埋もれるアトリエ (乙祭)
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『睫毛』

不快な描写があります。


自分のことを客観視出来るだなんて口が裂けても言えないけれど、それでも自分がどんな奴か簡潔に説明しろと言われれば神経質とか小心者、という単語が当てはまると確信している。

幼い頃からそうだった。

子育てに積極的でも消極的でもない、極々普通、極めて平均的な、殊更特徴もない、ステレオタイプの教育方針を掲げる母曰く、私はとにかく『準備』に時間がかかる子供だったそうだ。

別段、要領が悪いわけではない、のだと思う。

単純に気になるのだ。

ランドセルに確りと筆箱は入れただろうか?

筆箱に筆記用具は? 消しゴムは? ノートはまだ白紙のページが残っていたろうか? 教科書の数は? そもそも今日の時間割はなんだったろうか。

昼食をとるときに使う箸は? 手を洗うときに使うハンカチは? ちゃんと入れたか? 持っただろうか?

何度も確認しても、この目で見て、触って確認しても、本当に、本当か? と確たる確信が持てなかった。

 

不足の事態に対応できる為に、必要以上に物を持っていきたかったわけではない。

傘を忘れて雨に濡れた経験はあるし、怪我をして絆創膏がなかった記憶もある。

もし、こんな事態になったら、この道具が必要なのではないかという心配事に支配されていたわけではない。

もっと単純に、自分が行った行動に太鼓判が押せなかっただけである。

 

この私の悪癖は大同小異、共感が見込めるのではないかと思っている。

ガスの元栓や玄関の鍵、閉めたっけ? 煙草の火は消しただろうか? 犬に餌は? 水道の蛇口は? 学校なり仕事なり、あるいはあてもなく散歩に出掛ける為に外出した際、ふとそんな心配事が脳裏を過らないだろうか。

私の場合、これが何時までも続くのである。

踵を返し自宅に戻り、確認しても確信が持てない。

鍵は閉まっていた。

鍵が閉まっているかどうかの確認の為に一度開けている。

もう一度ちゃんと閉めただろうか?

そんなことが何時までも何時までも続いてしまう。

 

私のそんな悪癖は、『大丈夫』だと私の代わりに保証してくれた母を亡くしてから一層の悪化を見せた。

小学校高学年の頃。

母は骨だけになった。

幼心に母の死は相当堪えたのを覚えている。

母が冷たくなって、話さなくなっても実感はなく、焼かれて骨にされ、小さな壺に押し込められた時になって私は初めて、得体の知れない恐怖を感じた。

これは母の骨なのだろうが、これは断じて母ではない。

そもそも、これは本当に母の骨なのだろうか?

私は、確認をしていない。

保証してくれた母はもういない。

実は全く別人の骨でした、なんて言われたら、そんなことを言われたら私は、

 

私は学校に行かなくなった。

所謂、不登校、というやつだ。

外に出るのが怖かったわけじゃない。

気になって気になって、外に出ても、なんども確認に戻ってしまって気が付いたら日が暮れているだなんてことを毎日毎日繰り返していたら不登校児などという笑えない状態になってしまったのである。

 

祖父母は私を精神科に通院させた。

笑えることにそのお陰様で私は更なる悪化をみせてしまう。

薬だ。

薬を決まった時間に飲む生活を強いられた。

私のこんな性格で、そんなことになったらどんなことになるか想像出来そうなものだが、お察しの通り、私は自分が本当に決められた時間に薬を飲んだのか不安になり、過剰摂取してしまう負のスパイラルに陥った。

朝昼晩。食前と食後に二錠づつ。

私は確り飲んだだろうか? 食前に食後の薬を飲んではいないだろうか? 食後に食前の薬を飲んではいないだろうか? ちゃんと二錠飲んだだろうか? 一錠ではなかったか? 私は病気だ。だって病院に通っているんだから。薬はそれを治すために、正しく服用せねばならない。決められた数を決められた時に。そうしなければ病気は治らない。

そしたらいずれ、骨だけになってしまう。

あんな、母の、ようになる。

そう思うと当時の私に余裕はなかった。

何度も何度も飲んだ筈の薬を飲み。

音を立てて加速度的に、少なくとも祖父母から見れば私の病状は進行した。

 

担任の温情で少なくとも中学は卒業出来たが、そんな有り様で高校受験など不可能と言うもの。

見事に失敗。晴れて私は、学生という身分さえ失った。

その筈だった。

 

「初めまして、になんのかな」

 

人間、というか大型の肉食獣が無理に人間の着ぐるみを着込んで常時悲鳴をあげているみたいな男は、実に面倒臭そうに、全く興味ないような視線を私に向けて、

 

「俺、なんでも、オマエの父親らしいわ」

 

などと、

お互い災難な話だな、と無責任に彼は名乗った。

 

これが私と、自称父親のファーストコンタクト。

結論から言って、本日この時より、私の名字は釈迦堂となる。

釈迦、ときたか。まるで阿修羅みたいな男の人なのに。

 

 

 

△△△

 

若い頃の俺はそりゃもうヤンチャだったもんよ。いやな、今でも若いけどよ。

 

ヤンチャ? バイクで夜な夜な暴走したり?

 

いいや? バイクはなぁ。だってあんなんより走った方が速いもん。

 

………………。

 

なんだその顔?

 

別に。

 

とにかく俺はそう、バイオレンスでエキゾチックな日々を送ってたわけだ。夜な夜なハルクと暴走したりな。

ほら、わるーい男には外せねえ要素があるだろ? 酒に暴力、それから女だ。

 

ふーん。

 

あれ、興味ない? 一応、オマエの母親との馴れ初め語り聞かせてやってんだけど。

 

父親らしく?

 

おー、そうそう父親らしく。まあ籍は入れてねえから、戸籍上はオマエの父親でもなんでもないんだがな。

 

それで?

 

あん?

 

続きは?

 

続き? いやねえよ? 寄ってきた女と手当たり次第一発ヤッて、出来たのがオマエ。ぶっちゃけ、オマエ母親の顔もあんまり思い出せねえ。アイツ元気?

 

骨になっちゃったよ。

 

なにそれ? 無理なダイエットでもしたのか?

 

ううん。そうじゃなくて、死んじゃったの。

 

あ、そうなんだ。なんで? 病気?

 

事故。車にはねられた。

 

あー、いるらしいな。車にはねられただけで死ぬ奴って。

 

トラックだよ? 普通死んじゃうと思うけど。

 

ふーん。普通ってのは不便なんだな。

 

それで、えーっと……釈迦堂さん?

 

パパって呼んでくれてもいいぜ。

 

釈迦堂さんは何しに来たの。

 

そりゃまあ娘に会いに来たんだよ。パパだから。

 

お母さんの顔も思い出せないのに、なんで今さら?

 

暇だったからだよ。じゃなきゃわざわざ調べて会いに来たりなんてしねえって。

 

なにそれ。

 

でもま、もういいわ。だってオマエ、普通だもん。つまらんわ。

 

 

いやな、俺ってばちょー強いのよ。ホント敵なしレベルに。だから退屈でなぁ。俺の子供なら、じゃれあうくらいは出来んじゃねえかって期待してたんだけどさ。無理っぽいな。

 

私が、普通?

 

ああ、なんの特徴もないな。母親の方に似たんかね。なんの気も感じねえし、こりゃダメだわ。

 

そう。私、釈迦堂さんから見ると普通なんだね。

 

そこらの連中と同じだよ。てなわけで俺もう行くわ。オマエにもう用はないし。

じゃあな、トラックには気を付けろよ我が娘。

 

うん。ありがとう、釈迦堂さん。

 

 

 

 

取り込み中のところ失礼するぞい。

――釈迦堂刑部じゃな?

 

 

 

△△△

 

父親を名乗る怪しげな人間が、仙人のような老人に空高く打ち上げられた光景は私のこれまで培った価値観を木端微塵に粉砕するには十分で、人間と言うものの可能性の真髄をまざまざと見せ付けられることになった。

仙人さん曰く、『なんでも気の応用』ということらしいが全く意味が分からない。

話を総合するに、自称父親、釈迦堂さんは、それこそ自称通り大変ヤンチャさんだったご様子で、週に一度は報道番組でうだなれながら連行される犯罪者がハムスターに見えるほど凶悪犯だったらしい。

まあ凶悪犯だったが、見た目通り知能犯というわけでもないから国家権力の方々に簡単に特定されることになったようだが、天下の警察様は釈迦堂さんを捕縛することが出来なかったそうである。

 

理由としては釈迦堂さんが強かったから。

映画や漫画に出てくる怪獣のように、それはそれは強かったからだそうだ。

だから、似たように映画や漫画に出てくる仙人さんが釈迦堂さんを叩きのめしにきた、というような事情らしい。

 

「お主は?」

 

仙人さんは私に質問した。

 

「ワシは川神鉄心という。まあしがない武術家じゃな。お主の名前は? そこの乱暴者とはどのような関係かの?」

 

私の知っているどんな武術家ともスケールの違う仙人さんは、自身が行使できる暴力の規模とは異なり極めて穏やかに、まるで学校の先生みたいな口調で私に再度質問をしてきた。

とりあえずこれまで釈迦堂さんと話した経緯を説明すると、仙人さんは失神している釈迦堂さんをひっぱたいて起こし、またひっぱたいて気絶させた。

仙人さんは怖い仙人さんのようである。

 

「全く困ったもんじゃの。こやつ、才はあるが人間としてはてんでなっとらん。お主も災難じゃったの」

 

「……いえ、まあ、大丈夫です」

 

「そうかの?」

 

というか普通に怖い。

私に父親がいた事実よりも、その父親が想像を絶するダメ人間という現実よりも、台風みたいな異常現象を済ました顔で発生させる人類がいることの方が問題である。

 

「ふーむ、うむ」

 

そしてその恐怖人形怪人仙人さんはなにやら私を興味深く観察している有り様である。

知らず背筋が凍ってしまう。

 

「流石はあの男の娘、といったところかの。お主おかしな……よくない瞳をしているの」

 

「え、なんです?」

 

「心当たりはないかの? その瞳を使ったことは?」

 

「瞳? すいません、話が見えないんですが……」

 

本当に意味が分からない。

 

「そうか。まあ、それならよいわい」

 

――ところでお主、学校はどこじゃ?

ワシ、こう見えて学園長なんじゃが。

 

 

 

世の中どうなるかわからないもので、こんな感じの経緯で私は川神学園の一年生となり、川神院という巨大なお寺で、しかも父親と住むことになった。

川神での生活は刺激的だった。

なんたってもう住人がおかしい。

奇想天外という四文字熟語は実のところ川神が発祥の地ではなかろうかと思えるほどに、この地を彩るのに相応しい。

なんたって皆、そこらのコミックのキャラクターより逞しい。車より早く走れたり、車を持ち上げたり、車にひかれて車が壊れたりとかまあそんな現象を引き起こすことが頻繁にあり、この人間的クオリティで日本はどうして戦争に負けたのか疑問がつきない。

ミサイルよりも釈迦堂さんや鉄心さんを航空機から発射した方が余程戦略的価値があるように思うのは私だけだろうか。

 

私が世話になっているこの川神院も、武の総本山と言われるだけあって川神クオリティ的には普通な、しかし常識に照らし合わせれば首を傾げるどころではない光景が毎日のように繰り広げられている。

武術、すなわち格闘技は年末の特番なんかでグローブをつけて叩いたり、叩かれたりするもので決してビームを出したり、天気を操作したりするものではないと断言できる。

私の中で超人育成養成所というネームプレートを欲しいままにしているこの自称武術寺は年端もいかない女の子にさえ苛烈な修行をかし、人道的にどうなのか? と

思わないでもない。

 

しかし同時に百代ちゃんを普通の女の子、と定義するにはこれまた疑問がつきないところではある。

確か彼女は小学校四年生くらいだったろうか。母を失ったころの私と同じ年齢である。

これでも私は結構運動神経がよく、女にしては大柄だ。だから当時は嫌がらせをしてくる男子生徒の股ぐらを蹴りあげ、見事なるテクニカルノックアウトを観客とかした他の生徒に見せ付けてやることもままあった。

今じゃすっかり引きこもり一歩手前の文学少女だからそんな蛮行、想像するだけで目眩がするけども、それでも過去は過去。事実は事実であり、目を背けてはいけない。

しかしながら、いくら当時の、男勝りな私でも、成人男性数十人をさながらソフトボールの如く放り投げるようなことはしなかった。

しなかったというか、出来なかった。

いや普通、誰にも出来ないだろうこんなこと。

百代ちゃんはあの怪物、鉄心さんのお孫さんであるらしいが、やはりDNAと同じように異常性というのも遺伝するのだろうか。

そうでなくては色々と説明がつかない。

どこの世界に台風の真っ直中、仁王立ちで高笑いしながら飛んでくる丸太を叩き割る小学生がいるのだろうか。

 

正直、百代ちゃんのことは苦手である。

それはそうだろう。その気になれば、いや最悪その気さえなく無自覚で指先ひとつで人間を簡単に殺傷可能な戦闘力を持つ精神的に未熟な女の子なのである。

マシンガンを持った赤ん坊めいた危うさがある。

何をするかわからない恐怖と、話が通じないという脅威。

これで苦手意識を持つなという方が無理がある。

 

百代ちゃんも百代ちゃんで私のことを明確に嫌っていた。

百代ちゃんは釈迦堂さんによくなついており、その理由は人柄ではなく、強さによるところが大きい。

まあ釈迦堂さんの人柄を魅力的だと思う人類がいるかどうかは大変興味のあるテーマであるのでいずれ川神院全体でアンケートを取ろうと思う。

そして少なくとも、百代ちゃんは人柄に惹かれたわけではない。というか百代ちゃんの判断基準は強いか、弱いかの二つに一つ。そこへいくと、一般市民代表のような私には興味がないのだろう。

それだけならいいが、生物上の父親があの怪物であるせいで出会った当初はなにやら期待値たっぷりの視線を浴びる期間があり、いつの間にかそれが冷めたものに変わって言ったのだからまあ勝手に期待され、勝手に裏切られたのだと思っているのだろう。

 

今じゃ明確に見下された態度を取られる。

一回り年下の少女のそんな態度に思うところがないでもないが、だからと言って張り手のひとつでもしようものならこっちの手首が無事ではすまない。

まあ一子ちゃんが川神姓を名乗るようになってからというもの、そういったある種の傲慢さは些か緩和されているように思うし、というか百代ちゃんのことを心配する義理も権利も私には全くない。

遠巻きに温かく見守るくらいはしてもいいが、こちら深く干渉することは絶対にしなかった。

 

とにもかくにも皆が皆キャラが濃い。

おかしな街で、ふざけた街だ。

毎日が本当に忙しい。

いつしか、私は確認していないからと、不安にかられるようなこともなくなっていた。

 

 

 

 

△△△

 

「順調に光を失っているようじゃの。このままいけば、成人までには失明できるじゃろ」

 

いきなり物騒なことを言われた。

私の視力は両目とも2,0だと言うのに、え? 失明? 私失明するの?

 

「通常の視力、という意味ではない。まあ気にせんでもよいぞ」

 

釈迦堂さんがルー師範代にぼろ雑巾にされ、指差されて情けなく負け犬たっぷりに川神院を追い出されたしょーもない後ろ姿を心の中で失笑した翌日、私は鉄心さんに呼び出された。

 

「釈迦堂のことはすまんかったの」

 

いやいやそんな。謝られるいわれはない。

一連の騒動を私は表面上でしか知らない私も、こればっかりは釈迦堂さんに非があると思っている。

というか心を鍛える川神院に、あんな強いだけの野良犬がのさばってては駄目だろう。

追い出すなら遅すぎたくらいであり、親子共々蹴り出されることもなく、私が今もなおお世話になっているだけでも十二分に有り難い。

 

というか、

 

「釈迦堂さんはともかく、鉄心さんはどうして私まで引き取って下さったんですか?」

 

私には祖父母がいたし、別に生活に困っていたわけではない。

これで祖父母が酷い人間なら、人格者の鉄心さんのことだ。溢れんばかりのエロリズムと道徳心を発揮させ、私を引き取る、という流れは分かるが、当時の私はそこまで切迫した状況に身をおいていたわけじゃない。

無論、あのまま祖父母に育てられていれば、というかこの川神に来なければ私は今ごろ隔離病棟にでもいた可能性は十分にあるが。

 

「いや、お主の瞳がの」

 

確か、出会ったときも似たようなことを言っていた。

 

「うーん、どうしたものか。伝えるべきだとも思うんじゃが、変に教えて自覚されても困るからの」

 

「ひょっとしてあれですか? 私にはなにやら凄い力が眠っているとか?」

 

冗談を言った。

 

「そうじゃよ」

 

真顔で返された。

マジかよ。

 

「それも悪しき力の類じゃな。まあワシは力、というのは行使するものによって善悪が決まると思っとるが、お主のそれは大多数の人間に悪いと認識されておる。それを持っておるだけで、信じられない数の人間に狙われることになるからの」

 

モテモテですね、なんて冗談は控えておいた。

 

「正直、ワシは当初はお主に武術を仕込むつもりじゃった。先も言ったように、その力は前任者が悪用しただけでお主はなにもしとらんからの。それも才能じゃ。とは言え狙われる可能性があるのは事実。じゃから最低でも自衛は出来るようにさせたかったんじゃが」

 

「私には武術の才能がなかったと」

 

「武は才能だけで決まるもんではないぞい」

 

一子ちゃんのことだろうか。

しかしそれでも、一子ちゃんが百代ちゃんに土をつける日は生涯訪れないだろう。

 

「単にお主が、その力を、いいや武そのものを煙たがっているように見えたからの」

 

「いや、そんなことは……」

 

「隠さずともよいわい。確かにワシのような生涯を武に捧げた偏屈なジジイからするとお主の感性はちと堪えるが、しかしな、武の本質は忌避されることにある。誰も争いなんて嫌いじゃろ? そうであるべきじゃし、そうなるためにワシらは鍛えておる。ケンカなんてすべきじゃないんじゃ」

 

こういった精神性が百代ちゃんと鉄心さんを隔てているのだろうか、なんて上から目線で私みたいな素人が思うのはやはり失礼なんだろうか。

 

「じゃからお主のようなものは、堪えると同時に救われるわい。戦いなんて、せんほうがよいからの。じゃからお主がその貴重な力を日々薄れさせていき、極々普通の女の子になるのはそうじゃな、確かに惜しくはあるが、楽しみでもあった。成長というのは、人それぞれじゃからな」

 

「私のその、力? というんですか? なんでも目のこと見たいですけど、どのようなものなんです?」

 

「知らん方がよいじゃろうの。このままいけばお主がそれを自覚することも目覚めることもない。その力は言ってしまえばランダムで引き継ぐようなものでな、何百年か前に、お偉いお猿さん達が封じ込めたものなんじゃよ」

 

「お猿さん?」

 

「ほれ、見ざる聞かざる言わざる、というやつじゃ」

 

見猿。聞猿。言猿?

 

「見ることを封じ、聞くことを封じ、言うことを禁じたんじゃ」

 

「私はその、見ることを」

 

「まあの」

 

ということは、

 

「私の他に、まだ二人いる、ということですよね?」

 

「当代で確認されておるのはお主だけじゃが、お主が確認された、ということは、他にも二人おるのじゃろうな」

 

確認。

また、その言葉か。

 

「九鬼あたりが血眼になって探しておるようじゃがの。まあ一番ヤバいお主が、今のところ危険人物ではないからワシを含めてホッとしてるがの」

 

鉄心は続けて、

 

「けどもま、お主は普通の、極々ありふれた女の子じゃ。今のことは胸に止めておくだけでよい。これから普通に友人を作り、恋人を作り、家族を作れ。川神院は武を極めるところじゃが、武というのは色々な側面がある。ワシはその一つに、ありふれた幸せを守ることも含むと思っておる。お主が笑っておるのなら、ワシの武術もまだまだ捨てたもんじゃないと言うことじゃからな」

 

「……はい」

 

 

 

これが私の青春時代の話。

人生で尤も濃厚だった時代の物語。

学園を卒業し、就職して、そこでまた色々な経験もしたけれど、これ以上に色鮮やかな思い出は、今のところは一つもない。

もちろん、これから先は、どうなるかわからないけれど。

 

 

 

 

 

△△△

 

いやいや、困った。睫毛が、目に入った。それも両目。

 

睫毛が目に入る。誰しも一度は経験があるだろう。これが結構曲者で、中々どうして痛いのだ。

しかも数回の瞬きでその睫毛はどういうわけだか消えてしまう。取れたのか、それとも眼球の裏側に入ったのかはさておいて、なんとなく気になってしまうのは仕方がないだろう。

心に刺さったしこりのように、どこかひっかかりを覚える。

なんとしてでも見つけ出し、取り除いてやりたいが平日の朝の社会人にそんな時間は当然なく、致し方なく家を出た。

 

玄関先でお隣の学生さんと軽い世間話と、目に入った睫毛はどこに行くのかなんて下らない問答をする。

川神学園の制服だから、彼も鉄心さんの教え子なのだろう。大人びた感じに見えたし、三年生だろうか。

そうなると百代ちゃんの同級生になる。今度彼女の話を振ってみよう。

 

出勤し、タイムカードを押す。

瞳に鈍痛を感じ、ロッカーで姿見を見ると両目が充血していた。

 

昼休み。

麺類を食べる。なんとなく、今朝瞳に入った睫毛が気になった。

あの睫毛はどこにいったのだろう。

 

帰宅。

今日は一日睫毛のことばかりを考えていて、とても仕事にならなかった。

明日もこの調子では困る。

どれもこれも睫毛が悪い。どこにいったのか。

取れて落ちたのか? しかし確証はない。私は確認していない。

瞳の裏に入り込んだのか?

よし。

 

「確認しよう」

 

気になって仕方がない。

私は、確認しないと気がすまないから。

鋏で眼球をえぐり出してみた。

これで、睫毛が、

 

「あ、真っ赤だ」

 

鉄心さんの言う通り、私は失明した。

 

 

 

 

 

▲▲▲

 

夜の喧騒の中、親不孝通りの外れが宇佐美代行センターである。

 

「よお、絵無(えなし)。珍しく遅かったじゃないの」

 

「すいません、宇佐美教諭。お隣に住んでる人が怪我をしまして、救急車とか呼んだりしてたら遅れちゃいました」

 

「ん? お前のお隣っつーと……」

 

「釈迦堂さんという女性です。確か忠勝君のお友達のお知り合いでしたね。えーっと……」

 

「川神の妹の方か。いや、姉とも面識があったんだっけ、その釈迦堂さんとやらは。怪我ってどうしたの?」

 

「両目を鋏でえぐったそうですよ。自分で」

 

「はあ!?」

 

「怖いですよね。なんでそんなことするんでしょうか。あ、これが品物です」

 

「いや、お前、そんな場合じゃないでしょうよ」

 

「そんな場合なんですよ。僕は生活かかってますし。最近スランプ気味で、この絵だってさっき初めて、急いで仕上げたんですから」

 

「とりあえず忠勝に伝えといてやるか……ていうか、お前みたいなのでもスランプとかあるのね」

 

「そりゃありますよ。世間様には大袈裟に評価されてますが、テーマが決まらなければ僕、絵なんて描けませんし」

 

「頼むよ、ホント。絵無の絵はうちの主な収入源なんだから。ってわけでいつも通り買い手探せばいいのね? けどお前ならオレみたいなのに頼らんでも、個展とか開けば自分で売れるんじゃないの?」

 

「僕は描くだけで、その他のことは全然からっきしですから宇佐美教諭がいて助かってますよ」

 

「ま、お前がそう言ってくれるならこっちも助かるけどね。あと、学園じゃないんだから、教諭は勘弁してよ。それで? この絵、タイトルは?」

 

「『睫毛』です」

 

 

 

 

 

 



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act1

 

 

島津岳人、などという。

ド腐れ低能筋肉達磨の性欲馬鹿に正気を疑う程非道な質問を受けたので袖を巻くって言い訳を始めたいと思う。いい機会なので取り巻き連中の皆々様も鼓膜に焼き付けて頂きたい。

 

さて、武士道プランというものをご存知だろうか?

え? 知ってる? いや、ふざけんな。知っているのならば「なんでお前だけFクラスなの?」などという心にもないクエスチョンをオーバースローで投げ付けてくるのか。よって貴様らは知らんのだ。故に黙って聞き役に徹するがよろしかろう。

 

えーっと、武士道プランね。

そう武士道プラン。これがまたすごいのよ。

とにもかくにもめちゃすごい。やばいすごい。なにがすごいって人間のクローン作っちゃうんだもん。

だってクローンだよ? ヤバくね? 技術もそうだけどモラル超無視じゃん。

やって良いことと悪いことがあるよね。出来るからってはいやりますじゃ人間関係上手くいかんでしょ。

 

まあそこはそれ、これはこれ。そもそも九鬼財閥に空気を読むなどという控えめな人間様に許された高尚な機能がくっついているとも思えないし、やっちゃったもんはしょうがない。

クローン作成の批判についてはしかるべき専門知識をもったしかるべき方々がしかるべくやってくれるだろう。まあ心情的には微妙なとこだけどオレはやっぱり九鬼の肩を持つだろう。だってクローンは処分! とかなった暁にはオレもぶっ殺されちゃうしね。

 

九鬼がクローン人間作りました。

九鬼をほんの少しでも知っている人間ならばもう一捻りあると身構えるだろう。そんな貴方はとても正しい。一捻りどころかトリプルアクセルをかますのが我が生みの親九鬼財閥である。

作ったのは普通のクローンじゃない。偉人のクローンだ。

偉人である。過去の歴史に残る、並外れて優れた人間のことだ。

お分かりいただけるだろうかしら。九鬼は過去の偉人のクローンを作っちまったのである。

 

ここで武士道プランに立ち返る。

武士道プランとは、九鬼が言いたいのはこうだ。

過去の偉人のクローンを作ったから、貧弱で日和見な若人よ。彼等と共に切磋琢磨せい。勇往邁進川神万歳拍手喝采その他諸々いやっふー!

 

いやうぜぇ……。

マジで大きなお世話である。

そもそもなに? 何様のつもりですか?

切磋琢磨とかしたくもされたくも見たくも聞きたくもないんですけど。どうだよふふん、モチベも上がるべ? みたいな感じが鼻につくんですけど。

偉人と一緒に競争しましょうとか死んでもごめんだわ。目立たないように極力争うことなく隅っこで生きていたいわ。

 

じゃあ川神から出てけばいいじゃんと思うじゃん?

いやオレだってそうしたいよ。なにが楽しくてこんな奇人変人バーゲンセールのサーカス団みたいな異世界に住居を構えなきゃならんのか。

叶うものなら今すぐ転居したいね。海外の牧場あたりに。

けどまあそれも無理な話。過去に何度か懇願したもののにべもなく断られちゃったし。一度夜逃げよろしく脱走しようとしたが、義経が涙目で頼むんだもん。男として自分を曲げることもまた必要なのさ。決してゴリラ女のコブラツイストに屈したわけではない。

 

そうそう義経。

武士道プランで生まれた偉人の一人だ。

フルネーム、源義経。

知っているだろう、普通。超有名人だし。まあ歴史の教科書なんかでの取り扱いは寂しいもんだけど、どういうわけだがドラマや漫画、ゲームでのウケはかなりいいので現代人なら一度くらいは名前を聞いたことはある筈だ。

さてこの九鬼式義経。オリジナルと違い女の子である。

どうして女の子なのだろう? そんな疑問は良いじゃないか。義経はこんなにも可愛いのだから。

もう可愛い。超可愛い。真面目で勤勉で友達思い。何よりクローン組で浮きまくってるオレなんかにも超優しい、ああ付き合いたい、結婚したい。

 

オレの密かで淡い恋路に仁王立ちして立ち塞がるのはゴリラワカメこと武蔵坊弁慶。武士道プランの二人目だ。

アル中である。以上である。それ以外に語ることはない。

まあ一応、生物学上、奴の性別も女らしい。なんの冗談だ笑えない。

 

源氏組、最後の一人は那須与一その人だ。

那須与一は義経、弁慶に比べると一般の認知度がちょびっと低いかもしれない。かくいうオレもよく知らない。というか歴史上の義経と弁慶のこともいまいちよく知らん。なにぶん小さい頃からアイツらと一緒だったもんだから歴史の教科書に『源義経!』とちっちゃいおっさんが載ってても違和感バリバリなのである。

オレにとっての義経は可愛い義経だし、オレにとっての弁慶はゴリラ女だし、オレにとっての与一は中二病だ。今さらそれ以外とか言われても脳みそが新しく処理してくれない。元々オツムの出来も悪いしなぁ。

よって歴史上の那須与一がどうであろうと、与一は単なる良い奴で拗らせた激痛中二病で、そしてオレの友達だ。

 

彼女達クローン源氏三人組に共通する特徴として鬼のように強いことが上げられる。

強いってあれだよ? 街の腕自慢とかのレベルじゃないよ? 垂直のビルを只のスニーカーでかけ上がったり、スクーター持ち上げたりとかもうそういうレベルだよ?

そんな連中と切磋琢磨っていやいや無理でしょキツイでしょ。

九鬼のジジババ共は現代の若人にどれだけ失望したか知らんけどもし義経達のレベルを求めているんだとしたら現実が見えてないどころの騒ぎではない。老眼鏡の購入を強く強く推奨する。

 

九鬼のジジババ共の期待値は『強さ』というカテゴライズに止まらない。力のある面倒な老害共は『賢さ』にまで一定の水準を求めているようだった。

その役目を果たすのがクローン4人目、葉桜清楚だ。

ご覧あれ、お聞きあれ『清楚』という上品かつ甘美な響きを。彼女が貞淑な淑女であるということにもはや僅かの疑いも挟むまい。

清楚さんはオレらの一つ上の学年で我らクローン組の姉さん的ポジションにたおやかに腰かけていらっしゃる。

なんかこう、あの人って見てるだけで元気になるよね。メキメキと活力がわいてきてデロデロと鼻の下が伸びていく。

そんな存在するだけで癒し効果マックスの清楚さんだ。彼女が誰のクローンなのかなど些末な問題でしかない。ぶっ飛ぶくらい頭いいし、なんかそういう感じの偉人だろう、きっと。

 

とまあこういうわけだ。わかるかな?

 

「いやなにがだよ。お前がFクラスにいる説明つかなくね?」

 

やれやれ。オレは優雅な仕草で肩を竦める。やだねぇ、これだから筋肉バカは。脳に必要なのは糖質だよ? たんぱく質じゃなくて。頭回ってる?

 

つまり、武士道プランってのは偉人と一緒に切磋琢磨する計画なわけよ。

でもあれよ、切磋琢磨っていっても様々な分野があるでしょうがこのやろー。

強さ競いたいなら源氏組と。

賢さ競いたいなら清楚さんとやればいい。

オレはまた違ったジャンルを求められてんだから、弱くても、多少馬鹿でも問題ないのFクラスでいいのテストが酷くてアイツらと離れて寂しくなんてないのわかった?

 

「あー、でもさ」

 

と、バンダナイケメン。

 

「強さ担当源氏組も頭はいいんだろ? アイツらSだし」

 

イケメンは嫌いだ。

ていうかなんでバンダナ巻いてんだお前。校則舐めんなよ。恥ずかしいのか? 実はそこだけ禿げててバンダナで隠してんのか?

 

「いや、初日に遅刻した人に校則云々言われたくはないと思うけど……」

 

と、撫で肩色白の男子生徒。

なんだっけこいつ、誰だっけこいつ。なんかポロだのモロだの露出狂みたいな渾名で呼ばれてた可哀想な奴だ。

遅刻のこと思い出させんなよ。これでも緊張して眠れなかったんだ。お陰で偏屈伯爵にどれだけシバかれたと思ってる。嫌なこと思い出させんなよ。

ちなみに眠れなかったのは本当に緊張してたからで、決して義経と与一とクラスが離れてショックだったからとかでは決してない。決して。

 

「じゃあ貴方はどんなすごいことができるの?」

 

と、天真爛漫な目で期待したように明け透けに聞いてくる犬っぽい女。

ヤバイ、苦手なタイプである。こういうのは再現なく甘やかしてしまいたくなる。

というか黒板に書いてあるオレの名前で分からんもんかね? 自分で言うのもなんだけど結構有名だと思ってたんだが。

 

「ふふん、自分はわかったぞ! ズバリ芸術に秀でているとみた!」

 

得意気に、控え目な胸を張る金髪。

どの角度から見ても海外の人っぽいけどよく知ってるな。というかよく読めたな、オレの名前。結構難しい漢字だと思うんだけど。

 

「クリスは日本人より日本人に詳しいからね。そして私は大和に詳しい。大和のことならなんでも分かる。ククク、昨日のオカズまで」

 

なんか筆舌に尽くしがたい女がいるぞここに。

オカズってのが夕食のことなのかそれとも刹那のワンダフルな恋人のことなのかでこの女への今後の対応が変わってくる。

前者なら近付きたくない。後者なら距離をおきたい。

 

「ねー、大和。昨日のオカズってなんだったの?」

 

「まゆっちが作ってくれた煮物だったよ、ワン子」

 

オレのことはもう無視か?

一応転入生として自己紹介中なんだけど、質問とかもうない感じかこれ。なんてFクラスなの? 他のクローンSなのに。あれなの? 一人だけ馬鹿なの? みたいな質問が最初で最後? マジでこれ? 他ないの? 過去の偉人よオレ様。現代に甦ってこれからブイブイ言わせちゃう勢いあるのよ? もっとこう、あるでしょ普通。

 

「はーい質問! 弁慶さんに恋人はいますか!?」

 

オレへの興味はもうないのかこの猿。

 

「与一系はフリー系?」

 

「あ、それ気になるー」

 

オレにはオレに関しての質問をせい。

ちなみに与一はフリーだ。以前、恋人は作らないのか? と訪ねてみたが、

 

『フ、確かにそうだな。一時の止まり木、そうした安らぎを求めるのもありと言えばありか。しかし機関に付け入る隙を与えたくない。俺の伴侶ともなれば狙われるのは確実だろうからな』

 

つまり強い女が好きらしかった。

弁慶はどうだろう? 知る限り、最恐である。

 

『あ、ああ姉御っ!?』

 

嫌そうだった。

気持ちは分かる。オレだって嫌だ。

収集がつかなくなってきたので鞭をしらせ担任教師が締め括りに入る。

え? 鞭出したの今。見間違えか?

 

「あー、もういい良いだろう。これ以上は個人的に訊ねるように! 席は……そうだな、源の隣でいいだろう」

 

およ、源?

担任教師の目線を追うとバランスのとれた体つきの、突き刺さるような目付きをした男子生徒が目に入る。

 

「ちっ、まあ仕方がねえ。色々、不馴れだろ? 面倒だが、分かんないことあったら聞いてこい」

 

おお、ちょっと感動。随分強面だけどわりといい人っぽい。やっぱ源って名字の人に外れはないな。

 

「源忠勝だ。まあなんだ、よろしくな」

 

「あんがと。こちらこそよろしく」

 

オレは他のクローン組と違って明日いきなり退学喰らう可能性とか多大にあるけど、まあそれまでよろしくどうぞ。

 

 

 

 

□□□

 

早速よろしくして貰うことにした。

 

放課後、忠勝に川神の案内を頼んだのである。

忠勝はブツブツ言っていたが断らなかった。それどころか案内する傍らで実際に住んでいる自分の考えも交えオススメの飲食店などもアナウンスしてくる始末。

わかっちゃいたが、さてはコヤツ、良い奴だな?

 

「とまあこんなもんか。駆け足だったが問題ないだろ。ちゃんと回ると日が暮れちまう。なんか気になるところあったか?」

 

「いーや、なーんも。すげえ分かりやすかった」

 

事実である。まだ知り合って1日未満だが忠勝が人の世話をやき慣れてるのは疑いなかった。

 

「しっかし。面倒見がいいのを差し引いても街並みに随分詳しいのな。やっぱ川神長いの?」

 

「っていうのもあるが、バイトが少し特殊でな。街中駆け巡ることもあるんだよ」

 

「なに? 運送業?」

 

「いや、代行業だ」

 

んん? 馴染みがない職種だ。

ちょっと食い付く

 

「興味あるか? 何でも屋だよ。親父が社長でその手伝いをな。ちょうどいい、ちょっと覗いてみるか。最近は親不孝通りも治安いいしな」

 

あー、なんか気色の悪いマザコン野郎が街の不良をシメて回ってたな。

そういえばアイツ確か成人してたはず。うわぁ、そう考えるとキツイわ。いい歳こいた大人が無軌道な非行少年少女を制裁するわけである。

困っちゃうね、これだから九鬼は。彼ら彼女らは他に行き場がないだけだと言うのに。全くもって押し付けがましい、ウザったい。

 

「っていっても完全に綺麗にってわけでもないか。オイ、目ぇ合わせんなよ」

 

忠勝の言う通りカエルみたいな座り方した少年の一団が挑戦的な眼差しをこちらに向けている。

うわ腹立つ。なに見てんだ許せんわコイツら。おいマザコン仕事しろよ、容赦なく取り締まれよ使えないな。

 

親不孝通り。

不穏な名前の通り治安もよろしくはないらしい。

それでも武士道プランに先駆けて、九鬼が大規模に非行少年少女を取り締まったから遥かに住みやすくなったとか。

 

「まあ九鬼が本格的に動けばな。ちょっと粋がる奴なら直ぐに引き下がるさ。中にはそれでも刃向かうのもいるだろうが」

 

「まさか天下の九鬼相手に?」

 

想像もつかない。

 

「ああ、多分板垣あたりは最後まで粘るかもな。……っとついた、ここだ」

 

「ん。『宇佐美代行センター』?」

 

忠勝の父親が経営しているということらしいが、源ではなく、宇佐美なのか。

とはいえ根掘り葉掘り訊ねる類のことでもない。

 

「親父。いるか」

 

「おう、忠勝か。そっちは……噂の転入生だな」

 

「はじめまして」

 

忠勝に先導されて連れられた事務所には先客がいた。

宇佐美巨人。忠勝の父親で川神学園、2ーSの担任らしい。

 

「オジサンもお前の話は聞いてるよ。絵無の奴と会わせてみたいもんだが。今日はまたどうした?」

 

「川神の案内をちょっとな。それとこれは相談なんだが、うち、夏にかけて忙しくなるだろ?」

 

「ああ、そういう……けど九鬼はいいのか?」

 

蚊帳の外だが、なんとなく話が見えてきた。

 

「なあ、アルバイトの話を聞いてみる気はないか? もちろん、無理にとは言わないけどよ」

 

「やめときなさいよ。オジサン、九鬼に五月蝿く言われたくないし」

 

「聞くだけはタダだろ。人手不足だって深刻だしな」

 

「だからってお前。それに今日会ったばかりなんだろ? 転入生だって面食らうわ」

 

「オレは別に構いませんよ」

 

そもそもオレは他のクローン組と役目が大きく異なる。義経達ほど慎重に扱われない代わりに比較的身軽だったりするのだ。

忠勝にしても言ってはなんだが今日会ったばかりのオレにこんなことを頼むくらいだ。人手不足は本当のことなのだろう。

 

ていうかうんあれよ、オレも思うところがあるわけよ。そりゃあ義経達と比べればオレはちょっぴり、いや、だいぶ、うーん、かなり足りてないところも多いけどさ、それにしたって九鬼の連中あからさまじゃねえ?

従者部隊(笑)の何人かは劣等種を見るようなノリで接してくるしさー。ぐれちゃうよ? マジで。代行業とか耳触りダーティーだしこれはもうわたりに船とみたね。

 

「代行業って具体的にはなにするんですか?」

 

「んー、いろいろよ。猫探しからボディーガードまで。正直、多少危険なこともあるからバイトしてくれるのはいいけど、一度親御さん、というか九鬼に話を通してまた明日来てくれる?」

 

「わかりました」

 

「ありがとな」と忠勝。

 

「それでお前らどうするんだ? もう帰るのか? 個人的にもう少しで面白い奴が来るんだが」

 

「誰だよ、客か?」

 

「まあ学園来ないし、生徒ってより、客だわな。ほら、絵無だよ。前に預かった絵が売れたからその代金を渡すことになってる」

 

「ああ」

 

忠勝は途端に興味が失せたようだった。

絵という単語に興味を引かれたがいくら放置気味とはいえ転入初日で長いこと帰らないのも不味い。

また明日来ると約束し、忠勝には重ねて礼を言い、今日のところは帰宅することにした。

 

 

 

 

 

 

忠勝とは途中で別れた。

不馴れな川神とは言え九鬼ビルまでの道順は流石に覚えている。

しっかしまあ、濃厚な1日だったように思う。イベントが奇抜だったわけではない。オレのやったことと言えば1日授業を聞いて、放課後寄り道をしたくらいのものだ。別に大したことはなにもしていない。

だがこう、胃もたれめいた状態になっているのは会う奴会う奴キャラが濃いからだろう。コース料理食いに行って全品ステーキ出てくるようなしつこさである。口直しを切実に所望したい。

九鬼も面子の濃さもあれだが、川神学園も大概だ。生まれはともかく、それ以外は極々平均値に行儀正しくおさまっているオレなんかにはたまったもんじゃない。

 

義経達はもっと多忙だろう。

なんでも決闘とかいう目眩を覚える恐るべきシステムによって殆ど初対面の奴と殴り合わねばならぬらしい。

気の毒ー! って感じだが、だからと言って手伝おうとも思わない。大体出来ることなんてないし、義経達より一歩外の居場所、それがオレのポジションだからだ。

 

ああ、そう考えると、オレだけFなのもなんだか笑える話だな。それが自分の実力で、卑屈さは微塵もない。ほん少しだけの寂しさを飲み込むと、オレに相応しい、生ぬるーい扉の鍵が手に入る。

 

――――はて、と考える。

 

「うわ、なんだか今のオレ、与一っぽい」

 

死にたくなった。

ちょっとノスタルジーな気分にひたるとすぐこれだよ。あー、やだやだばっちい! やめだやめだ。

 

気分を切り替えて早足になる。

すると、

 

「北斎!」

 

名前を呼ばれた。

振り返る。

ちょっぴり苦笑した。

 

「おー、義経。なんだ今から帰りか?」

 

走り寄ってくる。

隣にはゴリラ、中二、文学女神。

別に声をかけられたら待ってるっつうに、なんでわざわざかけてくるかね。

 

「そうなんだ! 北斎も今から帰りなら、一緒に帰ろう」

 

「いや、もう目の前なんだけど」

 

九鬼ビルはすぐそこだ。

 

「いいんだ。初日は皆で帰りたかったから」

 

あら可愛い。ちょー癒される。

 

とにかくまあ、こんな感じで、学園生活初日はおしまい。

 

 

 

 



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act2

転入して初めての週末。

酩酊したマウンテンゴリラが無遠慮に自室に侵入してきた。

 

「ほーくさーい、今日暇でしょ? ちょっと付き合って欲しいところがあるんだけど」

 

「やなこった」

 

そぉい。

ごきり。

 

「ねえ、北斎。暇だよね? 七浜行くけど、一人じゃあれだからさ」

 

「ふ、ふざけんな……」

 

そぉい。

めきり。

 

「北斎? ねえいいでしょ?」

 

「お、お前、ちょっ……!」

 

そぉい。

ばきり。

 

「北斎?」

 

「わぁい! 弁慶さんとお出かけ! 楽しみだなぁっ!」

 

などと、微笑ましい一幕の後。オレはせっかくの休日を返上して人間の外見を精巧に模したローランドゴリラに奉仕することに相成った。

いかに人間と姿形が近しいとは言え油断は一切許されない。ヒトとゴリラでは意思の疎通など望むべくもないし、ましてや腕力がこちらの数倍もあるのだ。些細なことから凄惨な姿に変えられる可能性は非常に高いと断言できる。

オレは心の中で左手中指を天高く掲げ、ひたすらに武蔵坊弁慶なる存在に災いが降りかかることを祈っていた。

 

以前見えるところで中指を立てていたらふん捕まえられ、ワイパーのように激しい左右運動を加えられた経験から、現在はこうして心の中だけで勘弁してやることにしたのである。マジ感謝しろ、このアホ。

初等教育を受けた者ならば誰しも人間の指の可動域を把握してそうなものだが、弁慶が笑顔のまま実行したのは記憶に新しい。美人だが、全然可愛くなかった、このボケ。立ち往生しろ。

 

さて、そんな大迷惑という言葉を意のままに使いこなす九鬼式弁慶が目指す先は酒屋である。

仮にも年頃の乙女がデートスポット豊かな七浜に降り立つのだ、もっとこう、色彩で例えるならピンクっぽい場所に足を向けてもよかろうに。

七浜行きの電車に揺られながら、痛む節々を擦りつつ、地獄の底から響くような声色で怨敵に問う。

 

「ていうかなんで態々七浜よ? 酒屋なら川神にも腐るほどあるでしょうが」

 

「腐るほどあるから、もう腐るほど行ったの。良いじゃんたまには。暇でしょ、付き合ってよ」

 

つまりまだ見ぬ酒との出会いを求めて電車でゴーということらしい。

オレらはまだ未成年だから当然のように飲酒など出来ない。彼女ももちろんそんなことは分かっており、いずれ成人した時の楽しみとして、今から少しずつ酒を買いそろえておくのだとか。なんとも言えない趣味である。

 

「奇特な奴だな。酒がそんなにいいのかね」

 

「さあ? まだ飲んだことないから。少なくとも、川神水はおいしーよー?」

 

ほれ、と杯を押し付けてくる。

いらん、と断る。ことあるごとに進めてくるがオレは川神水など飲んだことがない。

ノンアルコールで酔える? その謳い文句だけて胡散臭い。

 

「なんにせよ買い物なら義経誘えよ。アイツなら嫌がんないでしょうに」

 

「しつこいなぁ。私と出掛けるのがそんなに不満? それに義経は転入してこっち、ずっと決闘続きだったからね。たまには休ませてあげないと」

 

「オレはいいんかい。これでも結構疲れてるっつーに」

 

昨日は金曜、つまり変態マッド共に『いや、らめぇ!』される日だったので身体の節々が痛むのである。

 

「疲れてるって、例のバイト? 代行業だっけ、与一が食い付いてたね」

 

疲労の原因は確かにそれもある。転入翌日から始めた代行業だが、これが中々おもしろい。

響きダーティーだけど、地味な作業多いから与一的には微妙と見てるが。まあ給料が週払いなのが大変よろしい。

ああ、そう言えば、

 

「その代行業でな、バーテンの手伝いすることになったんだよ」

 

「うわっ、似合わなそう」

 

「ほっとけ。それでさ、そのバーテン、もう一人くらい人が欲しいんだって。弁慶、よかったらどうだ?」

 

「……うーん」

 

めんどい、と即答しないってことは興味自体はあるようだ。しかし生来の物臭さが労働という行為を忌避しているご様子で弁慶は悩ましげに唸り、川神水を飲んだ。ちゃんと考えてるかあやしいもんだ。

 

「ねえ北斎、返事すぐじゃなきゃダメかな?」

 

「ん? よく知らんけどいいんじゃないか? オレもダメ元で声かけてみろって言われただけだしな。けどアル中のお前にピッタリだと思うぞ、なんたって酒に囲まれてるんだからな」

 

「一言多いんだよな、この男は」

 

軽くつねられた。

 

「ぎゃああああああっ!!」

 

「……いや、そこまで強くしてないから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「見ろ北斎。色んな銘柄がたくさんある」

 

こうしてはしゃぐ姿を見ると弁慶も女の子なんだなぁと思ったりする、だがうっとりと一升瓶を抱えているので直ぐに気の迷いだと思い直した。

七浜の酒屋は弁慶の想像以上だったようで、心なしか足取りも軽い。日頃ナメクジのようにダラダラしてるからか変わりようは顕著だった。

 

「おお、結構洋酒もあるんだな。北斎、これなんだかわかる?」

 

「知らん」

 

こっちはバーテン初めてまだ一週間未満だぞ。分かるわけがない。

 

「ふふん、じゃあ私が簡単なクイズを出してやろう」

 

「いや、パスで」

 

「カルテルのクイズだ。正解したらご褒美あり」

 

「聞いてる?」

 

「不正解なら制裁あり」

 

「おい聞いてる!?」

 

「第1問!」

 

「聞けアル中女!」

 

川神水をぐいっと弁慶。

 

「スクリュードライバー。さて何を混ぜる?」

 

「スクリューとドライバー」

 

「不正解」

 

違うのかよ。

正解はオレンジジュースとウォッカらしい。どういう行程を経てこんな名前になったのか切実に訊ねたい。

 

「第2問」

 

「え、続くの?」

 

「ジントニック。レシピは?」

 

トニックって炭酸水だよな? で、ジンはジンだろ。ってことはジンとトニック? いやいや待て待て単純すぎる。オレンジジュースとウォッカがスクリュードライバーなんて必殺技みたいなお名前頂戴してんだ。シンプルである筈がない。

きっとあれだよ、誰が名前付けたのか知らんけど、捻るのが格好いいとか与一みたいな奴がいたんだよ。

よってジンとトニックは全く関係ないに違いない。

 

「トマトジュースとビール!」

 

「正解はジンとトニック」

 

「ふざけやがって!」

 

法則性がみえてこないんですけど!

 

「北斎大丈夫なの? そんなんでバーテンできるわけ」

 

「オレが酒なんて出すわけないだろ。掃除とかしかしてないっての」

 

「ちなみに次が最終問題ね。不正解なら制裁決定」

 

こんな理不尽がありえるのか。

 

「制裁ってなんだよ?」

 

「私に酒を贈呈する」

 

「今日連行された意味がよくわかった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このクソゴリラめ。

悪態の1つも付きたくなる。右手に川神水。左手に日本酒。そして背中に武蔵坊というスタイルで九鬼ビルまでの道を嫌々歩く。

この女、1日中川神水を好き勝手かっ食らい、先ほどつぶれやがった。どんだけ自由だ、羨ましいわ。

七浜に捨ててきてもよかったが、翌日以降の報復行動を考えればそんなリスクは犯せない。

仕方がなく、血涙を流す程、ほんっとーに仕方がなくこうして背負って連れて帰ってやってるわけだ。

 

アル中の分際でけしからんスタイルしていやがるもんだから、背負ってしまうと否応なしに生暖かく、柔らかいものが押し付けられる。

が! オレは全く欲情しない。大体弁慶など背負い慣れており、今さらなんの感慨もない。こうするのも1度や2度ではないからだ。

今背中にいるのが清楚さんだったらオレのパンツが弾け飛ぶが、弁慶となると奴がパンツ姿でもピクリとも反応しない。

 

あー、ちきしょー。ひどい休日だよ。

結局、間の抜けたクイズとやらに敗北しても自分の酒は自分で買っていたし、最終的になにがしたかったんだこいつは。てっきりオレのバイト代を付け狙っての行動だと踏んでいたんだが。

 

「ほんと言うとさ」

 

背中から声。

 

「起きてんなら降りろよ」

 

つねられた。

 

「今日、七浜に北斎連れ出したのはちゃんと話がしたかったからなんだよね」

 

「オレは口もききたくないけどな」

 

真面目に聞けと少々刺のある声色で釘を刺された。

なんだってんだよ。

 

「私さ、正直、北斎は川神学園には来ないと思ってたんだよね。口には出さないけど多分主達もそう思ってる」

 

「はあ?」

 

意味が分からん。来たくないとは言ったが、オレに選択権なんてなかったろ。

 

「だって北斎、九鬼嫌いじゃん」

 

「今に始まったことじゃないだろ」

 

別に隠してない。周知の事実だ。

オレのような小僧一人が世界規模の財閥を嫌ったところでなんだって話ではあるのだけれども。

 

「私達と住んでるところ違うし」

 

クローン組で、オレだけは九鬼ビルに住んでない。そのすぐ近くの、九鬼とはなんの関係もないボロアパートに住んでいる。

幸い絵を描くことだけは得意なので、それを売れば家賃や生活費くらいはなんとかなる。

 

それにオレの九鬼嫌いもそんなに過剰なものでもない。

考え方が肌に合わないってだけで、例えば英雄とか、紋白とかとも普通に話すし、義経達に用があれば九鬼ビルにお邪魔することも抵抗はない。単純に用がないならからみたくない、疲れるから。そんな程度のニュアンスだ。

嫌いと言うか、煙たがっているという感覚に近い。

 

「私達とクラス違うし」

 

「それは実力」

 

傷口を抉るなよ。

 

「だから何て言うかこう、急に不安になったわけ。北斎勝手だし、急にいなくなりそう」

 

「誰も困らんだろ」

 

首絞められた。

 

なんとなく、弁慶の感じていることは分かる。

自分で言うのもあれだが、オレはクローン組で明らかに浮いている。振る舞いや実力もそうだが、一番は九鬼による扱いだろう。

弁慶含め義経達は何だかんだと大事にされてる。その分縛りも多いんだろうが、コイツらも子供じゃないんだ、手厚く守られているっていうような感覚はあるんだろう。

オレにはそれがまるでない。例えば与一が九鬼ビルから出て生活すると訴えても許可なんておりなかったことだろう。オレだから許可されたのだ。どっちでもいいオレだから。

 

「まあどっちでもいいんだけどな」

 

心の底からそう思ってるので雑じり気なしの本心を伝える。

だが、ここはあえておちゃらけてみようと鼻くそをほじった。

汚ない手で川神水に触るなと今日一番の暴行を受けた。

空気を読むって難しい。

 

「川神に来る前はクラスも住むところも一緒だったしな。急に離れて寂しくなったのか?」

 

からかってみた。

 

「そうだね」

 

即答された。

多少言葉を選ぶ。

 

「単に環境がほんの少し変わったってだけだろ。今までとなにも変わってないっての」

 

「そ。ならいいけどさ。勝手なことしたら容赦しないからね」

 

恐ろしげなことを言って軽やかに背中から離れる。

そんなしなやかに動けるなら自分の足で歩けただろ。

 

「義経や与一、清楚先輩もちゃんと安心させなよ。急に会う機会が減って皆思うところあるだろうから」

 

はいはい。

 

 

 

 

 

 

 

 

□□□

 

夜。

与一の部屋に不法侵入したオレは拳を突き上げかく語る。

 

「清楚さんのおっぱいが見たい」

 

「お前は一体なにを言っているんだ?」

 

与一にゴミのような目で見られた。屈辱である。

 

「なあ与一。オレの名前を言ってみろ」

 

「北斎だろ。葛飾北斎」

 

「オレは誰のクローンだ?」

 

「だから葛飾北斎だろうが」

 

「そうだろう? つまりはそういうことだ」

 

「ホントになに言ってんだお前」

 

ええい話の分からん奴だな。

 

「じゃあ与一、1つ聞くが葛飾北斎とはどんな奴だ?」

 

「変態で馬鹿」

 

失礼極まる。

 

「違う! オレじゃなくて偉人の方だ!」

 

「どんな奴って言われてもな……。画家だろ、浮世絵師」

 

「その通り。そんでもってクローンのオレも画家だ」

 

これで音楽家だったら笑うしかない。

 

「んで、知っての通りオレは定期的に絵を完成させなくちゃならん。それを売って生活費に当ててるからな」

 

「……変な意地張らずに、ここに住めばいいと思うがな」

 

なんとも言えない表情で与一は吐き捨てる。

それは切羽詰まったらにしておくよ。

 

「まあそれはいい。今大切なのは清楚さんのおっぱいだからな」

 

「話の流れがわかんねえんだけど」

 

ここまで言ってわからんとか、コイツ頭大丈夫かな?

 

「お前なぁ、北斎と言ったら絵。絵と言ったらお前そりゃもう春画っきゃないだろ。馬鹿じゃないのか?」

 

「いや、馬鹿はお前だ」

 

春画。つまりエッチな絵のことである。

 

「いいか与一。オレは今の今まで色んな絵を描いてきたがこれまで1度も春画に手を出したことはない。なぜか分かるか?」

 

「この話聞かなきゃダメか?」

 

与一の奴、飽きてきたな。ええい、仕方がない。

オレは舞台俳優もかくやの大仰な仕草で右目を塞いで声をはる。

 

「っ!? よ、与一! 離れろ」

 

「! どうした? 大丈夫か!?」

 

どちらかと言えば大丈夫ではない。

オレはおもむろに苦しみ出した。

 

「まさか、くそ、そんな……もうなのかっ! こんな筈では。まだ猶予はあるのではなかったのかっ!」

 

「……! 北斎、お前まさか、その瞳、ミレニアムドミニオン(千年支配領域)かっ!?」

 

ミレ……なんだって?

 

「知っているなら話は早……いや、もう遅い、お前だけでも逃げろ!」

 

「フ。馬鹿を言え、1度制御から解き放たれたミレニアムドミニオンから逃れられん。例え俺が亜光速で動けても確実に補足されるだろう」

 

マジで? ヤバイじゃん。どうすんのこれ。

 

「こうなれば取れる手段は1つしかない。そうだな?」

 

「ふ」

 

その取れる手段とやらを知らんので、とりあえず意味深に笑っておいた。与一は満足げに頷いた。

 

「領域は常に支配者を変えていく。その瞳を我がクライマティックサイン(天候の中指)の支配下におけば……!」

 

「馬鹿っ……! そしたら、お前はっ!」

 

「分かってる。分の悪い賭けだが、手をこまねいているよりはマシだろうさ」

 

諦めたように笑う美形。この表情で落ちる女も多いだろうに、どうして与一は与一なんだろう。

 

「――! 与一、そうだ、清楚さんだ!」

 

「彼女がどうかしたのか?」

 

「清楚さんにはあれがある! あれだその! あれなんだよ! あれだ! あれだあれ! あれだっつってんだろバカ! 上手く繋げ!」

 

くっそ、思い付かん。なんかこう、カタカナに漢字のルビ振るやつだよ!

 

「ま、まさか当代のクラウンヴォイド(王国の孔)だと言うのかっ!? それならばっ!」

 

「ああ、そう悪い賭けにもならんだろうさ」

 

「直ぐ連れてくる!」

 

凄まじい速度でかけていく。やはり英雄。運動能力が桁違いだ。

直ぐに清楚さんを連れて与一が戻ってきた。

 

「ほっくん! 突然苦しみ出したって聞いたけど、大丈夫!?」

 

うん、前から思ってたけどこの人も大概だよね。

だって与一より足速いんだぜ? 今はいいけど。

 

「ぐっ! 清楚さん、すいません。どうやらオレはこのまでのようです」

 

「そんなっ、急に、どうしてっ」

 

「最後にオレの願いを、叶えてくれますか」

 

「わかったからしっかりしなさい! 今与一君が他の……」

 

「おっぱいが見たいんです。貴女の」

 

「…………はい?」

 

オレは言った。

正直言って与一と寸劇やってたときからこれもうヤバイ収集がつかない誰か止めたくれと思っていたんだが、ここまできたら開き直るしかない。せめて当初の目的は果たさなければなるまい。

 

「ぐはっ、死ぬ前に、清楚さんのおっぱいが見れれば、それで……」

 

ていうか夕方弁慶に押し付けられたから意識しちゃうけど、オレってそもそも胸より尻派なんだよなぁ。今から軌道修正出来ないだろうか。

 

「いや、おっぱいだけでなく、その美しいお尻も拝むことが出来たのならば……オレはひょっとしたら生にしがみつけるかもしれない」

 

「小僧。これでもしも仮病などと抜かそうものなら――串刺しの覚悟は出来ているんだろうな」

 

怪物が現れた。

 

「ボクは止めました。でも与一君が清楚さんのおっぱい見たいからどうしてもやれと脅されました。従わなければ僕の大切な筆を自分の尻に突っ込むと」

 

「おい! お前マジか! ふざけんな!」

 

「ジェノサイド――!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生死の境をさ迷った。

あの不良執事め。いつか泣かす。オレ以外の誰かが。

 

「もうっ、本当に心配したんだからねっ」

 

清楚さんは今もってぷりぷり立腹していらっしゃる。ほええ、かわゆいよぉ。怒る姿も様になるよぉ。

 

「悪ふざけにも限度があるよ。遊ぶなとは言わないけど、今後こういう心臓に悪いのは禁止だからね、分かった?」

 

「ふぁい」

 

舐めくさった返事になったのは清楚さんを舐めくさってるわけではなく、不良執事に顔面蹴り飛ばされて腫れているからである。

オレは直ぐに目覚めたが、与一は今だ昏倒中。アイツの方が強めに蹴飛ばされたらしい。罪の重さではなく、自力の強さを考慮した裁量だろう。もし罪の重さで判決が下っていれば今頃オレは生きていない。

 

すまん、与一。今度なんか奢る。

こう、ごてごてした、十字架とか髑髏のネックレスとか買うよ。好きだろ、お前。

 

心の中でわりと真摯に友人に詫びつつ、知りうる限り最高の美を兼ね備えた先輩に向き直る。

 

「もう、ほっくん。どうしてこんなことしたの?」

 

「清楚さんのおっぱいが見たいからです」

 

「聞き間違えじゃあなかったんだね……。ほっくんも男の子だし、そういう時もあるかも知れないけど…」

 

項垂れる女神。

しかしオレは偽らざる本心を胸をはって堂々と答える。

 

「誓って邪な気持ちはありません。そうですね、多少誤解があるようですから順を追って説明しましょう」

 

「うん?」

 

「いいですか、まず貴女はとても美しい」

 

「……あ、ありがとう。お世辞でも嬉しいよ」

 

赤面する清楚さん。

その倍は赤面するオレ。

 

「清楚さんはオレが絵を描くことは知ってますよね」

 

「もちろん、私のことも描いてくれたじゃない。大事に飾ってあるんだから」

 

清楚さんに限らず、クローン組の絵は一通り描いて渡したことがある。

ちなみに一番せがんでくるのは弁慶だったりする。

 

「今回の件は絵関係なんですよ。ぶっちゃけ言うと春画ですが」

 

「ああ、そういう」

 

納得の表情の清楚さん。

春画と聞いて取り乱したりしないところはさすがの文学少女である。

春画はなにも性欲を刺激する為に存在しているわけではない。無論、そうした側面があるのも事実だし、否定はしない。しかし裸体というのはそれだけで美しいのである。

 

これはなにも絵に限った話ではない。例えば彫刻などにも一糸纏わぬ人間の姿で表現する作品は数多い。

それを見て卑猥な気分になるのならば作者がそれを狙ったからに過ぎない。しかし中には異性の恥部がさらけ出されても、恥じらいや劣情、それよりも先に美しいと感じた経験はないだろうか。裸体で表現出来るのは、見るものに与える感情は淫靡なものだけではないのだ。

むしろそこには無垢さ、純粋さだって汲み取れる。

 

「今まで春画は描いてきませんでした。別に嫌っていたわけではなく、モデルの成長を待っていたんですよ」

 

言うまでもなく、清楚さんだ。

 

「これまで何度も春画は描こうとしてきましたが、清楚さん、オレは貴女を描きたいと思っています。美しい貴女を」

 

「ほっくん……」

 

オレの邪なものが欠片も混ざらない、純真な瞳を見て感じ入るものがあったんだろう。清楚さんは感銘を受けているようだった。

 

「ふ」

 

オレは思わずほくそ笑んでしまう。

これは決まったな。

 

「ほっくん!」

 

清楚さんは感動したらしい。

 

両手を握られた。

ちょっ! 近い近い近いっ!

うわ、手ぇ細っ、温か、やわらけぇ、スベスベだよおい、顔近っ睫毛長っ肌綺麗だなぁ鼻長けぇ。おおっ、いい香りする、なんかあれだわうん、こう、美味しいわ。臭いが美味しい。味がするわ清楚さんの香りって。なんて言うのかなぁ、わかる? 歯応えが違うよ。舌触りもいいよね。

 

「そんなに私の、その、裸がみたいだなんて……そんなに絵に対して真摯だったんだね」

 

つーかオレ大丈夫かな臭くない? 鼻毛出てない? 髪はねてない? イケる? オレイケてる? 大丈夫オレ、清楚さん大丈夫オレ。あれ、今、清楚さんなんか言った?

 

「春画も、うん、立派な芸術だもんね……私に出来ることがあれば」

 

頭が混乱して本音が脊髄反射で飛び出した。

 

「ぶっちゃけ絵とかどーでもいいんで清楚さんのおっぱいとお尻が見たいし触りたいです!」

 

頭突きを食らった。弁慶のより痛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんかオレ、今日ついてなくね?

酷い目にしかあってないんだけど。

こういう日はあれだ。義経だうん。彼女に会って癒されよう。

部屋の前で叫ぶ。

 

「よーしーつーねーちゃん! あーそーびーまーしょー!」

 

不在だった。

ちくしょー、とことんついてない。

 

「主の部屋の前でなにしてるのさ、北斎」

 

「ん、弁慶か。なんか今日よく会うな」

 

夕方まで一緒にいたからか新鮮味がない。

 

「主はこれから寝るまで鍛練だって、ついさっきまで私と居たんだけど」

 

「ありゃ、間が悪かったか」

 

「ふふふ」

 

「なに笑ってんだよ酔っ払い」

 

「いやね、北斎って天の邪鬼っぽく見えてわりと素直だよねー」

 

「はあ?」

 

なんだ、藪から棒に。

 

「その分だと、もう与一と清楚先輩には会ってきたんでしょ? ……ありがとね、皆、寂しがってたし」

 

「なんだそれ、意味わかんね」

 

踵を返す。

 

「もう帰るわ。いつまでも九鬼のビルにいると疲れるしー、気分悪くなるし。極力来たくないからな」

 

「明日のこの時間なら義経、いると思うよ。また明日ね」

 

「……ん」

 

また明日。

 

 

 



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『躾』~作法~

▲▲▲

 

宇佐美代行センターにて。

 

「しっかし、これ、ええっと『調教』?」

 

「『躾』です」

 

「ああ、『躾』、『躾』ねぇ。……うーん、『躾』か」

 

「なにか?」

 

「いや、なんつーのかな、この絵さ」

 

「なんでしょうか」

 

「……やっぱいいわ。俺みたいなのには、わからんのが芸術の世界だろうし。見る人間、選ぶものだろ」

 

「万人受けしないものを、完成された芸術とは呼ばないでしょう」

 

「ご立派。流石天才画家様の言葉には含蓄があるわ」

 

「からかわないでくださいよ」

 

「茶化してるだけだって」

 

「意味は同じでしょうに」

 

「ちょっとだけ違うんだなこれが。とは言え、『躾』ときたか。オジサンはてっきり源氏に絡めた絵が来るもんだとばかり思っていたんだが」

 

「源氏って源氏物語の?」

 

「いーや、義経とか弁慶の方の」

 

「どうしてまたそう思ったんですか?」

 

「ろくに学園に来ないからそんなリアクション出来るんだろうなぁ、お前は」

 

「行きましたよ。綾小路教諭と少しだけ話して帰りましたが」

 

「来たんなら授業にも出なさいよ。あの平安教師となに話したんだか」

 

「友達を紹介したんです。前々から会わせたいと思っていたので」

 

「友達? 絵無に? そんなのいたのか?」

 

「失礼な。教員の言葉とは思えませんね。僕にだって友人の一人や二人、当たり前のようにいますよ」

 

「悪い悪い。えーっと、なんの話だったか……そうそう源氏な。学園に来なくても、ニュースとかになってる筈だけど、知らない? テレビ見ないんだっけ?」

 

「見ないというか、テレビなんてもってませんよ。ついでに言うと、携帯電話も」

 

「アナログだなぁ。このご時世に不便じゃない?」

 

「特には。連絡をとる友人もいませんし」

 

「さっきと言ってること違くない? じゃあまあ、学園に来てみろよ。ビックリするから。なんたって義経だの弁慶だのが授業受けてるし」

 

「?」

 

「はははっ。そのリアクションが当然だよなぁ。百聞は一見にしかずだ。明日にでも顔を出しなって。単位もまずいだろ?」

 

「気が向いたら伺います」

 

「来なそうね。こりゃオジサンが先生として、生徒を躾なきゃダメかね、この絵みたく」

 

「そっちじゃありませんよ」

 

「ん?」

 

「人が人に行う躾ではありません。この絵に登場するのは人、それから獣です」

 

「人が獣を躾する?」

 

「まあ、そうですね」

 

「……うーん」

 

「なにか?」

 

「まあ、この際だから言わせて貰うけどさ、タイトル聞いたときからどうにも気になってたんだよ」

 

「なんでしょうか」

 

「だって、この絵、どうみても――――」

 

 

 

 

 

△△△

 

物語、と呼称される類いに嫌悪感を抱いたのは相当後になってのことだった。

両親が殺されるまでは物語、即ちそういった嗜好品に手を出すだけの金銭的、あるいは精神的余裕はなかったし、よしんばあったとしても嫌う理由を正しく認識出来たとは思えない。

よってそういったものに手を出したのは施設に鎮座されていた、手垢の付いた絵本が初めて、ということになる。

 

感想は一言。

 

『なにを終わってんだよ』

 

これである。

それである。

物語を嫌うのは、つまるところ終わるからである。

 

そもそも、なぜ終わるのか。

全く意味が分からないし、終わるというなら意味がない。

ふざけている。やる気がない。あまりにも出鱈目だ。

それは別に素敵極まる物語だったと言うわけでもない。あるいはそうだったのかもしれない。どちらでもいい。覚えていない。そんなところは何一つ重要ではない。

どうあれ終わった。完結した。身勝手に、理不尽に、最後のページの次がない。

 

なんでもそうだ。

誰でもそうだ。

この世のものはとかく終わることを良しとする。

別れたり、辞めたり、或いは死んだり。

納得できない落ち着かない。

これまでだってずっとそうで、それはおそらくこれからだってずっとそう。

 

だから彼は、病的なまでに貪欲に、終わりの果てを追い求めたのだ。

まるで自分だけが爪弾き。

この世界でただ一人の除け者で、

ひょっとしたら自分は、人間ではないのかもしれない、なんて錯覚を覚える程に。

 

この暴力には先がある。

 

この殺人には果てがある。

 

命が消えても次がある。

 

どこかできっと、素知らぬ顔してそっぽを向いて、一からスタートされるのだ。

 

なんとしてでも見付け出す。

 

 

 

 

 

これは板垣竜兵の物語である。

 

 

△△△

 

 

 

 

 

 

 

 

家族は好きだった。

理由はハッキリしている。単純に、便利だからだ。

人間は生まれて死ぬまで、自己の生活水準の向上を目指す種族というのが竜兵の考えである。偏に生活水準と言っても様々で、経済的な余裕、物資等の安定、精神的な平穏、まあ小難しいことはどちらでもいい。ざっくばらんに言えば豊かで、楽しく、幸せであればそれでよいのだ。そんなニュアンスの認識でこれまで困ったことはない。

そこへいくと家族と言うのは便利だ。と言うか、いないと不便である。

子供の時分では両親が居なければ生活水準どころか生きていくことさえ難しい。

両親の選択、というのはこれまた中々難しく、ぶっちゃけてしまうと運任せだ。子は産まれる先を選べない。まあ、世界有数の大富豪かつ聖人君子で子供好き、なんて優良物件は求めないが、それでも食うに困らないだけの経済的基盤と、一般的な価値観を兼ね備えているのならばおおよそ問題はないだろう。

 

しかし、竜兵は親のくじ運、という観点からすれば非常に不運な少年であった。

居ても居なくても、いや、居ない方がまだしもマシな部類の両親であり、故に竜兵が家族という概念に利便性を感じたのは、家族が家族を排除したその瞬間にこそ初めて生まれたと言うことになる。

まあ細かな詳細は省こう。

両親は屑だった。それ以上でも以下でもない。

要点だけかいつまんで説明するととにかく両方男好き、女好きで子供を作って放置する。挙げ句、遊戯感覚で肉体的にも精神的にも暴行を加えることも頻繁にあった。

一応は4姉妹、そして自分の5人ということになってはいるが姉妹のうちどれと血が繋がっているかわかったものではない。そもそも父親は長女にも満面の笑みでのし掛かって腰を振っていたし、血縁関係もモラルもなにもあったものではない。

 

とにかくまあ、そんな感じで、あれな両親なもんだから、自分達は週に一度は死にかけた。その度奇跡的に生き延びた。そんで奇跡が売り切れて、次女が父親に殴り殺された。

さしもの竜兵もあれには流石に堪えたものである。次女とは仲が良かったし、それなりに綺麗だった顔が失敗した福笑いみたくなっていたのは中々のトラウマものである。

竜兵、長女、四女はそれはそれは気落ちした。子供らしく無力を噛み締めたものである。

しかし、三女は違った。

勇敢にも、反撃に出た。

そうして、両親はいなくなった。

この世から。

 

とまあこんな経緯。

そこにどんな事情があるにせよ、竜兵達4人は10代にも満たないうちから社会に放り出されることになる。

 

 

 

 

 

頬骨を砕く感触が、右の拳を舐め回す。

回転、体重を乗せた渾身の拳打が殆ど無防備な顔面をとらえたのだ。経験上、頬骨だけではすむまい。奥歯、それから首の筋も強かに損傷していることはまず間違いなかった。

一瞬で不細工になった哀れで知能が足りない勢いだけはよかった愚かな坊やが白目をむく。身体が地に伏すよりもなお早く、意識は現実から逃避したらしい。

勿論、竜兵はそんなことは把握していた。

自分の拳をまともに受けたのだ。戦意と意識を保てる筈もない。あと1秒にもみたないでこの男は完全に崩れ落ち視界から消え失せる。

しかし竜兵はあと1秒も彼が視界に存在していることが我慢ならなかった。故に退けよ、とばかりに腹部を蹴り押して吹き飛ばす。男は人形のように折れ曲がって受け身もとれずに転がって、やがて停止した。

 

あとは静寂。

耳に突き刺さる沈黙。

この事態を演出した数名のギャラリーは無音に鼓膜を破られかねない心境だった。

確かに彼等は徒党をくんで竜兵を担ぎ、今、ピクリとも動かない少年に制裁を加えてもらうよう懇願した。

きっかけは本当に些細な、金と女のトラブルだ。何度か話し合いをもうけたのだが暴力が介入するまでに拗れたので、こうして沈んでもらう未来を勝ち取るために竜兵にご登場願ったわけである。

結論から行ってやりすぎだ。

少し痛い目にあってもらい、勢いよく絡んでこなくなればそれでいい。そんな程度に考えていた。

 

口から泡立った血の塊を吹く男を見て少年達は青ざめる。日頃から程度の低い暴力しか観覧したことがない彼等は竜兵の行使する暴力、それに引き摺られる容赦のなさに震え上がる。

 

板垣竜兵。冗談みたいに強いということだったので、ろくに調べず参戦願ったのが不味かった。彼は相手を沈める為ではなく、壊す為に拳を奮っているのがわかる。

正直、一瞬たりとも同じ空間に存在していたくもなかった。

 

竜兵はそんな周囲の畏敬など頓着せず、倒れ付した雑魚を見下ろす。

生きている。辛うじて。放置すれば多分死ぬだろう。

助けを呼べば死なぬかも知れない。

まだ死んでない。終わりではない。

即ちまだ、先がある。

殴って蹴って、動けぬ相手。

この暴力に、先があるならそれはきっと、

 

「はっ」

 

薄く笑う。

踏み殺そうと首筋目掛けて足を振下ろそうとすると、止めようとしたのかなんなのか、ギャラリーの一人が腰辺りにしがみついてくる。

 

「ちょ、その辺……っ!?」

 

鬱陶しいので反射的に顔面を陥没させてみた。

なにやら騒いでいる。

残り二人の取り巻きは、なんとも言えない表情でこちらを観察しているようだった。

しばし考える。

わからなかった。

 

「確認したいんだが、お前ら、そこに転がってる、ああ、鼻が潰れてる方じゃない。泡吹いてる方だ。泡吹いてる方をぶっ潰せと俺に頼んできたんだよな?」

 

千切れんばかりに首を縦に振る二人。

竜兵は鼻が潰れている方を指差して、

 

「じゃあこれはなんだ、気でも変わったのか?」

 

少年二人は消え入りそうな声で、そういう訳じゃない。ただ、ちょっとやりすぎではないかと主張した。

 

竜兵はその、やりすぎ、という物差しがまるで理解できなかった。

 

「なんだそれ。殴るのはいいのにか?」

 

少年達は押し黙る。

正確にはなにか言っているようだったが小声過ぎて聞き取れないのだ。

溜め息を落とした。

 

「まあ、もう、あとは知らん。勝手にしろ」

 

約束の金額だけ貰ってその場を去る。

暫くして救急車のサイレンが聞こえた。

助けることにしたらしい。

なら、初めから、暴力に訴えなきゃいいものを。

意味の分からない、気色の悪い奴らである。

 

 

 

 

 

 

△△△

 

 

 

社会が嫌いだった。

理由は曖昧としている。複雑で、怪奇だからだ。

そもそも意味が分からない。確かに三女の辰子が父親を殴り殺し、通報しようとした母親を長女の亜巳が絞め殺したのはそうでもしないと次女のように殺されるからで、なにも大爆笑しながら楽しんでやったわけではない。

現に辰子はあの一件以降、時折スイッチが入ったように暴れまわるし、四女は自分のことを天使などと偽って名乗り始める始末。

亜巳はまあ比較的まともだったが、残りの家族を食わせるために身体を切り売りしていた。

世間様からすればどうであれ、色々と後遺症めいたものを内包しながらも竜兵達家族は両親という脅威を排除して一月程度の平穏を手に入れた。

 

それを壊したのは脈絡もなく現れた背広を着た男だった。

 

父親のように激昂しながら竜兵を殴らない。母親のように嘲笑しながら竜兵を犯さない。

柔和な笑顔の裏に、真の通った誠実さを秘めた男は、真摯に穏和に、優しく、手厚く、一人一人竜兵達家族の頭を撫で、抱きしめ、我が事のように涙を流し、正義と、社会制度の名の元に、竜兵達家族を引き裂いた。

 

「そりゃお前、当然だろ」

 

馬鹿じゃねえの? と、家に勝手に上がり込んだ釈迦堂刑部はかく語る。

 

「世の中にはあんだよ、そういうのが。なんかほれ、それっぽいのが、こう、児童福祉? 虐待サービス? みたいな名前のもんが」

 

「意味わかんねえよ」

 

言わんとすることは伝わるが。

もう名前も思い出せないが、背広の男はそういう制度の名の元に竜兵達を守るためと有無を言わさず連行したのだから。

 

「守るため、ねえ。眉唾だよなぁ。本音のところじゃあそういう決まりだからってだけだろ? 御役所仕事ってやつだ」

 

「まあだろうけどよ。少なくともアイツは俺らのことを考えてるような風だったぜ」

 

「泣いちゃうねぇ。いい話だよホント。ほんで? そのナイスガイに連れ出されたお前らのその後は?」

 

「亜巳姉とタツ姉は病院。俺と天は施設」

 

釈迦堂は爆笑した。

竜兵はイラッとした。

 

「おうおう。お前ら爪弾きもんが全うになるために必要だったんだろうさ。ちゃんと更正したのか?」

 

「天は里親の頭蓋をゴルフクラブで叩き割って家出、タツ姉は病院の壁ぶち破って亜巳姉と一緒に退院した」

 

釈迦堂は大爆笑した。

竜兵はメラッときた。

 

「そんでお前は?」

 

「あん?」

 

「お前のその後だよ、天みたく里親か?」

 

「いや、俺は12、3くらいまで施設にいたよ」

 

「あー、お前、可愛くないもんな。子供欲しくて欲しくて、挙げ句他人のものでも拾おうとしてた連中にも見向きもされなかったわけだ」

 

うるせえよ、と竜兵は悪態をつく。

 

「俺はその頃から働こうとしたんだよ。ガキの時分じゃわからなかったが、亜巳姉がどうやって金を手に入れてるか理解するようになっちまったからな」

 

「春売ってたんだろ? アイツ今もやってるぜ。弟ちゃんは辞めて欲しいのか? マジかシスコンかよお前。金払って相手してもらえば?」

 

「茶化すな殺すぞ。別に、今はなんとも思ってねえよ。けど、あれだ、当時は思うところもあったんじゃねえかな。男は俺一人だったしな」

 

意識して他人事のように吐き捨てる竜兵。

釈迦堂はかっくいーと口笛を吹いた。

全く。とことんまで真面目に話を聞かないタイプである。

 

「けどま、働けなかった」

 

「うわダサっ」

 

流石に青筋を立てて湯飲みを投げ付ける竜兵だが、軽々いなされ、釈迦堂にはなんの効果もない。

舌打ちを一つ、竜兵は言い訳をするように続きを語る。

 

「ガキ過ぎて無理なんだと。なんで無理なのか知らねえけど、そういう決まりなんだってよ」

 

それどころか、施設に連れ戻されそうになっちまったよと顔をしかめる。

竜兵が社会を嫌いなのは、

 

「意味がわからねえよ。どっかの誰かは俺たちを守るための決まりとかほざいてたがよ」

 

むしろ攻められているようにしか感じない。

別に今さらどうこういうつもりもないが、自分達は自分達だけで生きることが出来た。確かに他の者とは違う、歪で醜い歩き方かもしれないが、放ってくれる、それだけでよかったというのに。

 

「マジで馬鹿だよなぁ。俺らはもう他の連中みたいにはなれねえ。そんな生き方を押し付けるから頭割られるんだ」

 

ゴルフクラブですっきりと。

 

「そーか、そーか。笑えるっくらい恵まれない半生だったのな。どうだ、泣くか? 胸かしてやろうか?」

 

「キモいんだよ。別にどーとも思ってねえって言ったろ」

 

「なんだよ。社会が嫌いだー、なんてウケること言うから慰めて欲しいっていう遠回しなアピールかと」

 

「マジで一回殺してやろうか?」

 

出来るなら止めねえよと釈迦堂は笑う。

舌打ちをした。

 

「まあ安心しろ。社会様もお前らの事が嫌いだから」

 

だから制度だのなんだのが辛く当たるんだよ、と含み笑って締め括る。

なんの役にもならない。

誰の目にもとまらない。

社会の端の汚いゴミクズ。

それが自分だと釈迦は説く。

 

繰り返すが、別に、なんとも思ってない。

しかしなんだか悔しかった。

 

「アンタはどうなんだよ?」

 

「どうなんだよって、なにが」

 

「社会様に嫌われてんじゃないのか?」

 

「俺、国際指名手配犯」

 

気にせず言う。

それはそれは大層な嫌われ方だった。

 

 

 

 

 

 

△△△

 

「別に、気にしてねえよ」

 

深々と頭を下げる男を見て、吐き捨てるように竜兵は言った。威嚇するような素振りだが、これが彼の自然体。発した言葉に偽りはない。竜兵は真から彼のことを許すと言ったのだ。

 

拍子抜け、と表現していいものか葵冬馬は暫し思考を巡らせた。

竜兵一派に金と薬と暴力の切符を売り付け、共に破滅の列車に乗り込み、だが終点を待たずして自分は途中下車したいと懇願したのだ。

正直、殺されることも覚悟はしていた。

 

説明は、今さら不要だろう。

葵冬馬が行おうとしていたことは九鬼によって未然に防がれた。このまま手を引けば、葵冬馬、井上準、榊原小雪はこれまで通りの生活を送れる。

竜兵らとてそれは同じだ。しかし、1度交わした約束を反故にする。そんな行いを竜兵が認めると思えなかったのだ。

無論このように正面から謝罪する必要はなかった。

葵冬馬ならば板垣らを納得させる様々な方便をいくつも用意できた。現に井上準はそれを強く推奨していた。

危険だと。正面からの謝罪など、なにをされるかわからないと。

今この時も頭を下げる葵冬馬のその後ろで、井上準は臨戦態勢をとっている。竜兵が拳の1つでも振り上げれば決死の覚悟で飛び込んでくるのだろう。

その隣に控える少女、榊原小雪も似たようなものだ。

 

3名を冷めた目で眺めながら、竜兵はもう1度、マロードと呼ばれた男に視線を落とす。

 

「言いたいことはわかったよ。祭りはやらねえ。金も払われねえ。それでいいな?」

 

「はい。しかし私がこのようなことを言うのもおかしいですが、それでいいのですか?」

 

「いいわけねえだろ」

 

特に金は困る。

板垣家族は亜巳以外、定期的な収入がない。九鬼が我が物顔で親不孝通りを荒らし回っている今、まさかそこら辺の人間を血祭りに上げて金品を強奪するわけにも行くまい。

 

「いいわけない。つまり貴方は私を許さないと?」

 

「だから言ったろ。気にしてはいねえ。さっきのは困るって意味だよ」

 

竜兵はマロードの表情を読む。

 

「なんだ、許してもらいたくなかったのか?」

 

「それは……いえ、どうなんでしょう。自分でも分かりません」

 

「だったらこの話、亜巳姉か天にでもするんだな。サックリぶち殺してくれるさ」

 

金の支払いがないと言ったら亜巳が、暴れられないと言ったら天がおそらく怒り狂うだろう。辰子はそもそも事態をよく分かってないだろうし、釈迦堂に至ってはくだらないと吐き捨てて、初めから乗り気ではなかった。

 

「私は貴方を誤解していたのかもしれません。てっきり暴力を何よりも好む方だと」

 

「見境ないわけでもねえよ」

 

その理屈なら竜兵は今頃川神院あたりに殴り込みでもかけているはずだ。

 

「アンタに付いていこうと思ったのは、なんか、どうにかしてくれるんじゃねえかと思っただけだよ」

 

なにかとは? 訊ねる葵。

自分でもよくわからねえと竜兵は苦笑した。

 

強いていうなら暴力の先、その到達点。

父が姉を殴り殺してから、付いて回った竜兵の違和感。

暴虐の果てを、竜兵は見てみたかったのだ。

 

とはいえ竜兵も半ば諦めている分、落胆は大きいものではない。

 

「釈迦堂のオッサンの話じゃ、俺は社会様に嫌われているらしいからな。まあよくいる爪弾き者だ、珍しくも何ともない」

 

そして、葵冬馬は社会を嫌い。しかし、社会には嫌われていなかった。だから帰れる、引き返せる。

竜兵とは、違う。

 

3人はもう一度だけ頭を下げて、今度こそ竜兵の前から姿を消した。

多分もう二度と会うこともないだろう。

 

去っていく背中。

 

なぜか、

その後ろ姿が姉と重なる。

 

 

変形した顔の姉。

彼女の人生は勝手に終わった。

 

 

変貌していく姉の背中。

稼がなくてはと心を削って社会に呑まれた。

 

 

「だから」

 

それは意識せずに放たれた。

誰に聞かせるわけでもなく、

 

「気にしてねえって言ってんだろうが」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いいえ、貴方は気にするべきだ。気にかけるべきです、自分の振る舞いを、ね。私の母もよく言っていましたから」

 

場違いにも、気軽に、弾むような足取りでその男は現れた。

 

殺そう、竜兵は決めた。素早く、ともすれば昆虫めいた仕草でもって、感情ではなく殆ど反射で相対する男の殺害を決定した。

理由は後から付ければいい。強いて言うなら癪に障るほど間が悪かった。

 

「なるほど」

 

殺意に濡れた眼差しを受けて尚、桐山鯉は苦笑する。

これは駄目だと。手遅れであると。街の不良として扱っていい存在ではないと。

強さとかそんなことを論じているのではない。板垣竜兵はなんの躊躇もなく初見のこちらを殺しにかかろうとしている。平和な、治安の優れたこの国でそれがどれだけ異常極まる心理傾向であることか。

 

 

見方によってかの武神、川神百代より危険な存在である。

確かに彼女は最強の名を欲しいままにし、桐山とておそらく指一本触れることすら敵わぬだろうが、それでも殺意をもって拳を握ったりはしないだろう。

殴ったら死んだ。

殺すために殴る。

結果は同じでも相手が受ける重圧は別格とも言える差があった。

 

暴虐の眼差しを受けても桐山は平素の様子を崩さない。

身も蓋もないがこの気配には慣れている。暗殺者や傭兵が同僚なのだ。血の匂いが多少強く香ったとして、今さらそれに酔うなど有り得る筈もなかった。

 

「板垣竜兵。更正プログラム対象者ですね。どうでしょう、大人しくしてくださるならこちらも手間がないのですが」

 

「更正? なんの為の更正だよ、色男」

 

「もちろん、全うな社会復帰というような意味合いですよ」

 

社会復帰。

ああ、またそれか。

 

「――ハッ!」

 

これ以上ない撃鉄を落とされ、竜兵は燕尾服に肉薄する。

さながら豹だ。しなやかでありながら力強い。滲み出る野性味はなんの武術も修めていない証左だろう。身体機能と経験値のみを絶対の武器として盲信し、竜兵は顔面目掛けて拳を奮う。

桐山は眉を潜めた。流石にこれほどの運動能力は想定外である。勿論手に余るには程遠いものの、一介の不良の顔役が有していい武力ではない。

 

危なげなく回避してから顎を、狙おうとしてこめかみに裏拳で追撃。全力には遠く及ばない、撫でるような一撃だが、街の喧嘩自慢程度ならば軽々意識を飛ばすだろう。

見た目通りの打たれ強さ、頑丈さを兼ね備える竜兵はほんの数瞬も硬直することなく次の行動に移る。反撃されてなどいないと言わんばかりの滑らかさで、拳を振り抜いたままの桐山の首元を潰さんとする。

 

これといった焦りはない。振り抜いた左の裏拳。引き戻そうとせず、勢いはそのままに左半回転し、右の掌底を一撃目と全く同じ箇所に打ち込む。

 

「おやおや」

 

だが、竜兵はまるで止まらなかった。

通常、反撃を食らえば人間の身体は何かしらの硬直をみせるのものだ。格闘技、特にボクシングのジャブなどは威力ではなくそうした硬直を狙って放たれる場合も多い。しかしそうした人間の生理現象など知ったことかと言わんばかりに桐山の喉に魔手が伸びる。流石に僅かも止まらないのは予想外だった。

 

とは言えやはり、現実は甘くない。

竜兵の一撃が届く前に、桐山は三撃目を叩き込めるだけの速度差がある。

 

「……っ!」

 

さしもの竜兵も脇の下に蹴りを入れられては無反応というわけにもいかない。それでも当初、首に向けていた拳を振り抜いたのは驚嘆に値するが、次の動きに直ぐ様繋げる、といった芸当は不可能だった。

 

桐山は距離を取らんとする竜兵に対し、無慈悲に距離をつめて畳み掛ける、といったことも十分可能だったが、それをせず、

 

「頭は冷えましたか? 遊びはここまでにした方が、大きな怪我をすることもないかと思いますが」

 

再度降伏勧告を行った。

 

「なにほざいてやがる。まだまだ始まったばかりじゃなえか」

 

歯を剥き出しにして吠える竜兵。

とても人間のする表情ではないが、伺う限り、降伏勧告は逆効果だったとみえる。

気性を考慮すればおそらくそうであろうとは桐山自身想定していたか、これは彼の温情だった。

 

この板垣竜兵という男。無鉄砲に見えて、防御は中々目を見張るものがある。

勿論それは、あくまでも素人の中でという域を出ないものの、拳を振り抜いた時に肩を入れて顎を守るなど、最低限、意識を刈られる、脳に直接響く急所は守るだけの心得はあるようだった。

そうなるとあとは絞め技くらいしか、大きな怪我をせず取り押さえる方法は残されていないことになる。

竜兵の腕力は伊達ではない。出来ることなら組み合いたくない、というのが桐山の感触であり、よって、

 

「今辞めないと、正直、かなり痛い目みると思いますよ?」

 

ここからは本当にただ痛いだけだぞ、と笑顔のままに放言する。

別にどちらでもよかった。

人材豊かな九鬼従者部隊の中で街の浄化を主導するのが桐山なのは戦闘能力を評価されただけではない。シンプルに性格的に向いているのだ。

物腰こそ穏和であるが内心は正反対。

殺害こそ視野に入れていないが、この場で竜兵が一生ものの傷を負ったとしても気にも止めるまい。

 

「オイタが嫌で喧嘩が出来るかよアホ」

 

竜兵はそうした桐山の内心を正確に理解しつつ、彼我の戦力差を完璧に把握して尚、かかってこいと手招いた。

 

 

 

 

 

真夜中。

肉を打つ音。骨が砕ける音。自分が壊れる音が木霊する。

桐山の宣言通り、竜兵は毎秒毎秒破壊されていく。

笑える。

竜兵は本当に何も出来ない。

全身全霊、全力全開で向かっていっても、余裕綽々といった風情で反撃される。

不快さはなかった。大体、このような結末になることくらい事前にわかっていたことだ。以前、釈迦堂刑部に死ぬ寸前まで追い込まれた経験から、自分より強い人間というのが何となく把握できるようになってきた。

 

瞼が切れた。

 

それに、こんな風に一方的に壊されるのは何も釈迦堂刑部が初めてというわけではない。

最古の記憶は父親だった。

よく、こんな風に父親に痛め付けられたものだ。物心付く前から暴威に晒されていたものだから、自然と、本当にまずい攻撃は防ぐという生き汚さを身に付けることが出来た。

 

鼻が潰れた。

 

思考が徐々に漂白されていく。

これだけ殴られ、蹴られれば当然だ。

自分の役割はこれだと思った。何も出来ない子供だったけど、男の子は、一人だけだったから。

痛かったし、苦しかったし、辞めてほしかったし、何よりそう、怖かった。

それでも、最後まで泣かなかったのは、それ以上に誇らしかったから。

何も出来ない子供だけど、けれども自分は男の子。

やるならそう、やればいい。歪な形ではあるけれど、これが竜兵のやり方だ。

彼にとってはこれこそが、家族を守る唯一の方法。

 

膝を付いた。

 

無様だけど、自分は守れると思ってて。

それがいつまでも続くと思ってて。

姉や妹に、痛い思いなんてしてほしくなかったから。

例え死んでも、これでいいと胸を張った。

だから。

姉が、自分を守ろうとしたことになんて気が付かなくて、

結局、結局、自分は結局、弱かった。

誰を守れていたんだろう。

何を誇っていたんだろう。

駄目だよ。姉さんは、女の子なんだから。

それは、自分の役目なのに、

――父さん、父さん。どうしてこんな。

含み笑って、人の顔した悪魔が答える。

――意味なんか、ねえよ。

 

 

そう意味なんてない。

意味なんて分からない。

自分が生きてるこの社会(物語)は、一から十まで奇々怪々。

 

気を抜けば、息の仕方さえ分からなくなる程の複雑さ。

 

 

地面が近い。

 

竜兵は、不出来な頭で考える。

一体全体誰が悪い?

この正体不明の違和感は、何をどうすればかき消える?

このやり場のない怒りには、どんな獲物が相応しい?

 

鼓膜が破れた。

視界は暗く、

限界は間近。

 

胸を熱くする番狂わせなど起こるはずもなく順当に、竜兵は意識を手放した。

 

 

 

△△△

 

終わってしまった物語の続きを読み聞かせてくれるのは誰だろう。

 

釈迦堂刑部ではなかった。

葵冬馬でもなかった。

では、誰が?

 

 

 

 

 

 

「あ、おきたー?」

 

意識が間延びした声に釣り上げられると同時、竜兵を襲ったのは息苦しさだった。

呼吸を手間に感じるほどの苦痛。

あれだけ殴られ蹴られればごく自然のことだった。

むしろ不自然なのは敗れた自分がなぜ、自宅にいるのかということだ。桐山の口振りを信じるならてっきり自分は九鬼の施設で更正に向けて洗脳教育でも施されるものだとばかり考えていたのだが。

 

それとも、目の前の姉、板垣辰子が介入してくれたのだろうか。

なるほど確かに辰子の腕力なら桐山を叩き伏せることも可能だろうがはたして、

 

「ああ、私じゃないよー。リュウちゃんをここまで運んでくれた人がいたの。もう、ボロボロだからビックリしたよー」

 

誰だ?

なんだろう、予感があった。

 

「落ち着いたらお礼言わなきゃだねー。これ、その子の名刺、預かったからー」

 

運命めいたものの、予感。

 

「『ふでより』だってー。変な名前だよねー」

 

名刺は酷くシンプルだった。

職業と氏名のみ。

 

画家。

絵無筆依。

 

こうして出会った。

 

 

 



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