Fate/Apocrypha - Romancia - (己道丸)
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01:槍と炎を振る舞う女
遅筆には変わりありませんが、お付き合いいただけることあらば幸いです。
***
“これ”はホムンクルスであった。名前などない。
名付ける者などないのだから。
呼ぶ者は無く、名乗るような相手も無い。求められることなど、無い。
それは“これ”が特別そうであったからではない。この場に数多あるホムンクルス、百を数えるであろう人ではない人型、それら全てに名前などないのだから。そこに誰が、何が居ようが、“これ”は名前など必要なかったし、必要ともされなかった。
だからそれは、この場所において極々ありふれた、余すことなく誰もが享受する、ありきたりの不幸なのだ。
それらは瞳を晒さない。
それらの舌は空気を叩かない。
それらの手は掴まず、足は踏み出さない。
ただ透明な柱の中で、熱もなく灯る水の中で、浮かんでる。
それらは生まれない。
胸の内にある臓器を伸縮するだけだ。
母ならざる胎の内で漂う大柄の胎児だ。
だから“これ”が思いを得たのは、視界を拓いたのは、全くらしからぬ異端なのである。
――どうしてだろう
疑問があった。
――どうして俺は生まれないのだろう
“これ”は最早それらではいられない。それらは思いを持たない者たちだからだ。
それらは見ず、語らず、歩き出さず、ただ在る者たちだ。
あてがわれた柱の中で、灯る水の中で、ただ在るだけの肉塊である。
ホムンクルス、それはフラスコの中の小人。
あまりにも小さな世界の中心、それ故に全てを把握する、全知全能の矮小。
しかし“これ”は思い、疑問し、そして瞼を開く。
“これ”はもう、それらではいられない。
――何故俺はここにいるのだろう
“これ”は知っている。自分の行く末を。
消費だ。
それらは消費される為にある。
見たこともない、会ったこともない誰かの為に、消費される為にここにある。
だがその宿命はそれらのものだ。最早それらではない“これ”は受け入れることができない。
――このままでは使われてしまう
死ではなかった。何故なら“これ”は生まれてすらいない。
消費だ。
生を経ず、死に至らず、“これ”はどこかの誰かの為に使い潰される。
――いやだ
生きたい。
生まれたい。
思いを持ったのだ。
包む水、阻む柱の向こうに、世界がある。
今は目覚める事なく浮かぶそれらしか見えなくても。
薄暗く、広く、道があるのかさえ分からなくても。
きっとそれでも、歩いた先に今は見えないものが見れると思ってしまったから。
――ここから出たい
血の通わぬ子宮は飽き飽きだ。
出してくれ、ここから出してくれ。
息がしたい。
空気の味を知りたいのだ。
掴みたい。
五指が生きる糧を捕らえたがっている。
痛い。
胸の奥で膨張と収縮を繰り返す真っ赤な臓器が、囲う骨の先に食い込んで堪らない。
動け、動け、と。生に漕ぎ出せと、“これ”の体内に余さず熱を送り出す。
――あぁ、血が痒い
掻き毟りたいほどの情動が、幾百の通り道を走り抜ける。
――生まれたい!
出してくれ、出してくれ、子宮しかない母よ。
固い腹の中に羊水を溜め込むだけの水槽よ。
最早外があることを知ってしまったのだ。もうお前の中にはいられない。
生んでくれ。
――さもなければ
その腹、破ってくれよう。
***
――素に銀と鉄
声はない。
舌も喉も、肺腑でさえ頼りにならない。
――礎に石と契約の大公
頭蓋の内に響かせろ。
――降り立つ風には壁を
これは弑逆の意思。
――四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ
自分が生まれるために。
生まない胎から出るために。
――繰り返すつどに五度
学んだのではない。
知っているのだ。
――ただ、満たされる刻を破却する
これは言葉。
力ある言葉。
――告げる
詠唱。
――汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に
自らの力を費やす、より力あるものへの呼びかけ。
――聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ
全知全能の矮小。“これ”が、それらが、消費される理由。
呼び出した力あるものを、その力を保つための生贄。
そのためだけに“これ”はここにいる。
そして、いなくなる。
――誓いを此処に
もう受け入れることはできない。
――我は常世総ての善と成る者
被造物が造物主に傅き、その意に沿うことは善なのだろう。
――我は常世総ての悪を敷く者
定められた宿命を拒むのは、なるほど悪だろう。
――汝三大の言霊を纏う七天
だが、たとえ悪だったとしても、
――抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――……
俺が生まれるために。
***
硬く、そして鋭い物が振るわれた。
ならば後には瓦解しかない。
砕かれようと諦めた薄弱な無機物が、断片になって散逸する。透明な円柱は甲高い響きを連鎖させ、周囲の僅かな光を反射させながら砂礫となって床に降る。霰のように注いだそれらが細波のように広がって、しかし続いて放たれた液体が洗い流す。
柱の中を満たしていた淡く光る水が、数多の破片を飲んで遠くに行く。
薄暗い部屋の中で整然と並ぶ柱の群れ、その合間を縫って広がり行く。
それを成したのは固く鋭い物。剣とするには長いそれ。
槍。
それを握る腕の繋がるところへ、一つの塊が下りてくる。
か弱い体だ。
男ともつかぬ。女ともつかぬ。頭一つに腕二つ、胴一つに足二つ、それさえあれば人だろうと言うかのように。
そういう形にしてやっただろうと言わんばかりの、人の形。
色白で細く、幼いようにすら見える、生きることを想定していない体。浮き彫りの骨格を取り繕う薄弱な肌に、褪せた銅色の髪が纏わりつく。
濡れそぼった矮躯だった。
だが、
「……ぁ」
渾身の力で開いた瞼から溢れるものは、
「ぁ」
細い首の中の走り、蒼白な唇を震わせて零れるものは、
「ぁあ」
力あるものだったのだ。
「あぁ……!」
そうだ。
今、生まれた。ここに生まれる事ができた。
これは生まれた者が最初に行う事なのだ。
生まれ落ちた者がここにいると、赤い口腔と舌を震わせてただ叫ぶ音だ。
産声。
ああそうだ。“これ”は今、生まれた。
「あああぁ!!」
生まれた。
今ここに生まれた。
だから聞いて欲しい、どうか聞いて欲しい。
この小さく弱く生まれた体を抱きとめる人。
硬く鋭い物を振るって自分を解いた人。
どうか聞いてくれ、無様な叫びを聞いてくれ。
生まれることができたと貴方に伝えたい。
お願いだから、どうか、
「はい」
応えは、
「聞こえます。聞こえたのです」
あった。
「問うことはありません。――貴方が私のマスターですね」
その人は、
***
「女」
それは女であった。
男の前で膝をつく後ろ姿は、女であった。
生み落とされる事を望まれなかった、虚弱な体を抱える女。
青みを帯びた灰色の長髪、仄かに照り返す鋼の籠手、しなやかで長い手足と背。先端に刺繍が刻まれた腰帯は長く、さながら霞でできた川のように伸びている。冠を思わせる髪飾りは広げた翼の意匠であり、同じ装飾が左肩の鎧にもあった。
そして槍。
こちらから隠すように矮躯を抱きしめた女の、そのたおやかな容姿では隠しようもない長大な槍。巨大な穂は閉じた鋏にも似た造形、切っ先からけら首までで女の上半身ほどもある。
「女よ」
憐れな子供を庇っている、と見るにはあまりに勇ましい。
その背に男は尚も問いかける。
「女よ、立つがいい」
厳格な男だった。
白骨を思わせる硬い蓬髪、波打つ毛先は次第に翡翠色へ染まっていく。幾重にも重ねた黒衣は金の縁取りと獣毛で飾られ、微かにそよぐ様は威圧が噴き出しているかのようだ。耳朶を刺す耳飾り、切り揃えられた顎髭をたくわえる、彫りの深い顔立ち。
貴族だ。
王である。
母より出で、父に掲げられた時より権威を保証され、自らもそれが当然と生きた者の気配。
ただ一つ、落ち窪んだ目元を染める色濃い隈が、彼のそれを幽鬼じみた凶相に仕立て上げていた。
「女よ、貴様は何者だ」
誰何が女の背に鞭を打つ。
しかし王である男は、それが意味のないものであると理解していた。
男は彼女が何か知っている。
これは儀式だ。王の意思には礼節が必要だ。その振る舞いには流儀が求められる。
まして男は戦陣に立つ王、英雄に数えられるのだから。
だからこの問答は儀礼である。
男は女が何かを知っている、きっと女もこちらが何か知っている。
これは一拍先の未来を決める二人の儀式。
「――ランサー」
女の答えに殺意は為された。
突然の赤光、そして大気を穿つ先鋭が女に群がる。
棘。
そう呼ぶにはあまりに雄々しい。
槍。
そう称するにはどうしようもなく無骨。
杭だ。
それは杭だ。狙われた者に後悔と懺悔を強要する刑罰の具象。
害意は鋭さに。
悪意は硬さに。
殺意は速さに。
この世を怒りで睨めつける男の双眸、その心象が形となって女に殺到する。
だから女は、
「困ります」
それらを焼き払った。
男の異能、黒々とした杭の群れを。
女の異能、青い焔がそれらを祓う。
風も無く火種も無く、ただ女が有れと望んだからこそ有る焔。
帳のごとく駆け入った焔により杭の群れは燎原の草、圧倒的な熱量が先鋭を塵に変える。
「…………」
火の草叢、陽炎の帳、柱が並ぶ暗室は今や青く揺らめく火の海だ。
しかし男は汗も無く聳えていた。空気を絶やさんばかりの熱気の中で、身じろぎも無くのたうつ焔の先を見る。
女は立ち上がっていた。抱えた矮躯が落ちないよう無手を腿の下に回し、小さな頭を肩に乗せ、こちらへ振り向く女は長身だ。
彫像の美があった。
流麗なまでに磨き上げた石膏の如き頰、面長で清廉な顔には瑪瑙の輝きを放つ瞳。その右方は斜線に切り揃えられた前髪がかかっており、物憂げな視線を隠す天幕のようだ。小さく薄い唇が震えるように開いて、
「私、困ってしまいます。そんな勇猛を向けられたら」
愁眉の面立ち、潤んだ瞳、震える吐息。
燎原の火は、その胸の内すら焼いているかのように。
あるいは、心を焦がす激情の具現が燎原というように。
槍を携え、矮躯を抱えた女は男と対峙する。
「困ってしまいます」
「は」
女の嘆きに男は口角を吊り上げた。
影の色濃い目は怒りを宿したまま、しかし愉快なものを見たように哄笑する。
「余を前にしてそう名乗る蛮勇、示された力を持って特に許そう」
その笑みで鋭い牙を晒し、
「――“赤”のランサーよ」
男は女を呼んだ。
“赤”のランサーと。
「貴様が対峙する余こそ“黒”のランサー。“黒”の陣営、“黒”のサーヴァントを統べる領主」
開かれた牙の奥で、赤々とした舌が空気を打つ。
「栄えある竜公の子。小竜公、――ヴラド三世である」
男は名乗る。
人一人の生涯を持ってしても遡りきれない、遠い過去に生きた男の名を。
ヴラド三世。
押し寄せる外敵の群れを、敵国人の屍で築いた垣根で防いだ王。劣勢にあって護国たらんと倫理を捨てた王。かくして難局を超えた偉業を、しかし後世にて穢された王こそが我だと、その名乗りを焔に焚べる。
「女よ、炎を振る舞う槍の女よ。貴様の名を聞こう」
問われた。
だから、女は、
「――嗚呼」
熱く滴る吐息、瞳は潤んで今にも随喜を零さんばかりだ。色白だった頰と首筋が朱に染まる。
男の、ヴラドの問いは確信に満ちていた。
自らのこれまで、今ある行い、望むこれからの自分の姿に、揺らぐことはないと。
それにより得てきた、得るであろうものを、それが傷であっても受け入れようと。
しかし、決して認めず立ち向かわなければならない絶対の悪があると。
ヴラドの言葉には確信が、自負があった。
――嗚呼、それが……
貴方のそれが私の胸を灼くのだと。
胸中の感情が噴き上げる蒸気となって唇から零れ出す。
「困ります。……本当に、困ってしまいます」
もはや随喜の熱は焔に勝る。
「勇ましい御方、王なるヴラド三世。特に秘すべき真名を名乗る、正しく英霊たる殿方」
猛々しいほどに美しい。
他を排するほどの自負を持ち、しかしその願いは他のために費やされる魂。
英雄だ。英霊である。陽炎を挟んだ先に立つこの男は、正しく苛烈な英霊なのだ。
――あぁ駄目、いけません。そんな……
そんな魂を見せられたら、この身に宿る機能が果たされてしまう。
英霊を迎えて侍る、この機能が稼働してしまう。
「……応えましょう」
もう、耐えられない。
「答えましょう、ヴラド三世。
私は“赤”のランサー。貴方方と対峙する“赤”の陣営の一角、貴方の対となる槍兵のサーヴァント」
正しく英霊たる者の問いを、そう生まれついた女は拒むことができない。
何故なら女は、
「しかし私は神霊、戦乙女」
愁眉の微笑み。
「――ブリュンヒルデ。私の名はブリュンヒルデ。
父が見放し、夫が忘れた焔の女。英雄を狩り取る戦士の死神」
そして、
「名も無きこの子と約したサーヴァント」
抱えた体、肩に乗せた幼い頰に自らの頬を添えて。
ヴラドの瞠目、女の愁眉は深まって、
「私は槍と炎を振る舞う“赤”のランサー。
私の名は――ブリュンヒルデ」
Fate/Apocrypha、ひいてはFateシリーズを代表すると言っても過言ではない聖人級善人枠のカルナさんに代わり、愛と情念の権化ともいうべきブリュンヒルデさんが聖杯大戦に召喚されたら、というお話。
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02:彼と彼女について a
FGO第2部にてブリュンヒルデのエピソードが実装されましたこの頃、いかがお過ごしでしょうか。遅筆に恥じ入ることしきりでありますが、続話を投稿いたします。
***
煉瓦造りの一室は光を通さない。
褐色や暗褐色、時には象牙色に似た、数多の直方体が互い違いに積み上げられた一室。煉瓦と煉瓦を繋ぐ接合剤は幾何学模様で広がり、ともすれば格子であるかと思われた。
扉を閉ざされている。
空隙は一つだけ。
縦に細長い、採光と換気のみを求めた、窓代わりの隙間が一つだけ。
覗かれる空は蒼く。
差し込む光は白い。
空隙から注ぐ陽光は斜線を描き、向かいの壁にある扉へ道をつけている。
そんな一室に、青白い輝き。
「…………」
火ではない。
電気でもない。
人界にはない異端の光。
神代の業の残り滓。
魔術の輝き。
「……は」
簡易な図形、その線自体が発光していた。
右肩下がりの縦長な矩形。底辺の一線は無く、右の縦線は短い。
引き裂くものの象りだ。
鎌。
爪。
いいや野牛の角。
そういったものが、小さな体に描かれている。
空気を下す細首の先。
鼓動もあらわな薄い胸。
心の臓のその上に。
「あ、ぅ」
熱のある呼気が唇を割った。
少しだけ、濡らして。
「ん」
臓器の躍動に矮躯が踊る。
青白い肌が朱を帯びて、痩せ細った手足はふくよかに。
火照るように、芽吹くように、枯れ枝の花が咲くように。
瞳、開いて。
「ここ、は」
錆びた鉄の緋色だ。虚弱な視線が虚ろに迷う。
己の体の在り処さえ判然としない、放浪する心。
だが、それでも、
「あなたは」
眼前の人は分かる。
「あなたが」
施しを得たと理解出来る。
この人の救いがあったから、胸の鼓動があるのだと。
手足に鎧ある彼女が。
「お気付きになりましたか」
覚束ない視線、それを受けた彼女の瞳。
ほんの僅かに、細めた瞼の向こうに隠して。
「マスター」
微笑み。
***
「どうか。どうか、そのままでいてください」
眉尻を下げて、不安げに。
案じるように、白い長髪を揺らして。
危ぶむように、黒衣の胸元を抑えて。
翼を模した冠は高くにある。
しなやかな脚より、細やかな肩より高く掲げられた、美貌の上に。
「活力のルーンを施しました。ですがそれでも、貴方の体は弱っています」
斜線を描いた陽光は長身の笑みは含まない。
陰りの中の微笑み。しかし双眸には憂いがあった。
迷っているようだった。
だがそれは、どうすればいいか、ではない。
どうしたら傷つけないか、と苦慮するような。
叶えてあまりある己の力の、適切な加減を模索するような。
自らを疑い、誇るところが削れてしまったような、覚束なさ。
「――どうか、健やかのための安静を」
だのに彼女は笑む。
眉尻を下げて、不安げに。
案じ、危惧し、強張ってしまっても。
吹きさらしの下でも花が咲くように。
微笑んで。
「おれ、を」
案じているのか。問おうとして、
「……っ?」
喉が抑えられた。
「――申し訳ありません」
それを見た彼女の、その時の。
本当に本当に、泣き出してしまいそうな。
ああ決して、そんな顔をさせたかった訳ではないのに。
「貴方の安全を得る上で、受け入れざるをえない状況でした」
それは、声を取り押さえる首輪のことか。
それとも、左手を肘掛けごと食う巌のことか。
――立てない……
この身は座していた。
両脇に車輪を備える、鉄の骨子で組まれた椅子だ。黒塗りの布が背や尻を受け止めている。合理と快適の折り合うところを成したそれだけに、左の肘掛けにあるものはあまりに異質だ。
岩塊。
腫瘍にも似た巌が、肘掛けと手首の先を包んでいる。
これは第三者が付け加えた、
「拘束」
「はい。……ここが敵地、“黒”の陣営の治める城なれば」
瞠目するだけの力はあったらしい。
知らずと表情が動き、受けた彼女は首肯した。
「全くの慮外だったのです。この城にいる方達にとって。勿論、私達にとっても。
まさか“黒”の陣営の陣地において、“赤”の陣営側の召喚が為されるなど」
だが、
「だからこそあの方達は、マスターを懐柔しようとしています。
マスターのお召し物も、あの方達から差し出されたものです」
そうだ。火照る肌を包むものがある。
襟は頰、袖は手首まで届く白い服。袖の無い胴着と穿き物は黒い色。か細い身には些か以上に大きなそれら、布の弛みで袖元は膨らみ、皺が多く刻まれている。
そして悟った。
袖を穿つ腕、岩に埋まる左の手、その手の甲には力が刺さっている。
自らのものではない魔力と術式だ。それが身の内の魔力を司る、魔術回路に食い込んでいる。
そうか。
「これが、令呪か」
今度は彼女が瞠目する番だった。そして、覚悟するように眉間を詰めて、
「――はい。御手に刻まれたものこそ、マスターがマスターであることの証。
契約したサーヴァント、即ち私に対する三度の絶対命令権」
しかし、
「しかし今は、その発動を悟って爆ぜる首の輪があります。どうか御自愛を」
そして、彼女は跪いた。
座した眼下、流れ落ちる長髪の合間から、白い首筋。
「御身が虜囚の辱めを被る事、従属として不徳の限り。
ですが。ですが必ず、聖上たる御身に解放と勝利、そして聖杯を捧げましょう」
床に拳が突きつけられ、そのたもとで輝く粒子が溢れ出た。
魔力の輝きだ。
彼女の拳を起点に光は左右へ走り、その波はある物を現す。
即ち、
「――我が槍に誓って」
巨大な穂を誇る紫紺の槍。
彼女が司るもの。
「“赤”のランサー、ブリュンヒルデ。召喚の招きに推参いたしました。
これなる槍は貴方に先駆け敵を絶ち、沸き立つ焔が障る全てを払いましょう」
彼女の名前。
ブリュンヒルデ。
それが貴女の名前。
「ブリュン、ヒルデ」
「はい」
見下ろす瞳を彼女は見た。
瑪瑙の煌めきに映る自分。
ブリュンヒルデが、俺を見ている。
「――強いられた眠りより目覚めた貴方に、悲嘆のない結末を」
***
「マスターは、現状をどこまでご存知でしょうか」
傅く彼女の見上げる瞳。
帳の前髪、覗く碧眼に憂慮の陰り。
立って日の光の外にあり、跪いてこちらの影に落ちた彼女。
鬼胎の問いかけ。
――応えたい
この身を案じるこの人に。
この思いに。
考えよう。
今、何が起きているのか。
巡らせる。
何故ここにいて、何があったのか。
「俺、は」
喉の縛りを超えて、
「聖杯大戦で使われるホムンクルス」
彼女の堪える瞳。
「――だった」
そうだ。
もう、それらではいられない。
「俺は聖杯大戦に参加する、貴女のマスターだ」
せめて俺にできる精一杯を返そう。
全知全能の矮小、ホムンクルス。
何もかもを知っているだけの。
何一つとして分からない俺を。
それでも救った彼女の瞳が、せめて濡れないように。
「はい」
溢れた息、震えて。
肩の力が、緩んで。
――よかった
彼女が望んだ答えだっただろうか。
そうであれば、良いのだが。
「貴方の招き、契約があればこそ、私の体はエーテル塊として再現されました」
感じ入るような瞑目。しかし、
「貴方にルーンを施すため実体化していましたが、これは貴方の魔力を費やすこと。
ご快癒の暁には、霊体化をもってご負担が減らせるよう……」
「いい」
それだけは即答できた。
「そのままが、良い」
貴女の瞳と姿を側にしたい。
それがあれば、支えはあると信じられるから。
世界に何の貢献もできない俺でも。
それでも生まれたいと願った俺を。
救った貴女が側にいれば、肯定できると思うから。
「――はい」
彼女はどう思っただろうか。
合理より願望を優先する、分別の無い主と思っただろうか。
分からない。だから、分かる事ぐらいは示さなければ。
「聖杯大戦」
閉じていた瞼が、垂れた頭とともにあげられて。
怜悧の瞳、堅固の覚悟を示す瑪瑙の眼睛、捧げられた双眸の熱量。
聖杯大戦。
その一語が彼女の、ブリュンヒルデの内蔵する覚悟を放熱させた。
「俺たちの関わる、これは、本来のそれと、大分違う、らしい」
「そうです」
声が掠れてしまったからだろうか。
ブリュンヒルデは言葉を引き継いだ。
「私に宛てがわれたランサークラスの他に6騎。それぞれを従えるマスターを含めて7組。
最終勝利者の願いを叶える願望機、聖杯の使用権を巡る殺し合いの魔術儀式」
それが、
「聖杯戦争」
だが、
「私達の関わる聖杯大戦は“黒”と“赤”の二勢力、双方に7騎ずつ召喚された上での集団戦。
まずは反する陣営を滅ぼし、その上で生き残った者達が争う。……それこそが」
この、
「聖杯大戦」
彼女の言葉は、脳裏に刻まれた知識と相違ない。
頭の中、忘れることのないよう固く彫り込まれた情報。
「やはり貴方は」
言い終えて、一拍おいて。
確信するこちらに、ブリュンヒルデは納得を得たという風に、
「私達と同様に、マスターは聖杯大戦について、前もって知識を与えられているのですね」
「ホムンクルス、だから」
神秘学の産物、ホムンクルス。
定められた命題のため、魔術によって生み出された生命体。
多くは短命で、想定された用途以外の運用はありえないとされて。
故に、その範疇において知識と能力が約束されている存在。
自分に課せられた命題は、
「俺は、魔力を与えるための、ホムンクルス」
魔力。
神秘に根ざす業の源。
人の身で編む者を魔術師と呼び。
編むため宿すものを魔術回路と言う。
「分かります。
マスターから頂く魔力は、神霊である私が十全に力を振るって余りある量です。
神秘の薄い当世に置いて、こと魔力を生み出すことにかけて、マスターは破格であらせられる」
魔力を編み出す量は、個の技量と才に因るところもあるが、基本として魔術回路に準ずる。そして魔術回路の性能は、原則として経た年月と継承の回数に比例して高められていく。
然るに、運用こそ持ち主の実力だが、基幹となる魔力生産量は血筋の歴史に由来する。
優れた魔力編纂能力を得るには時間がかかる。
本来ならば。
「………………」
ブリュンヒルデは喉を硬くした。
何かとても、辛いものが塞いだように。
「……しかしマスターは、ご自身がマスターになることは想定されていなかった」
「あぁ」
理解した。彼女はそれを察したのだと。
目覚める前のおぼろげな記憶。
灯る水に満ちた柱、そこに封じられた自分、同様の同種個体。
知っている筈だ。彼女は、あの部屋で召喚されたのだから。
「本来サーヴァントが要する魔力は、マスターが与えます。しかし、“黒”の陣営は――」
「そうだ。指揮権と、魔力供給を、分担する術を、編み出した」
指揮権、即ち令呪と魔力供給のパスを分かつ術。
「サーヴァントの維持に要する魔力量は膨大です。戦うとなれば、尚のこと。
優れた者でさえ維持しながら戦うことは難しく、並みの者では自滅さえあり得る」
利益と危険の分割。
権利の享受、義務の放棄。
それさえ出来るなら、やりようはあるという事だ。
「俺は、消耗品、だった」
優れた魔術回路を持つ生命体の量産。
引き換えは、個々の寿命と身体機能。
本来なら人間数代の年月を要する魔術回路を、僅かな寿命と虚弱な肉体を代償に、数年で造る。
「――きっと俺は、5年も保たない」
ブリュンヒルデは、何かを言おうとした。
胸の内の空気を、言葉にしようとした。
舌と唇に、その機能を果たせ、と。
だが、
「――ぁ」
音のみが零れる。
「いいんだ」
過去は変わらない。
貴女が変えてくれた宿命。だが変わるには、かつてそうであったという事実は変えられない。
短命。
虚弱。
不自由。
しかしだからこそ得られた能力が自分を救い、救った彼女の存在を支えているというのなら。
だから、
「いいんだ、ブリュンヒルデ」
ぐ、と。彼女は俯いてしまって。
床の上の拳は、より硬くなって。
それでも、頷いてくれて。
「――マスターは」
揺らぎのある呼びかけ。
床に落ち、転がって。
「此度の聖杯大戦、いかなる願いがありましょう」
願い。
聖杯に関わるならば、マスターもサーヴァントも持つだろう、それ。
今は無いものを得たいと思う、激情の傾き。
「……分からない。持ち得ない。でも――」
ここから出たい、消費されたくない、生まれたい。
そう願ったことは確かで、しかしそれは、ブリュンヒルデによって果たされた。
だとしたら、
「願いを、持ちたい」
彼女の救いで繋がった生を、失いたくない。
いつか願いを得るかもしれない生を、続けたい。
「生きていたい」
「――叶えましょう」
彼女は立ち上がった。
金属が鉱物を撫でる音、槍の穂先が浅い爪痕を床に刻む。
槍を携えたブリュンヒルデがその背を伸ばす。
「聖上たる御身の願いを叶えることこそ我らの大原則。
何故なら我らは歴史の影法師、今を生きる者のために身を費やす者」
何より、
「終ぞ勇者の命を狩り取ることしかできなかった、この霊基。
死した後、無辜の命を助くために使えると言うのなら、これに勝る本懐がありません」
具足の踵が床を打ち、白銀の長髪が弧を描き。
振り向く彼女が背を見せて。
「マスター。今は名も無きマスター。
貴方に命ある明日を。いつか貴方の名を呼ぶ人がいる明日を、必ず」
そのために、
「――姿をお見せください」
***
こちらに背を向けたブリュンヒルデが向かうもの。
この一室の扉。
「不肖この身を許したもうた聖上は、姿ある者をこそ好いと仰った。
どうか、拝謁賜ること望むならば、どうか……お姿を」
音を薙いで槍は構えられた。
精錬にして自然、高みの水が流れ落ちる道理のように。
知覚を免れ果たす戦闘準備。
無を前にして彼女は武を調える。
「ブリュ……」
「バーサーカー」
どうしたというのか。
問いの呼びかけは、第三者が遮った。
「いいぞバーサーカー。霊体化を解いてくれ」
扉越しに響く、くぐもった声。
年若い男の声だ。それを契機に生じたものがある。
光だ。
「……ゥ」
突如として光の粒子が溢れ出す。
それはブリュンヒルデが槍を現したのと同じ現象。
サーヴァントとそれに付随する物が実体化する現象。
「ウ、グゥ」
鉄を釘打たれた女だった。
獣じみた固い赤髪、双眸を隠すざんばら髪は、しかし額から伸びる金属の角が割り開いている。鞣したような黄金色のそれ。同じ色は、左右の耳元から生えた筒形の排気口と、首を囲う首輪にもあった。瞳の色定かならぬ面立ちは、しかしブリュンヒルデと同じ目線の高さだ。
痩身に鋼を加えた異形。しかし衣装はそれに反し、白く柔らかな花嫁衣装のものだった。黄金の球を下げた腰回りは細いまま、波打つスカートは朗らかに大きく膨らみ、芙蓉の花を思わせる可憐さだ。
しかし手には長柄の鉄槌。
先端に銅色の鉄球を備えた戦鎚。
「グル、ル、ルル」
およそ女の出す声ではなかった。
墓穴の陰りから立ち昇る唸り声。
物狂いの激情。
「“黒”の、バーサーカー」
かくも獰猛な精神が適するのは、7つのクラスにあって一つだけ。
狂戦士、バーサーカーのクラス。
“黒”の陣営の拠点に現れるこれこそ、他ならぬ“黒”のバーサーカー。
そして扉は開かれた。
「――マスター。“黒”の陣営のマスター達です」
開かれる扉をバーサーカーが守るように。
ブリュンヒルデも背にするこちらへ囁いた。
「敵、なのか」
“黒”の陣営。
それは自分を消費するために鋳造した者たち。
「……或いは、同盟者となりうる方々、です」
喉奥の渇き、肘掛けを握る右手の痛みを解くように。
恐怖を鎮める彼女の励まし。
そして、槍の一閃。
自分と扉の間を断ち切って、
「大丈夫です、マスター。――貴方は私が守ります」
ブリュンヒルデさんは、英雄欠乏症の発作さえなければいい人なんだろうなぁ、という印象。ジーク君(現時点では無名)も、救い主&判断の指針になる相手がいるとまたムーブが変わってくるだろうなぁ、という話。
原作では、自力で脱出+援助にそこそこ限度を設けているアストルフォ+自己判断を促すケイローンのトリプルコンボで、「自分の考えありきで他人のため」に動けたという解釈ですが、初手から自分を助け続ける人に出会ってしまった彼はどんな道を選ぶのか、という感じで本編は始まります。
もうちょいジーク組の身辺整理が続きます。
次はせめて一月以内に出したいと思います。
p.s.
忘れてましたが、冒頭で登場するルーン文字は「ウル」というものです。
野牛の角という意味で、魔術的には肉体・精神面での補強、病床からの快癒に効果があるものなんだとか。生命力の弱い初期状態のジークを助けるものとして登場させました。
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02:彼と彼女について b
FGOにてカルナさんが大変注目されている近頃、いかがお過ごしでしょうか。カルナさんに代わってブリュンヒルデさんが出張る拙作の更新であります。
本文の更新が滞る中、なおもお気に入りに登録してくださる方々、気分屋の遅筆に励ましを下さった方々、ありがとうございます。
もう少しまとまってから投稿しようかとも思ったのですが、如何せん間が空きすぎるということもあり、ここは投稿期間を縮めることを優先して出来ている範囲で投稿することにしました。今後も一つ一つの長さより投稿期間の短縮を優先する方が良いのかもしれない、と思っております。
***
扉は開き、姿は現れた。
――“黒”の陣営のマスター達
ブリュンヒルデの見る先にそれらはある。
背後、縦に細長い穴のような窓、注ぎ落ちる斜光の先に。
眼前、得物を構えて塞ぐ彼等の従者、猛り唸る姿の先に。
「ウウウゥ」
墓碑を震わす亡者の唸り、およそ女の喉から出るものではない響き。
狂える彼女こそ“黒”のバーサーカー。長柄の鉄槌を携えた、鋼ある赤毛の女。
飢える野犬の細さを白装束で隠し、額の角を突き出した前傾姿勢は、臨戦の意思表示だ。
そして、扉の閉じる音。
「――はじめまして」
それは少女であった。
「“赤”のランサーと、そのマスター」
深い茅色の髪をした少女。左右に車輪を備えた椅子に座り、ゆるくこちらを見上げている。
はかない彼女には、追随する姿が二つあった。
椅子の後ろに一人、少年である。
その背もたれから伸びる2本の柄、それらを握って部屋の内まで押し進めたのは彼である。
彼の隣に又一人、やはり少年だ。
赤みの強い金髪、袖の長い服に反して履物の丈は短く、長い両足が白い素肌を晒している。
――少女が座るあの椅子は、マスターのと同じ物ですね
否、マスターに与えられたものが、彼女のものなのだろう。
この身が背にしたところにあるその姿。
注ぐ陽を後光にして、椅子を頼りにした虚弱な姿。
――マスター
奉仕の果てに消費されることを望まれた、生きているだけの備品。
しかし意思を持ってブリュンヒルデを召喚せしめた、生まれたばかりの君。
守りたいと、そう思った。
――眠りを終えた先に幸いはある、と
そう思ってほしい。
そう、思っていたい。
そのために。
――敵意は断たなければなりません
バーサーカーの向こうに集う、相対する“黒”の陣営にある少年少女たち。
特に、小柄な少年から向けられる視線は極めて熾烈なものだった。
「…………」
一点を摘み上げた布のように、深い皺を刻み付けた少年の表情。
ここにいる者の中で最も歳若い彼の顔は、しかし憤慨する老人のそれ。
――そうも憎らしいですか。“黒”のキャスターのマスター
ブリュンヒルデが召喚された直後に遭遇した“黒”のランサー、ヴラド三世。
領王たる彼が呼び出した者達がいた。
ダーニック。
ヴラド三世が契約する魔術師、“黒”の陣営たるユグドミレニア一族の当主なる男。
“黒”のキャスター。
無貌の仮面で表情を押し隠し、あるいは道化師にも見える装束を着たサーヴァント。
そして最後の一人が彼だ。
ダーニックは衣服と椅子を与え、キャスターは令呪ある手を巌に埋めて首輪を嵌めた。
――その時も、やはり貴方はそうしていましたね
ただ黙して、しかし唇を割って紡ぐよりよほど雄弁な意思表示。
敵意は断たなければならない。
背にしたマスターは、守られなければならない。
――マスター
振り返ることはできない。
敵に背くことはできない。
だから彼等へ構えた槍の穂、ブリュンヒルデの胴より大きな刃に姿を映そう。
微かに開いた唇で懸命に呼吸する青ざめた顔、瞳を震わす表情を。
――守ります。貴方をそうさせる全てから
眼前に並ぶ1騎と3人。
自分達が属する“赤”の陣営に敵する“黒”の陣営。
7騎と7人のうちの、1騎と3人がこれらである。
「お目覚めになられたようでしたので、ご挨拶に参りました」
つまり監視されている。
左右に広く伸びる、家具もない無骨な煉瓦の一室は、“黒”の陣営の見下ろすところだ。
人も、当世の機具もないが、しかし魔術師の居城であるならばこの程度は容易いだろう。
「ウー……」
未だに唸る赤毛の女の数歩後ろに少女はいる。
入室の第一声も担った少女が代表格のようだ。
柔和な微笑み。
穏やかな物腰。
だが敵意は内にあると、隣に立つ小柄な少年の表情が示している。
変わらずに顔を絞り上げたように睨む、歳若い彼。
――まるで表向きの物腰と、秘めた敵意を分担しているよう
少しだけ可笑しくもあったが、だが少女達を笑うわけにもいかない。
だから最後の一人を確認しようとして、
――あら?
いない。
彼等が入ってきた、この部屋唯一の扉が見えるだけだ。
少女の座る椅子を押して入ってきた彼が、そこにいない。
彼は歩み寄っていた。
追随してきた少女を回りこんで、バーサーカーから覗き込むようにして。
犬歯を更に剥いた赤毛の彼女などどこ吹く風といった体で、爛々とした喜色で、
「――すげぇ」
「ぁ」
嬉々と輝く瞳。
二つの碧眼。
「本当にルーン魔術だ」
それらと世界を隔てるものがある。
「……!!」
心の臓が燃え上がる。
発火する心が体を導火線に変えた。
肩が、首筋が、頬と耳が順繰りに延焼して。
あぁ脳が焼け落ちる。
――英知の結晶!!
それは知恵ある双眸に添い遂げる物。
それは理性ある心を示す番いの透明。
幾千万の黎明と落陽を経た当世にあって、しかしなおも残る聡明と深慮の具現。
智慧とは姿無く、しかし確かに在るもの。
薄く透けて、光を受けて輝く鉱物達。
耳朶に架かり、眉間を渡り、双眸と世界を隔てたる確かな塊。
生まれたばかりの人は只の獣にすぎない。
だが秘めた理性が、経験と教授を持って魂を人で満たすのだ。
人間の本質。
生涯の象徴。
人に英知があり、英知とは即ちこれである。
――英知の、結晶
少年が身に着けているのは、そういうものなのだ。
彼と同じように。
――あぁ、困ります
いけないのに。
蓋をしなければ。
竈のない火はただの炎だ、燃え広がってしまう。
なのに、広がる炎を美しいと見つめてしまう。
どうしても、彼のその名を呼んでしまう。
音にせず、胸のうちだけでも。
もう彼は胸のうちにしかいないから。
――シグルド……
私の人。
愛しい人。
英知ある剣の人。
強いられた眠りを覚ました戦士の王。
蜜月を経て、しかし全てを忘却させられた男。
そして槍は彼を貫いた。
焔が、彼にまつわる全てを焼いた。
――焔、が――
視界が赤く焼け落ちる。
心から世界へ燃え移る。
ああ、そんな。
どうしてそんな。
こんなにも、困ってしまうというのに――
「カウレス」
凛。
「……ぁ」
意識を揺らしたのは、個人の呼称。
「控えなさい、カウレス」
座した少女の呼びかけだった。
注意で固くなった声は、胸の焔を鎮める落水となった。
「悪り、姉さん」
覇気のない笑みに、少女は嘆息を漏らし、だが、
「ウゥー……ッ」
「お前もかよ、バーサーカー」
赤髪の女の鋭い犬歯が少年に示される。
向けられた鈍い苛立ちにいよいよ少年は背を丸め、軽くため息を一つ。
――カウレス。そして、“黒”のバーサーカー
向き合う今なら分かる。
バーサーカーが実体化する直前、そうせよと告げた声はカウレスのものだ。
――きっと、この2人が一組の主従。
いま部屋にいるサーヴァントは、自分とバーサーカーだけ。
すなわち、バーサーカーはこの三人を一括して護衛する役を割り振られたということ。
こちらの生殺与奪を握るとはいえ、3人を1騎で守るのは理に合わない。
――圏外から干渉することの適うサーヴァントを従えていますね
事実、歳若い少年のサーヴァントは搦め手のキャスター。遠隔でもこちらに手を下せる。
戦士を辿る戦乙女の察知力を免れて、しかし傍らに控えず備えうるとしたら、
――努めて息を殺すアサシンか……類稀な精度と威力を両立するアーチャー
正攻法のセイバーでは多くを壊し、機動力のライダーは奔るのに時間を要する。
転移すら叶える令呪をもってすればその限りではないが、
――はたしてこの少女は、未だ戦端開かぬうちから令呪に踏み切るでしょうか……
この一室においてただ一人、従者定かならぬこの少女は。
「お初にお目見えします」
花咲く笑みがここにある。
彼女こそは可憐の化身であった。
「――私はフィオレ・フォルヴェッジ・ユグドミレニア」
愛されるべくして産み落とされた面立ちだ。
豊かな長髪は深い茅色、風が色付いたかのように波打つ曲線は、しかしほつれたところもな
く流麗に整えられている。碧眼の光る顔は色白で、しかし仄かに桜色を帯びた頬に病的な色白さは微塵もない。
白い上着と黒の穿くものは、さながら乗馬着のようだ。
金の縁取りと飾りは白い布地に気品を加える。膨らんだ肩周りと袖口は引き締まった腕と胴回りの細さと対比し、襟元の黒いリボンと合わせて、優雅と愛らしさを両立させている。両足に秘められた小鹿のしなやかさにも布地が寄り添い、恵まれたる事を損なうことがない。
恵みある者の。
恵みある事を隠さぬ。
幸いに満ち満ちた姿であった。
たとえその脚が、微動だにせず椅子から垂れ下がっていたとしても。
――愛らしい方
その様は、庭園から寝室へ召し上げられた白い野薔薇のようだった。
「我らユグドミレニア一門の長であるダーニックの命で、貴方達との折衝を担います」
だからこそ少女は、フィオレは微笑んだ。
「よろしくお願いいたしますね? マスター殿」
空気が薫るような微笑だった。
儚く。
可憐で。
愛らしくて。
ああ、そうだ、これこそが、
――貴方の侵略なのですね
愛されることの玄人の、相手の胸のうちに忍び入る業なのだ。
「あ、ああ」
表情と言葉は刃を迂回する。
水を向けられたマスターは抑えのある喉を震わせ、
「よろしく、お願い、します」
「時に、お召し物と車椅子のお加減はいかがですか?」
「これら、か?」
「はい。お召し物はダーニック叔父様が用意されましたが、車椅子は私の控えですので」
眉尻を下げ、悲しげに目を伏せる様はどうしようもなく弱弱しい。
「同盟者たりうる方にご無礼はできませんもの」
「ぁ」
「もしも至らぬことがありましたら」
あるというのなら、
「――どうぞ、仰ってくださいませ?」
微笑み。
「ぁ、ぅ」
可憐という暴力が意思を重圧する。
相手が自発的にこちらの意思を受け入れたくなる姿を用い。
望むところを相手の思考と思考の間に挟み、推し進める手法。
相手の好意を誘い、優位性を委ねていると思わせる所作は、その実相手を腑分けする刃。
これは技術だ。
会談において、恵まれたることをもって願望に至るための、人に対する人の術だ。
そうだこの少女は、
――貴族
恵まれよと生まれ、育てられた生涯。
父祖が継がせたることを果たす所業。
連なる者共の末として望まれた形を生きる少女は、業と宿願を負う血族の在り方そのもの。
――天恵の乙女、フィオレ
そして、
――貴女は、知識の殻から世界を見る雛鳥です
それがブリュンヒルデの彼女に対する評価であった。
「――感謝します」
香り立つ甘言を囁きが断つ。
歩みが為る。
鋼造りの踵が煉瓦を打ち、当世にない神代の鉱物がいかに鳴るかを知らしめる。
「感謝します。フィオレ・フォルヴェッジ・ユグドミレニア」
彼女を見た。
彼女も見る。
互いの瞳が視線という鎖で結ばれる。
晴天の海原もかくやという碧眼、二つ並ぶ瞳にブリュンヒルデは己を見た。
――困らせてしまいますね
かつて、数多ある勇者達が最後に見る者がそれであった。
かつて、愛を交わした男が褥で囁いたものがそれである。
父祖なる神がそう造ったものであるが故に、その活用法をブリュンヒルデは知っている。
ブリュンヒルデは、そうであるらしい、と理解していた。
自らにその価値を見なくとも、人はそう見ると知っている。
だから今、それを使おう。
「我がマスターに捧げたる物の数々、報いる言葉を重ねれば黎明が添えられましょう」
膝をつき。
槍を置き。
胸に手を当てて。
彼女を少女を仰ぎ見た。
座した彼女より低いところへ身を下ろし、見上げた彼女のその表情は、
――聡い子
微笑みに軋みがあった。
才ある身、能ある人の子は眼前に現れようとしているものが何か、予感しているのだ。
――ええそうです。貴方の行いを、貴方へ返しましょう
人よ仰げ。
これが神代を相手取るということだ。
「――感謝します、フィオレ様」
原初の魔術のその一つ。
美。
微笑むかんばせが少女を焼いた。
今回のテーマ:眼鏡を「眼鏡」と書かず、いかにして知恵の象徴として形容するか
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02:彼と彼女について c
あと思ったんですが、ひょっとしなくてもロシェって本編でアヴィケブロンとしか会話してない……? ディスコミュニケーションが彼のテーマなのは間違いないけど、彼が好意を持つ相手以外にどう会話するのかって、もう完全に想像の域なのでは。
***
フィオレは創生の再現を見た。
即ち、光あれ、だ。
「――ぁ」
水と、闇と、霊と。
それらがひしめくだけの世に光が差すことの貴さ。
彼女こそ光。
光ある焔だ。
蒙昧で曖昧な世に、価値とはなんであるかを明確にする、理解のきざはし。
世界最古の第一日にありし、世の開闢を決定付ける究極の魁。
他に価値はなく、これのみが価値である時代の遺物こそが光。
貴いものがここにあった。
――ま、ば、ゆ、い――
彼女こそ光。
この微笑みの貴さ。
その眼差しの尊さ。
これが本当に人と同じ造形なのか。
――ぁ、ぁ、ぁ、あ――
陽を仰ぐように、目が悲鳴を零す。
瞑りたい。
できる筈がない。
もはや瞳は奴隷である。
眼球は鎖で引きずり出され、瞼が用をなさないのだ。
何より、人としての本能が刹那の中断さえ体に許さない。
愚鈍にも五日も出遅れて、価値ある光景を見逃した種族として。
その末裔に生まれ、だが今、この光を拝謁する幸運を得て。
脈々と継がれた本能が、個としての判断を凌駕する。
見逃せない。
――ぅ――
思いが殺される。
心が焼却される。
思考が固定する。
すなわち、
――美しい!
途方もないものが私を見上げている。
――貴い
神秘には不文律がある。
曰く、旧きものにこそ力あり。
曰く、知られざるこそ力なり。
つまりこれは、そういうことなのだ。
――これが神代――
表情一つで瞳が奴隷になる。
意思一つに心は時を超えた。
ただそこにあり行動しただけで、人類は圧倒的下位だと思い知らされる。
崇めずにはいられない。
――これが女神――
理解できていなかった。
フィオレに傅くサーヴァントもまた神代。
神代にあって尚大賢者と讃えられた傑物。
だが理解できる。
彼は守ってくれた。
サーヴァントの縛りを甘受し、当世の人である自分の心と感受性を守っていたのだ。
彼が加減した神代の何たるかを、正面から照らしてくるのだ。
このブリュンヒルデという神霊は。
「貴女にも」
息吹は熱。
囁く唇の美しさ。
――ひ、ぃ
光は熱ある焔。
言葉は注ぐ風。
一言一言が圧殺せんばかりの熱風となり、フィオレの感受性が悲鳴をあげる。
その声の涼やかなること。
なのにどうしてこうも焔なのか。
「幸いがありますように」
――やめて!!
叫びたい。
叫べない。
そうしてしまえば、唇は心を裏切るから。
光栄ですと、そう唇が紡いでしまうから。
光ある微笑みが心を縛る。
熱ある言葉が感性を焼く。
身に宿る人類史の積み重ねが焼却され、剥がれて、神代に適う原始的な意思が表出する。
フィオレ・フォルヴェッジ・ユグドミレニアが、剥落する。
――これ、い、以上、は……!
これが人と神、在りし日の差。
洗脳に等しい価値の差が心を焼き払う。
これ以上は、魂が持たない。
早く逃げなければ。
早く、
「僭越だぞ、サーヴァント」
***
「僕達は」
紙を握り潰す音がした。
「いいか、僕達は」
否、それは声だった。
「マスター同士で話してるんだ、従者は控えてほしいね」
或いは、手の内に握り締めた鈴の音。
錆の這う天真爛漫。
泥を塗す愛らしさ。
ああそんな、貴方はそうではないものなのに。
「聞こえてないなら、その収音機能はゴーレム以下だ。
先生と僕の、という前提はあるけれどね」
自信という鍍金が、高慢という鋲で留められている。
白く、細く、しなやかな、小鹿の擬人化にも思えるその姿。
だがその実、“黒”のバーサーカーより金物交じりに思われた。
――“黒”のキャスターのマスター
「ろ、ロシェ」
美に締め上げられたフィオレの声、その顔を見る彼の醜さ。
ブリュンヒルデがはじめて見た時の、“黒”のキャスターを見る目とは似つきもしない。
敬愛する師父に憧れ見つめる目か。
否、違う。
あれは、人を見る目ではなかった。
――それは、山頂にかかる星明りを見るような――
キャスターの行いは、雲間から差す星明りのきざはしとでもいうのか。
マスターとサーヴァントの関係性は一律ではない。
むしろ人類史に名を遺す傑物を相手に、敬服することも十分ありえる。
だが、ロシェのそれは、そういう類ではなかった。
――哀れな子
本当に、その双眸が、敬愛と親愛を宿していればよかったのに。
「何だよ」
ともすれば天使的な姿の、鬱憤から舌打ちする老人がごとき視線だった。
フィオレより幼い彼は、しかしもはや、未熟ですらなかったのだ。
――妄執の何たること。血脈はこの子から心を取り上げた
短命で大望な人の連なりは、降って沸いた天才に自分達の願いを託す。
心臓をインク壷、鼓動はペン、血管と臓腑の至るところに無念を刻む。
成せざるところを成せ。
為し得る力をもって為せ。
かくなる集積をもって少年の体は書となった。
歴史と妄執の伝達装置として、自らを定義してしまった。
――哀れな子
幼くして自らを器具と定めた心が見える。
少年ロシェの心は、もはや人格を装っただけの高速判断機能だ。
情報を取得。
既知との比較。
有益ならば記録。
蓄積を整理し最適化する。
道具よりも、神の権能よりも、それらを処理するのに向いたものこそ、人の心だった。
もし少年が、キャスターのそれを獲得し終えたら。
きっと少年は、それを遂げる事は出来ないだろうけど。
もし少年が、成し遂げる事が出来たとするならば。
きっと少年は、彼の事を絞り滓だと打ち捨てるだろう。
――この子の人たるものは、もう肉体しか残されていないのだから――
「何だと、僕は聞いているんだ!」
ほとほと哀れな子。
自分の入力には、必ず自分が理解できる出力が返されると思っている。
彼には、返されたブリュンヒルデの視線の意味を、その反応を解釈する想像力がない。
人ならざる記録媒体の心は、それ故に鉄壁の無思慮と魅了耐性を持っているのだ。
「ひ、控えなさい、ロシェ」
他人の怒りは冷静を招く呼び水だ。
神代の魅了をから外れたフィオレはロシェに、いやさ人型記録装置に指示を出す。
「轡を揃えよ、それがダーニック叔父様の方針よ」
「懐柔して使い潰せ、だろ? あの時、さっさと令呪を剥がせばよかったんだ」
吐きつけられた喚き声に、ブリュンヒルデの男の顔を思い出す。
ダーニック・プレストーン・ユグドミレニア。
彼こそは酷薄の権化。
魂の混色した人非人。
実際に彼が告げた方針は、ロシェが言うものであったのは間違いない。
――つまり
フィオレには融通ゆえの弱さがあり。
ロシェには無思慮ゆえの弱さがある。
ならば。
「……何のつもりだ」
神代の鉄が小さく鳴いた。
身の丈を超える槍、それを握る篭手の五指。
一本に対する十本をこすり合わせて、武力行使は重奏する。
「マスターから、令呪を奪うおつもりですか」
「――そうだ!」
その瞬間の。
烈火に染まるかんばせよ。
「令呪を奪い、そのホムンクルスを接収する!
そうすれば……先生の宝具だって完成するんだ!!」
――キャスターの宝具は、マスターの犠牲なくして発動できないのですね
魔術師の英霊は基本的に最弱だ。
サーヴァントの多くは強い魔術耐性を持ち、それは旧く強い英霊になるほど顕著だ。
陣を敷き、備えを重ね、権謀術数を添えて立ち向かうのが、キャスターの基本戦術だ。
故に、キャスターの宝具は最重要の切り札といえる。
そもそも宝具はサーヴァントの化身、発動に条件があるのは異例だ。
――それが自由に使えない、としたら
実際には獲得していない、或いは、未完である事こそが逸話である場合。
――キャスターのマスターは、自分と同様の能力した尊ばないでしょう
それがこうも敬服しているなら、ロシェはキャスターの技量を精査したのだ。
キャスターの魔術は機能している。であれば、魔術自体が宝具、という事もない。
――キャスターの宝具は、特別な生贄で完成する高度なゴーレム、という所でしょうか。
マスターに拘るところを見ると、現状では換えが効かないらしい。
つまり、マスターと共にある事は、相手の切り札を潰す事だ。
背にするマスターを護る意義の深まりを得て、
「――あのさ」
知恵ある者の声がした。
「何だよ」
冷や水が、赤熱する鍍金のごときロシェに浴びせられた。
それを投げかけたのは、フィオレとロシェの後ろに佇んでいた少年だ。
「あぁ、あれだ」
しおれたように背を丸め、そばかすの浮いた頬を掻く、英知の結晶を備える彼。
今度こそ、今度こそ胸の内の焔を取り押さえて、努めて抑えこんで、彼を見つめる。
「貴方も控えていなさい、カウレス。この場は……」
「でもさ姉さん」
茹で過ぎた葉のように緩い微笑みで、
「俺控えちゃったらさ、バーサーカーが2人を守れないと思うんだ」
英知の先にある碧眼の煌き。
瞠目する2人、そして見たのは、ブリュンヒルデの間に立って武器を構えた女の姿。
「ウゥー……!!」
“黒”のバーサーカー、鋼ある女。
カウレスの言を肯定するように、獰猛な唸りには意思表示があった。
「ぅ」
躾けられた猟犬に睨まれたようなものだ。
自分より力ある者の怒りある抑止を間近で受けて、二人の肩が小さく竦む。
「ていうかバーサーカーだけで、あっちのマスターを引き離せないだろ?
セイバー、でかけちゃってるしさ。
だからアーチャーとキャスターもランサーと話し合ってるじゃないか」
「話し合う意味がない、って言ってるだろ」
「ないかどうかを、話し合ってるんだろ? ランサー達と、ダーニック叔父さん達は」
当主の名を出されては、ロシェも黙って彼を睨むしかない。
カウレスは居心地悪そうに視線をそらし、それからこちらを見て、
「あんたもさ、できれば俺達に協力してほしいんだけど」
「何故です?」
「――俺らのアサシン、逸れたんだよ」
「カウレス!!」
ここ一番の怒声だった。
フィオレの頬を赤く染めるのは、僭越に走った下位への苛立ちだけではない。
近しい肉親に対する、身内ゆえの言語化できない潜在的な怒りが混ざっている。
しかし当のカウレスはどこ吹く風。
否、眉尻を下げた顔は、謝意を押し隠しているのか。
「そんな訳だからさ、頼むよ」
覇気の無い媚びた微笑み。
フィオレは眉間を揉んで俯き、ロシェに至っては腕を組んでそっぽを向く。
だからなのだ。
だから2人は受け取れなかった。
「――利用できる内はし合おうぜ?」
「………………」
怜悧。
これこそ魔術師の酷薄だ。
フィオレとロシェは、彼の振る舞いを軽んじて無思慮としか思わなかった。
瞳と瞳を結び、対面して微笑む彼を見つめるブリュンヒルデだから、それを見た。
――賢い子
フィオレとロシェが嘆息するのに、気づかない彼ではないだろう。
そして実際、単純な能力では彼らに遠く及ばないことも自覚している筈だ。
――貴方は、自らの非力を受け入れた上で振舞えるのですね
カウレス。
彼が劣り、立場も低いことは、この部屋に来た時から理解できた。
フィオレに窘められ。
ロシェには侮られて。
しかしカウレスには、この二人にはないものがあると、ブリュンヒルデは思う。
――賢明、かくして懸命。弱さを前提にして強くなるための思考回路
能力に裏打ちされた自信は無く、弱さを補い至ろうとする目的意識がある。
それは時に、優れた者どもの合間を縫って先んじるものだ。
カウレス。
彼は、賢い。
――ならば、彼に問いましょう
ブリュンヒルデには疑問がある。
最初は、代表であるフィオレに問おうと思った。
だが今、知恵をもって駆け引きを望む彼こそ相応しい。
――セイバーは遠出、アサシンは不在。
盟主のランサーに、アーチャーとキャスターは陣営を仕切る側
彼は、見返りを確約しない情報提供で、こちらの譲歩を乞うた。
フィオレの怒りを見るに独断のようだが、カウレスはそうする意義があると見たらしい。
最終的により多くの利益がある結果のために、一時の独断専行も選べる行動力。
それができるカウレスなら、今一歩切り込めるか。
「ライダーは?」
これが、ブリュンヒルデの問い。
「“黒”のライダーはいずこに? もう現界されているのでは?」
聖杯戦争は7騎のサーヴァントを召喚する。
カウレスの明かす情報は、そのうちの1騎が不足していた。
ライダーだ。
――無意識に欠ける話ではないでしょう
意図してカウレスはライダーの話をしなかったのだ。
それは、何故か。
「――あぁ」
つぃ、と。
英知の結晶ある相貌が逸らされた。
若かりし碧眼は明後日を追い、何もない部屋の隅を漠然と眺め始める。
「ライダー、なぁ」
「……?」
思わず首を傾げてしまう。
明朗とした口振りから一転した、言いよどむその仕草はなにか。
「あいつは、さ」
「カウレス様……?」
何だろう、その視線は。
まるで、太刀を串に肉を焼くのを見たような。
さながら、王冠を桶にした水汲みを見るような。
とんちんかんな扱いをされた宝を見るような、その妙な視線をどうして背後へ向けるのか。
「――あんたの後ろにいるよ」
「え」
それは気付き。
そして息継ぎ。
一瞬で加熱した胸に、吸い込んだ息の冷たさが刺さる。
どうしてそんなことが。
「ぁは」
聞いたことのない声がした。
「可愛いね、君」
その声は、守らねばならない君の隣に。
振りぬく槍が風を鳴らした。
ギリシャ神話の登場人物を従える人物が、北欧神話の女神に圧倒される表現を、聖書の一節で喩える私は、ひょっとしなくても馬鹿野郎なんじゃないかと思いました。
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02:彼と彼女について d
ユーザーの皆様におかれましては、お気に入りに追加していただき、ありがとうございます。
長くなってしまった一室の会談も、今回で終わりです。やっと次のフェーズに移れますね。
***
その歓声は、ブリュンヒルデにとってありえない場所から響いた。
背後だ。
――勇士を辿る、この身の機能を欺いた!?
父なる神により搭載された機能がある。
人の地にある勇猛を余さず見つめる戦乙女の権能。
すべからく勇者の館へ招く、勇士の死神たる所以。
かくある戦乙女の長姉、一号機であるブリュンヒルデの機能は規格水準を超える精度だ。
――それを、逃れたと!?
アサシン相手でも察知できる確信があった。
まして他のクラスを逃す筈はないと思っていた。
しかし。
現に。
今。
「……!!」
だが驚愕は打ち捨てなければならない。
あり得ない、など切り捨てねばならない。
何故ならそこに、声あるところに守らねばならない者がいるからだ。
――マスター!
事実を肯定しよう。
現実を否定するな。
今ここにある危機へ向き直れ。
そして奔るのだ。
主を守るために。
敵を断て。
「ふ」
呼気を置き去りにする旋回運動、長髪が弧を描く。
右を軸足に左が巡り、鋼の踵が床を抉る。
開脚により維持する姿勢が長槍を支える。
この身を超える長大な槍を振るうのは今。
さぁ行け。
大気を殺せ。
「――!」
鼓の爆ぜるような激音。
戦乙女の細腕に圧縮された腕力、振りぬく槍の硬度が大気を破る。
ブリュンヒルデの半身ほどもある巨大な穂が、瑪瑙色の半月を描く。
先鋭が、背後にある姿へ迫る。
「ひぇ」
居る。
確かに居る。
マスターと自分の間に、見知らぬ誰かがいる。
マスターと自分の間に、あってはならぬもの。
裁断せよ。
「バーサーカー!」
大気が疾風という血飛沫を散らす中、カウレスの声がする。
指示だ、だが遅い。何を求めたところで槍には追いつけない。
だから意識を槍の先へ、攻撃力の終着点へと集約して、
「――石突だ!!」
「ゥアッ!!」
鐘打つ音、そして穂先が急転進。
「ぁっ?」
腕に痛みと痺れ、異常な手応えが麻痺を生む。
手の内にある長槍の柄に、さながら電流のごとく激震が走る。
何故だ。答えは、やはり背後だ。
――打ち抜かれた……!
肩越しに見る光景、それは戦槌を振りぬいた“黒”のバーサーカーの姿だ。
彼女は何を打ったのか。
明白であった、石突だ。
穂先の真逆、柄の終点。
刃の対として後を追うその一点を、真っ向から槌で打ち返された。
穂先は戻り。
姿勢は崩れ。
攻撃は無為へ貶められた。
故に、
――焼き払います!
ブリュンヒルデの能力は刃だけではない。
魔力放出・炎。
身にある魔力を炎として出力する力、一点を刎ねる槍を補う、面の攻撃力だ。
小賢しいライダーとバーサーカー、それを操るカウレス達も、諸共に焼き払おう。
マスターを回避する炎の流れを想像すべく、その姿を見定めて、
「ま、待った! 待ったぁー!!」
諸手を挙げて叫ぶ、その姿が遮った。
***
「ごめんよぅ、そんなに怒るとは思わなかったんだよぉ」
目尻を濡らし、鼻をすすって弁明をする人物がいる。
桜色の三つ編みを尾のように揺らし、手を合わせて頭を垂れる様は、さながら小動物のようであった。左右の髪に黒いリボンを結ぶ面立ちは、愛らしくもどこか油断のならない魅力がある。活気に満ちた瞳と歯の覗く口元は、なるほど気侭な猫のようだ。
そんな面立ちの下は、中々どうして精強な装いだ。白い外套を肩に、皮鎧を胴にまとい、長剣と角笛を腰から下げる様は勇ましい。三枚綴りの装甲に守られたスカートからはすこやかな健脚が伸び、革帯で繋がれた長い足袋と軍靴に包まれている。
いささか以上に奇矯な装いであったが、剣と鎧を外套で包む、騎士のそれであった。
が、
――? ……? ……?
拭いきれない違和感がブリュンヒルデにはあった。
今、眼前にいる筈のライダーが、しかしその実見えていないような。
正確にライダーを見定めることができていない、そんな感覚があった。
――少、女……?
可憐である。それは間違いない。
フィオレのそれとは違う、放埓で溌剌とした可憐さがライダーにはある。
だが、ブリュンヒルデがライダーに感じる違和感は、そういうものとは一線を画する。
何かが決定的に、見えていないものがある。
何かがおかしい、それだけは確かに分かる。
――これは……感知阻害の魔術……否、宝具?
ライダーが意図して発動している素振りはなく、ましてその技術があるようには見えない。
ライダーのクラスは、複数の宝具を持つ者が多く割り振られるクラスだ。
認識を妨げる宝具を持っている、それはありえることであると思われた。
「おい、ライダー」
そんな困惑を他所に、呼びかけたのはカウレスである。
「何でお前がここに居んだよ」
「だってさ、“赤”のサーヴァントとマスターがこの城の中に現れたっていうじゃないか。
見てみたいって思うんだ、僕は!」
「……お前には話すな、ってみんな叔父さんから厳命されてた筈なんだけど」
「それだよ! みんなズルくないかい? こんな可愛い子を隠すなんてさ。
僕も、可愛い子と一緒にいたい!!」
「いやだから、なんで知っているのかを……」
「それはね、僕が僕だからさ!」
ライダーは跳ねるようにして一歩引き、
「我が天命は七転八倒――」
それから一回転。
白い外套を棚引かせ。
桜色の三つ編みを振りぬいて、
「しかして七転び八起きであらねばならぬ!
是即ち、シャルルマーニュ十二勇士の境地なり!!」
唐突に、脈絡もなく風が吹いた。
壁を穿つ窓穴から吹く風が外套をはためかせ、表裏二色の紅白が宙を泳ぐ。
それはさながら、舞い降りた鳳の翼のように。
陽光と風の声援を受けて、高らかに。
「己が胸にある正義の味方!
騎士なるアストルフォ、あまねく決まりを破って今参上!!」
決めの構えは果たされた。
天に弓を構えるように突き上げられた右の拳、肘を引いた左手の拳。
掲げられた左膝、スカートから覗くふとももを見せ付けるような、器用な片足立ちだ。溌剌とした笑顔に白い歯を覗かせ、活力に満ち満ちた双眸が等しく周囲を照らしている。
ともすれば、きっとそれは花吹雪や色付いた爆炎を背にする、そんな風体であった。
しかし、
「……もしもしセレニケ?」
「やめてぇー!?」
カウレスが懐より出した当世の道具により、あっという間に崩れたのだった。
「お願いだよぉう、マスターにだけはチクらないでぇー!」
「ええい縋るな! まとわりつくな……!!」
泣きの入ったライダー、アストルフォの叫びが煉瓦造りの一室に木霊する。
少年カウレスの足に縋りつく騎士の姿を、ブリュンヒルデは黙って見ていた。
まるで、遠い先の出来事であるように。
――アストルフォ
ブリュンヒルデはそれが誰か分からない。しかし知ってはいる。
サーヴァントとして現界するにあたり、根源である聖杯より知識を与えられているのだ。
生前より持たない知識の実感は乏しいが、答えがあれば概要の索引程度は出来る。
――シャルルマーニュ十二勇士の一人。
逸話に曰く、万難越えのアストルフォ――
大帝の名を頂く男を主とし、聖騎士と呼ばれる勇者の先駆者たち。
その中にあって、武勇ではなく精神のあり方で知られた者。
友を捨てず。
高潔を尊び。
理性を失ったが故の、愚かしさと誠実さで世界を翔けた者。
――難事と解決に愛された純真の騎士
かくも高名な騎士が今、
「いやだぁー、嘗め回されるのはもうイヤだぁー!」
滂沱の涙と鼻水を、カウレスのズボンに擦り付けているのだった。
※※※
「申し訳ありません。我が方のライダーが、不躾を」
「いえ。あの方が如何なる星の下に生まれたかは分かりますので」
「そう言っていただけると。……やはり、そういうものなのですね」
フィオレは、弟にすがりつき鼻を鳴らすアストルフォが、背後にいる幸いに感謝した。
逆に、こちらと向かい合うブリュンヒルデの視界に、今もその姿があると思うと同情する。
「…………」
現に目を逸らす戦乙女である。
その横顔すらも美しい。
だが、先程までの流れは断つ事ができた。
――相対する神霊と正面から話し合ってはいけない
フィオレはブリュンヒルデとの交渉において、考えを改めていた。
相手は圧倒的に上位者なのである。
こちらは徹して下位者でなければ。
正面からこちらの望みを聞くように仕向けていては、存在の格差で焼け落ちてしまう。
――上位者に、下位者のルールを受け入れて頂く、ということですね
相手の意思を圧迫する交渉術は悪手だった。
神霊が自ら選ぶよう誘導する必要があった。
仕切り直しだ。
「改めまして――ようこそ、“黒”の陣営の居城へ。我々は貴方達を歓迎します」
戦力として。
彼女達の逗留は敵する“赤”の陣営の力を削ぐこと、変節せしめれば手勢の先鋒にもなる。
ブリュンヒルデ達を足止めし、調略する必要がフィオレ達にはあった。
「私達が、“赤”の陣営から貴方達に組すると?」
ブリュンヒルデの返答は、想定されたものだった。
「遠地より来るアサシンに貴方達も加えて、こちらは8騎の手勢。
此度の戦、“黒”と“赤”の枠はあれど、そこに強制力はありません。
殊更、この有利を捨てて“赤”の陣営に帰属する理由が貴方にありますか?」
「…………」
「まして“赤”の陣営は当世魔術師の勢力、我等を嗤う時計塔の者共。
私達が造ったホムンクルスを、彼等が快く迎えると思いますか?」
「……轡を並べるならば、マスターの枷を外しても良いと?」
「当主はそう申しております。でしょう? ロシェ」
「まぁね」
水を向けられたロシェは、やはり顔を顰めて、
「ダーニックの頼みなら先生も聞くと思うよ」
「枷を繰る者もこう申しておりますわ」
目を伏せ考えをめぐらせるブリュンヒルデに、フィオレの笑みは力を増す。
新たな交渉材料を持ち出す機会だった。
「当主はこうも申しておりますわ。今宵、星の下で杯を交わす場を催そう、と」
ブリュンヒルデの瞳が、こちらへと吊り上げられた。
相手の思考を中断せしめた事実に、意趣返しの意気が湧く。
翻意をもって轡を並べる者を迎える宴、それはすなわち、
――禁忌の誓約
旧き世にゲッシュ、当世に自己強制証明と題する魔術が類するもの。
誓いにより自らへ禁忌を課し、破ったならば相応の報いを受け入れる魔術。
集った“黒”の陣営に囲まれ、誓いを述べるホムンクルスの姿が見えるようだった。
「……ぅ」
それはあのホムンクルスにしても同様であるらしかった。
苦悶の呼気。
不安の証明。
彼はダーニックやランサーを知らないだろうが、それだけに不安だけが先行して膨張する。
――気の毒ではありますが
これは聖杯大戦、戦にあるべき非情である。
フィオレにしても、消費財たるホムンクルスへの配慮は必要ないだろうと判断した。
何故なら、
――これが、魔術師の思考なのだから――
魔術師の思考として最適解である。
だからカウレスも、ロシェも、バーサーカーですら異見をすることはなく、
「――大丈夫だよ」
あった。
いた。
彼だ。
「ランサーはおっかないけど、徒にいたぶるような性格はしてないさ。
ボク等と仲良くしてくれればさ、悪いようにしないって。
――主にボクがさせないから」
返り見た先にある姿。
輝く瞳と、相貌の力ある表情。
これが、さっきまで泣いていた者の顔か。
――ライダー
かの者は騎士、魔術師とは異なる心理で動く者だった。
ブリュンヒルデよりも近代の英霊で、その人となりもあって油断していたようだ。
彼もまた英傑、公明を尊ぶ英雄の思考で走る者ということか。
――今は私達に従っていますが……
魔術師の最適解に対し、適合した判断をする存在とは思えなかった。
そうでなくとも、理性が蒸発していると称される、一手先も見えない相手だ。
「ライダー、貴方はマスターの下に戻るべきでは?」
不確定要素は除外するべきだ。
「えー、マスターのところにぃ?」
「彼女であったら、貴方の不在に感づけば追ってくると思いますよ」
「そりゃ勘弁」
眉尻を下げ、鳥がさえずるように笑うライダーである。
その姿に騎士の逞しさは感じられず、やはりフィオレはライダーが理解できなかった。
そんな困惑を察する風も無く、ライダーは立ち上がり、膝の埃を払う。
「んじゃ、そういうことで」
わざとらしくも背伸びをして、
「――またね」
そして、駆け出した。
輝く笑顔とともに。
※※※
ブリュンヒルデが声をかける間もなかった。
フィオレをすり抜け。
こちらの横を駆け抜け。
マスターの隣を通り抜け。
華奢な体は、壁に穿たれた細長い窓穴へと飛び込んだ。
「ぁ」
マスターとともに振り返り、見たものは霊体化による光の粒子。
窓の向こうで再び実体化したライダーの後ろ姿。
そして、それを掻っ攫う黒い影。
「――鳥」
違う。
鳥というにはあまりに大きく、あまりに形態が異なる。
――幻獣ですね
サーヴァントの視力は、黒い影に四本の足と、それに相応しい長躯があると認めていた。
鷲の前半身に馬の後半身を持つ獣は、尋常な世には生まれない。
間違いなく、ライダーの宝具として現れる騎獣であった。
――ライダーは空を往く騎兵、ということですか
制空権を握る意義は、7対7の聖杯大戦において、より一層の意味を持つだろう。
やはり普段の言動では図りきれない人物だと、ブリュンヒルデはライダーを評価し、
「――空」
囁くような声を聞いた。
「マスター?」
焦がれ、陶酔するような、これまで聞いたことが無いマスターの声だった。
しかしそれが何か、問う間もなかった。
「さて」
仕切り直す呼びかけだ。
「話は逸れましたが……。今宵の酒宴、ご参席を願えますでしょうか」
マスターの横顔を見る目が振り返り、優越の微笑みを捉えた。
難事を自らの力で乗り越える、その自負を得たフィオレの笑みであった。
彼女の言葉は、先ほどブリュンヒルデが選んだ手段では解決し得ない議題だった。
――彼女の論法は、決議を先送りにし、その場と過程を掌握するやり方です
今この時、相手の意向に介在して結論を支配する、そういう論法から変わっていた。
今の彼女は、こちらの優先事項を保留にし、自分達の有利をより磐石にする論法だ。
優先事項、つまりマスターの安全。
既にマスターの安否を握る優位にあぐらをかかぬ、慎重さを重視する方針を選んだようだ。
――相手の仕組む流れに乗せられている……。ですが、ここで強く出る意義はありません
惜しむらくも頷くしかない状況だった。
だからブリュンヒルデは、
「――分かった」
承諾を聞いた。
ただしそれは、自らの喉を振るわせた声ではなかった。
「……!」
「今夜、だな」
ブリュンヒルデの背後から届く、か細く乾いた声。
マスターだった。
「……よろしいのですか?」
眉をひそめたフィオレの確認。
視線はマスターに向けられていない。ブリュンヒルデへだ。
しかし、
「ああ」
やはり、答えはマスターの喉を震わせてた。
「そうですか」
ここに至り、遂に一室のあまねく瞳はマスターを捉えた。
五対の眼は青ざめたホムンクルスの顔を見据え、更に汗ばむ表情を認める。
しかし彼の喉は、紡ぐところを止めはしない。
「空は、あるだろうか」
「……ええ。城の上層、展望の間を用意しております」
「なら良い。空がそこにあるのなら」
そうして微笑みをマスターは得た。
自ら望んで望むところへ臨む、意思のある微笑みを。
「……ああ申していましたが、ライダーが宴を仕切ることは難しいと思いますよ。
酒宴には、今この城にいるすべての力が集うのですから」
マスターの変化はライダーに起因している、そう思ったのは自分だけではなかった。
釘を刺すように、フィオレの忠告が打ち込まれる。
「ライダーの他に、ランサーとキャスターと、このバーサーカー。
――そして、私のアーチャーが」
「そうか」
「彼は毒あるものを見据える番人。――星空と共にある“黒”のアーチャーは、無敵です」
「その強さが、俺達とともにあることを、願う」
嘲りはない。そんな余裕は、マスターのどこにもない。
そのことはフィオレも分かっている筈だ。だからこそ彼女は瞑目したのだ。
それこそが、この会談を閉じる合図であるからだ。
「――では後ほど。
同じ酒器から酌む杯、それらを交わす時を楽しみにしております」
そうして3人のマスターは部屋を後にした。
疑惑や苛立ち、同情をそれぞれの視線に乗せ、だが扉はその全てを断ち切った。
そして最後にバーサーカーが霊体化し退去すれば、後に残るのは1人と1騎だけだ。
ホムンクルスと、ブリュンヒルデだけだ。
「…………」
どうして、とは僭越である。
しかし、知りたいと思った。
何がマスターの心を支え、行動するに至ったのかを。
「空を」
答えは問わずしてもたらされた。
「空を見たんだ」
マスターは仰ぎ見た。
背後、壁を穿つ窓のごとき穴、下界とを繋ぐささやかなとば口を。
「ライダーが、見せてくれた。
壁の向こうにあるそこは、行けるところだと、教えてくれた」
「……!」
それはマスターがブリュンヒルデを召喚した、最初の願い。
生きたいと望み、閉ざされたところの先を望んだ彼の願い。
マスターの横顔には、希求する願いの片鱗を得た感情がある。
その表情は、ああ、どうしてそんなにも。
――私は――
欠片すら見せることができなかった。
振り向けば空が垣間見えると、それすら教えることをしなかった。
空を翔る影は幻獣だと分析するだけで、自由に往く者と思いもしなかった。
それをライダーは、事も無げに行動で示していった。
――ライダー、アストルフォ――
彼こそは、閉じたるところに吹き込む風。
或いは、彼のようなものこそが、マスターには必要なのかもしれない。
「ブリュンヒルデ」
しかし、しかし呼ぶ声はあったのだ。
「……はい」
主の存続と自由にかけて、自らの不明に浸ることなど許されない。
縋るものは在る。それを主に示さねばならない。
「空が、見えたんだ」
「はい」
壁の先にある世界。
マスターが届きたいと願った場所だ。
「空が、あるところへ」
「必ずや。芽生えた願いに臨む事、無謀では終わらせません」
そのために、マスターが望む道を阻む者達を除けて進む必要があった。
主が空を臨む道にはだかるのは、7騎と7人。
ランサー。
杭有る世界を見る領王、ヴラド三世。そのマスターたるダーニック。
アーチャー。
星空の下にて必勝と讃えられた番人。主たるは天恵の乙女フィオレ。
キャスター。
主の身で宝を完成せんとする魔術師。マスターは人足りえぬロシェ。
バーサーカー。
鋼を打ち付けた体に死霊を響かす女。従えるのは英知有るカウレス。
ライダー。
滞る事なき自由の化生アストルフォ。しかして恐れられたる其の主。
――そしてアサシンと、セイバー。
この城より発った最優の英霊とそのマスター。
未だ合流できていないというアサシンと合わせ、今宵の酒宴には居合わせないらしい。
――危惧すべきはランサー、そしてアーチャーです
バーサーカーやライダー、キャスターであれば、正面からでも打ち勝てると見立てていた。
しかし召喚直後に矛を交えたランサー、ヴラド三世。
フィオレが無敵と称した、名も知れぬアーチャーだ。
確実な二つの脅威、この上更に最優のセイバーとマスター殺しに秀でたアサシンが未見だ。
しかし、
――勝たなければなりません
左右の五指が、鼓舞するように槍を締め上げた。
彼の願い、そして自らの胸の内で燃え続ける宿願のために。
「望みあるところを臨みましょう。
“黒”の牙城、その向こうにある空の下へ、貴方を届けてみせます」
そういえばエルメロイ2世の事件簿のアニメ版で、獅子劫さん出てきましたね。
次話で登場する構想だったのですが、なかなかジャストフィットな投稿ができないあたり、情け無い話です。
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02:彼と彼女について e
FGO、Apocryphaコラボ復刻しましたね。その勢いで一念発起し、途中だったものを仕上げてまいりました。不定期更新で大変情けないありさまですが、お目にかかったときに呼んでいただければ幸いです。
しかし“赤”の陣営のマスターの活動を書いた作品、というのも我ながら珍しい方なのでは無いか、と思いますね。実質オリキャラみたいなもんですが。
※※※
拓かれた山があった。
石と煉瓦。
鉄と硝子。
木と塗料。
山を埋める岩と樹を掻き分け、それが人が住むに良い場所を作っている。
街だ。
ここには街がある。
当世にあって古めかしい、中世の街並みがここにはある。
煉瓦を敷き詰めた道。
華やかに塗られた壁。
手入れされた窓硝子。
そうした家々の屋根は三角形を描き、所々に窓と煙突が穿っている。それらは画一的であったが、家毎の壁はそれぞれ一軒ごとに色が異なり、戯画のような彩りの豊かさを見せている。
統一された屋根の下の、華やかな街並み。
その間を刻む街路は、うねりを描き丘陵を登っていく。
丘陵の頂きに向け、幾つもの道が集約されたところにそれはあった。
尖塔を頂く建物だ。
ほのかに夕の朱色を残す壁。
天を指す大三角の如き屋根。
山の頂きから、少しでも高いところへ。
より高いところを指し、崇めるように。
その建物は、彼の者を讃え謳うための建造物として、ここにある。
シギショアラ。
その建造物がある街を、住む者と来る者はそう呼んだ。
山上教会。
そうした者達は、この建造物をそう呼んで訪れていた。
屋根から鋭く伸びる塔の先、空の頂点から陽は既に傾きを進めていた。陽と空は今日一番の色濃さを見せ、赤く染まる前に精一杯の輝きを降らせている。
風は涼やかである。
穏やかでもあった。
教会の前に拓かれた道に沿う並木は緩やかにさざめきを鳴らす。
教会の前はほのかな静けさで満たされていた。
しかし、
「――ふざけるな!」
平穏とは破られる。
それは、常に人の業だ。
※※※
叫びはあらゆるものを打ち据えた。
緩やかに弧を描く天井。
柱を埋め込んだ白い壁。
陽光が差す四つの大窓。
彫刻と絵画が組む祭壇。
整然と並ぶ長椅子の群。
そしてそれらに座る者達の体を、叫びは打ち据える。
これらを一括して包み込む礼拝堂は震え上がっていた。
山上教会の内側。
人が尊ぶ宗教施設。
多くが訪れることを望むその場所は、しかし少数人の悪感情で満たされようとしている。
彼等は、長椅子に座すその者達は、誰も彼もが素知らぬ顔で他所を向いていた。
ある者は天井を仰ぎ見てほくそ笑み。
ある者は隣り合う者と顔を見合わせ。
ある者は手にした書へ視線を落とす。
誰も彼もが、叫ぶ者と目を合わせようとはしなかった。
誰も彼もが、疎通を望もうとはしなかった。
山上教会が悪感情で満たされようとしている。
怒りと。
嘲笑と。
無関心に。
たった一人の例外を除いて。
それがシロウだった。
「……」
シロウ・コトミネ。
彼は精悍な若者である。
逆立つ白い髪、活力を秘めた目つきと微笑み、鍛えられたことをうかがわせる確かな首筋には、金の十字架で結ばれた首飾りがかけられている。細くも芯の通った立ち姿は、その顔立ちと両手を除いて黒い祭服が包み込んでいた。
そして祭服の上には、十字架の意匠を印した外套を羽織っている。祭服も含め、いずれもが厚手の布地だ。しかしシロウはそれを意に介した風もなく、汗一つ無い涼しい顔で祭壇の前に立っている。
しかしその眉尻は僅かに下っているのを、この場にいる者達は気づいていなかった。
――さて、どうしたものでしょうね
神父であるシロウは、その苦悩を表にすることは無い。
悩める者を導くことが、課せられた役目だからだ。
たとえ動じていたとしても、それを表に出すことは許されない。
否、それを表に出すことを、自らに許そうとは思えない。
教導する者、率いる者の務めであると、シロウはそう思っているからだ。
不和から目を背けてはいけない。
「残念ですが事実です、ミスタ・センベルン」
祭壇を背にしたシロウは、目を伏せてかぶりを振った。
そうして見る。
祭壇を掲げる段差の上、僅かばかりの階段の上から、長椅子の群に混じる者達を見る。
男が立っていた。
男は寝そべっていた。
男と男は座っている。
女は書を読んでいる。
その傍らに、人ならざる男が立っている。
礼服の姿、粗野な姿、理知に富む姿、時代錯誤の舞台衣装、その姿は様々だ。
神父の装いであるシロウも含めて、この場の7人に共通点は無いように思われた。
しかしこの一団は、ある目的のために集められた一団である。
その呼び名を、シロウは思う。
――“赤”の陣営
7対7の集団戦、聖杯大戦の片翼である一団こそが自分達であると。
相対する“黒”の陣営に打ち勝つべく集められた一団である、と。
第一に立場。
第二に経歴。
――私は監督役ですが……
この聖杯大戦の源流、聖杯戦争と呼ばれる戦い。
遍く願いを叶える大魔術、聖杯を求め争う戦い。
我が聖堂教会が尊ぶ主の遺物ではない、それは確かめられていた。
しかし、その性能に疑う余地は無い。
故に、聖堂教会は監督役を派遣する。
60年前の聖杯紛失以来、世界中で粗製乱造された亜種聖杯戦争とは異なる。
この聖杯大戦は源流に連なる戦いだ。
だからこそ、シロウは派遣された。
しかし眼下の彼等は異なる。
――彼らこそ、参加者たる魔術師
礼拝堂に集う彼等こそ、聖杯大戦にてしのぎを削る魔術師達。
本来ならば聖堂教会が仇敵とする、魔術教会・時計塔の走狗。
しかし今回、聖杯を用いようとするユグドミレニア一門を滅ぼすべく共闘する者達。
それだけに集められた彼等は、戦闘に秀でた選りすぐりの者達だ。
監督役でありながら参加者でもあるシロウの方が異端なのである。
――しかし、ともすれば魔術使いとも呼ばれる者達まで集めるとは……
魔術をもって実利を求む者達、それは魔術使いとも呼ばれる。
魔術によって真理を望む者達、これが魔術師の本分とされる。
魔術結社、時計塔では侮蔑される事もある。
その時計塔が彼等を雇う。
シロウには、聖杯への欲目以上に、造反したユグドミレニアへの怒りが強いと思われた。
ともあれ、聖杯大戦を征すべく集められた者達だ。
しかし誤算を得た。
「なぜ我が手に令呪が宿らない!?」
集う誰もがその手に刻む令呪、それこそが聖杯大戦への参加権。
持ち主の資質と力量を描く印、従者に対する三度の絶対命令権。
しかし、
「――何故だ!?」
立ち、そして叫ぶ男の手にそれは無い。
男はフィーンド・ヴォル・センベルンといった。
痩せぎすな男である。
切り揃えられた短髪に髭一つない頬、高く細い体躯は皺のない英国仕立ての紳士服をまとい、どこをとって見ても整然とした紳士の姿をとっていた。しかし頬骨の浮いた顔立ちと、不機嫌な鷲を思わせる鋭い目つきが、彼の神経質で高慢な本質を表していた。
事実、青筋も露わに激する彼の表情は、この怒りこそ正当だと疑わぬ心根が滲んでいる。
「貴様等にあるものが、どうして私にはない!?」
とはいえ、彼が疑問するのも理解できた。
――経歴でいえば、彼が最も正しく魔術師であるのだから
時計塔の一級講師、家柄もこの中で最も古く、その実力も一等級の実力者である。
今や魔術の探求より組織内の権力闘争に腐心する時計塔だが、それでも実力は伴うものだ。
魔術を司る上での在り方。
己に至るまでの父祖の数。
そして個人としての研鑽。
これらのみをとって見るならば、確かにフィーンドは正しく魔術師だった。
しかし彼の手に、それは無いのである。
「手違い、なのでしょうね」
苦心して選び出した言葉は、奇しくも言葉遊びのような単語であった。
「手違いだと!?」
「そう言わざる何か、です」
フィーンドが望む言葉ではなかっただろう。
だが事はシロウの及ばぬところで果たされた。
ならば事実を呑むことしか、シロウには許されない。
「監督役に与えられた、サーヴァントの召喚を把握する礼装に反応があります」
瞑目し、かぶりを振る。
「何者かが、先んじて召喚したとしか」
「ならば取り戻せ! 有象無象がこの私から掠め取るなど、許されない!」
怒声が空気を叩き、振り抜く手の先が宙を掻く。
「腕を切り落とし、魔術回路から令呪を切除しろ! そしてあるべきところへ納めろ!
――令呪を我が手に!!」
フィーンドは、その右手の甲をシロウに突きつけた。
肉の薄い、骨の浮いた、傷一つ無い無地の手を。
未だ手にしたことのないものが奪われたと、男の叫びがこだまする。
「おぅい」
そこに、それを、嘲るような呼び声。
「おいおいおい、なぁ、おい。
熱くなるなよ、なぁ、おい」
沼に湧く泡のような。
それが爆ぜて溢れた、瘴気のような声だった。
「そん時の報酬はよぉ、別払いだよなぁ?」
悪臭を音に喩えられるならば、これこそそれである。
長椅子に横たわっていた男は、沼の擬人化であった。
だが男は人間である。
肘掛で組んでいた2本の足を解き。
くたびれた汚れた革靴の底が床を踏み。
沼ならぬ男は、身を起してフィーンドへ向く。
「ミスタ・ベルジンスキー」
「ロットウェルで良いぜ神父様。魔術使いにゃ面映い」
フィーンドは痩せぎすな男だったが、この男はやつれた男と言えた。
頭蓋の浮く頭に背骨が突き出す首筋、母と神が血肉を分け与えるのを惜しめば、なるほどこうした風体になるのだろう。釣りあがった口角は頬まで裂け、眉の無い目元は色眼鏡越しでも嘲笑を伺わせる。
そしてなにより、開襟された胸元だ。
人にあるべき、その色がそこにない。
銀色。
微細な鱗で覆われた、鈍い白銀の胸。
――『銀蜥蜴』と渾名されるのも、また然り
それが、男ロットウェル・ベルジンスキーの通り名だ。
「別払い、だと?」
「だってそうだろうよ、雇い主代表様」
並びの悪い歯を覗かせたロットウェルに、フィーンドの眼光が閃く。
「俺達の仕事はよ、聖杯大戦で“黒”の陣営を皆殺しにすることだ。戦力の選別じゃない」
首をかしげ、小刻みに体を痙攣させる男。
それが、ロットウェルの笑い方らしかった。
「外れのあんたに先んじた誰かさんと組むのが、筋じゃねぇの?」
「――貴様!!」
フィーンドの手に魔力が走る。
シロウから見ても、類稀な精度と早さで魔術が組み上げられていく。
だが、
――いけない
ロットウェルは激昂に応えない。
応える者が傍らにいるからだ。
――ロットウェル・ベルジンスキーは、既に召喚している……!
この男は、向けられた敵意と武力に等しい応酬をする男ではない。
嘲笑って、倍する以上の武力でそれを踏みにじる男だ。
ロットウェルの隣で光が湧く。
サーヴァントの実体化だ。
秀でた魔術師フィーンド、だがそれが太刀打ちできない魔力の結実が応報せんと姿を現し、
「どちらでも良いのだけど」
冷水に等しい怜悧が、男達に浴びせられた。
「探すのも、その上で令呪を移したって構わないけれど」
フィーンドに応えんとした光は、しかし光のまま散った。
実体化しようとしたロットウェルのサーヴァントは、徒な露見を好まなかったようだ。
そして男達もまた、冷や水そのものといった声に動きを止めて、第三者を睨みつけた。
「どうあれ、共闘は維持してほしいものね」
第三者、その者は女であった。
座し。
黙し。
書の頁を送る、一人の女だ。
ここにいるただ一人の女は、この場にいる全ての者が見る中、しかし見返さない。
それがジーン・ラムという女の性であったのだ。
――『疾風車輪』ジーン・ラム
駆けようとした足を緩め、シロウもまた彼女を見つめる。
飾り気の無い姿だった。
古めかしい英国風のワンピース、首元から手首、足元までしっかりと包み隠し、豊かな髪はほつれなく結ばれている。毅然とした太い眉、黒縁の無骨な眼鏡、憮然とした熱い唇は、屹然とした不動の様相であり、しばしば妙齢の女性に見られる揺らめきめいたものは欠片も無い。
ともすれば、ここにいる男の誰よりも確固とした姿だった。
艶の無い唇が、小さく吐息をはく。
書に栞を挟み、閉じて膝に下ろす。
僅かに目を伏せ、そうしてようやく、女は男達を見るのだった。
「私のサーヴァントは、この通りだから」
「“期待はあらゆる苦悩のもと”でありますな、我がマスター!!」
張りのある美声だ。
ジーンを主と呼び、追従する男があった。
彼女の傍らに立つ、時代錯誤の舞台衣装を着込む男だ。
「控えなさい、キャスター」
耳を痛めたのか、ジーンは眉をひそめる。
キャスター。
サーヴァントのクラス名だ。
即ち、掘りの深い髭面の伊達男こそが、魔術師の英霊としてジーンに召喚されたサーヴァントということになる。しかし黒い手袋に緑の衣装を着込み、左肩に外套、右胸に羽ペンを留めた姿は、それこそ舞台役者そのもの。
礼拝堂に揃った魔術師達を越える、魔術師の英霊の姿とはかけ離れていた。
そして、事実その通りであったと、シロウはジーンに打ち明けられていた。
「私は確かに、貴方の著作を触媒にした。でもまさか、作者の方が来るなんてね」
「――聖杯大戦!!」
天を崇めるように、大仰な身振りを伴って、
「斯様な常ならざる催しを前にして、我輩が席を譲る理由がありましょうか!!」
「ならば魔術が使える霊基で来て頂戴。――ウィリアム・シェイクスピア」
それは真名。
秘すべき真名。
しかしジーンはそれを明かし。
キャスターも、いやさシェイクスピアもまた、満面の笑顔を崩さない。
「私のサーヴァントはこれだもの。
私は、“黒”の陣営を全て脱落させたところで降りるわ」
それが、彼女が従者を微塵も隠さぬ理由。
キャスターを称するこの英霊は、しかし魔術らしい魔術が使えぬ英霊だったのだ。
共闘するならいざ知らず、単騎の戦いになっては生き残れない英霊であったのだ。
ならば。
最低限の目標で見切りをつけそれ以後を望まない、というのがジーンの主張だ。
“黒”の陣営を滅ぼした先、“赤”の陣営同士の戦いには参加しない、と。
「だからせめて、それぐらいまでは協調性を持って臨んでほしいものね」
情の無い双眸に、フィーンドの憤りもロットウェルの嘲笑も熱を失ったようだ。
令呪のない腕からは魔力が引いてき。
肉の薄い顔は退屈そうに天を仰いだ。
熱を、言葉を失い。
礼拝堂に静けさが戻る。
――今ならば……
話せるか、シロウはそう思った。
黒い襟首に囲われた喉が空気を吸い、
「共闘なら、なぁ?」
「ああ、足並みを揃えてほしいものだな」
続け様の声、それがシロウの機会を潰してしまった。
「お前達がそうしたように」
「俺達もそうしたいんだよ」
「サーヴァントを、召喚したい」
瓜二つの二人組だった。
褐色の肌をした男達である。顔立ちも、身長も、肩幅や体格まであつらえたように揃った男達。衣類に至ってはまさしく同じもので、個性らしいもののない薄灰色の服を着ていて、首から下に差異を見つけるはできなかった。
違いがあるとすれば、髭の有無と髪の色。
そして額に印した3つの点の化粧、その並びだった。
髭のある黒髪の男は、縦一列を描き。
赤黒い髪をした男は、逆三角を描く。
酷似する男達。
彼等がペンテルの姓で繋がる兄弟だと、シロウは知っている。
――兄、デムライト・ペンテル。弟、キャギィク・ペンテル
『結合した双子』の二つ名で知られる、名うての魔術師であった。
魔術とは一子相伝、一つの血族が正式に魔術回路を継承するのは本来1人である。
しかしペンテル兄弟は、そうした魔術師の常に背を向けて生きる、異端の使い手。
魔術回路を割って継ぎ、共鳴させることで通常以上の性能を得る、異端の使い手。
“黒”の陣営との戦いを終えた後も共闘するだろう、特異な姿勢で臨む者達だ。
――それだけに、準備もあるようですが
ロットウェルとジーン、そしてシロウは既に召喚を終えている。
だが兄弟は儀式の段取りに手間取っているようだ。
今回集うための召集でも、快諾とは言い難かった。
だがそれは、時計塔が彼等に託した触媒への期待ゆえなのだろう、とシロウは思う。
彼等がそれぞれ英霊の遺物。
彼らがその通り英霊を呼ぶなら。
、現状最大級の能力を持つ英霊が現れる筈だ。
2人の物言いは、そうした期待から来る焦りがあった。
この場を早く切り上げたい。
期待を果たす儀式を進めたい。
故に、2人は揃って不満を吐いた。
「そもそも、だ」
「ああ、そうだ」
それは、この場に再び火を起こす一言。
「この場に、何故全員揃っていない」
言われてしまった。
言われ、ならば、言葉が続いてしまう。
「――そうだ!!」
兄弟の言葉に続く、第三の声。
それは再燃するフィーンドの激だ。
「そうだとも! そうだ、奴がいない! 何故奴はいない!
召集はかけたんだろう、コトミネ神父!?」
「……彼は召喚を執り行う準備があるので、今回は無理だと」
「あの魔術師崩れめ!」
一度は火を落とした男の激情。
だがそれを向けてよいたった一人を得て。
志向性を得て燃え上がるそれは一層の熱に思われた。
「栄えある時計塔を出奔した愚か者!
重ねた代ならば有数だろうに……魔術の真理に背を向けた魔術使い!」
遂に侮蔑として口をついた単語。
ロットウェルも。
ジーンも。
ペンテル兄弟のどちらも。
冷え切った目を向け、しかし激する男は気づかない。
「共闘! そうとも、我々の力を束ねるための、この場に奴はいない!
何故こない! 或いは奴こそが、私の令呪を簒奪した首謀者なのではないか!?」
来ない者。
その名は。
「――獅子劫界離め!!」
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02:彼と彼女について f
※※※
獅子劫界離。
彼の名前が叫ばれ、この礼拝堂に反響する。
怒りと不信。
焦燥と侮蔑。
彼よ悪しくあれ。
十字を祭壇に頂く一室に、噴煙する怒気が立ち込める。
「何故だ! 何故あの魔術使いは現れない!」
怨嗟を含有する怒号である、それを噴出させるものは、人体のほかに在り得ない。
しかし噴煙せしめるそれは、たとえ人の身が筐体でも、人の性根を積んでいない。
それが魔術師なるフィーンド・ヴォル・センベルンなれば。
数代重ねた由書ある血筋の末裔、魔術結社・時計塔の一級講師なれば尚のこと。
だが男は怒れる男であった。
冷酷にして冷徹を旨とする魔術師の精神は赤熱し、絶叫の熱源と化している。
「侮辱だぞ! 我らの集いを軽んじる、奴の侮辱に他ならない!」
叫び、喚き、そうする自らを省みる理性もなく。
空を掴み、かぶりを振り、御しえぬ情動のままに男の体はのた打ち回る。
この一室にいる誰も彼もを沈黙させてしまう、ただ一点のみの発熱地点。
男、ロットウェルがいた。
男達、ペンテル兄弟がいた。
女、ジーン・ラムがここにはいた。
しかし誰もが断熱の判断を下し、彼を遠巻きにするだけだ。
ただ一人。
ただ一人だ、神父なるシロウ・コトミネだけが、放熱を掻き分け手を伸ばす。
「――ミスタ・獅子劫。彼は工房と召喚の準備に時間を使いたいと」
「自らの利しか考えないというのか、魔術使いめ!!
卑小にして卑賤、我らが協調に費やす時間を、奴は私意にのみ使うのか!」
突きつけられる男の目、鷲にも似た眼光は、しかしシロウを捉えない。
彼自身も知らぬ、どこかに立つ獅子劫界離という男の姿、その幻影を見つめている。
――止めなければならない
シロウの胸に思いがある。
男フィーンドの激を諌めねば、先にあるのは破綻だけである、と。
「ミスタ・センベルン、貴方は冷静ではない。
貴方の言う、盗人の行いに惑わされてはいけない」
考えよ。
講じよ。
怨嗟と憤怒に融け落ちる彼の判断力を取り戻し、なけなしの和を保つために。
男の双眸が、まだ形だけでもこちらへ向くうちに、こちらの声が届くと思えるうちに。
「忘れてはいけない。令呪は“黒”の陣営もまた持つものだ」
神父は告げる。
令呪。約す従者への命令権、この聖杯大戦への参加権。
一様に我らの右手に宿るその印は、敵する彼らもまた同じ。
「戦う中で、“黒”の者どもより得ればよいのです。
此度の聖杯大戦は“黒”と“赤”に分かれて七対七、都合14人のマスターが現れる。
しかし令呪そのものに陣営の区別があるわけではありません」
“黒”の陣営に与えられた令呪であっても、“赤”の陣営が得ることは出来るのだ。
「“黒”のマスターを捕らえましょう。そして、貴方へ令呪を移しましょう」
「それでは遅い!!」
だが策は打ち捨てられた。
男の目、未だここを見据えず。
「その頃には奴等はサーヴァントを召喚してしまう!
召喚の枠が埋まってしまっては私自身が召喚できない!
――この私に、下等なユグドミレニアが召喚したサーヴァントを従えろというのか!」
一辺の真理ではあった。
“黒”の陣営を成すユグドミレニアは、栄達を絶望視された諸家の集まりといっても良い。
秀でた魔術師であるフィーンドが召喚するのとでは、まして時計塔より与えられた極上の触媒と比べたのでは、そこに大差があるだろうというのは間違いなかった。
彼は妥協を拒んだ。
自らの、自らによる、自らが最大限発揮できる現実だけを、彼は望んだのだった。
「……そうとも、あぁそうだとも」
不意に、男の声が囁きほどに細くなった。
だがシロウには分かったし、他の者達もそうだと分かっただろう。。
これが激する男が更に激する、嵐の前の静けさでなくてなんだというのか。
「彼奴等を越える魔術の粋をみせずして、何故私が招聘されたのか!!」
宣言が轟く。
爛々と光る双眸はこの上ない解を得たと輝き、高みへ伸びる天を見た。
そこに栄えある自身の姿を夢見たか、フィーンドは頬が裂けんばかりの笑みを得る。
――止めなければならない
遂に憤怒の熱は臨界点を迎えようとしている。
彼の口、火口ともいうべきそこから溶岩流が溢れ出す前に。
だが彼の激情は俊敏であったのだ。怒気は唸りを上げて、言葉を削りだしてしまった。
「――背信者に罰を! 獅子劫界離は然るべき行いを為した!!」
高らかに、迷いなく、この一室に集う“赤”の陣営の全てに過たず届くように。
「我こそは彼奴めに勝る適格者! 盗人も造反者も、私自ら鉄槌を下してくれる!」
造反者なるはユグドミレニア。
盗人とはまだ見ぬランサーの契約者。
そして彼奴とは即ち、獅子劫界離に他ならない。
フィーンドが何を言おうとしているのか、それを悟る。
「ミスタ、それ以上はいけない……」
「獅子劫界離の令呪を我が手に移せ! それこそが最適解なのだから!」
破局。
「奴めの令呪を持って召喚を為し、我こそが“黒”の陣営殲滅の先駆けとならん!!」
※※※
――ああ、言ってしまった
楔なりし一言は放たれた。
人と人の間を穿つ言葉だ。
神父の目に宿る憐憫と諦観が、男フィーンドの宣言による景色の変容を見逃さない。
この一室に集う、“赤”の陣営の皆々の間に走る皹が、確かに見えていたからだ。
皹はまたたく間に谷となり、決裂に至る。
シロウは、ただそれを見ていることしかできない。
「ミスタ・センベルン。貴方は今、協和から走り出そうとしている」
機は逸した、それでも言わずに入られなかった。
懸命に精神力を奮い立たせ、悲嘆の相を男へ向ける。
「隣人から奪うことでは協調を得られない。奪われた貴方自身のものでなければ意味が無い」
しかし、もはや言葉は無為である。
発言は行われてしまった。
宣言は為されてしまった。
怒号ここに至れり。
なけなしの和に楔は打たれたのだ。
“赤”の陣営。
その結託は。
瓦解する。
「七騎揃っての“赤”の陣営。これ以上英傑を欠くことは望めない」
「ならば盗人から取り戻した令呪を奴にくれてやるわ! それで問題あるまい!!」
違う、そうではない。
悲嘆はより色を深めてシロウを満たし、大きな手に臓腑を握られる思いがする。
「ランサーが召喚されたと言ったな!」
言葉を殺されるシロウとは反対に、フィーンドの怒号はとどまるところを知らない。
今また、新たに怨嗟を形にしようとしている。
「では我々に、あと何の英霊が残されている?
あと何騎のサーヴァントが召喚できるというのだ!?」
フィーンドはシロウへと詰め寄り、逞しい胸板を指差した。
「――答えよ神父!」
烈火のごとき問いかけは、突きつけた男の手がシロウの胸倉を掴む勢いだ。
赤々と血の気を増したフィーンドの相貌を眼前にして、遂にシロウは思いを得た。
――これ以上は――
これ以上は。
遂に抱いてしまった一言が、シロウの唇に答えを許す。
「残るのは、ライダーとバーサーカー。そして、――セイバー」
「セイバー!!」
叫びを至近から打ち付けられ、目を細めざるを得なかった。
しかし瞼の隙間から垣間見える限りにおいても、男が一層の火を得たのは明らかだ。
「背信者が最優のサーヴァントを召喚しかねないだと!? 許せるものか!!
教えろ神父、奴の居場所を! 獅子劫界離の令呪を得て、この私がセイバーを召喚する!」
激情は麻薬。
或いは陶酔。
若しくは毒。
ああフィーンドよ、優れたる筈のフィーンド・ヴォル・センベルン。
鷹にも似た眼差しが、どうしてそれを見ないのか。
立ち上る火が、吹き上げる煙が貴方を曇らせるのか。
自らが開いてしまった亀裂は深く大きく、誰の目にも見えるところまできてしまったのに。
「……ああ」
「あぁ、そうだな」
声が上がった。
首肯があった。
2人の男が沈黙を破った。
「誰だって、秀でた力は自分のものにしたいよな」
ペンテル兄弟。
兄、デムライトだったのか。
弟、キャビィクだったのか。
どちらがその言葉を呟いたのか、悲嘆するシロウには分かりかねることであった。
――ああ、決裂が始まる――
彼等は口火を切ったのだ。
それが分からないのか、フィーンド・ヴォル・センベルン。
破綻を前にして、どうして貴方は笑んで見せるのか。
「分かってくれたか!」
光り輝く歓待の表情、自らの理想によってのみ発光する感情の具現。
頷く兄弟もまた笑顔、しかしそれは、愚者と断じた者に向けられる類の笑み。
「じゃあ俺たちも、――早いとこ召喚しないとな」
※※※
絶句。
喜劇的なほどに。
「……何を言っている?」
「当然だろう」
「当たり前さ」
男フィーンドの顔から血潮が失われていく。
瞼を失ったのかというほどに双眸を見開き、座した兄弟を凝視する。
対する兄弟は揃って肩をすくめ、喜劇における自らの役どころを果たす。
「あんたはセイバーを召喚したい。誰だってそうさ、……俺たちだってそうさ」
「獅子劫界離がいつ召喚するかも分からない、俺たちだって急ぎたいさ」
「俺達に預けられた触媒だって、十分セイバーは狙えるんだからなぁ」
そして兄弟は、席を立つ。
「第一……あんたとつるんでちゃ、いつ寝首をかかれるか分かったもんじゃない」
「――――」
フィーンドの立つ姿、まさに彫像のそれ。
手足は先端にいたるまで微動だにせず、血の気の失せた肌は石のよう。
内燃する感情が消失し、あまりの温度差に精神が麻痺しているのかもしれなかった。
そこへ哄笑。
「ひ、ひ、ひ、ひ!」
相変わらずの、どうやらそれが彼にとってのそれであるらしい、というような笑い方。
小刻みに体を痙攣させる様は病的で、発作に苦しんでいるというならそれらしくもある。
「そりゃそうだ! 令呪があるのは皆同じ、早い者勝ちならさっさと動きたいよなぁ!」
声の主ロットウェル。
色眼鏡越しに涙をこぼし、身を捩じらせて笑ってみせる。
「当然っ、当然だっ! 令呪があるんだ、早い者勝ちなら動きたいよなぁ!
さすが時計塔の一級講師殿、わかりきったことはさっさとやれ、って事だぁな!」
一体どれほど声を上げただろうか。
彫像なる男をひとしきり笑い、ロットウェルは立ち上がり、
「――あんたの撒いた種だぜ、学者先生」
そこにはもう、笑みの色はなかった。
ここにはもう、残酷な結論があった。
暗黙の了解を理解せず、有言を持って協調を裂いた男への軽蔑だけがある。
「どこぞの馬の骨ならいざ知らず、元々の面子から令呪を移すなんて話をされちゃあな」
「全くだ、明日は我が身かも知れねぇ」
「背中から刺されるのは御免だぜ」
ロットウェルがそうしたように、兄弟もまたそうした。
席を立ち、長椅子の合間を抜けて、中央に開けられた一本の道へと進んでいく。
祭壇の真反対、玄関たる扉へと向かっていく。
「……どちらへ行かれるのですか?」
分かりきったことを聞く愚を、それでもシロウは犯すしかなかった。
背を向けた男達は振り向かず、立ち止まることすらもなく、背中越しにし、
「情報を共有できりゃ十分だろう? 好きにやらせてもらうさ」
「獅子劫がそうしたようにな」
「奴も、こうなると思ったからこなかったんじゃないか?」
それらが、最後となった。
後に残すものもなく、三人の姿は、外へと続く扉の向こうへと去ってしまったのだから。
後に残されたものは、二人と一騎、そして決裂を止められなかったシロウだけであった。
――ミスタ・センベルン。貴方が叫んだことは、こういうことだ
危急にあって隣人の権利を狙う者を、易々と隣にする者達ではない。
だから止めたかった、しかし決裂は果たされてしまった。
こうして“赤”の陣営は分裂した。
1人、誰とも知れぬランサーの主。
1人、現れもしない獅子劫界離。
3人、礼拝堂を去った男達。
2人、教会に残る男女。
礼拝堂を去ったロットウェルたちも、その後さらに別れてることだろう。
そんな決裂を招いてしまった、“赤”の陣営に入ることすら出来なかった男が、1人。
「…………」
血が滴るほどに握り締めた、フィーンドの拳。
色失せるほどの激情の表れ、男の憤慨する拳。
痩せぎすの背は、思うままにならぬ全てへの怒りで引きつり、震えていた。
シロウにはかける言葉も見当たらず、時間だけが延々と消費される。
「それで」
そんな浪費を望まないのが、ジーン・ラムという女だった。
「私はどうしてもらえるのかしら、監督役」
決裂からこちら、去りもせず我存ぜぬと書籍を読みふける彼女が、ようやく顔を上げた。
男達の諍いなどなかったというかのように、冷徹のままに、唇が音を紡ぐ。
――分かっているのですね。自分は埒外だと
令呪を求める男を隣にして、しかし彼女はそれを無視して話し出す。
既にサーヴァントを召喚した、しかも弱小極める霊基と契約してしまったジーン・ラム。
そんな彼女の令呪は、フィーンドの求める令呪ではないと、彼女は分かっているのだ。
事実フィーンドは、肩を震わせるままに、彼女へ振り向くことすらない。
ここにも隔絶はあった。
「……兎も角、身を隠すべきでしょう」
額を押さえてしまうシロウである。
「監督役でもある私には、聖杯を巡る戦いで窮する者を守る義務がある」
靴を鳴らし、祭壇を横切って向かう先にあるのは扉だ。
人一人を通すための、小さな扉。シロウの手がそれを開き、奥へ続く道を示した。
「どうぞ奥へ。……ミスタ・センベルン、貴方も。
参戦を望むのであれば、まずは戦火の及ばぬところに身を置くべきだ」
「分かっている……!」
導きに男は怒声を返し、しかし火を失った今では、本人すらも空しく思うところだろう。
ことさらに足音を立てて扉をくぐる男。女もまた書を閉じ席を立ち、続いて戸を潜る。
そして、
「貴方も、どうぞ」
呼びかけを受けて最後に扉を潜るのは、キャスターなるウィリアム・シェイクスピア。
神父を横切り扉の先へ行く、その時、
「……ふ」
片目を瞑って微笑んだ。さながら、客席から手を振る観客へ俳優が微笑むように。
「…………」
唐突。
怒りと嘲笑に晒され続けたシロウは目を丸くし、背高な伊達男が行くのを、見送った。
――気を遣われてしまった、かな
それとも、
――気づかれてしまっただろうか
しかし彼の者は扉の先へ。残されたのが自分だけならば、もはや開けておく意味は無い。
かくしてシロウと、そして2人と1騎を呑む道は、閉ざされたのであった。
※※※
「あばよ」
「召喚したらお前にも話は流してやるよ」
「ああ、せいぜい強力な英霊を召喚してくれ」
昼の陽を浴びる山上教会を背に、敷地と街路の交差点で声が交わされる。
道は丁字路、煉瓦で舗装されてた古びた路面へ、寄り添う街路樹が影を落としていた。
別れる男達がここにいる。
ロットウェル。
ペンテル兄弟。
互いに背を向け、見返すこともなく、ただ一言の応酬だけで正反対へ歩き出す。
魔力を暴力とする世界の住人は、酷薄な関係でしか生きられない。
いつ誰が死を持ってくるとも知れない身。
しかし今この相手は死を与えないだろう。
幾ばくかの理由を頼りにした存命の予想。
たったそれだけのことが、男達に背を見せることを許す。
「…………」
ペンテル兄弟と別れて、どれほど歩いただろうか。
山のいただきに建てられた教会からの出発だ、いくらも歩けばすぐに下り坂となる。
景観の維持を課せられた観光地、傾斜に建ち並ぶ街並みを男は下っていく。
もうすぐ純粋な観光地区を抜けて麓の商業地区にたどり着く。
だから、話しかけるならここだ。
「――よう、ロットウェル」
やつれた足が歩みを止めた。
「おう、久しぶりだな」
背をたわませ、骨張った相貌は声のした方、脇から伸びる小路に向かう。
家と家の狭間の、薄暗い隙間から響いたのは頑健極まる重低の声。そして影の中から現れたのは、小路を埋めるほどの巨漢だった。
獣のたてがみを思わせる硬い髪、猛獣の爪痕を残す凶悪な顔、それらを乗せるに相応しい筋骨隆々の体躯は、ロットウェルが見上げるほどの身長を誇っている。黒い皮製の上着と履物、底の厚いブーツは太い四肢で膨れ上がり、鍛錬のほどを隠さない。
何より目立つのは、凶悪な人相を引き立てる鋭角な色眼鏡だ。
黒色の隔たりは光を反射し、見る者に男が眼差しに浮かばせるものを悟らせない。
その時、
「おっと」
両者の間に光が湧いた。
それは英霊が形を現すことの表れ、魔力が光の粒子として噴き上がる、一瞬の現象。
だが湧き上がる量、噴き出す基点が多い。それは出現するもの数を示している。
男と男、ロットウェルと巨漢の間に二つの姿が出現した。
片や弓引く俊英。
片や剣持つ鋼鉄。
現れた二騎の形は何れも小柄。しかし容貌は相反するもの。
乙女と、騎士だったのだ。
「何者か」
誰何するのは弓矢を構えた乙女、騎士を見据えたまま問いかけた。
新緑を思わせる、蒼いほどの翠と黒い衣装をまとった乙女だ。しなやかな手足はさながら獣のごとき実直さをうかがわせ、事実、野性味のある面立ちは、獣の耳を頭から生やしている。衣装の裾からのぞく細長い尾は、獅子の類であろうと思われた。
黒地に金の装飾が彫られた弓を、細腕が練達の構えで構える様は達人そのもの。
「まずはテメェが名乗りな」
対する騎士は、荒くれそのものといった口振りで答えた。
性別も定かではない、兜越しの声だ。左右へうねる角を伸ばし、睨みつける眼差しを象る穴からは、瞳に浮かぶ感情すら伺えない。全身もまた鈍色の鉄板で覆っている。乱れの無い流麗な面をとりつつも、鋭角な角を幾つも縁取りに持つ、竜を人型にしたような幾重の鉄甲。
右手一本に携えた諸刃の長剣は、けれども緩むことなく乙女に突きつけられる。
俊敏と頑強。
美と剛。
相反するそれを人型にしたものが、並び立つ。
しかし一触即発をいつまでも許すわけにいかなかった。
「あーよせよせ、アーチャー」
アーチャー、弓の乙女に声をかけたのはロットウェル。
「……何故だマスター」
「こいつが、獅子劫界離だからだよ」
答えに、アーチャーは騎士の向こうに立つ巨漢を見た。
向こうは目元の伺えぬ獰猛な笑みを見せ、硬い掌を上げている。
「件の、姿を見せないマスターとやらか」
「ちょっと買出しがあったもんでね。遅くなっちまった」
「そのおかげか?どうやら掘り出し物は見つけたようじゃないか」
いまだ構えを解かないアーチャーの後ろから、卑屈な笑みを貼り付けた男の顔。
「セイバーを引き当てたか、界離」
「まぁな」
「何だと?」
マスターの言葉に、乙女はついにロットウェルを見返した。
しかし背後にしたその男のにやけ面に眉を顰め、再び騎士と巨漢を見て、
「獅子劫とやら。貴様、何時セイバーを召喚した?」
「さて、何のことかな?」
「とぼけるな。鉄塊に密偵の真似事までさせて、覗いていたのは知っている」
「誰が鉄塊だケダモノ女!」
その問答に、思わず獅子劫は天を仰いでしまった。
次に来るのが、眼下からくる騎士の憤慨だと予想できたからだ。
「だから俺は嫌だったんだ! そもそも間諜なぞ、騎士のやることじゃねぇ!」
「おいおい、対価にお望みの物はちゃんと買ってやっただろうが」
「何だ、買出しってのは冗談じゃなかったのか」
「ふざけているのか、貴様等」
もはや弓との対峙を崩した騎士とマスター達の振る舞いに、乙女は尾の毛を逆立てる。
「そのセイバーが召喚されたのが何時か、それによっては……」
「クロだよ」
乙女の叱責を、主は切って捨てた。
「獅子劫は死霊魔術を使う。日が昇ってから儀式をするような性質じゃねぇ。
召喚は昨晩かそれよりも前、つまり“赤”のランサーが召喚される前、そうだろう?」
「ああ」
ロットウェルの確認は言葉も短く肯定された。
「セイバー越しに聞かせてもらった。
間違いない。――あのシロウとかいう神父、セイバーの召喚を隠したな」
「しかも奴のサーヴァントはアサシンの筈だ。それがセイバーの潜入に気づかない訳がない」
「何だと? 暗殺者風情が、この俺を見逃したってのか!?」
「その気持ちはとっておけ。“黒”の陣営を倒して、あの神父と向かい合う時までな」
怒りに震える肩の鎧に手を置き、獅子劫は視線を上げた。
道の先。
丘陵の上。
山頂の教会。
そこに居座る、神父の姿を見据えるように。
「お前もそうするか、界離」
「まぁな。――奴は信用できない」
色眼鏡の向こうで、巨漢の眼差しが鋭く絞られる。
「神父様の所に行くのは止めだ。腹の内が見えないまま懐に入っていい奴じゃなさそうだ。
召喚の件は、適当に報告させてもらうとしよう」
※※※
「当てが外れたな、マスター」
艶やかな呼び声は耳朶を蕩かす毒酒の囁き。
微笑みにも、嘲笑にも聞こえる、声の主を抱きしめ耳元にしたい旋律だ。
だが呼びかけられた男は自嘲し、紡がれる美声に酔うところが無い。
「ええ、そうですね。その通りだ――アサシン」
男はシロウ・コトミネであった。
木椅子に深く座り、細く静かな嘆息をこぼす。
暗がりの小さな一室に、神父は胸中の澱をこぼれさせた。
「全ての誤算は、“赤”のランサーが何者かに召喚された事。
よもや群対群の聖杯大戦において、用意された集団から取りこぼされることがあろうとは」
しかし、と。
閉じていた瞳を開き、嘆きに沈む表情を引き締め、神父は確かな声で唱える。
「これもまた試練、私の望みと意思が試されているということ。
――導き出してみせますよ、ここからでも」
「期待しているぞ」
二本の腕が、闇より這い出した。
雪よりも白い手。
闇に浮かぶ黒い袖。
長く細く繊細なそれら。
シロウの背後、左右から伸びる両腕が、たおやかな動きで神父の首に抱きしめる。
女だ。
切れ長の目で妖艶に微笑んだ、黒装束の女が現れる。
「契約の折にのたまった大言、その可否は今生の我によって多いに見物だ」
美しく、蟲惑的で、だがそれ以上に冷酷な女であった。
愛でられるものではない。愛でる側、そして飽きればその場で打ち捨てる側のものだ。
女帝、そう呼ばれる類の女がそこにはいた。
「しかし良かったのか?」
冷たい指だ。
五指は踊るように神父の頬を撫で、僅かばかりに爪がたてられる。
「サーヴァントが一匹、間諜の真似事で来ていたぞ」
「さすが暗殺者の英霊。霊体化し身を潜めたサーヴァントを見抜くとは」
「およそ忍び事など経験したことがないのだろうよ。無遠慮で、滑稽な忍び足であったわ」
その姿を思い返しているのか、美麗なかんばせに嘲りの色が浮く。
「頭の先まで鎧をまとった小柄な英霊であった。あれが“赤”のセイバーか」
「はい。ランサーが召喚される少し前、昨晩のうちに反応がありました」
女帝は、アサシンは更に笑みを深めた。
「しかし滑稽よな。いち早くセイバーを、と喚く男共の愚かなことよ。
件のランサーよりも早く、お望みのセイバーは既に召喚されているというのにな」
「仕方ありません。彼の召喚から我々が集うまでの間に、ランサーが召喚されたのですから。
あの場で真実を話せば、彼はミスタ・獅子劫のところへ攻め込みかねない状態でした」
「己が欲するサーヴァントを我が手にするために。
男が考えることは、いつも欲する者を手中にせんとする略奪よな」
一瞬、かつてを思い返すように女は宙を見た。
しかしすぐに神父へと戻され、くすぐるように微笑み、
「しかし器の小さいことよ。たった一騎しか求めないとは。
こうして、“赤”の陣営のサーヴァントを全て掌握しようとする男もいるのにな」
シロウの頬をアサシンの頬が撫でる。愛でるように擦り合わせて、そして眼前のものどもへ目を向けた。
糸の切れた人形のように座り込む、二人の魔術師へと。
「…………」
「…………」
フィーンドである。
ジーン・ラムである。
薄い霞の中で茫洋とする二人は、神父に誘われ踏み込んだ者達の末路であった。
「だがこの男まで毒に浸す理由があったのか? 令呪は無いのであろう?」
「時計塔や聖堂教会には、まだそのことは伝わっていません。彼によってそれが伝わっても困りますし……何より、放置しておけば激するままに単独で戦場へ身を投じかねない。
予定通り、ここで時が来るまで眠っていていただきましょう」
「ああ。予定通り――お前が聖杯を手にする、その時までな」
アサシンの微笑み、そこに本性を垣間見るようであった。
姦計と冷酷を旨とする、獰猛なほどに毒蛇である彼女の本質を。
毒こそ是とする悪辣な表情だ。それをすぐ横にして、しかし神父で臆せず微動だにしない。
蛇をその枝に休ませる樹のように、泰然として揺るがない。
「素晴らしい……!」
賞賛せずに入られなかった。
「“終わりよければ全て良し、終わりこそ素晴らしい王冠なのです”!
神父、貴方は最高の結果を求め、およそこの世に蔓延る悪徳に穢れる覚悟がある!
“罪から出た所業はただ罪によってのみ強くなる”、ならば成程、貴方は強くなるだろう!
そうして得た力が、至高の結末をもたらすのだ!!」
キャスターは、混濁するマスターを気に留めようともしなかった。
彼等の向こう、アサシンとともにある彼の神父を讃える言葉を、止める事ができなかった。
しかし神父に寄り添う女帝は胡乱げな目をして、
「それで? キャスター、……シェイクスピアとやら。貴様は本当にこれでよいのだな?」
感激に打ち震える伊達男へ、投げやりな問いかけをとばす。
「――勿論ですとも!!」
問いに、しかしシェイクスピアは即断する。
「我輩、確かに戦い勝ち残る事は望みませんが、何者かが勝ち残るまでの全てを見たい!
それを、“黒”の陣営との決着、前半戦までで見切りをつけるマスターに、何ほどの未練がありましょうか!」
「故に、勝利者たる我がマスターにおもねると?」
「少なくともコトミネ殿の傍にいれば、もっと先まで見ることができると予感しております」
と、ここでシェイクスピアは身を乗り出した。
シロウの双眸から心根を探るように、神父を覗き込み、
「しかし仮にも我が現マスターを差し出したのです。聞かせていただけるのでしょう?
――貴方が聖杯にかける大望を」
「ええ、勿論」
シェイクスピアのしたり顔に、シロウはやはり微笑みを返した。
本当に、毒の無い微笑みを。
「私の願いは、――人類の救済ですよ」
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