ARIA―ゴンドラ職人の少女― (竜華零)
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ARIA―ゴンドラ職人の少女―

「ん……ん~、ん……? あさぁ……?」

 

 

 朝と言うにはやや早い、空が白み始めた時刻、1人の少女が目を覚ました。

 ショートパンツとTシャツに覆われた身体を「んっ」と伸ばすと、豊かな胸元が薄いシャツを押し上げる。

 そして170センチ弱の細身の身体は、次の瞬間には腹筋の力だけで跳ね起きた。

 

 

 軽いジャンプで少女のお尻が離れ、古く安っぽい木製のベッドが軋む。

 肩甲骨の辺りまで伸びた黒髪は寝癖で左右に広がっているが、顔を洗った少女はそれを手馴れた様子で梳き、最後には瑪瑙のバレッタを用いて頭の後ろに髪を束ねてしまった。

 そしてショートパンツをあっさりと脱ぎ捨てて、代わりに壁にかけてあった薄汚れた衣服を手に取った。

 

 

「さぁてぇ、今日も仕事がたんまりですよぉっと~♪」

 

 

 などと歌いながら着込むのは深緑色の作業着だ、所々に泥や油の汚れ跡が染み付いている古い物だ。

 見れば、古く安っぽいその部屋は女性の部屋と言うには少々華やかさに欠けていた。

 壁には小さなボートのような乗り物の図面やスケジュール付きのメモ書きが何枚も貼り付けていて、棚や机の上には木槌やヤスリなどの工具が並べられている。

 

 

 女性の部屋と言うより大工の工房のようだが、そうかと思えば枕元に猫のぬいぐるみが置いてあったりして、妙な所で少女らしい可愛らしさが見え隠れしていた。

 着替えを終えた彼女は鼻歌を歌いながら、両手で窓を開けた。

 ガタガタ揺れる木製の枠に嵌められたガラス戸を押し開くと、揺れるカーテンと共に冷たい朝の空気が室内に入り込んできた。

 

 

「お、パールちゃん! 起きたのかい!」

「おはよう、パールちゃん!」

「あ、皆! おっはよ――ぅっ! 今日も良い天気だな!」

 

 

 外に出てまず目にするのは、桟橋で洗顔や体操をしていた男達だ。

 彼らは皆一様に日に焼けた赤銅色の肌をしていて、身体は鍛え上げられて筋肉質だった。

 白のノースリーブシャツに作業服のパンツと言う格好も一緒だ、作業服の色合いはパールと呼ばれた少女の作業着とも一致する深緑だ。

 

 

 パールと彼らは、職人だった。

 それもただの職人では無く、街の水路を渡る専用ゴンドラを作る船大工だ。

 彼女らはゴンドラ工房である「スクエーロ」と言う施設に住み込みで働き、親方の指導の下で技術を磨く兄妹弟子で同僚なのだ。

 

 

「んん~~っ、さて! じゃ、すぐに皆の朝飯作るからなっ!」

「おーう、今日も楽しみにしてるぜ!」

「パールちゃんの飯はギガウマだからな!」

「おっ、嬉しいこと言ってくれるじゃーん!」

 

 

 彼女の視界には、彼女達が暮らす街がある。

 地面の代わりに無数の水路や運河が張り巡らされたその街は、まさに「水の都」と言うに相応しい。

 車も馬も走らない、代わりにゴンドラが人や物を運ぶ世界。

 水面(みなも)とさざ波の音がその世界には満ちていて、パールは静かな音に満ちたこの街が好きだった。

 

 

「……ネオ・ヴェネツィアの朝、だな」

 

 

 観光都市ネオ・ヴェネツィア、西暦2300年代に惑星地球化改造(テラフォーミング)された火星に再建された「新たなるヴェネツィア」だ。

 かつて地球(マンホーム)に存在していた都市を火星の地に再現し始めて150年、地表の9割を水に覆われた水の惑星で彼女は生きていた。

 パール・V・アドリアと言う、18歳のゴンドラ職人の少女が。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 人々が火星の地に地球上の都市を再現し始めてからすでに150年、中でもネオ・ヴェネツィアは独特の雰囲気を持つ観光都市だ。

 この街を有名にしているのは、観光客専門の水先案内人の存在だ。

 若い女性によって営まれるこの職業はネオ・ヴェネツィアの花形であり、人々からは親しみを込めて「ウンディーネ」と呼ばれている。

 

 

 伝統的な(ゴンドラ)の漕ぎ手、水の妖精の名をとって水先案内人(ウンディーネ)

 彼女達はネオ・ヴェネツィアの象徴(イメージ)であり、アイドルだ。

 だが彼女達も、自分達の力だけでそんな華やかなイメージを得たわけでは無い。

 それ一つだけで存在できる産業など無い、水先案内人もそれは同じ。

 そしてそんな彼女達の商売道具、ゴンドラ、それを作るのが……パール達ゴンドラ職人である。

 

 

「おいパール、客だぁ! 舟卸マーズ・ヴェネツィアのクルズさん!」

「はぁ――いっ! お疲れ様でぇ――すっ!」

「「「お疲れ様っすぁ――っっ!!」」」

 

 

 パールの働く工房(スクエーロ)「サン・ウェネティ」は、職人15人から成る中規模工房だ。

 ネオ・ヴェネツィアでゴンドラを必要とする職種は多い、水先案内人はもちろん水上販売員や一般家庭にもゴンドラは供給されている。

 サン・ウェネティの職人1人1人に十数の企業・個人の顧客が割り振られていて、彼らは締め切りに間に合うようゴンドラを作りつつ、毎日のように工房を訪れる顧客と会っている。

 

 

 その中には当然パールも含まれていて、彼女は工具を置くと作りかけのゴンドラの下から這い出てきた。

 丸太を削ったような剥き出しの木材がゴンドラへと姿を変えていくのは、まるで魔法のようだ。

 さらにここで造られる1艇1艇のゴンドラがネオ・ヴェネツィアの人々の生活を支えていて、だからパールは自分と兄弟子達の仕事に誇りを持っていた。

 

 

「はいはいっとぉ、いつもお世話になってますっ」

「ああ、アドリアさん。相変わらず元気そうで何よりです」

「いやいや、元気だけがとりえなんでっ。それで、今日はどんな御用で? と言うかクルズさん、今日はお休みの日じゃ?」

「ええ、近くまで来たもので早めに話しておこうかと……この前に話したゴンドラの納期についてなのですが。やはりお客様は10日早めてほしいと」

「10日!? いや、それはちょっと……」

 

 

 工房にやって来るのは、何もゴンドラを直接使う業者だけでは無い。

 例えば卸業者や商社など、顧客と工房を繋ぐ機能を担う企業の担当者なども顧客だ。

 パールなどはまだ若輩だから、ゴンドラ自体の受注よりちょっとした修繕や情報提供などの仕事が重要になってくるのだ。

 

 

 とは言え無理な物は無理だし、御用聞きになるつもりも無い、顧客は一つでは無いのだ。

 顧客の要望に可能な限り応えつつも、出来ないことは出来ないと言って交渉する。

 それが一人前と言うもので、さらにその上で仕事を取って来れれば一流だ。

 ゴンドラを造る腕前だけを磨けば良いと言うものでは無く、なかなか難しいのだ。

 

 

「それでは納期は3日縮めて頂いて、こちらからお客様に直送すると言う形で」

「はい、じゃあそれでー……って」

「こんにちは」

「こ……こんにちは」

 

 

 顧客を工房の桟橋まで送ると、そこで見知った顔に出会った。

 1人は美女、そして1人は美少女である。

 どうやらパールの顧客をここまで乗せてきた水先案内人(ウンディーネ)らしく、休日の観光ついでに寄っただけと言うのは本当のようだった。

 

 

「晃姐さん、こんにちは」

「ああ、頑張ってるみたいじゃん」

 

 

 ――――水の三大妖精、と言うベテラン水先案内人(ウンディーネ)がいる。

 業界最高峰に君臨する3人の水先案内人のことを尊敬を込めてそう呼ぶ、ネオ・ヴェネツィアで知らぬ者のいない3人。

 晃・E・フェラーリは、その3人の内の1人だ。

 

 

 艶やかで長い黒髪とメリハリのあるスタイルの美女で、白基調の生地に赤のラインを染めた制服が異常に似合っている。

 所属企業はネオ・ヴェネツィアでも老舗中の老舗、100艇ものゴンドラを保有する「姫屋」だ。

 そのトップを張っているのが、<真紅の薔薇(クリムゾンローズ)>の二つ名を持つ晃なのだ。

 

 

「あれ、晃姐さんオールは……って、ああ」

「そ、後輩の演習に付き合ってるわけ。って、おい藍華、何隠れてんだよ」

「べ、別に隠れてるわけじゃ……」

「隠れてるだろーがよ……」

 

 

 呆れたような声を出す晃、それを物珍しい目で見ていると、彼女の陰から1人の少女が姿を現した。

 着ている制服は晃と同じだが、右手に半人前(シングル)を示す片手袋を嵌めている。

 綺麗に編みこまれた黒髪と大きな瞳が特徴の少女で、造形は完成された美少女のそれだ。

 だが今は、何故か困惑したような視線をパールに向けている。

 

 

「別に、気にしなくても良いってのに」

「そ、そう言うわけにはいかないわ……です」

「敬語とかもいらないって、あたしは別に先輩ってわけじゃ無いんだしさ」

 

 

 その少女の名は藍華・S・グランチェスタ、先に説明した姫屋の経営者の娘だ。

 いわゆる跡取り娘と言うわけで、業界最高峰の1人である晃の下についているのとは無関係では無いだろう。

 そして今オールを持っているのは晃では無く、藍華の方だ。

 

 

 そしてパールと藍華の間にはちょっとした確執があり、そのことが今の藍華のオドオドした態度を生み出していた。

 本来の藍華はもっと自信に溢れていて、言いたいことをハキハキ喋る娘だ。

 それがこうなっているのは、パールの過去の経歴とも無関係では無い。

 姫屋と直接の取引関係に無いパールが晃と知り合いなのも、その経歴のせいだ。

 

 

『途中でリタイアした人に、教えて貰うことなんて無いわ!』

 

 

 昔、藍華に言われた言葉がパールの脳裏を掠める。

 もちろん今の藍華はそのことについて謝罪の意思を持っていてくれているし、パール自身怒りを覚えたりはしていない。

 だけど、本当に気にしなくて良いのにとパールは思う。

 

 

 藍華の言葉は、何も間違っていないのだから。

 だから気にしなくて良いと、パールは笑う。

 そうすることで藍華の、この素直じゃない後輩の心の負担が少しでも軽くなるのならと。

 だから、パールは快活な笑顔を浮かべるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 客と晃を乗せてゴンドラが、藍華の操船で水路を進んでいく。

 片足を上げてオールを操る独特の操船、狭い水路を細かく刻むように進むための技術だ。

 片手袋(シングル)ながら迷いの無いゴンドラの動きに、パールは藍華の才能を見た気がした。

 軽く頭を下げる藍華に軽く手を振った後、パールは工房に戻るべき背を向けた。

 

 

「~~~~♪」

「お?」

 

 

 その時、藍華達が去って行ったのとは別の水路から綺麗な歌声が聞こえた。

 澄み切ったその歌声は周囲の時間を止めているようにすら思えて、パールはふとそちらへと足を向けた。

 石造りの通路を一本進めば、幾重にも橋がかかった通りに出た。

 

 

 オレンジの屋根瓦と石灰色のレンガで出来た家々の間、蒼い水面が揺れる運河が視界に飛び込んで来た。

 運河の上には多くのゴンドラが浮かんでいて、さながら水上のショッピングモールだった。

 お昼時が近いからか、美味しそうな匂いが鼻腔を擽ってきた。

 

 

「お……やっぱり、アテナ姐さんじゃん」

 

 

 運河の中央、観光客らしい若夫婦を乗せたゴンドラが見える。

 ゆったりと揺れる水面を静かに進むゴンドラを操船するのは、褐色の肌の美女だった。

 白生地に黄色のラインを引かれた制服は業界2位の大手水先案内店「オレンジぷらねっと」のもので、ゴンドラの上で涼やかな歌……舟謳(カンツォーネ)を歌うのが、水の三大妖精の一角にしてエースのアテナ・グローリーだ。

 

 

「流石は<天上の謳声(セイレーン)>、通りの人が皆足を止めちゃってるよ」

 

 

 笑いながらそう言うパール、実際、通りの人々はほぼ全員が足を止めて運河を見ていた。

 紫がかったショートの銀髪の美女、しかも謳声が絶品となれば嫌でも目と耳を奪われるだろう。

 実はパールの工房はオレンジぷらねっとのゴンドラの定期点検を一部請け負っている、120艇ものゴンドラを抱えるオレンジぷらねっとの定期点検は街の大事業の一つだ。

 

 

 橋の欄干に顎を乗せるようにして立って、パールはあてなのゴンドラが橋をくぐるのを見送った。

 その時、アテナの操るゴンドラにもう1人少女が乗っていることに気付いた。

 ゴンドラ中央の添乗席に座っているのは、長いエメラルドグリーンの髪の少女だ。

 そしてパールはその娘のことも知っていた、彼女にとっては後輩にあたる両手袋(ペア)の見習い水先案内人(ウンディーネ)のアリス、アリス・キャロル。

 

 

「藍華と言いアリスと言い、今年は天才が多いねぇ」

 

 

 ひらひらと手を振れば、橋の下に入る際にアリスがこちらに気が付いて会釈してきた。

 あまり表情が変化しない大人しい少女だが、14歳と言う義務教育期間中にも関わらずスカウトされた操船の天才だ。

 入社と同時にエースであるアテナの下に推された事実は、アリスが藍華と同じく将来を嘱望されている大型新人であることの証だ。

 

 

「あっ、おいパールちゃん! こんな所でサボって……親方にどやされるぜ!」

「やっば! すぐ戻るよっ!」

 

 

 そう言えばまだ仕事だった、パールはアテナの舟謳(カンツォーネ)を耳に聞きながら駆け出した。

 人にはそれぞれに仕事があり、そこに優劣など存在しない。

 だからパールは、自分の職場へと駆けることが出来るのだ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アリシア・フローレンスと言えば、ネオ・ヴェネツィアでその名前を知らない者はいないだろう。

 水の三大妖精の一角でありながら「業界最高」と謳われ、自身が15歳の時に打ち立てた手袋なし(プリマ)――1人前の水先案内人(ウンディーネ)の証――への最年少昇格記録を未だ保持し、ゴンドラ協会から再三に渡って理事入りを求められている才媛だ。

 

 

 オール捌きは無駄が無く美しい、地理・風俗・歴史に深い造詣がありながら謙虚で、彼女の慈愛と美貌に惹かれて彼女のゴンドラを何ヶ月も前から予約する者が何人もいる。

 ついた二つ名は<白き妖精(スノーホワイト)>、所属するのは社員2名・所属艇3隻の弱小水先案内人(ウンディーネ)店「ARIAカンパニー」。

 だが多くの教え子を持った晃やアテナと違い、彼女が持った教え子はたった「2人」だけだった。

 

 

「ん……んー、ん――っ!」

 

 

 午後、そろそろ夕焼けが見えるかどうかと言う時間帯、パールは外にいた。

 進水間近のゴンドラの最終調整を行うためであって、彼女は台の下に潜り込んでゴンドラの底の寸法を確認していたのだ。

 修正箇所を見つけたは良いが、ズリズリとゴンドラの下を移動しながらの作業だったため、最初の位置に置いたままの工具に手が届かなかった。

 

 

 息を詰めて手を伸ばすがやはり届かない、パールはしばらく頑張った後に力を抜いた。

 ぐでん、とその場に伸びて息を吐く。

 仕方ない、這い出て工具を引っ張って来ようと諦めたその時だ。

 

 

「はい、どうぞ」

「あ、あり……」

 

 

 ぽん、と手の中に目当ての工具を置かれて、お礼を言おうと顔を上げた。

 

 

「……がと、ござい、ます?」

「うふふ、どういたしまして」

 

 

 パールが、大きく目を見開いた。

 そこにいたのはネオ・ヴェネツィア一の美女だった、少なくともパールはそう思っている。

 だから彼女は慌ててゴンドラの下から這い出た、そして今さらながらに油塗れの自分の格好が気になってしまって、弱った顔で慰め程度に手で払ったりしていた。

 それを見て、相手の女性はクスクスと笑っている。

 

 

「あ、アリシア姐さん! ど、どうして……!」

「ちょっと近くまで来たものだから、様子を見に来たの。迷惑だったかしら?」

「い、いや、アリシア姐さんに対して迷惑とか、そんなの思うわけが無いって言うか」

 

 

 しどろもどろになるパールに、アリシアは目元を細めて微笑む。

 柔和な微笑はそれだけで見る者の心を穏やかにするが、パールは少し違う心地だった。

 ……「あれ」からもう3年、流石に昔ほどビクついたりはしなくなったが。

 

 

「修行、順調のようね」

「おかげさまで……それで、あの、ARIAカンパニーの方は、どんな感じ、なのかな」

「ええ、1人新人が入ったの。3年ぶりの、そして2人目の後輩だわ」

 

 

 とっても素直で可愛い子よ、と言って笑うアリシアを、パールは見つめていた。

 何の陰も無いアリシアの微笑み、だがそれはかつて、確実に一度は悲しみに歪んでしまった。

 そしてアリシアにそうさせたのは他でも無い、パール自身なのだ。

 その意味で、実はパールは藍華のことは言えない。

 何故なら、パール自身が過去に囚われているのだから。

 

 

「大丈夫」

「……っ」

 

 

 そんなパールの心を感じたのか、アリシアはあくまで柔和にそう言った。

 息を詰めるパールに、そして物陰からこちらの様子を窺っている工房の兄弟子達の視線に微笑みながら、アリシアは自分よりも少し高い位置にあるパールの頭を撫でた。

 労わるように、慰めるように。

 1つしか違わないはずなのに、何故かそれ以上の年齢差を感じてしまう。

 

 

「貴女が気にすることは何も無いのよ。貴女はただ、自分が進むべき道を見つけただけ」

 

 

 ――――かつて、と言ってもたった3年前の話だ。

 最年少で手袋なし(プリマ)となったアリシアは、ARIAカンパニーに1人の新人を迎え入れた。

 折りしも先代経営者が退いたカンパニーをアリシア1人で支えることは負担が大きく、将来を見据えた行動であったと言える。

 アリシアが手袋なし(プリマ)になって、2年目のことだった。

 

 

 その新人はアリシアの指導の下でメキメキと頭角を現した、当時他の三大妖精である晃やアテナが見ていた教え子に比して成長が叩く、丁寧な操船と良く通る声が持ち味の水先案内人(ウンディーネ)見習いだった。

 流石に手袋なし(プリマ)昇格最年少記録は無理だったが、それでも極めて短い期間で一人前になれるだろうと期待されていた。

 

 

「だから、大丈夫」

「……はい」

 

 

 ARIAカンパニーでその新人が所持していたオールのナンバーは、「5」。

 しかしその新人は結局、手袋なし(プリマ)になることは無かった。

 才能が足りなかったわけでも、努力が不足していたわけでも無い、実力は十分にあった。

 辞めてしまったのだ。

 

 

 自分の道は他にあると言い、ARIAカンパニーを退社した。

 アリシアの下を、去って行った。

 そしてその新人こそが、パールだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――3年前。

 ARIAカンパニーの社屋、社員が住み込みで使っているリビング・ルーム。

 そこで1人の少女が、自身とそう年の離れていないだろう少女に対して頭を下げていた。

 床に額を擦り付けるようなその体勢は、いわゆる土下座と言う物だった。

 

 

『……すみません……っ、アリシア姐さん!』

 

 

 白地に蒼の制服、ARIAカンパニーを纏った2人は同僚だった。

 同僚で、そして師弟だった。

 16歳ですでに業界最高の位置にあった少女アリシアと、そのアリシアが初めて取った弟子パール。

 静かな面持ちでパールを見下ろすアリシアと、泣きながら床に額を叩き付けるパール。

 

 

 15歳のパールの片手には手袋が嵌められていた、彼女は今日、両手袋(ペア)から片手袋(シングル)へと昇格したばかりだった。

 その祝いのためなのだろう、リビングのテーブルの上には色とりどりの料理が並んでいる。

 だがパールは、その横で跪いているのだった。

 

 

『あ、あたし……あたし、水先案内人(ウンディーネ)にはなれない……!』

 

 

 タイミングとしては最悪だったろう、昇格試験の当日にそんなことを言うのだから。

 それもパールの師はただの水先案内人(ウンディーネ)では無い、水の三大妖精の一角なのだ。

 事は2人だけの問題では無く、まして修行途中でリタイアなど、アリシアの体面に傷をつけることに他ならない。

 それでも、パールはこのまま水先案内人(ウンディーネ)になることは出来なかった。

 

 

『あたし……ゴンドラ職人に、なりたいんだ』

 

 

 最初は自分でも、自分は水先案内人(ウンディーネ)になりたいんだと思っていた。

 だが見習いとしてアリシアの営業に同行し、片手袋(シングル)昇格試験でオールを握って、気付いてしまった。

 思ってしまったのだ。

 

 

 ――――違う、これじゃない。

 

 

 そう思ってしまえば、もう無理だった。

 若者にありがちな飽きでも勘違いでも無い、本当に自分の進みたい道とは違うと気付いてしまったのだ。

 パールはゴンドラが好きだった、だからゴンドラに乗る水先案内人(ウンディーネ)を志したのだが……。

 

 

『すみません……っ、本当に、すみません……!』

 

 

 乗りたいんじゃなく、ゴンドラそのものを造りたい。

 ゴンドラ職人になって、アリシアのような職業人から一般の人まで、多くの人々の生活を支えたい。

 あの美しくも逞しいゴンドラを、自分の手で造りたい。

 パールはそんな自分の想いを訥々と告げたが、それはあくまでパールの都合だ。

 パールの、身勝手だ。

 

 

『――――そう』

 

 

 だが。

 

 

『頑張ってね、応援してる……貴女ならきっと、良いゴンドラ職人になれるわ』

『……アリシア姐さん……』

『泣かないの。ほら、ご馳走を食べましょう?』

 

 

 パールの涙を拭いながら、アリシアは淡く微笑んだ。

 16歳とは思えない気丈さで、彼女は言った。

 

 

『今日は私の後輩が自分の道を見つけた、記念すべき日だもの。ご馳走を冷まさせるのはもったいないわ』

『姐さん……ごめん、ごめんっ……!』

『どうして謝るの? 素晴らしいことじゃない』

『ごめん……!』

 

 

 ――――それが、2人が共有する過去。

 それから3年間、アリシアは弟子を取らずに1人でカンパニーを守り。

 パールはカンパニーと過去を振り返る余裕も無く、ゴンドラ職人として修行を積んで。

 現在に、至っている。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「ぷいにゅ~~~~っ」

「うぇっ?」

 

 

 哀しさを含んだ過去から意識を返すと、パールは自分の顔に何かが張り付いたことに気付いた。

 柔らかい白い毛並みに覆われたそれには、覚えがある。

 だからパールは慌ててそれを顔から引き剥がした、目に飛び込んで来たのは白いぶよぶよした大きな猫である。

 

 

「あ……アリア社長!?」

「あらあら」

 

 

 水先案内人業界には不思議な慣習があり、青い瞳の猫を社長として社屋に置くのだ。

 アリア社長もそうした猫の一匹であり、ARIAカンパニーの社長してパールも良く知っていた。

 そんなアリア社長を腕に抱きながら――油で汚さないように気をつけつつ――パールは前を向いた。

 

 

「アリシアさ――んっ」

 

 

 すると、ARIAカンパニーの制服を着た1人の少女が駆けてくるのが見えた。

 両サイドだけを長く伸ばした薄桃のショートヘア、幼さの残るあどけない顔立ち、どこか制服に「着られている」感があるほっそりとした身体。

 藍華達と同年代なのだろう少女は、人好きしそうな笑顔でやってきた。

 

 

「ああ、灯里(あかり)ちゃん。ごめんなさい、待たせちゃって」

「いえいえ、そんなことは……」

 

 

 灯里と言うらしいその少女は、パールの存在に気付くと小さく首を傾げた。

 どことなくぼんやりとしていて視線を外せない、そんな少女だった。

 灯里の視線に気付いたのは、アリシアは「ああ」と笑って。

 

 

「この人はパールさん、この街一番のゴンドラ職人よ」

「え」

「ほへー、それは凄いですねっ」

「い、いやいや! あたしはまだ一番の下っ端だからな!?」

 

 

 アリシアの紹介を正直に信じたらしい灯里に、パールは慌てて訂正した。

 本当に信じられたら非常に困る、明日から親方の下で働けなくなってしまう。

 

 

「この人はね、灯里ちゃん」

 

 

 素直に尊敬の眼差しを向ける灯里に笑いながら、アリシアが言った。

 

 

「少し前まで、ARIAカンパニーで働いていたのよ。うちに置いてある5番のオールは、元々はこの人が使っていたの」

「何と、そうなんですか!」

「いや、あたしは……途中で辞めちゃったから」

 

 

 紹介してくれるアリシアには悪いが、少々後ろ暗い気持ちでそう言う。

 パールは脱落組であって、そんな尊敬の眼差しを受けられるような人間では無い。

 そう思うから、パールは違うとそう言ったのだ。

 だが、灯里はそこで予想外の行動に出た。

 拳を胸の前で握り締めて、むふーっと笑顔で。

 

 

「じゃあ、センパイですね!」

 

 

 と、言った。

 一瞬、パールは呆気に取られた。

 この娘は、今の話を聞いていたのだろうか?

 

 

「いや、だからあたしは手袋なし(プリマ)になる前に辞めてだな」

「……? でもセンパイはセンパイですよ。それに今は一人前のゴンドラ職人として働いてるんですよね? やっぱり凄いです!」

「う……」

 

 

 キラキラした眼差しを向けられて、パールはあきらかにたじろいでいた。

 だがたじろぐばかりでは無く、次第に胸の奥にもやもやとしたものを感じ始めた。

 何だか良くわからないが、灯里に屈託の無い笑顔で「センパイ」と呼ばれると、むずがゆくなるのだ。

 こう、こしょばゆいと言うか。

 

 

 もじもじし始めたパールを最初は驚いたように見ていたアリシアだが、その表情はいつの間にか柔らかな微笑に変わっていた。

 彼女は知っていた、灯里は人の頑なな心を溶かす力があることに。

 アリシア自身、灯里と過ごすようになって少なからず世界を変えられたのだから。

 

 

「ねぇ、パール」

 

 

 だから、彼女は言った。

 

 

「――――久しぶりに、ゴンドラに乗ってみない?」

「え……?」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「えー、右手をご覧下さい。あちらがマルコポーロ国際空港、火星(アクア)の窓口で――――」

(まぁ、知ってるんだけどな)

 

 

 夕刻に沈みつつある運河を、1艇のゴンドラが進んでいた。

 乗っているのは3人の少女と1匹の猫だ、まず舳先にパール、中程にアリシアとアリア社長、そして後部でオールを持つのが灯里だ。

 パールは、灯里が漕ぐゴンドラに乗っていた。

 

 

 一生懸命だが、たどたどしく頼りない説明が耳に届く。

 緊張しているのか身も固く、それがゴンドラの動きをやや危うくしていた。

 一度など、狭い水路で壁にぶつけてしまったくらいだ。

 操船術の腕前で言えば、「まだまだ頑張りましょう」と言う所だろう。

 3年のブランクがあるパールでも、それくらいはわかる。

 

 

(……でも、何でだろうなぁ)

 

 

 だがそんな灯里に対して、パールは何も言わない。

 それは、かつて自分も水先案内人(ウンディーネ)を目指していたが故なのか。

 それとも今の自分は客だから、片手袋(シングル)の半人前の操船にいちいち何かを言うつもりが無いからなのか。

 

 

「続いてサンマルコ広場です、ここには街の名物とも言える時計塔と――――」

(ああ……)

 

 

 だが、一つだけわかっていることがある。

 この娘、この後輩、灯里の操船は……どこか、優しい。

 乗っている人間に火星(アクア)の魅力を知ってほしい、楽しい想いをしてほしい、この素晴らしいネオ・ヴェネツィアの街並みを、どうか好きになってほしい。

 ゴンドラから、声から、そんな灯里の気持ちが伝わってくる気がした。

 

 

 そして、もう一つ。

 どうしてアリシアが、今一度水先案内人(ウンディーネ)のゴンドラに乗るよう勧めたのか。

 その理由に今、パールは気付いた。

 

 

「柱の上にある獅子の石像、あれは旧約聖書に登場する――――」

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの魅力を話す声、優しく揺れるゴンドラ、頬を撫でる風と木材の軋みを感じる手。

 その全ては、3年前にパールが感じていた物だ。

 3年前のパールが同じように、そして当たり前のように感じていた世界だ。

 ARIAカンパニーを退社してから、どこか引け目を感じて近寄らなかった世界だった。

 

 

 それを今、パールは思い出していた。

 アリシアはアリア社長を膝に抱きながら、一度も振り返らないパールの背中を見つめていた。

 彼女がどんな想いでパールを誘ったのかはわからないし、灯里を引き合わせたのかはわからない。

 だがそれでも、アリシアの想いはパールに届いたと信じたい。

 何故なら。

 

 

火星(アクア)の自転周期は地球(マンホーム)とほぼ同じで、一日は24時間なのですが――――」

「……………………っ」

 

 

 ――――どうしてか、涙が止まらなかったから。

 街の説明に一生懸命な灯里にはまだ気付けない、震えもしないパールが振り向かない限りは。

 だから灯里の透き通るような声はずっと響き続けて、パールの胸を締め付け続けた。

 

 

 ああ、そうだ。

 パールは気付いた、思い出した。

 自分は「ここ」から脱落した人間だが、それでも。

 それでも、今でも「ここ」を愛しているのだと言うことに。

 

 

「…………センパイ?」

「…………」

 

 

 ……まだ。

 まだダメだ、振り向けない。

 だからパールは振り向かなかった、銅像のように身を止めて動かなかった。

 

 

 だからそれからしばらくの間、パールは灯里の声に応じなかった。

 戸惑う後輩に悪いとは思いつつも、それでも。

 もう少し。

 もう少しだけ、このままでいたかった。

 

 

「センパイ? あの、大丈夫ですか?」

 

 

 ――――もう、少しだけ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 それから数日後、パールは今までと変わらずサン・ウェネティで働いていた。

 水先案内人(ウンディーネ)業界に対する……と言うより、ARIAカンパニーとアリシアに対する引け目を多少払拭できたとは言え、それでもゴンドラ職人に対する想いに影響は無い。

 パールはあくまで、一人前のゴンドラ職人として働きたいと思っていた。

 

 

「おーいっ、パール! 客だぁっ! ご新規さんでお前をご指名だとよ!」

「あ――いっ! 誰ですか親方ぁっ!」

「ARIAカンパニーの娘っ子さんだ! 名前は」

「灯里ッッ!」

「お、おう、何だ知り合いか……?」

 

 

 自分を押しのける勢いでやってきたパールに、普段は豪腕を唸らせる親方がたじろいでいた。

 だがパールにはもはや親方など見えていなかった、工房の入り口でちょこんと立って待っている灯里の下へと駆け寄った。

 彼女は「自分を動物に例えると?」と言う問いには常に「オオカミ」と答えていた、もしそうなら今の彼女の尻尾はぶんぶん振られていることだろう。

 

 

「何だ何だ。あたしに何か用事なのか、おい?」

「あ、センパイ」

「ばっかお前、先輩なんてよせって! 何だよぉ馬鹿、お前」

 

 

 見知らぬ工房で緊張していたのだろう、パールの姿を認めると灯里がほっとした表情を浮かべた。

 それにパールは身をくねらせながら頬をひくつかせる、我慢を強いているようだが、普段の彼女を知る親方や兄弟子達は気味悪がっていた。

 

 

「パ、パールちゃん、どうしたんだ?」

「わかんねぇけど、何かやけに上機嫌だな」

「つーか、くねくねしてて気持ち悪ぃな……」

 

 

 一方のパールはそんなこと聞いちゃいない、ただただ灯里の笑顔に癒されていた。

 何だかんだで18歳、工房はもちろんかつてのARIAカンパニーでも一番の下っ端だった彼女は、実は本当の意味で後輩を持ったことが無かった。

 まぁ、つまり何が言いたいのかと言うと。

 

 

「何か困ってるのか? 何か必要なのかよ、何でも言えよオイ」

「いえいえ、流石に何でもセンパイに頼るわけにはいかないですっ。でも、今日はお願いがあって……」

「あ、何だよ何だよ。お前、もうホントしょうのない奴だなぁったくよぉ~~」

 

 

 デレデレなのである。

 今もやに下がった顔で工具を作業服に装備し始めていて、どこかうずうずしていた。

 この数日、何も変わっていないように見えてパールも変わっていたのだ。

 事あるごとに灯里のことを兄弟子達に話し、ARIAカンパニーのことを話し、その度にテンション高く……にやけていた。

 

 

「実は、水路の壁にゴンドラをぶつけちゃって……」

「あん? ああ、このくらいなら全然大丈夫大丈夫! すぐ直せるから、ちょっとそこの木陰で座って待ってな」

「あ、あの、出来ればセンパイのお仕事を近くで見たいんですけど……ダメ、ですか?」

 

 

 首を傾げて聞いてくる灯里に、パールから何かが撃ち抜かれたような音が聞こえた。

 彼女はそこら中の木材やら何やらをかき集め――る振りをして――灯里に背を向けると、かなりニヤつきながら。

 

 

「ばっかお前、あたしの仕事なんて見たって地味で何も面白くねーだろ!」

「そんなこと無いです! 私、センパイのお仕事って凄いと思います。私達がゴンドラでお客さんを案内できるのも、センパイみたいな人達が頑張ってくれているおかげですもんね!」

「……親方ぁ! 倉庫から一番良い木材持ってって良いスかぁ!?」

「てめぇの給料から代金差っ引いて良いならな!」

「ありやぁ――っス!」

「え、いや、それはダメですよね!?」

 

 

 水の都、ネオ・ヴェネツィア。

 そこでは華やかな水先案内人(ウンディーネ)達が活躍している陰で、多くの人々が営みを紡いでいる。

 だが、欠けて良い存在は1人としていない。

 

 

 人々は優しい水面と共に生き、時に休み、そして時に挫折を経験して大きくなっていくのだ。

 人は、火星(アクア)と共に生きていく。

 優しく、そして厳しいこの惑星で。

 

 

「おお、凄いですセンパイッ! でもどうして壊れてない部分も手入れしてくれるんですか……?」

「ばっかお前、仕事にはサービスがつきもんだろーがよ!」

「そ、そうですよね。勉強になります!」

「おうよ!」

 

 

 ――――彼女達は、生きている。

 




最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
ARIAの短編をお送りしました、実はこれを描くために初めて本を買いました。
読んでみると、とても穏やかな物語で……それでいて、人間情緒溢れる良い作品だと思いました。

今回の短編は、そうした物語を描いてみたいと言う欲求から来たものです。
はたして、雰囲気とキャラクターを再現できているでしょうか。
それでは、またどこかでお会いしましょう。


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