犬兄弟の真ん中に転生しました (ぷしけ)
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第一章
第一話


(は~、いよいよ犬夜叉も終わりかな~。楽しみがひとつ無くなっちゃう……)

 

私はコンビニの雑誌コーナーで、少年サンデーを開いたままそっとため息をついた。

この号で、奈落は四魂の玉を吸収し、犬夜叉たちはついに最後の戦いに臨んでいる。

子供の頃からわくわくしながら読んだ漫画の終わりは、単行本が50巻を超えてなお名残惜しい。

(それにしても、こんだけ大冒険して第一志望の高校にもしっかり受かるとか、かごめちゃんスゴすぎだよ……)

だというのに自分は――と考えて、先ほどより大きなため息が漏れた。

連載開始の頃小学生だった私は今、就職活動で連敗記録を更新中である。

 

(まあ、しかたないよね……)

私には、何一つ優れたものがないのだ。

勉強もスポーツも中の下。

人に誇れるような特技も才能も無い。

おまけにコミュ障で、面接会場ではいつもカチコチでしどろもどろ。

お祈りメールを出されない方が不思議である。

 

(っと、ダメダメ、こんなこと考えてちゃ!)

面接までの時間つぶしに入ったコンビニでマイナス思考に陥っていては、受かるものも受からない。

(せめて『犬夜叉』の最終回までには内定もらいたいなぁ~)

そんなことを考えながら雑誌を棚に戻す。

 

――次の瞬間、私の目の前に、乗用車が突っ込んできた。 

 

 

 

きっとこれは走馬灯なんだろう。

幼い頃から今までの記憶が、水泡のように浮かんでは消えていく。

(ああ……)

 

ああ……なんて――ツマラナイ人生。

 

小学校で、中学で、高校で、浮かないように、虐められないように、無難な行動、そこそこの成績をとって。

親に、世間に、非難されないように、後ろ指さされないように、無難な職種、そこそこの会社を目指して。

 

何も無い。

私の人生には自分らしい、といえるものが何も無い。

そもそも『自分らしさ』が何なのかもわからない。

 

こんなアンケート連続最下位のマンガのような、中身のないツマラナイ人生、神様が打ち切りにするのも当然だ。

そう笑おうとして、もう息が吸えないとわかった。

残す未練すらないカラッポの人生の終わりを受け入れる――その間際に、ふと願う。

 

(もし……生まれ変わりなんてものがあるのなら……)

 

……今度は日暮かごめのような、自分の道を真っ直ぐに進める、優しくて勇敢な女の子になりたい……

 

 

 

 

そう思った。

そう思ったのに。

 

「なんで――なんで、犬兄弟の真ん中なんだーーーーっ!!」

 

 

 

第一話 犬兄弟の真ん中に転生しました

 

 

 

――おっと、いきなり取り乱してしまいました。

ごめんなさい、落ち着いてまずは自己紹介しましょう。

え? 誰に話しかけてるのかって?

ただの独り言だよ!

私の置かれてる状況は誰にも打ち明けられないから、せめて脳内では会話をする態で進めたいのさ!

……それに“前世の私がいた世界”で私が『犬夜叉』という漫画に心躍らせていたように、“今の私がいる世界”も、どこかの世界線では物語として観測されているのかもしれない。

私のモノローグを観測したどこかの誰かが、(駄作と切り捨てずに)ツッコミを入れたり嘲笑したりしてくれることを想像すれば、私の孤独もほんの少し慰められる。

 

まあ、ようするに、現実逃避ですよ。

 

――今生での私の名前は、月華という。

先ほどの叫びを聞いたならわかるだろうが、『犬夜叉』世界の登場人物である……殺生丸と犬夜叉兄弟の真ん中に転生した存在だ。

といっても、まだ物語の主人公である半妖の少年・犬夜叉は誕生していないので、現時点での肩書きは、“殺生丸の同腹の妹”になる。

化け犬の大将が人間の女に執心している、という噂を先日小耳に挟んだから真ん中になるのは時間の問題だろうけど……

なに? 「実の妹だなんて、殺生丸様と仲良くできる美味しいポジションじゃん!」……? 

――はっはっは。

 

それは無い。

 

説明しよう! まず第一に、私たち家族――父と母と殺生丸と私は、ほとんど顔を合わせない!!

 

一族の頭領である父とその長子である兄が多忙なのはまだ納得がいくとして、留守を預かっているはずの母ですら、気まぐれな性格のせいで屋敷にいるかいないかもわからない。

すでに転生してから3ケタの年数が経過しているが、家族が一堂に会した記憶は無く、殺生丸……兄上と話をしたのは数えるほど。

全国の殺生丸ファンのために、その貴重な会話内容を以下に記そう。

 

 

~会話開始~

「兄上! お久しぶりでございます」

「ああ」

~会話終了~

 

~会話開始~

「兄上! お元気そうでなによりです」

「ああ」

~会話終了~

 

――以下繰り返し。

 

頑張ったのに! コミュ障なりに頑張って話しかけたのに!

無口な美形キャラがカッコイイとか思ってんのかちくしょう! カッコイイけど!! 

 

 

……脱線した。

説明に戻ろう。第二に、私は殺生丸から嫌われている!!

 

は? それはさっきの会話内容でもうわかってるって? うるせえ! その理由をいまから説明するっつってんだ!

じつは私は、妖怪として、とても弱いのだ。

同じ父母から生まれたにも関わらず、私が身に宿す妖力は殺生丸のほぼ半分――「いったいそなたは誰に似たのやら」とは歯に衣着せない母の言だ。

もちろん母以外でそんなことをはっきり口に出す者はいないが、妖怪は本能的に相手の発する妖気からその強さを推し量ることができる。

大妖怪としての己の強さに誇りをもつ彼が、私に失望して無関心になるのは当然のことだった。

……な、泣いてない! 泣いてなんかない!!

 

 

 

――最後に。

これが最も大きな理由だが……私に前世の記憶があるからだ。

 

うん? それがどう関係するのかって? まあ考えてみてよ。

今生の肉体はたしかに妖怪のもの。けれど魂に残った意識は人間(それもかなり小心かつ底辺)のものなのだ。

そんな私が妖怪の世界で暮らすというのは、羊が狼の群れに紛れ込むに等しい。

父も母も兄も、心の底から肉親と思うことができない。彼らに、妖怪のふりをした人間(ニセモノ)だとバレて八つ裂きにされる時が来るのではないかという不安が消えない。

……生まれ変わるなら、日暮かごめと同じく、前世の記憶などきれいさっぱり失われればよかった。

そうすれば、たとえ兄上から冷たくされようとも、彼の妹として、もっとしつこく話しかけることができるのに。

父上と母上にも、二人の娘として、堂々と自分から会いに行くことができるのに。

 

(……“それができないから私は、今日も屋敷の奥でニート、いや引きこもり、いやいや深窓の姫君として過ごしている”……)

「よしっ、今日の現実逃避終わり!」

最後のほう、ちょっとテンション低かったな。表に出せないぶん、せめて心の中はアゲアゲでいくことにしたのに反省だ。

「はぁ――――」

大きなため息とともに寝っ転がる。

こんな日々を、あとどれだけ繰り返せば良いのだろう。

目覚めたら自分が赤ん坊になっていた時の驚愕。

しかも人間ではなく妖怪の子供であると知った時の動揺。

そしてこの世界が、前世で自分が愛読していたマンガの世界だと気づいた時の衝撃。

それらを過ぎた今の私にあるのは、ヒトの感覚では長すぎる妖怪としての生への絶望だけだ。

 

だって私は、何もしてはいけないのだ。

最終回を拝むことなく死んでしまったのは一ファンとしてたいそう無念だが、あの作風で奈落が勝利して世界滅亡鬱エンドなんぞになる筈もなく、きっと犬夜叉たちは力を合わせて勝利し、四魂の玉の因縁を断ち切るだろう。

殺生丸と犬夜叉の関係も、りんの存在や、奈落という共通の敵をきっかけに少しづつ改善されていったのだ。

つまり、私が出る幕などない。

いや、仮に自分が行動することで鬱展開を回避したり、不仲だったキャラクター同士を取り持つことができたとしても……それは、自らが愛した原作を汚す行為だ。

あまたの犠牲や困難を乗り越えて進む登場人物たちの姿にこそ、読者は心を動かされる。

それを無かったことにするなど、物語に対する冒涜だろう。

だから私は、何もしてはいけない。

この世界に本来いない存在である自分は、原作に影響を及ぼさないために、周囲への干渉を最小限に抑えつつ寿命を迎えるのを待つ。

(そう。何もしないことが……この世界での、私の役目)

心の中で繰り返す、もはや数えることすら億劫になった自戒。

ここまで全て、いつもと変わらない日常であったが――

 

《……本当にそう思うのか?》

 

その時、初めて聴く声がした。

 



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第二話

《……本当にそう思うのか?》

 

「え……?」

起き上がって、辺りを見回す。

誰もいない。

「幻聴か……」

いもしない相手の声が聞こえるようになるなんて、そろそろ会話形式のモノローグによる現実逃避もやめた方が良いのかもしれないな、あははー。

 

《いいや、私はここにいる。私がお前の力となってやろう》

 

「……」

声は変わらず、私の頭の中に響いてくる。

それに導かれるように、私は部屋を出た。

 

 

 

第二話 父上と話しました

 

 

 

遥か上空にあるこの屋敷の周囲は、常に雲で覆われている。

御簾を割って濡れ縁に出た私の前――白くけぶった庭の中央で、一本の剣が宙に浮いていた。

三尺を超える長大な諸刃の古代剣。

《化け犬の姫よ――私を手にせよ。この叢雲牙が、お前をこの世の覇者にしてやろう》

柄にはめ込まれた拳大の宝玉が、赤く妖しい光を放つ。

その光を目にした途端、私は声に促されるまま、その柄に手をかけていた。

(…………っ!?)

掻き回される。頭の中を禍々しいナニカに掻き回される。

《ほう、これはこれは……思った以上に面白い小娘よ。妖怪でありながら、お前の心はまるで――》

(やめろ……!)

叫ぼうとして、声が出ないことに気づく。

柄を握った手は、無数の蔦状のものが巻きついて、離すことができない。

一切の自由を奪われた中で、剣が発する言葉を聞く。

《私を受け入れよ。恐れも迷いも、叢雲牙の使い手には要らぬモノ。すべて捨て去れば良い。私に従え。さすればこの叢雲牙がお前を救ってやろう》

 

捨て去る?

恐れも迷いも何もかも――この剣の言いなりに?

それが私の救い?

 

(嫌だ……)

 

「嫌だ――――!!」

次の瞬間、全身を灼くような衝撃とともに、私の意識は途絶えた。

 

 

「……華! 月華! しっかりしろ、月華!」

誰かに揺さぶられて、瞼を開く。

久方ぶりに見る、父の顔があった。

「父上……? あれ、私、部屋にいたはずなのに……?」

「すまなかった。叢雲牙めが私の支配を抜け出して――」

「そううんが……?」

「憶えておらんのか?」

「はい、いったい何が……この傷はどうして……」

自分の腕を見下ろせば、ひどい有様だった。右腕は肩から手首にかけてズタズタに裂け、それを為した左手の爪には血と肉片がこびりついている。

まるで腕についた何かを無理やり引き剥がしたような傷だが、まったく心当たりがない。

ただ悪夢から醒めた直後のごとき厭な動悸と冷や汗が残るばかりだ。

「熱……っ」

右腕に異常な熱を感じて顔をしかめる。

骨が見えるほどに裂けていた傷の周囲で、瞬く間に組織が盛り上がり、薄皮がはられていく。

妖怪の治癒能力としても早すぎる回復に瞠目していると、その熱はさらに全身に拡がり、視界が真っ赤に――

「月華! 落ち着け、妖力を抑えろ!」

「――――」

肩を掴む、父の腕。

その力を感じているうちに、少しずつ、熱が引いていった。

「……そうか、そなたの妖力は、弱いのではなく、眠っていたのだな」

「は?」

「よく聞け、月華。そなたは、そなたの力を御せるようにならねばならん。――これから、刀々斎のところに行こう」

「ええっ?」

刀々斎。

その名はよく知っている。物語の中で、天生牙と鉄砕牙をつくった刀鍛冶だ。

それはいいのだが。

(私にも、刀を持たせるってこと? でも、刀をもらって、私は何をしたらいいの?)

戸惑っている間に、父は背を向けて歩き出していた。

その背に追いすがって、せめてもの抵抗として問いかける。

「少し休まれた方が良いのでは? 父上もお怪我をなさっているのでしょう?」

自身の血の臭いに紛れて気づくのが遅れたが、確かに父の体から血の臭いがする。

おそらく、かなりの深手だ。

「――なればこそ、急がねばならん」

「……」

父は、振り返らない。

手負いの気配など一切感じさせない堂々とした立ち姿。その背中のなんと大きなことか。

「月華よ、強くなれ。己の意思で、進むべき道を見出す強さを得るのだ。その果てにこそ、そなたの幸福がある」

――私は言葉もなく、ただ頷いた。

 

 

 

鞘から抜き放った刀身に、自分の金の瞳が映る。

長さはおよそ二尺。鏡のように磨きぬかれた刃先をもつ、細身の美しい刀だ。

正眼に構え、吸気を丹田に落とし込む。

全身を巡る妖力の流れを制御し、伝播させる。柄を握る手から、刀へと。

驚くほど自然に、妖力が循環するのを感じた。

刀と手の境界が意味を失う。

まるで、欠けていた歯車が噛み合ったような感覚だ。

そのまま妖力を刀の切っ先に収束させ――刹那、振り下ろす。

一条の白い光が、轟音とともに雪の降りた山肌を貫いた。

「どうじゃ、気に入ったか? 月華」

納刀し、老妖怪に向き直る。

「ええ。感謝します、刀々斎殿」

この刀鍛冶が作り上げた、私の妖力を制御し斬撃の威力へと変換する剣――私なんかの牙が材料ではロクな武器にならないのではと憂慮していたが、その出来栄えは上々だった。

銘を、顕心牙という。

……三日前にイキナリ犬歯を引っこ抜かれた時は本気で殺意を覚えたけれど、許してあげよう。

「礼なら親父殿に言いな。わしは頼まれた通りにしただけよ」

だらしなくはだけた胸元を掻きながら言う老妖怪に、私はふと、気になっていたことを訊いてみる。

私が刀を持つことになったあの日、父の口から出た言葉。

「父上の刀は、すべてあなたが打たれたのですよね。……叢雲牙という刀のことを教えてもらえませんか」

「ああ? 叢雲牙だと? ありゃわしじゃない。犬の大将が昔から持ってたもんさ。……なんでそんなことを訊く?」

「いや、なんとなく……」

庭先で私が倒れる前に何があったのかは未だに思い出せない。

ただ“叢雲牙”という剣の名は、なにか不吉なものとして心に残っていた。

「犬の大将が持っておられるのは、天下覇道の三剣……いずれ劣らぬ名剣じゃが、叢雲牙には気をつけろ。あれには太古の邪な悪霊がとり憑いておるんじゃ」

「天下覇道の、三剣……」

 

天生牙はひと振りで百の命を救う。

叢雲牙はひと振りで百の亡者を呼び戻す。

鉄砕牙はひと振りで百の敵を薙ぎ払う。

……今更だけど、父上、チート過ぎない? 犬妖怪っていうか犬神の域じゃない?

 

「――怖くないのかな」

ふと、そんなことを呟いていた。

「ん?何がだよ」

「そんな凄い力を持つことが。だって、どの剣も世界の理を壊しかねない力じゃない。どうしてそんな力を持って、父上は平気なの? 世界を変えてしまう力を三つも持っていて、怖くないの?」

己の刀を手にしたものの、この力を如何にすれば、私は父の言う“進むべき道”を見出せるのだろう。

私は自分の存在が、この『犬夜叉』という物語の世界を変えてしまうことが恐ろしくてたまらないのに――

「あー、おい、おいおい、月華」

刀々斎が、困ったように両手を振っていなす。

「そういうことは親父殿に直接訊けよ。わしはただの刀鍛冶だぜ?」

「…………たしかに」

 

なにはともあれ、せっかく、自分の剣を手に入れたのだ。

今なら以前よりもう少し胸を張って、父と話せるかもしれない。

そうすれば、父のことがもっと理解できるだろう。

もう一度刀々斎に頭を下げて、私は屋敷への帰路を急いだ。

 

 

――けれど、結局、父と言葉を交わしたのは、あの日が最後になった。

父は私が顕心牙を受け取ったその夜、人間の女と、生まれたばかりの子供を救い、炎の中に消えた。

 



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第三話

オリ主の原作知識は漫画のみです。劇場版やアニオリの知識はありません。


日没の迫った荒地を、二人の僧侶が歩いていた。

若い方の僧が、前を行く年配の僧におどおどと呼びかける。

「お師匠様、この辺りには近頃妖怪が集まっているという噂です。道を変えた方が良いのでは……」

「ふん!そのようなもの、何匹来ようがわしの法力で退散させてくれるわ!」

 

「――いや、十や二十じゃないから、やめておきなさいよ」

 

思わず声をかけると、今の今まで私の存在に気づいていなかったらしい二人は、雷に打たれたように硬直した。

「よ、妖怪……!!」

「お、お師匠様、成敗を!」

「もうじきここは妖怪たちの戦場になる。今のうちに引き返しなさい」

「物の怪め、覚悟せい! 法力!」

「……あのー、話聞いてる?」

投げつけられた御札を片手で払いのけると、二人はますます顔を青ざめさせた。

「ばかな、わしの法力が効かぬ……!?」

「お師匠様……!」

「ねぇ、ちょっと」

なにやらこちらの言葉が耳に入っていない様子の彼らに向かって、一歩踏み出すが――

「ひいぃーー !」

「す、すみませんでしたーー!!」

「おーい…………」

 

一目散に走り去っていく後ろ姿を、ぼんやりと見送る。

まあ、いつの世もああいった手合いは、なんだかんだで長生きするものなのかも知れない。

 

 

 

第三話 戦に参加しました 

 

 

 

森の中に戻ると、やたらと顔の大きな狼妖怪が話しかけてきた。

「月華殿、どうかなさいましたか? 話し声がしたようですが」

「別に。人間が私を見て逃げていっただけ」

「ほう、それは残念ですな。捕まえれば戦の前に腹ごしらえができたものを」

「…………」

その言葉に同意するように、狼妖怪の背後に控えていたさまざまな姿の妖怪たちが忍び笑う。

皆かつて父とともに戦った者たちだというが、お世辞にも心安らぐ状況とは言えなかった。

私は内心の不安を押し隠して、敵がやって来るであろう荒野の向こうを睨んでいた。

 

敵は、豹猫族。

猫のクセに徒党を組んで他の妖怪を駆逐し、自分たちの縄張りを拡げるというふざけた妖怪だ。

かつて犬の大将に親玉を殺され逃げ去ったのだが、その父の死を知って再び攻め入ろうとしている――と先日母から聞かされた。

 

 

「もうしばらく大人しゅうしているかと思ったのだがな。まったく執念深いことよ。どうやらこの機に乗じて我ら一族を滅ぼすつもりらしい」

「はあ。それで私を呼び戻して……?」

――父の死後まもなく、私は天空に浮かぶ御殿を出て、地上に自分の住まいを作った。

父が帰ることのなくなった屋敷は、以前よりさらに居心地悪く感じられたし、鉄砕牙ではなく天生牙を形見として譲られて不機嫌になっているだろう殺生丸と顔を合わせるリスクを減らしたかったのである。

後者については、殺生丸もすぐに鉄砕牙の在り処を探して旅に出てしまったので無意味になったが、他の妖怪の目を気にしなくて良い一人暮らしを私は気に入っていた。

父が諭した“進むべき道”は未だ見えないものの、授かった刀を疎かにすることなどあってはならない。

召使いもいない小さな屋敷でただ一人、ひたすら剣の修行に打ち込んでいたのだが、敵が攻めて来るとあっては危険に過ぎる。

戦が終わるまで実家に隠れていろ、というお達しかと思ったのだが。

「うむ。だから月華よ、嫁に行け」

「…………は?」

予想の斜め上だった。

「な、何故です……?」

「かつての戦いでは、あの方()が多くの妖怪を纏め上げたが故に、豹猫どもの首魁を討ち取り、追い散らすことが出来た。だがあの方は死に、殺生丸もまだ若い。あと数十年も経てばいざ知らず、今の殺生丸にどれほどの者が付き従うかわからぬ」

「――だから、私が他の一族と婚姻を結ぶことで、その一族を戦力に組み込む、と」

「左様。実は以前から筑後の羽犬族より熱心な申し出があって……」

 

……ケッコン。

妖怪と、結婚。

 

――無理無理無理ムリムリムリムリムリムリムリ!!!

 

「……母上、それには及びません」

動揺しすぎて、かえって静かな声が出た。

――妖力の流れを操作。

着物の表面を自分の妖力で覆い、物質化させる。

胡乱げに見つめる母の前で、鎧を、籠手を現出させ、戦装束を形作る。

「戦力の不足は、私自身が補います。私が――この顕心牙で豹猫族と戦います」

 

だから結婚は勘弁!!

今でさえ親兄弟相手に(なかみ)が人間なことを隠すのでいっぱいいっぱいなのに、夫なんか論外だ。

まして、私のことを歯牙にも掛けていない兄のために、何が悲しゅうて政略結婚の道具にならなきゃいかんのか!

 

「本気か……? そなたが戦場に立つなど、母は心配でならぬ」

母は美しい顔にうっすらと笑みを浮かべて問うてくる。

結婚がイヤなだけだという私の内心は伝わったのだろう。明らかに面白がっていた。

けれども、後には退けない。

「戦いは初めてですが、日々、この剣で修行をしてまいりました。覚悟は出来ております」

そう。その言葉に嘘はない。

 

ようやく手に入れた気楽なシングルライフを捨てて、顔も知らない妖怪の嫁になるくらいなら、戦って討ち死にしたほうがなんぼかマシである!

 

「どうか、戦に出ることをお許し下さい」

いつもなるべく目を合わせないように努めていた母の顔を、まっすぐに見る。

顔筋が痙攣するような緊張を覚えながら返答を待っていると、その唇からため息とも笑いともつかない音が零れた。

「わかった、そこまで言うなら止めはせぬ。殺生丸には私から話しておこう。兄によく従うのだぞ」

「――ありがとう存じます、母上」

正直、兄に話を通すのが一番気が重かったので、これには心から礼を述べる。

「まあ、縁組というのは軽々に決めるものでもないしな」

「…………」

それは実体験からくる見解ですか、とは怖くて訊けなかった。

 

 

(でも、人間の女とのことが噂になる前も後も、特別仲違いしてる感じではなかったんだよねー……。やっぱ何百年も一緒にいるとお互い飽きて――ゲフンゲフン)

下世話な推測を打ち切って、意識を現在へと戻す。

風に乗って、猫の臭い。かなりの大群だ。

「各々方、準備はよろしいか」

背後に集まった妖怪たちに向き直り、とりあえずそれっぽい言葉をかけてみる。

オオォ――と、良く言えば意気軒昂、悪く言えば浅見短慮に聞こえる喊声が応えた。

「猫と戦うのは何年ぶりかのう!」

「月華殿、心配することはありません。猫どもはみな我々が蹴散らしてご覧にいれましょう!」

「我らは貴女様の父君に大恩ある身。月華殿には傷一つつけさせませぬ!」

 

 

 

「――とかなんとか言って、自分たちが蹴散らされてたんじゃ世話ないね」

戦が始まってまもなく、私に付き従っていた軍団は豹猫族の猛攻に遭い、散り散りになって敗走した。

殺生丸が私と妖怪の軍団を残して、自分は単身敵を攻めに行ったのは、ようするに厄介払いだったのだろう。

そして一人になった私の前には今、二足歩行の猫の群れと、人型をした四人の妖怪がいた。

「ふふふ、戦になんぞ出てくるんじゃなかったねえ、犬族の箱入り娘さん?」

「手下どもはみんな逃げちまった。もうお前を助けてくれる奴はいないよ!」

「へへへ……犬の一族は皆殺しだ、まずはお前から血祭りに上げてやる」

「恨むんなら、自分の弱さを恨むのね」

人型の四人が、薄笑いを浮かべてベッタベタな台詞を吐く。

――それに私は、大げさなため息で返した。

「はぁ……まったく、サカリのついた野良猫でもあるまいに、集まってギャアギャアと耳障りだこと。――人間に皮を剥がれて三味線にでもなっておしまい、雑魚妖怪ども」

どうやら煽り耐性の低い連中だったらしい。

全員が眉を釣り上げて、殺気を漲らせた。

「吠えたね、小娘が! 八つ裂きにしてやるよ!!」

髪に花を挿した少女の妖怪が、風を巻き起こす。幻術の一種のようだが――

(バレバレだ)

私の挑発に乗せられて、攻撃が雑になっている。

狙い通りの展開だった。

狼野干を筆頭とするこちらの軍の敗北は決定的。戦いの帰趨は殺生丸に委ねられたが、あれだけ大見得を切った手前、せめて幾人かでも首級を挙げねば、今度こそ政略結婚ルートに一直線である。

私は懐に手を入れて取り出した玉を地面に叩きつけた。

花の匂いを打ち消して、中から溢れ出た煙が周囲に拡がっていく。

その煙を吸い込んだとたん、周囲を取り囲んでいた猫妖怪たちは一斉に倒れ伏し、人型の四人もふらふらとよろめいた。

「こ、これは……マタタビだと……!? 卑怯者め!」

「幻術なんか使っておいてなに?」

ただのマタタビではない、様々な薬草、毒草を混ぜて作った強化版である。こんなこともあろうかと、ひそかに用意しておいてよかった。

この戦で、今後も独身貴族を謳歌できるか否かが決まるのだ。卑怯もラッキョウもあるものか!

煙を吸わないように注意しながら、猫型妖怪の体を踏み越え、残りの四人に刀の切っ先を突きつける。

「一応確かめておくけど、諦めて逃げるつもりはないの?」

手柄を立てる必要があるとはいえ、戦意の無い相手を殺したくはないので念のため――あくまで念のために問いかける。

「ふん、雑兵たちを片付けたくらいでいい気なもんだね」

「勝負はこれからよ」

……予想通りの答えに、覚悟を決める。

「そう。じゃあ仕方ないね」

「え……? が、は……っ!?」

――私の爪に心臓を貫かれた少女が、驚愕の表情を浮かべたまま絶命した。

 

妖怪の纏う妖気は、殺意の有無と力の入れ加減によって変動する。

よって多くの妖怪たちは、発する妖気の変動と分布を無意識に感知し、実際の攻撃よりも早く反応することができるのだが――今の私は、その妖気を抑えたまま攻撃したのだ。

結果、幻惑の術を得意としていたらしい少女は、私の妖力制御に惑わされ倒された。

 

「春嵐! 貴様、よくも……!!」

長い水色の髪の女が、氷の矢を飛ばす。

「黒焦げになっちまいな!」

逆立った赤毛の少女が、炎の渦を起こす。

それらを時に側転し、時に後転しながら回避する。

氷の矢が肘をかすめ、血が流れ出すが、じっと機会を待つ。

「「死ねえ!!」」

正面から炎の攻撃が、背後から氷の攻撃が襲ってきた。

直撃の寸前、真上に跳躍。私を捉えそこねた炎と氷がぶつかり合い、水蒸気が周囲を真っ白に染めた。

「くそ、どこに……ぐぁ!」

その煙幕に紛れて、一気に赤毛の少女と間合いを詰めて袈裟懸けに刀を一閃。

「か、夏嵐……!」

「姉者、まずい! いったん退こう!!」

大男の妖怪が、長髪の女を促して背後に跳躍する。

「これで勝ったと思うなよ! 次は必ずお前を――ギャッ!!」

捨て台詞は、大男の背で赤黒い光が炸裂するとともに遮られた。

「……逃げないんじゃなかったの?」

「結界……!? いつの間に……!?」

先ほど回避行動をとりながら周囲の地面に滴らせた血。それを基点に構築した、触れたものを一時的に麻痺させる結界だ。こんなこともあろうかと、ひそかに用意しておいてよかった。(二回目)

もちろんそんなことを説明してやる義理も余裕もないので、転倒した男の首を即座に斬り飛ばす。

――残り、一人。

「…………春嵐、夏嵐、秋嵐…………」

私が殺した者たちの名前だろう。地面に転がる骸を見下ろして呆然と呟いた女妖怪は、次の瞬間、その美貌を憤怒に染めて絶叫する。

「許さない!! 殺す! 殺してやる!!」

氷の巨岩が、私を押し潰さんと迫り来る。氷の矢が雨となって降り注ぐ。

同時に、女の持つ氷の槍が凄まじい連撃を繰り出してきた。

(……やっぱり、コイツが一番強い……!)

これほど逆上していながら、その槍捌きは苛烈にして精緻。顕心牙でどうにか穂先を弾いているが、一瞬でも隙を見せればたちまち串刺しだ。

周囲に発生する氷も、その質量を増して、退路を断ちにかかってくる。

(でも……負けない)

防御に徹しながら、ゆっくりと呼吸を整える。深く、深く。

妖力の流れを掌握し制御する。

髪の一筋から、足の爪一本に至るまで、完璧に。

顕心牙に、妖力を巡らせる。刀を自分の肉体の延長に変える。

それは、針の穴に糸を通すかの如き正確無比な妖力制御の実現だ。

(次で、倒す)

「どうした! かかってこい小娘!!」

「言われなくとも――!」

刀に満ちる妖力から、決め技の気配を感じ取ったのだろう、返り討ちにしてやると言わんばかりに呼びかける。

それを受けて、裂帛の気合とともに踏み込む。

女の握る槍が、更に太く鋭く変化して突き出される。

――刀と槍が激突した。

 

「く……っ」

私は呻く。

「ふ……ふふふ……」

敵は笑う。

 

敵の槍は、私の右肩に深々と突き刺さり――対して私の刀は、敵の腕を一寸ばかり切り裂くにとどまった。

それも当然だろう。すでに片肘を負傷した状態では、接触の直前に一層強化された槍を逸らすほどの力を発揮できるはずもない。

――ここに、勝敗は決した。

女は悠々と槍を引き抜き、トドメを刺さんと構えなおし――そのまま凍り付いた。

「な、なんだ……これは……!?」

そう、文字通り凍り付いている。

両足は氷の柱となって地面に接着し、両腕は槍と融合している。

狼狽える女の顔を氷の薄片が覆っていく。

ぱくぱくと開閉する口からツララが突き出す。

女は、自らの操る氷によって殺されつつあった。

 

――人間であった前世の意識を強く残す私にとって、今生の肉体に宿る妖力は、前世の肉体に存在しない異物だった。

かつてその妖力が半分近く眠っていたというのも、潜在意識が自身の妖力を拒絶したせいなのだろう。

けれど、目覚めた以上拒絶することはできない。両親から受け継いだ強い妖力は、私の体内で名状し難い違和感として存在を主張し続けるようになった。

それを逆手にとったのが、この“妖力制御”である。

調べてみたところ、妖力を意識的に抑制したり増幅させる術を会得している妖怪というのはほとんどいないらしい。妖気を発さず存在を秘匿する妖怪は少数存在するが、それらも先天的にそういう特性を持った種族であるか、何らかのアイテムを利用してそうしているかのどちらかだ。

きっと普通の妖怪にとって、当たり前すぎるモノだからだろう。人間が自分の意思で心臓を停止させたり血圧をコントロールできないように。

敵の最後の一人に私が行使したのは、フツウの妖怪でない私が“妖力制御”をさらに応用した苦肉の策、――“妖力暴走”と言うべき技だ。

顕心牙を媒介に相手の妖力に干渉、暴走を誘発する――まず私の中の妖力(いぶつ)を完全に意識下に置き制御しなければならない、という前提条件があるものの、これが成功すれば顕心牙で負わせた傷がどれほど小さくとも、敵は自らの妖力によって自滅するのだ。

今、目の前にいる女のように。

 

傷の痛みを無視して、刀を振り下ろす。

氷のオブジェと化した敵は、顕心牙の剣圧にさらされて粉々に砕け散った。

 




長くなったので一旦切ります。
ほぼオリキャラばっかりでごめんなさい。


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第四話

「せ、殺生丸殿~~~~~! 殺生丸殿、大変でございます~~~~~!!」

傷だらけの仲間とともに、狼野干(おれ)は走っていた。

目指すは、敵の本陣に切り込んでいった犬の一族の長子。

自分たちは後詰を任されていたのだが――任せておけと大見得を切ったにもかかわらず敗北した。

 

豹猫族の四天王。

 

お館様と呼ばれる豹猫族の親玉亡き後、一族をまとめていた四姉弟だ。

そいつらがこちらの裏をかいて一気に攻め入って来たのだ。

多くの仲間が殺され、さらに悪いことに、護衛を任されていた犬の大将の息女とはぐれてしまった。

「おお、いたぞ! 殺生丸殿じゃ!」

上空を羽ばたいていた烏天狗が叫ぶ。

見れば遠目にも強大な妖力を感じさせる、在りし日の犬の大将によく似た立ち姿。

「殺生丸殿ーーー!!」

自分たちの為体を知られたら、最悪殺されるかもしれない。

けれども、あの四天王――とくに長女の冬嵐は強敵だ。

倒せるものは、おそらく彼以外いない。

だから、ガラガラになった声をさらに張り上げる。

「殺生丸殿、どうか、月華殿をお助けくだされーーーっ!!」

 

 

 

第三話 戦が終わりました

 

 

 

「げ、月華殿~! ご無事でいらっしゃいますか~!?」

残心する私の頭上に、狼野干の声が降ってきた。

崖の上を振り仰げば、泣き出しそうな顔をした狼妖怪と、その隣に白銀の貴公子――

「!!」

その姿を視認した次の瞬間、殺生丸は私の眼前に降り立っていた。

「あ、兄上……」

呼びかけたきり、声が出ない。

私を見る殺生丸の眼差しが、まるで敵に対するかのように冷たく鋭いものだったからだ。

「――こやつらは、貴様が殺したのか」

周囲に転がる死体を一瞥して、殺生丸が問う。

「え、ええ。まあ……」

「…………」

何故だろう。ますます兄の発する気配は険しくなっていく。

「あの、他の豹猫族は……戦は、どうなりましたか――?」

重苦しい空気をどうにかしたくて尋ねてみるが、

「――――!!」

今度こそハッキリと睨まれた。

(ひいぃ! コワイコワイ! 敵と戦うよりコワイ!!)

「わかりきったことを聞くな。やつらを統率していた者は皆死んだのだ」

「――そ、そうですね」

(いやわっかんねーよ! 私はこいつらの相手で精一杯で戦況把握する余裕なんざなかったよ!!)

……などとツッコめるはずもなく、愛想笑いで誤魔化そうとするが、緊張のせいで口元をひきつらせただけに終わった。

(まあ、兄上がこうしてこっちに来たってことは、当然敵は全て蹴散らしたってことだよね……)

私も妖怪軍団も置き去りにして戦いに赴いた兄は正しかったのだ。

私たちはグダグダだったが、殺生丸は一人で豹猫族の実力者たちを討ち取り、勝利した。

……小細工に小細工を重ねてようやく四体倒しただけの自分の働きなど、あってないようなものだ。

そう思うと、勝利の喜びより、惨めさが胸の内を支配した。

鎧にも着物にも傷一つない兄が、血に汚れた私の姿を見ている。

弱いくせにしゃしゃり出てきた私を、バカな奴だと思っているんだろう。

もともと何の期待もしていなかったにせよ、敗走して足を引っ張るだけだった私たちに腹を立てているから、限りなく殺意に近い視線を注いでいるに違いない。

俯いていると、背後で微かなうめき声がした。

振り返れば、時間の経過とともに回復したのだろう、毒マタタビで昏倒していた猫妖怪たちが体を震わせて懸命に起き上がろうとしている。

その猫妖怪たちに向かって殺生丸は――その爪を容赦なく一閃させた。

「あ……!」

さっきまで生きていた者たちが、物言わぬ骸に変わる。

その骸を無造作に踏みつけながら、殺生丸は歩き出す。

「兄上……!」

「何だ」

「……っ」

思わず、咎めるような声を出してしまったが、何を言えるはずもない。

「…………」

今までの兄なら、私が言葉を続けなかった時点で、興味を失ってその場をあとにしていただろう。

しかしこの日、殺生丸は体を反転して私に向き直り、自分から言葉を発した。

「月華よ。――父上は、貴様にどんな言葉を遺した?」

「え……」

戸惑っていると、また睨む。“さっさと答えろ”という禍々しいオーラが溢れている。

「……強くなれ、と。強くなって自分の道を見出せと言われました」

また沈黙。

殺生丸が何を考えているのかは分からない。

だのに、彼が徹頭徹尾不機嫌なことだけはわかってしまう。

私の答えに満足した――とはとうてい思えない空気を纏ったまま、殺生丸は今度こそ背を向けて去っていく。

それを私は為すすべもなく見送った。

初めての戦は、私にまったく関係ないところで終了し、初めて殺生丸の方からのコンンタクトで始まった会話も、まったく続かず終了したのである。

 

 

夜の荒野を、炎が赤々と照らす。

小鬼たちが勝利を祝って、火の周りを踊っている。

「月華殿~! まことに申し訳ございませぬ、貴女様を置いて逃げ出すなど……!!」

泣き上戸だったらしい狼野干が、何度目か分からない謝罪とともにペコペコと頭を下げる。

「いやしかし、月華殿があれほどお強いとは知りませなんだ!」

「まったくまったく、さすがは亡き父君の御血筋ですじゃ! まさかお一人で豹猫族の四天王を……」

同じく赤ら顔の妖怪たちが見え見えのお追従を口にするのを聞き流し、私はぼんやりと炎を眺めていた。

これは勝利の宴。

けれども主役となるはずの殺生丸はすでに旅立った後だ。

ただ妹であるというだけで、何の役にも立たなかった自分が代理として座っている。

(はあ……虚しい)

動機はかなり不純だったとはいえ、これは顕心牙と自分の初陣だったのだ。

けれど結果は、自分の無力さを再確認しただけ。

こんなことなら、母の言うとおり嫁入りでもした方が兄の不興を買わずに済んだだけ良かったかもしれない。

(いや……ほかの一族と同盟を結ぶ架け橋の役割なんて、コミュ障の私には戦いより無理だ)

いっそ早く死んでしまえばこの居心地の悪い世界から解放されるのに、とも思うが、もしまたこれまでの記憶を保持したまま転生した日には、今でさえギリギリのSAN値が今度こそゼロになりそうだ。

……そこまで考えて、ふと気付く。

 

世界(げんさく)に影響を及ぼさないために何もしてはいけない、なんて偉そうなことを思っていたけれど、

(そもそも私には――出来ることも、やりたいことも無いんじゃない……)

 

炎の中に、猫妖怪の死体が次々に投げ入れられる。様々な模様の毛皮は瞬く間に燃えて、等しく黒焦げになっていく。

その様から目を逸らして、私は立ち上がった。

宴もたけなわ。へべれけの狼野干は、私ではなくそばの立ち木に向かって謝っている。

他の妖怪たちも、てんでんばらばらに歌ったり踊ったりで、私がいなくなっても気付く心配はなさそうだ。

炎の輪を抜けると、夜風の冷たさが身にしみた。

妖怪の体は寒暖の変化に強いのだが、今宵はいつにもまして心が寒い。

天を仰げば、三日月が煌々と照っていて、殺生丸の冷たい双眸を思い出してしまう。

眉一つ動かさず敵を鏖殺するその爪の鋭さも。

……私も、自分のシングルライフを守るという手前勝手な理由で敵を殺せる程度には妖怪的な冷酷さを持っているつもりだが、殺生丸ほど無慈悲にはなれない。

 

妖怪の生き方に完全には染まれない。

人間は、私が近付いただけで逃げていく。

 

何を為すこともなく終わったカラッポの前世の続きの、何者にもなれない中途半端な現世の自分。

 

「…………犬夜叉…………」

 

かじかんだ手を、小さな日だまりに伸ばすように――心の中で思うことすら避けていた異母弟(おとうと)の名を、呼んでいた。

 




次回、ようやく主人公登場……の予定。


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第五話

かすかな葉ずれの音に、意識が覚醒した。

今夜こそ眠らずに待っていようとしたのが、知らないうちにウトウトしてしまったらしい。

凭れていた柱から身を起こし、外へと飛び出す。

月のない真っ暗闇が庭に広がっていた。

何も見えない。

――この朔の日の夜は、臭いも感じられない。

けれど、すぐそばの植え込みでがさりと枝が揺れる音がした。

おれは音のした場所に向かって、両手をいっぱいに広げて飛びつく。

「つかまえた!」

「フギャーーッ!」

「……なーんだ、猫か」

 

 

 

第五話 主人公を観察しました

 

 

 

朝。

おれは母上に昨夜の待ち伏せの結果を報告した。

「またダメだったよ、母上。薬はいつもの場所に置いてあったけど、誰もいなかった」

「そうですか……残念ですね」

母上は横になったまま、困ったように微笑む。

一年ほど前から、母上は日中もほとんど床について過ごすようになっていた。

けれどここしばらくは、以前より少し顔色が良くなったように思う。

 

半年ほど前の新月の晩のことだ。

人の気配がして外に出てみると、おれたちの部屋の前の廊下に見慣れない行李が置いてあった。

開けてみると、中には高価な薬とともに、滋養のある食べ物がたくさん詰まっていたので驚いた。

それ以来、毎月この奇妙な贈り物は続いている。

行李に顔をよせると、かすかに何か生き物の臭いがするように思うのだが、薬の臭いに紛れてしまってよく分からない。

(持ってこられたすぐあとなら、もっとニオイが残ってるかもしれないのに……)

この現象が始まった当初から、贈り主を確かめようと躍起になってあれこれ試してみたのだが、今のところすべて空振りに終わっている。

「……このひとは、おれに会いたくないのかな」

「犬夜叉――」

おれは半妖だ。

父上は、西国を支配する化け犬だったらしい。

強くて優しい、立派な方だったと母上は話してくれた。

でも、おれたちの周りにいる人々にとって、そんなことはなんの意味もないことだった。

人間にとって、おれは単なる物の怪の子供で――母上は、人でありながら物の怪と通じた裏切り者だった。

だから、おれたち母子はこの屋敷で、ひっそりと息を殺すようにして過ごさなくちゃならない。この広大な屋敷の、狭い離れで。

母上が病気になっても、薬師を呼ぶことも許されずにいたから、薬が届けられた時は本当に嬉しかった。

なのに、この贈り主は決して姿を見せようとしない。

半妖であるおれが月に一度、妖力を失って人間になる秘密の日。夜目も鼻も利かなくなる朔の日の夜に訪れては、知らぬ間に去ってしまう。

それがおれを疎ましく思っての行動なのだとしたら、母上を気遣ってくれるのはありがたい反面、とても寂しく感じる……。

「大丈夫。そんなことはありませんよ」

母上が身を起こして、おれの頭を撫でる。

「この方は、犬夜叉のことも思っています。姿を現さないのは、きっとこの方に、会いたくても会えない理由があるのでしょう」

そう言って差し出された、行李の中の包みの一つ。それは唐菓子だった。

「……うん」

口に入れると、サクサクとした歯ごたえと甘味に、顔がほころぶ。

そんなおれの様子を、母上は微笑んで見つめながら、しみじみと言った。

「私は、幸せ者です……。あの方は、私と犬夜叉を命をかけて守ってくれた。こうして病を得た今も、顔も知らない誰かが、私たちを思いやってくれている……」

細く、弱々しくなった母の腕が、それでも優しくおれを抱き締める。

「犬夜叉。いつかこの方に出会えたら、その時は、母の分までお礼を言ってくださいね。……私は無理でも、あなたはきっと会える……」

「うん。おれ、絶対このひとに会うんだ!」

おれは笑って頷いた。

贈り物が始まる前、おれは朔の夜が大嫌いだった。

自分が人間でも妖怪でもない中途半端な存在であることを嫌でも思い知らされる、半妖特有の現象だったから。

でも……次の朔の日は贈り主に会えるかもしれないと考えると、それまで妖力を失って心細いばかりだった夜が、おれはほんの少し楽しみになっていた。

このひとは、おれと母上を思ってくれている。

おれたちは孤独じゃない。

そのことに気づかせてくれたこのひとに、朔の日をほんの少し好きにさせてくれたこのひとに、おれは心からありがとうと言おう。

「よぉし、さっそく次の罠を考えるぞー!」

 

次は必ず捕まえる――そう決意を新たにしたおれは、この時母が自分に願いを託したその意味を、まるで理解していなかった。

 

 

 

「はぁ……今回もギリギリだった……」

私は高い木の上から、寝殿造の屋敷を複雑な思いで見下ろしていた。

半年前。

気の迷いが高じて私は、それまであえて意識から締め出していた犬夜叉の消息を調べてしまった。

そして犬夜叉とその母親が親類の屋敷に身を寄せていることと、母親――十六夜が病に侵されていることを突き止めた。

そこでやめておけば良いものを、さらに私の精神状態は悪化し、その後毎月、ごんぎつねの真似事をしているのだが、薬を置いてくるたびに罪悪感が重くのしかかる。

なぜならこれは、原作に存在しない転生者(わたし)にとって最大の禁忌――主人公との接触。

原作知識を悪用して、犬夜叉の鼻が利かなくなる朔の日にしか近づかないから、直接姿を見られたことはない。

とはいえ、本来ありえない出来事を主人公にもたらしていることに違いはないから、限りなく黒に近いグレーゾーンだ。

おまけに、接触を避け続けられるかも心もとない。

匿名の贈り物などされたら、当然その正体を突き止めようとするとわかってはいた。

だが犬夜叉の熱意と行動力は、私の予想を遥かに超えていたのだ。

犬夜叉は毎回思いつく限りの罠をはっており――結果私は、柱の間に張り巡らされた糸に触れないように仰け反りながら進んだり、廊下に散らばった鈴を踏まないようにつま先立ちになって歩いたり、庭中にまかれた灰に着物を汚されたりした。

昨夜に至っては、何も仕掛けが見当たらなかったのでついに諦めたかと油断して近づき――直前で犬夜叉が柱の影で待ち構えていることに気づいて、そのまま数時間、犬夜叉が寝落ちするのを屋根の上で待ち続ける羽目になったのだ。

犬夜叉がもし現代に生まれていたなら、サンタクロースを捕まえようとしたに違いない。

 

――だが、そんなこんなも、きっと今回で終わり。

昨夜、犬夜叉たち親子が寝起きする部屋に近づいた時、十六夜の匂いの中に、かつて父と最後に会った時と同じ臭いを感じた。

単純に怪我をして血の臭いがするというだけではない、絶望を抱かせる臭い。

今ならわかる、あれは死の臭いだったのだ。

ロウソクの火が消えないように風よけを作ったところで、ロウソクの芯そのものが燃え尽きるのは防ぎようがない。

……結局、私のしたことは、定められた終わりをほんの少し先伸ばしにしただけだったのだろう。

だから、今回で終わらせなければいけない。

 

人間でもない、妖怪でもない、どっちにも行けない半妖の犬夜叉。

その境遇に、人間の記憶をもったまま妖怪に転生してしまった自分を勝手に重ね合わせた。

 

でもそれは大間違い。

 

犬夜叉には私なんかと違って、しっかりとした自分がある。

この半年間で、それがよくわかった。

犬夜叉はこれから先、長いこと独りで生きていくことになる。

自分の居場所は力ずくで手に入れるしかないと思い込み、裏切られ、悩み、傷つき、戦い――その果てに本当の意味での居場所を得るのだ。

そんな物語の主人公を、脇役ですらない異分子である私の自己満足にこれ以上付き合わせてはいけない。

 

屋敷に背を向けて、跳躍する。

今日の予定は、東の山に群れで住むという蛇妖怪の討伐だ。

勘を鋭くするために、目を瞑った状態で戦おうと決めている。

(――さようなら、犬夜叉)

この半年間は、楽しかった。

屋敷で貴族たちから除け者にされても、母親には笑顔を見せる犬夜叉の姿に励まされた。

私を捕まえようとあれこれ策をこらすのには閉口させられたけど、嬉しかった。

犬夜叉が、私に会いたがっている。

自分は孤独ではない。

かりそめとはいえそう思わせてくれた犬夜叉に、生きることにほんの少し前向きにさせてくれた犬夜叉に、私は心の中でありがとうと告げた。

 




姉弟の邂逅は次回に持ち越しです(土下座)


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第六話

十六夜に死の匂いを感じた夜から二十日あまり後。

ここ、人里離れた山奥の庵にも一人、死の気配を色濃く漂わせる人物がいた。

「師匠、薬湯を煎じましょうか?」

「いや、良い。自分の身体のことは自分でわかっとる。もはやこれまでよ……」

板の間に薄い筵を敷いただけの簡素な寝床に横たわるのは、私の剣の師匠――何を隠そう、人間の老人である。

……すいませんやっぱり隠します母や兄に知られたら今度こそ頭おかしいと思われてしまいます。

 

「お主と出会ったのは、もう五年も前になるかのう……ふふ、まったく、妖怪から弟子にしてくれと頼まれるとは思わなんだわい」

すでに真っ白になった頭髪の師匠は、天井を眺めながら感慨深げに呟く。

落ち窪んだ目には、最初に会った時から変わらない鋭い光が宿っている。けれど今その眼差しには懐かしむような色があった。

「……私も、あんなにあっさり了承してもらえるとは思いませんでしたよ」

この老人とは、かつて私が地上に自分の住まいを作ろうとあちこちをうろついていた時に知り合った。

妖怪退治を依頼された剣豪と、その討伐対象として。

 

 

 

第六話 師匠を看取りました

 

 

 

じつは、剣の修行に打ち込もうと地上に降り立ってすぐ、私は途方に暮れることになった。

素振りくらいしか修練の方法が思いつかなかったのである。

(まあ犬夜叉(げんさく)も、刀々斎とかから“〇〇を倒せ”って指示を受けて必殺技習得って展開はあったけど、いわゆる剣技を習うシーンってのはなかったもんね……)

刀を必殺技ブッパのためのツールとして扱うならそれでもいいのかもしれないが、私の場合それでは問題がある。

妖力を循環、制御し攻撃へ変換――という私の戦い方は、非常に集中力を要するのだ。

大火力の技を連発することは出来ないし、そもそも前世一般人の自分の棒振り芸では、技を発動するより前に敵にやられる確率が濃厚である。

そこで偶然出会ったこの老人――法力も霊力も持たない只人の身でありながら、剣の腕のみで妖怪退治を請け負って生計を立ててきた男にダメもとで頼んでみたのだ。

 

「なに、お主の眼を見れば悪い妖怪でないのはすぐにわかったからのう。己の人生の終わりに、技を誰かに伝えるのも一興と思うたのよ」

生涯独身で、ひたすら剣の道に邁進して来たという師匠は、飄々と笑う。

「あまり伝え甲斐のある弟子ではなかったでしょう」

「まあ、五年やそこいらではの。だがわしが持つ技は残さず教えたんじゃ、あとはお主の長い時間の中で高めていけば良いわい」

師匠はまた笑おうとして――今度は激しい咳込みにかき消された。

「――のう、月華。わしが死んだら、骸はこの山に埋めてくれ」

「…………」

「墓石も、何も要らぬ。ただわしのこの刀とともに埋めてくれるだけで良い」

「本当に、それだけでいいんですか?」

それはとても寂しいことのように思えて問うてみるも、師匠の答えに揺ぎはない。

「うむ、どうせ弔いに訪れる身内もおらぬ身じゃ。ずっと修行を続けてきたこの山がわしの母、ともに戦ってきたこの刀がわしの連れ合いよ」

そんな風に生きてきたことになんの悔いもない……それが感じられる声音だった。

「では、その後で私にしてほしいことはありませんか? そうだ、師匠が請け負ってきた妖怪退治の依頼を私が代わりに、とか」

くくっ、と老人は喉奥で笑いを噛み殺し、幼子を見るような顔をする。

「なんじゃ月華、妖怪のクセにわしが死ぬのが寂しいか?」

「べ、別にそんなんじゃありませんっ」

ツンデレキャラのごとき返答をしてしまったが、本当にそんなんではない。……ないったらない。

ただ私は、まがりなりにも剣を扱えるようにしてくれた師匠に、何一つ返せていないのだ。

師匠は、金にも酒にも女にも興味がない。

私は――師匠が自慢できるような優秀な弟子でもない。

正座した自分の膝に視線を落としていると、剣胼胝の出来た皺だらけの手が、私の手に重ねられた。

「ではのう、わしから最後の指導じゃ……心して聞けい」

「――は」

身を乗り出して傾聴の姿勢をとった私の目を、老人はまっすぐに見つめる。

 

「月華よ――お主は、自分で自分を縛るのをやめよ」

「え…………?」

 

戸惑う私に、師匠は訥々と続ける。

「お主は以前、この世界は居心地が悪いとこぼしておったな。だがの、お主を苦しめておるのは、お主自身よ。“己はこう在らねばならぬ”“己はこう振舞わねばならぬ”という枷に縛られておる……お主の剣を見ておれば、それがわかる」

「――――」

「今のお主は、短い紐で繋がれた犬よ。同じ場所をぐるぐる回るばかりで、どこへも行けぬ。せっかく人間より永い命を持っておるのに、それではあまりにつまらんだろう。……妖怪のお主は怒るかもしれんが、わしは一度も、“人々を妖怪から守らねばならぬ”なんぞという理由で妖怪を退治したことはない。全ては剣のため、わしが心から剣の道を極めたいと願ったがゆえのこと」

私の手を握る老人の手に、力が増した。

「お主はもっと、己の心を自由にしてやれ……己の成したいことを成して、初めて……真に成すべきことは、見つかるの、だから……っ……」

「師匠!」

ひゅうひゅうと苦しげな喘鳴に喉を震わせながら、それでも老人は穏やかな表情だった。

「ああ……お主らに比べれば短い命じゃが、輪廻の輪というものがあるのなら、また、この世に生まれて来たいものよ……」

あります、と私が唯一自信を持って言える言葉を返す。

「生まれ変わったら、また師匠は、剣を極めるんですか……?」

「いいや……剣は、この生で充分に極めた……なんの未練もない……次の世では……普通に、嫁を娶って……お主のような子供を持つのも……悪く、ない……やも――――」

稲妻のごとく疾く鋭い剣を振るってきた師匠の腕――そこに漲っていた力が抜けていく。

 

「――――」

 

私は師匠の名を知らない。

師匠が名乗らなかったから。

 

私の知る物語には微塵も登場せず、歴史書にも記されることのない無名の剣豪――けれどたしかにこの世界に生きた一つの命の終わりを、私は見届けた。

 

 

師匠の遺言に従って埋葬を済ませると、妖力を纏って紺碧の夜空に舞い上がる。

何処へ行こうという目的があるのではない、ただ、遠くへ行きたかったから。

(師匠に、自分が犬妖怪だなんて言った覚えは無かったんだけどな……)

だが案外、師匠なら言わずともわかったのかもしれない。

私に、あれほど正鵠を射た助言をくれた師匠なら。

父に続いてまた一人、自分に大切な言葉をくれた存在を失った。

 

「紐で繋がれた犬……か」

私だって自由になれるものならなりたい。

己を縛る枷を断ち切りたい。

師匠のように、悔いのない生だったと微笑みを浮かべて死にたい。

(でも……どうすれば…………)

老人の眠る山は、夜の闇に黒く沈み、ただ静かにそこに在る。

答えのない問いに嘆息したその時――

 

「…………っ!?」

 

夜風に乗って、馴染みのある匂いを感じた。

 

 

 

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」

鬱蒼とした竹林の中を、おれは走っていた。

もうどれだけ走り続けているのか、どこに向かっているのかもわからない。

でも決して止まれない。

後ろから追ってくるモノたちの、ゾッとするような血腥い臭いは、少しも遠ざかっていないから。

 

《くっくっく……半妖の肉とは珍しや》

《わしは脳みそが喰いたいのう》

 

「……っ!」

藪に突っ込むと、細かい枝葉が目に刺さりそうになる。

両手が使えればもっと楽に逃げられるけれど、今腕に抱えているものは絶対に手放せない。

……母上のお骨だから。

 

「!」

突然、背中に灼けるような痛みと衝撃を受けておれは倒れた。

白木の箱が地面に転がる。

手を伸ばして拾おうとするも、それより早く、眼前に牛ほどの大きさの蜘蛛が降り立ってきた。

「く……っ」

鎌からおれの血を滴らせる大蟷螂が、赤い目玉を光らせる百足の化物が、おれを取り囲む。

竹の間をくぐり抜けた大蛇が、待ちきれないとばかりに大顎を開いて迫り来る――

(ち、ちくしょう……!)

 

その刹那。

 

「――――?」

 

一陣の風が吹き抜けた。

 

……少なくとも、おれにはそうとしか認識できなかった。

けれども、その風の後には、大蛇も、他の化物どももいなくなっていた。

いや、正確には、いなくなったわけではない。

その体は、ある。

みな真っ二つに斬られた死体になって転がっている。

見れば周りに繁っていた竹も、残らず伐採されて鋭利な断面を晒している。

 

そうしてぽっかりとあいたその空間の中心で――ひとりの女の人がおれに背を向けて立っていた。

甲冑を纏う、ほっそりした身体。

肩に流れるその髪は白銀。

雲間から差し込む月明かりを受けて、ほのかな光を放っている。

「――――」

ゆっくりと振り向いた横顔が、おれを見つめる。

冴え冴えとした……けれどどこか寂しげな金色の瞳。

 

母上が寝物語に聞かせてくれた、月から来たお姫様のようだとぼんやり思った。

 



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第七話

とある国の山間に、澄んだ湖を抱えた盆地がある。

その一帯の土地は、不可視の結界で守られ、人はおろか妖怪ですらたやすく入り込むことはできない。

 

湖の真ん中に建っているのが、私の屋敷だ。

そこで私は、

 

(あああああああ! やっちまった! やっちまったよコンチクショウ!!)

 

眠る犬夜叉を前にして頭を抱えていた。

 

(どうして、こうなった……)

もう犬夜叉には関わらない――そう決めてひと月も経たないうちにコレである。

あの時、私は確かに自分の中でケジメをつけたのである。

私は物語のスポットの当たらない、世界の片隅でひっそりと生きる。

犬夜叉にも殺生丸にも接触しなければ、それが叶うと思っていた。

今ですら私に無関心な兄は、顔を合わせなければ私の存在など思い出しもしないだろう。

心の中で犬夜叉に別れを告げて去る私の後ろ姿は、その一枚絵にスタッフロールが重なってエンディングテーマが流れていてもおかしくないくらいキマッていたと自負している。

(なのにどうして、もうちょっとだけ続いちゃってんの!?)

 

昨晩、大気の中に馴染みのある匂いを感じた。

馴染みのある犬夜叉の匂いと、複数の妖怪の臭いを。

――気づけば、考えるよりも先にその方向へ走っていた。

我に返ったのは、犬夜叉を取り囲んでいた妖怪たちを全て片付けたあとだった。

このまま振り返らず逃げ去りたい衝動がこみ上げ、それでも傷を負った犬夜叉の状態を確かめずにはおれず……おそるおそる後ろを向いた私の目からは、たぶんハイライトが消えていた。

犬夜叉は窮地を脱したことで気が緩んだのだろう、私の見ている前で意識を失ってしまった。

屋敷に連れ帰って傷の手当をした今は、寝具の中で健やかな寝息をたてている。

「……」

……。

…………。

………………。

 

――くいくいくいくい。

(……って犬耳に触ってる場合じゃなーーーーーーい!!)

 

 

 

第七話 弟ができました

 

 

 

自分で自分の手をつねりながら、犬夜叉を起こしてしまっていないか横目で窺う。

朝の光が、犬夜叉の寝顔を柔らかく照らしている。あどけない子供の顔だ。

その顔を眺めていると、早く今後の対処を考えなくてはならないのに、どうにも思考がまとまらなくなる――

 

――ぢゅ~。

バチン!

 

首筋に刺激を感じて手で叩くと、ブチッと何かが潰れる音がした。

掌から、豆粒大のひらべったくなったものが落ちる。

「冥加……」

「お久しゅうございます、月華様」

「久しぶり。ていうか、今までどこにいたの?」

「はい! 十六夜様が先日亡くなられて、犬夜叉様の行方がわからなくなっていたものですから、この冥加、夜を日についで探し回り――」

「“妖怪に襲われたんでびびって隠れてました”って?」

「う……」

蚤妖怪はなにやらもごもごと言い訳していたが、図星だろう。主人公の家来が、こんな頼りない奴しかいないとは。

誤魔化そうとしてか、冥加はわざとらしい明るい声を出した。

「ま、まあしかし、こうして月華様に助けていただけて安心しました! 純血の妖怪でありながらなんとお優しい……」

「――――」

その言葉は、さらに私の心に影を落とす。

(そう……妖怪は絶対に半妖を身内と認めない……)

半妖に情愛を示す妖怪は、その半妖の親のみ。その親とて、私たちの父のように卓越した力を持っていなければ、他の仲間から粛清されかねない。

それがこの世界の常識だ。

今こうしている私の方が間違っている――転生者としても、妖怪としても。

 

私は、犬夜叉を助けてはいけなかった。

(というより、なんで私が介入せざるをえない状況になってたワケ?)

なんで本編始まるより前に死にかけてるのか! 主人公補正ちゃんと仕事しろよ……と心の中で毒づいて、はたとある可能性に思い至る。

(それとも、私がせっかちすぎたの? ひょっとしてあそこから犬夜叉反撃のターンの予定だったの?)

思い返して見れば、あの時の犬夜叉は追い詰められてはいてもまだ目は死んでいなかったように感じる。

ピンチに陥ってからの覚醒、反撃によって勝利を収め、犬夜叉は自力で生きることを学ぶ――いかにも主人公らしい流れ(ストーリー)だ、そうとしか思えない。

無我夢中で割って入った私は、完全に余計なことをしたのだ。

(――いや、まだ間に合う。ここから修正できる!)

そう自分を奮い立たせると、眠る犬夜叉の背中に腕を回して抱き起こす。

「月華様? どうなさったので?」

「どうもこうもない。ウチでは飼えないから、拾った場所に戻してくる」

「なんとゆーことをっ!」

私の内心など知りもしない蚤妖怪は、犬の仔に対するような言い草に腹を立てて、私の肩で跳ねながら叫ぶ。

「犬夜叉様は、貴女様の弟君なのですぞ!」

 

「……それ、本当?」

「っ!?」

 

予想以上に回復が早かったのか、枕元で騒いだのがいけなかったのか――幼い声に割り込まれて、私は息を呑んだ。

 

犬夜叉が、目を覚ましている。

目をまん丸にして、自分を見上げている。

そのことに気づいた瞬間、私は犬夜叉から離れ、膝立ちのまま後ずさった。

「犬夜叉様~! お目覚めで、あ゛っ!」

冥加が、運悪く犬夜叉が寝具に突いた手の下敷きになるも、この場にそれを気にする者はいなかった。

犬夜叉は私しか見ておらず――私は自分という存在(いぶつ)犬夜叉(しゅじんこう)に認識されているという事実に動揺してそれどころではなかったから。

 

「…………」

「…………っ」

 

ぺたぺた――と犬夜叉は四つん這いのまま寝具から這い出し私に近づいてくる。

私は同極の磁石のように、近づかれた分だけ膝でいざって距離を取る。

 

ぺたぺた。

――ずりずり。

ぺたぺた。

――ずりずり。

 

傍から見れば今の私は、マルチーズに怯えるサモエドだ。

けれど犬夜叉は、そんな私の醜態を笑うでも不気味がるでもなく、何かとても大切なものを確かめるように、

 

「おれの……姉上?」

 

そう呟いた。

 

………………ぐはぁっ!!!?!?!?!!!!!!!!!!

 

(あ、姉上って、私のこと、姉上って……!)

精神に、致命的な不意打ちをくらった気分であった。

「……?」

犬夜叉は相変わらず、こちらを見つめたまま首をかしげている。私の返事を待っているのか、頭の上でピクピクと動く犬耳。

こうかはばつぐんだ!

私の唇が、勝手に言葉を紡ぎだす。

「――い、犬……夜叉……」

「うん!」

……犬夜叉に耳はあっても尻尾はないはず。

だのになぜか、ちぎれんばかりに振られる子犬の尻尾が見える気がした。

「ええと、体は、もう大丈夫なの?」

犬夜叉はますます表情を明るくして頷く。

「うん、助けてくれてありがとう、姉上!」

「……っ……」

長年自分の内面を隠すことに尽力してきたせいか、私の表情筋は、動揺が激しくなればなるほど仕事を放棄する。

今はそれが幸いだった。嬉しいのか切ないのか恥ずかしいのかわからないグチャグチャになった私の感情を悟られずに済む。

これ以上目の前の子供を直視できず、私は、犬夜叉と一緒に持って帰っていた白木の箱を差し出す。大事に抱えていたのだろう、犬夜叉の匂いが強く残っていた。

「これは――あなたの母上?」

「あ……うん……」

それまでの元気が鳴りをひそめ、犬夜叉は膝に乗せた骨箱を沈んだ面持ちで見つめる。

この時代の人間の葬儀には詳しくないのだが、

「どうして、あなたが持っているの? 寺か何かに納めるものではないの?」

「……ダメなんだ」

悲しみと悔しさの入り混じった声だった。

「物の怪の子供を生んだ女の骨なんて、不吉だって、供養なんか出来ないって、みんな、そう言うんだ」

「――――」

「供養してもらえないと、母上が、成仏できないのに。母上が、父上に会えないのに……!」

そして自分も追い出されたのか、自分で飛び出したのか――どちらにしろ、十六夜の死後、ひとりでさまよっていたらしい犬夜叉は、胸の内を全て吐き出そうとするように続ける。

 

私は――

 

私は――手を伸ばして、犬耳の生えた頭をそろそろと撫でていた。

 

前世は一人っ子だったから、こんな風に小さい子の頭を撫でる機会なんてなかった。

緊張してしまって、触っているはずの耳や髪の感触が伝わってこない。

それでも、撫でる。ただそうしたいと思ったから。

こうしてそばにいると、まだかすかに血の臭いがする。

人間の血と、私にもよく似た妖怪の血が混じりあった臭い。

(……これが、犬夜叉の血の臭い……)

 

「――この屋敷の、南の対岸に楡の大木がある。そこなら、夏は木陰になるし、春にはまわりに花も咲く」

「え?」

唐突な私の言動に、戸惑ったように見上げてくる金の瞳。――ああ、現世(いま)の私と同じ色をしている。

「そこに埋めて、あなたが毎日参ってあげれば、きっと母上にとっては、それが一番の供養になる。成仏できないなんてことはない」

「……おれ、ここに住んでいいの?」

犬夜叉は、おずおずと問うてくる。そこには、今までに見せたことのない怯えがあった。

「おれ、半妖だよ?」

「――――」

頭に乗せたままの手が震える。

物語(せかい)に叛逆することへの畏れがそうさせた。

犬夜叉は半妖として、人間にも妖怪にも受け入れられることなく過ごす。四魂の玉にまつわる物語が始まるまで、何年、否、何十年も。

それが、この世界の正しい流れ。

それが、前世の私が心躍らせた物語の開幕のために必要な前段階。

それが――

 

(それが、何なの?)

 

「――それが、何なの?」

 

震えが止まった。

 

手のひらから伝わってくる犬夜叉のぬくもり。

そのぬくもりの前に、私が今まで心に課していたもの全てが意味を失い消えていく。

だって私はもう、この子の血の臭いを、抱き上げた身体の小ささを知っている。

犬夜叉は紙面の中の登場人物ではなく、私はもはやそれを眺めていた読者ではない。

ふたり揃って、現実(ここ)にいる。

 

前世現世ふくめて、当たり障りのない、無難な選択しかできなかった自分。

傷つけられること、非難されることを恐れるばかりで、何の情熱も持てなかった自分。

そんな私が初めて抱いた、たった一つの願い。

 

――私は、この子の味方になりたい。

 

自分の知る物語を自ら壊すということ。

妖怪として有り得べからざる行動をとるということ。

 

湧き上がるこの願いを前にして、そんなことは――

 

「そんなことは、何の意味もない。――あなたは、私の弟なんだから」

 

そうして私は、転生して初めて、心から微笑んでいた。

 



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第八話

白刃が月光に煌く。

月を貫かんとばかりに真上に高く掲げた構えから、刀を振り下ろす。

澄んだ風切り音が、夜の庭に響く。

何度も、何度も。

百回から先は数えるのを諦めたその挙動は、けれど一切速度を落とすことも、姿勢を乱すこともない。

それはまるでこの世にいない誰かの、声無き声を聴こうとするような、姿なき姿を見ようとするようなひたむきさに満ちている。

わしこと冥加は、月華様のそんなお姿を庭石の上でずっと眺めていた。

 

お館様の御子たちのなかで、月華様はわしにとって最もつかみどころのない方であった。

ずっと屋敷の奥深くで過ごしていたかと思えば、父君の死後は地上に降り、豹猫族との争いには自ら望んで参戦したという。

その戦いぶりを見て、殺生丸様に次ぐ実力の持ち主ともてはやす者もいたともっぱらの噂だが、わしから言わせてもらえば、本人はそういった覇道を進む勇猛さとは無縁の雰囲気であった。

殺生丸様のように妖怪すら慄かせる冷たさはなく――かといってお館様のように人間にも情をかける暖かさも感じられない。

そこにいるのにそこにいない、蜃気楼のようにあやふやな空気をまとう、人形めいた無表情の姫君。

まるで他者との関わりそのものを避けているよう、というのが過去何回か血を吸わせてもらった時にわしが抱いた印象だった。

(しかし……それが、変わられた……)

自分の思い違いでなければ、今日、何かが変化した。

犬夜叉様がこの方を“姉上”と呼んだその時から。

 

 

 

第八話 子育てに悩みました

 

 

 

「それにしても、驚きました。まさか、貴女様が犬夜叉様を受け入れなさるとは……」

「――――」

夜風になぶられた髪を整えるために、月華様が刀を振るう手を止める。その背に思い切って声をかけてみた。

犬夜叉様の傷の手当、十六夜様の埋葬、食事の支度、犬夜叉様を住まわせる部屋の準備……等々、日中なにかと用事を見つけては動き回っていた月華様と言葉を交わす機会を窺っていたら、こんな夜更けになってしまったのだ。

ちらりとこちらを見遣る眼差しには、やはり温度が感じられない。快も不快も浮かんでいない。

危険を察知し回避する能力については他の追随を許さぬと自負するわしをして、やはりこの方の表情――というか感情は読み取るのが至難の業であった。

修練の邪魔をして機嫌を損ねるのは避けたいが、今日の月華様の行動は、言及せずに済ますにはあまりに意外すぎたのだ。

妖怪どもを一掃し弟君を助け出したところまでは、単なる気まぐれと片付けることもできたかも知れない。

事実そのあと――犬夜叉様が目を覚ます寸前まで――月華様は確かに犬夜叉様を放り出す心算でいた。

あの場では冷たい仕打ちと憤ったものの、落ち着いて考えてみれば、殺そうとしなかっただけでも驚くべきことだ。

犬夜叉様は、月華様にとっては、父君が己が母ではなく人間の女との間にもうけた半妖。

ましてお館様は、犬夜叉様と、その母である十六夜様を救うために深手をおして戦い、そして死んだのだ。

姉としての情よりも、嫌悪や憎悪がまさる間柄ではあるまいか。

(少なくとも、殺生丸様なら絶対にありえぬ……)

これまでの自分が知る、何にも干渉しようとしない虚無的な月華様と、今朝目の当たりにした、半妖の異母弟に手を差し伸べる月華様。

その二つがどうにも結びつかず、思考の消化不良に陥ってしまったのを解消したくて話しかけたは良いものの、

「――――」

月華様は無言のまま視線を前方に戻すと、修練を再開してしまった。

突き。袈裟懸け。胴薙ぎ。逆袈裟。

流麗な型稽古と見て取れたが、本人の見解は違ったらしい。

ふぅ、と不満気な吐息とともに切っ先が下ろされる。

「……冥加」

「は、はいっ!?」

やはり煩く感じられたのか、と慄いていると、ゆっくりと月華様がこちらに向き直り、

 

「私は……犬夜叉をどう育てたら良いのかな」

 

そんなことを口にした。

 

「は……はぁ?」

戸惑っているうちに、わしには期待できぬと思ったのか、頭上の月を振り仰ぎ、半ば独り言のように続ける。

「私は犬夜叉に、自由に生きて欲しい」

月明かりに照らされた端正な顔は、やはり表情に乏しい。けれどその眼差しには、自嘲めいた色があった。

 

「今まで私は、自分がこの世に生まれてきたことが、何かの――いや、ロクでもない間違いだと思ってた」

 

「…………」

わしはその告白に呆気にとられた。

にわかには信じがたい言葉、けれどもわしの勘が告げている。

名だたる大妖怪の息女として生を受け、自身も類まれな美貌と妖力を備えた化け犬の姫の――これが、偽らざる本心なのだと。

「この世界の者たちには、決まった役割があって、みんなその役割に従って生きている……なのに私にはそれがない。自分ひとりだけ白紙の台本を渡されて、舞台の上で途方に暮れてる気分だった。せめて舞台の邪魔にならないように、なるべく余計なことはせずに過ごさなきゃいけないって思って生きてきた」

一体何がこの方にそんな考えを抱かせるのか、まったく見当もつかない。

それでもどうにか反論する。

「月華様……そのような考えは間違っています。わしは貴女様から見れば何もできないちっぽけな妖怪でしょうが、それでもわしは自分が吸いたいと思った相手の血を吸いますし、自分が死にたくないと思うから、精一杯逃げております。役割に従ってなどいない、生きたいように生きております」

うん、と頷いて月華様がこちらに視線を戻す。

「そう、間違ってた。みんな持ってるのは、白紙の台本。この世の誰も、あらかじめ決められた役割なんてない。自分の意思で、一度きりの自分の生を生きている。もちろん犬夜叉も」

その双眸に自嘲の色は消え、かわりに挑むような烈しさが浮かぶ。

「犬夜叉には、“こう在らねばならない”も“こう振舞わねばならない”もない。全部、あの子自身が決めればいい。あの子が心から望んだことなら、たとえ父上から受け継いだ妖力を捨てて人間になっても、私がまったく想像もできない女性と恋仲になっても、私は肯定する」

「恋仲……それは少々、気が早すぎませんか?」

「そ、そう?」

なにやら話の腰を折る形になってしまい心苦しいが、幸い月華様は怒らなかった。

気まずそうに咳払いをして続ける。

「まあとにかく、私は犬夜叉が幸せに生きてくれたらそれでいい。でも、そのために私にできることってなんだと思う? ただ守って、甘やかすだけじゃ、あの子は自分の意思で進む道を決められな……っ!?」

唐突に言葉を切って、月華様が小さく飛び退いた。

「犬夜叉!?」

「犬夜叉様!?」

ふたり揃って、月華様の足元にしゃがみこみ、その刀を興味津々といった様子で眺めている子供に呼びかける。

お互い会話に夢中になっていたせいで、犬夜叉様が庭に出てきたことに気づけなかったらしい。

「……まだ起きてたの」

「うん、眠れなくて」

首をすくめて答えると、犬夜叉様はまたその美しい刀身に見入る。

「姉上は、この刀であの妖怪たちを斬ったんだよね」

「まあね」

「……おれにも、戦い方を教えて欲しい」

立ち上がり、犬夜叉様は月華様にたどたどしく訴える。

「おれは、強くなりたい。敵に襲われて逃げ回るだけなんて嫌だ。姉上みたいに強くなりたい!」

「私みたいに……? それはちょっと目標が低すぎると思うけど」

「月華様、月華様」

妙なところで妙な引っかかり方をする姉君に呼びかけて、軌道修正をはかる。

「犬夜叉様に戦い方を教えるのは、良いことだと思います。先ほど貴女様は、犬夜叉様に幸福に生きて欲しいと仰せでしたが、それにはやはり、犬夜叉様がご自身で道を切り拓く力を得ることが肝要かと」

犬夜叉様は半妖。

この先、月華様が庇護下に置いてくださるとしても、苦労することは多いだろう。

その不利を撥ね退けるのは、やはり本人の強さなのだ。

「――そうか、うん、たしかに。私も剣の修行をしてなかったら、犬夜叉を助けたいと思っても、助けられなかったものね」

月華様のまとう空気が、僅かに柔らかくなった。

……わしの勘違いでなければ、月華様は犬夜叉様が絡むと、常よりほんの少し感情がわかりやすくなる。

 

「わかった、私に教えられることは全部教える。でも、今日はもう遅いから、早く寝なさい。稽古は明日から」

「やだ。まだ眠くない」

犬夜叉様は頑固に首を振る。

「……?」

当惑は、月華様とわし、両方のものだった。

本人の言に反して、犬耳は眠たげに若干垂れている。

妖怪の襲撃、異母姉との邂逅――昨夜から今まで、幼い犬夜叉様にとっては激動の一日。相当に疲れているはずなのだが……

(――ああ!)

そこまで考えて、ようやく合点がいった。

小さな手が、すがるように月華様の着物の袖を握っている、その理由。

「月華様……この冥加、僭越ながらもう一つ意見具申を」

耳朶に飛び乗って、月華様にだけ聞こえるように囁く。

「えー、その、これは月華様が不愉快でなければの話で……そもそも月華様はさほど長い時間休息を必要としないのは承知しておりますが……」

「何? 前置きはいいから」

「――せめて今宵だけでも、犬夜叉様とご一緒の部屋でお休みいただくわけにはいきませんか」

「……? ……あ」

何を言われているかわからない、という一拍の間を置いて、軽く開いた口から声が漏れた。

それから、至極当たり前のことに気づかなかった自分に恥じ入るように、爪の先で頬を掻く。

「なるほど、ほんとに私は気が早かった。……ありがとう、冥加」

ぽつりとそう言うと、月華様は腰をかがめて、弟君と視線を合わせた。

「じゃあ、刀の持ち方だけ教えるから、それが終わったら一緒に戻りましょう。……あなたがちゃんと寝てるか、部屋で見張ってるから」

「……! うん、わかった!」

ぎこちなく弟の頭を撫でる月華様の手。

その手を犬夜叉様は、心底嬉しそうに受け入れている。

 

――流れる雲が、月に照らされて白く輝く。

その様は、いつかの天翔ける犬の大将を彷彿とさせた。

(お館様……見ておられますか……?)

真剣な顔つきで刀を握る弟君の姿は伸びやかな若木のようであり、その腕を支えてやる姉姫の姿は雪解けを迎えて漸く咲いた花のようであった。

強く優しい異母姉との出会い。

それは犬夜叉様にとってのみ幸運な出会いなのだと今まで思っていた。

 

(ですが、きっとこの出会いは、月華様と犬夜叉様……お二人にとっての幸福につながる……そんな気がします……)

 

 

 




あまり話が進みませんでした……。
次回はもう少し進展する予定なのでご容赦を。


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第九話

タグ追加しました。詳細は活動報告にありますのでよろしければご確認ください。


轟々と流れる水の音を聴きながら、谷の際を疾走する。

渓流を挟んだ反対側に目を向ければ、新緑の木々の狭間に閃めく鮮やかな緋色。

私と同じ速度で駆ける犬夜叉の、その息遣いを感じ取る。

弟の呼吸が変化して――跳躍。

応じて、こちらも虚空に身を躍らせる。

 

「でやぁーー!」

「ハアァ――!」

 

激突は、峡谷のほぼ中央。

互いが手にする、妖力を込めた特殊な木刀が高らかな衝突音を一つ響かせる。

そのまま双方の位置を入れ替えて、切り立った断崖を足場にまた跳躍。

白く泡立つ急流を眼下に、幾度も×字の軌道を描き、剣戟の音色を散らす。

五度目の打ち合い――と見せかけて空中で反転。

「っ!」

間合いを外された犬夜叉の瞳が揺らぐのを余裕を持って眺めながら、がら空きの脇腹に回し蹴りを叩き込んだ。

勢いよく潅木の茂みに突っ込んだ犬夜叉に向かって声を張る。

「だいぶ速くなったけど、まだ振りが大きすぎる! それじゃ見切ってくれと言ってるようなものよ」

「……ちくしょう!」

毒づく声に、ぐるる、と唸る音が混じる。……ホントに犬みたいだな。

 

 

 

第九話 弟を鍛えました

 

 

 

犬夜叉とともに暮らし始めてからの日々は、それまでの澱んだ水底に沈んでいるかのような停滞した年月から一転、飛ぶように過ぎた。

出会った時まだほんの子供だった弟は、随分背が伸びて、もはや少年と表現するのがふさわしい。

(一人じゃ寂しくて寝られない甘えん坊だった頃が懐かしいよ……)

犬夜叉に請われて、私が師匠から薫陶を受けた剣術を中心に戦い方を教えるようになって早八年。

最近ではこうして実戦に近い形での手合わせを行っている。

(さあ、次はどう出るかな?)

谷間に張り出した枝から飛び降りて、川の流れを分断している岩に着地。

落下の勢いを殺し、バランスを保つために膝を曲げ、背をかがめるその一瞬――私の頭上に影が差す。

蹴飛ばされた衝撃から早くも立ち直った犬夜叉だ。

奇襲のタイミングとしてはこれ以上ない絶妙さを褒めてやりたいのだが――

「行くぜ姉上! 散魂鉄爪――!」

「なんでそこで声をかける!?」

音の出処から正確に位置関係を把握し、私は振り返ることなく犬夜叉の腕を木刀で絡め取るようにして投げ飛ばした。

 

私は、人を指導するという慣れない行為に戸惑いながらも、教わった技を余さず犬夜叉に伝えた。

弟もまた、持ち前の負けん気の強さでその全てを習得していった。

それは非常に喜ばしいのだが、いざ実戦を想定した稽古を始めて、わたしは仰天することになる。

 

コイツ真っ向勝負しかできねえ、と。

 

太刀筋はバカ正直で先読みが容易く、おまけにこちらのフェイントにはすぐに引っかかる。

私がやるように、敵を怒らせる言葉をかけて隙を作る、といった搦手も使えない(よく悪態はつくが、それは単に言いたいから言っているだけである)。

むしろ犬夜叉の方が、挑発されると熱くなってますます攻撃が愚直になる、という悪循環だ。

初めのうちはなんとか矯正できないものか、と悩んだものの、結局のところ、犬夜叉と私は性質がまったく違うのだと結論づけた(さじをなげた)

(それならそれで、やりようはあるしね……)

 

「……負けるかぁ――!」

放り投げられた犬夜叉は、その勢いを利用して空中で後背転を繰り返し、岩壁を蹴って私に肉薄する。

そのまま、猛然と打ち込み、斬りかかる。

それらすべてを受け流すものの、木刀を握る手にはビリビリと痺れるような衝撃か伝わってくる。

速度(スピード)技巧(テクニック)で弟に遅れを取るつもりはないが――膂力(パワー)持久力(スタミナ)では、将来的に犬夜叉は私を凌ぐだろう。

自分の戦い方がそもそもあまり長期戦向きでない、というのもあるが、どんなに軽くあしらわれようと倦むことなく向かってくる犬夜叉の闘志が、力を生んでいるのだ。

加えて、理詰めで戦いの運び方を練る私と違って、犬夜叉には野生の勘ともいうべき、本能的な戦いのセンスがある――ような気がする。

だから私は犬夜叉に、“私のような戦い方”ではなく、“私のような敵との戦い方”を教えることにした。

 

先読みしようとも躱しきれない威力の攻撃を繰り出せるように。

挑発に乗って熱くなるなら、その激情を技の精度に変換できるように。

 

……物語であったなら、主人公は毎回苦戦してギリギリで逆転したほうが盛り上がるだろう。

けれど現実の世界で、弟にそんな火事場の馬鹿力的な不確実なものに命運を委ねる真似はさせない。

 

――そのために、ひたすら体に覚えさせる(ぶちのめす)

 

「それにしても、大きくなったね犬夜叉。もうすぐ背丈は追い越されるかも」

「……こんな、状態で、言うんじゃねえ……!」

犬夜叉の足首を片手で掴んでぶら下げながら感慨に浸っていると、逆さまの弟の顔が私を睨みつける。

ふーふーと荒い息遣い。

かなりのダメージを蓄積していながら、その目に宿る闘争心は微塵も衰えていない。結構なことだ。

「今日という今日は、一本とってやるから、覚悟しやがれ……!」

「最近毎日聞いてるなあ、そのセリフ」

「今日は本当だ! おれに負けて泣きベソかくんじゃねーぞ!!」

「……ふふ、わかってる。でも――」

「?」

言葉を切って、犬夜叉を掴んだまま岩から岩へ飛び移り、滝の上まで移動する。

「休憩と水分補給は、こまめにしなさい」

「ぶわっ!?」

どぼーん、と派手な水飛沫を散らして、犬夜叉は滝壺に沈んでいった。

(息子を鍛えるのは本来、オトンの役目だよねえ……)

優しい姉でありたいのに、このように心を鬼にして接さなければならないのは辛いことだ。

模擬戦闘を行うようになってから、弟の言葉遣いはとみに乱暴になったが、これも自然な成長というやつだろう。

それを咎めたりはしない。私は寛大な姉だから。

川面に映る私の口角がかすかに上がって見えたのは、もちろん水流のせいである。

 

小休止の後は、より山の奥深くに移動した。

地面にはあらかじめ、私の血で作った結界がいくつも仕込まれている。

「! しまっ――!」

私を追ってその一つに引っかかった犬夜叉の足元で、赤黒い光が立ち上り、短い文章を形成する。

――『七かける七は何か』

「ご、五十二! ……ぎゃんっ!」

結界がその径を狭めて、犬夜叉を締め上げた。

「ちがう、四十九。掛け算くらいできないと将来恥をかくんだから、きちんと覚えなさい」

「だからって、なんで修行の最中にやるんだよ!?」

「あなたが机に向かうと、いくらも経たないうちに船を漕ぎ始めるからでしょうがっ」

言い返して、さらに犬夜叉を結界の地点に誘導すべく時に追撃し、時に逃走する。

 

そんなことを繰り返して、どれほど時間が過ぎただろうか。

(――父上、ホントに子育ては大変です。ぜひ父上にも体験してほしかった……)

今は亡き父に思いを馳せて空を仰ぐと、すでに青空ではなく夕暮れの色。

あの後も何度も私と斬り結び、その合間に結界に痛めつけられた犬夜叉であったが、

「ねえ、今日はこのくらいにして帰らない?」

「ふざけんな、まだまだっ!」

(なんで私より元気なんだろう……)

姉の威信にかけて表面に疲労は出さないが、持久力に関しては既に負けているのかもしれない。

私はなんとなく、図体が大きくなった自覚のない大型犬の子犬にじゃれつかれている気分になった。

このあと更に夕餉の支度をしなければならないことを思って、内心でげんなりする。

私たちの一族は、二次性徴期の前半くらいまでは人間並の速度で成長するが、その後の外見変化は非常に緩やかになり、摂取する食物もごく僅かで済むようになる。

自分と違って犬夜叉は、まさに今が育ち盛り食べ盛りだ。

(帰り道でなにか獲物が見つかるといいんだけど……って、私はオカンか?)

――戦いの最中に、そんな雑念に囚われたのがいけなかった。

「お? 隙あり!」

「うわっ!」

犬夜叉が至近距離から大上段で振りかぶって来る。

対して私は、木刀を片手でだらりと下げた状態であった。

咄嗟に空いている左手を閃かせ――次の瞬間、火鼠の衣より濃い赤色が舞う。

(あ……ヤバ……!!)

犬夜叉を鍛えるようになってから、殴る蹴るの攻撃は珍しくない。

けれど、血を流させたのは初めてだった。

その血の臭いが、初めて顔を合わせた時の幼い弟の姿を想起させて、心臓がギュッと縮み上がる。

「くぅ……っ!」

犬夜叉は私の爪で切り裂かれた腕を押さえてゴロゴロと転がると、そのまま蹲ってしまった。

「ご、ごめん犬夜叉! 大丈――」

ぶ、と続けようとして近付いたその時、

 

「飛刃血爪!!」

 

――視覚情報の処理が追いつかない。

血の刃。

跳ね起きる少年。

斜め下から迫り来る木刀。

 

「――――ッ!」

 

乾いた音がこだまする。

それは、私の木刀が犬夜叉の斬り上げを防ぎきれず折れ飛んだ音。

弟の持つ得物は、その切っ先を私の首筋に当てて静止した。

 

「……やった……」

 

犬夜叉が呆然と呟く。

それから、湧き上がる喜びを抑えきれないとばかりに身を震わせた。

「やった! やったぜ! どうだよ、見たか姉う、え゛……!?」

小躍りせんばかりに浮かれていた弟が、不意に言葉を詰まらせる。

続けて、すざっと音を立てて私から距離をとった。――まるで、世にも恐ろしいモノを見たかのような表情で。

はて、どうしたのだろう?

私は弟と出会って以来、よく笑うようになった自覚がある。

 

その中でも今、自分はとびっきりの、満面の笑みを浮かべているというのに。

 

「ふ、ふふふ……見事ね、犬夜叉。不意をついたとはいえ、私から一本取るほど成長してたなんて驚いた。不意をついたとはいえ」

大事なことなので二回言いました。

「……えーと、姉上、怒ってんのか……?」

犬夜叉は冷や汗をだらだらと流しながら、おかしな質問をする。

心なしか犬耳も、後ろに倒れて毛が逆立っているようだ。

「何言ってるの、褒めてるのに。流血に油断した敵の隙を突いた目くらましからの攻撃……素晴らしい策じゃない。心配した私がちょーっとバカみたいだけど。うふふふふふふ」

「や、やっぱり怒ってんじゃねーか!」

後ずさった背中が木にぶつかり、弟の顔がいっそう青くなる。

「怒ってなんかいないよ? むしろもっと気合を入れてあなたを鍛えないといけなかったって反省してる。――さあ、まだまだ元気が有り余ってるみたいだし、今日はとことんやりましょう」

「ちょ、待て、それ、顕心がぁぁぁ――――ッ!!」

 

夕焼けが、空を真っ赤に染め上げていた。

 

 

屋敷までの帰り道を、弟をおぶって歩く。

「まったく、気絶するまでやるなんて、犬夜叉はほんとに負けず嫌いなんだから」

「……っ……それは、姉上だろ……」

ようやく意識が戻ったらしい弟が、恨みがましい声を漏らす。心当たりは一切ない。

「もう降ろせよっ、自分で歩ける!」

無理矢理体を引き剥がすと、腕組みしてそっぽを向いてしまった。

少し前まではしょっちゅうおんぶや抱っこをせがんできたのに、寂しい。

(もう少し、子供のままでいてくれてもいいのにな……)

そんなことを思いながら歩みを再開するが――数歩も行かないうちに背後から弟のうめき声が聞こえて来た。

慌てて振り返ると、犬夜叉が地面に片膝をついて俯いている。

「ちょっと、やっぱりまだ動けないんじゃ……」

「違う! 目が――」

「目?」

私は犬夜叉の顔を覗き込んで首を傾げた。

顕心牙(念の為に言っておくが全て峰打ち)で攻撃したのはすべて胴体で、眼球を狙うような危険なことはしていない。

にもかかわらず、犬夜叉は顔を顰めて目を押さえている。――右の目を。

 

ピシリ、と。

見えない何かが割れるような音がした。

 

「ん?」

「え?」

 

さっきまで目を押さえていた犬夜叉の手の中に、黒い宝玉。

(……え、待って待って、これって……!?)

ろくに驚く暇さえなく、私たちは黒真珠から溢れ出す光に呑み込まれた。

 

 

――骸骨の鳥に乗ってふたり、白い霧に覆われた世界を眺めている。

「……姉上、ここはどこなんだ?」

「あの世とこの世の境。妖怪の墓場」

「……なんでイキナリこんなところに来てるんだ?」

「父上の骸に収められた刀を取れってことなんだと思う」

「……刀?」

「ひと振りで百匹の妖怪をなぎ倒す牙の剣、鉄砕牙」

「ちょっと待て、色々と」

「ごめん、私も急展開過ぎて質問に答えるので精一杯だった」

あまり頭の良くない会話を交わしながら、骸骨鳥が父の骸の中に運んでくれるのを待つ。

今この場に第三者がいたなら、姉弟揃って無の表情になっているのを見たことだろう。

 

(もうたどり着いちゃったよ、鉄砕牙……)

巨大な肋骨に囲まれた空間で、心中に呟く。

「本当にこんなオンボロ刀が父上の形見なのかよ」

弟は、台座から引き抜いた錆び刀に懐疑の眼差しを向けていた。

「失礼なこと言わないの。本来の姿は巨大な牙で、ものすごい力を持ってるんだから」

「姉上は見たことあんのか? それ」

「…………」

無い。

屋敷に引きこもっていた私が知る父の武勇は、全て人づてに伝え聞いたものだ。

(……無駄な時間を過ごしたなあ、私って)

益体もない後悔を抱く自分に腹を立てながら、台座の隅に置かれていた黒塗りの鞘を犬夜叉へ乱暴に突き出す。

「ほら、これに納めて。早く帰りましょう」

「あ、誤魔化しやがった」

――最近本当に生意気だ、この弟。

一言注意してやろう、と口を開きかけて、

 

「――――」

(父上……?)

 

鉄砕牙を腰に差す犬夜叉の姿に、最後に会った日の父の姿が重なった。

 

「? どうしたんだよ、ぼーっとして」

固まってしまった私に、弟が怪訝そうに問いかける。

「……父上のこと、思い出して……」

半分惚けたまま返すと、犬夜叉が目を輝かせた。

「おれ、父上に似てるか!?」

「いや全然。父上はもっと背が高いし、堂々として落ち着いた雰囲気だった。まあ強いて言えば眉のあたりが似てなくもないかなって程度……あれ? どうかした?」

「別に。訊いた俺がバカだったぜ」

台座の飾りに手をついて脱力した弟が、じとりと横目で睨みつけてくる。なにか期待を裏切ってしまったらしい。

「……うん、全然似てない。なのにあなたがそうやって鉄砕牙を差してるのを見たら、父上を思い出した」

不思議なもので、父の骸を目にしたときよりも、弟を眺めている今この瞬間にこそ、父への慕情が胸に満ちていく。

「――だから、やっぱり鉄砕牙は、あなたが持つべきものなんだと思う」

「……! そ、そうか……」

先ほどの不機嫌さはどこへやら、満更でもなさそうな表情で鉄砕牙の柄を撫でる。

帯刀したせいか、弟が急に大人っぽく見えた。

犬夜叉が子供でなくなる寂しさを、成長を実感する喜びが打ち消して、自然と笑みが浮かぶ。

「よしっ、次からはこの鉄砕牙と、姉上の顕心牙で勝負だ。――今度はあんなセコい手使わなくても一本とってやるから、その時は、その顔で笑えよな」

「私はいつだってこんな顔でしょう?」

「ウソつけ……」

呆れたように肩を落とす犬夜叉を見つめて、私はまだ笑顔だった。

たぶん、そんな日はそう遠くない。

なんだかんだ言ったが、犬夜叉の強さ――私の集中が切れるまで喰らいついた粘りと、私の防御を突破した力は本物だったのだから。

 

きっとそれが黒真珠の封印が解けた理由。犬夜叉が鉄砕牙を手にするにふさわしい技量を得た証。

そういうことなんだろう。

 

……。

…………。

………………まさか私が鉄砕牙で対抗しなきゃならないヤベー奴認定されたとかじゃない、よね?

 




次回、災害警報発令


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第十話

あの日、コンビニに突っ込んできた車によって死亡したはずの私は、不可解な状況に困惑していた。

 

豪奢な調度品に囲まれた純和風の広い部屋に私は寝かされている。

体はろくに動かず、せいぜい無意味に手足をばたつかせるのが関の山。

口を開けば、出てくるのは「あー」だの「うー」だのといった喃語ばかり。

端的に言えば、赤ん坊になっていた。

 

……これは夢なのだろうか。

内臓破裂だか出血多量だかで死にかけた脳が見せている最期の夢。

それなら別に良い。

人生の最後の娯楽にしては退屈な夢だが、そもそも退屈な人生を歩んできた私の脳に愉快な創作を期待するのは贅沢というもの。

気がかりなのは、この夢を随分長い間見続けていることだ。

夢の中での経過時間など当てにならない、とは思う。

ここでの数日は、現実の世界で酸素の供給を経たれた脳が機能を停止するまでの数秒間なのかも知れない。

けれども。

私は最悪の展開を想像する。

――自分は死に損なって、昏睡状態にでもなっているんじゃなかろうか、と。

死ぬのなら、まだ良い。

両親の懐にはそれなりの額の生命保険と損害賠償金が入るはずだ。

それが、何をやっても平均以下の娘にできるせめてもの親孝行だと思えば、理不尽な死も許容できる。

……だが、中途半端に生き残り、父母の手を煩わすばかりの金食い虫になっているとしたら、いったいどう詫びれば良いのか。

暗澹たる気分になっていると、御簾の向こうから声が聞こえた。

 

「どうぞ、殺生丸様。ちょうど妹姫様もお目覚めです」

私の世話をしている女性に促されて入って来たのは――少女と見紛うほどに美しい顔立ちでありながら、気高く凛々しい佇まいの少年だった。

絹糸を思わせる白銀の髪と、輝く月の如き黄金の瞳。その圧倒的な存在感に目を奪われる。

「ほら、月華様、兄上様が会いに来てくださいましたよ」

(私の……兄上?)

女官に抱き上げられながら、その言葉を心の中で反芻する。

つい先日まで、五感から伝わる情報を上手く処理できずにいた私にとって、この少年は初めて認識する肉親だ。

殺生丸。変わった名前なのに、なんだか懐かしい気がする。

額と頬に紋様のあるその顔も、どこかで見たように思う。

(そんなふうに感じるのは……私のお兄さんだから?)

「……月華」

静かな声が、この世界での私の名を呼ぶ。

その声が、私の心に一つの希望を灯す。そんな都合の良い奇跡は無い、と今まで考えないようにしてきた可能性。

――これは現実で、私は別人として生まれ変わったんじゃないか。

(もし、そうだとしたら)

私は、自分の兄だという少年に向けて手を伸ばす。

もう一度、名前を呼んで欲しい。

兄として、(わたし)の手を握って欲しい。

そうしたら……自分はこの世界を現実だと信じられる。

逆縁にあわせた前世の両親にはもはや償いようもないが、その分も今生の家族を大切にして、精一杯生きて――

 

「お前は弱いな」

 

そんな思いは。

少年の、石ころでも見るような眼差しと、失望しきった声音にかき消された。

 

「殺生丸様?」

「つまらん、もう良い」

 

さも時間を無駄にしたという風に言い捨てると、少年はそのまま私に一瞥もくれずに踵を返す。

…………兄が背を向けて去っていく。

掴みかけた希望が、消えていく。

 

(……ああ)

これが夢か現実かなんて、どうでもいいことだった。

 

夢であれ現実であれ――私という存在が、誰からも必要とされない、何の役にも立たない存在であることに変わりはないのだから。

 

 

 

第十話 兄上に遭いました

 

 

 

「あ、月華様……」

早朝。廊下に出ると、庭先を眺めていた冥加が驚いたようにピョンと跳ねた。

縁側から、靄の立ち込める庭にいた弟に声をかける。

「おはよう、犬夜叉」

「……おう」

犬夜叉はほんの少し気まずそうに応えた。

父上の墓から帰還して以来数日、犬夜叉は朝方、一人で鍛錬を行っている。

鉄砕牙は、父の骸に封印されていた時と同じ錆び刀のままだ。

(自分から呼んだんだから、素直に変化してくれればいいのに……)

などと内心で愚痴っても、どうにもならない。

元来気の短い少年は、姉に隠れてボロ刀を振り続ける行為に我慢の限界を迎えていたのだろう、私が縁側に腰を下ろすのを黙って見つめている。

私もまた、そんな弟の行動に気づかないフリをしきれなくなったが故にこうして姿を現したのだが。

(さて、どうすればいいかな)

鉄砕牙を使いこなす方法はわかっている。

――人間を慈しみ、守る心を持つこと。

しかし、今それを犬夜叉に口頭で教えたところで意味はないだろう。

感情というのは他者に強制されるものではなく自然に生じるものなのだし……そもそも、私たちの周囲にヒトはいない。

「……犬夜叉に、人間のトモダチが出来ればいいのにな」

「はあ?」

弟は遠慮なく怪訝そうな声を上げた。

「なんでおれが人間と仲良くしなきゃならねえんだよ。あんな、妖怪と見りゃ逃げ出すしか能のない腰抜けどもと」

そう言う犬夜叉の顔が不機嫌なのは、鉄砕牙に関する助言を期待していたのに脈絡のないことを言われたからだけではあるまい。

私も、弟が人間たちからどういう扱いを受けていたかは知っている。

しかし。

「たしかに、人間は自分達と違うものを排除する。でもそれは、この世界で弱い者が生き抜くための手段。だから、強い者はそれを許してあげないと」

「…………」

危険なもの、異質なものを避ける――その判断ができない生物は、よほど運が良くない限り天敵に捕食されて終わるのだから。

とはいえ、その“正しい判断”が、犬夜叉に人間と絆を結ばせる最大の障害になるのだから苦々しい思いは禁じえないが。

(あ、そうか!)

 

「名案を思いついた。犬夜叉、私を退治して!」

「何言ってんだ? 姉上」

「何を言っているのですか? 月華様」

弟と家来に、同時にツッコまれた。

 

「いや、だからさ、私が人間を襲うから、犬夜叉がそれを助ければ、あなたが危険な妖怪じゃないって手っ取り早く人間に理解させて、仲良くなれるでしょ」

そうすれば犬夜叉に人を慈しむ心が芽生え、鉄砕牙を扱えるようになる。ナイスアイディアだ――と思ったのだけれど。

「それ、ヤラセとか詐欺って言うんじゃねえか? 相手を騙して仲良くなったって、そんな関係ニセモノだろ。おれは嫌だ」

「……ごもっとも」

わりと真っ当に反論された。

「だいたい、んなことしてその後どうすんだよ、姉上が悪者になっちまうじゃねえか」

「うーん、たしかに。嘘をつき通すなら私は犬夜叉から離れなきゃいけないけど……まだあなたには教えなきゃいけないことが沢山あるものね」

今はまだ、絵本の青鬼のようにひっそり姿を消す訳にはいかない。

「そういう問題じゃねえよ……あー、もういい。それより鉄砕牙だ! ロクに切れねえ刀持ってたってしょうがねえ、これなら床の間の飾りにでもした方がマシだぜ」

弟にとって、それは単なる腹立ち紛れの戯言だったのだろうが。

 

「ダメ! 鉄砕牙はちゃんと身につけてないと!」

「いけません、犬夜叉様! 鉄砕牙を手放しては!」

私と家来は、同時に叫んで顔を見合わせた。

 

「月華様……まさかご存知なのですか? 鉄砕牙のもうひとつの役目を」

「――ああ、それはもちろん」

全く知らない。

正確には“犬夜叉は鉄砕牙を持っていなくてはならない”という意識はあるが……その理由を思い出せない。

「よく知ってるよ。でも説明するの面倒だし、冥加から教えてあげてくれない?」

「そ、それはなりません! 犬夜叉様のことじゃ、秘密を知ったら刀なんぞに頼るより、変化した己の爪と牙で闘おうとするに決まって……」

「あっそうそう! それだ、思い出した!」

脳に詰まっていた栓が外れた心地で膝を打つ。

「え゛?」

「二人とも、何の話してんだ?」

「犬夜叉、あのね……」

カマをかけられたことに気づいて呆然とする蚤妖怪を尻目に、私は弟に説明を始めた。

 

「――つまり、鉄砕牙はおれに流れてる妖怪の血が暴走して、理性のない化け物になっちまうのを防ぐ守り刀ってことか」

「うん。だから今はまだ扱えないとしても、ちゃんと持っていて」

思ったより飲み込みが早くて助かった、と失礼な感想は胸中に秘めて首肯した。

「ああ……バラしてしもうた……」

私の隣で冥加が大袈裟に嘆息する。

「何よ。道具の機能を把握するのは、使い手の権利であり責務でしょう」

どうせなら鉄砕牙に取扱説明書でも括りつけておいて欲しいくらいである。長編物語の後付け設定よろしく情報を小出しにされても、ユーザーが迷惑するだけだ。

「それに犬夜叉は、自分の心が喰われる危険性を知ってまだ変化しようとするほどバカじゃないもの」

ね?と弟に同意を促して――私は少年の深刻な表情に戸惑った。

「おれにはやっぱり……無理なのか?」

「……?」

俯いて刀を握る犬夜叉の手に、力が篭る。

「半妖のおれは、父上の刀に守ってもらうだけで、使いこなせないのか? 姉上みたいに強くなれないのか?」

「……プッ」

「なっ、なにが可笑しいんだよ!」

「ごめんごめん、だって――犬夜叉は私なんかよりずっと強いのに、そんなこと言うから」

「へ……?」

「じゃあ、ちょっと昔の話をしようか。犬夜叉と会う前の、私の話」

腿の上に頬杖をついて、視線を下方に移す。

頼れる姉を気取ってきた私としては、かなり恥ずかしい。

けれど、犬夜叉を鍛え導くはずだった父は既に亡く、父の心を推し量れるほどの関わりを持てずじまいの私が弟に伝えられるのは、自分の言葉だけだ。

「私はね、昔……何もかも諦めて生きてたの」

犬夜叉が小さく息を呑む気配がした。

「自分には何も出来ないって最初から諦めて、何かをしたいって願いさえ持たない。私はそんな、弱っちい情けない奴だった」

「……どうしてだよ」

弟にとっては予想だにしない告白だったのだろう、半ば呆然と問うてくる。

「う~ん、生まれつき? まあそんなワケで、ずっと虚しい毎日を過ごして――そんな自分が大嫌いだった」

だから犬夜叉は、私みたいになってはいけない。

この先どんな道を進むにせよ、自分に誇りを持って生きて欲しい。

「初めて会った時のこと、覚えてる? あなたは妖怪に追い詰められて、でもその目は諦めていなかった。心は敵に屈していなかった。もし私があなたくらいの年頃に同じ目に遭ってたら、多分逃げることすらせず、死んでラクになろうとしたんじゃないかな」

言葉を切って、顔を上げる。

「犬夜叉、あなたの心には牙がある。絶望的な状況であっても諦めず敵に食らいつく、決して折れない牙を、あなたは心に持っている……私はそう思う」

「心に、牙……」

呟いて、犬夜叉は自分の胸元に手を置いた。

「肉体の強さは、時間をかけて正しい修行を続ければ得られる。でも心の強さはそうはいかない」

その稀有な強さを持っているのが、犬夜叉だ。

“努力は報われる”だの“正義は勝つ”だのといった都合の良い法則のない、無慈悲な現実の世界に並んで立てば、その在り方に畏敬の念すら抱く。

「犬夜叉のこと、私はいつもすごいって思ってる。だから焦らなくても、あなたは必ず強くなれるし、鉄砕牙も使いこなせるように……」

「~~っ、うるせえ! もういい、わかった!」

「うる……!?」

黒歴史まで開陳して励ましてやったのにうるさいとは何だこのクソガキ――と怒ろうとして、少年の頬が真っ赤になっているのに気づいてやめた。

犬夜叉はそのまま私に背を向けて、我武者羅に素振りを始める。

(……やれやれ)

反抗的な態度に腹の立つことも多いが、こういうわかり易い反応をするせいで憎めないのだ、この弟は。

「いやあ、さすが月華様。貴女様なら犬夜叉様を正しく導いて下さると信じておりましたぞ」

「ウソおっしゃい」

したり顔で頷く蚤妖怪を指先で潰すと、朝餉の支度のために立ち上がった。

犬夜叉は相変わらず力任せに刀を振り回している。

あれでは修練になるまいが、それを指摘してもますます恥ずかしがるだろう。

(落ち着くまで、一人にしておくか)

ちょうど食材が尽きていたことだし、朝食を済ませたら隣の山まで鹿を獲りに行こう。

青草をたっぷり食んだこの季節の鹿肉はたいそう美味だ……などと呑気なことを考えていた私は、数時間後、この判断を心底後悔した。

 

弟を育てることのみに尽力したこの数年間で私は――兄のことをすっかり忘れていたのである。

 

 

眼前に、月華の立ち姿を思い浮かべる。

中段に構えて、おれが斬りかかるのを待っている。

「――ッ」

袈裟懸けに斬り下して――躱される。

鳩尾を狙った突き――防がれる。

おれが、斬られる。

(……くそっ)

姉を仮想敵に据えた形稽古を続けて、気がつけば太陽はやや傾き始めていた。

納刀して、未だ追いつけない師匠たる異母姉に思いを馳せる。

月華は、強い。

技の練度も、疾さも、いや、それ以上に――

(心が強いのは、姉上だろ……)

 

半妖とは、人間からは忌まれ、妖怪からは蔑まれる存在だ。

そのことは、物心ついてからの数年間で嫌というほど思い知った。

だからこそ、一緒に暮らそうとする異母姉の提案には戸惑った。

おれは半妖だ、それでも良いのか――そう問うおれに、月華は、こう答えたのだ。

 

「それが、何なの?」と。

 

今でも鮮明に思い出せる、あの声。

静かな声だった。

優しい声だった。

――世界に叛逆するような声だった。

 

おれは自分の居場所を手に入れる力が欲しかった。

本物の妖怪になれたらそれが叶うのに、と思っていた。

 

しかしそれは、人間でもない、妖怪でもない半妖に居場所はない――そんな世界の理を受け入れ、諦めた考えではなかったか?

 

姉は違った。

“半妖の存在を否定する世界”の中で自己を否定していたのがおれだとすれば、あの時の月華は、世界の方を否定したのだ。

そんな姉が、昔は弱かったなどと聞かされても悪い冗談としか思えない。

(でも……)

本人が言うように、かつて弱かった月華が、おれの知る今の強い月華になったというのなら――

(おれも強くなると信じられる。強くなって、姉上と……)

「い、犬夜叉様! 犬夜叉様~~!!」

夢想は、泡を食った呼び声に断ち切られた。

姉に潰された後、風に乗ってどこかに飛んでいってしまっていた蚤妖怪がピンピンと跳ね寄ってくる。

「んだよ、冥加じじい」

「説明している暇はありません! 今すぐお逃げください!」

「ああ?」

かつてなく慌てた様子の冥加に眉根を寄せた次の瞬間――地響きとともに、大気が震えた。

「これは……結界が破られたのか!?」

この屋敷を中心とした一帯は、姉によって結界が施され、外敵の侵入を阻んでいる。

それが破られたということは即ち――月華と同等かそれ以上の妖怪の襲撃。

「……!!」

さして苦労することもなく、侵入者の姿は確認できた。

小山ほどもある鬼が、木々をなぎ倒し、湖水を波立たせて迫ってくる。

しかし、結界を容易く無効化するほどの妖力を発しているのは鬼ではなく……その肩に優雅に腰掛け、こちらを睥睨する男だ。

 

「――貴様が犬夜叉か」

 

その声と視線に込められた感情は、おれにとって馴染み深いもの――嫌悪と侮蔑に満ちている。

金色の眼差しが、腰に差した鉄砕牙に這い、一際剣呑さを増して眇められた。

全身の毛が逆立つような強烈な妖気を帯びたまま、男がゆるりと立ち上がる。

「――ッ!」

刹那、五感を超えた直感が、体を背後に跳躍させた。

「ふん……多少は鍛えられていると見える」

一瞬前までおれがいた場所に降り立った白銀の妖怪が、つまらなそうに言う。

あとわずかでも飛びすさるのが遅かったら、完全に間合いを奪われていた。

「ってめえ、いったい何なんだ!? 何しに来やがった!」

背筋を伝う冷たい汗から意識を引き剥がして怒鳴るおれの耳元で、冥加が“あー!”だの“わー!”だの叫ぶ。

「犬夜叉様、殺生丸様に逆らってはなりません! 殺されてしまいます! あのその、殺生丸様、本日はどのようなご用件で……」

「知れたこと。あの気の触れた女に、申し開きくらいはさせてやろうと思ったが……どうやら不在のようだな」

「冥加じじい、こんな奴にペコペコしてんじゃねえっ!」

気の触れた女、というのが何者をさしているのか不明だが、この妖怪の目的がなんであれ、姉と暮らす場所を無遠慮に踏み荒らされるのは我慢ならない。

「てめえが何様だか知らねえが、ここは姉上の領地だぞ! 勝手に入ってくるな!」

その時、男の足元から緑色の小さな妖怪――あまりにも矮小で今まで認識できずにいた――が顔を出してせせら笑った。

「物知らずの半妖が大きな口を叩くでないわ! よく聞け、こちらにおわす殺生丸様と月華様は血を分けた御兄妹よ。兄が妹を訪ねて何が悪い!」

「黙れ、邪見」

「え!? は、はいスミマセン……」

“虎の威を借る狐”という表現がぴったりの小妖怪は、見る間にしゅんとなって後ろに下がる。

それを視界に入れることすらないまま、殺生丸と呼ばれた妖怪は冷淡に吐き捨てた。

 

「人間などという卑しき生き物を母に持つ半妖……一族の恥さらし者を引き取った挙句、鉄砕牙を与えた愚かな女を、もはや妹とは思わん」

 

「――――」

月華の兄。

それはつまり、自分にとっても異母兄ということだろう。言われてみれば、たしかに妖気の質も、匂いも、姉とよく似ている。

しかし、姉に出会った時に抱いたような親しみや喜びは微塵も感じない。

今のおれにあるのは、腸が煮えくりかえるような怒りだけだ。

「姉上は、愚かなんかじゃねえ……!」

“あなたは私の弟だ”と言って微笑みかけてくれた月華。

勉学を怠けると口やかましく怒るし、鍛錬では容赦なく痛めつけてくる――けれどいつもおれと真っ直ぐに向き合ってくれている月華。

それを貶められるのは、自分が蔑まれるよりずっと許しがたい。

「今すぐ取り消せ! 姉上は頭が良くて、強くて」

「半妖風情があやつを語る言葉に、何の価値もないわ」

肩をいからせて捲し立てるおれに、殺生丸は傲岸に言い放つ。

「……だったら黙らせてみやがれ、クソ野郎!」

「――ほう?」

金の双眸に、嘲笑が滲んだ。

「よかろう。……鉄砕牙は貴様ごときが持つ刀ではない」

冷たい殺意を漲らせて、殺生丸が爪を鳴らす。

冥加が何か叫んでいる気がするが、聞こえない。

こちらも爪を構え、姉の怒りがぬるま湯に思える脅威に向かって一歩踏み出し――耳を聾する轟音にたたらを踏んだ。

 

殺生丸の連れてきた大鬼が、粉砕されている。

内側から稲妻で灼き尽くされたかのごとく炭化した肉片を爆ぜ散らすその向こうに、よく見知った姿。

「姉上……」

「…………」

殺生丸が、首を巡らして月華を睨み据える。

その視線は、おれに向けたのと変わらぬ敵意に満ちているようで――蟷螂の斧を振る半妖に対する嘲りは失せ、別のものを含んでいるように感じられた。

しかし、そのことについて深く考えるよりも先に、けたたましい笑い声におれは当惑した。

 

「あぁーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」

 

それは今まで聞いたことのない、姉の哄笑だった。

 

 

Q. 人生相談です。 外出から戻ったら、異母弟と実兄が父の遺産相続でモメて一触即発状態になってたんですが、こんな時どうしたらいいでしょうか?

――A. 笑えばいいと思うよ。

 

「あっはははははっ!」

 

内心の焦りを隠してゆっくりと歩を進める。

人前でこんなふうに大口を開けて笑うことなど、今生はおろか前世でも無かったように思う。

うまく笑えているか不安だったが、どうにか全員の注意を惹きつけたまま、犬夜叉と殺生丸を遮る位置に立った。

「――月華、何が可笑しい」

冷ややかな兄の問い。私は笑う。まだ笑う。

「ははっ、何がもなにも……」

私は嗤いながら――言葉(バクダン)を投げつけた。

 

「急に結界を破って押しかけて来たかと思えば、たかが刀一本のことで、弟相手に大人気なくみっともなく目くじら立てておられるなんて――兄上、あなたがそんなにケチなお方だったとはちっとも存じませんでした! あの世で父上もさぞ呆れてらっしゃるでしょう! おっかしくて仕方ありませんわ、あーっはっはっはっはっ!」

 

「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」

 

地獄絵図であった。

「は……? えっ……?」

なおも腹を抱えて笑い続ける私に、邪見は言葉もなく、目と口を大きく開いたまま硬直している。

「げ、げ、げ、月華様……!」

冥加は逃げることすら忘れて、犬夜叉の頭上で青くなって身を震わせている。

「…………」

弟は、従者二人に比べると肝が据わっているらしく、険しい顔つきで私と兄とを見比べている。

 

殺生丸は――能面の如き無表情。

しかして、その殺気は凄まじい重圧となって周囲を満たす。

 

「……ようもほざいた。それが貴様の本心か」

 

灼熱の嚇怒を孕んで凍りついた声音。

殺生丸の妖気が渦を巻く。

見開かれた双眸は、禍々しい血の色に染まっている。

 

「この殺生丸を愚弄した罪、その命で贖うが良い――月華!!」

 

巨大な化け犬へと変化を始める兄の姿。

(あー、あんな大きな口で噛まれたらバラバラになっちゃうかもな……)

だが、これでいい。

これで完全に殺生丸の矛先は私に向いた。

まだ鉄砕牙を使えない幼い犬夜叉では勝ち目がない。

犬夜叉が眼中にない今の状態ならば――自分でも、時間稼ぎくらいはできるはずだ。

「はー……さて犬夜叉、私は兄上と遊んでるから、あなたはちょっと離れてなさい。急いで、なるべく遠くまで」

恐怖と興奮が混ざり合って、本当に可笑しくなってきた。

演技抜きの笑いの発作に耐えながら、犬夜叉の肩に手をかけ、逃げるように促し――

 

「いやだ」

「え?」

 

断られた。

 

「姉上、おれを逃がして一人で戦うつもりなんだろ!? そんなのダメだ!」

「バ、バカ、なに言ってるの、ここにいたらあなたまで殺され――」

言い終わる前に、変化を終えた兄の前足が、二人まとめて叩き潰さんとばかりに振り下ろされる。

咄嗟に犬夜叉を抱えて屋敷の屋根に跳躍するも、今度は巨大な顎がその屋根を齧りとる。

「お願いだから逃げて! 私のことはいいから!」

「いいワケないだろうが!!」

犬夜叉は懇願する私の手を振り払い、牙を向いて迫り来る殺生丸と対峙した。

爪から滴る毒は地面を灼き、濃密な妖気は霧となって空を覆う。

それら一切に怖じることなく、犬夜叉が鉄砕牙に手をかける。

「姉上は、殺させねえ……!」

巌のごとき意志を滾らせる、弟の声。

 

ドクン――と。

 

私はたしかに、鉄砕牙が脈打つ音を聞いた。

 




十話で過去編が終わると言ったな、あれは嘘だorz
キリが悪いですが11(ワンワン)ってことでご勘弁を。


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第十一話

どこかで、ねぐらに帰る黒鶫が鳴いている。

私と犬夜叉は、摘んできた百合の花を“いざよい”とつたない字で刻まれた墓石の前に置いた。

そのまま並んで手を合わせる。

犬夜叉は毎日欠かさず参っていたが、私は最初に埋葬を手伝った時以来だった。

自分と彼女の関係がどうにもビミョーな気がして遠慮していたのだが、この地を離れるのに挨拶なしというわけにはいかない。

「ここが無事で良かったな」

「本当だね」

弟の言葉に、深く頷く。

十六夜の墓は、橙色の夕日を受けて、八年前から変わらぬ静けさで佇んでいる。

人と妖怪の垣根を越えて父を愛し、犬夜叉を生んだ、優しくて強い女性。そんな人の眠りが妨げられずに済んだ幸運を思えば――

 

屋敷が全壊して水没したなんて、些細なことである。

 

 

 

第十一話 誓いを交わしました

 

 

 

犬夜叉が抜き放った鉄砕牙は、巨大な牙に変化し、殺生丸の左腕を切り落とした。

……兄が敵に背を向ける姿など、今まで見た者はいないだろう。

その見物料が、慣れ親しんだ住居の、戦いの余波による喪失というのはまったくもって割に合わないが。

(まあ、仮に無事だったとしても、ここにはとどまれなかったけどね)

あの殺生丸が、自分に敗北を味わわせた相手を捨て置くことなど有り得ない。まして、鉄砕牙は兄が何よりも執着する父の形見。

雪辱を晴らしに来るのが確定している敵に、所在を掴ませたままにするなど愚の骨頂。

だから、私たちはここから旅立つ。

(ごめんなさい……でも、いずれまた戻ってきます)

かつて見た、病に侵されてなお美しかった姫君の姿を瞼に浮かべ、心の中で約束する。

私の追憶を読み取ったかのようなタイミングで、犬夜叉が言った。

「昔、薬を届けてくれたの、姉上だったんだろ」

「――知ってたの?」

「そうなんじゃないか、ってなんとなく。初めておれが人間になった姿を見た時、全然驚かなかっただろ。それどころか“寝ないんだったら手習いでもやれ”ってよ」

「こうしてお墓の字と比べると、今は少しマシになってるね」

「うわ、ムカつく」

顔を見合わせて、お互いぷっと吹き出す。

「ありがとな。……母上に、会ったら礼を言ってくれって頼まれてたのに、改まって確かめる機会が無かったぜ」

「――ありがたがられるほど、役には立たなかったでしょう」

ほろ苦い後悔の念に、目を伏せる。

あの当時、定められた結末を覆すのは不可能と見切りをつけた。

しかし、自分がもっと積極的に十六夜の寿命を伸ばすべく行動していたなら、あるいは犬夜叉は、あれほど早くに母を失わずに済んだのではないか。

生きた十六夜とともに、この土地で三人で暮らす――そんな未来すらあったかもしれない。かくも前世の記憶にある物語と、現実の時間軸が乖離した今となっては、そう思う。

忸怩たる気分で膝に顎を乗せていると、弟がむっとした様子で否定した。

「んなことねえよ。母上は、自分のこと幸せ者だって言ってたぜ。おれたちのことを思いやってくれる誰かが、この世にはいるんだって」

「……」

「母上は、薬を持ってきてるのが妖怪――父上と関わりのある相手だって薄々気付いてたのかもな。あれだけ罠仕掛けたのに一つも引っかからないなんて、人間ワザじゃねえし」

「改まって文句言う機会が無かったから今言わせてもらいます、アレは妖怪でも大変だった」

「う……まあそれはともかくっ、母上はいつか、おれがソイツに会えるって信じてたんだ。母上の死に顔が安らかだったのは――多分、ソイツがおれを助けてくれるって信じてたからだと思う」

「――――」

十六夜の最期。それは今まで考えたことがなかった。

母親の臨終の様子など尋ねて良いものではないと思っていたし……私自身が、知るのを避けていた。

(でも……そうか)

幼い半妖の子供を残して逝かなければならない母親の無念を、不安を、少しでも取り除くことができていたというのなら――私の行動は、無駄ではなかったのだろう。

「ありがとう。その話、聞けてよかった」

重い荷物を一つ下ろした心地で立ち上がり、背中を伸ばす。

長く一緒の時間を過ごしていても、言うべきなのに言いそびれた話、聞くべきなのに聞きそびれた話、というのは案外あるものだと実感した。

「……さて、犬夜叉」

「ん?」

目顔で弟に立つように促す。

何か不穏な気配を感じたのか、怪訝そうに従う弟と向かい合う。

「ここを発つ前に、あなたに言っておかなきゃならないことがある」

勢いよく犬夜叉の両肩に手を置くと、少年の体がビクッと強ばった。

「――今のあなたの実力で、兄上と戦うなんて自殺行為、二度としないこと」

「なっなんだよそれ……いででで!?」

無意識に力が入っていたらしい。私の爪が食い込む痛みに弟がもがくのを無視して続ける。

「鉄砕牙はたしかに変化した。でもそれを振るうあなたは刀の大きさと重さに振り回されていた。あんな状態で勝てたのは、犬夜叉に鉄砕牙を使いこなせるわけがないと高を括っていた兄上の不覚によるもの。同じ状態で次に戦ったら、太刀筋を見切られて、腕を奪われるのはあなたの方」

それが、剣の師としての私の忌憚のない評価だ。

結界に守られた土地を出て、数多の妖怪が跋扈する外界を行く前に、驕りの芽は摘んでおかなければ。

「たしかに私はあなたの心の牙を評価してるけど、無策で噛み付いちゃいけない相手ってのはいるの。兄上は間違いなくその最たるものなんだから。……心の強さに体が追いつく前に死んだら、何にもならない。そうでしょう?」

「わ、わかったわかった! ――くそっ、なんだよ、おれが折角……」

拗ねた表情で少年がぶつくさと独りごちる。

――私は、そんな弟を抱きしめた。

「うん、犬夜叉が私を助けるために頑張ってくれたのはわかってる。でも……それよりも私は、あなたが無事だったことの方が嬉しい」

「姉上……」

自分より高い犬夜叉の体温。弟が生きているという実感に身が震える。

犬夜叉と暮らすようになって以来、前世の記憶はどういうわけかひどく朧げになったが、それでも鍵になる言葉や出来事によって蘇ることがある。

兄の襲来は、その鍵となって私の脳裏に一つのシーンを思い出させた。

犬夜叉が、殺生丸の手に背中から腹まで貫かれる姿を。

現実の世界で弟があんな目に遭わされるのを見るくらいなら――

 

「……私が殺される方がずっといい……」

 

それは無意識にこぼれた、本心からの言葉だった。

腕の中で、少年の呼吸が乱れた――と思った次の瞬間、弟が激しく身をよじって、抱擁を解く。

「――――姉上のバカッ!!!!」

「バ……!?」

いやそりゃ最近こういうスキンシップは照れて嫌がるようになってたけどそんな全力で怒鳴ることなくない――などと的はずれな不平を鳴らしていた私の脳は、犬夜叉の顔を見て、兄と弟が対峙しているのを認識した時以上の衝撃を受けた。

 

眉を吊り上げて私を睨む犬夜叉の瞳から、透明な雫が溢れ、夕映えに照らされた頬を伝っている。

 

「自分が殺される方がいいって、何だよ、そんなつもりでアイツに喧嘩売ったのかよ。おれは、そんなことされてもちっとも嬉しくねえ! バカだ! 姉上は大バカだ!」

「――――」

「おれは、言われなくたってわかってる。自分がまだ姉上の足元にも及ばないってことも、外の世界は敵だらけで、あの殺生丸みたいな、半妖を見下す妖怪が普通で、姉上みたいなのが珍しいんだって、ちゃんとわかってる。でも――」

激情に息切れしながら、弟は叫ぶ。

「そんな世界でも、おれは立ち向かいたいって思ってるんだ! 強くなって、姉上と一緒に戦いたいって思ってるんだ! なのに――いつまでもおれを子供扱いするなよ。おれを、置いていこうとするなよ……ッ……!」

 

頭をハンマーで殴られた気分だった。

いや、実際、こんなシロップみたいな甘ったるい自己陶酔に浸った頭は一度カチ割った方が良いのだろうが……残念ながらこの場にハンマーは無く、そもそも両腕を、私にしがみついて嗚咽する犬夜叉に押さえられていた。

なので、せめてもの誠意として、心から謝罪する。

「……ごめんなさい、犬夜叉。あなたの言うとおり、私のほうが馬鹿だった」

何を賢しらに弟に説教していたのか。

全力を尽くしても及ばず死に至ることはあろう、しかし最初から己を捨石として敵に挑むなど――後先考えず敵に噛み付く犬夜叉よりよほどタチが悪い。

命を擲ってでも誰かを救うと言えば聞こえは良いが、それは遺される者の嘆きを考えない、無責任な自己満足なのだ。

相手の命は救えても、心は救えない。

(そうだ……私はまだ死ねない。死にたくない)

弟を独りにしたくない、世界に叛いてでも、犬夜叉の味方になりたい――それが私の願いだ。

その願いを遂げようと思うなら、私はあらゆる手段を講じて生きなければならない。

真に誰かを守りたいと願うなら、まず自分を守らなければならないのだ。

「あなたを置いて死のうなんて、もう絶対考えないから、泣かないで」

「泣いてねえっ」

「……そう」

顔を伏せたまま間髪入れずに返す声はまだ掠れていたが、それでも少しずつ落ち着きを取り戻しているようだった。

その意地っ張りな声に、本当に犬夜叉は大きくなったのだ、と感じる。

犬夜叉の言葉は、全て正しい。

私が思う以上に、この少年は自分の頭で色んなことを考えられるようになっていたのだ。

それに気づけなかったのは、弟に自分の意志で進む道を決められるように育ってほしいと望みながら、そこに私の覚悟が伴っていなかったせいだろう。

弱い者は虐げられ、異なる者は疎まれる残酷な世界に、弟を立ち向かわせる覚悟が。

しかし犬夜叉はもう、安全な巣の中で、私の羽の下で守られる雛鳥ではないのだ。

私が盾となって危険から遠ざけようとしたところで、弟はそれを喜ばない。

犬夜叉が望むのは――共に剣を執って戦うことだ。

「犬夜叉……私はあなたの親がわりはもうやめる。あなたを守って、自分だけ戦うなんてもうしない」

「…………」

弟は私の言葉を黙って聞いている。

「これから先、戦う時は一緒に戦う。私の力をあなたに貸すと同時に、あなたの力を私は借りる。二人一緒に生き残るために戦って勝つ……世界に立ち向かう相棒になる。だから、今日のことは許してくれる?」

犬夜叉は水干の袖で乱暴に顔を拭いながら頷いた。

「……ああ、いいぜ」

「ありがとう」

「絶対だからな、約束だぞ」

念押しして、立てた小指を差し出してくる。

指切りは、犬夜叉が小さい頃から続く、明日は何が食べたいだの、何をして遊びたいだのを決めた時の習慣だ。

いつもどおり指を絡めようとして、ふと止める。

「……指切りで約束ってのも、もう子供っぽいね」

「っ! そそそそうだよなおれも前からそう思ってたぜ! でも姉上がしたそうだから仕方なく付き合ってやってたんだ!」

犬夜叉が真っ赤になって手を引っ込め、言い訳する。――これは笑ってはいけないヤツだ。

「うん、そうだね。でも、もっと良い約束の仕方があった」

「……どんなだよ」

「昔、師匠から教えてもらったの。……金打っていうんだけど」

それは、金属製の物を打ち合わせて誓いの印とする習わしだ。

女なら鏡、僧侶なら鉦などだが――武人は、刀だ。

「命を賭けて戦う者にとって、武器は自分の分身のようなもの。自らの魂にかけて誓いを立てるなら、それは何があっても破られない、破ってはいけない。もし破ったら、その時はその刀で斬り殺されても異存はない――そういう覚悟の証なの」

私には顕心牙があり、犬夜叉は今日、鉄砕牙を己がものにした。

共に戦うことを決めた旅立ちの日に、これほどふさわしい誓約法はあるまい。

「おおー……」

犬夜叉も、不機嫌に顰めていた眉を解き、感心したような声を漏らす。かすかに頬も紅潮しているようだ。

――大人かと思えば子供で、ひねくれているかと思えば素直。

「やっぱり中学二年生(そういう年ごろ)か……」

「ん? 何か言ったか?」

「いや何も。ほら、刀を抜いて」

抜き放った顕心牙の峰に額を押し当て、誓句を紡ぐ。

「――顕心牙にかけて誓う。私はこれから、犬夜叉を背に庇うのではなく、肩を並べて共に戦う者として在ることを」

「ああ、おれも誓う。おれはこの鉄砕牙で、姉上と一緒に戦って強くなる」

弟が鉄砕牙を掲げて応じる。

 

宵の明星が輝く紫紅の空の下で。

 

私たちは、互いの牙を打ち鳴らした。

 




金打は現実世界では江戸時代の風習ですが、この世界には既に存在する、という設定でお願いします。

皆様お待ちかね(?)姉貴呼びは次回、原作編からです。


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第二章
第十二話


二ヶ月以上放置した挙句短くてごめんなさい……!
仕事が忙しくて、年明けまで帰って寝るだけの日々なので更新が遅くなります。
いただいた感想は全てやる気としてチャージしておりますので、しばらくお待ちいただければ幸いです(土下座


夜明けの空は、瑠璃色だった。

夜明けの海も、瑠璃色だった。

断崖に立つ女妖怪の髪――潮風に煽られる白銀は、空と海の色を背景にして、目に痛いほど鮮やかに映った。

 

「浅葱姉ちゃん……」

あたしの手を握りながら、藍が不安げに呼びかける。

その小さな手を握り返しながら、けれど応える言葉は思いつかなかった。

それはあたしだけじゃない。

生き残った大人たちも皆、恐怖と緊張に押しつぶされそうなのだ。

波と風の音だけが響く中、ただ彼女の背を見つめる。

 

月華と、犬夜叉。

五十年に一度だけ外界と繋がるこの蓬莱島を訪れた、妖怪と半妖の異母姉弟。

しかし彼らを歓迎する間もなく、四闘神を名乗る四体の恐ろしい妖怪によって、島は蹂躙された。

人と妖が平和に暮らす楽土の滅亡を目前にし、大人たちは自らの命を四闘神に差し出すことで、あたし達を生き長らえさせようとしたのだけど。

 

「バッカじゃねーのか、お前ら」と、半妖の弟は切り捨てた。

「そんなの、一度に殺されるか、順番に殺されるかの違いじゃない」と、妖怪の姉は一蹴した。

 

戦って四闘神を倒す――それが、姉弟の結論だった。

ずっと結界に守られて暮らしてきたあたし達に、命懸けの戦いなんて想像もつかない。

半ば強引に協力を承諾させられた島の住民の不安が、重苦しい沈黙を生んでいた。

 

「――この島は」

あたし達に背を向けたまま、女妖怪が言葉を発する。

「不老不死の者が住まう伝説の島、と聞いていた」

独り言めいた淡々とした口調。

けれどその声には、周囲の者を捉えて離さない深みがあった。

「来てみたら、意外と普通で、意外と頼りない連中しかいなかったんで驚いたけどね」

その揶揄に、反論できる者はいない。

彼女のような大妖怪からすれば、あたし達は皆、さぞかし弱々しく見えるんだろう。

「……でも」

情けなさに俯いていると、彼女の言葉は逆接して続く。

「戦いを、死を恐れるのは、あなた達が生きたいと思っている証拠だ。――私と、同じく」

ハッとして顔を上げる。

相変わらず、その背中は凛として揺るぎない。

「私はこうして、この世に生きる大勢の同志と出会えて嬉しく思っている。だから、あんな堕ちた神獣風情に、決して奪わせはしない」

……胸の裡に風を感じた。

それは、彼女の言葉がもたらした高揚。

彼女は間違いなく、この島の誰よりも強い。

そんな月華が、あたし達を“同じ”だと言った。

死を恐れないから戦うのではない、死を恐れるがゆえに戦って生きようと望むのだと。

 

「僕たちは、勝てるの……?」

「ったりめーだろ、バーカ」

紫苑の気弱な問いかけに答えたのは、月華ではなく、異母弟の犬夜叉だった。

あたし達と同じ、人と妖の間に生まれた半妖。けれど、集まった島民たちの頭上を飛び越えて彼女の隣に降り立ったその姿は、妖怪の姉と同じくらい堂々として見えた。

 

「俺たちが組んだら絶対負けねえ! ……いいかガキども、ちょうどいいから教えてやる。半妖だからって妖怪に劣ってるわけじゃねえし、人間に劣ってるわけでもねえ。おれは――それを証明してみせる」

 

弟の言葉を聞く姉の横顔に浮かぶ、かすかな笑み。

その眼差しには、偽りのない信頼と賞賛があった。

 

静かな闘志が、周囲に満ちていく。

……今までずっと、蓬莱島だけが、人と妖と、半妖が共に生きられる場所だと思っていた。

だからその崩壊に瀕して、皆、戦う前に絶望した。

この島が滅びるなら、生き延びたとて居場所はない――ならば蓬莱島と運命を共にしたいと、諦めていた。

 

朝日が、金色の輝線となって空と海を分断する。

こちらに向き直った二人の姿は、黎明の光を背負って黄金に輝いていた。

 

「新たな伝説を刻むのに相応しい幕開けだ。――さあ、神殺しと洒落込みましょう」

 

それは、天の下すべてを己の居場所と為す、覇者の姿だった。

 

 

 

第十二話 原作が始まってました

 

 

 

眼下の平野で、槍を持った兵たちが激しく入り乱れている。

私は戦場を俯瞰できる小高い丘に生えた松の枝に腰掛け、その光景を眺めていた。

弟も隣で幹に背を預けて、真剣な眼差しで人間たちの命のやり取りを見つめている。

鉄の臭い。土の臭い。血の臭い。

それらが織り成す戦いの空気を感じ取る。

よくある小規模な合戦、いつもの戦場見物。

「……お」

「あれ?」

声を上げたのは、二人ほとんど同時だった。

違うのは、その声の質。

犬夜叉は少し得意げに、私は――不本意さを滲ませて。

戦場にはためく、二種類の旗。その一方が劣勢となり、後退していく。

 

合戦を見物する時、私たちは事前に展開を予想し合う。

戦況が動くのはいつか、仕掛ける隊はどこか、そして勝つのはどちらか……などなど。

勝負事に対する勘を養う一助になればと思ってやっていることだが、予想の的中率は私が圧倒的に上だ。

しかし今日。

この時刻は、仕掛けた隊は、勝鬨を上げている軍は、すべて弟の読みと一致している。

「あなたが全部的中させるなんて、珍しい。今夜は雨……いや、星が降ってくるかもね」

私の言葉に犬夜叉は一瞬顔を顰め、けれどもニヤッと犬歯を見せて笑いながら切り返した。

「全部どっ外すなんて、そろそろトシなんじゃねえか? 姉貴」

「……」

無言で弟の首を狙って手刀を繰り出す。

鋭い風切り音。

しかし少年は私の爪が触れるより先に枝から飛び降りていた。

それを追って、私も地面に降り立つ。

柔らかい春の草原を踏み散らしながら追い縋れば、お返しとばかりに犬夜叉の拳が振るわれる。

即座に腰を落として、頭上を弟の腕が通過すると同時に足払いをかけた。

体勢を崩した所を狙って鳩尾に掌底をお見舞いしようとしたが、逆に手首を掴まれた。

そのまま取っ組み合って地面を転がる。

「ピチピチのお姉さまを年増呼ばわりとは、図体だけじゃなく態度まで大きくなったものね、犬夜叉!」

「けっ、なーにがピチピチだ、おれより何年余計に生きてやがる!」

お互い悪態をつき、相手の頬をつねりながら、目は笑っている。

よくあるやり取り、いつものじゃれ合い。

私の揶揄に応じて犬夜叉から始めることもあれば、今日のように弟の憎まれ口を受けて私が始めることもある。

どちらも同じ――本気で腹を立てて喧嘩するのではなく、思い切り体を動かして遊ぶ口実に過ぎない。

(私、前世は完璧なインドア派だったんだけどなあ……)

屋敷を失い、諸国を転々とするようになってから、いったいどれほどの月日が過ぎたのか。

刀による立合いであれば、兄上対策としてお互い真面目にやるのだが、素手の組打ちは完全に娯楽となっている。

昔は、じっとしていられないタチの弟に仕方なく付き合ってやっている認識でいたものの、今は自分もけっこう楽しい。

――命を奪い合うでも、悪意を向け合うでもなく力を振るえる相手がいるのは、幸せなことだと思う。

 

そんな、武者修行として姉弟二人で旅をする日常の、変わらない一幕……だったのだが。

「あ……?」

不意に犬夜叉が、怪訝そうな声を漏らす。

「どうかした? 犬夜叉」

私は弟の両腕を掴み、膝で腹の上に乗った状態で首を傾げた。

犬夜叉の馬鹿力は、私がこれだけきっちりマウントを取っても、背筋と脚力を駆使して脱出できる。

普段ならまだほんの小手調べ。ここからさらに激しい技の応酬に発展していくのが常である。

しかし、少年は地面に背を押し付けた体勢で、何かに気を取られた様子で動きを止めたのだ。

「……星が降ってる」

「はあ?」

奇妙な呟きに眉を寄せつつ、私の肩越しに空を見上げる弟の視線を追って天を仰ぎ――自分もまた、硬直した。

 

うららかな晴天を、幾条もの鮮烈な光の矢が彩っている。

 

七色に輝いて弧を描くそれらは、なるほど夜空であったなら流れ星に見えただろう。

――真昼の流星群。

それだけでも充分に不可思議な現象であったが、私と犬夜叉は、妖の感覚で更なる異常を感じ取っていた。

煌きながら四方八方に散っていく星屑から発される、濃密な妖気を。

 

「姉貴……ありゃあ、なんだ?」

弟の問いに、私は正直に答えた。

 

「……わからない……」

 



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第十三話

明けましておめでとうございます(今更
今年も不定期&亀更新になるかと思いますが、よろしくお願いします。




(月って、こんなに明るかったんだ……)

 

あたしは、真円から少し欠けた月が照らしてくれる獣道を歩いていた。

見上げた夜空には、東京では決して見られない沢山の星がきらきらと瞬いている。

ここが、妖怪なんてもののいる戦国時代でなければ、とっても素敵な眺めなのに。

思わずため息をつくと、隣を歩いていた巫女装束のお婆さんから、気遣わしげに声を掛けられた。

「かごめ、やはりおぬしは村に戻った方が……」

「ううん、平気よ! 楓ばあちゃんこそ、怪我してるんだから無理しないで」

努めて明るく返したのだけれど、楓ばあちゃんは、布で吊った自分の腕を見下ろして、沈鬱に頭を振る。

 

「まったく、ままならぬものよ。わしがこんなに老いぼれた今になって、四魂の玉が再びこの世に出てくるとは。――桔梗お姉さまがわしを庇って死んでから、死に物狂いで霊力を高めてきたというのに……」

 

 

 

第十三話 ヒロインと遭遇しました

 

 

 

十五歳の誕生日を迎えた朝から、あたし、日暮かごめの日常は一変した。

祠の隠し井戸から出てきた化け物に引きずり込まれて、気が付いたら何も無い森の中。

一人で彷徨っているところを、今度は時代劇に出てくるみたいな格好の村人に「怪しいヤツ」と捕らえられてしまった。

そうして村に連れて来られてからがまた散々だった。

井戸から出てきた化け物――百足上臈があたしが持ってるとかいう“四魂の玉”を狙ってまた襲ってきたのだ。

脇腹に噛み付かれて、出てきたのはビー玉くらいの大きさの、不思議な光を放つ石。

その四魂の玉を呑み込んだ百足上臈は、妖力を増してより一層恐ろしい姿に変化した。

楓ばあちゃんが破魔の矢でやっつけてくれなかったら、あたしも村の人たちもどうなっていたかわからない。

バラバラになった肉片から四魂の玉を取り戻したのだけれど、それで「めでたしめでたし」にはなってくれなかった。

四魂の玉は手にした者の妖力を高めるあやかしの玉。

その力を求めて、次の日にはまた別の敵がやってきた。

野盗の頭目の死体を操る三ツ目の鳥・屍舞烏と、そいつに率いられた野盗の一団。

巫女が持つ霊力は妖怪相手には強力だけど、人間には効果がない。

楓ばあちゃんは野盗に斬り付けられ、屍舞烏はまんまと四魂の玉を奪い取った。

巣食っていた死体を捨て、天高く飛び去ろうとする屍舞烏に、あたしは矢を放った。

怪我をした楓ばあちゃんに狙いを定めてもらって二人がかりで射ったとはいえ、弓なんて触ったことも無かったのに命中したのは奇跡だと思う。

……その結果については、ちっとも喜べないけれど。

 

あたしの放った矢は、妖怪ごと、四魂の玉を打ち砕いてしまったのだ。

回収できたのは、屍舞烏の体内に残っていた一欠片のみ。

その一欠片すら、新たに現れた妖怪に奪われてしまった。

今あたしと楓ばあちゃんが目指しているのが、その妖怪の住処だ。

「――近いのう」

「うん……」

光る髪が幾本も、進行方向に集まっている。

獣道すらなくなり、ゴツゴツした岩だらけの斜面を楓ばあちゃんを支えて歩きながら、あたしはここへ来る途中で見た光景を思い出していた。

焚き火の周囲に散らばる、幾人ものバラバラになった死体。

……逆髪の結羅を名乗る、少女の姿をした妖怪があたし達を殺さなかったのは優しさでもなんでもない。

四魂の欠片より優先して排除するに足る脅威と認識されなかったというだけの話だ。

ノコノコと欠片を取り返すためにやってきたとなれば、向こうがどんな行動に出るかは火を見るより明らかだ。

どうしようもない不安にかられて、手に持った弓矢を見つめる。

結羅の犠牲になった落ち武者の傍らに落ちていたのを借りてきたけれど、何の練習もしていないのだから、まともに当てられる自信もない。

(桔梗って人だったら、こんなことにならなかったんだろうな……)

 

楓ばあちゃんが話してくれた、村を守る巫女だったというお姉さん。

四魂の玉を奪いに来た妖怪と戦って死んだ人。

「わしは今でも夢に見る……あの日、お姉さまが地割れの底に落ちていく光景を」

村を見晴らせる高台にある祠に花を備えながら、楓ばあちゃんは語った。

五十年前。

四魂の玉を狙って多くの妖怪が襲ってきたけれど、桔梗は並外れた霊力の持ち主で、その全てを葬り去ったという。

「子供だったわしは、桔梗お姉さまならどんな強い物の怪が相手でも負けるはずがないと、根拠もなく信じておったよ」

そんな妹の思いは、最悪の形で裏切られる。

「逃げ遅れたわしは片目を潰されて、その姿をしかと捉えることはできなんだが、あの日現れた妖怪は、それまでの妖怪と比べ物にならない邪気と瘴気を放っておった」

案内してもらった村外れの禁域には、草一本生えない荒地と、底の見えない地割れが広がっていた。

そこが、妖怪と桔梗が戦った場所で――桔梗が死んだ場所なのだと聞かされた。

「地割れの底には、奴の瘴気が満ちておった。裂け目は拡がり続けて、村を呑み込むかと思われたが、その前にお姉さまの放った矢が奴の体を砕いた……お姉さまが、命と引き換えに放った全力の破魔の矢がな」

そうして力尽きた桔梗は、四魂の玉を持ったまま瘴気の谷に落ち、骨も残さず溶けて消えた。

……あたしは、その生まれ変わりだって、楓ばあちゃんは言う。

 

不意に、楓ばあちゃんが足を止めた。

「かごめ、おぬしはここで隠れておれ。わしが行く」

「ええ!?」

夜更けの山に、あたしの声は大きく響いて、慌てて口元を押さえる。

「……どうしてよ。一人でなんて、危ないわ」

「わからぬか? この先に、複数の妖気を感じる。逆髪の結羅だけではない、他の妖怪がいるのだ」

「だったらなおさら……」

言い募るあたしを制して、楓ばあちゃんは続ける。

「わしは桔梗お姉さまが死んでからずっと、後悔しておった。あの頃の自分にもっと霊力があれば、お姉さまを助けられたかも知れないのに……そう思っておった。生まれ変わりのおぬしを守れなんだら、わしはまた後悔する」

「…………」

あたしを心配しての言葉なのは、痛いほど伝わってきた。でも……

「あたしはかごめ。桔梗じゃないの。今まで助けてくれたおばあちゃんに何かあったら、あたしが後悔するわ」

笑って、あたしは駆け出した。

「か、かごめ……!」

「心配しないで。様子を見て、危なそうだったらすぐに戻るから!」

 

 

四魂の欠片の気配を辿って草薮を抜けると、その先は崖になっていた。

結羅の髪は、谷底へ続いている。

(どうしよう……)

引き返して別のルートを探そうか、と逡巡したその時。

 

「――風の傷!!」

 

地響きとともに、眩い閃光が周囲を照らした。

(な、なに……?)

木立を揺らす突風がおさまってから、おそるおそる崖下を覗き込み、あたしは呆気にとられた。

おそらく結羅の隠れ家があっただろう谷間は、そこだけ竜巻と地震に襲われたかのように岩壁が抉られ、幾本もの亀裂が走っている。

その凄まじい破壊跡の中心に、二つの人影が立っていた。

「けっ。おれ達の首を取ろうなんざ百年早えんだよ!」

大きな刀のようなものを持った人影が声を発する。いかにもやんちゃそうな男の子の声だ。

落ち着いた女の子の声がそれに応える。

「もう……あと少しで魂移しされた本体を見つけるところだったのに、またそんな派手な技使って。犬夜叉はいつも大雑把なんだから」

「姉貴がまわりくどすぎんだよ。まとめて吹っ飛ばしちまえばいいじゃねえか」

「良くないっ。大技は周囲の状況を把握した上で使わないと――」

 

――ビシビシッ

「え?」

あたしの体の下で不吉な音が響き、次の瞬間、視界が大きく揺れた。

「きゃああああああ!!」

崩れた岩ごと谷底に叩きつけられる未来を予想し、ぎゅっと目をつぶる……けれども、いつまでたってもその時は訪れず、暖かい腕に抱きとめられているのに気がついた。

「ほら、こんな風に通りすがりの人間を巻き込むことだってある」

やれやれ、といった調子の女の子の声。

ゆっくり目を開けば、あたしを抱きかかえた男の子が、バツが悪そうな表情で見下ろしていた。

あたしと同い年くらいだろう、金の瞳と銀の髪が印象的な、精悍な顔立ちの男の子だ。

真っ赤な着物の襟元で、珠と勾玉を連ねた首飾りが光っている。頭頂から生えた、思わず触ってみたくなる獣の耳と相まって、なんだか犬の首輪のようだ。

その後ろに立っているのは、あたしより少し年上に見える、男の子と同じ髪と目の色をした、端正な顔立ちの女の子だ。

美麗な鎧を身にまとい、腰に刀を差した勇ましい格好をしているのに、まるで深窓のお姫様のような気品を感じさせる。

 

「……」

あたしは、そんなふたりを見て、言葉を失っていた。

怖かったからではない。

彼らのやり取りから察するに、逆髪の結羅を倒し、あたしを崖崩れに巻き込んだのは彼らの仕業なんだろう。

けれども、怖いとは思わなかった。

ふたりからは、今まで遭遇してきた妖怪が例外無く発していたイヤな気配――邪気を全く感じなかったからだ。

 

だから、とっても綺麗なふたりの妖怪に、あたしはただ見蕩れてしまっていた。

 

 




姉…十七歳(人間換算)
弟…十五歳(人間換算)

言霊の念珠がないのはビジュアル的に寂しいので、似たデザインで別機能のものを装備させることにしました。
機能については今後の話で説明します。(話の大筋には関係ないですが)


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第十四話

白昼の流星雨を見た翌日の晩。

あの怪現象の正体を突きとめるため、私と犬夜叉は、武蔵の国にやって来ていた。

そこで髪の毛を操る鬼――逆髪の結羅と遭遇した。

肉体の損壊をものともしない魂移しの鬼術と、不可視の髪を操る戦闘方法は少々厄介だったが、私たち姉弟の銀髪に目が眩んだのが運の尽き。

犬夜叉の放った風の傷によって、塵一つ残さず消し飛ぶことになったのである。

あとに残ったのは、無数の犠牲者たちの髑髏と……小さな水晶のような石片。

(この妖気は、あの時の……?)

つまんで月明かりにかざしていると、弟の腕の中で、少女があっと声を上げた。

「そ、それ、返して……!」

「ん? ――ああ、あなたのなの? はいどうぞ」

こちらに向けて伸ばされた手に、七色に光る欠片を渡してやる。

「え……?」

何故か少女は呆気にとられた顔を見せた。

「え~っと、その、あなたたち、四魂のカケラを狙って来た妖怪じゃないの?」

「おいコラ、女。おれたちが妖怪だからってバカにすんじゃねえよ」

犬夜叉が尊大に胸を張る。

「人のモンを取るのはドロボーだろ。そんなみっともねえ真似するかってんだ」

――んなドヤ顔して言うほどのことでもないと思うけど。

「まあ、たしかにその通りね。私たちはただ、昨日見た謎の光が何なのか知りたくて来たの」

私は少女に微笑みかけて言った。

「その“四魂のカケラ”とやらがあなたの物だというのなら、少し、話を聞かせてもらえる?」

 

なんか、どっかで聞いたような気がしないこともないのだが……

 

 

 

第十四話 原作知識を失っていました

 

 

 

囲炉裏にくべられた炭が、パチパチと小さな音を立てている。

上座に座っているのは、少女に案内される道中で合流した、この家の主である隻眼の老巫女だ。

その右隣にセーラー服の少女が座り、私は囲炉裏を挟んで老巫女の向かいに座っている。

犬夜叉は屋内に染み付いた薬草の臭いを嫌って、戸口に背を凭れて立っている。

弟より嗅覚が鋭い私が我慢してるのに情けない奴……などとからかう余裕は、今の私には無かった。

 

「なるほど……それで四魂の玉は今、バラバラになって飛び散っていると」

(――私のドジ! バカ! 大マヌケ! スカポンタン……!!)

平静を装って受け答えをしながら、心の中で自身を罵倒するのに大忙しだったのである。

 

(なんで四魂の玉のこと、まるっと忘れてんのよ!? 原作の最重要アイテムじゃん!!)

 

我ながら信じがたいことだが、少女からことのあらましを聞くまで、完全に頭から抜け落ちていたのである。

たしかに、だいぶ前から前世の記憶が薄れてきていたが、まさか何を忘れているかすら自覚できないほど記憶が摩耗していたとは。

(こうじゃないよね? よくわかんないけど、物語の始まりって、絶対こんな流れじゃなかったよね!?)

話を聞く限り、この数日間、少女と老巫女は息つく間もない大冒険を演じていたようだ。

……主人公が立ち会うべき序盤のイベントを単行本一巻分くらいすっぽかしてしまった気がする。

(もっと早くここに来ていれば……)

四魂の玉が妖怪に奪われた時に、私と犬夜叉がいれば、戦いの中で玉が砕け散るなんて事態は防げたかもしれない。

否、それよりも前。四魂の玉を自分たちが探し出してどこかに封印するなり異界に捨てるなりできていれば、桔梗とかいう、この老巫女の姉が無残に死ぬこともなかっただろう。

――なにもかも、私が忘れていたばっかりに。

 

「……して、そなたらはもしや、噂に聞く“神殺しの化け犬”ではないか?」

 

(私が、ちゃんと覚えてさえいれば……)

「姉貴? おい、聞いてんのか?」

「え?」

自分の迂闊さに歯噛みしていると、弟に眼前でひらひらと手を振って見せられた。

「ああ、うん。聞いてるよ。私たちがえーと……“噛み殺しのバカ犬”か、でしょう?」

「ダメだ聞いてねえ。おいババア、もう一回言ってくれ」

「……“神殺しの化け犬”は、わしらのような巫女や神官の間で、昔から噂されておる妖怪の姉弟じゃよ。今から百年以上前、伝説の蓬莱島が邪な神に襲われたとき、島の守り巫女を救い、邪な神を討ち滅ぼしたがゆえにそう呼ばれておる。悪しきものを倒し、人を助ける良き妖怪の姉弟――そなたらを見て、その伝承を思い出したのよ」

――あの蓬莱島の戦いからもうそんなに経つのか。随分と噂話に尾ヒレがつくわけだ。

「正確には、元神獣ね。蓬莱島にやってきた時点で、一方的に生贄を求めるだけの妖怪になってたし、倒したのも、その守り巫女と島の住人に力を貸してもらってのこと」

「おお……! では、やはりそなたらが……」

「すごい妖怪さんたちなのね!」

「……」

大袈裟な言い伝えを否定したつもりだったのだが、老巫女と少女は逆に目を輝かせた。

「フン、おれたちは気に入らねえ奴をぶっ飛ばしただけでい」

その視線を受けて、犬夜叉が眉間にしわを寄せて不機嫌に言う。ストレートに賞賛されたり、感謝されたりすると仏頂面になる照れ屋なのだ。

普段なら私がそんな弟のフォローをするのだが、原作知識をドブに捨てた悔恨と自責の真っ只中にいる現状では、私自身も居心地が悪い。

基本的に弱きを助け強きを挫く方針なので人間の味方っぽく思うかもしれませんが、こっちから相手に喧嘩を売ることもあるし、退治して名を上げようとした人間にとことん恐怖を与えて心をへし折ったこともあります――と言うべきか否か悩んでいると、少女が真剣な眼差しで膝を進めてきた。

 

「あのっ! お願いします、四魂のカケラを元どおり集めるために、力を貸してください!」

「――」

 

かごめ、と老巫女が小さく呼びかけるのを無視して、少女は切々と訴える。

「あたしだけじゃ、妖怪と戦ってカケラを取り戻すなんてできない。楓ばあちゃんはお年寄りだし、この村を守らなきゃいけない。あなたたちが良い妖怪なら、どうか、力を貸してほしいの」

お願いします、ともう一度言って、深々と頭を下げる。

その華奢な体を見下ろして、私は答えに窮していた。

もはや登場人物の名前すら思い出せないが、このかごめという少女は、ほぼ間違いなく物語のヒロインだろう。

タイムスリップして四魂の玉をこの時代に持ち込んだという展開や、かつてその玉を守っていた巫女の生まれ変わりという設定は、いかにもストーリーの中心となるに相応しい。

そんな人物が、事態の解決のために行動するのは物語の流れとして当然だ。

そう、物語としては。しかし――

 

「やめておけ、かごめ」

黙りこくる私をどう受け取ったのか、老巫女が硬い声を発する。

「その者たちは妖怪。いかに格が高かろうと、いや、格が高いからこそ、見返りもなしに人に従いはせぬ。まして、四魂の玉は妖怪の妖力を高め凶暴化させる呪いの宝玉。カケラを集めるうちに、この者たちがその力に取り憑かれるようなことがあれば、それこそ災いとなろう」

「あ゛ぁ?」

それは長きにわたり妖怪と戦い村を守ってきた者らしい、的確な意見だったが、この場においては失言だった。

なりゆきを見守っていた犬夜叉が、剣呑な声を上げる。

「ババア、あんまり舐めた口きくんじゃねえぞ。妙な玉なんぞに頼って妖力を増したって、そんなの本当の強さじゃねえだろうが。おれと姉貴が、んなモンに取り憑かれるかよ!」

妖怪になりたいとも、人間になりたいとも望むことなく、半妖として強く生きると決意した弟にとっては、度し難い侮辱に感じられただろう。尊大に腕組みして、憎々しげに毒づく。

「だいたい、四魂の玉ってのはそれほどご大層なもんなのか? こんなババアとマヌケ女の言うお宝なんてアテにならねえぜ」

「な、なによ、失礼ね! あたしはともかく、楓ばあちゃんはとっても強い巫女なのよ!」

見かけより気の強いタイプだったらしい。少女が気色ばんで応戦する。

「そのつよーい巫女とてめえのせいで玉が砕けちまったんだろ? どっちもマヌケじゃねえか」

(違う、私のせいだ……)

泥仕合になりそうな二人を仲裁するために立ち上がりながら、私はいまだに慚愧の念を持て余していた。

私が、四魂の玉のことを忘れていたせいで。

私が、悲劇を防ぐチャンスを逃したせいで。

この世に災いの種がばら蒔かれたのは、私のせいなのだ。

 

――せめて、この先に起こる出来事を思い出したい。

(これから、どんなふうに話が進んでいくんだったっけ? 登場する敵は……四魂の玉を安全に処理する方法は……)

弟を宥めながら、意識を自らの記憶に没入させ――次の瞬間、脳天を衝撃が貫いた。

 

「……ぁぐっ……!」

痛い。頭が、割れるように、痛い。

砂嵐のようなノイズが聴覚を侵し、グニャグニャと視界が歪む。

まともに立っていることもできず、床に手をついて激痛に耐えた。

「だ、大丈夫ですか!?」

「大丈夫か、姉貴!!」

少年の声と少女の声が重なった。

目線を上げると、さっきまで睨み合っていた二人が心配げにこちらを覗き込んでいる。

「……」

「……」

同じような行動をとったのが気恥ずかしかったのか、弟と少女は一瞬顔を見合わせて、すぐ目をそらした。

(……カワイイ……)

意識が目の前の光景に向くと同時に、少しずつ痛みが引いていった。

それを悟られないよう顔を伏せて、わざと苦しげな声を搾り出す。

「……あなたたちが仲直りしてくれたら、良くなる」

「わ、わかった! そういうことなら――って妙な小芝居してんじゃねえクソ姉貴!」

「あはは、バレた?」

朗らかに言って上体を起こすと、最初から私の演技だと思ったらしい犬夜叉は憤慨するが、先程まで少女との間に漂っていた険悪な空気は消えていた。

騙されたと怒る弟に謝罪しつつ、まだ頭の芯に残る鈍痛の理由に思考を巡らせる。

妖怪の肉体は痛みに強い。けれどあの頭痛は、今生で初めて味わうレベルの痛みだった。

そんなものが外部から攻撃を受けたわけでもなんでもなく、唐突に訪れるというのは明らかに異常である。

考えられる原因は――私がこの先の物語を思い出そうとしたことだ。

(これが、代償ってヤツなのかな……)

私は『犬夜叉(げんさく)』よりも犬夜叉(おとうと)を選んだ。

本来の物語において、弟が孤独に過ごしたはずの年月を、姉として共に歩んだ。

そのことを悪いとはまったく思わない。

けれど、己の一存で物語の流れを変えておきながら、今になって“原作知識”を利用しようとする――それはあまりにムシの良い話だ。

原作崩壊の代償として、それを引き起こした転生者は原作知識を奪われる。そんなことがあってもおかしくない気がする。

そもそも前世の記憶など、新たに生まれ変わった時点で失われるのが道理なのだ。

悲劇を回避できなかったからといって、“もとから無いはずのもの”を惜しむのは無いものねだりに他ならない。

 

「……落ち着いたところで、話を戻しましょう。私は別に、見返り無しに協力するのが嫌だなんて思ってない。ただ、気になることがあったの」

私は少女に向き直って言った。

「あなたが四魂の玉を取り戻したいと思うのは――自分が、玉を守っていた巫女の生まれ変わりだから?」

「え……?」

質問の意図を計りかねてか、少女が戸惑ったように大きな目を瞬かせる。

「生きるものの魂は全て輪廻転生する。でも、今生の生は前世の続きでもやり直しでもない。あなたが前世の巫女の使命を全うしようとしているのなら、それは賛成できない。四魂の玉に関して何の責任を感じる必要もないのに、危険な旅に身を投じて何かあったら、あなたの家族が悲しむでしょう」

少女が着ているのはセーラー服……つまりはまだ中学生か高校生ということだ。(最初に見たときは随分変わった着物だなどと思ってしまったが)

マンガやアニメの世界で、十代の少年少女が命を賭けて戦うなんて珍しくもない。

しかしここは、ページをめくったり早送りして未来を見通すことなど出来ず、もし無理に未来を知ろうとすれば耐え難い頭痛に悶絶する世界――つまりは、現実である。

彼女の行動が如何に“物語の登場人物”として至当であっても、前世で両親を残して死んだ転生者である自分は、現実的に考えて、是とすることができなかったのだ。

 

「……あなたの言ってることは、良くわかるわ」

 

暫しの沈黙を挟んで、少女はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「あたしが、桔梗の生まれ変わりだって話は、正直なところピンと来ないの。家は神社だけど、魂だの幽霊だのっていうオカルトな話は全然信じてなかったし」

だから妖怪が実在するなんてびっくりしちゃった、と肩をすくめて、続ける。

「でも、この時代の人たちは、妖怪や野盗に脅かされて、それでも一生懸命生きてる。そんな人たちが、四魂の欠片のせいで逆髪の結羅みたいな妖怪に殺されるのを、自分には関係ないなんて思えない。あたしが頑張れば死ななくていい人たちが死なずに済むなら、頑張りたい。……それは、前世の使命とかじゃない、あたしの意思よ」

自分の心の内を確かめるように一言一言発するその口調はたどたどしく……けれども真実の響きがあった。

「あなたの意思、か。だったら、私に止める権利はないね」

現実の世界には、主人公補正もご都合展開も無い。それでも道を切り拓けるのは、彼女のように自らの勇気と信念で前に進む者なのだ。

「巫女殿」

「な、なんじゃ」

たいそう不思議なものを見るような面持ちで私と少女のやりとりを眺めていた老巫女が、呼びかけに肩を跳ねさせた。

「あなたは四魂の欠片が私たちに悪影響を及ぼすのを警戒していたけれど、この子からは強い霊力が感じられる。私と弟が戦って集めたカケラを彼女が持っていれば、邪気は浄化されて、呪いを生むことはないと思うんだけど、どう?」

「……うむ。たしかにそのとおりじゃ。……すまぬ、そなた達を見くびっておった。誇り高く聡明な神殺しの化け犬よ」

老いた顔を畏敬の表情に改め、隻眼の巫女が平伏する。

「おい。なんか勝手に協力する流れになってねえか?」

……わりといいカンジに話が纏まったと思ったのだが。納得してない者が約一名。

「何か問題がある? 犬夜叉」

「おれたちに何の得があるんだよ」

振り返れば、弟が頬をふくらませて私を見下ろしている。

犬夜叉とて無辜の人々が殺されるのを良しとする性格ではない。こんな風に文句を言うのは単に、先ほどの少女との諍いを根に持って拗ねているだけなのだろう。

(しつこい男はモテないぞ……)

そう思って、ふと悪戯心が湧いた。

首を傾けて、少女の可憐な顔を覗き込む。

「じゃあ、力を貸すかわりに、弟のお嫁さんになってくれる?」

「え、えええっ!?」

「イキナリなに言ってやがるバカ姉貴!」

少女は目をパチクリさせてたじろぎ、犬夜叉は牙を剥いてくってかかってきた。

どちらもほんのり頬が赤くなっている。……いけないとわかっちゃいるけど、純情な少年少女をからかうのは楽しいなあ。

微笑みとともに弟に問う。

「犬夜叉は、彼女が心配ではないの?」

「……ッ」

うー、と唸りながら睨みつけていた犬夜叉が沈黙する。

落ち着き無く視線をさ迷わせた挙句、不貞腐れたようにそっぽを向き、

「……けっ、その四魂の欠片とかを狙ってくる連中に、ちったあ歯ごたえのある奴がいるといいけどな」

そんな素直でない承諾の仕方をした。

「決まりだね。出発は明日の朝ってことでいいかな?」

私のセクハラ発言に呆然としていた少女は、そう水を向けられて我に帰ったらしい。

「手伝って……くれるの?」

頷くと、ぱあっと笑みを浮かべる。

見る者の心を明るくさせる、花が咲くような笑顔だった。

「ありがとう! あたし、日暮かごめっていうの。ええと、あなたは……」

「私は月華。こっちの口の悪いのが、弟の犬夜叉」

握手しながら、もう片方の手で弟を指差す。

かごめは、犬夜叉にも手を差し出した。

「あなたたちが力を貸してくれて嬉しいわ。これからよろしくね、犬夜叉」

「お、おう」

犬夜叉は少女の可愛らしい笑顔と小さな手にドギマギしながら、不器用に握り返す。

「……あー、おい、あのな」

「なあに?」

「……言っとくけど、嫁にはならなくていいからな」

「~~っ! こっちからお断りよ、あんたなんかっ!」

「んだとぉ!?」

少年と少女は、そのままぎゃいぎゃいと口喧嘩に発展してしまった。

 

(照れ隠しが下手すぎる……)

天井を仰いで嘆息する私に、老巫女が呆れた調子で問いかける。

「おぬしはともかく、あの二人は本当に大丈夫かの?」

「……たぶん」

喧嘩するほどなんとやら。彼らが早く打ち解けられることを願って、私はあえて止めないことにした。

 

明日から、三人の旅が始まる。

ヒーローでもヒロインでも異分子でもない、先の見えない現実の世界に生きる者として、各々の意志で前へ進み、力を尽くすのだ。

(頑張ろう……これまでもそうして来たんだし)

本来の物語を捨てて、己の心のままに生きてきた。……その結果犠牲になったものについて私が正しく理解するのは、まだ先の話である。

 



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第十五話

城の地下室いっぱいに、巨大なカエルの卵がひしめいている。

卵の中に囚われているのは、みな若い娘だ。

 

「チッ、気色の悪ぃ眺めだな」

「月華さん、これはなんなの?」

 

私と別ルートで城内を探っていた犬夜叉達が、背後から声をかけてきた。

「蝦蟇の妖術……人間の魂を熟成させて喰らうためのもの。そっちの首尾は?」

「うむ、無事に露姫様を見つけ出したぞ!」

振り返りながら問うと、傍らに美しい姫を伴った若い侍が力強く頷く。

武蔵の国を出て、四魂の欠片の手がかりを探す途中で偶然知り合った信長(尾張のうつけとは無関係)という男だ。

殿が物の怪に憑かれている、という噂のある城に嫁いだ姫を救い出すために、私達にくっついて来たのである。

「それで、おれにコイツらの世話を押し付けた甲斐はあったのか? 姉貴」

私が城に巣食う妖怪の正体を突き止めるまで静かに行動しろ、と言い含められていた弟が、焦れたように尋ねる。

「うん。九十九の蝦蟇が、四魂の欠片から得た妖力で、殿の体を乗っ取ったんでしょう」

「そんな……! では、殿はもう……?」

不安げに立ちつくしていた姫が、私の言葉に涙を滲ませた。

「いや、九十九の蝦蟇自体はたいして強くないし、まだ殿の心は残ってると思う」

「な、ならばどうか殿を助けてやってくれ! わしは……人が死ぬのは嫌なんじゃ!」

「信長くん……」

「信長……」

「この戦乱の世に、甘いことを言うと笑われるかもしらんが……それでもわしは……」

 

「――お涙頂戴はそのへんにしときな。来たぜ」

 

犬夜叉の視線の先。地下室の扉の向こうから湿った足音が近づいてくる。

どうやら敵も私達の存在に気づいたらしい。

『ぐひっ、くせ者~。喰ろうてやる~』

現れたのは、上質な直垂を着込んだ、包帯まみれの異形だった。

弛んだ包帯の隙間から、ギョロギョロしたカエルの目玉が不気味に睨みつけてくる。

かごめ達を庇う形で、弟が前に進み出る。

「……殿サマの体から蝦蟇を追い出す方法、わかってんのか?」

「当然。でもちょっと手間がかかるから、時間を稼げる?」

「ったりめーだ」

『追い出すだと~? ば~か、その前に殺してやる~!』

嘲笑とともに、九十九の蝦蟇の口から長い舌が飛び出した。

それは槍のごとく真っ直ぐに、空気を切り裂きながら犬夜叉に迫り――

 

「おれをハエかなんかと勘違いしてんのか?」

『ぐひっ!?』

 

眉ひとつ動かさず、最小限の動作で刺突を躱した少年の手に掴み取られた。

犬夜叉は舌を掴んだまま大きく腕を振り、蝦蟇妖怪を床に叩きつける。

「かごめ、何か火を起こす道具はある?」

「……へ? 火?」

一瞬で決着した勝負にポカンとしていた少女が聞き返す。

「所詮は蛙だからね。熱を浴びせれば苦しんで殿の体から飛び出すよ」

情報を制する者は戦を制す。敵の正体がわかれば、そこから弱点を推測するのも容易いことだ。

「えーと、火、火……」

「ウキキッ」

かごめがリュックを探っていると、信長の連れていた子猿が手燭を差し出してきた。

「あら、ありがとう日吉丸。うん、これにヘアスプレーを使えば……」

「早くしろよ、かごめ。――オラッ、どうだっこのっ殿様ガエルっ!」

『ぐひぃっ! イタッ! やめっ! すみませっ! ぐひいぃぃ~っ!』

九十九の蝦蟇が、床と言わず壁と言わず、ビタンビタンと何度も打ち付けられながら哀れな悲鳴を上げる。

……なんか田舎の男子小学生みたいだぞ、弟よ。

 

 

 

第十五話 子狐を拾いました

 

 

 

「ねー月華さん、お昼はどっか景色の綺麗なとこで食べましょうよ」

「そうだね、河原か花畑がいいな」

「メシなんざどこで食ったって同じだろー」

「も~、同じじゃないわよ。デリカシーが無いんだからっ」

私の隣で自転車を押しながら歩いていた少女が、先頭を行く犬夜叉の背中を睨む。

かごめが持ってきた大きなリュックサックを肩に引っ掛けた弟は、振り返らないまま「でりかしー?」と首を傾げた。

女の子の荷物を持ってやる程度の気遣いは出来るのが救いだが、もう少し弟は情緒というものを理解するべきだろう……そんなことを考えながらカラスの飛び交う戦場跡を眺めていると、急に周囲が薄暗くなった。

 

『きさまら……四魂の玉を持っているな……』

 

「なにい!?」

「妖怪……!」

声と共に、空中に青白い炎が生じる。

(これは……狐火……?)

刀の柄に手を掛けながら見守っていると、炎は渦を巻きながら拡大していく。

そして――

 

『よこせ~~』

 

間抜けな顔をした桃色の風船が現れた。

 

 

「えっ、七宝ちゃんのお父さん……四魂のかけら持ってたの!?」

突如現れた風船もどきの正体は子ダヌキ――ではなく子ギツネの変化だった。

四魂の欠片を奪って逃げようとした子狐妖怪を犬夜叉が拳で制圧し事情を聞いたところ、雷獣の兄弟に殺された父の仇を討つのが目的だという。

雷獣兄弟・飛天満天は、私達と同じく、欠片を持っている妖怪を倒して回っているらしい。

「なんにしてもそいつらを倒せば、いっぺんに何個も四魂のかけらをとれるってわけか」

「へっ、笑わせんな。お前なんぞが勝てる相手じゃないわい」

機嫌よく言う犬夜叉に、七宝は顔をしかめて返した。

「お前半妖じゃろ。人間の匂いがまざっとる」

 

下等な半妖のくせに、おらたち妖怪のケンカにしゃしゃり出てくんじゃねえ――そう吐き捨てて、子狐はそっぽを向いてしまった。

 

「――――」

下等な半妖……ねえ。

……。

…………。

………………。

 

「七宝ちゃん、そういう言い方は……ひぃっ!?」

子狐をたしなめようとした少女が、言葉の途中で顔を青ざめさせて悲鳴を漏らした。

「ふえっ!?」

自転車の荷台に座っていた子狐が、尻尾を倍の大きさに逆立てて少女の肩に縋りついた。

周囲のカラスが、ギャアギャアとけたたましく鳴きながら一羽残らず飛び去っていった。

――弟が、「またかよ」とぼやいて溜め息を零した。

 

「七宝……だっけ? 半妖という名称には、人と妖怪の間に生まれた存在という以上の意味はないよ。あなたが半妖についてどれだけ知ってるのかわからないけど、下等だなんてひどい誤解だと思うなあ……」

「あ……あぅ……」

にっこりと微笑みかけると、七宝は陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせていた。

「あ、あの、月華さん……? 子供の言うことだから、そんなに怒らなくてもいい……ような……」

かごめが、閻魔大王の前に引き出された罪人のような面持ちで話しかける。

「ん? 別に怒ってなんかいないよ? 誰がなんて言おうと、犬夜叉が、私の、自慢の弟であることに変わりはないもの」

「いや思いっきり怒って……いえなんでもないデス……」

「す、すすす、スミマセン……」

七宝は完全にかごめの背中に隠れてしまった。逆立った尻尾だけが、少女の体からはみ出してブルブルと震えている。意外と人見知りな子だったんだろうか?

 

「……おい、姉貴」

――パチン!

「ん?」

不意に弟が、私の鼻先で両手を打ち合わせて乾いた音を立てた。

犬なのに猫騙しとはこれ如何に……と私が目を瞬かせているうちに、少年はかごめの背から子狐を引き剥がして、その顔を覗き込む。

「七宝、てめえは雷獣兄弟の住処を知ってんのか?」

「え? そ、そうじゃ。ここから西にある岩山が……」

「わかった。とっとと行こうぜ」

それだけ言うと、再びかごめに七宝を押し付けて歩き出す。私の襟首を掴んで引っ張りながら。

「ちょっと犬夜叉。まだ何の作戦も考えてないのに――」

「歩きながら考えろ。それとその妖気……つうか殺気を消さねえと、雷獣だろうが鬼だろうが逃げ出すぜ」

「あや、いつの間に」

普段から最大限妖力を隠して過ごしているのに、その制御が緩んでいた。どうしてだろう?

「――し、死ぬかと思った……」

「犬夜叉って、実はスゴいのね……」

後ろ向きのまま犬夜叉に引きずられて行く私を見つめながら、少女と子狐は感心したような呟きを漏らしていた。

 

 

雷獣が棲むという岩山の上空は、重苦しい雷雲が立ち篭め、ひっきりなしに雷鳴が轟く魔境だった。

「犬夜叉、カミナリ苦手でしょ。怖くない?」

「ばぁか。姉貴もだろ」

軽口を叩きつつも、周囲への警戒は怠らない。

ここは既に雷獣の縄張り。その中で私は妖気を、全力の三分の一程度だけ解放する。

四魂の欠片の力で彼らがどれほど妖力を増しているかは未知数だが、恐らく無視されるほど弱くも、警戒されるほど強くも無い気配のはずだ。

ややあって、かごめが緊迫した声を上げた。

「――二人共! 四魂のかけらの気配、空から来るわ!!」

かごめの警告から半瞬後、雲の中から稲妻が真っ直ぐ地表に駆け下りてきた。

私と犬夜叉は、左右に跳んで回避する。

耳障りな爆音とともに地面が砕け、疎らに生えていた草木が燃え盛る。

 

「ふっ、よけたか……。おれ達のシマを荒らすたあ、命が惜しくないらしいな?」

 

姿を見せたのは、長い髪を三つ編みにした人型の妖怪と、黒雲に乗ったトカゲめいた顔の妖怪――前者が兄の飛天、後者が弟の満天らしいが、全然似ていない。

「ん~? おめー、こないだの化け狐の小せがれか」

満天の方が、かごめの胸に抱かれた子狐を見咎め、意地悪そうに目を細めて立ち上がる。

その腰に巻かれているものに気づいて、七宝があっと小さく叫んだ。

「おめーのおやじの毛皮、あったけ~ぞお~」

「……」

ひゃひゃひゃ、と笑って腰巻――七宝の父親だというそれを叩いてみせる。

「よくも……よくもおとうを……!」

涙を浮かべて雷獣兄弟を睨みつける七宝。

そのまま彼らに飛びかかって行きかねない子狐を、犬夜叉が片手で制している。

「――てめーら、胸くそ悪いな」

「あん?」

独り言めいた弟の呟きに、飛天が反応する。

「お前ら、犬の妖怪か? 子ギツネの仇討ちを手伝ってやるなんざ、犬ってのは随分甘っちょろいんだな」

「けっ、誰がそんなこと言った。おれ達が用があるのは四魂のかけらでい!」

飛天の嘲弄を斬って捨てると、犬夜叉は私に向き直る。

「姉貴、どっちがどっちを殺る?」

その質問に、私は笑って頭を振った。

「つまんないこと訊かないでよ。――こんな連中、二人で戦うまでもない。私は後ろで、弟の勇姿を拝ませてもらうよ」

かごめと七宝を守る役も必要だし、などと余計なことは言わない。

 

「な――」

「にい~っ!」

雷獣兄弟、二人でセリフを分け合うなんて仲いいな。

 

「……それもそうだな。おし、まとめてかかってきやがれ、雷獣野郎!」

私の言葉の意味を吟味する僅かな間を置いて、弟が雷獣兄弟と対峙する。まだ鉄砕牙は抜いていない。

「ふっ……おい満天、手ぇ出すんじゃねえぞ! こいつはおれの獲物だ!」

雷獣の兄が、獰猛な笑みを浮かべて宣言する。

当然だろう。ここまで舐めきったことを言われて“はいそうですか”と素直に二人がかりでの戦いなど選択できるわけがない。

一対一で圧倒し、嬲り殺しにしなければ気が済まない――そんな怒りに囚われているのだろう、愚かにも。

「おれの雷撃刃、たっぷり味わいな――ッ!!」

怒号をあげながら、飛天は隼の如き急降下で一息に間合いを詰める。

雷電を纏った刃が閃き、犬夜叉の足元を大きく粉砕する。

そして。

 

飛天の顔を、赤い線が彩った。

 

「ひゃ~っひゃひゃひゃ、がんばれ飛天あん……ちゃん……?」

「――ふん、四魂のかけらを使ってこの程度かい」

鮮血を吹き出して頽れる飛天には、犬夜叉の言葉などもはや聞こえていないだろう。

己が敗北した、という事実すら理解できなかったかもしれない。

 

「い、今……何があったの……?」

かごめが呆然と問いかけるが、さして複雑なことではない。

飛天の初撃が、足場を崩すのみで肉体を傷つける意図が無いのを読み取った犬夜叉は、回避も防御もせず、即座に抜刀。

振り切った得物を飛天が構えなおす間も与えず、唐竹割りで仕留めたのである。――まさしく、紫電一閃だ。

飛天の雷撃刃は、確かに強力な武器だった。

あの刃が体に触れていたら、あるいは火鼠の衣の防御も貫通して犬夜叉にダメージを与えていたかもしれない。

けれども、相手に屈辱を与えるために初手での決着を見送った飛天と、一撃必殺の気構えで臨んだ犬夜叉とでは、この結果は必定であった。

――戦いの心得その一。殺すと決めたなら、遊ぶことなく殺すべし。ちゃんと覚えていてくれて嬉しい限りだ。

「さてと」

「ひ、ひいぃ~~っ!」

血振るいしつつ犬夜叉が視線を向けると、恐慌を来たした雷獣の弟は、乗っていた黒雲を制御できず霧散させてしまった。

ずん、と重たい音を立てて満天は尻餅をつく。

腰が抜けたらしく、座ったままズルズルと後退するが、逃げきれないと悟ったのだろう。

 

「――すいませんでしたぁっ!!!」

 

見事な猛虎落地勢(どげざ)を披露した。

 

「四魂のかけらは差し上げます! ですからどうか、命だけは……!」

「けっ、他の妖怪を殺して、七宝の親父の毛皮を剥いだ奴が命乞いか」

ペコペコと頭を擦り付けて詫びる雷獣を見下ろして、犬夜叉は心底不快げに眉根を寄せる。

「あ、あの化けギツネのことは謝るっ! そ、それにおれだって大事なあんちゃんを殺されたんだから、これでおあいこじゃないか! そうだろ!?」

「はぁ!? あんた、なに勝手なこと言って……!!」

「子ギツネ、悪かった! 親父のことは謝る! 毛皮も返す! だから許してくれ!」

憤慨するかごめの腕の中の子狐に毛皮を差し出し、満天は涙ながらに訴えた。

「なあ、こんなに謝ってるのに、お前はおれを許さないのか? 命乞いする相手を、親父の仇だからって――この犬妖怪たちに頼んで、殺させるのか?」

「……っ……」

その言葉に、今までひたすら憎しみを込めて満天を睨んでいた七宝の眼差しが揺らいだ。

――七宝の心情は、何となくわかる。

彼は初めから、己の手で父の仇を討つために行動していた。

四魂の欠片すら、自分が使って強くなるのではなく、雷獣兄弟をおびき出すために利用しようとしたぐらいだ。

その熱意は、直接対峙して圧倒的な力の差を目の当たりにした後でも、簡単に潰えるものではないのだろう。

兄・飛天はなしくずし的に犬夜叉が倒してしまったが、続いて直接の仇である満天を私や犬夜叉が手に掛けたところで、七宝の気は晴れまい。

加えて、まだ幼く純粋な七宝は、泣いて命乞いする相手を殺すということにも罪悪感を抱きつつある。

(……よくない流れだな)

犬科の習性か、生来のお人好しな性格故か――犬夜叉は降参して腹を見せている相手を殺すことができないのだ。

現に今も、雷獣の手前勝手な言い分に怒りを露わにしながら、その首に鉄砕牙を振り下ろそうとはしない。

 

「う~ん、満天の言うことも、一理あるかな」

 

泣訴する満天に、反論するかごめ、戸惑う七宝、怒る犬夜叉――という混沌とした状況に、私の声は場違いなほどのどかに響いた。

全員が言葉を呑んで私に注目する。

「考えてみれば、四魂のかけらを持ってる妖怪を殺すっていうのは、私たちもやってることだし、そもそも妖怪の喧嘩は基本的にどちらかが死ぬまでやるんだから、それを非難するのはお門違いだよね」

「月華さんは、七宝ちゃんのお父さんが殺されたのは仕方ないことだって言うの……!?」

私が満天の肩を持つような発言をしたのが信じられないのだろう、かごめが泣きそうな顔で問う。

「そうは言ってない。自分が殺される側になった時に命乞いするような覚悟のない輩に、戦う資格はないと思うし、父親の毛皮を剥いだ挙句、それを子供に見せびらかすなんて真似は虫酸が走る。でも、これは七宝と雷獣の問題だから、満天の命をどうするかは、七宝が決めないと」

「……お、おらは……」

「な、なあ七宝、もう二度と悪さをしないと誓う。いや、これから先、ずっとお前の子分になるよ! だから……」

風向きが変わったのを察知して、満天は媚びた声音で言い募る。まったくセコい。

「――悪さをしない? じゃあ、もう合戦場を襲って、人間を両軍とも全滅させるなんて真似もしないって約束してくれるの?」

「え”っ……」

「なんのことだ? 姉貴」

犬夜叉が怪訝そうな顔を向ける。

「気づかなかった? ここに来る途中で見かけた合戦場の死体、あれは大部分が妖怪に殺されていた。そして残ってた臭いは雷獣のもの」

「あ、あれは、飛天あんちゃんがやろうって」

「あなたが、やったんでしょう?」

「……ハイ……」

「いや別に、何が何でも人間を殺すのがダメって言ってるわけじゃないよ? 生きるためには、他の生き物を食べなきゃいけないんだし、鳥や獣は良くて人間だけその対象から除外するのは不公平な気もするから」

私達一族のような大妖怪なら、心臓が精製する妖力のみをエネルギーとして生きることも可能だが、そんなのは妖怪全体の中のひと握りだ。

ほとんどの妖怪が、外部から糧を得る必要があり、妖怪もまたこの世に存在する命である以上、捕食目的の狩りは食物連鎖といえる。

「でもあなた達がやったのは、ただ愉しむための狩りでしょう? 食べるために、あんなにたくさん殺す必要はないものね」

「ソウデス……」

真綿で首を絞められているような表情で、満天が項垂れる。

「七宝、やっぱりコイツぶっ殺そうぜ。……おれがやるから」

「いや、やめてくれ、犬夜叉」

七宝は涙に濡れた瞳に強い光をたたえて、雷獣を見据える。

「……満天。月華の言うとおり、お前が二度と悪さをせんと約束するなら、命は助けてやる。じゃが、もしもこの先、妖怪でも人間でも、無駄に命を奪うなら、絶対に許さん。そのときは今度こそおらがお前を殺す」

「七宝ちゃん……」

「あ、ああ! わかったぜ七宝、ありが――」

「じゃあ、誓いの証にその髪の毛をもらおうか」

「い”っ……!?」

喜色満面で頷いていた満天の表情が凍りつく。

「お互い、口約束だけで信用できるわけないじゃない。あなたの髪を媒介にして誓約の妖術を結べば、破ったときすぐに分かるし、逆にもし七宝の気が変わっても、あなたが大人しくしている限り殺すことはできない。……どうしたの? たかが髪の毛で命が保証されるなら安いものでしょう?」

「……っ……」

ある意味、犬夜叉に鉄砕牙を突きつけられたときよりも悲愴な様子で、満天が自分の頭頂に手を伸ばす。

「い、一本だけでいいよな……?」

「一本抜くも全部抜くも同じでしょ」

「同じじゃねえよ! ――イテッ!」

私の爪が、満天の首をごく薄く切り裂く。

「嫌ならこの場で死んでもらっても構わないけど?」

「わ、わかった、わかったよ!……うっうっ……おれの髪……」

ぶるぶると手を震わせながら、抜き取った三本の毛と四魂の欠片を寄越す。四魂の欠片は惜しくないのか。

「チッ、これで終わりかよ」

「うん、満天が約束を守るなら、ね」

憤懣遣る方無い風情ながらも、犬夜叉が鉄砕牙を鞘に収め、満天に背を向ける。

――その瞬間、満天の口から雷撃が迸った。

 

「い、犬夜叉ーーっ!」

悲鳴を上げるかごめと七宝を抱えて、雷の奔流から逃れる。

目も眩む閃光が収まったあと、弟が立っていた周囲の地面は、深々と抉られ、一部は熱で融解していた。

「ひゃ……ひゃひゃひゃ……ひゃーひゃっひゃっひゃっひゃっ!!」

その惨状を前にして、さっきまで殊勝にひれ伏していた雷獣は、狂ったように呵呵大笑する。

「ま、満天、てめぇ……っ」

「卑怯者! よくもだましたわね!!」

「けへっ、ばーか。だまされる方が悪いんだよ!」

かごめの糾弾に一切恥じることなく言ってのけると、怨念に燃える眼差しでこちらに歩み寄ってきた。

「女ども……てめえらは煮溶かして毛生え薬にしてやる。クソギツネは頭巾だ。てめえのオヤジもバカだが、毛皮だけは立派だったからなあ!」

「おとうをバカにするな、このつるっぱげ野郎!!」

毒づいて、子狐はかごめを守るように両腕を広げ威嚇する。

「つるっぱげだとぉ!? 誰のせいだと思ってやがる! 髪の怨み、思い知れ!!」

 

「――兄貴の仇じゃなくて、髪の仇なのかよ。飛天の野郎も浮かばれねえな」

「まあ、だいたい予想はついてたけどね」

「えっ!?」

「あっ!?」

「ひゃっ!?」

 

満天の背後から現れた人影に、少女と子狐と雷獣が、三者三様の驚きの声を上げる。

 

焼け焦げ一つない犬夜叉が、そこに立っていた。

 

――戦いの心得その二。敵の息の根を確実に止めるまでは、油断するべからず。

鉄砕牙を納める鞘は、見事に雷獣の妖力を封じ、弟を守っていたのだ。

「ようやくシッポを出したな雷獣野郎。これで遠慮なくたたっ斬れるぜ」

相手を追い詰め、怒らせたあとにわざと隙を見せて相手が裏切るように仕向ける……我ながらじつに性格の悪いやり口だが、ハメられた当人も騙される方が悪いと言ってるので良しとしよう。

犬夜叉が、今度こそ一切の慈悲のない刃を満天に向ける。

「くっ……クソがあ!!」

満天はなおも悪あがきの雷撃を犬夜叉に放とうとするが――口から漏れたのは、ほんのささやかな火花のみだった。

「あ”……? なんだ、これ……雷撃が……体が、おかしい……」

たじろぐ雷獣の体を、私が刻んだ爪傷を中心に、極小の稲妻が奔る。

「――これで今度こそ終わりだ、満天」

相手の体に傷をつけることで、敵の妖力に干渉し自爆させる“妖力暴走”。

昔は顕心牙を媒介にしなければ使えなかったが、長年の修行の成果で、刀を抜かなくてもできるようになったし、発動のタイミングもある程度コントロールできるようになったのだ。……地味な技とか言うな。

徐々にその数を増していく稲妻に覆われて、雷獣の表情は窺えない。それでも、その顔を見据えて手向けの言葉を送る。

「あなたは、自分で救われる機会を捨てた。敵を許す度量も、正面から挑む度胸もない子狐以下の畜生……オマエは犬夜叉や七宝が手を汚す価値すらない。自らの雷で死んでいけ」

空間そのものを引き裂くような雷鳴が響く。

完全に制御を失った満天の妖力は、その全てを雷撃のエネルギーへと転じ、肉体を消し炭にした。

 

……雲が晴れてゆく。

この一帯を支配していた雷獣が死んだことで雷雲が消えた山の向こうに、沈みゆく夕日が見えた。

「ったく、ほんっとに姉貴の戦い方はひねくれてるよなあ」

わざとらしく犬夜叉が鉄砕牙の鞘で肩を叩きながらぼやく。

「あたしもビックリしちゃったわよ。まさか全部作戦だったなんて」

「ごめんね、かごめ。……それから七宝、辛い思いをさせてしまって、ごめんなさい」

満天を油断させるために、七宝に苦しい決断を強いてしまったのは、さすがに私も悪いと思っているのである。

七宝は静かに首を振った。

「そのことは良いんじゃ。……おらこそすまんかった、月華。おとうのことで、おらもよくわかった。自分の親兄弟を悪く言われたら、怒るのは当たり前じゃ」

「七宝……」

その頭を、私はゆっくりと撫でる。

「あなたはいい子だね。別に私は怒ってなかったけど」

「そこはどうあっても認めんのかい! ……あ」

「お父さんの毛皮が……」

私達の見守る中で、満天から取り返した狐の毛皮にポツポツと青い炎が生じる。

炎は毛皮を燃やし尽くし――大きな一匹の狐の姿を形作った。

「……さよならじゃ、おとう……」

 

化け狐の魂は、我が子を励ますようにその小さな体に寄り添うと、やがて夕闇の空へ昇り、消えていった。

 

 



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第十六話

陽の光が眩しい春の川辺に、張り詰めた空気が満ちていた。

原因は、三間ほど離れて向き合う二人の剣士。

半妖の弟が構えるは鉄砕牙。

妖怪の姉が構えるは顕心牙。

 

この刀々斎が鍛え上げた、いずれ劣らぬ名刀である。

 

「――始めッ!」

合図と同時に、両者が砂利を蹴散らして突進する。

一瞬で距離を縮め激突する姉弟。

そのまま、目にも止まらぬ剣技を繰り出す。

鉄砕牙の分厚く巨大な刃に対し、顕心牙は一合で折れないのが不思議に映る細く華奢な刃だ。

しかし、所有者の牙から鍛えられた妖刀は、本人の妖力を間断なく循環させ、可視化された妖気が純白の花びらのように刃を取り巻いている。

外見の優美さに反して、鉄砕牙と並ぶ強度を誇るのだ。

「おらぁッ!」

気魄の乗った犬夜叉の打ち込み。

それを月華は精妙な剣捌きで受け流す。

「シッ――」

鋭い呼気とともに繰り出させる月華の横薙ぎ。

それを犬夜叉は堅牢な防御で受け止める。

寸止めという縛りがありながら、刃と刃の応酬は息もつかせぬ迫力である。

 

獣のように荒々しい犬夜叉の剣と、鳥のように軽やかな月華の剣。

それはどこまでも対照的でありながら見事に噛み合った、剣戟の音色を伴奏に繰り広げられる美しい剣舞だった。

 

(……まったく、親父殿に見せられねえのが残念だぜ)

 

 

 

第十六話 近況を報告しました

 

 

 

「そこまで!」

老妖怪の声と共に、動きを止める。

私の顕心牙は弟の胸を突く寸前、弟の鉄砕牙は私の胴を断つ寸前の姿勢で静止した。

これまで数え切れないほど繰り返した手合わせ……今回は相討ちである。

 

――パチパチパチパチ。

「すごいすごい、カッコイイ……!」

かごめがはしゃいだ声を上げながら拍手する。

「……けっ」

弟よ、どうでもよさそうなフリをしてるが本当は嬉しいんでしょう? 犬耳がぱたぱた動いているぞ。

 

「如何ですか? 刀々斎殿」

「ふん、どうやら真面目にやってるみてえだな。いいぜ、研いでやる」

「ったく、研ぐ前に毎回手合わせして腕前を見せろなんて、ふざけたジジイだぜ」

「まあまあ。いっつも私達のところまで出向いてもらってるんだから」

私達の刀の生みの親である刀鍛冶の刀々斎。屋敷を捨てて旅立って以来、北は蝦夷から南は琉球まで、出張研師サービスお世話になってます。

琉球のシーサーは可愛かった。……蝦夷のヒグマは下手な妖怪より怖かった。

「ほんとによお。たまにそっちから訪ねてきた時にゃ、アレ作れコレ作れと無理難題ふっかけやがって。も少し年寄りを労われってんだ」

刀々斎はぶつくさと恨み言を零す。愚痴が多くなるのは老化現象ですぞ。

……鉄砕牙のバージョンアップについては、確かに無茶ぶりだったとは思うけど、絶対必要だし。

「新しいことに挑戦しないと頭が錆びるってもんでしょ。大事な刀鍛冶殿のボケ防止に協力したつもりなんですけど?」

顕心牙を受け取りながら、老妖怪はジトッとした眼差しで私を睨んだ。

「おめえも随分と口が悪くなったよなあ。昔はお淑やかな姫さんだったのに、バカ兄弟の弟とつるむようになってから、すっかり放蕩娘じゃねえか」

「犬夜叉ほど悪くないです」

いつからだったろう、姉貴なんて可愛げのない呼び方をするようになったのは。……妖狼族の連中と衝突した頃か?

あのガラの悪い狼妖怪、また会ったらイジメてやる。

(……そうだ、バカ兄弟で思い出した)

「犬夜叉、念珠貸して。今のうちに“報告”を聞いておきましょう」

「おー」

岩の上に胡座をかいた犬夜叉が、首飾りの留め具を外して寄越す。

いつ四魂の欠片の気配を追って走ることになるか分からないのだ、刀々斎が刀を鍛え直すのを待っている時間を有効に使おう。

「斉天と紅邪鬼と……これが狼野干か」

「おまえが舌先三寸で丸め込んだ連中だな」

念珠の珠を選り出す私の呟きに、老妖怪が人聞きの悪いことを言う。

「殺生丸には天生牙を、犬夜叉には鉄砕牙を与えよ……それが父上の遺言だと言ったのは刀々斎殿でしょう。私は父上の遺志を守るため協力してくれと頼んだだけです」

「それを断った連中に限って、他の妖怪に殺されたり、人間に退治されたりしてるって噂があるんだが?」

「へえ、そんな噂が」

運が悪かったんだろうなあ、気の毒に。

「人間には“情けは人の為ならず”って言葉があるそうですよ。他者を助けない者は他者から助けられもしない――つまり私の頼みを断った者たちは、そういうことだったんでしょう」

三つの珠を地面に置き、術式を起動させる。

暗紫の珠が放つ光の向こうに、大柄な男の妖怪と、細身の男の妖怪、それに顔の大きな狼妖怪の姿が浮かび上がった。

 

『月華様、犬夜叉様』

『ご健勝のご様子、お慶び申し上げます』

『ご無沙汰いたしております、月華殿』

 

「り、立体映像!? 犬夜叉の首輪って、そんな道具だったの!?」

河原にレジャーシートを広げていた少女が、目を丸くする。

「りった……? こいつは宝仙鬼って奴に作らせた遠話の念珠だ。対になる赤い珠を持ってる奴のところに繋がるようになってんだぜ」

「なんでえ月華、宝仙鬼にも妙な仕事押し付けてんのか」

「いいえ、話を聞いた二代目が喜んで作ってくれましたよ?」

呆れた口調の老妖怪に肩を竦めて返す。

ここは携帯電話もパソコンもない時代だ。

離れた場所にいる者と迅速に連絡が取れるような道具が欲しいと考えたときに私が頼ったのが、父上の古い知り合いである宝仙鬼である。

妖怪の墓場なんて異世界に通じる宝玉を作れるのだから、現世にいる者同士の声を繋げる宝玉ぐらいお茶の子さいさいだろう、という強引な依頼だったが、宝仙鬼の息子である二代目が私のアイディアを面白がって、四苦八苦しながらも希望通りの電話ならぬ“遠話”の念珠を作ってくれた。

 

蜃気楼のようにかすかに揺らぐ大男の映像――斉天が畏まった様子で言上する。

『仰せのとおり、殺生丸様の消息を探っておりますが未だ杳として掴めませず……申し訳ございません』

『この紅邪鬼の配下からも、目新しい報せは入っておりませぬ』

「そう……」

彼らは、かつて父に仕えていた妖怪である。

 

殺生丸と犬夜叉の争いの後に私が考えたのは、味方を作ることだ。

 

兄は必ず再戦を挑んで来るだろう。しかし、それがいつかは分からない。

前世の記憶でも、災害よろしく忘れた頃にやって来ていた御仁であることに加えて、鉄砕牙取得イベントが、原作で全く描写されていない過去の時代に前倒しになったために、再登場のタイミングがまったく予測できなくなってしまったのだ。

犬夜叉を鍛えるのに並行して、殺生丸の来襲を未然に察知できる備えがあれば、戦いを有利に進められる――そのために必要としたのが、各地から情報を伝えてくれる味方である。

闘牙王の異名で畏れられた父には生前、一族の者以外にも多くの配下がいた。

長の息子である殺生丸と敵対した挙句左腕を斬り落とした(やったのは弟だが、止めなかった私も同罪だろう)私達が頼れるとすれば、そういった外様の遺臣だ。

私は、父の死と共に散り散りになった彼らに接触し、ごく少数ではあるが助力を得られることになったのである。“闘牙王の娘”の肩書き万歳。

そして親愛なる兄上の動向を伝えてもらうため、こうやって定期的に連絡を取っているのだが……結果はこの通り芳しくない。

「やっぱり、殺生丸の野郎はこの国にいねえのか?」

犬夜叉が難しい顔で問う。

最後に会ってから気づけばもう二百年。

いくら私達があっちこっち飛び回っていたとはいえ、同じ日ノ本にいて一度もエンカウントしないというのは有り得ないだろう。

『は。以前の噂通り、大陸に渡ったきりと考えたほうがよろしいかと』

狼野干が遠慮がちに発言する。

この妖怪は斉天や紅邪鬼のようにずっと父の配下だったわけではないが、闘牙王に世話になった恩と、私の初陣に従った縁で協力してくれている。

……豹猫族との戦に参戦した妖怪軍団の間では、何故か私がえらく活躍したと思われているのも僥倖だった。少々後ろめたいが、それに助けられているのであえて訂正しない。

「あんなのに押し掛けられた大陸の妖怪はとんだ災難だな」

殺生丸対策会議を横目に槌を振るっていた刀々斎が、口から吐く火を止めて呟いた。――大陸妖怪は、元寇の時に蒙古軍と一緒に侵攻してきた前科があるから同情はしないが、同感である。

「……さっきから話してる殺生丸って、何者なの?」

「そんなに強い妖怪なのか?」

「なんだ、知らねえのか? こいつらの兄貴だよ」

かごめと七宝がおそるおそる問いかけるのに、刀々斎が答える。

「……月華さんと犬夜叉の……」

「……うわぁ……」

なんか納得いかない、その反応。

「けっ! あんな奴、兄貴だと思ったことねえよ」

「犬夜叉は、そいつと仲が悪いのか?」

「おう、左腕ぶった斬ってやったぜ」

「う、腕を!? 妖怪の兄弟ゲンカって……」

弟よ、も少し事情を説明しないとかごめが引いてるぞ。

「兄上は、犬夜叉の鉄砕牙を狙ってるの。自分には同じ父上の形見の天生牙があるんだけどね。それと、自分自身の刀も、ですよね刀々斎殿」

「あー……」

老妖怪は、私にそれらの情報を吐かされた時のことを思い出したのか、渋い顔で頷く。

いや、私達当事者なんだから知る権利ありますよね? むしろそっちから積極的に開示してくれないと困るんですよ、私達の父親のことなんだから。

――前世の自分の意識ってだいぶ薄くなったけど、鉄砕牙関連の闘牙王の思惑の分かりにくさには、読者としてヤキモキさせられた覚えがあるのだ。

娘に転生して他人事じゃなくなると、尚更である。

というわけで、私は刀々斎に尋問……もとい、教えを請うた後、協力者たちにもその内容を周知していた。

 

闘牙王が決して殺生丸をないがしろにしたわけではないこと。

形見の牙などに囚われず、父を超える大妖怪となってほしいと願っていたこと。

 

『爆砕牙……殺生丸様の中にあるあの方御自身の刀のことですか』

『月華様と犬夜叉様は、兄君が鉄砕牙への執着を断ち切るのを待つおつもりなのですよね』

『殺生丸殿が真の大妖怪として独り立ちなさる時が待ち遠しいですな』

――まあその結果、自分がこんな風に生暖かく見守られてるなんて兄上は夢にも思わないだろうなあ、あっはっは。

 

「え~と、ようするにお兄さんって“困ったちゃん”なの?」

「うん、その通り」

「いやそんな言葉で片付けていい相手じゃねえだろ!」

くわーん、と調子っ外れな鎚音を響かせて刀々斎が突っ込む。

「まったく……冥加の奴が“月華様と殺生丸様の会話には二度と立会いたくない”って言ってた理由がよくわかるぜ」

なるほど。それであの蚤妖怪は、刀々斎の住処に居座っているのか。

今にも殺生丸が空から襲ってくるのではないか、という表情でキョロキョロと周囲を窺う老妖怪を、犬夜叉が呆れた風に見下ろす。

「情けねえなジジイ。殺生丸はいねえって聞いたばっかだろ」

「うるせえ。いつ戻ってくるか分かんねえだろうが」

『配下の者たちに、海を渡って探らせますか?』

紅邪鬼の提案に、私は一考して頭を振った。

「大陸は広い。手がかりもなしに探してもどうにもならないでしょう。それよりも、四魂の玉の噂は知ってる?」

『はい。数十年前に消滅したはずの玉がつい先日再び現れ、四散したとか』

「知っているなら話は早い。四魂の欠片を手に入れたと思しき妖怪の情報を集めて、私に伝えて。斉天と狼野干も同様に」

殺生丸が私達の前に現れる兆候がないこの現状では、四魂の欠片の方が優先すべき懸案事項である。

海の向こうに人員を割くより、欠片の手がかりを探ってもらった方が合理的だろう。

『承知致しました』

『お任せ下さい』

『必ず月華殿に吉報を』

揃って恭しく頭を下げる三体の妖怪。

そのまま通信を切りかけて、ふと思いついて続ける。

「ただし、決して無理はしないこと。あなた達は私が頼りにする数少ない存在なのだから、無事に情報を持ち帰ることを考えて。これは配下の者にも徹底させなさい」

『……ははぁっ! 仰せの通りに!』

『そのお言葉、あだや疎かには致しませぬ!』

『肝に銘じまする! ――闘牙女王』

彼らは、なぜか感動したような面持ちで幾度も頷いてみせた。

(……苦労して作った協力者なのに、死んで数が減ったら勿体無いもんね)

特に斉天と紅邪鬼は、父の遺臣の中でも忠義に篤いのは良いのだが、ああでも言っておかないと、敵わない相手に馬鹿正直に真正面から挑んだ挙句、返り討ちにされて武器だけ奪われたりしそうな気がしてならないのだ。何故かはわからないが。

 

「月華さん、慕われてるわね~」

「なるほど、アレが舌先三寸というものじゃな」

役目を終えた珠を回収する私の背後で、そんな会話が聞こえた。

 

「――にしても、殺生丸の奴、拍子抜けさせてくれるよな。おれはもっと早くに仕返しに来ると思ってたのによ」

念珠を着け直した弟が、つまらなそうに言う。

「油断大敵だよ、犬夜叉」

まあ私もそう思ったから、急ピッチで爆流破まで会得させたわけだが。

純粋な剣の腕前とて、間違っても力任せに振り回すだけだの、名刀も丸太と同じだのと揶揄されるような代物ではない(おかげでそんじょそこらの妖怪は瞬殺できるようになってしまった)。

もし殺生丸が、所詮は半妖と侮って挑んで来たなら、その慢心をついて返り討ちにできるだろう。

しかし、この二百年まったく音沙汰が無いだけに、私の中ではむしろ警戒心が募っている。

「……もし兄上が刀々斎殿のところに来たら、刀を打ってあげてほしいな。私や犬夜叉に攻撃しようとしたらハライタおこす呪いとかつけたやつ」

「だからなんでお前は、そういう余計なことばっか思いつくんだよ」

最後の仕上げに取り掛かった刀鍛冶が、私の言葉に非難の眼差しを向ける。

「だって、犬夜叉が負けるとは思わないけど、勝負の世界に絶対は無いし」

ハライタの呪い云々は冗談だが、危ない橋を渡らずに済むならそれが一番である。

――殺生丸が認めようが認めまいが、鉄砕牙の継承者は犬夜叉だ。兄の心の成長だかなんだかに、こちらが命懸けで付き合う義理は無い。

「大事なのはこちらが兄上に危害を及ぼされないことだもの。刀への執着も犬夜叉への憎しみも捨てた悟りの境地に兄上がたどり着けるかどうかなんて、私はどーでもいいよ」

「殺生丸が爆砕牙を手にできなくても知らねえってか。……はあ~、斉天たちには散々耳触りの良いこと抜かしといてソレかよ」

「なにごとも本音と建前を使い分けるのは当然です」

澄まして応じる私に、老妖怪は煙混じりの溜め息を吐きつつ首を捻った。

「てめえのその性格、本当に誰に似たんだか。親父殿でもねえし、奥方とも違うよな」

「――そうかもね」

僅かに、視線が下を向く。

 

私の性格。

それは前世から持ち越されたものだ。

――もし魂の輪廻転生を司る機関(あの世の命数管理局)があるのなら、それはしょっちゅう不祥事を起こす杜撰な組織に違いない。だからきっと、私の記憶をリセットし損ねたのだ。

もはや前世の両親の顔も名前も思い出せず、原作知識すら限りなく希薄。

けれどかつて人間であったという意識が残っている以上、私が今生の父母に似ていないと言われるのは当然だろう。

(仕方ないことだけど……ちょっと寂しいね)

 

「……関係ねえよ」

「え?」

隣に立った弟が、怒ったような口調で言った。

「誰に似てるかなんて、関係ねえ。姉貴は、頼りになる姉貴だ」

言葉とともに、ばしっと手のひらで私の背中を叩いてそっぽを向く。

(この乱暴者め……)

まったく、わかりづらいフォローの仕方だ。

でも。

「……うん」

笑って胸を張る。

「私は天上天下に並ぶ者のないお姉さまだもの。誰にも似てないのは当たり前だよね」

「そこまで言ってねえよ、アホ姉貴」

 

「――ふん、相変わらず姉弟の仲だけは良いみてえだな」

私たちのやりとりを眺めていた刀々斎が、槌を置いて立ち上がる。

「ほら、終わったぜ。次は鉄砕牙だ」

私の手に戻った顕心牙の刀身は、陽光を反射して鮮やかに煌いた。

「ベラベラくっちゃべってた割にはきっちり仕上げてんな、ジジイ」

「おう。……月華は親父殿の子供の中で、一番ズル賢くて変な奴だがよ、その姉心は本物だからな」

「――ふふ。私も、他のことはともかく、刀々斎殿の鍜冶の腕前は本物だと思っていますよ」

 

微笑んで一礼すると、老妖怪は「やっぱりてめえが一番性格悪いぜ」と深い溜息を吐いた。

 




父上の公式名称は「犬夜叉の父」とされていることから、この作品において、闘牙王は本名ではなく一族の長ないし一族内で最強の者に受け継がれる尊称と設定しました。
ゲド戦記とかクリスタルドラゴンの、真名と通り名を使い分けてる文化が好きなんです……


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第十七話

 

――――「人間は、無力ではない」。

 

おれに本格的に稽古をつけはじめる前の晩、姉はそう言った。

 

「妖怪のように長い寿命も、強い力もない……でもね、人間は進歩し続ける生き物なの」

 

足りない力を補うために便利な道具を発明し、その知識や技術を次世代に伝えて発展していく。

それが個では妖怪に及ばなくても、けっして滅びることのないヒトという種の強さなのだと。

 

縁側で並んで夜空を見上げながら、月華は焦がれるようにその手を天に差し伸ばす。

 

「雲のさらに上、あの星たちが浮かんでいるのは、無限に広がる真空の海。千年の時を生きる妖怪も、あそこまでは行けない」

 

でも、と続けるその声音には揺るぎない確信があった。

 

「百年生きられない人間は……五百年後に、星の海を渡る船を作り出すことができる」

 

姉が学んだ剣術も、そんな人間の師匠から受け継いだものだという。

 

「剣術は、人がその弱さを克服するために編み出し、連綿と受け継いできた戦いの業。――心して修めなさい、犬夜叉」

 

それが、ある朔の夜の出来事だった。

 

 

 

第十七話 朔の日が来ました 前

 

 

 

「わーっ。気持ち良いーっ」

渓流を下る小舟の上で、あたしは初夏の爽やかな風を感じていた。

「くおら、かごめ。遊びに来てんじゃねーんだぞ」

「う゛え゛~~」

「七宝っ、妖怪のくせに舟酔いしてんじゃねえっ」

「はいはい、この辺りには四魂の欠片の気配はない模様でーす」

「じゃ、のんびり川下りを楽しめるね」

あたしと月華さんの言葉に、犬夜叉が顔を顰める。

「ったく、どいつもこいつもたるんでやがる……ん?」

舟の先頭に陣取る犬夜叉が何かに気づいて立ち上がったのに続いて、あたしもそれが視界に入った。

左右の渓谷をつなぐ、白い糸束。

「クモの糸? こんな長いのが?」

「妖怪だよ。ほら、あそこ」

七宝ちゃんの背をさすっていた月華さんが、崖の上を指差す。

「あっ! 危ない……!」

そこでは今まさに、人影が何かに襲われて足を滑らせていた。

 

「きゃああああ!!」

悲鳴を上げながら真っ逆さまに墜落する、丈の短い着物を着た少女。

それを月華さんが空中で受け止める。

「ナイスキャッチ!」

少女をお姫様抱っこして川岸に着地したその姿は、女の子なのにカッコイイ。

感心して眺めていたのだけど……助けられた少女は、月華さんのヒトと異なる姿を認識し、恐慌を来たした。

「は、はなせ妖怪ーっ!!」

悲鳴に近い怒声とともに、手を振り上げる。

 

それに対して月華さんは、

 

「あ、うん」

 

少女を抱いていた手を離した。

 

――どぱーん。

渾身の平手打ちを躱された少女は、バランスを崩して水中に転がり落ちる。

 

「……姉貴ィ……」

「イジメっ子じゃのう……」

「だって“はなせ”って言われたから」

一切悪びれた素振りもなく、朗らかに微笑む白銀の女妖怪。

……今更だけど、月華さんってSなのかしら?

 

 

夏とは言えまだ冷たい川に落とされた少女はかなり不機嫌だったけど、怪我の手当をしながらどうにか話を聞くことができた。

少女を襲った妖怪は、蜘蛛頭と言うらしい。

「死体の頭に巣食って、人を襲ってまわってる。もう何人も喰われてるよ」

「……ねえ、犬夜叉、月華さん。助けてあげましょうよ」

「んー、蜘蛛の妖怪、か……」

「けっ、まーた人助けかよ」

月華さんは顎に手を当てて対策を考えはじめる。犬夜叉も口では不満そうにしているが、素通りする気はないらしい。

「もう少し、蜘蛛頭について教えてくれる? 大丈夫、このひとたち、すっごく強いのよ。だから――」

「いいよ。余計なことしなくて」

少女は頑なに首を振って、姉弟を睨みつけた。

「そいつら、妖怪だろ。妖怪の世話になるなんてまっぴらだからね」

「そ、そんな……」

月華さんと犬夜叉は、無闇に人を襲って殺したりしない。(さっきの月華さんの行動はアレだけど)妖怪だから、と一括りに拒絶しないで欲しかった。

どう説明したらわかってもらえるだろうか、と悩んでいると、月華さんが少女の隣に腰を下ろした。

「な……なにさ」

「いや、ずいぶん嫌われたようだから、仲直りしたいと思って」

にわかに緊張して距離を取ろうとする少女。

構わず月華さんは――その肩を抱いて、身体を密着させた。

 

(えっ、ええ~~っ?)

この行動は少女にとっても予想外過ぎたのだろう、彼女を突き飛ばすこともできずに硬直している。

「な、仲直りなんてするもんかっ、あたしは妖怪なんか、だだだ、大っ嫌いなんだ……から……」

先程までの刺々しい態度から一変、罠にかかった小鳥のように震える声を搾り出す。

……たぶん、あの子が妖怪に拒否反応を示すのは、怖いからなのよね。

そんな少女に、月華さんはますます楽しげに語りかけた。

「ふふ、それは良い心構えね。――だって大抵の妖怪は、あなたみたいに可愛くて美味しそうな娘が大好きだもの」

至近距離で少女を見つめて微笑む月華さんの顔は、地上に舞い降りた天女のように美しい。それでいて、縦に裂けた瞳孔を持つ金の瞳は、獲物を狙う肉食獣を思わせた。

鋭い爪の生えた月華さんの指が、少女の頬を撫でる。優美に、残忍に。

「ぁ……ぅ……」

少女はもはや言葉もなく、ただ口をパクパクさせている。

その顔色は、赤くなったり青くなったり大忙しだ。

 

「……おら、気のせいかドキドキしてきた……」

「あ、あんまり見ちゃダメよ七宝ちゃん」

なぜかあたしも、さっきから二人の背景(バック)に咲き乱れる百合の花が見えて困っているのだ。

 

「あなたの名前は?」

「……な、なずな……ですっ……」

「そう、なずな。あなたはあんな妖怪がうろつく山の近くに住んで、大丈夫なの?」

「お、和尚様が……結界を張ってくれてるから……」

「和尚? あなたの周りに、ほかの人間は?」

「いない……おとうが、殺されて、和尚様が、あたしを寺に住まわせてくれて……」

 

少女――なずなは、恐怖と、たぶんそれ以外のアヤシイ感情に囚われて金縛り状態だ。

月華さんから目を逸らすこともできず、夢うつつのようなふわふわした口調で、素直に質問に答えている。

ふうん、と何か考え込む表情になった――と思いきや、月華さんはあっさりとなずなを解放した。

同時に、二人を取り巻いていた、目のやり場に困るような危うい雰囲気が霧消する。

「犬夜叉、彼女を送ってあげて」

「お、おう」

すっかりいつもの姉の顔に戻って指示を出す月華さん。

「かごめと七宝も、もうすぐ日が暮れるし、妖怪退治は明日にして今夜は寺に泊めてもらいなさい。――いいでしょう?」

最後の問いは、未だ呆然とへたり込んでいる少女へのものだ。

蠱惑的な流し目を向けられて、なずなは反射的に頷く。

「じゃ、そういうことで。私は急用を思い出したから、朝まで別行動させてもらうね」

「え?」

「はあ!?」

唐突な月華さんの言葉に、あたし以上に驚きの声を上げたのは犬夜叉だ。

「何か文句あるの? 犬夜叉」

「あるに決まってるだろ! 今日は――」

しかし抗議する犬夜叉の言葉は、不意に遮られた。

 

月華さんが、正面から犬夜叉に抱きついたからだ。

 

「ごめんね。寂しいだろうけど我慢して」

「…………」

爪先立ちになり、両腕を弟の首に巻きつけて優しく囁く月華さん。

そこになずなに寄り添っていた時のような妖しげな雰囲気は無い。無いけど……

(ちょっと、仲、良すぎじゃない……?)

犬夜叉も、姉の行動に驚いた表情を見せつつも大人しく抱擁を受け入れ、月華さんが二言三言何か耳打ちするのを黙って聞いている。

もし犬夜叉が、あたしの弟の草太くらいの年頃だったなら、健全な姉弟のスキンシップかもしれない。

けれど彼は既に、姉より頭一つ背の高い十代半ばの少年だ。

――知らない人が今の彼らを見たら、恋人同士と思うだろう。

ややあって、月華さんはするりと身を離した。

「それじゃ、またね」

「ああ、わかった」

犬夜叉は、対岸の森へと跳躍する月華さんと、視線を交わして頷き合う。

あたしはそれを黙って見送った。

(なんだろう。なんかモヤモヤする……)

 

 

「あのなずなとかいう奴、口は悪いが料理は美味かったのう」

夕食の膳を平らげた七宝ちゃんは、リュックに背をもたれさせて満足げに言う。

なずなに案内されて訪れた寺の和尚さんは、快くあたし達を迎えてくれた。のだけれど……

「親切な和尚さんで良かったわね。ねー犬夜叉」

「…………」

「なんじゃ犬夜叉、ムスっとして」

「うっせーな」

犬夜叉は、開け放した障子の先に広がる薄暮の庭を睨んだまま振り返りもしない。

この寺に入ってから……いや、月華さんと別れてから、極端に口数が少なくなっているのだ。

(なによ。月華さんには絶対そんな態度とらないくせに)

モヤモヤする。モヤモヤする。

「お姉ちゃんがいないから寂しいんでしょ。甘えん坊よねー」

つい、そんなことを口にしてしまった。

「ああ? そんなんじゃねーよ」

流石に無視できなかったらしい犬夜叉が、顔を顰めてこちらを向く。

「どーだか。あんた、いつも月華さんにベッタリじゃない」

(ああもう! あたしったら何言ってるんだろ、これじゃまるで……)

自分でもどうしてこんなに苛立っているのか分からない。

気まずくなって目を伏せると、立ち上がった犬夜叉があたしの横にやって来た。

「――かごめ、動くんじゃねえ」

 

カチリ、と鉄砕牙に添えられた手が鍔を鳴らす。

 

「いっ!? ちょ、ちょっと、そんなに怒らなくても――」

「バカ、後ろだ!」

「え?」

戸惑うあたしの顔の横を通過する刃。

その錆びた刀身が、今まさにあたしに飛びかかろうとしていたモノを貫いた。

 

――猫ほどの大きさの蜘蛛の体に、人間の頭部を持った妖怪が、黄土色の体液を滴らせながら痙攣している。

 

「く、蜘蛛頭じゃ! ひいぃっ、うじゃうじゃおる!!」

「きゃ……!」

蒼白になってあたしにしがみつく七宝ちゃんの指差す先、天井の一角で蜘蛛の大群がひしめいていた。

「くそっ、中から来やがったのかよ!」

犬夜叉は舌打ちしながら、あまりに気持ちの悪い光景に固まったあたしの腕を掴んで立たせる。

「かごめ、四魂の欠片を取られねえように気をつけろ! 七宝、おめーも妖怪だろ、ビビってんじゃねえ!」

「わわ、わかっとるわいっ、狐火!」

こちらに吐きかけられた大量の糸が、一瞬で燃え上がる。直接体当たりを仕掛けてきた数匹は、犬夜叉が難なく叩き落とした。

「こいつら、糸さえ燃しちまえば大したことねえな」

「おらの狐火があれば勝てる!」

「そ、そうね」

頷きながら、ふと違和感を感じた。

(鉄砕牙が……変化しない……?)

蜘蛛頭を貫いた時も、今も、犬夜叉の手の中で鉄砕牙は錆び刀のままだ。

いったいどうして、と戸惑っていると、犬夜叉が小さく溜息を吐いた。

「――ったく、時間切れかよ。姉貴の野郎……」

「え……!?」

 

いつの間にか陽はすっかり落ち、室内は宵闇に包まれている。

七宝ちゃんの狐火が照らす光の中で、犬夜叉の髪が白銀から黒へと変わった。

「……なにジロジロ見てんだよ」

いつもの金色ではなく、灰色の瞳があたし達を睨む。

「犬耳が消えとるっ」

犬夜叉の頭に飛び乗って、わさわさと髪に手を突っ込む七宝ちゃん。

「どういうことなの!? その姿まるで人間……」

「……半妖にはな、体内に流れる妖力が消えて、人間になっちまう時があるんだよ。おれの場合は、朔の日がそうだ」

「なんと……。おい犬夜叉、そんな弱味をおらたちにバラしてよかったのか?」

「秘密と言え秘密と。一緒に旅してるのに隠し通せるもんじゃねえし、言いふらされたくはねえけど、お前もかごめも、んなことしねえだろ」

「……! その通りじゃ、おらは仲間を裏切ったりはせん!」

「犬夜叉……」

ぶっきらぼうで、乱暴な言動ばかりだけど、あたし達のこと信用してくれてたんだ……嬉しい。

 

「――ってちょっと待って。それはそれとして、あたし達今大ピンチじゃない!?」

「ああっ、蜘蛛頭のことを忘れとったーっ!」

 

狐火を警戒してか、蜘蛛頭は縁側に避難したあたし達から一定の距離をとっているものの、その数はじわじわと増えている。

「どどどどうするんじゃ犬夜叉! 月華もおらんのに、無能な人間になりさがってしもうて……!」

涙目で食ってかかる七宝ちゃんに対して、犬夜叉は、「はっ」と呆れたように失笑する。

「わかってねえな、七宝」

今の犬夜叉には、爪も牙もない。平時の彼と同等の戦力である月華さんもいない。

どう考えても絶望的な状況。

にもかかわらず、犬夜叉は不敵に笑ってみせた。

 

「人間は、無能じゃねえよ」

 

鉄砕牙を正眼に構える。

「――頼むぜ、鉄砕牙」

その言霊に呼応するように、仄かな金色の光が刀身を包んだ。

「あ……?」

光が消えたあとに現れたのは、普段の巨大な獣の牙でもなければ、さっきまでのボロボロの錆び刀でもない。

寒気がするほどに鋭利な光沢を放つ、瑕一つない白刃。

 

世界一とも謳われる日本刀の輝きが、そこにあった。

 




後編も早めに投稿できるよう頑張ります。


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第十八話

「鉄砕牙を、妖力が無くても使えるようにしろ、だあ~?」

 

人の立ち入れない、絶えず黒煙が噴き上がる山の中にある工房。

そこでおれが引き合わされた、鉄砕牙の生みの親だという刀鍛冶の妖怪――刀々斎は、姉の言葉を胡乱げに反復した。

「そうです。半妖には月に一度、妖力を失って人間になる時がある。その時のために、鉄砕牙を改良したい」

月華の訴えに対する老妖怪の反応は、捗々しくない。

「使い手の妖力に応じて力を発揮するのが妖刀ってもんだぜ? そんな都合の良い作り替えができるかよ」

その言い分はもっともだと思う。

少し前に、ようやくおれは鉄砕牙を使いこなせるようになった。

さらに性能を上げたいという心遣いは嬉しいが、やはり無理のある要求ではないか――と、隣に座る姉の表情を窺う。

案に相違して、月華は諦めていないようだった。

「本当に出来ませんか?」

落ち着きはらって問い返す。

 

「もともと鉄砕牙には、敵を斬ることでその妖力を吸い取り、自分の技にする能力があるでしょう。だったら、“持ち手の妖力を吸い取って蓄え、必要な時に解放する”なんて能力を付加するのも不可能ではないと思うのですが」

 

「――ほ」

刀々斎が、驚いたようにぎょろりとした目を瞬かせる。

「姉上、頭いいな!」

おれも鉄砕牙の能力については教えられていたが、そこからそんな発想には至らなかった。

期待を込めて刀鍛冶を見つめると、その肩口から冥加が顔を覗かせた。

「月華様、犬夜叉様。わしは賛成できませんなあ、父君の刀にそのような手を加えるなど……」

「何言ってるの、今の持ち主は犬夜叉でしょう。犬夜叉の使い勝手が良いようにするのは当然じゃない」

冥加は、月華の冷たい視線に怯みつつも食い下がる。

「鉄砕牙は強力な武器です。だからこそお館様は、妖怪が触れれば結界に拒まれ、人間が手にすれば無価値な錆び刀のままとすることで、悪しき者に使われぬようにしたのです。月華様がおっしゃったような改良を施せば、人間による鉄砕牙の悪用が可能となりますぞ!」

「それは犬夜叉が鉄砕牙を奪われるようなヘマをやらかせばの話でしょ。そもそも、妖力が消えたら使えないってのが、犬夜叉の守り刀として片手落ち。人間の姿の時に、可愛い男の子をちょっとずつ切り刻んで殺すのが趣味の変態に襲われたら、どうやって戦うの」

「姉上、なんでそんな特殊すぎる状況想定してんだよ……」

姉の頭の柔らかさというか、想像力が豊かな点は見習いたいと思うが、時々斜め上なコトを言い出すのは理解できない。

 

「改良した方がいいですよね、刀々斎殿!」

「今のままにすべきじゃろう、刀々斎!」

刀鍛冶は二人から詰め寄られて頭を抱える。

「う゛~む、どちらももっともな意見。鉄砕牙の可能性を広げてみたい気もするが……使い手の犬夜叉が頼りないからな~」

 

「――なんだと、ジジイ」

冥加も刀々斎も、月華の案に反対する理由は、おれの未熟さなのか。

「バカにするな! おれは鉄砕牙を他の奴に奪われるほど弱くねえし、これからもっともっと強くなるんだ! てめえみたいな石頭の老いぼれと違ってな!」

「石頭の、老いぼれだとお?」

刀々斎の眉間にぐっとシワが寄った。

「このガキ、口の利き方がなってねえな。勘違いすんなよ、たしかにわしは親父殿の頼みで鉄砕牙を打ち出したがな、てめえらの注文を聞いてやるかは別の話だぜ」

鼻息も荒くおれたちに背を向ける刀鍛冶。

「気分が悪ぃ、とっとと帰れ!」

(……しまった……)

完全にへそを曲げた様子でカンカンと槌を打ち鳴らす老妖怪の後ろ姿を睨みながら、おれは内心で歯噛みした。

刀々斎という刀鍛冶は好き嫌いが激しく、自分が気に入った者でなければ刀を打たないと、事前に教えられていたのに。

せっかくの姉の考えが受け入れられないことに短気を起こした結果、刀鍛冶の機嫌を損ねたのでは本末転倒ではないか。

「わりぃ、姉上……」

言いかけて、おれは月華の表情に戸惑った。

 

姉は一瞬困ったような顔をしたあと――小さく笑みを浮かべたのだ。

 

「帰りましょう、犬夜叉」

すっくと立ち上がると、工房の出入り口に向かって歩き出す。

「え!? あの、月華様、よろしいのですか……?」

鉄砕牙の扱いについて意見を異にしていても、喧嘩別れは望んでいないのだろう、おろおろと追いすがる蚤妖怪。

月華は穏やかな、それでいて沈痛な様子で答える。

 

「ええ、もう良いの。――よくよく考えてみたら、鉄砕牙を改良するなんてやっぱり無理だよ。いくら刀々斎殿でも出来ない相談だ」

 

“無理”“出来ない”をことさら強調した喋り方だった。

姉に促されて腰を上げたものの、本当にこのまま帰って良いのかとまごついていたおれの視界の隅で、刀々斎が槌を振り上げた体勢のままピタリと静止する。

「…………」

おれを見遣る月華の眼差し。その目付きは……手合わせで技を仕掛けようとしている時と、同じだ。

 

「……あー、そうだよな、“わしの可愛い鉄砕牙”なーんてぬかしてるけど、すげえのは父上の牙で、刀鍛冶の腕じゃねえもんな~」

――刀々斎が、槌を一層固く握り締める。

「うん、犬夜叉の言うとおりだよ。だからあれこれ理由つけて断ろうとしてるのに、私ときたら気が付かなくて」

――刀々斎が、わなわなと肩を震わせる。

「こんなジジイに頼ったこっちが馬鹿だったな。他を当たろうぜ、姉上」

――刀々斎が、頭に青筋を浮かべる。

「もっといい刀鍛冶を探さないとね。――刀々斎殿、無茶なお願いをして困らせてしまって、ごめんなさい」

心底申し訳なさそうな声色で、月華は老妖怪を振り返って頭を下げる。

 

そして――

 

「だああああぁーーーっ!!」

 

刀々斎が、絶叫した。

 

「このクソガキども……! 黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって! 犬夜叉、てめえの牙をよこせ!」

文字通り頭から湯気を出しながら、こちらに向き直って仁王立ちする刀鍛冶。

「貯蔵した妖力を使って変化する刀だな!? いいぜ、お望み通りに打ち直してやらあ! この刀々斎の腕をナメんじゃねえ!!」

肩を怒らせて宣言する老妖怪の剣幕もどこ吹く風とばかりに、月華は不安げな表情で首を傾げる。

 

「……大丈夫なんですか? 冥加の心配も考慮に入れると、変化の条件は犬夜叉の言霊とかにする必要がありますけど、難しくありません?」

「問題ねえ!」

「普段と同じ形の鉄砕牙だと、人間の力じゃ扱いづらいでしょうから、一般的な刀の大きさにしてその分切れ味を鋭くして欲しいんです」

「任せとけ!」

「どのくらいで完成します? 百年後とか言われても困るんですが」

「三日だ!」

「もちろん、お代はいりませんよね?」

「当然だ!」

 

月華の口元が緩やかに弧を描く。

そのしてやったりの微笑を見たおれは、姉の手管に感心しつつも思わずにいられなかった……“姉上って、一歩間違えたらロクでもねえ悪党になるんじゃないか?”と。

 

 

 

第十八話 朔の日が来ました 中

 

 

 

「雑魚どもを相手にしてもキリがねえ。どこかに親玉がいるはずだ、そいつを見つけ出して倒すぞ!」

狐火の明かりを頼りに、おれ達は暗い廊下を走る。

時折襲いかかってくる蜘蛛は、鉄砕牙の一閃で豆腐よりあっけなく両断できた。

人間が打つ刀剣は、その出来栄えによって“最上大業物”“大業物”“良業物”“業物”と順位付けされる。

ウソかホントかわからないが、最も優れた刀は一度に七つの人体を斬ったという。

刀々斎のジジイが鍛冶師魂を暴発させて作ったこの形態の鉄砕牙は、そんな最上大業物にも匹敵する切れ味だ。

……おれの妖力を刀身に定着させるために牙を引っこ抜かれたり、その結果、元の親父の牙と均衡が取れずバカみたいに重くなるという問題が生じたことを差し引いても、充分におつりが来る性能である(一時重くなった鉄砕牙も、竜骨精との戦いを経て手になじむようになった)。

「犬夜叉、誰かこっちに来るぞ!」

七宝に促されて視線を前方に投じれば、切迫した一人分の足音と、ゆらめく手燭の灯火。

「なずなちゃん、無事だったのね!」

「う、うん。――犬夜叉? 人間に化けた……?」

息を切らせて駆け寄ってきた女は、おれの姿を認めて驚いたように瞬く。

「あー、細かいことは気にすんな。死にたくなきゃ、とっととこの寺から逃げろ」

「いやだ、和尚様をおいていけない! まだ生きてるんだ、助けて」

「――この寺はあの坊主が守ってるんじゃなかったのか? 結界はどうした?」

こちらの問いに、なずなは苛立たしげに首を振る。

「わかんないよ、そんなの! 助けて……お願いだから……っ」

最後の言葉は涙声だった。

 

「……坊主は今、どこにいるんだよ」

 

 

広大な本堂の四方八方に、蜘蛛の糸が張り巡らされている。

その中心で、僧衣の老人が宙吊りになっていた。

「おい、坊主」

呼びかけに、力なく項垂れていた僧が身じろぎする。

「犬夜叉……どの……? 来て……くだされたのか……?」

「和尚さん!」

「和尚様!」

なずなが伸ばされた皺だらけの手を取ろうと踏み出すのを――おれは片手で制した。

「助けて欲しけりゃ、てめえがこっちに来な、坊主」

「無理じゃ……もはやわしの法力では蜘蛛頭をおさえきれぬ」

 

「ふーん。だったらなんでてめえ、まだ生きてんだ?」

「――――」

 

妖怪にとって、霊力や法力を持った人間というのは己を滅しうる脅威である反面、常人よりも滋養のある好餌なのだ。

このような状況になったら、真っ先に食い殺されていなければおかしい。

『……くくく……』

おれの問いに僧は――僧の姿をしていたものは、嗤った。

老人の肉体が、墨染の衣を突き破って変形する。

「お……和尚様!?」

蜘蛛の巣の体をした妖怪が、ついにその正体を現した。

「やっぱりてめえが蜘蛛頭の親玉だったのか」

『くくく……。四魂の欠片を持つ半妖がうろついているという噂を聞いての、おぬしが来るのを待っとったよ。それもよりによって血の妖力を失ったときに、わが手中にとびこんでくるとはの』

「けっ。妖力なんぞなくたって、てめえみてえな老いぼれ妖怪、体力でぶっ倒してやらあ!」

『愚か者!』

妖怪の言葉に答えるように、本堂の暗がりから複数の影が立ち上がる。

鎧を着込み刀を携えた人間の、本来は頭がある部分で八つの目玉が赤く光っていた。

「――蜘蛛頭に襲われた人間の、“体のほう”かよ」

『その通り。小僧、なかなかに良い刀を持っているようだが、所詮一人でこの数を相手にはできまい』

「い、犬夜叉……」

かごめが震える声で呼びかける。

「大丈夫だ。結界から出るんじゃねえぞ」

鞘を抜いて背後のかごめの手に押し付けると、半透明の障壁が現れ、女二人と子狐一匹を囲んだ。

自らの優位を疑いもしない蜘蛛頭の親玉は、その様子を無駄な抵抗とばかりにうすら笑いで見下ろしている。

――バカ野郎が。

 

「おれと鉄砕牙の二百年、とっくり拝ませてやるぜ!」

 

わらわらと向かってくる人型の蜘蛛頭。その数、十。

おそらく落ち武者か野盗か、犠牲者の中でも戦闘力のある者の肉体を精鋭部隊として利用しているのだろうが――

(ハナシにならねえな)

戦力の多寡、体格の優劣……。あらゆる条件に対応して、勝利をたぐり寄せるべく培われた技術であるから剣()なのだ。

大上段に振り下ろされた刃を躱して、その両腕を断つ。

体勢を崩してよろめいたところを蹴飛ばせば、後続を巻き添えにあえなく転倒した。

両側から襲い来た二体の内、まず首を刎ねんとする左からの横薙ぎを、速度が乗る前に切っ先をぶつけて逸らし、その勢いのまま身体を捻って右の敵を切り伏せる。

左の敵は、逸らされた刃を取り直すよりも早く頭部を一突きにして沈黙させた。

その身体を引っつかみ、背後から忍び寄って来ていた槍持ちの盾とし、穂先を封じたところで仕留める。

『ば……馬鹿な……人間はこの暗さではろくに動けぬはず……!』

瞬く間に兵の数が半減したという事実を受け入れられず、狼狽えた声を上げる蜘蛛頭。

たしかに、朔の夜はいつも月のない夜の闇の深さに驚かされる。

爪も牙も、嗅覚すら失われる心もとなさは、どれほど年月を重ねようと変わらない。

 

――だが。

 

――そんなことは剣を執る上で、何の問題にもなりはしない。

 

こちらから更に踏み込んで、残りの兵隊を屠っていく。

周囲に散らばる粘性の糸。その間隙を過たず選んで足場を確保する。

虫ケラが操る朽ちかけた死体は、おれとは逆に仲間の吐き出した糸に足を取られてその機動力を大きく落としていた。

 

目に依らず、耳に依らず、鼻に依らず――ただ肉体の命ずるままに剣を振るう。

 

無念無想。明鏡止水。

 

月華いわく、それは人間があらゆる武において最終目標とする境地であり、二百年の時を研鑽に費やしたおれの剣は、すでにそれに近い域にあるらしい。

……「早い話が考えるより先に体が動くってことだな!」と言うと、姉からは「理屈をあっさり超えちゃえるバカってコワいわー」と睨まれた(ほめられた)

風の傷を教えるためだとかほざいて、おれを目隠し状態でどつき回した奴の言うことか、畜生。

 

最後の一体が頽れた。

「――さて、くそ坊主。冥土の土産にその身で味わいな」

血振るいして取るは中段・霞構え。

「これが、ただの人間のジジイが妖怪を倒してきた剣だ!!」

『ぐ、ぐおおおっ!』

蜘蛛の巣状の巨体を支える足を破壊する。憤怒の表情で床に叩きつけられた頭部に鉄砕牙を突き立てたのだが――

「やったあ!」

「すごいぞ犬夜叉!」

「いや、まだだ……!」

快哉を叫ぶかごめと七宝をたしなめ、気配を探る。

刃が届く寸前で、蜘蛛頭の顔が消えた。

どうやら、こいつの頭は縦横に広がる身体を自在に移動できるらしい。

 

『……なずな……』

 

予想通り、上方から声が響いた。

最初に会った時と同じ、穏やかで優しい和尚の声だった。

『なずな……助けておくれ……』

「! 何を……! あたしを騙していたんだろう、妖怪!」

『お前にだけはわかってほしい……わしは、法力がおよばず、妖怪に体を乗っ取られてしもうた……』

「――っ」

「なずな、聞くんじゃねえ!」

『犬夜叉どの……許してくだされ、わしが蜘蛛頭を抑えきれなかったばかりに……』

…………。

『なずな……お前がこの寺で暮らすようになって、わしは、嬉しかったのだ……お前を本当の娘か孫のように思っておる。だからお前は……お前だけは信じておくれ……』

悲しみに満ちた、すすり泣くような声。

半ば無意識の行動だろう、耳を塞いでいたなずなの手が離れ、声のする方に向かって伸ばされる。

「! 待て、なずな――」

しくじった。

堂の中心近くまで入り込んだせいで、廊下に立つかごめ達との距離が遠い。

自分が割って入るより先に、なずなの指は鞘の結界を抜け――垂れ下がっていた蜘蛛の糸に触れる。

 

「なずなちゃんっ!」

 

まさしく獲物を絡め取る蜘蛛の素早さで、糸はなずなの体を捕らえて吊り上げてしまった。

『こうもあっさり騙されてくれるとは、かわゆいやつよ……』

なずなを鷲掴みにした腕の横に、嘲笑を浮かべた顔が現れる。

『さあ小僧。この娘の命が惜しくば、四魂の欠片を寄越せ』

「ひ、卑怯じゃぞ!」

『何とでも言うが良い。この娘が毒で体内からじわじわと溶けていくのを見たいならな』

「くっ……犬夜叉! あたしに構わず、斬って。こんな奴に利用されるくらいなら、その方がマシだ!」

なずなが蜘蛛頭の体に爪を立ててもがきながら、悲愴な表情で懇願する。

「んなわけにいくかよ。……かごめ、すまねえが、四魂の欠片を出してくれ」

「う、うん……」

かごめが取り出した小瓶の中の煌きに、蜘蛛頭は欲に濡れた眼差しを向ける。

『くくく……これで五百年は寿命が伸びるわい』

「――おい、最後にひとつだけ教えろ。さっきの坊主の言葉は本当なのか? この寺の和尚は、てめえに乗っ取られて、操られてるのか?」

おれの質問に、四魂の欠片の輝きに魅せられたまま妖怪が答える。

『最初から和尚なぞおらぬわ。すべては、四魂の欠片を持つという半妖をおびき出すため。蜘蛛頭を山に放ち、妖怪の噂を聞きつけてそやつらが来るのを待っておったのよ』

 

「そうかよ。――聞こえたか、姉貴ッ!!」

 

張り上げた声の余韻も消えぬ間に、天井から瓦礫が降り注ぐ。

 

『な、なにぃ!?』

驚いて上空を振り仰いだ蜘蛛頭は、次の瞬間さらなる困惑に見舞われることになる。

囚えていたはずの娘が、いない。

――音すら置き去りにする剣閃が、妖怪の腕ごと人質を奪っていったのだ。

 

土埃が立ち込める中、自らが突き破った屋根の残骸を踏み、娘を抱えた白銀の女妖怪。

 

 

「残念だったなくそ坊主。てめえの寿命もここまでだ」

 

 

 




鉄砕牙(朔の日Ver)
人間状態の犬夜叉が使えるよう、犬夜叉の牙を加えて改良された鉄砕牙。
犬夜叉が帯刀することで、ごくわずかずつ妖力を吸収し蓄えることができる。
蓄えた妖力を解放し日本刀形態に変化する条件は犬夜叉の言霊。
半妖時のように大技を放つことはできないが、かつて只人の身でありながら妖怪とも渡り合ってきた人間の老人の剣技を修めた犬夜叉との相性は抜群に良い。
刀々斎の熱い職人魂の結晶である。

……後編とか言っときながらまだ中編です。すみません。


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第十九話

――「あの娘の身近に、妖怪がいるはず。気づかないフリをしておびき出して」

 

私は弟にそう伝えていた。

 

なずなと話しながら、私の嗅覚は彼女から妖怪の臭いを捉えた。

彼女の言葉通り、結界に守られた寺で過ごしているのなら有り得ない、微かだが長期間に渡って染み付いた――そんな臭いだった。

しかし、本人に嘘をついている素振りは微塵もない。

寺の和尚以外に、なずなと日常的に接する者もいないと言う。

 

以上のことから私の頭に浮かんだのは、「その和尚サマとやら、怪しくね?」というものである。

 

考えられる可能性は三つ。

 

 ①妖怪が和尚に化けている

 ②和尚は人間だが、妖怪に体を乗っ取られている

 ③和尚は人間だが、妖術によって操られている

 

そう仮説を立てて、ではどう対処するべきかをまた考える。

①の場合は簡単である。和尚を倒せばそれで終わりだ。

しかし、②③であったらそうはいかない。九十九の蝦蟇の時と同様に、操られている者を妖怪の支配から解放しなければ、迂闊に攻撃ができない。

 

なずなに協力を仰げれば良かったが、彼女の妖怪に対する恐怖心は根強く、今日出会ったばかりの妖怪と、日頃から世話になっている和尚とどちらを信じるかは明白である。

まして「和尚≒蜘蛛頭の親玉」の仮説は、妖怪の臭いという、人間には認識不能な情報から組み立てた私の推測に過ぎないのだ。

そんな言い分を受け入れろという方が無理な相談だろう。

 

また往々にして、蜘蛛の妖怪には、罠を張って獲物を待ち構える、用心深い性質のモノが多いのだ。

下手になずなに事情を話せば、彼女に信じてもらえないばかりか、敵に警戒されて討伐難易度が上がりかねない。

 

結論。

――何も知らずに罠にかかったフリをして、敵を罠にかける。

 

今夜が朔の日で、犬夜叉が人間になってしまうというのも、むしろ都合が良い。

わざわざ妖力を失う日に、敵の本拠地にやって来る馬鹿な半妖がいるなどとは誰も思うまい。

弟たちが、何も知らずに蜘蛛の巣に飛び込んだ愚かな獲物を演じれば、敵は油断してその正体を明らかにするだろう。

私はこの山を離れたように見せかけた後、密かに寺に近づき、いつでも犬夜叉たちを援護できるように備える。

 

それが、今回の作戦であった。

 

 

 

第十九話 朔の日が来ました 後

 

 

 

『き、貴様、いったい……!?』

「年をとると頭の巡りも悪くなるもの? オマエの敵に決まってるでしょう」

まあ私も二百年という時間の中で、原作知識を摩耗させちゃったのだから言えた義理じゃないか。

もしこの蜘蛛頭が原作にも登場した敵で、どうやって倒したかを私が覚えていたなら、こんな迂遠な方針を取らずにすんだだろう。

何ひとつ予備知識が無いがゆえに、情報をかき集め、思いつく限りの可能性を考慮して動かなければならなかったのだ。

まったく、現実は非情である。

犬夜叉に指示を出す際も、周囲で蜘蛛頭が見張っていた場合に備えて、不自然にならないよう気をつけていたのだが、無用の心配だった。

連中に大した知能はなく、妖力を抑えていれば、寺の屋根に陣取っていても気付かれなかった。

楽で良かったといえば良かったのだが、和尚の正体も何の捻りもない①が正解とあっては、この程度の敵に手間をかけ過ぎた気がする。

「ようやくお出ましかよ、姉貴」

弟もそう思ったのだろうか、人間の体で随分と大立ち回りをして、心なしか疲れた声だ。

いまだに事態を呑み込めていない様子の蜘蛛頭から視線を外して、労いの言葉をかける。

「おつかれ、犬夜叉。師匠譲りの剣技、見事だった――なずなを人質にとられなければもっと良かったけど」

「……ふ、ふん! 姉貴に見せ場を作ってやったんでいっ。自分の出番がねえと姉貴はいじけるからな!」

ソ、ソンナコトナイヨー?

確かに屋根の上で待機状態のまま夜明けを迎えるのは虚しいが、罪もない人間を危険に晒さずに済むのが一番だ。

(でも、まあ……)

「あなたがそう言うなら、幕引きは私がやらせてもらいましょうか」

「嬉しそうだな」

弟の呟きは聞き流し、顕心牙を抜く。

『……ま――』

もはやいかなる虚偽も韜晦も述べる暇を与えない。

待て、と蜘蛛頭の口が動くよりも先に、私は刃を振り下ろした。

 

轟音と突風が堂内を揺るがす。

 

舞い上がる粉塵が晴れた後には、本堂の壁が一つ完全に消失し、遠く薄墨色の山々が夜明けを待っているのが見えた。

(……ちょっと力が入りすぎた)

蜘蛛頭の親玉を消滅させた余波で、壁まで吹き飛ばしてしまったらしい。

――あと、私の記憶が確かなら、あの壁の前には仏像があったような。…………まっ仕方ないか!

「あの、助けてくれてありがとう……月華、さま」

「うん。あなたが無事で良かった」

可憐な乙女の命が助かったのだ、仏様も喜んでいることだろう。めでたしめでたし! 何も問題ない!

脳内で無理矢理まとめる私に、ほんのりと頬を染めたなずなが抱きついてきた。

 

「は~、四魂の欠片も持ってねえ老いぼれ妖怪相手に、とんだ道草だぜ」

私にとどめを譲った犬夜叉が、黒髪を掻き上げながら大袈裟にため息をつく。

「じゃが、犬夜叉は人間になっても強いのう! な、かごめ」

「……うん、そうね、すごかったわ」

はしゃいだ様子で同意を求める子狐に、かごめが頷く。

(ん? ……んん?)

「――犬夜叉」

ちょいちょい、と手招きして、少女達から死角になる折れた柱の陰に移動する。

「なんだか、かごめの元気が無いみたいだけど、何かあった?」

かごめは、いつも明るくて快活な少女だ。

それだけに、先ほどの彼女の沈んだ表情が気になったのだが、弟は怪訝そうに眉根を寄せた。

「別に、何もねえぞ? 蜘蛛頭はおれと七宝で全部倒したし、怪我もしてねえ」

「本当に? あなたが怒らせるようなこと言ったりとかも?」

「ねえよ」

弟に心当たりはないようだが、女心に疎く無神経な輩の言うことなので、姉としては心配である。……いや、“彼氏いない歴=年齢(前世+現世)”なんてしょっぱい記録を更新中の私に心配されたくないだろうけど。

「……犬夜叉、月華さん。どうかしたの?」

声をひそめて不毛な問答をしていると、かごめが遠慮がちに声をかけてきた。

その眼差しは、やっぱりどこか悲しげだ。

「あー、うん。大したことじゃないよ。……私がなずなを麓の村まで送っていくから、七宝、狐火で道を照らしてくれない?」

「おう、任せておけ!」

七宝は得意げに頷いて、かごめの肩から飛び降りる。

「日の出までには戻るから、犬夜叉とかごめは、ここで待ってて」

笑顔でそう言ってから、弟にだけ聞こえる声量で囁く。

「私達が戻るまで、かごめのこと、気遣ってあげなさいよ。原因が分からないなら、ちゃんと話を聞いて」

「なんでおれが。そういうのは女たらしの姉貴の方が得意だろ」

「誰が女たらしだ。――これは犬夜叉に任せるべき問題だと、私の嗅覚が告げてる」

「ワケ分かんねえよ」

犬夜叉はまたもや深いため息をついた。

 

 

(あー、もう、あたしったら……バカみたい……)

月華さん達がいなくなった堂の片隅で、あたしは膝を抱えて座っていた。

憂鬱な気分で、今日の出来事を思い出す。

 

月華さんが犬夜叉に抱きついたのは、敵に気取られずに作戦を伝えるためだった。

犬夜叉が無愛想に振る舞っていたのは、敵の襲撃を警戒していたからだった。

どちらも思いは同じ。

あたし達を守りながら、危険な妖怪を確実に葬ることを目的とした行動。

(ふたりとも……ずっと真剣だったのに)

それに少しも気づかず、姉弟の仲の良さにもやもや――ヤキモチなんか焼いて、あたし、バカみたい。

 

「おい、かごめ」

「! な、何よ……」

いつの間にか、犬夜叉が隣に腰を下ろして、あたしの顔を覗き込んでいた。

「お前、なんか怒ってんのか?」

「え……別に、そんなことないけど……」

「んじゃ、どっか痛えとこあるか?」

「ないわよ」

あたしは犬夜叉から目をそらした。

普段はデリカシーが無くて、七宝ちゃんと同レベルで口喧嘩するような子供っぽい奴なのに、真摯な表情でまっすぐあたしを見つめてくるのが、ひどく落ち着かない。

「……」

半壊した堂の惨状を無意味に眺めるあたしの横で、犬夜叉が何か考えている気配がする――と思いきや、少年の手に頭を掴まれた。

「きゃ!? ちょっと、何――」

「うるせえ」

人間の姿でも相変わらずの馬鹿力に引っ張られて、上体が横に倒れる。

 

そして――あたしの頭が、胡座をかいた犬夜叉の腿に乗せられた。

 

「……あの……ホントに何……?」

「ああ?」

困惑して問いかけるあたしを、犬夜叉は“分かりきったことを訊くな”と言いたげな表情で見下ろしていた。

「怒ってもねえし、痛いところもねえってことは、疲れてんだろ。休みてえなら、膝貸してやる」

得意げに説明して鼻を鳴らす。……やっぱり犬夜叉は犬夜叉だわ。

「膝枕は結構よ、疲れてるわけじゃないもの」

「何ぃ!?」

スカートの裾を直しながら体を起こすと、犬夜叉は完璧な推理を否定された名探偵のごとき驚愕の声を上げる。

「――あたしは何もしてないのに、疲れるわけないでしょ」

犬夜叉は妖力を失っても、長年磨き抜いた剣技で戦った。

七宝ちゃんは狐火で犬夜叉を援護した。

月華さんは周到に計画を立て、蜘蛛頭を倒した。

なずなちゃんだって、妖怪に人質にされて怖かっただろうに、勇気を見せた。

……何も出来ず、おろおろするばかりだったのは、あたしだけだ。

(せめて弓矢は肌身離さず持っておけば良かった、なんて今更後悔しても遅いよね……)

自己嫌悪に、思わず吐息が漏れる。それを聞きとがめ、犬夜叉はますます怪訝そうな顔になった。

「さっきから変だぞ、お前。理由があるなら言えよ」

「……言いたくない」

言えるわけがない。

的外れな嫉妬をしていた自分が恥ずかしいなんて。

みんな頑張っていたのに、何も役に立てなかった自分が恥ずかしいなんて。

……月華さんと犬夜叉の絆を羨ましく思ってる自分が恥ずかしいなんて。

 

怒ると怖いけど、賢くて面倒見の良い月華さん。

普段は乱暴だけど、真っ直ぐで頼もしい犬夜叉。

この姉弟に出会えなかったら、恐ろしい妖怪が跋扈する戦国の世で、四魂の欠片を集める旅はどれほど困難になっていただろう。

あたしにとって、ふたりは心強い仲間だ。

――でも、ふたりにとってのあたしは?

(あたしは四魂の欠片の気配を感じられて、妖怪の持つ四魂の欠片を見ることができて……)

ただそれだけだ。

その能力だって、姉弟にとってそれほど大きな価値は無い。

彼らが欠片探しに協力してくれるのは、四魂の玉が欲しいからではなく、それがもたらす災いを防ぎたいからだ。

もしあたしの力がなくても、月華さんの配下がもたらす情報があれば、欠片を見つけるのも不可能ではないだろう。

そう考えれば、ふたりにとってのあたしはオマケ……どころか守らなければいけない足手まといだ。

 

月華さんと犬夜叉のように、お互いを信じて頼り合う関係になんてなれっこない。

 

「…………っ」

考えていると情けなさに涙が出そうになって、慌てて自分の膝頭に顔を押し付ける。

犬夜叉はそんなあたしを見てどう思ったのか、

「――姉貴はおれが質問すれば、なんでも答えてくれるぜ」

静かな声でそう言った。

(よ、よりによって……!)

このタイミングで月華さんを引き合いに出すなんて、ほんっとにデリカシーがないわコイツ!

寂しさ、悲しさが裏返って怒りに転化する。

「あっそ! いいお姉さんよね、あんたがお姉ちゃんっ子なのがわかるわ」

(ああもう! あたしってばサイテー!)

口に出してしまってから後悔した。

犬夜叉は悪くない。あたしが姉弟の絆を勝手に僻んでいるだけなのに。

短気で怒りっぽい彼のことだ、すぐに怒鳴り返してくる……と思ったのだけれど、なかなか反撃の言葉が聞こえない。

そっと顔を上げて隣を窺う。

怒気など微塵も無い、灰色の双眸が毅然と見返してきた。

 

「一度だけ、どうしても我慢できずに姉貴に訊いちまったことがある――おれを恨んでねえのかって」

 

「へ……?」

予想外のフレーズに、間の抜けた声が出る。

月華さんが、犬夜叉の無鉄砲な行動を叱ったり、生意気な言葉に怒ったりする場面は何度か見てきた。

けれど、彼女が犬夜叉を“恨む”なんて、どう頑張っても想像できない。

「……おれと姉貴の親父は、お袋と、赤ん坊だったおれを助けるために命を落とした。おれが姉貴から、親父を奪っちまったんだ」

「――」

ひどく衝撃的な告白だった。

半妖である犬夜叉に、弟として屈託なく接する月華さんのような妖怪は少数派なんだとぼんやりと察してはいた。

けれどそれは、人間も尊重する価値観の彼女にとっては当たり前のことなんだろうとも思っていた。

「月華さんは、なんて答えたの……?」

どうにかそれだけ問う。

犬夜叉は小さく笑った。――あたしを安心させようとするように。

「“恨んでない”……そう言ってくれた。嘘じゃなく、本心からな。でも、こうも言った。“父上と、もっとたくさん話をしたかった”ってな。おれは親父の顔も知らねえから、そういうのはよくわかんねえが」

犬夜叉の口から語られるのは、あたしの知らない姉弟の物語だった。

あたしが出会った時から、月華さんと犬夜叉は仲の良い姉弟。

でも、初めからそれが“当たり前”だったわけじゃないんだ。

「今でも、親父のことを思い出してる時の姉貴は、やっぱりちょっと寂しそうだ。だからアイツはなんでも話してくれるんだろうよ。下らねえことや嫌味ったらしいこともしょっちゅう言うけどな。――で、あー、つまり、なにが言いてえかっつうと」

ここに来て、スピーチ力が限界を迎えたらしい。頭を掻きむしり、懸命に言葉を紡ぐ。

「お前も、文句があんならはっきり言ってくれ。話ができるのは、生きて一緒に居られてこそだろ」

「……」

その言葉は、不思議なほどにすんなりとあたしの心に落ちてきた。

 

ここは五百年前の時代。

本来なら決してあたしと犬夜叉達は出会うはずがなかった。

こうして隣り合って座り、言葉を交わしているのは、一つの奇跡だ。

 

「おれはバカだから言われなきゃわかんねえし……その、おれは……かごめの笑顔が好きだからよ」

 

最後は、先程までの落ち着いた話しぶりから一転、顔を逸らしてボソボソと歯切れ悪くなった。

「……ふふっ」

その横顔が、犬耳も無いのに、叱られた子犬のように見えて、思わず笑ってしまう。

「おいコラ、おれは真面目な話してんだぞ」

「ご、ごめん。でも、笑いたいんだもん」

声を出して笑うたびに、胸に蟠っていたものが溶けて流れていく気がした。

「けっ。まー元気になったならいいけどよ」

犬夜叉はホッとしたのを隠すように、不機嫌な表情を貼りつける。

「ありがとう、犬夜叉。……ねえ、良かったら昔の話、聞かせてくれない? 月華さんと犬夜叉のこと、もっと知りたいの」

「ふうん? だったら、俺と姉貴が初めてあった時の話でもするか。今思い出すと、あん時の姉貴はすっげえ困ってて――」

「うんうん」

(……ああ、ホントにあたしはバカだった)

 

今の犬夜叉と月華さんの関係は、彼らの努力の積み重ねの結果だ。

時に訊きにくいことも訊き、答えにくいことにも答える――そんなふたりだからこそ、今の深い絆で結ばれた姉弟になった。

そこに至る過程を想像すらせず、結果だけを見て羨ましがるなんて、勉強もせずにテストで百点をとりたがるようなものだ。

 

あたしはこれまで、ふたりの強さに甘えていた。

 

彼らのことを理解したいなら、そのための行動を。

彼らの信頼を得たいなら、そのための行動を。

 

五百年の時を超えて出会えた奇跡の価値を噛み締めて、彼らにとってのあたしも心強い仲間になれるよう頑張ろう。

 

――まずは、弓の練習かしら?

 

 



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第二十話

 

協力者から挙がってきた情報に従って訪れた山奥の泉は、異形の生物で埋め尽くされていた。

体長2メートルほどの、薄切り蒟蒻を思わせる色と質感の群体。

渦虫(プラナリア)の化け物である。

 

「うう、キモチワルイ。……四魂の欠片の気配は、泉の真ん中あたりから感じるわ」

「ってことは、コイツらはその欠片を持ってる奴から分裂したのかよ」

「多分ね。切ったら切っただけ増える生き物だから」

 

苦々しい気分で、目の前に広がる光景を見つめる。

もともとは清らかな湧水と豊かな緑があったのだろうが、増殖した化け物の放つ毒気で水は濁り、周囲の植物も広範囲にわたって枯死している。

たった一つの欠片が、ちっぽけな水生生物を変化させたせいで、この有様だ。四魂の玉、マジでいらねえ。

「たくさんおるのう。どう戦うつもりじゃ?」

嫌悪と好奇心が綯交ぜになった表情で首を傾げる七宝。

「風の傷なら、こんな奴ら一匹残らずぶっとばせるぜ」

脳筋弟が鉄砕牙に手を掛けつつ言う。

「待って、それじゃ泉ごと消し飛ぶ」

この水源は山に生息する獣たちの水飲み場であり、下流の川は、麓の村人の生活用水だ。

環境の破壊は最小限にとどめたい。

周囲への被害が大きい技は使えず、敵は切っても再生する厄介な集団ということは……

「かごめ、四魂の欠片の位置はどう? さっきから移動してる?」

少女はじっと目を凝らして頭を振った。

「ほとんど変わってないわ。光も見えないし、底の方に潜ってるのかも」

 

――渦虫の大群を生んだ元凶、四魂の欠片を持つその一匹を誘い出して仕留める。

 

「私と犬夜叉が囮になる。かごめと七宝は、空から見張って、四魂の欠片を持った奴が出てきたら教えて欲しい」

「お、おらもかっ?」

「……わかったわ! まかせてちょうだい!」

顔を引きつらせる子狐妖怪と裏腹に、少女は気合に満ちた良い笑顔で頷いてくれた。

……先日の蜘蛛頭との戦い以来、かごめが更に元気になった気がする。

 

 

「そらそらぁっ! かかってきやがれコンニャク野郎ども!」

「お邪魔しますよー」

犬夜叉が吠えながら勢いよく飛び出す。

私もそれに続いて、妖気を解放した。

 

空気が震える。

 

四魂の欠片の妖力で妖怪化したとはいえ、元が知性などない下等生物である。

けれどもそれだけに、彼らは本能で私たちを縄張りを脅かす「敵」だと察知したらしい。

ブヨブヨとした半透明の体を水面から出し、消化液を吐きつけて来るが――弟の纏う火鼠の衣はこの程度の毒は難なく防ぎ、私もまたこの程度の攻撃は見てから躱せる。

泉の外縁を弟と反対方向に向かって駆けながら上空を仰ぎ見れば、大きな鳥の姿に変化した七宝が、かごめを乗せて飛んでいた。

 

「か、かごめ、おらがついておるからなっ」

「うん。すごいわ七宝ちゃん、アホウドリね」

「……鷹じゃ」

 

(……鷹なのか、アレ)

渦虫の攻撃を適当にいなしながら水辺を半周した頃、ゴボゴボと巨大な生き物が蠢く音がした。

 

「――月華さん、犬夜叉! 出てくるわ!」

「単純な奴だな、あっさり挑発に乗ってきやがった……おい姉貴、なんだよその“お前が言うな”みてえな目は!」

「“お前が言うな”って思ってる目だよ」

「ちっくしょー!!」

「姉弟ゲンカしとる場合かーいっ!」

 

七宝のツッコミは正しい。相手が如何に雑魚であろうとも、戦いの場では敵に集中せねば。

水飛沫を散らしながら現れた、四魂の欠片を持つ個体に視線を向ける。

 

それは優に10メートルを超える巨大な渦虫だった。

 

鎌首をもたげた蛇のように体を折り曲げ、一対の杯状眼でこちらを見下ろす。

そして――幾本もの触手が殺到した。

「散魂鉄爪!」

弟の爪のひと薙ぎで、敵を絞め殺さんとしていた触手はあっさりとちぎれ飛ぶ。

しかし、問題はやはりその再生力であった。

切り落としても瞬く間にその断面から新たな触手が生えてくる上に、散らばった肉片も生きて私たちの足元にまといついてくる。

だがそれで手詰まりかというと、まったくそんなことはない。

 

私たちは囮なのだから。

 

「かごめ、四魂の欠片はどこだー!? おれが切り出してやる!」

「見つけたわ! いま目印を付ける!」

鳥の背から身を乗り出した少女が、弓を引き絞る。

「当たれーっ!!」

眩い破魔の光を振り撒きながら放たれた矢は、そのまま灰色の巨躯に突き刺さった。

 

『ギイィイイィイィィィッ!!』

 

耳を劈く絶叫とともにが身悶える。

「やった! 欠片は、矢が刺さってる真下よ!」

「よっしゃぁ!」

刀を担いだ弟が暴れ狂う巨体の上を走る。

 

『ギイィアァァァ――ッ!』

 

渦虫の化け物の体表から、最後の抵抗とばかりに無数の触手が伸びる。

網のように絡まり合い、視界を埋め尽くす触手の群れ。

だが――無駄だ。

刹那の間に、弟の進路を阻む触手を見極め、その根元を顕心牙で断ち切る。

犬夜叉は寸秒も止まることなく、霊力に灼かれて煙を上げる体組織を刃の一閃で大きく抉り取った。

 

『グア……ァ……ァァ……』

 

四魂の欠片を失った渦虫の巨体は、見る見るうちに干からび、大気に溶けるように消滅していく。

分裂して生じた個体も、供給される妖力が無くなったことで同じ運命を辿った。

あとには、静かに波打つ水面が青空を映すばかりである。

巨大化した渦虫が異常繁殖したせいで、ほかの生物はほとんど死に絶えてしまったようだが、かごめの霊力により水中の瘴気は浄化されている。

これから少しずつ元通りに回復するのを祈るばかりだ。

 

「月華さん、犬夜叉、やったわ! あたしの矢、命中したでしょう!」

「どうじゃ、おらの変化は!」

地面に降り立った少女と子狐が、得意げに駆け寄って来る。

「かごめ、いっぱい練習してたものね。七宝のアホウド……鷹も立派だった」

「おい、仕留めたのはおれだぞ」

「はいはい、あなたもスゴイスゴイ」

「なんかちっとも真心がこもってねえっ!」

ぶすくれる犬夜叉を、かごめが苦笑しつつ宥める。

「も~、良いじゃない、みんな頑張ったってことで。ほら、ハイタッチ」

「はいたっち? なんだそりゃ?」

「えーと、仲間同士で、何かした時に“やったね”って気持ちを込めてする挨拶みたいなもんよ。こうやって手の平を叩き合うの」

「ほー」

「犬夜叉、おらも“はいたっち”してやっても良いぞ」

「おめーがしたいんだろ」

「ね、月華さんも、ハイタッチ!」

「うん。やったね、私たち」

 

パンッと小気味良い音を立てて少女と手を打ち合わせる。

弟は新しく教わった「お手」……もといハイタッチを七宝と繰り返すうちに、先ほどの不機嫌を忘れてしまったようだ。

かごめもだいぶ犬夜叉の扱いに慣れてきたようで、喜ばしいことである。

 

 

 

第二十話 チームワークを磨きました

 

 

 

その臭いに気付いたのは、下山して遠くに村々の煮炊きの煙が見え始めた頃だ。

さして間を置かず、弟も歩みを止める。

「……犬夜叉」

「ああ、人の血の臭いだ。それに火と煙」

このご時勢、人が争い血を流すことなど珍しくもない。

それが人間同士の問題であれば、私や弟は基本的に干渉しないのだが。

「…………」

目を閉じて、意識を嗅覚に集中させる。

そよぐ風が脳裏に詳細な情報を伝えてくれた。

 

 

小高い丘の上から、潅木に隠れて眼下の村の様子を窺う。

幾棟もの家屋が火をかけられて燃え上がる中で、薄汚れた鎧を纏った一団がたむろしていた。

周囲には、地面に倒れ伏して動かない村人。

その有様を見下ろしながら、弟が唸るように呟く。

「臭うぜ。野盗の中に妖怪が一匹混ざってやがる」

「害悪の塊だね」

常人にとっては野盗だけでも危険だというのに、そこに妖怪が加わってはほぼ対抗手段が無くなってしまう。

ぱっと見ただけでも、その人数は二十人以上。連れている馬の数も多い。

彼らが紛れ込んだ妖怪の存在に気付いているかは不明だが、その妖怪の力でいくつもの村を襲い、落ち武者や無宿人を集めて膨れ上がっていったのだろう。

そして、放置すればこれからもずっと被害は増え続ける。

「かごめ、お前はここに隠れてろ」

言い捨てて、弟がさっさと村へ行こうとする――

 

「なんのためにわざわざ遠回りして見晴らしのいい場所に来たと思ってんの」

 

それを、犬耳を掴んで止めた。

 

「んだよ姉貴! この状況で作戦もクソもねえだろ」

「大有りだよ。あなたがああいう連中を嫌いなのはわかるけど、敵を倒す以外のこともよく考えなさい。……あの村の死体、どう思う?」

 

私も犬夜叉も、そこいらの雑魚妖怪に真っ向勝負で負けることはまず有り得ない。

だからこそ、常に最良の形での勝利を目指すべきだ。

己をより高めるために。

元人間の私の心と、お人好しな弟の心に、悔いを残さないために。

 

「……」

犬夜叉は焦燥を滲ませつつも、改めて視線を賊に蹂躙される村に投じる。

「――野郎ばっかだな。女もガキもいねえ」

その時、背後にいた少女があっと声を上げた。

「そっか、まだ生きて、捕まってる人たちがいるのね!」

「正解」

男の村人は邪魔なだけだろうが、女や子供は慰み者にするなり売り飛ばすなりするために生かしておくだろう。

かごめが慌ててリュックサックから双眼鏡を取り出して覗き込む。

「……奥の広場に集められてるみたい。周りを槍を持った奴が囲んでるわ」

「さて犬夜叉、そんな状態でただ真正面から向かって行ったらどうなる?」

「――相手は、捕まえた連中を盾にしてくるだろうな」

「そ、そうじゃな、人質にして脅してくるかもしれん!」

少し頭が冷えたらしい弟に続いて、七宝も思いついたリスクを挙げる。

「なら、どうしたらいいと思う?」

考えるより先に体が動いてしまう弟ではあるが、決して考える頭が無いわけではないのだ。

そう信じて促せば、少年は無事答えに辿り着いた。

「まず捕まってる奴らを解放して、それから妖怪と野盗どもを片付けるってことか」

「うん。まず二手に分かれて――」

「はいはい、あたしにも協力させて!」

「お、おらもやるぞ!」

「なっ、ちょっと待てよかごめ、危ねえぞ」

犬夜叉は難色を示したが、かごめに引き下がる気は無いようだった。

「足手まといにはならないわ。敵が四魂の欠片を持ってるかどうかとか関係なく、月華さんと犬夜叉が戦うなら、あたしも一緒に戦いたいの」

「…………姉貴」

弟よ、私に助けを求めるような目を向けるな。“君が大切だから安全な場所にいて欲しいんだよ”くらい言え。無理だろうけど。

私としても、少女が示した覚悟を尊重したい。

「確かに、野盗の人数を考えると私と犬夜叉だけじゃちょっと厳しいかな」

これ以上犠牲者は一人も出さず、敵は一人も逃がさないのが目標だ。

けれども、如何に戦闘力が高かろうと私も弟も体は一つ。

全員で力を合わせたほうが成功率は上がるだろう。

「かごめと七宝に、村人を逃がす役をやってもらえると助かるけど……七宝は狐火が使えるとして、弓矢は近接戦には向かないよね」

どう分担すれば仲間の安全を確保できるだろうか、と思案していると、かごめは「大丈夫」と自信たっぷりに頷いて、リュックをひっくり返した。

「武器ならあるわ。ママにお小遣い前借りして買ったの。これがスタンガンで、これが唐辛子スプレー」

「へえ、よくわかんねえけどすげーな」

「……た、頼もしいね……」

現代の護身用具を両手に構えてニコニコと微笑む少女に、私はそれだけ言うのがやっとだった。

 

 

「お頭! 旅の女を捕まえましたぜ!」

「きゃー助けてー」

「ひい~! おらまだ死にたくないー!」

七宝がちゃんと人間の女に化けられるのか少々不安だったが、その変化はこれまで見た中で一番完成度が高かった。

楓の村に戻ったときに一緒に遊んだ少女の姿をしっかりと真似ている。

演技についても、かごめのほうが棒読みで、七宝の悲鳴の方が真に迫っていた。

(マジでびびってるんだとしたら、妖怪としてどうよ、とは思うけどね……)

そんなことを思いながら、二人が野盗に引きずられていくのを物陰から見送る。

彼女らの後ろ姿が見えなくなったところで、私は大きく一歩足を踏み出した。

進む先には、白い駿馬に跨った野盗の頭目がいる。

髪の絡まった肉片がこびりつく大鉞を持つ、派手な陣羽織の男。

配下の粗野な男たちと対照的に、整った顔立ちをしているものの、血のように赤い唇が不気味な印象を与える――妖怪。

 

「ご機嫌よう。腐肉にたかる目障りな蛆虫さん」

 

とりあえず、丁重に挨拶した――のだが、野盗に礼儀作法を求めるのは酷なことだったらしい。

頭目の傍らにいた取り巻き達が激昂した。

「このアマ! 命が惜しくねえみてえだな!」

「ぶっ殺してやる! ……いや、待て、この女、人間じゃねえぞ!」

「よ、妖怪……!?」

自分より弱い相手にしか威張れない典型のような連中であった。

こちらの姿を正確に認識するにつれ、すぐにも斬り掛からんとしていた気勢が削げ、慄いたように後ずさる。

替わって進み出てきたのは、第一目標である妖怪だ。

「……くくく、女。この蛾天丸様を蛆虫呼ばわりとはいい度胸だ」

自分で自分のこと様付けって。

馬上から睨め下ろす双眸を見返して、嘲笑する。

「人間の、それも下衆な野盗なんかを従えて大将気取りの卑しい妖怪を他にどう呼べと? オマエは空を飛ぶ羽虫ですらない、肥溜めを這う蛆虫でしょう」

「――――」

 

敵の口腔から、大量の糸塊が迸った。

 

素早く後ろに跳んで糸の奔流から逃れると、妖毒を含んだ糸が地面に拡がり、ブクブクと泡を弾けさせる。

「こ……これは……お頭……」

異様な光景に動揺する手下たちに、本性をあらわにした妖怪が残忍な笑みを向ける。

「くくく、どうしたてめえら。おれが妖怪と知って、恐ろしくなったか」

「と、とんでもねえっ」

「強い妖怪がお頭なら、おれたちゃ無敵だ。今までどおりついていきますぜ」

……まあこの状況ではそう言うしかあるまいが、我が身可愛さに妖怪にへつらう姿は醜いものだ。

(にしても、戦いの最中によそ見して会話なんてね。……まあ無理もないか)

例によって例のごとく、私は妖気を抑えているので、相手には馬鹿な弱い妖怪が喧嘩を売ってきたとしか感じられまい。

「話は済んだ? なら覚悟なさい、虫けら」

「女、その程度の力でおれの前に現れたこと、後悔するがいい!」

毒繭が私を包むように展開し、毒粉が周囲に撒き散らされる。

それを回避すれば、大鉞が襲い来る。

「くっ……」

「どうした、でかい口を叩いてそのザマか」

刀で斬撃を防ぎつつ、蛾天丸の揶揄に沈黙で返す。

 

――弱すぎてやりにくいんだよ、オマエ!

 

などという本音を口にするわけにはいかないから。

(いやマジで、私は毒華爪みたいな技は使えないけど、毒耐性は殺生丸並にあるからね? この程度の妖毒じゃかぶれもしないからね?)

これなら犬夜叉も、重くなった鉄砕牙を使いこなせずにいた時期でもない限り1ターンで殺せるだろう。

 

そんな相手を弟たちが目的を果たすまでこの場に引き付けるという、ある意味非常に困難な戦いを強いられたせいで、その野盗の声は救いの声に聞こえた。

 

「お、お頭ーっ、助けてくだせえ! さっき捕まえた女共、妖怪だぁ!」

 

先ほどかごめたちを連れて行った男が、泡を食った様子で駆けてくる。

その背後に降り立つ、緋色の影。

「逃がさねえ!」

犬夜叉の拳が過たず側頭部を捉え、その衝撃に男は声も出せすに昏倒した。

「犬夜叉、そっちはどんな具合?」

「村の奴らは七宝が幻術を使って逃がした。野盗どももあらかた片付けたぜ」

「……だそうだけど、何か言い残すことはある?」

絡みつく糸を払い除けて問いかければ、蛾天丸は憤怒の表情を浮かべていた。

「そうか、貴様ら……最初からそのつもりで」

「おう、残念だったな下衆妖怪。無事に地獄に送ってやるぜ」

「いい気になるなよ、人間の味方気取りの雑魚妖怪が――」

人間の男を模していた体が膨れ上がり、纏っていた鎧が砕け散る。

『この蛾天丸様に勝てるとでも――』

ああ、的が大きくなって斬りやすくなった。

巨大な蛾に変化した妖怪を、顕心牙で両断する。

何か言おうとしていたようだが、特に面白い台詞でも無さそうだったし、聞くだけ時間の無駄だろう。

 

納刀して周囲を見渡せば、弟の報告通り、自分の足で立っている野盗は既に数える程しか残っていなかった。

少年の鉄拳が炸裂したのだろう、元から不細工な顔が更に悲惨になった男たちが、数人ずつ気絶して積み重なっている。

「お、おらがかごめを守らねばーっ」

「えいえーいっ!」

「ぎゃああ! 目が、目がぁ! ――ぐげっ……」

また一人、子狐と少女の連携によって倒された。

七宝の狐火で相手を牽制し、かごめが唐辛子スプレーで目潰しを決めたところにスタンガンを押し当ててとどめ……なかなかえぐいコンボである。

「これで全部か?」

「そうみたい……あ」

視界の端に、遠ざかる複数の人影。

雑用を押し付けられていたのだろう、一団の下っ端と思しき粗末な鎧の男が三人、こそこそと逃げて行くが――それを許す理由は無い。

犬夜叉はひとっ飛びで彼らを追い越し、進行方向に立ち塞がった。

 

「た……助けてくれ」

「お、おれたちはお頭の命令どおりやってただけだ」

「勘弁してくれ」

 

逃げられないと悟った男たちが、腰が抜けたようにへたり込み、口々に命乞いをする。

「……なあ、姉貴」

冷や汗を流しながら自分を伏し拝む野盗を、少年は冷めた目で見下ろしてから、後を追って来た私に呼びかける。

「人の世では、人を殺したり、物を奪ったりすんのは“罪”なんだよな?」

「うん、妖怪と違ってね」

 

人間と妖怪。その違いは多岐に渡るが、もっとも大きな相違点は、“罪”という概念の有無ではないかと思う。

“殺すな、奪うな”――それは時代や国籍を問わず、あらゆる文明の法律で戒められている。

しかし妖怪は違う。

邪魔な者を殺そうが、欲しい物を奪おうが、報復を受けることはあれど罪として糾弾する“法”は無い。

 

「妖怪が人や妖怪を殺すのは罪じゃねえが、人が人を殺すのは罪。――だったらおれは、人間を殺さねえよ」

「そうだね。今までもずっとそうだった」

妖怪の命を軽んじて人間を贔屓するのとは違う。これは、前世人間の私と、半分人間の弟が定めた線引きなのだ。

「じゃ、じゃあ……助けてくれるのか」

こちらに命を取る意思が無いと分かった男たちが、あからさまに喜色を浮かべる。

「ああ。……姉貴、頼む」

弟の言葉に頷いて、私は――体内の妖力を解き放った。

 

落雷めいた爆音。

瞬発的に放出された妖力は、物理的な衝撃波となって大気を震わせ、前方に立つ弟の髪を巻き上げる。

「が……ぁ……」

「……ッ……」

「ぃっ…………」

それは只人が耐えられるものではなく、野盗たちはテッポウエビに襲われた小魚よろしく意識を刈り取られる。

「てめえらの罪、人の世で償いな」

倒れ伏す罪人に、弟はそう吐き捨てた。

 

その後、気絶した野盗たちをまとめて捕縛し、近隣の役人に引き渡して、今回のミッションは終わった。

彼らの罪は、人が人の法で裁くだろう。まあ、死罪以外ないと思うが。

 

余談。

村人にとっては、自分たちを逃がしてくれた七宝とかごめ、野盗を次々と殴り倒した犬夜叉の活躍が印象深かったらしい。

弟たちが大層感謝されたのに対して、親玉を倒した私は、目撃者がいなかったせいでスルーされた。……ぶー。

 

 




次回でようやく法師が合流です。


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第二十一話

平成と呼ばれた時代の人間から、戦国時代に妖怪として転生して幾星霜。

私が今生で、前世と変わらず享受できる女の子の楽しみとはなんだろうか?

 

恋愛?

相手がいない。それに楽しいことばっかりじゃないだろう、知らんけど。

 

甘いもの(スイーツ)

この時代の甘味って餡子と果物くらいしかない。この体は飲み食いの必要があんまり無いせいで、食への興味も薄れた。

 

お洒落(ファッション)

旅の最中に何着も持っていても邪魔になるだけだ。おまけにいつ敵の返り血やら何やらで汚れるかわからない。

 

答えは――

 

「きゃ~、温泉だ、嬉し~っ」

「温泉だねえ」

 

温泉である。

 

 

今宵の野営地と定めた山の中。

私たちは木々の向こうで、宵闇に白く湯気が立ち上るのを発見した。

 

「けっ、なんでわざわざ熱い湯に入りたがるんだか。水浴びでいいだろ」

「やーよ。寒いじゃない!」

「そうだよ、犬夜叉」

 

妖怪の体は新陳代謝率が低いので、老廃物で汚れることはほとんどないが、温泉に浸かるという行為の目的は肉体の洗浄ではないのだ。

 

「温泉とは即ち精神の解放。魂の安寧。生命の救済。天地開闢以来永久不変の癒しの地即ち温泉――この悦楽は水浴びなんかじゃ絶対に得られない、おわかり?」

「…………お、おう」

「……そ、そうね。あはは……」

「……月華も相当アレじゃのう……」

 

何とでも言うが良い。私が人間であった時と変わらず心地よく感じられるモノは貴重なのだ。

 

「それに、明日はこれまでより大きい街に行くから、身奇麗にした方が良いでしょ」

「あー、京の陰陽師から届いた文にあったヤツか。怪しい絵師が京から逃げたってだけで、四魂の欠片が絡んでるかどうかハッキリしねえ話の。……あのタヌキ親父、おれらに仕事押し付けたいだけじゃねえか?」

「だとしても、一応確かめないと。あとあの人は、狸じゃなくて狐の子孫」

先日の大桂の木に埋まった欠片も、完全に妖怪化するより前に回収できたから良かったものの、放置したら奇跡的な確率で五百年間探索の手を逃れ、グロ&ホラーな事件を引き起こしたんじゃないかと思う、何となく。

とりとめのない会話をしながら獣道を進めば、まもなく湯気の発生地点に辿り着いた。

滾滾と湧き出す湯が、大小不規則な岩石が作り出した天然の湯船を満たしている。

この臭いは……うん、かなりの美肌効果が望めそうだ。

二百年、弟に呆れられながらも旅の道中で見つけた温泉には必ず浸かってきた私は、今じゃすっかり温泉ソムリエである。

「けっこう大きいわね。あたし泳いじゃおっかな」

うきうきとした声音で歩調を早めるかごめに私も続き――ふと“ソレ”に気づいて少女の肩に手を置いた。

「月華さん?」

「……先客がいるみたい」

 

 

 

第二十一話 温泉回をこなしました

 

 

 

(なんだ……こんな山ん中に人……?)

 

おれが家財道具(盗品)を苦労して運んで売り飛ばした疲れを癒すべく辿り着いた温泉で。

錫杖を置き、袈裟の結びに手を掛けたところで、その声は聞こえた。

岩と立ち込める湯気が視界を遮り、姿は見えないが、二人組の声だった。

 

どちらも高く澄んで美しい――若い女の声である。

 

「うわ~、気持ちい~っ」

「かごめ、背中流してあげる。……うふふ、胸、大きいのね」

「そ、そんな~、月華さんこそ……」

 

「――――」

 

…………ごくり。

 

ぱしゃぱしゃと湯面を揺らす音に、小鳥の囀りめいて軽やかな笑い声が続く。

(ああ……)

おれの直感が告げている。

今、あそこにいる女たちは、超のつく上玉だと。

湯けむりの向こうに広がる景色を想像するだけで、道具屋の親父に家財道具(盗品)を買い叩かれた怒りも、この身を蝕む死の呪いに対する恐怖も消えていく。

天女だ。

御仏がおれを哀れんで遣わせた天女たちが湯浴みをしているのだ。

あの先にこの世の極楽がある。

神仏の慈悲に深く感謝を捧げ、抜き足差し足でいざ極楽へ赴かんとしたおれは――

 

「おう、ちょっとツラ貸しな」

 

地獄の獄卒に、襟首を掴まれていた。

 

 

 

「犬夜叉、どう?」

「当たりだ。女好きそうなツラした野郎が覗こうとしてやがったぜ」

なるほど有罪(ギルティ)。他の人間の臭いがしたので、様子を見て正解だった。

「まーっ、やらしーわね!」

私の隣で、両手を湯に浸けて音を立てていた少女が、眦を吊り上げる。

もちろんかごめも私も、まだ一枚も脱いでません。

 

犬夜叉が捕獲したのは、紫の袈裟を纏った、まだ若い法師だった。

仏に仕える者が覗きとは全く世も末である。

「それにしても、月華さんの方がニオイに敏感なのね」

「犬夜叉より犬に近いとゆーことか? 見かけによらんのう……」

中身はともかく体は百パーセント妖怪なので当然っちゃ当然なのだが、私としても少々複雑である(カップラーメンをものすごく塩辛く感じたのも、地味にショックだった)。

「あっ、でも、穴掘りは犬夜叉の方が上手い!」

「どーいう弟自慢じゃ?」

「んなことより、どうするよこいつ。埋めるか?」

脱線しかけた会話を遮って、弟が私たちの輪の中に引き据えた覗き魔を顎で示しながら問う。

近くに生えていた蔦で括られた男は、全員の注目を浴びて肩をすくめた。

「いやあ、ほんの出来心ですので、見逃してくれると有難いのですが……」

「なーんか、あんまり反省してるカンジがしないわね」

十五歳の少女は、男の軽い口調に顔を顰める。男は大袈裟に傷ついた表情で、少女の手を握った。

「とんだ誤解です! 心から反省しておりますとも。貴女のように美しい娘御に嫌われては、この弥勒、悲しみのあまり死んでしまいます」

「そんなことで死ぬほどヤワなわけないでしょ。四魂の欠片をふたつ……いえみっつは持ってる人が」

「え」

かごめは法師の手を抓りながら、冷ややかに言う。

「ふうん、やっぱりただの生臭じゃなかったんだ」

この弥勒という法師、言葉こそ弱気だが、妖怪二匹に挟まれて少しも怯えていない。歯の浮くようなセリフを堂々と言ってのけるところも信用ならん。

「それなりに妖怪とも戦える法力がある……その妙な気配のする右手も武器?」

「……いい目をお持ちで――ああっ、何をするのです!」

「うるせえよ」

私たちとの会話に気を取られていた法師の懐から、弟が四魂の欠片を掴み出す。

「ちょっと犬夜叉……」

流石に乱暴だと思ったのか、かごめが咎めるように呼びかけるが、犬夜叉はフンと鼻を鳴らして法師を睨みつけた。

「てめえみてえな生臭坊主が四魂の玉に関わったって、ロクなことにならねえぜ。覗きの罰だと思って諦めな」

「くっ……」

ここに至って初めて、法師の態度から余裕が消えた。

飄々とした柔和な面差しを悔しげに歪めて俯くが――すぐにキッと見上げてくる。

その黒い双眸を見返しながら、私は何が起こっても対処できるように気を引き締める。

相手は拘束されたまま。

四魂の欠片も弟の手の内。

如何にこの法師が優れた退魔の才を持っていようと、この状況で私たち姉弟二人を相手取って勝利するなど不可能だろう。

さりながら、男の放つ並々ならぬ気迫……己が信念の為には命すら惜しまぬという強い意志は、“窮鼠猫を噛む”という事態を警戒させるには充分だった。

 

「――納得できません」

 

静かに、男が口を開く。

私は密かに爪に妖力を込める。

さあ、どう反撃するつもりか。

言霊か、隠し武器か、それともあの呪いの気配を滲ませる右腕か――

 

「確かに私は貴女がたの湯浴みを覗こうとしました! ですが実際に湯浴み姿を見たわけでもないのに、目的のために苦労して集めた欠片を奪われるなどあんまりです――罰だというなら、せめて、見せてください!!」

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

それは魂の叫びであった。

心を震わす咆哮であった。

 

「……アホじゃ」

 

七宝の呟きが、沈黙する私たち三人の内心を代弁していた。

 

 

 

「私が四魂の玉を集めているのは……ある妖怪を捜し出し滅するため」

あの後、「やっぱりコイツ埋めようぜ」という犬夜叉と「話くらいは聞いてあげてもいいんじゃない?」というかごめで意見が分かれたものの、厳正なる討議の結果、後者が採択され、弥勒と名乗る助平法師は命を永らえた。

「その妖怪の名は奈落……といいます。奈落は必ずや玉を集め、より強い妖力を求めるはずです。なぜなら、奈落は五十年前に四魂の玉を手に入れかけたという。玉を守っていた巫女を殺して……」

弥勒の話に聞き入っていた少女が、え?と首を傾げた。

「巫女って、桔梗のこと? 楓ばあちゃんは、桔梗は襲ってきた妖怪と相討ちになったって言ってたわよ?」

その問いに弥勒は痛ましげに目を伏せる。

「残念ながら、その巫女は奈落の核を完全には浄化できなかったのでしょう。実際に奈落と戦ったのは、若かりし頃の私の祖父ですので推測になりますが――彼奴は恐らく、無数の妖怪が寄り集まりひとつとなって生まれたものです」

「妖怪たちがひとつに? そんな奴がおるのか?」

「――話には聞いたことがある。強い敵に対抗する手段として、弱い妖怪の群れがそういう変化を行う例があると」

「だとしたら、なかなか厄介な相手だな」

私に続いて犬夜叉も難しい顔で呟く。

「どうして? 犬夜叉」

「そういう敵は、体をいくら砕いても大した痛手にならねえんだよ」

殺生丸のような単一の妖怪であれば、いかに強大であろうと首を刎ねれば死ぬ。

しかし数多の妖怪の集合体となると、体を切り刻んだところで、また寄り集まって再生してしまうのだ。

そのような手合いは、大火力の攻撃で肉片一つ残さず消し去るか、核となる心臓あるいは魂を霊的に滅する必要があるのだが……どちらも言うは易し行うは難しである。

弥勒の説が正しければ、桔梗の放った破魔の矢も核を捉えられなかったがために、奈落に大ダメージを与えはしたものの再生を許してしまったのだろう。

「……その奈落についてもう少し詳しく聞かせてくれる? あなたの祖父殿が戦ったときの話とか」

「ええ。かまいません」

 

弥勒の祖父・弥萢と奈落の戦いは数年に亘り、出会うたびに件の妖は違う人間の姿を借りていたという。

最後の戦いは、同時期に世を脅かしていた神久夜という女妖怪との三つ巴となった。

弥萢は天女を喰らったことで不死の力を手に入れた神久夜を命鏡に封じたが――その神久夜を取り込もうと襲ってきた奈落の封印には失敗した。

「奈落は封印の札ごと祖父の右手を突き抜け、逃れ去ったそうです」

――“我がその手に穿ちし風穴は、いずれおまえ自身を飲み込むであろう。たとえ子を成そうとも、我を殺さぬ限り、呪いは代々受け継がれおまえの一族を絶やすであろう”

それが、弥勒の右手に巣食う呪いの正体であった。

 

「この風穴は年々大きくなり、吸う力も強まっている。奈落を倒さねば……数年のうちに、私自身を飲み込むでしょうな」

「…………」

なんとも。

痴漢行為で捕縛された男の口から語られたとは思えない重い話である。

「――この四魂の欠片を集めていれば……必ず奈落に行きあたるってことよね」

手の中の石片に視線を落としながら、少女が口火を切る。

「一緒に集めましょ」

「はあ?」

こういうふうに、さらっと相手に歩み寄れるのがかごめの良いところだよね。

「あたしたちも、四魂の欠片を悪い妖怪に利用させないために旅をしてるの。ね、だから……」

弥勒は気乗りしない調子で目を逸らした。

「どうも私は、人さまと深く関わり合うのが苦手な性分でして」

「でも……早く奈落を倒さないと死んじゃうんでしょ?」

少女は可憐な顔を憂慮に曇らせて男を見上げる。

うんうん、かごめは優しいな、可愛いな。

「――別に、仲良しこよしをしろと言ってるわけじゃない。目的が同じなら、別々に動くより協力した方が合理的だって話」

私は優しくないから、クールにアプローチするよ。あんまり甘い顔すると、この男調子に乗って口説いてきそうだし。

それとも、と首を傾げて法師の顔を覗き込む。

「私たちみたいな妙な連中と組んでも得がなさそう、とか思ってる?」

「……ははは。滅相もない。そのようなことは決して」

弥勒は愛想笑いを浮かべる。……一瞬目が泳いだぞ。

「ふうん? じゃあ私の勘違いかな? あなたは世渡り上手そうだし、私たちを値踏みして、角が立たないように断ろうとしてるんだと邪推したのだけど?」

「は、ははは……」

「そのへんにしとけよ、姉貴」

私が悪ノリする気配を感じとった弟が口を挟む。

「かごめも、その野郎が一人でやりてえってんなら好きにさせりゃいいだろ。欠片は渡さねえけどな」

「も~、犬夜叉。あんたそーゆー言い方するから誤解されんのよっ」

かごめが頬を膨らませて少年を睨む傍ら、子狐妖怪が法師の膝下に進みよって来た。

「のう、弥勒とやら。犬夜叉と月華は強いぞ。おらもお父の仇を取ってもらった。少しは信じてみたらどうじゃ?」

「犬夜叉と、月華……?」

七宝の言葉を反復した法師が、ハッと目を見開いて膝を打つ。

「風の噂で聞いたことがあります。たいそう強く美しい妖怪の姫御とその家来……」

「誰が家来だ、コラ!」

「たしかに犬夜叉は月華の子分に近いがの……あわわっ!」

犬夜叉の拳骨を避けて法師の肩に飛び乗った子狐は、無邪気に続ける。

「まあこの通り、犬夜叉はアホでコドモで、月華はイジメっ子じゃが、その欠点を補って余りある強さじゃ。二人なら間違いなく奈落とやらを倒して、お前の呪いを解ける」

断言する七宝の瞳は、希望に満ちて曇りなく輝いている。

「あたしもそう思うわ」

かごめもまた、持ち前の相手の心を暖かくする笑顔で頷く。

「…………」

弥勒の眼差しは両者の間をさ迷い、やがて答えを求めるように私へと向けられた。

そこには、先程までの取り繕った笑顔はない。

死の呪いに冒され、希望を求め、けれども与えられた希望を無条件に信じることはできない……そんな一人の人間の葛藤が感じられた。

「――私も犬夜叉も、必ずあなたを救うなんて約束は出来ない。でも、奈落が四魂の玉の力でこの世に災いを振りまくなら、私たちは全力で阻止する。あなたも奈落を倒すのが目的なら、仲間として助けたい……そのためにも、一緒に来て欲しい」

七宝やかごめのように楽天的なことは言えないが、これが私の心からの言葉だ。

 

「ええ……わかりました。あなたがたは、信頼に足る誠実な人たちだ」

 

弥勒が居住まいを正し、頭を垂れる。

「どうか、私も同行させてください」

「やったあ!」

「仲間は多い方が楽しいのう!」

少女と子狐が明るい声を上げるのに応えて、弥勒も微笑む。

「私もそう思います。やはり美しいおなごと一緒の方が……」

――やっぱ調子に乗りやがったコイツ。

「おう弥勒。ついて来んのはいいが、スケベなことしたら承知しねえぞ」

「ご心配なく、わかっておりますよ。不埒な手で触れようものなら、噂以上に見目麗しい月華様に、腕を切り落されてしまうでしょうからな」

さっきまでのシリアスな空気はどこへやら。ガンを飛ばす弟を剽げた口調でいなす助平法師。

今私の手を握っているのは不埒じゃないというのか。

「……流石におさわり程度で腕を切ったりはしないよ」

とはいえ、痴漢行為には罰則が必要だろう。

「そうだね、もし私やかごめの尻に触ったりした時は指を切り落とす……のはやりすぎか。爪を剥がす……? いや、爪と肉の間に針を突っ込むくらいが丁度良いかな。うん、決定」

弥勒の手を握り返して、その爪を撫でながら微笑む。――喜んでくれるかと思ったんだが、男は顔を引きつらせて硬直してしまった。

「なんか……ダメージとしては一番小さいのに一番痛そうな罰に決まっちゃったみたいな……」

「や、やっぱり月華は妖怪じゃ……!」

「ハイ。私ハ決シテ尻ヲ撫デタリイタシマセン。デスカラ爪ニ針ダケハゴ勘弁ヲ」

「……冗談なのに」

「姉貴のは冗談に聞こえねえよ」

弟よ、周囲にドン引きされて傷ついている姉に、も少し優しい言葉を掛けてくれてもいいんじゃないかい?

 

この悲しみは温泉で癒すしかない。

 

弥勒との出会いで忘れそうになったが、本来の目的は温泉だ。

「かごめ、話も一段落したことだし温泉に入りましょう」

「う、うん。……犬夜叉も弥勒様も、覗かないでよ?」

「心配すんな。興味ねーからよ」

「ハイ。デスカラ目玉ニ針ハゴ勘弁ヲ」

誰もそんなこと言ってないよ!?

「月華さんの刺した釘が強すぎたみたいね……」

片言めいた調子で、怯えながら喋る法師の姿に、かごめが困ったように笑う。

まあそのうち元に戻るだろうし、セクハラを悪と認識してくれるのは喜ばしいことだ。

「安心して、かごめ。これで私たちの楽園が守られたんだから」

 

温泉とは、浮世の苦しみから解き放たれ心と体を癒す聖域(サンクチュアリ)

――断じてサービスシーンやラッキースケベのための舞台装置ではないのだ。断じてッ!!

そして温泉は、一人でゆったり浸かるのも良いが、仲の良い友達と一緒であれば、よりいっそう素晴らしいものとなる。

 

「かごめ……お願いがあるの」

「な、なあに? 月華さん」

私は少女の手を取り、その目を真っ直ぐに見つめていった。

「この先も温泉があったら、私と一緒に入ってくれる? どんな覗き魔が現れても、私が必ずあなたを守るから……!」

それがぼっち温泉歴二百年な私の願いだった。

「……! もちろんよ。信じてるわ、月華さん」

かごめも、私の手を力強く握り返して頷いてくれた。……なぜか、ちょっぴり頬が赤い。

「また月華が女を口説いとる……」

「その顔でそーゆーことすっから勘違いされんだよ、アホ姉貴」

「はいそこ、妙な言いがかりをつけないでくれる?」

白い目を向けてくる男性陣を睨む――と、さっきまで震えていた弥勒の様子に変化が生じていた。

 

「……おお……」

 

弥勒は私たちの姿を、阿弥陀如来の来迎を目にしたかの如き感動の面持ちで見つめ、一心に手を合わせている。

「なに拝んでやがるんでい、弥勒」

「邪魔をするな犬夜叉! 私は新たなる悟りを開いたのだ……! ああ、私は愚かだった。花といえば我が手で手折ることしか考えていなかった。だが……」

はあ、と熱い吐息をこぼしながら、男は感に堪えぬという風情で続ける。

「今目の前で咲き誇る二輪の花……これに手を触れるなど無粋の極み、唾棄すべき悪行。花は花同士で戯れている時が最も美しい。ありがたやありがたや……」

「…………なあ姉貴、コイツが何言ってるかわかるか?」

その後も有難いだの尊いだのと呟き続けている法師を、弟は気味悪そうに指差しながら尋ねてくる。

「――犬夜叉は、わからないままでいいと思うよ」

 

新たに仲間に加わった弥勒という法師。

その右手に呪われた風穴を持ち、過酷な戦いに身を投じることを余儀なくされた男。

……でもなんだか、コイツはものすごく長生きしそうな気がする。

 

 




一枚も 脱がずに終わる 温泉回(字余り)


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第二十二話

 

深更の隠れ里は、混乱を極めていた。

 

「武器の準備急げ! 弩――いや、砲筒だ!」

「バカ野郎! それより女子供を逃がさねえと!」

 

昼間は子供たちの笑い声が響いていた広場を、殺気立った怒号が飛び交う。

「くそっ、よりによってお頭がいない時に……!」

そう俺の隣で悪態をつくのは、先月嫁を貰ったばかりの幼馴染だ。

戦闘服に着替える間も惜しんで、野良着の上から最小限の防具のみを身につけている。

「お頭がいたって――」

言いかけて、慌てて口を噤んだ。

確かに、里長と数名の手練が砦を離れていたのは不運だった。

そのせいで指揮系統が混乱し、皆思い思いに叫び散らしている。

だが――

俺は妖気に満ちた夜空を見上げる。

 

大蛇、鬼、大蜘蛛……雲霞の如く押し寄せる妖怪の群れ。

 

あの大群を前に、たかだか統率の有無がどれほど意味を持つというのか?

変わらない、何も。

どんなにこちらが巧みに立ち回ったとて、覆せないほどの戦力差がある。

そもそも俺たち妖怪退治屋は依頼を受けて討伐に赴くのが仕事で、向こうから群れをなして襲って来るような事態は想定していないのだ。

自分も退治屋としてそれなりに経験を積んできたからわかる。わかってしまう。

この里は、今日で終わる。

良くて相討ちか。

誰ひとり助からない。明日の夜明けまでには、皆屍になっている。

「く、来るぞ!」

幼馴染が上ずった声で叫ぶ。

すでに妖怪一匹一匹の種類が判別できる距離だ。

俺は手にした槍を構え直した。

「先頭の牛鬼……あいつは俺がやるから、援護を頼む」

「はぁ!? バカ言え、無茶だ!」

その言葉は正しい。

俺程度の実力では、あの大群の一匹すら倒せまい。

槍を突き立てた次の瞬間には、相手の爪に引き裂かれ人の形も留めぬ肉塊になっているだろう。

――望むところだ。

俺には、里長の娘のように際立った戦いの才など無い。性格だって、同年代の仲間たちの中では臆病な方だと思う。

それでも俺が、今日まで退治屋としてやってこれたのは……この里の皆が好きだったからだ。

仲間たちの死に顔など見たくない。死ねば、そんなものを見ずに済む。

退治屋としての勇気とも矜持とも真逆の、卑怯な逃避へ向かって俺が一歩踏み出した、その瞬間。

 

「――――ッ!?」

 

颶風と共に巨大な獣が舞い降りた。

 

「雲母……? いや、違う」

自分たちを守るかのように立ちはだかる四足の影に、この里に住む猫又の名を呟いたものの、すぐに間違いだとわかった。

かの妖獣より何倍も大きな体躯。

毛皮は未踏の雪原もかくやの清らかな白銀で、篝火に照らされて神々しいような輝きを放つ。

見たこともないほど壮麗な犬の化生であった。

咆哮が夜気を震わせる。

それは海嘯にも雷鳴にも似て、高く低く響き渡る大音声。

あまねく者の心胆寒からしめる音色に、今まさに砦の防壁を越え、殺戮の限りを尽くさんとしていた魑魅魍魎が揃って動きを止めた。

 

――“来い”と。

 

化け犬の哮りは、そう告げていた。

ギチギチ、ガリガリと異形の者たちが牙を鳴らして白銀の獣を取り囲む。

奴らの眼には、予想だにしない成り行きに呆然とする俺たち人間の姿など映っていない。

無数の視線を一身に浴びながら、犬の妖怪は、その身を人型へと変じた。

月の光が乙女の姿を象ったかのような、儚くも高貴な美貌。

その華奢な背中は、先ほどまでの雲を衝く巨体の獣と比べて、あまりにも小さく頼りない。

しかして、他の妖怪など全て塵芥と嘲笑う桁外れの妖気は微塵も衰えず。

襲ってきた妖怪たちの放つ殺気は、いつしか完全に様変わりしていた。

目障りな退治屋を皆殺しにしてやろうという悪意に満ちた余裕が消え、恐怖に裏打ちされた切迫した闘志を、たった一体の白銀に向けている。

その異様さに、ようやく俺は理解する。

あの咆哮は挑発ですらない、絶対的な命令だったのだ。

 

――“我と戦え。我を斃してみせよ。しからずんば死ね”

 

あまりにも隔絶した存在の発する気にあてられて、哀れな有象無象はこの場からの逃走はおろか、彼女を無視して人間を殺すという選択すら叶わない。

それは一方的な処刑であった。

雪崩れを打って襲いかかる妖怪の大群と、迎え討つ化け犬。

余人が見れば、誰もが後者が押しつぶされて終わると思うだろう。

しかし、実際には挑む魑魅魍魎いずれも、爪牙に銀髪の一筋すら捉えられぬまま、彼女が振るう刃に命を絶たれ次々に地に伏していく。

残像すら伴うその剣技は、俺たちが使う対妖怪の剣術によく似ていた。

人外の速度で振るわれる、人の業の極致。

まるでただ独り違う時間の流れの中に在るように、白銀の大妖怪は敵を屠りながら舞い踊る。

最後に残った鬼の首が転がった時、妖怪の屍で埋め尽くされた広場に影が差した。

「バカな……まだあんなに!?」

思わず、絶望の呻きが漏れる。

新たな妖怪の群れ、それも第一陣に倍する数が迫って来ていた。

いかな大妖怪とて、続けてあの数を相手にすることはできまい……そんな諦観とともに、死の舞踏を終えたばかりの彼女を見遣る。

彼女は――眉ひとつ動かさず、ゆるりと刀を天頂に構えた。

 

白い光の粒子が立ち昇る。

 

視認できるほどに膨大な妖力が、蛍火のように、花びらのように女妖怪の体を包み、刃へと収斂していく。

凄烈なる破壊の予兆に息を呑む俺たちを純白の輝きが照らし――次の瞬間、空へと奔った。

闇夜に赫耀たる大輪の花が咲き、百鬼夜行の軍団を呑み込む。

明滅する光と耳を聾する轟音の余韻が収まった時には、空を埋め尽くすかのようだった妖怪の群れは一匹も残っていなかった。

虚空に向けて放たれたただ一刀、その灼熱の妖力に包まれた妖怪は、地に落ちるだけの質量すら残さず塵となって消滅していく。

……ついに返り血の一滴すら浴びることなく敵を撃滅した白銀の乙女が、静かに納刀する。

「姫神さま」と誰かが呟いた。

もしかしたら、俺自身の声だったのかもしれない。

退治屋にとって、妖怪とは倒すべき敵であり忌むべき存在。けれど、俺はこの女妖怪の戦う姿を――美しいと思ってしまっていたから。

 

 

 

第二十二話 姉が揃いました

 

 

 

短い夏の夜が明けて、木漏れ日が眩しくなり始めた時分。

 

(ふふふ~、猫ちゃん可愛いよ猫ちゃん、ああ癒される……)

 

私は一人峠道を歩きながら、猫又をモフっていた。

妖怪の群れとの戦闘自体は容易く決着したものの、久しぶりに化け犬の姿に変化したら、やはり四足歩行がしっくりこなくて肩が凝った。

威嚇のために思いっきり吠えたせいで、喉もイガイガする(某島の伝説に語られる、口から火を噴く龍神の声真似なんて挑戦するんじゃなかった)。

だが、今腕に抱く小さな猫又の柔らかな毛並みは、昨晩の疲れを癒してくれる。

爪を引っ掛けないように注意しながら顎の下を擽ってやると、ゴロゴロと気持ちよさそうに喉を鳴らした。まったく、猫の妖怪がみんなこのくらい可愛けりゃ良いのに。

(にしても、犬夜叉たちはどこで道草くってんのかね)

 

 

……事の発端は、昨日の夕刻まで遡る。

 

近隣の村を荒らす大百足の噂を聞きつけて赴いたところ一歩遅く、百足は退治され、四魂の欠片も持って行かれていた。

そこで私たちは“退治屋”と呼ばれる、物の怪退治を生業とする集団の存在を知ったのだ。

しかも、大百足から四魂の欠片を入手した退治屋は、四魂の玉を自分たちの里から出たものだと言っていたらしい。

この新情報を受けて、私たちは退治屋の村を探すため夜の山に分け入った。

「犬夜叉、退治屋の村から四魂の欠片を奪う気か?」

「ったりめーだろ」

「逆に退治されないといいですけどね」

「そーねー、むこうはプロみたいだし」

弟の言葉に、弥勒とかごめが冷めた調子でコメントする。

「まあ、そこは交渉でなんとかしないと。色々聞きたいこともあるし」

私と犬夜叉という妖怪姉弟だけでは門前払い待ったなしだろうが、弥勒は法師だし、かごめも人当たりが良い。どうにか穏便に欠片を譲ってもらい、玉の由来もわかれば御の字だ。

「やっぱり月華さんも、四魂の玉がどうして生まれたか知りたいの?」

「うん。それに……妖怪退治の専門家の知識にも興味がある」

 

絵に描いた鬼を操る地獄絵師と、人喰い仙人桃果人から、それぞれ一個づつ四魂の欠片を回収した後。

私たちは楓の村に戻り、五十年前に村を襲った妖怪について改めて調べることにした。

楓は姉を死に追いやった妖怪が再び玉を狙っていると知って狼狽しつつも、当時の出来事を細々と語り聞かせてくれた。

 

その中で挙がったのが、鬼蜘蛛という名だ。

 

隣国でさんざん悪事を働いて逃れてきたという、手負いの野盗。

全身にひどい火傷を負い、両足の骨は砕けてまったく動けなかったその男を、桔梗は村外れの洞穴にかくまい世話をしていたという。

そして桔梗の死から数日後、楓がそこを訪れた時には、洞穴は焼け落ちていた。

明かりの火が燃えて鬼蜘蛛は逃げることができず焼け死んだ……と楓は思っていたらしいが、奈落の手がかりを求める弥勒とともに数十年ぶりに洞穴に行くことになった。

そこで目にしたのは、草はおろか苔すら生えていない、妖怪が強烈な邪気を発した跡――動けぬ鬼蜘蛛が横たわっていた場所だった。

野盗鬼蜘蛛の邪悪な心に取り憑いた妖怪こそが奈落、というのが弥勒の考えである。

しかしそこから先、調査は手詰まりを迎える。

斉天たちからの報告に、奈落のような強い邪気を持った存在に繋がりそうなものはなく、旅の道中で遭遇した敵も、苦もなく倒せる雑魚ばかり。

 

妖怪退治屋も四魂の欠片を集めているのなら、奈落や四魂の玉について、こちらが把握していない情報を持っているかもしれない。

 

「だから犬夜叉、あんまり喧嘩腰にならないように気をつけて」

「けっ、向こうが問答無用で襲いかかったりしなけりゃな」

「だ、大丈夫よ、いくら妖怪退治が仕事だからって、何もしてない相手をいきなり攻撃したりしないと思――」

不意に、ざわりと生暖かい風が木々を揺らし、かごめの言葉が途切れた。

「なんでしょう……いやな風だ」

「! そ、空じゃっ!」

私たちが上空を仰ぐと同時、何かが月を覆い隠し、周囲の闇がいっそう濃くなった。

「妖怪の群れ!?」

姿も大きさもばらばらな魑魅魍魎が、雲と見紛うほどの大群となって空を渡っていく。

彼らの放つ濃密な妖気は地上まで伝播し、少女は短い悲鳴とともに身を震わせた。

「なにこれ……ただの妖気じゃないわ……」

「確かに……。禍々しさに気分が悪くなる」

「――殺気だ。奴らなにかを襲う気だぜ」

「追いましょう!」

弟が呟くと同時に、法師が決断する。

そのまま犬夜叉を先頭に、妖怪の群れの飛び去る方向へ向かって駆け出す――

 

「いや、どう考えても間に合わないでしょコレ」

 

――ところを、その場に踏みとどまって声を掛けた。

 

「~~っ! 何か文句あんのか、姉貴!」

 

勢いよく踏み切ったまさにその瞬間、緊張感のかけらも無い声に呼び止められて、弟はつんのめるようにして止まる。

流石にすっ転びこそしなかったが、水を差された少年の機嫌は急降下だ。

他の面々も、鼻白んだ表情で振り返る。

……たとえKYの謗りを受けようとも、今は彼らをクールダウンさせなければ。

「あいつらの毒気にあてられた? 地べたを走って、空を飛ぶ相手に追いつけるはず無いじゃない」

これが障害物のない平地ならいざ知らず、今いるのは馬も歩けない急峻な山の中だ。

あの群れの目指す場所がどこであれ、私たちがたどり着く頃には目的を果たしているだろう。

「くっ……じゃあどうすんだ! あの高さじゃ、風の傷だって届くかわかんねえぞ!」

「それはもちろん――」

私はその場で地を蹴った。ひとっ飛びで大木の枝も届かない虚空に身を躍らせ、妖力を解き放つ。

 

変化(こう)すればいい!」

 

……自分の体の質量が一瞬で何百倍にも膨れ上がり、獣のカタチになるというのは、何度やっても妙な感覚である。

とはいえ、これで機動力の問題はクリアできた。

敵が事をなす前に迎え撃てるなら、あの程度の妖怪、どれほど集まろうと私一人で十分だ。

『私は先に行く。あなたたちは、ゆっくり来て』

化け犬形態に変じた私をポカンとした表情で見上げるかごめたちに言い置いて、夜空を翔る。

犬夜叉はともかく、人間がこんなド深夜に山道を走るのは危険だからね。

 

 

そして隠れ里を襲撃しようとしていた妖怪を殲滅し、弟たちを待っていたのだが。

(遅すぎるでしょ。もしかして道に迷ってる?)

夜明け頃には追いつくだろうと思っていた彼らが、日が高くなっても姿を現さないので、こうして私は迎えに行くことにしたのである。

その際に、里で飼われていたらしい猫又を連れ出したのは、本猫が仲間になりたそうにこちらを見ていたからだ。

――決して私が人目を気にせず存分にモフりたかったからとかじゃないです、はい。

「ん?」

風向きが変わって、その臭いに気付いた。

弟らと別れた地点とはまるきり違う方角から、犬夜叉たちの匂いを感じる。

そして、知らない誰かの血の臭いも。

猫又とのふれあいタイムの終わりを嘆きつつ、私はその方角に向かって駆け出した。

 

 

「あっ、月華さんだわ! 月華さーんっ」

山の中腹あたりまで降りたところで、セーラー服の少女が大きく手を振っているのが見えた。

奇妙なことに、木々が広範囲にわたってなぎ倒されている。

地面に蹲っているのは弥勒と、黒い装束に身を包んだ、血の臭いのする見知らぬ娘だった。

腕の中の猫又が、みぃ、と鳴いて怪我をしているらしい娘に駆け寄る。

「雲母……おまえ、生きていたの……」

娘はその毛皮を血の気の失せた指先で撫でながら、険しい目つきをかすかに和ませた。

「おっせーぞ、姉貴」

弟が眉間にシワを寄せて文句をつけてくる。

「そんなこと言われても。――いったい何があったの?」

問いながら、周囲を見回す。

まず目につくのは、周囲の地面と色の違う大量の土くれと、狒々の毛皮の切れ端。

そして苦しげな様子で横たわる法師に、オロオロする七宝。

……うん、かろうじて戦闘があったらしいことはわかるけど、それ以上のことが全くわからん。

「弥勒様が、虫の毒にやられて大変なの。この女の子も、ひどい怪我してるからどこかでちゃんと手当したいんだけど……」

「それなら、この先に人里があるからそこに行きましょう。妖怪に襲われたばっかりでごたついてるけど、死人は出てないし、寝床くらいは提供してくれると思う」

「ん? それってコイツが言ってた退治屋の里のことか? 滅ぼされたとか聞いたんだが」

「――――」

……なんか、お互い情報を交換する必要があるらしい。

 

 

弟たちと合流して戻ると、私たちは怪我をした少女と共に、里長の住まいに案内され、手厚く歓待を受けた。

「皆の衆、犬神様がお戻りになられたぞーっ!」

「里をお救いくださった姫神さまじゃ、おもてなしの準備を!」

手厚すぎるくらいに。

「大人気じゃのう、月華」

……久しぶりのソロ活動だからって、調子に乗るんじゃなかった。やっぱり私は小市民だ。もっとほどほどの感謝と、ささやかな賞賛でいい。

「月華さんが助けたのが、あたしたちの探してた退治屋の里だったのね」

「けっ、一人でカッコつけやがってよー」

「置いてったからって拗ねないでよ。私が全速力で飛んだら人間は振り落とされちゃうし、夜の山の中にかごめと助平法師を放置するわけにいかないでしょ」

「拗ねてねえ。姉貴がドジ踏んでねえか気になっただけだ」

「あなたじゃあるまいし。にしても、そっちの方が大変だったみたいね」

「うん。……弥勒様は体の具合どう?」

「頂いた毒消しの薬が効いてきたようで」

弥勒は縁側の柱に身を凭れさせながらも、先刻より安らいだ表情で答える。

 

私が飛び去ったあと、犬夜叉たちは狒々の皮を被った謎の妖怪に襲撃を受けたらしい。

そいつを追っていった先で待ち構えていたのが、退治屋の娘・珊瑚だった。

弥勒が風穴で吸い込んだ虫の毒で行動不能になり、犬夜叉もまた、妖怪専門の退治屋の戦法に多少手こずったらしいが……彼女を取り押さえ、謎の妖怪も風の傷で粉砕した。

「で、これがその中から出てきた人形、と」

私の手元には、木切れを雑に削って髪の毛を巻きつけたヒトガタがある。

「傀儡の術です。われわれが戦っていた妖怪は作り物……本物は安全な場所でそいつを操っていたのでしょう」

「アイツに四魂の欠片を仕込んで、死ぬまで戦わせようとしたことといい、いけすかねえ奴だぜ」

「……すまない。あたしが奴の口車に乗ったばっかりに」

犬夜叉が眉間に皺を寄せて吐き捨てるのに、開いた襖の向こうから少女の声が返ってきた。

隣室で手当を受けていた退治屋の娘である。

「珊瑚ちゃん、まだ動くのはおよしよ!」

彼女の枕元についていた中年の女が気遣わしげに嗜めるが、少女は毅然と首を振った。

「あたしは里長の娘だよ。お客人にちゃんと挨拶しないと」

幾分おぼつかない足取りながらも、私たちの前にやって来て跪坐すると、深々と頭を下げる。

「この里を守ってくれたこと、父上に代わって礼を言わせて欲しい。それからあんた達を襲ったことにもお詫びを」

「フン、てめえなんざおれの敵じゃなかっ――ぐぇっ」

余計なことを言おうとした弟の脇腹に肘鉄を喰らわす。

「ごめんなさい、通訳します。“気にしなくていいよ、大丈夫だから”って」

「――怪我をなさっている娘御に時間を割いていただくのは心苦しいのですが、お話を伺ってもよろしいですか?」

優秀な通訳・かごめ(バウリンギャル)が執り成すのに続いて、弥勒が口を挟む。

「ああ。なんでも訊いてよ」

珊瑚は、強い光を湛えた双眸で見返す。

弟らの話によると、彼女は“犬夜叉が里を襲った”と吹き込まれ、瀕死の重傷を負った体を四魂の欠片で無理矢理に動かして戦いを挑んで来たらしい。

顔色は優れないものの、今の彼女の凛冽とした佇まいは、とてもそんな深手を負った者とは思えない。並外れた気力と生命力の持ち主である。

「この傀儡を用い、あなたを唆した妖怪……その者の名を知っていますか」

弥勒は、いつになく張り詰めた声で問う。

……予感があったのだろう。毒虫の巣などという、自分の風穴を封じる周到な手口を用意する敵が、何者か。

 

「――奈落。城の若殿は、そう呼んでいた」

 

 

 

◆◆◆◆

 

 

 

武蔵の国より遥か西に、『不帰(かえらず)の森』と呼ばれる忌地があった。

 

二百余年も昔、日ノ本の武士と異賊の争いの裏側で起こった妖怪の戦いの最後の地である。

大陸から眷属を率い、この国を支配せんとした妖怪の名は、飛妖蛾。

それを迎え討ち、己が牙で以て封印した化け犬の名は、闘牙王。

何人も立ち入れぬ樹海は、大陸妖怪の首魁を一族郎党諸共に封じ続ける。この世の終わりまで――そのはずであった。

 

「く……くくく……」

 

常闇に閉ざされた森の深奥に、蜘蛛がいた。

蛾を貪り喰い尽くした蜘蛛――背中に蜘蛛の形の火傷跡を持つ男――は、かつての大妖怪の、亡骸とも言えない残骸に腰掛けて満足げな忍び笑いを漏らす。

それに応えるように、もう一つの声が闇を震わせる。

 

《――ようやく雌伏の時は仕舞いか。あまりに退屈ゆえ、他の主を探そうかと思っておったわ》

「ほざけ。五十年前に四魂の玉をとり逃がしたのは、貴様が封印を破るだけで力を使い果たしたせいであろう」

 

黄泉の国から吹く風のように不吉な音色の声を、男は微塵も臆することなく受け流し、逆に嘲弄する。

 

「貴様とて、随分と昂ぶっている様子。さしずめ、待ち人来たれりといったところか?」

 

投じた視線の先には、髪も着物も真っ白な童女。

胸前に携えた鏡に浮かぶのは、ここではない別の場所の景色だ。

 

《確かに、あの者とはいささか因縁がある。予想以上の成長であったが》

 

遠見の鏡が映し出す白銀を見つめて、男は昏い緋色の双眸を細める。

 

「“神殺しの化け犬”、“闘牙女王”……この国最強の大妖怪の名は伊達ではないということだな」

《安穏としてはおれぬぞ? これで退治屋の里の欠片はあちら側に渡った。あの世とこの世の境に隠された欠片も手に入れ、残るは彼奴らの持つ欠片のみだというのに》

「かような(はかりごと)とも言えぬ戯れを破れぬようでは、喰らう価値もあるまい」

 

嘯きながら、男が深い闇色の光を滲ませる半球の輝石を掌中で弄ぶ。

 

「我が覇道の糧となるその日まで、せいぜい束の間の平穏を楽しませてやろうではないか、か弱き人間の仲間とやらと共に。それこそが、愚かなる大妖怪を蝕む楔となろう」

 

《……然り。だがかの天上の花を堕とすには、まだ駒が足りぬ、さらなる趣向を凝らさねば。腕の見せどころだぞ? 我が使い手よ》

 

「ふん。そちらこそ、わしを失望させてくれるなよ――我が剣」

 

冥府の入口の如く瘴気に満たされた森に、禍津の者たちの哄笑が響いていた。

 

 

 




月に叢雲花に風

次回、番外編を挟んで第三章になります。


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番外編
或ル刀鍛冶ノ記憶


姉と弟の二人旅時代の話。


『坊や……私の坊や……』

 

(ち、ちくしょう。体が、動かねえ!)

しくじった――朦朧とする意識の中で、それだけを思う。

 

姉との旅の道中で、子供が幾人も行方知れずになったと嘆く村人の声を耳にした。

これも修行と、妖怪退治に乗り出した。……俺が強くなるためだ、人助けなんかじゃねえ。

妖怪の臭いを辿ってやって来た村外れの沼地にいたのは、幽霊と大差ない程に妖気の希薄な、顔の無い女の姿をした妖怪。

こんな奴よりはワラ束の方がまだ斬り応えがありそうだ――などと油断したのが仇となった。

一瞬前まで目も鼻も無かったはずの妖怪の顔が変化する。

決して忘れるはずのない、死んだ母親の顔に。

『私のかわいい坊や……心まで抱きしめてあげようね』

優しい母の声が、毒のように精神に染み込んでいく。

手足の感覚が消失して指一本動かせないのに、体は暖かく柔らかな泥の中に沈んでいくようで心地よい。

眠くて眠くて、自分が誰で、何をしていたのかも思い出せな――

 

「犬夜叉!!」

 

バシャン、と騒々しい水音に、耳障りな女の悲鳴が続いた。

瞬間、先程までの抗いがたい温もりが消え失せる。

「姉上……」

「油断するな、と言ったはずだけど?」

地面に尻餅をついて見上げるおれの脳天に、姉の拳骨が落とされた。

「くそっ!――悪かったよ。けど、コイツはいったい何なんだ? どうして母上の顔を……」

「この無女という妖怪は、子を失った母たちの無念の魂が寄り集まってできたもの。いなくなった子供たちも、こいつに魂を囚われて吸収されてしまったんでしょう」

姉は、妖術を強引に破られた反動で苦しげに身を震わせている妖怪を冷ややかに見据えながら、顕心牙に手を掛ける。

「でもそれも今日で終わり。これ以上、生きている子供の命を……っ……」

不意に姉の声が揺らいだ。

その横顔は表情に乏しいのでわかりづらいが、おれには随分と動揺しているように感じられた。

姉の視線の先で、無女が助けを求めるように弱々しく白い手を月華に向けて伸ばしている。

『お願い……助けておくれ、私の娘……』

銀髪金眼――以前会ったいけ好かない異母兄・殺生丸にも似た顔立ちの女に変化した無女が、哀切な声音で姉に希う。

「やめろ。オマエは、違う。楽に死にたければ、今すぐその顔をやめなさい」

きつい口調と裏腹に、姉は明らかに気勢を削がれていた。

腕を広げて抱擁せんとする無女に対して、抜刀も出来ないまま後ずさる。

『どうしたの……おいで、私のかわいい娘』

「母上はそんなこと言わない!」

 

 

「――で、どーすんだよ姉上」

結局その場を這う這うの体で逃れて(姉は戦略的撤退だと言い張っていた)、自分たちは、大木に陣取って思案に暮れていた。

細い梢の先端に優雅に立ち、虚空を見据える姉の姿は一幅の絵のようだが……こういう無駄にカッコつけた態度は、気まずいのを誤魔化す時のものだ。

「無女の能力。あれは近付いた相手の記憶から母の顔を引き写してるようだから、その発動圏外の距離から攻撃すればさっきみたいなことにはならないと思う。……でも」

「なんか問題でもあるのか」

「あれはもともと成仏できない人間霊が妖怪化したもの。体を壊しても、魂はずっと迷い彷徨うことになる。取り込まれ混じり合ってしまった子供たちの魂と一緒にね」

「…………」

「それに、犬夜叉も気付いたんじゃない? あれの行動が、悪意じゃないって」

――そうだ。

無女に吸収されかけた時に奴から感じたのは、限りない慈しみと――哀しみだった。

愛する我が子を、もう二度と手放さないように、もう二度と傷付けないように、自分の胎に隠して守りたい。

そんな子を思う情念の妖怪が無女なのだ。

だがその思いは永遠に満たされることはない。

何人子供の魂を取り込もうとも、完全に吸収してしまえば、その存在を無女自身が認識することはできないのだから。

そしてまた失った我が子を求めて彷徨い、新たな犠牲者を生む……この世に魂が留まる限り、決して救われない。

「おい。まさか、あいつを成仏させてやろうってのか? おれ達に坊主の真似事なんざできねえだろ」

姉の言わんとすることに共感しつつも、半ば呆れて問いかける。

対する月華は、相変わらず表面上は一部の隙もない涼しい顔で頷いた。

「できないね。だから今、できることを考えてる」

「……そうかよ」

「うん、そう。――私があの場を退いたのは、より良い決着をつけるため。あいつが母上の顔を真似たのに怯んだとか、そういうことは、全然、全くない。わかるよね? 犬夜叉」

「…………そうかよ」

“触らぬ神に祟りなし”ってのはこういう時に使うんだろうな、うん。

 

 

 

番外編 或ル刀鍛冶ノ記憶

 

 

 

犬の大将の遺児たちの中で、月華というのは、一番の謎だった。

 

「今度はこの刀々斎に何を作らせようってんでえ、放蕩娘」

忌々しい、の思いをたっぷりのせて睨めつけてやるも、当の放蕩娘――月華はどこまでも優雅に微笑んでいる。

「お久しぶりです、刀々斎殿。いつぞやの鉄砕牙の件に比べれば、造作もない仕事だと思いますよ」

「てめえの言うことなんざ信用できるか。……まったく、なんであんな注文受けちまったんだか」

わしが打った刀の中でも自慢の一振である鉄砕牙に新たな能力を与える……刀鍛冶として、やり甲斐のない仕事だったとは言わない。

言わないが、最初は鉄砕牙を受け継いだ小僧の生意気な言動に腹が立って断ろうとしていたのに、コイツの口車に乗せられて、気がつけば全面的に姉弟のワガママを受け入れる形になっていたのは、未だに納得いかねえ。

「安心しろよ、ジジイ。今日頼みてえのは、こいつだ」

半妖の小僧――犬夜叉が水干の袂から取り出したのは、一尺余りある、牛に似た何かの角だった。

「そいつを使って、妖怪の血を封じる守り刀を作ってもらいてえんだ」

「ほお?」

血を封じ込めるための刀。それ自体は確かに無茶な注文ではない。

他ならぬ鉄砕牙が、そのために犬夜叉に与えられた刀なのだ。

「するってえと、この角の持ち主も半妖か」

「はい。昼は人間で、夜は牛妖怪の姿になる変わり種。昼間は博識で穏やかな性格なんだけど、妖怪化すると荒っぽくなって、本人もその状態が苦痛らしいから」

「ふん……随分ご親切なこった。てめえらとは縁もゆかりもない相手だろうに」

「けっ! おれは出雲の野郎が、半妖に生まれたってだけでウダウダ甘えたことぬかしてんのが我慢ならねえだけでい」

「数少ない半妖と巡り会ったのも何かの縁。彼が今後どう生きるかは本人の問題だけど、このくらいの手助けはしてもいいかと思って」

弟の犬夜叉はぶっきらぼうに吐き捨てて、姉の月華は静かに言い添える。

両者とも、何となく良いこと言ってる風なんだが。……この半妖の角、明らかに力任せにへし折った断面なのがこの姉弟の物騒なところだ。

「まあ、引き受けてやっても良いけど、あまり調子に乗るなよ。てめえらなんざ、親父殿に比べりゃほんの子犬なんだからよ」

修行の旅と称してどこで何をしているのやら、という思いから苦言を呈すると、犬夜叉は得意げに胸を反らしてみせる。

「へへっ、わかってねえなジジイ。聞いて驚け! おれはこの鉄砕牙で――」

「竜骨精を倒したんだろ。冥加に聞いたから知ってるぜ」

「なっ、だったら偉そうにくだらねえ忠告してんじゃねえよ!」

自慢話の腰を折られた少年は、わかりやすく不機嫌になって牙を剥く。

「知っているから言うておるのです、犬夜叉様!」

冥加がここぞとばかりに出てきて、ピンピンと跳ねながら捲し立てた。

「わしは、封印したままの竜骨精の心の臓を貫くだけでいいと申し上げたのに! 父君ですら封印するのがやっとだった妖怪ですぞ!」

「爆流破で正面からぶっ倒したんだからいいじゃねえか。そんな寝首かくみてえなやり方で鉄砕牙を軽くしたって嬉しくもなんともねえよ」

「そうそう。今の犬夜叉ならさほど無茶な挑戦じゃないと思ったし、もしもの時は私も加勢するつもりだったから」

「月華様まで! だいたいわしは、月華様が危険なことはしないとおっしゃるから案内を引き受けたのですぞ! だというのに貴女様が爪の封印を解いて……!」

「まあ、冥加ったら」

当時の恐怖を思い出したのか、更に恨み言を重ねる蚤妖怪に対し、月華はさも面白い冗談を聞いたというように口元に手を当てて笑い声を上げた。

「あの程度、危険のうちに入らないでしょう?」

「月華様ぁ~~~っ!」

なんつーか、反省の色が無い。

「お前ら、わかってるか。どんだけ強くなろうが、力に溺れてる奴は立派な大妖怪とはいえねえんだぜ?」

こいつらの父親を思い出す。

犬の大将が西国を支配する闘牙王たりえたのは、三界を制する強大な三剣を所有していたからではない。

倒すべき者を倒し、救うべき者を救う――力の振るい方を弁えていたからこそ、天下無双の大妖怪だったのだ。

「……そういうお説教は兄上にこそ必要では?」

姉弟の危なっかしさを感じて、つい年寄り臭く諭すも、生意気盛りの小娘は白けた口調で痛いところを突いてくる。

「わ、わしの前に現れたらな。それに殺生丸が持ってる天生牙より、鉄砕牙と顕心牙のほうが危ねー刀なんだぞ」

「天生牙の死者蘇生だって、使い手によっては充分危険でしょう」

「……どういうふうに?」

逃げ口上なのを見抜いたのか、不服そうに目を眇めて反駁する月華に、純粋に疑問を感じて問い返す。

(時が来れば武器として鍛え直すことになるが)天生牙は敵と闘う刀にあらず、癒しの刀。

強きものを薙ぎ払う鉄砕牙に対して、天生牙は弱きものの命をつなぐ刀。

それが、何をどうすれば危険だというのか。

わしの問いに、化け犬の姫は明日の天気を予想するような気楽な様子で答えた。

 

「寸刻みに嬲り殺したあと生き返らせてもう一回いたぶる拷問とか、命令通りにしたら死んでも生き返らせてやるって言って、配下に無茶な戦いを強いるとか。まあ、パッと思いつくのはそのくらいだけど」

 

「…………」

 

なんつーことパッと思いついてんだよ、お前。

 

 

 

「……のう、刀々斎」

「しぃっ! 冥加、声が大きい。やつらに見つかったらどうする」

視線の先、毒の霧と立ち枯れた木々の狭間に、銀髪を靡かせる背中がふたつ見え隠れする。

どうやら尾行に気付いてはいないようだ。

「いや、だからなぜこのようなことを?」

半妖の角から新たに妖怪の血を封じる守り刀を作れという依頼に、わしは一つ交換条件を提示した。

――“かつて破門した弟子、灰刃坊を討て”と。

「確かめたいんだよ、アイツについて」

「あいつ?」

「冥加、お前は月華をどう思う?」

「どうと言われても……月華様は、犬夜叉様の親代わりで、剣の師匠じゃ。月華様が半妖である犬夜叉様を助けたのには驚いたが、父君が存命であられた頃より生き生きしておるような」

わしもそのことは意外だった。

冥加やわしにとっては、殺生丸も月華も犬夜叉も、親父殿が遺した子供だ。

しかし純血の兄妹にとっては、半妖の異母弟など同列に扱われることすら受け入れがたい存在の筈。

にもかかわらず月華は幼い犬夜叉を助け、父の形見である鉄砕牙を使いこなせるように協力さえしている。

妖怪としてこの上なく不可解な月華の行動を、自分たちは今まで不可解なままに、喜ばしいものとして受け入れていた。

 

だが――

 

「……もしそれが月華の思いついた“鉄砕牙の利用の仕方”だったとしたら?」

 

犬夜叉は、半妖という生まれの不利を跳ね返すために強さを追い求めている、負けず嫌いで、そのくせ甘っちょろい奴だ。

殺生丸は、偉大なる父を誇りとし、大妖怪としての気位の高さゆえに他者を省みることのない、冷酷で無慈悲な奴だ。

どちらもそれぞれに問題があるものの、わかりやすいバカ兄弟だと思う。

だが月華は謎だと――何でも無いことのように慈悲の欠片もない考えを披露するのを聞いて、今更ながらに謎だと気付かされた。

 

もしもあの、殺生丸とは別方向での冷酷さこそが月華の本質だとしたら。

 

半妖の犬夜叉を手元に置いていることに、筋の通った説明がついてしまう。

 

「他者を慈しみ守る心の無い奴に、鉄砕牙を持つ資格はねえ。だがよ、鉄砕牙を使いこなせる奴を味方に引き込んで、意のままに操れるとしたら……月華にとっちゃ、自分が鉄砕牙を持ってるのと同じことだろう」

「――まさか! 月華様がそのような……」

「ありえねえって言い切れるのか? お前は月華の奴が何を考えて、何を目指してるかわかるか?」

「そ、それは……しかし、月華様は犬夜叉様のために、殺生丸様すら敵に回して……」

「わしは、そいつも月華の策略だったとしてもおかしくねえと思うぜ」

犬夜叉は姉を守るために鉄砕牙を振るい、殺生丸は左腕を失って姿を消した。

月華の目的が、殺生丸を追い落とし、自らが一族最強の闘牙王として立つことだとしたら、それはほぼ達成されている。

「親代わりの姉貴の指図に、犬夜叉が逆らえるとは思えねえ。この先も、面倒な敵は犬夜叉に倒させりゃいいんだ。いや、月華なら指図するまでもなく、あの単純バカが自分に都合良く動くように誘導できるんじゃねえか?」

「赤子の手をひねるようなものであろうな……っていやそうではなく! いくらなんでも月華様を悪辣にとらえすぎじゃ! たしかにあのお方は表情は読めぬし、嘘は上手いし、悪知恵の回るところがある……し……う、うむむむ……言われてみれば心当たりしかない……」

懸命に月華を擁護していた冥加だったが、話すうちにどんどんと語気が弱まり、終いには頭を抱えて項垂れてしまった。

「……まあ、今んとこ全部わしの勝手な想像だからよ」

犬の大将が遺した娘を疑いたくはないが、このような疑念が芽生えた以上、看過することもできない。

だから、確かめる。

「灰刃坊……奴の邪な刀を見て、月華は何て言うんだろうな」

こんな怨念にまみれた武器は消し去るべしと断じるか、怨みの妖力で切れ味を増すなら価値有りと欲するか。

 

もし後者であったなら……わしは顕心牙を叩き折る。

 

顕心牙は犬の大将が、覚醒した妖力を御しきれずにいる娘のために打たせた刀。

月華が邪悪な本性を秘め隠し、己が父すらも欺いていたのであれば、そうするのが刀鍛冶としての責任だ。

「十人の子供を殺して血と脂を練り込まれた刀なんぞ、わしは絶対に認めねえが……」

 

「――それのなにが悪い。おかげでおれの鍛えた刀はよく斬れるぜ」

 

「!!」

ざわり、と周囲に満ちる瘴気が密度を増し、木々が腐り溶けていく。

振り返れば、胸の悪くなる邪気を纏った刀を手にした小鬼が立っていた。

「……久しぶりじゃねえか、灰刃坊」

「まだ生きてやがったか、刀々斎。今更おれの塒に近づくとは、よっぽど試し切りに使われてえらしいな」

「――いいや、てめえの相手はおれ達だぜ」

不肖の弟子と対峙するわしの前に割って入る、深紅の水干。

「犬夜叉!? お前、先を歩いてたはずじゃ――」

「まさか刀々斎殿、バレてないと思ってたんですか? 話し声がうるさいから戻って来たんだけど……おかげで灰刃坊を探す手間が省けて良かった」

弟に続いて姿を現した月華が、のんびりとした口調で言いながら、顕心牙を抜く。

「灰刃坊。刀々斎に刀を打ってもらう対価として、オマエを殺す」

「! こんなに胸糞の悪くなる理由もねえな……! 返り討ちにしてやらあ!」

憤怒に顔を歪め、灰刃坊は月華に斬りかかった。

キン、と鋭い金属音が暗い森に一つ響く。

月華は敵の斬り下しを顕心牙の鋒で受け止め――それ以外、何もしなかった。

「くくく、刀々斎、てめえの刀もたいしたことね……ぐぁっ……!?」

灰刃坊の体が、刀を握る手を始点に、瞬きの間にどす黒く変色し崩れ落ちていく。

己の鍛えた刀に宿った邪気と瘴気を凝縮して返された小鬼の肉体は、断末魔の叫びすら上げられぬまま塵となって消滅した。

残った刀も、流れ込んだ月華の妖力に耐え切れず、地に落ちると同時に粉々に砕け散る。

 

「――素材の差もあるんだろうけど、とんだなまくら刀だったね」

「ったく、この程度の相手のために足運ばせやがって。おうジジイ! これで手ぇ抜いた仕事しやがったら承知しねえぞ」

「や、やかましい! わかっとるわい……」

不本意ながら、そう返すしかなかった。

“月華の本心を見極める”という真の目的はまるで果たされていないが、灰刃坊を倒した以上、この場で出来ることは何も無い。

(まさかここまであっさり片付けちまうとはなあ……。いや、わしらが先に見つかった時点で失敗か……)

ため息を吐きつつ引き上げようとして、月華が何かを見つめているのに気がついた。

「どうした、姉貴?」

「犬夜叉、まだちょっとやることが残ってるみたい。ほら、あれ」

「……あー、アレか。どうすんだ?」

「こういう時に役に立つのがいたでしょう。探して連れてくるから待ってて」

「役に立つ? ――ああ! たしかにいたな」

「おい、おめえら何の話……ぶわっ!?」

不意に突風が吹き荒れる。

何やら姉弟同士でしかわからない会話をした後、月華は化け犬の姿に変化するや、流星の如き速度で夜空を飛び去ってしまった。

「犬夜叉様、月華様はどこへ行かれたのです?」

「あいつらの相手が出来る奴を探し行ったんだよ」

あいつら、と犬夜叉が指差す方向に目を凝らせば……いくつもの小さな人影が見えた。

 

『母ちゃん……怖いよ……母ちゃん……』

『お父、お母……助けて……』

 

「――灰刃坊に殺された子供の魂か」

 

刀の残骸の周囲に、幾人もの幼子の霊がうずくまり、すすり泣いている。

怨みの妖力を刀に与えるためだけに殺された彼らの魂は、刀が砕けた後も死の瞬間に囚われて動けない。

成仏することもできず、恐怖と苦痛の記憶に泣きながら、やがて悪霊となり果てるだろう。

 

「って、あのガキどもを月華はどうするつもりなんだ? 一体、今度は何を企んでやがる?」

「姉貴が戻ってくりゃわかるさ。ジジイも、文句ばっか言ってねえで、ちっとは姉貴を信じろよ」

「~~~~っ」

(それが出来れば苦労せんわ!)

まったく、このバカは何もわかってねえ。

子供の頃に月華に拾われて、育てられて、あいつの内面を疑ったことなんざ無いのだろう。

姉のやることなすこと、何でも正しいと思っているに違いない。

 

「てめえこそ、月華の奴を信用しすぎだぜ。ちょうどいいから教えてやる、もしかしたら月華はお前を――」

「私が何か?」

「うわわわわっ!」

飛び立った時と真逆に、変化を解いて音も無く着地した月華に声をかけられて、慌てて口を噤む。ちくしょう、寿命が縮まったぜ!

「おう、早かったな」

「思ったより近くにいたからね……じゃ、お願い」

後半の台詞は、背後に伴った存在にたいしてのものだった。

何をやらかすつもりなのかと視線を向ければ、そこにいたのは顔の無い女の妖怪と、胎児の頭に手が生えたような姿の妖怪。

 

「無女に……タタリモッケだと?」

 

唖然とするわしを後目に、二体の妖怪は迷いの無い様子で、泣き続ける幼子の霊に向かって行く。

 

『――おいで、私のかわいい子。もう何も怖いことはないから』

無女が、両の腕を広げて優しく呼びかける。

タタリモッケが、魂鎮めの笛を吹き鳴らす。

 

『おっかあ……』

『母ちゃん?』

 

子供を抱き寄せた無女の顔が、慈愛の微笑みを浮かべる。

その顔は、彼らの記憶にある母の顔なのだろう。

無女の口ずさむ子守唄と、タタリモッケの笛の旋律が重なった。

母の腕に抱かれた霊は、安心しきった様子で目を閉じ、光の玉となって次々と天へ昇っていく。

 

その光景を、月華はただ静かに見守っていた。

 

 

「……で、何がどうしてああなったんだよ」

わしは犬夜叉を引きずって月華から離れると、耐え切れなくなって問い詰めた。

タタリモッケも無女も、存在自体は知っている。

しかし、あの二種の妖怪が一緒になって霊の成仏を手助けするなど、聞いたこともない。

「いや、タタリモッケはまだわかる。子供が成仏するまで見守ってやる妖怪だからな。でも、無女は違うだろ!」

「おう。姉貴は最初、タタリモッケを使って無女を成仏させるつもりだったんだ」

「はあ?」

 

犬夜叉の雑な説明によると、こんな話だ。

修行の旅の途中、犬夜叉と月華は子供を攫っては取り込む妖怪・無女と出会った。

すぐ退治してもよかったが(ここでなぜか、倒そうと思えば簡単だったと何度も強調された)、それでは無女の魂も犠牲になった子供の魂も救われない。

ゆえに、月華はタタリモッケを探して無女のもとへ連れて来た。

幼子の魂から生じた妖怪であり、魂鎮めの笛で霊を慰める能力を持つタタリモッケならば、子を失った母親の無念を癒し、成仏を促せるのではと思いついてやってみたらしい。

 

「まあ、見ての通り無女は成仏しなかったんだけどよ……タタリモッケがそばにいる間は、他のガキを襲おうとしなかったから、姉貴は魂鎮めの笛がちっとは効いてんじゃないかって言ってたぜ」

 

そこで月華は、タタリモッケと無女、双方に語りかけた。

タタリモッケよ、無女から離れるな。

無女よ、タタリモッケから離れるな。

お前たちはどちらも、幼子の魂が不幸になることなど望んでいないはずだ――と。

 

「それ以来無女は人間を襲ってねえし、タタリモッケの笛だけじゃ成仏できねえ霊も、無女が母親役やると成仏できたりするらしいぞ」

「……月華様は、不思議なことをなさいますなあ」

「……なんか目眩がしてきたぜ」

二体が結びついたことで、生きた人間が無女の餌食になることは無くなった。

成仏できない魂が、タタリモッケに地獄に連れて行かれることは無くなった。

だが、それで月華に何の得があるというのか。

月華という小娘の頭の中身がいよいよわからなくなった。

「犬夜叉、お前も聞いてただろう。月華が天生牙のろくでもねえ使い方を考えるのをよ」

「ん? ああ、姉貴はよくヤバイこと言い出すんだよな」

「あの月華と、子供の魂を成仏させてやる月華と……お前は、どっちが本当のあいつだと思うんだ?」

どこまでも矛盾した面を見せつけてくる異母姉の隣に、なぜこいつは平然と立っていられるのか。

わしの問いに犬夜叉は、

 

「んなもん決まってるじゃねえか。――どっちも本当だ」

 

それが自明の理であるかのように、そう答えた。

 

「あの~、犬夜叉様。も少し詳しい説明を……」

「なんだ、冥加じじいもわかんねえのか? 姉貴が言ってたぜ。昔の自分は、何もできないって最初から諦める奴だったって。だから今のあいつは、何ができるかをいっつも考えてる。思いつくことの中には良いモンも悪いモンもあるってだけのこった」

「――――」

武器や妖怪の能力の、更に一歩先にある可能性を模索する。

決して邪悪なのではない。その想像力、創造力こそが月華の特性であり本質……そういうことなのか。

「おめえ、意外とアイツを理解してたんだな」

「意外とはなんでい! それとな、ジジイ。姉貴を“よくわかんねー奴”と思ってんなら、それが正解だ」

「あん?」

「おれは、あいつが“よくわかんねー奴”だって、よくわかってんだよ」

とっておきの武勇伝を語るような顔つきで、犬夜叉は異母姉を、つまりはそういう複雑怪奇な存在なのだと断じる。

「……それでいいのかよ」

「いいさ。姉貴は本当にやっちゃいけねえことはたとえ思いついても実行しないって、おれは信じてる。まあ、ちょっと道を踏み外したらひでえ悪党になりそうな性格ではあるからよ……」

苦笑いしながらも、揺るぎない決意を秘めた眼差しで拳を握り込む。

「万が一姉貴が間違ったことをしそうになったら、おれはぶん殴ってでも止める。そのためにも、おれは強くなりてえんだ」

「そうか。……ま、がんばれ」

「ご立派ですぞ、犬夜叉様! いやもちろん、わしも月華様を信じておりますとも、ええ!」

 

「犬夜叉? こっちはもう終わったけど、何の話してるの?」

霊たちが全て昇天するのを見送った月華がやって来て、不思議そうに首を傾げる。

「いやなんか、刀々斎のジジイが――」

「あーっ、なんでもねえなんでもねえ! ほれ、帰るぞ! お前らの刀も、しっかり研ぎ直してやるからよ」

「おっジジイ、たまには気が利くじゃねえか」

「ついでに鞘の補修もお願いします」

「……いっつも図々しいんだよ、てめえは!」

 

わしにとっての月華は、やっぱり三兄弟の中で一番の謎だ。

 

――だがまあ、隣にこの弟がいるのなら、心配しなくてもいい気がする。

 

 

 

 




半妖の夜叉姫、めっちゃびっくりしました。
放送開始までにこの小説もなんとかし…ま…ま…(逃走)


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第三章
第二十三話


退治屋の里の襲撃を防いでから十日あまり後。

 

その夜は、化けネズミを駆除したお礼として、宿屋に無料で泊めてもらえることになった。

人間の若い娘であるかごめや珊瑚には喜ばしいことである……はずなのだが。

 

「気のせいでしょうか。犬夜叉……さっきからおなごたちの視線が妙に冷たいのだが」

 

二人の少女は、吹雪の音色が聞こえてきそうな絶対零度の眼差しを法師に向けている。

 

「おめー女ひっかけてきたんだろ。だから思いっきり汚いものを見るような目で見られてんじゃねーかな?」

 

こういう時、同じ男とはいえお子ちゃま……もとい硬派な弟に、助け舟を出す気は無いようだ。

 

「とんだ誤解ですな。信じてもらえないかも知れませんが……」

結果、昼間若い女と共に謎の失踪を遂げていた不良法師は、たった一人で彼女らに挑み――

「信じらんない」

「ウソだね」

「まだなにも言ってません」

瞬殺された。

 

「……」

私としては、相手と合意の上なら、独り身の男がどこで何をしようが知ったこっちゃないし、その結果まわりの女の好感度を下げたとしても自業自得だと思う。

しかし、事実とまったく異なる理由で旅の道連れが他のメンバーから軽蔑されているという状況は看過できない。

「――弥勒。あなたがついて行った女、妖怪だったんでしょう」

「えっ、そうなの? 月華さん」

「そうなのか? 姉貴」

「犬夜叉は臭いで気づきなさいよ……ああ、煙で鼻がバカになってたんだっけ」

「てめーがおれを置いてとっとと逃げたせいでな!」

「そっちがボーッとしてるのが悪い。ま、ともかく女遊びしてたわけじゃ無いってこと」

私がそう説明すると、周囲の冷たい空気が和らいだ。

「なんじゃ、弥勒。子供を産んでくれるよう頼みに行ったんじゃなかったのか」

「法師様、妖怪退治ならそう言ってくれれば良かったのに……いや、勘違いしたあたしたちも悪かったけど」

「そうね、ごめんなさい弥勒様」

「はっはっは、わかってくれれば良いのです。ありがとうございます、月華様」

弥勒が先程までの肩身の狭そうな様子からうって変わって、満面の笑みで私の手を握ってくる。

……こうやってすぐ調子こくから、彼の評価は助平法師のままなのだ。

「でも、下心はあったんじゃない? こんなに移り香が残るってことは、女が正体を現すまでに抱擁くらいはしたでしょう」

「……へえー、そうなんだ、ふーん」

「謝ってソンしたわー……」

「月華様、なぜ上げて落としますか!?」

もちろん、面白いからである。

 

……それに、不純異性交遊の疑惑は晴れても、私は彼にまだ注意しなければならないことがあった。

握りこまれた手を引き抜いて、逆に男の右手を掴む。

紫の手甲に包まれて目視できずとも、私の嗅覚はそこに血の臭いを感知した。

「それほど大きい傷ではないようだけど、場所が悪いんじゃない?」

「……かないませんな。ええ、大蟷螂に風穴を切られました」

その言葉に、助平法師の公開処刑を眺めていた弟がぴくりと片眉を吊り上げる。

「おい弥勒、それヤバいんじゃねえか?」

「ご安心ください、治療のアテはあります。私の育ての親の和尚に頼むつもりです」

「ふうん。……で、あなたはどうしてそのことを黙ってたの?」

「――」

軽く目を眇めて睨むと、法師は気まずそうに視線をさまよわせた。

行きずりの女にちょっかいをかけるのは、弥勒の自由だ。雑魚妖怪に手傷を負わされたのも、不注意ではあるが、まあそんな時もあるだろう。

 

だが、彼は風穴に傷を負うという、ともすれば命に関わる問題を、誰にも告げないまま一人で処理するつもりであったらしい。

 

「弥勒様、まさか黙って離れるつもりだったの? そんなの水くさいじゃない!」

そのことに気づいたかごめが、泣きだしそうな表情で非難する。

「おれたちを頼る気は無いってか? カッコつけてんじゃねーよ」

「バカ! おらもみんなも心配するではないか!」

「……はい、皆様の言うとおりです」

七宝も、ひねくれた物言いの弟も、弥勒のことを案じて怒っているのは伝わったようだ。

申し訳なさそうな、けれどどこか嬉しげな表情で法師は頭を下げる。

「すみません、私が悪かっ……痛たたた!、月華様、お、おやめください!」

「悪い子にはお仕置きが必要でしょ」

私は笑って、傷のある手のひらに自分の拳をグリグリと押し付けた。

あんまりSEKKYOUとかしたくないし、言うべきことはだいたいかごめたちが言ってくれたので、別に怒ってはいないのだが……面白いから。

 

「ああ、いけません! このままでは新たな悟りの扉が~~っ!」

 

「……姉貴はアレさえなけりゃなあ……」

 

 

 

第二十三話 脅威が迫ってきました

 

 

 

翌朝。

みんなで訪れた寺の夢心和尚は、弥勒の育ての親だけあって、昼間から飲んだくれて寝ている生臭坊主であったが、手当の心得はしっかりしていた。

 

「……遅いのう」

回廊の雑巾がけに疲れたらしい七宝が、ぺたりと座り込んで呟く。

「傷を縫うって言ってたから、時間かかるのよ」

弥勒の治療が終わるまでの間、何か手伝いをしようと言いだしたのはかごめだった。

その結果、犬夜叉と七宝は雑巾がけ競争に、かごめと珊瑚は洗濯物に精を出している。

私が割った薪を台所に運び終えて(その時に妙な壺を持った小妖怪を発見したので蹴り出しておいた)戻ると、ちょうど彼らも小休止をとっていた。

「法師様……心が強い人なんだね」

かごめに洗濯板の使い方を教えていた少女が、ぽつりと言った。

「なんでいつも……あんなに明るくしてられるんだろう」

「うん。でも、本当はきっと……毎日、不安でたまらないんだわ」

今回の出来事は、一行に加わって日の浅い珊瑚はもとより、かごめにとっても改めて弥勒の過酷な境遇に思いを馳せるきっかけになったらしい。

夏の陽気に反して、しんみりした空気になったのだが。

 

「けっ、なーに暗くなってやがるんでい!」

 

良くも悪くも空気を読まないのが、犬夜叉という少年である。

「おれたちが四魂のかけらを集めてりゃ、いずれ奈落のほうからそれを狙ってやってくるんだ。そん時にぶっ倒せばいいだけの話だろーが!」

仁王立ちしてふんぞり返る弟を、子狐妖怪は呆れたように見上げていた。

「犬夜叉は簡単な性格じゃのう……」

「バカにしてんのか? 七宝」

「まあまあ。私は犬夜叉の、余計なこと考えず突っ走れる強気なところ羨ましいよ。そういうところだけは」

「“だけ”ってどういう意味――うん?」

頬を膨らませた少年が、ふと言葉を途切れさせると、首にかけた念珠に手をやった。

「どうしたの? 犬夜叉」

「遠話の珠が反応してやがる。誰かからの連絡だ」

 

念珠を起動させて浮かび上がったのは、協力者のうちの一人、紅邪鬼だった。

『月華様、犬夜叉様。急ぎお知らせしたき儀がございます』

「……もしかして、奈落の城の手がかりが?」

退治屋の里の手練たちが招かれ、珊瑚を除く全員が死ぬことになった城。

珊瑚が暗示によって、城の場所も、奈落を相談役としていた若殿の顔も思い出せなくなっていたことから、其処こそが現在の奈落の本拠地に違いないと判断して、探索を命じていたのだが。

紅邪鬼は「いいえ」と首を振り、わずかな逡巡を振り切るように顔を上げた。

 

『配下の者より報告がありました。……殺生丸様が、お戻りになられたようでございます』

 

「……」

 

「殺生丸って……犬夜叉たちのお兄さんが!?」

「鉄砕牙を狙っておる大妖怪じゃな!?」

 

以前に事情を聞き知っていたかごめと七宝が、顔を引き攣らせる。

 

「――それはいつ? 場所は?」

『豊前国の配下が昨夜、上空を飛ぶ御姿を見たとのことですが、後を追うことは叶わず……。仔細をお伝えできぬこと、汗顔の至りであります』

「……別に。あいつが戻ってきたことだけわかりゃあ充分だぜ」

 

殺生丸の帰還。

その意味するところを理解しながら、弟の声は平然として揺るぎない。

かくいう私も、驚きは最小限のものだった。

要するに――私も犬夜叉も、「どこぞで封印されてるんじゃないか」「いや食あたりで死んだに違いない」などと折に触れて腐しながら、そのじつ彼が再び私たちの前に現れることを少しも疑っていなかったのだ。

 

殺生丸はいつか必ず戻ってくる。

そしてその時は、戦うのみ。

紅邪鬼の報告は“その時”が“いつか”という曖昧なものでは無くなったという、それだけの話だ。

 

(……にしても、この忙しい時にねえ)

何ヶ月か前までは私と弟ののんびり二人旅だったのに、道連れも増えて四魂の玉だの奈落だの問題山積みの今になって帰ってくるとは。空気を読まないというべきか、読みすぎているというべきか。

とはいえ、文句を言っても仕方がない。

天災とはこちらの都合に関係なくやってくるものなのだ、うん。

「ありがとう紅邪鬼。引き続き、四魂の欠片と奈落についての探索を」

『はっ、承知致しました。……あの、月華様、犬夜叉様』

かすかに揺らぐ映像の中、父の遺臣は私たちをまっすぐに見つめて言った。

『我らは、おふた方に命を救われました。――武運長久を、心よりお祈り申し上げまする』

「……ええ、もちろん」

「心配すんな。殺生丸になんざ、ぜってえ負けねえよ」

 

 

剣と剣のぶつかり合う衝撃が、野分となって、西日に照らさせた草原を吹き荒れる。

「くそっ……おい姉貴、殺す気か!?」

「うん、そのくらいのつもりでやってるよ」

顎を伝う汗を拭いながら弟が文句をつけるが、反省する気はさらさらない。

普段の手合わせで私がこれほど殺気を全開にすることはないので、犬夜叉が戸惑うのも当然だが、兄と戦うとなれば、受ける威圧はこの程度では済まないのだから。

犬夜叉はすでに風の傷はおろか爆流破まで会得し、剣技も達人の域にある。

おかげで、たいがいの敵には危なげなく勝利できる……それは良い。

しかし“たいがいの敵”の範疇に収まらないのが殺生丸だ。

間違いなく、肉体的にも精神的にもギリギリの戦いになる。

二百年間研鑽を怠ったつもりはないが、それゆえに強敵との戦いが目睫に迫った時にできるのは、普段よりもプレッシャーをかけた状態での仕合くらいなのだ。

「――まあ、今日はこのくらいにしましょうか。そろそろ弥勒の治療も終わってるだろうし」

兄の襲来に備えて気を引き締める必要があるとはいえ、気張りすぎてへばったのでは本末転倒だ。

私が刀を納めると、犬夜叉も大きく息を吐いた。

「今更だがよ、弥勒に付き合って寺までぞろぞろついて行くことなかったんじゃねえか? あの生臭坊主、布団干しだ掃除だとこき使いやがって」

やってるときはけっこうノリノリだったくせに、思い出したら腹が立ったらしい。

鉄砕牙を布団叩きの代わりにするなんて、殺生丸が見たらブチ切れ必至の所業までしていたようだが。

「私はこういう、戦い以外で一緒に何かするって大切なことだと思うけど」

「そうか?」

犬夜叉はピンと来ない様子で首を傾げる。

「そうだよ。だって、弥勒も珊瑚もまだ“仲間”になってない」

 

弥勒はこれまで、死の呪いを背負って誰にも頼らず旅を続けていた。

彼が風穴の傷を隠そうとしたのは、何事もひとりで解決するのが習い性になっていたせいだろう。

珊瑚は、目の前で父と弟を含む仲間を殺されたという。

その仇を討つために私たち一行に加わったばかりの彼女の心の傷は、まだ生々しい。

 

「二人とも腕は立つから、今のところ戦いに支障は出てないけど、これから先もそうとは限らない……というか、破綻する確率の方が高いでしょう」

奈落という妖怪については、未だ直接対峙していないので断片的な情報から推察するしかないが、搦手を得意とする狡猾な輩のように思える。

そんな敵に対して、こちらがきちんとした連携を取れないのは命取りだ。

今回の件にしても、もし弥勒が治療のために私たちと離れたところを狙う妖怪でもいたら、相当危険な展開になっていただろう。

四魂の欠片を集め、奈落を倒すという共通目的だけで繋がった間柄では、いつか足を掬われる。

「だから今日みたいな時間は、信頼を築くのに必要ってこと。犬夜叉も、ケンカが強いだけじゃ、女の子から頼りがいのある男と思ってもらえないんだからね」

「そ、そうなのか……」

暗にかごめのことを仄めかすと、犬夜叉は眉間に皺を寄せて俯いてしまったので、少しフォローする。

「あー……、でも犬夜叉の場合、難しく考えずあなたらしくしてるのが、信頼される近道かな」

「なんだそりゃ」

「前にも言ったけど、強気で我武者羅なのが犬夜叉の良いところだもの。あなたのどんな敵が相手でも勝ちに行く気概は、周りの者も前向きにする力がある。それってすごく頼もしいし、羨ましいよ」

 

犬夜叉は決して殺生丸を見くびってはいない。

それでも臆することなく戦いに臨めるのが、弟の心の強さなのだ。

それゆえに私は、殺生丸帰還の報に緊張しながらも、犬夜叉なら負けない――と心のどこかで信じている。

 

「だから犬夜叉は、その気骨で皆を引っ張っていけば良い。細かいことを考えるのはお姉さまに任せて」

「……おう! さすが姉貴、いいこと言うぜ。やっぱ無駄にトシくってね――」

「え? なあに? もっと本気で手合わせがしたいって? 良し良しいい度胸ね覚悟なさい!」

 

調子に乗って余計なこと口走ると痛い目を見るのだぞ、弟よ。

 

 

「あ、お帰り二人とも……ってどうしたの犬夜叉!? こんなにボロボロになって」

「ちょーっと手合わせに熱が入りすぎてね。弥勒はもう大丈夫?」

「はい。おかげさまで……って本当にボロボロだな犬夜叉! まるで恐ろしい妖怪に襲われたかのような……」

「……弥勒。ひとつだけ忠告しといてやる。姉貴にトシの話はするんじゃねえ」

 

 



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