星になった筋肉 (ふーてんもどき)
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星になった筋肉

 



 生まれた時から筋肉のことばかり考えていた。

 ぼんやりと赤ん坊の頃の記憶があり、俺を抱いた誰かの大胸筋や上腕二頭筋の確かな感触を覚えている。

 オムツがまだ取れない時分は父親こそが俺の中で最強の筋肉だったが、ある日テレビに映るボディービルダーたちを見て、井の中の蛙であったことを知った。隆起した筋肉の束はダイアモンドなんぞよりずっと美しい。

 自分もああなりたいと思った。否、もっと強くなりたいと願った。

 物心がついてからは明確に世界最強を志した。

 

 

 どこかで、願いが強ければ現実に非科学的な変化が起こるという話を聞いたことがある。思い返してみれば俺はまさしくその類型だった。

 つまり俺の場合、成長の度合いが常軌を逸していたのだ。

 

 保育園に入った頃から既に同年代の子どもとは体格に差が付いていた。母が「お前は体が大きいから小学生に間違われて大変だった」と笑い話にするくらいだ。

 俺と同じあじさい組にヨシ君というガキ大将がいた。何でも自分の思い通りにならないと気が済まない、尻の穴の小さな男だ。具体的には玩具の独占を企むような奴だった。

 ヨシ君は俺の腕っぷしを見込んだようで懐柔してようとしてきた。権力などに興味はないので適当にあしらっていたが、するとヨシ君は仲間を連れて脅してきた。

 偉そうな態度に腹が立ったから首根っこを掴んで揺さぶってやると、次の日からは誰も俺に話しかけなくなった。

 

 孤立した俺を見かねた保母さんが「友達と仲良くしなきゃダメよ」と諭してきたが、余計な世話である。俺の友達は筋肉だ。それはもう真心を込めて仲良く接している。次点で筋トレに便利な鉄棒のことは好きだった。

 脳筋だとよく言われたが、本当に脳ミソまで筋肉に出来るなら素晴らしいことである。思考力と引き換えに筋肉を手に入れられるとしたら、俺は喜んで差し出すだろう。

 

 

 小学校に上がる頃には自重のみの鍛練に不満を持つようになった。

 ある年のクリスマス、サンタさんへ「ダンベルが欲しい」と手紙を書いた。翌朝になると枕元に1㎏のダンベルが可愛いリボン付きで置かれていた。「10㎏のが欲しかったのに」と大泣きした俺に、父は困った顔をしていた。今では悪いことをしたと反省している。

 

 子供の成長は著しい。新しく買った服のサイズがすぐに合わなくなり、すぐにまた新調しなくてはならない。だから小学校では皆が次々と服を変えた。

 同様に、俺もダンベルを変えた。

 クリスマスや誕生日など、ことあるこどに俺がトレーニング器具を欲しがるので、終いには親から器具禁止令なる特別規定を突きつけられてしまった。それからは空気を読んでお菓子の詰め合わせを頼んだところ、大変喜ばれた。本音を言えばプロテインのセットが欲しかった。

 しかし見方を変えれば丁度良い転換期であった。

 体に合わせて器具を買っては、金も場所も足りない。それは子供ながらに分かっていた。さらに器具の重さには限度がある。三桁を越えるような重りはそれなりのジムに行かねば無いだろう。

 なので俺は自然にあるもので代用することにした。山に行けば手頃な大きさの岩があり、これが大分使えた。学校から帰ればダンベルを詰め込んだリュックサックを背負って山まで走り、岩で遊び続けた。

 

 言わずもがな飯もよく食った。

 小学生のくせに下手な大人より食うので、母はいつも頑張ってくれていた。父母の恩は海より深いというのは本当である。理解のある両親がいてくれたおかげで、俺は筋肉を育てることができた。

 問題だったのは給食である。

 一つのプレートに乗せられた少量では、俺の空腹は満たされなかった。必然おかわりに頼る他ない。残り物が多いときはいい。人気メニューが出ると厳しかった。ジャンケンによる争奪戦が行われるが、俺は運というものを全く持っておらず連戦連敗を重ねた。中には俺に遠慮して譲ってくれる同級生もいたが、施しを受けるのは性に合わぬので断った。

 これも高学年になれば、動体視力の発達により解消できた。相手が腕を振り下ろす瞬間に注意すればどんな手が来るか分かり、百発百中勝つことが出来るようになった。

 しかし勝率急上昇の秘訣を問われ、この特技を話したところ、ズルだなんだと言われて俺はジャンケンに参加できなくなってしまった。自分の能力を駆使して何が悪いと思ったが、良識では相手が正しいと分かっていたため泣く泣く身を引いた。先生方に見つからぬよう実家から持ってくる三つの弁当が命綱であった。

 

 昼休みになると増え鬼という遊びをするのが流行っていた。

 鬼役が相手に触れると、その相手も追いかける側になる。そうして鬼役はどんどん増えていき、最後の一人が捕まることで決着がつくというルールである。

 俺も呼ばれて、一度だけこれに参加した。

 そして出禁をくらった。

 ずいぶん勝手な話だが「開始一分も経たず終わったら遊びにならない」と言われれば致し方ない。他にも体を使う遊びは軒並み、俺専用の規則が設けられ、狭苦しいことこの上なかった。

 結局、小学校でも俺の友は筋肉だけだった。

 

 

 子供の頃から筋肉をつけすぎると背が伸びにくくなるという。俺はその法螺話を真っ向から否定した。

 中学校を卒業する間際に、俺の身長はついに2メートルを越した。特注だった学ランが窮屈になった時は、母に申し訳なくて言い出せずにいた。ある日ちょっと力を込めたら破れてしまい、結局バレて新調するに至った。

 

 俺の巨体は学内でも有名だったようで、様々な部活から入部の誘いがあった。俺はその度に毎日こなしている鍛練の内容を告げて「これよりキツイ筋トレができるなら入る」と言ったところ、めっきり勧誘はされなくなった。

 助っ人に呼ばれることは何度かあった。ただこれも最終的にはズルと見なされ、地区内では俺を起用してはならないという暗黙の了解が出来上がっていた。

 

 この年にもなると間食が多くなり、親から金をねだることが申し訳なく思えてくる。

 そこで親戚の畑の手伝いをして駄賃を貰うことにした。母方の叔父が親から譲り受けた土地で農業をやっているのだ。我が家の食料はそこからの仕送りで賄えている部分があった。

 その恩返しも兼ねて、俺は夏の間奉公に出向いた。叔父の家族は皆良い人ばかりで飯も美味い。その上金も貰えるので天国のような所だった。

 しかし貰った分以上の働きをしようと張り切ったところ、わずか数日でやることがなくなってしまった。耕し、苗を植え付け、雑草を取ったらそれで終わりだ。あとは毎日の水やりくらいだが、それだけでは到底恩を返せない。

 途方に暮れたところ、叔父さんは林業の仕事をくれた。叔父さんは畑以外にも山をいくつか持っていて、俺が長年修行場としてきた山も伯父さんの土地であった。

 最初は斧を使ってちまちまと間伐していたが、面倒くさい上に斧がいちいち折れやがる。痺れを切らした俺は、いつしか素手で根こそぎ引っこ抜くようになった。

 

 夕食時に従姉妹から将来の夢を聞かれたことがある。

 遥か昔はボディービルダーを夢見ていたが、この頃にはとっくに興味を無くしていた。世界最強というのも、一位になるくらい簡単にできそうだ。もはや上か下かに関心は無く、俺はただひたすら再現なく筋肉を追求したかった。

 俺が「強くなることだ」と答えたら「どれくらい」と神妙な顔をするので「いつか一つ跳びで宇宙まで行ってやる」と宣言した。

 「あんたなら出来るよ」と太鼓判を押された。

 

 

 中学を出たら世界中を武者修行して回るつもりだった。しかし親が「高校くらいは行きなさい」と言うので渋々従った。親の言うことにはどうも弱い。

 

 俺が入った高校には妙な奴がいた。椎名という女子だ。髪を金色に染めて真っ黒に日焼けし、いつも服を着崩している。ギャルというやつらしい。

 椎名は俺によくちょっかいをかけてきた。奴には男女共に大勢の取り巻きがいて、それで気が大きくなっているらしい。よく「私の父親はヤクザの頭だ」と誰彼かまわず自慢していた。怖いものなど無いと言う。

 権力を振りかざす奴は嫌いだ。筋肉も無いくせに威張り散らす。みっともないと俺は思っていた。

 そんな俺の姿勢が気に入らなかったのだろう。椎名はある日、俺を空き地に呼び出して突っかかってきた。着いてみれば椎名以外にも男が数名いて、いずれも鉄パイプなんかの武器を手にしていた。しかしなぜ彼らは一様に金髪なのか。染めなければ死んでしまうのか。

 柄の悪い連中を見回すと、一人の男が目に留まった。

 保育園にいたガキ大将のヨシ君にそっくりだなと思っていたら、実際に高校生になったヨシ君がいた。なんでも椎名と付き合っていて、喧嘩が強いことで不良の界隈では有名とのことだ。椎名はいつも父親を自慢するように、彼氏であるヨシ君のことを得意気に語っていた。

 ヨシ君は最初、周りの不良たちに怒鳴りながら威勢よく登場したが、俺を見るなり小便を漏らし始めた。どうやら覚えてくれていたらしい。感動の再開とはいかなかったが、ちょっと嬉しかった。

 膝から崩れ落ちて泣き出した彼氏の様子に、椎名は困惑しながらも俺に叫んだ。

 

「調子に乗んな。あたしのパパはヤクザなんだからね。パパに言えば、あんたなんかドラム缶にコンクリ詰めて海に沈めてやるから」

 

 それを捨て台詞に、取り巻きにヨシ君を抱えさせて退散していった。いったい彼女らが何をしたかったのかは未だに判然としない。

 

 それから幾日か経ち、帰路の途中で一人の柄の悪い男が俺に話しかけてきた。

 前に椎名が言っていたヤクザだと分かり、一捻りしてやろうと思ったところで、男はいきなり土下座してきた。「お嬢を助けてください」と何遍も俺に頼み込む。

 話を聞くに、対抗組織に椎名を連れ去られ人質にされているという。相当に悪どい連中であり、下手に乗り込んだら椎名が本当に殺されてしまうのだとか。

 椎名が現場に残したメッセージには、俺の名前が書かれていたらしい。それを元に俺の素性を調べ、こうして頼みに来たのだと言う。

 嫌なやつだが死ぬのは可哀想に思い、俺は引き受けてやることにした。

 車で敵の事務所前まで送られ、そこからは単身で乗り込んだ。軽く走れば襲撃の連絡が行き届く暇もなく、椎名の監禁場所まで辿り着ける。

 武器を持った大人たちに囲まれ、椎名は大変怯えていた。前列の何人かを吹き飛ばし、彼女が縛り付けられている椅子ごと抱えて、俺はその場にいた連中と闘った。

 つまらん奴らだった。刀や拳銃ごときで筋肉に勝とうとしやがる。道理を分かっていない。アサルトライフルを乱射されたが、俺の筋繊維は一つも千切れやしない。当然の結果である。強いて言うなら、殺さないように加減するのは少し難しかった。

 あらかた片付けてから外に出ると、椎名の親父さんが待っていた。彼に椎名を引き渡すと、親子で抱き合いながら号泣していた。

 大変感謝されて、是非とも事務所まで来て金を受け取って欲しいと言う。さっさと帰って筋トレをしたかったので、その場で破れた制服の代金だけ貰った。「うちの組に入らないか」と熱心に誘われもしたが「それでもっと筋肉が鍛えられるのか」と聞いたら、いい大人がしょんぼりしていた。

 

 後日、またも椎名に空き地に呼び出された。

 すると今度は一人であり、周囲に取り巻きが隠れている様子もない。

 椎名はモジモジと奇妙な動きをしながら俺に礼を言った。

 

 「この前は、ありがとね」

 

 俺が「ああ」と言うと、椎名は他にも言いたいことがあるらしく、顔を真っ赤にして「あの」とか「その」とか言葉を出したり引っ込めたりしていた。

 痺れを切らして「早く言え」と急かしたら、意を決したようにキッと睨んできた。

 

 「あんたさ、彼女とかいるの」

 

 「いない」

 

 そう答えると椎名は幾分か目尻を下げて「それじゃあ」と続けた。

 

 「あたしと付き合ってよ」

 

 ヨシ君とは誘拐される前に別れたらしい。お漏らしを軽蔑して振ったのだとか。そして、この前助けられて本物の恋を知った、などとぬかす。

 俺は一も二もなく断った。

 「なんでよ」と聞いてくる椎名に、恋愛事に興味がないことを説明した。

 

 「俺が好きなのは筋肉だ。筋肉が全てだ。もしも彼女にするなら、俺より筋肉がある奴が良い」

 

 「無理だよお」

 

 椎名は泣き崩れた。

 あまりにも酷い泣き顔だったので不憫に思い「まあ頑張れよ。鍛えるのは良いぞ」とフォローを入れたところ、さらに泣かれてしまった。

 

 

 高校を卒業し、俺はいよいよ世界に旅立った。

 船や飛行機で何時間もじっとするのは我慢ならないので、海の上を走って海外へ出かけた。パスポートも取らずに行ったが、持っていたところで税関を通さぬので無意味だっただろう。

 

 世界は意外にも広かった。少なくとも走り回るには十分な広さがある。

 アメリカではかつての憧れであるボディービルの大会を見物して童心に帰った。

 ブラジルでは掘削作業の手伝いをした。叔父さんのところで林業を手伝っていたことを懐かしみ夢中でやっていたら、穴ぼこだらけにして怒られてしまった。

 ロシアでヒグマを倒し、一頭丸々食べた時はさすがに腹がはち切れるかと思った。

 アジアの中東あたりを散歩していた時は、兵士と間違われて紛争に参加させられたが、喧嘩両成敗として敵味方問わず暴れて拠点を潰してやった。

 アフリカでは部族に追い回されたり、逆に仲間に迎え入れられたりと忙しかった。アナコンダを仕留めたのが好印象だったらしい。

 そしてエベレストやマリアナ海溝を制覇し、筋肉に不可能は無いことも改めて知ることができた。

 

 ヒマラヤ連峰を何回縦走しても息が乱れなくなった頃、マニの寺院でお香の匂いを嗅ぎながら、俺はふと人肌が恋しくなった。

 今まで筋肉がこの世の全てだと思っていたが、世界中の人々は俺が筋肉を愛するように、家族や友人や恋人を愛していた。それに気付いたとき、俺は地球で一人ぼっちになったような孤独を味わった。

 寺院にいた枯れ枝のようなお坊さんは「貴方には偉大な使命があるはずです」と帰ることを勧めてきた。筋肉の無い奴の進言はこれまで聞かぬ所存だったが、この時はすんなり受け入れることができた。

 使命とはなんだろう。高校にいた椎名とかいう女子のように、俺の親類が危機に晒されるとでも言うのか。もしそうなら、この筋肉を駆使して助けようと誓った。

 その時こそ俺の真価が問われるのだろう。

 

 しかし、運命の時は全く予想外の形でやってきた。

 俺が暫くぶりに帰省した際、世界を震撼させる事件が起こった。

 巨大隕石が地球にまっすぐ向かって来ているという報道があったのだ。

 当初はたちの悪い冗談だとして、信じる者は少なかった。しかし多種多様な専門家らが確証を提示し口を揃えて地球の危機だと言った。

 無論、世界中が混乱に陥った。

 ロシアとアメリカが協力してミサイルを打ち上げたが、効果はまるで無かった。苦肉の策で国際条約を特例で無視し、核兵器さえも使用されたが、それでも表面を削っただけで、隕石の前では無力だった。

 人類は万策尽きたのだ。何処へ逃げても死は免れない。父も諦めきった様子で会社を辞めてきたと言うし、母は最後の晩餐だと言って連日ご馳走を作った。

 俺は悲しそうな両親を見ていられなかった。親すら救えないなら、俺が培ってきた筋肉など全て無駄だと思った。

 きっと叔父さんや従姉妹も怖がっている。ヨシ君はまた小便を漏らしているだろう。地球がなくなれば、椎名を救った意味も無くなってしまう。

 何とかしなくてはならない。

 親を、親戚を、俺を育んでくれたこの世界を守らなくてはならない。

 俺は使命に奮起した。

 

 夜半、誰にも別れは告げず、人気の無い土地へ赴いた。

 隕石が来る方角は頭にしっかり叩き込んである。この時ばかりは、脳ミソまで筋肉でなくて良かったと思った。

 夜空には無数の星が煌めき、川の模様を作っている。こうして見ると美しいのに、すぐ側に地球を脅かす存在があるのだと思うと、さすがの俺でも身震いした。怖くはない。武者震いというやつだ。俺はこれから身一つで宇宙に挑むのだと実感した。

 息を深く吸い、膝を折り曲げる。

 そして思い切り跳んだ。

 全力を出したのは久しぶりだった。衝撃波で周りの木々が消し飛び、クレーターが出来る。

 ぐんぐんと高度を上げ、俺は雲より高く上昇した。吐く息は白くなり、ヒマラヤの頂上より寒い冷気が皮膚を刺し、顔には霜が付く。

 

 しかし流石に、成層圏を越えることは叶わなかった。

 宇宙の暗がりが見えてきたところで失速し、俺は真っ逆さまに落ちた。地面に叩き付けられ、クレーターがさらに大きくなる。咳き込むだけで済んだが、心境は絶望的だった。まさか宇宙に出ることすら無理だなんて。この程度では到底、隕石に対抗することなど出来ない。

 それは紛れもなく、俺が初めて感じた限界だった。生涯において最初で最後の挫折を前にして、立ち上がる気力は無い。もう駄目なのかと項垂れる。

 

 だが、俺の五体は諦めてはいなかった。今までになく俺の筋肉は熱を放っていた。

 驚いて手を握ったり開いたりすると、それに応えるように指先まで、煮え滾る血が巡ってゆくのが分かった。

 そうかい。まだやれるかい。

 俺は再び立ち上がり、総身に力を込めた。

 

 太股を脹ら脛を爪先を腰を腹を指を前腕を上腕を肩を胸を背中を首を。

 

 全ての持てる力を溜めに溜め、俺はついに解き放った。

 乾いた音が響き渡る。音速を越えたことを示す、大気の壁を突き破った音だ。

 先ほどの比ではない速さで、俺は空を跳んだ。五感が研ぎ澄まされ、ただ上に行く意思だけが残る。

 まだ足りない。

 俺は強く宙を蹴った。足の裏で潰れた大気を押しやり、さらに加速する。

 もう一蹴りする。もう一回。もっとだ。もっと、もっと、もっと。

 顔に付いた霜が瞬時に気化する。

 筋肉が発火した。全身が炎に包まれた。成層圏を突き破り、宇宙に飛び出しても、俺の魂の燃え盛りは消えなかった。

 真空がなんだ。放射線がなんだ。巨大隕石がなんだ。そんなものが筋肉に敵うもんか。

 

 俺は最後の最後に、筋肉ではなく、皆の顔を思い浮かべた。

 消え行く記憶のなかで、皆が笑っていた。俺もそれに応えたくて表情筋を動かし、笑顔を作った。

 肉を焦がし、赤く燃えながら、俺はひたすらに笑ってやった。

 

 

 世界が滅びる当日、私はトレーニングジムでダンベルを持ち上げていた。

 最後の日なんだから好きなことをしたい。そんな私のわがままを、パパは黙って許してくれた。

 

 その日は巨大隕石が落ちてきて、地球を粉々に打ち砕いてしまうはずだった。

 

 そのはずだったけれど、私たちは結局生き残った。

 

 ミサイルでも核兵器でもどうにもならなかった隕石が、地球の重力圏に入る直前で爆発したという。原因は不明らしい。

 いったいどんな恐ろしい兵器が使われたのか、世界はまたしても混乱した。

 

 ただ、それにまつわる与太話がある。

 地球崩壊の前夜、世界中の何人かの人々が、空へ上っていく光を見たという。それが隕石を壊したんじゃないかと、確証の無い噂が流れていた。

 実は私もそれを見た一人だ。

 トレーニングをしている最中、ジムの窓越しに夜闇を切り裂くようにして打ち上がった光の筋を確かに見た。

 まるで空へ逆流する流れ星のようだった。普通は地球に落ちてくるはずなのに、その星はそんな自然摂理を笑うように、天高く飛翔していた。

 煌々と力強く輝く光はとても綺麗で、私はいつの間にか涙を流していた。

 

 私は不可能を可能にする唯一の存在を知っている。そして、それを体現した男を知っている。

 ならば、あの流れ星は彼だったのだろう。そんな理由のつけようもない確信が、私のなかに今も生きている。

 夜空を見るたびに、光となって宙へ消え行く彼を思い浮かべる。

 真っ暗な空には大小様々な星があり、きっと彼はその一つになったのだ。隕石が落ちてきたという方角でいっとう強く輝いている星を見て、私はまた涙をこぼした。

 

 『筋肉の星』

 

 私は人知れず、ある一つの星にそんな名前を付けた。

 その星は今も、強く気高く、燃え続けている。



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