満天に星屑を湛えた四月の夜空を仰ぎ見て、息を吐いた。やはりここは日本の北の果て、吐く息は春の暦になっても白い。
それでも頬を寒風に撫でられたことなど気にも留めず、零れ堕ちそうな星の煌めきを飽きることもなくしばらく眺めていると、ふと一頭の競走馬に出逢った日を思い出した。
あの仔馬が産まれたときも、こうやって星を眺めていた気がする。
なぜ仔馬の産まれた夜に星空を眺めていたのかといえば、本来の出産の予定日はいくらか先のはずだったし、さらに流星群のニュースと夜中の快晴を告げた天気予報のタッグに浮き足立った牧場の暇人たちによって、簡素な天体観測会が開かれていたためだ。
残念ながらメインイベントたる流星群による天体ショーを見物することは叶わなかったものの、折角だからと市販の星図を広げ、あれがあの星座だそれがあれだとみんなで星を見つけ星座を描いたあの時間は、とても楽しいものだったと記憶している。
その慎ましやかながら充実した思い出となった観測会もそろそろ御開きにしようかという頃合いに、一条の光が地平線へと長く延びたのを見た。
あぁ、ようやっと見えた、と思ったそのとき、牧場長の携帯がけたたましくなり響いたのだ。
――ふと、誰かの気配をすぐ背後に感じた。
「ちょうどこんな夜空のもとで、私は産まれたらしいな。覚えているか?」
涼やかながら凛とした女性の声が耳に届いた。初めて聞いた声のはずなのに、どうしてだろうか懐かしく感じてしまう。
しかしまだ振り向けなかった。
今まさにこの瞬間、一筋の流星が夜空を横切ったのを見てしまったからだ。
「忘れたことなんてないさ――」
ようやく声のした方へ向き直る。
目の前には見知らぬ美女がいた。
釣り気味の目は星屑を閉じ込めた宝玉のように煌めき、肌は象牙のように白く滑らか。鼻筋は高く整っており、形の良い唇を持った口許は何かを覚悟しているかのように引き締められている。
頭頂に馬のような耳を持ち腰からも馬のモノに似た尻尾を生やしていながらも、百人が百人とも美しいと認めるだろう容貌に豊かな黒鹿毛色の長髪をたたえたその姿を初めて一目見て、しかし初見であるはずの彼女が誰なのかすぐに分かった。
「――星の降る夜に産まれた仔は沢山いたけど、その中でダービーを獲ったのは君だけなんだから」
そう言うと目の前の美女は破顔して、先程の固く険しい表情から一転した眩しい笑顔を見せてくる。
「希代の名馬生産者も、ダービーだけはそう何度も獲れないか!」
「勘違いしないでくれよ、ダービーは何度も獲ったさ」
とんでもない言い分に少々むかっ腹が立った。訂正してやろう。
「『流星の夜』に産まれた仔馬のなかで、ダービー馬になれたのは未だに君だけだってことだよ」
「悪い悪い、そうヘソを曲げないでくれ」
メッシュのように一房だけ白く染まった前髪を揺らしながら、今なお美女は堪えきれない笑いを漏らしていた。そんなに可笑しかったのだろうか。
ならば少し反撃してやろう。
「しかし、リーディングサイアーも獲った大種牡馬殿がなんでよりにもよって人間、しかも女性になってるんだい?」
「む、仕方ないだろう。生まれ変わったと思ったらこんな姿だったんだ」
おぉ、態度が一変した。今度はむくれたらしい。
黙っていれば絶世の美女とも形容できるのに、コロコロと表情を変える様は初見のイメージとは対極的でなんとも子供っぽい。
不本意ではないと憤慨しているようだが、漫画かアニメのように頬を膨らませるその姿に、優秀な種牡馬の証たるリーディングサイアーを幾度となく受賞した大種牡馬の威厳は存在しなかった。
「恨むなら神様を恨むといい。私は恨んでいる」
苛立ちを隠せないのかシャドーボクシングのように右腕を振る。
その姿が機嫌を損ねるといつもぐずるように前足で前掻きを繰り返していた馬時代の“彼”と重なり、やはり彼女は敬愛すべき我がダービー馬なのだと理解した。
頬が弛んでしまう。
「む、何がおかしい。やはりこの格好はそんなに可笑しいのか……」
「ちがうちがう。大丈夫、可笑しくともなんともない」
流石に自分の姿を笑いものにされたのかと落ち込んでしまったようだ。そうではないんだけど。
そんなわけがあるものか。
「君と、言葉を交わせたのが嬉したかったんだ。馬の言葉は話すことも理解することもできなかったから」
人間と馬は会話ができない。互いの行動を見て様子を探り合うのが精一杯だ。
それ故にどんな姿だろうと、こうして人の言葉を話すうえに意思の疎通が出来ることは――憤慨している当事者には誠に申し訳ないが――神様には感謝してもしきれないほどの幸運だった。
その言葉で美女の機嫌は多少持ち直したのか、先程まで膨れていた頬がすぼみ、今度は困ったような様子の苦笑いが顔面を支配する。
「それほどまでに気にかけてくれていたなんて、なかなか照れるじゃないか」
「気にかけたくなるほどの逸材だったんだ。競馬史に名を遺せたはずなのに、遺せなかったことを後悔したくなるほどの」
「名は遺せたさ。ダービーに3歳年度代表馬、海外で勝ち取った二つ目のG1」
彼女の功績が、彼女の口から直々に述べられていく。確かに素晴らしい成績だといえるだろう。
けれど、あのときはこれでもまだ足りないと思っていた。そう口にしようとした瞬間、彼女の黒い瞳が発言を制するように細められる。
「種牡馬になってからは優秀な産駒たちにも恵まれ、お前の言うとおりリーディングサイアーにもなった。産駒の中から、ダービーを獲ったどころか私を超えて無傷で三冠を勝ち獲った牝馬まで出た。私の名は歴史に遺せなくとも、私の血を継いだ種牡馬だっている」
睨み付けられるように細められていた彼女の目元が緩む。
「これ以上を望みようがないほどの幸運だ。間違いない。私の生をここまで煌めいたものにしたのは、間違いなくお前だ。お前たちだ」
まるで慰めるように、励ますように。彼女は優しく、力強く言葉を紡いでいく。
「私は私のレースを走りきって、無事に燃え尽きた。もう後悔はない」
そして彼女は満面に純粋な眩しい笑みを浮かべた。
「また走る機会を得られたのは偶然だろうさ」
輝くほどの彼女の笑みを真正面に受けて、どこかに抱え込んでいた重石が溶けてなくなったような感覚がした。
――サラブレッドという馬は基本、産まれる前から将来を決められ、産まれたあとは唯速く走ることだけを求められ育てられる。
さらに彼女のように誰よりも速く走り結果を残せたとしても、その先に栄光が待っているとは限らない。
そこまでしているのだ、馬たちから恨み千万を向けられているだろうかと思っていたが彼女は恨み言のひとつも言わず、むしろ感謝までされた。
「……ごめん」
「私は幸せ者だったんだ、何を謝る必要がある」
サラブレッド時代から聡明で賢い馬だと思っていたが、自分の存在意義を自覚した上で『自分にとっての幸せ』を見出だしていたとは本当に恐れ入る。
「参ったな……こんなに素晴らしいサラブレッドだったなんて」
「気にするなとさっき言ったばかりだろう」
まったく、と呆れたような溜め息をついて、彼女は人指し指を立てた。
「ところで、私は今世でも走れるらしい」
「え、うん」
唐突な話題転換に困惑する。ただまぁ、五体満足な人の姿をしているのなら余程のことがない限り走れはするだろう。
そんなことを思っているのを察したのか、無理解を指摘するように彼女の首が横に振られた。
「違う違う。『ダービー』だ。私は“ウマ娘”だぞ」
その言葉に、ようやく合点がいった。
「あぁ、トゥインクル・シリーズ!」
「まったく。ウマ娘が「走る」と言ったら他に何があるというんだ」
そう言うと顰めっ面をして首を上下に振り、尾をバサバサと揺らす。気付きの遅さにだいぶご立腹のようすだが、これは怒られても仕方ないか。
ウマ娘によって競われる国民的イベントレース、“トゥインクル・シリーズ”。
言ってしまえば前世の競馬だ。言葉通り『馬並み』の体力と走力を誇るウマ娘たちが、自らの誇りとたった数分間の闘いのために費やした月日、そして彼女たちを応援する人々の夢を賭けて走り抜ける、夢舞台。
彼女もそれに参戦するということか。これは応援せずにはいられない。
「この世でも勝てるように祈ってるよ」
「無論だ、私は勝つ。ダービーだけじゃない。国内だろうと海外だろうと、いくらでも勝ってみせる」
三冠だって目じゃない、と意気揚々と気炎を吐く彼女の微笑ましさに頬を緩ませたその瞬間。
「だからお前にも手伝ってもらう」
「……へ?」
とんでもない発言が飛んできた。
手伝えと言ったのか、彼女は。競走馬の調教師でもなければ運動競技の指導者でもない、サラブレッドの生産をしていた前世を持っているだけの人間が、これからの競走人生に必要だと。
なんの冗談だろうか。
「どう考えても手伝えることなんてないと思うんだけど」
馬はデリケートな生き物だ。下手に触れるとそれだけでストレスを抱え込んでしまい、体調を崩すこともある。レース出走のためにコンディションを万全にする必要のある競走馬なら、なおさら素人が関与する隙などなく、競走馬に関われたことと言えばせいぜいが若い頃、牧場も小さかったので牧場長の手伝いも兼ねて厩舎の掃除や決められた量の餌を食わせていたくらいか。
“彼”は気が荒い方ではあったが人懐こくもあり、人からの接触によってもたらされるストレスは少ないということで触れあう機会は多い方だったが、かといって特別なにかをしてやっていたわけでもないのも確かなのだ。
「わかってないな」
彼女は舌打ちを数回鳴らすと共に、右手の人指し指を左右に振った。
「私が必要だというからにはお前が必要なのだ」
「その根拠がどこにあるのか聞いて良い?」
傲岸不遜ともいうべき非論理的な理屈でスカウトしてくる彼女の言葉に、不安を感じてしまう。次に来るのは非論理的な根拠なのだろうかと身構えていると、彼女は太陽のように明るい笑みを浮かべて口を開いた。
「何故ならお前が私の馬主だったからだ」
あっけらかんと話す彼女の発言は、残念ながら予想していたとおり論理的なものとは言えないものだった。
確かに彼女――もとい“彼”の馬主ではあった。だが、だからといって今生の彼女にもしてやれる何かが出来るわけではないだろう。馬主として馬にしてやれることといったら、勝てるように惜しみ無くお金をつぎ込むことくらいだ。
「……まさかお金目当て?」
「んなわけあるか!」
困惑が多くを支配する頭の中で湧き出た疑問を投げ掛けると、噛みつくように食い気味で否定してきた。よほど心外だったのだろうか、また頬が脹れている。
その姿に安堵するが、困惑は減ることもなく増すばかりだ。
「お前が後顧の憂いを断ってくれる存在だからこうして頼んでいるというのに、なんて言いぐさだ」
彼女の首が何度も頷く。自分の言葉によほどの自信があるらしい。当の頼まれた本人には自信がないのに。
そんな元馬主の思いも気にせず、彼女の言葉は続く。
「今の私は、今のところ産まれたばかりの仔馬のようなものだ。所属するチームも指導を仰ぐトレーナーも決まってない」
「ということは、トレセン学園にはまだ入学してないの?」
「そうだな。入学は来年頃になる」
トゥインクル・シリーズに出走するウマ娘の殆んどが所属するトレセン学園。名前のとおりトレーニングセンターとほぼ同じ役割を担うこの学園は、ウマ娘たちの登竜門として広く知られている。
といっても詳細はよくわからない。前世は馬に縁があったが、今世はウマ娘とは殆んど縁がなく盛り上がるトゥインクル・シリーズを傍目から見る存在となっていたため、大まかな概要しか知ろうとしなかったからだ。
「勉強とかしなくていいの?」
「聞かれるのは一般教養と競馬を知っていれば答えられることばかりだからな。体力テストもあるが、当然楽勝だ。元ダービー馬を舐めるなよ」
「失礼しました」
余裕綽々らしい。これで滑ったりしたら色々おもしろ――残念なのだが、本当に楽勝で合格するんだろうな。
「話を戻そう」
少しばかり逸れていた話題が、彼女によって本筋に戻される。
「トレセン学園に入れば私はチームに所属し、トレーナーの元で練習に励みレースに出走していくだろう。けれど、それだけだと多分勝てない」
すっ、と彼女が目線を合わせてくる。逸らしがたい眼力を放つその目は、決して逃げを許してくれない。
大人しく続きを待つことにした。
「私が私自身のためにレースを頑張っても、きっと私は勝てない。ダービーどころか重賞も怪しいだろうな」
強く放たれていた目線が、一瞬だけ緩んだ。その目が何処か頼りなく見えたのは気のせいだろうか。
その一瞬緩んだ目線もすぐさま強いものに戻ってしまった。
「前世で栄光を味わっているからなのか、私は自分の栄誉にはあまり興味がなくてね。幼い頃からトレーニングに集中できなかったんだ。しかしこのままでは私は凡馬に成り下がってしまう」
それだけは許せない、と彼女は語気を強める。
「ただの馬で、ウマ娘で終わりたくないという思いをずっと抱いてきた。漠然とだったが、絶対にダービーを獲る、それ以上の大レースをいくつも制してやる、という思いも抱き続けてもきた。なのに体に力が入らないんだ。姉妹や同世代の娘たちと駆け競べをしても、一度も勝ったことがなかった」
滔々と語っていく。
「最初は元ダービー馬という記憶が慢心を呼んでいると思っていた。けれどそう思ったとき、私がどんな想いで走っていたのかを思い出したんだ」
彼女の目尻が、優しいものへと緩んだ。
「お前のためだよ、馬主さま。お前に勝利を捧げたくて走ってた。勝つたびに大喜びしてご飯を豪華にしてくれたお前に、負けても慰めるように首を撫でてくれたお前に、勝つ姿を見せたくて何度も走った」
苦笑いを浮かべた彼女の顔は、なぜだか泣きそうに見えた。
「私は先に逝った。その時も、お前は私の傍にいてくれた。いつもしてくれるように首を撫でて、何度も何度も、ありがとう、と言ってくれた」
彼女の言葉が詰まる。目に涙が浮かんでいるのも見えた。
その姿に目元に込み上げてくるものがあるが、彼女より先に泣くわけにはいかない。
「私の方こそありがとうと言いたかった。だから願ったんだ、お前に感謝の気持ちを伝えられるようになりたいと。そして、やっと会えた」
彼女の涙腺が決壊する。止めどなく溢れてくる涙が頬から零れ落ち、足元の青草に降りそそいでいく。
「ありがとう。あなたのおかげで、私は闘い抜けた。あなたが傍にいたから、私は、どこへでも飛んで行けた。あなたがいたから、私は最期まで生き抜けた。ありがとう」
感極まり震え続ける唇を必死に動かしながら、彼女は何度も、ありがとう、と繰り返す。
気付けば、涙が頬を伝っていた。
敬愛する我が至高のサラブレッドから生涯をかけて感謝されたのだ。これを至上の喜びと言わずしてなんとする。
放牧の際は“彼”が安心できるように傍にいた。レースのあるときは必ず応援に駆けつけたし、結果に関わらず“彼”を労った。海外に挑戦したら知った顔と匂いがあると安心すると言われて、馬運車に乗って帯同したこともある。
それほどに構ったことが功を奏したのか“彼”はレースが終わると傍に寄ってきて、撫でることを要求するようになっていた。競走馬を引退して種牡馬になってからも、そして息を引き取るその瞬間にすらも。
そして少女へと生まれ変わった我がダービー馬は目尻に残った涙を袖口で強引に拭き取り、今度はふたたび太陽のような笑顔を浮かべた。
「前世は“勝たなかった”が今生は遠慮しないぞ。お前がいれば私は完璧だ。三冠七冠がどうした、それくらい片手で獲ってみせる」
傲岸不遜な態度が戻ってきた。調子が戻ってきたらしい。
「なにせ私にはお前がいるんだからな」
この言葉で大言壮語な口上を締め括った彼女は、返事を待つように腕を組んでジッとこちらを見つめてくる。完璧なドヤ顔で。
返事は決まってると言わんばかりの態度だが、それを許せてしまうのはやはり“彼”の頃から存在していた庇護欲を掻き立てる佇まいがあるからだろうか。思わず苦笑が浮かぶ。
しかしもはや拒否する理由はない。むしろ好機。大恩あるダービー馬になにか恩を返せるチャンスが転がり込んできたのだ、みすみす逃すつもりはなかった。
そう、答えはとっくに決まっている。
手を差し出し、未来のダービー――いや、三冠ウマ娘となるはずの彼女の名を呼んだ。
「これからよろしく、ノーザンクロス」
うまぴょいうまぴょい。
「ウマ娘たちのキャラを上手く掴めへん……せや、オリジナルのウマ娘で話を書けばええやん!」となってウィニングポストで作ったオリジナルサラブレッドぶっこんだけど二番煎じだったのかなしい。
続かない予定。しかし読んでのとおりズレた共依存的な関係なので、どっかで壊れてからより強い関係を築くような気はします。
架空馬の細かい設定は完全に妄想。こんな馬がいても面白いかなーとは思うが実際どんなもんかは知りません。
ノーザンクロス
父:キタノオウカン(父父ノーザンテースト/父母モンテオーカン)架空馬
母:シーキングザパール(母父シーキングザゴールド/母母ページプルーフ)
通算24戦8勝
主な勝ち鞍:日本ダービー(2003)マンノウォーステークス等々G1を2勝
授賞:2003年度最優秀3歳牡馬、5年連続リーディングサイアー(2023~2027)
ダービー獲れたの偶然だと思うけどオリジナルで初めてだからすごい嬉しかった。でも子系統登録できなかったかなしい(引退)
一番好きな馬はディープインパクトなのでサイゲームスくんがんばって。
というか早くアプリ配信してほしい。
うまぴょいうまぴょい。
2021/3/17追記
アプリおめでとうございます。たのしい。
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