鏡映のモノポリー (まみゅう)
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01.忍び寄る異物

ハーメルン様は初めてなので、追加したほうがよいタグやその他ご指導どうぞよろしくお願いします。



 

 家の中で、他人の気配がするのはよくあることだ。

 

 そう言うと不思議に思われるかもしれないが、一人一人の執事を覚えているわけでもなく、ましてや家族とも思っていないイルミにとってはそれらの気配など判別がつくはずもない。

 だからたとえ見知らぬ気配が家の中にあろうと、普段は少しも気にしないのだ。いや、いちいちそんなことを気にしていたら流石に気が休まらない。侵入者を寄せ付けないためにあの重い門と教育された執事を置いているのだから、そんなことにまで煩わされたくない。

 

 しかし、その日仕事から帰ったイルミはどうしてもある気配の正体を確かめたくなった。というのも、その気配はここゾルディックにおいて"異質"の一言に尽きる。執事たちは同じ養成所で訓練されるため、皆多かれ少なかれ似たような気配の消し方をするのだが、たった一つ、群を抜いて微かな気配があるのだ。

 

 微かなものが逆に意識に引っかかる、というのはなんだか矛盾しているようだが、それはイルミが暗殺者だからこそ。大っぴらなものよりも、隠された方がかえって気に障る。熟練した執事の上手さとはまた違った気配の消し方は、どちらかというと野生動物のそれに近かった。それゆえ、時折勝手に連れてこられる婚約者候補などの同業ではないのだろう。

 

 イルミは何故か胸騒ぎを感じながら、神経を集中させ気配を辿った。幾重にも守られた家の中だ、そう危険はあるまい。そうは思っていても、何故だか嫌な予感がつきまとう。イルミは勘なんてものを頼りにするたちではなかったが、どうにもこの気配の相手はゾルディックにとって良くない相手だと思った。

 

 そして、その予想が外れていなかったことはすぐに明らかになった。

 

「まぁあ!イルミ、ちょうど良かったわぁ!!今あなたを呼びに行こうと思ってたの!!」

 

 例の気配は母親――キキョウとともにあった。場所は滅多に使われることのない客間だし、尚更イルミが警戒する必要があるとは思えない。それでも念のため扉をノックしようとすれば、それより先にキキョウが中から出てきた。

 

「誰が来てるの」

「ええ、紹介するわ!!流星街時代に縁のあった人でね!あ、ええと、今日訪ねて来てくださったのはその方の娘さんなんだけれど!!」

 

 元より騒々しい母親だが、機嫌がいいのかいつにもましてよく喋る。けれどもイルミはその半分も聞いておらず、意識は部屋の中の人物に向けたままだった。「さぁ、入って!!」力強く腕を引かれなくとも、イルミは初めからそのつもりである。自分の目でこの”異物感の正体”を確認せずにはいられなかった。

 

「リリスさんよ!!こちらはうちの長男なの!!」

「初めまして。お邪魔しています」

「……」

 

 そう言って、ぺこりと頭を下げた女はごくごく普通の人間のように思われた。一応ここまでやってくるだけのことはあって念能力者ではあるようだが、イルミが脅威を感じるほどではない。けれども顔をあげた女と目が合って、イルミはやはり気に入らない、と思った。何が、と言われれば困るが、強いて言うなら目だ。人好きのしそうな柔らかい笑顔を浮かべているくせに、その瞳の奥はどこか虚ろに感じる。

 

「リリスさんはお母様生き写しなの、一目見てびっくりしちゃったわ!!まるで昔の友人が訪ねてきたみたいなんですもの!」

「母と過ごした時間は短かったのですが、キキョウさんのお話はよく伺ってました。お会いできて光栄です」

「いいえ、こちらこそ会えて嬉しいわ!私が流星街を去ってからの話、聞かせてちょうだい!!」

 

 紹介するだけしてもうイルミのことなど忘れてしまったのか、キキョウはリリスと話すのに夢中なようだった。イルミは母親が流星街出身であることを知っていたが、特に思い出話など聞いたことが無い。そもそも、噂を聞く限りあまりいい思い出のあるところではないだろう。

 けれども今、キキョウの喜びようを見ていると、リリスの母親とはかなり懇意にしていたらしい。注意深く観察していると、またリリスと目が合った。「お忙しいところ、すみませんでした」彼女はちょっと困ったように微笑んで、それからキキョウに勧められるままに席につく。今が退出するタイミングだ、と言われたように感じたのは単なるイルミの被害妄想だろうか。

 

 しかし実際のところ、イルミがこのままここに残る理由は無い。母親の長い話に付き合うのはごめんだし、一応”異物感の正体”も確認した。未だにもやもやとはするものの、客人として歓迎されているリリスを勝手に追い出すことはできないし、これといって追い出す理由もない。

 どうせそのうち帰るだろう。不快ならば視界に入れないようにするのが得策だ。

 

 そう考えたイルミは、話し込む母親に声をかけず部屋を出た。今日は深夜にもう一件仕事があるのだから、今のうちに身体を休めておこう。

 しかし気にしないように努めれば努めるほど、さっきの女が気にかかった。

 

 漠然とした嫌な予感ほど、気持ちの悪いものは無いのだ。

 



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02.不都合はないの

「最近機嫌悪いねぇ、何かあったのかい?」

 

 言葉だけを拾えば、あたかもこちらを気遣うような台詞。

 しかしそれを発した隣の奇術師に本来の意味での気遣いなどないだろうし、そもそもイルミ自体気遣われるのを嬉しいとも思えない。どうせこの男は暇を持て余していて、なんでもいいから刺激が欲しいだけなのだ。

 

「別に」

 

 強引に誘われ、仕事終わりに立ち寄った高級なバーは客もまばらで居心地がいい。あまり会話をする気にはなれずイルミはいつも以上に素っ気なく返事をしたが、かえってそれはヒソカの好奇心を煽っただけのようだった。

 

「何もないのに、そんなピリピリしてるのかい?」

「ヒソカには関係ないでしょ」

「相談なら乗るよ?ボク達は友達じゃないか」

「は?キモいヒソカ死んで」

 

 最初から無いとはっきり言っているのに、しつこい男だ。だが、裏を返せばそれだけヒソカが確信をもって”何かがあった”と感じているということだろう。「また弟くんのことかい?」当たらずとも遠からず。観念したイルミは小さく息を吐いた。この調子だとこちらが何か言うまでヒソカは諦めないだろう。

 

「まぁね、少し気になることがあって」

「へぇ、また訓練が嫌だって逃げ出したりするのかい?」

「……なんで知ってるの?オレ、そんなにヒソカに弟の話したっけ?」

「キミは仕事か弟の話しかしないだろ。会ったことはないけど、有望だって聞いてるから楽しみにしてるよ」

「手を出したら殺すから」

 

 言われてみれば、確かにこのやり取りも既視感がある。仕事以外でキルアが外に出ることは無いから大丈夫そうだが、ヒソカへの警戒は怠らないようにしようと思った。

 

「ていうか話戻すけど、今はやる気がないわけじゃないんだよね。むしろ前よりあるよ」

「え?じゃあいいじゃないか、一体何が気に入らないんだい?」

「……うん、まぁ、そうなんだけど」

 

 ヒソカの言ったことは実に正しい。それがわかっているからこそイルミはもやもやしているのだ。「正確には、やる気を出すことになった理由が気に入らない」握ったままのグラスの酒は、ちっとも減っていなかった。

 

「うちにね、母さんの昔の知り合い――って言っても本人同士に面識はなくて、知り合いの娘って立ち位置なんだけど、そういう女が訪ねて来てさ」

 

 ゆっくりと話し始めながら、イルミは女に初めて会った日のことを思い出す。あれは確か三か月くらい前のことだ。まだ二度ほど、それもどちらも一瞬しか会ったことはないが、記憶は褪せずあの女の顔が、特に瞳の印象が強く残っている。

 

「最近オレは長期の仕事に出てて不在だったから知らなかったんだけど、結構頻繁にうちに来てたみたい。いい話し相手になるみたいで、母さんがすごく気に入ってるんだ」

「へぇ」

「家に来るようになってから、必然弟たちとも会ってるみたい」

「で、キミの可愛い弟くんはやる気を出している、と。

 別に悪い話だとは思えないけど……まさかキミは弟くんがその女を好きになったら困るとか言い出すつもりかい?」

 

 こちらがまだ何も言わない内から、ヒソカは大げさに呆れたような顔をした。「それもないわけではないけど、そうじゃないよ」女とキルアとでは流石に歳が離れているし、仮にキルアが淡い想いを抱いたとしても所詮一時的なものだろう。イルミが気に入らないのはそういうことではないのだ。

 

「少し、気味の悪い女でね。何がとは言えないけど、穏やかじゃない雰囲気があるんだよ。それがオレの知らないうちに、家に入り浸ってたことが既に気持ち悪い」

「なるほどねぇ、お父さんは何も言ってないのかい?その、見ず知らずの女が家に来ることに対して」

「さぁ、様子見って感じじゃない?女自体の実力は脅威になるほどじゃないんだ。いつだって殺せるし、今のところ居ても特に差しさわりが無いから放ってるように見える」

「お母さんの知り合いで、弟くんも気に入ってるし?」

「そう」

 

 だからイルミも手が出せない。気に入らないが、今はまだ放っておくしかない。曲がりなりにも彼女は侵入者ではなく、ゾルディック家に招かれた客人だからだ。

 

「まぁ、イルミがもやもやする気持ちはわからなくもないけどねぇ」

 

 ヒソカはそう言って、頬杖をついた。どうやら話を聞き終わって、あまり興味がなくなったらしい。勝手な奴だ、とは思ったが、こちらも解決を求めてヒソカに相談したわけではないのでそれ以上話すことは何もなかった。今更思い出したように、グラスの酒に口をつける。

 

「でもさ、キミ、それって単に気持ち悪いだけじゃなくて焼きもちなんじゃないのかい?」

「は?焼きもち?」

 

 アルコールの強い香りが鼻をついた。けれども流し込んだそれはイルミにとって水と変わらない。予期せぬ言葉に思わず聞き返せば、ヒソカはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「うん、つまりね、キミは突然やってきたよそ者が家族に気に入られていることが面白くないんじゃないのかなって」

「バカじゃないの?」

「おやおや気を悪くしたならごめんよ。でも実際、よく喋るお母さんの話し相手ができて、気にしていた弟くんも修行にやる気を出してるんなら好都合じゃないか。だからお父さんも放っている、そうだろう?」

「……」

 

 違う、と言うのは簡単だったが、自分の抱いている不快感をきちんと説明できる自信が無かった。「ヒソカはあの女のことを知らないからそう言えるんだよ」悔し紛れに言い返したが、実際イルミだって詳しいわけではない。それどころか、ほとんど何も知らないと言っていいだろう。

 

 あの女についてわかっているのは、名前と顔と出身地。それから嫌に家族に気に入られているということだけだった。



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03.冷たい光

 まただ、今日も来ているのか。

 

 帰宅するなり例の気配を感じて、イルミは内心で舌打ちをした。一体うちはどうなっているんだ、いくらなんでも管理が甘すぎる。あの女の実力が大したこと無いとはいえ、情報だって守らなければならないはずだ。それなのに、こうも簡単によそ者を家にあげて良いわけが無い。

 

 この数か月間、自分が仕事に出かけていたことが非常に悔やまれる。父や祖父は仕事以外のこととなると基本的に母に任せてしまいがちだ。重要な決定はするけれど、細かいことは言わない。だからその分、イルミが家族のことには目を配ってきたつもりだった。反抗期のキルアは母親のいうことなんか聞きやしないし、ミルキはとっくの昔に舐められている。なにかあれば長男として頼られるのは自分で、それが当然だと思っていた。

 

 だからこそ――

 

 今のこの無秩序な現状が許せない。ゾルディック家に客人など笑わせる。

 イルミは苛立ちを滲ませながら、気配のする方へと足を進めた。さらに気に入らないことに、一緒にいるのはキルアとカルトだ。他人が物珍しいのはわかるが、警戒を怠り過ぎだろう。叱らなければならない。イルミはノックもせず、弟の部屋に足を踏み入れた。

 

「キル、」

「うわっ、イル兄」

 

 名前を呼ぶとわかりやすく飛び上がったキルアは、すぐさま気まずげな表情になってこちらを見た。隣には同じく驚いた表情のカルト、そして例の女。

 

「こんばんは」

 

 ごくごく当たり前みたいに挨拶をした女を無視して、イルミは弟たちを見据えた。

 

「なにやってるの」

「なにって、別に……訓練はちゃんとやったしいいだろ」

「そう。そのわりに酷く無防備だね。驕りはよくないよ、キル。今の家じゃ必ずしも安全とは言い切れないからね」

 

 そういってちら、と女を一瞥する。視線の意味に気が付いたキルアは今度はわかりやすく眉をしかめた。その庇うような態度も気に入らない。

 

「リリスは母さんの知り合いじゃん」

「正確には知り合いの娘で、母さんとは直接面識もなかった」

「イル兄はいなかったけど、もううちにくるようになってから三ヶ月にもなるんだって。 大丈夫だよ、だいたいこいつ弱ぇし」

 

「……だからさ、キル、そういうのが驕りだってわかんないの?」

 

 求めているのは口答えではなく反省だ。

 確かにキルアの言う通り、女は強くはないだろう。しかし、キルアが知らないだけでこの世界には念というものがある。そこには肉体の強さだけでは議論できない危険さがあって、どんな相手でも油断は禁物なのだ。もし、女が操作系の念能力者だったらどうする?いくらキルアが暗殺者として優れた身体能力を持っていたとしても、操られてしまえばそんなものは関係ない。念能力にはそういう怖さがある。

 

 しかし、念についてまだ教える気のないイルミは、弟を威圧することしかできなかった。いや、もしキルアが念を知っていたとしても、わざわざ危険性を説いて納得してもらう必要があるとは思っていなかった。キルアは黙って言うことを聞いていればいい。そうすれば間違いはない。少なくとも、暗殺者としては正しいことを教えているつもりだ。

 

「キルは人を信じすぎだよ。忘れてない?うちは命を狙う稼業であると同時に、狙われる家業でもあるんだ。家族以外は疑うくせをつけないとね」

「イル兄、リリスの前でそんな……」

「何が問題なの?」

 

 イルミの質問に、キルアは黙り込んだ。でもあの顔は納得したからじゃない。不満を溜め込んだ顔。文句を言いたいのだろうが、やはりまだ真っ向から立ち向かってくる勇気はないらしい。「あの、」流れた沈黙を破ったのは、例の女だ。キルアに当然のように名前を呼ばれている、女――。

 

「おっしゃることはもっともだと思います。逆の立場だったら、疑うのも無理ないなって。だから気にしないで」

「でも、」

「お兄さんはキルア達のことが心配なだけだよ。

すみません、本当に居心地が良くて……家族らしい家族に憧れがあっただけで、害意はないんです。もう帰りますね、邪魔してごめんなさい」

 

 ぺこり、と頭を下げる女。イルミは正しいことを言っただけなのに、まるで悪者扱いだ。弟たちの視線は女に同情的で、イルミに対してどこか非難を含んでいる。それも、キルアだけならともかくカルトまでだ。カルトは兄弟の中でも暗殺者らしい性格に育っていると思っていたのに。

 

 

 すれ違うようにして、部屋を出て行く女。イルミは牽制の意味も込め、横目で睨みつけた。少し殺気を飛ばしてやれば、恐ろしくなって二度と訪ねては来ないだろう。

 

 だが、女はもう一度イルミに会釈した。しっかりと視線が合って、微笑まれる。

 それは柔らかい笑みだったけれど、相変わらず瞳の奥は冷たい光をたたえていた。

 



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04.孤立無援

「あらあら、リリスさんはどうしたの?せっかくお食事にもお誘いしたのに」

 

 今日は珍しく、家族全員がそろって食事をすることができた。

 だからそんな場で、あの女の名前なんて聞きたくもない。ここへあの”異物”が混じるなんてもってのほかだ。「リリスなら追い出されたぜ」イルミが黙っていると、まるで告げ口するかのようにキルアが答えた。最近じゃ親のことを疎ましがって、ろくに喋りもしなかったくせに。

 

「追い出したですって?まぁ、誰がそんな……イルミなの?」

 

 今度はカルトだ。名指しこそしなかったものの、視線で母親に伝えた。イルミはいい加減腹が立って、「あのさ、」と口を開いた。

 

「母さんの知り合いだってのはわかってるけど、いくらなんでもやりすぎだよ」

 

 すっかり食事をする気分ではなくなって、持っていたナイフとフォークを並べて皿の上に置く。父も祖父もいることだしいい機会だ。イルミがあの女の訪問を快く思っていないと分かれば、皆もこの過ちに気が付いてくれるだろう。

 

「キル達にはさっき言ったんだけどね、あまりよそ者を信頼しすぎるのは正直感心しない。母さんには悪いけど、どうも嫌な感じがするんだよ、あの女」

「まぁそれはどういう意味かしら?リリスさんはとてもいい方よ。キルやカルの面倒もよく見てくださるし」

「だから、そういうのが、」

 

――気に入らないんだよ

 

 喉元まで出かかった言葉を呑みこんで、イルミは別のことを言った。

 

「よくないんだよ。発展途上のキル達に余計なことを吹き込まれても困る。あの女が万一何かしでかしても、キル達だけじゃ対処できないかもしれないだろ」

 

 なぜ本心を隠す必要があったのかは、自分でもわからない。

 

「そうねぇ、イルミの言いたいこともわかるけれど、彼女が来てからキルもやる気を出しているようだし……」

「……」

 

 それは正直、言われると痛いところだった。だが、そもそも他人の言葉でやる気を出している方がおかしい。その時点で、それこそ何か吹き込まれている可能性がある。

 

「もしリリスが悪い奴なら、イル兄がいない間にとっくにやってるって。疑いすぎ」

「甘いね、キル。そんなの油断させるためかもしれないだろ。だいたい本当に母さんの知り合いだっていう証拠があるの?」

「イル兄のほうがリリスのことなにも知らないくせに……」

「知ったとしても同じことだよ」

 

 前のキルアはここまで反抗的じゃなかった。それなのにこうも楯突いてくるのはやはりあの女の影響だろう。だから嫌だったのだ、とイルミは忌々しく思う。

 

「ねぇ、あなたどう思う?私はただ、知り合いが訪ねてきてくれて嬉しかっただけなのよ」

 

 ここでようやく、母は父に意見を求めた。この場の雰囲気的に母はキルア寄りの意見らしいが、父さえ反対してくれればあの女は二度とうちへは来られないだろう。イルミは父が自分と同意見であることを期待して視線を向けた。当然、そうであるものとして疑ってすらいなかった。それなのに――

 

「キルア、最近の訓練はどうだ、辛いか」

「……そりゃま、楽しんでやるもんではないけどさ。でも、リリスが来てからは息抜きができるし、前よりはずっとマシだよ」

「そうかそれならいい。ただ節度は守れ。キキョウもだ、いいな?」

「ええ、あなた」

 

 父はそれ以上のことは、イルミが期待したようなことは何一つ言ってはくれなかった。女の訪問に対して完全に反対したわけではない。むしろ、これでは容認したようなものだ。驚いたイルミが思わず責めるような視線を向ければ、バッチリと目が合う。

 

「イルミ、お前が心配するのもわかるが、俺も彼女の母親とは知り合いでな。キキョウが流星街にいた頃、何度か会ったことがある」

 

 だからそれがどうしたというのだ。あの女は母の知り合い本人ではないし、その娘である証拠もない。顔がいくら生き写しだろうが、顔なんていくらでも変えられる。こんなの納得できない。だが、祖父も何も言わないし父がそう決めたのならイルミにはあの女を追い出すことはできない。

 

「……そう。わかったよ、今のところはね」

 

 ここは家族団らんの場で、守るべき家族はここにいる。でもその家族は誰一人イルミの味方をしてくれない。

 

 結局皆キルアに甘すぎるのだ。

 

 イルミは食事もそこそこに席を立った。腹立たしいけれど皆がそのつもりなら、自分だけはあの女の行動に目を配っていなくてはいけない。何が目的かは知らないが、必ず化けの皮を剥いでやる。

 

 たとえ家を継ぐのが自分じゃないとしても、イルミはこの家を守らなければならないのだ。だから家の平穏を乱す者は誰であっても許せなかった。

 



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05.裏切りは胸のうちに

 料理がおいしかったのもあるが、ミルキには今日、自室に戻りたくない理由があった。

 

 食事の席での兄の警告。そして、それに対する父の決定。

 あの場では大人しく引き下がったが、あの兄のことだ。絶対にまだ納得していないし、かえってあのリリスという女へのいらだちを募らせたことだろう。そしてそんな”家族想い”の彼ならば絶対にリリスを排除しにかかる。しかし実力行使に出られない今となっては、まず相手の情報を集めるところから始めるのが基本だろう。

 

「ミル、遅かったね」

 

 のろのろと重い足取りで部屋に戻れば、案の定そこにはイルミの姿があった。用件は聞かなくてもわかる。協力を断れば、兄の近くにあるグッズ達が葬られるのだろう。

 部屋の空気は早くも重苦しく、逃げ出したくなったミルキだったが、どこへ行こうとこの兄からは逃れられないのだとよく知っていた。

 

「イル兄が欲しいのはあの女の情報だろ」

「うん、話が早くて助かるね。ということはミルも反対なんでしょ?」

「……俺はまぁ、ほとんど部屋にいるからあんま関係ねーし。ま、でも一応既に調べてあるぜ」

 

 リリスがうちに来るようになったのは3か月前。正直、ミルキにとってはどうでもいいことだったが、それでも一応セキュリティ面で何かあれば叱られるのはミルキだ。だからいくら母親の客とはいえ調べさせてもらった。「でもたいしたことはわかんねーよ。何しろあの流星街出身だしな」どこへやったかな、と山積みの漫画の中から資料を取り出して渡す。

 

「それはある程度仕方ないと思ってるよ。で、オレがいない間、もちろん代わりに監視してくれてたんでしょ」

「まぁな。でもこっちも特に怪しいところは無し。大抵ママとお茶してるか、キル達の訓練見学したりゲームしたりしてるよ。一応動画も録音もある」

 

 この兄を満足させるにはそれなりにきっちり調べておかないと怖いので、ミルキはやれるだけのことはやったつもりだ。が、怪しいところがないと言うとどうしてもリリスを擁護しているみたいになってしまう。「ま、パパもママもキルアには甘いからな」弁解するようにそう言えば、無表情な兄の眉がわずかにしかめられた。

 

「そういえばキルはどうしてあんな女でやる気を出してるわけ?」

「対等に口をきいてくれる他人が物珍しいんだろうな。あと、聞いてる限りだとあの女はキルをその気にさせるのが上手いよ」

「その気?」

「キルは褒められて伸びるタイプかもな。調子に乗り過ぎるとウゼーけど」

「これ以上甘やかしていいことなんてないよ。キルのことはオレが一番わかってる。まずはあのやる気のむらを治さないとね……」

 

 そこまで言って話がそれたことに気が付いたのか、イルミは少し黙り込んだ。キルアのこととなると普段は冷静な兄もこれだ。皆キルアに甘いというが、実際の所キルアをいい意味でも悪い意味でも特別視しているのはこの兄なのだろう。

 正直なところ、ミルキはリリスの件にも、弟の件にもあまり関わりたくなかった。なので知っていることはすべて話して、さっさと一人にしてほしかった。

 

「あとは、パパとママだな。これはたまたま聞いただけなんだけど、あの女がママの知り合いの娘だっていうかなりの確証があるみたいだぜ。なんでも念が母親と同じ物だとか」

「母親と同じ念?何言ってるの?念は固有のものでしょ、いくら親子でも同じ念なんてありえない」

「いや、俺もそう思うけどさ……とりあえず、さっき詳しく説明しなかったのはキルに念のこと知られたくないからだと思うぜ」

「そう……」

 

 ありえない、と言い切ったものの、兄は何か考えているようだった。確かに世の中には色んな念があるし、他人の念を盗んだり、コピーしたりする能力があるかもしれない。しかしそれならなおのこと警戒する必要があると思うのだが……。

 

「とりあえず、この資料はもらっていくよ。また何かわかったら教えて」

「おう」

「……ミルだけはまともそうでよかったよ」

 

 小さく溜息をついた兄は最後にそう呟いた。だが、生憎ミルキはイルミほどリリスに敵意があるわけではない。さっきはあえて言わなかったが、キルアを介してリリスと一緒にゲームをしたこともある。実際に会話をした感想としては、別に不快なところなんてなかった。

 

 けれど――

 

 この裏切りを今の兄に告げるのはあまりにも酷だろう。

 

 ミルキはようやく一人きりになった部屋で、これから我が家に波乱が起こるのだろうなと憂鬱な気分になった。

 



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06.挑発と本性

 その後、イルミはミルキから渡された資料やデータを全て自分の目で確認した。

 が、弟の言う通り、特に不審な言動は無い。それどころか録画された映像はゾルディック家流とはいえ普段の日常そのもので、これではまるでただのホームビデオだ。

 女は育った環境のせいか多少の毒ならば平気なようで、食事も普通にしている。つまり、毒殺を狙うには確実性が低いということだ。

 

 イルミはそこまで考えて、いや、なるべくなら殺さないようにしなければいけないと考え直した。それは別に無駄な殺しをしたくないとか、ましてや女が可哀想というわけではない。もし今、家族に好かれている状態の女を殺せば、自分が非難されるのが目に見えているからだ。

 

 それはイルミの望まないところだった。結果的に家族の為になるなら多少嫌われたところで気にしないイルミだが、果たして今回はそこまでの危険を冒す必要があるだろうか。得体のしれない気味悪さはあるものの、ナニカほどの脅威ではない。所詮ただの女だ。そんな下らない女の為に家族から非難を浴びるのはどうも割に合わない気がする。

 

 というわけで、できることなら女には自分から出て行ってもらうように仕向けたかった。幸い、イルミは操作系であるため、針を使って女を操れる。父や祖父がいればわずかな念の針にも気づくだろうが、それなら不在の時を狙って刺せばいいだけのこと。

 

(なんだ……思ってたより簡単じゃないか)

 

 自分は何をそんな苛立っていたのだろう。ひとたび解決策が見つかると、今まで悩んでいたことが馬鹿らしくなるくらい些末な問題だった。

 イルミはにわかに機嫌を回復させると、早速計画を立てることにした。まずはあの女が次にいつうちへ来るのか知らなければならないし、イルミ自身のスケジュール調整も必要になる。女の予定に関してはそれとなく母や弟たちから聞き出せばいいだろう。そしてその日に父や祖父がいなければ決行だ。

 

 イルミは何種類かある針を取り出すと、中でもひときわ禍々しいオーラを放つものを手にした。

 

(気分的にはこれを刺してやりたいところだけど、即死されたら面倒だしな……)

 

 録画された映像を見ていると、だんだん憎しみすら募っていく。部外者のくせに、うちの家族と仲が良さそうにしているのは許せない。本来ああしてキルア達と過ごすべきは兄であるイルミの方なのに、当たり前のように馴染んでいる女を容認できない。

 

 結局、最大限の譲歩として、イルミは二番目にオーラの込められた針を使うことにした。即死されるのは困るけれど、さっさと死ねばいいのに、という気持ちは変わらない。いつもは殺しをしても特別な感情はわかなかったが、きっとこの針をあの女に突き立てる瞬間はさぞ楽しいことだろう。その時が来るのが待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がなかった。

 

▼△

 

 

「あ、こんにちは。珍しいですね、これからお仕事ですか?」

 

 女の訪問は、イルミが食事の席で苦言を呈してからちょうど2週間後のことだった。今まではもっと頻繁に訪ねて来ていたようなので、前回イルミが牽制したのが効いたか、それとも母の方が節度を守るようにしたのかわからないが、どちらにせよ久しぶりの訪問であることには変わりない。

 そして都合がいいことに、この時間は父も祖父も仕事に出かけていた。本来ならイルミも仕事のはずだったが、今日はわざと入れていない。

 

「仕事だったら良かったんだけどね」

 

 一対一でまともに会話をしたのはこれが初めてかもしれない。今日は女を一歩も敷地に入れるつもりは無く、イルミは試しの門の前で待ち構えていた。

 相変わらず物怖じするということを知らない女はごく普通の世間話のように話しかけてきたが、そのこと自体も正直面白くなかった。

 

「あれだけ言われて、まだそれでも来るって相当な神経の太さだね」

「お招き頂いたから来た、それだけですよ。扉だってちゃんと開けて入ってますし問題ないはずですよね」

「はは、入るのはさほど難しくないよ。ただ入って出てきた者が少ないって話。この意味わかる?」

「あなたが排除している、ってことですか?」

「オレが直々に手を下すことは基本的にないね。大抵執事で十分。だから誇りに思っていいよ」

 

 もし女がここで逃げたなら、イルミは追わなかった。憎しみはあるものの、結果的に二度と我が家に介入してこないならそれはそれでいいからだ。

 だが、女は一歩も動かずこちらをまっすぐに見つめ返す。その表情から察するに、怖くて身動きが取れないというわけでもなさそうだ。

 

「でも、いいんですか?私を殺して」

「……仕事以外での殺しはやらないとでも?何事にも例外はあるよ」

「いえ、私が心配してるのは”この家での貴方”についてですよ」

 

「それ……どういう意味?」

 

 女は食事の席でのイルミの孤立など知らないはずだ。それなのになにもかも見透かしたかような物言いに、思わず声のトーンが下がる。

 まさか女は全てわかったうえで、こちらを挑発しているのだろうか。大々的にイルミが女を殺せないのがわかっていて、冷めた笑みを浮かべているのだろうか。

 

 そうだとしたら、舐められているにも程がある。

 

「あのさ、どれだけお前が家族に取り入ろうとオレだけは騙せないよ。この場で殺す以外にもいくらでも方法はある。オレを誰だと思ってるの?」

「ではさっさとその方法とやらを試せばいいでしょう。それとも殺しの前に会話を楽しむ趣味でもあるんですか?」

「……本性はそれだね、よくわかったよ」

 

 なにがリリスさんはいい人よ、だ。聞いて呆れる。こいつはやはりイルミが睨んだ通りとんでもない女だ。

 そうとわかれば早く騙されている皆の目を覚まさないと。

 

 

 イルミは女に近づくと、おもむろに首を掴んで片手で持ち上げる。普通なら暴れるところだが、針を取り出してもなお、女は締めあげられた状態のままろくに抵抗もしなかった。

 

「無いとは思うけど、簡単に抜かれちゃ困るからね」

 

 側頭骨と頭頂骨の間辺りを狙って、容赦なく針を突き立てた。念で覆った針なら、骨も肉も変わらず簡単に貫ける、本当はまっすぐ刺し込んで埋めるだけでよかったのだが、イルミはわざとぐりぐりと中身を抉ってから全て埋め込んだ。

 

「……うん。やっといい表情になったね」

 

 気に入らなかった女のあの目は、今やもう何もない虚空を見つめている。機能的には死んでいないものの、もはやこれはあの女の形をした人形に過ぎない。イルミが手を離すと、女はぐらつきながらも地に足をつけて立った。そうして律儀にイルミの命令を待っている。

 

「二度とゾルディック家に関わるな」

 

 そう言うと、女はゆっくりと頷き向きを変えた。元来た道をふらふらな足取りで引き返すさまは無様で胸のすく思いがする。

 イルミは女の後姿が見えなくなると、自分も門の内側へ――大事な家へと戻ろうとした。そして門を軽々と開けたところで、ふと思い出す。

 

「ゼブロ、お前は何も見ていないし聞かなかった。いいね?」

「……はい」

 

 ゾルディック家の使用人は、門番に至るまで優秀だ。もし優秀でないのなら、ここまで生きてはいられなかっただろう。

 

 聞こえてきた返事に満足したイルミは今度こそ門をくぐった。こんなに気分がいいのは久しぶりだった。



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07.黄泉間違い

「一体どうしたのかしら……」

 

 キキョウの心配そうな呟きを横で聞きながら、イルミは上機嫌で針の手入れをしていた。普段は母親のとめどない長話を避けるため、仕事終わりはさっさと自室に戻るのだが、たまにはこうして愚痴を聞いてやるのも長男の務めだろう。

 

――ちょうど”聞き役”もいなくなってしまったことだし。

 

 イルミはそう考えて僅かに口角をあげたが、幸いにもキキョウは気づかなかったようでしゃべり続けていた。

 

「連絡がつかないのよ。この前約束した日もいくら待ってもいらっしゃらなかったし、私心配だわ。何かあったのかしら?」

「さぁ、忙しいんじゃない?」

「でも、それならそうとお断りの連絡でもいれるでしょう?リリスさんはそんな約束をすっぽかすような方じゃないもの」

「へぇ、そうなんだ」

「……何かあったんじゃないかしら!?だって最後にお会いしてからもう一か月にもなるのよ?きっとそうだわ!どうしましょう!!!」

 

 自分で自分の疑問に答えを出して大騒ぎするのは、キキョウの悪い癖だった。もっとも、今回その予想は当たっているのだが、イルミとしてはあまり大事にしてほしくない。「きっとリリスだって色々あるんだよ」たった今オーラを込めたばかりの針の出来を確認しながら、イルミは宥めるようにそう言った。

 

「確かリリスも一応裏稼業なんでしょ?誰とも連絡を取らず潜伏してるとかなんじゃない?」

「あら、あなたたち仲良くなったの?」

「別に。皆があれこれ言うから少し話しただけだよ」

「そう!それは良いことだわ!彼女、いい人でしょう?」

 

「そうだね」

 

これで使った分の針の補充は完璧だ。

 

 イルミは全く心のこもらない相槌を打つと、ようやくキキョウへと視線を向けた。

 

「それより、キルの訓練のことだけど、そろそろ少しレベルを上げようと思うんだ」

 

 認めたくはないが、あの女のお蔭でやる気を出していた分、最近のキルアの成長は素晴らしかった。あの女が訪ねてこなくなってからやや熱意が薄れかけているようだが、できればここで負荷をかけ、今の状態を維持したい。

 

「ええ、イルに任せるわ。ほんとリリスさんのお蔭ね!」

「……そうだね」

 

 忙しい合間を縫って、実際に訓練をつけているのはイルミだ。それもキルアが産まれてからずっと。年齢差があるせいで、それこそもう一人の父親だと言ってもいい。

それなのに急に現れたあの女のせいで、イルミのこれまでの努力を踏みにじられたような気がした。

 

何もしていないくせに。

ただ言葉で甘やかしただけのくせに。

嫌われてでも、生かすための術を教えなかったくせに。

 

 再び、あの女に対する憎しみがふつふつと湧いてきて、イルミは小さく息をはいた。

が、こんな感情は馬鹿馬鹿しい。あの女はもういないのだ。自分が殺した。そう考えると凝り固まったはずの表情が緩みそうになる。

 

「キルはきっといい暗殺者になるよ」

 

だってオレがそう作るから。

そのためなら、どんな些細な障害でも排除してみせる。

 

「早速、キルの様子を見て来るね」

 

 立ち上がったイルミに、嬉しそうに頷くキキョウ。ついさっきまでリリスのことで大騒ぎしていたのに簡単なものだ。

 

所詮、キルに比べたらその程度のことなんだよ。

 

 呑みこんだ言葉は、すとんと胸の深いところに落ちた。

 

 

△▼

 

 

 今日の訓練はいつも以上に厳しい。

 

(俺、何か気に障るようなことしたか……?)

 

 キルアは思わず自分の行いを省みたが、これと言って特に思い当たることは無かった。

少し前までなら――リリスがよく家に遊びに来ていた頃ならわからなくもなかったのだが、彼女の姿はここしばらく見かけていない。

 しかもよくよく見れば、兄は不機嫌どころか機嫌が良さそうである。表情からは窺えないので、あくまでこれは家族の勘だけれども。

 

「キル、ちゃんと集中しろ」

「っ、わかってるよ」

 

 注意とともに、電圧が上げられる。身体を流れる痛みに、嫌でも思考は霧散した。まさか殺されるということは無いだろうが、やはり今日は意図的に負荷をかけられている。

 

「ぐっ、う……」

 

 耐え難い苦痛に思わず声が漏れ、キルアの奥歯は噛み締めすぎて嫌な音を立てる。一瞬でも気を抜けば意識が飛ぶだろう。そうやって今すぐ楽になりたい気持ちと、後でさらに増やされる訓練を天秤にかけ、ギリギリのラインで踏みとどまっていた。

 

「その調子だよ、キル。これくらい耐えられなきゃ、立派な暗殺者にはなれないからね」

「……」

 

 暗殺者になんか別になりたいとも思っていない。ただこの家に生まれて、祖父も父もと続いている家業だから、漠然と自分もそうなるのかと思っていたにすぎない。キルアにとっては他にやりたいことがないからそうしているだけで、要は選択肢がなかっただけなのだ。

 

 だから今の苦痛をまるでキルアの願いを叶えるための試練であるかのように言われたら、キルアだって少しは反発したくもなる。食いしばった歯の間から息を漏らして、涼しい顔でリモコンを操作する兄を睨みつけた。

 

「……っ、立派な暗殺……者なんて、どうでも、いい……ッ!」

「よくないよ。お前はこの家を継ぐんだからね」

「な、んで、俺が……!」

 

 うちは男ばかりの四人兄弟。ただでさえ後継ぎには事欠かないだろう。引きこもりのミルキだって自分なりの方法で殺しはやるし、まだ小さいカルトだってもういくつも仕事をこなしている。目の前のイルミなんて、それこそ暗殺者が天職みたいな男だ。それなのにどうして三男の、それもあまり乗り気ではない自分が後を継がねばならないのか。

 

 

――ハンター試験?なんだよそれ?

 

 

 そのとき脳裏に浮かんだのはリリスの顔。最近見かけなくなったあいつは、面白いことを言っていた。

 

――毎年数万人の受験者が応募するけど倍率数十万分の一という超難関の資格試験だよ。

徹底的な実力試験で、あまりの過酷さから死者も出るんだって。

――へぇ。で、その資格取ってどうすんの?

――さぁ、詳しくは私も知らない。でもプロハンターはライセンスの持つ絶対的特権もあって莫大な富と名声を得られるんだよ。

なんてったって長者番付上位十名のうち、六名がプロハンターなんだから。

――富ねぇ……その番付、裏稼業含めたらたぶんウチも入るぜ?

――あぁやだやだこれだから金持ちは。住む世界が違うのはわかってますよう。

 

 リリスは呆れたような表情になったが、その態度には今まで腐るほど見てきた拒絶が感じられなかった。住む世界が違うからと線引きをして、キルアを遠ざけようとする様子は少しもない。

 

――でも、キルアならほんとに楽勝かもね。身体能力高いだけじゃなくって機転も利くしさ。

――リリスは持ってんの?その資格。

――ううん、ライセンスがなくたって仕事はできるしね。変にしがらみできるより自由なほうがやりやすいでしょ。

――ふーん、自由ねぇ……。

 

 今のキルアには程遠い言葉だ。でも自由になったとして、自分にはやりたいこともない。考えたって、思いつくのはやりたくないことばかり。

 

そう。やりたくないことなら、決まっていたのだ。

 

 

「俺は……暗殺者なんか、いやだッ……!」

 

 口に出した瞬間、胸のつかえがとれたような気がした。口に出したことで、自分の本当の気持ちがわかったような気がした。けれども同時に、身のすくむような威圧感がキルアを襲う。

 

「キル」

 

 ぐい、と強い力で顎をすくわれ、至近距離で視線が合う。食いしばっていたはずの歯の根が合わず、がちがちと無様な音を立てた。

 

「自分が何を言ってるか、わかってるの?」

「っ、」

「お前は熱を持たない闇人形だ、暗殺者になるために生まれてきた。誰に何を吹き込まれたか知らないけどね」

 

 イルミは”誰に”という部分をやたら強調すると、珍しくその口角をあげた。めったに見ることのない満足そうな笑みに、キルアは魅入られたように視線をそらせない。

 

「でももう、惑わされる心配はない。全部オレがうまくやってあげたから」

「どういう……?」

「いいんだよ、キルは余計なこと――」

 

 そこまで言って、イルミは不意にぴたりと動きを止める。動きだけでなく、目に見えない威圧感までも嘘みたいになりを潜めていた。

 

「イル……兄?」

 

 まるでゼンマイが切れたみたいに全てを止めた兄に、キルアは恐る恐る声をかける。それを合図に、ぱっと兄の手がキルアから離れた。

 

「嘘でしょ、あの女は確かにオレが……」

 

 兄の視線は宙をさまよう。呟きもキルアに向けられたものではない。「でも、この気配は……」イルミは少し考え込むと、リモコンのスイッチをOFFにした。突然、電気から解放され、何が何やらわからないキルアは戸惑うしかない。イルミが訓練をこんな途中でやめるなんて初めてだ。しかも、つい今しがたあれほどの殺気を向けていたというのに。

 

「キル、悪いけど今日はここまで。続きはまた明日ね」

「ちょ、待てよ!なんだよ、いきなり!」

「少し確認したいことができた。キルは自分の部屋に戻ること、いいね?」

「おい、イル兄!」

 

 拘束が解かれても、身体が痺れてすぐには動けない。

 結局キルアは立ち去っていく兄の後ろ姿を、大人しく見送ることしかできなかった。

 



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08.違和の足音

 ありえない。そんなはずない。

 

 頭の中で繰り返し呟くが、近づけば近づくほどあの女の気配であると確信する。

 地下の訓練室から、母親のお茶部屋に向かって一直線に歩を進めたイルミは、柄にもなく動揺していた。先ほどキルアに、暗殺者なんていやだと言われたのも地味に効いているのかもしれない。これまで地道に築き上げてきたものが崩れつつあるような錯覚に陥り、自然と早足になる。

 

 

「まぁ!!!イルミったらどうしたの?!?」

 

 いくら家族とはいえ、いつもならノックもするし、これほど乱暴にも扉は開けない。 気配を隠しているつもりは一切なかったが、突然現れ、無言のまま立ち尽くす息子に、さすがのキキョウも驚いたようであった。

 

「なぁに?どうしたの???キルは……ええと、あら、まだ地下にいるじゃないの」

 

 キュイン、と目元を覆うスコープが音を立て、キキョウはまずキルアの様子を確認する。そうだ。本来ならまだイルミはキルアの訓練中であり、この場に現れるのはおかしい。イルミが大事な弟の訓練をすっぽかすなんてあるはずないのだから。

 

 しかし、イルミにしてみれば、それ以上にありえないことが目の前に起こっていた。 

 確かに殺したはずの女。それもひと月も前の話だ。リリスの力量から考えてあの強さの念で死なないわけがないし、針を刺すときにほとんど脳も破壊した。万一、生きていたとしても”ゾルディック家に関わるな”という操作もあるはず。

 

 イルミはただ言葉もなく、警戒の姿勢をとった。隠していた針を指の間に握り、いつでも投擲できる状態になる。「イル!!」しかし驚いた声をあげたのはキキョウだけで、リリスは目を見開きこそすれ、椅子から立ち上がりもしない。

 

「イルったらいきなりなんのつもりなの!?」

「母さん、退いて」

「ダメよ!!!せっかく久しぶりにリリスさんが訪ねて来てくださったのよ!!あなたの殺気は素晴らしいけれど、お客様に向けるのは失礼だわ!!やめなさい!!」

「……っ!」

 

 面と向かって母親に否定をされ、思わず心臓が跳ねる。これまでイルミは”褒められる”か”わざわざ褒められはしない”かの二通りしか知らなかった。それはイルミがいつも家のために正しくあろうとして、正しいことを行ってきたからだ。

 母は大げさに褒めたりもするが、父や祖父は当然のものとしてあえて口に出して褒めるようなことはしない。そもそもうちは家族間で方針が違えばインナーミッションが行われる。イルミはとっくに成人しているのだし、いつまでも親の言うことを聞かなけばならないというのはナンセンスだ。

 

――それなのに、

 

「……」

 

 どうしても身体が動かなかった。

 何もキキョウが身を挺してリリスを庇っているわけではない。驚いて立ち上がってはいるものの、イルミとリリスの間に障害はなく、針を投げることは可能である。しかし、イルミが動き出そうとするよりも先に、ぱちぱちぱち、と場違いな拍手が部屋に響いた。

 

「イルミさん、ありがとう。すごかったです。自分で頼んでいたくせに、すっかり忘れて本気でびっくりしてしまいました」

 

 それまで黙っていたリリスの、突然の行動。

 発言自体の意味も分からず、イルミは眉を顰める。しかし、理解できなかったのはイルミだけではないようで、キキョウも不思議そうに首を傾げた。

 

「どういうことなのかしら……???」

「すみません。次来るときは侵入者として扱ってほしいと、私がお願いしたのを忘れていたんです。最近、潜入系のお仕事が多いのでプロに練習相手になってもらおうと思って。それなのに私が忘れてすっかり普通にご馳走になってたから、キキョウさんまで驚かせてしまいましたね」

「まぁ、そうだったの!!!そういえば、イルミもリリスさんと仲良くなったって言ってたわね!!お仕事のほうで話が合うのかしら?!」

 

 そんなことは言っていない。少し話した(それも実際には脅しだ)と言っただけだし、リリスの仕事が裏家業だというのはミルキの調べによる単なる知識だ。そもそも戸籍もなく、図々しく暗殺一家を訪ねてくるような女が、真っ当な仕事をしているわけもないのだから。

 

 しかし、キキョウの誤解は気に入らないものの、リリスの話は好都合だった。さっきはつい頭に血が上ってしまったが、そもそもイルミは表立っての衝突を望んでいない。針をしまうと、感情のこもらない声で「ひどいなー」と言った。

 

「リリスがやれっていうから、やったのに。そっちは忘れてのんきにお茶か」

「ごめんなさいね」

「いいよ別に。ていうか久しぶりだね。今までどうしてたの?」

「少し、トラブルに巻き込まれまして」

 

 我ながら白々しい会話だ。しかしキキョウは気づく様子もなく、嬉しそうにスコープを点滅させている。「トラブルなんて大変そうだね。手伝ってあげようか?」料金はお前の命だけど、と心の中で付け加え、イルミは自然に席に着く。

 

「母さん、少しリリスを借りてもいい?仕事の話をしたいんだ」

「ええ!!いいわ!私もリリスさんに見てもらいたいお洋服があるし、向こうの部屋で準備して待ってるわね!!!」

 

 おほほほほ!と高らかな笑いを残し、キキョウは部屋を出ていく。

 二人きりになった瞬間、しん、とやけに部屋が静まり返ったような気がした。

 

 

「……で、一体どんな手を使ったわけ?」

 

 わざわざイルミの行いを告発せず、余計な嘘までついたくらいだ。てっきりリリスのほうから何か言ってくるのかと思いきや、彼女は横顔のまま、目すら合わせない。

 

「ご自分で考えられては?」

 

 そう素っ気なく一言だけ返すと、毒入りの紅茶に涼しい顔で口づける。

 別に、イルミだって素直に答えてもらえるとは思っていなかったが、あからさまな彼女の態度にはイラついた。

 

「敵意は相変わらずみたいだね。オレに殺された、って母さんに泣きつかなくてよかったの?」

「言ってもいいんですか?お宅の息子さんは私を殺り損ねましたよって」

 

「いいよ、別に」

 

 悔しさを押し殺し、平気な顔をする。「その時はお前の化けの皮もはがれるだけさ」リリスの目的が何にしろ、彼女がバラさなかったということは今がその時ではないということなのだろう。

 ならばまだ、チャンスはある。実際、これは仕事ではないのだから、何度殺し損ねようと最終的に殺せればそれでいい。

 

 頭ではそう考えたが、実のところリリスの告発を恐れてもいた。失敗そのものよりも、失敗したことを家族に知られるほうが嫌だった。

 だから殺すならなるべく早いほうがいい。さっさとこの女を殺して、何もかもなかったことにしたい。

 けれどもそんなイルミの内心を見透かしたように、リリスは鼻で笑った。

 

「言っておきますけど、何回殺っても無駄ですよ」

「……試してみる価値はあるよ」

 

 何度やっても無駄だなんて、そんなわけない。いくら優れた念の遣い手だろうと死なないことはないし、彼女の蘇生が念によるものなら尚更だ。不死ほどの強力な念になれば発動条件が厳しいはずだし、それ相応の高いリスクも伴うはずである。

 

「では今、試してみます?」

 

 そんな安い挑発に乗るわけにはいかない。この場でこの女を殺すメリットはゼロだ。せいぜい、イルミの気が少し晴れるくらいのものだろう。苛立ちは確かにイルミを内側から苛んでいたが、それを誤魔化すようにこちらも鼻で笑い返す。

 

「先に母さんが楽しみに待ってるみたいだからね。オレはその後でいいよ」

 

 実際、キキョウの気配はこちらに近づいてきていた。おおかた、待ちきれなくなって呼びに来たのだろう。執事でも寄越せばいいものを、キキョウのリリスに対する執着は異常なほどである。

 

「イル!リリスさん!!そろそろいいかしら?」

「あぁ、こっちは終わったよ」

 

 立ち上がって扉を開けてやれば、入口のイルミはそっちのけでキキョウはリリスに向かって手招きする。もともとテンションは高いほうだけれど、リリスの前ではまるで友人とはしゃぐ若い娘のようだ。

 

「昔、私達が憧れていた隣町のドレス店、覚えてるかしら???今日はそこから特別に取り寄せたものがあるのよ!!!ショーウィンドウに飾ってあったものと少しデザインは違うけれど、同じデザイナーの物なの!!」

「まぁ、それは素敵!」

 

 リリスも先ほどまでのイルミとのやりとりが嘘だったみたいに、ぱっと顔を輝かせた。そこにイルミなんていないみたいに、女二人で楽しげに言葉を交わしている。リリスのあまりの変わりようとその勢いに一瞬呆気にとられたイルミだったが、ふと何か引っかかるものを感じ、母親を止めようとした。

 

「じゃあイル、あなたはキルをよろしくね!!今日から厳しくするんでしょう???頼りにしているわ!!」

「あぁ……うん。任せてよ」

 

 キル、という単語に反射的に頷く。そうだ、忘れてなんかいない。イルミはこの家のために可愛い弟を立派な暗殺者にしなければならないのだ。そしてそれと同じくらい、家自体も守らねばならないと思っている。

 

「ねぇ、母さん、」

「行きましょ、リリスさん!!うふふ、まさか二人で思い出のドレスを着れる日が来るとは思わなかったわ!!楽しみねぇ!!」

 

「母さん……?」

 

 嫌な予感がする。すうっと胃の腑のあたりに冷たいものが落ちていくのが感じられた。

 キキョウの名前に対する執着は、異常な“ほど”なんかじゃない。“異常”だ。二人は友人の娘と母親の友人という関係のはず。歳も離れているし、直接の面識などなかったはずだ。

 

 それなのに思い出のドレスとはどういうことだ?

 

 仲よさそうに談笑しながら衣装部屋に向かう二人からは、流石に足音一つしない。

 けれどもイルミは忍び寄る違和の足音を、この時確かに聞いた気がした。

 



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09.憶測は役立たず

 滅多に鳴らない携帯電話が、ご機嫌なメロディーを奏でる。

 そもそもヒソカの連絡先を知る人間はごくごく限られているし、いたとしても好んでかけてくる者は少ないのだが、それぞれに設定した着信音のおかげで誰からの電話かはすぐわかった。

 

「ハァイ、イルミ。どうしたんだい?」

 

 彼がかけてくるということはおそらく仕事だろう。プライベートなお誘いでもこちらは全然構わないのだが、残念ながら今のところそういったお誘いは極めて稀である。

せいぜい運が良ければ、仕事終わりの飲みに承諾してもらえるくらい。

 

 だからヒソカはどうしたんだい、と言いつつ、イルミが仕事の内容を切り出すのを待っていた。

 

「今あの女がうちに来てる」

「……え?」

 

 しかし、いきなり予想と全く違う言葉を言われ、さすがのヒソカも一瞬呆気にとられる。「あの女?」仕方なく聞き返せば、イルミはどうしてわからないのかと言わんばかりに、少し早口になった。

 

「前に話しただろ、母さんの知り合いだっていう女」

「あぁ……そういえばそんなのあったね」

 

 ヒソカにしてみれば、言われてようやく思い出す程度だ。むしろ思い出しただけでも褒めて欲しい。何しろその女とは直接の面識はなく、イルミから数回愚痴を聞いた程度なのだ。「あれ?でもキミ、前に殺したっていってなかったかい?」しかもちょうどひと月ほど前、イルミ本人から手を下したと聞いていたので、とうに終わった話だとも思っていた。

 

「そうだよ、でも生きてるんだ。生きてまたうちに来てる」

「……殺り損なったってこと?」

「は?オレを誰だと思ってるわけ?」

 

 かすかにそうとわかるくらいに語気を荒げたイルミだが、普段の彼を鑑みると相当イラついているというサインだ。

 だがヒソカだって、暗殺におけるイルミの腕を疑ったわけではない。ただ殺したはずの人間が目の前にいるというのだから、この疑問は当然のものではないか。

 

「ごめんってば、一応聞いてみただけだよ」

 

 ちょっと理不尽だな、と思いながらも、口論になれば話が進まないので適当に謝っておく。正直イルミの言っていることは意味不明で、満足な説明ももらえないなら八つ当たりに等しかった。

 

「ええと、キミが確かに殺したはずの女が今またキミの家に来ている。これでいいかい?何か思い当たることは?彼女の様子は?」

「おそらくあの女の念なんだと思う。少し話したけど、オレに殺されたという記憶もちゃんとあったし、それどころか何度殺っても無駄だとさえ言われたね」

「それはまた……」

 

 道理でイルミが荒れているわけだ。

 今までは彼女がゾルディック家の面々に気に入られていることと、だからイルミが気に食わないという情報しか知らなかったが、なかなかどうして本人の性格もきついらしい。

 タネはさておき死なない自信があるからかもしれないが、あのイルミを挑発するなんて命知らずもいいところだ。

 

「だけど、そうあからさまに挑発してくるってことは殺されるのが狙いかもしれないね」

「迎撃型ってことだろ。それも考えたから、前回即死させるようなことはしなかったんだ」

「じゃあほんとに”死に至らなかった”んじゃない?」

「それはない。持ってる中で二番目に強い針を使ったから」

 

 普段イルミが使っている針がどのランクのものかはわからなかったが、二番目と言うからには仕事で見かけるものの数倍の威力はあるのだろう。イルミの断言っぷりに、いよいよヒソカは返す言葉を見つけられず、だんだん投げやりな気持ちになってきた。

 

「じゃあ、お父さんに一度殺したことを言ってみれば?そうすればキミの当初の思惑通り、お父さんもその女のことを警戒してくれるだろうね」

「……」

 

 しかしお父さん、という単語出した瞬間、先ほどまでの勢いが嘘みたいにイルミは黙り込んだ。おそらく、両親に自分の行動を知られるのが嫌なのだろう。イルミは必要があれば仕事でない殺しもするが、基本的にゾルディック家の殺しは”仕事でのみ”となっているらしい。しかも相手が家族に気に入られている女とくれば、イルミが独断で起こした行動はあまり褒められたものではない。

 

 だが、そもそもこの件はゾルディック家の問題だ。ヒソカはその女と面識もなく、イルミから伝え聞いた偏った情報しか知らない。愚痴くらいなら聞くことはできても、本気で解決したいなら頼るべきは家長である父親。それなのに、

 

「……父さんもあの女のことになるとやけに寛容だ。操作されていないとは限らない」

 

 イルミは珍しく歯切れの悪い口調でそう言った。

 

「操作?またえらく突拍子もない話だね。そもそも君はお父さんがそんな簡単にやられると思っているのかい?」

「……可能性はゼロじゃないから」

 

 明らかに苦し紛れの返事をされて、聞いているこちらが気まずくなるほどだ。いくらなんでもイルミだってそんなことはないとわかっているだろうに。「……でもまぁ、君が振り回されてるなんて面白そうだねその子」沈黙を回避するためのヒソカのフォローは、もはやただの相槌となんら変わらなかった。

 

「あのさ、オレだってなんの理由もなく疑ってるわけじゃないよ。あの女、最初は母さんの知り合いの娘としてここにやってきたんだ。それなのに母さんは今、あの女を友人そのもののように扱ってる。おかしいだろ?」

 

 イルミが言うには、まるで二人が一緒に過ごした過去があるかのような発言が見受けられるらしい。記憶の混同は操作された人間によくある傾向なので、それが本当なら確かに怪しい。

 

「だけど操作系じゃ蘇ったことの説明がつかないんだ」

「じゃあ操作よりの特質系ってのはどうだい?能力は”蘇生”で予め自分の脳や心臓をオートで動かしていれば復活可能とか」

「脳は針を刺した時にほとんど破壊してるよ」

 

 そのあたりは一通り考えた、と言わんばかりに吐き捨てられて、ヒソカはとうとう閉口した。ただでさえ他人の念を推測するなんてことは至難の業なのに、”何度も言うが”会ったこともない女の能力なんて考えるだけ無駄である。ついついバトルマニアとしての癖で考えてしまったが、イルミを苛立たせるだけならもう何も言うまい。

 

「あともうひとつ、これは母さん達が操られてるかもしれないから正しい情報とは限らないけどね、あの女の念は母親の念と同じだそうだ」

「母親って、君のお母さんの知り合いだっていう?」

「そう。でも普通、そんなことはありえない。あり得るとしたら、他人の念をコピーするか、奪うか」

「まるでボクの片想いの相手みたいだねぇ……」

 

 ヒソカは長年恋焦がれている蜘蛛の団長を思い浮かべ、無意識のうちにうっとりとした。電話だから悟られなかったものの、これが対面であればちょっと聞いてるの?とイルミに睨まれたことだろう。

 

「でももし、そういう特質系能力なら、複数の系統を示す能力を持っていても不思議じゃないだろ」

「……えーと、じゃあ君の家に近づいたのは能力を盗むためなのかな?」

「それはまだわからないけど……命が目的にしろ正攻法で来るような武闘派じゃない。条件が揃うのを待っているみたいだ」

 

「やっぱりさあ、キミ、お父さんに相談した方がいいんじゃないかなあ」

「……」

 

 どう聞いても一筋縄でいかなそうな相手だ。しかも一度殺されたのにまた家を訪ねてくるなんてまともじゃない。イルミの言うように何か目的があると考えるのが妥当だし、きちんと説明すればイルミの家族だって真剣に取り合ってくれるだろう。

 

「今、家族は誰も信用出来ないからね」

 

 しかし、しばしの沈黙の後イルミから返ってきた言葉はそんなどうしようもないものだった。信用出来ないと言いつつ、彼自身が信用されないことを恐れているように感じる。もしかすると殺し損ねたことを両親に知られたくないのかもしれない。いつも目的の為なら手段を択ばない彼が躊躇するくらいだから、単なるプライドや見栄というよりもっと根深い問題なのだろう。

 ヒソカは反論も忠告も無駄だと判断して、ただイルミの気が済むのを待っていた。

 

「そこでさ、ヒソカにひとつ、協力してほしいことがあるんだけど」

「なんだい?キミが殺しても無駄だったんだろう?だったらボクに出来ることはないと思うけど」

 

 相手の手の内がわからない以上、こちらから下手に仕掛けるわけにもいかない。

 話を聞いていて謎が多く興味深い能力だとは思えども、武闘派でないのならヒソカにとっては所詮クロロの下位互換だ。関わるリスクの方が大きいので、もし殺れという依頼なら断ろうと決めていた。

 

「手は出さなくていいよ。オレがあの女を捕らえるから、ヒソカには見張りをしてほしい」

「見張り?」

「そう。オレはもう一度あの女に針を刺す。まずは自白ね」

 

 イルミは念のことや目的を喋らせるつもりだと言う。仮に効かなくても、この時点で彼女は自身を操作している操作系であると判断することができる。

 

「念のことが分かったら、針の副作用じゃなく今度こそ確実に目の前で殺す」

「つまり、ボクは彼女が起き上がるかどうかの見張りってわけ?」

「そう。執事じゃ家族の誰かに情報が漏れる可能性があるし、執事自体、既に操られていないとも限らない。ほんとはオレが見張りたいけど他の仕事もあるし、アリバイの都合上、あの女が訪ねてこない間に家を空けるのは極力減らしたい」

「ふぅん……」

 

 内容的にはアリとまではいかないものの、ナシではない。いつものように暴れられる仕事でないのは不満だが、同時にリスクも少なく、恩を売るにはちょうどいいといったところか。

 

「ま、起き上がる瞬間が見れるのは面白そうではあるね」

 

 そうでなくてもイルミを手こずらせている女だ。戦闘相手としてはいまいちだが、顔を拝むくらいは悪くない。

 

「いいよ、引き受けよう」

「じゃあよろしく」

 

 ヒソカが了承の旨を伝えると、その一言だけでその通話は切られる。

 あれだけ長々と話していたくせに、最後は実に素っ気ないものだった。



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10.稚拙な動機

 ククルーマウンテンのあるデントラ地区はパドキアの中でも栄えているほうだが、それでも少し都心部から離れただけで寂れた場所なんていくらでもある。

 

 イルミはとある廃ビルの一室で、先ほど攫ってきたばかりのリリスを見下ろした。それから彼女の頬を、ためらいなく平手で強く打つ。

 正直、こんな程度は挨拶にもならなかった。痛めつけることが目的の平手ではなく、気つけの意味でしかないからだ。

 

 リリスの頬は目に見えて赤く色づいたが、そのおかげで彼女は意識をはっきりさせたようだった。

 

「気分はどう?これから何をされるかわかる?」

 

 リリスを攫うのはこっちが拍子抜けするくらい簡単だった。イルミはただ、ゾルディック家から彼女が出てくるところを待ち伏せしていればよかったのだ。

 

「はぁ……監禁でもするつもりですか?」

 

 場所を悟らせないために一度気絶させたのだが、リリスは平手一発ですぐにいつものふてぶてしさを取り戻した。攫われた時も特に驚いた様子はなく、それどころかまたあなたですか、と呆れた顔をしていたくらいなので、これくらいは彼女にとっても想定内だったのかもしれない。

 後ろ手に拘束された状態で心底迷惑そうにあたりを見回したリリスは、律儀にもイルミの質問に答えて見せた。

 

「うん、いいセンいってるよ」

 

 確かに家族に近づけさせないことが目的なら、このまま監禁してしまうのもありだった。けれどもここまで虚仮にされて生かしておくだなんて、残念ながらそんな甘い選択肢はイルミにはない。

 イルミは床に転がる彼女を起き上がらせると、乱暴に顎を掴み、無理やり視線を合わせた。

 

「お前は何度殺されても平気だと言ったね?でも暗殺者は殺すだけが仕事じゃないんだよ。場合によってはいっそ殺して欲しいと思うような目に遭わせることだってできる」

 

 そう言われても、リリスは少しもひるまなかった。せっかく合わせた視線をイルミの後方へと反らし、挑発するように笑って見せる。

 

「へぇ、それってお友達の手を借りなきゃできないようなことなんですか?」

 

 彼女の視線の先の奴がどんな表情をしているかなんて振り返るまでもなかった。「やぁ、初めまして。キミのことは”親友の”イルミから聞いてるよ」隠しきれない笑みを含んだ声色に、どいつもこいつもふざけやがってと腹が立つ。

 リリスも、ヒソカもまるで立場をわかっていない。

 

「友達なんかじゃない、あいつは金で雇った知り合い。ヒソカも、見てるだけでいいって言ったろ」

「そう固いこと言うなよ。彼女、思ったより面白そうだね」

 

 背後の壁にもたれかかっていたヒソカは、ゆっくりとこちらに近づいてくる。そしてイルミとリリスの間に割り込むように、身を乗り出した。

 

「キミ、死なないってホントなのかい?」

「そんなことあるわけないじゃないですか。そっちの腕の問題ですよ」

 

 リリスはわざとらしくイルミを見ると、皮肉っぽく笑った。

 仕事のことを引き合いに出されるのは不快だし、本当ならとっとと針を使いたかったが、リリスが操作系の能力を使っていれば針の自白でも聞き出せない可能性が高い。そういう意味で、ヒソカとリリスの会話は全く無駄というわけでもなかった。

 

「そのわりに、随分と余裕そうだねぇ」

「突然変な格好をした長身の男二人に拘束されて、怖くない女がいると思いますか?」

「うーん、そうだねぇ、たとえば迎撃型の念能力者とか」

「いいですね。それならそこの男も殺せたんですけど」

 

 ぶれないリリスの態度に、ヒソカのにやにやが濃くなる。普通の人間なら腹を立てるところだが、どうやら変態のお気に召したらしい。「キミ、すごく嫌われてるね。一体何をしたらここまで嫌われるんだい?」羨ましいなぁ、と続けたヒソカに、イルミは嫌悪感でいっぱいの眼差しを向けた。

 

「何もしてないけど」

 

 イルミはあくまで家族のために心を砕いていただけで、わざわざこの女に嫌われるべく何かした覚えはない。だからこそそう言ったのだが、イルミの返事にはぁ!?と初めてリリスが表情を変えた。

 

「どの口でそんなこと言うんです?私の頭に針刺したじゃないですか!」

「その前からお前はオレに敵意満々だったろ」

「初対面から”こいつ気に入らない”って感じの顔してた人に言われたくありません!」

 

 彼女がこうもはっきり怒りを露わにするのは初めてで、イルミは一瞬面食らった。今までいくらこっちが敵意を向けても、涼しい顔で挑発するのがこの女の常だったからだ。

 しかも初対面でなら絶対に見抜かれるはずのなかった感情をはっきりと指摘され、驚くなというほうが無理である。「なにそれ、オレはいつもこの顔だけど」そうだ、こんな女に自分の感情が読み取られるはずがない。彼女の指摘を肯定しても何ら問題なかったが、イルミは咄嗟に要らぬ言い訳をした。

 

「じゃあ性根が腐ってるのが、顔面ににじみ出てるんじゃないですか」

「お前みたいな猫かぶりよりずっとましだよ」

「猫をかぶってるのはどっちなんでしょうね、”出来のいい息子さん”?」

「……ふぅん、どうしても黙らせてほしいみたいだね」

 

 にらみ合って目を反らされないのはリリスが初めてだったが、やはりこの女の目がどうしても気に入らない。色味の薄い瞳はガラス玉を思わせてどこか空虚だし、そのくせ宿る光は好戦的ときたものだからタチが悪い。

 

「まぁまぁ、二人ともそのへんにしておきなよ」

 

 しかし再びヒソカが間に割り込んだおかげで、程度の低い口論は一旦そこで停戦となった。

 

 

「じゃあ、リリスはゾルディック家で初めてイルミに会ったんだね?」

「そうですよ」

「で、そこから二人は仲良くなったのかい?」

 

「「は?」」

 

 何言ってんだ、こいつ、と思ったが、どうやらそう思ったのはイルミだけではないらしい。あからさまに表情をゆがめたリリスは、不愉快さを少しも隠す気はないようだった。

 

「私とこの男の仲が良いように見えるんですか?格好だけじゃなく頭までおかしいんですね」

「そう?キミは”イルミのことが”嫌いなのかい?」

「ええ。嫌いですよ。あのうちはキキョウさんもシルバさんもゼノさんもみんな優しくて、ミルキもキルアもカルトくんもみんないい子なのに、この男だけが横暴で乱暴で頭おかしいんですよ」

「そんなに嫌いなら来るなよ」

「私はキキョウさんたちに会いに行ってるんです。そもそもほとんど仕事でいないんだからあなたは関係ないでしょ。ちゃんとおよばれしてるのに、なんであなたのために遠慮しなくちゃならないの」

「関係なくない。あそこはオレの家で、オレの家族のことだからね」

 

「っ……」

 

 そう返すとリリスは悔しそうな顔をしただけで何も言い返さなかったが、イルミもだんだん疲れてきていたのでそれ以上畳みかけなかった。そもそもこれは一体なんの話なのだ。相変わらずリリスの目的も能力も不明なままである。

 

「はぁ、もういいよね、ヒソカ。こいつと話しててもイライラするだけだから」

「うん、もともとボクは見守るだけの約束だし」

「……じゃ、そういうことだから。死にたくなかったらまた”甦ってみれば”?ま、オレとしてはこのまま死んでほしいんだけどね」

 

 イルミは服から針を一本抜きとると、リリスの頭を掴む。やはり動揺や怯えの色はないのが腹立たしいが、その腹立たしさを力に変えて針を差し込んでいく。

 もちろん、まだ殺す気はなかった。

 

 

「お前の本当の目的、それから念能力について話せ」

 

 手を離すと、針の重みかリリスはがっくりとうなだれた。針の副作用で顔がいびつに変形し、イルミの命令に応えるべく不自然に顎ががくがくと動く。

 

「モク、テキ……モクテキハ、」

「……なに、どういうこと?」

 

 目の前のリリスを見て、いや、”リリスだったもの”を見てイルミは思わず呟く。おかしい。そんなはずはない。針のせいで顔が変形していることを差し引いても、この女は……。

 

「モクテキハ、ワカリマセン。ネンノウリョク……ネンノウリョク……」

 

 女は知らない単語を必死で思い出そうとしているのか、何度も繰り返す。そしてそのうち頑張りすぎたのか、白目を向き、盛大に吐血して静かになった。

 

「キミ、勢い余ってやりすぎたの?」

 

 隣で見ていたヒソカが興味深そうに、女の死体をつつく。確かにイライラはしていたが、前回ほど強力な針は使っていない。念を知らない一般人ならまだしも、リリスがこんな簡単に壊れるならイルミも苦労しなかった。

 

 第一、ぐちゃぐちゃの女をよく見れば、髪色や体格が先ほどと違っている。

 

「こいつ、リリスじゃない……」



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11.疑わしきは罰せよ

「リリスじゃない?」

 

 繰り返してヒソカはまじまじと女の死体を眺めた。「顔は……もうよくわからないけど、確かにリリスはこんなネイルしてなかったね」女の指先はちょうど彼女が噴き出した血のように真っ赤に彩られている。イルミはリリスの爪など覚えていなかったが、ヒソカが言うのならそうなのだろう。とにかく、この死体がリリスのものではないという共通認識ができればそれで十分だ。

 

「一体いつ入れ替わったんだろう」

「さぁ、ボクは今回リリスに会うのが初めてだからなぁ。そもそも”入れ替わった”のか”初めから別人だった”のか」

「攫い間違ってはないよ、絶対に。うちから出てきてすぐに捕らえたから」

 

 自分の行動を思い返してもミスはない。第一、ついさっきまでまともに話までしていた。あのふてぶてしさが他の人間に、しかも操作された傀儡に出せるとは思えないし、会話の内容からしてもリリス本人で間違いない。

 

「じゃあ針を刺されるギリギリに入れ替わったのかな?迎撃型でなくとも、殺されかけるのが入れ替わりのスイッチになってるとか」

「ちなみに言っておくと、今回はあくまで自白が目的で、念能力者なら死ぬレベルの念じゃない。もし程度によらず攻撃が入れ替わりの条件なら、自白させるどころか攻撃自体極めて困難だ」

 

「それはまた殺し屋泣かせだね……で、キミは一体どうするんだい?」

 

 他人事だと思って面白がるヒソカはムカつくが、今は構っている場合ではない。

 

「でも、そんな便利な念が何回も簡単に使えると思う?前回あの女を殺ったとき、ひと月は姿を見せなかった」

 

 リリスの性格からして、死んでないなら翌日にでも訪ねてくるだろう。少なくとも、母さんとの約束を連絡も無しに反故にするわけがない。

 

「つまり、あの念の使用にはインターバルがあるんだよ。本体を殺るなら今がチャンスだ」

「なるほど、じゃあボクの仕事はこれで終わりだね。あとは頑張って」

「え?」

「えっ?」

 

 顔を見合わせ、互いに首を傾げる。ヒソカのことは馬鹿ではないと思っていたが、まさかこんなに話がかみ合わないとは思っていなかった。

 

「……だって、彼女の能力は”入れ替わり”であって”甦り”じゃないんだろ?だったらボクがここでこの死体を見張る必要はないよね?」

「”甦り”じゃないってのはあくまで仮説でしょ?その仮説を実証するために見張らなくてどうするの?」

 

 可能性がたくさんあるときは、一つずつ潰していくしかない。一瞬の判断ミスが命取りとなる戦闘中ならば難しいが、余裕がある今のような状況では当たり前の作戦だ。

しかしヒソカは不服なのか、珍しく笑顔を見せなかった。

 

「いや、さっきキミ、前回のインターバルはひと月だったって言ったじゃないか。

つまり、ボクにそのくらい死体と過ごせっていうのかい?」

「そーだよ。ヒソカ暇でしょ?」

「……あのねぇ、」

「はは、安心してよ、オレが本体を殺ればそこで仕事は終わり。絶対ひと月もかからないよ」

 

 それなりに報酬も弾むのだし、何しろただ”見張っている”だけでいい楽な仕事だ。ヒソカは今から退屈を想像して嫌がっているようだが、あまりに辛抱が足りないと思う。「ていうかさぁ、キミ、本当に彼女を殺すの?」挙句、仕事をやりたくないせいなのか、今更なことまで言い出す始末だ。

 

「は?当たり前でしょ。目的こそ吐かせられなかったけど、依然として怪しいのは変わりないしね。敵意も十分だし」

「彼女、キミん家に恨みがあるってより、キミ個人が嫌いなだけだと思うけど」

「それって何が違うの?」

 

 イルミへの敵対行動は、それすなわちゾルディック家に対する敵対行動と捉えてもいい。人間はその憎しみを憎い相手本人にだけぶつけるとは限らないし、事実イルミは自身に何かされるよりも家族に手を出されるほうが嫌だ。そういう意味で、もしリリスがイルミのことを嫌いなのだとしたら、家族に何かされる可能性もある。

 

「……彼女はキミの家族に危害を加える気はないと思うけどねぇ」

「それもあくまで仮説でしょ。オレは疑わしきも罰する派なんだよね」

 

 ヒソカの推測なんてどうでもいい。だいたい、わからない物事はとりあえず悪いほうを想定しておくものだ。常に最悪を想定した対応をとっていれば、リスクを極限まで減らすことができる。

 

「そういうわけだからよろしくね、ヒソカ」

 

 こっちは時間が惜しい。

 いつまでも食い下がるヒソカにばかり構っていられないのだ。

 

 

▲▽

 

 

 衣裳部屋を片付けるように執事たちに指示をしたキキョウは、楽しかったひとときの余韻に浸りながら自室に戻る。

 長らく連絡がとれずに心配していたけれど、今日会った彼女が元気そうで安心した。気にしていたイルミとの関係も知らぬ間に良好になっていたみたいだし、これからは気兼ねなく彼女を呼ぶことができるだろう。

 

「あぁそうだわ、手紙をもらったのだったわね」

 

 部屋に着いたキキョウは、自身の帽子の花飾りに手を伸ばす。そこに隠してあった手紙は、リリスから後で読んでくれと言われたものだった。

 

 

キキョウへ

 

今日は急に訪ねてごめんなさい。

音信不通になったのに、変わらずに迎え入れてくれて嬉しかったわ。

でも私はまたひと月ほど用事があって、そちらへ行けないと思うの。

そしてもし次に会うことができたら、あなたに謝らなくてはならないことがあるの。

既に秘密を守ってくれているのに、自分勝手なお願いばかりでごめんなさい。

 

リリス

 

 

「まぁ……これは一体どうしたことかしら」

 

 彼女があえて手紙という方法をとったからには理由があるのだろうが、これだけではいまいちよくわからない。面とむかって言わなかったということは、彼女もまだ説明するわけにいかないということなのだろう。

 

 彼女の秘密を守ることなど、別に大したことではなかった。彼女がキキョウとシルバに守ってほしいと頼んだ秘密は、彼女自身の念能力のことなのだ。ここへやってきた彼女が、キキョウの知り合いの娘であることを証明するために示した”彼女の母親と同じ念”。そして、母親とキキョウしか知るはずのない”約束”。

 

 念能力は他人に知られれば弱点となる。特に武闘派でないリリスなら尚更だ。家に招く以上、マハやゼノには伝えることを了承してもらったが、息子たちには教えていない。

 本当なら長兄のイルミくらいには教えても良かったのだが、どうもイルミはリリスを敵視しているように見えたし、そんな状態の息子にリリスの弱点を教えるわけにもいかなかった。

 

 今日の様子を見た限りでは、もう大丈夫かもしれないけれど……。

 

 キキョウがそんなこと考えていると、突然、大きな音を立てて扉が開く。驚いて視線をやれば、なんと珍しいことに最愛の息子キルアだった。「リリスが来てるって本当か!?」イルミの訓練がよほど厳しかったらしくその表情には疲労が浮かんでいたが、それでも接近を気づかせない息子の才能はやはり素晴らしかった。

 

「さっき帰られたわよ。それよりもキル!そんな格好でうろうろしてはいけないわ。早くお風呂に入って着替えなさい!」

「帰った?ちくしょう、やっぱイル兄が邪魔してたんだな。誰に聞いても全然教えてくんねーし、挙句カルトのとこにいるって……嘘じゃんか」

 

 てっきり地下の訓練室から直接来たのかと思ったが、キルアはしばらく屋敷中を駆け回っていたらしい。いつもならスコープで位置を把握していたキキョウだが、今日はついついリリスとの時間が楽しくてちっとも知らなかった。

 

「でも、帰ったってことはリリスは無事なんだな?イル兄に何もされてなかったか?」

「二人はお仕事の話をしていたみたいだけれど……。

ねぇ、キル、やっぱりイルミとリリスさんって仲が悪いのかしら???」

「は?悪いっていうか、イル兄が一方的に嫌ってんだろ」

「そうなの……困ったわねぇ」

 

 やはり打ち解けるにはもう少し時間がいるのだろうか。イルミはキキョウに似て思い込みが強いようだし、仕事以外のこととなるとまだリリスに心を開いていないのかもしれない。「あー、まあ、俺のせいでもあるかもな」考え込んだキキョウがいつもと違って静かだからか、キルアもあまり反抗的な態度はとらない。やわらかそうな銀髪をくしゃくしゃとかき乱しながら、ぽつぽつと話し出す。

 

「イル兄、俺がリリスと仲良くしてるとすっげぇ機嫌わりーし。その女は信用ならないーとか言ってさぁ」

「まぁ……」

「こっちからしたらお前は暗殺者になるために生まれてきたって決めつけてくるイル兄のほうが信用ならねーっての。ああいうの洗脳だぜ、まじで」

「あら?それは間違ってないでしょう???キルは立派な暗殺者になるんですよ」

 

 可愛い息子との久々のまともな会話。だが、キキョウの一言にキルアは一瞬で半眼になる。

 

「……はぁ~言う相手ミスった」

 

 リリスが来てから、キルアの反抗期が緩和されたようで喜んでいたが、油断をするとすぐこれだ。才能も容姿も愛する夫によく似た可愛い息子だが、手がかかればかかるほど余計にという部分もある。キルアの反抗スイッチが入ったと同時に、キキョウの教育スイッチも入った。

 

「イルから聞いてるわ!!!最近のキルはよく頑張ってるって!!」

「イル兄が?なるほどな、その結果が今日のアレってわけね。……ま、いいか、ついでだしお袋にも言っといてやるよ。俺、暗殺者なんかなる気ねーから」

 

「な、な、な!!!!なんですってぇえええ!!!ちょっと!キル!待ちなさい!!」

「やーだね」

 

 べーっと舌を出したキルアは、来た時と同じくらいの勢いで逃げ出す。「キル!!」もしかしてリリスが謝りたいことと言っていたのはこのことだったのだろうか。確かにこれは困る。もしも会えたら、ではなく絶対に来てキルアを説得してほしい。

 

 キキョウはもう一度リリスからの手紙に視線を落とすと、はぁぁあと大きなため息をついた。



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12.買収

 暇だなぁ。

 

 ヒソカは一体何度目になるかもわからない感想を抱いて、ところどころ赤茶色の染みが滲んだコンクリートの壁をぼんやり見つめる。

 相変わらず、”リリス”だった死体に動きはなかった。吐血やイルミの針による変形はあるものの、ヒソカ的にはそう派手な死体でもないので、眺めていて特に面白いものでもない。

 

 結局、イルミからの依頼は報酬が十分の一になる代わり、三日間だけ見張ればよいことになっていた。これは料金は払ったろ、いやでもこんなに長いとは聞いてない、の押し問答から粘って粘った結果である。ちなみに、その間にイルミが本体を殺せなかったとしても三日でヒソカの仕事は終わりとなる。

 正直ヒソカとしてはその三日でさえもきつかったが、性格上イルミが譲らないことも、ここで禍根を残せば後々何かを頼むたびに割り増し料金にされることも理解していたので渋々それで手を打った。

 

 しかしそれにしてもやっぱり暇である。先ほどから一人でトランプタワーを作っては壊し、作っては壊し。飽きっぽいヒソカではあるが、この遊びだけは昔から長く続いていた。なので、初日はなんとかこれで潰したが、さてあと二日どうするか。

 

 自分がここを動けない以上、誰かを呼びつける以外に暇の潰しようがない。しかしヒソカには、こんな死体が置いてある部屋に呼び出しても楽しくおしゃべりをしてくれるような親しい仲の人間は生憎いなかった。

 

 もっともお金を払えば別だろうが。

 

「あーあ。わざと怪我してマチでも呼ぼうかなぁ。彼女の念糸縫合、いつ見てもうっとりしちゃうんだよねぇ」

 

 ヒソカは蜘蛛の団員の一人を思い出し、トランプをすっと自分の左腕に当てる。クロロに惹かれてニ年前に入った幻影旅団だが、クロロの次にヒソカが気に入っているのはマチだ。基本的に団員から遠巻きにされていて接点の少ないヒソカだが、念糸を使って治療ができる彼女とは個人的な依頼で関わることも少なからずある。

 

「あ、でも、どうせならそこの死体を治してもらうのも面白いかもねぇ」

 

 変な方向にねじ曲がったりとれてしまった部分は彼女の糸で繋いで、ヒソカの”薄っぺらな嘘”で表面を再現すればそれなりの造形を再現できるだろう。それを写真にとるなりしてイルミに送ってやれば、本当に蘇ったとでも思うだろうか。

 

「クク……いい暇つぶしになりそうだ」

 

 そうと決まれば早速。

 しかし携帯電話を取り出したところで、誰かが階段をのぼってくる足音がする。廃ビルだから人が忍び込んでこないとは言い切れないが、オーラは感じられない。一般人特有の、垂れ流しのオーラすらもだ。

つまり今ここに向かってきている相手は絶状態。それにも関わらず、足音がするということはわざと訪問を告げているのだと考えていいだろう。

 

 足音はやがてヒソカのいる部屋の前で止まった。相手を想像し、ヒソカは笑みを抑えきれなくなる。

 

 

「どうぞ。まさかキミから来てくれるとは思わなかったよ」

 

 声をかければ、ぼろぼろの扉が軋みながら開かれた。

 

「昨日ぶりだね、リリスチャン。無事で何より」

「それはどうも。少しお話してもいいかしら?」

「うん、ボクちょうど暇してたんだ」

 

 部屋の中に入ったリリスは、昨日まで自分だったものの死体を一瞥し、それからヒソカに視線を戻す。絶状態は相変わらずなので、彼女の意思によるものではないらしい。おそらくイルミの仮説通り、インターバル期間。”入れ替わり”だけでなくあらゆる念が使えないのだろう。

 

「で、その状態でわざわざここまで来て、なんのお話をしてくれるんだい?」

「単刀直入に言います。あなたが欲しいの」

「クク……とっても情熱的だね」

 

 ヒソカがそういった途端、彼女は露骨に嫌そうな顔した。なるほどその言葉選びはヒソカの性格を見抜いたうえのもので、彼女の本意ではなかったのだろう。しかし、そうした狡猾さは確かにヒソカを喜ばせた。見え見えの作戦だとしても、面白ければなんだっていい。

 

「あなた、あの男にお金で雇われてるんですよね?私の見張りを」

「正確には、キミの”死体の”見張りだけどね」

「期限は?」

「三日」

「その短期間に私を見つけて殺そうってわけね。それで私の能力が蘇りではないと証明するわけか……」

 

 三日という期間が人を殺すのに充分な期間であるのか、はたまた短すぎるのかは、仕事として人殺しをしないヒソカにはよくわからない。だが、相手の素性が分かっている依頼に比べて、何の手がかりもないリリスの居場所を割り出すのはなかなか大変そうだとは思う。

 リリスは少し考え込むようなそぶりを見せると、やがてまっすぐにヒソカを見つめた。

 

「三日はあの男に雇われていて構いません。でもその後二十七日間、あなたを買いたい」

「その前にボクがイルミにキミのことを報告するとは思わなかったのかい?お金をもらっているのは事実だけれど、ボクとイルミが以前からの知り合いだというのも本当だ」

「もちろん。だからここへ来たのは危険な賭けでした。でもこれが最善だとも思っています。今の私では一か月もあの男から逃げられない。

どうせ死ぬなら賭けてみるのも面白いじゃないですか」

 

「そうだねぇ」

 

 ヒソカは頷いた。「じゃああと二日、ボクは”そこの死体が起き上がらないか”見張っているよ。それがもともとのイルミとの契約だからね」別にリリスを見つけたら殺せとも、連絡しろとも言われていない。ヒソカの仕事はあくまで見張りだ。

 

「で、残りの二十七日間、キミはボクに何を望む?」

 

 出す条件はよく考えたほうがいい。言外の意味をくみ取ってやるほどヒソカは親切ではないし、二十七日間という期間は長い。三日でこれなのだから、二十七日間の護衛なんて飽きてしまう可能性のほうが高かった。ヒソカは別に信頼も信用も必要としていないので、これから先関わるかどうかもわからないリリスとの契約を何が何でも守る必要はないのだ。

 

「あなたを拘束するようなことやあの男と戦わせるようなことはしません。要求は三つです。私に危害を加えないこと。移動する際は行き先を偽りなく明かし、私が望めば同行に協力すること。それから直接、間接を問わずイルミに私の情報を与えないこと」

「……それだけでいいのかい?」

「ええ、あとはあなたのお心遣いに任せます。金額も最低いくらは欲しいとか、希望がありますか?三割は前払い、残りは後という形にしようと思っています」

 

 護衛はする気は端からなかったものの、拍子抜けするくらい楽な条件だ。少なくとも、ヒソカにデメリットがあるようには思えない。

 

「いや、特にないよ。それこそキミの心遣いで」

「では交渉成立ですね」

 

 ヒソカが承諾すると、リリスはにっこりとほほ笑んだ。普通なら握手でもしそうな雰囲気だが、そこはお互い念能力者。相手の能力が分からないうちはむやみに触れたりはしない。

 

「ところで、契約前の二日間はどうするつもりだい?」

「……そうですね、あなたが嫌なら出ていきますし、いてもいいならここにいますよ」

 

 彼女の希望は言わずもがな後者なのだろう。わざわざ契約に同行を組み込んだくらいだ。灯台下暗しでヒソカの傍にいるのが一番イルミを欺けると踏んでいるに違いない。

 だから面白いことが好きなヒソカはこの二日彼女を突き放して、イルミが彼女の居場所を突き止められるか、彼女が逃げ切れるか、見物を決め込むのも悪くはないだろう。しかしただただ傍観するだけの状況には、ヒソカは昨日だけでとうに飽きていた。どっちの味方をするとかではなく、単に退屈が悪なのだ。

 

「そう。じゃあちょっとババ抜きでもしない?」

「いいですよ」

 

にっこりを笑って腰を下ろしたリリスに、ヒソカはなるほどね、と思う。

どうやら彼女は人の心情を汲んで誘導するのが上手く、そこがイルミとの違いらしかった。



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13.疑心暗鬼

 気づけば捜索を初めて既に二週間が経っている。

 それだけの時間がありながら、イルミはどうしてもリリスの行方を掴めないでいた。

 

 ミルキを使って調べさせているが、もともとあの女は流星街出身で手がかりも少ない。そもそもミルキによると前回音信不通になった時点でキキョウも彼女を探そうとしたが、結局徒労に終わったらしい。

つまり、あれだけ親しくしている母ですらリリスの居場所を知らないのだ。

 

 とりあえず頻繁にうちに来ていたことから考えて、パドキア周辺に居を構えていたのかとしらみつぶしに捜索しているが、表の物件から裏の物件まですべて当たり無し。もちろん、リリス探しだけでなくイルミには通常の暗殺の仕事もあるので、思うように空かない身体と進まない捜索に苛立ちは募るばかりだった。

 

 そして苛立ちが募れば募るほど、細かいことでも他人を責めたくなる。

 

 たとえば母であるキキョウ。

 あれほどあの女の存在はキルアに害悪だと忠告したにも関わらず、無視をした上、今更になってキルアが暗殺者にならないと言い出したことに泡を食っている。いや、それだけならまだいい。なにを血迷ったか、そのキルアの説得を元凶であるリリスにやらせようとしているのだ。キルアの矯正はイルミの仕事だし、少し時間をくれれば問題なくやって見せる。あの女に近づけるのだけは悪手だといい加減に気づいてほしい。

 

 たとえば、キルアとカルト。

 まだ幼くあの女に惑わされる未熟さは仕方ないが、あの女よりもイルミとの付き合いの方がずっと長いはずだ。立場上、年の離れた弟達には訓練を課すことが多かったが、それも家業のことを考えて二人が命を落とさないようにするためには当然だと思っている。そこを汲まずに単に耳触りのよい甘言に絆されるのは、未熟さを差し引いたとしてもあんまりではないだろうか。

 

 そして、ミルキ。

 あいつだけは兄弟の中でもリリスに籠絡されていないと思っていたのに、捕らえたリリスの口からはいい子としてミルキの名前も上がっていた。しかしミルキから回ってきた監視カメラ映像には二人が接触している姿はなく、意図的にミルキが伏せたとしか思えない。

 

 また、キキョウがリリスを本格的に探していたという情報も、こちらに一言告げるべきだったのでないだろうか。秘匿しろと命令されたのなら話は別だが、キキョウはイルミの前でもリリスの不在を心配する様子を見せていたのだから捜索していることを隠す可能性は低い。となれば、逐一あの女にまつわる情報を報告しろ、と言っていたのだから、ミルキはやはりイルミに教えるべきだった。

 

 そう考えると現状、ミルキから返ってくる「手がかりなし」という結果はどの程度信じていいものなのだろうか。

 今回はゾルディック家の防衛にまつわる業務だとして、お互いゾルディック家の安全を共通理念に動いているつもりだ。しかし逆に言えばミルキと取引をしているわけではなく、ミルキが情報を意図的に隠す可能性がないとは言いきれない。通常、同じ家族で家族の不利益になるようなことをするわけがないけれども、もし互いの思惑が一致しなかった場合、ゾルディック家ではインナーミッションが起こることもあった。

 

 そこまで考えたイルミは、居ても立っても居られずミルキに電話をかける。「もしもし、ミル」一度気になったことはぐるぐる考えるより、今すぐ力づくでも解決したかった。

 

「今更だけど、やっぱり取引にしてはっきりさせたほうがいいと思うんだ」

「は?何の話だよ、イル兄」

 

 イルミが今連絡するといえば、リリス関連のことに決まっているだろう。もしとぼけているつもりなのだとしたら、我が弟ながら残念だとしか言えない。

 しかしイルミはその説教は後回しにすると決め、さっさと本題を切り出すことにした。

 

「リリスのことだよ。お前、オレに隠し事をしてないって誓えるかい?」

「はっ!?疑ってんのかよ!?」

「……」

 

 微妙なところだ。今の反応はどちらだろうか。イルミは他人の感情を察することにあまり価値を感じなかったが、会話の中の不審さを見つけることについては意義を感じている。

 

「言っとくが、こっちもそれなりにプライド持ってやってるよ。でも現状手がかりはないんだからしょーがねーじゃん。

だいたいママが騒いでないってことは、しばらく来れないとか予め伝えてあるってことだろ?イル兄こそ、あんなにリリスのこと嫌ってたくせにどうして探してるんだよ?ゾルディック家のためだって言うから付き合ってたけど、疑うならこっちもそれなりに聞かせてもらうぜ?」

 

 驚きから徐々に怒りへと移り変わるミルキの言葉は、限りなく本心のように聞こえた。次兄は兄弟の中でも喜怒哀楽が素直なほうなので、本当に見つけられないのかもしれない。しかしどうせ一度疑ったのだ。はっきりさせておいて損はなかった。

 

「いいよ、じゃあリリスのことに関してはお互い隠し事なし。そういう取引をしよう」

「……どーしても取引にしたいんなら好きにしろよ」

「じゃあ成立だね。本当にリリスの手がかりはない?」

「ねーよ。取引で嘘つくほど俗ボケしちゃいねぇ」

「そう。じゃあオレもリリスを探している理由を言うよ。目的はあの女を殺すため」

「っ……!まじで殺る気なのか!?」

 

 今更そんな驚くことでもないと思うのだが、ミルキは大きく息をのむ。「そうだよ」どう考えたってリリスは早めに始末しておいたほうがいいだろうに、ミルキもしばらく裏方ばかりで勘が鈍ったのか。

 

「仕事でもないのにそこまで……」

「オレだって不本意だよ、金にもならない殺しなんて。でもウチの邪魔になるものを排除するのも必要なことだからね」

 

 こんな仕事をしていれば、恨みや賞金狙いで襲われることもある。だからといって、そのときに依頼ではないからと襲ってきた奴を見逃してやるわけにはいかない。降りかかる火の粉は払って当然だ。もっと言えば、火の気になりそうなものを事前に潰すことができれば尚更いい。

 

「まぁそれはさておき、何かわかったらすぐに連絡してね」

「あぁ」

 

 イルミはその返事に満足すると、通話を終了する。とりあえず”取引に嘘はなし”なのでミルキのことは信用することにした。

 

 しかしそのまま携帯をしまおうとしたところ、僅かな振動がメールの受信を知らせる。通知に表示された相手の名はヒソカだった。

 

 依頼した三日はとうに過ぎて、もうあいつは関係なくなったはずだが……。

 

 件名に無意味な記号が羅列されているのはどうでもいいとスルーして、イルミはメールを開く。いつもなら電話をかけてくるところなのに珍しい、と思ったのもつかの間、添付されていた写真を見て驚愕した。

 

「あの死体、起き上がったの?」

 

 正直言って、リリスと入れ替わった死体の容姿などあまり覚えていなかった。しかし、背景はまぎれもなくあの廃ビルのコンクリートで、乾いた血で赤茶色く変色した服の女が一人、縛られて横たわっている。身体に欠損や不自然なねじれはないし、肌の色も生者のそれだ。

 顔もよく見えないため写真だけでは判断しづらいが、健康とは言えずとも生きているように見える。

 

 

――まだ動きが鈍かったから、とりあえず拘束して前の場所に置いておいたよ。

 

 

 写真の下に添えられた一言に、イルミはすぐさま行動した。

 どうして契約の三日を過ぎたヒソカがまだ死体を見張っていたのかなんて、そこまで頭が回っていなかったのだ。

 

 

▲▽

 

 各地にあるヒソカの隠れ家的なマンションの一室で、リリスはまるで猫のように我が物顔でくつろいでいた。

 

 一応契約を交わしていると言っても、強制的な絶状態に異性との共同生活なのだ。もう少しくらい警戒してもいいと思うのだが、彼女は鍵のかかる自分の個室さえあればまったく平気なようである。

 初めに決めたようにヒソカの行動にも特に制限がなく、生活の拠点や行き先を明らかにさえすれば、ヒソカがどこで何をしようと彼女はまったく関心がないようだった。

 

 しかし、だからこそだろうか。

 ヒソカは今しがたイルミに送ったばかりのメールを、たまたまリビングを通りかかった彼女に見せてみる。

 イルミに情報を与えるな、というのも契約のうちだったが、ヒソカは当然言い訳を用意していて、ただ彼女がどんな反応をするか見たいと思ったのだ。

 

「あら、今更随分と古い写真を送ったんですね」

 

 だが、画面を見たリリスは思っていたよりずっと落ち着いた態度だった。「契約違反だったかい?」確かに彼女の言う通り、これは十日も前の写真だ。マチに依頼して”修理してもらった”死体を、自分の念でそれらしく”おめかし”させて撮ったいわゆる悪戯写真である。

 よくできてますねぇ、と呟いた彼女はまじまじと写真の死体を眺めていた。

 

「まぁ、それは私の情報ではなく、”私だったもの”の情報ですから構いませんよ」

「ククク……キミならそう言うと思ったよ」

「でもどうしてわざわざ攪乱してくれるんですか?」

「これはキミと契約する前から、もともとボクが考えていたことだからね。それに、これがキミへの協力になるかはわからないよ。怒ったイルミがボクのところに乗り込んでくるかもしれない」

 

 ドッキリ、というのはやる側は面白くても、やられる側はそうはいかないだろう。イルミは笑って許してくれるようなタイプでもないし、笑えるレベルのネタでもない。

 しかしリリスは顎に手をやってうーん、と考えると、大丈夫じゃないですか、とあっさり言った。

 

「あの人にそんな余裕はありませんよ」

 

 写真を見たイルミはおそらくすぐにリリスの死体を確認しに行くだろう。そしてそこで、自分がヒソカに騙されたのだと知る。

 そのとき彼はどうするか。

 

「わざわざ探し出して文句を言いに来るほど暇じゃないし、怒りをそこまで我慢できない人だと思いますよ。電話で連絡を取れるなら尚更」

「そうだといいねぇ」

 

 イルミはああ見えて短気なところがある。特に家のことが絡むと激情的ですらある。ヒソカはわざと不安を煽るような言い方をしたが、実際にはおおむねリリスと同意見だった。しかし、リリスの予想はそこで終わらず、彼女はさらに言葉を続ける。

 

「それに自分が努力してるのにうまくいかないことが続くと、なんだか周りのすべてが敵に見えてくるんですよね。で、そうなったときに相手が敵か味方か判断できる材料があれば容赦なく試すし、できないのならややこしい関係はひとまず遮断するしかない」

「イルミのこと、よくわかってるんだね」

「……あの人は私に似てますから。不本意ですけど」

 

 そのとき、まるではかったようにヒソカの携帯が着信を知らせた。とっさに彼女を見れば、どうぞ、とジェスチャーで促される。あまりにも彼女が落ち着いているので、ヒソカは少し面白くない気分になって渋々電話に出た。

 

「もしも、」

「一体これはなんの真似?」

 

 相手は当然イルミで、ヒソカの言葉を遮るほどの詰問口調だった。どうやらこちらはリリスとは対照的に、怒り心頭というわけらしい。「何黙ってんの、これは何の真似だって聞いてるんだけど」少しの沈黙も許されず、ヒソカは悟られないように笑みを漏らした。

 

「ちょっとした冗談だよぉ。キミがびっくりすると思ってさ」

「は?冗談にもほどがあるだろ」

「悪かったよ。キミがそこまで怒ると思わなくて……でも、その感じだと、まだリリスは見つかってないようだね」

 

 リリスは今ヒソカの隣にいるのだから、そんなことはわかりきっている。しかしあれだけすぐ見つけると豪語していただけに、イルミは余計イラついているのだろう。

 普段、男にしてはやや高めだった声を低く落として、電話越しでもわかるほどの殺気をぶつけられた。

 

「……いいか、ヒソカ。今度この件でふざけたことをしたらお前を殺す。わかったな?」

「はいはい、気を付けるよ」

 

 電話を切ったイルミは、まさかヒソカが当のリリスと一緒にいるだなんて想像もしていないのだろう。契約があるのでもしもリリスのことを聞かれても嘘をつくしかなかったが、ここまで冷静さを欠いている彼は珍しい。

 

「よかったね、イルミは全く気付いていないみたいだよ」

 

 リリスにそう声をかければ、彼女はヒソカの手から携帯を奪いリダイアルのボタンを押した。「えっ」一体何のつもりなのか。さすがにヒソカでも、今のイルミに掛けなおすのはまずいと思うのでびっくりする。

 しかしリリスはそのままぐい、と身を乗り出し、携帯電話をヒソカの耳に当てた。

 

 

――おかけになった電話番号は、お客様のご希望によりお繋ぎできません

 

「ほらね」

 

 イルミは今、疑心暗鬼に陥っている。

 なるほどな、と思う反面、リリスはイルミとヒソカの関係を良いように捉えすぎであると思う。

 

 下らぬ用事で電話をかけて着信拒否をされるのは、ヒソカにとってそう珍しいことでもなかった。

 



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14.斜め上

 

 その日、イルミが仕事を終えて帰宅すると、間違えようのない異物感があった。

 反射的に日付を脳内で確認すれば、リリスの偽物を殺してからちょうどひと月経つ計算だ。悔しいことに時間切れ。復活したのだと考えていいだろう。

 

「おかえりなさいませ、イルミ様」

「……」

 

 出迎えに来た執事を一瞥すると、空間全体に緊張が走った。もともと好かれているとは思っていないし好かれたいとも思っていないが、今日の空気はいつも以上に固い。自分では抑えているつもりでも、苛立ちが透けてしまっているのだろうか。

 

 イルミは別に他人にかしずかれて喜ぶ趣味を持ち合わせていないので、こんな心にもない歓迎をされるのは不愉快でしかなかった。たとえ八つ当たりだと言われようと、もしも今誰かがひとつでもミスを犯したならばイルミは苛烈に責めたことだろう。

 

「シャワー浴びるから、あとで部屋に食事持ってきて」

 

「は、はいっ!」

 

 リリスの気配が母親と共にあるのを感じながら、イルミは近くの執事にそう言いつけた。うちの執事にしては妙な間があったのは、おそらくイルミの注文が意外だったからなのだろう。執事たちの前では隠していなかった分、リリスとイルミの不仲はあまりに有名で、てっきりこの足でリリスのところに乗り込むものと思われていたようだ。

 

 しかし、今イルミが二人のところへ行ったところで前と同じ轍を踏むことになるのは明白だった。それどころか「お久しぶりですね」と嫌味を言われて苛立ちが増すだけだ。現状、家族の前で手が出せないことには変わりないので、今回もまたリリスが帰宅するまで待つしかない。唯一の救いは本人が言っていた通り、懲りずに何度でも我が家に来るということだった。うちに来たのを殺してもまた”入れ替わられる”だけだが、逆に考えるとインターバルである殺しのチャンスは何回でも巡ってくるというわけである。

 

 前回はどうやったのかうまく逃げられ、焦っていたあまりにヒソカの馬鹿馬鹿しい悪戯にまで引っかかったが、そう何度も逃げ切れるものではない。イルミはそう無理矢理自分を納得させると、足早に自室に向かおうとした。

 

 

「あ、あのっ!イルミ様、」

「……」

 

 けれども進みかけた足は、後ろから呼び止められたことでぴたりと止まる。正直言って、今のイルミに声をかけるなんて命知らずもいいところだった。振り返って見た執事の顔は青を通り越して白に近かったが、イルミは視線だけで続きを促す。怯えようからしてよほどの用事なのだろうが、それを伝える役になったことについては”運が悪い”としか言いようがなかった。

 

「お、お食事の件なのですが、お部屋ではなく食堂で召し上がっていただくようシルバ様から言付かっておりまして……」

「……父さんが?」

「はい」

「そう」

 

 イルミが黙ると、再び場に沈黙が流れる。本音を言えば一人になりたい気分だったが、この一ヵ月間仕事の合間をぬってリリス探しをしていたため、ほとんど家に寄り付かなかったのも事実だ。久しぶりに顔を見せろということなのだろう。「わかったよ」イルミが頷くと、あからさまに執事はほっとした表情になった。勝手に大役を終えたつもりになっているのが滑稽で仕方がなく、イルミはゆっくりと腕をくむ。

 

「食事の件はわかったけどさ、だったらなんでさっきオレの命令に”はい”って返事したの?」

「え……?」

「オレは”食事を持ってきて”って言ったよね?で、お前はそれに”はい”と答えた。

それってさー、おかしくない?初めから食堂に用意することが決まっていたのに、お前は適当に返事をしたってこと?」

「あ……いや、その……!!申し訳ございません!」

「オレは別に謝ってほしいわけじゃないんだけど。どういうつもりって聞いてるの」

「え……あ……」

 

 今やみっともないまでにがたがたと震える執事を見ても、イルミの溜飲はちっとも下がらなかった。なぜならイルミには他人をいたぶって悦に入るという趣味はないからだ。これはただの発散なので、終わったあとにすっきりこそすれ、その過程自体に楽しみはない。

 

「イルミ様、部下の教育が行き届いていないのは私の責任です。どうかお咎めは私に」

「あぁ、ゴトーか。心がけは立派だけどね、なんでも上が責任とってたらキリがないでしょ。ゴトーが庇うほど、そいつに価値ってある?」

「いいえ。ですが、」

 

「イルミ坊ちゃま」

 

 震える執事を庇うように立っていたゴトーの視線が、イルミを通り越した後ろに注がれる。わざわざ振り返るまでもなく、そんなふざけた呼び方がまかり通る人間はこのゾルディック家広しといえ一人しかいない。

イルミは苛立ちごと吐き出すみたいに、大げさなため息をついた。

 

「なに、ツボネ。随分と懐かしい呼び方だね」

「ええ、そうでございますねぇ。今のイルミ様を見て、ついつい昔のお小さかった頃を思い出してしまいまして。申し訳ございません」

「……」

 

 自分の幼い頃を知られているというのはなんとなく居心地の悪いものだ。加えてツボネはシルバの直属。いくら執事とはいえ、イルミ個人の判断で手を下せるほど端役ではない。

 ツボネはゴトーごと哀れな執事を睨みつけると、せかすように数度手を打った。

 

「さぁさぁお前たち、イルミ様のお手を煩わすんじゃないよ。お前たちのせいでイルミ様のご入浴の時間がなくなったら、それこそ申し訳がたたないだろう」

「はい、申し訳ございませんでした」

「ご入浴の準備はできているんだろうねぇ。抜かりがないかもう一度確認しておいで」

「は、はい!ただいま!」

 

 震えていた若い執事は、ようやくそこで我に返ったのか、弾かれたように駆け出す。ツボネはそれを一瞥すると、再び”食えない”笑顔をイルミに向けた。

 

「本当に申し訳ごさいませんねぇイルミ様。わたくしがきっちりと叱っておきますのでどうかこの件はご容赦を」

「……別にいい。シャワーもやっぱり後にする」

「そうですか。それでは十分後に食堂にお越しいただけますでしょうか。旦那様方にもそのようにお声がけいたしますので」

「好きにして」

 

 家族で集まって食事をとるのは、あるようでそんなにはない機会だ。

 先ほどまでは苛々して一人になりたい気分だったが、ツボネの登場で気勢を殺がれた感もある。イルミはとりあえず着替えることにして、今度こそ自室に向かうことにした。

 

 

 

 

「どうもこんばんは。お邪魔してます」

 

 十分後、という時間設定から、リリスが同席している可能性が少しも頭をよぎらなかったと言えば嘘になる。

 しかし実際に食堂に入るなり”客人”のような顔をして挨拶をされると、落ち着いていたはずの怒りが腹の底でぐつり、と甦った。

 

「まぁイルミ!お帰りなさい!ここのところお仕事忙しかったみたいね!」

「うん」

 

 相変わらず姦しい母親に適当に相槌を打ったイルミは、牽制するようにリリスを睨みつけて席に着く。もちろん家族の前ではそうおおっぴらにやる訳にもいかないため実際に目が合ったのはほんの一瞬だが、負の感情を互いの瞳の中に見つけるには十分な時間であった。

 

「でもよかったわ、今日は早くにイルミが帰ってきてくれて。リリスさんも夕食にご一緒してくださることになったの!」

「そうだね、早く帰ってよかったよ」

 

 まだ訓練の割合が多く、家にいることの多い弟たちはともかく、父や祖父までそろっているというのは滅多にない。高祖父については見かけるほうが珍しいので、イルミ的にはこれで久しぶりの家族団らんといった感じである。一方で、もしも自分が今日遅く帰っていたならば、自分の代わりにリリスが我が物顔でこの一家に収まっていただろうことを思うと吐き気がしそうだった。

 

 しかしいつも以上に嬉しそうな様子のキキョウに対し、リリスはどことなく浮かない表情だった。彼女のそんな顔を見るのは初めてのことで、なんだか逆に警戒してしまう。イルミの前では悪感情を隠さない彼女だったが、他の家族の前ではいつもにこやかすぎるほどにこやかだったからだ。

 

「おほほほほ!ちょっといいかしら???実は食事の前にみんなに聞いてほしいことがあるのよ!!」

 

 さあ食事にしようという段になって突然そんなことを言い出したキキョウであるが、母親が自由すぎるのはこの家族にとってごく普通の事である。「この前、キルが暗殺者にならないなんてことを言いだして、私本当に心臓が止まるかと思ったんだけれど!!!」しかも内容が内容なだけに父も祖父も話を遮ることはしなかった。母親相手だからこそ大口を叩いたであろうキルアも、こんな場所で暴露されてはさすがに苦い顔になる。

 

「本当なのか、キル」

 

 確認するようにシルバから鋭い視線を向けられ、生意気さがごっそりと削げおちたキルアは俯きながらも渋々口を開いた。

 

「……うん」

「なぜだ。殺しが嫌いか?」

「別に、そういうわけじゃねーよ……だけど、訓練ばっかじゃ飽きるっていうか……」

 

 歯切れの悪い口調でぼそぼそと答えるキルアに、イルミは内心で苛立ちを覚える。まだそんな寝言を言っているのか。いくら幼い幼いと思っていてもキルアはもう十二歳。本当ならとっくに一人で仕事をいくつも請け負っておかしくないし、実際イルミだってその道を通ってきた。だがキルアはゾルディック家の長い歴史の中でも抜きんでた才能を持つとされながら、いつまでも精神が暗殺者として未完成だ。だから保護せざる得ない。

 しかしはっきりとそう言ってやればいいのに、父シルバはキルアの返事に黙り込んで何かを考えているようだった。

 

「そう!そうよね!キルはきっとリリスさんともっと遊びたいんでしょう???」

「えっ」

 

 そしてそこで勢いよく話を攫っていったのがキキョウである。もともと彼女から発せられた話題ではあったが、不意に重い空気を打ち破られたキルアは驚きに目を見開く。けれどもそんなくらいで止まる母親ではなく、嬉々として食卓に大きな爆弾を投下した。

 

「わかるわ!!リリスさんってすっごく楽しい方だから!!でも、キルを外に出すのはまだ心配だし、そこでわたくし良いことを思いついたのよ!!

リリスさんをキルの婚約者にすれば、キルも出ていくなんて言わないんじゃないかしら??」

「な、何言ってんだよ、いきなり!」

 

 驚きのあまりキルアがテーブルにぶつかってがちゃりと派手な音がたったが、これはキキョウ特有の斜め上発想だ。この場にいる誰もが、うんざりするくらい経験したことがある。しかし今回ばかりはイルミはその内容をいつものことだと流すわけにはいかなかった。

 

「オレは反対だよ。その女のせいで、キルが余計なことに興味を持ったのに、元凶に近づけてどうするのさ」

 

 今までは我慢して沈黙を貫いていたが、リリスをキルアに近づけるなど絶対に許可できない。これ以上リリスに好き勝手されるくらいなら、ここで自分のやった全てをバラしてもいいとさえ思った。

 

「リリスさんもその点は反省されていたわ、だから責任を持つとおっしゃってくださったのよ」

「いや、私が責任と言ったのは、説得と言う意味で……」

 

 だが意外なことに、リリスもこの婚約には乗り気でないようだった。てっきりこの女のことだから、キルアやキキョウをそそのかして取り入ったのかと思っていたが、ずっと複雑そうな表情を浮かべている。

 

「あら?リリスさんはお嫌かしら??」

「嫌と言うか……その、年が離れすぎていますし……キルアくんも困るでしょう」

「あら、今の六歳差は大きくても、大人になれば気にならない程度よ!!!念能力者はいつまでも若々しいし!!」

「いや、でも、キルアくんにも選ぶ権利が……」

 

 なおも固辞し続けるリリスに、キキョウはどうしても駄目かしら?と心底不思議そうに首を傾げる。初めにみんなに聞いてほしいことがある、と言っていたことを鑑みるに、本当にこれは母が勝手に暴走しているだけなのだろう。それならばただキキョウ一人を説得すればよく、イルミはやや冷静さを取り戻した。「本人たちが乗り気じゃないんだから外野がとやかく言っても無駄でしょ」イルミの中ではリリスは殺す予定の女だ。義妹になるかもしれないなんてとんでもない。

だが次の瞬間、イルミは再び全身の血が逆流するような感覚に襲われた。

 

「いいぜ、リリスなら。リリスが婚約者になれば、もっと気兼ねなくうちに来れんだろ」

 

 そう言ったキルアはにやりと笑ってこちらを見る。それは明らかにイルミに対する反抗だった。

 

「何言ってんの、キル」

「いいじゃん別に。リリスのことは嫌いじゃねーしさ。リリスが俺を説得できなかったら婚約解消。それなら文句ねーだろ?」

「あるよ。説得関係なくお前は暗殺者になるんだから、そんな約束に意味はない。だいたいそんな得体のしれない女をうちにいれるなんてリスクが高すぎる」

「まぁまぁ!!!得体が知れないなんて!!」

「本当のことだろ!」

 

 イルミが語気を荒げるのは、それこそ家族ですらも滅多に見ない光景だ。一瞬、静まり返った食卓に、今更のように精いっぱい感情を抑えたイルミの声だけが落ちる。ここまで来ると家族が揃っているのは好都合だった。この際何もかも暴露して、みんなの目を覚まさせる。

 

「いいよ。ちょうど親父もいることだし、この際だから言ってあげる。この女は絶対ろくな女じゃない。殺しても殺しても涼しい顔でうちに遊びに来るなんて、何か目的があるとしか思えないんだ」

「殺したですって??」

「そうだよ」

「はっ?じゃあここにいるリリスはなんなんだよ」

 

 もちろん念のことを説明をするわけにはいかないので、キルアのことは無視してイルミは父親に訴えかける。

 

「父さん、これは嘘じゃない。明らかにリリスはまともじゃない。そんな奴をキルの婚約者にするなんて反対だ」

 

 ここまで言って駄目なら、この場でリリスを殺すのもやぶさかではない。そのまま殺せたなら万々歳だし、前のように逃げられたとしてもイルミが嘘を言っていないと証明できる。

 

「……わかった。少し話をしよう」

 

 シルバは重々しく頷くと、イルミとそれからリリスに視線を向けた。

 

「食事の後で私の部屋に来なさい。リリスさんも来てくれるな?」

「……はい」

「おい、俺の婚約って話だろ、なんでイル兄が!」

「キル、お前もくだらない反抗にリリスさんを巻き込むな。キキョウもそうだ、少し落ち着け」

 

 あからさまな指摘を受け、図星のキルアは返す言葉が見つからないようだった。母も注意されたのが効いたのか、しょんぼりと肩を落とし静かになる。

こうなってしまってはもはや、和やかな家族団らんというものからは程遠い空気になっていた。

 

「……いい加減、食っていいか?」

「そうね、まずはお食事にしましょう」

 

 しかし気まずい沈黙もつかの間、ミルキの言葉でみなが動き出す。ようやく良い方向に物事が進んだ気がして、イルミは少しほっとした。

 けれどもリリスのほうを見ると、彼女もまたほっとした表情をしていて、なんだかそれは少し面白くなかった。

 



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15.魂の器

 

 両親の部屋に足を踏み入れるのは、随分と久しぶりのことだった。

 幼い頃はそれこそ訓練室で顔を合わせることのほうが多かったし、自分もそうだが父は常に忙しい。そんな父の僅かな余暇をわざわざ邪魔するほどの用事を、これまで模範生として生きてきたイルミは持つことがなかったのだ。

 

「ほら、早く入りなよ」

 

 食事の後からずっと握りっぱなしだったリリスの手首を乱暴に引き、イルミは入室を促す。初めのうちは逃げたりしませんから、と抵抗していた彼女も、青く痣になり始めたころには諦めたのか大人しくなった。

 

「イル、放してやれ。俺は話をしようと言ったはずだ」

 

 部屋には既にキキョウも揃っている。玉座のように大きな椅子に腰かけるシルバの後ろで、母は不安そうにスコープの光を揺らめかせていた。

 

「話の前に逃げられるとまずいと思ってさ」

「……」

「わかったよ。ここまでくれば十分だ」

 

 父親からの無言の抗議に手を離せば、すぐさまリリスはイルミから距離をとる。必然、シルバとキキョウを一つの頂点とする三角形が室内に形成された。

 

「まず、イルミがリリスさんを“殺した”という件だが、それは本当か?」

「正確にはこいつの“身代わり”をね。一度目は針で操作し、確かに脳も破壊した。二度目は殺さない程度の操作を行おうとしたけど、気づいたときには別人の死体が転がってたよ」

「リリスさん、」

「ええ、彼の言う通りです」

 

 普通で言うなら、“殺した側”がこれほど堂々と“被害者”を糾弾するなんておかしな話だろう。しかしシルバは事実の確認をしただけで、イルミの行いを咎めるようなことはなかった。

 それもそのはず、ここは暗殺一家ゾルディック家。人を殺して褒められこそすれ、咎められるいわれはない。ましてや、その動機が家の安全の為なら尚更だ。

 

「さっきも言ったけど、何度も殺されて歓迎されてないってわかりきってるのに、それでも訪ねてくるなんて何か目的があるとしか思えない。この女が“身代わり”に入れ替われるのなら、いつ外部の敵と入れ替わってもおかしくないでしょ?」

 

「それからもう一つ、引っかかっていることがある。母さんとリリスの関係だよ。直接面識がないと言ってた割に、まるで知己のような口ぶりだ。軽い暗示のような操作を受けている可能性がある」

 

「キルの件もそうだよ。リリスの言葉でやる気を出したり反抗したり。こっちは操作までしてないのかもしれないけど、うちにとって害なのは確かだ」

 

 自分は間違っていない。この家のために正しいことをしている。そう思えばそう思うほど抑揚を殺すのは難しかった。横目でリリスを盗み見、その涼しい表情が崩れさる瞬間を今か今かと心待ちにする。

 

「……リリスさん、」

 

 ひとかけらの遠慮もないイルミの糾弾に、さすがのキキョウも弁護する言葉を持たなかったのか、普段の甲高い声が嘘のように静かだった。

 今や全員の視線がリリス一人に向かう。そこで初めて、彼女は困ったように眉を寄せた。

 

「大丈夫です、気を遣っていただかなくて。元はと言えば騙していた私のほうが悪いんですから」

 

 そう言って話し始めた彼女の表情には追い詰められた者の絶望も、いつものふてぶてしさもない。かといって開き直りともまた違った、諦めに似た何かが確かに浮かんでいた。

 

「まず、私の念についてお話したほうが早いでしょう。私の系統は元は操作系、後天的に特質になったタイプです。能力は、血をもらった相手に“憑依”すること」

 

 ”憑依”という言葉に、イルミはそうと悟られないくらいに眉を寄せた。つまり、彼女は入れ替わっていたわけではなく、もともと偽物の身体だったというわけだ。それならばイルミが”殺した”という事実にも矛盾しない。

 

 そしてイルミが睨んだ通り、彼女には操作系の適性がある。操作系が後天的に特質になる可能性があるのは知識としては知っていたが、転向する条件は不明だし実際にお目にかかったのも初めてだった。そもそも特質系自体が特殊な家系に産まれたり、特別な環境の下で育ったものが多いと聞くが、流星街での生い立ちが関係しているのだろうか。

 

 リリスがちらりとシルバとキキョウのほうを見ると、二人は黙って頷いた。

 

「この”憑依”の能力は放出系能力者だった私の母の念です。母は自身の魂をオーラとして飛ばし、他人の身体に憑依することができました。このことは同じ流星街出身であるキキョウさん、そして仕事で流星街に訪れたシルバさんもご存じだと思います」

 

 どうやら彼女の母親がキキョウの知り合いであったというのは本当らしい。しかしそれならばなぜ、“騙していた”と言ったのか不明だし、なにより後天的に特質になったとはいえ、操作系のリリスが”なぜ母親と同じ念なのか”という謎は残ったままだ。

 

 念能力というのは血縁で受け継がれるものではなく、本人の才と努力による一代限りの能力である。家族間でなりやすい系統が大雑把な傾向としてあったとしても、極端な話家族全員の系統がばらばらだということだって大いにあり得る。

 系統が同じであれば似た念を“模倣”することは可能かもしれないが、やはりイメージや過去の経験が色濃く反映される念が、全く誰かと同じということは起こりえなかった。

 

「母は昔から足が悪く、身体も丈夫なほうではありませんでした。だから自由に動く他人の身体をのっとる、というような発想が生まれたのでしょう。しかしこの念の発動中、本体である身体はただの抜け殻。彼女が自由を求めて自分の身体を留守にすればするほど、どんどんと身体が弱っていくのは明白でした」

 

「しかも念の発動には相手の血液を必要とし、長時間“憑依”を続けるには魂と肉体の相性も関係してきます。つまり、一般人よりも念能力者が、他系統よりも同系統が、赤の他人よりも血縁者が、器として好ましい」

 

 そこまで話すと、彼女は一度区切りをおいた。周りの理解を待つというよりも、彼女自身、何かと葛藤しているように見える。

 自白をする一歩手前の者もこうした雰囲気を纏うので、イルミは急かすまでもないと黙って続きを待った。

 

 そうしてすっかり色味の失せた、彼女の唇が震える。

 

「私は母の器となるべく、この世に生を受けました」

 

 彼女が努めて無感動でいようとしているのは、誰の目にも明らかだった。声こそ静かで落ち着いていたが、それが逆に不気味ですらある。

 

 リリスの母はこのままでは自分が永くないことをわかっていて、次の肉体とするためリリスを生み育てた。そしてよりよい器とするために、精孔を開き、四大行を叩きこんだのだと言う。この計画についてはキキョウにも話しており、いつか”生まれ変わって”会いに行くわと約束していたらしい。

 

「しかし母の念は失敗しました。正確に言うと、私が抵抗したのです。まだ発の形成にまで至っていなかったものの、操作系だった私は”憑依”してきた母の魂を支配した。母は器であるはずの私に、逆に吸収されたのです」

 

「始めに騙していた、といったのはそのことです。私は母の記憶も念も得たのをいいことに、自分が母だと偽って、キキョウさんに会いに来ました」

 

 そこから先のことは、説明してもらうまでもなく知っていた。計画を知っていたキキョウはリリスを旧友として受けいれ、肉体の年の差の説明を省くため、そのまま”友人の娘”として紹介した。もちろん、当主であるシルバや義父のゼノには彼女の正体や念について教えたが、そもそも念を他人に知られるのは念能力者にとって致命的。

 彼女のように戦闘向きではなく、使用時、使用後に本体が無防備になるような場合は尚更であり、そのためあからさまに敵意を表明していたイルミには教えられなかったのだろう。

 

 種明かしされてしまえば、実にくだらないことに数か月も費やしたものだ。とはいえ、やはりリリスが嘘をついていたことには変わりない。

 彼女の母の所業には驚いたものの、こんな仕事をしていれば骨肉の争いなど珍しくもないし、家族間でも憎しみあうことがあるのはよく知っていた。肝心なのは過去の確執ではなく、リリスが何を目的にここへ来たのかだ。

 

「母を吸収した私は、後天的に特質系となり、母の能力も使用できるようになりました。さらにただ“憑依”するだけだった母に対して、操作系の系統を持つ私は“憑依先”の容姿を自分と同じものに変えることができます。

私は自分が母であると偽ったばかりか、ゾルディック家を恐れて生身でここを訪れたことはありません。これがもう一つ、私が謝らなければならないと思っていたことです」

 

 まるですべての告白が終わったみたいに、リリスは深々と頭を下げる。イルミはまたお得意のパフォーマンスかと呆れたが、心のどこかでこの謝罪は本心なのではないか、と思う自分もいた。上手くは説明できないし、自身にこのような感傷が残っていたことにも驚きだが、無理に冷静さを取り繕おうとしているリリスの姿には真実味があったのだ。

 

「リリスさん、それはお食事前も聞いたけれど、私は別に怒ってはいないわ。思い出話に花を咲かせられたのも貴方のお陰だし、本人でなくても、その娘さんに会えたのも嬉しいことよ。むしろ私はあなたが娘さんのほうだと知って、ぜひお嫁に来てほしいと思ったわ!」

 

「たとえ肉体が違っていても、キキョウの相手をし、息子たちの面倒を見てくれたのはリリスさん自身だ。俺が言うのもなんだが、生身で暗殺一家を訪ねてこなかったのは判断としては間違っていない」

 

 しかし、ここで空気が和やかなほうにもっていかれそうになって、イルミはハッと我に返った。「待ってよ、まだ肝心の話を聞いてないけど」世の中には不幸話なんて腐るほど転がっているのだから、いちいち絆されてなんていられない。

 イルミは久しぶりに口を開くと、顔をあげたリリスを真っすぐに睨みつけた。

 

「お前の念のことはよくわかったよ。で、なんでわざわざ母親を騙ってうちに来たわけ?復讐でもしようと思ったの?」

「復讐?」

「お前は母親を恨んでる。だとしたらその友人で、計画を知っていた母さんを恨んでもおかしくないだろ」

 

 言ってしまえば逆恨みだ。リリスの場合は特に、恨みをぶつけるべき相手がもう存在しないので、その矛先がゾルディック家に向いたとしても納得できる。

けれども彼女はゆっくりと首をふると、自嘲めいた笑みを浮かべた。

 

「いいえ違います。でも、皆さんを騙していたことには変わりないし、私にはもう、この家を訪ねる資格はありません。もともと今日で最後にするつもりでした」

「……」

「今までお世話になりました。そして不快にさせてごめんなさい。ほんとはこんなに長く関わるつもりじゃなかった。私はただ、母の友人がどんな人で今どうしているのか、知りたかっただけだったの」

「……オレにそれを信じろって?」

「信じてもらえなくても構いません。どのみち、もうここへはお邪魔しませんから」

 

 彼女の言葉は本心だろうか。そんな非合理的な理由で危険を冒してまで暗殺一家を訪ねてきたというのか。それは復讐よりもあまりに筋が通らないし、はっきり言ってイルミには理解できない。

 

 だが実際に、彼女がうちで具体的に何かをしたかと言われると答えに窮した。強いて言うならキルアの反抗のきっかけになったくらいだが、母を操作していた件についてはシロ。念が分かった今、家の脅威にはなりえないことが確定したし、両親に至っては初めから知っていたのだ。

 加えて、もう二度と来ないというのなら、この場でイルミがこれ以上彼女を糾弾するのは難しい。

 

 

 リリスは最後にもう一度頭を下げて、さよならの挨拶を口にした。イルミはそれに何も言えなかった。出ていく彼女を見て溜飲が下がることも、ざまあみろと思うこともなかった。悪意の有無は別にしてやっとこの家から異物がいなくなって嬉しいはずなのに、まだ胸の奥に何かがつっかえている。

 

――だったら、なんで、オレにだけ敵意を向けてたの。

 

 確かにイルミ自身、彼女に好かれるようなことをしていないのはわかっている。弟から遠ざけようともしていたし、この家に近づくなという警告も、偽物とはいえ実際に殺害まで行った。けれどもそれは家を守るという観点から言えば当然の反応だろう。イルミだって異物感こそ感じていたものの、初めから殺してやりたいほど憎んでいたわけでもなかった。

 現に、初めてキキョウから紹介された時には何もせず引き下がっている。

 

 だが、リリスはファーストコンタクトから、イルミに対してだけ妙な感情のこもった瞳を向けていた。イルミが気に入らない、と印象を抱いて、記憶に残っていたのはそのせいだ。

 あれは確かに負の感情だった。だからイルミは警戒を強めたのだ。

 

 

――母の友人がどんな人か知りたかっただけなの

 

 ずっと疑っていた彼女の目的が、あれで本当なら拍子抜けするくらいくだらない。しかし監視カメラで見た彼女のこれまでの振る舞いは、確かにどれをとっても憎しみなどないように見えた。キキョウに対しても、キルア達に対しても、きわめて普通すぎる態度だ。むしろ家族の一人とでもいうような親密さで、慈愛のこもった眼差しを向けている。

 

 だからこそ、イルミにだけ敵意を向けたのが、どうしても解せなかった。

 

 復讐が目的でないのなら、ゾルディック家の誰かと敵対するメリットなどない。部外者の出入りを快く思わないのは同じだが、最初のあの瞳や挑発するような態度がなければ、イルミだってここまで強硬手段に訴え出なかっただろう。

 

 しかしその疑問はあまりに個人的すぎて、言葉にするのは憚られた。彼女はゾルディック家を出て行ってしまい、最後まで引き留めようとしていたキキョウをシルバが制したくらいだ。

 そうなるとイルミにはもう何もできない。そもそも彼女を一番追い出したがっていたのはイルミなのだから。

 

「意味わかんない……」

 

 意図せず漏れた呟きは、理由のわからぬ敵意を向けてきていたリリスに対してか、それとも目的を達成したのに消化不良の感情を燻ぶらせている自分に対してか。

 

 その日のゾルディック家は、いつもよりひどく静かだった。



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16.利用価値

 

 あの日以来リリスが来なくなって、ゾルディック家はようやく本来の落ち着きを取り戻した。

 相変わらず父や祖父は仕事に明け暮れているし、イルミ自身も仕事や弟たちの訓練につき合うだけで日々が過ぎてゆく。仕事以外の用事で外出することもなければ、家庭内で誰かに苛立たされることもない。

 

 実に穏やかで、これまでとなんら変わらない日常だった。たまに身の程知らずの賞金首狙いが訪れたりはしていたようだが、正式に本邸を訪れるような客人はいないし、この家にいるのは家族と雇っている執事だけ。

 

 しかし表面上は変わらなくても、皆の記憶からあの女が消えたわけではない。特に、彼女と別れの挨拶を交わしたわけでもなく、経緯を知らないキルアからしてみれば、単にリリスが追い出されて来なくなったという結果だけが残るのだろう。

 イルミが食事の席で派手に糾弾したこともあり、今更彼女が自分の意思で出て行ったのだと言っても信じるわけがなかったのだ。

 

 

「キル、またゲームかい?」

 

 イルミがふと思い立ってキルアの部屋を訪ねれば、振り返った弟は露骨に顔をしかめた。「……ノックくらいしろよ」訓練はもう終わったので別にゲームをしていること自体を咎めるつもりはないのだが、最近のキルアは何かと自室に引きこもりがちだ。家族の誰ともコミュニケーションをとろうとしないし、なにせうちには次兄という前例がいるので少し心配でもある。

 

 イルミはキルアの言葉を聞き流すと、そのまま部屋に足を踏み入れる。テレビ画面に映し出されたものを覗き込んで見ても、さっぱり何がなにやらわからなかった。

 

「なに、なんか用?今日の訓練は終わりだろ」

「別に用ってほどじゃないよ。ただ、久々に兄弟で過ごすのも悪くないと思ってさ」

「はぁ?」

 

 そう言って隣に腰を下ろすと、キルアは信じられないものでも見たかのような表情になる。確かに忙しさに加えて年齢差もあることから、一緒に遊ぶということはなかった。もちろんキルアが小さい頃は遊んでやったりもしたが、所詮それも子供の相手をするという意味でしかない。イルミが近くに置かれていたコントローラーを握ると、ますますキルアは怪訝な顔をした。

 

「マジで言ってんの?」

「うん。ミルとはよくやってるよね?」

「……イル兄、ゲームなんてできんのかよ」

「教えてくれればできるよ」

 

 --たぶん。

 

 正直、イルミはゲームなんてろくにやったことがなかった。最初の子ということで両親も教育に力を入れていたし、イルミ自身、そうした娯楽には大した興味をそそられなかった。今だって別にゲーム自体がやりたいわけではなく、この場に留まる口実が欲しかっただけ。もっと言うなら、監視カメラの映像でリリスとキルアがゲームをしていたのを思い出して、なんとなく張り合いたくなっただけだ。

 余所者のあの女がキルアとゲームをするのなら、兄である自分がしてはいけないはずがない。

 

 キルアはイルミに諦める気配がないのを悟ったのか、渋々といった感じで二台目のコントローラーをゲーム機に接続する。キルアは積極的にリリスをゲームに誘っていたので、本心では一緒に遊べる相手が見つかって嬉しいはずだ。どこか態度がぎこちないのは、きっと照れ臭いのだろう。

 

「……とりあえず、好きなキャラクター選んで。Aで決定」

「うん」

「これ対戦格闘ゲームだから。上の緑のゲージがライフで、敵のライフをゼロにした方が勝ち。十字キーで移動で、Xでパンチ、Aでキック。ガードは後退させるとできる」

「わかった」

 

 何やら他にも色々なボタンがついているが、ひとまず基本操作だけわかればいい。イルミが適当にキャラクターを選択すると、カウントダウンの後にすぐに戦闘が開始された。

 

 キルアのキャラクターは、ホウキを逆さにしたような髪型の軍人の男だった。ボクシングのような構えをとっているし、おそらく近接戦闘タイプだろう。相手の手の内がわからないうえに、こちらは初心者。まずは相手の出方を見ようと少し下がったときだった。

 

「え、待って、今の衝撃波みたいなやつなに」

「ソニックムーブ」

「……格闘ゲームなんだよね?」

「あー。電気纏ったり、超能力使ったりもするから」

 

 説明しながらも遠距離から次々と衝撃波を飛ばしてくるので、イルミはとりあえずタイミングを合わせてガードをする。格闘ゲームというから、てっきり純粋な肉体による戦いを想像していたが、念能力でのバトルのように実際はなんでもありらしい。

 

「ガードしたって、必殺技はノーダメじゃないぜ」

「みたいだね」

 

 とりあえず、近づかないことには始まらない。衝撃波の間を縫ってジャンプをし、キルアの操作キャラとの距離を一息に詰める。しかし放ったキックはあっさりとガードされ、代わりに連撃を食らった。どうにかして逃れようとするのだが壁際へと追い詰められ、一度ダウンしてしまうとそこからは殴られ放題だ。

 

「はい、俺の勝ち」

 

 結局、あっという間にライフを減らされ、イルミのキャラクターは敗北する。圧倒的な経験と実力の差だ。こればかりはどうしようもない。

 

「もういいだろ」

 

 キルアは肩をすくめると、視線を画面からこちらの方に向けた。

 

「もう一回」

「無理だって。イル兄と俺とじゃ勝負になんねーよ。やっても面白くないだろ」

「今のは初めてだったから。何回かやればコツが掴めるよ」

「……いつもは勝ち目のない敵とは戦うなって言うくせに」

「はは、キルも言うようになったね」

 

 これは一本取られたな、とイルミは少し愉快な気持ちになったが、キルアのほうはにこりともしない。相変わらず、戸惑いと不機嫌が一緒くたになったような表情をしていたが、ややあってゆっくりと目を伏せた。

 

「……あのさ、もしリリスの真似をしようとしてんなら、そういうの気持ちわりぃからやめろよ」

「真似?」

「だっておかしいだろ、兄貴が俺とゲームなんて。柄じゃねーし」

「そうかな?他人とゲームするより、兄弟でやるほうが自然だと思うけど」

 

「やっぱ、イル兄がリリスのこと追い出したんだ」

 

 キルアが呟いた言葉が、やけに反響して聞こえた。ゲームは未だついたままで賑やかなBGMが流れているにも関わらず、妙な静けさが二人の間に落ちる。

 イルミはなんとなく最後の日のリリスの、諦観が滲んだ瞳を思い出してしまっていた。

 

「……もともとあの女がいるほうがおかしかったんだよ」

「俺の婚約者になるなら、来たっておかしくなかっただろ」

「キルにあの女は相応しくない」

「なんでだよ、お袋だって賛成してたのに」

 

 キルアがリリスのことをそういう意味で好きではないのは、誰の目にも明らかだった。口だけはませていても所詮は子供。リリスを婚約者に望むのはイルミへのあてつけ半分、もう半分は慕っているリリスを縛りたいからだろう。

 

 ゾルディック家の教育上、友達をつくる機会も必要もないし、執事は立場をわきまえているため、決してキルアの望むような関係を与えない。そういう状況下で初めて対等に接してくれた他人として、キルアがリリスに固執するのも無理はなかった。友達とまではいかないが、男ばかりの兄弟で姉という存在に憧れもあったのだろう。

 

「母さんとキルがよくても、リリスはどうだろうね」

「それは……」

「リリスは婚約の話が出ても喜んでなかったよね。リリスが特殊な性癖でもない限り、キルなんて子供にしか見えないだろうし」

 

 それにはさすがに自覚があったのか、キルアは悔しそうな顔になる。悔し気に唇をゆがめて、それから皮肉っぽく笑った。

 

「だったらさ、なんでお袋はイル兄に勧めなかったんだろうな」

 

 イルミが去年あたりから、良い人はいないの?お見合いなんてどうかしら?と母にせっつかれていることは家族の中ではよく知られている事実だった。キキョウがリリスを嫁に、と言い出したのはキルアとくっつけたいという思いよりも、どちらかと言えば彼女を“義理の娘”にしたいという感情からだろうし、その目的ならイルミかミルキ、順番で言えば長兄で未だ独身のイルミを勧めるのが妥当だろう。

 

「ま、もし相手がイル兄だったら、リリスのやつ、喜ばないどころか絶対嫌がるだろうしな」

「オレだってお断りだよ」

 

 家族の前では警告までにとどめていたとはいえ、イルミとリリスが他の兄弟ほど仲良くしていないことはキキョウだって知っていただろう。実際二人は敵対していたも同然だし、いくら結婚相手に理想がないとはいえ、年齢だけであてがわれてはたまったものではない。しかしキルアの口から改めて自分が嫌われていたことを突き付けられると、なぜだか面白くない気持ちになった。

 胸の中でもやもやと燻ぶるものの存在に戸惑い、いつもほどキルアに対して強く出る余裕がない。その異変は明らかにキルアを調子づかせたようだった。

 

「ていうか、前に言ってたリリスを殺したってどういうことだよ?まさか兄貴がしくじったのか?」

 

 しかし、調子に乗ると言っても触れた話題が悪かった。キルアにはまだ念のことを教えるつもりはないし、依頼ではなかったにしろ、暗殺失敗なんてイルミのプライド的に許せない。暗殺家業は機を見る商売であるから一度で殺せなくても気にはしないが、生かしたままにしておくというのもどうなのだろう。タネがわかった今となっては、リリスを殺すのは容易い。前回こそうまく逃げられたが、ゾルディック家から一生逃げ回るなんて不可能だ。

 

「殺したって言ったのは言葉の綾だよ。でも、そうか。キルはオレにリリスを殺してほしいんだ?」

「は!?そんなわけねぇだろ!」

 

 途端に顔色を変えたキルアは手に持っていたコントローラを強く握りしめる。その様子を見て、イルミは少し落ち着きを取り戻した。そうだ、それでいい。

 

「やめろよ、仕事でもないのに殺す必要ないだろ」

「そうかな、あの女はキルの反抗の責任を取るって言ってたよね」

「……リリスを殺したら、俺は兄貴を絶対許さないぜ」

 

 向けられた瞳はぞっとするほど暗殺者らしいほの暗さを湛えていて、イルミが見たかったのはそういう顔だと思った。たとえ自分に向けられた殺気でも、弟の成長は喜ばしい。

 もっともイルミは母と違って、反抗という形での成長まで喜んでやる気はこれっぽちもなかったが。

 

「脅しのつもりかい?逆だよ、キル。リリスを殺されたくなかったらオレの言うことを聞いておいたほうがいい。わかるね?」

 

 威圧するように言えば、キルアは今度こそ黙り込む。思いがけないリリスの利用法に気付いてしまったイルミは、すうっと目を細めた。

 

 本当ならこのままリリスは捨て置いてもよかった。自分に向けられていた謎の敵意も気になるし、唯一殺し損ねたという点において引っかかりは残るものの、いつまでも仕事と家族以外にかまけているほどイルミは暇ではない。

 

 しかし、キルアを懐柔するにあたって人質として使えるなら、リリスの価値はまだ失われていないと言えた。念も弱点もわかった今となってはうちに呼んでも大した脅威ではないし、これまで通りキキョウの相手を――こちらは最近、リリスの件で気味が悪いくらいに落ち込んでいるのだが――してくれるのなら、イルミも面倒な愚痴や長話から解放されるので非常に助かる。

 

「ははは、なにもオレは意地悪で言ってるんじゃないよ。キルがいい子にしてたらリリスに会わせてあげる」

「……どういう意味だよ」

「どういう意味も何も、キルもオレ相手のほうが妥当だと思ってたんだろ?」

 

 まさか、という顔をするキルアにそのまさかだよ、と内心で笑う。リリスが嫌がったところで関係ない。むしろ理由はわからないがあれだけ嫌っていた男と結婚させられるとなったら、今度こそあのすました顔を絶望でゆがめてやれるかもしれない。

 悔しいが今回の件ではリリスにやられっぱなしだった。あてつけ、という意味ではイルミの動機もキルアのそれと大差がないだろう。

 それでも――

 

「リリスを連れてきてあげるよ、オレの婚約者として」

 

 キルアの行動を縛れて、さらにあの女の嫌がる顔が見れるなら、なかなかどうして悪くない案だと思った。

 



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17.婚前契約

「おはよう、随分とよく眠ってたね」

 

 もぞり、とベッドの中の彼女が身じろぎをしたので、イルミは当たり前のように声をかける。勝手に拝借したカップで珈琲を嗜みつつ、壁掛けの時計に目をやれば時刻は朝の6時だ。世間一般で言えばむしろ早起きの部類だが、深夜の仕事終わりにリリスの家を訪れたイルミからするとかなり長く待たされたように感じる。別に起こしても良かったのだが、あれだけ上手くイルミの捜索をかわした彼女が無防備に寝こけているのを見て、すっかり拍子抜けしてしまったのだ。

 

 確かに窓やドアには神経質なほどに鍵がかけられていたものの、イルミからすればこんなものはなんの防犯にもなりはしない。どういうつもりか内側からドアノブにぐるぐると鎖が巻き付けられていたが、これもどちらかと言えばリリスが不便なのではないかと思ったくらいだ。

 

 結果、そんなこんなで簡単にリリスの部屋に侵入を果たしたが、今回の目的は彼女を殺すことではない。イルミとしてはリリスが起きる前に色々やってしまいたいこともあったし、せめてもの優しさで彼女が目覚めるまで待っていたという次第である。

 

「……は?」

 

 しかし半身を起こした彼女はまだうまく状況を理解できないのか、その一言を発したっきり、イルミのほうを見て固まってしまう。そうやって間抜けな顔をしていると、女というよりまだ少女と表現したほうが似合って見えた。

 

「……は?なんで……え?」

 

 たっぷり一分以上はそうしていただろうか。彼女はようやく起動すると、今更のように飛び上がってベッドの上に立ち上がる。すぐに動けるような姿勢をとっているのは褒めてもいいが、裸足で丸腰という、相手がイルミでなくてもなんとも心もとない状況だ。

 

「……私を殺しに来たんですか?」

 

 リリスは目の前にいる男が誰かを理解すると、ほとんど断定的な口調で物騒なことを言った。

 

「ううん、今のところそのつもりはないから安心して」

「じゃあ今更何の用です?私はもうあの家に関わるつもりは、」

「そのことなんだけどさ」

 

 イルミは涼しい顔で、珈琲を最後まで飲み切る。いつもと違ってソーサーがないせいか、カップを置くとコトン、と木の音が響いた。それをなんだか長閑だな、と思ってしまうくらいには、イルミはとても機嫌がよかった。

 

「リリスにはオレの婚約者になってもらうから」

 

 さて、一体彼女がどんな顔をするのか、これが楽しみで朝まで待っていた。動揺、驚愕、拒絶、そのあたりの反応は想定内だからこそ、こちらも既に手を打ってある。

 肝心なのはその後だ。どうあがいても逃げられないとなったときの彼女の絶望や屈辱の表情を想像すると、腹の奥底から薄暗い喜悦が込み上げた。

 同時に、自分はこんなに根に持つタイプだったのか、と自身で一番驚いてもいる。

 

「……はい?」

 

 イルミの発言に、彼女は起きたときとほぼ全く同じトーンと表情で固まった。「意味がわからないんですが……なにこれ、夢?」本当に頬をつねって確認する馬鹿を、イルミは初めて見た。得体のしれない不気味な女という印象は、残念ながらもはや見る影もない。

 

「夢って、深層心理の現れらしいよ」

「……じゃあこれ現実?頭でも打ちましたか?」

「現実だし、頭なんか打ってないし、オレは真面目に話してる。いいから左手、見てみなって」

 

 混乱の最中にあるためか、彼女は言われた通り素直に視線をやる。そうして自分の薬指に光るリングを発見し、声にならない悲鳴を上げた。

 

「なっ!なにこれ!?は、外れない!?」

 

 銀色の輝きを放つそれは、邪魔にならない程度のダイヤがついた、ごくごくシンプルなエンゲージメントリングだ。しかしそのリングの裏側には互いの名前ではなく、神字がびっしりと彫り込まれている。

 

「それはオレじゃないと外せないし、無理に外そうとするのもやめておいたほうがいいよ」

「どういうつもり!?っつ!!」

「あと、垂れ流す分にはともかく、念も使わないほうがいいよ。一定量のオーラを纏えば激痛が走るし、さらに発ほど高密度までオーラを高めればその指輪は爆発する。もちろん、指を切り落としたりしても同じね」

 

 痛みに思わず膝をついた彼女の額には、じわりと脂汗が浮かんでいた。

 神字の製作者はイルミだったが実際に試したわけではなかったので、結構効果あるんだなと他人事のように考える。神字のことについては一通り学んでいたものの、あくまで補助的な要素が強く、手間もかかるし、操作系で刺せば終わりのイルミが使ったのは初めてだった。しかしリリスが屈辱を味わう姿が見たかったイルミとしては、精神ごと操作してしまう針よりも、多少手間はかかるが肉体のみの支配である神字のほうが都合がよかったのだ。

 

「大事にしてね、それ作るの一か月くらいかかったんだからさ」

「っ、誰がこんな!!そもそもどうして婚約なんて!あんなに私のこと嫌ってたじゃないですか!!」

 

 嫌っていたのはそっちだろ、という言葉が喉元まで出かかったが、イルミは代わりに別のことを言った。「別に悪い話じゃないだろ、リリスだってあんなにうちに来たがってたんだし。婚約者になればさすがにオレも文句言わないよ」リリスはまだ痛むのか薬指を握りしめ、今度こそはっきりとした敵意をもってこちらを睨みつけてきた。

 

「キキョウさんにでも、泣きつかれたんですか」

「惜しいね。でも母さんに頼まれただけで婚約するほど誰でもいいわけじゃないよ。お前には責任を取ってもらおうと思ってね」

「……まさか、キルアのことで?」

「そう。お前のせいでキルが反抗的になってこっちは困ってるんだよ。リリスがいればキルも大人しくせざるをえないでしょ?」

 

 要は婚約者とは名ばかりの、ていのいい人質だ。リリスもそれがわかったのか、苦々し気に眉をしかめる。しかし彼女にはどうしようもないはずだ。念を発動して身体を使い捨てにしないところみるに、今現在の彼女は“本体”であるようだし、ただでさえ力の差があるのに念無しでは逃げることもままならないだろう。

 

 イルミはさらに追い打ちをかけるよう、自身の左手も掲げて見せる。そこにはリリスの物とは違い、石のついていないシンプルなリングが光っていた。

 

「そうだ、そのリングは対になっていてね。オレの意思でリリスに罰を与えることもできるんだ」

 

 デモンストレーションとばかりにイルミが指輪にオーラを込めれば、彼女は声こそ出さなかったものの苦痛にもだえる。それでも、こんな圧倒的不利な状況でも、その瞳に浮かぶのが恐怖でなく怒りであるのがとてもリリスらしいと感じた。

 

「ま、そういうわけだからリリスにはオレと一緒に来てもらうよ。

 あ、そうそう、このことは二人だけの秘密だから母さんたちの前では話を合わせてね。

 もしどうしても演技なんかできないっていうなら、針でサポートしてあげるけど」

「……キルアに家を継ぐって言わせたら私は解放されるんですか」

「そうだね。でも、もちろんキルが本心から言うようじゃなくちゃいけないよ。リリスが解放される条件はひとつ、キルを立派な暗殺者にすること。もしくは、」

 

 ――死が二人を別つまで

 

「オレかおまえか、どっちかが死ねば解除される。

 攻守交替といこうじゃないか、ね、リリス」

 

 そうだ、その顔が見たかった。

 今回向けられる敵意は理由が明確すぎるほど明確で、逆に清々しいぐらいである。

 イルミは久しぶりに心から愉快な気分になったが、残念ながら家族ではないリリスにその機嫌が伝わることはないのだった。



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18.罪悪の枷

 

 宣言、というのは、それなりに自信がある者がすることだ。

 その自信が何の根拠もない全能感ゆえなのか、それとも、あと数手で王手をかけられるところまで詰めた結果なのかは個人の性格によるが、少なくとも兄イルミは勝ち目のない勝負事はしないはずである。

 

 つまり、彼が”リリスを婚約者として連れてくる”とキルアに向かって宣言した時点で、きっともう彼の頭の中にはどのようにしてリリスを捕らえるのか、ある程度計画がなされていたのだろう。

 

 キルアはここ最近ずっと、酷く恐ろしかった。

 あの兄がまともにリリスに謝って、ごく普通の恋人として交際を申し込む姿など想像もできなかったからだ。

 

 しかし恐れていた日は、とうとうやってきてしまったようだった。

 

 

「失礼します、キルア様。お休みのところ申し訳ないのですが、キキョウ様から大至急リビングに来られるように言い使っております」

「……わかった」

 

 今日も一日長い訓練が終わって、ようやくほっと一息ついたところだ。いつもならうぜぇなぁ、と思うだけのキルアであったが、嫌な予感に一段と足取りは重くなる。

 

 たいてい過保護な母は、何かあれば呼んでもないのに向こうから飛んでくるのだ。だからこうしてキルアのほうが呼び出されるのは珍しいし、リビングに向かう途中で、執事がミルキの部屋にも声をかけているのを見た。何かと監視されている自分ならともかくも、普段放任されて好き勝手やっているミルキまでもが呼ばれるなんてやっぱり妙でしかない。

 そしてその予感を裏付けるように、向かったリビングには家族の物でない気配が一つあった。

 

「あらぁ!キル、遅かったわねぇ!!でもまぁいいわ!きっとあなたも思ってもみなかったでしょうし!!」

「……」

「久しぶり、キルア」

 

 おほほほ、と上機嫌に笑うキキョウとカルトの前にいるのは、ずっと会いたいと思っていたリリスだった。まるで何事もなかったみたいに、今まで通りの笑顔と挨拶を向けてくる。しかし今までと決定的に違うのは、そのリリスの隣に、当然の顔をして兄イルミが立っているということだった。

 

「どうしたんだい、キル。挨拶もしないで」

「……別に、もう来ねぇのかと思ってたから」

 

 前に尋ねたとき、母は確かにそう言っていたし、実際目に見えて落ち込んでいた。現にリリスがここを訪れたのも三か月ぶりで、キルアの感想に偽りはない。

 

「ごめんね」

 

 リリスは困ったように眉を下げたが、特にそれ以上の説明も弁解もしなかった。どうして何も言わずに去ったのか、あの日両親とイルミとの間でどんなやり取りがあったのか、何一つ説明しようとはしなかった。

 

「ええ、私もそう思っていたのだけれど、イルミが説得してくれたみたいなのよ!!しかも、聞いて頂戴!!リリスさんはただ遊びに来てくださったんじゃなくって、」

 

「オレたち、婚約したんだ。だから今日はその報告」

 

 キキョウの言葉を引き継いだイルミは、いつも通りの淡々とした調子で告げる。「えっ!?」その流れを想像していたキルアは何も言わなかったが、ちょうど遅れてやってきたミルキが後ろで驚愕の声を上げた。

 

「やぁ、ミル。いいタイミングだね」

「……い、今の話、マジかよ?」

「そうだけど、なにをそんなに驚くことがあるの?オレとリリスが結婚するのはおかしい?」

 

 こてん、と首を傾げる兄だが、はっきり言っておかしい以外の何物でもない。リリスもイルミも、お互いのことを良く思っていなかったはずだ。「い、いや……そういうわけじゃねぇけど、兄貴は結婚とかまだ興味なさそうだったからさぁ……はは」引きつり笑いを浮かべたミルキは、ちらりとキルアに視線を向ける。

 

 ――どういうことだよ。

 

 その視線ははっきりとそう問いかけていたが、キルアは説明する術を持たなかった。少なくともこの場で兄に脅されたことを告発するわけにはいかない。リリスを殺されたくなかったら大人しくしていろ、というのがイルミの言葉だったのだから。

 

「そうだね。オレもまだ結婚は早いと思ってたよ。そもそも初めは、リリスがオレ達を狙っている刺客かもしれないって思ってたし」

「そうねぇ、イルったらリリスさんのことを疑っていたものねぇ」

「うん。でも、誤解が解けてよく話すようになったら、皆がリリスのことを気に入ってた理由がよくわかったよ」

 

 それはあまりにも白々しい嘘だったが、キキョウは少しも気づかないでリリスが戻ってきてくれたこと、しかもイルミの婚約者としてやってきたことに大喜びしている。肝心のリリスを気に入った”理由”には触れていないのに、いきなり婚約だなんて妙だとは思わないのか。しかし何も知らないカルトもまた、嬉しそうに顔を綻ばせていた。

 

「リリスが姉さまになるの?」

「いずれね」

 

 まだ幼い弟に向かって平然と嘘をつく兄の姿に虫唾が走る。ミルキも同じように思っているのか、横目で見た彼は複雑な表情を浮かべていた。

 

「おほほ!!でもよかったわぁ!!予想外の形だったけれどリリスさんが我が家に来てくださるのは嬉しいことですもの!お義父様やパパが帰ってきたらお祝いしましょうね!」

 

「リリスを盗っちゃうみたいでごめんね、キル。でもリリスが義姉になるなら、キルも嬉しいだろ?」

 

 不意に、黙っていたキルアに水が向けられてハッとする。「あぁ……」元の二人を知っているだけにおかしいとは思いつつも、正直、自分との婚約話が出た時と違って明るい表情のリリスに内心傷ついてもいた。脅されているのかもしれないが、それにしてはごくごく自然に見える。揃いのリングまでして、女性である彼女のほうはともかく、イルミまで装飾品をつけるとは意外だった。

 

 もしかして、兄貴はリリスを脅したのではなく、騙したのか?

 

 どうせ元から母に結婚をせっつかれていたし、この兄ならこのまま人質兼、妻として一石二鳥だと考えるかもしれない。それならばこの先の関係を考えて脅すよりも騙したほうが楽だし、この婚約はリリス視点では幸せなものである可能性が高い。

 

 外面の良い兄が上手いこと言いくるめて彼女をモノにした。そう考えたほうがリリスの笑顔にも納得がいく。

 

 しかしそれはそれでやっぱりリリスが心配だった。

 前の食事の席でキルアの反抗の責任をとるといった彼女だが、現状、責任を感じているのはキルアのほうである。リリスと出会わなくても、キルアの中には暗殺家業に対する不満が確かにあったし、それだって突き詰めると家業の内容ではなくレールの敷かれた人生に対する不満だ。遅かれ早かれ、この不満は爆発していただろうし、となるとキルアがリリスを“巻き込んでしまった”と表現するほうが正しい。

 

 自分のせいでリリスが兄に目をつけられたのだとしたら、彼女が偽りの愛の言葉に騙されて人生を棒に振ろうとしているのなら、キルアはいくら謝っても足りないくらいである。

 

 しかしながらこうした責任感や罪悪感も、キルアをゾルディック家に縛るには効果的だった。自分のせいで愛のない結婚をするかもしれないリリスを置いて家を出ていけるほど、キルアは自分勝手でもなければ冷血でもない。イルミの策はまさしく、キルアの性格を知り尽くしたうえでのものだった。

 

「いつ式をあげるとかは考えているのかしら??」

「うーん、オレも今仕事が立て込んでるからね。落ち着くまで、リリスには待ってもらわないといけないかな」

「まぁそうなの!!じゃあその間たっぷりドレスを選びましょう?せっかくの晴れ舞台ですもの!!あぁ、そうだわ!リリスさんのお部屋も用意しなくっちゃ!!」

 

 母の主導であれよあれよという間に事が進んでいく。確かに元々うちの家族はリリスを気に入っていたし、唯一難色を示していたイルミが受け入れたのなら、誰も文句はないだろう。

 キルアだって、もしリリスが自分の婚約者として家族に受け入れられたなら素直に嬉しかった。もし、イルミの宣言を聞いていなかったら、思わぬ展開に驚きつつも祝福したかもしれない。

 

「……待てよ、本当にこれでいいのかよ、リリス」

 

 耐えきれずに漏れた自分の言葉に、これではまるで祝いの席に水を差す邪魔者みたいだと思った。実際、何も知らないカルトはびっくりしたようにこちらを見ているし、キキョウは今更キルアの存在を思い出したようにまあまあと口に手を当てる。確かに簡潔に状況を表すなら、キルアは兄に婚約者を奪われた形になる。たとえ恋愛感情ではなかったとしてもリリスと仲が良かったことはみんなに知られているし、キルアが反対したところで他愛ない嫉妬と思われ、せいぜい慰められて終わりだろう。

 

 リリスはキルアの問いに困ったように眉尻を下げてほほ笑んだ。「むしろ、私なんかが姉になってごめんね」答えになっていないような気がしたが、彼女の笑顔はやっぱり自然だった。キルアとの婚約話が持ち上がった時は、ひたすら浮かない表情で固辞していたというのに。

 

「……そうかよ」

 

 リリスはきっと騙されてるんだ。

 冷静な自分がそう囁いたが、もっと冷静な自分がみっともないぞとあざ笑う。たとえ騙されているのだとしても、リリスはイルミを選んだということだ。キルアとの婚約は嫌がったくせに、あれだけ敵視されていたくせに、イルミならいいと言うのだ。

 

 そう考えると、キルアはそれ以上何も言えなかった。本当なら二人きりの時にでも、もう一度リリスの気持ちを確認したほうがいいのかもしれない。あんな男やめておけ、とイルミの本心を告げてやったほうがいいのかもしれない。

 

 だが、もしもう一度二人きりの時に問い詰めて、本気で好きなのだと言われたらと思うと気が進まなかった。真実を告げることは悪戯に彼女を傷つけるだけだろうし、最悪キルアが余計なことをしたと彼女に危害が及ぶかもしれない。仮に彼女が無事だったとしても、イルミはもうリリスを手放さないだろう。そうなれば仮面夫婦決定だ。知らないほうがいいこともある。

 

 しかし、これだけ心の中で様々な言い訳をしながらも、キルアは自分が行動を起こしたがらない一番の理由をわかっていた。

 リリスに心を開いていたからこそ、あっさりと兄貴とくっついたのが衝撃だったのだ。たとえ自分が彼女に恋愛対象として見られていなかったとしても、キルアがイルミを苦手としていたことくらいは知っていたはずだ。それなのに、出ていくときも戻ってくるときもリリスは何の相談もない。

 

 友達だと思っていたのはキルアのほうだけだったのか。

 

「……おめでと」

 

 肉体の痛みにはいくらでも耐えられるのに、心の痛みがこんなにつらいなんて知らなかった。

 



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19.潜在的感情

 

 一瞬、どこかのホテルかと見紛うような内装の部屋は、ゾルディック家私用船の一室だった。そこでもうすぐ目的地だからと針の最終チェックに勤しんでいるイルミを見ながら、ヒソカもまたそのうちトランプを補充しないとなぁと俗っぽい思考を働かせる。

 

 ヒソカが今ここにいるのは、いつものように突然電話がかかってきて、暇でしょと決めつけられたからだった。実際、天空闘技場で青い果実探しをしていたくらいで特に忙しくなかったため、そのままパドキアからべゲロセ連合国へと向かうイルミの船に拾われた形となっている。

 もし、実家と仕事先の直線上にヒソカがいなければ、彼がヒソカを誘ったかどうかも怪しい。が、少なくとも着信拒否を解除するくらいには機嫌も直ったのだろうと思われた。

 

「そういえばさぁ、」

 

 リリスの件はどうなったのか。

 世間話のついでに聞き出そうとしたヒソカは、ふと彼の左手に見慣れないリングが嵌められているのを発見する。

 

「なに?」

「……」

「話しかけておいて、黙るのやめてくれる?」

 

 ヒソカの声掛けに手を止めたイルミは顔を上げ、僅かに眉を寄せる。聞こうと思っていたことよりさらに気になる事柄を見つけてフリーズしたヒソカだったが、すぐに衝撃から復帰して質問内容を変えることにした。

 

「キミ、しばらく会わないうちに結婚したのかい?」

 

 ヒソカは自分で、身だしなみやお洒落に頓着があるほうだと思っている。だからもっと早くに気が付いても良かったのだが、イルミと結婚という単語が結びつかなかったのだ。しかも彼のことだからおそらく政略結婚。まさか律儀に指輪をするなんて、思いもよらなかった。

 

「あぁこれ?違うよ、まだ婚約の段階」

 

 イルミはヒソカの視線の先を追うと、なぜか呆れたように息を吐く。どうでもいい話だと言わんばかりに、再び針のチェックを始めた。

 

「わざわざ婚約指輪までするんだ」

 

 もしかしたらヒソカが知らないだけで、良家では男側も嵌めるのだろうか。そもそも結婚に対する一般的な常識を持ち合わせているかどうか自信がないヒソカには判断しかねる。しかし、「相手は暗殺一家のお嬢さん?」そう尋ねた瞬間、イルミは面白いことを聞いたみたいに数度瞬きをした。

 

「あぁ、そうだね。ヒソカにはまだ言ってなかったか」

「うん」

「相手はリリスだよ」

「は……?リリスって、あのリリスかい?」

「そう」

「……キミ、殺そうとしてたよね?」

 

 記憶の限りでは、リリスのほうもイルミを嫌っていたはずだ。まぁこちらは命を狙われていたので無理もないが、そこから二人が婚約というのは飛躍も飛躍。一瞬、全部イルミの妄想なんじゃないかとそら恐ろしくなったくらいだ。

 

「そーだよ。それが何か?」

 

 そして、ヒソカの疑念を強めるようにあっさりと肯定してみせたイルミは、馬鹿にしたように鼻を鳴らす。「別に好きじゃないと結婚できないってわけでもないだろ」それはまるで夢見る乙女に現実を突きつけてやらんとするような物言いだった。

 

「でもあれだけ警戒してたじゃないか」

「それはもう解決したんだ。あの女は確かに母さんの知人の娘だったし、能力も危険がないと判断できた。今はキルアのやる気を出させるのに、一役買ってもらってるよ」

 

 どうやらイルミの中でリリスの問題は終わったようで、それどころかむしろ、今は彼女に利用価値を見出しているらしかった。好きじゃなくても結婚できる、という意見に対して反論する気はないものの、果たしてリリスのほうもそう思っているかどうかは怪しい。

 

 確かにゾルディック家の富や遺伝子は魅力的だろうが、彼女と会った印象ではそういうものに対する野望は一切感じられなかった。彼女のイルミに対する敵意はあからさまだったので、今更玉の輿に乗れるからと言って結婚を了承するようには思えない。「さてはキミ、脅したんだろう?」他の人間に言えばとんでもなく失礼な台詞だったが、イルミならば問題ない。その証拠に彼は少しも悪びれることなく「あーバレた?」と肩を竦めた。

 

「流石に命が惜しいみたいで、よく言うこと聞いてくれるよ。お陰で母さんも、オレ達が相思相愛だってすっかり信じてる。キルはリリスが本気かどうか疑ってるみたいだけど、リリスが"人質"になり得ることは理解してるみたいだしね」

「結局"入れ替わり"なんだっけ?彼女の念。よくそんな念能力者を手元に繋いでおけるね。もしかして、その指輪に秘密があったりするのかい?」

「ま、タネがわかれば、こっちも色々やりようはあるから」

 

 そう言ったっきり、イルミは黙って針を片付け始めた。話は終わったとばかりの雰囲気だが、こっちは肝心なところがわからないままで消化不良だ。

 

「……教えてくれないのかい?」

「何を?」

「リリスの念とか、その指輪のこととか。ボクだって少しは協力しただろう?」

 

 そもそも初めに協力要請してきたのはイルミの方で、その頃は推測混じりとはいえリリスの念についても情報共有されていた。現にヒソカは3日だけでも死体を見張って彼女の念が"蘇生"でないことまで確かめている。

 しかしイルミは金さえ払えば後腐れないと思っているのか、ヒソカの言葉をまた鼻で笑った。

 

「他人にそう易々と手札を晒すわけないでしょ。リリスは今後うちの人間になる可能性が高いんだし」

「……」

 

 可能性が高い、とは言ったものの、イルミのそれはもはや確定事項のような口ぶりだった。彼のことだから利害関係ありきの割り切った政略結婚くらいはしそうだと思っていたが、まさか嫌われている相手を脅しつけてまで結婚しようとするとは。

 

 いくら母親が歓迎し、弟に対する人質として使えるとしても、自分のことを恨み、隙あらば害をなすか逃げ出すかもしれない人間を生涯の伴侶にするのは厳しい。他人に殺気を向けられて喜ぶようなヒソカでさえも、毎日となるとそんな気の休まらない家には帰りたくないと思った。

 

「脅さずに普通に口説けばよかったのに」

 

 彼女は別にゾルディック家自体に恨みがあるわけでは無いのだ。イルミとは敵対していたが、それはイルミが命を狙ったり、今みたいに脅しつけて言うことを聞かせようとするからだろう。人質としての利用は何も本人に知らせる必要はない。仕事でならハニートラップもやってのけるのだし、今回もそうやってリリスを篭絡すればよかった。

 

 けれどもイルミは首を振り、さらさらと長い髪を靡かせる。

 

「無理だよ、リリスはオレのことがものすごく嫌いみたいだからね」

「だからって脅したりなんかしたら余計だろう?実情は人質とはいえ、ほんと家族にする気があるなら、一旦謝って関係を築きなおしたほうが楽だと思うけど」

「だから無理だって。オレの行動に関係なく、リリスはオレが嫌いなんだよ」

「どうして?」

「さあね。オレにわかるわけないだろ。確かなのは初対面の、まだ何もしないうちから敵意を向けられてたってことだけ」

「そんなことってあるのかなぁ……」

 

 自らゾルディック家を訪れる人間が人殺しに対する偏見なんてあるはずもないし、それを言うならイルミ以外の家族も全員嫌悪するはずだろう。女性特有の“生理的に受け付けない”という線も、イルミの容姿でそこまで毛嫌いされるかというと微妙である。

 

 良くも悪くも、イルミの第一印象は淡白で無味乾燥な男だ。なんの味もしない水を大好物として挙げる人間はいないだろうが、同じく大嫌いなものとしても挙げないだろう。深く付き合っていけば無味だなんて思った自分がどうかしていたと思うくらい、あくが強くていつまでも喉に残るような男だが、少なくとも第一印象は問題ないはずである。

 

「そう言われてもね。あるものはあるんだから仕方ないでしょ」

 

 イルミはうんざりしたようにそう吐き捨てたが、仕方ないと言う割にはいつもほどあっけらかんとした雰囲気ではない。

 

「そんなお先真っ暗な結婚するの、やめといたほうがいいんじゃないかい?」

「いいんだよ、別に好かれたいとも思ってないし。べたべたされるよりよっぽどマシだ」

 

 その様子は、ヒソカから見ると意地になってるようにしか見えなかった。だから、もしかして、と思った疑問をストレートにぶつけてみる。

 

「逆にキミはリリスのことどう思ってるんだい?」

「嫌いだよ」

 

 即答だった。

 まるで彼女に嫌われているのだから、自分もそうでなくてはいけないと思っているかのような強い否定だ。「だから、オレに従わざるを得ないリリスを見ると気分がいいね」イルミは彼女の屈辱の表情でも思い浮かべたのか、薄く笑う。

 

「へぇ……災難だねぇ、リリスも」

 

 ――キミも。

 

 万感の思いを込めてヒソカは大きく頷く。好きだろうが嫌いだろうが、家族以外に感情を揺さぶられている時点でいつものイルミらしくないのに、彼は自分でそのことに気が付いていないのだ。

 

 しかし、親切にもそのことを指摘してやる義理はヒソカにはない。相手がこの期に及んで情報を出し惜しみするような男なので尚更だ。

 

 そうして二人の話が途切れたころ、ちょうど飛行船は着陸態勢に入ったようだった。



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20.嫌よ嫌よも嫌がらせ

 

 仕事が立て込んでいる、というのは何も結婚を先送りにするためだけの嘘ではなかった。

 リリスが家に来るようになってからは対策と捜索に時間を割いていたし、いざ婚約者として迎える準備にもそれなりに手間と時間が掛かっている。いい加減、仕事が溜まりに溜まっているということだ。

 

 そのためリリスを家族の前で紹介してから、イルミはほとんど家を留守にしていた。もっともその間、世話好きな母親がはりきってリリスの生活を整えていたので、彼女の部屋は問題なくイルミの隣に用意されている。

 留守中の彼女の様子は、ミルキに命じて全て連絡させていた。お陰でイルミの知らないことは何もないし、彼女の考えもおおよそだが読めている。

 

 私用船を降り、久しぶりに我が家に帰ってきたイルミは、この際だから少し忠告しておくかと考えた。そしてそのままリリスの部屋ではなく、屋敷の北側にある図書室へと足を進める。

 ミルキの話では、ここ最近リリスは一人の時間を持つと決まって必ず図書室に向かうらしい。花嫁修業と称してキキョウにあちこち連れまわされるのでそう多くはない時間だが、なにやら熱心に調べ物をしているようなのだ。

 

 音もなく扉を開けたイルミは埃っぽい図書室の空気を吸い込む代わりに、そこにいた彼女の名前を呼んだ。

 

「やぁ、リリス。随分と勉強熱心なんだね」

 

 声をかけられてびくりと肩を跳ねさせた彼女は、ゆっくりとこちらを振り返る。その表情から突然の声掛けに驚いただけではなく、何か疚しいことがあるのは明白だった。

 

「……えぇ、まぁ。私には学がありませんから。花嫁修業の一環ですよ」

「へぇ、意外だな。リリスがオレとの結婚に、そんなに乗り気だったなんてね」

「……」

「どう?それで、神字については何かわかった?」

 

 腕を組み、後ろの扉にもたれかかるようにして尋ねれば、リリスは悔しそうな表情になる。それがものすごく気持ちよかった。攻守交代とは言ったものの、リリスがイルミに勝てるわけがない。解放されたければ自分を殺してみろと焚きつけたが、そんなことが無理なのは初めからわかったうえで言っていた。リリスの嫌がる顔を見るのが、楽しくて仕方がなかったのだ。

 

「相変わらず、どうしようもないほど性格が悪いですね」

「どうだろう。お互い様じゃないかな。リリスだって、オレを出し抜こうとしてたんでしょ?」

 

 そもそもの実力差があるうえに念も使えないとなっては、彼女が指輪の解除を優先するのも無理からぬ話だ。しかし、付け焼刃の知識でどうにかできるほど、神字というのは簡単なものではない。

 イルミも実際に作ってみて、できればもう二度とやりたくないと思っていた。オーラをスイッチに効果を起動、というだけなら簡単だが、そこへ細かな設定を追加すると途端に組み込む文字とデザインが複雑化する。効果の加減も難しいし、さくっと殺して次々行きたいイルミとしては、今後仕事に取り入れるメリットもないだろう。

 

 イルミの指摘にリリスは返事をしなかったが、どうやら開き直ったらしい。こちらの存在を無視して、元のように本へ視線を落とした。

 

「ところで、前から気になってたんだけど、いい加減その敬語もやめない?名前も呼び捨てでいい。婚約者なのに不自然だよ」

「……婚約者でも、ご両親の前でのさん付けはむしろ普通だと思いますが」

「キル達には砕けた口調なんだから、今更それは道理が通らないね」

「……」

 

 リリスは相変わらず都合が悪くなると返事をしない。だが、別にそれはどうでもよかった。そうやって彼女を黙らせてやりこめているだけでも、婚約以前は考えられなかったことだ。言い返したいだろうに言い返せない、という状況は彼女にとってかなりのストレスだろう。

 

「そうだ、これから簡単に食事をとろうと思ってるんだけど、リリスも来なよ」

 

 イルミは更に自分勝手に話を進めると、近づいて彼女の読んでいた本を無理矢理閉じた。

 

「……私は遠慮させていただきます」

 

 敬語を使うなという話は、早速無かったことにされているらしい。他の家族の前では仲良く振舞わなければならないので、リリスは特にイルミが含まれた家族団らんの場を嫌がった。

 しかし嫌がるからこその提案である。本を取り戻そうした彼女の手を掴み、イルミはこれ見よがしに指輪を撫でて見せた。

 

「言い方が悪かったのかな、これはお誘いじゃないよ」

 

 命令だ、と圧をかければ、彼女の身体に緊張が走るのが手に取るようにわかる。デモンストレーションのときに味わった苦痛を、彼女はまだちゃんと覚えているらしい。

 

「……わかった」

 

 しかし、頷いて席を立った彼女はその態度ほど素直な瞳をしていなかった。恐怖と嫌悪を色濃く宿しながら、それでもやっぱりイルミに対する憎しみが失われてはいない。それを見ていると愉快な気持ちになってしまうのは、我ながらどうかしているとしか思えなかった。

 

 

 ▲▽

 

 

 正直な話、リリスの本心を確認するチャンスは今まで腐るほどあった。

 一番の障壁である兄はずっと仕事で各地を飛び回っていたし、親父にも認められたリリスは、もう正式な婚約者としてゾルディック家に部屋を与えられている。これまでのようにいつ来るかわからない彼女の訪問を待って、数時間で帰ってしまう彼女に時間を合わせる必要は全くなかったのだ。

 

 しかし、キルアはそうした状況下にあっても、結局リリスの気持ちを確かめられずにいた。それどころかむしろ、前のように彼女にべったりくっついて時を過ごすこともなく、距離を置いて生活しているくらいだ。

 それを勝手な執事たちは、イルミ様にリリス様を取られて拗ねてらっしゃるのだとか、逆に義姉として認めたからこそ、節度を持った対応をされているのだとか好き勝手に言っている。誰もキルアの本当の気持ちをわかろうとはしないし、キキョウやカルトが兄の祝い事にはしゃげばはしゃぐほど、それに馴染めないキルアは孤立を深めていた。

 

 

「おい、キル。ちょうどいいところに。お前もちょっとつき合えよ」

「は?なんだよ、豚くんが部屋から出てるなんて珍しいじゃん」

 

 自主訓練を終えて部屋に戻る途中の廊下で、ミルキが巨体を揺らしながら近づいてくる。ほんのちょっと走っただけなのに次兄は荒い息を吐いていて、なんでこいつの体型が許されてるんだろう、と今更な疑問をぼんやり抱いた。

 

「イル兄が帰ってきたんだよ。で、ご飯食べるから付き合えって」

「それを聞いて誰が行くかよ。だいたい帰ってきたばっかのイル兄はともかく、俺たちはさっき飯食っただろ」

「夕食はな、夜食はまだだろ!俺だっていつもは部屋で食ってるよ。でもイル兄が呼んでんだ。俺だけ呼ばれてキルが呼ばれないなんておかしいだろ!」

「意味わかんねぇ、どういう理論だよ」

「とにかくいいからお前も来いって!」

「離せよ、俺は行かねーって」

 

 純粋な戦闘では負ける気などしないが、こうした下らないやり取りだと、体格差のあるミルキを振り払うのは難しい。強引に引っ張られてよろけたキルアがそろそろ本気で抵抗するかと足に力を入れたところで、ミルキは思いもよらないことを口にした。

 

「お前だって、ホントはリリスのこと心配なんだろ!」

「……は?」

 

 思わず驚きに目を見開けば、ミルキの引っ張る力が弱まる。「……なんでそこでリリスが出てくんだよ」キルアも抵抗するのをやめ、兄のほうへと向き直った。

 

「久々のイル兄の帰宅なんだ。俺が呼ばれて、婚約者のリリスが同席しないわけないだろ」

「……あっそ、そりゃお熱いことで」

「キル、お前それ、本気で言ってんのか?

 だとしたら、女心をなに一つわかってねぇぞ」

 

 コンピュータとしか恋愛したことなさそうな兄に、女心について偉そうに語られるのは心外だ。しかし反論できるほどキルアだって女心に詳しいわけではない。そもそも恋愛なんてする余裕は、この家の子供にはないのだから。

 

「あの二人、皆の前ではそこそこ仲良く振舞ってるけど、二人のときでも嫌味なくらい敬語だし結構ピリピリしてんぞ。イル兄からも留守中リリスの監視を頼まれてたし、相思相愛なんて笑えない冗談にもほどがあるぜ」

「……どういうことだよ。じゃあなんでリリスは、」

「わかるだろ!あの兄貴のやりそうなことくらい」

「……」

 

 相手を意のままに動かすために、騙すよりも簡単な方法はいくらでもある。実際、キルアは兄にそれをやられた。

 

 ――リリスを殺されたくなかったら、オレの言うことを聞いておいたほうがいい

 

 

 リリスが何を理由に脅されているのかはわからない。しかし脅す兄のほうは容易に想像がついたため、冷たいものが背筋を走る。

 もしも、彼女が騙されているだけなら、キルアの暴露はリリスを傷つけるだけだが、脅されているのなら話は別だ。どうにかして彼女を助けなければいけない。キルアが巻き込んでしまったリリスを、このままになんかしておけない。

 

「ま、もうリリスがどうなろうが知ったこっちゃねーって言うんなら無理に誘わねぇよ。でもうざいからいつまでも俺は不幸です~みたいな顔してんな」

「はぁっ!?誰がそんな……!」

 

 反論しかけて、キルアはしていたかもしれないとぐっと押し黙った。少なくとも、自分が傷ついているということだけに目を向けて、リリスの様子に気を配る余裕がなかったのは確かだ。

 

「……わかった、俺も行くよ」

 

 行って今度こそ、リリスにちゃんと向き合おう。

 キルアはそう決心すると、見た目ほど足音のしない兄の後ろへ続くことにした。

 



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21.遠回りな感情

 

「さっきの話、冗談よね?」

 

 食堂を出て二人きりになった瞬間、珍しいことにリリスのほうが先に口を開く。扉一枚隔てた向こうに家族がいる状況で話をする気がないイルミは、彼女の問いを無視して自室のほうへ歩き始めた。

 

「ねぇ、」

「少しくらい待ちなよ」

「……」

 

 リリスは不服そうな顔をしたが、同時に不安そうでもある。

 イルミは渋々といった様子で隣を歩く彼女を一瞥すると、先ほどの食事の席での会話を思い出していた。

 

 

「おほほほ!!イルがいない間、リリスさんったらすごく頑張ってらっしゃったのよ!!自らハンデを課してうちの訓練に挑戦するだなんて、やっぱり愛の力かしら??」

「そうなんだ。オレも早くリリスに会いたかったよ」

「あらあら!!まあまあ!!」

 

 リリスに演技を強いるために、あえて食事についてはミルキにも声をかけた。キキョウのほうはおそらく呼ばなくても来るだろうとは思っていたが、一つ、キルアが参加したのだけは意外だった。別に、参加してもろくに喋ることもなくちょっとしたつまみを口にしているくらいだが、先ほどからリリスのほうをちらちらと窺っている。

 

 そして予想外にもキルアがいたせいで、キキョウはリリスが念を遣わないことについて簡単に”ハンデ”と表現した。もちろん本当はイルミの指輪で使用を制限されているのだが、そうは言えないリリスがこれも修行の一環だと嘘をついたらしい。それに乗っかる形でイルミが心にもない台詞を言ってのけると、母はそれはそれは嬉しそうにはしゃいだ。

 

「まさかイルとリリスさんがこんなにも上手くいってくれるなんて!私とっても幸せだわ!イルったらどんなにお見合いを勧めても全然見向きもしてくれないし、もしかして女性に興味がないのかしらってちょっと疑っていたくらいなのよ!!!」

「……別に、忙しかっただけだよ」

 

 思いがけず知りたくなかった母親の勘ぐりを聞かされて動揺したイルミだったが、すぐさま気を取り直してこれを利用することにする。「でも、お見合いなんてしなくてよかったよ。そのお陰でリリスとこうして一緒にいられるんだからね」こうした言動も、彼女にとってはストレスでしかないだろう。よくもそんな嘘を!と発狂しないのは流石だが、確実にリリスは苛立っている。

 

「やめてよ、恥ずかしい」

 

 無理してそうやって照れた仕草なんてしているのが、酷く滑稽だった。思わず緩みそうになる口元を意識してきゅっと引き締める。実際、この茶番に喜んでいるのはキキョウくらいのもので、弟たちは二人して遠い目になっていた。

 

「いいわねぇ、私もパパと出会った頃を思い出すわ!!!あ、そういえばあなた達はいつ籍を入れるの?式のほうの準備は完璧なんだけれど、記念日は二人で決めたいでしょう?もちろん、リリスさんの戸籍はこっちでうまく作っておくわ」

「そうだね。そろそろ仕事も片付いてきたし……いつがいい?リリス」

 

 意地悪な感情を押し殺してごくごく自然な流れで話を振ってやれば、リリスは珍しく顔を引きつらせる。これまではムカつくくらいに役者だった彼女だが、こればっかりはどうにも取り繕えなかったらしい。指輪を見せつけるように顔の前で指を組めば、ようやく「そうだね……」と震えた声を返してきた。

 

「まだ花嫁修業が終わってないから、それが終わったらにしようかな」

「それってさぁ、いつ終わるの?」

「……どうだろう。ゾルディック家の嫁としてどこへ出ても恥ずかしくないようにしたいから」

「別にどこへ出る機会もないと思うけど」

「あはは、いまどき専業主婦希望なんて流行らないよ」

 

 リリスは苦笑いをして誤魔化そうとしているようだったが、そのくせ瞳はイルミをしっかりと睨みつけている。彼女が怒っているのは明らかで、イルミはそれを綺麗に無視した。

 

「そうかな、オレはリリスに家を守ってほしいと思ってるけど」

「まあまあ!イルミが焦る気持ちもわかるけれど、リリスさんの心意気も素敵だわ!男なら妻の可愛い我儘くらい聞いてあげるものよ!!」

「まぁ母さんがそう言うなら仕方ないね」

 

 正直な話、イルミとしては結婚の時期がいつになろうとどうでもよかった。これはあくまで嫌がらせのパフォーマンスなので、リリスに苦痛を与えられればそれでいい。

 だから最後にはあっさりと引き下がって見せたのだったが、それでもリリスは随分と危機感を抱いたらしかった。

 

 

「ここまでくればもういいでしょう」

 

 いつもは絶対に来ないイルミの部屋までついてきて、許可も得ずに中に入ってくる。扉が閉まったことを確認した彼女は、さっそく話の続きとばかりに詰め寄ってきた。

 

「結婚って、まさか本気じゃないでしょうね」

 

 声量こそ抑えているものの、リリスの語気は普段に比べ荒い。敬語をやめろと言ったのはイルミだったが、そうでなくても今の彼女は”素”の態度だろう。「婚約しておいて、今更何言ってるのさ」イルミにはそれが愉快でたまらなかった。彼女のペースを乱せたことが、彼女が自分のせいで苛立っているのがたまらなくおかしかった。

 

「だって、これはキルアに後を継がせるためのお芝居で……!」

「そうは言うけどさ、じゃあリリスはキルのために何か努力したの?お前がやっていたことといえば、その指輪の解除法を探していた、それくらいだろう?

 そっちが逃げるつもりなら、こっちも手綱を締めざるを得ないよね」

 

 気まずいからか何なのか、リリスがキルアとの接触を避けているのは知っている。キルアの方も何かを感じ取っているのか、前のようにリリスにべったりつきまとうようなことはなかった。

 つまり、彼女は結局ここへ来てからろくに仕事をしていないことになる。イルミに図星を突かれたリリスはさっと頬を引きつらせた。

 

「じゃあキルアのために、好きでもない私と結婚する気?ちょっと自己犠牲が過ぎるんじゃないの?」

「どのみちオレは家の為になる相手と結婚するつもりだったからね」

 

 考えてみれば下手に後ろ盾のある暗殺一家の女をもらうより、身寄りもなく生かすも殺すもイルミ次第のリリスのほうが都合がいい。家同士の結婚というのは、結ぶのは簡単でも邪魔になった時が厄介だからだ。

 

「あなた……やっぱり頭おかしい」

 

 イルミの発言を聞いたリリスはようやく本気だとわかったらしく、先ほどまでの勢いが嘘のように後ずさりを始める。しかし、今度は逆にイルミが距離を詰め、彼女の背は扉に打ち付けられた。

 

「ああそう。じゃあその頭のおかしい奴と結婚したくなかったらせいぜい頑張るんだね」

「……」

「それともほんとは乗り気だったりするの?こうやって、のこのこ男の部屋にやって来るくらいなんだしさ」

 

 煽るようにぐいと顔を近づけて耳元で囁いてやると、間髪入れずリリスの平手が飛んでくる。それを難なく受け止めたイルミは薄く笑った。

 

「へえ、案外ウブなんだ」

「最っ低!」

「なんとでもいいなよ」

 

 元から嫌われているのは百も承知だ。これ以上嫌われたところで痛くもかゆくもない。

 リリスはイルミに掴まれた腕を振り払うと、逃げるように部屋を飛び出していく。ちょっとからかったくらいで大げさな。殺されかけても逃げなかったくせに変な女だ。

 

「さて、どうなるかな」

 

 

 ▲▽

 

 長い長い廊下を歩きながら、キルアは先程の出来事を思い返していた。

 いつも通りテンションの高い母親が話題に出した入籍の話。それ自体は兄とリリスが婚約している現状から考えて、別におかしなことではない。

 けれどもやはり、あの時のリリスの表情が引っかかる。今回初めて声も僅かながらに震えていたし、ミルキの言った通りイルミに脅されてるのではないだろうか。

 

 キルアは今更ながらに深く後悔していた。別にイルミの本心を暴露せずとも、リリスの気持ちを確かめるくらいならばもっと早くにできたことだ。それなのに勝手に一人で傷ついて、彼女のことを避けていた自分が情けない。

 もしもこれまでリリスが不本意な状況にあったのだとしたら、それをずっと無視し続けていたキルアの方がよほど友達甲斐のない人間かもしれなかった。

 

 ――殺し屋に友達なんていらない。邪魔なだけだから。

 

 何度も聞かされた兄の言葉が、嫌でも脳裏をよぎる。それを聞くたびに反発心こそ抱いたが、本当は大切な物の存在が判断を鈍らせるという主張の正しさも理解はしているのだ。だが、キルアが耐え難いと思うのは、大切な誰かのせいで自分の足が引っ張られることではない。それは自分が強くなれば、おのずと解決する問題だろう。

 それよりも本当に恐ろしいのは、

 

 ――お前に友達をつくる資格はない。必要もない。 

 

 自分が窮地に陥った時、その大切な誰かを見捨ててしまうことだ。誰かと仲良くなる資格もないほど、残酷で無機質な人間であると突き付けられることだ。

 

 結局キルアは自分が一番信用できなかった。圧倒的に不利な状況で、助けを求める大事な人の手を取れるかというと正直自信がない。それは常に勝算のある戦いを求められる暗殺者ならではの癖と言えばそうだが、キルアはそれを否定したい。

 

 自分はそんな人間じゃないと、誰かに向かって証明したかった。

 お前は殺しのための機械でないと、誰かに認めてほしかった。

 

 そしてそうやって暗殺以外でキルアを認めてくれたのは、リリスが初めてだったのだ。この家の人間はキルアの能力や才能を、ゾルディック始まって以来の逸材だと誉めそやす。けれどもキルアが欲しいのは暗殺一家の後継者としての承認ではない。ただのキルアとして、暗殺のための機械ではないただの一人の少年として、ごくごく普通に認めてほしかった。

 それはもしかすると贅沢な願いだったのかもしれないが、同時に根源的な願いでもあった。

 

 だからこそ――

 

 キルアは自分がここまでリリスを放っていた事実が許せなかった。今更もう謝っても遅いのかもしれない。話を聞いたところで自分にできることなどたかが知れているかもしれない。

 それでも今日こそはちゃんと向き合おうと思って、キルアはリリスの部屋を目指した。

 

 

「最っ低!」

 

 しかしキルアが彼女の部屋をノックをしようとした瞬間、突然隣の部屋の扉が開いてリリスが廊下へ飛び出してくる。彼女の隣は兄イルミの部屋だ。驚いてキルアが固まっていると、こちらの存在に気付いたリリスもハッとした表情になる。

 

「キルア……」

 

 リリスは何か言い訳をしたそうにぱくぱくと口を動かしたが、結局キルアの名を呼んだっきり黙り込んでしまった。キルアもキルアで、思いがけない展開に思考停止してしまう。リリスのただならぬ様子に圧倒され、咄嗟に言葉が出てこなかった。

 

「……イル兄となにかあったのか」

 

 そしてしばらく見つめあったのち、ようやく絞り出した質問はこの場では答えづらい内容だった。

 

「……悪ィ、場所を移そう」

「うん……」

 

 と言っても、行き先はキルアの部屋くらいしかない。正直キルアの部屋だからといってどのくらい安全かはわからないが、イルミと物理的に距離をとれるだけで気分的にも楽だろう。

 キルアはリリスが頷いてくれたことに内心ほっとしていた。まだ気まずい雰囲気ながらも、今は黙って足を進める。

 

 自室に到着して扉を閉めると、キルアはどっかりとクッションの上に腰を下ろした。

 

「で、何があったんだよ」

 

 当初聞こうと思っていた内容は別だったが、あの様子を見るにリリスが兄に惚れているという線は薄い。それならばせめて話しやすいところから、と思って話題を切りだしたが、彼女は二人きりになっても黙り込んだままだった。

 

「なんで黙ってんだよ」

「……ごめん、なんでもないの」

「あんなの見せられて、なんでもないが通用するわけないだろ」

「……」

「リリス、ほんとにイル兄と結婚するのか」

「……」

「ほんとは嫌なんだろ。リリス、脅されてるんじゃねーの」

「私は……」

 

 畳みかけるように言葉を重ねれば、初めてリリスが口を開きかける。しかし結局話そうとしては口を閉ざしてしまい、キルアは苛立ちに唇をゆがめた。

 

「ハ、俺じゃ頼りにならないってわけね」

 

 確かにキルアは無力かもしれない。でも、相談くらいはしてくれてもいいのではないか。この家を訪ねてこないと決めた時もそうだ。リリスはいつも何も言ってくれない。「俺は、リリスが俺のせいでこんな目にあってんのかもって、それで、」怒りか悲しみか、区別のつかない感情がキルアを支配する。必死で冷静になろうとしたが、残念ながら兄やリリスほどキルアはポーカーフェイスが得意ではなかった。

 

「キルア……」

「クソ、なんなんだよ。リリスも兄貴も、俺のことガキ扱いしてさ。それでなんでもかんでも勝手に決めて……俺だって、」

「キルア、」

 

 目の前のリリスがどんどん困ったような表情になる。そうだ、こんなことくらいで取り乱すから、リリスはキルアを頼ろうとしないのだ。頭ではそれがわかっているのに、どうしても感情が高ぶる。

 悔しい。頼ってほしい。認めてほしい。

 それが突き詰めれば自分本位な思いだとしても、キルアはリリスに頼ってほしかった。

 

 

「ごめん……」

 

 不意に柔らかな手が、固く握りしめたキルアの拳へ添えられる。向かい合ったリリスは相変わらず困ったように眉を寄せていたが、キルアは彼女の瞳の中に自分と同じ後悔の色を見つけた。「ほんとにごめん。キルアに何も話さなくってごめん……」彼女はいつもそうやって謝ってばかりだ。けれども今回は謝るだけではなくて、ようやく話してくれる気になったようだった。

 

「ほんとはキルアの言う通りなの……この結婚は私の望みじゃない」

「じゃあやっぱり、俺のせいなのか?」

「口実はね。でもきっとこれは私への嫌がらせだよ。キルアのせいじゃない」

「いや、イル兄が家族のこと以外でこんな手間をかけるはずないんだ。絶対俺のせいだ……リリス、俺の方こそずっとリリスを放っておいて悪かった」

 

 リリスは気を遣ってそう言ってくれたが、あの兄の家に対する執着はキルアが一番よくわかっている。キルアさえ関わらなければ、リリスがこれほどまでに害を被ることはなかっただろう。

 イルミはリリスを死なせたくなかったら大人しくしていろと言ったが、実際今ではキキョウの目もある。殺すとなると色々面倒だろうし、とにかくキルアの方に兄の意識を向けなければならない。リリスがキルアの足枷には使えないと思わせて、興味を失わさせるのだ。

 

 キルアはそこまで考えると、決意を固めるようにゆっくりと息を吐いた。

 

「リリス、俺、家を出るよ」

「えっ?」

「前から考えてたことなんだ、こんな家いつか出てってやるって。リリスが人質にならないってわかれば、兄貴だって流石に諦めるだろ」

「でも、家出なんて……」

「別に六歳のときには天空闘技場で一人で過ごしてたし、今更どうってことねーよ」

 

 それよりも問題は出るときの方だ。父や祖父、長兄が留守というのは最低ライン。あとは母親と次男くらいだが、この二人程度なら一時的に動きを止められる自信がある。家族を抑え込むことができれば、基本的に執事は何も手出しができないはずだ。

 しかし脳内で計画を立て始めたキルアに対して、ストップをかけたのは他ならぬリリスだった。

 

「でもそんなことしたら、キキョウさんが悲しむよ。家族を悲しませるのはよくない」

「はぁ!?そんなのどうだっていいだろ」

「よくない。だって、キルアのことだから説得じゃなくて力づくでってことでしょう」

「お前さ、うちの家族見て説得でなんとかなるって思うか?」

「それは……」

 

 既に脅されているくせに、随分と甘いことを言う。とはいえ流石に説得できる図が思い浮かばなかったのか、リリスはあからさまに話題を変えた。

 

「キルアは、暗殺家業が嫌なの?」

「……なんだよその質問。別に好んでやるもんでもねーだろ」

「それはそうだけど、代々続いてきたお仕事だしさ。こないだはシルバさんの前で嫌じゃないって言ってたじゃん」

「……」

 

 確かに本音を言えば、殺し自体が嫌なわけではない。キルアは父親のことも尊敬している。しかし尊敬しているからといって、全て盲目的に従うというのはおかしいと思うのだ。

 

「……俺は、ただレールを敷かれた人生が嫌なんだ。あれするなこれするなって口うるせーし」

「それは家族だからだよ。キルアの為を思って、」

「あーもう!なんなんだよ、家族家族って!リリスまでイル兄みたいなこと言うのかよ!」

 

 家族だったら何をしてもいいのか。恩着せがましく束縛して、思い通りに動かそうとするなら人形遊びの延長だ。「リリスにはわかんねーんだよ!家族なんて鬱陶しいだけだ!」期待が重いとかそういう次元の話じゃない。家族を大切にしろだなんてありきたりな説教は、リリスの口から聞きたくなかった。

 

「そう、だね……私にはわからないや」

「とにかく俺はこの家を出る。止めても無駄だぜ」

「……わかった」

 

 キルアの意思は固かった。元から家出については考えていたことだし、何よりリリスを兄の手から救うために自分ができる方法はこれしかないと信じていたからだ。頭の中は既に計画のことでいっぱいで、それ以外のことに気を配る余裕もない。そもそもいくら気まずい沈黙が降りようと、これはリリスを救う為の計画でもある。少なくともキルアはそう思っている。

 

 だからこそ、目の前のリリスが傷ついた表情をしていることには、少しも気が付けなかったのだった。



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22.保険

 リリスがイルミの部屋に来るのは正真正銘これが二回目であったが、今回ばかりは彼女の意思ではなかった。その証拠に部屋には重苦しい雰囲気が立ち込め、先ほどからリリスの警戒が痛いほどに伝わってくる。

 イルミはこつこつ、とあえて足音を鳴らすと、だだっ広い部屋の中をぐるりと一周してみせた。

 

「キルはどうやらハンター試験を受けに行ったらしくてね」

 

 まるで世間話でもするような調子で紡がれた言葉に、リリスは何の反応も示さない。

 驚かないというのはつまりそういうことだ。もう少しわざとらしい演技でもするかと思ったが、さすがに無駄だとわかっているらしい。

 リリスの正面で足を止めたイルミは、少し身をかがめて彼女と視線を合わせた。

 

「そそのかしたのはお前かい?それとも、オレに脅されてるんだってとうとう泣きついたの?」

 

 リリスの性格上、キルアどころか誰にも頼らないであろうことはわかりきっている。だからおそらくこれはキルアの独断。

 

「……そうだとしたらなに?人質として役立たずの私を殺す?」

 

 だが、健気にもリリスはキルアを庇う気でいるのか、まっすぐにこちらを睨み返してきた。彼女の瞳に自分だけが映っているのがわかり、思わず口角が上がりそうになる。

 

「ううん、チャンスをあげる」

「は?」

「実はオレも偶然、仕事の関係上ライセンスが必要でさ、ハンター試験を受けに行くんだよね」

 

 実際、仕事で資格がいるのは嘘ではなかった。だが、本当の本当に偶然かというとそうでもない。

 入籍の話が出てリリスが取り乱したあの日、イルミはキルアがこちらに向かってきていたことに気が付いていた。その後二人がどこかに行ったのもわかったし、リリスのあの様子からしてキルアに現状を話したであろうことも予想がつく。

 

 ではリリスが脅されているとわかったら、キルアならどうするか。

 責任を感じて大人しく訓練に集中するような性格なら、家族の誰もここまで手を焼かなかっただろう。

 キルアならば必ず行動する。おそらく、囮を買って出る。正面から立ち向かってリリスを庇うことができないのなら、家を出るなりなんなりしてイルミの注意を自らに引き付けることくらいしかできないはずだ。

 

 そしてここで、ミルキが記録として残しておいたリリスの映像や音声が生きてくる。イルミが異変に気付き、本格的に対処を始めるまでの数か月間、その間に距離を縮めたらしいキルアとリリスの会話に出てきた場所など限られていた。特に、キルアが興味を持ちそうな場所、自活するにあたって必要な物が手に入る場所、そして最も有益な情報だったのが家出をした時期。

 ここまで揃えば、わざわざ答え合わせはするまでもなかった。

 

 

 ――ザバン市。

 

 確かな筋の情報では、そこが今年のハンター試験の会場となるらしい。

 全てのスケジュールが完璧に管理されているゾルディック家において、偶然資格を持っていなかったイルミに要資格の仕事が回ってくるはずもない。このタイミングで資格を取るつもりで、イルミ自らミルキに調整するように言ったのだ。

 

 全てはキルアのハンター試験とぶつけるために。

 いつか絶対に逃げ出すだろうと思っていた弟の心を、徹底的に折るために。

 

 そしてイルミはついでにキルアとリリスの仲も割くことができればよい、と考えていた。何も訓練に集中させることだけがリリスの役割ではないのだ。キルアの友情への希望をぶち壊せるだけで、実に十分な働きと言える。

 だからこそ失敗を取り戻すチャンスとして、こんな提案をした。

 

「リリスには一緒に試験を受けに来てもらうよ。それがお前にできる責任の取り方だ」

 

 キキョウからはキルアの様子をそれとなく見てくるようにと頼まれたが、実質それは連れ戻せということだろう。

 相手が来る場所がわかっている以上、この捕獲は実に簡単なミッションだった。しかし一方で、万一、試験中にイルミの存在がバレた場合、キルアが試験を棄権して逃亡を図る可能性がある。また、ハンター試験の内容は試験官に大きく左右されるので、まだ発展途上のキルアが途中で落ちてしまう可能性だってないとは言えなかった。

 

「私が行ってどうするの。説得なんて聞かないよ、あの子」

「ただの監視さ。さっきも言ったけど、オレは仕事の都合上、試験を最後まで受けたい。お前はキルアが棄権したり脱落したりしたとき用の保険だよ。だからもちろん、オレが参加していることをキルに伝えてはいけない。わかったね?」

「……キルアを裏切って、スパイになれってこと?」

「へぇ、随分と物わかりが良くなったじゃないか。

 そうだよ。試験中、オレがいつもキルの側にいられるとは限らない。お前なら警戒されずに近づけるし、最悪キルが試験を降りたらお前も降りて監視を続けろ」

 

 たとえ試験会場でリリスに会っても、脅されているリリスの立場を考えるキルアは邪険にはしない。それどころかせっかく家から出られたのだからと、リリスと逃げることを選ぶだろう。

 

 リリスにはライセンスが逃亡に役立つと吹き込ませ、キルアに試験を続けさせる。仮にキルアが脱落した場合、リリスも共に脱落させ、キルアの監視に当たらせる。あとはイルミの合格が確定した時点でキルアを連れて帰ればよかった。我ながらなかなかいい計画を立てたものだと思う。

 イルミの話を珍しくじっと聞いていたリリスは、ややあって仄暗い瞳でこちらを見上げた。

 

「……嫌だって言ったら殺してくれるの?」

「その気になれば念を遣って自殺もできるでしょ。死ぬまでかなりの苦痛に耐える必要はあるけどね」

「……」

「それにしても、リリスがキルのことをそこまで想ってくれるなんて意外だな。自己犠牲が過ぎるのはそっちなんじゃないの?家族でもないのにさー」

 

 初めは死ぬのが怖いから言うことを聞いているのだとばかり思っていたが、どうやら理由はそれだけではないらしい。この家にやってきたときから、リリスはずっとイルミ以外の家族のことを愛している。それがなぜなのかはわからなかったが、イルミにとって都合がいいことに変わりはなかった。

 

「でもリリスが自殺なんてしたら、キルはそれこそ責任を感じるだろうね。あれは繊細なところがあるから心を壊してしまうかもしれないよ。

 ま、どのみちお前がキルを裏切る形になるから、オレはどっちだっていいんだけどね」

「……」

 

 イルミがそうやって煽っても、リリスは何も返事をしなかった。けれどもイルミには、彼女が自殺なんてしないだろうという自信があった。

 リリスは短絡的に命を捨てる女ではない。メリットや目的があれば話は別だろうが、今みたいに損でしかない状況なら苦い肝を嘗めてでも好機を待つはずだ。

 

「それじゃあ出発は2週間後だよ。せいぜい頑張ってね」

「……わかった」

 

 やはり彼女と自分はよく似ていると思う。

 イルミはリリスの返事に満足すると、いつものように仕事へ向かった。

 

 

 ▲▽

 

 ここはザバン市ツバシ町2-5-10。厳密言えばその地下なのだが、少なくとも定食屋”めしどころゴハン”の住所はそうである。

 

 今年のハンター試験会場がザバン市であるというのは、そこそこの頭を持つ者なら誰でも手に入れられる情報であった。これは家出後に知ったことだが、ご丁寧にハンター試験応募カードというものがあるらしい。しかもキルアのような年齢の子供が受ける為には誰かしら大人の同意印が必要であり、これを用意するには少しばかり手間もかかった。

 

 しかし応募カードと大まかな場所の情報を手にしても、実際の会場にたどり着くのは容易ではない。ここへ来るまでの道のりにも既にいくつか試されるような機会があり、受験者の動機や知性、判断力によって事前にある程度ふるいにかけているようである。

 

 キルアも先ほど、ひったくりに遭った老婆から一枚のメモを受け取ったばかりだった。彼女の身のこなしは明らかに普通の老婆のそれではなかったので、正直キルアが助ける必要はないように思われた。

 が、これも試験の一環かもしれない。そう思って犯人の男を捉えたところ、見事ビンゴだったというわけである。その後、足を痛めたという老婆を背負ってなんだかんだと良いように使われたり、素性を探られたりもしたが、キルアはとうとう試験会場の正確な場所とそこへ入るための”合言葉”を手に入れたのだった。

 

 

「ハンター試験会場へようこそ。こちらが受験番号の札になります」

 

 豆のような姿かたちの男から99番のプレートを受け取ったキルアは、それをわかりやすく左胸につけた。それから期待込めて周囲にいる男たちを見回したが、すぐになんだか聞いていたよりもくだらなそうだ、と拍子抜けする。

 リリスがあれだけ難関だと言っていた試験なので、てっきりもっとレベルの高い受験者ばかりなのかと思っていたのだ。唯一、44番のピエロのような恰好をした男からは嫌なものを感じたが、後は時折家にやってくる賞金狙いの奴らと同じレベルかそれ以下だ。楽な分にはいいはずなのだが、どうしてもがっかりした気持ちは隠せない。

 

 リリスとは半ば喧嘩別れのような形で家を出てしまったキルアだったが、ハンター試験を受けに来たのには二つほど理由があったのだ。

 

 一つはこれから自活するにあたって必要な金と身分。金に関しては、過去過ごした天空闘技場でも良かったのだが、あそこは一般客向けにも試合が公開されているし下手に有名になれば簡単に足がついてしまう。かといって暗殺家業が嫌で家出した以上殺しで金を稼ぐのも本末転倒だし、世間的にはただの12歳の子供でしかないキルアが普通に働くのは難しい。そういうわけでハンターライセンスはキルアにとって好都合だった。

 

 そしてもう一つは、リリスに認めてほしかったからだ。彼女が難関だと言っていた資格をとれば、彼女も少しはキルアを頼る気になるだろう。未だ具体的な案は浮かんでいなかったものの、キルアはリリスをあの兄から助けたかった。

 だからこの試験に合格することは、あの家から自分とリリスを解放するための第一歩なのである。

 

 

「やぁ、見ない顔だね。ハンター試験は初めてかい?」

 

 キルアが辺りを見回していると、先ほどからずっとこちらを見ていた男が話しかけてくる。今のところ子供の受験者はキルア一人だったが、どうやら男が話しかけてきたのは物珍しさからだけではないらしい。「……なんだよ、おっさん」殺気も込めずに軽く睨んでやれば、缶ジュースを片手に持っていた男はぐっ、と詰まった。

 

「お、おっ!……コホン、まぁいい。オレはトンパ。もう35回も試験を受けてる、いわばベテラン受験者ってやつさ。わからないことがあれば何でも聞いてくれ」

「へぇ、じゃあ聞くけど、なんで35回もやってて受からないワケ?」

「っ、そ、それはほら、それだけ試験が難関だってことだよ。合格率は数10万分の1。君みたいなルーキーは3年に1人受かればいいほうさ」

「ふぅん」

「ま、命さえあれば俺にみたいに何度だって受けられる。これはお近づきのしるしさ、互いの健闘を祈ってカンパイしよう」

「さんきゅー」

 

 こいつの目的は結局のところこれを飲ませることだろう。そこらの毒なら効かない自信のあるキルアはありがたくジュースで喉を潤したが、同時にあまりのレベルの低さに辟易する一方だった。

 その後まだ色々とこちらを探ろうとしてくるトンパをかわして、キルアはひと眠りしようとする。そんなとき、エレベーターが降りてきてまた受験者がやってきた。

 

「この気配……」

 

 驚いて入口の方を見れば、紛れもなくリリスである。不安そうにきょろきょろと周りを見回しており、早速あのトンパとかいう男が話しかけに行くのが見えた。「やぁ、見ない顔だね。ハンター試験は初めてかい?」下手なナンパでももう少しひねりを加えるだろうに、定型文を口にしたトンパを押しのけるようにしてキルアは素早く前に進み出た。

 

「あー、こいつ俺の知り合いだから。そのジュース渡しとくし、あっち行っててくんない?おっさん」

「な!俺はおっさんじゃなくてトンパだって」

「わかったわかった、ほら寄越せって」

 

 強引にトンパの手からジュースをもぎ取り、ついでに睨みをきかせれば憤っていたトンパもそそくさと逃げ出す。ほんとにくだらない。35回も受けて落ちるのも納得の情けなさだ。

 リリスはキルアを見て表情を明るくしたのも束の間、急に神妙そうな表情になった。

 

「あの……キルア、」

「いいって、なんでリリスがここにいるかはだいたい想像がつくからな。どうせイル兄の命令なんだろ」

「うん」

 

 手にしたジュースはまたもやキルアの腹の中に納まった。もしかするとリリスもゾルディック家の食事を平気で食べていたし、大きなお世話だったかもしれない。しかし喉が渇いていたのも本当だった。

 

「キルアが試験受けてること、残念ながら家には筒抜けだよ。それで責任とって連れ戻して来いって言われたの」

「あーまぁ、そうだろうな。でもリリスが来たのは好都合だぜ」

「どうして?」

 

 リリスはキルアの反応に、意外だと言わんばかりに目を丸くする。「私、キルアを連れ戻しに来たんだよ?キルアが嫌がってるのわかってて、それなのに自分可愛さにここへ来たんだよ?怒らないの?」彼女が複雑そうな顔をしていたのは、罪悪感に苛まれていたかららしかった。

 

「仕方ねーだろ、脅されてんだから。だいたいリリスが俺を力づくで連れて帰れると思ってんのか?」

「それは……」

 

 正直言って無理だ。悪いがキルアから見て、リリスはそれほど強くない。さすがにここにいる男達よりは優れているだろうが、幼い頃から訓練を受けてきたキルアとは比べるのも酷だろう。イルミがリリスを寄こしたのは、おそらくキルアとリリスの両方に対する嫌がらせだ。自分が何か他の仕事で手が離せないとか理由があって、とりあえずの監視としてつけたのだろう。ついでにリリスの説得でキルアが帰宅すれば万々歳といったところか。

 

「報告の手段は?」

「定期的にメールを送る。それから証拠にキルアの写真も……」

「わかった、それは協力してやるよ。だけど俺は家になんて帰らねーからな」

「じゃあなんで協力なんて、」

「リリスも一緒に逃げようぜ。家出の時は俺一人で出るだけで精一杯だったけど、リリスにしたって外に出られたのはチャンスじゃん。

 俺、リリスがうちに住むようになってから外出してんの見たことねーし、どうせそれもイル兄のせいなんだろ?」

 

 迷う様子を見せながらもリリスははっきりと頷いた。それを見てじゃあ決まりな、と手を打ったキルアも内心でなかなかに悪くない状況だとほくそ笑む。

 リリスの報告を逆に利用すればイルミを撹乱できるし、この先のハンター試験がどこで行われるのかはわからないが、受験者以外が簡単に横槍を入れられるような環境ではないだろう。いくらあの兄でも、弟の家出くらいでハンター協会と揉めるような真似はしないはずだ。

 

「あ、でもリリス、途中で試験落ちんなよ。そうなったらこの計画はパーだぜ」

「頑張ってはみる」

「なんだそれ、頼りねー」

 

 口ではそう言ったものの、キルアはいつもの調子でリリスと話せるのが嬉しかった。ライセンスをとった後は、彼女と二人で気ままに旅するのもいいかもしれない。もしも家族が追いかけてきたら、その時は逆に捕まえてやろう。きっといい値段で売れるに違いない。

 

「あー、早く始まって早く終わんねーかな、この試験」

 

 キルアは12歳らしい楽観的思考で、退屈そうに呟いた。



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23.事故死の想定

 

 薄暗い地下トンネルの中を、試験官に追走する形で始まった第一次試験。

 今年はまず純粋な体力から問うつもりのようだが、本当にただ直線を走っているだけなので周りの受験者にちょっかいをかけるにもなんだか面白味に欠ける。

 ヒソカはとりあえずの暇つぶしのつもりで、集団の中でもひときわ目立つ格好をしている、イルミ扮するギタラクルの傍へ近寄って行った。

 

「キミの婚約者、すっかり弟くんを懐柔してるみたいだねぇ」

「……」

 

 ほんのちょっとした世間話のつもりだったが、イルミからの返事はない。別に変装中は喋れないというわけでもないだろうに、彼はただ真っすぐ前を向いたまま、黙ってペースを早める。もちろん、ヒソカはそんなくらいで諦める男ではないので、まるで無視された事実などなかったかのように悠々とイルミの横に並び続けた。

 

「でも今年はラッキーだなぁ。キミが受験するってだけでも面白いのに、キミの愛する二人も一緒だとはね」

「……目立つから話しかけないでくれない?」

「ボクが話しかけなくても充分目立ってるよ、キミ」

 

 もっと他にもあったと思うのだが、いかんせんイルミのセンスは理解しがたい。あちこちで新人に怪しげなジュースを配り歩いていた男から声をかけられていないのが何よりの証拠だろう。かくいうヒソカも、初参加となる去年の試験でジュースをもらえなかったくちなのだが。

 

「ていうか、オレはリリスが嫌いだって言ってるだろ」

 

 しつこいヒソカに根負けしたのか、はたまた周りから遠巻きにされているせいで喋っても大丈夫だと思ったのか、イルミはその姿に似つかわしくない声で話し出す。彼から今年の試験を受けると連絡をもらったときは、へぇ、としか思わなかったヒソカだが、続けて一緒に受ける弟に手を出すな、リリスにも構うな、と言われて随分と驚いたものだ。

 そして相変わらずイルミはなかなか詳しいことを教えてくれなかったものの、それでもなんとか”弟が家出した”ことと”リリスは弟の監視であること”、それから”イルミがさらにその二人を監視している”という面倒臭い状況を聞き出すことには成功していた。

 

「嫌いなら結婚しなきゃいいのに。結局弟くんも家出したってことは、やる気が出たのも一時的なものだったってことだろう?」

「リリスのことは母さんも気に入ってる。試験が終わったら籍を作って入れる予定だし、今更簡単にはやめられないよ」

「へぇ、じゃあ試験中にボクが殺そうか?毎年死者が出るハンター試験だし、事故なら、」

「お前も事故死したいの?」

 

 せっかく親切心で言ったのに、というのはまるきり嘘だが、ヒソカの出した提案にイルミの殺気がぶわりと滲む。比較的近くを走っていた受験者たちが顔を青くして膝をついてしまったのを尻目に、ヒソカはやれやれと肩をすくめた。

 

「どうせ彼女の念がある限り、そう簡単には殺されないだろう?ボクも少しくらい遊んだっていいじゃないか」

「キルの監視の邪魔になる」

「そうやって大事に隠されると、余計に興味湧いちゃうんだけどなぁ」

 

 手伝うだけ手伝わされて、前回の件がどうなったのか結局ヒソカは知らないままなのだ。リリスの念がどのようなものなのかもはっきりわかっていないし、もっと言うならあれほど手こずっていた彼女をどうやって支配下に置いているのかも謎である。彼女の念がもし”入れ替わり”なのだとしたら、殺すよりも拘束するほうが難しいはずだ。あれだけイルミのことを嫌っていた彼女が、大人しく結婚を受け入れるはずがないのだから。

 

「お前にリリスたちのことを伝えたのは、余計な詮索をさせるためじゃないんだけど」

「そうなのかい?でもキミが教えてくれないから、自分で調べるしかないみたいだね」

「ヒソカ、」

「悪いけど、キミといると目立つから先に行くよ」

 

 仕返しとばかりにそう言ってヒソカはイルミを置き去りにしたが、ヒソカと違ってイルミがしつこく後を追いかけてくるようなことはなかった。が、明らかに、今の会話を不満に思っていることだろう。

 

 今年は楽しい試験になりそうだ、とヒソカは早くもにやにやを抑えきれなかった。

 

 

 ▲▽

 

 この世で最も気高い仕事――それが、クラピカがハンターという職業に対して抱いているイメージである。

 そのため、今は同胞の仇を討つために賞金首ハンターを志望してこそいるが、そうでなくてもいずれは目指した道だったのかもしれない。

 

 クラピカは走りながら、周りの受験生の様子を観察する。既に走り始めて4、5時間は経過しただろうか。後続の方のことはわからないが、少なくとも周囲では誰一人として脱落していない。

 ここまで、嵐の中の船旅からゴンとレオリオと協力してやってきたが、改めて世間は広いのだと思い知らされる。「おいゴン、見ろよ、階段だぜ」特に、先ほど知り合ったばかりのキルアという少年は、明らかに表の人間ではない独特な雰囲気を纏っていた。

 

「ほんとだ!全く上が見えないや!」

 

 二人の少年はそう言いつつも、全くそのペースを落とさない。ゴールをあえて告げないことで精神力をも試す試験だとは予想していたが、この階段には流石のクラピカも少しは気が滅入るというものだ。隣のレオリオはなりふり構わず何としてでも、という気概を見せているが、自分も見習ったほうが良いのかもしれない。気づけば、ゴンとキルアとはかなり差が広がってしまっていた。

 

「いいのか?キルアとはぐれてしまって」

 

 クラピカはクルタの伝統衣装を一枚脱ぐと、肩からかけていた鞄にしまって汗を拭う。それから、元はキルアと一緒に走っていたらしいリリスという女性に向かって話しかけることにした。

 

「え、あぁ、うん。前にいてくれる分にはね。あの子、これくらいじゃ落ちないだろうし」

 

 正直、年の近いゴンとキルアが仲良くなっただけで、彼女と並走しているのは成り行きでしかなかった。しかし、一応の自己紹介を済ませた仲なのに、二人がいなくなったからと言っていきなり無視をするのも礼儀に反する行いだろう。見たところ、彼女はまだ余裕がありそうなのでキルアについていくこともできただろうに、特にスピードを上げるような気配は見られなかった。

 

「ちくしょー、若いやつらは元気が有り余ってて羨ましいぜ!!」

「年齢だけの問題ではないと思うが……」

 

 ゴンも並外れた体力を持っているが、キルアはそれ以上に軽い身のこなしをしている。何より先ほどまで一緒に走っていて、キルアからは当然するべき足音がしなかった。あの年齢で一体どういう鍛え方をしたのか、とりあえず普通ではないということだけは理解できる。

 そして、リリスとキルアの関係も謎だった。二人の雰囲気はかなり親密そうであったが、友人というには年齢差がある。何より受験番号が99番と107番で開きがあることから、一緒に受験しに来たというわけでもなさそうなのだ。

 

「そういやよぉ、二人はどういう関係なんだ?姉弟にしちゃ似てねーし」

 

 しかし、クラピカが最終的に詮索はよくないだろう、と自己完結をした傍で、レオリオはストレートに質問をぶつけた。相変わらずこの男は!と咄嗟に非難の視線を向けたクラピカだったが、レオリオはなんだよ、と睨まれた意味すらわかっていない。一方、当のリリスはというとこちらのやり取りを見て苦笑していた。

 

「あー、うん。確かに血は繋がってないよ。一応義理の姉弟になる、のかな……」

 

 ほらみろ、言わんことではない!

 再び非難めいた視線を向けたクラピカに、さすがのレオリオもたじろく。「……わ、悪ィ。まぁ人には色んな事情があるよな」自分なんて船で志望動機を聞かれただけであれほど過剰反応していたくせに、よく知り合ったばかりの他人の事情に首を突っ込めたものだ。

 しかし、うなだれるレオリオの様子に、今度はリリスのほうが慌てだした。

 

「えっと違う!連れ子同士とか、孤児同士とか、そういうんじゃなくて。私がキルアの兄の婚約者なの」

「なるほど、それで義理の姉弟か」

 

 確かによく見れば、彼女の左手の薬指には銀色の指輪が光っている。義理の姉として交流があるのなら、キルアとの親密さも納得だった。というかむしろ”義理”という言葉だけでこちらが深読みしすぎたのである。自分が暗い過去と強い意志を持ってハンター試験に臨んでいたからこそ、彼女にも何か深い事情があるのではという先入観が働いてしまったようだ。

 

「てか、よく許したなその男。こんなむさい男ばっかのとこに、婚約者を行かせるなんてよ」

「自分がそのむさい男という自覚はないのか」

「あぁ?こんな爽やかな男前ほかにいねぇだろ!見ろよこの流れる汗!」

「どうも貴様とは爽やかの定義が異なるらしい……」

 

 クラピカが軽く頭痛を覚え始めたところで、リリスがとうとう我慢できなくなったのか噴き出す。あはは、と声をあげて笑う彼女は、初めに受けた印象よりもずっと幼さが増して見えた。

 

「その婚約者に受けて来いって言われたのよ。キルアの付き添いも兼ねてね」

「それはまた無茶苦茶な。死人も出るっつう噂もあんのによ」

「まぁ向こうは親のために結婚するようなものだし、私が試験中に死んでくれたらラッキーくらいに思ってるんじゃない?」

「な、なんて男だ!おい、リリス、悪いことは言わねぇからそんな男やめとけ!」

「やめたいのはやまやまなんだけどねー」

 

 それこそ色んな事情があるというものだろう。リリスの表情からすっと笑顔が消えたので、それ以上深く聞くことは躊躇われた。やはり、誰でも何かしらの事情は抱えているようである。彼女は一瞬訪れた沈黙にハッとすると、すぐに元のようににっこり笑って見せた。

 

「なんかごめん。でも私、婚約者のことは嫌いだけど、キルアの義姉ってのは悪くないって思ってるんだ。お義父さんやお義母さんも優しいしね」

「確かに、キルアはとてもリリスに懐いているようだ」

 

 本人の性格もあるだろうが、少し話した印象だけでキルアが生意気盛りであることはよくわかる。あのくらいの年齢で、しかも年の離れた異性とくれば少しぎこちなくもなりそうだが、リリスに対するキルアの態度は実姉といっても不思議でないくらいだった。

 

「懐いてくれてるのかな……。まあでも、あの子もゴンみたいな同い年くらいの子と会えてよかったなーって思って見てたんだ」

「そうだな、きっとゴンも友達ができて喜んでいる」

 

 付き添いと言ったリリスがキルアを追いかけなかったのは、きっと二人の邪魔をしたくなかったからなのだろう。そう思うと今まで成り行きで共に走っていた彼女にも、いくらか親しみが湧く。彼女のキルアを思う気持ちは本物だと感じたからだ。

 

「友達か……うん、そうだね」

 

 しかし、友達と呟いたリリスの表情は、僅かながらに陰っているようにも見えたのだった。



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24.価値と借り

 

 走った距離は、スタート地点のザバン市からおよそ100kmほどだろうか。出口の明かりを見たヒソカはようやくつまらない試験から解放されると喜んだが、いざ外に出ても霧深い湿地が広がっているだけで特に目立つようなものもない。

 結局、受験者の4分の3くらいが辿りついたところで背後のシャッターが無慈悲に閉まって、試験官のサトツがゆっくりとこちらに振り返った。

 

「ここはヌメーレ湿原、通称”詐欺師の塒”。

 二次試験会場にはここを通っていかなければなりません」

 

 彼の説明では、ここには標的を騙して捕食する生き物が多く生息しているらしい。そして騙されないようにという注意喚起がなされた後、早速「ウソだ!」と大声で騒ぐ一人の男が乱入してきた。

 

「そいつはニセ者だ!試験官じゃない!オレが本当の試験官だ!」

 

 男は人の顔をした猿の死体を引きずり、受験生を惑わす言葉を叫び続ける。中には何人か信じかけている者もいるようで、ヒソカとしては白けるばかりだ。これ以上、こんなところで道草は食いたくない。

 どちらが本物の試験官なのか、一気に全員に理解させる方法として、ヒソカは実に簡単な方法を取った。

 

 それが、男と試験官の両方に投げたトランプだったのである。

 

 

「これで決定。そっちが本物だね」

 

 ヒソカはそう言って笑ってみせたが、内心ではもう別のことが気に掛かっている。実は、このタイミングでリリスにもトランプを投げてみたのだが、それはリリスに当たることなく、彼女の背後、霧の中へと消えていったのだ。しかし別に彼女の身体が透けているとか、そういうオカルトちっくな話ではない。単純に彼女の腕を引いて、転ばせた者がいるのだ。それがあまりの速さだったので、周りには単にリリスがよろけたように見えたのだが、ヒソカはしっかりと”ギタラクル”と目が合っていたのだった。

 

「おいおいリリス大丈夫かぁ?まだまだ先はあるみてぇだぞ」

「う、うん。ちょっとぐらっと来ただけ」

 

 リリス本人も驚いたらしくしばらくぽかん、としていたが、やがて隣のサングラスの男の手を借りて立ち上がる。ちょっと、と言うがイルミはかなり思い切り引っ張ったみたいで、彼女は左足を挫いたようだった。

 

「確かに、試験官に抜擢されるほどのハンターがあの程度の猿に騙されるはずがないだろうな」

「その通りです。しかし、44番の方。次からはいかなる理由でも、私への攻撃は試験官に対する反逆行為とみなして即失格とします。よろしいですね?」

「はいはい」

 

 死んだ男の身体は、すぐさま鳥たちの餌となる。これから先起こるのが命がけの騙しあいであることを身をもって証明した男の姿に、受験生たちは再度気を引き締めなおしたようだ。

 

 そしてサトツが走り出したことで改めてスタートする一次試験。

 ヒソカは最後尾から、ゆっくりと受験者たちを追いかけることにした。霧が深いのはここの生物にとって暮らしやすい環境なのかもしれないが、どさくさに紛れて血を見たいヒソカにとっても好都合である。

 さてと、と舌なめずりをしたところで、

 

「おい、リリス、」

「……わかってる。キルアは先行って」

 

 そんな切羽詰まったやり取りが、すぐ近くから聞こえてきた。

 

「先って、お前はどうすんだよ!?」

「私のことはいいって!」

 

 どうやらリリスは先ほど挫いた足が痛むらしく、こんな集団の後方、声の聞こえる範囲にいるらしい。沼地で足場が悪いというのも、余計に効いているのだろう。

 ちょうどいい。このままいけば集団から遅れたリリスと直接話せるかもしれない。

 それにこれだけの霧と、湿原に住む生物の凶暴さを考えると、事故が起こってもやむを得ないといえるのではないだろうか。

 

「な、なんだぁ、キルアもリリスもいきなり?」

 

 おぼろげなシルエットが、困惑した声を発している。ヒソカは獲物をいたぶるように、殺気を濃くしたりまた薄めてみたりを繰り返した。そうしていると他の受験者の何人かも気が付いたようで、走れる体力の残っている者はスピードをあげていく。

 

「この殺気がわからないのかレオリオ、これは、」

「ヒソカ、だね。さっき、試験官の人にトランプを投げた」

 

 ご名答。ご丁寧に名前まで憶えてもらっていて、嬉しさもひとしおだ。子供の受験者は確かイルミの弟ともう一人、405番の少年だったか。彼らはヒソカの殺気に早くから気づいていたが、リリスの足を気にして先に進めないようだった。

 

「みんな気にせず走って!今すぐ!」

「そ、そういわれてもよぉ、これでも精一杯走ってんだぜ」

「キルア!わかるでしょ!行きなさい!」

「……っ、ゴン、」

「嫌だ。俺は行かない。みんなを残してはいけないよ」

 

 リリスは必死でキルアを逃がそうとしているようだが、当のキルアは迷っているらしい。イルミの教育を考えると、ここはリリスを見捨てて逃げるのが賢い選択だ。だが、迷ってしまうようなキルアだからこそ、イルミは余計に過保護になるのだろう。

 リリスは焦れたように、再びキルアの名を強めに呼んだ。

 

「ここでキルアが残っても何の意味もない!ヒソカに勝てるわけもないし、万一逃げ切れたとしても全員道を見失って終わりだよ。それなら今走れる人は走って道しるべを残して。それが今できる最善!」

「……くそっ、わかった。ゴン、」

「ううん。キルア一人で行って。リリスの言うことはわかるけど、俺は行かない。その代わりキルアはこれを持って行って!」

 

 こんな霧の濃い沼地で、一体何を道しるべにしようというのか。生憎ヒソカが確認することはできなかったけれど、キルアはどうやら何かを受け取って走っていったらしい。

 だんだんと彼の気配が遠ざかっていくのを確認したヒソカは、さて、と足に力を籠める。それから一足飛びに跳躍して、後方集団の道を妨げるように立ちふさがった。

 

「なんだ、一体なんのつもりだ!?」

「試験官ごっこ……あまりに試験が退屈だから、少し選考作業を手伝ってあげようと思ってさ」

「はっ、何言ってんだてめぇ!この霧じゃ、試験官とはぐれたら最後!てめえもここで脱落だ!」

「ククク……キミたちと一緒にしないでくれるかなァ?」

 

 ヒソカは好物を一番最後までとっておくタイプだ。前菜である、雑魚たちはトランプ一枚でさくっと片付けて、いよいよお楽しみの時間である。「うわぁぁあ!!逃げろ!!」散り散りになる受験者たちだが、円を遣えるヒソカにとってはあまり意味がない。

 ちょっかいをかけるという意味での本命はリリスだったので、ヒソカはまっすぐに彼女の方に向かったが、そのお陰で他にも骨がありそうな受験者を発見することができたのだった。

 

「くそっ、ただ逃げるなんて性に合わねぇぜ!」

「……あぁ。無謀かもしれないが、同感だ」

 

 リリスを庇うようにして前に進み出たのは、先ほど彼女を助け起こしていたサングラスの男と、彼と一緒に走っていた金髪の青年である。彼らのグループにはもうひとり405番の少年がいるはずだが、なぜか姿が見えない。念も覚えていないようなのに、これほどまでに気配を絶てるのなら実に素晴らしい逸材だ。

 

「ん~、キミいい顔してるねぇ」

 

 サングラスの男は覚悟の決まった面持ちで、木の棒片手に殴りかかってくる。ヒソカはそれをあっさりとかわすと、反対に男の首を掴もうとした。

 その時だった。

 

 ひゅっ、と素早く空を切る音がして、丸い何かがこちらへ向かって飛んでくる。もしもヒソカが先に少年の存在を念頭に置いていなければ、きっとそれはヒソカのこめかみに直撃していたことだろう。

 

「ゴン!」

 

 ゴンと呼ばれた少年が手に持っていたのは釣り竿。やはり彼は逃げたわけではなく、隠れて攻撃のチャンスを窺っていたのだ。

 

「キミなら逃げられただろうに、仲間を助けるなんていい子だね」

「うぉおおお!!てめぇの相手はここにもいるぜ!」

 

 そんな威勢のいいことを言いながら攻撃してくる男の頬に一発入れて、ヒソカはゴンの方に向き直る。金髪の青年も両手に木刀を構えてじり、と動いたが、ヒソカが素早くゴンの首を掴んだのを見て、再びその身を固くした。

 

「うん、合格。いいハンターになりなよ」

「え……」

 

 かがみこんで視線を合わせ、にっこりと笑って判定を告げる。手を離せば、彼は何かに魅入られたようにじっとこちらを見つめてきたが、そもそもヒソカのこれは初めに言ったように”試験官ごっこ”。期待できると判断した人材はここで殺す必要がない。ゴンから離れたヒソカは、改めて用事を思い出して、リリスに狙いを定めた。

 

「来るな。それ以上近づけばこちらも反撃は厭わない」

「ククク……ボクはそれでも別に構わないよ」

「クラピカ、やめて」

「キミたちは今日知り合ったばっかりだろう?別に庇う必要もないと思うケド」

「確かにその通りだが、私は人としての誇りを大事にしている。自分の良心に恥じるような行いはしたくない」

 

 なるほど、こっちの青年――クラピカもなかなか肝が据わっているらしい。ヒソカは思わぬ豊作ぶりに嬉しくなってついつい笑いだしてしまった。

 

「そうかい、わかったよ。キミも合格だ」

「……」

「だけど、ボクはリリスに用があるんだよねぇ。取引としてキミたちは見逃してあげるから、彼女と少し話をさせてくれないかい?」

「彼女を貴様に差し出せというのか!」

「別に殺すつもりはないよ。彼女とはちょっとした知り合いでね。そうだろ、リリス?」

 

 クラピカはヒソカの提案に憤ったが、ヒソカがリリスの知り合いだというと驚いたように彼女を見た。リリスは素直に頷く。それでようやく彼もヒソカの言葉を信じたようだった。

 

「私のことは大丈夫。ヒソカには一度仕事を頼んだことがあるの」

「見たところ彼女は足を痛めているみたいだし、ちゃんと次の試験会場までボクが責任もって届けるよ」

「本当?」

「うん、もちろんさ。ボクは嘘なんかついたりしないよ」

 

 ゴンの問いに笑顔を浮かべて見せれば、すぐに怪訝そうな視線がクラピカから飛んでくる。リリスもヒソカのことを信用してはいないみたいだが、それよりも彼らを逃がしたくてたまらないようだった。

 

「あの男もああ言ってるし、皆は気にしないで先に行って。できれば関わりたくないのが本音だったけど、試験会場にまで運んでもらえるなら私にとっても悪い話じゃないし」

「しかし……」

「ここで押し問答しても時間の無駄だよ。ヒソカが信じられないのなら、私を信じて」

「わかった……君の言う通りにしよう」

 

 クラピカは刀をおさめ、気絶しているサングラスの男を助け起こす。彼とゴンが男を運ぶ後ろ姿が霧の向こうに消えるのを見送ったヒソカは、ようやくだ、とリリスを見下ろした。

 

「……で、話ってなんですか?」

「まぁ色々聞きたいことはあるけど、まずその足はボクのせいだからね。ほんのお詫びのつもりさ」

「お詫びをするくらいなら、初めから投げないで欲しかったんですけど」

「ボクだって驚いたんだよ。キミがかわすか受け止めるかまでは考えていたけど、まさかイルミがキミを庇うなんてね」

「……」

 

 イルミ、の名前を出すと、彼女の表情はわかりやすいくらいに歪んだ。どうやらイルミはまだ相当に嫌われているらしい。「そういや結婚するんだって?おめでとう」追い打ちをかけるようにヒソカが言葉を重ねれば、リリスの眉はますますしかめられた。

 

「私が喜んでいるように見えますか?」

「嫌なら前みたいに逃げればいいじゃないか。キミは“入れ替わる”ことができるんだし」

 

 ――誘導尋問。

 直接聞いたところで、はぐらかされるのがオチだろう。リリスは頭の回るほうではあるが、誰だって怒れば多少口が軽くなる。「素敵な婚約指輪だね」目についたそれを褒めると、リリスはピクリと頬を引きつらせた。

 

「……なぜ、婚約や結婚の指輪を左手の薬指に嵌めるか知っていますか?」

「さぁ、ボクは生憎そういうことには興味がなくてね」

「左手の薬指には、心臓に繋がる太い血管がある――古代の人々は心のありかとして心臓を縛ろうとしたみたいですが、私はそのまま、これに命を握られています」

 

 見た目はごく普通のエンゲージメントリングに見えたが、彼女が言うには内側にびっしりと神字が彫られているらしい。イルミがひと月かけた手製の品で、突然家に侵入され寝ているうちに嵌められたというのだ。

 

「念を遣うと激しい苦痛の警告。それを無視すれば死に至る爆発。あの男が解除するか、私とあの男のどちらかが死なない限り、指輪を外すことはできません」

「なるほどねぇ」

「これがある限り私は逃げられないんですよ。いっそ死んでやろうかとも思いましたが、それもまたあの男の狙い通りなのかと思うと悔しくて」

 

 イルミが対となるように指輪をしていたのも、何かルールに基づくものなのかもしれない。しかし話を聞いた感想では、現状リリスに勝ち目はなく、いたぶられているも同然だ。

 ヒソカの知る限り、イルミが仕事と家族以外のものにここまで執着するのは初めてのことだったので、なんだか面白いような空恐ろしいような複雑な気持ちで、彼の手製だという指輪を眺めた。

 

「指を落とすってわけにはいかないんだよね?」

「そうしたら、きっと次は首輪になるんじゃないですかね」

「あー愛されてるね」

「……」

 

 リリスは心底嫌そうな顔をしたが、ヒソカはからかいではなく本気で言っていた。リリスも、いや、イルミ本人ですらもこの感情には憎悪や嫌悪しかないと思っているようだが、外野から見れば一目瞭然だ。この場合可哀想なのは、暴力的な愛に晒されているリリスなのか、まともな愛情を抱けないイルミなのかはさておき、これならばヒソカの取引も上手くいくことだろう。高いとは予想していたものの、リリスの価値は思った以上に絶大なようである。

 

「で、話はそれだけですか?早く次の試験会場まで連れて行って欲しいんですけど。ちゃんと当てがあって言ったんですよね?」

「うん。キミのお陰でばっちりさ」

「は?」

 

 そう言って携帯を取り出したヒソカは、迷うことなくイルミの番号を選んだ。イルミもヒソカがうずうずしていたこと、それからリリスが後方集団にいたことは知っているはずなので、きっと内心やきもきしていたことだろう。予想通り、ワンコールも鳴り終えないうちに繋がった電話に、思わず吹き出してしまいそうになった。

 

「なにしてるの。もう大半が二次試験会場についてるけど」

「ちょっと試験官ごっこをしていたら、皆を見失っちゃってね。悪いけど、道を教えてくれないかい?」

「なんでオレが。自業自得でしょ」

「そう言わずにさぁ。キミならわかってくれるだろ?」

「……リリスに手は出してないだろうね」

「むしろ手を貸すところさ。彼女、足を痛めているみたいでね。ボクが連れて行かないと、このままじゃ試験に落ちちゃうね」

 

 リリスは弟の監視のために連れてきた、とイルミは言っていたが、正直弟の監視くらいなら彼一人でも十分だろう。彼曰く、弟のみが脱落した場合に足取りを見失わないための”保険”でもあるらしいが、イルミが見失いたくないのはキルアだけではないはずだ。ここでリリスが落ちて、試験を続けなければならないイルミの監視下から外れるのも、絶対に不本意に違いなかった。

 

「はぁ、わかったよ。リリスが落ちたとなると、キルアが棄権するかもしれないからね」

「大丈夫。場所さえ教えてくれれば、責任もって連れていくよ」

「ほんと、リリスが一緒で良かったね」

 

 イルミはため息をつくと、方角と距離を伝えてきた。それが期待していた以上に詳細だったので、おそらく彼女の指輪はGPSのような役割も果たしているのだろう。つくづく都合がいいとほくそ笑んだヒソカは、濃霧の中で鈍い光を放つ太陽の位置を確認する。それから身をかがめると、何の断りもなくリリスを抱え上げた。

 

「それじゃあ行こうか」

「……お詫びって言ったくせに。私をダシに使いましたね」

「ククク、じゃあこれはキミへの借りということにしようか」

 

 二次試験会場は、ヒソカの足であればすぐに辿りつける距離だ。問題は先に進んだゴンたちが果たしてたどり着けるのか。せいぜい青い果実に期待することにしよう。

 

 腕の中のリリスはひどく機嫌が悪そうだったが、特に暴れるようなこともなく大人しく現状に耐えていた。



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25.柄にもなく

 試験官いわく、二次試験は12時にならないと始まらないらしい。

 

 ここまでたどり着けた受験者はだいだい3分の1というところか。走るだけならともかくも、湿原の生物たちは実戦経験が少ない者にはかなりの障害になったと考えられる。ヒソカが妨害したせいもあるだろうが、あれほどわかりやすい殺気を察知できずもたもたとしているような奴は、どのみちこの先の試験で落ちることになっただろう。

 しかしそんな冷めた結論を下した理性とは裏腹に、キルアは残してきたゴンたちが気がかりで仕方なかった。

 

 自分でもおかしいと思う。リリスのことはともかく、ゴンたちはほんのついさっき知り合ったばかりでどうなろうと知ったことではない。他に同い年くらいの子供がおらず物珍しかったから声をかけただけで、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

 ゴンの身体能力はなかなか見どころがあったが、残ると言って聞かなかった状況判断の甘さには正直がっかりせざるをえない。あの場は逃げるのが正解だった。自分は間違ってない。頭ではわかっているのに、どうしても胸の奥がもやもやとする。

 

「ていうか、こんなもんでほんとに来れるのかよ……」

 

 あの火急の場でゴンに渡されたのは、レオリオの鞄に入っていたオーデコロンのボトルだった。身だしなみかなんだか知らないが、わざわざ試験にこんなものを持ってくるレオリオもレオリオだし、匂いを追うから道しるべとして垂らしてくれと頼むゴンもゴンだ。とりあえず、約束通りキルアは定期的にコロンを撒いて走ったが、この広大な湿原においては数滴の香りがさほど役に立つとも思えなかった。

 

 

 やがて、落ち着かない気分で霧の向こうを見つめていると、背の高い男のシルエットが浮かび上がる。ヒソカだ。奴が来ること自体にはさほど驚きはなかったが、その腕に抱えられたリリスの姿にさすがのキルアも度肝を抜かれる。他の受験者たちもざわめき、遠巻きにしつつも二人の関係を訝しんでいるようだった。

 キルアも本当ならすぐにでも駆け寄りたかったが、結局リリスをおろしたヒソカが離れていくまで近づけなった。

 

「リリス!」

「キルア!よかった、たどり着けてたんだね」

 

 リリスもこちらに気付くと、あからさまに安堵した表情を浮かべる。捻ったらしい彼女の足首は青く腫れあがっていたが、それ以外で目立った怪我はなさそうだった。

 

「それはこっちの台詞だっつうの!どういうことなんだよ、なんでヒソカがリリスを運んでくるんだよ」

「実は私とヒソカはちょっとした知り合いでね。前に仕事を依頼したことがあるの。

 で、私が足を痛めているのを知った彼が助けてくれたってわけ」

「……あいつがそんな親切な奴には見えないけどな」

「まぁ、他人を蹴落としてなんぼの試験では、合理的な行動ではないね。でも、それはキルアもでしょ?」

「……」

 

 リリスの視線が中身の減った香水の瓶を捉えていることに気付いたキルアは、なんとなく気まずい思いを味わう。しかし別にリリスが責めているわけではないということくらい、ちゃんと理解はしていた。

 

「大丈夫。ヒソカはゴンたちを殺さなかったよ」

「……まあでも、この分じゃあいつらは脱落だろうな」

 

 建物にかけられた時計を見る限り、時間はもうほとんどなかった。リリスが残っただけでもましだろう。

 そう無理矢理思おうとしたとき、うぉぉおおお!やったらぁぁああ!という男の奇声が遠くの方から聞こえてきた。

 

「この声……」

 

 思わずリリスと顔を見合わせ、すぐさま目を凝らす。霧の中に浮かぶ3つのシルエットがだんだんと濃くなり、その姿がはっきり見える頃にはキルアの胸は喜びに高鳴っていた。「ゴン!」自分でも無意識のうちに、彼の名を叫ぶ。

 

「キルア!」

「よっしゃ!やっと着いたのか!!」

「まさか本当に辿り着いてしまうとは……」

 

 驚いているのはなにもキルアだけではなかったが、駆け寄ってゴンを捕まえ、その特徴的なつんつん頭を拳でぐりぐりといじめる。会場に着いたとわかったレオリオは、途端に地面に足を投げ出して座り込んだ。

 

「はぁ~!!流石にもう駄目かと思ったぜ!」

「お前マジかよ、ほんとに人間か?信じらんねー!」

「レオリオのコロンが特徴的だったからだよ」

「いやいや普通無理だっつうの……」

「私もゴンの鼻は野生並みだと思うぞ」

 

 ゴン以外の全員が呆れていたが、同時に興奮もしている。最初は落ち着いている印象を受けたクラピカでさえ、今は年相応に声が明るく弾んでいた。

 

「でもキルアが残してくれなかったらたどり着けなかった!ほんとにありがとう」

「いや、俺は別に……」

 

 しかし気分が高揚していたのも束の間、ゴンにお礼を言われ、複雑な気持ちになる。ゴンは素直に感謝してくれているが、たとえそういう役割でなかったとしてもおそらく彼らを残して先に行っていたと思うからだ。キルアが一人で進んだのは自分の為であって、彼らの為ではない。仲間のために、脱落するどころか落命するリスクまで背負って、あの場に残ったゴンと自分は違うのだ。

 

「ところでリリスは?ヒソカと一緒に行くからって、オレたち別れちゃったんだ」

「え、あいつならさっきまでここに、」

 

 しかし、沈みかけたキルアの思考は、ゴンの一言によって引き戻された。振り返ればいると思っていたリリスの姿が見えない。どこへ行ったんだ?ときょろきょろと辺りを見回したところで、突然地鳴りのような音が辺り一帯に響き渡った。

 

「な、なんだァ?」

 

 時計を見ればちょうど12時。二次試験開始ということだろう。一斉に身構えた受験者たちの前に姿を現したのは、気のきつそうな若い女と山みたいな巨体を持つ男だった。どうやら今の音は男の腹の音だったらしく、説明によると彼らが次の試験官だそうだ。

 

「二次試験は料理よ!」

 

 最初からなんでもありの試験だと聞いていたが、まさかの内容に受験者がざわつく。しかし初めのオーダーは豚の丸焼きというもので、さほど料理の腕自体は関係なさそうなのが救いだった。

 

「じゃあ豚を得るのが難しいってことなんだろうね」

「おまっ、一体どこから……」

 

 試験官の話に気をとられていると、リリスがひょっこり現れて会話に参加してくる。キルアは思わず半眼になったが、元気そうなリリスの姿を見てゴンたちも安心したらしかった。

 

「よかった、リリスも無事だったんだね!」

「うんありがとう。心配かけてごめん」

「つーかお前、どこ行ってたんだよ」

「ちょっとそこの川で手を洗ってきたの。ヒソカに触っちゃったし」

 

 リリスは後方の森を指さすと、小さく肩を竦めた。仕事の依頼をしたことがあると言ったわりには随分と酷い扱いである。しかし、手を洗いたくなる気持ちはよくわかったので、キルアは「そういうときはなんか言ってから行けよ」と言うにとどめた。

 

「なんだぁ?姉離れできねぇってわけか?」

「そんなんじゃねぇよ。リリスは弱いから、いざってとき俺が守んなきゃなんねーだろ」

「はいはい、生意気なガキだと思ったが案外可愛いとこあんなぁ」

「だからそういうんじゃねぇって!」

 

 にやにやしながら、ここぞとばかりにからかってくるレオリオが鬱陶しい。なんにも知らないくせに、と思う。リリスは確かにここにいる受験者の大半より高い身体能力を持っているだろうが、彼女を巻き込んでしまったキルアには彼女を守る責任があるのだ。だからさっきみたいにリリスを置いて逃げるというようなことは二度としたくなかったし、あの時説得されて置いて行ってしまった自分にも正直腹が立っていた。

 

「私はちゃんとわかってるよ。キルアは心配してくれたんだよね」

「心配って言うか……」

 

「それより、なんだか変な音がするよ」

 

 ゴンの耳が、獣のそれのようにぴくぴくと動く。確かにごく僅かだが、不規則に地面を踏み鳴らす音と身体に伝わる揺れが感じられた。

 これは、この数は――

 

「あぁ、私も気になっていた。だんだんこちらに近づいてくるな」

「お、おい!あれって!」

 

 レオリオが指さした先には、こちらに突っ込んでくる豚の大群が見えた。その数と勢いに気圧されて、何名かは悲鳴をあげて逃げ出す。しかしここにいる面子はみな、食材が向こうからやってきたことに喜色を浮かべたのだった。

 

「えっと、一人一頭やればそれでいいんだよね?」

「よし!やるか!」

「……リリス、その足でいけるか?」

「うん、とりあえずやってみる」

 

 ちらりと窺った彼女もまた、その表情に怯えなど一切見られなかった。確かに兄貴に脅されていたことに比べたら、今更あんな豚くらいどうってことないのかもしれない。

 

「無理そうだったらすぐ言えよ」

 

 それでも、ちょっとくらいは頼ってほしい。

 そんなふうに思ってしまうのは、幼い我儘なのかもしれなかった。

 

 ▲▽

 

 

 試験終了の10分ほど前にやってきたヒソカとリリスは、その組み合わせと格好のせいで馬鹿みたいに目立っていた。

 いや、ヒソカが目立っているのは元からなので、どちらかと言えばそのヒソカに姫抱きにされていたリリスのほうに注目が集まっている。当然、あちらこちらで二人の関係を訝しむ声が聞こえてきて、イルミは”ギタラクル”の仮面の下で眉をひそめた。

 

 うまくヒソカに利用されたことも癪だし、あの分ではヒソカはこれからもリリスにちょっかいをかけ続けるだろう。ひとまず彼女がちゃんと二次試験会場までたどり着いたことには安堵したが……。

 

 そこまで考えたイルミは、安堵?と首を捻った。確かにほっとはしたが、それは正確な表現ではないだろう。自分の計画に綻びが出るのが嫌だっただけだ。

 もしもここであっさりリリスがヒソカに殺されたりしたら、今までのイルミの努力や労力が水の泡である。仮に殺されなかったとしても、脱落されるようなことがあればせっかくかけた保険の意味がない。

 

 イルミはその場にとどまって、リリスに駆け寄るキルアを観察していた。そう、結局のところリリスは保険でしかなく、あくまでイルミの本命はこちらである。流石にただ走るだけの試験はゾルディック家の教育を受けた者にとっては簡単すぎたようだが、どうやら一緒に走っていた奴らのことも気になるらしく、キルアは未だにどこかそわそわしている。

 

 イルミは弟のそういうところが”異質”だと思っていた。あれほどの才能が有りながら、暗殺者として恵まれた環境にいながら、どうして未だに甘さが捨てきれないのだろう。どうして他者を気に掛けるという発想が生まれるのだろう。イルミは自分がそう育てられたように、キルアに対してもしっかり”闇人形”の教育を施した。他に影響を受ける隙などなかったはずなのに、あれは生まれ持っての性格なのだろうか。

 

 試験終了間際に滑り込んだ彼らに見せたキルアの笑顔は、ごくごく普通の子供のように見える。イルミはそれが気に入らなかった。あれは”普通の子供”なんかじゃない。ゾルディック家の後継ぎとなる、”選ばれた子”なのだから。

 

 ざわめく心を抑え込むようにして、イルミはキルアの意識がそれた隙に自身の指輪へ念を込める。そして痛みに反応したリリスがこっちを振り向いたことを確認すると、そのまま森の奥のほうへと進んだ。

 

 

「なんなの?ヒソカに関わったのは不可抗力なんだけど」

 

 死角になりそうな木の陰で立ち止まれば、察したリリスが不満げな顔を隠しもせずついてくる。すぐ傍には小川が流れ、先ほどの湿原とは正反対の麗らかさの中、二人は向き合った。

 

「それはもういい。それよりキルアの様子は?」

「ずっと見てたでしょ」

「怪しまれてないかって聞いてるんだよ。あと、あの周りの奴らは何?」

 

 キルアに余計な交流は不要だ。そんなイルミの想いが伝わったのか、リリスはますますうんざりしたような表情になる。彼女は生意気に腕を組むと、睨みつけるようにしてイルミを見上げた。

 

「怪しまれたくないなら、こんな風に呼び出さないでくれる?キルアには私が監視役として使われてるとは伝えたけど、あなたがいることは言ってないの。

 それからあの周りの子たちはたまたま知り合っただけ。キルアもちゃんと見捨てて先に到着してたでしょ」

 

 それは投げかけた質問に対する簡潔な答えだったが、腹立たしく感じるのはなぜなのだろう。イルミが黙っていると、リリスは満足したか、とでも言わんばかりに小さく鼻を鳴らす。

 実際、イルミにはもう他に聞きたいことはなかったのだが、そこでふと、彼女が不自然に重心をずらしていることに気がついた。

 

「足は?」

「え?」

 

 その質問は、ほとんど無意識のうちに口から出たものだった。だから、目を丸くしたリリスに見つめられて、そこでようやくイルミはハッとする。しかし今更口に出した言葉は取り消せないので、きまりの悪さを押し殺しながら彼女が答えるのを待った。

 

「……少し痛むけど、一次試験みたいに走りっぱなしとかじゃない限り大丈夫だと思う」

 

 彼女の方も不意打ちの質問だったからか、戸惑いつつも素直な返事をよこす。心なしか先ほどの険しさも薄れ、キルアといるときのような素の表情だ。

 

「そう」

 

 まさか、彼女はイルミが心配したとでも思ったのだろうか。そうだとしたら勘違いも甚だしい。リリスのことなんか、心配するはずがない。足の状態を聞いたことには他意などなく、ただ目についたから口にしただけだ。

 イルミは自分でもよくわからないまま無性に腹が立って、声色に棘を含ませる。いつもみたいにただ淡々としていればよかったのに、なぜだか攻撃的にならざるを得なかった。

 

「これ以上足手まといになられたら困るからね。ライセンスもあれば便利だし、わざと落ちたりしたら……わかってるだろうね?」

 

 キルアにライセンスはまだ早いと思うが、できればリリスには今回で取らせたいと思っている。流星街出身の彼女には戸籍や身分証明がないので、結婚するのにもいちいち手間がかかるのだ。いくら金さえだせば身分なんて偽装できるとはいえ、ハンターライセンスほど保証されたものではないし、取れるものは取るに越したことがない。

 

 しかしイルミの言葉を聞くなり、リリスはまたあの仏頂面に戻った。「あぁ、そうだね」一応従うつもりはあるようだが、投げやりな口調は相変わらず反抗的だ。

 

「私もバレないようにするから、そっちも今後接触は控えて。ヒソカだけでも嫌なのに、あなたみたいな不気味な男と関わりがあるって絶対思われたくない」

 

 リリスは吐き捨てるようにそう言うと、踵を返して去っていった。

 おそらく、不気味と称されたのはこの変装のことなのだろうが……。

 

「そんな言うほど変じゃなくない?」

 

 ちょうど近くを流れていた川に自身の変装である“ギタラクル”を映したイルミは、腑に落ちない、と一人で首を捻った。



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26.遊行

「次の目的地へは明日の朝到着予定です。こちらから連絡するまでは、各自自由に時間をお使いください」

 

 協会側からのそんなアナウンスを受け、まるで針鼠のようにピリピリしていた受験者たちの空気も少しは和らぎを見せる。乗り込んだ飛行船の行き先は次の第三次試験会場らしいが、到着が明日ならばビスカ森林公園からはかなり離れたところにあるのだろう。試験ごとに会場の位置が大きく変わるのは、失格者の介入を防ぐという目的もあるのかもしれない。

 

「ゴン!飛行船の中探検しようぜ!」

「うん!」

「元気な奴ら……俺はとにかくぐっすり寝てーぜ」

「私もだ、おそろしく長い一日だった」

 

 一度は合格者0で終了し、どうなることかと思った二次試験だったが、会長による再試験のお陰でゴンやレオリオ、キルアもリリスも皆揃って先に進めることになったのだ。それでも、あたりを見回してみれば今や残っている者は初めの10分の1ほどしかおらず、改めてハンター試験の厳しさを痛感させられる。

 よっこいしょ、と年寄り臭い掛け声を発したレオリオが廊下の端にどっかり腰を下ろし、探検に加わらなかったクラピカとリリスも一緒になって休憩することにした。

 

「あっ、そうだ。リリス、足見せてみろよ」

「えっ」

「これでも俺は医者を目指してるんでな。こいつん中には湿布とか包帯とか、色々入ってんだよ」

 

 レオリオはそう言って、アーガイル柄の派手なスーツケースを叩く。ちなみに、ヌメーレ湿原で道標としたオーデコロンはここから出てきた代物だ。正直なところ試験を受けに来たにしては荷物が多いと思っていたが、なるほどそういう事情があったのなら頷ける。

 リリスの足首を固定するその手際の良さからも、普段から彼がこうして人助けをしていることが容易に想像でき、クラピカは思わず微笑を浮かべた。

 

「やはり、金がハンターになる志望動機だなんて信じられないな」

「……いいや、オレの目的は金さ。物はもちろん、夢も心も、人の命だって金次第だからな」

「命だと?医者になりたいと言っておきながら何を!撤回しろ」

 

 クラピカの志望動機は、船上でレオリオも聞いているはずだ。詳しいことまでは述べていないが、幻影旅団に同胞を皆殺しにされたという話はした。それなのに、命を金で買えると言われては流石に黙ってはいられない。まるで嵐の夜の決闘を再現するかのようにクラピカは憤ったが、対するレオリオはあの時と違って苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 

「事実だ!金がありゃ、オレの友達は死ななかった!」

「……病気か何かだったの?」

「そうだ。だけど、決して治らない病気なんかじゃなかった!問題は法外な手術代さ!」

 

 吐き捨てるようなレオリオの口調に、クラピカの怒りは潮が引くように冷めていく。馬鹿げた発想だが、もしもその友人の病が治療法のない難病だったなら、ここまで無力感に苛まれることもなかっただろう。痛ましそうな表情になったリリスを見て、クラピカは自身もきっとにたような顔をしているに違いないと思った。

 

「オレは医者になって、ダチと同じ病気の子供を治して、”金なんていらねェ”って言ってやるのが夢だった。だがよ、そんな医者になるためには、さらに見たこともねェ大金がいるそうだ」

「……」

「わかったか?この世は金!金!金だ!オレは金が欲しいんだよ」

 

 レオリオはそう言って、乱暴にスーツケースを閉めた。それでもやはり、他人を蹴落とすことが想定される試験において、救急道具を持ってくるのがこの男の性質なのだろう。

 

「やはり貴様は嘘つきだ」

「……」 

「が、なれるといいな、医者に」

「手当てしてくれてありがとう、レオリオ」

「……おうよ」

 

 礼を言われて照れくさいのだろう。「そ、そういやひとつ気になるんだけどよぉ、試験ってのは何次まであるもんなんだ?」レオリオがあからさまに話題を変えたのはわかったが、その疑問はクラピカも抱いていたもの。やや声が大きすぎたせいで周りの注目を集めてしまったが、今回ばかりは咎めることはしなかった。

 

「どうなのだろうな、リリスは何か知っているか?」

「ううん、私も今回の受験が初めてだし、そもそも受験自体も二週間前に決まったばかりなんだ」

「そうか。私も詳しいことは知らないな」

 

 一次試験が終わりの告げられないマラソンだったことから、試験の数が明言されていないことにもそうした意図があるのかもしれない。そもそも段階ごとに定員があるわけでなく、合格者数が変動するので、協会側も臨機応変に対応するしかない。「フフン、お困りの用だな?」声をかけてきたのは、会場に来た途端に怪しげなジュースを飲ませようとして来たトンパという男だった。確か彼は35回の受験経験があると言っていたが、正直信用に足る人間とは思えない。しかしトンパは三人のうろんげな視線をものともせず、饒舌に説明し始めた。

 

「試験はその年によって違うが、だいたい平均して5つか6つだ。審査委員会が試験官と内容を考慮して加減する」

「それが本当ならあと3つか4つはあるんだな。こりゃなおさら寝ておかねーと」

「だが気をつけたほうがいい。さっきの進行係は“次の目的地”と言っただけ。もしかするとここが三次試験の会場かもしれないし、連絡があるのも“朝8時”とは限らないってわけだ。

 寝てる間に試験が終わっちまったってことになりたくなきゃ、ここでも気を抜かないほうがいいってことさ」

 

 そう言って意味深な笑顔で去って行くトンパに、なるほどやはり親切心で教えてくれたのではないようだと納得する。狙いはきっと試験が不意打ちで行われる可能性を示唆して、受験者の精神を削ることだろう。これは流石のレオリオでもわかったらしく、目を合わせると今の話などなかったかのように、協会側から用意されていたブランケットを取りに行った。

 

「ほらよ。あんなやつの言うことなんて無視して寝ようぜ」

「……」

「どうした、リリス。何か気になることでもあるのか?」

 

 見ればリリスはブランケットを受け取りこそしたものの、何やら考え込んでいるようである。それがただぼうっとしているだけならよかったのだが、彼女の表情はもっと深刻なように見えた。

 

「あー……私は起きていようかな」

「へ?なんでだよ、トンパが言ったこと気にしてんのか」

「そういうわけじゃないけど、眠くないというか寝たくないというか」

「はぁ?あんだけ動いたらフツー眠いだろうが」

 

 確かに女性の彼女からしてみれば、雑魚寝というのはあまり歓迎できる事態ではないだろう。しかし数は少ないとはいえ他にも女性の参加者はいるし、一応ここまでの試験は共に潜り抜けてきた間柄だ。今更そういう意味で警戒されているとも思えなかった。

 

「心配すんなって。万が一、三次試験が寝てる間に始まるようなことがあれば起こしてやるし」

「一番寝こけていそうなレオリオが言ってもだな……。

 まぁ、私も休めるときには休んだほうがいいとは思う。たとえ眠れなくても、目を閉じてじっとしているだけでも随分と違うものだよ」

「……わかった」

 

 リリスはまだ不服そうだったが、最後には諦めたのか同じように壁に寄りかかってブランケットにくるまる。しきりに唇に触れている仕草から彼女の不安や恐怖心が窺え、もしかしたら”眠る”こと自体に抵抗を感じているのかもしれないと思った。そう思ったのは、自分も以前に悪夢にうなされて、眠るのが辛かった経験があるからだ。

 

 

「少しだけ、話してもいい?」

「なんだ?」

「……あのさ、二人はヒソカと私の関係、どうして聞かないの?」

 

 話をすると言ったわりに先にリリスが質問してきたので、クラピカもレオリオも一瞬虚を突かれる。確かに気にはなっていたが、あの時のリリスはクラピカ達を逃がすために必死になってくれていたし、怪しむことで彼女の気持ちを踏みにじりたくはない。「聞いてもいいのか?」躊躇いがちにそう聞き返せば、彼女は静かにこくんと頷いた。

 

「……彼に頼んだ仕事はボディーガードだったの。あれでも強さだけは信用できるし。

 私が家の為に結婚させられそうだって話はしたよね?ヒソカとは、今の婚約者から逃げるために約1ヶ月契約したんだ」

「だけどよ、結局婚約してんだろ?ヒソカは失敗したのか?」

「ううん。私が婚約者に捕まったのは、契約が切れた後なの。それから私はずっと彼の家に軟禁されて、後継者のキルアも似たようなものだった。

 私たちにとって、今回試験を受けることを許されたのは千載一遇のチャンスなの」

「……なるほど。それがリリスの志望動機というわけか」

 

 自由恋愛が盛んになった現代でも、名のある家では未だに政略結婚が行われるとは聞いたことがある。しかし、それでも軟禁までするなんてよっぽどだろう。ヒソカと繋がりがあることからも、リリスはおそらく裏の世界の人間なのではないだろうか。「でも、どうしてわざわざ自分からそんな話を?」家庭内の事情というのは軽々しく人に話せるものではないし、それほどの家柄ならリリスやキルアを狙う奴が出たっておかしくはない。たとえ殺すつもりがなくても、金と取引できる材料に十分なりえるからだ。

 

「そうだね。私も誰にもこんなこと話すつもりなんてなかった。でもキルアを見てて少し羨ましくなったの。私も友達なんてろくにいなかったし」

 

 友達などというものは、クラピカにももはやいなかった。5年前の惨劇で、友も家族も故郷すらも失ってしまったのだ。それからはずっと緋の目のためにあまり人と関わらないようにしていたし、復讐の想いだけに突き動かされて生きてきた。

 けれども、友達が羨ましいと言ったリリスの気持ちはよくわかる。たかだか1日しか共に過ごしておらず、これから先試験の内容によってはいつ敵になってもおかしくない状況で、手の内を明かすのは愚かな行為でしかないだろう。

 

 だが、それでも――

 

「……そうか。それでは、私の話も聞いてもらえるだろうか」

 

 他人と心を通わせることの喜びを知っているから、たとえ束の間でもそこに浸りたいと思ってしまう。レオリオが、リリスが、その過去を語って、自分だけ何も話さないで済ますほどクラピカは”ずるい”人間ではない。

 そしてこうして誰かに語ることによって、この胸の怒りや憎しみが風化してしまわないでくれればいいと思ったのも事実だった。

 

 

 △▼

 

 

 就寝後、2時間ほどたった頃だろうか。

 隣りで人が動く気配がして、クラピカはそろりと薄目をあけた。特に敵意や殺気などは感じられなかったのでこのまま睡魔に身を委ねても良かったが、なんとなく気になるものは気になるのである。隣のレオリオは相変わらず爆睡していたため、起きていたのはやはりリリスのほう。彼女は何を考えているのか、毛布から出たままぼんやりそこに立っていた。

 

「眠れないのか?」

 

 あの後、クラピカの語った志望動機に二人は暗い表情になったものの、お定まりの”復讐なんてやめろ”という説教はしてこなかった。もちろん、やめろと言われたところで大人しくやめるつもりも毛頭ないし、復讐が褒められたものではないことくらいクラピカにだってわかっている。しかし、それでも頭ごなしに否定されなかっただけでも、彼らに話してみて良かったと思えたし、互いの事情を話したことで心の距離が近づいたのは確かだ。

 

 最初は眠るのを拒否していたリリスも会話しているうちに不安が紛れたようで、結局三人そろってゆるりと眠りについた。誰かと話しながら、そのうちに眠ってしまうのはクラピカにとっても久しぶりの経験で、あの妙なけだるさが心地よかったのだ。

 

「リリス……?」

 

 しかし、リリスはやっぱり眠れないようである。

 しばらく見守っていてもそのままの状態でピクリとも動かないので、いい加減クラピカは不審に思って声をかけた。同じ眠れないにしても、そうしてそこで突っ立ているのはおかしな話だ。これからの試験のことを考えるなら、たとえ眠れなくても座ったり寝転んだりして身体を休めたほうがいい。

 

 しかしリリスはクラピカが声をかけたのにもかかわらず、何の反応も示さない。周りに気を遣って声を落としたとはいえ、聞こえない距離ではないはずだった。

 

「……リリス?」

 

 もう一度声をかけるがなんだか様子がおかしい。そこでクラピカも立ち上がったが、リリスはまだぼんやりと何もない虚空を見つめている。「どうしたんだ」まさか寝ぼけているというのだろうか。彼女の肩を叩いたが、これまた無反応。いよいよ心配になって強めに肩をゆすれば、リリスはようやく緩慢な動作でクラピカを振り返った。

 

「おかあ、さん」

「は……?」

 

 とっさのことで理解できず、クラピカは間抜けな声を漏らしてしまう。常々、女顔であることを気にしているクラピカ的には、違う意味でダメージも負った。しかし、単なる寝言と切り捨てるには、やはりリリスの様子は異常だ。「リリス、しっかりしろ」普通ここまで声をかけたり揺すったりすれば起きると思う。第一、リリスの目はしっかりと開いている。

 

「待って」

 

 クラピカが対処に困っていると、リリスは不意に何かを見つけたように廊下の先のほうへ視線をやった。つられてクラピカもそちらを見るが、もちろんそこには誰もいない。

 けれどもリリスはまるでそこに誰かがいるみたいに、ゆらゆらとおぼつかない足取りで歩き始めた。

 

「おい、一体どこへ、」

「待って……行かないで」

「リリス、」

 

 状況だけ見れば、恐怖を煽られてもおかしくない。

 しかしクラピカは膨大な知識の中から、彼女の状態に当てはまる答えにたどり着いていた。おそらく、リリスのこれは夢遊病なのではないだろうか。よく本人にはその間の記憶がないと言われているが、彼女ほど活発に移動するタイプならば翌朝全く違う場所で目覚めると言うこともあり得る。寝ている間に自分が知らず知らずに行動しているとなれば、彼女が眠るのをあれだけ渋っていたことも理解できた。

 

 だが、夢遊病かもしれないとわかったところでクラピカにはどうしてやることもできなかった。夢遊病は基本的に4~8歳ころの小児に多い病気であるし、通常青年期以降に自然消失するものだ。原因は身体的、精神的ストレスが関係していると考えられているが、今のところこれといった心理療法や薬物療法が確立されているわけでもない。患者を無理に覚醒させたり制止すると錯乱して攻撃的になる可能性もあるし、逆にあれだけ活動的であればうろついた先で怪我をする場合もあった。夢遊病の最中は痛みを危険に対する状況判断が鈍り、痛みも感じにくくなっているのだ。

 

 とにかく放っておけないクラピカは、黙ってリリスの後を追うことにした。手荒な真似をすれば止めることも可能だろうが、リリスの実力も不明である今、あまり得策とは思えない。通常、睡眠時遊行は長くても1時間程度のものなので、その間彼女が危ない目に遭わないか見張っていればいいだけだ。

 

 リリスは相変わらずゆっくりとした動作で、廊下の先を目指して歩いていた。そしてその後しばらく立ち止まったり、また歩いたりを繰り返す。言葉を発したのはクラピカが話しかけたあの時だけで、あとは本当にただゆっくりと徘徊しているだけだ。

 

 夢遊病は夢の中の行動通りに動いているのだと思われがちだが、実際遊行が起こるのは深い眠りのノンレム睡眠中で、患者はその間何の夢も見ていないという。

 最近は落ち着いているが、事件直後は緋の目のことでよく悪夢にうなされていたクラピカからすると、彼女が悪夢をみていないのはせめてもの救いのように思えた。先ほどのリリスの言葉から考えて、おそらく彼女の家庭にまつわる心理的ストレスが原因なのだろう。彼女を軟禁していたのはキルアの兄らしいが、実質彼女は家族から身売りされるような形で嫁ぐことになっているのだろう。

 

 

 やがて、15分ほどあちこちを歩き回ったあと、不意にリリスの身体は糸が切れたように脱力した。慌ててクラピカが支えたおかげで床に打ち付けられるようなことはなかったが、腕の中の彼女は今度こそ“眠っている”。

 

 その寝顔は思っていた以上に安らかなもので、クラピカはほっと息をついた。哀れなものだと思えども、彼女とはまだ知り合って1日しか経っていない。さすがにこれ以上は深く事情に立ち入ることもできないし、そもそも今は試験中だ。クラピカにできるのはせいぜい彼女が危ない目に遭わないよう見守るくらいのことだろう。

 

 リリスを抱き上げたクラピカは、静かに元来た道を戻る。相変わらずレオリオはぐっすり眠りこけていて、いびきまでかいているくらいだ。

 

「何も心配せず、眠るといい」

 

 彼女を壁に寄りかからせ、元のようにブランケットをかけたクラピカは小さくそう呟く。それから自身も明日の試験に備えて、再び目を瞑ったのだった。

 



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27.心当たり

誤字報告ありがとうございました!そして連載再開おめでとうございます!


「おはよう、キルア」

「あぁ。っと!」

 

 時刻は朝の7時半。リリスに声をかけられ振り返ったキルアは、ぱしゃり、という音と共に写真を撮られ、思わず眉をしかめる。告知では朝の8時に連絡があるとあったため、既に起きていた受験者たちの視線を一身に浴びることになったキルアは、恥ずかしさと呆れからリリスをぎろりと睨みつけた。

 

「おまっ、そういうのはひと声かけてからやるもんだろうが」

「えー、今かけたじゃん」

「写真を撮っていいかってことだ!」

 

 彼女のこの行動はイルミへの定期報告のためだ。写真を撮ることに協力するとは言ったものの、普通ならゾルディック家の人間には顔写真だけでもいい値がつく。けれどもリリスは悪びれた様子もなく、にっこりと笑って見せた。

 

「だって、撮るよって言ったって、別に笑顔くれるわけでもなんでもないでしょ」

「あたりめーだろ」

 

 写真の行きつく先はあの兄貴なのだから、考えただけでも気持ちが悪い。キルアが想像で身を震わせていると、飛行船の窓から外を眺めていたレオリオが呆れた顔で振り返った。

 

「なんだオメーら、観光気分かァ?のんきに写真なんて取りやがって。こっちは昨日これからの試験のことを考えてろくに眠れなかったっつうのによぉ」

「眠れなかっただと?だったらあの獣のようないびきはなんだったんだ」

「誰が獣だ!誰が!なぁ、リリスも昨日近くで寝てただろ?俺、いびきなんかかいてたか?」

「うーん、私もぐっすりだったからわかんないな」

 

 そう言ってリリスが困ったように笑うと、クラピカの表情がわずかに陰った。リリスの同意を得られなかったからかもしれないが、レオリオがいびきをかくさまはいくらでも想像できるのでクラピカの証言が正しいのだろう。「ほらみろ、やっぱてめーが神経質すぎるんじゃねーか?」リリスの言葉を聞いたレオリオはますます勢いづき、代わりにクラピカはうんざりした表情になった。

 

「そうだな、貴様より繊細であることは認めよう」

「ちっ、口のへらねぇ野郎だぜ。

 と、それより、ゴンの姿が見えねーが、キルア一緒じゃなかったのか?」

「あぁ、あいつはたぶん、どっかその辺で寝こけてると思うぜ。昨日は一晩中、会長相手に動き回ってたみたいだからな」

 

 昨晩、ゴンと共に会長のゲームに参加したことを思い出して、キルアはもやもやとした気持ちを抱えた。初めこそボールを取るだけで合格という破格の条件に目を輝かせたものの、今では明らかに遊ばれていたとわかる。格が違いすぎて、そもそもゲームとして成り立っていないのだ。そういうわけで不毛だと見切りをつけたキルアはしばらくしてゲームから降りたが、ゴンは結局あの後も長く続けていたようである。キルアが離脱する頃には、会長に右手を使わせるというふうに主旨は大きく変わっていたようだが。

 

「なんじゃそりゃ。じゃあ早いとこ見つけて起こしてやったほうがいいんじゃねーのか?もう次の試験まで30分もねーぜ」

「だな。俺とリリスで探してくるよ」

 

 おそらく、ゴンはあのゲームの部屋にまだいるはずだ。ちょうどリリスと二人きりで打ち合わせがしたかったので、これ幸いとキルアはリリスの腕を引く。

 

「出た、シスコン野郎」

「うっせ!そんなんじゃねぇ!」

 

 しかしそのせいで要らぬ誤解を受けたキルアは、朝一番から大声をだす羽目になり、肩を怒らせて廊下を歩くこととなった。リリスもキルアの意図がわかっているため誤魔化すための苦笑しか浮かべないし、やれやれとしか言いようがない。ほとんど八つ当たりに近かったが、からかわれた気恥ずかしさのせいでキルアは自然とぶっきらぼうな口調になった。

 

「で、兄貴はなんて?」

「試験でキルアと合流したことを伝えたら、そのまま協力するふりして監視しろって。どうやら大事な仕事中でしばらく手が離せないみたい。

 それに、ハンター協会と揉める気もないみたいだよ」

「じゃ、何か仕掛けてくるにしても試験後ってわけか」

「たぶんね。とりあえず次は三次試験だって伝えるけど?」

「オッケー」

 

 予想通り、試験中は手を出してこないらしい。それはこちらにとっても非常に助かる話だった。あとは最終試験の前にリリスに嘘の場所を伝えてもらって、ライセンスをゲット次第即逃亡というのが一番いいだろう。キルアはリリスの裏切りがバレないよう、定期的に写真に協力してやれば完璧だ。

 

「じゃあ、あとは試験に受かるだけだな」

「二次試験、正直やばいって焦ったけどね」

「まぁな。なんでもアリだってのはわかったよ。正直、三次も何が来るか……ま、こいつはほんとに気楽そうだけど」

 

 会長とゲームをしていた部屋の扉を開いたキルアは、中で気持ちよさそうに眠っているゴンを見てため息をつく。靴も上着も脱ぎっぱなし、タンクトップ姿で大口を開けて眠るゴンには、今が試験中だなんていう緊張感が欠片もないのだろう。キルアの家族のことを伝えた時ですら特に驚いた様子はなかったし、大物なのか何も考えていない馬鹿なのかいまだによくわからない。

 ただ、正直面白い奴だと好ましくは思っている。

 

「うわ、爆睡してるね。とりあえず見つけたし、着いたら起こすって感じでいいかな」

「そうだな。こんだけ気持ちよさそーに寝られたら、起こすのなんかちょっと気が引けるし」

 

 リリスと顔を見合わせて苦笑したが、実際、二人の判断は正しかった。

 会長の計らいか、単に運航に遅れが出たのか、三次試験会場に到着したとアナウンスが流れたのは告知よりも一時間半も遅い、9時半だったのだ。

 

 

 ▲▽

 

 

 三次試験の会場はトリックタワーという名の、ただひたすらにつるりとした塔のてっぺんから始まった。来るときに飛行船から見た限りではタワーに窓のようなものは一切なく、タワーというより巨大なコンクリートの柱だと言われたほうがしっくりくる。

 

 飛行船から降り立った受験者たちはみな辺りを見回し、何が行われるのか推測しようとしていた。クラピカも同様に何か手がかりがないかと注意深く観察していたが、いっそ拍子抜けしてしまうくらい何もないのである。

 タワーは結構な高さであり、遮るものが何もない分、吹きつけてくる風は強かった。

 

「これ、受験者同士で落としあいとかだったらどうしよう」

「三次試験まで来て、そんな単純な方法で数を減らすとは思いたくないが……」

 

 恐る恐る下を覗き込んだリリスの呟きに、クラピカはやんわりとした否定を返す。二次試験のことがあるから、ハンター試験は単純に強さだけを試されるものではないのだろう。

 

 やがて、受験者全員が降り立ったところで、試験内容が告げられる。未だに試験官の姿はなく、豆のような姿かたちの進行役が口を開いた。

 

「さて、試験内容ですが試験官の伝言です。

 “生きて下まで降りてくること。制限時間は72時間”」

 

 内容はいたってシンプルだ。その意味を理解しようとした受験者たちの間には一瞬の沈黙が生まれたが、進行役はそれ以上詳しい説明をすることもなく開始を告げる。

 ほどなくして、外壁を伝って降りようとする猛者が現れたが、残念なことに彼は怪鳥の餌となってしまっただけだった。

 

「きっとどこかに下へと通じる扉があるはずだ」

 

 今回設けられた制限時間は3日間。

 これまでの試験に比べると随分と長い設定だが、それだけこのタワーを降りるのにいくつかの仕掛けを突破しなければならないということだろう。

 朝9時半に開始して3日ということは、当たり前だが3度の夜を迎えることになる。クラピカは隠し扉を探しつつ、ちらりとリリスのほうに視線をやった。

 

 あの後、夜明け過ぎに目覚めたらしいリリスはやはり自分の行動を覚えていないようだった。ただ、起きるなり辺りを見回して場所を確認しているようだったので、自分の症状は自覚しているようである。異変がないとわかったリリスは明らかに安堵の表情を浮かべていて、クラピカは昨日のことを言えなかった。言ったところで本人にもクラピカにもどうしようもないことだし、寝る前に症状を相談してこなかったリリスはきっとこの話題に触れられたくないだろうと思ったからだ。

 

「キルア、ちょっといいか?」

 

 しかし、この先試験が進めば進むほど、おそらく夜を越す機会は多くなる。手分けして扉を探す中、クラピカはさりげなくキルアの近く寄ると小声で話しかけた。もしキルアがリリスの症状を知っているなら昨夜に別行動をするはずがないので、リリスが嫌がろうがキルアだけには言っておかなければならない。

 

「見つけたのか?」

「いや、そうではない。リリスのことだ」

「は?リリス?」

 

 キルアは怪訝そうな顔になると、離れたところで床を叩いてまわっているリリスに視線を向ける。あえて彼女が離れているときに話を持ち掛けたということで、キルアも自然と声を落とした。

 

「なんだよ」

「単刀直入に聞く。彼女が夢遊病かもしれない、ということは知っているか?」

「夢遊病?」

 

 案の定、キルアは何も知らなかったようで、目を見開いてクラピカの言葉を繰り返す。彼女の名誉のために彼女の発した言葉は伏せたが、クラピカはいかにリリスの様子がおかしかったかを説明した。

 

「……ちょっとすぐには信じられないな。あいつ、ここしばらくずっとウチに泊まってたけど、夜中に徘徊してるって噂は聞かなかったぜ」

「キルアの兄なら知っていたのだろうか」

「いや……婚約者って言っても兄貴とリリスの部屋は別だったし、知らない可能性が高い」

「そうか。彼女自身、自覚はあるようだったから、家ではなにか対策をしていたのかもしれないな」

 

 たとえば物理的な方法だが、自分とベッドを何かで繋いだり、ドアに複雑な施錠を施せば、出歩いてしまう確率はずっと低くなるだろう。人によってどこまでの行動ができるかは様々だが、あくまで睡眠のさなかにある状態では、起きているときほど複雑な動作はできない。彼女の振る舞いからして初めてのことではなく何度も経験があるようだし、キルアの家ではそうした対策を自主的に行っていたと考えるのが妥当だろう。

 

「くそっ、なんでそんな大事なこと言わねーんだよあいつ」

「そう言うな、誰しも人に言えない悩みがあるものなのだよ。とりあえず、我々は彼女が危険な目に遭わないように気を配る必要があるということだ」

「ゴンやレオリオには?」

「今のところキルアにしか伝えていない。レオリオは医者志望だから彼になら伝えてもいいかもしれないが、こういったものはすぐに治るものでもないしな。判断はキルアに任せる」

「……わかった。教えてくれてサンキューな」

 

 キルアは礼を言うと、しばし黙り込んだ。彼自身が結婚相手ではないとはいえ、リリスの精神に負担を強いていることについてはやはり心当たりがあるようである。

 クラピカも一応伝えるべきことは伝えたので、再び隠し扉探しへと戻ることにした。「あっ!」しかし視線を床に落とした瞬間、キルアが珍しく大きな声をあげた。

 

「どうした、キルア」

「今、リリスが……」

「え?」

「リリスが落ちてった。いきなり床が開いて」

「なに!?」

 

 慌てて彼女がいたほうを見れば、確かに先ほどまであった姿が忽然と消えている。「確かにここなんだ。くそっ、開かねー!」開いたと思われる床を調べたキルアは悔しそうに言う。どうやら隠し扉の使用は一度きりらしく、受験者一人一人がそれぞれの扉を見つけなければならないらしい。未だ扉の形状などのヒントを掴めていなかったこちらにしてはありがたい情報だったが、まさかリリスが落ちてしまうとは。

 意図せず落ちたものならさぞ驚いたことだろうし、足を痛めている彼女に着地は厳しい。無事だと良いのだが。

 

「いきなり別行動か」

 

 呟いて床を見つめるキルアの表情は、予想以上に強張っていた。どういう事情があるのかはわからないが、キルアはリリスのことに関してものすごく気負っているように感じられる。最初の説明では彼女のほうがキルアのお目付け役という話だったが、キルアはそうは思っていないようだ。兄の婚約者ということを差し引いても、確実に守るべき対象として彼女のことを見ている。レオリオはシスコンだとからかっているが、それとはまた少し異なる必死さがキルアにあるように思われた。

 

「仮に近くに扉を見つけたとしても、そこがリリスのルートと繋がっている保証はないだろう」

「……」

「キルア、幸いにもリリスには症状の自覚がある。危険な状況下であれば眠らないという選択肢もあるし、眠るにしても何らかの対策をとるに違いない」

 

 もう少し早く伝えるべきだったか、と責任を感じながら、クラピカは慰めの言葉を口にした。正直、これが試験である以上、わかっていたとしても共に行動できるかどうかは別の話なのだが、こうもあからさまに落ち込まれては罪悪感も湧く。

 

「あぁ、そうだよな……。俺たちも早く扉を見つけねぇと」

「キルア―!クラピカ―!」

 

 ようやくキルアが頭を切り替えたところで、ゴンの明るい声が響く。「ちょっとこっち来て!」見ればレオリオも合流しているらしく、早く来いと手招きされる。もしかすると扉が見つかったのかもしれない。

 

「行こう、キルア」

「あぁ」

 

 キルアはもう一度だけリリスの消えた扉を振り返り、それからゴンのほうへと走り出した。その後に続いたクラピカはふぅと息を吐く。

 

 リリスのことは心配だが、クラピカだってそうそう他人ばかり心配していられない。とにかく今は試験に集中だと、力強く仲間のもとへ駆け寄った。

 



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28.安らぎの道

 

 ――きっとどこかに下へと通じる扉があるはずだ

 

 そう言われても、上は快晴、左右は絶壁、とくれば残るはコンクリートの床を地道に探していくしかない。

 そうして、リリスは今まさに、”下へと通じる扉”に落ちてしまった。手分けして探したほうが効率がいいだろうと思っての別行動だったが、結局彼らに何のヒントも伝えられないままはぐれたというわけである。「いてて……」せっかく昨日、湿布を貰って痛みが和らいでいた足も、着地のダメージにズキンと痛む。最悪なスタートだ。というか、ここはどこなのだろう。中は塔の外観と同じコンクリートブロックでできた小部屋になっていて、特に出口らしきものは見当たらない。

 

 あるのは一台の監視カメラとそれから、何やら壁に額装された文字が掲げられているだけだった。

 

「安らぎの道……?」

 

 タイトルよろしくでかでかと書かれた名前の下に、説明文がついている。

 

【君たち2人にはここからゴールまでの道のりを協力して目指してもらう。その間、襲い来る100人の敵に眠りと安らぎを与えること】

 

 リリスは何度もそれを読み返してみたが、さっぱり意味がわからなかった。ルールはこんな抽象的な形ではなく、もっとはっきりと書くべきだろう。

 そもそも、”君たち2人”と言われたって、ここにはリリスしかいない。まさかもうひとり誰かがここへ落ちてくるまで、大人しく待たなければならないのだろうか。

 

「はは、都合がいいね」

 

 しかしそんなことを考えていると、不意に後ろから声がかけられる。リリスが飛び上がるようにして振り返れば、そこには”ギタラクル”ではなく”イルミ”が立っていた。

 

「な……」

「いつの間に、って顔してるね。でも先に待たされてたのはオレの方なんだよ。どんな奴が来るかわからないから気配を消してたけど、リリスなら変装もしなくていいしラッキーだな」

 

 イルミはそう言って、こきり、と首を鳴らした。

 部屋に落ちた時点でリリスも一応周囲を確認したつもりだったのだが、さすがはプロの暗殺者ということだろうか。ここが”協力する”道でなければ、何もわからないまま殺されていたかもしれない。便宜上、キルアの監視役として放り込まれてはいるものの、何度も殺されかけた過去を踏まえ、リリスはちっともイルミのことを信用してはいなかった。

 

「カメラあるけど、いいの?」

「協会の人間は問題ない。そもそもライセンスは本名で発行してもらうし、うちのじーちゃんだってあの会長と知り合いなんだよ」

「そう。ハンターって仕事も随分適当なものなんだね。あなたとか、ヒソカみたいな奴にも受験資格があるんだから」

「戸籍のない、”存在しないはずの”リリスにもね」

「……」

 

 嫌味を言えば嫌味で返され、リリスは早速気分が滅入る。昨晩、クラピカやレオリオと屈託のない時間を過ごしただけに、余計にこの男の”毒”が強調されるのだ。

 しかし、試験を突破するという意味ではイルミと一緒でラッキーだったのはリリスも同じ。聞かなかったふりをして、「で、どうしたらいいの?」と話を変えた。

 

「その額の裏側に、右手の手形が2つある。2人そろった証拠としてそこに手を重ねれば、どこかしら道が開いて敵が出てくるって感じじゃない?」

「じゃあ眠りと安らぎを与えるっていうのは?」

「普通に考えて死。もしくは気絶ってとこ。こればっかりは協会側が用意した人材によるね」

 

 死を与えるというのは全然普通の考え方ではないが、イルミにとってはそうなのだろう。とはいえ、リリスも他の解釈が思いつかなかったので、ひとまず言われた通りに額の裏を確かめてみる。そこには確かにイルミが言った通り、人間の手の形の窪みが2人分あった。

 

「……じゃあ、置いてみる?」

 

 リリスが恐る恐る手を伸ばせば、それより先にイルミが何の躊躇いもなく手形に重ねる。一瞬、罠だったらどうするのか?という思いがよぎったが、彼ならば罠だとしてもどうということもないのだろう。

 窪みに2人の手がはめられると、壁の一部が音を立てて開き、新しい道が開放された。

 

「何ぼうっとしてるの?行くよ」

「う、うん」

 

 イルミに促され、リリスは素直に頷いてしまう。試験とはいえ、イルミと協力するなんて不本意でしかなかったが、見ず知らずの人間よりは得体が知れているだけ思考も行動も読みやすかった。

 

 この男は自分の家族にさえ手を出されなければ、そうそう感情的になるタイプでもない。いつも冷静で自分に自信があって、息子として、兄として完璧な役割をこなしている。自分の居場所を確立して、手の届く範囲は全部自分の物だと思っている。

 

 リリスは目の前のすっと伸びた背中を見ながら、そういうところが嫌いだ、と心の中で呟いた。

 

 

 △▼

 

 

 100人の敵、と称されたのは、正式なハンターでも協会側が雇った力自慢でもなく、囚人服を来た男達だった。しかしまさか衣裳だけ揃えた一般人ということはないはずだから、本当に彼らは罪を犯した人間なのだろう。

 最初にたどり着いた部屋にはまず10人が待ち構えていて、彼らはリリスとイルミを見るなり、下卑た歓声を上げた。

 

「ようこそ、安らぎの道へ、お二人さん。待ちくたびれたぜ」

「へへっ、女がいるなんて当たりだな」

 

 男達はぐるりとこちらを囲むように立ちはだかる。リリスも今は念が遣えないのであまり人のことは言えないが、彼らはどうみても能力者ではない雑魚だ。イルミは黙ってリリスのほうをちらりと見ると「これなら、リリスにも少し働いてもらおうかな」と言ってのけた。

 

「えっ!?全部やってくれるんじゃないの?」

「ほんとはそのほうが早いんだけどさ、リリスに楽させるのも癪だと思って」

「私、あなたのせいで今ごく普通の人間なんだけど」

「多少はうちで修行してたんでしょ?うちの嫁としてどこへ出ても恥ずかしくないようにって言ってた成果を今こそ見せるときじゃない?」

「そんな……」

 

 冗談でしょ?と言いたいが、残念ながらイルミが冗談なんて言う男ではないことくらい、嫌というほど知っている。リリスは観念して深いため息をつくと、覚悟を決めた。

 

「ぎゃははは、お嬢ちゃん可哀想になぁ。まぁ安心しろよ、そっちの男より俺たちのほうが優しくしてやれるぜ?」

 

 そう言って、無遠慮に後ろから伸びてきた男の手。リリスはそれが肩に触れるか触れないかのところで、逆に男の手を掴んで腕ごと引き寄せる。そして、男が前のめりになったところで足を払い、そのまま一本背負いの要領で地面に叩きつけた。「ぐはっ」ここがコンクリートでできた床だというのも効いたようだ。頭を打った男は簡単に伸びてしまい、場は水を打ったような静けさに包まれた。

 だがここにいる囚人たちは、もともと血気盛んな者ばかりを集めている。すぐに「やっちまえ!」と誰かが叫ぶ声が聞こえた。

 

 ――ここから先は乱闘だ。

 

 リリスが構えると、男達が束になって掛かってくる。もともと仲間意識なんて持っていないだろうに、それでも同じ囚人が女にやられたとあってはプライドを傷つけたのかもしれない。「イルミ!」正直、この数は今のリリスが一人で相手取るには厳しい。そっちも働けという意味を込めて名を呼べば、なぜかイルミは少し驚いたように眉を上げた。

 

「言われなくてもわかってる」

 

 しかし、イルミはすぐ元の無表情に戻ると、その手の中から幾本もの針を飛ばした。いっそ小気味よいくらいに男たちの眉間を刺し貫いたそれは、確実に命を奪っているだろう。リリスがようやくもう一人を手刀で沈めた頃には、もはやリリスとイルミ以外その場に立っている者はいなかった。

 

「……やっぱりイルミがやったほうが早くない?」

「初めて」

「え?」

「初めて、オレの名をちゃんと呼んだね」

 

 何のこと、と思ったが、そう言われるとそうかもしれない。リリスは基本二人のときには二人称で彼のことを呼んでいたし、いくら呼び捨てしろと言われても彼の家族の前では頑なに”さん付け”していた。しかし先ほどのような場面で”あなた”と言うのは夫婦みたいで虫唾が走るし、かといって嫌味でもない場面で”さん付け”するのも腹立たしい。ただそれだけの理由でリリスはイルミ、と呼んだに過ぎなかったが、呼ばれた側のイルミはかなり驚いたみたいだった。まじまじとこちらを見てくるのがとても煩わしい。

 

「呼び方なんてどうでもいい。それより、ほんとにこの先、私も戦わなくちゃいけないの?」

「できないって言うんならいいよ。足手まといは休んでれば」

「……できなくはない」

 

 本当は挫いた足が痛むが、そんな言い方をされれば引き下がるわけにはいかない。正直なところ上手く乗せられている気がしないわけでもないものの、それでもこの男に弱みは見せたくなかった。「そう、じゃあ大丈夫だね」イルミはわざわざリリスが倒した男に近づいて、確認するためにかがみこんだ。

 

「で、殺さなかったのはわざと?」

「さすがに素手では厳しいだけ」

「だったら家に帰ったら、そっち方面の修行もしないとね」

「ゾルディック家の嫁だから?」

「そう」

「……ならないって言ってるでしょ」

 

 いい加減にしつこい。本当に結婚で家に貢献したいなら、リリスなんかよりちゃんと暗殺一家の娘を貰ったほうがよほど即戦力になるだろう。嫌がらせもここまでくるとむしろ感心する域だ。

 けれどもイルミはそんなリリスの抗議を無視して、あ、次の扉が開いた、と部屋の奥に視線を向ける。確かに彼の言う通り下へと降りる階段が続いていて、おそらくこの先もこの部屋みたいに囚人たちと戦わされるに違いなかった。

 それでもまぁ、初めに100人と言われているだけ気分的に随分楽だ。この調子ならば72時間なんてかからずに、三次試験もさくさくクリアしてしまえるだろう。

 

 

 しかし、そんなリリスの想像は甘かった。

 100人を倒すこと――それ自体も確かにこの試験の課題であるが、ハンター試験は単純に戦闘力だけを問うものではない。

 その証拠に、囚人を100人倒してもゴールに続く道は開かれなかった。

 代わりにたどり着いたのは、半分が簡素なベッドや生活用品が置かれたごくごく普通のスペースと、もう半分が様々な種類の武器が置かれた物騒なスペースに分かれている比較的広めの部屋。そしてその部屋の突き当りには、残り時間を表示するデジタル時計と、スタート地点のように額に入った文章が掲げられていた。

 

「なにここ……」

「さぁね。でもまだ試験は終わってないみたいだよ」

 

 今までとは明らかに様子の違う部屋に、二人は警戒しながら入っていく。新たな指示と思われる文章には、次のような内容が書かれていた。

 

【ここは”安らぎの道”の最終ステージだ。

 最後にこれまで協力してきた君たちには選択をしてもらう。

 1)パートナーに”安らぎ”を与える

 2)今まで殺した囚人の数×1時間、ここで2人で”安らぐ”

 1)を選択した場合、片方は直ちにゴールに到達でき、試験は合格となるが、もう1人は生きていたとしても試験終了時刻までこの部屋から出ることはできない。

 2)は2人で脱出が可能である。なお、殺していない囚人の数はボーナスとして、1人当たり30分の待機時間短縮が可能】

 

 最後まで読んだリリスは、自分の全身が心臓にでもなったような気分だった。嫌な汗がこめかみを伝い、自分の心音が爆音で聞こえるだけ。こんなの、選択も何もない。そもそも与えられた制限時間は72時間だというのに、1時間のペナルティーとなる囚人を100人用意しているのが無茶な話だ。もはやリリスにはイルミがいったい何人殺したのかわからない。わかるのはただ一つ、この男はハンターライセンスを必要としていて、そのためならば躊躇いなくリリスを殺せるだろうということだけだった。

 

「残り時間は69時間か……」

 

 何気なく呟かれたイルミの言葉に、嫌でも緊張が走る。戦闘になれば勝ち目がないのはわかりきっていた。確かにリリスは育った環境のせいで人よりは死に対する恐怖が少ないが、ただ死ぬことと殺されることはまた別である。しかもイルミはリリスのことを嫌っている。殺すにしたって、楽には死なせてくれないだろうということは容易に想像できた。

 

「うん、じゃあ仕方ないね」

 

 やがてイルミは決断を下したのか、そう言ってこちらに向き直る。リリスはごくり、と息を呑んだが、今更どこにも逃げ場なんてないことくらいわかっていた。とはいえ、無抵抗で殺されてやる気にもなれなくて、大量に置かれた武器の中から切れ味鋭そうな斧を取って構える。それを見たイルミはまたもや眉を上げて、驚いたような表情になった。

 

「え、」

「……無駄だって言いたいんでしょうけど、悪あがきくらいはするから」

「いや、なんで戦う気でいるの?」

「は?だって、仕方ないって言ったじゃない」

 

 斧を握りしめたまま、リリスはイルミを睨みつける。正直、彼には念の指輪を爆発させるという奥の手があるので、リリスのこれは本当に悪あがきでしかない。しかし彼はリリスの言葉を聞くと合点がいったとばかりに、大きなため息をついてみせた。

 

「あぁ、勘違いしてるよ。仕方ないって言ったのは、足止めのこと」

「……じゃあ、2を選ぶの?でも、それじゃ間に合わないかもしれない」

「間に合うから言ってる。計算したんだ。オレが殺したのは76人、だから残りはリリスが気絶させた24人。

 69-76×1+24×0.5=5時間。2を選んだとしても問題なくこの試験を突破できる」

 

 イルミはまるで物わかりの悪い生徒に教えるように説明してみせたが、リリスとしては納得がいかない。今やもう恐怖心はすっかり掻き消えていたが、代わりによくわからない怒りが胸の内から沸々とわきだしていた。

 

「殺した人数を覚えてるって言うの?」

「信じられないなら来た道を戻って死体の数を確認してきなよ。オレはここで休んでるから」

「……」

 

 確かにイルミの言う通りの数ならば試験終了に間に合う時間だが、このタイムが次の試験に影響しないとも限らない。リリスはイルミが自分を殺すものだと思い、覚悟を持って刃を向けたので、あっさりと背中を向けられたことが許せなかった。どうしようもなく馬鹿にされたような気分だ。

 そもそもイルミはリリスのことが邪魔だったんじゃないのか。仕事でもないのに表立ってリリスを殺せば、母親たちから非難されるというのはわかる。しかし試験中の事故を装えば、その死は仕方なかったといくらでも取り繕えるではないか。

 

「なんで殺さないの?」

 

 リリスは死体の数を確認しに行く代わりに、既にベッドの方へ向かったイルミに向かって疑問を投げかけた。

 

「殺さなくても間に合うのに、殺す意味ある?」

「囚人たちは殺したじゃない」

「いくらオレでも、さすがにリリスのことは囚人より上だと思ってるけど」

「そういうことじゃない。大手をふって私を殺せるせっかくのチャンスだっていうのに、なんで殺さないのって聞いてるの」

「だって、オレにリリスを殺すメリットがないよね」

「あるよ!この残り時間だって次の試験に影響してくるかもしれない!」

 

 現に殺した人間の数まで、試験に影響してきている。早く通過した者がそれだけ次の試験で優遇されるというのは大いにあり得る話だった。けれどもイルミはさっさとベッドに腰かけると、面倒そうに髪をかき上げる。

 

「うるさいな、そんなに殺されたかったの?」

「違う。でもあなたとこの先64時間も一緒なら死んだほうがマシかもって思っただけ」

「そう、だったら死ねば?」

 

 イルミはそう言うと、リリスが未だに武器を手にしているにも関わらずさっさと眠る体勢に入る。とことん人を舐め切った態度だ。それを見て腹立たしさが頂点に達するが、結局ここでもリリスに選択権などない。イルミが寝ていても、リリスに武器があっても、やっぱり彼には勝ち目がないからだ。

 

 リリスはしばらくその場で斧を握りしめていたが、やがてそっとそれを手放した。今はこれから先のことを考えたほうがいい。リリスは自分が寝た際に起こる悪癖を自覚していたが、さすがにこのくたくたの状態で69時間もの間眠らずにいられる自信がない。かといってここにあるのは武器かなんてことない生活用品ばかりで、リリスの身体を拘束できるようなものも特に見当たらなかった。

 

「最悪……」

 

 呟いた言葉は、きっとイルミにも聞こえていただろう。リリスは彼から最大限距離を取るようにして、壁際に腰を下ろすと静かに目を閉じる。実際、命の危険がなくなったとわかると、脱力感と一緒に疲労感と睡魔が押し寄せてきた。

 

 ”アレ”は別に毎晩起こるような代物ではない。昨日は”アレ”が起こらなかったみたいだし、環境がいつもと違えば深い眠りに入らないだろう。大丈夫なはずだ。

 

 

 そう自分に言い聞かせるようにして、リリスはゆっくりと意識を手放した。

 



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29.幼子

 

 イルミがベッドに横になると、しばらくしてからリリスも諦めたのか壁際に移動した気配がした。別にベッドはちゃんと2台用意されていたのだが、彼女はイルミに近づくのも嫌らしい。まぁ、それはともかく寝首をかこうとしなかったのは賢明な判断だった。彼女が眠りについたのを確認して、イルミは浅いまどろみに身を委ねる。

 

 しかし、それから2時間もしないうちだ。

 リリスの起き上がる気配に、嫌でもイルミは覚醒する。眠れないなら眠れないでじっとしていればいいものを、落ち着きのない奴だと忌々しく思った。立ち上がって部屋の中を歩き始めた彼女の気配を感じつつ、イルミは布団をかぶったまま無視をする。けれども次にすすり泣きが聞こえてきたときは、さすがに無視をしきれなかった。

 

「リリス……?」

 

 ここには二人しかいないはずなのだから、この声の主はリリスでしかありえない。だが、今まで脅したり殺したり色々やったが、イルミはリリスが泣くのなんて見たことがなかった。

 思わず身を起こしたイルミは、そこでようやくリリスの姿を視認する。彼女は指令が書かれた額の前で棒立ちになり、そこで迷子の子供のようにすすり泣いていた。

 

「……なにやってんの?」

 

 いくらイルミが不測の事態に動揺しないといっても、この状況は理解できない。戸惑いながらとりあえず声をかけてみるが、リリスは泣くだけで返事を寄越さなかった。「ねぇってば」ふてぶてしい態度には慣れているが、こういう場合はどうしたらいいのかわからない。そもそも彼女がなぜ突然泣き出したのかもわからないのだ。

 

 イルミは仕方なくベッドを降りて近づいていき、リリスの顔を覗き込んだ。上を向かせても彼女は別に抵抗するわけでも恥ずかしがるわけでもなく、ただぽろぽろと涙をこぼし続けている。その瞳はどこか虚空に向けられていて、イルミの存在にまるで気づいていないようだった。

 

 そんなリリスを見てようやく、イルミはリリスが“普通でない”状態だと気付いた。誰かに操作でもされているのかと目を凝らして彼女を上から下まで眺めたが、オーラを強く感じる部分はイルミが渡した指輪くらいのものである。

 

「リリス、オレがわかる?」

 

 肩を掴んで強めに揺すると、緩慢な動作でリリスはこちらを見る。そして何を思ったのか、いきなりイルミに抱き着いた。

 

「おかあさん」

「は?」

 

 咄嗟のことで受け止めてしまったが、こいつは何を言っているのか。そこまで気にしたことはないが自分が女顔だという自覚があるイルミとしては、笑えない冗談だ。少しも気にはしていないが、いくら寝ぼけていたってその間違いはないだろうと思う。

 けれども、内心イラつきながら、イルミはリリスを引きはがすようなことはしなかった。なぜかは自分でもはっきりしないが、抱き着いてきたリリスが不思議なことに泣き止んだからかもしれない。まだ涙の跡の残る頬を晒しながらぎゅっとこちらにしがみつく彼女を見ていると、不本意ながらキルアの小さい頃を思い出した。今も昔も兄弟の中で一番手がかかる子供だったキルアには、ぐずって夜泣きのようなことをする時期もあったのだ。

 

「……寝ぼけてるにしても酷すぎるよね」

 

 キルアにやっていた癖でそっとリリスの頭を撫でてやると、彼女は満足したように目を閉じた。そしてそのまましばらくそうしていると、すやすやと穏やかな寝息が聞こえてくる。イルミの腰のあたりに抱き着いたまま、どうやらリリスは眠ってしまったらしい。もたれかかるように不安定になるリリスの身体を支えたイルミは、仕方なくその場に座りこんだ。いくら彼女が掴んで離さないとはいえ、イルミがどうしようもないと諦めるほどではないのに、不思議としがみつかれて悪い気がしなかったのだ。寝ている彼女にはいつものふてぶてしさも、敵意もなにもなかった。

 

 翌朝リリスが目覚めたときには、全てが元通りの、いやそれ以上の険悪さだったが。

 

 

 

「そろそろオレもプレート探さないと」

 

 ゼビル島での四次試験が始まって2日目。

 初日は三次試験を残り5時間というタイムで突破したためかなりの後続スタートだったが、同着だったリリスは番号順でイルミよりも先に出発することになった。昨日からずっと彼女の気配を探っているものの、今のところ特に問題はない。あの奇行を警戒してリリスは昨晩眠らなかったみたいだが、トリックタワーでの彼女の反応を知るイルミは、それもそうだろうな、と一人愉快な気持ちになっていた。

 

 

 混乱、驚愕、羞恥。

 目覚めたリリスが見せた感情は、どれも珍しいものばかりだった。というか、普段はだいたい憎悪や嫌悪しか向けられていないので、真っ赤になって震える彼女が酷く弱い生き物のように見えた。

 

 ――大丈夫だったはずなのに

 

 うわごとのように何度もそう繰り返した彼女は、きっと自分が眠った際にどうなるか全く知らなかったわけではなかったのだろう。今更になって、彼女の家に侵入した際、ドアの内側のノブにチェーンが巻かれていた理由がわかった。きっとゾルディック家にいたときも、同じような手段をとっていたのだと思われる。

 

 しかし睡眠中に移動する癖のある彼女も、まさかイルミの腕の中で目覚めるとは思わなかったに違いない。抱き着いてきたのはそちらだと言っても、起きている間はずっと近寄らないで!と言われ続けて、正直ものすごく面倒だった。面倒だったのに、なんだかんだでその後の夜もこっそり彼女を寝かしつけていた。流石に起きた彼女に言いがかりをつけられるのは嫌だったので、明け方頃にはちゃんと引きはがして元の位置に寝かせておいたが。

 

 

 そんなことを考えながら移動していると、ちょうど視界の先のほうにイルミはターゲットの男を見つけた。371番――名前までは憶えていないが、イルミは全員分の受験番号と顔を一致させられる。男の進行方向からして、おそらくこの辺唯一の水場に向かうのだろう。四次試験は1週間もの間、島に身を潜める必要があるので、普通の人間は水場の近くで待っていればいつかは必ずやってくる。

 運がいいな、と考えてスピードを上げ、先回りをすることにした。そしてその結果が、思わぬ男の懇願である。

 

 

「……プ、プレートは差し上げる。しかし、死にゆく俺の最期の願いを聞いて、ここは一度見逃してもらえないだろうか」

 

 男は格上のイルミを見ても、逃げることなく真っすぐに立ち向かってきた。おそらく根っからの武闘派タイプなのだろう。お陰でイルミは簡単にプレートを奪うことができたが、どうせ命乞いをするなら初めにやれば助かったのに、と呆れた気持ちで男を見下ろす。

 

「別にいいけど。でも、その傷じゃどうせ長くはもたないんじゃない?」

「か、構わないんだ、感謝する。私は武人として、どうしても死ぬ前に戦ってみたい男がいるのだ」

「そう」

 

 男は”ギタラクル”が喋ったことに驚いたようではあったが、血の滴る身体のまま、感謝してどこかへ去って行った。男がこんな状態になってまで戦いたいという相手は何となく想像がついたが、今はそれより先に片付けるべき”敵”がいる。男の末路を見届けるのは、あそこで銃を構えている奴を殺してからでいいだろう。

 

 イルミはひらりと跳躍すると、こいつは殺しちゃっていいかな、と考えた。

 

 

 ▽▲

 

「ボクさぁ、死人に興味ないんだよね。

 キミ、もう死んでるよ。目が」

 

 バイバイ、と呟いて、戦意はないとばかりに切り株に腰をかけたヒソカを見て、あれはダメだな、とイルミは行動を起こした。わざわざ男を追いかけてまで成り行きを見に来たのはほんの気まぐれだが、気まぐれの分はきっちり責任を取る必要があるだろう。

 

「ごめんごめん、油断してて逃がしちゃったよ」

 

 男の顔面に針を飛ばし、今度こそしっかり絶命させたイルミは、そんなわざとらしい嘘をつきながらヒソカの前に姿を現した。ヒソカはというと特に驚いた様子もなく、小さく肩を竦める。そんな彼の周りにも多くの紅血蝶が飛び交っていて、三次試験のダメージはまだ残っているようだった。

 

「ウソばっかり。

 どうせこいつに戦いたい相手がいるからって、命乞いでもされたんだろ?どうでもいい敵にまで情けかけるのやめなよ」

「だってさ、可哀想だったから。どうせ本当にすぐ死ぬ人だし、ヒソカ相手なら多少は面白いかなと思ってね」

「面白い?こんな奴相手にもならないよ」

「うん。だからだよ。ヒソカ嫌がるかと思ったんだけど、嫌がる以上に無視されちゃったからな。残念だよ」

「そ……、キミもなかなかイイ性格してるねぇ」

 

 ヒソカはふぁあ、と大きなあくびをすると、で、プレートは?と首を傾げる。戦ってくれと言ってきた男を無視したくせに、彼の胸にプレートがなかったことはちゃっかり確認しているらしい。つくづく調子のいい奴だと思ったが、まだヒソカの点数が集まってないのなら、不要な分はくれてやってもいい。

 

「あるよ。その男のでオレは6点になったから、こっちのプレートはあげる」

「80番か……これ誰の?」

「オレを銃で狙ってた奴。そっちはむかついたから殺しちゃったけど」

「ふぅん、どうせならリリスにあげればよかったのに」

 

 イルミとしてはもう自分のプレートを集め終わったので、後のことはどうでもよかった。この試験内容ならばキルアが落ちることはないだろうし、放っておいて構わない。期日まで寝ようと思って針での変装も解いたのだが、ヒソカの言葉にぴたりと動きを止めた。

 

「……どうせリリスはオレからの施しなんて受け取らないよ」

「相変わらずだねぇ。少しは仲良くなったかと思ったのに。

 三次試験、一緒だったんだろ?」

「別に何も変わりないけど」

「そうかな、キミにしてはいやに時間がかかっていた。それに、ゴールした時のリリスの様子もおかしかったし」

「あの女がおかしいのはいつものことだよ」

 

 本当にこいつは要らないところで察しが良くて困る。しかしイルミはリリスの”アレ”について話すつもりはないので、いつも通りに白を切った。前にも言ったが、家族になる者の情報を漏らす気は無いし、リリスの”アレ”を知っているのは自分だけでいいとも思う。余計な詮索はやめろと言ったはずなのに、どうしてこうもしつこいのだろう。

 イルミはヒソカの存在を無視して、ざくざくと土を掘って眠る準備を始める。なんとなくこいつにだけは、イルミが夜にリリスを監視していることを知られたくない。

 

「じゃ、オレは期日まで寝るから頑張ってね」

 

 それだけ言うと土の中にすっぽりと収まり、もう出てこないという意思を表明する。ヒソカだって流石に馬鹿ではないので、キルアやリリスのプレートを狙うようなことはしないだろう。

 

 

 今日の夜も、大人しくしてればいいけど。

 

 イルミは暗がりの中、静かに目を閉じる。

 すっぽりと収まった即席の個室の中は、泣きつかれた後のリリスの頬のようにしっとりと湿っていた。

 



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30.ストックホルムの夜明け前

 

 四次試験会場として連れてこられたゼビル島は、山一帯を所有するゾルディックの敷地から比べれば随分と狭かった。ヌメーレ湿原のように危険な生き物が生息しているわけでもなく、他の受験者も雑魚としかとらえていないキルアにとっては実に面白味に欠ける試験内容である。

 しかし、三次試験を残り時間1分で通過したキルアの出発はほとんど最後で、おまけにターゲットが誰なのかもわかっていない。あまり舐めてかかって、足元をすくわれるようなことは避けるべきだ。

 

 キルアは初日、自分から獲物を狩ることをせず、島の地理や他の受験者の動向を窺うことに徹した。そしてその傍ら、ずっとリリスのことを探していた。

 

 

「くそっ、なんで全然会わねーんだよ」

 

 幼少期から命がけの鬼ごっこやかくれんぼを経験してきたキルアが、この狭い島内でリリスの気配を一度も確認できないのはどう考えてもおかしい。彼女だってそう弱いわけではないことくらいわかっているが、キルアには一応プロの暗殺者としてのプライドがある。家業を継ぐのが嫌で、この家出だってそのレールから逃げ出すために行ったのに、それでも自分がこれまで積み上げてきたものが通用しないというのはどうにも我慢ならなかった。

 

 だが、ここで一つ弁解をしておくと、キルアは何も自分のプライドの為だけにリリスを捜索しているわけではない。

 トリックタワーの頂上で聞かされたリリスの夢遊病の話が気になって、放っておけないと思っているのだ。正直、話だけではにわかには信じがたかったけれども、クラピカが嘘をつくとは思えない。囚人たちとの賭け事で彼の性格がいっそ面倒なほど生真面目だということはよくわかったし、それ以前にクラピカにそんな妙な嘘をつく理由がないからだ。

 

 そしてキルアの心配を増長させるように、三次試験以降、リリスの様子は明らかにおかしかった。試験の内容を聞いてもはぐらかしてばかりで、単身だったのか、誰かと一緒だったのかすら言葉を濁す。けれども言わないということは誰かと一緒だったと考えるのが妥当で、リリスは嘘をついても無駄だからうやむやに誤魔化したのだろう。

 

「あの針男も全然見つからねーし……」

 

 四次試験をリリスの前後にスタートした人物。

 それがリリスと一緒に三次試験を通過した者に違いなかった。もちろんキルア達の例があるから、いったい何人組だったのかまでは定かではない。しかし受験者の顔ぶれを見て、リリスが関わったことを口にもしたくないレベルとなると、ヒソカを除けばもう他はあの不気味な針男くらいしかいないような気がする。あの男は容姿も纏う雰囲気も異様の一言に尽きて、リリスのような若い女がほぼ3日も共に過ごすには大変つらい相手だろう。

 

 夢遊病という持病を抱えて、得体のしれない男と一緒という状況。

 それはおそらく激しくリリスの精神をすり減らしたことだろうし、キルアはこの四次試験こそ自分の手でリリスを守ってやりたいと思っている。夜の見張りをすることで、彼女を安心して眠らせてやりたい。

 そう思って、事前に彼女のターゲットの番号まで聞いたというのに……。

 これだけ探しても出会えないのは、リリスのほうがわざとキルアを避けているとしか考えられなかった。

 

 

「はぁ~、俺、今すっげー機嫌悪いんだよね。ずっとつけまわされたって隙なんか見せねーし、来ないならこっちから行くけど?」

 

 キルアはそれまでの独り言から、完全に人に話しかける口調に変えて、誰もいない森に向かって声をかける。狩人(ハンター)気取りの残念な獲物が、すぐそばの茂みで息を殺しているのが手に取るように分かった。

 

「ほんと嫌なんだよな~」

 

 ターゲットが偶然お互いになる確率は高くないし、向こうが追ってくるということは仮に倒したとしても1点分の価値しかないだろう。ずっと無視を決め込み、来たら返り討ちにしてやるくらいに思っていたが、いい加減監視され続けるのもうんざりだ。

 キルアは後方の茂みに向かって、早くしてくんないかな、と煽り始める。その時、隠れていた男が「兄ちゃん!」と声を上げて、キルアの前に3人の男が姿を現した。

 

「うーん。3人もいれば1点ずつだとしてもこれでクリアか」

 

 ただただ鬱陶しいと思っていたが、プレートも集めとうっぷん晴らしが同時にできるとなればそう悪くないかもしれない。

 キルアは少しやる気になって目の前の男達を見据える。それから頭の片隅で、ここの兄弟はよく似ているな、とどうでもいい感想を抱いた。

 

 

 △▼

 

 

 初日はみな様子を窺っているのか、島全体で特に目立った動きはなかった。こうした自然を利用した地形なら、戦闘力に自信がない者でも罠を張ることで優位に立てるだろう。そうした罠や待ちの姿勢に入る者がいれば、またそれも格好の標的となる。

 

 リリスは今回の試験では、何よりもスピードを重視した。つまり、みなが互いの出方を窺い、準備をしている中で、機先を制すというわけである。

 

「1点でも、無いよりマシだよね」

 

 リリスは手に入れた221番のプレートを、奪われないように服の内側へと隠した。このプレートの持ち主はカキンの辺境出身なのか独特の訛りを持つ男だったが、彼もまた戦闘向きではないらしく、島の南東にある洞窟に引きこもって獲物がかかるのを待つ予定だったらしい。肝心のリリスのターゲットはというと、80番の、確かスナイパーの女だったはずだ。リリスが準備前の221番に遭遇できたのは、本当にただの偶然だったのである。

 

 今のリリスは指輪のせいで念が使えないが、逆に言えば精孔を閉じる“絶”ならば使えた。おまけにゾルディック家での“花嫁修業”はここで遺憾なく効果を発揮し、全く存在を気取られることなく221番を気絶させて、まんまとプレートを頂くことに成功したというわけである。

 目が覚めた男はきっと自分の不覚を嘆くだろうが、この試験は別にプレートを奪われた時点で即終了というものではない。まだ挽回のチャンスはあると考えて、おそらく当初の計画通り洞窟で待ち伏せをするだろう。

 

 さて、初日はそんな風に幸先よく1点を手に入れたリリスだったが、その後の収穫はさっぱりと言っていいほどだった。まず他のまともな受験者は全員様子見の姿勢で身を隠しているし、見つけたとしても既に罠を張られた後では迂闊に近づけない。また、リリス自身敵から身を隠すことや、これから1週間のサバイバルを見据えた行動をとっておかなければならなかった。

 

 まず確保すべきは、水と食料。それから安全な――敵に見つかりにくいか、近づく敵を発見しやすい場所である。

 特にリリスの場合は、夜をどのように過ごすかが重要な問題だった。

 

 

「はぁ……」

 

 最初の夜を眠らずにやり過ごしたリリスは、”安らぎの道”での出来事を思い出し、知らず知らずのうちにため息をついた。もうすぐ2日目の夜を迎えるが、プレート集めに進展は無し。水場は数か所チェック済みで、いくらか補給も済ませたが、やはり一番の問題は安心して眠れる場所だ。

 眠った自分がどのような行動をとっているのかをはっきりとは知らなかったが、起きたときに知らない場所にいるうえ、頬には涙の乾いた後がよく残っていた。

 

 ――まさかイルミに、あの姿を見られるとは。

 

 暗い森の中を歩きながら、おそらく今の自分の顔面は、闇夜の中でもそうとわかるくらい赤く染まっているだろうと思った。思い出しただけでもこうなのだから、イルミの腕の中で目覚めてしまった朝はもっと耐え難かった。リリスのあの悪癖は決して毎夜のことではなかったのに、本当に間が悪いとしか言いようがない。

 

 しかしリリスの心をかき乱したのは、何も羞恥心や屈辱感だけではなかった。感情で言うならばおそらくそれは”怒り”に近い。限りなく怒りに近い、”当惑”であった。

 どうしてイルミは憎いはずの自分を殺さなかったのか。どうしてあのような弱みを見せたリリスに優しくしたのか。

 それがどうしても理解できず、リリスはイルミへの今後の対応を決めかねている。あの男は恐ろしい男だ。自分の家族を守るために、リリスを何度も殺そうとした。冷酷で、自己中心的で、自分の”家族”以外はどうでもいいと思っている男。リリスは初対面でそれを見抜いたからこそ、ずっとイルミが嫌いだった。この男はリリスを排斥して、絶対に受け入れない障害だと思っていた。

 

 ――それなのに、どうして今更……。

 

 

 いつの間にか思考の海に沈んでいたリリスは、草木を踏みしめる音にハッと顔をあげた。もちろん自分ではない。いくらぼうっとしていたって、さすがにそんなヘマをするようなリリスではないからだ。しかし、逆に言えばここまで残った受験者でそれほど迂闊な者もいないだろう。

 つまり相手はわざと音を鳴らしたのだ。リリスを”獲物”とみなして追い立てるか、いたぶるか、その理由は定かではないものの、明らかにリリスは今狙われている。そして”狩人”はその気配を隠すこともなく、正面からゆっくりとリリスとの距離を縮めてきた。

 

「やぁ、リリス。キミに会えるなんて嬉しいねぇ」

「……ヒソカ」

 

 月夜に照らされて浮かび上がったのは、おそらく一番この試験のルールを楽しんでいそうなピエロだった。一次試験で勝手に受験者狩りを行っていた彼が、合法的に他者を狩れる機会を逃すはずがない。

 しかし警戒するリリスに対して、ピエロはいつものように厭らしい笑みを浮かべただけだった。

 

「ククク……そんな怖い顔をしないでくれよ。我慢できなくなるじゃないか」

「私を狩りにきたんじゃないんですか」

「確かにそろそろ退屈していた頃だけど、キミに会ったのは本当に偶然さ。それに、今はまだイルミを怒らせたいわけじゃないしねぇ」

 

 ヒソカはよく嘘をつくから、そう言われてもすぐには信用できない。リリスはできるだけ平静を装うと、戦闘を避けるためにヒソカの喜びそうな展開を必死で考える。この男は少しでも弱者の姿勢を見せると退屈してしまう。こいつの好みは強者に”勝つ気”で立ち向かってくるような人間なのだ。勝てないかもしれないが思い出にとか、勝てないかもしれないが、やけくそで、とかでは決して満足させられない。

 リリスは深呼吸すると、半ば睨みつけるようにしてヒソカの瞳を正面から見据えた。

 

「偶然だったのなら、私にも運が向いてきたということでしょうか」

「おや、ボクを探していたのかい?」

「ええ。プレート持ってます?一次試験での借りをそろそろ返してほしいなって」

 

 それを聞いたヒソカの目は面白がるように細められる。「ふぅん、ボクがターゲット?」仮にそうだったとしても、それならリリスは別の受験者3人分で稼ぐ。ヒソカなら、そうした雑魚のプレートを既に何枚か持っているのではないかと予想しただけだ。

 

「いえ、私のターゲットは80番です。80じゃなくても、ヒソカにとって1点にしかならないプレートがあればほしい」

 

 この試験において、自分自身のプレートは3点だ。いくら酔狂を好むヒソカだとしても、ヒソカのプレートをくれと言えば断られる可能性が高い。しかし余りならば”借り”があるヒソカは渡してくれるかもしれないし、無ければそのまま交渉は不成立という体でこのまま無事に逃げられるだろう。

 ヒソカはリリスの要求を聞くと薄っすらと浮かべていた笑みを消して、それから次の瞬間、声を上げて笑い出した。

 

「キミは運がいい」

「……」

 

 流石にここまで大きな反応を予想していなかったリリスとしては、ヒソカの高笑いに肝を冷やしたくらいである。しかし彼の方はというとやっぱり上機嫌で、懐から1枚のプレートを取り出しリリスに向かって差し出した。

 

「待って、うそ、ほんとに80番?」

「これはね、イルミからもらったやつなんだ」

 

 渡された番号を見て、リリスの声は思わず上ずる。けれどもイルミの名前を聞いて、胸を満たした喜びはすぐに何とも言えない居心地の悪さに取って代わられた。ヒソカが言ったように本当に運がいいとは思うのだが、イルミから流れてきたプレートだと思うとどうしても素直に喜べない。

 そんなリリスの心境を見透かしたのか、ヒソカは腕を組んでこちらを見下ろしてきた。

 

「複雑そうだねぇ」

「……まぁ、でも、ありがたくもらっておきます」

「そういえば三次試験、イルミと一緒だったんだろう?何かあったのかい?」

「……」

 

 リリス達より後にゴールにたどり着いたキルアは誤魔化したけれども、先に到着していたヒソカにはリリスとイルミが同じ道だったことは知られている。普段の険悪さを鑑みれば3日も一緒で何もなかったと言い張るのは無理があるし、どうせ隠せば隠すだけヒソカは興味持って詮索してくるだろう。

 リリスは小さくため息をつくと、観念して自分の失態に触れない部分だけを話すことにした。

 

「……途中までは協力する道だったんですけどね。最後は相手を殺すか、64時間その場で待機かを選ぶ道だったんです」

 

 あの道の”安らぎ”の定義は、別に気絶でも良かった。だがそもそもイルミがリリスにそんな温情をかける理由はないし、実際彼はリリスを気絶させることすら選ばなかった。リリスにしてみれば、そこも未だに引っかかっている点なのである。

 

「じゃあイルミはキミを殺さず、64時間待ったんだ?」

「ええ。らしくないですよね、あんなに殺そうとしてたくせに……。私にはあの人が何を考えてるかわからない」

「イルミは家族しか大事にしないからね」

「だからですよ」

 

 イルミは“リリスを殺すメリットがない”と言ったが、逆に言えば“生かすメリット”もさほどあるようには思えない。キルアを家に縛る道具としてだって役に立たなかったし、試験中の監視もイルミだけで事足りるはずだ。脱落者が死んでいようが生きていようが合格者と顔を合わせることなどないのだから、イルミはリリスを殺してリリスの携帯からキルアにメールを送ればいい。

 

 ――“私は落ちちゃったけど、キルアは残りの試験頑張ってね。試験後に合流しよう”

 

 そんな風にでも送っておけばキルアはそのまま試験を続行するだろうし、試験が終わってリリスが死んだと判明する頃にはイルミもライセンスを手に入れている。そうなれば後はキルアを回収して終わりだ。リリスは試験中の事故死扱いで結婚話も立ち消え、自分の家出のせいでリリスが死ぬことになったのかもしれないとキルアもこれからの行動を自粛する。

 こうやって考えてみれば、むしろメリットの方が大きいかもしれなかった。

 

「うーん、それはきっとイルミの中でキミはもう家族になりつつあるんじゃない?」

「それが人質としての結婚でも?」

「加害者が被害者に特別な感情を抱くのはそう珍しいことでもないよ」

 

 ヒソカが言っているのはリマ症候群のことだろう。しかしあの男がリリスに同情したり、好ましい感情を向けたりするのはどうも想像ができない。これまでの殺されかけた経験を考えれば考えるほど、その感情はあまりに倒錯しているとしか言いようがなかった。「もちろん、その逆もね」そう付け加えて意味ありげに笑ったヒソカに、リリスは瞬間的にかっとなる。

 

「ありえない!」

 

 いくら指輪で支配下に置かれているとはいえ、リリスは心まで言いなりになったつもりは無い。極限下に置かれた被害者が加害者に対して心理的な繋がりを築く事例は確かに存在するけれども、それは結局のところ生存戦略だ。生き残るためには強者に迎合する道が最も賢く、脳が生きるために自分を騙しているに過ぎない。たとえ無意識下の戦略だったとしても、リリスは自分がイルミに心を許すなど考えたくもなかった。

 

 だが、リリスの強い否定はかえってヒソカを楽しませたようだった。これではまるでリリスがイルミのことを意識しているみたいだ。正直なところ、ヒソカの邪推には腹が立って仕方がないが、今は何をどう弁解しても無駄だろう。リリスはそれ以上この話題に触れることはやめて、半ば押し付けるような形で221番のプレートをヒソカに渡した。

 

「じゃあもうこれはいらなくなったのであげます」

「おや、いいのかい?今回は単なるプレート交換じゃなくて“借り”の返済だったんだろう?」

「ええ。ですからそのプレートをあげる代わりに、残り期間私に関わらないでください。そっちはもともと私と戦う気なんてなかったみたいだし、あなたにとっては80番のプレートも221番のプレートも同じ1点の価値なんでしょう?

 この試験で私を狩らないだけで借りの返済ができ、おまけに点数の損もない。あなたにとってそう悪い話じゃないと思いますけど」

 

 四次試験でヒソカの心配をしなくていいというのは、こちらにとっても実にありがたい話だ。ここまで残った受験者は皆そこそこの手練れだとはいえ、やはり念を使えて人殺しも躊躇わないヒソカやイルミの存在は群を抜いて危険である。三次試験で不戦の姿勢を見せたイルミが今更リリスを狩りに来るとは思えないので、ヒソカを封じることができればリリスの安全はかなり保証されるに違いなかった。

 

「なるほどねぇ……。うん、リリスが元気そうでよかったよ」

「はい?」

「いや、なんでもないよ。じゃあこれは貰うから、その調子で頑張って」

 

 しかし、断られるとは思っていなかったものの、ヒソカのこの反応は意外でしかなかった。彼は困惑するリリスを置いて、じゃあ、とあっさりこの場から去って行く。何をもって元気と判断されたのかよくわからないが、ひとまず危険は去ったらしかった。点数もこれで揃ってしまったし、上手くいきすぎて逆に不安になるくらいだ。

 

 しかし、なにはともあれ一人になったリリスは、いよいよ本格的に隠れる場所を探すことにした。

 念が使えた頃はよく他人に憑依して、無防備になる本体を土に埋めて隠していたがそういうわけにもいかない。いや、案外いけるだろうか。魂を抜いた後の自分の身体については、仮死状態ではなく、ちゃんと心拍も呼吸もあることを確認している。リリスの精神が戻らない限り外的な刺激で目覚めることはないが、状態としては眠っているのとそう大差ないだろう。

 

 つまり、いつものように空気穴さえしっかり確保すれば、土中を避難場所にするのも意外とありかもしれない。今回は意識がある分、土の中に埋まるというのは怖いかもしれないが、狭い土の中は例の悪癖対策にもなるのではないだろうか。

 リリスは少し開けた場所に出ると、試しに足元の土を掘ってみることにした。木から離れているので根っこにぶつかるようなことはないものの、土が予想以上に固くて全然掘り進まない。せめてシャベルのようなものがあればよかったのだが、さすがに素手だけで人が入れる深さと広さに掘るのはかなり大変だろうと思われた。

 

「周が遣えたらなぁ……」

 

 周でその辺の木の棒でも覆えば、これくらいの穴掘りは随分と楽になる。道具を使わずに硬でそのまま手を強化してもいいが、パンチで穴を開けるようなことをせず、なるべくなら静かに掘りたいものだ。

 

 リリスは手近な長さの木の枝をぽきりと折ると、それを何本も一纏めにして握りやすい太さにする。それから大きめの葉っぱをその先端に結び付け、葉に折り目をつけて形を整えた。「一瞬……一瞬だけなら、大丈夫かな」イルミは確か、発ほど高密度までオーラを高めれば指輪が爆発すると言っていた。周は纏の応用技とはいえ、オーラの量は多少加減が効くし、爆発の前には痛みを与える警告段階もある。試すだけ試してみて、無理だと思えばやめればいいのではないか。自分の念を遣える限界を知ることも、この指輪を攻略するヒントになるかもしれない。

 

 リリスは来る苦痛を想像し、すうはぁと大きく深呼吸する。それからまずはごくごく薄いオーラの層を自分の身体と即席のシャベルに纏わせてみた。途端に全身を押しつぶされるような痛みが襲ってくるが、ゾルディック家の修行のお陰か、この程度ならば耐えられないことはない。問題はシャベルのほうの強度で、土に突き刺すことは可能ながらも素晴らしく作業が楽になるわけではなかった。葉っぱで固い土を掘れるのはすごいことなのだが、せいぜいプラスチック製の手持ちスコップ程度しか役に立たない。それではあまり大変さは変わらないのだ。

 

「うーん、やっぱりもうちょっと……」

 

 恐る恐るオーラを濃くしてみるが、やはり一定のオーラ量を超えたあたりで、立っていられないほどの激痛が走る。図らずも地面に伏せる格好となったリリスは、自分の惨めさとあまりの不自由さに段々腹が立ってくる始末であった。

 

 爆発って、本当になんなんだ。いっそ指輪の効果が強制絶状態なら一思いに諦められたのに、痛みに耐えれば少しは遣えるというこの状況が返ってもどかしくて仕方がない。やはり術者の性格がとことん捻じ曲がっているのだろう。

 イルミの、あの飄々とした表情を思い浮かべたリリスは苛々して、伏せたままドンと強く地面を叩いた。それからハッとしたように、今叩きつけたばかりの自分の拳をしげしげと眺める。

 

「そっか、本当に掘る一瞬なら……」

 

 オーラは術者の体内、体外をめぐるもの。

 そのため、イメージとしては膜や湯気のように繋がった状態を想像するが、実際には応用技の硬で使う通り、部位ごとにオンオフの切り替えが可能な代物である。

 今回リリスが行いたい周は纏の応用技であるため、道具を身体の一部としてその周囲を常にオーラで覆うようなイメージをしていたが、実際念による強化が必要なのはシャベルが土に触れる瞬間だけ。つまり今回の場合、要となるのは流の技術。纏うオーラは極最小でいいので、インパクトの瞬間だけすばやくオーラ量を変化させればいいのだ。幸いにも、先ほどの練習でオーラ量による痛みの上限下限は把握できた。瞬間的な痛みなら、耐えきって見せる。

 

 リリスはゆっくり立ち上がると、ごく薄いオーラの層を身にまとう。それから足を肩幅に開くと、腰を落として「はっ!」という掛け声のもと、即席のシャベルを深く土に突き刺した。もちろん、シャベルが土に触れる瞬間、流れるオーラ量を増大させている。

 

「っ、やった!できた!」

 

 襲い来る痛みにぐらり、とよろけそうになるが、前みたいに倒れ込むほどではない。肝心の地面の方は、歪ながらも巨獣が残した爪痕のように深く抉れていて、リリスは思わず歓喜の声を上げた。

 

「なにやってんの」

「ひっ!」

 

 喜びに打ち震えていたのも束の間、後ろからいきなり声をかけられリリスは息が止まりそうになる。確かに目の前のことに夢中になりすぎていた。慌てて振り返れば、この島におけるもう一人の死神。リリスは最悪の想像に身を強張らせた。「な、んで……まさか私がターゲット?」そういうことなら彼が三次試験で見せた、謎の温情など関係ない。

 けれどもイルミはリリスの質問に対し、自身の左手を掲げて見せただけだった。

 

「違うよ。オレはとっくに集め終わって寝てたところ。でもリリスが念を使ってるってわかったから、自殺でもする気なのかと思ってさ」

 

 どうやら彼はリリスの様子を見に来ただけらしい。対になった指輪は、念の使用をリリスに警告する一方でイルミに通達する機能もあるのか。とことん念入りな設計に呆れるも、イルミのターゲットがリリスでないのならどうでもいい。今回リリスは別に、自殺をするつもりで念を使ったわけではないのだ。

 

「自殺なんてしない。私もプレートを集め終わったから、隠れようと思ってたところ」

「土の中に?」

「そうだよ」

 

 イルミの視線が無残に抉れた地面の方へ向いて、なんだかリリスはいたたまれなくなる。表情こそいつも通りの能面だが、いいとこ育ちのイルミはきっと内心でリリスのことを馬鹿にしただろう。

 

 え、土の中で寝るの?流星街のやつってモグラみたいだね。あ、そうか、家がないから仕方ないのか。

 

 そんな被害妄想を脳内で繰り広げたリリスは、ついつい目の前のイルミに敵意のこもった眼差しを向けてしまう。もっともイルミは慣れっこになっているのか、リリスに睨まれても特に何も感じていないようであった。

 

「本当なら“身体だけ”埋めて隠したいところだけど、生憎そこまでの念は今遣えないから。あなたがこれ外してくれるっていうなら話は別だけど」

「冗談」

「あ、そ。わかったのならもういいでしょ。放っておいて」

 

 リリスは自分で先に睨んでおきながら、ふい、とすぐに視線を反らした。やっぱりイルミの顔は見たくない。イルミの顔を見ていると、あの夜の失態を思い出してしまって耐えられないのだ。「だいたい私が自殺したところでどうでもいいじゃない」そのせいで普段の冷静さもどこへやら、言わなくていいことまで口走ってしまった。

 

「なんでそんな怒ってるの?」

「別に怒ってなんかない」

「うそ、怒ってるよ。だってリリスは普段嫌味っぽいけど、怒るとストレートな物言いになるから」

「……」

 

 そんな自分の癖など知りたくもなかった。しかもそれを指摘してきたのが自分を長らく目の(かたき)にし、何度も殺そうとした男だなんて何かが間違っている。「なんなのよ……一体」リリスは一向に立ち去る気配のないイルミに、とうとう我慢ができなくって感情をぶつけた。

 

「あなたのこと、ちっとも理解できない。一体何を考えてるの?」

「それはこっちの台詞でもあるね。オレもリリスが何を考えてるのかさっぱりだよ」

 

 向かい合ったイルミは、別にリリスをからかっているわけではないようだった。いつも通りの真顔で、心底不思議そうに首を傾げている。

 そこには今まで何度も向けられていた敵意や嫌悪は一切なく、口論になるつもりで身構えていたリリスは肩透かしをくらったような気分だった。

 

「……もう一度だけ聞く。三次試験で、どうして私を殺さなかったの?」

「何度聞かれても同じだよ。あの場でオレにお前を殺すメリットがない」

「じゃあ……メリットがあれば私を殺す?」

 

 リリスの母親はメリットがあったからリリスを産み、そして殺そうとした。血の繋がった母親ですらそうだったのだから、他人で、ましてや敵対していたこの男がリリスを殺さないだなんてそんなことがあっていいはずがない。「うん」誤魔化しは無意味だとでも言うようにイルミを睨みつければ、彼はリリスの期待通りにあっさりと頷いた。

 頷いて、それで終わればよかったのに、イルミはその後も言葉を続けた。

 

「と、言いたいところだけど、家族は殺さないよ。家族はね」

「……っ、私はあなたの家族じゃない!」

「今は違っても、いずれそうなる」

 

 自信たっぷりに告げられた言葉に、頭がくらくらした。もちろん、ときめきや羞恥なんてそんな可愛らしい理由ではない。リリスのこれまでを覆すようなことを、リリスがずっと心の底から望んで、それでも手に入らなかったものをあっさりと差し出され、どう反応していいのかわからなかったのだ。

 

 家族だなんて、そんなものまやかしだ。そんな簡単に手に入るはずがない。

 初めから全てを持っているこの男には、リリスの気持ちなどわかるわけがないのだ。

 

 そう思うと、再び彼を憎いと思う感情がぶわりと湧き上がった。

 初めてゾルディック家で会ったあの日、縄張りを守らんとするような彼の瞳が、排斥される立場のリリスにはものすごく憎かったのだ。そして同時に、守るべき家族がある彼も、彼に守られる家族も、どちらも心底羨ましかった。

 

「オレからも一つ質問いい?」

 

 しかしイルミはそんなリリスの内心の荒ぶりも知らず、いつものように飄々とした態度で会話を続けた。一応は確認の(てい)こそとっているが、リリスが良いとも悪いとも言わないうちから好き勝手に喋りだす。

 

「もしかしてオレって、リリスの母親と似てたりする?」

「……は?」

「寝言かなんだか知らないけど、お前がそう言ったんだよ。

 で、リリスが初めからオレのこと嫌ってたのって、そういう理由かなって」

「全然違う!」

 

 イルミの質問は、今リリスが二重の意味で最も触れられたくない話題だった。あの夜の醜態を取り上げられるのも嫌だし、母親の話などもってのほかだ。しかし頭に血が上れば上るほど、いつもは自分でも小賢しいと思うほどよく回る口がちっとも動いてくれなかった。

 

「そうなんだ?じゃあどうしてそんなにオレを敵視してたわけ?」

「……質問は一つって言ったじゃない」

「あ、それもそうか。うーん、まぁいいよ」

 

 そう言って顎に手をやって自己完結した彼は、それで、とリリスがぐちゃぐちゃに掘ってしまった地面を見る。「そこで寝ることは確定?」抉れ具合は合格だが、今のままではあまり寝床としてふさわしくない。内心ではもう少し試行錯誤が必要だと思っていたが、リリスは意地になって頷いた。

 

「そう言ったでしょ」

「ちゃんとしっかり埋まるんだよ。お前は寝相が悪いみたいだから」

「……ほんっと最悪。どっか行って」

「はは、わかったよ。じゃあこれはサービス」

 

 そう言って地面にかがみこんだイルミは、その手でざくざくといとも簡単に穴を掘る。リリスのとは違い、綺麗に人一人分の空間を作った彼は、満足したように「うん」と頷いて立ち去った。

 

「ほんと、なんなのよ……一体」

 

 その後ろ姿はすぐに闇に溶けて見えなくなったが、その後もリリスは長いこと彼が去った方向を睨みつけていたのだった。

 




四次試験はプレートのせいで原作沿いを書くのが難しい……。淵ヒソカの被害者である281番アゴンについては、狩る者も狩られる者も特に表記がなかったので、映ってないだけで他にもモブは要るはず。てなわけで、勝手に221番の受験者を捏造しました。
これでたぶん、原作メンバーは皆合格できたかな。


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31.ゆりかごの腕

 

 ゼビル島の夜は人工の光がなくても、星明りと月明かりで十分周りがよく見えた。

 

 先ほどからイルミはちょうどいい大きさの岩に腰を下ろして何をするわけでもなくぼんやりと過ごしていたが、もちろん見た目ほど油断しているわけではない。何でもない顔をしながら神経は刃のように研ぎ澄まされているので、もしも不用意に近づく者がいればすぐさま針の餌食となるだろう。そもそも、念能力者でなければイルミの存在に気付くことも難しいに違いなかった。暗殺者として普段から気配を消すのは癖のようなものだし、そこへさらに絶を行えば、こうやって堂々と姿を現していてもその存在は酷く希薄である。もしかすると四次試験はこれまでの試験の中でも一番つまらないかもしれないと、そんな柄にもないことまで考えてしまう。

 

(あ、変装解きっぱなしだった)

 

 急に吹き付けた風が長い髪をそよがせ、それを手で押さえたイルミは、自分の顔面に針が刺さっていないことを今更のように思い出した。自分のプレートを揃えた後は完全に寝るつもりだったので抜いてしまっていたのだ。それなのに、リリスが急に念を使ったせいで叩き起こされたにも等しい。今からもう一度変装しなおすか迷ったが、それもなんだか億劫だった。正直キルアにさえ見られなければ問題ないし、イルミが弟の気配に気づけないはずもない。あの変装は大幅に骨格を変えるので、やっているほうはなかなかにキツイのだ。

 

 己の変装についてまぁいいか、と随分適当な判断を下したイルミは、それにしても、と掘り返されて少し色の変わった地面を見る。この下にはリリスが埋まっているのだが、もちろんイルミが殺して埋めたとか、そういう話ではない。

 

 まさか自分以外で、土の中に寝ようとする人間がいるとは思わなかった。野宿をするなら外敵に襲われにくく寒い気候でも保温性の高い土の中がよい、というのは知識として父親から習ったことだが、イルミは実際にシルバがそうしているのを見たことがない。

 

 基本的にゾルディック家に依頼が来るような人間は、莫大な依頼料に見合うほど恨まれている一方、表の世界、裏の世界問わず、成功者であることが多いのだ。そんな相手は核シェルターばりの堅牢な建物に護衛をわんさか連れて引きこもることはあっても、野宿の必要な山中に身を隠すことなどほとんどない。だから、土中での睡眠方法は、本当にあれば便利くらいの知識でしかなかった。

 

 イルミも今回、滅多にない機会だと土の中を試してみたが、やはりあまり快適なものではなかった。仕事の一環だから仕方がないとは思っているものの、正直に言えばシャワー付きの個室が欲しいところである。一方リリスは特に文句も言わずにこうした状況に適応しているように見えるが、やはり流星街出身というところが大きいのだろうか。ゾルディック家に来てもある程度の毒ならば平気な顔をしているし、そう言えば彼女の念だって自らの体を危険に晒さず細かい操作が可能なので暗殺にうってつけだ。

 

 イルミは父親同様、血統や家柄には拘るつもりはないので、こうやって条件を見るとリリスは妻としてはなかなかに優良物件かもしれない。それにしてもまさか自分がこんなにも早く自分が身を固めることになるとはと、イルミはどこか他人事のような気持ちで左手に視線を落とした。

 

 

 さて、今までのイルミならばきっと、これ以上リリスについて考えることはしなかっただろう。重要なのは“今現在”でしかなく、過去などどうでもいい。他人の念能力について知りたいと思うことはあっても、それが形成されるに至った過程や事情などにはまったくもって関心がないのだ。

 

 しかしリリスに関しては、どういうふうに生き、どうして今のように育ったのか少し気になった。それこそがずっとイルミが気になっている、“なぜリリスはイルミを目の(かたき)にするのか”という疑問を紐解く鍵になるだろうと思っている。だから先ほどは“母親と自分の顔が似ているのか”と聞いてみたのだが、残念ながら不発だった。リリスはイルミが何を考えているのかわからない、と言うけれど、イルミから見たリリスのほうが随分と謎に包まれている。

 

(これ、もし今あの夜泣きが始まったらわざわざ土から出てくるのかな……)

 

 それは想像しただけでも、なかなか強烈な光景だった。何も知らない者が見れば、死者が起き上がったと誤解するかもしれない。

 そもそも、土の中で泣きだしたら呼吸はうまくできるのだろうか。今は中が空洞になっている木を空気穴代わりに数本刺しているようだが、あの状態のリリスは何かと危険だ。自分のいる場所も目の前の相手もわかっていなかったのだから、パニックを起こしてしまうかもしれない。

 

「はぁ、世話が焼けるな」

 

 思わずこぼれたイルミの呟きは、しんとした夜の闇の中へ吸い込まれていった。他にやることもないし、となんとなくリリスのことを見張っていたが、そろそろ彼女の呼吸が寝息に変わってから2時間ほど経つ。もしもあれが起こらなければ朝方にでもまた埋め直せばいいかと考えて、結局イルミは彼女を掘り起こしにかかった。

 

 

 そうして見つけた土の中で眠るリリスは、死体というより胎児のようだった。土よけに被せてあった大きな葉を退ければ、背中や手足を丸めた状態ですやすやと眠っている。これにはさすがのイルミも神経の太い女だなと呆れたが、呆れながらも衣服にかかった土を払ってやった。

 

「ん……」

 

 背中と膝裏に手をまわして抱き起せば、リリスはむずかるように鼻を鳴らす。しかしそのまま子供を抱っこする要領で膝の上に乗せると、落ち着いたのか大人しくなった。こうやって静かに寝ていれば、可愛げがないこともないと思う。眠った人間特有の温度と重みは、不思議とイルミ自身をも穏やかな気持ちにしてくれた。余計な邪魔さえ入らなければ、このまましばらくこうしていたことだろう。

 

「覗きなんて良い趣味だね。そこにいるんだろ?」

 

 イルミが暗い森に向かってそう声をかけると、闇の中に鮮やかな色彩の男がぬうっと浮かび上がる。「……おやおや、見つかってしまったみたいだね」おびただしい数の紅血蝶にまとわりつかれながら、ヒソカはゆっくりとこちらに近づいてきた。

 

「そんなねっとりとしたオーラ出しておいてよく言うよ」

「ボク今すっごく機嫌がいいんだよねぇ」

 

 見ればヒソカの胸には、彼のものではない286番のプレートがつけられている。紅血蝶が過剰に反応しているのは、どうやら返り血のほうらしかった。

 

「ターゲット見つけたんだ」

「うん、でもそれはどうでもよくってさ。はぁ……青い果実って本当にそそるよねぇ」

 

 てっきりターゲットが骨のある相手だったのかと思ったが違うらしく、一人で悦に入っているヒソカはいつもの五割増しくらいに気味が悪い。「あんまり近寄らないでくれる?」無意識のうちにリリスの身体を庇うように引き寄せると、ただでさえ上機嫌な様子のヒソカはさらに笑みを濃くした。

 

「まったく。お楽しみの最中だったのはわかるけど、そう邪険にしなくたっていいじゃないか」

「お楽しみ?これはリリスが寝相悪いくせに土の中で寝るって聞かないからだよ。

 さすがに埋もれて死んだんじゃ可哀想だったから」

「聞き苦しい言い訳はやめなよ。彼女が起きてる間もそうやって優しくしてあげればいいのに」

「だからただの気まぐれだってば。ヒソカだってたまにやるだろ」

「ボクはちゃんと相手を選ぶよ。本命にはそこまで回りくどいことしないさ」

「……」

 

 機嫌がいいのはわかるが、本当に煩わしいほどよく回る口だ。ため息をついたイルミは、リリスを少々乱暴に土の穴に横たえる。それを見たヒソカがあーあと呆れたような声を上げたが、聞こえなかったふりをした。

 

「まったく素直じゃないんだから」

「もともと朝にはこうするつもりだったし」

 

 もしもリリスが目覚めるまでこうしていれば、彼女はまた盛大にイルミを糾弾するだろう。ちょっとした親切心だというのに、変態などと不名誉な誹りを受けるのは勘弁である。「やだ……」しかし彼女から離れようとしたイルミの服を、リリスはぎゅっと握って離さなかった。

 

「……」

 

 一瞬、起きていたのかとどきりとするが、冷静に考えれば意識のあるリリスがこんな甘え方をするはずがない。嫌なタイミングで始まってしまったな、と思ったが、思った時には後ろからヒソカに覗きこまれていた。

 

「へぇ、本当はうまく行ってたのかい、キミたち」

「これは違う……。言っただろ、寝相が悪いって」

 

 また泣き出しそうな気配を感じて、イルミは仕方なく彼女を再び膝の上に抱き上げる。途端にあやされた幼児のようにすり寄ってくるリリスを見て、さすがのヒソカもからかう気が失せるくらいに驚いたようだった。

 

「一体どういうことなんだい?」

「オレに聞かれても知らないよ。ただ、夜はときどきこうして幼児退行して、朝になると本人は忘れてる」

「それはまた……難儀だね」

 

 迷惑してる、と言おうとして、イルミは口を噤んだ。このくらいのことは、これまで手を焼かされたことに比べたら可愛らしいものだ。それにぐずる彼女を宥めるのもさほど難しいことではない。「わかったらあっち行って」リリスを庇うように再度警告すると、ヒソカは肩を竦めて数歩後ろに下がった。

 

「まるで産後の猫だね。キミ、いい母親になるよ」

「誰が母親だよ」

「はいはい、ごめんね。じゃあもうボクは行くからごゆっくり」

 

 言われて一瞬むっとしたが、そういえばリリスも自分のことを母だと呼んだ。顔は似ていないそうだが、こうやってあやすとすぐ落ち着くところから考えて、深層心理では母親を求めているのかもしれない。

 初めから殺すために娘を産んだ非道な母親なのに、当の娘からすればそれでも母親だということだろうか。ずっとリリスは母親を憎んでいると思っていたが、憎いだけではないのかもしれない。

 

 イルミは今更になって彼女がゾルディック家にやってきた理由が理解できたような気がした。リリスの母親にとってキキョウは、自分の娘を殺してでも会いたかった友人なのだ。興味が湧かないわけがない。そこで単純な憎しみに転ばなかったのがなぜなのかはわからないが、少なくとも彼女は実際に会った“母親の友人”という存在に納得した。納得して、今度は自分の理想とする母親像をキキョウに重ねたのだろうか。そしてその延長で、理想の家族としてゾルディック家に執着を見せたのだろうか。

 

 なるほど一つ謎は解けた、と思った。

 道理で、しつこいわりにはゾルディック家に対して害意のひとつも見せないわけだ。

 

 いや、害意はないが敵意は確かにあったか。

 イルミは自分の服をしっかり握りしめるリリスを見ながら「一体、オレの何が気に入らないわけ?」と呟いた。

 



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32.酷い女

 

 久しぶりにお湯でしっかりとシャワーを浴びることができて、生き返った心地がする。夜はすべて土の中で過ごしたが、汚れることを除けば寝心地は悪くなかった。むしろいつもよりよく眠れた気がするくらいだ。おぼろげながらも包み込まれるような不思議な感覚があったので、土の温度が睡眠にちょうどいいのかもしれない。

 

 無事に一週間プレートを守りきることができたリリスは、自分のプレート3点、ターゲットのプレート3点という模範的な結果で四次試験を通過した。

 終了時刻に海岸に行けば、キルアはもちろんゴンやクラピカレオリオもみな揃っており、彼らも無事にターゲットのプレートを手にいれたようだ。そしてそのまま合格者は飛行船に乗り込み、次はいよいよ最終試験だという。

 リリスは遠ざかるゼビル島を眼下に捉えながら、感慨に耽っていた。まさかこんな形で自分がハンター試験を受けることになるとは思ってもみなかったし、次が最後ならばリリスは決断しなくてはならない。

 

 最終試験がどのような方式かはわからなかったが、おそらくイルミは受かるだろう。そしてその時リリスの裏切りがキルアに露呈する。彼を傷つけることになると思うと胸が痛んだが、だからといってすべてが丸く収まるような上手い方法も思いつかなかった。今更キルアにイルミのことを伝えて懺悔したところで、二人に逃げ場はない。ただ自分の罪悪感がほんの少し軽くなる程度で、それなら弁解せずにちゃんと憎まれたほうがいい。イルミはリリスとキルアの仲を裂いて友情への幻想を打ち壊したいようだったが、キルアにはもう他に友人がいる。だから安心して憎まれることを選べた。

 

 

「リリス、お前四次試験で俺を避けてただろ」

 

 ふと、後ろから声をかけられて振り向くとキルアがそこに立っていた。この兄弟はとにかく他人の背後を取るのがお好きらしい。

 キルアはかなり怒っているようだったが、リリスだってそれくらいは予想していた。自分の悪癖を見せたくなかったので、あえて彼から逃げていたのだ。

 

「うん、避けてた」

「な……」

 

 こうもあっさり認めるとは思わなかったのか、しかめ面だったキルアは面食らったように瞬きをする。キルアの性格上、ストレートに謝ってしまえばしつこく追及しないのはわかっていた。「せっかくの試験だから自分の力を試してみたかったの、ごめん」リリスが謝れば、キルアは自分の不満をどこへぶつけていいのかわからないようだ。くしゃくしゃと自分の髪をかき混ぜ、あっそ、と呟く。

 

「そういうことなら別に……いいけど。お前さ、写真送らなくていいのかよ」

「……あ。そうだね、忘れてたよ」

「いいのかよ、そんなんで」

「いいよ。どうせあの人、私に期待してないし」

 

 言いながら携帯を取り出し、リリスはキルアを引き寄せて横に並んだ。「え、ツーショットで送んの?」動揺したような声を出すキルアが面白くて、同時に少し切なくもなる。これで終わりだ。きっとこうやって二人で仲良く写真を撮るなんてこと、この先一生ないだろう。ぱしゃり、と撮った写真の自分は、想像していたよりずっと上手く笑えていた。

 

「キルアと一緒になんて、きっとあの人へのいい嫌がらせになるよ」

「……」

「そうだ、次が四次試験だって嘘伝えるけど、キルアは試験後どうするのか考えてる?」

「家には戻らない……ていうか、リリスこそどうすんの?」

 

 そう言われても、今のリリスは明確な答えを持ち合わせていなかった。キルアはただリリスが脅されているだけだと思っているが、今のリリスは文字通りイルミに命を握られている。たとえキルアが上手くライセンスを手に入れてゾルディック家から逃げ続ける道を選んだとしても、リリスは一緒に行くことができないのだ。

 

「もし、もしもだけどさ、特に当てが無いなら一緒に旅とか、」

「私を誘わずにゴンを誘えば?」

「え」

「年も近いし、ちょうどいいじゃない。友達になったんでしょ?」

「ん、まぁ……友達かどうかはわかんねーけど」

 

 言葉を濁したキルアに、我ながら酷い提案をしたものだなと思った。イルミがここにいる以上、そんな冒険は夢物語だ。しかしリリスは別に意地悪でそんなことを言ったわけではなく、本心からこの夢が実現すればいいと思っていた。これはキルアにとってだけでなく、リリスにとっても希望なのだ。この先に暗い現実が待ち受けているのを知っているから、ついつい理想が口をついて出る。「なんでわからないなんて言うの?二人はもう友達でしょ」重ねて問えば、キルアの表情はどんどんと沈んでいく。それでもじっと待っていれば、ややあって懺悔でもするかのように重い口は開かれた。

 

「……二次試験のとき、俺はゴンやリリス達を置いていった。たまたまリリスがヒソカの知り合いで、ゴンの鼻が異常だったからたどり着けたようなもんだけどさ、実際あそこで皆が死んでもおかしくなかっただろ?」

「それはそうだね」

「俺は皆を見捨てたんだ……だから友達だって言う資格がない」

 

 吐き出すようにそう言ったキルアの瞳は暗く沈み、その口元は自嘲に歪んでいる。ただ辛そうな顔をするだけならばともかく、そうやって笑っているところにこれまで塗り重ねられてきた諦観が窺える。そもそも“友達”という気さくな単語と“資格”という固い単語が結びつくこと自体、12歳になる前の子供の発想としては違和感しかなかった。

 

「あのさ、キルア。ゴンはキルアに見捨てないでって言った?クラピカもレオリオも、置いていかないでくれって言った?」

「え……」

 

 リリスの問いに、キルアは俯きがちだった顔を上げ、ちょっと驚いた表情になる。おそらく、彼はリリスからも“資格がない”と言われることを想定していたのだろう。普通で言えばそんなことはあり得ないのだが、これまで彼の近くにいた家族はみな口を揃えてキルアが友達を持つことを頭ごなしに否定した。だからきっと、彼にとっては問いを向けられたこと自体が新鮮だった。弱々しいながらも「言ってない……」と小さく返事をしたキルアは、リリスの言葉を待つように真っすぐに見つめてくる。

 

「誰もキルアが皆を見捨てて逃げたなんて思ってない。友達ってのは対等で、どちらか一方が責任を負うようなこともない。

 お互いに助け合って、そのときできる最善をすればそれでいいんだよ」

「……」

「あの場で残ることを選択したのはゴン。だからその選択にまでキルアが責任を感じる必要はない。だけど友達だから、キルアはゴンが合格できるように道標のコロンを撒いたんでしょ。友達は大事だけど、資格とか、責任とか、そんな重たいことまで考えなくていいと思う。

 大事なのはキルアが皆といたいのかどうか。皆といて楽しいのかどうか」

 

 人と人との関係なんて、リリスにだって何が正しくて何が正しくないのかわからない。偉そうなことを言ったってリリス自身、生きるのに必死で友達と楽しく遊んだ記憶もろくになかった。だが、今のキルアは“友達”について一通りの解釈しか持っていない。キルアの家族がキルアのために誂えたそれが間違っているとまでは言わないけれど、キルアには違う考え方だって知る権利くらいあるはずだ。

 

 リリスの言葉を聞いたキルアは黙って考えこんでいるようだった。確かにすぐにはそうなんだ、難しく考えなくていいんだ、と気持ちを切り替えることはできないと思う。キルアだってずっとずっと、下手をすればゴンに出会う前から、”友達”というものについて悩んでいたのだろうから。

 だが、人生というものはその多くが案ずるより産むが易しである。これから時間はかかってでも、キルアは自分で”友達”のあり方について答えを見つけていけばいい。資格云々は置いておいて、まずはキルア自身が何を望んでいるかが大事だと思うのだ。

 

「キルアはゴンと一緒にいて楽しい?」

「……まぁな、あいつ予想もつかねーことやってくれるし」

「たとえば?」

「そうだな……三次試験の時のこと、話したっけ?殺し合いして扉を開けなきゃ間に合わないってときにさ、あいつ壁を壊して新しい道を作ったんだ。面白いだろ」

「はは、ゴンらしいね」

 

 少し水を向けてやれば、キルアは生き生きとゴンのことを話しだす。指摘をすれば彼は子供扱いするなと怒るかもしれないが、まさに年相応の純粋な笑顔だった。やっぱり、キルアをこんな風に笑顔にできるのは“友達”しかいないのだ。

 

「あのねキルア、この話のついでに、ずっと言おうと思ってたことがあるんだけど」

 

 これでいい、と思いながらリリスはゆっくり目を伏せる。ゴンはキルアの友達だ。でもここまでキルアを騙してきたリリスは違う。自分を慕ってくれる彼を突き放すのは胸が痛むが、これから起こることを考えるならここでリリスははっきりさせておかなければならなかった。

 

「やっぱ、わたしとキルアの関係は友達じゃないと思うんだ」

「……どういうことだよ」

「キルアは私のことで責任を感じてるでしょ、だからだよ」

 

 確かにイルミは家族――特にキルアのことになるとやたらと攻撃的だけれども、リリスが彼の支配下に置かれているのはほとんど自業自得だと言ってもいい。イルミは最初、リリスに警告だけで済ませようとしていたが、それを無視して深入りしたのはリリスだ。温かい家族像を見せられて、欲を出してしまったのはリリスの落ち度だ。

 だからキルアは何も責任を感じることはないのに、彼はずっとリリスの不遇を自分のせいだと思っている。その訂正は絶対にしておきたかった。

 

「……でも、俺はたとえイル兄のことがなくても、リリスと一緒にいて楽しかった。それじゃダメなのかよ」

「私も、キルアとゲームしたりかくれんぼしたり、すっごく楽しかったよ」

「じゃあ、」

「でもやっぱり、友達っていうのはしっくりこない。キルアもゴンと会ってなんとなくわかったでしょ」

 

 友達の定義を未だ見つけられていない彼に、そんなことを問うのは酷だろう。しかし、こういう場合は理屈よりも感覚のほうが当てになる。キルアはリリスもゴンもひとくくりに友達として扱おうとしているが、それが無理なことぐらい薄々気が付いているだろう。「……だったら、俺とリリスっていったい何なんだよ」傷ついた表情でそう言われて、リリスもとても苦しかった。リリスがキルアの友達であることを否定したように、リリスの答えもキルアに受け入れてもらえないかもしれない。

 それでも、リリスがキルアを想っていた気持ちは嘘じゃなかった。

 

「私はね、キルアのこと、友達というより家族みたいに大事に思ってる」

「家族?」

「うん。家族って言ったら、キルアにとっては重くて面倒なだけの存在かもしれないけどさ、私にとって家族は友達よりも大事なものだから、キルアの位置づけは家族なの」

「……」

「もちろん、友達と家族のどっちが強い結びつきかなんて、状況や個人の価値観に依ると思う。だから、キルアがもし友達のほうを大事だと思うのなら、友達を優先していい。家族の立場を取った私を、嫌いになっていい」

 

 最終試験の形式がわからない以上、リリスはこんな逃げ方をするしかなかった。これなら仮にリリスがイルミのスパイだったと露呈しても、キルアの“友達像”には影響しない。リリスの行動はキルアの“家族”として、他のゾルディック家の人々がやっていることと同じだ。初めから“家族”側のスタンスを表明してしまえば、失望されるかもしれないが、絶望を与えはしないだろう。

 キルアが二度とリリスに心を開かなくなったとしても、彼にはもうゴンたちがいる。希望さえ失わなければ、家を出るチャンスはいつかきっと巡ってくると思うのだ。

 

「家族、ね……俺も、リリスみたいな姉貴だったら欲しかったかもな」

 

 リリスの言葉に耳を傾けていたキルアは、ぽつりとそう呟いた。彼にとっては家族なんて嫌な言葉だろうに、リリスの気持ちを受け止めてくれたことがたまらなく嬉しい。胸が詰まって声が震えそうになったが、リリスは努めて明るい笑顔を作った。

 

「とりあえず、キルアは次の試験に集中すること。試験後、私はどさくさに紛れて流星街に帰るから心配いらない」

「でも、リリスはオレを連れ戻せってイル兄に脅されてるんだろ?イル兄から逃げられるのか?」

「それはこっちの台詞だよ。キルアと私が分かれて逃げれば、イルミは絶対にキルアを優先する」

「なるほど!……って、なるほどじゃねーよ!じゃあ俺とゴンで旅しろって囮になれってことじゃねーか!」

「うーん、そこはお姉ちゃんを助けるためだと思って」

「何が姉だ!どこの世界に弟を囮にするような姉がいんだよ!」

 

 当たり前のように姉弟と言ってくれて、本当に嬉しい。キルアは呆れた、と言わんばかりに盛大にため息をついたが、リリスの身の振り方については一応これで納得してくれたようである。

 拗ねたように口を尖らせた“弟”を見ながら微笑んでいると、彼はふとまたそこで真面目な顔になる。

 

「そうだ、俺、リリスに聞きたいことがあったんだ」

「なに?」

 

 この機会に改まって聞かれることとはなんだろう。色々と後ろ暗いところのあるリリスは、内心ひやひやしながらも首を傾げて見せる。ヒソカとの繋がりのことだろうか。それとも前にはぐらかした三次試験の内容?いや、もっと昔に遡って、イルミの“リリスを殺した”発言の意味を聞かれる可能性だってなくはない。

 

「実は俺もクラピカから聞いただけなんだけど……」

「クラピカ?」

「あぁ。リリスがその……夢遊病かもしれないって」

「え……?」

 

 キルアの口から出た単語に、リリスの思考は一瞬停止する。

 安堵と動揺――相反する感情に、なぜか顔だけは笑ってしまっていた。「夢遊病?」わかっている。自分のことだ。だから家で眠るときは内側からドアにチェーンを巻き付けていたし、ゾルディック家でも自分の身体をベッドに繋いでいた。

 けれどもこの話題は、下手をすると自分の裏切りがバレるよりもリリスにとって最悪なものだった。

 

「俺はそういうの詳しくねーからあんまわかんないんだけどさ、もしイル兄のことで悩んでるならほんとに悪いって思うし、」

「違う」

「……なら、いいんだけど」

 

 リリスの否定の声は、特に大きなものでも荒ぶったものでもなかった。しかしキルアはリリスのただならぬ様子を感じ取ったらしく、場に気まずい沈黙が落ちる。空白の時間はリリスの告白を待っているようだった。けれどもリリスは絶対に口を開かなかった。話してどうなるわけでもない。同情されたいわけでもない。一番いいのは気づかないふりをしてくれることだ。キルアもクラピカも善意から本当にリリスを心配してくれているのだとはわかっていたが、それでもどうしてもこの件だけは触れられたくなかった。

 

「……悪い、変なこと聞いた」

「ううん、大丈夫。心配してくれてありがとう。あれはイルミのせいって言うか、昔からのものなの。だから気にしないで」

「……わかった」

「それより、次の試験に集中しよう。皆が言うにはペーパテストかもしれないって」

 

 我ながらこんなに下手な話題転換があるだろうかと思わず苦笑しそうになる。しかしそんなリリスを救うかのように、ちょうど飛行船内にアナウンスの音声が流れた。

 

 ――えー。これより会長が面談を行います。番号を呼ばれた方は2階の第1応接室までお越しください

 

「面談……?まさかそれが最終試験だってのか?」

 

 予想外の“面談”という単語に、キルアの思考はそちらに引っ張られたようだった。きっと今頃他の受験生たちもざわついていることだろう。「さぁ、どうだろうね」リリスはほとんど上の空で相槌を打った。

 

 △▼

 

 

 面談の部屋は入り口こそドアだったものの、中は他の船室と違ってジャポン風の部屋になっていた。リノリウムの床から一段高くなったところに草を編んだような床材が敷かれており、会長はやたらと平べったいクッションの上で胡坐をかいている。

 

 畳、座布団、後ろにあるのは掛け軸か。

 

 リリスはゾルディック家でゼノから教えてもらった知識を思い出し、靴を脱いで畳の上へと上がる。会長はリリスのたどたどしい動きを見ると、ほっほっ、と楽しそうに笑った。

 

「そう緊張しなくてよい。これは試験ではなく、ちょいと参考までに質問する程度のことじゃ」

「そうなんですか?」

「あぁ、全く試験に無関係とは言わんがね。

 ええと、まず、なぜハンターになりたいのかな?」

 

 なんだ。本当にただの面談ならそう言ってくれればよかったのに。リリスは自分より先に面談を受けたキルアのことを思い、どうやら色々まとめて仕返しされたようだと内心で苦笑する。

 それから気持ちを切り替えて、真剣な顔で会長に向き合った。

 

「特にありません。私、無理やり参加させられているので」

「おやおや、随分と正直な娘さんじゃのう」

「今さら嘘をついても仕方ありませんから。でも、せっかくここまで来たんだし、ライセンスが貰えるなら貰います」

「あいわかった。では質問を続けるぞ。残った受験者の中で一番注目している受験者は?」

 

 注目?

 

 これはリリスの観察眼を測っているのだろうか。普通で言うなら、今の面子で注目すべきはヒソカとイルミだ。これはもちろん悪い意味で、二人が念能力者なうえに突出した強敵だから。

 だが、本当に純粋な意味でリリスが合否を気にしているのはキルアのほうである。

 

「……99番ですね」

「理由を聞いても?」

「言うまでもなく、彼の才能はおわかりでしょう。それに血は繋がっていませんが、彼は私の弟のような存在だからです。彼には合格してほしい」

「そうか。では、今一番戦いたくないのは?」

 

 ここへきて、戦闘関連の話題か。

 この面談は最終試験の参考になるそうだし、もしかすると最後の試験はストレートに戦闘技術を問うものなのかもしれない。しかもこういう聞き方をされるということは、総当たりの可能性は低い。ただ、嫌な相手を言っておけば避けてもらえるのか、ここぞとばかりに戦わされるのかそれだけがわからない。普通で言うならヒソカを挙げるとこだが、そのせいで戦わされる羽目になるのはごめんである。

 

「私は戦闘向きではないので、本音を言えば誰とも戦いたくありませんね。でも、逆に言えば相手が誰でも結果は変わらない気がするので、誰でもいいです」

 

 リリスはあえてぼやかした返答をすることで、特定の誰かの名前を挙げることは避けた。ふぅむ……と会長は顎髭を撫で、何かを考えているようである。

 

「99番の彼に合格してほしい。でも、彼とも戦える、と」

 

 やはり最終試験は対戦形式か。だったら、最悪キルアとイルミが当たってしまう可能性がある。特に勝ち進む気のないリリスは誰と当たってもいいが、その二人が当たるのはなるべく避けたい。いや、待て。キルアとリリスが当たったとしても、イルミはキルアに揺さぶりをかけるだろう。もしかするとキルアを操って、試験中にリリスを殺させるかもしれない。我に返ったキルアはショックで試験どころではなくなるだろうし、それこそ責任を感じて心を閉ざす。あの男ならばありえる展開だ。それだけはまずい。

 

「あ、ちょっと待ってください」

「どうしたんじゃ?」

 

 なんとか、キルアとイルミ、キルアとリリス、という対戦を避ける方法はないだろうか。ひねくれた発想をしてしまったが今のこの会長の雰囲気だと、結構要望は聞いてもらえそうである。「そうか……」そしてリリスの頭がフル回転の末に導きだしたシナリオは、自分でも驚くくらい最高の出来だと思った。これならばリリスはイルミの支配下から抜け出せ、キルアをただ裏切っただけでは終わらず、イルミにも一矢報いることができる。

 

「すみません、戦う相手は誰でもよくないです。戦うのなら301番と」

 

 リリスは覚悟を決めて、会長の目をまっすぐに見つめた。

 が、会長のほうはどこか呆気にとられた表情で、ぱちぱちと瞬きをする。

 

「ええと、わしは戦いたくない相手を聞いたんじゃがのう」

「あ……」

「まぁ、よい。おぬしが本当にそう思っているのなら参考にしよう。下がってよいぞ」

「は、はい」

 

 これしかない、と勢い込んで言ってしまっただけに、自分の勇み足が恥ずかしかった。それでも参考にしようと言ってもらえただけありがたい。リリスは靴を履くと、一礼してそそくさと面談室から退出する。

 

 リリスの描いたシナリオは、決して大団円のハッピーエンドではなかった。それでも、この先一生イルミに良いように使われることを考えたら、リリスにとっては十分ましな結末だ。結婚したら家族になるだなんて綺麗事を言っても、あの排他的な男が本当の意味でリリスを家族扱いするとは思えないし甚振られるだけだろう。そんな扱いを受けるくらいなら、姉扱いしてくれたキルアの為にも全力でイルミの邪魔をする。

 ほんのついさっき決まったばかりの作戦だったが、リリスの決意は固かった。

 

 

 

 そうして飛行船にのってから三日がたった頃、委員会が経営するホテルにて、とうとう最終試験の内容が発表される。

 

「最終試験は1対1のトーナメントで行う。その組み合わせはこうじゃ」

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 どよめきが室内を満たす中、希望が叶えられたことを知ったリリスは、わざわざ振り返ってイルミ扮するギタラクルを見る。そして挑発するようににやりと笑って、口の動きだけでメッセージを送った。

 

 ――そろそろまた、攻守交代と行きましょうか。

 



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33.きっかけの爆弾

 

 最終試験の課題は負けあがり式のトーナメント戦。

 ハンターとしての資質によって挑戦できる回数にばらつきがあるようだが、詳細な判断基準は秘密らしい。キルアだけは不満そうな顔をしていたものの、他の受験生は1勝さえすればいいという条件に希望を見出したようだった。レオリオなどはその最たる例だろう。

 しかし実際にいざ試合が始まってみると、話はそう単純なものではないとすぐに明らかになった。

 

 第一試合のゴン対ハンゾー戦。

 勝利の基準は“相手に参ったと言わせること”だが、この最終試験で“殺し”は即失格である。ここまで残ったような人間は、良くも悪くも自分の負けをあっさり認めない頑固者ばかりなので、この第一試合はかなり時間がかかっていた。

 

 会場が自然とゴンを応援する雰囲気になっても、イルミだけは相変わらず興味がなさそうに事の成り行きを見守っている。試合前のリリスの挑発も、一体どういう風に受け取ったのかわからない。

 

 最終的にゴン対ハンゾー戦はゴンの粘り勝ちとなったが、ゴンは我儘を言いすぎたためそのまま医務室へ。続く第二試合もヒソカがクラピカに勝ちを譲り、死者を出さないルールを守ったうえで、交渉や脅しを駆使して次々と勝負が決まっていく。最初の二試合で負けあがったハンゾーとヒソカは、第三、第四の試合で実力通りに合格を果たした。

 

 そして、第五試合、ポックル対キルア。

 リリスはこのトーナメント表を見たとき、キルアの勝ちを確信して完全に安心しきっていた。まともにやれば、キルアが負けるはずのない相手だ。イルミはキルアにライセンスを取ってほしくないようだったが、会長たちもいるこの衆人監視の状況ではさすがに手を出せまい。今回、イルミがキルアを家に連れ戻したとしても、今後キルアが自由を掴むうえでライセンスは必ず役に立つときが来るに違いなかった。

 

 

「参った」

 

 だが、リングに上がったキルアは、試合開始の合図とともにあっさりとそう告げてポックルに背を向ける。その行動は戦っても面白くなさそうだからという、随分とふざけた理由だった。対戦相手のポックルも唖然としただろうが、リリスもそれを聞いて愕然としていた。

 もしもリリスの作戦が失敗した場合、リリスが負けてキルアと当たるのはまだいい。しかし今の状況では、イルミがキルアと当たってしまう可能性もゼロではないのだ。それだけは何としてでも阻止しなければならない。

 

 リリスはイルミと向き合うと、審判が口を開くよりも先に彼に向かって小さく頭を下げた。

 

「お願いがあります。どうか先ほどのキルアVSポックル戦のようなことはしないでください」

「……」

「あいつそもそも喋れんのか?」

 

 レオリオのツッコミはさておき、そのまま試合は開始される。

 先に挑発をしていたお陰か、イルミはリリスの出方を窺っているようだった。リリスが普通に攻撃を仕掛けても、防戦一方で全てかわすか受け止めるかしている。

 しかしこれはリリスにとって好都合だった。試合がちゃんと行われていたと周りに認識してもらうことが重要なのである。

 リリスは戯れのような攻撃を繰り返しながら、徐々にオーラを練り始めた。当然、痛みが身体を苛み始め、額にはじんわり脂汗が浮く。

 

「おい、なんかリリスの様子おかしくないか?」

 

 これがもし単なる演技だったら、医者志望のレオリオには見抜かれてしまっていたことだろう。けれどもリリスは本当に苦しんでいる。見かけ上イルミは何もしていないが、イルミとの試合中にリリスが苦しんでいる、という事実が必要なのだ。

 

「っ!私に……なにを、したの」

 

 リリスはとうとう耐えきれなくなって膝をついた。痛みで思考が飛びそうになるが、それでも言おうと思っていた台詞だけは言った。これでリリスのこの症状が急に起こった体調不良なんかではなく、人為的なものであると印象付けられるはずだ。

 後はこのままここでリリスが死ねば、皆イルミの仕業だと思うだろう。そうなればイルミは失格になる。

 

 最期の最期で、リリスはどうしてもキルアを裏切りたくないと思ったのだ。キルアには嘘もたくさんついた。リリスが死ぬことでまた傷つけてしまうかもしれない。それでもこのままイルミの好きにさせて、キルアに幻滅されるくらいなら、少しでも彼がライセンスを取る手助けをしたい。今のキルアにはゴンという友達もいるし、飛行船の中でキルアと会話して、もう自分という存在がいなくても大丈夫だと確信が持てた。それに試験中の死亡ならば、キルアが感じる責任も薄いかもしれない。憎む対象が分かっていれば、罪悪感も薄れるだろう。

 

 実際、リリスの中にはキルアの憎しみをイルミに向けさせ、イルミがこれまで以上に手を焼けばいいという薄暗い感情もあった。

 つまりこの作戦でリリスは自分の名誉を守り、キルアの自由を後押しし、なおかつイルミを妨害できる。今後一生飼い殺されることを考えれば、ここで死ぬのもそう悪くないだろう。

 

「参った」

 

 こちらの意図に気づいたイルミが負け宣言を行うが、もう遅い。

 リリスはそのまま試合の勝敗にかまわず爆死するつもりだった。宣言後に死んだとしても、この試合が物議を醸すことは必然。念能力者であればイルミが見たところ念を遣っていないことはわかるかもしれないが、この場にいる大半は素人だ。リリスの死はイルミのせいだと思って、協会側に試験終了を求めるに違いない。

 

 そしてハンター協会が後々調べたとしても、やっぱりリリスの死は指輪の念――結局のところイルミの仕業なのである。上手くいけば、イルミの負け宣言こそがパフォーマンスであるとして、彼に疑惑の目が向くかもしれない。まさか、最終試験まで来てリリスが自殺を図るとは誰も思わないだろう。もし単純にイルミを失格させたいという動機があったとしても、来年になればイルミはまた試験を受けられる。常識的に考えて、一時の妨害に命を懸ける人間などいないと考えるはずだった。

 

「おい、リリス!」

「っ、来ちゃ駄目!」

 

 試合終了の判定が下り、レオリオが駆け寄ってこようとする。リリスはそれを気迫で制し、這いずってイルミの足にしがみついた。きっと念でガードされるから爆発には巻き込めない。が、逆に言えばイルミがガードをすることで、周囲への被害を最小限に抑えられる。「よ……くも」最後の力を振り絞って立ち上がり、しっかり彼に抱き着いたリリスは覚悟の上で目を閉じた。

 

 ――これで終わりだ。

 

 そのとき包まれた温度に、なんだかどうしようもない懐かしさを覚えた。

 

 

 △▼

 

 

 試験内容は面談で予想がついたが、トーナメント表が公開されてすぐのリリスの挑発は謎だった。あの様子からしてイルミとの試合はリリスが希望したことのようだが、今一つその目的がわからない。イルミとぶつかったところでリリスに勝ち目はないし、そもそも論としてイルミはリリスにライセンスを取らせたい。負けあがり方式で自分にはチャンスが三回あるし、一回くらいリリスに譲っても全く問題はないのだ。

 

 しかし試合が始まる前、彼女は殊勝なことに普通に戦ってほしいと頭まで下げて見せた。

 どうやらイルミが試合放棄することにより、次の試合でキルアとイルミがぶつかるのを阻止したいようだが、別にイルミにリリスの願いを聞いてやる義理などない。

 とはいえ、リリスが何を考えてこの試合を望んだのかは正直気になっていた。とりあえず本気で攻撃をしてきてはいるが、様子見で軽くあしらっておく。

 

 状況が変わったのは、リリスがオーラを練り始めたからだった。

 そんなことをすれば激痛が走るはずで、案の定リリスの額には運動によるものとは明らかに違う汗が浮かび、顔面も蒼白になっている。

 

 様子がおかしいとギャラリーがざわつき始めたところで、リリスは苦し気に言葉を絞り出した。

 

「っ!私に……なにを、したの」

 

 イルミはそこでようやく、これがリリスの身体を張ったパフォーマンスであると理解した。さては後程、リリスの裏切りが露見した時のために、真っ向からイルミに立ち向かったという証拠作りのつもりか。もしくは盛大に被害者ぶって、従わざるを得なかったのだというアピールのつもりなのだろうか。

 

 このときイルミはまさか、彼女が死のうとしているとは夢にも思っていなかった。なぜならリリスが自殺すればキルアの精神に深く傷を残すだろうと試験前に脅したし、それを考えればたとえこの先イルミに飼い殺される現実があったとしても、キルアのことを可愛がっているリリスは自殺を躊躇うはずだからだ。

 第一、ここで死ぬことにさほどメリットがあるとは思えない。イルミの妨害にしては賭けるものが大きすぎるし、四次試験の時だって自殺はしないと言っていた。

 

 とりあえず、これ以上はリリスの身体に良くないと思った。そろそろ潮時かと考え、イルミは躊躇いなく負けを宣言する。利用されたことは若干癪だが、まぁこのくらいのパフォーマンスには付き合ってやってもいい。試合が終われば、リリスもこの悪あがきをやめるだろう。

 どうせ次はイルミとキルアが当たるのだ。そこでイルミは合格し、キルアの希望を砕いて終わり。

 

 だが、イルミの予想とは裏腹に、リリスは試合が終わってもオーラを練るのをやめようとはしなかった。「来ちゃ駄目!」痛みで集中できないために時間がかかっているようだが、流石にそろそろ指輪が爆発する限界のはずだ。

 どうしたのか。何がしたい?まさか死ぬつもりなのか?

 

 ――リリスが、死ぬ?

 

 その考えに辿り着いたとき、イルミの胸を満たしたのは恐ろしいまでの焦燥だった。

 

 リリスが死ねば色々と面倒ではあるが、正直そこまで困りはしない。

 仕事でライセンスがいるのはそうだが、それだって所詮あれば便利くらいのものだ。一時のことであれば偽造してしまう手もあるし、イルミならば針で操作して資格持ちであるように誤解させてもいい。母親への説明も、試験中の事故ならば諦めてくれるだろう。これまでずっと仲睦まじい演技をしてきたし、同情されこそすれ糾弾されるようなことはないはずだ。あれだけ不安を煽ったキルアの精神的ダメージについても、もしキルアが壊れるようなら針で忘れさせてしまえばいい。

 

 それなのに、イルミはなぜかリリスを止めなくては、という思いに突き動かされた。

 死なせたくない。死んでほしくない。

 

 それはもはや理屈ではなかった。イルミの中で彼女はもう、確かに自分の物であった。彼女がゾルディック家の人間を家族として慈しんだみたいに、イルミもリリスを知らず知らずのうちに家族の枠へと含めていたのだ。

 

 ――今更、手放してやるものか。

 

 縋りつかれて、その思いは確かなものとなる。

 瞬間、からん、と小気味よい金属の音が、緊迫する会場の空気を裂くように響いた。

 

「なんだ……?何が起こったんだ?」

「あれは……」

 

 ざわつくギャラリーはそこで、イルミの足元に銀色の破片が落ちていることに気付く。それは真っ二つに割れていたが、元がリング状になっていたということは容易に推測できた。

 

「……試合は終わりでしょ。彼女、医務室に運んであげて」

「えっ、あ、はい!」

 

 ぐったりとしたリリスを抱きかかえたイルミは、まるで何事もなかったみたいにそう言った。先ほど参ったと口にしたはずなのに、審判は初めてイルミが話すのを聞いたかのように飛び上がる。

 そしてその時になって周りの皆も気が付いた。全身に針を刺した強烈な印象のせいでそちらにばかり気を取られていたが、彼の左手の薬指にも光るものがある。たった今落ちたリリスの物とよく似た銀色の指輪は引きちぎられて、破片が指の間にかろうじて挟まっているという状態だった。

 

「リリス!しっかりしろ!」

「気を失ってるだけだから。担架」

「ご用意しました!」

 

 騒然とする会場を尻目に、イルミはリリスの身体をレオリオに託すと静かに壁際へと戻る。「お疲れサマ」腕を組んだヒソカが声をかけてきたが、イルミはろくな反応を返さなかった。無視をしたわけではなくて、完全に上の空だったのだ。

 

 自分で自分の行動に一番驚いていた。行動だけでなく、そのとき抱いてしまった感情にも。

 

 運ばれていく彼女をぼんやり見ながら、イルミは酷く安堵していた。

 




試合の流れは原作とほぼ同じ
1.ゴン(合)・ハンゾー
2.クラピカ(合)・ヒソカ
3.ハンゾー(合)・ポックル
4.ポドロ・ヒソカ(合)
5.ポックル(合)・キルア
6.リリス(合)・ギタラクル

この後、7.ポドロ・レオリオ→のはずがポドロの回復待ちで7.イルミ・キルア


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34.内なる望み

 

 ――資質で俺がゴンに劣っている……?

 

 最終試験で発表されたトーナメント表には、これまでの試験の成績が反映されているという。純粋な個人としての身体能力値、精神能力値、それから最も重要な要因(ファクター)である印象値は、ハンターとしての資質評価だそうだ。

 

 キルアは別にハンターになりたくて試験を受けに来たわけではなかった。家業を継いで暗殺者になるのが嫌で、兄からリリスを救いたくて、難関だという試験に合格してリリスに認めてほしかっただけだ。そこにはライセンスがあれば、これから独り立ちするにあたって便利だろうという打算もあった。

 

 だが、こうして改めて他者からの評価を突き付けられると、キルアは素直に現実を受け入れられなかった。そもそもが医者志望のレオリオはともかく、ほとんど一緒に試験を受けたゴンは五回、クラピカですら四回の試合チャンスを貰っている。能力だけで言えば幼少期から厳しい訓練を積んだキルアのほうが遥かに高いだろうに、そのキルアに与えられたのはたった三回の試合回数なのである。明らかに、”ハンターとして”キルアのほうが劣っていると判断されたということだろう。

 

 決して望んだわけでも、そこに胡坐をかいた覚えもなかったが、ゾルディック家始まって以来の天才だと期待をかけられるのが常だったキルアにとって、この結果は衝撃的だった。お前はハンターに向かないのだと、誰かに囁かれたような気がしてぞっとした。

 

「参った。悪いけど、アンタとは戦う気がしないんでね」

 

 だからポックルとの試合を放棄したのは、慢心というよりも協会に対する反抗だったのかもしれない。戦闘面ではどう考えてもキルアのほうが優位だった。それなのに、ポックルのほうがキルアよりもハンターとして評価されているのが面白くなかった。

 

 チャンスなんて要らない。自分ならば一回もあれば十分だ。

 合格することが目的だったのに、キルアはここへきて勝ち方に拘ってしまった。早々にリングを降りて次の試合に出るリリスとすれ違ったとき、もし次でリリスが負けても俺が勝ちを譲ってやるから心配するなよ、なんて甘いことを考えていたのだ。

 

 

「おい、なんかリリスの様子おかしくないか?」

 

 けれども現実はキルアの筋書き通りには進まなかった。なぜかあの針男と真っ当な勝負を望んだリリスは、絶対に降参しないつもりのようである。それが彼女の矜持によるものなのか、次の試合のキルアのことを考えてなのかはわからない。

 とにかく針男の方はひたすら防御に徹しているようにしか見えなかったのだが、試合が進むにつれてどんどんリリスの苦しみ方が尋常ではなくなっていくのだ。

 

 ――もうやめろ、参ったって言えよ!

 

 とてもじゃないが、見ていられない。ゴンの試合のときにもそう思ったが、ゴンにはハンターになって父親を捜すという夢がある。だがリリスにはそこまでしてハンターになりたい理由があるわけではないはずだ。むしろ彼女はキルアに巻き込まれた形で、無理矢理この試験に参加させられたに過ぎない。

 それなのに、戦い続けるリリスには何か鬼気迫るものがあって、キルアは結局何も声をかけられないでいた。試合が早く終わってくれることを祈りながら、彼女が苦痛に喘ぐさまを見守ることしかできなかった。

 

「参った」

 

 そしてようやく告げられた降参の言葉は、意外にも無傷な針男から発せられたものだった。レオリオがすぐさま介抱に向かおうとするが、リリスは大声でそれを制し、未だに針男のほうへと這いずっていく。

 本来ならば、試合終了後の接触は審判が止めるべきだった。息も絶え絶えな様子のリリスはそのまま針男に縋りつき、どこか満足したような表情で目を閉じる。

 

 それは、死を覚悟した人間の顔だった。

 

 彼女が何を思い、何を考え、こんな無茶をしたのかはわからない。それでもキルアは直感的に彼女の死を悟った。

 状況は未だ何一つ理解できていなかったが、すぐ先の未来の想像がキルアを打ちのめし、全身が凍り付く。懇願の言葉は声にならずに、ひゅっ、とただの空気として喉を通り抜けていった。

 

「なんだ……?何が起こったんだ?」

 

 その時――。

 からん、と金属が床に落ちる音が、会場内にやけに大きく反響して聞こえた。

 命の音というにもあまりにも軽いそれは、リリスの左手の指輪が真っ二つに割れて落ちた音。

 

「……試合は終わりでしょ。彼女、医務室に運んであげて」

 

 キルアはその声を耳にして、初めてそこで何もかもを理解した。針男の正体も、リリスの異様なまでの覚悟も全て理解して、自分のあまりの愚かさに泣き出したいような気持ちになる。

 キルアはずっと、イルミの手のひらの上で踊らされていたのだ。

 

 

 だが、キルアが後悔に沈む間もなく、試合は無情にも進んでいく。リリスが医務室に運ばれると、次はキルア対ギタラクルなのだ。

 もしもあのときポックル戦を棄権していなければ、また少し結末が変わっていたかもしれない。もしかするとリリスもあそこまで無茶をしなかったかもしれない。

 

 キルアは針男の正体を知ったことで、リリスがなぜ今更”キルアとは友達じゃない”と言い出したのかわかったような気がした。彼女も彼女で、キルアに対して罪悪感を抱いていたのだろう。あの苦しみ方は演技なんてレベルじゃなかったし、明らかに死を覚悟していたものだ。キルアにとって”家族”というのはこれまで煩わしいものでしかなかったが、リリスは命を賭してイルミに立ち向かってくれた。

 リリスは友達ではないかもしれないが、代わりに家族的な愛情を示してくれたのだ。

 

 

 試合開始が告げられると、キルアは目の前の男を見据えてゆっくりと口を開いた。

 

「……奇遇だな、兄貴」

「そうだね、これは全くの偶然だ」

 

 そう言いながら針を抜いていく”ギタラクル”。

 みるみるうちに顔かたちがめきめきと変形し、見慣れた長い髪がさらりと背中に流れ落ちた。「オレは仕事の関係上、資格が必要だったんだけど、まさかキルがハンターになりたいと思ってたなんてね」あまりの白々しい嘘に聞いているだけで吐き気がする。

 不気味な針男の正体がキルアの兄だという事実に周囲はどよめき、二人の会話を固唾をのんで見守っていた。

 

「……さっきのあれ、リリスに何したんだよ。ていうかこれまでも。何させてたんだよ」

 

 リリスを助けるつもりでした家出が、まさか余計にリリスを苦しめることになるとは思ってもみなかった。

 キルアは自分に対する怒りと情けなさと、目の前の兄への憎しみで溺れそうになっていたが、対するイルミの表情はいつもと変わらない。ただ、会話をする気はあるようで、底冷えのする黒い瞳でキルアを見下ろした。

 

「別に何もしてないよ。むしろオレはリリスの自殺をとめてやったくらいだから、感謝してほしいね」

「自殺しようとするほど、追い詰めたのは兄貴じゃないのか」

「心外だなあ。あれは気を病んで死のうとするほど、可愛い性格じゃないだろ?

 だいたいキルがいけないんだよ。キルさえ大人しくしていれば、リリスは安全だったのに」

「……っ、俺のせいだって言うのか?俺が、大人しく暗殺やってればよかったって?」

 

「そうだよ。お前の天職は殺し屋なんだから」

 

 決めつけるようなイルミの言葉と共に、兄を取り巻く空気の温度がぐっと下がる。圧迫感というのは比喩でも何でもなかった。なけなしの酸素を求めるように、キルアの呼吸が早く短いものになる。

 

「お前は熱をもたない闇人形だ。自身は何も欲しがらず、何も望まない。陰を糧に動くお前が唯一喜びを抱くのは、人の死に触れたとき。お前はオレと親父にそうつくられた」

 

 イルミはまるで経典でも暗唱するかのように、いつもの台詞を諳んじた。その言葉の意味を考える必要はなく、絶対的に正しいのだと信じているといわんばかりの口ぶりだ。「そんなお前が、何を求めてハンターになると?」首を傾げたイルミには、キルアの行動は考えたことすらない選択だったらしい。

 キルアは何度も聞かされた”レール”に挫けそうになる心を叱咤して、自分の想いを伝えようと思った。

 

 これまでは聞く耳すら持ってもらえないと諦めていたけれど、もしかすると今の兄なら――

 

「……別に、ハンターになりたいわけじゃない。でも、俺にだって望むことくらいはある」

「ないね」

「あるよ!イル兄にだってあるはずだ!」

 

「……オレに?一体何を言い出すんだい、キル」

 

 ここで起こるのは、有る無しの平行線の議論。

 そう思い切っていたのか、キルアの反撃にイルミは目を瞬かせる。お陰であの不気味な圧力もやや弱まり、キルアはここぞとばかりに深く息を吸い込んだ。

 

「リリスはもう人質として使えない。さっきの話を聞いて、確信がもてた」

「ふぅん、やっぱりリリスを見捨てるってわけ?」

「違うよ。リリスは俺に言ってくれた。俺のこと家族みたいに大事に思ってるって」

「……」

「でも、兄貴もそうなんだろ? 兄貴はもう、リリスのことを家族のように思ってるはずだ。だからリリスの自殺を止めたんだろ」

 

「……別にただ、あれはオレのモノだってだけだよ」

 

 いつも淡々と話すイルミにしては、随分と歯切れが悪い。しかしだからこそ、この指摘が図星であるとよくわかる。

 キルアはさらに畳みかけるように口を開いた。

 

「いいや、薄々おかしいと思ってたんだ。俺を脅すための人質にしては、やけにリリスに拘るんだなって。家出した俺を追うだけなら、なにもリリスまで試験に連れてこなくていい」

「それは、万が一キルが脱落した時の保険だよ」

「監視は執事でもいいだろ?なのに、イル兄はリリスをわざわざ同伴させた。拘りすぎなんだよ、リリスに」

「……」

「でも仕方ないよな、イル兄、家と家族のこと大好きだもんな。……こっちがうんざりするくらい」

 

 わざと吐き捨てるように言ってやれば、イルミは元から大きな瞳をさらに見開いた。手塩にかけた弟に腹の中で疎ましく思われていたこと、そして弟にあっさりと自分の感情を見透かされたこと。前者はともかく、強い否定を返してこないあたり、イルミ自身ももうリリスを家族だと認めているのだろう。これで彼女が殺されるようなことはなくなったが、この兄の愛情は下手な殺意よりも対象を擦り減らす。それを知っているキルアとしては、素直に安心していいのかどうか複雑な気分だ。

 一方、イルミは早々に衝撃から回復し、今度は顎に手をやって、どうキルアをやり込めるか考えているらしかった。

 

「……仮に、オレがリリスを家族みたいに思ってるとして、だったらキルはどうなの?自分のことを大事にしてくれるリリスを置いて、キルは外の世界に行くって言うのかい?」

「リリスは俺の望みを応援してくれた」

「望み?ふーん、では言ってごらんよ」

 

 話題がリリスのことからキルアの話へと移った時点で、あの不思議な圧が再び強くなり始めた。それでもキルアは引き下がらない。あれだけのリリスの覚悟を見せられた後だ。自分だけ逃げだすなんてみっともない真似はしたくない。ごくり、と自分の喉が鳴るのを聞きながら、この試験を通してようやく形になり始めた心からの望みを口にすることにした。

 

「……俺は、ゴンと友達になりたい。友達と旅して、もっともっと色んな世界を見て回りたい」

 

 元はといえば、ただあの環境から逃げ出したかった。リリスを救うこともそうだが、彼女がいなくてもキルアはいつか家出をするつもりだった。

 だが、“家を出たい”や“暗殺者になりたくない”というのは後ろ向きな望みだ。家を出て、暗殺者以外の道を選んだ自分が、何をして生きるのか、したいことがあるのかと問われれば、たちまち答えに窮してしまう。けれども今のキルアには、僅かながらも前向きな望みがある。まだまだ具体性には欠けるけれど、心の底から想った願いが。

 

「無理だね。お前に友達なんてできっこないよ」

 

 イルミはあざ笑うわけでもなく、哀れむわけでもなく、ただ事実を述べるように淡々と否定した。

 

「お前は勘違いしてる。所詮、お前も人を”使える”か”使えないか”でしか判断してないんだ。リリスのときもそうだろう?お前はリリスに褒められることで、誰かに認められたいという感情を満たしていただけだ」

 

 それについては思い当たらないわけでもない。家族がキルアを”一人の人間”として扱わないから、どうしてもリリスに求めた部分がある。

 反論の言葉を持たなかったキルアに、イルミは言い含めるようにゆっくりと話した。

 

「ゴンに関してもそうだよ。お前は家から出たい理由に、都合よくそいつを使ってるだけだ。友達になりたいわけじゃない」

「違う……!俺は、」

「キル、お前は俺がリリスを殺さないだろう、と言ったね。確かにリリスがこのまま大人しく家族になるなら、オレはリリスを殺さないと思う。

 でもね、始まりはやっぱり利用価値だった。リリスが”使え”なければ、オレはリリスに目をつけなかったよ」

「……」

「キルもそうさ、今は家を出る口実にゴンに利用しようとしているだけだ。そんなものは友情じゃない。

 いつかゴンが”使えなくなったら”、きっとお前はゴンを殺すよ。たとえ直接的でなくても、邪魔になれば見殺しにする。なぜなら、お前は根っからの人殺しだから」

 

 イルミの決めつけるような発言に、キルアの背筋がぞくりと粟立った。いくら綺麗ごとを言おうとも、友達を見捨てないことに関してキルアは正直なところ自信がない。特にゴンは格上相手でも平気で突っ込んでいくような奴だ。危ない橋は渡らずに逃げろという方針で育ったキルアとは真逆である。

 もしも、もしも、ゴンと二人でいるときに窮地に陥ったら――。

 

「キルア!そいつがお前の兄貴だろうが何だろうが言わせてもらうぜ!そんな人をモノとしか思ってないような奴の話に聞く耳持つことねえ!いつもの調子でぶっとばしてやれ!」

 

 キルアが嫌な想像に引きずられかけそうになったところで、外野からレオリオの大声が聞こえてくる。「ゴンと友達になりたいだ?馬鹿か!お前らはとっくにダチ同士だろうが!」その激励に、はっとしたのはキルアだけではなかった。

 

「え、そうなの?」

 

 これまでキルアだけを捉えていた暗い瞳が、ギャラリーのほうへと向けられる。「あたりめーだろが、バーカ!」すっかり頭に血が上った様子のレオリオは臆することなく喚きたてた。

 

「ゴンとキルアは友達だ!そんなもん、見りゃわかるだろうが!ゴンだってもうそう思ってるぜ!」

「……へぇ、あっちはもう友達のつもりなのか。

 よかったね、キル。ちょうどいいじゃないか」

 

 本心から良かったね、と言ってるわけではないことくらいわかるが、ちょうどいいとはどういうことだろう。

 困惑するキルアに、イルミはさも素晴らしい思い付きをしたかのようにピンと指を立ててみせる。

 

「今からゴンを殺そう。それで、お前が友達を見捨てないかどうかはっきりする」

「っ……!」

 

 瞬間、会場を包んだ緊張。

 キルアだけじゃない、あれだけ怖い物知らずと思えたレオリオも、あまりの発言に息をのんで固まっている。

 

「彼は今、どこにいるの?」

「ちょっと待ってください。まだ試験は、」

「どこ?」

 

 イルミの行動に一拍遅れて試験官が止めに入ろうとしたが、言葉を最後まで言い切らないうちに針の餌食となる。キルアとの訓練ではただの凶器でしかなかったはずだが、刺された試験官の顔はイルミが変装を解いた時のように歪に変形した。

 

「ト、隣リノ控エ室二……」

「どうも」

 

 イルミはまったく心のこもらない礼を述べると、そのままリングを降りようとする。

 追いかけたい。追いかけて止めたい。なのに足が動かない。

 自分も他の皆のように、扉の前に立って兄の行く手を防げたらどれだけよかったか。

 

「お前にゴンは殺させねぇ!」

「……うーん、ここで彼らを殺しちゃうとオレが失格になって、自動的にキルが合格ってことになっちゃうね。ライセンスが要るのは本当だし、参ったな……」

 

「あ、いけない。それはゴン殺しても同じか?

 うーん、それじゃあ、合格してからゴンを殺そう」

 

 兄のわざとらしい独り言が、キルアの胸に突き刺さる。それでも耳はちゃんと聞こえているのに、身体が凍り付いたように動かなかった。他の者からすれば、“殺す”なんてのは子供のような脅し文句かもしれない。あまりにもあっさりと発せられたものだから、現実味に欠けている。

 けれどもこれまで兄の行いを間近で見てきたキルアは、つまらない脅しだと笑い飛ばすことができなかった。

 

「それならたとえここに居る全員を殺したとしても、オレの合格は取り消されたりしないよね」

「うむ。ルール上、問題ない」

「聞いたかい?キル。オレと戦って勝たないとゴンを助けられない。 

 友達のためにオレと戦えるかい?」

 

 ――できないね

 

 苦しい。苦しい。

 あの不思議な圧力とは関係なく、恐ろしい想像に胸が押しつぶされそうだ。自分が友達を――ゴンを見捨てるかもしれない。絶対大丈夫だとは、今のキルアには言えないのだ。自分の実力は正しく理解している。

 イルミはキルアが返事をしないことで、キルアの出した答えを確信したみたいだった。

 

「なぜならお前は友達なんかより、今この場でオレを倒せるか倒せないかの方が大事だから。そしてもうお前の中で答えは出ている“オレの力では兄貴を倒せない”。

 “勝ち目のない敵とは戦うな”。オレが口をすっぱくしてそう教えたよね?」

 

 イルミは不意に手の平をこちらに向けると、「動くな」と鋭く言い放った。

 

「少しでも動いたら戦い開始の合図とみなす。同じくお前とオレの体が触れた瞬間から戦い開始とする。

 止める方法は一つだけ。わかるな?だが……忘れるな。 

 お前がオレと戦わなければ、大事なゴンが死ぬことになるよ」

 

 そう宣言して、一歩、一歩と近寄ってくるイルミ。

 キルアは限られた時間での選択を迫られた。ゴンを助けたい。でも、兄貴には勝てない。勝ち目のない敵とは戦うなという、言葉の正しさはよくわかる。だが、このままでは今度こそ本当にゴンを見殺しにすることになるのではないだろうか。

 

 ――友達ってのは対等。どちらか一方が責任を負うようなこともない。お互いに助け合って、そのときできる最善をすればいいんだよ

 

 追い詰められたキルアの脳裏に浮かんだのは、最終試験前に聞いたリリスの言葉。

 最善、この場合の最善とはなんだ?

 

 キルアはゴンを助けたい。ならば、友達だから見殺しになんかしないで戦うか?

 たとえ戦ったとしても、イルミはキルアを殺すようなことはしないだろう。試合中での殺害がルール違反であるというのもあるが、イルミは”家族であるキルア”を殺さない。実戦とは違うのだから守りに入る必要はないのだ。

 しかし、実際のところキルアがイルミに立ち向かったとして、イルミを行動不能にできるかと言われればやっぱり不可能だ。それどころか、キルアが反抗したことに対する見せしめとして、イルミは本当に試験後にゴンを殺すかもしれない。

 

 だったら、この場合の最善は――

 ゴンを見殺しにするのではなく、生かすための最善は――

 

「参った……俺の負けだよ、イル兄」

 

 絞り出すように負けを認めれば、嘘のようにイルミの圧力は引いていった。俯いたキルアが腹の底でどのように思っているかなど、少しも気づいた様子はない。

 

「あーよかった。これで戦闘解除だね。はっはっは、ウ、ソ、だ、よ、キル。

 ゴンを殺すなんてウソさ。お前をちょっと試してみたのだよ」

 

 ぽん、と頭に手を置かれ、キルアはびくりと肩をはねさせる。が、嘘をつくのは苦手ではない。このまま、”友達を見捨てた奴”の汚名を背負ってでも、キルアにできる最善を貫き通せばいい。

 イルミはダメ押しとばかりに、キルアの心を砕くための言葉を続けた。

 

「お前に友達をつくる資格はない。必要もない。お前は今まで通り親父やオレの言うことを聞いて、ただ仕事をこなしていればそれでいい。ハンター試験も必要な時期がくればオレが指示する。今は必要ない」

 

 キルアはそれを最後まで聞くと、黙ってリングを降り、そのまま出口の方へ向かった。「お、おい!」レオリオが声をかけてくれるが、今は聞こえないふりをする。レオリオからすれば、キルアは兄に脅されて友達を売った最低な奴だろう。

 

 だけど、それでいい。キルアはキルアの最善を尽くした。

 ずっとイルミの言うことなんて聞きたくないと思っていたが、逆に言うことを聞いている間、イルミは目立った行動を起こさない。このまま家に帰って試験を棄権すれば不合格は確定だが、キルアの望みはライセンスを取ることではないのだ。

 

 ――ゴンと友達になりたい

 

 会場を出れば、キルアは一人だ。またあの鬱屈とした家に帰ることになるのだろう。しかし今のキルアは、一次試験の後のような苦々しい気持ちにはならなかった。ゴンはキルアが帰ったことで、もしかしたら怒るかもしれない。ゴンを人質にされたと聞いたら余計だろう。

 だが、これもまたキルアの決断だ。今回のキルアの不合格について、誰も責任を感じる必要はない。

 

「お前と一緒に試験受けられて楽しかったぜ、ゴン」

 

 キルアは最後にホテルを振り返ってそう言うと、パドキアに帰るために空港へと向かうことにした。

 



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35.埃を被った愛情

 

 父親の顔は知らない。今思えばあの母親のことだからただ子供を作るために男を必要としただけで、恋愛する気も夫婦になる気もなかったに違いない。リリスの母はいつも友人の話ばかりしていた。彼女がいかに素晴らしく優秀で、うっとりするほど美しいかその話しかしなかった。

 リリスが生まれた頃にはとっくにその友人はこの流星街を出てしまっていたらしいが、母の話から彼女がパートナーと結婚するためにここを出て行ったということはなんとなくわかった。

 

「彼女はお姫様だったから、王子様が迎えに来たのよ」

 

 リリスの母は友人のことを語るとき、それはそれは幸せそうだった。逆に言えばそれ以外のときはいつも不幸そうだった。だからリリスはよく自分から母の友人の話をねだったし、不幸な母親を自分が幸せにしてあげようと思っていた。

 

「ママ、今日はこんなものを拾ったの!きっと隣町へ持っていけば高く売れるわ」

「……隣町ね、あそこには素敵なドレス店があったわ。ショーウィンドウに飾られていた青いドレスはきっとよく彼女に似合うと思うの」

 

 生活費を稼ぐのは、もちろんリリスの仕事だった。リリスの日課は流星街に捨てられるごみの中から金目のものを探すことと、物心ついたときからやらされているよくわからない修行だ。

 母親の関心がここには無いとわかって、リリスはぎゅっと手の中の宝石の欠片を握りしめた。そして気を取り直すと何度も聞いた母の好きな話題を続けることにした。

 

「ねぇ教えて、ママのお友達は今どこにいるんだっけ?」

「彼女はね、遠いパドキアの山のお城に住んでいるのよ」

「ママは会いに行かないの?」

「まだ駄目。だって約束したんだもの。”生まれ変わって”会いに行くわって。今のままじゃ恥ずかしくって彼女に会えないから、それまでここには来ないでって頼んだのよ」

 

 母親はそこまで話すと、ようやく虚ろな瞳を向けてリリスを視界にとらえた。

 

「でも残念ね、あなたが男の子だったらよかったのに。せっかくあの男の容姿を上手く受け継いで、綺麗な顔をしているんですもの。彼女だってきっと気に入ってくれたはずだわ」

「……?」

「ところで、今日の分の修行は終わったの?」

「うん。今日はいつもより長く纏を維持できたよ」

「はぁ、一体いつまでそんな基礎やってるの?早くしてくれないと困るわ。壊したらまた一から作らなきゃいけないから、精孔もゆっくりとしか開けられなかったし」

「ごめんなさい……」

 

 母親の言うことはときどきリリスには理解できなかった。が、肝心なのは内容ではなくそこに込められた感情だ。リリスはたとえ他言語だったとしても、母親の感情を声の温度で悟ることができるだろう。

 母は怒っている。不幸だから怒っている。

 それさえわかればもう十分だった。

 

「もう行って。それをお金に換えてきたら、もう一回修行しなさい」

「はい」

「怪我だけはしないようにね。特に、その顔に傷をつけてはだめよ」

「はい」

 

 返事をしたリリスは、ぼろ屋を出る前にもう一度だけ振り返って母親を見た。いつも厳しいけれど、リリスが怪我をしたりしないよう心配してくれる。「行ってきます」控えめな呟きは母の耳には届かなかったのか、埃に混じって部屋の隅に積もっただけだった。

 

 

 △▼

 

 

 一通りの話が終わり、イルミは折れた腕をぶらりと下げたまま立ち上がる。キルアが棄権したおかげですぐに最終試験は終わったが、初心者用の講習を受けなければライセンスを受け取れなかったのだ。

 基本的に真面目な性格のイルミは最前列に座っていたため、イルミが講義室を出る頃には既に半数以上が退出していた。にも関らず、「ギタラクル」と偽名のほうで声をかけてくる者がいる。

 

 腕一本ではまだ足りないのか。

 イルミは内心でうんざりしながら、待ち構えていたゴンを見下ろした。

 

「なに」

「キルアは帰ったんでしょ。場所を教えてよ」

「やめておいたほうがいいと思うよ」

「誰がやめるもんか」

 

 一試合目で合格しながらその後気絶して会場にいなかったゴンは、先ほど事の顛末を聞いて講習中にイルミに詰め寄ってきたばかりだ。キルアは明らかに自分の意思で棄権したし、イルミからすれば他人どうこう言われる筋合いはないのだが、それでもゴンは納得がいかないらしい。今回の試験の合否だけでなく、キルアに望まないことをやらせている教育方針自体が許せないのだそうだ。

 公衆の面前で兄弟の資格が無いとまで言われたものの、そういう目の前のゴンは所詮”自称トモダチ”である。むしろ、他人の家庭に首を突っ込む資格があるのかを問いたい。

 

「リリスのことだってそうだ。リリスが倒れたのもギタラクルが何かしたんだろ」

「それは既に会長たちの前で説明して納得してもらってる。あれはリリスが自分でやったことだよ」

 

 合否についての異議申し立ては二件。ポックルの不戦勝と、イルミとリリスの不自然な試合についてだ。後者についてはリリスの合格云々ではなく、主にイルミが不正を行ったのではないかという”クレーム”だった。

 しかしその件については、講習が始まる前にイルミは別室に呼び出されて説明を済ませている。念にまつわることなので他の受験者の耳に入れるようなことではないし、リリスの身柄を引き渡してもらう都合上、婚約している状況や神字の指輪についても簡単に話した。

 

 指輪については二次試験を担当していた女の試験官からかなり派手な非難を浴びたものの、家の伝統だと言い張れば向こうは口を挟めない。念無しで試験に合格するためのいわゆるハンデであり、殺害の意図はなかった、むしろ指輪の自爆を逆手に取られてこちらが驚いていると淡々と述べた。

 

 ――でも、それって自殺しようとするくらい嫌われてるってことじゃないの!やっぱりそんな男に彼女は渡せないわ。

 ――嫌われてるのは認めるよ。今回のことでよくわかった。でも婚約を解消するにしても、一度うちに連れて帰って話し合う必要がある。

 ――そんなの、彼女が目覚めてから自分の意思で向かえばいいことでしょう。

 ――リリスにはうちの情報も色々知られている。きちんと話し合いや取り決めもせずに彼女が逃亡するようなことがあれば、オレはいよいよリリスを殺さなきゃいけなくなるよ?もし彼女が行方をくらませたら、ハンター協会に責任がとれるの?

 ――それは……

 ――そうだ。リリスが本当にオレと婚約しているかは、家に確認してくれてもいい。そこの会長はうちのじーちゃんとも知り合いでしょ?

 

 イルミの言葉に、ネテロはうむ、と頷いて顎髭を撫でつけた。暗殺者でも快楽殺人者でも、実力さえあれば取れてしまうのがハンターライセンスだ。一部にはハンターを誇り高い職業と見なす人間もいるが、実際のところ正義の味方でもなんでもない。結局ぎゃんぎゃんと騒いでいた女の試験官は、不服そうな顔をしながらもネテロの決断に委ねることにしたらしかった。

 

 ――まぁ実のところ、ゼノから『今年はうちの孫二人と孫の嫁が試験を受けに行くからよろしく頼んだぞ』と先に連絡を貰っておる。だからまぁ、おぬしの言い分も丸きり嘘というわけでもないのじゃろう。

 

 ”嘘”の部分でちらりと証拠品の指輪の破片に視線をやったネテロは、あれがゾルディック家の伝統でないとわかっているようだった。しかし指摘されない以上はこちらも涼しい顔で続きの言葉を待つ。伝統でなくても、リリスとイルミの二人の問題であることに変わりはない。他人に嘴を挟まれる言われはなかった。

 

 ――じゃが、これだけは聞いておかねばならん。なぜおぬしはその”大事な伝統の指輪を壊してまで”リリスの自殺を止めたんじゃ?

 ――は?そんなの死なせたくないからに決まってる。

 ――なぜ死なせたくない?

 ――なにその質問……当たり前だろ、だってリリスはオレの――

 

 イルミはその時の自分の答えと、それを聞いたネテロの面白がるような瞳を思い出してため息をついた。結果的にその答えのお陰でリリスの身柄を引き渡してもらえることになったのだが、なんだか釈然としない。これまでの自分だったなら、あそこで”リリスに死なれると不合格になるから”と、そういう答え方をするはずだった。

 

「はぁ……リリスのこともキルのことも、どちらもキミには関係ないことだと思うけど」

 

 ため息の理由は別にあったのだが、イルミの態度にゴンはますますいきり立つ。強い光を目に宿し、イルミが答えるまでドアの前から動く気がないようだった。

 

「キルアもリリスもオレの友達だ!絶対、このままさよならなんてごめんだ!」

「それは後ろの二人も同じかい?」

 

 背後に立つ金髪と長身サングラスも、覚悟を決めた表情でこくりと頷いた。これ以上、ここで面倒な押し問答はしたくない。

 

「……いいだろう。教えたところでどうせたどり着けもしないし。

 ククルーマウンテン――この頂上にオレたち一族の棲み家がある。キルはそこへ帰っているはずだし、リリスもそこに向かうよ」

 

 別に隠してもいないし、それこそハンターを名乗るなら自分達で調べればいいと思う。「もういいでしょ」イルミがあっさりと答えたことに驚いたのか、三人は少し顔を見合わせてそれから脇に退ける。

 ようやく出られた。今のイルミはくだらないことに関わっている暇はないのだ。講習の部屋を出て足早に医務室に向かおうとすれば、また目の前に邪魔な人間が立ちはだかった。

 

「リリスはまだ目覚めないのかい?」

 

 それをこれから見に行くところだ、と思ったが、ヒソカはわざわざこの話をするためにイルミを待っていたらしい。折れた腕にちらりと視線が向けられるのを感じて、余計に忌々しさがこみ上げた。

 

「そうみたいだね。あの会長にも事情を聴かれたよ」

「話したの?」

「簡単にだけどね。リリスの身柄を引き渡してもらわないと困るし。それでもライセンスは本人じゃないと渡せないって言われた。その時に講習もやるらしい」

「でももう指輪を外しちゃったんだろう?彼女、また逃げるんじゃないの?」

 

 そういえばヒソカはリリスの念が”入れ替わり”だと思っていたのだった。実際には”憑依”であるため、彼女が念を遣えるようになったとしても本体はイルミの手元から逃げられない。

 しかしそのことを説明する余裕も義理もないため、イルミはさっさと話を切り上げようとした。

 

「大丈夫、今更逃がさないよ。逃がさないし、死なせもしない」

「彼女、弟くんの足枷としてはさほど役に立たないんじゃないかな?」

「……」

 

 そんなことは言われなくてもわかっている。今回の試験でキルアの友達を自称する者はリリスだけではなくなってしまった。今回は圧力をかけて家へと帰らせることに成功したが、元々リリスを婚約者として家に連れて来てから、キルアは訓練に精を出したことがない。罪悪感で縛る計画も結局家出されて意味がなくなったし、リリスを利用するにも効果はいまひとつと言ったところだ。

 

「そうなんだよね。でも役に立たないけど邪魔でもない。むしろ邪魔なのは、」

「ゴンはボクの獲物だ。手出ししたらただじゃおかないよ」

 

 いつも飄々としているヒソカが怖い顔をするなんて珍しい。余程ゴンに期待しているようだ。「わかってるよ」残念ながら彼は進んでゾルディック家に来たがる自殺志願者なのだが、そこでの生死はイルミの関知するところではない。

 

「でも、ヒソカもわかってるだろうね?」

「リリスとキルアに手を出すなってことかい?」

「そう」

「キルアはともかく、リリスも?」

「そう」

 

 イルミは念押しするように深く頷く。「あれはオレの……モノだから」ヒソカにまでからかわれるのはごめんだと思って先ほどとは違う言い回しをすることになったが、その努力はあまり意味をなさなかったらしい。イルミの言葉を聞いたヒソカは、ふっと表情を緩めて、憐憫にも似た視線を寄越した。

 

「そういえばリリスがキミのこと知りたがってたよ」

「は?オレの何を知りたいわけ?」

「さぁね、でもキミが何を考えてるのかわからないって言ってた」

「……それはこっちの台詞なんだけど」

 

 どうして今更自殺なんて馬鹿な真似をしたのか。どうしてあんなにも辛そうに魘されているのか。

 そしてどうして、イルミのことを最初っから嫌っていたのか。

 ずっとずっとそれが知りたかったのに、彼女は決して教えてくれないのだ。リリスが何を望んでいるのかさえわかれば、もう少し交渉の余地はあったかもしれない。ゾルディック家に関わることが望みなら、婚姻で達成されるはずだった。

 だが、彼女は自分の命を捨ててでもそれを拒否したのだ。

 

「キミ達はホントに似たもの同士だよ。夫婦になる前から鏡みたいだ」

「鏡?」

「そう。夫婦は合わせ鏡って言うだろ?眠ったときのリリスを見て、ボクはそう思ったよ」

「……」

 

 よりにもよってあの状態のリリスと似ていると言われるのは心外だ。イルミはあんな風に母親を求めたりはしない。そもそもリリスのことに関して、ヒソカにわかったような口を利かれるのは癪だった。「意味がわからないんだけど」あの悪癖以外だったら、リリスと自分が似ているというのはなんとなくわかる。打算で動くところも、理屈っぽいところも、似ているからこそ利用しやすかった。

 

 あともう一つ、ゾルディック家の人間を愛しているところも。

 

 

 イルミはヒソカと別れると、今度こそリリスの眠る医務室へと向かった。キルアが棄権した時点で試験は終了したので、講習も含めてまだ二時間ほどしか経っていない。彼女の場合ただの気絶とは違って色々と限界だったはずだから、起きるのはもう少し先だろう。しかしそんなイルミの予想に反して、部屋もベッドももぬけの殻だった。

 

 ――逃げられた?

 

 確かに指輪のなくなった今、彼女が逃げるには絶好のチャンスだ。

 咄嗟に触れてみたベッドはまだ温かく、そう遠くへ行っていないことがわかる。イルミは一瞬、円を展開しようとしてそれをすんでのところでやめた。ここには主にハンター協会の関係者として念能力者が何人かいる。その後に戦闘をするつもりならともかく、円で触れることは同時にこちらの力量も明かすことになるのでむやみに使うのはあまり賢い選択ではない。一度冷静になろう。逃げるにしたってリリスは今無一文だし、ライセンスもまだ協会側が預かっているのだ。

 

 医務室を飛び出したイルミは、誰か彼女の姿を見た者がいないか辺りに視線を走らせた。

 部屋の窓も廊下の窓も全部閉まっていたので、ここから飛び降りた可能性は低い。指輪のダメージは相当なものだったはずだし、弱っている彼女ならばすぐに追いつけるだろう。むしろここで追いつけなければ、また彼女を探すのは苦労するに違いない。

 

 だがイルミの焦りとは裏腹に、リリスはごくあっさりと見つかった。医務室と同じ階にあるリネン室近くの廊下で、ぼうっと突っ立っていたのだ。「リリス、」大股で歩み寄っても、彼女には逃げだす気配もなければイルミの存在にさえ気付いていない。そこで初めてイルミは彼女が“逃げ出した”のではなく、“例のアレ”が起こったのだと察した。

 

「……ほら、帰るよ」

 

 リリスの腕を引けば、ぐらりと彼女は身体ごとこちらに倒れこんでくる。一応眠っている状態だから体温が高いのか、これが彼女の温度なのかは定かでないが、この試験中に何度も感じた重みとぬくもりだ。よかった。彼女はここにいる。死んでもいないし、逃げ出してもいない。それがわかると焦燥感は嘘みたいに引いていった。

 

「これと似てるなんてね……」

 

 かつてはリリスの屈辱や嫌悪の表情を見ると愉快でたまらなかったはずなのに、なんておかしな話だろう。

 自分にはないと思っていたはずの感情がただ埃を被っていただけだったと気付かされて、イルミは面映ゆいような、何とも言えない気持ちを味わっていた。

 



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36.弱り目

 嫌な夢を見ていた気がする。昔の夢だ。

 

 リリスはまだうすぼんやりとする視界の中で、無意識に人の姿を探していた。それは孵化したばかりの雛鳥が、本能的に親を探すのと似ている。ただ残念ながら人間であるリリスの場合は、音を発して動く物であればなんでもいいというわけではない。

 

「ようやく気が付いたんだね」

 

 焦点が定まった先に苦手な男の顔を見つけて、リリスは反射的に眉をしかめた。そうしてゆっくりと回り始めた頭で、あぁ、自分は失敗したのか、と静かに理解したのだった。

 

「……試験は?」

 

 身を起こして周囲を見回せば、明らかに行きと同じゾルディック家の私用船の中だった。リリスは一応ベッドに寝かされていたものの、その左手首はベッドのフレームと手錠で繋がれている。皮肉なことに、この光景は睡眠中に悪癖を抱えるリリスにとって非常になじみ深いものだった。唯一いつもと違うのは、ここ最近ずっと目障りだった薬指の指輪がなくなっていることくらいだろうか。

 

「終わったよ。不合格者はキル。先に家に帰ってる」

 

 ベッドの脇に置かれた椅子に腰かけたまま、イルミは実に簡潔に答えを返す。でも、それきりだ。普段の彼の性格ならば嫌味の一つや二つ寄越してきてもおかしくなかったのに、リリスが最終試験で取った選択に対して、何のコメントもなく黙り込んでいる。

 リリスはそのことにやや拍子抜けする思いだったけれども、挑発されたところで食ってかかるほどの元気もなかった。全身が泥につかったように怠くて重いし、せっかく覚悟した死すらも阻まれて何もかもどうでもいい気分だ。

 

「そう……じゃあ、結局全部イルミの思い通りになったんだね」

 

 どうせ今更強がってみたところで、リリスの敗北が覆るわけでもないのだし。

 すっかり戦意を喪失してしまっているリリスはともかく、イルミを取り巻く雰囲気までもが今日は不思議と穏やかなものだった。

 

「……キルには余計な感情は持ってほしくなかったんだけどね、欲しいものがあるって言われたよ」

「まぁ、欲しいものくらい誰にだってあるだろうね」

「リリスにも?」

「……」

 

 まるでこちらを見透かそうとするような黒い瞳と目が合って、今度はリリスが黙り込む番だった。つい今しがた、誰にだってあると言ったくらいなのだから、もちろん答えはYESだ。だが、肯定すればその欲しいものを聞かれるに決まっている。もうリリスは素直に欲しいものを口にできるほど、幼くもなければ純粋でもないのだ。

 リリスが沈黙を守っていても、イルミは少しも気にせずに勝手に話を続けた。

 

「ずっと考えてたんだ。リリスが何を目的にうちにやってきたのか」

「私はキキョウさんに会いに来たんだってば……」

「そうだったね。でも本当の望みはそれだけじゃないだろ? というか人間ってのは欲張りだからさ、一つ満足したら、すぐまた次の望みが湧いてくる」

「……何が言いたいの?」

 

 リリスの望みが何かなんて、イルミには関係ない。興味もないはずだろう。それなのにイルミは話をやめようとはしなかった。彼の声音は酷く落ち着いていて、いつもみたいにリリスを甚振る意図ではないだと察せられる。

 それでも、リリスは次にイルミの口から出る言葉を認めたくなくて、耳を塞いでしまいたかった。

 

「家族が欲しくなったんだろ、リリス」

「……違う」

「いいや、そうやっていつまでたっても子供の病気にかかってるのがいい証拠だよ」

 

 ちらりと手錠に視線を走らせるイルミに、リリスは何も言い返せなかった。身体が弱っているせいで、心まで弱くなっているのかもしれない。悔しさよりも怒りよりも、惨めで、情けない気持ちが込み上げてきた。そんなリリスの気持ちを知ってか知らずか、イルミは呆れたように息を吐いた。

 

「馬鹿だね。いくら母さんに気に入られたって、本当の娘になんてなれやしないのに」

 

 それを聞いた心臓がぎゅっと縮こまって、冷え切った肺は空気を吸い込むのをやめてしまったみたいだった。本当の娘になれるわけがないことくらい、当のリリスが一番よく知っている。わざわざ言われなくたって、痛いほど理解している。「……イルミに、何がわかるっていうの」つんと鼻の奥が痛んで、声が震えた。俯いたリリスは涙が決壊してしまわないよう、必死でまばたきを堪える必要があった。

 

「最初からちゃんと家族を持ってるあなたに、家族を大事にして、大事にされてきたあなたに……大事にされなかった人間の何がわかるの」

「ふぅん、それがオレを憎んでた動機? 結局羨ましかったってこと?」

 

 流石にあんまりな言い方だと思ったが、リリスは他に取り繕う言葉を持たなかった。彼の言った通り、リリスはイルミを羨んだのだ。他にもいる彼の兄弟を妬まなかったのは、きっと彼だけがリリスをゾルディック家から排斥しようとしたからだろう。家族に大事にされているだけでもずるいのに、僅かばかりのぬくもりさえリリスに許さないイルミの姿勢が酷く恨めしかった。それほど自分の家族を愛しているのなら、その家族が気に入ったリリスに何百、何千分の一でいいから愛情を分けてくれたって(ばち)は当たらないだろう。

 イルミの言葉を認める代わりに、大粒の雫がぽたり、ぽたりとシーツを濡らす。その様子をじっと見ていた彼は、リリスの固く握りしめられた拳の上に手を重ねた。

 

「だったらやっぱり結婚しよう、リリス」

「……は?」

 

 驚きのあまり顔をあげれば、やはりそこにはいつもと変わらぬ無表情が鎮座している。イルミの手はその青白さからは想像できないほど熱を持っていて、振り払おうにも手錠で繋がれた左手では身動きがとれなかった。いや、仮に自由が利いたとしても、リリスは指先一つ動かせなかっただろう。

 それくらいイルミの発した言葉は、リリスの思考力を容易く奪った。

 

「なに……言ってるの?」

「だって、結婚したら家族になるでしょ?リリスが憧れた家族だ。一体何の不満があるの?」

「不満って言うか、意味がわからないんだけど……言っておくけど、私にはもうキルアの足枷としての価値はない。メリットないんだよ?」

「あるよ」

 

 間髪入れずにそう返されて、リリスは一瞬息を呑む。疲労と衝撃でただでさえ鈍くなっている頭では、突拍子もないイルミの言動を理解するのは難しかった。そうでなくても常々何を考えているのか読めなかった男だ。どうせまた、訳の分からない自分理論を展開しているのだろう。

 

「……確かにキキョウさんは喜んでくれるかもしれないね。もしかして、また親孝行や自己犠牲の一環?」

「違う。これはオレの望みの話」

「……」

「オレはね、リリスが魘されてるのを見て、リリスのこともっと知りたいって思った……リリスが死のうとしたとき、死んでほしくないって思った……リリスとこれまで無理矢理一緒にいて、やっぱりオレのものになってほしいと思った」

 

 イルミの訥々とした語りを聞いているうちに、いつの間にかリリスの感情の奔流はすっかり勢いを失っていた。今では濡れたまつ毛と少し赤くなった目元が涙の名残をとどめているに過ぎず、惨めさや悲しさは綺麗さっぱり消え去っている。だが、イルミに言われた言葉を何度反芻してみても理解できず、困惑の感情を胸に、彼の顔をまじまじと見つめることしかできなかった。

 

 これではまるで告白ではないか。

 

 リリスがイルミを嫌っていたのは嫉妬からだが、イルミだって実際相当にリリスのことを目の(かたき)にしていたはずだ。それがいったいどうして、どういう風の吹き回しで、こんなごく普通の男女みたいなことを言いだすのか。

 混乱を極めたリリスは、かえって自分が冷静になっていくのを感じていた。

 

「待って。イルミの言ってること、全然わからない」

「要約すると、リリスに結婚してくれって言ってる」

「……なにそれ、なんで?」

「うーん、なんでって言われてもな。確かに今リリスと結婚するメリットは見当たらないし……母さんと父さんの例を参考にするなら、好きってことなんじゃない?」

「は?」

 

 こんな大事なことを他人事みたいに言うなんて、一体どういう神経をしているのだろうか。リリスの方こそ訳がわからなくて困っているのに、当の本人ですら曖昧な感情だというのならどうすればいい。馬鹿にしているのかと、怒っていいものなのかすら判断に迷う。

 しかし、イルミは戸惑うリリスを置き去りにして、さも素晴らしい提案をするかのように少し口調を強めた。

 

「リリスは家族がほしい。オレはリリスがほしい。オレたちが結婚すれば、両方の願いが叶う」

「だから、なんでイルミが私のこと欲しがってるの。ほんとに意味がわからないんだけど」

「正直、オレもだよ」

「なっ……ふざけてんの?」

 

 やっぱりイルミはリリスをからかって馬鹿にしているみたいだ。そう判断して、リリスが(まなじり)を決したのも束の間――

 

「だけど、欲しいんだから仕方ないだろ」

 

 ぽつりと呟かれた言葉に、喉元まで出かかっていた怒りの言葉は霧散してしまった。「……なんなの」代わりに漏れたのは、行き場のない感情をのせた吐息だけだった。

 

「別に、今すぐ返事をくれなくてもいい。今向かってるのも家じゃなくて仕事先だし」

「……イルミ、」

「手錠の鍵、置いておくから」

 

 サイドテーブルに金属製の鍵を置いたイルミは、リリスが引き留める間もなく立ち上がって部屋を出ていく。今まで監視されていたことを考えると、ものすごくあっさりとした態度だった。てっきりイルミのことだから、代わりの指輪とまではいかなくてももっとしっかり拘束するかと思っていたのに。

 

 しかしよくよく考えてみれば、ここは飛行船の中。逃げ場などないから放っておかれただけかもしれない。

 一人ぽつんと残されたリリスはしばし呆然としていたが、舐められてるな、と思い至って復活してきた怒りにほっとした。かといってぶつける相手はもういないし、心も身体もへとへとだ。他にすることも思い当たらず、仕方なく目を閉じる。

 

 そういえば眠るのが怖くないのは、随分と久しぶりだ、と思った。

 



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37.鏡映のモノポリー

 

 仕事を終えて、飛行船に乗り込んで、まず真っ先に向かったのはリリスの部屋だった。

 いつでも逃げられるように自分で手錠の鍵を渡したくせに、焦燥感を募らせているなんて本当に馬鹿げていると思う。

 それほど手放したくないのなら、確実に拘束してしまえばよかったのだ。

 

 だがいくらイルミでも、リリスに快く思われていないことくらいはわかっているつもりだった。初対面からあれほどわかりやすい敵意を向けられて気づかないのは妙な話だし、その後の関わりを通して彼女の態度が軟化したようにも思えない。

 それでも、今回は無理矢理言うことを聞かせるのではなく、リリスの意思で望んでほしいと思った。眠っているときのリリスみたいに、リリスのほうからイルミを求めてほしかった。

 

「ただいま」

 

 勢いよく扉を開けて帰宅を告げても、当然ながら返事は戻ってこなかった。ベッドは当たり前のようにもぬけの殻で、それを見た途端、イルミは言葉にできない脱力感に襲われる。

 

 やはり彼女は逃げたのだ。いくら飛行船とはいえ、停泊のタイミングがある。その気になれば逃げられないことはない。

 

 この状況は予想していたし、逆の立場ならイルミだってそうしただろう。頭ではわかっているのに、どうしても失意が隠せない。脅すのでもなく、従わせるのでもなく、生まれて初めて真剣にぶつかってみた結果だからだろうか。なんでも解決できる針が便利すぎて、今更それ以外の方法で他人の気持ちをどうやって自分に向ければいいのかわからなかった。

 

(……冷たい。)

 

 往生際悪く、触れたベッドはとっくに温かみを失っていた。それがどうしようもなく苦しくて、イルミはそこへごろんと横になる。リリスを諦めたくはなかった。だが、イルミに提示できる条件は全部示したし、リリスの望みだって同時に叶うのに、それでも逃げられるなんて相当な嫌われようだ。自嘲するしかない。

 これまで母親に勧められた結婚話を断ってばかりだったイルミとしては、自分が振られる身になってやりきれなさでいっぱいだった。望んだ相手に拒まれるということが、こんなに苦しいなんて知らなかった。

 

「そこ、私のベッドだから退いてくれる?」

 

 けれども不意にがちゃりと扉が開いて、驚いて起き上がった視線の先にはリリスが立っていた。予想外の彼女の登場に、困惑と嬉しさと、少しの気まずさを感じてイルミは乱れた髪を撫でつける。「……まだいたんだ」恥ずかしい姿を見られたな、とは思ったが、この期に及んで取り繕うのもかえってみっともないかもしれない。どうせ好感度はマイナスに振り切っている。これ以上、下がることはない……はずだ。

 

「いて悪かったね」

「ううん、安心した」

 

 半ばヤケになって素直に返せば、リリスの表情がわかりやすく歪んだ。ただそれは不快感ではなくて、どちらかと言えば居心地の悪そうな表情に見える。

 彼女は諦めたようにため息をつくと、後ろ手で扉を閉めて、ゆっくりこちらに近づいてきた。

 

「ほんとあなたってなんなの」

「……リリスはオレのこと嫌い?」

「うん」

 

 取り付く島もない即答に、イルミは言葉を詰まらせる。色よい返事は期待していなかったものの、もう少し言葉を濁してくれてもよかったのではないだろうか。

 イルミがベッド、リリスがそのすぐ傍の椅子に腰かけるという状況は、先ほどとまるきり場所が逆転したものだった。

 

「でも、試験中イルミと一緒だったらよく眠れたよ。四次試験とか一週間もあったし……それはちょっとだけ感謝してる」

「……気づいてたの?」

「もしかしてそうかなって思って言ったけど、今確定しちゃったから最悪な気分」

 

 最悪だと言ったわりに、リリスは酷く落ち着いているように見えた。最初の、トリックタワーのときのように取り乱すこともなければ、イルミに向かって逆切れするようなこともない。

 彼女は目を伏せると、ややあって躊躇いがちに口を開いた。

 

「……イルミこそ、私のこと嫌いなんじゃなかったの」

「嫌いだったよ」

 

 一体いつから嫌いで、いつからその感情が裏返ったのかはイルミ本人ですらもはっきりとしない。だが少なくとも不快感が確かな形を持ったのは、自分の家族と楽し気に過ごすリリスの姿を見てからだった。

 キキョウと親密にお茶を飲み、弟たちにも当たり前のように慕われて、キルアの教育においても認められて。

 

「オレの家族を奪おうとするリリスが憎かった」

 

 このままいけば、自分の居場所が盗られるかもしれないと危機感を抱いた。ゾルディック家が大事だったのもそうだが、その大事なものを丸ごとそっくり奪われるのが嫌だった。

 

「オレもたぶん……リリスが羨ましかったんだと思うよ」

「え?」

「リリスのことは監視させてたから、うちでどんな風に過ごしてたのか、ビデオの映像を見たんだ。リリスはオレよりも姉弟(きょうだい)だった。母さんにも頼られてたし、父さんやじいちゃんもリリスのことを受け入れてた」

 

 リリスはイルミが家族に大切にされていると言った。確かに、彼女の境遇と比べるとそうなのかもしれない。けれども大切にされているのはこれまでのイルミの努力があっての物だ。その努力をもってしても、後継者はイルミではない。とっくの昔に納得はしているけれど、今はむしろキルアに家を継がせることが使命だとすら思っているけれど、ゾルディック家の子供たちの中には暗黙の優先度が存在している。

 

 血の繋がりはないけれど家族の振る舞いをしていたリリスと、血こそ繋がっているものの責任や柵で雁字搦めのイルミの、一体どちらを羨ましがるべきなのだろうか。互いを妬んで、幻の立場を必死になって奪い合っていた二人は、実は似た者同士だったのではないだろうか。

 

「そんなこと思ってたの?イルミの方が本当の家族なのに?」

 

 リリスは信じられないとでも言うように大きく目を見開いたが、内心ではイルミもひどく驚いていた。自分の奥底に仕舞い込まれていた気持ちを、こうして言葉にする経験などなかったのだ。これまで形を持たなかったもやもやとした感情が、すとんと胸に落ちて妙に納得する。

 リリスは難しい顔で少し考え込んだあと、イルミを窺うかのようにまっすぐと視線を合わせてきた。

 

「あのさ、イルミ……私やっぱり、すぐにはイルミのこと好きにはなれない。殺されかけたり、脅されたり、利用されたりしたこともそうだけど、キルアに対する行動とか考え方とか全然共感できない」

「みたいだね。散々邪魔されたし、それはよくわかってるよ」

「イルミのしていることが、家や家族のことを考えた行動だってのはこれでも理解してるつもり。だけど私はイルミからすればきっと、キルアの教育の邪魔にしかならないよ。それでもいいの?」

 

 いいも悪いも、イルミは初めから決定権を持たない。今回のキルアの家出だって最終的に沙汰を下すのは父親だし、イルミは決められたそれに従うだけだ。ゾルディック家を繋いでいくことが、陰からそれを支えるのがイルミに与えられた使命だから、仮にもし他の弟に白羽の矢が立つようなことがあれば、今度はそちらに注力するだろう。

 

 そういう意味では、リリスのほうが余程家族を”個人”として大事にしてくれているのだろうと思った。家族に受け入れられるリリスも羨ましかったけれど、リリスにそうやって想われる家族もイルミは羨ましかった。その何百、何千分の一でいいから、イルミにも愛情を向けてくれればいいのに、と思っていた。

 

「……リリスは最終試験で命を張れるくらいキルアのことを家族だと思ったんだろ?」

「……」

「逆に言えばそれで十分だ。リリスがオレのことを嫌いでも、オレの大事なものを大事にしてくれるのならそれでいい」

「ほんとに?」

「……できれば、オレのことも同じように思っては欲しいけどね」

 

 最後の最後で、小さな嘘をついてしまった。

 本音を言えば一番がいい。使命を持ったイルミではなくて、ただのイルミとしてリリスに感情を向けられたい。ゾルディック家の名には興味がなく、純粋にゾルディックの家族を愛してくれるリリスだからこそそれができるのだと、キルアの懐き具合を見ていればよくわかった。だが、

 

「それは無理」

 

 現実は無情なのだ。イルミがこれまでしてきたことを考えれば、自業自得だとも言える。「……だよね」苦い想いで呟いたイルミは、ずしりと心が沈むのを感じたが、すぐにリリスが屈託なく笑っていることに気が付いてぽかんと口を開けた。彼女の珍しい笑顔に、思わず見とれてしまっていた。

 

「そんなすぐには好きになれないよ」

「すぐには」

「でも、キキョウさんたちに何も言わずにさよならするほど、私も恩知らずじゃない。先に帰ったっていうキルアのことも気になるしね」

「……じゃあ、このまま一緒にうちに帰ってくれるの?」

「帰るんじゃない、行くだけ」

 

 リリスはそこまで言うと、戸惑うイルミを無理矢理ベッドから押しのける。「まだ疲れがとれないから。着いたら起こして」簡単に言ってくれるが、ゾルディック家に帰ればいよいよリリスは逃げられなくなるだろう。それはイルミの望むところでもあるけれど、本当にいいのだろうか。仮にこれまでの全てが演技だったと告白したところで、今更あの母親が引き下がるとは思えなかった。絶対に外堀を埋めにかかるだろうし、なによりリリスはイルミ以外の家族に対しては柔らかい態度だ。強気の姿勢で断れるとは思えない。

 

「自分から檻に入りに行くなんて、リリスもほんとはオレのこと好きなんじゃないの」

「自意識過剰。私が好きなのはイルミじゃなくてイルミの家族」

「それはもう、オレが好きってことと同義だよ」

「全然違う」

 

 シーツを肩まで被り、くるりと背中を向けた彼女は鬱陶しそうに耳を塞いだ。一目でそうとわかるほど拒絶の姿勢だが、それでもこの距離で完全に遮音できるはずなどない。

 

「リリスはオレの家族目当てかもしれないけどさ、オレはリリスと家族になりたい」

 

 なるべく抑揚を込めて伝えれば、ぴくりとリリスの肩が小さく跳ねた。その表情はここからは見えなかったけれど、どうせ起きているときの彼女は素直ではない。

 イルミはどうしようもない愛しさが、胸を満たしていくのを感じていた。

 

「一人で眠れる?一緒に寝ようか?」

「っ、一緒に寝るとかありえない!こっち見ないで!」

 

 頑なに振り向こうとしない彼女は、今度は枕を乱暴にひっつかんで自分の顔面に押し当てた。その声がくぐもっているのは押しつぶされたせいか、何かを堪えようとしているからか。

 

「何もしないよ。ていうか、試験中のこと考えたら今更だろ。一緒に寝たらリリスのことすぐ寝かしつけてあげられるよ?」

 

 お互いみっともない姿は散々晒したのだ。今更少しくらい弱さを見せたところで、何を幻滅することがあるだろう。

 結局、リリスもイルミと同じようなことを考えたらしく、しばらくして蚊の鳴くような小さな声が聞こえてきた。

 

「……じゃあ、寝るまで。私が寝るまでの間、そこにいて」

「泣き出すのはいつも寝たあとなんだけど」

「今日は泣かないし、途中で起きたりもしない」

「わかったよ」

 

 彼女の声が既に涙声だと指摘するのは、いくらなんでも野暮というものだ。

 イルミは小さく肩を竦めると、飛行船に乗った時の焦燥や後悔が嘘だったと思えるほど、穏やかな気持ちで呟いた。

 

「ここにいるから、ゆっくりおやすみ」

 



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38.きっと、解けてなくなる

 

 リリスとイルミの婚約話はやっぱり嘘だったらしい。

 

 家出から帰ってきた弟からその話を聞いて、まぁそうだろうなとミルキは思った。元からあの色々と欠落したところのある兄が、誰かと想い想われてという事態になることが想像できない。お家柄打算で政略結婚することはあっても、兄が選ぶにはなんの後ろ盾もないリリスは少々メリットに欠けるはずだった。キルアを家に縛る道具としても役立たないことが判明した今、婚約話が嘘だと発表されるのも実にわかりやすい。

 

 それからキルアは、結局ライセンスを取らずに帰ってきたとも話した。まぁそれは正直イルミが妨害したのだと察しがついたが、腹の傷の恨みもあるミルキは盛大に不合格を馬鹿にしてやった。

 しかし予想に反して、キルアはいくら煽ってもつっかかってくるようなことはなかった。イルミにこってり絞られて落ち込んでいるのかと思いきや、別にそういう風でもない。それどころか信じられないことにミルキとキキョウに謝って、自ら反省のために独房に入ると言い出したのだ。

 ミルキにしてみれば、弟の考えが読めずに気持ち悪くて仕方がなかった。

 

 気持ち悪いと言えば、兄のほうもそうだった。イルミは試験後そのまま仕事に向かったらしく、帰宅したのはキルアが家についてからさらに三日後。

 こちらは普段通り家族に嘘をついていた件についての反省はほとんど見られなかったが、リリスに対する態度というか、雰囲気というか、うまくは言えないがとにかくがらりと変わったのだ。

 もともと親の前では親密そうに装っていた二人だが、人目がなくなれば空気をぴりぴりさせていたのは知っている。面倒事を避けたミルキはあえて介入しなかったものの、明らかにリリスのほうもイルミを嫌っていたはずだ。

 

 それなのに今の二人には、前のように不自然な仲の良さも険悪さのどちらもなかった。婚約話は嘘だと明かされた今のほうがむしろ、婚約していると言われても信じられる距離感だ。特に、イルミの側の執着が露骨だった。いつもは見合いを勧められても仕事が忙しいとうそぶいて顔すらみずにお断りしていたくせに、今は仕事から帰るなりすぐリリスだ。おそらく当初の監視とは別の目的で、イルミが不在の間の彼女の行動をミルキは逐一報告させられている。どうやって手に入れたのかは恐ろしくて聞けないが、今の兄の待ち受け画面がキルアとリリスのツーショットなのも衝撃だった。

 

 そして、イルミがおかしいのはそれだけでない。

 試験でできたという、キルアの自称“トモダチ”が敷地内にまで来ていると聞いても、特に妨害する素振りをみせなかったのだ。かといって歓迎している風でもないけれど、話を聞いてもふぅんと言ったっきり。今までの兄貴からすれば考えられない態度である。

 

 蓋を開ければキルアの家出をきっかけにして、ミルキの知らない間に周りの人間が一変してしまっていた。これはもう、UMAの仕業を疑ったり、オカルト板に出張して教えを請わなければならないレベルである。

 とりあえず考えれば考えるほど腹が減るため、ミルキは脳みそが求める糖分を探しに、ついでにお清めの塩を調達しに、やむなく自分の城から出ることにしたのだった。

 

 

「ものすごく険しい顔してるけど……どうしたの?」

 

 しかし、噂をすればなんとやらだ。

 自室を出て幾ばくも行かないうちにばったりとリリスと出くわして、ミルキは少し警戒する。今のところ付き合いの長い兄弟たちの変化のほうが顕著に感じられたものの、彼女もまた急に変わったうちの一人なのである。

 第一、今のこの家でのリリスの立場は一体何になるのだろう。婚約話は嘘だったと知らされても、キキョウは欠片ほども諦めていなかった。お陰でリリスは今日も当たり前のように花嫁修業をさせられていたらしく、ちょっぴり袖のあたりが焼け焦げている。

 だが過酷なはずの訓練とは対照的に、彼女の表情はとても明るく、不思議なくらい幸せそうに見えた。

 

「……わかんないことだらけなんだよ」

「わかんないこと?」

 

 キルアは独房に入ってしまったし、イルミに聞くのはもってのほかだ。となると後は、リリスくらいしか聞ける相手がいない。そのリリスもイルミに囲われているし、修行は忙しそうだしで、これまでなかなか二人になる機会がなかった。ミルキが部屋を出た当初の目的はお菓子だったのだけれども、ちょうど疑問をぶつけるチャンスなのではないだろうか。

 

「試験から帰ってきて以来、キルアもリリスもイル兄もさ、みんな変だよ。一体、何があったんだ?」

「うーん、色々かな」

「その色々を聞いてんだろうが……」

 

 返ってきた答えにミルキは思わず半眼になるが、リリスも別に誤魔化そうとしているわけではないらしい。本当に色々なことがありすぎて、上手く説明できないと言うのだ。ひとまず、彼女らが自分の変化を自覚しているとわかったので、そこはミルキもほっとした。

 

「たぶんね、変わったように見えるのは、みんな自分の欲しいものを見つけたからだと思う」

「は?」

 

 欲しいものと言われて、ぱっとミルキの脳裏に浮かんだのは限定物のフィギュアやら新型のグラフィックボードを搭載したパソコンだったが、他の三人が何を望むのかなんてこれっぽっちも想像がつかない。かろうじてキルアが友達を欲しがっているのは知っていたけれども、それなら自分から独房に入って今も大人しくしているのは妙な話だ。試験で知り合った人間たちがここまで訪ねて来ている話は、キルアにだって伝わっているのだから。

 

「キルアとリリスの欲しい物もそうだけどさ、イル兄の欲しい物なんてもっと謎だぜ。イル兄に欲しい物とかあるのか?その気になりゃ、なんだって買えるだろ……」

 

 ミルキは仕事人間という言葉が相応しい兄の姿を思い浮かべ、ますます難しい顔になる。イルミには趣味らしい趣味もなさそうだし、たまに家にいてもキルア達の訓練にかかりきりだし、使う当てもないのにあんなに稼いで一体どうするつもりなのかと思っているくらいだ。

 しかし、ミルキのぼやきを聞いたリリスはようやく答えられる質問が来た、と口角をあげると、重大な秘密を打ち明けるようにわざとらしく声を落とした。

 

「私なんだって」

「へ?」

「イルミは、私に家族になってほしいんだって」

「……は?」

 

 開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだろう。聞こえてきた言葉が信じられなくて固まるミルキに、リリスは悪戯が成功した子供のようにくすくすと笑った。そのせいでからかわれたのかと思ったが、リリスの発言をただの悪い冗談であるとは切り捨てられない。

 というのも、リリスを探してこちらにやってきたと思われる、イルミの姿を右目の端に捉えたからだ。

 普段の無表情もどこへやら、一目でそうとわかるほど苦い、苦い顔をした兄の姿を。

 

「……リリス、」

「なに?」

 

 声をかけられて視線を向けたリリスは、イルミの存在に気付いていたようだった。堂々とした態度の彼女と、否定もせずに何とも言えない表情になった兄を見ていると、いよいよ先ほどのリリスの発言が信憑性を増してくる。

 

「馬鹿じゃないの」

「んー、なにが?」

「もう黙って」

 

 普段威圧的な態度の兄が、こうして誰かに主導権を握られているのは見たことなかった。黙れ、と短く命令することはあっても、きまり悪そうに黙って、と頼んでいるのはありえない。「私はほんとのこと言っただけなのに」どうやら、新しい関係は完全にイルミ側の一方通行らしい。これまで散々甚振られた分、リリスは甚振り返すつもりでいるのだろうか。

 

 ミルキは全てを知っているわけではなかったが、敵対した時の兄の容赦のなさを知っているだけに、今のこの状況は兄の自業自得なんだろうなと思った。今更と言っていいほどの好意を向けられたリリスが、嫌悪感を示していないようなのは内心で驚いたけれども。

 

「……ふぅん、そっちがそういう態度取るなら、もう一緒に寝てあげないから」

「なっ!ちょっと!」

 

 が、どうやらイルミもただやられっぱなしといわけではないようだ。

 誤解されるようなこと言わないでよ、とぱっと赤くなったリリスは、勘違いするなと言わんばかりにミルキに視線を向ける。その表情は怒りよりも、どうみても羞恥の方が上回っていた。「イルミのそういう、自分に都合よく解釈するとこもほんとに嫌い」口ではどんなに悪く言おうとも、その声音には敵意ではなく、気安い家族に向けるような親しみがあった。

 確かに二人の空気が変わったことには気づいていたが、まさかここまでとは……。

 

「……はぁ、あほらし。惚気はどっかよそでやってくれよな」

 

 この際勘違いであろうが、二人が間違いを犯そうが、もはやどうでもよかった。とにかく全て丸く収まってもう胃の痛くなるような思いはしなくていいんだということさえ分かれば、兄弟の恋愛事情など知りたくもないのだ。

 

「違う!違うから、ちょっとミルキ!」

「あーはいはい。俺は腹が減ってんだよ」

 

 その日、どこか遠い目をしながら廊下を徘徊するミルキの姿が、執事たちの間で目撃されたとかされなかったとか。

 次兄の彼が部屋から出るのは珍しい事なので、その真偽のほどは不明である。

 

 ▽▲

 

「……なんだ、結局リリスもイル兄から逃げられなかったのかよ」

 

 石でできた地下への階段は、足音を立てないようにするのが難しい。鎖に繋がれ、吊り下げられた格好のキルアは、リリスが独房へと足を踏み入れる前からその訪れに気付いていたらしかった。

 

「そうみたい」

 

 キルアがここに入っているのは、本人の意思であると聞いた。本当ならもっと早く様子を見に行きたかったのだが、一応イルミとの婚約を解消して宙ぶらりんな立場のリリスでは、罰を受けているキルアに気軽に会いに行けなかったのだ。そのため今回、こうして足を運ぶことができたのは、”キルアの様子を見に行ってやってくれんか”というゼノの取り計らいがあってこそだった。

 

「調子はどう?」

「最高だね。絶好調だよ」

 

 気絶してしまったリリスは彼とイルミが最終試験でどのようなやり取りをしたのか知らなかったけれども、比較的元気そうなキルアの表情に少しホッとする。憎まれ口を叩けるくらいだ。心を閉ざしてしまうような事態は避けられたらしい。「イルミに、友達が欲しいってちゃんと言ったらしいね」核心に触れてみても、キルアは穏やかな、それどころかむしろ満足そうな顔をしていた。

 

「……まぁね、否定されたけど」

 

 もっと、全てを諦めたような瞳をしているかと思っていたのに。

 もっと、苦痛や絶望の張り付いた表情をしているかと思ったのに。

 

 リリスは自分の予想が裏切られて、それだけで酷く安堵した。その身に付けられた傷の痛々しさには眉をひそめたくなるものの、ゾルディック家におけるこの仕打ちを虐待と一口に言ってしまうのは躊躇われる。それは花嫁修業と称して様々な訓練を受けさせられているリリスだからこそ、”必要なこと”もあるのだ、と理解しているからだった。

 

「急に肯定されても気持ち悪いでしょ」

「はは、それは言えてる」

 

 キルアにはキルアの考えがあるように、イルミにはイルミの考えがある。キルアの置かれた境遇を可哀想だと言うのは簡単だったが、ゾルディック家という特殊な事情を考慮すれば友達が不要だと言うイルミの教えも一理あった。

 そもそもそのイルミの考え方だって、誰かが小さい頃の彼に教え説いたものなのだろう。

 

「で、否定されて、キルアの気持ちは変わった?大人しく家に帰ったのはそういうことなの?」

「いいや」

 

 はっきりと否定を返したキルアには、彼が最終試験前に見せたような不安定さは微塵もなかった。もっと言うと家出をした頃のキルアと比べて、随分と心が自立したのではないかと思う。

 

「俺は今でもゴンと友達になりたいって思ってるよ。だから、」

「今は会えない、なんて伝言したんだね」

「あぁ」

 

 ゴンたちがゾルディック家にやってきているという話は、イルミ経由でリリスも聞いていた。というか、彼らにこの家の場所を教えた張本人がイルミらしい。イルミがゴン達を害するつもりなら、リリスが彼らを追い返すつもりだったが、イルミも他のゾルディック家の人たちも拍子抜けするくらい手を出そうとはしなかった。

 

「今の俺にできる最善は、関わらないことだからな。来てくれたのはすっげー嬉しかったけどさ、今の俺じゃ皆を庇ってやれねーし」

「別にゴンは庇ってもらうつもりなんて無いと思うけど」

「そうは言っても、実際兄貴にも親父にもゴンは勝てないじゃん」

「そのシルバさんがさ、ゴンたちに手を出すなって言ってるって、知ってた?」

「へ……?」

 

 ぱちぱちと目を瞬かせたキルアはやはり何も知らなかったらしい。イルミも、あのキルアを溺愛しているキキョウも本音で言えば”トモダチ”なんて排除したくてたまらないだろう。末弟のカルトだって、キルアに家を出てほしくないと強く思っている。本当ならばキルアを迎えに来た”トモダチ”なんて目障りでしかないはずだった。

 だが、それらの感情は全て、シルバの判断で押さえ込まれている。キルアに“レール”通りの生き方をさせようとしたのも、キルアの“トモダチ”を見逃しているのも、どちらも同じシルバの行動なのだ。

 

「イルミに言ったみたいにさ、シルバさんにも望みを言うだけ言ってみたらどうかな。私からするとここの家族って、すっごく水臭く見えるんだよ。別に想い合ってないわけじゃないのに、それぞれ大事に思ってるのに、皆すれ違ってるように見える」

 

 キルアを囲い込もうとするのも、歪んではいるが愛情だろう。キルアに代々続いてきた誉れ高き家業を継がせたいと思うのも、親心だろう。

 キルアは自分が人殺しの道具扱いされていると感じているみたいだが、本当に道具として産み落とされたリリスからすればわかりにくいだけで愛情は注がれていると思う。少なくともキルアの両親は、キルアのささやかな成長を喜んでくれそうだ。刺されて喜ぶくらいなのだから、多少のことは反抗期が来たと感慨深く思ってくれるに違いない。

 

「ま、どうせ、親父には今回のことで申し開きしなきゃなんねーし……」

 

 キルアはリリスの話を聞いてもまだ半信半疑のようだった。が、あるかもしれない父親からの愛情に、ほんの少し照れくさそうな顔になる。きっと、彼は強制された“レール”が嫌なだけで、家族自体のことは憎んでは無いのだろう。殺し屋という仕事をしていても、父親のことは心の中でちゃんと尊敬している様子だった。

 だから勇気を出して向き合ってみれば、知らない間にできてしまっていたわだかまりも解けてなくなるのではないか。

 

「ていうか、リリスこそゴンたちに会いに行かねーの?俺は無理でも、リリスならその気になれば旅に出ることだってできるだろ。婚約も解消できたって聞いたし」

「えっと……ごめん、私には私の優先順位があるから」

「優先順位?」

 

 首を捻ったキルアに、自分の変化を話すのは少し恥ずかしい。偉そうなことを言っておきながら、リリスの中のわだかまりも最近になって少し解け始めたばかりなのである。

 リリスは自分でもどうかしているなと思いつつ、口元が緩く弧を描くのを止められなかった。

 

「……あのね、実はこのままいけば私の望みも叶いそうなの。だから、キルアが私の分も元気ですって皆に言っておいてよ。夢遊病も治ったってクラピカに伝えて」

 

 夢遊病、とリリスが自分から口にしたことで、キルアはものすごく驚いたようだった。無理もないと思う。以前にその話題を振られた時は、とてもじゃないがこんなあっさりと認められなかった。

 この発言でリリスにも何かしら心境の変化があったのだと察してくれたらしいキルアは、吊られながらも器用に肩を竦める。もうそれ以上リリスをこの家から救うために、旅に誘うようなことはしなかった。

 

「なんだよ、俺をパシるつもりかよ」

「弟ってのはね、姉にこき使われる運命なんだよ」

「……しょうがねーな」

 

 ぼやいたキルアは身を捩ると、よっ、と繋がれていた鎖を簡単に引きちぎる。手枷も足枷も玩具みたいにあっさり壊されて、改めて誰も彼を縛ることはできないのだと思わされた。

 

「じゃあ、俺行くよ。ひとまず、親父と話に」

「うん」

「その……色々サンキューな、リリス」

 

 

 ――行ってらっしゃい。

 

 

 キルアと最後に交わしたやり取りを思い出しながら、リリスは自室のバルコニーからゾルディック家の広大な敷地を見下ろした。もちろん、本邸からでは執事邸の屋根すら目視できなかったが、今頃キルアはゴンたちに会えただろうか。

 

「リリスが唆したんだろ」

 

 自分の家のゲストルームは出入り自由だとでも思っているらしく、当たり前のようにソファで寛いでいたイルミは、少しばかりの非難の色を滲ませて呟いた。けれどもその声にはこれまでのような敵意や苛立ちはなく、むしろ拗ねているような響きすら感じられる。キルアが出て行ったこと自体もそうだが、未だにリリスが姉ぶってキルアを気にかけるのも面白くないらしい。

 

「最終的に許可を出したのはシルバさんだよ」

 

 結局、父子の話し合いを通して、キルアは自由を勝ち取った。リリスに様子を見て来いと言ったゼノのほうも、キルアが外の世界に触れることには賛成だったらしい。

 立ち上がって同じようにバルコニーへと出てきたイルミは、リリスの反論には何も言わなかった。ただ黙って隣りに立ち、見えるはずのない弟の姿を、果てしなく続く深緑の中から見つけ出そうとしているように見えた。

 

「……リリスこそ行かなくてほんとによかったの?」

「私は友達よりも、家族を優先したいから」

「リリスが命を張れるぐらい大事な家族ってキルアだろ。一緒に行こうって誘われたんじゃないの?」

 

 先ほどよりもずっと拗ねたような響きが強くなって、リリスは景色から彼へと視線を向ける。相変わらず彼は正面の森を睨みつけるようにして前を向いていたけれど、その横顔を見たリリスはまたひとつ、わだかまりが解けていくのを感じていた。

 

「家族になってほしいって言ったのは、キルアじゃなくてイルミでしょ」

 

 イルミに”羨ましかった”と言われたとき、もしかするとこの人も自分やキルアと一緒なのかもしれないと思った。ただ、リリスやキルアが道具扱いから逃げようとしたのに対して、道具でいいから存在理由があることに固執した結果が今のイルミなのではないかと。

 

 あの時は突然すぎて吐露された感情を信用できなかったけれど、今ならなんとなく自分達が似たもの同士だったのだと理解できる。そして互いの欠落を埋め合える可能性に、小さな喜びも感じていた。

 リリスにとってもイルミは、初めて”リリスをリリスとして”家族に望んでくれた相手だったのだ。友人に気に入られるための道具でも、あの母親の娘としてでもなく、ただのリリスとして望まれたことが泣きたくなるほど嬉しかった。

 

「じゃあ……」

「これは取引だよ、イルミ。私の望みを叶えてくれるなら、イルミの望みも叶える。そのほうが私たちにはわかりやすいでしょ」

「なるほど、それもそうだね」

 

 イルミは珍しく口元を緩めると、それからにわかに生き生きとし始めた。「だけど取引なら、改めて条件をはっきりさせる必要があるね。隠し事があるまま交渉なんてしたって無意味だし」そう言った彼は話の途中だというのに、すたすたと歩いて室内へと戻る。何事かと驚いて追いかければ、彼は部屋に備え付けられたクローゼットの前で立ち止まっていた。

 

「イルミ、」

「オレはね、一番がいいんだ。リリスの家族の中で一番になりたいってのが、本当の望みだとしても呑んでくれる?」

「……今度の指輪に、あんなふざけた神字を彫らないならね」

「その代わりもう二度と、リリスもオレに偽物なんか使わないでね」

 

 イルミがクローゼットの扉を開くと、中から”リリスの本体”がぐらりと倒れるようにして飛び出してくる。それをなんなく抱きとめた彼を見て、リリスはとうとう観念することにした。他の誰にも気づかれなかったのに、イルミだけが気づくというのならもう仕方がない。

 リリスは泣き笑いのような笑みを浮かべると、参ったと言う代わりに二人に相応しい言葉でもって返事した。

 

「いいよ、交渉成立だね」

 

 

 

 遠いパドキアの山のお城には、お姫様と王子様が住んでいるらしい。

 母親から聞かされていた話と現実は随分違っていたけれど、リリスはそれでもここ以上に幸せなところはないだろうなと思った。

 

 大切な家族と暮らす、このパドキアの山のお城以外には。

 

 End

 




これにて鏡映のモノポリーは完結しました。
話の三分の二くらいひたすら殺伐としていたにも関わらず、最後までお付き合いくださって本当にありがとうございました!
初めてハーメルン様でお話を書いてみて、あまり男性向けでは無いにも関わらず評価やコメントを頂けて嬉しかったです。


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