君の紐は。 (S?kouji)
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その1 解かれた糸
鮮烈な記憶なのに、よく覚えていないことがある。
1200年に一度の彗星が、日本の夜空を駆け抜けていったあの日。マンションの屋上からひとり見上げた、夢の景色のように美しい眺めは、今でも覚えている。
———そして、この記憶は、もはや輪郭を失ってぼやけた残像のような概念とムスビついて、
どこかの山の頂上で、誰かと一緒に、迫り来る彗星を見ている。
目覚めた後の夢のような、そんな記憶を。
***
端末の画面に、名前が表示されている。
誰に電話をかけているのか。一目で分かるこのシステムに、瀧は時々、ひどく心を揺さぶられることがある。
長らく探し続けていた相手と、今では自由に連絡が取れるということ。そこに少なからぬ期待を寄せているせいだろう。
ただ、その期待には、不安も入り混じっている。
ありえない。この着信を受け取る人がいないなど、考えるまでもない。
そう思いながら、せき立てられる心は持て余す。何もないのに、目線を右の手首に向けてみる。
不意に呼び出し音が途切れ、途端聞こえる相手の声に、瀧は不思議なくらいの安堵を覚える。
『あ、もしもし、瀧君? 私もいま着いたんよ』
***
カフェの席に、机を挟んで男女が座っている。
どことなくあどけなさがのこる男の人は立花 瀧で、赤い組紐を髪に結っている女の人は宮水 三葉。
初対面の女性のため、通勤放り出してぶらり途中下車の挙句、都内を駆け回って見つけ出した時の口説き文句は、『君とどこかであったような気がして』。
周りの語り種になるほどドラマチックな、あまりの突拍子のなさに今なお、友人からイジられるような展開を経て、瀧と目の前の女性ー三葉はこうして付き合うに至っている。
……付き合うというか、一緒にいる時間をお互いが作るようにしている。
そんな関係というのが、一番しっくりくる。
二人とも都内住みということもあり、週に一度はこうして都内のカフェで会っていた。
まったく、と呟いて三葉が言う。
「瀧君てばどんだけ心配性なの? いちいち電話せんでも、出口の場所くらいわかってるって」
「そう、ですかぁ」
瀧の言葉を受けて、それまでやれやれという顔だった三葉が、両手を口元の前で組み、すっと目を細めて瀧を見据える。
面接なんかでこうやって威圧してくる人事を見たことはあるけれど、残念ながら三葉だとかけらも威圧感がない。
ただ、彼女なりに、何か看過できないものでもあったようだ。
「…なんかいま瀧君、バカにしてない? 私のこと」
「それはない、ですけど」
「敬語だし」
「敬語使ってるじゃないすか」
はは、と笑って、瀧は目をそらしてしまう。この辺り、奥寺先輩の頃から進歩してない。
女性の扱いというか、応対にはどうも慣れない。
瀧はかつて高校生だったころ、バイト先の先輩をデートに誘って、散々な結果に終わったことがある。
この経験がなおさら、年上の女性に対する瀧の所感をややこしくしている。
そもそも同い歳の女とだってまともに付き合ったことがないのに……。うん、ないよな。
自問しながら芽生えた、微妙な違和感に期待してみても、司に『超奥手』と太鼓判を押される我が身を思い直す。
ヤツを相手に交際を隠し通せる気がしない。それに瀧にしたって、こっそり誰かと付き合うなんて面倒なことはしない。
いつだったか三葉を友人二人ー高木と司ーに紹介したとき、高木はうんうんとうなずいて笑っていたし、司はメガネが割れんばかりの衝撃を受けていた。
経緯を話すと二人とも笑い出して、今でもことあるごとに
瀧が恋人を紹介するというのは、それぐらい印象的な事件だったのだ。
ともかくも、三葉は敬語を使うなと言うが、年上扱いされる原因は三葉にもあるぞ。
「それに、よく俺のこと年下扱いするじゃん」
「そりゃ瀧君年下やからね」
そう言った三葉は自分で自分の言ったことが面白かったのか、小さく吹き出して笑い出す。よくわからない瀧も、なんとなく笑いたくなって笑う。
傍目にはよくわからないやり取りをしている二人に見えるだろうけど、こんな時間を永く待ちこがれていたような気がする。
あとすこしだけでも、一緒にいたかった。
もうすこしだけでも、一緒にいたい。
最初に出会った時、そう思ったのも不思議だったが、今は妙に納得できる。
今はもう、一緒にいるのが当たり前すぎて、そんなことを考えもしなくなったのはよいことなのだろうか?
時は流れる。人は変わる。三葉と他愛ない会話を交わしながら、瀧はこの
そしてその度浮上してくる、なんともいえない違和感についても、そろそろ正体がわかって来た。
***
発端は三葉に『会いたがってるから!』と彼女の妹の四葉を紹介された時のこと。
祝日で混み合うカフェに、三葉、四葉、瀧が一つのテーブルを囲んで、向きあう形で座っていた。
妹はアイスティーをすすりながら、ちらちらと瀧に目を向けてくる。当初は気の強そうな娘だな、というくらいの印象を持った瀧だったが。
齢十六にして、この女子高生はもうなんというか。
そう、ぶっとんでいた。
「時に瀧殿、お姉ちゃんとはいつ入籍なさるおつもりか」
「ぶっ」
三葉が仕事先から着信を受けて席を外した瞬間、炸裂した唐突な四葉節に、瀧は飲んでいたコーヒーをむせ返した。
周囲の人たちが瀧を一瞥する。初っ端の発言がそれかよ。相変わらずすごいこと言うな、こいつ。
「まだそこまで進んでねえよ」
「なるほど」
斜め向かいに座る四葉が居住まいを正し、神妙な面持ちで瀧と向き合う。元より気の強そうな目元と相まって、こういう表情をされると何かを糾弾されているような気分になる。
口を拭っていた瀧も、すこし姿勢を正した。
「ならば」と四葉が言った。
「若いうちは好きとか一緒にいたいとかだけでいいんに。せやけど、働いて食っていくようになったらな、どうやって生活していくか考えなならんで」
一拍置いて、四葉が続ける。
「うちのお姉ちゃんと付き合うんやったら、そこまできっちりしない」
「…出どころは?」
おばあちゃん、と四葉が答えるのを聞いて、瀧はやっぱりと思う。まあ、お前、まだ学生だもんな。
最初は当惑させられたものの、四葉は結構面白かった。
時々芝居がかった口調で突拍子もないことを言うけれど、結構割り切った考え方をする。なにより姉思いだった。
私学で客員教授をやっている父に代わり、とりあえず彼女が、姉の目付役をやっているらしい。(三葉は否定していたが。)
カフェを出て、二人を家まで送って自分のマンションに戻る道すがら。
人波に流されながら、電車に揺られながら、瀧は四葉に言われたことを考えていた。
やっと手が届いた、大切な人と暮らしていく。
どんな感じだろうか、三葉さんは。
三葉は———
人の言う事なんか聞かない。勝手に話進める。言いたい放題言う。そのくせ陰口たたかれても黙ってるし、人の期待に応えようと必死だし、知らないうちに傷つく事もある。だから、
———だから?
そのとき初めて、瀧は気づかされる。
ただひたすらに、説明のつかない感情だけが先行していることに。
三葉と出会ったのはひと月前。
そこから三、四回付き合いを重ねて描かれた三葉の姿と、瀧が三葉に対して抱く印象は、ずいぶんとかけ離れている。
なんだ、これは。
電車のドアの窓越しに、流れていく夜の車窓の中に、自分の顔が映っている。
流れてゆく時の中で、一人まどろみながら取り残されたように。
口を真一文字に結んだその顔は、どこか寂しげだった。
***
カフェを出て、買い物に付き合い、家まで送る。お決まりのパターンになりつつあるなと瀧は思う。
帰り道、半月を見上げて歩きながら、今日までの思考を整理する。
三葉は瀧を年下扱いしながら自分を年上扱いするなと言うし、瀧はところどころ敬語が混じる。
やっとわかった。
俺は、俺たちは、こんな感じじゃない。
うまく言えないけれど、互いに気を遣ってるとか、共にいて不満ということではなく。
そうではなく、持て余す感情が、せっつくように訴えかけてくる。
俺は、何か、忘れている。
思い出せないどころか、わからないというレベルの夢の残滓のようなもの。
でも、それは、かつて現実にあったことだという確信だけはあって。
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その2 揺蕩う流れ
瀧は、迷わない。
とにかく手当り次第に何でもやってみることで道が開けることを、確信しているようなふしがある。
そして、よくわからないものは棚上げする。そういうのはいずれ、必要な情報が集まって来たときに考える。
今はもっと他に、考えることや、やるべきことがあるはずだ。
瀧は黙々と、机上のデスクトップを見つめながら作業を続けている。
今日は午後から、先輩たちと一緒に現場に行って監理の様子を見学する予定だ。
***
建築の現場は、何度見ても壮観だった。
雲間から差す初夏の日差しのもと、様々に鳴り響く高い音、低い音。
組み上げられ、形を変え、建物へと変わっていく資材。
図面の上にしかない、言ってみればこの世界になかったもの。それが多くの人の手を通して現実に生まれ、風景として誰かの記憶に組み込まれていくようになること。
それもまた、—。
風景といえば、高校生のときなんか、いろいろな風景をよく紙に描き起こしていた。
東京の町並みや、彗星で壊滅した町の在りし日の風景。
そういうスケッチはその場、その時、現実に存在したものを描きとどめたものだった。
時間はずいぶん経った割に、あの頃から変わってないような気がしてたけど。
今の仕事は、同じようなことをやっているようで、案外、正反対だ。
***
「テシガワラ……?」
いぶかしげに紙に書かれた文字を読み上げる瀧を見て、若き現場監督はほっ、と感心した風な声を上げた。
「お前、よう読めたなぁ! 初めてのやつは、だいたい読めんで」
先輩と現場監督との話し合いも一段落し、先輩が一人で現場を見回っている間を小休止として、瀧の紹介があった。
むこうは名刺を持ち合わせていなかったのか、手持ちのメモにペンで名前を殴り書きしたものを渡された。
瀧より少し年上だろうか。相手の坊主頭を見ながら、その文字に瀧は心惹かれる。
ざわつく確かな期待は、程度は三葉と比べるまでもないが、かすかに似たような感じがする。
勅使河原 克彦
テシガワラ
———テッシー?
「何やさ、お前。急に」
しまった。うっかり呟いていたのか。
失礼を詫びるため、瀧はあわてて弁明の言葉を探し始める。が、目の前の坊主頭に対しては、なんだかそういった言い訳がましい言葉はいらないように思えた。
なんというか、『俺たちでやってやろうぜ!』みたいな、こいつ絶対イイやつだ、みたいな。そんな清々しい感情が、頭の理解を飛び越して、どこか遠いところからやってくる。
社会人になってから、初対面の相手にこうも開けっぴろげな感情を抱くのって、三葉以来じゃないか?
一体なんなんだ?
言葉に詰まる瀧を見て、勅使河原—テシガワラ—は「んん」と唸ってしばし考え込み。
そして意外な質問を口にする。
「お前、糸守出身の知り合いでもおるんか?」
「え? あ、えっと、三葉、さん? なら……」
太陽と重なっていた雲が移り、あたりが急に眩しくなった。そのせいもあるだろうか、瀧の答えは少ししどろもどろになる。
テシガワラの方はそんな瀧を尻目に、「ははぁ」と納得顔をしている。
そうしてどこでもない遠くを見て、テシガワラが言う。
「懐かしいなあ。俺ら高二まで糸守におったんや」
「そうなんですか! すげえいいとこでしたよね」
とたんにテシガワラが「えっ」という顔になる。
と同時に、瀧も我に返る。
三葉の時もそうだったけれど、糸守について知る人間に出会うと、胸の奥底に眠っていた衝動が溢れ出してくる。
光、風、土や草の匂い、眼下に広がる糸守湖。
ど田舎だから電車もバスもほとんどないし、カフェもない。
でも、きらきらしていた。
ホントに、いいところだった。
「お前、糸守に来たことあるんか?」
「いえ、行ったことはないんすけど……。あの、すみません。勝手に盛り上がっちゃって」
瀧はそう言って、やり場に困って目を伏せた。
糸守に行ったことはあるけれど、それはあの災害の三年後。さも、在りし日を知っているかのように話すのは気がひける。
テシガワラもまた目線をそらしたが、その顔は少し笑っていた。
「いいんや。確かに、ええところやった」
そこまで言うと、テシガワラは瀧の方に向き直って肩をすくめてみせた。
「ま、住んでた時は俺らも三葉も町は嫌いやったけどな!」
うはは、と笑うテシガワラにどう対応してよいかわからず、瀧は首の後ろに手を当てる。
「その、どんな感じだったんすか」
そう相づちを打って、話に乗って来た瀧に気を良くしたのか。テシガワラは「三葉か?」と言って、またにやりと笑った。
「まあ、夢見る乙女ってんやろうな、そんな感じやった。普段はな。でもな」
なにか大事なことでも話すつもりなのか、テシガワラが一呼吸置く。
「俺らが高二のとき、あん時は特にヤバかったなあ。あいついきなり、『町に彗星が落ちる』って言い出したんや」
何を言いたいか分かるか? というか、すこし誇らしげなような顔をして、テシガワラが瀧の方を見やる。
が。建築中の建物の影から、こちらに向かって歩いてくる瀧の先輩を認めると、すぐに腰を浮かして仕事に戻っていった。
当然、瀧も先輩の仕事を追わなければならない。
「じゃ、戻るで。また今度な」
「そう、ですね」
そう言ったまま、瀧はしばらく呆然として立ちつくしていたが、慌てて建物の影へと歩を進めていった。
***
正直なところ、糸守にいた頃の三葉のことは、知らない。
三葉が糸守出身ということぐらいは聞いていたけれど、さすがに瀧の方から、消えた町の思い出について聞くのはためらわれたし、三葉も、あまり話そうとしなかった。
なら、口をついて出たあの言葉は、一体なんなんだ?
初対面にも関わらず、テシガワラが気さくに瀧と話してくれたのは、(彼の人となりも大いに関係あるだろうが、)おそらく三葉とそれなりに深い関係にある人物だと思ったせいだろう。
その端緒になりそうなものは、瀧が初っ端に呟いた“テッシー”くらい。となると、それはたぶん、彼のあだ名だったのだ。
そういった整理を、瀧は自室の机で裏紙に書きながら進める。色々な情報を雑多に書き散らし、相関図を作っていく。
家まで持ち帰った仕事をようやく一段落つけたあとに、なんでこんなことをやってるんだ、と思いはする。
でも気になるものは気になるし、なら、ひとつ整理してみるか、という感じだ。
こうして俯瞰してみると、ほとんどの謎が糸守に結びついている。
知らない名前、知らない町、ずっと探し続けていた誰か。
6年前に行ったきりの、おまけに9年前に隕石で無くなった町の、一体何に結びついているのか。
顔を上げ、壁に留められた一枚のスケッチを、瀧は眺める。
高校生の頃、なぜだか、やたらと糸守町に凝っていた時期があって、この絵もそのとき描いたうちのひとつだった。
他にもいろいろ描いた覚えはあるけれど、今はこれしか残っていない。
白の画用紙に、鉛筆で細部まで描き込まれた素朴な絵。
通学路から眼下の糸守湖を眺望したこの景色は、今はもう、ない。
この絵だけが、かつてあった時間をとどめている。
スケッチから目を移し、何もない右の手首を見る。
直感として、知っている。
このままどんどん時が過ぎれば、記憶は遠ざかっていくし、加速する日々の中に埋もれていって、ついにはこの感情を気にも留めなくなるだろう。
そして、それは一握り、どうにも消えない寂しさだけ、残していくことも。
だが、だから。今ならまだ、間に合う。探しにいける。
———ただ、今日はここまでだ。明日も早いし。
スタンドの明かりを消して、瀧は立ち上がる。
ふぅーと息を吐いて、固まっていた筋肉を伸ばすと、煮詰まった頭もすっきりする。
三葉に、テシガワラのことを聞いてみよう。けっこう面白そうな奴だったし。
そう考えていると、枕元に置いといたスマフォが震えた。
そうか、そんな時間か。
『瀧くん、ちゃんと生きてる?』
……。何だ、そりゃ。
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その3 誰そ彼と われをな問ひそ
その日は少し変則的だった。仕事が早めに終わったので三葉と連絡を取り合い、神田のカフェで待ち合わせ。
着いてみると三葉と一緒に四葉がいた。
「ちょうど部活終わってなー、瀧くん」
「…くん付け?」
姉と一緒にカフェのイスに座っている理由を、四葉はそう説明した。
ついでに三葉に影響されてか、四葉まで瀧のことを『瀧君』と呼ぶようになっていた。
ちょっとひっかかるけど、ま、いいか。
せっかくだからみんなとどこかで夕飯を、という算段を三葉と瀧が始めたとき、四葉の口から思いもよらない提案が飛び出した。
「うち、瀧くん家行きたい!」
「えっ!?」
スマフォをテーブルの上に置いて三葉と話し合っていた瀧は、文字通り硬直した。
三葉も四葉の方を向いて停止していたが、すぐ瀧の方に向き直り、
「私もちょっと行ってみたいかも。いい? 瀧君」
と言った。
すっげえ唐突だな! とは思ったものの、
「あ、ああ」
と瀧は答える。
とにかく、さっさと戻って部屋を片付けよう。
彼女たちの笑顔を前に、瀧はそう決心した。
***
二人が食材を調達している間、スーツを着替えた瀧は全身全霊で部屋の整理清掃に打ち込んだ。
三葉と付き合い始めた後、また自炊するようになっていたからゴミは少なかったが、代わりに洗いものが台所を占拠していた。
まずはそれらを片付け(スポンジ瀕死)、次いでリビングを埋め尽くしていた資料を寝室兼仕事部屋に押し込み(おかげで仕事部屋がカオスになった)、フローリングにワイパーをかけて仕上げ。
寝室の壁には色々な風景・建築物の写真や図面が貼ってあるけれど、これはいいだろう。ここまでわずか30分の早業だった。
手持ち無沙汰になった瀧は、綺麗になったフローリングの上で、中学バスケ部時代に習得したムーンウォークをやってみる。
お、案外まだやれる———
呼び鈴が鳴った。
***
姉妹は結構いろいろと買い込んでいた。
その勘定で少し堂々巡りしたのち、四葉の提案で、瀧が料理する分二人がお金を持つということになった。
それでいいのか。三葉もそうだけど、四葉は特に学生なんだからたかれよ。
そんな感じのことを瀧が言ったところ、
「いいにん。自分の食い扶持ぐらい自分で払うでな」
と返された。四葉はやっぱり、なんか、達観してる。
瀧がてきぱきと料理を進める一方、三葉と四葉は瀧の了承を得て、資料が山積している仕事部屋を見物していた。
「見てみ、お姉ちゃん。設計図やよ!こまかぁ!」
「四葉、こっちのスケッチもすごいよ!」
という会話を背中で聞きながら、瀧は鶏肉と大豆のトマト煮に取りかかる。
冷凍あさりは白ワイン(冷蔵庫にあった)とバターでネギと蒸し、残った出汁を合わせて即席のキャベツ入りコンソメ風スープを作る。
葉もの野菜と豆腐があったので適当に切って皿に並べ、軽く火を通したバルサミコ酢(これももとからあった)と一緒に冷蔵庫に入れておく。これは食べる直前にオリーブオイルとかければいいだろう。かつおぶしも買ってあったし乗せて。
主食はまさかの米。トマト煮に醤油でもぶち込むか……、と瀧は白米に合うアレンジを考えてみる。
とりあえず今は煮込むだけ。
スープとトマト煮の火加減を弱火にして、三葉と四葉の様子を見に行く。
二人とも、机近くの壁に留められた糸守町のスケッチに見入っていた。
瀧君、これ、と言って、スケッチを指さしながら三葉が振り向いた。
ああ、と瀧は指さされた絵に目を向ける。
「高校んとき、描いたんだ。写真とかいろいろ見ながら」
壁から絵を外し、差し出すと三葉が受け取った。
横で四葉が「よく描けとるなぁ」と呟いている。
「まるで、見て来たみたい……」
そう評する三葉に、瀧は何も言えない。
しばらく三葉は絵を見つめて、それからだんだん、むぅ、と考え込むような表情になっていく。
何を思って三葉がそんな表情をしているのか、瀧には分からない。
四葉が台所の様子を見に行ったあとも彼女はそうしていたが、ふいに顔を上げ、
「瀧くん、今度は、ゼッタイ忘れんからね!!」
と言って瀧の方に向き直った。咄嗟に瀧の方からも、
「ああ、俺も」
と口を衝いて出る。
“何を”忘れないのか、わからない。
わからないけど。三葉も、きっと何か大切なことを、今も探してるんじゃないか。
そんな気がした。
そのままなんと言っていいかわからず、神妙な顔つきのまま二人とも見つめ合っていたが、台所から、
「瀧兄、煮詰まっとるよー」
という四葉の声が聞こえて、あわてて瀧は台所に戻っていった。
***
瀧の料理は二人の予想とだいぶ違っているようだった。
「あさりがみそ汁じゃなくて皿に盛られとる!」
「冷や奴にレタスとオリーブオイルやあ!それにこの醤油(バルサミコ酢のこと)甘酸っぱ!」
「キャベツがスープになっとるよ!」
なんていいながらいちいち驚くからすぐ分かる。
そうは言いながらも、決して不満そうという訳ではなく(主食=米、と総菜=イタリアン? のミスマッチには瀧も説明を放棄したが)、箸の進みはすこぶる良かった。
「なんか懐かしいなあ。こういうゴハン」
そう切り出した四葉に、瀧と三葉は怪訝そうな顔を向ける。
あさりと白米を飲み込んでから、四葉が言った。
「覚えとらんの? お姉ちゃんもいっとき、こんなゴハンつくってたじゃん」
言われた三葉はますます不思議そうに首を傾げる。ほら、糸守にいた頃やよ、という四葉の言葉に、瀧もちょっと気にかける。
あのど田舎で、たぶんまだ高校生くらいの三葉が? そういうドラマでもやってたっけか。
瀧の方は中学生くらいになるわけだから、あんまり記憶が定かではない。
そこまではのほほんと豆をつまんでいた瀧だったが、続く四葉の発言に箸が止まった。
「この前も思ったけど、やっぱお姉ちゃん、あの頃東京に彼氏おったんやない?」
「それはない」
間髪入れずに三葉が否定する。すかさず瀧が聞く。
「この前って?」
瀧の質問に、四葉が瀧の方に向き直った。
「お姉ちゃん東京に友達がおったんよ。女の人やったけど」
「だから知らない人だってば」
いまいち話が読めない。そりゃ三葉も東京に来て長いんだから友達だっているだろ。でも知らない人だと三葉は言う。
話がややこしくなると思ったのか、三葉が話を進める。
「奥寺さんに会ったんよ。瀧くんは知っとるとおもうんだけど」
「奥寺先輩かぁ」
瀧の脳裏に、瀟洒な女性の顔が浮かぶ。
去年、瀧がまだ就活していたときに会ったのが最後だ。あの人、ちょくちょく東京に来てるんだろうか。
にしても、どういう流れで三葉と?
「喫茶店で四葉と話してたら、ちらちらこっち見てくる人がおって」
「お姉ちゃんが『前にどこかでお会いしましたか?』って聞きにいったんやよ」
瀧の疑問を汲み取ったかのように姉妹が話す。なるほど、見ず知らずの相手になかなかできることではない。
ただ、面識があったにせよ、確かめに行く思い切りの良さは三葉らしいと瀧は思う。
「それで瀧くんのこといろいろ話ししてくれて。就活のこととか」
「ああ、それで『ちゃんと生きてる?』ってわけか」
三葉から来た突然の安否確認を、瀧は思い出した。
就活中の瀧が、それなり周りを心配(とまではいかないか)させてたのは事実だし、奥寺先輩に聞いたのでは、そう確かめたくなるのも無理ないような気はする。
瀧は先日の安否確認の件に納得し、同時に、誰かを探し続けていたあの感覚を懐かしむ。
ああ、三葉に出会えてホント良かった———。
「瀧兄の好きそうなタイプやったなー」
「あ、そうそう、瀧くん。あの人とデートしたことあるんやろ?」
余韻もつかの間、瀧は手を伸ばしてコップをつかんだまま動きを止める。
酔ってるせいか、四葉はともかく三葉まで容赦がない。
「その話、どっから……」
「そりゃ、奥寺さんやに」
四葉が答える。瀧は苦笑いして誤魔化した。
できれば触れられたくなかった内容なだけに、ちぐはぐなことを返してしまう。
「奥手かと思っとったけど、案外瀧兄もスペック活かしとんのやなー」
「ほんにな」
三葉が相づちを打つ。やめてくれ、妹。お前、俺を応援してんなら話をややこしくしないでくれよ。
それに、その話は。首の後ろに手を当てながら、瀧が話に入る。
「あんま、その辺は触れて欲しくないっつーか。俺もどういう経緯でそうなったのか、よく覚えてねえし……」
微妙な作り笑いを浮かべたままの瀧だけど、それは苦い思い出に触れられたから。
高木と司、二人に太鼓判を押されるほど女性を心得ていない瀧が、どのようにして奥寺先輩とのデートにこぎ着けるほどの手腕を発揮したのか。
当日の焦りまくってた自分は覚えているけれど、その前に存在したであろう超スマートな瀧については、もはや別人なのではないかと思うくらい記憶にない。
三葉が話を続ける。
「まあ、そうやよねえ。あの人、瀧くんより年上やったし」
すこし大人びた視線で笑いかける三葉にそう言われる。この様子だと、散々な結果に終わったデートの顛末まで知ってそうだ。
そりゃ、まあ、経験値に差はあるだろ。心の中でそこまで言い訳して、ん? と、瀧は今更ながら疑問がわいてくる。
「その場合、三葉はどうなんだ?」
瀧の言葉に、三葉は一瞬『えっ』という表情になる。考えてもみなかったことを言われたような、そんな感じの。
だがすぐ屈託ない笑顔をうかべて、
「どう思う?」
と聞き返された。
***
気づけば結構いい時間だった。
三葉の気持ちについては話題が流れてしまったので分からないままだけど、その後も他愛ない話で結構盛り上がった。
机上のデジタル時計を見て、いつだったか高木と司に言われたことを頭の片隅に置いて、瀧が切り出した。
「もう遅いし、二人ともうちに泊まってけよ」
三葉はもうそんな時間、と言って時計を見た後四葉に話しかける。
それまでどうなるかなーと成り行きを見守っていた四葉は、
「うちは明日部活やし帰るに。お姉ちゃんは泊まってき」
と言った。
***
「なんか、結構無理やりだったな……」
「そんなもんやさ」
夜道を瀧と四葉が歩いている。そろそろ夏も近い。肌にまとわりつくような湿気を感じる。
あの後、事実に思考が追いついていない三葉に風呂と服の場所だけ示し、仕事部屋兼寝室を大急ぎで整理した瀧は、四葉に急かされるようにしてマンションを出て彼女を家まで送っていた。
特急で話を進めたのもそうだけど、ちょっと、その他にも気になることがある。
「どうしたん?」
思案顔の瀧を覗き込むように四葉が尋ねてくる。
ああ、と少し間を置いて瀧が答える。
「その、着替えとか大丈夫かなって」
「心配いらん。うちが買っといた」
「マジか!」
「お姉ちゃんも妙に抜けとるでな。うちが手を貸すで安心し」
「お、おお。ありがとう」
礼を言う場面なのか、という自問自答はさておき。
少し真面目な口調で、瀧は聞く。
「いいのか?三葉を置いてきて」
そう言われて、ややいぶかしげな顔をした後、うーんと唸って四葉が言う。
「まあ、瀧兄にお姉ちゃん泣かすほどの度胸ないやろ」
「む」
また小生意気なことを、と思ったが反論できない。瀧は渋い顔をする。
ただ、度胸のあるなしに関わらず、三葉を泣かせるような真似をする気は、瀧には
「冗談やに」と言いながら四葉が笑う。
「瀧兄ならええよ。あんたの描いた糸守、あらあ良かった」
ずっと前に、どこかで言われたような台詞だ。
既視感に浸る瀧に、四葉がまた続ける。
「それに、ずっと前から知っとるような気がするに。瀧兄のこと」
横を歩く四葉が、少しはにかみながら、でもにっと笑った顔を瀧に向けてくる。
咲くような笑顔に、瞬間瀧はさっと顔を背けた。
酔ってるから、姉妹だから。そんな意味のない言い訳が頭の中を駆け巡る。
「なんや。あんたうちにも惚れたか。気の多いやっちゃ」
「惚れてはねえよ」
得意げな顔をしてみる四葉と、口元に手のひらを押し当てて、必死に険しい顔を作っている瀧。惚れてる訳ではない。
でも、何かが触れた。
かつてこの手にあったのに、いつの時からか遥か遠くに行ってしまって、もう戻ってくることはないだろうと思っていた、そんな何か。
「ま、瀧兄はもうちょっとしっかりせんとな」
四葉がそう呟くのを聞いて、瀧は我に返る。
しっかりしろ、とはしっかりしていないということか。……どういうことだ?
「というと」
あくまでのんきな瀧の反応に、四葉は普段の表情に戻って言う。
「お姉ちゃん結構モテてたみたいでなー。大丈夫やと思うけど、決めるとこは決めな」
「例えば」
「帰りしな、いきなり押し倒して唇奪うとか」
「平手食らいそうだな」
「なら食らっとき」
そんな何も得るものがない会話をしているうち、姉妹の家の前につく。
お礼を言って家に入っていく途中、四葉が半身振り向いた。
「とりあえず、今夜、がんばり!」
サムアップしてそう言われたものの、何をがんばればいいのか、がんばってよいのか全く分からない。
とりあえず瀧も右手で小さく親指を立てて応じておく。
「あ、でも早まったらいかんで!」
***
マンションに戻るとすっかり出来上がった三葉に、「おかえりー」とおかしなテンションで出迎えられた。
風呂入って俺の服を着たあたりで、たぶん何かが吹っ切れたんじゃないだろうか。瀧はそう思う。
とりあえず、決めるところは決める。
三葉、と落ち着いたトーンで呼びかけてから、相手の目をまっすぐ見据えて、瀧はおもむろに口を開いた。
「す、すきだ」
その瞬間、瀧は、己がどれほど真面目な顔をして今の台詞を言い放ったのか、気がつかない。
三葉はきょとんとした顔でしばらく静止した後、台所に行きコップに水をたたえて戻ってきた。
「…これは?」
「まだ酔っとるんかなって」
「…酔ってはねえけど」
三葉はますます目を丸くして瀧を見つめ、瀧は相変わらず真剣な顔つきで三葉の反応を待っている。
想像と違う方向に進んでいる自覚はある。
でもどう軌道修正すれば良いのか瀧には見当がつかないから、どこかに着地するのを待っている。
「へ、じゃあ、その、そんな真顔で?」
こくん、と瀧が頷く。三葉の肩が小刻みに震えだす。
持っていたコップを傍においたとき、ついに三葉が笑い出した。
「あは、あはは! ちょっ、瀧くん、ごめ……!」
右手を瀧の左肩に置いて、左手を口の前にかざして、前屈みになって三葉が笑う。
え、何だ? 今、俺そんなに面白いこと言ったのか? それとも顔か? 顔が面白かったのか?
想定と目の前の事態とのギャップに、瀧は理解が追いつかない。
帰り道、アホほど真剣に悩んで決めた覚悟は何だったのか。
しばし笑っていた三葉が、ようやく顔を上げて瀧の方を見た。まだ笑ってる。ちょっと泣きながら笑っている。
「ごめんごめん。わ、私も、瀧くんのこと、す、すき……」
そこまで言ってまた三葉が笑い出す。
今度は両手とも瀧の方に置いて、しかも最後の方は「すき」なのか「すく」なのかわからないくらいの発音で。
三葉に肩を叩かれながら、瀧は支えてやる。
まあ、いいか。三葉が笑ってるなら。瀧はそう思うことにした。
食器や鍋などの洗いものを綺麗にしてくれていた礼を三葉に言って、シャワーを浴びて部屋に戻ったとき、三葉は瀧のベッドの上で、壁に背を預けて座ったまま寝ていた。後で横に寝かせよう。
あと枕がないと思ったら、瀧まくらは三葉に抱かれていた。
洗濯、しておけば良かった。
寝る前に資料を片付けていると、ふと赤いものが視界の端をよぎる。
見るとそれは、糸守のスケッチの横に置かれた、三葉の髪紐だった。
机上のそれはあまりに画になる光景で、知らず知らず瀧は、その赤い紐を手に取っている。
———誰かがいる。
人ごみの中、一差し舞い込んだ夕日のような紐の先に、誰かがいた。
三葉だ。
制服を着たその女の子は、三葉よりずっと幼い。今の四葉くらいの歳の少女なのに、瀧には彼女が三葉だと分かる。
だけど、分からない。
なぜ、そんな泣きそうな顔をしているのか。
なぜ、そんなところにいるのか。
やっと見つけた。やっと出会えた。なのに、俺はまだ逢いに行けていない。
かつてこの手にあった、大切なもの。それは———。
組紐を机の上にそっと置いて、瀧は資料を整理する。
整理しながら考える。
もう一度、糸守に行こう。時が流れてしまう前に、もう一度。
そうして作業を終えて、ちょっと思い悩んだあと、瀧はベッドの上で三葉の横に座る。
温かいのは、自分か。それとも三葉か。それすら判然としないけれど。
あと少しだけでも、一緒にいたかった。
もう少しだけ、くっついていようか。
***
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その4 再訪
男性ニュースキャスターが、緊迫した面持ちで記事を読み上げている。
『飛騨市消防局によりますと、本日午後8時45分頃から、大きな爆発があったという通報が市内の各地から寄せられているとのことです』
『最初に地震を感じたあと、窓ガラスが鳴り、大きな爆発音が聞こえたとのことで』
『気象庁では、火山の爆発である可能性もあるとし、音が聞こえた地域の住民に警戒するよう呼びかけています』
『また中部電力によると、爆発の2時間前から飛騨市にある変電所で事故が発生しているほか、市内の一部では停電している世帯もあるとのことで』
『先ほど午後8時42分頃に岐阜県で観測されたマグニチュード4.8の地震との関連は薄いと見られていますが———』
『引き続き、岐阜県の爆発事故と、本日最接近したティアマト彗星についてお伝えして参ります』
2013年10月4日、21時過ぎのニュースだった。
***
糸守行きを三葉たちに伝えるのは相当思い悩んだ。できれば一緒に行きたいけど、それは良いのか。火事場に群がる野次馬のように受け取られないだろうか。
だが、そうした瀧の懊悩とした悩みは、拍子抜けするほどあっけなく解決してしまった。
例によって三葉&四葉(ちょくちょく瀧と三葉のデートに顔を出すようになっていた)とカフェでくつろいでいた時、三葉に盆の予定を聞かれた瀧はたどたどしく糸守行きを口にした。
雰囲気が悪くなることを覚悟した上での発言だったが、しかし、二人の反応は思ってもみないものだった。
「瀧兄も糸守に行くんか」
「だったら一緒に行こうよ!」
詳しく話を聞いてみると、糸守にあった実家は近くの町に移っており、時々そこに帰省しているということだった。
当時、住民の他地域への受け入れプログラムが実施されていたから、三葉たちの実家もその一環で移されたのかもしれない。
そんな感じで当時を振り返っていた瀧だったが、あれ、と気になることが浮上してきた。
帰省に同行する。それって……。
「実家に行っていいの、俺」
瀧は人差し指で自分を差す。姉妹は顔を見合わせた後、瀧を見ながら声を揃えて言い放った。
「「たぶん、イケるって!」」
***
仕事を終えて退社し、今日は家に帰らず新宿駅近くの銭湯に寄る。夜遅いのに、結構混んでんな。
なんとか空いているシャワーを確保し、手短に垢を落として湯船につかる。
本音を言えばこのままゆっくり浸かって疲れを癒したいところだけれど、そこまでの時間はない。
更衣所で、仕事場にこっそり持ってきた服に着替え(鞄ごと職場のロッカールームに入れておいた)、スーツは丁寧にたたんで宅配クリーニングに出してしまう。
風呂に入ったあとで汗をかくのは避けたい。そう思いつつ、瀧は足早に新宿駅に戻る。
コインロッカーに預けていたスーツケースを取り出し、23時前、結構ギリギリでバスターミナルに到着して、ほっと一息つく。よし、間に合った。
「瀧くーん、こっちやよー」
そう言って三葉が呼びかけてくるのが目に入った。
ああ、目立つ。横にいる四葉も表情から察するに、瀧と同じ心境なのではないか。
瀧も手を上げて、スーツケースを転がしながら二人と合流する。
「ギリやなー、瀧兄」
「すまん。手間取っちまって」
「いいんやさ。ほら、早く乗ろ」
ニコニコしながら急かしてくる三葉に促され、三人は次々夜行バスに乗り込む。
バスの座席、三葉と四葉は隣同士、瀧はその一つ前の席に座った。後ろから小声で話す姉妹の会話が聞こえる。
「しっかしまた夜行バスかぁ。いい加減新幹線乗りたいに」
「あかんよ。この時期新幹線えらい高いでね」
「お姉ちゃんのケチは相変わらずやなー」
「ケチやなくてお金の管理をしっかりしとるの」
三葉の言葉に、物は言いようだな、と瀧は思う。とはいえ、瀧も財政的な理由からこの行程を支持した人間であるから文句があるわけではない。
飛騨高山まで高速バスで行き、そこから電車を乗り継いで実家に行く。これが今回の旅程である。
レンタカーを借りて行くという手を瀧が提案したところ、二人に何言っとんの、という顔で却下された。
聞けばどうも、帰省およびUターンラッシュの渋滞が姉妹にトラウマを植え付けたらしい。
それに夜中に運転していくのも、昼間寝ていられる学生時代ならともかく、日中働き詰めている社会人でやるには不安だった。
一方の三葉は夜行快速で岐阜まで行き、そこから電車を乗り継いで行くつもりだったらしいが、これは四葉の猛反対にあって見送られた。
すげえ。現実にやった人間がいるんだな、それ。瀧は微妙に感心したほどだった。
「お金は使うためにあるんやよ!」
という四葉の悲痛な叫びが頭に残って、今でも時々思い出して一人笑うことがある。
そんなこんなあって、結局、いろんな所と折り合いをつけたのがこの形である。
夜の車窓に、東京の風景が流れて行く。きらめくネオンやオフィスの明かりがよぎって行くその様は、光の糸の束のようだった。
ひとつひとつの明かりが、線になり、紐となり、ゆっくりと、その認識がぼやけていく。
見ていたはずの夢は、いつも思い出せない。久しぶりにそんな夢を見る。
***
朝。自分が起きてるのか、それともまだ夢を見てるのかも分からない状態のまま、瀧は電車に揺られていた。
夜行バスは相当遅れたらしいが、それでもまだ早朝だ。なのになぜこの姉妹はこんなにはきはきしてるのだろう。と、瀧は夢うつつに考える。
そんな瀧の寝起きモードも、夏の日差しによって少しずつ切り替えられていき、電車を降りる頃にはすっかり覚醒していた。
ダイヤ改正でバスが来ないというハプニングに見舞われつつ、昼過ぎには『糸守工芸・宮水神社保存館』という平屋の建物の前に到着。
小高い山の中腹に建てられたそれは、入り口の前に駐車のためのスペースがあり、引き戸が横に広めなのを除けばノーマルな和風民家といった佇まいだった。旅館といった方が近いかもしれない。
「あ、瀧くん。母屋はこっちやよ」
失礼します、と言いながら引き戸を開けたところで三葉に呼ばれる。見ると二人とも、保存館の右手横に並んだ、結構大きめな家の前に立っている。
あれ? あの家……。
ぴしゃりと戸を閉め、瀧は駆けて行った。二人の実家を間近にすると疑問が確信に変わる。
間違いなくこの家、どこかで見たことがある。
「おばあちゃん!」
呆然と民家を眺めている瀧と、不思議そうに見ている三葉をよそに、引き戸を開けて出迎えにきたおばあちゃんへ四葉が駆けて行く。
ただいま、とかおかえり、とか言い合っているのを聞いていると、やっぱりここは姉妹の実家なんだなという感覚が芽生えてくる。
婆ちゃんと目が合った。はじめまして、と言おうとした瀧は、初っ端の一言にまさしく度肝を抜かれた。
「あんた、三葉やないな」
「なっ……」
唐突な婆ちゃんの宣言に、三葉と四葉は呆気にとられている。頭上に『?』でも描いたら似合いそうな雰囲気だ。
いきなり何いってんだ。そう思ったはずだった。なのにどんな言葉も通り越して、激しく脈打つ心臓と、首筋を伝う汗に瀧は気づかされる。
三葉が少し困ったふうに笑っておばあちゃんに瀧を紹介している後ろ、何か言いたそうな瀧に対して、婆ちゃんは何とも優しく微笑んで、
「あんたも早くあがんない。おかえり」
と言った。
***
実家の三葉はてんてこ舞いだった。
婆ちゃんと帳簿の整理を始めたかと思うと、(瀧には見せないようにしていたが)大量の見合い相手とおぼしき写真の処分や便せんをしたためていたりした。
ああいう見合い相手は父親が斡旋してくるそうだ。四葉はそう説明してくれた。
ちなみに四葉曰く、父の求める婿は、
「何にしろ、まず私(=姉妹の父)に掴み掛からない者」
らしい。どこの世界に、義父に掴み掛かる猛者がいるんだよ。瀧は内心思う。
ただ、送られてくる見合い相手のスペックの高さを四葉から聞かされると、のんきに構えて笑ってはいられない。
他方、当面やることのない瀧は三葉に頼まれて車で買い出しに行くことになった。
マニュアル&宮水父の車という、手に汗握るコンディションの車を動かしているのは、炎天下での往復で食材が腐るから。
助手席の四葉は、姉にさんざん『あんたも手伝いない!』と言われていたのを無視して瀧に同行した。
「三葉の手伝い、しなくていいのか?」
エアコンが効いてきた車内の、隣の席で四葉が涼しげに笑う。
「いいにん。帳簿つけるより、瀧兄とおった方がおもしろいでな」
「そりゃどーも」
ありきたりな相づちを打って、瀧は聞こうと思っていたことはなんだったかと考える。ああ、そうそう。
「あの家って、糸守にあったときと同じ感じに建てたのか?」
「そうらしいに。それが?」
「どっかで見たような気がしてさ」
片眉を寄せる瀧に合わせるように、四葉もどういうことなのかと考えを巡らせている。
「写真で見たんやない? うちの家、神社の隣にあったし」
「なるほど」
筋が通っている、と思った。
高校生のとき、やたらと心引かれて糸守について調べ倒したことがあるし、そういうことだろう。
それよりさ、そう言って四葉がすこし体を瀧の方に向けてきた。やけに楽しそうだ。
「お姉ちゃんとは最近どうなん?」
「…どうって?」
「お泊まりけっこうさせとるんやろ?」
瀧は小難しい顔をしてちょっと唸ってみる。興味があるのか、おもしろがってるのか。両方だな。
とりあえず、最初に三葉を泊めた時の事件(めっちゃ笑われたやつ)を瀧が報告する。
途端に彼女は「ええ……」、といったふうに驚き半分あきれ半分といった顔をした。
そもそもお前は何を期待してるんだ。
まあ、がんばり。と四葉に言われる。おう、と苦笑いしながら瀧が答える。
接ぎ穂に困ったそんなとき、車窓から見える、案内板に描かれた文字に一瞬目を奪われる。
「彗星災害資料館……?」
「興味あるん? うちも行ってみたいに」
糸守に隕石が落ちて、町が壊滅したのは四葉がまだ小学校二年生のとき。
人類史上最悪の隕石災害とか、奇跡の一夜とか言われるその顛末をよく覚えてないのも無理はない。
「お姉ちゃんは行きたがらんしな」
生まれてこの方東京で暮らしてきたせいか、故郷とか望郷の念なんて持たない瀧にも、その気持ちは何となく分かる。
忘れない、忘れたい。どちらの方が理にかなっているのか。それは当事者にしか語る資格はないと、瀧は思う。
太陽が雲に遮られて、少し落ち着いた緑の中を車が走って行く。
***
最初は、やや強い地震として。
次に、爆発事故として。
最後に、隕石の衝突として。
そんな変遷をたどって報道されていたことを覚えている。
その日、テレビもネットも、地球に最接近した彗星の話題で持ち切りだった。
夜空を覆うばかりに悠然と横たわる虹色の尾、予期されていなかった突然の分裂は、まさに1200年に一度の天体ショーとして申し分ないものだったから。
「一雨くるかなあ」
車から降りた四葉が空を見上げて呟く。日差しがゆるくなってよかったと思っていたら、あっという間に空は薄暗い雲に覆われてしまった。
資料館を見ている間に降り終わっていてくれと思いつつ、瀧と四葉は資料館に向かって結構車の停まっている駐車場を歩く。
宮水家の横にある保存館とは違い、こちらは博物館っぽい箱モノである。
観覧料を払い、館内に入ってみる。時期のせいか人は結構多い。
最初の展示は在りし日の糸守というテーマだった。
町の歴史を記した年表や、たたら製鉄の道具、方法、そして組紐。この組紐は工芸保存館の方でも見れ、販売もされているらしい。
スポットライトに照らされてどーんとそびえている、糸守町の地図と地点の写真を組み合わせた大きな立て看板には、瀧に見覚えのある写真がいくつもあった。
続いて『彗星災害と奇跡の一夜へ』という壁の案内を横目に見ながら進む。
照明を控えた薄暗い館内で、出迎えたのは壁にでかでかと印刷された、夜空に尾を引くティアマト彗星の写真。
分裂直後のもので、オレンジ色に光る片割れが彗星から飛び出している。写真ながら圧巻の眺めに、多くの人が足を止める。
燃え尽きると思われた片割れはこの約3時間後、糸守町に隕石となって落下した。
次のホールでは中央に糸守の平面図が据えてあった。
隕石の落下地点がx印で記されており、そこを中心にクレーター、蒸発領域、家屋全壊、半壊と色分けされて同心円が広がっている。
そんな地図の上、糸守高校がやたら目立つように示されている。
当然だ。ここは住民の命を救った、奇跡を象徴する場所なのだから。
『予測できなかった隕石と秒速30kmの恐怖』というコーナーは一番人が多かった。
大きく開けた空間の壁に、クレーターやひしゃげた電車の写真がずらりと並んでいる。
中の方には、無数に穴の空いた家屋の壁や軽トラック、めくれ上がった地盤の一部(高さ5mくらいはありそう)、かろうじて残った8時42分を差して止まった時計などなど。
そういった実物展示に、見る者はことごとく圧倒される。
風速計が壊れていなければ、観測史上世界最大の風速を記録した可能性もあるという。
隕石落下をなぜ予測できなかったのかについては、瀧が前に読んだ資料と同じことが理由として示されていた。極論氷の塊である彗星の破片が、7割近くを鉄が占める重たい岩石であったなど当時誰にも予測できなかった。
そして。
糸守町は人類史上まれな隕石災害に見舞われたにもかかわらず、町民のほとんどは偶然行われていた避難訓練のために被害範囲の外、糸守高校にいて無事だったのだ。
これが後に、当日は秋祭りであったにも関わらず避難訓練を強行した町長の、『あるべきようになった』という言葉とともに語り継がれる奇跡の一夜となる。
それまで全く知名度のなかった秘境糸守だったが、そういった経緯や当時の町長の尽力もあって、今では奇跡を起こした町としてその名を全国に知られている。
***
「あんな感じやったんなー」
車の中、雲間の日差しがまぶしいのか目を閉じたまま四葉が言う。濡れた路面まで光を反射しているからなおさらだ。
瀧の方も、目の当たりにした破壊力と、対照的な人的被害の軽微さにうまく飲み込めないものがある。
そういうほかないというのに、自分の中で、奇跡という言葉で片付けきれない。
「…大変だったな」
ともすれば人ごとのように聞こえる瀧の発言だったが、別段気にすることなく四葉は「そうやねー」と言った。
「まあお姉ちゃんおらんかったら、うちら死んどったわ」
「三葉が?」
瀧に聞き返されて、あー、と言いながら四葉が間を持たせる。奇跡の一夜の立役者は町長のはずであり、ここで三葉の話が出てくるとは思わなかった。
やがてため息一つついて、四葉が話し始めた。
「あのヒト、あの日朝からヤバかったんよ。朝から晩まで壊れとった」
「想像できねえ」
あの三葉が朝から晩まで壊れているとはどういう状態なのか。寝癖がすごいとか、胡座かいて座ったりするのか。
どれもしっくり来ない。
「それでな、夜な、役場に駆け込んできて言ったんよ。町に隕石が落ちるで、高校に避難しろって」
「ホントかよ」
「ホントやに」
雲の影が伸びて、少し光の乱反射がおさまる。太陽を遮った入道雲の後ろから光が幾筋にも広がって、後光を背負ったようになっている。
どこかで聞いたことがある話だと思ったら、テシガワラも同じようなことを言っていた。
彼や四葉の言うことを信じるのならば、奇跡の舞台裏では三葉が糸を引いていたことになる。
彗星の破片が隕石となることを予見しただけでなく、あろうことか被害範囲の外にあった糸守高校を避難場所にするなんて芸当、専門家だってできないだろう。
何が起きるのかを最初から知っていなければ、とても……。
「超能力者だな」
「別に。お姉ちゃんは根っから普通の人間やよ」
たまにアホなときもあるな、と四葉が呟いて付け足す。
根っから普通にしてはやることが神がかってるが、瀧にとっては特別というだけで、確かに三葉はただ一人の人間だった。むしろそうであって欲しいと思った。
知らぬ間に顔に出ていた微妙な笑いを四葉に指摘される。
うっすら見え始めた虹を背にして、車は山道へ入って行った。
***
からんからん、たんたん。
組紐を結う音がそんな風に夜の静寂に混じる。色とりどりの糸は、最初は離ればなれだけれども、一本一本寄り集まって形をなし、やがては色鮮やかな伝統工芸に仕上がって行く。
着物に着替えた宮水一家がそうして仕事をしている傍ら、風呂上がり、縁側の瀧は蚊取り線香をお供に建築士の資格関連の本を読んでいる。
夕飯の婆ちゃんの煮魚の味も、この光景にも覚えがある。そんな感覚にももう慣れてきてしまった。
「残った形を伝えて行くのが、ワシらのお役目。せやのに」
黙々と組紐を組んでいた婆ちゃんがしゃべり始める。
嘆かわしいと言わんばかりにため息をついて、呼吸を整えたようだ。
「せやのに、あのバカ息子は……。保存館なんぞでは飽き足らず、商売とはどもならん……」
なんて言いながら、淡々と作り続けているあたりどうなんだろうな。
そんな瀧と同じような心持ちなのか、三葉と四葉もまた始まった、という顔で口元に笑みを浮かべている。
「いいかげん仲直りしないよ」
「大人の問題。だいたいお父さんが家に来ないんじゃない」
瀧には問題がよく分からないが、四葉と三葉のやり取りを見る限り、そこまで深刻そうな感じではなかった。
奇跡の立役者として、ショックの大きい町の人に変わってつめかける報道陣の対応の一切を取り仕切り、海外にも報道されることを見越した上で伝統工芸を紹介して広めるという強かさを見せ、他地域への住民の移転プログラムを推進する。
その傍ら、機に乗じて方々を説き伏せ、保存館や資料館の建設にも一枚噛んでいたという町長。
町を愛していたらそんなことできないだろう、という批判もあったが、顔向けできないような立場ではないはずだ。
もし仮に、父親としては不器用だったとしても。いつかここに組み入れられる日が来るのではないだろうか。
本から目を離し、縁側の先に目を移す。よく整えられた日本庭園を、こうして眺めていたことが前にもあった。
これだけじゃない。6年前の糸守訪問、知らないはずの人間、記憶にない感覚、三葉の行動。一握り残った寂しさ。何もない右手。
大切なものはなんだったのか、それらを結びつけるべくここに来た。
「なあ」
縁側にいる瀧が、障子から顔を出すようにして呼びかけた。
「俺、ここの親戚だったけ?」
むろんそれは、彼なりに合理的な結論を導きだした上での質問だったが、が。
婆ちゃんは目を丸くして呆れ、三葉は一瞬手を止めたあと組紐作りを再開し、四葉はおもり玉を持ち上げたままフリーズした。
それはまるで水墨画のように、ただひたすらに味のある眺めだった。
耳が痛いくらいの静寂とはこういうことか。
今日二回目の冷や汗を感じながら、瀧はなんでもないやと言うべきか、それとも何か詫びるべきか、もとの姿勢のまま考えていた。
「瀧兄次第やない?」
四葉がおそらく助け舟を出す。それはそれでがんばるとして。
ああ、と言いながら瀧は障子の裏に戻って行く。
やがてまた、かちんかちんという音が鳴り始めた。
***
畳敷きの客間に置かれた四角い座卓を挟んで、廊下側に瀧が、障子の側に三葉が座っている。
スケッチを描く瀧と、何かの雑誌を読んでいる三葉。瀧が鉛筆をこする音と、三葉がページを繰る音が静かに部屋を満たしている。
三葉、という自分の声が、少し大きめに聞こえるくらいだった。
「こっち、来てくれ」
顔を上げた三葉が、雑誌を閉じてすっと立ち上がる。
そして瀧の横に来てひょいと、持ってきた座布団の上に座った。
「どうしたん?」
三葉に聞かれて、瀧は手を首の後ろに当てて言葉を探す。言い訳でも考えてるみたいだった。
「なんか、この方が良いってか。落ち着く」
「線、震えとるよ」
「えっ?」
***
「瀧くんは、どうして絵を描くん?」
雑誌に目を通しながら、ちらちらと瀧の作業を見ていた三葉が口を開く。
ひとつひとつの黒い線が結びついて輪郭をなし、一枚の風景を映し出す。昔から風景そのものが好きで、よく絵にしていた。
でも、いつの頃からか、もっと切実な理由から絵に残しておくようになった。
「大事なもんは、絵に描いておけば残るから、かな」
どれほど大切にしている記憶でも、形のないものはある日突然、さっぱり消えてしまうことがある。
だから、たとえ大切にしていたいという感情すら消えてしまっても、その事実だけは残るように。心引かれた風景があったということ、それだけは忘れないために。
そっか、という三葉の声が聞こえる。
「糸守も、瀧くんの大事なものだったんやね」
「そう、だな」
言われて今更ながら思い出す。
彗星で無くなったあの町のどこかに、というよりそのものに心引かれていたことを。
ああ、そうだったのか。
横にいて、手の届くところにいて欲しいのは。
目の前にいてもいなくなってしまうそのことを、知っていたから。
***
impact:Earth!で被害算定のコーナーです!
ノリが苦手な方は読まずに飛ばしてください。
※あくまでimpact:Earth!を用いたときの過程を書いたものであり、作品の考察ではありません。
映画や小説版の情報から、impact:Earth!にどのような被害になったのか計算してもらいました。
週刊誌に書かれているとおり直径は40m、鉄塊ということから8000kg/m^3の隕石を小説版より30km/s以上で地表に激突させる場合、地球との相対速度70km/s・衝突角65度(こちらのサイトを参考にしました。http://holozoa.hatenablog.com/entry/2016/09/04/143328)で実現できますが、見た目太陽の40倍以上の大きさの火球が発生したり5km離れた地点でも音速近い暴風が吹き荒れる(継続時間にもよるがトラス橋がゆがむ)らしいです。
ということで妥当な条件を探した結果、直径40m、密度6400kg/m^3(単純計算だと鉄68%、石32%)、相対速度31km/s、衝突角65度が適当なのかなという感じになりました。週刊誌由来なので直径や密度には幅があると思います。
上の条件だとクレーターの直径は1.16km、発生する地震のマグニチュードは4.8、5km離れた地点での風速は89.7m/s(藤田スケールでF3の竜巻に相当)となるそうです。隕石ってスゴイですね。
余談ですが、鉄質隕石(8000kg/m^3)が全然全部なくなってチリヂリになった方が風速的に被害が大変なことになるっぽいです。
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その5 夢と知りせば
目の前にいる人間が忽然と消えるなど、普通に生きていたらまず遭遇することのない事態である。現に朝起きたら三葉も四葉も婆ちゃんもちゃんといた。目が覚めたら東京の自室、なんてこともなかった。
昨夜のあの感覚は、一体何だったのだろうか。
宿飯の恩、ということで瀧が朝食を作ったのだが、いかんせん和食は勝手が分からない。
婆ちゃんの「いつも通りやりない」という言葉に甘えて、瀧は思い切りよく洋食を用意した。ひじき煮ときんぴらの常備菜には合いそうもなかったけれど、結構ウケは良かった。
洗いものを済ませて外に出てみる。宮水家は山の中程、少し高いところにあるから、町全体を見渡すことができる。
盆地の中でひしめき合う民家や、少し背を突き出したビルなんかを見ると、糸守のようなど田舎ではなく地方の小都市という印象を受ける。
暑さを予感させる光の中、佇む町並みは静謐だった。眺めてるうちに瀧は思う。車で買い出しに行く必要、あったのか。
午前中は家中の掃除や保存館の業務の手伝いに時間を使った。暇を持て余すかと思ったら、意外なくらい保存館にくる人は多かった。
ほとんどの人は糸守の工芸だとか宮水神社の伝統というより、奇跡の町の組紐をお守り代わりに買っていこうという目的で来ているようで、海外の観光客もそれなり見受けられた。
瀧も応対に四苦八苦しながら、余裕ができたときに人々を観察する。
組紐なんて渋いアイテムの割に、結構客層が若いな。そんな旨のことを三葉に話すと、
「なんか、前に特集されたらしいんよ。縁結びの紐だって」
ああ、分かりやすい。けれどもその評はあながち間違っていないかもしれない。瀧は横の三葉に目を向ける。今日も結構気合いを入れて(るように瀧には見える)編まれた髪に、赤い紐が揺れている。
瀧の糸守行きは昼食の後になった。
毎度のことながら三葉の料理に、おお、和食だ、なんて感動したあと、瀧は手持ちの端末でルートを調べる。歩いて4時間! バスとかねえのか!
そんな、早くも前途が怪しくなってきた瀧に活路を持ってきたのは、意外にも三葉だった。
「じゃ、行こ! 瀧くん」
「行くって……どこに?」
***
眼下には、ひょうたん型の新糸守湖が広がる。
意図的に一部分保存されている、割れたアスファルトを足下に見ると、未曾有の大災害という言葉に変な実感がわいてくる。
星の降ったあの日、住民のほとんどが避難していたであろう糸守高校の校庭には、今では案内板や記念碑が建てられている。
9年の歳月の間に体育館はそれなり朽ちてしまったが、定期的に補修工事が行われているせいか校舎はまだ形を保っている。
看板に記されている周回路は、2年前のオリンピックに合わせて整備されたんじゃなかったっけか。どこかで読んだ記事のことを瀧は思い出す。
6年ぶりの糸守は三葉の運転する車で訪れた。てっきり三葉は行きたがらないと思ってたのに。
つい理由を聞いてしまった瀧に、ハンドルを握る三葉の表情は穏やかだった。
「私も探しに行こうかなって」
車が揺れて、瀧の体がこわばる。決して危ない訳ではないのだが、三葉の運転はそう、楽しそうだった。特にカーブとか。
宮水父がわざわざマニュアル車を置いてった気持ちを、瀧は何となく察する。そんな親心もむなしく、結局はMT車の免許を取った娘に、「オートマの方が楽やったのに」なんて文句を言われてしまっている。
ヘアピンカーブを曲がりきった頃合いで、三葉が続けた。
「それに、瀧くんもそうでしょ?」
瀧の行動が分かりやすいのか、三葉の勘がいいのか。どちらにせよその通りだった。
高校を起点とする周回路を、瀧と三葉が歩いている。高速バスが停まっていたから、ツアー客もこの広大な道を回っているのかもしれない。
突き刺さるような夏の日差しに、瀧は三葉の体調を心配していた。が、彼女はいたって元気で、むしろ瀧を先導するくらいだった。
家の残骸や車、打ち上げられた家電などは風化や撤去により無くなって、周回路を歩いても今は凪いだ水面しか見えない。
ただ9年前の災害で新しくできたクレーターを回る道に入るといくつか、案内板とともに隕石災害の惨状を遺した地点があった。
水中から突き出る電信柱や、10m近くそびえる岩塊(隕石の衝突時にめくれ上がった地面らしい)など。そういうところでは、やっぱりバスが路肩に止まっていて大勢の観光客が見物していた。
世界中でここしか見られないであろう、隕石災害の爪痕と奇跡をワンセットで発信してきた結果と言ってしまえば、そういうものなのかもしれない。
ただ、瀧にしてみれば、あまり三葉に見せたい状況ではなかった。
休憩を挟みながら旧町役場に着く。ここもそうだけど、知らないのに知っているというもどかしさばかり感じさせるものが多すぎる。
そのくせ、6年前に登った山はどこだったか、さっぱり見当がつかない。
丸太を叩き割ったような机に、簡素な座椅子とパラソルを合わせた“青空カフェ”に腰を落ち着けて、瀧はため息をついた。
もうだいぶ長いこと歩いたらしく、木漏れ日の色が赤くなり始めていた。
「大丈夫? 瀧くん」
「ああ。三葉は?」
瀧が自販機で買った天然水を差し出すと礼を言って三葉が受け取る。机に目をやると、『勅使河原建設』という文字が隅の方に彫ってあった。
勅使河原……テシガワラ。その時ふと、親しみやすそうな坊主頭———テシガワラと、彼が言っていたことを瀧は思い出す。
「なあ三葉」
「何?」
「あの日、どうして隕石が落ちるってわかったんだ?」
言ってから、これはマズいことを聞いたんではないかということに瀧は思い至ったが、時既に遅い。
ちょっと笑顔を作って、三葉が答える。
「教えてもらったんよ」
「……え? 誰、に」
「それがね、思い出せんの」
笑ったまま三葉は目を伏せた。
大事な人。忘れちゃだめな人。忘れたくなかった人。
そう小さく呟きながら、自分に言い聞かせるように。それでもやがてひとつ息を吐いて、吸い込んで、また瀧の目を見て言う。
「たぶん、瀧くんだったと思うの。その人!」
瀧は曖昧な返事しかできなかった。それが三葉の探していることだというのならば、そうであって欲しい。そう思うこともためらわれた。
それにしても、三葉の横で共に奇跡の糸を引いていた人がいたなんて。どういうやつなんだ?
どんなに考えてみても、当たり前だが瀧には分からない。
その後、三葉はテシガワラやサヤカの話をしてくれた。一人は前に一度会っただけ、もう一人は名前すら知らなかったのに、聞けば聞くほどそういえばそういうやつだったなという感情が顔を出すのは、もう末期的だなとすら瀧は思い始める。
いよいよ日が傾いて来たところで、瀧と三葉はあわてて高校に戻った。
街灯がないから、暮れてしまうとこの辺は本気で真っ暗になるのだ。宵闇の中、人のいない廃墟となった町を歩きたいとは流石に思わない。
***
高校の校庭に戻った時、太陽はまだぎりぎり山の峰の上にあった。
糸守高校は小高い場所にあるから、遮られることなく光が届くのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら、稜線に沈みゆく夕日を二人で眺める。
この時間になるともう観光客はいなくなる。
眼下で
ここまで来たけれど、最後の一本は見つからなかった。組み上げられるのを待っている糸はもうほとんど揃ったというのに、始めの一本が足りない。
こればかりは考えてどうにかなるようなものではないのだ。
東京に帰れば、また時が流れて行く。手をすり抜けたまま
いいだろう、それで。三葉に、大切な人には出会えたのだから。そこに理由を求めることはない。
そろそろ、戻らないと———。
「ねえ、瀧くん。お願いがあるんやけど」
三葉に呼ばれて、瀧は見つめる。笑っていた。そして瀧も、意図せず笑っていたことを自覚する。
なぜ? 決して、笑うような心境ではないのに。
「この紐、瀧くんに渡してもらっていい?」
三葉はそう言って、自分の髪を結っている組紐を指さした。
「ああ。でも、なんで?」
怪訝そうな瀧の意図を汲み取ってか、目をそらして三葉が答える。
「私、あの人にこの組紐をもらったんよ」
あの人。言われなくても、瀧には分かる。
懐かしむような、愛おしむような、それでいて泣き出しそうな感情を押し込めて。そんな表情だろうか?
三葉を見て、瀧はまた言葉にできない思いを抱いていた。
そろそろ黄昏時だ。沈む間近の日差しが、迫りくる夜の帳とせめぎ合う。
「忘れたくない、大切な人やったの。けど、もう思い出せんから」
思い出せんから。そう言いながら、声色からは痛いほどの、割り切れていない悔しさが伝わってくる。
太陽がどんどん高度を下げているのが、わかる。様々な色が入り乱れて、明暗の定まらない時間が訪れる。
「今度こそ、絶対忘れんように、って」
一呼吸置いた三葉が、瀧に向き直ってそう言った。
遠くの景色から宵闇に霞んで、世界の輪郭がやんわりと
三葉は、まだ見える。
「わかった。俺も、今度こそ覚えておきたいから」
優しい気持ちになって、瀧も笑顔を作る。
瀧もずっと、誰かを探している。
自分がかつてここに来たのはその人のためで———願わくば、この人のためで。
三葉が組紐の端に手をかけ、するりと解いた。
丸めて手の中に収め、差し出された瀧の右手に、上から手を重ねる。
組紐を挟んで、三葉の手と瀧の手が触れる。
———カタワレ時だ。
重なる声が、届いた。
***
すぐさま、二人とも目を見合わせた。
だが、二人が何も言葉を紡いでないのにも関わらず、その声は響いていく。
運命だとか未来だとか、そんな言葉を超えて、時計の針すら意に介さぬように。小さな子供みたいな二つの声が、世界の端っこまで消えることなく届いていく。
その声が何を言っているか、その主がどんな表情をしているか、どんな思いを抱いているのかすら、手に取るようにわかる。
だってそれは、それは。
———紛れもなく、あの時の。
あの日。星の降った日。三葉と出会うはるか前に。
この
でも、何のため?
思考が追いついて来たのは、そこまでだった。
消えたはずの思いが、崩れ落ちたはずの感情が、紐付くように引き上げられて、溢れ出していく。
生きていて欲しかった。助けるために来た。あいつに逢うために来た。
何があったんだ?
何にあんな、心躍らせていたんだ?
全身を血が駆け巡る。
心臓が熱く疾い鼓動を打つ。
勝手に滲む世界とともに、答えがこみ上げてくる。
ああ、そうだ!
そうだったんだ!
乗り切るために必死で、さして大事だとも思わなかった、かけがえのない日々。
好き勝手やって、言いたい放題言ったり言われたりして。時には互い、相手が絶対できないようなことをしたりして。
しょうもないくらいしんどくて、でもどうしようもないくらい楽しかった、共に過ごした時間。
それが、
お前に入ってたのは、俺なんだって。俺に入ってたのは、お前なんだって。
会えばぜったい、すぐわかる。そう確信していたはずの、そのことまでを今、やっと。
喉が詰まるほどの感情を、目頭が熱くなるほどの衝動を、どうにか押さえ込んで。
今度こそ、言おう。
「言おうと思ったんだ」
果たせずにいた約束。お前が世界のどこにいても、
「俺が必ず、もう一度逢いに行くって」
三葉の目に、小さなビー玉みたいな涙が光っている。
穏やかな気持ちのまま、瀧は笑顔になって言う。
「悪い。ずいぶん、遅くなっちまった」
瀧は笑う。世界を満たしていた二人の声は、もうとっくに聞こえない。
あの時と同じように、夜が静かに降りてくる。
でも。
もう忘れない。今度こそ覚えている。
約束も、君の名も、君も。
二人して、涙がこぼれ落ちている。泣きながら笑っている。
ありがとう、と。そう言って。
***
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その6 紡がれる糸
東京。雑踏と喧噪とめまぐるしく行き交う人々のなか、四ッ谷駅の前で瀧は待っている。
暦の上では秋だというのに、まだまだ残暑が厳しい。電話をかけようと思えばかけられるけど、もう着くころだ。必要ないだろう。
右手を見る。何もないけど、かつてそこにあったものが紡いだ物語は、覚えている。
不意に弾むような音がして、三葉のメッセージが画面に表示された。
瀧は顔を上げる。出入り口から、赤い髪紐の目立つ三葉と、その後ろにテシガワラとサヤカがついて出てくるのが見える。
もう何度も会ってるというのに、また“はじめまして”からか。まあ、それも悪くねえか。瀧は思う。
三葉が瀧に気づいた。後ろの二人は、たぶん、「あいつかあ」という顔をしている。
吹く風は、最初の時を彷彿とさせて。輝く日差しは、どこか懐かしさを孕んで。瀧も彼女たちに向かって歩き出す。
消えることない約束と、その名前を今、追いかけて行く。
偶然か必然か、入り乱れ、途切れ、そして再び寄り合わされてつながる人の出会い、運命、縁。
それはまるで、君の紐のように。———神のなせる技のように。
(おわり)
****
ありがとうございました!
以下はあとがきになります。
(本当は本文の後書き欄に入れたかったのですが、『ハーメルン』の本文文字数の制約上、こちらに入れさせていただきました。何卒ご容赦のほどお願い申し上げます)
本文とは関係ないイタイ感想の羅列になります。
7月1日の掲載開始から二ヶ月近くお付き合いいただいた方もおられるかと思います。
それほどまでに長い期間、作文に付いてきていただけたことに感謝の念が絶えません。言わずもがな、「君の名は。」はスゴイ作品でした。
『君の名は。』の中で、皆様それぞれ印象に残ったシーンがあるかと思います。たとえばラストの手を開く場面とか。切ない。切ないけど良い。この世界のどこかに、想いを寄せてくれている誰かがいる。それだけがわかる、みたいなあの感じ。私が書くとえらく陳腐になってしまうのが申し訳ないです。
映画公開から2周年を迎えました。個人的には何周年かの節目にリバイバル上映とかしてくんないかなと思っています。映画を見るために作られた空間ですから、家で見るブルーレイとはまた違った良さがありますよね。
最後に、自己満足ではありますが、もし、この作文が何らかの形で、皆様の娯楽となれたのであれば幸いでございます。
繰り返しになりますが、お付き合いいただき誠にありがとうございました。
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