知りたがりのウィズ (氷の泥)
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01 土産は魔女

 大蛇のような白煙が、天井に跳ね返って俺を見下ろしている。煙の出どころは……石。カップラーメンのフタの上、重石として置いていた小石から。

 白煙の中には人の顔が浮かび上がっていた。見間違いではない。確かにさっきからずっと目が合い続けている。そして、その煙の中から声が聞こえた時、俺はなんとなく自分の最期を悟ったような気がした。

 どうしてこんなことになったのか。走馬燈と呼ぶにはあまりにも近い記憶が一つだけ脳の中を駆け巡る。煙に覆われた視界より、よほど鮮明な記憶だった。

 

 

 聞いた話、貧困者ほど自炊をせずにカップラーメンやコンビニ弁当を食っているらしい。当然そっちの方が高くつくのにも関わらずだ。なぜそうなるのか、理由は単純で、貧困に陥る者には毎日自炊をするだけの能力なり精神力なりが身についていないらしい。自炊が出来るような人間は、そもそも比較的貧困になりにくいというわけだ。

 それを踏まえて、だからやっぱり、俺は小物だと思う。もう何年も前にそんなことには気付いていたけれども。

 自炊なんていう行為は余裕のあるやつがすることなのだ。たまの休日、土曜日に、わざわざ無駄な時間と労力を使って炊事なんざしたくない。湯を沸かしインスタント食品を調理することほど簡単なことはないのに、それ以上のことをするやつはよほど余裕があるのか、もしくは馬鹿かのどちらかだ。

 俺は身の程を知っているので、今日の昼(つまりは今!)カップ麺を食う。沸いた湯をシンクの上でカップラーメンに注ぐだけ。それだけで今日の昼飯は完成する。素晴らしいことだ。

 ……と、湯の入った鍋を容器に向かって傾けかけた、その瞬間。ピンポンピンポンと、インターホンが二度鳴った。

 こんなピンポイントで間の悪い人間が、信じられないことにこの世には存在するらしい。

「ちっ」

 思わず舌打ちしながら、仕方がないので鍋は火の消えたコンロの上に置き玄関に向かう。

「どちら様ですか」

「マコトー! 土産!」

 げっ。その声を聞いた瞬間、自分の顔がいかにも嫌そうに歪んだのがわかった。

 ともかく、ドアを開ける。今回も例に漏れず、そいつは満面の笑みでそこに立っていた。小学校からの旧友、深瀬斗真だ。

「毎度言うが、いらん」

「まあそう言わずに、邪魔になったら捨てていいから」

 言ってその男はこぶしを握り突き出してきた。俺がその下に受け皿を作ってやれば釣銭でも落ちてきそうだったが、落ちてくるのが小銭ならどれだけ嬉しいことか。

「今回はなんだよ」

「石!」

 いし…………。石をあげると言われて、快くお礼を言える人間は全人口の何パーセントくらいなのだろうか。俺は一桁を割ると思う。

 一応ダメ元で聞いてみる。

「宝石?」

「いや、石」

「パワーストーンとか?」

「いや、石だよ。宝石なら宝石、パワーストーンならパワーストーンって言って渡すから」

 やっぱりそうだ。

 深瀬斗真という狂人が今握っている物は、正真正銘なんの価値もない石ころだ。いや、もしかすると芸術的な価値がある物の可能性もあるけれど、仮にそうだとしてもその価値というのも大したことはない。せいぜい土産物屋に売っている小さなトーテムポールくらいの物だ。

「石はいらん」

「そう言うなって。なんかいい感じの石だから」

 斗真はそう言って俺の手のひらを掴むと強引に受け皿を作らせて、そこに持ってきた石ころをポトリと落とした。

 お披露目されたその石は、本当にただの石ころだった。その気になれば駐車場、河原でほぼ無限に採集できる。

「んじゃ、帰るわ。じゃあな」

「おい!」

 コミュニケーションが成立しているのかも怪しいまま、客人は帰っていった。少し離れて、高速で階段を駆け下りる音が聞こえてくる。俺の住んでいるマンションには当然ながらエレベーターが設置されているのだが……。

「……はぁ」

 ため息が出る。幸せが逃げたとまでは言わない、脱力しただけだ。

 深瀬斗真は旅行狂いだ。あいつが日本にいる時間は、たぶんその他の国にいる時間より短い。土産の石を渡すやいなや「帰る」と言ってやつは去っていったが、最悪明日の朝にでもまたどこかへ飛び立ってもおかしくないくらいだ。

 その昔、お互いが小学生だった頃、俺たち二人はよく冒険の旅に出ていた。近所の緑地という名の無法地帯みたいな森だとか、いつからあるのかわからない廃屋だとか、そういう場所によく挑むように足を踏み入れていた。

 中学生になって環境が変わって、なんとなく俺は自分が大人になった気がしたそのタイミングで冒険をやめたのだけれど、斗真は違った。あいつは中学に入ってからも冒険を続けていた。

 そうしていくうちに冒険の定義が広がり、「知らない駅で降りてみる」とか「行ったことのない道に入ってみる」とかいった身近な物が冒険になっていったのは、森や廃屋のような心を躍らせる場所が無尽蔵に出てくるわけじゃなかったせいだろうけど。定義と一緒に、やつの冒険は単純な行動範囲も広がっていった。俺も頻繁に誘われたけれど、すっかり冒険自体に興味を失った俺が同行したことは一度もなかったと記憶している。

 高校で別々になって、正直あいつとの縁もそこで終わったと思っていたのだけれど、俺が成人してから間もないある日に電話がかかってきたのだ。

「熊の肉、食いたくね?」

 久しぶりに聞いた彼の声は俺の記憶の中とは別物で、けれどもなぜか一発で「斗真だ」と分かった。そしてそれと同時に冒険を楽しんでいたあの頃の熱意が、高揚感が、激流のような勢いで自分の中に戻ってきた気がして、その時の俺は舞い上がってしまったのだ。

 熊の肉は旨かった。そして、それからだった。あいつがわけの分からない土産物を俺の家にしょっちゅう持ってくるようになったのは。

「捨てろと言われてもな……」

 手のひらの上の石ころを見つめる。どう考えてもいらない物だ。……けれども、置いていてもあまり幅を取る物ではない。

 玄関から戻ってきて、ここに招かれた客人になったような気分で部屋を見渡す。相変わらず、壁に掛けられた山羊の頭骨が一番目立っていた。

 棚の上にあるトーテムポールは、サイズがだるま落とし程度だからそんなに目立たない。見ると「なんだこれ」という気持ちにはさせられるが。

 名前のわからないサボテンはまだ生きている。育てるのが簡単だというのは嘘ではなかったらしい。

 たぶん珍しい種類だと思われるカブトムシの標本は、中学校の廊下に飾ってあった絵画みたいな顔をして壁にかけられている。額縁も相まって、遠目で見れば絵画に見えないこともない。

 何に使うのかわからない木製の棒は、とりあえずテレビのリモコンと並べてテーブルの上に置いてある。けれども、なぜそこに置いたのか誰かから理由を問われたら、その時は上手く答えられない自信がある。

 同じくテーブルの上に放置されているパッケージが何語なのかわからないスナック菓子は、一口目で諦めて袋の口を輪ゴムで縛ったままだ。

 俺は、俺はあいつからもらった物を捨てられない。友達からもらった物を簡単に捨てられるような人間は、見てくれがいくら人間に似ていても人の心を持ってないと思う。だからって俺が人間として正しくて模範的だとは言えないけれど。だって捨てられないことで困っているのだから、模範も何もないだろう。

「あっ」

 昼飯のことをすっかり忘れていた。台所の隅の方、暗いコンロの上で放置された小鍋の中の湯が心配になる。大した時間は経っていないだろうけど、湯ってどれくらいのペースで冷めるのだろう?

 大丈夫だろうと高をくくって見切り発車で注ぎ入れる思い切りも、熱湯かもしれない液体に指を突っ込んで確認する度胸もなかったので、無難にまた少し火にかけることにした。こんなふうに無駄な手間をかけてしまっても、自炊に比べれば遥かに軽い労力しか消費していないのだから、やっぱり俺にはこれが合っている。

 

 

 ぶくぶくと再び沸騰した湯を今度こそカップ麺の容器に注ぎ入れる。フタを閉じておくための重りに箸を使うべく、割り箸を手に取ろうとした……が、もっといい物を見つけた。

 斗真からもらった石ころだ。漬物石にはどう頑張ってもなれず、かといって他のことにも何一つ使えないただの小さな石ころでも、フタを押さえる重りにくらいはなるだろう。一見無駄なものを工夫次第で有効活用できた感じがして気分がスッキリする特典付きだ。

 スマホのタイマー機能で2分30秒をセットする。湯を注いでからタイマーをつけるまでに間がある分、その方が3分に対して正確になる気がするからだ。実際のところどうするのが正しいのかは知らないし興味もない。

 スマホを見たついでにネットを巡回してみるかと思い立って、そこらへんの床に座ってスマホをいじる。そうしていると3分、もとい2分30秒なんかすぐに過ぎてしまう。

 タイマーが俺を急かし始めたところで、特に未練も感じずスマホの画面からバックライトを落としてカップ麺を取りに行く。…………と、顔を上げた時だ。視界が妙に白かった。すべてが、白かった。

 は? というのが感想になる。部屋中が霧に飲み込まれたみたいにうっすら白くなっていた。煙が充満していることに気付くまで何秒かかったのかわからないが、俺にとってはかなり長い時間だったように感じた。

 火事だ。煙といえば、まずはそれを真っ先に想像する。火を起こせる道具は、家にはコンロしかない。さっき湯を沸かしなおした時にガスの元栓でも閉め忘れたか。

 慌てて確認するが、元栓は閉まっている。よく考えてみれば元栓を閉め忘れたからってたったの3分で火事にはならないし、そもそも仮にガスが原因で火事になっていたら、今頃こんなのんきでいられる状況じゃなくなっているだろう。

 じゃあ何だ、火なんて他に扱わなかったし、煙が出るような物は他にない。なのに部屋の中は白煙で埋め尽くされている。……そういえばこんなになっているのに、火災報知器が鳴らない。

 ふと、カップ麺を見た。蒸気機関車の煙突から出る煙みたいに勢い良く、フタの上から煙が噴き出している。信じられないけれど、見えていることが事実だ。確かに間違いなく、カップ麺から煙が出ていた。

 よくわからないが、とにかくあのカップ麺は捨てなければ。捨てれば煙も収まるだろう。急がなければ、たしか火事の死因は焼死よりも煙を吸うことによる窒息が多くを占めているはずだ。このままでは俺も多数派の死因で倒れてしまう。

 カップ麺の容器をわしづかみにして排水溝めがけてぶちまける。使ったことのない最大の勢いで水道水もぶっかけてみる。さすがに解決しただろうと思った。

 そして特に理由なく、なにか本能的に、俺は上を向いた。……大蛇のような白煙が、天井に跳ね返って俺を見下ろしている。

 白煙の中には顔が浮かび上がっていた。見間違いではない、確かに目が合った。そして合い続けている。

 その煙の中から声が聞こえた。

「はっはっはっはっはっ!!」

 笑っていた。煙の中の顔が笑っていた。ファンタジーとかホラーとか、とにかく創作物を思い出す。映画なりアニメなり、とにかくフィクションを。「自分の頭がおかしくなった」。そうなるに至る理由に心当たりはまったくないが、俺はそう確信した。

「キミか、私の封印を解いたのは!」

 心なしか煙の顔は上機嫌に見えたが、俺はなんとなく「魅入られた」と感じた。

「ふ、ふういん……?」

「ああ、そうだ、封印だ。キミが解いたのだろう?」

 今さらながら、煙の声が女だということに気付く。

「な、なんだそれ。知らないぞ、俺はなにも……!」

「そんなに怯えるなよ。突然現れただけのことがそんなに恐ろしいか?」

「いや、突然っていうか、それもそうだけど、煙が喋ったら、煙が……」

「けむり? ……あっ! 失礼!」

 煙の女が何かに気付いたようだった。すると、部屋中に滞留していた白煙が、まさに霧散といった様相で消えてなくなる。

 消えた煙の代わりに、俺の目の前には一人の女性がたたずんでいた。

 ……彼女は何と言うべきか、そう、一言で表すなら「歴史の教科書で見た当時の美人」だろうか。もしくは「納豆のパッケージでよく見る顔」だろうか。

 とにかく、失礼なので口には出さないけれど、ずばり言って「古い顔」の人だった。というか、服装まで含めて「古い」人だった。ここで言う「古い」は、例えば「昭和や大正」を「最近」とした場合の「古い」である。

「失礼、久しぶりなものでウッカリ気体化していたみたいだ。これで怖がらずにいてもらえるかな」

 とりあえず俺は心の中で目の前の女性を「おかめ納豆」と名付けたけれど、依然として状況は飲み込めない。飲み込めないのにのんきに名前なんか付けているのは、現実逃避の一種なのかもしれない。

 というか、ここは本当に現実なのだろうか? 俺はもしや気づかぬうちに昼寝していたのでは?

「いや、えーと…………どちら様ですか?」

 おかめ納豆が得意げな顔をしたのがわかった。現代人と違った顔つきの人でも現代人と同じような表情をするらしい。おかめ納豆というより、おじゃる丸のことを好きな人と名付けるべきかもしれない。

「私が何者なのか聞きたそうな顔だな。私は魔女、無知の魔女だ。人間流の名前はキミが好きにつけるといい……!」

「えー……」

 心の中ですでにつけた名前を言ったら怒るだろうなぁ……。

 魔女を名乗った彼女は、別に頭のおかしい人というわけではないと思われる。何せ突然現れたのだし、あの煙を発生させそして消したのも彼女の仕業と見て間違いないだろうから。

 一周回って、もはや常識を捨てる覚悟は容易に決まった。そうだと信じるしかないが、俺はいま人ならざる存在と相見えているらしい。そうらしい。そうに違いない。そうとしか思えない。

 そうだとすれば光栄なことだ。普通の人は一生お目にかかれない高位の存在に会えたのだから。いやはや、俺は幸せ者だな。あっはっはっ。…………もう、わけがわからない。

「まあ、いきなり名前を求めるのもおかしな話か。それよりも、いくつかキミに聞きたいことがあるのだが、いいかね」

「あ、はい。なんなりと」

「ここはどこだ? 時代は?」

 どこ、という質問に「東京」と答えることがこの場合正しいのだろうか。たぶん違う。なんとなく分かってきた。

 この魔女は、どうやら長い間封印されていたらしい。おそらくその容姿が「普通」であった時代からずっと封印されていて、それがなぜか今解放されたのだ。だから「時代は?」と訊いてくる。彼女は大昔の人で、魔女であっても自分が置かれている状況をすべて自力で理解することは困難なのだ。そうに違いない。

「日本の東京という場所です。時代は、平成ですね。西暦で言うなら2018……ああでも平成はもうすぐ終わるって話が」

「ちょっと、ちょっと待ってくれ」

 おかめ納豆の魔女が手のひらを突き出してストップをかけてくる。

「申し訳ない。何を言っているのか理解できない」

「えーと、とにかくここは日本で、2018年です。俺から言えることはそれだけです」

「……なるほど、なるほど」

 あごに手をあてて考え込むようにしていた魔女。そして不意に手のひらを突き出す。ストップ、というか「ちょっとタンマ!」の多い魔女だ。

「少し外を見てくる。すぐ帰るからここにいてくれ」

「わ、わかりました」

 無意識にぶんぶんと首を振ってうなずいていた。なんとなく、彼女よりも下の存在になった気分だ。

「助かる」

 魔女は駆け足でベランダへ向かうと、鍵まで閉じていた窓を当然のようにすり抜けて外へ出た。すり抜けというよりも素通りといった方がイメージに近く、まるで今起こったことが、本当に大したことじゃなかったかのような印象を受けてしまう。

 そして彼女はそのままベランダの淵から飛び立った。飛び降りたのではない。鳥が風に乗るように、ふわりと浮かんだ彼女は空を飛んで行った。まるで世界の法則が元々そうだったと錯覚するかのような、至極自然なこととして目に映る光景だったと思う。

 見た目がおかめ納豆でさえなければかっこいいシーンだったのかもしれない。

 それで、残された俺は一体どうしたらいいのだろうか。魔女の言った「ここにいてくれ」というのは、彼女から俺へのちょっとしたお願いだったのだろうか。それとも、命令だったのだろうか。

 後者だったとすると、この場を離れることはワンチャン命に関わる。魔女の力は今この目で確認したところなので、ここにいろと言われてOKと答えたのにも関わらず俺がどこかへ消えた場合、機嫌を悪くした魔女が何をするかわかったもんじゃない。

 ……いや、でも、ちょっとくらい。一瞬だけ。いいよな?

 数十秒後、俺はコンロの前に立って湯を沸かしていた。昼飯になるはずだった物をぶちまけてしまったので、代わりとなる物を作ろうとしているのである。その物とはトマト味のカップラーメン。本来だったら今頃シーフード味を平らげている頃だったのに。

 魔女の言う「すぐ帰る」の「すぐ」がもしかしたら二秒くらいである可能性も考えたけれど、結局カップラーメンが完成するまで彼女が帰ってくることはなかった。すぐというのはコンビニに行くくらいのノリで、行ってみたらちょっと混んでいたくらいの遅れが出ているのかもしれない。

 テーブルの近くの床にそのまま座って、赤いスープに浸かった麺をすする。この味はこの味で旨いのだが、今日はシーフードの気分だった。別の日に食べていてば、きっとこいつはもっと旨く感じていたはずだ。

「ただいま」

「うおっ!?」

 突然となりから声がして死ぬほどびびった。危うくラーメンを吹きそうになったがセーフ。声の主は確認するまでもなく魔女だろう。

 よく考えれば相手は得体の知れない高位の存在、瞬間移動くらいお手の物なのかもしれない。ベランダから飛び立って見せたのは、無知な人間に魔女の力の片鱗を見せつけてやるためだったとか。

「おかえりなさ……はっ?」

 カップ麺を机に置いて声の方に顔を向けると、そこに立っていたのはおかめ納豆の魔女などではなかった。広瀬○ずが、広瀬○ずがそこにいた。

「私の知らない間に人間の容姿はずいぶん流行りが変わっていたようで、外でそれに気付いたので私も姿を変えてみた。……というわけなのだが、どうだ?」

 どうだ、というのがどういう意味なのかよくわからなかった。そしてよくよく見てみると、彼女の顔は完全に広瀬○ずと同じ顔というわけではなくて、ものすごく精度の高いそっくりさんといったような具合だった。

 どちらにせよ、言えることは一つしかないのだけれども。

「か、かわいいです」

「自然か?」

「自然かと言われると、うーん……。現代の人間としては自然ですけど、庶民としてはいささか美人すぎる気がしないでもないです」

「これで人通りの多いところを歩くとどうなる」

「さ、さあ……?」

 ふむ……と魔女はあごに手を当てて何かを考え始める。容姿が変わるとそのポーズも神々しいまでに美しく俺の目に映った。いや、もはや焼き付いたと言った方がいいかもしれない。眼福以外の何物でもないわけだし。

 と、顔ばかりに気が引かれていたが、冷静に見れば服装まで現代女子風になっている。これが魔女の力か……ッ!

「まあいいか。それで、キミにもう一つ頼みがあるのだが、いいか?」

 容姿が変わってくると、そのいかにも尊大な印象をふりまく口調には多少の違和感が生まれたが、それはそれで新鮮な感じがして良い気もするし、女優がそういう役作りをしている最中と言われればそうとも見えてくる。

「……おい、聞いてるか?」

「え、あ、はい。なんなりと」

 突然、広瀬魔女は口調と今までの態度に似合わない、すごく申し訳なさそうな顔をした。

「私はまだ現代の言葉に慣れていない。正直キミの話していることもなんとなくで聞いて、あとは表情などの雰囲気を頼りに読み取っている。なので、少し勉強をしに行きたい」

「えっ」

 今までのやり取りからして当然言葉は通じているものだと思っていた。というかそれ以前に、本人が思い切り現代日本語を話している。

「でも今普通に喋ってますよね……?」

「ああ、これはキミにとって聞きやすくなるように「意味」だけを発信している物で、まあつまりはそういう、コミュニケーションを円滑にするための魔法だと思ってもらえればいい。だから私はこの時代の言葉を話してはいないよ」

「じゃあ聞くのも魔法で」

「それはできないんだ。……それで、私は少し勉強をしに出かけたいのだけれど、明日の朝までキミにここにいてもらうことはできるかな」

 明日の朝というと日曜の朝。今日の夜も明日の朝も特に出かける予定はない。ゲームでもしながら休日を満喫するつもりだった。

「平気ですよ。あ、でも、ちょっとコンビニへ行くくらいのことは……ってこれも伝わってないのか? なんて言えばいいんだろう」

「いや、なんとなくわかる。基本的に家にいるが、少し外へ出る時がある……ってところだろう?」

 返事をしようとして、俺は思い立ちうなずくことにした。言葉が通じないなら、首を振ってイエスかノーを示した方が伝わるはずだ。……もっとも、縦に振ればイエスで横に振ればノーだという常識が通じればの話だけれど。しかしなんとなく、この魔女はそこまで異国の存在という感じがしない。たぶん大丈夫だろう。

「わかった。それじゃあ行ってくる。今日は帰らないから、また明日会おう」

 言葉だけがその場に残されたかのように、パッ、と魔女が消えた。やっぱり瞬間移動ができるのだ。

 取り残された俺は、とりあえずトマト味カップラーメンを食べきって、それから予定通りゲーム機の電源を入れた。取り残されたというのは今まで一心同体で生きてきたはずの、常識的なこの世界とか、そういうものから取り残されたの意味もある。追放されたと言った方が正確なのかもしれない。

 ゲームの中で魔法の矢を放つたびに、あの魔女もこんなことができるのだろうかと想像してしまって集中できなかった。

 



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02 いしのなかにいた

 目が覚めて、感覚で寝坊を確信した。

 ……と思ったら今日は日曜日だ。時計を見るともうすぐ十二時を回りそうだったが、土日はバイトなども含めて何の予定も入れていないのでまったく問題ない。

 布団から這い出て、とりあえず何か飲み物をと冷蔵庫へ向かう。と、違和感に気が付いた。何か……何かこう……落ち着かない。

 原因がわかった。よくよく考えれば、今の俺はバッチリ寝間着を着ていた。通常なら、夜眠る時は肌着や下着以外は身に着けないタイプなのだけれど、なぜか昨夜の俺は寝間着で寝たようだ。

 ハッ、と思い出す。せき止められていた記憶が決壊してなだれ込んでくるようだった。アニメみたいに、頭に雷が落ちる演出があった気さえする。寝ぼけていた頭が覚めてきて、いよいよ重要なことを思い出していく。

 昨日の夜、俺は家に寝間着があったことでひどく安堵したのだ。なぜかって、それは俺が眠るよりも遅く、しかし起きるよりも早く、家に女性が来る可能性があったからだ。さすがにそんな状況でいつも通りの格好をして寝るわけにはいかない。

 そしてその女性とは何者か。大学で新しくできた彼女とかだったら人生はバラ色だったんだろうけど、違う。来るのは魔女だ。窓をすり抜けたり、空を飛んだり、瞬間移動をしたり、なんかよくわかんない魔法でコミュニケーションを取ってくるような、そんな魔女が家に来る……!

 それだけ聞くと恐ろしいことのようにも感じられるけれど、正直なんだかそこそこ友好的な感じがするし、何よりとてつもなく見た目がかわいいから悪い気はしなかったりする。が、魔女は友達でも彼女でもない。そんな気易く近づける存在ではないだろう。というか会って一日しか経ってない。

「あぁー……。うー……」

 起き抜けの、自分でも謎なうめき声を上げながら、とりあえず俺は冷蔵庫の中の牛乳を飲んだ。すると、まるでそれを見計らったかのようにピンポーンとインターホンが鳴る。なんとなく誰が来たのかわかる。

 玄関のドアを開けると、某女優に似た美少女が立っていた。知ってた。

「ただいま」

「お、おかえりなさい」

 見た目のイメージよりも声が低い。魔女のご帰宅だった。

 彼女は俺の横を通り抜けて家の中に入っていくと、まだ敷きっぱなしになっている布団をまじまじと見つめ始める。しまった、と思う。単純になんだか恥をさらしているようで恥ずかしい。

「これ、ちょっと寝てみてもいいか?」

「えっ」

 相手が普通の女子だったら「こいつ俺のこと好きなのか……!?」と勘違いするところだった。しかし違う、魔女だぞ。何を考えているのかわからない。

「嫌ならいい」

「い、嫌ではないですけど。なにゆえ……?」

「現代の布団を味わってみたいのだ。…………え、布団だよなこれ?」

 うなずいて答える。するとホテルではしゃいだ子どもがベッドにダイビングするみたいに、彼女は布団に飛び込んだ。ベッドじゃないから普通に痛いと思うし、下の階の人に怒られそうで、つまり出来ればそれはやめていただきたい。

「……うむ、案外普通だな」

「そうですか……」

 あまり気に入らなかったらしい。が、魔女はそれでも自ら布団に包まれていった。絵面が絵面なので、何か自分がとんでもないリア充と化した錯覚に陥りそうになる。

「ところでキミの名前を聞いていなかったな」

 修学旅行の夜に友達と話すがごとく、布団に入ったままの魔女が当然のように会話をもちかけてきた。見下ろす形になるとなんとなく気まずいので、俺は彼女から目をそらしつつ応じる。

「真です。布施真」

「フセ、マコトか。何と呼べばいい」

「なんでもいいですよ」

「ではマコト、キミに報告があるから聞いてくれ」

「は、はい」

 重要なことを話し始めそうな雰囲気だったので、そらしていた視線を努めて彼女の方に戻していく。……やはりどう見ても、俺の布団で美少女が寝ている。口調と状況と目の前の光景のギャップで、なんというか、酔いそうだった。

「私はもう大体この時代の言葉を理解した。だから会話に困ることはないし、存分に話してくれていい。というか、昨日は迷惑かけたな」

「え、いや、全然平気でしたよ」

 大した長話をしたわけじゃあないし、日本語の通じない人に駅までの道案内をしたわけでもないし、特に昨日苦労した覚えはない。コミュニケーションにまで魔法とやらを使う魔女からすると、違った認識になるのかもしれないけれど。

 平気だったと伝えると、魔女は少しほほ笑んだ。相手が人間だったなら、俺の理性は今崩れ去っていたかもしれない。俺の布団で寝てる美少女がこっちを見てほほ笑んだのだぞ。これは事件だ。現場で起こっている。

「そう言ってもらえると助かるよ。……それで、ここからが重要かつ多少ややこしい説明なのだが」

 かけ布団を手放して彼女が起き上がる。

「マコトには私の、無知の魔女の性質を知ってもらいたい。そして、その上で私に協力してもらいたい。まずは性質の説明を聞いてもらいたいのだが、そこまではいいか?」

 この時の俺に、拒否権があったのだろうか。もしかすると「嫌です」と言えば、彼女はあっさりと去っていったのかもしれない。特に機嫌を悪くすることもなく、全部嘘だったかのように消えて、二度と現れなかったのかもしれない。

 けれども俺にはこの時、首を縦に振る以外の選択肢なんて存在しないとしか思えなかった。そうしなければ、何か重大なチャンスを逃す気がした。

「はい」

「よかった。マコトが友好的で助かるよ」

 本当に、本心から言葉通りのことを思っていそうな、やわらいだ表情を浮かべて。彼女は、人差し指を立てた。

 りんごの雨が降った。

 大きく、赤く、旨そうなりんごが、天井から湧いて出るかのように無数に降ってくる。床にぶつかり、一部は砕けて、果汁が飛び散る。その上にさらにりんごは降り注ぎ、無数のりんごがどんどん床を赤く埋め尽くしていく。

 大量に降り注ぐりんごはただの一つも、俺や彼女の体の上に降ることはなかった。きっと落下してくる勢いで当たれば痛かっただろうが、実際にはせいぜいわずかに飛んでくる果汁の飛沫くらいしか、この肌で感じられることはない。

「一つ。私は私の目の届く範囲に限り、何でも思い通りにすることができる」

 床を埋め尽くしていたりんごが消えた。テレビの電源を落としたみたいに、プツンという間で全部消え去った。床は元通りどころか、数分前よりも綺麗になっているように見えた。肌に飛んできた果汁まで消えていたように思う。

 魔女がもう一本指を立てた。

「二つ。私は私の能力を、直接「知ること」には活用できない」

 彼女の手元に今までなかったはずの双眼鏡が置かれていた。それを手慰むように撫でながら、説明は続く。

「双眼鏡を出すことは「知ること」ではない。これを使って遠くを見るのも、これを使って人を殴るのも、道具の使い道はすべて使い手の自由だからな。これを「知るための道具」と認識するのはその者の思い込みだ。だから双眼鏡は私でも作れる」

 もう飽きたというように双眼鏡は放り投げられた。床に落ちることなく、壁に当たることもなく、それは跡形もなく消え去った。

「だが思わないか、何でも思い通りにできるのなら、自分の視力を引き上げて遠くの物を見ればいいのではないかと。何でも思い通りにできるのなら、それも当然出来るのではと思わないか?」

「それが、出来ないんですね……? 知ることになるから」

 魔女が満足気にうなずく。

「私の能力、魔法は絶対に直接「知ること」には使えない。「見る」ことは「知る」ことだ。同じく聴力や嗅覚を魔法でいじることもできない。当然、慣れない言語を教科書や講師を無しに瞬時に理解することもできない」

 だから外へ出たのか。本なり何なり、日本語を学べる物は世の中に腐るほどあるから。それを見て、魔法を使わずに知識を得るために。

 しかしそれでも、知識を吸収する際に魔法は役に立っただろう。「知ること」のルールに触れなければ魔法で全てが思い通りになるのなら、彼女がどこへ立ち入ったところで咎める人は誰も現れないことになるから。双眼鏡の例と同じように、立ち入ることは知ることとイコールにならない。

 しかしそうだとすると、この魔女は一日外で知識を吸収してきただけで現代の日本語を理解したらしい。そしてそのことについて魔法は使われていないということになる。

「だから外でいろいろ調べてきたんですね」

「その通り」

「でも、たった一日で覚えられたんですか……? 知ることに魔法は使えないのに」

「ああ、それは素でいける」

「へー……」

 その言葉が嘘でないなら、彼女は化け物だ。

 やっぱりと言えばその通りなのだけれど、魔法を抜きにしても魔女という存在は人間を逸脱しているらしい。いや、魔法の定義もよくわかってはいないわけだけれども。

「だが私にも限界はある。習得したのは現代語と、あとはこの時代にある物の大雑把な知識くらいだな。あの外で大量に走っていた車輪の四つついた物、あれは車というのだろう? まだそういった程度のことくらいしか覚えていない」

「なるほど」

 テレビを見て「箱の中で人が喋ってる!?」となる段階は通り過ぎたわけだ。しかし今聞いた印象から想像すると、彼女は文字と物体のみを「知っている」感じがするので、例えば食べ物なんかは見た目と名前を知っていても味を知らなかったりするのかもしれない。

「ちなみに、魔女さんが封印される前の時代って、車の代わりに何か走ったりしてましたか?」

「あ、言い忘れたが私は元々日本の生まれだぞ。マコトも知っているだろう、馬だよ、馬。私の時代には馬が交通手段の一つだった」

 絵に描いたような「過去から来た人」だった。なんとなくこの先に、ハンバーガーを食べて「こんなおいしい物が世の中にあったの……!?」ってアニメで世間知らずのお嬢様が言うみたな展開が待ち構えている気がしてきた。

「つまり魔女さんのことは、馬が走ってた時代からタイムスリップしてきた物凄く物覚えが早い人、と考えてもいいですかね……?」

「それで大体合ってるよ。ただ私は魔女だから、人間とは規格が違うところがあるかもしれないけどね」

 自分が魔女であることに絶大な自信があるらしく、魔女であることを強調する時の彼女はなんだか少しうっとうしいくらいに誇らしそうだった。布団に飛び込んだ時のちょっと楽しそうな様子と誇らしげな様子が似ていたので、自尊心と好奇心をエネルギーにしてるタイプの人なのかもしれないと感じる。だとすると、どちらかといえば俺よりも旅行狂いの斗真に近いタイプだ。

「で、本題はここからだ。初めに言った通り私はマコトに協力してほしい」

 アニメや漫画を見ていればわかる通り、人間よりはるかに大きな力を持った知的生命体が「協力してほしい」なんて言い出す時は必ずロクでもない要求をされると相場が決まっている。世界の半分をくれてやるから世界を支配するのに協力しろ、とか。

 が、今日この瞬間ばかりは平気な気がする。会ってから二日目。たったそれだけの時間で何が理解できるんだという話ではある。しかし俺の目にはどうも、目の前の魔女が何かとんでもないことを企んでいるようには見えなかった。その予感が正しいことを祈って、口に出してみる。

「現代の観光とかにですか?」

 魔女は口をポカンと開いて、目を見開いた。

「その通りだ。すごいな、心を読んでるみたいだ。……ん、ちょっと待て、時代が進んで人間がそういう能力を一般に身に着けていたり……?」

「してません。なんとなくです」

「勘がいいんだね」

 表情で露骨な上機嫌を表して、ようやく魔女は俺の布団から飛び出した。飛び出してから、なぜかせっせと布団を畳んでくれた。それも、過去にホテルかどこかで務めていたのかと聞きたくなるほど綺麗に畳んでくれていた。

「あ、あれっ? ど、どうもどうもご丁寧に」

「あっちの押し入れにしまうので合ってるか?」

「あ、はい」

 よっこらせ、とか言いながら布団を持ち上げて片付け始める魔女。予想外のことに頭が追い付かず状況に流されてしまう。

「で、答えは?」

 押し入れに布団を突っ込みながら背中で問われる。長い付き合いの相手に、今日の昼食はどうするかと聞かれているような、あまりにも軽い雰囲気がこの部屋中を漂っていた。

「え……?」

「協力してくれるかい」

「協力って、具体的にはどんな……?」

 すとーん、と勢いよく押入れの戸を閉めて振り返った魔女が、あごに手を当てかわいらしさを含んだうなり声を上げる。

「うーん……。協力的な態度でいてくれること、かなぁ」

「全然具体的じゃなくないですか」

「じゃあ、とりあえずここに住まわせてくれないか」

 曲がり角で食パンくわえた美少女とぶつかった気分だった。俺の人生、ここから何かが始まるのか。

「えっ、いや」

「嫌なら嫌でもいい」

「嫌じゃないです! でも、え、逆にそっちはいいんですか……? ロクなおもてなしできないと思いますよ」

 想像力をフル稼働させて女性の立場になって考えてみよう。一人暮らしの冴えない男子大学生と同居したところで面白いことは何一つないと思わないか。むしろ面白いどころかストレスになることの方が山のようにあると思う。魔女が人間の女性と同じ価値観で生きているのかはわからないけれど、姿かたちが人間なのでこちらとしては同じように気を遣うしかない。

「もてなしはいいよ。正直マコトに拒否された時は、自分で空いた土地に家を建てるだけだし」

「えっ」

 とんでもないことを聞いてしまった。建築そのものは魔法の力で材料から作業労力から何から何まで賄えるとして、というかそもそも家がポンと出てくるものだとして、じゃあ土地はどうするつもりなのだろう。都合よく使われていない空き地を狙うか、さもなくば埋立地風に海上に新たな土地でも生成する気か……?

 自分の目の届く範囲にしか魔法は使えず、知ることにも使えないというルール。勝手に土地を生成してその上に家も建てて、なおかつ生成されたそれらを「別にそこにあってもおかしくない物と認識させる」ことは、全ての人間に認識を狂わせる魔法をかけるという方法では範囲の都合上不可能だ。

 だが、もしも家と土地そのものに認識を狂わせる魔法をかけられるとしたら、もしかして魔法で全てを解決出来てしまうのか……? 誰もそれを見ておかしいとは感じなくなるのか……?

 この家は人間に違和感を与えません。もしそういう魔法が成立するのだとしたら、この魔女は本当に自力で衣食住のすべてを揃えられることになる。俺が協力を断っても大して困らないっていうのはマジだ。

 でもそうなってくると逆に、一体全体俺に何を求めているのかが分からない。協力なんか必要ないじゃないか。

「いや、正直魔女さんがいいなら、ここに住んでもらうのは歓迎ですよ。でもそれで、俺って何かの役に立ちます?」

 俺の必要性がどうにも薄いことは魔女本人も理解しているところなのか、まるで俺からその質問が来ることがわかっていたかのように彼女は即答する。

「案内人がほしいんだよ。頻繁に会うことになるなら、お互い居場所が近い方がいいだろう?」

 近いにもほどがあるけど、余計なところにツッコミは入れないようにする。美少女が過剰に接近してくることは悪いことじゃないから。

「案内人ですか。でも、あれですよ。現代人が現代のことを全て把握しているかというと」

「わかってるよ。それはきっといつの時代でも変わらないのだろう。私はマコトが知っていることを教えてもらえればそれで満足だよ。それ以外のことは自力で調べるから。そういう意味での「協力的な態度でいてくれ」だ」

「教えられることを教えるだけでいいんですか……?」

「ああ。いじわるしなければそれでいい」

 いじわるって、妙にかわいらしい言い回しだ。意味だけが俺の理解しやすい形で聞こえてくる魔法を使っているらしいけれど、今の言い回しは別の人が聞けば別の言葉に聞こえていたのだろうか。

 まあ、それはともかく。いじわるせずに知っていることを教えてあげればいいだけ、その他のことは本人が自力で調べるから……ということになると、やはり相変わらず魔女にとっての俺の存在意義がわからない。

「いじわるなんかしませんよ。でも、それ結局俺いります? 魔女さんが自力で調べられないことで俺が知っていることなんて、たぶん何一つありませんよ」

「まあ、そうだろうな。だが一々自分で調べに行くよりも慣れた人間に教えてもらう方が早いし、無機質な文章から学ぶより面白味もある。だからマコトは必要だよ」

 もしも魔女が書物から現代語を学習していたのなら、辞書は教科書として必ず用いたはずである。そう考えると無機質な文章というのがどんな物を指しているのか大体わかるし、そんな物とにらめっこするくらいなら確かに俺でも、たとえ相手が素人でも授業なり講義なりを受けたがるかもしれない。

 気持ちはわかる。わかるが、なんだか拍子抜けするくらい人間的な感情を持っているらしい、魔女という存在は。

「なるほど。そういうことなら、できる限りの協力はします。でもあんまり期待しないでくださいね」

「ああ、助かるよ。それじゃあこれから、よろしく頼む」

 手を差し出された。サムライがいた時代にも握手の文化はあったのだろうか。それとも昨日学んできたことなのか。……どちらでもいいけれど。

「ど、どうも」

 若干、根拠のないおそろしさを覚えながらも握手に応じる。握った魔女の手は暖かくて、それから小さくてやわらかくて、もっと触れたくなるくらいすべすべしていた。

 初めて、女の子の手を握った。

 正直、努めて紳士的な表現で言って「高揚感を覚えた」。言ってもたかだか単なる手であるはずだが、女子の手にはなぜそこまでの魔力じみた魅力があるのだろう。もしかして本気で魔力がこもっているのだろうか、相手は魔女だしありえないことではない……。

「あ、そうだ」

 握った手をあっけなく、なんの未練もなく手放した魔女が、本気で忘れていたかのように付け加えた。

「協力してくれるお礼に、私に出来る範囲でマコトの願いを叶えてあげるよ」

「えっ」

「本当はこのことを交渉の材料にしようとしていたのだが、思ったよりスッと話が進んで忘れていた」

 美少女と一緒に住んで、自分の知っていることを教えるだけ。たったそれだけのことを代償に、七つのボールを集めてもいないのにシェンロンが出現した。札を小銭に崩す目的で買った宝くじで億が当たるような、突然の受け止めきれない幸運だ。

 そう、受け止めきれない。いきなりそんなことを言われて「じゃあ○○でお願いします」なんて言える人間そうはいない。もしかすると元々大したことのない人間は、どんな幸運に恵まれてもこうしてみすみすそれを逃すのかもしれない。

「いや、急にそんなこと言われても何も思いつかないっていうか、いや嬉しいですけど、叶えてほしいですけど」

「思いつかないってことないだろう、そんな無欲の悟りを開いてるのかマコトは?」

 あきれたような目を向けられる。彼女は現代の「美少女」を模倣しているために俺よりも身長が低くなっているが、なんだか本質的には見下ろされている感じがした。

 それと同時に、人間の欲を受け止めることに慣れているようなその余裕に溢れる態度は、もしかして遥か遠い過去で今と同じようなやり取りを誰かと交わしてきたのか……という想像をさせられる。それも一度や二度ではなく、何度も何度も。

「あ、別に願いはいくつでも叶えるぞ。厳選せずに言ってくれ」

「えっ」

 シェンロンどころじゃあなかった。にわかには信じがたいが、俺は気付かぬ間に神を味方につけたらしい。いや、本当に味方になったのかたったの二日で判断しかねる部分はあるけれど、たぶん味方だろうこれは。とんでもないことだ。

「なんでもいいぞ。思いついた端から言ってみろ」

「なんでも……」

 一瞬、美少女と同居することになった若い男性として至極当然の願い事が、俺の頭の中を駆け抜けていった。かなり詳細な、ピンクもしくは肌色の妄想として駆け抜けていった。

 なんでもと言われて一瞬たりともその手のことを考えない同年代の男はいるのだろうか。いるとすればそいつはイカれている。が、そう考えるのは俺が男だからだ。魔女の魔法に「知ることができない」という制約がかかっていてよかった、でなければ俺の心の中なんか筒抜けだっただろうから。

 今までの人生を紳士的に生きてきたかというと正直自信がない、というかたぶんダメだったと思う。けれどもこの時だけは、友好的な神に対してだけは、俺は最低限紳士的であるようにしようと決意する。そうしなければ俺は一瞬で人として腐り果ててダメになる。直感的にそう確信したから。

「……いや、やっぱり思いつかない」

「本当か? いま、二、三思いついた顔をしていなかったか?」

「してない」

 内心ドキリとしたが、今のは自分でも驚くほど凛々しい顔つきで、自分でも驚くほどスパッと言い切れたと自負する。

「そうか……? じゃあまあ、思いついた時に言ってくれ。近くにいるのはそのためもあるわけだしな」

「なるほど。わかりました」

 俺が理性を試される日々が続くわけだ。望むところだ、ダメだった時には魔法で煩悩そのものを消滅させてもらうしかあるまい。

 と、意気込みを固めていたところで、重要なことを忘れていたことに気付いた。

「あっ、願い事あった」

「おお」

 何とはなしに台所の方に目を向ける。ぶちまけたカップラーメンの中身がまだ排水溝のネットの中で死んでいるはずだ。早く取り換えて捨てよう。

「魔女さんは、俺が封印を解いたから出てきたわけですよね」

「そうだ」

「その、結局封印ってなんだったんです? なんで解けたんです?」

 魔女が目を丸くする。表情の変化のが、仕草が、その一つ一つがいちいちかわいらしく見えてしまって、俺は容姿がもたらす残酷さを思い知る。俺も超絶イケメンに生まれていたら魔法なんて使えなくとも、今とはまったく別の人生を歩んでいたに違いない。

「封印についてのあれこれを聞くことが、マコトが叶えてほしい願いなのか……?」

「まあ、今のところ思いついたのは、そうです」

「……そうか」

 なぜか気まずそうに魔女が目をそらす。俺の言葉をほとんど理解していなかった時にも申し訳なさそうにしていた彼女だが、普段はいかにも高位の存在らしい態度なのになぜ時々そういった顔を見せるのだろう。親しみやすさを演出する戦略ではないと信じたい。

「いや、マコトは本当に無欲なのだな。正直見くびっていたよ。すまない」

「えっ、いやいやとんでもないです」

 本音を言えばあんなことやこんなことをしたいので、そんな聖人みたいな扱いをされると良心が圧死する。酸欠になる。

「で、私の封印が解けた原因についてだな。マコトは石か何かを温めなかったか?」

「石?」

 これくらいの、と魔女が指で「おっけーマル」のサインを作る。俺を世界の支配者にしてくれと願えば同じサインと共に「オッケー!」とか言われかねないので良くも悪くもおそろしい。

 ともかく、石というと思い切り心当たりのある物が一つある。斗真からもらった土産の石だ。結果としてだけれど、やつは俺の家に魔女を置いていったことになる。

「ああ、温めたというかカップラーメンのフタに乗せましたけど」

「それが条件だったんだよ。私の封印された石を温めること、それが封印を解く条件」

「え、温めるって、そんな軽くでいいんですか」

 後入れスープの袋に「フタの上で温めてください」と書いてあることがあるけれど、カップ麺のフタで温められるのってそれくらいの物だぞ。直接火で炙ったとかならまだしも、こんな強力な魔女の封印がそんな簡単に解けてしまっていいのか。封印した人は何を考えているんだ。

「軽くでよかったみたいだね。まあ私、結構強い魔女だし。あんまり強く封印されたりはしないよ」

 そういうものなのか。

「それだと逆に、よく今まで封印解けませんでしたね」

 何百年も前に石の中に封じ込められて、カップ麺のフタの上程度の熱を一度も受けずに今の今まで存在してきたことになる。ただの石ころでそれは奇跡に近いのではないか。

「氷漬けにされていたからね」

「えっ、氷……?」

「ああ。あれがどこだったのかは私にもわからないけれど、封印されている間ずっと氷の中にいたことだけは覚えている」

 氷の中にある何の変哲もない石を、わざわざ発掘しようと考える人はいるだろうか。というかそもそも氷の中に石があるとわかっていたとして、それの発掘に乗り出す人は少ないだろうに。俺が今魔女と話しているこの状況は常識がどうだという以前に、確率的に奇跡と呼べることなんじゃなかろうか。

 斗真はあの石をどこで、どうやって手に入れたのだろう。本人は見た目何の変哲もない石を「いい感じ」と言っていたが、あいつは何か知っていたのか……?

「そうだったんですね。ずっと氷の中に……」

「ああ、だからマコトには感謝している。またこうして外に出て自由に動けるなんて思わなかったから」

 だから、なんでも願いを叶えてくれるというのか。彼女には俺のことが恩人のように映っているのか。石を持ってきたのは斗真なのに、俺だけが恩人に見えているのか。

 彼女がここへ住むことは本人の言っていた通り利便性の理由もあるのだろう。けれども、俺に教えてほしいことがあるなら、別に遠くから瞬間移動でその都度来れば手間はそんなにかからないはずだ。俺は女子と同居するにあたって気を遣わなければと思っていたが、気を遣われているのはこちら側なのではないか。

 魔女は恩人の願いをできるだけ早く、できるだけ多く叶えてやるために、それっぽい理屈を付けて恩人の傍にいようとしているのではないか。だからこそ恩人に拒否されればあっけなく去るのではないか。同じように、俺が恩人でないとわかったなら、彼女はあっけなくここから消えて二度と帰らないのではないか。

 人としての意地で下世話な欲望を抑え込んだ俺の理性は、それだけで限界だった。それ以上に無欲な状態ではいられない。俺も人間だから。きっと魔女が想像する通りの、きっと魔女が今まで見てきた通りの、欲で動く生き物だから。

「感謝なんてそんな、偶然ですよ」

「謙虚だな、せっかくの機会だ、魔女に恩を売るくらいのことはしてもいいのだぞ?」

「あはは。とんでもないです」

 俺は、斗真のことを魔女に話さないと決めた。



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03 n個目の名はウィズ

 布団は魔女が片付けてくれた。そしてそのままの流れでいろいろ話を聞いてしまっていたが、まだ一つ重要な工程が消化されずに残ったままになっている。

 パジャマのままなんですよ、俺。

「あの、ところで魔女さん」

「うん?」

「話も一段落したし、俺そろそろ着替えます」

「ああ」

 テキトーな返事を返されて、しばらくこの部屋の時が止まる。凍り付いたというわけではないけれど、何秒かの間お互い頭上に「?」マークを浮かべたまま静止していた。

 あっ、と先に頭上に電球マークを浮かべたのは魔女の側だった。

「席外した方がいいか?」

「あ、はい」

「じゃあ終わったら呼んでくれ」

 また声だけが残って、魔女の姿は跡形もなく消え去った。離席の方法がファンタジックすぎる。

 待たせてはいけない……と思ったわけではなかったが、なんとなくものすごく急いで普段着に着替える。いや、待たせてはいけないと思えよって話だけれども、普段から気を遣えないタイプの人間の思考なんてこんなものなので。じゃあ何が俺を焦らせているのかというと、それは俺にもわからなかった。

 着替え終わって、はたと疑問が浮かぶ。終わったら呼んでくれって、どう呼んだらいいのだろう。誰もいない部屋の中で「おわりましたよー」と声を上げればいいのか。……それしかないように思える。

「お、おわりましたよー?」

「うむ」

「うおっ」

 おそるおそる虚空に向かって呼んでみたら本当にパッと現れた。現れてくれなかった場合俺はなんだか自分がすごくアホなことをしているような気分に陥っていただろうが、現れたら現れたで慣れない登場方法すぎてびっくりする。魔女からすればひどいダブルスタンダードだ。

「あ、すまん。驚かせたか」

「いや、すみません。俺が慣れるの遅いだけです」

「いや、次から私が気を付けよう」

 どこまでも友好的、というか人間に気を遣ってくれる魔女。我々人間のイメージする「魔女」とはかなり違った人物像と言わざるを得ない。人間の創作する話の中では、魔女は基本悪役だもの。

 まあ、それはともかくだ。実は俺には使命がある。ほんの数分前に生まれた使命だ。

「さあ、ところでですよ魔女さん。魔女さんが現代のことを知りたいというなら欠かせない物が、それでいて死ぬほど便利な物があるんですけど、見ますか?」

 その時の魔女のリアクションは、なかなか衝撃的なものだった。人の目というのは、興奮すると本当に輝くのだ。いや、魔女の目だったからかもしれないけど。

「見たい!!」

 目を輝かせる魔女は、おもちゃを買ってあげると言われた子どものようだった。実際にそんな子どもを見た経験はないが、なんとなく子どもの頃の俺も、期待値マックスな出来事があるとそんな感じで目を輝かせていた気がする。

 期待はずれなことになってしまうと申し訳ないけれど、いくら人外といえども相手は馬が道を走っている時代から来た人だ。まずウケるだろう。

「これです」

 俺は隣の部屋から持ってきたノートパソコンを見せた。

「おお……!!」

 目の輝きは依然失せず、それどころかむしろ増す一方。見ている方としてはちょっと楽しくなってくる。

「パソコンっていう物なんですけど」

「聞いたことはある。何やらあらゆる情報を知り得ることのできる現代技術の結晶だとか……!」

「まあ、大体そんな感じです。ここを押すと電源が入るので押してみてください」

「さ、触っていいのか……!?」

 魔女なのに死ぬほど腰が低い。触っちゃダメと言ったらおとなしく諦めるとでもいうのだろうか。……いや、こんなに目を輝かせている少女に、そんな残酷なこと俺にはできない。

「どうぞ」

「ほ、本当か……? 壊してしまったらどう責任をとればいい……?」

「いや、壊れませんって。というか仮に壊れても魔法で直せるでしょう」

 電源ボタンに触れただけでパソコンを壊すのは至難の業だと油断しきっていた俺は、なんとはなしに「魔法で直せる」と口走った。

 その瞬間、魔女の目から輝きが消えた。

「直せないぞ」

「え?」

「パソコンとやらは、壊れてしまうと直せない」

 わくわくを隠そうともしない魔女を見ていて、俺自身もちょっとわくわくしていたのだな、ということをようやく自覚する。高ぶっていた鼓動がどんどん静まっていくのがわかった。頭が冷えていく。

「え、なんで……? 知ることのルールには触れないし、目の届く範囲ならなんでも思い通りになるのでは……?」

「そうだ、思い通りになる。逆にいえば、思い描かなければ魔法は使えない。パソコンを直すといっても、無知な私には「直った状態」がわからない。だから、いつか私がパソコンについて熟知すればその時は別だけれど、今壊れてしまったらそれはもう直せない」

「……な、なんと」

 思わぬ落とし穴、魔法の隠されたルール。思い描けることなら人間はいつか技術を発展させて必ず実現することができるなんて言うけれど、根本的なところでは魔女もそれと同じだったということか。

 想像さえできないことは絶対に実現できない。人間も魔女も、そのルールは共通らしい。すると現代に詳しくない魔女は、もしかしてこの時代においてそれほど強力でもない可能性が出てくるのか……?

「だから念入りに確認している。いいのか? 私が電源を入れてもいいのか……!? 直すという形での責任はとれないぞ……!?」

「いや、いいですよ。普通にボタン押して電源入れるくらいで壊れたりはしないので。賭けてもいいですよ」

「ふ、普通にってなんだ!? どういう力加減で押せばいい……!?」

 だんだんと、俺の脳内に一つの仮説が浮かんできて、それがどんどん確かな形を成していく。……もしかしてこの魔女、ポンコツなんじゃないか……?

「じゃあ、魔女さんが普通だと思う力で一回テーブルを指で押してみてください」

 まさかこれでパソコンの乗ったテーブルが真っ二つになることはないだろう。と高をくくってはいるが、万が一そうなってもそれはそれで平気だ。テーブルを元の形に戻すくらいは魔法でなんとかなるはずだから。

 そうなってくるとむしろ指一本でテーブルが壊されるところを見て、悟空が道着を脱ぎすてたのを見た時みたいな気持ちになりたい気もしてくる。一方、そんな俺の目の前では、美少女が体を震わせながらおそるおそる何もないテーブルの上をプッシュしていた。

「……お、押した」

「今の無理してます……? すごい頑張って力を調節してたとか」

「いや全然、完全に私なりの普通の力で押した」

「じゃあまったく問題ないので電源入れてください」

 さっきよりもさらに緊張した様子で、必要以上にゆっくりゆっくり魔女は電源ボタンを押した。ざわ……ざわ……という音が聞こえてきそうな、謎の緊張感があった。

 結果、当然ながら普通にパソコンが起動した。

「お、おお!! 点いたぞ!」

 俺の今までの人生で、これほど何かに熱狂している人を生で見るのは初めてだった。

 というかたぶん、熱狂した人を見たことがあるかどうかならともかく、現代でパソコンを起動するだけでここまで騒ぐ人を見た人は全人類にまで幅を広げても他にはいないだろう。

 初っ端からこの調子で、精神エネルギー的な意味でお互いの、特に俺の身は持つのだろうか。ちょっと不安になってきたが後には引けない。

「点きましたね。じゃあ次は、このマウスという道具を使います」

 無線式のマウスを取り出して見せる。パソコン本体まで含めて、言うまでもなく俺が普段使っている物である。

「あ、それも見たことだけはあるぞ。右クリックとか左クリックとか、ドラッグとかそういうやつだろう?」

「そうです。よく知ってますね」

「魔女だからな。知識の吸収力には自信がある」

 それは確かに、自信を持つだけのことはあると思う。ただ、だからこそだ。だからこそ、そこまで異次元の優秀さを見せつけてくる人が、パソコンの電源を入れるだけで阿鼻叫喚の大騒ぎをしているとギャップがすごい。

「えーとですね、基本的に使うのは左クリックです。そこのアイコンをクリックしてもらえますか」

「おおー……動く動く……。…………あ、えっ、すまん今なんて言った……?」

 マウスカーソルを動かすことに夢中で人の話を聞きやしない。本気で子どもを相手にしているように思えてきた。魔女は化け物とポンコツを行ったり来たりするものなのだ、という事実に慣れるまでまだしばらくかかりそうだ。

 しかし懐かしき小学生時代を思い返してみれば、確かに俺も初めてパソコンに触った時にマウスカーソルを動かすのに夢中になっていた記憶がある。イライラ棒ゲームにハマっている時期があった。あとで魔女にも教えてあげるといいかもしれない。

「そこのアイコンを左クリックしてください。ブラウザというのが起動するので」

「これか。……あっ、これなんか見たことあるぞ! ここに知りたいことを入れて「検索」とやらをするのだろう!?」

「そうです。さすが詳しい」

 電源ボタンであれだけ騒げる人が検索エンジンの存在はなんとなく知っている事実。彼女に物事を教える時は、一度こちらの常識というか、想定している段階踏みのようなものを捨て去った方が良いと見た。

「さっそく何か検索してみましょう。……って、ローマ字は」

「知ってる」

「さすがです」

 見たことか、小学生にパソコンの使い方を教える気分でいたらこれだ。いや、こちらの負担が少なくなって話が早く進むだけだから良いことずくめなのだけれども。

「何か興味のある単語とかないですか? 検索してみましょう」

「うーむ……」

 夢中になっていたマウスから手を放し、その手をあごに当てて考え始める魔女。そのポーズが癖になっているらしい。

「あ、ゲーム」

「ゲーム?」

「ゲームという物があるのだろう? パソコンでも出来るとか」

「あー、PCゲームはこのパソコンじゃちょっとできないんですけど、でも検索すれば動画くらいは見れますよ」

 封印される前の魔女が生きていた時代でのメジャーな遊びがなんだったのかはイメージでしか知らない。ゴム毬とか、かるたとか、そういうイメージ。実際にどんな遊びをしていたのかは知らないが、そういうイメージがつく時代からやってきた人からすると、確かにゲームはその存在を聞いただけでものすごく興味を惹かれるものなのかもしれない。

「ゲーム……ゲーム……」

 拙いタイピングで検索バーに文字を入力していく。キーボードの上をきょろきょろしながら一文字一文字一生懸命に入力する様子は、なんというか微笑ましくて応援したくなるものだった。

「入力できたら、そこのエンターキーを押してください。一際大きいやつです」

「うむ」

 ターンッと気持ちよく押すことはなく、パズルで最後のピースをはめるみたいに慎重に、そーっとエンターキーが押された。

 ロード画面のような真っ白の状態を一瞬だけ経由して、入力された文字に関連する情報が次々並ぶ画面へと表示が切り替わる。

 それは魔女からすれば、新たな世界が開けていくような感覚だったのかもしれない。

「おおー!! おぉ、おおー!?」

 表示されたのは無料オンラインゲームがなんとかってサイトが複数個と、最近発売が決定したゲームについての記事、動画サイトの「ゲーム」タグの検索結果などなどだった。

「無料オンラインゲームとかいうのはクソなので、とりあえず動画サイトで動画見に行ったりしませんか?」

「わ、わかった!」

 魔女が純粋無垢かつ無知であることを利用して、持論を世の中の常識としてすり込んでいく。まったく躊躇することなくやってしまったが、冷静に考えるとなかなかエグいことをしてしまった。軽い洗脳じゃないかこれは。

 かといって魔女にオンラインゲームに夢中になられてもそれはそれで困る。この好奇心たっぷりな魔女が無料ゲームを無料のままで満足できるとは思えないので、ある意味今のは俺が当然の権利を行使しただけとも言える。

 最終的にこの魔女が社会に馴染んで働くようになったりすれば、その時はソシャゲのこととかも教えてあげればいいのかもしれない。そんな未来が来るのかはまったくわからない、予想できないけれども。

「これクリックしていいのか……?」

 動画サイトで適当に上位の物のサムネを見ていた彼女が、一つの動画に興味を示した。最近流行りのバトルロワイヤル型のTPSゲームだった。

「いいですよ」

 サムネをクリックすると当然動画の再生が始まる。開始早々に男性の肉声が聞こえてきたので、どうやらクリックしたのは実況動画だったようだ。

「わっ、声が。人間の声だよなこれ」

「そうですね。ゲーム実況っていって、素人が喋りながらゲームプレイした動画を投稿するのが結構前から流行ってるんですよ」

「へぇー、なるほど……」

 食い入るように画面を見つめる魔女。そのまま画面に吸い込まれていきそうだった。

「この動画の画面全部ゲームなのか? 真ん中で動いてる人間も」

「そうですよ。その動いてる人間はゲームをプレイしている人がコントローラーで操作してるキャラクターです。あ、このゲームだとパソコンのキーボードとマウスで操作してる可能性もありますけど」

 一応聞かれているので思いつく限りの答えを返すけれど、画面に釘付けになっている魔女の耳に俺の言葉が何割ほど入っていっているのかはわからない。さっきのマウスの件を参考に考えると、最悪一割も入っていないかもしれない。

「このゲームの目的はなんなのだ……?」

「他のプレイヤーが動かすキャラと殺しあって最後の一人まで生き残ることです」

「なっ、物騒だな」

「物騒なことを気軽にできるのがゲームの魅力ですから」

 銃火器を用いてバトルロワイヤルをするゲームも、戦車や戦闘機が登場する戦争のゲームもあるけれど、そういう物はすべて仮想だから楽しめる物だ。ゲームが生まれる前の時代にもチャンバラごっことかはあったと思うけれど、それとはレベルが違う。

「あっ、おい、この今バババババってなってるやつ。これもしかして銃か……!?」

 バババババって。伝わるけれども。

「銃ですね」

「今の銃って、もしかして現実の物もこんなに連射できるのか」

「できますよ」

 画面とにらめっこしたままポカンと口を開ける美少女がいる。俺のすぐ隣にいる。日曜日の過ごし方としてこれはもしかすると最高の贅沢なのかもしれない。

 と、思った矢先だ。

「連射ができるというのは知っていたが、ここまでとは。もっとこういう物を想像していた」

 言った魔女の右手には、いつの間にかマウスではなく銃が握られていた。現代人が想像するマシンガンやハンドガンではない。それは明らかに、誰もが教科書で見たことのある火縄銃だった。

 死をすぐ傍に感じて反射的に魔女の肩を思い切り掴んだ。

「ちょっと待った、なにしようとしてる」

「え、いや私が想像していた連射を見せようと思って」

「ぶっぱなす気ですか。ここで、それを」

「あ、誤解しないでくれよ。ちゃんと安全と防音には配慮するから」

 そういう問題か。仮に音が完全に消去されて、弾は豆鉄砲程度の殺傷力皆無な物になったとして、だからって部屋の中で銃を撃つやつがいるか……!? いるのか、ここに。我々の常識とは違った感性で生きる化け物が。

「いや、そういう問題じゃ」

「じゃあどういう問題なんだ……?」

 反論しているわけではなくて、純粋に疑問に思っているようで、魔女の瞳はビー玉のように澄んでいた。時代は違えども、たぶん俺より遥かに長く生きてきたであろう者が、いったいどうすればそんな瞳を持ったままでいられるのだろう。得体が知れない。

「いや、どういうって、なんかそりゃ、怖いじゃないですか。急に銃出されたら。いや急にじゃなくても」

「安全とわかっていても怖いのか?」

「怖いですよ」

 アメリカに住む人なら違うのかもしれないけれど、現代の日本人としては本物の銃はいくら安全が保障されていようと、発砲が可能な状態で目の前に現れたらその時点で怖い。ショーケースの中に飾っておいてもらわないと。

「そうか、わかった。それならやめておくよ。悪かった」

 使用を諦められた瞬間に、スゥーと空間に溶けるようにして消えた銃を見て、なんだか魔法みたいだなと思ってしまった。まだ頭が現実に適応しきれていないらしい。魔法なんだよ本当に。

「ありがとうございます」

 やり取りも早々に、魔女はまた画面の中の世界に夢中になっていく。ウチにあるゲームを実際にプレイさせたらしばらくぶっ通しで遊び続けそうだ、本人が興味を示せば遊ばせてあげることにしよう。

 ずっと動画を見ていると、いよいよゲームの試合にも一つ決着がついた。実況プレイヤーが生き残って勝利だ。

「……と、まあそんな感じで。動画を見たり調べものをしたり、なんでもできるんですよパソコンって」

「便利な物だな。すさまじく」

「便利ですよー。今の時代ほぼ一家に一台あるくらいで、便利すぎてみんな依存しているほどです」

 俺も割と、その依存している人間に含まれる。パソコンだけならともかく、スマホまで含めると完全に依存している。現代に来た以上、いやむしろ過去から現代に来たからこそ、魔女もきっと依存していくだろう。

「なるほど。魔法みたいだ」

「みたいって、魔法使えるじゃないですか」

「うん? だから似ていると言っている」

「……?」

 どういうことだ、と思ったけれど、すぐに少し意味が理解できたような気がしてきた。

 壊してしまったら魔法でも直せないとわかっている状態になると、普段は余裕にあふれる魔女があれほど精神的に弱っていた。魔法に依存しているのだ。人間がインターネットに依存するのとは、また違ったものだとは思うけれど、確かに似ているのかもしれない。

 ふと、動画に一区切りがついたところで時計を見るととっくに昼を過ぎていて、もはや夕方へ向かわんとする段階にまで針が進んでいた。当然といえば当然だ、俺が起きた時点で十二時を過ぎていたのだから。

「ところで魔女さん、お腹空きません?」

「ん、別に」

「あ、そうですか」

 …………特に話すことがなくなった。魔女は関連動画をどんどん漁って無言で視聴しているし、どうしたものか。俺だけ昼食なんだか朝食なんだかよくわからない食事を取ってしまってもいいのだろうか。

「あっ」

 突然魔女が声を上げた。

「やっぱりお腹空いた」

「え、魔女ってそんな、空腹感が0か1かでできてるんですか……?」

「いや違う。正確には、現代の食べ物を味わってみたくなった」

 なるほど、いかにも過去からの観光客らしい。いよいよお嬢様がインスタント食品を食べて感動するみたいな、そういう感じの展開が来るのか。

 ……と思ったが、しかしそれはどうなんだろう。冷静に考えて本当にインスタント食品でいいのかこの場合。まるでそれが現代代表みたいな扱いを受けないだろうか。最初なのだし、何かもっといいものを食べてもらった方がいい気がする。

 かといって、じゃあ俺が何か作ってお出しするのかといったら、そんなことをする覚悟もない。俺が自分で作れるものといったらカレーくらいのものだぞ。そんなやつが作る料理を、というかカレーを、現代代表として出してしまっていいのか……? すべてのカレーに失礼じゃないか……?

「……どこか食べに行きましょうか」

 結論、プロに任せることにしよう。責任転嫁とも言う。

「えー、私はあれが食べたい」

「あれ?」

 現代の知識を仕入れていた時に何か興味を惹かれる食べ物の情報でも見たのだろうか。パソコンを半端に知って興味津々になっていたみたいに、彼女の中で同じことが何かしらの食べ物で起こっているとか。

「マコトが最初に食べてた、あれ。カップラーメン」

「外のお店にラーメン食べに行きません?」

「いやだ」

 まるで俺の指示にはすべて従いますと言わんばかりの勢いで今まで従順だった魔女が、なぜか急にわがまま少女になってしまった。これがインスタント食品の魔力か……。

 というか、俺の認識もだんだんおかしくなってきている。正しくは魔女がなぜかわがままになったのではなくて、魔女がなぜか今まで従順だっただけだ。本来その気になればわがままじゃ済まされないことでも実行できてしまう力を持った人が、なぜか従順だったことの方がおかしかったのだ。

 人間はこうしていとも簡単に、与えられたぬるま湯的な環境に甘えて慣れて、それを当然のことだと厚かましくも思い込むのである。いい教訓になった、反省しよう。

「なんでカップラーメンを指名するんです……? 店でちゃんとしたのを食べた方が絶対おいしいですよ」

「味以外にも興味があるのだ。元々は食えたものじゃない物が、お湯を注ぐだけでおいしく食べられるようになるのだろう? そんな物が本当に存在するのか自分で確かめたい」

「なるほど」

 魔女様の現代観光へ対する好奇心の大きさは並々ならぬものがある。世界一臭いのきつい缶詰を渡せばそのまま秒で開けそうな恐れなき好奇心だ。

 ともかくご指名が入ったので、別にこの時のために取っておいたわけじゃないけどカップ麺のストックを開放する。俺は昨日ラーメンを食って飽きたので、焼きそばを持ってきた。

「はい、これです。お湯を入れてフタを閉じて三分待つだけで食べれるようになりますよ」

「ふむ」

 説明しているそばから、彼女は硬いままの面を指で取り出してかじった。そういうことするのが好きな子どもか。

「む、このままでも食えないわけでは」

「お湯入れましょ、お湯」

「わかったわかった」

 湯を沸かそうと席を立った瞬間に、何もない空間からカップ麺の容器にお湯が一筋降り注いでいく光景を見た。

「あ、自力でいけるんですね」

「湯は昔から変わらないからな」

 昔から変わらないものはよく知っていて、よく知っているものは自由に創造したり修復したりできる。理屈では魔女の魔法について理解しているつもりなのだけれど、それでもやっぱり無からお湯が注がれている光景にはどうも見慣れない。

「マコトのにも入れてやるから貸せ」

「あ、ありがとうございます」

 ソースとかその他もろもろを取り除いて魔女に渡す。

「なんだ、今何を取った?」

「あ、ソースです。あとから入れるんですよ」

「それが正しい作り方なのか?」

「そうです。ラーメンの方は特にあとから入れる物ないですけど」

 商品によってはそういう物もあるけれど、まあそんなことは後々知っていけばいいことだろう。重要なのは今目の前にあるカップ麺のことだけだ。

「ふぅん。面白いな」

 そうだろうか? 現代人にはいまいちわからない。

 カップ麺で思い出して、排水溝にぶちまけられた残骸を見に立った。斗真からもらった、魔女の封印されていたという石は、真っ二つに割れた状態でゴミとしてそこに残っていた。

「三分経ったぞ、フタを開けていいのか?」

 訊かれて、タイマーをセットし忘れていたことに気付いた。魔女には下手な時計よりも正確な腹時計が標準装備されているのかもしれない。

「どうぞ。あ、えーと箸は」

「持ってる」

「ですよね」

 持ってるというか、いま無から生成したのだろう。きっと食べ終わったら洗う必要もなく消滅させるのだろう。マイ箸の新たな定義が誕生している。

 とりあえず俺は焼きそばの湯切りをしてソースをかけ混ぜる。魔女から見た現代人代表として、彼女の目の前で湯切りに失敗するわけにはいかないのだよ……!

 そうして食卓と化したこの家唯一のテーブルに戻ってきた時には、すでに魔女が麺をすすっていた。そして一口食べたきり、微動だにしなくなっていた。

「…………あの、どうですか……? お口に合わなければ」

「マコト」

 俺の名前を呼ぶその声は、今日一番に深刻な声だった。

「は、はい」

「……私は、感動している」

「はぁ、なるほど」

 怒っているわけでも落ち込んでいるわけでもないらしいから、とりあえずはよかった。布団に入った時は期待はずれみたいな顔をしていたから、またしてもかと少し不安になってしまった。

 なぜそれで俺が不安になるんだという気もするけれど、でもなんというかせっかくなのだし、どうせなら魔女には楽しんでもらいたいと思う。

「人間はこんなに美味しいものを、ここまで手軽に食べられるようになったのだな。しかも安価なのだろう、知っているぞ」

「まあ、そうですね。めっちゃ気軽に買えます」

「いい時代になったなぁ……」

 その言い草が、なんだかものすごくお年寄りのオーラをかもしだしていた。この魔女が実際何歳なのかは、魔法で姿を変えられてしまう以上見当もつかない。

「気に入ってもらえたならよかったです。でもお店で食べるラーメンはもっとおいしいですよ」

「よし明日行こう。連れて行ってくれ、頼む、なんでもする」

 子どもの「一生に一回のお願い!」並みに軽いノリで登場する「なんでもする」というセリフ。たぶん本気でなんでもするつもりで言っているだろうから、軽いノリで聞かされるこっちはそのたびに理性が崩されそうになる。

 本当になんでも……? と聞いてしまった時が、俺が人間として堕ちる時となるに違いない。

「なんでもはしなくていいです。ちゃんと連れていきますから」

「無欲だなぁ。今まで私になんでもと言われて、そんなことを言ったやつはいなかったぞ」

 なにその、私がこうすることで喜ばぬ人間はいなかったみたいな、どっかの帝みたいなセリフは。

 しかし実際、絶大な力を持った美女ともなると、権力者に付け入ることで実質帝並みの権力を握っていた時期があったのかもしれない。魔女だもの、そのくらいの過去があっても不思議じゃない。

「別に無欲ってわけじゃないですけど、ラーメン食べに連れていくくらいで見返りを要求する人もそんな多くないですよ」

 ラーメンを「一食」として捉えると、パパ活とかいう闇の塊みたいな単語が頭をよぎるけれど、まあ基本的に人間はその程度のことで対価を求めないということにしておこう。現代人としてそういうことにしておきたい。

「そういうものか。言われてみれば、確かにそうなのかもしれない」

「そうですよ」

「うむ」

「…………」

「…………」

 積もる話があるわけではないので、特に会話が続くこともなく、そのうち麺をすする音だけが部屋に響き始める。

 実はこの家にはテレビがない。そんな物よりもパソコンを用意するために金を使った結果だ。資金は無限じゃないから、何かしらを切り捨てる必要があった。

 一人暮らしをしているのだから当然今までずっと一人でいたわけで。食事も一人だったわけで。つまり会話に詰まって困るなんてシチュエーションに巡り合うこともなかった。こういう時にテレビがないとものすごく困るのだということに、俺は今初めて気付き始めている。

「そういえばずっと気になっていたのだが」

 口を開いた魔女が、俺に気を遣っていたのかはわからない。彼女ならそうしそうな気も、しなさそうな気もする。

「なんです?」

「マコトは私のことを魔女さんと呼ぶよな」

「他に思いつかなかったので」

「そうか。できればでいいのだけれど、何か名前を付けてくれないか? なんというか、魔女さんは個人的に違和感がある」

 そういえば名付けてくれだとか、そんなようなことを初めに彼女から言われていた気がする。

 どこぞの閣下が「お子さんの名前は悪魔ちゃんですか」と聞かれて「お前は自分の子どもに人間と名付けるのか」と返していた話があったけれど、それと同じでこれまで魔女にはかなり失礼なことをしてしまっていたのかもしれない。だとすれば呼び方に困ったから適当に呼んだというのは言い訳にならない。

「わかりました、命名します」

「うむ、なんでもいいぞ。ハム太郎とか」

 吹き出しそうになる。なんだそのチョイスは、現代のアニメについて調べている時に目について気に入ったりとかしたのか? さすがに魔女のことをハム太郎呼びする勇気はない。

 人間っぽい名前をまじめに考えようとすると、おそらく全国の親が最初に通るような底なしの悩みを経験することになる。そもそも人間の見た目をした魔女に人間の名前をつけると、いよいよふとした時に魔女が魔女であることを忘れそうだ。

 人間っぽいかはともかく、日本人っぽい名前だけは絶対に避けよう。そう方針を決めたら、そこから名前を思いつくまでは一瞬だった。閃きとはこういうことをいうのか、と自分でちょっと関心する。

「なんでもいいですか?」

「ああ」

「じゃあ、ウィズさんで」

「ウィズか。うむ、気に入った」

 じゃあそういうことで、といった感じで魔女はラーメンを食べる作業に戻った。もう麺はなくなったらしくて、容器を持ち傾けて汁を飲んでいる。健康に悪いんじゃないかと思ったところで、そもそも魔女に健康の概念はあるのかと疑問が浮かんだ。しかもさらにそもそもの話をするなら、カップ麺を食ってる時点で健康面はどっこいどっこいだろう。

 って、そうじゃなくて。

「えっ、由来とか聞かないんですか」

「うん? いや、なんでもいいと言ったからな」

 なんでもいいと言ったからには、由来を尋ねる権利は放棄したとでもいうのか。固いこと言わないでほしい。

「いや、聞いてくださいよ」

「聞こう」

 このやりとりいる? ってくらいあっさり聞いてもらえることになったので、俺は渾身の命名由来を語る。

「由来は二つあります。まず、Wizardのwiz」

「なるほど。魔法使いの意味だな。もう一つは?」

「ウィズさん、さっきパソコンに夢中だったでしょう?」

 たぶんその時の俺はものすごいドヤ顔をしていたと思われる。ウィズも若干困惑していた。魔女を困惑させるとは中々のことだ。

「まあ、そうだな。……それが何か関係あるのか?」

「Windowsの略でwis、つまりウィズです!」

 空っぽになったカップ麺の容器を勢いよくテーブルに置いた魔女は、それをサイコキネシス的な何かでゴミ箱まで美しいカーブを描いて飛ばした。当然ナイスインする。だが、それは完全にいらない物なので消滅させてもらって構わないとあとで伝えるべきだろう。

 容器は捨て、マイ箸は消して。完全に手ぶらになったウィズは俺の方をまっすぐ見つめてくる。愛くるしいとはこういうことを言うのかと思った。

 そして、彼女の口から恐ろしき一言がこぼれ落ちる。

「うぃんどーずってなに……?」

 知識というのは、こうして連鎖的に学んでいくものなのだ。俺は今日、身をもってそう知った。

 もう一つ学習したことがある。世の中には、なぜかハム太郎を知っていてウィンドウズを知らない魔女がいることだ。これは二度と忘れない。なぜそうなったのか問いただしてみると、パソコン関係のことはよくわからないので多少読み飛ばしたらしかった。

 さらによく聞いてみれば、彼女がハム太郎のことを桃太郎的な存在だと思い込んでいたことが判明した。

 が、それを笑おうとした時のことだ。

「ちなみに一応言っておくと、ウィザードは男の魔法使いという意味だがな」

「えっ!?」

「魔女はウィッチだ。まあ、どうでもいいがな。ウィズって名前気に入ったから、今さら変更とか言わないでくれよ」

 どっちもどっち、お互いさまだった。英語がどのあたりの時代から日本に伝わってきたのか詳しくないけれど、昨日現代に来たばかりの元々日本在住の魔女に英語を正されたのだ。もう俺も人にとやかく言えない。

 魔女の現代観光はまだまだ楽しみがいっぱい。俺も俺でまだまだ学ぶべきことがいっぱい。……できるだけ楽しんでいこう、そうしよう。

 



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04 魔女を観る

 魔女とカップラーメンを食べた日の夜、俺は彼女がテレビゲームをプレイしている様子を隣に座って眺めていた。ジャンルはアクションRPGで、巷の評判を参考に言って難易度は高い方のゲームだ。俺自身は慣れすぎてよくわからなくなっているが。

 開始してから数分の、ウィズのプレイの有り様ときたらひどかった。生まれて初めてテレビゲームという概念に触れた人にひどかったなんて言うのは酷かもしれないが、そうとしか表現のしようがなかった。

 まず、コントローラーを見つめながらでなければロクに操作ができなかった。となると当然、重要な場面であればあるほど、画面とコントローラーどちらを見るのか選択しなければならなくなる。それもアクションゲームなのにだ。ロールプレイングとかならまだしも、待ったなしのアクションで画面を見られないのは正直言って致命傷だ。

 普通ゲームというのは画面から目を離さないもので、コントローラーは目では見ずに感覚で操作する。改めてそんな言い方をするとものすごく高度な技術のように聞こえるけれど、まったくそんなことはない。いくらゲームが下手な人でも、コントローラーから目を離せないという人は稀だ。

 当然ながらゲームは画面を見ながらプレイすることを前提として作られている。この調子でいくと初心者のウィズには、チュートリアルを超えた先の最初のステージでさえクリアは遠い夢のように思われた。

 だが、彼女はすぐ操作に慣れた。五分も経たなかったかもしれない。ついさっきまで画面とコントローラーを交互に見ていた人が、もう熟練のゲーマーのようなプレイをしている。

 急激な成長に驚く俺の横でポツリとこぼれたそれは、独り言だったのだと思う。

「慣れてきた」

 それからの彼女のプレイはすさまじかった。俺は同じゲームを百時間は遊んでいるが、ウィズは明らかに俺よりも上手くなっていた。初見の罠にこそ引っかかるものの、一度見た場所ではタイムアタックも目指せそうな動きをしている。

 上級者面して見物していた俺は唖然となるが、初見の罠には一つ余さず全て見事に引っかかってくれているのがせめてもの救いか。

 たった一日で現代の言葉と知識を、とりあえず会話に支障が出ないところまで習得してきた魔女の、その魔法とは別の地の恐ろしさを、まさかこんなタイミングで見ることになるとは思わなかった。

「あの、ウィズさん……?」

「ん、なんだ」

 できるだけゲームが切羽詰まっていない場面を選んで話しかける。ボス戦の最中に話しかけようものならキレられそうな集中力を感じたから。

「そろそろ寝ません……?」

 時刻はすでに深夜二十四時を過ぎて、日付が変わっている。と言っても俺が起きたのは正午を過ぎた時間帯だったから、活動時間で言えば十二時間程度である。そういう意味では、時間的に大した問題があるわけじゃないのかもしれない。

 が、明日は月曜日、平日なのだ。俺は大学へ行かなければならない。俺が夜更かしをものともせずにバッチリ朝起きられる人間でないことは、今日の起床時間から察してもらえるのではなかろうか。

「ああ、日付が変わったか」

 時計を一瞬だけ見ると、特に未練もなさそうにウィズはゲームを終了した。……と思ったら、そうでもなかったらしくて。

「また明日遊んでも……?」

 そう言う彼女は強烈にかわいかった。何かのCMかと思った。

「あ、どうぞどうぞ。好きなだけ」

「ありがとう」

 丁寧に手を使ってコントローラーを元の場所に返してから、ウィズは立ち上がって一つ大きく伸びをした。ゴミ捨てはサイコキネシス的な魔法で、お片付けは手を使ってやるところからするに、魔法でのコントロールは自分自身の手を用いることと比べれば不安定なものなのかもしれない。

「歯を磨いてくる」

「あ、はーい」

 寝室(として使っている部屋であって、正式に寝室として作られた部屋なのかは知らない)に敷かれた二組の布団を思い浮かべて、洗面台に向かったウィズを見送る。

 この家には布団が一組しかなかった。それに気付いたのが夜になってからで、こいつはまずいと一時は焦ったものである。焦るというか普通に、目の前に敷かれた自分の布団を明け渡すほかに道はないと思っていた。

 ウィズが平然と自分用の布団をその場で生成したのを見て、そろそろ丸一日経つのだし自分も魔法に慣れていかなければならないなと肝に銘じたのが、ほんの数時間前のことである。だから今、さすがの俺も「歯ブラシが一個しかねえ!」なんて騒いだりはしない。

 ただ、もし一つ騒いでもいいのなら騒ぎたいことがある。この家は大して広くなく、当然寝室も広くはない。むしろ狭いのだ。

 つまりそこで眠ると、ウィズの布団が俺から近くなる。死ぬほど近くなる。お互い意識して壁側に避けて寝なければ、添い寝するのと大して変わらない距離感になってしまうのである。一大事だ。

 一人暮らしの男が美少女と添い寝なんてすれば「うひょー! 最高!」では済まない。俺の理性は「なんでもする」と言われることには耐えたけれど、実際に息もかかりそうな距離に接近されたあげくに「睡眠」という隙をさらされた場合、その視覚的に強烈な誘惑を振り切れる確証はない。確証はないし自信もない。

 何か使用例が間違っている気がするが、ともかくこれが百聞は一見に如かずというやつだ。言葉よりも実際に見る方が価値は重い。

 それで万が一俺が出来心で手を出して、ウィズに「これからも協力してくれるなら」なんていって受け入れられてしまったら……。俺は弱みにつけ込むゲス野郎になってしまう。法で裁けない悪というやつだ。それは避けたい。

 あれ、いや、ウィズが「無理やりされたんです」と証言すれば負い目のある俺はそのまま法で裁かれるのか? いやそういう問題じゃないわ。とか考えていたところで、洗面所からウィズが帰ってきた。

「マコトは歯みがいたか?」

「いや、まだ」

 仮に虫歯になったとしたら、ウィズの魔法はそれを治してくれるのだろうか。パソコンと違って虫歯は昔からあったはずで、彼女が魔法で何かをなおす際の条件が「なおる、とはどういうことか」を理解していることらしいので、その理屈でいくと虫歯は治せそうに思える。

 なにも医学的な知識がなくたって「健康な歯」を知っていればいいのなら、虫歯を治すことくらいできるのでは。むしろ人間が治すよりも遥かに高度に、治すというより戻せるのでは。

 まあ、そうだったとしても、その魔法をアテにしておんぶに抱っこの状態になるつもりはないけれど。

「先に寝ててくれていいですからね」

「了解」

 歯を磨きに向かう途中で気付いた。寝室の問題、俺が居間で寝れば解決するだけの話じゃないか。いつもの癖で寝室に布団を配置したところで脳みそが停止していたんだ。

 寝る支度をすべて終えて寝室に戻ってみると、ウィズはすでに眠りについているようだった。そしてそれを見るとやはり、同じ部屋で寝た場合事実上の添い寝が発生するのは明らかだった。

 隣で眠る魔女を起こさないようにそーっとそーっと、敷いた布団を引きずる形で居間に運び出そうとする。その道中で、なんとなくウィズの寝顔を見てしまった。さらになんとなく、目が離せなくなってしまう。

 めったに感じる物じゃないドキドキ感を覚えて、なんのために布団を運ぼうとしているんだと自分を奮い立たせる。寝室から完全に撤退を完了する頃には、ドキドキ感はむしろ罪悪感に変化していた。女性の寝顔をまじまじと観察するのは褒められたことじゃない。

 居間に布団を敷いて寝るという初めての試みにはまったくドキドキすることなく、俺は明日のためにもさっさと寝ることにした。布団に入って、目を閉じる。そのまましばらくしていれば、いつの間にか眠れるものだ。そういうものだ。

 ……そういえばウィズが眠りにつくのは早かったな。

 目を離してから十分も経っていなかったと思うけれど、魔女でも夜中まで起きていれば眠くなるものなのだろうか。いや、深夜十二時に眠くなるって人間として見ても結構早寝の部類に当たるような。

 そういえば、そもそもウィズは今日何時から起きていたのだろう。俺は昼に起きたけど、彼女は前日からこの時代のことを学ぶためにどこかに出かけていたはずだ。外で寝てきたのか、それとも徹夜だったのか。前者はわざわざそうする必要が感じられないし、後者なら夜中までゲームしたあとマッハで寝るのも納得だ。

 ふと、目覚まし時計をセットしたか記憶が曖昧になって枕元を確認する。寝室から布団と一緒に持ってきたそれは、確かに明日の朝に俺を起こすべくセットされていた。

 でも考えてみれば、ウィズに魔法で起こしてもらうという選択肢もあったんじゃないか。せっかく向こうが願いを叶えてくれると言っているのだから、それくらいのことを頼んでみた方がむしろ良かったのではないか。

 ただ頼むとしても、魔法の性質を完全に理解できている気はまだしないから、頼むなら頼むでそれが可能なのかは彼女が寝る前に聞かなければいけなかったことになる。済んだことだし今日のところは良しとして、また明日聞いてみようか。

「…………」

 …………聞こえる。

 カッ、カッ、カッ、カッ、と、秒針が進む音が聞こえる。俺の耳が日中まったく認識しない音だ。俺が羊を数える代わりに、時計が勝手に秒数を数えてくれる。

 一秒、二秒、三秒……。まだ、まだ、眠れない。やがて十秒……二十秒……三十秒……。

 なぜか唐突に、ウィズの寝顔が俺の頭の中に鮮明に浮かんできた。彼女はすぐ隣の部屋で、ぐっすりと眠っている。一方俺は。

 …………眠れねえッ!!

 

 

 視界が白くぼやけている。何をしていたのか覚えていない。

「コト……。マコト……!」

 誰かが俺を読んでいる。小さな女の子だ。俺は彼女を知っている。

「マコト! こっちこっち!」

 顔がよく見えないけれど、彼女とはずっと仲が良いのだ。それは確かなことだ。俺は呼ばれるがまま彼女の方に駆けていく。何を見せたくて俺を呼んでいるのだろう。きっと楽しいことに違いない。

 なんだか彼女に向かって走っているだけで、なんともいえず心地よい幸福感に包まれる。このままずっと幸せでいたい。毎日冒険して遊ぶんだ。次はどこへ行こう?

「おい、マコト!」

「……んっ!?」

 べしべしと体を叩かれて目が覚める。

 目の前に数字が丸く並んでいた。一から十二まで。ずいぶんと顔に近いせいで、秒針の音がはっきり聞こえる。

「起きたか?」

「ん……うん……」

 魔法で楽に起こしてもらえれば、なんて考えていた気がするけれど、まさか魔女から普通に大声で叩き起こされるとは。

「なあコレ、目覚まし時計ってやつだろう? どんな音が鳴るんだ?」

「どんな音って言われても」

 それを俺に聞くために、目覚ましが鳴るよりも早く起こしたのか? 具体的な時間までは見ていないけれど、昨日はだいぶ遅くまで眠れなかった気がする。遅刻するよりはマシだけど、なんだか体が重い。だるい。

「目覚まし時計の存在は知ってるけど、音は聞いたことないんだ。教えてくれマコト、そういう約束だろう」

「えー……」

 俺が現代のことを教える代わりに、ウィズは俺の願いを叶える約束。とは言っても、ウィズの魔法には一定のルールがあるから、叶える願いは可能なものに限られる……。

 って、そうだ、それは俺も同じだ。

「どう説明していいのかわからない。出来る限りのことしか教えられないって、言ったはずだ、確か」

「むぅ、それはそうだが」

「というか、鳴るまで待って実際聞けばいいのでは?」

 百聞は一見に如かずだ。この場合は実際に聞くことが「一見」に当たる。

 と、至極当然のアドバイスをしたつもりだったが、ウィズは納得いっていなさそうな顔をして未練あり気に目覚まし時計を持ったままだ。

「いつ鳴るんだ……?」

「ん……あと五分」

「五分! それなら待とう」

 目覚まし時計の存在だけを学んだらしい彼女は、そのセットの仕方を知らなかったらしい。手に持ったそれが何時に鳴るようにセットされた物なのかも、見ただけでは判断できないということか。

 うきうきした顔で時計を床に置き、その前に正座するウィズ。大好きなアニメが始まる直前にテレビ前で待機している子どものようだった。俺も昔はそれくらい夢中になるものがあったっけなぁ……。

 睡眠時間が足りないと、どうも頭が冴えなくていけない。おそらく十分な睡眠を取っていれば目が覚めた瞬間に「こんな美少女が俺を起こしてくれるなんて!」みたいな気持ちになっていたはずなんだけど……。今はダメだ、美少女とか全然どうでもいい、大学行きたくない。

 のそのそと立ち上がって、亡者のように生気のない動きで朝食とする物を探す俺の姿に、目覚まし時計に釘付けだったウィズが何かを感じ取ったらしい。立ち上がってこっちに近寄ってきた。

「マコト、もしかして調子悪いのか……? 大丈夫か、熱とかあるんじゃ……」

「いや、大丈夫ですよ。ただの寝不足なんで」

 昼飯食う頃には朝方調子でなかったことも忘れてるよ、くらいの意味で言った。心配無用だぜって意味で。

 しかしすり寄ってくるようだったウィズが、何か取り返しのつかないことをしてしまったような重々しい語調で言った。

「す、すまない。私のせいで……」

 なぜ謝られたのかわからなかったが、ウィズがらしくもなく不安そのものといった様子でうつむいていた。会って数日で「らしさ」の何がわかるのかも、そもそもいま何が起こっているのかもわからない。が、なぜか良心は痛む。

「な、なにがです……?」

「私が昨日遅くまでゲームしてたから、マコトが寝れなかったんだろう……?」

「ち、違いますよ。そうじゃないです」

 言われて初めて、なるほどそういうことかと、一応ウィズの思考回路を理解することはできた。理解はできたが、共感はできない。なんでそうなる……? 何にでも自分に責任を感じる気弱なタイプには見えないが。

 ……いや、どうだろう。案外そのあたりはデリケートなのかもしれない。瞬間移動で突然現れるウィズに俺が驚いた時にも、彼女は自分に非があると言っていた。

「昨日は俺が勝手に眠れなくなっただけで。あの時間から普通に寝てれば寝不足にはなりませんよ」

「私が原因なんじゃないのか……?」

「……うーん」

 言葉に詰まる。原因がウィズだったのかというと、ある意味イエスだ。仮にあの時ゲームをやっていたのが斗真のような男友達で、その後あいつが泊まることになっても、俺はその日いつもと変わらずにぐっすりと眠っていたはず。

 つまりは女の子が同じ屋根の下にいると思うと落ち着かず眠れませんでした、というのが答えになるわけだけれど。そんなこと今の状況で言ったら「存在するだけで迷惑です」と言っているようなものだもんなぁ……。どうするべきか、この状況。

「何か私に原因があったなら、今度から改める。言ってくれ」

 なぜか過剰に心細そうな魔女を鎮めるため。そう、仮に俺に「出ていけ」と言われても痛くもかゆくもないはずの魔女が、なぜか心細そうにしているので、そんな彼女のために。

 俺は適当にはぐらかすことにした。

「あー、ウィズさんに原因はないですよ。なぜか眠れなくなる日ってあるんですよね、たまに。原因不明で」

「そうなのか……? もしかして現代の人間にはそういうことが」

「ありますあります。個人差があるので、全然ないって人もいますけど。俺はあります」

「へぇー……そうなのか……」

 さっきまで不安そうだったウィズの表情が、急に「実に面白い」とか言い出しそうな研究者風の、自分の内面に潜っていくような真剣なものになった。

 ほぼ嘘と言ってしまっていいような情報を刷り込んでしまって良心が痛む。原因無しで眠れなくなる人なんかいるものか。俺にも原因はあったし、不眠症の人だって不眠症になる原因があるだろうに。しかし、こう答えるしか俺には思いつかなかった。

 真実をそのまま話していればきっと俺の良心はもっと痛んでいたはずだし、ウィズも何かしら嫌な思いをしていたはず。だから、これで良かったはず。魔女よ許してくれ、人間は弱いのだ……。

 と、そんな時に。

 ジリリリリリリッ!! と予想外の大音量が俺の耳になだれ込んできた。

「うわっ!」

 本当にこれでよかったのだろうか……なんて悩んでいたところだったので、言うほど大した爆音でもないのに心臓が跳ね上がった。

 一方、魔女は大はしゃぎだ。

「おおー! これか、これか!」

 床に置かれたそれを拾い上げて、彼女にだけ波の音でも聞こえているんじゃないかと思えるほど穏やかな表情で、ウィズは鳴り響き続ける目覚まし時計を耳に当てていた。さすがにゼロ距離だと鼓膜が心配だ。

「……あの、うるさいんで満足したら止めてもらえると」

「どうやって止めるんだ?」

「そこの上のところの大きいボタンを」

 どうぞいつでも押してくださいと言わんばかりにデカデカと配置されたボタンが押されて、朝のなんともいえない静けさが帰ってきた。ちょうどいいタイミングで外からチュンチュンとスズメの鳴き声も聞こえてくる。

「よく出来た物だなぁ、目覚まし時計」

 どこに関心しているのかわからないが、ウィズは鳴りやんだ後も時計をあらゆる角度から観察している。俺は台所の棚から朝食用のクリームパンを見つけた。冷蔵庫の牛乳も出してきてさっさと食べる。

「あれ、そういえばウィズさん朝なに食べます? このパンとか……?」

 五個入りのクリームパンのうち残り四個を差し出して聞く。返事はなかったが、パンは一つウィズの手中に収まりかじられていった。

 カップ麺を食べた時と同じように、しばらく咀嚼したあとウィズは一切の動きを停止する。この魔女、毎度そのリアクションで疲れないのだろうか。

「マコト、これはいくらで買った」

「百何十円かで買った気がします」

「そうかぁ」

 かじった残りのパンを口に放り込むと、彼女は二つ目のパンに手を付けた。直感が、四つ全部食べられることを予言する。

「喉に詰まりません……?」

 コップに入れた牛乳を渡すとそれも一口で飲み干す。で、三つ目のパンをかじる。食べている量は普通なのに大食い選手権的なオーラを感じるというか、貪り食うという言葉がものすごく似合う光景だった。

 ちなみに昨日の夜はゲームを始める前にカレーを食べている。散々迷った末のレトルトだったが、その時にも今と同じような反応を見たのでそろそろ魔女の餌付けにも慣れてきた。たぶんこの人、何食べても救助された遭難者みたいな勢いになるんだ。

 結局、案の定四つのパンをすべて胃袋に収めたウィズ。満足そうだった。

「これはクリームパンという物なんだよな。つまり、パンなんだよな?」

「そうですね」

 ついさっきまで食べていた物を思い出すかのように。もしくは、遥か前の時代の思い出を掘り起こすかのように。ウィズは遠い目で宙を見つめながら話し始める。

「パンは食べたことがあるんだ」

「そうなんですか」

 彼女がいた時代の日本にもパンがあったのか! と驚きはするけれど、そもそもパンがいつ頃日本に伝わったのか、詳しいことを俺は知らない。

「けど、ちょっと違う感じだったな。何よりクリームとやらは初めて食べた」

 愚問だと思いつつも、聞く。

「クリームは口に合いましたか」

「合うなんてものじゃない。革命だと思ったよ」

 でしょうね、とはさすがに言わない。するとウィズが続けた。

「だが今のところ、同じ感想をこの時代の食べ物すべてに抱いている。この程度で毎度驚いていては、キリがないのだろうな。きっと」

 それは同感である。が、そう言いつつもウィズの反応が現代人らしくなる兆しは見られない。これもゲームのように、いつか「慣れてきた」と言って急激に変わっていくのだろうか。それはちょっと寂しい気もする。

 それでも、いつかは彼女も現代の全てに慣れるはず。魔女が人間と同じように、食べたことがないからではなく、おいしいことを知っているからを理由に食べ物を選ぶ日が来るのだ。

 しかしそう考えると逆に、現時点での彼女の食の好みに興味が出てくる。好奇心で食を楽しんでいるように見えるけれど、昔は何か好物とかなかったのだろうか。

「パンは食べたことあるって言ってましたけど、現代にも置いてそうなウィズさんが食べたことのある物で、特別これが好きだって物は何かあります?」

「魚の刺身だな」

「刺身ですか」

「寿司とかいいな」

 なんとなく、言葉の節々に「食べに連れて行ってくれ」という意味合いを感じる。一般の大学生に寿司をねだるのはちょっと無謀というか、正直やめていただきたい。スーパーで売ってるやつでもいいなら話は別だが、遥か昔から寿司が好物だと言う人がそれで満足するとは思えない。

「現代には、寿司が店内を回遊する楽園があるのだろう?」

「ああ」

 回転寿司か。寿司職人は遥か昔からいただろうから、たしかに機械で回転している寿司の方が魔女の目からは目新しく素敵な物に見えるのかもしれない。

 ラッキーだ。回らない寿司は高すぎるからな、大学生でも行けるところという条件が上手く魔女と噛み合った。お互いにラッキーだ。

「今度食べに行きましょうね」

「……なんだか都合が良すぎて不安になるな。マコトの収入源はどうなっているんだ」

「バイトですよ。寿司くらい余裕です」

 一皿百円に限るけどね。

「バイトか……。私もいつかこの時代で働いてみたいものだな」

「ウィズさん昔は働いてたんですか」

「そういう時期もあったよ。遊び歩いていた時期もあった」

 目覚まし時計にあれだけの興味を示す人のことだから、もしかするとずっと昔には「仕事ってなに?」みたいな時代があって、好奇心の赴くままに働いていたりしたのかもしれない。それだと遊び歩いていた時期があることもすんなり飲み込める。要は働きつくして飽きたんじゃないか?

 そうだとすれば現代で再び好奇心をパワーにバイトをしてもらって、寿司のための金を自力で稼いできてくれればそれに越したことはない。ただその場合、戸籍がない魔女がどうやって書類を通すのだろうとか、そもそもこの魔女は人間風情に敬語を使えるのだろうかとか、いろいろ問題が浮上してくるわけだけれども。

「ところでマコト、何か急ぐ用事があるんじゃないのか?」

「あっ、そうだ。やばいやばい」

 目覚まし時計の存在から察してくれたのかもしれない。予期せず若干早起きしたとはいえ、俺はさっさと支度をして大学に行かなければならないのだ。のんびりお喋りしている場合ではない。

 そういえば寝不足による体のだるさは、予想外の魔女の態度にあせっていた時あたりからどこかへ飛んでいった感じがする。結果オーライということか。

「じゃあウィズさん、俺ちょっと出かけてくるんで。夕方か夜まで帰らないと思いますけど大丈夫ですか」

「どこへ行くんだ」

「大学に」

 魔女の目の色が変わった。もちろん比喩で。

「私も行きたい」

「えっ」

 知識としては知っているが、実際に見たこと聞いたことのない物に興味を示す。そんなウィズの性質をそろそろ俺も理解してきた頃だったけれど。けれども、そうか、そうなるのか……。

「いや、でも」

「不審な人物と思われないように魔法で隠れる。それでもダメか……?」

 捨て猫のような目で見つめられた。

 脳みそが冴えてきたおかげで今の俺は、ウィズがどこかの女優みたいな美少女の姿をしていることを正しく認識できている。お喋りするだけで緊張してしまって仕方ないということはなかったけれど、しかしその目は反則だ。

 ここできっぱりダメだと言える人が、きっと人間として優れている人なのだろうなと感じた。ダメなものはダメと言える人間に、俺もできればなりたい。

「……その魔法、絶対なんですよね」

「誓って絶対だ」

「じゃあ、いいですよ」

「やったー!」

 魔女はバンザイをして喜びを全身で表した。魔女を見ながらとても失礼な想像だけれど、つい娘を甘やかしてしまう全国のお父さんの気持ちを少しだけ理解できた気がした。

 しかし冷静に考えてみると、絶対に人から隠れられる魔法があるなら、ウィズはそれを駆使して俺を尾行し大学へ潜入することもできたのではなかろうか……? その魔法、本当に絶対なのだろうか。急に不安になってきた。

 ともかく、覆水盆に返らず。言ってしまったからには仕方ない。俺の人生において初めて、女子と一緒に学校に向かうイベントの発生だ。

 



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05 違和感の遮断

 月曜の朝を行き交う人々は様々。制服を着た学生、スーツを着たサラリーマン、子どもの送り迎えをする主婦。さっきすれ違った私服の中年男性がどこへ行くのかは見当もつかない。

 普段は気にも留めない他人たちが、その目線が、今の俺には無性に気になって仕方がなかった。美少女と並んで歩いているからだろうか。なんだか、偏った天秤になった気分だ。

「大学が始まるのは早いんだな」

 素知らぬ顔で歩くウィズが周囲の人々を露骨に目で追っていた。その道行くコスプレレイヤーを眺める類の物珍し気な視線は、他人にはそれなりに不審者めいた物に見えているはずだ。

 しかし、誰もそんな彼女を気にも留めない。不審者めいた物に見えている「はず」なのに。

「電車で片道一時間かかるんですよ」

「なるほど。遠いな?」

「仕方ないですよ。世の中のサラリーマンだって、そのくらいの通勤時間の人たくさんいるでしょうし」

 挙動不審なウィズが注目されないことにはもちろん理由がある。魔法だ。今現在、彼女には「違和感を遮断する魔法」がかかっているらしい。

 本人の解説いわく、部外者の立場で大学に入りなおかつ絶対に問題を起こさないためには、違和感だとか不審者感だとか異物感だとか、とにかくそういった感覚を他人に与えないようにする魔法を使えばいいらしい。そこに彼女がいることを、すべての人が「普通のことだ」と思い込むようにすればいいらしい。

 しかし、魔法の有効範囲が魔女の目につく範囲に限られることを考慮すると、いちいちすべての他人に魔法をかけることは確実性に欠ける。その上まだ魔法をかけていない人間が近づいて来ないかと、常に気を張っておかなければならない。それは非常に疲れる。

 というわけでそれらの問題を解決するべく、彼女は自分自身に魔法をかけたらしい。他人の違和感を取り去るのではなく、自分自身を「違和感のない存在」に作り替えているらしい。

 理屈としては、仮にウィズから「違和感」という名の光線が放たれているとした場合、すべての人に逐一専用のサングラスを強制着用させることが、他人へ魔法をかけるという行為らしい。もちろん魔法なので、サングラスをかけさせるような物理的なアクションはないけれども。

 一方で自分に魔法をかけるのは、違和感光線をそもそも発生源から遮断する行為らしい。後者が可能だというのなら、前者がいかに無駄な苦労を要する行為なのかが分かる。

 説明されたところでなんだか納得できないというか、しっくり来なかったが、とにかく彼女の魔法はそういう理屈・仕組みで動いているらしい。

「あ、ほら。着きましたよ」

 魔法があるのをいいことにあちこちキョロキョロと見回す不審な美少女を同伴していつもの道を歩いている間に、体感いつもよりも早く最寄り駅に到着した。

 すると予想はしていたものの、ウィズが「おおー!」とテンションの高まった声を上げて、猛ダッシュで駅構内へと向かい俺の視界から消えていった。

 やれやれ、これだから魔女様は。……なんてかっこつけてのんびり歩いているうちに何か予想外のことを起こされても困るので、せっかく早く起きた日に遅刻しないためにも俺はダッシュで魔女を追った。

 魔女いわく、今日は俺にも違和感を遮断する魔法をかけてくれたらしく、俺が公共の場でウィズとどんな素っ頓狂な会話をしていても誰も気に留めないらしい。だから全力ダッシュで彼女を追っても何も恥ずかしいことはないのだ。……いや、誰も気にしなくてもやっぱりちょっと恥ずかしいぞ。

「マコトー、これが券売機というやつか?」

 追いついてみると、幸いウィズは切符売り場の前でおとなしくしていた。「これが電車かー!」とか言って、魔女パワーをフル発揮して走る車両を追って行ったりしてなくてよかった。

「そうですよ。この小銭入れて、数字が光った中で一番高いやつ買ってください」

 目的の駅までの切符をおつりなしでピッタリ買えるように小銭を渡す。

「小銭……ここか?」

「そう、そこに入れる。で、画面をタッチ」

 ジャラジャラと小銭を入れて、初めてのタッチパネルに緊張気味の魔女。画面に触れないように指をさして、

「これか?」

 と確認してくる。

「それです」

 印鑑でも押すかのように力強く、ウィズは正しい切符の値段をタッチした。

 初めて切符を買う子どもを見守る気持ちだった。見た目としてのウィズは若干年下か同い年くらいに見えるのだが、今みたいな時は見た目とのギャップで脳みそが混乱する。幼児退行という言葉が頭をよぎる。

 魔法で他人の目を誤魔化せるなら、いっそ子どもの姿になってもいいんじゃないかと一瞬思った。けれども家に帰ってからその子どもとずっと一緒に過ごすことを考えると、今度はそっちの方で混乱しそうだったから却下だ。誰の子だよこの子ってなる。

「おっ、出てきた」

 取り出し口からシュッと出てくる切符に若干驚きつつも、無事目的の物を手に入れたウィズ。俺はICカードがあるので切符はいらないし、これでやっと電車に乗れる。たったこれだけのことなのに、何かの関門を一つ突破したような気分だ。

「じゃあその切符を改札に通してください。ほら、いかにも切符を入れてくださいって感じのところがあるじゃないですか」

「うむ」

 朝のちょうど人が多い時間帯ということもあって、ホームに電車が来ていないタイミングでも改札を通過していく人間はそれなりにいる。魔女からすればサンプルには困らないわけだ。通り過ぎていく人たちを観察しつつ、恐る恐る切符を投入していく。

 彼女にとって不幸だったのは、今の時代ほとんどの人がICカードで改札を通るので、自分と同じ「切符を使う人」のサンプルが見つからなかったことだろう。機械の中にシュッと勢いよく吸い込まれていった切符に、彼女はまたしても驚き……というかびびっていた。

「おおっ、あ、開いた! バリケードみたいなのが開いたぞマコト!」

 バリケードって。当然切符を通したのだからあの小さなドアのような部分は開く。それだけのことがよほど嬉しかったと見えるそのリアクションは、いよいよマジで子どもじみてきていた。

「早く通らないと閉じますよ」

「えっ」

 吸い込まれた切符はバリケード(仮)の向こう側へ行ってしまった。あれが閉じてしまえばやり直しは出来ない……という思考が魔女の中を駆け巡ったのだろう。閉じるぞと言われた時の、彼女の絶望感ただよう表情はなかなか見れるものではなかった。

 そして音もなく、気付いた時には魔女は改札を抜けて向こう側に立っていた。いつの間に取ったのか切符も手に握っている。消えるように移動した彼女の行ったことが瞬間移動だったのか、それとも高速移動だったのか、俺の目では判断できなかった。

 「早く通らないと」の「はやく」の部分で解釈違いが生まれたと思われる。彼女が過去から来た人間ではなく過去から来た魔女なのだということをそろそろ忘れかけていたところだったが、今一瞬でそれらの現実を思い出した。

 俺が呆然としている間に、ウィズを通した改札のバリケードは静かに閉じた。

「間に合ったか……。おーい、マコトも早く来いよー」

「あ、あぁ」

 ICカードをかざして、普通に改札を抜ける。普通に、人間らしく、何も異次元の力を使わずに抜ける。本来これで通れるものなのだぞ、と伝える意図があったわけではないけれど。

 ホームへ続くエスカレーターを降りる時もウィズは「本当に階段が動いてる……」なんて驚きと感心の混じった声で言って、観察のためかしゃがみこんでいた。しかしすぐに顔を上げる。

「マコトのさっきの、なんとかカードってやつ。あれは切符と違ってかざすだけでいいんだな」

「え、あぁ。そうですね」

「どういう仕組みなんだ?」

 ICカードに磁石を近づけないでね、という注意書きをどこかで見たことを思い出した。逆に言えば、それしか思い出さなかった。

「なんか、磁気でこう……なんかなってるんですよ」

「なるほど」

 まさか今の説明で納得したのか、それとも俺には説明できないということを理解したのか。まあどっちでもいいけど。

「そっちの方が便利そうだな。ほとんどの人が使っているみたいだし」

「そうですね、切符は買うのが面倒なので。……あっ、このカードもお金は使ってるんですよ?」

「わかってるよ。でもそうだなぁ、私もそれが欲しいなぁ」

 めんどくせ、と正直真っ先に思った。ICカードは発行が微妙に面倒だ。というかそもそも、魔女がこの先電車に乗る機会なんてあるのだろうか。目的地さえ知っていれば瞬間移動できるのに。

 というかさらに言えば、目的地がわからなくても適当な電車に魔法での高速移動か何かでついていけばいいんじゃないか? 今日は彼女からすれば未知の物である「電車」を体験するために乗るのだろうけど、他人の目を魔法で誤魔化せるなら今後は電車なんか必要ないのでは。大前提として高速移動による体力消費がないことが必要になりはするけれども。

 いや、それ以前に、そういえばさっき改札を高速移動なんだか瞬間移動なんだかわからない方法で抜けていたけれど、他人の目が誤魔化せて瞬間移動が可能なら切符を買う必要もなかったのか……?

 いやいや、ダメだダメだ。可能かつ有益だからといって、それを理由に悪事に手を染めてはいけない。なんでもすると言われて欲望をさらけ出してはいけないことと同じようにだ。

「このカードは…………ウィズさんがもうちょっと現代に慣れたら作りましょうね」

「ん、慣れたらか。わかった」

 また適当なことを言って、子どもの厄介なおねだりを無かったことにする父親の気持ちとはこんなものだろうか。だとすると「慣れたらっていつ!?」とか詰められると俺も折れてしまいそうなので、そういう部分も含めて全国のお父さんの気持ちがわかったような気がする。

 ウィズをはぐらかしながらエスカレーターからホームに降りて三分程度、すぐに電車は来た。ドアが開いたので普通に乗り込もうとするが、何やら隣の様子がおかしい。

「ウィズさん……?」

 表情から察するに、目の前に走ってきた物の質量とスピード感に圧倒されたらしい。かといって怖がっているわけじゃない、目をキラキラさせている。しかし、悪いが観察する時間はないのだ。

 仕方がない、これは正当な行為だ。自分にそう言い聞かせながら、俺はウィズの手を引いて電車に乗り込んだ。自分から女子の手を握りにいったのは人生初だったけど、これはノーカウント、ノーカウントなんだ。そういうあれじゃないから。

 乗ってすぐにドアが閉じる。その時にぷしゅーと鳴る音でさえも、魔女の興味を十二分に引いたらしい。違和感を遮断する魔法がなければ、部外者どうこう以前に挙動が不審すぎて大学にたどり着くことさえ叶わなかった気がする。魔法があって本当によかった。

 走り出した電車の中で窓にへばりつくようにして外を眺める魔女は放っておいて、俺は空いている席がないか車両全体を見渡してみる。普段からそうであるように、残念ながら一人分も空いてはいなかった。

「こんなに速い物に乗っても一時間かかるのか」

 出入り口の窓から外を眺めたままウィズが話しかけてくる。水辺や山でも見えていればまだしも、外には街の建物が映るだけで何も面白味はないように見えた。

「まあ、遠いですし。というかウィズさん瞬間移動とか出来るみたいですけど、高速移動はできないんですか?」

「できるぞ。この電車よりもずっと速く」

 振り向きもしない、自慢げな声だったわけでもない。何を当然のことを、と言わんばかりだった。俺も当然と言われればその通りだなとは思うけれど、それならなぜ窓に釘付けなのかが分からない。そこから見える景色は、その気になれば自力で見れる物なんじゃないのか。

「それでも電車って興味深い物なんですか……?」

「もちろん。人間がこれを作ったということに価値があるんだ。人間がこれを動かしていることに価値があるんだ。こんな景色を人間も見るようになったんだなぁと、感慨深いよ」

 馬より速く走りたければ、昔は私が運んでやるしかなかったんだ。本当に嬉しそうに、彼女はそう言った。

 これでもかというくらいの上から目線。まるで子どもの成長を見守る親だ。それが魔女なのだと、本来の力関係はそうだったのだと、忘れかけていたことを思い出させられる。そんな力関係の上で今と同じように、きっと彼女は昔から人間と仲良く生きていたのだ。昔からずっと、封印されるまで。

 思えば不思議だ。こんな友好的な人物を封印した人は、なぜそうしたのだろう。悪人を封じ込めたというならわかるが。

「この電車みたいに速く走りたいという人を、昔はウィズさんが運んであげたりしていたんですか」

「何度かやったな。降ろしてやる頃には、大体みんな怖がって二度とは頼んで来なかったが」

 思い出を語る魔女は不満げだった。やってくれというから協力してやったのに、想定していた好意的な反応が返ってこなかった時は、彼女もそれを不満に思うのか。人間らしかったり、人間とかけ離れていたり、まったくよくわからない。

 しかし外の景色が変わるとはいえ、密室の中で一時間揺られて待つのはかなり退屈なことだ。普段は音楽を聴いたりしている俺だけれど、電車の中で話し相手がいるというのはなかなか嬉しいことなのだと初めて知った。

 大昔に生きていた、それもただの人間ではなく、人間の世界に混じって生きていた魔女の思い出話だ。ネタが尽きることはないだろう。

「ウィズさん空も飛べるみたいですけど、昔も飛んでたんですか?」

「もちろん。でも昔は今ほど高い建物はほとんどなかったよ。今は意識して高度を上げないと、見下ろしている気分になれない」

「見下ろしたいんですか」

「他意はないぞ。ただやっぱり、開けたところを飛ぶのは楽しいじゃないか」

「いや、飛んだことないのでわからないですけど」

「今度飛ばしてみてやろうか?」

「たぶん二度とは頼まなくなってしまうので遠慮しときます」

「なんだ、マコトは高所恐怖症か」

「そういうわけじゃないんですけどね」

「じゃあどうして?」

「高いところに登ったことはあったし平気でしたけど、登るのと飛ぶのは別ですよ。飛んでいるんじゃない、かっこよく落ちているんだという言葉がありまして」

 通り過ぎていく駅の名前が、どんどん目的地に近くなっていく。いつもより早い気がする。いっそ面倒な大学なんて、このまま終点まで走っていってサボってしまおうかと思った。

 もちろんそんな一時のテンションに身を任せることはしないが。そもそもウィズは大学という施設の見学に来ているわけで。そういう意味でもサボることはあり得ない。

 やがて俺たち二人が電車を降りる時が来る。結局いくら俺にも好奇心があったところで、さすがに「なんで封印されたんですか」という話を振ることはできなかった。

 

 

 今度はウィズも普通に歩いて改札を抜けて、そこからしばらく徒歩で移動すればいよいよ俺の所属する大学にたどり着いた。いよいよも何も毎日通っているのだけれど、今日はなんだか「いよいよ」という感じがする。

 建物が見えてきた段階でウィズがすでにわくわくしていることは察知した。しかし目的地に足を踏み入れての彼女の第一声は予想の斜め上をいった。

「別行動にしないか?」

 保護者になったつもりはない。見ていたからといって何かあった時に俺が魔女を止められる気もしないし、逆にかばってあげられる気も正直しない。別行動をしてはいけない理由は事実上ほぼ存在しないことになる。

しかし、しかし気の問題で、二つ返事でいいよとは言えなかった。不安だからだ。この魔女は携帯電話も持っていないからだ。

「なにゆえ」

「大学というのがこんなに広い場所だとは思わなかった。探検したい」

「探検って……」

 子どもかよ、と思うと同時に自分の小学校時代を思い出す。探検冒険アテのない旅大好きなあの頃の俺が、大学施設内を自由に走り回ることを許されていたなら……。そんな楽しそうな話をスルーするわけがない、間違いなく飛びついていただろう。

「もう一度聞きますけど、魔法があれば絶対に、ぜーったいに何があっても大丈夫なんですよね?」

「絶対だとも。何度でも言うぞ、万が一にも私が問題を起こすことはない。マコトに迷惑をかけることはない」

 数名の男女が俺とウィズの横を通り抜けて中に入っていく。誰もこちらを、ちらりとも見はしなかった。

「……いいですよ。好きに見てまわってきてください」

「話がわかる人間は大好きだ! またあとで会おう!」

 言うが早いか、エンジンが付いているかのような速さでウィズはどこかへと走り去っていった。もっとのんびり見てまわればいいのではないかとツッコみたかったが、もはやその背中は俺の視界から抜け出してしまっている。

 と思ったら、去っていった時の倍くらいのスピードで帰ってきた。

「帰りに落ち合う時間と場所だけ決めておこう」

 ウィズの魔法のルールは、自分の目の届く範囲が射程限界であることと、知ることが出来ないこと。一度別れたあと再会しようとする場面では、そのために便利な魔法を使うことはおそらく不可能だと思われる。

 考えればわかることなのに、危うく俺もあのまま彼女を見送るところだった。携帯電話などの通信機器をウィズが持っていないというのは思ったよりも致命的だ。不安なんて一言じゃ済ませられない。

「それもそうですね。じゃあ落ち合う場所はここにしましょう。時間は……」

 俺のスケジュールを考えて正確な時刻を決めることは簡単だが、外せない都合というのは俺の意思に関係なく唐突に現れる。直接話して伝える以外の連絡手段が一切ないとなると、万が一待たせてもアレだし、どうしたものか……。

「日が傾いて来たら、定期的に私がここに戻るようにする。それでどうだ?」

「あ、わかりました。そうしましょう」

 こっちが多少待つ分には構わないかと判断して了承する。それになんとなく、この魔女はそれほど相手を待たせることはない気がする。

 今まで彼女があらゆる物に興味を引かれていたことを考えると、何かしらの見物に夢中になって戻ってこないなんて展開も容易に想像できるけれど、たぶんそれは俺の考え違いなのだと思う。人間に迷惑をかけるということに、なぜかウィズはすごく敏感な気がするから。

「じゃあ、今度こそ。またあとで会おう!」

「はーい、またあとで」

 特に深く考えずこっちが手を振ると、彼女も気づいて振り返してくれた。妙なところで律儀だ。

 ともかく俺もここへ遊びに来たわけではない。単位を取るべく、しかるべき場所に向かうことにしよう。

 ……と、魔女と別れてから少し時間が経って、一コマ目の講義を受けていた時のこと。講義が始まってから二十分くらい経った頃に、早くも彼女はやってきた。

「おーい、マコトー!」

 教室内に響く、どこか自信に満ちた若い女性の声。ものすごく聞き覚えがあった。大体俺のことをマコトと呼ぶ女性は、実の母ともう一人しかいない。

 何考えてんだと罵詈雑言を内心で吐きつつ、声がする方を向くと案の定ウィズがいた。教室の出入り口のあたりに立って、友達を見つけてテンションの上がった子どもみたいに大きく手を振っている。

 状況的に授業参観の親ポジションは彼女の方かもしれないけど、そんなくだらないことはどうでもいい。俺はあわてて周囲を見回す。突然乱入してきた謎の女に、もしくは俺の名前を記憶している人間がいれば俺に対しても、奇異の視線が注がれているのではないかと思うと恐ろしかった。

 ……が、実際は誰一人見向きもしていなかった。教授に至っては講義を止める気配も一切ない。まだウグイスの鳴き声でも聞こえてきた方が誰かが興味を示すのではないかと思えるほど、全員が全員完璧に無関心だった。

 こ、これが魔法……? 魔法の力ってすごい。

「いやー、偶然見つけたんだよ。これは今あれか、授業をやっているのか?」

 当然の権利だというように教室に入ってくるウィズ。しかも電車の中と同じノリで俺に話しかけてくる。が、それだって気に留める人はいない。俺以外には。

 ところで考えてみれば、違和感を遮断する魔法をウィズは自分にかけているはずなのに、なぜ俺はそんな彼女に違和感を覚えることができるのだろう。こんな場面でそんな素朴な疑問に気付きたくはなかった。

「あの、ウィズさん、今あれなんで。そう、授業中なんで」

「あ、邪魔だったか……?」

「邪魔ってわけじゃないですけど。でもほら、あの、集中力とか? あるじゃないですか」

「そ、そうだな。すまない、いろいろ見れて少し興奮していて……」

 アニメなら頭から汗のマークがちょちょっと飛び出しそうな焦り方で、ウィズは自分の顔の前で手のひらを合わて「ごめんなさい!」のポーズをした。

 そのポーズは「ごっめーん遅れちゃった!」みたいな時とか「お願い!少しだけお金貸して……!」みたいな時に使う物のはずなので、彼女が人間と同じ感覚でそうしているなら本当にテンション上がりまくりの状態だ。楽しめているのは何よりだけど、ただ今だけは、俺に見えないところで楽しんでくれるとさらに良い。

「楽しんでいるなら何よりです」

「うむ、迷惑かけて悪かったな、約束だったのに。それじゃあ」

 これ以上迷惑をかけないために一刻も早くと思ったのか、それともうっかり乱入してしまったこの場から逃げだしたかったのか、魔女は走り去るどころかその場で消えた。瞬間移動だ。

 突然大声と共に乱入しても平気なのだから、瞬間移動で突然消えたり現れたりするところを誰かに見られたって問題ないのだろう。万が一もあり得ないほど絶対に安全だというのは嘘ではなかった。彼女の魔法へ対する自信の根拠を、いま身をもって知った。

 しかしその後の講義の内容はほぼ頭に入ってこなかったので、万が一これで支障が出ることがあればウィズにアンキパン的なアイテムを魔法で作ることを要請するはめになりそうだ。いや、それは「知ることはできない」のルールに触れるのだろうか……?

 そうだったとしたらもう、今のは野犬が迷い込んできたということにして諦めるか。別にそれでもいい気がしてきた。

 

 

 あれ以降特に変わったことはなく、昼になったので俺は食堂へ向かっていた。

 すると、違和感を覚えない魔法の効果がなぜか俺にだけ適用されないせいだろうか。同じく食堂へ向かう人混みの中に、ウィズが平然とまぎれているところを自分でも驚くくらい瞬時に発見した。やはり俺には彼女が違和感というか、部外者感その物の存在に見える。

 違和感遮断の魔法は俺にもかかっている。講義中にウィズが来た時に彼女のことはもちろん、動揺する俺のことさえ誰も気に留めなかったことからそれはすでに証明されている。ならば魔法を信じて、魔法の効果を踏まえた上で行動するのが道理。

「おーい! ウィズさーん!」

 大声で呼んでから後悔した。確かに呼ばれたウィズ本人以外は、俺のことなど存在さえしていないかのように無視してくれていたが、それはそれとして普通に恥ずかしい。羞恥心は他人の反応とは無関係に発生するのだと知った。

 せっかく魔法があるのだからと、他人に構わず大声で叫んだけれど、大声を控える理由は自分が恥ずかしいからというだけで十分なのだとこれで学んだ。もう二度としない。

 そんな決意を固める俺のもとに、川の流れのようになって進む人たちの中を器用に交わしてすり抜けながらウィズが近寄ってきた。その光景を見るとその時だけ、なぜかウィズがただの人間に見えた。

「あ、マコト。昼を過ぎてから大勢が同じ方向に向かい始めたんだが、これはもしかして」

「昼食ですよ。食堂があるんです」

「やっぱりか!」

 あからさまに魔女の目が輝きだす。好奇心の中でも、食に関することは彼女の中で若干ランクが高いことなのかもしれない。

「食堂に着いたら切符を買うみたいに食券を買うんですよ。それと引き換えに昼食を受け取るんです」

「なるほど。……ちなみにその食券を手に入れるには」

「はい、これです」

 とりあえず何があってもいいように千円札を渡す。大学構内の食堂はかなり安めの値段設定になっているので、この千円もってしてもどうにもならなかった場合はさすがに手に追いきれない。そういう意味での、ボーダーラインの千円だ。

 てっきり俺は、ウィズがそれを受け取ってうきうき気分でさっさと食堂に駆けていくと思っていた。だが実際には千円札を握りしめた彼女が、うきうきどころかむしろ足取りを重くしたように見えた。

「……マコト」

「はい」

「マコトは私にいくら金を使った……?」

「え?」

 まず思いついたのは今朝の電車賃だ。往復となるとそれなりの金額になるはずだが、あれ、いくらだったかな……。十の位が思い出せない。

 他に、今までウィズが食べてきた食料を恩着せがましく数にいれると、そこそこの数字は出てくるけれど。それでも大した額じゃない。俺も一緒に食べたので大きく見えるだけで、彼女が胃に収めた分だけなら真面目に千円に達していないのではないだろうか。……それはそれで問題があるように思えてきた。

「さあ、憶えてないですね」

「でも、私が何も返せていないことはわかるだろう……?」

「返す、ですか」

 知っていることを教える代わりに願いを叶えてもらう約束。「教える」に食べ物を与えることが含まれるなら、確かに俺には与えただけの願いを叶えてもらう権利があるのかもしれない。

 だけど、人間より遥かに優れた魔女という存在に数百円を奢ったところで、いったいどれだけの権利が発生するものなんだろうか。うまい棒が何本かもらえるくらいじゃないのか。

「いいんですよ別に。俺が何も願い事を思いつかないのがそもそもですし」

「でも、これでは魔女のプライドが許さない……!」

「な、なんですかそれは」

「魔女としてのプライドだよ。人間から施しを受けるだけじゃあ、魔女の名が泣く」

 魔女が高位の存在だということを思い切り前提とした話だった。俺は元々そういう風に考えていたけれど、本人もモロに同じ考えらしい。電車内での会話からなんとなく察せられた部分ではあるが、そもそも魔女が傲慢な存在なのか謙虚な存在なのか全然わからない。プライドって何なんだ。

 単純に考えれば、施しうんぬんを抜きにして「ドラゴンボール集めて呼び出されたシェンロンが願い事を叶えずに帰る」ようなものなのかもしれない。だとすればプライドというのもなんかわかる気がするし、ここは何か願っておかなければならない気がする。たとえそれがギャルのパンティーおくれだったとしても。

「そう言われても、俺の方も大したことはしてませんけどね。……でも、せっかくそう言ってもらえるなら、一つ願い事をいいですか」

「なんでもいいぞ!」

 なんでもという言葉から献身の気持ちだけでなく、自分の魔法への絶大なる自信を感じる。

 そんなに人の願いを叶えたいとは、俺には理解できない珍しい趣味だとしか言えない。他人に迷惑をかけないようにとは俺も日ごろから思うけれど、他人を幸せにしたいとまでは思わないからなぁ。

 魔女ほどの高位の者になると、自分の人生に余裕が出てきて考え方も変わってくるのかもしれない。ウィズの精神は本人のみぞ知るとして、客観的に見て突然現代によみがえった人生そのものに余裕があるようには見えないけれど。

「本当になんでもいいんですか?」

「ああ、なんでもだ」

「じゃあ……」

 なんでも、なんでも、と何回も言われると、だんだん「なんでも」の意味がわからなくなってくる。だって彼女はなんでもと言う割に、故障したパソコンを直すことはできないのだから、元々それはなんでもではないのだ。

 彼女の魔法の特性をよく理解して願わなければならない。まだ俺の知らない特性が隠されているのかもしれないが、とりあえずそれは考えないことにして。

 そして、これまでのことを踏まえて俺がウィズに願うことは一つだ。たった一つだけ、これは彼女に願うしかないということがある。

 俺はウィズに願いを伝えた。彼女は若干いぶかしげにしつつもそれを承諾してくれた。そしてなぜその願いにしたのかという話をする前に、ウィズにとっては未知の世界、食堂に到着してしまう。

 当然、その話はお預けとなった。

 




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