コンドルは飛んでいく (りふぃ)
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0.始まる前に終わった夢

うちのエルグラをくらえ(/・ω・)/ミ☆


日本ウマ娘トレーニングセンター学園。

通称トレセン学園。

異世界の記憶と名前を受け継いだウマ娘たちが切磋琢磨し、明日のトゥインクルシリーズで活躍することを目指す学び舎である。

トゥインクルシリーズでは年若いウマ娘が揃うジュニアクラスと熟練のウマ娘が集まるシニアクラスに分かれている。

しかしジュニアクラスの中でも最年長に当たるC組は上位戦たるオープンレースへの出走権があるため、この年代から若コマと古バが世代交代をかけて激突することになる。

このC組在籍中の成績こそ、その世代の評価につながるのだ。

新旧入り混じって戦うオープン戦、特に重賞を幾つ古バからもぎ取れるか。

例年ジュニアC組のメンバーは、それ以前のA組やB組にいた時とは違った緊張感を持っている。

だが何事にも例外はあるもの。

その年のCクラスはどことなく緩い雰囲気が全体を覆っていた。

今年度におけるCクラスにて、大よその認知として三強と呼ばれる実力を持ったウマ娘達。

キングヘイロー、グラスワンダー、エルコンドルパサー。

この三人のウマ娘達の中で、チームに所属している者がまだ一人しかいなかったからだ。

条件戦より上のレースに参加するためには最低五名のウマ娘とトレーナー一人以上からなるチームに所属する必要がある。

若いウマ娘達はチームに所属することによってはじめてオープン戦のスタートラインに立てるのだ。

しかし自分自身の成功に大きなウエイトを占めるチーム選び。

実力のあるウマ娘程慎重になるし、妥協をしない。

それにしてもこの時期にチームが決まっていないというのは、いささか以上に不味かった。

 

「エルは本当にどうするんですか?」

「どうしましょうかネ~」

 

グラスワンダーはクラスメイトにしてルームメイトであるエルコンドルパサーに声をかける。

彼女は既にチーム『リギル』に参加していた。

其処はトレセン学園の中でも年間最多勝利を取り続けている超名門。

しかし現状定員によって新規の参入が叶わない。

リギルはトレーナーたる東条ハナのワンマンチームであり、他にトレーナーがいなかった。

その為一度に抱えられるウマ娘の数にも限りがある。

エルコンドルパサーとしては他にも幾つかのチームから勧誘は受けているものの、全く気分が乗らなかった。

 

「ヘイ、グラスー」

「なんですか?」

「リギルにはグラスより早いウマ娘、いるんデース?」

「……今すぐには勝てない方も、何人か」

「そっかー。いいデスネー」

 

心ここにあらずのエルコンドルパサー。

身長差からその横顔を見上げたグラスワンダーは、つまらなそうに息を吐く親友に肩を竦めた。

エルコンドルパサーはリギルに興味を持っているが固執しているわけではない。

ただ、自分より早いウマ娘がいないチームに入る気はないのだ。

彼女は自分を勧誘に来たチームにはその場で野良試合を申し込んでいる。

相手の好きな条件、距離でチームエースと一対一。

その全てで勝利してしまうためにチームが決まっていない。

 

「やっぱり受け身なのが良くないんですかネ」

「ん?」

 

グラスはエルの発言を半分ほど聞き逃した。

彼女の視線の先で級友の顔に悪童の笑みが浮かぶのを見たからだ。

 

「エル……お願いだから面倒な事は起こさないでくださいね?」

「大丈夫デース! まだチーム未所属なんだし、グラスに迷惑はかけませんヨ」

 

心底から嫌な予感を覚えたグラスワンダー。

彼女は既にチームリギルの先輩やトレーナーにエルコンドルパサーの将来性を売り込んでいる。

何かにつけて話題に出し、それまでに収集した彼女の走力データを紹介し、是非ともリギルに迎えるべきだと説いていたのだ。

グラスワンダーはリギルにおいては新参であり、年齢も若いジュニア組である。

その発言力はお世辞にも強いとは言えなかったが少しずつ同意者を増やし、親友の為に尽力していた。

 

(一度でもエルの走りをトレーナーが見てくれれば……)

 

エルコンドルパサーはリギルに入れるだろう。

しかし今それを言うわけには行かない。

全てはグラスワンダーの筋書きの中の話であり、上手く行ってはいるもののトレーナーの首を無条件で縦に振らせるには至っていなかった。

エルコンドルパサーが次に出走する条件戦。

それが前座となるレースに自分の出走日程と場所を被せる。

現在グラスワンダーのレースには必ずトレーナーが同道するため、ややあざとくても其処で親友の走りを見せられる筈だった。

 

「それではエル。私は練習がありますから」

「おー。頑張ってくださいネ!」

 

頼むから余計な事をしてくれるなと祈りつつ、グラスワンダーは親友と別れた。

この時、尻尾を引っ張ってでもリギルの練習を見学に来させるべきだった。

どうして一人になどしてしまったのかと、後々までグラスワンダーが後悔する分岐点が此処にあった。

 

 

 

§

 

 

 

その噂を聞いた時、グラスワンダーは苛立ち紛れに地面を蹴りかけて危うく理性でとどまった。

それによって僅か半月前にひびの入った脚は救われたが、彼女の心情は荒れたまま。

顔から血の気が引き、ふらつく足がやたらと重い。

彼女は聞きつけた噂の真相を追い、それがどうやら事実らしいと確認し、噂の渦中たる親友を探した。

今日はトレセン学園の休校日である。

勿論ウマ娘達の中にはレースが近いものもおり、個人で身体を動かす者もあるだろう。

エルコンドルパサーも三日後に条件戦が控えている筈だった。

出走は取り消したものの、自分のレースも同じ日程だったのだから間違いない。

しかし噂が本当ならば、きっとエルは最終調整などしていないだろう。

恐らく自室にいるはずだ。

 

「エル」

「ん? お、グラスー。今日は早いデスネ」

 

エルコンドルパサーはルームメイトの黙認によって飼っているコンドルに餌などやりつつぼんやりと外を眺めていた。

グラスワンダーは親友に詰め寄ると両手で襟を掴む。

そのまま絞めようとはしなかったため、エルコンドルパサーは抵抗をしない。

 

「エルのバカ! エルのバカっ エルのバカぁ」

「おぅマィフレンズ……どうしたデース?」

 

普段とまるで変わらない親友の対応が、グラスワンダーには気に入らない。

怒りに任せて声を荒げないよう一度深く息を吐く。

 

「ねぇエル」

「ハイ?」

「なんで条件戦の出走キャンセルしたんですか」

「えー……それは、もっと優先すべきことができたからデース」

「今のエルにチーム所属のための実績づくり以上に必要な事ってあるんですかっ!」

 

誤魔化すように苦笑しながら肉を一切れペットにかざす。

良く懐いたコンドルは飼い主の手から肉を啄み、その手に頭を寄せてくる。

自分に詰め寄られているのにペットばかり見ている親友。

グラスワンダーは自分でも驚くほど冷たい声でエルコンドルパサーに問いかけた。

 

「もう一つ、この間別れた後何をしていたんですか」

「走ってましタ」

「へぇ、どなたと?」

「えっと……どこのチームだったカナー」

「何処のチーム? じゃありません。ここ二週間で貴女が荒らしたチームが三つ。その中から五人も競り潰されて直近のレースから回避者が出ているそうじゃないですか!」

「チーム荒らし? ノンノン。唯の並走トレーニングネ! 少なくともあっちはそう言ってたヨ」

「……はぁ」

 

あと三日大人しくしていてくれれば……

グラスワンダーは親友の襟から手を放し、力尽きたようにへたり込んだ。

今ではエルコンドルパサーの能力にリギルのトレーナーも興味を持っていたのだ。

加えてこれまで黙々とトレーニングを積んできたグラスワンダーの、言ってみれば初めての意見であり自己主張。

東条トレーナーはこれを容れた場合のグラスのモチベーションも計算していた筈で、人心を掌握しつつ逸材も手に入る、まさにwinwinの取引だった。

ましてや、エルコンドルパサー自身も嫌がってはいなかったチーム入りなのに。

いつの間にか俯いていた顔を上げた時、自分に合わせて座り込んだ親友の綺麗な顔が目の前にある。

マスク無しの彼女の顔はグラスワンダーだけが見れる特権だった。

今はそんな特権に感謝など出来ないが。

 

「それで、何を思いついちゃったんですか?」

「あのね! 私、待ってるってらしくないって思ったんだー」

 

美人系の顔に童女のような笑みを浮かべてエルコンドルパサーが語る。

似非外国人風のキャラづくりも忘れているから本気なのだろう。

グラスワンダーには其れが分かるからこそ、その後がひたすら面倒な事態に向かっていく事も理解してしまった。

 

「条件戦の実績なんて相手に見つけてもらう為のものでしょ。こんなレースに勝ちました、だから私を誘ってくださいって」

「……まぁ、そうですね」

「私、今二戦二勝してるんだよ? だけどチームに入れてない。誰も私の事を見つけられないんだよ」

「ちゃんと目立ってるじゃないですか! リギルが満員だというだけで、他にもいろんなチームから声が掛かっているでしょう」

「うん。つまり目ぼしい所は来てくれた。けれど私は満たされてない。なら今度は私から、私の所に来なかったチームを探しに行かなきゃだめなんだよ」

「だからぁっ」

「だから?」

「――っ」

 

もう少し待っていてくれれば。

そう言いかけて飲み込んだグラスワンダー。

エルコンドルパサーからしてみれば当人の与り知らぬ水面下の話であり、あてに出来るものではない。

もう少し自分を信じてくれてもよかったじゃないか、とはグラスワンダーの甘えだろう。

条件戦で十分な実績を上げても、リギルにもそれ以外にも自分のチームが見つからなかったエルコンドルパサー。

彼女は誰かに期待することを止め、自分から歩き出したのだ。

 

「エル……」

「ん? どうしましタ」

「あ、いいえ。何でもないです。なんでも……」

 

前日までエルコンドルパサーの前には幾つもの選択肢があった。

しかし己の決めた道を歩み始めた今の彼女は、その選択肢の幾つかを振り返ることなく切ったのだ。

彼女が何を選び、何を捨てたのか今の時点では分からない。

グラスワンダーもこの時はまだ、漠然とした不安以上のものを感じていなかった。

 

「それで、エルはこれからどうするんです?」

「目についたチームと端から勝負してきマース。勝ち続ければリギルの耳にも届くだろうし、納得のいく負けを貰えば其処に所属したくなる……カモネ?」

 

悪戯っぽく片目をつむるエルコンドルパサーに盛大なため息を吐くグラスワンダー。

このゴタゴタと不祥事で、自分の進めているルートのリギル加入は困難になった。

チーム荒らしからリギルに入れた、等という前例を作られるわけには行かないのだ。

何か周囲を黙らせる妥協案が必要になるだろう。

例えば選考レース等を挟んで実力を見せつけるような。

その方向にもっていこうとグラスワンダーは心に決めた。

グラスワンダーはエルコンドルパサーがリギルのメンバー以外に負ける可能性を欠片も考えていない。

それはエルコンドルパサーも同様だった。

 

 

 

§

 

 

 

エルコンドルパサーのチーム荒らしは徐々に広がってはいたものの、瞬く間に知れ渡った……とは言えない。

チームの名声は若手加入時に重要な意味を持つ。

最年長とは言え未だジュニアクラスのウマ娘一人に挑まれ、自分から負けましたと公言するチームなどいないのだ。

エルコンドルパサー自身も千切り捨てた相手の事など翌日には忘れてしまうために口に上る事はない。

事情を知るグラスワンダーは、親友の奇行が早く収まる事を祈るのみである。

 

「今日は何処に行くんですか?」

「えっとー……最低四人以上いるチームじゃないと意味無いですからネ~」

「本当に負けたら其処に入る心算なんですね」

「可能性はあるってだけですヨ」

 

現在骨折療養中のグラスワンダーはきつい調整が出来ない。

自然と時間は空き気味になり、この時とばかりにエルコンドルパサーに付き添っていた。

 

「グラスの脚はどんな感じ?」

「もう少しかかりますね」

 

二人は資料を見ながら学園中央玄関に差し掛かる。

エルコンドルパサーの手にはトレセン学園に登録しているチームを紹介しているパンフレット。

グラスワンダーの手には現在公表されているウマ娘達の出走予定レース表。

なるべく他人に迷惑をかけないよう、グラスワンダーはレースの決まっているウマ娘のいるチームに親友を近づけないように腐心していた。

 

「今のエル、ヒシアマゾン先輩が見たら喜ぶだろうなぁ」

「あー……えっと、タイマン狂の人ですカー?」

「そう。先輩はその……タイマン? っていうの大好きですから。今度連れてこいってよく言われます」

「叩き合いなら私も大歓迎デース」

 

グラスワンダーを通じてリギルのメンバーについて聞いているエルコンドルパサーである。

強豪ひしめくリギルには自然とアクの強いウマ娘も集まるらしく、その個性豊かなキャラクターは聞いているだけでも楽しかった。

そんな話をしながら靴を履き替え、チームの詰め所が集まる棟に向かう二人。

グラスワンダーは道中も資料を見ながらエルコンドルパサーの生贄となるチームを探す。

しかし四人以上の人数と出走予定があるメンバーがいないチームというのも限られている。

また両者の手元の資料だけでは少人数チームの具体的な人数までは分からないため、結局当たってみるしかない部分もあった。

 

「どこにしようかなてんのかみさまのいうと…………おぉ!」

「ん?」

 

グラスワンダーが迷っているうちに適当に選び始めたエルコンドルパサーが声を上げた。

明らかに喜色に染まった声音である。

何を見つけたのかと親友の視線を追いかけるグラスワンダー。

 

「あっ?」

 

エルコンドルパサーが魅入ったのは棟から出て来た一人のウマ娘だった。

知っている顔なのだろう。

グラスワンダーも顔だけは知っている。

しかしあまり良い印象のない相手でもあった。

 

「今日はついてマース!」

「エルっ、ちょっとあの人は止め……あぁ」

 

駆けだした怪鳥の背中に伸ばした手が虚しく空を切る。

 

「ヘイユー!」

「あら、私に何か御用かしら?」

 

高い身長に見事なスタイル。

そして風を象る長い黒髪。

そのウマ娘の名をシーキングザパール。

日本で初めて欧州におけるG1レースを勝利した事で有名なウマ娘であった。

 

「あぁ……」

 

グラスワンダーは彼女と直接の面識はない。

にもかかわらず苦手意識があるのは、リギルのある先輩の影響である。

普段は人懐っこい先輩が蛇蝎のごとく嫌っている数少ないウマ娘が、このシーキングザパールだった。

しかしエルコンドルパサーは知った事かとばかりに有名な先輩に駆け寄ると、まるでミーハーなファンのようにまとわりついている。

 

「やっぱり世界に出れるウマ娘には憧れがありマース!」

「ふふ、ありがとう」

「あ、サインとかいただけます?」

「良いわよ」

「じゃ、此処にお願いしマース」

 

トレーニングウェアを脱いで無地のTシャツを晒したエルコンドルパサー。

堂々と胸を張る姿に、此処に書けという意思を感じたシーキングザパール。

そんな二人の姿に意味不明の苛立ちを覚えるグラスワンダー。

 

「貴女はもう少し恥じらいと出し惜しみを覚えると、好い女になれるわよ」

「あはは……今色紙持ってないのデース」

「エル。時間、なくなりますよ」

「あら、貴女はリギルの……」

 

グラスワンダーはシーキングザパールの視線を受けて小さく目礼する。

 

「彼女は元気にしているかしら」

「えっと、リギルで……彼女と仰いますと、どなたでしょうか?」

 

確信に近い心当たりがあるグラスワンダーだが、親友の目がある此処ではしらを切った。

シーキングザパールも特に追及する気はない。

受け取ったペンでシャツの腹部にサインする。

エルコンドルパサーの胸部は同年代の平均以上に豊かなためにとても書きづらかった。

 

「先輩、これからお時間ありませんカ!」

「これからは自主練だから、少しなら」

「自主練……じゃ、良かったら並走トレーニングしませんか!」

「エルっ、もう少し遠慮して」

「併せ馬?」

「ん?」

「あ、ごめんなさいね。うちの先輩が並走トレーニングをそう呼んでいるから」

 

聞きなれない単語に首を傾げたエルコンドルパサーだが、シーキングザパールは艶のある微笑でそれに答える。

同時にここ最近一部で噂になっているチーム荒らしの事にも思い至ったパールであった。

 

「成程、貴女達が噂のわんぱくね?」

「待ってください! 私は何もしていません」

「イエース。私が走るのをニコニコしながら見てるだけデース」

「…………そういうの、黒幕って言うんじゃないかしら」

「おお! グラスにぴったりデスね」

「ああああああ!」

 

手元の資料を取り落とし、代わりに頭を抱えたグラスである。

もう少し事が大きくなれば東条トレーナーの耳に入るだろう。

そうなればどのような叱責を受けるか分かったものではない。

 

「エル帰ろう。もう止めましょうこんな事。お部屋に引きこもってお花の冠でも作っていた方が絶対有意義な時間ですから。作り方、教えてあげますから。ね、帰ろう」

「花冠なんて食べられないデース」

「食べられる野草が良いですか? 大丈夫。タンポポとか美味しいですから」

「……わざわざアメリカから東京のトレセンまで来てタンポポ食べるくらいならチーム探ししたいヨ」

「エルがやってるのはチーム荒らしでしょうっ」

「あら、貴女所属チーム決まっていないのかしら?」

「そうなんデスよー。なかなか縁が無くて」

 

エルコンドルパサーは事此処に至った経緯を掻い摘んで話す。

出来れば自分より早いウマ娘の居るチームで鍛えたい事。

今の所そんな相手が居なかったために所属チームが決まらない事。

聞き終えたシーキングザパールは額に寄ったしわを指で揉みながら呟いた。

 

「要するに、リギルが人を持っていきすぎなのよね」

「やっぱりそんな気はしていマシタ」

「あの、リギルは見込みのある方の勧誘はしますけれど強制はありませんよ? 勧誘までは何処も普通にやりますし」

 

二人の視線を受けたグラスワンダーは困ったように返答する。

暗に自分に見込みがあったと言っているようで心苦しいが、強制や非道な事は何もない。

しかしエルコンドルパサーには思う所があるようで、グラスワンダーも聞き逃せない一言を洩らした。

 

「グラスもあっという間に持っていかれちゃいましたしネ~」

「私?」

「チョットね。私達がB組の頃考えていたんデスよ。私でしょ、グラスでしょ、ウンスちゃんとヘイローちゃん。後もう一人誰か……それで、浮いてるトレーナー適当に捕まえてチーム組んだら面白そうだなーってネ」

「……聞いてないんですけど」

「一年限定。そのチームでクラシックと他のG1を全部攫って、有馬記念で決着を付ける……そんで解散! そんな……ま、妄想だヨ」

「私そんなの聞いていませんっ」

「そりゃ言ってないもん。学園一のチームに入って順風満帆な同期の出世頭に、そんな夢ばっかりの話持ち込めないでショ?」

「ちょっと、ちょっと待ってください。もしかして、ヘイローちゃんやセイウンスカイちゃんがチームを決めていなかったのって……」

「……それにまぁ、グラスがいてくれたとしても……どうしてもあと一人、絞れなくてネ。だけど皆諦め悪くってサー」

 

ウマ娘達にとって一生に一度のクラシックレース。

それは一つのチームで白星を食い合う地獄絵図になるだろう。

しかし勝ち抜けばこの世代こそ最強だと声高に宣言出来るだろう。

チームの中で勝つものがあれば負けが込むものも出たはずだ。

それでもこのメンバーなら、不和に陥ることなく競い合い、高め合っていける。

そう信じていればこその夢物語。

実現しなかった可能性を想起したグラスワンダーは、いつの間にか胸の前で堅く両手を組んでいた。

その姿を見たエルコンドルパサーはもう一つの事情を笑みの裏に伏せる。

 

「Cクラスの同期で組んだチームでクラシックと古バ混成G1の完全制覇……一人では見られない夢、最強世代という名声への挑戦……大きいわね」

「失敗したらこれでもかってくらい叩かれるでしょうけどネ!」

「…………そうね。もしかしたら、流れてよかったのかもしれないわね」

 

シーキングザパールの同意はややほろ苦さを帯びた。

間違いなく旨味よりも苦味が勝る選択肢だろう。

負ければ身の程を知らない若輩者の暴挙と言われるだろうし、勝てば勝ったでチーム外の同期からは妬まれるはずだ。

しかしエルコンドルパサーやグラスワンダーを見る限り、そんな事は分かった上で共に歩みたいと思える同期に恵まれたのだと思う。

そんなウマ娘が五人も集まったのならば、それはある意味で奇跡の世代と言えるかもしれない。

 

「……終わった夢の事は一旦おいておきなさい。今は貴女のチーム探しでしょう」

「オー、そうでした!」

「私は今新しいチームの立ち上げに関わっているのよ。貴女が捕まれば五人になるわ」

「じゃ、勝負してくれますカー?」

「条件は?」

「そっちで決めて良いデスよ」

「……噂通り、粋の良い事」

 

シーキングザパールは満足そうに頷くと、後輩二人を目で招く。

エルとグラスがついてくるのを確認して棟に戻るパール。

 

「あれ、走らないんですカ?」

「折角鴨が葱を背負ってきてくれたんだもの。確実に勝てる相手を出させてもらうわよ」

「先輩より早いウマ娘がいるんですカ!」

「ええ。貴女、エースと勝負したいのでしょう?」

「イエース」

「じゃあついていらっしゃいな……あぁ、確認しておくけれど、こっちが勝ったら貴女はうちのチーム。これは約束でいいのかしら?」

「真っ向勝負で完敗したらオッケーね」

「良いでしょう。そっちのお嬢さんは別に関係ないのよね?」

「決めるのはエルです。意思の強制が無い限り私も口は出しません」

「宜しい。では無敗のお嬢さんに、負けを教えてあげましょう」

 

シーキングザパールが足を止めたのは一つの部屋の前だった。

扉の前に張り付けられた文字は『Comet』

 

「彗星……デスか」

「ええ。ようこそチームコメットへ」

 

 

 

§

 

 

 

扉を開けたシーキングザパールの後に続き、エルコンドルパサーとグラスワンダーが入室する。

中にいたのは一人のウマ娘。

色素の薄い白い肌に、緩くウェーブの掛かった燃えるような長い赤髪。

背は傍に立つシーキングザパールよりなお高く、身体の凹凸も背丈相応に抜きんでている。

その温厚な笑みを見たエルコンドルパサーの第一印象は深窓の令嬢だった。

しかしそのウマ娘から発せられた声は怪鳥の予想を裏切った。

 

「おぅパール。若けぇ連中はまだ来てねぇのか」

「ジュニアだとまだ座学も多いからね。それより、お客様よ先輩」

「客?」

 

その声に促されるようにシーキングザパールの背中から二人のウマ娘が出てくる。

パール以外の三人がそれぞれに興味深げな視線を交わす。

 

「らっしゃい」

「あ、ドーモ」

「こんにちわ」

 

シーキングザパールはエルコンドルパサーの隣に立つと、その肩に手を乗せながら要件を案内した。

 

「この子がうちのエースと勝負したいそうよ」

「エース? ならおめぇの客だろうよ」

「こっちが勝ったらチーム入りしてくれるんですって。なら、必勝を期すべきでしょう」

「ふーん」

「あと、何度も言うけれど……此処は貴方のチームなのよ。自覚を持ちなさい」

「厳しい女房だねぇ……」

 

舌打ちをしながらガシガシと頭をかくウマ娘。

手荒に扱いつつも抜け毛の一本も出ないその髪質にグラスワンダーは驚愕を隠せない。

絶句する親友にも気づかず歩み出たエルコンドルパサーは、人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「えっと、先輩さん。よろしくお願いしマス」

「おぅ。俺様とやりてぇって事はおめぇ、スプリンターかマイラーかい?」

「条件はそっちで決めて良いデスよー」

「おお、気っ風の良い若造だ」

 

そのウマ娘は怪鳥の出す条件を豪快に笑い飛ばす。

やがて笑いを納めると、やや真面目な顔で話し出した。

 

「はー……笑った。だがなぁ坊主。そういう時は必ず最低条件を告げておけや。その中から選ばせろ」

「本当に何が来ても走りますけど……」

「じゃあ6900㍍障害な」

「はわっ!?」

「……まぁ、その場合相手をするのは俺じゃねぇけどよ」

「あ、あはははは」

 

この状況で障害レースを持ち出されるとは思っていなかったエルコンドルパサー。

完全に入っていなかった選択肢に笑いが止められない。

坊主呼ばわりされた事も気にはなったが、この相手と走ってみたいという欲求が胸の内を満たしていく。

 

「じゃ、ウケも取れた所でもう一回聞こうじゃねぇか。てめぇは何処で生きていくんだ?」

「え?」

「芝か? ダートか? 距離は短距離? マイル? 中距離? それともステイヤーか? 具体的におめぇが戦う舞台を示して見せろってんだよ」

 

エルコンドルパサーは赤い髪の女に答えるべく、自分の中に問いかける。

自分は何処で生きていくのか。

ターフの上で他のウマ娘と戦う時、どこを自分の主戦場と定めるのか。

俯いて瞳を閉じ、左右の拳を握りしめたエルコンドルパサー。

三人のウマ娘達はそんな彼女を見つめ、静かにその答えを待った。

 

「距離は1000から3600。条件は芝でもダートでも、どっちでもやりマス」

「……やっぱすげぇわ。おめぇ」

 

エルコンドルパサーの出した答えに深く頷いた赤毛のウマ娘。

 

「つまり平地の最強を目指すってこったな」

「イエース! 負っけませんヨー」

「いや、負けてもらう」

 

笑みを消し、瞳を細め、年若い怪鳥を見据える女。

突如和やかさを消した相手に思わず前に出そうになったグラスワンダー。

シーキングザパールはグラスワンダーを手で制す。

 

「怒っちゃいましたカー?」

「はっ、ガキが余計な心配してんじゃねぇよ。怒ったんじゃねぇ……覚悟を決めたのさ」

「覚悟?」

「そう。負けたら死ぬ、そういうこった。実際本当に死ぬわけじゃねぇけどよぅ……俺様は其処まで器用じゃねぇ。オールラウンダーに負けたとあっちゃ商売あがったりなんだよ」

「……なるほど」

 

エルコンドルパサーはそれほどの覚悟で自分と向き合う相手に感謝すら浮かぶ。

彼女は遊びでチーム荒らしの真似事などしているわけではない。

しかし中にはこの勝負を余興として楽しむチームもあったのだ。

 

「私、先輩の事好きになれそうデース」

「負けた後でも同じこと言えんのかね」

「それは内容次第でショ。どうします?」

「……ダートの1100だ」

「オッケー」

 

其処がこのウマ娘の戦場なのだろう。

エルコンドルパサーが実戦で走ったのは、今の所で最短でも1600㍍。

チーム荒らしも含めて1400である

今までとはまるで違うレース運びが必要だった。

 

「トレーナーにコース用意させらぁ。行こうか」

「どうせならうちの若い子にも見せてあげましょうか」

「そうだな……おぅ坊主」

「まいっねーむっいず、エルコンドルパサー……デースっ」

「分かった坊主。わりぃがうちの若ぇ衆にも見せてやりてぇんでな。ついたら軽くアップでもしててくれや」

「……せめて小娘扱いにして欲しいデース」

「おめぇあんまり女って気配がしねぇんだよなぁ」

 

肩を竦めた女が三者の脇をすり抜け、出口に向かう。

親友があしらわれたと感じたグラスワンダーは女の背中に声をかける。

 

「先輩も、あまり女性らしいとは言えないと思いますけれど」

「当たり前だ。俺ぁ中身まで女になった心算はねぇ」

「……え?」

「付け加えるなら、俺はウマ娘でもねぇ心算だ……これは本当に、心算なだけだがな」

 

恩恵だけ受け取ってこの身体を否定するのはフェアではない。

そうと分かってはいるものの、納得したら失うものが多すぎる。

彼女は口から大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。

更に両足先から両手の先まで多くの関節を緩く回す。

思い通りに動く、本当に良い身体だと思う。

 

「ま、そういうウマ娘もいるってこった」

「セーンパイ、短距離のコツ教えてくだサイ!」

「俺ぁおめぇの特徴何も知らねぇんだがな……短距離慣れしてねぇならアシ余さねぇよう早めに入れ。特におめぇは長距離もこなそうってんなら体力もあんだろ?」

「ふむふむ」

「オールラウンダーが短距離でスプリンターに勝つなら良い脚を長く使って体力勝負に持ち込みな。脚の速さ比べに付き合っちゃいけねぇ……特に俺様相手にはな」

「……先輩良い人デスね」

「なぁに、これから同じチームでやっていくかもしれねぇ相手だろ」

 

淡々と答えながら先頭を征く赤い女。

彼女の視界にこの世界がどのように映っているのだろうか。

自らをウマ娘ではないと言ったこの女は何者の心算なのか。

レース後にでも聞いてみたいエルコンドルパサーであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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1.振り返ることなく進む夢

だんだん史実ズレが激しくなってきます


 

 

チームの詰め所を出た四人のウマ娘が棟の廊下を歩いていく。

途中先頭のウマ娘がスマホでトレーナーと連絡を取っていた。

スピーカーモードの為、会話は筒抜けである。

 

「おぅ、ハードバージ。おめぇまだ生きてっか?」

「んぁ……寝てたよ」

「っは、真昼間っから寝てぇなら死んでからにしな。仕事だごく潰し」

「なにー?」

「例のチーム荒らしがうちに来た。気に入ったから俺様が相手をする。ダートコースを1100で取ってくれや」

「んー。急だねぇ」

「まぁな。出来っか?」

「芝じゃなければだいじょーぶ……だと思う。ダートはこっちじゃ不人気だから」

「はぁ……世知辛いお国柄だぜ」

「今回はそれで得してるよー」

「そうさな。じゃ、頼まぁ」

「あいよー」

 

スマホから聞こえた声に顔を見合わせたグラスワンダーとエルコンドルパサー。

トレーナーに対するウマ娘としては余りに気安い印象だった。

一応は指導者に当たるのだから、もう少し丁寧な対応をするものではなかろうか。

特にリギルのグラスワンダーは今見聞きしたものが信じられない衝撃だった。

シーキングザパールも気にした様子がないので、このチームとしてはいつも通りなのだろうが。

 

「先輩、今のトレーナーさんデスか?」

「おう」

「どんな人?」

「今のあいつは一言でいえば負け犬なんだが……まぁ、色々あるから一概には言えねぇのかなぁ」

「お名前からするとウマ娘なのですか?」

「そうだ。一応現役の時は皐月賞取ってダービーも二着だったんだぜ」

「素晴らしい成績だと思いますが」

「同じクラシックでも取った年で価値が変わるだろ? そういうこった」

 

グラスワンダーとエルコンドルパサーは互いに顔を見合わせた。

チームとは競技者たるウマ娘とそれを指導、管理するトレーナーによって作られる。

専門知識の必要なトレーナーとはその資格において狭き門ではあるものの、人間でもウマ娘でもなる事は出来た。

しかし世間一般の認知として、ウマ娘と人間との間には特別な絆があると信じられており、全体で見た時人間のトレーナーが指導するチームの方が成績が良い傾向がある事も事実である。

幾らG1級とは言えウマ娘がトレーナーをしているというのは、チームとしてはマイナス要素に感じる二人だった。

 

「ウマ娘がトレーナーしてるチームって珍しいデスね」

「トレーナーとしちゃ人間の方が引く手数多だしな。だけど新チーム作ろうって時はウマ娘から探すと便利なんだぜ? そこそこあぶれていやがるからよ」

「さっきダートでお国柄って言ってましたよネ。もしかして、先輩も帰国子女デース?」

「いんや、留学って枠を使ってる。所属はあくまで故郷……アメリカのカリフォルニアだ。しかし先輩もってこたぁ……」

「イエース! ケンタッキーで生まれましタ」

「あそこかよ! 憧れあんなぁ」

「ケンタッキーダービーの聖地デスから、私も誇りに思ってマース」

 

意気投合している二人を見ながらシーキングザパールも自分のスマホを操作している。

チームのグループLINEに事情を書き込み、用事が無ければ来るように連絡を送る。

ふと気がつけばグラスワンダーがパールの隣に並んでおり、ためらいがちに聞いてきた。

 

「あの……」

「何かしら」

「そちらのトレーナーさんについてもう少し、伺っても良いでしょうか」

「ええ、まぁ貴女はリギルだから説明は楽だしね」

「ありがとうございます。あの、リギルだと説明が楽だというのは……」

「うちのトレーナーが現役の時デビューしたのと、あの不良赤毛がこっちに留学してデビューしたのがほぼ同期なんだけどね」

「はい」

「マルゼンスキー先輩が出てきたのもその年だったわ」

「あ……」

「もう分かった? チームリギルの最初の巨星。怪我に泣かされたから出走自体は多くなかったけれど、それと同年代ってだけで同期も相当泣かされたのよね」

「少しだけ、聞いたことがあります」

「あいつなんかメイクデビュー戦まで一緒だったらしいわよ」

「それは……ん?」

 

赤い背中をあごで示して笑むシーキングザパール。

グラスワンダーは何気なく答えかけて違和感に詰まった。

親友に何かを伝えなくてはならない。

そんな気がしたのだが、形になる前に目的地が見えてきた。

眉間にしわを寄せて黙考するグラスワンダー。

その目の前でエルコンドルパサーが赤い女にまとわりついている。

 

「そういえば先輩、お名前聞いてなかったデス」

「おぅ。なんか普通に馴染んじまってたな」

 

赤い女はガシガシと頭をかく。

シーキングザパールは後ろから蹴りを入れ、痛むから止めろとたしなめた。

心底不満そうにしながら舌打ちし、それでも黙って従う女。

 

「……俺はシルキー。シルキーサリヴァンだ。よろしくな、エルコンドルパサー」

 

 

 

§

 

 

 

ハードバージが手配したのは、トレセン学園で練習場として使用可能なダートコースの一つである。

昨今この国のレースではダート路線の人気が低迷している事もあり、此処で練習しているものは少ない。

むしろダートは地方のトレセンの方が出走するウマ娘が多かったりする。

この日もやはりがら空きだったが、先客がいた。

それは二人のウマ娘。

グラスワンダーやエルコンドルパサーには見覚えが無い。

 

「あら、早かったわね貴女達」

「授業が終わって移動中にLINEいただきましたのでー」

「イヒヒ、先回りになっちゃいましたねぇ」

 

シルキーサリヴァンは先客二人を手で招く。

やって来た二人はエルとグラスの前に立ち、その後ろにシルキーがついた。

 

「紹介すらぁ。こいつらがうちの若ぇ衆。でっけぇ方がメイショウドトウだ」

「よ、よろしくお願いします。先輩方」

「地力は本物だが勝負根性がねぇのかいまいち勝ち切れねぇ、二着バカだ」

「酷いですぅ……」

「で、こっちのちっこいのがアグネスデジタル」

「アグネスデジタルです。初めまして」

「ずっとそうしてりゃまともなんだがな、地が出ると唯のバカだ」

「酷い!」

 

朗らかな笑みで手酷い紹介をされた若い衆二人。

グラスワンダーとエルコンドルパサーも自己紹介を返す。

グラスは相手を丁寧に観察すると、アグネスデジタルが妙に親友を見ている事に気づく。

その視線の先にあるのは顔ではなく胸だった。

 

「おぅデジタル、そっちのマスクの奴ぁ多分、おめぇが素で当たっても平気だぞ」

「マジっすか!」

「キャラ濃そうだから手加減して欲しいデース」

「可愛い可愛いウマ娘ちゃん! 身長は体重はスリーサイズは性感帯は? あ、何となく見切った! 身長163センチ体重51キロ」

「身長はともかく何故体重が割り出せマスか!?」

「バスト89ウエスト58ヒップ86くらい? 良い身体してますねぇでゅふふふふ」

「なにこの全自動セクハラ発生装置!?」

 

エルコンドルパサーの手を取り、秘すべき数値を瞬く間に暴き出すアグネスデジタル。

全身筋力の差から手ごと振り払う事も出来そうだが、得体のしれない寒気が怪鳥の行動を阻害していた。

余りの展開にグラスワンダーも反応が遅れる。

動いたのは隣にいたメイショウドトウとシーキングザパール。

ドトウはデジタルを後ろから引きはがし、パールは固まっているエルを回収する。

 

「……なんだあいつ。いつもの数倍ヤバくねぇか?」

「LINEにはそちらの方はチーム入りしてくれるかもしれないとあったので、テンションが上がっているのではないかとー」

「ドトウちゃん首、首極まってる……あぁでも後頭部やーらけー……」

「あ、やだ触っちゃったぁ」

「ひでぇ」

 

メイショウドトウは腕で首に引っ掛けて吊っていたアグネスデジタルを解放する。

デジタルは突如離されたにもかかわらずふらつきもせず着地した。

この時にはグラスワンダーも硬直を脱し、親友を背中に庇って立っている。

 

「なんなんですかこの子……」

「だから言ったろ。唯のバカだって。まぁ……此処まで拗らせてるとは俺様も知らなかった訳だが」

「エル、後で防犯ブザーを手配しますから携帯してください。学園内だからと油断していました」

「そっちの先輩も負けず劣らずの美少女ぶりっ。んー……身長152センチは確定として他は触診しないとわっかんないなー」

「ひぃっ」

 

グラスワンダーに向けて両手を伸ばすアグネスデジタル。

その手が届く前にシーキングザパールが割って入る。

パールはデジタルの伸ばす手のひらに自分の手を合わせると、指を絡めるように真正面から握る。

一瞬動きが止まるデジタル。

間髪入れず背後から、シルキーサリヴァンがその頭頂部に拳骨を落とした。

身長差30センチ以上の相手から落とされる雷にアグネスデジタルは地に伏して黙す。

 

「おめぇ結局勝負の後、チーム入りを決めるのはあいつ自身だって事忘れてねぇか?」

「……ごめんなざぃ」

「本当にどうしちまったんだよおい。俺自身初めて見る醜態なんだが」

「チームに後輩が入ったら先輩の権力傘にいっぱいセクハラするのが夢だったんで、つい……」

「最悪だなおめぇ」

 

シルキーサリヴァンはデジタルの襟首をつかんで立ち上る。

自然とつられたデジタルだが、絞まる前に正面のシーキングザパールに向かって放り出された。

パールは後輩を受け止めながら拳骨の跡地を撫でてやる。

 

「なんでも年上のお姉さんを見るとタガが外れるお年頃らしいわよ」

「申し訳ないっす」

「俺らには比較的まともだったろ?」

「親みたいなんですって」

「ちょっと姐さんそれ」

「あ、ごめんなさい。口止めされていたんだったわ」

 

明らかに態と口を滑らせたシーキングザパールにふてくされるアグネスデジタル。

エルコンドルパサーはグラスワンダーの肩を叩いて横に並ぶ。

親友の意思を過不足なく察したグラスワンダーは一歩下がって後ろに控えた。

 

「賑やかなチームデース」

「このバカ騒ぎを賑やかと言ってくれるたぁ器がでけぇな」

「あはは、早く走ってみたくなりましたネ」

「おぅ。だがその前に、アップと柔軟はやっておけ。怪我になる」

「イエス。ちょっと時間もらいマース。ちなみにね」

「あぁ?」

「こっちが乗り込んでるから当たり前なんですガ―……アップの時間くれたチームなんて半分も無かったヨ」

「よっぽど自信がねぇんだろうさ。上まで届くウマ娘なんざ全体の一割もいねぇ訳だし無理ねぇよ」

 

シルキーサリヴァンとエルコンドルパサーは笑みを交わし、互いに背を向けた。

離れる二人にそれぞれの仲間が続く。

グラスワンダーは肩越しに一度振り向くと、親友の相手となる者の後ろ姿を目に焼き付けた。

 

「エル、少し良いですか」

「どうしマシタ?」

「パール先輩のお話を聞いて……あのシルキー先輩が、リギルのマルゼンスキー先輩とデビュー戦が一緒だったって」

「えっとー、マルゼンスキー先輩って、グラスが言ってたグランマ?」

「そうなんですが……実はリギルの最古参で、今でも一番足の速いウマ娘です」

「一番ですカ?」

「一番っていうのは私が信じているだけかもしれません。怪我が多くて、出走数は少ないしあまり重賞にも恵まれていません。練習も軽い調整くらいしか出来ない方なんですが……本当に早いんです。練習の時計でレースをしたら大体レコードになっています」

 

マルゼンスキーはリギルのメンバーの中では特にグラスワンダーが世話になっている先輩である。

ウマが合うのか、怪我をする前はマルゼンスキーの『軽い』調整の相手は自分が勤める事も多かった。

自然とよく話したし、過去の話も聞くことが出来た。

今ではもう大分昔のレースになるが、グラスワンダーはマルゼンスキーのメイクデビュー時の話も聞いたことがある。

 

「マルゼンスキー先輩のデビュー戦、当時のレースの常識がひっくり返る程の衝撃だったそうです」

「そこまでデスか」

「はい。何せ、コースレコードを三秒以上縮めて完勝しています」

「二位と三秒じゃなくて?」

「レコードから三秒です」

「……それ大惨事じゃない?」

「はい。大惨事になったらしいです……他の方にとっては」

 

一位のウマ娘が入線してからカウントされる秒数に遅れすぎると出走停止などのペナルティがつく。

これはまだ未熟な未勝利のウマ娘にとって、決して少なくない事例となる。

一度であればまだ取り返しがつくものの、二度三度と重なれば未勝利のまま一つ上のクラスに上がらざるを得ない。

そんなレースのレベルについていける筈が無く、度重なる出走停止は多くの場合引退勧告と同様に扱われるのだ。

 

「レコードタイムで走れたとしても三秒以上の遅れです。普通は其処からさらに遅れる訳ですから、そのレースに居合わせた殆どのウマ娘に未来はありませんでした」

「救済措置は?」

「天候もババも良好。実力差以外に差がつく要素はありませんでした。先輩は早く走っただけですから、他の事例と差別化して救済する理由が無かったそうです」

「タイムオーバーペナって一回貰うとメンタルが壊れるって言いますよネ」

「そうですね……ましてデビュー戦の事ですから。初めての負けでタイムオーバーなど、当人にしか分からないショックだと思います」

「留学生が初戦でタイムオーバーなんかしたら返されるよネ?」

「はい。だから、あの人は遅れていないんだと思います。最低でも当時のレコードクラスで走破した筈です」

「へぇ」

「しかもマルゼンスキー先輩はそのレースで無理が祟って、元々脆かった足が本格的に爆弾持ちになっています。つまり先輩のキャリアで唯一まともな調整が出来た一戦だったんです」

「……二人以上がレコード出した時って、先頭の一人しか話題にならないんですよネ~」

「……私もマルゼンスキー先輩に、こんなレースがあったんだよって聞いただけでしたから」

 

エルコンドルパサーは離れた所で柔軟をしているシルキーサリヴァンを見た。

 

「ほーんと、今日はついてマース」

「エル、油断しちゃダメですよ」

「イエース! だからグラス」

「はい?」

「見ててネ!」

「はい。頑張って」

 

 

 

§

 

 

 

「待たせたな」

「こっちこそ、お時間貰ってありがとうデース」

 

見下ろすシルキーサリヴァンと、見上げるエルコンドルパサー。

果たして実力も同じ構図かどうか。

グラスワンダーはコースから離れ、コメットのメンバーと共に対峙する二人を見つめていた。

 

「ダートの1100、スタートはうちで採用してるハウスルールでやってもらうぜ」

「ハウスルール?」

「おう。若い方が好きに出る。年寄りはそれを見てからじっくり行かせてもらう」

「了解デース」

 

マスクの下の瞳を細めてエルコンドルパサーが思考する。

自分に有利な条件を貰ったことは間違いない。

恐らく二バ身程のリードと確実に内埒が取れる。

 

「先輩ってナニモノなんですか」

「ん?」

「詰め所で言っていましたよね。自分はウマ娘じゃないって」

「ああ、言ったな」

「先輩、何?」

「……ま、俺様の口を割らせてぇってんなら勝ってからにしろや」

「わかりました。じゃ、終わったら教えてください」

 

エルコンドルパサーは息を吐き、スタートに向けて構える。

それを受けたシルキーサリヴァンも重心を落とし、エルコンドルパサーの動きを注視した。

 

「……」

 

事此処に至っても、エルコンドルパサーはスプリント戦のペースが決まらない。

だから1100㍍をこれまで経験した勝負の中に置き換える。

エルコンドルパサーは真っすぐ前を見据えたままに瞳の中で想起した。

描くのは同期最強の逃げウマ娘セイウンスカイ。

その背中。

イメージの中で第三コーナー終盤から加速し、第四コーナーで並びかける。

此処までが前半三ハロン。

第四コーナーを抜けて最後の直線、自身に出せる最大速度を振り絞って彼女の粘りを引き千切る。

それが後半の二ハロン。

100㍍程距離が長いが其処は気力で粘ると決めた。

 

「ッ!」

 

声をかみ殺して地を蹴ったエルコンドルパサー。

 

「ふぅ」

 

息を吐きながら追うシルキーサリヴァン。

会心のスタートから体一つ前に出た怪鳥は、一歩ごとに加速する快感に背筋が痺れた。

両者を見守るグラスワンダーは親友の姿に小さく拳を握りこむ。

 

「もう勝ったって面してんなーお姉ちゃん」

「はい。エルは調子良いみたいですし」

 

アグネスデジタルは笑みに似た揶揄でグラスワンダーの顔を覗き込む。

親友に向けた素の笑みを消し、アルカイックスマイルで受けるグラスワンダー。

両者は自分の仲間の勝利を信じている。

それぞれにはそれぞれの根拠もあるが、今すぐに理解を求める事は出来ないだろう。

 

「でも、あの……エルコンドルパサーさん? とっても凄いと思いますよー」

 

間延びした声で感想を述べるのはメイショウドトウ。

グラスワンダーは頷き、改めて親友のレースに目を向ける。

一ハロンを過ぎた所。

エルコンドルパサーは先手を取り、そのリードは既に七バ身から八バ身に達する。

 

「だって……あの、リーダーが前半から割と普通に走っていますし」

「ほれ、これ使ってみ」

 

アグネスデジタルが自分のストップウォッチをグラスワンダーに貸し出した。

 

「ラスト一ハロンで良いからさ、あのクソ親父のラップ取ってみな」

「……」

 

二ハロン通過。

エルコンドルパサーが第一、そしてこのレースにおいては唯一のコーナーに差し掛かる。

息は軽い。

とても楽しい。

砂に足が食い込む感触が気持ちいい。

其処から足を引き抜く感触も悪くない。

 

(ダートも結構好きなんデスよネ~)

 

強く踏みしめて強く蹴っても足があまり痛くない。

エルコンドルパサーは此処まで条件戦で二戦二勝。

実は二つともダートコースの事であり、指定がダートであったことはむしろ好都合だったのだ。

だからと言って芝が苦手と言う事でもないのだが。

 

「……早ぇなおい」

 

前を駆ける若い才能。

遠く一五バ身も先を征く背中を見つめるシルキーサリヴァンは思わず感想をつぶやいた。

油断があったわけではない。

むしろ十二分に警戒していた。

後半の追い込み一本で決める心算ではあったが、足を残しながらもそこそこには走っている。

それでもコーナーに入って三ハロンを通過した時、徐々に開いた差は二十バ身に達しようとしていた。

 

「昔みてぇにキャンターしてねぇと息が詰まる身体ってわけでもねぇんだが」

 

少し警戒しすぎて控えてしまったかもしれない。

何を堅くなっているのだろう。

昔の自分は乗り越えた筈だ。

シルキーサリヴァンは今の容貌に似つかわしくない凶悪な笑みで息を吸う。

かつては出来なかった口呼吸で。

 

「自由に口から吸える息。関節もろくに痛まねぇ。背中は少し寂しいが、55㌔の荷物も背負ってねぇ……こんなEasy modeで俺様が――」

 

最後の直線二ハロン半。

両者の差は二十バ身程。

エルコンドルパサーが其処にたどり着いた時、シルキーサリヴァンはまだコーナーの中にいた。

肩越しに振り向いて相手の位置を確認する怪鳥。

遠く離れたその姿を見たエルコンドルパサーは寂し気に笑んだ。

まだまだ脚は残している。

ギアを上げる余地がある。

それはシルキーサリヴァンも同じだろう。

だがそれでも、ラスト500㍍を切ったこの位置から。

さらに加速する自分を差し切ることが出来るだろうか。

出来るはずが無いと思う。

実際のレースでも、チーム荒らしの野良試合でもそんな奇跡はお目にかかれなかった。

今回に限って例外だなんて、どうして信じられるだろう。

エルコンドルパサーはラストスパートに向けてシルキーサリヴァンから視線を切った。

だから怪鳥は見逃した。

背後のシルキーサリヴァンが、崩れるように前のめりに倒れ込んだ所を。

それを見ていたのはギャラリー達。

息を呑んだグラスワンダー。

会心の笑みを浮かべて拳を握ったのはコメットのメンバーである。

それはスタート直後にグラスワンダーが浮かべた表情と同じものだった。

 

「負ける筈ねぇだろうがよ」

 

前傾に倒れたシルキーサリヴァン。

グラスワンダーには彼女が埒に沈んだように見えた。

転倒したとしか思えないその姿。

コメットのメンバーはそれが始動だと知っている。

両手両足を一瞬だけ、同時に地面につける事。

四つの脚で立っていた頃の記憶を強く呼び覚ますその前動作から、クラウチングで切るリスタート。

その変化は一歩目から顕著だった。

 

「んぐ!?」

 

エルコンドルパサーは上げかけた悲鳴を無理に飲む。

何かは分からない。

しかしとても重くて速いものが、爆音と共に迫ってくる。

そんなはずが無いと思う。

だが後ろからくるのは相手しかいない。

シルキーサリヴァンが追い込んでくる。

 

「うそ……」

 

グラスワンダーはその光景にしばし唖然と魅入っていた。

倒れたと思った赤いウマ娘が砂の飛沫と共に飛び出したのだ。

砂を踏みしめる強さが違う。

踏み込んだ地を蹴る強さが違う。

それまでのシルキーサリヴァンとも、そしてエルコンドルパサーとも。

凄まじい勢いで砂を巻き上げ、シルキーサリヴァンが追い上げる。

五ハロンを通過した時、二十バ身の差はなくなっていた。

 

 

――ラスト100㍍

 

 

エルコンドルパサーは前を向いたままシルキーサリヴァンを視界に捉えた。

捕まったともいう。

歯を食いしばって加速する怪鳥。

嘲笑うように置き去る赤い弾丸。

此処に至って思い出す。

スプリンターと脚の速さで勝負をするなといった彼女の言葉。

一バ身前にでた後ろ姿にその意味を思い知るエルコンドルパサー。

 

 

――ラスト50㍍

 

 

エルコンドルパサーは地獄のような世界にいた。

たった100㍍。

僅か半ハロンが……長い。

シルキーサリヴァンに並びかけられ、その猛追を凌ぐのに100㍍は余りにも長かった。

三バ身先を征く背中を追いかけるエルコンドルパサー。

残りの距離は腹立たしいほど減らないというのに、徐々に赤い背中が遠くなる。

流れている時間の速さが違うのではないか。

そんな理不尽な思いが怪鳥の胸を掠めた。

 

 

――ラスト10㍍

 

 

四バ身離れた赤い背中が、ゴール板代わりに立つシーキングザパールの前を駆け抜ける。

それはエルコンドルパサーが初めて見た、自分より先に入線していく誰かの姿。

おそらくこれから、自分が死に物狂いで追いかける背中が其処にあった。

 

「……」

 

凄い相手と戦った。

そんな実感と共に自分もゴールを追い越した。

慣性を徐々に殺して減速していく。

二人のウマ娘はギャラリー達の前を通り過ぎ、しばらくジョギングした所で止まった。

シルキーサリヴァンは天を仰いで息を吐き、エルコンドルパサーは膝から崩れ落ちる。

 

「グラスワンダー先輩」

「……」

「せーんぱい!」

「え、あ……」

「あの不良赤毛、幾つでした?」

 

アグネスデジタルの問いにグラスワンダーは答えられない。

あの激走を初見で魅入るなと言う方が無理だろう。

ストップウォッチはグラスワンダーの手の中で、操作されること無く握られていた。

代わりに答えたのはパールと合流したメイショウドトウ。

 

「ラスト一ハロンが11秒フラットですぅ。本調子じゃなさそうですね」

「……あれで不調なんですか?」

「良バ場のスプリント戦なら10秒切ってくるわよあいつ」

「此処、ダートですよ?」

「見たぁ? 見たよね先輩、あの脚! 私らみんな、アレに夢見ちゃったんだよ」

「……」

 

常の軽薄な様子が鳴りを潜め、純粋な憧憬の瞳で語るアグネスデジタル。

グラスワンダーは確かに信じがたいものを見た。

しかし一番近くで見たのはエルコンドルパサーである。

その視線の先ではシルキーサリヴァンが自分の親友を引き起こしている。

 

「ああ」

 

自分に勝ったウマ娘の手を借り、満面の笑みで立ち上ったエルコンドルパサー。

グラスワンダーはその光景を見るのが辛かった。

無意識に俯いたグラスワンダーは包帯が巻かれた自分の脚を見てしまう。

思い通りにならないその脚が、今は無性に忌々しかった。

 

「ああ」

 

エルコンドルパサーは居場所を見つけてしまった。

グラスワンダーの傍に居られない選択肢を選んでしまった。

考えてみれば自分がリギルに入った時から道は分かれていた筈だった。

それでもグラスワンダーにとって、自分の隣にエルコンドルパサーが居なくなる事に現実感がまるでなかった。

彼女はきっと自分と同じチームに入る。

そんな根拠もない事を、グラスワンダーは何故か無邪気に信じていたのだ。

 

「……」

 

行かないでとは口に出せなかった。

最初にチームを選んだのは自分なのに。

どうして今更、ようやく自分の居場所を見つけた親友に水を差せるというのか。

 

「完敗でした」

「今日も生き延びたぜ」

「……そっか。先輩は命がけって言ってましたよね」

「おぅ」

 

シルキーサリヴァンはエルコンドルパサーを上から下まで一通り観察し、怪我がない事と息が戻っている事を確かめて背を向けた。

 

「お疲れさん」

「……で、先輩って何なんですか?」

「……勝ったらって言ったじゃねぇか」

「教えてくれてもいいじゃないデスカ~」

 

何時もの調子に戻った怪鳥。

シルキーサリヴァンは首だけで振り向くと、笑みを浮かべる後輩がいた。

 

「これから一緒にやっていく、後輩なんデスから」

「…………そうかい。身内じゃ、しょうがねぇな」

 

エルコンドルパサーはどこからどう見てもウマ娘にしか見えない赤い髪の女の口から答えを聞いた。

 

「俺様はシルキーサリヴァン。アメリカのカリフォルニアで生まれた……Thoroughbredだ」

「サラブレッド……デース?」

「ああ。多分ウマ娘って奴は全員な」

 

 

 

§

 

 

 

一方その頃。

トレセン学園から遠い北の地にて、一人のウマ娘が旅立った。

 

「そんじゃお母ちゃん、行ってくんね!」

「食べ過ぎに注意しなよ? あめめたもん食べちゃダメだかんね。落ちてるもんも食うんでないよ」

「……もっと他に心配する事ぁねぇんかや」

「別に……なぁ。あんたは食い意地と騙されやすい単純バカって事以外、心配する事ないからねぇ」

 

人間の母親はウマ娘の娘に笑みかけ、その頭を一つ撫でる。

 

「生みの親によーく似てくれた、自慢の娘だよあんた」

「生みの親の事は覚えてないけど、育ての親は自慢のお母ちゃんだよ」

「後は、怪我だけは気を付けて……行っといで、スぺ」

「うん! スペシャルウィーク、日本一のウマ娘になってきます」

 

母親に見送られ、列車に乗り込むスペシャルウィーク。

いずれ必ず日本一のウマ娘になる。

そんな夢と約束を胸に旅立つ少女は、真っすぐ前だけを向いていた。

 

 

 

 

 



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2.欠けても胸に抱く夢

天然鬼畜攻め肉食スぺちゃん


その日、スペシャルウィークはトレセン学園の寮棟で目が覚めた。

しかし未だ自室を与えられたわけではない。

初日から盛大に遅刻した彼女は寮長のフジキセキの配慮により、この日は仮眠室で夜を明かした。

 

「良いもの見れた……けど遅刻は不味かったよね。反省」

 

寄り道で見た東京レース場は大変大きく、レースやライブも素晴らしかった。

特にそこで優勝したサイレンススズカというウマ娘は、一目でスペシャルウィークを魅了したのだ。

何時か彼女と走ってみたい。

そんな日を夢想しながら身支度を整えたスペシャルウィークは、よく晴れた日の下に飛び出した。

トレセン学園の本校舎に向かい、職員室に到着を報告する。

其処で案内役を受けた理事長秘書の女性に案内され、スペシャルウィークは自分の教室の前に立った。

年齢から彼女が割り振られたのはジュニア最年長のC組である。

 

「……」

 

案内役の女性と別れたスペシャルウィークは扉の前で息を吐く。

この時彼女はどうしてか、舐められたら負けだという短絡的な考えに支配されていたのである。

心の中で母親に向けて決意を固めると、スライド式の扉を開け放つ。

ざっと見まわして10人ほどのウマ娘がいる。

視線を集めた転入生はセリフもまとまらないうちから教室の中に踏み入った。

 

「あ、あぁのわたしき、今日からこのクラスに入るっす、スペシャルウィークって言いまずぐぉ――」

 

身振り手振りを交えた挨拶から足がからみ、受け身も取れず顔から床に飛び込んだスペシャルウィーク。

田舎者と舐められないように。

そんな常ならぬ前のめりな発想が、完全に裏目に出た形である。

スペシャルウィークはとりあえず泣きたかった。

ひとしきり泣いてすっきりした所でこの醜態を見たウマ娘達から記憶を消し、もう一度リテイクしたい。

しかしスペシャルウィークには時を戻す異能力も他者の記憶を奪う魔法も無い。

諦めて顔を上げた時、至近距離から自分を覗き込む一人のウマ娘がいた。

 

「……」

「……」

 

間近で見つめ合う二人のウマ娘。

スペシャルウィークは何よりもまず相手の目元を覆うマスクに目が行った。

 

「ふーあーゆー?」

「発音悪っ!」

 

そのウマ娘から飛び出した棒読み英単語に思わず突っ込むスペシャルウィーク。

相手は気を悪くした様子もなく手を差し出し、転入生を引き起こす。

 

「あ、ありがとうございます」

「平気デース?」

「う、うん……大丈夫」

「なんか顔から行ってたけど」

「は、はい! 頑丈さには自信ありますから」

「オー、面の皮が厚いんデスネ!」

「エル! それ褒めてないですよっ」

 

スペシャルウィークがそのウマ娘と話していると、クラスメート達も集まって来た。

マスクのウマ娘……エルコンドルパサーはある程度人目をひいた所で唐突に自己紹介を始める。

 

「まいねーむいず、エルコンドルパサー! エルでいいヨー。アメリカ生まれの帰国子女デース」

「あ、はい。私、スペシャルウィークって言います。今日からこちらでお世話になります」

「へー。何処から来たノ!?」

「ほ、北海道から」

「へぇ……」

 

エルコンドルパサーはからかう様な笑みを浮かべて転入生に軽くジャブを放つ。

 

「田舎者さんなんダー」

「い、田舎者ぉ!?」

 

横合いから親友が肘を放ってくる。

わき腹を狙うそれを腕で受けつつ反応を待つエルコンドルパサー。

 

「た、確かに北海道は田舎ですけどぉ……」

「ふふん」

「そういうエルちゃんはアメリカのどんな都会のお生まれなんですか」

「け、ケンタッキーデース」

「ケンタッキー? ケンタッキー……」

 

エルコンドルパサーの解答を聞いたスペシャルウィークはしばし俯いて黙考した。

ややあって唐突に顔を上げると、怪鳥を真っ向から指さして反撃に転じる。

 

「ど田舎じゃないですかぁ!」

「なっなんデスとぉ!?」

「ド田舎ですーケンタッキー州はアメリカの田舎ですぅ!」 

「そこまで田舎って事は無いデスよ!」

「日本の北海道ならアメリカのケンタッキーっていうくらいには田舎だと思います」

「バカナ!」

「大体エルちゃん自分が田舎者でコンプレックスあるから相手も同じに括っちゃおうとしてるんじゃないですか?」

「……グラスぅ……新入生がいじめマース」

「自分からちょっかい出してなにを今更……」

 

一太刀で半泣きにされたエルコンドルパサーは親友に泣きついた。

その光景を離れた所からみていたのは、クラスメイトのセイウンスカイとキングヘイロー。

二人は視線を交わし、キングヘイローは首を横に振る。

友人が関わる心算が無い事を察したセイウンスカイは席を立ち、騒動の中に入っていった。

 

「面白い子来たねー。私はセイウンスカイ。よろしくね、スぺちゃん」

「あ、よろしくお願いします。セイウンスカイさん」

「長いからウンスでいいよー」

 

その後も居合わせたクラスメイトが次々に挨拶を交わしていく。

エルコンドルパサーとのやり取りがあったせいか、最初から距離が近い。

グラスワンダーはエルコンドルパサーを引きずって転入生を取り巻く輪から少し離れた。

 

「エル、人気者ですね」

「そうですカ?」

「あれ、貴女が親し気に絡んだからだと思いますよ」

「馴染むのは早い方が良いデース」

「そうですね」

 

グラスワンダーはクラスメイトに囲まれ、さまざまな質問を受けているスペシャルウィークをほほえましく見つめていた。

あちらはもう気にしなくても大丈夫だろう。

 

「スぺちゃーん、後でランチ、ご一緒しましょう」

「あ、お願いします」

 

北海道から出て来たばかりのスペシャルウィークにこの学園の知り合いはいない。

そう予測したグラスワンダーはそつなく約束を取り付ける。

今は彼女の周りが騒がしくて近づく気になれない。

時間は確保したのだし、スペシャルウィークの為人を見るのは昼で良いだろう。

良い友人になれればいい。

この時グラスワンダーはそう思っていた。

 

 

 

§

 

 

 

昼休みの食堂は場所取り必須の戦場である。

エルコンドルパサーは授業終了と共に教室を駆けだすと、最短距離を走って戦地に到着。

入り口から見渡すとまだ八割ほどは開いており、手際よくテーブルを一つ確保する。

待つことしばし。

その間にも徐々にウマ娘達が空席を埋めていく。

程なくしてグラスワンダーがスペシャルウィークとセイウンスカイを伴って入ってくると、エルコンドルパサーは大声で呼びよせた。

 

「へーイグラスー、スぺちゃーんウンスー。こっちこっちー」

「何時も言うけど君にウンス呼びを許した覚えはないんだけどなぁ」

「気にしすぎると禿ますヨー」

 

息を吐きながら肩をすくめるセイウンスカイがエルコンドルパサーの正面に座ろうとする。

 

「あ、そっちはスぺちゃんにしまショ」

「おや?」

「お話、質問するのに向き合ってた方がしやすいデース」

「それじゃ、こっち失礼します」

「それならエルは少し詰めてくださいね」

 

スペシャルウィークの正面に三人のウマ娘が座る。

三人側は多少手狭だが、やや長めのテーブルであるため無理ではない。

四人はそれぞれに自分の食事を確保する。

 

「スぺちゃんのごはん凄いなぁ」

「皆さんそれで足りるんですか……」

「私は十分足りるんですガ―……グラスはそれっぽっち大丈――アウチっ」

「もう、エルったら。私はいつもこれくらいですよ」

「あ、あはははっは」

 

教室では防げたグラスワンダーの肘をまともに受けたエルコンドルパサー。

その光景に乾いた笑みを浮かべるしかないスペシャルウィーク。

しかし貴重な昼休みは有限である。

育ち盛りのウマ娘達はそれぞれに食欲を満たし、談笑に交えて新顔への質問を進めていった。

 

「スぺちゃんはどうしてこの時期に転入してきたの?」

「私、新聞とかでトゥインクルシリーズの事はよく読んでいたんです。だけど、自分が其処で当事者になって、夢を追いかけるなんて想像も出来なくて……」

「ふむ」

「だけどお母ちゃんがトレセン学園の願書を出してくれて、編入が認められて……そこで繋がったんです。トレセン学園に入学すればトゥインクルシリーズに登録できる。登録出来ればレースに出れる。レースに出られれば、其処で勝てれば……もしかしたら、私にも夢が見られるかもしれないって」

 

スペシャルウィークは憧れと希望の混じった瞳で夢を語る。

そんな転入生の言葉より表情に納得したエルコンドルパサーは、やや真面目な顔で深く頷いた。

 

「夢の道が見えたら進むしかないデース」

「そうですよね! いつか必ずレースに出て、夢をかなえて……お母ちゃんにやったよって伝えたいんです」

「親に……ね」

 

セイウンスカイはその言葉に引っかかり、箸を一瞬止めた。

何かざらついたものを感じたが、心の中で形にならないセイウンスカイ。

そのうちにグラスワンダーが続きの質問をしてくれた。

 

「ところでチームは何処に入るか決めましたか?」

「チーム?」

「はい。チーム毎に、トレーナーさんがついてトレーニングを積むんですよ」

「へぇ……」

 

こちらの事など何も知らないスペシャルウィークにとって、チーム決めと言われてもどうすればいいか分からなかった。

一つだけあったのは、昨日見たレースとライブへの憧れ。

その主役だった一人のウマ娘の事である。

この時スペシャルウィークはレース場できっかけをくれた一人の変質者の事など欠片も覚えていなかった。

 

「あ! 私、サイレンススズカさんと同じチームで走ってみたいです」

「サイレンススズカさん……って、一個上のシニアクラスだっけ」

「スぺちゃん、スズカさん知ってるデース?」

「はい。昨日、レース場でたまたま拝見して……」

 

エルコンドルパサーはその名前が親友の所属するリギルのメンバーだと知っている。

其れほど話した事は無いらしく、グラスワンダーの口からその人柄を聞いた事は無かったが。

 

「調度良いタイミングです。今日、私が所属しているチームの入部テストがありますよ」

「スズカさんと同じチームだよね」

「ええ!?」

 

スペシャルウィークが喜色に染まるのを見たグラスワンダーは、内心の寂しさを隠して笑う。

本当はエルコンドルパサーの為のテストになるはずだった。

彼女の為と方々に話を通し、やっと実現した所属テスト。

一般公募して希望者と一緒にエルコンドルパサーが走り、実力をはっきりと示す為のもの。

ところがタッチの差で親友は別チームの所属を決めてしまい、昨日グラスワンダーはトレーナーの東条ハナに不手際を謝ったばかりである。

実はこの時、東条トレーナー側にも予想外の事態が起きていた。

そのためグラスワンダーの願いとは別口の事情から、テストレース自体は必要になっていたのである。

しかしエルコンドルパサーにかかり切り、最近はリギルに顔だし程度しかしていなかったグラスワンダーはその辺りの事情に疎かった。

エルコンドルパサーに対しても、スペシャルウィークに対しても、グラスワンダーは出来る限りの善意を持って対応してきた。

それが些細な行き違いから何一つ報われない事になると、今の時点で知るものはいない。

 

「私も、そのテスト受けたいです」

「それでは放課後、リギルまでご一緒しましょうか」

「はい。お願いしますグラスちゃん」

 

スペシャルウィークはグラスワンダーの手を取って頭を下げたが、グラスワンダーは選考が厳しい事を告げる。

リギルは学園のトップチームである。

正直、碌に基礎も積んでないだろうスペシャルウィークが選考レースに勝てるとは思えなかった。

 

「これヘイローちゃんも受けるって言ってマシタ?」

「確か言ってたねー」

「じゃ、応援にいきまショー」

「っていうか、エルちゃんは走らないの?」

「ワタシはチーム決めましたヨ」

「え、マジ?」

「イエース」

「そっか……おめでとう」

「うん……ありがとう」

 

一人、また一人、叶えられなかった夢を置いて現実に向かっていく。

ふと服の下から首にかけたストップウォッチを手に取っていたセイウンスカイ。

画面を見ずに操作すると、狙った時計よりも一秒ほど早い数字。

焦っている自分がいる。

セイウンスカイは息を吐き、本格的にチーム探しを進める事に決めた。

 

 

 

§

 

 

 

チームリギルの新メンバー選考レース。

それはトレーナー東条ハナの挨拶と、チーム入り希望者全員の目標を確認する所から始まった。

 

「私、日本一のウマ娘になりたいです」

 

そう答えたスペシャルウィーク。

この目標は他のウマ娘達からは嘲笑で迎えられた。

不思議な事ではない。

オープンクラスに上がれる者は一握りという世界であり、そこからさらに重賞で勝てるウマ娘は極一部。

ましてその上にはドリームシリーズという頂上決戦の舞台まである。

大抵のウマ娘にとって日本一などと言う目標は、地に足のついてない妄想としか取られなかった。

 

(日本一……日本一ですか)

 

他人の目標を右から左に流していたキングヘイローだが、この発言だけ耳に残った。

記憶にとどめる価値すら認められない低レベルな目標の中、唯一興味を惹かれたもの。

キングヘイローは列から乗り出して発言者たるウマ娘を確認する。

それは今日転入してきたウマ娘。

 

(名前は……そう、スペシャルウィーク)

 

周囲の者に笑われて赤くなっているが、更によく見ればトレーナーを含めたリギルのメンバーは誰も笑っていなかった。

その目標は、確かにトップチームの加入を目指すに相応しいかもしれない。

しかしキングヘイローは彼女が田舎から出て来たばかりという事情も知っている。

スペシャルウィークを笑ったウマ娘達が理解している厳しい現実がある。

転入生はそれを知っているのか。

知っていてなお、其処を目指せるのか。

キングヘイローは胸の中にざわつく感情が湧き上がるのを自覚した。

 

「……貴女がもしかしたら、五人目だった……なんて、簡単には認められませんわね」

 

口の中だけで呟いた言葉は誰の耳にも届かない。

キングヘイローは今一度周囲を確認すれば、エルコンドルパサーとセイウンスカイの姿が見える。

この選考レースは一般公募であり、テストを受けないものでも見学することが出来るのだ。

セイウンスカイは自分の視線に気づき、小さく手を振って来た。

何か反応を返すべきか迷ったが、隣のエルコンドルパサーをみて止めた。

感情のない視線でテスト生達を眺める怪鳥。

しかし彼女が本当に見ているのはスペシャルウィークだけだろう。

他の同期はジュニアB組時代に散々調べたのだから。

 

「今更彼女がそうだとして、もう意味はないでしょうに」

 

スペシャルウィークが期待通りであろうとなかろうと、今の自分達には関係ない。

キングヘイローはエルコンドルパサーの未練を笑おうとして失敗した。

今しがた感じた心のざらつきは恐らく、彼女のものと同じだろう。

ならばちょうどいい機会かもしれない。

スペシャルウィークが本物かどうか、此処で自分が見極める。

 

「それではこちらのくじを引け」

 

選考レースはスターティングゲートまで用いた本格的なものだった。

トレーナーの指示に従い、一人一人くじを引いて入るゲートを決めていく。

キングヘイローはスペシャルウィークと隣に当たる。

其処である可能性に気づいたキングヘイローは、物珍し気にゲートを見ている転入生に声をかけた。

 

「ちょっと貴女、スペシャルウィークさん」

「あ、はい……えっと……」

「キングヘイローです。同じクラスの」

「キングヘイローさんですね。よろしくお願いします」

「……時間がないから手短にお聞きしますけど、貴女スターティングゲートを使った事ありますの?」

「あ、実は初めてです」

 

やはりそうだった。

キングヘイローが素早く視線を走らせると、他のウマ娘達はさっそく自分のゲートに向かっている。

自分で言った通り、時間が無い。

 

「貴女、狭所に閉じ込められた経験はおあり? 悪戯のお仕置きとか」

「狭い所って基本ウマ娘だめですよね。お母ちゃんはそんな事しないですよ」

「そう。そのダメな狭い所に入らないといけないんです。これから」

「あぅ……」

「ゲートの入場からスタートは勝敗を左右するれっきとした技術です。ジュニアAからカリキュラムがあって、もちろん必修ですわ。貴女もこれから本格的に習うでしょうが、このゲート試験に落ちてレースに出れないウマ娘も居るんです」

「そ、そうなんですか……」

「慣れたウマ娘でも、あの中では頭が真っ白になる事がありますわ。わたくしが知っている例ですと、レース本番でゲートが開く前に下からくぐった方とか」

「まさか……」

 

キングヘイローはゆっくりと、しかし不自然にならない程度の歩調でゲートに向かう。

スペシャルウィークはその意図を察したか、それとも会話相手だからか、キングヘイローに合わせて動く。

既にほとんどのウマ娘はゲート前に集まっている。

気の早く慣れた者は入場を始める者もいた。

やや不安そうなスペシャルウィークにキングヘイローも悩む。

教えない方が良かっただろうか。

ぶっつけ本番でやらせた方が上手く行くウマ娘がいることも事実である。

しかしそんな器用なウマ娘は多くない。

キングヘイローは教室で開幕すっ転んだこの田舎娘に、そんな器用さがあるとは思えなかった。

 

「……良いですこと? 自分の入るゲートの前で、入場する前に立ち止まって深呼吸を一回。そのまま両手で左右の敷居に手を当てて、目をつむって手さぐりに三歩入りなさい」

「キングヘイローさん?」

「入ったらもう一回深呼吸をして、ゆっくり目を開きなさい。少しだけ時間を稼いでさしあげます」

 

スペシャルウィークの脇を離れ際、それだけ伝えたキングヘイロー。

その傍でも他のウマ娘達は次々とゲート入りを完了していく。

キングヘイローはゲート入り口の数歩前で立ち止まり、瞳を細めて大きく息を吐く。

落ち着かなげに視線を巡らし、再び深呼吸。

明らかに嫌がっているその様子にトレーナーから指示が飛ぶ。

 

「キングヘイロー、入りなさい」

 

この人はもう自分の名前を覚えたのか。

そういえば試験希望者は順番にノートに名前を書いていた……そんなことを考えながら声がした方に振り向くキングヘイロー。

名前を呼ばれたからそちらを向いた。

そんな仕草と共にもう一度自分のゲートに向き直る。

隣のゲートでは転入生が自分の言ったとおりに入場していく所だった。

キングヘイローはもう一つ息を吐き、今度はさっさとゲートに入る。

これ以上は引き伸ばせない上、中で待たせすぎても逆効果だった。

その様子を見ていたセイウンスカイは隣の級友に声をかける。

 

「なんかさー……お嬢、スぺちゃんに甘くない?」

「……ウンスちゃん機嫌悪いデース?」

「まさか、と思いながらも期待しちゃう自分がさぁ。なんか嫌なんだよね」

「……」

「期待外れだったら残念だし、期待通りだったらどうして今更って気持ちが止められない」

「……そうネ」

 

苦笑した怪鳥は肩の力を抜くように大きく一つ伸びをした。

 

「でも、なーんか放って置けないんデスよネ~。あの転入生」

「変な擦れ方してないもんね。聞いた? 日本一だって」

「フフーン。スぺちゃんが日本一なら私は世界一を目指しマース!」

「こいつ臆面もなくパクりつつ規模膨らませやがったよ」

「パクリ? ノンノン。リスペクトだヨ!」

 

話ながらもゲートからは目を離さない二人のウマ娘。

彼女らを含めた多くのギャラリーが見守る中、ついにレースが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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3.手さぐりでも探す夢

ウンスのパパって廃用からしばらく生き残ってたのか・・・


 

スペシャルウィークはキングヘイローが危惧した通り開幕から出遅れた。

しかし心構えは出来ていたためコンマ数秒で立て直し、他のウマ娘の背中を追走する。

スペシャルウィークにとってウマ娘と競うのは初めての経験である。

当然ながら距離に応じたペース配分も分からない。

偶然ではあるが、ペースを作ってもらえる後方につけたのは運が良かった。

 

「……コースって走りにくい」

 

そう言いながらも遅れることなくバ群の後方を直走る。

ターフの感触はまだ足に馴染まない。

しかし現在バ群を形成しているウマ娘達は、スペシャルウィークの体感として早くない。

 

(お母ちゃんの軽トラのがずっと早かったなぁ)

 

苦笑したスペシャルウィークは現在自分の前方を走るウマ娘達を意識から消す。

彼女らははっきりと問題にならない。

不味いのはバ群の遥か先を一人走るキングヘイローである。

此処からでは届かない。

そう思ったスペシャルウィークは徐々に順位を上げて行った。

一人抜くたびにウマ娘達は何か叫んでいたようだが、集中しているスペシャルウィークには聞こえない。

キングヘイローを追ううちに自然とバ群の先頭に立つ。

そのまま徐々に後続を突き放し、自分にアドバイスをくれたクラスメートの背中に迫ってゆく。

 

―――

 

リギルのメンバー達はそれぞれの感想を持ってレースを観ていた。

その多数に共通していたものは、未熟の言葉。

先頭のキングヘイローとそれを追うスペシャルウィーク。

この二人の走法は姿勢が高く、余りに洗練されていないからだ。

其処を伸びしろと取るか弱さと取るかは人それぞれだろうが。

 

「あの様子だとキングヘイローか……もう一人は転入生か。どっちもクラスメイトだろ、どう思う?」

「正直、スぺちゃんがこれほどとは思っていませんでしたが……」

 

エアグルーヴの問いに言葉を濁すグラスワンダー。

レースは先頭のキングヘイローをスペシャルウィークが追い上げている。

走り方は無駄が多く見えるが、地方トレセンの出でもない転入生が地力だけで走っていると考えれば驚異的な事だと思うのだ。

 

「ヘイローちゃんももう少し妥協が出来れば……」

 

グラスワンダーから見たキングヘイローは才能の塊である。

しかしその才能が当人の性格や嗜好に合致せず苦労しているタイプだった。

短距離適性が高そうなのにレースの花形たる中距離に拘る。

凄まじい負けん気の強さゆえに首を下げられずフォームが高く伸びてしまう。

全てがそうとは言えないが、ウマ娘達は速度に乗ると前傾が強くなる傾向にある。

だがキングヘイローはその姿勢を意識して嫌がるのだ。

そんな状態にも関わらずポテンシャルだけで善戦出来てしまう為に抜本的な解決に乗り出せない……

そこまで考えた時、グラスワンダーはこのクラスメイトがリギルの方針に噛み合わない可能性に気づいた。

リギルに入ればこのような明確な弱点はきっちり矯正されるだろう。

そしてそれを唯々諾々と受け入れるようなお嬢様ではないのだ。

 

「スぺちゃんの方がリギルには向いているかもしれませんね」

「どっちにしろ、あの二人にスズカの穴が埋められるとは思えないのがな……」

「…………誰のですか?」

「スズカだよ」

「……その、穴を埋めるっていうのは?」

「お前知らないのか? スズカは今日付けで移籍が決まっているぞ」

「…………はぁあ!?」

 

―――

 

レース半ば。

スペシャルウィークはコーナーに際し、外からかぶさるようにキングヘイローに並びかける。

その時、外埒のさらに奥に一人のウマ娘の姿が見えた。

サイレンススズカ。

憧れたウマ娘。

不意に先日レース場で見た彼女の走りを思い出す。

 

(あの人はもっとこう……低くっ前へ)

 

スペシャルウィークの態勢がやや前方に傾いた。

その姿勢を維持するために自然と足の運びが早くなる。

意識と無意識がかみ合い、加速するスペシャルウィーク。

何かを掴んだ気がした。

今なら母の軽トラにも勝てるかもしれない。

しかしそんな想像はすぐに現実に吹き飛ばされる。

 

「着いてこないでください」

「そんな事言われてもっ」

 

確かに自分は加速した。

しかし隣を走る親切なクラスメイトも同様に加速してくる。

スペシャルウィークのように走法が変化したわけではない。

キングヘイローはそのまま余力を切っただけ。

自分は今、凄いウマ娘と走っている。

そう感じたスペシャルウィークは自然と笑みが浮かんできた。

最後の直線に入る。

内からキングヘイローが出れば外からスペシャルウィークが差し返す。

しかし突き放す事は許さず内で粘るキングヘイロー。

リギルの関係者も固唾をのんで見守るマッチレース。

レベルの高低に関わらず、ウマ娘同士の競り合いは心を熱くするものがある。

最終一ハロン。

粘るキングヘイローをじりじりと差すスペシャルウィーク。

鼻差から首差へ。

首差から半バ身差へ。

 

 

――ラスト100㍍

 

 

はっきりと一バ身の差を付けられたキングヘイローは舌打ちしつつ外に出した。

並んで外を走っていたスペシャルウィークに、内に入れる差を取られたのだ。

此処で被られて縦に並んだら抜き返せなくなる。

状況にもよるが、マッチレースで外から抜いたら内に被せてブロックするのは勝つための定石だろう。

しかしキングヘイローは忘れていた。

今自分と競っている相手は田舎から出てきた転入生。

ゲート入りも初めてならば距離に応じたペース配分も分からない。

当然ながら、戦術としてのコース取りなど理解しているはずが無かった。

 

「……ッ」

 

スペシャルウィークは内に入らず、キングヘイローはその真後ろに自分から着けてしまう。

此処から抜き返すにはもう一度左右どちらかに進路を取らなくてはならない。

そうするだけの距離はもう、残されていなかった。

 

 

――ラスト50㍍

 

 

「スぺちゃーーーん!」

 

それはこのレースに導いてくれた優しいクラスメイトの声。

自分は本当に運が良い。

転入早々であるにもかかわらず、皆はとてもよくしてくれた。

この学園に来れて本当に良かった。

感謝が胸の内を満たし、期待に応えるべく必死に駆けるスペシャルウィーク。

 

「あっあぁ……」

 

しかし声の主はその様子に血の気が引いた。

自分が致命的な勘違いをしていた事。

その誤解に気づかないまま、彼女を此処に連れてきてしまった。

グラスワンダーは罪悪感と焦りの中で必死に叫ぶ。

最早頭の中は真っ白になっていた。

理非善悪は関係なく、双方がもっとも傷つかないと思われる選択肢。

意識しての事ではなかった。

 

「勝っちゃダメですスぺちゃん! 負けてぇっ」

「はぁっ!?」

 

リギルのメンバーが、ギャラリーが、そしてスペシャルウィークとキングヘイローが。

グラスワンダーに当惑の眼差しを向けて来る。

しかしグラスワンダーはそれどころではない。

スペシャルウィークはリギルに入りたいのではない。

サイレンススズカと同じチームに入りたいのだ。

それが叶うと思って連れてきてしまったのは自分。

結果として嘘になってしまった言葉。

 

 

――ラスト10㍍

 

 

スペシャルウィークが迷う間、更にその外に出したキングヘイロー。

其処から着差半バ身まで詰めた所がゴールだった。

先にゴール板替わりのヒシアマゾンの前を通り抜けたのはスペシャルウィーク。

グラスワンダーは誰も報われないこの結末に膝から崩れ落ちた。

 

「あぁ……」

 

かろうじて折れた右足を庇う事だけは忘れなかった。

しかしスペシャルウィークに何と言って声を掛けたらいいか。

答えの出ない問いがグラスワンダーの頭の中でぐるぐると廻る。

 

「おい」

「はい?」

 

そんな彼女に声をかけたのは、チームリギルのエースの一人。

このトレセン学園においては生徒会長も務める生きた伝説、シンボリルドルフその人である。

 

「グラスワンダー。さっきのは何だ?」

「あ……」

「……お前がエルコンドルパサーに執心していたのは知っているが、それでもレース中のウマ娘に負けろとは看過しえんぞ」

「ち、違うんです会長。あの、スぺちゃんには夢があって、それが此処では叶わなくて……」

「日本一のウマ娘に、リギルでは成れないか?」

「は……?」

 

グラスワンダーは噛み合わない自分とシンボリルドルフの会話に首を傾げた。

そしてレース前、スペシャルウィークが目標としてあげていた言葉を思い出して息を呑む。

日本一のウマ娘になると、スペシャルウィークは言っていた。

サイレンススズカの件を知らずに日本一の目標だけを知っていれば、シンボリルドルフの反応は当然だった。

そして他のリギルの面子も大抵は同じだろう。

 

「グラスちゃんの事、ちょーっとお姉さん甘やかしすぎちゃったかなぁ」

 

背中から掛けられたその声。

悪意や害意は欠片もないのに、グラスワンダーの顔から更に血の気が引く。

震えながら首を巡らせば、リギルの古参マルゼンスキーの姿がある。

更にその隣にはリギルの腕力担当、タイキシャトルの姿まで。

グラスワンダーの右足が無事であっても絶対に逃げ出せない包囲網。

 

「なぁ、グラスワンダー」

「……あぁ」

「説教だ」

「あぁああああああぁああああああ……」

 

タイキシャトルとマルゼンスキーに両脇を固められ、連行されるグラスワンダー。

ギャラリーの中から見ていたセイウンスカイとエルコンドルパサーは顔を見合わせるしかない。

 

「ウンスー。これ笑って良い所デース?」

「裏は……取ってからの方が良いかな。そっちは任すね」

「ハーイ。ウンスはお嬢様のお守りデスカ?」

「……誰もやってくれないんだから私がするしかないでしょ。すぐ行ったら荒れるから夜にでも話すよ」

 

キングヘイローは敗北して周囲に当たり散らす性格ではない。

しかし敗戦に何も感じない程悟ってもいない為、吐き出させてやる友人が必要なのだ。

世話が焼けると息を吐くセイウンスカイ。

その顔が緩んでいる事はスルーしてやるエルコンドルパサー。

 

「それにしてもスぺちゃん、ヘイローちゃんに勝っちゃいましたネ~」

「そうだねぇ。道中あれだけバタバタ走ってて、上がりは三ハロン33秒8でまとめて来たのは凄いかな」

「……ウンスちゃんストップウォッチ持ってたデース?」

「うん。これだけは手放したこと無いから」

 

それだけ言ったセイウンスカイは背を向けて歩いていく。

夕日に照らされた後姿をしばらく見ていた怪鳥。

ややあって気持ちを切り替えたエルコンドルパサーは、自分も親友の為に動くことにした。

この件で一番事情に詳しいものは誰か。

 

「多分トレーナーさんデスよネ」

 

部外者の身で他所のチームに乗り込む事は以前の荒らしで慣れているエルコンドルパサーである。

リギルの説明をするためかスペシャルウィークを伴って引き上げるその背中に、エルコンドルパサーは駆け寄っていった。

 

 

 

§

 

 

 

「厄日なんでしょうか……」

 

グラスワンダーが解放された時、既に外は暗くなっていた。

それほど厳しい叱責を受けたわけではない。

普段の素行も悪くない為事情の確認は丁寧だったし、すれ違いの情状酌量は十分に酌まれたと言えるだろう。

事情を知ったマルゼンスキーはグラスワンダーの背中を叩きながら笑っていた。

タイキシャトルには友人の為にと献身したことをむしろ褒められた。

シンボリルドルフは、それはそれとしてレース中のウマ娘にかけていい言葉ではなかった点を咎められた。

グラスワンダーも全面的に自分が悪いと納得していたために反論のしようが無い。

あるのはスペシャルウィークに対する罪悪感。

そしてエルコンドルパサーに対する釈然としない苛立ち。

すなわち八つ当たりである。

深いため息を吐きながら寮に戻ったグラスワンダー。

一歩中に踏み入ると、其処には想像もしない光景が広がっていた。

 

「あ、グラスちゃんお帰りなさい。大変だったねー。大丈夫だった?」

「す、スぺちゃん……」

 

寮入り口のロビーで談笑していたスペシャルウィークとエルコンドルパサー。

グラスワンダーの帰着に気づいたのは扉の向かいに座っていたスペシャルウィークだった。

すぐに椅子から立って自分をねぎらう級友に困惑するグラスワンダー。

どんな顔をしていいか、なんといって謝ろうか。

そんな事ばかり考えていたグラスワンダーは明らかに気勢を制された。

混乱するグラスワンダーの様子に頓着せず、スペシャルウィークは事情を語る。

 

「あの後私も混乱してたんだけどね。エルちゃんが追いかけてきたんだよ」

「エルが?」

 

椅子ごと向き直ったエルコンドルパサーが曖昧に笑いながらグラスワンダーに手を振った。

 

「うん。エルちゃん、今日のお昼の事とか話してたらトレーナーさんの方が直ぐに事情は分かったって納得してたんだー」

「え、エルぅ……」

 

自分が動けない間にトレーナーとスペシャルウィークの誤解を解いておいてくれたのか。

時間がたてばたつ程こじれた可能性があり、内心で気が気でなかったしこりが取れた。

安堵と感謝で瞳がにじんだグラスワンダーは改めてレース中の暴言を謝罪した。

それを笑顔で受けるスペシャルウィーク。

 

「ヨカッタデスネー」

「はい。エルも、本当にありがとうございました」

 

もしもこの時、グラスワンダーに常の冷静さがあれば気づいたかもしれない。

エルコンドルパサーのキャラ作りが何時もより更に固くなっていたことに。

そしてスペシャルウィークの目が、口元程には笑っていなかったことにも。

 

「それでねグラスちゃん、レース中の言葉はもういいんだけどね」

「はい?」

「リギルにね。スズカさんはいないんだって」

「……」

「スズカさん、いないの」

「……」

「ねぇグラスちゃん」

「ハイ」

「スズカさん……何処?」

 

スペシャルウィークはグラスワンダーの手を両手で取り、可愛らしく首を傾げて繰り返し問う。

首だけを動かしてスペシャルウィークの肩越しに親友と目を合わせると、同じような仕草で首を傾げている。

グラスワンダーは脳ミソをフル回転して事情を推理する。

次にスペシャルウィークにかける言葉は最大限の注意を払う必要があった。

 

(エルは昼の事情をトレーナーに話した。トレーナーはスズカさんの離脱を知っていた。其処でトレーナーさんは私の事情を分かってくれた。後はスぺちゃん。スぺちゃんは……エルはスズカさんのリギル離脱を知らなくて、スぺちゃんに話したのはトレーナーさんで……あ、駄目だこれ)

 

トレーナーはスズカが移籍することを話しても、その理由や行先までは話さないだろう。

プライベートかもしれないし、意見の対立もあったかもしれない。

そしてグラスワンダーはサイレンススズカとそれほどチーム内での付き合いが無かった。

スペシャルウィークに対して悪気が無かった事は伝わっても結果に対するリカバリーが出来ない。

 

「しかも、しかもね? これスズカさんが離脱する代わりの選考レースだったんだって! じゃあそれに受かった私がスズカさんを追いかけて移籍とかって出来る? 無理だよねこれちょっと。ねぇ」

「いえ、実はこのレースはエルのリギル入りが……」

「エルちゃんはコメットっていうチームに入ったって聞いたよ」

「それが本当に間の悪い事にですね……」

 

スズカがいると言われて入ったチームに、実は目当ての先輩がいなかった。

しかも第一目的がスズカなのに、その理由だからこそ移籍が認められないのだ。

スペシャルウィークの遣る瀬無さがはけ口を求めた時、原因のグラスワンダーに向かうのは当然とは言わなくても自然な事だった。

 

「ま、今夜はいっぱいお話しようグラスちゃん。寮長さんってリギルの人だったんだね。今回の事で後輩が迷惑かけたねって、其処でグラスちゃんとお話したいってお願いしたらまた仮眠室の使用許可くれたんだー」

「いや、ちょっと……」

「ここに来てもう二日なのにまーた仮眠室かー。私何時になったら自分のお部屋貰えるのかなー。いやーまいったなー」

 

グラスワンダーを引きずるように歩き出したスペシャルウィーク。

エルコンドルパサーはやっと肩の荷が下りたとばかりに大きく一つあくびをした。

 

「それじゃごめんねエルちゃん。奥さんちょっと借りてくねー」

「おっけー。そんな古女房でよかったら何時でも持って行って良いデスヨ~」

「古っ……同い年ですよねぇエルっ」

「ほーんと、グラスは何時も世話が焼けるんデスから」

「はぁ!? だ、誰のせいでこんなことになったと思ってるんですか」

「ほらほら、その辺の事も含めて色々お話聞かせて欲しいんですよー。リギルの先輩のグラスちゃんに」

「い、いや。待って……た、助けてエル!」  

「グラスー騒ぐと近所迷惑デース」

 

あっさりと親友を見捨てた怪鳥。

背を向けたままふらふらと手を振り、自室へと引き取っていく。

肩越しに一度振り向けば、今度こそスペシャルウィークに連行されていくグラスワンダーの姿。

心の中でドナドナを歌いながら見送ったエルコンドルパサーはルームメイト不在になるであろう今夜、気兼ねなく飼っているペットを可愛がれる幸運を喜んだ。

 

 

 

§

 

 

 

時は遡り夕刻の頃。

あるチームの詰め所では一人の男性トレーナーがウマ娘に遊ばれていた。

 

「惜しいなぁ……くそう。先に目を付けたのは間違いなく俺だったのに」

「何時までもめそめそしてんなよ。スズカはうちに来てくれただろ」

 

机に突っ伏して情けない声を上げる男と、その男を軽く蹴り続けるウマ娘。

長い葦毛の髪を弄びながら片手でルービックキューブを解くそのウマ娘の名はゴールドシップといった。

その言葉に顔を見合わせたのは、チームメイトである二人のウマ娘である。

 

「だけどこのままだと、うちのチーム今期のクラシックに出れるウマ娘いないわね」

「まぁなぁ。私もスカーレットもまだA組だし」

 

その男は先日の東京レース場で一人のウマ娘を見初めていた。

しかし今日、アプローチをかける間もなくリギルの選考レースに受かってしまったのだ。

転入早々トップチームの入部テストに受かるなど滅多にある事ではない。

男としては自分の見る目が証明された形だが、大魚を逸した事に変わりはなかった。

 

「……」

 

トレーナーは詰め所を見渡し、自分の信じたウマ娘達を確認する。

ゴールドシップ。

ダイワスカーレット。

ウオッカ。

そしてサイレンススズカ。

彼女らとこの男性トレーナーが作るチーム名は『スピカ』といった。

いずれ劣らぬ素質を持ったウマ娘達である。

男としては何としてでもあと一人メンバーを探し出し、栄えあるオープンクラスへの出走権を勝ち取らなければならない。

 

「すまんお前ら。もう少し待ってくれ。必ずあと一人、このスピカで夢を追うウマ娘を見つけてみせる」

「あんま一人で気負ってんじゃねーぞトレーナー」

「そうそう。私やこいつみたいに、案外突然あっちからやってくるかもしれないわよ」

「その為にはまた、あんときみたいなイカス広告が必要じゃねぇかな」

「そうね。キャッチコピーはトレーナーのセンスに任せるとして……スズカ先輩、絵とか描けません?」

「ちょ、ちょっとそういうのは……」

 

前向きなウマ娘達に内心励まされる男。

だが、だからこそこの明るさを曇らせる訳にはいかない。

トレーナーが決意を新たに固めた時、詰め所の扉を叩く音がした。

 

「あのー。ちょっと良いですかー」

「はーい?」

 

ダイワスカーレットが席を立ち、声に応えて扉を開ける。

其処にいたのは看板を肩に担いだ一人のウマ娘の姿があった。

 

「チームスピカへようこそ。何か御用?」

「あー……この立て札ってまだ有効かなーって」

 

ウマ娘は肩で看板の脚を回す。

表がえった其処に描かれていたのは頭から埋められたウマ娘達の絵。

更にはスピカへの勧誘と、もしチーム入りを拒否した場合は絵のような未来が待つとの脅し文句。

 

「あ! あたしが描いた奴じゃんそれ」

「あぁ、君が描いたの? 良いセンスしてるよねーこれ」

 

来客たるウマ娘はふわふわと笑いながら看板を製作者に手渡した。

自分の看板が一人のウマ娘を呼び込んだ事で上機嫌になるゴールドシップ。

 

「あんたはうちのチームに入ってくれんの?」

「面白そうな看板を見かけたからねー。条件によっては入りたいと思ってきたよ」

「条件ってのは?」

「皐月賞のトライアルも迫っているんで、すぐに始動出来る所じゃないと辛いなぁって」

「そりゃ丁度いいや。あんたが入れば五人だからな」

「そっか。それにしても……」

 

そのウマ娘は一通り室内を見渡し、一人のウマ娘の所で視線を止めた。

 

「此処にいたんですねぇ……サイレンススズカ先輩」

「えぇ」

「何時から移ったんです?」

「今日付けで」

「なるほど……あはは、余り物には福があるって事なのかなぁ。あー……こりゃグラスちゃんもスぺちゃんも浮かばれないわ」

 

一頻り笑うウマ娘と、何が可笑しいのか分からず首を傾げるスピカ一同。

やがて落ち着いたウマ娘はトレーナーに向き直り、静かに一つ礼をした。

 

「私はジュニアCクラスのセイウンスカイ。よかったら、このチームに入れてください」

「ああ。よろしくセイウンスカイ。これからこのスピカで、お前の夢を追いかけてくれ」

「夢ですか?」

「ああ。そうだな……最初に聞いておきたいんだが、君の夢……目標ってのは、なんだ?」

「目標……んー、具体的にこれって決まって言えるモノじゃないんですけど」

「まだ、見つかっていないのか?」

「……いや、ある」

 

セイウンスカイは服の下で首にかけているストップウォッチを取り出した。

表示を見ずに手の中だけで、無心に操作を繰り返す。

それはセイウンスカイがこれまで数千、数万と積み上げてきた12秒。

 

「……」

 

彼女には意識の中に沈み込むときに見えるモノがあった。

それは常に見えるわけではない。

見えたとしても暗く遠く、擦り切れた映画のフィルムのようにあやふやな景色の先に感じるナニか。

其処には見た事もない葦毛の生き物の姿があった。

不気味さや不快さは感じない。

ただ、其処に居続けると無性に泣きそうになる……そんな心の場所。

 

「誰かに見て欲しいんだよ」

「誰かって……誰でもいい、不特定のファンって事じゃなさそうだな」

「そうだね。だから勝つ。そして探す。そのうち私が思い出すかもしれないし、もしかしたら向こうが私を見つけてくれるかもしれないしねー」

「そうか……」

 

トレーナーはセイウンスカイの内面が見た目ほど穏やかではない事を感じ取った。

ウマ娘達はその本能的な部分において走ることを求める。

だからこそ何のために走るのかを自分自身で決めなくてはならない。

ウマ娘一人一人違う夢があり、目標がある。

その目的地を定めないまま走り出してもたどり着くことは出来ないのだ。

男の経験上決して多くはないが、セイウンスカイのように自分でも分からないモノに手を伸ばすウマ娘はいた。

殆どはメンタルに自覚していない爆弾を抱えているタイプであり、順調に勝ち進めたとしても何かのきっかけで壊れる可能性を持ったウマ娘。

彼女を預かると言う事はトレーナとしての信頼はもちろん、チームの一員としてスピカと深い絆を育ませる必要があった。

何時かセイウンスカイの爆弾が爆ぜた時、彼女自身を支える絆を。

 

「責任重大だな」

「ん?」

「クラシック世代のウマ娘を預かるんだ。お前がうちを選んだ事、きっと後悔はさせないからな」

「期待してるよー」

 

頷くと同時にスズカ以外のメンバーに群がられたセイウンスカイ。

長身のゴルシにガシガシと頭を撫でられ、ウオッカやスカーレットには今年挑戦するクラシックレースの話をせがまれる。

 

「責任重大だな……本当に」

 

この日、ついに五人目のメンバーを揃えて始動したチームスピカ。

彼女らの夢が星のごとく輝くか。

それとも多くのチームと同じように夜空に霞んで見えなくなるか。

未来を知る事は出来ない。

出来る事は未来を信じる事。

そして、現在を努力する事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ようやくアニメ一話分が終わりました
短編として最初に考えていたのは此処までです
主に自分が妄想しやすい設定をまとめるために書いていました
ただ、ウマ娘ロスが激しいのとゲームが冬まで伸びたので続き書こうか迷っています


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4.それぞれに歩む夢

お話の都合上タイキシャトル先輩の生まれた時期などがかなり変わっております



 

チーム入りを果たしたエルコンドルパサーは遂にオープンクラスのレースへの出走権を獲得した。

其処で自身三戦目のキャリアにトキノミノル記念GⅢを選択。

此処を圧倒的な一番人気からの完勝を収め、見事重賞初勝利……かと思われた。

しかし実際は悪天候によるコース変更で今回に限り重賞からは外されてしまう。

発表を聞いたエルコンドルパサーは大変落ち込み、傍らを歩くトレーナーに散々愚痴を聞かせていた。

 

「重賞でウマ娘呼んでおいて走った後で取り消しとかさ……ヘイ! トレーナー聞いてマース?」

「聞いてるよー。まぁ、せっかくの重賞勝利に水を差されたんだからねぇ……運が無かったよ」

「差されたのは水(雨)じゃなくて雪デスけどネ……実戦のターフも試してみたかったのにまたダート戦だったしサー」

「悪路でも安定感あったし、このままダート路線に行くかい?」

「む~……シルキー先輩見ちゃった今、簡単にダート行くとは言いにくいデース」

「其処基準にしちゃうんだ? それなら、中途半端なダート適正じゃ蹴散らされるだけだろうけどー」

「でも先輩に勝とうと思ったら何処かでダートに乗り込まないとですよネ~。何時か倒す」

 

エルコンドルパサーは前を歩くトレーナーの傘に真剣な目を向ける。

悪天候に不良バ場のダートレースは制した。

この経験は今後の自分に間違いなくプラスに働くだろう。

そう考えれば悪くないレースだった。

しかしそれはそれとして、重賞の勝ちが欲しかった事もまた事実。

 

「それにしてもエルちゃん、ご機嫌斜めの割りにインタビューは良い子だったねぇ」

「勿論デース。そういう所はきちんとしないといけませんからネ」

「うん。立派立派。だけど勝因にトレーナーの指導なんて言わなくて良いんだよ? 私指導なんて、特に来たばっかりの君の事とか碌に見れてないんだから」

「ソンナコトナイデスヨー」

 

チーム『コメット』のトレーナー、ハードバージの呑気な声音に笑いそうになるエルコンドルパサー。

彼女は赤い髪の先輩にこのチームのハウスルールを幾つか教え込まれている。

その中には選手のみだけで流通している推奨もあった。

 

『いいかエルコン、おめぇも既に条件戦とは言えレースに出てるプロな訳だ。レースに勝つ以上注目されるし、注目されりゃあ色んな質問も受けるだろうな』

『インタビューって奴ですネ~』

『んでだ、コメットの一員となった以上、おめえさんにもうちのチームのテンプレって奴を覚えて欲しいわけだ』

『テンプレ?』

『おぅ。難しい事じゃねえ。丁度ここんちは謙遜って奴を美徳とするお国柄だし、レースに勝った後のインタビューでもこう言ってくれりゃ良いわけさ。≪日頃のトレーナーの指導のお陰です≫ってな』

『そりゃ、一種の王道デスケド……なんで?』

『俺らが重賞、特にGⅠで勝てば目立つだろ?』

『まぁ、目立ちますネ』

『するとそんな俺らが持ち上げる指導者ってどんな奴だ? ってなるわけだ』

『……あ、もう分かりマシた』

『俺らのトレーナーが何時までも人数合わせの負け犬じゃカッコつかねぇだろ。あいつには絶対矢面に、表舞台に立たせる。無理やりだろうと、もう一度な』

『オッケーデース』

 

このトレーナーと付き合い始めて日は浅いが、シルキーサリヴァンが彼女を負け犬と呼ぶ理由はすぐわかった。

良く言えば鷹揚。

実際は覇気がない。

トレーニングの方針は同期のシルキーサリヴァンと話し合ってはいるものの、何処か自分は添え物の部外者としてチームメイトを遠巻きに見ている。

今はコメットに実績が無いのであまり問題になっていない。

しかしチームに実績はなくとも、既にシーキングザパールのように大きな実績を作ったウマ娘も在籍しているのだ。

いずれ世間の注目はコメットに集まる。

その時にハードバージが逃げ出さぬよう、逃げられぬよう、今から首輪をつけておかねばならない。

自分以外のコメットメンバーは意地の悪い笑みでそう語っていた。

 

「トレーナーって、なんでトレーナー始めたんデース?」

「なんでって……なんでだっけ?」

「いや、ワタシに聞かれてもネ……」

 

怪物と呼ばれたマルゼンスキーと同期だった事がいかに重圧であったか。

このチームに入ってから、エルコンドルパサーも少しだけ当時を調べた事がある。

ジュニア時代の圧倒的な実力と、怪我による悲劇性と話題。

それは華のクラシック戦線を事実上の敗者復活戦とまで言わしめた。

怪我によってクラシックを棒に振ったマルゼンスキーは確かに不幸だったろう。

しかし彼女不在のクラシックを獲ったウマ娘達も重い十字架を背負ってきた。

皐月賞ウマ娘ハードバージもその一人。

 

「あぁ、シルキーに言われたんだよね。自分のチーム作りたいからお前トレーナーやれやって」

「先輩に?」

「うん。私怪我で引退早かったし、他にやりたい事もなかったし……違うか。私なんか他に出来る事が何も無かったし……私なんか……」

「暗っ」

「でもこんな私なんかでも欲しいって言ってくれたんだし、試験は何回か落ちたけど待っててくれたし……」

 

この人は一人にするとヤバい。

エルコンドルパサーですらそう思う。

自分が誰にも見られていない。

誰かの何かに何も影響がない。

そう思った時ハードバージは最悪の選択肢を容易に選びうる危うさがあった。

シルキーサリヴァン以下コメットの仲間達は、そんなハードバージを作られた名トレーナーに押し上げようとしているのだ。

小心者の彼女は人目がある限り馬鹿な真似は出来ないから。

そしてそうなる頃にはコメットが本当にハードバージの住処になるかもしれない。

 

「トレセンに帰ったら憂さ晴らしに走りたいデース」

「少し休んだ方が良いんじゃない?」

「なんならトレーナーが併せてくれてもおっけーネ?」

「……何とかウッドチップコース取るから勘弁してください」

「まぁ、今日の所はそれで見逃してあげまショウ」

「ありがたやありがたや」

 

かつて想像していたものとはずいぶんと違うチームに居ついたエルコンドルパサー。

アクの強いウマ娘達と頼りないトレーナー。

自分だけは真面だと信じているエルコンドルパサーは、身の程知らずにもチームの常識人枠を死守することを胸に誓った。

 

 

 

§

 

 

 

強いウマ娘がいるチームには強いウマ娘が集まってくる。

これは質の高い練習相手や常に競えるライバルの存在もあり、一概には言えないもののある程度は正しい云われだった。

そして強いウマ娘が集まるチームは実績を上げる。

レースの勝利は其処で勝ったウマ娘のモノだが、実際には所属するチームの名声も上がるのだ。

多くのウマ娘が未勝利のまま現役を終える厳しい競争社会。

ウマ娘達は強いチームに所属し、少しでも勝利の可能性を高めようとする。

そう考えた時、エルコンドルパサーにはチームコメットはやや常道から外れているように見えた。

春レースに備えた本格的なトレーニング後の軽いジョグの中、前を走る赤い背中を追いながら黙考するエルコンドルパサー。

 

(なーんか排他的っていうか……外に開いてないんですよネ)

 

確かに強いウマ娘が揃っている。

シーキングザパールは国外でのGⅠレースを勝っているし、下の世代であるメイショウドトウやアグネスデジタルも決して油断できる競争相手ではない。

しかし最年長のシルキーサリヴァンとハードバージがチームを立ち上げ、エルコンドルパサーが入って五人揃うまでに年単位で時間がかかっている。

その間コメットはチームメンバーの公開募集を一度も行っていなかった。

 

「せーんぱい、そろそろ」

「……そうだな」

 

ゆっくりと止まって息を吐くシルキーサリヴァン。

少し休憩した後はプールトレーニングに入る事になっている。

エルコンドルパサーはこの時間に少し気になっていた事を尋ねてみた。

 

「ねぇ先輩、コメットってシルキー先輩が作ったんですよね?」

「まぁ……言い出したのは俺だわな」

「その割にメンバーって集めてなかったっぽいじゃないですカー……なんで?」

「チームのメリットってこの国のオープン戦に出られるってだけだろ? 出れないなら条件戦を勝った後、海外の重賞狙えばいい。アメリカで良けりゃ俺の伝もあるからな。だからうちはそれほどメンバー集めに拘っていなかったのさ」

「成程。最初から海外向けの路線で戦うチームだったんですネ」

「正直、俺様一人ならそれすら必要はなかったんだぜ? 留学生ならかなり出走制限にかかるが出られるレースもあるからな」

 

それならば猶更、シルキーサリヴァンがチームを作った理由が分からない。

どういうことかと尋ねると、シルキーサリヴァンは何処から話したものかと腕を組む。

普通に腕を組むと胸が邪魔になる為、腹の前で組む事にも慣れてしまった事が妙に悔しい元牡馬である。

 

「チームにしろなんにしろ……あの根暗をどうにかせにゃならなかったのさ」

「トレーナー? 今でも相当ですけど」

「当時は何時手首切ってもおかしく無かったんだぜ……怪我で引退する時なんざ、もうマルゼンスキーにリベンジする機会もねぇだの、でもやった所で勝てる訳もねぇとかホント暗ぇのうぜぇの……」

「こう言っちゃなんですケド……放っておくって駄目だったんデース?」

「割とドライだなおめぇさん。そうさな……なんてったら良いんだか……」

 

シルキーサリヴァンは考え込みながら移動し、コースの内埒に寄り掛かる。

追従したエルコンドルパサーは芝の上に腰を下ろした。

 

「俺様は異世界の記憶を他の連中よりも少しだけ鮮明に覚えてるってのは、話したよな」

「ハイ」

「その影響かは分からねぇんだが、俺は他のウマ娘に宿ってる魂……だかなんなんだかそう言ったもんが、かつて雄だったか雌だったかも何となくわかっちまうのも言ったっけか?」

「聞きましたヨ~。昔は牡馬? でしたっけ……男だったって言われてもピンと来ないんですケド」

「そうなんだよな……今を生きてるウマ娘にゃ、かつての性別なんざ関係ねぇ。ただ、俺自身は未だに自分が女だって認められてねぇ訳さ。だからこそかな、人付き合いの中ではちょくちょく失敗もしてるのさ」

「失敗?」

「今でも抜けてねぇ癖なんだが……どうしても俺は現実の性別より魂で感じる性別を優先してコミュニケーションを取っちまう事がある。だって俺自身がそうありたいと、自分は男だと思っているわけだからな。ただ……こっちに来たばかりの俺は今よりもっと頑なでね。他の連中に対してもそうしなければいけない、そうしないと不公平だ……ってな。勘違いしてたんだよな……俺がそうである事はそれとして、他人にはそいつが望む対応をするべきだった。ましてや、かつての自分がどっちだったかなんて覚えてるウマ娘とか一人も出会った事ねぇし、突然俺に男扱いされたって困ったろうな……」

「それは……そうデスネ」

「細かい事まで気にしてると限がねぇからざっくり行くが、その失敗で大層傷つけちまったウマ娘が二人いたんだよ。ハードバージはその一人さ」

 

当時のシルキーサリヴァンにはハードバージのマイナス思考が本当に気に食わなかった。

しかも本音の部分にはそのうえで慰めて欲しい、構ってほしいと女々しい望みも透けて見えたものだから。

お国は違えどこれがかつての自分が取れなかった、自分が欲しくてたまらなかった三冠の一つを獲ったウマの末路なのか。

様々な思いが絡み合い、彼女の弱さと感じる部分が本当に疎ましかった。

そんなハードバージに対し、冷徹に正確に現実を説いて直視させたシルキーサリヴァンである。

あの時の自分は彼女にとって毒でしかなかったろう。

 

「それがどうして此処までずっぽり嵌っちゃったんデース?」

「多少でも責任ってもんを感じちまったからだ」

「責任?」

「俺は自分が前世でどんなふうに身体を損ない、どんなふうに負けたかを覚えてる。これはアドバンテージだろ?」

「デスネ」

「そこを克服するために設備の整ったトレセンを使いたかった。だけど俺ぁ生まれ故郷が好きでね。アメリカのでかいトレセンを使おうとしたら所属までそっちに変わっちまう。其処で考えた挙句、いっそカリフォルニアから海外に留学しちまうことを思いついたのさ」

「それで日本に……」

「……元々長居する気はなかったんだ。遅くてもジュニアBまでにかつての自分の弱点を鍛え上げてアメリカに帰る。そして昔獲れなかったケンタッキーダービー、その先の二冠、三冠が欲しかった」

 

シルキーサリヴァンは苦い思い出を後輩に語った。

かつての自分はケンタッキーダービーに挑戦して勝てなかった事。

そして今生においては挑戦すらできなかった事。

 

「どうして回避したんですか?」

「仕上がりが完全に間に合わねぇ、此処で焦ったら前世の二の舞踏んじまう……と、思いこんじまったんだよ。主にマルゼンスキーのせいでな」

「ほわっつ?」

「俺のデビュー戦が奴のそれと被ったってのは知ってるだろ? 当然俺様は負ける気がしなかったね。ウマ娘が何なのか、前世の自分の長所と短所、それらを知って効率よくトレーニング出来る俺様がデビュー戦の若造に負けるもんかよ……ってなぁ」

「でも負けちゃったんですよね」

「……鼻差でな。1200のスプリント戦、前半早めに入ったが俺の脚も残っていた。ラスト500で先頭のマルゼンスキーまで7バ身くらいあったかな? あっという間に追いついて……あんの野郎最後まで粘り切りやがった」

「もしかしてそのせいで自分はまだオープンクラスにも届かないとか思っちゃいました?」

「デビュー戦の小僧も差し切れなくて何がダービーだ舐めてんじゃねぇぞ自分……って思っちまったんだよなぁ」

「オゥ……マイガッ」

 

シルキーサリヴァンとマルゼンスキーが直線でたたき合い、そのハードルを爆上げした新バ戦。

エルコンドルパサーはグラスワンダーと共にその内容を調べている。

上がり三ハロン29秒7のシルキーサリヴァンと、30秒8だったマルゼンスキー。

いずれも初めてレースに出たウマ娘の時計ではない。

結局それまであった貯金でマルゼンスキーが逃げ切ったが、明らかに異常なレースだった。

しかしよりによって上位二人は思ってしまったのだ。

マルゼンスキーは此処まで走りこまなければ勝てないのだと。

シルキーサリヴァンは此処まで走りこんでも勝てないのだと。

 

「あの時のマルゼンスキーは強かった。こう言っちゃ失礼だが……当時の俺はJapのウマ娘共って見下してもいたからな。鼻っ柱を折られた衝撃もひとしおさ」

「なるほど……」

「だが、デビューに躓いたからって諦めるほど潔くもねぇ。俺は短期の留学を長期に申請しなおして一から鍛えなおすことにした。アメリカンクラシックは三冠の間隔が短い。この時点であっちのクラシックは諦めざるを得なかった……」

「……」

「其処からは出走を控えてトレーニング三昧さ。留学を長期に切り替えたからこっちのクラシックに出る道もあったんだがあんまり興味ねえしな」

「でも一生に一回ですヨ~。とりあえず獲りに行っても邪魔になる事は無かったでショ?」

「そもそも皐月の2000すら俺には長ぇんだよな。それでも、マルゼンスキーが出てきたならムキになったかもしれねぇが……」

「そっか」

「あいつは怪我で出られなかった。俺様もそんなクラシックにあまり興味が無かった。だが、俺とマルゼンスキーが揃ってクラシックから身を引いた為に泣かされる奴が出ちまった……いや、まぁ其処まで責任持てるかよって話でもあるんだがな」

「そりゃぁ……ねぇ」

「だけどハードバージは当時、俺様に夢を見たんだとさ。マルゼンスキーじゃなくて、俺に。偶々でもなんでも手が、声が届くところにいる奴が俺に夢を託してやがった……このまま放っても置けねぇよ」

「……先輩、何時か他人の夢に縛りつぶされちゃいません?」

「覚悟しときなエルコン。おめぇも勝ち続けりゃ何時かそうなる。他人なんて身勝手に自分の夢をこれと見定めたウマ娘に託すもんさ。だけど上に行けるのは、そうやって託された夢を力に変えていける奴だ。お前も、すぐにそうなるぜ」

「うへぇ」

「っは、其処は高笑いして軽口の一つも叩けるようになりやがれ」

 

シルキーサリヴァンはしかめっ面のエルコンドルパサーを引き起こす。

そのまま二人組で軽く柔軟をしていると、同チームの後輩が駆け寄ってきた。

 

「あ、エル先輩此処にいた!」

「ヘイ、デジちゃん。何か御用ですカ~?」

 

アグネスデジタルは傍のシルキーサリヴァンに黙礼すると、赤い女も頷いて片手を上げる。

目上の挨拶を済ませたデジタルは持ち込んだ新聞を開く。

そしてある記事をエルコンドルパサーに見せながら興奮したように聞いてきた。

 

「これって先輩のクラスだよね! 何があったか知りません?」

「これは……今月デビューのウマ娘……あ、スぺちゃんもう一勝してる!」

「やっぱり先輩の知り合いですよね、おめでとうございます」

「ありがとうデース! と言っても、勝った当人がいない所で祝われて私がお礼言うのも変デスネ~」

「ま、ま。それはこっちに置いといて……此処! 此処読んでよ」

「……何これ? 誤植?」

「さぁ? だから同じクラスの人なら何か知っているかなーってお聞きしに来たんですよー」

 

エルコンドルパサーとアグネスデジタルは新聞の記事。

正確にはスペシャルウィークを特集した記事の一部に目を止める。

デビュー戦を勝利で飾ったウマ娘という一事だけでは此処まで大きな特集は組まれないだろう。

余程派手な展開があったらしい。

そのように書いてあるし、エルコンドルパサーもこの記事のような表現で勝利を語られるウマ娘は初めて見た。

 

「デジちゃんこの記事借りて良い?」

「あ、差し上げますよ? もうみんな読んだし」

「さんきゅーデース」

「その代わり、真相分かったら是非教えてくださいよ」

「まっかせてー」

 

意地の悪い笑みを浮かべるジュニアの二人。

エルコンドルパサーが特ダネを持ち込んだ後輩の頭をガシガシと撫でると、アグネスデジタルも悲鳴を上げながらされるがままに受け入れている。

シルキーサリヴァンは若い新入りが無事チームに馴染んでいる事に安堵するとともに、怪鳥に遊ばれるであろうスペシャルウィークの写真に同情の視線を送るのだった。

 

 

 

§

 

 

 

「ヘイ! ジャパニーズカントリーガール」

「げぇ、エルちゃんっ」

 

スペシャルウィークは教室で遭遇した怪鳥から一目散に逃げだした。

エルコンドルパサーの要件は左手に握られたスポーツ紙が雄弁に物語っている。

逃亡を図るスペシャルウィークに対し出入り口を巧みに塞ぐエルコンドルパサー。

しかし狭い教室内で何時までも逃げられる訳もなく、逃走中に巻き込んで跳ね飛ばしたセイウンスカイによってお縄となった。

 

「ウンスちゃんナイス」

「君はウンス言うな。所で何の騒ぎなの?」

「武士の情けです。見逃してくださいウンスちゃん」

「私を巻き込む前なら見逃したんだけどねー。跳ねられた痛みが消えるまでエルちゃんの味方かなぁ」

「あぁ……」

 

絶望したように俯くスペシャルウィークを引きずったセイウンスカイはとりあえず席に座らせた。

顔を上げないスペシャルウィークの前で持ち込んだスポーツ紙を開いたエルコンドルパサー。

セイウンスカイは机の上に広げられた紙面を見る。

それは先日流し読みした今月デビューのウマ娘の記事だった。

 

「ウンスちゃんこれ読んだ?」

「勿論。勝ちタイムと勝ったウマ娘の名前だけだけどね」

「そりゃ勿体ないデース」

「なに? 何か面白い事……あったみたいだねぇ」

 

顔を伏せたままぷるぷると震えるスペシャルウィークの様子から事情を察したセイウンスカイ。

とりあえず礼儀上初勝利を飾ったクラスメイトを祝うためにもう一度記事を読み直す。

そうしていると教室の扉が開き、グラスワンダーが登校した。

 

「おはようございます、皆さん」

「あ、グラスーこっちこっち」

「エル……また何かスぺちゃんに悪い事しているんですか?」

「さぁ、悪い事したのはどっちカナー?」

 

ドヤ顔の親友に半眼になったグラスワンダー。

スペシャルウィークの様子からまた碌でもない事をしているのかと疑念が沸く。

しかしセイウンスカイが読んでいる記事を見た途端、グラスワンダーの頬が引きつった。

 

「……なんだこれ」

「スぺちゃんのデビュー戦の特集デース」

「いや、そりゃ分かるんだけどねぇ」

 

記事は多くの賛美によってスペシャルウィークを称えていた。

可憐な容姿。

インタビューの初々しい受け答えと、日本一という大きな夢

新人とは思えない華麗なライヴパフォーマンス。

観衆を熱狂させた歌声。

そして見事なKO勝利。

 

「スッペちゃーん」

「……はい」

「ワタシー。英語は苦手なんですケドー」

「おい帰国子女」

 

新聞から顔を上げて一応突っ込むセイウンスカイ。

エルコンドルパサーは気にした風もなくスペシャルウィークの頬をつついている。

まだ顔を上げられず、されるがままのスペシャルウィーク。

 

「KOってたーしかノックアウトの略だった気がするんデースよネ~」

「……その通りだと思います」

「ノックアウトってたーしか相手をノックダウンさせないと起こらない勝ち方だった気がするんですヨ~」

「……仰せの通りでございます」

「……決め技はジャイアントスイングとかデース?」

「手を使わない投げ技だったから空気投げだと思いますよ」

「タツジン!?」

「違うんですぅ……誤解なんですぅ」

 

現場を目撃したらしいグラスワンダーの証言。

羞恥で顔を真っ赤に染めたスペシャルウィークは机の上で頭を抱えた。

その様子に大笑いしたエルコンドルパサーだが、間髪入れずにグラスワンダーに尻尾を掴まれ悲鳴を上げる。

セイウンスカイはとりあえず、今度から新聞は一通り読むことに決めた。

 

「まぁ、その辺の武勇伝を当人の口から聞きたいなーってネ~。後輩も気にしてるしサ~」

「……そんなに広まっちゃってるんですか?」

「むしろそっちから私が聞いたんですヨ」

「そっか……そうなんだ」

 

スペシャルウィークは遠い目をしながら黒歴史となった記事を確認する。

エルコンドルパサーに弄られているKO勝利の内容。

記事ではクイーンベレーというウマ娘を20㍍ほど吹き飛ばしたとしか書かれていない。

そして腹立たしい事に、全てが自分にまつわる事実であった。

スペシャルウィークの正面では満面の笑みで解説を待つエルコンドルパサーがいる。

こうなった怪鳥はきっとしつこい。

耐えていればグラスワンダーが止めるかもしれないが、最早忍耐の限界が近い。

盛大なため息とともに覚悟を決めたスペシャルウィーク。

しかしその肩に手が添えられた。

視線で辿った先にはグラスワンダーの顔がある。

あらゆるものを包み込んで許すかのような優しい微笑。

その片手はスペシャルウィークの肩に置かれ、もう片手は自分の胸に添えられている。

 

「グラスちゃん……」

「はい」

 

チームメイトの意図を察したスペシャルウィークは感謝の念を抱いて頷いた。

 

「……お願いしていい?」

「本人からは言いにくい事もありますからね」

「ほぅ……つまり、スぺちゃんの代わりにグラスが釈明をするトォ?」

「はい」

「割と危ない博打するねスぺちゃん」

 

いつの間にかエルコンドルパサーとセイウンスカイに対し、スペシャルウィークとグラスワンダーが向き合う形になった。

グラスワンダーは悪ノリしていると思われる親友にジト目を返す。

そしてはっきりと宣言した。

 

「この度の出来事につきましては、全てスペシャルウィーク選手個人の有する資質によるものであり、リギルとして、チームとして結果にかかわる事は出来ませんでした」

「なに堂々とスぺちゃん売り飛ばしてるんデスか!?」

「あいた!?」

 

思わずっと言った形でグラスワンダーの額にチョップを落とすエルコンドルパサー。

スペシャルウィークは驚愕の眼差しをグラスワンダーに向けている。

その肩に今度はセイウンスカイが手を置いた。

 

「覚えといてスぺちゃん。グラスちゃんは、エルちゃんのやる事に突っ込みは入れるけどね? 実際にその奇行を止めた事って殆ど無いから」

「……おがあじゃん……都会のウマ娘はおっかねぇよぅ……」

 

弁護どころか後ろから刺された形のスペシャルウィーク。

半泣きの彼女を引き寄せ、あやす様に慰めるセイウンスカイ。

グラスワンダーとエルコンドルパサーは立場を逆にしたようにスペシャルウィークを挟んで言い合っている。

騒がしいクラスメート達の様子に立ち上ったのは、我関せずとばかりに過去の名レース集なる本を読んでいたキングヘイローであった。

 

「貴女達少しお静かになさい」

「「だってエル(グラス)がっ」」

「お黙り」

「「はい」」

 

気品と眼光。

そして濃密にして圧倒的な武威の気配で級友を圧したキングヘイロー。

その右手と左手はエルとグラスの手首を握りしめている。

セイウンスカイの耳は骨が軋むような音を拾っているが、スペシャルウィークの頭を撫でて必死に無視した。

 

「恐らくですが、何か誤解があるようなのでグラスワンダーさん。もう一度正確に、詳しく説明していただけます?」

「……えぇと、スぺちゃんと私は今年がクラシック戦線です。これは一生に一度の事ですから、リギルに限らずほとんどのチームでは総力を挙げて支援するのが普通だと思います。そしてリギルだと私が骨折で出られませんので、スぺちゃんの支援体制一本に絞れたはずでした。ですが今、別件があってそれが出来ない。だからリギルとしてスぺちゃんへの協力が不十分だったって言いたかったんですけど……」

「……あの言い方で?」

「トカゲの尻尾切ったようにしか聞こえなかったデース」

「まぁ……忘れそうになりますけど、グラスワンダーさんも帰国子女ですからね」

 

級友たちの反応をうけて首を傾げるグラスワンダー。

本当に他意が無かったらしいその様子に背筋が寒くなったスペシャルウィーク。

普段から面倒なのはエルコンドルパサーだが、いざという時に限ってはグラスワンダーの方が恐ろしい。

やや納得いかない表情のグラスワンダーが続きを話す。

 

「リギル入りしてからスぺちゃんの基本的な走力や体力の測定を行いました。そのどちらも優秀だったのでトレーナーさんは条件戦の間だけ別件に専属で取り掛かり、スぺちゃんの指導を先輩方に委ねました……相当悩んでらっしゃいましたが」

「まぁ、転入初日で条件戦無敗だったヘイローちゃんに勝ち切ったもんねぇ」

「スペシャルウィークさんは人間のお母さまと特訓をしていたのですよね?」

「あ、はい。お母ちゃんの軽トラ追っかけたりタイヤの代わりに軽トラ引っ張ったりボールの代わりに軽トラ避けたりしてました」

「ワタシハツッコマナイヨ~」

「……東条トレーナーは最初スぺちゃんの基礎能力を育てたお母さまに感心していらっしゃいました。トレーナー候補としてトレセンに呼べないかとまで言ってたんですよね……特訓の内容を聞いて絶対言わなくなりましたけど」

 

グラスワンダーは一つ息を吐いて話題の路線を修正する。

 

「現在スぺちゃんのライヴ関係の指導はシンボリルドルフ会長とナリタブライアン先輩で、デビュー戦のレース内容を指導なさったのはヒシアマゾン先輩です。空気投げもその影響かと思われます」

「空気投げの一言で流されると怖いんだけど実際にスぺちゃん何やったデース?」

「えっと……ヒシアマゾン先輩から荒っぽいレースを仕掛けてくるウマ娘がいた時の対応を教えてもらっていたんです。その一つで、相手のショルダータックルに対して肩と反対方向に相手の腰を押し込んだだけなんですけど……」

「んー……?」

「後ろから追いついて相手の左から抜くとき、私にタックルするなら右足で踏み切るよね? 追いついてから抜き去るまでにクイーンベレーさんの右足が地面に着いてるタイミングで仕掛けてきますから大体分かるんです。だから屈み気味に身を低くして避けたんだけど、つっかえ棒の私がいなくなったから相手が私の背中の上を転がって外埒めがけて吹っ飛んで……」

「それで……KO?」

「……うん」

「ねぇグラス」

「言わないでください」

「ねぇグラスちゃん」

「言わないでください」

「リギルはスペシャルウィークさんをどういうウマ娘にしたいんですか?」

「私に言わないでくださいよぉ!」

 

悲鳴のような声と共に頭を抱えたグラスワンダー。

彼女はスペシャルウィークのトレーニングには殆ど関わっていない。

しかしリギルに導いたのは自分であるため無関係と開き直る事も出来なかった。

 

「スぺちゃん、素直な上に教えた事の覚えも良いので先輩方にも可愛がられているんです。色々な先輩方が様々な事をスぺちゃんに教えて、スぺちゃんもスぺちゃんで教わった事はそこそこ以上に熟せるものだから……」

「でもせっかく教えてもらったんだから覚えたいし、覚えた以上機会があったら積極的に使っていかないと悪いじゃないですか……」

「オゥ……ニポンの田舎ウマ娘怖いデース」

「スぺちゃんっていうか、リギルが怖いよ」

 

手を取り合って震える演技で煽るエルコンドルパサーとセイウンスカイ。

リギルの二人は心底悔しそうに呻く。

トレセン学園のトップチームにして年間最多勝利記録を持つリギルに対し、此処まで堂々と喧嘩を売ってくるジュニアもいないだろう。

二対二でにらみ合う級友に対し、キングヘイローは額の皺を揉みながら最後の疑問を口にした。

 

「スペシャルウィークさんの事情は何となく分かりましたけれど……そちらのトレーナーさんが関わる別件というのは、伺ってもいいかしら?」

 

スペシャルウィークとグラスワンダーはしばし見合う。

 

「グラスちゃんこれ言っても良かったっけ?」

「怪我でもない限り決まった事ですので大丈夫です」

「ん、えっとね。タイキシャトル先輩が春レースから復帰するんだって」

「「「は!?」」」

 

リギル以外の三人がそれぞれの表情で固まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




C組五人がそろってわちゃわちゃしてる所が書けて幸せでした
この話のタイキシャトル先輩は多分、リアルより苦労しています


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5.怪鳥が見た夢

後書きにエルちゃんの夢ローテがまとめてあります


ジュニアCクラスの中から突如あふれ出したタイキシャトル復帰の報。

それは同級生たちによって瞬く間に所属チームに持ち帰られた。

その後学園は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなる。

特に短距離路線で売っているチームは阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

エルコンドルパサーが所属しているチーム『コメット』も、シニアの二人は主に短距離からマイルで活躍するウマ娘である。

しかし話を持ち込んだ怪鳥は、この程度でどうにかなる先輩方とも思っていない。

Cクラスの授業後に集ったコメットの部室。

下の二人を待つ間の話題は自然とタイキシャトルに関するモノとなった。

 

「タイキシャトルがねぇ……あいつが帰ってくるたぁ……ま、めでてぇな」

「本当に戻ってこれるの? 何かの間違いじゃなくて」

「リギルの同級生が本決まりって事でしゃべってましたから。後はレースの日程を組むだけ、当人はばっちりって感じだと思いますケド~」

「……そう」

 

シルキーサリヴァンはほろ苦い笑みでかつてのライバルの一人を語る。

そしてシーキングザパールは舌打ちでもしそうな程に顔をゆがめていた。

その反応はエルコンドルパサーの予想に反する。

てっきり鼻で笑って迎え撃つものだと思っていたのだ。

 

「どうしたんデース? もしかして、先輩方ビビってル~」

「おめぇタイキシャトルの戦績知ってんのかよ」

「んー、昔のマイル路線の事はちょっと」

「……20戦11勝2着1回よ」

「……おめぇが覚えてるのも意外なんだが」

「死ねばいいとすら思っている相手を無視するのも難しいでしょう」

 

艶然と微笑むシーキングザパールに背筋が凍る元牡馬二人。

エルコンドルパサーは思わずといったていでシルキーサリヴァンの影に隠れる。

 

「おぃ、後輩がビビってんぞ」

「びびびびってないしっ」

「声震えてんじゃねぇか……」

「キャラ作りも忘れてるわよ」

 

そら恐ろしい雰囲気を消したパールが何時もの様子でからかってくる。

これが先程まで誰かの死を望んでいたウマ娘の態度だろうか。

妖怪でも見たような心地のエルコンドルパサーである。

 

「まぁ、其処だけ聞くとそこそこのウマ娘って感じだろ?」

「いや、スタート一つ間違っただけで潰しのきかない短距離からマイル戦で二桁勝ってるって凄い気が……」

「そういやそうか……しかも12戦11勝2着1回でもあったんだぜ」

「ん……ん!?」

 

聞き流しかけてその意味に気づいた怪鳥。

 

「つまり出だしからはほぼパーフェクトだったんデース?」

「そう言うこった。今マイル以下の路線でテンパってる連中はその事を覚えてる奴らだろうな」

「……でも逆に言うならキャリア後半で失速したんデスよね? こう言っちゃーなんですケドー……終わったウマ娘なんじゃ?」

「その通りよ」

「黙れパール」

「ふん」

 

シルキーサリヴァンが珍しくシーキングザパールをたしなめる。

つまらなそうにそっぽを向いたパールだが、部屋を出ようとはしなかった。

一応話に加わる心算はあるらしい。

 

「キャリア前半のあいつは淑やかなお嬢さんって感じでよぅ」

「先輩も見た目だけならそんな感じデスヨ~」

「奴の場合は中身もだ。俺達と同じアメリカ生まれで、慣れない日本語で片言でさ……丁度お前さんのキャラ作りを素で行ってる印象だったな」

「キャラ作りじゃないデースっ」

「まだそう言い張れる貴方には感心するけれどねぇ」

「……まぁ、当人がそういうなら尊重しようじゃねぇか」

「そうね」

「むぐぐぅ」

 

何やら分かり合ったような年上二人。

この場では若輩である事を自覚している怪鳥は不満を耐えて飲み込んだ。

 

「実力は本物だった。だがどうにもメンタルが弱くてな……寂しがりって言うんだか、異国で一人戦っていくには心もとない部分もあったもんだ」

「それでも、勝ち続けたんデスネ」

「ああ、見事なもんさ。だが勝ち続ければ周囲の見方は変わってくるもんだ。やっと環境に慣れて、国内のマイル路線を制圧し終わるころには海外遠征って話を望まれて……トントン拍子に決まっちまった。当人やトレーナーが熟考する暇もなくな」

 

エルコンドルパサーはシルキーサリヴァンの話を聞きながらシーキングザパールの様子を盗み見ていた。

恐らくこの時マイル路線にはパールもいた筈である。

そして当時のタイキシャトルの戦績。

彼女もまた、制圧された側だったろう。

しかしその一事を持ってこれほどまでに忌み嫌う事があるのだろうか。

その辺りをもう少し聞いてみたい気もするが、今はシルキーサリヴァンの話も興味深い。

 

「海外遠征にはどうしたって金がかかる。だがファンはタイキシャトルの海外制覇を夢見て、その人気に乗っかるように学園も多少の支援を申し入れてきたんだとさ。当時、リギルは今ほど大きくも強くもなかったからな。確かに千載一遇の好機って奴ではあったのさ。だけどこの話にはもう一つおまけもついていたんだよ」

「おまけ?」

「当時はリギルより大きいチームでエース張ってたパールさ。保険って事なのかねぇ……ほぼ同時に学園からチームに提案があったそうな。『少し』資金出してやるから海外遠征しねぇか? ってな」

「私の方の話をおまけ扱いは酷いんじゃないかしら?」

「んな事言ったってあの扱いはおまけか保険だろ。当時おまえが勝ったって聞いた時、周りで喜んでたの俺しかいなかったからな? 皆きょとんとして何時行ってたの? って不思議がってたぞ」

「……っ」

「蹴んなって」

 

間髪入れずに飛んできたローキックを、右の足裏で受けるシルキーサリヴァン。

ウマ娘の脚力を片足で止められたのはパールが本気ではないからだろう。

それでも膝に抜けるような衝撃を感じたが。

 

「で、この結果は知ってるよな。見事パールもシャトルも欧州G1を勝利して凱旋さ。あんときは盛り上がったもんだ……当事者同士で何があったかは知らねぇがな」

「何か……あったんデス?」

「あったんだろうなぁ」

 

そう言ったシルキーサリヴァンは半眼を一方の当事者に向ける。

シーキングザパールは顔色一つ変えずにその視線を無視した。

 

「パールが戻ってシャトルが戻って……すぐの事だった筈だ。これに関しちゃ未だにどっちも口を割らねえんだが……俺が見たのは校舎裏でパールを締め上げて今にも殴ろうって感じのシャトルだった」

「……淑女はどこにいったデース」

「だから俺も驚いた。驚いて…………はぁ」

 

憂鬱な息を吐くシルキーサリヴァン。

それは今まで怪鳥が見て来た彼女にはとても似合っていなかった。

困ったようにシーキングザパールを見るが、その顔は能面を思わせる無表情。

少なくとも自分やシルキーサリヴァンが何を言おうと口を割らせることなど出来そうもなかった。

 

「思わず張り倒して引き剥がしちまったんだよな……シャトルの方を」

「それ、もしかしなくてもタイキシャトル先輩は以前……」

「男だったと感じてる」

「じゃあ先輩の目には男の人が力任せに女の人を締め上げて殴ろうとしている場面ですか……」

「咄嗟だった。だけどあの時のシャトルの……心底傷ついたってのより前に来た信じられないものを見たって目は今もって忘れられねぇよ」

「んー……シルキー先輩ってタイキシャトル先輩と仲良かったんデース?」

「同じ短距離からマイルが戦場だったし、そもそもアメリカ生まれだしな。特に一回オープンで差し勝った後は懐かれてたと思う。多分冗談だったんだろうが、リギルに来ねぇかって誘われてもいたしな」

「へぇ……」

 

エルコンドルパサーはシルキーサリヴァンがうな垂れている間に、ふと立ち上って自分のロッカーを開ける。

取り出したのは学生カバンの中にあるノートと筆記用具。

その一ページを静かに破り、さらさらと文字を書いていく。

 

「……話を戻すが、シャトルが失調したのはその後からだった。帰国後初戦のマイルチャンピオンシップは勝ったものの明らかに太め残りで調整を欠いていたし、その後のスプリンターズステークスに至っては絞る所か更に増えてやがった。もう真面な状態じゃなかったんだろうな」

「その間ってシルキー先輩はどうしてたんデス?」

「俺の方でもハードバージの件で駆けまわっていたんだよ……あいつが一番ダメだった頃だ。その上、シャトルの件でリギルは出入り禁止喰らっていた。俺も手を上げちまった手前何も言えなかった」

「シルキー先輩が前にコミュニケーション失敗したって言ってたアレ、タイキシャトル先輩の事だったんですネ」

「その後のあいつは……見ちゃいられなかった。不自然な程激太りして来ることもあれば周ってこれるのか心配な程痩せてきたり……結局、掲示板に乗る事もなくなっちまった。去年に至っては一走もしてねぇ筈だ。終わったウマ娘ってのはパールだけじゃねぇ、多分皆思ってたろうな」

 

顔を上げることなく、当時のライバルの様子を語るシルキーサリヴァン。

エルコンドルパサーはその隙に、破ったノートの切れ端をシーキングザパールの上着のポケットに押し込んだ。

いぶかしげな顔をしたパールだが、この場で紙を確認する様子はない。

 

「それが何で今になって皆大騒ぎしてるんデスか?」

「其れこそ、東条ハナとあいつのリギルが今日までに培ってきた名声と、ある種の信頼だろうな。シャトルが海外遠征に行った頃はまだ周りの雑音に振り回される青臭さが残ってたもんだが……今のあいつは超がつく一流どころのトレーナーさ。奴が一年以上強制的に休ませたウマ娘のリスタート、必ず何か用意してる……ってな」

「成程ネ」

 

エルコンドルパサーがシーキングザパールから離れた時、シルキーサリヴァンも顔を上げた。

その瞳には常の闊達さが戻っている。

チームメイトはそんなリーダーの様子にひとまず安堵の息を吐いた。

 

「この時期から出てくるって事は、大目標はマイルG1の安田記念だろうな。うちも折角五人揃ってオープンの出走権が手に入ったんだ。こりゃ、派手に出迎えてやらにゃなるまいよ」

「出るのね」

「おぅ、おめえはどうする?」

「終わったウマ娘が一人出てくるくらいで回避する理由は無いでしょう」

「……決まりだな」

 

活気づいてきた雰囲気がエルコンドルパサーにも心地よい。

 

「先輩方、頑張ってくださいね!」

「おぅ。いや、おめぇはどうすんだよ」

「はい?」

「いや、おめぇさん……クラシック……」

「……あ」

 

 

 

§

 

 

 

その後しばらくして、トレーナーを含めた全員がコメットの部室に集合した。

実はコメットは平時の集まりが悪いチームである。

基本的なメニューはトレーナーによって指導されるのだが、それをこなすもこなさぬも自分次第。

それによって得られる結果に関しても自己責任というのが基本姿勢としてあった。

しかしチームに仲間意識が無いかと言えばそれも違う。

コメットはチーム内の誰かが相談事やトレーニングパートナー探しに声をかければ自然と全員が集まってくる。

 

「そいじゃ、先ず決まってる事から行きましょ!」

 

テンションの高いアグネスデジタルがホワイトボードに書き込むのは安田記念の文字。

其処にシルキーサリヴァンとシーキングザパールの名前を記入する。

これは春の最終目標であり、どんなステップレースを踏むかは未定であった。

 

「ステップレースはエルコンドルパサー先輩の路線次第でしょうかー?」

「そだねドトウちゃん。今年は多分……出るよ」

「怨霊ですかぁ?」

「違う! 三冠ウマ娘! ナリタブライアン先輩以来六人目の三冠だって」

「それでしたら、シンボリルドルフ会長以来の無敗の三冠ウマ娘も行けるのではないかとー」

「それだ」

 

メイショウドトウとアグネスデジタルは決まったかのように言ってくれる。

その信頼はエルコンドルパサーの胸を熱くしたが、反面では罪悪感も煽ってくる。

そうしていると何故か隅の方に座っていたハードバージが手を上げた。

 

「はい、トレーナー」

「私もエルちゃんなら本当に取れちゃうかなーって思うんだけどさぁ」

「んっひひひひぃ、たんまぁーには良い事言いますねぇ」

「本当ですよね……エル先輩がクラシック取れないと、デジちゃんはともかく私とか、ほら……夢も希望も……」

「そこの負け犬だって皐月は取ってんだ。おめぇもそんくれぇ余裕だろうさ」

「あぁ、えぇと……がんばりますぅ」

 

シルキーサリヴァンの言葉に疑わし気な視線を返すメイショウドトウ。

彼女の内気でマイナス思考な気質はハードバージに共通するものがある。

しかしお互いの中に自分の嫌いな部分を見てしまう為、出来る事なら柵の外から礼儀を尽くしたい相手でもあった。

それはハードバージの方でもそうだろうが。

 

「先ずは当人の考えを聞いてみようよ」

「むー……ちょっと待ってくださいネ~」

 

話を振られたエルコンドルパサーは自分の春レースに展望が無い事を改めて意識した。

正確には彼女の中にはしっかりとした目標もあれば道筋もある。

その目標に照らし合わせた時、春のクラシック戦線は本当に必要なのか。

他のチームであれば何となく皐月賞のトライアルを模索し始めていたかもしれない。

しかしシルキーサリヴァンは言っていたのだ。

チームの利点はこの国のレースに出られるだけだと。

出られなければ海外の重賞を狙えばいいとも。

世界に出る。

コメットにはその土壌がある。

それならば……

 

「前にちょっとパール先輩には話したんだけどさ……私ジュニアBの頃、やりたい事があったんだよね」

「夢ですか?」

「そう夢。ジュニアCの同期でチームを作る。そしてクラシックで世代最強を決めながら宝塚、秋天、JC、有馬でシニアクラスを薙ぎ倒す。そんで解散。誰かが最強なんじゃない、私達が最強だったって後々まで語られるような……そんな挑戦がしたかった」

「……」

「言ってる事だけでっかくてもーって笑われるかもしれないけどね。きっと出来るって信じられるだけのメンバーも四人見つかった。最後、あと一人がどうしても絞れなかったんだけど……そうしてるうちに、タイムリミットが来ちゃった」

 

メイショウドトウとアグネスデジタルはそれぞれにクラスメイトの顔を思い浮かべる。

エルコンドルパサーが語った、終わった夢。

それほどまでの想いを共有できる仲間がクラスの中に何人いるだろうか。

 

「私にとってこれから目指す夢は、諦めたこの夢を埋め合わせるモノじゃないと駄目なんだよ。そう考えた時さ、無敗の三冠ウマ娘程度じゃ全然足りそうもないんだよね」

「初めて会った時からそうだったけれど、器の大きさは本当に凄いわね貴女」

「頼もしい限りじゃねえか。そんで、お前が腹いっぱいになる夢ってのは何なんだ?」

「私は、世界一のウマ娘になります」

「具体的には?」

「――凱旋門賞」

「なるほど」

「――ドバイワールドカップ」

「おい」

「――ブリーダーズカップクラシック」

「……」

 

シルキーサリヴァンは信じがたいものを見たといったていで後輩の顔を見る。

それはハードバージやシーキングザパール。

そしてアグネスデジタルやメイショウドトウも同様だった。

 

「ま、ワタシは謙虚なウマ娘なのでこの三つくらいで勘弁してやりマース!」

「どれかじゃなくて?」

「イエース! って所を目指していきたいんですけど……ダメ?」

「いや、やれるもんならそりゃやっちまって欲しいもんだが……」

 

シルキーサリヴァンとシーキングザパールが互いに顔を見合わせて言葉に詰まる。

凱旋門賞は12ハロンの芝レースでありドバイWCとBCクラシックは10ハロンのダート戦。

しかも全てが違う国で開催されるレースである。

これを狙いに行くと言葉にするのは容易いが、実行するとなるとどのように支援していくか。

年長組が思案に暮れている中、年少組は先ずレース自体を調べだす。

いささか奇妙な事に、この時エルコンドルパサーの夢を不可能だと感じた者はいなかった。

 

「えっと……凱旋門賞が10月でドバイミーティングが春の頭でこっちはもう間に合わなくてぇ……ブリーダーズカップが11月ですかー。一年で回るのは無理ですねぇ」

「本気で取りに行くんなら、先ず凱旋門でしょ! 後回しにすると勝負服の重りがきつくなっていくし此処だけ芝だもん。日程も三つの内で真ん中だし、此処だけ切り離して考えたほうが良いかも。年間の日程にすると……」

 

ホワイトボードにエルコンドルパサーの名前を書き込んだアグネスデジタル。

その下には一年目、二年目、三年目の文字が追加される。

 

「大雑把に考えてる所だトー……一年目で国内荒らして遠征費調達、二年目の何処かでフランスに入ってトライアルから凱旋門賞、終わったらすぐにダートのトレーニングに切り替えて三年目頭でフェブラリーステークス……これはドバイとBC両方のトライアルになってマスから、此処で勝てるかが分水嶺になるネ」

「……フェブラリーステークスの直後にドバイワールドカップが来る日程が苦しいな」

「其処さえ超えてしまえば、BCまではある程度余裕を持って現地入り出来るわね」

「一年目を効率よく進めるためには秋、世代混合戦が本格的に始まってからが重要だねぇ」

 

ハードバージが立ち上がり、アグネスデジタルが陣取るホワイトボードの前に立つ。

其処でデジタルからマーカーを受け取り、一年目の欄に記入していく。

 

「秋の頭の京都大賞典か毎日王冠、次のマイルチャンピオンシップかジャパンカップ、後は有馬記念……この三つの内二つが取れれば、年明けに海外遠征を表明しても表立って文句は出ないと思うよー」

「GⅡはどっちでも良いんですケド……凱旋門狙いなら距離が同じジャパンカップで勝ちたいデスネ~」

「そうだね。世界挑戦をアピールするなら、ジャパンカップが一番の決め手になるよー。其処で決めてしまえれば有馬記念を待たずに次の行動に移れるしね」

 

ハードバージはそう言って一年目を締めくくり、二年目の欄を埋めていく。

 

「フランスのレースを全部は覚えてないんで後で調べておくけれど……凱旋門賞のトライアル、フランス国内で絞るとエルちゃんが使えるのはフォワ賞だね。此処は本番と同じロンシャンレース場で、同じ距離だから慣れるためにもいいと思うー」

「ある意味そっちが重要なんだよな。勝たねぇと先がねえんだから」

「そうだね。このフォワ賞が大体九月だから……あっちの気候や芝に慣れるためにも春頃には渡仏したいかなぁ」

 

一年目の結果次第だが、此処で躓いても最悪二年目の春に挽回がきく日程だろう。

ジュニアCクラスのうちからシニアクラスを倒していくのは容易ではない。

しかし出来れば春天前には結果を出して渡仏したい所である。

 

「最後にエルちゃんの構想にあった凱旋門賞の後のフェブラリーステークス一本狙いだけど……此処をあえて外してしまうルートもあるね」

「と、言いますトー?」

「ドバイの方は有馬記念とか、アメリカのペガサスWCをトライアルレースに使っていくルートもあるって事ー。同じように、BCクラシックだってアメリカ国内でBCチャレンジシリーズっていうトライアルがあるからね」

「それって国外ウマ娘のワタシが出れましたっけ?」

「出られるよー」

 

正確には追加登録料を払えばとつくのだが、其処は言わぬが花だろう。

この段階までエルコンドルパサーの計画が進んでいれば資金面で苦労することは無い筈だった。

 

「その場合凱旋門から後、12月の有馬記念か1月のペガサスWCをトライアルに春のドバイWCを獲る。そしてアメリカに渡って9月くらいのBCチャレンジシリーズの中からクラシックのトライアルを選んで11月に本番かな。フェブラリーステークスを外すとトライアルが早くなる分ドバイに早く入れるし、こっちの方が日程は楽になるよ……ただ、有馬やペガサスは楽に勝てるレースじゃないけどね」

「……チョット待ってくださいネ~。ペガサスカップって簡単に出まーすって言えるレースじゃなかったような?」

「シルキーが一枠出走権買ってるから出られるよー」

「はぁ!?」

「今年そのままシルキーが勝ってるから、来年の登録料も払ってるー」

 

エルコンドルパサーが呆然としたようにシルキーサリヴァンを見る。

どうだと言わんばかりのドヤ顔を返されるが、それが妙に頼もしい。

 

「おめぇさんが今年と来年の計画を順調に進められたなら……世界最高の賞金レースへ出してやるぜ」

「……先輩ってお金持ちのボンボンとかデース?」

「なんでだ。普通にBCスプリントやらなんやらで勝ってるんだよ」

「それにしてもよくそんな買い物許されましたネ~」

「むしろハードバージ以外は大賛成したんだぞこれ」

「コメットって……」

「まぁ、詰まるところ……なんだ」

 

シルキーサリヴァンはチームメイトの顔を一人一人見渡した。

 

「お前さんの世界三冠狙いとか、めっちゃくちゃ俺ら好みだってことだ」

「ん……ありがとうございます」

 

エルコンドルパサーはチーム一堂に深く頭を下げる。

ジュニアCクラスのメンバーをチームが支援するのは、其処に生涯一度しか出られないレースが集中しているからである。

その王道を敢えて外れて行く自分にこれほど協力してくれるチームは、決して多くないだろう。

 

「しかしそうなると、エルコンがある程度自由に鍛えこめる最後の機会がこの春って事になるか?」

「その後の日程は何かしら直近の目標に沿ったトレーニングが必要だものね」

「エル先輩って此処までダートで全勝ですよねぇ。秋の事考えると芝路線は必要だと思いますけどー」

 

コメットのメンバー達は自然と椅子を持ち寄って円を作る。

それぞれがエルコンドルパサーの春レースについて案を出す中、当の本人は眉間にしわを寄せていた。

今年の怪鳥が目指すのは秋の世代混合戦である。

既に本格化を迎えているシニアクラスのウマ娘達に勝っていく為に必要なモノは何なのか。

エルコンドルパサーは自他ともに認める才能豊かなウマ娘だった。

そんな彼女でも、欲しいと思う武器はいくらでもある。

しかし春シーズンという短い期間で会得できるものは決して多くない。

だから一番欲しいものを目指す。

 

「マイル路線で勝負しマース」

「……思い切ったわね」

「大目標はジュニアC限定戦のNHKマイルカップ! これなら先輩方と一緒に練習が出来るデショ。ワタシがこのチームに入った切っ掛け。秋と、その先の海外を戦っていく為に一番欲しい武器……シルキー先輩の末脚が欲しいです」

「……そうさな。俺の脚をおめぇが使えるかはやってみねぇと分からんが、幾つか俺から仕込んでおきてぇ事もある」

「よろしくお願いします」

「おう」

 

それ以降は特に意見も出なかったので解散となったチームコメット。

部室の片づけは年少のドトウとデジタルが引き受けた。

最も椅子は使用者が退出時に片付けているのですることは殆ど無いのだが。

 

「……まっさか怪我も距離不安も無しに皐月賞やダービー蹴っ飛ばして秋を獲りに行く路線を間近で見る事になるとはねー」

「しかも目指す所は世界三大レースの完全制覇ですよぉ」

「日本のウマ娘は三つとも誰も勝ってないね。一つ取れば伝説、二つ取ったら神話。三つ取ったら……こういうの何て言うんだろうね」

「想像もつかないです。あぁ、だけどねデジちゃん」

「ん?」

「私は……エル先輩の最初の夢も、見てみたかったなぁ」

「……そだね」

 

エルコンドルパサーが語った二つの夢。

終わった夢と始まる夢。

それぞれをどんな表情で語っていたかを思い出した二人は、怪鳥が抱えた寂寥を思い胸を痛めた。

 

 

 

§

 

 

 

練習後。

エルコンドルパサーは呼び出された校舎裏に向かう。

一口に校舎裏と言っても只管広いトレセン学園の事である。

正確に指定してもらえなければ迷っていたかもしれない。

だから目的の場所に目的の人の姿が見えた時、エルコンドルパサーは思わず安堵の息を吐いた。

 

「学校案内でもこんなとこ来た事なかったですヨ~」

「良かったじゃない。私と同じ経験を詰めたわよ貴方」

 

くつくつをしのび笑いを漏らすのはコメット年長組の片割れ、シーキングザパール。

彼女がトレーニングウェアのポケットから取り出したのは部室で怪鳥が押し付けたノートの切れ端。

其処に書かれた一文が呼び出しの理由だろう。

 

「痴情のもつれ……ねぇ……」

「いや、当たってるとは思ってないんデスヨー。ただそう勘ぐられるのが一番パール先輩は嫌がりそうで、ワタシを放っておいて妄想を膨らませた挙句、うっかりシルキー先輩に話されると嫌でショ?」

「それは最悪ね」

「だからシルキー先輩に話せない事で、ワタシには釘を刺しておきたい事なら真相って言うのを話して貰えるんじゃないカナー……ってネ」

 

心底面倒くさそうに舌打ちをしたシーキングザパールである。

しかし此処で話すデメリットと話さないデメリットを比べれば後者の方が遥かに危険ではある。

恐らく話さなくてもエルコンドルパサーが有る事無い事をシルキーサリヴァンに話すことは無い。

そうは思うのだが、こうしてそのリスクを意識させて交渉してくる程度の強かさは持っている相手なのだ。

 

「……そのキャラ作りがやっかいなのね。阿保っぽく見えていつの間にか油断しているんだわ」

「何度も何度も何度も何度も申し上げますが、断じてキャラ作りではありません」

「分かったわよ。だからその……真顔で詰め寄るのやめて頂戴」

「ハーイ」

 

一つ息を吐いて観念したパールだが、すぐには話に入れない。

此処に来る間、当時の事は何度も反芻した。

それでも整理しきれない想いがあるのだ。

 

「ほんっとーに御免なさい。ワタシも興味本位でひと様の事情に首を突っ込みたくないんですケドー……ウマ娘に蹴られて死にたくないしネ」

「ふん」

「だけど先輩も知ってるデショ? ワタシの親友がリギルなんですヨ……タイキシャトル先輩とも仲好いんですヨ……何処に地雷があるか分からないとヤバイって所まで来てるんですヨ~」

「ああ、いたわねぇ」

「グラスを怒らせたくないんデス。怖いし」

 

本当は怒らせたくないのではなく泣かせたくないエルコンドルパサーだが、此処ではあえて言わなかった。

 

「……貴女は、同期の桜とチームを作って戦っていこうとしていたのよね?」

「イエス」

「かなり具体的な所まで行った話だったのよね」

「まぁ。あと一人見つかればリギルからグラス引き抜いてましたネ~。トレーナーどうするかって問題はあったけどヘイローちゃんには当てがあったみたいだシー」

「私が、貴女に感心するのはね……トモダチとライバルを兼ねることが出来る他人を、チームが作れる寸前まで集めることが出来た、その器なのよ」

「……」

「私は、タイキシャトル一人だってその両方には出来なかった。私はあの子のライバルに成りたかった。あの子は私のトモダチに成りたかった」

 

根が深い感情に触れた怪鳥は退きそうになった足を気迫で止めた。

軽い気持ちで踏み込んた話題ではないと、先程自分で言ったのだ。

 

「あの子と私の関係はね。私は力が足らなくてあの子のライバルとして認められなかった。あの子は私のトモダチになろうとしたけれど、私はそれを少し手酷く拒否した。そんな関係かしらね」

 

パールの脳裏に再現されるかつての安田記念の光景。

大雨の中バ群を突き抜け、力強くゴールまで駆け抜けていったタイキシャトルの背中。

たった1600㍍が重い芝と土によって遠く感じたあのレースで、シーキングザパールの絶望と憎しみは始まった。

10着と大敗した自分に勝者から掛けられた残酷な優しさによって。

 

「その手酷くっていうのがとても気になりマース」

「……」

「……聞いた話ですと、海外G1を獲る時にはタイキシャトル先輩から日程聞いて出し抜いたとも言われてますガ……」

「……それでもあの子は堪えてなかったわよ。嬉しそうに、私の勝利を喜んでくれたもの」

「完っ全に競争意識無いデスね……」

「腹が立つの、分かる?」

「ええ」

「だからさっさと帰国したのよ。チームの皆は勝利の凱旋って喜んでくれたけど……ここでもあの子に相手にされていなかったと分かっただけ。其処にハードバージ先輩を何とかしようと苦労している、あの不良赤毛がいたわけ」

 

シーキングザパールの瞳に無機的で冷たい光が宿る

しかし赤い唇は微笑の形に歪められ、吐き出される言葉は炎のような激情に震えていた。

 

「タイキシャトルが当時懐いていたのが、同じアメリカ出身だった私とあいつ。そんなあいつが、ハードバージ先輩の居場所を作ろうとしていたわ。あいつ自身にとっては余り必要のなかったチームコメット……」

「……」

「あの子があいつをリギルに誘っていたのは知っていたわよ。虫唾が走る思いをしながら、なかなか返事をくれないって悩みを聞かされた事もあった。その上で私はシルキーに言ったのよ――あんたがチームを作るなら私も混ぜなさいよ……って」

「オゥ……マイガッ」

 

後から帰国し、全てを知ったタイキシャトルの目に映ったものは何だったのか。

それを見て何を思ったか。

全てはシルキーサリヴァンの言葉の中にあった。

その時、おそらく初めてタイキシャトルはシーキングザパールが望んだ眼差しを向けたのだろう。

敗北者としての惨めさと自身の不甲斐なさへの怒り。

そして勝ったものに対する口惜しさ。

タイキシャトルが全く顧みなかったその背中に、常にシーキングザパールが向けていた眼差し。

 

「ただ……誓っても良いけれど、此処であいつに助けられたのは偶然だったわ」

「そうなんデース?」

「ええ。ハードバージ先輩が突発的に自傷行為する事があって目が離せなかった時で、普段人がいかない所を探している所だったそうよ」

「なるほど」

「後はあいつが語った通りね」

「……お話を聞けて良かったデース。部室で聞いた話と受ける印象ぜんっぜん違いましたカラネ」

「私とあの子がシルキーに話さないのも分かるでしょ」

「言えませんよねぇこれは」

 

頭をかきながら苦笑するエルコンドルパサーと疲れたように息を吐くシーキングザパール。

パールとしてはこの話を誰かにするのは初めてだった。

心の中にため込んできたものが少しだけ軽くなった気がする。

しかしそんなパールであっても、次の質問を看過するほど甘くなかった。

 

「所でパール先輩って」

「うん?」

「当時はリギルより大きいチームのエースだったんですよネ」

「ええ」

「そんな先輩が人数も揃わない、トレーナーも自傷癖持ちの根暗なんてチームに当てつけのためだけに入るって信じられないんですけ――っつぉ!?」

 

側頭部数センチ手前で止められたシーキングザパールの右足背。

半瞬遅れてエルコンドルパサーの長い髪を颶風が撫でた。

 

「ウマ娘に蹴られて死にたくない……それは口だけの言葉だった?」

「スイマセンデシタ」

「キャラ作り、忘れているわよ?」

「ホントウニスイマセンデシタ」

 

間髪入にれずに土下座した怪鳥の頭上から、可笑しくてたまらないといった様子の笑い声が降ってくる。

恐る恐る顔を上げたエルコンドルパサーが見たのは腹を抱えて笑っているシーキングザパール。

何時もよりやや幼く見えるほど格好を崩したパールは手を差し出し、エルコンドルパサーを立たせた。

 

「ねぇエルちゃん」

「はい?」

「貴女のライバルとトモダチ、大切にしなさい」

「はい」

「貴女は、私みたいにならないでね」

「……」

 

エルコンドルパサーはそれには答えず、トレーニングウェアの前を開ける。

其処にはかつて貰ったパールのサインがある。

 

「先輩にも憧れてマスから、先輩みたいになるなっていうのはお断りしマース」

「そこは頷いておきなさい可愛くない」

 

自分に貰ったサインを見せびらかしながら舌を出す後輩の姿にもう一度笑ったシーキングザパール。

いつの間にかエルコンドルパサーも笑っており、二人の笑いは誰もいない校舎裏にしばらく響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




後書き

今回の話し合いで出て来たエルちゃんの年間日程を『大雑把に』まとめました
ホワイトボードにはこんな感じで書いてあったっぽいです


《1年目:国内制覇》
春短距離路線からマイル路線
5月:NHKマイルカップ
他未定

夏調整

秋中距離路線(世代混合レース狙い)
10月:毎日王冠or京都大賞典
11月:マイルチャンピオンシップorジャパンカップ
12月:有馬記念

《2年目:凱旋門賞》

春渡仏

夏調整


9月:フォワ賞(凱旋門賞トライアル)
10月:凱旋門賞
12月:有馬記念(ドバイWCトライアル)
1月:ペガサスワールドカップ(ドバイWCトライアル)

《3年目:ドバイWC&BCクラシック》


3月ドバイミーティング
渡米

夏調整


9月:オーサムアゲインステークス(BCクラシックトライアル)
10月:ジョッキークラブゴールドカップステークス(BCクラシックトライアル)
11月:ブリーダーズカップ・ワールド・サラブレッド・チャンピオンシップ



書いてて思ったんですが無理だろこれ……
もう少し日程に余裕を持たせてドバイを最後に回すルートだと4年掛かるし
此処までやらないと世界三大レースって取れないんですね……

今後の予定ですが、夏の提督業が始まるので更新は止まると思います
それとこの後はレースも書いていかないとなんですがそれがあまりにも難しく……納得のいくものが書けるようにならないと表に出す事はなかなかorz






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6.春に鎬を削る夢

ウマ娘が・・・ウマ娘が足らない・・・


スペシャルウィークの弥生賞勝利はリギルを大いに沸かせることとなった。

ジュニアCでは期待されていたグラスワンダーの怪我もあったが、急遽飛び込んできた転入生の躍進。

学園関係者のみならずレースファンからみても、春レースの主役はやはりリギルかと思われた。

しかしクラシック三冠の初戦、皐月賞ではセイウンスカイとキングヘイローに先着を許しての三着に敗れたスペシャルウィーク。

弥生賞においては完勝していた相手から短期間で逆転された件は多くの者を驚かせた。

トレーナーの東条ハナはスペシャルウィークをいかにして次のダービーで勝たせるか、思案のしどころである。

東条ハナが最初に手を付けたのが情報収集。

自分が見られなかった間にリギルのメンバーがスペシャルウィークをどのように指導していたかを詳しく知らなければならない。

トレーナーは学園の空き教室を一つ借り切り、スペシャルウィークに関わったメンバーを招集する。

そして関係者がリギルのほぼ全員だった事に先ず驚いた。

更に自分が手塩にかけて育てたウマ娘達がスペシャルウィークに教え込んだことを知り、最初の五人でダウンした。

 

「もう一度最初から聞こう」

「「「「「「「はい」」」」」」」

「ルドルフ」

「私が半生をかけて編み出したダンスステップだ」

「……ブライアン」

「発声の基礎」

「…………フジキセキ」

「スズカのファンだったようだから、丁度空いていたスズカの相部屋に手配して上げたよ」

「………………エアグルーヴ」

「スズカの非公式ファンクラブとの伝を少々」

「……………………グラスワンダー」

「トレセン学園周辺の食べ放題のお店などを」

 

自分の聞き間違いではなかった。

誰一人レース関係の指導なんぞしちゃいなかった。

シンボリルドルフとナリタブライアンはまだわかる。

両者ともレースの強者として勝つ事は前提。

その上でファンに素晴らしいウイニングライブを魅せる為に考えているウマ娘だ。

この二人にフリーハンドで新人に関わらせた事は東条ハナとしても失敗だったと思っている。

しかし後の三人はあんまりだろう。

東条ハナは遣る瀬無い感情を押し殺して部屋に集まったメンバーを見渡す。

先程発言したメンバーに加えてヒシアマゾン、マルゼンスキー、そしてタイキシャトルと当事者のスペシャルウィークがいる。

このうちタイキシャトルは自分とトレーニングをしていたのだから今回は関係ない。

残り二人にも聞かなければいけないだろうか。

最早大喜利の様相を呈してきたスペシャルウィーク育成計画。

東条ハナは荒れ狂う内心を制して続きを問うた。

 

「……ヒシアマゾン」

「泥跳ねやら肩当てやらで荒っぽいレース仕掛けてくる連中の捌き方を仕込んだぜ」

「っ!? よくやったアマゾン」

「お、おぅ」

 

本来は学園に在籍していれば、ジュニアの低学年の頃から自然と覚える様な事である。

スペシャルウィークの経歴と性格から苦手そうだと感じたからこそ指導をしたが、基礎を普通に仕込んで此処まで喜ばれるとは予想外だった。

 

「マルゼンスキー」

「猫っ可愛がってました」

「やっぱりか貴様ぁ!」

「いった!? なんで私だけ突っ込みが入るのよぉ」

「何も教えていないからに決まっている。グラスワンダーよりふざけた答えが聞けるとは思わなかったぞ」

「あーん、ごめんなさいー」

 

そのやり取りを背中に冷たい汗を感じながら見ていたグラスワンダー。

何も彼女はふざけていたわけではない。

ただ同じチームとして、クラスメイトとして、転入生たるスペシャルウィークを気にかけて聞いているだけである。

 

『学園で何かわからない事や質問ってありますか?』

 

これに対するスペシャルウィークの言葉が全て食べ物関係だからさっきのような解答にならざるを得ない。

プライベートのやり取りだと思っていた事がいつの間にかスペシャルウィークの育成方針に関わっていたとみなされている現状。

グラスワンダーとしてはどうしてこうなったと息を吐くしかない。

先輩方のノリに合わせて馬鹿正直に答えた自分も自分であるが。

 

「スペシャルウィーク」

「はい!」

「弥生賞で勝った相手に、皐月賞で負けた。お前の中で感じた反省点や自分の中の問題点など、敗因と考えられるものはあるか?」

「私は、ヘイローさんにもウンスちゃんにも……えっと、一度は勝っていました。だから、調子に乗ってしまったのかと」

「うむ」

 

スペシャルウィークの自己分析に深く頷いたトレーナー。

そう言う側面はあるだろう。

しかし自分の中のおごりと真っすぐ向き合う事はなかなかに難しい。

スペシャルウィークは精神的に歪んだ部分が無く素直であり、指導者としては楽である。

その表情から深く自分を戒めている事を察した東条ハナはその方面からの指摘を止めた。

 

「そうだな。しかしそれはお前だけの問題ではない」

「え?」

「お前自身が語った通り、油断の始まりは皐月賞ウマ娘となったセイウンスカイに直近で勝っている事だ」

「そうです」

「弥生賞は三着までが皐月賞に優先権がある。其処を本番とするなら、あえて一位に入らなくても良い……と割り切るウマ娘もいる」

「……ウンスちゃん……わざと負けた?」

「語弊はあるが、死力を尽くして勝ちに来なかったのは確かだ」

 

それはスペシャルウィークの想像力のまるで及ばぬ答えだった。

しかし考えてみればトライアルレースで全力を出して勝ちに行けば本番で疲労が残りかねない。

余力を残して目的を達せられるなら、それも選択肢だろう。

スペシャルウィークとしては釈然としないものがあったが。

 

「皐月賞のレースは確認した。弥生賞もな」

「はい」

「お前自身が精神的な部分で油断があったと理解しているなら、選手としてはそれでいい。私からトレーナーとしてお前の敗因を指摘するなら、それは走法の選択肢が少ない事だ」

「走法……」

「レースは平地だけではない。上り坂があり、下り坂があり、コーナーがある。レース場の特徴や、その日の天気などでも条件は変わってくる」

「はい」

「お前は平地で速度を維持する事と選考レースで見せた末脚を使う走法……はっきり言えばこの二つだけで勝ってきた」

 

其処で一度言葉を切り、チーム一堂を睨むトレーナー。

それぞれの表情で目を逸らすウマ娘達。

東条ハナは自分のチームは此処まで愉快な連中の集まりだったかと内心で首を傾げる。

一つ言えるのは、ほぼ全員がスペシャルウィークに入れ込んでいる。

レース関係の指導不足はともかく、それぞれのウマ娘が自分の得意分野を惜しげもなく後輩に披露しているのだ。

そう考えた時トレーナーはある可能性に気づいてしまう。

 

「グラスワンダー」

「はい?」

「お前、後で私の前で体重計に乗って見せろ」

「はぁ!? なんでですかっ」

「骨折で運動量が落ちているはずだ。そこへ来てスペシャルウィークと食べ歩きをしていたんだろう?」

「…………道案内です」

「必ず乗れよ」

「そんなバカな……」

 

あらぬ方向から飛び火した不運に肩を落としたグラスワンダー。

マルゼンスキーは話の流れに腹を抱えて笑っている。

一つ咳払いして言葉を切ったトレーナーは話の本題を修正する。

 

「……当面、お前の課題は幅広い状況に対応できる走法の充実。直近の目標としては上り坂の克服だ」

「はい!」

「Hey Honey!」

「……トレーナーと呼べ。なんだ?」

「ワタシもスぺちゃんのお手伝いしたいデス」

「お前がかタイキシャトル」

「YES! スぺちゃんの調整が此処まで遅れたのってワタシのせいネ」

「それは違う。スペシャルウィークの現状に関われず、調整する機会が作れなかったのは私の責任だ」

「だとしてもー、ワタシだけ後輩にLessonしてあげれてないデース」

 

タイキシャトルはそう言いながらスペシャルウィークを後ろから羽交い絞めにする。

抜けようともがくスペシャルウィークだが、タイキシャトルの腕は微動だにしなかった。

 

「良いデショHoney……ちゃんとUphillのTeachingしますカラ~」

「……私の見ている前でやれ」

「アハ! Thank you for choosing me」

「あのー……」

 

タイキシャトルの腕から抜け出すことを諦めたスペシャルウィークは、観念して頭上の先輩に問いかけた。

 

「坂登りの訓練ってどうするんですか?」

「んー……Honey,坂路コース使えマース?」

「明日にでも手配する」

「アリガト。明日やって見せるから、スぺちゃんも一緒にガンバロ?」

「お、お願いします」

 

次の師匠が決まったスペシャルウィーク。

リギル一門の総力を挙げた後輩育成は、まだ終わらない。

 

 

 

§

 

 

 

スピードの絶対値を求めて春の戦いをマイル路線に決めたエルコンドルパサー。

同じ路線のシルキーサリヴァンとシーキングザパールの指導の下、急ピッチで下地を固めていく。

目指したものはレースのラスト2ハロンをシルキーサリヴァンと同等の末脚で走れる自分。

その為に必要なものは多い。

バ場にもよるが、それは1ハロン10秒フラットの世界である。

 

「へばったかエルコン」

「……まだまだデース」

 

一周2000㍍のダートコースを三週目。

先を走るシルキーサリヴァンとエルコンドルパサーは長い厚手の紐によって腰で繋がれていた。

400㍍を流して200㍍を全力疾走。

その繰り返し。

どうしても最高速度で劣るエルコンドルパサーはシルキーサリヴァンに引っ張られる事になる。

そうやってシルキーサリヴァンの速度とリズムを体感していく。

しかし此処で一つエルコンドルパサーにとって予想外の事態が起こる。

 

(この人……短距離ウマ娘じゃないんデース!?)

 

当人は自分をスプリンターだと言っていた。

来日当初はマイルもきつかったと話してくれた。

そしてアメリカンクラシックに対応するため、2000は走れるように叩き上げたと語っていた。

それは並大抵の努力ではなかったろう。

しかしそれが何だというのか。

エルコンドルパサーは練習の時計ならば3000㍍でもレースに持ち込める数字が出せる。

その自分が、短距離のウマ娘にスタミナで潰されていた。

 

(ジョグ、先輩はキャンターって言ってましたっけ。これが早い! 一ハロン全力疾走の疲労が二ハロンで抜けないっ。先輩は抜けてるっぽいのにワタシはどんどん疲れてる……ナンデ?)

 

理不尽な状況の苛立ちが疲労を深め、エルコンドルパサーの思考を鈍らせる。

其処へ腰の紐が強く引かれる。

死に物狂いで足を動かし、シルキーサリヴァンに食い下がる。

自分は先輩の推進力を借りている。

先輩は自分の重さを曳いている。

それでも自分の方が先に疲れていた。

 

「エルコン、重てぇ」

「す、スイマセン」

「次の一周は全部流すぜ。一回息を入れろ」

「ハイ!」

 

人間と同じほどのジョギングに切り替えたシルキーサリヴァンにエルコンドルパサーが追いついた。

 

「先輩……」

「そう落ち込むこたぁねぇ。年季が違うし、おめぇの知らない事もやってるからな」

「知らない事?」

 

悪戯っぽく片目をつむる赤いウマ娘。

エルコンドルパサーとしては今見せられた現実が知識で埋まるとは思えない。

地道に走りこんで少しずつ速度と体力を底上げしていくしかないのではないか。

そう言って先輩を見上げたエルコンドルパサー。

 

「おめぇよう」

「はい」

「今どっちの脚が疲れてる?」

「……ん?」

「此処を三周して大体6000㍍だ。ダッシュとインターバルを交互に10回。何となくでいいんだが、右か左どっちかの脚に疲労が偏ってねぇか?」

「……右です」

「成程なぁ」

 

シルキーサリヴァンはジョグで流しながら続けた。

 

「おめぇはウマ娘と人間の違いって考えた事ねぇか?」

「違いですカ~」

「おぅ。身長体重はだいたい同じ。怪我の時とかX線も取るが筋肉や骨格も近いんだそうな。尻尾と耳が無けりゃ、人間とウマ娘の区別なんて付くかね?」

「それは……付かないんじゃないですかネ~」

「俺もそう思う。じゃあなんで人間は速く走れねぇんだろうな。ウマ娘の脚力が人間と違うのはなんでだ?」

「それは……授業で聞いた所だと、私たちは異世界の魂と名前があるからって……」

「なら、俺達は脚で走ってるだけじゃねぇ。魂も使って走っているって事だよな?」

「……そう……なのかな」

 

物理的には脚を動かして走っているのは間違いない。

しかし人間と同じ身長と体重で、明らかに違う身体能力をもったウマ娘。

彼女らのレースが人間の徒競走と区別される所以がある。

 

「いいかエルコン。俺達はかつて異世界の魂に異世界の身体を持っていた。その当時レースで使っていた走法をギャロップって言うんだが、こいつが今の身体には曲者でよぅ」

「ギャロップですか」

「こっちだと襲歩って言うんだが……ともかくこいつは片足飛びなんだよ」

「片足っ?」

「おぅ。おめぇが今疲れているのは単純にスタミナで劣っているわけじゃねぇ。俺が両足を使っている所を右足だけで走っているからもたねぇんだ」

「……そんなバカな」

「だからかつては、走りながら使う脚を交代させて最高速度を維持していたんだ……手前を変えるって言うんだがな?」

「チョーット待ってくださいね!? 理解が追いつきまセーン」

 

そんなことが出来るなら、今まで自分は半分の脚でレースをしてきたと言う事になるのだろうか。

エルコンドルパサーはこの先輩以外に異世界の自分を覚えているウマ娘に出会ったことが無い。

こんなことはシルキーサリヴァンしか知らないはずだ。

もし自分の想像が正しければ、これが出来るウマ娘に出来ないウマ娘は絶対に勝てない。

興奮気味に尋ねたエルコンドルパサーだが、其処まで旨い話ではないと笑う赤い女。

 

「はっきり言って、あっちの競馬じゃこれが出来ねぇと話にならねぇんだわ。だからかな、こっちのレースでも上の方にいる連中は無意識でも皆やってる。勿論レースじゃおめぇもだ」

「えぇ……?」

「だけど覚えておいて欲しいんだがな。俺達がレースで全力疾走しているとき、俺達の中の異世界の魂も全力疾走しているんだ。その時、魂はギャロップで片側の脚を酷使しているって事なんだよ。そして魂の疲労が身体にも出る。同じように身体を使っているのに片脚だけ疲れていくんだ」

「ふむぅ」

「其処にもう一つ、ウマ娘が陥る落とし穴があるんだがよ」

「落とし穴デース?」

「大抵のウマ娘は上体が弱ぇ。そして異世界にいた頃の俺達は四足歩行の動物だった」

「あぁ!?」

「四つ足の動物の後ろ脚に相当するのが俺らの脚だろ。なら前脚に当たるのは何処だ?」

「……手」

「そういうこった。勿論その手を支える腕や肩、胸筋やら背筋だって繋がってるんだ。ただこの身体で走るって言うと脚力に目が行っちまうんだよな。おめぇはそこそこ見れたバランスしているが、まだ上の鍛えこみが足らねぇよ。右足が疲れてるって言ってたな。一緒に右腕も痛てぇんじゃねーか?」

「……重いです」

 

指摘されるまで気づかなかった小さな違和感。

腕の振りや走り方の癖だと思っていたもの。

その原因を考えもしなかった方向から指摘されたエルコンドルパサーは唸るしかない。

根拠らしきものはシルキーサリヴァンの記憶だけ。

しかし一笑に付して否定するには彼女の事情を知り過ぎた。

 

「俺様が仕込みてぇのは其処なんだよな。魂の手前を変えるすべと、魂の全力疾走に耐えられる今の身体を作る事。魂と身体が一致した時、ウマ娘の本格化が始まるんだぜ」

「なるほど……」

「パールもこれには苦労していた。だがあいつに出来たならこれは特別な事じゃねぇ。教えて、伝えていける事だと思ってる」

「パール先輩も……」

「まぁ、上体を鍛えこむのはハードバージにも伝えてあるし筋トレのメニューで良い。問題は手前を変える方なんだよな……これは感覚の問題もある」

「魂ですもんねぇ」

「身体でやってた頃だって競争中に手前を変えるって結構難しいんだよ……ざっくり言うと此処でも別の走り方を経由しながら脚を交代しているからな」

「……複雑すぎマース」

「これがトップスピードに乗る時使う足なんだが……っと、そろそろ次のダッシュだな」

「い、イエス」

 

正直きつい。

しかしこれはエルコンドルパサーのトレーニングである。

先輩につき合わせておいて、現状ついていけていないのだ。

精神的にも肉体的にも苦しいが、向上心だけは先達に示さなければ申し訳が立たない。

 

「何も考えずに走って右が辛れぇんだよな? なら意識して左脚を使ってみな。ウマ娘は魂に引っ張られて身体能力を発揮する。だけど魂だって身体の影響は受ける。どっちだっておめぇなんだ」

「ハイ」

「んじゃ、着いて来いよ」

 

次の瞬間、無意識に回転襲歩が混ざったエルコンドルパサーは盛大にすっ転んでシルキーサリヴァンに引き摺られた。

 

 

 

§

 

 

 

「ソラ先輩!」

「ん」

 

ウオッカは並走しているセイウンスカイに一枚の紙を手渡す。

内容を読んだセイウンスカイは紙を放ってそのまま走る。

紙は後ろを追いかけてくるダイワスカーレットが回収してくれる。

内心では申し訳ないセイウンスカイだが、いちいち手渡して戻す暇も惜しいのだ。

 

(10ハロン目で11秒前半とか鬼かこのトレーナーっ)

 

チームスピカは皐月賞ウマ娘となったセイウンスカイの二冠を目指して特訓に協力している。

この特訓を考案したトレーナーはセイウンスカイの9ハロンの通過タイムを記録して丸を付けた。

 

「どうよ」

「どうもこうも無いぜ。凄いよあいつは」

 

トレーナーは隣に来たゴールドシップにセイウンスカイのラップを見せる。

其処には1ハロン毎の通過タイムと共に丸印がついていた。

 

「此処まで走って今の所、誤差0,1秒を外さないんだぜ」

「影で相当工夫してたなありゃ」

 

セイウンスカイは交代して並走するパートナーからトレーナーの指示した1ハロンの通過タイムが渡される。

そのタイムの通りに走る。

それは単純に走力を鍛えるだけではなしえない。

絶対精度の時計を体内に組み込む事が必要だった。

並走しているウオッカも、このトレーニングをやれと言われても実行できないだろう。

 

(……マジですげぇなこの人)

 

それはウオッカが知っている強さとはまるで異質の強さだった。

チーム入り当初、ウオッカはセイウンスカイを大したウマ娘だと思っていなかった。

この先輩は一見何も持っていないように見えたし、それはある意味では正しかった。

同じ逃げウマ娘としてはサイレンススズカのような圧倒的なスピードが無い。

後ろからレースをしてもゴールドシップのような無尽蔵のスタミナも無い。

末脚だって今のウオッカよりは早いだろうが、かつて見たリギルのグラスワンダーのようなインパクトはなかった。

出来ない事もあまりない、すべてがそこそこのウマ娘。

弥生賞までウオッカはそう思っていた。

 

「先輩」

「ん――おいっ」

 

『キープ』と書かれた紙を投げ捨てたセイウンスカイは悪態をついてピッチを上げた。

ウオッカはそれでやっと気づく。

先程からセイウンスカイへの指示がハイペースになっていたらしいと

そんな走者を観察していたトレーナーは、10ハロン通過タイムの横に×を付けた。

 

「流石にスタミナが落ちてくる後半にハイペースだと外れてくるな。走り方も目に見えて急ぎだしたぞー」

「むしろ此処までハイペースもローペースもほぼ同じ見た目で走って来たのがおかしいんだけどな。スズカでもセイウンスカイの後ろについたら酔うらしいぞ」

「マジかよ……」

「ああ。実戦は前に出るから絶対負けないとも付け加えていたけどさ」

「……お前なんか言って煽ってねぇ?」

「互いに競い合ってこそウマ娘は強くなるんだぜ」

「それにしたってスズカとウンスじゃ相性ってもんがあんだろうが……」

「まぁセイウンスカイにとっては最悪の相手だろうな」

 

11ハロンの通過タイムの横にも×を付けたトレーナー。

これ自体は仕方ない。

かなり無茶な要求をしているのは分かっていた。

セイウンスカイは最後の1ハロンの指示を……見ないまま全力で駆けだした。

此処までくればトレーナーの要求など分かり切っている。

紙を受けとって確認する間も惜しいセイウンスカイ。

それを慌てて追いかけるウオッカ。

 

「あいつ本来の走りなら中盤で息を入れるんだろうな。でも今回はもがいてもらう為に入れさせてないんだ」

「……お前割と厳しいよな」

「セイウンスカイの事を思えばそうするしかない……だから、お前もあいつと喧嘩したんだろ」

「うっせーやい」

 

セイウンスカイは当初、チームの練習では意図的に手を抜いていた。

ジュニアAクラスのダイワスカーレットやウオッカと走ってもセイウンスカイは負けている。

それは楽をするためではない。

誰も信じていなかったからだ。

生来の気質だろうか。

セイウンスカイは常にトップギアを温存して周囲を油断させてきた。

相手に自分を態と舐めさせ、一方で何時でも後ろから刺せる準備を怠らない。

実際に弥生賞ではスペシャルウィークが坂道で伸びきれない事を確認し、それを当人に気づかせないために引いていた。

皐月賞における逆転劇は、前哨戦の時からセイウンスカイの掌の上で起こった事だ。

競争相手に対してはそれでいい。

しかし身内にも同じことをしていたら居場所など出来るはずが無い。

チームスピカはゴールドシップの家であり、メンバーは家族である。

弥生賞後の打ち上げでセイウンスカイの現状に堪忍袋の緒が切れたゴールドシップは、セイウンスカイを何処かへ連れ出したのだ。

其処でどんなやり取りがあったかは二人にしかわからない。

しかしその後、並走トレーニングでセイウンスカイが下の二人に負けた事は一度もない。

 

「あいつは少し頭が良すぎる。相手の強さをスポイルして勝つ技術があるから、逆に自分を高める追い込みが出来ないんだよ」

「ウンスは自分に今より上があるなんて思ってねぇぞ」

「……今がピークだなんて、そんなわけあるかよ」

「少なくともあいつはそう考えてる。どうすんだよトレーナー?」

「トレーニングの面では今後もギリギリまで追い込んでもがかせるしかない。兎に角地力を上げていく。今は通用するかもしれないが、このままだとシニアクラスに入った途端に頭打ちになる。いや……春の結果次第では秋にはマークがきつくなるから、それだけで崩れるかもしれない」

「……それは面白くないなぁ」

「ああ」

 

ゴールドシップはトレーナーからセイウンスカイに指示したラップタイムが書かれた紙を奪い取る。

12ハロンの合計は2分23秒2。

成程。

このタイムで走れればダービーだって勝てるだろう。

 

「おーいウンスー、次は私が遊んでやるぞー」

「げっ、くんな体力バカ。今全力で走ったばっかりなの見てわかんない?」

「菊はもっとなげーんだぞー。っていうか、ウオッカとスカーレットとテイオーがパートナーしたんなら次はあたしとスズカだろ? 仲間外れは良くないぞー」

「はは、本当に腹立つ顔してるよ君。顔芸で食べていけるだろうね」

「よーしまだ減らず口を叩く余裕があるんだな。トレーナーから息とゲロ以外出ないようにしろって命令されてるから覚悟しろよ」

「誰も其処までは言ってねぇぞゴルシぃ!」

「……でも、それっぽい事は言ってるみたいだねぇ」

「そう言うこった。スズカもいいな?」

「ええ。任せて」

 

やっと出番が来たとばかりにコースに入ったサイレンススズカ。

セイウンスカイはこの先輩が苦手であった。

性格的には双方があまり干渉しないため、むしろ付き合いやすい相手である。

しかしセイウンスカイと走る時は妙に叩きにくるのだ。

 

「……前から思っていたんですけど、スズカ先輩って私に大人げなくありません? 私何か先輩にしてましたっけ」

「貴女は何もしていないんだけど……貴女の走りは私のトラウマをえぐるのよね。私の世代で二冠を獲った子と被って」

「本っっ当に私に関係ないですよねそれ」

「彼女は本当にレースが上手かったわ。だけどトレーナーが言うの。貴女なら彼女を超えられるって」

「……は?」

「引退が早かったあの子とシニアで戦ってみたかったのよ」

「……待てよ」

「諦めていたんだけどね。私の忘れ物は貴女が持っているってトレーナーが」

「……おい、待てよ」

「えっと、血と汗と涙が枯れ果てるまで絞れ、だっけ?」

「大体あってるぞスズカぁ!」

「あんたはもう黙っててよトレーナー!」

「貴女が本格化を迎える為ならなんだって協力するわよ? だから一緒に頑張りましょう」

「先輩も大概頭おかしいですよねぇ!?」

 

本格的に身の危険を感じ始めたセイウンスカイ。

その左右から腕を取って連行するゴルシとスズカ。

 

「流石、皐月賞ウマ娘様は息の戻りもはえーはえー」

「頑張りましょうねセイウンスカイちゃん」

「あぁ……」

「テイオー、ゴミ拾い頼むな」

「あいよー」

 

こんな脳筋なチームだとは思っていなかった。

どうしてこんなチームに入ってしまったのか、本気で後悔し始めたセイウンスカイである。

一方で、何故かチームを離脱するという選択肢が思いつかないセイウンスカイでもあった。

 

 

 

§

 

 

 

その日、レースファンの注目がマイル路線に集まった。

ジュニアCクラスであり、三冠レースの主役の一人と目されていながらNHKマイルカップを選んだエルコンドルパサー。

屈辱の連敗から長い雌伏の時を経て、この春の復活に安田記念を目指すタイキシャトル。

この二人が同じ日、違うレース場の11Rに出走する。

無敗の若手が大目標のステップレースをどのように乗り越えるのか。

かつての女王が大目標を前にどのような仕上がりを見せるのか。

共にファンの興味を大きく刺激し、ライブ観戦するにはどちらかを選ばなければならないジレンマに悶絶させた。

 

「タイキシャトル、どうだ?」

「OK,Honey.チョーシイーヨ」

 

この日の主役の一人となったタイキシャトルとチームリギルのメンバーは阪神レース場に揃っていた。

GⅡ故に勝負服ではないものの、久方ぶりにレース場の空気を吸ったタイキシャトル。

大きく一つ伸びをして後輩二人を呼び寄せた。

 

「グラスちゃん、スぺちゃん、Sorryネ。エルちゃんの応援、行きたかったでショ」

「エルは……あれで常識人ですから……」

「ん?」

「えっと、今はシャトル先輩の方が心配かなーって……」

「んン?」

 

話を振られた後輩二人は乾いた笑みでそう答えた。

意味が分からないと首を傾げたタイキシャトルだが、本当に二人が気にしていなさそうなので良しとした。

 

「それじゃ、行ってきマース」

「……おいシャトル」

「What?」

「……」

 

満面の笑みで小首を傾げるタイキシャトル。

その表情にシンボリルドルフは上げかけた声を飲み込んだ。

飲み込むしか、無かった。

 

「……楽しんで来いよ」

「Yes! of course」

 

メンバーから離れて出場者の控室に入って行ったタイキシャトル。

大きく息を吐いたシンボリルドルフが振り向くと、それぞれの思いを抱くメンバー達がいる。

 

「会長、日寄ったわねー」

「……だったらお前が言ってやってくれマルゼンスキー」

「私だったらぶっちぎってこーい! って肩叩いてるんだけど、言ってよかった?」

 

これでも自重したんだぞと胸を張るマルゼンスキー。

其処でトレーナーは話を打ち切り、メンバー一同で関係者席に向かう。

やがて地下道から出場ウマ娘達がターフに姿を現した。

出走者数は八人。

安田記念の直接のトライアルではない事とタイキシャトルを避けたチームが続出した結果、少数立てのレースになった。

タイキシャトルが姿を現すと、場内からはどよめきと戸惑いの声が上がる。

長期休養、あるいはその前の彼女を知るものからすれば今のタイキシャトルの容姿はかなり変わって見えただろう。

チームリギルの東条トレーナーはレース場に立った愛バの姿に唸る。

 

「絞り過ぎたか……?」

 

これほどまでに時間をかけ、ジュニアCクラスのウマ娘の事を他人に任せてまでタイキシャトルの調整に力を入れた東条ハナ。

しかしこうしてターフに立つタイキシャトルの姿を見た時、全盛期の彼女の姿と重ならない。

このレースはタイキシャトルの復帰だけではない。

トレーナーの東条ハナにしても、タイキシャトルの指導者としてのリスタートでもある。

今の感覚を忘れてはならない。

レース場でウマ娘を見た時感じたモノ。

余剰を削り、足りないものを補い、万全の状態でレース場にフィットさせてウマ娘達を送り出す事。

恐らく今回はそれが出来なかった。

必ず安田記念までに修正することを誓うトレーナー。

彼女の見つめる先でタイキシャトルがゲートに入った。

 

 

 

『さあ、最後のウマ娘が八番ゲートに入りまして今……スタートしました!

 

最初の直線!

先頭争いっ

ハナを切ったのはタイキシャトルか!

大外から軽々とリードを奪って内に内に入って来た!

 

場内は大きな歓声とどよめきです。

先頭はタイキシャトル!

向こう正面で後続を突き放して完全に独走状態

 

これは、かなり早いぞ

復帰戦でこれはどうなんだ!?

タイキシャトル

マイルの女王はこれでいいのか!

 

先頭タイキシャトルでリードはおよそ――15バ身くらいかっ!?

これは早いレースになった!

マイル戦にしてもハイペースの展開です……』

 

 

 

軽々と後続を突き放すタイキシャトルだが、その内心は冷や汗をかいていた。

 

(ヤバイ……軽すぎル)

 

ここ数年の乱調と直近のブランク。

最早タイキシャトルのベストウェイトは過去のデータの中にしかない。

トレーナーと手さぐりで今の自分にあった体重を模索してきたはずである。

それでもお互いの中に太目残りの悪夢があったのかもしれない。

やや絞り過ぎたかとは自分でも思っていた。

また身体が動かなくなって負けるかもしれない。

しかしスタートからの感覚ではむしろ身体がキレ過ぎる。

肩越しに後ろを振り返れば遥か遠くにウマの群れがあった。

イメージと現実の齟齬がタイキシャトルの感覚を少しずつ狂わせる。

その先にある自滅を敏感に察知したタイキシャトルは全身から力を抜いた。

 

(落とす。もっと落とす。My paceじゃ早すぎル。まだワタシが耐えられない……Secretも安田記念に取っておくとして今は……)

 

5ハロン1000㍍を54秒台というタイムで飛び込んだタイキシャトル。

次の瞬間場内と実況が悲鳴に包まれた。

 

 

 

『タイキシャトルが!?

タイキシャトルが此処でズルズルと失速していくぅ!

どうしたのかっ脚でも痛めたのか!?

後続のウマ娘のペースも上がってくるっ

残り400㍍を切った……』

 

 

 

リードが失われていく中で外に持ち出したタイキシャトル。

最後の直線を待たずして大外に出したその行為は競争中止すら予感させた。

その間もペースを上げたウマ娘達が内でタイキシャトルを抜き去っていく。

 

(先頭のあの子……そこまで届けばWinダヨネ。Take it easy……これはレース。Time Attackじゃないんダカラ)

 

此処は先頭を譲っても良い。

この体調で体力と気力を使う叩き合いはしたくない。

それならばイメージより動き過ぎる切れ味を使って直線勝負(よーいどん)に持ち込む。

他のウマ娘もそのつもりで控えているのだろうから望むところの筈だった。

 

(……でもワタシがBestなら行けちゃってた気がするんだけどナ~。ナンデ誰も鈴付けに来なかったんダロ)

 

不思議に思うが今は関係ない。

直線勝負にしてはそれほど先頭のペースが上がっていない気がするが、タイキシャトルには好都合だった。

ラスト300㍍。

レース最後方の位置からターフが爆ぜた。

タイキシャトルが全力で踏み抜き、踏み切った芝が散らされる。

蹄を打ち込んだシューズで芝どころか下の土まで掘り返して走るタイキシャトル。

三度目の、そして本日最後に繋がる大歓声が木霊する。

バ群の後ろと並ぶまでに100㍍も掛からなかった。

バ群の先頭と並ぶまでにも100㍍は必要なかった。

その先、一バ身程抜け出しかけたウマ娘は10歩も掛からず捕まえた。

最後の100㍍は恐怖との戦い。

今、この瞬間にも身体が動かなくなるかもしれない。

また負けるのかもしれない。

そんな妄想に憑りつかれるくらいには、タイキシャトルは勝利から遠ざかっていた。

しかし自分の前には誰もいない。

ゴールの瞬間、恐々と後ろを確認したタイキシャトル。

自分が考えていたよりはるか遠く、大よそ三バ身程後ろにウマ娘がいた。

 

(勝った……?)

 

実況すら聞こえない歓声に包まれたタイキシャトル。

この日、マイルの女王が帰って来た。

大逃げから失速して外に持ち出し、最後方からもう一度全員を差す圧勝劇。

それはどんな展開でも勝てるとの訴えに見えた。

それは何時でも抜けるという宣告にも見えた。

そしてウイニングライブ前のインタビュー。

タイキシャトルは本日の総括を

 

『調子が悪くてバタバタ走っていたら終わっていた』

 

とコメントしてマイラー達を恐怖のどん底に突き落とした。

その10分後、中山レース場ではエルコンドルパサーがニュージーランドトロフィーを一バ身で危なげなく勝利したが……

翌日のニュースはタイキシャトル一色となり、怪鳥の機嫌を大いに損ねる事になったのは別の話である。

 

 

 

 

 




魔改造スぺちゃんと裏技エルちゃん、そして王道を行くウンスちゃんでお送りしました
どうしてこうなったかはチームのカラーだと思うの……私は悪くない
シルキー先輩の仰る上半身の話はアニメの後半でブロワイエがやってた一本指逆立ちを自分なりに解釈した奴です
多分こういう事だろうとねつ造しています
理屈は知らなくても気づいてるウマ娘は気づいてる

ラストの§は完全に私の練習です
此処までは草レースとか結果だけお伝えしていただけだったんですが今後は飛ばせないレースが盛りだくさんなので、その前に一度書いておきたいと思ってシャトルちゃんの復帰レースは飛ばしませんでした
今は後悔しています
もっとクオリティ上げないとダービーと安田記念が……orz
其処を乗り切ったとしても本筋はエルちゃんのストーリーだから秋レースからが本番なんですよね……胃が死にそうです;;

現在りふぃは深刻なウマ娘不足をお医者様に咎められており、もっと摂取するよう促されております
しかしこちらでウマ娘プリティダービーと検索をかけて出てくるSSが25!
ウマ娘でも29……寂しいデス
皆さまお願いです
ウマ娘のSSを書いてください;;
読みます
砂漠にオアシスを見つけた旅人のごとく読みます
本当は私読み専なんです……書き手じゃないんです……



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7.ジュニアCクラスの夢

フラグ管理が難しい(´;ω;`)ウッ…


 

パンパン。

ジュニアCクラスの一角から響く乾いた音。

ゴツゴツ。

その音を追いかけるように教室に響く濁った音。

仲良し五人組の溜まり場となっているスペシャルウィークの席では、席主とグラスワンダーが互いに手を打ち合わせる。

パンパン。

その音をかき消すようにスペシャルウィークと向き合う位置で椅子に座ったウマ娘が机に額を打ち付ける。

ゴツゴツ。

 

「いやー。シャトル先輩凄かったねグラスちゃん!」

「本当にそうですね、スぺちゃん」

「むぎぃいいいいいぃ……」

「エル? 新聞が読めないので頭を退かしていただけますか?」

「うん。私もシャトル先輩の活躍もう一回音読したいな。エルちゃんのソレは床でやってもらえると」

「それ土下座になりますヨネェ!」

 

顔を上げたエルコンドルパサーが喜色満面のリギル組に抗議する。

先日の事、この怪鳥はNHKマイルカップの前哨戦たるニュージーランドトロフィーに快勝した。

しかし同日別所で行われたタイキシャトルの復帰戦が余りに派手であり、話題の全てを持っていかれたのだ。

 

「エルちゃんもニュージーランドトロフィー勝ったんだよね、おめでとう!」

「……アリガト」

「所でレース何時だったの?」

「知ってるデショーがぁ!」

「まぁまぁエル? 落ち着いて」

「グラスぅ……」

「ほら、エルの記事……虫眼鏡でも使わないと見えないくらい扱いが小さいですから、スぺちゃんが知らなくても仕方ないかなって」

「むがぁあああああああああっ」

 

もう一度、机の上に広げられた新聞の上に頭を打ち付けようとしたエルコンドルパサー。

そろそろ額が赤くなっていたため、席主をはじめグラスワンダーとセイウンスカイも抱えるように止めに入った。

 

「皆見る目がありまセーン! ワタシのレース見ました? 先行の有利な位置から誰よりも早い末脚で快勝っ。100回やり直しても結果が変わらない完勝デース。タイキシャトル先輩のは身体能力でぶん回したバカレースじゃないデスカ!」

「でもシャトル先輩のレースだって1000回繰り返しても同じだったと思うよ」

「むしろやり直すたびに差が開くまでありますね」

「まぁ、今日の所はおとなしく負けを認めておきなよ」

「ワタシ! 四戦四勝っ。負けてないデースっ」

「この扱いの大きさは負けでしょうが」

 

エルコンドルパサーの隣で両肩を抱え、机から上体を引きはがしたセイウンスカイ。

彼女らが集まる時は大抵リギルの二人が並び、セイウンスカイとエルコンドルパサーが対面に並ぶ。

それはリギルと反リギルの戦いの象徴としてクラスメイトの応援も綺麗に二分されている。

その両者の真ん中で自然と上座に座るのがキングヘイロー。

このお嬢様が止めない所までは手も口も出していいというのが、彼女達のルールである。

 

「……」

 

エルコンドルパサーを宥めるセイウンスカイは何処か気もそぞろなキングヘイローを伺った。

はっきり言ってらしくない。

何時もならエルコンドルパサーの額を慮ってさっさと止めている筈なのだ。

しかしキングヘイローは動かない。

今も気落ちした様子で肩を落としていた。

 

「すいません皆さん、少し体調が優れないので医務室に行ってきます」

 

らしくない事は自分自身分かっているらしいキングヘイロー。

大きく息を吐きながら席を立った。

 

「わたくしが居ないからと言って羽目を外す事の無いように、仲良く喧嘩なさい」

「はーい」

「ご心配なくー」

「心配性だねお母さん」

「白髪が増えますヨ~」

「……セイウンスカイとアホウ鳥は後で覚えておきなさい」

「ひぃ!?」

「アホウ鳥っ、あほう鳥って言いましタ、今!?」

 

死の宣告と共に席を立ったキングヘイロー。

ストッパーが居ない時、少なくともクラスの中では煽り合いはしない両陣営。

それは弥生賞、皐月賞を経て周囲に与える影響を考慮した結果である。

当事者達は分かっている匙加減をクラスメイトが理解できず、怖がらせたり別の諍いに発展したことがあったのだ。

 

「……ま、そのタイキシャトル先輩もエルちゃんも、しっかり勝ち上がって良かったよ」

「そうですね……エル」

「ん?」

「おめでとう」

「ん、ありがとうデース」

「だけどエルちゃん、どうして三冠獲りに来なかったの?」

 

何気なく聞いてくるスペシャルウィーク。

それは彼女だけに留まらずクラスメイト達も気になっていたことだ。

グラスワンダーとセイウンスカイは一瞬、クラスから音が引いたことを察する。

 

「……ほら、スぺちゃん達にも華を持たせてあげないと可哀想カナーってネ!」

「おお、エルちゃん凄い自信だね」

「あはは、皮肉言ってるんですから流さないでくださいヨ~」

「いや、じゃあさ! 私がエルちゃんの思惑通りに華を持ったらさ」

「うん?」

「秋は、一緒に走ろうね」

「……フーン」

 

口元は笑っているが目は笑っていないスペシャルウィーク。

弥生賞で勝利し、皐月賞でも好走したチームリギルの新星。

勝つ事を知り、負ける事も知った一人のウマ娘が同期のライバルとしてエルコンドルパサーの前に立とうとしていた。

本当にスペシャルウィークがダービーを獲れたなら、秋には倒さなければならないウマ娘の筆頭だろう。

 

「スぺちゃん……私は眼中に無いのかな?」

「まさか、皐月賞ウマ娘を無視するなんて出来ないよ……でも何となく、ウンスちゃんとはこれからもきっと走る事になると思うんだ」

「まぁ、エルはマイル路線に引きこもっちゃいましたからね」

「路線違いっていうか……はっきり言っておかないとエルちゃん、どっか行っちゃいそうだから」

「何処に、デース?」

「いや、何となく名前みたくさ……飛んで行っちゃいそうな気がして」

「もぅ、スぺちゃん寂しがり屋デース」

 

エルコンドルパサーは両手でスペシャルウィークの両頬をこね回す。

悲鳴を上げながら抵抗はしないスペシャルウィーク。

一頻りもち肌を堪能したエルコンドルパサーはセイウンスカイと共に席を立った。

 

「ウンス、ちょっと」

「……ん」

「それじゃ、リギルのお二人さん。まったネ~」

「スぺちゃん、ダービー頑張ろうねー」

「うん、負けないよ」

「では、またー」

 

エルコンドルパサーとセイウンスカイはそのまま廊下に姿を消した。

その背中を見送ったスペシャルウィークとグラスワンダー。

 

「スぺちゃん、秋はマイルに転向する意向あります?」

「いや……流石に其処までは考えていないんだけど」

「エル、秋はどうするんでしょうね……確かに中距離に来てもおかしくないんですけど」

「お?」

「……あのエルが、シャトル先輩から逃げる姿も想像出来なくて」

「あ、秋には直接対するレースもあるんだね……でも正直、マイルで先輩に勝てる人とかリギル以外だとスズカさんくらいしか想像も出来ないんだけど……」

「……もう一人いるかな」

「いるんだ!?」

「草レースですが、1100でエルを20バ身後ろから差して4バ身千切った方とかいますよ」

「うへぇ……」

 

スペシャルウィークはエルコンドルパサーのレースは映像で見ている。

当人が言うように鮮やかな勝利だった。

しかも恐らく底を見せていない。

にもかかわらず、エルコンドルパサーがタイキシャトルに勝つビジョンが見えなかった。

それは自分が走っても同じである。

距離が違うと言えばそれまでだ。

しかし思わず天井を仰いだスペシャルウィークは呟かずにはいられなかった。

 

「日本一は、遠いなぁ」

「一歩ずつ……ですよ」

「うん、そうだね」

 

スペシャルウィークは万感の思いを込めて頷いた

骨折から春を全休しなくてはならないグラスワンダー。

一歩ずつと語った彼女が、内心で歯を食いしばっている事は想像に難くない。

そんな彼女の為にもダービーが欲しい。

それがリギルの全員に育てられたと自負する自分が出来る恩返し。

駆けることは出来ても飛ぶ事は出来ないウマ娘達。

どれ程足が速くとも、一歩ずつ進むしかないのである。

 

 

 

§

 

 

 

セイウンスカイを連れ出したエルコンドルパサーは校舎の屋上にやって来た。

それぞれに一通り周囲を見回し、誰もいない事を確認する。

 

「悪いネ~同志ぃ」

「元、同志でしょ」

「硬い事言わないノ」

「まぁ、良いけどさ」

 

エルコンドルパサーとセイウンスカイ。

そして此処には居ないキングヘイローはかつて一つのチームを作ろうと画策していた仲である。

それは現実と折り合いがつかず流れたが、培った絆は早々風化するものではない。

 

「ウンスちゃん、最近ヘイローちゃんと何処まで行ったんデース?」

「……質問の意図は分かるんだけど、違う意味に聞こえるから言い換えてくれない?」

「チューした? ちゅ~?」

「帰っていい? いや、帰る前に一発殴っていい?」

「わ、分かったから距離詰めてこないでくださいネ」

 

このようにからかった時、大抵セイウンスカイもグラスワンダーに絡めて切り返してくる。

しかしさっさと言葉遊びを打ち切ろうとしてくる様子に、エルコンドルパサーも表情を変えた。

 

「やっぱり最近関われて無い?」

「……うん」

「そっか」

 

キングヘイローの様子がおかしい事は今日に始まった事ではない。

春レースが本格的に始まる前、リギルの選考レースの後から少しずつ空回りしている印象だった。

 

「ヘイローちゃんって今、結構大きいチームに入っているんでシタ?」

「いや、私もそう思っていたんだけど少し違うみたい」

「お?」

「去年かな……そのチームのトレーナーが急逝して三つくらいに分かれたみたいなんだよね。ヘイローちゃんがいるのはその一つで、逝っちゃったトレーナーの若いボンボンのチームみたい」

「……なんかウンスちゃん、悪意ない?」

「……正直、うちのお嬢様を任せるには足らないかな……僻みかもしれないけどさ」

「むぅ……」

 

セイウンスカイもエルコンドルパサーも自分のチームには不満が無い。

細かい事を言い出せば限が無いが、このチームに入って前進した自分がいる事は実感している。

夢を賭ける先として不足はなかった。

勿論リギルの二人もそうだろう。

しかしまさかこのような形で級友が苦労しているとは想像していなかった。

 

「前のトレーナーは大層腕が良かったらしいんだけどね……今の二代目はどうなんだか」

「全く見どころが無いってわけじゃないんデース?」

「そんなトレーナーをヘイローちゃんが選ぶはずない……ってくらいだね、私が信じられるのは」

「……トレーナー自身へは信頼ゼロですネ」

「例え才能が先代以上だとしてもさ、若い駆けだしってだけで合わない気がするんだよ……ヘイローちゃんみたいな我の強いお嬢様にはベテランが根気よく、一つ一つ言い聞かせていった方が良いような気がする」

「成程ネ……」

 

エルコンドルパサーにはセイウンスカイが抱えているジレンマが良く分かる。

条件戦からGⅢまでを無敗。

順調な滑り出しだったキングヘイローだが、そこから先は勝ち星が無い。

彼女は敗北を受け入れてバネにする器量が確かにある。

しかし過ぎればそれも毒になる。

一つ一つは小さな傷でも、巨大な才能を砕くたがねになるかもしれない。

少なくとも気持ちの切り替えを仕切れずに、調子が今一つのまま此処まで来ている。

これまでもキングヘイローが仲間内の草レースで負ける事はあった。

その度に彼女を引っ張り上げて来たセイウンスカイからすればもどかしいモノがあるだろう。

 

「チームが違うって本当に遠いんだよ……此処までやりにくくなるとは思わなかった」

「ウンスちゃん……」

「スピカの連中はまぁ、根が良い子だって分かってるから気にならないんだけどさ……ヘイローちゃんの方の人間関係がどう絡まってるか分からなくて声がかけづらいんだよ」

「皐月賞獲った張本人だもんねぇ」

「うん。しかも私達がチーム組もうとしてた事を知っている奴は知っているだろうからね。私がヘイローちゃんに関わろうとするとあらぬ誤解を受けるかもしれない」

「……それ、ウンスちゃんじゃなくてヘイローちゃんが困る奴ですよネ~」

「そうなんだよ」

 

頭をかいて息を吐いたセイウンスカイ。

エルコンドルパサーも苦虫を噛んだように顔を歪める。

 

「これ、ワタシのせいかなぁ」

「なんでエルちゃんのせいになるのさ」

「ワタシがもっと粘っていれば、少なくともヘイローちゃんのケアはウンスちゃんがやれたデショ」

「それこそ結果論でしょうが。まさかジュニアCの春直前にスぺちゃんみたいな子が来るなんて誰が予想出来るっての」

「……結果論だって間違ってたと思えば惜しくもあるヨ」

「またぁ……その完璧主義は、良くないなぁ」

 

セイウンスカイはエルコンドルパサーの肩を叩いて笑う。

しかし怪鳥の表情は冴えなかった。

常の彼女からは余りにかけ離れたその姿に苦笑するセイウンスカイ。

 

「しょうがないね分かったよ。じゃあヘタレな同志の後悔を、私が吹っ飛ばしてあげる」

「おぉ……ウンスちゃんがビッグマウスとか似合わないデース」

「黙って聞いて。良い? スぺちゃ――スペシャルウィークは私達と夢を見る事は出来たと思う、だけど一緒に夢を追う力はなかった」

「……え?」

「次のダービーで、私がそう証明してあげる。それなら、今の形が私たちにとって間違いじゃなかったって、エルちゃんも信じられるでしょう」

 

不敵に微笑むセイウンスカイに魅入ったエルコンドルパサー。

それなりに長い付き合いだが、こんな彼女の顔は見たことが無い。

スペシャルウィークを抑えての勝利宣言。

以前のセイウンスカイからこんな言葉を想像する事は出来なかった。

それほど濃密なモノをスピカで積んできた。

エルコンドルパサーは級友の力強い変わり様に背筋が粟立つ。

 

「ワタシは目的があって、今はマイルにいるんですケドー」

「へぇ」

「ちょっと勿体ないって思っちゃいましたネ~。今のウンスとダービー獲りあってみたかったヨ」

「正直其処は気になってたんだよね。エルちゃん何企んでるのさ」

 

その質問は既に何回か貰っていた。

しかしエルコンドルパサーの口から大目標が語られたのは、コメットの外ではこれが初めて。

秋の中距離路線を制して翌年の凱旋門賞。

そして再来年のドバイWCとBCクラシック。

全てを聞き終えたセイウンスカイは開いた口が塞がらなかった。

 

「マジかよ」

「イエス」

 

セイウンスカイは無理だと呟く心の声を確かに聞いた。

同時に、無理か? と囁く疑問の声も。

見込みが薄いのは間違いない。

しかしコレほどの目標を聞いた後でも一縷の期待を捨てられなかった。

この怪鳥ならばやるかもしれない。

 

「あ、こけたら恥ずかしいからまだ内緒ネ!」

「よし、一瞬でも期待した私のワクワクを返せアホウドリ」

「コンドルデース!」

 

半眼で告げるセイウンスカイと調子の戻ったエルコンドルパサー。

 

「すると秋はこっちに来るんだ?」

「イエ~ス」

「……タイキシャトル先輩はどうするの」

「ん?」

「エルちゃんは今の所、世代で無敗のマイラーでしょ。もしこのまま次のNHKマイルカップを獲ったら、秋には打倒タイキシャトルの大将格に推されるよ……此処で路線替えたら、バカが邪推するんじゃない?」

「タイキシャトル先輩がマイルの女王なんて言われるのはこの春が最後デース」

「へぇ、なんでさ」

「うちの先輩達が倒すからネ」

「……成程、納得」

 

セイウンスカイはいつの間にか握り締めていた拳をほどく。

 

「ねぇウンス―」

「なに?」

「三冠、獲ってネ」

「……うん」

 

頷いたセイウンスカイは怪鳥に背を向けた。

友人たちはそれぞれの目標に向けて歩み始めている。

自分も立ち止まっている暇はなかった。

 

 

 

§

 

 

 

『さぁ、ウマ娘の本バ場入場です!

 

 

 

 先ずは弥生賞三着、皐月賞は二着!

 

 いざ頂点へ! 

 

 キングヘイロー!』

 

 

 

ターフに入ったキングヘイローは慣れと経験によって笑顔を作り、歓声をくれるファンに手を振った。

しかし内心ではこのレースに対する迷いが晴れない。

弥生賞ではセイウンスカイとスペシャルウィークに勝てなかった。

皐月賞では弥生賞の反省を生かして立ち回ったが、それでもセイウンスカイには届かなかった。

キングヘイローは自分が瞬発力で勝負するタイプであることを知っている。

長い距離に対応することも出来るが、練習の時計が自分の適性をはっきりと示していた。

ジュニアCクラス、クラシック三冠。

それは徐々に距離が長くなるレースである。

自分に一番高い勝機があったレースこそ、一番最初の皐月賞だったのだ。

 

「あれは……絶対に落としてはいけないレースだった……」

 

この先自分がどうなるのか。

漠然とした不安から抜け出せない。

今日のダービーは2400㍍の12ハロン。

皐月賞より400㍍長い距離。

ウマ娘にとっては400㍍など誤差に等しい距離である。

しかしこの400㍍がウマ娘を仕分ける不思議な基準。

1200のスプリント、1600のマイル、2000のチャンピオン・ディスタンス、2400のクラシック、2800のステイヤー。

普通に走れば何のことは無い400㍍という距離によって、勝てるウマ娘は全く変わる。

セイウンスカイがこの400㍍に対応できるかは分からない。

スペシャルウィークがこの400㍍に対応できるかは分からない。

それでも自分の事は分かってしまう。

恐らく、皐月賞の時ほどのパフォーマンスは出来ないだろう。

観衆の視線が無ければ震えていたかも知れない。

今ここにキングヘイローが立っているのは、逃げを許さぬ矜持である。

 

「勝てるとすれば……」

 

どんな展開があるだろうか。

キングヘイローとトレーナーはそれぞれに正反対の意見をだした。

キングヘイローが参考にしたの三冠ウマ娘の一人、ミスターシービーのレース。

恐らく短距離ウマ娘と言われながらも三つの冠をもぎ取った彼女のレースは、最後方から終盤に上がって行って全員をぶち抜く豪快な勝利だった。

どちらかと言えば自分にはこれが合っていると思う。

しかし彼女のトレーナーは別の案を出してきた。

その理由の一つが、逃げウマ娘のセイウンスカイ。

もし誰も鈴を付けずにセイウンスカイを逃がしたら直線だけでは届かないのではないか。

ミスターシービーもライバルの逃げウマ娘、カツラギエースの本格化以降は絶対的な強さのアドバンテージを失っていった。

現時点でのセイウンスカイと、キングヘイローの完成度の差。

将来的にはともかく、今日この時点では皐月賞を獲ったセイウンスカイに一歩を譲る。

それならば……

 

「先行……か」

 

 

 

 

『皐月賞の屈辱は果たせるのか!?

 

 奇跡を起こせ!

 

 スペシャルウィーク!』

 

 

 

 

東京レース場を埋め尽くす観衆。

其処から湧き上がる大声援。

スペシャルウィークはこの時、自分が世代で最も優れたウマ娘を決める場所に立った事を意識した。

 

「お母ちゃん、見てる? 見ててくれてるよね」

 

自分はこの学園へ来て、凄い人たちのチームに入った。

凄いライバル達と出会った。

勝ったレースもあれば、負けたレースもあった。

今日がどんな結果になるかはスペシャルウィークにも分からない。

当然負けるつもりはなかったが、どんなに望んで努力しても勝てない事はあった。

それでも胸を張れることが二つある。

それは自分が学園で、最も腕のいいトレーナーに見て貰えた事。

そして自分は学園で、最も強いウマ娘達に鍛え上げられた事だ。

 

「わぁ……」

 

歓声に応えるように手を振るスペシャルウィーク。

それまでもいっぱいだと思っていた歓声が更に大きく、強くなる。

これほどまでに沢山の人が応援してくれている。

そして此処には居ない人間の母が、間違いなく自分を見ていてくれる。

東条トレーナーから、今日は自分が一番人気だと聞いていた。

皐月賞では三着だったのに、それでも一番多くの人が自分に勝って欲しいと願ってくれたのだ。

誰かに夢を見せたのなら、叶える事で応えたい。

負ける事で得る強さもあった。

しかしウマ娘の可能性と未来は勝つ事によってのみ拓かれる。

自分を育ててくれた母。

自分を鍛えてくれたチーム。

自分に期待してくれたファン。

皆に報いる華が、グレートⅠの冠が欲しい。

その先に……

 

「エルちゃん……」

 

まだ戦った事のないライバルがいる。

先にNHKマイルカップを勝利した怪鳥。

ニュージーランドトロフィーと同じく、前目の好位置から誰より早い末脚で抜け出しての楽勝。

今日、此処で彼女と並ぶ。

秋も。

その先も走るために。

 

 

 

 

『皐月賞ウマ娘っ悲願の二冠へ!

 

 トリックスター!

 

 セイウンスカイ!』

 

 

 

 

飄々とターフに入ったセイウンスカイ。

両手を頭の上で組みつつ大きく一つ伸びをした。

観客に応える事も良いだろう。

しかし自分の戦いはもう、始まっている。

踏みしめた芝の感触が重い。

先日降った雨が乾いていない。

 

「稍重だっけ……」

 

バカ正直に1ハロン12秒の平均ペースを守っていたら終盤でダレる。

レコードを取りに行けるような足場ではなかった。

一つ歩くごとにターフの情報を収集してはレースプランを修正していく。

そこでやっと気づいたように観衆を見渡し、思い出したように手を振った。

タイミングを外された観客たちはそれまでとは違い、やや躊躇ったような歓声で応えた。

 

(こういう所で空気が読めてないとか言われるのかなぁ)

 

内心で苦笑したセイウンスカイ。

皐月賞を獲ったのに一番人気は持っていかれた。

多くの人に期待されるだけの何かが自分には足りなかった。

出走ウマ娘中では最高の実績で臨んでいるにもかかわらずだ。

 

「良いんだけどね、別に」

 

同じチームの先輩たるサイレンススズカから聞いたことがある。

その世代でダービーを獲ったウマ娘の言葉。

自分の全く与り知らぬ所でスズカに絡まれる因縁を作ってくれたそのウマ娘に良い感情は持っていない。

しかしその言葉は、セイウンスカイも万感をもって同意する。

 

「一番人気はいらない。一着が欲しい……」

 

それは間違いなくウマ娘達全員が胸に抱く本音だろう。

此処に立つ以上、欲しいものは一着以外にあり得ない。

二着、三着はあくまで好走であって勝利ではないのだ。

18人のウマ娘が戦って、勝つのはそのうちたった一人。

 

「ヘイローちゃんは……やや不調っと。スぺちゃんやる気満々だね……これは締めて行かないと……」

 

セイウンスカイは勝負服の胸元を軽く握る。

瞳を閉じれば何時もの光景。

黒く霞み、本来の色が分からない牧場のような場所で鮮やかに浮き上がる葦毛のナニか。

自分自身の心の中、いつもの所にいつもの相手がいる事を確認して息を吐く。

端的に言うならば、今のセイウンスカイが見て欲しい相手はこのナニかただ一頭。

 

「ほんと……なんなんだろうねあんた」

 

でも今日は機嫌が良さそうじゃないか。

私に期待しているのかい?

そのナニかが此処まではっきり見えるのは初めてだった。

 

 

 

 

『さぁ! 準備が整いました!

 

 

 

 日本ダービーのファンファーレです!』

 

 

 

奇数番号のウマ娘達がゲートに入った。

続いて偶数番号の入場が始まる。

 

 

 

『クライマックスの時が近づいてまいりました!

 

 

 

 ウマ娘の祭典!

 

 

 

 日本ダービー――

 

 

 

 

 

 今……

 

 

 

 スタートしましたっ!!』

 

 

 

§

 

 

 

スタートから前に出たセイウンスカイ。

しかし流石にマークもされていた。

12番という外枠に近い位置もあり、簡単にはハナを切れない。

五人の叩き合いになった先頭争い。

その中に緑の勝負服を見たセイウンスカイは首を傾げた。

 

(ヘイローちゃんが先行?)

 

一人、二人と控える中で最後まで前を譲らなかったのはキングヘイロー。

完全に引く気が無い事を見て取ったセイウンスカイは一度退いて後ろにつけた。

キングヘイローはペースを作って勝てるのか。

にわか仕込みで逃げ切れるほど甘い面子ではないと思う。

 

(っていうか……こういう大舞台で奇策って選ぶ子じゃなかったと思うんだけど)

 

これがトレーナーの指示だとしたら、セイウンスカイはそいつの評価をさらに下げるだろう。

スタートから先頭に立ち、すべてのウマ娘を引き連れてそのままゴール。

極まれば確かに華麗なレース。

しかし先頭を走ると言う事は凄まじい精神的、肉体的な疲労に繋がる。

先ずペース配分で誰も頼れない。

前を征くウマ娘はひたすら己の体内時計でレースを組み立てなければならないのだ。

キングヘイローも1ハロン平均の12秒で走る時計は持っているだろう。

それは此処まで来たウマ娘ならば当たり前ともいえるモノ。

ならばキングヘイローに逃げが打てるのか。

 

(……無理だね)

 

後ろからその走りを見たセイウンスカイは更に位置を下げてバ群に沈む。

徐々に遠くなるキングヘイローの背中を哀惜を込めて見送った。

戦術として逃げを選択するには膨大な下準備が必要である。

少なくともセイウンスカイはそう思う。

はっきり言えば彼女にとって、サイレンススズカ等は逃げウマ娘と認めていない。

アレは偶々足が速くて持久力のあるウマが好きなように走っているだけだ。

本当の逃げウマ娘は、先ずどのようなコンディションでも12秒を正確にカウント出来るところから始まる。

そして自分が1ハロンを何歩で走破するかを覚え込み、12秒に当てはめる事が最初の鬼門。

更にそこから20㍍単位で時計を刻み、200㍍を10分割してペースを配分。

何処かで早くしたら何処かで遅くし、最終的に12秒に揃える所が次の鬼門。

其処まで出来たら走行フォームから歩幅とテンポを調整し、11秒のハイペースも13秒のスローペースも同じ見た目で走れるように揃える。

ここまでやって初めて自分の後ろを走るウマ娘達をコントロール出来るのだ。

間違いなくキングヘイローにそこまでの下地はない。

 

(この重めのバ場で正確な12秒……それじゃダメなんだよヘイローちゃん)

 

一瞬だけ、隣で併せてやりたい気持ちが疼く。

この後二分弱の未来に待つであろう、親友の残酷な結末を変えてやりたい。

しかしそれは自分の真後ろについた視線の主が許さなかった。

セイウンスカイを完全にマークしているのはスペシャルウィーク。

スタート直後から先頭を取りに行った時。

そしてキングヘイローのハイペースにセイウンスカイが退いた時。

そのどちらもスペシャルウィークはついてきた。

自分で時計を刻みながら。

 

(っとっとっと……多分ヘイローちゃんが平均で、ウンスちゃんが少し遅い感じかな?)

 

先頭を走るキングヘイローから五バ身程の後方。

バ群の中団に据えたセイウンスカイを見るスペシャルウィーク。

自分の末脚を正確に把握し、セイウンスカイがスパートした瞬間から競り潰す。

それはセイウンスカイが逃げなかった時に選択するプランの中の一つだった。

 

(このペースならこっちの脚も残るから大丈夫。ウンスちゃんに逃げられたら捕まえられるか分からなかったけど……)

 

このまま直線勝負になればセイウンスカイより自分が早い。

皐月賞ウマ娘対策としては、自分がやり易い展開になってくれた。

しかし一つの予想外がキングヘイローの先行策。

スペシャルウィークの脳裏にリギルの選考レースの記憶がよみがえる。

 

(あの時も前に行ってた。でもアレは周りが遅すぎたから普通に走って先頭だっただけだよね。戦術で逃げてたわけじゃないと思うんだけど)

 

キングヘイローはあの時と同じように走っているのだろうか。

あの時よりも長い距離、重いターフで。

 

(いや、無理でしょこれ)

 

 

 

『先頭はキングヘイロー!

 

 今1000㍍の標識を通過しました!

 

 通過タイムは60秒程っ

 

 平均ペースになりました!』

 

 

 

それは距離とバ場を考慮すれば早めのペースと言えた。

其処から一秒弱遅れたセイウンスカイの位置が本来の平均。

前にいるウマ娘は最後に苦しくなるだろう。

セイウンスカイは此処で一気にペースを上げた。

バ群の中から徐々に順位を上げていくセイウンスカイ。

それを逃がさずについていくスペシャルウィーク。

6ハロン1200㍍程の位置で先頭が入れ替わった。

レースが一つ動くたびに東京レース場を大歓声が包み込む。

それはターフを走るウマ娘達、一人一人の悲喜交々を呑み込むうねりとなる。

 

(来たねぇスぺちゃん!)

(逃がさないよウンスちゃん!)

 

レース中盤で先頭に立ったセイウンスカイ。

それをぴったりマークするスペシャルウィーク。

しかもただのマークではない。

セイウンスカイの視界に入りつつ、外から被さるように圧力をかけてくる。

それは逃げウマ娘には非常に辛い展開であった。

振り切るためには更にペースを上げるしかない。

 

(スぺちゃんやるなぁ)

 

セイウンスカイは皐月賞の様に坂を利してみようとするが、スペシャルウィークはしっかりとついてきた。

こうしてセイウンスカイの後ろを走っていると、スペシャルウィークには彼女が苦しんでいる事が良く分かる。

ピッチもストライドも限界まで伸ばしている風であるが、スペシャルウィークにはまだ余力があった。

最終4コーナーを回った直線で、その余力を切ってスパートすればセイウンスカイを差し切れる。

そう思った。

 

(ん?)

 

違和感に気づいたのは最終コーナーの中ほど。

セイウンスカイとスペシャルウィークが最後の直線に向けて息を入れた時。

スペシャルウィークは予想外の近距離でバ蹄の音を後ろから聞いた。

 

(嘘っ!? 近すぎ……)

 

セイウンスカイは自分に競られて必死に逃げていた筈だった。

ハイペースになっていなければおかしいのだ。

後続との距離は開いている……そう思っていた。

 

(それが……こんなに近いって事は……)

 

セイウンスカイはペースが……

 

(上がってないっ!?)

 

競りかけていたのはスペシャルウィークだった。

セイウンスカイはピッチを上げて、上り坂でもストライドを限界まで伸ばして駆け上がっているように見えた。

間違いなくウマ娘が全力疾走する時の特徴が走りの中にあったのだ。

それでもペースを狂わされた。

自分が今どんなペースで走っているのか一瞬分からなくなる。

足元の感触が怪しい。

せり上がってくる浮遊感。

それは嘔吐感に変わって胃液を押し上げてくる。

 

(歩幅はそんなに伸ばしてないんだよねー。登りの傾斜分だけ早く地面に足がつくから。でも必死に見えたでしょ?)

 

セイウンスカイはそれまで真っすぐ背中を射抜いていた視線がぶれた事を感じた。

間髪入れずにスパートをかける。

最終コーナーの出口から勢いよく飛び出したセイウンスカイ。

その末脚を削れないまま距離を稼がれてしまったスペシャルウィーク。

仕掛けのタイミングも完全に外された。

スペシャルウィークの脚も残っているが、それは当たり前だろう。

早く走っていなかったのだから。

 

 

 

『先頭はセイウンスカイ!

 

 最終コーナーを回って直線を向いた! 

 

 リード1バ身を追走するスペシャルウィーク!

 

 スペシャルウィークは少し苦しいか!?

 

 此処で外に持ち出した!』

 

 

 

 

チームスピカのトレーナーはセイウンスカイのレースに喝采を送る。

キングヘイローの先行は予想外だったに違いない。

しっかり我慢して中盤で捉えたが、其処からもスペシャルウィークには散々競られて厳しかった筈だ。

それでも自分のペースを守り抜いた。

辛いレース展開に耐え忍んだ成功報酬は健在の末脚。

彼がトレーニングの中でセイウンスカイに仕込んだ事。

時計を捨てて全力で駆け抜けるラスト2ハロンに、11秒台が二つ並ぶ。

必勝の展開だった。

しかし第4コーナーを周って自分から外に出したスペシャルウィークの姿に背筋が粟立つ。

 

(怪我になるから頼るなよ……そう言っていましたっけ。勿論忘れていません……だけど私っ)

 

それでも教えてくれたと言う事は、使う事もあると知っていた筈である。

スペシャルウィークの重心が低く低く沈み込む。

地を這う様な独特のフォーム

其処から繰り出す力強い脚。

 

「勝ちたいんですっ。今、此処でぇ!」

 

多くの者が既視感を感じた。

何処で見たのか。

最初に気づいたのはチームリギルのトレーナー。

それは彼女の誇りの一つ。

勝ちと負けを繰り返し、傷だらけの手で三冠を獲ったウマ娘の姿。

外に持ち出した分、セイウンスカイとの差は開いた。

後ろから迫って来たウマ娘にも並ばれた。

しかし今この時、スペシャルウィークの進路はゴールまで何もない。

 

 

 

 

 

『先頭セイウンスカイのまま残り400を切った!

 

 二番手争いは混戦!

 

 誰が抜け出すか!?

 

 セイウンスカイが逃げ切るか――

 

 

 

 

 バ群を割ってスペシャルウィーク!

 

 もう一度伸びて来た! 凄い足! 

 

 先頭セイウンスカイ! リード2バ身!

 スペシャルウィーク届くか!?

 

 スペシャルウィークが襲い掛かる!

 しかしセイウンスカイも譲らない!

 

 前二人! 前二人の勝負になった!?

 

 

 

 

 

 

 先頭セイウンスカイのまま残り200㍍!

 

 

 スペシャルウィーク並んだか!?

 

 

 後続のウマ娘は伸びが苦しいっ

 

 

 内セイウンスカイ!

 外スペシャルウィーク!

 内と外の叩き合い!

 

 

 セイウンスカイの二冠か! スペシャルウィークの戴冠か!

 

 

 

 

 

 両者全く並んだままあと100㍍!

 

 スペシャルウィークが前に出たか!?

 セイウンスカイ苦しい!

 しかしまだ粘っているっ

 

 

 

 しかし勢いはスペシャルウィークか!

 

 

 

 スペシャルウィーク!

 

 

 

 スペシャルウィーク!

 

 

 

 スペシャルウィーーーーーク!!

 

 

 

 

 身体半分差し切って今っ ゴールイン!!!!

 

 

 

 

 やりましたぁああああああああああああああ!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

§

 

 

 

「ウンスぅ……負けてるジャーン……」

 

死闘の結末を見届けた怪鳥は、自分の声を他人事のように聞いた。

大歓声にあてられた聴覚が怪しい。

しかし視覚ははっきりと眼下の光景を脳裏に焼き付けてくる。

 

「スゲー……」

 

足が震えたまま立位が保てず、救護車で運ばれるスペシャルウィーク。

二着のセイウンスカイも跛行している。

この様子ではウイニングライブは無理だろう。

限界を超えてレースに臨んだウマ娘が、何らかのトラブルでライブが出来ないという例は割とある。

今日は三位以下の面子で強行しても観客は納得しない。

これはそういうレースだった。

 

「……」

 

エルコンドルパサーは疲れ切った両雄から視線を切る。

そしてもう一人、主役になれなかった同志を探す。

先行失敗から脱落しての14着敗退。

本日二番人気に支持されていたキングヘイロー。

地下道へ引き上げていくその姿は決して俯いてはいない。

しかし、肩は落としていた。

痛ましいその背中を見送るエルコンドルパサー。

其処へ声をかけるモノがあった。

 

「エル」

「……スぺちゃんは良いんデース?」

「トレーナーさんが付き添っていますから」

 

エルコンドルパサーはキングヘイローの姿が見えなくなるまで動かない。

グラスワンダーは地下道入り口をじっと見つめる親友を待った。

やがて小さな吐息と共に怪鳥の時間が戻って来る。

いつの間にか全身に張っていた力を抜いたエルコンドルパサー。

 

「……スぺちゃん凄かったネ~」

「……セイウンスカイちゃんも、強かったです」

「ヘイローちゃんは残念だったネ」

「本当にそうですね」

「それで、グラスは……辛くない?」

「……今のスぺちゃんを見るのは……辛いかな」

「そっか」

 

隣り合って並びながらターフを見つめるエルコンドルパサーとグラスワンダー。

 

「エルは……」

「んー?」

「今日のレースに出ていたら、勝てました?」

「そりゃ、ぶっちぎりデース!」

「そっかぁ」

「グラスは?」

「控えめに五バ身くらいじゃないですかね?」

「あは! そりゃ、景気良いデースネ」

 

大口で殴り合う二人のウマ娘。

関係者席だからこそ許される事だ。

もしこのレースを見たファンの中で言ったらタコ殴りにされるだろう。

スペシャルウィークとセイウンスカイが鎬を削ったこの春は、人々の心に鮮やかに焼き付いた筈だ。

其処に混ざれなかったことが、少しだけ悔しかった。

 

「ねぇグラス」

「はい」

「秋は、一緒に走ろうね」

「ええ、走りましょう」

 

この日、一つの時代のダービーウマ娘が決まった。

それは北海道の片隅からやって来た転入生。

クラシックの直前に学園に飛び込み、そのまま世代の先頭に立ったスペシャルウィーク。

しかしそれでも、スペシャルウィークを日本一のウマ娘だと考える者は少ない。

スペシャルウィークが未だ知らない、シニアクラスの実力者達。

彼女の、そしてこの世代の真価が問われるのは、シニアクラスとの戦いが始まる秋以降の事である。

 

 

 

 




最終回の心算で書きました

誰が何と言おうとこの作品は何時更新が途絶えてもおかしくない短編な訳ですが、一つの世界観の中で長く続ける事で書き手が味わえる楽しみもあります
それは此処まで埋めて来た伏線同士が殴り合う展開
この瞬間を味わうために続けて来た部分はありました
今回のスぺちゃんVSウンスちゃんは書いてて楽しかったです
もう本当にこれが最終回でいいのではないでしょうか
実はこの時点で主人公兼ラスボスの怪鳥の公式戦が全てカットされているような気もしますけどアニメでもそういうのいっぱいあったしさ……
正直燃え尽きてます
安田記念? シラナイコデスネ・・・・・



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8.梅雨冷に咲いた悪夢

提督業があまりにも辛いのでそっちに集中します


春とは思えぬ寒波の中。

安田記念を間近に控えたタイキシャトルはトレーナーと最終の調整を行っていた。

肌寒い空気も身体を動かす分には丁度良い。

フットワークも軽くターフを蹴るタイキシャトル。

その全身には前哨戦の時のような不自然な空洞感はない。

力強く踏み入った脚を引き抜くとき、上体にまでしっかりと響く力の手ごたえが感じられる。

瞬間的な速度ではあの時に劣るが、最終的な時計は間違いなく早くなるだろう。

東条ハナにとっても会心の調整だった。

 

「シャトル先輩! あと一つっ」

「OK スぺちゃん!」

 

先だって日本ダービーを制した後輩が、外から最終一ハロンの合図をくれる。

意識の中ではラストスパート。

実際には足元を確かめながら慎重に200㍍を駆け抜けたタイキシャトル。

走破タイムは前哨戦とほぼ同じ。

しかし全身に満ちた余力はあの時よりもはるかに勝る。

 

「シャトル、どうだ?」

「ん……実際に本番の芝に出てみないとって部分はあるんデスが……」

「うむ?」

「今すぐレースしても良いヨ! ってくらい元気デース」

「そうか」

 

ゴール地点で待っていたトレーナーと話していると、後輩が寄って来た。

松葉杖をつくその姿は見る者にとって痛々しい。

ダービーでセイウンスカイを刺した激走の代償は脚の付け根にやって来た。

しかし股関節の負傷までは行かず、その手前の内転筋で収まった事に関係者から安堵の息を吐かせたばかりである。

 

「ゆっくり来いスペシャルウィーク!」

「先輩! トレーナーさん! 凄かったです、ほら。前哨戦より早いの!」

「人の話を聞け!」

「スぺちゃーん無理しないノ!」

 

ストップウォッチを見せようと不自然な挙動で駆け寄ろうとするスペシャルウィーク。

タイキシャトルは駆け寄って時計を受け取り、スペシャルウィークの歩行を遮った。

 

「モゥ……スぺちゃん!」

「あ、あはは……すいません先輩」

「スペシャルウィーク」

「はいトレーナー!」

「じっとしていられないというから助手につけたが、足を休ませられないなら寝ていてもらうぞ」

「ごめんなさい! 気を付けます」

 

スペシャルウィークの返答に内心で頭を抱えた東条トレーナー。

本来であればスペシャルウィークにはまだベッド上の安静が望ましいと思う。

しかし故郷では好き放題走り回り、トレセン学園に来てからも積極的にトレーニングに臨んできたこのダービーウマ娘にとって、じっとしていると言う事は想像を絶するストレスになった。

元よりウマ娘には多かれ少なかれ同様の傾向がある。

その中でもスペシャルウィークの反応は顕著であり、負傷時の安静が難しいという欠点をトレーナーに晒すこととなった。

最も東条ハナとしては、そうと分かっていればやりようはある。

要は身体を使うことなく、スペシャルウィークに遣り甲斐があると感じる事をさせれば良い。

その一環が、リギルの仲間への協力だった。

時計係や声出し一つでも、スペシャルウィークは嬉しそうにしている。

それほどまでにリギルが好きかと思えば、東条ハナとしても機嫌が悪くなろうはずがない。

これこそ自分のウマ娘達がスペシャルウィークに甘くなっていった過程であった。

まさか自分も同じ道を歩んでいるとは想像もしていないトレーナーである。

タイキシャトルとスペシャルウィークに追いついた東条ハナ。

スペシャルウィークからストップウォッチを受け取り、その数字に満足する。

 

「タイムは前哨戦とほぼ同じだが、内容はずっと楽だったな」

「体感としても、十分余力残ってマース」

「先輩は大丈夫そうですね。後は当日の天気なんですけど……」

 

スペシャルウィークが心配しているのは予報が雨になっている事だろう。

今もスマホで確認しているが、午前は雨で午後は大雨。

バ場としては最悪になる。

 

「前もこんなことがあったナー」

「前……ですか?」

「そう! だから No worries! スぺちゃん。何て言うんだっけこういうの……そうあれ! 縁起? 良いからネ!」

「縁起ですか?」

「タイキシャトルは前に安田記念に出た時も雨だった。其処ではしっかり勝利している」

「あぁ、そうだったんですね」

「ウマ娘によっては雨や泥をくらうと極端に弱くなるモノもいるが……タイキシャトルにその点は心配ない」

「Yes! 雨の中突っ切るターフも気持ちいいヨ」

「でも風邪だけは引かないで――クシュン!」

「……それはお前もだスペシャルウィーク。丁度良い、戻るぞ」

「はい!」

「OK,Honey」

 

調整の手ごたえをしっかりと確認したトレーナー。

圧倒的な能力を持ちながら長い不振に泣かされた愛バの未来が、この先も大きく拓いている事を祈らずにはいられなかった。

 

 

 

§

 

 

 

同日別所。

トレセン学園敷地内にあるチームコメットの詰め所は通夜のような雰囲気に包まれていた。

 

「……どうよ」

「……まだ熱は下がってないよぅ」

「あんた本当にその体調でレースする心算なわけ?」

「先輩……無理しちゃだめデース」

 

チームメイトの持ち込んだ防寒具でがちがちに固められたシルキーサリヴァン。

鬱陶しそうにしながらもそれらを着こみ、息をするだけで鳴る喉の音を聞いている。

酸素が足らない。

しかし大きく息を吸い込むだけで咳き込みそうになる。

そんな様子をしばらく見つめていたハードバージだが、やがて意を決してトレーナーとしての言葉を告げた。

 

「正直その、トレーナーとしてね? その状態の君をレースに出す訳には行かないんだけど……」

「何甘ぇ事言ってやがる。あと幾日かあんだろうが」

「でもだよ、その喉鳴り……隠すことも出来ないんでしょう」

「まぁ、出来ねぇ訳だけどよぉ」

 

シルキーサリヴァンは精気が抜け落ちた様子ながら特に焦った様子はない。

そしてはっきりと、安田記念の出走を取り消す事を拒否している。

 

「先輩……本当に、休みましょうよぉ」

「……」

 

本気で自分を心配している後輩の姿に心底腹が立つシルキーサリヴァン。

当然怒りの矛先は後輩ではなく、不甲斐ない自分である。

このレースは簡単に降りれるものではなくなっていた。

何よりもエルコンドルパサーがそれを知っている筈だった。

 

「大一番でこのザマか……何で俺ぁ、いつもこうなのかねぇ」

「え?」

「前も……こんなことがあったのさ」

「先輩……」

「本当に、ずぅっと昔の事だがよ」

 

俯いて息を吐くシルキーサリヴァン。

その姿を見守っているのはトレーナーとシーキングザパール。

そして春レースを終えたエルコンドルパサーである。

メイショウドトウとアグネスデジタルは万が一を考えて近づけていない。

コメットの部室にはシルキーサリヴァンの不自然な呼吸音だけが響く。

やがてその喉から絞り出された血を吐くような声音に、見守る一同は背筋が凍った。

 

「なぁ、ハードバージよぅ」

「はいっ」

「俺は幾つだ?」

「……は?」

「人気だよ。人気。俺様は現状、何番人気になってんだ?」

「えっと……一番」

「へぇ……何時の間に、俺様はそんな人気者になっていたんだい?」

「だってシルキー……60戦以上キャリアあるくせに殆どがアメリカか、日本でも地方の交流戦に行っちゃうじゃない。中央で走ったのたった4走でしょ」

 

その四つの中にマルゼンスキーとのデビュー戦や、タイキシャトルを差し切ったオープン戦がある。

つくづくリギルと縁のあるウマ娘だった。

 

「そんなシルキーが、初めて日本のGⅠに出るんだよ。しかもタイキシャトルが大崩れする前に勝ってるし、今年一月はペガサスワールドカップも獲ってる。タイキシャトルの復帰戦も派手だったけど、此処はシルキーが上って思われてるみたいだね」

「そうかぃ。そんなに大勢のファンが俺様に期待しているわけだ」

 

ならば逃げるわけには行かない。

はっきりとそう言いきって顔を上げたシルキーサリヴァン。

チームメイトが気遣わし気な視線を寄こすが、口に出して何かを言う者はいない。

止めても無駄だと言う事は全員が分かってしまった。

 

「ハードバージ、悪りぃが回避は無しだ。そのように頼まぁ」

「……一つだけ確認させて」

「なんだよ」

「どうもしばらくはこの寒さに加えて、当日の予報だと雨も降るらしいんだよ……そんな中、長い時間レース場に立って最後は走るんだよ?」

「何を今更当たり前の事ほざいていやがる」

「……せめて、回ってくるだけにしてよ?」

「そんなレースするくれぇなら最初から出ねぇよバーカ」

「もし君に何かあったら死ぬからね」

「おい待てや根暗」

「死ぬよ私。だって君に何かあったらさ……今日君を止めなかった私を、その時の自分が許さないもの」

 

漆黒の双眸にほの暗い炎を宿して断言するハードバージ。

本当に面倒臭いと思いながらも言葉に迷うシルキーサリヴァン。

此処で突き放せるようならばコメットなんぞ作ってはいない。

 

「善処する……って事でどうよ」

「絶対しない……それ絶対しない奴だよぅ」

「だから、善処する。今のおめぇの情けねぇツラは絶対忘れないでレースに臨む……頼むぜトレーナー」

 

それぞれがこれ以上妥協しない事を悟らざるを得なかった。

語るべきことを終えたなら動かなくてはならない。

エルコンドルパサーとハードバージは部室を後にし、残ったのは当日出走する二人だけ。

シーキングザパールは半眼で半死のウマ娘をねめつけた。

 

「こういう時、あんたが男だって言われて納得するのよね。これだから男って奴は」

「今も昔も女なおめぇさんには、そう思うかもしれねぇな。だが男には格好付けにゃならん時ってもんがあるんだぜ」

「此処がその時だって? バカじゃないの」

「今格好つけねぇで何時つけるってんだ。後輩があと腐れなく前に進めるかは此処で決まるんだぞ」

「……」

 

復活したとされるマイルの女王タイキシャトル。

この春に叩いておかなければエルコンドルパサーの進路に後々まで残るしこりになるだろう。

後輩が秋に中距離へ転向するのは決定事項。

それが世間に挑戦と取られるか逃げと取られるかはこの一戦に掛かっている。

シルキーサリヴァンもシーキングザパールも、結果としてこの安田記念がそういう位置づけのレースになってしまった事は意識していた。

 

「なぁ、パールよぅ」

「何よ」

「……お前シャトルに勝てるか?」

「……」

 

自分の為の勝敗ならば虚勢でもなんでも即答していただろう。

元より勝つつもりだった。

自信だってあった筈だ。

しかしこの一戦に掛かってしまったものがパールの口を重くした。

その沈黙が明確な答えになる。

シルキーサリヴァンは今更に弱気な彼女に息を吐く。

 

「この間エルコン曳いて走ってたら、あいつ足が混ざってこけやがってよぅ」

「何を語りだしてるわけ?」

「いや、おめぇは何回こけて俺様に引き摺られたっけなと思ってな」

 

くつくつと偲び笑いが漏れるシルキーサリヴァン。

シーキングザパールはその口を腕力で塞いでやりたかったが、病人の手前自重した。

 

「……あんた嫌味を聞かせたいわけ」

「あいつはすげぇぞ。本当にこの春シーズンで魂の手前を変えるコツは掴みやがった」

「そう……」

「身体の方はまだ作り切れてねぇけどよ。どっちかというと、俺はこっちの方が後になると思っていたんだ」

「……まぁ、私は本当に苦労したものね」

「ああ。ドトウはそこそこ、デジタルとエルコンは呑み込みが早ぇと来ればもう間違いねぇ。おめぇは本当に不器用だ」

「あんた本当に何が言いたいわけ? そろそろ怒っても良いわよね」

「俺様が走り方を教えた中じゃ、おめぇが一番どんくさかった。だから一番引っ張りまわした。一番走り込んだはずだ」

「……」

「俺も、お前と一番走った。お前がどんだけ転がっても引きずられても諦めなかったのを知っている。俺の記憶と感覚だけが根拠の走りだ。しかもお前の時はまだ、誰かに伝えられる保証もなかったんだぜ。そんなあやふやなものを信じて来たのは何のためだ? 俺がお前を引っ張る時、お前の目に写っていたのは誰の背中だ? お前が追いかけていたのは、本当に俺だったか?」

「……違う……私はあの子が……あの子に……」

「お前の努力は全部シャトルの為……ってか、シャトルのせいだろ。お前はあいつに勝つために此処まで来たはずだ」

 

シルキーサリヴァンの言葉にかつての記憶が蘇るシーキングザパール。

それは怒りと屈辱と共にあった。

出来れば思い出したくもない苦い記憶。

しかし忘れるには余りにも強すぎたウマ娘。

 

「……はっきり言って、今の俺にシャトルと勝ち負けをする力はねぇ……」

「そう……でしょうね」

「だから頼む。勝ってくれ」

「……」

「勝ってくれパール。エルコンが真っ直ぐ飛べるように、余計な外野の雑音があいつの道を曲げないように。本当なら俺が…………俺が勝たねぇといけなかった……」

 

喉鳴りに喘ぎながらチームメイトに嘆願したシルキーサリヴァン。

握りしめた拳が震えていた。

くいしめた歯が軋んでいた。

その姿が似合わないと思うシーキングザパール。

しかし一方で奇妙に胸を熱くしている自分がいる。

 

「そう……あんたが私に頼むのね? 私はいつの間にか、あの子と並べても期待される所まで来ていたのね」

「そうだ。頼むパール」

「うん。お断りよ」

「……おい」

「嫌よ? だってそこで頷いたら、あんたに頼まれたから勝ったみたいじゃない」

「それの何が気に食わねぇってんだ?」

「あんたに改めて言われるまでも無いの。エルちゃんを此処に連れて来たのは私でしょう。エルちゃんは私に憧れて此処に来た、私の後輩なのよシルキー。その道にあの子の影が差すなら、私が蹴散らすわ」

「……さっきまで暗ぇ顔してたから発破かけてやったってのにほんとおめぇは……」

「なぁにシルキー?」

「ほんと……良い女だよおめぇは」

「あら、当たり前じゃない」

 

肩口に掛かる髪を背中に払いつつ立ち上ったシーキングザパールは傲然と宣言して微笑した。

 

「私はシーキングザパール。世界最高の真珠(女)なのよ」

 

チームメイトの頼もしさに気が緩み、一瞬意識が遠のくシルキーサリヴァン。

すぐに回復したものの、やはり短期間で上向く体調ではなかった。

シーキングザパールはそんな相棒に肩を貸し、共に部室を後にした。

 

 

 

§

 

 

「Hey Darling!」

「……復帰戦の映像は見ていたんだが、変わったなおめぇさん」

 

東京レース場の選手控室。

G1レースともなると各選手に個室が当てられるが、選手同士の行き来が禁止されているわけではない。

タイキシャトルはリギルの仲間達への挨拶もそこそこに控室に飛び込んだ。

そしてさっさと勝負服に着替えると、お目当てのウマ娘の部屋に直行する。

其処には荷物を置いたばかりのシルキーサリヴァンが疲れ切ったように椅子にもたれていた。

 

「Yes! Honeyがネ、ワタシを此処に連れてきてくれたんダヨ」

 

飼い犬が主人を見つけたかのような懐きようだが、シルキーサリヴァンとしては薄ら寒いものを感じずにはいられない。

どことなく今のタイキシャトルには自チームのトレーナーに通じる危うさを感じるのだ。

中身が変わったかのように明るく社交的な人格。

強引にパーソナルスペースに食い込んでくるコミュニケーション。

今のタイキシャトルしか知らなければ感じなかった違和感がある。

その違和感とかつての諍いの記憶が合わさった時、シルキーサリヴァンには生存本能の領域から訴えてくる危険信号がある。

いつの間にか立ち上り、踵を浮かせて警戒していた。

 

「マジでどうしちまったんだよお前……正直、俺の事を恨んだり憎んだりしているならそれらしい対応をしてくれる方がやりやすいんだがな」

「ナンデDarlingの事、ワタシが恨むノ?」

「……お前らの事情も知らねぇで、一方の肩を持って張り倒したんだぞ俺は」

「アー……まぁ、Darlingが殴って無かったらワタシは止まらなかったしナー」

 

気にしてないよと嗤ったタイキシャトル。

しかしそれならその後の乱調と大敗は何だったのか。

タイキシャトルは古い友人の問いかけに肩を竦めた。

 

「そうネ。気にしてないは……Noカナ? 気にならなくなったトカ、感じなくなったトカ……そんな感じダヨ」

「……」

「あの頃のワタシは……HoneyとDarlingとマルゼンスキーと……あの子しかいなかったからネ。その内二人を一度に失くしてサー……アレは堪えたヨ」

 

息を吐きながら語るタイキシャトル。

口元は苦笑の形に歪んでいた。

しかしその目は何も写していない。

タイキシャトルの思考は完全に過去に飛んでおり、ある意味一人取り残されたシルキーサリヴァンにとっては不気味でしかたなかった。

 

「Honeyはね、もっと早くワタシを休ませたかったみたい。だけどあの時、ワタシ本当にどうかしてた。頭の中、グチャグチャで……レースに出ないと死ぬって……アハハ、本気でそう思ってたヨ」

「……」

「ワタシは多分何か間違ってあの子に失敗して……あの時はワタシ、死にたいと死にたくないと走らなきゃがいっぱいで……Honeyは本当、良くワタシに愛想尽かさなかったヨネ」

 

シルキーサリヴァンはタイキシャトルの精神状態には心当たりがある。

ウマ娘にとって走れなくなることは死ぬほどつらい事ではあるが、本当に死ぬわけではない。

しかしウマ娘の中にある魂にとって、多くの場合走れないと言う事は死ぬことである。

命を失うことが無くても人の手によって殺されると言う事である。

それが走る為に生かされた経済動物。

完全に管理された血統。

Thoroughbredなのだから。

こうして彼女の口から当時の心境を聞いて思わずにはいられない。

本当に、タイキシャトルは地獄の底から這い上がって来たのだと。

 

「走って負けて泣いて喚いて荒れて……また走って……ある時Honeyがね、そんなに動きたければ自分の出したメニューこなしてからにしろって」

「どんなメニューだった?」

「その時はもう脚が擦り切れるほど走ってたんデスケドー……でも上はすっごい太ってたから、腹と腕を締めろって死ぬほど筋トレやらされたヨ……出来るまで外出も禁止されてサ。酷いよねHoney。でもずっと付き添ってくれたっけ……優しいよねHoney」

 

死すら意識する強迫観念。

其処から逃れるための気力を、全てトレーナーの課したメニューに叩きつけたタイキシャトル。

文字通り死に物狂いで動いたはずだ。

そして偶然か、それとも何かの経験則か、東条ハナは完全に的を射た方向に導いている。

シルキーサリヴァンが複雑な思いを抱えて黙考していると、タイキシャトルの瞳が今の時間に戻って来た。

 

「ねぇDarling」

 

二人の身長差は殆どない。

だからどちらかが目をそらさない限り、二人の視線は真っすぐに絡む。

 

「ワタシが此処に来たのはネ。貴方に恨みとか、言う為じゃないノ。一つどうしても納得出来ないことがあったカラ」

「……なんだ」

「あの時サァ……どうしてリギルに来てくれなかったノ?」

「……」

「ワタシが貴方を誘った時、まだコメットなんて構想も無かったデショ。作ろうとしていたなら、そう言って断ってるヨネ?」

「ああ」

「どうしてDarlingは……ワタシに答えをくれなかったノ?」

「デビュー戦でマルゼンスキーを競り潰しちまった俺が、あいつと同じチームなんざ行けるかよ」

「マルゼンスキーは楽しみにしてたケド?」

「……」

「それだけデスカ? それなら、今からでも来てクレル?」

「一応俺は、リギルに出入り禁止なんだよ」

「ワタシの一件からだよネ。それならワタシが説得デキルヨ」

 

至近距離から見つめ合う二人のウマ娘。

シルキーサリヴァンは現状はっきりと身の危険を感じている。

今の体調で腕力に訴えられたら不利だった。

タイキシャトルの自分に対する執着は薄れるどころか拗らせている。

それが今、はっきりと分かった。

 

「I really like you. ワタシ、Darlingの事本当に恨んだりしてないヨ?」

「……そうか」

「でもあの子は別。ワタシの気持ち知ってたくせにサ。黙ったままDarling掻っ攫っていった泥棒猫だモン」

「……そういう事かよ」

「あ、やっぱりあの子、言ってないんだネ」

「初めて聞いた……が、パールはこの際関係ねぇな。お前は俺を誘った。俺はそれを相手にしなかった。そしてパールはチームを抜けて俺の所に来た……そんだけだ」

「そんなバッサリ切っちゃわないでヨ~」

「おめぇらの個人的な感情を酌んでたらぜんっぜん話が収集しねぇしな。俺がお前にやったことはデカい借りだと思っている。だが、経緯はどうあれ今の俺はコメットのシルキーサリヴァンだ……悪りぃが誘いにゃ乗れねえよ」

「ウフフ……まぁ、お願いだけじゃダメだよネ」

 

タイキシャトルは一歩だけ退いて距離を置く。

たったそれだけの事に安堵したシルキーサリヴァンは大きく肩で息を吐く。

その喉が小さく鳴った。

 

「やっぱり、Bestじゃないんだネ」

「……」

「ン~……賭けレース、申し込もうと思っていたんだケドネ~……今日は私たちの日じゃないのかナ」

「何を賭けるってんだよ」

「All or Nothing! 簡単デショ?」

 

タイキシャトルは片目をつむり、何でもない事のように話す。

心の底から自分の勝利を疑った様子が無い。

その様がシルキーサリヴァンの癪に障る。

 

「ま、今日は宣戦布告だけにしておきマース! オープンでDarlingに一回負けてるし、先ずはイーブンに戻さなきゃネ。本番は次にシマショ」

「まだ受けるとも言ってねぇんだがな」

「ワタシの頬っぺた一回分のお願いくらい聞いてくれるデショ? Darlingが勝ったら、まぁ落ち込むだろうケド……二度と自分達に関わるなとかでも頑張って受け入れるからサ」

 

どうしてこう、極端から極端に走るのか。

シルキーサリヴァンは頭を抱えたい衝動に駆られた。

しかし最早修正する気力も無かったため、一番気に食わない点をはっきりと告げる。

 

「なぁ、お前がパールを嫌いなのはもう仕方ねぇとしてもだぜ?」

「ンー?」

「どうしてレース前にあいつを無視して勝敗語ってんだよ」

「あの子? そんなに速かったっけ……覚えてないナー」

「てめぇ……あんまり俺の身内を舐めてんじゃねえぞ」

「アハ! 気に障ったDarling?」

「大いに触った。見ていやがれよシャトル。ライバルの実力まで好き嫌いで括ってんなら痛い目にあうぜ」

「ならDarlingもしっかり見ててネ。誰が一番速いのカ、誰が一番強いのカ、教えてあげマース」

 

挑発的な笑みと共に颯爽と踵を返したタイキシャトル。

シルキーサリヴァンはその背中から感じた炎のような輝きと熱量に目眩を起こしそうになる。

前哨戦のような隙は無い。

ここ一番にベストコンディションを持ってきたタイキシャトルとトレーナーと比べ、自分の姿を顧みたシルキーサリヴァンは低く呻いた。

 

 

 

§

 

 

 

雨の中で開幕した安田記念。

前哨戦と同じくタイキシャトルが飛び出した。

しかし今日は即座に鈴がつく。

タイキシャトルと同等の加速によって競りかかり、拮抗したレースに持ち込んだのはシーキングザパール。

 

「ン!?」

 

並ばれる。

タイキシャトルがそう思った時、シーキングザパールは半歩前に抜けかけた。

間髪入れずに肩を当てたシャトル。

桁違いに重く、硬い感触に一瞬走行が乱れたパール

加速ではシーキングザパールが僅かに上。

全身筋力ではタイキシャトルが遥かに上。

 

(……やりにくいわね)

 

タイキシャトルは先程の接触時、殆ど上体を動かしていない。

ただ隣を走るシーキングザパールの走行ラインにシューズ半分を重ねただけ。

それでも衝撃で足をターフから抜かれそうになった。

更に厄介な事に、もし今ので吹き飛んだとしてもタイキシャトルは反則を取られないだろう。

双方の動きの量が圧倒的に違う。

あそこで弾かれればパールの自演にしか見えない。

雨にぬかるむターフにウマ娘達がシューズの蹄を打ち付ける。

しかし足色が良いのはやはり先頭で競る二人。

スピードとパワーの差が二人の間に微妙な拮抗を生み出した。

 

(瞬間速度なら多分勝ってる。ゴールの瞬間だけ前に出るのは不可能じゃない……問題は……)

 

シーキングザパールはインコースを走るタイキシャトルに内心で舌打ちする。

外に出されたのはそのまま枠順の差であり、運である。

シルキーサリヴァンの体調不良にかつて大敗したレースと同じ天気。

現状勝てないとは思わないが、ツイていないとはぼやきたくもなるシーキングザパールであった。

 

 

 

 

スタートから3ハロン。

先頭をシーキングザパールとタイキシャトルが競り合い、後続のウマ娘とは4バ身程の差がついた。

マイルG1に出走してくる強者達をたった600㍍でこれだけ千切ったシャトルとパール。

バ群の後方からそれを見ていたシルキーサリヴァンは深く静かに息を吸う。

 

(性分なのかねぇ……)

 

レース前は不甲斐ない自分の代わりにタイキシャトルに勝つ事を相棒に懇願した。

先程はタイキシャトルのマイペースなコミュニケーションに振り回された。

今先頭を走っている二人は、どちらも自分にとっては憎からず思う気の置けない相手である。

しかしこの位置からその背を見つめる瞳に宿るのは果てしない闘争心。

相手がタイキシャトルであろうとシーキングザパールであろうと此処に立ったなら全員が敵なのだ。

 

(そう長くは走れねぇ……だがあの時の俺なら30馬身は付けられてたじゃねえか。今は奴らまで10馬身って所だろ?)

 

先程から微熱の自覚があり、節々が痛む。

雨に濡れた身体が重い。

常よりも早く乱れた呼吸は時を追うごとに酷くなった

 

(最悪なのがこの足場……キレで勝負する俺様にゃ重馬場はつれぇ……)

 

それでもバ群の最後方から離されずについていければ勝機はある。

勝負所を辛抱強く待つシルキーサリヴァン。

その射抜くような視線の先には悠々と走るタイキシャトルの姿があった。

シーキングザパールも全く遅れずつけてはいるが、その表情は相手程の余裕が無い。

外を回っているシーキングザパールはタイキシャトルより僅かに距離で損がある。

しかし内に入ろうとすれば自らタイキシャトルに近寄る事になり、そうなれば接触のリスクが増す。

 

(何なのこれは……動く壁と並んで走ってるみたいじゃない)

 

走力では負けていないのにコースが全く選べない。

理不尽なレースを強いてくるタイキシャトルを睨みつければ、涼し気な表情と目が合った。

 

 

 

 

先頭の二人が第3コーナーに入るとバ群全体の速度が上がっていく。

お互いしか見ていないようなマッチレースをされて他のウマ娘達も愉快なはずが無かった。

一時は5バ身まで開いた差が徐々に詰まる。

そして最終4コーナー。

最初に違和感を感じたのはシーキングザパール。

隣を走るタイキシャトルが突如、外埒めがけて逸走したのだ。

 

「あ、あんたっ」

「内の芝悪いカラ外行こうヨー」

 

ストライドもリズムも呼吸すらも併せて並走してきたタイキシャトル。

シーキングザパールがコーナーを曲がろうとすれば自分からタイキシャトルに突っ込む事になる。

後続のウマ娘達が、雨の中観戦に来たファン達が、実況や解説の役を負う者が。

全員が呆然と先頭二人の逸走を見つめたその瞬間、バ群の最後方からシルキーサリヴァンが猛然と追い込みを開始した。

正に此処しかないというタイミングの仕掛け。

赤いウマ娘は殆ど一瞬のうちにバ群の先頭に立つ。

そして外でも動きがあった。

 

「独りで行ってな」

 

シーキングザパールは外に持ち出されながらも魂の手前を替える。

交差襲歩から回転襲歩へ。

その魂に身を任せたシーキングザパールの脚捌きが切り替わる。

細かく早く。

瞬間的に減速してタイキシャトルのマークを外したシーキングザパールは踊るようなステップワークで方向転換し、真っすぐゴールに突き進む。

 

「What!?」

 

タイキシャトルの逸走によって凍り付いた東京レース場の時間が動き出す。

観客が気づいた時、先頭は内と外でコメットの両雄が競っていた。

関係者席で見守るメンバー達のボルテージが最高潮に達する。

 

 

 

 

最後の直線。

先頭は内でシルキーサリヴァン。

しかし遂に肉体の限界に達して力なく失速する。

 

「っ!」

 

その光景に目を奪われかけたシーキングザパール。

だが背後から迫るバ蹄の音が足を止める事を許さない。

シーキングザパールは持てる全ての力で加速する。

その背を一バ身差で追いかけるタイキシャトル。

 

(アレ……)

 

タイキシャトルは不思議な時間の中にいた。

体調は万全であり全身に力も満ちている。

連勝していた頃でさえこれほどのコンディションで走れたことがあったかどうか。

そんな自分が全力で追っている。

それでも、シーキングザパールとの差が縮まらない。

 

(いやコレ……むしろっ……)

 

離されている……?

ベストコンディションで直線に向かい、全力を出してなお相手に突き放される。

初めての事ではなかった。

しかし認めたく無いタイキシャトル。

自分に対し、このような展開を強いる相手がシルキーサリヴァン以外にいる事を認めたく無い。

 

(Just a moment……wait……待テッ)

 

ほんの少しずつ遠くなるシーキングザパールの背中にタイキシャトルの手が伸びる。

それが届く距離ではない。

タイキシャトルはなりふり構わず自分のギアを跳ね上げた。

 

 

 

 

バ群に飲まれたシルキーサリヴァンは屈辱と怒りに視野の半ばを奪われた。

先頭はこのバ群の中ではない。

シーキングザパールとタイキシャトル。

完全に外二人の争いになった。

ラスト1ハロン。

二バ身前に出たシーキングザパールの背に、タイキシャトルが必死に手を伸ばしているのが見える。

レース場に集った誰もが、ゴールを前にして二人の決着を予感した。

だがタイキシャトルの伸ばした右手が更に上がり頭上まで伸ばされた時、シルキーサリヴァンは妙な既視感に捕らわれた。

 

(何だ?)

 

何処かで見た。

何処で見た?

半瞬の疑問。

その視線の先でタイキシャトルの右手が振り下ろされる。

自らの右腿へ。

 

「あ」

 

間髪入れずにタイキシャトルの足色が一変した。

シルキーサリヴァンはその意味を知っている。

かつて背に乗せた相棒がくれた全力疾走の合図。

鞭の入ったタイキシャトルは瞬く間にシーキングザパールを捉える。

そして粘る事すら許さず抜き去った。

シルキーサリヴァンには相棒の動揺が分かる。

事情を推察できる自分でも驚いたのだ。

訳が分からないまま抜かれた彼女の心境は察するに余りある。

タイキシャトルが先頭に変わり、一バ身弱を離したところがこのレースのゴールだった。

 

 

 

 

万来の喝采を浴びながらターフに佇むタイキシャトルとシーキングザパール。

テン、中、上がりと最後まで競りながらワンツーでフィニッシュした二人のウマ娘が互いに見つめ合う姿は観衆の胸を打つ。

その二人が内心でどのような心境にあるかは関係ない。

それがファンの心理である。

 

(前は何て言ったっけワタシ……あぁ、本当に覚えてないワ。でも酷い事は言ってないヨネ。オトモダチだったんだし)

 

今の自分はあの時ほどやさしい言葉はかけられない。

それは仲違いしたからではない。

 

(速かった。速くなってた。負けるかもしれないって。この子に思った)

 

タイキシャトルは勝者の花道に向かう。

しかしすれ違いざま足を止めた。

かつては止めなかった足を。

 

「Hey,パール」

「……何よ」

「……Catch me if you can」

 

そう言い残して立ち去った勝者。

シーキングザパールはあの時と同じように遠くなる背中を見つめていた。

間違いなく自分は強くなった。

かつては自分を労り、心配していたタイキシャトルが捕まえてみろと言ったのだ。

差は詰めた。

しかし、勝てなかった。

膝から崩れ落ちるシーキングザパール。

曇天から降り注ぐ雨。

長い髪が濡れ、肌に張り付いて気持ちが悪い。

だが、涙を隠してくれるこの雨に今だけは感謝した。

 

 

 

§

 

 

 

レース終了後はウイニングライブの為の設営がある。

既に上位三着以外のウマ娘達は帰路につき、レース場に残っているのはライブに出演するウマ娘とそのチーム関係者。

この時間をどう使うかはそれぞれだが、タイキシャトルは定まった運命があった。

お説教である。

勝利していても、あるいは勝利したからこそ内容は精査して次のレースに生かさなければならない。

そう考えた時、今回のタイキシャトルのレースは東条ハナにとり、批判の余地があり過ぎた。

このお説教は他のメンバーに参加義務はないのだが、多くの場合はそのまま一緒に聞いてくる。

トレーナーの指摘する注意点には彼女なりの考えと根拠があるため、その点を自分のレースで修正出来ればその時のお説教が減るのであった。

しかし要領の良いウマ娘は何処にでもいるので、マルゼンスキーはスペシャルウィークを連れてさっさと離脱を決めている。

 

「ダシにしちゃってごめんねースぺちゃん」

「いや、それは良いんですけど……私達はお話聞かなくていいのかな」

 

マルゼンスキーはスペシャルウィークの車いすを押しながら、いいのいいのとうそぶいた。

 

「強制参加ってわけじゃないし、お説教の内容も今日のレースなら判りきってるし、あんなこと出来るのシャトルちゃん以外いないからね。良くも悪くも……あ、本当にお手洗い行っておく?」

「いえ、大丈夫です。えっと……シャトル先輩のお説教ってあの逸走ですよね?」

「逸走って言うか……其処に至る判断が甚だ不味かったわ」

 

マルゼンスキーの言葉に身体と首をよじって後ろを向くスペシャルウィーク。

その様子に苦笑したマルゼンスキーは、幼な子をあやす様に前を向かせた。

因みにスペシャルウィークが車いすにいるのは怪我が悪化したからではない。

当人の松葉杖を使うスキルが致命的に下手だったので、長距離の移動に適さなかったのだ。

 

「逸走はアレだけど、シャトルちゃんには明確な目的があったじゃない?」

「あれは……シーキングザパール先輩を外に連れて行ったんですよね」

「それがダメ。しかもダメだって判断材料があったのになんにも考えずにやっちゃったからねー」

「えっと……?」

「先ず開幕にシャトルちゃん肩当ててたじゃない?」

「あ、あれシャトル先輩から行っていたんですか? たまたまっぽく見えたんですけど」

「……やっぱりそう見えるのね」

「その反応って事はあの接触はテクニックなんですね……怖いなー」

「まぁ、ともかくあそこで肩入れたのって加速で負けて抜かれるって判断からだったと思うのよ」

「最後の直線見る限りでは、相手のキレは凄かったですもんね!」

「ほんとほんと」

 

そして今は春レースの終盤戦。

何度も使用されたレース場の芝、特に内側の芝は荒れている。

逸走はともかく外に持ち出して少しでも整った芝で勝負するという判断は有りだと説明するマルゼンスキー。

勿論注釈付きだったが。

 

「相手に加速があってシャトルちゃんにパワーがあるのは直ぐ分かってた事じゃない?」

「はい」

「じゃあ、シャトルちゃんが相手まで外の綺麗な芝に連れて行ってやる意味は無いっていうか、むしろ不利になったじゃないあれ」

「あ、なるほど……」

「シャトルちゃんのパワーなら荒れ放題の芝だって全然関係なく走れていたのにね……うん。やっぱりアホだわあの子」

「ダメですよマルゼンスキー先輩」

「ごめんねスぺちゃん。ただ、どうせお説教しても意味は無いんだろうなーって思うとついねぇ」

「え?」

「だってシャトルちゃん、センスとフィジカルでごり押すレースが一番強いんだもん。お説教聞いて頭良く走ろうとしたら絶対ぎくしゃくするわよ」

「そうなんですか?」

「頭で考えて出来る事じゃないのよねぇ。抜かれる瞬間に割り込んで偶然にしか見えない肩当てとか、並走相手の走路を完全に塞いで曲がらせないとか。スぺちゃんあれ出来そう?」

「もう何回か見せてもらえれば行けそうなんですけど、私だと当たり負けしそうで」

「……出来はするのね」

「其れよりも、シーキングザパール先輩がシャトル先輩を振り切った時の動きが分からなかったんですよね。前につんのめったみたいに走ったと思ったら、すっと伸びて……」

「減速してシャトルちゃんを振り切ってたけど、ブレーキで速度を落としたのとは違ったわねぇ」

「そうなんですよ。減速から方向転換して再加速する流れが凄い綺麗で……鳥肌が立ちました」

「上の方にいるウマ娘ってああいう不思議な事を普通にするのよねぇ。シャトルちゃんの上がり1ハロンも非常識な加速してたし」

「アレもその……訳が分からなかったです」

「むぅ……」

 

車いすを押しながら思わず呻くマルゼンスキー。

 

「しかし納得いかないなぁ」

「何がです?」

「今日のレース。一番人気の赤いのいたじゃない」

「あ、シルキーサリヴァン先輩でしたっけ。あんまりお名前は聞かない方ですけど」

「こっちじゃ碌に走らないのよ……でも本当にズルいわシャトルちゃん。私があいつから白星もぎ取るのにどんだけ苦労したと思ってるわけ? あー……何よあれ、むかつくー」

「コンディションとかありますから……当人もそうですし、レース場もそうですし」

「……はぁ、スぺちゃんは良い子よねぇ」

 

後ろから後輩の頭をわしゃわしゃと撫でるマルゼンスキー。

スペシャルウィークは大人しく撫でられながらふと気づいた疑問を口にした。

 

「あ、そういえば何処に向かっているんですか?」

「いや、何処ってわけでも……ハナちゃんのお説教が終わったころを見計らって戻ろうかなーって」

「……あの、一応私のトイレって名目で出てきているんですけど」

「大丈夫。私が連れ出した時点でどうせ誰も信じてないから」

「先輩……」

「あははー」

 

適当に歩いていたマルゼンスキーはとりあえず壁際に後輩の車いすを止め、ブレーキをかける。

そして隣に立って両手を組み、一つ大きく伸びをした。

 

「んー……」

「マルゼンスキー先輩ってあの赤い人とは何か因縁があるんですか?」

「いや、デビューが一緒の同期なのよ。其処で一回走っただけ」

「そうなんですか……」

「私があまり走れないって言うのもあるんだけどさ……あいつ学園じゃトレーニングばっかりだし、春も秋も毎年アメリカ帰っちゃうんだもん。酷くない? 一応私が勝ってるのにリベンジにも来ないのよあのやろー」

「じゃあ、先輩の勝ちですね!」

「お、やっぱりスぺちゃんもそう思う?」

「はい」

「おーおー。やっぱりそうよね。いやー愛い奴よのう、ちこうよれちこうよれー」

「っちょ、どこ触ってるんですか先輩」

 

しばらく二人でじゃれているとそこそこの時間が過ぎていた。

そろそろ戻ろうと車いすを押し、元来た道を戻る二人。

しかし幾らも戻らぬうちに帰りの通路の先に人影があった。

元々あまり人の来ない区画の廊下であり、人影は一つだけ。

 

「あ、あの人は……」

「シルキー? 電話かしら」

 

それは先程まで安田記念に出走していたシルキーサリヴァンだった。

彼女は最下位だったが、同チームのシーキングザパールは2着でありウイニングライブに参加する。

だから此処に残っていてもおかしくはない。

そのまま通り過ぎればよかったのだが、思わず足を止めてしまったマルゼンスキーは何となくタイミングを逸してしまう。

 

「う、どうしよ」

「なんかちょっと行きにくくなっちゃいましたね……」

 

シルキーサリヴァンはマルゼンスキーらには気づかず、スマホを取り出すと何処かに電話をしている。

聞く気は無かった二人だが、進むも戻るも迷っているうちにシルキーサリヴァンの相手が繋がった。

 

『よぅ、久しぶりだなロスト。元気そうじゃねぇか』

『あ? 今一レース終えたとこなんだよ、声は……まぁ、少しな』

『大丈夫だよ。いや、レースの方は大炎上しちまったんだがな……一番人気を貰っておいて最下位さ。ああ、笑えよ』

『……そうだな。春は俺が帰らなかったもんな……おめぇには苦労掛けちまった。本当にすまねぇ』

 

マルゼンスキーとスペシャルウィークは物音を立てずに横に並び、顔を見合わせる。

どうやらアメリカの知人との会話らしい。

余り綺麗とは言えない英語のやり取りだが、何となく内容は聞き取れた。

 

『ああ。ああ。ああ……それなんだがなロスト……すまねぇ。その……秋も、帰るわけにゃ行かなくなっちまった』

『ああ。そうだ。分かってる。本当にすまねぇ……返す言葉もねぇよ』

『事情ってもな……俺が悪いってだけ、あ? 説明責任だ? ……分かったよ』

『今はマイルにいる後輩なんだが器用な奴でよ、秋には中距離に出ようって決めていたのさ。大目標は来年の凱旋門賞だ。すげぇだろ?』

『ああ。だけどよ……丁度今年、昔マイルで幅を利かせてた奴が帰ってきやがった。そうだよ。今から距離を伸ばしていくんだ。後輩にこれ以上マイルにいる時間はねぇ。だから此処で叩いておきたかったんだが……』

『そうだ。もう間に合わねぇ。後輩の路線変更をそいつから逃げたって言う奴は必ず出る。だからだ。直接戦えねぇ後輩の為にも秋には必ず俺が倒す。そうしねぇとあいつの世界挑戦に、更にでかいケチがついちまう』

『ああ。不幸中の幸いなんだが、そいつは後輩の事は眼中にねぇ。現状俺が標的らしいから、俺が逃げねぇ限り余計な事を言って周囲を煽るような事はないと思う』

『それに、俺個人もそいつにゃ借りがあるんだ。今日のレースで一勝一敗。そうだな、まぁ……ライバルって奴さ』

 

スペシャルウィークは至近距離から放たれる殺意にも似た感情に身震いした。

その出所を恐る恐る見上げれば、一見涼し気な微笑を浮かべたマルゼンスキーの顔がある。

 

「へぇ……そうなんだ。そういうこと言っちゃうんだー」

「ま、マルゼンスキー先輩……」

「私に負けても星を取り返しに来なかった奴が? シャトルちゃんに負けて一勝一敗だって? 私じゃなくてそっちがライバルだって? へぇー」

「先輩っ、声が……ばれちゃいますって」

「ねぇスぺちゃん」

「ひぅ」

「私最近の若い子の事はよくわからないんだけどさ」

「はい?」

「スぺちゃんならこういう時、どうする?」

「えっと……私なら……」

 

スペシャルウィークはマルゼンスキーから聞いた話と、今聞いたシルキーサリヴァンの話を整理する。

デビュー戦で辛勝したマルゼンスキー。

その後再戦する事もなく自己鍛錬と故国アメリカのレースに没頭していたシルキーサリヴァン。

そしてエルコンドルパサーの事情が絡み、タイキシャトルと一戦交えて敗北。

その敗北を雪ぐ為に今まで毎年欠かしていなかった帰郷を見送って秋レースに参加するという。

マルゼンスキーが過去デビュー戦で獲った白星。

タイキシャトルがこの日安田記念で獲った白星。

どんな事情があるにせよ、軽く見られたのはマルゼンスキーの方だった。

スペシャルウィークは正直に言えば上の世代のごたごたよりもエルコンドルパサーの挑戦の軌跡に胸が高鳴っている。

しかし今、マルゼンスキーの訴えに返す言葉は一つしかなかった。

 

「秋レースでぶっちぎっちゃいます」

「あの赤いの、シャトルちゃんしか見てないのよ……」

「じゃあ、一番盛り上がった所で横っ面を突然ぶん殴ってやりましょう」

「良いわね……スぺちゃん最高だわ」

 

孫と悪戯を画策する心地で笑うマルゼンスキー。

シルキーサリヴァンは間近において怪物の標的になった事に気づいていない。

 

『ああ。ああ。本当にすまねぇロスト。ああ、Xmasには必ず戻るさ。来年のペガサスカップもあるからな。ああ。じゃあそん時までお別れだ。ああ。ああ……すまねぇ、いや、ありがとうよ、フォグ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




コメット年長組と魔改造シャトルちゃんの第一ラウンドでした
何となく数えていたら凄い事になっていたシルキー先輩のキャリアは半分近くカリフォルニアのレース場が私設した、賞金のやっすい名前ばかりが立派な特別競走やらなんやらです
要するに地方レース場の財政難を救うための客寄せパンダですが彼は地元大好きなので苦にしてません
その甲斐もありベイメドウズレース場などは生き残っています
この世界線でもカリフォルニアで超人気です
二割くらいが日本の中央と地方のウマ娘が混ざる交流戦で、これはあまり中央側のウマ娘やトレーナーが乗り気でない為シルキー先輩が行ってくれるならラッキーと思われています
こうした経緯でいてくれると便利なシルキー先輩は異例の長期留学が何となく黙認されちゃってます

それにしても何がプロローグ的なお話でしょう何が三話くらいでしょう
本当に春全部書くとか思っていませんでしたあらすじ詐欺ごめんなさい
ただ、今度こそ本当に一部完といった感じでしょうか
しばらく完全に提督業に専念します
皆さまのウマ娘ロスが少しでも癒されますように……
でもきっとイベントが終わって戻ってきたらたくさんのウマ娘SSにあふれているんだ……そしてそれを読み終わるころには、ゲームもきっと始まっているさ……


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9.秋にのぞむ夢

かんわきゅーだい
レースの日程や後年でG1になったレース等は私がやりやすいように都合よく弄らせてもらっています
此処で読者の方々は今一度警告タグと作品あらすじをご確認ください
そして割と何でも許せる方のみこの先にお進みください



日本ウマ娘トレーニングセンター学園。

それは複数の練習用トラックを抱えるウマ娘の大型育成機関である。

しかしいくら大型の施設であっても一つの設備に対して一度につかえる人数には限りがあった。

特にこの国でも人気レースであるターフは練習希望者が多い設備。

そこでトレーナー同士や学園からの調整が入る事により、チーム毎にある程度の合同使用がなされる場合もあった。

春を戦い抜いたウマ娘達にとって、同じ芝のコースを使用して練習する面子は既にある程度の顔見知りである場合が多い。

ところがこの夏の時期、ターフコースの練習場には普段あまり見かけなかったチームがいた。

 

「あ! エルちゃんだ」

 

練習場に入ったスペシャルウィークが見たのは芝を走るエルコンドルパサーとチームコメットのメンバーである。

 

「おや……今日のブッキングはエルのチームとだったんですね」

「そうみたい」

 

スペシャルウィークに続いてコースに姿を現したのは同じチームのグラスワンダー。

この二人は程度は違えどそれぞれに怪我明けであり、今日は軽い調整で走る予定になっていた。

未だ全力で駆け抜ける事はトレーナーから禁止されているものの、走れる事はウマ娘の喜びである。

まして春を全休していたグラスワンダーは、漸く此処に帰って来たと感慨も一入だった。

 

「グラスちゃん、とりあえず柔軟だけしとこっか」

「そうですね。合流するまで走行禁止が厳命されていますし」

「お前たちは好きに走らせたら絶対無茶するって……そんな事無いのにねぇ」

「勿論私もそのつもりですが……私達は自己管理において信頼ゼロですからね」

 

顔を見合わせて息を吐くスペシャルウィークとグラスワンダー。

スペシャルウィークが軽負傷したダービー以降、二人して走れない事へのうっ憤をやけ食いで解消してしまった。

大盛派とお代わり派の違いはあれど、この二人は共通して食事の摂取量が多い。

その結果トレセン学園周辺の食べ放題の店からは尽く出禁を食らう事態にまで発展したため、頭を抱えた東条トレーナーから徹底してカロリーの出入りを管理されているのだ。

 

「グラスちゃんって今までどうやって節制とかしてきたの?」

「私は大体エルと一緒にいましたから、危なくなると止めてくれていたんですよね。あれでレース関係には真面目ですから、多すぎず少なすぎずをよく考えてくれました」

「……それ完全に人任せだよね」

「ですから、今日私がこのような屈辱を味わっている責任は全てエルにあると主張します」

「……ソウダネ」

 

何時もの微笑で語るグラスワンダーからは冗談を言っているようには見えなかった。

スペシャルウィークは背中に冷たい汗を感じつつ片言で同意する。

最早どちらが保護者でどちらが被保護者なのかは疑いようが無い。

 

「少し距離を置くとエルちゃんがグラスちゃんに面倒かけてるようにしか見えないのがなぁ……」

「スぺちゃん、どうしました?」

「ん、お母ちゃんが言ってたんだけどね」

「はい?」

「グラスちゃんみたいなタイプって、ダメ男とくっついたら一緒になってダメになるっぽいよ」

「はぁ!?」

「だから、心配だなって」

 

座り込んで前屈するグラスワンダーの背中をゆっくりと押すスペシャルウィーク。

反論しようと上体を捩ろうとするグラスワンダーだが、気にせず背中を押し込んでいく。

スペシャルウィークは春の終わりにコメットの関係者からエルコンドルパサーの進路を聞いていた。

それ自体は偶然だったが、未だ当人が公表していない海外遠征の計画である。

今の所スペシャルウィークは誰にも話していないが、グラスワンダーは知っているのだろうか。

 

(知っちゃいけない所で知っちゃったんだから私が言っちゃダメだよね……グラスちゃんには話してる気もするんだけど、グラスちゃんだから言ってない気も……うーん)

 

エルコンドルパサーにとってグラスワンダーが特に近しい距離にいるのは間違いない。

しかしグラスワンダー自身が言ったように、レースに関してエルコンドルパサーは妥協しないだろう。

最終的には周りの全てを断ち切っても一人で目標に向かっていくかもしれない。

そんな気がしたからこそ、スペシャルウィークは秋の対決を約束したのだ。

口約束ではあるにしても。

 

「グラスちゃん、エルちゃんが居なくなったら真面な生活出来なくならない?」

「……私がエルに頼っているのは食事の量の目安だけですヨ」

「今声が裏返んなかった?」

「スぺちゃんこそ、普段の節制とかどうしているんですか?」

「私? 私はあまり節制しないで好きなだけ食べてるよ。その後食べた分だけ運動量増やしてキープするんだー」

「……怪我に強いウマ娘はこれだから」

「だから測る時期によっては山あり谷ありなんだけどね? 谷から登って来た所が丁度レースに来るようにトレーナーさんがしてくれるから大丈夫……この間のダービーの後は動けなくて凄い焦ったけどね」

 

実はスペシャルウィークのような管理の仕方は東条ハナの好みではなかった。

極端な体重の増減は身体にかかる負担も大きく、普段からナチュラルウェイトをキープしつつレース前後だけ少しだけ絞りたい。

しかし選手の個性を軽視したが故にサイレンススズカがリギルを離れた件もあり、トレーナーの価値観が多少軟化した時期でもあった。

スペシャルウィークに取っては運の良いタイミングのリギル入りだったろう。

 

「あ、グラスちゃんも推しのライブで命がけで応援すれば簡単に痩せると思うよ? 足の負担も全くないし」

「……それが宝塚の時のスぺちゃんの事を言っているなら、私には無理です。あそこまで自分をさらけ出せません」

「えー……だってスズカさんの初G1勝利を祝うライブだったんだよ? 最前列で緑のサイリウム振らなくちゃ生まれて来た意味が見いだせない」

「重っ!?」

「はぁ……スズカさん綺麗だった……」

「正直、私は少しスぺちゃんのスズカ先輩熱は冷めたのかと思っていたんですよね。レースはエアグルーヴ先輩を応援していましたし」

「そりゃ、私リギルだもん。レースは先輩を応援するよ? ライブではスズカさん以外目に入らないけど」

「欲望に正直すぎませんか?」

「特にエアグルーヴ先輩相手だと、立場が逆なら先輩もそうするって確信が持てるから遠慮は要らないんだよねぇ」

「あ、成程」

 

スペシャルウィークはつい先日行われた宝塚記念の事を思い出す。

最初から最後まで先頭を走り、見事勝ち切った異次元の逃亡者。

憧れたウマ娘。

しかし宝塚記念で勝利したスズカを見た時、スペシャルウィークが感じたモノは憧れだけではなかった。

 

「スズカさん、秋はどんな路線で来るのかな。一緒に走って……ライブ、出たいな」

「スぺちゃんは菊もありますからね……日程が難しい所です」

「そうなんだよねぇ……トレーナーさんと相談しなきゃ」

 

前後を入れ替え、今度はスペシャルウィークの柔軟を手伝うグラスワンダー。

 

「推しの応援はともかく」

「ん?」

「エルと、ライブしてみたいなぁって」

「あ、良いねそれ! 私もエルちゃんやグラスちゃんとライブしたい!」

「ふふ。センター争いが大変そうですね」

「あー……早く秋が始まらないかなぁ」

「そうですねぇ」

 

スペシャルウィークの背を押しつつ、何気なく遠くを走るエルコンドルパサーを見つめたグラスワンダー。

一瞬、その目が合ったような気がした。

 

 

 

§

 

 

 

チームコメットの年長組がターフの上を駆け抜ける。

先頭を走るのはシーキングザパール。

その背をシルキーサリヴァンとエルコンドルパサーが5バ身程遅れて追走していた。

 

「先輩、どんな感じデース?」

「……やっぱ脚に返ってくる感触が硬ぇな」

「ダートと同じようにパワーで掘り返して走ると痛いデース。気持ち浅く蹴って返ってくる衝撃に乗って、加速してくだサイ」

「成程な」

「安田記念の時は重バ場の悪路でしたから、逆に先輩の普段の走り方がはまった感じだと思うんですヨ~」

「ふむ。こっちでデビューした時はターフだったんだがなぁ」

「それは多分……今の先輩程パワーが無かったから下に深く蹴れなくて、それが芝向きの走りになっていたんじゃないかと」

「そういや、俺がこっちでトレーニングに没頭したのってその後の事だったな」

「ダートでターフの時計を出せる今の先輩が本格的に芝に馴染めたら、恐ろしい事になりそうなんですけどネ」

 

後輩からコツを聞きつつ足元に集中するシルキーサリヴァン。

彼女は春のレースにおいて完敗したタイキシャトルへの雪辱の為、帰郷を見送って夏の日本に残っていた。

彼女の、そしてチームコメットの主な練習は中央レースの多くを占める芝対策。

特にシルキーサリヴァンは主戦場がダート路線であり、ターフの経験が浅かった。

 

「全くターフで走ってこなかったわけでもねえんだけどな」

「地方レース場の交流戦では、先輩も幾つかターフで走っていたんデスよネ~」

「おぅ。ただ言っちゃ悪いが……死に物狂いで限界を攻める走り方はしてねぇからな。此処まで足に衝撃が来るとは思っていなかったぜ」

「意識して走る1ハロン2ハロンなら普通に走れちゃうんでしょうネ。ただ意識してる時点で最高速じゃないデスし、実戦で咄嗟に出ちゃうのが身体に染みついた走り方デース」

「……芝の上でその走り方に耐えられる身体作りをしてねぇからな、俺は。畑違いだから仕方ねぇ所なんだが」

 

一つ息を吐いたシルキーサリヴァンが意識して速度を上げていく。

得意の急加速ではない。

ゆっくりとアクセルをふかすように足回りを確認し、速度と衝撃を体感する。

それにエルコンドルパサーもついていき、前を走る先輩達の後ろに入った。

 

「やっぱりあんたにターフは無理じゃない?」

「ぬかせパール。どんくせぇてめぇに出来て俺様に出来ねぇわけがねぇ」

「私がどんくさいならあんたは大雑把なのよ。スピード&パワーも行き過ぎると制御が難しいっていう良い例だわ」

「……っけ。シャトルみてぇな頑丈さがありゃあ、こんな面倒な走り方よぅ……」

「無いものねだりしたって仕方ないでしょ? っていうか、あんたが他人の長所を羨むのやめなさい。刺されるわよ」

「あぁん?」

「奪い取れるなら先輩の脚が欲しいってウマ娘は、きっといっぱいいますヨ」

「……気ぃ付けるわ」

 

走りながらシルキーサリヴァンの後方、半バ身程の位置につくエルコンドルパサー。

此処から見ると本来の走りから遠い事がよくわかる。

脚の回転が速いのに着地の瞬間だけ減速して衝撃を逃がす。

その為走行のリズムが安定せず、疲れる割に速度が出ない。

歯がゆいだろうと思う。

エルコンドルパサーが知る限り、シルキーサリヴァンはダートにおいて最も速いウマ娘である。

そんな先達がどうして慣れない芝の上でもがいているのか。

どうしてアメリカへの帰郷を見送ったのか。

当人が言うようにタイキシャトルへのリベンジもあるだろう。

しかしその一方で、これから中距離に出ていく自分の為に残ってくれた事にも気づいている。

エルコンドルパサーは前を走る赤い背中を見ながら、このチームに巡り合えた幸運に感謝した。

 

(今年が上手く行ったとして来年の凱旋門賞……そしてその先もドバイにアメリカ……ワタシがコメットに恩返し出来るのって相当先になっちゃいマスネ……)

 

エルコンドルパサーが小さく息を吐いた時、内埒の中で柔軟を始めたウマ娘の姿があった。

グラスワンダーとスペシャルウィーク。

チームリギルの次世代のエース達であり、秋には倒さなけらばならない相手でもある。

 

「そういやよぅエルコン」

「あ、はい?」

「おめぇはそろそろ秋の路線公表しとけや」

「……別に聞かれるまでは良くないですかネ~」

「殆どの奴は勝手にマイルだと思っているんだろうけどよ……ハードバージが気を揉んでいやがるからな。そろそろ腹くくってやれ」

「……ですね」

「とりあえずトレーナーと出走レースを決めて、具体的な話が定まってからこのレースに出るって発表した方が良いわ」

「そうさな」

「出来ればその先の海外遠征まで発表して、どうしてマイルから去るのかって所まで言っちゃった方が周りは大人しくなるんだけど……」

「すいません、其処まではちょっと……せめて中距離のG1一つ取るまでは……」

「変な所でチキンだよなてめぇ」

「……まだグラスに、居なくなるって話せてなくて……」

「あぁ、そっちが気になっているのね」

 

シーキングザパールは意外なところで繊細なこの後輩の心情に納得する。

確かに国内の中距離に出る事と海外に出る事は周囲に与える影響が違う。

エルコンドルパサーは本気で凱旋門を獲りに行くつもりであり、その計画は決戦の半年以上前から現地入りして調整する本格的なものである。

そしてそれは、シニアクラス一年目という大事な時期に国内のライバル達から背を向ける事でもあった。

最もエルコンドルパサーが言いよどんでいる事に関しては別の理由がある。

 

「良いライバルがたくさんいるものね、エルちゃん」

「ライバル……っていうカ~、ワタシが居なくなるとグラスが真面な生活していけるのか不安で」

「え、そっち?」

「学園内だと普通なんですケド、寮だとおはようのコールからおやすみ前の髪のセットまでワタシがしてますからネ~」

「ダメ女製造機かよ」

「あまり甲斐甲斐しいのも……当人の為にならないわよ?」

「いやっ、ダメにしてるわけじゃなくてデスね……なんというか、ギブアンドテイク?」

 

エルコンドルパサーは寮の室内で禁止されているペットのコンドルを密かに飼っている。

これには当然ながら同室者であるグラスワンダーの黙認があり、その機嫌を取る事も必要経費であった。

まして事を公に出来ない以上、自分の遠征中の世話はグラスワンダーに頼むしかないのである。

そう考えれば打算も有り、甲斐甲斐しさも増そうというものだった。

 

「グラスって神経質に拘りが強い部分と鷹揚な性格が合わさって、自分で出来るけど凄い時間がかかる所あるんですヨ……だから勿体ないなって思ってるうちに、いろいろネ?」

「神経質で拘りが強い子が、よく人の手を借りているわね」

「……そういえばそうデスね。なんでグラス、嫌がらなかったんだろ」

「もしかしたら大きい家の子なのかもね。人に世話をされ慣れているような」

「あー、そうかも。そういえばグラスの実家ってよく知らないデスね」

 

今度聞いてみようかと思ったエルコンドルパサーだが、すぐにどうでも良くなった。

自分とグラスワンダーは親友であり、生まれは関係ない。

此処に来る前にはUAEの大チームから勧誘を受けたらしいが、今ここにいる彼女が全てである。

遠く直線の先にいるグラスワンダーに目をやれば、一瞬視線が絡んだ気がした。

 

「さ、そろそろシルキーの脚合わせも良いでしょう。走りましょ」

「おぅ」

「イエース!」

 

エルコンドルパサーは前を走る二人に並び、早めのペースを刻みだした。

 

 

 

§

 

 

 

同日、別所にあるトレセン学園のターフコース。

サイレンススズカは芝の上で仰向けになって荒い息を整えていた。

横を向けば緑の芝。

上を向けば空の青。

そして少し視線を巡らせれば、空と同じ色の髪をした後輩の勝ち誇った顔が見える。

 

「見たか」

「ええ、完敗だわ」

 

その日、チームスピカは菊花賞に出場するセイウンスカイのトレーニングを行っていた。

国内では減少している長距離レース。

ある意味で貴重なG1となっている、クラシック最終戦。

チーム全体で支援するにしても、メンバーの中にはこの距離に対する適正の問題もある。

ましてセイウンスカイ自身は距離が伸びれば伸びるほど乱ペースを作りやすい事も有り、得意としている分野であった。

トレーナーとしては一応全員で3000㍍を走らせてみたのだが、予想通りセイウンスカイ自身が先頭でゴール前を通過したのだ。

 

「んで、二着にマックイーンとテイオーがほぼ同時……ウンスからは三バ身って所か。こりゃ来年も楽しみだなぁ」

「なーんでお前が走ってないんだよゴルシ……お前が一番長距離得意じゃねーか」

「だからこそ、ウンスのトレーニングに付き合うのは当たり前だろ? ならパートナー選びの今走る意味はねーじゃん」

「ああ、なるほどな」

 

ゴールドシップは全力で15ハロンを駆け抜けたメンバー達を一人一人目で追った。

大よそいつも通りの光景だが、普段サイレンススズカにやられっぱなしのセイウンスカイがついにやり返したのは特記事項かもしれない。

 

「……やっぱりスズカのベストディスタンスは2000までか。勝ったとはいえ宝塚のラストはへばってたから予想はしていたけどよー」

「今は、2000までさ。スズカの身体はまだ出来きっていないと俺は見てる。この秋に少しずつ伸ばしていけば、今年中には2400もいけると思っているぜ」

「ふむ」

 

二人の視線の先では心底嬉しそうにスズカを煽るセイウンスカイの姿がある。

余程うっ憤がたまっていたのだろう。

しかしサイレンススズカはむしろ喜んでいる風であり、セイウンスカイとしては暖簾に腕押しと気づく他なかった。

 

「やっぱりソラちゃんは強いわね。秋がとっても楽しみだわ」

「……わたし菊があるんですよ来年にしましょうよ春天なら勝負してあげますよ」

「其処まで待てないわ。秋天にしましょう?」

「だから菊花賞あるんですって!」

「毎日王冠でもいいのだけれど……」

「それはもう、公開処刑じゃないですかね」

 

立場の弱さか苦手意識か。

徐々に語勢が弱くなっていくセイウンスカイ。

助けを求めるように周囲を見るが、仲間達はそれぞれに年の近いライバル達と張り合っていた。

何処も似たようなものである。

諦めたように息を吐くセイウンスカイが手を伸ばす。

サイレンススズカはその手に掴まって上体を起こした。

其処にトレーナーとゴールドシップが寄ってくる。

 

「よ、お疲れお二人さん」

「君も走りなよ体力バカ」

「あたしまで疲れちまったら、この後すぐにウンスのトレーニングに付き合えないじゃん」

「……は? 私今走り切ったばっかり……」

「ダービーの時はとうとうゲロ吐くまでは追い詰められなかったし、今回はガンガン詰め込むぞー」

「待ってよバカ。なんでそんなに吐かそうと拘るのおいちょっとまっ、離せっ」

 

ゴールドシップに肩を抱かれて引きずられていくセイウンスカイ。

身長と体格がまるで違う上、セイウンスカイは3000㍍の疲労がある。

サイレンススズカとそのトレーナーは抵抗虚しく連行される背中を見送るより他なかった。

 

「良いんですか?」

「良い。やっぱり自由に走らせると手を抜くんだよなあいつ……」

「え?」

「力半分でお前らに勝ったって訳じゃないんだが……走りながら後ろのペースを繰って自分も休み休み走っているんだよ。スズカが先に行ってもこの距離なら潰れるって分かってたから放置して……最後にヨーイドンだ」

「成程……」

「実戦だと凄い武器なんだけどな。練習でこれをやられると地力の上積みが出来ない。ゴルシもその辺が分かってるからウンスを絞りに行ったんだろ」

 

トレーナーは苦笑いしつつ息を吐く。

その視線の先でセイウンスカイとゴールドシップがスタートの態勢を取りつつあった。

其処にメジロマックイーンが食いつき、トウカイテイオーも二週目に付き合おうとしている。

ダイワスカーレットとウオッカは息を戻す間も惜しんで口論している為、二週目は走れそうもなかった。

 

「だけど、路線は大体固まったなぁ」

「え?」

「スズカはこの秋に適正距離を伸ばしていこう。具体的には毎日王冠の1800から入って秋天の2000、その先のジャパンカップで2400を逃げ切れるスタミナを作っていく。お前の希望してるアメリカ遠征を公表する時の為にも、国際競争には勝っておきたいしな」

「はい。それで、ソラちゃんは?」

「ウンスは……もう菊に直行させた方が良いのかもな」

「え? 前哨戦は使わないんですか」

 

サイレンススズカの視線の先ではスピカの仲間達が二度目の3000㍍を走っている。

先頭はセイウンスカイ。

しかし普段は後方からレースを進めるゴールドシップが、ここぞとばかりに競りかかる。

鬱陶しそうに肩をあてに行くセイウンスカイだが、涼しい顔で跳ね返されていた。

 

「あいつはもう菊花賞の出走条件は満たしてる。なら、前哨戦はあいつが自分自身を高めるか、研ぎ澄ます糧に出来なきゃ意味が無い」

「ええ」

「だけどあいつは本気で追い込まれるまでもがかない。セントライト記念にしろ京都新聞杯にしろ、菊が決まってるウンスが死に物狂いで走るかって考えるとな……距離も本番の練習にゃちと短い。それならいっそ、疲労させないほうが――」

「京都大賞典」

「……は?」

「シニアクラスとの混合戦なら、ソラちゃんも本気になりますよ」

「そうかな?」

「ええ。あの子と走ると上の世代には絶対負けないって……凄い視線を背中に感じるから」

 

サイレンススズカは走るセイウンスカイから目を離さずにそう言った。

トレーナーは薄っすらと笑むスズカの横顔を見ながら、その提案を吟味する。

 

「もうシニアとぶつけるのか……スズカもなかなか厳しいなぁ」

「厳しいですか?」

「いや、流石に……」

「ダービーの時の彼女なら十分勝ち負けになる……私はそう思います」

 

京都大賞典は2400㍍で行われる世代混合戦。

トレーナーは同距離で行われたセイウンスカイの前走、日本ダービーを思い出す。

あの一戦こそセイウンスカイが技巧の果てに死力を振り絞ったレースだった。

最終的にはスペシャルウィークの豪脚によって力尽くでねじ伏せられたが、彼自身も含め観た者を熱く揺さぶるレース。

トレーナーはセイウンスカイがそんなレースを戦う所が、また見たかった。

 

「なぁスズカ」

「はい?」

「今年の毎日王冠と京都大賞典は同日開催だが……」

「トレーナーはソラちゃんについてくださいね。私の方が近場のレースですし」

「分かった。そうしよう」

 

二人が見つめる先で、仲間達が最後の直線を駆け抜けていった。

 

 

 

§

 

 

 

トレセン学園にはウマ娘達が生活する寮の他、トレーナーとして登録しているものに与えられる一室がある。

主に研究室と呼ばれるその部屋は大して広くはないものの、レースに関する各種資料や映像設備は揃っていた。

その日の夕刻、エルコンドルパサーはシルキーサリヴァンと共にハードバージの研究室に呼び出されていた。

 

「悪いねぇ呼びつけちゃって」

「大丈夫デース」

「おぅ。所で集まるのは俺らだけか?」

「うん。皆で集まるには手狭だし……エルちゃんとシルキーの路線をどうするかって話だし」

 

ハードバージは疲れ切った顔を笑みの形に動かすと、チームメイトに入室と着座を促した。

といっても、来客用の設備など入れる余地もない研究室。

シルキーサリヴァンは備え付けの簡易ベッドを椅子代わりにし、エルコンドルパサーも隣に座る。

 

「んー……それじゃ確認しておくよ? エルちゃんの目標は国際競争のジャパンカップ、シルキーの目標は……タイキシャトル次第だね」

「イエス!」

「まぁ、そうなんだが……マイルCSじゃねぇのか?」

「ほぼ間違いなくそうだと思うんだけど……向こうさんがスプリンターズSに来る可能性って無い?」

 

この年のマイルCSが11月であり、スプリンターズSが10月。

タイキシャトルの得意距離は短距離からマイルまでと一般には言われており、どちらに来ることも考えられる。

 

「タイキシャトルはかつてどっちも獲った事があるから、その辺がちょっと絞れなくて……」

「ふむ」

「はっきり言って、スプリンターズSに来るなら今度こそシルキーが勝つと思うんだけど」

「まぁ、そっちに来てくれりゃ俺としてはありがてぇな」

「どうする? 両にらみで待ち構えるのも有りだと思うんだけど」

「……いや、あいつが出るならマイルCSだけか、スプリンターズS込みで両方だ。スプリンターズSだけ出てマイルCSをスルーする目は多分ねぇ」

「……」

「それに、これは『マイル』で勝たねぇと意味が無ねぇ。大目標はマイルCS一本だ。その心算で日程組んでくれや」

「ん、わかったー」

 

ハードバージは選手の意向をメモ書きに残す。

そして今度はエルコンドルパサーに向き合った。

 

「エルちゃんは世代限定戦とかしてる暇はないよー。ジャパンカップを目標に、前哨戦はシニア混合の毎日王冠か京都大賞典に出てもらいたいんだけど……」

「おっけーデース」

「じゃ、希望ってある?」

「ん……別にどっちでも」

「一応どっちにもメリットはあるんだよ」

 

ハードバージは眠そうな顔を巡らしてライティングデスクに散乱するメモの1枚を手に取った。

 

「毎日王冠なら1800㍍で春にマイルにいたエルちゃんと距離も近い……ジャパンカップと同じ東京レース場っていうのも見逃せないね」

「んー……京都大賞典だと本番と同じ距離なんデースよネ~」

「そだね。どっちにする?」

「むむむぅ……」

「因みに、私の予想でエルちゃんの強敵になりそうなのは……京都大賞典だとメジロブライト、毎日王冠だとサイレンススズカが出てくるかなって思ってるー」

 

いまいち反応が鈍いエルコンドルパサー。

それはやる気が無いのではなく、本当にどちらの路線でも勝つ心算だからである。

本番と同じ距離か。

本番と同じ会場か。

両天秤にかけた時、比重がどちらにも傾かない。

 

「他に何か、判断材料ってありません?」

「んっと……先ず菊花賞があるからジュニアCクラスのクラシック戦線組は、この際考えなくていいと思うの。今年のジャパンカップは中一週だし、よっぽど強行ローテじゃないとこの二つに出ようって子は少ないと思う」

「ですネ~」

「ただ、私が気になってるのはリギルのグラスワンダーなんだよね」

「グラスが?」

「うん……春にダービーを獲ったスペシャルウィークがクラシック戦線から外れる事は考えにくいんだけど、トレーナーとしては其処でグラスワンダーと星の食い合いをして欲しくないって考えもあると思うの。勿論当人の希望が第一だと思うんだけど、私はグラスワンダーは菊に行かない可能性もあると思う」

「菊花賞に行かないとすると、グラスはシニアの秋王道路線デース?」

「私が思ってるだけだけどね。毎日王冠をステップにして秋天……そこから体調次第でジャパンカップか有馬記念って――」

「毎日王冠に出ます」

 

マスク越しにも分かる喜色満面でトレーナーに即答する怪鳥。

ハードバージはライバルが増える可能性がある毎日王冠は、むしろマイナス要素の心算で話していた。

しかしエルコンドルパサーとしては釣り合っていた天秤の片方にグラスワンダーが乗った以上、そちらに傾くのは当然である。

反対の天秤にセイウンスカイが乗っている事を知っていれば、違う選択もあったかもしれないが。

 

「毎日王冠か……この条件で当たるとメジロブライトよりサイレンススズカの方が厄介なんだけど、本当に良い?」

「イエス。此処で避けた所でジャパンカップに来られたら同じデース」

「そっか……そう言う見方もあるよね」

 

ハードバージはエルコンドルパサーの意向をメモ書きしてデスクに置いた。

そして代わりに別のメモを取ってエルコンドルパサーに手渡す。

それはサイレンススズカの戦歴。

出走レースとその順位。

そして勝ちタイムである。

 

「見ての通り、サイレンススズカは宝塚記念を含めた5連勝中。特に小倉大賞典は毎日王冠と同じ1800でレコード勝ちだし、次走金鯱賞の2000もレコードで勝利してるんだよ……宝塚ではやっと距離の壁が見えて来たかな……って感じたけれど。一戦毎に強くなってるのは間違いない所だと思う」

 

そこで言葉を切ったトレーナーはデスクの引き出しから1枚のDVDをプレイヤーに挿す。

映像の中身はサイレンススズカの春レース。

その全てにおいて一度も先頭を譲ることなく逃げ切る姿にエルコンドルパサーも息を呑む。

特に金鯱賞は出走ウマ娘全員が何も出来ずに完敗している印象である。

 

「まぁ、底知れないウマ娘だよね」

「デスね……」

「でもせっかくの機会だから、本番前に一回底を測っておこうか」

「……測る?」

「うん。シルキーはマイルCS一本狙い、スプリンターズSは考えなくていいんだよね」

「おぅ」

「じゃあ調整はエルちゃんと同じ、毎日王冠を使ってくれる?」

「マイル路線じゃねぇのかよ」

「少し長くなっちゃってシルキーには悪いんだけどね……」

 

ハードバージは陰気な笑みを浮かべていた。

それはエルコンドルパサーも見慣れた、いつものトレーナーの顔である。

どこか相手に不吉な印象を与えるこのウマ娘は、何でもない事のように同期に告げた。

 

「一つお仕事を頼みたいの。サイレンススズカを競り潰して」

「……ほぅ」

「彼女はジュニアC時代は割と凡走しているの。体重の増減を見ると身体が出来るのが遅かったのもあるみたいだけど……サイレンススズカの躍進はチームを移籍した今年の春から、大逃げのスタイルと共にある」

「デスネ―」

「だからこそ、サイレンススズカは此処五戦全部で最初から最後まで先頭で逃げ切る以外の勝ち方をしていない。そういうウマ娘には鈴をつけるのって定石だよね」

「そういやそうだよなぁ」

「彼女はテンが早すぎる。スプリンターみたいな速度で飛ばしていくから誰も鈴を付けられない。だけどあくまでスプリンター並であって本物のスプリンターじゃないから。中距離にしてはいくら早かろうと、シルキーの方が脚は速い」

「……」

「レース序盤の何処か……2ハロンで良いわ。それで先方の反応を観る。その結果でジャパンカップのレースプランを考えよ」

「了解」

「私からはそれだけ。後はシルキーの好きに走って良いから。エルちゃんにも遠慮しないでね」

「ハードバージのくせに……なんか敏腕トレーナーみてぇな事言うようになったじゃねえか」

「君らがインタビューとかでどんどんハードル上げていくんじゃない。あのヨイショって態とやってるんだよね……最近やっと気づいたよ……」

 

ハードバージは一つ息を吐くと額を抑えて頭痛に耐える。

彼女が寝不足である事はデスクに散逸する資料とメモが雄弁に物語っていた。

 

「エルちゃん」

「ハイ」

「グラスワンダーには小細工無しだよ。真っ向勝負でねじ伏せて」

「イエスッ」

 

我が意を得たりと熱い声を返すエルコンドルパサー。

まだ直接対決があると決まってはいない。

しかし毎日王冠のレースプランはトレーナー公認のフリーハンドをもらった。

怪鳥は脳裏に浮かんだリギルのトレーナーの顔に、グラスワンダーをこちらに出すよう切に祈った。

 

「じゃ、エルちゃんは明日私と一緒に、毎日王冠出走って公式発表しちゃおうか」

「ハーイ」

「少し周りが騒がしくなると思う……エルちゃんがどれだけ大切なものを諦めてこの道を選んだか、殆どの人は知らないからね」

「……丸っきり気にしまセーン! って訳にはいかないと思いますケドー……」

 

エルコンドルパサーは隣に腰かけているシルキーサリヴァンと、正面で不安そうにしているハードバージの顔を交互に見やる。

 

「同期の仲間集めは失敗しちゃいましたケド、同じくらい好きなチームがありますカラ! ワタシは、世界一のウマ娘になるんデース」

 

初めてそう宣言した春と違い、力強く言い切ったエルコンドルパサー

偽りのない笑顔で語った夢はついに代替を超え、彼女自身の本物の夢になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




春に書いたレース一覧
1・シルキーとエルコンの草レース
2・タイキシャトル復帰戦
3・98っぽい日本ダービー
4・安田記念

作者のストマック=瀕死

秋に手抜けないであろう作中主要レース一覧
1・毎日王冠
2・菊花賞
3・マイルCS
4・秋天
5・JC
6・98っぽい有馬

予想される作者のストマックダメージ=計測不能

(´;ω;`)ウッ…


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10.下剋上者達の夢

Q.サイレンススズカの全盛期って何時ですか?


その日、エルコンドルパサーは自室のデスクでスマホのTVを閲覧していた。

隣ではルームメイトのグラスワンダーが椅子を寄せて同じ画面を覗いている。

番組は注目度の高いウマ娘達の特集。

時期的に取材陣の話題は秋レースに関するものが多い。

そこでどの程度の情報が開示されるかはまちまちだが、大まかな路線とライバルの確認は取れる。

 

「それでは、エルは菊花賞に向かわないんですね」

「イエス! やっぱり早くシニアの皆さんとやってみたいし……マイルから少し足を延ばして毎日王冠に行っちゃいマース」

「そっか……そっかぁ」

 

グラスワンダーは花が綻ぶような微笑と共に繰り返す。

エルコンドルパサーはスマホから目を離さない為にその顔は見ていない。

しかし声の様子から大当たりを引いたことを予感する。

すなわち、被った。

他人が聞けば意外に思われる事が多いが、この二人の間に自分が走るレース情報のやり取りは殆ど無い。

多くの場合お互いに決まってから結果だけを伝えていた。

別チームで同室だと自チームの情報管理には気を使うモノなのだ。

 

「アッははぁ……その様子だとグラスもこっちなんですネ~」

「はい。うふふ、スぺちゃんには悪いけれど……秋は一緒にという約束、私の方が先ですね」

「嬉しいナ~。私も、グラスこっちに来ないかなーって思って毎日王冠選んだんデスよ」

「私は一縷の期待……ですかね。春に中距離に来なかったエルなら今更菊には行かないんじゃないか……それなら、もしかしたらって」

「大正解。さっすが親友、分かってマース」

 

スマホの中で番組は進み、シニアクラスの有力者達が各々の路線や目標を公開していく。

番組構成上メインとなるのはクラシック三冠の為、ジュニアCクラスの特集が最後になる。

特に今年のダービーウマ娘のスペシャルウィークや、同レース二着にして皐月賞ウマ娘のセイウンスカイは生放送されるらしい。

 

「全く……ワタシを事前収録してスぺちゃん達は生出演とか見る目ありまセーン」

「ん……本当にそうですね」

 

グラスワンダーはエルコンドルパサーの横顔を見ながら少し沈んが声で答えた。

コメットの関係者が予想していた事ではあるが、エルコンドルパサーの中距離転向はレース関係者やファンの間で物議になった。

特にファンの多くはこの春に復権したマイルの女王と、若き無敗の挑戦者の戦いを期待していた。

それを見ることが叶わないと知った時、無念さは路線を変えた怪鳥に形を変えて向けられた。

曰く、エルコンドルパサーはタイキシャトルに勝ち目無しと判断し、逃げた。

 

(エルが知らない筈はないけど、いつものエルと変わらなく見える……こういうの割と気にする子だと思っていたんですけど、大丈夫かな)

 

グラスワンダーの心配をよそに平常運転のエルコンドルパサー。

余程周囲のフォローが厚いのだろうと納得する。

その視線の先で怪鳥の横顔が鋭さを増した。

スマホにはチームスピカのサイレンススズカが登場している。

そして彼女は毎日王冠から秋天、ジャパンカップまでの行程を明らかにした。

 

「……来たか」

「ええ」

 

グラスワンダーのリギルとエルコンドルパサーのコメット。

それぞれのトレーナーから、この路線でぶつかった時最も手強いウマ娘としてサイレンススズカの名があげられていた。

宝塚記念を含めた春の五連勝という結果もさることながら、誰一人として戦術やレース展開に巻き込む事すら出来ない内容。

その最強のワンパターンをどのように攻略するか。

同レースに出走するウマ娘達にとっては頭の痛い問題だろう。

 

「グラス、脚はどう?」

「治っています」

「……本当?」

「治っています。けれど……朝日杯の時から思い描く私には成れていないかもしれません」

「そっか」

「エル?」

「ん、いやね? 金鯱賞の時のサイレンススズカ先輩の映像見た時さ、この人すげぇ! って思ったんだけど同時に、あの時のグラスなら……とも思ったから、どうかなって」

 

エルコンドルパサーは初めて顔を上げ、首を傾げるようにグラスワンダーに向ける。

至近距離で向き合ったため思わず仰け反りかけたが、なぜか負けたような気がしたグラスワンダーはその場で耐えた。

 

「私は大丈夫です。エルこそ、私の心配をしている場合ですか?」

「うん? 勿論。ワタシは世界一になるウマ娘デースカラ~、こんな所で躓いている暇は無いのデース」

「スぺちゃんが日本一ならエルは世界一ですか……」

「あ、ワタシのはスぺちゃんのリスペクトだからネ」

 

悪戯っぽく笑う怪鳥に自然と頬が緩むグラスワンダー。

不意にその背中に大型の猛禽が被さってくる。

 

「……この子ナーンデ飼い主じゃなくてグラスに懐いてるんですかねぇ」

「懐いてるんですかねコレ。私にはエルを盗るなって言ってるように感じるんですけど」

 

グラスワンダーの背中をよじ登って肩に留まり、其処からエルコンドルパサーの方に飛び移って来たペット。

苦笑したエルコンドルパサーは本物のコンドルを机の方に誘導し、その首や胴を撫でてやった。

片手でペットを構いつつ、その足をスマホから遠ざけるエルコンドルパサー。

猛禽から死守した画面の中ではいよいよ二人のクラスメイトが登場した。

 

「お、ウンス出ましたネ~」

「スぺちゃん……少し緊張しているんですかね?」

「ちょっと堅そう? ウンスと一緒で良かったかもネ」

 

再び二人でスマホを覗き込む。

司会者による勿体ぶったような引き伸ばしの後、先ずは記者からセイウンスカイの予定に関して質問が入った。

セイウンスカイは何時ものように飄々と、しかし聞くモノの意表を突く解答をぶちまける。

 

『京都大賞典でシニアの皆さん薙ぎ倒してから、菊花賞に行こうかなーって』

 

肩を竦めてそう言ったセイウンスカイ。

菊花賞の前哨戦に世代混成を使う強気の路線。

司会者は一瞬どもりながらセイウンスカイに確認を取っている。

グラスワンダーが画面越しにチームメイトの驚いた顔を観ていると、不意に硬い音が響く。

エルコンドルパサーは握った拳で軽く机を叩いていた。

 

「エル?」

「ウンスぅ~……それならそうと先に言ってクダサイヨ……」

 

グラスワンダーは親友の発言を聞き流そうかつつこうか一瞬迷ったが、苛立ちを覚えたために突くと決めた。

 

「セイウンスカイちゃんの路線、知らなかったんですか?」

「知らなかったヨ……はやまったかな……そっちにウンスが待っていたカ」

「つまり知っていたらそっちに行ったと」

「そりゃ……あっ」

「そうですか」

 

グラスワンダーの笑みに黒いものを感じた怪鳥。

今年の毎日王冠と京都大賞典は同日開催。

セイウンスカイの京都大賞典を取るという事は、毎日王冠のグラスワンダーを捨てるという事である。

 

「いや、だって……だってね? 怪我明けのグラスと春好調だったウンスだったらウンスの方が面白そうだなーッテ」

「其処まで言っちゃいます? エル……私、貴女に負けた事無いんですけど」

「草レースしかしたこと無いじゃないですカ~。それだってグラスの骨折前だから結構前の事デース」

「はぁ? それなら今だったら私に勝てるって、エルはそう言うんですか」

「そりゃ、その心算が無かったらもう少しピリピリしてますヨ」

 

顔を突き合わせてにらみ合う二人のウマ娘。

本気でいがみ合っているわけではないが、半眼になって自分が勝つとはばからない。

やや真剣なにらめっこがしばらく続き、唐突に終わりを告げた。

切っ掛けはスペシャルウィークに移ったインタビュー。

マイル路線から中距離に移ったエルコンドルパサーについてコメントを求められていた。

 

「っ!?」

「グラス?」

 

先に相手から視線を切ったのはグラスワンダー。

記者としては注目株のスペシャルウィークから過激な発言を取って記事に書きたかったのだろう。

その質問はエルコンドルパサーに対して強い挑発を含んだ表現が使われていた。

スマホを睨みつけるグラスワンダーの横顔は怒りによって朱に染まる。

エルコンドルパサーは親友を宥めながら再びスマホに顔を戻す。

グラスワンダーは当人によって抑えられた。

両者が傍に居たから、それは可能だった。

しかしもう一人、記者の無神経な質問に激怒した者が居た。

画面の向こうにいるクラスメートは怪鳥の手も、声も届かない。

 

『エルコンドルパサー選手は春の内から秋の路線を私達に話してくれていました。その頃はまだタイキシャトル先輩の地位も不透明でしたから、それを意識しての路線変更ではありません』

 

その発言に画面の向こうで記者たちがざわめいている。

しかし一番混乱したのはエルコンドルパサー自身だろう。

彼女はスペシャルウィークに進路など話したことは無い。

親友の視線を感じた怪鳥は一度顔を合わせると、首を振って否定する。

恐らくダービー前に話した勝負の約束を絡め、状況を後付けて説得力を持たそうとしている。

グラスワンダーとエルコンドルパサーはそう思った。

スペシャルウィークの傍に居るセイウンスカイもそう思っていただろう。

しかし頭に血が上った今期のダービーウマ娘は其処まで口が回らない。

彼女は自分の知っている事実をもって記者たちの邪推を否定した。

 

『彼女の目標は来年のフランス、凱旋門賞です。この秋に中距離に出る事は既定の路線です』

「ちょっと待ってぇええええええええ!?」

 

エルコンドルパサーはスマホを掴み上げて画面の向こうのクラスメイトに呼び掛ける。

勿論そんな声は通じない。

グラスワンダーは親友の反応に、その発言が事実であることを悟った。

悟ってしまった。

 

「エル?」

「ち、違うのグラスっ、ほんとに! ウンスの奴まだ内緒って――」

「セイウンスカイちゃんにもお話していたんですか」

(やべぇ……)

 

グラスワンダーは能面のような無表情でエルコンドルパサーを睥睨している。

そしてエルコンドルパサーもまるで冷静ではない自分を自覚した。

今口を開いたらどんな言い訳を始めるか分かったものではない。

先程のように墓穴を掘る事は目に見えていた。

最早猶予がないと見た怪鳥は椅子を降り、膝を折って床に座る。

そしてトレードマークのマスクを外し、上体を地につけるように投げ出した。

土下座である。

 

「エル。顔を上げてください」

「……」

「エル。そんな姿勢では話も出来ないので、顔を上げてください」

「……」

「エル。聞こえませんか?」

 

素顔のまま、怪鳥は恐る恐る顔を上げる。

グラスワンダーは椅子に座ったまま、身長に比して長い脚を優雅に組んでいた。

更にいつの間に移動したのか、肩の高さで水平に畳まれた右腕に留まったペットのコンドルが悠然と飼い主を見下ろしている。

 

「……」

 

エルコンドルパサーは無意識にスマホのカメラで親友の姿を現実から切り取った。

写真にテーマを付けるなら、魔王だろうか。

 

「気は済みました?」

「……ハイ」

「それでは、少しお話を聞かせてくださいね」

 

親友は魔王に化け、ペットにも裏切られたエルコンドルパサーに拒否権は無かった。

 

 

 

§

 

 

 

グラスワンダーの質問は淡々と続けられ、エルコンドルパサーはその全てを正直に話す。

世界一のウマ娘になる事。

その為に来年はフランス遠征を計画している事。

そして春、セイウンスカイにだけはそのことを話していた事。

スペシャルウィークの情報源も、恐らく其処であろう事。

……その先の計画については話していない。

隠したのではなく聞かれなかったのだと自分に言い聞かせる怪鳥。

 

「どうして……彼女にだけ?」

「いや、それは……」

「私じゃ、駄目でしたか?」

「うぐ……いやね? ウンスにも話す心算って無かったんデスけどー……」

「けど?」

「なんていうか、覇気に当てられたというか……」

「覇気?」

「ほら、相手が格好いい事言った時ってこっちも格好つけたくなる事って……グラスにも無い?」

 

グラスワンダーは正座を続けるエルコンドルパサーの解答に肩を竦めようとして、右腕に居座るデカブツに配慮して諦めた。

そろそろ腕が痺れて来たのだが退いてくれない。

右腕を軽く動かして離れるように促すが、器用にバランスを取ったコンドルはこゆるぎもしなかった。

 

「私にはそういうの、よく分からないんですけど……」

「うぐっ、そうかなぁ」

「そういう事もあるのかなって」

「で、でしょ!?」

「ですが、本当にセイウンスカイちゃんにしか話していないんですか?」

「チームの外では他に話したこと無いデスよ」

「……本当に?」

「本当だけど……」

「だって……セイウンスカイちゃんしか知らないとして、彼女がスぺちゃんにだけ話すなんてありますか? 口止めはしていたんでしょう」

「うん」

「彼女、そういうことをうっかり話すようなまねをしない気がするんです。エルじゃないんですから」

「むぐぅ」

 

エルコンドルパサーは控えめに恨めし気な親友の態度から、その本音を聞いた気がした。

グラスワンダーは自分に話さなかったから機嫌が悪いのではない。

自分以外には話していたと思ったから納得いかなかったのだ。

そうと分かったからには、エルコンドルパサーはグラスワンダーの誤解を解かなければならない。

どのように話そうか……

そう思案する怪鳥のスマホから流行りの電波ソングが流れる。

親友の顔を伺えば頷いて許可をくれた。

 

「誰だろ……ってスぺちゃん!?」

「収録が終わってすぐさまって感じですか?」

 

エルコンドルパサーはスマホを操作して通話した。

身の潔白を証明するためスピーカーモードである。

 

『エルちゃんゴメン! ごめんなさいっ』

「オゥ……スぺちゃん声おっきいヨ~」

『……テレビ観てた?』

「観てましたヨ~」

『あぅ……ごめんねエルちゃん。私、言っちゃダメな事言っちゃった』

 

かなり憔悴した様子のスペシャルウィーク。

途中から見ていなかったエルとグラスは知らないが、スペシャルウィークの方は言った後で直ぐ失言に気づいた。

しかし生放送故に発言の撤回も出来ず、パニックになりかけながらもセイウンスカイにフォローされて先程収録を終えたのだった。

 

『やっぱり、グラスちゃんには言っていなかったのかな……』

「うん……まだ言えてなかった。っていうか、今私の正面にグラスいるからね。この会話も聴いてる」

『ごめんなさい。本当にごめんなさいエルちゃん。グラスちゃん』

「スッペちゃーん、ワタシがどんな状況か分かってマース?」

『う……ん……グラスちゃんが居るなら多分、床に平伏してるんじゃないかな』

「イエス! まるで見てるみたいデース」

 

聞いている方が気の毒になる程に謝り倒すスペシャルウィーク。

エルコンドルパサーは肩をすくめて苦笑する。

スペシャルウィークの状況は中継を観ていたのだ。

彼女が誰の為に怒ったかを思えば、責める気持ちもあまり出てこない。

全く怒っていないわけではないが、元を正せば原因は此処までグラスワンダーに話せなかった自分にある。

セイウンスカイに初めて打ち明けたのは勢いだった。

その後すぐにグラスワンダーにも話していれば、こんな状況にはならなかったろう。

 

『ごめんね。本当にごめんなさい。ほんと……ごめん』

「まぁ、スぺちゃんの口から謝って貰えたから、私からは聞きたい事と言いたい事が一つずつネ?」

『はい』

「先ず……スぺちゃんワタシの大目標は何処で知ったノー?」

『安田記念の後、私……マルゼンスキー先輩に付き添ってもらってレース場内散策してたの。其処でコメットのシルキーサリヴァン先輩が誰かに電話してる所に居合わせちゃって、その……聞いちゃった』

「あぁ……じゃあウンスは潔白カ~」

『盗み聞きになっちゃった。ゴメン、エルちゃん』

「ん、じゃあ言いたい事の方ね」

『はい……』

「怒ってくれてありがとネ!」

『……ふぐぅ』

 

緊張の糸が切れたらしいスペシャルウィークの嗚咽がスマホ越しに聞こえてくる。

不器用に宥めるエルコンドルパサーがグラスワンダーにはもどかしく、自分の言葉でチームメイトを慰めたかった。

しかし切っ掛けはスペシャルウィークの過失であっても、これはエルコンドルパサーとの間の事。

エルコンドルパサーはスペシャルウィークを責めないが、それをグラスワンダーが話すのは筋が違う。

精々エルコンドルパサーにメモ書きを渡し、事情は分かった為に自分も気にしてないと伝えてもらうだけである。

 

「グラスも気にしてないって。イヤー……良い所で電話くれマシタ! お陰でワタシも許されそうデース」

『だけど私のせいでエルちゃん……』

「何時か言わなきゃいけなかった事だから。それをイジイジ先延ばしにしてたからこうなったんだよ……うん。勉強になりましター」

『ん……エルちゃん、ありがとうね』

「オッケー。じゃあこの話は此処までにしまショ。スぺちゃん、この後は時間ある?」

『いや……トレーナーさんからお説教があるの。ただ、先にエルちゃんに謝らせてくださいってお願いして待ってもらってるから……』

「そっか。じゃ、素敵な写真送ってあげるから後で感想聞かせてネ!」

『写真? うん、分かった』

「それじゃスぺちゃん……グッドラック」

『うん。またね、エルちゃん』

 

恐らく予定が立て込んでいるだろうスペシャルウィークとの通話を終えたエルコンドルパサー。

おずおずと親友を見れば、電話が来る前よりは態度が軟化しているのが分かる。

 

「まぁ、そういう事デース」

「事情は分かりました。エルにとっても予想外の暴露になってしまいましたね」

「うん、でもこれでワタシも踏ん切りがついたカナ」

「そうですね……もう勝つしかないですよ、エル」

 

グラスワンダーは左手を差し出して床から親友を立たせた。

足を痺れさせながらもなんとか立ち上ったエルコンドルパサー。

不意にグラスワンダーの右腕に留まったコンドルが、飼い主の肩めがけて跳躍する。

 

「こいつ……絶対日和見してマース」

「少しでも高い所に登ろうとしているのかもしれません」

「そうかなぁ……」

 

先程まではグラスワンダーの傍を離れなかった癖に、話が終わった途端に飼い主の所に来る様が偶然とは思えないエルコンドルパサーである。

グラスワンダーは親友とそのペットが戯れるのを見ながら黙考する。

エルコンドルパサーが凱旋門賞に挑戦するとしたら、この秋の目標はジャパンカップだろうか。

もしかしたら来年の宝塚記念をステップにしていくのかもしれない。

この時彼女はエルコンドルパサーが半年以上も現地で調整する計画を立てている所までは想像が及ばなかった。

 

……ちなみに、この時のグラスワンダーの写真は最上級の貴重品として、後日ファンの間で垂涎の一品となった。

 

 

 

§

 

 

 

第■■回毎日王冠当日。

東京レース場は異常なまでの熱気に包まれていた。

最終的に出走してきたウマ娘は十人。

多くのウマ娘はサイレンススズカの出走表明後から回避を選択しており、そのスズカが一番人気である。

そしてジュニア王者にして不敗のグラスワンダーが二番人気につけ、殆ど差が無い三番人気に同じく無敗のエルコンドルパサーがいた。

シルキーサリヴァンは前走の安田記念で惨敗している事が響いて六番人気になっている。

その他にも殆どが重賞勝利経験のある一流のウマ娘達。

このレースがGⅡなのはグレード詐欺も良い所である。

 

「勝負服着てレースしたいデース……こんなにファンが来てくれたのに」

 

東京レース場に詰めかけたファンの数は十三万人との発表があった。

しかしこの日、レースファンの注目を集めているのは此処だけではない。

西の京都レース場ではもう一つのGⅡレース、京都大賞典が開催されているのだ。

控室で出番を待つ合間にスマホから情報サイトにアクセスしているエルコンドルパサー。

西のレースは更に少ない七人立て。

セイウンスカイが挑むのは春の天皇賞を獲ったメジロブライトに、昨年の有馬記念優勝ウマ娘であるシルクジャスティス。

更に何故かオープン未勝利ながら、今年の春天と宝塚記念で連対している実力者のキンイロリョテイがいる。

エルコンドルパサーがどれだけセイウンスカイに期待していても、これらのウマ娘達と比較すれば未だ格下というのが世間の評価だった。

 

「……ウンス四番人気デスカー。こっちもヤバイねー」

 

皐月賞を獲り、ダービーでも好走したセイウンスカイすらこの位置だった。

スペシャルウィークやキングヘイローが其処にいても同じだろう。

毎日王冠でも一番人気はシニアクラスのサイレンススズカ。

ジュニアCクラスはその中で一番を獲っても最強とは認められない。

所詮は同い年同士、子供の中の一番争い。

本当に強いのはシニアクラス……

 

「面白いじゃネ~ですか」

 

いつの間にか手の中でスマホが軋んでいる。

慌てて力を抜いたエルコンドルパサーは、ふとある事に気が付いた。

毎日王冠と京都大賞典は同日開催であり、両レース場のメインイベント。

ならば今エルコンドルパサーが控室にいるように、セイウンスカイもそうなのではないだろうか。

念のため入り口に面会謝絶の札をかける。

その後やや躊躇したが、結局エルコンドルパサーはセイウンスカイにコールした。

思いついてしまった以上、どうしても聞いておきたい事があったのだ。

静かに集中したいならマナーにして出ないだろう。

そう思ったが、相手は数コールで繋がった。

 

『なにさ?』

「ヘイ! 出走者真ん中以下の不人気ウマ娘、元気デース?」

『元気だよタイキシャトルから逃げたと噂のウマ娘君』

「アッははー……ぶちコロがすぞてめぇ……デース!」

『あはは。デースだかDeathだかはっきりしなよ似非帰国子女』

「其処は似非じゃないからネ!」

 

緊張しているのか、セイウンスカイの声は硬い気がする。

恐らくエルコンドルパサーもそうなっているだろう。

それでも意識していつも通りの軽口をたたき合った。

 

『なーんか人気無いんだよね私。皐月賞とってもダービーじゃ三番だったしさ』

「顔が悪いんじゃない?」

『顔かぁ……私もマスクで隠せば人気出るかね』

「でもワタシ、ウンスの顔好きですヨ」

『おぃ、そういう所だよアホウドリ』

「コンドルデース!」

『そっか』

「イエス」

『……』

「……」

 

不意に黙り込む二人。

エルコンドルパサーとしてはこんな話がしたいわけではなかった。

しかしどうにも切り出し方が掴めない。

それでもなんとか自分の中の想いを言葉に乗せて送り出す。

 

「舐められてるよ私達。シニアクラスの方が上だって」

『そうだね』

「腹立たない?」

『煮えくり返ってる。同じ不人気でもダービーの時はそんなでも無かったんだけど』

「そっか……分かる気がする……」

 

レース前に不安な気持ちは誰にでもある。

まして二人とも世間から見れば格上挑戦なのだ。

しかし伝えたい事は、聞きたい事はそれではなかった。

エルコンドルパサーが苛立たしく言葉を詰まらせたとき、セイウンスカイの方から答えをくれた。

 

『…………覚えてるよね? 君が私とヘイローちゃんをチームに誘った時の言葉』

「覚えてる」

『私達こそが最強だって証明しようって、君が言ったんだ』

「うん」

『スズカ先輩は、強いよ』

「……」

『ごめんねエルちゃん。スピカのチームメイトとして、私は君の勝利を祈れないんだ』

「分かってる」

『私は私に出来る事を此処でする。君も、君の事をして』

「……ありがとウンス。それが聞きたかった」

『……じゃ、また学園で』

「うん、またね」

 

道を違え、目指す重賞もバラバラになった自分達。

それでもあの時交わした約束は間違いなく続いている。

自分達の世代こそ最強だと証明する事。

何処まで走り続けられるかも分からない挑戦の道。

その最初の一歩が此処から始まる。

 

 

 

§

 

 

 

東京レース場にて本日のメインレース、毎日王冠が始まった。

実況者によるウマ娘達の紹介と入場。

並のGⅠを超える大観衆の声援が響く。

彼ら、彼女らの見つめる先にはそれぞれの勝機にかけて集った十人のウマ娘達。

中でも返しウマで念入りに脚を作り込む赤い髪のウマ娘の姿は人目を引いた。

発走時刻が近づき、各ウマ娘のゲート入りが始まる。

奇数番号から偶数番号。

彼女らの目指すモノはたった一つ。

僅か1800㍍先のゴールである。

ゲート入場からスタートの瞬間までの短い時間、レース場の殆どの音が消える。

固唾をのんで見守る会場のファン。

公式発表13万人の視線が集中する中、ついに決戦の火蓋が切られた。

横並びの一線。

其処からぽーんと飛び出したのはサイレンススズカ。

短距離走者のような瞬発力で頭一つ抜け出し、大方の予想通りハナを切って先頭に立つ。

追走するウマ娘達も、先行から追い込みまでそれぞれの位置につき始めた。

東京レース場1800は最初の直線が長い。

サイレンススズカのように極端な所を狙わなければ、位置は比較的取りやすい。

そんな中で最後方に陣取ったのはチームコメットのシルキーサリヴァン。

 

(脚は暖まってるが……)

 

彼女はトレーナーから先頭を走る逃げウマ娘に鈴をつける事を依頼されていた。

後ろから外に持ち出したシルキーサリヴァン。

自由なコース取りが出来る所に身を置きながら、先頭のスズカを射程に捉える。

 

(一ハロンは泳がせる。気持ちよく走らせてやる。いつも通りのレースと思わせて……潰すっ)

 

ハードバージが指定した最初の山場。

先頭を走るサイレンススズカに本物のスプリンターが襲い掛かる。

バ群の外から一息に駆け上がった深紅のウマ娘。

それは練習の時のようなたどたどしい走りではない。

観る者の多くが初めて目にする展開に息を呑む。

あのサイレンススズカが、レース序盤で捕まった。

 

(相変わらずインチキな足してマース)

 

あっという間に自分達を抜き去った背中を見ながら、小さく息を吐くエルコンドルパサー。

彼女自身は中団よりやや後方から前の展開を俯瞰する。

事前の予定通りサイレンススズカに競りかかるシルキーサリヴァン。

しかしエルコンドルパサーはサイレンススズカがこれで掛かるとは思っていない。

このプランを考えたトレーナー自身が、レース前にはあまり期待はするなと言っていた事でもあった。

シルキーサリヴァンが外から被る様に抜きに行く。

サイレンススズカが内から押し返す様に前に出る。

 

(……ん?)

 

第三コーナーに向かう長い直線。

シルキーサリヴァンは前に出れないがサイレンススズカも突き放せない。

両者の位置関係は相変わらず。

しかし速度だけは上がっている。

 

(あれ、コレもしかして……)

 

バ群の中から赤い背中と、競り合う華奢な背中を注視する。

エルコンドルパサーはシルキーサリヴァンの全力疾走を何度も見ている。

今の彼女はほぼ全力でスズカの相手をしていると思う。

スプリンターのシルキーサリヴァンが全力なのだ。

なら、それに拮抗しているスズカは……

エルコンドルパサーはバ群の中でペースを上げた。

暴走気味な前二人の速度では無い。

あくまでそれ以外、八人の中での早めである。

バ群の先頭にいるのはグラスワンダー。

彼女はサイレンススズカを捉えるため、前目の位置についていた。

 

(幾らなんでも早すぎます……後ろ残りのレースになる)

 

グラスワンダーはやや離されてはいたものの、マークはサイレンススズカの心算だった。

最終四コーナー手前で息を入れるスズカに追いつき、競り合いに持ち込む。

その為の前目追走。

しかし序盤にシルキーサリヴァンが競りかかった為、距離を詰めずに様子を見ていた。

第三コーナーに入る前にはシルキーサリヴァンが失速する。

サイレンススズカの速度はまだ落ちない。

 

(少し下げる……? エルは……あっ)

 

グラスワンダーが振り向いた時、右後方の至近距離にエルコンドルパサーの姿があった。

 

(何時の間にっ)

 

グラスワンダーは春にマイルで活躍していた親友の速度を警戒している。

自身が怪我明けという事も有り、エルコンドルパサーの後ろからレースをしたら追いつけないかもしれない。

不気味なほどに気配の薄いエルコンドルパサーがグラスワンダーの横に並ぶ。

凌ぐか、逃がすか。

一瞬迷っている隙にエルコンドルパサーが前に出た。

 

「っく」

 

やはり此処で離されたら追いつけない。

グラスワンダーはエルコンドルパサーの一バ身後ろをキープする。

ジュニアCクラス二人が駆け引きしている遥か前方。

サイレンススズカは唯一人、第四コーナーに差し掛かっていた。

色も音も消えた白い世界。

サイレンススズカはたった一人で走っていた。

 

(ああ……)

 

青い空と緑の芝。

そして自分以外誰もいない世界。

ずっと走っていたい。

サイレンススズカの幼い頃の原風景。

其処に割り込んできた赤。

その時の心情は、きっとスズカ以外に理解できるものはないだろう。

自分の中の一番大切な部分に挿した赤。

 

(気持ちいい)

 

大切なものを汚す赤を振り切るためになりふり構わず駆け抜けた。

いつの間にか赤いものは消えていた。

残ったものは青い空と緑の芝。

それだけの筈だった。

しかし気づいた時、青も緑も消えて白だけが広がった。

違和感がある。

一度振り向いて後ろを確認。

遠くに見えるライバルの姿。

いつも通りの光景だった。

むしろ何時もより突き放している。

コーナーを抜ける。

大歓声が遠くに聞こえる。

一人一人の声など、ただの音と変わらない。

しかしそれがレース場で13万も集まれば、最早三半規管を押し潰してくる壁に等しい。

 

(ここからっ)

 

最後の直線。

この音の壁を突き抜けた先にゴールがある。

サイレンススズカにとっては何時もの、最後の一仕事。

そこで足が止まった。

 

(……え?)

 

鉛のように重い脚。

上がり切ったまま戻らない呼吸。

そして背後から近づくバ蹄の音。

サイレンススズカがもう一度振り返る。

ライバル達の姿は、最早目の前まで迫っていた。

 

(まさか掛かっちゃうとはネ~)

 

失速したサイレンススズカを捉えるべく加速するエルコンドルパサー。

グラスワンダーも勝負所の直線に入ってエルコンドルパサーを抜きに行く。

しかし両者の明暗は脚色にはっきり表れた。

 

(脚が前に行かない……っ)

 

エルコンドルパサーが悠々と伸びれば、グラスワンダーがじりじりと離される。

走行スタイルも必死なグラスワンダーに対し、エルコンドルパサーには余裕があった。

 

(グラスー……もう来ないんデース?)

 

勝利の前にいつも感じる一抹の虚しさを噛み締める怪鳥。

かつてエルコンドルパサーはグラスワンダーに勝てなかった。

エルコンドルパサーがどうと言うよりグラスワンダーが強すぎて。

そんな相手が今、必死に自分の背中を追いすがっている。

 

(本調子じゃないんだよね。もどかしいだろうね。だけど頑張ってグラス)

 

エルコンドルパサーは肩越しに振り向くと、予想通りの光景が目に写る。

 

(頑張ってグラス……じゃないと……)

 

サイレンススズカが遂にバ群に捕まった。

そしてその後方で深紅が爆ぜた。

 

(其処はまだ、先輩の射程距離デース!)

 

シルキーサリヴァンの二度目のスパート。

その瞬間を目視したエルコンドルパサーが、全力を振り絞って逃げる。

自分の位置までは届かないと思う。

だからエルコンドルパサーが逃げるのはグラスワンダーを釣るためだった。

死力を尽くして逃げるエルコンドルパサーと意地で食い下がるグラスワンダー。

前を走るのがこの怪鳥でなければ此処までは走れなかっただろう。

しかし観衆の目には、最早グラスワンダーはエルコンドルパサーを追いかけているのではない。

シルキーサリヴァンから逃げる事で精いっぱいだった。

第三コーナーの入り口から此処まで溜めた豪脚。

追い込みウマ娘の本領を発揮したシルキーサリヴァンが前を征く二人を強襲する。

セーフティーリードを残せたのはエルコンドルパサーのみ。

その背中から三バ身半遅れたグラスワンダーは、シルキーサリヴァンを首差凌ぎ切っての二着入線を果たす。

 

「チィッ」

 

紙一重でグラスワンダーを取り逃がしたシルキーサリヴァンから、無念の呻きが漏れる。

此処に第■■回毎日王冠は決着した。

一着エルコンドルパサー。

二着グラスワンダー。

三着シルキーサリヴァン。

サイレンススズカは最後に左足を気にしながらの入線。

軽度の故障を抱えつつ、掲示板外の七着という結末だった。

 

「グラス……お疲レ」

「……」

 

色濃い疲労の影をにじませたエルコンドルパサーが声をかける。

しかし足は止めず、その横を素通りした。

そのままサイレンススズカを潰しながらも、ライブ圏内に食い込んできた先輩と拳を合わせる。

大歓声が降り注ぐ東京レース場を見渡し、応えるように手を振ったエルコンドルパサー。

 

――その僅か十分後……

 

セイウンスカイは京都レース場でメジロブライトを倒して勝利した。

逃げて引き付けて突き放す鮮やかなレース展開。

春のダービーでエルコンドルパサーとの約束を守れなかったセイウンスカイ。

しかしこの日、もう一つの約束を守った。

それは日本の東西で、ジュニアCクラスのウマ娘達がシニアクラスを纏めて薙ぎ払った日のこと。

後に奇跡の世代と称される者達が作る伝説……その最初の一日が、観る者の心に刻まれた日のこと。

 

 

 

 

 

 

 

 




A.次のレースです


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11.晩秋に浮かぶ白昼夢

トレセン学園ジュニアCクラスの教室で、五人のウマ娘達が額を突き合わせていた。

集っているのは何時もの面子。

リギルの二人と、反リギルの二人。

そして調停役のお嬢様。

しかしこの場では声一つ上げず、五人とも同じスマホの画面を注視している。

スペシャルウィークはスマホの時刻を確認し、さらに教室の時計も見る。

デジタルと針の違いはあれど、示す刻は変わらない。

 

「「「「「……」」」」」

 

そわそわと落ち着かないスペシャルウィーク。

隣のグラスワンダーも表情が硬い。

正面に座るセイウンスカイと、その隣のエルコンドルパサーも同様だった。

キングヘイローに至っては明らかに不安げな表情で祈るように両手を組んでいる。

この五人だけではない。

教室内ではクラスメイトがそれぞれに集まり、自分のスマホを開いていた。

彼女らが待っているのは共通の連絡。

現地には当事者の他、付き添いのクラスメイトが幾人か同行している。

結果は既に出ている筈だ。

どれ程の時間が過ぎたのか。

一分一秒が長く感じる。

しかし時間は彼女らの主観に左右される事無く変わらぬ速度で流れ続ける。

そして、ついにその時が来た。

机のスマホが振動する。

同時に他のグループのスマホも鳴動した。

彼女らが開いているグループラインに書き込まれた文字は一言。

 

 

 

―――勝利!

 

 

 

「やったぁああああああ!!!」

 

スペシャルウィークの叫びは教室内でも同時に上がった歓声に溶け消えた。

誰もが手近のウマ娘達と抱き合い、肩を組み、ラインの一言を幾度も読み返す。

そして騒いだ。

中心にいる五人組の周りにもウマ娘が集まり、それぞれに喜びの声を掛け合った。

その日行われていたのは、地方レースの未勝利戦。

其処にこのクラスのウマ娘が出走していた。

東京ではテレビ中継される事もないローカルレース。

しかしこのレースは自分達の中では伝説になるだろう。

それはこの世代の最後の未勝利ウマ娘の勝利だった。

それぞれのスマホには、現地に赴いたクラスメイトが撮影したレースの動画も添付されていた。

 

「頑張りましたね……」

 

キングヘイローは白くなるまで固く結んでいた両手をほどく。

そして机の引き出しから取り出したノートを開いた。

ノートのタイトルは“クラス対抗ポイント表”

これは今期のジュニアCクラスの中で、話題がリギルと反リギルに分離した所にエルコンドルパサーが目を付けた所から始まった遊び。

エルコンドルパサーは各派閥の代表者を通じて全体に一つのルールを敷いた。

 

『皆で仲良く喧嘩しまショ!』

 

クラスカースト最上位の強権である。

彼女はオープン以上のレースにおいて、そのグレードと順位に応じたポイントを割り振った。

そしてリギルを応援するチームと対抗するチームに分かれ、クラス全員を巻き込んだ催しに持ち込んだ。

このようなお祭りが成立した一つの理由に、エルコンドルパサーが設定したポイントの配分が特殊であった事が挙げられる。

怪鳥はG1レースの優勝よりも未勝利ウマ娘の一勝目に多くのポイントを割り振った。

更に条件戦を勝ち上がったウマ娘がオープンに上がった時も同様である。

此処が多くのウマ娘にとっての壁であり、乗り越えられずに学園を去る。

そんなギリギリの所にいるウマ娘達にとって、自分の小さなレースの一勝がG1レース以上にクラスを揺らす事が楽しかった。

ルールを持ち込んだ時には勝ち上がっているウマ娘も多かったが、そのようなウマ娘達には精神的にも余裕がある。

こうしてエルコンドルパサーはクラスメイト達を巻き込むことに成功した。

そして本日勝利したウマ娘は、リギルに憧れる少女の一人。

 

「この子は初勝利ですから特別条件に該当しますね。これでリギル側の逆転です」

「ノーゥ」

「この場合喜べばいいのか悔しがればいいのか困っちゃうねぇ」

 

セイウンスカイもエルコンドルパサーも複雑な表情で顔を見合わせ、堪え切れずに噴き出した。

 

「やっぱり喜んじゃいマース」

「今日ばかりはね、仕方ないよ」

「これで今期のジュニアCクラスの勝ち上がり率は100%……これは快挙ですわ」

「素晴らしいですね」

 

キングヘイローが笑みを浮かべて宣言すればグラスワンダーは感慨深げに頷いた。

 

「ミンナー胴上げしまショー!」

 

エルコンドルパサーが全く関係ないウマ娘を捕まえて声を上げれば、盛り上がっているクラスメートが集まってくる。

熱気によって正常な判断力を失っているウマ娘達はノリで怪鳥が見つけた生贄……クイーンベレーを担ぎ上げた。

抗議する間もなく、その身が五回宙を舞う。

地味に天井が近くて怖かった。

 

「それじゃ、ミナサーンお手を拝借……セーノッ!」

 

エルコンドルパサーの音頭で胴上げ、三々七拍子と続き、リギル代表としてグラスワンダーに祝辞を振る。

全くネタ合わせ無しで教壇に立たされたグラスワンダーだが、つっかえながらもこの場にいないクラスメートを祝福した。

最後はそのグラスワンダーの音頭によって一本締めが行われ、本日のホームルームはお開きとなった。

……なお、担任はこの異常な雰囲気の教室に入れず職員室に引き返していた。

 

 

 

§

 

 

 

クラスメイトが解散した教室に、五人組が居残っている。

何時ものスペシャルウィークの席にはクラス対抗ノートやレース雑誌が持ち込まれていた。

 

「私とエルちゃんが同日優勝してるのにひっくり返ったか……」

「世代戦と混合戦までは分けてなかったデースからネ~」

 

大きく息を吐いたエルコンドルパサー。

少し元気が無いと感じたスペシャルウィークは気づかわしげに尋ねる。

 

「エルちゃん、なんか疲れてる?」

「いや……まぁちょっと、チームでネ」

 

先程クラスメイトを巻き込んで大騒ぎしていたウマ娘とは同一人物とは思えない。

苦笑する怪鳥は差しさわりの無い部分を話し出す。

 

「毎日王冠でワタシを差し切れなかったシルキー先輩を、パール先輩が思いっきり指さして笑ったからサ~……シルキー先輩は悔しがってた所弄られて拗ねるし、ワタシはなんにも言えないデスし」

「まぁ、勝ったのはエルちゃんだもんね」

「で、そんなパール先輩がスプリンターズSで負けたじゃない?」

「それはもう何というか……リギルとしてはごめんなさいとしか言えない……」

 

先日行われたスプリンターズSはかなり注目度の高いレースだった。

早めの出走登録でシーキングザパールとタイキシャトルが揃ったからである。

春の安田記念で好勝負を演じたもの同士、マイルCSの前哨戦として大いに盛り上がっており……二人まとめて敗北した。

勝ったのは登録締め切り五分前に滑り込んできた怪物、マルゼンスキー。

 

「あれにはトレーナーも吃驚していましたね……」

「……実は秋の何処かで割り込んで行くだろうなとは予想してたんだけどね、マルゼンスキー先輩。安田記念で不満そうだったから」

「まぁ……勝敗はウマ娘の常デースからそれは良いんデスけどー……何でウイニングライブでアレをやった」

 

頭を抱えて机に突っ伏したエルコンドルパサー。

レース後のウイニングライブは上位三着までのウマ娘が参加出来るステージである。

この興行収入は大きく、何の曲を歌うかは重要なポイントだった。

そしてその決定権はレースで一位を獲ったウマ娘にある。

マルゼンスキーが選んだ曲は、今この国では誰もが知っている電波ソング。

タイキシャトルもシーキングザパールもステージ上で唖然としたが、プロ意識で最後まで演じきったのだ。

 

「もう……パール先輩はイメージが崩れたって落ち込むしシルキー先輩は笑うし、そんで二人は喧嘩するシ~……」

「それはもう何というか、ご愁傷様としか……」

「何より一番救いが無いのがネ?」

「うん?」

「マルゼンスキー先輩に、流行りの電波ソングなんて余計なものを教えたのがグラスなんだけどサ」

「うん」

「その情報の出所が、ワタシのスマホの着信だったノ……この気持ち何処にぶつければ良いのカナ?」

「……複雑な軌道のブーメランだね」

「これは誰に最終的な責任が行くのでしょうね?」

「もう、私じゃなければなんでも良いです」

 

グラスワンダーはこうして身内で集まっているときに飛び火で炎上する事が多い。

今回の件も危なかったと内心で息を吐いた。

エルコンドルパサーも何とか気を取り直して顔を上げる。

 

「それにしても、問題はクラス対抗の行方だよ……ヘイローちゃんのポイントがこっちに入れば問題ないんだけど」

「ウンスちゃん、ジャッジを引き込むのはズルいんじゃないかな」

「だってヘイローちゃんはリギルじゃないんだから本当ならこっちでしょ? しかも京都新聞杯はスぺちゃんに競り勝っているんだし」

「ぐふっ」

 

呼気と吸気が喉でぶつかり、むせ込みながら机に突っ伏すスペシャルウィーク。

 

「あれはいったい何だったんですか? 正直、ゴール手前まで一歩負けてて、ダメか……と思ったら失速して」

「脚がね……なんか脚が急に止まっちゃったの」

 

スペシャルウィークは北海道の大平原を好きなように走っていたウマ娘である。

その環境によるものか、何も考えずに走るとゴール前で力尽きる癖があった。

距離の短長は関係ない。

これは身体能力に比して距離に応じて早めに走ってしまう癖であり、トレーナーから序盤だけはやや抑え気味に入るよう指示を受けているスペシャルウィーク。

最も今回はこの悪癖だけで負けたわけではなかった。

 

「スぺちゃん、体重制御をかなり自由にやっていたんですけどね……この京都新聞杯はダービーの後に怪我と夏負けが重なって。絞れはしたんですけど……トレーナーさんの指示より急激に削って、スタミナ落としちゃって」

「ついにトレーナーさんから今年いっぱいの完全管理を受けちゃったよぅ……」

「ダービーの後、ウンスは痩せたのにスぺちゃん丸々してたもんネ~」

「そんな事が……」

「あ、ヘイローちゃんあの頃凹んでて見てないデショ? 写メあげようか」

「是非に」

「止めて! 広めないでっ」

 

グラスワンダーに頭を撫でられていたスペシャルウィークが跳ね起きる。

しかし彼女が見たものはスマホのデータを交換する二人の姿だった。

 

「あら可愛い」

「え、そうかな?」

「はい。デフォルメされたぬいぐるみみたいで大変可愛いお姿ですわ」

「がはっ」

 

キングヘイローの顔に嘲笑う様子はなく、本気で言っているのが分かる。

だからこそ頭身を下げて丸く作った物体に似ているという評価が事実だと知り、落ち込むスペシャルウィーク。

この話題はダメだと見切ったキングヘイローは、一見のほほんとしているセイウンスカイに水を向けた。

 

「ウン……セイウンスカイはどうですの? もうすぐ菊花賞ですけれど」

「私、毎日走ってるよ」

「そう……順調そうなら結構ですわね」

「わたし、まいにちはしってるよ」

「……ん?」

「ワタシ、マイニチ。ハシッテルヨ」

 

壊れた人形のように繰り返すセイウンスカイ。

その顔面は白を通り越した黄疸が浮かび、誰が見ても異常であった。

 

「ヘイ、ウンス―……大丈夫? どうしたデース」

「君のせいだからぁああああああああ!」

「わっつ?」

「毎日王冠で掛かっちゃってからスズカ先輩がやたら張り切って……毎日毎日叩き合いさせられて……私は嫌だって……」

「セイウンスカイちゃん……心に傷を負っていませんか?」

「いや、それワタシのせいじゃないですシ~。そもそも秋天回避したサイレンススズカ先輩は脚平気デス?」

「少し違和感が出ただけで、念のための回避だから。ジャパンカップには出るよ。もう走ってるし」

「スズカさんと毎日叩き合いってご褒美だよね? 幸せに耐えきれなくなったのかな?」

「スペシャルウィークさん、幸せの形は人それぞれですからね」

 

両手で頭を抱えて机に伏せるセイウンスカイ。

かと思えば突然顔を上げ、追われているかのように周囲を見渡してまた頭を抱える。

どう見てもメンタルを病んでいた。

 

「……スぺちゃんが京都新聞杯でこけて、勝ったヘイローちゃんはダービーでこけてる……多分菊の本命はウンスだろうケド、これはダメですかネ~」

「セイウンスカイちゃん、このメンタルでゲートに入れますかね」

 

グラスワンダーの心配に苦笑して肩を竦めたエルコンドルパサー。

怪鳥の路線はジャパンカップ一本の為、世代戦の菊花賞にはそれほど関心が無いのである。

 

「秋天って言えばグラスちゃんだよね! 優勝おめでとう」

「え? 何のことですかスぺちゃん」

「……え? こないだの秋天……グラスちゃん勝ってたよね?」

「ですから、秋天って、なんで……ひぅっ」

 

突如振戦と過呼吸を起こして青ざめたグラスワンダー。

スペシャルウィークはチームメイトの様子に首を傾げる。

 

「グラスぅ……そろそろ現実を受け入れて立ち直りなヨ~」

「嫌……嫌ぁ……」

「どうなさいましたの彼女?」

 

グラスワンダーは恐怖に引きつり、自分自身をきつく抱きしめて口の中で何かをつぶやいている。

エルコンドルパサーがかろうじて拾い上げた言葉はキンイロリョテイという単語。

 

「ほら……皆も秋天は見てたでしょ?」

「うん。グラスちゃんが勝ったっていうか、キンイロリョテイ先輩が自爆した奴」

「あれも訳が分かりませんでしたね……」

 

つい先週行われた天皇賞秋。

サイレンススズカが負傷回避し、ジャパンカップ狙いのエルコンドルパサーも回避した中で一番人気だったのはグラスワンダー。

それは一般的な評価としては本命不在と言われる中で行われたG1レースだった。

 

「なんかネ? レースでキンイロリョテイ先輩に絡まれたのをまだ引き摺ってるっぽくってサ~」

「なにそれ、ちょっとヘタレじゃない?」

「……そう思うならセイウンスカイちゃん……サイレンススズカ先輩に1000㍍、只管真横に張り着かれながら下から顔を覗き込まれる所を想像してくださいよ」

「ひぎぃっ!?」

「あ、ウンス考えちゃダメだって。夢に見るヨ」

 

後ろからレースに入ったグラスワンダーだが、秋天序盤は相当なスローペースになった。

ややウンザリしたグラスワンダーは1000㍍過ぎから先頭に立つ。

其処にキンイロリョテイがついてきたのだ。

いや、もしかしたら後方にいた序盤からずっと見ていたのかもしれない。

キンイロリョテイはグラスワンダーと完全に並走した。

そしてなんと身体を屈め、横を走るグラスワンダーの顔を覗き込んできたのである。

その表情は只管に無表情であり、非生物的な不気味さがあった。

悪寒を覚えて振り切ろうとしたグラスワンダー。

しかし真下から覗かれていたために加速時に首が下げられない。

結果として思う様な走りが出来ないまま、キンイロリョテイのストーカーを受け続けたグラスワンダーは非常に不本意な二着入線となる。

当然ながらこの時のキンイロリョテイは審議対象となり、一着で入線しながら走路妨害で失格となった。

レース後の事情聴取では『青い勝負服だから殺そうと思った。でも人違いだった』と謎の供述を残している。

 

「逃げたいのに首が下げられなくてぎくしゃくして……あのフォームで早いヘイローさんは本当に凄いって思いました……」

「もしかしてグラスちゃん、昨日の練習で左回り走りにくそうだったのって……」

「変な癖になっちゃ不味いよ? 早めに修正しときなよ」

「いや、それを言うならウンスこそ、さっさとゲートと仲良くしなヨ」

「嫌だ。アレは敵だから」

「貴女達は何を言っているんですか……」

 

キングヘイローはそれぞれに悩みを抱えたクラスメイトを一人一人見渡した。

 

「皆さん、実は苦労していらっしゃるんですか?」

「……チームの雰囲気重い」

「……スズカさんが怖い」

「……リョテイさんが怖い」

「……ご飯食べたい」

「スペシャルウィークさんは大したことなさそうですが」

「なんで!?」

 

抗議の声を上げたスペシャルウィークだが、満場一致で否決された。

 

「なんていうかサ~……たまにはこのメンツで遊びに行きたいネ~。チームでは言えない愚痴もあるし」

「あぁ、良いですね。ジュニアCクラスも終わりが近いですし、区切りとしての卒業旅行とか行きたいですね」

「エルちゃんが来年海外だし、その前に……有馬記念が終わった辺りに予定組もうか」

「あ、じゃあもしよかったら家に来ない? おかあちゃんが手紙で皆に、私が良くしてもらってるお礼したいって言ってるから」

「ご迷惑ではありませんか?」

「こっちは平気。真冬の北海道は美味しいモノいっぱいあるんだよー」

「カニ食べたいデース」

 

あっという間に北海道旅行が組まれた五人組。

最早彼女らの頭にはウインタードリームトロフィーなど欠片も残っていなかった。

ジュニアCクラスから出走するなら三冠ウマ娘を獲る程の実績が必要なため、自分達が選ばれると思っていないという事情もあったが。

 

「それでは、冬に美味しい思いをするためにも、もう少し秋を頑張らないといけませんね」

「えっと……私とヘイローちゃんとウンスちゃんが菊花賞で、エルちゃんの次走はジャパンカップだっけ」

「イエース!」

「ねぇエルちゃん」

「ん?」

「私、菊の後ジャパンカップに行くつもりだから」

「……間隔無いよ?」

「良いよ、それでも」

「……分かった。待ってマース」

 

エルコンドルパサーとスペシャルウィークは互いに拳を突き合わす。

二人の間に約束が結ばれる様をグラスワンダーは苦い思いで見守った。

暗黙の了解として、一つのレースに出れるのは一チームに二人まで。

JCはエアグルーヴが出走を希望しており、スペシャルウィークが出るならグラスワンダーの枠はない。

自分は毎日王冠で敗れている。

しかしあの一戦を持って下だと認める程、彼女のプライドは低くなかった。

 

 

 

§

 

 

 

リギルではグラスワンダーの秋天、タイキシャトルとマルゼンスキーのスプリンターズSが終わり、次走はスペシャルウィークの菊花賞。

短距離、マイル路線に突如殴り込みをかけたマルゼンスキーはトレーナーの想定外だが、あのウマ娘の奔放さは矯正不能の天性である。

むしろ春に失速や逸走といった、不安定なレースばかりしていたタイキシャトルを戒めるには良い薬にもなったと思う。

身体能力にものを言わせるのはタイキシャトルの強みだが、自分から損をしに行く必要はないのだ。

 

「……」

 

チームのウマ娘達の今後に思いを馳せるトレーナー。

マルゼンスキーとタイキシャトルはマイルCSを希望しており、其処に出す。

グラスワンダーは内心でジャパンカップを希望していたが口には出さなかった。

 

「……秋天一勝の代価としては高くついたな」

 

トレーナーとしてはグラスワンダーの希望は察していた。

しかし秋天からこちら、グラスワンダーの調子が上がらない。

特に左回りの時計が著しく悪くなった事も有り、此処は回避させて有馬記念に向けて調整するしかなかった。

 

「……」

 

東条ハナの目の前を駆け抜けていくスペシャルウィーク。

かなり集中して走れている。

このウマ娘は走る事に対して非常に真面目だった。

反面で意志の弱い部分があり、強く自分を律する事が苦手な面もある。

ダービー後の安静や食事の制限等、やりたくない事をしなければならない時に抱えるストレスが他のウマ娘に比べて大きい。

身体能力としては非常に恵まれており、世代次第だがG1レースの一つや二つなら楽に獲れる力はある。

しかしそれ以上を目指して腰を据えて鍛えこんでいくとなれば、トレーナーとしての技術が必要なウマ娘だとも思う。

素質は大きく性格は素直だが、手はかかる。

育てる方としては面白いウマ娘である。

 

「ラスト!」

「はいっ」

 

そんなスペシャルウィークだが、京都新聞杯の敗北を経て少し変わった。

本来なら渋ったであろう食事制限も頑張って続けている。

 

「良いライバルがいるようだからな……私の手に寄らず育っていくのは、少し悔しいが」

 

スペシャルウィークは菊花賞とジャパンカップと立て続けに出ようとしている。

間隔の近い二つのレースで適正体重を整えるのはウマ娘だけでは難しい。

東条ハナにはそのどちらもベストに近い数字に持ってくる自信はあった。

しかしそれでも完璧なコンディションに出来るかと言えば断言できない部分がある。

特に後半のジャパンカップの体調は、菊花賞の内容次第になるだろう。

そして東条ハナは菊花賞が楽なレースになる事は無いと確信していた。

 

「もしかしたらと思っていたんだがな……」

 

圧倒的な身体能力でジュニアチャンピオンになったグラスワンダー。

突然田舎から出てきてその春にダービーを獲ったスペシャルウィーク。

例年ならばこの二人でジュニアCクラスの重賞はリギルが独占しただろう。

しかしそうはなっていない。

春をマイルで全勝し、今だ無敗のまま中距離に出て来たエルコンドルパサーがいる。

皐月賞、ダービーをスペシャルウィークと奪い合い、秋には京都大賞典でシニアクラスを薙ぎ倒したセイウンスカイがいる。

おそらく短距離ウマ娘でありながら、京都新聞杯では九割の出来だったスペシャルウィークを仕留めたキングヘイローがいる。

今期のジュニアCクラスは異常なまでに粒ぞろいだった。

 

「勝ち上がり率100%……奇跡の世代か」

 

春には其処までの評価ではなかった。

切っ掛けはこの秋。

エルコンドルパサーとセイウンスカイのGⅡ同日制覇に始まったジュニアCクラスの快進撃。

更に内容はともかく、秋天もグラスワンダーが獲っている。

世間的にはまだ半信半疑な部分があった。

しかしレース関係者、特にトレーナーの間ではこの世代の可能性に注目が集まっている。

東条ハナは菊花賞に登録しているウマ娘のリストを読む。

彼女はその全員の直近三レースの映像を頭に入れていた。

此処に出てくるウマ娘に弱い相手はいない。

一つ、二つ間違えれば……もしくは不運が起こったらスペシャルウィークすら喰われかねない。

現時点の一番人気、セイウンスカイに至っては完璧なレース運びが出来たとしてもどうなるか分からなかった。

スペシャルウィークは間違いなく、この強い世代を牽引していく力がある。

トレーナーとしてそう信じている。

それでも苦戦はするだろう。

 

「トレーナーさん!」

 

走り切ったスペシャルウィークが軽く流しつつ寄って来た。

 

「もう体調にも違和感はなさそうだな」

「はい!」

「そうか……だが、分かっていると思うが……」

「はい。ナリタブライアン先輩の真似は、身体が出来きるまで禁止……ですよね」

「ああ。最低でも今年いっぱい……出来れば今後もなるべく使うな」

「……今年については約束します」

「そうだな」

 

嘘のつけないスペシャルウィークの解答に大きく息を吐く東条ハナ。

今のうちから特殊な走行フォームに耐えられる身体作りを考えておかなければならないだろう。

此処までの練習や怪我の治り具合から考えて、おそらくスペシャルウィークは怪我に強い。

ある意味でスペシャルウィークの一番の強みは其処かもしれない。

 

「大体予想はしているだろうが、これが菊花賞の登録者だ」

「……うわぁ、ウンスちゃん二枠四番……良い位置だなぁ」

「しかも偶数でゲートにいる時間が短い。お前は大外だし、キングヘイローももう一度先行はしないだろう。多分誰も奴からハナは奪えない」

「ウンスちゃんの逃げと真っ向勝負になりますね……」

「そうなるな。だから最初の五ハロンは自分でカウンティングして走れ。絶対にセイウンスカイの乱ペースに付き合うな」

「はい!」

 

勢い込んで返事をするスペシャルウィーク。

しかしすぐ下を向く。

 

「どうした?」

「あ、えぇと……私、どうして時計数えながら走り続けると疲れちゃうのかなって。ウンスちゃんは最初から最後まで数えてるっぽいのに」

「先ずウマ娘には脚質と走りの性格がある。先頭を走る事が好きなウマ娘もいれば、背中を追いかける事が好きなウマ娘もいる。どちらかと言えば、一人で前を走る方が好きというウマ娘の方が少数派だ」

「確かに……私も最後に抜くまでは背中が見えてる方が走りやすいです」

「セイウンスカイは同じ逃げウマ娘でもサイレンススズカとはタイプが違う。彼女はスズカのような圧倒的なスピードは維持出来ない。正確なカウンティングからペースを撹乱し、リードを奪いながら自分の脚も温存して距離を潰していく……どちらも敵に回せば厄介な事には間違いないな」

「ですよね……」

 

京都大賞典のセイウンスカイがスペシャルウィークに与えた衝撃は大きかった。

キングヘイローと違い、直接戦っていなかったからこそ余計に相手が大きく見える。

名門メジロ家の一員であり、本命と言われたメジロブライトも強い脚で追い上げていた。

どうしてあれが届かないのか。

その姿に自分自身を重ねたスペシャルウィークは思わず身震いした。

それはスペシャルウィークのみならず、当日レースを観戦したファンですらそう思ったろう。

だからこそダービーの時と人気は入れ替わったのだ。

今のセイウンスカイに勝つためには最低限、メジロブライトを上回る末脚がいる。

距離が違うとはいえ、春の天皇賞3200㍍を制したG1級のウマ娘を凌ぐ脚が。

そんなものが自分に有るだろうか……

 

「だが、そんなセイウンスカイにしたところでお前の末脚は嫌だろうな」

「ですかね!?」

「間違いない。あいつがどんな戦術を駆使しようと、最終的にお前がラスト三ハロンを三十三秒台で走ってしまえば粉砕される。特にダービーの時は悪夢だったろうな……あの展開を最後の直線でひっくり返したのは大きい」

「えへへ……」

「最終的に使わないにしても、ああいう勝ち方も出来ると見せつけられたのは意味がある。今後、セイウンスカイはそのデータも織り込んでレースを組み立てなければならない筈だ。何処かで必ず限界が来る」

 

トレーナーの言葉に力強く頷くスペシャルウィーク。

 

「今後の予定としてはお前の希望を優先する。菊花賞の後はジャパンカップに照準を合わせる」

「ありがとうございます」

「だが、あくまでお前の体調次第だという事は覚えて置け」

「勿論です」

「菊花賞を片手間に獲れるほど、今年の面子は甘くない。はっきりと言っておくが……ジャパンカップは出れたら運が良かった。それくらいの気持ちでいろ」

「……分かりました」

「私も見てみたいがな」

「え?」

「お前が国内や海外代表のウマ娘を蹴散らす所を見てみたい……私の夢の一つだ」

「……はいっ!」

 

二人は其処で話を切ると、身体が冷える前に屋内に戻る。

スペシャルウィークが一度トラックを振り返ると、名も知らぬウマ娘達が今も走っていた。

 

 

 

 

 




書いてて誰が主役か分からなくなってきた(/ω\)


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12.三千、世界、先の夢

今はこの間隔で書き上げた自分をただ褒めたい(´;ω;`)ウッ…


その日、晴天の京都レース場は数万人の観衆が詰めかけていた。

本日のメインレースはクラシック最終戦菊花賞。

ハイレベルと噂されるこの年のジュニア達。

特に皐月賞とダービーを獲りあったセイウンスカイとスペシャルウィークの決着戦という事も有り、ひときわ注目が寄せられた。

開場を待ちわびる人々の中にはエルコンドルパサーの姿もある。

彼女が待機しているのは一般客の入場口。

此処から目指す屋外席は自由席であり、ベストポジションを確保するにはG1レース並に熾烈な競争を制さなければならない。

エルコンドルパサーはマスクの奥の瞳を開き、大きく一つ伸びをした。

それだけで周囲にひしめく人間達は怯えたように後ずさった。

 

「……ハァ」

 

開幕ダッシュに向けて集中を高めていくエルコンドルパサー。

これほどまでに緊張した事はレースでも無いかもしれない。

ふと周りを見渡せば、遠くで自分と同じように気を張り詰めるウマ娘の姿が見える。

記憶が正しければ、それはスピカのウマ娘達だった。

彼女らは全員が内に宿る異世界の魂を揺り起こしているらしい。

その内側から熱く滾る力の奔流があふれ出し、晩秋の冷たい空気に触れて薄っすらとオーラが視認できる。

臨戦態勢を整えたウマ娘達の様子に、青い顔をしたトレーナーらしき男が必死に宥めていた。

 

「お、おいお前ら走るなよ? 慌てなくったって入場は出来るんだからな?」

「何温い事言っていやがるトレーナー……ウンスの晴れ舞台に一階最前列立ち見に陣取らないでどうすんだよ」

「当然だよなぁ」

「あんたもたまにはいい事言うじゃない」

「何ヤル気になってるんだよお前ら、みんな見てるじゃないか」

「トレーナー、ウマ娘は見られてなんぼだよー」

「悪目立ちしてるって言ってんだよっ」

 

完全に掛かっているウマ娘達に手を焼いている様子のトレーナー。

混雑しているレース場入り口は其処だけぽっかりと人がはけている。

此処にいる者なら誰だって、興奮したウマ娘の傍が危険な事は知っているのだ。

しかし不運なトレーナーは此処で観衆のように避難する事は許されない。

レース場でウマ娘に跳ねられる人間など珍しくもないが、自分のチームのウマ娘が関わっていれば給料関係に響くお咎めが来るかもしれない。

これから年末に向けて出費が多くなる時期。

其れだけは避けたかった。

彼は腹に力を込め、忙しないウマ娘達を一括するために一人一人を見渡す。

そして吠えた。

 

「スズカぁ! 早く来てくれぇええええええっ」

「人任せかよ。情けねぇぞトレーナー」

「わたくし、入るチームを間違ったかしら……」

 

賑やかな連中から視線を切ったエルコンドルパサー。

どうやら彼女らも同じことを考えるライバルらしい。

しかし怪鳥はそんな事よりも、自分の隣で静かに佇む客の一人が気になっていた。

 

「呼ばれてるみたいですヨ~」

「大丈夫、トレーナーが何とかしてくれるって信じているから」

「……何ともならないから呼ばれているんだと思うんデスけどネ~」

「……あの騒ぎの中に入っていくのはちょっとその……恥ずかしいわ」

「ああ、まぁ……デスヨネー」

 

スピカが誇る異次元の逃亡者にしてセイウンスカイにとって恐怖の代名詞。

サイレンススズカがそこにいた。

故意か偶然か一瞬迷ったエルコンドルパサーは私服姿のスズカの全身を観察する。

 

「サイレンススズカ先輩は……」

「スズカで良いわよ」

「あ、じゃあワタシもエルで。私服で来てる現役のウマ娘って珍しくないデース?」

「制服だと学園のウマ娘だって分かって目立つから。レースでも場所取りでも、逃げウマ娘は良い位置からスタートしたいものなのよ」

「ああ、成程。次から私もその手で行ってみまショーかね」

「……その時は走りやすい服を選ぶと良いわ」

「……それがどうしてロングスカートになったんデース?」

「ソラちゃんが選んでくれたのよ。菊はこれを着て応援してくださいって」

「多分、此処で出遅れさせて遠ざけようとしてますネ……」

「そうね。だからこそ、しっかり最前列を確保して驚かせてあげなくちゃね」

「流石先輩、後輩思いデース」

 

濁り切ったセイウンスカイの顔を想像し、二人は小さく笑い合った。

 

「所でスズカ先輩は、次走ジャパンカップに出るんですよネ~?」

「ええ。エルちゃんも、そうよね。来年は凱旋門賞を獲りに行くらしいし……」

「デース。よろしくお願いしマース」

「ええ。よろしくね」

「それで、あの……脚は平気デース?」

「ええ、少し違和感が出ただけなの。なんなら秋天にも出れなくは無かったのよ」

 

長いスカートを従えて軽くステップを踏んで見せるスズカ。

脚を庇う様子も、引っかかる様子もない。

最後にターンからカーテシー。

よどみなく膝を落とす動作にも躊躇が無い。

教室でセイウンスカイの言った通り、コンディションに問題はなさそうである。

エルコンドルパサーは許可を貰ってスマホを構え、一連の動作を再現してもらった。

 

「良かったデース。世界に行くなら国内に敵無しって証明して出たいですカラ……勝ち負けと同じくらい誰に勝ったかが大事デース」

「私もそう思うわ。だから私の標的はエアグルーヴと……後は貴女よ」

「我らがダービーウマ娘を忘れてマース」

「スぺちゃん? あの子は今日走る筈……」

「デース。だけど、来ますよ」

「……そう。それは大変になりそうね」

 

サイレンススズカは進展目覚ましい一つ下のウマ娘達を思い息を吐く。

 

「本当に今年のCクラスは強いわね。ソラちゃんが世代戦で躓くほどだもの」

「すいません、気になっていたんですけど……ソラちゃんってウンスデース?」

「そう。セイウンスカイちゃん」

「……なんか、響きが綺麗すぎて似合いませんネー」

「あら、そんな事無いわよ? あの子綺麗な顔をしているし」

「其処は同意しますケドー……ウンスの走りはえげつないデショ?」

「くふっ」

 

口を両手で抑えて吹き込みそうになった息を呑むスズカ。

肩を震わせて俯いたスズカは、後輩のクラスメイトの目の前で笑うしかない。

 

「あぁ、そうね。ソラちゃんは本当にえぐいレースをするわ」

「此処だけの話、スズカ先輩は今日のレース、どう思いマース?」

「此処だけの話?」

「此処だけの話」

「オフレコ?」

「オフレコー」

 

悪戯っぽく笑う後輩に自然と肩の力が抜ける。

 

「エルちゃんもクラシック三冠はどんなウマ娘が勝つか……っという話は聞いたことがあるわよね?」

「イエース。皐月は仕上がりが早いウマ娘、ダービーは運の良いウマ娘、菊は強いウマ娘って言われてマース」

「ええ。一概にそうとも言えないけれど、単純に一番強いウマ娘が勝つとしたらソラちゃんだと思うわ」

「んー……強いって言ったら、ダービーの時のスぺちゃんこそ、理不尽なくらい強くなかったデース?」

「2400㍍はソラちゃんにはまだ短いわ。あの子の特技を生かすなら最低でも3000は欲しいの」

「特技?」

「ええ。今日はバ場も良いみたいだし、見せてくれるかもしれないわ」

「へぇ……」

 

エルコンドルパサーはスカートの中で窮屈そうに足を動かすスズカを見やる。

機敏には動けそうにない。

この調子では人ごみを縫って行こうともダッシュがつかないで遅れるだろう。

 

「スズカ先輩、最前列まで御連れしますカラ、ウンスの解説してくれマース?」

「え? 良いけれど」

「んじゃ、失礼しマース」

 

京都レース場が開場した。

先頭集団を形成するのはチームスピカのウマ娘達。

エルコンドルパサーはサイレンススズカを姫抱きにし、暴走するウマ娘の後ろを悠々と追走した。

 

 

 

§

 

 

 

賑やかなスピカの面々から少し離れた立見席。

その最前列に陣取ったエルコンドルパサーはサイレンススズカを解放する。

 

「ありがとう」

「いえいえ」

 

地に足を付けたスズカは、スマホでトレーナーに位置と一緒にいる相手を報告する。

既に互いの間には人波が出来ており、簡単に合流は出来そうにない。

スズカが電話をしている間、エルコンドルパサーはレース場を見渡す。

すぐに指定席にいるリギルのメンバーを発見した。

怪鳥は親友に手を振るが、硬い顔で目を逸らされる。

 

「あれ、グラス機嫌悪そうですネ~」

「私を抱えて来たからじゃない?」

「えー……?」

「ほら、私が私服だから……誰か分かっていないとか」

「あぁ、帽子も被っていますしネ」

 

親友が知らない相手と知らない所で仲良くしていたら、いい気分にはならないかも知れない。

グラスワンダーに指定席観戦を誘われたが、断って一般席で立ち見に来ているという事情もあった。

そう思って納得したエルコンドルパサーはすぐに気持ちを切り替える。

もうすぐクラシック最終戦、菊花賞が始まる。

余計なものを持ち込んで観戦したくなかった。

 

「スズカ先輩、ウンスはどんな感じデース?」

「レースプランは固まっているわ。最近はむしろ、私のジャパンカップ対策の方に付き合ってくれたくらい」

「へぇ」

「昨日会った様子だと調子は良くも悪くもない、平坦な所みたい」

「……ウンス大丈夫ですかネ~。スぺちゃんとか、管理を全部トレーナーさんがするようになって艶々してマース」

「私がリギルにいた頃も、トレーナーさんに体重やコンディションを管理してもらえばレース当日は殆どいつもベストだったわ」

 

摂取するカロリーと消費するカロリー。

レースにおける走りのキレとスタミナの維持。

これらを見極めて何処まで絞るか、もしくは増やすか。

急激な増減も体の負担が大きくなる。

どのレースに向けて何時からコンディションを整えるか。

それはウマ娘一人一人に個別の正解があり、トレーナーにとって悩みの種だろう。

リギルのトレーナー東条ハナは、この正解を見つけ出す事が巧い。

スペシャルウィークに対して京都新聞杯の時のような隙は無いだろう。

 

「スズカ先輩って、どうしてリギルから移籍したのか聞いても良いデース?」

「私は大逃げでレースをしたかったのだけれど、あまり勝ちの常道ではないでしょう? 東条トレーナーは奇計奇策みたいな走りは好まない方だから」

「成程」

「リギルを離れて、スピカに入って……ソラちゃんに出会って、やっと私も東条トレーナーの言っていた事の意味が分かったわ」

「それは?」

「ソラちゃんに言われたのよね。私は逃げウマ娘じゃないって」

「え……逃げウマ娘って言われれば、誰だってスズカ先輩だって言うほどだと思うんですケド」

「ありがとう。勿論それはソラちゃんの定義する逃げウマ娘に私は当てはまらないという意味よ。私自身は自分こそが逃げウマだと思っているのだけれど……でも多分、東条トレーナーにお聞きしてもソラちゃんと同じ意見なんだと思うのよね。だから私は、リギルで逃げのスタイルが認められなかった」

「じゃ、ウンスならリギルで大逃げやっても認められるのかナ」

「私はそう思う。逃げで勝つウマ娘ってね? 本当にいろんな準備をして、考えながらレースを組み立てて……頭を使って逃げるらしいわ」

「スズカ先輩は?」

「私は速く走って疲れたら息を入れて最後にもうひと頑張りすればそこがゴールだから」

「……理不尽デース」

「毎日王冠だと、息を入れる事も忘れて走っちゃったけれどね」

 

サイレンススズカは恥ずかし気に帽子を深くかぶって口元に苦い笑みを浮かべた。

そうしていると第一レースに出走するウマ娘達が入場してくる。

メインレースの菊花賞は十一レースであり、十五時過ぎの発走予定。

 

「スぺちゃんは午後入りするって言ってたんですケド、ウンスは何時頃来るのカナ?」

「さぁ……あの子は何時もまちまちなのよね。トレーナーの車でみんな一緒に来ることもあるし、適当に電車を乗り継いでくることもあるの。トレーナーとしては電車が止まると困るから、出来れば一緒に行動して欲しいみたいだけど……」

「掴みどころが無いのは、チームでも一緒見たいデスネ~」

「あぁ、クラスでもそうなのね」

「イエース」

 

自分の知らない所にいる知人の情報を共有して笑みを交わす二人。

チームでも、クラスでも、セイウンスカイが上手くやっているらしいことを双方が感じる。

エルコンドルパサーはやや表情を改めてスズカに向き合った。

 

「あの、ウンスの事……良くしてくれてありがとうございます」

「え?」

「実は私、少しあいつの事心配だったんです。ウンスは普段からちょっと冷めてるし、レースには熱い癖に冷めてる風でいようとするし……」

「ああ、そういう所もあるわね」

「付き合ってると気の良い奴なんですけどね。分かってる奴が周りにいれば良いんですけど……新しい所に出たら最初はなかなか馴染めないんじゃないかって、少し心配してました」

「……」

「スズカ先輩の事、クラスじゃウンスはよく話してますよ」

「良く言ってないでしょう?」

「えっと……ウンスの言葉を頭から全部信じるなら控えめに言って悪魔みたいですけど……でも良いんだと思います」

「悪魔みたいかぁ」

「嫌がろうが逃げようがグイグイ入っていく人が必要なんだと思うんですよ、ウンスには。本気で嫌だったら我慢しないで距離取りますから。とっくにチーム辞めてる筈です。だから、あいつ絶対スピカの事好きですよ」

「ありがとう。自信がついちゃったわ」

「……ウンスには内緒ダヨ?」

「ええ、内緒ね」

 

スズカと笑い合いながら、内心でクラスメイトに合掌するエルコンドルパサー。

これからもセイウンスカイはサイレンススズカに構われ続ける事だろう。

それはセイウンスカイにとって、きっと悪い事にはならない筈。

良いことをしたなと満足気なエルコンドルパサーと、後輩に良い友人がいる事を喜ぶサイレンススズカ。

和やかに、時として真剣に語り合う二人。

その様子を、リギルの親友はずっと見ていた。

 

 

 

§

 

 

 

『手拍子に迎えられ、ファンファーレが鳴らされます

 

 

ジュニアCクラス最後の一冠、菊花賞

 

 

なんと今期は全てのウマ娘が勝ち上がりを果たした奇跡の世代

 

 

ハイレベルと称される彼女らの中で、

 

 

今日、一つの頂点が決まります

 

 

皐月賞ウマ娘セイウンスカイはダービーの雪辱を果たすのか

 

 

ダービーウマ娘スペシャルウィークが二冠目を手に掛けるのか

 

 

あるいはこの二人の一騎打ちに待ったをかけるウマ娘が現れるのか――』

 

 

 

実況と共にプログラムが進み、各ウマ娘が係員の案内に従ってゲートに向かう。

今日の一番人気であるセイウンスカイは案の定とも言うべきか、表情が暗い。

 

「ウンス……これから絞められるニワトリさんみたいデース」

「ソラちゃん、本当にゲート嫌いなのよね」

「でも拒否してないデースから、今日は多分ましな方ですよネ」

「ええ、此処が一番の不安要素だったから……もう大丈夫」

 

セイウンスカイは2枠4番。

偶数番号はゲートにいる時間が短い。

その中でも内寄りのこの位置は、セイウンスカイにとって絶好に近い番号だろう。

 

「それで先輩、ウンスのレースプランは固まっているって言ってましたケド……」

「ソラちゃんがあの位置からスタートするなら、展開は逃げ一択よ」

「京都大賞典はお手本みたいな綺麗な逃げ勝ちしてましたネ~」

「そうね……今日はどっちの逃げを使うかしら」

「選択肢があるんデス?」

「ええ、1000㍍の通過タイムが一つのポイントになると思うわ」

 

 

 

『奇数番号のウマ娘達が次々とゲート入りしていきます

 

 

此処まではスムーズな入場です

 

 

続いて偶数番号のウマ娘達

 

 

本日の一番人気、セイウンスカイも今日は嫌がることなく入りました

 

 

続くウマ娘も滞りなく、全てのウマ娘がゲートに収まりました

 

 

さぁ、今――

 

 

菊花賞――

 

 

――スタートしました!』

 

 

 

西日に向かって17人のウマ娘達が飛び出していく。

先頭争いを制したのは予想通りセイウンスカイ。

これはどちらかと言えば譲られたようにも見えた。

滅多に無い長距離レースの先頭で、ペース配分を作るのは遠慮したいという事か。

セイウンスカイが前に出るなら、ご自由にとばかりに他のウマ娘は後ろについた。

ダービーウマ娘のスペシャルウィークもその一人。

特に彼女は京都新聞杯の反省も有り、トレーナーと序盤は見ていくと決めていた。

しかし何も考えずに控えるわけではない。

 

(序盤は少し抑えめに、自分の時計で平均ペース。ウンスちゃんの乱ペースには付き合わない。最後の直線でぶっちぎるっ)

 

ダービーの時は至近距離から圧をかけても乱ペースに巻き込まれた。

その経験を踏まえれば、自分で時計を刻みながら遠目にセイウンスカイの全身を観察したい。

バ群はセイウンスカイまで5バ身程の距離で固まった。

逃げウマ娘を追走する展開としては、遠すぎず近すぎずの良い距離である。

スペシャルウィークはバ群の中団よりやや後ろ。

その真後ろにはキングヘイローもついてくる。

 

(落ち着いて後ろから見ると……スペシャルウィークさんの調子は良さそうか。何処かで前に出て先に仕掛ける。この後ろから仕掛けたら、多分今日は差し切れない)

(私もウンスちゃん見てるけど、ヘイローちゃんは私を見てるね……やり難いなぁ)

 

セイウンスカイは先頭のまま、スタート直後の坂を上って3コーナーの下りに入った。

セオリー通り、ゆっくりと。

この下りで抑えなければ4コーナーで膨らんでしまう。

長丁場であり、6回のコーナーワークが必要な菊花賞。

インコースを無駄なく締めて少しでも距離のロスを減らす。

4コーナーを曲がり切ったセイウンスカイがスタンド正面を駆けてゆく。

下りでやや縮まった差が再び5バ身程に開く。

この直線でキングヘイローがじわりと位置を上げていった。

スペシャルウィークは見送ってバ群の中団をキープする。

 

(ウンスちゃんを捕まえに行く感じじゃないかな? 少し前目に取ってラストスパートを楽にしたいんだと思うんだけど)

(スペシャルウィークさんは来ないならそれでいい。問題はウンスに届くかどうか。あの子のペースには付き合わない。私が届く位置にいれば良い)

 

 

 

『先頭セイウンスカイ!

 

 

二バ身差で追いかけますレオリュウホウ!

 

 

其処から三バ身程遅れて三番手キングヘイローです!

 

 

セイウンスカイは1000㍍通過が60秒!

 

 

距離を考えればハイペースか?

 

 

ダービーウマ娘スペシャルウィークはまだバ群の中団から後方!

 

 

此処から誰が仕掛けるのか、まだセイウンスカイを見ていくか――』

 

 

 

―――

 

 

 

スズカの示唆した1000㍍を過ぎて60秒平均ペース。

良バ場とは言え3000㍍なら、実況の通り早めと言える展開である。

 

「これはウンスとしてはどうなんデース?」

「良くもなく、悪くもなく……早くないけれど、先頭で逃げていられる訳だから展開としては及第点かしら」

「スズカ先輩も厳しいデース」

「此処の時点だとそうなるわ。この先レースが進んだら、どう転ぶか分からないけれど」

「次の1000が勝負所デースかね?」

「そうね……誰かソラちゃんを止めに行かないと後半大変かもしれないわ」

「止めに行くって……早めのペースで入ってるのに突っ込みに行ったら……」

「今からじゃ、行ったウマ娘の勝ちは無くなるわね。やるなら毎日王冠の彼女みたいに、序盤で行くって決め打ちしながら中盤で休むくらい極端な走りをしないと」

「そりゃ、行きたくないデースね……こうなるとウンスの作戦勝ちかな」

「まだ勝ってないわ。はまりつつあるだけで。それに……」

 

サイレンススズカはバ群の後方に位置するスペシャルウィークに目を送る。

この後輩は寮のルームメイトであり、話す機会もそれなりにあった。

スズカから見ると口下手であり、あがり症な後輩。

普段関わる様子では、とても大レースで注目を浴びる事に耐えられそうに無かった。

しかしダービーといい今といい、大観衆の声援を受けて力強く走っている。

 

「何かを起こすなら、やっぱりダービーウマ娘かしら」

「あの位置にいるって事は、スぺちゃん脚を残して入ろうとしてますよネ」

「そうね……だけど、届くかな」

「ラストの直線は2ハロンありますカラ……ウンスの脚が止まっちゃえばスぺちゃん有利デース」

「確かに。その400㍍が、逃げウマ娘にとって地獄なのよね」

 

 

 

――

 

 

 

スタンド正面から第1コーナーに入ったセイウンスカイ。

徐々にバ群の速度が上がって来たのか、差が少しずつ詰まってくる。

5バ身から4バ身。

4バ身から3バ身。

第2コーナーを抜けた時、セイウンスカイのリードは1バ身を割っていた。

 

 

 

『先頭セイウンスカイ!

 

 

だが後続のウマ娘はペースが上がったか!?

 

 

セイウンスカイもうリードが無い!

 

 

バ群の先頭はキングヘイロー!

 

 

此処でスペシャルウィークも上がって来た――』

 

 

 

第2コーナーを抜けた向こう正面。

此処から第3コーナーまでは最も長い直線があり、長い上り坂でもある。

スペシャルウィークは体感として、あまり速度を上げていない。

順位が上がったのは周りのウマ娘達が疲労で控え気味になったからだろう。

セイウンスカイも殆どバ群の先頭に捕まっている。

 

(ウンスちゃんも捕まってるし、末脚だったら私が強い。此処からなら届く)

 

スペシャルウィークは上り坂に対応して足のピッチを上げる。

それにしても3000は長い。

しかも後半にこの登りである。

スペシャルウィークの息が上がる。

周りのウマ娘達もかなり息が上がっている。

 

(坂キツ! 末脚を残すとか言ってられないっ。言ってられないけど頑張らなきゃ勝てない……ウンスちゃんもう少し落ちてこないかなぁ)

 

セイウンスカイは上り坂に入ってまたペースを上げたのか。

少しずつ、本当に少しずつリードを開いていく。

その様子にスペシャルウィークはうんざりする。

セイウンスカイにではない。

楽に相手が潰れてくれないか、などと甘い事を考えた自分にである。

 

(相手は皐月賞ウマ娘! セイウンスカイ! 私のライバル! あの子に勝つって大変なんだから弱気な事考えないっ)

 

バ群を形成するウマ娘達も速度を維持するのが難しくなってきたらしい。

相対的にスペシャルウィークの順位が上がった。

スペシャルウィークは不思議な感覚の中にいた。

自分の中の速度を維持する事と、先頭までの距離を維持する事。

この二つは別々の作業の筈なのに釣り合っている。

辛いレース後半の登りで速度を維持することが出来るのは、コンディションが良いからだろう。

スペシャルウィークはこの日を迎えるにあたって苦労を掛けたトレーナーに内心で頭を下げる。

終わったら改めてお礼を言おう。

セイウンスカイとの距離が変わらないのは向こうも同じ速度で走っているからだろう。

スペシャルウィークがバ群の中で順位が上がれば、セイウンスカイのリードも同じように開いていった。

 

(走りやすい……あれっ?)

 

セイウンスカイを見ながらシンクロするように走っていたスペシャルウィークは、視界の中に変化を感じてもう一度バ群を観察する。

正体はキングヘイロー。

バ群の先頭にありながら、徐々に登りでセイウンスカイに逃げられていたキングヘイローがスパートした。

まだ向こう正面上り坂の中ほどである。

 

(ヘイローちゃん此処で行ったか……ウンスちゃんは……落ち着いてる)

 

キングヘイローが開けられた差をじわりじわりと詰めていく。

しかしセイウンスカイは全く動じていないように見える。

スペシャルウィークは前の二人を見ながら序盤で止めたカウンティングを再開した。

セイウンスカイとの距離は開いていない。

自分の速度も落ちていない……と、思う。

それでも距離と速度が釣り合っている今のうちに、もう一度正確に測りなおす。

リギルに入ってから会得した走法の一つ。

歩幅を調整して歩数によって1ハロンを測る。

それに何秒掛ったかで自分の速度を割り出せる。

 

(ひーふーみーっと……足きついけど間違ってないよね。1ハロン12秒の平均ペース)

 

レース終盤の此処ではその平均を維持する事すら辛い。

それは周囲のウマ娘達が徐々に下がっている所からも理解できる。

恐らく此処で平均を取れているのはスペシャルウィークとセイウンスカイだけ。

キングヘイローは適正距離の限界か、セイウンスカイを捕まえる寸前で足が伸びなくなる。

第3コーナーの入り口では逆に差をつけられていた。

 

(あれ……)

 

スペシャルウィークはセイウンスカイとキングヘイローの勝負に違和感を覚えた。

というよりも、アレは勝負だったのか?

何かがおかしい。

何か、致命的な間違いを見落としている気がする。

 

(……ウンスちゃんはキープで逃げてヘイローちゃんは抜きに行って失敗した。私はウンスちゃんと開いてない。速さでは勝ってないけど、負けてもいない。1ハロン平均の12秒で……)

 

そう言えば、1000㍍の通過は60秒ではなかったろうか。

セイウンスカイは先程から等速をキープしている。

彼女の走り方は序盤から変わっていない気がする。

ならば数えていなかったが、2000㍍は120秒だったのではないだろうか。

それならば、最後の3000㍍は……

 

 

 

――

 

 

「私がリギルにいた頃ね?」

「ハイ」

「逃げをやりたいって東条トレーナーに相談した時、凄い色々難しい事を教えてくれたのよ」

「難しい事ですか」

「その中で、逃げウマ娘が多くない理由の一つが私達の身体の作り方にあるらしいの」

「……また難しそうデース」

「私達の頭って体重の大体一割を占めているらしいのだけれど、酸素の消費量は全体の二割を持っていくらしいわ」

「ふむぅ……つまり効率が悪い部分なんですネ~」

「そう。しかもレース中に使えば使うほど其処で酸素を使うから、逃げウマ娘って大変らしいわ。ソラちゃんなんか凄いわよ? レースで真剣勝負しながら、先ず時計を数えているの。それに歩数と、ゴールまでの距離も数えてる。其処から後ろのウマ娘の様子で歩幅を変えたり、走る見た目を変えたりしながら人とペースをコントロールしているのね」

 

レースでは向こう正面でキングヘイローがセイウンスカイを捉えに行った。

エルコンドルパサーから見れば、長距離が得意でない彼女の選択としては分の悪い賭けだと思う。

 

「あ、あの緑の子は気づいたわね」

「わっつ?」

「ソラちゃんは私とは異なるタイプの逃げウマ娘なのよ。色々な事を考えながら走れる凄い子なの。だけどウマ娘でも人体でも、構造上どうしても考えれば考えるほど疲れるのよ。其処で体力を使ってしまう」

「でもウンスはスズカさんみたいなスピードで押し切るのは無理ですヨ?」

「だけどソラちゃんはね、ウマなりで走りやすいように走った時、丁度1ハロン12秒で走れるの。そう揃える事が出来て、初めて逃げウマ娘を名乗れるらしいから」

「……」

「1ハロン12秒なら1000㍍を60秒で走れるでしょう? 2000㍍も120秒で走れるでしょう? なら3000㍍を180秒。ね? 簡単でしょ」

「そんなわけあるか」

「ふふっ。だけど普段色々考えて走るソラちゃんが頭を空っぽにして走った時、そんな非常識が実現してしまうかもしれないわよ」

 

苦虫を噛みつぶした顔で突っ込むエルコンドルパサー。

その顔がおかしいのか、口元に手を添えて笑うサイレンススズカ。

レースに目を向ければセイウンスカイは第3コーナーの下り坂に差し掛かっている。

此処でスペシャルウィークも慌てたようにセイウンスカイを捕まえに行った。

 

「スぺちゃんも気づいたかな? でも遅かった」

「まだ……下り坂でペース上げられマース」

「そうね。だけど最後の直線は平地よ? 下った直後の平地って、体力が無い時は登りに感じるのよね」

「……」

「しかもそこそこ長い2ハロンあるわ。さぁ、ダービーの時みたいに差し切れるかしら」

 

 

 

『スペシャルウィーク此処で仕掛けたっ

 

下り3コーナーでスパートを切りました!

 

 

坂を使ってセイウンスカイを捕まえる!

 

 

並ばない並ばない!

 

 

先頭スペシャルウィークに変わって4コーナーに向かう!

 

しかし大きく外に膨らんだ!

 

 

内を突いてセイウンスカイがもう一度上がってくるっ

 

 

第4コーナーを回って最後の直線に入ります!

 

 

先頭はやはりこの二人っ

 

 

内セイウンスカイ!

外スペシャルウィーク!

 

 

後続のウマ娘達は脚がつかないっ

 

完全に前二人!

 

しかし足色が良いのは内!

 

セイウンスカイっ

ダービーウマ娘を直線で突き放す!

 

スペシャルウィークはいっぱいか!?

 

 

 

先頭セイウンスカイ!

 

完全に一人旅!

 

 

セイウンスカイ!

 

 

セイウンスカイっ!

 

 

今一着でゴールイン!

 

 

勝ったのは皐月賞ウマ娘セイウンスカイ!

 

 

二着はスペシャルウィークが入りますっ

 

 

掲示板の表示ではなんと8バ身差……あぁっと掲示板にはRのランプがついています!

 

第■■回菊花賞はレコード決着!

 

セイウンスカイ3:01:9!

 

 

圧倒のレコード勝利です――』

 

 

 

§

 

 

 

大勢の人間が信じがたいものを見た時、歓声よりもどよめきが起こるものらしい。

其れほどの衝撃だった。

ラスト400㍍。

スペシャルウィークがどれほど追っても差は開くばかり。

 

(ウンスちゃんの脚が早くなったんじゃないよね……私が先に潰れたんだ)

 

スペシャルウィークはセイウンスカイの乱ペースを警戒していた。

他のウマ娘達もそうだっただろう。

しかし蓋を開けてみれば、セイウンスカイは正確な平均ペースを貫いた。

リギルで確認してみなければ分からないが、おそらく終盤に疲れが来るまで同じラップを刻んでいたに違いない。

通常ならば決して早いとは言えない時計が、3000㍍という距離を得て凶器に化けた。

スペシャルウィークを初め、セイウンスカイ以外のウマ娘は全員が機械的にすり潰されたのだ。

決して逃げていたわけではないのだろう。

ただ、3000㍍を走るなら1000㍍平均60秒はハイペースに当たる。

だから誰も気づけなかった……

 

(凄かった! ウンスちゃん凄い強かったっ)

 

セイウンスカイはターフに身体を投げ出している。

空を見つめる勝者に、やっと現実を認識した観衆から祝福の声が降り注いだ。

セイウンスカイは自分に掛けられた声を掴むように手を伸ばした。

 

「ウンスちゃん」

「スぺちゃん……」

 

セイウンスカイが伸ばした手をスペシャルウィークが掴んだ。

そしてゆっくり引いて立ち上がらせる。

 

「もぅ……もう少し寝かせといてよー」

「勝者が何時までも寝てちゃダメだよ」

 

なんとか立ち上ったセイウンスカイと、引き起こしたスペシャルウィークの視線がからむ。

スペシャルウィークはセイウンスカイを一度だけ強く抱きしめた。

 

「……おめでとう、ウンスちゃん」

「……ありがとう、スぺちゃん」

 

言葉を交わして二人は離れた。

勝者であるセイウンスカイはウィナーズ・サークルへ。

敗者であるスペシャルウィークは地下道へ。

 

「……」

 

立ち去っていくスペシャルウィークをしばらく見つめていたセイウンスカイ。

一つ息を吐いて観客を見渡し、両手を振って歓声に応えた。

セイウンスカイは皐月賞に続く二度目の戴冠。

此処に一つの世代の物語が決着した。

万来の拍手を浴びて花道に臨む彼女の耳には、近くて遠いナニかの嘶きが響いていた。

 

 

 



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13.見る事しか出来なかった夢

飛べない高さのハードルを作者自ら配置していくスタイル(´;ω;`)ウッ…


菊花賞でセイウンスカイが衝撃のワールドレコードを達成した翌日。

帰寮したエルコンドルパサーは自室で正座していた。

数歩先には魔王モードのグラスワンダーがコンドルを従えて見下ろしてくる。

前回との違いは、エルコンドルパサーの腿の上に抱き石を象ったクッションが乗せられている事。

そしてグラスワンダーが勝負服を着ている事である。

 

「ヘイ、グラスぅ……京都から戻って早々に、石抱き拷問の真似事とは穏やかじゃないデース」

「つまり朝帰りまでしておきながら、エルの方にはこのような扱いを受ける身に覚えが、全くないと主張しますか?」

「……このクッションはなんなのサー?」

「京土産です」

「サンキュー」

「どういたしまして」

 

半眼でグラスワンダーを見上げるが、相手も半眼で見下ろしてくる。

エルコンドルパサーは腿に乗るクッションを脛の下に敷こうとしたが、グラスワンダーが不満そうな顔をしたのであきらめた。

このクッションの定位置は、やはり腿の上らしい。

 

「エル……私がどうして怒っているか分かりますか?」

「まぁ、ワタシも木石じゃないデースから……グラスがご立腹なのも分りますヨ」

「へぇ?」

「あれでしょ? 一昨日グラスと一緒に食べようと思って買ってきたたい焼き、お腹空いて全部ワタシが食べちゃったのが不満だったんだよネ」

「抱き石、もう一つ追加しますね」

「ノーゥ!」

 

グラスワンダーは自分用に買ってきた分のクッションをエルコンドルパサーに積む。

重さは無いに等しいが、見た目は相当アレだった。

ため息を吐くエルコンドルパサーは、親友に困ったような視線を送る。

以前は進路の件で間違いなく自分が悪いと思っていたから平伏した怪鳥だが、今回は明らかに不満げである。

 

「エル、貴女は昨日京都レース場に行きましたね」

「行ったケド……」

「隣に女性を侍らせて」

「はべらせるっていうのは、語弊が無い?」

「お綺麗な人でしたね」

「それは否定しないけどサ~」

「エル、チャラいです」

「いや、待ってグラス。アレが誰か、もしかして分かってないノ?」

 

エルコンドルパサーが問いかければ、グラスワンダーはペットと顔を見合わせた。

意思の疎通が取れているとしか思えないその仕草に戦慄する飼い主。

 

「私、紹介していただいたことありましたっけ?」

「間違いなくワタシより先に知り合ってるのはグラスだからネ! あの人スズカ先輩デース」

「ウソぉ!?」

「ほんとほんと」

「いつの間に口説いたんですか、この色事師はっ」

「発想に偏見混ぜるの止めよう? レース場の入り口で偶々お会いして、ウンスの話聞かせてもらってただけだから」

「えぇ……?」

「何か不審な点がありますかネ~」

「不信な点しかないからこうして事情を聞いているんです」

 

全く自覚のない親友の様子にため息を吐いたグラスワンダー。

 

「成程。スズカ先輩はスピカですから、セイウンスカイちゃんの応援に来ていてもおかしくありませんよね」

「イエース」

「で……どうやってスピカの皆さんの中から一人だけ連れ出したんですか?」

「いやっ、最初からスズカ先輩はスピカと離れてたからね!?」

「スピカの皆さん全員が制服を着ていたのに、スズカ先輩だけ私服で別行動? 前もってエルと約束していたと取られても仕方ないと思いませんか?」

「……グラスはそれで怒ってるノ?」

「いいえ? クラスのラインが大騒ぎになっているんですよ」

「は?」

 

エルコンドルパサーは全く予想外の解答に、自分のデスクの上に置かれたスマホに目をやった。

しかし抱き石が乗っているため動くのを迷う。

そうしているとグラスワンダーが自分のスマホを見せてくれた。

 

「エル自身は制服だったから間違いようがありません。その隣に見知らぬ私服の美人を連れて……」

「……ソンナバカナ」

「昨日は菊花賞ですよ!? ジュニアCクラス最後のお祭り! クラスメイトはみんなあそこにいたんですよ! 皆がエルとあの人が一緒に、楽しそうにしている所を見ているんです! グループラインも大炎上ですけど何より個別! 私の所に引っ切り無しっ。昨日から私がどれだけ対応に困っているか分かります!? エルはクラスじゃ目立つんですよ!」

「それワタシのせいデース!? …………ワタシのせいかぁ……」

「それは私だって、最初はエルの言う様な怒り方もしていましたよ? 私の誘いは断ったのに知らない人と待ち合わせていたって、それは面白くないですから」

「それはゴメン……前で見たかったし、グラス以外のリギルの人達はなんってーか……煙たかったから。待ち合わせは誤解デース」

「信じます。正直もう……クラスの半分からは気遣われて、半分からは詮索されて怒るどころじゃなかったです」

「ゴメン、グラス……迷惑かけちゃった」

「……はぁ、分かりました。私は許しましょう」

 

グラスワンダーは疲れた笑みを浮かべて頷いた。

怪鳥は魔王が見せる微笑に感激の涙が滲む。

 

「グラスぅ……心の友ヨー」

「それでは、クラスのグループラインで真相を私から報告しておきますね。あの謎の美人さんはスズカ先輩だったって」

「うん。ありがとうネ、グラス」

「もう、エルは世話が焼けるんですから」

 

グラスワンダーはそう言ってスマホを操作する。

片腕に居座るコンドルに何度か邪魔をされながらも、クラスのグループラインに真相を書き込んだ。

その様子からは咎めるような雰囲気はないが、迷惑をかけた反省の意を示す為、石抱きは続行するエルコンドルパサー。

 

「あ、そうそう」

「わっつ?」

「私は許してあげますが……」

 

その時、寮内から凄まじい破砕音が響き渡る。

呆然とした怪鳥は、クッションを退ける事も忘れて音がした方向に視線を送った。

直ぐに廊下から一人分の足音が聞こえてくる。

それは真っすぐこの部屋に向かっていた。

 

「スぺちゃんが、許すかな?」

「グラスぅううううううううう!?」

 

エルコンドルパサーが自分は何一つ許されていない事を悟った瞬間、二人の部屋にノックが響く。

 

「グラスちゃん、エルちゃん。少しお話聞かせてくれる?」

「どうぞ、入ってください」

 

先程の破砕音から考えれば不気味な程静かにあけられた入り口。

其処には今期のダービーウマ娘、スペシャルウィークが幽鬼のように立ち尽くしていた……

 

 

 

§

 

 

 

「魔王が悪堕ちした勇者を呼ぶとか、人生はクソゲーと一緒デース……」

「こんにちわグラスちゃん」

「いらっしゃいスぺちゃん」

「エルちゃん。その恰好似合ってるね」

「……慈悲は無いんデース?」

「とりあえず、駆け付け一石ね」

「ノーーーーーゥ!」

 

異世界の魂を開放し、その全身から薄桃色のオーラを従えたスペシャルウィーク。

何故かその両腕には抱き石クッションが持参されており、罪人に積み上げられた。

 

「なんでスぺちゃんもそんなもの持っているんデース?」

「京土産だよ。マルゼンスキー先輩のお勧め」

「あんのバーバ……余計な事しかしないネ」

「こうして役に立っているんだから先見の明だよね。さぁエルちゃん、罪の数を数える時間だよ」

「スぺちゃんに裁かれるような罪があったカナー?」

「私が菊でウンスちゃんにボコボコにされてる時、私の女神と逢引きしてた」

「ゴメンナサイ」

「後無断外泊」

「いや、寮長に連絡はしてあるから無断じゃなくて……言い訳は方便だけどサ」

 

エルコンドルパサーは慎重に言葉を選びつつスペシャルウィークと対峙する。

グラスワンダーと異なる位置にいる友人だけに、対応は少し気を遣うのだ。

三つ重ねられた抱き石のずれを律儀に直し、エルコンドルパサーは机の上のスマホを手で差した。

 

「あの中に粗方の事情が入ってマース」

「あの……エルちゃんの卑猥な私生活を見せつけられても困るんだけど」

「ハッハッハ……ピンクなのはオーラだけにしとけヨ、ジャパニーズ田舎ウマ娘」

 

額に青筋を浮かべながらスペシャルウィークの疑惑を否定するエルコンドルパサー。

スペシャルウィークはグラスワンダーを顔を合わせた。

 

「だってエルちゃん、レース場にいた美人と最後は一緒に出て行って、昨日帰ってこなかったもん。大人の階段を上ったって皆言ってるもん」

「妄想力逞し過ぎませんかねぇマイクラス!? 普通にスピカでウンスの祝勝会に誘われてお邪魔してただけデスからネ!」

「それがどうして朝帰りになったんですか?」

「いや、京都の周りってお店閉まるの早くってさ……終電まで結構時間あったからスピカの皆さんと別れた後、移動してネカフェ入ったのネ? 菊花賞の中継大きい画面で見たかったから」

「なるほど」

「そこでウンスのペース勘定したりワタシならどう戦うか考えたり……後、最近取った写真の整理とかしてたらもう動くの面倒になっちゃってサ~。祝勝会の後でお腹いっぱいだったしネ」

「そこで寝ちゃったんですね」

「うん。良いよネ~最近のネカフェって。衛生用品からシャワーまであるんダヨ」

「……はぁ」

「そんなわけだからスぺちゃん、スマホ見ても平気ダヨ」

「ん、それじゃ遠慮なく」

 

スペシャルウィークはデスクに立てかけられているスマホを起動する。

そしてデータフォルダから昨日の日付でまとめられた写真を開いた。

 

「っ!?」

「ちょっ!」

 

一枚目で微笑するスズカに硬直したスペシャルウィークは、怪鳥のスマホを取り落とす。

しかし驚異的な反射神経で膝の高さでキャッチした。

 

「危ない……国宝に傷が付くところだった」

「其処まで!?」

「いや、最早世界遺産すら生温いね。この世界で唯一出会える女神の最新情報だもん」

「……グラスぅ、スぺちゃん何言ってるデース?」

「知りませんよ……餌を与えたのはエルじゃないですか」

 

若干と言わず引き気味の部屋主達。

スペシャルウィークは慎重にスマホを操作し、一つ一つの写真を吟味していく。

レース場の写真が三十枚ほど。

菊花賞のみならず、当日行われた様々なレースの写真が残されている。

その後、スピカの打ち上げ会場とおぼしき焼き肉屋での写真が二十枚ほど。

疲れ切ったセイウンスカイをこれでもかと言うほど弄るスピカのメンバー達が映っていた。

あの飄々としたウマ娘が、チームでは玩具になっているらしい。

 

「エルちゃん」

「ハイ?」

「二着だけど、菊花賞の賞金全部出す」

「非売品デース」

「そんなぁ」

 

半泣きになっているスペシャルウィーク。

哀愁漂い庇護欲を刺激されるその姿に、エルコンドルパサーも戸惑った。

 

「まぁ、スぺちゃんがスズカ先輩のファンだって言うのは私も知ってるシ~」

「ふんふんふんふん!」

「……にじり寄ってこないデ。動画の所に封印指定ってフォルダがあるから開けてみて? パスはグラスの誕生日ダヨ」

「えっと……てことは0218かな」

「イエス。一番新しいのに昨日の美人のアイコンがあるデショ? それはスぺちゃんに譲ってもいいって許可貰っといたから」

「………………」

 

スペシャルウィークの時が止まった。

正確には指以外の時が止まった。

私服姿のサイレンススズカが動いている。

軽快に踏まれたダンスステップ。

ロングスカートを華麗に従えたターン。

そしてスカートの裾を持ち上げ、最後に深いカーテシー。

15秒ほどの動画の中に神はいた。

感極まって滂沱の涙を流すスペシャルウィーク。

自分が泣いている事も気づかず、只管動画を繰り返す。

 

「あーあ……」

「ワタシ、何か間違ったデスかね?」

 

自分が取り返しのつかない事をしたかもしれないと不安になったエルコンドルパサー。

禁酒中のアル中患者に酒を渡してしまった感覚が近いだろうか。

 

「……凄い。これ凄い……エアグルーヴ先輩だってこんなお宝持ってないよエルちゃん」

「まぁ……その服、多分昨日初めて下ろした奴っぽいしネ」

「これ、私が貰って良いの?」

「うん。それはスぺちゃん譲渡の許可貰ってるから」

「私、明日からも頑張っていけそう」

「それは良かったデース」

「私の事はこれから犬とお呼びください」

「スぺちゃん、おてぐふぉ!?」

「エル、調子に乗らない」

 

エルコンドルパサーのわき腹をつま先でつついたグラスワンダー。

その突っ込みにより、チームメイトは人の尊厳を売らずに済んだ。

しかし幾らグラスワンダーが守ろうとしても、当人が売りたがっているのだから処置はない。

 

「大丈夫ご主人様? 脚舐めようか?」

「ごめんスぺちゃん、それ上げるから正気に戻ってネ」

「正気だからこそなんだけどなぁ」

「……この子が私たちの世代の代表、ダービーウマ娘なんですねぇ」

「それ言っちゃダメだよグラス。泣きたくなるジャン」

 

スペシャルウィークは手にした怪鳥のスマホを机に安置する。

そして二拝二拍手一拝を行った後、自分のスマホにデータを移す。

 

「大天使エルちゃん」

「天使とナ?」

「私を女神を結び付けてくれた愛の天使だから。このお礼は必ず」

「ハーイ」

 

突っ込みどころが多すぎて突っ込めない。

最早面倒になったエルコンドルパサーは適当に聞き流すことにした。

 

「ところでー……ワタシに関して随分スキャンダラスな想像が独り歩きしているっぽいんデスけど……」

「そういえば、私は昨日個別に来る方々の相手をしていたのでグループは追い切れていないんですよね」

「まぁ、みんな本気でエルちゃんが浮気してるって思ってるわけじゃないっぽいから」

「浮気って……」

「調度良い状況だし、ラインに写真一枚上げれば沈静化するよ」

 

スペシャルウィークは正座中の怪鳥の横にグラスワンダーを立たせた。

 

「グラスちゃんもうちょっと冷たい目線頂戴。もしくは満面の笑み……そうそう、笑顔のが良いかな。エルちゃんはもっと神妙に、ゲート入り前のウンスちゃんみたいな顔してみて? あ、良いね良いね」

 

撮影が終わったスペシャルウィークは撮れたての写真を回覧する。

其処には楽しそうに罪人を裁くグラスワンダーと、石抱き拷問中のエルコンドルパサーの姿。

 

「スッペちゃーんまさかその写真を……」

「これに『成敗!』とかメッセージつけてラインに上げれば誰もが決着を悟ると思うよ」

「なるほどー。それでワタシの社会的生命はどうなっちゃうのカナー?」

「何かを成す時は犠牲が必要ってお母ちゃんも言ってたよ」

「……まぁ、これも身から出た錆びデスカ」

 

諦めたエルコンドルパサーはクッションを退けて立ち上がる。

流石に足が痺れて来た。

 

「これは私が上げたほうが良いですよね」

「そうだねグラスちゃん、お願いしていい? 後ちょっとエルちゃん借りて良いかな」

「どうぞ」

「……君たちワタシの人権を返すデース」

「あはは、これは騎士道というか、友情って奴だから」

 

グラスワンダーがスマホを操作する間に、スペシャルウィークはエルコンドルパサーを部屋の外に連れ出した。

周囲に誰もいない事は二人で確認する。

 

「ごめんねエルちゃん。ちょっと……相談って言うか、お願いかな」

「どうしたノー?」

「グラスちゃんにさ、もう少し寄ってあげてくれないかなって」

「ふむ」

「グラスちゃんね、菊花賞エルちゃんと見たかったんだよ」

「それは誘われたけどネ」

「エルちゃんの事情もあるのは分かるんだけどね……リギルだとグラスちゃん、あれ以上は動けないんだ」

「ん?」

「リギルってさ、緩い所は緩いけど厳しい所もあるんだよね。チームメイトの応援は、結構みんなできっちりしてるの。だから、グラスちゃんがエルちゃんの所に行きたくても行けない事があるから」

「成程ネ……」

「もしエルちゃんのチームでそういうのが無いんだったら……だけどね。ある程度自由に動けるなら、エルちゃんからグラスちゃんの所に行ってあげて?」

「……スぺちゃんが積んだ抱き石の理由はそれデスか」

「ううん? スズカさんだよ」

「そういう事にしておきマース」

 

エルコンドルパサーは苦笑してスペシャルウィークの頭をくしゃくしゃにした。

不満そうに膨れたスペシャルウィークに笑う怪鳥。

その笑顔に釣られたようにスペシャルウィークも笑顔になった。

 

「スぺちゃん」

「ん?」

「来年、グラスの事お願いね」

「うん。分かった」

 

友人から大切なものを預かったスペシャルウィークは神妙に頷いた。

 

「それから、部屋にいた鳥さんは見なかった事にネ?」

「お、おぅ」

 

グラスワンダーの時よりも真剣な表情でペットの事を語る怪鳥。

スペシャルウィークはこのウマ娘の相棒をしているチームメイトに心から同情した。

 

 

 

 

§

 

 

 

菊花賞が終わっても秋の重賞戦線はまだ半ば。

リギルにおいてはスペシャルウィークの敗戦もあったが、トレーナーは次なる戦いの舞台にウマ娘達を導かねばならない。

東条ハナは学園のターフコースを走るタイキシャトルとマルゼンスキーに集中する。

 

「ちょっと! 其処退きなさいよシャトルちゃん」

「No! 誰が退くカ」

「ずるっこいでしょ!? 脚で敵わないからって経済コース塞ぐのはさぁ」

「嫌なら大外周ってくだサーイ!」

「お前ら真面目に走れ!」

「走ってるわ!」

「真剣デース!」

 

この二人は先のスプリンターズSで対決して以来はっきりと互いを意識している。

仲が険悪になったわけではないが、練習で並ぶと本番さながらに競り合うのだ。

其れだけならまだ良いのだが、トレーナーが頭を抱えたくなるのは走力以外の部分でも本気で戦っている事である。

マルゼンスキーがコーナーで外からタイキシャトルに被っていく。

 

「よっと」

「What!?」

 

タイキシャトルの意識が外に向いた瞬間、イン側の隙間に切り返して加速したマルゼンスキー。

更に外を走る並走相手を壁に使って、膨らむことを回避した。

そのままコーナーの出口では完全に並んで直線に入る。

 

「ッチィ、ウロチョロと……Babaa鬱陶しいヨ」

「甘いわよシャトルちゃん。サッカリンの十倍甘い」

「食べた事無いクセに!」

「有るわよ?」

「マジデース!?」

「ってか今日本語でババァって言ったわよねぇ!?」

「イッテナイヨキノセイダヨ」

 

マルゼンスキーが真横を走る後輩に肩を当てる。

小動もせずに受けるタイキシャトル。

反撃はしない。

この位置で吹っ飛ばしたら内埒に激突させてしまう。

同じチームであり、付き合いの長い二人である。

タイキシャトルはマルゼンスキーが当たりに対して非常に脆い事を知っていた。

 

「へいへーい、シャトルちゃんビビってるー?」

「こっちはケガさせない様に気を使ってるのにサァ! その態度はNo! デショっ」

「良いから遠慮しないでよ。綺麗に捌いてやるからさぁ」

 

最高速度はマルゼンスキー。

全身筋力はタイキシャトル。

両者が譲らず前に出ようとした時、本来不要な接触が何回も起きていた。

このような練習も必要だろう。

しかし本番を来週に控えたこの時期に、怪我をしかねない接触練習などして欲しくなかった。

 

「貴様らそれ以上当たるなら練習を分けるぞ!」

「Sorry Honey……」

「それは困っちゃうかなー、モチベーション的な意味で。まぁ――」

 

タイキシャトルは隣を走るマルゼンスキーの気配が変わった事を悟る。

並走する自分ではなくゴールに意識の比重を向けた。

芝を踏みしめた脚が接触の為の踏み込みから、駆け抜けるための蹴り脚に変わる。

 

「当たるなって言うんなら……ぶっちぎるだけなんだけどさぁ!」

「ック」

 

互いに半歩離れて走路を確保し、最後の直線に突っ込んでいく。

外からは別チームのウマ娘達が二人の競り合いに呆然と視線を送っていた。

 

「さぁ、上げていくわよー!」

「……絶対逃がしまセーンッ」

 

マイラーとしては完成域にあるタイキシャトルが直線でじわじわと離される。

奥歯を食いしめて自分の速度を振り絞るタイキシャトルは、ふと思いついて脱力した。

 

「フゥッ」

 

左腿を一度張る。

魂の記憶が一時的に蘇る。

それが何かは分からずとも、こうすれば加速するとタイキシャトルは知っていた。

 

「粘れシャトル! マルゼンスキーに楽をさせるなっ」

「OK,Honey!」

「手を抜くなよマルゼンスキー! お前の想定する敵から凌いで見せろっ」

「あの赤いの……絶対泣かせてやるんだから!」

 

マルゼンスキーが半バ身前に出た所でタイキシャトルが粘る。

追いついてはいない。

しかし引き離せない。

 

「ん? やるじゃないシャトルちゃん」

「叩き合いなら負けないからネ!」

「……」

 

マルゼンスキーは現状での最高速度についてくる後輩に内心で息を吐く。

もう一つギアを上げるなら、脚の爆弾を庇えない。

練習ではトレーナーから絶対に禁止されている事である。

タイキシャトルに食いつかれたままゴールしたマルゼンスキー。

 

(参ったなコレ。このペースで千切れないとなるとトップギア使っても展開で負けが有るわよ……」

 

草レースの一対一ならばマルゼンスキーは負けないだろう。

しかし複数のウマ娘と一緒に走る公式のレースならどう転ぶか分からない。

その程度の差しかない。

まして、マイルCSはタイキシャトルだけを見ていられるレースではないのだ。

マルゼンスキーがこの並走トレーニングの感想を纏めていると、トレーナーから声が掛かる。

 

「時計を見る限り悪くはなさそうだが……本人から何か感じる所はあるか?」

「ン? ワタシ、チョーシ良いヨ」

「そうねぇ……トップギアにぶち込んだ時に何処まで出せるかな? って感じかしら。やってみないとわかんない所有るのよね。伸びるか、空ぶかしになるか」

「……其処に関しては今試させるわけに行かんからな」

「ま、なんなら今のままでレースしてもやり様はあるわ」

 

片目をつむって安請け合いするマルゼンスキー。

タイキシャトルは隣で息を整える先輩に苦い視線を送る。

スプリンターズSは後方待機から最後の直線だけでぶち抜かれた。

先程の競り合いはほぼ五分だったのだから、やはりまだ上があるのだろう。

 

「今回は思ったよりも出てくるウマ娘が多そうだ」

「そうなの?」

「ああ。タイキシャトルがスプリンターズSで負け。勝ったマルゼンスキーは早いが時計がやや安定していない。もしかしたらと思いたくなるんだろうな」

「良いデスネ~、皆で走るの、楽しいデース」

「そうねぇ。やっぱり皆で走りたいわ」

「私の見立てでは、今のお前達の相手をするには難しいと思うメンバーが殆どだが……やはりコメットのシルキーサリヴァンには注意しろ。あいつの時計は部分的にお前たちを超える」

「OK」

「毎日王冠では序盤でサイレンススズカに追いついて、終盤にはグラスワンダーを喰いかけた……息の戻りも早い。逆算すると今のあいつが全力で走れる距離は3ハロン以上だ。どう展開するかはお前たちの好きなようにしていいが、中途半端な位置につくのは危険だろうな」

「……まぁ、好きにしていいって言われてもさ。あの追い込みを後ろからぶち抜くのは現実的じゃないわよねぇ」

 

マルゼンスキーは息を吐いて自分の脚を見る。

その表情は諦めというより挑戦的な笑みがあった。

東条ハナはそんな愛バの様子に眉間の皺を揉む。

ベテランらしく正確な事前の予測を立てるくせに、当日の気分で何となく面白そうな走り方をするのがマルゼンスキーの性格であった。

それで肝を冷やしたこともあれば、完全に裏目に入ったレースを逆転した事もある。

長い付き合いにも拘らず今だに正解が分からない奔放難解のウマ娘。

逆に言えば、それは底を見たことが無いという事でもある。

 

「それにしても、私ら三人で練習しているのってなんか懐かしいわよねぇ」

「ソーネー……その頃はまだ、リギルもこんなに大きくなかったヨ」

「……お前ら止めてくれ。私が駆け出しの頃の事じゃないか」

「あの頃のハナちゃんは可愛かったのに……」

「ほぅ?」

「今じゃすっかり美人さんになって……」

 

およよと泣きまねをするマルゼンスキーに深い息を吐くトレーナー。

タイキシャトルはそんなトレーナーの顔をまじまじと覗き込む。

 

「そんなに変わったカナ? Honeyって昔っから全然変わってないと思うんですケド」

「シャトルちゃん覚えときなさい。女に変わってないはほめ言葉じゃないのよ」

「Really?」

「……まぁ、人それぞれだ。私としては、青二才のままではいたくないがな。人もウマ娘も変わらないものはない。どうしたって変わらざるを得ん」

「リギルも賑やかになったしネ!」

「ああ。そうだな」

「そーね。やっぱ色々変わるわね……良くも悪くもさー」

 

マルゼンスキーは二人の言葉を聞きながら、短くなった西日を見送った。

 

 

 

§

 

 

 

その日の練習を終えたマルゼンスキーは、寮の自室で何冊ものスクラップブックを開いていた。

ルームメイトは他県のレース場に遠征で不在の為、動く影は一つだけ。

 

「……」

 

スクラップブックの中身はマルゼンスキーがこれまでに集めた新聞や写真。

または雑誌の切り抜きだった。

その全ては自分以外のウマ娘達の記録。

あまり整理は得意でないのか、切り張りされたものはやや乱雑でまとまりが無かった。

切り取ってから纏めるまでに間が開いたのか、一ページの中に違う年代の記事が張り付けられている事もある。

しかしマルゼンスキーは自分で作ったこのスクラップブックを気に入っていた。

既に幾度となく読み返されたコレクションである。

マルゼンスキーは誰の、または何年の記事が何冊目の何ページにあるかを全て覚えてしまっている。

そして記録にまつわる記憶も、自分が見聞きしたモノは全て風化させずに頭の中におさめている。

極論すればマルゼンスキーにこのような本は必要が無かった。

それでもマルゼンスキーは思い出の領域に立ち返る時は必ずこのスクラップブックを開き、その記事を読み写真を見る。

その行為そのものが彼女に関り、そしてすれ違っていったウマ娘達に対する想いだった。

 

「……」

 

一冊手にとっては目的のページを開き、読み返して思い出す。

そんな行為をどれくらい繰り返していた事か。

ふと気づいた時、マルゼンスキーは自分以外誰もいない筈の部屋から音がすることに気が付いた。

正確には部屋の外から、入口の扉を叩く音。

マルゼンスキーは不快気に顔を歪めると、居留守を使おうか迷った。

無視していれば寝ていると判断されるだろう。

 

「Hey Grandma……起きてるデショ」

「……あぁん? シャトルちゃんどうしたのよ」

 

それは練習で並走したチームメイトの声だった。

この後同じレースに出走する者同士、何か連絡があるかもしれない。

マルゼンスキーは意識して表情と声の険を取って出迎える。

正直一人にして欲しかったが、この後輩は根っこの所で臆病な寂しがり屋なのだ。

 

「どーしたのシャトルちゃん。おばあちゃんが恋しくなった?」

「ンー……何となくネ。練習の時のGrandma、昔のワタシみたいだったからサ」

「つまり寂しそうに見えちゃったわけか」

「YES」

「……ま、今更シャトルちゃんに強がっても仕方ないか」

 

マルゼンスキーは仕草であがるように合図してデスクに戻る。

 

「部屋暗いネ」

「年寄りが昔を懐かしむ時って、それなりに雰囲気ってもんを大事にするのよ」

「思い出だったらもっと明るいAtmosphereで振り返ろうヨー」

「嫌よ」

 

椅子に座ったマルゼンスキーは背中に張り付いてきた後輩に短く返す。

タイキシャトルは返答する前にマルゼンスキーのスクラップブックが目に入った。

 

「良い思い出なんざロクに無いんだから……私のジュニアCクラスの頃なんてさ」

 

深い息と共に本を閉じたマルゼンスキー。

そして机の引き出しから、まだ張り付けていない記事を取り出した。

 

「見てよこれ、今年のジュニアCクラスの特集」

「コレ凄いヨネ。クラスの皆が勝ち上がったとか、聞いた事無いヨ……まぁ、ワタシ最近まで引きこもりだったけどサ」

「そうよねー」

 

マルゼンスキーは自分の頭を抱えるように机に伏せた。

 

「…………私のデビュー戦の時、その後二度と走れなかった子が4人出たわ」

「Oh……」

「派手にやっちゃったもんねー。こればっかりは半分あいつのせいだけどさ」

 

気を取り直したように身を起こしたマルゼンスキーは記事を再び引き出しに戻す。

そして一冊のスクラップブックから目当てのページを引っ張り出した。

 

「ほらこの子、私の世代で皐月賞獲った子」

「……」

「Bクラスの頃はぱっとしなくてさ。勝ち上がるのは遅かったのよ。それで皐月賞に間に合わせたんだから本当に大したもんだわ……ダービーだって二着だったんだから」

「……」

「今は引退して、此処でトレーナーやってるのよね。シャトルちゃんも知ってるでしょ? あの赤いののチーム。上り調子なのよねぇあそこ。ジュニアCクラスのエルコンドルパサーちゃんもいてさー」

 

嬉し気に元の同期を語るマルゼンスキー。

次に彼女は数ページをはぐると一人のウマ娘を指さした。

 

「ほらこの子、私の世代のダービーウマ娘」

「……」

「凄かったのよこの子も。すっごい外枠からダービー獲ったの。あんな外から勝ち切ったウマ娘って、たしか彼女しかいないわよ。皐月賞でも二着でさ……ライバルって感じ、うちのスぺちゃんとスピカのセイウンスカイちゃん見たいよね!」

「……」

「もう引退しちゃって、確か海外でトレーナーしてるんじゃなかったかな……そうそう、あっちで年度代表ウマ娘を出したこともあるのよ彼女」

 

自慢気に元の同期を語るマルゼンスキー。

そこで手元の本を閉じ、別の一冊を開く。

 

「ほらこの子、私の世代で菊花賞とった子。彼女とは直接勝負した事もあるのよね……だけど私の印象だと菊や直接対決よりも、上と戦った有馬記念なのよ」

「……」

「私の上の世代って、そりゃあ凄かったんだから! 今年が奇跡の世代ならあの人達は黄金世代って感じ。一世代に年度代表ウマ娘を三人出した所なのよ。史上二回しかない中の一回が此処なんだから」

「……」

「彼女の有馬は、そんな黄金世代三強が最後に揃ったレースだったのよ……私も出たかったんだけどね。脚やっちゃって出られなかった。ハナちゃんにはいっぱい当たっちゃってさぁ。今日走れないならこんな脚いらないだろって……私の棄権を一番悔しがってる人に言っちゃった。ダメだなー私」

「……」

「だけどどうしても出たかったのよこのレース。何処かのドリームトロフィーなんかより、私はこの有馬記念に出たかった! あの人達は本当に……華麗で、煌びやかで、格好良くて……でもどこか泥臭くて。物語の中からそのまま出て来たような人達だった。そんなお姉様方のレースを見ながら育ったのが、一個下の私達だもん。そりゃ私だって、本当はああいうのがやりたかったわよ」

 

マルゼンスキーは一つページを捲る。

其処に切り取られた記事は複数あるが、全てが何時かの有馬記念の記録。

勝者を称える記事があれば敗者を惜しむ回想もあった。

比較的最近の記事では史上最高のレースと紹介されているものもある。

 

「そんな人達と走れたあの子が羨ましかったなぁ……だけど現実は厳しかったわね。私達の菊花賞ウマ娘でも影すら踏めずに負けちゃった。彼女でも勝てないのかって、病院で不貞寝してたっけなー……」

 

肺を空にするほどのため息を吐くマルゼンスキー。

スクラップブックを閉じて手放し、考え込むように目を閉じた。

タイキシャトルは何も言わない。

同意も肯定も求められていない事は明白だったから。

ただ自分は此処にいると伝えるためにマルゼンスキーに触れていた。

 

「……脚、結構派手にやっちゃったから入院も長くなってさ。やっと出られた時には、同期の皆は殆どいなくなっちゃった」

「……」

「妙な話を聞いたのもその辺だったかな……今じゃ皆言ってるんだけどさ。当時の私は信じられなかった。信じたくなかった。私の世代って……マルゼンスキーの影で泣いた不運の世代なんだって? …………私が何したってのよふざっけんなっ!」

「……」

 

机に叩きつけられた拳が鈍い音を立てた。

デビュー戦の惨事に関してはシルキーサリヴァンも同罪だろう。

しかし怪我に苦しみながらも中央レースで圧勝し続けたマルゼンスキーと、クラシックを蹴飛ばして自己鍛錬に費やしていたシルキーサリヴァンでは一般にもウマ娘にも当時の知名度が違い過ぎた。

苛立ちに任せて振るった手が痛い。

不本意な形で世代の不幸を背負わされた心が痛い。

二つの痛みをごまかす様に、背中から回された後輩の手を握り返したマルゼンスキー。

今、このような心境の時に偶々タイキシャトルが傍にいる。

だからマルゼンスキーは言う心算のなかった事を口にした。

 

「あのね?」

「ウン」

「感謝しているわ、シャトルちゃん」

「What?」

「貴女が居てくれた事。去年でもなく、来年でもなく、今年に帰ってきてくれた事。そして春、安田記念で勝利してくれた事……どれが欠けてもあいつは此処に残らなかった。貴女が居たから、あいつは……私に残った最後の同期が、私の手が届く所に来てくれた。癪だけど、本当に悔しいんだけど、シルキーサリヴァンをこの秋、日本のターフに引きずり出したのは……シャトルちゃん、貴女だから」

「……」

「昔憧れた先輩たちのような、今可愛がってる後輩たちのような……あんなレースを、私も同期とやってみたい。そんな夢を叶えてくれた天使なのよ、貴女」

「Don't worry about it! だって、結局ワタシが勝つからネ」

「へぇ?」

「GrandmaにもDarlingにも、私が勝つカラ……だから、余計な気を遣わないで良いヨ」

「……スプリンターズSで千切られて今日の並走で遊ばれて、まだそんな事言えるのね。このアホの子は」

「アレは前哨戦! Darlingもいなかったし……ってかGrandma! あの変な歌をライブでやらされた恨み、忘れてないからネッ」

「えーアレ可愛いじゃない」

「え、マジ? ……うっわこの人マジで言ってるヨ」

 

タイキシャトルは可哀想なものを見る目をするが、マルゼンスキーは笑うばかりで相手にしない。

抱えていたものを少しだけ吐き出したマルゼンスキー。

やがて笑いを納めると、机に散乱する本をまとめた。

 

「まぁ、嫌なら私に勝つしかないから。頑張ってねシャトルちゃん」

「エー……またアレを歌うノGrandma?」

「もっちろーん。だってあの赤いのが恥ずかしそうにうまぴょいする所……見たくない?」

「……Darling憤死するんじゃないカナー」

「其れくらいして貰わなきゃ、独りで加害者みたく言われながら走って来た私が可哀想じゃない。世代の責任の半分は、しっかり背負ってもらわなきゃ。もう、私とあいつしかいないんだからさ」

 

暗い部屋にこもって暗い情念を燃やすマルゼンスキー。

長い間孤独を拗らせて来た先達に、タイキシャトルは諦めたように息を吐く。

この妖怪を成仏させるなら、心残りを満たしてやるしかない。

満足するレースと納得のいく結末を。

それは現役で走るウマ娘ならば誰しも望む凡庸な願い。

しかしマルゼンスキーにとって、一度もかなえられた事の無い夢でもあった。

 

「……」

 

タイキシャトルの望みはマイルCSに勝利し、シルキーサリヴァンの瞳に二度とは消えない自分の背中を焼き付ける事。

そしてもう一つ今ここで、マルゼンスキーが本気を出して遊べるような相手になってやる事が追加された。

どちらも片手間には叶わぬ難題である。

タフなレースになる事をマイルの女王が覚悟した。

 

 

 

 

 



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14.拓く夢、結ぶ夢

98年ジャパンカップでゴーイングスズカの単勝を買った者だけが作者に石を投げなさい(´;ω;`)ウッ…


 

 

コメットの部室では珍しく全員が集合していた。

来週にはマイルCSとジャパンカップが開催される。

どのような奇縁によるものか、京都レース場と東京レース場で同時に開催されるG1レース。

最年少のアグネスデジタルは二つのレース新聞を見比べながら首を傾げる。

 

「なんでこんなことになっているんですかねぇ?」

「主催者の都合ってーのが第一なんだろうが、ここんちは変な所で海外気触れな所があるからな……少しずつでかいレースを真似ようとしてんじゃねぇか?」

「あのぅ……それって?」

「この国のレースは外からウマ娘が出稼ぎに来るほど賞金がたけぇからな。次はブリーダーズカップやロンシャンのウィークエンドみてぇな、集中重賞日とかやりてぇんじゃねえかと思うんだが」

「発想は面白いんですけどネ~」

「レース場が違うとか、本末転倒も良い所ね」

「まぁな。まとめきれなかったんだろうよ」

 

シーキングザパールが鼻で笑えばシルキーサリヴァンが肩をすくめる。

スプリンターズS前後のような、嫌な緊張感はない。

そのことに内心で安堵の息を吐くエルコンドルパサー。

年長組もドトウとデジタルに泣かれれば、何時までも喧嘩などしていられないらしい。

当事者たちが大人げなかったと反省していたのもあったろうが。

 

「で、どうなんだよデジ。ウマ柱出てんだろそれ」

「えっと、先に走るのがエル先輩の方ですね」

「長距離レースのほうが先に走るって珍しいわね」

「なんかぁ……これメインじゃなくて10Rらしいんですよぅ」

 

デジタルの私物をウマ娘達が覗き込む。

エルコンドルパサーの出走するジャパンカップは東京レース場の第10R。

11Rには日本ではドリームトロフィ出走経験者、海外もそれに相当する大レースに参加した者のみが出走するもう一つの国際競争がある。

 

「まさかこれ、ワタシが前座デース?」

「まぁ……このカードだとそうなるんですかねぇ」

「マジカヨ……」

「毎年有る事じゃないからね。運が悪かったわエルちゃん」

「オゥ……マイガッ」

 

頭を抱えてうずくまる怪鳥を、ドトウとデジタルがそれぞれに慰める。

その様子を見ていたトレーナーは深いため息を吐いた。

 

「君達もう少し外の世界に関心持って……今年は世界で持ち回りのドリームカップが日本であるの。だから東京レース場はJCが10Rだし本当はマイルCSだって持ち寄って、日本初の同日複数GⅠレースを開催しようとしたんだよ……京都レース場の利潤とテレビ放映の調整がつかなくて、流れた上に中途半端になったけれど」

「よりによって早い方に揃えやがったからな。菊花賞から中一週でこれだぜ?」

「スぺちゃんが可哀想デース」

「それはね……どうしても日程は国際ドリームレースの方に揃えないとだったから」

 

ハードバージは苦笑して自らのメモを取り出した。

 

「まず、先に走るのがJCでエルちゃん。誰が怖いかって言えば……一人上げるならエアグルーヴかなって思うんだけど」

「スズカ先輩は?」

「毎日王冠で煽られたら掛かるって弱点も露呈してる。距離もたぶん長すぎるし、2000以下でぶつかる時よりエルちゃんに有利な要素が多いと思うんだー」

「スぺちゃんは?」

「菊花賞3000の中一週で2400は間違いなく苦しい筈。その菊だってセイウンスカイのワールドレコードを追いかける苦しい展開だったし、そもそもスペシャルウィークだって3分3秒半ばのハイペースで走ってる。コンディションはエルちゃんに有利の筈だよ」

「なるほど」

「そういった不安要素が今の所見当たらなくて、実力上位かなって思うのがエアグルーヴだと思うんだけど……まぁ、せっかく同期のダービーウマ娘も出てきてくれたんだから、はっきり上に立っておいて」

「了解デース」

 

エルコンドルパサーはウマ柱に記されたスペシャルウィークの名前に複雑な思いを抱く。

出来る事ならお互いにベストなコンディションで、なおかつ最高の舞台で戦えることが望ましい。

しかしエルコンドルパサーとスペシャルウィークでは目標が違う。

目指すモノが違うのだから、コンディションの作り方も変わってくる。

クラシック三冠を狙って菊花賞のおつりでジャパンカップに挑むスペシャルウィークと、此処を最終目標に調整してきたエルコンドルパサー。

両者の体調が異なるのは当然の事であり、エルコンドルパサーとしては気に留める心算はなかった。

 

「その後は京都でシルキーとパールちゃんのマイルCSだね。前評判はリギルとコメットの一騎打ち……でも本命はリギルだって」

「まぁ、仕方ねぇよな。安田とスプリンターズSでは負けてんだ」

「……パールちゃん大丈夫? 顔青いけど」

「……ええ、良いわよやるわよ。やればいいんでしょやればっ」

 

余程前回のライブが嫌だったらしいシーキングザパールが爪を噛みながら呻いた。

 

「勝てばいいだけじゃねぇか」

「そりゃそうだけどねぇ! そんな事言ったら大抵の事はそうじゃないっ」

「負けた時の事考えてりゃ挑む前に足がすくむぞ。少なくとも勝者が望んだら付き合うのがルールなんだから仕方ねぇさ」

「分かってるわよ……」

「まぁ、マルゼンスキーの野郎……楽しかった、次もこれをやりたいとか抜かしていやがったからな。げんなりする気持ちは俺も分る」

「でしょう!?」

「俺も正直公衆の面前でアレをするのはご勘弁だ。死ぬ気で勝ちに行こうじゃねえか」

「そうね」

 

未来への不安がチームの結束を堅いものにする。

最も、シルキーサリヴァンとしては道化を演じて見世物になる事もアイドルの仕事と割り切っているためにパール程に気は病んでいない。

それが仕事に対するプライドであり、前世から続く人気者の宿命でもあった。

当人が語った言葉の通り、回避できるならしたいというのも本音ではあるが。

 

「今回は漁夫の利を獲りに来ているウマ娘も多いかもね。全員で十四人出てくるって」

「いい度胸じゃねぇか」

「まぁ……シルキー程極端に後ろに下がっちゃえばバ群も関係ないしルートだって選び放題だろうけどさ……パールちゃん、気を付けてね。集団後方にいると前が開かなくて沈む可能性もあるから」

「分かったわ」

「まぁ、君自身ベテランだし……それほど心配はしていないから」

 

ハードバージはチームメイト一人一人を見渡しながら頭をかいた。

ここ数日、メンバーが挑む大舞台の下調べと個人的な用事で忙殺されているトレーナー。

しかし此処を乗り越えれば一息つける。

内心で気合を入れなおしたハードバージはエルコンドルパサーに声をかけた。

 

「本来なら私がエルちゃんにつきたいんだけど、この日はどうしても京都に用事があるの。エルちゃん、大丈夫?」

「もぅ、今更東京レース場で迷子になるような子供じゃないデース」

「ごめんねー。ドトウちゃんとデジちゃんはどっち行く?」

「私は……京都のレースを見ておきたいですぅ」

「あたしは東京! 海外のウマ娘ちゃんのご尊顔を目に焼き付ける大チャンスっ」

「ん、分かった。じゃあそんな感じで足の手配しとくから」

 

メンバーの行動が決まれば後は此処ですることは無い。

何時ものように流れ解散の運びとなる。

 

「おいエルコン、こけんじゃねえぞ?」

「先輩こそ、格好いい所見せてくださいヨ」

「そうだな。春はだせぇ所を見せちまった。ここらで挽回しねぇとな」

「期待してますヨ~?」

 

エルコンドルパサーはからかう様な軽い声を出しながら目元は笑っていない。

シルキーサリヴァンは後輩の視線をまっすぐに受け止めた。

 

「先輩はワタシに勝ちました。だからワタシがリベンジに挑むまで、なるべく負けないでくださいネ」

「面倒臭ぇのに目を付けられちまったもんだ。だが、まぁ良いさ……お楽しみの前に、お互い一仕事しようじゃねえか」

 

――次のレース……

 

「タイキシャトルは俺が潰す」

「スペシャルウィークはワタシが倒す」

 

不敵に笑ったシルキーサリヴァンが右の拳を突き出した。

同様の顔で自分も右拳を突き出す。

二人の間で噛み合った拳は、何時かの勝負と次走の勝利への約束だった。

だからもう時間がない。

 

(向き合わないとネ……スぺちゃんと)

 

先延ばしにしていた事がある。

恐らく、いや間違いなくセイウンスカイもキングヘイローも言葉にはしていない筈。

それは一つの夢を最初に歩き出した自分の役目であった。

 

 

 

§

 

 

 

その夜、スペシャルウィークはルームメイトのサイレンススズカに声をかけて部屋を出た。

夕食を終え、就寝までのひと時。

学園内であれば出歩くことも許されてはいたが、外は暗く寒い時期でもある。

好んで出歩こうとするウマ娘は少なく、スペシャルウィークが寮を出る間もすれ違う相手はいなかった。

 

「……」

 

スペシャルウィークが向かうのは、広いトレセン学園の校舎裏の一角。

普段通いなれた学園でも昼と夜では雰囲気がまるで違う。

それに脅えるような歳でもないが、目的地にしっかりとたどり着けるかと言われれば多少自信がない。

このような場所に通いなれたウマ娘は殆どいないだろう。

 

「エルちゃんなんでこんなとこ知っているんだろう」

 

スペシャルウィークは自分を呼び出したクラスメイトの事を考えた。

すると招いたわけでもないだろうが、視線の先には不自然な明かりがある。

光源を持っていないこちらはともかく、あちらは相当目立っていた。

 

「エルちゃーん」

「あ、スッペちゃーんいらっしゃい」

 

暗がりからスペシャルウィークが声をかけると、エルコンドルパサーは懐中電灯を切って寄って来た。

あの明かりは相手が見つけやすいように照らしていただけらしい。

 

「ごめんネ。呼び出しちゃって」

「ううん、大丈夫」

「ありがとネ。実はサ~……スぺちゃんと戦う前にどうしても聞いておきたい事があったんデース」

「聞きたい事? ……あっ」

「べたな所でスリーサイズなんてギャグじゃないからネ」

「……ボケる前に突っ込むのって反則だと思うよ」

「じゃあもう少し捻りなサーイ」

 

ふてくされたスペシャルウィークが可笑しいのか、腹を抱えて笑うエルコンドルパサー。

場所と時間をわきまえているらしく、極力声は殺していた。

スペシャルウィークはやや恨めし気に怪鳥をみるが、もともと大して怒っていないのだ。

一つ息を吐いて肩を落とし、クラスメイトに本題を促した。

 

「さてそれじゃ……改めてどうしたのエルちゃん?」

「実はサ~、ワタシのジュニアB時代の事ってグラスから何か、聞いてない?」

「え……っと、特に詳しくは聞いてないかな。よく何時ものメンバーで草レースしてて、グラスちゃんが勝ってたってくらい」

「あー。そうなんデスよー……あの頃のグラスはずば抜けて強かったデース」

「負けた事無かったって聞いたよー」

「それ、本当ダヨ。あの骨折さえなけりゃナ~……本当に勿体なかったヨ」

 

エルコンドルパサーはマスク越しにも分るほど表情を歪めて俯いた。

 

「ただ、あの頃のワタシっていうか……ワタシ達は、グラスがそんな事になるなんて思わなかったヨ。だから……ウンスやヘイローと集まってサ、どうすればグラスに勝てるんだろうって、よく話してましタ」

「それで、答えは出た?」

「Bの頃のワタシ達がどうやっても勝ち筋は見えなかったネ~……グラスはそれくらい強かったよ」

「そっかぁ」

「ただ、クラスの中でも本気でグラスをどうにかしようとしてたのってワタシ達だけでしたカラ。負け犬三匹集まっているうちに結構気が合うのも分かってサ~……此処からが本題なんですケドー」

「うん?」

「ワタシ達、チームを作ろうとしたんだよ」

「チーム?」

「そう。しかも同期だけでネ」

 

エルコンドルパサーの言葉に首を傾げたスペシャルウィーク。

同期だけでチームを作る。

しかもシニアになってからならともかく、生涯一度のレースが集中するジュニアCの前で。

 

「えっと……それ、クラシックに出られないメンバーが出てこない?」

「まぁ、一応チームにつき同じレースは二人までっぽい感じだしネ。でも実際にワタシはクラシック出ていないし、グラスも強すぎて世代戦にあまり興味なさそうだったんだよね、あの頃は。だから出たい子がその都度相談すれば良いと思ってたんダヨ」

「へぇ……」

「だからワタシ、ヘイローちゃんとウンスを誘ってサ! グラスはその時、もうリギルに入っていたんデスけど……ワタシなら引き抜けたと思っているシ」

「エルちゃんが本気で誘ったら……出来るだろうなぁ」

「デショ? 一年限定。そのチームでクラシックと他のGⅠを全部攫って、有馬記念で決着を付ける……そんで解散! どうヨ?」

 

スペシャルウィークはそのチームを想像する。

不思議な事に、そのチームの中には自然と自分の姿があった。

瞳を閉じて胸に手を当てて想像の世界に身を投じるスペシャルウィーク。

その世界をかける自分は今と同じように笑っていた。

 

「……トレーナーさんはどうするの?」

「暇そうに空いてるトレーナーさん捕まえれば良いかなって思っていたんデスけどネ~……そう言ったらヘイローちゃんが呆れてサ、本決まりになったら当てがあるから任せとけって」

「クラシックは相談して、秋は今みたいにシニアの王道に割っていくんだよね……でも、どうやって有馬に五人一緒に出るの?」

「宝塚と有馬は人気投票ダヨ? そこに入れば同じチームだって出られるのは前例があったからネ」

 

スペシャルウィークは質問し、エルコンドルパサーは解答する。

一つ一つの疑問が埋まるたびに早鐘を撃つ鼓動。

この企画は、実現する可能性があったのではないだろうか。

そして、もしかしたらその中には……

 

「……一人、足らないね」

「そうなんですヨ~……そこで意見が割れちゃってサ。ヘイローとウンスは、とりあえず4人でチームを組んでからトレーナーも呼んで、あと一人揃えば始動出来る状況にしてから改めて探せば話は変わるって。でもワタシは……」

「……」

「リギルで既に成功しつつあるグラスを、その状態で巻き込むのは怖くなっちゃってサ……グラスを呼ぶのは4人目が見つかってから、最後って言ったんだヨ」

「……」

「結局グラスを引き抜けるのはワタシだからって事で、ワタシの意見が通ったんだけどネ……あの時は結局どっちが正しかったのか、今から考えてみても答えが出ないんデスよ」

「……エルちゃんとウンスちゃんとヘイローちゃんはさ」

「うん」

「いつ頃まで、五人目を探していたの?」

「……スぺちゃんが来る直前まで」

「うわぁ」

「少なくともスぺちゃんが転入してくる二日前まで、グラス以外の三人はチームが決まっていなかったヨ」

 

スペシャルウィークは無言で首を上げて空を見た。

俯いたら泣きそうだった。

彼女はクラスメイトが自分を此処に呼んだ理由が分かってしまった。

次に質問が来るとすれば、それこそが本題になるだろう。

冬に入りかけた夜空の星を見ながら、スペシャルウィークは考える。

未だ明かされていない架空の問い。

スペシャルウィークの、その答えを。

 

「だから、スぺちゃんと戦う前に一つ聞いておきたかったんダー」

「……」

「もし、ワタシ達が初めて会った時……今と違うチームが出来かけててサ」

「……」

「ワタシと、グラスと、ウンスと、ヘイローが、貴女を其処に誘ったら……」

「……」

「貴女は、来てくれた?」

 

行っただろう。

考えるまでも無い事だった。

スペシャルウィークの学園転入は殆ど身一つの飛び込みだった。

クラスの事も、チームの事も、トレーナーの事も、レースの事も、全て後から知った事だ。

何も知らなかったスペシャルウィークに、学園で初めて声をかけて来たクラスメイトがエルコンドルパサーである。

サイレンススズカへの憧れだけは持っていたが、その為に何処で何をすればいいか、それを導いてくれたのはセイウンスカイやグラスワンダーだった。

キングヘイローはリギルの選考レースで一緒だった。

本当にあの時までチームが決まっていなかったのだ。

初めて臨む草レースでライバルの筈だった自分に親切にしてくれた。

そんな人達に誘われて乗らないはずがない。

彼女たちに選ばれたことが、自分を望んでくれたことが誇らしくないわけがない。

間違いなく、あの春……

新たなチームに誘われていたら喜んで其処に入った筈だ。

だからこそ……

 

「わ、わたし」

「……」

「す、スズカさんに、憧れてるしさ。あの時みたいな事故が、な……っなかったら、多分おっかけて、たとお、おもうんだよね」

「……」

 

実現しなかった可能性が魅力的だからこそ。

既に潰えた夢を断ち切ってやらねばならない。

スペシャルウィークにとって、誰に対しても自慢できる、この大切な友人がまっすぐ前に進めるように。

それは自分自身にも言える事だ。

聞いたことを後悔しそうな程、スペシャルウィークにとっても魅力的な夢だった。

エルコンドルパサーの中には結果論として、スペシャルウィークを待てなかった負い目があるのだろう。

しかしスペシャルウィークにとっても同様の引け目がある。

 

(後一週間……私が自分の意思で、最初の一歩を始めていたら……)

 

スペシャルウィークの夢の始まりは母が出してくれたトレセン学園編入願書。

決して自分の意思で踏み切れたわけではなかった。

後ほんの数日で良い。

自分の意思で夢を追いかけていれば、エルコンドルパサーの夢に寄り添えた。

終わった夢を聞いた自分でもこれほどまでに揺れるのだ。

短い期間ながら状況が許す限り、ギリギリまでその道を歩んできた彼女達にとっては更に思い入れが有るだろう。

だから、此処で絶つ。

それが間に合わなかった夢の最後のメンバーだった自分の役目だと思う。

感情があふれて声が震える。

しかし涙だけはこぼさないように耐えたスペシャルウィークは、その一言を吐き出した。

 

「だ、だから多分……私は、ち、違うチームを探していたと……思うんだ」

「……そっかぁ」

「う、うん。ごっ……ゴメンエルちゃん。ゴメンね」

 

泣きそうな顔で無理に笑おうとしたスペシャルウィークはくしゃくしゃになっている。

言葉よりその顔が何より雄弁な解答だった。

それでも、その口から紡がれた言葉は否定。

エルコンドルパサーは態度と言葉の二つから示される相反する意思をくみ取った。

そんなスペシャルウィークだからこそ、自分達は五人目に求めたのだろう。

誰が悪い訳でもない。

ただ、ほんの少し運と縁が遠かった。

 

「そっか、ありがとうねスぺちゃん」

「んぐっ、う、うん」

「それだけ聞きたかったんデース。それじゃ、私はそろそろ戻りマスけど……」

「折角だからもう少し、此処にいる」

「ん、風邪ひかないでネ~」

 

エルコンドルパサーはスペシャルウィークに懐中電灯を渡して寮に戻って歩き出す。

スペシャルウィークはその背が見えなくなるまで見送った。

やがて一人になったスペシャルウィークは大の字になって寝転んだ。

 

「ふぐぅ」

 

それは故郷の大草原でもやっていた事である。

少し背中は痛かったが、気にするほどのモノではない。

故郷よりも星が暗く、空が狭い東京の夜空。

 

「……お母ちゃん。私頑張ってる。頑張ってるよ……だけどさ」

 

人間の母と暮らした日々が懐かしかった。

その頃の自分にとって、夢を追う事は無限の可能性と同じだった。

自ら定めた道をどこまでも駆け抜けて行くことは、幸福と同義だと心から信じていられたのだ。

 

「夢を追うって、楽しい事ばっかりじゃないみたい」

 

エルコンドルパサーがどうして今、この話をしてきたのかスペシャルウィークには良く分かる

かつての夢を諦めて今の夢を追いかける怪鳥。

自分がどれだけ大切なものを捨てたのか、どれだけの覚悟を持って今の路線を選んだか。

それを言外に伝えて来た。

 

「凄いなぁエルちゃん。ウンスちゃんもヘイローちゃんも。こんな想いを抱えながら、皆笑ってくれていたんだね……」

 

エルコンドルパサーがこのレースに賭けてくるものの重さを初めて実感した。

だからこそ、そんな彼女に勝ちたいと思う。

しかし明確な意思を持って目的に直進する怪鳥と、クラシックとJCを行き来する事になったスペシャルウィーク。

その差がどれほど結果に干渉する事になるのだろうか。

いつの間にか右手は地の砂を握りしめていた。

そっと手を開いた時、小さな砂は風にさらわれて見えなくなった。

 

 

 

§

 

 

 

晴天に恵まれた東京レース場の10R。

第■■回ジャパンカップは左回り2400㍍で行われる国際競争のG1である。

出走予定時刻の15:20が近づき、ウマ娘が本バ場に入ってくる。

彼女は自分の控室に備え付けられたモニターでその様子を眺めていた。

地下道から一人、また一人と入場してくるウマ娘達。

実況による簡単な紹介を聞きながら、手元の資料でそのウマ娘の評判や近況を確認する。

粒ぞろいのレースになったと思う。

僅か二分半先の未来がまるで分らない。

だからこそ、レースは面白いのだが。

 

「さーて……私より早い子、いますかねぇ」

 

控室で薄っすらと笑んだ彼女の出番はこの次。

今はライバルに成らないからこそ純粋に応援できるのだ。

この中からそう遠くない未来、ドリームトロフィに出てくるウマ娘が現れるだろう。

再びこの国で夢の第11レースが回って来た時、戦う事になるかもしれない。

そう思った時、不思議な高揚感が彼女を包む。

 

 

 

『さぁ、ついにこの時がやってまいりました!

 

 

秋の国際競争、第■■回ジャパンカップ!

 

 

一番人気はなんと、今期のダービーウマ娘スペシャルウィーク!

 

 

菊花賞からの直行という厳しいローテーションですが、ファンの期待はこのウマ娘に集まりました

 

 

二番人気は春のグランプリウマ娘、サイレンススズカ! 

 

 

女帝エアグルーヴは屈辱の三番人気です!

 

 

そして殆ど差がない四番人気に六戦六勝不敗の怪鳥、エルコンドルパサーが入っています!』

 

 

 

スターターが台に上がる。

合図とともにファンファーレが響き渡る。

其処へ十万人を超える大観衆の合いの手が乗った。

エルコンドルパサーは物理的な圧力すら感じる音の壁に息を吐く。

 

「もう少し静かにファンファーレ聞かせてくれませんかネ~」

 

そう思うこと自体が集中できていないという事だろうか。

隣のゲートに入る予定のサイレンススズカも少し嫌そうにしている。

目が合うとそれぞれ同じことを思っていた事を察し、苦笑を交わす。

 

「ウマ娘は大きな音があまり得意じゃない……知っていると思うのだけれどね」

「学園でライブの音響に耐えるのが必須科目ですもんネ~」

「……あ、あの子驚いてる」

「海外の子ですネ~……こういうのって、あっちじゃ珍しいのカナ?」

「どうかしら……今日ここで勝ったら次はアメリカだから、私が見てきてあげる」

「そんな事で先輩にご足労かける訳には行きまんヨ。今日勝って、ワタシがフランスを見てきてあげマース」

 

苦笑から不敵な笑みを交わし合った二人。

 

「良いレースをしまショ」

「ええ。お互いに頑張りましょう」

 

奇数番号のエルコンドルパサーが先にゲートに入れられる。

特に嫌いではないが、あまり長居したくない。

息を吐きながら他のウマ娘達のゲート入りを待つエルコンドルパサー。

その耳に実況が聞こえてくる。

 

『――体勢完了となりました!

 

 

僅か二分三十秒足らずの死闘

 

 

その先に笑っているウマ娘は誰なのか

 

 

第■■回ジャパンカップ――

 

 

 

 

――スタートしました!』

 

 

 

好スタートを切ったのは六枠十一番のエルコンドルパサー。

しかし七枠十二番のサイレンススズカもほぼ同等のスタートを切った。

ゲートでは隣同士。

半瞬二人の目が合った。

次の半瞬で、サイレンススズカはエルコンドルパサーの半歩前を走っている。

 

(はやっ!?)

 

サイレンススズカのスタートが早い。

静止状態から最高速度に乗せるのが早い。

そして当然、トップスピードも早い。

戦術を身体能力で捻り潰す天性の優速がサイレンススズカを押し上げる。

エルコンドルパサーがサイレンススズカと戦うのはこれが二度目。

前回はレース序盤を研究の為に手控えると決めていた。

しかし今回はその心算はない。

エルコンドルパサーは意識して高めのギアを使う心算で速度を上げる。

距離を考えるとかなり苦しいが、それで一旦釣り合った。

 

(早めに競る展開にしたいデース……後になればなるほどワタシが辛いっ)

 

サイレンススズカの弱点。

それは魂と身体の折り合いが悪い事。

コメットでシルキーサリヴァンから教えを受けているエルコンドルパサーにはよくわかる。

ウマ娘は身体だけで走っていない。

受け継いだ異世界の魂とシンクロする事で本来の能力を発揮できるのだ。

そして魂には万別の性格があり、簡単に矯正出来るものではない。

だから今回も競りかければ掛かると思う。

しかし誰も来る気配は無かった。

理屈は知らずとも、毎日王冠で自爆するスズカは他のウマ娘も観ている筈なのに。

 

(皆さん人任せにしすぎじゃないですかネ~)

 

 

 

『好スタートからハナを切ったのはやはりこのウマ娘サイレンススズカ!

 

 

一バ身でエルコンドルパサーが追いかける展開で第一コーナーに入ります!』

 

 

 

大歓声と共に最初のコーナーに差し掛かったエルコンドルパサーは、一度後方を確認する。

コーナーの角度を使ってのチラ見。

見えたのはバ群の後ろ半分といった所か。

それより前はコーナーに侵入を果たしていたために見えなかった。

 

(エアグルーヴ先輩はいたネ~。後ろから……スズカ先輩が差せるのか? スぺちゃん見えなかったからバ群の前の方として、最悪ワタシの後ろカモ?)

 

高速で駆け抜ける中、頭の中で見えた情報を整理する怪鳥。

そして再びスズカに目を向けた時には三バ身の差にあけられていた。

 

(だから早いっテェ!)

 

内心悪態をつきながら落ちたペースを引き上げる。

先程はこの快速ウマ娘を放置する他人に苛立ったが、もしかしたら違うのかもしれない。

春にマイルでシルキーサリヴァンやシーキングザパールと併せていた自分ですらコレなのだ。

誰も手の届かない異次元の逃亡者。

疲労の少ないテンで上回る事が出来るウマ娘が、中距離にはほぼいない。

 

(やっぱりこれに引っ掛けたシルキー先輩はスゲェ……ワタシに同じことは出来ないネ。ワタシに出来るのは……)

 

 

 

『先頭サイレンススズカ!

 

 

やはり逃げます!

 

 

他のウマ娘をグングン離すっ

 

 

二番手は三バ身程開いてエルコンドルパサー!

 

 

ダービーウマ娘スペシャルウィークはバ群の先頭から前二人を伺います!

 

 

バ群の内の方ではトキオエクセレントと此処にキンイロリョテイ!

 

更にユーセイトップランとこの辺りは固まりました!

 

 

最後方からエアグルーヴとシルクジャスティスといった隊列です!

 

 

 

先頭に戻りましてサイレンススズカ!

 

第二コーナーに回って1000㍍の通過タイムが58秒!

 

 

やはりこのウマ娘のペースになった第■■回ジャパンカップ!

 

 

物凄いハイペースになろうとしていますっ

 

 

三バ身で追走するエルコンドルパサーもかなり速いペースでしょう!』

 

 

 

ハイペースで逃げるサイレンススズカと追撃するエルコンドルパサー。

怪鳥は春にサイレンススズカと戦って来たウマ娘の気持ちを知った。

ひたすら無理をすれば届かないことは無い。

しかし行ったら潰される。

誰かに突っ込んで欲しいと思いながら、誰も行かないうちにレースが終わってしまう。

行ったら貧乏くじを引くとの共通認識も正しいだろう。

 

(だけどこれっきゃないデショ?)

 

エルコンドルパサーは第二コーナーを抜けた所で最後に後ろを確認する。

10バ身以上後方。

バ群の先頭にスペシャルウィークの姿が見えた。

 

(この人に勝とうと思ったらもう、この人より前に出るしかない)

 

視線を前に戻せばサイレンススズカが遠くなっている。

既に五バ身程になっただろうか。

分かっていた事だから今度は驚かない。

意識は全て前方へ。

狙う獲物は春のグランプリウマ娘。

彼我の距離は僅か10㍍強である。

 

(サァ……勝負デース!)

 

向こう正面に入った所で魂の手前を変えたエルコンドルパサー。

切り札を一つ使って現状の最大加速でサイレンススズカに襲い掛かる。

スズカが息を入れた事も有り、5バ身の差は瞬く間になくなった。

 

 

 

『エルコンドルパサーが此処で仕掛けた!

 

 

向こう正面の半ばでもうサイレンススズカに並びかける!

 

 

スタンドからは悲鳴か! 歓声か!?

 

これは――あぁ! しかしサイレンススズカ抜かせないっ

 

 

 

向こう正面直線で二人のウマ娘が鍔迫り合いっ

 

後続をさらに突き放して緩める気配が全くない!

 

 

サイレンススズカとエルコンドルパサー!

 

ぴったり寄せ合って叩き合い!

 

 

 

まだレースは半分も残っています!

 

これはどうなんだ!?

 

果たして最後まで持つのかどうかっ』

 

 

 

サイレンススズカと並んで直線を駆けるエルコンドルパサー。

走路は互いの足が半歩離れた至近距離。

下手をすれば腕が当たる程身を寄せ合った叩き合い。

サイレンススズカの口元には小さな笑みが浮かんでいる。

エルコンドルパサーにも同様の笑みがある。

最高の舞台で最高の相手。

そして最高のシチュエーション。

 

(……年下に競られて引いたら格好悪いわよね)

(此処で引いたら格付けが決まっちゃうカナー)

 

エルコンドルパサーが抜きかければサイレンススズカが差し返す。

その様子には毎日王冠の反省など欠片も伺えない。

 

(少しは控えようって気になりませんかネェ普通! この人、実はアホなんデース!?)

(もう少しソラちゃんが付き合ってくれれば完成していたんだけど……でも要するに)

 

サイレンススズカは走りに関しては非常に我の強いウマ娘である。

競られた時でも上品に魂と折り合って走る心算など最初からない。

毎日王冠では確かに其処を弱点としてさらけ出した。

見られた以上狙われるだろう。

ならばどうするか。

 

(掛ったまま、2000でも2400でも走り切っちゃえば良いのよね!)

(菊の前ウンスが病んでたのはこれか! あいつこれに付き合ってたんだ)

 

後続を20バ身以上引き離して第3コーナーに突っ込む先頭二人。

此処でスズカが前に出る。

走力の優劣ではない。

内と外に存在する距離の差だった。

ほんの僅か、ウマ娘一人分外を回らされるエルコンドルパサー。

しかしスズカの方も自滅寸前のハイペースである。

同じように走って来た二人はほぼ同じタイミングで息を入れる。

激闘のさなか、僅か10秒前後の空白。

スペシャルウィークを初めとしたウマ娘達も、明らかにペースを落とした先頭を捕まえに来た。

二人の耳に届くバ蹄の音が近くなる。

東京レース場のスタンドを埋め尽くす観衆の声が押しつぶす様に降ってくる。

 

(歓声は……まだ良いんデスけどぉ)

(他人のバ蹄の音って嫌いなのよね)

 

エルコンドルパサーとサイレンススズカはこの時、二つの思考で一致した。

一つは大きな音は好きじゃないと言う事。

二つは自分に勝つなら相手のみと言う事。

 

(此処まで追い詰めたんデスよっ、私が、この凄い先輩をっ)

(様子見しながら人の首を狙う様な貴女達には……あげない)

 

最終コーナーに差し掛かった所でエルコンドルパサーがもう一度手前を変える。

隣を走るスズカも同じことをしているだろう。

魂に引っ張られ、少しだけ脚が楽になった。

だが上がりきった息が戻らない。

後続との差は10バ身を割っている。

どれ程の余裕があるのかは分からないが、少なくとも自分達より脚は残しているだろう。

しかしそれでも……

 

「貴女に勝って、私はアメリカに行くわ!」

「先輩を倒して凱旋門を獲りに行きます!」

 

 

 

『東京レース場の長い直線に二人だけが入って来たっ

 

 

10バ身程遅れてスペシャルウィーク

 

 

 

先頭サイレンススズカ!

 

並んでエルコンドルパサーも殆ど差はありません!

 

 

 

流石に後続が詰めて来たエアグルーヴとキンイロリョテイ!

 

 

あっという間にスペシャルウィークを捉えて三番手に躍り出たっ

 

 

外から一気にシルクジャスティスも突っ込んでくる!

 

 

 

残り400㍍を切って前の二人がまだ先頭!

 

エルコンドルパサーとサイレンススズカ!

 

 

エアグルーヴが詰めてくる!

 

キンイロリョテイはやや後退っ

 

代わってスペシャルウィークが巻き返す!

 

 

 

もう一度上がって来たスペシャルウィークがエアグルーヴを捉えるか!?

 

 

残り200㍍!

 

粘るサイレンススズカとエルコンドルパサー!

 

エアグルーヴがさらに足を伸ばして後3バ身!

内からスペシャルウィーク外はシルクジャスティスも頑張って追ってくる!

 

しかし追い足が鈍ったか!?

 

 

 

先頭サイレンススズカとエルコンドルパサー! 

 

レース半ばから此処までぴったり競り合う両者が譲らない!

 

もうこの二人なのか!?

 

 

エアグルーヴが伸びる! まだ詰めるっ

 

後一バ身だが残り100㍍を切った!

 

 

 

 

 

 

 

 

―――届きません!

 

 

これは前二人が残ったか!

 

サイレンススズカが!

エルコンドルパサーが!

 

 

今っ

 

全く並んでゴールインっ

 

 

見た目は殆ど同時でしたっ

恐らく此処は写真判定になるでしょう!

 

三着は1バ身半でエアグルーヴ!

 

一番人気のダービーウマ娘スペシャルウィークは4着入線となっておりますっ

 

 

 

第■■回ジャパンカップ!

 

優勝者はまだ分かりませんっ

 

 

何時ものように逃げに出たサイレンススズカ

 

しかし向こう正面1200㍍過ぎで早くもエルコンドルパサーが競りかけました

 

 

そのまま両者が一歩も譲らず、終わってみればマッチレース!

 

エアグルーヴの猛追もあとわずか、届きませんでした―――あっ

 

 

今判定が出た模様!

 

勝ったのは⑪番!

 

長い長い叩き合いの決着はエルコンドルパサーに軍配!

 

 

不敗の怪鳥!

 

 

ジュニアCクラスにして世界の舞台で勝利しました―――』

 

 

 

控室のモニターで一部始終を見ていた彼女は万感の思いで手を叩く。

このレースを見ていた大観衆と同じ思いを、少しでも味わえるように。

 

「……終盤で明らかに前二人も疲れていたんだけど、後ろも殆ど潰されちゃってたか」

 

モニターの向こうでは勝利したエルコンドルパサーと敗れたサイレンススズカが健闘を称え合っている。

この二人はどちらにとっても気持ちの良いレースだったろう。

見ていてもそれは感じられた。

しかし悔いを残すウマ娘もいた。

本日の一番人気だったウマ娘はターフに崩れ落ちて号泣している。

カメラは歓声と実況の声が大きく、そのウマ娘の声は聞こえない。

スペシャルウィークは拳を芝に打ち付け、震えたまま顔を上げることが出来ないでいた。

レース場に詰めかけたファンにとって、直接戦ったウマ娘達にとって、それは初めて見るスペシャルウィークの姿だった。

 

「……気持ちだけは本気だったのね、あの子」

 

本気で、真剣にこのレースに勝とうとした。

しかし資料ではかなり厳しいローテーションでの出走である。

その心は折れずとも、身体が先に力尽きた。

悔しいだろうなと彼女は思う。

それは痛いほど理解出来た。

此処でもう一度勝者のプロフィールを確認する。

 

「クラシックを捨てて、このレース場で一戦叩いて本番ね……」

 

エルコンドルパサーがどれほどこの一戦に賭けていたか、選んだ道が雄弁に物語っている。

それほどの準備をして此処に臨んだのだ。

かつての彼女と同じように。

気持ちだけで覆すには高すぎる壁だったに違いない。

泣き崩れるスペシャルウィークの前に一人のウマ娘が立った。

彼女の記憶違いでなければ、それは三着のエアグルーヴ。

そのウマ娘はスペシャルウィークを抱えるように立たせる。

そしてきつく抱きしめながら耳元で何かをささやいた。

エアグルーヴはスペシャルウィークの手を取って、共に地下道へ引き上げていった。

そんな光景を感慨深げに見守っていると、控室の扉がノックされる。

 

「どうぞ?」

「まだ此処にいるのか、君は」

「あら、その声……オグリか。久しぶりじゃない」

 

開かれた扉の前に立っていたのは、彼女の顔見知りであるオグリキャップ。

この後の11Rではライバルになるウマ娘である。

 

「良いレースだったわねー。さっきの、見たでしょう?」

「見た。少し出来過ぎだったという印象もあるが……」

「そうね。メンバーが良かったのかな? 前の二人は競りながらお互いの限界超えて行った感じだし、追撃する方も死に物狂いで」

「それぞれに何か、胸に秘めたものがあった。それが彼女らの成長力を引き出した……出来過ぎというのは言葉が悪いか。しかし、若いうちにしかあんなレースは出来ないだろう」

「あら、老け込むのは白髪だけにしておきなさい?」

「……葦毛だ」

 

憮然として黙り込んだオグリキャップ。

その鼓膜を含み笑いが優しく叩いた。

ライバルをからかった彼女は上掛けを脱いで勝負服になる。

 

「それじゃ、若い子に負けないように頑張って走りましょうか」

「これほどの好勝負の後だ。生半可なレースでは、ファンの期待に応える事は出来ない」

「そうね。気合入れなきゃ」

 

彼女は自分を迎えに来たライバルに礼を言いつつ立ち上る。

ついつい中継に見入っていた身体が少し硬い。

返しウマでは入念にほぐす必要があるだろう。

 

「それじゃ、久々の東京レース場だから。エスコートをお願いねオグリ」

「分かった。行くぞ」

 

オグリキャップに続いて控室を出たウマ娘。

物珍しそうに会場を見ているその姿は、とてもこのレースのレコードホルダーのモノには見えなかった。

 

 

 

§

 

 

 

『国内の勝負付けは、済みましたヨ』

 

京都レース場スタンド前。

メイショウドトウとハードバージはそれぞれに私物のスマホで東京レース場の実況を確認していた。

 

「あのぅ……これは良いんでしょうか?」

「またちょっと荒れちゃうかもねー……エルちゃんだから脇が甘いっていうより、知った事かって感じなんだろうけど」

 

エルコンドルパサーが優勝したジャパンカップではウィナーズサークルでのインタビューが行われている。

今の心境やレース中の回想。

それら一種の通過儀礼が終わると、次の質問は次走の予定。

ファンと関係者は当然、本日をもって七戦七勝となった不敗の怪鳥が年末の有馬記念に出てくることを期待していたのだろう。

此処で求められていた解答は、有馬記念への出走表明と力強い勝利宣言だったに違いない。

しかしエルコンドルパサーの応えは明確な否定。

そして雪解けを待っての渡仏と、予定通りの凱旋門賞への挑戦だった。

インタビュワーが引きつったように有馬記念と来春の日本での出走予定を直接確認している。

それに対しエルコンドルパサーは直線の短い中山の2500は、凱旋門賞のステップとしては不適格である事を丁寧に説明していた。

 

『今年日本で一番強いウマ娘を決めるなら、それは有馬記念だって思いますケド~。ワタシの夢に必要なのは其処よりもジャパンカップの勝利でしタ。それが済んだら、国内のテストマッチをダラダラ続ける気はありませんヨ』

 

最も、理屈以前の問題でエルコンドルパサーが有馬記念に出ない事を残念に思う層はいるだろう。

今日は彼女が勝者だからこそ直接の不満は出ない筈だ。

しかし一か月後の有馬記念が近づけば、その気持ちは形を変えてエルコンドルパサーを攻撃するかもしれない。

 

「まぁ、ファンに対してはまだ良いんだけどさぁ。有馬の先だってエルちゃんは走るから、凱旋門賞に続く夢を見せていけば必ず掌を返してくる。面倒なのはレース関係者とかお偉いさんの心象なんだよね……いや、ファンよりそっちを気にするのはおかしいんだけど、実害があるのはそっちだからねー」

「えっと……レース関係者の方も、エル先輩が有馬に出ないと困ってしまうんですかぁ?」

「凄い困ると思う。絶対この後本人と、私の方に出走依頼が来る……胃が死ぬ……」

「でも、これだけの死闘の後ですし……体調から回避するのは選択としては致し方ない所もあるんじゃないですか?」

「勿論連中にはそう通すけど……エルちゃんはジュニアCで在りながら、既にGⅠ二勝なんだよねー。此処に有馬まで獲ればGⅠ三勝……もしそうなったら、来年頭のWDTが現実的になるんだよ。おあつらえ向きに無敗だし」

「あぁ……」

「エルちゃんが其処に出るだけで、お客さんの入りが変わってくるだろうね。そりゃ向こうも必死だと思うよ? 有馬記念勝利を前提としたWDTの内定とか、遠征費の助成とかそういう事でこっちに干渉しようとしてくるはず……うちと同じ規模のチームで、うちじゃなかったら首にひもをかけられていただろうね」

「お金は……困っていないですからね。うちは」

 

コメットは今春にエルコンドルパサーが加入するまでチームとしての人数が足りていなかった。

これで国内のレースは出走が難しくなるのだが、海外に自費遠征すれば関係ない。

当然そんなに簡単な事ではないのだが、年長組はアメリカと欧州では黒字を出す程度の成功を収めている。

特にシルキーサリヴァンは母国の人気と強さからBCやアメリカのドリームレースの常連であり、今年に至ってはペガサスワールドカップまで勝鞍に入れた。

エルコンドルパサーと帯同ウマ娘、もしくはトレーナーを半年以上フランスに遠征させる費用は凄まじい高額になる。

それを自チームだけで賄うことが出来る所はトレセン学園内にも多くないが、コメットにはその資金力がある。

 

『そうですネ! やっぱりトレーナーさんの指導によるところが大きいと思っていマース』

 

エルコンドルパサーのインタビューはまだ続いているが、お決まりのヨイショが始まった事でハードバージはスマホから顔を上げ、目の前の現実に逃げ込んだ。

 

「まぁ、今は気にしても仕方ないかな。帰ってから考えよう」

「はぁーい」

 

間延びしたドトウの返事に頷くハードバージ。

コメットのトレーナーは返しウマの様子を確認する。

念入りな柔軟をしてから脚を温める程度に流すシルキーサリヴァン。

細かい切り返しを確認しているらしいシーキングザパール。

並のウマ娘なら疲労する程に速いマイペースでトラックを回るマルゼンスキー。

静止状態からの加速を本番さながらの迫力で繰り返すタイキシャトル。

他のウマ娘達もそれぞれに動いてコンディションを確認している。

 

「当たり前ではあるんだけど、遅そうな子って居ないねぇ」

「それは……マイルのGⅠレースですから」

「此処にいたのかハードバージ」

「お?」

 

突然かけられた声にハードバージが振り向くと、其処には二人のウマ娘の姿があった。

メイショウドトウは見知らぬ顔を怖がってトレーナーの後ろに隠れる。

 

「遅いじゃない……来ないのかと思ったよー」

「来ないわけがないっての! あのにっくきマルゼンスキーがついに敗北する日なんでしょ?」

「え、いや……私のチームで、私達の同期が戦うとしか言ってないんだけどー」

「では、お前はトレーナーとして、勝ち目のないウマ娘を此処に送ったという事か?」

「違うけど……」

「それなら問題ないじゃないか」

「そうだけどさぁ」

 

ハードバージは深い息を吐きながら、背中に隠れたドトウに二人のウマ娘を紹介する。

 

「あー……別に負け犬の名前なんか覚えなくても良いんだけど一応紹介しとくねー。あっちのチャラいのがラッキールーラ。私達の世代のダービーウマ娘」

「初めましてお嬢さん。良い斤量をしているねーハードバージ以上? それはないか」

 

軽薄な様子で身体の一部を見つめられたドトウはトレーナーの背後で小さくなっている。

ハードバージが半眼で睨みつけると同時に、もう一方のウマ娘がラッキールーラを小突く。

 

「こっちの背が高い男女はプレストウコウ。同期の菊花賞ウマ娘だよ」

「初めましてお嬢さん。私の同期が、いつもお世話になっております」

「あ、いえ……こちらこそ」

 

背の高いウマ娘は腰を深く折ってメイショウドトウに頭を下げる。

年上のウマ娘からの丁寧なあいさつに面喰うドトウ。

ハードバージとラッキールーラは顔を見合わせた。

 

「しまった、チャラいのはこっちだったかー」

「こうやって若い子たぶらかしていたんだねー」

「本当に失礼だな君たちは」

 

同期達の不本意な評価に顔をしかめたプレストウコウ。

しかし口に出したのは抗議ではなく、確認だった。

 

「それで、私達の世代の生き残りは誰なんだ? こう言っては何だが……ウマ柱でシルキーサリヴァンとあったが顔が思い出せん」

「そうそう。しかも4番人気とか結構じゃん」

「シルキーはあの赤いのだよ。まだ日本の中央じゃ六戦しかしてないの……うち二走は今年に入ってからだしね」

「よく上がって来たものだな……遅咲きも良い所じゃないか」

「いや、最初から主戦場をアメリカって定めていたんだよ。故郷に籍を残したまま、良い設備のトレセンを使うために留学してきた変わり者で……」

「……あ! いたよあいつっ、マルゼンスキーのデビュー戦!」

「知っているのか?」

「直接は見てない。でも後からマルゼンスキーの資料集めてたら、ビデオに入ってた……DVDに焼くの忘れてたからもう見れないんだけど」

「貴重な資料を……」

「大丈夫。脳内には焼き付いてるから」

「……で?」

「ビデオだと完全に見切れてる所からあっという間に先頭に並んでたんだよ。あれに競りかけられたから、マルゼンスキーも応戦して大惨事になったんだもん」

「マルゼンスキーのデビュー戦については話にしか聞いた事がなかったが……よくもまぁ、そんなウマ娘を捕まえたな」

「捕まえたというか、捕まったというか……面倒見が良かったからね、彼」

「彼?」

「いや、彼女か」

 

不思議そうに首を傾げる同期に、咳払いして言い直すハードバージ。

ラッキールーラとプレストウコウは返しウマにいるシルキーサリヴァンを注視する。

非常に高い身長だが、女性的には恵まれたスタイルであり色々と走り難そうである。

表情もベテランらしく落ち着いており、見た目だけなら深窓の令嬢と言われても納得する容姿。

プレストウコウのような中性的な見た目ではない為、彼と呼ばれているとすれば違和感があった。

 

「あれー! なんか見た顔がいっぱい」

「んな!?」

 

シルキーサリヴァンを目で追っている間に、マルゼンスキーに接近されていたハードバージ達。

本日一番人気のウマ娘はニタニタと嫌な笑みを浮かべながら、前列にいる一行に寄って来た。

 

「なぁになぁに? 今日は同窓会でもあるの?」

「ある意味ではそうかもねー……」

「っふ、お前が年貢の納め時と聞いて、居てもたってもいられなくなった」

「わざわざ海外から来たんだぞー」

「へぇ……で、あんたたちの本命は誰だって? 優しいマルゼンスキー様が聞いておいてあげようじゃない」

「ふむ」

「うーん」

 

プレストウコウとラッキールーラは互いに顔を見合わせる。

そして次にハードバージとマルゼンスキーの顔を交互に見る。

 

「やっぱり無理な気がしてきた。自信満々のハードバージは消しの法則って同期の常識だよ」

「……そんな気がしてきたな。こうしてマルゼンスキーを目の前にすると、また歯ぎしりしながら彼女が勝つのを見ている自分が容易に想像できる」

「ふふん、そうでしょうそうでしょう」

「君達……せっかく呼んだんだから私のチームを応援してよ」

「あら、ハードバージが集めたわけ?」

「そりゃあね」

 

ハードバージはここしばらくの私用を思い出して疲れ切ったように肩を落とす。

この日、自分達の最後の同期がマルゼンスキーと一つの決着戦に臨む。

それはハードバージの悲願であり夢だった。

今日それが叶うのだ。

かつてのライバル達と共にそれを見たいと望んだハードバージは、なけなしの行動力で連絡を付けた。

海外でトレーナーをしているらしい事は知っていても、連絡先も分からない元同期を探し出すのは本当に苦労した。

 

「私は条件戦でもたもたしていたからさ、君とシルキーのデビュー戦も他人事じゃなかった。そこで出る未勝利ウマ娘が、私のライバルになるんだもん」

「……」

「見ていたんだよ。凄い速さで駆け抜けていく君と、もっと凄い速さで追い上げていくシルキーを」

「……」

「運が良かったのか、悪かったのか……いや、多分良かったんだろうね」

 

ハードバージは一度プレストウコウの顔を見た。

 

「私は君と一度も対戦することなく現役を終えた。その後は……いろいろ寄り道もしたんだけど、君の悪い噂を聞くたびに、私は罪悪感に震えていたよ」

「私は走っていただけだからね?」

「そうだね。私達が弱くなくて強かったら、君が一人で加害者みたいに言われなくてよかった。かといって君まで弱かったら、私達は全員名前も残らずに、皆から忘れ去られていたと思う」

「……」

「なんとかしたいって、ずっとずっと思っていた。でも私達じゃ届かない。誰なら届くかって考えた時、君の首に手をかけたウマ娘がいた事を思い出した。今思えば、あれは君にとって最初で最後の苦戦だったはずだから」

「……」

「君は中央のターフで長い間走って来た。私達が引退してから、怪我にも苦しみながら、出走数は減ってもずっと現役でいてくれた。だから今日、私の夢がかなうんだよ。君に勝てる可能性がある最後の同期が、此処で君と戦うんだ……結果は、どうなるか分からないんだけど」

「……私がぶっちぎって終わりに決まっているじゃない」

「そうなるかもしれないね。でも分からないよ? 君だってそう思ったから、此処に来たはずだ」

「……」

「スプリンターズSに君が飛び込んできたとき確信したんだ。今年の秋こそ私の夢が実現するって。シルキーと君がもう一度、あの時みたいに戦う所が見れる」

 

ハードバージは一つ息を吐いて目を閉じる。

胸中に過るのは自分の夢を形作る全てのピース。

直接戦うシルキーサリヴァンが居る。

その対面にはマルゼンスキーが居る。

中央の重賞に出るために必要なチームと、所属してくれた仲間達が居る

そしてトレーナーになったハードバージ自身も、今日を迎えるにあたって不可欠な1ピース

自分達の誰一人欠けても今日は無かったのだ。

その事実を噛み締めて目をあけた。

 

「代理になってしまって申し訳ないんだけど、私のチームで私達の同期が、今日君と戦うんだ。トレーナーとして君に挑戦出来るめぐり合わせに感謝してる」

「……あんたが育てたって訳でもないでしょうに」

「虎の威を借りないと君の前にも立てない私を、笑っても良いよ」

「……良いわ。あの赤いのをもう一度、私の前に連れて来た事に免じて笑わないであげる」

「……」

「貴女の夢なんか木っ端みじんにしてやるんだから、そっちの二人みたいに歯ぎしりしながら、私が勝つところを見ていなさいよ」

「……それじゃ何時もと同じなんだよねぇ」

「あら、応援してくれてたのね」

「勿論だよー? 同期でしょ」

 

照れくさそうにたじろいだマルゼンスキー。

其処へ係員が返しウマの終了を告げ、ゲート入りを促しに来た。

同期達の顔をもう一度目に焼き付けたマルゼンスキー。

振り向いた時、赤いウマ娘と目が合った。

 

 

 

§

 

 

 

『秋晴れに恵まれました京都レース場

 

 

遠い東の戦場では華やかな国際レースが行われている事でしょう

 

 

しかし西の戦場も、それに劣るものではありません

 

 

若い世代の躍進が際立つ今年の秋ではありますが

 

 

此処に集ったウマ娘達は、歴戦のシニアクラス達

 

 

実況席から見渡しますと、スタンドに詰めかけたファンの中にも先達の方々が大勢いらっしゃるように思われます

 

 

長年に渡り走って来たウマ娘と、それを見守って来たファンの晴れ舞台

 

 

第■■回マイルチャンピオンシップ

 

 

 

一番人気は今秋、突如スプリンターズSに乱入を果たしたマルゼンスキー

 

この春より帰って来たマイルの女王、タイキシャトルは二番人気

 

そのライバルとして幾度も好勝負を演じたシーキングザパールが三番人気と続きます

 

前走の毎日王冠で三着に入りましたシルキーサリヴァンは四番人気です――』

 

 

 

シルキーサリヴァンがゲート前に向かう。

一度トレーナー達が居る方を見れば、マルゼンスキーと何か話しているのが見える。

ハードバージの後ろにはメイショウドトウが隠れていた。

その横には二人のウマ娘の姿がある。

 

「……あぁん?」

 

シルキーサリヴァンの記憶は二人の容姿に見覚えがあると訴えて来た。

しかし何処で見たのかは思い出せない。

本格的に記憶を辿ろうかと思ったが、すぐに無駄だと切り捨てた。

もうすぐレースが始まる。

マイルCS。

京都レース場の右回り1600㍍。

時間にして僅か90秒そこそこの死闘。

一つ息を吐いて意識のチャンネルを切り替えた。

気の良いチームの兄貴分ではない。

それは全てのライバルよりも早く走るという競走馬の本能である。

異世界の魂と共に記憶の欠片まで受け継いでいるシルキーサリヴァン。

心の深い所から湧き上がってくる力を感じる。

その力こそがウマ娘と人を明確に分けるのだ。

歩みを進めるシルキーサリヴァンの元にマルゼンスキーが寄ってくる。

 

「へぇ、やる気満々じゃない」

「マルゼンスキーか……久しぶりだなぁ」

「そうねー」

「正直お前ともう一度当たる事になるとは思っていなかったぜ」

「まぁ……言いたい事はいろいろあるんだけど、悪かったわね」

「なんだよ」

「安田記念の後さ、あんたが電話してる所に鉢合わせちゃったのよね」

「なんだ、おめぇ聞いていやがったのかよ」

「そ。あくまで事故だけど」

「……お前が此処に来たのは、そのせいか?」

「そうよ。気に食わないから殴りに来たの」

「……お前はそういう資格があるよな」

「でしょう? 何よ若い子のお尻ばっかり追っかけてさ。あんたシャトルちゃんと勝ち負けする前に、私に借りを返すのが先でしょうが」

「そいつぁ失礼したなぁ」

 

シルキーサリヴァンは口の端をつり上げて薄く笑む。

マルゼンスキーは至近距離から放たれる殺意にも似た闘争心に背筋が震える。

それは怯懦ではなく歓喜からくる反応だった。

 

「眼中に無かったもんでよぅ」

「だろうと思ったわクソ野郎」

「俺様のいねぇ所で随分勝ってきたらしいじゃねえか」

「あんたが私の居ない所で白星漁っていたんじゃない」

「デビュー戦で偶々逃げ切ったからって、何時までも上にいるつもりになってんじゃねえぞ小僧」

「実際上なんだから、誰はばかることなく言いまわるに決まってるじゃない。負けっ放しの坊や」

 

ヒートアップしていくチームメイトを遠巻きに見るパールとシャトル。

犬猿の仲の二人だが、思わず顔を見合わせた。

 

「Hey,パール。アレ止めないの?」

「あそこに入って行ったら怪我するわよ。こういう時こそあんたの腕力が役に立つんじゃない?」

「GrandmaもDarlingも楽しそうだから、良いんじゃないかなッテ」

「今にも乱闘始めそうなんだけど……」

「係員が止めるデショ。その為にいるんだし」

 

タイキシャトルがそう言った時、係員がシルキーサリヴァンとマルゼンスキーを遠ざけた。

勇敢な事だと思う。

膝が笑っておらず、五人掛かりでなければだが。

 

「今は、余計な体力使いたくないヨ」

「そうね……」

 

深く吸って深く吐く。

その一呼吸で、二人のウマ娘も思考と意識を切り替えた。

 

「それじゃ、お先ニ」

 

タイキシャトルがゲートに入る。

その背中を見送ったシーキングザパールがもう一度チームメイトの様子を確認する。

先程までは荒れていたようにしか見えなかった。

しかし今は何事もなかったようにゲート入りしている。

マルゼンスキーも同様だった。

 

「……狸め」

 

歳を喰ったウマ娘はこれだから怖い。

自分もゲートの前に立つシーキングザパール。

此処に入ったらゴールまで、約90秒間は全ての他人が敵になる。

 

「良いわね……この感覚」

 

この瞬間が一番自由な自分になれる。

出来れば長く味わいたい。

そう思っていると、係員にゲート入りを促された。

仕方なく指示に従うパール。

 

 

 

『かなり興奮気味でしたが、マルゼンスキーとシルキーサリヴァンは無事ゲートに入りました

 

タイキシャトルもスムーズにゲートイン

 

シーキングザパールはやや嫌がっているでしょうか

 

係員に促されて、ようやくゲートに入ります――

 

 

 

――体勢が整いました

 

 

第■■回マイルチャンピオンシップ

 

 

今――

 

 

スタートしました!』

 

 

 

殆ど差のないスタートから、一つ抜け出したのはマルゼンスキーとタイキシャトル。

しかし叩き合いにはならなかった。

身体を寄せられる前に余力を切って前に出たマルゼンスキー。

 

(早いねGrandma!)

(実戦であんたの横につく気はないわよ)

 

横軸にならんでの競り合いにしてしまえば、さりげなく当たりに来るだろう。

練習ならばともかく、レースではタイキシャトルも遠慮はしない。

だからこそ並ぶつもりはない。

タイキシャトルはマルゼンスキーに油断がない事を知ると、僅かに走りのギアを下げる。

 

(出来れば開幕で退場して欲しかったんだけどナー)

(確実に初っ端潰しにきてたわこの子、こえー……)

 

背中に冷たい汗を感じながら先頭を走るマルゼンスキー

少々下げてバ群の先頭に落ち着いたタイキシャトル。

シーキングザパールはバ群の中団に入って足を溜める。

そしてバ群の最後方からシルキーサリヴァンが徐々に取り残されていく。

 

(マルゼンスキーを此処から捉えるのは苦しい……そう、分かっちゃいるんだがな)

 

シルキーサリヴァンは少しずつ遠ざかるバ群を見ながら苦笑する。

このウマ娘の魂に刻まれた走りの型は、極端なまでの追い込みだった。

彼女はなぜかつての自分がそのような走りをしたのか覚えている。

それは身体に科せられた枷から来たもの。

脚と気管にハンデを抱えた上で勝つために選んだ事。

此処では前世と同じ轍を踏まない様に注意した。

今のシルキーサリヴァンであれば、差しだろうが先行だろうがこなして見せる自信はある。

しかし結局、選んだものはこのスタイル。

 

(昔は仕方ねぇと知っていたんだ。俺には此れしかねぇ……これでしか勝てねぇと分かっていた)

 

人のような身体を得てかつての自分を思い出せば、動物にしてはかなり頭が良かった方だと思う。

人が作った競馬という理は分からずとも、自分に課せられた使命とその為にすべき事を考えることは出来たのだから。

しかしシルキーサリヴァンは、今の自分が頭の良いウマ娘だとは思っていない。

前世と違って余計な事を考えるようになってしまった。

同期の事、チームの事、後輩達の事。

走る事に対して、今の自分は昔ほど純粋ではなくなった。

 

(それでも俺はシルキーサリヴァンなんだよな。昔があって、今にいる)

 

シルキーサリヴァンは前世の記憶がある。

自分の走りに夢を見た人々と、果たせなかった挑戦を覚えている。

そして今度こそはと意気込みながら、今世においては出走すらできなかったケンタッキーダービー。

嘗て競走馬だった自分が人間から掛けられた期待に対して、どう思ったかは分からない。

しかし今の彼女にとっては嘘にしてしまった約束だと思っている。

 

(何となく分かってる。俺様はイレギュラーだってよぅ)

 

まるで見た事のないモノや名を聞いた覚えのないウマ娘達。

似て非なる異世界とは言えど、シルキーサリヴァンは自分が生まれた年代がかつてとまるで違う事に気づいている。

嘗て自分に夢見た人々と、いま彼女が生きる場所と時間は違う。

だからこそ後ろから勝負する。

それは前世の自分に熱狂した人々と、世界すら超えた最後の繋がりなのだから。

 

 

 

『向こう正面の長い直線!

 

 

 

先頭はやはりこのウマ娘マルゼンスキー!

 

 

 

4バ身程離れましてタイキシャトル!

 

 

殆ど差がなくサクラエキスパートとエイシンガイモン!

 

 

その後ろにランニングゲイルと固まりました!

 

 

 

やや縦長の展開か!?

 

 

 

2バ身程離れてキョウエイマーチシンコウスプレンダエイシンガイモンと続きまして

その後ろにシーキングザパールがこの位置!

 

 

 

バ群の最後方からはビッグサンデーとヒロデクロスが追走します!

 

 

其処から7バ身程遅れてシルキーサリヴァンがこの位置です!

 

 

このウマ娘には定位置ですが果たしてここから先頭に届くのか!?』

 

 

 

マイルCSは最初の直線がレース全体の五割近い長さになる。

この距離に出てくるウマ娘達の瞬発力なら、そう簡単に優劣はつかない。

横広の先行争いが定番のレースだが、先頭はあっという間に決まっていた。

そして中ゆるみしたわけでもないのに縦長の展開になった。

これは前を走るウマ娘が作るペースが速いからだ。

シーキングザパールはバ群の中団から10バ身近い前方を走るマルゼンスキーに視線を向ける。

 

(分かっていたわよ。分かっていたけどこれは……)

 

発走前の返しウマでは相当速く駆けていた。

あれがマルゼンスキーにとって疲労にならないペースなら、この展開も納得できる。

そうでなくとも前走のスプリンターズSでは、タイキシャトルとの叩き合いの中で外からまとめて千切られたのだ。

加速力と最高速。

シーキングザパールが武器にするものがマルゼンスキーには通じない。

得意分野で自分以上の性能を持った相手に、真っ向勝負を挑んだ所で歯が立つはずが無かった。

 

(なら私の負けだって? 違うわね)

 

レースの着順など、余程の実力差がなければ僅かな事で入れ替わる。

当日のコンディション、バ場の様子、ゲート番号、右回りと左回り。

その他にも様々な要因があり、その上でスタートを切ったら他者の妨害をしない限り……

正確には妨害と判定されない限りにおいて、コース上のどこをどう走っても良いのがレースなのだ。

 

(あんたの走りって絶賛されているじゃない。気品があって優雅、無人の野を駆け抜けるように何者をも寄せ付けず、スマートに先頭でゴールするウマ娘……って事はさ)

 

マルゼンスキーが叩き合いに持ち込まれたのはデビュー戦の一度だけ。

それ以降は殆どのレースをスピードに寄って引き離している。

プリンターズSは後ろから来たが、他のウマ娘が居ない大外を走っていた。

そして周知の事実だが、マルゼンスキーは脚が悪い。

 

(見たことは無い。けど絶対当たれば弱い筈……なんだけどぉ!)

 

今までそれをする相手が居ないというなら可能性は二つ。

一つは忖度があったか。

もう一つは誰も実行する事が出来なかったか。

今までの事はどうでも良い。

しかし間違いなく、シーキングザパールはマルゼンスキーに対する遠慮も無ければ容赦もない。

ルールの中で最善を尽くして勝つ心算がある。

それでも現状がコレだった。

自分より早い相手が前を走っていたら叩き合いなど望めない。

10バ身も遠くにいる相手に、出来る事など何もなかった。

 

(行くしかないか……私だって当たりに強い訳じゃない。第一自分より速いウマ娘の後ろにいて、後からスパートしたら負け確だものね)

 

 

 

『マルゼンスキーが先頭のまま第三コーナーに差し掛かる!

 

 

バ群の中からするすると上がって来たのはシーキングザパール!

 

ウマ娘達の隙間を縫って来たっ

 

 

二番手を走るタイキシャトルからマルゼンスキーまで三バ身と行ったところ!』

 

 

 

(来たヨ……最悪ッ)

 

タイキシャトルは一番嫌った展開に嵌まり込んだ現状に苛立った。

先行から逃げるマルゼンスキーを前目で追走している所、上がって来たシーキングザパール。

 

(前にGrandmaがいる、後ろにDarlingがいる……今この子と競りたくないっ)

 

マルゼンスキーが前にいるのはあくまでマイペースが速すぎるからであり、決して足を使って逃げているわけではない。

まだ上があるのは練習でもスプリンターズSでも分かっている。

タイキシャトルは此処からマルゼンスキーに追いつき、更にギアを上げてくる先輩を抑えなければならないのだ。

その為には仕掛け所を間違えるわけには行かない。

しかしシーキングザパールと競り合ったらそれどころの話ではなくなる。

 

(……この子を逃がすのもNoだよネ。其処まで弱い相手じゃナイ)

 

シーキングザパールはタイキシャトルを捕まえに来たわけではない。

それはタイキシャトルにも分かっている。

放置すれば先頭を走るマルゼンスキーに並ぶだろう。

嘗てのパールならともかく、今の彼女なら届くかも知れない。

そうなればマルゼンスキーも喜んで応戦する。

そしてシーキングザパールを振り切っても、マルゼンスキーはもう緩まない。

 

(Darlingがスパートするまで待ちたかったナー……)

 

200㍍などと贅沢は言わない。

後100㍍引き付けてスパートを掛けたかったタイキシャトル。

しかしその目論見は崩れようとしている。

 

(せめてGrandmaが行く時には並んでないと……仕方ないかっ)

 

タイキシャトルが思うに、マルゼンスキーは現役続行に拘っている。

勝つときは極力脚に負担をかけず、少ないリスクで勝ちたいはずだ。

彼女は誰も競りに行かない状態で、なりふり構わず全速は使わない。

だから再逆転が不可能なギリギリまで引き付けて、ゴール寸前で差しに行きたかった。

 

(ま、予定通りに行かないのもレースだよネ!)

 

シーキングザパールがタイキシャトルに並びかける。

タイキシャトルも応戦した。

バ群を少しずつ引き離し、代わりに先頭のマルゼンスキーとの距離を詰める。

この時、タイキシャトルとシーキングザパールは胸中に同じ思いを抱いた。

 

(酷い話もあったもんだわねコレは)

(ほんっとGrandmaズルいよネ)

 

確かに差は詰まっている。

ごくごく僅かずつではあるが、マルゼンスキーを追い詰めている。

しかしこの時点で二人は全速に近い。

それでようやくこの結果。

その時マルゼンスキーが首を捩る。

左で一度後続を確認した。

タイキシャトルとシーキングザパールが揃って詰めだしている。

右で一度シルキーサリヴァンを確認した。

……前傾から埒に沈み込む瞬間が見えた。

 

(来るっ)

 

近い死闘の予感に身震いしたマルゼンスキー。

その時が来るのを静かに待った。

 

 

 

『先頭は依然としてマルゼンスキー!

 

 

第四コーナー手前でシーキングザパールがタイキシャトルに並ぶ!

 

 

タイキシャトルも応戦!

 

徐々にバ群を引き離してマルゼンスキーとの差を詰めだした!

 

 

先頭までは後5バ身程か!?

 

 

――此処でマルゼンスキーが振り向いたっ

 

 

一度、二度っ

 

 

後続を確認したマルゼンスキー!

 

 

 

先頭マルゼンスキーのまま第四――

 

――あーーーーっと此処で最後方からシルキーサリヴァンが上がって来た!

 

スタンドからは大歓声っ

 

先頭第四コーナーに入った所で赤い弾丸が迫って来た!

 

しかしマルゼンスキーまでまだ20バ身以上!

 

これは届くのか!?

 

 

 

二番手争いはシーキングザパールタイキシャトルの叩き合いっ

 

 

 

さぁ最終コーナーを周って直線だ!

 

 

先頭はマルゼンスキー!

 

 

4バ身を追いかけるタイキシャトルとシーキングザパール!

 

外から一気にシルキーサリヴァン!

 

大外から!

 

タイキシャトルとシーキングザパールに並ぶか!?

 

 

 

先頭マルゼンスキーのまま後400!

 

 

二番手争いが決まらない!

 

三つ巴の叩き合い!

 

 

マルゼンスキーに挑むのはどのウマ娘か!?

 

 

 

 

後300㍍マルゼンスキーが逃げ切るか!?

 

 

シーキングザパールがやや後退っ

 

シーキングザパールはいっぱいか!?

 

 

タイキシャトルとシルキーサリヴァン!

 

 

まだ叩く!

 

譲らないっ

 

 

二番手争いが大接戦!

 

 

 

タイキシャトルも伸びが苦しい!

 

シルキーサリヴァンが前に出た!

 

残り200㍍でシルキーサリヴァンが単独二番手!

 

 

 

しかしまだマルゼンスキーがいる!

 

 

 

先頭まであと三バ身!

 

届くか!?

 

更に伸びるシルキーサリヴァン!

 

二バ身!

 

一バ身!

 

 

残り100㍍で一気にマルゼンスキーを捉える!

 

 

先頭入れ替わってシルキーサリヴァン!

大外から強襲した赤い弾丸!

 

 

並ばない!

 

 

並ばずに突き放す!

 

 

一バ身!

 

二バ身っ

 

 

これは決――

 

 

 

 

――っ内からもう一度マルゼンスキーが差し返す!

 

 

 

残り50㍍!

 

マルゼンスキーが追い上げるっ

 

内からマルゼンスキー外シルキーサリヴァン!

 

 

差すか!?

 

残すかっ

 

差すか―――

 

 

 

 

 

 

 

 

―――僅かに残したかぁああああああああ!

 

 

 

 

 

勝ったのは⑥番シルキーサリヴァン!

 

執念の追い上げを見せたマルゼンスキーを首差凌いでの決着!

 

 

デビュー戦以来っ

 

再戦を制したのはシルキーサリヴァン!

 

最大25バ身差をひっくり返す逆転劇!

 

 

京都レース場の大観衆が総立ち!

 

 

信じがたい光景と共に第■■回マイルチャンピオンシップ決着しました――』

 

 

 

§

 

 

 

地下道に引き上げるマルゼンスキー。

そう言えば、ウィナーズサークルに寄らずに戻ってくるのは初めてだった。

初敗北だからだろうか。

あまり心が騒めかない。

 

「シャトルちゃん待ってたほうが良かったかしら。でも泣いてたしなぁ」

 

マルゼンスキーはターフに崩れ落ちたチームメイトに声をかけることが出来なかった。

これは薄情というより、自分自身の脚の事情によるものである。

ゴール板の前を通過した後、マルゼンスキーは自分が真っすぐ歩けていない事に気づいた。

だから医務室でケアするため、真っ先に戻って来たのである。

タイキシャトルにはシルキーサリヴァンが声をかけていたから、酷い事にはならないだろうとも思う。

取り留めもない事を考えながら、違和感の消えない足で歩くマルゼンスキー。

その途中、自分のトレーナーが待っていた。

 

「マルゼンスキー」

「はーなちゃん」

 

東条ハナは何とも言えないといった表情で、跛行する愛バに肩を貸す。

 

「どうだった?」

「んー……厳しかったわね」

「厳しいとは?」

「トレーナーとしては、後10㍍早くスパートしてればって思うんだろうけど……アレは赤いのの背中を追いかけてたから出来たのよね」

「ふむ」

「最後の直線、後ろから追ってくる三人を凌ぐのに精いっぱいでさぁ……あそこでもう、私トップギアだったのよね。私、ちゃんと引き離せてた?」

「……いや、詰められていた」

「そっか……うん。そんな気がしていたわ。あそこが私の精一杯。其処から赤いのに並ばれて抜かされて……差し返しに行けたのはもう、意地よねー。だから最後のはスパートじゃないのよ」

「そうか、良く分析しているな。的外れだが」

「違った?」

「ああ。私が聞きたいのはそんな事じゃない」

 

マルゼンスキーは首を傾げて考え込んだ。

東条ハナは本当に分からないのかと愛バの横顔を見る。

 

「あ! 脚の事なら最悪三歩手前くらいで収まってると思うわよ?」

「それは良かった。まぁ跛行しながらも歩いてこれているわけだからな。これも違う」

「あれぇ……まだ違った?」

「なぁ、マルゼンスキー」

「うん?」

「楽しかったか?」

「……最っ高に、楽しかった!」

「そうか……お前がレース後にそんな顔をしていたのはデビュー戦の時以来だからな」

「そうだっけ?」

「そうだ。だから、お前の口から聞きたかった」

 

予想もしていない質問を受けて戸惑うマルゼンスキー。

トレーナーとウマ娘はしばし無言で地下道を歩く。

 

「一度お前を医務室に送ったら、私はタイキシャトルに付き添う。医務室ではシンボリルドルフが待機しているから、何かあったら伝えて置け」

「はーい……あ、ちょっとスマホ貸してくれる?」

「ん?」

「私に勝ったウマ娘がどんなコメントしてくれるのか、気になるじゃない」

「分かった……次は勝つぞ」

「あったりまえよ」

 

東条ハナとマルゼンスキーはレース場のウマ娘用医務室の前で別れた。

この扉の先にはチームメイトがいるだろう。

しかし、今は少しだけ一人にもなりたかった。

 

「……」

 

マルゼンスキーは通路の壁にもたれかかるようにして座り込んだ。

そしてトレーナーから借りたスマホを操作する。

画面には此処から僅か数百メートル離れた地上の様子が映っている。

ウィナーズサークルではシルキーサリヴァンが報道陣からコメントを求められていた。

 

『いや、俺がどうのって事じゃありませんよ。真っ先に思いつくのは、トレーナーのお陰だなってね』

『え? ご存じないんですか。うちのトレーナー、まぁ俺の同期なんですけど腕の良いやつでね』

『はい。世界一のトレーナーだって思っていますよ、俺は。ええ、信頼しています』

 

それらのコメントを聞きながら半眼になったマルゼンスキー。

しばらくためらったが時間が惜しい。

誰かが此処に来る前にと、手押しで同期に電話をかけた。

 

『……はい、ハードバージです』

「はぁいハードバージちゃん。お元気ぃ?」

『ま、まるぜ……なぁんにも見えないよぅ……』

「まぁ、電話越しにも分かるんだけどね。どうせ涙でぐっちゃぐちゃでしょ」

『うん……』

「もう少ししっかりしなさいよ。何時までヘタレでいる心算? あんた、世界一のトレーナーらしいじゃない」

『えぇ?』

「あんたの相棒がそう言ってるわよ。その様子じゃ、聞くどころじゃなかったみたいだけど」

『えぅ……またシルキーはそうやって私を追い詰めるぅ……』

「まぁ、少し盛り過ぎだって思わなくもないんだけどね……私も、あんたが世界で二番目のトレーナだって認めてあげるから、自信を持ちなさいよ」

『ふぐぅ』

「私に勝ったウマ娘を出したチームのトレーナーでしょあんた。胸を張りなさいよハードバージ。貴女は、私に勝ったのよ」

『うえぇええええええええええ……』

 

最早通話どころではない為、一方的に切ったマルゼンスキー。

酷使した脚が疲労で重い。

しかし両肩はやけに軽く感じる。

 

「なんだろ。羽でも生えたみたいだわ」

 

今なら誰よりも早く走れるような気がする。

しかし一度座り込んだ為に動くのがひたすら面倒臭い。

最早自力で動く気のないマルゼンスキーは、扉の向こうで待機しているであろう生徒会長を大声で呼びつけた。

 

 

 

 

 




98年マイルチャンピオンシップでマウントアラタの単勝を買った者だけが作者を鞭で打ちなさい(´;ω;`)ウッ…


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15.冬に至る夢

予定になかった飛び入り出走者が多くなり、賑やかな有馬になったと思います
一方でコンドルちゃん被害者の会の会員も一気に増えました(´;ω;`)ウッ…


その日、東条ハナは荒れていた。

決してそのすさみようを表に出しはしなかったが、東条ハナは荒れていた。

 

(JCはエアグルーヴの三位とスペシャルウィークの四位。マイルCSのマルゼンスキーは二位、タイキシャトルが三位か……)

 

ウマ娘達のレースにおいて、一着とそれ以外は歴然とした差がある。

極論するなら二着以降は全て負けなのだ。

その厳しい世界に身を投じるウマ娘達が勝てるように導くことがトレーナーの使命である。

この秋リギルのトレーナーとして、彼女の戦績は決して喜べたものではなかった。

 

(此処までのGⅠレースでリギルが勝ったのはスプリンターズSと秋天のみ……最早年間最多勝利記録がどうなどと言っていられん)

 

東条ハナは陰鬱なため息をついたが、一方で周囲におけるウマ娘達の評価は決して下がったわけではない。

レースとは一位の者が一人で作るものではなく、其処に参加した多くのウマ娘達の敗北があって成立するもの。

当然ながら見る者はその内容も重視する。

そう考えた時、今秋のレースは決してリギルのウマ娘が弱いから勝てないという単純な話ではなかった。

 

(コメットには今期無敗の化け物がいる。スピカにも3000で世界最速のウマ娘がいた。キングヘイローはGⅠこそ勝っていなくても菊の前にはスペシャルウィークを差し切った)

 

所属ウマ娘全員が勝ち上がりを果たした奇跡の世代。

その底辺が例年より高い事は既に証明されている。

しかしそんな世代を代表する上位陣の実力は尚すさまじいのが今期のジュニアCクラス。

ままならない現実に、この日東条ハナは酒に逃げた。

最も悪酔いするつもりはない。

沈みがちな気分を変える為、一人で少したしなむ程度。

だからあまり大衆が寄り付かない、はっきり言えば高い店に入ったのだ。

にもかかわらず……

 

「あれ、奇遇だねおハナさん」

「なんで貴方がこんな店に現れるのよ」

 

東条ハナに声を掛けたのは、普段間違いなくこんな店には金銭的な事情で近寄れない筈のスピカのトレーナーだった。

場違いな男を半眼で睨みつけたリギルのトレーナー。

それに対し、睨まれた男は肩をすくめて隣に座る。

 

「誰が相席を許可したわけ」

「誰って言われると……マルゼンスキーとしか言いようがないんだけど」

「はぁ?」

「ハナちゃんがそろそろ荒んで酒に走るころだから見ててって。ウマ娘が隣にいたら気分転換にならないだろうからと」

「うぐっ」

「あ、送り狼やったらNSXに括って引きずり回すって脅されてるから、そっちは心配しないでいいよ」

「……まぁ、事情は分かったわよ。だけどなんであんたを寄こしたのかしら」

「あれ、俺じゃ不満?」

「だってあんたが隣にいたんじゃ、結局話題はウマ娘しかないじゃない」

「……そりゃそうだ」

 

これならウマ娘が隣にいても変わらないと笑う東条ハナ。

男は思った程には気落ちしていない同業者の姿に安堵する。

それから二人はしばらくの間雑談に終始した。

それぞれのチームの事。

ウマ娘達が出走したレースの振り返り。

トレーニングや、チームの様子。

 

「それじゃ、スペシャルウィークはどっちかっていうとリギルの先輩が仕込んでいるんだ?」

「いつの間にかね。ある日突然私が教えていない妙な……でも何処かで見た事のある事をやりだすのよ。聞き出すと大体誰かが吹き込んでいるの」

「それ、使えるの?」

「にわか仕込って言いたい所なんだけどね……レースの展開によっては十分選択肢に入る程度には練り込んでくるのよ」

「すげぇな……」

「出来る事が多すぎても迷うんじゃないかと心配しているんだけどね。その点、スズカは真逆でしょう」

「あいつはあれで良いんだよ。スズカの大逃げは最高の個性だ」

 

トレーナー達はそれぞれに苦労話の風を装って自分のウマ娘の惚気話を聞かせていた。

お互いにこの業界に携わる人間であれば内情も分る。

その話には共感できる部分も多く、話は弾んだ。

 

「そろそろ今年も終わりじゃない、そうなるとさ……年度代表ウマ娘ってどうなるかな?」

「今年はまた難しい所よね」

「春はシニアクラスの誰かだと思っていたんだけどなぁ」

 

今春のレースで活躍したと言えるシニアクラスの強豪たち。

大阪杯を獲ったエアグルーヴ。

天皇賞春を獲ったメジロブライト。

安田記念で復活してきたタイキシャトル。

そして自身初のGⅠタイトルに宝塚記念を制したサイレンススズカ。

 

「……そんなウマ娘達が、秋で勝ち星ゼロなんだぜ……信じられないよ」

「私だって信じられないわよ」

 

トレーナー達は複雑な思いをため息に乗せて吐き出した。

それは決して悪いだけの事ではない。

シニアクラスが勝てていない反面で、ジュニアCクラスのメンバーは勝っているのだ。

スピカにもリギルにも、そうやって活躍している若いウマ娘達は確かにいる。

 

「秋の初戦だった毎日王冠と京都大賞典……此処から秋天、ジャパンカップと全部今年はジュニアCクラスが勝ち取っているわ。まぁ……秋天のグラスワンダーは強かったかと言えば疑問符が付くでしょうけれど」

「間違いなく強かったよ。あんなに絡まれていたのに、自由に走っていた他のウマ娘より早かったんだぜ?」

「……そうね」

 

東条ハナは苦虫を噛みつぶした表情で同意する。

あの一戦以来、グラスワンダーの中で何かが狂った。

何処かで精神的な苦手意識を持ってしまったのだろう。

左回りの時、走り方がぎくしゃくするようになったまま戻らない。

 

(本当にGⅠ一つ獲った程度じゃ割に合わないわ……)

 

トレーナーはかつてこの世代で最もまぶしく輝いていた才能が、少しずつ痛んでいく事が辛かった。

以前の骨折といい、あの秋天といい、グラスワンダーは本当に運がないと思う。

しかし最終的に、あくまで結果論としてグラスワンダーの出走を決めたのは自分である。

原因が何処にあろうとも、結局の所自責にさいなまれるのは東条ハナ自身だった。

あまり強くない酒を煽る。

息を吐く。

 

「今この瞬間に年度代表を選ぶとすれば、まぁNHKマイルカップとJCを無敗で獲ったエルコンドルパサーか、クラシック二冠でダービーも二位のセイウンスカイよね」

「ああ。しかも、秋のジュニアCクラス大躍進の急先鋒がこの二人だ。実績を考えれば、頭一つ抜けてると思っていい」

「……でも、エルコンドルパサーはないわね」

「……そうだね、無いな」

 

エルコンドルパサーは春のマイル戦を制しながら、無敗のまま中距離に出た。

そのタイミングでタイキシャトルが復帰してきたのは不運だったが、秋にタイキシャトルが負けた事によって以前ほど二人の対戦が望まれる機運はなくなった。

しかし今回、JCを制した後の有馬記念回避は残念に思うファンは多くいる。

またその点も含めてレースの主催側から、当人と所属チームのトレーナーに出走依頼が行ったものの拒否してしまった。

関係者からの感情は著しく悪くなったはずであり、この時点であればセイウンスカイが選ばれるだろう。

 

「エルコンドルパサーは同期には結構内情を話しているみたいじゃない。セイウンスカイから何か聞いていない?」

「いや、ある程度の話は聞いているみたいだけどチームでは話していない。そっちは?」

「うちもそうよ。スペシャルウィークもグラスワンダーも、エルコンドルパサーの事には口が堅いわ。まぁ、別のチームの事情だし聞き出すような事ではないから」

「そうなんだよなぁ」

 

この年頃の女子に多い秘密の共有というには、あまりにもガードが堅いスペシャルウィーク達。

だからこそエルコンドルパサーも内情を話しているのだろう。

更にどの程度まで公開しているかは不明だが、Cクラスの中からも情報が出てこなかった。

今期のCクラスの結束の固さは例年の比ではないらしい。

トレーナーとしては気になるが、経験から想像がつく部分もある。

 

「エルコンドルパサーはこの若さでシニアと戦って無敗……しかも此処で有馬記念を獲ったらGⅠ三勝目だぜ」

「そうね。恐らく、ウィンタードリームトロフィの内定の話は入っていると思うわ」

 

トゥインクルシリーズ最高峰にして夢のレース、ドリームトロフィ。

その参加条件は非公開であり明らかになっていない。

しかしジュニアCクラスではシンボリルドルフが無敗の三冠ウマ娘に輝いた年に出走した例がある。

それらの前例から様々な角度で条件を予想した場合、エルコンドルパサーが有馬記念を獲れば招かれる可能性は大いにあるとの予想はされていた。

 

「……それにしたって日程が恐ろしくタイトだけど」

「だから拒否したんだと思うわよ。エルコンドルパサーは定めた目的に対して、効率よくレースを選んでそれ以外は切り捨てているもの」

「おハナさんには好みだろ、そう言うウマ娘は」

「そうね。コンディションも作りやすいし……逆に貴方はスペシャルウィークみたいなウマ娘は好きでしょう?」

「勿論! ただ、だからこそ意外なんだよね。菊花賞であれだけ使った後にJCって……当人が望めば俺ならやるけど、おハナさんなら回避させると思ってたよ」

「身体を考えればそうしたかったわよ。だけど出さないともっと悪い事になる可能性があるなら、少しでもリスクが低い方を取るしかないでしょう」

「リスクか」

「メンタル面でね。約束していたらしいから」

 

東条ハナはカクテルグラスを傾けながらスペシャルウィークに思いを馳せる。

秋にエルコンドルパサーと戦うと約束していたとは聞いていた。

しかし当のスペシャルウィークも、頭に出来ればとつく口約束だとも話していた。

決してそれが叶わなかったからといってやる気をなくすということは無いだろう。

そう思う一方で、やはりあのJCはスペシャルウィークに必要な一戦だったと思うのだ。

 

「憧れの背中を追いかける……そんな純粋な子だったのよ。サイレンススズカとエルコンドルパサー……後セイウンスカイかしらね。この辺りと一緒に走る時は、あの子目の色が変わるのよ」

「純粋な子だった……っていうと?」

「JCの内容は不本意だったらしいわ。菊花賞で負けたのにファンは期待してくれた……にも拘らず、展開に流されて受け身になった」

「……大逃げしたスズカに早いうちから鈴を着けに行ったウマ娘が出たんだ。毎日王冠の前例もあった。後ろ残りのレースになるって考えるのは間違ってないはずだ」

「私もそう思った。でもスペシャルウィークは違ったのよ。潰れて大負けする事になっても、自分からスズカとエルコンドルパサーに挑まなくちゃいけなかったって。今のスペシャルウィークは憧れを追いかけるだけじゃない。そんな背中に並び、追い抜いていく気概が育ちつつあるわ」

「……こりゃ次が大変だな」

「ええ。覚悟する事ね」

 

スピカのトレーナーはライバルチームがまた手強くなりつつある現状を認識して息を吐いた。

 

「まぁ、話を戻して……年度代表ウマ娘がどうなるかだっけ? 現状割と横並びなのよね」

「現状セイウンスカイが候補だが……あいつ以外で一冠取ってる奴が有馬記念に勝ったら、そっちになる可能性も高い」

「スピカだとセイウンスカイが出るのよね。リギルからはエアグルーヴとグラスワンダーが出るけれど」

「後、スズカだな」

「……でるの?」

「ああ。今季三戦目だから、そう無茶でもない」

「意外ね……てっきり次はアメリカかと思っていたわ。JCで負けたと言ってもあの内容なら十分だし」

「俺もそう言ったんだが……スズカの奴、あの時何かコツを掴んだっていうんだ。確実にものにする為に、こっちでもう一走したいって」

「……へぇ」

「覚悟してよおハナさん。スズカはまだまだ強くなるぜ」

 

面白くなさそうな表情で酒気をたしなむリギルのトレーナー。

サイレンススズカは元リギルのウマ娘である。

彼女の個性を見抜けずに手放す事になった一件は、東条ハナにとっては近年最大の失敗といえた。

 

「ままならないわね……ほんとうに」

「ほんと、だからこそトレーナー冥利に尽きるってもんさ」

「……そうね」

 

東条ハナはアルコールのまわった頭で息を吐く。

スピカのトレーナーは同業者の限界を感じ、予定通りマルゼンスキーに連絡を入れた。

ありがたい事にリアシートのあるWRXで迎えに来てくれたウマ娘の送迎により、この日の飲み会はお開きとなった。

 

―――

 

酒に酔い、所属チームのウマ娘に車送迎させるという醜態を晒した翌日もトレーナーの仕事はある。

しかしこの日の東条ハナの仕事は、年末に向けた書類の整理が主だった。

トレセン学園側からトレーナーに割り当てられた一室では、部屋主が朝から引き籠っていた。

 

「……」

 

東条ハナは酒に酔っても記憶が飛ぶタイプではないが、眠くなる。

マルゼンスキーの車に乗った事は覚えているが、其処からは眠ってしまったらしい。

今朝学園で行き会ったスピカのトレーナーからは、お互い命が無事であったことを祝われたが彼女には思い当たる節がなかった。

東条ハナとマルゼンスキーは長い付き合いではある。

しかしトレーナーとして、昨日の自分は他に示しがつかない事は赤面する程に理解していた。

 

「やっちゃったわ……」

 

反省はしても手は止めない。

むしろ書類整理に逃避する勢いで仕事を片付ける東条ハナ。

正午を回り、デスクから首を巡らせる。

研究室には泊まり込みが出来る最低限の設備がある。

その一つであるキッチンコンロには片手鍋が置かれていた。

中身は昨日のうちにマルゼンスキーが作り置きしていったお味噌汁。

 

「……果報者よね自分」

 

その気遣いをありがたく思いながら、トレーナーとしても女としてもプライドが粉々にされていく東条ハナ。

悔しい事に二日酔いの胃に味噌汁は染みわたった。

午後も書類整理をしたかったが、余す書類はすでにない。

時間を持て余していた所に一人のウマ娘がやって来た。

 

「Howdy Honey! 毎日楽しいデスか?」

「嫌味か貴様」

「What?」

「……いや、何でもない。悪かった」

 

ノックもせずに飛び込んできたのはタイキシャトル。

マイルCS後はかなり落ち込んでいたようだが、元よりこのウマ娘はメンタルの浮き沈みが激しい。

落ち込んだ後をしっかりケアしてやれば戻るのも早く、今は高テンション期に入っている。

 

「それで、どうした?」

「ン~、Grandmaがね? Honeyがちゃんとお昼食べてるか見ておいてッテ!」

「保護者か奴は」

「やっぱりHoney、少し元気ナイみたいデース!」

「……唯の二日酔いだ。心配には及ばない」

「Honeyが深酒するってよっぽどだからネ~…………あ、そうだ!」

「どうした?」

 

良いことを思いついたとばかりに手を打ったタイキシャトル。

正直二日酔いの身体にこのテンションは厳しかった。

しかし愛バには何の罪もない以上、これも自分への戒めと受け入れるしかない。

 

「Honeyを元気づける良い方法! ワタシ、考えましタ!」

「元気づける方法?」

「Yes! 今年のXmas,Surprise Present、期待しててネ!」

 

そう言って、タイキシャトルは用事が出来たと研究室を後にした。

突然やってきて騒ぎ、あっという間に去っていった冬の嵐。

一人残された東条ハナは先程の会話を吟味して苦笑した。

 

「……此処で言ったらサプライズプレゼントにはならないだろうが」

 

しかし何と言おうとも、先に楽しみが控えているという事は嬉しいものである。

タイキシャトルの明るさに引っ張り上げられた東条ハナは、やっと精神的なダメージを回復させつつあった。

その夕方、研究室で休憩していた東条ハナは薄型テレビでタイキシャトルの有馬記念参戦の報を知る。

この日、トレセン学園でもっとも有名なトレーナーが胃潰瘍で病院に搬送された。

 

 

 

§

 

 

 

有馬記念前の追い込みにも小休止はある。

この日サイレンススズカとセイウンスカイは学園外で待ち合わせをしていた。

それぞれ私服に身を包み、帽子をかぶって簡単な変装も忘れない。

菊花賞以前ならばそれほど気にすることは無かったが、今は二人とも街を歩けば人を集める人気のウマ娘なのだ。

 

「お待たせしました、先輩」

「大丈夫よ」

「それじゃ、行きましょうか」

 

二人は前日の練習で、トレーニング用シューズの紐が同時に切れるアクシデントに見舞われた。

転倒などはなかったがこの時期に不吉極まりない。

そこでジンクスや縁起担ぎを真剣に考えてくれるチームメイトの勧めを受け、いっそシューズを新調する事にしたのである。

セイウンスカイとしては靴紐だけでなく、本体も買い替え時であったから丁度良い。

しかしスズカは違うのか、あまり気が乗らない様子であった。

 

「スズカ先輩?」

「ん?」

「いや、なんだか気が重そうに見えたんですけど……」

「あ、ごめんなさいね。せっかくソラちゃんと出かけているのに」

「それは良いんですけど……」

「こうしている事が嫌なんじゃないのよ。ただ、縁起とか運とか……そう言った事に拘るのは気が進まなくて」

「まぁ、悪いより良い方がいいんじゃないですかねー」

「……私の同期に、そう言うことを凄い拘る子がいたのよ」

「へぇ……どんな方だったんですか?」

「……ごめんなさい、何でもないの。二度と会う事もないんだから気にしても仕方ないわ」

 

そう語ったスズカにセイウンスカイが眉を寄せる。

何かを振り切るような声音に最悪の別れを予想したセイウンスカイ。

さりげなく道の内側にスズカを誘導して別の話題を切り出した。

 

「それにしても、スズカ先輩が有馬記念に来るとは思いませんでしたよ」

「ごめんなさいね。ソラちゃんとはシニアになってから……そう思っていたんだけれど……」

 

サイレンススズカがセイウンスカイの顔を覗き込む。

思わず仰け反ったセイウンスカイ。

スズカの顔は薄い微笑が浮かんでいる。

笑顔とは本来攻撃的なものらしい。

少なくとも今スズカが見せているのは、捕食者の笑みであった。

 

(本当に勘弁してほしい所なんだけど……)

 

仰け反ったセイウンスカイだが、目は逸らさずに見据え返す。

何処かで超えなければならない相手であるのは間違いない。

それが何時になるかは分からなかったが、直接対決する舞台が整った。

お互い今期三戦目。

準備期間もほぼ同じ。

これで負けたくないセイウンスカイである。

 

「ソラちゃん、強くなっちゃったなー」

「えぇ?」

「前はすぐ目を逸らしちゃったのに」

「み、見たくないモノを無理に見なくても良いかなって」

「……見えなくても其処にある事は変わらないわ。なら、見ない振りをしていると後々辛い事になるわよ」

「ええ。それは分かっています」

 

サイレンススズカが歩き出す。

いつの間にか歩道の内側を歩かされていたセイウンスカイ。

しかしもう一度入れ替えるのも面倒になり、そのまま二人で目的地に向かった。

 

「今年の有馬記念はどんなレースになるのかしらね」

「分かっている所だと私達の他は、リギルからグラスちゃんとエアグルーヴ先輩とタイキシャトル先輩が出るらしいですね」

「同一チームが三人とか、出て良いのかしら……」

「なんか、グランプリだと人気投票が優先されるんで二人以上出た例もあるんですよ。私達、ジュニアBの頃そう言うの調べていたんで」

「へぇ……ソラちゃんは物知りね」

「それにしてもタイキシャトル先輩の中距離って想像できないんですけど……」

「そうね……」

 

元リギルのサイレンススズカだが、タイキシャトルとは面識がほぼない。

スズカの在籍当時はタイキシャトルが完全個別メニューの調整をしていた時期であり、引き籠っていた時代でもある。

しかし失調以前のタイキシャトルの走りはスズカとしても興味があり、レースの映像は確認していた。

出走していたのは短距離からマイルだったのは間違いない。

ならばそれ以上が走れないのかと問われれば首を傾げるスズカである。

 

「マイラーだけど、レースで走った後に疲れ切っている印象も無かったのよね」

「距離延長は対応できると?」

「出来ても2000までだと思うんだけど……有馬だからなー」

「中山の2500はマイラーが強いって言うのは、割と有名ですからね」

 

距離にしては長い2500㍍の中山レース場有馬記念。

しかしこのレースでマイルから2000までと言われるウマ娘が好走した例は少なくない。

合計6回のコーナーを回るテクニカルなコース。

実は息を入れるポイントは多いため、走者の技量によっては体力の消耗を抑えられる。

 

「でもまぁ、誰が来ても関係ないか」

「此処は逃げウマ娘のワンツー共演と行きたい所ですね」

「そうね……そうなるように頑張りましょう」

 

サイレンススズカとセイウンスカイはトレセン学園のウマ娘御用達のレース用品を取りそろえた店に入った。

其処はウマ娘に関する様々な商品を取り扱う大型のショッピングセンターである。

機能美以外に拘りのない二人は早々に買い物を済ませて帰路につく。

 

「ソラちゃんとこうしてゆっくりできるのも今のうちだけなのね」

「スズカさんは来年アメリカですからね」

「ソラちゃんも来ない?」

「私は海外とか、あまりピンとこないですね……」

 

時刻はまだ正午前。

このまま帰れば午後は新しいシューズの慣らしも出来るだろう。

特に寄り道をする事もなく最寄りの駅からトレセン学園に向かおうとする二人のウマ娘。

しかしこの時彼女ら……正確にはその一人に声がかけられた。

 

「あっれーーーーー!? スズカさんじゃないですかー!」

 

セイウンスカイは最初、変装を見破ったファンがいたのかと思っていた。

第一声でスズカを見破りながら自分は無し。

人気の差に内心でふてくされかけたセイウンスカイ。

 

「やれやれ、モテますねスズカ先輩は」

「……」

「先輩?」

 

やっかみ半分で隣のスズカをみる。

其処にはセイウンスカイが知らないサイレンススズカがいた。

顔いっぱいに脂汗をかき、色も青い。

その青は服の下で全身に波及している証拠のように体を震わせるスズカ。

自分では見たことが無いモノの、セイウンスカイはそんな状態に覚えがある。

それは自身が仲間達に対してスズカの事を語る時。

到底信じられないが、あの時の自分と同じ心境だとしたらスズカは今地獄にいる。

 

「スズカさーーーん! あっれー聞こえないのかなー? おーい! 貴女のだぁーーーい好きなフクちゃんですよーーーーーー!」

「……お知合いですか?」

 

油のキレた蝶番よりも軋ませた首を捩るサイレンススズカ。

掛けられた声を視線で手繰れば、予想通りのウマ娘の姿がある。

 

「どうして」

「……え?」

「どうして貴女が此処にいるのマチカネフクキタル」

「嫌ですねぇ。自分で一番よく分かっているくせに私の口から言わせたいんですかぁ?」

 

陽気な声とは裏腹に、いやらしい笑みを浮かべたウマ娘。

スズカの言葉から出た固有名詞はセイウンスカイにも覚えがあった。

春の間は苦戦したが夏に突如台頭し、秋のクラシックを勝ち取った経歴がある。

夏の上がりウマ娘。

そんな言葉の代名詞として、近年のトレセン学園ではある程度有名だった。

 

(なんか入院したって噂聞いたんだけど元気になったのかな)

 

とりあえず声を聴く限りでは体調の不良はうかがえない。

その事に安堵しながらスズカの視線を追いかけるセイウンスカイ。

探すまでも無く、マチカネフクキタルはこちらに向かって歩いてきた。

道行く人もいなくはないが、全てそのウマ娘を避けている。

何せ服装が尋常ではない。

上半身ほどもある巨大な招き猫を背負い、手には一抱えほどもある謎の壺。

その姿はセイウンスカイの記憶にあるマチカネフクキタルの勝負服姿とほぼ同じである。

レース場ならばともかく、街中で出会えば正気を疑われるだろう。

正に神話の海割りを人波で再現したそのウマ娘は、神のごとき不遜な目つきでサイレンススズカを見据えていた。

 

「さぁスズカさん、言い訳があるなら今のうちにどうぞ?」

「……トドメは差したと思ったんだけどね」

「……あんたまた何かやらかしたんですか?」

「まってソラちゃん! そんな目で見ないで? 確かに彼女の存在は私の恥部そのものだけど」

「あっはっはー……その辺気は合いますねぇ」

「事情を知れば、ソラちゃんだって私の事を責めない筈よ! 話を聞いて」

「年若いウマ娘よ、貴女もスズカの傍にいるならわかるはず。さぁいらっしゃい、共に悪魔を亡ぼしましょう」

「むぅ……」

 

セイウンスカイは困ったようにスズカとフクキタルを交互に見た。

セイウンスカイにとってサイレンススズカは正に天敵。

フクキタルが言うように浄化できるならお払いも辞さない覚悟はある。

しかし自分を誘うマチカネフクキタルの格好も尋常ではないのだ。

街中を勝負服で出歩けるウマ娘の言うことなど聞いていいものか。

咄嗟に判断がつかずに喉の奥で唸る。

 

「ねぇフクキタル……ソラちゃんを悪の道に引っ張り込むというのなら、私は彼女を守るためにもう一度手を汚す事も辞さないわよ」

「手を汚すっていうのはリョテイやダンディ、ジャスティスらにも手を回して、何の罪もない私を精神病院にぶち込んでくれたことを言っているんですかねぇ? お生憎様、しっかりお医者様からは退院の許可をいただいて合法的に此処にいますぅ」

「バカなっ……この国の法は巨悪を野放しにしたというの!?」

「貴方たちの措置入院手続きが不当な要請だったという事です。正義は必ず勝つのですっ」

「やっぱりスズカ先輩が悪いんじゃないですか」

「だから聞いて!? 私だってこんなのに関わりたかったわけじゃなくて……」

「それでマチカネフクキタル先輩ですか? 初めましてセイウンスカイです。これからよろしくお願いします」

「これはご丁寧に、凛々しい後輩よ! さぁ共に悪魔を亡ぼして、貴方自身の人生を取り戻すのですっ」

「フクキタル先輩……もっと早くお会いできていたらっ」

「ちょっとソラちゃん! 洗脳されないで」

「黙れ悪魔め! 私は正気に戻った」

「戻ってない! 目が、目がシイタケになってるわよっ」

 

サイレンススズカはふらふらとマチカネフクキタルの方へ歩み寄る後輩を抱えるように押しとどめた。

勝ち誇ったようなフクキタルの顔がスズカの神経を逆なでする。

其処へ信じがたい力でスズカを引きずりかけたセイウンスカイ。

驚きながらもスズカが憎々し気にフクキタルの顔を睨んだ時、その目の前で横っ面に水晶球がめり込んだ。

 

「ぐはっ!?」

「クソが。勝手に消えてんじゃねぇ」

「――はっ!? 私は何を……」

 

セイウンスカイの瞳が正常の輝きを取り戻す。

深い息を吐いて空を仰いだサイレンススズカ。

彼女はひたすら面倒な事態に巻き込まれた事を悟って泣きそうになる。

先程の声もスズカには聞き覚えがあった。

 

「すまねぇな。ツレが世話になった」

「……そんな劇物を街に連れ出さないで」

「さっきまで比較的おとなしかったんだよ。それがススズの波動を感じるとかぬかして飛び出していきやがった。まさかマジでいるとはな」

 

失神したマチカネフクキタルを抱え上げたのはトレセン学園の制服を着たウマ娘。

サイレンススズカもセイウンスカイも知った顔である。

最もセイウンスカイは本当に顔を知っているだけ。

秋の天皇賞でグラスワンダーに絡んだ不良の先輩。

その名をキンイロリョテイといった。

 

「リョテイ……どうして貴女が此処に……彼女と一緒に此処にいたの?」

「……ちと騒がしくなっちまった。場所を移すぞ。そっちの若いのは帰ってもいいが、ススズは私についてきな」

「私も帰りたいんだけど……」

「無理強いはしねぇが此処で帰れば……」

「もっと面倒な事になるのよね。分かっているわよ」

 

サイレンススズカは諦めたように肩を落としてセイウンスカイと目を合わせる。

 

「ソラちゃん、どうする?」

「そのまねき猫と壺と水晶、全部持たせるわけには行きませんよ」

「……ありがとう」

 

スピカの二人は手分けしてマチカネフクキタルの私物を回収する。

心の底から嫌そうに同期の菊花賞ウマ娘が持ってきた壺を拾ったサイレンススズカ。

このまま地面に打ち付けて割ってしまいたい衝動に耐え、キンイロリョテイの背中を追いかけた。

 

 

 

§

 

 

 

外で話すには肌寒い12月の事。

4人のウマ娘はキンイロリョテイに案内されて都心を外れた喫茶店に入る。

年の瀬とはいえ店内には自分たち以外の客がいない。

スズカ達は遠慮なく奥のテーブルの一つを占領した

 

「落ち着いた良いお店ですね」

「私のお気に入りだ。フク助とススズに知られちまったのは残念だがな」

「こんなにガラガラでやっていけるんですかねぇー」

「引退したウマ娘が道楽でやってんだよ」

「なるほど、そんな第二の人生もあるのね」

 

注文を取りに来たスタッフにそれぞれが軽食と飲み物を注文する。

その背が見えなくなった時、サイレンススズカが口火を切った。

 

「見損なったわよキンイロリョテイ」

「貴様の都合で生きてねぇが、一応聞いておいてやる。何がだ?」

「貴女は癖ウマ娘だけれど、人の心はあった筈。それが犯罪者の片棒を担ぐなんて落ちたものじゃない」

「……」

 

スズカの主張には答えず、眉間にしわを寄せたキンイロリョテイ。

 

「はっはっは。かつての味方は既になく、今は私の忠実な下僕なのです。キンイロリョテイは我が軍門に下りました!」

「いつ私が貴様の軍門とやらに下ったんだ?」

「なーにを仰いますぅー。私達は親友にしてチームメイトじゃないですかぁ」

「そうだな。チームメイトだ。貴様が入院中にチームが解散してて行く当てがなくて拾ってくれと私の脚に縋りついて頼み込んできたから、私達はチームメイトなんだ」

「どうしてそこで拾ってしまったのよ! 貴女にはその精神的汚物感染源を処理する機会があったって事じゃない」

「……」

 

キンイロリョテイはスズカとフクキタルの顔を交互に見てから息を吐く。

 

「更生の機会は平等に与えられるべきだ」

「……」

「そんな風に、思ってしまったんだよなぁ」

 

キンイロリョテイの言葉に沈痛な表情で俯いたサイレンススズカ。

事情が分からないセイウンスカイと自分の事だと思っていないマチカネフクキタルは互いに顔を見合わせる。

 

「リョテイもスズカも何を話しているんでしょう?」

「聞き取れる単語を拾うだけでも相当な言われようですけど……スズカ先輩」

「なに?」

「そろそろその……お二人をご紹介いただけませんかね」

「……そっちの柄が悪いのがキンイロリョテイ。私と同じ年に生まれたという以外の接点は何もない赤の他人よ」

「キンイロリョテイだ」

「あ、セイウンスカイです」

「……そっちのシイタケがマチカネフクキタル。私と同じ年に生まれたという以外の接点は何もない赤の他人よ」

「先輩、嘘を吐くな」

「スズカさんの大々大親友のマチカネフクキタルです」

「断じて違うっ、名誉棄損で訴えるわよ」

「おいフク助、話が進まねぇから混ぜっ返すな」

「むぐぅ」

 

キンイロリョテイに半眼で睨まれたマチカネフクキタルは不満そうにしたが口を結んだ。

チームメイトを一睨みで黙らせた黒髪のウマ娘は、この中で一番若いセイウンスカイに声を掛ける。

 

「若いの、貴様はこのアホウの事をどれくらい知っている?」

「えっと……私の一つ上で皆さんと同期で……夏の上がりウマ娘として有名。菊花賞を取った後は脚の病で入院したとか」

「概ねあっている。ただし入院は脚の都合じゃねぇ」

「……どうもそうみたいですね」

 

此処までの話からそんな気はしていたセイウンスカイ。

キンイロリョテイは後輩の見識を満足そうに頷くと、スズカを一べつして黙り込んだ。

後は自分で話せという事だろう。

サイレンススズカは三人の視線を受けながら、居心地悪そうに身じろぎする。

 

「ソラちゃんも知っているみたいだけど、彼女のクラシックは夏から始まったようなものよ。トライアルを立て続けに連勝して、本番の菊花賞も獲った。直後にウマ娘特有の脚の病……いくら私が彼女の事が苦手でも気の毒だとは思ったわ」

 

このウマ娘特有の病気とは人間には見られない、ウマ娘のみが発症する病状のやまいである。

多くの場合は日常生活に支障をきたすほどではないが、レース競技者生命としては死にも繋がる病気。

原因不明であり根治は難しく、一度治ったように見えても再発する可能性がある。

セイウンスカイは聞きながらマチカネフクキタルの様子をうかがう。

実際に走っている所を見てはいないが、少なくとも足を庇う様子は一度もなかった。

 

「だけど発症してしまったものは仕方ないわ。早期に治療を受ければ今の医療なら日常生活は送れるし、レース自体に復帰してくる例だって少なくない。だというのに彼女は……」

 

此処で注文の品が運ばれてきた。

一時会話を中断してスタッフが遠ざかるのを待つ一同。

スズカはリンゴジュースで喉を潤し、半眼になってマチカネフクキタルを睨みつける。

その視線は単なる侮蔑だけに留まらず、少なくない哀惜を孕んだ複雑なものになった。

当のマチカネフクキタルは涼しい笑顔でスズカの視線を無視し、軽食のサンドイッチを摘まみ始めた。

 

「……続けるわ。彼女、医療よりも迷信に嵌まり込んでいったのよ。自分の病気をスピリチュアルな方向で治そうとしたの」

「うっわ」

「身体を病んだ上に心まで病んで……この時点では私も周りも止めようとしたのよ」

「なるほど」

「だけど菊花賞の賞金全部使って、開運の壺なんか買っちゃった時に悟ったわ。あぁ、私達の同期は……一人減ったんだなって」

「確かにススズがフク助を諦めたのはこの時か。今思えば早い方だな」

 

セイウンスカイはサイレンススズカとマチカネフクキタルを交互に見た。

今のスズカが嘘をついているとは思わない。

もう一方の当事者がおり、どちらの味方ともいえないキンイロリョテイまで此処にいる。

しかしどうしてもセイウンスカイにとって話の中と現実にいるマチカネフクキタルが重ならないのだ。

 

「あの……それでどうしてこちらに元気なフクキタル先輩がいらっしゃるので?」

「そりゃ、治ったからに決まっているじゃないですかー」

「えぇっと?」

「私はお医者様じゃないから、本人と周りから聞いただけなんだけどね…………本当に治したらしいのよ。壺に祈って、壺を磨いて、壺に縋って」

「……その壺って本当に開運の壺だったんですか?」

「そんなわけないじゃない。プラセボよ」

「プラセボ?」

「偽薬っていうか……薬と思い込んで唯の白粉を飲むと本当に効いてしまう事があるって聞いたことが無い? あれよ」

「……そんなばかな。そんなことで治せるならコレで引退したウマ娘があまりに……」

「誰にでも出来る事じゃねぇ。フク助のメンタルが無けりゃ自殺と一緒だ」

「私は本物の開運の壺を持っている。それを毎日拝んでる。だから必ず治るんだ……そんな危うくも強靭なメンタルで本当に病気を駆逐したらしいわ。少なくとも医療機関で検査して異常なしと出るほどに」

「ふむ……」

 

そう語ったサイレンススズカは疲れたように肩を落として息を吐く。

セイウンスカイはにわかに信じられなかった。

一応当人が今も磨いている壺を指さして確認すると、間違いなくその時に買ったのがこの壺らしい。

 

「此処までなら、奇跡の復活を遂げた良い話だったんだけどね?」

「まだ何かあるんですか?」

「彼女は善意で……本当に悪意の欠片も無く自分の幸運を周りにおすそ分けしようとしたのよ」

「……ん?」

「言葉を飾らずに言いましょうか……彼女は一片の悪気も無しに、マルチまがい霊感商法の手先になったのよ! 最悪な事に、自分自身という成功例を持ち出してっ。クラスメイトは勿論、果てはそのチームメイトまで……あっという間に広がりかけたんだから」

「ひえぇ……」

 

薄ら寒い怖気が背筋を這いあがってくるのを感じたセイウンスカイ。

きょとんと首を傾げているマチカネフクキタルから、先程までは分からなかった狂気を感じる。

このウマ娘が精神的な化け物である事に今更ながら気づいたのだ。

 

「菊花賞を取って一番注目が集まってた時に、クラスメイトが見ている前で本当に病気になって、本当に治った実例を作っちまったからな。最悪の成功体験を得たフク助はススズの言った通り……いや、少し違うか。こいつは利益なんざ受け取ってねぇ。ただ頼られた時に自分が壺を買った先を親切から教えただけさ。だからこそ性質が悪いんだが」

「ちゃんと効き方には個人差があると思いますよ、とはお伝えしましたよ?」

「個人差ってレベルの話じゃないでしょう!?」

「なんで皆さんそんな大げさに騒いでいるのか、当時も今も良く分からないんですよねぇ……スズカやリョテイの知らない世界だってあるんですよ? 医学だって全能じゃないんですから、お医者様が治せない病気でも開運の壺が治してしまう事だってあるじゃないですか」

「ねぇよ」

「……万事これよ。私は当時、まだこのシイタケの精神汚染をうけていなかった同期達と手を組んで最悪の疫病神と戦ったわ。具体的にはキンイロリョテイが腕力でクラスメイト達の解約と払い込み阻止。実家の強いメジロブライトが壺の販売元を公的機関に告発。私とシルクジャスティスとエリモダンディーで当人を鉄格子のついた病院に押し込んだの」

「全くもって不当な入院でした。出てくるの大変だったんですから」

 

セイウンスカイは上の世代である三人のウマ娘を一人一人見渡した。

そして自分がいかに平穏で優しい世代に生まれたかを悟る。

気が付けば瞳から涙があふれていた。

自分が幸せだったことを心の底から噛み締めたセイウンスカイ。

感謝感恩の涙は当人の意思を超え、こらえることが出来なかった。

 

「スズカ先輩」

「なぁにソラちゃん」

「私、スズカ先輩ほど無邪気で邪悪なウマ娘っていないと思っていたんですけど」

「うーん……」

「それにもまして、社会の為に生きてちゃいけない……そんなウマ娘もいるんだなって初めて知りました」

「それについては同意するわね。それじゃあ事情も分かった所で、ソラちゃんは私と彼女のどちらをとるの?」

「なんでそこで癖ウマ娘の二者択一をしなきゃならないのかなって」

「……もう。肝心な時に正気を失わないんだから」

「あはは」

「うふふ」

 

殺伐とした方向でいちゃつくスズカとセイウンスカイに息を吐くキンイロリョテイ。

仲が良いですねぇとのたまうチームメイトのわき腹に肘を入れて黙らせた。

冷めたコーヒーを不味そうに飲み干し、サイレンススズカに声を掛ける。

 

「まぁ、出てきちまったものは仕方ねぇ。誰かがこいつを見てねぇと、私らの世代の恥が公開されちまう」

「それに関しては同意するけれど……貴女まで汚染されないでよ?」

「そうなのさ。だから、私は現状を知るものを残して置かねぇといけないって危機感が、ここ最近募る一方だった」

「……ん?」

「貴様だススズ。私が正気を失ったら、責任をもって後始末をしろよ」

「はっ!? 何を言っているのリョテイ。私は来年にはアメリカに…………ソラちゃん!」

「お断りします。貴女の世代の癌でしょうが」

「むぐっ」

「情けねぇぞススズ。あんまり後輩に迷惑かけてんじゃねえ」

 

から揚げとフライドポテトにスティックサラダの皿が空になった。

現役競技者としては今少し栄養に拘りたい所だが、出先ではノーカンというのが多くのウマ娘にとっての共通認識である。

セイウンスカイは先程から話していて、このキンイロリョテイというウマ娘のイメージが実像とかなり違う事に気づく。

 

「あの、キンイロリョテイ先輩」

「なんだ」

「先輩ってなんで秋天でその……グラスちゃんに絡んだんですかね。どうもお話をしていると、そう言うことはしなさそうな方に感じるんですけど」

「魂が吠えたんだよ。蒼を殺せと」

「……あぁ、先輩も中身が勝手にやっちゃうタイプですか」

「そう言うことだ。実際に噛みつかねぇように抑えるのが大変だったんだぜ? あの秋天はよ」

 

ウマ娘にはこのように、中に宿った魂の影響がレースや性格に出るケースがある。

実はセイウンスカイはキングヘイローの首が下がらない事に関して、このケースではないかと睨んでいた。

それが正しいとすれば、簡単に治しようのない部分である。

 

「ちょっと待ちなさいよリョテイ……まさか貴女は、そんな爆弾を抱えさせるために私を此処に呼んだの?」

「その通り。まぁ、詫びに此処の代金くらいは持ってやるさ」

「おお、流石我がソウルメイト! 太っ腹ですねぇ」

 

マチカネフクキタルは心残りが晴れたというようにキャロットジュースを飲み干すと、多量の私物を抱えて席を立った。

 

「んじゃ、少し外の空気を吸ってきます」

「あんまり遠くに行くんじゃねぇぞ」

「まーた水晶球で張り倒されたくないですから自重しますよー。病院よりはマシなんですが、やっぱり屋内の空気は合いません」

 

ひらひらと手を振りながら外に向かうフクキタル。

その背を三人のウマ娘が見送った。

 

「割に合わない」

「そもそも、私は最初に自分を犠牲にしているんだぜ? むしろ貴様ら同期達は感謝すべきだろうが」

「……何も言えないわ」

 

肺を空にするほど深いため息を吐いたサイレンススズカ。

キンイロリョテイは苦笑して言葉を続ける。

 

「そんな顔をするなススズ。はっきり言えば貴様のせいだ」

「意味が分からないんだけど」

「貴様があいつを社会的に葬ったのはダンディが骨折する直前だったな」

「そうね」

「其処から奴は半年ほどで退院している。そして比較的最近までくすぶっていたんだよ」

「……」

「私の所に来たのだって、貴様が毎日王冠で敗れた後だ。なんと情けない姿でしょう、これは私が後ろから、スズカのケツを蹴り上げてやらねばなりませんね……だとさ」

「……復帰は有馬記念かしら」

「一年以上間が空いたが、去年の菊花賞ウマ娘だ。脚の病気からの復帰というストーリーもある。期待する声はそこそこ聞くぞ」

 

サイレンススズカは二の句を告げずに天を仰ぐ。

その視界は天井に遮られ、スズカの好きな空は見えなかった。

 

「しがらみって一回絡むと取れないのね」

「不可能だとは、言わないんだな」

「あの子が絶好調なら出来るかもしれない。でも運試しで調子が変動する不安定な走り方で、今の私が捕まるとは思わないでと伝えておいて」

「知っていた所でどうしようもない事だから教えて置くぞススズ。今のあいつは昔のように、おみくじの結果で自分の性能が左右されることは無い」

「え?」

「最近開き直ったか、大吉を引くことが大事ですとかほざいてな。おみくじの中身を全て大吉にしてそれを引くんだよあのバカ野郎。レースこそは出ていないが、練習ではかつての京都新聞杯のような末脚を好き勝手に使っているぞ」

「……そんなバカな」

「あいつはバカなんだよ。知っているだろう」

「そうね……バカだったわあの子」

 

スズカは腹を抱えながら、テーブルに伏して小さく笑う。

あくまで声は小さいがそれは間違いなく爆笑だった。

ひとしきり笑ったスズカは肩を震わせて起き上がる。

 

「……で、他人の世話ばかり焼いている貴女のオープン初勝利は、何時お祝いできるの?」

「む……あと一歩という感触はあるのだがな」

「私と宝塚で勝ち負けしておいて、なんで最後の勝ち星が条件戦なのよ」

「一着以外全て負け……本当に世知辛い世の中だ」

「早くしてよ。その時は、私が奢ってあげるから」

「……その言葉を忘れるな」

 

キンイロリョテイはぼやきながら伝票を持つ。

一度店内から外をみてチームメイトが大人しくしている所を確認した。

 

「それでは、私も有馬に向かう事になる。中山レース場で会おう」

「楽しみにしているわ。ね、ソラちゃん」

「はい。精一杯頑張りたいと思います」

 

感情のない声でテンプレートを読み上げた後輩。

怖い敵は隣にいる先輩だけではない。

今年度代表ウマ娘に最も近いと言われているセイウンスカイは、それを現実にすることの困難さを肌で感じる思いだった。

 

 

 

§

 

 

 

有馬記念が近づくにつれ、トレセン学園の中でも雰囲気が変わって来た。

それはジュニアCクラスも例外ではない。

ウマ娘達はそれぞれに集まって出走者の情報を交換し、自分が推すウマ娘の事を語り合う。

今年ジュニアCクラスから出走するのはセイウンスカイ、グラスワンダー、キングヘイローの三人。

エルコンドルパサーははっきりと回避を宣言し、スペシャルウィークはJCの疲労と自チームの出走者の兼ね合いから回避する事になっていた。

 

「……」

 

スペシャルウィークは年末独特の熱気を持ったトレセン学園の様子に胸が高鳴る。

何処へ行ってもウマ娘達が有馬記念の事を話しているのだ。

しかしこの日、校内の話題は有馬記念一色ではなかった。

ほんの三日前に公表された、コメットとリギルの合同練習。

その中でスペシャルウィークとエルコンドルパサーの草レースが行われることが決まったのである。

JCから一月近くの時が経ち、懸念されていたスペシャルウィークの疲労も抜けた。

今ならあの時のような醜態は晒さない。

 

「草レースかぁ」

 

スペシャルウィークは思わずにやけそうになる口元を締めた。

彼女はCクラスから転入してきたために仲間内の草レースをしたことが殆どない。

唯一の経験はリギルの選考レースだが、アレもスターティングゲートまで用いた本格的なもの。

それが悪いとは言わないが、スペシャルウィークが憧れているのはそういうものではなかった。

チームメイトのグラスワンダーから聞いていた、彼女らのジュニアB時代。

ある事情から既存のチームへ参加する心算の無かったグラスワンダー以外の仲間達は、何のしがらみもない自由な草レースを楽しんでいたという。

 

「皆もうさぁ……ズルいとは言わないよ? 言わないけどさぁ」

 

羨ましいと思う気持ちは止められなかった。

現在はそれぞれがチームのトレーナーの管理を受ける身であり、完全な自由はない。

それでも草レースをやってみたいスペシャルウィークはトレーナーに申し入れた。

スペシャルウィークの疲労は比較的早期に時計から消えた上、有馬記念に出る予定もない。

東条ハナは一旦保留にし、合同練習に合わせてコメットのトレーナーに打診してくれた。

そしてエルコンドルパサーの耳に届き、二つ返事で合意に至る。

エルコンドルパサーはJCの後のインタビューで、国内のウマ娘との勝負付けは済んだと語った。

しかし決して誰とも勝負をしないという意味ではない。

 

「凄いなエルちゃん……WDTに出たくないから内定条件の有馬記念から回避するとか、発想がなかったよ私」

 

トゥインクルシリーズの頂点にして、全てのウマ娘の憧れだと思っていたドリームトロフィ。

トレーナー達が予想していたように有馬記念の勝利を前提とした出走内定の話は、確かに来ていたという。

スペシャルウィーク達は当人からその事を聞いている。

そこから更に踏み込んだ、エルコンドルパサーの想いと共に。

 

「……目標も路線も年代も違うウマ娘が自分の意思で選んだレース。その一つ一つ交わった全部がドリームレースかぁ」

 

エルコンドルパサーは見知らぬ他人によって日程を決められ、不透明な基準で集められた強いウマ娘を並べて、さぁ感動しろとばかりのドリームトロフィに懐疑的だった。

それよりも菊花賞の後、強行ローテになる事を承知でJCに来たスペシャルウィークの意思と選択の方がエルコンドルパサーは尊いと感じる。

怪鳥はそんな思いをジョークに込めて教えてくれた

 

『あのJCがワタシのドリームレースだヨ。それに比べたらWDTより、スぺちゃんのうちで食べる蟹が大事デース』

 

エルコンドルパサーはWDTの為に有馬記念に出るつもりはない。

そして同時に、夢のために足踏みをする心算もない。

結局のところ今年の有馬記念はエルコンドルパサーにとって利に沿わなかったのだろう。

東条トレーナーが語っていた、エルコンドルパサーの取捨選択と意志の強さが其処にあった。

勿論追い風だけでなく、逆風も伴ってきたが。

 

「……」

 

スペシャルウィークが校舎を出る。

途中で幾人かのウマ娘やトレーナーとあいさつを交わして、トレーニング用のトラックに向かう。

思った通り、既にかなりの数のウマ娘が見学に集まっていた。

しかし彼女らの様子はスペシャルウィークの予想と違った。

 

(おぉ……みんな凄い盛り上がってる)

 

そのせいで後から来た自分に気付く者はいない。

人垣の隙間から覗き込めば、埒の内側にはリギルとコメットのメンバーが数人集まっていた。

そして両チームのトレーナーが少し離れた所で話し合っている。

スペシャルウィークはチームメイトと合流する為に足を向けつつ、エルコンドルパサーを探す。

何時ものマスクを着けた怪鳥はすぐに見つかった。

エルコンドルパサーはトラックを走っている。

 

「ん!?」

 

それはスペシャルウィークが知る、彼女のほぼ全力疾走。

3バ身程遅れて一人のウマ娘が追走している。

背は低いながらも女性的な肉付きに恵まれたそのウマ娘の事は、スペシャルウィークも見覚えがあった。

 

「あの人は……JCに出てたっけ?」

 

記憶をたどったスペシャルウィークは、直ぐにシルクジャスティスという固有名詞を引っ張り出した。

JCで最後の直線を自分より後ろから追い込んできたウマ娘。

ギリギリの所を首差粘って凌いだものの、脚色は自分より良かった気がする。

 

「スペシャルウィークさん」

「あ、えっと……?」

 

考え事をしている所、横から声を掛けられたスペシャルウィークは慌ててそちらに向き直る。

其処には長身痩躯で見た事のないウマ娘が温和な笑みで立っていた。

 

「初めまして、私はシニアクラスのエリモダンディーです。今走っているシルクジャスティスと同じチームで……」

「あ、初めましてエリモダンディー先輩。スペシャルウィークです」

 

挨拶を交わしながら競争の様子を伺う二人。

 

「ごめんなさいねスペシャルウィークさん。シルクが……エルコンドルパサーさんに絡んでしまって」

「いや、あの……何がどうなっているんでしょうか?」

「あの子、JCで同期のスズカさんと年下のお二人に負けた事を悔しがっていたんです。絶対有馬でやり返すって意気込んでて……最初は回避の事情を伺いに来ていたんですが、エルコンドルパサーさんが来たらちょっと……絡んじゃって」

「ああ、成程」

「エルコンドルパサーさんも、それならアップがてら捻ってやるって。後はお互いに売り言葉に買い言葉が……」

「エルちゃんらしいなぁ」

「そうなんですか? 私はもう少し、彼女は走る所を選ぶ子なのかなって思っていました」

「基準と発想が少し普通と違っているんですエルちゃん。その上、切る時はバッサリいくからそう見えるんだと思います」

 

最終コーナーを回った直線でシルクジャスティスが追い込んでくる。

しかしエルコンドルパサーはじっくりと引き付け、相手が自分を抜きかけた瞬間にスパートを被せた。

一息に突き放したエルコンドルパサーがそのままゴールに飛び込んでいく。

足を溜めた時間の長さが、そのまま結果に出たかのようだ。

 

「いっちばーん……デース!」

「ま、まぐれで一回勝ったくらいでさぁ! 調子に乗ってんじゃないわよっ。もう一回!」

「JCはノーカンなんデース? 確か二回勝ってたと思うんですケドー」

「細かい事言ってんじゃないわよ可愛くないガキねっ」

「ちっちゃくて可愛い先輩にそう言われちゃうと、返す言葉が無いデースね!」

「頭なでんなぁああああああ」

 

シルクジャスティスとエルコンドルパサーが言い合いながら歩いてくる。

途中スペシャルウィークとエルコンドルパサーの目が合い、苦笑しながら手を振り合った。

 

「エリー!」

「シルク、今日はこの辺にしとこ?」

「い、今の無しっ。私の実力はあんなもんじゃないんだから」

「うん。そうだね」

「JCだってエリーと一緒だったらこいつにもスズカにも負けてなんかいないんだからっ」

「私はちゃんと分かっているわ。だから今日はこのくらいで――」

「大体こいつ後輩の癖に生意気じゃない!? 私の事こと見て樽体形とか言いやがったのよ!?」

「先にマスクの事で弄ったのはシルクだから――」

 

見た目一呼吸も置かずに話し続けるシルクジャスティスと、相槌と突っ込みを入れるエリモダンディー。

二人の間では何時もの事なのか、エリモダンディーは会話をしながらスペシャルウィーク達に黙礼する。

そして徐々にシルクジャスティスを誘導しながら遠ざかっていった。

 

「なんか面白い先輩デース」

「絡まれたって聞いたんだけど、エルちゃん大丈夫?」

「絡まれたっていうか……本当はスぺちゃんのお客さんだったんですヨ」

「……そうみたいだね」

「うん。ワタシと走ったら都合よく忘れちゃったみたいだけどネ」

 

エルコンドルパサーとスペシャルウィークは離れていった先輩達の背に視線を送る。

 

「リギルにスぺちゃんの有馬記念回避について聞きに来ててサ」

「エリモダンディー先輩に聞いたんだけど、なんで私も入っていたんだろ?」

「あ、スぺちゃんわかんない?」

「うん」

「あの人サ~……クラシック時代にダービー二着だったんダヨ」

「凄いね」

「その上、今回JCでスぺちゃんに……今年のダービーウマ娘に競り負けたんダヨ? 同じ距離、同じコースで」

「あっ」

「悔しかったと思うヨ~? しかもあの背が高い方の先輩怪我明けでサ……JCも観に来てたんだって。勝つ所見せたかったんだろうネ」

 

エルコンドルパサーは歩き出したが、スペシャルウィークは二人が消えたほうを見続けた。

少し先に進んだ所で振り向いた怪鳥が声を掛ける。

 

「あの二人、今度は揃って有馬記念に出るみたいダヨ」

「シルクジャスティス先輩は……今年取ったら連覇だよね」

「獲れればネ。無理だと思うけど」

 

傲慢に言い放ったエルコンドルパサーに苦笑するスペシャルウィーク。

このような言い方をするから余人は彼女を誤解するのだろう。

エルコンドルパサーは先程倒した相手だから勝てないと言ったわけではない。

有馬記念に勝つのは同期三人の誰かだと心から信じているから断言するのだ。

その事を良く知っているスペシャルウィークは、あえて何も言わず会話を続けた。

 

「グラスちゃんが勝つからね」

「イエース! あぁ……だけどウンスも調子良いしナ~。あ、でも中山2500だったらヘイローちゃんだって足がもつかも」

「一応練習始まったら、グラスちゃんヨイショするんだよ?」

「スぺちゃんもね。グラスは、怒ると本当におっかないんデスから」

 

二人は秋に見た石抱き拷問と、猛禽を従えた魔王の姿を思い出す。

其処へ両チームのトレーナーから指示が飛んだ。

本命のマッチレースが始まる。

 

「エルちゃん、疲れてない?」

「むしろスぺちゃんは少しアップしなヨ」

 

挑発的な笑みを交換したエルコンドルパサーとスペシャルウィーク。

互いに拳を突き出すと、間で一度打ち付ける。

 

「返り討ちにしてあげマース!」

「あの一回で勝負付けが決まったと思うなよ!」

 

二人は同時に踵を返し、チームメイトの元を駆けだした。

冬晴れの空。

師走の一日。

そこでエルコンドルパサーとスペシャルウィークの二度目の対決が行われた。

トレセン学園の練習用トラック。

観客は学園所属のウマ娘達。

トゥインクルシリーズの定めた華やかなグレードレースなどではない。

しかし二人にとっての夢舞台は確かに此の日、此処にあった。

 

 

 

 

 




あくまでこの作中世界における人気です
幻の馬券を握りしめてお待ちください
なお作者がプレッシャーに耐えきれなかった場合も払い戻しはありません

第■■回有馬記念人気一覧

1番人気セイウンスカイ
2番人気グラスワンダー
3番人気サイレンススズカ
4番人気エアグルーヴ
5番人気メジロブライト
6番人気シルクジャスティス
7番人気キングヘイロー
8番人気タイキシャトル
9番人気マチカネフクキタル
10番人気エリモダンディー
11番人気キンイロリョテイ
12番人気ユーセイトップラン
13番人気オースミタイクーン


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16.今年最後の夢

リアルの方はどうなりますかねぇ

この作中のタイキシャトルは97世代ではありません
ご了承ください


有馬記念を来週に控えた師走の午後。

エルコンドルパサーとアグネスデジタルはトレーナーの研究室に押し掛けた。

目的はある希望を伝える事と、あるお宝を手に入れる事。

入り口から顔だけ出して二人を追い返そうとするハードバージ。

しかしエルコンドルパサーとアグネスデジタルは顔を見合わせ、悪童の笑みを交換する。

 

「ほらほら、さっさと通してお茶でも出してくださいよートレーナー」

「キリキリ吐くデース」

「……手紙だったらちゃんと皆宛のモノを渡したじゃない」

 

手紙とはマイルCS後に母国へ帰国したシルキーサリヴァンが寄こしたモノ。

律儀にもトレーナーとメンバーそれぞれ個別に送られてきたそれは、先日受け取ったばかりである。

だから二人の来訪目的はそれではない。

分かっていてもそう言ってごまかすしかないトレーナー。

今入室されては見られたくないモノまで見られてしまう。

 

「今更隠さなくても良いじゃないですカ~」

「そうですよー。どうせ発売日にはみーんな知る事になるんですから」

 

その発言はトレーナーから希望を奪う。

この悪童達はしっかりと事態を把握したうえで此処に来ている。

ならば口先だけで誤魔化す事は出来ないだろう。

まして今のハードバージは今季大躍進したチームを率いる時の人

持久戦に持ち込めば世間体で不利になる。

 

「……何処で知ったのさぁ」

「私達にも取材って来てたんデスよ」

「ちゃんとサンプルが出来たら連絡頂戴って出版社と番号交換しておきました」

「……何でそんなに頭回るの君達」

 

大きく肩を落としたハードバージは諦めて顔をひっこめた。

扉は一度閉まるが、鍵がかけられた様子はない。

エルコンドルパサーは構わず入室するとアグネスデジタルもついてきた。

相変わらず山のようなメモの切れ端で取っ散らかった室内はかつて訪れた時と同じである。

一つ違うのはベッドの上に乱雑に放り出された雑誌や書籍のサンプル達。

其れこそが来訪の目的である。

 

「君達、お茶でいいの?」

「番茶に梅干しでお願いしマース」

「渋いなぁ!?」

「私梅昆布茶少し薄めで」

「こっちも渋いねぇ」

 

この二人はトレーナーの研究室で提供できる物はしっかり把握している。

エルコンドルパサーは勝手知ったるとばかりに上がり込み、トレーナーが隠そうとしたブツを漁る。

勿論後輩もついてきた。

 

「ヒャー! これは凄いっ、ウマ娘ちゃんが超いっぱい!」

「おぉ、それはトレーナーやってるウマ娘の特集デース……うっそ!? 巻頭で一番扱いが大きい」

「『嘗てクラシックで好走しながら若くして引退した悲運のウマ娘の第二の人生! 天才トレーナーハードバージ特集』ですって!」

「止めてよぅ止めてよぅ」

「私達の草の根活動がようやく実を結んだんデースね!」

「エルちゃん先輩! ファッション雑誌にまで出てますよこのスイカップっ」

「マジ!? マジだっ。カメラ何処カメラ!」

「こちらにっ」

 

悪童達はスマホのカメラで雑誌を写真におさめている。

ハードバージは薬缶をコンロにかけながら諦めたように息を吐く。

今期一番飛躍したトレーナーは誰か。

そう聞けば多くの者がコメットのハードバージと答えるだろう。

それほどまでにJCとマイルCSの同日連取は派手だった。

人気が出れば露出も増えるのがこの業界。

ファンが求めるならば取材に応じる事も仕事の一つではある。

最も、ウマ娘本人よりトレーナーが注目を集めるのは珍しかったが。

 

「なんでこんなことになったんだろうね……」

「そりゃ、マイルCSのシルキー先輩はアメリカ帰っちゃいましたシ~」

「路線としては我が道を行ってるエル先輩が、インタビューでトレーナーだけは上げまくってるのもあるんじゃないですかね?」

「あぁ……エルちゃんって周りからは反骨精神強くて扱いづらいウマ娘って思われてるんだよね……」

「ワタシはコメットの閉鎖性だと思いますヨ~。今は此処に入りたいっていうウマ娘沢山いマスし」

「公募無し自推無し。参加条件は現メンバーの推薦のみ……なんかいつの間にこんな感じになってますよねうち」

「実績はトップクラスでありながら、一般にはその内情が伺えない極秘チーム……おお! なんか格好いいデース」

「公募しないんですか?」

「無理だよぅ。これ以上他人様を抱えるなんて胃痛が……」

「……まぁ、トレーナーがこのメンタルだって知られるわけには行きませんシ~」

「当面は身内で支えていくっきゃないですねぇ」

「君達が上げたハードルに追い詰められているんだよぅ……何でそんなに他人事なのさぁ」

 

半泣きのトレーナーが三つの湯飲みと梅干の小鉢を持ってきた。

ウマ娘は基本寒さに強いが、寒い時にのむ暖かい飲み物は至福である。

エルコンドルパサーは熱いお茶に梅干しを落として湯音を調整した。

 

「ふぅ……」

「エル先輩、和んでますねー」

「何とか春にぶち上げた構想に沿って年の瀬を迎えられましたカラネ~……少しほっとしているヨ」

「この先が凄すぎて目立ちませんけど……ジュニアCの秋に混合戦に割り込んでいくって十分に挑戦ですからねぇ」

「本当ダヨ。一直線に此処だけ目指して、ギリッギリだったしサ~」

「JCのサイレンススズカ先輩は凄かったですもんね」

「スズカ先輩もそうだけど、おっかなかったのがエアグルーヴ先輩だネ~。あれ叩き合いしてたから逃げ切れたけどサァ。一人だったら私でも、多分スズカ先輩でも捕まってたヨ」

「マジですか」

「後から映像確認したら、叩き合いしない様に抜きに来てたしネ、やっぱりシニアの皆さんは手強いヨ」

 

梅入りの番茶を一口含み、飲み干してから眉を顰める。

梅ははちみつ漬けであり、予想したほどの塩気が無い。

 

「……」

 

しばし三人は会話も少なくお茶をたしなむ。

エルコンドルパサーは後輩がマイルCSに絡んだ記事が書かれている雑誌を読み込んでいる事に気が付いた。

しばらく見ていたが、ページを捲る気配はない。

その様子から後輩が見ているものが文字ではない事を知る。

見ていたのはトレーナーの成果として紹介されている、マイルCSを制したシルキーサリヴァンの当日の写真。

アグネスデジタルがかの赤いウマ娘に懐いている事はコメットの中では今更である。

 

「デジちゃん寂しそうだね」

「……ん」

「元気出た?」

「大丈夫」

「じゃ、今日の収穫をシルキー先輩にメールするの、任せましたヨ~」

「うっす」

「止めてよー」

「こればっかりはネェ」

「シルキー先輩も気にしてましたからね」

 

アグネスデジタルがスマホを操作し、あがりを上納する。

その様子をほほえまし気に見守る先輩と、諦めたように息を吐くトレーナー。

エルコンドルパサーはデジタルが顔をあげるのを待って声を掛けた。

 

「デジちゃんさ」

「はい?」

「今フランス語どれくらい出来る?」

「んー……春に先輩が行くって知ってからですからねぇ覚え始めたの。ゆっくり喋って貰えれば分かる、発音は怪しくても単語は繋げてそれっぽくは言えるって感じですかね」

「十分。それじゃ、トレーナー」

「うん」

「来年のフランス遠征、私の相棒はデジちゃんにお願いしてもいいデースか?」

「お願いしますトレーナー。私も世界に出なくちゃいけないの! 将来は色とりどりのウマ娘ちゃんハーレムを作るためにっ」

「……うん。その動機はともかく、帯同ウマ娘にデジちゃんっていうのは十分あり得る選択肢なんだよねぇ」

 

エルコンドルパサーのフランス遠征は半年を見込んで滞在する計画である。

敵地に乗り込む目的は、その国の誇りでもある凱旋門賞の奪取。

幾らトレセン学園と繋がりのある滞在地を使うとしても、最初は敵も多いだろう。

帯同ウマ娘はそんなエルコンドルパサーにとって絶対の味方でなければならない。

どんな条件でも器用に走れるというポイントも練習相手として優秀である。

後は言葉の壁であるが、これは当人達も努力しているうえに通訳を雇っても良い。

 

「デジちゃんは来年ジュニアBだけど、朝日杯の方は出なくていい?」

「考えなくはなかったんですけどぉ……金髪碧眼のウマ娘ちゃんを生で拝む機会は見過ごせないかなって」

「エルちゃんには言うまでも無いか」

「デジちゃんさえよかったら、これ以上の相棒はいないデース」

「ん……分かった」

 

トレーナーとしてはエルコンドルパサーのフランス遠征には同道したい気持ちは強い。

しかし来年はメイショウドトウがジュニアCクラスにあがる。

コメット内で示す実力は同世代なら誰が相手でも勝ち負けになる時計を持っている。

そんなドトウは未だに未勝利ウマ娘だった。

どうも群れの中にいることで安心する性質なのか、レースではいつも前が塞がっている上にスパートが遅れてしまうのだ。

 

「来年は私とパールちゃんはドトウちゃんのサポートがメインになると思う。だけど海外でトレーナーやってる知人には当てもあるよー。練習に不自由はさせないから」

「地味に顔広いですねぇトレーナー」

「ついこの間、久しぶりに顔合わせたの。その時エルちゃんの事も少し話したんだけど、感触は良かったから多分いける」

「サンキューデース……で、ご予算の程は?」

「エルちゃんのJCと今までうちが溜め込んだ分で十分賄えるよー」

「エル先輩があっちでも多少稼ぐでしょうしね」

「勿論その心算だけどサ~……凱旋門賞に比べて安すぎるでショあっちのグレードレース……」

「日本から外に出ると先ず其処が悩みなんだよねぇ。凱旋門賞狙えるほどのウマ娘が国内に専念すれば全然稼ぎが変わるだろうし」

 

ロマンとマネー。

相反する、しかし切り離せない現実に苦笑するしかないコメットの三人。

来年に向けてまとめる部分を詰めていくと、この日はそれで解散した。

 

 

 

§

 

 

 

有馬記念はドリームトロフィと同じく、枠決めの抽選会が公開中継されるレースである。

それに参加するため、出走予定のあるメンバーとそのトレーナーは学園不在。

多少暇を持て余したエルコンドルパサーは、自分と同じくルームメイトが居ないスペシャルウィークを引っ張り込み、共にスマホで中継を観る事にした。

 

「有馬記念かぁ……出たかったなぁ」

「一応、1チーム二人まで……みたいな不文律を守ろうとしたんでしタッケ?」

「そうなんだよ。シャトル先輩が堂々と無視したから、私が我慢する理由がなくなっちゃった……JCの後の体調だって割とすぐに戻ったし」

「その辺はスぺちゃん身体強いよネ~。グラスも羨ましがってましたヨ」

 

エルコンドルパサーのベッドにスタンドで立てられたスマホ。

ベッドサイドで抱き石型のクッションを床に並べ、二人のウマ娘が覗き込む。

 

「おお、始まったよ……あ、皆おめかししてるねぇ」

「ドリームトロフィみたいにお揃いのドレスじゃないんですネ~」

「うん。この上にドリームトロフィあるからセミフォーマルって所かな? 私もドレスコードあるレストラン行った時こういうの着たんだよ」

「……スぺちゃん、そんなお店行った事あるノ?」

「フジキセキ先輩とかシンボリルドルフ先輩から、そういうお店の入り方とかお作法とかも習ったよー」

「……マジでスぺちゃんをどうする気だリギル」

 

最早スペシャルウィークを田舎ウマ娘とからかう事は出来ないかもしれない。

そんな予感に戦慄したエルコンドルパサーは、背中に被さって来たペットを片手で構う。

スペシャルウィークは物珍し気にコンドルを撫でようと手を伸ばすが、伸ばした分だけ離れられた。

 

「なかなか懐いてくれないなぁ」

「こいつ現金だからネ~。グラスにはあっという間に媚売り出したんだヨ」

「良いなぁグラスちゃん」

 

エルコンドルパサーを真ん中に左をスペシャルウィーク、右をペットのコンドルで固めた布陣が完成する。

とりあえずペットが其処で大人しくしてくれるなら放置に決めた部屋主は、再びスマホに注目した。

画面では司会者がお決まりの挨拶から、各チーム毎に出走ウマ娘の紹介をしている。

最多はリギルの三人。

他はスピカのように二人から一人である。

 

「今年は二人出してくるチーム多い?」

「ウンスの所と、こないだのシルクジャスティス先輩とエリモダンディー先輩が一緒で……あ、後キンイロリョテイ先輩とマチカネフクキタル先輩も同じチームだってサ~」

「……あの壺を抱えてる先輩だよね? スズカさんに馴れ馴れしすぎない? 三歩下がって崇めるべきなのに……」

「いや、同期っぽいしあの人……スズカ先輩は本当に嫌そうにしてるケド」

 

画面の中ではそれぞれ個性的なセミフォーマル衣装のウマ娘達が紹介を受け、一言の挨拶と抱負を語っていた。

この辺りは通過儀礼である。

スペシャルウィークもエルコンドルパサーも普段は見れない着飾ったウマ娘達の姿に目を楽しませた。

そうしていると本抽選が始まる。

 

「皆どの辺が欲しいのかなぁ」

「ン~……ウンスならゲート入りが遅い偶数の内枠、スズカ先輩とタイキシャトル先輩も前に出たいなら内枠が欲しいですかネ~」

「うわ、これスズカさん以外の上世代の皆さんって全員追い込みなんだけど」

「え……あ、マジだネ~。その人たちは半端に内枠とっても、包まれてそのまま行っちゃうカモ?」

「グラスちゃんも真ん中くらいが良いって言ってたよね」

「ですネ~。多分ヘイローちゃんもそれくらいが欲しい筈」

 

中山レース場2500で行われる有馬記念。

通常四回のコーナーが六度ある事もさることながら、最初のコーナーまでの直線が非常に短い事も特徴としてあげられる。

先行逃げ切りのウマ娘でも大外からハナを切って最初のコーナーに飛び込むのは容易ではなく、逃げウマ娘達は出来るだけ内側にいたいだろう。

逆に開幕のダッシュがつかないウマ娘達はうちにいたらそのまま外のウマ娘に被ってこられる。

芸能人らしきゲストが抽選の順番のくじを引き、当たったウマ娘が枠決めの本くじを引く形式。

それぞれが得意の展開に即した位置取りを求めるこの抽選会の熱気は、空調の効いたステージに入るにもかかわらずトレーナー達に汗をかかせた。

 

『最初のくじを引くのはマチカネフクキタル選手です! 13枠全てあいておりますが、何処か狙いなどありますか?』

『そうですねぇ……私の豪運をもってすれば取りたい番号が勝手に来てしまうのは間違いのない所なんですが』

『あの……そういう発言はどんな結果になっても忖度を疑われるんで、勘弁していただけませんかね?』

『何処から始めてもどうせ全員ぶち抜くだけなんで、大外の6か7枠を埋めてあげたいですかね! 皆さんの為にっ」

 

手の中の壺を磨きながら司会とやり取りするマチカネフクキタル。

堂々とステージ中央の透明なくじ箱に手を突っ込む。

右手に壺。

左手にくじ箱。

その滑稽な姿に現場では忍び笑いが起こる。

やがてマチカネフクキタルがカプセルを握って手を引き抜く。

番号は七枠一三番。

 

『あぁっと本当に引いてしまったぁああああああああああ!?』

『……まぁ良いですよ、良いんですけどねぇ……』

『あ、やっぱり大外はお嫌でしたか?』

『いいえ、開運の壺が私を其処に導いたなら其処に福があるのでしょう!』

 

諦めたように頭を振ったマチカネフクキタルが司会に応える所をスマホ越しに見守る二人。

 

「あの先輩マジで大外引いたデース」

「有言実行っていうか……逆フラグ立てて避けようとしたとか?」

「まぁなんにせよ、開運の壺とか怪しいものに頼った弱メンタルの末路何てこんなものデショ」

「うん、まぁ……ねぇ」

 

マチカネフクキタルというウマ娘の真実を知らない二人からすれば、その評価も無理はない。

しかしこの結果は現地にいる幾人かのウマ娘には深刻な影響があった。

続いて二番手のグラスワンダーが五枠九番、三番手のキンイロリョテイが二枠三番を引き当てる。

 

「グラス九番デスか……」

「欲を言えばもう少し内が良かったかな」

「ん……この後グラスより外に来るウマ娘次第カナ? この時点だと悪くはなさそうとしか言えない」

「そだね」

 

四番手のシルクジャスティスが六枠十一番を引き当て、少し嫌そうにしている。

そして次に引くのは現時点の一番人気。

今期クラシック戦線で主役の一人だったセイウンスカイである。

 

「頑張れウンスちゃん!」

「一枠空いてマース!」

 

『それではセイウンスカイ選手ですが……これはもう内枠狙いですか?』

『……その前にちょっと良いですか?』

『え?』

 

セイウンスカイは一言司会にことわると、返事も待たずに踵を返す。

向かった先は最初にくじを引き終えたマチカネフクキタルの所である。

 

『先輩、その壺お借り出来ます?』

『大事にしてくださいよー? 愛してるんですから』

『はい、勿論』

 

「おいこらウンスぅーーーーーー!?」

「メンタル弱いにも程があるよウンスちゃん!」

 

セイウンスカイは開運の壺を借り受け、後生大事に抱えながら司会の元に戻って来た。

会場はセイウンスカイのパフォーマンスだと思ったらしく、笑いの渦に包まれている。

苦み走った顔で後輩を見つめるサイレンススズカとクラスメイトの様子に苦笑するグラスワンダーとキングヘイローは、セイウンスカイが本気で縋っている事を察していた。

 

『そ、それでは改めまして……セイウンスカイ選手。どの番号を狙っていきたいですか?』

『一枠二番! それ以外はあり得ません』

 

「なぁに情けない前振りからキリッとかやってんデスかウンスぅ……」

「私この子に負けたんだね……ごめんエルちゃん、ちょっと肩借りていい?」

「グラスに内緒ダヨ」

 

スペシャルウィークがエルコンドルパサーの肩に額を当てて顔を伏せる。

そうしている間にもスマホの画面は中継の様子を伝えてくる。

セイウンスカイは威風堂々の言葉を体現したような足取りでステージ中央のくじ箱に挑む。

マチカネフクキタルから預かった開運の壺を一撫し、その手でカプセルを引き抜いた。

セイウンスカイが司会と共にカプセルを開ける。

 

『それではセイウンスカイ選手の番号は……は、はぁあああああああ!?』

『っしゃ来たあぁああああああああ!』

「うっそぉおおおおお!?」

「ウンスちゃん引いたぁああああ!?」

 

中に記された文字は一枠二番。

開場中が歓声とどよめきに包まれる。

そんな周囲の反応を他所に、深く頷いたマチカネフクキタル。

最良の位置を引き当てたセイウンスカイは開運の壺に敬意をこめて口づけし、持ち主の元に返す。

 

『ありがとうございました!』

『どういたしまして後輩よ!』

 

「うっわぁなんだろう、この……友達が悪魔と契約した瞬間を見ちゃった感」

「間違ってない気がしマース……あ、スズカ先輩苦り切った顔してる」

「ほんとだ。ああいう顔もすっごい綺麗……」

「スぺちゃんも地味に正気じゃないよネ~」

 

大盛り上がりの抽選会会場。

サイレンススズカは後輩が自ら魔の手に堕ちていく様を見ていた。

見ているしか出来なかった。

この世界にはルールがあり、其処から逸脱するものを決して守らない。

サイレンススズカが一般社会で生きていくなら、そのルールを無視した行動はとれないのだ。

しかしこのままでいいのだろうか。

セイウンスカイはサイレンススズカが再戦を望みながら、果たせなかった同期への想いを託した後輩である。

託された方は迷惑だったかもしれないが、スズカにとっては思い入れのある大事な相手。

それが目の前で洗脳されようとしている。

悪魔が人を地獄へ誘う時、その道筋は善意によって舗装されているという。

サイレンススズカが思うマチカネフクキタルとはまさにそんな存在だった。

 

「……私が守護らなきゃ」

 

そうつぶやいたサイレンススズカはステージ中央に向かう。

会場ではゲストが次の抽選者を決めるくじを引こうとしている時だった。

其処へ遮るようにステージに登ったサイレンススズカ。

 

「す、スズカさん?」

「あの人何するつもりデース?」

 

『あ、えっと……サイレンススズカ選手。どうしました?』

『次は私に引かせてください』

『え?』

『お願いします。私は、守護らなければいけないんです』

 

マイク越しの声は会場に響き渡る。

その本意は分からずとも、くじ引きによる順番の逸脱宣言。

ためらう様などよめきの中、会場に向かってステージ上のサイレンススズカは静かに頭を下げた。

 

『お願いします』

 

深く深く折られた腰と下げられた頭。

その姿勢に相反する、決然とした譲らぬ声音。

サイレンススズカの姿に抽選会の主催者からGOサインがおりる。

一喝して下がらせるにしても説得するにしても、簡単に納得しない雰囲気を感じたのかもしれない。

まず通常はあり得ない事態に、この中継が始まって以来屈指の高視聴率を稼ぎだしているという現在進行形の事情もあった。

 

『そ、其れではサイレンススズカ選手に引いていただきます。よろしいですか?』

 

最後の問いは会場に向けられたもの。

出走ウマ娘達はくじ引きの順番などどうでも良い。

会場に来ていた関係者、記者たちは珍しいものが見れる期待に頷いた。

 

『ありがとうございます』

『それでは、サイレンススズカ選手は――』

 

サイレンススズカは皆まで聞かず、一つ司会に頭を下げる。

そしてセイウンスカイと共にいる元凶に向かって歩みだす。

その表情はセイウンスカイを一瞬で正気に戻す迫力があった。

傍で見ているだけの彼女がそうなのだ。

実際にその視線に射抜かれているマチカネフクキタルが感じるプレッシャーは如何ばかりか。

セイウンスカイはそう思って隣を見るが、当のフクキタルはスズカの眼光も涼し気に笑って受けていた。

 

『フークちゃん、私もご利益にあやかっていいかしら』

『えぇ……スズカさんうっかりを装って割りそうですからねぇ』

『大丈夫よ、触ったりしないから』

『ん、それなら』

 

マチカネフクキタルは少し嫌そうにしながらも、サイレンススズカの前に両手で持った壺を差し出した。

これだけの扱いを受けながらも拒否しない辺り、このウマ娘は根本的な部分で善良な気質を持つのだろう。

サイレンススズカも其処は心から認めていた。

だからこそ性質が悪いのだという事も間違いなかったが。

 

『悪霊退散!』

『あんぎゃあーーー!?』

 

「殴ったぁああああああ!?」

「マジかヨッ」

 

サイレンススズカがノーモーションで放った拳が壺に刺さる。

そしてマチカネフクキタルの悲鳴が会場に響いた。

その悲痛な声は本当に苦しんでいるかのようで。

聞いた者たちの中にはマチカネフクキタルが本当に除霊されたのかと錯覚した人もいた。

 

『お待たせしました。邪気は去ったと思います』

『え、えぇ?』

『スズカぁ!? 貴女さっき触らないって――』

『殴らないとは言ってないわ』

『触らないってぇっ!?』

『言っていないわっ!』

 

半泣きでスズカに殴られた壺を磨くマチカネフクキタル。

実際に壺はひび一つ入っておらず、打ち負けたのはスズカの右拳である。

しかしサイレンススズカはおくびにも出さずセイウンスカイに笑みかけた。

それはスペシャルウィークを魅了してやまない笑みであり、セイウンスカイにとって恐怖の代名詞ともいえる笑み。

会場ではシルクジャスティス、エリモダンディー、キンイロリョテイなど二人の同期のウマ娘達が爆笑していた。

唯一人、メジロブライトは胃の辺りを抑えて青くなっていたが。

 

『そ、其れではサイレンススズカ選手に引いていただきます』

『長々と申し訳ありませんでした。今引いてきます』

 

サイレンススズカは壺を殴って反応の鈍い右手を無理やり開き、カプセルを一つ握りしめる。

躊躇せずに引き抜き、颯爽と身をひるがえす。

 

『サイレンススズカ選手の番号は……』

『ごめんなさい、ちょっと右手が怪しいので……んっ』

 

サイレンススズカはカメラの目の前でカプセルを左手に持ち替え、握力だけで粉砕した。

そのパフォーマンスに会場が沸く。

次にくじを引くウマ娘のハードルを上げるだけ上げたサイレンススズカは中の紙を取り出した。

 

『サ、サイレンススズカ選手……一枠! 一枠一番! サイレンススズカ選手ですっ』

『やった!』

 

綺麗な顔で可憐に笑うサイレンススズカ。

女神の笑顔に関しては一級鑑定士を自負するスペシャルウィークに言わせれば余所行きの笑みだが、だからこそ人を惹きつけやすい。

 

「スッペちゃーん」

「ん?」

「ワタシィ……有馬記念の枠決め抽選会ってやっぱり忖度あるのかなぁって思っていたんですケドー」

「うん」

「今年、確信した。ないわコレ」

「そだね……この茶番がライヴ以外ありえるかっての」

「「ねー」」

 

顔を見合わせて笑い合うスペシャルウィークとエルコンドルパサー。

ほっこりした所で画面に目を戻せば、会場が慌ただしい。

 

「あれ!? ウンスちゃん気絶してる」

「其処までスズカ先輩怖いデース!?」

「いや、多分あれは幸福の許容量を超えたんだよ」

「……あぁもう、それでいいよヨ」

 

セイウンスカイが会場から運び出され、放送事故としか思えない内容の抽選会が続く。

この後スズカの次にくじを引く事になったメジロブライトがプレッシャーに負けてリバースし、ついに中継が中断した。

その瞬間、抽選会始まって以来、最高の視聴率を歴史に刻む事となった。

 

 

 

§

 

 

 

中山レース場で行われる、今年最後の大レース有馬記念。

宝塚記念と同様、人気投票によって選ばれたウマ娘達が鎬を削るグランプリ。

非常に特徴的なコースであり、走りやすい条件とは言い難い。

それでも年を締めくくる大一番にふさわしい格を維持するこのレースは、幾つもの名勝負を送り出してきた舞台だった。

今年の話題の中心は、やはりジュニアCクラスの活躍である。

事前に行われたファンへのアンケートやインタビューでも今期のCクラスへの期待が高い。

本来ならば本命に推されるべきシニアクラスのウマ娘達を抑え、セイウンスカイとグラスワンダーが一番、二番人気に入ったことがその事実を示している。

シニアクラスのウマ娘達には不本意だった。

しかし根拠が無い妄言とは違う。

今秋のシニア王道路線で勝ち星を挙げたのは全てジュニアCクラスのウマ娘なのだ。

毎日王冠を二着から、前走では秋天を獲ったグラスワンダー。

京都大賞典で完勝し、世代戦とはいえ菊花賞を世界最速で逃げ切ったセイウンスカイ。

そんな彼女らが有馬記念だけ取り逃す?

多くのファンはあり得ないと言う。

だが全てのファンが同調するわけではない。

昨年のクラシックに熱狂し、彼女らの戦いに夢を見る者も少なくない。

春の天皇賞を獲ったメジロブライトがいる。

昨年の覇者シルクジャスティスが相棒のエリモダンディーと共に二連覇に挑む。

その三人を昨年の菊花賞でまとめて薙ぎ払ったマチカネフクキタルが、一年以上の空白を経て帰って来た。

更には春のグランプリウマ娘サイレンススズカが、アメリカへの遠征を見送ってこのレースに参加する。

それは早い世代交代を目論むジュニアCクラスと生き残りをかけたシニアクラスの生存競争。

 

「だってサー。失礼しちゃうよネ!」

「そうだな。ファンの眼中に私達はいないらしい。シニアの本命にスズカをあげる慧眼は認めてやるが」

「……自分で走る時くらいスズカスズカ言うのはよそうヨー」

 

地下道入り口で入場時間を待つウマ娘達。

その中には女帝の異名をとるエアグルーヴと、この春に帰って来たタイキシャトルの姿がある。

エアグルーヴは春に大阪杯を制したモノの、やはり今秋の勝ち星に恵まれず四番人気。

タイキシャトルもほぼ同じ条件だが、距離不安もあって八番人気だった。

この二人の自負と実力から考えれば甚だ不本意な結果だろう。

 

「しかしこの中山でお前と走る日が来るとは思わなかったよ」

「ウッフッフゥ……Honeyに今年最後のSurprise Presentあげたくってサー」

「飛び入りの時点で相当驚いていたようだがな」

「まーだまだこんなもんじゃないデース! ワタシがHoneyを、一番のトレーナーにするんだからネ!」

「大賛成……だが勝ちまでは譲れん。諦めろシャトル」

「譲ってもらう心算はないヨー……ちゃーんと勝ち取って見せるからサァ」

 

口の端を笑みの形に歪めるタイキシャトルに目を細めるエアグルーヴ。

リギルの二人はそれ以上語らず、一度拳を打ち合わす。

 

 

 

『クリスマスを過ぎ、今年も残す所を指折りで数える師走も終盤

 

12万人の大観衆が詰めかけた中山レース場では

 

今年を締めくくる一戦が今か今かと待たれています

 

なんと今期は全員が勝ち上がりを果たした奇跡の世代

 

ジュニアCクラスからは二冠ウマ娘のセイウンスカイ

 

秋の天皇賞を制したグラスワンダー

 

世代戦とはいえダービーウマ娘を倒して勝ち星を挙げたキングヘイロー

 

シニアクラスのウマ娘達が不振に喘ぐ秋の王道路線

 

最後の一冠たる有馬記念を勝利し、世代交代を示すのか――』

 

 

 

実況の紹介と共にウマ娘達が本バ場に入場してくる。

これから出走時刻までの短い間の返しウマ。

軽く流すウマ娘もいれば本番さながらに調整するウマ娘もいる。

この日三番人気のサイレンススズカは比較的早い入場だった。

一人、また一人と入場してくる出走者達。

そしてスズカは、入場が進むたびに機嫌を悪くしていった。

 

「……」

 

実況とは実際の状況という事である。

実況中継とは、事実を伝える事である。

しかしその役目を担う者も人間であり、主観は必ず存在した。

 

「……下の子寄りの実況じゃないかしら」

 

普段のスズカなら願望や贔屓の入った実況程度にイラつくことは無い。

むしろ後輩達の躍進を微笑ましく祝福しながら実戦で堂々と捻り潰すだろう。

そんなサイレンススズカをして、聞き捨てならないセリフが一つあった。

 

「主役の居ない世代ですって?」

 

それは一面の事実ではあったろう。

サイレンススズカの世代は皐月賞とダービーを制した二冠ウマ娘がいたが、菊花賞を待たずに怪我によって引退した。

入れ替わるように台頭した夏の上がりウマ娘マチカネフクキタルは菊花賞を獲ったが、直後に足の病で戦線離脱。

シルクジャスティスは昨年の有馬記念を制したが、年明けに相棒のエリモダンディーが骨折により長期離脱してから精彩を欠く。

スズカ自身とメジロブライトは春のGⅠを獲ったものの、秋にはジュニアCクラスに押し出されるように白星がない。

この事実をもって今年のジュニアCクラスが去年のウマ娘達より上だと考える者はいるだろう。

しかし実況に、そしてファンに主観があるようにサイレンススズカにも主観がある。

自分達のクラシックが、今年のクラシックより次元が低かったなどと認める事は絶対に出来ない。

サイレンススズカはターフの一角で真っすぐ右手を挙げて宣言する。

 

「集合!!」

 

ウマ娘というものはレースにおいて観せる走者であると同時に、舞台上で魅せる演者である。

鍛え上げられた声帯から発した高い音は、本番前の比較的静かなレース場内に透き通った。

多くのウマ娘達がその声を聴いた。

しかしその意味をはっきりと理解したものは五人。

 

「なんですかなんですかー?」

「いちいち呼びつけてんじゃねーぞススズ」

 

興味深げにやって来たのはマチカネフクキタル。

面倒臭そうに、それでも走り寄って来たキンイロリョテイ。

 

「あんた私を呼びつけるなんて出世したもんじゃない」

「まぁま、行ってみましょう?」

「あの……レース前にあまり過激な行動は慎んでいただけると……」

 

さらにシルクジャスティスとエリモダンディー。

そして最後にメジロブライトといったサイレンススズカの同期達が集まってくる。

スズカは集合した同期達を見渡す。

物珍し気に注目する観衆や、他のウマ娘達の視線も感じたが今は関係ない。

 

「貴女達、目を閉じて」

「はぁ? あんた何を――」

「良いから、言うとおりにして……そして私達のクラシックを思い出して」

 

サイレンススズカは同期達が渋々ながら従うと、自分も視界を遮断する。

 

「ジャスティス。貴女はJCで今期のダービーウマ娘に敗れたわ」

「……っち」

「だけどほんの首差じゃない。私達のダービーウマ娘は、スペシャルウィークより遅いのかしら?」

「そんなわけないじゃない!」

 

本気で怒りを露わにするシルクジャスティスに満足気に頷くサイレンススズカ。

 

「今年、私の後輩が菊花賞でワールドレコードを達成したけれど……」

「景気の良い事ですよねー」

「……ならフクキタル。貴女は、セイウンスカイに3000では追いつけないの?」

「ご冗談を。世界最速の時計なんぞ、私の脚の前には止まっているも同然ですが?」

 

何でもない事のように宣言したマチカネフクキタル。

後輩の事を気にも留めない同期の言葉に内心ではイラつくスズカ。

しかし煽っているのは自分である。

ルームメイトとチームメイトに内心で謝りながら、スズカは同期を急き立てる。

 

「その通り。私達は彼女達より早いのよ。だけど私達は、下の子達程ちやほやされたことがあったかしら?」

「記憶にねぇな」

「ズルいですよねー後輩達は。私も開運の世代とか壺の世代とか言われてみたいものです」

「それだけは絶対に嫌だったから、スズカさんと協力までしたんですけどね」

「貴女のお陰で実家にどれだけ手数を掛けたと思っているんですかぁ」

「あっあー! それはともかくっ、私が言いたい事はね?」

 

脱線しかけた会話を必死に修正するサイレンススズカ。

返しウマの時間は決して長くない。

余計な事を話し込んでいる時間は無いのだ。

スズカは丁度三人まとまって軽いジョグで流す後輩を親指で指す。

 

「あの子達、生意気だから絞めましょう?」

 

その言葉の意味を理解するのに、同期達は数瞬の間が必要だった。

言われたCクラスの面々もそうだったろう。

しかしその意味を理解した時、反応は劇的だった。

 

「いや! それはちょ――」

「よっしゃーやったりますかぁー!」

「面白れぇじゃねえか」

「っは! 私は最初からその心算だってのっ」

「シルクがやるなら、頑張ろうかなって」

 

頼もしい同期達の反応に満足気に頷いたサイレンススズカ。

勝ちたいのはみな同じ。

それでも勝つのはたった一人。

誰が勝かは分からないが、必ず勝者はこの中から出す。

決然とした意識を固める前年度のジュニアCクラス達。

自分達のクラシックが、この世代が、今年のそれより劣っていた等と認める事は出来ない。

決して仲の良い同期ではなかったが、その激しいプライドだけは共通していた。

そんなシニアクラス達の熱気を他所に冷めた瞳で切りつけるウマ娘がいる。

 

「はぁ……若者が成功すれば妬みで固まって足を引っ張る事ばかり考える。情けない事この上ありませんわね」

「ちょっ、ヘイローちゃん何で挑発し返してるの!?」

「全くです」

「だよねグラスちゃんっ」

「こういうのを日本語で老害っていうんですよね」

「何てこと言うのさグラスちゃん!?」

 

キングヘイローとグラスワンダーがシニアクラスの前に並び立つ。

セイウンスカイとしては心から関わりたくないが、この二人を見捨てるという選択肢はあり得なかった。

そして一方にはチームメイトにして天敵たるサイレンススズカもいる。

決して起きて欲しくなかった最悪の対立。

同期とチームの板挟みで青くなったセイウンスカイは落ち着かな気に視線を泳がせる。

すると相手側にも同じように青くなっているメジロブライトがいた。

思わぬ所で同志を見つけた二人は悲痛な自分の表情を相手の中に見出した。

きっとこのメンバーの中では苦労しているのだろう。

セイウンスカイは自分の境遇も他所に同情する。

しかしこの優しい同期達は、何時までもセイウンスカイを蚊帳の外においてはくれなかった。

 

「ほら、セイウンスカイも何かあるでしょう? 言っておやりなさい」

「……えっ?」

「確かに。無敗のエルとダービーウマ娘のスぺちゃんが居ない以上、私達の代表は二冠ウマ娘のセイウンスカイちゃんしかありません」

「はぁ!?」

 

大和撫子とお嬢様に連れ出され、最前線に立たされた一般庶民。

れっきとしたパワハラであるが指摘するものは無い。

セイウンスカイに突き刺さる十六の瞳。

中央に立つサイレンススズカは、穏やかともいえる表情で後輩の奮起を待った。

 

「あ、あの……」

「なぁにソラちゃん」

「……よっ」

「うん?」

「よ……っ、よろしくお願いします」

「ええ、よろしくね」

 

はっきりと示された上下関係の元に握手する先輩と後輩。

グラスワンダーとキングヘイローはため息とともに肩を落とす。

 

「セイウンスカイちゃん、プライドとか無いんですか?」

「百年の恋も冷める一瞬とはこういうモノを言うのでしょうか」

「だったら二人がやってよね!? 私はこれからもスピカでこの人と付き合っていかないといけないんだからさっ」

 

煽るだけ煽って丸投げした二人にだけは言われたくないセイウンスカイ。

そんなセイウンスカイの様子には上世代のウマ娘達からも同情の視線が向けられる。

其処へ場内のアナウンスが響き、返しウマの終了が告げられた。

 

「……」

 

サイレンススズカは奇跡の世代を代表して走る三人のウマ娘に一人一人視線を送る。

そして定めた。

 

「……よろしくね、グラスワンダーちゃん」

「よろしくお願いします。サイレンススズカ先輩」

 

直感で強いと感じるウマ娘に笑みかけたサイレンススズカと見た目だけ穏やかに受けるグラスワンダー。

それぞれに握手もせずに視線を切ると、ウマ娘達を待つゲートに足を向けた。

 

 

 

§

 

 

 

中山レース場に響き渡るファンファーレ。

大観衆の送る手拍子を受け、ウマ娘達の枠入りが始まる。

 

 

 

『いよいよこの時がやってまいりました

 

 

十三人のウマ娘達が繰り広げる死闘

 

 

時間にすれば僅か二分三十秒の激闘に刮目してまいりましょう!

 

 

――六枠十二番タイキシャトルが最後のゲートに入りました

 

 

今年最後の夢

 

 

第■■回有馬記念

 

 

今――

 

 

――スタートしました!』

 

 

 

横並びの一線からポンと飛び出したのは内と外。

一枠二番セイウンスカイと六枠十二番タイキシャトル。

内枠の有利を生かして最初のコーナーに駆け込むセイウンスカイ。

圧倒的な瞬発力で強引に先行して内に切り込むタイキシャトル。

その先頭争いにサイレンススズカの姿が無い。

スズカはセイウンスカイが抜け出すと、内枠を一人分あけてその後ろに自ら入る。

 

(さぁて、始めましょうか)

 

外を走るウマ娘達が徐々に内に食い込んでくる。

しかしその動きが不自然に止まった。

 

「てめぇっ」

「……」

 

キンイロリョテイがスズカの隣から呻くように吠える。

サイレンススズカは内枠にありながら先行しない。

抜かせず遅れず。

ただ何人たりとも自分より内に入れない走り。

短い直線から最初のコーナーにウマ娘達が殺到する有馬記念のスタート直後。

此処で自分と隣のウマ娘を内枠で壁にしたサイレンススズカ。

シルクジャスティスはつんのめるように減速しつつ外に出す。

キンイロリョテイとエアグルーヴが不本意ながらスズカと横のラインを作る。

スズカのペースは前に出て被っていける程遅くはない。

完全に先行したセイウンスカイとタイキシャトル。

一番後ろから狙う心算のグラスワンダーとマチカネフクキタル。

そしてこの流れを仕掛けたサイレンススズカ。

それ以外の全員が望んだポジションを取れないまま勝手にバ群が形成される。

 

 

『先行したのは菊花賞ウマ娘セイウンスカイ!

 

 

殆どならんでタイキシャトルと4コーナーを回って正面直線に入ります!

 

 

後続のウマ娘達はやや混乱している模様っ

 

 

横に広がったまま最初のコーナーを回って来た!

 

 

先頭セイウンスカイとタイキシャトル!

 

三バ身程遅れてサイレンススズカキンイロリョテイエアグルーヴとこれは内に固まりました!

 

続いてキングヘイローユーセイトップランと続きましてその後ろに春の天皇賞ウマ娘メジロブライトが追走します!

 

一バ身ほど遅れてオースミタイクーンエリモダンディー!

 

外の方からシルクジャスティス!

 

最後方から前を伺うのはグラスワンダーとマチカネフクキタル!

 

 

 

此処でサイレンススズカが前に出たか!?

 

単独三番手にあがりつつ前――おっと此処で後ろを確認したサイレンススズカ!』

 

 

 

前を征くウマ娘を極力視界に入れない様に三番手を走るサイレンススズカ。

幸いなことにセイウンスカイは大逃げと言えるほど千切っていない。

スズカの脚なら十分に捕らえられる位置から再び後ろを確認する。

 

(中途半端に来た子は粗方かき回した筈……よりによって貴女が其処にいたんじゃ意味が薄いんだけどなぁ)

 

サイレンススズカは混乱の影響を一切受けない同期の位置取りに辟易する。

 

(だけど隣はグラスワンダーちゃんか……悪くないわね)

(おーおーおー……珍しく頭とか使っちゃってるじゃないですか)

 

マチカネフクキタルは後ろからスズカの様子を確認していた。

開幕は他人の後ろに付きつつ内に入りたい追い込み勢。

その動きを逆用して並走し、壁にする。

自分で壁になろうと動けば斜行と判断されるだろう。

だから隣のウマ娘を使った駆け引き。

 

(だけど此処まで波及はしなかった。ならむしろ問題は……)

 

マチカネフクキタルは自分の隣をぴったりと添うグラスワンダーに視線を投げる。

 

(……このお人形みたいな後輩さん 私と末脚勝負をなさるおつもりで?)

 

その目に気づいたグラスワンダーは薄っすらと笑んで見せた。

グラスワンダーはマチカネフクキタルと並んで後方から追撃する。

そのコンディションはかつての朝日杯に匹敵した。

左回りがぎこちないのは相変わらずだがこのレースは右回り。

全身から満ちる力を試す様に一つ大地を強く蹴る。

それだけでマチカネフクキタルを体半分置き去りにしたグラスワンダー。

 

(良い感じですね……おや?)

 

自分の身体と対話していたグラスワンダーが再び意識をレースに向ける。

その時既にマチカネフクキタルは半バ身の差を詰めていた。

 

(あれ……まだいる)

(ちょっとびっくりしたじゃないですかっ)

 

グラスワンダーとマチカネフクキタルは徐々にペースを上げながら互いをふるいにかけだした。

 

 

 

『先頭入れ替わってタイキシャトル!

 

セイウンスカイが半バ身を追走してスタンド正面を駆け抜けます!

 

二バ身あけてサイレンススズカとエアグルーヴ!

 

キンイロリョテイと入れ替わったキングヘイローがこの位置!

 

外からシルクジャスティスも上がって来たっ

 

先頭第一コーナーを回って1000㍍の通過タイムが58秒4!

 

これはハイペースになりました!

 

しかしそれほど縦長の展開ではありませんっ

 

最後方のマチカネフクキタルとグラスワンダーも詰めて来たか!?』

 

 

 

外の位置から第一コーナーを回ったシルクジャスティスは一度後ろを確認する。

目当ての相手はバ群の中団。

其処にはジュニアの頃からずっと自分の後について回って来たウマ娘の姿があった。

 

(よーくもやってくれたわねスズカの奴……此処からじゃエリーが私を見にくいでしょうがっ)

 

開幕で詰まった事からはじき出された形のシルクジャスティス。

しかし彼女の闘志は逆風を得て燃え上がった。

前に意識を向ければ5人程のウマ娘がいる。

 

(こいつら全員ぶち抜きゃ勝ちなんだから! 遠くに行かれちゃ面倒だわ!)

 

有馬記念はスタンド正面を二度走る。

その時にウマ娘に送られる大声援は、このレースの風物詩。

しかしこの時、先頭が第二コーナーに入った辺りでもう一度歓声がはじけ飛んだ。

 

 

 

『内からエリモダンディー外シルクジャスティスが一気に伸びる!

 

 

サイレンススズカとエアグルーヴを躱して先頭二人に取り付いたっ

 

 

向こう正面最初に向いたのはシルクジャスティス!

 

殆ど同時にエリモダンディーっ

 

 

 

先頭シルクジャスティス並んでエリモダンディー!

 

 

一バ身をタイキシャトルとセイウンスカイ!

 

 

内からサイレンススズカとエアグルーヴは不気味なほどに動きが無いっ

 

 

その後ろからキングヘイローキンイロリョテイユーセイトップランメジロブライトと固まりました!

 

 

最後方からマチカネフクキタルとグラスワンダーも上がってくる!

 

 

オースミタイクーンを捉えてまだ詰めるっ』

 

 

 

エリモダンディーが向こう正面の直線を先頭に立つ。

隣を走るシルクジャスティスすら捉えてその前に出た。

ずっと一緒だった相棒。

ずっと傍にいた憧れ。

去年このレースを先頭でゴールしたシルクジャスティス。

そのグランプリウマ娘を、同じ有馬の舞台で捕まえた。

 

(見た? シルク)

(やるじゃないエリーっ)

 

視線が一度交わった。

お互い長い付き合いである。

それだけで何を想っているのか分かる。

エリモダンディーはかつてない歓喜の中にいた。

シルクジャスティスは一抹の寂しさを飲み込んだ。

一瞬だけからんだ視線。

一完歩だけ抜きんでた足跡。

 

「……」

 

両者が次に踏み出した一歩には残酷なまでの違いがあった。

このレースでは二度と並ぶ事の無い差。

それは一秒にも満たない時計かもしれない。

しかし埋まらなかった二人の距離。

シルクジャスティスが引き離す。

エリモダンディーにこれ以上は無かった。

一度ついた差は二度と縮まることはない。

 

(凄いなぁシルク……)

 

エリモダンディーはシルクジャスティスの背中を見ていた。

そんなエリモダンディーを抜き去っていくウマ娘達。

タイキシャトルが。

セイウンスカイが。

エアグルーヴが。

メジロブライトが。

キングヘイローが。

そしてサイレンススズカが。

自分を追い越していく。

前を走るシルクジャスティスに襲い掛かる。

 

(頑張れシルク!)

 

持って生まれた才能を努力で磨いたウマ娘達。

その中でもトップクラスに位置するこのメンバーが相手でも、シルクジャスティスならば勝てると信じている。

それはエリモダンディーが一度も疑った事のない祈りだった。

 

 

『先頭シルクジャスティスが第三コーナーに突っ込んだ!

 

 

エリモダンディーは足がつかないズルズルと後退っ

 

 

メジロブライトとキングヘイロー!

 

 

更にエアグルーヴも上がって来た!

 

 

 

一バ身ひらいて内からサイレンススズカ!

 

殆どならんでタイキシャトルとセイウンスカイ!

キンイロリョテイもこの集団!

 

 

少し開いてグラスワンダーとマチカネフクキタルもじりじりと詰めてくる!』

 

 

 

最終コーナーにサイレンススズカが入っていく。

大よそ5バ身後方から、それを確認したフクキタル。

 

(地味に邪魔なんですよねグラスワンダーちゃんっ)

 

後ろから見ているとよくわかる。

誰がどれだけ足を残しているか。

手強いと思う相手は殆ど潰れてくれていない。

しかしそれでも……

大逃げに行かなかったサイレンススズカの脚色は、やはり良かった。

 

(横に張り付かれて外に出せないっ。体格からは考えられないくらいパワーもある……良かった大吉引いておいて)

 

マチカネフクキタルが見据える一筋の道筋。

それは内を走るスズカの更に内。

ウマ娘一人、ギリギリ抜けられるかという細いルートであった。

 

(コンディション最高! 精密動作も自在っ。意識も切れてる……今日の私なら――)

 

どのルートでも抜けられる。

マチカネフクキタルが絶好調の証拠。

異次元の逃亡者すら止まって見える程に集中力は高まっている。

このまま追えば、何時かのように簡単に届く。

その確信があった。

遠くサイレンススズカの背に笑むマチカネフクキタル。

その視線を感じたのか、スズカが一度後ろを確認した。

 

(フクきたる……か。別に待ちかねてもいないけれど)

 

それが自分にとっての福ではない事を承知の上で、サイレンススズカがターフを駆ける。

何時かと同じ。

後方から末脚を溜める同期がいる。

この中山の短い直線で、自分を差せるというのだろうか。

 

(差せるんだろうなぁ)

 

サイレンススズカはうんざりとした思考で敗北を認めた。

このままマチカネフクキタルが最終コーナーを回れば、時すら追い越す末脚を爆発させてくるだろう。

かつてあった事だ。

事が二度でも三度でも、自分がいて彼女がいれば起こりうる。

だからスズカははっきりと負けを認めた。

いや、最初から勝負などついていたのかもしれない。

 

(認めてあげる。貴女は強いわ)

 

だから最初から見せていた。

この中山2500のスタートから、ずっと開けていた内埒沿い。

一枠一番を引き当てたスズカ自身が、本来ならば走っていた場所。

そのたった一人分の隙間へ。

わざと締めなかったそのルートへ。

隣で走るタイキシャトルの圧から逃げるように侵入した。

 

「んな!?」

 

サイレンススズカは想定よりもはるかに近い距離で同期の悲鳴を聞いた。

追い上げていたのだろう。

勝ちを確信していたのだろう。

マチカネフクキタルが万全の態勢で絶好の末脚を披露した時、サイレンススズカの逃げ足すら捕まえる。

しかし両者の間にはまだ、三バ身の距離があった。

この差があれば走路が重なったとしても危険行為は取られない。

会心の追い込みのさなかに前を塞がれたマチカネフクキタル。

 

「ふざっけんなぁああああああっ」

 

同期の断末魔を聞きながら加速していくサイレンススズカ。

 

(ねぇフクキタル……走るってね? 一人静かに、豊かで……救われていないといけないのよ)

 

自分以外何も存在しない、青い空と緑の大地。

そんな世界をたった一人で駆け抜ける事こそスズカの至福。

 

(私は頭の中まで、真っ白にして走りたいの。何も考えたくないの。だというのに貴女ときたら……)

 

サイレンススズカがもう一度背後を見た。

自分の最速をスズカとシャトルの壁に阻まれた同期が、恨めし気な視線を向けてくる。

そのことが、サイレンススズカの溜飲を少し下げた。

 

(貴女に勝とうと思ったらルートとかペースとか、そんな余計な事を考えないといけないんだもの。いつもそう。貴女は私の思い通りになってくれない。私を思い通りにもさせてくれない)

 

もう一度、マチカネフクキタルの悔し気な瞳を目に焼き付けて視線を切ったサイレンススズカ。

 

「だから貴女は苦手なのよ」

 

 

 

『先頭は依然としてシルクジャスティス最終コーナーを回って直線に入る!

 

 

 

外を回したセイウンスカイ!

 

キンイロリョテイも突っ込んでくるっ

 

 

 

綺麗に内から入ってくるのはサイレンススズカとタイキシャトル!

 

マチカネフクキタルは詰まったか!?

 

慌てて外に持ち出した!

 

 

 

真ん中割ってエアグルーヴとメジロブライト!

 

キングヘイローも詰めてきたっ

 

 

 

残り310㍍!

 

 

タイキシャトルを振り切ったサイレンススズカが内から強襲っ

 

 

 

遂に先頭に立ったサイレンススズカがシルクジャスティスを突き放す!

 

 

先頭サイレンススズカ一バ身リード!

 

 

外セイウンスカイ!

内からもう一度タイキシャトルが寄せていく!

 

 

中央から伸びるキングヘイローとエアグルーヴっ

メジロブライトはやや後退!

 

 

 

残り200㍍!

 

 

サイレンススズカ先頭で中山の坂――

 

 

来たキタきたぁああああああ!

 

 

グラスワンダーが後方からっ

 

バ群の真ん中を上がってくる!

 

 

 

並ばない並ばない!

 

 

 

シルクジャスティスをエアグルーヴを!

 

タイキシャトルをセイウンスカイを!

 

 

 

一息に抜き去ってサイレンススズカを――

 

 

 

 

サイレンススズカに――

 

 

 

 

サイレンススズカが抜かせない!?

 

 

 

 

サイレンススズカまだ先頭まだ粘っている!

 

 

 

グラスワンダーも追っている!

 

 

身体半分残して懸命に凌ぐサイレンススズカ!

 

 

 

 

外からマチカネフクキタルも上がって来る!

 

 

 

しかし先頭はサイレンススズカ!

 

 

 

サイレンススズカだ!

 

 

サイレンススズカが!

 

 

 

今っ――

 

 

一着でゴールイン!

 

 

 

 

 

 

 

二着はグラスワンダー!

 

三着にはどうやらマチカネフクキタルが入った模様!

 

 

 

シニアクラスの面目躍如!

 

 

 

サイレンススズカ!

 

 

 

奇跡の世代による秋王道完全制覇を阻む大金星でグランプリ連覇を達成しました――』

 

 

 

§

 

 

 

不本意な労働を終えたサイレンススズカは疲れ切った身体に鞭打って歓声に応えた。

スペシャルウィークに言わせれば余所行きの笑みだが、使い時は正に此処だろう。

 

(昔があって今がある……だからそれでいいじゃない)

 

サイレンススズカはウィニングランを披露しながらターフの一角で足を止めた。

視線の先にあるのはチームリギルのメンバー達。

大観衆が勝者に視線を注いでいるのだ。

リギルの面々も当然ながらスズカを見ている。

 

「……」

 

サイレンススズカは東条トレーナーと目を合わせ、深く頭を下げた。

今日この日、サイレンススズカを勝たせたのは間違いなく東条ハナだろう。

その位置取りも披露した戦術も、全て彼女がリギル時代のスズカに教えた事である。

走る事に対して高い適正と潜在能力を示したサイレンススズカ。

東条ハナはその末脚に注目して勝てるウマ娘に育てようとした。

それはスズカの望む走りの方向ではなかった。

だからチームを移籍したのだ。

しかし東条ハナがスズカに見た夢も決して間違いではなかったのだろう。

春のグランプリで自身初の戴冠を果たした時は逃げ勝った。

これは間違いなく今のトレーナーのお陰である。

そして今日、秋のグランプリを制したのはかつてのトレーナーの指導であった。

 

(ありがとうございました。私は二人のトレーナーを持てた幸せなウマ娘です)

 

サイレンススズカが頭を上げた時、中山レース場では本日幾度目かの大歓声に包まれた。

東条ハナは苦笑しながら額を手で覆っている。

しかしその口元はおめでとうと動くのが見えた。

サイレンススズカは高々と手を振って観衆に応え、ウィニングランを再開した。

 

「……でも、二度はやりたくないわ」

 

気を抜くと半眼になりそうな心境のスズカは、早くチームと日常に帰りたいと願うのだった。

 

 




もっとうまく書けた
もっと熱く出来た
そんな後悔は尽きませんが、今ある手持ちで勝負するしかありませんでした
それでも、この年に生まれた私の心残りは粗方浄化出来た気がします
予定では次がラストになると思います


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17.泡沫の夢

アプリ……アプリハドコ……ウマ……カユ……


東京羽田から、札幌新千歳まで約一時間半の空の旅。

一年のスケジュールを無事に終えた五人組は、メンバーの一人スペシャルウィークの帰省に同行していた。

ジュニアCクラスという若い情熱の時代が終わり、来年からはシニアクラスとして活動する彼女達。

それはこれまで通りに挑戦していく姿勢とともに、下の世代からの挑戦を受ける立場にもなるという事である。

この秋シーズンを散々に暴れまわった今期のジュニアCクラス上位陣。

下のクラスからの突き上げがどれだけ厳しいかは自分達を見ていれば容易に想像出来る事だった。

しかしこの時の彼女たちは、来年の事より先日の有馬記念の方が印象深い。

 

「なんというか、ウンスちゃん大変だったね」

「本当だよ……返しウマじゃ先輩の前に引きずり出されて、レースじゃタイキシャトル先輩に張り付かれてさ……」

 

半眼でキングヘイローとグラスワンダーを睨むセイウンスカイ。

睨まれたお嬢様と大和撫子は誤魔化すように視線を逸らす。

キングヘイローは話題を変えようとセイウンスカイに尋ねた。

 

「あれは並走して競っていたのではないのですか?」

「なんか違う……凄い見られてたっていうか……」

「シャトル先輩が仰るには、セイウンスカイちゃんのリズムを拾っていたとか」

「リズム?」

「なんでも、見た目の走り方が変わっても呼吸の芯までは変わってないとかで……至近距離に張り付いていれば分かるって仰っていました」

「そうやってウンスちゃんをペースメイカーにして体力温存したらしいよー」

「乱ペースで走る逃げウマ娘をペースメイカーにするとか、勇気ありマース」

「アレはまいったね……こっちがどういう風に走っても根っこは自分の脚を残して距離を消していく筈だからって決め打ちしてきたんだよ。私が失敗して自滅したら一緒に共倒れになるってのに……」

 

セイウンスカイは冷や汗を自覚して身を震わせた。

出来ればさっさと忘れたいが、この機会に対策を考えておかねば来年に響く。

特にリギルのスペシャルウィークが見ている前でやられた事だ。

有用だと分かれば嬉々としてそのスキルをコピーするだろう。

 

「ヘイローちゃんは、終わったら本当にさっさと引き返してたよね」

「クラスの子から聞いたんですケドー、なんか速攻トレセンに戻って走り込んでたッテ?」

「まぁ、ライブ圏外でしたし……それより、少しコツが掴めましたの。来年が楽しみですわ」

 

キングヘイローは不敵な微笑でそう語る。

その声音は弾むように軽く、虚勢の様子は伺えない。

エルコンドルパサーは一つ頷き、隣に座るグラスワンダーを見る。

 

「グラスは惜しかったんだけどネ~……」

「最高は首差まで詰めてたんだよね」

「そうですけど……最終的には凌がれて半バ身差です」

「中山レース場の短い直線じゃなければ、捕まえたんじゃありません?」

「勿論その心算ですよ? でも、無意味な仮定です」

 

グラスワンダーは憂鬱に息を吐いて肩を落とす。

ジュニアCクラスによる秋王道完全制覇は、サイレンススズカによって阻まれた。

その首にまで手を掛けながら逸したグラスワンダーは落胆と負い目を隠せない。

 

「勝ったのが前目追走で差しに行ったスズカさんで、後方待機してたグラスちゃんとマチカネフクキタル先輩がライブ圏内……1000㍍が58秒そこそこで早かったから、これは後ろ残りのレースって事でいいのかなぁ」

 

スペシャルウィークがやや自信なさげにまとめると、他の四人も頷いた。

しかしエルコンドルパサーは一つ親友に尋ねたい事がある。

グラスワンダーが有馬記念敗退から立ち直っている事を確認した今、その疑問を投げてみた。

 

「ヘイグラスー」

「なんですか?」

「グラス、もしかして有馬記念の時調子良すぎた?」

「良すぎましたね……どこからレースをしても負ける気がしませんでした。其処に油断があったのだと思いますが」

「あ、やっぱり自分で気づいてたんですネ~」

「気づいてたというか……有馬記念に出たリギルの中では私が一番お説教長かったんです」

「あれは……ヒシアマゾン先輩以外は、グラスちゃんのミスだって言ってたね」

「どういうことですの?」

 

キングヘイローが問いかけると、リギルの二人が解説した。

 

「マチカネフクキタル先輩の事、意識しすぎちゃったんだよねグラスちゃん」

「何となく、私達の末脚勝負になると思ってしまったんです……多分相手もその心算だった筈」

「あぁ、レース中に何となくその種の意思疎通が出来てしまう事ってあるんだよね」

「そういう事でしたか」

 

同期達がグラスワンダーの敗因に頷くと、エルコンドルパサーが付け足した。

 

「ちょっと上がるのが遅かったよネ~……外から観てたからこそ、もどかしかったヨ」

「言ってくださいよ」

「ずっと念を送ってたヨ」 

「足りません! 聞こえなかったですっ」

「あと三バ身前で勝負しなよグラスゥ!」

「本当ですよ。何でいつまでも最後方に張り付いていたんでしょう私」

「やっぱりエルちゃんの念が足らなかったね」

「では、敗因はエルコンドルパサーさんの精進不足ということで」

「ソッカー……念ってどう精進すれば飛ぶようになるんですかネ~」

「精神修行じゃない? きっと抱き石が足らなかったんだよ」

「私もそんな気がしてきました。帰ったら一緒に頑張りましょうねエル」

「その満面の笑みやめてグラス。嫌な予感しかしないデース」

 

肘で互いをつつき合いながらの口喧嘩。

何処へ行こうともこの五人はやっている事が変わらない。

それはきっとこの先も同じだろうと誰もが思う。

 

「所で、あっちについたらどうしようか?」

 

セイウンスカイが今後の予定に水を向けると、視線はスペシャルウィークに集中した。

この旅のメインはスペシャルウィークの帰参である。

夕食の食材用意には余念がなかったスペシャルウィークだが、それ以外はあまり考えていなかった。

 

「えっと……17時くらいには最寄りの駅につくと思うってお母ちゃんに言ってあって、それもスマホで連絡しながらある程度融通利くよー」

「半日ほど時間がありますわね。どうしましょうか」

「スぺちゃん、何かありますか?」

「んー……私も北海道観光で廻った事は無いんだけど……札幌についたら支笏湖でも行ってみる? 私達なら走っていけば一時間もしないで行けるとこ」

 

日本最北の不凍湖として知られる支笏湖。

深度が深く対流が起きやすいその湖面は真冬でもほとんど凍らない。

更にその透明度は摩周湖やバイカル湖にも匹敵する程であり、透き通った美しいカルデラ湖である。

 

「もう少し時期が早かったら、遊覧船とか出てるんだけどねー」

「冬の支笏湖ってライトアップもしているらしいですね」

「オゥ……夜に行ってみたかったネ~」

「まぁ、それは今後機会があればにしておきましょうか」

 

仲間達がそんな会話をしていると、セイウンスカイがさっそく道を検索する。

新千歳空港から車で40分ほどであり、ウマ娘が軽く走るには良い距離かもしれない。

 

「なんか、一周は出来ないんだけどレイクサイドロードのドライブが出来るみたい。其処走ると気持ち良さそうじゃない?」

 

セイウンスカイが提案すると一同が賛成と頷いた。

 

「後こっちに着たら一回ばんえいレースっていうのを見てみたかったんだけど……」

「あ! それワタシも観たいデース」

「なんですのそれ?」

「1ハロンを大きなそりを引いたウマ娘が走るレースだったと思います」

「そり?」

「最大一トンにもなる重いそりです。もう北海道でしかやっていないレースだったと記憶しています」

 

そんなものがあったのかと興味を示すキングヘイローは、隣のセイウンスカイのスマホを覗き込む。

既にセイウンスカイはお嬢様の意に応えてばんえいレースを検索していた。

 

「……これ、幾らウマ娘でも生身で引けますの?」

「それが引けるんだよ。このレースをやってるのは同じウマ娘でも、私達とは起源が違うって言われてる」

「へぇ……」

 

セイウンスカイのスマホでは大型のそりを力強く引くウマ娘の姿が映る。

多くが高い身長としっかりとした体躯の持ち主であり、早く走る事を生業にする自分達とは違うようだ。

しかしコースに配置された坂を、一つ一つ地を踏みしめて踏破していく姿はターフで走るウマ娘達とは違った迫力があった。

 

「あ、今の時期だと薄暮開催だね! 丁度いいかも」

「では、あちらについたら支笏湖まで走る。その後も少し早めに移動してばんえいレース観戦……まぁ、支笏湖から走ると三時間以上かかりそうなんですけど、14時前にはつけるかしら?」

「少し遅いお昼になるね。お母ちゃんにその予定で伝えとくねー」

「あっちでおやつ兼お昼って感じですネ~……砂糖掛けのアメリカンドックとか美味しいのカナ?」

「ご当地グルメは味より風情。是非試してみたいですね」

「グラス、一口頂戴」

「積極的に親友を毒見に使って来ましたね」

「ワタシはカレーラーメンの方行ってみるからサ~」

「良いでしょう。交渉成立です」

 

グラスワンダーとエルコンドルパサーが頷き合った時、到着間近のアナウンスがあった。

北の大地に到着したウマ娘達は、ジュニアCクラス最後の思い出作りに乗り出した。

 

 

 

§

 

 

 

北海道の寒さ対策は関東のそれとは意識が違う。

その為屋内にあってはむしろ関東よりも暖かいほどだが、外は流石に寒かった。

しかしそこは現役競技者たるウマ娘達。

寒ければ走ればいいとばかりに空港を飛び出し、支笏湖へ向かう。

スマホで事前に道を調べたセイウンスカイを先頭に、四人のウマ娘が追走する。

そして人通りの少なさと信号に恵まれた五人組は此処を30分強で走り切った。

 

「ふぅ……寒いくらいの方が走りやすいね」

「先導お疲れ、ウンスちゃん」

「それでは、レイクサイドを軽く流してばんえいレースっ。ばんえいレースに参りましょう!」

「……ヘイローちゃん目の色変わってないデース?」

「気に入ったんでしょうね。次の先導は誰にします?」

 

グラスワンダーの言葉に一同の視線はキングヘイローに集中する。

今すぐにでも十勝方面に走っていきそうな程テンションが高いお嬢様。

頼めば喜んで先頭を走るだろう。

しかし地理不案内の場所で先頭をまかせるには、今の彼女は怖すぎた。

 

「だめデースね」

「ないよね」

「どうしてですのぉ」

「まぁまぁ、此処は下々のわたくし共におまかせをー」

 

不満げなキングヘイローをグラスワンダーがレイクサイドロードに連行する。

残った三人は互いに顔を見合わせたが、セイウンスカイが頭をかいて引き受けた。

エルコンドルパサーは次の先導役が決まると、近くの売店に飛び込んでいく。

 

「それじゃ、私ちょっと休みながら道確認しておくから。スぺちゃんも走ってきて良いよ」

「ん、ありがとうねウンスちゃん」

「へいウンス―」

「来たな。もう日課とは言え君にウンス呼びを許……お?」

 

エルコンドルパサーはうずたかく積み上げられたソフトクリームを差し出した。

 

「お納めくだサーイ」

「おぉ? エルコン屋。おぬしも悪よのう」

「いえいえ、其れではレース場までの案内を……」

「うむ。万事私に任せておいて」

「ははぁ」

 

スペシャルウィークは小芝居を見ながら頬を引きつらせて息を吐く。

観光中に道案内を引き受けてくれた仲間を労うのは良い。

それは大切な事だろう。

この怪鳥は本当にそつなく気を回す。

グラスワンダー以外には。

 

「エルちゃん……そう言う所だよ」

「スぺちゃんどうしたデース?」

「何でもない。エルちゃん競争しよ」

「うん?」

「負けたら帯広レース場内はグラスちゃんと腕組んで歩いてもらうからねよーいどん!」

「は? ……オイ!?」

 

フライング気味に走り出したスペシャルウィークに、五秒程遅れて追いかけ始めたエルコンドルパサー。

 

「……いくらエルちゃんでもアレは無理かな」

 

溶ける心配のないソフトクリームを味わいながら、売店に備え付けられたテーブルの一つを占領したセイウンスカイ。

一時間ほどで仲間達が戻って来た。

その頃にはセイウンスカイも地図検索を終えてルートを頭に入れている。

到着順は案の定最初に出て行ったグラスワンダーとキングヘイロー。

少々遅れて戻って来たスペシャルウィークとエルコンドルパサー。

後着組の二人はかなり息が荒い。

特に遅れを真剣に取り戻そうとしたエルコンドルパサーはレース後よりも疲れている。

 

「それじゃ、此処からまた三時間ほど走るんだけど……エルちゃん平気?」

「……ねぇ、ウンス」

「お、おぅ?」

「ワタシ、勝ったヨ」

「え、マジ?」

 

セイウンスカイは思わずといった風にスペシャルウィークを見る。

スペシャルウィークは心底悔しそうにエルコンドルパサーを睨んでいた。

 

「エルちゃん絶対何かずるしてるっ」

「れ、コース内でしか……手前を変えられないおっ温室育ちが、屋外で……ワタシに勝てると、思わないでネ」

 

肩で息をするほど疲労困憊ではあるが、本当にスペシャルウィークを差し切ったらしいエルコンドルパサー。

チームコメットの特色である魂の手前を自在に変えるすべは、むしろ外を自由に長く走る時こそ強い。

それはレース場では無意識でも殆どのウマ娘がやっている事だ。

しかしそれを何処でも好きにやれるのがコメット独自の色である。

最も決して楽なまくりではなかったらしく、此処から自力で三時間を走り通せそうもなかったが。

 

「はしゃぎ過ぎですよエル」

「意地とプライドにかけて負けるわけには行きませんでしタ」

「……はぁ」

 

グラスワンダーは一つ息を吐いてエルコンドルパサーに寄り添った。

そして有無も言わさずその腕を取って肩を貸す。

 

「このやんちゃ坊主は私が面倒を見ますので、セイウンスカイちゃんは次の目的地へお願いします」

「え、マジでこのまま行くんデース?」

「私の苦労って何だったの?」

「え?」

 

ごっそりと精気を持っていかれた風のエルコンドルパサーとスペシャルウィーク。

意味が分からずきょとんと首を傾げるグラスワンダー。

何となく事情を察したキングヘイローはセイウンスカイとアイコンタクトを交わしていた。

 

「それでは、スペシャルウィークさんは私が肩を貸しましょうか」

「うぅ……ご迷惑をかけますヘイローちゃん」

「それじゃ、話もまとまった事だし移動しようか」

 

時刻は未だ十時前。

セイウンスカイを先頭にしたウマ娘達の一団が北の都市を駆け抜ける。

支笏湖ではしゃぎまわった影響も有り、その移動はやや緩やかなものとなった。

それでも四時間と掛けずに帯広レース場まで走り切ったウマ娘達。

はっきり言えば現役競技者と言えども尋常ではない持久力である。

此処で遅めの昼食にした五人組は先ず食堂に入る。

食券でそれぞれに軽めの注文をした彼女達。

しかしそこはウマ娘の軽めである。

一人二品は基本。

グラスワンダーとスペシャルウィークに至ってはうどん、ラーメン、カレーとメインを一通り注文しながら名物の砂糖掛けアメリカンドックまで食指をのばす。

 

「お夕飯はエルちゃんリクエストの蟹さんをいーっぱい仕入れておいたからねー」

「それはありがたいんですケドー……」

「スペシャルウィークさん、お夕飯は食べられますの?」

「うん? だからここではおやつくらいにしておくつもりだよ。 ねーグラスちゃん」

「そうですね。まぁ此処くらいのメニューでしたら端から全て食べて行っても問題はなさそうなんですが」

 

中央で華やかな活躍をしたウマ娘達が、地方のレース場に集まってB級グルメを楽しんでいる。

最初は所狭しと並べられた料理に二度見した観客たちは、食べているウマ娘を見て三度見する事となる。

冬着を着こんでいるとはいえ、エルコンドルパサーのマスクは相当目立つ。

もしかしたらと思ってみれば、他の四人のウマ娘にも見覚えが出てくるだろう。

周囲が少し騒がしくなる。

最も、五人も五人で賑やかにしていたために気にならなかったが。

 

「ですからっ、やっぱり前目で見たいじゃありませんか! ゴール前のエキサイティングゾーン? 此処での観戦は外せませんわ!」

「始めて来たレースなんデースから、全体を俯瞰して見れた方が良いと思いマース。三階のラウンジ行きまショ!」

「そんな遠くから臨場感を味わえるものですか!」

「近すぎたッテ見れるのは一部じゃないですカ~」

「エルちゃんエルちゃん」

「ん?」

「なんか三階席今日はいっぱいっぽいよ? 重賞やってるみたいだから」

「……わっつ?」

 

うどんをすすりながらギャラリーの一人に本日のレース内容を確認してきたセイウンスカイ。

結局キングヘイローの主張の通り前目で観戦することと相成った。

この後の移動も考えた結果、観ることが出来たのは二レースのみ。

しかし今まで彼女らが走ってきた舞台とはまるで違うこのレースは、まるで未知の迫力があった。

コースに設置された坂を踏破する者が現れるたびに大歓声を送る観客たち。

キングヘイローを初めとする五人組も、熱に当てられたように声を張り上げた。

それはルールが全く世界が違うからこそ、純粋に観客の一部となれたのかもしれない。

観客たちの中にはこの五人が誰だか気づいたものもいたが、声を掛けたものはいなかった。

メジャーな舞台で活躍するウマ娘が、こうして北の地に来て此処でしか見られないレースに喝采を送っている。

それは地元のファンの自尊心を、ささやかながら満足させる光景だったのかもしれない。

それほどに彼女らは、このレースの熱に捕らわれていった。

 

 

 

§

 

 

 

レース場を後にした五人組は電車を使って移動した。

目的地はスペシャルウィークがかつて東京を目指して旅立った駅。

あれから一年と経っていないのだと思い出したスペシャルウィークは、トレセン学園で過ごした濃密な日々に目眩がする思いである。

電車は遅れることなく目的の駅に到着し、スペシャルウィークの母と合流したエルコンドルパサー達。

やや堅苦しいお約束の挨拶を交わしながら、五人のウマ娘と一人の人間が駅を出る。

此処からスペシャルウィークの実家までは車で約三〇分。

何故か当然のようにウマ娘達はスぺ母の軽トラと競争する事となる。

その結果軽々と千切られたウマ娘達は、死屍累々のていでスペシャルウィークの実家にたどり着いた。

 

「……おっかしいなぁ。まーた早くなってるような……」

「なんかさスぺちゃん、あの軽トラ音がおかしかった気がするんだけど?」

「え、そうかな? 私がトレセンに入る前からあんな感じだったけど」

「東京でも軽トラは見かけますけれど、あんな甲高い音は聞いたことがありませんわ」

「……気のせいかもしれないんですけど」

「グラス?」

「昔、マルゼンスキー先輩のお車の隣に乗った時に、あんな音を聞いたような……」

「車種は?」

「さぁ……すーぱーかーっていうらしいんですけど」

「そりゃ絶対ヤバイ奴デース」

 

戦々恐々とスペシャルウィークの実家に入った五人組。

土地が広く家も広い。

ウマ娘が一人、全くストレスを受けずに伸び伸びと暮らせるだけの大きさの家は、個人持ちとしては少し珍しいかもしれない。

 

「あら、いらっしゃい。早かったわねぇ」

「お母ちゃんまた軽トラ弄った? なんか早くなってない?」

「あんたが上京した時と同じだよ。運転は上手くなったけど」

「あ、そっちか」

 

和気あいあいと親子の会話を始める二人。

それを見つめる四人も、お邪魔しますと上がり込む。

 

「お母さんちょっと聞いていいデース?」

「なんだいエルちゃん?」

「あの軽トラ……どれくらい改造したんデース?」

「えっと……ちょっとしたスポーツカーなら二つ三つ買えるくらいかねぇ」

「はぁ!?」

「弄っていくうちになんか楽しくなっちゃってさー。ウマ娘って早くなるっていうし、スぺの為に置いて行かれない様にしなきゃねって」

「置いていかれるどころか、私お母ちゃんの前走れたことないよ……」

「血の代わりにガソリンが流れてるウマ娘って表現は聞いたことあるけどさぁ」

「スぺちゃん、アレは勝っちゃいけない奴だと思います」

 

悔し気に呻くスペシャルウィークに突っ込んだのはセイウンスカイとグラスワンダー。

エルコンドルパサーとキングヘイローは、スペシャルウィークというウマ娘が規格外に育っていった過程を見ているようで身震いする。

 

「このお母さまあってこのスペシャルウィークさんが生まれたわけですね」

「似てますよネ~」

 

案内された居間で過ごす五人組。

奥からはスぺ母が台所で夕食の用意に勤しんでいる。

一応手伝いを申し出たが、何が何処にあるかも分からない現場では足を引っ張る事必至であった。

やんわりとスペシャルウィークの相手をしている事を申しつけられたウマ娘達は、その好意に甘えてくつろいでいた。

 

「スぺちゃんの家広いデース」

「確かに結構広いかもしれない……裏山とかで特訓出来たくらいだし」

「裏山があるんだ?」

「うん。山ってかちょっとした森みたいなところだけどねー」

 

そんな話をしている所に声が掛かり、遂に夕食が始まった。

焼きガニ、カニしゃぶ、カニ鍋といったメインに加え、新鮮な食材を様々に取りそろえた料理が所狭しと並んでいる。

焼き物、蒸し物、揚げ物、煮物。

様々なラインナップからなる食材を様々な方法で調理した一品達。

スペシャルウィークをのぞくウマ娘達が恐々とスぺ母を見れば、どんなもんだと胸を張る姿があった。

 

「これを……お一人で?」

「仕込み自体は昨日からやってたけどねぇ……大方は今日中にやってたよ。鮮度が大事だしね」

「スッゲー……デース!」

「あっはっは。たーんとおあがり」

「それでは、スペシャルウィークさんに乾杯の音頭をいただきますか」

「ふぇ!?」

 

最早頭の八割をカニに支配されていたスペシャルウィーク。

唐突に降られたお勤めに、多少迷走しながらも挨拶をこなす。

それはこの場にいるもの。

そしていないもの。

その他多くのモノに対する感謝の言葉。

スペシャルウィークがこの一年を総括する言葉があるとすれば、それは感謝しかありえなかった。

最後に母と、此処に集った友人達にもう一度お礼で締めくくられた。

 

「乾杯!」

 

今期のダービーウマ娘の音頭によってついに始まる帰郷の宴。

ウマ娘五人と人間一人。

その胃袋を満たしてなお余りある大量の海と山の幸。

美味しいものをお腹いっぱい食べることが出来れば、それは幸せだろう。

それを気の合う仲間や家族と食べることが出来れば、もっと幸せだろう。

此処にあるのは可視化し、実体化した幸せそのものだったのかもしれない。

 

スペシャルウィーク母子が笑っていた。

セイウンスカイが笑っていた。

キングヘイローが笑っていた。

グラスワンダーが笑っていた。

だからきっと、エルコンドルパサーも笑っていた。

彼女らにとって心から楽しく、安らげた一夜はこうしてふけていった。

 

 

 

§

 

 

 

恐るべきはウマ娘達の胃袋か。

宴の始まりでは食べきれるかも分からぬと思われた食材の山は、殆ど綺麗に平らげられた。

主な内訳はグラスワンダーとスペシャルウィークが半分。

残り四人で半分といったところだろうか。

海産物を消費する事によって大量に出る生ごみの仕分けも終わり、今日はもう休むだけ。

そこでグラスワンダーはエルコンドルパサーを連れ出した。

場所はスペシャルウィークから聞いた、裏山のような近所の森。

幼い頃のスペシャルウィークが行き来していただけあり、家からそれほど離れていない。

 

「冷えますね。エルは、寒くないですか?」

「もう! そこはワタシに先に心配させてくださいヨ~」

「ふふ、ごめんなさい」

 

ウマ娘にはある程度の帰巣本能めいた方向感覚がある。

多少奥に踏み入ったとしても戻れるだろうが、其処まで深入りする心算もない。

ただグラスワンダーには、どうしても二人で話しておきたい事があった。

スペシャルウィークは心配しているようだが、多少自分達の仲を誤解している所もある。

互いにとって互いが一番。

これは二人の間では揺るぎようのない部分であった。

そんな想いに支えられもしたし、足を引っ張られた事もあった。

それでも此処までやって来たのだ。

 

「ねぇエル?」

「んー?」

「もう大分前かもしれませんが……貴女がチーム荒らしをしていた頃の事を、覚えていますか?」

「あっはっはー……そりゃ、覚えてマース」

「あれが、スぺちゃんの来る少し前で……」

「……グラスが、その頃骨折したんだよネ」

「そうですね……そんな事もありました」

 

思い返せば苦い事も蘇る春の事。

エルコンドルパサーは一つの夢を諦め、自分の未来を託す先を当てもなく探していた。

その努力は正しく報われ、良いチームと巡り会えたと思っている。

後ろ髪を引かれる思いを振り切る心算でひたすら前を向いて進んできた怪鳥。

そんなエルコンドルパサーが知らない事があった。

 

「あの頃の私は、なんだかんだ言ってもエルとはこの先もずっと一緒なんだろうなって。そんな風に思っていました」

「んー……ワタシ、真剣にチーム探してましたけどネ~」

「知っています。その上で、私は落とし穴を仕掛けて待ち構えていたんですよ。エルが来るのを」

「おぉ?」

 

グラスワンダーには当時背反した思いがあった。

何時までもチームを決めない親友への心配と、未だこの怪鳥がどの星の下にもついていない事への安堵。

そんな思いの果てに動き始めた、エルコンドルパサーの囲い込み。

決して強引に進めていたわけではない。

当人に知られぬように、リギルのチームメイトやトレーナーにその将来性を売り込んだだけ。

だからこそ時間はかかったし、その期間中にエルコンドルパサーが何かに拘束される事もなかった。

当時のグラスワンダーは、それで十分だと思っていたのだ。

 

「グラスがワタシを……」

「ええ……今でもたまに言われますよ? お前の言った通り、エルコンドルパサーは取るべきだったって」

「それは光栄デース」

「本当は、スぺちゃんが入った選考レースがエルのテストになる筈だったんです」

「うわぁ……それ、本当にタッチの差ですネ~」

「はい。あと少しでした」

 

エルコンドルパサーはかつて校舎裏でスペシャルウィークと夢の残滓を語った事がある。

たった数日の差で叶わなかった夢。

そして此処にも、ほんの数日の差で叶わなかった願いがあった。

グラスワンダーもエルコンドルパサーも、気づかないままにすれ違った互いを思って息を吐く。

エルコンドルパサーにはチームコメットへの不満など何もない。

グラスワンダーもスペシャルウィークがリギルに来たことを心から喜んでいる。

それでも実現しなかった可能性を思えば哀惜も生まれるものだ。

それは理性とは全く別の領域の話である。

 

「外堀が埋まって、後はエルが来るだけですよ……そうなれば、あっさり来てくれるだろうなー……って。そんな風に思っていました」

「……リギルの門が開いてれば、行ったろうネ」

「そうでしょう。私だってエルの為にって……そう思って動いていたんですよ?」

「……」

「だけどきっと……エルもそう思ってくれていたんですね」

「……」

「エルがチームを決めた日、初めて私にも語ってくれた貴女の夢……」

「……」

「終わってしまった後になって、初めて私に明かした夢の話。ねぇエル、私……自惚れても良いですか」

「……」

 

二人は向き合ったまま、視線を合わせたままに時が止まったように見つめ合った。

森の木々を風が凪ぐ音が響く空間。

其処に互いの息つく音が妙にうるさく聞こえていた。

 

「スぺちゃんには振られちゃったんですよネ~」

「そんなわけないじゃないですか」

「……知ってる。だけどワタシは気づいちゃ駄目なの。スぺちゃんが歯を食いしばって突き放してくれたんだから」

「……」

「その上でグラスにも聞くけどサー……グラスは、私が誘えば来てくれた?」

「行きました」

「……デスヨネー」

「……だから、私には言えなかったんですよね」

「うん、まぁね。朝日杯取ったグラスをチームの体裁も整ってない所に引き抜くとか、それはやっちゃ駄目なんじゃないかって」

「それで、私を守った心算だったんですよね」

「……うん」

「ヘタレ」

「何とでもいいなヨ」

「意気地なし」

「むぐぅ……」

 

一言目を流そうとして失敗したエルコンドルパサーが、二言目で早くもダメージに耐えかね出した。

グラスワンダーもエルコンドルパサーも、双方に正解など分からない事で互いの傷をえぐり合っている。

一つだけはっきりしている事は、この二人はお互いが大切過ぎた。

意識してある程度距離を取らなければ危険な程、相手の要求を無抵抗に通してしまう。

グラスワンダーはエルコンドルパサーの仮定の望みに即答した。

そうなった時に得るモノは架空の話だが、失うものははっきりしている。

リギルで培った縁の全て。

それと引き換えてでも、この怪鳥に望まれれば応えてしまう。

だからこそエルコンドルパサーも話せなかった事には、当然グラスワンダーも気づいていた。

 

「エル」

「ん?」

「フランスには、何時出発するんですか?」

 

そして逆もまた然り。

グラスワンダーがエルコンドルパサーに望まれれば応えるように、エルコンドルパサーもグラスワンダーに望まれれば応えるだろう。

菊花賞の時のような、出来れば一緒になどという可愛らしいおねだりなどではない。

それがどうしても必要な程に魂が渇望の声を上げた時、きっとお互いは拒否しない。

だからこそ二人は寄り添いながらも別方向を向き、それを口に乗せる時には臆病なまでに吟味した。

そうやって此処まで歩いてきたのが自分達なのだから。

 

「あっちの雪解けを待って……その前にも何回かは顔合わせに行くんだけど……こっちの春路線が始まるころには……」

 

エルコンドルパサーがコメットに入る事を決めた瞬間。

その場に居合わせたグラスワンダーは心の中で叫んでいた。

行かないでと。

決してその音が空気を振るわせることは無かったけれど。

それは確かにグラスワンダーが喉を張り裂けんばかりに叫びたかった本音だった。

今この時……

嘗て言えなかった行かないでを、此処で言ったらどうなるだろうか。

グラスワンダーはその言葉が秘めた恐るべき可能性に戦慄する。

同時に仄暗い歓喜もあった。

その誘惑に負けた時こそ、自分達がお互い以外の全てを失う時だろう。

それでもいいかと嗤う自分がいる。

それだけは出来ないと吠える自分がいる。

 

(結局私もエルと同じ……へたれで、意気地なし)

 

あの時と同じ言葉を、グラスワンダーはもう一度飲み込んだ。

一緒に来いと言えなかったエルコンドルパサー。

行かないでと言えなかったグラスワンダー。

最後までエルコンドルパサーがグラスワンダーを夢に巻き込めなかったように、グラスワンダーもエルコンドルパサーに願えなかった。

しかしグラスワンダーには俯いて泣き崩れるような可愛げはない。

飲み込んだ言葉は形を変えて、その口をついて音になる。

グラスワンダーは双眸に青い炎を称えて親友と向き合った。

 

「もう一度、私と勝負してください」

「……」

「どんな場所でも、どんな条件でも、エルの示す舞台で挑みます」

「……」

「お願いします。私に、ちゃんと納得させてくださいっ」

 

エルコンドルパサーはグラスワンダーから放たれた言葉の意味を噛み締める。

既に毎日王冠で直接勝っている相手からの挑戦。

それは本来余計なローテーションであり、不必要な行程だった。

勝ったとしてもエルコンドルパサーが得るものは感情面にしかなく、負ければ現在自分にとって最大の商品価値である無敗という称号を失うのだ。

それはあまりにも不公平な挑戦。

リスクとリターンを比べれば、エルコンドルパサーが受ける必要はない話。

それでもエルコンドルパサーは分かってしまう。

この申し出が相手の優しさだという事に。

双方が望めば簡単に相手を破滅させられる。

そんなカードを握り合った相手がだした、最大限の譲歩が此処だった。

エルコンドルパサーは真っすぐ自分を射抜く瞳を見据え返す。

その小さな身体が震えている事に気づいた時、包むように抱きしめていた。

 

「……四月一週。右回り2000……大阪杯」

「……」

「其処を、私達の約束にしよう」

「……うん」

「最高のワタシで迎え撃つから、一番強いグラスを見せて」

「……ん」

 

おずおずと手をのばし、エルコンドルパサーを抱き返すグラスワンダー。

これほどはっきり触れ合ったのは、もしかしたら初めての事だったかもしれない

しかし二人の間にあるのは高揚よりも寂寥であり、もしかしたら恐怖であった。

この約束こそ二人が交わる最後の場所になるのではないか。

一度芽生えた不安は膨らみ、二人の心に影を落とす。

その不吉な予感に抗うように、互いを強く抱きしめていた。

 

 

 

§

 

 

 

これは夢だと、不思議に思うことなくセイウンスカイは受け入れた。

見た事もない場所を走っている自分。

視界は広く拓けているが、不思議と前が見えづらい。

それでも特に苦労する事もなく、夢中で走る自分自身。

夢の中だと分かっているから、特に何をするでもない。

走っている夢を見ているなら、起きるまで待てばいい。

セイウンスカイははっきりと現実の記憶を持っている。

スペシャルウィークの帰省に同行し、北海道を観光した。

支笏湖もばんえいレースも、気の合う仲間と廻った旅は楽しかった。

そして彼女の実家に泊ったはずだ。

最後にスペシャルウィークと春の天皇賞で再戦を約束して就寝した。

 

(偶にあるんだけどね……何処なんだろう此処)

 

セイウンスカイは今、自分の身体がどうなっているのか分からなかった。

何時もと目線の高さが違う。

バ蹄が奏でるリズムも違う。

徹底して其処を揃えて来たセイウンスカイはやや不快気に感じる。

しかし夢の中の自分は特に気にするでもなく走っている。

ふと意識を周囲に送れば、後ろから追いかけてくるナニかがいた。

 

(なんだ、あんたか)

 

それはセイウンスカイの心のどこかに棲む葦毛のナニか。

その時セイウンスカイは此処が何時も彼と会う、牧場のような場所だと気づいた。

声を掛けようとしたセイウンスカイだが、夢の中の身体は嘶きしか発せない。

 

(なんなのさ……)

 

葦毛のナニかはセイウンスカイの隣に並ぶと、一度ちらりとこちらをみた。

そして三歩ほど行き過ぎ、またセイウンスカイを振り返る。

ついて来いと言われた気がした。

葦毛のナニかが走り出す。

最初はやや緩やかに。

そしてセイウンスカイがついてきたことを確認すると徐々に速度をつり上げる。

 

(そう言えば、柵の内側に入ったのは初めてな気がする)

 

四つ足で走る見た事もない動物を追ううちに、セイウンスカイはそんなことに気が付いた。

しかしすぐにそんな思考に割く余力がなくなっていく。

葦毛のナニかはセイウンスカイが全速力を振り絞っても簡単には追いつけない。

その姿は早く、そして最高に格好良かった。

自分もあんな風に走れたら……

そう意識したセイウンスカイの脚が伸びやかに地を蹴った。

 

(もう少し……あと少しっ)

 

一完歩、二完歩と少しずつ葦毛のナニかに肉薄していく。

一バ身の差が半バ身……やがて遂に首差まで詰めた時、頭の中で声が聞こえた。

 

《早いじゃないか。若いのに》

(え?)

 

聞いた事の無い声だった。

しかし此処には二人しかいない。

セイウンスカイに声を掛ける者がいるとすれば、隣を走る彼だけの筈。

 

(あんた喋れたわけ?)

《喋っているわけじゃないよ。思っているだけさ》

(まぁ、意思の疎通が取れるんなら会話でも念話でも良いんだけど)

《私の方こそ驚いたね。君は、私の声が聞けるのかい?》

(……そうだと良いね。これが私の頭の中の一人相撲だったら目も当てられない)

《そりゃそうだね》

 

そう言って彼は笑った気がした。

そして一つ息を吐き、脚の捌きを切り替える。

突如加速した葦毛がセイウンスカイを再び引き離す。

 

(早い……)

 

感嘆しながらも走り続けるセイウンスカイ。

しかし今度は追いつけない。

一バ身程離された所で必死に距離をキープする。

 

《なぁ、セイウンスカイ》

(なにさ?)

《身体は、何処か痛くないか?》

(大丈夫だけど)

《そうか》

 

その葦毛は前を駆けながら振り向きもせず訪ねてくる。

 

《なぁ、セイウンスカイ》

(だからなにさ?)

《走る事は楽しいか?》

(……楽しいよ)

《そうか》

 

次第に息が上がり、脚を使うのが辛くなる。

苦しいと思った時、セイウンスカイは身体が意思に反して動いた。

前を征く彼がやったように脚捌きが切り替わる。

呼吸は相変わらずだが、脚は少し楽になった。

 

《なぁ、セイウンスカイ》

(……)

《負けるなよ》

(……何にさ?)

《お前自身にさ》

 

それはいったいどういう事か。

尋ねようとしたとき、前を走る彼は見えなくなった。

そう言えばこれは夢だったと、今更ながらに思い出す。

身体に色濃い疲労を残したまま牧場の景色が歪んでいく。

目覚めの時が近いのかと身構えながら瞳を閉じたセイウンスカイ。

しかし閉じた筈の瞳は相変わらず歪んだ景色を映し出す。

瞳を閉じても、開いても、セイウンスカイの視界が変わらない。

やがて歪みは収束し、一つの景色に切り替わる。

 

(ん……?)

 

良く分からない場所だが、遠く離れた先には葦毛の彼がいる。

その傍には見慣れない車があった。

現実のセイウンスカイも見た事のない車がある。

其処から降りた人間が二人、彼を車の荷台に誘導した。

セイウンスカイはその光景が非常に嫌なものに見えた。

すぐに駆け付けて引き離すべきだと思うのに、こんな時だけ足が動かない。

 

《なぁ、セイウンスカイ》

「……」

《頑張れよ》

 

最後にそんな声を聴いた。

やがて車は葦毛を乗せて動き出す。

そこでセイウンスカイは跳び起きた。

 

「え……あ……」

 

視界に写るのは最後に見たスペシャルウィークの実家。

まだ早朝らしく東の空にすら光が無い。

全身に滝のような冷や汗が噴き出していた。

不快気に額を腕で拭ったセイウンスカイ。

その時、髪すら絞れるほど汗を吸っている事に気が付いた。

とてもではないが二度寝など出来そうな状況ではない。

 

「……」

 

セイウンスカイは馴染みの薄い二重窓を少しだけ開けた。

冬の寒気に冷やされた風が体温を奪う。

汗はやがて引いていった。

しかし何時まで経っても頬だけは乾かない。

その時彼女はようやく自分が泣いている事に気が付いた。

 

「なんだってのさ……」

 

セイウンスカイはどうして自分が泣いているのか分からない。

原因が分からないのだから、涙の止め方も分からなかった。

感情が整理出来ない自分自身に苛立つセイウンスカイ。

あふれる涙をぬぐった時、ようやく空が明るみだした。

徐々に朝焼けが広がる空が一日の始まりを告げている。

セイウンスカイは自分自身が失ったものに未だ気づかぬまま、惰性に押されて日常の中に戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




此処まで御付き合いくださりありがとうございました。
アニメ終了から約半年……長かったようで短い時間でございます。
アプリ実装までは自分の作品でウマ娘ロスを満たそうと思った挙句が約26万字……
精も根も尽き果てましたorz
休養が必要ですね
99シーズンも構想はありますが、文字に起こし切れるとは思えないので此処で完結といたします
よろしければ、皆さまの思い描く98世代の物語を見せてくださるとうれしいです
それでは、アプリが実装されたらゲームでお会いしましょう!
ノシ


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