

 だからこそ、自分だけが相手を頼っていい、または相手だけが自分に頼っていいというどちらか一方だけの関係を望んではいない。

 織部も小梅も、心は優しくて、そしてお互いの事を好きでいるから、そんな関係を望んでいた。

 だから2人は、相手から頼られたりすることを苦とは思っていない。むしろそうしてほしいと願っている。

 そうすればまた、好きと言う気持ちを実感することができるからだ。

 

 

 その後、2人は植物園の近くにある喫茶店で昼食にする事にした。お互いに弁当を作るという事も考えたのだが、夜の事も考えてそれはやめておいた。

 高校生だけで喫茶店と言うのも少し変に見えるかもしれないが、店員は別に不審なものを見る目で見たりはせず席に通してくれた。

 2人掛けの席に通されて、小梅はフレンチトーストとオレンジジュースのセット、織部はオムライスとコーヒーのセットを注文する。

 

「春貴さんって、コーヒーが好きなんですか?」

「あー・・・そう、なのかな。うん、そうかも」

 

 小梅の記憶している限りでだが、織部はよくコーヒーを飲む。織部が実家に帰った時もそうだったし、黒森峰学園艦のドイツ料理店―――昼のピークを過ぎると喫茶店扱い―――でも度々織部がコーヒーを飲んでいるのを目にした事がある。

 

「と言っても、甘いのしか飲めないけどね」

「でも少し大人っぽいと思います」

「あれ、でも小梅さんも飲めるんじゃなかったっけ・・・・・・」

 

 織部も、何度か小梅がコーヒーを飲んでいるのを見た事がある。

 

「飲めないと言うわけではないですけど・・・・・・」

「進んで飲まない、って感じ?」

「そうですね」

 

 要するに好物かそうでないかの違いだろう。最初に小梅とあの花壇で話をした時、織部はごく自然と缶のカフェオレを渡してしまったが、あの時は飲めないと言うわけではなかったのと出されたものだから飲んだという感じだろう。

 

「まあ、僕も最初はあんまり好きじゃなかったけど・・・なんだろう、この苦さが癖になると言うか」

「へぇ・・・・・・」

 

 小梅が興味ありげに織部の話を聞く。

 すると、先に頼んでおいた小梅のオレンジジュースと、織部のコーヒーが届いた。まず織部は、カップのミルクを半分ほどコーヒーに入れてティースプーンで混ぜ、そして一口飲む。しかし、少し顔を顰めてカップの残りのミルクを全て入れて再び混ぜ、一口飲むとようやく納得のいく味になったようで、小さく頷いた。

 

「・・・・・・見られると、少し恥ずかしいかな・・・」

 

 織部がコーヒーカップをソーサーに戻し、照れくさいように笑う。この一連の流れ絵を小梅が興味深げに見ていたので、その状態で飲むのが恥ずかしかったのだ。

 

「でも、ちょっとカッコイイなって思います」

「そう?でも、飲み始めた理由はちょっと変わってるけどね」

 

 カッコいいと言われて、織部は内心、心躍っていた。だが、飲み始めた理由が変わっているというのは本当だ。

 コーヒーを飲み始めたのは中学3年ぐらいの時だったが、夜遅くまで勉強を進める際に眠気覚ましでコーヒーを飲み始めたのがきっかけだ。最初は本当に甘い、コーヒー牛乳に近いレベルのものしか飲めなかったが、挑戦を重ねて普通のコーヒーぐらいまでは飲めるようになった。流石にブラックは飲めない。

 と、そんな事を話していると頼んでいたフレンチトーストとオムライスが届いた。

 

「じゃあ、食べようか」

「はい」

 

 いただきますと手を合わせ、織部はオムライスを一口。他の店と比べるのも失礼かもしれないが、他より少し高い分美味しい。喫茶店と言うとコーヒーや紅茶メインというイメージがあるが、こうした食品も提供しているところが多く、それがまた美味しかったりするのだ。

 ちらっと小梅の方を見ると、小梅もまた美味しそうにフレンチトーストを食べている。気に入ったようで何よりだと思いながら、織部もオムライスの味に舌鼓を打つ。

 そうしてお互い、半分ほど食べ進めたところで少し交換しようという事になった。

 

「はい、あーん」

 

 そう言って笑顔でフォークに刺したフレンチトーストを差し出す小梅に逆らえるはずもなく、織部は恥ずかしさを押し殺してフレンチトーストを口に含む。ほんのりとしたバターと蜂蜜の味が口に広がって美味しいのだが、顔が熱い。

 誰かに見られたら恥ずかしすぎて仕方ないのだが、残念ながら女性の店員が営業スマイルとは思えないような笑顔をしているのを見るに、見られたらしい。恥ずかしすぎる。

 

「じゃあ、僕も。あーん」

 

 小梅の実家にあいさつに行った時の祭りでもこれはやったのだが、祭りの会場と店の中では全然違う。されるのも恥ずかしいがするのだって滅茶苦茶恥ずかしい。

 そして今織部の目の前では、織部がスプーンに載せて差し出したオムライスを味を楽しむ小梅がいる。全く恥ずかしがっている様子が無いので、その胆力に脱帽する織部。

 

「美味しいです」

「・・・・・・それはよかった」

 

 恥ずかしがっている自分がまだまだだと思い、織部はコーヒーに逃げる。

 そんな織部の恥ずかしがる姿が可愛いと思ったのか、小梅は笑いながらオレンジジュースを飲んだ。

 

 

 喫茶店を出て、植物園の最寄のバス停からまたバスに乗って行くのは、織部が行こうと提案した大きな神社だ。

 小梅が植物園に対して織部は神社とは正反対と言ったが、静かなところという意味では共通点がある。2人とも、賑やかな場所より静かな場所でゆっくりしたいという性格の持ち主だったのだ。

 さて、バスに揺られる事およそ20分ほどで、目的の神社に到着した。一応、参拝の礼儀作法は一通り嗜んでいる織部と小梅は、鳥居の前で一礼してから境内に足を踏み入れる。

 その瞬間、外の世界とはまた別の世界にやってきたかのような感覚に陥る。神社という神様の祀られている神聖な場所だからなのか、先ほどまでいた植物園や喫茶店、街中とは全く異なる空気に包まれていた。

 その異なる空気を全身で感じながら、織部と小梅は参道の脇を歩く。参道から外れた所には杉の木が生えていて、ものすごく太い杉の木があった。織部と小梅も、驚嘆の声を上げてその杉の木を視界の端に捉えながら本殿へと向かう。

 この神社はそこそこ有名な場所らしく、休日なのも相まって参拝客は割と多い。だが、織部と小梅の知り合いらしき黒森峰の人物は見当たらなかった。恐らくだが、この神社の存在を黒森峰の生徒が知っていたとしても、来るのは恐らく午前中だろう。今は正午を回り14時を回ったところなので、もうだいぶいい時間だ。

 

「確かここは・・・厄除けとか所願成就、武運長久にご利益があるんだとか」

「武運長久・・・・・・?」

 

 織部が調べていて仕入れた情報を伝えると、小梅が聞き慣れないフレーズに首をかしげる。

 厄除けは言わずもがな、所願成就は抱いている願いが叶う事、そして武運長久とは戦う人の無事と命運が長く続く事を祈ること、らしい。

 

「参拝の仕方って、中々覚えにくいところがあるよね」

「そうですね・・・ちょっと前まで私も、あやふやな感じがしましたから」

 

 手水処で手を清めてから参拝の列に並び、財布からそれぞれ50円玉を取り出してお賽銭の準備をしながらそんな言葉を交わす。一応、参拝の順序は覚えているのだが、それまでは覚えられずにその場で調べたものだ。

 少し時間が経ってから、2人の番が回ってくる。賽銭箱に賽銭を投入して、二礼二拍手一礼。そしてお互いに祈願することを念じる。

 その直前で、織部と小梅は、お互いの事をちらっと見る。それは決して、礼儀作法を忘れたと言うわけではない。

 じっくりと願い事を念じてから、2人はその場を離れて次の参拝客に順番を譲る。

 そしてお札やお守りを受ける授与所へ2人は向かうのだが。

 

「・・・・・・ふふっ」

「・・・・・・あははっ」

 

 2人は、小さく笑う。

 なぜ笑うのかと言うと、それは織部と小梅が先ほど相手が祈願したことが、同じような気がしたからだ。

 この時祈願したことを言葉に出すのはタブーとされているため確かめる方法は無いが、言わなくても、2人には相手が何と願ったのか、分かった。

 実際、2人の願った事は全くと言っていいほど同じだったし、織部と小梅がそれぞれこんなことを願ったのかもしれない、という予想は当たっていた。

 織部が願った事とは、『小梅がこの先幸せでいて、一緒にいられるように』。

 小梅が願った事とは、『織部がこの先幸せでいて、一緒にいられるように』。

 共に相手の幸せを願って、そしてたとえ一度別れる事になろうともまた会う機会が来る事を確信し、最後には一緒になれることを信じてやまないから、そう願ったのだ。

 一度別れる事はもう避けられないが、また会えることを信じていれば、その別れの悲しみもさほど深くはない。

 いや、そう信じていなければ、心は悲しみで押し潰されそうだった。

 

 

 授与所では、お札やお守りを受けたり、おみくじを引いたりすることができる。せっかく来たのだから、お守りぐらいは受けて行こうと織部と小梅は思って、どのお守りにしようかを考える。

 安全祈願、健康祈願、恋愛祈願、学業系のものや厄除け、さらには金運などもあった。

 織部は最初、自分のためか小梅のためか悩んだが、小梅のためにお守りを受けようと結論付けた。

 小梅もどのお守りを受けるか同じように悩んでいるが、恐らく小梅も同じように織部のために受けようと思っている。

 であれば、織部は小梅に対して願う事、小梅がどうなってほしいのかを考えれば、すぐにどのお守りにするのかが決まった。

 

「健康祈願のお守りを1つ、お願いします」

 

 授与所の巫女さんにそう言って初穂料を渡し、小さな白い袋に入ったお守りを受け取る。それと同時に小梅も。

 

「私も健康祈願のお守りを、1つ」

 

 同じように、巫女さんに初穂料を渡してお守りの入った白い袋を受け取る。

 そして小梅は。

 

「はい、春貴さん」

 

 その袋を織部に差し出してきた。やはり、小梅は織部のためにお守りを見繕っていたのだ。

 織部もそれは予想していたし、織部も最初からそうするためにお守りを選んだのだから、受け取らない手はない。

 

「ありがとう、小梅さん。じゃあ、僕からも」

 

 受け取った流れでそのまま、もう片方の手に持ている織部が受けた袋を小梅に差し出す。小梅も、どうやらおおよその見当はついていた様で、少しだけ間を開けてから織部の差し出した袋を受け取った。

 

「・・・・・・ありがとう、春貴さん」

 

 これで結局、お互いに最初に受けたお守りと同じものが手に渡ったわけだが、自分で受けたものと、相手が受けたものとでは全然意味が違うと思う。自分で願うのではなく、他人からそう願われるというだけで、身を案じてくれているという事だから、嬉しいのだ。

 と、そこで巫女さんが微笑ましいものを見る目で見ていたので、猛烈に恥ずかしくなる。お守りを受けたその場所で渡し合うとは軽率だったと2人は気付いて、そして同時に恥ずかしくなったので、おみくじを引かせてもらう事にした。

 

「・・・・・・おみくじ、1回引かせてください」

「・・・私も、1回」

「はい、100円です・・・・・・・・・頑張ってくださいね」

 

 その巫女さんの『頑張ってください』のニュアンスが、おみくじに対するものではないという事だけは織部と小梅にも分かった。

 そのおみくじの結果だが。

 

「あ、大吉です」

 

 小梅が大吉を引いた。

 それに対して織部は。

 

「・・・・・・・・・・・・半吉」

 

 何ともコメントのしにくい中途半端なものを引き当ててしまった。しかも調べてみれば、半吉の出る確率は5~10%程度らい。なのにそれを引くとは、無駄な運をここで使ってしてしまった気分になる。

 書かれている内容も、可もなく不可もなしと言ったもので、微妙な気持ちだ。

 

「でも、“病気”は罹るけどすぐ治るってありますよ。“勉学”も、努力は報われるってありますし」

 

 小梅がフォローするように言ってくれるが、なぜか悲しくなってくる。

 では、小梅のおみくじの方はどうなのかと言うと。

 

「“病気”は用心すれば罹らず、“失物”はすぐに見つかる、“願望”多くを望まずいれば叶う・・・・・・・・・」

 

 見れば見るほど、半吉の織部とはまるで違う内容なので、織部は途中で悲しくなって読むのを止めた。だが、半吉にもいい事は書いてあったので結ばずに大事に持って帰ることにする。

 そして2人は、絵馬を掛ける絵馬所にやってきた。かなりの数の絵馬が掛けられており、願い事も様々だった。加えてここは武運長久のご利益がある神社なので、武芸を嗜む人も上達を願って絵馬を書いているらしい。『全国優勝!』とか『世界へ向けて』など、自分の望みや決意が描かれた絵馬もあった。

 そんな中には。

 

「あれ、この安斎千代美って・・・」

「アンツィオの隊長・・・ですね」

 

 ふと見かけた絵馬には、聞き覚えのあるアンツィオ高校戦車隊隊長の名前がある『目指せベスト4、じゃなかった優勝!』と書かれた絵馬もあった。同姓同名の別人、とは少し考えにくい。その近くにはアンツィオの戦車・CV33の絵が描かれた絵馬もある。

 さらに少し視線を動かせば、マリーと言う少女―――確かBC自由学園の戦車隊隊長―――の『世に平和とケーキのあらん事を』と書かれた絵馬が掛けられていて、そのすぐ下には『友愛』と『革命』という両極端すぎる事が書かれた絵馬もあった。

 この神社のある街には学園艦も寄港できる港があるので、他の戦車道のカリキュラムがある学園艦が寄港した際にその隊員たちが描いたのだろう。そして誰かがここに掛けたのをきっかけにこの辺りが戦車道を歩む者の書いた絵馬を掛けるスペースになったらしい。だからこの辺りには戦車道履修生らしき者が描いた絵馬が多いのだ。

 

「小梅さんも書く?」

「そうですね・・・せっかくですし、書いていきます」

 

 そう言って小梅は絵馬を1枚買い、サインペンで願い事を書く。最初から何を書くのかは頭にあったようで、5分と経たずに小梅は書き終えて、戦車道を歩む者たちが絵馬を掛けているエリアに同じようにかける。

 

『戦車道で強くなれますように』

 

「私と黒森峰・・・・・・両方の意味を込めて書きました」

「・・・すごく、良いと思うよ」

 

 自分だけではなく、自分が属している黒森峰の発展と成長を願うというのは、小梅が黒森峰の事を大切に思っているという事だ。

 小梅は黒森峰の戦車道で辛い経験をしたが、その時の事を乗り越えて今の小梅はある。そして織部というかけがえのない人と巡り会うことができたのだ。

 その小梅が、戦車道を大切に思っていないはずが無かった。だから、絵馬にこう書いたのだ。

 

「春貴さんも書きますか?」

「あー・・・・・・うん、書こうかな」

 

 織部も絵馬を1枚買ってサインペンで願い事を書き、その絵馬を小梅の絵馬の横に掛ける。

 

『大願成就』

 

 織部の将来の願いはもう揺るがない。そして、織部にとっては小梅の願いも叶ってほしい。

 その二つの意味を込めて、織部はこの言葉を書いたのだ。

 

「・・・・・・小梅さんはさ」

「?」

 

 そこで織部は気になった事を聞いてみた。

 

「・・・・・・将来も、戦車道を続けるんだ?」

「・・・・・・ええ、ずっと続けますよ」

 

 戦車道を歩む者たちが掛けた多くの絵馬を見ながら、小梅はそう答える。だが、その答えは織部も予想していたものだ。小梅が戦車道を辞める姿が、織部には想像できなかったし、戦車道を辞めたいと言った事も一度も無かった。絶望的な状況にいても信念を持って戦車道を続けていたのだから、簡単に辞めはしないだろう。

 

「春貴さんと出会えたのも、戦車道がきっかけですから・・・・・・。それを辞めるなんて、考えられませんよ」

 

 織部と小梅が黒森峰で出会えたのは、織部が戦車道についての勉強するために黒森峰に来たからだ。それが無ければ、織部が黒森峰に来て小梅と巡り会う事も無かった。そして、織部が戦車道の世界に触れなければ、黒森峰に来る事も無かった。

 確かに、織部と小梅が出会えたのは戦車道がきっかけだ。そのきっかけである戦車道に背を向ける事も、考えられない。

 

「・・・・・・つくづく、戦車道に巡り会えてよかったと思うよ」

「私もです」

 

 戦車道のおかげで、織部と小梅は出会い、お互いに恋心を抱き、そして未来を約束することができた。

 それは小梅も分かっているし、織部だってもちろん分かっている。

 合図はいらない、織部と小梅は手を静かにつなぐ。

 傾き始めた太陽が、戦車道を歩む者たちの夢、目標が書かれた絵馬と、織部と小梅2人の背中を照らした。

 

 

 日が完全に沈み切る前に2人は学園艦に戻り、帰り道で夕食の買い物をした2人は織部の部屋へと来ていた。

 

「散らかってるけど・・・上がって」

「お邪魔します・・・」

 

 こうして織部の部屋に小梅を呼んだのはこれが初めてだ。どうしてそうなったのか、それはいつも小梅の部屋にお邪魔してご飯を食べているので、たまには織部の部屋でと思っての事だ。下心は無い。

 

「ここが、春貴さんの部屋・・・」

 

 小梅が、織部の部屋を見回す。壁紙は変えておらず、ベッドと小さなテーブル、学習机とシンプルな間取りで、別段変わったところは無い。それに、織部の実家の部屋にも小梅は入った事があるのだから物珍しさも無いだろうが、やはり普段織部が生活している部屋という事で、他とは違う感じがするのだろう。

 

(・・・・・・それにしても)

 

 普段自分が生活する場所に小梅がいるというのは、少し妙な感じだ。もしかしたら、織部を自分の部屋にあげる小梅も同じような気持ちだったのかもしれない。

 

「じゃ、そろそろ作ろうか」

「そうですね。あまり遅くなるのもいけませんし」

 

 そして2人は、ビニール袋から食材を取り出して、キッチンに持って行って食器を取り出し料理の準備を始める。織部も小梅に習って自炊をする機会も増えてきたのだが、腕はまだまだなので、小梅のレクチャーを受けながらになる。

 作る料理は、小梅の得意料理でもある肉じゃがだ。作るのはあくまで織部で、小梅はその横でみそ汁を作りながら、要所要所を織部に教えてくれる。その手際の良さに織部も舌を巻いた。

 そして、19時前にはご飯も炊けて、肉じゃがとみそ汁、そしてポテトサラダが出来上がって食卓に並べられた。

 

「じゃ、いただきます」

「いただきます」

 

 お互い向かい合って座り、手を合わせて挨拶をしてからまずはみそ汁を一口。分かっていたが、やはり美味しかった。

 そして、肝心の肉じゃがについてだが。

 

「・・・・・・美味しいですよ、春貴さん」

「え、そうかな・・・・・・」

 

 小梅はそう言うが、織部からすれば小梅の作った肉じゃがの味を知っているので、そこまで美味しくは感じられない。まだまだだと織部は自己評価する。

 

「小梅さんに比べたら、まだまだだよ・・・・・・」

「そんな事無いですって。自信を持っていいぐらいですよ」

 

 小梅がそう言ってくれたので、織部も少し自信を持つことにする。

 そうして箸を進めていくのだが、途中で小梅が箸を止めてしまった。

 

「・・・・・・どうかした?」

 

 織部がそれにいち早く気付き、小梅に声をかける。

 小梅は、少し悲しげな顔をして、目の前に広がる料理を見ていた。

 

「・・・・・・終わっちゃいましたね」

 

 その終わったとは、デートが、だろう。

 織部が黒森峰にいる間で、最後のデートだ。その最後のデートの日も終わってしまい、まるで祭りが終わった後のような喪失感や脱力感を小梅は抱き、そして織部との別れが近づいているという事をまた思い出してしまったのだ。

 織部も、小梅の言葉を聞いて、それに気づく。

 もう小梅といられる時間は、もうあとわずかしかない。

 

「・・・・・・春貴さん」

「?」

 

 織部の名を、悲しげに、縋るように告げる小梅。

 

「・・・・・・私との、思い出を・・・・・・忘れないでくださいね」

 

 今、小梅は織部と重ねた思い出を思い返しているのだろう。初めて出会った事と、初めてお互いの過去を告白し合い、そしてお互いに恋人同士となれた日、将来を約束できた日と、今日のようなデートの事。

 半年近くで織部と小梅が重ねた多くの思い出を、小梅は思い出して、それを織部に忘れてほしくはなかった。

 もちろん織部とて、忘れるつもりはさらさらない。小梅との思い出を忘れるという事は、小梅と付き合っているということの否定に繋がる。

 

「忘れない。絶対、忘れないよ」

 

 力強く、そう告げた織部の言葉に、小梅も微笑んでくれる。

 この時織部の心には、まだ小梅には告げていない言葉があった。

 それは、これまで何度も言おう言おうと思っていた言葉だが、まだそれには覚悟が、足りなかった。自分の将来の夢もまだ、未確定だから告げられなかった。

 この言葉は、黒森峰にいられる間にはまだ言えなかった。

 だから、その言葉を告げられる覚悟を背負い、将来を確かなものにするために、自分も頑張らなければならないと、織部は心に誓った。




ワスレナグサ
科・属名:ムラサキ科ワスレナグサ属
学名:Myosotis scorpioides
和名:勿忘草、忘れな草
別名:ミオソティス
原産地:ヨーロッパ
花言葉:私を忘れないで、思い出、真実の愛など

この作品もあと数話ぐらいで完結の予定ですので、
最後までお付き合いいただければと思います。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。




余談
金閣寺と八坂神社でそれぞれ1回ずつ半吉のおみくじを引いた筆者は一体・・・?


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花菖蒲(ハナショウブ)

少し投下が遅れてしまいました。
申し訳ございません。


 織部が黒森峰を去るまで残り1週間を切り、いよいよもって自分が黒森峰を去る日が近づいてきているのだと、織部もそう思わざるを得なかった。

 最近になって、クラスでもあまり話をしなかった生徒と言葉を交わすようになった。少し前までは、女子校にいる男子という事で敬遠されていたので進んで話をする事もあまりなかったが、ここ最近では話す機会が増えている。どうやら、織部が去る前に1度だけでも話がしたかったのだろう。つまり、好奇心から来るものだ。

 織部としては別に構わないのだが、自分が珍獣扱いされているような気がしてならない。その認識も間違っていないと言えば間違ってはいないのだが。

 そんな折、織部は学園長室に呼び出されていた。今は授業時間中なのだが、前日に担任から『学園長から話がある』と言われていたので、そこまで驚きはしない。

 学園長室の前にたどり着くと、今一度襟を正し、服に目立った汚れがないこと、ゴミが付いていないことを確認して、ノックをする。

 

『どうぞ』

 

 ドアを開けて、学園長室に足を踏み入れる。

 そしてその部屋の中を見た瞬間に、背筋が凍り付いた。

 学園長室の中は割と広く、床には赤い絨毯、壁際にはいくつものトロフィーや盾が飾られている。そして学園長の机の傍には応接セットが設けられている。ただ、ここは一度入った事があるので別に今更怖気づきはしない。

 問題なのはその応接セットに座っている人物だ。

 まず、黒森峰の学園長。この人物に至っては、この学校の長であるので、いるのは当然だ。

 だが、日本戦車道連盟理事長の児玉七郎と、西住流家元の西住しほという、戦車道界の重鎮2人がいるのまでは予測できなかった。

 しかし、冷静に考えてみればいてもおかしくはない話だ。児玉は、織部が黒森峰で勉強できるように手配してくれた身であるので無関係ではない。しほだって織部が黒森峰に来るのを認めたのだから、やはりいてもおかしくはない。

 おかしくはないのだが、織部にとっては不測の事態であることに変わりはない。

 

(心の、準備が・・・・・・)

 

 この2人が来ると事前に聞いていれば、織部もまだ心の準備をしたり覚悟を決めたりと色々できたのだが、たった今知ったのではそんな余裕も時間も無い。

 一気に心臓の鼓動が速くなり、冷や汗が背中に滲むが、それでもお辞儀は忘れず、歩みは止めずに通された席へと座る。

 改めて、自分の正面に座る人物の顔を見て、織部は身震いしそうになる。

 学園長である初老の女性と児玉は、どちらも柔和な笑みを浮かべていてそこまで恐ろしいという印象は抱かない。特に児玉は、何度か顔を合わせて話もしているのでそこまで恐れてはいない。それでも、この2人の立場を鑑みると半端な態度は取れなかった。

 そしてしほに至っては鋭い眼光と険しい表情で織部の顔を捉えて外さず、形相と立場が相まって、他2人と比べると威圧感がまったく違う。

 果たして自分は、この学園長室から無事帰れるのかどうかが不安になる。

 

「久しぶりだね、織部君」

 

 児玉が一番最初に話しかけて来てくれた。織部が萎縮し切ってしまっているのに気付いて、緊張を解きほぐすためだったのかは分からないが、それは織部からすればありがたい事だった。

 

「ご無沙汰しております。理事長」

「今年の、2月ぐらいだったかな?最後に会ったのは」

「はい、確かそのぐらいでした」

 

 最後に児玉と直接会ったのは、児玉の言った通り2月中旬辺りだ。黒森峰への留学が正式に決まった時、詳しい話を児玉から聞いた時。それ以来だから、およそ8カ月ぶりぐらいだった。

 

「家元は、彼と実際に会うのは初めてでしたかな?」

「いえ、一度、黒森峰の訓練を見た際に会っています」

 

 児玉が話題をしほに振ると、しほはあくまで事務的に話す。そのしほの、感情の起伏が無いような喋り方が、織部の不安や恐怖心を煽っていた。

 そしてしほと織部が初めて会った時とは、監視台という狭い空間で織部としほが2人きりになってしまい、その後織部が倒れてしまった日の事だ。あの時の事は、トラウマとまではいかないが忘れられない出来事だ。

 

「さて・・・・・・」

 

 そこで学園長が、挨拶もそれぐらいにとばかりに言葉を発し、織部の顔を見る。織部も、少しだけ緩んだ気を今一度引き締めて、姿勢を正し学園長に顔を向ける。

 

「もうすぐ、留学期間も終わりを迎えますが・・・・・・」

 

 学園長がそう切り出したのを聞いて、やはりその日が近づいているのだという事を改めて認識させられる。だが、その事で感傷に浸るのは後回しだ。

 

「今日まで、よく頑張りましたね」

「いえ・・・・・・僕なんて、全然・・・」

 

 学園長がそう言ったのは恐らく、織部が留学している特別な身であるから、成績・素行についてマークしていて、そこでどんな評価なのかを知っているからだろう。

 織部自身でも、成績は(体育を除いて)問題ないはずだと自負しているし、戦車道でも審判・監視員として責務を果たして、報告書は丁寧に書いてきたつもりだ。疚しい事は何もない、はずだ。

 

「成績も同学年の中では上位ですし、戦車道での報告書も文句なしだと隊長は評価していました」

「・・・・・・そうですか、ありがとうございます」

 

 また織部のあずかり知らぬ場所で、まほが織部の事を評価してくれていた。その事自体は嬉しいのだが、同時に織部がまほを振ってしまった事も思い出してしまい、心が締め付けられそうになる。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 そこでしほが、ちらっと学園長の方を向き、そして織部の方へと視線を戻す。そのしほの視線の動きに織部は、学園長の方を向いていたので気付かない。

 

「将来、あなたは戦車道連盟に就く事を希望して、そのための勉強をするためにここへ来た・・・」

「はい」

 

 改めて学園長が、織部が黒森峰へ来た理由を確認の意図も籠めて話す。黒森峰では紆余曲折を経て、多くの出来事を経験したのだが、根っこのところはそうなのだ。

 織部は、戦車道の事を学ぶために来たのだ。戦車道連盟に就く事を将来望んでいても、戦車道連盟で働く男性も戦車道とは何らかの関りがあった。元戦車の整備士だとか、親族に戦車道を歩む人がいた等。

 だが織部は戦車道とは繋がりが無くて、こうしてかなり特殊なケースで戦車道の事を学び繋がりを作るために黒森峰にやってきたのだ。その事実を忘れたことはない。

 

「・・・・・・戦車道について、納得のいく勉強はできましたか?」

 

 その学園長の問いは、愚問とも言える。

 

「それは、もちろんです」

 

 模擬戦の審判を務めた事で戦車道の試合を間近で見て、戦車道のルールについても学ぶことができ、訓練後のミーティングに参加したことで訓練を俯瞰的ではなく主観的に調べる事もできた。報告書を書いたのも、訓練の内容を織部自身が振り返る機会になった。

 戦車の整備を手伝ったのも、戦車の内部や部品、整備手順を学ぶことができた。

 全国大会の黒森峰の試合を全て見ることができたのも、他校の戦車の戦いを見ることができたので決して損ではない。

 総じて、織部は黒森峰に来て戦車道に関する知識が、来る前と比べると遥かに多く蓄積されている。

 学園長の質問の答えには自信を持って頷けるほどに、納得のいく勉強ができた。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 その織部の答えを聞いて、児玉は僅かに笑みを浮かべて小さく頷いた。織部の過去を聞いて、夢を聞いて、その力になりたいと思い織部が黒森峰に行けるよう尽力した児玉だからこそ、その織部がこうして黒森峰に来て勉強することができたのだと知ることができて嬉しいのだ。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 しほの表情は変わらず険しい。一切の考えが読み取れなくて、得体の知れない不安と恐怖に織部は苛まれる。だが、最初に会った時のように緊張のあまり倒れそうになるということにはならない。心身共に成長できたからだろうか。

 

「・・・・・・そうですか。それなら、あなたを黒森峰に迎え入れてよかったと言うものです」

 

 学園長が安心したとばかりにそう告げる。この状況で『勉強できなかった』『ためにならなかった』と冗談でも言う肝の座った輩は恐らくいないだろうが、その言葉に嘘偽りが無いという事は、この目の前の学園長ほどの年齢と立場の人物からすれば、顔を見れば分かる。

 

「もし、君が戦車道連盟に就く事を本当に望むのであれば、今回の事は加味して、判断をさせてもらうよ」

「・・・・・・ありがとうございます」

 

 児玉がそう告げて、織部は頭を下げる。

 と、そこで。

 

「・・・・・・学園長、理事長」

 

 ずっと口を閉ざしていたしほが、口を開いたのだ。先ほどまで黙っていた人物が急に声を上げたので、織部だけでなく学園長と児玉もわずかに驚く。

 

「大変申し訳ございませんが、5分ほど席を外していただけますか?」

「はい?」

「彼と、少し話があります」

 

 織部の肩がビクッと震える。最初にしほと会った時と同じ、1対1の状況に持ち込まれてしまう。

 一方で児玉と学園長も、しほが無駄なことは一切しない人物だという事を知っているし、そのしほがこうして2人に席を外すように告げたのは、恐らく聞かれると後ろめたいような話をするという事なのだろう。それをすぐに理解して、児玉と学園長は部屋の外へと行ってしまった。

 これで残るは、織部と、しほのみ。

 何を言われるのか、織部は不安で不安で仕方がない。

 ここで織部は、もしかしたら織部がまほを振った事がしほにバレてしまったのかもしれないという一抹の不安に襲われる。もしそれが本当だとすれば、織部が何を言われるか分かったものではない。

 

「・・・織部さん」

「・・・・・・はい」

 

 緊張の一瞬。次にしほが何を言ってくるかで、この先織部の心がどうなるのかが決まると言ってもいい。

 まほとの事でなければそれでいいし、まほとの事だったらそれまでだ。

 

「まほから聞いた話だけれど・・・・・・」

 

 ダメだ、終わった。

 直近の出来事でまほとあった事など1つしか思いつかない。やはりあの事は、しほの耳に入ってしまったのだ。本当に今日が精神的な命日となってしまうかもしれない。

 膝の上の手が無意識に握りしめられる。視線を合わせるのが恐ろしくて下を向いてしまう。

 

「・・・・・・あなた、まほから色々と相談を受けたそうですね?」

 

 だが、『相談』という単語を聞いて織部の中で疑問符が浮かぶ。てっきり、まほの告白の話をされるのかと思ったのだが。

 しかしまだ気は抜けない。言葉を選び、慎重に答える。

 

「・・・はい、受けました」

「まほがみほとの関係についてあなたに相談をし、みほに謝りたいと言ったところ、あなたは『誠意を持って謝れば気持ちは伝わる』、そうまほは言っていたのだけれど、本当にそう言ったのかしら?」

 

 全国大会の抽選会の日。戦車喫茶ルクレールでまほとエリカ、そしてみほは再会した。だが、まほは話をしたかったのだが、エリカが場の空気を悪くしてしまったために、大洗とみほに悪い印象を与えて別れてしまった。

 その日の事を、まほは織部に相談してきた。その時に織部は、先ほどしほが言ったような言葉をまほに告げた記憶は確かにある。

 

「・・・・・・言いました」

「・・・そう」

 

 しほは、納得したようにうなずく。

 一方で織部は気が気じゃない。どうしてそんな話を蒸し返すのか、なぜ急にこんな話になったのか、それが気になる。そして、この先何を言われるのかが全く予測できない。

 ここから落とされるのか、多分そうなのかもしれない。

 

「・・・では、まほがみほと和解することができたという事は、聞きましたか?」

 

 織部の中の積もる不安はさておき、そのことについても織部は知っている。その時その場に織部はいなかったが、2人が和解することができたという話は小梅とまほから聞いた。

 なので、その事についても頷く。

 

「・・・まほは、あなたに話したおかげでみほに謝る決意が固まったと、そう言っていました。つまり、まほとみほが仲を取り戻せたのは、あなたのおかげだと言外に告げていたのです」

 

 そのことについては、織部も覚えがある。まほとみほが仲直りを遂げたその日の夜、まほから直接電話でお礼の言葉を伝えられたからだ。

 

「・・・2人の親としても、2人の仲が拗れたままというのは忍びないものだし、仲直りできたことはとても喜ばしく思っています」

「・・・・・・・・・」

「・・・だから、このことについて助言をしてくれたあなたにも、礼を言っておきます」

 

 しほが小さく、本当に小さく会釈をする。

 自分は今、夢の中にいるのではないだろうかとさえ思えてしまう。それほどまでに、自分のような一介の高校生があの西住しほから感謝の言葉を告げられたことが、衝撃的でいて、実感がわかない。

 

「・・・・・・あなたの戦車道連盟に就くという夢が叶うように、戦車道連盟の1人として応援させていただきます」

「・・・・・・ありがとうございます」

 

 まほとのことについて責められるのか、という心配はとうに無くなっていた。いや、無くなっていたと言うより、それ以上に衝撃的過ぎる事が起きたので考えられなかった。

 そして気づけば既に5分経っていたようで、ノックの後で学園長と児玉が入室してきた。

 

 

 

「それはまた・・・・・・」

「胃が痛くなるような話だね・・・」

 

 昼休みになり、場所は食堂。織部と小梅、同じクラスの根津と斑田、そして戦車道で仲の良い三河と直下といういつものメンバーで席に着き、それぞれ自分が頼んだ料理を食べている。

 そんな中で、根津が先ほどの公民の授業に織部が出席していなかったのを不審に思い、その事を織部に聞いたのだ。そして何があったのかを織部がかいつまんで説明した後で、三河と斑田がコメントを洩らした。

 斑田の『胃が痛くなりそう』というコメントに織部は大きく頷き、まったくもってその通りだと同意する。あの時は、冗談抜きで緊張のあまり胃が痛くなっていたのだ。

 

「生きた心地がしなかったよ・・・・・・」

「大丈夫ですか・・・?」

 

 織部が心底安心したかのように大きく息を吐いて、中辛のカレーライスを一口食べる。先ほどの話し合いで精神的に疲れてしまったので、刺激的なものを食べて頭をすっきりさせたかった。

 そんな織部を心配するかのように、鯖の味噌煮定食を食べていた隣に座る小梅が、織部の顔を見る。今の織部はその気遣いだけでも涙しそうになるぐらいには心がボロボロだ。

 

「でも戦車道連盟理事長と知り合いって、結構すごいね」

 

 直下がハムカツを咀嚼し飲み込んでから織部に話しかける。だが、直下の気持ちは他の者たちも同じだ。織部が黒森峰に来た大まかな経緯については話しているし、戦車道連盟と繋がりがあるという事も知っているが、戦車道連盟理事長と知り合いだという事は小梅以外には話してはいない。その知り合った経緯を伝えるとなると、織部の過去についても話さなければならなくなるからだ。

 

「まあ・・・・・・知り合ったのはすごい偶然だったんだけどね」

 

 だからこうして知り合った経緯を抽象的に話すしかないのだが、偶然に偶然を重ねたような出会いなのであながち間違ってはいない。

 

「それで知り合って、戦車道連盟に就くのも応援してくれるのって、コネってこと?」

「まあ、そう言う事になるかな」

 

 三河が、定食のみそ汁を啜ってからそう問いかける。確かに三河の言う通り、大体の人から見ればそれはコネと言うものだ。

 だが、コネと言うのも人によってさまざまだ。コネがあるからのんびり過ごして将来安泰とだらけるか、コネを作ってもらったからこそその期待に応えられるように研鑽するか、それは人それぞれだ。

 そして織部は、断じて前者のようにだらけてはならないと自分に厳しくし、後者のように切磋琢磨するのが人として当然だと思っていた。

 だから、戦車道連盟にコネがあるからと言って、それに胡坐をかいてのんべんだらりとしよう等とはさらさら思っていない。

 それと、応援してくれると言っても、直接的な支援は何もしない。織部の力だけで、戦車道連盟に就くのだ。万が一、戦車道連盟が支援してくれると言っても、織部はそれを断っていただろう。

 

「真面目だなぁ、織部ってやっぱり」

「そうかな・・・」

 

 そんな織部の自論を聞くと、根津はラーメンを啜って素直に感想を告げる。真面目と言われる事には慣れているのだが、織部にとっては当たり前の事を言われただけなので、少し照れくさい。

 

「でもさぁ、そんな話があるって事は、もうホントに帰る日が近いんだね」

 

 三河がご馳走様と手を合わせてから、そうしてしみじみと告げる。確かに、校長たちと話をしたという事は、それだけ織部が黒森峰を去る日が近いという事の証明になる。

 

「そうだね・・・・・・もう、後1週間も無いかな」

 

 織部もまた少し寂しそうに告げる。

 織部は、借りていた部屋の荷物をまとめ始め、残りの1週間で使う事も無いようなものについては、既に元居た学校の寮に送っている。

 その準備もまた、織部自身が黒森峰との別れを実感させられるものであった。それがなお、織部の中の寂しさを助長させる。

 

「随分長かったね・・・半年ぐらい前に初めて会ったはずなのに、もう何年も一緒にいたみたい」

 

 織部と同じくカレーライス(辛口)を食べていた斑田が、最初に会った頃の事を思い出すように、そう呟く。半年という期間は短くも長くもないぐらいの期間に感じるが、それでもここで経験したことが多かったために、実際に過ごした以上の時間を過ごしたように感じられる。

 そしてその斑田の言葉に反応したのは、小梅だ。

 

「そうですね・・・・・・もう、ずっと一緒にいたみたいに・・・」

 

 織部を含め、小梅のその言葉には誰もがその通りだと頷く。そう思うのは、この中で一番織部と親密な関係になったのは小梅だと分かっているからだ。

 関係が深ければ深いほど、その人と過ごした時間は長く感じられるし、その人との思い出は心に深く刻み込まれる。

 だから小梅は、斑田の言葉に大きく頷き、その通りだと賛同したのだ。

 

「だからこそ、寂しくなりますね・・・・・・」

 

 そして関係が深ければ深いほど、その別れもより一層悲しく感じる。

 仲の良い友達ぐらいの付き合いになった根津たちも少ししんみりしているのだから、それ以上、最上級レベルの付き合いを織部としている小梅はそれ以上の寂しさを感じているだろう。

 もう、残りの日数で織部が小梅にしてやれることはそれほど残っていないし、できる事もあまりない。

 織部がいなくなった後で、小梅が悲しまないようにするために、織部もできる限りの事をするつもりでいるのだが、それでも織部だって寂しさを感じている。

 別れの日は、すぐそこだった。

 

 

 その日の戦車道の訓練の後、小梅は隊長室に呼び出されていた。何の用件があって呼び出されたのかは、まだ小梅には分からない。

 衣服を整えてから来るように言われたので、タンクジャケットから制服に着替えて隊長室へと向かう。織部は教室で報告書を書いているし、もしかしたら入れ違いになるかもしれなかった。

 だがそれはそれとして、小梅は心の中では怯え切っていた。隊長室に呼ばれる事なんて滅多にないし、隊長室という事は隊長のまほがいる。副隊長のエリカだっている。その2人と面と向かって話をするというのも、気後れするものだ。

 まほが隊の皆と平等な関係になりたいと言っていたのは聞いたし、エリカともそこそこ打ち解けることができたのだが、それでも隊長室に呼び出されたのだから気は引き締めなければなるまい。

 隊長室の前に到着し、一度深呼吸してからドアをノックする。中から『入れ』というまほの声が聞こえたので、一拍置きドアを開く。

 

「失礼します」

「急に呼び出して済まない」

「いえ、お気になさらないでください」

 

 まほが詫びの言葉を告げるが、小梅はまったく気にしていない。気にしているのは呼ばれた事ではなくて、何の話をされるのかだ。

 

「心配しなくても大丈夫よ、別に悪い話じゃないわ」

 

 そこで、エリカからまさかの助け舟が出された。エリカがこうして小梅の緊張を解そうとすること自体が稀なので、すごい変な気分だ。

 

「・・・・・・恐らくだが、な」

 

 まほがエリカの言葉に続いてそう告げる。ますます、何の話をされるのかが分からなくなる。

 

「・・・・・・赤星。聞いてほしい」

「はい」

 

 挨拶もそれなりに、改まって、まほが切り出す。小梅は自然と姿勢をより正し話を聞く態勢に入る。

 

「・・・私は3年生で、もうすぐ卒業する。だから、隊長も別の誰かに代わる事になる」

「・・・はい」

 

 織部が黒森峰を去る事が一番悲しいものだったので忘れかけていたが、夏休みも終わり今年度も残り半年を切ったのだから、まほを筆頭に3年生の先輩隊員たちが戦車隊を辞めて卒業するのも近いのだ。

 まほは隊長なのだから、そのまほが辞めてしまうのであれば自然と隊長も別の人間になる。

 その新しい隊長が誰になるのか、小梅はまだ知らないが大方の見当はついていた。

 

「で、だ。次の新しい隊長は、エリカに決まった」

 

 まほがエリカの事を見ながらそう告げ、エリカが小さく頷く。

 その反応でエリカも嘘をついてはいないというのが分かったし、エリカが次代の隊長になるのは小梅も見当がついていたことだ。副隊長と言う立場でまほの傍にいたし、この前の模擬戦の行われた理由がエリカの真価を見極めるためのものだったという予想も小梅は立てていた。

 だから、エリカが隊長になるという事に驚きはしないし、不満も無い。順当だと思えるものだ。

 となると、自分はどうして呼ばれたのか。

 だが、そこで小梅が何かに気付く。

 

「・・・それに伴い、副隊長の枠が空く事になる」

 

 それで小梅もなぜ自分が呼ばれたのか確信し、そこでエリカの表情を見る。

 エリカは、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべている。どうやらエリカは、“その話”を聞いていたのだろうが敢えて今まで何も言ってこなかったのだろう。

 

「・・・つまり、赤星」

「・・・はい」

 

 だが、気付いたからと言ってそれを先に言いはしない。まほからその言葉を直接告げられるのを待つ。

 

「・・・赤星に、副隊長をやってもらいたい」

 

 小梅の中で緊張の鎖が切れて、うっかりすると息を吐いてしまいそうになるぐらい、安心した。『悪い話ではない』という言葉の通り、除隊や警告などの小梅にとって悪い話ではなかった。

 だが、副隊長になってほしいというまほからの言葉には、まだ素直には頷けない。

 小梅の心には緊張に代わって、疑問という感情が浮かび上がってきた。

 

「・・・あの、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」

「なんだ?」

「・・・どうして、私を・・・?」

 

 一番の問題はそれだ。なぜ小梅が副隊長に選ばれたのか、それが分からないし、そこが一番気になるところだ。

 大洗女子学園に加勢して大学選抜チームと戦う事になったとき、まほから実力の高さを買われたから増援に呼ばれたというのは知っている。だが、それぐらいしか自分の強さに自信が無い。小梅は自惚れてなどいないし、副隊長としての素質があるのかも疑わしい。

 

「赤星の車輌・パンターの乗員は、赤星を除いて全員が今年入ったばかりの隊員だ。それはもちろん、赤星も知っているだろう?」

「はい」

 

 もちろんそれは分かっている。小梅の戦車に乗るメンバーは皆、新入隊員だ。だが、それでも今日この日まで挫折する事は無く小梅に付いてきてくれている。

 

「そして赤星のパンターの実力は、他の上級生の乗る戦車と変わりないぐらいに成長している」

「・・・・・・」

 

 全国大会の決勝に出場できたのもそうだし、その大学選抜チームとの試合にも呼ばれたから、確かに強くなっていると小梅も分かる。それは同じ戦車に乗っている小梅には、分かっていた。

 

「それは恐らく、彼女たちを纏める車長の赤星の指導の仕方がいいと、私は思っている」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 戦車隊全体の指導をしていたのは隊長であるまほだが、戦車の中でだけ見れば、指導をしていたのは小梅だ。

 小梅は、訓練の後でいつも同じパンターの乗員たちと軽いミーティングをしている。小梅の戦車内に限っての訓練の反省点や評価できる点、次の訓練に向けての課題と目標を話し合って、戦車内での練度向上を図るためのものだ。

 そのミーティングは、他の戦車のチームがしている様は見られない。だから恐らくは、小梅たちのチーム独自のものと言える。

 そして、小梅が乗員たちに目を向けていたから、小梅は同じ乗員たちの欠点にも、美点にも気づくことができた。そして小梅は美点は伸ばし、欠点はどうにかして改善するようにアドバイスを出してきた。

 そして小梅が優しい性格をしていて、仲間の事を理解してくれているから、同じ戦車の乗員たちも小梅に付いてきてくれている。

 この、小梅と乗員の間にある信頼関係が、小梅のパンターの実力を高めているのだと、まほは推測していた。

 

「そして、2週間ほど前の模擬戦で、赤星は自分から動いてエリカのティーガーⅡを守ったと、エリカから聞いた」

「・・・・・・」

 

 2週間ほど前の模擬戦で、該当する場面のあった模擬戦と言えば、まほのチームに重駆逐戦車が偏った模擬戦だろう。その模擬戦は、その後のまほの織部への告白と同じ日だったというのもあって覚えている。

 そしてその模擬戦の最中。群狼戦術に似た作戦の後、エリカのティーガーⅡがまほのティーガーⅠに狙われて撃破されそうになった際、小梅のパンターは両者の間に割って入る形でティーガーⅡを守り撃破された。そして、ティーガーⅡにチャンスを繋いだ。

 あれは、エリカから命令を受けてした事ではない。小梅自身がそうするべきだと思い考え、そして行動に移した。

 

「あの時ように戦況が逼迫している中で、赤星のように即座に判断できてそれを行動に移すことができるような者はなかなかいない。特に、マニュアルに頼り切りなところのある黒森峰なら、なおさらだ」

 

 大洗女子学園と戦った全国大会決勝以来、マニュアルに頼らないような訓練・模擬戦は続いている。

 だがそれでも、まだ掟やフォーマットに依存していた事による柔軟な対応力を鍛える事は出来ていない。

 その中でも小梅は、柔軟に事態に対処する力を持っていることが、この前の模擬戦で分かったのだ。

 

「柔軟な対応力と行動力、そして指導力を、私は買っている」

「・・・・・・・・・・・・」

 

 小梅は初めて、自分が戦車道で持っている能力と言うものをここで知った。その対応力と指導力と言うのは、まほから初めて評価された事だった。今更ながら、まほはきちんと自分の率いる隊員の事を見ていたのだと、そう実感させられる。

 

「私も、あなたを副隊長に推したいと思っているのよ。隊長の言った通り、あなたの中にある才能を私も認めてる。だから、あなたを副隊長にしたいと言ったのよ」

 

 そこで、黙っていたエリカがそう話す。

 まほから正式に、次の隊長をエリカにすると言われた際に、エリカは副隊長に小梅を推薦した。そしてそう思っていたのはまほも同じだったようで、お互いに頷いて、副隊長の候補(まだ小梅が引き受けるとは決まっていなかったから候補だ)を小梅としたのだった。

 小梅の才能は、まほだけでなくエリカも認めていたのだという事を改めて知って、小梅の中に驚きが走る。

 ここで小梅は、このまほとエリカからの申し入れを断るか、受け入れるか、それにわずかに迷っていた。

 副隊長に推されるという事は、それだけ小梅の実力をまほとエリカが高く評価しているという事だ。それは純粋に嬉しいし、誇らしい事だった。

 だが、副隊長になれば今度は隊全体をエリカと共に率いるという事になる。その責任は、一戦車長である今とはまた違うものだろう。責任の重さだって変わる。その責任とプレッシャーに、自分が耐えられるかどうかはまた別の問題だ。

 しかも、小梅の心の支えでもあった織部も間もなくいなくなり、この先は小梅1人でやって行かなければならない。織部がいなければ自分はどうなるのかは正直まだ分からないが、それでも不安だった。

 

(・・・・・・・・・でも・・・)

 

 織部がいなければ不安ではある。だが、織部が去るのはもう避けられない、曲げられない事だ。

 そして、いつまでも織部に負んぶに抱っこの状態ではだめだという事は、小梅自身でも分かっている。

 それに織部には、今日この日までに多くの心配をかけさせてしまっていた。織部は小梅や他の人たちに迷惑をかけさせまいと、辛い思いを隠していることが多かったというのに、自分はその織部と逆というのも公平ではない。

 本当に初めての出会いから打ち解けるまでは織部に心配をかけさせて、そして付き合い始めてからも織部は小梅の身を案じていてくれた。

 その織部の心配や不安を解消させるために、小梅だけでももう大丈夫だと伝えるために、小梅は。

 

「・・・・・・分かりました」

 

 まほとエリカが、目をほんのわずかに見開く。

 小梅は、真っ直ぐにまほの目を見て、頭を下げる。

 

「私でよろしければ・・・・・・副隊長を務めさせていただきます」

 

 そこで、場の空気が緩んだような気がした。

 

「・・・・・・そうか、分かった」

 

 まほはそう告げると、笑みを浮かべて小梅の顔を見る。そして、右手を差し出してきたのだ。

 

「・・・・・・これからの黒森峰を、よろしく頼む」

 

 その差し出された右手を、小梅は優しく包み込むように握る。

 

「・・・・・・はい、分かりました」

 

 その横でエリカが、目を閉じて、心底安心したという風に笑っていた。

 

「・・・・・・これで、私のやるべきことは・・・もうあまり残されていないな」

 

 まほが珍しく、冗談交じりな言葉を微笑みながら告げる。だがそれは、冗談とも取れないような言葉だったので小梅とエリカはピクリとも笑えない。

 何せ、本当にまほが黒森峰を去る日は刻一刻と近づいてきているのだし、既に次代の隊長と副隊長も任命し、後は引継ぎ程度しかやる事は残されていない。これから先の新世代黒森峰戦車隊の指導も、エリカと小梅でやっていくのだろうし。

 

「・・・・・・エリカ・・・・・・小梅」

 

 まほが、エリカと小梅の名を呼ぶ。

 だが、ここでまほが小梅の事を苗字ではなく名前で呼んだのは、小梅の予想の完全に遥か斜め上だった。

 しかし、まほはかつて黒森峰で横のつながりを作って強くしていきたいと言っていたので、これもその表れなのかもしれない。と言っても、まほはもうすぐ隊を離れてしまうので、最後の最後の試みでもあったが。

 

「・・・・・・勝利を目指さなければならないという考えには、囚われなくていい。勝ち負けを、重要視しなくてもいい」

 

 そこで聞いた言葉は、西住流の権化のようなまほの口からはきいた事も無い言葉だった。勝利することを貴ぶ西住流の後継者の言葉とは思えないような言葉だ。

 

「自分の信じる戦車道を、歩めばいいんだ」

 

 エリカと小梅はその言葉には、どこか後悔を秘めているように聞こえた。

 まるで、自分にはできなかった事ができるようになってほしいという願いのような、後悔のような気持ちが含まれているような。

 まほは、西住流の後継者として、常に西住流の戦い方でここまで戦い抜いてきた。

 だが今思えば、まほも西住流というしがらみに縛られて、自分なりの戦車道と言うものが見つけられなかったのかもしれない。西住流の戦車道こそが自分なりの戦車道だとまほは言うのだろうが、それでも心のどこかでは、“自分だけの”戦車道を探していたのかもしれない。

 これらはすべて推測に過ぎないし、まほに聞いても全てを話しはしないだろう。

 だが、それでも、先のまほの言葉は、そう思わせるかのような意味を込めている気がしてならなかった。

 

 

 その日の夜、ドイツ料理店。

 今目の前の状況に、織部は困惑するほかなかった。

 自分の隣には小梅がいて、自分と小梅の前に置かれた、19時以降で1杯無料サービスとなったノンアルコールビールには口も付けてはいない。

 その2人に向かい合うかのように、エリカは座っていた。そしてノンアルコールビールをぐいぐい飲んでいる。アルコールは含まれていないのでイッキ飲みしても死にはしないだろうが、エリカらしくない。

 ここにエリカがいるのは、小梅が呼んだからではない。織部が誘ったわけでもない。エリカが自分から、『少し付き合いなさい』と小梅に言って、一緒に帰る予定だった織部を誘っても平気かを小梅が聞くと、エリカは問題ないと言って、そして今に至る。

 全部飲み切って、ビールの入っていたジョッキをテーブルに勢いよく叩きつけるかと思いきやそっと置いて、エリカは一つ溜息をついた。

 

「・・・・・・はぁ」

 

 エリカの憂鬱そうなため息を聞き、織部と小梅は顔を見合わせる。

 

(・・・・・・・・・逸見さん、どうしたの?)

(分からないです・・・・・・)

 

 こうして食事に誘った事自体が初めての事態で驚くほかないし、イラついているわけでもない、もの悲しさを感じさせるようなエリカを見た事は無かったので、余計織部と小梅の2人は困惑している。

 だが、このまま放っておくと話は一向に進まないし、下手するとエリカが本物のビールに手を伸ばしかねないので、早いとこ話を聞いておく事にした。

 

「・・・何かあったの?逸見さん」

 

 織部がおずおずと聞いてみると、エリカは力なく織部の顔を見て、呟いた。

 

「隊長・・・・・・もうホントに隊を辞めちゃうんだって思うとね、寂しく感じるのよ」

 

 その言葉だけで、そう言う事か、と織部と小梅は納得した。

 エリカがまほの事を信奉しているのは周知の事実だし、もうすぐまほを含む3年生が戦車隊を辞めるという事も知っている。

 この2つの事象を合わせて考えれば、今目の前のエリカの状態も納得できるものだ。

 つまりエリカは、まほがもうすぐいなくなってしまうのが寂しいのだ。そして、そのせいで頭の中に渦巻いている不安や寂しさと言った愚痴を織部と小梅に聞いてほしいのだろう。

 中々にエリカも、年相応の女の子らしいところがある。

 

「でも、次はエリカさんが西住隊長に代わって隊を率いるんですよ?私もですけど・・・・・・」

 

 エリカが新しい隊長になり、小梅が次の副隊長になるという事は、ここに来る道すがらで織部も聞いた。だから小梅の言葉は初耳ではない。

 そして小梅の言っていることはもっともなことである。エリカがまほを信奉しているのは確かな事だが、今度はエリカがそのまほに代わって隊を率いていくのだ。それなのに、そのエリカがもういなくなってしまうまほにいつまでも囚われていては、隊は成り立たない。

 小梅も副隊長としてエリカのサポートをし、エリカと共に隊を率いていく事になるのだが、隊長のエリカがいつまでたってもこの状態では、小梅もキャパオーバーとなってしまうだろう。

 

「西住隊長は、エリカさんを信じて、エリカさんを次の隊長にしたんですよ?エリカさんなら、黒森峰を勝利に導けるって信じて・・・・・・」

「そうだね。その逸見さんが、西住隊長がいないからって凹んでて、それで隊長も務まらないんじゃ本末転倒だし、西住隊長の意に反する事になると、僕は思う」

 

 小梅の説得に続けて織部も、自分の考えを告げる。

 まほは、エリカを信じて次代の隊長に任命したのだ。小梅の言っていたように、エリカが黒森峰を勝利に導くと信じて。

 勝ち負けを重要視しなくてもいいとは言っていたのだが、それでもエリカの様な真面目な人間であれば負けてもいいやとは思ってもいないだろう。やるからには、勝利を目指すに違いない。

 けれど、エリカが落ち込んでいて隊を率いるのもままならない状態では、まほの信頼を裏切ったことになる。それはエリカも望むところではないだろう。

 それを小梅と織部は、伝えたのだ。

 

「・・・・・・分かってるの。分かってるんだけど・・・・・・」

 

 エリカも馬鹿ではない。さっき織部と小梅が言った事はエリカ自身でもわかっているだろう。だがそれでも、頭では分かっていても、心は納得できない、といった具合にエリカの心は揺れていた。

 

「・・・・・・隊長は私の事を信頼してるって事なのよね」

「ええ、そうですよ」

 

 最初からそう言ってるのだが、エリカも小梅の言っていることをかみ砕いて吸収し、頭の中で反復する。

 

「・・・赤星」

「はい?」

「・・・隊長が、横のつながりを作って隊を強くしたいって言ってたの、覚えてる?」

「それは、もちろん」

 

 まだ隊の中では、まほの望みとも言える横のつながりを作るという事はできていない。ならば、まほの世代ではできなかった事はエリカの世代で実現するのが、当然とも言うべき流れだ。

 

「・・・・・・なら、私とあなたで、西住隊長の成し得たかったことを、成し遂げるのが礼儀ってものよね」

「・・・そうですね」

 

 礼儀、という言い方は少し語弊があるように感じるが、確かに新世代の隊長と副隊長としてやるべきことではある。

 

「・・・・・・私1人でできるとは思っていない。だから、あなたの力を貸してほしい」

「・・・・・・」

「・・・・・・小梅、お願い」

 

 エリカは自分の力を弁えている。自分1人で何でもやれるとは思っていないし、過信もしてはいない。

 だから、まほの成し遂げたかったことをまほに代わって完遂するのは自分1人の力では無理だという事は重々承知している。

 そう思ったからエリカは、恥を忍びプライドを捨てて小梅に嘆願したのだ。

 小梅の事を名前で呼んだのも、エリカ自身が小梅と打ち解けて力を合わせたいと思ったのと、その横のつながりを作っていきたいという目標に向けて一歩前に踏み出すためだ。

 そして、その意図に気付かない小梅ではない。

 

「・・・・・・もちろん、私で良ければ」

 

 そこでエリカが、いつものようにふっと笑う。

 

「・・・・・・ま、副隊長なんだし、嫌でも力を貸してもらうつもりだけどね」

「え、ええ~・・・?」

 

 小梅が困惑したように声を上げると、エリカはしてやったりな笑みを浮かべて水を飲む。皮肉屋なところと、僅かな恐ろしさを孕む笑みは、やはりエリカらしいところがあった。

 

「悪いわね、変なところ見せて」

「いえいえ・・・変じゃありませんでしたよ・・・?」

「ただ、ちょっと驚きはしたけどね。逸見さんがあそこまで落ち込むのなんて、初めて見たし・・・」

「・・・・・・なんでかしら、織部に言われるとムカつくんだけど」

「・・・・・・泣けるなぁ」

 

 そうして、普段のような会話を交わしている鬱に3人の頼んだ料理の中でエリカのハンバーグが一番早くやってきた。エリカがそれを見て目を輝かせる。さらに普段見せる事の無いような純粋な笑みを浮かべてハンバーグの味を楽しみ、

 

「大好物なんだけど、悪い?」

 

普段とはまた違うエリカのギャップを楽しんでいた織部と小梅を、狼のような鋭い眼で睨むエリカもまた、本調子に戻ったのだと証明させてくれた。

 これが、織部と小梅、そしてエリカの3人で食べる、最初で最後の食事だった。




ハナショウブ
科・属名:アヤメ科アヤメ属
学名:Iris ensata var. ensata
和名:花菖蒲
別名:花菖蒲(ハナアヤメ)玉蝉花(ギョクセンカ)
原産地:日本、朝鮮半島から東シベリア
花言葉:嬉しい知らせ、あなたを信じています、心意気など


Varianteでしほさんは会長に敬語だったので、
合わせる形にしました。


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都忘(ミヤコワスレ)

 今日の天気は晴れらしい。それでも万が一の可能性を考慮して折り畳み傘は鞄に入れておく。

 そして鏡の前で身だしなみをチェックし、問題が無いのを再三確認してから、私は玄関のドアを開ける。海の上を行く学園艦特有の、穏やかな潮風が頬を撫でていき、肌寒くなってきた最近は重宝する太陽の光によって、眠気も自然と薄れていく。

 そして、自分の部屋の左の方を見れば。

 

「おはよう、根津さん」

「ああ、おはよう」

 

 学校へ行く日は、ほとんど毎日どうしてか、同じタイミングで織部が部屋を出る。最初の頃は内心では随分と驚いたものだったが、何度も重なると流石に物珍しさが無くなる。

 状況次第では恋に落ちてもおかしくはないシチュエーションだが、織部には申し訳ないけど織部は私の好みではないし、それ以前に織部は赤星と付き合っている。他人の恋人を奪い取るというのも私のポリシーではない。

 

「?どうかした?」

「あ、いや・・・なんか、こうして一緒のタイミングで出てくるのも、今思うとすごい事だと思って」

「ああ、確かにそうだね。でももう何度も起きた事だし、珍しくもなくなっちゃったね」

 

 どうやら織部も私と同じで、何度も経験してるうちにありがたみが薄くなってしまっていたようだ。同じことを思っている、というだけで親近感が湧くものだ。

 

「そろそろ行こうか」

「そうだね、遅れるとマズいし」

 

 あまり長話が過ぎると、待ち合わせている斑田と赤星にも悪いし、不測の事態で遅刻する可能性だってゼロではない。だから、私と織部は待ち合わせ場所へと向かう。

 けれど、こうして共に登校するのも今日が最後と思うと、少し寂しいものだ。

 半年を長いと思うか短いと思うかは人それぞれだが、私個人としては長い方だと思う。だから、その半年の間、外部から来た、しかも(一時とは言え)同じ学校と戦車道の仲間がいなくなるのは、何も感じないと言えばウソになる。

 とはいえ、わんわん泣きながら別れを惜しんだりはしない。それは流石に私のキャラではないし、自分以外に人がいないのならともかく、周りに人がいる中でそんなことができるほど自分の肝も据わってはいない。

 何はともあれ、今日が織部の留学の最後の日だった。

 

 

 確か、最初に織部君に話しかけたのは、休み時間だった気がする。具体的には、午後の授業が始まる予鈴の前、西住隊長に呼び出された織部君に話しかけたのが、関わりが始まったきっかけだったと記憶している。

 

「最後の日に日直とはね・・・」

「まあ、いい経験になるんじゃない?」

 

 参考資料の束を運びながら、がっかりしたように呟く織部君に、私はポジティブな言葉をかける。

 日直は基本的に2人で、出席番号順になる。だが、織部君の留学が今日で最後だという事を知っていた担任の先生が、織部君を急遽日直に指名して私と組むことになったのだ。私にとっては別に問題なかったのだが、織部君からすれば急な申し出だったので面食らっただろう。

 

「どうしてわざわざ日直にさせるんだろ・・・」

「まあ、せっかくだからって事じゃない?」

「何の『せっかく』なのさ・・・・・・」

 

 まだ織部君は不服のようだ。

 織部君は、基本的に優しいという印象が強い。だが、今こうして教科書を運びながらぶつぶつ言っているのを見ると、彼もまた男の子っぽいイメージを持っていたのが分かる。

 やがて教室の前に着いたので、私が先に扉を開けると、織部君はゆっくりと教室の中に入り、教壇の上に参考書の束を置く。

 2人で分けて参考書を運ぼうと私は提案したのだが、織部君は頑として私に持たせようとはしなかった。それは私が落としたりするだろうからと疑っていたのではなくて、私に負担をかけさせまいと思っての事だというのは分かっていた。

 織部君が、腕をプラプラと振って、腕の疲れを抜こうとする。そこへ、赤星さんが歩み寄ってきた。

 

「大丈夫ですか?春貴さん」

「ああ、大丈夫。心配しなくて平気だよ」

 

 2年生に進級したての頃、赤星さんは今みたいに積極的に人と関わろうとはしていなかった。去年の全国大会の決勝戦以来、赤星さんは周りとの交流を断ち切ってしまい、孤独になっていて、私も同期メンバーだった以上どうにかしたかった。

 だが、突如としてやってきた織部君には、赤星さんも他より心を開いていた。そして、赤星さんは織部君に出会ってから少し変わり、かつてのように私たちと言葉を交わして話をすることができるようになった。

 1週間足らずで赤星さんと打ち解けたという事は、織部君も赤星さんにシンパシーの様なものを感じていたのかもしれない。もしくは、赤星さんと同じような経験を過去に織部君もしたのかもしれない。だが、それについては織部君は何も話さないし、織部君が傷ついてしまうのも可哀想なので聞けなかった。

 

「斑田さん、悪いんだけど・・・これ配るの手伝ってくれるかな?」

「あ、うん。いいよ」

「私も手伝いますね」

「ごめんね、小梅さん」

 

 そんな事を考えていると、参考書を配るのを手伝うように言われてしまったので、考えるのは止めにして、参考書をそれぞれの机の上に置いていく。

 日直だったけれど参考書は全部織部君に持たせてしまったので、これぐらいはしておかないとバチでも当たりそうだ。

 

 

 昼休みになって、空腹感に襲われる。2時限目の体育のバレーボールで大分体力を消費してしまい、その後のドイツ語と数学で頭を使って糖分も足りてない。

 一刻も早く昼食を摂ってエネルギーをチャージしなければと身体は叫んでいた。

 フラフラと歩きながら食堂へと向かうと、タイミングよく根津と斑田、赤星さんと織部君に出会った。さらにいつの間にか、私の後ろには直下もいる。

 皆は私が疲れ切ってることに何か言いたげだったが、とにかく今は一刻も早く栄養を補給したかったので、話は料理を頼んでテーブルに着いた後と急かし、食堂へと入る。

 各々料理を頼んでテーブルに座り、全員揃うと食べ始める。今の私にとって、目の前のとんかつは他のどんな高級料理よりも美味しそうに感じられるし、実際口に含むと今までで一番美味しいと思う。

 そんな私の正面で、織部君は唐揚げ定食を食べている。唐揚げも良いなと思ったが、なんとなくとんかつの方がボリューム感があると思いこちらにしてしまったが、悔いはない。

 そう言えば、と私は思って織部君に聞いてみた。

 

「なんかさ、織部君て身体少し大きくなった?」

「え?」

 

 最初に織部君と話をしたのは、戦車隊の訓練で走り込みをしている時だ。後方であまりにも苦しそうに走っているに見かねて、私が話しかけたのが、仲良くなるきっかけだったと思う。

 その時の織部君は、今よりもずっと細かったような気がした。以前、(不本意ではあるが)隊長たちとプールで遊んだときの織部君も細かったが、今思うと初めて出会った時よりも少し大きくなった気がする。

 

「そうかな・・・。自分ではあんまりわかんないんだけど・・・」

「まあ、自分の身体の成長なんて、自分じゃわからないよな」

 

 私の隣に座る根津が、実感が無いらしい織部君に同意する。確かに、自分の身体を成長させることに躍起になっていなければ、目に見える体の変化―――例えば身長などは自分では気づきにくい。

 だがしかし、私も常日頃から織部君の事を見ているわけではないので、私の知らない間に成長していたのかもしれない。斑田から聞いたところによれば、トレーニングジムに通う織部君を見たらしいので、地道に体力づくりをしていたのかもしれない。

 ただ、もうすぐ織部君はここを去ってしまうので、成長していたという事実に気づいたのは少し遅かった。

 目の前で、皆と談笑しながら唐揚げを食べる織部君の姿も明日には見られないと思うと、少し思うところはある。恋愛感情は芽生えはしなかったが、それでも仲良くなれたからこそ、去るのは寂しいものだ。

 感傷に浸りながらとんかつを食べると、味が一層濃く感じられたのは、どうしてだろうか。

 

 

 

「手伝ってもらっちゃってごめんね」

「いいよ、気にしなくても」

 

 履帯を繋ぐピンを打ち直しながら、私は履帯を支えてくれている織部君にお礼の言葉を告げる。

 今日の訓練は戦車の整備なので、普段の模擬戦や砲撃訓練の時のようにそこまで疲れずに済む。けれども、最近は肌寒くなってきたので、その場で動かないことが多い戦車の整備をするのは少し寒さを一層強く感じる。

 

「うん、全部完了。ありがとね」

「いやいや、雑用がここでの僕の仕事だからね」

 

 ピンを全て打ち直したところで、改めて感謝の言葉を告げると、織部君は本当に気にしていないとばかりに笑ってくれる。なるほど、赤星さんが惚れるのも分かる気がした。

 織部君とは、(期待していたわけではなかったが)随分とロマンの欠片も無いような出会いを果たしたものだ。まさか、私が履帯を持ち上げるのに悪戦苦闘していたところで助けられたなど、情けないように聞こえる。

 ともあれ、あの時織部君が手を貸してくれなかったらずっと知り合う事も無かっただろうと思うと、偶然とは恐ろしいと感じる。

 

「ウチの戦車は履帯が切れやすいからね・・・入念にチェックしとかないと」

 

 私が戦車を見上げながらそう呟くと、別の場所から織部君を呼ぶ声がした。

 

「ごめん、呼ばれちゃった。もう行くね」

「ああ、うん。ありがとうね」

 

 挨拶も早々に、織部君は呼ばれた方へと言ってしまう。

 今日はまだ、私に会った人の誰も口にしてはいないが、織部君の留学は今日で終わる。それは織部君だってもちろん分かっているだろう。

 だからか、今私の目の前を走り去っていく織部君の後姿がどこか寂しそうに見えたのは、織部君がここを去るのを寂しがっているのか、それとも私自身が織部君が去るのを寂しく思っているからなのか。もしかしたら両方なのかもしれない。

 確かに私は、最初に出会った頃から話が合ったし、話しやすい人物だったのもあって、割と織部君とは親しい仲となることができた。だからこそ、別れるのが寂しいのだろう。

 だが、私よりも寂しがっているのは、絶対に赤星さんだ。落ち込んでいた赤星さんが織部君と出会ってから明るさを取り戻したのは知ってるし、しかも2人は付き合っているのだ。離れ離れになって悲しくないはずもあるまい。

 だが2人とも、お互いに離れ離れになりたくないという想いは顔に出してはいない。2人の関係が冷め切っているという事はあり得ないだろうし、恐らくは2人とも堪えているのだろう。

 私は初恋もまだだけど、なんとなくそんな感じがした。2人は、悲しいのを堪えて、相手の事を心配させないようにしているんだと、そう思った。

 

 

 整備後の号令で、織部は最後の日という事で挨拶をした。ただ、戦車の整備で皆が疲れているのを知っているのか知らないのか、あるいはいきなりの事であまり多くの事を考えられなかったのか、挨拶は無難な事を手短に述べてそれで終わりとなった。

 織部が挨拶を終えて隊列に戻ると、隊長が号令をかけて解散となる。隊員たちの緊張の糸が緩み、それぞれ校舎へと戻っていく。その隊員たちに混ざって、織部もまた校舎へと戻っていく。

 私は、そんな織部にゆっくりと近づき歩調を合わせて隣同士で歩く。

 

「一応、お疲れ様とだけ言っておくわ」

「逸見さん・・・・・・」

 

 織部が心底驚いたように私を見る。いつの間にか私が隣にいた事がそこまで意外な事なのだろうか。

 

「まさか、逸見さんからそんな事言われるとは思わなかった」

 

 そっちか。

 

「・・・バカにしてんのかしら?」

「全然。ただ、言われるのが初めてだったからね」

 

 じろっと睨むが、確かに織部の言い分も分かる。『お疲れ様』なんて言葉、普段は隊長か同じ戦車のメンバーにしか言わない。それ以外の誰かにそんな言葉を言ったのは、確かに今回が初めてのようだ。織部が『初めて』と言ったのも、確かに頷ける。

 

「・・・・・・ま、頑張ったんじゃないの?色々と」

「・・・・・・そうかな」

 

 ただ、私のその言葉は、本心に近い。最初に黒森峰に来た時は何事かと思ったが、一応与えられた仕事は最低限こなしていたし、報告書の出来は私が見てもまあまあ良かった。それに、多少仲良くもなれたのでねぎらいの言葉の1つをかけても文句は言われまい。

 しかしながら、織部が私の敬愛する西住隊長の心に土足で踏み込んだことには腹を立てて、隊の空気が全体的に緩んだのもこの織部のせいだと思い込み、厳しく咎めたのも覚えている。あの後で、私は隊長から話を聞いて、間違っているのは私自身の方だったのだと気付かされてしまった。それで織部には謝り、和解・・・はできたのだと思う。でなければ、織部も私に向かって冗談など言いはしないだろう。

 私と織部の関係は、何とも微妙なものだ。ぶつかり合ってはいたが、今ではそこそこの付き合いというのも、ものすごい絶妙だと思える。

 

「一応、隊長にも個人的に挨拶ぐらいしといた方がいいわよ」

「・・・・・・もちろん、するよ」

 

 私が一応助言しておくと、織部は少し悲しそうな笑みを浮かべて答える。そんな顔をしている理由は、私にも分かる。

 織部はこの前、隊長から告白を受けた。だが、織部は赤・・・小梅と付き合っていたし、織部自身隊長に恋してはいなかったから告白は断った。

 織部が何度か隊長から相談を受けていたのは知っている。だからこそ、織部からすれば自分を頼っていた人の事を自分で突き放してしまったのが、心苦しいのだろう。

 私は告白された事はおろか、初恋もまだなので、他人の告白を断った時どんな気持ちになるのか、それは分からない。だが、あの日織部の落ち込んだ様子から尋常ではないような後悔の気持ちに襲われるというのは分かる。

 ともあれ、挨拶をしないのは隊長の世話になった者の身としては無礼だし、その点を織部も忘れてはいないだろう。

 

「・・・・・・まあ、色々気まずいだろうけど、頑張んなさい」

「・・・・・・ああ、そうだね」

 

 とりあえず、もしもの時は骨は拾っておいてやろう。

 それぐらいの考えで、私はそう言ってやった。

 

 

 

「半年の間、お世話になりました」

「ご苦労だったな、織部」

 

 今日の戦車道の時間は戦車の整備だったので、報告書を出す必要も無い。だが織部は、私のいる隊長室へと足を運んでいた。

 そして驚く事に、入室して私の前に来ると、織部がエリカに席を外すように言ったのだ。だが、エリカも別に驚きはせず、むしろ逆に笑いながら『分かったわ』と応えて外へ出た。この2人、いつの間に仲良くなったのだろうか。

 ともかく、隊長室には私と織部の2人だけになり、織部は改めて、私への感謝の言葉を告げた。

 だが、それだけのためにエリカを部屋の外に出したわけではあるまい。

 

「隊長のおかげで、戦車道について色々勉強することができました」

「・・・そうか、それはよかった」

 

 織部が本心でそう言っているというのは、目と顔を見ればわかる。改めてそう言ってもらえると、こちらとしても嬉しい限りだ。

 その言葉が聞けただけで、私が直接織部を黒森峰に招いたわけではないが、それでも戦車隊での経験が織部の血肉となったのであれば、隊を率いる隊長として満足だ。と言っても、もうすぐ隊長の座はエリカに譲るのだが。

 

「・・・・・・あの、隊長」

「なんだ?」

 

 と、そこで織部が先ほどとは違い、少し暗い表情になる。何かを言おうとしているのは分かるが、その表情からではあまりいい話題ではなさそうだ。

 

「あの、その・・・・・・」

 

 どもる織部。それで何となくだが、エリカを部屋の外に出したのも含めて、何が言いたいのかが、だんだん見えてきた。

 

「・・・・・・この前の話、なんですが」

「・・・・・・ああ」

 

 この前の話、と言っただけで私も何の事かは分かる。

 私が、織部に告白をした話だろう。

 

「本当に・・・・・・すみませんでした。隊長の気持ちに応えることができず・・・・・・」

「その時の事はもう気にしなくていい」

 

 そう言ったように、私はもう、あの時の事を気にしてはいない。あの時は私の思いの丈を織部にぶつけたが、織部にはもうすでに“先客”がいたのだ。それは私が遅かっただけの事で、誰が悪いという話ではない。織部が謝る必要も無い。だから割と、あの時の事は多少残念ではあったが、すんなりと諦める事はできた。

 織部が自分が選んだ好きな人と結ばれることを望んでいるのであれば、一歩引いて織部の幸福を願うのが、私にできる最善の手だ。

 すんなりと諦められる辺り、自分も意外と“耐性”はついていたようだ。西住流の戦車道で手にした強靭な心ゆえだろうか。

 ともかく、今目の前で思い悩み停滞している織部には、何か言葉をかけて、前に進んでほしかった。

 

「・・・・・・私の事はもう、気にしなくて大丈夫だ」

「・・・・・・・・・」

「・・・・・・織部が、心に決めた人と結ばれ幸せになるのが、私の本望だ」

 

 そう告げると、織部は一瞬だけハッとしたような表情を浮かべ、やがて泣きそうな笑みを浮かべて深く頭を下げて、そしてもう一度だけ告げた。

 

「・・・・・・本当に、すみませんでした」

 

 そして織部は、隊長室を出て行き、入れ替わるようにエリカが入ってくる。

 おそらく今さっきのやり取りが、織部との最後のやり取りだっただろう。明日にはもう織部は黒森峰にはいないのだから、織部の姿を見る事ももうない。

 改めてそう考えると、少し寂しいところもあった。みほが黒森峰を去った時の寂しさと比べればそこまででもない。だが、それでも短期間とは言え隊に所属し、破れはしたが恋慕していた者がいなくなるのも、何も感じずにはいられない。

 ただし、織部に告げた言葉も、紛れも無い私の本心だ。

 あの言葉を糧として織部が前に進めるのであれば、それでいい。

 そして、私自身も、前へと進んでいく。

 黒森峰を卒業した後、どうするのかは既にお母様とも話してあるし、学校側にも話は通してある。

西住流の、戦車道の新しい可能性と戦いを見つけるために、日本を離れる話は、既に始まっている。

 そこで私は、首に提げていた金の懐中時計を手に取る。織部が、私の誕生日にプレゼントしてくれたものだ。

 その懐中時計は、止まることなく正確な時を刻んでいる。

 

 

 その日の夜。最後の日という事で、小梅の部屋で夕食を小梅と共にした織部は、夜の学園艦を歩いていた。もちろん、傍には小梅もいる。

 というのも、食後の後片付けをしている最中で、小梅が『少し、歩きませんか?』と言ったのが全ての始まりだった。

 無論、織部も夕食を一緒に食べただけで、黒森峰で過ごす最後の日を終わらせるつもりは無かったし、小梅と色々話をしたくもあったから、小梅の申し出は願ってもいない事だった。

 制服のまま、2人は夜の学園艦の町を歩く。明確にどこを歩くか、というのは決まっていた。2人が度々ジョギングで走るルートだ。

 まず訪れたのは、営業時間を過ぎてシャッターを下ろす店の目立つ商店街。人気が無くなり、ただ明るい白い街灯が照らす道は、どこか廃れた感じを醸し出している。2人は、特に何も話さずに商店街を歩いて行く。

 その次に訪れたのは、公園だ。何の変哲もないこの公園だが、新学期が始まる前の春休みに、この公園で織部と小梅は初めての出会いを果たしたのだ。桜の木の下で泣いていた小梅に声をかけた織部、あれが全ての始まりだった。桜の木も夜になった今ではシルエットしか見えないが、風に揺れる木の葉のざわめきは心地良く聞こえる。

 続いて2人は、整備された小川の脇の小路を歩く。小川のせせらぎも夜になると、より澄んだ風に聞こえるのだが、この季節と時間ではそれが少し肌寒く感じる。織部がポケットに手を突っ込もうとすると、その前に小梅が織部の手を小さく握ってきてくれた。小梅の手も冷たかったが、その手を温めるように、織部は優しく握り返す。

 さらに2人は、学園艦外周部の遊歩道を少しだけ歩く。全部歩くととてつもない距離になってしまうので、ほんの少し歩くだけだ。すぐそばには速度無制限のアウトバーンがあって、車の通りが激しいと一歩外に出ただけでお陀仏だが、今は車の音もせず、アウトバーンの向こうに広がる夜空と夜の海がよく見える。織部の記憶が正しければ、この近くに、小梅が躓いた地面の出っ張りがあるはずだ。だが、夜で明かりも無い今ではそれも判別がつかない。

 そして2人は、少しの間だけ夜の海を見た後、2人にとってはとても、とても重要と言える場所を訪れた。

 あの花壇だ。

 

「・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・」

 

 2人は、さも当然と言わんばかりに花壇の傍のベンチに座り、空を見上げる。

 座るために一度離していた織部の手に、再び小梅の手が重ねられる。

 織部がチラッと花壇を見れば、時期を過ぎて萎れた花がいくつかあるが、それでもまだ何輪かは咲いている。

 

「・・・思い返してみれば」

 

 そこで小梅が、小さくポツリと呟く。織部は、自然と小梅の顔を見るが、小梅は夜空を見上げて微笑んでいた。

 

「・・・私と春貴さんの関係は・・・ここから、始まったんですよね」

 

 厳密に言うと、最初に会ったのはこの場所ではなく、先ほど通りがかった公園だ。

 だが、この場所で小梅と織部は、それぞれ過去に経験した辛い事を包み隠さず告白し、全てを曝け出して、そして確かなつながりをつかみ取った。

 

「・・・そうだ、大事な話をしたのも、ここだった」

 

 2人が自分の中にある相手への隠しきれない、抑えられない想いを告げて、恋人となることができたのもこの場所だ。

 お互いにとって、人生で一度しかないファーストキスを捧げたのも、この場所だった。

 それから、何度もこの場所には訪れていた。2人にとってこの場所は、人生の転換点とも言える場所だ。大袈裟かもしれないが、それぐらい2人はこの花壇を重要視している。

 

「・・・そして、最後なのも・・・」

 

 小梅の声が震えている。瞳が揺れ、潤んでいる。ふとしたきっかけで、涙を流しそうになるぐらい、濡れていた。

 

「・・・・・・最後じゃないよ。また会える」

「でも・・・・・・っ」

 

 織部の手を握る小梅の手に力が入り、手が震えているのが織部にも伝わる。

 

「・・・・・・私・・・嫌だよ・・・」

 

 瞳から涙があふれ、一筋の涙が頬を伝い、落ちる。それで抑えが利かなくなってしまい、小梅は泣き出してしまった。

 

「・・・・・・春貴さんと離れるなんて・・・嫌だよ・・・・・・」

 

 今日はこの時まで、小梅はその寂しい、離れたくないという感情を表に出しはせず、織部に心配をかけさせようとはしなかった。ずっと、悲しいのを、寂しいのを堪えてきた。

 だが、もう限界だった。抑えきれないほどの哀しさや寂しさを、小梅は吐き出した。

 その小梅を、織部は抱き締める。少しでも安心させるように、織部がいなくなることに対する寂しさと哀しさを涙で表す小梅を慰めるように、優しく抱きしめて、背中をさすり、頭を撫でる。だが、それは却って小梅が感情を吐き出せるように促す事になってしまい、なお小梅は涙を流し続ける。

 それを見て織部は、自分は涙を流せない、絶対に泣けないと思った。織部だって、小梅と離れ離れになるのは胸が張り裂けそうなぐらい辛い事だし、涙を流しそうになるほど心苦しい事だった。

 だが、ここで織部が泣けば小梅の心配を煽ることになってしまいかねないし、それだけ織部も別れるのが悲しくなってしまう。だから、小梅の前で泣くのは無しだ。

 少しの間、小梅は涙を流して泣き続け、織部はその間は決して小梅を離す事は無かった。

 そして小梅が少し落ち着いたところで、織部は優しく小梅に話しかけた。

 

「小梅さん、聞いてほしい」

「・・・・・・?」

「僕は絶対に、また小梅さんに会いに行く。どれだけ遠くに離れても、絶対に、会いに行く」

「・・・・・・」

 

 すすり泣く小梅だが、織部の言葉を聞いているのは分かる。だから織部は続ける。

 

「・・・小梅さんは、過去の事に思い悩んで、泣いていた前とは違う。昔みたいに根津さん達、友達との付き合いを取り戻して、戦車にもまた乗ることができて、そして副隊長になれるぐらいに成長している」

「・・・・・・」

「小梅さんは、もう強い人だ。だから・・・・・・」

 

 僕がいなくても大丈夫だ、と言おうとしたところで織部は止めた。その言葉を言うと、小梅を余計に心配させると思ったし、加えてもう織部が会いに来ることができないかもしれないと、暗喩しているように聞こえてしまうからだ。

 

「・・・春貴さん」

 

 そして何かを言おうとする前に、小梅が先に言葉を発する。

 

「春貴さんに会うことができなかったら、今の私はいなかった・・・。立ち直る事も、また皆と話をしたりご飯を食べたりすることも、戦車に乗る事だってできなかった・・・。副隊長になるなんてことも、できなかった・・・!」

「・・・・・・」

「春貴さんが、私を変えてくれた・・・。春貴さんのおかげで私はここまで来ることができた・・・・・・」

「・・・・・・」

「ありがとう・・・・・・春貴さん」

 

 最後になってしまうから、言いたかったことを織部にぶつける小梅。

 織部は、その言葉を否定する事無く、優しく抱きしめながら聞き届ける。それは、全部その通りだと織部が驕っているからではない。今だけは、小梅の言葉を否定はせず、ただ小梅の心からの言葉を聞き届ける。

 

「・・・・・・ありがとう、小梅さん。大好きだよ」

「・・・・・・私も、春貴さんの事、大好きです」

 

 そしてお互い、言葉で愛を確かめ合い、さらに唇を少しの間重ねる。

 少しの間そうしていて、どちらからともなく唇を離す。

 

「・・・・・・絶対、また会いに来てください」

「・・・・・・約束する」

 

 

 

 気づけば大分時間が経っていて、花壇を離れて2人が寮へと戻る頃には、既に時刻は日付を超えようとしているところだった。

 

「・・・副隊長、頑張ってね」

「春貴さんも、頑張ってください」

 

 恐らく、織部は元居た学校に戻ればクラスの連中から質問攻めにされるだろう。それを抜いても、この先大学を受験したり、戦車道連盟に就くために努力を更に重ねなければならないだろうし、確かに大変だ。

 だが織部は、思い描いている未来をつかみ取るために、努力は欠かさない、止めない所存だ。

 そして、毎朝織部と小梅、そして根津と斑田が落ちあう交差点にやってきたところで、小梅が『あっ』と気付いた。

 

「?」

「春貴さん」

 

 そこで小梅は、改まって織部に向き合う。織部は、畏まった小梅の態度に若干疑問を抱くが、そして小梅は口を開いた。

 

「・・・・・・誕生日、おめでとうございます」

 

 そこで、織部も時計を見る。0時を過ぎていて、織部が黒森峰を去る当日になり、そして同時に織部の誕生日でもあった。

 

「・・・・・・ありがとう、小梅さん」

 

 誕生日プレゼントは、ない。

 強いて言えばそれは、少し早めに貰った小梅からのキスと、再会の約束だ。

 

 

 

「おはよー」

「おはよ」

「おはようございます」

 

 翌朝根津は、眠そうにあくびをしながら、いつもの交差点で小梅、斑田と落ち合った。だが根津の隣には、昨日までいた人物はもういない。

 

「・・・織部、行ったか」

「・・・ええ。今朝一番の連絡船で、本土へ戻りました」

 

 根津が誰に聞いたわけでもないように告げると、小梅は少し寂しそうに言った。しかしそれは、実際に船に乗るのを見送ったからではなくて、昨日それを聞いたからだ。見送りにいかなかったのは、織部が去る瞬間を見てしまうとまた泣いてしまって織部を心配させかねなかったからだ。

 

「・・・・・・寂しいね」

「・・・そうだな」

 

 斑田と根津が、しんみりとそう告げる。そして、小梅の顔をちらっと見るが、小梅はそこまで悲観した表情ではない。

 

「・・・・・・赤星さん・・・」

「・・・私は、大丈夫ですよ」

 

 斑田が小梅を気遣うように声をかけるが、小梅は大丈夫だと言わんばかりに微笑み、首を横に振る。

 

「・・・春貴さんは、また会いに来るって約束してくれましたから。絶対だって言ってくれましたから。それだけで、私は大丈夫です」

 

 その顔は、嘘をついているようには見えないが、それでも寂しいという感情までは隠せはしなかった。

 

「・・・・・・そうか」

「・・・・・・それなら、大丈夫だね」

 

 だが、それを突き詰めるという無粋な事を根津も斑田もしない。だから心の中でだけは小梅の事を心配しながらも、同じように笑って小梅の言葉に頷く。

 

「・・・ここまで赤星に好かれるとは、織部も幸せ者だな」

「・・・・・・いいよねぇ。私もそんな恋がしてみたいよ」

「あはは・・・・・・た、多分できますよ、多分」

「なんで多分を2回言うの・・・・・・」

 

 そして3人は、学校へと向けて歩き出す。

 ふと空を見上げると、清々しく晴れ渡っていた。

 それは、織部と小梅が再会を誓いながらも、一時だけ離れ離れになってしまう日にしては、いささか澄み過ぎている気もした。




ミヤコワスレ
科・属名:キク科ミヤマヨメナ属
学名:Gymnaster savatieri
和名:都忘れ
別名:野春菊(ノシュンギク)東菊(アズマギク)深山嫁菜(ミヤマヨメナ)
原産地:日本
花言葉:しばしの別れ、また会う日まで、穏やかさなど


これにて、黒森峰での織部の留学は終了です。
後もう少し、ほんの2~3話でこの物語も完結いたします。
最後までお付き合いいただければと思います。

次回からはこれまでとは違い、少々駆け足気味ではありますが、
重要な場面を書いていきますのでよろしくお願いします。


感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


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竜胆(リンドウ)

普段とは違う書き方で、
筆者本人も困惑しています・・・。


『送信者:織部春貴

 日付:9月30日21時18分

 件名:無事に戻れました

 本文

 こんばんは。先ほど無事に学園艦の寮へと戻ることができました。

 半年ぶりなので、自分の部屋なのに別の誰かの部屋のように感じて仕方ありません・・・。

 帰る途中で1年生のクラスメイトとばったり会って、早くも根掘り葉掘り聞かれました。

 明日は、クラスの振り分けと、留学の報告の予定です。

 ですが、友達から根掘り葉掘り聞かれると思うと、少し辟易します・・・。

 でも、僕は自分の夢を叶えるために、この先も多くの事を頑張っていくつもりです。

 小梅さんも、黒森峰で副隊長として頑張ってください』

 

『送信者:赤星小梅

 日付:9月30日21時28分

 件名:Re:無事に戻れました

 本文

 こんばんは。無事に戻れたようでよかったです。

 春貴さんが帰ってしまって、根津さんや斑田さん、三河さんや直下さんも寂しそうにしてました。

 もちろん、私も寂しいです。まだ1日も経っていないのに、春貴さんに会いたくて、

 会いたくて、仕方ありません。

 でも、いつかまた春貴さんと会える日が来る事を信じて、戦車道も学校も、

 副隊長も頑張ります。

 春貴さんの夢が叶うように、私も応援します。

 どうか、頑張ってください』

 

 

 

 

『送信者:赤星小梅

 日時:12月24日19時01分

 件名:メリークリスマス

 本文

 こんばんは、春貴さん。メリークリスマスです。

 黒森峰学園艦は、現在北海道の近くを航行していて雪がすごいです。まさに、ホワイトクリスマスですね。

 今年のクリスマスは、まさかエリカさん達戦車隊のメンバーでクリスマスパーティをするとは思いませんでした。

 パーティと言っても、私とエリカさんの他に、根津さんと斑田さん、三河さんと直下さんでドイツ料理店で一緒にご飯を食べただけなんですけどね。

 そこで小さなプレゼント交換をして、私は三河さんの用意したミトンの手袋を貰いました。私が用意した雪の結晶の形の髪飾りはエリカさんの下に渡りました。

 エリカさん達と過ごすクリスマスは初めてだったので新鮮でしたし、楽しかったのですが、

 春貴さんと一緒に過ごしたかったので、それは少し残念です・・・・・・』

 

『送信者:織部春貴

 時刻:12月24日19時18分

 件名:Re:メリークリスマス

 本文

 こんばんは、小梅さん。メリークリスマス。

 僕の学校の学園艦は、四国の近くにいて寒いけど、雪は降っていないかな。

 小梅さんのクリスマスは皆と過ごして楽しかったみたいで、僕も嬉しいよ。

 楽しいって気持ちが伝わってきたもの。

 僕の方は、仲のいい友達と一緒にご飯を食べたぐらいで、別に変った事はなかったよ。

 僕だって、小梅さんと一緒に過ごしたかったけど、学園艦が離れていて仕方がないね・・・。

 いつか、一緒にクリスマスを過ごせる日が来る事を、願っているよ。

 寒くなってきたから、小梅さんも体に気をつけてね』

 

 

 

『もしもし、小梅さん?』

「あ・・・・・・春貴さん。あけましておめでとうございます」

『うん、あけましておめでとう』

「今・・・大丈夫ですか?」

『大丈夫だよ』

「・・・・・・ごめんなさい、急に電話してしまって・・・」

『謝らなくて大丈夫だよ。僕だって、電話を掛けようかなって思ってたし』

「あ、そうでしたか・・・・・・」

『小梅さんは今・・・・・・実家?』

「あ、はい。春貴さんは?」

『うん、僕も同じだよ』

「そうでしたか・・・・・・」

『ごめんね・・・本当はそっちに行きたかったんだけど・・・』

「私も・・・です。春貴さんと、一緒に過ごしたかった・・・」

『まあ・・・実家が離れているし、仕方がないよね・・・』

「・・・・・・ええ」

『あ、ごめんね。暗くしちゃって・・・』

「い、いえそんな・・・」

『あ、ところで小梅さん、もう初詣には行った?』

「はい、行きました。親と一緒に・・・近くの神社へ」

『ああ、それって僕と小梅さんが言った夏祭りの・・・?』

「はい、あそこです」

『そっかー。僕は地元の小さな神社だったからなぁ・・・。確かそこって、結構大きかったよね』

「そうですね・・・・・・あの、最後のデートで行った神社よりは少し小さいですが」

『・・・・・・デート、か』

「あ・・・・・・その・・・・・・」

『いやいや、別に気を悪くしたんじゃなくて・・・。また、小梅さんと2人だけで出かけたいな、って思ったんだよ』

「・・・・・・私もです。春貴さんと・・・また、デートがしたいです・・・」

『・・・・・・・・・小梅さん』

「・・・?」

『いつか絶対、小梅さんに会いに行く。だから、それまで待っていてほしい』

「・・・・・・」

『・・・会いに行く、小梅さんに悲しい思いはさせない。だから・・・・・・それまで・・・・・・』

「・・・・・・春貴さん」

『・・・・・・・・・』

「・・・待っていますね」

『・・・・・・うん。待ってて』

 

 

 

 

『送信者:赤星小梅

 件名:新年度

 日付:4月3日19時43分

 本文

 こんにちは、春貴さん。

 何とか無事3年生に進級することができました。私の周りの人たちも、

 3年生になっても変わらず元気です。

 西住元隊長はドイツへと留学し、エリカさんはひどく寂しがっていました・・・。

 さて、新年度が始まり、今年も戦車隊への入隊希望者が大勢来る予定です。

 できる限り、皆さんを隊に迎え入れたいのですが、例によって厳しい1週間の訓練期間があり、

 私自身も副隊長という立場上どうしても厳しくしなければなりません。

 隊長のエリカさんも厳正に決めようとしていますし、

 去年や私たちが入隊した時同様に厳しくしなければならないです。

 副隊長になると、こうして悩むことが多くて大変ですね・・・。

 愚痴っぽく書いて、すみませんでした。

 もし読むのが嫌でしたら、流し読みしても、

 このメール自体を破棄しても、全然大丈夫です。

 春貴さんも頑張ってください』

 

『送信者:織部春貴

 日付:4月3日20時08分

 件名:Re:新年度

 本文

 こんにちは、小梅さん。

 やっぱり副隊長にもなると、悩みの種が増えるんだね。

 でも、その悩みを素直に話してくれてありがとう。

 自分で全部を抱え込まないで、僕にそれを話してくれたことがとても嬉しいよ。

 新しく入ってきた隊員をなるべく迎え入れたいという考えは、

 大切にするべき、尊重するべき考えだと僕は思う。

 新しく入ってきたのは皆、黒森峰の戦車隊に憧れているからだろうし、

 僕が小梅さんの立場なら同じことを考えると思う。

 そして多分、隊長のエリカさんだって小梅さんと同じことを考えているかもしれない。

 だけどもし、全員を戦車隊に迎え入れたとしたら、入隊する人も最初は喜ぶかもしれない。

 けれど本来強豪校のレベルについていけないような人も、半端な気持ちで挑んでいる人たちも、

 強豪校のレベルを正式に入隊してから初めて知ることになる。

 そのレベルが自分たちの想像よりもあまりにも高かったら、

 そのレベルの高さを痛感し、挫折して辞めてしまうかもしれない。

 途中で挫折するのは多分、最初の訓練でふるいにかけられた時以上にショックが大きいと僕は思う。

 だから最初の訓練で厳しくするのは、隊に正式に入隊した後で挫折しないようにする、

 黒森峰なりの心遣いだと、そう言う見方もあると僕は思う。

 もちろん、小梅さんのように考える事が悪い事とは言えない。

 だけど、入隊を希望する人たちの事をよく考えるのであれば、

厳しくするのも多少は仕方のない事だと思うよ。

 黒森峰と、入隊する皆のため、と考えて割り切るのが良いと、僕からはそうとしか言えない。

 無責任な形で申し訳ないけど、僕の方からはこれぐらいしか言えないよ。

 でもこれだけは分かってほしい。

 小梅さんの考えは、絶対にダメだと言うわけじゃない。

 むしろそうして、皆を入隊させたい、希望を受け入れたいと思うその姿勢は、

 大事にするべきことだよ。

 だから、恥じる事も罪悪感を抱く事も無い。むしろそうした考えをできる事を、

 誇っていいんだ。

 長文、ごめんね』

 

『送信者:赤星小梅

 日付:4月2日20時16分

 件名:Re:新年度

 本文

 ありがとう、春貴さん。

 春貴さんの言葉を聞いて、私の胸のつかえも、無くなったように感じます。

 確かに春貴さんの言う通りかもしれませんね。黒森峰と、入隊希望の人の事を考えれば、

 それが最善かも、ですね。

 春貴さんに話をして、本当によかったです。

 春貴さんももし何か、思い悩んでいる事があるのなら、隠さずに私に話してもらえると、私も嬉しいです。

 遠く離れた場所で、春貴さんが悩み苦しんでいるんじゃないかと思うと、

 不安で、心配で、夜も眠れません。

 だから、遠慮なく私にも、話してください』

 

『送信者:織部春貴

 日付:4月2日20時18分

 件名:Re:新年度

 本文

 ありがとう、小梅さん。

 

 

 大好きだよ』

 

 

 

 

『送信者:織部春貴

 日付:5月28日17時43分

 件名:全国大会

 本文

 こんにちは、小梅さん。少し暑くなってきたね。

 もうすぐ、全国大会が始まり、忙しくなるころだと思います。

 聞いたところによると、黒森峰の1回戦の相手はBC自由学園らしいね。

 試合会場に行って応援する事は出来ないけど、影ながら応援させてもらうよ。

 全国優勝を目指して、頑張ってね』

 

『送信者:赤星小梅

 日付:5月28日19時52分

 件名:Re:全国大会

 本文

 こんにちは、春貴さん。

 訓練でメールに気付くのに遅れてしまいました。ごめんなさい。

 全国大会ですが、私たち黒森峰は誰が相手でも油断はしない所存です。

 応援に来られないのは少し残念ですが、応援すると言ってもらえるだけで、

 力がみなぎってくるかのように温かい気持ちになれます。

 私たちも、優勝目指して、一意専心、頑張りますね』

 

 

 

 

『送信者:織部春貴

 日付:6月6日18時57分

 件名:誕生日おめでとう!

 本文

 こんばんは。

 まずは1回戦突破、おめでとうだね。戦車道ニュースサイトで結果を見たよ。

 無事に勝利できたようで僕も一安心です。

 2回戦も頑張ってね。僕は全力で応援させてもらうよ。

 そして、誕生日おめでとう。

 プレゼントとかが用意できなくて、メールだけでごめんね。

 いつか会う時に、渡せなかった分のプレゼントを持って行くよ』

 

『送信者:赤星小梅

 日付:6月6日19時31分

 件名:Re:誕生日おめでとう!

 本文

 こんばんは、春貴さん。

 誕生日のメール、ありがとうございます。

 BC自由学園は手強かったですが、

 皆で力を合わせたおかげで勝利することができました。私も本当によかったです。

 次の試合も、全力で挑みますね。

 プレゼントの件ですが、春貴さんからのお祝いの言葉が貰えただけで、

 私は十分ですよ?

 でも、そのいつか会う時が来る事を期待して、

 楽しみに待っていますね』

 

 

 

 

『送信者:織部春貴

 日付:6月14日20時12分

 件名:2回戦突破記念

 本文

 こんばんは、小梅さん。

 2回戦も勝つことができて、良かったね。

 サンダースは四強校の一角と言われるだけあって苦戦したみたいだけど、

 何とか勝てたみたいで、本当によかった。

 試合を直接見て応援できないのが残念だけど、

 次の試合も、頑張ってね』

 

『送信者:赤星小梅

 日付:6月14日20時28分

 件名:Re:2回戦突破記念

 本文

 こんばんは。メール、ありがとうございます。

 サンダースも確かに強かったです。1回戦も中々に苦戦しましたが、

 今回はそれ以上に厳しい戦いでした。

 でも、戦車隊の皆さんのおかげで、勝利を収めることができました。

 無事に勝利することができて、何よりです。

 次の試合も油断はせず、黒森峰の戦いをしていきますので、

 応援してもらえると、嬉しいです』

 

 

 

 

『送信者:赤星小梅

 日時:6月25日21時13分

 件名:

 本文

 今、電話しても大丈夫ですか?』

 

『送信者:織部春貴

 日時:6月25日21時15分

 件名:Re:

 本文

 大丈夫だよ』

 

 

「もしもし?」

『あ、春貴さん・・・ごめんなさい、こんな夜遅くに・・・』

「ううん、大丈夫」

『ええと・・・・・・その・・・・・・』

「・・・・・・明日は、いよいよ決勝戦だね」

『・・・はい』

「・・・・・・・・・・・・・・・」

『・・・・・・実は、春貴さんに電話したのは・・・』

「・・・・・・うん」

『・・・・・・ちょっとだけ、私の・・・ええと・・・・・・』

「・・・・・・」

『・・・・・・不安を、聞いてもらいたいんです』

「・・・・・・・・・・・・いいよ。話してみて?」

『・・・ありがとう、ございます』

「気にしなくて大丈夫だよ」

『・・・・・・明日は、春貴さんの言った通り決勝戦です。戦うのは・・・みほさんが率いる大洗です』

「・・・・・・うん」

『・・・今回の大会でもみほさんは、聖グロリアーナや継続と言った強敵を破り勝ち上がってきました。戦車も新しく増えていて、実力は去年とはまた違います』

「・・・・・・・・・・・・」

『そんなみほさんを、大洗を相手に戦うのが、不安なんです。勝てるのかな、負けたらどうしよう、って・・・・・・そう考えてしまうんです』

「・・・・・・・・・・・・」

『副隊長になったから、かもしれません。隊を率いる人として、責任を背負っているからかもしれません。だから余計、不安で仕方ないんです・・・・・・』

「・・・・・・・・・・・・そう、なんだ」

『・・・・・・・・・ごめんなさい、こんなことを話してしまって』

「そんな事無いよ。前にも言ったかもしれないけど、こうして小梅さんが頼ってきてくれることが、僕はすごく嬉しいから」

『・・・・・・・・・』

「・・・小梅さん」

『・・・・・・・・・はい?』

「・・・確かに大洗の事はネットで見た。でも、黒森峰だって負けてない」

『?』

「1回戦でBC自由学園、2回戦でサンダース、準決勝でプラウダに勝った黒森峰だって、十分に強くなってる。それは、僕にも分かるよ」

『・・・・・・・・・』

「常連校のBC自由と、四強校の内の2校を破ったのは、黒森峰の実力の賜物だって言うのは紛れもない事だ。でもそれとは別に、小梅さんが副隊長として隊を率いていたのも、勝利できた要因だと思う」

『・・・・・・・・・』

「だから小梅さんも、不安になるぐらい弱いわけじゃない。むしろその逆で、小梅さんも十分強いんだ」

『・・・・・・・・・』

「それと小梅さん・・・この大会で送ってくれたメールに、いつも書いてたよね。『皆のおかげで勝つことができた』って。『皆が力を合わせたから勝つことができた』って」

『・・・・・・・・・』

「小梅さんは、自分の隊の仲間たちの力を信じて、今日まで戦ってきた。そうでしょ?」

『・・・・・・・・・はい』

「・・・・・・隊を率いる者として何より大切なことは、自分に付いてきてくれる仲間たちを信じる事だと僕は思う。西住元隊長が隊長として信頼されていたのも、元隊長自身も隊の仲間たちを信頼していたからじゃないかな」

『・・・・・・・・・』

「だから小梅さんも、仲間がいる事を忘れないで、そして仲間を信じて戦うんだ。そうすれば、どれだけ不安でも、負ける事が怖くても、戦うことができる。勝つことだってできるはずだ」

『・・・・・・・・・・・・』

「・・・・・・・・・」

『・・・・・・・・・ありがとう、春貴さん』

「?」

『・・・春貴さんの言葉のおかげで、また少し緊張が無くなったように感じます。また、助けられてしまいましたね・・・』

「ううん、大丈夫だよ。小梅さんは、気にしないでいいんだ」

『・・・明日の試合・・・皆さんを信じて、全力で戦います』

「うん」

『そして、大洗に・・・みほさんに勝って、優勝します』

「・・・・・・頑張って。僕も応援するよ」

『・・・ありがとう、春貴さん』

「うん、じゃあね」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さて」

 

 

 

 

 観客席が水を打ったように静まり返っている。先ほどまでの歓声も嘘であったかのように、静寂に包まれている。

 観客席の前にあるモニターには先ほどまで、黒森峰女学園のフラッグ車のティーガーⅡと、大洗女子学園のフラッグ車であるⅣ号戦車の激しい撃ち合いが映されていた。だが今、そのモニターは、戦車から立ち込める黒煙によってほとんど真っ黒になってしまっている。試合会場を飛行する無人ドローンからの映像は全部で4つあるのだが、その4つともが全く機能していない。

 観客たちは、黒煙が晴れるまで声も上げず、静かに待つ。

 7月が近づいている割には涼しい風が観客席を撫でるように吹き、状況が動く。

 モニターを覆い尽くすかのように上がっていた黒煙が静かに払われ、戦車の姿が見えてきた。観客たちは無意識にモニターにのめり込むように、身を乗り出してモニターを見る。

 やがて黒煙が晴れたそこに映されていたのは―――

 

『大洗女子学園フラッグ車、走行不能。よって・・・・・・』

 

 砲口から白煙を上げているティーガーⅡと、白旗を揚げているⅣ号戦車だった。

 

 

『黒森峰女学園の勝利!!』

 

 

 審判長の蝶野亜美が高らかに宣言する。

 第64回戦車道全国高校生大会の決勝戦。それを制したのは、黒森峰女学園だ。

 つまり、黒森峰女学園が優勝したのだ。

 観客席の誰もがそう認識した直後、喜びの声と、残念そうな声が半々ぐらいの割合で観客席から上がる。

 大洗女子学園は、去年の第63回大会で奇跡の快進撃を見せ、さらに大学選抜チームとの試合をも制した、伝説と言っても過言ではない学校だ。今年だって、ダークホースの中立高校、継続、聖グロリアーナを破った快進撃を見せていた。

 その学校が、かつては前人未到の領域・全国大会を9連覇していた“最強”と謳われる黒森峰に敗北したのが、大洗女子学園のファンや関係者にとっては非常に残念だったのだ。

 一方で、黒森峰が優勝を遂げた事を悔しがる人がいないわけではない。もちろん、黒森峰を応援するサポーターだって大勢いるのだから、優勝を決めて喜ぶ者だって当然いる。

 モニターに、ちょっと残念な気持ちを表しつつも笑っている大洗のⅣ号戦車のメンバーと、優勝を決めた事に対する喜びを極力面に出さない黒森峰のティーガーⅡの乗員が戦車から身を乗り出す。

 それを見ると観客たちは、優勝した黒森峰を称える拍手と、奮戦した大洗を労う拍手を惜しみなく贈る。

 

 

 

「・・・・・・エリカさん、小梅さん」

 

 表彰式と閉会式が行われる場所へ向かおうとしている、小梅とエリカの背中に声が掛けられた。

 そのふわりとした声は、2人からすれば聞き間違えるはずのない声。

 振り返ってみればそこにいたのは、大洗戦車隊の隊長である西住みほと、首の後ろで跳ねるセミショートヘアの、今年から副隊長になった澤梓と言う少女だ。梓は先ほどまで泣いていた様で、目が少し充血しているし、頬も少し紅くなっている。

 

「・・・・・・優勝、おめでとう」

 

 みほが少しはにかみながら告げると、梓も『おめでとう、ございます』と告げる。多分、梓は悔しいのだろう。去年の副隊長とは違う人物だから、恐らくこの大会が初めて彼女が副隊長を務めた大会なのだろう。だから悔しいと、それは深く考えずともわかる。

 その姿を見ると、少し罪悪感を抱かないわけでもない小梅だが、ここで謙遜するのは逆に相手を侮辱するに等しい。

 

「・・・・・・あなた達も、十分戦ったわよ」

「・・・・・・そうかな?」

「そうよ」

 

 エリカが、いつもと変わらない風を装ってみほに告げる。少し皮肉交じりの、だがそれでも相手を素直に称賛する微笑みを携えて。

 

「エリカさんの言う通りですよ。みほさん達も、本当に強かったです。やっぱりみほさん達大洗は強いんだなって、そう思いました」

「そ、そんなにかな・・・・・・」

「ええ、その通りですよ」

 

 小梅の言葉に、エリカも頷く。同じことを思っていたらしい。

 そして小梅の言葉を聞いて、みほの隣に立つ梓も、少し表情を緩める。

 

「でも、黒森峰も変わったね。去年とは全然違った」

「・・・どうかしらね」

 

 みほが感心したように告げるが、エリカはそっぽを向く。その姿を見て小梅は、少しだけ可笑しく思い笑う。

 確かに試合の最中で黒森峰の取った作戦は、去年の決勝戦では見せなかったような者ばかりで、観客たちの度肝を抜いたのも事実である。

 

「エリカさーん、赤星さーん!行くよー!」

 

 と、そこでトラックのハンドルを握る直下がエリカと小梅に声をかけてくる。少し話をしているのが長すぎたらしい。

 

「そろそろ、行くわね。あなた達もでしょ?」

「あ、うん。そうだね」

「では、また」

「・・・・・・はい」

 

 エリカとみほ、小梅と梓が挨拶を交わして、お互いにそれぞれの学校のトラックへと乗り込んで表彰式へと向かう場所へと向かう。トラックに乗る黒森峰の生徒たちは、皆唇を歪めて勝利の喜びに浸っていたり、あるいは涙を流して嬉しさを表現する者もいた。小梅だって、優勝が決まった時は泣きそうになるぐらい嬉しさが胸の中に込み上げてきたのだが、副隊長として、隊を率いるものである以上、そうした感情はあまり面に出してはならない。

 だから、勝利の喜びの声を上げるのはまだお預けだ。

 そしてこの気持ちは、すぐに自分の愛する織部に伝えたかった。自分の口で、伝えたかった。

 学園艦に戻ったら、まずは織部に電話をしよう。そして、優勝したことの喜びを、ありのままの自分の気持ちを、織部に伝えよう。

 そう思いながら、小梅たちのトラックは表彰式の会場へと向かって行った。

 

 

 

「いやぁ~・・・勝っちゃったね」

 

 表彰式と撤収作業を終えて、清水港に停泊している黒森峰学園艦へと向かう電車の中で、三河が疲労と歓喜の入り混じった声を洩らす。隣に座って窓の外を眺めていた根津が、ゆっくりと三河の方を見る。

 

「まあ、僅差で勝ったって方が正しいか」

「そうだね・・・。最後の方なんてギリギリだったみたいだし」

 

 直下が根津の言葉に頷いて、同意する。

 三河も根津も、直下だって去年大洗と直接戦ったのだから、大洗がどれだけ強かなのかは分かっていた。そして去年の戦いで、黒森峰の弱点を突かれたことを教訓に、去年から今日に至るまでその弱点を克服するように練習を重ねてきた。不測の事態に冷静に対処し、新体制になってからは個人でも考えて動くことができるようになる訓練をしてきたものだ。

 その成果を大洗に見せつける意味もあった今回の試合は、大洗に完全におちょくられた去年と比べると、大洗の少し上を行くことができたように感じられる。

 エリカの発案した煙幕を用いた群狼戦術も1度きりとはいえ大洗の不意をつけたようで、一気に2輌撃破する事ができた。隊の戦車たちも、大洗の挑発行動に乗る事は無くまとまって進撃して、大洗のペースを乱す事にも成功した。

 だがそれでも、大洗も去年から成長していないという事は無かった。3年生が卒業しても、大洗の隊長であるみほは次の世代の仲間たちをしっかりと育て上げ、去年と同等か、もしくはそれ以上に強くなっていた。そして新しい戦車も投入されていて、その試合の結果は根津の言った通り本当に『僅差で勝てた』のだ。

 

「でもまあ・・・・・・黒森峰にいるうちに、優勝できて本当によかったよ」

「まあ、それは確かにそうだな」

「うんうん、やっぱり優勝は誰でも嬉しいものだよね」

 

 三河たちも、強豪校たる所以の戦車道に憧れて黒森峰に入学し、そして入隊したのだ。最初期の厳しい訓練に耐えてきたのも、戦車隊で戦いたいという一心だった。

 その強さに憧れて、厳しい訓練に耐えて抜き、敗北を味わったからこそ、今回優勝できたことが筆舌に尽くしがたいぐらい嬉しいのだ。

 ちなみに、彼女たちとよくつるむ斑田は、優勝したことで緊張の糸が切れてしまったのか、直下の隣で窓に寄り掛かって眠りこけている。

 

「・・・赤星さんも、優勝できて良かったよね」

 

 直下が、隣のボックス席に座る小梅に話しかける。それは、一昨年の全国大会で優勝を逃してしまった直接の原因として気に病んでいただろうと思い、そして今日こうして優勝できたことが本当によかったと思っての事だった。

 だが、その小梅は手の中にあるスマートフォンを見たまま、直下の言葉に反応しない。

 

「・・・・・・赤星さん、どうかした?」

「・・・・・・え?あ、いえ、何でもないですよ」

 

 小梅は直下にもう一度尋ねられてそう答えたが、何かあるのはあからさまだった。

 だが、直下も、傍にいた三河と根津も、その“何か”については言わなくても分かっていた。

 おそらくは、去年の4月から9月末までの半年の間、留学という特殊なケースで黒森峰にいた織部がらみだろう。

 その織部と小梅が付き合っているのを根津たちは知っている。そして、織部が黒森峰を去ってからも小梅は連絡を交わしているのだって、もちろん知っている。

 とすれば、小梅とエリカの率いる黒森峰が全国優勝を果たしたこのタイミングで小梅が連絡―――恐らくはメール―――を交わした人物は、織部である確率が高い。小梅の両親と言う可能性も捨てきれないが、織部の方が可能性が高かった。

 そしてメールの内容は恐らく、小梅と黒森峰への、勝利を祝うメッセージだろうと、根津たちは思っていた。

 そんな根津たちの予想は、少しだけだが違っていた。確かに小梅が見ていたのは織部からのメールだったのだが、内容は黒森峰と小梅を称えるものだけと言うわけではなかった。

 だが、そうでなくても、そのメールは小梅の心を揺り動かすほどの内容だった。

 

 

 学園艦に戻り、戦車を格納庫まで戻して隊員たちは解散となった。優勝の興奮冷めやらぬ隊員たちは一緒に夕飯を食べに行ったり、家族に喜びを電話で伝えたりしている。

 エリカも、黒森峰を優勝へと導いた立役者として隊員たちから胴上げでもされそうな勢いだったが、エリカが必死に『それはやめて』と抵抗したので胴上げは叶わなかった。

 だが、去年までの黒森峰なら胴上げなんて考えもしなかっただろう。これまでは優勝したとしても、粛々と、淡々と祝って終わりだったのだから。それだけ黒森峰も、変わったという事だ。

 さて、隊員たちが優勝した喜びに浸っている中で、小梅は1人で、ある場所へと向かっていた。どうしてこうなったのかと言うと、それは先ほどの織部からのメールにある。

 あのメールには、お祝いのメッセージが書かれていたのだが、それとは別に写真が1枚添付されていた。そしてそれに加えて、『できれば、この場所に来てほしい』と書いてあった。

 その写真は小梅にとっても馴染み深い場所の写真であり、黒森峰学園艦にある場所だった。

 そこに織部がいると、小梅は信じている。

 だから小梅は、小走りになりながらもその場所へと向かう。既に陽は落ち、歩道を照らすのは街灯だけで、おまけに空には雲が広がり星も月も見えず、しかも本格的な夏が近づいていて蒸し暑くなってきてはいるが、そんな事は気にせずに小梅はその場所へと向かう。

 その場所に、織部がいると信じて、迷わずに突き進む。

 やがて小梅は、そこにやってきた。2人が分かりあえた場所であり、恋人同士となれた場所でもあり、そして再会を約束した場所でもある、あの花壇だ。

 去年、織部と離れ離れになってしまった後も、小梅は何度かこの場所を訪れていた。寂しくなった時や、副隊長としての重圧に押し潰されそうになった時、心細くなった時、そんな時はここを訪れていた。ここに来れば、織部と過ごしていた時間の事をより克明に思い出すことができたし、そして織部とメールや電話を交わすと織部が傍にいてくれているような感覚を得られたから。

 その花壇の近くに小梅がたどり着くと、花壇のすぐそばにあるベンチに誰かが座っているのに気付く。この辺りは街灯が少なくて暗いうえに空が雲に覆われていて、その人物の顔は見えない。

 だが、その人物が、小梅には誰なのかが分かるような気がした。

 

「・・・・・・春貴さん?」

 

 そう、確かめるように呟く。その言葉は、その座っている人物に向けてかけたものではなかったのだが、その座っている人物は小梅の声に反応し、小梅の方へと顔を向けた、ように感じる。

 そして、その人物はゆっくりと立ち上がり、小梅の前に向かい合うように立つ。

 すると、タイミングを計ったかのように空に広がる雲が流れ、暗かった周囲がわずかに明るくなっていく。

 徐々に、小梅の前に立つ人物の姿が明らかになっていく。

 足下から順々に姿が明るみになっていき、着ているのはどこかの学校の制服などではない私服だというのが分かり、やがてその顔もまた、月明かりで照らされていって。

 

「・・・・・・春貴さん・・・っ!」

 

 その人物の顔を認識した瞬間、小梅は瞳に涙をにじませて、その人物に抱き付いた。

 月明かりに照らされたその人物は、小梅が会いたいと切に願っていた、他ならない織部だった。2人が再会を約束してからまだ1年も経っていないのだが、それでも長い間会えなかったことに変わりはない。会えなくて心細かったことに変わりはない。

 だから、長い時間を経て会えたことに対する嬉しさをこうして小梅は体現している。

 そして寂しいと思っていたのは織部も同じだったようで、抱き付いてきた小梅を引きはがそうとはせず、むしろ自分に抱き寄せるかのように優しく背中に手を回した。

 

「・・・・・・本当に、久しぶりだね。小梅さん」

「・・・会いたかった・・・・・・会いたかった・・・・・・!」

 

 そうして少しの間、お互いに抱擁を交わして再会を喜んでいると、織部の胸に顔をうずめたまま、小梅はぽつぽつと話し出した。

 

「・・・・・・優勝、できました」

「うん、見てたよ。会場で」

「え・・・・・・?じゃあ・・・・・・」

 

 どうしてすぐに会いに来てくれなかったのか、と小梅は目で問いかける。あの時会場で観ていたのであれば、すぐに会う事も可能だっただろうに、そして回りくどく呼び出すなんてこともせずに済んだはずだ。

 

「・・・・・・僕はもう、黒森峰の人間じゃないからね。だから試合会場に入る事ができなかったし」

「・・・・・・」

「それに、小梅さんはもう去年とは違って隊を率いる副隊長だ。だから、すぐに会うのは難しいと思ったんだよ」

「・・・・・・そうでしたか」

 

 なにも織部は、意地悪で小梅をこうして呼んだのではない。小梅の事を考えて、呼び出したのだった。

 それを知って、いや知る前でも、小梅は織部に対して怒ったりはしない。むしろどんな形であれ、直接会うことができたのがとても嬉しいのだ。

 

「・・・・・・優勝、おめでとう。小梅さん」

「・・・・・・ありがとう、春貴さん」

 

 やっと、直接聞くことができた、織部からの祝いの言葉。その言葉を織部から直に聞けただけで、優勝したことによる喜びよりもさらに大きな喜びを感じられる。

 

「勝てました・・・・・・私たち・・・・・・!」

「うん・・・・・・頑張ったね。小梅さん」

「・・・・・・よかった・・・本当によかった・・・!」

 

 直下の懸念していたように、小梅は一昨年の全国大会で黒森峰が優勝を逃し、みほのあの行動をとってしまった直接の原因であるという事を、失念してはいない。

 だからこそ、その黒森峰を率いて、自分のせいで逃してしまった優勝を取り戻した事が、嬉しくて仕方が無くて、こうして織部の前でひたすら自分の中にある嬉しい、良かったという感情を吐き出している。

 

「でも、勝つことができたのは、皆さんが力を貸してくれたからです。私1人の力じゃありません・・・」

「・・・・・・小梅さんなら、そう言うと思ったよ」

 

 そして織部は、小梅を抱き締める力を一層強くする。

 

「でも、小梅さんだって頑張った。それは、変わりないよ」

 

 そう織部が告げると、小梅もまた織部を強く抱きしめる。

 そして、少しの間だけ、2人は離れ離れになった後の自分たちの出来事を話した。共通したところと言えば、織部も小梅も進学する大学を決めていて、お互いに推薦入学ができるように頑張っているとのことだ。

 小梅に限った話では、副隊長として隊長のエリカと接する時間が増えて、大分仲良くなることができたという。ごくたまに、エリカから愚痴のような事を聞かされているようで、距離感が大分縮まったようだ。隊長としての憂鬱を小梅は真面目に聞いているので、エリカとしても色々話しやすいのだろう。

 織部としては大した話は無く、別に大きなイベントも無かったのだが、織部と直接会って話をすることができるだけで、小梅は満足だったらしく、終始微笑んでいてくれた。

 そして夜も更けてきたところで、織部の帰る時間が来てしまった。清水港から織部の学園艦へと向かう連絡船の最終時刻が迫っているのだった。

 名残惜しいが、今一度小梅と離れ離れになってしまう。だが、それでもまた再会を約束し、2人が再開する事を願って、また別れる。

 また明日からは、お互いに離れ離れとなる日が始まる。

 だけれども、2人は今日再会したことで、寂しさがまた少しだけ軽くなっていた。

 

 

 

『送信者:赤星小梅

 日付:3月10日17時53分

 件名:卒業

 本文

 こんにちは、春貴さん。

 こちらは温かくなってきましたが、春貴さんはいかがお過ごしでしょうか。

 今日私は、無事に黒森峰を卒業することができました。

 3年間、辛い事も、楽しい事もあった黒森峰ですが、私は黒森峰が大好きです。

 だって、この黒森峰にいなかったら、春貴さんと出会う事もできなかったんですから。

 でも、いつまでも感傷に浸っているわけにはいきませんね。もう来月からは、

 大学生として新しい生活が始まるんですから。

 そして大学でも、戦車道は続けます。

 1人では心細いと思ったのですが、意外にもエリカさんが同じ大学に進学するので、

 エリカさんと一緒に戦車道を続けていきます。

 春貴さんも、頑張ってくださいね。

 応援しています』

 

『送信者:織部春貴

 日時:3月10日18時07分

 件名:Re:卒業

 本文

 こんばんは、小梅さん。メールありがとうね。

 卒業、おめでとう。

 小梅さんは将来も、戦車道を続けるって言っていたね。

 プロ入りをするのは、決して楽な道のりじゃないというのは僕にも分かるけど、

 小梅さんなら乗り越えられるって僕は信じてる。

 だから、できる事は少ないけど、僕は全力で小梅さんを応援するよ。

 僕も大学で夢を叶えられるように頑張るから、

 お互いに、頑張って行こう。

 逸見さんにもよろしく伝えてくれると、ありがたいかな。

 またいつか、会える日が来たらいいね。

 

 

 P.S.

 いつか、小梅さんに伝えたい大事な言葉があるんだ。

 だから、その日が来るまでは、どうか待っていてほしい』




リンドウ
科・属名:リンドウ科リンドウ属
学名:Gentiana scabra
和名:竜胆
別名:―
原産地:日本、中国、朝鮮半島、シベリア
花言葉:勝利、固有の価値、正義、あなたの哀しみに寄り添うなど


2人の離れ離れになっていた時間を表現するために、
メールに日付を入れてみましたがいかがでしたでしょうか。

流石にこれ以上長くしてはならないと思ってこうしました。
お気に召さないようでしたら申し訳ございません。

感想・ご指摘等があればお気軽にどうぞ。


中立高校、劇場版内のサイトでちょこっとだけ出てきました学校です。
最終章にも出てきたらしいですけど、どこに出てきたのか筆者には分かりませんでした・・・。


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(ウメ)

最終話ですが、
また少し時間が飛んでいます。
予めご了承下さい。


 戦車道の世界は決して甘くはない。

 生半可な気持ちで挑む事などできない、厳しい世界だ。

 勝負の世界だからこそ敗北を経験する時はあるし、あるいは困難な壁に行く手を阻まれ挫折する事だってある。

 第62回戦車道全国高校生大会で、西住みほの行動が大多数から否定されたように、自分の信じた道が否定されるという事も、また起こり得る。

 大洗女子学園のように、戦車道で自分たちの居場所を取り戻すというケースは稀だが、そのような事態に直面する可能性もできてしまった。

 だが、そのような厳しい世界の中で、小梅は戦ってきた。

 小梅もまた、戦車道の世界で心に大きな傷を負い、苦悩を抱えていた。本当に心が折れるぐらい、小梅はどうしようもない悲しみに囚われていた。

 だが、今日まで小梅が戦車道を続けていられるのも、小梅にとってかけがえのない、大切な人ができたからだ。

 その大切な人は、小梅と同じように過去に大きな傷を負い、だからこそ小梅の気持ちを理解してくれた。そして、小梅の傍にいると言ってくれた。

 その人もまた過去に傷を負ったからこそ人に優しくすることができ、小梅もその人と思い出をいくつも重ねてきた。

 いつしか小梅は、その人と離れたくない、ずっと一緒にいたいと思うようになった。

 それが恋という感情に気付くのに、そう時間はかからなかった。

 そして2人は互いに恋人同士となり、さらにはその先の未来も約束した。

 だがその未来が訪れる前に、小梅には一つだけ、やらなければならない事があった。

 

 

 ある日の夜、学習机で勉強をしていた織部だが、脇に置いていたスマートフォンが電話の着信を告げた。

 しかして織部は、電話を取る前から誰からの電話かは、薄々気付いていた。

 画面を見れば、『着信:赤星小梅』の文字。ビンゴだった。だが、電話自体が嫌なわけではない。

 すぐに電話を取る。

 

「もしもし、小梅さん?」

『あ、春貴さん。こんばんは。ごめんなさい、夜遅くに・・・』

「ううん、気にしないで。それで、どうかしたの?」

 

 織部は口ではそう尋ねるが、小梅がどうして電話をかけてきたのかは大体予想できている。

 

『・・・・・・明日の試合、の事で、その・・・・・・』

 

 その織部の予想は当たった。だからと言って呆れたりはしないし、話をしたくないと言うわけでもない。

 

「・・・・・・話してごらん?」

『・・・・・・・・・えっと、春貴さん』

「うん?」

『・・・・・・突然電話したのに・・・いいんですか?』

 

 どうやら小梅は、小梅が唐突に電話を掛けたのに、織部が電話を掛ける事を分かっていたかのように落ち着いていて、そして何か相談をしてくることも予想していたかのような様子が不思議に思えるらしい。

 

「・・・・・・小梅さん、多分今頃緊張してるんじゃないかな、って思ってね」

『どうして・・・?』

「小梅さんと付き合い始めてから大分経ったし・・・小梅さんが今どんな気持ちなのかなって・・・なんとなくだけど分かるんだ」

『・・・・・・・・・』

「だから、大事な試合の前の日に、小梅さんが今どんな気持ちなんだろう、っていうのも、分かるようになってきたよ」

『・・・・・・・・・』

 

 小梅が黙り込む。恥ずかしいのか、織部にそう心配させて申し訳ないと思っているのか、可能性としては後者の方が高い。

 

『・・・・・・迷惑、でしたか?』

「とんでもない」

 

 何度も言うようだが、こうして小梅が織部を頼り、そして不安や恐れを口にしてくれることが織部にとっては嬉しい事なのだ。織部を頼るという事はそれだけ信頼されているという事だし、これで小梅の中の不安や恐怖心を軽減させることができるのであれば、いくらでも話を聞く所存だ。

 

『・・・・・・ありがとう、春貴さん』

 

 その織部の言葉を聞いて、小梅も最初に抱いていた織部に対する申し訳なさが無くなったらしい。これで、少しだけかもしれないが話しやすくなっただろう。

 

『・・・・・・明日は、大事な試合なんです。恐らく、これまでの私が戦った試合の中でも、特に・・・』

「・・・・・・うん、分かるよ」

 

 大学に入学して早4年が経過するが、小梅はその間も戦車道を続けている。それはもちろん、小梅自身が将来はプロ戦車道選手となる事を希望しているからだ。

 黒森峰でも戦車道を嗜んでいて、3年の間とは言え副隊長を務めていたから、大学の戦車道チームに入隊する事は、別に問題は無かった。

 ただし、大学の戦車道もそれなりにレベルが高いがゆえに、色々と苦労する事はあったようだ。織部は大学の小梅の戦車道を見た事が無いから、どれだけ厳しいのかは分からないが、時折小梅との電話でどれだけ厳しいのかを何度か耳にしていた。それでも小梅はめげずに、大学選抜チームと言うチームに入ることを目標としていた。

 かつて大洗女子学園が存続をかけて北海道で戦った大学選抜チームは、全国の大学から選りすぐりの戦車道選手を集めて構成されたチームであり、以前は島田流戦車道後継者の島田愛里寿、バミューダ三姉妹と言われるメグミ、アズミ、ルミの3人が属していた。時が流れて今はその4人もプロ入りなどで脱退したが、それでも大学選抜チームは社会人チームと肩を並べるほどに強いチームとされていた。

 そんな大学選抜チームに、小梅は現在所属している。それは小梅の努力によるものであるが、それと同時に小梅と同じ戦車に乗る乗員との協力にもよるものだと、同じ戦車で戦う仲間のおかげだと小梅は言っていた。

 黒森峰にいた時のように、自分の実力によるものだと驕ることはなく仲間と協力したからこそと堂々と言える小梅は、黒森峰の時と良い意味で変わっていない。大学に入ってから小梅の戦車の乗員は変わってしまったが、小梅はそれでも同じ戦車の乗員とは親交を深めて打ち解け、こうして大学選抜チームに抜擢されるまでに強くなっている。

 そして、大学選抜チームの隊長をエリカが務めている今、小梅は黒森峰と同様にエリカの補佐であり、副隊長でもあった。それほどまでに小梅はチームの中でも指折りの戦車乗りで、エリカからその実力を認められている。そしてチームの皆からも、その実力は認められていた。

 だが、大学選抜チームに入れただけで満足、とはいかない。小梅の最終目標は、プロなのだから。

 

『明日の試合で勝てば・・・・・・プロ入りは、目の前なんです』

「・・・・・・うん、僕もそう聞いてる」

 

 明日の試合は、大学選抜チームと社会人チームの試合の日だ。この試合はメディアの取材も来る事が決まっており、戦車道関係者が注目する試合である。

 そしてこの試合に勝てば、かつて島田愛里寿が大学選抜チームを率いていた時以来の大逆転、ジャイアントキリング、大金星となる。さらにこの試合で成果を挙げることができれば、プロの道は約束されたも同然だ。

 はっきり言って、この試合がどれだけ重要な意味を含んでいて、これまでのどの試合よりも重いものだというのは、織部よりも小梅の方がずっと分かっているはずだ。

 

「・・・・・・緊張してるよね、やっぱり」

『・・・・・・はい』

 

 それはそうだろう。この試合の勝敗で、小梅の人生が決まると言っても過言ではないぐらい、この試合に賭けるものは大きい。小梅が副隊長を務めた黒森峰と大洗の全国大会決勝など比ではないぐらいだろう。

 

「でも、小梅さんは何度もこうして、不安や弱音を打ち明けても、こうしてここまで戦車道を続けてくることができた」

『それは・・・春貴さんが話を聞いてくれたから・・・・・・』

「いや、違う」

 

 小梅の言葉を、織部は少し強めに否定する。電話越しにも小梅が少し怯んだのが分かる。

 

「確かに小梅さんの言う通り、僕は何度か小梅さんの話を聞いてきた。そして、小梅さんにもいくつかアドバイスや助言もした」

『だったら・・・・・・』

「でも、僕の言葉を聞いて、ここまで戦車道を続けてきたのは、他の誰でもない、小梅さんだ」

『・・・・・・!』

 

 再び小梅が押し黙る。それでもなお織部は続ける。

 

「僕はただ、小梅さんが道に躓きそうになった時、それを支えてあげただけに過ぎない。小梅さんが道に迷いそうになった時、その道を示しただけでしかない。躓いて、そこから立ち直って、そしてまた道を歩き出したのは・・・小梅さんの力だよ」

『・・・・・・・・・』

 

 直接小梅の下へ行って、小梅を励ます事はできない。抱き締めたり、口づけを交わしたりして不安を晴らす事や軽くすることもできない。だから今できる事は、織部自身の気持ちを言葉にして、精いっぱいの気持ちを籠めて言葉で伝える事だけだ。

 ここまで来て、小梅の夢への道が閉ざされるというのはあまりにも残酷だ。ましてやそれが、小梅自身の内にある不安や恐怖によるものだとすれば、なおさら酷な事だ。

 だからせめて、言葉だけで小梅の中の気持ちを和らげる。それが今の織部に出来る最善の事だった。

 

「本当に初めて会った時の、過去の事に囚われて涙を流していた小梅さんはもういない。今の小梅さんは、あの時よりもずっと、ずっと・・・強くなってる」

『・・・・・・・・・』

「小梅さんの乗る戦車が強くなったのを、小梅さんは自分1人だけの力だとは決して思わず、同じ戦車に乗る仲間のおかげだっていつも言っていた。そうして自分1人だけに執着する事も、驕ったりもしない小梅さんは、とても強い人だ」

『・・・・・・・・・』

「前にも言ったと思うけど、仲間の力を疑わず、信頼している人は、とても強い人だ。だから小梅さんも同じだと僕は思う」

 

 小梅からの反応は無い。だが、今だけは織部も小梅に反論させるわけにはいかなかった。ここで反論させてしまえば、持ち直しかけているであろう心がまた傾き始めるだろうから。

 

「どれだけ不安でも、恐怖に押し潰されそうになっても・・・・・・それだけ強い、僕なんかよりもずっと心が強い小梅さんなら・・・・・・乗り越えられる。僕はそう信じているよ」

『・・・・・・・・・』

「それでももし、怖かったら、不安だったら、自分に自信が無いのなら・・・・・・今から僕がそっちへ行く」

 

 それは冗談でも比喩でもない、本当に織部の気持ちだった。

 明日の試合を直接観戦し小梅を応援する事は、残念ながら織部の都合でできなかった。だが、そんな事は今はどうでもいい。小梅にとっての一世一代の大勝負を前にして小梅が怯え、恐れ、不安でいるというのであれば、本当にどんな手段を使ってでも試合会場へと行って、小梅の事を直接励ますつもりでいた。

 それだけ織部は、本気だった。本気で小梅の事を心の強い人だと考えているし、励ましたいとも思っている。

 

『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・春貴さん』

「・・・・・・?」

 

 少しの沈黙の後、小梅が織部の名を呼ぶ。織部は、静かに小梅の次の言葉を待つ。

 

『・・・・・・私みたいな人の事を、そこまで、考えてくれて・・・本当に、本当に・・・・・・』

「・・・・・・・・・」

『・・・・・・ありがとう・・・』

 

 小梅の言葉が途切れ途切れだ。それは小梅が泣いているのだという事が電話越しでも分かるし、その小梅は今、励ましてくれた織部に対する感謝の気持ちと、織部を心配させるまでに不安になっていた自分に対する情けないという気持ちがないまぜになっているのだというのも伝わってくる。

 

『・・・・・・ごめんなさい、春貴さん。心配をおかけしてしまって・・・』

「大丈夫だよ、小梅さん。小梅さんが、持ち直せたのなら、僕はそれでいいんだ」

『・・・・・・本当に・・・ありがとうございます』

 

 もう大丈夫だ。小梅の言葉には、不安や怯えの感情は感じられない。そう思って織部が、最後に励ましの言葉をかけて切ろうとするが、その直前。

 

『・・・春貴さん』

「何?」

『・・・・・・明日の試合・・・勝てたら・・・』

「うん」

『・・・・・・春貴さんに伝えたい言葉が、あるんです』

 

 その“伝えたい言葉”とは何なのか、織部にはすぐに分かった。だが、その言葉は織部自身が先に言いたい言葉であるし、ずっと前にそう決意した言葉だ。

 

「・・・・・・僕も、小梅さんに伝えたい言葉がある」

『?』

「本当に、大切な言葉だよ」

『・・・・・・分かりました。楽しみに、していますね』

「うん、僕も小梅さんの言葉、待ってるよ」

『はい』

「だから・・・・・・・・・明日は、頑張って」

『・・・・・・ええ、頑張ります』

 

 そして、電話は切れた。

 それからほんの少しの間、織部は手の中にスマートフォンを置いたまま、目を閉じて先ほどまでの小梅と交わした言葉を思い出す。

 小梅を励まそうとするあまり、少しばかり感情的になってしまった気がする。だが、全ては大事な試合の前に心が揺れ動いている小梅を励まし、安心させるための事だ。間違った事は何一つとしていないし、間違った言葉も言っていない、と思う。

 小梅の声を聞く限りでは、小梅の中の明日の試合に対する不安は無くなった、あるいは和らいだように思える。それについては、自分の言葉で小梅が持ち直したという事で、一安心だ。

 ただもう一つ気になるのは、『試合で勝ったら伝えたい言葉』だ。

 織部は、このタイミングで伝えたい言葉は、一つだけしか考えられない。それは自分の思考回路があまりにも極端すぎるからか、そうでないのかは分からないが、とにかく“それ”を告げるとしか今は考えられない。

 そして織部自身、小梅にも伝えたい言葉がある。それは恐らく、小梅の伝えたい言葉と内容はほとんど、あるいは全く同じだと思う。

 そこで織部は、机の引き出しを開けて、白い小さな紙袋を見る。その中身を見て、ちゃんと“ある”のを確認し、小さく息を吐く。大学に入ってから始めた接客業のアルバイトで稼いだ給料で買い求めたものだ。

 

(・・・・・・僕はもう、小梅さんに伝えるだけだ)

 

 織部の将来の夢―――戦車道連盟で働くという夢は、成就した。

 ほんの数か月前に試験を受け、合格の通知が1週間ほど前に織部の下へとやってきた。

 これで、織部が中学時代から抱いていた、長年の憧れでもあった将来の夢は叶ったのだ。

 隠しきる事も無理だったので小梅にそれを話すと、電話越しでも小梅の『ものすごい嬉しい』という気持ちがまるで直接対面して伝わるぐらいには、小梅も喜んでいた。終いには涙ぐみながらも小梅は織部に、祝福の言葉を贈ってくれた。

 だが今、織部が気にしているのは小梅の事、明日の試合の事だ。

 手元にある“これ”と、ある言葉を伝えるかどうかは、明日の試合の是非によって決まる。

 この織部の事情を差し引いても、小梅の将来は明日の試合に懸かっているので、織部はただひたすら小梅の所属する大学選抜チームが明日の試合に勝つことを祈るほかなかった。

 絶対に、負けないでほしいと。絶対に勝ってほしいと。

 そう願わずにはいられなかった。

 

 

 顔を上げれば、雲一つない清々しすぎる空が広がっている。気温は秋にしては少し高めで、しかし湿気はそこそこと、絶好の試合日和だった。

 観客席には、遠目から見ても大勢の観客たちが席に座っているし、先ほどちらっと報道陣の姿も見えたので、恐らくこれから始まる試合は、今試合会場にいる人の他にも多くの人間が見ているのだろう。戦車道はエリカが黒森峰にいた時よりもはるかに知名度のある武芸となっていて、こうして試合が中継される事もざらだった。

 その試合を目前に控え、エリカは戦車の前でかつかつと足を鳴らしていた。普段こういった目に見えるような形でイライラを表現しないエリカにしては珍しい事だったのだが、今エリカは別に苛立っているわけではない。

 

「・・・・・・エリカさん、緊張してるみたいですね」

 

 そんなエリカの下へ、とことこと小梅がやってきた。小梅は穏やかな表情をしていて、緊張しているようには全く見えない。

 自分はといえば、滅茶苦茶緊張している。こうして足を鳴らしているのも緊張を紛らわせるためのものだし、心臓の鼓動は普段の比ではないぐらい高い。

 

「・・・・・・緊張しないわけないでしょ」

「そうですよね、それは分かりますよ」

 

 エリカは現在所属する大学選抜チームの隊長であり、小梅は副隊長である。奇しくも黒森峰の3年生の時と同様にエリカと小梅がチームを率いている。だがしかし、今は状況が黒森峰の時とはまるで違う。

 相手は社会人チームであり、戦車はほぼ互角だが、技術も練度も認めたくはないが向こうの方が上だ。加えて、この試合にはプロ入りができるかどうかが懸かっている。エリカだってプロ入りは自分の最終目標の様なものだし、小梅もここまで戦車道を続けているのだから同じだろう。

 だからこそ、それが自分の肩にかかっていると思うと緊張しないはずは無かった。

 

「その割に、小梅は緊張していないみたいだけど?」

 

 そう、今エリカと話をしている小梅には、見た感じでは緊張している様子が無い。隊長ではないが、副隊長としてチームを率いる立場にあるはずなのに、エリカと同じように小梅にも背負うべきものが多くあるはずなのに、なぜここまでゆったりとしていられるのか。

 

「・・・・・・昨日、春貴さんに励ましてもらいましたから」

 

 そう言う事か、とエリカは内心で小さく笑う。

 小梅は、自らが好いている人から激励の言葉を貰って、この試合の覚悟が既に決まっていたのだ。おそらくその言葉を貰うまでは、小梅も緊張感に苛まれ、心が不安と恐怖に押し潰されそうになっていたのだろう。だが、それでも小梅は織部という最愛の人物に緊張をほぐしてもらったのだ。

 そして今、エリカよりも心に余裕ができている。

 

「・・・仲がよろしくて、大変結構な事だわ」

「あはは・・・」

 

 エリカがいつものように皮肉っぽく言うと、小梅が小さく笑う。だが否定はしないあたり、そんな自覚はあったようだ。本人が否定しないから、つくづくあの織部と小梅の仲は相当良いのだと思わさせられる。

 

「こんな大舞台を前に緊張しないっていうのも、羨ましいわね」

「緊張していないわけじゃないですよ?心の中ではまだ緊張してますし」

 

 確かに、織部から励ましを受けただけで緊張を微塵も感じないのであれば苦労はしないし、言葉だけで緊張が無くなるというのならそれはそれで素晴らしいと思う。ただ、織部と小梅の間に限っては、その可能性もあると思えてしまうのだが。

 しかし一方で、エリカ自身は自分の中にある緊張を誰にも吐露できてはいない。それは自分がチームの隊長である故に、隊長が不安をこぼすとチーム全体の士気にも関わるからであるし、エリカ自身そう言う気持ちを素直に吐き出せず、少しばかり素直ではない性格だからだ。

 

「西住元隊長に話すというのは・・・」

「そんな事、できるはずがないわ」

 

 今なお信奉しているまほに相談するというのは論外だ。まほは既に一足先にプロとなっていてプロの世界を生きているし、エリカが何のためにまほの後を追わず、ドイツ留学をせず国内の大学に進学したのかを考えればそれも望ましくはない。

 エリカは確かにまほを心酔しているが、心のどこかではまほに縋っているような気がしていたのだ。いや、『気がしていた』ではなくて『だった』。いつもまほの後ろにくっついていたのも、まほの意見には素直に従っていたのも、まほを心酔して、まほに縋っていたからだったのだ。

 だがエリカも、いつまでたってもまほに縋ってばかりではいられないと自分で考えて、あえてドイツ留学の話を蹴った。そして、まほ無しでも戦車道の世界を自分だけで生きるために、日本に残って自らの技術を磨き上げてきた。

 その結果が、大学選抜チームの隊長だ。

 だからこそ、まほに相談し、またまほに縋るという手はナシだった。

 

「・・・・・・相談できる人がいるって、良い事よね」

「・・・・・・」

 

 エリカがポロっと口にするが、小梅にはその気持ちが分かるような気がした。

 エリカは、エリカ自身の立場と性格のせいで、なかなか人に相談するのが難しい。だから一人で多くのものを背負っている。たまに同じ戦車の乗員と雑談をするエリカの姿を小梅は何度も見てきたが、それでも自分の中にある不安を話すまでにはエリカも素直にはなれないのだろう。

 

「・・・・・・そうですね。いろいろな事を話せる、信頼できる人がいるってだけで、心も落ち着きます」

「でしょうね」

 

 小梅がそう告げると、エリカがジッと小梅の事を見ながらそう返す。小梅の言葉は、まさに小梅自身がいい例だったからで、現在進行形でそれを体現しているからだ。

 

「私にも、そう言う人がいればねぇ」

「彼氏とか・・・・・・いないですよね・・・そう言えば」

「女子大でどうやって彼氏を作れっていうのよ」

 

 エリカのいじけた言葉に、違いないと小梅も苦笑する。ただ、エリカの言う通り、今小梅たちは女子大に所属している。黒森峰も元々女子校だったから、織部の留学というイレギュラーが無ければ、今小梅には彼氏などいないだろうし、そもそも戦車道を続けられていたかさえも定かではない。そう思うと、織部が黒森峰に来たのは相当な偶然だったという事だ。

 

「家族の方に話してはどうでしょう?」

「ウチの両親は過保護気味だし、姉は私の事を子ども扱いするしで・・・・・・なっかなか難しいものよ」

「ああ・・・・・・それは確かに相談しにくいですね・・・」

「もうちょっと程よい距離感を持ってくれればまだやりようはあったのに」

 

 確かに、その両親に緊張している事を話せばあれやこれやと言われるのは必至だろうし、子ども扱いする姉に相談しても逆効果にしかならない。だが、エリカは一度たりとも家族の事を『嫌い』と言ったことはないので、なんだかんだでエリカも家族の事が好きなのだろう。

 

「というか、もうすぐ試合が始まるんだし、そんなこと話す時間も無いわよ」

「そう言えばそうでしたね・・・。話していて、時間を忘れてしまってました」

 

 時計を見れば、試合開始時刻が迫ってきている。いよいよ試合が始まると思うと、気を引き締めなければならない。

 

「・・・・・・小梅」

「はい?」

 

 戦車に乗り込もうとする直前で、エリカが小梅に声をかけてきた。小梅は振り返るが、エリカは小梅の方は見ておらず、試合会場である広い草原を見つめたままだ。

 

「・・・・・・ありがとうね」

「へ・・・・・・?」

「・・・・・・あなたと話してたら、自然と緊張しなくなってた」

 

 唐突過ぎるエリカの感謝の言葉に小梅も拍子抜けするが、確かに小梅と話をしている間はエリカも緊張している様子は無かった。

 

「・・・小梅と話して、西住元隊長の事や家族の事を思い出すと、なんか・・・・・・緊張しなくなったのよ」

 

 緊張している時は大体、心の中には自分以外の誰の顔も思い浮かばなくなり、思う事とはネガティブな想像上の末路や、不安な気持ちだ。だが、そこで親しい人の顔を浮かべると、不思議とその緊張も解れていく。特に、その親しい人との思い出が明るく温かいものであればなおの事だ。

 エリカも、小梅と話しているうちにまほやエリカの家族の事を思い出して、萎縮しきった心を持ち直せるほどの良い思い出を思い出す事ができたのだろう。

 

「・・・それは、よかったです」

 

 小梅も、エリカの緊張をほぐすのに一役買うことができたと思うと、少しばかり誇らしい気持ちになる。エリカはこの大学選抜チームを率いる隊長であり、大切な要だ。だからこそ、万全なコンディションで試合に挑んでもらいたいし、小梅としてもこの試合は負けるわけにはいかないので、エリカが立ち直ったというのは嬉しい事だった。

 

「・・・・・・絶対、勝ちましょう。エリカさん」

「言われなくても、そのつもりよ」

 

 いつものように勝気な口調でエリカが返すと、お互いに戦車に乗り込む。

 

「装填手、準備完了です」

「操縦手、いつでもどうぞ~」

「通信手、問題ありません」

「砲手、いつでもいける」

 

 小梅が車内に乗り込み、全員の準備が整っているのを聞き届けると小梅は頷く。

 黒森峰の頃のパンターの小梅以外の乗員は、今ここにはいない。だが、今この場にいる仲間は、小梅が大学で新たに作る事の出来た信頼できる仲間だ。

 

『仲間の力を疑わず、信頼している人は、とても強い人だ』

 

 織部の言葉がふと頭をよぎる。

 そうだ、仲間の力を疑わずに信じていれば、その信念はやがて通じる。この試合にだって、一世一代のこの大勝負にだって勝てるはずだ。

 時計を見る。試合開始時刻もいよいよ秒読みとなっていた。

 

(・・・・・・絶対に)

 

 キューポラから身を乗り出して、目の前に広がる草原を見つめる。

 まだ視界に捉える事はできないが、この草原の先には、相手チームの戦車がいる。

 そしてまだ見る事はできないが、この試合の先には、小梅の夢がある。

 

(・・・・・・勝つ!)

 

 試合開始を告げる号砲が鳴り、隊長であるエリカの通信が入った。

 

『全戦車、Panzer Vor!!』

 

 

 

 大学選抜チームと社会人チームの試合は熾烈を極めるものだった。

両チームともに臆することなく前進し、敵戦車と肉薄すれば容赦も遠慮も無く砲撃を放つ。装甲が弾け飛び、火花が散って、地面が抉れて、草原には戦車の轍が無数に刻まれる。

 だが、社会人チームもこれまで何度も激戦を勝ち抜いてきたチームだ。だから攻め時も、引き際も弁えている。近接戦闘で無理はせず、不利と判断すれば迷わず一度引いて態勢を整え直す。

 エリカと小梅も、率いているのが黒森峰の戦車であれば、黒森峰の時のように撤退する暇も与えずに追撃戦を仕掛けていただろう。だがそれも、相手チームが及びもしないほど黒森峰が重厚なる装甲と高い火力を持っていたからできた事だ。相手のチームとこちらのチームの戦車の性能はほぼ互角。それに加えて練度は相手の方が上だ。この状況で追撃しても、芳しい成果が得られるとは言い切れない。

 だからエリカも小梅も、深追いして深手を負うのは避けて、同じように態勢を整えるために引いて勝機を覗う。

 そして再びじりじりと近づき、砲撃戦を交え、そして引き際を見て撤退し、またにらみ合いをする。これの繰り返しだ。それは草原地帯でも、山岳地帯でも、市街地地帯でも変わらない。

 

 

 気がつけば、試合開始直後には頭上にあった太陽も傾き、戦車や木など物体の影が伸び始めている。

 殲滅戦には制限時間は存在しない。だから、燃料と弾薬が切れるまで、動ける戦車は戦い続けなければならない。

 だが、試合は間もなく決着がつくだろうと、観客席の誰もが、中継を見る誰もが悟っていた。

 試合開始時点では30輌あった両チームとも、今では両チーム合わせて3輌しかいない。

 社会人チームは、隊長車が1輌だけ。

 大学選抜チームは、2輌。それは隊長であるエリカの車輌と、副隊長である小梅の車輌だけだ。

 茜色に染まる空の下で、両チームの戦車が対峙する。大学選抜チームにはまだ2輌残っているとはいえ、相手チームの隊長車もこの時まで生き残ってきた実力者だ。決して、侮る事はできない。

 キューポラから身を乗り出した小梅は、隣に止まる戦車のエリカに目を向ける。全く同じタイミングで目が合い、そして小さく頷く。

 

「「前進!!」」

 

 2人が同時に指示を出し、2輌の戦車は敵隊長車へ向けて走り出す。相手の戦車も同時に動き出し、こちらへと向かってくる。

 両者の距離はみるみる詰まっていき、そして両チームともほぼ同じタイミングで発砲した。

 その放たれた砲弾は、一直線に戦車へと吸い込まれていった―――

 

 

 

 電車の中で、織部の手の中にあるスマートフォンがニュースを知らせる。そのニュースを見て、織部も顔を綻ばせる。腕を突き上げて喜びたいところだったのだが、ここは電車の中なのでそれは心の中でだけ済ませておく。

 すると、立て続けに4件ものメールが送られてきた。

 差出人は根津、斑田、三河、直下だった。ただ、メールを開く前からどんな内容のものなのかは大体想像がついていたし、実際開いてみても予想通りだった。だが返信しないのも失礼なので、一件一件丁寧に返事を書いて返信する。

 ちなみに彼女たちの送ってきたメールだが、どれも内容は狙ったかのように一緒で『彼女がやったぞ!早く連絡してやれ!』というニュアンスのメールだった。

 メールを打っている内に目的の駅についていたので、急いで降りる。と、今度は電話がかかってきた。その相手は、織部の母だった。

 

「もしもし?」

『もしもし、春貴?小梅ちゃん、やったじゃない!』

「ああ、今さっきスマホのニュースで知ったよ」

 

 興奮冷めやらぬような母親の嬉々とした声を聞いて、織部も辟易する。あんたもか、と心の中で呆れる。母は試合会場で直に試合を観たのか、それともテレビで中継を見ていたのか、どちらかは分からない。

 

『あなた、小梅ちゃんにメールなり電話なりでお祝いのメッセージちゃんと送りなさいよ?』

「送るよ、絶対」

 

 それは言われずともやるつもりだ。

 だが、それは今すぐではない。これだけ大々的に試合の結果が発表されれば、試合をしていた当人たちにもメディアは多く殺到するだろうし、大学選抜チームのメンバー内でもお祝いなどでてんやわんやになるだろう。それならば、もっと遅い時間に伝える方がまだ無難だ。

 そして電話を切って、改めて先ほど入ってきたニュースの見出しをもう一度見る。

 

 

『大学選抜チーム、大金星!激闘の7時間』

 

 

 

 

 小梅が自分の部屋へと戻ってこれたのは、日付変更も間近と言わんばかりの時間だった。

 試合の直後は閉会式、そして会場を後にしようとしたところでメディアの取材が殺到し、その後はチーム内での祝勝会やら何やらで、ここまで遅くなってしまった。

 テーブルに荷物を置いたところで、小梅は椅子に座り込む。自分の部屋と言う、プライベートな空間であり落ち着ける場所に足を踏み入れた事で、緊張の糸がプツンと切れてしまったのだ。

 同時に、疲れがどっと押し寄せて来て、全身から力が抜けて、項垂れる。何しろ7時間以上も戦車に乗り続け、絶えず変化する戦況を頭をフル稼働させて分析し、そして副隊長として隊を率いてきたのだから責任感も尋常ではなかった。だから、精神的にも肉体的にも小梅は疲れていた。

 だが、その疲れは不快感を抱かない、とても心地良いものだ。その疲労感を塗り替えるぐらいの、自分にとって最良の出来事があったからだ。

 メディアが注目していた、社会人チームと大学選抜チームのこの試合に勝ったことで、プロへの道は約束されたと言っていい。これで、小梅の夢であるプロ戦車道選手になるという夢は、叶ったも同然だった。

 

(・・・・・・春貴さん・・・)

 

 その小梅が思い浮かべているのは、織部だ。

 試合の前日の夜、小梅は織部に『試合に勝ったら伝えたい言葉がある』と言った。そして織部も同じように、『大切な言葉を伝えたい』と言っていた。

 小梅には、織部がどんな言葉を伝えたいのか、それがなんとなくだが分かった。だがそれを、あえて言及はしなかった。その言葉は、織部自身の口から直接聞きたかったからだ。

 ともあれ、後はお互いにその言葉を伝えるのを待つだけとなった。

 ポケットからスマートフォンを取り出して、先ほど織部から送られてきたメールを見る。そのメールには、小梅たち大学選抜チームの勝利を祝う最大級の言葉と、織部自身がとても嬉しいという気持ちが文字として綴られていた。それだけでも十分嬉しかったのに、そのメールには続きがあった。

 

『もし、ほんの少しでも時間があるのなら、

 大切な言葉を伝えるために、小梅さんに会いたい。

 そしてできればその時は、また久しぶりに2人でデートがしたいかな』

 

 断らない理由などなかった。

 そして、その日が一日でも早くなるように、小梅は時間も忘れてスケジュールを確認して、予定の無い日を織部に伝えた。

 ただ、もう夜が遅いという事だけは分かっていたので、翌日にメールが届くように時間指定はした。

 

 

 2人の久々のデートが叶ったのは、あの大学選抜チームと社会人チームとの試合からそこまで経っていない、2~3週間ほど後の事だった。2人の実家も、通う大学も離れてはいるが、それでも“どうにかした”。

 そんな2人のデート先となったのは、小梅がまだ黒森峰の生徒だった時、そして織部が黒森峰に留学していた時、最後に2人がデートをした大きな神社と植物園のある港町だった。

 どうしてこの町にしたのかと言うと、それぞれの理由があったからだ。織部は、ライトアップされた植物園を回りたかったから。小梅は、あの神社へお礼参りがしたかったから。最初にデートをした際は、2人それぞれの行きたかった場所が逆だったのだが、それについては別段気にすることはなかった。

 さて、随分と長い間会っていない2人が再会したのだが。

 

「・・・・・・久しぶり、小梅さん」

「・・・はい、お久しぶりです。春貴さん」

 

 そこまで長い間会っていなかったことを感じさせないような、そんな2人の挨拶だった。ただ、2人の服装は高校生だった時と比べると少しだけ大人っぽくなっている。大学生になって服に対する感性が変わったからかもしれない。

 本当は2人とも、長い時間を経た上での再会と、試合に勝利し夢への道が開けた事への嬉しさを思い切り伝えたかったのだが、今は周りに人が多すぎるのでそれも少し憚られる。

 だから、胸の内で高ぶる気持ちはそっと秘めておき、まずはデートだ。とはいえ、織部の希望しているのは夕方からのライトアップだったのと、2人がそれぞれ少し遠い場所から来たので、2人が集まった時刻は少し遅めの正午前だった。

 なので最初に行くのは食事なのだが、2人が訪れたのはカフェだった。喫茶店とカフェの違いは営業許可の違いだと聞いたが、織部と小梅からすればカフェの方がカジュアルなイメージがある。喫茶店だと少し緊張感があるのだが、カフェだとそれはあまり感じられない。あの時はまだ高校生だったのでそれもあるのかもしれないが。

 カフェで昼食を済まして、2人はゆっくりと街を歩きながら、まずは小梅の行きたいと言っていた神社へと向かう。まだ、夕方の植物園のライトアップには十分の時間があるので、焦る必要はない。

 さて、小梅が神社に行きたかった理由だが、『お礼参りがしたいから』とのことだ。

 

「・・・もしかして、最初に来た時に祈願したの?」

「あ、いえ、そうじゃないんです」

 

 あの時と変わらず参拝客が多い中で、織部と小梅は並んで参拝を待つ。その中で織部が、最初のデートで来た時も『プロ入りできますように』と祈願したのかを聞いたのだが、当ては外れた。

 

「実は、織部さんが黒森峰から去ってから、またこの街に寄港した時に来たんです」

「ああ、そう言う事か」

 

 織部が去った後、2回目にここを訪れた際に『プロ入りできますように』と祈願したのだろう。となると、1回目の祈願した内容が気になるところだったが、聞くのは失礼だし、それにあの時小梅が何を願っていたのかはなんとなくだが分かっていた。今さら聞く気にはなれない。

 やがて順番が回ってきて、2人は礼儀作法に従い参拝をする。小梅はお礼参りだが、織部は違うのでちゃんと別の事を祈願する。

 参拝を終えると、2人はまた絵馬所を訪れていた。最初に小梅が書いた『戦車道で強くなれますように』という絵馬は、あの後来た多くの人たちの絵馬に少し隠れてしまっていたし、月日が流れて少し色褪せてしまっていたが、それでも読むことはできる。

 そして、その祈願した内容が成就したと思うと、ここのご利益も確かなのかなと思わざるを得ない。小梅が全く努力をしていないとはこれっぽちも思ってはいないが、ご利益もあったのかも、と思う。

 

「・・・・・・本当に、戦車道で強くなったね。小梅さん」

「・・・・・・ええ。夢みたいです、今もそうなのかなって、思う事がありますね・・・」

 

 どうやらまだ、自分が社会人チームに勝ったという実感があまり湧いていないらしい。

 だが、あの試合に勝ったことは紛れもない事実だ。加えて小梅は、その勝利した大学選抜チームをエリカと共に率いていた副隊長なのだから、忘れてはならないだろうと思う。

 

「でも、夢じゃない」

 

 だから、試合に勝利して、お礼参りに来た今現在の事を夢ではない、現実であるという事を実感させるために、織部は隣に立つ小梅の手を強く握る。

 そこで小梅が織部の方を向いて、織部もまた小梅の方を見る。

 

「・・・・・・おめでとう、小梅さん」

 

 小梅にとっては、それがあの試合の後で初めて織部の口から直接聞いた、お祝いの言葉だ。

 それを聞いて小梅も、勝利したことは決して夢ではなく紛れもない現実であるということを再認識して、そして勝利したこと、夢が目前に迫ってきた事による嬉しさが胸の中で大きくなっていく。

 

「・・・・・・ありがとう、春貴さん」

 

 

 

 その後は2人で授与所で無病息災のお守りを受け、織部の行きたかった場所である植物園へとバスで向かう。ライトアップはそれなりに人気らしく、最寄りのバス停に着いた時には、織部と小梅の他にも多くの客が下車した。

 そして入園料を払い園内へと入るのだが、今回も織部が先んじて小梅の分の入園料も払った。ただそれについて、小梅はもう不満そうな顔をしたりはしない。織部がそう言う優しい男だという事は十分に理解しているから、とやかく言いはしない。ただ、ちょっと悔しいので腕に抱き付いてせめてもの仕返しをする。

 園内に入って、改めて空を見上げると、まだ夕方5時を迎える前だというのに空は暗くなってきている。“秋の日は釣瓶落とし”と言う言葉のように、陽が落ちるのが早いのだ。

 そしてこの植物園の半分を占めるほどの屋外エリアの花畑を縁取るような緑道には、ライトアップを待つ多くの人が立っている。中には本格的なカメラまで持参して、今から見られるであろう光景を1枚写真に撮っておくつもりの人もいた。

 織部と小梅も、緑道でそれほど人が集まっていない場所で立ち止まり、ライトアップが始まるのを待つ。

 やがて、ライトアップが始まる5時になると、園内の時計の鐘が鳴り響き、そして同時にライトアップが始まった。

 

『おお~・・・!』

 

 そして、ライトアップされた直後、緑道に立つ多くの人たちが歓声を上げる。カメラのシャッター音が鳴り響く。

 

「わぁ・・・・・・」

 

 織部の隣に立つ小梅も、感嘆の声を洩らす。織部も、口を小さく開いて目の前の美しい光景を見る。

 花壇を縁取るような明りは、決して咲き誇る花の色と被るようにはせず、なおかつその花の色を損なうような配色にはせずに、花壇に彩りを加えている。

 周りを見れば、イチョウの木もライトアップされていて、黄色い葉が下から灯された明りによって一層綺麗に輝いている。

 

「すごい・・・・・・綺麗です・・・」

 

 小梅が思わず言葉にする。織部もまた頷いて、小梅の意見に同意する。確かにこの光景は、綺麗だった。

 織部と小梅は、そのライトアップされた花壇を横目に見ながら、緑道を歩く。そのライトアップは、どの角度から見ても幻想的でなおかつ美しく、何よりも心に訴えかけてくるものがある。

 何時間でも見ていられそうなぐらい魅力的な光景なのだが、残念なことにこのライトアップは閉園までのおよそ2時間の間だけしか見られない。だが織部も小梅も、その2時間という短い間だけでしか見られない光景と言うのもまた一興だと思う。こうした幻想的な光景は、いつどんな時でも見られるとなると、あまり感動しなくなるものだからだ。

 途中で、織部と小梅はベンチに座って、ライトアップされた植物園を見渡す。2人の目の前の緑道を歩く人の姿はまだ少し多い。

 

「・・・・・・ここに来ることができてよかったです、今日」

「うん、僕もだよ。誘った本人が言うのもなんだけどね」

 

 小梅が、本当に嬉しいという気持ちを言葉に載せてそう呟く。織部もまた、小梅と同じように今日ここに、小梅と共に来ることができてよかったと本当に思っている。長い間会えなかった小梅に会えたこと、小梅が戦車道で本当に強くなったのだと実感できたこと、そして小梅の夢が叶ったことを改めて実感できたのだから。

 2人の目の前の緑道を歩く人の姿が、まばらになってきた。

 

「春貴さん・・・」

「何?」

「・・・・・・ありがとう」

 

 何度目かの、ありがとう。その意味は、多くの事を含んでいるのだろうと、織部も分かる。

 

「・・・・・・私をここに連れてきてくれて・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「そして・・・私と、付き合ってくれて・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

「私を、支えてくれて・・・・・・」

 

 小梅の告げる、織部への言葉を織部は静かに聞き届ける。今だけは、小梅の言ったことを否定したり、謙遜したりはしない。小梅は本当に織部の事をそう想ってくれているのだという事が嬉しかったからだ。

 試合の前日で、小梅を励ますために、ここまで来たのは全て小梅の力だと言ったのは小梅を元気づけるためのものだったし実際そう思っていたからでもある。

 だが、小梅の言う『支えた』とは小梅を励ましたという意味もあるのだろうから、その事実までは否定しない。だから何も言わないのだ。

 緑道を歩く人の姿が、ほぼ見えなくなった。

 そろそろかな、と織部は思い至って、立ち上がる。

 

「・・・・・・小梅さん」

「?」

 

 小さく深呼吸して、ポケットの中にある“もの”の存在を確かめる。ちゃんとある。

 そして織部は、小梅の顔を見る。極力、あまり表情は変えていないつもりだったのだが、小梅が織部の顔を見て同じように立ち上がる。どうやら表情が変わっていたのがバレてしまったらしい。自分はポーカーフェイスなどとは無縁の存在だと内心でほんの少し考える。だがその考えもすぐに払拭して、小梅に改めて向き直る。

 

「・・・・・・僕は、小梅さんと出会えたことを、本当に嬉しく思ってる」

「・・・・・・」

 

「今日まで小梅さんと付き合えたことは、これから先、ずっと、絶対に忘れない」

「・・・・・・」

 

「でも、今日で終わりじゃない。むしろ、その逆だ」

「・・・・・・」

 

 

 織部がポケットから、“それ”を取り出す。丁度、手のひらに収まるサイズのその白い箱を見て、小梅の瞳が潤む。

 大学に入ってからアルバイトを始めて、それ以前からコツコツと貯金していた自分の財産で、自分の力で買い求めた“それ”が何なのか、小梅は気付いたのだ。

 

 

「これから先、ずっと小梅さんと一緒にいたい。ずっと、離れたくないよ」

「・・・・・・」

 

「いや、絶対に離れない。もう、離したくはない」

「・・・・・・」

 

 

 自分の手が、緊張しているせいで震えているのが織部自身分かる。だが、小梅の真剣な、そしてどこか嬉しそうな顔と、海のように揺らぎ潤んでいる瞳を見ていると、自然とその震えも収まっていく。

 なにも緊張することはない、恐れる必要なんて無いと、告げているように感じたからだ。

 震えが無くなったところで、織部はゆっくりとその箱の蓋を開け、中にあるものが小梅に見えるようになる。

 

 

「小梅さん」

「・・・・・・はい」

 

 

 その箱の中にあったものとは、銀色に輝く指輪だった。

 

 

 

「僕と、結婚してください」

 

 

 

 これまでは、そうなりたいという希望、願望があったし、それを口にしたことは何度もあった。

 だが、今この瞬間に織部が告げた言葉はこれまでとは全く違う。

 それは明確に、そうなろうという意志が、覚悟が、決意が、想いが籠められていた。

 その織部に対する小梅の返事は、ずっと決まっていた。

 小梅の言いたかった言葉は、言われてしまった。織部の言いたかった言葉と同じだった。

 だからその答えは、たった1つだけだった。

 

 

 

「・・・・・・はいっ!」

 

 

 

 風が吹いて、涙が小梅の瞳から零れ落ちた。

 その風は、とても心地良いものだったと、今でも覚えている。

 

 

 

 

 

「なんか、やっとここまで来たかって感じだね」

 

 控室で水を飲んで落ち着いている織部に、薄い水色の準礼装ドレスを着た三河が話しかけてくる。緊張感が過去最高クラスとなっている織部にとってはそのぐらいの話題だけでもありがたいものだった。

 

「遅すぎたかな」

「いやいや、妥当じゃないかな?」

 

 交際期間およそ5年は長かったかと織部は思わなくも無かったが、織部も小梅も十分若いので、むしろそれぐらい付き合って今ぐらいの年齢で挙式する方が無難だと三河は思う。

 

「まあ、ようやくくっついたかって感じはするね」

 

 三河の隣に立つ、リボンが施された黒のドレスの根津が冷やかし交じりに告げる。

 

「色々と私らも心配したんだよねぇ。あの織部と赤星が、って思うと」

「あのってどういう意味?」

「イレギュラー的な意味で」

 

 ぐうの音も出ない。

 と、そこでドアがノックされる。織部に代わって三河が『どうぞー』と告げると、緑のドレスを着た直下と、薄い桃色のドレスを着た斑田が入ってきた。

 

「おー、そんな感じなんだ」

「へぇ、馬子にも衣裳って感じだね」

「それ意味わかってて使ってる?」

 

 直下が、明るめのタキシードを着る織部の姿を見て感心したように声を上げる。一方で斑田の言葉には、織部も少しだけだがカチンとくる。

 

「ジョークよ、ジョーク」

「ジョークに聞こえないんだけどね・・・・・・」

 

 織部のそんな呆れた様子の言葉など聞き流して、三河が問いかける。

 

「向こうはどうだった?」

「うん、すごかった」

「いやぁ、私もああいうのは一回着てみたいね」

 

 直下と斑田の言葉を聞く限り、あっちの方も準備はできたらしい。そう思うと、いよいよもってその時が近づいているのだと実感せざるを得ないので、織部の緊張感が1段階上がる。

 そこでまたしても部屋のドアがノックされる。入ってきたのは織部の両親だった。根津たちと織部の両親が挨拶をすると、父親が部屋の外へ出ろと合図を出してきた。

 ファーストミートの時間だ。織部もそれを理解して、椅子から立ち上がり外へ出ようとする。後ろから根津たちの『頑張れー』とか『死ぬなよ~』という励ましの言葉が背中に突き刺さってくる。

 

「緊張で胃に穴が開きそうなんだけど・・・・・・」

「こんなとこで病院送りなんてシャレにならないわよ」

「・・・・・・むこうの家族が泣くぞ」

 

 織部が弱音を吐くが、確かに母の言葉も父の言葉も正しい。こんなところで倒れて病院に運び込まれたら笑い話にもならないし、女性にとっての晴れ舞台が台無しになってしまう。それだけは絶対に避けるべきなので、お腹を押さえて深呼吸しながら目的の部屋へと向かう。

 やがてその部屋の前に着くと、織部がノックをする。そして中から聞こえてたのは、小梅の母の声。そしてドアを開けたのは、小梅の父だ。

 

「どうも」

「ああ、来たか春貴君」

「あ・・・・・・もしかしてまだ・・・・・・?」

「いや、ナイスタイミングだ」

 

 早すぎたか、と思ったがそうでもなかったらしく、準備は万端だったらしい。

 

「入っても大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫ですよ」

 

 いざその姿を目にすると思うと及び腰になってしまう織部。そんな織部に代わって織部の母が小梅の父に聞くと、ドアを開けてくれた。開けてしまった。

 そして、ドアの前に立っていた織部の目が、その部屋の中にいた人物の姿を認めて、脳が認識する。

 部屋の中にいたのは小梅の両親、そしてピンクがかったクリーム色のドレスを着たエリカと、レースが縫い付けられた黒いドレスを着るまほ、薄い黄色のドレスを着たみほ。

 そして何よりも一番目を引くのは、スレンダーラインの純白のウェディングドレスに身を包んだ小梅だ。

 そのドレスの白さ、そして化粧が施された恥じらう小梅の顔も、織部にとっては。

 

「・・・・・・眩しくて、直視できない」

 

 冗談に聞こえるようなセリフだが、まさにその通りだったのだ。織部にとっては今の小梅の姿は、正直言って直接見ることができないぐらい眩しく見えたのだ。

 

「なっさけないわねぇ、新郎サマのくせに」

 

 小梅の隣に立つエリカが、前と変わらない口調で笑いながら織部にそう告げる。

 

「そう言うな。織部の言い分も分かる」

 

 まほが織部を援護する側に立ち、エリカも『ふぅ』と小さく息を吐く。みほが苦笑して、織部に同情する。

 織部はまだ、まほが自分に告白し、それを織部自身が断った事を忘れてはいない。ただ、留学最終日にちゃんと謝ってまほ自身も大丈夫だと言っていたことと、小梅に相談したことでもうそれについてはもう心配はしていないし、それに囚われてもいない。だから今、まほと話をする事に関しても、問題は無かった。

 ちなみに織部の両親だが、母親はともかく、あまり感情を表に出さない父親さえも、小梅の晴れ姿を見て興奮を隠せないようで、小梅の両親と色々と話をしている。その会話の内容すら、今の織部には上手く聞き取れない。

 そして、まほが懐中時計を見て、織部と小梅以外(自分を含めて)に部屋を出て少し2人だけの時間を作ろうと提案し、全員がその話に乗って部屋の外に出る。

 その直前でまほが、織部の肩をポンと叩いてきた。

 

「・・・・・・今日は、織部にとっても晴れ舞台だ。頑張れ」

「失敗は許されないわよ。まあ、アンタはそんな奴じゃないでしょうけど」

「頑張って、くださいね」

 

 まほが励ました後で、エリカが叱咤激励をして、みほもまほと同じように励まし、織部は嘆息する。

 そして残されたのは、織部と小梅だけだ。

 

「「・・・・・・・・・・・・」」

 

 お互いに、何をどう言えばいいのか分からなくて、沈黙してしまう。

 何か言わなければと思ってはいるのだが、何を話せばいいのかが分からないのだ。

 けれど式が始まるまでこの状況は厳しいにもほどがあるので、織部は思っていたことをありのまま伝える事にした。

 

「・・・・・・小梅さん」

「・・・・・・はい」

 

 小梅は応えてくれた。それだけでいい。

 

「・・・・・・さっきは、直視できないなんて言っちゃったけど・・・・・・」

「・・・・・・」

「すごく、綺麗だ」

 

 その織部の言葉に小梅は、ハッとしたように織部の顔を見る。織部は、恥ずかしさと緊張を隠せないような表情で笑いながらも、ちゃんと小梅の事を見てくれている。だからその言葉が出まかせではないという事が、小梅にも分かる。というよりも、織部は伊達や酔狂でそんな言葉を言うような男ではないと小梅も分かっている。

 だからその言葉には、小梅は素直に返事を返す。

 

「・・・ありがとう、春貴さん。でも、春貴さんも、カッコいいですよ」

「・・・・・・ありがとう」

 

 小梅の言葉に、織部ははにかむ。

 そこで、ドアがノックされ、織部と小梅の母親が顔を見せた。

 

「そろそろよ。準備して」

「ああ、分かった」

「はぁい」

 

 2人が返事をすると、母親ズはドアを閉める。

 そこで、織部と小梅がほぼ全く同じタイミングで緊張をほぐすために息を吐き、そしてそれが可笑しくて笑う。

 

「・・・・・・ここまで来たね」

「・・・・・・本当、ですね」

 

 この時を、どれほど待ちわびていたことか。2人が恋人同士となることができた日から、2人はこうなる事をずっと望んでいた。

 離れ離れになって、また出会って、そしてまた会えない日々が続いて。

 そして、今日この日から2人はずっと一緒となれる。

 

「・・・そして、これからはずっと一緒だ」

「・・・・・・はい」

 

 そう言って織部が手を差し伸べると、小梅はその手を取る。

 

「・・・・・・それじゃ、行こうか」

「・・・・・・ええ」

 

 そして2人は、一緒に歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここ最近は随分と仕事が忙しい。と言うのも、戦車道世界大会の誘致をしているために、各方面との調整や連盟内でのごたごたで、普段よりも忙しさに拍車がかかっているのだ。東奔西走する日々が続いているので、帰りの電車では大体立っていても眠りこけている。

 家路を行く足取りも、普段と比べると少しだけ鈍いのが自分でもわかる。相当疲れがたまっているのだと、嫌でも実感させられる。

 だがそれでも、自分が好きな仕事に就いているうえでの疲れなのだから、嫌悪感はしない。これで嫌いな仕事だったとしたら、自分はどこかで壊れてしまっていたであろう。

 それと、どれだけ疲れていても自分を保っていられる理由は、他にもある。

 自らの家の前に着く。帰る前に、大体の帰宅時間は伝えてあるので、いきなり帰ってきてびっくりさせるということはないだろう。

 ドアを開けて家の中に入ると、奥から顔を出したのは。

 

「春貴さん、おかえりなさい」

 

 エプロン姿の小梅だ。その姿を見ただけで、その言葉を聞けただけで、身体の中の疲れが抜けていくような感じがする。父の言っていた『帰る家と、自分を迎えてくれる人がいるのは良い事だ』と言っていたのを思い出し、まさにその通りだなと今では思う。

 そして、小梅の横から別の人が姿を見せた。

 

「お父さん、お帰り~」

 

 小さな犬を抱きかかえるその少女は、自分と小梅の子供だ。少し癖のある黒い髪は自分たち2人の血を引いているのがよく分かる。割とおとなしい性格なのだが、それでも自分の意見ははっきりと述べるあたり、プロ戦車道選手の小梅の性格も受け継いでいるように見える。大人しいところは、自分と小梅の性格に似ているところがあった。

 そして、その少女に抱きかかえられている豆柴は、顔が少しぶにっと歪んでしまっていて、苦しそうにぴすぴすと小さな息を吐いている。

 

「あ、ごめんね」

 

 それに気づいたのか、豆柴を放してやると一目散に春貴の下へと駆け寄ってきた。そして春貴の脚に自分の前足をつけて、『遊んで』と言わんばかりにしっぽを振っている。

この反応から分かるが、随分となついている。春貴に限らず、家族に。譲渡会で家族に迎え入れたのだが、誠意をもって接すれば応えてくれるというかつての言葉の通り、この子はその気持ちに応えてくれた。今では従順で、無邪気な子に育っている。

 

「疲れたなぁ・・・・・・」

「ご飯できてるよ」

「ありがとね」

 

 靴を脱いで家に上がり、リビングに入るとなつかしさを感じる匂いを嗅ぐ。その匂いで、夕飯が何なのかが分かった。

 

「肉じゃが?」

「うん、正解」

「私も手伝ったよ~」

「そうかそうか」

 

 言い当てると、小梅が嬉しそうに笑う。そして、手伝ったという自分の子の髪を優しく撫でる。嬉しそうに目を細めるので、撫で甲斐があると言うものだ。

 それにしても、と思う。

 

「小梅さん、疲れてない?」

 

 料理をして疲れたか、という意味ではない。

 小梅はプロ戦車道選手として今も戦車に乗っていて、世界大会が近づいている今は練習する時間が増えてきている。だから普段よりも疲れが溜まっているはずなのだ。春貴を心配させないために無理に笑っているという可能性もあるので、念のために聞いてみたのだ。

 

「私は、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

 

 小梅はそう言ってくれている。

 確かに戦車道の練習と試合は疲れるものではあるが、こうして小梅自身がずっと望んでいた春貴と一緒の家庭で暮らせるという事だけで、そうした疲れも感じない。上手い具合に、春貴も小梅もお互いがいる事で自分を強く保っていられるのだ。

 

「・・・・・・次の休み、どこかへ出かけようか?」

 

 だがそれでも、気分転換、リフレッシュと言うものは必要だ。それは働いている身である春貴にとっても、プロの世界で活躍する小梅にとっても言える事だ。

 

「・・・そうね、行きたいかな」

「やったー!」

 

 2人とも喜んでいるので、とりあえず出かける事は確定した。どこへ行くかは、また追々決めることにしよう。できることなら、今も春貴の足元で『遊んでほしい』と言わんばかりにお座りをして春貴の事を見上げるこの豆柴も一緒に遊べるような場所だ。

 そして、3人で協力して夕食の準備に取り掛かる。小梅は春樹に『ゆっくりしてていいよ?』と言ってくれたが、それでも春貴は自分が手伝いたいから手伝うのだ。

 3人で協力したので夕食の支度もすぐにできて、椅子に座り食卓を囲む。

 

「じゃあ、食べようか」

「ええ」

「いただきます!」

 

 3人で手を合わせて、ご飯を食べ始める。みそ汁の味も、昔と変わらず美味しかった。肉じゃがだって、美味しくなっている。

 

「・・・美味しい、すごく」

「ありがとう」

 

 素直な感想を述べると、小梅が嬉しそうに笑ってくれる。本当、自分の胃袋は小梅に完全につかまれてしまったのだなあと、春貴は思う。最初に肉じゃがを食べた時から、まさにそうなっていたのだ。

 その時の事を思い出して、自然と春貴は笑ってしまう。

 

「どうかした?」

「・・・いや、どこか懐かしいなと思って」

「・・・・・・そうね、少し懐かしいかな」

 

 小梅と春貴の娘と、テーブルの傍に座る豆柴だけは自分の食事に意識を向けていたが、2人はテーブルの上に置かれている“あるもの”に、自然と目を向けた。

 それは、2人の結婚祝いで小梅の家族から贈られたものだ。中々、風情のある贈り物で、春貴も小梅も喜んでそれをもらい受けた。それを見ると、なぜだか自然と、かつての事を自然と思い出すことができた。これを自然と見たのも、そのせいだ。

 

 

 それは、白い綺麗な花を咲かせる、小さな梅の木だ。

 

 




ウメ
科・属名:バラ科サクラ属
学名:Prunus mume
和名:梅
別名:好文木(コウブンボク)春告草(ハルツゲグサ)木の花(コノハナ)
   初名草(ハツナグサ)香散見草(カザミグサ)風待草(カゼマチグサ)
   匂草(ニオイグサ)
原産地:中国
花言葉:約束を守る、美と長寿、高潔な心、澄んだ心など


これで、小梅と織部の物語は完結となります。
長い間、ここまで読んでくださりありがとうございました。
完結には大分時間がかかってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。

ここまで長くなったのも、小梅が最初に落ち込んでしまっていて、
織部とすぐに和解することができなかったからかなと思います。
そして打ち解けてから恋愛感情に気付き、そして想いを告げて結ばれるまでの時間が、
長くなってしまいました。
さらに小梅が落ち込んでいたからこそ、それを上書きするぐらいの楽しく幸せな思い出をと思い、
ここまで多くのイベントを書き、こうして物語を書き終えました。
また、あの試合の小梅の事を書いた以上は、黒森峰の事、みほとまほの事、
そして西住流の事についても書かなければいけないと思って、
ここまで長くなってしまいました。


今回も評価をしてくださった方、感想を書いてくださった方、
本当にありがとうございました。とても嬉しかったです。


次回作の予定ですが、多分年明けになるんじゃないかなと思います。
今回や、最初に書いたアッサム編で使った”期間限定の恋愛”と言う設定は、少しの間封印したいと考えています。
また、今回は少し暗めな雰囲気がしたかなと自分では思っていますので、
次回はサンダースの誰かを主役に据えて明るめの話を書いていくつもりです。
その時はまた、応援してくださるとありがたいです。


まだまだレオポンさんチームや継続高校、大学選抜チームに審判組やプラウダと、
書きたいキャラは大勢いますので、書けていけたらなと思います。


最後にもう一度、
ここまで読んでくださった読者の皆様、応援してくださった方々、
本当にありがとうございました。
また、次の機会にお会いしましょう。


ガルパンは、いいぞ


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バレンタイン企画
唐菖蒲(グラジオラス)


ハッピーバレンタイン!

という思いから書かせていただきました。
今回も長めですが、最後まで読んでいただけるとありがたいです。


 2月も1週目を過ぎて2週目に入ると、スーパーマーケットやコンビニ、駅ナカの食品売り場などが揃いも揃ってお菓子、特にチョコレートをプッシュしてくる。2月に入ってからその兆候は何となくあったが、最近それが顕著だ。

 それもそのはずで、2月と言えば恋人たちにとって重要な日であるバレンタインデーがあるのだ。というか、今日がまさにバレンタインデーだ。

 バレンタインデーの発祥については諸説あるが、女性が男性にチョコレートを渡すというのは日本独自の文化であるらしい。他の国にはケーキや花束、メッセージカードを男女ともに贈り合う文化があるようで、どうしてこの国はチョコなんだろうなぁ、と目にちらつく広告を見ながら春貴は家路を急ぐ。

 何にせよ、今日がバレンタインデーで各地のカップルが浮かれていようとも、気候には全く影響を及ぼさず、冷たい風が春貴の頬を撫でていく。ただでさえ気温が低くて寒い身体が一層寒くなってきて、ポケットに手を突っ込み、さらにトレンチコートを深く着込んで少しでも体を温め寒さを凌ごうとする。

 やがて自宅の前に辿り着く。この寒い時期は、明かりの点いた自分の住む家を見るだけでなぜか心と身体が温まるような感じがした。それは家の中が暖房で温められているのを想像したからか、それとも自分の家族のことを思い浮かべたからだろうか。多分両方なのかもしれない。

 

「ただいま」

 

 外で考えていても身体は冷える一方なので、ドアを開けて家の中に足を踏み入れる。玄関にまで暖房はついていないが、それでも外の冷たい空気から解放されてほっと一息つく。

 

「おかえりなさい、春貴さん」

 

 靴を脱いで上がろうとしたところで、リビングに繋がるドアを開けてエプロンを付けた小梅が姿を見せた。春貴にとって最も近しい人となった小梅の姿を見ると、先ほどまでの感じていた寒さなど綺麗に吹き飛んでしまう。その寒さに取って代わって心が温まる。

 小梅と結ばれてから年月が経つが、それでも彼女に対する愛は色褪せることはなく、愛おしさを春貴は今なお抱いている。

 

「父さん、おかえりなさい」

「うん、ただいま」

 

 そんな小梅の後ろから愛娘が姿を見せる。少し前までは帰ってくると抱き付いてくるような勢いで出迎えてくれたものだったが、もう間もなく中学校に進学する年齢ともなると、流石にそこまではしなくなる。親特有の、子供の成長による妙な悲しさを春貴は感じ、同時に自分の親もこんな気持ちだったのかなと頭の片隅で思った。

 

「あぁ、寒かった・・・・・・」

「お疲れ様。ご飯できてるから、早く着替えて食べよう?」

「うん、そうする」

 

 まだ冷えている手をこすり合わせて暖を取り、小梅に促されて私室―――小梅と春貴で一緒の部屋だが―――に入って部屋着に着替えることにする。家の中なので別に寝間着でも構わないのだが、まだ夕食も食べていないのに寝間着というのがどうも違和感を拭えないし、だらしないと真面目な春貴は思ってしまう。なので、コートとスーツをハンガーにかけて着替えたのは長袖のTシャツとジーンズという部屋着だった。

 着替え終えてからリビングに移ると、暖房が利いていて春貴の身体が暖かい空気に包まれる。思わず『ふぃ~・・・』と安堵のような息が口から洩れる。小梅が食卓の準備をしていたので手伝おうとしたが、『ゆっくりしていていいよ』とやんわりと断られてしまったので、その厚意に甘んじて大人しく待つことにする。

 そこで『ワンッ』と犬の鳴き声がすぐ近くで聞こえ、足元を見れば尻尾をパタパタと振る愛犬の豆柴が。この子も大分成長してきたが、それでも十分可愛らしい。春貴の足元に前足をかけて、『遊んで』と言いたげに見上げるが、じきに夕飯なので『またあとでね』と呟きながら頭を撫でてやる。すると意図が通じてしまったのか、しゅんと落ち込んだように見えた。可愛い。

 今度は娘の方へと向かい同じような仕草をするが、やはり春貴と同じようにあしらわれてしまって、遂には寂しそうにしながら部屋の隅に設えてあるマットレスに寝そべる。流石に可哀想なので、後で遊んでやろうと思った。

 

「はい、お待ちどうさま」

 

 準備が整ったようなので、テーブルの普段から座る椅子に着き、改めて食卓に並べられた料理を見る。主菜はロールキャベツ、副菜は里芋の煮っ転がしと玉子焼き。さらに白米とみそ汁と、実にバランスの良い食事でどれも美味しそうである。そして、冬の寒空の下で冷えた身体を温めるにはもってこいの料理ばかりだ。

 家族全員が座ったところで、手を合わせる。

 

「それじゃ、食べようか」

「ええ」

「はーい」

「「「いただきます」」」

 

 声をそろえて挨拶をし、夕食の時間が始まる。

 春貴はまず豆腐と葱の味噌汁を一口啜ると、分かっていたがやはり美味しい。初めて自分が小梅の作ったみそ汁を飲んだ時と比べると、味は落ちるどころかむしろその時以上に美味しくなっている。

 

「うん、美味しい」

「ありがとう」

 

 春貴が率直な感想を述べると、小梅はにこりと笑ってそう返してくれる。もう何度交わしたか分からないようなやり取りだったが、それでも2人の間には確かな愛情があるのはお互いに分かっている。

 だが、そのやり取りを何度も見てきた娘は、そんな2人の様子を感心したような、呆れたような顔で眺めていた。

 

「父さんってさ、母さんのみそ汁飲むといつも『美味しい』って言うよね」

「それはもちろん、本当に美味しいから言ってるんだよ」

「まあ確かに美味しいけどさ・・・・・・」

 

 春貴が当たり前の言葉を返すが、娘はまだ少し釈然としないようだ。そこで小梅も微笑みながら自分の気持ちを素直に伝える。

 

「『美味しい』っていう言葉は料理を作ってる私からすれば、何度言われても嬉しいことよ。だから私だってそう言われるのが嫌なんてことはないわ」

「その気持ちもなんとなくわかるけど・・・・・・」

 

 なんとなくであっても、言われれば嬉しいということが伝わればそれでいいのだ。春貴も小梅も笑って、再び食事を再開する。

 

「ところで、今日は学校どうだった?」

 

 夕飯の食卓で、春貴は度々この質問を娘に投げかけてくる。

 その理由はいくつかあって、その中でも最たるものは自分の子供の不調にいち早く気付くためである。先の質問を投げかけて、特に狼狽えたり落ち込んだりしなければそれでいいし、変わったところや引っ掛かりがあればそれは隠さないで話してほしいと思っている。

 それはやはり、春貴が過去に辛い過去を経験したから、あの時のようなことを我が子にまで経験させまいという思いが根底にある。その経験と思いを知っている小梅も、『子供に辛い思いをしてほしくない』という考えによるその質問をすることには賛成だし、小梅だって同じことを考えていた。

 春貴にとっては、自分の娘とは自分とは年齢と性別が全然違う女の子であるから、迂闊に踏み込めないような悩み・問題を抱えている時もあるということは分かっている。そんな時は、春貴は無理矢理聞き出そうとはせずに、自分のいない場所で、小梅と2人きりの時に話してもいいとしていた。

 当人の娘は、こうした質問をしてくる理由は既に聞いている。そして、両親2人がそれぞれが出会う以前に辛い経験をしてきたということも、ざっくりとではあるが知っている。自分だってそんな経験はしたくないから、極力素直に話すことにしていた。

 

「今日は・・・やっぱりバレンタインデーだったからかな?クラスのみんなは結構盛り上がってたよ」

「ああ、やっぱり?」

 

 娘の言葉を聞いて、春貴は今日の帰り道に限らずここ最近で目に付くようになったバレンタインデーの広告が頭にちらつく。

 小梅もどんな話題であれ娘の話に興味があるようで、ロールキャベツを箸で器用に一口サイズに切り取って食べてから、さらに詳しく聞いてくる。

 

「どんな感じに盛り上がってたの?」

「えっとね・・・クラスの女の子が何人かチョコを持って来て、仲の良い男子たちにあげて。それで誰が貰ったかだれが貰ってないかで、ちょっとした張り合いがあったけど盛り上がったよ」

「全員に渡したんじゃないの?」

「うん。仲の良い男子に渡しただけって感じだね。多分義理チョコかも?」

 

 若いなぁと、懐かしいなぁと、春貴と小梅は思う。2人とも、あげたのか貰ったのかはともかくとして、小学生の頃はそんな感じで盛り上がっていたような記憶があるからだ。

 

「そう言えばさ」

「?」

 

 ご飯茶碗を置いて問いかける娘の声を聞いて、小梅と春貴は目を向ける。

 

「父さんと母さんは、黒森峰っていう学校で出会ったんだよね?」

「ええ、そうよ」

「2人が出会ってから最初のバレンタインって、どんなだったの?聞いたことがないけど・・・」

 

 やはりそんな話が気になったのは、今日がバレンタインデーという特別な日で、年頃の女の子特有の好奇心が働いたからか、それとも春貴と小梅が普通ではないような出会い方をしたのを知っているからだろう。

 その素朴な疑問を聞いて、2人はその時のことを思い出す。確かそのことは、まだ話したことがなかったような気がした。

 春貴が小梅の顔を見ると、小梅も少しだけ笑みを浮かべて春貴のことを見ていた。その時のことを小梅も思い出して、話すのならば話しても大丈夫だという意味か。

 春貴はみそ汁を啜って、おもむろに話し出す。隠すようなことでもないから話すことに決めた。

 

「聞いたかもしれないけど、僕と小梅さんは元々違う学園艦に住んでいたんだ」

「うん、知ってる」

「それで、僕は戦車道のことを勉強するために特別待遇で黒森峰に短期留学して、その時小梅さんと出会った。これも話したっけ?」

「それも聞いたよ」

 

 意外と自分と小梅のことについては話していたんだな、と春貴は苦笑する。いつ話したんだっけかと少し考えたが、今は一先ずそれを置いておく。

 

「それでまあ・・・その留学していた時期は4月から9月末までだったから、バレンタインの時にはもう僕らは離れ離れになってたんだよ」

 

 

 

 

 

 

「チョコが欲しい」

 

 学園艦全体が真面目で厳格、そして勤勉なことに定評がある黒森峰学園艦。2月も2週目を迎えているが、割と暖かい海域を航行しているのでそこまで寒くはない。ニュースでは本土で降雪を知らせているが、同じ日本であっても本土と海の上では違いがあり過ぎるので、あまり現実味が湧かない。

 そんな学園艦の中心地と言える黒森峰女学園は午前中の授業を終えて昼休みへと突入し、生徒たちはそれぞれ昼食を楽しんでいる。

 食事の時間とは、数少ない息抜きのできる時間であり、束の間の休息と言いかえることもできる時間である。今だけは、学園艦全体に浸透している真面目で厳正な空気から解放されて、心が安らぐ時間である。

 そんな時間に、いやそんな時間だからか、黒森峰女学園の食堂でかけうどんを食べ終えた三河がそんなことを言ってきた。

 

「・・・それをここで言うの?」

 

 その三河の正面に座る斑田が、カリーヴルストを齧り飲み込んでから呆れたように笑って告げる。“ここで”という言葉には『黒森峰という真面目な土地で』という意味と、『黒森峰という女子校で』の2つの意味がある。

 その斑田の隣に座る根津が、カレーを食べ終えて鼻で小さく息を吐いてから告げる。

 

「コンビニとかスーパーで買えばいいだろ」

「いやいや、三河さんは多分そういう意味で言ったんじゃないんだよ」

 

 とんかつを食べ終えた直下が箸を置いて、根津の言葉に答える。根津は直下の言葉を聞いて意味が分からなくなったらしく『?』な表情をする。三河はそんな根津を見て『分かってないなぁ~』と言いながら呆れたように笑い、首を横に振る。そのリアクションが根津は無性にムカついた。

 

「この時期に、買うんじゃなくて貰うことに価値があるんだよ」

「要するにバレンタインに合わせて誰かから貰いたいってことでしょ?」

 

 このまま続けても三河はもったいぶって話が進まないだろうと察した斑田が、三河に重ねる形で結論を述べる。元からチョコの意味が分かっていた直下はともかくとして、根津は『ああ、そういうことか』とようやく納得したようで口にした。

 2月も2週目に突入してバレンタインデーが目前まで近づいているから、三河は唐突であれどもその話題を切り出したのだ。

 

「バレンタインなんてお菓子業界の販促事業だろ?」

 

 身も蓋も無い、ロマンの欠片も無いことを告げる根津。そもそも根津は、物事を現実的に見る傾向がある。だからバレンタインデーでチョコを渡し合うのもそういう背景があるのを知っていたし、変にソワソワしたりもしない。

 

「いや、確かにそうなんだけどさぁ。こうもチョコをプッシュされてくると何だか食べたくなってこない?」

「まあ、気持ちはわかるけど・・・」

 

 三河の言葉に斑田も納得はする。

 どれだけ真面目な土地である黒森峰でも、全国展開しているコンビニやスーパーでは、時期に合わせたフェアやキャンペーンを開催している。だから三河や斑田を含め、黒森峰学園艦で暮らす住人たちの大半は、来るバレンタインに関する広告を見たのだろう。

 加えて、この時期はテレビのCMやニュースでさえもバレンタインに合わせた企画も行われるため、『もうそんな時期か』と思うところはあるのだった。

 

「まあでも、根津さんの言う通り自分で買った方が早いんじゃない?」

「そうじゃなくて、こういう日は誰かからもらうことに意義があると思うんだよ」

 

 分かるような分からないようなことを告げて、直下も流石に首を傾げる。

 

「じゃあ、私たちでトレードしてみる?最近は友チョコが主流って聞いたし」

 

 斑田が提案したのは、今朝のニュースの特集で聞いた話だ。それで、貰うだけかあげるだけにするのではなくて、お互い交換するという形にしてはどうだろうと提案した。

 

「あ、それいいかも」

「まあ・・・・・・やるだけならいいか・・・」

 

 直下は乗り気で、根津もそこまでではないが友チョコの交換には賛成した。三河もそれには頷いたが『貰うだけでもいいんだけどなぁ~』と呟くが、それは聞き逃すような声量ではなかったため、その場にいた三河を除く全員から『がめついなぁ』と共通の印象を抱かれた。

 

「バレンタイン・・・ですか」

 

 そこで、これまで沈黙を貫いてきていた小梅がそう呟いた。既に彼女の前に置かれていた焼き魚定食は空になっている。隣に座っていた直下は『どうかしたの?』と、答えが分かり切っていても話しかける。

 三河がチョコ、ひいてはバレンタインデーの話題を出してから、それまで普通に会話に参加していた小梅が何も話さなくなったことには気づいていた。そして、どうして会話に参加せず聞くだけに徹していたのかにも、確証はないが分かっていた。

 

「やっぱり、織部君に贈りたい?」

 

 三河が、敢えて質問を投げかける。その質問をしたのは、小梅を困らせる意図があったわけではない。小梅が他人に気を遣わせることを嫌う性格をしていると分かっているからだ。

 小梅には恋人がいるが、今この黒森峰学園艦にはいないことは知っている。それで小梅は寂しい思いをしているのも知っているが、『バレンタインという恋人がいる者にとっては定番のイベントの話を振って小梅に寂しい思いはさせたくない』と三河たちが気を遣っていると思わせないために、この話題を振ったのだ。

 

「・・・・・・そうですね、贈りたいです」

 

 その言葉を聞いて、根津が『だよなぁ』と言いたげに大きく頷いて水を飲む。

 今この黒森峰学園艦にはいない小梅の恋人とは、特別待遇で黒森峰に去年の9月末まで短期留学していた織部春貴という少年だ。小梅を除き、今この場にいる根津、斑田、三河、直下の全員はその織部と面識がある。

 そしてその織部のおかげで、ここにいる小梅は過去の失敗や後悔、辛酸、苦痛から立ち直りかつてのような優しい笑顔を取り戻して明るくなったこと、そして小梅がその織部と相思相愛となって付き合っていることは4人とも知っていることだ。

 だからこそ、小梅が一番愛する人であり、そして感謝している織部にチョコを贈りたいという気持ちはあっただろうなと全員が考えていた。

 

「直接渡すのがベストなんだろうけどねぇ」

「いやいや、今の赤星さんの立場じゃそれは無理だよ」

 

 斑田は言うが、直下がその言葉に首を横に振って否定する。その顔は実に残念そうだ。

 小梅が来年度から黒森峰戦車隊の副隊長になるという話は、既に戦車隊の全員が知っている。その話が周知された際の隊員たちの表情は半信半疑といまいちではあったが、隊長である西住まほがその根拠を論理的に説明し、さらに副隊長の逸見エリカが自分も推薦したと告げたのもあって、一応の理解は得られた。

 だから、次期副隊長として隊を率いる重要な立場にいて、そして戦車隊の皆を納得させるような活躍を見せなければならない今、小梅の私情で戦車隊及び学園艦を離れるのは難しいのだ。

 

「でも、赤星さんとしては渡したいんだよね?」

「それはもちろんです」

 

 三河が確認すると、小梅は迷わず頷く。三河も『そうだよねぇ』と最初から答えが分かっていたように小さく呟く。

 直下は、小梅が学園艦から離れられないのなら、織部を学園艦に呼べばいいという案を考え付いたが、即座にダメだと否定する。

 織部だって小梅のことを好いていることは分かっているし、もし小梅が織部にチョコを渡したくても学園艦を離れられないと織部が知れば、織部は恐らく『僕の方から行く』と言うだろう。あるいは、『気持ちだけ受け取っておくよ』と極力小梅に手間をかけさせない方針にするかもしれない。そういう真面目な男だと、直下は織部を評価している。

 だが、織部に手間を取らせることを小梅は望まないだろうし、織部にも織部の予定があって彼の一存でこちらに来ることはできないだろうから、確実性は無いに等しい。

 

「・・・というよりさ」

 

 皆が腕を組んでどうするべきかと悩んでいたが、そこで斑田が重要なことを見落としていたとばかりに人差し指を立てる。その声とモーションに気付いた他の4人は斑田の方を向き、斑田は気付いた意見をそのまま伝える。

 それを聞いた4人は『あっ』と、本当にその方法を見落としてしまっていたのだと分かるぐらい、腑抜けた表情をした。

 そして小梅もその方法で行くことに決めて、チョコレートを作ることを決意した。

 

 

 バレンタインデーが刻一刻と近づいてきて世間がそれを大々的に周知しようとも、黒森峰戦車隊は普段通りの訓練を行い続ける。

 間もなく卒業を迎える3年生の戦車隊隊長の西住まほは、今この黒森峰学園艦にはいない。彼女は黒森峰を卒業した後、ドイツのニーダーザクセン大学へと留学することが既に決まっていて、現在はその下見と入学手続きの関係でドイツにいる。黒森峰の卒業式には参加するらしいが、それまでは戻ってこないとのことだった。

 つまり今、黒森峰戦車隊を率いているのは副隊長で、来年度の隊長でもある逸見エリカだった。そしてエリカに代わって副隊長を務めているのは、来年度の副隊長である小梅だった。

 エリカは、まほのように隊の訓練を指揮し、加えて来年度の戦車道全国大会に向けて戦力の分析を行っている。3年生で間もなく卒業を迎える隊員はまほの他にも大勢いるため、空くポジションがある戦車も存在するのだが、それを考慮して分析はしていた。そして次こそは優勝するために、強豪校として黒森峰の名を示すために、今の内から備えているのだ。

 

「波野のパンター11号車は、若干動きにムラッ気があるわね・・・」

「ですが、砲撃の命中率は他と比べると高いですし、操縦の面でだけ少し不安なところがある、という感じですね」

 

 一方で小梅は、副隊長としてエリカと力を合わせていくと決めた以上、エリカの意見は尊重したうえで自分の意見を述べる。意見と言っても、エリカの考えを真っ向から否定したりはせず、改善点を示したり他に懸念する事項を述べるぐらいだ。

 

「そうね・・・。なら、次の練習試合は波野をフラッグの護衛に回しましょうか」

「それがいいと思います。ただ・・・11号車の通信手は3年生で今年卒業してしまいますので、穴埋めが必要になりますけど・・・」

「それは・・・来年度の新入隊員に期待するしかないわね・・・。ダメなら、他の車輌からの移動も考えるか」

 

 エリカも以前、小梅に『力を貸してほしい』と言った。だから当然、エリカは小梅の意見をにべもなく切り捨てたりはせず、しっかりと耳を傾けて意見を聞き、2人で協力していこうとも考えている。

 さらには、まほが以前言っていた『隊員たちの横のつながりを作っていく』という目標も忘れてはいない。それを実現するためにはどうすればいいのかも、2人で考えている。やることはたくさんあった。

 そんな次の世代の黒森峰戦車隊へと動き出している中での今日の訓練は、それぞれの戦車の特性をもう一度見極めるための擬似進撃訓練だ。想定した事例の中で、それぞれの戦車が自車の性能を把握したうえで行動できるかどうかをこの訓練で確かめる。

 訓練の後のミーティングで、エリカと小梅が各車輌の評価できる点と改善すべき点を平等に報告する。そして解散した後も、エリカと小梅は隊長室に残って改めて各戦車の戦力を細分化して分析していく。小梅は今日が初めてではなかったが、まほとエリカが訓練の後でいつもこのような作業をしていたと思うと、尊敬の念を覚える。

 こうした緻密な分析をするのも、その分析を生かして実際に戦車隊の訓練と戦いに反映することも簡単ではない。それでも強豪校と称されるほどに実用化したまほとエリカ・・・というよりも歴代の隊長と副隊長がすごいと思うから、尊敬するのだった。

 尊敬しているからこそ、今その立場にある小梅は決して手を抜いたりはせず、妥協も一切しないでエリカと共に分析を進めていく。今はエリカも小梅も臨時で隊長・副隊長を務めているが、来年度からは本当にそうなるのだから。

 こうして副隊長という立場になって、自分がこれまで指揮を受けていた隊長・副隊長がどれだけ忙しかったのかが分かるようになってきた。

 そうして2人で各戦車のデータと向き合っていると、いつの間にか時刻は夜の7時を回ってしまっていた。

 

「さて、それじゃあ今日はこれぐらいにしとくわよ」

「はい、お疲れ様です」

 

 エリカも小梅も真面目だから、自分の体力と気力の限界を弁えているし、だからこそその限界を無理に超えても身体を壊すだけだとも分かっている。だからエリカはキリのいいところで作業を終え、小梅もそれに従った。

 お互いにそれぞれ荷物を纏めて、2人並んで帰る。エリカと小梅が臨時で隊長・副隊長を務めるようになってから、ほぼ毎日訓練が終わるとこうして2人で一緒に帰っている。これもまた、『戦車隊の中で横のつながりを作っていく』という目標に向けての試みと言えるものだった。それを抜きにしても、今の立場になってから小梅とエリカは親交が増えてきて、仲が良いから一緒に帰るという理由もあった。

 だが、小梅とエリカが揃って帰り際にスーパーに立ち寄ったのは今日が初めてだった。発端は小梅が帰り際に『買いたいものがある』と言ったのだが、エリカもまた『少し気になるものがある』と言って、こうしてスーパーを訪れたのだ。

 自動ドアを開けて店の中に入ると、やはりバレンタインが近いせいか店内に流れるBGMもそんな感じの雰囲気の曲である。夜の7時を回っても買い物客はそこそこいて、黒森峰の生徒らしき女子も何人か見かけた。

 そして2人が向かった先は、示し合わせたわけでもないのに『バレンタインフェア開催中!』とポップアートが施されたチョコレートのコーナーだった。売られているのは小さなトリュフチョコや板チョコ、あるいは手作りチョコレートを作るための器具、材料などだ。

 

「・・・・・・エリカさんもですか?」

「・・・まあ、ちょっと気になって」

 

 エリカは普段、今目の前にあるようなチョコレートはもちろん、お菓子の類を嗜むイメージがあまりない。エリカは、普段の食生活でもカロリーを計算して制限を設けるぐらい真面目だ。好物のハンバーグも週に1度しか食べないと決めているぐらい徹底的だ。

 だから間食とは縁がないと思ったのだが、こうしてチョコレートに興味を示すということは相応の理由があるのだろう。というかその理由は、なぜこうしたチョコレート専門の区画が設けてあるのかを考えればすぐにわかる。

 

「もしかして・・・西住隊長に?」

「そうしたいんだけど・・・」

 

 やはりここ最近の主流となりつつあるバレンタインの友チョコを、まほに贈ろうとしているのだろう。ただエリカの場合、渡す相手に感じているのは友情や親愛とは少し違って、心酔や尊敬の感情だから“友”チョコなのかどうかは少し疑わしい。

 

「隊長は今ドイツにいるし、流石にドイツまで行って渡すっていうのも無理な話でしょ」

「それは・・・そうですね」

「でも、卒業式の時には戻ってくるらしいから、その時に渡そうと思ってるわ」

 

 その卒業式の日はバレンタインデーから1カ月以上先の予定で、それではもうバレンタインチョコというより卒業するまほへの餞別という意味が強くなってしまう。だが、それでもエリカは尊敬するまほに親愛や感謝の気持ちを伝えたいと思っているのだろう。

 

「あんたは・・・・・・まあ想像できるわね」

「あはは・・・多分エリカさんの想像通りだと思います」

 

 エリカも、小梅の恋人である織部と面識はある。というよりも、エリカ自身は織部とは腐れ縁のような関係だと思っている。

 そんな織部と小梅が付き合っているのも、2人が公言する前から薄々感づいていたし、それが判明しても大して驚きはしなかった。だから、小梅がこのチョコレートコーナーに来た時点で、小梅が織部に向けてチョコレートを贈るつもりでいることには気づいていた。

 

「1から作るつもり?」

「ええ、そうしようかなって」

「チョコなんて作ったことあるの?」

「それは・・・無いですね・・・」

 

 エリカの質問に小梅は自信なさげな声で答えるが、それでも表情は不安や緊張を感じているようには見えない。どころか、楽しんでいるような感じさえする。

 

「でも、春貴さんが喜んでくれるのなら私は・・・たとえ作ったことがなくても絶対に完成させます」

 

 ここまで小梅が意気込んでいて、織部が拒絶したらどうするんだろうとエリカは頭の片隅で思ったが、考えるだけ無駄だと悟った。

 エリカが自分と織部の関係を腐れ縁だと評したのは、1度真正面から衝突し合ったこともあってそこまで好ましくない関係だと思ったからだ。それでも、織部は真面目だということは分かっている。その人柄を考えてみれば、付き合っている小梅が丹精込めて作ったものを拒絶するということは考えられなかった。

 

「・・・まあ、頑張んなさい」

「ありがとう、エリカさん。頑張りますね」

 

 自分なりの激励に笑顔で答える小梅を見て、エリカもふっと笑う。

 そして小梅は、チョコレート作りに必要な材料を見繕い始める。実に楽しそうに、嬉しそうに商品を見て回る小梅を見て、ここまで尽くしてもらえる織部も男冥利に尽きるだろうと思ったし、同時に小梅のチョコ作りが成功したら自分も教えてもらおうか、と少しだけ思った。

 

 

 エリカにも言ったが、小梅は今まで手作りのチョコレートを作ったことはない。それは、これまで小梅には手作りのチョコを贈って、想いを伝えようと思っている人がいなかったからだ。中学生の頃に女友達と交換したチョコレートも市販のものだった。

 だが、今年はこれまでとはもう違う。手作りのチョコを贈って想いを伝えたい(既に伝わってはいるが)人がいる。

 しかし、普段料理をしていて料理が得意と自負していても、やはりチョコレート作りはいつもの料理とは違って難しい。もちろん簡単にできるとは思っていなかったが、ここまで手間暇かかるものだとは思っていなかった。レシピと睨めっこをしながら作業を続け、試作品をいくつか作って味見をする。

 予想できたことだったが、最初に作っただけで上手くできるということはなく、一口食べた小梅は渋い表情を浮かべた。

 それでも、小梅はめげずに新しく美味しいチョコが作れるように頑張る。

 

(・・・・・・春貴さん、喜んでくれるかな・・・)

 

 ここまで小梅がチョコレート作りに打ち込むのは、自分が好いている織部に喜んでほしいという理由だけではない。

 小梅はまだ、失意の底にいた自分のことを立ち直らせてくれた織部に対して、感謝の気持ちを全部伝えきれたとは思っていない。『もう十分伝えきったよね』と満足するほど小梅は傲慢な性格をしていないし、本当に孤独と感じていた小梅を今の戦車隊副隊長の立場にまで導いてくれた織部には、どれだけ感謝しても感謝しきれない。

 多分その気持ちを伝えても、織部は首を横に振って『それは小梅さんの力だよ』と笑って言ってくれるのだろう。それは何度も小梅が言われたことだし、織部も小梅をただ安心させるために口だけで言っているわけではなく本心からそう思っているということも分かっている。

 そんな織部に、自分が織部を想う気持ちと、少しだけでいいから自分の感謝の気持ちを伝えたかった。

 だから小梅は、どれだけの苦労を重ねても、織部に贈るためにチョコを作るのを諦めはしなかった。

 

 

 

 バレンタインデーが近づいてくると男子はソワソワしだし、『誰からチョコ貰いたい?』なんて話題を口にする。そして当日になれば『チョコ貰ったことある?』とか『いくつ貰った?』なんて話題に変わっていく。

 昼休みに購買で買ったおにぎりを食べながら、織部は周りの空気が普段と比べると妙に浮ついているのを感じ取る。クラスの後ろの方から、男子数名がそんな感じの話題で盛り上がっているのが聞こえてきた。

 

「チョコいくつ貰ったかって?本命?」

「義理でも可だ。でも家族からのはノーカンな」

「えーっとだな・・・小学校で1個、中学でも・・・1個貰ったか。だから2個だ」

「くそっ、負けた!」

「じゃあ小学校と中学で2個ずつ貰った僕の勝利ってことで」

「「ちきしょう!!」」

 

 嘆く2人と勝ち誇った様子の1人の話を聞きながら、織部は苦笑して鮭おにぎりを齧る。会話自体は面白そうだが、下手に会話に参加しようものなら確実に『厄介なこと』が起こるので、聞くに徹しようと思った。

 

「ねぇねぇ、織部君」

「何?」

 

 そんな織部に話しかけてきたのは、隣の席で弁当を食べていた鷹森(たかもり)という女子。艶やかな長い黒髪が特徴で、親しみやすい女子としてクラスの男子共の中では人気があるようだ。織部は1年生の時に同じクラスで、仲も割と良い方にあたると思う。

 

「織部君はチョコ貰ったことある?」

 

 唐突に何を聞いてきたのかと思えば、今日がバレンタインだからだろう。そして後ろのクラスメイトの会話が聞こえてきて、興味が湧いたから手近な場所にいた織部に聞いてみようと思ったのだろう。

 

「ないよ、ゼロ」

「へぇ~、義理も?」

「義理も本命も貰ったことはないや」

 

 過去の記憶を掘り起こしても、チョコを貰った記憶はない。学園艦暮らしではない、実家暮らしの時は家族からもらった記憶があるが、それ以外は皆無だ。

 答えていて悲しくなる、とはならない。織部は自分自身モテるとは毛頭思っていないし、バレンタインだからクラスの誰かから義理でもチョコが貰えると思い込むのも厚かましく感じるからだ。

 

「そっかそっか。それじゃあそんな織部君にいいものをあげよう」

「?」

 

 鷹森はそう言いながら、机の中から何かを取り出してそれを織部に渡した。手のひらサイズにも満たない、緑色のホイルで包まれたそれは。

 

「チョコ?」

「そ。あげる」

 

 この2人の会話を聞いて、先ほどまで後ろで話をしていたクラスメイト達の会話が途切れたことに、織部と鷹森は気付いていない。

 

「また急に・・・どうして?」

「いやぁ、おやつ用に持っといたんだけど、織部君が貰ったことないって聞いてなんか可哀想だなぁって思ったから」

 

 それはつまり同情心で渡したということで、義理かどうかすらも怪しい。だがそれを嘆いたりなどせず、むしろその気持ちと貰えるだけありがたかったので、そのお礼は言うことにした。

 

「ありがとう、鷹森さん―――」

「織部、ちょ~~~~~~っといいか?」

 

 だがそのお礼の言葉を言い終える直前で、先ほどまで後ろの方でクラスメイトと会話を繰り広げていた男子・汐見(しおみ)に声を掛けられた。それも若干威圧的な口調で。

 

「え、何?」

「今お前・・・鷹森から何貰った?」

「何って・・・チョコレートだけど」

「チョコっ!チョコですかぁ!!」

 

 そこでわざとらしく、自らの額をパンッと叩く汐見。そのリアクションを見て織部は、先ほど懸念していた『厄介なこと』が起きるなと察した。

 

「お前黒森峰でちやほやされてたくせに、こっちでもチョコ貰うなんて、贅沢な奴だなぁ~」

「いやいや、ちやほやなんてされてないから」

「んなこと言って、ホントは“あの”黒森峰の女子と仲睦まじくしてたんだろ?」

「してないってば」

 

 織部と汐見を除くクラスの連中は、2人の会話を聞いて『またか』と呆れたような達観したような反応を示す。織部の隣に座る鷹森も、『やれやれ』と困った笑みを浮かべていた。

 織部が2年生に進級してから半年の間、黒森峰女学園へ特例として短期留学していたことはクラスの全員が知っている。戦車道についての勉強をするためだということは担任を通してクラスメイトも知っていたが、それでも女子校へと一時的とはいえ留学していたことを羨む生徒(ほとんど男子)は大勢いた。その筆頭とも言えるのが汐見である。

 黒森峰女学園は、戦車道に造詣が深い者からすれば“戦車道の強豪校”という印象を抱く。しかし、それ以外の人からすれば黒森峰は“学力とビジュアルのレベルが高い女子校”という印象が強い。

 その女子校に織部が行ったことが妬ましくてしょうがないのだろう。先のようないちゃもんを付けてくることも今日まで何度もあった。それが明確な悪意があるのではなくて、からかっているのを織部は分かっていたので、取り立てて騒ぎもせず反抗もしないでただ軽くあしらっている。

 黒森峰でどんな勉強をしたのかを、織部はこの学校に戻ってからレポートにして提出した。だが、クラスメイトはどんなことがあったのかを詳しくは知らない。だから好き放題に憶測し、推論を立てて、特に織部が羨ましいと思った者はちょっかいをかけてくる。

 ところが、汐見の『仲睦まじく』という単語に関してはギリギリだなと織部は思う。何しろ、黒森峰では戦車道を通じてそこそこ仲良くなることができた女子が何名もできたし、あまつさえ恋人まで作ってしまったのだから間違っていない。

 加えて、断ったとはいえ戦車道界の星とも言える西住まほからも告白を受けてしまったのだから、『仲睦まじい』という言葉はズバリ命中している。これがバレてしまえばさらに事情が拗れて今以上に厄介なことになるのは想像に難くないので、絶対口外するものかと肝に銘じている。

 ちなみに、夏休みに黒森戦車隊の仲の良いメンバーとプールに行った際に話した、『胸の大小について議論していた男子』とはこの汐見のことで、その汐見に白けた目を向けていたのは隣の鷹森である。

 

「いいよなぁ、羨ましいよなぁ、妬ましいよなぁ」

「遊びに行ったんじゃないし、楽しいことばかりじゃなかったんだよ?挫けそうな時だってあったもの」

「楽しいことばかりじゃない、ってことは、楽しいことがあるにはあったんだな?」

「・・・・・・まあ、うん」

「ちくしょー、こいつめ」

 

 肩をぐりぐりと押し付けてくる汐見がそこはかとなく面倒くさいと、織部は苦笑しながら思う。汐見だって悪意があってこんなことをしているのではなく、勉強ができても彼女ができないことを嘆いて羨ましがっているのだから、気持ちはわからなくもない。だがそれでも、こうして絡まれるのはあまり好きではなかった。

 一通り織部をいじることに満足したのか、汐見は織部の机に手をついて今度は普通に話しかけてきた。

 

「にしても、戦車道ねぇ。俺には何がいいのか、あんまり分からんけど」

「まあ、元々乙女の嗜みとされているし、男が興味を持つことの方が珍しいんだろうけどね」

「じゃあ、何で織部は戦車道に?」

 

 なんとなく聞いてきた汐見の問いに、織部は言葉を詰まらせる。その戦車道の世界に魅了された理由を話すには、過去に織部は経験したあの忌々しい出来事を話さなければならない。けれどその過去は自分で話したくはないし、それを話して汐見を不快な気持ちにさせたくもなかったから、適当に誤魔化すことにした。

 

「・・・まあ、ちょっとしたきっかけでね」

「ほー。将来は、確か戦車道連盟希望だっけ?」

「うん。だからそのために黒森峰まで行ったんだし」

「それじゃお前、本気で勉強して入れるようにしないと、マジで黒森峰に遊びに行っただけになるぞ」

「それはもちろん。なるつもりでいるし、今も勉強は続けてるよ」

 

 と、そんな話をしていると授業開始5分前を告げる予鈴が鳴り響く。

 

「おっと、そろそろ準備しないとな」

「やっぱりうちの学校、昼休みが30分って短い気がするなぁ」

「そういや、黒森峰はなんぼだったよ?」

「1時間」

「そりゃ羨ましい・・・」

 

 進学校の休み時間の長さを織部と汐見は嘆きながらも、授業の準備を始める。

 先ほどのチョコ云々の話で忘れそうになったが、ここは進学校であり、成績がものをいう場所でもある。

 それでも昼休みには先ほどの『チョコをいくつ貰えたか』などという特に中身も無いバカな会話をして盛り上がったり、1人だけ良い思いをした奴をからかったり、バレンタインで友チョコを交換し合ったり、男子に義理か本命か分からないがチョコを渡したり、のんびりゆったりと昼ご飯を食べたり、すやすやと昼寝をしたりと、割とのびのびと過ごしている。

 もちろん授業中や試験期間中は真剣に勉学に励み、それが過ぎて若干ピリピリした雰囲気にはなるが、こうした休み時間は皆結構のんびり過ごしている。休み時間も勉強漬けという『趣味が勉強』な奴もいるにはいるが、全員そうというわけではない。

 織部たちの担任は、『勉強は確かに大事だが、それ一辺倒だけでは頭がよくなるとは限らない。自分なりの趣味や、適度な息抜きの仕方を覚えておけ』と言っていた。その言葉は尤もだと思ったので、生徒たちはそれぞれのやり方で昼休みを過ごしている。

 準備を終えて、机の上に置いたままの、鷹森からもらったチョコを見る。

 

(・・・・・・チョコか)

 

 極力意識しないようにしていたことに気が向いてしまいそうになったので、それを吹っ切るために包装を解いてチョコを口に含む。ほどほどの甘さが口に広がるが、逆に口の中が少し滑っぽくなってしまったので水筒を取り出して水を飲む。

 とりあえずこれで、午後の授業は切り抜けられそうだ。

 

 

 織部の通う学校は15時半で授業が終了し、部活動などの特に予定がない生徒はこれで下校となる。日替わりローテーションの掃除当番でも、日直でもない、帰宅部の織部はそのまま帰路に就く。黒森峰で日曜以外の戦車隊の訓練がある日は、ほぼ毎日日没前後まで学校に残っていたから、ここに戻ってきた当初は陽が昇っている内に帰れることに違和感を抱くことしきりだった。しかし、ここに戻ってきて4ヶ月が過ぎ、ようやくこっちの生活リズムに慣れてきたところである。

 

「今日はやけにみんな、ソワソワしてたね」

「まあ、バレンタインデーだし仕方ないんじゃないかな」

 

 そんな帰り道を歩く織部に話しかけてきたのは、たまたま一緒に帰ることになった鷹森。周りに誤解されるかもしれなかったが、1年生の時も一緒のクラスだったから仲が良いだけで、それ以上の感情は全くない。織部はもちろん、鷹森だってそうだ。

 ともかく鷹森の言う通り、今日はどことなく空気が浮ついているような感じがした。その原因は2週間ほど前に学年末試験を終えただけではなくて、やはり織部の言った通り今日がバレンタインデーだったからだろう。鷹森もその意見には賛成した。

 進学校に通い、日々勉学に勤しんで己の研鑽に努めている学生たちからすれば、体育祭や文化祭などの学校行事、あるいは祝日や季節ごとのイベントなどはリフレッシュすることができる絶好の機会である。この時だけは年相応に心も意識せずとも躍るものだ。織部を含めた彼ら彼女らは健全な学生であるので、それは何も悪いことではない。

 

「昼休みは災難だったね、汐見君に絡まれて」

「いや、もう慣れたよ・・・」

「顔青いけど・・・?」

 

 織部は本当に慣れてしまったのだ。黒森峰から帰ってきた直後など、今日の比じゃないぐらいの質問攻めにされてからかわれたものだ。今日のなんてその時と比べれば蚊に刺された程度だ。

 

「あっ、そう言えば新川ちゃんが本命っぽいチョコ渡してたよ?」

「誰に?」

「3年生の先輩っぽいね。ハート形にラッピングされてたし、あれは間違いなく本命だね。しかも校舎裏で」

「へぇ~」

 

 クラスメイトが1人青春を謳歌しているという情報を聞いて、織部も素直に頷く。学校とは良くも悪くも出会いが多い場であるから、そういうケースもやはりあるらしかった。後は新川が成功することを祈るだけだ。

 

「鷹森さんは、本命チョコとか渡したことはないの?」

「私?私はないなぁ~・・・そんな感じの人はまだいないし」

 

 義理ですらないチョコを昼に鷹森から貰ったのと、話題のついでで聞いてみたのだが、まだ鷹森は恋する相手に巡り会うことはできていないらしい。

 

「織部君にはいないの?」

「え?」

「こう、この人からチョコを貰えたら嬉しいな~っていう人」

 

 鷹森のその質問も、話の流れて聞いただけだ。純粋な興味だけで聞いたものであって、隊を含んでいたつもりはなかった。

 

「・・・・・・・・・いや、今はいないかな」

 

 だが、その質問を聞いた織部は空を見上げて遠い目をする。その声色には寂しさが含まれていて、表情さえも悲しげだ。

 

「いるんだ、そういう人が」

 

 そんな声と顔をしていれば、誰だってそういうことだと分かる。鷹森だって気付けるぐらいの変化だ。織部も、黒森峰で何度も何度も痛感した、自分は隠し事がド下手で動揺は隠しきれず表情に出るのだと、改めて再認識した。

 

「その人はもしかして、黒森峰でできちゃったのかな?」

「・・・・・・まあ、ね」

 

 ここまで来てはもう隠し通せるはずもないので、観念して白状する。

 鷹森は『そっかぁ~』と言いながら軽く笑う。

 

「汐見君が聞いたら悪鬼羅刹と化しそうだよね。いや、多分他の男子もそうなるか」

「だろうね・・・。だから黙っておいてくれるとありがたいんだけど・・・」

「もちろん。守秘義務はちゃんと守るよ」

「助かるよ・・・」

 

 途中の交差点で、鷹森は文具店へ買い物に行くらしかったのでお別れとなった。軽く手を振って別れると、織部は帰り道を1人で歩いていく。

 織部には、小梅という恋人が黒森峰学園艦にいて、将来結ばれることも誓っている。それは今日だけ、今日という日だけは、意識しないようにしていた。鷹森の質問を受けるまでは。

 無論、今日までその事実を忘れたことはない。ただ、このバレンタインデーという恋人たちにとっての一大イベントと言っても過言ではない日に、今ここではなく遠い場所にいる小梅のことを考えると、恋焦がれる思いをしてしまうからだ。

 織部だって本音を言わせてもらえば、もしも小梅からチョコを貰えるのならば、手作りでも、市販のものでも貰いたかった。そして本当に貰えたら、織部も馬鹿みたく飛び跳ねて喜びはしゃぐだろう。

 しかし、現実はそうもいかない。織部と小梅それぞれの今いる場所は遠く離れていて、直接チョコを渡すことも貰うことも叶わない。

 それが貰うことはできないし、そのことを考えると恋焦がれる思いが一層強くなると分かっていたから、このバレンタインデーだけは小梅のことを意識してはならないと思っていたのだ。

 

(負担になっちゃいけないんだ・・・)

 

 だが、小梅だって黒森峰で頑張っているのだ。戦車隊の次期副隊長として期待を背負っていて、実際今は臨時ではあるものの副隊長を務めているのはメールで知っている。今は新体制に向けて色々と大変な時期なのだから忙しいはずだ。

 そんな小梅に、負担をかけてまでチョコをせがもうとするなど、烏滸がましくて、厚かましいこと極まりない。

 本当は欲しいという気持ちは自分の心の中で思うだけに留めておいて、家路を急ぐ。帰ったら今日出された古文の課題でもこなしてこの気持ちを処理しよう。

 そんなことを考えながら寮へと戻り、ポストを覗いてみる。と言っても、普段から届くものはほとんどないので期待はしていなかった。

 だが、中には1枚の紙きれが入っていた。何だろうと思って見てみると、それは宅配便の不在票だった。恐らく、織部が授業を受けている午前中だか昼過ぎぐらいに届けに来たのだろう。品物は『食品』の欄にチェックされているので、親からの仕送りだろうかと織部は思った。

 とりあえず、織部は自分の部屋に戻って部屋着に着替え、記載されている宅配業者の電話番号に連絡して、手順に則り再配達のお願いをする。再配達時刻が17時頃に決まると、織部はそれまでに課題を片付けることに決めた。

 黒森峰での成績は織部の今いる進学校とも共有されていたので、黒森峰でそこそこいい成績を修めていた織部が戻ってきてとやかく言われるようなことにはならなかった。今いる学校の中での織部の成績は中の上程度で、ずば抜けて頭がいいというわけではない。

 黒森峰とこの進学校で共通する科目は対応する成績が反映されたが、残念ながらドイツ語の授業はこの学校にはないため、無用の長物になってしまっている。だがそれでも、小梅のおかげで何とかものにすることができたドイツ語だけは、忘れないように今も勉強を続けている。

 良かった点は、黒森峰とこの学校の授業の進行速度がほぼ同じで、習った場所が違うせいで戻った際に授業についていけなくなるという事態にはならなかったことだ。おかげで、成績も元の状態を維持できている。

 

(これなんて意味だっけ・・・・・・)

 

 そして織部はその現状に満足することはなく、成績をさらに上げていこうと織部は意気込んで、古文辞書を引っ張り出して古文の課題(教科書に載った古文を現代語訳する)を、途中でコーヒーブレイクを入れながら黙々と進めていく。

 やがて17時を過ぎたところで、インターホンが鳴り響く。恐らくは宅配便の再配達だと分かっていたので、課題を進める手を一度止めて戸棚からハンコを取り出して玄関へ向かう。

 ドアを開けると、茶色い段ボールの小包を両手で持つ若い男性が立っていた。『食品』にチェックされていたから親からの仕送りかと思ったが、箱のサイズからしてどうも違うらしい。それはともかく、織部は再配達をさせてしまったことに謝って伝票にハンコを押して荷物を受け取る。

 宅配業者がお辞儀をして踵を返して引き上げていく。織部はドアを閉めて、そこで初めて誰からのものだろうかと送り状を見てみると。

 

『ご依頼主:赤星小梅 様』

 

 

「え」

 

 一瞬我が目を疑って、目を擦ってもう一度見てみるがそこには小梅の名前、そして黒森峰学園艦の寮の住所が書いてある。そして当たり前だが、お届け先の欄には織部の名前とこの寮の住所が記されている。織部が黒森峰を去る前にはお互いにそれぞれの住所を交換したから、小梅がここの住所を知っていても不思議ではない。

 だが、その小梅から送り物が来るということ自体は初めてのことで、そして唐突だったから驚きのあまり現実味が湧かない。

 しかしそれでも、迅速にリビングへと戻りハンコを元あった場所に戻して、ローテーブルにその小包を静かに置き、改めて小梅からの送り物を確認する。

 伝票の品名欄には不在票のチェック通り『食品』と記載されていて、お届け希望日は今日に指定されている。小包自体の大きさは縦およそ25センチ、横およそ20センチほど。

 バレンタインである今日を指定して、小梅から織部に、このサイズの『食品』が届けられる。

 まさかまさかと思いながらカッターナイフを取り出して、箱を丁寧に開けていく。

 包装を解いて段ボールの蓋を開けると、今度は一回り小さな白い箱と、1枚のメモが姿を見せた。この2つの中身を見て、織部の心が『トクン』と跳ねる。この箱の中身が何なのか、心と脳が予想を立てたのだ。

 そして、その白い箱をゆっくりと取り出して、包装されている銀のストライプが入った透明なフィルムを、箱を傷つけないようにカッターで切って、蓋を開ける。

 

 

 白いペーパーパッキンを下に敷いた、ハート型のチョコレートがそこにあった。

 

 

 それを見た直後に、織部の顔が急激に熱を持つ。そして途端にかじりつく、とはならないで再び蓋をそっと閉じて冷蔵庫に一度仕舞う。冷蔵庫のドアを閉めて背中を預け、深呼吸をして気持ちを整える。

 今自分が見たものは、見間違えることはないチョコレート。しかも、ハート型のだ。

 この日にこれが小梅から送られてきたということは、それはすなわちバレンタインデーのチョコレートであることに他ならない。そして恐らくは、手作りのもの。

 冷静かつ論理的に考えてみれば、織部と小梅は恋人同士であり、そしてお互いにそれぞれの暮らす寮の住所も知っていて、さらに小梅は料理が得意なのだから、何もおかしなことではない。

 だが、織部の頭の中では両腕を突き上げて、大声を上げて喜びを表現する自分をイメージしていた。それぐらい、この不意打ちの贈り物は嬉しかった。それでも一度、驚きと嬉しさが共鳴して昂る自分の気持ちを整理して落ち着かせたかったから、こうして冷蔵庫に一時的に保管したのだ。

 興奮が収まってきたところで、同封されていた1枚のメモを見る。

 

『春貴さんへ

 突然のことでびっくりしていると思いますが、

 どうしても春貴さんのためにチョコを作って、贈りたかったのでこうしました。

 味見はしましたが、初めて作ったので春貴さんに気に入ってもらえるかどうかが少し心配です。

 それでもどうか、召し上がってください。  小梅』

 

 そのメモ―――手紙を読んで、今度は織部の目頭が熱くなってきた。

 『どうしても贈りたくて』という文だけで、小梅が自分のことを想ってくれているのが分かる。『初めて作った』というのも、やはり自分のことを考えた上でのことなのだろう。本当に小梅が、自分のことを好いてくれているのだということが分かって、涙が出そうになるほど嬉しくなる。

 すぐにでも織部は、この気持ちを小梅に伝えたいところだったが、今の時間はまだ黒森峰も戦車隊の訓練をしているはずだ。訓練が終わっているとしても、副隊長のポジションにいる小梅はまだ手が空いていないかもしれなかった。

 だから、その気持ちを伝えるのは致し方ないが後にして、まずはこのチョコの味を堪能するべきだと結論付けた織部は、もう一度冷蔵庫からチョコの入った白い箱を取り出す。絶対に落とすものかと白い箱をしっかりと持って、そしてテーブルにもう一度そっと置き、蓋を開く。

 改めてチョコをじっくりと見てみると、初めて作ったとは思えないほど見事なハート形に整えられている。同じサイズと形の金型を使ったような痕跡は見えず、市販のチョコにも見えない。本当に小梅の手作りなんだと思わせられる。

 その無地のチョコレートを縁取るようにホワイトチョコのラインが引かれていて、シンプルだけれどそれでも美味しそうだ。

 そんなチョコレートに、織部はそーっと、骨とう品を扱うかのようにゆっくりと手を伸ばして、そっと手に取る。

そしてひと口、齧った。『パキッ』と心地良い軽い音が鳴って、その小気味いい音も楽しみながら味に集中して咀嚼する。

 

「・・・・・・美味しい」

 

 分かっていた。それは分かっていたことだった。あの小梅が作ったものだったのだから、美味しいに決まっていた。

 それでも、その言葉を口にせずにはいられなかった。口の中がカカオとミルクの絶妙なバランスの上に成り立つまろやかで甘い風味で満たされ、多幸感が心の奥底から湧き上がってくる。口に含んだ瞬間から、こうも幸せになれるようなチョコレートが存在するとは。

 ゆっくりと最初の一口を食べきると、次の一口を食べる。そして一口齧っていくたびに、小梅が自分のことを想ってこのチョコを作ってくれたのだと思うと、小梅の自分に対する愛情というものをより強く感じていく。

 たっぷり1時間ほどかけて、小梅特製のチョコレートを食べ終える。間違いなく、人生で最も時間をかけて食べたものであり、そして人生で一番美味しいと思ったチョコレートだ。

 食べ終えた織部の顔は、本当にチョコレートを貰えて嬉しかったと感じさせる笑みと、チョコレートが無くなってしまったことに対する喪失感を含むかのような悲し気な目つきをしていた。

 何度も何度も、織部は心の中で小梅に『ありがとう』と告げて、そっと蓋を閉じる。

 この箱を捨てる気はなかった。

 

 

 夜の19時過ぎに、小梅は自分の寮へと戻ってきた。

 今日がバレンタインデーで世間が浮かれたムードになっていようとも、黒森峰戦車隊は規律正しく生真面目に、そして熱心に戦車道に励んだ。

 だが、黒森峰も少しずつ変わってきていると、小梅は思った。

 確かに訓練中はミーティングの時間も含め、だれもが真剣に取り組み、そこには余計な感情が一分も混じっているようには見えない。これは以前からもそうだったし、悪いことでもないから問題ない。

 ただ、まだまほが隊長を務めていた頃から取り入れられ始めた『マニュアルに頼らない、マニュアルに無い訓練』は今も定期的に行われているが、隊員たちはその訓練にも柔軟に対応できるようになってきた。

 この訓練も元は、全国大会決勝戦での対大洗女子学園戦で露見した、真面目でマニュアルに頼りがちな黒森峰特有の柔軟性の無さを克服するためのものである。その訓練に対応できるようになってきたということは、それだけ隊員たちが柔軟性を身に着けてきたということだ。これは良いことだろう。

 そして今日、黒森峰は本当に変わってきていると思う出来事があった。それは、隊員同士でチョコレートの交換があったということだ。

 無論、訓練中にそんなことをしようものなら暫定隊長のエリカから怒号が飛んでくることは分かっていたので、それを見たのは訓練時間外だった。訓練終了後のロッカールームだったり、教室だったりで、それぞれは友チョコを交換していた。

 規律や風格を重んじるエリカはそれさえも許さないかと思ったが、エリカは意外とこれについては寛容的だった。小梅は知らないが、エリカはかつてまほが言っていた『隊員たちは学生なのだから、学生生活を謳歌する権利が誰にでもある』という言葉を忘れずにいた。だから、ある種の娯楽や息抜きとされている季節のイベントさえ完全に禁じてはならないと思ったのだろう。

 その証拠に。

 

「まさか、エリカさんから貰うなんて・・・」

 

 小梅が鞄から取り出したのは、エリカから受け取ったチョコである。袋にいくつかのトリュフチョコが詰まっているようで、エリカ曰く『市販』らしい。だが、開けてみなければそれが本当かどうかは判別できない。

 

『副隊長として色々世話になってるし、感謝の気持ちを籠めてってことで』

 

 あくまで事務的に処理しようとするつもりだったらしいが、少し照れくさそうに腕を組んで顔も赤くなっていたので、お礼ではなくて友達として贈るチョコ―――つまり友チョコなのだろう。小梅はそれが分かっていてもむやみやたらに追究しようとはせず『ありがとうございます』と笑って答えた。

 さらに今日小梅は、エリカだけではなく同じクラスの根津と斑田、そして三河と直下からもチョコを貰った。以前食堂で『友チョコの交換しようか』と話していたのは聞こえていたので、小梅も一応は用意していたのでお返しに困るということはなかった。

 そして小梅は、チョコを貰えたということは、それだけ自分がエリカや根津たちから親しい間柄だと思われているということだと分かって、それが嬉しかった。ほんの1年前は今とは対極の位置に小梅はいたはずなのに、今となってはそれが嘘のように仲間と共に戦い、そして副隊長として黒森峰を指揮する立場にいる。

 それもやはり、今はここにはいない織部と出会って立ち直ることができたからだ。それだけは断言できる。

 あの時あの場所で、小梅が織部に出会わなければ、恐らく自分はここまで来ることはできなかっただろう。だが、織部のおかげと言えば、織部は恐らくそれを笑って否定して、小梅の力によるものだと優しく告げるのは目に見えていた。

 だから、言葉ではなく行動で感謝の気持ちを織部に伝えるために、手作りのチョコレートを贈ったのだ。もちろん味見はして問題ないと思ったし、形も最大限綺麗にしようと努めて作った。初めてのことだったのでなかなか苦戦したが、それでもどうにか完成させた。そしてバレンタインデーに着くように日付を指定して送ったので、その荷物を載せた船舶が欠航などのトラブルに見舞われない限りは無事に着くと思う。

 届いたら、小梅の作ったチョコを見たら、織部はどんな反応をするだろうか。

 そもそも、着いただろうか。

 そう思いながら鞄から荷物を取り出して片付けて、夕飯の準備をしようとしたところで、スマートフォンが電話の着信を告げた。誰だろと思って画面を見ると。

 

『着信:織部春貴』

 

 驚きの余りスマートフォンを落としそうになるが、持ちこたえて応答ボタンをタップする。

 

「もっ、もしもし?」

『あ、小梅さん。こんばんは、今大丈夫?』

「はい、大丈夫です」

 

 こうして電話越しで言葉を交わすのは、確か正月以来だったと記憶している。あの時は実家で電話をしていたので、電話の後で両親からニンマリとした笑みを向けられながら『春貴君と話してたのかい?』と問われて少し恥ずかしくなったのも覚えている。

 そして今日、織部の方から電話をしてきた理由は分かっている。

 

『チョコ、送ってくれたでしょ?届いたよ』

「ほ、本当ですか?よかったぁ・・・」

 

 まずはちゃんと届いたことが安心だ。何かのトラブルで届かなかったりしたらどうしようという不安は、ひとまずなくなった。

 

『・・・・・・ありがとうね、チョコ。あれって、手作りなんでしょ?しかも初めて・・・』

「はい・・・。初めてだったのであまり自信がなかったんですけど・・・どうでしたか・・・・・・?」

 

 一番の問題は、織部があのチョコをどう思うかだ。美味しいと思ったか、それとも口に合わなかったか、それ以前に迷惑だと思ったのか。それが不安で不安で仕方がない。

 

『・・・・・・すごく、美味しかったよ。甘さも丁度良くて、僕好みの味だった』

 

 電話の向こうで織部が微笑んでいるのが分かる。それぐらい、その言葉は優しい響きがして、1つも嘘をついていないと分かるような口調だった。

 

「本当ですか・・・?」

 

 それでも小梅は、そう聞かずにはいられなかった。

 

『本当だよ。形も初めての手作りって思えないぐらい綺麗なハート形だったし、味もいい感じに甘くて・・・・・・』

 

 褒めたいところはいくらでもあると言いたげにする織部だが、どうやら途中で織部にとって一番の褒め言葉を見つけたようで、一度区切ってから伝える。

 

『・・・あんな美味しいチョコ、今まで食べたことがないよ。今まで食べた中で、一番美味しいチョコだ』

 

 そう告げられて、小梅は自らの胸の中が温まるのを感じる。その言葉が聞けただけで、織部のためにチョコを作った価値は十二分にあるというものだ。

 

「・・・・・・よかったです。迷惑と思われたら、美味しくないって言われたどうしようって・・・不安だったから」

『迷惑なんて、とんでもないよ。小梅さんから贈られるものだったら、何だって嬉しいから』

「え・・・・・・」

 

 織部自身は重要なことを言ったつもりではないのかもしれないが、そのぽろっと告げた言葉は、小梅の心をいともたやすく惹きつけた。

 

『それに、小梅さんの作る料理はどれも美味しかったから。味については全然心配なんてしてなかった。チョコを見た瞬間から、これは美味しいなってわかったよ』

 

 またこうして、織部は意図せず小梅の気持ちを温かくしてくれる。そして小梅の表情を明るくさせ、嬉しい気持ちにさせてくれる。

 

「・・・・・・ありがとう、春貴さん」

『礼を言いたいのは僕の方だよ。というわけで、ホワイトデーはお返しを送るね』

「え、そんな・・・いいですよ。私が送りたくて送っただけですから・・・」

『いやいや。貰いっぱなしっていうのも後味が悪いもの。僕だってお返しがしたいから』

 

 お返し、と聞いて小梅も少し俯く。織部にチョコ作ってあげてそれを送ったのだって、自分をここまで導いてくれた織部に対する恩返しも兼ねて送ったのだ。なのに、その織部からお返しを貰うのは少し違うのではないかと思う。

 けれど、ここでそれを言っても織部の姿勢は変わらないだろうから、今言うべきはその指摘ではない。

 

「・・・・・・分かりました。楽しみにしていますね」

『うん。まあ、僕もチョコは作ったことがないけど、何とかやってみるよ』

「無理はしないでくださいね・・・?市販のものでも構いませんから・・・」

『いやぁ、小梅さんは初めてでも手作りだったっていうのに、僕だけ市販なのも何だかなって』

 

 律儀だなぁと小梅は思うが、同時に織部はそう言う人柄をしているのだということはとうに知っているので、ここで織部は妥協などしないはずだ。

 

『・・・・・・小梅さん』

「はい?」

 

 そこでもう一度、織部が小梅の名を告げて。

 

『・・・ありがとう、小梅さん。大好きだよ』

 

 小梅は、自分の唇が嬉しさの余り震えて、それでいて自分が今笑っているのが分かる。

 

「・・・どういたしまして、春貴さん。私も、春貴さんのことが大好きです」

 

 そして電話は切れて、小梅はスマートフォンを胸の前で静かに握る。

 

「・・・よかった」

 

 息を吐くと同時にそんな言葉が洩れ出す。

 織部にチョコが届いたこと、そして織部が小梅の手作りのチョコを美味しいと言ってくれたこと、そしてまたお互いに愛を伝え合えたことが本当によかった。その感想を聞く前に小梅が抱いていた不安もすべて杞憂で済んだが、喜んでもらえたようで何よりだ。

 安心したあまり、小梅はベッドに仰向けに寝転がる。

 少しの間目を閉じて、先ほどの織部との電話を思い出して、自分の行動が織部に受け入れてもらえた事実も思い出す。嬉しくないはずも無かった。

 しばしの間、達成感と安心感に浸りながらも、壁に掛けられた時計を見上げてもうすぐ夕飯の時間だということに気付いた。明日も学校はあるのだし、あまり遅くなってしまうと寝る時間もまた遅れてしまうと思った小梅は、起き上がってキッチンに向かう。

 今日の夕飯の献立は、織部も褒めてくれた肉じゃがだった。

 

 

 

 

 

「結構、イイ感じだったんだ」

 

 話を聞き終えた娘は、ニヤニヤと小梅のことを見ていた。春貴と共に話をした小梅自身も、あの時抱いた安心感と嬉しさ思い出して微笑んでいた。

 話しをしながらも食事は続けていたので、3人の皿は全て綺麗に空になっていた。

 

「あの時は本当に嬉しかった・・・。今まで食べた中で一番美味しいって言ってくれたから・・・」

「嬉しかったのは僕の方だよ。まさか貰えるとは思わなかったし、それに本当に美味しかったんだもの」

 

 改めて春貴がこの場でその時のことを伝えると、小梅はそれが実に嬉しいのか少しだけ頬を赤く染める。春貴もその時味わったチョコレートの味を思い出して、うんうんと頷き頬が緩む。一方で娘は、いい歳した夫婦が若かりし頃を思い出している様子を見て『はいはい』と呆れたように笑った。

 さて、昔話をしていたら少し時間が過ぎてしまっていたので、3人で手を合わせる。

 

「「「ごちそうさまでした」」」

 

 食後、春貴と娘は犬と軽く遊んでやり(滅茶苦茶喜んでいた)、1人ずつ風呂に入ってから、やがて寝る時間になる。娘は21時を過ぎた辺りで眠りに就いた。

 あの子ももうすぐ小学校を卒業し、中学校に入学すれば学園艦暮らしとなって自分たちから離れて生活することになる。そうなれば、自分の娘の不調に気付くことも難しくなるだろう。

 だが、もしも何かあれば、すぐに連絡をするように入ってある。SOSを出せば、春貴も小梅も急いで娘の下に駆けつけるつもりでいた。

 それもやはり、春貴が経験したような辛い気持ちを娘に抱かせないため、娘を守るためだ。どれだけ辛いのかはそれを経験した春貴がよく分かっている。だから放っておくことなど断じてあり得ない。

 小梅も春貴の気持ちを分かっているから、そして自分が産んだ子供なのだから、もちろん心配して、春貴と同じような考えを持っている。

 春貴と小梅は、娘の寝顔をこっそり見ながら、そう固く自分に言い聞かせる。

 そして2人はは22時半ぐらいに一緒のベッドに入った。

 学生の頃に、お互いの実家に挨拶に行って泊った際は、一緒のベッドに寝ることさえもおっかなびっくり緊張していた。だが、あの時はシングルベッドで身体が密着していたからであり、晴れて結婚して、2人用のサイズのベッドに寝る今は緊張も無い。

 

「・・・・・・あのバレンタインの日」

「?」

 

 部屋の電気を消して灯るのはヘッドサイドランプだけとなったところで、小梅が部屋の天井を見上げながらポツリと呟く。春貴は小梅に顔を向けるが、小梅は天井を見上げたままだ。

 

「私は、春貴さんに恩返しがしたかったの」

「恩返し・・・?」

「みほさんが転校するきっかけを作って、周りから非難されて、泣いていた私を救ってくれた春貴さんに」

 

 春貴はまだ、何も言わない。小梅が何かを言いたげにしていることが分かっているから、横槍を入れることはしない。

 

「立ち直ることができて、根津さんや直下さん達とまた一緒に楽しく過ごせるようになって、戦車にも乗ることができるようになって・・・。そして黒森峰の副隊長にもなれて・・・」

「・・・・・・」

「それもみんな、春貴さんが私のことを見捨てないで、傍にいてくれたから」

 

 身体を捩り、小梅は春貴の方を見る。春貴は、そんな小梅に優しく目を向けて、視線を合わせる。

 

「だから私は、そんな春貴さんに少しでもお礼がしたかった。それで、バレンタインっていうイベントと合わせて、春貴さんにチョコを贈ったの」

「・・・・・・そっか」

 

 春貴は、そんな小梅の髪を優しく撫でる。少し癖のある髪は、昔と全く変わっていないけれど、この髪が春貴は好きだ。

 

「・・・・・・でも、僕としては、小梅さんが立ち直れるように道を示しただけに過ぎない。立ち直って、皆と仲直りをして、戦車に乗って実力を示して、そして黒森峰を率いることができるようになったのは、全部小梅さんの力だ」

「・・・・・・」

「そして今、プロの戦車道選手として戦い続けているのも、やっぱり小梅さんだ。僕はそんな小梅さんを支えたいから支えているだけ。お礼や恩返しなんて・・・・・・」

「・・・そう言うと思った」

 

 小梅がおどけたように笑って告げて、春貴も苦笑する。長い間付き添っていると、相手の気持ちや性格を理解してくるようになる。夫婦という最も近しい存在ならなおさらだ。

 

「それでも春貴さんに喜んでもらいたかった。だから、チョコを作って、贈らずにはいられなかった・・・。あの時の電話で春貴さんが『嬉しかった』『美味しかった』って言ってくれて、私も本当に嬉しかったんだから・・・」

 

 小梅が春貴の方へと身を寄せる。春貴はそれを拒むことなく、小梅の肩に手を回して優しく抱き寄せる。

 

「あの時は、直接渡したいと思ってたけど、できなくて・・・」

「・・・」

「ううん、春貴さんが黒森峰からいなくなる時も、もっと一緒にいたいと思ってた。離れても、何度だって会いたいって思ってた」

「・・・・・・でも今は、一緒に暮らすことができてる。もう、離れ離れになることなんてないんだ」

 

 その時抱いていた小梅の寂しさを埋めるように、小梅を抱き寄せる力を強くする。自分は間違いなく、小梅にとって最も近しい存在だということ、そしてそんな自分が今ここにいることを示す。

 

「・・・・・・春貴さん」

「・・・何?」

 

 小梅は、春貴の胸に顔を埋める。そして、小さく告げた。

 

「私と、一緒になってくれて・・・・・・」

「・・・・・・」

「本当にありがとう・・・」

 

 その小梅の髪を、春貴は優しく撫でる。小梅が眠りに就くまで、優しく、優しく、撫で続ける。

 やがて、小梅は春貴の胸の中で目を閉じて、寝息を立て始めた。

 その寝息を傍で感じながら、春貴は小さく笑う。

 これまで小梅は、プロ戦車道界で一人前となるまでに、他の選手との差や自分の力量不足などを痛感して、時折落ち込んでしまうことがあった。

 だが、どんな時であっても春貴は小梅のそばを離れたりなどせず、ずっと小梅に寄り添ってきた。時には話を聞いて、時には共に涙を流し、時には慰めて、小梅のことを支えてきた。

 それは、もはや小梅にとって最も近しい存在である自分にしかできないことだというのは分かっている。

 だから春貴は、例え自分が仕事で疲れていようとも、戦車道連盟に勤める自分よりもずっと辛いプロの世界で生きている小梅を支えていくのだと、既に心に誓っている。

 今、自分の胸の中で安らかな寝顔で寝息を立てている小梅を見て、自分が一生をかけて支えていくんだと、改めて覚悟を決めた。

 小梅を支えるという強い決意を改めて胸に刻み、春貴は小梅の額にそっと口づけを落とした。

 春貴は小梅を起こさないように静かにヘッドサイドランプを消して、瞳を閉じる。

 その胸に、小梅の温もりを感じながら、春貴は眠りに就いた。




グラジオラス
科・属名:アヤメ科グラジオラス属
学名:Gladiolus spp.
和名:唐菖蒲
別名:唐菖蒲(トウショウブ)阿蘭陀菖蒲(オランダショウブ)
原産地:南アフリカ、地中海沿岸、中央ヨーロッパ
花言葉:記憶、たゆまぬ努力、ひたむきな愛など

これにて、小梅と織部の物語は本当に完結となります。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。

以前書いたアッサム編、カルパッチョ編とは違い、
小梅には誕生日が設定されていないため(作中でオリジナルで決めてしまいましたが)、こうした日に合わせた特別編を書かせていただきました。

前2作品とは違って、今回の特別編では2人が大人になってからの時間を少し長めに書いてみました。楽しんでいただけたら幸いです。

ちなみにものすごい今更ですが、黒森峰モブガールズの名前の由来は、
直下(なおした)(ヤークトパンター車長)…『直したばっかりなのにぃ!』というセリフから
斑田(はんだ)(パンター車長)…搭乗車輌『パンター』をもじって
三河(みかわ)(Ⅲ号戦車車長)…搭乗車輌『Ⅲ』号戦車より漢数字の『三』のつく苗字を考えて
根津(ねづ)(マウス車長)…搭乗車輌『マウス』の日本語訳『ネズミ』をもじって
と言った感じです。
他の黒森峰の隊員の名前は以前説明しましたが熊本県の地名です。

ケイ編の途中での投稿という形になってしまいまして、あちらを読んでくださっている方々にはお待たせしてしまい、大変申し訳ございません。
向こうも随時投稿していきますのでよろしくお願いいたします。

重ねて書きますが、ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。
感想を書いてくださった方、評価をしてくださった方、
本当にありがとうございます。

現在ケイ編を鋭意執筆中、次回作も現在考案予定ですので、
今後ともよろしくお願いいたします。

それではまたどこかでお会いいたしましょう。


最後にこの言葉で、締めさせてください。
ガルパンはいいぞ。
小梅は優しい良い子だぞ。


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