聖杯は聖母の夢をみるか (志須)
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聖杯は聖母の夢をみるか

ガリィ追悼記念(嘘)、ガリマリです。殺伐百合です。
時間軸は6話後~7話前のアガートラーム修復完了後のあたりのIFです。
捏造設定注意、若干の胸糞注意。既存拙作との繋がりなし。
(初出:2015/09/06)(他サイトと同時投稿です)




 

 

 

 薄造りのガラス細工が儚く砕け散るような音を立てて、白銀の鎧は粉々になった。

 破片は白い光の粒子となってマリアの身体から舞い離れ、宙へ透けるように消えてゆく。

 身体は鉛のように重い。それでも、立ち上がらなくてはならない。

 埋まっている背をコンテナの側壁から離し、身体を起こす。上体を前に折り、前のめりになって両手を地に衝こうとした、次の瞬間。

 逆戻された背がコンテナの側壁に打ち付けられて、息が詰まった。

「っ、ぅ……!」

 苦痛で眇められた視界に見えたものは。

「いい加減にしなよ……!」

 掴んだ両肩でマリアをコンテナへ抑え付けながら、苛立ちを満面に湛えてこちらを睨み据えているガリィだった。

 

 東京湾、政府保有の港湾区域にある海上コンテナの集積場。離れたところで黒煙を上げている炎の塊は、マリアが数分前まで運転していたセダンだったものだ。本部から市街へ単身で買い物に出かけ、マリアはその帰りにガリィから強襲を受けた。

 敵の首魁だったキャロルは、イグナイトモジュールの起動に成功した響たちによって先日倒された。脅威が潰えたわけではないとエルフナインは警告を発し、だが自動人形たちの消息も動向も掴めないとなると、こうして後手に回らざるを得ないのが現状だった。

 何故、本部ではなくそこへ至るルート上にあるこのコンテナ集積場なのか。

 何故、マリアが単独でいるところへ狙い澄ましたように現れたのか。

 意図は全く不明、疑問は尽きなかったが、身を守るためにも応戦しないわけにはいかなかった。

 本部には装者が誰もいない。学生の装者たちは学院へ、翼は音楽関係の取材を受けるため、それぞれ都心に出払っている。

 さらに悪いことに、運転中を襲われたためマリアはLiNKERを接種する余裕がなかった。

 現在S.O.N.G.が保有しているLiNKERは旧二課の遺物、改良が施される前の旧型『model_K』である。身体への負荷が大きいため、常用して常に効果を保っておくことはできず、臨戦時の直前接種で運用されているが、携帯していたLiNKERは手荷物や通信機と一緒に炎上する車の中だ。

 他の装者の応援が来るまで牽制に徹するのが最善手と判断したものの、ガリィの攻撃はアルカノイズの比ではなく巧妙かつ強力だった。

 修復が終わったばかりのアガートラームをどうにか纏ったものの、LiNKER未接種の低適合係数で繰り出すこちらの攻撃は軽くいなされ、打ち合ううちに強烈な一撃をくらって、コンテナに叩き込まれた後に高ダメージと相殺されたギアが強制解除されてしまい――今に至る。

 

「ちょっと撫でただけですぐヘタレるとか、ほんっとあり得ないんだけど!? どうしようもないポンコツね、ちょっと危機感が足りないんじゃないの?」

 目の前で浴びせられる罵倒に睨み返す裏で、生身で人形に接近されている危険なこの現状を打破する術はないかとマリアは頭を巡らせる。

 オートスコアラーはアルカノイズのように出現反応を感知できない。アガートラームのアウフヴァッヘン波を本部が感知していれば――

「このまま手ぶらで帰れば、アイツらに何の嫌味を言われるか分かったもんじゃないってのに……!」

「っ……!」

 ギリ、とガリィの指が肩に食い込む。マリアの思考を中断させるには十分な痛みだった。

 引き剥がそうとガリィの腕を掴むも、ギアを纏うエネルギーを使い果たしたあおりか、血涙もなく身体のダメージは軽微なもののひどい疲労感に見舞われていてろくに力が入らない。

 だが、痛みはふいに止んだ。

「そうだ。いいことを思いついた」

 苛立ちの表情から打って変わって、ガリィは可愛らしい少女人形然とした微笑みを浮かべた。

 陶器のようにひんやりした象牙色の指が、うやうやしい仕草でマリアの顎を捉える。

「出来の悪い子にはお仕置きが必要よね? 手土産を頂くついでに、次からちゃんと唄えるよう、危機感ってものをアンタに植え付けてあげる」

 一瞬で、今度は底意地の悪い不敵な笑みへと変わった。

 マリアの頭の中で警鐘が打ち鳴らされる。だがマリアが行動の予測を付けるより早く、ガリィは素早く距離を詰めてきてマリアに唇を重ねた。

 しまったと思う頃には遅かった。虚を衝かれたマリアの歯列を割り、ガリィの舌は既に口腔に滑り込んでいた。

 異物の嫌悪感と危機察知で身体が反射的に動く。噛み切らんばかりの勢いで歯が舌に立てられるが、硬い弾力の前にまるで敵わない。その一方で柔軟性をも持ち合わせていて、噛み締めをものともせずガリィの舌は口腔を自由にしていた。

 表面は無機質に滑らか。かつ生物の舌と同じに唾液に相当するような無味の液体に塗れ、ぬめりを帯びているせいで、歯を立てる程度ではその動きを止めることは出来そうになかった。

「ふ、っ!」

 身を捩って逃れようとしても、身体が収まっているひしゃげたコンテナの窪みがそれを阻害する。

 力の入らない身体なりに渾身の力で押しのけようとしても、ガリィの小柄な身体はびくともしない。マリアの片膝の上に載り、顎を捉え、片肩を抑えているガリィは、軽そうな見た目に反してあり得ない加重でマリアを抑え付けていた。

 物理法則を無視する、異端技術による超常脅威。

 その発現の一つがこの加重であり、そして他方は――『想い出』の強奪。

 自動人形の口接けは、死の接吻。

 どういう機序によるものか未だ解明されていないが、自動人形から『想い出』を強制採取された人間は死に至ることが確認されている。

 死への恐怖が無いわけではない。だがそれ以上に、亡き妹のセレナから力を継いで、継いだ遺志を果たすことなく命を散らすことの方が、マリアにとってよほど避けたい運命だった。

 ぎゅっと目を瞑り、不甲斐ない自分に内心で歯噛みする。

 こんなところで、こんなことで、誰も何も守ることができずに潰えていくのが最後だなんて――

(安心して、殺したりはしないわ。『想い出』を少し頂くだけだから)

 からかうような口調の、鈴を転がすようなガリィの声が聞こえた。

 いや。

 頭の中に響いた。

(念話!?)

(近いけど違う。粘膜を介した電気信号でアンタの脳に直接話かけてんの。と同時にアンタの考えてることもこっちには全部分かる。便利でしょ? もっとも、こっちの思考はわたしがアンタに読み取れる信号にしない限り、アンタには伝わらないけどね)

 目を眇めたマリアの、その胸中に息を呑むような動揺が走る。それを感じ取ってか、ふふふというガリィの笑いの気配が頭の中でこだました。

(大事な『想い出』の一つや二つでも奪われれば、さすがに危機感持つでしょ)

(大事な『想い出』……!?)

(『想い出』を一部だけ奪うなんて器用なこと、できるのはわたしだけなんだからありがたく思いなさいよね。まずは『想い出』の構造の把握から。探らせてもらうわよ)

「っ、んぅっ!?」

 言うが早いか、それまでさほど動きを見せていなかったガリィの舌が猛然と蠢き始めた。自在に動き、内側を這い回って探り始める。

 『想い出』と、口腔を探ることに何の関係があるのか。エルフナインが言うには『想い出』とは脳内の電気信号であるとのことだった。生体電流が関係していて、粘膜の接触面や接触面積を様々に変えて得るフィードバックが『想い出』の構造の把握に必要なのかもしれない――頭の隅で冷静にそう考察する一方で、口腔を異物に探られる感覚にマリアの身体は竦んでいた。

 おや? と首を傾げるようなガリィの気配が伝わってくる。口が横に、にいっと伸ばされる気配も一緒に。

(あらあら何かしらこのウブい反応は。もしかして、こういうコトされるの初めて?)

(……!)

 答える気など、さらさら無い。だが。

(ああ、言わなくても分かるから。初めてなのよねー?)

(~~~ッ!)

 ことさらに語尾を上げた、にやにやした笑みが容易く想像できる下卑た物言い。思考を見透かした上でからかうように言うガリィに羞恥と屈辱で目の下が頬が熱くなる。

(ふふふふふ)

 心底愉快そうに笑った後で、

(忘れられないファーストキスにしてあげる)

 言うや否や、ガリィは深く口接けてきた。

「っ、んんっ……!」

 更に深くまで侵入してこようとする舌に再び歯を立てるが、先刻同様に効果が無い。

 逃れようと退いた頭の後ろは既にコンテナの側壁に行き着いていてそれ以上退がれず、逃げ場がなくなることで却ってより深く探ろうとするガリィの助けになってしまっていた。

 顔を振ろうとするも、顎を捉えているガリィ手指がそれを許さない。

 舌で押し返そうとしたのをぬめりを利用されて躱され、すれ違うように掠めたのを逆手に取って絡め取られてしまう。ぬるぬると擦り合わされる度に、ぞくりとしたものが顎奥から後頭にかけてを走り抜けていく。それを嫌って逃げれば、それを幸いとしてガリィは上顎や歯列の裏に舌を這わせてきて、舌を擦り合わせるのとはまた別の、けれど同じ悪寒に似た感覚をもたらす刺激を与えてくる。

 他者のものに口腔を探られるとそういう感覚が起こりうるということは知識としては知っていた。だが実際に味わわされると、ここまでやり過ごせない感覚だとは思ってもいなくて、マリアは為す術なく翻弄されるしかなかった。

 感覚が沸き起こる箇所を、ガリィは的確に探し当ててくる。頭の中を疑念が過る。思考だけでなく、感覚までも把握されているのではないか――

(その通り。五感もこっちに筒抜けだから、反応を隠そうとしても無駄よ?)

 思考を読んだらしいガリィが愉快そうに教えてきた。それならと、マリアは眇めていた目をきつく瞑った。感覚そのものをどうにか堪えようとして。

 最初は陶器のように温度が無かったガリィの唇と舌は、マリアの体温が移って今や人肌並の生温い温度にまでなっていた。温度差が馴染んだせいで一層、感触が生々しく感じられて仕方がない。

 その舌に、奥に逃げていたところを、執拗に追いかけられてまた絡ませられた。尖らせた舌先で、舌裏をなぞられる。舌の付け根を探られる。怯んだ隙に悠々と表面を舐められる。再び奥に逃げるも、またすぐに絡め取られる。

 沸き起こされる悪寒に似た感覚はひどくなる一方で、ぞくりとしたものが走る先は背筋にまで拡大していた。視覚を閉ざすことで他の触覚、聴覚が鋭敏になって逆効果になることに、マリアは気が付いていなかった。

(っ……! ……!)

(思考の言語化が追いついてないわよ?)

 頭の中に響くからかうような調子の声に、目の奥がかっと熱くなる。

 頬が紅潮しているのが自分でも分かる。それは感覚に翻弄されているせいばかりではなく、しぜん呼吸を止めがちになるせいで、息苦しさを覚えるせいもあった。

 息苦しさが刺激のもたらす感覚を上回る寸前で、ふいに唇が離される。

「は、ふっ……!」

 マリアが一呼吸つくと、ガリィはすぐに顔をはすかいに違えて再び深く塞いできた。まるで僅かな時間も休ませる気はないと言いたげに。

 口腔を再び蹂躙される。再び息が苦しくなると、また頃合いを見計らったように唇が離されて息継ぎが促される。

 思考と感覚の把握だけでなく呼吸すら管理されているようで、屈辱で胸の内がじりじりと焦がされる思いがした。けれどもその悔しさは力に転化されない。齎される感覚によってことごとく阻まれてしまう。

 ギアの強制解除に伴う疲労感は抜けているのに、身体に力が篭められない。ぞくりとしたものが背筋を撫で下ろすたび腕から力が抜け、力を篭めなおしたところで再び感覚に翻弄されて力が抜ける。それを繰り返すうち、腕にも顎にも力が入りにくくなっていた。

 内側を蹂躙され、絡め取られ、擦り付けられするうち、意識には靄がかかり始めていく。

 ろくに歯を立てることもできなく、押し退けようとしてガリィの肩と腕に添えていた手は、掴んでいるのか縋っているのか既に判然としない。

 敵に泣き言など毛頭言うつもりはなかった。けれど偽れない心情は、拒否からもはや懇願に近くなっていた。

(ふふふ、何も言えなくなっちゃうくらい悦かったのかしら?)

 倦怠で鈍くしか動かせないのを、絡め取られ弄ばれる中、頭を愉悦の波動がこだまする。

 把握してるくせにわざわざそれを言うのは、煽るための故意。

 内心で歯噛みする。きつく閉じた睫毛の内側に溜まる涙は羞恥と屈辱のせいばかりでないことを、他でもないマリア自身がわかっていた。

 そんなマリアの思念を読み取ってか満足気に、あるいは嘲弄するようにひと撫でして、ガリィの舌は動きを緩めた。

(構造解析かんりょー☆)

 弾むような声色の言葉を、霞が掛かる意識で受け止める。言葉の意味を咀嚼して、働きの鈍くなった思考が今に至る経緯を思い起こさせた。『想い出』の構造の把握、とガリィは言っていた。

(さて、どれにしようかしら? ランクが高いのはこの辺りね)

 頭の中を何かがすり抜けるような、得も知れぬぞわりとする感覚が沸き起こった。

 瞼の裏の暗闇に、ふと風景が浮かぶ。意図せず思い浮かべられたそれらには時間の流れがあるようで、映画のように勝手に再生されていった。

 その内容にマリアは目を見開く。

 瞼を閉じていなくても、映像は脳裏のスクリーンに映し出されて再生は止まない。

 それは、厳しさの奥に優しさと慈愛を秘めたナスターシャの隻眼の眼差しだった。

 または、白い部屋でどこか寂しさを思わせる微笑みを静かに湛えてるセレナの姿だった。

 悲しみを堪えながらも決意を滲ませた調と切歌の真剣な幼い顔。

 銃痕の夥しい廃屋で一つの毛布に共に包まるセレナの寝顔。

 生活の火に煤けた素朴な家でセレナと自分に童唄を教える老女の姿。

 これは――これが、『想い出』――?

 おそらく、そうだった。再生されるそれはいずれもマリアが感慨深く覚えている情景に違いなくて、ガリィが能力を操ってマリアに見せているのだろうと推測がついた。

(あら? 奥の奥に仕舞われてるこれは何かしら?)

 映し出された映像は、煤けたように黒く掠れていて判然としなかった。

(よく見えないわね。見えるようにして、っと……)

「っ、……っ」

 頭の奥を透ける手指で撫でられるような不快な感触が再び起きて、目を眇める。

 やがて脳裏で強制的に映し出された情景は、どこかの室内のものだった。

 穏やかな明かりの点いた、暖かい色に染まっているリビングと思しき部屋。調度品の影がちらちらと揺れるのは、暖炉の炎のせいと知れる。

 その暖炉の前の安楽椅子に、壮齢の男性が腰掛けていた。膝の上では、年の頃は三、四歳くらいだろうか、幼い少女が寝入っている。男性が少女を抱き上げて椅子を立つ。そして促すように、こちらに視線を送ってくる。

 ソファで自分の隣に座っていた女性も、膝に抱えていた編み物を脇に退けて腰を上げた。編む様子を隣でずっと眺めていたマリアもそろそろ眠かったから、丁度良かった。柔らかくて暖かい、優しい手に引かれてリビングを出る。

 幼い少女と一緒にベッドへ寝かしつけられる。ヘッドボードのランプの光に照らされて見えた壮齢の男女の顔には、大切な宝物を慈しむような表情が浮かんでいて――胸の奥の、魂に繋がる心の線が震えた。

 それは、思い出したくても思い出せなくなっていた、両親の顔だった。

 失いかけていた記憶。東欧で暮らしていた頃の、一家団欒の風景だった。

「ぅ、っ……!」

 眦から溢れた涙が頬を伝って流れ落ちる。

 二度と、見ることは叶わないと思っていた。

 忘れるという現象は大抵の場合、思い出せなくなるだけであり、記憶は完全に失われているということは少ないという。この場合も、時が経ち過ぎていて、その間に身の上に様々なことが起こり過ぎていて、思い出せなくなっていただけなのだろう。両親の記憶が自分の中から失われていなかったことが知れて、マリアは安堵した。

 だが。

 くっくっく、と。熱く震える琴線に冷水をかけるがごとく、嘲笑が頭の中を響いた。

(いいねいいねぇ、いーい反応するじゃない?)

 微笑む両親の情景が、スチール写真のように静止する。

(これに決ーめたっ)

 上等の品を探し当てでもしたかのような、弾むようなガリィの声音。

 決めた? 何を?

 ガリィの言葉が思い起こされる。

 ――大事な『想い出』の一つや二つでも奪われれば。

(やめろ……、やめて……!)

 静止画は霜が降りたように表面が白く曇り、厚みを増して氷が張り、

(いっただっきまーす♪)

 ぴしぴしと亀裂が入れられて。

 抵抗するよう硬く瞑られた目尻から涙が零れるのを他所に。

 漏らされるかすかな嗚咽すら逃すまいと一際深く口接けてくるその裏で。

(やめてぇぇええ――――!!)

 粉々に砕け散った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごちそうさま。これに懲りたら次こそはちゃんと唄ってよね、ハズレ装者」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……、……ア、……マリア! しっかりしろ、マリア!」

 気が付くと、翼がこちらを覗きこんでいた。深刻な、ともすれば悲痛そうな表情を浮かべて。

 膝立ちで傍らにいる翼は、身体に残る感触から、先程から肩を揺すっていたようだ。

 ライダース姿の翼の少し離れた後方に、停められているバイクが見える。他の装者に先んじて駆け付けてくれたのだろう。

 自分の両手は、地面にある。ひしゃげたコンテナの前で、膝を崩して座り込んでいた。

「どこか痛むのか? 怪我は?」

「それは、大丈夫……」

 身体の各所に意識を回し、自己診断した結果を伝える。

 それを聞くと翼はますます眉を顰め、悲痛そうな表情を強めた。

「ならば、何故泣いている」

 視線が地に落ちる。地に指が立つ。爪が瓦礫を抉る。

「……人形に、『想い出』を奪われた――」

 それは、とても大切な記憶のはずだった。

 失くしてはいけない『想い出』のはずだった。

 何を奪われたのか分からないというのに、膨大な喪失感に苛まれて、流れる涙はただただ止まらなかった。

 

 

  ◇

 

 

 チフォージュ・シャトー。

 水の台座への転移が完了すると、対角位置の台座からミカがさっそく話しかけてくる。

「今日もまた歌を奪えなかったみたいだナ?」

「うるさい! それ以上言うと『想い出』をもう分けてやらないわよ!」

「それは困るゾ!」

「それなら黙りな」

「ぶー!」

 頬を膨らませるミカを無視してさっさと台座の上でポーズを取り直し、ガリィはスリープに入る。

 ミカもまた休眠のポーズに入り、主の居ないシャトーに静寂が戻る。

 閉じた瞼の奥で、ガリィはマリアから奪った『想い出』を飴玉を転がすように反芻した。

 『想い出』を眺めながら、マリアの感触を思い返すと、胸に甘美なものが広がっていく。

 実に、美味だった。舌触りも、味も、極上の『想い出』だ。強奪の瞬間を思い返すと、身体の奥底からぞくぞくしたものが沸き起こってくる。

 この高揚はいかなるものだろう。今の胸の内の様相をそこらの詩人にでも語って聞かせたなら、仰々しい表現で恋とでも詠い上げてくれそうだ。

 この『想い出』を燃やしてしまうには惜し過ぎる。

 こちらの供給が必要なミカにはもちろん、例え主にでさえも、渡してしまいたくなくなる。

 主の命令は絶対だ。だが求められない報告は、する必要はない。

 ああ、早く。

 速く、疾く、捷く、はやく、ハ厄、ハヤク――壊されたい。

 アイツの歌で切り刻まれて、水の譜面にその旋律を刻みたい。

 自分の歌で世界が壊れていく様を眺めるアイツを、見るのが待ち遠しくて仕方がない。

 その時には既にこの身は塵と化しているだろうが、ガリィという電気信号はチフォージュ・シャトーに、あるいは主に宿ってそれを見届けるだろう。

 どんな顔をするのだろうか。

 どんな風に泣くのだろうか。

 時よ、早く至れ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ガリィに大事な想い出を強奪されて泣いちゃうマリアさんとか読みたい…読みたくない? というわけで自給自足してみたものです。
人形に『想い出』を奪われた人間が死ぬのかどうかはまだ判明してませんのでご注意を。






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