【完結】偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ (月島しいる)
しおりを挟む

01話

個人サイトと並行掲載しています。


「我が名はアルヴィクトラ・ヴェーネ。虐殺皇帝の血を引く唯一の者である」

 広間にまだ幼い皇帝の声が響いた。

 それまで熱線と剣戟が煌めいていた広間は一瞬で静まり返り、声の主であるまだ十四歳の皇帝に視線が集まる。

 皇帝アルヴィクトラは悪意の満ちた視線に怯む事なく、その端正な顔を壮絶な笑みで歪めた。

「余の血が欲しいなら、求めるがいい。そして、無駄と知れ。我が魔剣はお前達のくだらない理想を食い尽くし、その血肉とするだろう」

 アルヴィクトラはゆっくりと広間の中央に進み、禍々しい装飾が施された長剣を構えた。

「求めよ。そして、奪うがよい。欲しよ。そして足掻くがよい。虐殺皇帝の後継者、このアルヴィクトラ・ヴェーネが司る魔力特性は"絶念の檻"。全ての望みを切り捨て、無に還す特性。さあ、絶望に身を沈めるがよい」

 咆哮があがった。

 広間に集まっていた騎士たちは、それぞれの武器を構えてアルヴィクトラのもとへ殺到する。

 それを阻止しようと、別の騎士たちがアルヴィクトラの前に広がり守ろうとする。

 クーデターだった。

 その兆しは、前々からあった。

 先帝の悪政に、国は疲弊していた。崩壊は時間の問題だった。

 頭席の騎士に二心の動きが見られた時から、アルヴィクトラは自身の中に流れる血が絶える必要を知った。

 運命に逆らえば、大きな派閥闘争に繋がる事は易々と予想できた。そして、この機に国を割れば増長する隣国に呑み込まれることも予想できた。だからアルヴィクトラはより強い悪を演じる事を選択した。それが、この結果だった。

 アルヴィクトラは、邪悪を演じる。宝剣を魔剣と偽り、邪悪な仮面を浮かべる。

 国力を落とすつもりは、ない。最後まで付き従ってくれた部下たちには適当なところで退くように命じている。そして、アルヴィクトラ・ヴェーネは壮大な死を迎えるのだ。

 悪くない。

 アルヴィクトラは宝剣を構え、大きく息を吸った。死の香りがした。

 殺到する騎士たちの間に、閃光が煌めく。吹き飛んだ護衛の向こうから一人の男が突っ込んでくる。

 帝国騎傑団序列二位、バルト・リーク。

 国内でも屈指の魔剣士であり、今回のクーデターの中心人物。

「その首、貰うぞ!」

 バルトの突撃を防ごうと、護衛が動く。バルトはそれを軽々と抜き去ると、アルヴィクトラのもとへ肉薄した。

 アルヴィクトラは、嗤った。

 この男には、理想を実現するだけの力がある。権力に擦りよってくる者たちを叩き伏せるだけの力がある。帝国は彼の者によって完成されるだろう。

「後を、頼みます」

 小声で囁くと、バルトは確かに頷いた。

 そして、その切っ先がアルヴィクトラの胸元へと吸い込まれていく。

「陛下!」

 女の悲鳴。

 同時に、轟音と閃光が世界を支配する。

 アルヴィクトラの胸元へ突き刺さるはずだったバルトの剣先がずれ、腹部を掠める。アルヴィクトは閃光の中、横から衝撃によって無様に吹き飛んだ。

「陛下! 陛下!」

 倒れ伏したアルヴィクトラのもとへ、黒衣を纏った女が駆け寄ってくる。

 帝国騎傑団序列一位にして、頭席魔術師であるリヴェラ・ハイリングだった。

 彼女の魔術で助かったことを理解すると同時に、その魔術の衝撃によって意識が朦朧とした。

「陛下。どうか、お許しください。貴方には生きて頂きます」

 最後に、そんな言葉が耳に届いた。

 

◆◇◆

 

 荒い息が、聞こえた。

 そして、心地良い振動。

 誰かに背負われているのだと、朧げに理解できた。

「誰、ですか?」

 自分でも驚くほど掠れた声が口から零れた。

「リヴェラです。アル様、怪我に触ります。喋らないでください」

 アルヴィクトラは混濁する思考の中、問いかけた。

「私は、生きているのですか?」

「生きています。これからも、生きて頂きます」

「生きている……」

 呟いて、アルヴィクトラは薄く目を開けた。

 暗闇。

 そして、広がる木々。

 山の中のようだった。

「どこへ行くつもりですか?」

「わかりません。追手を振り切るまでです」

 リヴェラが荒い息を吐きながら、淡々と答える。

「リヴェラ。言ったはずです。私の中を巡る血が、生贄として必要なのです」

「高度な政治的判断というものが、私には理解できません。アル様が生贄になったとして、帝国にどういった益があるのですか。既に抵抗勢力は削ぎました。これからようやく改革に取り掛かる事が出来るはずでした。なのに、これ以上多くの血を流す事にどのような意味があるのですか」

「そうすれば、民は納得します」

「私は、納得できません。アル様、貴方に付き従っていた人は、誰一人納得できていません。貴方は世界を善き方向へ導く事ができる人です。少なくとも、私はそう信じています」

 だから、とリヴェラは言葉を続けた。

「だから、生きてください。生きて、光となり、私を導いてください」

 そして、暗闇にリヴェラの荒い息が響く。

 アルヴィクトラは、何も言わなかった。

 

◆◇◆

 

 気付けば、木陰で横になっていた。いつの間にか、意識を失っていたらしい。

 辺りは既に明るくなっていた。

 身を起こすと、腹部に激痛が走った。目をやると、血の痕があった。バルトの剣を腹部に受けたことを思い出す。リヴェラが魔術を行使したようで既に血は止まっていたが、傷ついた肉は元に戻らない。当分、まともに動けそうになかった。

 アルヴィクトラは呻き声をあげながら、周囲を見渡した。

 どこまでも深い緑が広がっている。酷く、静かだった。リヴェラの姿が見当たらない。

 アルヴィクトラは額に嫌な汗を浮かべながら、身体を丸めて楽な姿勢をとった。腹部が熱を持っていて、じわじわと痛んだ。

 どれほどの間、そうやって痛みに耐えていたのかわからない。

 太陽が真上にのぼった時、草木を踏み鳴らす音が聞こえた。顔をあげると、リヴェラが草木の間から戻ってくるところだった。その手には、血が抜かれた小動物の死体が握られていた。

「目を覚ましたのですね。食欲はありますか?」

「……ない、と言えば嘘になります」

 アルヴィクトラの言葉にリヴェラは薄い微笑みを浮かべ、それから解体を始めた。アルヴィクトラは樹の幹に背中を預けながら、それをぼんやりと眺めた。予想以上に体力が落ちているようで、自由に身動きをとることができなかった。

「ここは、静かです」

 解体を続けながら、リヴェラがぽつりと呟く。

「政治などという、わけのわからないものはありません」

 アルヴィクトラはリヴェラをじっと見つめた。

「その政治の中心である私が、嫌いですか?」

「アル様を中心にまで巻き込むから、政治が嫌いなのです」

 ナイフが振り下ろされ、肉が真っ二つになる。

 どこか憎悪の籠った言葉だった。

 アルヴィクトラは何も言わず、解体された肉塊を見つめた。既に生命の名残は消え去り、別の何かになってしまっている。今の私のようだ、と思った。

 リヴェラが火をつけ、肉を焼き始める。香ばしい匂いが、辺りに漂い始めた。

 アルヴィクトラは周囲を警戒するように見渡した。肉食の獣が匂いに釣られてやってくる可能性がある。

 そこで、気づく。

 自分が生きようとしていることに。

 アルヴィクトラは苦笑して、それから泣きたくなった。

 死にたいはずがなかった。

 先帝が、父が病に倒れる前から内部の掌握に努めてきた。当たり前のように生きて、帝国内の平定に尽力するつもりだった。それがいつか、当たり前のように死ぬ事が定めとなり、アルヴィクトラは生贄としての責を全うする為に尽力することとなった。

「アル様?」

 リヴェラの心配する声。

 顔をあげると、焼けた肉を差し出すリヴェラの姿があった。

「食べて下さい。食欲がなくても、です。それと、これを」

 肉と一緒に、三本の枝が差しだされる。

 キートの枝だった。

 中に大量の水分が蓄えられている事から、旅人がよく利用する植物だ。

 アルヴィクトラはすぐに枝を折り、それを口に含んだ。喉の渇きが癒えていく。

「食事を終えたら、すぐに移動しましょう。暗くなるまでに出来るだけ距離を稼ぐ必要があります」

「わかりました」

 頷いて、肉を噛み切る。

 何の味付けもないただの肉を、美味しいと感じたのは初めてのことだった。

 

◆◇◆

 

 リヴェラが荒い息を吐く。

 その背中に担がれたアルヴィクトラは唇を噛んだ。

「リヴェラ、少しくらいなら私も歩けます。下ろしてください」

「少しでも距離を稼ぐ必要があります。ここはまだ危険です」

 リヴェラはそう言って、黙々と険しい山の中を歩き続ける。リヴェラが比較的長身の成人女性で、アルヴィクトラが十四歳の小柄な少年であることを考えても、大きな負担となっていることは間違いない。

「アル様には、生きて頂きます。ただ、生きて下さい。貴方は、もう自由です」

 リヴェラは前を真っすぐと見据えて、言う。その声には、力強い意志が宿っていた。

「先帝の血も、政治的束縛も、高貴なる責任も、全て――」

 そこで、リヴェラは言葉を切った。そして、歩みを止める。

「ヴェガの群れに取り囲まれているようです」

 アルヴィクトラは急いで周囲を見渡した。草木の向こうに複数の気配が感じられた。

「リヴェラ、下ろしてください。私も戦います」

 急いでリヴェラの背中から降りようとする。

 しかし、リヴェラは動じる様子もなく、再び歩き始めた。

「ヴェガが本領を発揮するのは、夜間です。日が高いうちに行動を起こす事はないでしょう。今は一刻も、距離を稼ぐべきです。ヴェガの相手をするのは、向こうが動いてからで構いません」

 そう言って、リヴェラは歩き続ける。それに合わせて、周囲を包囲する獣の気配も移動を続ける。

 アルヴィクトラは落ちつかない様子で周囲を見つめた。

「夜間にヴェガの群れを二人で相手どるのは、危険ではありませんか?」

「危険です。ですが、今は距離を稼ぐべきです。騎傑団の上位グループに遭遇すれば、私一人では何もできません。最も注意すべきは、騎傑団の追手です」

 そこで、アルヴィクトラは今更のように気づく。

 リヴェラが騎傑団序列一位の英傑であることに。

 頭席魔術師の彼女がそこまで追手を恐れるのは、かつての同胞の実力を嫌というほど理解しているからだろう。

 ヴェガの群れなど、騎傑団の前には警戒するに値しない些事でしかない。

「日が落ちてからが勝負です。アル様、それまでに体力を出来るだけ回復させてください」

 アルヴィクトラはゴクリと喉を鳴らした。死が、迫っていた。

 

 日が沈むと、それまで遠巻きに包囲網を形成していたヴェガの群れが露骨に距離を詰めてきた。

 草木の奥から大型の犬のような姿が見えるようになり、定期的に鳴き声が聞こえるようになった。

 リヴェラが無言でアルヴィクトラを背中から下ろし、周囲の獣の居場所を探るように警戒態勢をとる。

 暗闇の中、アルヴィクトラは近くの木によりかかって荒い息を繰り返した。傷口が燃え上がるような熱を持っていた。

「アル様、走れますか?」

「短い距離なら」

 リヴェラが腰を落とし、右腕をすうっと掲げる。

「帝国騎傑団序列一位、リヴェラ・ハイリング。司る魔力特性は"貫通"。参ります」

 名乗りと同時に、彼女の右腕から血のように赤い熱線が放たれる。

 それは暗闇の中、草木を貫いて直進し、草叢の奥に潜んでいた獣を撃ち抜いた。

 木々が、ざわめいた。

 至る所から獣の咆哮が轟き、幾つもの影が暗闇に走る。

「アル様、走って下さい!」

 リヴェラが叫ぶ。

 アルヴィクトラは痛む腹部を抑えながら駆け出した。背後から三頭のヴェガが飛び出し、リヴェラがそれを迎え撃つ。

 ヴェガは四本足の獣だ。体胴長は人の身長を越えるほどの巨体で、鋭い牙と爪を持ち集団で狩りを行う事から、帝都を行き来する行商にとって驚異的な存在として知られていた。

 アルヴィクトラは息を荒げながら走る。

 背後でリヴェラが次々と熱線を放ち、暗闇が赤く染まった。

 獣の雄叫びが途絶えることなく響く。

 群れを統率する個体が狩りの指示を出しているのだろう。

 前方の木陰から、一頭のヴェガが飛び出す。大きく開いた顎から鋭い牙が伸びているのがはっきりと見える距離だった。

 アルヴィクトラは咄嗟に横方向へ身を投げ出した。柔らかい土が、アルヴィクトラの身体を包み込む。

「アル様!」

 リヴェラの悲鳴。

 一撃目を外したヴェガが、方向を変えて再突撃してくるところだった。

 反射的に右腕をあげ、魔力を放出する。

 放出した魔力の一部が汚染されて体内に蓄積する事を示すように、軽い耳鳴りがした。体内に蓄積された魔力の代償に、飛びかかってきた獣の口元が凍りつき、その牙を封じ込める。直後、その獣の身体を熱線が貫いた。

「アル様! 無事ですか!」

 四方に熱線を放ちながら、リヴェラが叫ぶ。

 アルヴィクトラは急いで身を起こし、周囲の状況を確認した。

 ヴェガの群れが引き上げていくところだった。

「アル様! お怪我は?」

 リヴェラがアルの元へ駆け寄り、手を差し出す。

 アルヴィクトラはその手をとって、痛む腹部を抑えた。

「ヴェガは、狩りを諦めたのでしょうか?」

「いえ、様子をうかがっているだけです。今も包囲網を崩していません。定期的に襲撃を繰り返し、心身の疲労が限界を迎えたところで仕留めるつもりでしょう。ヴェガは執念深い獣です。警戒を怠ってはなりません」

 リヴェラが忠告しながら周囲に目を向ける。闇夜の中、ヴェガの姿はどこにも見当たらなかった。

「行きましょう」

 リヴェラが歩き出す。アルヴィクトラも無言で頷いて、その後に続いた。

 長い夜が、始まった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

02話

 歩く度に吐き気がした。

 傷口が熱を持ち、全身を蝕んだ。

 朦朧とする意識の中、アルヴィクトラはリヴェラの後に続いて道なき道を進んだ。

「今日はここで休みましょう」

 徐々に歩みが遅くなるアルヴィクトラの様子を見て、リヴェラが足を止める。

「私が見張りに立ちます。アル様は休息を」

 アルヴィクトラは倒れるようにその場に伏した。全身が熱かった。

 熱によって体力が奪われていくのがわかった。

 この逃走が長く持たない事を嫌でも理解するしかなかった。

「リヴェラ、私を置いていってください。何らかの感染症にかかっているようです。満足に動けない私を守りながらヴェガの群れを相手どるなど不可能です」

 息も絶え絶えに言う。

 リヴェラは何も言わず、手持ちのキートの枝を折り、それをアルヴィクトラの口にそっと近づけた。アルヴィクトラはそれを反射的に口に含んだ。

「熱が引くには後三日は必要でしょう。その間、絶えず水分摂取を心がけてください」

 アルヴィクトラの言葉など聞かなかったように、リヴェラはキートの枝をまとめてアルヴィクトラのそばにおいて、見張りに立った。

 アルヴィクトラは朦朧とする意識の中、リヴェラの横顔を見上げた。その美貌は、逃走の中で泥と汗に汚れていた。しかしその瞳に宿る強い光は薄れる事なく、輝きを放ち続けていた。

 彼女の瞳に絶望の色がないことを確認すると同時に安堵感に包まれ、アルヴィクトラはそのまま眠りに落ちた。

 

◆◇◆

 

 リヴェラと初めて顔を合わせたのは、七歳の時だった。

 彼女は中庭の中央で、一人で佇んでいた。

 黒衣を纏う長身の彼女はまるで物語の中の魔女のようで、アルヴィクトラはその姿に目を奪われた。

「子ども?」

 リヴェラが振り返り、不思議そうな顔をする。

 彼女の瞳は血のように赤く、アルヴィクトラは思わずたじろいだ。それから躊躇するようにリヴェラを見上げて、思ったことをそのまま口にした。

「貴女は魔女なのですか? 父上を、虐殺皇帝を成敗しにきたのですか?」

「父上? ああ、貴方は……」

 リヴェラは何かに気付いたように、微笑む。

「貴方の父は疑心暗鬼に陥っているのです。その環境が誰も信じる事を許さず、虐殺へと走らせた。人の身である私が解決する事は叶いません」

 でも、とリヴェラは言った。

「貴方が同じ道を辿らないように、魔法をかけることはできます。多くの大きな物語で使い古されてきた古代の魔法です」

「古代の魔法?」

 アルヴィクトラが不思議そうな顔をすると、リヴェラはにこりと笑った。

「人の温もりです」

 そう言って、リヴェラはそっとアルヴィクトラを抱きしめた。

「あの?」

 アルヴィクトラが困ったような声をあげると、リヴェラは抱きしめたまま囁いた。

「貴方が疑心に陥らぬように。帝国騎傑団序列五位、リヴェラ・ハイリングが貴方を守る魔槍となりましょう」

 その二年後、彼女は帝国騎傑団序列一位、頭席魔術師まで昇り詰める。

 過去最年少の序列一位の魔術師としてリヴェラ・ハイリングは注目を集めると同時に、アルヴィクトラ・ヴェーネの腹心として絶対的な地位を築いていくことになる。

 そして、アルヴェクト・ヴェーネは虐殺皇帝と呼ばれた父に対抗する為、絶望的な内部闘争を開始するのだった。

 

◇◆◇

 

 獣の雄叫びが響いた。

 アルヴィクトラが目を覚ますと、辺りを包囲するヴェガの群れにリヴェラが向き合っているところだった。

「リヴェラ……!」

 声をあげると、リヴェラがチラリと振り返る。その瞳に、焦りの色はなかった。

「寝ていてください。この獣たちは、手負いのアル様を置いていくよう、私にプレッシャーを与えているだけです。まだ交戦するつもりはないでしょうから安心してください」

 そう言いながらも、リヴェラは油断なくヴェガの群れに注意を配り、戦闘態勢を崩そうとはしない。

「夢を見ました」

 アルヴィクトラは荒い息を吐きながら、近くの木に背中を預けて身を起こした。

 ヴェガが一斉に吠える。

 不思議と怖いとは思わなかった。

「リヴェラと初めて顔を会わせた時の夢です」

 リヴェラは何も言わない。

 ヴェガの群れを警戒したまま、アルヴィクトラの真意を探るように視線を向けてくる。

「あの時、リヴェラは魔法をかけてくれました。父上と同じ道を歩まないように、と。結果的に私は父と同じ道を歩む事になりました。改革も中途半端で成し遂げる事が出来ず、君主にはなれませんでしたが救いを受けました。大きな救いでした」

 だから。

「だから、リヴェラ、もう良いんです。貴女は本当によくしてくれました。忠実すぎるほど、よく働いてくれた。だから、行ってください。貴女の持つ才覚は、次の皇帝を大きく助ける事になるでしょう。私の為に潰してしまう程、リヴェラの才幹は安くはない」

 リヴェラの無言の眼差しがアルヴィクトラに突き刺さる。

 暗闇の中、周囲でヴェガの瞳が妖しい光を放つ。その中、リヴェラの血のように赤い瞳が一際異彩を放っていた。

「アル様は、勘違いなされています」

 不意に、リヴェラが口を開いた。

「私は帝国に忠誠心を持っている訳ではありません。アルヴィクトラ・ヴェーネというただ一人の皇帝に忠誠を誓っているのです」

 リヴェラはそう言って身を翻す。

 同時に熱線が放たれ、一体のヴェガが貫かれた。獣はそのまま草木の間に崩れ落ち、抵抗らしい抵抗もなく絶命した。

 突然の攻撃に獣たちが次々と咆哮をあげる。しかし、襲いかかってくる様子はない。

「やはり」

 リヴェラが呟く。

「ヴェガには積極的な交戦の意思がありません。我々が衰弱して動けなくなる時を待っているのでしょう。ならば――」

 リヴェラがアルヴィクトラの元へ歩み寄り、その腕を肩に回す。

「――進みましょう。騎傑団の追手が来る前に、可能な限り帝都から離れる必要があります」

 アルヴィクトラは無言で頷いて、リヴェラに抱き起こされながら立ち上がった。

 依然として身体が燃えるように熱かったし、少し眩暈がした。しかし、気分は悪くなかった。睡眠をとったおかげだろうか。

「私が司る魔力特性は"貫通"」

 アルヴィクトラの身体を支えながら、リヴェラが凛とした声で言う。

「アル様の前に立ち塞がる全ての障害を貫いてみせます。その為ならば、このリヴェラ・ハイリングは死霊とも契約してみせましょう」

 リヴェラの血のように赤い双眸は、月明かりを反射して爛々と鈍い輝きを放っている。

 その瞳を見て、何故か虐殺皇帝と呼ばれた父親のことが脳裏に蘇った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

03話

 リヴェラが頭上を見上げ、星の位置を確認する。

 アルヴィクトラはリヴェラに支えられながら、その横顔をじっと見つめた。月光に照らされた彼女の横顔は、どこか残酷な印象を受けるほど綺麗だった。

「星の導きを受けるのは、魔術師として生きていく上で一つの到達点となる、と恩師が言っていました」

 不意に、リヴェラが懐かしむように口を開いた。

「導き、ですか?」

「そうです。高位の魔術師たちは、天体の動向から導きを受けます。我々はその運命に流されるだけの、矮小な存在でしかありません」

「リヴェラも、運命を覗く事ができるのですか?」

 リヴェラ・ハイリングは間違いなく高位の魔術師だ。その才覚は他の追随を許さない。

 だから、アルヴィクトラは何気なく尋ねたのだった。

 リヴェラの視線が頭上の天体からアルヴィクトラへゆっくりと移動する。赤い瞳の奥で、何かが蠢くのがわかった。

「もちろんです」

 彼女の唇から静かに紡ぎだされた言葉は、どこか空虚なものだった。

 何故かそれ以上奥へ踏み込んではいけない気がして、アルヴィクトラは口を噤んだ。

 草木を踏み鳴らす音が、闇夜に響く。

 リヴェラは元々、静かな性格をしている。アルヴィクトラも喧騒を嫌うところがあり、彼女との間に落ちる沈黙は昔から嫌いではなかった。むしろ、その沈黙を心地よく感じていた。

 ただ、今は無言でいると周囲の暗闇に呑み込まれてしまいそうな気がして、アルヴィクトラはずっと気になっていたことを尋ねた。

「どうやって、帝都の包囲網を脱出したのですか?」

「ディゴリーたちが協力してくれました」

 ディゴリー・ベイル。

 帝国騎傑団序列三位にして、騎傑団一の怪力を誇る武芸者だった。

「彼は、貴方を信奉していた。たった一人で数多の追手を切り捨てていきました。そして最後には追手を食い止める為にその場に残ることを選びました」

 アルヴィクトラは、一人の寡黙な大男の不器用な笑顔を思い出し、それから目を瞑った。

 かつては兄のように慕っていた。その愚直な在り方に、憧れた。

 あの背中を見ることが二度と叶わないことを知ると、胸から熱いものが込み上げ、アルヴィクトラはリヴェラから視線を背けた。

「死は嘆くべきものではありません。彼の魂は彼の意思によって遂行された。彼は、祝福を受けた」

 リヴェラが淡々と言う。

 リヴェラ・ハイリングとしての言葉ではなく、高位の魔術師としての言葉だった。

「祝福……」

 納得できず、反芻する。

 それを掻き消すように、獣の雄叫びが轟いた。

 至るところから獣の叫び声が飛び交う。威嚇するような鳴き声だった。

 リヴェラが足を止め、周囲を警戒するように見渡す。

 アルヴィクトラもそれに倣い、周囲に目を配らせた。

 獣の雄叫びは止まない。しかしヴェガが襲いかかってくる様子もない。

 アルヴィクトラは荒い息を繰り返しながら、一歩後ろに下がった。

 暗闇をヴェガの咆哮が支配する。

「これは……」

 次々と吠えたてるヴェガに、リヴェラが顔を強張らせる。

 嫌な予感がした。

 腰を落とし、リヴェラと寄り添うようにして戦闘態勢をとる。

「グルです」

 リヴェラが呟く。

 直後、木々の間から巨大な影がぬうっと現れた。

 血の気が引いていくのがわかった。

 どっと嫌な汗が噴き出る。

 木々の間から現れた巨体を、月光が照らし出す。

 アルヴィクトラの二倍はある体躯。折れ曲がった背中。ぶらりと垂れ下がった太く長い腕。人と獣の中間のような顔。知性の欠片を宿した獰猛な双眸。

 ヴェガの咆哮が一段と高まる中、アルヴィクトラは思わず後ろに下がった。

 グル。

 猿のような巨人だ。

 その巨体に似合わず、四足歩行での脅威的な走行速度を誇る上、その特殊な骨構造と発達した筋肉によって二足で立つこともできる。軽々と木に登り、獲物を待ち伏せする習性もあり、武芸に秀でた者でも一人でグルを相手取ることは難しいと言われている。

 そのグルが、今、木々の間から姿を現していた。

 微かに知性を感じさせる双眸が、アルヴィクトラとリヴェラを見下ろしていた。

 二本脚で立っていたグルが、ゆっくりと前傾姿勢をとり、前足を地面に沈めていく。

「来ます」

 リヴェラの叫び声を合図に、グルが恐るべき速度で距離を詰めてくる。

 同時にリヴェラが右腕を前方に突き出し、熱線を放った。熱線は真っすぐとグルの巨体へ吸い込まれていく。

 鮮血が舞った。

 アルヴィクトラは確かに熱線がグルの腹部を貫くのを見た。

 しかし、グルの突進は止まらない。

 何事もなかったように巨体が迫る。

 アルヴィクトラは考えるより先に、両腕を前方に突き出した。そして、術式を展開する。

 魔力特性により、グルの後ろ足が凍りついた。

 しかし、グルは止まらない。

 崩れそうになった体勢を持ち直し、勢いに任せてそのまま突っ込んでくる。

 次の対抗策を考えるより先に、アルヴィクトラは横から衝撃を受けた。一拍遅れて、リヴェラに突き飛ばされたのだと理解する。

 回転する視界の中、すぐそばまで迫ったグルが前のめりに態勢を崩しながら、太い前足をリヴェラに向けて振り回すのが見えた。リヴェラが身体を庇おうと、左腕を差し出す。

 ヴェガたちの合唱が続く中、木が折れるような乾いた音が木霊した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

04話

 柔らかい土が、突き飛ばされたアルヴィクトラの身体を受けとめる。

 アルヴィクトラの視線の向こうでは、グルの一撃を受けたリヴェラが膂力に耐えきれず薙ぎ倒されるところだった。

 地面に崩れる直前、リヴェラが身体を捻り、右腕をグルに向けて突きだす。

 彼女の指先から熱線が放たれ、グルの頭部が吹き飛んだ。

 血肉が散乱し、その巨体がゆっくりと沈んでいく。

「リヴェラ!」

 アルヴィクトラはすぐに立ち上がり、リヴェラの元へ駆け寄った。

 地面に横たわった彼女は左腕を押さえ、激痛に呻いていた。

 グルの一撃を受けた左腕を見て、アルヴィクトラは呆然とした。

 皮膚を突き破り、何かが飛び出していた。遅れて、折れた骨が皮膚を突き破っているのだと理解した。

「リヴェラ!」

 頭の中が真っ白になり、アルヴィクトラは呻くリヴェラを見つめることしかできなかった。

 獣の咆哮。

 振り返ると、木々の間からヴェガの群れが姿を現していた。

 苦痛に喘ぐリヴェラを一瞥した後、アルヴィクトラはヴェガの群れに向き直った。

 大きく息を吸い、最も距離の近い獣に両腕を向ける。

 狙うのは、足元。

 放たれた魔力が、ヴェガの前方の草木を凍結させる。魔術に驚いた数体のヴェガが瞬時に後退するが、機会をうかがうように辺りをゆっくりと歩き回り始める。

 追い払うことが不可能であることを知ると、アルヴィクトラはリヴェラに視線を向けた。意を決して、リヴェラの身体を強引に起こす。

 リヴェラが激痛に叫び声をあげ、アルヴィクトラは動きを止めた。それからヴェガを一瞥した後、リヴェラの身体を無理矢理引き摺った。リヴェラの悲鳴が低く、唸るようなものへと変化する。

 アルヴィクトラは何度も、ごめんなさい、と謝りながらリヴェラの身体をヴェガから離そうと引き摺り続けた。

 アルヴィクトラは十四歳の少年に過ぎず、長身の成人女性であるリヴェラを移動させるにはかなりの時間を要した。

 徐々にリヴェラの呻き声が薄れ、小さくなっていく。このまま沈黙し、動かなくなってしまうのではないか、という想像が頭に浮かんだ。アルヴィクトラは目元の涙を拭いながら、必死でリヴェラの身体を引き摺った。

 一定の距離を保つようにヴェガたちが近づいてくる。

 不意に、その距離が破られた。

 ヴェガたちが一斉に駆けだし、吠える。

 ヴェガたちの向かう先には、グルの死骸があった。数体のヴェガがグルの死体に駆けると、残りのヴェガたちも一斉にグルの死骸を取り囲み始める。既にアルヴィクトラたちには興味を持っていないようだった。

 アルヴィクトラは安堵のあまり、その場にへたりこんだ。

 気付けば、全身が汗でびっしょりと濡れていた。

 リヴェラに目を向けると、激痛で気を失っているようだった。彼女の身体を抱き起こし、アルヴィクトラはゆっくりとその場を後にした。

 

◇◆◇

 

 リヴェラはすぐに目を覚ました。

 リヴェラの額の汗を拭っていたアルヴィクトラと目が合うと、リヴェラは弱々しい笑みを浮かべた。それからすぐに顔をしかめ、皮膚を突き破った骨に視線を移した。

「少し、私から離れてください」

 息も絶え絶えにリヴェラが言う。

 意図が読めずアルヴィクトラが困惑した視線を向けると、リヴェラは短く補足した。

「傷口を処置します」

 アルヴィクトラは躊躇した後、ゆっくりとリヴェラから距離をとった。

 止血に魔術を行使するのだろう、と思った。それ以外の意味を、考えられなかった。

 だからリヴェラの右腕が負傷した左腕に向けられた時も、特に疑問に思うことはなかった。

 突如、暗闇に赤い光が煌めく。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。

 何かが焦げた臭いが鼻をつく。

 アルヴィクトラは彼女の腕を見つめて、呆然と呟いた。

「リヴェラ……?」

 放たれた熱線によって、彼女の左腕の肘から先が消し飛んでいた。

 リヴェラが声にならない悲鳴をあげて、その場に蹲る。

「リヴェラ!」

 アルヴィクトラが駆け寄ろうとした時、リヴェラの叫び声が響いた。

「来ないで!」

 鋭い声だった。

「リヴェラ? でも、腕が……」

「見ないで、ください」

 弱々しい声でリヴェラが言う。

 彼女は草木の間に身を横たえて、荒い息を吐いた。

「あの状態での止血は不可能です。開放骨折を放っておけば、やがて患部から毒素が体内へ混入し、死に至ります。一度肘から先を切断し、止血可能な断面にする必要がありました」

 リヴェラは横たわりながら、魔力を注入して止血を始める。熱線で焼かれたことによって、出血自体は大したことがないようだった。皮膚を突き破った骨を処理することが一番の目的だったのだろう。

「リヴェラ、そんなことをして、大丈夫なのですか?」

 自然と声が震えた。

 腕を失くしたのだ。大丈夫なはずがなかった。

「これが最善の方法です」

 リヴェラは呟いて、苦しそうに不自然な呼吸を繰り返す。上手く息が吸えていないようだった。

「アル様、手を」

 乱れた金色の髪の向こうで、紅の瞳がアルヴィクトラに縋るような動きを見せる。

「手? 手を出せば良いのですか?」

 恐る恐る右手を差し出すと、リヴェラは残った右手でアルの手を強く握った。

「落ちつくまで、こうさせてください」

 アルヴィクトラは無言で何度も頷いて、両手でリヴェラの右手を包んだ。リヴェラの握る力が強くなる。

 暗闇にリヴェラの不規則な呼吸音が響く中、アルヴィクトラは夜空を仰いだ。

 夜明けは遠い。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

05話

 リヴェラの手を握りながら、考える。

 ここはヴェガの縄張りだ。

 グルのような突発的な侵入者は例外として、他の大規模な狩猟グループはいないだろう。あのヴェガたちの空腹が満たされているうちは安全だ。

 それとも、この考えは楽観的過ぎるだろうか、とも思う。

 派閥の者と共に何度か狩りに出た事はあるが、アルヴィクトラは狩りに詳しくない。獣たちの行動が上手く読めない。

 どちらにせよ、と荒い呼吸を繰り返すリヴェラに目を向ける。

 ここが危険な領域であっても、移動することは叶わない。無駄なことを考えている、と自覚する。

 腹部から全身に熱が広がり、身体がだるかった。思考もまとまらない。

 アルヴィクトラは周囲の暗闇をぼんやりと見渡した後、近くの土を掘り返し、拳ほどの泥団子を握った。そして魔力を注入し、凍結させる。額に当てると冷やりとして気持ちよかった。

 すぐに氷が解け、水を吸った団子が形を失っていく。手のひらにべったりと付着した泥を見つめた後、アルヴィクトラは傍らのリヴェラに寄り添うように横たわった。座っているのもしんどかった。

 少しだけ休もう。

 ゆっくりと目を瞑ると、急速に眠気が襲ってきた。

 

 

 眠ってしまったことに気付いたのは、夜明け前だった。

 意識が戻ると同時にアルヴィクトラは勢いよく起き上がり、周囲を見渡した。

 薄らとした明かりに森全体が照らされていた。小鳥のさえずりが木々の揺れる音と重なって耳に届く。

 隣ではリヴェラが静かに寝息を立てていた。

 額に汗が滲んでいる。そっと触れると、驚くほど熱かった。

 すぐにキートの枝を折り、中に溜まっていた水をリヴェラの口に含ませる。何度か咽こんだが、無事に飲み込めたようだった。

 キートの枝は残り少ない。アルヴィクトラは数少ない枝を折って口に含むと、よろよろと立ち上がって、キートの枝の代わりになりそうなものを探し始めた。

 眩暈がする。

 リヴェラほどではないが無視できない熱発があり、足元がおぼつかなかった。

 腹部の切創はリヴェラの魔術によって止血されているが、傷が治った訳ではない。体表組織の損傷はそのままだ。切り裂かれた肉の間から毒素が入ったのだろう、と推測する。

 自然と、呼吸が荒くなる。

 少し歩くだけで身体が悲鳴をあげるのがわかった。

 木々を掻き分けると、すぐにハーベストの実が見つかった。

 過去に狩りを行った時、案内人が水分摂取に有効であると説明していたことを思い出す。

 ただ、ハーベストの実は成人でも手が届かない場所に実る。小柄なアルヴィクトラでは摘み取る事ができない。

 アルヴィクトラはじっと頭上の木の実を見つめると、意を決したように右手を掲げ、そこに大量の魔力を練り上げた。

 手元が凍りつき、徐々に細長い棒状の氷が出来上がっていく。

 眩暈が強まり、身体から力が抜ける。

 アルヴィクトラが司る魔力特性は"凍結"である。任意の対象を凍らせる事は容易いが、何もない空気中に任意の形を持つ物体を創りあげるには、相当な量の魔力を必要とする。使い古された魔力は毒素となって抵抗臓器によって浄化されるまで身体内を巡り続ける。弱り切った身体で魔術を行使すれば、相応の負担が身体を襲う。

 激しい頭痛に襲われながら、アルヴィクトラは巨大な氷の剣を創りあげた。

 ゆっくりと持ちあげて、力任せに横薙ぎに払う。細いハーベストの木に切り込みが入り、林冠が大きく揺れた。

 額から滲んだ汗が、頬を伝って落ちる。

 氷の剣をもう一度振り抜き、ハーベストの木に叩きつける。

 強い衝撃とともに目の前が木が折れ、徐々に向こうへ傾き始めた。

 アルヴィクトラは荒い息を吐きながら、倒れていく細木を見つめた。周囲の木々に引っかかりながら、ハーベストの木が地面に横たわる。足元が小さく震えるのがわかった。

 倒れた木から複数の実を回収し始める。当面の水を確保できたことに安堵した時、強い耳鳴りがした。

 振り返る。

 人影が見えた。

 リヴェラではない。男の影。

 即座に周囲を見渡す。

 一人ではない。

 別の魔力源が感じられた。囲まれている。

 耳鳴りが強まる。

 平衡感覚が失われ、アルヴィクトラはその場に膝をついた。

 草木の間から一つの影が飛び出し、高速で距離を詰めてくる。

 アルヴィクトラは朦朧とする意識の中、術式を組み込み、魔力を放った。

 アルヴィクトラが手をついている草木を中心に、地面が円形に凍結を始める。

 鬱蒼と茂る草が凍りつき、その姿を鋭利な刃物の集団へと姿を変えていく。瞬く間に凍結領域が広がり、接近してきた影が針の山となった凍結領域に踏み込む前に足を止める。

 アルヴィクトラは、その隙を見逃さなかった。

 目の前で鋭く凍結した草を引き抜き、投擲する。影は瞬時に背後へ跳躍し、着地すると警戒するようにそのままアルヴィクトラへじっと視線を向けてくる。

 影は、若い男だった。黒装束に身を包み、その両手には短剣が握られている。

 アルヴィクトラは男の視線を受けとめ、口を開いた。

「帝国騎傑団序列八位、ケイヴィー・ソモン。確か、短剣での接近戦を得意とする戦士ですね」

 それから、と奥の茂みに潜む影に視線を向ける。

「帝国騎傑団序列十二位、アイヴィー・ソモン。司る魔力特性は"音"。貴方たち兄妹の噂は聞き及んでます」

 アルヴィクトラの言葉に、奥の茂みから黒衣を纏った女が姿を現す。

「陛下。変化が必要とされています。時代はもう、貴方を必要としていない。その首、頂きます」

 音の女魔術師アイヴィーはそう言って、右腕を頭上にあげる。

 途端、耳鳴りが強まった。不快感と吐き気が込み上げてくる。

 アルヴィクトラは氷の剣を強く握り、ゆっくりと近づいてくるケイヴィーを見つめた。

 視界が霞み、意識が朦朧とする。

 アイヴィーが放つ音響攻撃の影響なのか、熱発の影響なのか判断がつかない。ただ、急速に意識が揺らぎ始め、何度も遠のきそうになった。

 凍結領域の限界まで近づいたケイヴィーが静かに短剣を構える。

 凍結領域を広げる余力もなく、アルヴィクトラは荒い息を吐きながらその時が訪れるのを待った。

 不意に、風が吹いた。

 燃えるように熱い風だった。

 その風に乗って、凛とした声が響く。

「何を、している?」

 声のした方を振り返る。

 そこには、死人のように青白い顔をしたリヴェラ・ハイリングの姿があった。

 瞳は虚ろで、どこを向いているか分からない。高熱により、意識が朦朧としているのだろう。

 しかし、リヴェラ・ハイリングは確かに立っていた。しっかりと両足で大地を踏みしめ、ゆっくりとアルヴィクトラたちの元へ近づいてくる。そして、上言のように繰り返すのだった。

「お前達、アル様に何をしている?」

 その声からは、不気味なまでに感情が抜け落ちていた。

 朦朧としたアルヴィクトラの頭に、虐殺皇帝と呼ばれた父の声が再生された。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

06話

 父、虐殺皇帝との温かな思い出を、アルヴィクトラはついに知ることがなかった。

 虐殺皇帝は、アルヴィクトラに興味を示さなかった。

 そこにあったのは完全な無関心だった。

 血縁は父にとって何の意味も持たないものだったのだろう。

 あるいは、世界そのものが意味をもたなかったのかもしれない。

 虐殺皇帝は、虚ろな帝王だった。

 表情に色はなく。

 声に抑揚はなく。

 その動作は人形のように淀みない。

 だからこそ、虐殺皇帝は強大だった。

 そこに悪はなく。正義もまた存在せず。虐殺だけが存在した。

 虐殺皇帝は些細なきっかけさえあれば、容易に人の命を刈り取った。そこに意味はなく、大義はどこにもなかった。

「余に従わぬつもりか」

 リヴェラ・ハイリングを取り込み、内部闘争を開始する直前、アルヴィクトラは虐殺皇帝に呼び出され、静かに問いただされた事がある。

 虐殺皇帝の瞳には、何も宿っていなかった。

 怒りも、哀しみも、生の欠片さえも。

 瞳の奥には虚無がどこまでも広がり、その暗闇を正面から見つめてしまったアルヴィクトラは世界が崩壊していくような錯覚に陥った。

 虚無の瞳。

 虐殺皇帝が病に倒れてからは二度と見る事がないだろう、と思っていたあの瞳。

 それが、視界の向こうにあった。

「お前達、アル様に何をしている?」

 リヴェラ・ハイリングが草木を掻き分けてゆらりと近づいてくる。

 その声からはぞっとするほど感情が抜け落ち、人としての温かみが感じられなかった。

 リヴェラの腕がゆっくりと持ち上がる。

 次の瞬間、周囲の木々がざわめいた。

 彼女の唇が小さく動き、何かを紡ぐ。

 寒気すら覚える無音の中、彼女の細い指先が閃光に包まれた。

 信じられないほどの暴力。

 静寂が破られ、巨大な熱線が音の魔術師アイヴィーに向かって放たれる。

 共鳴するように周囲のあらゆる構造物が唸り、アルヴィクトラを熱風が襲った。

 熱発と音響攻撃を受けて朦朧としていた意識が、巨大な熱風を受けて木の葉のように軽く舞い上がっていく。

 ぼんやりと溶けていく視界の中、熱線が周囲の木々を抉りながらアイヴィー・ソモンを呑みこむのが見えた。

 そして、どこまでも広がる暗闇がアルヴィクトラを包み込み、意識を刈り取った。

 

◇◆◇

 

「皇帝陛下は、どこまでも正気です」

 かつて、アルヴィクトラが兄のように慕っていたディゴリー・ベイルはそう言った。

 アルヴィクトラを逃がす為に最後まで戦った最強の武芸者。

 彼は武芸だけでなく、優れた見識を併せ持っていた。

「大義は、人を狂わす魔力を秘めています。ですが貴方の父上は、皇帝陛下は何の大義も掲げない。大義や思想に狂うことなく、正気を保った状態で虐殺を続けている。私は、ここまで冷静に、無意味に命を奪う存在を他に知りません」

 しかしだからこそ、とディゴリーは告げた。

「だからこそ、統治が揺るがないのです。人を支配する最も原始的な力は、恐怖です。その前には、大義も思想も意味を為さない。圧倒的な力は、高度に複雑化された社会をも呑みこむ、ということがこれによって証明されています」

 そして、ディゴリーは僅かに躊躇した後、アルヴィクトラを見下ろして諭すように言った。

「アル様。虐殺皇帝を打倒した後は、虐殺皇帝を模倣してください。正気を保ったまま、虐殺を引き継いでください」

 それが貴方の基盤を固める事になるでしょう。虐殺皇帝を打倒して終わりではありません。貴族連中に隙を与えず基盤を固めてようやく全てが始まるのです。

 偽悪を貫いてください。どうか、流れる血に狂うことがないよう、冷静に命を奪う人形となり果ててください。

 ディゴリーの囁きに呼応するように、アルヴィクトラの周りを囲んでいた帝国騎傑団の上級構成員が一斉に跪く。その中には文官の姿も多数あった。

「どうか、貴方の帝国に死を撒き散らしてください」

 そしてアルヴィクトラは、父の汚名を受け継いだ。

 

◇◆◇

 

 頬を水が打つ。

 ぽつ。ぽつ。

 身体全体を水が打つ。

 ざー。ざー。

 熱を持った身体が急速に冷えていく。

 心地良い。

 アルヴィクトラは震える唇を開き、降り注ぐ雨を必死に受け止めた。

 渇きが癒えていく。

 次第に意識がはっきりとした輪郭を持ち、薄っすらと視界が開ける。

 焼け野原が見えた。

 草木が圧倒的な暴力で捻じ伏せられ、大蛇の通り道のように大地が抉られている。

 アルヴィクトラはよろよろと立ち上がり、ぼんやりと周囲を見つめた。

「リヴェラ……?」

 焼けた森を雨が洗い流していく。

 ざー。ざー。

 アルヴィクトラの声は、雨の中に消えていく。

「リヴェラ……リヴェラ……」

 おぼつかない足取りで、アルヴィクトラは焼け野原の上を進んだ。

 大蛇が這ったような抉れた大地。

 その先に人影を認め、アルヴィクトラは息を止めた。

「リヴェラ」

 くらくらとする頭を抑えながら、アルヴィクトラは人影のもとへ向かった。

 影は地面に伏したまま、微動だにしない。

 頭上に閃光が走り、雷鳴が轟く。

 アルヴィクトラは影のもとへ膝をつき、その肩を揺すった。

「リヴェラ?」

 金色の髪の間から、死人のように青白い頬が見えた。

 そっと頬を撫でる。

 冷たい。

 それでも、生きている。

 薄っすらと空いた瞼の向こう。

 返り血を浴びたかのような真っ赤な瞳がアルヴィクトラに向けられ、柔らかく微笑む。

「障害は排除しました」

 掠れた声。

「うん」

 雨に打たれながら、アルヴィクトラはリヴェラの肩を抱いた。

「無茶、しないでください」

 リヴェラの身体を支えて、ぬかるむ焼け跡を後にする。

 片腕を失ったリヴェラの体力をこれ以上奪うわけにはいかない。

 早急に雨を凌ぐ必要があった。

 方位も確認できない森の中を、ふらふらと彷徨う。

 一夜を超えただけで、アルヴィクトラたちの逃亡は最早限界を迎えようとしていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

07話

 巨大な木があった。

 その木は他の木のどれよりも温かな太陽に近づこうと成長し、結果的に膨れ上がった質量によって潰れかかっていた。

 自重によって幹は捻じれ、暗雲の下では死霊の化身のように見える。

 その大木の下、捻じ曲がった幹の間にアルヴィクトラは身を置き、自らよりも大きいリヴェラの身体を抱え込んだ。

 雨は止む気配を見せない。

 濡れた衣類が、アルヴィクトラの熱を奪っていく。

 そして、リヴェラの体力も。

「リヴェラ? 大丈夫ですか?」

 腕の中で小刻みに震えるリヴェラに、アルヴィクトラは不安そうな視線を向けた。

「……寒い」

 リヴェラの震える唇から、か弱い声が零れる。

 彼女の額にそっと触れると、燃えるように熱かった。

 そして、それはアルヴィクトラも同様だった。

 創傷から大量の毒素が入っているのだろう。

 加えて、魔力の使いすぎによる抵抗臓器の酷使。

 休息が必要なのは、明らかだった。

 ともに体力の限界が来ている。

 アルヴィクトラはリヴェラを抱く腕にぎゅっと力を入れた。その瞬間、リヴェラがふっと微笑む。

「アル様の身体はとても温かい」

 弱々しく呟いて、リヴェラの細い腕がアルヴィクトラの首に巻きつく。

 雨に濡れたリヴェラの腕は冷たく、そして弱々しかった。身体が密着することによって濡れた衣類が肌に張り付き、ひんやりとした感触が全身に広がっていく。

 ざー。ざー。

 天から降り注ぐ雨は、衰える様子を見せない。

「アル様」

 リヴェラの柔らかい瞳が、アルヴィクトラへ注がれる。その優しすぎる瞳を見て、アルヴィクトラはこれからリヴェラの口から放たれるであろう言葉を理解してしまった。

「私を置いていってください。これ以上は、荷物にしかなりません」

 アルヴィクトラは正面からリヴェラの瞳を覗き込むと、怒気を孕ませて短く言った。

「もう一度同じことを言ったら怒ります」

 リヴェラは困ったような、そして疲れたような表情を浮かべた。

「アル様。私は貴方の剣です。剣の為に、自らの身を危険に晒すことはなりません」

 アルヴィクトラは反論することなく、自らよりも大きいリヴェラの身体を抱きしめたまま動かなかった。

 ざー。ざー。

 絶え間なく雨音が響く中、疲労感が眠気となって襲ってくる。

 少しだけ。

 リヴェラに身を寄せながら、目を瞑る。

 そして、アルヴィクトラの意識はまどろみの中へ堕ちていく。

 

◇◆◇

 

「どうか、お許しを」

 謁見の間に震える男の声が響く。

 十二歳のアルヴィクトラは玉座から、目の前で跪く男を冷ややかに見つめていた。

「許す」

 アルヴィクトラの口からゆったりとした、それでいて感情の篭らない声が響く。

「それは、余が怒っていることを示すものだ。余の感情を推定する権利を与えた覚えはない」

 男が動揺したように顔をあげる。その瞳は、恐怖に染まっていた。

 謁見の間に緊張が走るのがわかった。アルヴィクトラはそれを意識しながら、無言で右手をあげる。ゆっくりと、恐怖を与えるように。

「陛下、どうかお許しを。どうかお慈悲を」

 声を無視して、アルヴィクトラの指先が男を捉える。

「楽にするがよい」

 放たれた言葉を合図に、男の足元が凍りつく。

 途端、謁見の間に男の悲鳴が響き渡った。

 アルヴィクトラの魔力特性が男の下半身を徐々に凍結させていく。

 凍りついた足。

 徐々に凍結範囲を広げていく身体。

 男は氷像に書き換えられていく自身の身体を見て恐怖に声を荒げる。

 謝罪。罵声。懇願。

 そして、誰かの名前を大事そうに呟いたのを最後に、その身を完全な氷像へと変える。

 アルヴィクトラは残された氷の塊をぼんやりと見つめて、すぐに興味を失ったように腕を下ろした。途端、氷像に亀裂が走り、頭部から真っ二つに割れ、カランと甲高い男を立てて幾つもの氷の欠片が床に転がった。

 沈黙。

 謁見の間に、恐怖の色が広がっていく。

 そして、アルヴィクトラは立ち上がった。酷く緩慢な動作だった。

 かつん、と冷たい足音が響く。

 謁見の間に居合わせていた者たちは皆一様に頭を下げ、アルヴィクトラが通り過ぎるのを待っている。

「ベイル」

 謁見の間から出る直前、アルヴィクトラは側近の名前を短く呼んだ。すぐに控えていた頭席騎士ディゴリー・ベイルがアルヴィクトラの後につく。

 ディゴリーを連れて巨大な扉をくぐった後、アルヴィクトラは素早く振り向いて震える声で言った。

「ディゴリー。私は後どれくらい、人を殺めればよいのですか」

 そこに、先ほどの冷徹な皇帝の姿はなかった。まだ十二歳の少年は不釣合いな正装に身を包み、心細そうにディゴリーを見上げる。

「アルヴィクトラ様。貴方が虐殺皇帝の後継者であることが広く周知され始めています。これで貴方を利用しようとする者たちはいなくなった。後は徐々に虐殺の対象を腐敗した貴族たちへと向け、反逆の芽を摘みます。これで、貴方の基盤は安定をみる事になるでしょう」

 ディゴリーは冷静に次の指示を出す。そこに躊躇いは見られない。

「アルヴィクトラ様。どうか冷徹であってください。貴族どもに隙を見せてはなりません。一時的な虐殺こそが、より多くの民を救うことになるのです」

 アルヴィクトラは俯くと、自らの右手を見つめた。既に数え切れないほどの魂を凍結させ、砕いた右手を。

「アル様」

 不意に、背後から柔らかいものに包まれる。

 振り返ると、すぐそこにリヴェラがいた。

「私は貴方の剣でありたい、と考えています。荒事には私をお使いください。貴方の手を汚す必要はありません」

 リヴェラはアルヴィクトラの肩越しに、耳元で囁く。労わるように、庇うように。そっと優しくリヴェラの腕がアルヴィクトラの未成熟な身体を包み込む。

「私が頭脳に」

 アルヴィクトラの正面に立ったディゴリーが目線を合わせるように屈み込んで呟く。

「私が剣に」

 リヴェラが小さな声で、確かな宣言を下す。

 二人の大人は、兄と姉のようにアルヴィクトラの手を引き、背中を押してくれる。 

 兄と姉に導かれ、アルヴィクトラは血塗られた道を歩いていく。

 そして、帝国中に虐殺幼帝の名が広まることとなった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

08話

 全てが夢であったならば良かった、とアルヴィクトラは思う。

 しかし、開いた視線の先には変わらない現実が横たわっていた。

 隣で寄り添うように眠るリヴェラの左腕は欠損し、苦しそうに荒い息を吐いている。

 アルヴィクトラはゆっくりと身を起こし、周囲を見渡した。

 既に雨は止み、濁った空から一条の光が差し込んでいた。

「リヴェラ」

 声をかけると、リヴェラはすぐに目を開けた。どこか虚ろな視線がアルヴィクトラへ注がれる。

「雨が止みました。歩けますか?」

 リヴェラは無言で頷くと、よろよろと立ち上がった。雨を吸った黒衣から水が滴る。

 アルヴィクトラは濡れたリヴェラの身体を支えると、ゆっくりと歩き出した。ぬかるんだ地面に足が沈み、靴の中に泥が入り込んでくる。

 まずい、と思った。

 足跡が残れば、帝国騎傑団の追跡を受けやすくなる。しかし、痕跡を消しながら進む余裕もない。ならば、追跡を振り切る速度で進むしかない。

 白い顔をしたリヴェラの様子を窺いながら、限界に近い速度で山の中を進む。

 帝国騎傑団序列八位と十二位のソモン兄妹の相手だけであれだけ手こずったのだ。本格的な騎傑団の追跡組と遭遇すれば今のアルヴィクトラたちに突破する術はない。

 そう考えながら、ふと一つの疑問が湧き起こる。

 ソモン兄妹はリヴェラよりも序列が低いが、連携のよくとれたあの二人をまとめて相手どることは簡単なことではない。片腕を失い、高熱で著しく疲弊している現状なら尚更だ。そんな状況で、リヴェラはソモン兄妹を打ち破っている。戦闘後に意識を失っているとはいえ、目立つ外傷を確認できないことから、恐らくは一方的な戦闘だったのだろう。

 アルヴィクトラはチラリとリヴェラの横顔を見つめながら、大きく地面を抉り取っていた痕跡を思い出した。もしかしたらリヴェラには何か奥の手があるのかもしれない、と一つの可能性に辿り着く。

「ねえ、リヴェラ」

 疑問を問いかけようとしたその時、前方の木々の向こうに何かが見えた。自然と足が止まる。

 何かがいた。

 獣ではない。人でもない。

 しかし、それは確かに木々の向こうに存在した。影のように色のない何かが、木々の向こうからこちらを覗きこんでいる。

 ぞわり、と寒気が走った。

「リヴェラ」

 思わず、リヴェラの袖を引っ張る。

 リヴェラは虚ろな瞳を上げて、疲れたように振り向いた。

「なんですか」

「前に、何かがいます」

 アルヴィクトラは黒い影から視線を外すことなく、影を刺激しないように囁いた。自然と声が上ずり、足が竦む。

 黒い影は木々の向こうで身動き一つせず、じっと覗き込んでくる。目やそれに類するものは確認できなかったが、強い視線を感じた。

 咄嗟に視線を外し、踵を返す。

 あれは見てはならないものだと本能的に理解し、離れようとする。しかし、反転した途端にリヴェラに腕を掴まれて足を止めた。

「アル様」

 酷く抑揚のない声だった。

「何もいません」

 アルヴィクトラが反射的に振り返ると、既に木々の向こうには何も存在しなかった。視線の先には薄暗い森がどこまでも広がっているだけだった。

「何がいたのですか? 大型の獣ですか?」

 リヴェラが荒い息を吐きながら、より正確な情報を求めてくる。アルヴィクトラは僅かに躊躇した後、黒い影です、と答えた。

「向こうに影がいたのです。人ならざるもののように感じました」

 リヴェラはゆっくりと周囲を見つめた後、アルヴィクトラが指差した方向へ歩き始めた。アルヴィクトラは思わずリヴェラの腕を掴み、首を横に振った。

「危険です」

「追手かもしれません。本隊と連絡をとる前に対処する必要があります」

 リヴェラはそう言って、慎重にぬかるんだ地面を進んでいく。アルヴィクトラも一拍置いてそれに続いた。

 落ち葉を踏み度に、さくさくと音が響く。

 アルヴィクトラは顔を強張らせて、右腕をそっと前方に向けた。心臓が大袈裟なほど鼓動を打つ。

 木々を抜けて、黒い影が立っていた場所をゆっくりと見渡す。それらしい影は見えない。チラリと木の上を確認すると、枝の間から淀んだ空が見えた。

「アル様。ここに何かがいた形跡はありません」

 リヴェラがぬかるんだ地面を視線で示して、どこにも足跡が見当たらないことを説明する。

「何かの見間違いだったのではないでしょうか」

 アルヴィクトラはもう一度周囲を見渡してから、そうかもしれません、と小さく呟いたが納得はしなかった。確かに、何かがいた。人ではない何かが。

 死霊。

 ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。

 人里離れた森の奥には、そんな存在がいてもおかしくはない。

 それに、とアルヴィクトラは思った。泥を払う為に大量の血を浴びてきた半生を振り返れば、この身に死霊が惹きつけられるのは当然のことかもしれない。

「行きましょう」

 リヴェラが生気のない顔で言う。

 アルヴィクトラは頷いて、最後に一度だけ後ろを振り返ってから、薄暗い森の中を歩き始めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

09話

「敵軍は完全に統率を失い、これで貴族連合の再起は不可能となりましょう」

 アルヴィクトラの眼前で、頭席騎士ディゴリー・ベイルが血に濡れた膝を折り、報告をあげる。

 アルヴィクトラは頷いて、ディゴリーの背後に並ぶ万の兵を見渡した。最前列の兵たちに緊張が走る。

「追撃を加えよ。反乱に加担した貴族は全て殺せ」

 抑揚のない声で、アルヴィクトラは虐殺の命令を下す。

 アルヴィクトラは、十三歳になっていた。

 父である虐殺皇帝が病に倒れ、帝位を継いだアルヴィクトラに対する有力貴族の反乱が起きていた。

 その鎮圧はディゴリーを中心とした帝国騎傑団によって速やかに行われ、後は残った残党を潰すだけとなっていた。

 アルヴィクトラはディゴリーの忠言に従い、徹底的な殺戮を繰り返していた。虐殺幼帝と呼ばれるようになったアルヴィクトラは、圧倒的な暴力によって有力貴族を押さえつけ、先帝の悪政の影で私腹を肥やしていた大臣、官僚、地方の有力者を次々と粛清していった。

 危機感を覚えた有力貴族たちは秘密裏に反皇帝の武力集団を形成し始めたが、有力貴族を排除する口実を待っていたディゴリーの諜報網に引っかかり、帝国騎傑団の上級団員が一斉に敵本部を強襲。更に帝国軍によって反乱に関与したと見られる地方の有力者たちが一斉に排除されることとなった。

 僅かに生き残った一部の有力貴族たちが体勢を立て直して対抗したが、帝国軍の前に為す術もなく敗走することとなった。

 アルヴィクトラが即位してから行ってきた虐殺は一定の指向性を持ち始め、帝国内に新たな秩序が現れ始めていた。腐敗しきった統治機構に流れていた血肉は入れ替わり、皇帝とその手足となる帝国騎傑団は恐れの象徴となった。

 騎傑団による貴族連合軍への追撃が開始されるなか、アルヴィクトラは後方へ戻り、全てが終わるのを待った。その傍には、護衛を務めるリヴェラ・ハイリングの姿がある。

「有力貴族の排除が終われば、ようやく本格的な改革に入ることが可能となりますね」

 リヴェラの言葉に、アルヴィクトラは静かに微笑んだ。周囲に人がいない今だけは、虐殺幼帝ではなくただのアルヴィクトラ・ヴェーネとして振舞うことができた。

「ここまで来るのに随分と時間がかかりました」

「アル様が即位されてからまだ二年です。腐敗しきった内部をここまで一掃できたのはむしろ短すぎるくらいです」

「抵抗勢力を一掃しただけです。まだ改革には手つかずのまま。私はまだ何も為し得ていない」

 アルヴィクトラはそう言って、リヴェラをじっと見つめた。

「リヴェラ。私は善き支配者ではありません。排除の口実を作るため、多くの無関係な命を失わせてしまった。だからこそ、ここで立ち止まるわけにはいきません。これからも力を貸してください」

「もちろんです。改革が進めば、アルヴィクトラの行いに対して多くの者が考えを改めるでしょう。これから、全てが始まるのです」

 リヴェラが深く頭を垂れる。その時、閉じていた扉が勢いよく開けられ、一人の男が室内に飛び込んできた。騎傑団の中で頭角を現し始めた若き魔剣士、バルト・リークだった。

「報告致します。市場を支配していた有力商人たちの一部が貴族連合への支援を開始。これを機に沈黙を貫いていた潜在的な抵抗勢力が一斉に起つと見られます。ベイル様の指示によって前線へ送っていた軍の一部を帝都の防衛へ回しております」

 視界の隅で、リヴェラの顔が強張るのが見えた。

 アルヴィクトラは虐殺幼帝の仮面を被り、バルト・リークに向かって冷徹に言い放つ。

「逆らう者は全て殺せ。内応の疑いが強い者も見せしめに殺し、広場に死体を並べよ」

 虐殺は、止まらない。

 改革への道は、まだ見えない。

 

◇◆◇

 

 世界は、血で溢れていた。

 全身を鮮血に染めた近衛兵がアルヴィクトラの前で報告する。

「死霊です。敵は死霊と契約し、死の力を行使しております。最早、ここを守ることは叶いません。どうかお下がりください」

 俄には信じがたい報告だった。

 死霊と一度契約すれば、その者は死後においても安寧を得る事が出来なくなると言われていた。

 その魂は穢れ、死霊に食われてしまう。

 その為、死霊との契約という禁忌を侵す者はアルヴィクトラが知る限り聞いたことがなかった。

「愚かな」

 アルヴィクトラに付き従っていた騎傑団の誰かが呆然と呟くのが耳に届いた。

「陛下、退避を」

 リヴェラがアルヴィクトラの腕を掴み、強引に拠点から連れ出そうとする。

 その時、アルヴィクトラは世界が歪むのを感じた。

 強い魔力の波が、空間を食い殺すように波打った。

 直後、壁を破って何者かが室内に飛び込んでくるのが見えた。

 人ならざるその動きを見て、死霊との契約者であることがすぐに理解できた。

「陛下!」

 親衛隊の魔剣士リズ・ウィークがアルヴィクトラを守るように前へ飛び出し、長いブロンドの髪が大きく乱れる。

「帝国騎傑団序列四位、リズ・ウィーク。司る魔力特性は"閃光"。いざ参る」

 彼女の宣言と同時に指向性を持った強烈な光が放たれ、死霊の契約者の視界が潰れる。その間に長剣を構えたリズが距離を詰めて斬りかかる。

 一対一の戦闘において、彼女の魔力特性は強い優位性を持っている。初見で彼女の魔力特性とその剣技から逃れることは難しい。

 故に、アルヴィクトラはリズの勝利を確信した。

 リズの長剣が襲撃者の肩に振り下ろされる。その瞬間、襲撃者の影から何かがぬうっと姿を現した。次の瞬間リズの長剣が止まり、彼女の身体が突然崩れ落ちた。

 何が起きたのか理解できなかった。

 リヴェラの叫び声。

「退け。契約者に触れるな。死の呪いを受けるぞ」

 その言葉を皮切りに、襲撃者がアルヴィクトラの元へ突撃してくる。一人の近衛兵が持っていた剣を投擲するが、襲撃者の横を通り過ぎていく。

「アル様!」

 リヴェラの悲鳴。

 彼女の指先から熱線が放たれるが、死霊の契約者は人ならざる不可思議な動きで攻撃を躱す。

 アルヴィクトラは立ち上がると同時に、支配者の魔力を解放した。アルヴィクトラの足元を中心に床が凍りつき、広間全体を覆うように領域を広げていく。

 その大規模な奇跡を前に、死霊の契約者は戸惑うように足を止めた。

 そこにリヴェラの熱線が煌き、その腕を消し飛ばす。

 死霊の契約者は悲鳴を上げることもなく、冷静に数歩下がり、荒い息を吐く。

 黒いフードに覆われているが、若い男のようだった。

 幾度も死霊魔術を行使したせいか、その瞳は尋常ならざる赤色に染まり、生を感じる事が出来なかった。

 吐き出す息は荒く、魔力の使いすぎによって足元は大きく震えている。

 互いの出方をうかがうような沈黙が落ちた。

 近衛兵たちがアルヴィクトラを守るようにゆっくりと動き、死霊の契約者は広間に集まる騎士たちの注意深く観察している。

 そして、状況が動いた。

 死霊の契約者の身体が、浮き上がった。

 はじめは何らかの魔力特性によるものかと思った。

 しかし、すぐに異変に気づく。

 宙に浮かぶ男の身体は、まるで何者かに吊り下げられているかのようだった。

 契約者の身体が、不自然な形に折れ曲がっていく。

 骨の折れる音が広間に木霊した。

 その場にいる誰もが、予測不能の事態を息を呑んで見守っていた。

 宙に浮いた男の身体は完全に二つに折られ、更に捻じ曲がっていく。

 驚愕と苦痛に顔を歪めた契約者の死に顔が見えた。

 眼球が浮き上がり、涙のように血が流れていく。

 そして、嫌な音を立てて死霊の契約者の胴体は真っ二つに千切られた。

 蛇のような腸が溢れ、血が滴る。

 そして、宙に浮いていた男の身体は力なく床に落ちた。

 この世のものざる咆哮が響き、のっぺりとした黒い何かが襲撃者の身体から抜けて宙に溶けていく。

 後には死体と静寂が落ちた。

 アルヴィクトラは虐殺幼帝の仮面を被る事も忘れ、縋るようにリヴェラを見た。

 リヴェラは深く息を吐き出し、目を閉じて告げた。

「これが恐らく、死霊と契約した者の最期なのでしょう」

 この二日後、前線で指揮をしていたディゴリー・ベイルから敗走の報せを受け、終わりに向かっていたはずの貴族連合との戦いを暗雲が覆い始めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10話

 どれほどの間、暗い森の中を歩き回っただろうか。

 熱でぼんやりとする頭。

 徐々に鉛のように重くなっていく四肢。

 あらゆる身体機能が低下していくのが分かったが、不思議と危機感を覚えることはなかった。

 どこか冷静に限界を感じる自分がいて、それでもそれを問題としない自分が同居していた。

 アルヴィクトラはリヴェラと寄り添うように、ぬかるんだ森の中を黙々と進んでいく。

「アル様」

 不意にリヴェラが立ち止まった。

「リヴェラ?」

 振り返って、彼女の名前を呼ぶ。

 乾いた喉に痛みが走った。

「水の香りがします」

 彼女の言葉に、アルヴィクトラは目を見開いた。

 濁っていた思考が一瞬だけクリアになり、五感が研ぎ澄まされる。

「こちらです」

 リヴェラがふらふらと方向を変える。アルヴィクトラは無言でそれに続いた。

 鬱蒼と茂る木々の間を抜けていくと、森の香りに混じって別の香りがした。自然と歩く速度が上がる。

 冷たい風が吹く。

 木々の向こうに煌きが見えた。

「泉です」

 リヴェラの声とともに、アルヴィクトラは足を止めた。

 温かな陽光が落ち、泉の水面が輝いていた。

 これまで続いていた陰鬱な森の景色が終わり、前方には幻想的な風景が広がっている。

 アルヴィクトラはリヴェラと視線を合わせると、ゆっくりと泉に近づいた。澄んだ水がきらきらと輝きを放つ。

 しゃがみこみ、両手で水を掬って口に運ぶ。冷たい水が喉を通り、身体の中から疲労が癒えていく。

 隣を見ると、リヴェラが同様に水を飲んでいた。熱のせいで頬が赤い。

 アルヴィクトラは破れた服の裾を千切り、それを泉に浸してよく絞ると、リヴェラの額にそっとつけた。瞬く間に布切れがリヴェラの熱を吸って熱くなる。

「すごい熱です。リヴェラ、ここで少し休みましょう。今は追跡を振り切る事よりも体調を整えることを優先するべきです」

 アルヴィクトラの言葉に、リヴェラは無言で倒れるように草の上に横になった。反論する気力もないようだった。

 何度か布切れを水に浸してリヴェラの額にのせるが、すぐに熱を持ってしまう。アルヴィクトラは少し考えこんだ後、魔力を用いていくつかの氷を作り出し、それを布で包んでリヴェラの額にのせた。更にボロボロになった服の裾を切って同様に氷を包み込み、リヴェラの両腋に挟み込む。

 作業を終えると、アルヴィクトラは彼女の横に倒れこんだ。自身の熱の対処もしなければならなかったが、それさえも面倒に感じた。

 ただ、休息が欲しかった。

 アルヴィクトラは燃えるような自身の額にそっと触れた後、そのまま気絶するように眠り込んだ。

 

◇◆◇

 

 死霊と契約した者は、一人ではなかった。

 抵抗勢力の中に少なくとも六人の契約者が確認され、そのうちの二人はリヴェラとディゴリーによって討たれたが、残りの四人の存在が厄介だった。

「よくない兆候です」

 アルヴィクトラの前に舞い戻ったディゴリー・ベイルは、地図を広げて帝国の辺境を指差す。

「王国の諜報員が辺境で何やら嗅ぎまわっているようです。帝国内の動乱について探りを入れてきたのでしょう」

「貴族連合と王国が繋がる可能性があると?」

「はい。あるいは、既に繋がっているのかもしれません。死霊との契約を行うには高位の魔術師の協力が必要不可欠ですが、帝国内の魔術師の多くは騎傑団に身を置いています。何らかの形で王国が関与していると考えるべきです。このまま抵抗が長引けば、王国軍が大きく動くことも考えられます。早期解決が必要です」

 アルヴィクトラは大きくを息を吐くと、ディゴリーを静かに見つめた。

「帝国騎傑団を総動員します。全てを攻勢に回し、可及的速やかに貴族連合を潰してください」

 アルヴィクトラの言葉に、それまで彼の後ろで事態を見守っていたリヴェラが口を開いた。

「騎傑団の全てをですか?」

「そう、リヴェラもです。そして、私自身も」

 アルヴィクトラの宣言に、ディゴリーとリヴェラが目を見開く。

 アルヴィクトラは微笑んで、胸に手を当てた。

「この身に流れる支配者の血は、初代皇帝から受け継いだもの。魔術師としては未熟ですが、騎傑団員に遅れをとるつもりはありません」

 それに、とアルヴィクトラ言葉を続けた。

「私の魔力特性は死霊の契約者と相性が良い。来るべき王国との決戦に備えて騎傑団の損耗を抑える必要があります。ならば、全ての戦力を動かすべきです。私たちの目指すべき所は、抵抗勢力の排除ではない。そのずっと先にあります。こんなところで立ち往生している暇はありません」

 アルヴィクトラの力強い言葉に、ディゴリーとリヴェラが頭を深く垂れる。そして、アルヴィクトラは立ち上がった。

 

 

 

 帝国騎傑団は元来、帝国軍における武芸者を集めたものだった。

 騎傑団への入団が認められれば皇帝から馬が与えられ、序列によって名誉と役職が与えられる。これにより、帝国軍全体の個人技量の発達を狙ったのがそもそもの始まりだった。

 それがいつしか皇帝直属の遊撃部隊としての役割が強くなり、その存在は皇帝と近しいものとなった。

 アルヴィクトラ・ヴェーネは帝国騎傑団の上位団員はもちろん、下位の団員の顔を覚えていた。同様に、帝国騎傑団の団員たちはアルヴィクトラのことを幼少期から知っている者も多く、虐殺幼帝と呼ばれるようになったアルヴィクトラに対して必要以上に恐れを抱く者は少なかった。

 アルヴィクトラを中心に平原に展開する帝国騎傑団、総勢一〇〇名はアルヴィクトラと肩を並べて五〇〇〇の兵を展開する貴族・商人連合へ向かって各々の武器を掲げる。

「帝国騎傑団、序列零位。そして唯一皇帝であるこのアルヴィクトラ・ヴェーネの魔力特性は"氷の統率"。全ての民を従え、勝利へ導く特性。我が剣、我が手足となり、賊軍に死を与えよ」

 アルヴィクトラの宣言に続いて、騎傑団の全員が一斉に名乗り上げ、一つの歌のように平原に響き渡る。

「進め。進め。立ち止まることは許さぬ。前進せよ!」

 宣言とともにアルヴィクトラは駆け出す。帝国騎傑団も一斉に地を蹴り、それに呼応するように相対する貴族・商人連合からも雄叫びが上がった。

 一〇〇名の帝国騎傑団が五〇〇〇の貴族・商人連合に呑みこまれる様にして、二つの陣営が衝突する。

 アルヴィクトラは氷の剣を構え、最前列の敵に向かって突撃する。貴族・商人連合は槍兵を並べて騎傑団の衝撃を抑え込もうとするが、アルヴィクトラの魔力特性が前列の敵を一瞬にして凍りつかせる。そこにリヴェラの放った熱戦が煌き、戦列に小さく深い穴が空く。その穴が塞がる前にディゴリーが戦斧を大きく振り回して敵戦列に大きく食い込んだ。ディゴリーを支援するように雷光が周囲の槍兵を貫き、指向性を持った高周波が広範囲の敵を襲ってその動きを止める。

「我ら帝国騎傑団を止めるには万の兵が必要と知れ!」

 ディゴリーが叫び、彼の振るう戦斧が周囲の敵兵をまとめて薙ぎ倒す。その後ろから魔剣士バルト・リークが続き、バターを切るように敵兵の身体が寸断されていく。

 帝国騎傑団は足を止めることなく、敵勢の中を突き進んでいく。その勢いを殺そうと帝国騎傑団を包囲するように敵勢が動くが、帝国騎傑団はそれを意に返す様子もなく、アルヴィクトラを中心にただ前進を続けた。

「左翼、死霊の契約者!」

 誰かの叫び声。同時に、帝国騎傑団の統率が僅かに乱れるのがわかった。

 アルヴィクトラは氷剣を手に、大きく跳躍する。帝国騎傑団員の一人が持つ魔力特性・浮遊によってアルヴィクトラの身体が空を舞い、死霊の契約者によって押され始めた左翼へと飛行する。

 眼下にはそれぞれが千の兵に匹敵する帝国騎傑団。そして、それさえも凌駕する死霊の契約者が帝国騎傑団の隊列を荒らしている。アルヴィクトラは死霊の契約者を確認すると、すぐに魔力を解放した。凍結の魔力特性が戦場を駆け抜け、死霊の契約者の動きを止める。そこへ帝国騎傑団員の一人が放った炎の槍が飛来し、死霊の契約者の身体が沈みこむ。

「死霊の契約者も所詮は人の子。帝国騎傑団の前には無力でしかない。進め。殺せ。帝国騎傑団には勝利が約束されている」

 隊列の乱れた帝国騎傑団が、周囲の敵勢に押され始めるのが見えた。信じられないほどの血が大地へ流れ、帝国を赤く染めていく。その頭上に浮遊するアルヴィクトラは更なる血を流すべく、高々と新たな命令を下すのだった。

 

 

 

 決戦の場となった平原。

 そこに打ち捨てられた死体を大粒の雨が打つ。

 アルヴィクトラは雨に濡れながら、大地に流れる血をぼんやりと見つめた。

 結論から言えば、アルヴィクトラ率いる帝国騎傑団は貴族・商人連合を打ち破った。しかし、勝者であるはずのアルヴィクトラの顔には絶望の色が広がっている。この戦いで帝国騎傑団の三割が損耗し、最早その形を成しえなくなっていたからだ。

 ディゴリー・ベイルがアルヴィクトラを雨から守ろうと頭から布をかぶせ、遺体の処理について報告をあげる。しかし、それはアルヴィクトラの耳には届かず、雨音の中に溶けていった。

 これを機に帝国騎傑団は再編を行い、帝国軍の中から新しく選出された者たちが帝国騎傑団への入団を認められる。同時に、貴族・商人連合に続くようにして散発的な反皇帝運動が始まり、アルヴィクトラは更なる戦乱の中に身を投じる事となる。

 どれだけ敵を殺しても、新たな敵が現れる。

 虐殺が、新たな虐殺を生んだ。

 どこにも到達点は存在しなかった。

 アルヴィクトラは本格的な改革を進める為に内政にかかりきりとなり、帝国騎傑団はアルヴィクトラの手足となるべく各地の戦火を駆け抜けた。そして、帝国騎傑団はその度に損耗し、中身は激しく入れ替わっていった。アルヴィクトラが即位した当時の帝国騎傑団は最早どこにも存在せず、幼少期のアルヴィクトラを知る者は徐々に減っていった。アルヴィクトラは虐殺幼帝として支配力を強めるとともに、多くの敵を作り出し、多くの仲間を失って孤独になっていく。

 執務室。

 名前の知らない者ばかりが連なった帝騎傑団員のリストを見つめて呆然とするアルヴィクトラの華奢な身体をリヴェラがそっと抱きしめて呟く。

「アル様。私だけは永久にアル様のお傍におります」

 その十日後、アルヴィクトラは十四歳の誕生日を迎えるとともに帝国騎傑団の一部に内応の兆しが見られることをディゴリーから知らされ、虐殺幼帝として命を差し出すことを決意するのだった。

 そして、リヴェラとの逃亡が始まる。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11話

 目を覚ますと、真上に上がった太陽がアルヴィクトラの視界を覆った。

 強い渇きを覚えて、すぐそばに広がる泉の水を何度も口へ運ぶ。

 渇きが癒えると、両手で汲みあげた水に魔力を注ぎ込んで氷の塊を作り出し、それをリヴェラの元へ持っていった。リヴェラの額に乗せられた布は乾き切り、随分前に氷が溶け切ったことを示している。かなりの間眠ってしまったようだった。

 新しい氷をリヴェラの額に乗せると、彼女の口から僅かにうめき声が漏れた。アルヴィクトラはリヴェラの青白い顔を見つめた後、小さい氷を創りだしてそれを彼女の口に優しく含ませた。溶けた氷を飲みやすいように彼女の頭を少しだけ持ち上げて、飲み込むのを待っている間に次の氷を作り出す。

 その作業を何度か繰り返してリヴェラの水分補給を終えると、アルヴィクトラは泥だらけになった自身の身体を清める為に服を脱いで、泉の中に進んだ。傷口に激しい痛みが走ったが、これ以上の毒素の流入を防ぐ為に傷口の汚れを落とす必要があった。

 水浴びしながら、アルヴィクトラは考える。

 虐殺を繰り返してきたことは正しかったのだろうか、と。

 帝国における腐敗を正す為には、力が必要だった。

 即位したばかりのアルヴィクトラには何の基盤もなく、圧倒的な暴力による支配が必要不可欠だった。

 ディゴリー・ベイルは言った。正気を保ったまま帝国に死を撒き散らしてください、と。

 アルヴィクトラはそれを実行した。結果的にそれはアルヴィクトラに力を与え、腐敗しきった帝国貴族と市場を支配していた商人たちを一掃するに至った。

 しかし、それは新たな反発を生んだ。アルヴィクトラの支配力が強大になればなるほど、反皇帝の機運は帝国中に広がっていった。

 ――あなたは、殺しすぎた。

 クーデターを起こしたバルト・リークはアルヴィクトラのやり方を否定することはなかった。ただ、虐殺幼帝がそこに在ることによって、残された民は支配を拒むだろう、と言った。

 既にアルヴィクトラの手によって、腐敗しきった統治機構は新たな血肉を手に入れた。改革を進める準備は終わった。後に残された問題は、皇帝に対する反発心のみ。

 ――あなたの役割は終わったのです。腐敗しきった有力勢力は排除された。後は悪の虐殺幼帝として君臨した貴方を英雄の役割を持つ者が討てばいい。それで、新たな皇帝は強い求心力を得て、帝国は一つとなります。

 そう言って、バルト・リークは剣をとる。

 戦乱の中、帝国騎傑団において頭角を現し、序列二位まで上り詰めた魔剣士はアルヴィクトラを討つ為に起つ。

 ――あなたは善き支配者だった。腐敗しきった帝国をここまで建て直したことは驚くべきことです。でも、あなたのやり方が理解されることはないでしょう。あなたは狂人として、虐殺幼帝として次の皇帝に繋ぐ為に死ななければなりません。

 虐殺の血脈は、一度絶えなければならない。

 バルト・リークの言葉で、アルヴィクトラはそれを理解した。理解したはずだった。

 アルヴィクトラは前髪から滴る雫をぼんやりと見つめて、小さく息をついた。

 何故、まだ生きているのだろう。

 あの時、クーデターが起こった時。謁見の間でバルト・リークが肉薄した時、アルヴィクトラは確かに死を覚悟した。

 アルヴィクトラは虐殺幼帝の仮面を被り、邪悪を演じた。新たな英雄の、皇帝の誕生の為の生贄となるべく、帝国の繁栄へ繋げるべく、アルヴィクトラは迫る剣を正面から受けようとした。

 しかし、リヴェラに命を救われて逃亡した瞬間から、アルヴィクトラは生き延びる為に行動し続けている。暗い森の中を這いずり回り、雨に打たれながらも、アルヴィクトラは生を望み続けた。

 死の覚悟など、できていなかった。

 きっと、諦めていただけなのだろう。

 だから、リヴェラが示した生の道に縋った。

 アルヴィクトラ・ヴェーネは皇帝としての債務を投げ出して、一人の人間として行動した。

「最低です」

 アルヴィクトラはポツリと呟いて、それから腹部の傷跡を見つめた。

 中途半端に刻まれたバルト・リークの剣。それが、今の状況を現しているように思えた。

 ――アルヴィクトラ・ヴェーネ。お前は一体何を望んでいる?

 アルヴィクトラは自問する。

 ――救国の為と帝国に死を撒き散らしたのだ。それならば、救国の為にお前自身の命を差し出すべきではないか。

 そうだ。そうするはずだった。あの時までは。

 バルト・リークの剣が迫った時、アルヴィクトラは恐怖を覚えなかった。

 あったのは、奇妙な高揚感だけ。

 邪悪を演じ、邪険を構えたアルヴィクトラは終わりの予感に震えていた。

 安心したのかもしれない。これで終わりの見えなかった虐殺が終わるのだと。それが、死の恐怖を打ち消した。

 ――それならば、今はどうだ? お前は今でも躊躇なく死を選ぶことできるか?

 アルヴィクトラはゆっくりと右腕を上げて、自身の指先を見つめた。そこに光の粒子が集まり、小さな氷のナイフを作り出す。

 アルヴィクトラはそれを自身の喉に向けると、静かに目を瞑った。

 息は乱れない。

 心臓は平穏を守っている。

 感情は揺らがない。

 アルヴィクトラは小さく笑って、氷のナイフを自身の喉に向かってゆっくりと動かした。

 瞬間、ナイフが吹き飛ばされた。

 驚いて目を開けると、焼けたナイフの根元だけが手元に残っていた。

 視線を動かすと、泉の端に立ったリヴェラが息を荒げて立ち尽くしていた。

「アル様……何をやっているのですか」

 アルヴィクトラはリヴェラの姿を確認すると同時に、彼女のもとへ駆け寄った。水面が大きく揺れて、水飛沫が散乱する。

「リヴェラ、安静にしていてください」

 アルヴィクトラの言葉に影響されたように、リヴェラの身体が崩れ落ちる。

 アルヴィクトラは素早く服を身に巻きつけると、新たな氷を創りだして布で包んでからリヴェラの額に乗せた。

「アル様……」

 リヴェラの口から、苦しそうな息とともにアルヴィクトラの名前が零れる。

 アルヴィクトラは彼女の赤い髪をそっと梳いて、それから自分がまだ生きている理由をぼんやりと理解した。

 せめて、彼女が回復するまで。

 アルヴィクトラはそのまま長い間リヴェラのそばから動くことなく彼女の寝顔を見つめていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12話

 夜が訪れても、リヴェラの熱が下がることはなかった。

 アルヴィクトラはリヴェラの氷を新しいものに変えながら、襲撃について考えを巡らせた。

 帝国騎傑団による強襲を受けた場合、リヴェラを逃がすことは難しい。同様に再びヴェガの群れに襲われた場合もアルヴィクトラだけで撃退することは不可能に思えた。

 ヴェガの群れを遠ざける為には、火が有効であることが広く知られている。しかし、火を焚けば帝国騎傑団から発見される可能性が高い。

 アルヴィクトラは僅かに迷いながら、地面に右手をつけて魔力を放った。アルヴィクトラの魔力特性"凍結"によってアルヴィクトラを中心に周囲の地面が薄く凍りついていく。それはやがて地面付近の空気へと伝わり、薄い霧が立ち昇り始めた。

 闇夜を白い霧が包み込んでいく。

 アルヴィクトラはその中で息を止めて、じっと耳を澄ませた。霧によって帝国騎傑団から姿を隠すことができるが、臭いで獲物を探す獣たちには通用しない。それどころか霧が発生することによって、ヴェガの接近に気づくことが遅れる危険性もある。それでも、アルヴィクトラは意図的に霧を作り出し、姿を隠すことを選んだ。

 帝国騎傑団は、獣以上に脅威である。

 それがアルヴィクトラの下した判断だった。上位団員との遭遇は何としてでも避けなければならない。

 アルヴィクトラは冷たい地面に右手をつけたまま、無言で魔力を注ぎ込み続ける。その間も、獣たちに包囲されないように耳を澄ませ、じっと息を潜める。

「アル様……」

 すぐ横で眠るリヴェラが擦れた声でアルヴィクトラを呼ぶ。夢を見ているようだった。

 アルヴィクトラは弱りきったリヴェラを見つめながら、食料のことについて考える。まともな食事が必要だ。食料がなければ、リヴェラの回復が遅れてしまう。

 早く日が昇ることを祈りながら、アルヴィクトラは冷たい霧の中でじっと魔力を注ぎ込み続けた。

 光も音もない空間での単純作業というものは、嫌な記憶を掘り起こす。考えても無駄なことが頭をよぎり、思考に埋没していく。

 アルヴィクトラはリヴェラと初めて出会ったことを思い出した。

 中庭で静かに佇んでいた彼女。

 あの時は、全てが自由だった。

 アルヴィクトラとリヴェラは、上を目指すことができた。

 帝国に蔓延していた闇を吹き飛ばすことができるのだと疑わなかった。

 しかし、それは間違いだった。

 アルヴィクトラは深い闇を纏い死を撒き散らす存在となり、リヴェラは虐殺幼帝の懐刀として多くの血を吸うことなった。

 一体どこで選択を間違ったのだろうか。

 あるいは、と思う。

 何も選択は間違っていなかった。

 帝国の膿は取り除かれ、後はアルヴィクトラが討たれることによって新たな救世主は求心力を得て、帝国は一つとなる。

 どこにも間違いはない。

 為政者としては誇るべきだった。

 それでも、これが正解だったという思いは全く湧かない。残されたのは達成感ではなく、空虚な無力感。

 まるで周囲を包む霧のようだと思った。

 何が正解で、何が間違いだったのか全てが曖昧でわからない。

 唯一わかっていることは、リヴェラが絶対的なアルヴィクトラの味方であり、彼女の為に生きなければならない、ということだった。何もかもがわからない中、リヴェラだけがアルヴィクトラの明確な行動指針となった。

 

 

 

 夜が明ける。

 霧の中に朝日が差し込み、世界が白ばむ。

 アルヴィクトラはリヴェラの氷を交換してから行動を開始した。

 歩く度に朝露に濡れた草がしゃりしゃりと音を立てる。この状況で狩りは難しいと判断して、山菜の採集を目的にアルヴィクトラは草木を掻き分けて歩き回った。

 近くの木々に木質化しかけた複数の蔦が巻きついているのを見つけると、アルヴィクトラは無言で氷のナイフを創りだし、まだ柔らかそうな部分だけを慎重に切り取った。それから端を齧り、食べられることを確認する。木質化すると非常に苦いが、生でも食べられる植物だ。周囲に茂る同様の蔦を切り取り、硬い部分だけを捨てていく。

 採集を続けている間、泉に残してきたリヴェラのことが気にかかり何度も引き返しそうになった。その度に、食料が必要であることを自らに言い聞かせるようにして作業的に採集を続けた。

 太陽が真上に上がる前に採集を終えると、アルヴィクトラは大量の蔦を腕に巻きつけて森の中を駆け抜けた。何度も転びそうになりながら、泉を目指して真っ直ぐ走る。

 木々が開き、陽光に煌く水面が視界に入る。

 荒れた様子はなく、泉のそばではリヴェラが寝息を立てて横たわっていた。

 何事もなかったことに安堵すると、アルヴィクトラは採集した蔦を泉に浸して柔らかくなるのを待った。

 その間にリヴェラの氷を新しいものに交換し、手で掬った水を彼女の口に含ませる。

 眠い。

 夜間一睡もせず警戒していたせいか、アルヴィクトラの熱も未だに下がる様子がない。

 体力の限界を感じながら、泉に浸していた蔦を取り出し、石ですり潰して水で練ったものをリヴェラに食べさせた。

 リヴェラは酷く疲れた様子でそれを口にすると、苦くてよく目が覚めます、と微かに笑った。アルヴィクトラはそれを聞くと一緒に笑って残った蔦を口に含み、苦さに顔をしかめた。

 太陽が真上に上がった頃、アルヴィクトラは遂に眠気に耐えられなくなり、リヴェラの横で丸くなった。

「アル様……」

 リヴェラが弱々しい力でアルヴィクトラの小さな身体を包むように抱きしめる。

 目を閉じる寸前、こちらをじっと見つめるリヴェラの紅い瞳が見えた。

 その眦は温かく、優しいものだった。

 胸の中に安堵が広がっていく。

 アルヴィクトラはそのまま泥のように眠った。

 

 

 

 目を覚ませば、すっかりと日が落ちて辺りは暗くなっていた。

 身体がだるい。

 熱が下がらないまま採集に出かけた為、体調が悪化したのかもしれない。

 アルヴィクトラは重い頭を抱えながら、ゆっくりと上体を起こした。見張りをしなければならない。

 ふと、隣に目を向ける。

 そこで、アルヴィクトラは思わず息を止めた。

 寝ているはずのリヴェラは、アルヴィクトラの横で上半身を起こし、頭上の星空を見つめていた。

 その真剣な横顔に彼女の言葉を思い出す。

 ――高位の魔術師たちは、天体の動向から導きを受けます。我々はその運命に流されるだけの、矮小な存在でしかありません。

 リヴェラは今、運命を覗いているのだろうか。

 リヴェラほどの魔術師になれば、どれほど遠くの運命を見通すことができるのだろうか。

 どこか神聖な雰囲気を纏うリヴェラを、アルヴィクトラは邪魔にならないように見つめることしかできなかった。

 長い間、アルヴィクトラは星空を見上げるリヴェラの横顔を眺めていた。不意にリヴェラがアルヴィクトラの視線に気づいたように振り返る。

「リヴェラ、寝ていなくても大丈夫なのですか?」

 ずっと横顔を見ていたことを取り繕うように、自然と口から言葉が飛び出した。

「まだ熱はあるようですが、アル様のおかげで随分と楽になりました。少しくらいなら支障はありません」

「星を見ていたのですか? 天体の動向を?」

 アルヴィクトラの問いに、リヴェラは薄い笑みを浮かべて首を横に振った。

「よく見えませんでした。魔術師として、私は到達点に届いていないということです」

「リヴェラが、ですか? 信じられません」

 リヴェラは笑みを浮かべたまま、諭すように小声で言った。

「アル様。魔術を用いた戦闘能力と魔術師としての位は比例しません。私はもう、高位の魔術師にはなれない」

 アルヴィクトラは黙り込んだ。

 リヴェラの顔に諦めのようなものが混ざっていて、魔術に疎いアルヴィクトラが口を出すべきことではないと思ったからだ。

「アル様は、見張りをするつもりだったのですね。でも、大丈夫です。今夜は私が見ているので、休んでいてください」

 リヴェラはそう言って、再び天を仰ぐ。

 その姿がどこか寂しく見え、アルヴィクトラは首を横に振った。

「起きたばかりで、眠れません」

 そう言って、そっとリヴェラの傍に寄る。

「私もです」

 リヴェラはそう言って小さく笑い、傍に寄ったアルヴィクトラにゆっくりと体重を預けた。彼女の長い髪がアルヴィクトラの頬をくすぐる。

「では、二人で見張りをしましょう。一人で見張るよりも安全です」

「昼はどうしますか?」

 アルヴィクトラが問いかけると、リヴェラは悪戯っぽく笑った。物静かなリヴェラにしては珍しい笑い方だった。

「一緒に寝ましょう。そのほうが悪い夢を見なくて済む」

 アルヴィクトラはクスッと笑い返して、それから夜空を見上げた。星の海がどこまでも広がっている。

 瀕死の状態で最悪の状態で夜を迎えているにも関わらず、不思議と怖いとは思わなかった。

 逆に、胸の中には深い安堵の色が広がっている。

 虐殺幼帝として過ごしていた時には得られなかった平穏が、確かにこの時あった。

 全てが遠くの事のように感じられた。

 身を寄せ合うリヴェラ・ハイリングの温かみと、穏やかな星の海だけが世界がどこまでも広がっている。

 アルヴィクトラ・ヴェーネはこの時、確かに幸福だった。

 それが恐らく、最後の時間だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13話

 泉を拠点とした生活が三日続いた。

 アルヴィクトラ、リヴェラともに依然と微熱が続いていたが、高熱は収まり、順調に快復へと向かっている。

「アル様、焼けました」

 ぼんやりと泉を見つめていたアルヴィクトラに、背後から柔らかい声が届いた。

 振り返ると、串に刺さった獣の肉を差し出すリヴェラの姿があった。

 昨日水浴びをしたばかりの為、リヴェラの顔や髪からは泥と埃が落ち、元の鮮やかな容姿を取り戻している。

「ありがとう」

 アルヴィクトラは微笑んで、串焼きを受け取る。焼いただけの肉だったが、香ばしい臭いが鼻をついた。

 硬い肉を噛み切りながら、泉へ視線を戻す。蒼空を映す水面がそよ風で小さく揺らめき、時折魚の影が見え隠れした。

「アル様は」

 リヴェラがアルヴィクトラの横に腰を下ろし、口を開く。

「後悔なされていますか?」

「何を、ですか?」

 視線だけリヴェラに向けて、アルヴィクトラは肉を小さく齧った。

「全てをです。虐殺皇帝の打倒を目指し、結果的にそれを引き継ぐことになったことを」

 アルヴィクトラはこれまでの記憶を思い返すように目を瞑って、それからすぐに首を横に振った。

「わかりません。私の望んだ結果にはなりませんでしたが、全てを無かったことにしたいとは思いません。何もしなければ、帝国は緩やかな崩壊を迎えていた。その影響を受けるのは民です。統治者として、それは許されないことです」

「しかし、アル様のやり方に反抗したのもまた民でした」

 リヴェラの言葉に、アルヴィクトラはゆっくりと頷いた。

「私は自ら虐殺幼帝の仮面を被りました。帝国の建て直しを行うには、それが最も効果的な手段のように思えた。民はその手段に反抗しただけです。私のやり方に非があっただけです」

 アルヴィクトラはそう言って、空を仰いだ。

 沈黙。

 木々が風で擦れる音が響く。

「私は」

 雑音の中、リヴェラの声がはっきりと響いた。

「アル様を戦火の中に引きずり込んだことを後悔しています」

 アルヴィクトラは空を仰いだまま、彼女と初めて出会った時のことを思い出した。

「リヴェラは私と初めて出会った時、魔法をかけてくれましたね」

 

 

 ――貴女は魔女なのですか? 父上を、虐殺皇帝を成敗しにきたのですか?

 ――父上? ああ、貴方は……貴方の父は疑心暗鬼に陥っているのです。その環境が誰も信じる事を許さず、虐殺へと走らせた。人の身である私が解決する事は叶いません。でも、貴方が同じ道を辿らないように、魔法をかけることはできます。多くの大きな物語で使い古されてきた古代の魔法です。

 ――古代の魔法?

 ――人の温もりです。

 ――あの?

 ――貴方が疑心に陥らぬように。帝国騎傑団序列五位、リヴェラ・ハイリングが貴方を守る魔槍となりましょう。

 

 

 中庭で行われた小さな誓約。

 何の力も持たなかった七歳の子どもと、帝国騎傑団で頭角を現し始めた十七歳の娘の何の効力も持たない約束。

 それはアルヴィクトラの運命を決定付けた。

 アルヴィクトラが絶望的な内部闘争を決意するきっかけとなり、才覚に恵まれたリヴェラ・ハイリングの存在がアルヴィクトラに反皇帝の求心力と現実性を与えた。

「リヴェラがいなければ私は孤立し、目的も持たず虐殺皇帝の後を継いでいたかもしれません。ずっと、感謝していました。私はあの出会いをなかったことにしたくありません」

 アルヴィクトラはリヴェラの瞳を正面から見据えて、優しく微笑む。

「ここまで私を引きずり上げてくれたことにずっと感謝しています」

 リヴェラは一瞬目を見開くと、口を開きかけてすぐに黙り込んだ。アルヴィクトラは彼女が言いかけたことを引き継ぐように言葉を続ける。

「でも、後は私の問題です。皇帝としての、私の問題。あらゆる意思決定は私だけの権利でした。これは私が皇帝である限り、誰にも渡しません。リヴェラやディゴリーにさえも。この権利を侵害することは許しません」

 それから、残った肉を噛み切る。

 既に熱は失われていた。

 冷めて固くなったそれを口の中で転がす。

「……アル様」

 僅かに間を置いて、リヴェラが意を決したように口を開いた。

「一つ、訂正させてください。意思決定は皇帝の権利ですが、皇帝が独占すべきものではありません。特に、特定の一人とその権利を分け合うことができると定められています」

 アルヴィクトラはリヴェラの言葉の意味を理解することができず、じっと彼女の瞳を見つめた。

 彼女の赤い瞳には強い意志が宿り、炎のように深い色を纏っている。

「私は、それをずっと恐れていました。それはアル様が皇帝として在る限り、避けられぬこと。アル様を皇帝に導いたのは私自身であったにも関わらず、私はそれをずっと恐れていたのです」

 だから、とリヴェラは苦しそうに顔を歪めた。彼女のそんな表情を見るのは、初めてだった。

「だから、私は戦が続くことを心のどこかで望んでもいました。私はアル様の望む世界と反対の世界を望んでいたのです」

「リヴェラ? 話が見えません。一体何を――」

 困惑したアルヴィクトラが口を挟んだ時、リヴェラが大きく息を吸った。

「婚姻です」

 泉のどこかで、魚が跳ねる音が聞こえた。

「婚姻?」

 アルヴィクトラはゆっくりとリヴェラの言葉を反芻した。未だに彼女の言いたいことが理解できない。

「そうです。皇帝となったアル様は、必ず皇后を迎えることになります。皇帝としての権利を、いえ、全てを分け合う存在。その時が来るのを恐れ、混乱をもたらす戦が終わらないことを私は心のどこかで望み続けていました」

 皇后を迎えることを恐れていた?

 リヴェラが?

 何故?

 理解が追いつかない。

「アル様」

 リヴェラが立ち上がる。彼女の熱を持った瞳は真っ直ぐとアルヴィクトラへ注がれ、瞳と同様に燃えるように赤い長髪がふわりと眼前で舞う。

「ずっと、お慕い申し上げておりました」

 壊れ物を扱うように、そっと彼女の細い片腕が身体に巻きついた。一拍遅れて、抱きしめられたのだと気づき、彼女の言葉の真意を理解する。

 頭一つ身長が高いリヴェラはアルヴィクトラを包むようにそっと抱きしめ、それから小声でもう一度呟いた。

「狂おしいほどお慕い申し上げております」

 世界から音が消えた気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

14話

「狂おしいほどお慕い申し上げております」

 耳元で囁かれた言葉に、アルヴィクトラは目を見開いた。

 そっと背中に回された彼女の片腕。そして、アルヴィクトラを包むように密着した彼女の身体から逃げるように、アルヴィクトラは小さく身じろぎした。

「リヴェラ?」

「だから――」

 リヴェラが上からアルヴィクトラの顔を覗き込むようにして顔を近づける。

 彼女の赤い長髪がはらりと落ち、アルヴィクトラの首元をくすぐった。

「――私は単なる剣や側近としてではなく、アル様の全てを支える存在でありたいと考えています。皇帝としての意思決定の権利、そしてあらゆる苦悩を、全てを分かち合うことを願っていました」

 リヴェラの赤い瞳が、正面からアルヴィクトラを捉える。リヴェラの中を巡る血が押し出されるように、瞳が真っ赤に燃える。

「リヴェラ……」

 アルヴィクトラはリヴェラの赤い瞳に吸い込まれるように、じっと彼女の瞳に見入った。そして、抗うように視線を外す。

「なりません。以前にも言った通り、生贄が必要なのです。皇帝の血は途絶えなければなりません。子を成す事は、大きな混乱を後世に与えます。私は最後の仕事として、この血を残すつもりはありません」

 僅かながらの沈黙が落ちる。

 その間、アルヴィクトラを包むリヴェラの身体が離れることはなく、布越しに温かい体温が伝った。

「アル様、顔を上げてください」

 不意に、リヴェラが穏やかな声で言った。

「私の瞳を、正面から見てください」

 躊躇しながらも、アルヴィクトラはゆっくりと顔を上げた。

 すぐ近くにリヴェラの透明な赤い瞳があった。

「アル様。逃げる事なく、どうか正面からお答えください。例えば、子を作る事の出来ぬ女に人を愛する権利はないとお考えですか? それは違うはずです。子を成さずとも、愛し合うことは可能です。皇帝としての義務、責任を置いてアルヴィクトラ・ヴェーネという一人の人間の意思を私は聞きたいのです。私は、アル様のことを狂おしいほどお慕い申し上げております。アル様は、私のことをどう見ておられますか?」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 リヴェラ・ハイリングは魔術師の家に生を受けた。

 両親は魔術によって未来を視ることを専門とする天測師だったが、生まれ持っての魔力特性が"貫通"であった為にリヴェラは戦闘技術に特化した魔術師として育てられることとなった。

 魔力特性"貫通"。

 その名の通り、リヴェラの放つ魔力はあらゆる物質を貫通する。使い勝手の良い魔力特性だったが、その反面応用性は乏しく、リヴェラはただひたすら術式の発動時間の短縮、そして精度の上昇に努めた。

 十三歳の時、リヴェラは戦闘に特化した魔力特性、そして将来性を買われて帝国軍の幹部候補生を育成する幼年学校への入校が認められた。

 軍に興味がある訳ではなかったし、幼年学校ならば学費が不要であるという経済的な理由があった訳でもない。ただ、戦闘に向いた魔力特性を持って産まれたのだから軍に入るのが当然だと何の疑問もなく思っていた。それが魔術師の家に生まれた魔術師としてのリヴェラ・ハイリングの価値観だった。

 リヴェラはそこで士官としての基礎を学びながら、魔術の鍛錬に励んだ。

 士官としての才覚には恵まれなかったが、リヴェラはそこで類稀な戦闘感覚を周囲に見せ付けた。

 魔力特性"貫通"を用いた見敵必中の砲撃戦闘術。

 その実力によって、リヴェラは若干十五歳にして帝国騎傑団への入団を果たす。

 周囲はリヴェラを祝福した。両親もリヴェラの魔術師としての才覚を認め、リヴェラは一人前の魔術師として生きる事となった。

 その矢先だった。

「リヴェラはどうして帝国騎傑団に入ったの?」

 帝国騎傑団に入団してから親しくなった魔剣士ナナシア・ブラインドに入団理由を尋ねられた時、リヴェラは咄嗟に答えを用意することができなかった。

「……戦闘向きの魔力特性を持っていたから」

「じゃあ、別に帝国騎傑団に入りたかった訳じゃないんだ?」

「ええ。私は、一つの到達点を見たい。魔術を極限まで極めればどこまでいけるのか、それを知りたい。騎傑団への入団はその一歩に過ぎない」

「ふーん。修行ってこと? 馬も役職もいらないわけ? ひたすら自己鍛錬に励む為に?」

「そう。私は魔術師としてそうありたい」

 きっと、それが答えなのだとリヴェラは自分に言い聞かせるように言った。

 それから、ナナシアに目を向ける。

「それで、そういうナナシアは何故騎傑団へ?」

「私は単純にお金だよ、お金。生きていく為にはお金が必要だからね。私は学もないし、世渡りが上手いわけでもない。でも、ちょっとした剣術と少しの魔術が使えた。だから、より良い待遇を求めて色々なところで雇われたよ。そしたら、いつの間にか天下の騎傑団に入れたってわけ」

 ちょっとした剣術と少しの魔術。

 ナナシアはそう言ったが、齢十八の魔剣士として彼女の戦闘技術は極めて高い水準に達していた。

 魔力特性"無痛"。

 彼女の魔力は己に向けることで、あらゆる苦痛を抑えることができる。戦闘中における負傷に彼女は影響されない。自身のあらゆる部位を捨ててでも冷静にそれ以上の打撃を相手に与えることを考えて彼女は戦闘の組み立てを行う。回復術の使える魔術師との組み合わせでは、相当厄介な性質となりうる。

「既に十分な給金が出ているでしょう?」

 リヴェラが尋ねると、ナナシアは苦笑して首を横に振った。

「金ってのはさ、いくらあっても足りないんだよ。魔物が吸い取っていっちゃうんだ」

 彼女はそれから話題を変えるように言葉を続ける。

「そうだ。リヴェラは給金何に使ってるの? もうちょっと服にお金使えばいいのに」

 そう言うナナシアが着飾ったところを、リヴェラは見たことがなかった。そして、彼女が着飾るところを見る機会はついに訪れなかった。

 

 

 

 

 ナナシア・ブラインドには親が居ない。

 彼女が六つの時、流行り病で倒れてしまった。農民だった両親は有効な治療を受けることができず、村人たちと一緒に焼かれてしまった。

 いつか、どこかで。そんな話がリヴェラの耳の届いた。

 幼い頃に体験した絶望を払拭できる力を、彼女は求め続けている。取り憑かれたように、ずっと探し求めてる。

 誰かが彼女の噂をした。

 馬鹿馬鹿しいと思った。

 リヴェラの知る限り、ナナシアはそんな感傷的な人物ではなかった。

 ナナシア・ブラインドは金を大事にしてはいたが、それは彼女が現実主義者だからだ。そう思った。

「ねえ、リヴェラ。私、やったよ。序列九位に格上げ。特案捜査の補佐官の役職が与えられるって」

 リヴェラが帝国騎傑団に入ってから一年後。リヴェラは十六歳に、ナナシアは十九歳になった。

 ナナシアはリヴェラを突き放すように序列を上げていった。誰もが目を見張る驚異的な成長速度だった。

 最年少であるリヴェラも序列を五十六位まで上げ注目を得ていたが、そんなリヴェラから見てもナナシアの成長速度は恐ろしく思えた。

 急ぎすぎている。駆け足すぎる。

 どこかで躓くのではないか。そう危惧した。

 実際、彼女の戦闘スタイルは危なっかしいものだった。

 魔力特性"無痛"によってあらゆる苦痛を受け付けない彼女は、自身の身体を餌に敵の隙を作り出して一撃で斬りおとしていく。

 あまりにも効率を求めすぎた合理的な戦闘方法は見ている者にある種の不安を覚えさせた。

「このまま順当に序列を上げれば最年少で序列一位を取れるんじゃない?」

 リヴェラが冗談交じりに言うと、ナナシアは真顔で頷いた。

「取るよ。私は、その為にここにいる」

 リヴェラは思わずナナシアの瞳を見つめた。

 決して大言壮語ではない。

 ナナシア・ブラインドにとっては極めて現実的な目標だった。

 

 

 

「ナナシア・ブラインドは金に汚い」

 一年前に巷で囁かれていた彼女への陰口は自然に消滅した。

 ナナシア・ブラインドは金の為と剣を振るうが、金に溺れることは決してなかった。

 帝国騎傑団に入ってから親しくしていたリヴェラも、ナナシアが豪遊するようなところは一度も見ることがなかった。むしろ、彼女の生活は質素なものと言えた。

 ナナシア・ブラインドは誇り高き騎士だった。

 金が貰えれば名誉に興味はない、と彼女がどれだけ言ったところでナナシア・ブラインドは帝国騎傑団における規範的な生活を送っていた。

「ナナシアは、結婚を考えていないの?」

 ある時、リヴェラはふとそんな話をナナシアに振った。

 特に意図があったわけではない。

 ただ、婚期を迎えた彼女にそうした兆候が微塵も見られないことが、友人として以前から気にかかっていたのだ。加えて十六を迎えたリヴェラにとって、婚姻は関心の高い行事でもあった。

「結婚?」

 ナナシアは何度か瞬きをすると、それから小さく笑った。

「私が?」

「そう。もう十九でしょう。良い相手いないの?」

 ナナシアは考え込むように目を瞑って、それから首を横に振った。

「全く。そもそも、私には親がいない。結婚しろとやかましく責め立てられることもないから気長に探すよ」

 自分にはできない生き方だ、とリヴェラは思った。

 魔術師として生まれ、魔術師と生き、魔術師の血を残す使命を帯びたリヴェラには、彼女のように自由に生きることができない。

 ただ、その自由と引き換えにナナシア・ブラインドには常に余裕がないようにも見えた。

 

 

 

 貴族の子女誘拐事件。

 それが起きたのはリヴェラが十七歳の誕生日を迎えようとする直前のことだった。

 リヴェラ・ハイリングは序列十二位になり、そしてナナシア・ブラインドは序列三位の地位を得ていた。

 帝国騎傑団の上級団員となった二人は、この事件を解決すべく創設された八名からなる救出部隊に組み込まれ、救出任務を与えられた。

 作戦会議の為、部隊は本部の一室に集められた。

 招集されたのは騎傑団の上級団員ばかりであり、リヴェラは安堵を隠せなかった。作戦の成功は約束されているようなものだった。

「まずは状況を説明しよう。誘拐組織の末端の人間を捕まえて、内部の連絡方法を聞きだすことまでは出来た」

 捜査の指揮を任せられている序列六位"閃光"の魔剣士リズ・ウィークがそう言って、会議室の机に一枚の紙切れを出す。

「読めない。何語だ?」

 騎傑団員の一人が顔をしかめる。

 リズ・ウィークは悪戯っぽく笑って、暗号だよ、と答えた。

「恐らくは単一換字暗号だろう。ヒューの魔力特性"超直感"を使ってこれを破る」

 ヒュー、と呼ばれた若い男が戸惑ったように前に出る。

「復号には頻度解析を用いるが、恐ろしく時間がかかる。ヒューの魔力特性を使って簡易的な換字表を作り、時間短縮を図ろうと思う。後は誘拐組織の末端に成りすまして連絡を行い、潜伏場所を特定していく」

 リヴェラは話を聞きながら、リズの手腕に感嘆の息を漏らした。

 騎傑団の団員は武芸に頼りがちだ。リズのように多角的なアプローチを提案出来る人間は少ない。

「解析はすぐに終わるだろうけど、暫くは潜伏場所の特定に時間を費やす事になる。事態に変化があればこちらから再び召集をかける為、常に居場所を明確にしておくこと。また、独自に行動することを厳禁する。以上、解散」

 その日はそれで解散となった。

 リヴェラはその足で酒場へ向かい、ナナシアの愚痴に付き合った。

「暗号だってさ。指揮権は序列によって与えられるもんじゃないとは理解してたけど、やっぱり経験と学ってのは簡単に超えられるもんじゃないね」

 ナナシアはそう言って、肉を噛み切る。

「剣さえ振るってたらどこまでも先にいけると思ってた。私、本当馬鹿だったよ」

 リヴェラはアルコールには手をつけず、ぼんやりとナナシアを見つめた。

「いけるよ。現にナナシアは既に序列を三位まで上げてるじゃない」

「そんなの、ただの数字でしかないでしょ。ちゃんとした役職を貰えないことには給金が上がらないよ」

 ナナシアはそう言って、ブドウ酒を飲み干す。

「ねえ。暗号って超直感持ちなら簡単に破れるのかな? 今度から暗号で困ればヒューに頼れば良い訳?」

 ブドウ酒を飲み干したナナシアが身を乗り出してくる。リヴェラは頷かなかった。

「暗号の種類による。今回使われていた単一換字暗号の解読に有効な頻度解析は文字の出現頻度から地道に元の文字と暗号文字を対応させていくから、この場合は超直感が役に立ちやすい。でも、他の暗号方式だと超直感じゃ太刀打ちできないんじゃない?」

「……魔術師って何でそういうどうでもいいこと知ってるの?」

「天測に必要だから一通りの学問を修める必要があるの。暗号方式については幼年学校でたまたま知る機会があっただけ」

 リヴェラはそれからチラリと視線を外して、でもこんなの戦闘には役に立たない、と小さく零した。

「ましてや序列が上がるわけでもない。私は頭席魔術師になりたいの。それから、魔術の果てにあるものを見たい。こんなの、役には立たない」

 リヴェラがそう言うと、ナナシアは薄い笑みを浮かべた。

「私とは逆だね。私は序列なんていらない。剣の道を究めようとも思わない。安定した役職と給金があればそれでいい」

 うまくいかないな。彼女の呟きが妙に耳に残った。

 

 

 

 誘拐組織の潜伏場所はすぐに割れた。

 召集がかかり、リヴェラとナナシアは本部の一室で指揮を執るリズ・ウィークの前に集った。

「決行は明日。向こうが拠点の移動を始める前に早期解決を図る」

 彼女はそう言って、自信に満ち溢れた笑みを見せる。

「突入は日が落ちてから。二階の窓からトルの魔力特性"飛行"で私とアイヴィーが突入し、魔力特性"音"と"閃光"で相手の目と耳を潰し先手を取る。次に"超直感"を持つヒューを先頭に制圧を開始。後は状況に応じて臨機応変に。以上。質問は?」

「一階の入り口は固めなくていいのか?」

 一人の男が声をあげる。

 リズは頷いて、説明を始めた。

「もう一度確認しましょう。この作戦の最優先事項は人質の救出よ。逃げ場を失った敵が人質を盾にする可能性を極力潰しておきたいの。必要があれば、相手に逃げ場があることを意識させて、上手く相手の行動をコントロールしてほしい」

 その場に集まった全員が頷く。

 それを確認したリズは満足そうに笑って、今夜はよく休んで体調を整えるように、と締めくくった。

「今日も軽く呑んでいく?」

 本部から出ると、すぐにナナシアが誘いの言葉をかけてきた。

「今日はそんな気分じゃない。またね」

 リヴェラが断りの言葉を返すと、ナナシアは小さく肩を竦めた。

 特別な理由があって断ったわけではない。そんな気分じゃない。本当にそれだけだった。

 リヴェラはこの選択を、ずっと後悔する事になる。

 

 

 

 作戦決行日。

 郊外に集った帝国騎傑団の八名は誘拐組織の拠点へ向かって闇夜を駆け抜けた。

 黒衣に身を包んだリヴェラは目標の屋敷が視界に入るとすぐに散開し、拠点周辺の様子を確認した。

 外に見張りは見えない。同様に散開していた帝国騎傑団の面々と合流し、そのまま拠点の壁沿いに一点へ集合する。

「トル。私とアイヴィーを上へ。その後、ヒューを先頭に突入、援護して」

 小声でリズが指示を出し、トルの魔力特性によって彼女とアイヴィーの身体がゆっくりと浮かび上がり、二階の窓へと飛んでいく。

 ガラスが割られ、リズとアイヴィーが窓から内部へ滑り込む。直後、閃光と轟音が内部から溢れ出した。

「始まった」

 誰かの呟き。

 トルの魔力特性によって、ヒューの身体が浮かび上がる。それに続くようにリヴェラの身体も浮遊感に包まれた。

「突撃するぞ」

 ヒューが小さな窓から身を捻って中へ入り込む。リヴェラもそれに続き、窓枠に手をかけると一気に中へ雪崩れ込んだ。

 真っ先に見えたのは、壁際によりかかる三人の女だった。

 いずれも腕を縛られ床に転がっている。誘拐された貴族の子女だと一目で分かった。すぐに視線を室内に走らせると、頭を失って倒れた死体が二つ。そして床に倒れこんだ一人の男に斬りかかるリズの姿があった。

「いきなり当たりの部屋みたいだね」

 最後の男を斬り捨てたリズが振り返る。

 リヴェラは頷くと、壁際に転がる女たちの元へ駆け寄った。

 三人の女のうち、二人は気を失っているようだった。後の一人はリズの放った閃光によって一時的に目が見えなくなっているようで、加えてアイヴィーの音響魔法によって聴力も一時的に低下し、錯乱状態にあるようだった。

「救出対象はこの三人で間違いないの?」

 支離滅裂な悲鳴をあげる女を見つめながら、室内に入ってきたシンシアがリズに確認を取る。

「事前に聞いていた身体的特徴と合致する。しかし、意思疎通が困難のため確定はできない」

 リズが答えた時、ドアの方から複数の足音が響いた。奇襲に気づいた者たちが集まってきたのだろう。

「どうする? 救出対象とともに即時撤退するか? この場を維持しながら捜索を続けるか?」

 ヒューが判断を仰ぐ。

 リズはすぐに、彼女たち三人を逃がした上で捜索を続行、と答えた。同時に部屋の扉が開き、剣を構えた男が飛び込んでくる。

「トル、レア、レノン。彼女たちを抱えてこの場を離れて。リヴェラ、ナナシア、ヒュー、アイヴィー、私と一緒にここを突破するよ」

 リヴェラは頷くとともに指先から熱線を放った。突入してきた男の首が呆気なく消し飛ぶ。

 それを合図にリヴェラたち八人は二つのグループに分かれて行動を開始した。

「ヒュー。先頭走って。あんたが適任だ」

 リズの掛け声とともに、"超直感"を持つヒューが片手剣を手に廊下へ躍り出る。

「来るぞ!」

 ヒューの叫び声を合図に、廊下の突き当りから三人の男が出てくる。

 いずれも短剣で武装した大柄の男だった。

「邪魔だ」

 ヒューが軽々と三人を斬り捨てて廊下を駆け抜ける。リヴェラもそれに続いた。

 階段を見つけ、ヒューが大きく飛び降りる。

 先は玄関ホールのようだった。

 ホール内には五人の男が散開し、リヴェラたちに気づいて剣を構える。

 その瞬間、ヒューが足を止めた。彼の首がゆっくりとリヴェラたちの方へ振り返り、何かを叫ぼうと口が開かれる。

 嫌な予感がした。

 時間が間延びするような、奇妙な感覚があった。

 リヴェラは咄嗟に反転し、転がるように後ろへ飛んだ。直後、破裂音と熱風がリヴェラを襲った。

 身体中に激痛が走る。

 無数の何かがリヴェラの身体を貫いた。

 苦痛と混乱の中、視線を走らせる。

 ホールの真ん中で燃焼する何かがあった。

 そして、その周りで倒れる帝国騎傑団の仲間たちの身体には無数の金属片が突き刺さっている。

 瞬間的な燃焼速度を利用して、無数の金属片を撒き散らす武器のようだった。

「ナナシア!」

 リズの叫び声。

 それに応えるように、血だらけのナナシアが立ち上がり剣をとる。

 魔力特性・無痛。

 あらゆる苦痛を感じない彼女は何事もなかったかのように剣を構え、向かってくる男たちの相手を始めた。

「アイヴィーとヒューの傷が深い。撤退する! ナナシア、時間稼ぎを」

 リズが血塗れの身体を引きずるようにして、ぐったりと動かないアイヴィーの身体をゆっくりと抱える。どうやら重要な臓器を貫かれているようだった。

 リヴェラも大きく息を吐きながら、倒れたままのヒューの身体を起こした。

 アイヴィーと違って急所をうまく防御したようだったが、至近距離で破片を浴びた為に出血が激しい。ヒューを抱えるとリヴェラ自身に突き刺さった無数の破片が食い込み、激痛が全身を襲った。歯を噛み締め、ホールの階段をゆっくりと上る。振り返ると、ナナシアが三人の男を同時に相手取っているのが見えた。そこに一階の廊下から複数の応援が駆けつけてくる。

「ナナシア。適当に切り上げて――」

 言いかけて、気づく。血濡れのナナシアの手元。剣を握る手首に大きな金属片が刺さっていた。

「ナナシア、その手――」

「早く下がって! 長く持たない!」

 ナナシアの叫び声。

 彼女の剣筋には力がなく、受け流すだけで精一杯のようだった。

 魔力特性"無痛"はあらゆる苦痛を打ち消すが、負傷による影響から逃れることはできない。

「リヴェラ、早く下がれ。ヒューを抱えたままではナナシアの邪魔にしかならない」

 リズが撤退を促す。

 リヴェラは頷いて、ヒューの身体を抱えたままホールの階段を駆け上がった。

 突入とは反対に、来た道を走って駆ける。

 抱えたヒューの荒い息が耳に届いた。

 全身の出血が止まらず、廊下に血の跡が残る。

「前に何かいるぞ」

 ヒューの小声が耳を打つ。

 リヴェラは立ち止まって前方を注視した。

 足音。

 直後、突入した部屋から一人の影が飛び出した。

「トル!」

 現れたのは、人質を連れて撤退したはずのトルだった。

「既に三人の人質は安全圏にいる。何があった? ナナシアはどうした?」

「向こうで足止めをしてる。トル、ヒューをお願い」

 リヴェラはそう言って、抱えていたヒューを押し付けるようにトルに預けた。困惑したようにトルがリヴェラを見つめる。

「お前はどうするつもりだ?」

「ナナシアの支援に向かって、可能であれば即時撤退する」

 リヴェラはそれだけ言って、すぐに反転した。

 廊下を駆け抜け、ホールを一直線に目指す。

 剣が衝突する音が大きくなる。

 ホールの階上に辿りつくと、階下ではナナシアが四人の男を相手に剣を振るっているところだった。その周囲には三つの死体。

 加勢しようと魔術の狙いをつける。

 しかし、ナナシアが邪魔になって撃ち抜くことができない。

「ナナシア! 下がって! 後は私がやる!」

 ナナシアがチラリと振り返るが、すぐに視線を前の男に向けて目の前に迫った剣を受ける。高い金属音がホールに鳴り響いた。

 一瞬、ナナシアの動きが止まる。

 その隙を突くように別の男が剣を振るった。

 ナナシアは剣を引きながら半身をずらして回避する。

 そこへ新たに別の男が切りかかり、ナナシアは手元へ引いた剣でそれを弾いた。

 息をする間もなく、次々と斬撃がナナシアを襲う。特にナナシアが相手をしているうちの一人が相当な手練の様子でナナシアが離脱する隙を上手く潰している。

 ナナシア単独での離脱は難しい。

 リヴェラが援護しようとホールへ下りようとした時、階下の奥にいた一人の男がリヴェラへ向かって瓶のような何かを投げた。反射的に反転し、床へ突っ伏す。

 刹那、階下から投げ込まれた何かが破裂し、金属片が無差別にばら撒かれた。伏せていたリヴェラの背中に複数の破片が突き刺さる。

 リヴェラは苦痛に喘ぎながら、無我夢中で身体を起こして真っ直ぐに廊下の方へ身を投げた。

 それから壁に背中を預けて自身の身体を確認する。二度の攻撃によって黒衣が血塗れになっていた。魔術によって一時的な止血を行い、それから廊下から顔を覗かせて階下の様子を探る。

 ナナシアは依然として四人の男の攻撃を受けて防戦一方になっている。その奥では一人の男がリヴェラ方を注視し、何かを手に持っている。

 見慣れない武器だった。

 何らかの圧力で瓶に入っていた金属片を一斉に周囲に撒き散らすようだが、具体的な射程が掴めない。

 リヴェラは荒い息を繰り返しながら、頭を回転させた。長引けばナナシアが持たない。しかし、未知の武器によって近づくことができない。

「考えろ。使い捨ての武器なら数に限りがあるはずだ」

 呟いて、それから廊下から顔を覗かせて階下を見る。リヴェラに気づいた男が瓶を構えるが、投げる様子はない。積極的な攻撃の為に無駄撃ちはしないようだった。目的はあくまでリヴェラを抑え込むこと。

 それならば、とリヴェラは半身を覗かせて右手を男に向けた。高速で術式を組み上げ、熱線を放つ。

 悲鳴。

 熱線が男の右足を撃ち抜き、その身体が崩れ落ちる。

 追撃をしようと再び狙いをつけた時、崩れ落ちた男が手に持っていた瓶を投擲した。それを確認すると同時にリヴェラは追撃を諦めて身を投げた。

 直後、階下から投げ込まれた瓶が破裂音ともに無数の金属片を撒き散らす。

 その暴力的な爆発にリヴェラは顔を歪ませて、全身に突き刺さった破片を見つめた。

 べったりと血に濡れた手で、大きい破片を抜いていく。痕が残るだろうな、とぼんやりと思った。

 応急処置を済ませてから、再び階下を覗く。

 リヴェラの魔術を警戒しているのか、先ほどまで床に崩れていた男は支柱の裏に移動していた。

 迂闊に攻撃できない。これ以上の破片を浴びれば、撤退行動に支障が出てしまう。

 逡巡しながら、ホールで戦闘を続けるナナシアに視線を移す。ナナシアは上手く力が入らないのか、剣筋が定まっていない。絶え間なく響く甲高い金属音がナナシアの体力を徐々に奪っている。

 長くは持たない、と思った。

 激烈な剣撃に耐え切れず、ナナシアが一歩後ろへ下がる。その隙を突くように四人の男たちはナナシアを挟むようにして大きく踏み込んだ。見る見るうちにナナシアが押され、彼女の身体が切り傷を負っていく。

 迷っている暇はない。

 リヴェラは覚悟を決めると、壁から飛び出して階上を駆けた。それを狙うように支柱から男が飛び出し、瓶を投擲する。それは放物線を描いて真っ直ぐとリヴェラの足元へ着弾した。

 爆発。

 至近距離から散乱した破片を全身に受けたリヴェラは全身が切り裂かれる激痛に耐えながら、血に濡れた右手を真っ直ぐと男に向けた。魔力特性・貫通を纏った術式が光速で組み上げられ、熱線として空気中に放出される。

 空気が切り裂かれる音とともに、男の右肩が吹き飛んだ。血肉が散乱し、男の身体が崩れ落ちる。同時に深い傷を負ったリヴェラも床に崩れ落ちた。

 床にリヴェラの赤い髪が散乱する。

 自身の荒い息が妙に大きく響いた。

 頬に当たる床が冷たい。

 全身から血が流れていくのを感じながら、リヴェラは作業的に魔力を込めて順番に止血を始めた。

 血を止めながら、すぐ先で剣を振るうナナシアの戦闘を見つめる。

 ナナシアは既に戦える状態ではなかった。

 あるいは、初めから戦える状態ではなかったのだろう。

 剣を持つ手首には大きな金属片が突き刺さり、大量の出血を強いている。あれではまともに力も入らないだろう。長引く戦闘によって身体中が切り裂かれ、足元には血溜りを作っている。全身が重く、思うように動かないに違いない。

 それでも、ナナシアは剣を離さない。

 真っ直ぐと敵を見据え、その剣を受け止めていく。

「私は」

 不意にナナシアが叫んだ。

「お前たちを軽蔑する」

 ナナシアの剣が大きく煌いた。一人の男の手首が斬り落とされる。

「これだけの技量があるならば、別の道があったはずだ」

 ナナシアが大きく動いたところへ、別の男が剣を振るう。それはナナシアの腹部を大きく切り裂いた。

 それでも、ナナシアは動じない。

 魔力特性"無痛"によって彼女はあらゆる苦痛を知覚しない。

「お前たちの剣は何も救わない」

 独り言のように呟いて、ナナシア・ブラインドは大きく踏み込んだ。彼女の剣が更にもう一人の男の首へ突き刺さる。その隙に残った二人の男が一斉に彼女の胴体を狙って剣を突き出した。

 時が止まった気がした。

 ナナシアの身体を二本の剣が貫いていた。

 それでも、ナナシアは止まらない。

「これがお前の限界点だ。私はもっと先をいく」

 最後に、ナナシアはそう言った。

 直後、ナナシアの剣が男の首へ届いた。その首が床に落ちて、嫌な音が響いた。

 残った男は後一人。

 ナナシアに刺さった剣を捨て、他の男たちが使っていた剣を拾う。その間、二本の剣が突き刺さったナナシアはぼんやりと立ち尽くしていた。

 瞳は虚ろで、焦点が合っていない。それでもナナシア・ブラインドは倒れない。

 そこからの攻防に、リヴェラは息を潜めて見入った。

 ナナシアは倒れなかった。既に意識も朦朧としているはずなのに、信じられない剣筋を見せた。

 一合、二合、三合。

 剣が衝突する度、男の足が後ろへ下がる。

 ナナシア・ブラインドは倒れない。

 ナナシア・ブラインドは剣を離さない。

 ナナシア・ブラインドは容赦をしない。

 綺麗だと思った。

 ナナシア・ブラインドの振るう剣は、信じられないほど美しかった。

 それは剣士として一つの到達点に達していた。

 リヴェラが目を奪われている間に、ナナシアは男を圧倒して壁際に追い詰めていく。

 風が吹いた。

 玄関ホールの扉が開かれる。

 それを合図に、ナナシアの剣が男の剣を弾き飛ばした。

「ねえ。リヴェラ」

 止めを刺そうと男に詰め寄るナナシアが不意に言った。

「私の遺産、郊外にある小さい教会に届けてくれる?」

 リヴェラは彼女の背中をじっと見つめた後、わかった、と短く答えた。

「ありがとう」

 ナナシアはそう言って、剣を振るう。それは男の胸元へ吸い込まれ、その命を断ち切った。

 強い風。

 開いた玄関扉から一人の男が入り込んでくる。

 魔力特性"浮遊"を持つトルだった。彼はホールを見渡した後、すぐに血塗れのナナシアの元へ駆け寄った。ナナシアの身体が崩れ落ちる。

「助かりそう?」

 リヴェラが荒い息を吐きながら問いかけると、トルはすぐに「もう無理だ」と答えた。

「そう……」

 リヴェラは目を瞑って、冷たい床の上で寝返りを打った。

 身体中に突き刺さった破片が食い込み、激痛が走る。

 それが堪らなく生を実感させた。

 リヴェラ・ハイリングは、まだ生きている。

「事後処理の為、応援を呼んでいる。すぐに到着するだろう。立てるか?」

 トルがそっとリヴェラの近くにしゃがみこむ。

 リヴェラは何も答えず、瞼の裏に再生されるナナシアの剣技をじっと見つめた。

 美しい。

 ナナシア・ブラインドが最期に見せた一瞬の輝き。

 剣士として完成されたその動きが目に焼きついて離れない。

 帝国騎傑団の応援が駆けつけるまで、リヴェラは目を瞑ったまま動かなかった。

 

 

 

 結論から言えば、救出任務は成功を収めた。

 加えて、誘拐組織の撲滅。

 その働きによって、救出任務に参加したメンバーには相応の褒賞が与えれた。

 リヴェラ・ハイリングは序列六位へ格上げとなった。また、序列三位ナナシア・ブラインドの殉職により、序列五位へ繰上げとなる。

 あれだけ求めていた序列が、急にどうでもよく感じられた。

 こんなものに何の意味があるのだろう。

 そう思いながら、ナナシア・ブラインドの最期の輝きを思い出し、かつて魔術師として志した何かが胸の奥で小さく蠢いた。

 暫くは何もやる気が起きなかった。

 ただ、義務的にナナシア・ブラインドの遺言通りに彼女の少なくない遺産を郊外の教会へ届けた。

「ナナシア・ブラインドからの遺言に従い、これを届けに参りました」

 リヴェラが無感動にナナシアの死を告げると、教会のシスターの顔はくしゃくしゃに歪んだ。

 そこには、リヴェラの知らないナナシア・ブラインドの姿があった。

 ナナシアは生前、給金の一部を教会に寄付していたらしい。教会が世話をしている孤児たちともよく遊んでくれた、とシスターは話した。

 リヴェラはナナシアが孤児だったことを思い出し、それから彼女の行動方針をぼんやりと理解した。

 ――金ってのはさ、いくらあっても足りないんだよ。魔物が吸い取っていっちゃうんだ。

 かつて、ナナシア・ブラインドが言った言葉。

 リヴェラは設備の整っていない教会、そして満足な生活を送れていない孤児たちを見てナナシアの言葉の意味を理解した。

 貧困は、解決されない。

 あらゆる不幸は際限なく地上に蔓延っていく。

 それは一人の剣士が救えるものではない。

 それから、ナナシア・ブラインドが最期の見せた輝き。

 そして、その時の言葉をぼんやりと思い出した。

 ――お前たちの剣は何も救わない。

 ――これがお前の限界点だ。私はもっと先をいく。

 まるで、自分に向けて言われているようだ、と思った。

 お前の魔術は何も救わない。これがお前の限界点だ。

 吐き出した息は、冷たい空気中に溶けていく。

 最期の剣技。

 その苛烈な在り方を思い出し、リヴェラの中で何かが燃え上がった。

 ナナシア・ブラインドは死によって完成された剣士となった。

 リヴェラが追い抜ける相手ではなくなってしまった。

 きっと、これからもナナシア・ブラインドを追い抜くことはないだろう。ぼんやりとそう思った。

 しかし、それを目標とすることはできる。

「リヴェラ・ハイリング。お前の魔術は何を救う? お前の限界点はどこにある?」

 リヴェラは自問し、そして答えを探す為に動き始めた。

 

 

 

 そして、運命の日が訪れる。

 

 

 

 その日、リヴェラは日課となった中庭での散歩をしていた。

 脳裏には何度も何度もナナシア・ブラインドの剣技が浮かんだ。

 そこに、草を踏み鳴らす音が耳に届いた。

 振り返ると、陽光の中に一人の幼い少年が立っていた。

「子ども?」

 思わず、疑問が口から零れる。

 王宮の中庭に、何故子どもが。

 リヴェラの視線に怯えたような仕草を少年が見せる。

 その仕草が愛らしい、と思った。

「貴女は魔女なのですか? 父上を、虐殺皇帝を成敗しにきたのですか?」

 不意に、少年が口を開いた。

 利発そうなしっかりとした話し方だった。

「父上? ああ、貴方は……」

 父上。虐殺皇帝。城内の中庭に迷い込んだ子ども。

 漠然と理解が始まる。

 リヴェラは自らよりも高位の少年に対して目線を合わせるようにしゃがみこみ、微笑んだ。

「貴方の父は疑心暗鬼に陥っているのです。その環境が誰も信じる事を許さず、虐殺へと走らせた。人の身である私が解決する事は叶いません」

 でも、と自然と言葉を続いた。

「貴方が同じ道を辿らないように、魔法をかけることはできます。多くの大きな物語で使い古されてきた古代の魔法です」

 特に考えがあった訳ではない。気がつけば、そんな事を口走っていた。

 ただ、少年の不安を和らげてあげたかった。

「古代の魔法?」

 少年が不思議そうに聞き返す。リヴェラはにこりと笑って答えた。

「人の温もりです」

 そう言って、リヴェラはそっと少年の小柄な身体を抱きしめた。

 その身体は、ひどく華奢だった。そのことにリヴェラは驚いた。

 とても皇帝としての重責に耐えられるような身体ではなかった。

 この少年は、恐らく壊れてしまうだろう。

 あの虐殺皇帝と同じように、心を喪って虚ろな皇帝となるだろう。

 そう思った。

「あの?」

 少年が困ったように声をあげる。

 人に抱かれることに慣れていないようだった。

 全身の筋肉が固くなっている。およそ子どもらしくないその反応に、リヴェラの胸の中で何かが音を立てた。

 虐殺皇帝は、きっと我が子を抱きしめたことがないのだろう。母親も、我が子を抱きしめる前に命を奪われたのだろう。

 そんな気がした。

 気まぐれによって産まれた存在。破滅が待ち構え、救われない存在。

 

 

 

 ――リヴェラ・ハイリング。お前の魔術は何を救う? お前の限界点はどこにある?

 

 

 

 リヴェラは強く少年の華奢な身体を抱きしめると、優しい笑みを向けた。

「貴方が疑心に陥らぬように。帝国騎傑団序列五位、リヴェラ・ハイリングが貴方を守る魔槍となりましょう」

 そしてリヴェラ・ハイリングはナナシア・ブラインドが遺したものを追い求めて、長い道を走り始めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

15話

 リヴェラ・ハイリングは定期的に中庭でアルヴィクトラ・ヴェーネと会うようになった。

 結論から言えば、アルヴィクトラはリヴェラによく懐いた。

 否、その表現は正しくない。

 アルヴィクトラがリヴェラに甘えることはなかったし、同様にリヴェラがアルヴィクトラを甘やかすこともなかった。

 リヴェラ・ハイリングは年下の者の扱いを知らなかったし、そうした精神性においては未熟だった。それに合わせるようにアルヴィクトラ・ヴェーネも子どもとして振舞うことはせず、リヴェラとは一定の距離を置いた。歳不相応に利発な子どもだった。

 その結果、リヴェラはアルヴィクトラと適切な距離感を保つことができた。まだ七歳であったアルヴィクトラとの繋がりを子守のように重苦しく感じることはなく、むしろ子ども特有の発想力、着眼点に感心することが幾度となくあった。

「リヴェラの魔力特性は"貫通"ですよね?」

「ええ。魔術に魔力特性を上乗せすることによって、私の魔術はあらゆる物質を貫通します」

「では、リヴェラが太陽に向かって魔術を撃てば、太陽を貫くのですか?」

 リヴェラは答えに詰まった後、いいえ、と答えた。

「魔力特性というものは、類型化された一つの考え方に過ぎません。綿密な観測によって個々の魔術師が持つ魔力の特性を推測し、それを過去の統計的事実と照らし合わせて、魔力特性としてまとめ上げます。魔力特性の呼び方は便宜的なものであって、本質を表しているとは限りません」

「じゃあ、本当は別の魔力特性である可能性もあるのですか?」

「その可能性は否定できません。分類が困難な特性も、極稀に確認されます。だからある特性がどこまでその特性を維持しうるのか、という問題について明確な答えを用意することは本来叶いません。既存の魔術理論の全ては幻想の上に成り立っています」

 リヴェラは面白そうにアルヴィクトラの言葉に答えていく。

 ある程度の年齢に達した人間は、こうした基礎部分に対しての懐疑を怠る。職業的な魔術師の多くは、実務に影響しない魔術理論のこうした性質を気にしない。懐疑という行為は、自由な子どもの特権だ。あるいは、哲学者の役割か。

 リヴェラは、この利発的な七歳の子どもとの対話を楽しみにするようになった。アルヴィクトラは依然として子どもらしからぬ距離感をリヴェラと保っていたが、一年も経てば次第に心を開き始めた。

 その間に、リヴェラはアルヴィクトラの置かれた状況を理解し始めていた。アルヴィクトラ・ヴェーネは皇位継承権を唯一保持した次期皇帝候補である。しかし、その立場は非常に危ういものだった。

 現皇帝である虐殺皇帝は息をするように人の命を奪う。そこに明確な理由は必要とされない。そして、虐殺皇帝はアルヴィクトラの扱いに関して、その意思を明確にしていなかった。つまり、アルヴィクトラ・ヴェーネに不用意に取り入れようとすれば、粛清の対象にもなりえる。その為、アルヴィクトラ・ヴェーネは腫れ物のような扱いを受けていた。

 王宮においてアルヴィクトラ・ヴェーネは完全に孤立していた。

 既に母親は虐殺皇帝によって死を与えられ、それに連なる味方はどこにも存在せず、形ばかりの皇子として過ごすことを余儀なくされていた。

 アルヴィクトラ・ヴェーネは戯れによって産まれた望まれない存在だった。その環境は、一介の魔術師が打ち破れるものではない。その存在を救うことはできない。

 それでも、リヴェラはアルヴィクトラとの関係を断ち切ろうとはしなかった。ナナシア・ブラインドは際限なく広がる貧困を前に諦めることなく、全てを救おうとしていた。その輝きは彼女を完成された剣士へと導いた。

 

 リヴェラ・ハイリング。お前の魔術は何を救う? お前の限界点はどこにある?

 

 その問いに答えるべく、リヴェラ・ハイリングはアルヴィクトラ・ヴェーネとの関係を維持したまま魔術の腕を磨いた。不可能を可能にしようとする姿勢こそが、自身をより高みへ導くのだと信じて疑わなかった。

 そして、十八を数えた。

 ナナシア・ブラインドよりも一歳若く、リヴェラは彼女と同等の序列三位へと踏み込んだ。けれど、ナナシアが最期に見せたあの剣技には到底手が届いていないように思えた。

 リヴェラはアルヴィクトラとの関係を繋ぎながら、考える。

 この幼い皇子を救うには、何を為せばいい? どう動けばいい? どういった力がこれを打開する?

 その答えを示すように、一つの出会いが訪れる。

 

「リヴェラ・ハイリング。お前は皇太子殿下に取り入って何をするつもりだ?」

 帝国騎傑団、序列一位。そして帝国軍元帥でもあるディゴリー・ベイル。帝国において最強と謳われる純粋な剣士。

 リヴェラの身長を遥かに超える大男は、王宮ですれ違いざまに威圧的に囁いた。

「何も。私はただアルヴィクトラ様の置かれた状況を打開したいだけです」

 リヴェラはディゴリー・ベイルの鋭い眼光に怯む事なく、声を抑えて答えた。

「お前自身は、何も望まないと?」

「アルヴィクトラ様を救う過程において、それそものが私に魔術的な力を与えるでしょう。私はそれ以外の何も求めない」

 ディゴリー・ベイルはリヴェラを静かに見下ろすと、無表情に告げた。

「お前は、典型的な武人だな。己を磨くことのみに目標を見出し、それ以外を全て手段と斬り捨てる」

 ならば、とディゴリーは言う。

「お前と私の目的は合致するだろう。日が沈む時、二〇三街道で待つ」

 ディゴリーはそう言って、リヴェラの横を通り過ぎていく。残されたリヴェラは一瞬だけ後ろを振り返った後、何事もなかったかのようにそのまま歩き始めた。

 

 夕刻。

 約束の場所に訪れたリヴェラは、ディゴリーの他に周囲に潜伏している者がいないことを目視で確認すると、暗闇に紛れるようにしてディゴリーの元へ駆けた。ディゴリーはリヴェラの姿を確認すると、すぐに本題に入った。

「虐殺皇帝の統治は長く続かない。長く続かせるわけにはいかない」

 突然の言葉にリヴェラは警戒の視線をディゴリーに向けた。

 この言葉が粛清の対象であることは明白だった。

「国境での偶発的な衝突によって王国との戦争に突入すれば、帝国は瓦解する。これ以上の失政は許されない」

 リヴェラは周囲を油断なく見渡しながら、本気? と思わず問いかけた。

「本気だ。アルヴィクトラ殿下には上を目指して頂く必要がある」

 だから――

「帝国軍元帥、そして帝国騎傑団序列一位、このディゴリー・ベイルはアルヴィクトラ殿下の地位向上を目的とした行動を開始する。リヴェラ・ハイリング。お前はその障害となりうるか? それとも、お前は私の数少ない賛同者となりうるか?」

 リヴェラは息を呑んだ。

 アルヴィクトラ・ヴェーネが置かれている状況は、全て虐殺皇帝によってもたらされたものだ。虐殺皇帝を退けてアルヴィクトラ・ヴェーネが皇帝の座に収まれば全ての問題が解決する。そう思った。

 権力闘争。

 謀略が飛び交う王宮。

 リヴェラにとっては、未知の世界だった。そして、それは自身を成長させるのに適した環境であるようにも思えた。迷いは必要なかった。

「賛同、しよう」

 リヴェラの答えに、ディゴリー・ベイルは無感動に手を差し出した。

 太陽は落ち、魔物たちの時間が訪れる。

 途方もない暗闇がリヴェラを呑み込んでいく。

 何も見えない中、差し出された手がただ一つの道に見えた。そして、リヴェラはその手を取った。

 

 アルヴィクトラ・ヴェーネに帝国騎傑団序列一位のディゴリー・ベイル。そして帝国騎傑団序列三位のリヴェラ・ハイリングが急接近。帝国騎傑団における最高指揮官と才覚に溢れた最年少魔術師の動きは、王宮に多大な動揺をもたらした。

 それまで腫れ物でしかなかったアルヴィクトラ・ヴェーネに政治的な利用価値が生まれのだ。

 ディゴリー・ベイルに近しい帝国騎傑団の上級団員、そして帝国軍の少なくない将校を取り込んだように見えたアルヴィクトラ・ヴェーネに、虐殺皇帝の悪政に辟易していた文官たちは希望を見出した。多くの者は虐殺皇帝の動向に細心の注意を払って積極的に動こうとはしなかったが、虐殺皇帝はこうした動きを抑えようとはしなかった。その解釈については多くの者が首を傾げたが、沈黙が守られるにつれて、水面下でアルヴィクトラに接触を試みようとするものが現れた。

 王宮での権力争いを横目に、リヴェラは淡々と自己鍛錬に励んだ。

 序列が、必要だった。

 全てを屈服させる分かりやすい力が必要だった。

 そしてアルヴィクトラと出会ってから二年後の春。

 リヴェラは十九歳となり、ディゴリー・ベイルを抜いて序列一位の栄光を得ることとなった。

 過去最年少での序列一位への到達。

 そして、過去最年少での頭席魔術師への君臨。

 その業績は多くの者に讃えられ、遂にリヴェラは招待を受ける。

 虐殺皇帝からの、謁見を許されたのだった。

 リヴェラ・ハイリングは危険な立場にあった。アルヴィクトラの求心力を高める根本的な原因を作った一人であり、虐殺皇帝から牽制を受ける可能性が最も高い位置にあった。謁見という機会を利用して公の場で見せしめに殺される可能性は低くなかった。

 それでもリヴェラ・ハイリングは逃げなかった。いざとなれば、虐殺皇帝相手に立ち回る心算さえあった。

 支配者の血を司る虐殺皇帝との一騎打ち。

 考えただけで胸が震えた。

 戦闘に身を置く魔術師として、それは至高の到達点だった。

 極限の状況において、リヴェラは魔術師としての根源的な在り方を問われる事になる。リヴェラは、それを望んでいた。ナナシア・ブラインドのような輝きに手が届く可能性があった。試したかった。

 そして、謁見の時。

 リヴェラ・ハイリングは虐殺皇帝の前に跪いた。その周囲には、リヴェラ・ハイリングの処遇を見守る貴人たち。虐殺皇帝のアルヴィクトラ・ヴェーネに対する真意を確認する為、多くの視線がリヴェラに向けられていた。

「リヴェラ・ハイリング」

 虐殺皇帝はリヴェラを見下ろすと、静かに名前を呼んだ。その声があまりにも平坦だった為、リヴェラは一瞬自分の名前が呼ばれたことに気づかなかった。虐殺皇帝の言葉は、意味を持たない音を無秩序に繋げただけのような、奇妙な喪失感を伴っていた。伝染するように、得体の知れない虚無感がリヴェラを襲った。

「最年少での頭席魔術師、及び帝国騎傑団序列一位への到達に関し、その偉業を祝して望む役職を授けよう」

 抑揚のない声。

 一拍遅れて虐殺皇帝の言葉を理解したリヴェラは、予想外の提案に警戒の目を向けた。同様に、謁見の間に控える者たちは、リヴェラの処遇に対して怪訝な顔を隠せていなかった。

「望む、役職……」

 リヴェラは虐殺皇帝の意図を測り損ね、真意を問う為に危険な一歩を踏み出した。

「では、僭越ながら皇太子アルヴィクトラ殿下の身辺を警護する親衛隊長の任を拝受したいと考えております」

 緊張が、謁見の間を駆け抜けた。

 急進的に勢力を拡大するアルヴィクトラを中心とした派閥。その先鋒であるリヴェラによるアルヴィクトラの護衛を担当したいという要求。露骨な挑発だった。

 リヴェラは全身の筋肉を強張らせ、虐殺皇帝の反応を注視した。虐殺皇帝はリヴェラの言葉に目立った反応を見せることはなく、そのガラス玉のような瞳がじっとリヴェラに注がれた。そして、作り物のような唇がゆっくりと開く。

「手配しよう。下がるがよい」

 虐殺皇帝は、ただその一言しか発しなかった。それは謁見の終わりを意味している。

 何の反応も見せなかったことに動揺するリヴェラとは反対に、虐殺皇帝はリヴェラが下がるのをじっと待っている。その瞳には、何の感情も宿っていない。

 完全な無関心。

 リヴェラは、それを理解する。

 虐殺皇帝は、リヴェラの言動に何の関心も抱いていない。アルヴィクトラを中心とした王宮の動きなど、虐殺皇帝の関心の範疇にはない。

 リヴェラは全身の筋肉が緊張で強張っていることに気づき、そして目の前の無関心な皇帝をじっと見つめた。

 視点が、違いすぎる。

 リヴェラにとって、この謁見は命を賭したものだった。粛清の対象になるのではないか、という不安の元、細心の注意を払って言葉を選んだ。虐殺皇帝の真意を確かめる為、危険な領域にも足を踏み入れた。

 しかし、虐殺皇帝は初めから何も関心を抱いていない。最年少で序列一位まで駆け上がった者と儀式的に謁見しただけ。それ以上でもそれ以下でもない。リヴェラの言葉は、虐殺皇帝には無意味なものでしかなかった。

 虚ろな帝王。

 何故この皇帝がこれほどまでの絶対的権力を有しているのか、リヴェラはようやく理解した。

 全身を包むのは、巨大な虚脱感。

 相手にもされていない。相手にもなれない。

 その虐殺は無意味に、無作為に行われて。全ては戯れ。その視線はどこにも囚われない。

 線引きが、できない。虐殺皇帝の価値観を推定し、限界まで踏み込むことができない。それは結果的に反逆の芽を摘むこととなる。

 リヴェラは謁見の間を後にすると、誰もいない回廊で大きく息をつき、黒衣を翻した。ナナシア・ブラインドとは別の姿で、リヴェラは虐殺皇帝に極意を見た。ナナシアの見せた輝きとは違う、虚無の闇。その闇はリヴェラの心に深く沈み、やがて跡形もなく溶け込んだ。リヴェラはそれに気づかなかった振りをして、アルヴィクトラの元へ向かった。

 

 

 

「親衛隊長?」

 謁見が終わった後、リヴェラの報告を受けたアルヴィクトラは年相応の困惑した表情を見せた。

「はい。これからはアル様の身辺警護を務めさせて頂く事になります。正式に拝命することになるのはもう少し先ですが」

「えっと、どうして、急に?」

 アルヴィクトラの言葉に、リヴェラは薄い笑みを返した。

「私が皇帝陛下にお願いしたのです」

 アルヴィクトラは僅かに驚いた様子を見せた後、嬉しそうにはにかんだ。

「……リヴェラがいつも近くにいてくれるなら、嬉しいです」

 その素直な反応に、リヴェラは一瞬動きを止めた。

 アルヴィクトラは普段、子どもらしい面を見せることが少ない。周囲に甘えるような言動や、信頼を見せることは滅多にない。

 だからこそ、アルヴィクトラのどこか甘えるような言葉に、リヴェラは微かな戸惑いを覚えた。

 それからふと、アルヴィクトラの近くにいるのは誰だろう、と考えて、誰もいないことに気づいた。

 父親である虐殺皇帝は総じてあらゆるものに関心が薄い。それはアルヴィクトラも例外ではない。母親はもういない。乳母も最低限の接触しか行っていないようだった。ディゴリー・ベイルは時折アルヴィクトラに剣を教えているが、それは師弟の関係であって、それ以上の関係ではない。ここ数年でアルヴィクトラに接触した文官たちもアルヴィクトラに政治的価値を見出しているだけで、個人的な接点は持っていない。

 アルヴィクトラ・ヴェーネは何も持っていない。あるのは皇位継承権のみ。そして、それがより一層彼を孤独にしていた。

 リヴェラはアルヴィクトラをじっと見つめた後、私もアルヴィクトラ様のお隣にいることが出来て嬉しいです、と機械的に答えた。それ以上の言葉はかけるべきではないと思った。

 

 

 

 アルヴィクトラの十歳の誕生日が目前に控えると、王宮には不穏な動きが広がり始めた。

 アルヴィクトラの成長は、虐殺皇帝の打倒を現実的なものへと昇華させる。加えて、アルヴィクトラを傀儡として操りたい者は、早期打倒を目指すようになる。アルヴィクトラの成長は、王宮内の勢力図を徐々に書き換えていった。

 その最中。ディゴリー・ベイルの手によってアルヴィクトラを中心とした反虐殺皇帝を掲げる者たちが秘密裏に集う事となった。当然、リヴェラもそれに参加する事となった。

 その集会の顔ぶれは様々だった。帝国軍の将校、帝国騎傑団の団員といった武力集団。多数の文官。大臣。下級貴族。そのメンバーを見て、リヴェラは驚きを隠せなかった。想像以上の数がアルヴィクトラを支持していた。

 その中、アルヴィクトラは端で静かに立ち尽くしていた。時折、支持者に対して笑顔を振りまいていた。作り物めいた、完璧な笑顔だった。

「皇帝陛下は、どこまでも正気です」

 不意に、ディゴリーが周囲の人間に聞こえるように、大声で宣言した。それから、ディゴリーの鋭い視線がアルヴィクトラに突き刺さる。

「大義は、人を狂わす魔力を秘めています。ですが貴方の父上は、皇帝陛下は何の大義も掲げない。大義や思想に狂うことなく、正気を保った状態で虐殺を続けている。私は、ここまで冷静に、無意味に命を奪う存在を他に知りません」

 リヴェラはディゴリーの言葉に注意を払いながら、アルヴィクトラに目を向けた。アルヴィクトラはディゴリーの言わんとしていることを理解できず、戸惑っているようだった。しかし、そうした感情をうまく隠している。

「しかし、だからこそ、統治が揺るがないのです。人を支配する最も原始的な力は、恐怖です。その前には、大義も思想も意味を為さない。圧倒的な力は、高度に複雑化された社会をも呑みこむ、ということがこれによって証明されています」

 ディゴリーはそう言って、アルヴィクトラを静かに見下ろす。

「アル様。虐殺皇帝を打倒した後は、虐殺皇帝を模倣してください。正気を保ったまま、虐殺を引き継いでください」

 場に緊張が走った。

 ディゴリーは虐殺皇帝打倒後の在り方について、統一を図ろうとしているのだ。

 アルヴィクトラだけが、その事に気づいていない。

 リヴェラは無意識のうちにディゴリーの表情を見た。読めない。動きが、見えない。ディゴリーの口から、次々と言葉が飛び出していく。もう、止められない。

「それが貴方の基盤を固める事になるでしょう。虐殺皇帝を打倒して終わりではありません。貴族連中に隙を与えず基盤を固めてようやく全てが始まるのです」 

 ――こいつ。

 リヴェラの中で、何かが動いた。

「偽悪を貫いてください。どうか、流れる血に狂うことがないよう、冷静に命を奪う人形となり果ててください」

 その言葉を合図に、周囲の騎傑団の上級団員が一斉に頭を垂れる。多数の文官も、それに続いた。一部の下級貴族たちは、その動きに困惑の色を見せている。

「どうか、貴方の帝国に死を撒き散らしてください」

 リヴェラの視線が、室内を走る。その行き先は、アルヴィクトラ・ヴェーネ。

 十歳になろうとする幼い子供だ。その利発な瞳には理解と動揺の色が混在している。

 やりすぎだ。そう思った。

 妥当性と、実現可能性は別だ。このディゴリー・ベイルという男は意図的にそれを混同している。

 しかし、否定できない。

 いや、否定しても益がない。

 リヴェラの目的は、困難な状況に置かれているアルヴィクトラ・ヴェーネを救うこと。虐殺皇帝の脅威、そして帝位を継いでからの脅威を取り除くことに成功すれば、リヴェラの目的はほぼ達成される。ディゴリー・ベイルのやり方に多少問題があろうと、否定する必要性がない。

 少なくとも、とリヴェラは思った。

 アルヴィクトラが即位することによって、アルヴィクトラは破滅を回避できる。帝国の問題など、リヴェラの関心の範疇にはない。どうでも良い。そう思った。

 そう思ったはずなのに、胸の中では得体の知れない何かが激しく暴れまわっている。

 アルヴィクトラの視線を感じても、リヴェラは目を合わせることが出来ず、ただ虚空を見つめて時が過ぎるのを待った。

 

 

 

 郊外の小さな屋敷に戻ると、年老いた使用人が手紙を差し出した。差出人は父親からだった。

 中身は、婚姻についてだった。リヴェラはもう二十歳になろうとしていて、今更のようにその重要性にようやく気づいた。

 相手がいないなら相応の魔術師を紹介するという旨を見て、リヴェラはぼんやりとナナシアのことを思い出した。

 ナナシアは、自由だった。家に縛られる事もなく、婚姻についても焦ることはなかった。

 彼女の年齢を追い越してしまったことに考えを巡らせながら、リヴェラは自分の状況を彼女と重ね合わせ、失望に身を沈めた。

 序列一位まで上り詰めることができた。破滅が待ち構えていたアルヴィクトラを解放寸前まで救い出すことができた。ナナシア以上に、リヴェラは結果を残してきたはずだった。それでも、彼女に追いつけた気が全くしない。

 何故だろう。

 満たされない。

 全てが空虚だった。

 リヴェラは手紙をぼんやりと見つめた後、のろのろと返事を書き始めた。

 現在、重要な案件に関わっている。婚姻は、全てが片付いてからにしたい。

 短い返事を書き上げてから、リヴェラはそれを使用人に渡し、ベッドに向かった。

 全てがどうでもよく感じられた。

 

 

 

 それでも日は昇る。

 王宮は依然として、権力闘争に揺れていた。水面下で繰り広げられる駆け引きを、リヴェラは冷めた目で見ていた。

 いつものように中庭に赴き、空を仰いだ。空は高く、澄んでいる。

「リヴェラ」

 高く透明な声。振り返ると、アルヴィクトラの姿があった。

 十歳になったアルヴィクトラは、幼さの中に大人びた瞳を湛えた美しい少年へと成長した。

 透明感のあるアルヴィクトラの笑みを見ると、自然と笑みが零れた。暗雲の立ち込める王宮において、アルヴィクトラの持つ清涼感は一層際立つ。

「空が高い。もうすぐで冬が訪れるのですね」

 アルヴィクトラはそう言って、空を見上げる。

 リヴェラはそれに釣られず、アルヴィクトラの姿をじっと見つめた。

 華奢な身体。もうすぐ帝国を背負う事になる身体は驚くほど小柄で、細い。

「父上が、倒れました」

 空を見上げながら、アルヴィクトラが呟いた。

 リヴェラは何も言わず、アルヴィクトラの横顔から目を離さなかった。

「全ては、永遠ではないのですね」

 アルヴィクトラの手が空を掴むように上へ伸びる。その手は、何も掴むことなく空を切る。

「永遠は、どこにもありません」

 リヴェラはただ、機械的に答えた。

「この帝国も。帝国騎傑団も、そうなのですか? 私も、リヴェラも? あの空も?」

「いつかは救いがきます」

 アルヴィクトラの手がゆっくりと下ろされ、その瞳がゆっくりとリヴェラに向かう。

「リヴェラは、怖くありませんか? 永遠に続くものがあればいいのに、と思いませんか?」

「思いません。終わりがあるからこそ、一瞬の輝きを人は追い続けるのだと思います」

 そう答えるリヴェラの脳裏には、ナナシア・ブラインドの姿があった。

 一瞬の輝き。刹那の煌き。

 その尊さこそが、リヴェラの追い求めてきたものだった。

 リヴェラは死の概念を初めて受け入れようとしている十歳の少年を見つめ、それから自分が子どもの頃は死をどうやって受け入れただろう、と考えた。

 確か、そう。魂は意志によって遂行されるのだと父から教わった。それは祝福である、と。

 あまりにも観念的な答えで当時のリヴェラには納得できなかった。振り返れば、納得できなくて当然だと思う。そして、納得しないような理由を父が意図的に選んで答えたのだろう、とも思った。

 納得など、しない方がいい。死は理不尽であるべきだ。そして、人は歳を重ねるごとに理不尽なことに慣れてしまう。それが死を受け入れることなのだと思った。死に条理を求めてはいけない。

 でも、とリヴェラはアルヴィクトラを見た。

 この少年の持つ透明感が穢れていくところは、見たくない。理不尽なことに慣れて、麻痺して、擦り切れて。人はそうやって成長するんだよ。そんな知った風なことを、道を、この少年に押し付けたくない、とも思った。

「でも、それは物質の話。精神性においての永遠というものは、存在します。例えば、アル様に対する私の忠誠心のように」

 その場凌ぎの嘘だった。極意に到達するための、方法でしかなかった。忠誠心というべきものは、どこにもなかった。

 それでも、それが嘘でなければ良かったのに、と思った。

 アルヴィクトラが嬉しそうに微笑むのを見て、リヴェラの中で何かが急速に膨れ上がっていく。リヴェラはそれに気づかない振りをして、従者を演じた。

 この一年後、現皇帝の崩御を以ってアルヴィクトラの帝位継承が決定した。

 

 

 

 アルヴィクトラ・ヴェーネは破滅を免れた。

 虐殺皇帝の崩御により、アルヴィクトラ・ヴェーネに表立って害意を向けることの可能な者はいなくなった。

 リヴェラ・ハイリングの役目は終わった。

 結局、リヴェラの魔術は限界点に到達することはなかった。

 不可能を可能にする。そうした姿勢が自身をより高みへ導くと信じて疑わなかったが、ディゴリー・ベイルとの合流後、リヴェラの仕事は殆どなかった。虐殺皇帝の打倒も、病によって半ば自動的に為されてしまった。達成感など、どこにもなかった。

 リヴェラ・ハイリングに与えられた魔術師としての猶予期間は終わった。後は故郷に戻り、両親の用意した相手と契りを結び、次の世代に引き継ぐ定めが残されている。魔術師としての自由は失われ、後には義務が残る。リヴェラ・ハイリングはその為に生を消費しなくてはならない。

 そのはずだった。

 アルヴィクトラが即位して第一回目の議会。広大な広間には四〇〇を超える貴族が席を連ね、アルヴィクトラは議長と並ぶようにしてその正面に腰掛けていた。リヴェラはその背後に立ち、広間に満ちた異常な空気を感じ取っていた。

 有力貴族たちは、即位したばかりのアルヴィクトラがディゴリー・ベイルの傀儡であると信じて疑わなかった。軍、及び騎傑団に対抗するように、有力貴族たちは水面下で手を組み、その影響力を増大させようと画策しているようで、アルヴィクトラに敬意を向ける者は少なかった。対して、アルヴィクトラは悠然とした態度を保ってはいたが、十一歳という年齢を打ち消すほどの風格はない。

 前途多難だな、とリヴェラは冷静に議会を観察した。

 議長が羊皮紙に目を落とし、何かを読み上げる。その時、アルヴィクトラが何の前触れもなく立ち上がった。

「陛下?」

 議長の不思議そうな声。リヴェラもアルヴィクトラの意図が読めず、その動きを注視した。

 アルヴィクトラの右手がゆっくりと上がる。

 ――まさか。

 リヴェラの視線が、自然と広間の中からある人物に向けられる。

 ディゴリー・ベイル。

 彼はアルヴィクトラの行動を予め知っていたかのように、色のない表情でアルヴィクトラの行動を無感動に見つめている。

 ――こいつ。

 リヴェラは素早くアルヴィクトラに視線を戻すと、これから引き起こされるであろう惨劇に目を見開いた。

 前方に席を連ねる貴族の一人。そこへ向かって伸びたアルヴィクトラの指先に術式が構成されるのを、リヴェラは確かに見た。

 風が吹く。冷気。

 次の瞬間、悲鳴が上がった。

 一人の貴族の身体が凍りつき、ゆっくりと横へ傾いた。

 破裂音。

 身体だったそれは、粉々に砕け散って床に散乱する。

 突然のアルヴィクトラの凶行に、議会が騒然となる。

 当のアルヴィクトラは子どもらしくないどこか冷めた目で議会を見渡すと、つまらない、と短く呟いた。

 そして、リヴェラは確信する。

 模倣は、もう始まっている。

 ディゴリー・ベイルは、有力貴族を排除する為にアルヴィクトラ・ヴェーネを虐殺皇帝の後継者に仕立て上げるつもりなのだ。

 それによって、アルヴィクトラはより多くの敵を作り出し、その害意を一身に受けることとなる。

 もう、後戻りはできない。できないことを、ディゴリー・ベイルはさせてしまった。

 ――こいつは、アル様を都合の良い傀儡としてしか見ていない。使い捨てにするつもりか。

 いや、と議会を見渡す。

 この議会に連ねる全ての人間が、アルヴィクトラ・ヴェーネの敵だった。

 広大な帝国において、新帝の味方は誰一人いない。

 今更のようにその事実に気づいて愕然とする。

 虐殺皇帝は、敵ではなかった。

 脅威であると思い込んでいただけだ。

 あれは、アルヴィクトラにとっての防波堤だった。

 最後の、砦だったのだ。

 それが虐殺皇帝の意図したものであるかは重要ではない。

 それが、唯一の事実だった。

 アルヴィクトラの本当の敵は、こいつらだ。

 そして、リヴェラ・ハイリングはディゴリー・ベイルを睨みつけた。

 ディゴリー・ベイル。帝国軍元帥。この男こそが、アルヴィクトラ・ヴェーネの唯一の味方であり、最大の敵。

 この男は危険だ。破滅へと導く危険性を孕んでいる。

 リヴェラの中で、何かが大きく動いた。

 喪失感と怒りだった。

 救いなど、どこにもない。

 アルヴィクトラ・ヴェーネは破滅を回避できていない。

 より一層、破滅へと近づいてしまった。

 ――私は一体、何をやっていた?

 ――限界を超える為? 私は何も為しえていない。ディゴリー・ベイルの誘いに迎合し、全てを委ねただけ。

 ――理想は遠く、全ては空虚で。

 ――動けて、いない。動けていると思っていただけ。

 ――限界を求めていたはずなのに、全てを怠って。

 ――ナナシア・ブラインドなら違う結果を残していた筈だ。

 ――序列? 彼女はそんなものを求めてはいなかった。

 ――救い。救いこそが、彼女を完成した剣士を導いた。

 ――リヴェラ・ハイリング。お前は今まで何をしていた?

 リヴェラは広大な議会を見渡すと、ゆっくりと息を吐き出した。

 ――いい。初めから状況は変わっていない。やるべき事は、変わらない。敵が明確になっただけ。

 アルヴィクトラ・ヴェーネの味方が帝国に存在しないならば、帝国そのものを相手に立ち回ってみせよう。

 ナナシア・ブラインドが目指したように。

 国家という構造が作り出す怪物。それそのものを相手に、勝利を掴んでみせよう。

 

 永遠はどこにもなく、死は理不尽で。

 けれど、それを許容する必要はない。

 あの小さな魂に救いを。

 リヴェラの心に芽生えた思いは、急速に膨れ上がっていく。

 

 議会を後にして、屋敷に戻ったリヴェラに使用人が無言で手紙を差し出した。差出人は、やはり父親からだった。

 リヴェラは素早く中身を確認し、婚姻の催促だと知ると、それを破り捨てた。

 リヴェラ・ハイリングは、今一度魔術師としての限界を見定める為に動く。

 かつてナナシア・ブラインドがしたように。

 己を縛るものを全て捨て、際限なく続く不条理を破る為に、魔術だけでなく、存在そのものを賭ける。

 富も栄光もいらない。

 目指すのは、たった一つの大きな救済。

 到達点が、ようやく見えた気がした。

 遠く、届かないもの。それでも、見えた。

 ならば、後は走るだけ。

 

 

 第一回目の議会を機に、アルヴィクトラ・ヴェーネはディゴリー・ベイルの入れ知恵によって虐殺を行い、恐怖による統治を開始した。

 その基盤の安定と比例するように、アルヴィクトラの心は不安定になっていく。

 

 

 謁見の間に悲鳴が木霊した。

 新帝アルヴィクトラ・ヴェーネは玉座から、凍り付いていく男を静かに見下ろしていた。

 最後には氷像と化した男の身体が割れ、カラン、と音を立てて欠片が床を転がっていく。リヴェラはそれをアルヴィクトラの隣から眺めていた。

 アルヴィクトラは緩慢な動作立ち上がると、ベイル、とディゴリーを呼んで歩き始める。護衛であるリヴェラもそれに続いた。

 巨大な扉をくぐった途端、アルヴィクトラが勢いよく振り返り、震える声で言った。

「ディゴリー。私は後どれくらい、人を殺めればよいのですか」

 十二歳になったばかりの少年は、皇帝であることを示す不釣合いな正装に身を包み、不安そうにディゴリーを見上げる。

「アルヴィクトラ様。貴方が虐殺皇帝の後継者であることが広く周知され始めています。これで貴方を利用しようとする者たちはいなくなった。後は徐々に虐殺の対象を腐敗した貴族たちへと向け、反逆の芽を摘みます。これで、貴方の基盤は安定をみる事になるでしょう」

 ディゴリーは冷静に次の指示を出す。そこに躊躇いは見られない。

「アルヴィクトラ様。どうか、冷徹であってください。貴族どもに隙を見せてはなりません。一時的な虐殺こそが、より多くの民を救うことになるのです」

 ディゴリーの言葉を聴きながら、こいつはまるで魔術師だな、とリヴェラは思った。

 言葉で人を惑わす古の魔術師。真実は人を救わない。それを理解していながら、真実を織り交ぜて人を誘導しようとする。その在り方は、ただの帝国軍元帥とは思えなかった。

 ――ディゴリー・ベイル。お前の好きにはさせない。

 リヴェラは不安そうなアルヴィクトラの背中を後ろから優しく包むと、主の名前を口にした。

「アル様。私は貴方の剣でありたい、と考えています。荒事には私をお使いください。貴方の手を汚す必要はありません」

 それに呼応するように、ディゴリー・ベイルがアルヴィクトラの前で膝を折る。

「私が頭脳に」

 ――白々しい。

 リヴェラはアルヴィクトラの肩越しにディゴリーを睨みつけた。ディゴリーはその視線を受け流すように、アルヴィクトラを血塗られた道へと誘っていく。

 アルヴィクトラの両腕と呼ばれたディゴリー・ベイルとリヴェラ・ハイリング。その衝突が、静かに幕を開けた。

 

 

 

「お前のやり方は、アル様を救わない」

 誰もいない広間。

 リヴェラ・ハイリングは議会の後、ディゴリー・ベイルを呼び出し、その手口を責めた。ディゴリーはリヴェラの言葉を反芻するように何かを呟き、そして首を横に振った。

「わからないのか。陛下は、人ではない。皇帝は、人ではいられないのだ。帝国の惨状を見よ。歳出と歳入を見よ。かつての統治の在り方を見よ。帝国は、最早地獄を為す為だけに存在していたではないか。虐殺皇帝の政は、この世に地獄をもたらした。万の民が、圧政に、悪政に、失政に苦しんだ。突出する有力貴族。曖昧になる責任。形だけの信賞必罰。軍における精神主義の台頭。崩壊は時間の問題だった」

 ディゴリーはそう言って、明確な怒りを露にした。リヴェラは、ディゴリーが感情を表に出すところを初めて目にした。

「崩壊を食い止められるのは、アルヴィクトラ様だけだった。虐殺皇帝の打倒。それが、必要だった。帝国を、一度壊す必要があった」

「そうだ。アル様の即位は、必要なことだった。しかし、お前のやり方はアル様を生贄にしているだけではないか」

 リヴェラの反論に、ディゴリーが首を横に振る。

「良いか。先代しか知らぬお前には理解が及ばないかもしれないが、帝国における議会は、お前の想像以上に力を持っているのだ。先代が突出を許した一部の有力貴族は、特に脅威だ。だからこそ、私は先代を模倣するように進言したのだ。虐殺によって、アルヴィクトラ様は体制以上の力を取り込む事となる。その強大な力を以って、先代から続く悪しき構造を徹底的に破壊する必要がある」

「虐殺がなければ、アル様は貴族どもに食い殺されていたと?」

「その可能性は、低くない。アルヴィクトラ様は、まだ若い。貴族と対等に渡り合うことは、不可能だった」

「それでも」

 リヴェラは、ディゴリーの鉛のような瞳を観察するように言った。

「アル様は危険な状況にある。お前の傀儡として害意を一身に受けている」

「私の目的は、アルヴィクトラ様を守ることではない。帝国を守ることだ。結果的に、その有効な手段となりえるアルヴィクトラ様を維持するよう努めているだけに過ぎない」

 お前とは逆だな。ディゴリーは、そう言った。

「リヴェラ・ハイリング。お前はアルヴィクトラ様だけを守ろうとしているな。帝国のことなど、どうでも良いと考えている。アルヴィクトラ様が民の幸せを願っているが為に、帝国を維持しようとしている。それだけだ」

 リヴェラは、何も言わなかった。

 激しい嫌悪感が、胸の奥から湧いた。

「どちらかに重点を置くか、については意見が違うが、偶然にも私とお前の目的は酷似している。今争う必要はあるまい」

 ディゴリー・ベイルはどこか自嘲気味に笑って、それからリヴェラを見下ろす。

「既に長い坂道を転がり始めたのだ。今更どうしようもあるまい。私たちに出来ることは、アルヴィクトラ様の脅威となりうる貴族たちを潰すこと。それが最大の利益をとる為の唯一の選択ではないかな?」

「……望み通り、全て破壊してやる」

 リヴェラは黒衣を翻し、踵を返した。

 迫る暗闇を払う為に、暗闇に捕まるよりも早く、駆け抜ける為に。その果てにあるものを掴むために。

 

 

 血。

 鮮血が、世界を支配していた。

 リヴェラ・ハイリングはアルヴィクトラの敵となりうる貴族たちを殺し回った。

 有力貴族たちは、連合を組んで表立ってアルヴィクトラに対抗を始めていた。帝国騎傑団序列一位であるリヴェラ・ハイリングは自然と戦場に身を投じ、驚異的な戦果を挙げた。

 そして、その指示を出したのはアルヴィクトラそのものだった。アルヴィクトラはディゴリーの言葉に従い、徹底的な殺戮を行っていた。リヴェラはその駒として、基盤の安定を求めて殺戮に加担した。

 個の虐殺ではリヴェラは突出した存在だったが、組織的な虐殺はディゴリーが群を抜いていた。帝国軍元帥の名の下に、彼は軍勢を以って虐殺を執行した。

 貴族連合との決戦では、リヴェラも彼の指揮下に入り、全身を血で汚した。

 後は貴族連合の残党を潰すのみ。一つの終着が見え、アルヴィクトラが政務の為に王宮に戻った時、リヴェラは久しぶりにアルヴィクトラと過ごす時間を得た。

「有力貴族の排除が終われば、ようやく本格的な改革に入ることが可能となりますね」

 リヴェラの言葉に、アルヴィクトラは静かに微笑んだ。アルヴィクトラは十三歳になっていた。僅かに背も伸びたが、依然として幼い容姿を残している。体格も、華奢なままだった。そうした外見とは反対に、彼の笑みは非常に大人びていて、どこか寂しそうだった。

「ここまで来るのに随分と時間がかかりました」

「アル様が即位されてからまだ二年です。腐敗しきった内部をここまで一掃できたのはむしろ短すぎるくらいです」

「抵抗勢力を一掃しただけです。まだ改革には手つかずのまま。私はまだ何も為し得ていない」

 アルヴィクトラの言葉に、リヴェラは微笑んだ。

 中庭で初めて出会った時。あの時は、破滅を待つ哀れな子どもに同情した。それだけだった。

 いくつかの冬を超え、アルヴィクトラを深く知るにつれて、その性格を好ましいと思うようになった。

 更に冬を重ねて。アルヴィクトラがディゴリー・ベイルの手によって虐殺を開始した時。全てを捨ててでも救いたいと思うようになった。

 そして今。

 歳を重ねても幼少時の透明感を保ち続けるアルヴィクトラが眩しく思えた。

 リヴェラは、そこにナナシア・ブラインドと同じ高潔さを見出していた。

 不意に、アルヴィクトラの視線がじっとリヴェラに注がれた。

「リヴェラ。私は善き支配者ではありません。排除の口実を作るため、多くの無関係な命を失わせてしまった。だからこそ、ここで立ち止まるわけにはいきません。これからも力を貸してください」

「もちろんです。改革が進めば、アルヴィクトラの行いに対して多くの者が考えを改めるでしょう。これから、全てが始まるのです」

 リヴェラが深く頭を垂れた時、扉が大きく開けられ、一人の騎士が飛び込んできた。

「報告致します。市場を支配していた有力商人たちの一部が貴族連合への支援を開始。これを機に沈黙を貫いていた潜在的な抵抗勢力が一斉に起つと見られます。ベイル様の指示によって前線へ送っていた軍の一部を帝都の防衛へ回しております」

 貴族連合との対決は、終わりを見せない。

 虐殺は、終わらない。

 

 

 

 世界は血で溢れていた。

 一度は崩壊しかけた貴族連合は、死霊の契約者を取り込んで帝国軍に多大な出血を強いた。

 ディゴリー・ベイルの指揮する帝国軍は敗走し、帝国騎傑団からも多くの死者が出た。

 リヴェラは血に塗れたディゴリー・ベイルと前線で合流すると、その惨状に絶句した。

 ディゴリーの配下の多くは、死に絶えていた。ディゴリーは生気のない顔でリヴェラに向かって首を横に振ると、自嘲するように笑った。

「覚悟が違ったのだ。私は、死霊と契約しようなどとは思いもしなかった。奴らは、その一線を越えた。この敗北は、起きるべくして起きたものだ」

「お前の信頼する者たちも、死んだのか」

「そうだ」

「帝国の為に」

「そうだ」

「それが正しいと思うか」

 リヴェラの問いに、ディゴリーは迷わず頷いた。

「ああ、今でもそう思う」

 リヴェラはそれ以上は何も言わず、死者の処理に向かった。すべきことが、山ほどあった。

 

 

 

 貴族連合を中心とした抵抗勢力の中に、少なくとも四人の死霊との契約者がいることがわかった。

 執務室。アルヴィクトラ、ディゴリー、リヴェラの三人は地図を囲んで状況の確認に入っていた。

「よくない兆候です」

 ディゴリー・ベイルは、地図を広げて帝国の辺境を指差す。

「王国の諜報員が辺境で何やら嗅ぎまわっているようです。帝国内の動乱について探りを入れてきたのでしょう」

「貴族連合と王国が繋がる可能性があると?」

「はい。あるいは、既に繋がっているのかもしれません。死霊との契約を行うには、高位の魔術師の協力が必要不可欠ですが、帝国内の魔術師の多くは騎傑団に身を置いています。何らかの形で王国が関与していると考えるべきです。このまま抵抗が長引けば、王国軍が大きく動くことも考えられます。早期解決が必要です」

 アルヴィクトラは大きくを息を吐くと、ディゴリーを静かに見つめて口を開いた。

「帝国騎傑団を総動員します。全てを攻勢に回し、可及的速やかに貴族連合を潰してください」

 アルヴィクトラの言葉に、それまで彼の後ろで事態を見守っていたリヴェラは反射的に問い直した。

「騎傑団の全てをですか?」

「そう、リヴェラもです。そして、私自身も」

 思わぬ返答に、リヴェラは息を止めた。

 反対に、アルヴィクトラは微笑んで静かに己の胸に手を当てた。

「この身に流れる支配者の血は、初代皇帝から受け継いだもの。魔術師としては未熟ですが、騎傑団員に遅れをとるつもりはありません」

 それに、とアルヴィクトラ言葉を続けた。

「私の魔力特性は死霊の契約者と相性が良い。来るべき王国との決戦に備えて騎傑団の損耗を抑える必要があります。ならば、全ての戦力を動かすべきです。私たちの目指すべき所は、抵抗勢力の排除ではない。そのずっと先にあります。こんなところで立ち往生している暇はありません」

 リヴェラは思わずアルヴィクトラの瞳に魅入った。

 似ていた。ナナシア・ブラインドの在り方そのものに、あまりにも似ていた。

 リヴェラは神聖なものを見るように目を細めると、深く頭を垂れた。

 

 

 

 そして、最終決戦。

 アルヴィクトラを中心とした帝国騎傑団一〇〇名は、五〇〇〇の抵抗勢力と正面からぶつかった。

 槍のように五〇〇〇の軍勢に食い込む帝国騎傑団。リヴェラは、その先鋒にいた。

 数え切れないほどの敵を、撃ちぬいていく。

 死の香りが、戦場を支配していた。

 よく知った仲間が、倒れていく。

 それ以上の敵を殺して。

 殺戮の中、ただひたすら突き進んだ。

 そして、全てが終わった後。

 広大な平原を屍が埋め尽くしていた。

 大雨が、地上の血を洗い流していく。

 全てを指揮したアルヴィクトラ・ヴェーネは雨に濡れながら、その光景を呆然と見つめていた。

 ディゴリー・ベイルがそっとアルヴィクトラが雨に濡れないように頭から布をかぶせた。リヴェラは、それを見つめていることしかできなかった。

 勝者の姿は、どこにもなかった。殺戮だけが、満ちていた。

 人は、死に麻痺していく。

 けれど、アルヴィクトラ・ヴェーネは麻痺などしていなかった。

 正気を保ったまま帝国に死を撒き散らした彼は、その結果を正面から見つめる事となった。

 ディゴリー・ベイル。これがお前の望んだ結末か。

 お前は、アルヴィクトラ・ヴェーネを死に追いやるつもりか。

 リヴェラの責めるような視線に気づかないように、ディゴリーは遺体の処理について報告をあげる。

 アルヴィクトラ・ヴェーネは死者の帝国を見つめて、微動だにしない。ディゴリーの報告は雨音の中に溶けて消えていった。

 

 

 

 多分、全員が疲れていた。

 一度始まった虐殺は終わりを迎えることがない。 

 リヴェラのよく知る帝国騎傑団の団員たちは、次々と深い眠りに入っていった。

 永遠の安息を、羨ましいとさえ思えた。

 執務室。

 新しく再編された帝国騎傑団のリストを見たアルヴィクトラは、ただ打ちのめされたように顔を手で覆っていた。

 帝国騎傑団は、最早別のものへと変わってしまっていた。それだけの死者が、アルヴィクトラの決断によってもたらされた。

 アルヴィクトラ・ヴェーネは死と正面から向かい合い、絶望していた。

 どこまでも正気を保ち続ける主を見て、リヴェラはそれを哀れに思った。

 いっそ、気が狂ってしまえれば楽なのに。

 しかし、その在り方を好ましいとも思った。

 納得できない。してはいけない。

 死は不条理だ。そう思った子どもの時のように。

 きっと、ナナシア・ブラインドは納得していなかった。だから、あの高潔さを保っていたのだ。

 アルヴィクトラ・ヴェーネは虐殺の中に、一つの輝きを見せていた。リヴェラの親友が見せたあの輝きに似た何か。

 不可能を可能にしようとする何か。

 リヴェラは神聖なものに触れるように、そっとアルヴィクトラを後ろから抱いた。

「アル様。私だけは永久にアル様のお傍におります」

 

 

 

 揺れる帝国。忍び寄る王国の影。

 この危機を回避する為、アルヴィクトラの政略結婚が文官たちの間で囁かれているのを耳にして、リヴェラは思わず息を止めた。

 アルヴィクトラを守りたい、と思った。その華奢な身体に圧しかかる重責を、分け合いたいと思った。

 けれど、それはリヴェラの役目ではなく。まだ見ぬ女が受け入れるべき役割で。

 その事実はリヴェラに多大な動揺をもたらした。

 アルヴィクトラ・ヴェーネは皇帝で、リヴェラ・ハイリングは一介の魔術師でしかなかった。

 リヴェラ・ハイリングには政がわからない。リヴェラ・ハイリングは戦うことしか知らなかった。

 もうそれは、どうしようもないことだった。

 リヴェラは自分の心の中の動きを見なかったことにして、これからやるべきことを考えた。

 貴族連合は費えた。これを以って、ようやく改革が始まる。

 忙しくなる。

 きっと、アルヴィクトラも政務以外にかかることはないだろう。

 政略結婚とやらも、随分と先になるに違いない。

 心配ない。

 ようやく平穏が訪れるのだ。何も恐れることはない。

 そう思った。

 その矢先。

 帝国騎傑団に内応の兆しがあると報告が上がる。平穏は、訪れなかった。

 

 

 

 遠いな、と思った。

 改革への道は、あまりにも遠すぎる。

 障害を排除しても、他の障害が立ち塞がる。

 虐殺が、新たな虐殺を生んだ。

 どこにも到達点は存在しなかった。

 きっと、アルヴィクトラも同じ気持ちだったのだろう。

 リヴェラは、アルヴィクトラの心の動きをぼんやりと理解していた。

 だから、アルヴィクトラが虐殺幼帝として命を差し出すとリヴェラに語った時、やはり、という思いが強くあった。

 皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネは破滅を回避できなかった。

 アルヴィクトラが粛々と死ぬ為の準備を始めるのをリヴェラは見守ることしかできなかった。

 

 死は、本当に理不尽だ。

 最後まで正気を保った皇帝は、それを理解していながらも自身の命を差し出す決意を下した。

 

 王宮の上空を、暗い雲が覆う。

 帝国騎傑団序列二位まで上り詰めた新鋭の魔剣士バルト・リークがアルヴィクトラを討つ為に起つ。

 序列三位まで落ちたディゴリー・ベイルとクーデター軍を迎え撃つ為の準備をしていたリヴェラは、ディゴリーの真意を問う為に口を開いた。

「帝国内の膿は一層された。後は悪逆非道の虐殺幼帝を抹殺して帝国は完成する。全てはお前の目論見通りか」

 ディゴリーは何も言わず、古びた長剣を磨きながらゆっくりと振り返った。

「ディゴリー・ベイル。お前はこれからどうするつもりだ? 最後の最後のアル様を裏切り、新たな皇帝の右腕となり、帝国を裏から操り続けるのか」

 ディゴリーはじっとリヴェラの目を見つめた後、いや、と無感動に答えた。

「私は虐殺幼帝の側近として最後まで抗い、死ぬ必要がある。新しい帝国は、新しい人員によって創られなければならない」

 沈黙が、落ちた。

「最後まで帝国に全てを捧げるか」

「あまりにも多くの血を流してきたのだ。私はもう、休みたい」

 ディゴリーはそう言って、長剣をそっと掲げ、それを観察するように見つめた。

「リヴェラ・ハイリング。お前は何故、アルヴィクトラ様に付き従ってきた?」

 リヴェラは、答えなかった。一言で答えることが難しかった。

「帝国は、生まれ変わる。アルヴィクトラ様はもう帝国に必要ない。無様に逃げ惑うことも、虐殺幼帝の末路として良いだろう。私はそれを止めない」

 その言葉に、リヴェラは思わずディゴリーを見つめた。ディゴリーは古びた長剣をそっと床に置くと、代わりに戦斧を手に取った。

「私の目的の為にアルヴィクトラ様には随分と血を流させてしまったな」

 それから、ディゴリーは戦斧を振り下ろし、古びた長剣を叩き折った。かつて忠誠を誓った金属片が破裂音ともに宙に煌く中、ディゴリー・ベイルの鋭い視線がリヴェラを射抜いた。

「私の目的は完遂した。お前の目的が完遂されることを願っている」

 ディゴリーはそう言うと、戸口に向かって歩き始めた。最後に思い出したように、ディゴリーが呟く。

「アルヴィクトラ様は、皇帝からただの人に変わられる。お前も、武人からただの人へ戻るが良い。お前は一人の人間として、アルヴィクトラ様を救うべきだ」

 そして、ディゴリーは駆ける。

 リヴェラはディゴリーの最後の言葉について考えを巡らせた後、ゆっくりとディゴリーの後を追った。

 外からは、剣の衝突する金属音。リヴェラはそこに向かって駆けて、最後の戦場に向かった。

「求めよ。そして、奪うがよい。欲しよ。そして足掻くがよい。虐殺皇帝の後継者、このアルヴィクトラ・ヴェーネの魔力特性は"絶念の檻"。全ての望みを切り捨て、無に還す特性。さあ、絶望に身を沈めるがよい」

 アルヴィクトラの凛とした叫び声。

 そこに迫る魔剣士バルト・リーク。

 以前までの武人としてのリヴェラなら、その実力をこの目で見たいと思ったはずだった。それが今は、ただの厄介な障害にしか思えなかった。

「その首、貰うぞ」

 バルト・リークの剣先がアルヴィクトラの胸元へ吸い込まれていく。

「陛下!」

 リヴェラは咄嗟に術式を通さない純粋な魔力の波を放ち、アルヴィクトラの身体を吹き飛ばした。

 転がるアルヴィクトラの身体。そこに駆け寄ると、リヴェラはアルヴィクトラを起こそうと身体を揺すった。しかし、意識を失っているようで、身動き一つしない。

「陛下。どうか、お許しください。貴方には生きて頂きます」

 リヴェラはアルヴィクトラの身体を抱きかかえると、バルト・リークを正面から睨みつけた。

「リヴェラ・ハイリング!」

 バルト・リークが剣を構え、リヴェラに向かって床を蹴る。その時、地響きのような音とともに、ディゴリー・ベイルが階上から瓦礫とともに舞い降りた。

「小僧。お前の相手はこの私だ」

 大男はそう言って、巨大な戦斧を構える。何の魔力も持たない剣士は、その身一つで魔剣士バルト・リーク相手に立ち向かい始める。

 リヴェラは踵を返すと、アルヴィクトラを抱えて出口目指して駆け出した。

 最後にチラリと、後ろを振り返る。

 たった一人で帝国騎傑団の複数の上級団員を相手に立ち回るディゴリー・ベイルの巨大な背中が見えた。

 その姿が、いつかの日のナナシア・ブランドを想起させた。

 後ろは、もう大丈夫。全てを任せられる。後は進むだけ。

 前方に立ち塞がる帝国騎傑団の、かつての仲間を破る為、リヴェラは術式を組み立てる。

 全てを貫く力。魔力特性・貫通が障害を次々と突破していく。

 終わりが、すぐそこまで迫っていた。ようやく手の届くところまで来た。

 そして、リヴェラ・ハイリングは王宮を駆け抜けた。胸の中には、全てを賭してでも守るべき存在。

 帝国を、全てを正面から敵に回して、リヴェラは殺戮を積み重ねる。そこに終わりがあると信じて。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「狂おしいほどお慕い申し上げております」

 そっと背中に回された彼女の片腕。そして、アルヴィクトラを包むように密着した彼女の身体から逃げるように、アルヴィクトラは小さく身じろぎした。

「リヴェラ?」

「だから――」

 リヴェラが上からアルヴィクトラの顔を覗き込むようにして顔を近づける。彼女の赤い長髪がはらりと落ち、アルヴィクトラの首元をくすぐった。

「――私は単なる剣や側近としてではなく、アル様の全てを支える存在でありたいと考えています。皇帝としての意思決定の権利、そしてあらゆる苦悩を、全てを分かち合うことを願っていました」

 リヴェラの赤い瞳が、正面からアルヴィクトラを捉える。リヴェラの中を巡る血が押し出されるように、瞳が真っ赤に燃える。

「リヴェラ……」

 アルヴィクトラはリヴェラの赤い瞳に吸い込まれるように、じっと彼女の瞳に見入った。そして、抗うように視線を外す。

「なりません。以前にも言った通り、生贄が必要なのです。皇帝の血は途絶えなければなりません。子を成す事は、大きな混乱を後世に与えます。私は最後の仕事として、この血を残すつもりはありません」

 僅かながらの沈黙が落ちる。その間、アルヴィクトラを包むリヴェラの身体が離れることはなく、布越しに温かい体温が伝った。

「アル様、顔を上げてください」

 不意に、リヴェラが穏やかな声で言った。

「私の瞳を、正面から見てください」

 躊躇しながらも、アルヴィクトラはゆっくりと顔を上げた。すぐ近くにリヴェラの透明な赤い瞳があった。

「アル様。逃げる事なく、どうか正面からお答えください。例えば、子を作る事の出来ぬ女に人を愛する権利はないとお考えですか? それは違うはずです。子を成さずとも、愛し合うことは可能です。更に踏み込んで言えば、子を成さずに身体を重ねる方法もございます。皇帝としての義務、責任を置いてアルヴィクトラ・ヴェーネという一人の人間の意思を私は聞きたいのです。私は、アル様のことを狂おしいほどお慕い申し上げております。アル様は、私のことをどう見ておられますか?」

 アルヴィクトラはリヴェラの赤い瞳に吸い込まれるように見入った。

「リヴェラ……」

 アルヴィクトラは答えに詰まり、今にも泣きそうな顔で笑った。

「わからないのです。リヴェラ。私は、皇帝でした。何の力も持たない、皇帝でした。私はそれ以外の生き方を知らない。それ以外の世界を見てこなかった」

 リヴェラは小さく笑うと、そっとアルヴィクトラの肩に顔を埋めた。

「アル様。このように正面から抱かれるのは、嫌ですか?」

 アルヴィクトラは小さく息を吐いて、心地良い温かさに身を任せた。

「……いや、じゃないです」

「では、これは?」

 リヴェラの身体が、より深くアルヴィクトラと重なる。

「……じゃないです」

 では、とリヴェラがそっと肩に埋めていた顔をあげる。

「これは?」

 そっと、彼女の唇がアルヴィクトラの頬に触れた。

 リヴェラが顔を離し、微笑を浮かべる。アルヴィクトラはつい、と視線を外した。

「いやじゃないです」

 リヴェラはクスクスと笑って、それからアルヴィクトラの頬に残った片腕を添えた。

「リヴェラ……」

 一瞬の沈黙。

 ゆっくりと、リヴェラが動く。

 その時、背中に鈍い衝撃と音が響いた。

「――え」

 視線を落とす。

 そこには、腹部を貫く矢があった。

「アル様?」

 リヴェラは、不思議そうにアルヴィクトラの腹部に目を向け、それからもう一度アルヴィクトラの名前を呼んだ。

「アル、様?」

 視界が反転する。

 アルヴィクトラが地面に向かって倒れる時、木々の向こうで弓を構える男の姿が見えた。

「帝国騎傑団序列二十六位、エイリア・ドゥーム。司る魔力特性は"直進"」

 男が名乗り上げ、次の矢を番える。

「その命、このエイリア・ドゥームが貰うぞ」

 同時に、リヴェラが駆けた。高速で術式が組み上げられ、弓矢よりも早く放たれた熱線が木々を貫いていく。

 唐突に始まった戦闘をアルヴィクトラは地面に横たわりながらぼんやりと眺め、背中から腹部を貫いた矢に視線を移した。鈍い痛みが身体中に広がっていく。

 平穏は未だ訪れず、アルヴィクトラはまだ皇帝として戦の真っ只中にいる。

 条理はどこにも見当たらず、虚しさだけが世界を支配していた。

 父親の、虚無を映した瞳が何故か酷く懐かしく思えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

16話

 森の中を閃光が走る。

 アルヴィクトラは荒い息を吐きながら、木々の間を駆けるリヴェラ・ハイリングとエイリア・ドゥームを見つめた。

 弓矢と熱線。

 それぞれに与えられる魔力特性は"直進"と"貫通"。

 攻撃手段は共に遠距離で、魔力特性も類似している。

 ただし、矢の数を気にする必要がなく、遮蔽物を貫通するリヴェラの方が遥かに有利だ、と判断する。

 エイリア・ドゥームもそれを理解しているのだろう。彼はすぐに距離を取るように木々の中へ身を潜めた。それを炙り出すように、リヴェラが熱線を手当たり次第に連射する。

 不意打ちからの狙撃を狙っているのだろうか、とアルヴィクトラは背中から貫通した矢を片手で押さえながら、周囲を警戒した。その時、奥の茂みが赤く光った。炎の光だった。

 叫ぶより早く、茂みの中から轟々と燃える矢が頭上に向かって放たれた。それは魔力特性"直進"の影響により、重力に逆らうように真っ直ぐと空高く打ち上げられる。

 空に消えていく火矢を確認したリヴェラが素早くアルヴィクトラの元へ駆け寄る。それを妨害するように茂みから矢が放たれ、すぐ近くの樹木に突き刺さった。リヴェラは一度だけ熱線を撃ち返すと、アルヴィクトラの身体を抱え込んだ。

「今の火矢に気づいた周囲の騎傑団が一斉に動くはずです。すぐにここを離れなければなりません」

 アルヴィクトラは頷くと、リヴェラに抱えられながらよろよろと立ち上がった。

「アル様。少し痛みますが我慢を」

 何を、と聞く前にリヴェラがアルヴィクトラの身体に刺さった矢を引き抜く。激痛が走る中、すぐにリヴェラの術式が傷口へ向けられ止血が始まる。

 アルヴィクトラは声にならない叫び声を上げながら、後方を見やった。二発目の火矢が空高く放たれるのが見えた。

「走ります」

 リヴェラが駆け出す。アルヴィクトラはそれに引っ張られるように、腹部を抑えながら後を追った。自然と腹部を庇う形となり、上手く走れない。追いつかれるのは時間の問題だった。

 アルヴィクトラは腰を落として右手を地面に向けると、時間をかけて術式を組み上げた。魔力特性"凍結"によって地表が凍りつき、周囲の空気との温度差によって足元に薄い霧が発生する。

「凍結領域を広げます。リヴェラ、滑らないように注意してください」

 アルヴィクトラは宣言と同時に、更に術式を拡大させた。供給する魔力が増大し、アルヴィクトラを中心に冷気が地表を覆っていく。草木が露に濡れ、次第に凍り付いていく。アルヴィクトラの駆けた後が氷で覆われ、温度差によって足元から霧が立ち上り、視界を塞いでいった。

 凍結領域の拡大によって、冷気で濡れた足元がしゃりしゃりと音を立てる。アルヴィクトラは背後に形成された霧が十分な濃度に達したのを確認すると、更に術式を拡大し、大気の冷却に移った。薄く広範囲を対象とした術式が、魔力特性"凍結"の効果を薄め、冷却の特性へ変化する。

 より広範囲に、高濃度の霧が展開していくと、アルヴィクトラの前方も視界が覆われ始めた。完全な隠蔽には至らないが、それでも追跡を逃れるには十分な効果を持つほどまでに成長した霧。その維持の為に魔力供給を調整しながら、アルヴィクトラは隣のリヴェラを見上げた。

「このまま走り続けますか? 霧に紛れてどこかに潜伏し、やり過ごしますか?」

「走れるだけ走りましょう。打ち上げられた火矢にどれだけの騎傑団員が気づいたかは不明ですが、あの場所からは出来るだけ距離をとる必要があります」

 アルヴィクトラは頷くと、リヴェラと並んで道なき道を走った。広がる樹木の間を抜け、鬱蒼と茂る草を飛び越え、霧の中をひた走る。

 冷えていく外気に逆らうように、身体が熱を持つ。

 息が乱れ、傷口が悲鳴をあげる。

 術式の維持が困難になり、使い古した魔力が毒素となって身体を回るのがわかった。

「そこをどけ!」

 不意にリヴェラが叫び声をあげる。

 アルヴィクトラが事態を認識するより早く、リヴェラの右手が頭上へ向けられ、熱線が放たれた。

 悲鳴が頭上から響いた。

 反射的に足を止めたアルヴィクトラの前へ、木の上から一人の男が落ちてきた。熱線を受けて左太腿が千切れかけた男の右手には鈍い輝きを放つ短剣が握られている。

「アル様! お下がりください! もう一人います!」

 リヴェラの警告に紛れ、前方の木々の間から燃える何かが放り出された。それが発火石と呼ばれる魔石だと気づいた時、発火石はアルヴィクトラの前方に転がり落ち、激しく燃え上がった。怯んだアルヴィクトラの隙を突くように、左太腿が千切れかけた男が短剣をアルヴィクトラに向かって投げようと振りかぶる。

「アル様……!」

 短剣がアルヴィクトラに向かって投擲されるより早く、リヴェラ・ハイリングが動いた。組み立てられた指先の術式から熱線が放たれ、男の頭部を吹き飛ばす。その間に発火石によって燃え上がった草木が不自然な盛り上がりを見せ、轟々と広がるようにアルヴィクトラへ向かう。アルヴィクトラはそれに気づくと迫る炎から逃げるように前方へ身を投げた。

「魔術です! ネル・ワインの魔力特性"延焼"による攻撃です!」

 リヴェラの悲鳴とともに、燃え盛る炎がすぐ横を通り過ぎ、激しい熱風がアルヴィクトラを襲った。体勢を立て直す暇もなく、炎がうねりを上げて勢いを増し、火の粉を散らす。

 アルヴィクトラは立ち上がると同時に、燃え広がる炎から離れるように駆け出した。炎の壁がアルヴィクトラを追うように草木を呑みこんで瞬く間に巨大化する。アルヴィクトラは足を休めることなく、術者の場所を特定しようと周囲を見渡した。しかし、それらしい姿は視認できない。

 まずい、と思う。

 霧の生成が中断し、周囲を取り巻いていた霧が急激に薄れていく。更に、延焼していく炎は既にアルヴィクトラの背丈を遥かに超えるほど巨大化し、勢いを増している。激しい炎と黒い煙を見た他の騎傑団員が駆けつけてくる可能性が高い。

「……リヴェラ。無差別凍結を展開します。追撃を」

 早期決着の為、アルヴィクトラは巨大な炎から逃げながら、術式を組み上げた右手を地面へ向け、魔力を放った。凍結領域が高速で展開され、アルヴィクトラの前方一面を凍りつかせていく。草が、木々の根元が、薄く凍り付いていく。

「次!」

 アルヴィクトラは背後から迫る炎の壁を巻くように地面を大きく蹴って方向を変えると、新しく術式を組み上げ、別方向へ魔力を放った。凍結領域がアルヴィクトラの死角となる草木の中も撫でて、薄く伸びていく。その凍結領域から逃れるように、一つの影が草木の向こうで飛び出すのが見えた。

「リヴェラ!」

 アルヴィクトラの呼びかけに応じるように、リヴェラの指先から熱線が放たれ、黒い影を掠める。しかし、動きを封じるには至らない。

 アルヴィクトラは更に術式を組み立てると、木々の間を駆け抜ける影に向かって三度目の無差別凍結を繰り出した。アルヴィクトラが手をかざした地面から草が凍りつき、黒い影目指して領域が凄まじい速さで展開していく。

 確かな手ごたえが、あった。黒い影が何かに引っかかるように前方へ転倒する。その隙を逃がすまいと、リヴェラが大きく前へ駆け出し、術式を展開する。その時、リヴェラの肩越しに別の影が見えた。

「リヴェラ! 横です!」

 リヴェラが振り返るより早く、アルヴィクトラの目は弓を構えたエイリア・ドゥームの姿をはっきりと捉えた。

 アルヴィクトラの指先に術式が展開される。同時にエイリア・ドゥームの弦がゆっくりと張られ、リヴェラに向けて固定される。

 早く。

 もっと早く。

 術式の展開に合わせるように、アルヴィクトラの右手が遠くのエイリア・ドゥームへかざされた。術式から放出された魔力は瞬く間にエイリア・ドゥームの弓と矢を凍結させ、射出を困難なものとする。

 一刻遅れて、エイリア・ドゥームの奇襲に気づいたリヴェラの指先がゆっくりと上がる。その間、エイリア・ドゥームは凍りつき使い物にならなくなった弓を見て驚愕に目を見開いた。そして、リヴェラの指先が完全にエイリア・ドゥームを捉え、術式が組み上げられる。

 一連の動作が、妙にゆっくり見えた。

 組み立てられた術式から熱線が放たれ、それは大気を貫いて真っ直ぐとエイリア・ドゥームの弓を砕き、そのまま彼の首を撃ち抜いた。頭と胴体が千切れ、壊れた弓を持つ手が大きく痙攣するところまでもがはっきりと見えた。

 エイリア・ドゥームの身体が地面へ沈んでいく。

 その時、背後で膨大な熱風が吹き荒れた。反射的に前方へ身を投げ、凍結によって表面が濡れた草の上を転がる。

 振り返ると、燃え盛る炎が天を目指すように激しく踊っていた。木々が、森が燃えていく。

 エイリア・ドゥームに気をとられている隙に、術者を逃したことを知り、アルヴィクトラはよろよろと立ち上がった。

 火が燃え広がり、炎の壁が森を支配していく。

 広がる陽炎。

 その奥。

 炎に釣られるように、森の奥から新たに三つの影が現れるのが見えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

17話

「帝国騎傑団序列九位。ウィンガー・トロン。司る魔力特性は"風圧"。虐殺幼帝よ、その穢れた魂を今この時、精霊の名に於いて遂行するがよい」

「帝国騎傑団序列十一位。ベリー・ベナ。司る魔力特性は"隆起"。指令により、その命頂戴いたします」

「帝国騎傑団序列十九。ダイン・クォーツ。司る魔力特性は"倒壊"。その幼き魂に救いを与えよう」

 陽炎の向こうから、黒衣を纏った三人の騎傑団員が新たに参戦する。

 アルヴィクトラは腹部を押さえながら、退路を探るようにゆっくりと後ずさった。逃走を防ぐように、強風が吹き荒れる。森に広がった火が大きく揺らめき、アルヴィクトラを熱風が襲った。

「傀儡の子よ。宿命の子よ。全てを精霊に委ね、楽になるがよい」

 風の魔術師ウィンガー・トロンが右手を突き上げ、強風を巻き起こす。燃え広がった炎が煽られ、より大きく育っていく。

 熱風が場を支配し、アルヴィクトラの動きが封じられている間にベリー・ベナとダイン・クォーツが両手を広げ、術式を組み立て始める。

 発動が遅い。

 術式形式を制圧級魔術と推測し、アルヴィクトラはこれから発動するであろう広範囲魔術から逃れる為に、燃え上がる木々の間を風に逆らうように走った。それを追うように、次々と周囲の木々が倒壊し、大規模な破壊が始まる。魔力特性"倒壊"による大規模な制圧攻撃により木々が崩れ、周囲が森の形を失っていく。

「……これは!」

 次々と倒壊する木々とは反対に、周囲の地面が次々に隆起し、足場を崩していく。魔力特性"隆起"による足場の破壊が始まっていた。

 アルヴィクトラの華奢な身体は、崩れる大地と降り注ぐ木々によって木の葉のように翻弄される。

 三人の魔術師の大規模な制圧攻撃に対抗する為、アルヴィクトラは咄嗟に術式を展開し、拡大させた。崩れ去っていく世界が凍結し、秩序だった氷の世界へと書き換えられていく。その大規模な奇跡の代償としてアルヴィクトラの心臓を強い脈動が打った。腹部の創傷に激痛が走り、身動きが取れなくなる。その間、アルヴィクトラの創りだした氷の世界を破壊するように、強風が炎を押し上げてくる。

 アルヴィクトラは荒い息を繰り返しながら、徐々に迫る炎の壁を見つめた。

「制圧級魔術か。敵陣地の突破では比類ない力を見せるが、少数戦では決定力に欠ける精度の低い技術でしかない」

 熱線が煌いた。

 大地が大きく波打ち、あらゆる構造物が倒壊した氷の世界を駆け抜けて、風の魔術師ウィンガー・トロンの頭部を消し飛ばした。

「帝国騎傑団序列一位。このリヴェラ・ハイリングを舐めるな」

 魔術の反動で跪くアルヴィクトラの目の前をリヴェラの黒衣が舞った。

 リヴェラが、滑るように氷の大地を駆けていく。それを食い止めるように氷に覆われた大地が裂け、土の柱が隆起する。リヴェラはその柱に飛び乗ると、それを踏み台にするように大きく跳躍した。

 いくつもの柱が隆起し、いくつもの柱が倒壊する。砕ける大地の欠片が降り注ぐ中、リヴェラ・ハイリングは足を止めることなく二人の魔術師へ距離を詰めていく。

 終わった、と思った。

 二人の魔術師にはリヴェラを捕捉する術がない。リヴェラの熱線が二人の頭を貫くのは時間の問題だった。

 しかし、その予想を裏切るような嫌な風が吹いた。

 木々の向こうで、巨大な炎の柱があがる。延焼の魔術師ネル・ワインが反撃に出たようだった。森の向こうから炎の壁が木々を呑みこんで迫ってくる。

「リヴェラ!」

 炎の壁が迫るのを確認したリヴェラが踵を返して反転する。それを追うように炎が勢いを増して燃え上がる。

 残る敵は"隆起"を司るベリー・ベナ。"延焼"を司るネル・ワイン。"倒壊"を司るダイン・クォーツの三人。

 いずれも大型の魔術を得意とする制圧型の魔術師。リヴェラが序列一位の英傑とはいえ、これを一人で破るのは難しい。アルヴィクトラが援護に動くべきだったが、大規模魔術の連発で既に魔力的限界が訪れていた。

 撃破は不可能。撤退するべき、という結論に辿りつく。

 この大規模な山火事を見て、更に他の騎傑団員が集まってくる可能性もある。

 しかし、リヴェラは退かない。炎を迂回するように森の中を駆け、何度も熱線を放ち、敵を息の根を止めようと動く。

「リヴェラ! 一回下がりましょう!」

 リヴェラは、振り返らない。

 燃える世界。

 大地が隆起と倒壊を繰り返し、森がその姿を失っていく。

 リヴェラ・ハイリングは壊れていく世界を駆ける。

 全てを貫く熱線が、片方しかなくなってしまった腕から放出される。それは崩壊する大地が作り出す土砂を貫いて、その向こうに立つ倒壊の魔術師ダイン・クォーツの右足を撃ち抜いた。

 悲鳴。

 足を失ったダイン・クォーツが倒れ、攻撃の波が薄れた。

 リヴェラ・ハイリングはその機に乗じて一気に距離を詰めていく。

 大地がめくり上がるように隆起し、リヴェラの動きを止めようと波打つ。リヴェラ・ハイリングはそれを踏み台にして、大きく跳躍する。リヴェラ・ハイリングは止まらない。

 延焼の魔術師ネル・ワインが防御体勢をとるように炎の壁を展開する。

 リヴェラ・ハイリングの前進を炎の壁が食い止めようと大きく燃え上がる。それでも、リヴェラ・ハイリングは止まらなかった。

 躊躇することなくリヴェラはネル・ワインが展開した炎の壁に飛び込んだ。

 リヴェラ・ハイリングが炎を突破して、ネル・ワインを射程に捉える。黒衣の裾が燃えていたが、リヴェラはそれを無視してネル・ワインに向かって指先を突き出した。術式が組み立てられ、ネル・ワインが回避行動をとる前に熱線が放たれる。それはネル・ワインの頭部を正確に跡形もなく吹き飛ばした。

 リヴェラ・ハイリングは止まらない。

 防御を担当していた延焼の魔術師を失い、隆起の魔術師ベリー・ベナが無防備な姿を晒す。

 リヴェラは燃える裾を大きくはためかせて、ベリー・ベナに向かって駆け出した。ベリー・ベナが逃走を図るように踵を返すが、その瞬間を狙って熱線が放たれ、彼女の腹部に風穴が開いた。

 二人の魔術師を片付けたリヴェラ・ハイリングはゆっくりと方向を変えて、足を撃ったまま放置していたダイン・クォーツへ目を向けた。ダイン・クォーツは低い唸り声をあげながら、地面を這いつくばっている。リヴェラは彼のもとへ進むと、無感動に問いかけた。

「追跡はどれほどの規模で行われている? 各方面の割合は?」

 ダイン・クォーツが苦痛に喘ぎながらリヴェラを見上げ、ただ荒い息を繰り返す。

 リヴェラは淀みのない動作で右手を彼の残った左足に向けると躊躇せず熱線を放った。彼の左足が吹き飛び、血肉が散乱する。

「追跡の規模は? 各方面の割合は?」

 ダイン・クォーツの悲鳴を無視するように、リヴェラが質問を繰り返す。

 その光景を見ていたアルヴィクトラは、ゆっくりと立ち上がるとリヴェラの元へ歩き始めた。魔力の使いすぎで、身体に力が入らない。

「リヴェラ……」

「ダイン・クォーツ。答えろ。追跡の規模は? 各方面の割合は?」

 リヴェラが質問を繰り返し、熱線を放つ。右手が消し飛ぶと同時にダイン・クォーツの身体が大きく脈打つように跳ねる。もう、悲鳴は上がらなかった。

「もう一度言う。追跡の規模は?」

 ダイン・クォーツは喋らない。ぐったりと倒れたまま動かない。

 リヴェラ・ハイリングの右腕が、ダイン・クォーツの唯一残った左手に向けられる。

「答えろ!」

 リヴェラが叫ぶ。

 アルヴィクトラはふらふらとリヴェラのそばへ寄ると、そっと彼女の右手に手を添えた。

「リヴェラ……もう死んでいます」

 リヴェラの瞳が一瞬、大きく見開かれた。

 次いで、彼女は目の前の死体を見つめると、疲れたように右腕を下ろした。

「リヴェラ……火傷が……」

「心配ありません」

 彼女は短く答えて、それから崩れるように膝を折った。アルヴィクトラは咄嗟に彼女の身体を抱えた。

「リヴェラ……?」

 声をかける。しかし、反応はない。

「リヴェラ……」

 気を失っているようだった。

 右手を失い、全身に火傷を負った従者をアルヴィクトラはそっと抱きしめて、それから燃え続ける森に視線を向けた。

 もう、リヴェラ・ハイリングは戦える状態ではない。ずっと前から、そうだった。もう、そんな状態を超えてしまっていた。

 アルヴィクトラ自身も、抵抗臓器の酷使によって既に魔術が使えない状態にある。

「逃げないと……」

 アルヴィクトラはリヴェラの身体を引きずるように燃える森から離れようと動き出す。

 逃げないと。それだけが頭の中にあった。このままではリヴェラが死んでしまう。恐怖心が、満身創痍のアルヴィクトラを突き動かした。

「どこに?」

 誰かの声が、響いた。

 振り返ったアルヴィクトラの瞳に、絶望の色が宿った。

 燃える森を背景に、五人の男が立っていた。

 その先頭に立つ男――バルト・リークは正面からアルヴィクトラを見つめると、全てを見透かしたような声で繰り返した。

「どこに逃げる? 帝国に貴方の居場所はない。王国も、そうだ。まさか教国に助けを求めるつもりか?」

 クーデターの中心人物。アルヴィクトラを討つ為に起った新鋭の魔剣士。これから皇帝として君臨するであろう男は、瀕死のリヴェラ・ハイリングを守るように抱えるアルヴィクトラ・ヴェーネを見下ろすと、静かに終わりを告げた。

「貴方の役割は終わった。生きることは、辛いだろう。逃げることは、惨めだろう。宿命の子よ。聞こえるか? 精霊がお前の死を祝福している。お前の皇帝としての在り方は貴きものだった。それがディゴリー・ベイルから与えられたものであったとしても、それを遂行したお前は祝福されるべきだ。それを誇りに思うがよい」

 バルト・リークの剣がゆっくりと抜かれる。

「帝国騎傑団序列二位。そして序列零位を簒奪する者。司る魔力特性は"貫通"。名をバルト・リークという。さあ、虐殺の系譜に連なる最後の子よ。剣をとるがよい」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話

 バルト・リークの剣先が、アルヴィクトラの喉元に突きつけられる。

 アルヴィクトラはリヴェラの身体を抱えたまま、唇を噛み締めた。

「ゼータ。剣を」

 バルト・リークは視線を逸らさず、背後の仲間に声をかけた。

 後ろに控える七人の男のうち、一人がアルヴィクトラに向かって剣を投げる。高い金属音とともに、長剣がアルヴィクトラの目の前に転がった。

「アルヴィクトラ・ヴェーネ。剣をとれ。あなたの皇帝としての在り方に敬意を表し、相応しい結末を用意しよう。アルヴィクトラ・ヴェーネは決闘により、このバルト・リークと剣を交え、敗れた。あなたは最後まで虐殺に殉じ、数多の帝国騎傑団員を葬った。過去に例を見ないほど強大な帝王だった」

 アルヴィクトラ・ヴェーネはリヴェラの身体をそっと地面に横たわらせると、目の前に転がる剣をとり、ゆらりと立ち上がった。

「そうだ。それでいい。アルヴィクトラ・ヴェーネ。その支配者の、虐殺の血を、私が断ち切ってみせよう」

 バルト・リークがそっと後ろに下がる。

 アルヴィクトラ・ヴェーネも剣を構えたまま後ろに下がった。

 相応しい距離が開いたところで、どちらからともなく足を止め、剣を構えなおす。

「バルト・リーク。最後に、聞いてください。私は皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ。虐殺の系譜は、私を最後に終わりを迎えます」

 バルト・リークがアルヴィクトラ・ヴェーネの真意を探るように、すうっと目を細める。

 アルヴィクトラ・ヴェーネはそれに構わず言葉を続けた。

「私は善き支配者ではありませんでした。だからこそ、私はあなたが起った時、死を覚悟していたのです。終わりの見えない虐殺が終わりを迎えることに、安堵すらしていました」

 でも、とアルヴィクトラはバルト・リークの肩越しに見える暗闇を見つめた。

 森の奥に広がる暗闇。

 嫌な風が吹いた。

「私は、卑劣となじられても守るべきものを見つけました。私は最後の皇帝として、この帝国を去ります」

「何を言っている?」

 バルト・リークが怪訝そうにアルヴィクトラを睨みつける。

 アルヴィクトラは弱々しく微笑むと、突如踵を返した。

「あなたの剣を受けられなかったことを、残念に思います。それでも。私は生きなければならない」

 アルヴィクトラはそう言って、バルト・リークに背を向けて駆け出す。

「あなたは――」

 バルト・リークの叫び声が背後から届いた。

 しかし、それはすぐに獣の咆哮に掻き消される。

 バルト・リークが振り返ると、彼の背後から体高三メートルを超える大型の獣が姿を現したところだった。

 グル。

 リヴェラが左腕を失う原因となった猿のような巨人。

 二足歩行で立つそれは、折れ曲がった背中をゆっくりと伸ばすと、大木のように太く長い腕を大きく振り回した。

 バルト・リークの後ろに控えていた帝国騎傑団員の一人が、その膂力によって嫌な音ともに薙ぎ倒される。

「散らばれえええ!」

 バルト・リークの叫び声。

 それを合図に、グルが咆哮をあげて駆け出す。

 一瞬で場を混乱が支配した。

 人間と獣を掛け合わせたような顔。そして、残虐な知性を宿す瞳が獲物を探すようにギョロギョロと動く。誰かの頭がその巨大な手で掴まれ、捻じ切られる。

 アルヴィクトラは背後の混乱から目を離すと、リヴェラを引きずるように抱えて森の中を走り出した。

 背後から、死の香りがした。

 もう動かない足を無理やり動かして、リヴェラを逃がす為に走る。

 後ろで悲鳴と怒号があがっても、アルヴィクトラは振り返らなかった。

 ただ、森の中を走る。

 先が見えない木々の間を、駆け抜ける。

「リヴェラ……」

 腕の中のリヴェラを力強く抱きしめ、アルヴィクトラは無我夢中で駆けた。

 皇帝の義務も、騎士の誇りも、万軍の主の力も。全ていらない。

 富も名誉も、必要ない。

 血の伝統も、誇り高き心もくだらない。

 それらは、腕の中のリヴェラ・ハイリングを生かすことに何の役にも立たない。

 決闘というバルト・リークが示した最上の結末を捨ててでも、アルヴィクトラは無様に逃げることを選んだ。それが唯一、リヴェラ・ハイリングを生かすことに繋がる。

 死は、恐れるべきものではない。

 真に恐れるべきものは、最愛の者の死だ。

 アルヴィクトラ・ヴェーネはそれを回避する為に、全てを投げ出した。

 後の歴史家は、無様に逃げ回った虐殺幼帝の末路を非難するだろう。

 それがどうした。

 皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネの誇りや名誉など、くれてやる。

 少なくとも、この寡黙な従者はアルヴィクトラの為にそう生きた。

 アルヴィクトラ・ヴェーネはそれに応えなければならない。

 それに応えたい、と心の底から強く思った。

 起伏の激しい地形が、アルヴィクトラの体力を奪っていく。

 リヴェラを抱えた状態では、満足に走れない。

 追いつかれるのは時間の問題だった。

 それでも、どこかに突破口があることを信じて、闇雲に森を駆ける。

「アルヴィクトラ・ヴェーネ!」

 背後から、怒声が届いた。

 振り返ると、木々の向こうから複数の影が迫っていた。

 追跡者の数が、減っている。

 グルの強襲により死傷者が出たのか。

 あと、六人。

 アルヴィクトラ・ヴェーネは息を荒げながら、既に許容範囲を超えた魔術を強制発動すべく、中空に術式を描いた。

 倒す必要はない。必要なのは、足止めだった。

 術式が完成し、背後から迫る男たちの足元を狙って凍結の魔術が放たれる。

「この私に、魔術は効かぬ」

 先頭を走るバルト・リークが飛来する魔術に対し、剣を振るう。それは呆気なく凍結の魔術を掻き消し、虚無へと葬り去った。

 魔力特性"貫通"。

 リヴェラ・ハイリングと同様のそれは、リヴェラと違って剣に練りこまれて発現する。

 全てを貫き、打ち負かす剣。そして最上の剣技。それこそがバルト・リークが序列二位まで上り詰めた所以。

 使用した魔力の一部が不純物となって、体内を駆け巡るのがわかった。許容量を超えたそれは毒となり、アルヴィクトラの身体を内から食い破ろうとする。

 何の前触れもなく、手先の皮膚が弾けた。鮮血が迸り、腕に抱いたリヴェラの黒衣を赤く汚していく。

 不思議と、痛みはなかった。

 それよりも、魔術を打ち消されたことに対する動揺の方が強かった。

 追跡者との距離が、縮まっていく。

 心臓が、肺が、足が、腕が、悲鳴をあげる。

 揺れる視界。

 続く森。

 死の香りが強くなっていく。

 突然、視界が開けた。

 無限に続くかと思われた木々がなくなり、空が見えた。

 そして、アルヴィクトラは終わりを悟った。

 大地の切れ目が、迫っていたのだ。

 巨大な渓谷が広がっていた。

 谷底には、激しい水流。

 辺境の地には、橋などかかっていない。

 行き止まりだった。

 アルヴィクトラは崖を前にして足を止めると、リヴェラの身体をそっと置いて振り返った。

「アルヴィクトラ・ヴェーネ。精霊があなたの死を囁いている。生は削がれ、残された魂は遂行される。それを受け入れろ」

 バルト・リークが剣を構え、ゆっくりと迫る。

 アルヴィクトラは大きく肩で息をしながら、何も持たぬ両手を、まるで剣を持つように構えた。

 術式展開。

 何もない空間に、氷の剣が創造される。それとともに、アルヴィクトラの腕の皮膚が次々と弾け、裂けた。

「循環魔力が、限界を超えているぞ。抵抗臓器そのものが、機能不全を起こしている」

 バルト・リークがアルヴィクトラの身体の異常を見て、無感動に言う。

 アルヴィクトラは剣を構えたまま、じっとバルト・リークの目を見つめた。

「バルト・リーク。もしこの場で私が自決すれば、リヴェラ・ハイリングはどうなりますか?」

「結果は変わらない。虐殺幼帝の右腕として在った彼女を見逃すわけにはいかない。その末路はよく理解しているはずだ」

 アルヴィクトラは腰を落とすと、バルト・リーク向かって大地を蹴った。

「私が相手する。手出しは無用だ」

 バルト・リークは背後の騎傑団員に向かって叫び、アルヴィクトラの剣を正面から受け止めるように動いた。

 一閃。

 アルヴィクトラの剣が、横凪に振るわれる。バルト・リークはそれを払うように防御姿勢をとる。

 二つの剣が引き寄せられるように、衝突する。しかし、衝撃は生まれなかった。

 時間が間延びするような感覚が、アルヴィクトラを襲った。

 アルヴィクトラの振るった剣はバルト・リークの剣と衝突した事実を無視するように、何の抵抗もなく切り裂かれた。

 氷の剣が、折れる。

 その切っ先が光の中で煌き、大気中に霧散した。

 無惨に折れた剣を振りぬいた時、バルト・リークは既に次の動作に移っていた。

 アルヴィクトラの胸を狙うように、その鋭い剣が突き出される。

 受けきれない。

 アルヴィクトラは剣を振るった勢いに任せるように、そのまま重心を戻さず剣に振り回されるように身を投げた。

 わき腹をバルト・リークの剣先が掠め、鮮血が舞った。

 受身をとる余裕もなく、アルヴィクトラは土の上を転がった。そこにバルト・リークが追撃をしかけようと距離を詰める。

 魔力特性"貫通"。

 リヴェラ・ハイリングの熱線は強度を無視してあらゆる障害を貫く。同様に、バルト・リークの剣はいかなる障害も容易く切り裂く。

 バルト・リークの剣はあらゆる防御行為を許さない。

 バルト・リークの剣を防ぐ術はなく、それから逃れる為には回避行動をとるしかない。

 その一方的な能力。そして最上の剣技が混ざり合わさって、バルト・リークは帝国騎傑団において頭角を現したのだ。

 それでも、とアルヴィクトラは思う。

 それは絶対ではない。

 昔、リヴェラが言っていたことが頭をよぎった。

 

 

 ――魔力特性というものは、類型化された一つの考え方に過ぎません。綿密な観測によって個々の魔術師が持つ魔力の特性を推測し、それを過去の統計的事実と照らし合わせて、魔力特性としてまとめ上げます。だから、本当に字面通りの意味を持っているかどうかは不明なままです。

 

 

 魔力特性は、一面的なものでしかない。

 土の上に転がるアルヴィクトラの上から、バルト・リークの剣が振り下ろされる。

 アルヴィクトラは持てる全ての能力をつぎ込んで、術式を展開させた。

 バルト・リークの剣よりも早く。

 限界を超えて、高速で術式を完成させる。

 何かが、悲鳴をあげる。

 それを無視して、アルヴィクトラは魔力を放った。

 アルヴィクトラの手の中に、氷の剣が生まれる。

 アルヴィクトラの構えた氷の剣と、バルト・リークの剣が交わるように接近する。

 魔力特性"貫通"が発動。

 バルト・リークの剣が、何の抵抗もなく氷の剣に食い込む。

 そして、そのまま氷の剣を打ち抜いて、アルヴィクトラの首を斬り落とすはずだった。

 そのはずだった。

 バルト・リークの目が、驚愕に見開かれる。

 アルヴィクトラの剣がバルト・リークの剣を正面から受け、力強く弾いたのだ。

 魔力特性"貫通"を打ち破るようにして、アルヴィクトラの氷の剣は依然としてその姿を保ち、煌びやかな光を放つ。

 驚き。戸惑い。驚嘆。

 不測の事態に、バルト・リークの動きが止まる。

 その隙を縫うように、アルヴィクトラは勢いよく立ち上がると、氷の剣を振り抜いた。

 困惑から立ち直れていないバルト・リークがかろうじてそれを受け止めようと動く。

 剣と剣がぶつかり合う衝撃。

 またしても、バルト・リークの剣はアルヴィクトラの剣を打ち破ることはなかった。

 魔力特性"貫通"を無視するように、アルヴィクトラの剣はバルト・リークの剣と衝突する。

「――何故」

 バルト・リークの呟きに答えるように、アルヴィクトラの腕の皮膚が何の前触れもなく大きく弾けた。

「もしや、あなたは――」

 アルヴィクトラの異変に気づいたバルト・リークが目を疑うように動きを止める。

 アルヴィクトラはその隙を狙うように再び剣を叩きつけた。バルト・リークの剣がかろうじてそれを受け止める。

 魔力特性"貫通"は発動しない。

 バルト・リークがその事実を認めたように、目の色を変える。

 次の瞬間。突如バルト・リークの腹部に氷の短剣が突き刺さった。

 バルト・リークは何が起こったかわからない様子で、腹部に突き刺さった氷の短剣を信じられないといった目で見つめていた。

 その短剣を辿った先には、アルヴィクトラの左手があった。

 右手には、一瞬前にバルト・リークの剣と衝突していた氷の長剣。

 いつの間にか出現していた左手の短剣を、バルト・リークは幻でも見るようにじっと見つめていた。

「バルト様!」

 後ろに控えていた騎傑団員の一人が飛び出し、アルヴィクトラに肉薄する。

 アルヴィクトラは氷の短剣を引き抜くと、それを投擲した。迫る男がそれを弾き、一瞬の時間ができる。その間にアルヴィクトラは体勢を立て直すように後ろへ飛びのいた。

「そうか――」

 腹部を押さえたバルト・リークがアルヴィクトラを睨みつける。

「――魔力特性"貫通"が発動していない訳ではない。破壊された氷の剣を、再構成し続けているのか」

 アルヴィクトラは、何も答えない。

 右手に剣をを、左手に短剣を構え、苦しそうに息を繰り返すだけだった。

 次々と、アルヴィクトラの皮膚が弾けていく。

 役目を終えて循環する魔力に体内から食い破られ、血だらけのアルヴィクトラは既に戦闘継続能力を失っていた。

「愚かな。魔力がない状態で、そんな膨大な魔力を要する戦術を維持できるはずがない」

 バルト・リークの言葉を証明するように、アルヴィクトラの身体が次々と裂けていく。

 皮膚だけでなく、左腕の肉が突如弾け、アルヴィクトラは苦痛のうめき声を漏らした。

 全身から流れ出る血が、足元を赤く濡らしていく。

 それでも、アルヴィクトラの瞳から戦意が失われることはない。

「愚かだ。愚かだが、その捨て身の戦い方には驚いた。帝国騎傑団序列零位。その肩書きは、どうやら形だけではなかったらしい」

 バルト・リークは血が溢れる腹部を押さえながら、苦しそうに嗤う。

「この手で決着をつけるつもりだったが、それも叶わないか。ゼータ。皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネに名誉ある死を」

 息も絶え絶えに膝を折るバルト・リークの代わりに、ゼータと呼ばれた一人の剣士が進み出る。

 アルヴィクトラは荒い息を繰り返し、おびただしい血を流しながらも、構えた剣を下ろすことなくそれを見つめた。

「帝国騎傑団序列四位。ゼータ・オーウェン。司る魔力特性は"暫定防御"。帝国騎傑団序列零位の英傑と最後に手を合わせる名誉をありがたく思います」

 ゼータ・オーウェンがゆっくりと迫る。

 対するアルヴィクトラは剣を構えることで精一杯で、既に動けない状態だった。

 死が、迫る。

 アルヴィクトラは時折肉体のどこかが弾ける音を聞きながら、その時を待つことしかできなかった。

 アルヴィクトラ・ヴェーネという存在が、壊れていく。

 起こした奇跡の数だけ、体内を走る循環魔力が身体を食い破り、破壊する。

 皮膚も、肉も。そして、骨すらも弾けた。突如激しい衝撃とともに、右手の小指が嫌な音を立てて折れ曲がる。

 何もかもが、崩壊していく。

「アル様」

 崩れる世界の中、優しい声が耳に届いた。

「休んでいてください。後は、私が」

 霞む視界。

 前の前に立つゼータ・オーウェンの輪郭がぼんやりと見えた。

 その頭部に向かって、後方から光の筋が向かった。

 その光は、ゼータ・オーウェンの頭部に吸い込まれていく。次の瞬間、ゼータ・オーウェンの持つ剣が砕け散った。

 魔力特性"暫定防御"。物質に衝撃を肩代わりさせる魔力特性。

 その発動を以って死を免れたゼータ・オーウェンが、遅れて回避行動をとるように後ろへ飛びのく。

「リヴェラ・ハイリング!」

 ゼータ・オーウェンの叫び声。

 振り返ると、霞む視界の向こうで、目を覚ましたリヴェラ・ハイリングが立ち上がるところだった。

「リヴェラ……」

 擦れた声が、喉から零れた。

「アル様……」

 リヴェラが優しく微笑んだのがわかった。

 その柔らかさとは反対に、何か邪悪な気配が周囲に満ちる。

 そして、アルヴィクトラは見た。

 切り立った崖から、何かが這い上がってくる。

 黒く、のっぺりした何か。

 人の形をしているが、一目で人ならざる者とわかった。

 それも、一つではない。

 影のような何かが複数、崖から這い上がってくる。まるで、地獄から這い上がってきたかのように。

「リヴェラ……?」

 アルヴィクトラの口から、呆然と呟きが零れた。

 それを無視するように、リヴェラが黒衣を翻して駆ける。

「ナナシア・ブラインドは貧困に抗う民を救う為、富を捨てた。富は虚しい」

 リヴェラが小声で謳うように呟くのが、風に紛れてアルヴィクトラの耳に届いた。

「ディゴリー・ベイルは帝国を救うため、国民を捨てた。命は虚しい」

 リヴェラが両腕を前に突き出す。強大な術式が構成されるのが見えた。

「アルヴィクトラ・ヴェーネは――を救うため、名誉を捨てた。名誉は虚しい」

 風が強くなる。リヴェラの声が、風に掻き消される。

「リヴェラ・ハイリングは――――」

 術式が展開する。

 あまりにも、禍々しい術式だった。

「――現世も常世も、全て儚く虚しい」

 風が止む。

 そして、魔術と呼ぶべきなのかも定かではないそれは発動した。

 信じられないほどの光の奔流が、ゼータ・オーウェンを呑みこんでいく。

「死霊魔術――いつの間に契約を――」

 轟音の中、バルト・リークの悲鳴が響いた。

 凄まじい光量。

 それは一瞬で過ぎ去り、後には巨大な蛇が這ったような、抉り取られた地面が残されていた。

「散開! リヴェラ・ハイリングを抑えろ!」

 バルト・リークの指令により、バルト・リークを含めた五人の男が一斉に動き出した。

「常世の命は、うたかたの顕現を――」

 リヴェラ・ハイリングが次の術式を展開する。

 その間にも、崖から這い上がってきた黒い影たちがゆっくりとリヴェラ目指して歩いてくる。

「リヴェラ! 黒い影が――」

 アルヴィクトラの叫び声を掻き消すように、完成した術式から得体の知れない死霊の力が発動する。

 巨大すぎる光の流れが、全てを呑みこむように駆け抜ける。

 その先にいた男が光に呑みこまれ、存在そのものが食われるように光の中に消えていく。

「リヴェラ!」

 影が、迫る。

 這い寄るそれは、リヴェラを真っ直ぐに目指してゆっくりと迫る。

 おぞましい予感がした。

 得体の知れない影がリヴェラと接触した瞬間、全てが奪われる気がした。

 リヴェラを囲むように、バルト・リークたちが動く。それを迎え撃つリヴェラ・ハイリングは次の術式の構成に入っている。

 迫る黒い影に、その場の誰もが気づいていないようだった。

 正体不明の焦燥感が募る。

 死霊との契約。

 禁術として伝えられるそれに手を染める魔術師は少ない。

 相応の代償があるはずだった。

 過去に見た光景が、脳裏に甦った。

 死霊と契約した者の最期。

 何かに吊るされるように宙へ浮き、身体を捩じ切られた男の姿。

 かつて、アルヴィクトラはそれを見た。

 まるで見えない何かに魂を奪われるような光景だった。

 きっとそれが今、リヴェラの足元へ這い寄っている。

 血だらけのアルヴィクトラは、リヴェラ・ハイリングを止める為に駆け出した。

「リヴェラ!」

 リヴェラ・ハイリングの術式が完成し、三度目の死霊魔術が発動する。

 轟音と閃光が五感を奪う。

 地面を抉って、巨大な蛇のように光の道が空間を貫通していく。

 誰かが、死霊魔術に呑み込まれていく。

 黒い影が、リヴェラに迫る。

「リヴェラ!」

 アルヴィクトラは、飛び込むようにリヴェラに抱きついた。

 リヴェラが驚いたように振り返る。

「アル、様?」

「リヴェラ、私は、リヴェラを失いたくないです」

 黒い影が、すぐそこまで迫っていた。

 アルヴィクトラの中で、暴走した魔力が駆け巡り、左目が弾けた。

 水晶体が、ガラス片のように宙を舞った。

「リヴェラ、私の身体はもう持たないです。抵抗臓器は機能を停止し、中和する術を失った循環魔力が私を食い殺すでしょう」

 だから、と叫んだ。

「もう、もうやめましょう。ここを抜けても、私たちは既に森から出るほどの体力を残していない。死霊に魂を渡すことなど、やめてください」

 黒い影が、死霊がリヴェラの向かって手を伸ばす。

 アルヴィクトラはリヴェラを守るようにその身を引き寄せた。

「リヴェラ、その魂を私の為に汚さないでください。それが私の最後のお願いです」

 死霊の手が、空を切る。

 バルト・リークが剣を構え、最後の一撃を放とうと大地を蹴る。

「リヴェラ。私は、リヴェラの魂を失いたくない。死しても、その魂だけは失いたくないのです。可能性を、消したくないのです」

 一度は空を切った死霊の手が、再びリヴェラに向かって差し出される。アルヴィクトラは術式を展開すると、叫び声をあげた。

「リヴェラに触るな!」

 氷の剣が、死霊に向かって振るわれる。死霊はそれを恐れるようにゆらりと後退した。

「――死霊!?」

 振るわれた剣先を見て、リヴェラが始めてその存在に気づいたように目を見開く。

 アルヴィクトラは氷の剣を死霊に向けたまま、リヴェラの瞳を正面から見つめた。

「リヴェラ! リヴェラは、全てを分かち合いと言ってくれました。今でも、その気持ちは変わりませんか?」

「もちろんです。私は――」

「それならば、終わりの時を分かり合いましょう。それが残された唯一の救いと信じて」

 アルヴィクトラが叫ぶと、リヴェラはその手をとった。

 そして、アルヴィクトラ・ヴェーネとリヴェラ・ハイリングはどちらからともなく駆け出した。

 もう、言葉は必要なかった。

 足が、内から弾ける。肉が砕け、骨が千切れる。

 アルヴィクトラ・ヴェーネの身体が食われていく。

 転びそうになるアルヴィクトラを、リヴェラが抱きしめて支える。

「身体は、乗り物に過ぎません」

 リヴェラの呟きにアルヴィクトラは頷いて、そして大地を大きく蹴った。

 跳躍の先は、果てしない奈落。

 最後に、アルヴィクトラは今まで自身が踏みしめていた大地の向こうを振り返った。

 死霊が、バルト・リークが、こちらを見ていた。

 そして、アルヴィクトラ・ヴェーネは微笑んだ。

 跳躍が終わり、落下が始まる。

 温かいものが、アルヴィクトラを守るように包み込んだ。

「狂おしいほどお慕い申し上げております」

 風切り音に紛れて、リヴェラの優しい囁きが耳に届いた。それがとても心地よかった。

 そして、アルヴィクトラは落ちる。リヴェラとともに、どこまでも。

 堕ちていく。

 

 

◇◆◇

 

 

「不可解な」

 バルト・リークは残った二人の部下とともに谷底を見つめていた。

「死霊魔術で優勢をとったと思えば、突然二人揃って死を選ぶとは。全く理解できないな」

 部下の言葉に、バルト・リークは何も言わなかった。

 ただ谷底の激流の中に人影が見えないことを確認すると、無言で踵を返した。部下もそれに続く。

「死霊魔術は、遺体を残さないのだな」

 バルト・リークは大きく抉れた大地を見て、ポツりと零した。

「遺品を持ち帰ることもできないのは残念ですが、諦めましょう。あなたはこれから忙しくなります。死者に構っている暇などありません」

 それまで沈黙を貫いていた部下が、淡々と口を開く。

 そうだな、とバルト・リークは相槌を打って歩を進めた。

「しかし、虐殺幼帝アルヴィクトラ・ヴェーネもこれで終わりとは。どれだけ強大な存在にも、終わりは呆気ない」

 部下の言葉に、バルト・リークは目を瞑って、それから呟くように答えた。

「虐殺幼帝など、どこにもいなかった。あったのは……そう、偽悪皇帝アルヴィクトラ・ヴェーネ。善良な一人の少年に過ぎなかった」

 バルト・リークの言葉に二人の部下が怪訝そうな顔を浮かべる。バルト・リークはそれを無視して言葉を続けた。

「皇帝という役割を与えられた途端、彼は虐殺に走った。裏にいたのは帝国軍元帥だ。しかし、確かに十一歳の少年は血に濡れた道を歩んだ。虐殺を為したのは、一体誰だ。一体何がそれを為した。これはきっと帝国という化物が為したものだ。そこに個人の意志が介在する余地はなかった」

「バルト様?」

 部下が戸惑ったように言う。

「何でもない。私も食われぬように気をつけねばなるまい。そう、思ったのだ」

 バルト・リークはそう言って、それから大蛇が這ったような大地を後にした。

 死霊の姿は、もうどこにもなかった。

 

 

◇◆◇

 

 

 背中が、濡れていた。

 ぬるぬると、背中が濡れている。

 どこかぐしゃぐしゃとした感触で、背中が大きく抉れて多量の血が流れていることがわかった。

 息がうまくできない。喉の奥から生温かい液体が溢れ、口の端から零れる。鉄の味がした。

「リヴェ、ラ……」

 アルヴィクトラは朦朧とする意識の中、誰かの名前を呼んだ。

 誰の名前か、はっきりと思い出せない。

「リヴェ……ラ……」

 上手く声が出ない。自身の声に混ざって、水の音が届いた。

「アル様……」

 美しい声が、アルヴィクトラの耳を打った。

「リヴェラ……」

 意識が、はっきりとする。

 アルヴィクトラは重い瞼を開けると、ゆっくりと首を横に回した。すぐ隣に彼女の姿があり、その血だらけの腕がアルヴィクトラの身体に絡みついていた。

「リヴェ、ラ……」

 呼びかける。しかし、反応はない。

 彼女の姿をよく見ようと、重い瞼を必死に開く。うまく見えない。

 循環魔力の暴走で、左目が弾けたことを思い出す。右目もよく見えない。

 ぼんやりと、周囲を見渡す。首を動かす度に、激しい痛みが走った。

 谷底。どこかに打ち上げられたようだった。

「リヴェ、ラ……聞こえ……ます、か?」

 アルヴィクトラはそう言って、そっと彼女の身体を優しく抱いた。痛いかもしれないと思ったが、彼女は何も言わなかった。もう、痛みを感じることすらできないのかもしれない。

「アル様……?」

 アルヴィクトラの手に、リヴェラが手を重ねる。アルヴィクトラの声に反応したというよりは、アルヴィクトラの手に反応したようだった。

「聞こえ、ますか?」

 血を零しながら、アルヴィクトラは再び問いかけた。リヴェラは答えず、アルヴィクトラの手を大事そうに握っている。

 霞む視界。リヴェラの左頭部が形を失っているのがぼんやりと見えた。耳が潰れているのかもしれない、と思った。

 最後の力を振り絞って、アルヴィクトラはリヴェラに近づこうと動いた。リヴェラも同様に、アルヴィクトラと重なるように動く。

 嫌な水音が、響いた。地面に広がった血液がアルヴィクトラとリヴェラが動く度に音を立てる。

「アル、様」

 リヴェラがアルヴィクトラに重なるように上から身体を絡めてくる。傷口が酷く痛んだが、アルヴィクトラもリヴェラの身体を求めるように彼女の身体に腕を回した。

「アル、様……何も、見えない……」

 アルヴィクトラは何も言わず、そっと口づけた。血の味がした。

「アル様……」

 身体に絡みついていたリヴェラの腕が手探りでアルヴィクトラの頬まで辿りつき、そっと優しく撫でた。

「リヴェ、ラ……聞こえて、いない、と……思いますが、言い、ます」

 アルヴィクトラは血だらけの彼女を抱きしめて、もう形を成していない一部をそっと撫でて、それから言った。

「リヴェ、ラの言葉に、ちゃん、と、答えたいと、思い……ます」

 喉の奥から、ごぼりと血が溢れる。うまく喋れない。

「わた、しも……リヴェラのことが、好き、だった、のだと……思います」

 アルヴィクトラは重い瞼を必死開けて、リヴェラの目だったそれを見つめようと務めた。

「わたしは、リヴェラ、となら……全て、を……分かり合いたい。そう、考えて、想って」

 そして、アルヴィクトラは笑った。うまく笑えた自信はなかったが、笑おうとした。

「ごめん、なさい。うまく、言え、なくて」

 そっと、リヴェラの手がアルヴィクトラの頬を撫でる。

「ちょっと、疲れ、ました。もう、喋れ、ない……かも」

 アルヴィクトラはリヴェラの頬を撫で、こびりついた血を落とそうとした。それでも、血はとれない。彼女の額から流れる血が、アルヴィクトラの指を汚していく。

 色が、失われていく。

 鮮やかなリヴェラの赤い髪は、もう見えない。

 川の音が、耳から遠のいていく。

 アルヴィクトラ・ヴェーネという存在が崩壊していくのがわかった。

「アル、様……」

 微かに、リヴェラの言葉が届いた。

「喉が渇き、ました。水は、あり、ま、せんか……」

 アルヴィクトラはぼんやりと血だらけの自分の腕を見つめた。皮膚が弾け、肉が出ているそれを、そっとリヴェラの口元に持っていく。

 滴る血が、彼女の口に入る。彼女は、何も言わなかった。味覚が、もうないのかもしれない。

 アルヴィクトラはそのまま、血だらけの腕を彼女の口につけた。リヴェラが躊躇するようにそれを舐め、それからそれを飲み干す。

 水音が、響いた。

「せめて、一つに」

 最後の、彼女のそんな呟きが聞こえた。

 薄れていく意識の中、血だらけの腕を彼女が控えめに齧るのが見えた。

 痛みはもう、感じられない。

 ただ全てが鈍っていく。

 全てが、失われていく。

 アルヴィクトラは、リヴェラを受け入れるように腕を差し出したまま動かなかった。

 瞼が、自然と閉じた。目が見えなくなっただけかもしれない。

 意識が薄れていく。怖いとは、思わなかった。すぐ近くにリヴェラがいて、終わりを分かり合っていたから。

 終わりだけではない。

 願うのならば、全てを。

 そして、境界は消滅し、二人は一つになる。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。