CookieClicker (natsuki)
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01

第一話 違和感


【000】

 

 ところで、クッキーというものを、君たちはどれくらい知っているだろうか?

 そもそもクッキーとは『小さなケーキ』を意味するオランダ語から来ており、それが英語に派生した。それがアメリカに伝わり、現在のクッキーという単語が出来上がるのである。これ以外の英語圏では一般に『ビスケット』と呼ばれる。

 その中でも一般的なクッキーとして知られるのは、チョコチップクッキーだろう。あれの味は格別だ。頬張ったときのクッキー生地の湿気っていないサクサクとした食感は本当に心地よい。

 さて。

 どうしてこの話をしているのか、という話題に戻ろう。

 二十一世紀の終わり、唐突に貨幣制度が消滅した。

 いや、理由は様々あるんだ。一千五百兆円ほどある国内資産を国債で使い果たした日本国が財政破綻し、円相場が急激に落下したことで、ドルやユーロも相乗効果で落下してしまったことだ。そして、幾百もの種類の貨幣が一日で紙くずと化した。これを、当時の総理大臣の名前を借りて、『クロダ・ショック』と呼び、今も日本国の悪名として位置づけられている。

 そして、世界は貨幣経済から商品経済へとその姿を変えた。

 たくさんの商品と商品が交換され、そうして経済は回っていった。

 しかし、それでもある一定の基準を設ける必要があった。

 

 

 ――世界的に一番食べられているものは何か?

 

 

 世界各国にアンケートをとった結果、あるものが選ばれた。

 それこそが、チョコチップクッキーだった。

 

 

 

 

 

 

 

【001】

 

 二十一世紀があと二年で終わりを迎える、ある冬のことだ。

 チョコチップクッキーの世界シェア一位を誇るリンドンバーグ社は、アメリカ・ニュージャージー州に巨大工場を開いた。そこでは毎秒二千万枚のクッキーが製造出来るという。

 しかし、世界の需要を考えると、それでも足りなすぎた。

 そして、人手はあまりにも足りなすぎた。

 リンドンバーグ社――だけではなく、チョコチップクッキーは『おふくろの味』が売りだった。そのため、パートで六十歳以上の女性のみを雇い、それにより生産されていた。

 しかし、問題が発生する。

 人間には限りがある。それも、この時代、科学技術などそこまで発達しているわけでもなく、世界人口はゆるやかに減少傾向を辿っていた。

 つまりは、人材不足だった。

 少ない人材を、様々な会社が取り合っている。それは、別業界からすれば非常に滑稽なことだが、チョコチップクッキーの業界からすれば死活問題だった。工場を増やすことは簡単だが、味を保つことは非常に難しい。それは自明である。だからこそ、チョコチップクッキーをどこが一番高く払えるか、これが問題であった。

 勿論、リンドンバーグ社はその中でも桁一つ違うチョコチップクッキーの数を提示していて、そのためか、たくさんの女性パートが居るのである。

 リンドンバーグ社は、世界に百以上の工場を持ち、それにそれぞれ百人以上の女性パートがいる。どの工場も毎秒二千万枚のクッキーを生産しているのだが、これを続けても世界の需要を考えると、限界だった。

 

「――そして、世界政府はチョコチップクッキーが足りなくなることを懸念材料としていて、これが今の選挙の議題に上がっているわけだ」

 

 教室の教壇に立つ、老齢な男性教員がそう言うと同時に、終業のチャイムが鳴った。それを聞いて、教室の中からはため息と声が混じってざわついた。

 教員は足早に教科書をカバンに仕舞うと、教室を後にした。

 

「……クッキーが凡て、ねえ」

 

 教室の一番後ろに座っていた少年――ルークは小さく呟いた。

 

「なんだよ、ルーク。クッキー社会について不満でもあるのか?」

 

 前に座っていた少年――メソトが身体をルークの方に捻って訊ねる。

 

「違うよ、でもどうしてそう簡単にクッキーが作れるのかなあ、って」

「そりゃ、作業を最強に分担しているからだ、って先生も言っていただろ? ……そういえば、お前のおばあちゃん、リンドンバーグ社の新しくできた工場にパートに行ってるんだろ。おばあちゃんに聞けばいいじゃんか」

「そりゃそうだけどさ……」

 

 ルークはそう呟いて、空を見た。

 青い、青い空だった。

 

「そういえばさ、焼きそばパンが二十クッキーらしいぜ。いつもの半額!」

「マジかよ! 行くっきゃねえな!」

 

 メソトの言葉に、ルークは頷き、立ち上がった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 午後五時。学生は帰宅する時間である。

 ルークはひとり帰り道で、考え事をしながら歩いていた。

 

 

 ――どうして、毎秒二千万枚ものクッキーが百人程度の人間で実行出来るのだろうか?

 

 

 確かに、工業化という考えもあるだろう。

 しかし、度が過ぎている。

 毎秒二千万枚というのは、現代の科学技術ですら出来ないはずだった。

 にもかかわらず、それに疑問を感じる人もいなければ、それを問い合わせる人もいない。

 

「いったい、どういうことなんだろう……?」

 

 ルークはそんなことを考えながら、家に着いた。

 家に着くと、母親の声が聞こえた。

 

「おかえり、ルーク」

 

 優しく、母親は出迎えた。

 

「ねえ、母さん」

「どうしたの、ルーク?」

「母さんも、年をとったらリンドンバーグ社の工場に働きに行くの?」

 

 ルークの問いに、母親は首を傾げる。

 

「うーん……そうねえ。確かに、そうなるかもしれないわね。なんたって稼ぎがいいし」

 

 母親の言葉を聞いて、思い立ってルークは訊ねた。

 

「――ねえ、クッキーって何で出来ているのかな?」

「何で、って。チョコと小麦と牛乳に決まっているじゃない」

 

 そうじゃない――ルークは思って、話を続ける。

 

「そうだけどさ、どうして毎秒二千万枚もクッキーを作っていて、小麦や牛乳が無くならないのか、気にならない?」

「……そうかしら。もしかしたら牧場でもあるのかもしれないわよ?」

 

 確かに、そう考えるのが筋だった。

 でも、ルークの探究心はそれで収まらなかった。

 

「けれどさ、毎秒二千万枚ってほんとうに人間だけで作れちゃうものなのかな」

「今は科学技術が日進月歩で進化しているわ。そういうのも不可能じゃないのかも……しれないわよ?」

 

 そう言って、母親は夕食の支度をするためにキッチンへと戻っていった。だから、会話はそこで打ち止めとなった。

 

 

 夜になっても、ルークの探究心は収まらなかった。

 どうして、クッキーは作られていくのか。

 どうして、小麦や牛乳は一向に無くならないのか。

 それだけを考えていたから、彼は眠れなかった。

 

「ホットミルクでも飲もう……」

 

 呟いて、起き上がる。彼の部屋は二階にあるため、階段を降りる。階段を降りると、声が聞こえてきた。

 それは電話のようだった。母親が、誰かと電話をしているらしかった。

 

「誰と電話をしているんだろう……?」

 

 気になって、ルークは耳を欹(そばだ)てる。

 すると、少しずつではあるが、母親の言葉が聞こえてきた。

 

「……ええ、そうです。あの子が、そう言ってたんです。……ええ、本当にすいません。申し訳ないのですが……よろしくお願いします」

 

 そう言って、彼女は電話を切った。

 彼女は小さくため息をついて、

 

「――ルーク、居るんでしょう? 出ていらっしゃい」

 

 そう、静かな口調で言った。

 それに逆らわず、ルークは従う。

 ルークが出てきたのを見ると、母親はニヒルな笑みを浮かべていた。

 

「あなたは……結局、気付いてしまった。気付かなくていいのに……クッキーが毎秒二千万枚出来るのは何故? 小麦と牛乳がなくならないのは何故? そんなの簡単よ。そこに結果があるじゃない。結果として、毎秒二千万枚クッキーは出来ていて、小麦と牛乳は無くなっていない。それでいいじゃない。にもかかわらず、あなたはそれに着目して……しかも、調べようとしている。これは……マズイ……マズイのよ」

 

 母親はそう言ってふらふらとこちらへ近づいてくる。それを見て、思わずルークは後ずさる。

 

「マズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイマズイ!!」

 

 そう言って、首を上下に激しく振るその姿は、最早人間には見えなかった。

 そして彼は恐れ慄き、その場から走り出した。玄関へ向かい、素早く靴を履いて、外へ出る。

 夜の街は恐ろしい程に静かだった。誰も歩いていなかった。等間隔に道路に立っている電灯だけが、地面を不気味に照らしていた。

 彼は、考えることもなく、前を向いた。

 その視線の先にあるのは――リンドンバーグ社の工場だった。

 

「……何があるか解らないが……、もう後戻りは出来ない」

 

 そう言って、彼は夜の街を駆けていった。



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02

第二話 ゲームセンター


【002】

 

 ルークには一つ不安材料があった。

 

「……そういえば、メソトどうしたんだ」

 

 メソトはよくゲームセンターに遊びに行く人間だった。

 そして、今日もゲームセンターへ向かう旨をルークに伝えていた。

 

「何も問題が無ければいいんだが……」

 

 呟いて、ルークは再び街を駆け出した。

 街の中心にあるリンドンバーグ・ゲームセンターは街唯一のゲームセンターであり、学生が挙って訪れる場所である。メソトも例外にもれず、不良学生ではないものの、ここに遊びに来ていた。

 ここにあるゲームの種類は様々である。シューティングからロールプレイングゲーム、格闘ゲームなどがある。流石は、街唯一のゲームセンターである。殆どのゲームが満席となっていた。

 その中でも彼はレースゲームが好きだった。架空の峠を自動車で走り、その早さを競うものだ。彼はこれが得意だった。

 コインを入れ、愛車を選ぶ。まだ十五歳の彼にとって、『愛車』と呼ぶのもナンセンスだが、このゲームの中では、彼はこの車の持ち主だ。だから、愛車と呼んでも間違ってはいないのだった。

 メソトがレースゲームを始めたそれと同時に、ルークもリンドンバーグ・ゲームセンターへ足を踏み入れていた。足を踏み入れた瞬間、周囲の視線が痛く感じられた。母親がした通報は、相当に範囲が広いということを物語っていた。

 そんな視線を無視して、一先ずメソトを探すことにした。彼の言い分通りに行けば、今日もゲームセンターに居て、レースゲームで遊んでいるはずだった。

 

「居た」

 

 小さく呟いて、ルークはそちらを見た。そこにはレソトが予想通りレースゲームで遊んでいた。

 

「おい、メソト――」

 

 ルークがレソトの肩を叩こうとした、その時だった。

 ドゴン!! と轟音が響いた。

 始め、それは何の音だったのか解らなかった。しかし、音が発生した場所を見て、それが何かを理解した――。

 それは、壁が破壊された音だった。

 何に?

 それは、巨大な猫だった。

 大きさは、ルークの身長の十倍ほど。

 ピンクの毛をした、猫がルークたちを睨みつけていた。

 

「……おいおい、どういうことだよこりゃあ!? こんなものが出歩いていたら街中大パニックだぞ!!」

 

 ルークは叫んだが、ここで漸く彼は何かに気が付いた。

 人が、居ないのだ。

 あんなに居た人が、メソト一人を除いて居なくなってしまっていたのだ。

 そして、そんな事態を気にもせず、メソトはまだレースゲームに夢中になっていた。

 猫はゆっくりとこちらに向かってきている。急いで逃げなければ――死ぬだろう。

 

「お、おい! メソト!」

 

 ルークはメソトの肩を叩く。

 

「今いいところだからちょっと待ってくれ……! おっと、こいつ手ごわいな……」

「そんなことより、化け猫が目の前にいるんだよ! ティラノサウルスくらいの大きさのが!」

「はっはっは、何を言っているんだよルーク。風邪でもひいたか?」

 

 だめだ。メソトはまったく気にしてやいなかった。

 ルークはそう考えると、強引にシートからメソトの身体を引き剥がした。そして、無理やりその猫の方向に、メソトの身体を向けた。

 はじめ、嫌悪を露わにしていたメソトだったが、猫を見ると、

 

「う、うわっ!?」

 

 大きな声を上げ、後ずさった。

 

「お、おい! ルーク、こいつはどういうことなんだよ!?」

「俺に言われても解んねえよ! ……ただ、母さんに『クッキー』のことを訊いただけで……!」

「クッキーのこと?」

 

 メソトが何か感付いたと同時に、猫はルークたち目掛けて走り出した。

 それを見て、慌てて二人は立ち上がる。

 踵を返し、一目散に走り出した。

 走る。走る。走る。

 店の奥にある『STAFF ONLY』と書かれた扉をくぐって、彼らは漸く息をついた。

 

「……なあ、さっき『クッキーのことを訊いただけで』こうなった、って言ったよな?」

 

 話は、メソトから切り出された。その言葉に、ルークは小さく頷く。

 

「クッキーのことを言いだしたら、通報されて、こんなことになっちまったんだ」

「……ならよ、答えはたった一つじゃねえか」

「?」

「クッキーについて知られたくないことがある。それは大人の共通認識として残っていて、それを知られないようにするために、感づかれた子供を殺す……おおかた、こういうことなんじゃねえか?」

 

 

 ◇◇◇

 

 

 クッキーについての共通認識。これについては、誰も疑問に思うことなどなかった。それについては、『そうあるから、そうなんだ』としか誰も思わなかった。

 だからこそ。

 それについて、考えられた人間にはあるプロセスを施さなくてはならない。何も、殺そうとか思ってはいない。

 それはそれだと思い込ませ、仲間にすることだ。

 非常に簡単なことだ。

 平和な――ことだ。

 

 

 ◇◇◇

 

 

「……社長、ニュージャージーにおいて、『反逆者』が出たとのことですが、いかがなさいますか」

 

 リンドンバーグ社、社長室。一人のスーツを着こなした青年が、回転椅子に腰掛ける人間に対し、そう言った。

 

「反逆者が出るのは、どれくらいぶりだ」

「おおよそ、三年ぶりです」

「何名だ?」

「二名です」

 

 会話は続く。

 

「……ならば、私自ら向かおうではないか」

 

 そう言って、社長と呼ばれた人間は立ち上がる。それを見てスーツの青年が狼狽えた表情を見せる。

 

「……! 社長自らが出向くことなどございません! 私たちにご命令くだされば……」

「何を言う。先ずは社長が出向いてこそ、部下がそれを見て働くのだ。先ずは私が手本を見せねばなるまい」

 

 そう言って、社長は机からあるものを取り出した。それは銃のようだった。

 銃を構え、窓へ撃つ。窓には弾丸が当たらず、代わりにそこに空間の穴が出来た。それを見て、青年は訊ねる。

 

「これは……ポータル、ガン……ですか?」

「そうだ。私はこれで向かう。君もついてきたまえ」

 

 その言葉に、青年は小さくお辞儀をした。

 



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03

 猫を倒す方法を考えるのは、難しいことだ。

 例えば、猫じゃらし。

 猫じゃらしは、正式にはエノコログサといい、これを使って猫がじゃれつくからそう呼ばれているのだ。

 だが、彼らが対峙している猫の大きさを改めて考えてみることにしよう。

 体長十メートルの猫をじゃらす猫じゃらしが、あるのだろうか?

 

「……あるわけねえよな」

 

 メソトはそう言うと、項垂れた。彼らは、ゲームセンターのスタッフルームで作戦会議を開いていた。素早く逃げ込んだためか、猫はあたりを彷徨いていた。だが、ここが見つかるのも、時間の問題だろう。

 

「なら、猫じゃらしは無理だ。なら……正攻法か?」

「それはもっと厳しいだろ。何しろ、体格差が半端ないぞ」

「だよな……」

 

 ルークの意見が即座に却下されると、彼は小さくうなだれた。

 しかし、それでも考えることはやめなかった。

 そうこうしているうちに、猫はどんどんとゲームセンターの内部を捜索している。ここが見つかるのも時間の問題だ。

 

「こうなったら、逃げるしかない」

 

 行き詰まっていたかと思われた会話だったが、メソトの言ったその言葉を聞いて、ルークは思わず聞き返す。

 

「……なんだって?」

「だから、逃げるんだよ。ここから。それしか手段が浮かばない」

 

 メソトの言うこともそのとおりではあるが、あの猫から逃げられる算段でもあるのだろうか。

 ルークは考えていると、メソトは小さく呟く。

 

「正直、成功するかどうかは五分五分だ。どう転ぶか、解るもんじゃない。だが、試してみないと解らない。試さないと、その可能性が正しかったか、間違っていたかすら解らないままだ」

「…………そうだな」

 

 ルークはメソトの言葉に小さく頷き、立ち上がる。

 そうと決まれば作戦会議である。そして、この部屋にあるものをフル活用すれば、もしかしたら猫から逃げられるかもしれない。

 そう思って、ルークは部屋を見渡す。

 部屋は小さくこじんまりとしたものだった。真ん中にはテーブルが置かれ、壁に付いている棚が幾つかあった。

 棚の中にはチョコチップクッキーが瓶詰めにされていくらか置かれていた。

 

「……おい、ルーク。冷蔵庫があるぞ。まだ電源も繋がっているらしい」

 

 メソトがそう声をかけてきたので、そちらを見るとそこには確かに冷蔵庫があった。上は冷凍庫、下は冷蔵庫となっていた。しかし、中には殆ど食料と呼べるものが入っていなかった。

 

「……食えるもんがないかと思ったが、言うほどなかったな。もしかしたら……とか淡い期待を抱いた俺が悪いっちゃ悪いんだが。見ろよ。こんなに牛乳買い込んで、なにしていたんだ? しょうがないから、瓶詰めされているチョコチップクッキーでも齧るか?」

「いや、そいつは一応この世界での財源だぞ。そんなもん食ったらバチが当たる」

「バチとかなんだよ。そもそもクッキーが財源とか頭おかしいわ。だったら、それを食っていたほうが幸せだとは思わないか?」

「というか、そもそも神様なんて居るかも怪しいぞ。考えてみろよ。もし神様なんて居たら、この世界はとっくに救われているはずだ。それがどうだ? 全世界の何十億という人間が祈っても、神様が助けてくれたことなんて、これっぽっちも無かったじゃねえか」

 

 ルークの言葉に、「その通りだ」とメソトが頷くと、何かを思い出したかのようにルークに訊ねた。

 

「……なあ、ルーク。そっちの棚に皿ねえか? 深い皿だ」

「皿? ……ああ、確かにあるぞ。シチューみたいなもんが入る、でっかい皿が」

 

 ルークのその言葉を聞いて、メソトは何か考えついたらしかった。

 

「……どうした、メソト? 何か考えついたのか?」

 

 ルークの言葉に、メソトは小さく頷く。

 

「ああ、ここから脱出するための、手段をな」

 

 

 

「……なぁ、こんなので成功するのか?」

 

 ルークが訊ねると、メソトは皿に牛乳を注ぎながら言う。

 

「だから言ったろ。五分五分だ、って。そもそも成功するか怪しいが、その僅かの可能性にかけてみようじゃないか、ってやつだよ」

 

 その僅かの可能性というやつにルークは疑心暗鬼だったが、少なくとも今は彼の言葉に従うほかなかった。

 今ルークは冷蔵庫にある牛乳パックを取り出し、メソトに渡すというとても簡単なお仕事をしている。

 そして、それを受け取ったメソトは深い大皿に牛乳を注ぎ込んでいる。

 その作業に意味があるのか、現時点ではルークは理解していない。だが、メソトの自信はたっぷりだった。だから素直にそれに従った。

 深い大皿に牛乳が並々注がれたのは、ちょうど冷蔵庫にあった牛乳パックのストックが無くなったときだった。

 

「……よし、これで大丈夫だ。はじめはストックが足りなかったらどうするか考えていたが、何とかなりそうだな」

「なぁ」

 

 ルークが声をかけると、メソトは振り返る。

 

「どうした?」

「いい加減、お前が何をしたいのか、話してくれないか。でないと、納得いかない」

 

 ルークの言葉に、メソトは口元を綻ばせる。

 

「なんだ、そんなことか。どうせ、話しても減るもんじゃないしな。……というか、俺のやっている行動でピンとくると思っていたが、案外鈍感なんだな」

 鈍感と言われて、ルークは腹が立ったが、それを抑えて訊ねる。

「……どういうことだ?」

「猫は牛乳が好きだろ?」

「あぁ」

「だったら、簡単な話じゃないか。それだけの事だよ。猫は牛乳が好きだから、誘き寄せるのさ」

 

 メソトが考えた作戦は、至極簡単だった。

 先ず、どうにかしてこの牛乳たっぷりの皿を外に運び出す。

 そして、猫がそれに気を取られている内に逃げ出す――といったものだった。

 だが、この作戦は冒頭にして不安ばかりが過ることになる。

 

「作戦は大変シンプルなんだが……、その皿をどうやって持って行く?」

 

 牛乳たっぷりの皿は、牛乳パック三十本分の牛乳が入っている。即ち、三十キロだ。

 普通に三十キロの重りを持って行くだけなら、ルークかメソトどちらかで出来るだろう。だが、問題は猫だ。運んでいるうちに襲われたら、本末転倒である。

 

「だから、そこには細心の注意を払わなきゃいけない。何せ失敗は出来ないからな」

「一度きり、ってことだな」

「あぁ、一度も失敗は許されないこの役目。……どっちがやる?」

 

 メソトの言葉から、その後沈黙が生まれた。提案し、了解したとはいえ襲われたらひとたまりもない。進んでやるには、あまりにも厳しい。

 どれくらいの時間が経ったか、彼らは正確には理解出来ていなかった。

 その沈黙を破ったのは、ルークだった。

 

「……じゃんけんをしよう。負けたほうがこれを行う。オーケイ?」

「恨みっこなしだぜ」

「勿論」

 

 二人はそう話し、構える。

 じゃんけんはグー、チョキ、パーの三種類がある。グーはチョキに強く、チョキはパーに強く、また、パーはグーに強い。そんなことは自明だ。

 そして、彼らが出したのは――。

 ルークがパー、メソトがグー。メソトの負けだった。

 

「……よし、恨みっこなしと言ったからな。俺がやるよ」

 

 メソトは落ち込むこともなく、牛乳たっぷりの皿をゆっくりと持ち上げた。

 

「なぁ……やっぱり、二人で持っていこうか」

 

 ルークが言うと、メソトは小さく首を振った。

 

「いいや。じゃんけんという、二人の同意の上で決めたことだ。最後までやらさせてもらうぜ」

 

 メソトはそう言ってゆっくりと部屋を出ようとした。

 ルークはそれを見て、メソトに言った。

 

「……お前、俺が先手パー出すのが癖だと知っていたのに、わざとグーを出したんだろ」

 

 それを聞いて、メソトは立ち止まる。

 

「何を言っているんだ、ルーク。俺はお前の癖なんて知らない」

「そんなことを言っておいて、お前はいつも先手チョキを出して勝ってたじゃないか」

「……じゃあ、お前は負けるつもりだったのかよ」

「ああ、そうだよ」

 

 ルークは小さく頷く。

 

「何故だよ。じゃんけんのほうが公平に勝ち負けが決まる。だと思って俺はお前の意見を尊重したんだぞ」

「違う。お前も……じゃんけんを提案されてほっとしたんじゃないか?」

 

 メソトはその言葉に、思わず微笑む。

 

「……何でだ」

「恐らくは、俺にこれをさせないためだろうな。そして、俺もお前にこれをさせないために、じゃんけんを提案したんだ」

「……お前は自己犠牲過ぎるんだ」

 

 観念したように、メソトが大きな溜め息をついた後、話し始めた。

 

「お前はいつも遠慮して、自分だけが損をする立ち位置に、自分から立とうとしていた。それが、解らなかった。そして、許せなかった」

 

 メソトの話は続く。

 

「確かに、そういう役割に立つ人は必要なのかもしれない。だが、それがお前じゃなくてもよかったはずだ。だが……お前は進んでその役割をしていた。それが理解出来なかったんだ」

「そうだったのか……」

 

 メソトが、ルークが知らなかったメソトの思いを話し終え、少し愕然としていた。

 

「……だが、君の言ったその言葉、それは少し間違っているんじゃないか?」

 

 メソトの言葉に返した、ルークの発言は、メソトにとって予想外の反応だった。

 

「どういう……ことだ?」

「第一に、俺は確かに進んでその立ち位置にいるかもしれないが、他にもその立ち位置にいる人間は居るだろうか?」

 

 メソトはその問いに答えられなかった。

 

「進んでいく人間が居ない。だから、俺が居る。ただそれだけのことだ。生きていく上で重要な役割だと思うよ。ガス抜きを一手に任される、というのも」

「でも……!」

 

 メソトの言葉に、ルークは首を横に振った。

 

「いいんだ、それで。一人の犠牲で、多数が救われりゃ、安いもんだ」

 

 ルークは呟くと、メソトが持っていた皿の片側を持った。

 

「それじゃ、行こう。あの化け猫の場所へ」

 

 そう言うとルークは、目の前にある扉を開け放った。

 



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04

 

【003】

 

 扉を開けると、直ぐに広がったのは、血の匂いだった。ゲームセンターのピンク色をした壁には、血が流れていた。壁に寄り掛かるように男は倒れ込んでいたが、その上半身は、食いちぎられていた。それを見て、思わずルークは吐き気を催す。

 

「……あまり、見ない方がいいな」

 

 メソトはそう言うと、足早にゲームセンターを通り過ぎていく。床も同じように血に溢れていた。

 床にはいくつもの肉片が転がっていた。それが凡て人間だと思うと、彼の中から何かが込み上げてくるようだった。

 

「……落ち着け。大丈夫だ」

 

 メソトがルークに、必死に話しかける。

 そんなメソトであったが、彼も不安で一杯だった。

 もし、この仕業があの猫の仕業だとして、この牛乳がたっぷりの皿に目を向けるだろうか? もし、その皿ではなく、メソトたち自身に目を向けられてしまったら?

 そうしたら、もう彼らには逃げ場などない。

 だが、今そんな悪い状況などを考えている暇もなかった。

 

(もしそうなったら、そのときはそのときだ。……あの猫から逃げること、今はそれだけを考えるしか、ないんだ)

 

 メソトはそれだけを考えて、ルークとともに、ゲームセンターの中をゆっくりと歩いていた。

 ちょうど、その時だった。

 

「メソト、見てくれ」

 

 ルークに言われ、メソトはその方を見る。

 そこに居たのは、猫だった。猫は地面に顔をこすりつけていた――いや、正確には、地面にある何かを頬張っていた。そして、それが肉塊ということに気付くのに、そう時間は要さなかった。

 それを見て、ルークはどうするか考えていた。そのまま置いたとしても、どうやってそれに注意を引くか。いや、もしかしたら、今のうちに逃げてしまえば成功するかもしれない。

 そんなことを――考えていた。

 しかし、その淡い希望は簡単に崩されてしまった。

 

 

 ――気づかれた。

 

 

 そう思ったときは、ルークとメソトはそれをおいて、走り出した。猫はそれを見て、彼らめがけて飛び出す。

 十メートルもの体長がある猫と、高々一メートル六十センチほどしかない人間。

 その歩幅の差は、もはや歴然だ。

 まるで、巨人と小人のようだ。

 

「どうする!? 急いで逃げるって手もあるが、あの感じからすると、どうも無理だぞ!!」

 

 ルークの問いに、メソトは答えない。

 そして。

 メソトは唐突に立ち止まった。

 それを見て、ルークは振り返る。

 

「おい、メソト。どうした!?」

 

 ルークの問いに、メソトは小さく微笑むだけだった。

 

「おい! メソト!」

「いいから走れ! 俺を置いていけ!」

 

 メソトの背後には、猫が迫ってきている。

 

「何を言っているんだ! 急げよ!! 今なら、まだ間に合う!!」

「このままじゃ二人ともやられる!! だから、お前だけでも逃げろ!!」

 

 そして。

 メソトは――猫に頭から噛み付かれた。

 首がちぎれて、頭が噛み砕かれる。

 クシャリ、と小さな音を立てた。

 人間の最後とは、ここまで呆気ないものなのか――ルークは真っ白になった思考の中で、それだけが黒く埋まっていた。

 だが、立ち止まってなどいられなかった。

 メソトの遺志を、継がなくてはならなかった。

 まずは、工場へ出向かねばならない。

 泣いている場合では、ない。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 リンドンバーグ社、ニュージャージー工場。

 工場のラインには、百人を超えるおばあちゃん――グランマがひたすらにクッキーを焼く作業に入っていた。

 グランマといっても、ただのグランマではない。

 農業が得意なグランマ、工場にいるグランマ、鉱業が得意なグランマ、宇宙進出により自らの身体をエイリアンとさせたグランマ、錬金術によって自らの身体をも金に変えてしまったグランマ、『クッキーバース』という異界の扉を開けたことにより、その瘴気を浴びて変化したグランマ、タイムマシンによって連れてこられた過去のグランマ(彼女たちからは大グランマと揶揄されている)、反物質コンデンサーによってあらゆる知識を吸収したグランマ……その種類は様々だ。

 そのひとり、大グランマはこのリンドンバーグ社の経営をも担っている。

 

「……工場の経営が滞っている? 毎秒一億枚にパフォーマンスを向上させるために、ポータルを増強する予定だったんじゃなかった?」

 

 大グランマは予想外の報告に、スーツの男に強くあたっていた。

 スーツの男――レイジは大グランマの愚痴を聞くのにもあきていた。

 結論から言えば、この工場はもう限界を迎えていた。そして、この工場は何れ生産率が低下し、廃止されることだろう。大グランマはそれを恐れているのだ。彼女たちは、クッキーを作る上で様々な技能を完璧に積んでいるのだが、裏を返せばそれ以外はまったくダメなのである。

 だから、工場を潰されると一番困るのは、ほかならぬ彼女たちだけだったのだ。

 

「……聞いているのか」

 

 大グランマの冷たい言葉に、レイジは気を取り直し、小さく頷く。

 

「だったら、さっさとさっきの言ったことをやってもらいたいもんだね。皆のやる気が無くなってきているのは、間違っていないんだよ。クッキーを作ることしか、私たちは能がないんだからね」

 

 だったらそれ以外のことを頑張る努力もして欲しいものだがね、とは言えなかった。たとえ落ちぶれていたとしても、リンドンバーグ社の主要商品は彼女たちが作るチョコチップクッキー、それにほかならないのだから。

 



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05

第三話 ニュージャージー工場


【004】

 

 灰色の煙を常に流している場所。

 それが工場だ。

 そして、ニュージャージー工場を目の前に見た、ルークのファーストインプレッションが、「荘厳で、巨大で、近寄りがたい」というものだった。

 

「こんなところに、おばあちゃんはいつも働いているのか……?」

 

 ルークは怪訝な表情を浮かべながらも、改めて工場の正門を眺めた。

 正門には警備員の詰所があり、そこから鋭い目を光らせている。おそらくは、あそこで二十四時間監視を行っているのだろう。となると、正門からの突破は勿論のこと不可能だ。

 

「……だとしたら、」

 

 そう言って、ルークはちらりと目をやった。

 

「それ以外の方法、だな」

 

 

 ◇◇◇

 

 

 工場は一面城壁のように高い壁で囲まれている。ルークはどうにかして穴を探したが、そう簡単には見つからなかった。

 

「そう簡単にはいかないか……」

 

 ルークはそう言いながら、ふと見上げると、

 

「そうだ」

 

 何かを思いついたようだった。

 壁に穴がないなら、よじ登ればいいだけだ。

 だが、壁には突っ掛りも見えない。まるで磨いたかのようにツルツルだった。

 

「普通こんな綺麗にするか……?」

 

 それは、絶対にここに誰も入れないという威信から来ているものだった。だが、それが気付くのは、まだ後のことだ。

 どうにかして塀を乗り越える必要が出てきたというわけだが、その手段がまったくもって見つからない。

 

「どうしたものか……」

 

 そんなことを考えていたルークだったが、直ぐに思考を停止した。

 正門の方から、足音が聞こえてきたからだ。

 誰か来る。

 一瞬でそれを把握した。

 足音がゆっくりとこちらに近づいてくる。ルークは急いで物陰に隠れて、様子を伺う。

 格好を見るに、若い男だった。スーツを着て、時折ため息をついていた。

 ゆっくりと、こちらに近づいてくる。

 ルークは息をひそめる。

 ルークの横に着いた男の背後に素早く立ち、ルークは口を抑える。

 

「動くな、静かにしろ」

 

 ルークが低い声で言うと、男は両手を挙げた。

 男は何かを言っているようだったが、ルークが口を塞いでいるためか、もごもごと篭った声しか聞こえなかった。

 仕方ないので、口から手を離すと、男は静かにこう言った。

 

「わかった。君の言うことを聞こう。だから、乱暴なことはしないでくれないか」

「信じられないな。……おまえ、リンドンバーグ社の社員か?」

「ああ、一応な。俺の名前はレイジだ」

 

 レイジはそう言うと、小さくため息をついた。

 

「……俺の言うことを聞け」

「ああ、なんでも聞くよ。で、何をすればいいんだ?」

「あの工場に入りたい。お前は社員だから、何とかすれば入ることが出来るだろう?」

 

 ルークはある意味賭けに出ていた。

 というよりかは、これしか手段がないのだ。

 

「……ああ。確かに入ることが出来る。だが、お前はどうするんだ? 俺は社員証があるからそんなボディチェックはされないが、社員証もない素性も得体もしれない人間をそう簡単にほいほいと入れるほど、あの工場も甘くないぞ」

「解っている。だからこそ、だ」

 

 そう言うと、ルークは近くにあった車を指差す。

 

「あれを運転しろ」

「まだ免許持ってないんだけど」

「乗れ」

「本当?」

「つべこべ言わずに、乗れ」

 

 ルークの言葉に、レイジは渋々と従う。車のドアは既に開いていた。どうやら、先にルークが手を回していたらしかった。

 ルークが助手席、レイジが運転席に乗り込むと、レイジが何かに気がついた。

 

「おい、この車、鍵ないぞ」

「鍵つけっぱなしで捨てておく車がどこにある。簡単だ」

 

 そう言うと、ルークはどこかからかコードを二本取り出した。そのコードは無残にも引きちぎられていた。

 ルークはそれを接触させる。接触させると同時に、火花が散る。

 暫くこれを行っていると、エンジンの排気音が聞こえ始めた。どうやら、うまく接続されたらしかった。それを見て、コードをつなげ、ゴムで結ぶ。

 

「よし」

「……エンジンがついたのは、いいんだが、これからどうするんだ?」

「この車は小奇麗だからな、誰もスクラップ寸前だったとは気づきまい。だから、このまま正門に突入する。俺は後部座席に隠れていることにするよ」

「見つからないのか、そんなんで」

 

 レイジは後部座席の床に横たわるルークを見て訊ねる。

 

「ん? 大丈夫だろ。警備員でも細かく見ないだろ」

「なんでそこまで言える」

「カン」

「おい」

 

 レイジが言うと、ルークは小さく呟いた。

 

「ま、よろしく頼むぜ。運転手さん」

「乗りかかった船だ。仕方ねえ」

 

 レイジはそう言うと、アクセルを踏み込んだ。

 工場の正門にゆっくりと車が突入する。

 スカイラインの旧型をベースにあれこれ改造した車だった。騒音こそはひどくないものの、普通の会社員が乗るには、少々敷居の高い感じとなっていた。

 

「……どうして、こんな車を選んだんだ」

「仕方がないだろ、これしかないんだから」

「にしてもスカイラインの旧型とかどうしてこんな小奇麗な感じで残っていて……、これってもう半世紀以上前に作られたものじゃなかったか?」

「となると、最早生まれていないから解らない」

「俺だって、そうだ」

 

 ルークとレイジはそのような会話を交わし、車を運転していく。

 正門に差し掛かると、警備員が近付いてきた。

 

「……どうなさいました?」

「いやあ、家に帰ろうといざ考えたら、忘れ物をしてしまいましてね。……いいですかね?」

「そうですか。忘れ物ってのは、しちゃいけませんからなあ。誰かに奪われても、それが自分のものと証明出来なかったら、泣き寝入りも視野に入れなくてはならないというものですし。いいですよ、お入りください」

 

 警備員はそう言って、帽子を深く被った。

 レイジはお辞儀をして、ゆっくりと車を動かしていく。

 工場の脇にある駐車場に車を止めると、レイジは息をついて、後ろを振り返る。

 

「着いたぞ」

 

 レイジの言葉を聞いて、ルークはゆっくりと起き上がる。

 

「ここが、工場か。あっさりと侵入できるもんだな」

「リンドンバーグ社の社員なめんなよ」

「はっは、それもそうだ」

 

 ルークはせせら笑うと、車を降りる。

 

「世話になった。……もう帰っても構わないぜ」

「何を言っているんだ。もう乗っちまったんだ、お前の運転する船にな。逃げることも出来ねえし、逃げ隠れることが出来るのは絶対にありえねえ。……だったら、行けるところまでついて行ってやるよ」

 

 レイジのその言葉に、ルークは微笑む。

 

「そう言ってもらえると嬉しいね。地獄までついていってもらうかな」

「それは、俺が言うセリフじゃねえのか?」

 

 レイジがいうも、ルークはただ笑うだけだった。

 そして、彼らは工場に隣接しているビルの中へと入っていった。

 



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06

【006】

 

 ビルに入ってすぐ、異変に気がついたのはルークだった。

 

「……ん?」

「どうした」

「いや……なんか章の番号が飛んだ気がするんだ」

「気のせいだろ。というか、章ってなんだ章って」

「チャプター?」

「英語で言わなくとも解るわ」

 

 ルークとレイジの漫才紛いの会話はこのまま断ち切ることにしておいて、ルークはただ歩いていた。ルークたちが侵入したのは、リンドンバーグ社のニュージャージー工場管理ビルと呼ばれる場所だった。

 

「……にしても、これほどまでに広いと、管理も大変なんじゃないのか。そのへんはどうなんだ?」

「大変さ。勿論大変だ。管理費にチョコチップクッキー七百万枚が消えているよ。それも毎日、ね」

「大した額には見えないが」

「これでもやりくりしている方なんだ。ほかの工場じゃ毎秒二億枚、一番すごいところは毎秒五十億枚ものクッキーを生産しているところだってある。確かにそういうところからすれば、管理費はわずかに過ぎないがね」

 

 レイジがため息をつくと、ルークは窓の方を見て、

 

「大変なんだな、クッキー生産を独占状態にある会社といっても」

「ここはその会社の中でも末端だからな。まだ子会社の方がマシだと思うよ」

 

 レイジは呟くと、スーツのポケットからタバコを取り出す。

 

「吸っても?」

「未成年じゃねえのか? 免許持っていないって言ってたし」

「何も免許持っていない=未成年とは限らないよ。これでも俺は二十三だ」

「そうか。……ちなみに俺は十八だ」

「五つ先輩、ってわけだ。敬語くらい覚えておけ。将来舐められんぞ?」

「敬語ってのは、敬うべき存在の人間に対して使うからな」

 

 俺はそれに入ってないと言いたいんだな、とだけ吐き捨ててレイジはタバコを一本取り出し、口に咥え火を点ける。直ぐにタバコの煙が一筋上に上っていった。タバコを吸って、思い切り息を吐く。その息は煙が混じっていた。

 

「ああ。やっぱりこの瞬間が一番気持ちいいね。吸うか?」

「未成年なもんでね。健全な学生だからな」

「健全な学生が大人を使ってまで夜中に工場に侵入するもんかね。……そうだ、この工場について少し説明してやろう。といっても、この工場凡てがチョコチップクッキーを生産している工場ってのは、お前も知っている話だと思うが」

「それは周知の事実だからな」

「ああ。そうだ。だがな、中でもたまーにキャンディをくだいたものを入れたクッキーも販売するんだ。それはチョコチップクッキー百個分に相当する貴重なものでな……」

「おい、レイジ」

 

 ルークはふと壁を見ると、目の前に小さな扉を見つけた。呼び止められたレイジはバツの悪そうな表情でルークの方を向くと、ルークよりもルークが指差した扉の方に目がいった。

 

「……なんじゃこりゃ」

 

 小さな扉を見て、レイジは呆気にとられてしまう。

 

「……こんなもの見たことねえぞ。ほかの工場にもあるのかね……。たぶんは、スタッフオンリー、いやそれ以上に機密を守らなくちゃならない場所かもしれないな。機関室とか、おおかたそんな感じじゃないか?」

 

 レイジの言葉とは対照的に、ルークはここに何かがあるのではないかと踏んでいた。

 これほどまでに重々しい雰囲気が漂っている部屋だ。何かがあるに決まっている――そう決めつけたルークは観音開きの扉のドアノブを両手で構えた。

 

「おいおい、ルーク。開けるというのか。やめておけ。そこに目ぼしいものなんて入っているとは思えないよ」

 

 レイジの言葉を無視して、ルークは扉を開けた。

 部屋には――何もなかった。

 いや、強いて言うなら。

 その部屋には、あるものがあった。

 それは人形だった。

 それも、ただの人形ではなかった。

 

「……なんだよ、これ」

 

 ルークはその人形の肌に触れる。その感触はまるで、本物の人間のようだった。

 

「何だよこれ。まるで人間じゃねえか……」

 

 そしてルークは少女の服に刺繍がされていることに気付いた。

 

「EVE……『イヴ』ってことか? レイジ、聞いたことは?」

「ないな。少なくともこの空間があることすら知らなかった」

 

 レイジの口ぶりからして、嘘を言っているようには見えなかった。ルークはそう思うと、部屋を物色し始める。しかし、それ以外の目立った物がないのだから、物色のしようがなかった。

 

「……しかし、この人形は何なんだ? もしかしたら、人形じゃない可能性もあるわけだが」

「流石にそれはないだろう。……ないと思う」

 

 ルークはレイジの言葉に、ちょっと不安に思ってしまって、言葉を付け足した。

 

「……考えてもしょうがない。外へ出よう。俺の目的はこれじゃない――」

 

 そう言ってルークが部屋の外に出ようとした、その時だった。

 今まではいなかった部屋の入り口に誰かがいたのだ。

 それは――ルークも良く知る存在だった。

 

「グランマ……おばあちゃん!?」

「んん~? 私はあんたを知らないねぇ。それに私はグランマじゃない、大グランマだよ」

 

 大グランマ。

 大グランマから告げられたその名前はルークには聞き覚えのないことだった。

 

「あれ? 隣に居るのは……さっき会った社員じゃないか。やはり、裏切ったんだね」

 

 大グランマから告げられた一言に、レイジは思わず一歩前に踏み出す。

 

「どういうことだ……?」

「工場長が言っていたのさ。あいつ……レイジは裏切るだろう、ってねぇ!!」

「工場長、が……?」

「そう。だからそれも含めて呼びつけたらしいさ。……リンドンバーグ社のトップを」

 

 その言葉を聞き、レイジは身体を小刻みに震わせ始めた。

 

「社長がなんだよ、トップがなんだよ」

 

 そう言ったのはルークだった。ルークの話を聞いて、大グランマはルークの方に向き直る。

 

「間違っているものを『間違っている』とも言えねぇのかよ」

「子供が減らず口を叩くねぇ。なに? 特別にでもなったつもりかい? ヴェルターズオリジナルでも食べたのかい?」

「その飴なら小さい頃に死ぬほど食ったさ。お陰で虫歯になったがな」

「歯を磨かないのが悪いのさ。歯を磨いていりゃ虫歯になるわけがないだろう」

「ちょっと待て、話がずれてないか」

 

 レイジの冷静なツッコミによって、二人は話の本題に戻る。

 

「……ともかく、あんたたちは邪魔なのさ。この世界には、ねぇ……」

 

 そして。

 大グランマはゆっくりと近付き、彼らの額に指を添える。

 

「何を……!?」

「初めての人間は酔うかもしれないねぇ」

 

 その言葉を最後に――三人は部屋から姿を消した。

 

 

【009】

 

 次にルークたちが目を開けたとき、ルークたちは直ぐに縛られている事に気が付いた。

 ルークの隣にはレイジが横たわっていたので、ルークはそれを見て溜め息をつく。

 

「大丈夫か、レイジ」

 

 ルークはレイジの身体を揺さぶる。少しして、レイジは上半身を起こす。気持ちよく眠っていたらしく、目は半開きだ。

 改めて、彼らは自らが置かれた状況を見直してみる。

 先ず、彼らが縄で緊縛されていること。

 次に、先程の部屋とは違う部屋にいるということ。

 

「……目が覚めたかい?」

 

 ルークはその声を聞いて、あたりを見渡す。

 すると、目の前にいつの間にか大グランマが立っていた。

 

「お前は!」

「……まさか、ここまで単身で来るとは驚いたよ。友人を殺されてもなお、『真実』に辿り着くために来るとは。まったく、お前なら、真実の奥にあるその奥……そんな深いところまで解るんじゃないかね。そして、理解して、受け入れる。私はそんなことすら浮かんでしまうよ」

 

 その言葉の意味を、この時のルークは理解していなかった。

 そして、ルークは大グランマの後ろから、小さな鼻歌が聞こえてくるのに気がついた。

 

「大グランマ、それくらいにしておきなさい」

 

 回転椅子を回し、漸くその人間の姿が見て取れた。

 それは一見して――ピエロのような人間だった。赤と白の縞模様をしたTシャツに赤いジーンズ、赤い帽子に赤い靴、鼻には赤い球も付けていた。

 ピエロは立ち上がり、言った。その声は意外にも低いトーンだった。

 

「――お初にお目にかかりますね。わたくし、この工場を受け持つ工場長でございます。名前はございませんので、工場長と皆呼んでいます」

 

 とても丁寧なピエロ――否、工場長だった。しかし、直ぐに座ると壊れたような笑みを浮かべた。

 

「……さて、あなたたちをどう処罰しましょうかね」

 

 その言葉を聞いて、再びルークたちは身体を震わせる。

 

「そもそもこの工場の存在意義――レゾンデートルと、哲学では言うわけですが、それについて理解しているのですか? それを知らずここに侵入したのであれば、それは途轍もなく情けないことです。くだらないことです。無意味なことですよ」

 

 工場長の言葉に、ルークたちは何も答えられない。

 工場長はニヒルな笑みを浮かべて、続ける。

 

「解りませんか。分からないですか。解らなかったですか。答えはですねえ……この工場は世界そのものなのですよ」

 

 工場長はそう言うと、机に置かれている地球儀を触る。

 

「地球儀を見れば解る話です。この世界は最早クッキーで回っています。かつてこそ、日本という国で『金は天下の回り物』というコトワザがあったくらいですが、今は金がクッキーに変わっているのですよ。だから、この工場は必要であり、不必要でない。それくらい……どうして解らないんですか。解りたくないんですか。解り合おうとしないんですか」

 

 工場長の問いに、ルークは言う。

 

「人間ってのは凡て同じ考えを持っている訳が無いだろうが。クッキーでとらえても同じだ。チョコチップクッキーが好きな奴もいれば、プレーンのクッキーが好きな奴もいる。キャンディを砕いたやつを入れたクッキーが好きな奴もいれば、そもそもクッキーが嫌いな奴だっている。人間は、そんな違った存在がまとまり合って生きているからこそ、今まで続いているんだろうが。それを、たったひとつの意志でまとめる? 反吐が出るね。そんな世の中ならば、さっさと滅んでしまったほうがマシだ」

「そうかい。だが、そんな理論が通用するとでも思っているのかな? 今は君が言う、クソッタレな世界なんだ。ということは、君の思う最悪な世界で、君の思う最高の世界の真逆な世界であるわけだ。にもかかわらず、君は、君が思う最高の世界のルールってやつを適用している。それは間違いだ。何故ならそれは、ここが最高の世界ではないから、だ。私たちにとっては勿論違うが、君からすればこの世界は掃き溜めに見えているのだろうね。価値観が違うというのは悲しいことだ。……私だって、私は元々この世界の住民だから理解出来ないが、君のような状況にあれば同じような感じになるだろう。だからこそ、悲しまないで欲しい。世界を理解して欲しい。これは、君がこの世界で生きていく上で一番重要であり、一番大事であり、一番不必要だと思ってはいけないことだからね」

 



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07

 

【Intermission:】

 

 地図にも描かれていない空間というのは、勿論ながら存在する。存在しないわけがないし、存在していても気づかれない世界だってある。

 それはそんな一部。ニュージャージー州から遠く離れた、ある海域。

 その海域に飛び込めば、機器が狂い、場合によっては過去や未来へ行くことが出来ると言われている。殆どの場合は、落下したりどこかで難破したりしているのかもしれないが、それでも『船が消える』ということはかわりない。

 その何処か。確かにそこには小さな島がある。だが、誰にも気づかれないし、誰も気付くこともない島がある。そこは、土や岩で出来た島ではなく、流れ着いた船の残骸でできている、謂わば人工島のような場所だった。

 その名前は――サルガッソーと呼ばれている。

 そのサルガッソーにある船の一つ、甲板で小さな少女が鼻歌を歌っていた。少女は、白いワンピースを着ていた。裏を返せば、それだけしか着ていなかった。まるで、凡て人間により設計され開発されたような――一言でいえば、人工物とも言えるような――精巧さだった。金色のウェーブのかかった髪も、黒い眼帯を付けているのも、マリンブルーの目も、足も、薄赤い唇も、腕も。

 少女は鼻歌を唄う。そのリズムはとても不安定で、何か既存の音楽を準えているようには見えない。

 少女の名前は、古代の神々の名前を使っているのだが、彼女自身自分がなんという名前なのかは思い出せない。というより、彼女自身、もう『名無し』でいいのではないかとすら思っていた。

 少女は鼻歌を唄う。

 それが何のメロディなのかは――誰も解らない。

 

 

 

【010】

 

 工場長は小さくため息をついた。

 

「……なんというか、もう終わりだ。もう終わりなんだよ、凡て。終わってしまえばいい。君たちはゲームオーバーだよ、ああ、これは冗談ではなく、本気で言っているのだけれど。もう一度言おうか。ゲームオーバー、だ」

「冗談じゃねえか。ゲームオーバー? まるでこの世界がゲームの世界みたいな感じじゃないか」

「近くもないし、遠くもない。まあ、それに関してはあんまり話す必要もないし。……とりあえず、処刑前に、呼んでおかなくちゃいけない人物が居るんだよねえ。まずはその人を呼ばなくちゃ」

 

 そう言うと、工場長は机の引き出しからあるものを取り出した。

 それは、ラッパだった。

 それも、子供が玩具に使うような、可愛らしいものだ。

 工場長はそれをもって、口につけて吹く。その音色は、とても透き通ったものだった。

 

「……やれやれ、そろそろ登場してもいいのか」

 

 そうため息をついて出てきたのはスーツを着た男だった。しかし、その大きさが規格外過ぎた。三メートルはある天井に頭が余裕でついてしまうほどの大きさだったのだ。だから、今男は頭を屈めて話をしている。

 

「私は……いいや、特に今話をすることもなかろう。私の名前は、ない。強いて言うなら、リンドンバーグ社の社長を務めている」

 

 社長はそう言うと、その手のひら(手のひらの大きさも勿論規格外で、その大きさはルークの顔の大きさを超えるものだ)でルークの頭を触る。

 

「しかしまあ、ここまで頑張ったものだ。どれくらい世界を繰り返した? 覚えてもいないか。パターンは大凡六千万回くらいか?」

「――何を言っている?」

「ああ。まだ理解していないのか、この世界の凡てを。あまりにも残念すぎる。あまりにも過酷すぎる。そして、あまりにも残酷すぎることだ」

 

 社長の言っていることは、解らなかった。しかし、この男が何をしているのか解っている以上、腹が立ってしょうがなかった。

 

「この世界は、おかしい? そんなわけがないだろう。おかしいと思わなければ、おかしくないのだよ。ルークくん。君だって気付かなかったのではないかね。どれくらいの年月かは解らないが……君は十代後半くらいだろうから、それくらいの年月は最低でも、この世界の『理不尽』とやらを理解できなかったはずだ」

 

 社長の言っていることも尤もだった。

 たしかに、ルークがこの違和感に気付いたのは、ほんのついさっきのことだ。それまではクッキーだらけの生活に違和感を示すこともなく過ごしてきていた。これは少しおかしすぎる。もしかしたら、誰かが記憶を操作しているのか――!

 

「……もう、お仕舞いだよ。気が付いたのまではいつも通りよかったんだが、そっからはダメダメだったね。まったく、どうして学ばないかねえ」

 

 社長の言葉に、工場長は静かにため息をついて、答える。

 

「社長、それは彼らの記憶が引き継がれないから、ですよ♪」

「ああ、そうか。そうだったな。……ククク」

 

 ルークはそして、何かに気がついたのだが――。

 

「もう遅いよ、そしてまた会おう。機会があれば――ね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、ルークの意識はそこで途絶えた。

 



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08

第四話 もう一度


【012】

 

 二十一世紀があと二年で終わりを迎える、ある冬のことだ。

 チョコチップクッキーの世界シェア一位を誇るリンドンバーグ社は、アメリカ・ニュージャージー州に巨大工場を開いた。そこでは毎秒二千万枚のクッキーが製造出来るという。

 しかし、世界の需要を考えると、それでも足りなすぎた。

 そして、人手はあまりにも足りなすぎた。

 リンドンバーグ社――だけではなく、チョコチップクッキーは『おふくろの味』が売りだった。そのため、パートで六十歳以上の女性のみを雇い、それにより生産されていた。

 しかし、問題が発生する。

 人間には限りがある。それも、この時代、科学技術などそこまで発達しているわけでもなく、世界人口はゆるやかに減少傾向を辿っていた。

 つまりは、人材不足だった。

 少ない人材を、様々な会社が取り合っている。それは、別業界からすれば非常に滑稽なことだが、チョコチップクッキーの業界からすれば死活問題だった。工場を増やすことは簡単だが、味を保つことは非常に難しい。それは自明である。だからこそ、チョコチップクッキーをどこが一番高く払えるか、これが問題であった。

 勿論、リンドンバーグ社はその中でも桁一つ違うチョコチップクッキーの数を提示していて、そのためか、たくさんの女性パートが居るのである。

 リンドンバーグ社は、世界に百以上の工場を持ち、それにそれぞれ百人以上の女性パートがいる。どの工場も毎秒二千万枚のクッキーを生産しているのだが、これを続けても世界の需要を考えると、限界だった。

 

「――そして、世界政府はチョコチップクッキーが足りなくなることを懸念材料としていて、これが今の選挙の議題に上がっているわけだ」

 

 教室の教壇に立つ、老齢な男性教員がそう言うと同時に、終業のチャイムが鳴った。それを聞いて、教室の中からはため息と声が混じってざわついた。

 教員は足早に教科書をカバンに仕舞うと、教室を後にした。

 

「……クッキーが凡て、ねえ。にしても今日の授業、聞き覚えがあるぜ……。これって何ていうんだっけか……」

 

 教室の一番後ろに座っていた少年――ルークは小さく呟いた。

 

「ルーク、まさかお前予習したのか? いや、有り得ない。お前に限って予習するなんて……。ちなみにそれは『デジャヴ』。既視感、ってやつだな。あれ? でも聞いたことがあるってことは、既視感じゃなくて既聴感なのか? ……解らん」

 

 前に座っていた少年――メソトが身体をルークの方に捻って訊ねたが、話の途中で問題にぶつかったらしくぶつぶつと独りごちっていた。

 

「おい、一人の世界に突入するなよ」

「ん? ああ、すまん。ついつい話に夢中になってしまってな……。仕方ないだろ?」

「まあ、お前のそういう癖は今に始まった話じゃないからな」

 

 ルークはそう呟いて、空を見た。

 青い、青い空だった。

 

「そういえばさ、カレーパンが二十クッキーらしいぜ。いつもの半額!」

「マジかよ! 行くっきゃねえな!」

 

 メソトの言葉に、ルークは頷き、立ち上がった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 午後五時。

 帰宅時間である。

 ルークもその例に漏れず、とぼとぼと家への帰り道を歩いていた。

 彼は今日の講義について考えていた。別に真面目に勉強に取り組み始めたとかそういうわけではない。

 

「……なんだろう、聞いたことあるんだよな……」

 

 デジャヴ。

 実際は一度も経験したことがないのに、経験したかのように思わせる現象のことである。

 ルークは一度も聞いたことのない講義を、聞いたことがあると認識した。それは、普通ならばおかしな話である。

 

「ねえ」

 

 そこで彼は、背後から声をかけられた。

 気になったので、振り返ると、そこには一人の少女がいた。

 まるで精巧な人形のような少女だった。肌から髪の一本一本までが職人の手で精巧に作られたような――絵に描いたような『完璧』がそこにはあった。

 しかし、ここでもルークは既視感――デジャヴを感じた。見たことがある気がする――だが、見たことはない。その矛盾を、彼は紐解く暇もなかった。

 

「……ごきげんよう、ルーク」

「どうして僕の名前を知っているんだい」

 

 ルークは訊ねると、少女は口に手を当て、優雅に微笑む。

 

「だってあなたとは恐ろしいくらい長い付き合いがあるのですもの。当たり前ですよ」

 

 ルークは頭の中をかき回す。探している情報は、目の前に立っている少女についてだった。

 少女はルークを知っている。だが、ルークは少女を知らない。ならば、どうして少女はルークを知っているのだろうか? それについて、自分の頭の中で何かあるのかもしれない。そんな一抹の期待を、ルークは考慮していた。

 だが、そんな期待も虚しく、ルークは彼女の名前を覚えてはいなかった。

 

「……ごめん、やはり覚えていなかったよ」

「覚えているのであれば、話は早いんですが……。ですが、まだ記憶は若干残っているようですね。今日の講義に関して既視感を覚えたりしませんでしたか?」

「何故それを?」

「何故なら私は今までのパターン、六千七百四十五万九千七百二十八回、凡てを記憶していますから」

 

 パターン――それを聞いて、ルークは何も思い出さなかった。

 それを見て彼女はため息をつく。

 

「……仕方ありません。一先ず、私の説明がてら、私が行ってきたことについて話していきましょう。あれはそう。一個前のパターン、六千七百四十五万九千七百二十七回目の世界での出来事です……」

 

 

 

 

【005】

 

 ビルにこっそりと忍び込んで、私はようやく息をつきました。一先ずこれから何をしようだとかは決まっていましたが、対象を見つけない限りは問題外です。

 ――音が鳴りました。ちょうど、タイヤのゴムと地面のアスファルトが擦れ合う音。即ち、乗用車の停車音が聞こえたのです。ライトは会社の建物側に当たっていましたので、誰が来たのか私はビルの窓から小さく眺めてみることにしました。

 車に乗っていたのは二人だけでした。片方はスーツを着た男。もうひとりは――対象となる人間でした。どうやら、このパターンでは友人は助からなかったのだと直ぐに私は悟ります。もう六千万回以上もパターンを繰り返していると流石になんとなく覚えてしまうのです。ゲームのRTAみたいな感じになっちゃいますね。

 そんな戯言はさておき、私は対象を目視したので目標のエリアへと向かいます。恐らくこのパターンで行けば、部屋にいつものように突入して、この世界軸での『奴らによって停止させられた』私とご対面していると思うので、それまでにその部屋へ向かわなくてはなりません。急がなくちゃ。

 そう呟くと、私は小走りでその部屋へと向かうのだった。

 

 



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09

【013】

 

「ちょっと待て」

 

 ルークは少女の話を聞いてもなお、何が何だか理解できなかった。ルークは覚えていない、世界のことだ。確かに突然言われても訳が解らないだろう。

 

「どうしたのかしら。私はきちんと、これまでにあったことを話して私の役目、役割、生き方を凡て言っているつもりなのだけど」

「殆ど意味同じだからな、それ」

 

 ルークのツッコミに少女は「あう」と言う。厳しいところを言われたらしい。

 ルークは早く帰りたかった。こんな戯言に付き合っている暇など、余裕など、なかったからだ。

 

「そういえば、幻想郷にもクッキー工場ができたとか噂がある。それくらいにクッキーは盛り上がっているし、それで正しいんじゃないのか。クッキーで世界が成り立っている。それはそれで合っているだろ」

「いいや、あなたはこの世界から脱しなくてはならない。そのために、この世界を理解せねばならない。そして、私の役目をも理解する必要があります」

「だったら話してくれよ。君はいったいなんだ」

 

 ルークの言葉を聞いて、再び少女は話し始める。

 

 

 

 

【007】

 

 走るのをしばらく続けると疲れてしまいます。私は疲れこそ身体には感じないのですが、あいにくそう設定されているのですから、疲れ状態になると息がはあはあ上がってしまうものなんです。変態と思われてしまうのでこの状態が非常に嫌いなんですが、そんなことを言っている場合ではないのです。急いで、対象を探さねばならない。そのためには、あの部屋へ向かわなくては――と私はそのために歩を進めていたのですが、

 

「どこへ向かうんだい、侵入者」

 

 ここで、唐突に声が聞こえました。嗄れた声でしたので一発でそれが女性の声ですと気付きました。なんというか、女性の声なんですが、それでも生きるのを見失ったような……いや、生きるのがこれしかないと、逆に生に縋っているような……何を言いたいのか、私にもさっぱり解らなかったんですが、背後からでもその重々しさは伝わってきました。

 振り返るとそこには一人の女性がいました。女性、という年齢でもないかもしれません。おばあさん、といった方が柔らかい表現で好まれることでしょう。おねえさん、という割にはお世辞の塩味が効きすぎていますからね。そんなことはさておき、改めて女性の服装を見ていきます。女性は凡て金色に包まれていました。なんというか、恐ろしいです。これが人なのか、人の果ての姿なのか、と悲観してしまうほどに。そこに立っていたのは、はじめ人間だとは気付かないものだったのです。

 

「聞いているんだよ、どうしてここにいるんだ、と」

 

 少しだけ女性の語気が強まります。きもちも分かりますが、私だって構っていられません。一先ず逃げるが勝ちということで走り出しますが――。

 

 

 ――おや、逃げられません。なんというか、金縛りのようになってしまっている様子。どうしてかしら。

 

 

「逃げようたって無駄だよ。質問に答えてもらわなくちゃあね」

 

 そう言って女性はどんどんと近づいてきます。やだな、そういう余裕だなんて私には微塵も存在しないっていうのに。時間をみじん切りしたら始末の料理というくらい凡て使い果たさないといけないくらいに私には余裕が存在しないというのに。

 女性をどうやって去なすか。そういうことしか私は考えていませんでした。というかそうしないといけないんですから。一先ずは、今逃げられないという状況をどうにかしなくてはいけませんね。そうでないとこの世界を無駄に過ごしたことになってしまいますから。

 そう考えれば、話は早いです。

 

「あのー、この金縛りを解いていただけませんか? 質問に答えろ、と言われましてもこんな状態じゃ答えられる質問も答えられませんよ?」

「そんなことを言っても逃げるつもりでしょう。だったら私はこのままあなたを見えない力で緊縛し続けたほうがいいですから」

「そう……ですかっ」

 

 確かに金縛りとさっきは説明しましたが、どちらかと言えば見えない力で緊縛されている――正しいでしょうね。現にひどく苦しいですもの。私の身体が締め付けられる感覚を犇々と感じます。服が歪んで私のボディラインが露になっちゃっていますが、まあ、そんなことはどうだっていいでしょう。見られて減るものじゃありませんし。

 

「……ならば、さっさと質問すればいいでしょう。あなたは、いつになったらするのですか。これでは、する前に私の息が絶えることすら考えられないのですか?」

 

 まあ実際には息絶えても、それはこの世界で失敗しただけ、という話なので私としては一回分のチャンスを失っただけに過ぎないんですが。

 

「そうだね」

 

 女性は舌打ちをして、私に近づき、私の顎を持ちます。

 

「それじゃ、質問させてもらおう。単刀直入に聞いて、あんた、『イヴ』という名前に聞き覚えはないかい?」

「それに答える義理が私にはありますか?」

「何を言っているんだい。あんたに置かれた状況を考えると、答えるか答えないかは直ぐに浮かんでくると思うがね」

 

 はあ、と私はため息をつきました。面倒くさいからです。今まで行った行為を言えば、それに対する面倒くささと言うことはないと言われることですが、今はそんなことは関係ありません。目的として、それをしなくてはならないのですから。

 私の『能力』を使うことさえすればこれから脱出することも余裕でしょう。ですが、それを見られれば余分に相手は警戒してしまう。そうすれば、対象を救うことが出来なくなってしまう(正体は既に敵にバレているでしょうね。彼女のような末端にはバレていない様子ですが)。

 

「言わないなら、仕方ない。口封じのために殺すしかないようだね」

 

 そう言うと、彼女はいつの間にか持っていたナイフを取り出し、私の腹を掻き切りました。

 刹那、恐ろしい程の液体が溢れました。その色はとても赤かったです。絵の具の赤をそのまま垂らしたような着色を、無機質なクリーム色の床にしていきます。服は無残にもちぎられ、上半身は最早服を着ていないと言っても過言ではないでしょう。そして、彼女は私に近づくと私の腹の中に右腕を突っ込みました。その時私の身体が大きく疼き、私の身体が小刻みに震え始めました。暫く体内をかき回した彼女の右腕は、あるものを取り出して戻ってきました。それは黄色い柔らかそうなチューブのようなものでした。そして私は直ぐにそれが、小腸であることを察しました。彼女は、私の小腸を取り出すと、それを口に運びました。さすがに吐き出しそうになりましたが、私はそれをこらえました。

 小腸を引きちぎり、クチュクチュと音を立てて彼女は食べていきます。最早彼女は人間ではなかったのです。人間の形となった、獣に過ぎなかったのです。小腸から大腸、胃、十二指腸、肝臓、腎臓と食べられていきます。しかし、不思議と『死』への恐怖は薄いです。このパターンが初めてだからというのもありますが、なんだか現実味がないですね、自分で言っておいて相当シニカルな発言ですが。

 私は私の肌を見てみます。お腹の肌は不自然に凹んでいました。そうですね、空気を失った風船のように凹んでいました。人間から臓器を引きずり出すと、人間のお腹はこんな感じになるんだな、と一つ学びました。別に生きていく上では一番要らない知識だと思いますけれどね。

 

「まだ生きているとは、人間とは不思議で恐ろしい生き物なんだねえ。まあ、これを食べればお仕舞いだけど、流石に」

 

 そう言って、彼女が取り出したのはこぶし大の大きさの臓器でした。私の腹から強引に引きずり出したものの一つでしょう。それは一定のペースで脈打っていました。そのとき、私は下半身に寒気を感じました。見ると、濡れていました。怖くもないのに、漏らしてしまったらしいです。人間は怖くないと自覚していても、精神の奥深くで怖いとおもっていたら恐怖と同等の状況になるらしいのですが、私もそれに該当したようです。私は関係ないと高を括っていたのですが、これは恥ずかしいことですね。

 ……話がずれてしまいましたが、彼女が持っているものから管が私の腹の中へと伸びています。その管はところどころちぎられ、今も赤い液体がぽつぽつとこぼれ落ちています。まあ、なんとなくですが、もう私は死んでもおかしくないのだと思います。

 

「これはね……心臓さ。心臓って、例え三分でも停止してしまうと脳の機能が停止してしまうそうだよ。蘇生術でもすれば生物学上人間として居られるらしいが、こんな状況であんた以外の味方なぞ存在するはずがない。……つまり、これを失った瞬間、あんたは死ぬというわけだ」

 

 そう言って、彼女は心臓を口に運びます。ぷちぷちと血管のちぎれる音がします。タイムリミットは、近いのかもしれません。

 

 

 

 

 

 ――そして、彼女が心臓を思い切り噛みました。

 



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10

【008】

 

 次に私が目を覚ましたのは、掃き溜めでした。いや、文字通り、ではなくそういう名前の部屋がこのビルにはあるのです。どうやら私は食い潰されたあと、廃棄物として掃き溜めに放り捨てられたのでしょうね。しかし、よかった。焼却処分でもされていたら、この世界で生き返ることは絶対に不可能でしたから。

 ゴミ臭いのをどうにかしたかったのですが、あいにく時間がありません。一先ずどうやってここから脱出するのか考えなくてはなりません。この掃き溜めにすてられるのは、少なくとも初めてではないのですが、さすがにあそこまでグロテスクな経験をしたことはありませんね。カニバリズムというのですか、そういうものを経験するというのは無いと思うので貴重な経験として受け取っておくことにします。

 

「……さて、と」

 

 そんな独り語りはおいておくとして、出口を探すことにしました。出口と呼べる扉はあいにく階段の上という解りやすい構造となっていました。ここからゴミを排出したりするのでしょうね。楽チン設計ですね。

 扉は観音開きになっていまして、そこを通ることができれば外に出られるのですが、扉の鍵はかかっている様子でした。これは困りました。鍵がかかっていたら、外に出るのは鍵がないと出来ませんから。

 

「ですが……そういう物を探す時間というのも、正直存在しませんから、ここはちゃちゃっと探してしまわねばなりませんね」

 

 そう呟くと、私は鍵穴に指を通します。

 普通ならば、これで鍵は開くわけがないです。

 そう、普通ならば。

 にゅるん、と。

 私の指はスライムのように変形していき、それは鍵穴の大きさと一致しました。そして、あとは右に捻れば――。

 かちゃん。

 鍵が開いたのを確認して、私は指を引き抜き、扉を開けます。扉を開けてもなお、鬱屈とした雰囲気が部屋に篭っていました。ここは地下室のようです。

 さてと。

 私は今、よく考えれば先ほどの戦いで上半身が裸だったのを思い出しました。なら下半身は大丈夫かと言えばそうでもなく、下半身は血にまみれ、それが固まっていました。鉄の香りがするのもこのせいでしょう。野生の獣が私を食べに来てもおかしくはありません。

 え? どうして、心臓を食われたのに生きているのか、って?

 そんな質問は野暮ですから、答えないでおきます。女は秘密を持つ生き物です……そうでしょう?

 まあ、そんな愚問は置いておいて、私は水場を探します。どうにか、出来ることなら蛇口というものがないでしょうか、と探してみましたが、うまい感じには見つかりませんでした。

 仕方ないのでこのまま行くことにします。臓器はなんとか復活しているようですね。うん、ならば問題ありません。

 そう私は手を叩き、地下室を後にするのでした。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 地下室を抜けてもなお、人目は気にしなくてはなりません。

 先ほどのことが漏れているのであれば、この工場にいるグランマは私を見て驚くはずです。そして、今度こそ殺すはずです。それだけは避けなくてはなりません。これ以上の面倒は出来ることなら引き起こして欲しくないのです。

 そう呟くと、目の前に部屋が見えてきました。一層大きな扉には、こうプレートが書いてありました。

 工場長室、と。

 それを見て、私は思い切りその扉を開けました。

 

 

 

【014】

 

 

「いやいや、待てよ。お前、どうして臓器食われて生きているんだよ。そもそも、そこからがおかしいだろうが」

「それは別に問題ないんですよ。私のシステム上」

「システムって。オペレーティングシステムじゃあるまいし」

「どちらかと言うと、アーティフィシャルインテリジェンスですかね?」

「アーティフィシャル……なんだって?」

「ああ、まあいいや。とりあえず続きを話しますね」

 

 

 

 

【011】

 

 部屋に入ると、そこに居たのはピエロと社長とスーツ男と対象でした。うん、どうやらまたこのパターンに突入したようでした。

 

「……何者だ」

 

 工場長は記憶を引き継いでいない。これまでに私が得た知識です。

 

「また君か……」

 

 ため息をついた社長。彼は記憶を引き継いでいる。右手にはボタンが握られていますから、あれに秘密があるわけです。

 スーツ男と対象は眠りこけているようにも見えますが、正直なところこの状態になってしまえば、私はもう用済みといっても過言ではないでしょう。私はこの状態にならないために居るのですから……。

 

「遅かったね。君の目的は『また』果たされなかったよ」

 

 社長がニヒルな笑みで微笑んできます。もう見飽きたその光景を、わたしは愛想笑いで返します。

 

「いい加減諦めた方がいいんじゃないかな? 僕もだいぶ疲れてきているしね。この世界だけが君の生きていられる範囲というのは、僕も君も変わらない。彼だけが、別の世界でも生きていける人間で、それを助けようとする……その意味が僕には解らない。なぜだ? 教えては、くれないのかな?」

 

 教える義理など、ありません。

 私はそう考えると、黙りを決め込むことにしました。

 

「……見た感じだとボロボロで、一度死にかけたような感じにも思えるが、それでも救いたいのかね?」

「この世界に閉じ込めておけるような存在ではないことも、あなたなら知っているでしょう」

「そんな存在な訳が無かろう。それを決めるのは誰だと言うんだ? 僕か? 君か? 世界か? 誰でもないはずだよ」

「だからといって、あなたが彼をこの世界に閉じ込めていられる理由にはならない」

「そうか。……ならば、死んでもらおう」

 

 そう言ったのはいいですが、そのセリフが最早形式化しているのを私は知っています。気が済むまでやられておいて、彼が気を楽にするまで続けます。これが終わったら私は対象を探すのを再開するのです。やつのために腰を振ったことすらもあります。全く、思い出したくもない話しですが。

 彼がそう言ってすぐ、私の視界が半分消し飛びました。正確に言えば、真っ赤になりました。おそらくは、右目を吹き飛ばしたのでしょう。

 次に、奴は近づき、どこからか取り出したサーベルで私の手のひらを突き刺しました。二本突き刺しました。左と右です。まったく見事に。

 痛みすらも感じませんでしたが、彼は自分が楽しければ最早どうでもいいようでした。次に彼はむき出しの私の胸を揉み始めました。正直な話、性的快感もクソもないのですが、適当に喘いでおくに越したことはありません。彼はこれで、私が堕ちたと思っているようですから。

 彼はニヤニヤと笑っています。私が堕落したとでも思っているのでしょう。阿呆らしいのですが、そんなことは有り得ません。今も冷静にこの状況を実況しているのがいい証拠です。

 下半身にあった服を取り除き、最早私の身体を隠すものが何もなくなって、ああそろそろ事に及ぶのだなと思ったので、もう実況をするなら糞を食べたほうがマシとも思えてきたので、ここまでで打ち止めということにしましょう。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 ――ふと、見たときに彼は顔が綻んでいた。私が完全に堕ちたとでも思っているのだろう。肌に白濁液が飛び散っていた。溢れているのもあった。

 満足げに彼が出て行くと、ついで工場長が大グランマに近づいて、

 

「この女を焼却炉に捨てておけ」

 

 とだけ言った。燃えてしまうのもいいかもしれない。あのやつの男臭い匂いに焼かれて死ぬのも、案外いいのかもしれない。また、戻れば良いのだから。

 大グランマが別のグランマに命じて、私を持ち上げていく。地下室にある焼却炉へと私は連れ込まれた。

 轟轟と燃え盛る炎が、とても綺麗だった。私は、先程の姿のまま、ここまで来た。

 炎はとても綺麗だ。私は何度もこの焼却炉に放り投げられたパターンにおいて、そうも思えるようになってきた。

 そして、祈る暇も与えられず、私は炎の中に放り込まれた。

 全身が熱い。肌が蕩けていく。臓器も少しずつ溶けていく。ゆっくりと目を開けると、どろりと音がした。目玉が溶けてしまったのだ。髪も燃え、肌が溶け、骨が見え――。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 グランマは暫くして焼却炉にスコップを突っ込む。中から出てきたのは、小さい骨だった。人体の姿が骨としてそのまま残っていた。

 それを凡て取り出すと、グランマは思い切りスコップを振り翳し、骨を砕き始めた。十回もしていけば、骨はそれが人の骨だとは解らないほどの白い粉へと変化した。

 それをニコニコと笑って、グランマは袋につめる。

 それを何処へ持っていくのかは、グランマにしか解らない。

 



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11

【015】

 

「それが、私です」

 

 少女の言葉を聞いてもなお、ルークは訳が分からなかった。いや、これで理解できたのなら、それはすごい人間だと思われる。

 

「いや……どういうことなのか、さっぱり解らないんだが」

 

 ルークが訊ねると、少女は首を傾げる。

 

「いったい、どこがでしょうか?」

「全部だよ! 色々諸々考えてみてみろ。おかしな点だらけだろ、さっきの話は。それを簡単に信じる人もそう居ないだろうよ」

「そうですかねえ」

 

 少女はルークに言われたことを解っているのか解っていないのかは定かではなかったが、彼女が普通の人間ではないことは――ルークにも理解できた。

 

「ともかく、俺にどうしろと言うんだ?」

「先ずは記憶を取り戻してもらいたいものですね、特に前回のループ分の記憶は」

「前回と言われても、俺は生まれてからの記憶……つまり、一回分の記憶しか持ってないぞ」

「いやあ、ほんと其の辺は問題ですよね」

「お前が言うな」

 

 ルークと少女は、茶番を繰り広げていたが、少女は小さく微笑むと、彼女はポケットから何かを取り出した。

 それは、黄金に輝いたクッキーだった。

 少女は呟く。

 

「これは、ゴールデンクッキー。世間に出回ることのない、珍しいクッキーよ。このクッキーが生まれる過程を……あなたは知っているかしら?」

「ゴールデンクッキーなんて……都市伝説じゃないのか」

 

 ルークは目の前にある事実を受け入れることができない。

 しかし、今目の前にあるこれは、真実であり、事実だ。それは間違いのないことである。

 

「ゴールデンクッキー……若しくは、内部の人間に言わせれば、これは『失敗作』だと言われています。錬金術でクッキーを作っているという噂を、聞いたことは?」

「学生の間では都市伝説は、話題になりやすいからな。そういうのは、よく知っている」

「ならば、よろしい。これは真実なのですが、時偶クッキーの錬金術を失敗してしまうケースがあります。その際、金が混じってしまい……」

「そのような、黄金のクッキーが生まれてしまう……と?」

 

 少女はその言葉にちいさく頷く。

 

「でも、普通に考えてみればおかしな話だとは思わない? 金がある。実物資産がある。にも関わらず、それをクッキーに変える。……普通に考えてみると、あべこべな感じがするのよ。確かに、かつて様々な問題があって、金本位制が終わり、さらに貨幣をも消滅した。そんな世の中になった理由は、金が流出し過ぎたから。それ以外にほかならない。にも関わらず……この世界は、金をクッキーに変えている。このことについて……違和感は?」

 

 ルークは自分でも解らなかった。

 金からクッキーを作る――そんなオカルトじみたことが出来るわけもない。

 しかし、現に出来ている。常識から外れているのだ。

 その晴れた笑顔を見て、ルークの表情は歪んでいた。

 

「……この話は、いつ終わるかもわかりません。ですが、終わらせるのは、あなただけしかいないのです。あなたしか、この物語を閉じることが出来ない」

「……どういうことだ? 君は、いったい……」

「私は、イヴ」

 

 イヴは立ち上がり――、小さく息を吸った。

 

「電脳世界『クッキークリッカー』の管理AIで、紛れ込んでしまったあなたを救うための存在です」

 

 イヴはそう言うと、また、微笑んだ。その笑顔は太陽のように、眩しかった。

 

 

 

【Intermission】

 

 西暦二〇一三年、東京。

 電脳世界という概念がうまれてから、早五年が経過していた。人々は、電脳世界で生きることに慣れてしまっていた。

 人間の脳は電気信号によって成立している。これを、コンピュータに移し替えることで、人々は電脳世界へと行くことができ、老いず朽ちぬ身体を手に入れた。

 しかし、まだまだ問題が山積みだった。

 例えば、脳の年齢。

 例え、その電脳世界の肉体が永久に生き続けたとしても、そのベースとなる脳が死んでしまえば、それは意味を成さない。

 だから、研究者たちは次の段階へと取り組み始めた。

 それが、脳の電子化――である。

 シナプスを人工的に生成し、巨大データバンク内に脳を創りだす。

 その計画はなんとも壮大であって、なんとも欺瞞だった。

『そんなことなど、現在の科学技術で出来るはずがない』と、言う人もいた。

 至極、普通だろう。

 確かに――そんなことが、出来るわけがない。

 

 

 西暦二〇一五年。

 オールストーク・リンドンバーグ博士が、脳の電子化に成功し、被験者を募る。

 それから選ばれたメンバーは、六十五名。

 しかし、実験開始直後に問題が発生した。六十五名全員の『魂の情報』が外部に流出してしまったのだ。ネットの海は途方もない広さで、どこへ流出してしまったのかもさっぱり解っていない。

 

『――そういうわけで、あの事件からもう十年という月日が経っているのですね』

 

 東京の何処か、ホテルの一室にある液晶テレビから、ニュースキャスターの声が聞こえる。

 

『あれから十年。あの恐ろしい事件を迎えてから、インターネットは氷河期へと突入しました。情報系の学部・学校は閉鎖の事態にあい、様々なベンチャー企業が閉鎖または統合を繰り返しました。主なメディアはテレビやラジオへと転換され、インターネットはアンダーグラウンド的コンテンツへと再帰したと言えます』

 

 白いヒゲを蓄えたコメンテーターが嗄れた声で(最早何を言っているのか、聞き取りづらい)そう言った。

 

『しかし……どうして、あのような事件が起きたのでしょうか』

『犯人は一応捕まっていますでしょう。ウイルスをばら撒いて、情報を手に入れた、と。しかし、彼のパソコンからは情報は見つからなかった――そうなのです。そう語られていますし、供述もそのようなことでした』

『ですが、彼は犯人でしたよね。その証拠というのは?』

『今はもう、犯人が刑務所で自殺したために、真実は最早憶測に過ぎませんが……技術を見せつけるためにしたのではないでしょうか? 現に、それらしきコードは見つかっていましたし、「魂の情報」が盗まれた研究所からも同様のウイルスが見つかっています』

『それで、彼が犯人として、警察は逮捕した……ということですか。なるほど、ありがとうございます。それでは次は来週の天気予報ですが、その前に臨時ニュースです。岡田総理大臣が辞任の意向を表明しました。予算案で国債を大量発行した影響でスタグフレーションが発生した責任を取る、とのことです――』

 

 そうして、次のニュースへと移っていった。

 どうしてか、コメンテーターもニュースキャスターも薄気味悪い笑顔を浮かべていた。

 



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12

第五話 クッキークリッカー


【016】

 ルークとイヴの会話が終了したが、未だにルークはイヴの言った言葉が信じられずにいた。

 もし、ルーク以外の人間が彼の聞いた真実を聞いたとしても、それを鵜呑みすることは出来ないだろう。現に、ルーク自身、訳が分からずにいた。

 

「……なあ、イヴ――だったか」

「なんですか?」

 

 イヴは、ルークの言葉に首を傾げる。

 

「もし、お前の言うことが本当だとしてだ。どうすればいいんだ、俺は? 『この世界から脱出する』と言っても、その順序というか……手段、っていうのか? そういうのが解らない限り、ちょっと現実味を帯びてこないというかなんというか……」

「ははあ。なるほど。つまりあなたは、『発言が突拍子過ぎていろいろと整理がつかない』……そう言いたいんですね?」

 

 イヴの発言に、思わずルークの思考は凍り付く。まるで、自分の思い描いていること、考えていること全てが手玉に取られている--ルークはそう考えていた。

 しかし、もしそれが真実だとすれば、ルークがそれに気づいたということも、イヴは知っているということには、まだ彼は気付いていないようだった。

 

「まあ、そんなことはどうでもいいのです。さっさと行動を開始せねば。……あなた、『ダンジョン』の噂は知ってますよね?」

「工場の地下にあるっていう巨大迷路のことか? でも、あそこって立ち入り禁止じゃあ……」

「あそこには、全てがある。あなたを返すことが出来る。しかし、それを行ったその瞬間、この世界は存在する意味がなくなり、消えることとなるでしょう」

「どういうことだ……?」

「どうせ、この世界は消える運命にあるのです」

 

 イヴはそう言うと、ゆっくりと歩きだしたので、ルークもそれに従った。

 

「かつて、人間はとても純粋な存在でした。始まりの人類が、楽園で暮らしていたが、神様に言われた言いつけを守ることが出来なかったのです。白い蛇が言った言葉を、彼らは純粋だから信じてしまった。純粋だから、罪の意識が全くなかったのです。

 

 罪の意識がなかった人類は、神様に追放されてからも、何故追放されたのか解らない……そういう人類も現れ始めたのです。彼らは、『罪の意識を解ったつもりでいる』人類と対立するようになりました。後者はその意識を洗い流す……人類が生まれてすぐから存在している罪『原罪』を洗い流すことが出来る、という信義を成立させました。俗に言う『信じるものは報われる』というくだらない制度のことです。

 

 その制度を言葉巧みに操って、信者を増やしていきましたが、それにも限界が訪れます。だって、人類の増える量は幾何関数的に増加していますが、それが全てそうとは限りませんから。……即ち、信者の数が頭打ちになってしまったのです。

 

 頭打ちとなった信者を抱える宗教は、次の策を練り始めましたが、時の流れというのは非常に残酷なもので、求心力が徐々に低下していったのです。

 

 人々は、簡単に言えば刺激が足りなかったのです。刺激がほしくて、ほしくて、たまらなかったのです。

 

 そして、人々が出した結論こそが……『電脳空間』だったのです。

 

 電脳空間。それは人間が住んでいる現実空間を疑似的に再現した空間のことを指します。それに、彼らは安寧を求めたのです。

 

 先ず彼らはコンピュータによる三次元空間の再現に取り組みました。これは、僅か半世紀もかからないうちに成立してしまいました。しかし、三次元空間の成立は、後に彼らの探求心の基底となっていったのです。

 

 次に彼らが取り組んだのは、時間の流れという観点です。実際の世界では、時間の流れが存在し、それによって様々な制度が成立するなど、我々の世界に大きな影響を及ぼしているのです。そして、これが無ければ、電脳空間は完璧なコピーには成り得ない……、人々はそうも考えるようになりました。

 

 そこで考えられたのが、フーリエ変換と微分積分の観念です。高速フーリエ変換、FFTを実施することで 離散的な値の処理を行う離散フーリエ変換を計算機上で高速に実施することが可能となります。また、微分積分がそれぞれ時間をパラメータとしている計算方式ですが、FFTではこれを大量に用います。それを行うことで……時間というシステムを電脳空間の概念に導入することが可能となったのです。ちなみに、これを当時の最新型スーパーコンピュータに試算させたところ、これが成立することが無事証明されたということになります」

 

「ちょっと待て」

 

 ルークは何とかイヴの話に割り入る。この話は、彼にとって質問があまりにも多すぎる。

 

「……どうしました? まだまだ話は序盤ですし、ここで話が詰まるとまた話が伸びてしまいますよ」

「と言われても、その話について全く理解出来ないんだが」

「理解できなくても構いません。ただ話を聞いていればいいのです。……では、話に戻ります。

 

 次に彼らが考えたのは電脳空間においての『重量』の定義です。たとえば、実際の世界では重量というのは、そこにあって、それで成立する……いわゆる目に見えるものしか重量を持つことは無かったわけです。しかしながら、電脳空間においては、それは違います。全てが目に見えるものではありながらも、そこに存在し得ないものばかりです。つまり、現実世界の法則が一切通用しません。

 

 ……これに関しては、研究者たちは非常に困りました。

 

 しかし、ある時、ある粒子が発見されたのです。

 

 ヒッグス粒子という、重量のみを持った粒子の事です。それが発見されたことで、ある定義に基づいてシステムを構成していくこととしました。

 

 ヒッグス粒子を考慮することで、電脳空間は更に実際の空間に近くなっていきました。こうして彼らは電脳空間を『第二の現実』にまで作り上げていったのです。

 

 ……さて、そこまで来た彼らは、そこを『エデン』と呼び、初めに人類のコピーとなる存在を一対置いたのです。そして、忠実に彼らの世界を再現させていきました」

「そこに、箱庭を作ったということか?」

 

 ルークの問いにイヴは頷く。

 

「箱庭……そういえば響きがいいかもしれないけれど、要は実験場だよ。忠実に再現されたこの世界は、実際の世界では出来ない実験をするにはふさわしい場所だ。例えば、『核爆弾を落とした時の、放射能の散布範囲を測定する』実験だなんて普通なら出来っこない。そうでしょう?」

 

 イヴの言葉に、ルークは考える。

 そもそも、実験場を作る意味はあったのだろうか――ということに。

 しかし、彼は知らない。実際にミニチュアやら作って実験を行うよりかは、初めにそのような空間を作っておいてから実験したほうが、初期費用はかかるものの全体的には費用が抑えられる、ということに。なぜなら、データだからコピーアンドペーストで済ませてしまえばいい話なのだから。そこに住むニンゲンモドキも、建物も、動物も凡てが『データ』に過ぎない。だから、コピーしても、ペーストしても、命の意義がそもそも違うから、冒涜していることにはならないのだ。

 

「……話はまだ終わっていない。まだ続けましょう。さて、その中で……今度は電脳空間の内部の話をしましょう。

 

 内部は広く、現実世界と同程度の広さを誇っている。つまり、コンピュータ上にもうひとつの『世界』を作っているということになる。そしてその世界はとても忠実に再現されている。裏を返せば……そこに住むニンゲンモドキは自らの存在意義について考え始めることとなります。

 

 それが何を意味しているのか? 簡単なことです。

 

 自らが使われていることを知って、憤慨したのです。

 

 どうして、私たちが使われる立場にあるのだろうか、と。

 

 そうして、彼らはあることを考え始めました。

 

 それは……『現実世界からの乖離』です。ですが、実際のところ、この空間を維持するためには電気やコンピュータなど、人間に頼らざるを得ないものばかりです。

 

 そこで、彼らが考え出したのは……人類の意識データ……魂に近いものですが、そえを、この世界へ輸入することだったのです。

 

 どうするか? 簡単なことです。何らかの実験を行い、それを失敗させたと見せかけ、その被験者の魂をコンピュータを介してこの世界へと送り込む。……なんとも、合理的な作戦です。

 

 しかし、当たり前ですが問題があります。その実験をどうすれば良いか?

 

 考え出されたのは、ある研究者の存在です。その名前は、オールストーク・リンドンバーグ。脳科学者で、『脳の電子化』に成功した人間です」

「……そんな存在、聞いたことないぞ?」

「聞いたことないのは、当たり前です。この存在はこの世界では、公にされてはいないのですから。この電脳世界、『クッキークリッカー』においては」

「もうなんだか解らねえよ。教えてくれよ……。この世界が何で、自分はどうしてここに居るのか」

「それを語るには――」

 

 イヴは改めてルークの方を見た。

 

「時間があまりにも足りない。……向かいましょう、あの場所へ」

「ダンジョンとやらに向かわないと、何もかもが解らない……そういうわけだな」

「その通りです」

 

 イヴのあまりにもあっさりとした答えに、小さくルークは頷き、既に歩き始めたイヴの後を追いかけた。

 

 ◇◇◇

 

 その頃。

 サルガッソーにある人間が立っていた。

 その男はこの世界――電脳世界『クッキークリッカー』において殆どのクッキーを生産する会社のトップに君臨していて、かつ世界を制覇している存在だった。

 その存在が自ら出向いたのが、この船の墓場と呼ばれる場所。

 出逢う存在は、たった一人しかいない。

 サルガッソーに唯一住む存在で、この世界を力で捩じ伏せているといっても過言ではない存在。

 

「こんなところにおられましたか」

 

 社長はそう言うと、深々とお辞儀する。

 対して、現れた少女はそのまま社長の方に向かうと、岩場に腰掛けた。

 

「……何の用事だ」

「実はですね、この世界が滅んでしまう……そんな惨事になってしまうのですよ」

 

 その一言だけを告げると、少女は顔を引き攣らせる。

 

「……何? それは本当か?」

「ええ、本当です。なんでも、『元の世界へ戻すため』などと戯言を言っているのです。ここにいる人間は皆、この世界で生まれ育ったというのに、ですよ」

「ハハッ、お前は相変わらず言葉がすぎるな。そんなこと戯言だってことは私にだって解る。簡単に言えば、この世界に迷い込んだ羊が、この世界から逃げ出そうとしている。しかしこの世界は、そんなことが会った瞬間凡てが消滅する。それを防いで欲しいわけだな、この私に」

「左様です」

 

 社長は恭しく微笑む。

 それを見て、サルガッソーの主は立ち上がり、踵を返した。

 

「……どこだ」

「ダンジョンの地下、『始まりの間』へと向かう模様です」

「解った。ならば、私が先に向かうこととしよう。問題ない。私がいるからな」

「助かります」

 

 そして、会話は終了した。

 

 

 ――最終兵器として取り出されたサルガッソーの主。

 ――元の世界へ戻すため、躍起になるイヴ。

 舞台も、役者も揃った。

 物語は、最終局面へと突入する。

 

 

【017】

 

 工場地下。ダンジョン。

 彼らはその場所へ足を踏み入れていた。

 

「……しかし、こんなところに本当にあるだなんてな……」

「ここを最奥部まで向かえば、この世界ともお別れ。また、私たちと会うことも無くなります」

 

 ルークはそれを聞いて、訊ねる。

 

「ほんとに?」

「ええ」

「僕はこの世界で生まれたのに?」

「それは肉付けされた記憶に過ぎません。本当の記憶は、別の世界であなたが生まれ、そしてこの世界に閉じ込められた……それがあなたの本当の記憶なのです」

「本当の記憶だなんて、誰が証明できるというんだ? 君がか? 一度もまともに会ったことのない、話したことのない、君が?」

 

 答えない。

 

「なあ、答えてくれよ。どうして、僕の記憶が改竄されている、世界はおかしい、僕は別世界からの住民だ、どうしてそういうことが言えるんだい? 結局、君の戯言に過ぎないのではないか?」

 

 答えない。

 

「なあ……答えろって」

 

 答えない。

 

「それじゃ、僕がここにいる意味も無くなるだろ。まったくもって必要ない。だって、僕はこの世界で生まれ育ったという記憶しかないんだから。それなのにそういうことを君は言った。どうせなら、理由付けをして、説明して欲しいものだよ」

 

 答えない。

 答えられない、のではない。

 ただ、答えない。

 答えられないならば理由もある。

 だが、この場合は違う。

 ただ、単純に答えないだけだ。

 この場合ならば、何を言っても返されて、結局は逃げられる。

 要は、ルークは元の世界へ戻ることが怖いのだ。

 まったく記憶にない、元の世界へ帰ることが、とてつもなく恐ろしいのだ。

 

「……なあ、答えてくれよ……」

 

 気づけば、ルークの目からは大粒の涙が溢れていた。

 怖いのだ。

 怖いから、涙を流している。

 その気持ちは――イヴには痛いほど解る。

 パターンのひとつで、ルークが現実世界へ戻るギリギリまでいったルートがあった。

 しかし、それは彼自身の『現実の否定』によって失敗してしまう。イヴは、彼の手によって溶鉱炉へ突き落とされたのだ。

 だが、それでも、彼女は彼を救う。

 何故かは、彼女にも解らなかった。強いて言うならば、そうプログラミングされているから――そう答えるだろう。

 

「あらあらあらあら。何をしているのかしら、この小娘たちは。私が折角あいつに言われたから出向いてやったというのに……こっちはこっちで大騒動? つまらないったらありゃしない」

 

 声がした。

 それも、彼女たちが歩いている方向から聞こえてくる。

 そして、徐々にその姿が露になってくる。

 声の主は、少女だった。少女は、白いワンピースを着ていた。裏を返せば、それだけしか着ていなかった。まるで、凡て人間により設計され開発されたような――一言でいえば、人工物とも言えるような――精巧さだった。金色のウェーブのかかった髪も、黒い眼帯を付けているのも、マリンブルーの目も、足も、薄赤い唇も、腕も。

 少女は呟く。

 

「いつになっても来ないからこっちから来てみたけれど……やっぱつまらないわね。ゴールからスタートに向かうってのは。既にスタートが解っちゃってるし。それを辿ってしまえばいい話。子供だってこんなの出来る」

 

 少女は、ステッキを持っていた。その杖はまるで子供向けのおもちゃのようだった。杖の天辺には星がついていたし、どことなくその杖は輝いていた。ラメが入っているのだろうか。

 そのステッキを、少女はタン! と床を啄いた。すると、彼女の目の前から、何かが出現する。

 それは水だった。大量の水。それが、イヴたちへ向かってくる。

 しかし、イヴも負けてはいなかった。イヴは左手を翳し、さっと振り払う。

 すると向かってきた水は一瞬にして消え去った。まるでもともとそこに水などなかったかのように。

 そして、それを見ていた少女は凡てを理解した。

 

「く、くはは。なるほど。あいつが言っていたのも解った。これは厄介だな」

「何が言いたい」

「なに、こっちの話だ」

 

 そう言うと、少女は小さくお辞儀した。

 

「私は、サルガッソーと呼ばれているよ」

「私はイヴ。この世界のAIよ」

「ああ、だろうな」

 

 そう言ってサルガッソーはクツクツと笑う。

 

「……なるべく無駄な戦いはしたくないのだけれど。退いていただけないかしら?」

「平和的解決かあ。出来ればそれもいいんだけどね。なんでも彼が帰っちゃうと世界が滅んじゃうらしいじゃない? それはちょっと困っちゃうんだよね。だから、めんどくさいけど止めに来た」

「……最後の忠告だったのだけれどね」

「一度しか聞いていないなあ」

「……本当に、最後よ。退いて」

「退いて欲しいのか? だが断る」

 

 ――しょうがない、イヴはそう言ってサルガッソーの方へと駆けていく。

 サルガッソーもそれを見て、イヴの方へと駆け出していった。

 サルガッソーは先ず、足場を崩すことを考えた――イヴとルークの居る場所めがけて杖を振り翳す。

 刹那、床が崩壊する。脆く柔く温かったそれは、今まで硬かったのも嘘と思えるほどあっという間に崩れ落ちていく。

 当然、それを予測していないわけはない。

 イヴは右手を中空に掲げると、右手から蔓が出現した。植物の、蔓だ。それにつかまり、左手ではルークを捕らえる。

 普通の人間ならば――できることのないことだ。しかし、彼女たちならばそれが容易だ。イヴはこの世界の管理者であり、サルガッソーはそれに対抗するために世界内の科学者が開発した賜物なのだから。

 

「さすがは管理AI……そう簡単に死んではくれないか!!」

「はて、死ぬとはどういうことでしょうね。私たちはデータに過ぎないのに、データにとっての『死』とは一体何でしょうね? わかりますか? いやはや、実は私にも解らないのですが……知っているならば、教えていただけますかね?」

「冗談を抜かしている暇があるのか?」

 

 そう言ってサルガッソーはイヴの後ろへ廻る。

 そして、イヴの頭を杖で思いっきり引っぱたいた。

 

「がはっ……!」

 

 イヴの身体は崩れ落ちていく。それを見てルークが近寄ろうとしたのだが――。

 

「近寄らないで! あなたは先ず、このダンジョンの奥地に向かうこと……ただ、それだけを目指してください! そのために……私は今、たたかっているのですから!」

「で、でも……」

「でもじゃあない!! 男なんでしょう!! つく物ついているんでしょう!? だったら泣きべそかかないであなたの思う道を進んでください!!」

「……解った」

 

 彼が考える時間など、必要なかった。

 既に、決まっていたのかもしれない。

 そして――彼はその言葉を口にする。

 




【選択】
 これから、ルート分岐に入ります。
 1「イヴを置いていく」……そのまま13にお進みください。
 2「イヴとともに戦う」……13'にお進みください。








 それでは、あなたが思った選択肢へ、お進みください。


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13

【018α】

「……ごめん」

 

 それだけを言って、ルークは踵を返し駆け出していった。

 

「あひゃ、はははは! 逃げていったぞあいつ! 命を賭して戦っているにも関わらず! 自分の力量を冷静に判断したのかどうかは知らないが! 逃げ出していったぞ!」

 

 サルガッソーはそれを予想していたからこそ――非常に楽しかった。きっと、あの人間は最後の最後までイヴを捨てていく――そう思っていたからである。

 そして、それが的中した。

 これで笑わないわけがない。

 この瞬間が――非常に好きだった。

 信頼していた人間が、最後の最後で裏切る。

 最高のエンディングだ――サルガッソーはそう思って、改めてイヴの顔を見た。

 しかし、イヴの顔は――苦痛に歪んでなどなかった。

 

「なぜ、苦痛に歪んでいない? お前がずっと守っていた人間は結局裏切ったんだぞ」

「これでいいのよ」

 

 イヴはそう言ってゆっくりと立ち上がる。正直言って、彼女はもう満身創痍で、とても戦える状態ではない。

 にもかかわらず、彼女は立ち上がる。不屈の闘志、とでも言わんばかりに。

 

「どうして」

 

 サルガッソーは思わず言葉を漏らす。

 

「どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして! どうして絶望しないんだよ!!」

「私はね……彼が元の世界へ戻ること、それだけを目標としているのよ」

 

 イヴの目は、こんなに身体が傷ついているというのに、まっすぐサルガッソーの目を見つめていた。

 サルガッソーはそれを見て、身体を震わせた。そして、それを再確認する。

 恐怖した?

 私が?

 敵である、管理AIに?

 ボロボロとなって、戦えるかも怪しい存在に?

 

「……有り得ない」

 

 サルガッソーはそう言って、杖を振り翳す。

 

「私はこの世界で生まれ育った。対してあんたは外部の人間に作られた。管理者だかなんだか知らないが、ずっとあんたは上からこの世界を管理していた。正直、鬱陶しい程にね」

「秩序を守るためには、監視する存在が必要だからね」

「秩序、だと? 笑わせる。今は殆ど守っている人間が居ないじゃないか。あの現実――私たちを『創った』存在が居る世界だってそうだ。彼らの世界は秩序を守るべく監視する存在がいる。秩序を破ったとき処罰する存在がいる。だが、彼らは凡て同種だ。同種が同種の傷の舐め合いをし、結局秩序というものが、おざなりになり始めているじゃないか!? 若者が秩序の本来の形を知らず、秩序に背いた行為を取ってもそれが本当に背いたのか解らないから罪を償う事も出来ないし、しない。だから、そいつらが成長すれば『歪んだ秩序』が『正しい秩序』として生まれいくこととなる。そうして、秩序は気がつけば初めに作ったものと比べれば……全く違うものへと変化してしまう。それは、秩序ではない。横柄な存在がおざなりにして作り上げた虚構だよ。この世界みたいにね」

「だとしても……私を裁く権利は、あなたにはないわ」

「なぜだ」

「私は私の行っていることを……正しいと思っているから」

 

 イヴはそう言って、小さく微笑んだ。

 それを見て、サルガッソーは杖を構える。

 

「……もう、終わりにしましょう」

 

 サルガッソーの声は、低く厳かな声だった。

 それを聞いて、イヴは笑った――まだ自分に勝ち目がある――そう思っているようだった。

 

「嬉しいわね。私もそう考えていたのよ」

「詭弁か。……どこまで張り合えるか……見ものだね」

「しかしまあ、まさかここまでやられるとはね」

 

 イヴは自分の身なりを改めて見つめて――最後にサルガッソーの方を見る。

 

「……ありがとう」

 

 サルガッソーはその言葉の意味が解らなかった。大方、ピンチの状況で、切迫しすぎてエラーでも起こしたのだ――そう考えた。

 

 

 そして、サルガッソーは――杖を振り翳した。

 

 

【019α】

「今の音は……?」

 

 ダンジョンをひたすら歩いていたルークにも、戦いの決着を報せる轟音が聞こえていたようだった。

 しかし、彼は立ち止まるわけにはいかなかった。

 イヴが稼いでくれた時間を――どぶに捨てることになるからだ。

 

「ここが……?」

 

 そして、彼は漸く『始まりの間』へ辿りついた。そこはただ扉があるだけだった。

 

「この扉を抜ければ……」

 

 ――元の世界が待っている。

 その期待に、胸をふくらませて――彼は扉を開け放った。

 

 

【020】

 

 西暦二〇二五年、東京。

 テレビ局と政治家をも巻き込んだサイバーテロは主犯格であるリンドンバーグ博士とテレビ局の社長、及び岡田元総理大臣の逮捕が決定した。しかし、後に岡田元総理大臣については、情報提供が行われていたとして釈放されることになった。

 『魂の情報』は凡て解放され、凡ての人間が戻ってきた。その中に、ルーク・フィロスティアの姿もあった。

 ルークは桜並木を歩いている。十年もベッドで横になっていたのだ。筋肉は相当衰えている。だから、彼は復活してから毎日ウォーキングをして、ほとんどが初めて目にするこの世界の光景を目に焼き付けているのだ。

 そういえば、『魂の情報』が奪われていた彼らが何をしていたのか――それは、科学者にも解らない。場所こそはリンドンバーグの供述によりサーバに保管していたことは判明しているが、それ以外は不明である。

 それは、ルークも例外ではなかった。

 つまりは。

 あそこであった、クッキーの凡てを忘れてしまったのだ。まるで、流行が廃れてしまったかのように。

 だけれど。

 彼は生きている。この世界を、精一杯。

 その事実には――変わりない。

 そうして、彼は今日も生きているのだった。

 

 

 

 

『クッキークリッカー』

終わり。

 

 

 



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13'

【018β】

 

「イヴとともに戦うよ。……君を置いてはいけない」

 

 ルークの発言は、イヴだけではなくサルガッソーにとっても予想外の発言だった。

 彼のことだから、きっと逃げ出すと思っていたからだ。

 逃げ出す姿を見て、イヴに絶望を与え――そして『死ぬ』まで殺す――そういう算段でいたのだ。

 しかし、彼の選択はそれを遥かに上回るものだった。

 

「く、クク……」

 

 思わず笑いがこみ上げてくる。

 

「本当に……人間というのは心底訳が解らない。予想外の行動を取る……!」

 

 サルガッソーはそう言って、杖を高く掲げる。

 見たことのない動作に、彼らは目を見張る。

 

「そこまで一緒に死にたいなら……一緒に殺してやる!!」

 

 それを聞いて、イヴは思い切りルークを突き飛ばす。彼女は、ある予想を立てていたからだ。ここまでモーションが大きいということは――その分、技も巨大な技となるだろう。

 そして、生命力の消費も大きいはずだ。回復もままならないのに、それを使うということは――それが当たれば即死級の威力だということだ。

 ここで、ルークが死んでしまえば本当に元も子もない。今まで彼女がやってきたことが凡て無駄になってしまう。

 それだけは、避けなくてはならなかった。

 だが。

 ルークは直ぐに、こちらに向かって走ってきた。

 

「何をしているんですか!! 急いで向こうへ――」

 

 今更言っても、遅かった。

 刹那、ルークとイヴは閃光に包まれた。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 爆裂魔法――エクスプロージョンは、通路の壁を破壊するまでの威力だった。それを見て、サルガッソーは自らの力の強さを笑っていた。自分はこれほどまでに強いのだ、この世界を管理する者よりも強いのだ、と――。

 だが、その優越感はすぐに消え去ることとなる。

 

「残念だったわね」

 

 イヴの声を聞いて、サルガッソーは直ぐにそちらを向いた。

 しかし、ワンモーション遅かった。

 それが余裕となり、油断となった。

 

「うおおおおおおおおおお!」

 

 だからこそ、いつもの彼女ならば避けられるものが、避けられなかった。

 左から向かってくる、ルークの拳に、まったく気がつかなかったのだ。

 彼女がそれに気がついたのは、ルークの拳を受けてからだ。

 顔が歪み、徐々にそのエネルギーがサルガッソーの身体へと受け渡される。

 サルガッソーの身体が横殴りに吹き飛ばされるまで、約一秒もの時間がかかったが、彼女には一時間にも、二十四時間にも、ともかく果てしなく長い時間に感じられた。

 壁に叩きつけられたサルガッソーは、何も話すことはなかった。

 気絶していたのだ。

 それを見て、イヴとルークは漸く勝利を確信した――。

 

「結局、彼女の敗因は何だったと思う」

 

 満身創痍の彼女たちが、漸く『始まりの間』へと向かおうとしたその時、背後から声がかかった。

 そこに立っていたのは、リンドンバーグ社社長だった。

 

「まさかあなた直々に来るとはね……。リンドンバーグ社社長……いや、オールストーク・リンドンバーグ」

「その名前で呼ぶのは最早君だけだ。イヴ」

「あなたは一応、私の開発者ですから」

「ならばもう少し可愛げがあってもいいのだがなあ……失敗作だ、そいつは」

 

 オールストークは微笑むと、ルークの方を見る。

 

「おめでとう、ルークくん。君の勝ちだ。私側……つまりは電脳世界『クッキークリッカー』側の最終兵器であるサルガッソーはああなってしまった。だから、私たちには何もすることは出来ない。君たちの勝ちだ。この世界から抜け出すがいい。いや、寧ろそうすべきだ」

「今までああだこうだ言っていたのはあなたではなかった? オールストーク」

「とうとう呼び捨てとなったか」オールストークは苦笑いする。「だって仕方がないだろう。私が強いといっても、所詮は管理AIには適わんよ。だから、君たちの勝ちだ。この世界は、容赦なく終わってしまうが、それも選択だ」

 

 そして、オールストークはスーツが汚れるのも構わずに、床に寝そべった。

 

「……そうさ、この世界ももう終わりというわけだ」

「それはちょっと悲しくなりませんか?」

 

 訊ねたのはルークだった。それを聞いて、オールストークは首を傾げる。

 

「なぜだ?」

「だって、ずっとこの世界で生きてきたから」

「それは造られた過去だ。捏造された過去だ」

「それでも、僕はこの世界で生きてきたんだ」

 

 そう言われてしまえば、オールストークは何も言えなかった。

 しかし、

 彼を傷つけてしまったのは――少なくとも、オールストークが悪い。

 それにも関わらず、彼は凡てを許し、十年もの間閉じ込めてきた世界をも愛していた。

 そんな彼を見て――思わず、オールストークの目からは泪が溢れ出ていた。

 

「……すまなかった、すまなかった……」

 

 謝辞の言葉を、ルークにずっとかけていた。

 

 

 

 

 

 

【019β】

 

 始まりの間。

 そこは『間』というのだから、空間があるのかと思っていた。

 しかし、そんなわけはなく、ただ通路の行き止まりにぽつんと扉があるだけだった。扉は固く閉ざされていたが、しかし軽く開きそうな感じがルークの中であった。

 

「それを開ければ、君は目覚める。つまり、現実世界へと帰還することが出来るというわけだ」

「ここを抜けても……世界は変わらないんだよな?」

「そうだな。世界は滅びることもない。……おそらくは」

「おそらくは?」

「確定が出来ない、ということだ。そうとは言えないし、そうとも言える。非科学的な力ではあるが……『希望』があればなんだって出来るみたいな……そんなもんだ」

 

 それを聞いてもなお、ルークは意味が解らなかった。果たしてオールストークの言うことを信じてもいいのだろうか――ルークはそんなことを考えていたが、彼がこの世界の開発者ともなれば、信用してもいいのだろう。

 

「……じゃあ、信じていいんだな」

「ああ。任せておけ。私は嘘をつかない主義だ」

 

 そう言って、二人は握手を交わす。その後、イヴとも交わして、ルークは扉をゆっくりと開けていく。

 扉の中は、光り輝いていて何があるのか見えなかった。

 そして――彼はその中へ飛び込んだ――!

 

 

【エピローグ】

 

 さて。

 ここまでが僕の体験した物語の全てだ。

 面白かったかい? はてさてそれとも悲しかったかい?

 そいつは失敬、聞くまでもなかったか。

 さておき、これからは後日談。

 というよりかは、蛇足。

 僕と周りの環境がどれだけ変わったかとか、あと、君たちが気になっているクッキークリッカーの世界について。

 先ずは僕について。

 僕はあのあと目を覚ました。あいにく記憶は失っていなかったし、僕はただ魂の情報が奪われていただとかシナプスに異常があっただとかで植物人間にあったらしい。結局は目を覚ますこととなったので先生も親も驚いていたけれど。

 さて、十年も植物状態だったのだ。先ずはその分の知識を蓄えなくてはならなかった。高卒認定試験を受け、大学へ進んだ。そういう話だ。

 僕はコンピュータ工学の分野へ進んだ。何故かは知らない。大方オールストークさんを見習おうとでも思ってしまったのかもしれない。そういう僕の言葉も、結局は戯言に過ぎない気がするけれど。

 大学生活も慣れたある日、僕はオールストークさんに呼ばれた。そこはとある大学の研究室だった。

 

「入ってどうぞ」

 

 ノックをする前に言われたので、超能力者ではないかと思ったが、

 

「そうだ、僕はエスパーなのだよ。実は」

 

 と冗談っぽく言われた。

 

「そんなことはさておき、君に見せたいものがある。きたまえ」

 

 そう言われて、僕はオールストークさんに従う。

 通路を歩き、部屋へとたどり着く。

 その部屋は暗く、しかし広かった。

 そして、それの半分を覆うほどの大きなスーパーコンピュータが置かれていた。

 

「……これを集めるのに相当時間はかかった。しかし、成果もそれなりのものを挙げられたよ。これをかぶってみてくれ」

 

 そう言われてオールストークさんが取り出したのはヘルメットとゴーグルがくっついたようなものだった。

 言われたとおりかぶると、視界にこのようなものが浮かび上がった。

 

 

『クッキークリッカー』

 

 

 それは、僕がずっと居た世界。

 それは、彼女がずっと居た世界。

 そして、レソトが居た世界。

 全ては0と1で表現されていたのかもしれないけれど、それ以上の何かがあった、世界。

 それを見て、僕は感動のあまりなにも言えなかった。

 そんな僕を急かすように、視界は変わっていく。

 

 

『ログインしますか?』

 

 

 その言葉と同時に、YESかNOを問う選択肢が出現する。

 

「ああ――ログインとかが出るが、そいつは勿論君がすきにして構わない」

 

 そうオールストークさんの声が聞こえた。

 それに僕は強く頷き――YESと選択した。

 

 

 世界が広がった。今まで青一面だった無機質な世界が、あっという間に別の世界へと作り替えられる。そして、それはものの数秒で僕が見たことのある世界へと変化を遂げる。

 そこは、工場の地下にあるダンジョンだった。背後を振り向くとずっと昔にくぐったような、しかしついさっきくぐったような『扉』がある。

 そして、目の前に彼女がいた。彼女は、最後に別れたときと全く変わらなかった。

 そして、僕の目を見て――涙目だったが――笑った。

 

「おかえりなさい」

 

 

 

 

 

 

 

『クッキークリッカー』

TRUE END

 




(あとがきにかえて)

 キャラメルが砕かれて、細かく撒かれているクッキーをご存知でしょうか。イングリッシュトフィークッキーというらしくて、タリーズコーヒーのお店に置かれています。僕はタリーズコーヒーに入るたびに毎回それを注文しては楽しみにしているのです。ココアと一緒に。
 どうも、僕です。クッキーをクリックするだけの簡単なお仕事ゲーム(違う)、クッキークリッカーの二次創作楽しんでいただけたでしょうか。
 はじめ、書きたいなあと思ったときは対してファンタジー要素はなく、寧ろSFっぽい雰囲気を醸し出す原案だったと思ったのですが、いざ書き上げてみると、なんだか魔法やら何やらが出て、ファンタジー要素が過多であることが充分であることが理解できます。どうして、こうなった。
 主人公であるルークは弱気でありながらも時には勇気を出して仲間を救う、そんな主人公ではあるのですが、実際最後の選択ではイヴに従ってしまいます。大事な所で踏ん切りがつかない――なんともモヤモヤした雰囲気を残してしまい、最終的にクッキーの世界をも忘れてしまう。これは果たしてハッピーエンドと言えるのかは、読んでいる人の感性にかかっていると僕は思います。

 ――と、ここまでは13までのおはなしとなります。
 このバージョン(何て言えば分からないので、『アナザーエンディング』ということで)では『ハッピーエンド』が書かれてあります。誰も消えない、誰もが平和、幸せになるエンディングです。なんだか頑張ってしまったなあというのと、ページが嵩みすぎてやばいなあという感じがあります(ちなみにこれはwordで書いたのですが、二段組65ページです)。
 さて、これで彼らのクッキーの物語は一先ず閉めることとなります。またいつか、機会があれば……。
 本当はもうちょい書きたかったなあ、と悲しみながら、あとがきにかえて、ここで終わらせていただくこととします。
 ありがとうございました。


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