竜守ノ君 (浜西幻想)
しおりを挟む

一話 黒き兆し

 ――古き神話の言い伝え――

 

 この世には神ノ御遣いとして敬われ、畏れられる存在がいる。

 それを人々は『竜』と呼んだ。

 『竜』は天上の神々が地上に遣わした、尊ぶべき生き物であり、同時に触れてはいけない禁忌である。だが――。

 かつて、はるかな昔、決して人が立ち入ってはならない領域に触れた愚か者たちがいた。

 彼らは〈禍ノ民〉と名付けられ、ほとんどの者たちから忌み嫌われた。

 禁忌に手を掛けたことにより、人々は未曾有の大戦を始めてしまう。

 人の目に余る非道な振る舞いに、天上の神は怒り、人へ罰を与えるよう『竜』へと言いつけた。『竜』たちは、神からの命を執行すべく、大地に生きる人々へと襲いかかる。

 絶望する人間へ、神は慈悲の心をもって、試練を課した。

 神は自らが作り出した八本の槍を八人の若者へ授け、一人の男へ、騒乱を納めるよう言い渡した。

 八人の若者は、天命を受けた一人の男に付き従い、戦いを終わらせ、国を平和へと導いた。

 神の怒りは戦いが終わったことにより収まり『竜』もまた鎮まった。

 男は人々から畏敬と感謝の念を送られ、長となり、国を導く帝となった。

 八本の槍を送られた若者を帝は〈八竜槍〉と名付け、自身が絶対の信頼を置くものとして傍においた。

 

 だが、禁忌を侵した者たち――〈禍ノ民〉の行方は、誰も知らない。

 

 

 

 平和な時代であった。戦争は、残酷な記憶が薄れるほど昔に終わりを告げた。戦い合っていた氏族が集まり、タルカ皇国という形を成したあとは、戦乱の影はなく人は飢餓に襲われずに繁栄を享受できていた。一部が恵みを受け取りすぎであると批判する者もいたが、それでも口論に収まる範囲であり、武力でもって事を為す時代は、すでに終わったのである。

 しかし、戦争が顔を出さずとも完全に争いは消えず、それゆえ国を護るための軍人が消滅しないのも道理であった。水面下で彼らは、災いの火種を消していたのである。

 皇国には槍士と名付けられた職業軍人がおり、神話になぞらえて作られた役職に就く彼らは、各々から敬われていた。国に住まう人々にとって、『槍』を持つことは一種の権威を得ると等しい。槍士になるのは容易な道程ではないからだ。

 そして、槍士の中で、皇国の現在に至るまで神話が息づいている存在がいる。――〈八竜槍〉と、初代帝から名づけられた者たちであった。彼らは〈竜槍〉を振るう一騎当千の槍士であり、皇国の軍事的象徴である。

 〈八竜槍〉は皇都を守る役目を負い、また各地の領主を監視目的で定期的に視察に赴いていた。

 事の起こりは、領主の館に招かれていた〈八竜槍〉のひとりの元に、襲撃を知らせる伝書鳩が飛び込んで来たことだ。大異変が、始まったのである。

 

 小高い丘の上には、夕焼雲が伸びていた。赤い空は、あと数刻もしない内に、夜空へと顔を変えるだろう。丘の草花が赤く映し出される中、十数人の武装した武人達が、馬に乗って駆けて来た。部隊は、丘の上で一斉にびたりと停止する。

 その先頭。真っ白な槍を手に持つ武人――ガジンは、眼下にある砦を注意深く観察した。

 

「どう思う、クウロ」

 

 隣に馬を止めていた副官に、ガジンは尋ねた。

 

「ここまで漂ってきますよ。――とんでもねェ、血と臓物……死体の臭い」

 

 クウロは、風に乗ってくる酷い臭いに、鼻を押さえた。事の起こりは、砦から襲撃を知らせる伝書鳩が、近くの領主の館に飛んで来たからだ。

 偶々、視察に来ていたガジンは彼らの援軍を買って出たのである。

 ガジンは、目を凝らして破壊されている砦の入り口を見た。おびただしい血と、人であった肉塊がいくつも落ちている。入り口付近に生えている青々とした雑草は、浴びた血液によって赤黒く変わっていた。

 

「大将、一体、誰がこんなひでェことを」

 

 クウロの禿頭が、怒りで朱色に変る。ガジンは、彼のあごに生えている無精ひげがいつもより上を向いている気がした。

 

「……わからん。わからんが――人の所業とは思えぬ」

 

 砦の外の死体は、見える限りでも体中を切り裂かれバラバラにされている。五体が繋がっている骸が一つも無い。

 異常すぎる。たとえ、大規模な野党が砦を襲ったのだとしても、人をあそこまで損傷させるのは、それだけで手間がかかる。とてもではないが、盗賊などの仕業とは思えなかった。

 

「獣、ですかね?」

「それはなかろう」

 

 件の砦は、戦などに使われるものではない。皇国の民が、ここから先に進まないよう見張る、監視砦だ。通常の砦と比べれば、装備や設備は貧相なものである。しかし、粗末ではない。城門は獣が爪を立てた程度で壊れるほど、やわな作りをしていない。周囲を囲う砦柵は、深くまで打ち付けられ、重く、太い丸太を使用している。高さも、人や獣が飛び越えられるものではない。

 

「砦の城門を突破し、百人を超える人間を逃がさず殺し尽す獣は、国にいるか?」

「いえ、いませんね。結局、行ってみないことには何もわからんってなもんですが――大将、馬が怯えて、進んでくれませんぜ。どうします?」

 

 馬の眼には、恐怖がありありと浮かびあがっている。

 軍事用に調練された馬は、いかなる時でも正常に走行できるよう訓練されている。

 そんな馬達が、騎手の命に背いて丘から進もうとしない。彼らの本能が、ここから先に行くことを強引に止めているようだった。

 

「仕方があるまい。徒歩で行くぞ。半数はここに残り、馬を見ていろ。砦内で何かがあった時、すぐに援軍を呼べ。いいな」

 

 部下達は、緊張した面持ちで頷いた。それから、ガジンはクウロに部隊分けをさせ、数人を率いて、徒歩で丘を下った。

 

「っう……」

 

 砦に近付くと、部下の一人があまりの臭いに鼻を押さえた。金臭さ、糞尿、臓物、様々な悪臭が混じり合って、余計に臭いを激しくさせている。

 砦の外にある死体は、逃げている最中に背中から襲われたのか、うつ伏せになって倒れている。外部の様相から内部の状況を予想しつつ、武人達は足を進めた。

 やがて、砦の門前に着くと激臭は酷さを増した。ガジンも、我慢強さには多少なりとも自信があった方だが、これはたまらなかった。

 

「行くぞ」

 

 躊躇していた部下の背を押すように、ガジンは砦の門を潜り、中へと入った。

 本来、砦は強固な門によって閉じられているはすだが、完膚なきまでに叩き壊されていた。そのため、侵入するのは簡単であった。

 そして、砦内部が、皆の前に姿をあらわした。革鎧に身を包み、物々しい数人からなる部隊の全員は、例外なく顔を青くさせられた。

 砦の中は、思わず顔を覆いたくなる、むごたらしい光景が広がっている。

 

「こいつァ……酷い、何てもんじゃねェ――地獄だ」

 

 四方八方、赤く、死で塗りつぶされている。赤の中に少量、白、黄ばんだ色が含まれていた。目玉や脂肪、内臓が至るところに飛び散っている。足を一歩踏み出せば、人体の何かを踏みつけてしまいそうだった。

 

「やはり、野盗の類ではない。……人ならば、このようなむごい真似ができようはずがないッ」

 

 臭いも忘れさせる激しい怒りが、ガジンの内に迸った。荒波のように周囲の物を押しのける怒りは、部隊の武人達を怯えさせるに十分だった。

 

「大将、こいつァ、〈禍ノ民〉の仕業なんでしょうか」

 

 クウロが、顔をしかめながら言った。

 

「滅多なことを言うな、クウロ」

 

 ガジンは、彼の言った内容を咎めた。

 〈禍ノ民〉――それは大罪人の名称だ。人々が、国という枠組みを作る以前、禁忌の業を広め、周囲に大混乱をもたらしたのである。

 彼らの一族は、全員が青い瞳をしており、〈青眼〉と呼ばれる。現在でも、どこかに潜んで暮らし、人の世を脅かす計画を企てているという。

 だが、そんなものは迷信に過ぎない。遥か昔、建国以前の神話だ。事実、〈青眼〉をした者達を、ガジンは一度も見たことがない。

 

「……ともかく、これ以上犠牲を増やすわけにはいかん」

「言われるまでもねェ。――指示を」

 

 クウロの視線の先には、バラバラに引き裂かれ、喰い散らかされた死体が散乱している。

 

「領主へ連絡。人員をこちらに寄越してもらえ。一刻も早く、現状を打破しなければ、ここと同じことが何度も起きる。他の者達は、調査を開始しろ、慎重にな」

 

 槍を握り締める手に、力が入る。……死体の中には、親しかった友人も混じっていた。

 血液が凍ってしまいそうな、深く暗い想いが、ガジンの心を抉った。

 元々、砦への援軍を買って出たのは、友人を救うためだった。

 ここは、人が監視砦より先に進まないための場所でもあり、ある生き物の動向を見る施設だ。ここに駐屯する兵は、交代制で、月毎に変る。その中に、ガジンの友人はいたのだ。

 深呼吸し、精神を落ち着け、涙を抑える。部隊の長が取り乱せば、動揺は周囲に波紋のように広がってしまう。部下の命を預かっている身で、感情の赴くままに行動することは、決してしてはならない。

 

「よォし、お前ら、散れ散れッ! 何か見つけたら、すぐ大将のところに来いよ」

 

 クウロの号令で、部下達は恐る恐るといった足取りで、砦を詳しく調べるべく、散開した。

 

「……大将、今は、俺しかいませんぜ」

 

 副官の気遣いに、ガジンは感謝した。頬に涙が一筋、描かれた。

 それから、間もなくして、砦の奥の方で、大声があがった。

 

「生存者がいるぞッ!!!」

 

 ガジンはクウロと顔を合わせると、すぐに声のした方向へ走った。

 声は、砦の門からすこし離れたところから聞こえてきた。そこは、大きな兵舎が四つ、小さい小屋が一つ並んでいた。兵が寝食をする生活空間は、とても言い表せない酷い有様だ。小さい方は、備蓄などをしておくための蔵である。こちらは被害を受けていない。このことからも、野盗の類ではないのは確実だろう。

 ガジンは走って行く最中、奇妙なことに気がついた。

 兵舎近くにあった馬小屋の窓から、ちらっと、縄に繋がれた馬達が見えたのだ。

 無差別な殺戮が繰り広げられた中、蔵と同じように被害を受けていない。

 そう、まるで。

 

(まるで――人だけを狙ったかのような……)

 

 ざわり……と、背筋に走った冷たさに、腹の底が浮いた気がした。

 馬鹿な妄想と恐怖を振り払って、ガジンは走ることに集中する。

 四つあった内の、一番外側の兵舎に入る。無残な光景が、嫌でも目に映った。

 

「ガジン様、こちらです」

 

 部下が兵舎の奥で声をあげた。ガジンはそちらに足を向ける。

 そこは、どうやら厨房のようで、いくつもの竈があった。ここで兵達の食事を作っていたのだろう。調理器具は嵐か地崩れにでもあったかのように散らばっていた。

 生存者は、厨房の角で頭を抱えて丸くなっていた。全身をがたがたと震わせている。彼だけは、いまだに惨劇の渦中にいるかのようだった。

 

「事情を聞いたか」

「いえ、その、それが……」

 

 歯切れの悪い部下の態度に、ガジンとクウロは訝しがる。

 

「その者の、眼を、見てください」

 

 部下に言われるまま、二人は震え続けている生存者の眼を見た。

 二人は驚愕する。生存者の眼。その瞳の色が、青かったのだ。

 

「〈青眼〉……」

 

 恐慌状態に陥っている、若い男は何も言わない。恐怖のあまり、口を開けないのだ。

 

「……この者に手当を。丁重に扱え、何があったか、聞き出さねば」

「が、ガジン様……もしや、この者が砦を?」

「馬鹿言うんじゃねェよ。こいつが砦を襲わせたんなら、どうしてこんなにビクビクしてる? ちょいと理屈に合わねェ。――いや、さっき〈禍ノ民〉の仕業じゃねェかと言ったのは、俺なんだが」

 

 クウロは、冷静に情報を集めて、結論を出していた。確かに、彼の言う通りである。

 

「外へ連れて行ってやれ。この者にとって、ここに居続けるのは、辛かろう」

 

 生存者を発見した部下が、〈青眼〉の男に肩を貸して、砦の外へと連れて行った。

 

「細い糸ですなァ。情報源は、〈青眼〉の男だけですかい」

「だが、貴重だ。これだけの惨事。単独の犯行ではあるまい」

「だからといって、この辺りじゃ、野盗が出たとかいう報告はあがってきていない。難儀な事件ですぜ」

「現場を詳しく調べれば、手掛かりの一つや二つ、出てこよう」

「だといいんですが」

 

 血みどろの砦に、何が起こったのか。誰に、友人は殺されたのか。何故〈青眼〉の男だけが生き残ったのか。謎は尽きない。

 ガジンは、兵舎内に充満する臭いから逃れるように、厨房の窓から外を見た。

 そろそろ陽が落ちる。暗くなっては、なにを踏みつけるかわかったものではない。臭いにたまりかねて、外に出ようと足を動かし――こつっと、何かが爪先に当たって、音を立てた。

 

「これは……」

 

 ――笛……警笛、か?

 色は白く、手に持った槍と、質感が似ている。稲妻に打たれたかのような、予感が駆ける。

 

「まさか……」

 

 ガジンが持つ槍――〈竜槍〉が掌に熱を伝えてくる。正解だ、と告げられている気がした。

 窓から差し込んで来る淡い夕日が、槍と笛を照らす。

 空は、赤から黒へ、姿を変えようとしていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ニ話 襲撃者

 夜、春の生暖かい風が、天幕を通り抜けて揺らして行った。外では槍士たちが、生き返ったように動き回り野営の準備を進めている。その働きぶりの裏には、夕暮れ時に見た、惨たらしい光景を思い出さないために動いているようにも見えた。

 野営地には、何個もの篝火が灯され、暗闇を払い、部隊の人間の顔を浮かびあがらせている。屈強な彼らが発する覇気が、今夜に限ってはなりを潜めてしまっていた。

 

(やはり、皆、心中穏やかではいられないか)

 

 天幕から、ちらりと見える部下たちの表情を観察して、ガジンは苦笑してしまった。

 ――平常心を保っていられていないのは、私も同じだ。

 親友の死。あまりに理不尽にすぎた死に様だった。八つ裂きにされた友の死に顔が蘇りそうになる。

 

「大将、そろそろ飯ですぜ」

 

 クウロが、天幕の中へ入ってきた。両手には今夜の料理が入った椀を持っている。

 

「そこに置いておいてくれ」

「へい、了解しやした」

 

 会議をするための机の上に、椀を置いて、クウロは椅子に座った。

 

「飯がのどを通らんってな奴もいましたが、いいからかっ込めと命じておきやした」

「しょうがあるまい。責めることはできんさ」

「ですなァ……〈青眼〉の男ですが、まだまともに喋れんです。医術の心得がある奴が言うには、心が駄目かもしれんと。薬を使わねェと、元に戻らんそうで」

「結局、皇都に戻って薬を処方してもらうしかないか」

 

 心に強く作用する薬は、風邪薬のように容易く手に入る代物ではないため、急ぎ戻るしかなかった。

 

「飯は食わせてきやした。腹ァいっぱいになったら、すぐ寝ちまいましたけど」

「誰であれ、あのような殺戮の渦中にいれば、正気を失おう。腹が満たされ、緊張の糸が切れたのだ。起こさずにおいてやれ」

「へい。――――ラカンの奴ァ、死んじまいやしたね」

「……ああ、そうだな」

 

 この会話以降、二人は無言だった。ガジンにとって、この沈黙こそが、亡き友へ捧げる悲しみと祈りのように思えてならなかった。

 

 

「おかわりだな」

 

 槍士のひとりが言うと、その場を立った。

 

「よく、食えるな、あんなものを見たあとで……」

 

 焚火の周りで休憩している槍士たちは、中々食べる早さがあがらず、一口運ぶごとに、昼のことを思い出しては閉口していた。

 

「食わんと、力が出ないからな」

 

 言って、焚火から離れて、鍋が置かれている天幕の近くまで歩いた。外に置いてある鍋の中身は、いつもなら大体空っぽになっている中身が、半分以上残っていた。

 

「……ゼツの奴はどこ行ったんだ?」

 

 料理番をしていた青年がいないことに槍士は気づいた。辺りを見回しても、誰もいない。

 陣幕の中心では、焚火を囲んで、槍士が食事をしている。――その他に、うごめく気配を感じ取った。天幕の裏に、なにかがいる。

 腰に佩いた短刀に手を掛け、裏側に回った。

 

「……なにもいない?」

 

 槍士は周囲を感覚と視覚で見渡したが、侵入者らしき影はなかった。夜風が吹いて、陣幕の周囲にある木々の枝を揺らして、音が鳴る。

 それとは別の音が、茂みから聞こえて来た。

 

「――ッ」

 

 短刀を引き抜いた。だが、茂みからひょっこりと顔を出したのは、小さな野兎だった。

 槍士は、安心して、肩から力を抜いて、短刀を鞘に収めた。

 

「まったく……この子兎め。人を脅かすと、取って食っちまうぞ」

 

 しかし、ゼツはどこに行ったのだろう。――そう思っていた矢先、いきなり後ろから衝撃が来た。うなじ辺りを打たれたのだ、と感じた時には、すでに遅く、地面に倒れ伏していた。

 誰かが倒れる音が、次々と夜に響いてきた。

 

(な、に、が……)

 

 複数の足音が聞こえたのを皮切りに、槍士の意識は、一気に闇へと引き込まれて行った。

 

 

 

 

 外の異変に気がついたのは、ガジンが先だった。

 ガジンは即座に立てかけてある槍を手に持ち、クウロに目配せで合図をして、天幕を駆け出た。外では、ほぼすべての部下たちが、意識混濁、気絶に追い込まれていた。

 倒れている彼らの近くには、食器が散乱している。

 

「ガ、ガジン様、みんなが……!」

 

 焚火の近くにいた、唯一無事だった部下のひとりが、槍を持って駆け寄って来た。

 

「なにがあった!」

「そ、それが、みんな、一斉に倒れ始めてしまって、なにがなんだか……」

 

 年若い槍士は、混乱して話しが纏まらない様子だった。

 

「おい、落ち着けェ! イツキ、倒れる前、他の奴らに変ったところはなかったか?」

 

 クウロが槍士、イツキを落ち着かせる。彼は、上司の声に、はっと我に返る。

 

「すいません。倒れた者たちに特に変わった様子はありませんでした。飯を食べながら、話し合っていただけです。自分は、その、ご命令に背き、食欲がなかったので料理を口にしていませんでし……あ」

「料理に毒か……」

 

 クウロもガジンも、まだ料理を口にしていない。

 ガジンは、料理番であった青年、ゼツが倒れている面子の中にもいないことに気づいた。

 

「ゼツはどうした?」

 

 イツキは首を横に振った。「くそ……」と、ガジンが思わず悪態を吐いた。

 

「死ぬような毒じゃ、なさそうですぜ」

 

 クウロが倒れている槍士の様子を見て言った。気絶しているだけで、命に別状はないようで、ガジンはほっとした。――束の間、猿の叫び声と聞き間違うほどの絶叫が〈青眼〉の男が寝ている天幕から響いて来た。

 

「二人とも、ここにいて他の者を守れ!」

 

 言い放ち、ガジンは駆け出した。

 ――狙いは〈青眼〉の男か!

 なぜ、どうしてという疑問をすべて頭から追いやり、ガジンは槍を握り締める。

 天幕の中にいる侵入者の気配を『气』の流れを感じ取り、外から中へ槍を突きいれた。布を引き裂き、侵入者のひとりへ穂先が風のごとき速さをもって迫った。

 ガジンの手に返ってきたのは、固い感触。防がれたのだとわかると、横に槍を薙ぎ、布を両断する。ばさりと布が地に落ちる。侵入者が姿を見せた。

 侵入者は、黒ずくめの着物で身を隠すように纏っている。頭と鼻元も布で覆われていて、顔が特定できないようになっている。明らかに、まともな戦い方をする相手には見えない。

 

「何者だ貴様ら!」

 

 ガジンの怒声に怯まず、侵入者のひとりが突進してくる。手には短刀が光っていた。

 懐に入られないよう、牽制と本命が入り混じった三撃を叩き込む。

 侵入者は、右手に持った短刀でもって、すべてを見事としか言えない動作で捌き切って見せた。〈八竜槍〉以外で、これを受け切られたのは、ガジンにとって初めての経験だった。

 

「貴様、本当に何者だ。一体、誰の差し金で動いている?」

 

 ガジンの眼が、深く、人間的な暖かさをもった光を沈め込ませた。

 静かに、しかし、激流のように『气』を高めていく。相手はなにも答えない。

 

「は、あ、え、あが、あ、あぁあぁ!」

 

 突然、大人しくなっていた〈青眼〉の男が暴れ始めた。まるで、ガジンの放つ『气』へ過剰に反応したかのようだった。男は気が狂ったかのように手足を激しく動かし回す。その力は凄まじく、腕を掴んでいた侵入者のひとりを弾き飛ばしてしまった。

 

「――退くぞ」

 

 初めて、侵入者が声を発した。途端、煙が立ち上った。煙幕だ。

 ガジンは、咄嗟に口と鼻を手で覆う。幸い、毒の類ではなかったが、視界が完全に閉ざされた。槍を一振りして、煙を払うと、天幕には〈青眼〉の男以外、誰も残っていない。

 ガジンは侵入者の気配を辿ろうとしたが、驚くことに、〈八竜槍〉たるガジンが、全力で気配を追おうとしても、まったく捉えられない。闇の中に溶け込むかのように、消えている。

 

「く……!」

 

 途轍もない手練れだったとはいえ、逃がしてしまった。ガジンは、歯噛みした。

 

「大将!」

 

 クウロが近寄って来る。

 

「取り逃がしてしまった。傷は与えたが」

 

 最初の一撃で、侵入者に掠っていた。地面に流れ出た赤い点がいくつか残っている。

 

「なんなんです、あいつら。大将と打ち合えるなんざ、とんでもねェ腕前ですぜ」

「あれほどの使い手、小耳に挟んだこともない」

 

 〈八竜槍〉と戦えるのは、同じ者だけである、と言われている。そのガジン相手に、完璧に対応して見せた侵入者。

 ――新しく調査すべき項目がひとつ増えた。

 誰が彼らを差し向けたのか。予想はいくつかできたが、どれもが憶測でしかなかった。

 

「ひ、い、え、ええ……りゅ、『竜』、同じ、『气』ぃ……!」

 

 〈青眼〉の男が、恐怖のあまり、ばたばたと身体を動かし逃げようとして、足をもつれさせて転んだ。ガジンは素早く男の肩を片手で押さえる。

 

「落ち着け、もう、敵は去った!」

「あ、う、あ、ひ、人?」

 

 ガジンは男の眼を凝視するのを躊躇ったが、ここで動揺や恐れを見せた途端、また暴れ回りそうな危うさが男にはあった。

 

「そうだ、人だ。もう、ここはお前がいた砦ではない。ここには、お前の味方しかいない。だから、落ち着け、落ち着くんだ」

 

 根気よくガジンが言い続けると、ようやく〈青眼〉の男の身体に走っていた震えが収まった。目の定まっていなかった焦点も、現実を見始めていた。

 

「大丈夫か? 奴らはどうしてお前を襲ったか、言っていなかったか?」

「襲う……あ、ひ、ひあ……『竜』、来る、皆、殺された……!」

 

 頭を抱え込み身体を丸めて、男はうわごとを繰り返す。

 ――『竜』、だと……?

 男は、『竜』、来る、殺される。と、何度も言い続ける。もし、この男が言うことが事実ならば、大変な事態になる。

 ガジンは、焦る心を抑えつけ、クウロの方を向いた。

 

「……クウロ、皆は、どうだ?」

「毒ですが、命に別状はありやせん。皆、無事ですよ。ゼツの奴、天幕の裏の林に、気絶させられて縛られておりやした。どうやら、不覚を取ったようで」

「ゼツが? いや、わかった。早朝、皆の体調が快復次第、皇都へ最速で帰還する。この男の言葉が真実であるなら、まずい状況だ」

 

 あれだけの腕前を持つ男が、声のひとつもあげず鎮圧されたことに違和感を覚えたが、すぐに意識を切り替えた。

 

「ええ、至急、対策を練らんとまずいですな。皇都に鷹を飛ばしますか?」

「万が一、情報が漏れれば、混乱が起きかねん。止めた方が無難だろう」

「わかりやした。イツキ、倒れた奴らの様子を見て来てくれ」

「承知しました!」

 

 それから、三人は事態の収拾に努めた。幸い、毒によって昏倒させられた槍士たちは、朝には快復し、後遺症も見受けられなかった。

 使用された薬について、薬学に詳しいイツキが、使用された毒について解析しようとしたが、まったくわからなかった。判明したのは、襲撃者たちが信じられないほど非常に高度な製薬技術を持っているという事実だけだった。

 イツキは顔を青ざめさせて言った。「これだけの薬を作り出せる技術があるなら、自分達を殺す毒を盛るなんて簡単だったはず。彼らは、敢えて、殺さなかったのです」

 ガジンは、馬上で風を浴びながら、襲って来た者たちの練度の高さに、内心、舌を巻いていた。部隊としての連携もそうだが、彼らは、殺す手段があっても(・・・・・・・・)それを使わなかったのだ。

 これは、襲撃者たちが〈八竜槍〉を殺せば今の国がどうなるか、はっきりと理解していることを示している。

 ――彼らの裏にいるのは、一体、誰だ?

 謎は深まるばかりだった。

 

「大将、見えてきやしたぜ!」

 

 遠くに、影が見えた。巨大な壁。それに見合う門の下を通る人々。まだ距離があるのに、都の喧騒が、聞こえてくるようだった。

 

「帰ってきやしたね」

「ああ、騒がしくも、最も繁栄した、我らが帝がおわす、皇都に」

 

 ガジンは、馬を急がせた。このときすでに、ガジンは国を揺るがす大事の予兆を、感じ取っていた。

 なにか大きなうねりが巻き起こり、すべてを飲み込んで変えてしまうような、予兆を。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三話 語り部の少年、リュウモ

 

 竜、怒り狂う時、人が積み上げし、栄達への階は脆くも崩れ去り、末世が訪れる。忘れるなかれ。竜は天が遣わせし、人の傲慢を監視する者なり。

 かの竜達が怒り狂う――すなわち天の怒り。

 竜と供に生き、死に逝く者達よ。天が傲慢なる我らに鉄槌を下す時、竜の峰にて首を垂れ、赦しを請うべし。さすれば天は振り上げた槌をおさめ、再び我らは生きることを赦されよう。

 されど、心せよ。天へと我らが祈り届かず、竜の峰へ辿り着くこと叶わず、人の業によって阻まれし時、天は我らを灰燼と化すであろう

 祈りを届けよ。竜の峰にて、我らが赦しを込めた祈りを。――竜を鎮める旋律を奏でよ。

 

「はい、終わり。どう、爺ちゃん?」

 

 重々しく老人は頷いた。合格の合図だ。同時に、今日の教えの時間の終わりを示す。

 リュウモは語り終えると、語り部である老人から体を逸らして、ご褒美とばかりに囲炉裏に体を近づけ、冷たくなっていた手足を温めにかかった。

 薪が燃えて、ススキで葺かれた茅葺屋根へ煙が吸い込まれていくのを、暖を取りながら、リュウモはぼーっと眺めていた。

 ようやく冬が終わったとはいえ、まだ寒々しい空気が民家の中に滞留している。ほとんど春になっているが、吹いてくる風には未だに冷たい物が混じり込んでいた。

 反対側に語り部のジジが座り、彼も冷たくなった体を温めた。リュウモは、唇を尖らせる。

 いつもこの時期になると寒々しい軒下の縁側で、ずっとこの村に伝え聞かされてきた伝承を覚えないといけないのだ。部屋の中でやればいいのに、といつも思う。

 

「ほんに、お前は物覚えがいい。もう、立派な語り部だのう」

 

 村で唯一の語り部であるジジは、孫同然のリュウモに色々と教えることができて、上機嫌である。

 

「ねえ、爺ちゃん。聞いていい?」

「おう、何かな?」

「どうして、村の語り部は、紙に書いてみんなに伝えないの?」

 

 そうすれば、寒空の下、延々と話を聞いて、何度も反復する必要は無い。

 語り部が村からほとんど――というより、ジジ以外いなくなってしまったのは、伝えるべき膨大な量の内容と、厳しさからだ。

 村人の絶対数が多ければ、もっと後継者も出たかもしれないが、残念ながら、リュウモが住む村の人口は、余剰人数が出るほど余裕はないから増加も見込めない。

 しかし、紙に書けば、その問題は一気に解決する。ただ、そんなことは村人全員がわかっている事実であり、なんとなくリュウモは聞いてはいけないような雰囲気を感じていたから、問い質したりはしなかった。

 でも、さっき覚えたもので、語り部として後継に伝えるべき内容は最後だ。

 だから、何年も頑張って来たのだから、ちょっとくらい言い辛い事柄を聞いても、罰は当たらないだろう。

 

「そうさな……」

 

 短く切った白髪をがしがしとかき、皺だらけの顔を難しそうにして、ジジはすこしの間考えていた。囲炉裏の薪が、燃えて形を崩した音が、二人だけの部屋に響くと、それを合図としたかのように「よし!」と言って両膝を叩き、ジジは口を開く。

 

「お前も十一になる。事の分別はつく年頃だろう。だから、決して村の者以外に、話してはいけないよ、いいね?」

 

 ジジは、真剣そのものといった面持ちだ。リュウモと同じ、深い、青色の眼が、鋭い光を放っている。約束を守れるかどうか、見定めているようにも見える。

 

「うん!」

 

 リュウモは、元気よく頷いた。幼い頃からずっと言い聞かされてきた約束事を、今更破るつもりは、毛頭なかった。ジジは、満足気に笑う。

 

「全部話すと長くなってしまうから、まずは簡単にして話そう。わしらの伝えているものは、村の外にいる者達からすれば、とてもいけないことだからなんだ」

 

 いけないこと? リュウモはよくわからなくて、首を傾げてしまった。語り聞かせ、受け継がせることの、何がいけないというのだろうか。

 

「外の者達にとって、『竜』と供に生きるのも、『竜』が村に入って来ないよう、竜避けの鳴子を張り巡らせるのも、ましてや『竜』が棲息する場所付近に住むことさえ、してはいけないと教える――らしい」

 

 最後の一言で、リュウモは調子を外されてしまった。がっくりと首を折る。

 

「らしいって……」

 

 大層な話しであるような気がしていたが、結局、それは迷信ではないのか。リュウモは村の外――正確には、村人以外の人間に会ったことはないが、『竜』がいる場所近くに住んだだけで罰せられる何て、信じられなかった。

 

「まあ、わしも村の外――遠くまで行ったことがないから、わからないから、許しておくれ」

 

 大体、今いる村人の中で、ジジが言う遠くへ行った人物は、村長と彼に付き従った者達しかいない。つまり、片手で数えられるぐらい少ない。残念ながら、語り部であるジジは、村でも貴重な人材なので、同行が許されなかった。

 

「外の彼らは、『竜』を崇め、神ノ御遣いとして祀ったりもしているらしい。そんな彼らからすれば、わしらのように、必要とあれば『竜』を殺め、『竜』を遠ざけ、撃退する技術を持っていることは、許されぬ。小さい頃から、外の者たちには絶対に我らの業を教えてはいけないと、ずっと言われ続けていたであろう」

 

 リュウモは、掟については重々承知しているが、他はあまりピンとこなかった。上を向いて、ぼんやりと考える。

 

「『竜』が神ノ御遣い、かあ」

 

 『竜』――この世で人よりも遥かに強靭な生命体であり、リュウモにとってはこの上なく身近な存在でもある。竜避けの鳴子が張り巡らされた村から、そう遠くないところに、彼らは居るからだ。

 彼らは決して、神などではない。腹が減れば獲物を求めて駆け回り、雄と雌で交尾し子を成す。

 自らよりも強い相手には立ち向かわず、天敵である上位者には、捕まれば餌として食われる運命が待っている。

 果たして、そのような存在が、神から遣わされた者であろうか?

 彼らを貶めるわけではないが、神とは、全能であり、傷つけられず、あらゆる者共の頂に座っているべきだ、という印象がリュウモにはある。そんな完璧な存在から遣わされたのならば、使者である『竜』もまた、完璧であるはずだ。

 

「おれたちと『竜』って、そんなに違わないと思うけど……」

 

 人も、腹が減れば獲物を探し回り、男と女で番になり、子を成す。強弱はあれ、根本的なところでは、まったく違う生物だとは、とてもではないが、リュウモは思えなかった。

 

「わしも、理解できぬ。が、外の者達は、とても『竜』には敏感で、臆病だと聞いたよ」

「臆病って、どうして?」

「彼らは『竜』を知らぬ。知らぬものにどうして対策が取れよう? 外の者達は、竜避けの技術も、『竜』に対しての知識も、まったく持ち合わせておらぬのだよ」

「あ……そっか」

 

 ジジの言葉で、リュウモは納得した。自分も、『竜』を知らなかった時、彼らの縄張りに不用意に入ってしまって、死にかけた。その時に負った傷は、今も残っている。

 鋭い、剃刀のような爪に切り落とされた、かつて左耳があった場所に触れる。

 

「『竜』にだって、ちゃんと規則がある。それを破る者には、容赦しない」

「おお、そういうことだ。――お前が一人で森に入ってしまった時は随分と、肝を冷やしたわい」

 

 幼いリュウモが、村を飛び出して森に入ってしまったと発覚した際、大騒ぎになり、大人達は必死の形相で探し回ったのである。リュウモは、恥ずかしそうに頭をかいた。

 

「もう、あんな風にはならないって。勝手に、縄張りに入ったりしないし。ちゃんと、言いつけは守って、森に入ってるよ」

「おお、おお、そうさな。でなければ、『竜』達の観察を任されないからのう」

 

 色々とやらかしたりしたが、リュウモはそれから『竜』について学び、今では森に一人で入ることを許されている。とは言っても、森の浅い場所まで、という条件付きだ。

 

「さて、外の者達については、大まかに言ったが、次は、どうして彼らが『竜』を恐れるようになったかだが……ふむ、リュウモよ。そろそろ森周りの時間であろう」

 

 外の日の高さ具合から、ジジの言う通り、そろそろ『竜』の様子を見に、森へ行かないといけない時間帯だった。森周りは当番制で、今日はリュウモの番だった。

 

「そういえば、そうだね。じゃあ、続きは戻って来てからにしてよ」

「うむ、行ってこい。――そうだ、リュウモ。〈龍赦笛〉は持っているな?」

「え、うん、いつも肌身離さず持ってるよ」

 

 服の内側、帯で締められている箇所に、リュウモはいつも〈龍赦笛〉をさして固定している。笛を引き抜いて、ジジに見せる。

 

「うん、それならばいい。決して、無くしてはいかんぞ」

「うん、わかってるよ」

 

 この〈龍赦笛〉は、村にとって大事な物であるから、リュウモとしては、村長に持っていてもらいたかったのだが、昔、彼の家を訪れた時、興味本位で手に取って、口をつけてみたら綺麗な音が出て、それ以来、持たされるようになってしまったのだ。

 笛は、手触りはツルツルとしていて、真っ白い筒型の笛だ。吹き方がかなり特殊なため、この笛から音を出せるのは、村ではリュウモしかいない。

 

「それじゃ、行ってくるね」

 

 草鞋を履いて、リュウモは勢いよく駆け出した。

 

 

 

 『竜』が棲息する森の入り口は、リュウモが住む村から、歩いて四半刻と経たないところにある。村の周囲はほとんど人の手が入っておらず、獣道だらけだが、『竜』が棲む森は、特段すごい。植物から生き物に至るまで、その生態が特異に過ぎるからだ。

 昨日、雨が降ったせいで湿った地面をしっかりと踏みしめながら、リュウモは『竜』の森の入り口に立っていた。

 

「……なんだろう、森が、ざわついている?」

 

 周囲の木々とは、明らかに形も大きさも違う、『竜』の森入り口前で、リュウモはいつもと森の様子――森が放っている『气』がおかしいことに気が付いた。

 『气』――すなわち、万物に宿る、生命の根源。空気中に充満している『气』を体内に呼吸によって取り入れることにより、生命は活動できる。

 これらを体内の『气』と大気中の『气』を呼吸によって内に取り込み感応させ、体能力を高める技術を『气法』といい、鋭敏になった感覚は、超人の体能力と変わらない。

 人でありながら、獣のような力を持てるのだ。常人を超えた超感覚を得た者達は、『气』の揺れや歪みといったものを感じ取れる。

 リュウモも『气法』を幼いながらも修めているので、森全体が発する『气』を察知できるのだ。

 

「――殺気立ってる」

 

 胸やけを起こした時のような、ぴりぴりとした嫌な感じが、鋭敏になった感覚を通して伝わって来る。リュウモは、緩んでいた心を締めなおした。いつもと同じように森を見回っていたのでは、おそらく痛い目を見ると、勘が告げていた。

 切り落とされた左耳があった部分が熱を持つ。体にも警告されている。いよいよもって、大事になってきたかもしれない。リュウモは慎重に足を進めた。

 むわっとした空気が顔に直撃して、その中に、嫌な、悪い予知めいたものがない交ぜになって押し寄せて来た気がする。リュウモの喉が、ごくりと鳴る。

 

(何だろう……ざわざわする、体の、腹の奥ら辺が、重苦しい……)

 

 森に入り続けて、二年半。まったく違う気配を発する見慣れた場所に、リュウモは戸惑いを隠せなかった。地面を踏みしめる音が、変に聞こえる。落ち葉や木の根の上を歩く際に発する一つ一つの音が、いちいち耳に響く。

 リュウモの首に、冷たい汗が伝った。

 

「早く帰ろう」

 

 言って、リュウモはすこし歩調を早めた。『竜』達の縄張りにはまだ入っていない。多少、急いでも彼らの気に障るようなことにはならないだろう。

 早足になりながらも、地面に目を凝らし、『竜』の足跡が無いかどうか、確認しながら進む。

 リュウモは昔、肉食の獰猛な『竜』の縄張りに入ってしまって、片耳を失う大事件に遭った。今更ながら、よくあの時は生きて村に帰れたものだと思う。

 これから行く場所は、肉食性の『竜』達の縄張りではなく、草食の『竜』達が棲息するところなので、襲われる心配はまずない。

 肉食竜の縄張りが大幅に変わって、森の比較的浅い場所まで来ていれば別だが、村の長年蓄えられてきた知識によれば、それは無いと断言してよい。彼らでも、見知った地域から出て、大移動するのは危険が伴うからだ。

 他の木々よりも、ひと際馬鹿大きい樹木が見えて、リュウモはひとまずほっとした。

 この大木は、村の者達が一つの目安として使っている物で、ここを超えると、いよいよ本格的に『竜』が棲む領域へ、足を踏み入れることになる。逆を言えば、ここを通り過ぎなければ、滅多に『竜』に出くわさない。

 幼い子供の胴体よりも、遥かに太い根っこが地表に顔を出していた。休憩にちょっとした椅子代わりに座れるものだ。

 見上げれば、空を塞ぐ笠のように緑色の葉が覆い茂り、木漏れ日が丁度いい塩梅で落ちて来る。

 太古の昔から此処に在る巨木の身には、苔が付着し、樹齢を物語っている。いかな『竜』と言え、この老木を枯らすのは容易ではない。

 

「見回り札はっと……」

 

 根があまりに巨大なため、一部が洞のようになっているところへ、リュウモは降りた。

 そこには、釘を打ち付けられた木の板に、四角い手作りの掛札がかけられており、掛札には村人の名前が書かれている。

 村人達の間での決まりことで、『竜』がいる場所へ入って行く時には、必ずこの大木を通り、掛札を持って行くことになっていた。行方不明になった時、ここに札が無ければ、森で何かあったのだと、すぐに周囲へわからせるためだ。

 リュウモは自分の名前が書かれている掛札を取って、懐に入れた。軽快な足取りで、大木から離れて行く。

 『竜』の棲む地へ、本格的に入る。空気が変わった。気のせいではなく、『气』の性質からも感じ取れる。

 『气』には種類があり、竜が内に秘めるそれを〈竜气〉といい、『竜』が棲む森には、この『气』が空気中に充満している。本来、竜の体内に収まっているはずが、森中に漂っているのには、何かしらの理由があるのだろうが、今現在に至っても解明されていない。

 わかっているのは、この〈竜气〉が多くの動植物へ影響を及ぼすという点だ。

 〈竜气〉に感化された動植物は、異様なほど丈夫に、大きくなる。そのおかげで、森の木々は通常の樹木よりも、遥かに頑丈である。特に硬い物は、鋼鉄の刃でさえ樹皮に傷をつけることすら叶わない。

 そういった物で村の家屋は作られているため、耐用年数が長い。そこらの熊が扉を爪で引っ掻いても、傷つきはしない。ただ、熊も〈竜气〉にあてられていて、とんでもなく強いから、悲しいが、あんまり意味がない。

 

「む……そろそろかな」

 

 三つ指の形をした足跡が、深く地面に沈んでいる。リュウモは、辺りを見回しながら、慎重に、できる限り音を立てないよう進んだ。

 ここ一帯は、高い木々がいくつも立ち並び、背丈の低い灌木が生えていない。だから、視界は悪くないのだが、周囲にある木々は、胴回りが大きい。耳を澄ませ、音に気を配らないと、ひょっこりと樹木の影から出て来た小型の『竜』と鉢合わせになりかねない。

 『竜』は、種にもよるが鼻が利き、人体の臭いなど簡単に嗅ぎ分けるため、そうそう鉢合わせにはならないが、寝ている『竜』の尾をうっかり踏もうものなら、命懸けの追いかけっこの鐘が鳴りかねないので、慎重になる必要があるのだ。

 よく訪れている此処が、未踏の地になったかのような錯覚を感じながら、リュウモはこの辺りを根城としている草食竜を探す。探すといっても、彼らは巨大な木の根辺りに居を構える。だから、一度彼らの居場所がわかってしまえば、迷わずに済む。

 巣に近付くにつれて、『竜』の足跡が段々と多くなってきた。草食性の彼らは、基本的に群れで行動する。一か所に固まり、生活を共にするので、彼らの居住空間の境界線内に入らなければ、攻撃はされない。――そのはずであった。

 背後で、何かが動いた気配。同時に、後頭部に狙いをつけられたのを感じ取った。

 咄嗟に、リュウモは前方に身を投げ出す。受け身も取れず、水気を含んだ土に頬がぶつかって、鈍い痛みが伝わってくる。

 

「うわっ!?」

 

 重々しい、重量のある物体が空気を裂いた。ブォン、と低音を響かせて、リュウモの頭の上を、何かが通り過ぎた。リュウモの頭を砕くはずのそれは、近くにあった木の幹にぶち当たり、衝撃によって破壊をまき散らした。鋼鉄の刃すら通さない樹木の体が、べっこりとへこみ、かち割られる。

 

「な、何でっ」

 

 まだ、『竜』の居住区には足を踏み入れていない。彼を怒らせる行動もしていないはずだ。それなのに、明らかにこちらを初撃から殺す気でやってきた。警告ではないことは、傷つけられた木の幹を見れば、一目瞭然だった。

 あの一撃が頭に直撃していれば、幼いリュウモがどうなっていたかなど、想像するまでもない。今度は片耳でなく、命を失う。

 どっ……と、冷たい暴風が頭上を通過した後、リュウモは体中に冷や汗が伝ったのがわかった。腰を抜かさなかっただけ、上等だろう。『竜』が人を殺す気になれば、気性が大人しい草食竜ですら、綿を割くように、頭蓋を砕くなど容易なのだ。

 食物連鎖の三角形、その最も高い位にいる生物。それが、『竜』なのだから。

 

「――っ」

 

 自分がまだ生きている事実が、徐々に心へ染み渡ると、リュウモは恐る恐る立ち上がって、背後を見た。直後に、振り返らなければよかったと、後悔する。

 

『――――』

 

 低い、風の唸りにも似た声。草食の彼らが、外敵へと出す、警戒音。

 穏やかな性格の彼らは、はっきりと敵意と殺意がこもった、血走った眼でもって、侵入者を睨みつけていた。『竜』特有の、青い眼が、このときほど恐ろしいと思ったことは、リュウモになかった。彼らは、『竜』達は……怒り狂っていた。

 心が底冷えし、硬直する。――だが、反射的にリュウモは走り出していた。

 物心ついた時から、ずっと言い聞かされていた。――『竜』が怒り狂った際には、脇目も振らず、逃げろ。運が良ければ、逃げ切れる。

 亡くなった父の、身も蓋も無い言い方だったが、今は非常に役に立っていた。リュウモの体を、意思に反して勝手に動かしてくれているからだ。

 

「……っ! ――は、はっ……!」

 

 リュウモは、一心不乱に、足が千切れんばかりに前後へ動かし続けた。後ろから、まだ『竜』達の鳴き声が聞こえてくる。振り返ったら、追いつかれて死んでしまう。そういった、確信が胸の内にあった。竜の声は、真後ろからも、耳元からも聞こえてくる気がした。

 肺と喉に焼け付くような痛みが自身を苛んでも、リュウモは足を止めない。死んでしまったら、『竜』が怒り狂ったことを、村のみんなに伝えられない。ただ、それだけの念で、走り続ける。――走って、走り続けて、疲労から足を取られて地面へ思いっきり転倒した。

 

「っが! ――!」

 

 痛みに耐えて、すぐさま後ろを向くと、『竜』は、もう追って来ていなかった。

 

「は、は、は、あ、はぁ……!」

 

 どこで彼らが諦めたのか、必死過ぎて、わからなかった。走り続けた代償に、肺が空気を求めていた。リュウモは思いっきり息を吸うと、今度は一気に入ってきた空気に驚いたのか、肺が変な具合に動いたらしく、吐きそうになった。

 それから、肺が正常に動くまで、じっとしていた。体の調子が戻ってくると、ようやくリュウモは、死の恐怖からひとまず脱したことに安堵した。

 村に戻らなければと、立ち上がろうとするが、膝が震えて上手く立てず、尻もちをついてしまう。体を限界点で酷使し続けた反動だろう。

 

「もう、何なんだよ……」

 

 震える足が使い物になるまで、ここで休まないといけなくなってしまった。もし、『竜』がここまで追ってくれば、リュウモの命は無い。束の間の安堵を味わい、身を隠せるところを探す。辺りを見回してみると、此処は、境界線である大木の根本だった。足を取られた物は、木の巨大な根っこだったようだ。

 リュウモは、『竜』に見つかり難くなるよう、根っこの影に自分が隠れるよう、這って行った。

 何とか辿り着いて、背を根に預けた。

 足音が聞こえて来たのは、それから数分後だった。足音は『竜』のものではない。ほっとして、リュウモは手で体を支えながら、ひょっこりと根から頭を出した。

 

「リュウモ、無事か!」

 

 同じ時刻に森に入っていた、村の青年が、リュウモを見つけて駆け寄って来た。

 

「う、うん……なんとか。ただ、足が」

 

 震え続けている足を指さして、動けないことを伝えた。青年は頷く。

 

「わかった。ほら、背に乗れ。村まで走るぞ」

 

 青年の背に乗り、リュウモは彼が走る振動を感じながら、『竜』を思い出していた。

 

(何が、起こってるんだろう……?)

 

 もしかしたら、村で伝え続けて来た、伝承が現実となって襲いかかってきたのかもしれない。ちらりと、リュウモは後ろを見た。そこには、いつもと変わらないように見える、深い緑の森が在るだけだ。しかし、変わってしまったものは、確かにあった。

 怒り狂った『竜』。それが何を意味しているのか、未だにリュウモには実感が沸かないでいた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四話 一族の使命

 村に帰ると、青年はおぶっていたリュウモを他の者に任せ、一目散に村長の家へ駆けて行った。リュウモは家へ送られると、足の調子が戻るまで囲炉裏の前で温まりながら、ごろごろしていようとしたが、血相を変えたジジが戻ってきた。

 

「すぐに長の家に行くぞ」

 

 そう言って、ようやく走れるぐらいに回復した重たい足を前へ進めながら、村長の家に向かった。リュウモは休んでいたかったが、有無を言わさぬジジの迫力に口を開けず、ただなすがままだった。

 

「長、連れて来たぞ」

 

 村で村長の家は一番大きい。木戸で仕切られた部屋が幾つもあるのが、その証だ。もっとも、村長と妻が使用している部屋は、大体二つ、三つ程度で、他は、もっぱら道具の作成等に使用されている。

 囲炉裏がある一番広い部屋で、年長者達が暖を取りながら、円形に座っている。

 彼らの視線が一斉に自分に向き、ちょっと気圧されたリュウモだが、村長が「リュウモ」名前を呼ぶと、すぐに姿勢を正した。

 

「はい」

「『竜』が怒り狂っていたとは、確かか」

 

 村長は、禿頭をやれやれと撫でながら、リュウモに問うた。眼には、ジジが時折見せる、嘘を許さない、問い質す強い光が灯っている。

 

「気性の穏やかな『竜』に、いきなり襲われました。警告の鳴き声を『竜』が発したのは、おれに攻撃した後です」

 

 通常、『竜』は自らの縄張りに入られても、いきなり問答無用で攻撃しない。「それ以上来るなら、迎撃するぞ」と言った具合で、まずは警告をするものだ。

 それをしないで、殺す気で仕掛けてきたのである。これは、尋常ではない。

 

「お前に任せたところは、心の優しい『竜』達がいた場所であったが……。やはり、そうであったか」

「やはり?」

 

 リュウモは首を傾げる。まるで、何かが起こることを知っていたかのような口ぶりだった。

 

「妻が、まずい星を見たようでな。本当は、今日の見回りは全て中止しようとふれを出したのだが、お前が元気よく走って行ってしまうものだから、間に合わなかったのだ。若いの追わせたが、ぎりぎり間に合わなかった」

「え、あ、す、すいません」

 

 リュウモは、特に落ち度があったわけではないが、頭を下げた。村長は苦笑して「よい」と言った。

 

「熱心なのは良い。今回はそれが裏目に出ただけの話。気にするでない」

 

 悪いことをしたわけではないとわかると、リュウモはほっとして肩を上下させた。それから、年長者達の会合が始まった。

 リュウモは、もうここで果たすべき役目は終わったのではないかと思っていたが、もし伝承の通りであれば、自分が為すべきことがある。途轍もなく途方もない、雲を掴んで食べるぐらい、眉唾な話だが。

 リュウモは、過去に起こった伝承を覚えるのが、苦ではなかった。だが、ジジが語り部として受け継いできた内容が、あまりにも突飛で現実味がなく、本当だろうかと疑ってかかることがあった。

 

(かつて、二つの部族が争っていた。彼らは『竜』を武器として扱うため、我ら〈竜守ノ民〉を脅し、『竜』を兵器として使用できる技術を確立した。二つの部族は我先にと業を競い合い、『竜』を効率的に支配できるよう躍起になった。結果、『竜』は多くが死に絶え、天は怒り、人は罰を受ける。土地はやせ細り、疫病が蔓延し、人は戦ができぬまで疲弊し、数を激減させる。事態を収拾するべく、〈竜守ノ民〉の長、争っていた二つの部族の族長が、天へ赦しを得るため、〈竜峰〉へと至り、首を垂れて赦しを請うた。かくして、祈りは天へと届き、人は再び大地で生きることができるようになった。そのとき、我らが先祖たる当時の長は、こう言い残した)

 

 それが、今日の朝に覚えた、長が後の子孫に伝えた言葉である。当時の〈竜守ノ民〉の長が、どういった心境で語り部に伝え聞かせるよう言ったのかはわからない。

 ただ、リュウモにとっては遥か昔の出来事であり、信じられない内容の連続だった。

 今日、『竜』達が怒り狂っているのを、直接、眼に焼き付けるまでは、半信半疑だったのは否定できない。――だがそれも、信じるしかなくなった。間違いなく、『竜』達は怒り狂っていたのだから。

 

「今こそ、我らが〈竜守ノ民〉が使命を果たす時ぞ」

 

 きっぱりと、村長は宣言した。緊張が、部屋に充満していく。全員の視線は、リュウモへ向けられた。

 

(そう、だよな。おれが、やらなきゃ)

 

 皆の瞳には、不安が浮かんでいる。今年で十一になった少年に、重責が負えるのか。それが彼らの心に暗い影を落としているのだ。リュウモは、彼らの不安を拭うために、毅然として、はっきりと言った。

 

「やります。やらないと、いけないことだから」

 

 〈竜峰〉にて、『竜』を鎮めるための旋律を奏でる〈龍赦笛〉を吹ける人間は、村でリュウモしかいない。選ばれし者だけが、天へと上奏することを許されるのだ。

 故に、大人達は、自らの全てに替えても少年を守り抜かねばならない。

 例え、命がなくなるとしても。

 見知った顔の、一族達の命を背負っているのだと思うと、胃の辺りが外から圧迫されて気持ち悪くなる。それでも、逃げることは許されない。どれだけ怖くても、やるしかないのだ。リュウモは、覚悟を決める。

 

「よろしい」

 

 驚くほど感情の起伏を感じさえない動作と声だった。村長は頷くと、集まった者達の顔を見回して、宣言した。

 

「これより、我らが民は、使命を果たさんがため〈竜峰〉へと向かう。出発は五日後の早朝。準備にかかれ」

 

 大人達は粛々と家から出て行った。最後の一人がいなくなると、リュウモはその場にへたり込んだ。ようやく、緊張から解放されて、気が緩んだせいだった。大人からの、重圧がこもった視線は辛かった。

 

「よく言った。リュウモ、わしはお前を誇りに思う」

 

 座り込んだリュウモの肩に、ジジが優しく手を置いた。彼は、とても心配そうだった。

 二人は、血縁ではない。両親が亡くなり、偶々近所だった語り部の彼の元に住み込んだだけだ。だが、ジジにとってリュウモは孫同然であり、その可愛がりようは、村の爺婆達を度々呆れさせていた。

 リュウモも、彼を自分の親同然だと思っていたし、慕っていた。ジジを離れるのは、リュウモにとっても辛いが、一族の命運をかけての使命となれば是非もなかった。

 

「村長。孫を頼む」

「任せておけ。なに心配はいらん。我らには、先祖達が今日まで蓄えて来た叡智がある。それに、これは天命よ。祖先の霊達も、我らを見守ってくれていよう」

 

 村長は確信をもって言った。本当に、祖先達が見守ってくれているならば、心強いとリュウモは思った。〈龍赦笛〉が、すこし熱を持った気がする。

 

「あの、聞きたいことがあるんですが」

 

 控えめに、びくつきながら訪ねると、村長は「よろしい。何か」そう言ってうなずいた。

 

「爺ちゃんに、語り部として、色々な伝承を聞いて覚えてきました。その、本当に、おれが失敗したら、人の世は……」

 

 話では、『竜』達は兵器として扱われて怒り狂い、結果、大地はやせ細り、作物は育たなくなり、疫病が蔓延した。しかし、それさえも序の口でしかない。

 語り部が継ぐ伝承でも、『末世』とは規模が違いすぎて現実味がない内容だ。だから、代々村の長を務めて来た彼ならば本当に人の世が終わってしまうのか、明確な答えを持っているのではないか。

 村長は、顔の下にある思考をまったく感じさせない無表情になって、考え込んだ。

 囲炉裏で燃えている薪の音だけが、大きな部屋に響いて染み渡る。

 やがて、彼が思考の海より帰ってくると、氷が溶けたように表情が動いた。何かを決めたようだった。

 

「『末世』となれば、人の世は終わる。この大地に、人は誰ひとりとして生きることはできなくなるだろう」

 

 簡潔に、村長は事実を言った。

 

「――――ッ!」

 

 リュウモは、急に不安になってきた。光が指していた道筋に、暗雲がかかった気がした。

 

 

 

 夜の静寂を映し出す漆黒の空に、銀色の涙滴をいくつも垂らしたような星々が輝いてる。その中でひと際、光彩を放つ九つの星がある。

 九つの内、八つは燦然と煌めき、空を見あげればまず目につくほどに自らの存在を主張していた。そして、最後のひとつは、夜空に黒光りする妖しい輝きを放っている、明らかに異質なものだった。

 この星々を〈九竜星〉といい、黒き光を発する星を〈禍ツ星〉と呼ぶ。人と大地に尽くし、多大な徳を積んだ『竜』は、その体を天へと還し、星になると言われている。九つは、『竜』が星になった最たる例と言える。

 リュウモは、縁側で春の暖かさを含んだ夜風に当たりながら、〈九竜星〉を見あげていた。これから自分が解決に向かう大事件に思いを馳せながら、星にまつわる覚えた伝承を復唱する。

 

「〈禍ツ星〉――狂乱せし『竜』、人に恐怖を、世に終焉をもたらさん。八体の偉大なる『竜』、人と手を携えこれを討つ。のちに星々となりし『竜』、人々に安寧と平和を築く礎とならん」

 

 〈禍ツ星〉が、わずかに黒い光量を強めた。

 

「狂いし『竜』。かの者もまた、星と成る。――滅びをもたらしかけた〈禍ツ竜〉へ、神は罰を与えた。星と成った後も、その眼で世を見続け、再び滅びが訪れかけたとき、その身を黒く輝かせる罰を」

 

 村に伝わる旧い伝承の通りならば、〈禍ツ星〉は砂時計のようなものだ。黒き光が他の星を呑むほどに強まった時が、この世の終わりとなるのだという。

 

「空に輝く九つの星。――〈九竜星〉のひとつ、〈禍ツ星〉の煌めき、極光となり他の星を飲み込む。再び〈禍ツ竜〉あらわれ、世界に最後をもたらさん」

 

 覚えた伝承の、この一節を口ずさむと、なんとも嫌な気分になる。予言に含まれる不吉な文言がそうさせるのかは、リュウモにとってはどうでもいいが、『竜』が人を襲いだすのは見逃せない。彼らと供に生きると決めた〈竜守ノ民〉としての生き方が、放置を許さない。

 

(本当に、伝承の通りに狂いし『竜』。――〈禍ツ竜〉があらわれるなら、止めないと)

 

 リュウモは、黒々と光る星を睨みつけた。

 後ろで、パチ、パチと薪が燃える音がして、作っていた鍋が温まったのを察し、縁側から離れた。囲炉裏の鍋からいい匂いが立ち上ってきて、思わずごくりと喉が鳴ったが、食べるのはジジが帰って来てからだと自分に言い聞かせる。

 木杓子で鍋をかき混ぜ、いい具合になるのを待ちながら、リュウモは燃える火を見た。

 生活に決して欠かせないものを目に映しながら、皆がせっせと準備している『使命』について考える。

 

(そもそも、『使命』って、そんなに難しいことなのかな……)

 

 〈竜峰〉へ足を運び、笛を吹いて『竜』を鎮める。言葉にすればこれだけである。

 障害というべきものも、そう多くはないように思えた。まったく知らない〈竜域〉に赴くにしても、代々受け継がれてきた知恵と知識もある。大人が何人も同行する。

 よっぽどのことがなければ大丈夫だろう。ジジは「〈竜峰〉への道は、困難で塗装されている」――深刻気味に言っていたが、あまり大変ではなさそうだ。

 それに、リュウモにはまだ実感が湧いてこなかった。先日、確かに狂った『竜』に追い回されたが、この世界が終わってしまうような規模感は、どうしても感じなかった。

 リュウモにとっては、むしろ『使命』よりも、故郷を長い間離れ、ジジとしばらく会えなくなるほうが重大な問題であった。外に興味がないわけではない、見知らぬところに行ってみたい欲求は、リュウモにもある。だが、大好きな人と、何か月も離れ離れになるのは嫌だった。

 

「いけない、いけない……」

 

 村長たちのまえであれだけ大見得を切って見せたのだ。同行する大人たちの不安を助長させるような言動は慎むべきだ。彼等だって、住み慣れた故郷を離れて未知の世界へ旅立つのは同じなのだから。

 リュウモはしばらく火を見つめ、鍋の調子を見ていた。いい塩梅になると火を弱めて、ジジが帰って来るのを待った。

 それから結構な時間がすぎて、鍋の匂いと食欲の誘惑に負けそうになった頃。リュウモの耳に、玄関の戸が開く音が聞こえた。

 

「爺ちゃん!」

 

 誘惑を吹き飛ばす音が耳に伝わると、リュウモは跳ね起きたかのように立ちあがって、玄関に向かった。

 ジジは所用で朝早くから出かけており、彼の帰りを、リュウモはずっと待っていたのだ。

 リュウモが玄関口に到着すると、ジジは草履を脱いであがってきている最中だった。ジジはどたばたと音を立てて走って来たリュウモに驚いていた。

 

「リュウモ、こんな時間まで起きていたのか?」

「うん、心配だったし……」

「はっはっは、そいつはすまなかった。すまんついでに話がある。寝る前に聞いてくれるな」

「うん!」

 

 リュウモは「ご飯がある」と言って、ジジの手を引いて今に連れて行った。囲炉裏には、ジジと一緒に食べるための鍋が用意してあるのだ。

 褒めてもらえると上機嫌になっていたリュウモだったが、ジジと繋いでいる手が、いつもよりずっと冷たいことに気づいた。体が寒さで凍えているような温度ではない。ほのかな熱を感じるが、それでも冷たい。

 

「爺ちゃん、大丈夫? お風呂沸かそうか?」

「――む、すまん、頼めるか?」

 

 あまり頭を使いたくない時のように、返事の声に張りがない。――これは大事だ。ジジの体調が悪いことを察したリュウモは、ジジを囲炉裏に案内して、薪を足して火を強めた。

 

「鍋、作ってあるから、食べてて。お風呂沸かしてくるから」

 

 お椀にたっぷりと鍋の中身をついで、子供らしいすばしっこさで、リュウモは居間を出た。

 

 風呂を沸かして、ジジに入ってもらうよう言うと、彼は少しよろついた足取りで風呂場に向かって行った。

 リュウモは、ジジの後ろ姿が風呂場へ消えるのを見届けたあと、食器を片付けようとして、中身が半分も残っていることに目がいった。

 ジジが食べ物を残すのは非常に珍しい。しかも、今日の鍋は彼の好物が大量に入っている。なのにこれだけ残してしまうとは、リュウモは信じられなかった。

 食欲が無い、では済まされない気がした。

 リュウモは食器を片付けて洗って居間に戻ってくると、丁度、ジジが風呂から出て来ていた。顔や手を見る限り、血色は家に帰って来た時と比べれば良くなっていて、安心した。

 

「爺ちゃん、本当に大丈夫? 辛いなら、寝ちゃいなよ。明日の朝とかに聞くからさ」

 

 常日頃のジジと比べれば、今日の彼は、加齢による老いの弱弱しさが身からにじみ出ている。いつもは、こんな風に一片もリュウモの前では弱さを見せない老人が隙を見せている。

 そんなジジが、リュウモは心配で仕方なかった。ジジは、苦笑しても、辛さを押し隠しているとも受け取れる、曖昧な笑みを浮かべながらも「座りなさい。今日、話さねばならんのだ」――真剣な声色で言ったのだった。

 リュウモは渋々、言われた通りに座布団に腰を下ろした。早く話を聞いて、ジジを寝かせた方がいいと思っての、素早い判断だった。

 

「実はの、朝から出ていたのは〈禍ツ气〉を調べていたのだ」

「〈禍ツ气〉を?」

 

 『气』には多くの種類がある。大まかに分類すれば、木、火、土、金、水、の五つが基本となる『气』で、この五つを生み出したのが星々が輝く宇宙に満ちる〈天ツ气〉である。

 〈竜气〉は基本の五つには含まれない例外的なものだ。

 そして、最も危険であり、在ってはならないもの。生き物に害を及ぼす、邪悪なる〈禍ツ气〉がある。

 この〈禍ツ气〉は、人のみならず、すべての命あるものに作用し、狂わせてしまう危険な『气』なのである。発生の原因は様々で、特定するのは中々に難しい。そも、長年究明を続けて来た〈竜守ノ民〉でもわからないことの方が多い。

 

「珍しいね。調べられるくらい、濃かったの?」

 

 通常、他の『气』とは違い〈禍ツ气〉は長い間、空気中に存在できない。歪んだ『气』であるということは、歪みを元に戻そうと他の『气』が浄化作用を働かせて、消してしまうからだ。

 そういった性質も持ち合わせているから、濃度自体も高まることは滅多にない。まして、人体に影響を及ぼすなど、おとぎ話の中でしか語られない事態である。

 

「ああ、かなり酷かった。まったく、老体にはこたえた」

「だから、帰って来た時、調子悪かったんだ……」

「ん、すまんなあ。心配させてしまって。ほれ、今はこの通り、元気いっぱいだからの。気にするでない」

 

 むん、とジジは力こぶを作って笑ってみせた。

 いつものジジに戻って、ほっとした反面、リュウモはまだ心配であった。ジジの体内の『气』の巡りを感じ取ると、わずかにだが澱みがあった。体の調子が悪い気がする、程度の小さなずれだ。だが、ジジはもう高齢である。その小さなことが大事に繋がりかねない。

 人間、歳には勝てないのを、日々老いていくジジを見ていたリュウモは知っていた。

 

「ん、わかった。それで〈禍ツ气〉を調べていて、どうしたの?」

「ああ、それが酷くての、『竜』に悪影響が出るやもしれん。対処が必要だと」

 

 そこまで聞いて、リュウモは話の主旨を理解した。

 

「おれに〈禍ツ气〉を払えってこと、だよね」

 

 老人の顔にできていたしわが、より深くなった。周囲の判断に賛同していないことは、一目瞭然だった。

 〈禍ツ气〉を払う方法は、基本的に無い。できることは、周りの環境を整え、浄化作用を強めるぐらいだ。だが、例外的にリュウモは〈禍ツ气〉を払う術を持っている。

 

「――――〈龍赦笛〉を使ってよいと、村長が言っていた」

 

 笛に選ばれたものでなければ吹けない〈龍赦笛〉は、演奏することによって〈禍ツ气〉を払う。原理は今もって不明であるが、村の者たちは笛の元となった『龍王』に浄化といった力があったのではないかと予想している。

 

「大丈夫、頑張るよ」

 

 ともかく、リュウモが笛を吹けば万事が解決である。お守り代わりでもある笛を握った。〈龍赦笛〉〉は、頬に当てなければわからない程度ではあったが、すこしだけ熱を帯びていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五話 皇国、二つの民

 春の訪れを感じさせる、生暖かい風が、青々とした空の下に吹く。

 タルカ皇国の皇都は、季節の後押しを受けるように、商いが盛んに行われていた。明るい顔で商品のやり取りをする彼らの顔は、希望に満ちている。

 皇都で商いをすることができる者達は、かつての戦いにおいて勝利した帝側についた『譜代』達であり、国へ相応の金銭を納めることによって、手厚い保護を受けている。

 逆に『外様』は敗北した側についた民である。彼らは皇都近辺に住むことは許されず、当然、皇都では商いをすることは基本的にできない。

 大きく分けて、二つの民が暮らすタルカの皇都、帝が住まう宮廷の広間は、春先の暖かさとはまったく別種の、異様な熱気が立ち上り始めていた。

 

 巨大な円形の会議卓に、多くの皇国の民達が集まり、話し合いを進めていた。

 会議卓についているのは、皇国においてそうそうたる面子だ。『譜代』をまとめる三大領主。その下に付き従う貴族達。彼らの反対側には『外様』の三大領主と、彼らに付き従う氏族長達である。全員が政治、軍事に関わる重要な役職に就いている者だ。

 国の重鎮達が、こうやって帝が住む宮廷に集うことは滅多にない。年の終わり、もしくは重大な行事があるときぐらいだ。しかし、今回は違う。とある一件から、帝直々に彼らを招集。

 それは、四日日前に起こった監視砦の虐殺事件についてであった。ガジンが綿密に調査を敢行したところ、皇国において帝と同じ『神ノ御遣い』――『竜』が兵達を皆殺しにした可能性を示唆したのだ。これに対し、帝は即座に同様の被害が各領地に出ていないか調査を命じ、その結果を報告するよう、彼らを招集したのである。

 帝は会議卓を見下ろせる、一段高い玉座に座っている。〈八竜槍〉の三人は、帝の傍に控えるように〈竜槍〉をその手に持ち、話し合いの行方を見守っている。

 

「以上が、我が領地における『竜』がもたらした被害の全容です。これは、他の『外様』も同様。看過できないほどではありませんが、着々と被害の規模は広がっております」

 

 『外様』の三大領主の一人、ナホウが報告した被害は、ガジンの予想を遥かに超えていた。

 村が一つ丸々消えた、などの巨大な損失があったわけではない。だが〈竜域〉から湧き出た『竜』が監視砦の兵の目を盗み、村にまで下って、作物や家畜を食い荒らしているとナホウが語った際、ガジンを貫いた衝撃は、大きなものであった。

 ガジンは、『外様』の領地出身で、ナホウが言ったような村が故郷であるからだ。

 ――兄弟は、大丈夫だろうか。

 故郷にいる家族達が、心配であった。

 

「『竜』がもたらした被害は、馬鹿にはできぬもの。我ら『外様』は、今年の税の引き下げをお願いしたい。また、その分の補てんは『譜代』の方々に出していただきたい」

 

 会議の趣旨とは、いささか方向が違ったものの、ナホウの言葉は理にかなっている。だが、卓の反対側の一団の中から、声を荒げた者がいた。

 

「何を寝ぼけたことを! 税はすべて平等。片方を引き下げるのみならず、その差分を我らが支払うだと? 阿呆なことを言うな! 自らの責任を果たせぬなら、即刻その地位からおりるがよい!」

 

 『譜代』の三大領主の一人、ハヌイが大声をあげる。

 このナホウとハヌイは、実に対照的な身体つきをしている。『譜代』のハヌイは、でっぷりとした、恰幅のよい、出来の良い衣を纏い、飾りも絢爛なものばかりだ。

 反対にナホウは、すっと身体は鍛えられ、狼を思わせる剽悍な体躯だ。格好も、質実剛健といった風で、礼儀を欠かない必要最低限の装いをし、無駄な装飾品を一切つけていない。

 両者は『譜代』と『外様』の、心、身体、経済、の三つをよくあらわしているといえる。

 彼らの、谷底のような軋轢を修復したいのであれば、数百年も前に時をさかのぼっていかなければならない。一朝一夕で、両者の深い溝を埋めることは、不可能である。

 時間が、腐葉土のように積み重ねてきた現実を苦々しく思いながら、ガジンは成り行きを見守る。

 

「ただでさえ、富める者たちが多くの税を納めておるというのに」

 

 は――っと、でっぷりと富んだ腹をした領主を、ナホウは鼻で笑った。

 

「それはおかしいですな。全ての民が一定の額ではなく、所得に応じて支払うよう、随分と昔に取り決めがなされておりますな。まさか、帝の決定に異を唱えるおつもりか」

 

 まるっきり馬鹿にした態度のナホウに、ハヌイが怒りを炸裂させた。

 

「今このときにように、貴様らのような貧相な者たちが悲鳴をあげて、帝がお慈悲を授けた結果であろうが! 卑しい〈敗連ノ民〉め、恥を知れ!」

 

 今度は、『外様』のナホウが顔色を変える側だった。〈敗連ノ民〉とは、『外様』の蔑称で、今日においても明らかな差別用語である。民間でこんなことを言おうものなら、相応の罰を受けてしかるべき発言だ。

 

「貴様ァ!」

 

 一触即発。燃え盛る火のように、広間が轟々と音を立て始めた。『外様』の老若に関係なく、彼らの怒りが一瞬で限界点ぎりぎりまで浮上している。

 ――ここまで他人を怒らせることができるのは、ある種の才能じゃなかろうか。

 ガジンは怒気を隠さない『外様』の者達を見て、ため息を吐きそうになった。

 

「ちょ、ちょちょ、ちょっと、みんな落ち着きなさいな、帝の前だよ!?」

 

 『譜代』の三大領主、ホウリが騒ぎの中に割って入った。彼は、ガジンと昔から付き合いがある大貴族で、『譜代』の貴族であるにも関わらず、珍しい穏健派である。

 が、悲しいかな。彼のか細い声は、喧騒と大声の前にかき消されてしまった。いつもこういったときの『火消し役』を請け負うホウリが止められないとなると、もう駄目だろう。

 カンッ! ――と、騒がしくなってきていた帝の広間に、頃合いを見計らったかのように、音が響いた。

 音源は〈八竜槍〉の一人、ロウハだ。槍の石突で床を打ったのだ。言い争っていた者達の身が、痙攣したように震えた。まるっきり親から叱られた子供に見えて、ガジンは彼らのことがとても国の重鎮のようには見えず、小さく思えた。

 

「静まれ。帝の御前であるぞ」

 

 ロウハの厳めしい顔つきに似合った声色は、こういった際には役に立つ。実は、子供に物凄く怖がられているのを気にしているのだと、領主達に言ったら、どんな反応をするだろうか。いや、彼らからすれば、そんなことよりも、〈八竜槍〉を強請るネタの方が欲しいか。

 ガジンはそう考えながら、重鎮たちを見据え、厳しい目つきで威嚇するようにした。

 

「『外様』だの『譜代』だのと言っている場合ではあるまい。問題の解決には、我らが手を取り合わねばならぬ。貴様らには、なぜそれがわからん」

「お言葉ですが、ロウハ様。『外様』にのみ被害があり我ら『譜代』に死者は出ておりません。これこそ、正に天の御意思ではありませぬか」

 

 ガジンの左隣から、明らかにまずい気配がした。横目に〈八竜槍〉の一人、イスズを流し見する。人形のよう、と言われる顔に怒りで眉間に皺が寄っている。帝以外が天の意志を騙ったことに憤激しかけているのだ。

 本来『外様』出身であるガジンが、このときに発言するのはいささかまずいが、ここでイスズが口調を荒げて領主達を鎮めようものなら、余計にややこしいことになる。

 ガジンは、イスズを手で制した。何も言うなと目で訴え、自分が口を開いた。

 

「問題は、おそらくこのままでは被害が拡大することだ。それは、誰であれ例外ではない。並みの者では、止められはしまい。何せ、砦にはラカンがいてなお、あの惨状だ」

 

 両者、とくに老齢に差し掛かっている者たちの顔色が、さっと青くなった。

 

「あの男がいて、ようやく砦の外に十数人逃がす程度が精いっぱいだったのだ。逃げた者達も殺されている」

 

 親友の死を利用していることで、ガジンは反吐が出そうだったが、ぐっと喉の奥に飲み込んだ。

 

「検分を行い、ラカンの使っていた槍は、ほとんどの部分が使い物にならなくなっていた。あれは帝が直々に贈られた一級品。それが通用せんとなると、後は我ら〈竜槍〉しか対抗できる手段はない」

 〈八竜槍〉が常にいる皇都は安全で、そこ以外は生命の保証されていないと言外に示した。

 

 『外様』たちが押し黙る。同時に恨めしい視線を向けて来る。――お前は、私たちの仲間じゃないのか、と。ガジンは、まだ終わらせなかった。

 

「『譜代』の者たちも、全てが皇都に居を構えているわけではない。我らは皇都を守れても、それ以外を守ることはできん。砦の虐殺が行われたのは、一日も経たぬ時間だ。応援の要請が来たとしても、そのときにはすでに事は終わっていよう」

 

 ガジンは『譜代』の、とくに皇都に住んでいない者の一団を見据えた。彼らの顔が、青ざめた。今度はハヌイに視線を向ける。

 

「ロウハが言ったように『譜代』だ『外様』だのと言い合う段階は、遥か昔に通り過ぎている。まさか、ハヌイ殿も同胞を見捨てるような真似はなさるまい?」

「…………当然ですな」

 

 忌々しそうに、ハヌイはガジンを睨んだ。

 ガジンは、一応この男を黙らせられたと確信した。ここで不用意な発言をすれば味方の支持も失う事態になりかねない。だから、彼は黙るしかないのだ。

 

「では、我ら皇国に住まうすべての民は、過去の垣根を超え、手を取り合い、解決に向け一層協力し合うべきだ。違いますかな?」

 

 このもっともな言い分に、両者は一応平静を取り戻した。興奮のあまり席から立ち上がっていた若い者たちも落ち着き、座りなおした。

 

「と、とりあえず、『竜』に襲われて被害が出ちゃったところは、私たちから出そう。それで、いいかな、ハヌイ殿」

 

 おずおずとホウリは手を挙げて、『譜代』たちに目を向けて言った。彼が言うなら仕方ないと、渋々ではあるが頷いている。ハヌイも、下あごについた脂肪を歪ませながら、ふんと、鼻を鳴らした。彼がああするのは、了承の合図だ。

 

「そ、それで、補填についてはこれでいい、かな? じゃ、じゃあ『竜』への対策だけれど、これは……ど、どうしようか?」

「ホウリ殿、それがわかれば、こうして皆で集まりはしません……」

 

 ナホウが呆れたように、息を吐き出した。

 

「あ、ご、ごめん……」

 

 ホウリは意気消沈してしまった。大体、彼が話しの主導権を握って、会議を進めることは極めて稀だ。

 さっきのように自分から切り込んでいったのは、長年の付き合いがあるガジンから見ても、珍しいことだった。だかこそ、彼が口を開いて仲裁に入るときは、これが引き時だと、皆が拳を収めたりするのだ。互いが熱くなりすぎないための、物差しのような役割を果たしているのだが、本人にあまり自覚はなさそうである。

 

「え、ええと……『竜』に関しては禁忌で、誰も調べられないし――み、帝ッ」

 

 ガジンはホウリの行動に、胸を打たれた。基本的に臆病で、周囲に流されがちな彼が、今日はなけなしの勇気を振り絞っている。会議の最中、集まった者たちが帝に判断を仰ぐことは、滅多にない。帝の声とは天の意志であり、一度発せられれば、後は川の流れのように進む。状況を一変させてくれる、正しく鶴の一声だが、劇薬でもあるのだ。

 帝を呼ぶ声は、怖さでうわずっていたが、確かに玉座に座る帝に届いた。面紗越しに、帝はホウリに顔を向けた。彼の全身が、びくっと震えた。

 

「こ、この件に関しては、我らの裁量を越えます……ど、どうか、ご判断をお願いできませんでしょうか」

 

 しん……と、広間に静寂が広がった。所属に関係なく、天子たる帝の声を待っている。

 ガジンは自分の心臓の音を聞いた。それだけ静まり返っているのだ。痛いほどの深閑が場を支配する。やがて、ぴたりと閉じられていた帝の唇が開いた。

 

「此度の件――〈八竜槍〉に一任する。ロウハ、指揮をとれ」

 

 それが、帝の決定であった。

 

「御意にございます」

 

 帝が総指揮をロウハに任せたのは『譜代』への配慮だろう。イスズは若く、実績が無い。ガジンは『外様』の出身だ。消去法でロウハが選ばれるのは当然だった。

 

「追って通達する。――――それまで『竜』の襲撃があった場合……自衛に限り、()()()()()()()

 

 宮廷を倒壊させかねない衝撃が、広間に走った。帝が放った言葉は、弑逆と同義である。

 神の御遣いたる『竜』の殺傷許可を出すなど、尋常ではない。皇国で『竜』は天から遣わされた神聖な生き物である。建国以前、まだ氏族の集まりでしかなかった先祖たちが、恐れ多くも『竜』を争いに用いたから、天は人に罰を与えたのだと伝えられている。

 ガジンは、手に握る〈竜槍〉に目を向ける。これは、天が人に与えた至高の武具であり、最も禁忌に近い代物である。なぜなら――『竜の骨』より作り出された物だからである。

 そのため技量のみならずこれを振るうには〈竜槍〉に認められるかどうかが重要なのだ。

 この世で唯一、『竜』を殺すことのできる武器。――もし、これがラカンの手にあったならば、彼は死にはしなかっただろうか。ガジンは、あり得ない可能性を夢想する。

 

(殺傷を、許可を、砦のときに、ラカンに伝わっていたら……)

 

 数柱は『竜』を殺せていたかもしれない。そこまで考えて、ガジンは内心で首を振った。これ以上は、踏み込んではいけない領域だ。

 

「よろしい、のですか」

 

 ホウリの声は震えていた。実害を被っている者たちでさえ、帝が言ったことは心胆寒からしめる事柄だったのである。国がなってから数百の時間は『竜』という生き物に畏敬の念を抱かせているのだ。

 

「構わぬ。汝らが犯す罪は、すべて余にある。天の意志を測り間違えた余の不出来を許せ」

「も、勿体無きお言葉にございます……」

 

 ホウリが、広間にいた面々が、深々と頭をさげた。

「此度はここまでとする。皆、軽挙妄動は慎み、粛々と己が為すべきことを為すがよい。――〈八竜槍〉とホウリはここに残れ。伝えるべきことがある」

 

 広間に集まっていた者たちは、帝が言う通り争いもせず、粛々と己の務めへと帰っていく。

 

(やはり、帝のお言葉は覿面だ。覿面、すぎるか)

 

 だからこそ、帝は慎重に言葉を選ぶ。たった一言が国是を決定する、してしまう。口を開くことすらいちいち気をつかわねばならない帝の心労は、想像を絶する。それを、あの薄い面紗の奥で顔色ひとつ変えずに行える帝だからこそ、敬われているのだ。

 全員が出て行ったことを確認し、扉が閉じられた。〈八竜槍〉とホウリは、玉座の前に跪く。「面をあげよ」と帝が言い、ガジンは顔をあげ、帝を見た。

 

「〈八竜槍〉――我が槍たちよ、そしてホウリ。皆はまだ気づいていないであろうが、此度の件は、国を揺るがす、否、崩壊させる大事である」

 

 ガジンは、帝の言葉を身に刻むように聞く。

 

「ゆえに、感情が優先されてはならない。ガジン、ロウハ、ホウリ。汝らの友を失った痛み、余には想像を絶するものであろう。だが、さきほど言った通り、軽率な行動は控えねばならぬ。『外様』と『譜代』――両者の天秤がどちらかに傾けば、後に深い遺恨を残そう。そのことを、熟慮したうえで行動せよ」

 

 三人は短く、鋭い声で返答した。

 

「ロウハ、汝は『譜代』を中心に目を光らせ、彼らが独断で動こうとするならば、これを止めよ」

「承りました」

 

 この役目は『譜代』出身のロウハが適任だ。彼なら、後々面倒なことにはならないだろう。

 

「ガジン、『外様』の氏族たちを周り、伝承について調べ上げよ。しらみつぶしにだ」

「伝承を、ですか。確かに『外様』の氏族たちの間にはまだまだ残っていますが……書庫を漁ればよろしいのでは?」

 

 『外様』の氏族たちには語り部と呼ばれる存在がおり、遥か昔からの伝承を、今でも後世に残している。皇都近郊では、消え去った存在である。効率を重視するようになった皇都の民は、そのほとんどを書物として残しているからだ。

 

「皇都近郊にある書物のほとんどは、賛辞美麗に塗りたくられている。特に、禁忌にほど近い今回の件は、残されてはいない。――当時の者が国に不利益な事柄を書くはずもあるまいよ」

「それは……」

 

 どういったものか、ガジンは悩んだ。帝が言う通り、氏族間で語られる話しは、国に対して不躾なことを言っている内容が多い。――〈敗連ノ民〉の戯言だ、と『譜代』の者は口々に言うが、一片の真実が含まれていることもまた事実である。

 

「現在、そこまで多くの語り部は残されていまいが、手掛かりにはなろう」

「承知いたしました」

 

 この役目は『外様』のガジンが適任である。こういうとき、出身というものは便利だ。ただそれだけで、相手の警戒心を薄れさせてくれる。帝もそれをわかっているから、ガジンに任せるのだ。

 

「して、何を調べれば?」

「――――〈禍ノ民〉についてだ」

 

 帝が指示した信じられない内容に、ガジンの口元が緩みかけた。広間に残った者たちも、目を丸くしている。予想外の答えに、ガジンは思わず聞き返してしまった。

「なぜ、ですか」

「『竜』が深くかかわっているからだ。かの民ほど、『竜』を熟知している者はおるまい」

 

 それはそうだろう。神の御遣いたる『竜』を兵器として利用できた彼らならば熟知していよう。しかし、かの民と『竜』について調べることは、前者はともかく後者は禁忌である。

 もし、研究していることが発覚しようものならば、軽くても皇都から追放される。〈八竜槍〉でさえ、例外ではない。

 

「余が許可する。ガジン、かの民と『竜』について調べよ」

「は……」

 

 この命に、様々な修羅場を潜って来たガジンも、戸惑いと恐れを隠せなかった。

 かの民と『竜』の話なら、タルカ皇国に住む者ならば子供のころからよく聞かされる。

 かの民が一体なにをしたのか。『竜』を兵器として操った結果、なにが起こったのか。

 ガジンは、胃が締め付けられて縮こまっている気がした。鳩尾辺りがすこし痛い。

 

「っふ……若いころ、随分と無茶をやらかしてた汝でも、恐ろしいか」

「あ、いえ、その、はい」

 

 帝の過去への言及に、ガジンは脂汗が出て来そうだった。

 

「そ、その、若い頃は、無茶をやっていたのですか?」

 

 〈八竜槍〉の中で最年少である女性、イスズが思わず口を出した。彼女の中では、ガジンとロウハとは、立派な槍士であり、理想形なのだ。

 若いころの自分たちを知らないからそう思われているのを、ガジンは知っていた。できれば、ほじくり返されたくない過去である。先代帝と〈鎮守ノ司〉に直々に呼び出され、説教された者たちなど、皇国の歴史を紐解いても、まずいまい。

 イスズの言葉に、過敏に反応したのはホウリだった。ガジンとロウハは、過去から顔を逸らすように、明後日の方角を見る。

 

「そ、そうなんだよ、こいつらったらいっつも問題を持ってくるわ、それの始末をするにもなぜか巻き込まれるわ、問題を起こしたら、私とラカンも怒られて――お、怒られて……」

 

 そこまで言って、ホウリは言葉に詰まってしまっていた。ずっと昔の思い出話をしていて、ラカンの顔が脳裏に浮かんできたのだろう。ぽたぽたと涙が頬を伝って、床に落ちた。

 

「ホウリ」

 

 帝が、彼の名を呼んだ。

 

「は、はいッ」

「此度に件、汝にとっては仇討に等しくなろう。だが、誤るな。感情のまま動けば、他の『譜代』を刺激しすぎる。――気持ちはわかるが、冷静に対処せよ」

「ぎょ、御意にございます」

 

 涙をぬぐって、ホウリは応えた。

 

「死亡した者たちへの家族の見舞金は、余の懐から出そう。ホウリ、分配は汝に任せる」

「よ、よろしいのでございますか」

 

 皇族といえども、資金は無限にあるわけではない。さすがに一度の放出程度では底をつかないだろうが、帝直々に資金を捻出したという事実は大きい。

 

「構わぬ。ラカンは、短い間とはいえ、余の元でよく働いてくれた。この程度では、あの者の働きには報いることはできぬであろうが、死した者たちの家族への、せめてもの助けとなればよい」

 

 帝はそう言って、締めくくった。

 広間に、静けさが満ちた。

 

「あの、申し訳ありません。お聞きしたいことがあるのですが……」

 

 イスズが、おずおずと沈黙が降りた広間で、口を開いた。

 

「かまわぬ、申してみよ」

 

 帝の許可が出て、イスズは続けた。

 

「ラカンとは、一体何者なのでしょう? 一部の領主達も、その名を聞いた途端、顔を青ざめさせていましたが……」

 

 四人しかいない帝の間で、控えめにイスズは疑問を投げかけた。

 そういえば、完璧にイスズを置いてきぼりにしてしまっていた。彼女はラカンのことなど知らないのだ。無理もない。彼が活躍していたのは、イスズが槍士になるずっと前だ。

 ガジンは彼女の問いに答えようとしたが、意外にも先に口を開いたのは、帝だった。

 

「ラカン。かつての竜槍候補の筆頭であり、槍術の達人。腕前は、技量だけならば、ガジン、汝以上であったな」

 

 イスズの形のよい眉が驚きに跳ね上がった。彼女にとってガジンは、己を見出し、導いた師に他ならない。その実力も、身をもって知っている。だからこそ、驚いているのだ。

 現〈八竜槍〉の中で、最強であるガジンの腕前を超える槍士がいた、という事実に。しかも、帝公認である。驚かないはずがない。

 

「そして、建国より唯一――〈龍王槍〉を台座から引き抜いた男でもある」

 

 タルカ皇国に八本ある〈竜槍〉だが、この中には歴然とした『格』が存在する。とはいっても、七本は同格である。この七本が弱いわけではない。一本が別格すぎるのだ。

 〈竜槍〉は『竜』の亡骸より作られた至高の武具。ゆえに、槍自体の強さは元となった『竜』の強さに比例する。

 すなわち〈龍王槍〉とは、読んで名の如く『龍王』の亡骸より作られた槍なのだ。

 

「〈龍王槍〉を?! い、いえ、しかし、それは……」

 

 イスズのうろたえようも、もっともである。竜槍候補が〈竜槍〉が保管されている〈槍ノ間〉の台座より引き抜いたならば、その者は〈八竜槍〉として名乗ることになる。

 加えるならば〈龍王槍〉の使い手となったなら〈八竜槍〉の長ともなれたであろう。

 あの融通無碍な親友は、資格があったにも関わらず、それを手放したのだ。

 

「あの者はな、台座に槍を戻した後、余にこう言ったのだ。僕は、彼の待ち人じゃありません。彼を振るうに足る資格を持つ者は、他にいますよ、とな」

 

 ラカンの口調を真似して、当時彼が言い放った台詞をそのまま帝は口にした。

 ガジンは不意を打たれた気分になる。帝にとっては全て等しく映るはずの人間一人のことを、こうも明確に覚えているとは……。

 ――それだけ、帝にとってあいつの存在が衝撃的だったのか。

 親友を、はっきりと覚えている帝に対して、嬉しいやら、悲しいやら、複雑な気持ちだった。

 

「あの者、ラカンが〈槍ノ間〉で何を見たのかは、余にもわからぬ。しかし、間違いなく、ラカンは〈龍王槍〉の声を聞いたのだ。それだけ槍に認められてもいたのだろう。――惜しい男を亡くしたものよ」

 

 いけない。目頭が熱くなってきた。友が帝に認められていたこともそうだが、いまさらになって、ラカンは死んだのだという事実が、胸に染み渡ってきた。

 ガジンは、涙が眼からこぼれないように努めた。感情的になるなと、帝から言われたばかりだからだ。

 

「しかし、帝。あの馬鹿、失礼。ラカンが見たものとは、一体? 聞いても聞いても、答えぬので、しこたま酒を飲ませても口を割らなかったので、気にはなっているのですが」

 

 ――そういえば、そんなことがあったな。

 なにをどうしても教えてくれないので、ガジンがおごりだと言ってラカンに美味い酒を湯水のように飲ませたのである。それでも答えなかったので、さすがに厄がつく話だと感じ、追及を止めた思い出がある。ちなみに、勘定はホウリ持ちである。

 

「汝、そのような無体な真似をあの者にしたのか……」

 

 帝が呆れていた。これもまた珍しいことだった。

 

「ラカンがなにを見たのかは知らぬ。余にも話さなかったことゆえな。――さて、イスズよ」

「は、はい!」

「汝の実家にある蔵には、古今東西の物事を納めた蔵があるな?」

 

 彼女の生家は、学問を代々修めている一家である。国の伝承、歴史の編纂すら任される『譜代』の中でも特に権威のある家だ。

 

「あの蔵になら、いくつか手掛かりを見つけられよう。己の役目が終わり次第、ガジンを案内せよ」

「は、承知いたしました」

 

 恭しく、イスズは首を垂れた。

 

「汝が〈八竜槍〉になり、もう半年を超えた」

「は? は、はい……慣れぬことも多く、先達の方々にはご迷惑をかけております」

 

 突然、話題が変わり、目を白黒させながらイスズは答えた。

 

「久しく家に帰っていなかったのだ。妹に会って来るがよい。学術院からも、汝の妹が近頃元気がないと報告がきている」

「し、しかし、このような大事にわたしひとりが」

「かまわぬ。勤勉は汝の美点だが、過剰に働きすぎるのは欠点ぞ。――余が許す。愛おしき者たちと会ってくるがよい」

 

 帝の言葉に、もう一度、イスズは深々と頭を下げた。

 

「それと、兄に釘を刺せ。此度の騒ぎを解決するというお題目を掲げて、『竜』について調べ上げぬようにな。汝もまた、シスイの一族の者。興味がないわけではあるまい?」

 

 図星を突かれたのか、イスズの顔に冷や汗が浮かんでいる。

 

「非常に不謹慎ではありますが、学術的興味が無いとは言い切れません――その、わたしの一族の血なのでしょうが……」

 

 とても言い辛そうにイスズは答えた。彼女の答えを聞いて、帝の肩が大きく上下に揺れた。

 

「みよ、ガジン。こういう者を勇士というのだ。汝が見出した槍は、正に女傑と呼ぶに相応しい乙女であるぞ」

 

 帝にしては本当に珍しい、冗談めかした物言いだった。

 

「勇ましすぎると、貰い手がいなくなりそうですがな」

 

 と、こちらも冗談を言ってみる。

 

「そのときは、汝が相手を見つけてやるがよい」

 

 返ってきたのは悪戯心のこもった声だった。

 話の中心にされている人物は、どういった反応をすれば正解なのか、右往左往している。頬にも若干、朱がさしている。十七の少女には、まだまだ経験が足らないらしかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六話 叡智の蔵

 むぅ……と、ガジンは唸った。手に取った書物には、知りたい内容は記されていなかった。

 これでもう四十冊目である。そろそろ手掛かりのひとつやふたつぐらいは欲しいところだった。でないと、さすがにそろそろ気落ちしそうだ。

 ため息を吐きそうになるのを堪えて、書物を本棚に戻した。

 ここは、シスイ家が代々書き記してきた物を収納している蔵である。

 シスイ家とは、古くから続く家で、皇族に勉学を教える一族。つまりイスズの実家だ。

 筆と講義を生業にしてきた彼らが蓄えてきた知識は、話を聞いていたガジンの想像をずっと超えていた。この蔵がその最たるものだ。

 シスイ家の私有地に建てられた蔵には、万を優に超える蔵書がところせましと本棚に収められている。大きさは豪邸が丸々ひとつ建つほどの広さがある、これだけをすべて蔵ひとつを建てることに費やした一族は、国を探しても中々おるまい。

 長方形の蔵の中央には、司書が座るような椅子と机がちょこんと置かれている。あそこから出入り口までは一直線だ。あのような目印がないと、現在地がわからなくなって、地味に迷うのが、蔵の欠点だった。もっとも、整理されていない書物の迷路は、探し物にまったく適していない。そろそろこの知識の迷宮を整備したほうがいい。

 ガジンは一度中央の机に戻った。そこには、ちょこんと小さな影が椅子へ座っている。

 

「すまん、チィエ。もう降参だ、手伝ってくれまいか」

 

 この蔵の主――ではないが、シスイ家ではおそらく最も詳しい少女にガジンは話しかけた。チィエは十一歳の少女だ。彼女の頭脳と聡明さは姉であるイスズが「まごうこと無き天才」だという。ガジンからすればイスズも十分に天才の領域にあると思っていたから、驚いた記憶がある。

 

(最初から案内してもらえばよかったなこれは……)

 

 イスズから、蔵についてなら妹に聞いたほうが早いと言われた。なので聞こうとしたが、熱心に勉強に励んでいたから、邪魔をしては悪いと声をかけなかった。結果、裏目に出てしまった。

 

「あ、は、はい。承りましたです。なにをお探しですか?」

 

 読んでいた本を机の上に置いて、チィエは小さな身体を揺らした。後頭部でまとめて垂らしている黒艶の髪が動く。

 

「……〈禍ノ民〉について、詳しい伝承が残っているものはないか?」

 

 ガジンは、このことについて、あまり幼子であるチィエには調べさせたくなかった。〈禍ノ民〉は子供でも知っている皇国の禁忌だったからだ。

 ――イスズは、あの子なら、気にしないなど言っていたが……。

 チィエの姉であるイスズは、所用がありここにはいない。部下も情報収集のためにあちらこちらへ動かしているせいで、蔵にはガジンとチィエしかいない。まったく初対面の少女にどう接したものか困っていたが、少女は特に気にした様子も、気分を害することもなく、丁寧に案内してくれたので助かっていたのだ。だから、あまり込み入ったことを頼みたくはなかった。〈禍ノ民〉についてなら、なおさらである。

 

「はい? 〈禍ノ民〉についてですか? それなら国営の図書館に行ったほうが」

 

 忌まわしき名を呼んでもチィエは怯えた様子はなかった。それがガジンにとって意外ではあったが、助かった。

 

「いや、まったくその通りなのだが……私が知りたいのは図書館にあるようものではないのだ。図書館にない物、『外様』の氏族たちが語り続けている伝承などはないか?」

「『外様』の方々が語り継いでいるものですか? 語り部の人が伝えているような?」

「ああ、そうだ、それだ。要領を得なくてすまんな」

「いえ。ただ、語り部の人たちは『譜代』の人間には決して教えてはいけないと言われてるみたいで……何代か前の当主が、伝承集めに西へ東へ歩き回ったそうなのですが、教えてくれなかったと手記に書かれていました。なので伝承については、その」

「そうか……いや、かまわん。元より星を掴むような作業だ。一度で終わるとは思っていない。すまなかったな、勉強の手を止めてしまって」

「い、いえ、今日のこれは、趣味みたいなものなのです」

 

 ちょっと恥ずかし気に、チィエはうつむいた。癖の無い真っ直ぐな黒艶の髪は姉イスズとそっくりだが、こういったところは姉には似ていない。愛想がある、というか可愛らしいといえばいいだろうか。イスズもこういうところがあれば男にももてるだろうに。――と、若干、イスズに対して失礼な考えが頭を掠めたガジンであった。

 

「ん、ちょっと待ってくれ。伝承集めに走り回ったということは、どの『外様』の氏族に語り部がいるのかは、当たりがついているのか?」

「はい。そのことについては、仔細に記されています。資料をお渡ししますか?」

「いや、助かる。頼めるか」

「はい!」

 

 小さな身体を一生懸命動かして、ぱたぱたと膨大な数の本棚の影に、チィエは消えて行った。

 

「存外、手早く情報は集められそうだ」

 

 ぽつりとガジンは零した。そう間をおかず、チィエは帰って来た。

 

「こちらが、資料になります」

 

 ありがとう、と言ってガジンは資料を受け取り、目を通した。書物には驚くべきほどに詳細に語り部がいる氏族の村について記されていた。中でも、語り部がいる村は、西の方角に多い。

 

「まずは西からしらみつぶしにあたってみるか」

 

 とりあえず方針は決まった。ガジンはチィエの持って来てくれた資料に一通り目を通すと、彼女に返した。

 

「さすが、勉学において皇国一と謡われる一族だ。まさか、こんなに早く手掛かりが見つかるとは思わなんだ」

「そ、そんな、恐縮なのです……。あ、あ、あの、もし、もしよろしければなのですが、語り部の方々の伝承について、できればあとで教えてもらってもかまいませんですか?」

「む、まあ、語り部がいいといえば、かまわないが」

 

 『譜代』に排他的な氏族でも〈八竜槍〉相手には否とはいえまい。それにガジンは彼らと同じ『外様』の出身である。多少なりとも心を開いてはくれるだろう。

 

「ほ、本当ですか! ぜ、是非お願い致しますです!」

 

 静かで理性的だったチィエの瞳に、好奇と探求への熱が灯っていた。楽しい玩具を与えられた赤子のようでもある。

 

「そ、それと、畏れ多いのですが、ガジン様の故郷に、古くから伝わる風習はないですか」

「風習? そんなことを聞いてどうする、学術院創設以来の天才が」

「そ、そのようなことはないのです……ただ、理解できる限りを尽くしただけです」

 

 その理解できる範囲がガジンよりもはるかに広範囲に及ぶことを、小さな天才は自覚していないらしい。皇国最難関の試験をたった八歳で突破した記録は、帝の耳にさえ届いているというのに。

 

「記録の収集なら、シスイ家の者を使えばいいのではないか? 家の名を伝えれば『外様』の人間とて粗末には扱うまいよ」

 

 チィエは、ガジンが言ったことに意表を突かれたように棒立ちになっていた。

 

「と、『外様』の方々は我が家を、そのように認識しているのです?」

「なんだ、意外か? シスイ家が帝と共にしたことを考慮すれば、十分なものだと思うが。実際、国にあるすべての領地に教育が行き届くよう諸々整備したのは、シスイ家であろう」

「それはその、そうなのですが……『外様』の方々は、こう、『譜代』の中でも特に高い位の家にある人間を、恨んでいると聞きましたのです」

 

 ガジンは苦笑する。確かに、『外様』の人間は自分達を追いやり下に見る『譜代』の者を嫌ってはいる。だからといって、迫害や殺害などしようとは思わない。なぜなら、相手を虐げればそれは『譜代』と同じになってしまうからだ。

 あまりよろしくない感情の向き方が、排斥することを拒んでいるというのは、皮肉なものである。なにより――。

 

「すくなくとも、生活はずっと豊かになった。そのうえ、犯罪も減ったのだ。自分達の懐を痛めずして得た結果が良好なものなら、誰も文句は言わんよ」

「げ、現金ですね……」

「そんなものだよ。技術の伝来と共に、交通が整備され町には馬車が頻繁に往来することになった反面、飛脚などは廃業する羽目になったようだがな」

「はい、そのことは耳にしています。革新的な技術の到来が、そこにあった本来の役目を奪ってしまった。それでも、わたしは学問、技術は素晴らしいと思うのです。修めれば性別や体格なんて関係なく誰でも使うことができるです」

 

 ガジンは感心する。彼女は、技術によって失われる物があるとわかったうえでそれを開発し普及させようとしている。だからこそ、遺失される伝承や習わしを集めているのだろう。

 

「そうだな、それは、素晴らしいと私も思う。話が逸れた、私の故郷の風習だが……ふむ、そういえば毎年、この時期になると妙なことをやっていたな」

「妙なこと? 祭祀みたいなものです?」

「いや、そんな畏まったものではない。氏族ごとに住んでいる小山の頂上で薪を大きく組み、燃やす。残った灰を村の四隅に重点的に、家の周りに薄く巻く、ただそれだけなのだ。各村も必ずやっていてな、今年も我が村は無事だ、という合図かと思っていたが違った。なんでも火气は邪なものを払うだけでなく、浄化する作用があって灰は浄化の力を強く残している、だからあらかじめ村の周りに撒いておけば安全、ということらしい」

 

 しん……と途端に静かになった。ガジンはチィエを見ると、彼女は目蓋を限界まで見開いて言葉をなくしていた。骨まで上に動こうかという驚きぶりだ。

 

「近年、学術院で特的の木を燃やした灰は、適量であれば土地によい影響があると、やっと証明されたのですが……すごいです、やっぱり『外様』の人々は、古くからそういったことをやってきているから、体の方も適応しているのかもしれないのです」

「ほう、私の氏族の体が生来頑丈なのは、土地柄もある、と」

「断定はできませんが、無いとも言い切れないのです。もうちょっと調べてみないと……あの、よろしければいつかガジン様の故郷に案内してもらえませんでしょうか。地質調査をしてみたいのです」

「かまわんよ、うちの村が国の研究に役立つならな」

「ありがとうございます。それと、その、姉上様は、いつ頃お戻りになられるですか?」

 

 チィエは姉であるイスズのことを誇りに思い、とても懐いている。

 ガジンは、姉妹の中が良好なのはよいことだ。

 

「帰ってくるのも、そう遠くない。安心するといい」

「ほ、本当ですか!?」

 

 子供らしく、チィエは希望に瞳を輝かせた。彼女の姉想いな一面に、ガジンは微笑む。書物に囲まれた蔵にいる少女は、一見では不愛想なように映ったが、年頃の女子のように、大好きな人の事柄に関しては、はしゃぎ回るがごとく嬉しさをあらわした。

 

(素直なのはよいことだ)

 

 男三人の兄弟の次男に生まれたガジンは、あまりチィエのように心から喜ぶことはすくなかった。仲が悪いわけではなく、少女のように表立って感情を出さなかったのだ。兄弟がゆえの気恥ずかしさもあった。また、基本的に自分のことは自分でなんとかするが、家の方針だったので、深くは踏み込まなかった。

 悪くはないが、そこまで仲良くも無い状態、というのが適切だろう。ガジンの仲では、もう何十年も前に出た、あの小さな家の想いではほとんど色あせている。強く残っているのは、夜飯を食い意地張って食い合っていたことくらいである。

 

(まあ、言われれば、きっかけにはなって思い出すだろうが)

 

 生きて来た時間の半分を農村ですごしたガジンにとって、色あせはしても、完璧に忘却してしまうことはない。

 周囲にある大量の書物と同じだ。記憶と言う名のついた本は、頭の中にある棚にしまわれている。それらが、言葉によって手を掛けられて、引き出されるのである。

 書に書き留められない、とりとめもない出来事は、保管されるまでもなく破棄される。ガジンにとって、ただの次男坊であった経験は、ずっと仕舞い続けられる、忘れられない思い出だった。

 

「ん……?」

 

 チィエの反応から、ずっと昔の時間に意識を飛ばしかけていたガジンを、強烈な『气』の流れが引き戻した。相当な使い手が、蔵に向かってきている。

 

「喜べ、チィエ。願いは叶いそうだぞ?」

「え、それは、どういう――」

 

 蔵の扉が開く音がして、チィエも気づいた。彼女にとって一番大好きな人が帰って来たのだ。今にも走り出して、抱きつきたそうだ。

 〈八竜槍〉の前では、そんな行いをすれば失礼にあたると理解している少女は、うずうずとして、身体を動かしている。

 ガジンは、少女の願いをできるだけすぐに実現してあげようと、書物を机に置いて、入り口の方に向かった。遅れてチィエが後ろをついてくる。

 チィエの待ち人は、余裕のあるゆったりとした足取りで歩いて来ていた。

 男装の着流し姿、手には〈八竜槍〉の証明たる〈竜槍〉を手にしている。ガジンとは違い、深緑色だった。それが、ガジンとの適合の優劣をあらわしている。

 〈竜槍〉は本来、白色だ。槍に眠る力を解放して初めて、槍は色と力を取り戻す。それをしていないにも関わらず、槍が色づいているのは、イスズが凄まじい適正を生まれながらにして持っているに他ならない。

 あまりに槍へ感応しすぎたせいで、彼女の美しい、静かな闇色の前髪の一房が、薄い緑色に変色したのは、記憶に新たらしい。

 

「姉上様!」

 

 姿が見えて、もう我慢できなくなってしまったチィエが、姉に向かって走って行った。

 

「こら、チィエ。先生に失礼でしょう」

 

 走って来た妹を抱き留めて、姉は注意する。――声はどう聴いても、再会を喜んでおり、彼女の言葉はいまいち効力を発揮していなそうである。

 だが、いちいち小言を聞かせる気は、ガジンにはなかった。実に半年ぶりの姉妹の再会に水を差すこともないだろうと思ったのである。

 ひとしきり姉妹の交流が終わったところで、チィエがイスズから離れた。

 

「ご案内できず、申し訳ありませんでした、先生。この子はお役に立てましたか?」

 

 ガジンは、手に持った書物をイスズに見せた。

 

「餅は餅屋に、だな。私が探すよりはるかに早く、資料を見つけ出してくれた。――それと、いい加減に先生はよせ」

 

 ガジンは、十七で〈八竜槍〉となった天才児の先生呼びに、背中の手で届かないところがかゆくなるような心持ちだった。イスズに先生と呼ばれるようになったきっかけは、休日に彼女を小さな道場で見つけ、稽古をつけてやった時からだ。

 門弟がひとりしかいない閑散とした道場は、ほとんど主の道楽でやっている場所で、他者からの煩わしい視線も無く、ガジンにとっても鍛錬に丁度よいところだった。

 ガジンがそうやって休日に稽古をつけ続けること、三年。イスズは女性の身でありながら〈八竜槍〉となったのだった。皇国では、女が〈八竜槍〉に名を連ねるのは、初めてであった。そういった経緯があり、イスズがガジンを先生と呼ぶのは、不思議ではない。

 だが、ガジンとしては、彼女に先生と敬われるほど、上等な稽古をしたつもりは欠片もなかった。精々、型が崩れているだとか、踏み込みが甘いだとか、それらしい常識的なことを言って、最後には打ち合っていただけである。これで先生と言われては、ガジンはいささか以上に心地が悪かった。

 ガジンが嫌そうに眉間に皺を作ったが、イスズは苦笑するだけで撤回する気はさらさら無さそうである。人形、鉄面皮などと揶揄される彼女は、親しい者だけに向ける、悪戯っぽい微笑みを浮かべた。

 

「では、師匠と」

「それこそ、止してくれ」

 

 ――もう、この呼ばれ方はずっとこのままだろうな……頑固者め。

 か細く、繊細そうに外面上は見えるイスズだが、中身は鉄にも勝る頑なさがある。

 女の身で槍士になりたいと言った十四であった彼女の願いを、当時、ガジンは止めておけと一蹴した。運動や趣味でやるならともかく、軍属となり長い年月を槍士としてすごすには、女性の身体では辛いからだ。

 平行線を辿り続けた口論は、情けないことに言い負かされたガジンの敗北によって幕を閉じた。口や頭の回りの早さでは、勉学で飯の種を稼いでいる、生粋の学者一族の者には、農村出身のガジンでは敵うはずもなかったのである。

 十四の少女に論破された、威厳もへったくれも無い、しょぼくれた姿の自分が浮かんできた。ガジンは振り払うように、この不毛な問いかけを終わらせた。

 

「〈禍ノ民〉に関する情報はないが、彼らを知っているかもしれない者たちの情報は手に入った。西の氏族たちの村を回ることになりそうだ」

「西、ですか」

「ああ。語り部たちから話を聞く」

「なるほど……。確かに彼らなら、皇都付近に無い、旧い伝承が残っているでしょう」

 

 イスズは左手を細いあご下につけて、思案した。仕草にはどこか奥床しさがある。礼儀作法を日常的に仕込まれ、高等教育を受けてきた人にのみ宿る品位の証左だった。もっとも、すべての貴族がこうではないことは、ガジンは骨の髄まで知っている。いまさらながら、『譜代』の中の『譜代』である彼女と、よくそりがあったものである。

 普通、自らを高貴な者に連なる一族と考えている『譜代』の人々にとって『外様』の人間に教えを請うなど論外である。それがタルカ皇国の皇都に住む者にとっての常識なのだ。

 そういった事情を鑑みると、イスズは相当な変わり者である。帝が言った通りならば、イスズが、ではなく彼女の家――シスイ家が、になるだろうが。

 

「イスズ、チィエ。西の氏族たちの村々で、〈禍ノ民〉について、言い伝えが残っていそうな村に心当たりはないか?」

「ちょっとお待ちくださいです」

 

 チィエが奥へと走って行って、大き目の紙を一枚持って来て、中央の机の上に置いて広げ、ふたりに手招きした。

 ガジンは机に戻ると、広げられている紙に書かれているかなりの精度で描かれたそれを見て、すくなからず驚く。

 

「これは、地図か……」

 

 皇国の西。それもかなり詳細に書き込まれている代物だった。いくつもの点が打たれており、そこに氏族の村があるのだろう。

 

「御察しの通り、これはかなり昔に『外様』の伝承を集めようとした、シスイ家の者が書いた物なのです」

「これはまた、懐かしい物を引っ張り出して来ましたね」

「はい、昔に姉上様と一緒に、こういった物を見て、楽しんでいました! ――あ、ええと、憶測になってしまうのですが、この地図に書かれている最西端にある氏族。皇国からほとんど自治扱いされている場所があるです」

 

 地図の最も左端にある点を、チィエは指差した。

 

「〈遠のき山地〉か……」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七話 弔い、変転

 ガジンは、タルカ皇国の中心である皇都の大通りを歩いていた。

 露店がいくつも立ち並び、数えきれない商店が顔を出している。

 整備された道、巡回する検非違使や槍士たち、商いに励む者と、売り物を見定める客。

 静観とはほど遠い皇都は、今日も賑わっている。多種多様な物資がこの皇都に集められ、また出て行くのだ。『外様』が管理する領地とは比べるべくもない。国にとっての心臓部であり、富と権力が集中するのも、道理である。

 ガジンは先日の会議のやりとりを繰り返し内で再生した。あの光景が皇国が抱えている問題を浮き彫りにしていたのを感じていた。

 国是はすべて皇都で決められるが、その中核となる面子には『外様』は入ることができず、彼らはあくまで組織を回すための手足であり、指令を出す頭脳にはなれない。ただ言われたことをこなすしかないのだ。だからこそ、自分たちの言葉で帝へ直接具申できる機会を逃すまいと、会議では白熱していた。

 自らの意見が、正しいか否かに関係なく、すべて却下されれば誰でも頭にくる。そういった現状を変えようと、意気込んでいた『外様』を押さえようと『譜代』は躍起になり、結果――宮廷は蜂の巣を突いたような喧騒と熱気に包まれたのだった。

 皇国に住まうふたつの民は、心情的には相いれないながらも、ぎりぎり上手くやってきていた。

 刃物の上を素足で歩く、際どい均整の上に成り立っていた平穏が、しかし、打ち破られようとしている。

 

(刃の上から足を滑らせたが最後、待っているのはどう考えても流血への道だ。帝も、誰も、そんなものは望んでいない)

 

 晴れた空から降って来る、やわらかな日差しを受けながら、ガジンは皇都の人々を観察しながら歩いていた。手にはいつもある〈竜槍〉はなく、格好も装備をつけていない、至って普通の着流し姿だった。

 そのため、道行く人々も、ガジンが気配を消して人混みを歩いていることも手伝って、騒ぎにはなっていない。

 時折、ガジンが気配を消して移動していることに疑いを持った検非違使、槍士が近づいたが、顔を見るなり、その場から飛び退いてしまいそうなほど驚いていた。ガジンは手振りで巡回中の彼らに黙っているように伝えると、そそくさと立ち去った。目的の店へは、もうすこしであったからだ。

 皇都に来た頃からガジンがなにかと厄介になっている馴染みの顔がいる店は、商いをする者にとって憧れであり、同じ、もしくはすこし下にいる商人には、打倒すべき敵であった。それだけ多くの者たちへ影響を与える巨大さを持った商家なのである。

 そんな家に嫁いだ顔馴染みの名を、ツオルという。

 ガジンは、立派な門構えの建物の前で止まり、中にいるツオルへ、親友の死をどう伝えたものか悩んだ。結局、誤魔化さずに伝えるしかないと腹を決め、暖簾を潜って店内へ入った。

 店主のツオルは、本人はからくり人形作りを生業としていて、店内には百を超える数の人形が、かた、かた、と音を立てて動いている。ひとつ、ふたつ程度なら物珍しいで終わるだろうが、さすがにこれだけの数があると不気味だった。

 この偏向ぶりを見る通り、ツオルはからくり人形作りだけをしていたかったのだが、ガジンと知り合ってから転機が訪れる。

 本人曰く、鬼嫁に取っ捕まり人生の墓場に頭から入れられた挙句、からくりに目をつけられて様々な品を作らされた。また、人形師としての腕もさることながら、経営にも才覚を発揮し、商才を嫁に証明してしまった彼は、馬車馬のごとく働かされたのだった。

 今は嫁の実家も落ち着き、趣味と実益を兼ねた仕事に没頭できているというわけだ。

 この、割と波乱万丈な人生を送って来ている人物と、ガジンは古い付き合いである。

 そもそも、ツオルが言う鬼嫁と彼を引き合わせるきっかけになったのは、ガジンだった。

 本人は当時のことを話すと、途端に機嫌が悪くなるので、ガジンは心の内でも、できるだけ思い返さないようにしていた。目敏いここの店主は、相手の機微を獣かと思うほど敏感に察知する。

 

「ツオル、いるか?」

 

 からくり人形がいくつも動き合う音以外、なにも聞こえてこない。ガジンは気配を探ろうとしたが、上で物音がしたため止めた。奥にある二階への階段から足音が響く。

 出て来たのは、立派な店構えとは正反対の、質素な服に身を包んだ男だった。痩せすぎもせず、また太ってもいない、一見凡庸そうな男である。

 だが、あくまで見た目だけであることを、ガジンは知っている。気怠そうな半眼の奥にある頭脳には、高度なからくりを実現するに相応しい叡智が詰まっているのだ。でなければ、帝に献上品として贈られるような代物は作れない。

 

「なんだ、なんだ、珍しい客人が、珍しい格好をして来たぞ」

「事前に来ると言っておいただろうに」

「冗談だよ、冗談。でも珍しい格好なのは、違いないだろう。槍も防具もつけていない君なんて、随分と久しぶりに見たよ」

 

 ツオルの言う通りであったので、ガジンは言い返せなかった。〈八竜槍〉になってから気軽に外へ出ることもなくなり、休日にひっそりと宮廷を抜け出しても、市井の者に見つかれば大体騒ぎになる。そのため〈竜槍〉と防具を付けた姿が、ガジンの一張羅になっていたのだった。にやっと、ツオルは笑う。

 

「まあ、いいさ。それでだけど、ご注文の品は、ちょっと無理だった。代わりにこれを取り寄せておいたよ」

 

 ツオルは手に持っていた小さな瓶をガジンに手渡した。中身は酒だ。

 

「いや、かまわない。元々、簡単に手に入るとは思っていなかったからな」

「小瓶一本だけなら、あったらしいんだけどね。こっちが言う前に注文が来てもっていかれてしまったよ」

「そうか……。なら仕方がない。代金だ」

 

 ガジンは金銭をツオルに手渡した。

 

「毎度あり。久しぶりの収入だ。妻に怒られずにすむ」

 

 一応、商人らしいことを言って、ツオルは代金を受け取る。ガジンは閑古鳥が鳴く店内を見た。誰ひとりとして客は入って来ない。

 

「ここは、本当に客が来ないな。すこしぐらい商売っ気を出して宣伝してみたらどうだ」

「嫌だね。道楽でやっているんだ。面倒事は御免だよ。もう、そいつは一生分経験したんだ、あとは自由気ままに僕はやるだけさ」

「あまり自由にやり過ぎていると、愛想を尽かされるぞ」

「そのときはそのときさ。彼女は僕にからくり作りの能力があり続ける限りは、捨てたりはしないよ。だって、商売の種になるからね」

「夫婦仲がよろしいようで、いいことだ」

 

 これだけ自由人だと、制御する方も大変だろう。ガジンはツオルの妻に、すこしばかり同情した。

 

「面倒事に巻き込まれ続けて、色々な方面に耳が聞くようになった」

 

 話の流れを断ち切って、ツオルは言い出した。

 

「それで、嫌な噂を聞いた。とある『外様』が管理する領内の砦で、虐殺が起きたってね」

「…………」

「そこには、僕の記憶が正しいのなら、古い顔馴染みがいたはずだ。でも、彼はそんな簡単に死ぬような人じゃない。だけど、伝わって来た情報は、砦に生き残りはおらず、生存者は無し、という報告だけだった」

「…………」

「ラカンは、死んだんだろう?」

「そう、だ」

「そっか……」

 

 ふたりの間に、長い沈黙が横たわった。

 

「仕事に戻る。そっちも、早めに行ってやったらどうだい。彼も、飲む酒が無くて、きっと困っているよ」

「ああ、そうしよう」

 

 互いにそれ以上は言葉を交わさず、ガジンは店を出て行った。

 それから、親友が眠る墓所へ、真っ直ぐに向かった。太陽が燦々と輝き、その下では忙しなく皇都の民は動き回っている。墓へ行く途中、ガジンは何度も通行人の声を聞いた。

 最近、図に乗っている『外様』に天罰が下っている。虐殺を行ったのは『竜』で、殺された者の中には誰も『譜代』の人間はいなかったらしい。天は裁きを『外様』の連中に与えているのだ。

 何度も聞くうちに、嫌気がしてきたガジンは、歩調を早めて墓場に急いだのだった。

 

 

 ――急転――

 

 

 嫌な天気だ。ガジンは、親友の墓石に供え物を置きながら、そう思った。

 暖気を運んでくる風。青空には小さな雲がいくつか点在し、じめじめした雨の気配など微塵もない、春の空だ。

 ――本当に嫌な天気だ。墓参りのときぐらい、それらしい天気でいればいいものを。

 ガジンは、恨めし気に天を睨みつけながら、最近亡くなった親友の墓石の前に佇んでいた。人を待ちながら、なにをするでもなく、ただ呆然として、一点だけを見つめた。目線の先には、染みのように小さな人間を見下す、どこまで続いて行く天空がそこにあるだけだ。

 天――すなわち神々が住まう地は、地上よりもずっと高い高次元の場所にあり、そこから人間の所業を、裁定者であるかのように見定めているのだという。人に罰を下したのも、神である。

 ガジンは拳を固く握りしめた。神に向かって呪詛を吐きそうになるのをこらえながら、天を睨みつける。

 咎ある者を罰するのが神であるならば、どうしてラカンは死なねばならなかったのか。友は決して天へ背くような行いをしていない。

 人を助け、隣人を愛し、友人と笑い合っていた善良なる人間を殺すとは、いったいどういう了見だ。体を八つ裂きにされる無残な死に方をしていい人物などでは、絶対になかった。

 青空は死者の弔いを嘲っていた。違うならば、このように晴れ渡っているわけがない。

 無念と、無情さが胸中で混じり合い、腹の内にどろどろとした粘着する思いを、ガジンは吐き出してしまいそうだった。

 だが、それはしなかった。ここは墓場。死した者が眠る場所。獣のごとき咆哮を聞けば、死者は安らかに眠り続けることはできまい。

 ぐっと喉までせりあがって来た激情を呑み込んだ。また熱くなってきた目頭を押さえて、涙が出ないように努めた。いい年をした大人が、そう易々と泣いてよいものでない。

 鬱屈した気持ちを紛らわすため、ガジンは血が凝り固まってしまったような重い足取りで墓場を歩きはじめた。

 墓参りの集合場所としてガジンが指定したここは、歴代の〈八竜槍〉や、国に多大な貢献をしたもの、帝に認められた勇士が埋葬される特別な墓所だ。当然、国にとって重要な区域であるため、厳重に警備されている。墓守の数も、他と比べればはるかに多い。

 ここに葬られる人間は、国の誰もが認める途轍もない貢献を為した者しかいない。古い人物であろうと、人々に聞けば、功績の内容は知らないが名前は誰でも知っているといった具合である。近年の偉人であれば、詳しいことまで誰でも知っている。

 そういった意味ではラカンに資格はない。表立った功績はないかだら。だが、表に出せない事件をいくつも解決してきたからこそ、帝はラカンの遺体をここに埋葬することを許したのだろう。

 ガジンは、昔の出来事を思い出しながら墓所をふらふらと歩き回った。

 皇国の歴史上、この墓所に眠る者は〈八竜槍〉を除けば百に満たない。槍士だけに限定すればさらに少なくなる。国に名を刻んだ親友を、誇らしく思いつつも、突然いなくなってしまったことに、深い喪失感が心に穴を穿った。寒々しい突風が、穴から吹き出て来る。――――ガジンは、すこし歩調を早めた。

 ぐるりと辺りを回っていると、ひと際大きな碑がガジンの視界に映った。

 碑には歴代の〈八竜槍〉の名が刻まれている。碑は複数あり、丁寧に保管されているとはいえ、劣化の痕が垣間見える。どうやら、古めかしさの度合いを見るに、右から順々に古い物が並べられていた。最も新しい物を見ると、ガジンと名が彫られている。

 ――墓場に碑があるというのはどうなのだ。

 すでに自分の名前はある。まだ死んでもいないのに、墓場に自身の名があるというのは、なんとも妙な気分にさせられた。

 ガジンは碑から目を離して、入り口の方を見たが、待ち人はまだ来ていない。

 

(相変わらず、時間ぎりぎりに来るやつらだ)

 

 軽くため息を吐きそうになった。仕方がないので時間を潰そうと、ガジンは辺りを見回したが、ここは墓所である。暇を潰せる娯楽があるわけがない。あるのは墓石に碑、それと静けさだけである。

 ガジンは先ほどまで見ていた碑をもう一度、物珍し気に見た。歴代の先達の名に興味がわいたのもあった。実は、ガジンはここに来るのは初めてである。基本的に立ち入りを禁止され、聖域扱いされているためだ。よく碑を観察する。

 

「……立派な物だな」

 

 墓所にある墓石は、どれも熟練の石工が作り出したものだ。素人のガジンから見ても、これだけで一財産築けるのではないかと思うぐらいであったが、碑に関しては別格のように感じられた。

 〈八竜槍〉の名を彫る代物であるから、天賦の才を持った人間が作り出したのだろう。

 

(ふむ、よく見れば、どれも違う彫り方をされている気がするな)

 

 新しい物から古い物へ、順々に名を見ながら、確認していく。稀代の名工たちの作品を堪能しながら、最も古い碑を見た。そこには、天命を受けた帝を守護していた、初代〈八竜槍〉の名があった。そこで初めて、ガジンは初代たちの名を知った。伝説にも無い初代たちの名に声を出しそうになるほど驚いた。

 

「……? 七人しかない。――どうして」

 

 〈竜槍〉の銘と、使い手の名が彫られているが、その数が足りなかった。そして、残されていない八人目の名が、初代たちの長的立場にいた人物だと、ガジンは気づいた。

 伝説によればその者は〈龍王槍〉を振るい、『合气』と呼ばれる特異な才能を持っていたという。それは感じ取った相手の『气』の動きを完璧に再現できるというものだ。

 あらゆる槍技を使いこなし〈龍王槍〉を使えば他の〈八竜槍〉すべてを相手取れるほど、圧倒的な使い手であった――そう伝わっている。そのような凄まじい偉人の名が残っていないことに、ガジンは違和感を覚えた。

 だが、その小さな疑問は、入り口に来た気配が消してしまった。ガジンは集合場所であるラカンの墓まで戻った。

 

「名所観光は済んだのか?」

「馬鹿なことを言うな――遅いぞ、お前ら」

「大将が早すぎるだけでさァ」

「時間よりずっと早く来るのは、変わんないねえ」

 

 軽口を叩き合って、四人は墓の前に並ぶ。彼らは持ち寄った供え物を置いた。すべて、生前のラカンの好物である。

 

「ん、おい、ガジン。酒が置いてあるが、お前か?」

 

 数が合わないことに気がついたロウハが言った。

 

「いや、私は別の物を持ってきた。他の誰かだとは思うが……」

 

 ――いったい、誰が?

 左右に視線を巡らせると、背を向けて足音ひとつ立てずに去って行く、白髪の男性の姿があった。まるで風のようだった。

 

「〈影〉の者か?」

「っぽいねェ。大将らに気配を完璧に察知されないなんて、相当な手練れですぜ」

 

 情報収集のために〈影〉を使う機会は何度もあったガジンだったが、あのような初老の男は一度も会ったことはなかった。もしかしたら、引退した〈影〉の者かもしれない。

 ガジンは男の背に軽く頭を下げたあと、彼が持参した供え物を見た。

 

「これは、ラカンが一番美味いとうるさかった酒か?」

 

 小さな白磁の瓶には、生前にラカンがことあるごとに言っていた名があった。

 

「あ、本当だ。でもこれ、美味しいんだけど、高いんだよね……」

「酒のことについては、本当にこだわっていた――というか、うるさかったからな、あいつは」

 

 嫌なことを思い出したようで、ロウハは眉をひそめた。ガジンには、なにを思い出しているのか、大体見当がついていた。おそらく、ロウハが思い出しているだろう場面に、自身も居合わせたからだ。

 交流を深めようと、ラカンが勧める酒屋に入り、酒を飲んで場が温まって来たあたりで、ロウハが導火線に火をつける愚行を犯してしまったのである。

 

『かなり美味いな。他にも色々あるのか?』

 

 家が貧困に喘いでいたロウハにとって、値段のわりに驚くほどに美味であった酒について問うことを、誰も責められはしまい。たとえそれが、ほどよく回った酔いを完全に覚めさせてしまうきっかけになってしまったとしても。

 それ以上は思い出したくなかったので、ガジンは遠い過去に云っていた意識を、頭を強く振って現実に引き戻した。

 

「んん? でもこいつァ、ラカンが勧めてた酒だって知ってるやつは限られてると思うんですがねェ」

「それに、あれだね。ここに入れるくらいには地位があるんだろう。そんな人は、ぼくが知る限りだとちょっと思い当たらないな」

 

 ガジンは、ラカンの交友関係をすべて把握していたわけでは勿論ない。だが、彼が自分の好いている酒を勧める程度には仲が深い相手ぐらいなら大体は知り得ていたし、顔も合わせている。しかし、その者達はここに即、足を運べるほどの地位におらず、権力も無い。

 ――誰だ? この送り主は?

 考えても、答えは見つからなかった。

 

「酔った勢いで、口を滑らせたか? ――いや、あの酒馬鹿に関して、それはないな」

「酒の情報に関しちゃ、意外とケチだったしなァ」

「いや、ラカンのあれは、ケチとはちょっと違うと思うよ? 飲む人に合った物を勧めていたというか、なんというか……」

 

 口々に亡くなった友について意見を交換し合う三人。ガジンだけが会話に参加せず、ロウハが言ったことについて、考えていた。

 

(酔った勢いで……? なんだ、なにかが引っかかる)

 

 無類の酒好きと呆れられたラカンが、酔いに任せて美味い酒の情報を吐き出すはずがない。だが――そう、一度だけ、たった一度だけ、あったような気がするのだ。ほろ酔い状態のようにガジンの記憶にもやがかかってはいたが、確信があった。――これは、絶対にろくでもない記憶だ。

 霞がかかっていた記憶が開示され始めると、ガジンの顔色はどんどん悪くなっていった。

 

「おい、なんだその顔は? また厄介事か」

 

 警戒した顔持ちで、ロウハが若干ガジンから距離を取りながら聞いた。

 

「先代帝と飲んだとき……」

 

 ぼそっと、小さな声でガジンは言った。言いたくなくてたまらないと、声量が物語っている。

 

「待て待て、思い出したくないことを穿り返すなッ!」

 

 左手で顔を覆って、ロウハは右手でガジンを制した。

 

「私だって思い出したくない。だが、あのときぐらいだろう。ラカンがべらべらと酒について話したのは」

「ああァ……大将とロウハが〈八竜槍〉になったあとでしたっけ。先代帝と一献交わしたってのは」

「あれ、明らかに人選間違えたよね――先代がお酒が得意じゃないって言うから、ラカンを連れて行って美味い物を飲ませてさしあげようとってやつ」

「酷かった……先代はラカンが持参した酒に酔いに酔うは、二人供ざるだったせいで、こっちは酔い潰されるわ……」

 

 悪夢を見た朝のように顔色がおかしくなったホウリとロウハを無視して、ガジンは続けた。

 

「ラカンがあれこれと先代に語っていただろう。多分、そのときだ」

「いやでも、先代はもう、お亡くなりに……」

「その席に、今代の帝がいらっしゃっただろう」

「あー……あのせいで、帝が酒嫌いになった……」

「言うな、ホウリ……。多分、これは帝からの贈り物だ」

「冥土への餞別だろう、きっと。当てつけで送るような、器の小さい御方ではないからな。――――多分だが」

 

 広間でラカンについて語っていた帝の様子から、私怨で送ったわけがない。そもそも、今代の帝は歴代と比較すると、感情そのものが無い印象を皆が受けている。あの厳冬のような眼差しに晒されれば、誰でもそう思う。そんな人物がたかだが酒の席で酔った程度のことを根に持っているはずがない。

 ガジンは、そう考えることにした。そして、この話題についてはもう触れないことに決める。

 昔の思い出を一旦、胸の奥に仕舞いこみ、両手を合わせて親友の冥福を祈った。他の三人も祈る。

 それからすこし経って、ガジンが口を開いた。

 

「現状の問題は」

 

 空気を変えるように語調を強めて、一度言葉を区切った。

 

「今回の件での各所の反応だ。『譜代』の方はどうだ、ホウリ」

 

「え、あ、ああ……。金銭面では大丈夫だよ。不満が出ないよう、上手いこと調整したから。ハヌイ殿も納得してもらっているしね」

「ロウハ、槍士の様子はどうだ?」

「混乱は起きていない。だが、浮足立っている。なにせ、事が事だ。『竜』が襲い掛かってくるのではと、怖じても文句は言えん。それと、ラカンを知る者が、あいつの死を知って酷く動揺していたな。あれが殺されるのならば、自分はどうなんだ――とな」

「クウロ、市井の様子は?」

「まだまだ、呑気なもんでさァ。自分たちに被害がくる、とは皇都の連中は思ってもいねェようですぜ。――ただ、噂が確証に変っちまったら、どうなるかはちょいと予測がつきやせん。勿論悪い方向に、です」

 

 各々から報告を聞いて、ガジンは出発の予定を早める必要に駆られた。クウロが言ったが、噂を皇都に住み人々が確信してしまえば、大混乱が起きる可能性が高い。

 今はまだ『外様』だけに被害が収まっているため、過剰な反応は出ていない。もし、『譜代』が『竜』に襲われ、殺されでもしたら……。

 愚かな『外様』に天は罰を与えているのだという、根拠の無い精神的支柱がへし折れたら、彼等がどのような行動に出るかわからないのだ。

 

「そっちはどうなんだ、ガジン。手掛かりは見つかったのか」

「ああ、イスズの実家にある蔵の書物から、見つけることができた」

 

 先日、蔵で見つけた書物の内容について、ガジンは皆に話した。

 これから行くべき場所の名を告げると、ホウリが微妙な顔をする。

 

「〈遠のき山地〉かあ……。あそこの領主は、問題を起こしたとかそういう話は全然聞かないから、大丈夫だとは思うんだけど、逆にいい噂も聞かないんだよね。至って普通、というか」

「まずいのは〈深き山ノ民〉だろうよ。彼らは排他的だと聞く。実際、国ができてから、でかい戦を起こしたやつらだ」

 

 ロウハは「大丈夫なのか」――とガジンの身を案じて、心掛かりそうに言った。

 

「諍いを起こしているわけでもない。心配はないだろう、出たとこ勝負になるのは昔からだ」

 

 肩をすくめて、ガジンは諦めた風に言う。厄介事が向こう側から全力疾走してくることには、もう慣れていた。

 

「付き合う身にもなってくださいよォ」

「しょうがないよ、ガジンにとっては運命みたいなものだし」

「そんな物、天に蹴り飛ばして返却したいところだ」

 

 それから四人は、他愛の無い応酬を繰り返した。互いの情報を交換し終えると、親友が絡んだ昔話に花を咲かせた。幾刻か時間が経ち、解散しようとしたときであった。

 音もなく、黒い影がいくつもの墓石の合間を縫って近づいて来たのである。当然、ガジン、ロウハ、クウロはすぐに気がついた。

 

「〈影〉の人、だね」

 

 ホウリが、他の三人に遅れて気配を察知した。

 

「おい、ガジン。今度はなにを運んで来やがったお前」

「なんでもかんでも私のせいにするの、止めないか?」

「断る。身をもって知っているからな」

 

 ガジンは親友に苦情を申し立てたが、届くことなく却下された。とにかく、ガジンも〈影〉を感覚で捉えていたから、様子のおかしさはわかっていた。

 向かって来ている〈影〉は随分と焦っている。感じ取られるだけでも『气』にかなりの揺らぎがある。

 『气』が揺れるということは、体の動きになんらの変調があらわれる。つまり、慌ただしいのだ。子供がどたばたと廊下を走り回るように、である。

 

「ガジン様、ロウハ様、ご報告申し上げます」

 

 〈影〉の若者は、よほど無理をしてきたのか、跪いても肩を上下させ、息が弾んでいた。

 

「『外様』の領内を回っていた『譜代』の庄家の一団が『竜』に襲われ、壊滅したとのこと」

 

 砦の一件から、雪崩のごとく凄まじい勢いで流れ込んで来る報告を、いい加減止めなければならない。ガジンは終止符を打つべく、〈影〉から詳細を聞き終えると、決心した。

 

「クウロ、明日〈遠のき山地〉へ向かう。手掛かりが見つかればそのまま現場へ直行する。長丁場になるが付いて来い」

 

 もはや、状況が静観を許さない境界線まで来てしまった。座していて、事態が好転することはあり得ない。ちまちまと小さな火消しをしたところで、山火事は鎮火しない。

 クウロは、上司の指示に黙ってうなずき、了承の意を示した。

 

「気を付けてよ? この状態で〈八竜槍〉がひとり欠けでもしたら、もっと大変なことになるんだからさ」

「わかっている。吉報を待っていろ」

「頼むから、凶報を持ってくるなよ?」

「保証はできん」――そう言ってガジンは墓に背を向けて、外へと歩いて行った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八話 細い糸を手繰って 前編

 ガジンは、どこを向いても緑一色の景色が広がる、山間の細い道を歩いていた。

 

「いやァ……こいつは、中々に手強い場所でさァな。本当に、この先に人が住んでるんですかね?」

 

 悪路と格闘しながら隣を歩くクウロが、愚痴を言う。

 此処は、皇国の最西端。国で最も深い山々が多くあると言われる山地だ。

 この地の名を〈遠のき山地〉。人が足を遠のかすほどに深い山々のため、そう名付けられた。ガジンは、ここに住む氏族――〈深き山ノ民〉を訪ねて来たのだ。

 

「領主から、ここの者達が税を納めていると言っていただろう」

 

 皇国領に住む者ならば、税を支払わなければならない。此処に住む氏族も例外ではないのだ。領主は、彼らからしっかりと税を取っている。

 

「そりゃ、そうですがねェ……。山地の入り口辺りで、税を徴税官に渡すなんざ、聞いたことがありませんや。第一、そんなやり方じゃ、村の人口だって把握できやせんでしょうに」

 

 ガジンも、〈遠のき山地〉に住む氏族と領主の間で行われる徴税の仕方には、驚かされた。

 クウロが言うように、村の人口や家畜などなど、直接確認しなければわからない事柄は沢山ある。業務を怠れば、脱税など簡単になってしまうだろう。そして、責任を問われるのは、周り巡って領主になる。それがわからぬほど、愚物ではあるまい。

 ガジンは、領主に直に会ってみたところ、責任を放棄し逃れるような人物には感じられなかった。てきぱきとした指示や、応対も、能力が無いとは思えなかった。

 実際、記録によると、ここの領主は問題を起こしたことは、過去百年一度も無いという勤勉ぶりだ。態度の端々からも、帝への忠誠が滲み出ていた。

 二人は、そんな者が、このような杜撰な徴税の仕方をしているのが、信じられなかった。

 

「ここの氏族は、昔、国と随分と揉めた。お前も、聞いたことがあるだろう」

「そりゃ、ありますよ。氏族と戦うために、兵を二千ほど送ったら、誰一人帰って来なかったっていう、あの話でしょう?」

 

 〈遠のき山地〉の氏族達は過去に、国と大規模な戦闘を行っている。タルカが建国され、各氏族達が恭順の意を示す中、頑なに要請を拒み続け、拗れに拗れた結果、戦いにまで発展したのだ。

 当時、帝は何度も降伏するよう勧告したが、〈深き山ノ民〉はこれを全て無視。――この首を取りたくば、山々を超え、我が元へ来るがいい。そう言い放った。この返答をもって、帝は彼らを賊軍とみなし、戦いは始まった。

 〈深き山ノ民〉の戦力は二百から三百程度の兵数であった。対して、帝は二千の兵を送り、有能な将をつけ、征伐に向かわせた。結果は、惨敗。二千の兵は、誰一人として帰らなかった。

 

「〈深き山ノ民〉一人一人が強かったらしいが、皇国軍を殺戮せしめたのは、今、私達が歩いている、この山々だという。獣、病、地形、自然全てを敵に回した皇国軍は、逆に全てを味方につけた〈深き山ノ民〉に成す術がなかったそうだ――――ほら、あの藪の下を見ろ。かつて兵が使っていただろう兜が見えるぞ」

「ッゲ?! 本当ですかい!?」

「――――冗談だ」

「た、大将ォ……」

 

 呪い、幽霊といったものが大の苦手な副官をからかって、ガジンは笑った。

 

「だが〈深き山ノ民〉も無傷ではない。最後には彼らは皇国と講和し、この〈遠のき山地〉も皇国の領地となった、というわけだ。つまり、私達は今、まさに昔の兵達と同じ状況にあるやもしれんな?」

「大将、お願いですから、からかわんでください。俺がそういう話は滅法駄目だって、知ってやすでしょう?」

 

 きょろきょろと辺りを見回すようになった彼に、ガジンは余計に笑みを深めた。

 〈遠のき山地〉と名付けられるだけはある。皇都に満ちている、喧騒からは無縁の大自然は、友人を失った悲しみを、和らげてくれた。隣に、気心の知れた者しかいないのも、気分を楽にしてくれる。

 木々のせせらぎや木漏れ日は、どうしてここまで、心を安らげてくれるのだろう。

 この山々が、自らが背負った立場から、心まで遠のかせてくれているのならば、礼を言いたい気分だった。

 

「すまん、すまん。だが、過去にそういうことがあったのだ。何かしら、氏族と国との間で、我らが知らぬ密約が交わされていたとしても、不思議はあるまい」

「まァ、確かに。領主も、ここの奴らを憎らしいとは、思っていなかったようですし」

 

 ガジンは、領主の応対から――貴方達にはわからぬよ、と、言外に領主から告げられていた気がした。領主と〈深き山ノ民〉との間には、不思議な信頼関係があるようだ。

 

「だから、ですかねェ。俺達、二人だけで山に入ることを了承したのは」

「〈八竜槍〉に何かあれば大事だが、あっさりと要望が通ったのは、驚きではあったな」

 

 ガジンは頭上を見ながら足を進める。

 

「〈竜槍〉を持つ者が、遭難して死んだなど、笑いの種にもならんだろうにな。まあ、楽でいい」

 

 こん……と、十数年の付き合いになる〈竜槍〉を指で軽く叩いた。

 

「大将が餓えて死ぬところなんざ、想像もできませんがね!」

 

 がはは、とクウロは笑う。遠慮がない大声が、周囲に響き渡った。雑踏が全くないこの場所は、人の行動がとても目立つ。斥候でもいたら、すぐに発見されてしまうだろう。仮に、野盗の類がいたとしても、ガジンが持つ〈竜槍〉を目にした瞬間、一斉に逃げ出すであろうが。

 

「それなりに狩りはできるからな……。――さて、そろそろ、出て来ないか。村へ案内してもらいたいのだが」

 

 細い、土色の道の横合いから、驚きに満ちた気配があった。がさがさと物音が立つと、藪の中から、一人の青年が出て来た。

 

「驚嘆いたしました。いつから、お気づきに?」

「此処に入った時からだ。クウロも、私も、気付いていた。森林浴は、もう十分堪能させてもらった。すまないが、案内を頼めるか」

「仰せのままに」

 

 恭しく頷くと、青年は歩き出した。付いて来い、という合図だろう。彼の背を、二人は追い始めた。

 

「道から逸れぬよう、お気を付けください。もし、道から外れれば、地元の者以外は、命はありませんので」

「か細い、茶色の道が、俺らの生命線ってわけかい」

 

 過去、この地を訪れた兵達は、道から外れ、悲惨な末路を辿ったのだろうか。

 ガジンは、藪の奥へ目を凝らした。あるのは、木々が作り出した、濃い影のみだった。

 この影が、幾人もの人の命を呑み込んでいったのだ。久しく感じていなかった恐怖が、腹の底から蘇ってくる。

 

「村は、何処に?」

「申し訳ありません。掟によって、村の位置は、部外者には教えてはならぬことになっているのです」

「私達との経緯を鑑みれば、当然か」

 

 若者は、ガジンの言葉を訂正するように、立ち止まった。

 

「思い違い無きよう。我ら〈深き山ノ民〉は、過去の争いについては、決着がついております。今日まで、憎しみの炎が我らの内にくすぶり続けているのならば、領主と良好な関係は築けません。それは、お目になったはず」

「そうだったな。栓の無いことを言った。許してほしい」

 

 青年は軽く頭を下げた。

 それから三人は、黙々と足を動かし続けた。日が、すこし傾き始めた頃、ガジンは村の入り口らしき物を発見した。木と木の間を、縄か何かで繋げている。とても簡易的な、門のように見えた。その下を通り過ぎて、すこし歩くと、左右にずっとあった藪や木々が無くなり、視界が開けた。

 

「へェ……」

 

 クウロが感嘆の息を漏らした。四方を山で囲まれた〈深き山ノ民〉の村は、素朴そのものといった風であった。村人達の姿が、ガジンに故郷を思い出させる。

 

「どうぞ、こちらへ。氏族長の家へ案内いたします」

 

 二人は、青年の背を追いながら、〈深き山ノ民〉の生活ぶりを目にしていた。

 皇都では、彼らは未開の民と嘲られているが、民家を見る限り、そこまで原始的生活をしているようには見えない。

 茅葺の屋根に、軒下には縁側があった。驚いたのは、障子戸まであったことだが、それ以外は、皇国で一般的な村落と何ら変わりがない。最近、皇都付近では、瓦屋根が主流となってきたが、全ての村に普及するほどではない。

 

「驚かれましたか。我らが、貴方達と、何ら変わりない生活を送っていることを」

「おう。ちょいとな……ん?」

 

 クウロが、漂ってくるいい匂いにつられて、鼻をすんすんと動かす。

 

「クウロ。行儀が悪いぞ」

「いやァ、朝っぱらから何も食ってないもんでさァ。腹が減るのはしょうがないってなもんでしょう?」

 

 察するに、おそらく鍋物だろう。風に乗ってくる味噌の良い、美味そうな匂いが鼻孔を刺激する。ガジンは、口の中に唾液が広がるのがわかった。

 

「長が、食事の準備をしているはずです。もう少々、歩けば食にありつけますよ」

「そいつァ、いい。さ、早く行きましょうぜ、大将」

 

 調子のいい副官に苦笑しながら、ガジンは歩いた。村には、いくつもの家屋が建っている。

 村の家々は、針の穴を通すような、精緻を極めて作られ、家の並びまで整備された皇都とは違う。適当な間隔で建てられている家々を目にしたガジンの脳裏には、今はほとんど訪れなくなった、故郷が重なった。

 畦道で遊ぶ子供。稲を刈る大人。家では男達の帰りを待ちながら、食事を作る女達。

 ただの農家に生まれ、三男坊として育った、懐かしい場所。今はどうなっているだろうか。

 

(もう、随分と帰っていないな。最後に、帰郷したのは、いつだったか……)

 

 流行り病で、両親が死に、長男は家を継いで畑を耕している。次男は、皇都の商家に婿入りした。兄達とも、長い間会っていない。

 ――最後に顔を合わせたのは、五年ほど前になるか。

 それ以来、家族とは会っていない。〈竜槍〉となってそれなりに経つ。先代たちが〈八竜槍〉から退き、自分とロウハが長と副長のような立場になった。そうなると、家族はともかく、他は見る目が変わる。ただでさえ〈八竜槍〉となった際にも、彼らはよそよそしい、他人行儀になったのだ。それに、頻繁に家族と会うと、彼らにも色々と負担がかかる。

 たとえ、血の繋がった兄弟であっても、国で最も重要視される役職に就いた弟と、気軽には話せない。そういった経緯があり、ガジンは家族と会うことを、しなくなっていた。

 

「いかがされました」

「うん?」

「望郷を帯びた目を、しておられました。『气』も、先程までと違って、かなり揺れておりますが……何か、気に障ることでも?」

 

 青年は、ガジンの眼に映った、一抹の寂しさを感じ取っていたようだ。

 二十は歳が離れているだろう青年に心配され、ガジンは思わず苦笑してしまった。

 

「いや、いや。別に気に触ったわけではない。ここの景色がな、私の故郷に似ていて、懐かしかっただけだ。私は、『外様』の出身ゆえな」

 

 あまり表情を映さなかった青年の顔が動いた。眉がすこしあがって、瞳には驚きの色がある。

 

「なんでェ、皇都出身の奴ら以外が、〈八竜槍〉に選ばれてるのが、そんなにおかしいか?」

 

 クウロは、問い質すような口調で言った。

 タルカ皇国には、大別して二つの民がいる。過去にあった大きな争いで、帝側についた者達を『譜代』。敵側についた者達を『外様』と呼ぶ。

 『譜代』は皇都、もしくは近くに住むことを許され、『外様』は特別な事情が無ければ許されていない。この区別は、村人でさえも徹底して行われている。

 『外様』が『譜代』の領地に住むことを許されるのは、前者が後者に嫁入り、婿入りする時ぐらいだ。または、相当に特異な才を持つ者に限られている。ガジンは、その特異な才を持つ者の一人だったのだ。

 

「正直に申し上げれば、〈八竜槍〉は、代々『譜代』の中から選ばれると考えておりました。建国からの習わしだと」

「まあ、普通はそうなのだ。ただ、偶々、私の村に来ていた、当時の〈八竜槍〉の先達が、私を取り立ててくださったのだ」

「いやァ、大将の場合、取り立てられたっていうより、連行されたっていう方が、近いんじゃないですかね?」

「こら、若者に変なことを吹き込むんじゃあない」

「――?」

 

 青年は、歩きながら、首を傾げていた。ガジンは、苦々しい思い出を語るように、眉間に皺を寄せながら、話し出した。――ちょっとクウロを睨みつけつつ。

 

「そも、先達が村に立ち寄ったのは、皇都付近で暴れ回っていた、大規模な野盗を掃討した際の生き残りが、私の故郷近くに潜伏していたからなのだ」

 

 ああ――と若者が、昔に起きた出来事を思い出したように、頷いた。

 

「百人ほどの、かなり大規模な野盗が討伐されたと聞きました」

「そうだ。ただ、首魁と一部の者達は捕縛しきれなかった。私の村近くに潜伏した奴らは、あろうことか、収穫期の野菜や稲を奪って行ったのだ。被害は、私の家の畑にまで及んだ」

「で、怒りに怒った大将が、槍片手に単身残党に突っ込んで行って、ぼこぼこにしたわけよ」

 

 ガジンが怒り心頭になるのも当然である。収穫期の野菜、稲は村の貴重な収入源兼栄養だ。

 そんな時期に畑を荒らす者達など、盗人同然である。猛りに猛ったガジンの槍は、残党共を打ち据え、行動不能にするには、十分すぎる威力を持っていた。

 

「当然の帰結ですね。収穫期の畑を襲うなど、打ち首にしてもまだ、罪は余りある――それで、功績を認められた貴方様は、先達に取り立てられたということですか」

「いや、まあ……首魁を叩き潰した後にやって来た先達を、野盗の援軍だと勘違いして、襲いかかってしまってな……」

「それで、若かった大将の腕前に惚れ込んだ先達が、任務を邪魔したってェ理由で皇都に連行して、そのまま槍の手ほどきを受けて才能を開花させ、〈八竜槍〉に選ばれたってわけだ」

「えぇ…………」

 

 予想外すぎた話の結末に、若者が戸惑っていた。〈八竜槍〉たる者が、このような身上で今の地位についたなどと聞かされれば、普通の反応である。

 

「――さ、さて、そろそろ着かないか?」

 

 わざとらしく咳払いして、ガジンは先を急かした。〈深き山ノ民〉の青年は、聞いたことを固く胸の内にしまってくれるらしい。何も聞かずに「あの家です」と一つの家を指さしてくれた。

 氏族長の家は、なだらかな平地の中で、そこだけひょっこりと顔を出すように高い。

 あそこから見る景色は、村全体を見渡せるだろう。

 三人は、ちょっとした勾配をのぼって、氏族長の玄関口に辿り着いた。

 

「長、お連れしました」

 

 青年が言うと、家の裏手から声があがった。「こちらへ」青年は先導する。

 ガジンとクウロはここまで来た時と同じように付いて行った。

 玄関から裏側に回ると、縁側で一人の老人が腰かけていた。皺だらけの顔と手が、衣から出ている。瞼は潰れたように閉じられていた。だが、ガジンは自分を見た一瞬、分厚い瞼の奥に光った眼光を見逃さなかった。

 

「ようこそ、おいでくださいました。ささ、どうぞ、おあがりください」

 

 〈八竜槍〉を前にしても、特に緊張した様子はない。立ち上がると、縁側の部屋に手招きをした。ゆったりとした振る舞いから、何事も焦らずに、どっしりと構えているように感じられ、含蓄に富んだ人物のように思われる。

 

「失礼」

「お邪魔しやァす」

 

 丸っきり、近所の子供が家にあがるような態度のクウロに苦言を呈しようとしたが、止めておいた。氏族長は、むしろそんな彼の態度に、笑みを深めていたからだ。

 ――子ども扱いされている気がしないでもないが……。いや、この人からすれば、私も子供同然か。

 今年で三十五になるガジンだが、氏族長の年齢は、どう見積もっても七十を超えていよう。彼から見れば、自分も子供なのかもしれない。

 

「遠いところから、よう来なさった。さ、まずは腹ごしらえ。どうぞ、良い具合な時に来られた」

 

 囲炉裏には鍋がかけてあって、氏族長が言うように、ちょうどいい塩梅に煮えていた。

 山で採れた山菜と、猪の肉を味噌で煮詰めた鍋は、朝から歩き詰めのガジンの胃が、途端に空腹を訴え始めるほどに、良い匂いだった。クウロに至っては、もう食う気満々で、よだれが垂れそうな気配すらある。

 

「お心遣い、ありがたく頂戴いたす」

「ご馳走になりやァす」

 

 ガジンとクウロは、氏族長と対面できる位置に座って、置かれていた椀と箸を手に取った。

 クウロは、木杓子で鍋の中身をちょっと回すと、封じられていたものが解放されるように、更に良い匂いが立ち上った。彼は、椀の中にたっぷりと中身を入れると、ガジンに手渡す。

 

「いただきます」

 

 軽く頭を下げる。

 

「ええ、召し上がってください」

 

 二人は、一応料理に毒などが入っていないか確認し、口を付けた。

 

「長、私はこれで失礼いたします」

「うむ、ご苦労であったな」

 

 さっと、素早い身のこなしで、青年は音も立てずに去って行った。

 二人は、若者が去って行ったのを目で追った後、口も開かずに黙々と食べ始めた。

 過ごしやすい気候の中であったとはいえ、悪路をずっと休みなしで歩いて来た体は、休息と栄養を求めていた。応じるように、ガジンは箸を動かし続ける。

 

「ここはよいところで、特段、富んではいませんが、貧しくもありません。静かで、穏やかな生活ができる。まこと、〈竜守ノ民〉の方々は、我らに良い土地をくだされた。――――皇国では〈禍ノ民〉と言われておるようですが」

 

 二人の手が、止まった。氏族長に変った様子は、ない。

 ガジンは、椀の中身を平らげると、箸を置いた。

 

「やはり、ここに来たのは正解でありましたな。何が起きたか、おわかりで?」

「すこし前、砦で虐殺が行われたのは、存じ上げております。それをしたのが『竜』だということも」

 

 二人の眼が、す……っと、細められた。

 

「怖いねェ。この辺鄙なところで、どうやって情報を仕入れてるんで?」

「皇国は、いくつもの氏族達が、帝という光に集まってできた国。我らがここに移り住んでからも、各氏族との間に築かれた絆は、何百と時間が経とうとも、易々と消えることはありますまい」

 

 今の皇国領にいる者達の過去を辿っていけば、大体は各氏族に分けられる。

 数百も時間を巻き戻せば、皇国の民は自身に流れている血が、どの氏族に属するかわかる。

 だが、現在、それはかなり難しい。すでにいくつもの氏族の血が途絶え、混じり合ってしまっているため、判別自体ができないことの方が多い。それこそ、貴族連中のように家系図を残しておいてでもしなければ、祖先を知るのはまず不可能だ。

 一般では『外様』か『譜代』かで、自身がどのような階層にいるのかを分別するのが普通である。そのどちらかであれば、皇国の民は、祖先が誰であれ、どうでもよいのだ。

 しかし、氏族長が言うように、長い間、お互いを助け合い、時には傷つけてきた氏族達の関係は、皇国の歴史よりも長い。皇国ができあがり、見えない絆は、ぷっつりと断ち切られたように見えていた……表面上は。

 

「〈影〉に匹敵する、とは言いませんが、我らもそれなりに国の事情には明るいつもりです。まあ、さきほどの者は、腕はよいのですが外にはとんと関心がないせいで、最近のことについては正に世間知らずなわけですが」

 

 〈影〉――すなわち、皇国が抱える諜報機関の名称である。

 その名を持ち出し、比較するということは、彼らは高度な情報網を持っているということか。薄い紙が敷かれた下には、網目のように、各氏族達が密に連絡を取り合っているとでもいうのだろうか。

 

「そして、生き残ったのが〈青眼〉をした若い男だということも。そう、私のような眼をした者が、生き残った」

 

 氏族長が、閉じられていた瞼を開いた。下にあったのは、くすんではいるものの、確かに青い瞳だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八話 細い糸を手繰って 後編

「もっとも、彼が生き残ったのは〈青眼〉だからではありませぬ。それは、わかっておられるでしょう」

 

 沈黙が、暗幕のように降りた。幕を先に開けたのは、ガジンだった。

 

 ぱんぱん、と膝を打って、明け透けに話し出した。

 

「いや、驚きましたな。――成程、貴方には、変に隠し事も、取り繕う意味もなさそうだ。その目、いったい?」

「これは先祖返りのようなもの。私は〈竜守ノ民〉ではありませぬ。ただ、多少なりとも知識はありますが」

「では、これがなにか、お分かりか」

 

 ガジンは懐から一つの代物を手に取って、床に置いた。白い、つやつやとした質感の、小さな笛だ。氏族長は、それを慎重に眺め、何度か指先で触っては離しを繰り返した。

 まるで、危険な猛獣を前にして、怯えているようだ。氏族長は、触れた指先をこすり合わせ、身体に何の変調も無いことを確かめて、笛を手に取った。

 

「お察しの通りではないかと」

「な、なら、こいつが……〈竜操具〉なんですかい?」

 

 クウロが、慄き、身震いしていた。

 〈竜操具〉――神ノ御遣いたる『竜』を思うがまま、自由自在に操ることのできる、禁忌の道具。遥かな昔、〈禍ノ民〉が作り出したこれが広まり、『竜』を武器として扱った結果、大混乱が引き起こされた。

 

「では、これが〈竜奴ノ業〉によって、作られた代物」

 

 『竜』を操る道具を作成する技術の総称を、タルカ皇国では〈竜奴ノ業〉と呼んでいた。

 その業によって作られた品こそ〈竜操具〉。神ノ御遣いである『竜』を操ることから名づけられた。

 これらの道具を過去に広めた者達こそ、青き瞳を持つ一族――〈禍ノ民〉なのである。

 

「貴方達は、まだこれを、そのような呼び方をしておられるのか」

 

 氏族長の静かな怒り。ガジンには強く印象的だった。

 

「これは、『竜』を操る道具などではありません。〈竜守ノ民〉が、『竜』と共に生きるために生み出した物。『竜』を遠ざけ、鎮め、ときには殺める。そうやって、彼らは生きてきたのです」

 

 それは、『竜』を操るのと、何が変わらないのだろう。

 そもそも、神ノ御遣いを弑する時点で、皇国では大罪である。第一、彼らが住む〈竜域〉には、国の許可がなければ入ることすら許されない。

 ガジンは、古い友人が〈竜域〉の調査に乗り出そうとして、帝に許可を求め、却下されていた光景が脳裏に蘇った。

 

「さきほどから言っている〈竜守ノ民〉とは、私達が〈禍ノ民〉と呼ぶ者達だということは、わかりました。では、彼らは一体何者なのです? 様々な書物、伝承を調べあげても、彼らのことは、ほとんど残っていない」

 

 〈八竜槍〉の一人、イスズの実家に頼み込み、建国当時から、それ以前までの資料を読み漁った。しかし〈竜守ノ民〉については、氏族を混乱に陥れた元凶である、という記述があるのみで、他の資料も似たり寄ったりな内容だったのだ。

 

「…………まるで――――」

 

 そこから先は、口にすることがはばかられた。皇国に、疑惑をかけるような内容だからだ。

 

「意図的に、消されているように感じる、ですな?」

 

 建国から数百の時間が流れた。現在に至るまで、多くの氏族の血が途絶え、消えて行った。

 だが、足跡、痕跡まで完璧に消え去ったわけではない。口伝、書物、風土、様々なものに跡は残り、溶け込んでいる。

 ガジンの故郷にも、チィエに言った祭祀がある。これは他の氏族が故郷に持ち込んだものであったらしい

 数多くの氏族達は、併合、統合され、血は途絶えながらも、今なお脈動を続けている。

 〈竜守ノ民〉には――それが、無い。不自然なまでに。

 

「争いと『竜ノ怒り』が終わった後、荒れ果てていた大地を見た人々には、『光』が必要でございました。帝という『光』が。そして、『光』には『闇』が付き添うもの」

「それが〈竜守ノ民〉であったと?」

「はい。当時の人々は、全ての責を彼らに押し付けました。神ノ御遣いを操る業を広めたからこそ、争いは長引き、天は我らに鉄槌を下したのだと」

「それは」

 

 自業自得ではないか。言おうとして――老人の瞳に映った、凄まじい憤怒の感情に、口を閉じられた。

 いつぶりだろうか。身が縮こまることがあったのは。

 小柄な、枯れ木のような老人が発した、峻烈な情動が体を圧迫した。

 

「彼らは、貴方様達が言う〈竜奴ノ業〉を、広めてなどおりません」

「は、はァ?」

 

 クウロが驚きに声をあげた。氏族長が言った内容は、建国神話を覆しかねないものだった。

 

「よく、お考えになってください。どうして〈竜守ノ民〉は、業を広める必要があったのです? 当時でも人々は〈竜域〉だけには近寄らなかった。つまり、〈竜守ノ民〉とは、氏族同士の大規模な戦から、最も遠い者達であったのです。そんな彼らが、どうして自分達の故郷を離れ、いちいち百害にしかならない争いに首を突っ込みますか」

「では、なぜ〈竜奴ノ業〉が広まったのです。〈禍ノ民〉……いえ〈竜守ノ民〉が広めたのではないとしたら、どうして?」

 

 一般的に、混迷極まる戦を、さらに長引かせ、人々を滅ぼすために〈禍ノ民〉は業を、全ての氏族に教え込んだと伝わっている。それは、幼いころから、ずっと言い聞かされ、習ってきたことだ。いちいち、皇国の民は疑問には思わない。

 皇国に住む者達にとって〈禍ノ民〉は、過去に大混乱を引き起こし、天が人々に裁きを下す原因を作った、悪たる民なのだ。

 氏族長は、悲しみに濡れた瞳を光らせながら、話し始めた。

 

「きっかけは、ある一人の若者が〈竜守ノ民〉の村に運び込まれたことから始まったと伝えられています。その若者は、家族を他の氏族に殺され、たった一人となり〈竜守ノ民〉に偶々見つけられ、保護されたのです。――ですが、それが呼び水となってしまったのか、他の氏族に彼らの居場所が特定され、戦いを強要されるようになったといいます」

「そして、禁忌に手を染めた。いや、この場合〈竜守ノ民〉が使っていた〈竜操具〉を悪用したと言うべきですかな」

「その通りでございます。ただ〈竜操具〉の仕組みについて、我らは深く知り得ていません」

 

 パチ、パチ、と薪が燃えて音を立てた。

 

「ですが〈竜操具〉自体は、作成はできずとも、完成品に関しては誰でも扱える代物でございました。道具は〈竜守ノ民〉の手によって作り出され、やがて大地は操られた『竜』と人の屍が塵のように積もりました。そして、天は我らに罰をお与えになった」

 

 氏族長は、語り終えると瞼を閉じた。

 

「その罰は――『竜ノ怒り』と呼ばれ申した。この国に生きる者ならば、よく知っておりましょう」

 

 有名な話である。『竜』は天ノ御遣いであると同時に、人の傲慢を監視し、罰を下す存在であるという。実際、『竜ノ怒り』と呼ばれる日によって、それは示された。〈竜奴ノ業〉によって操られていた『竜』たちは、反逆するようにすべての人間へ襲いかかったのだ。

 

「比べれば極めて規模は小さいですが、同じことが起こった。砦での虐殺は、まだ序の口。これより先、もっと酷いことが起きるでしょう」

 

 氏族長の不吉な予言は、このまま事態を解決に導けなければ成就されるだろう。砦の虐殺がそれを証明している。

 ガジンは氏族長の話を聞きながら、彼の話を脳内でまとめていた。最後まで聞き終えると、疑問が自然と浮き出てきた。氏族長を見る。閉じられたまぶたは、静かにこちらの質問を待っているようだった。

 

「では、どうやって『竜』は鎮まったのです」

「それも、あなた方がよくご存じのはず。違いますかな?」

 

 氏族長の声には、相手を嘲弄するものがあった。静かな悪意――敵意にガジンが面食らっていると、氏族長はこほん、と一度わざとらしく咳払いをして先を続けた。

 

「失礼いたした。意地の悪い問いかけでしたな」

「いえ、お気になさらず」

 

 『竜』を鎮める方法がわかっているなら、辺境と呼ばれる地に〈八竜槍〉がいちいち足を運ぶはずもない。伝承では帝が天へと赦しを請い『竜』を鎮めたとあるが、その方法は後世には伝わっていない。帝が正しく鎮める法を修めているならば、すでに解決に向かっているはずだからである。

 

「ですが、皇国が謡う伝承も、あながち間違ってはいないのです。事実、帝の祖先たる初代帝は、『竜』を鎮めるその場に立ち会ったそうですので。鎮めたのが、帝ではなかっただけですな」

「――まさか」

「お察しの通りです。『竜』を鎮め、天へと赦しを請うたのは〈竜守ノ民〉なのです。残念なことに、どうやったのかは知られておりません。この周囲の氏族に継がれている語り部たちにも、詳しいことは……」

 

 ガジンは、予想をはるかに上回る深刻さに黙った。

 

(これは、まずい。原因も不明。わかっていることは、このままでは『竜』が暴れ狂うこと。それを解決する手段が、失われていることだ)

 

 〈禍ノ民〉――〈竜守ノ民〉は、伝説となった存在だ。ガジンは彼らを見たという話しは聞いたことがなく、失われた血族の中に列したものだと思っていた。

 氏族長は、ガジンの深刻な表情を見て、口を開いた。

 

「〈竜守ノ民〉の方々は、国で最も深き〈竜域〉へと赴き、天へと赦しを請うた。その場所を彼らは〈竜峰〉と呼んだそうです」

「〈竜峰〉……」

 

 身に刻むように、ガジンは呟く。

 

「東へ行きなされ。天が我らを見放しておられぬなら、そこに彼ら〈竜守ノ民〉は暮らしているでしょう」

 

 ガジンとクウロは驚いて氏族長を見た。

 

「彼らは生きているのですかッ!」

「『竜ノ怒り』の後、彼らは傷ついた『龍王』と共に、東の〈竜域〉へと消えて行った、と伝えられております。ただ、それ以降、彼らの消息はわかっておりません」

「いや、有り難い。それがわかれば十分です」

 

 細く、今にも途切れてしまいそうな糸だが、確かに解決への道を繋げてくれている。地道に調べあげてきた成果が、ここになってようやく実ったことに、ガジンは安堵した。

 

「行かれるか。ですが、心しておかれますよう。かの民が暮らすのは〈竜域〉の奥深く。いかな〈竜槍〉の使い手とはいえ、油断は命を落とすことになりましょう。……なによりも、もう一度彼らの業を悪用すれば、今度こそ天は我ら人を赦しはしますまい」

「御忠告、有り難く頂戴いたす」

 

 ガジンは、氏族長に深々と頭をさげて、立ち上がった。行くべき場所は、定まった。

 

「行くぞ、クウロ――東へ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九話 炎路の旅立ち 前編

 巨大な樹木が立ち並ぶ〈竜域〉の奥深くを、リュウモは数人の大人に囲まれて歩いていた。手には〈龍赦笛〉が固く握られている。〈竜守ノ民〉の中でも、厳しい訓練を経た戦士の集団は、ひとりの少年を中央に陣形を組み、深くへと歩みを進めて行く。

 やがて、リュウモの肌が、ちくちくと針で肌の表面を刺されたような痛みが走り始めた。すぐさま反射的に口を覆った。

 

「止まれ、予想以上に浸食が早い」

 

 一団の先頭を行くひとりが合図すると、訓練を受けていた全員が停止する。あまりにも息が合いすぎていたので、集団での訓練をしていないリュウモは、前につんのめってしまった。

 

「酷い……いったい、どうしてこんな〈禍ツ气〉の浸食が早いんだ?」

 

 うめくように、誰かが言った。

 

「みんな、口を布で覆え。この濃さは、体に毒だ」

 

 リュウモは、言われた通り、持参していた布で口を覆った。この布は特別性で、呼吸によって体内に入ってくる濃度が高い〈禍ツ气〉を完璧とは言えないが、ほとんど防いでくれる。

 これを使用するのは、空気中にかなりの量の〈禍ツ气〉が含まれている証である。なんの準備も無しに足を進めれば、命を落とす危険域に変貌していることを示していた。

 リュウモは、この辺りにはまず近づかない。ひとりでは森の奥まで行くのを許されていないからだ。語り部の後継になるための特殊な訓練をしなければ同伴者がいても許可されない。

 だから、リュウモにとって周りは見たことがない、話に聞いていただけの植物が何個もあった。それらが、直に見るのが初めてであったリュウモでもわかるほど、しなだれ、活力を失っていた。

 深緑の葉、太い幹は色素を薄れさせ、黒い筋の血管のようなものが浮き出ている。

 〈禍ツ气〉に浸食され、体にある浄化作用の力を越えてしまうと、このように黒く、おぞましい姿へと変わってしまうのだ。

 黒に染め上げられかけている森を、哀しく思いながら、リュウモは皆に合わせて、ゆっくりと歩いた。

 〈竜域〉の生態系は、特異なものが多く、また植生も通常の森林とは大きく違う。区域を誰かに定められたかのように、びっちりと分けられている。

 『竜』もそれに倣っているのか、自身の縄張りに侵入してくる敵対者にはまったく容赦しない。なので、彼らの縄張りに入る時は、自分たちが敵意がないことを伝えなければならない。

 本来ならば、このような挨拶が必要な場所を通らず、どの『竜』のものでもない、空白地帯を進む。だが、安全が保障されていた道は〈禍ツ气〉によって危険な道となってしまった。行先を変えるしかないのだ。

 先頭集団の屈強な若者が、全体に止まるよう片手をあげると、一段はまた一斉に立ち止まった。

 ひとりが、口に指を当てて、空気を吐き出した。指笛だ。何度か同じように音を鳴らし続けると、反応が返って来た。それに応えるように、再度指笛を吹く。

 〈竜守ノ民〉は『竜』の言っていることを人語に訳せるわけではない。彼らは人と違い、言葉を使わず、鳴き声などで互いの意志を伝え合う。

 そういった『竜』の声を分析し、微妙な高低や響きを指笛によって使い分け、一部の『竜』たちと会話をするのである。

 同郷の者が『竜』と語らっている姿を目にして、リュウモはどうしてか誇らしく思えた。

 何度か指笛が鳴る。大人たちは慣れたもので、躊躇なく『竜』に語り掛けている。と、突然、指笛を吹いていた若者が吹くのを止めて、リュウモに向き直った。

 

「リュウモ、やってみろ」

 

 青年の指示に、リュウモは飛びあがりそうになった。

 

「いやいやいや!? ――――む、無理だって……」

 

 つい、大声を出してしまって、すぐにささやく程度の音量に抑えた。

 

「お前さんなら大丈夫だろうと、村長もジジの爺さんも言っていたぜ? 安心しろ、失敗して襲われたら一目散に逃げてやっから」

「う……た、確かに、吹き方は教えてもらってるし、できるけどさ」

 

 技術を習得しているのと、それを使って結果を出すことは違う。リュウモは不安で仕方がなかった。青年は、にこやかに笑う。

 

「なーに、誰でも失敗はある。間違えたら脱兎の如く、ほとぼりが冷めるまで逃げればいいだけだ」

「いや、それはまずいんじゃ」

 

 どうにか青年を説き伏せようとするが、言葉足らずなリュウモでは、無理な難題であった。

 

「それに、教えられた通りにやるなら、お前さんは、絶対に誤らないだろう」

「そりゃ、まあ、そうだけど……」

「便利な才能だよな、『合气』ってやつは」

 

 生れついて、リュウモには特別な才能があった。

 それは、自らが感じ取った『气』の流れを寸分違わずに再現できるというもの。

 つまり、完全なる模倣。

 完成された結果のみを見れば、過程をすっ飛ばして技を会得できる、特異な才であった。村では、このような人ならざる才能を、異能と呼んだ。

 村でも、異能を持って生まれて来る者は時折いる。目が『气』の流れを可視化できる、はるか遠くの音を聞き分ける、触れてもいないのに物体を動かせるなどだ。

 リュウモの異能は、体系化された技術を習得するには、驚異的な早さを誇る。

 これは、物の作成や語りについても同様である。人がなにかを語る、作るさいには必ず動きがあり『气』の流れが生ずる。そのため、リュウモは幼い頃から村にある重要なすべての技術を叩き込まれたのである。

 しかし、だからといって人の命がかかっている行動をなんの迷いもなくできるかと言われれば、否であった。話しの内容を覚えて反復するのとはわけが違う。違えればここにいる全員の命を危険にさらすのだ。気軽にできるはずない。

 

 指笛の形を手で作っては崩すを繰り返すこと六度。じれったさに我慢ができなくなった青年が言った。

 

「だ、か、ら! 気にするなっての。失敗してもお前さんかついで逃げるだけさ。ほれ、早く早く」

 

 リュウモの後ろにいた若者が、ぽんぽんと肩を叩いた。

 

「わ、わかったよ……!」

 

 若干、やけになりながら、リュウモは指笛を吹いた。生きが掌の間で回り、隙間から出て音を鳴らした。飛び出た音は、森の響き『竜』の元へと走って行った。

 同じような鳴き声が返って来て、リュウモはようやくほっとして指笛の形にしていた手を解いた。

 

「おお、完璧だ。相変わらず、便利でいいな、それ」

「なんでもできるわけじゃないけどね。……それで、どうするの?」

「〈禍ツ气〉の大本まではちょっと危ない区域を通るが、さっきの指笛で挨拶はしたし、通貨するだけなら、簡単だな。あそこらへんは、よく俺らは通っているから」

 

 リュウモに同行する若者たちは、村では選りすぐりの戦士たちである。単騎でも『竜』を容易に仕留める実力を持つ。リュウモなど、彼らに触れさえもしない。悔しいので稽古の時は何度も挑戦するのだが、一度も拳が届いたことはない。

 陽気で、、腕っぷしが強く、豪快な彼らだが、欠片ひとつも『竜』を侮っていないのは、リュウモには痛いほどわかっていた。彼らの中には、親しい物を『竜』に殺された者もいるからだ。それでも彼らは『竜』を恨まず、ここに足を踏み入れている。

 〈龍赦笛〉に選ばれた者を守るために鍛えあげられた、八人の若者たち。過去にも、八人の者たちが、特殊な槍を持ち、選ばれし者を〈竜峰〉へと導いたらしい。伝承に残る逸話になぞらえた彼らに守られているというのは、遠い過去の先人たちと繋がっているようで、リュウモは言葉では言い表せない気分になる。

 巨大な樹木が生えている場所から、一団は大きく動いた。苔むした樹木がいくつも並ぶ区域を通り越すと、やがて灌木が顔を覗かせ始める。

 晴れていた視界は、葉や枝に遮られ始め、いつの間にか木も低く変わっていた。

 一団は、気を引き締めるように、自らの武器に手を掛けながら進む。

 

「腰を低くしろ、リュウモ」

 

 うごめく気配を、リュウモよりも圧倒的に早く感知した若者が言った。言われた通り中腰になり、木々で隠れる薄闇に目を向けた。葉が擦れ合う音が、狭い室内に反響するかのように響く。実際、それほどの大きさではなかったが、鋭敏になったリュウモの感覚は、嫌なほど聞こえてくる。

 〈禍ツ气〉が薄くも漂うこの辺りでは、『气法』の感覚が狂わされて相手がどのような者なのか捉えきれない。捕捉するには、目視で確認するしかなかった。

 

(『竜』なの、か?)

 

 緊張した面持ちで、リュウモはその場でじっとして相手の出方を待った。汗が額から伝わって、頬を通り過ぎ、あご先から地面に落ちた。

 音が止まる。そして、木陰からひょこりと、立派な二本の角が顔を出した。

 

「森鹿か……驚かせるなよ」

 

 皆の緊張がやわらいだ。〈竜域〉には『竜』のみが棲息しているわけではない。熊や鳥、普通の森にいる種も生きている。もっとも、彼らも〈竜气〉にあてられ、体能力は通常種とはまったく違う。また〈竜域〉に対応するために独自の進化を遂げた種も存在した。

 あらわれた森鹿は、その独自の進化を果たした種に入る。

 森鹿の足は『竜』より速く、二本の角は牙も爪も通さない。気性は、手を出されない限りは非常に大人しい。が、一度暴れはじめるとなだめるのは困難であった。だが、自らが仲間と定めた者にはどこまでも親身で協力的だった。仲間意識はとても強いのだ。――森鹿が結んだ絆は『竜』さえ断てぬ、と村の人々は言う。

 若々しい、精力にみなぎる森鹿は、ぽつんと佇み、リュウモを黒々とした瞳で見つめている。四本の足は微動せず、地に根を張ったように動かない。

 

「な、なんだ、どうしたんだ? 群れからはぐれたって、わけじゃなさそうだが」

 

 森鹿以外の〈竜域〉に住む生物全般に言えることだが、『竜』という絶対的強者が存在するこの地域では、他の動物たちは警戒心がかなり強い。森鹿も、飼い慣らす方法は確立されているが、絆を育むまでは骨が折れるほどの苦労なのだ。時に、物理的に骨が折れることもある。

 そんな彼らが、人の集団をその眼で直接見て、なんの反応も示さず、棒立ちに近い、無防備な姿を晒している。普通は、こんな距離まで森鹿が近づいてくることはない。

 

「まあ、襲ってくる気配はないし、大丈夫だろ」

 

 リュウモたちは、いつもと違う森鹿の様子に戸惑いを覚えたが、目的のために、また森鹿を刺激しないように歩調を緩めて歩く。

 すると、森鹿はぴょんと跳ねると、距離を取った。逃げるかと思えたが、若い森鹿はリュウモたちの進行方向の先に行って、また停止した。

 

「ね、ねえ、なんか、案内してくれてるみたいな感じだけど……」

「森鹿が? それはあり得ない――いや、でも確かに〈禍ツ气〉の大本の方だな」

 

 目で合図をし、一団は森鹿の跡を追った。

 リュウモは、途中で狂った『竜』に出くわさないか心配だったが、影も見当たらなかった。森鹿の、人に無い驚異的な察知能力のお陰なのかもしれなかった。

 やがて、〈竜域〉の深い場所まで来ると、森鹿は、突然、我に返ったように逃げて行った。

 木の奥に消えて行く背を見送り、〈竜守ノ民〉の一行は、布越しに口元を押さえた。

 黒い大気が、そこには滞留していた。土、木、草、自然にある命が〈禍ツ气〉によって変貌している。黒い光線が、風景を黒く変えていた。

 

「信じられない。目で見えるほど、濃い〈禍ツ气〉なんて、聞いたことがないぞ……!」

 

 人垣の間から、リュウモの目に映ったのは、すべてそ塗り潰そうとする、黒い光の風のうねりだった。手が、爪先が、凍ったように冷たくなったのは、錯覚ではなかった。

 リュウモは、お守り代わりに、ずっと持っている〈龍赦笛〉を握った。笛が、熱を持っていた。なにかに、導かれている気がした。人の壁の隙間に体を押し入れて、前に出た。

 

「吹けって、言われてる気がする」

 

 なにに、とは言わなかった。

 

「本当か? 俺は、笛からなにも感じられないが」

「この子が言うなら、そうだろう。私らは、周囲の警戒を続行しよう。『竜』に襲われでもしたら、冗談にもならない」

 

 リュウモは、皆が散開するのを待って、リュウモは〈禍ツ气〉が噴き出している地点を見た。〈禍ツ气〉は、通常の『气』が歪んでしまったものだが、大地から噴火でもしたかのように飛び出てくることはない。

 

(こんなの、神話か伝承にしかない事態だけど……)

 

 原因を探る前に、やらなければいけない。リュウモは、笛に口をつけた。

 頭にはいくつも習った音楽が流れていたが、そのどれもが、笛に命じられたものと違った。

 指が、笛の穴に吸い込まれるように動いた。演奏の仕方は、笛が教えてくれた。

 音が、黒に染まった領域を浄化していく。音が波となり、波が黒を洗い流している。

 演奏が終わると、清浄な空気が戻ってきたのが、リュウモにはわかった。

 黒く変わり果てていた森はいつもの姿へと転じていた。

 

「思うんだが〈龍赦笛〉ってのは、凄いもんだよなあ。自然が時間をかけてすることを、数瞬でやっちまうんだから」

「それが『龍王』が持っていた力の一部だったのだろうさ。亡骸となった後でも、これだけの力を発するというのは、恐ろしくもあるがな」

 

 『龍王』の巨大な亡骸から削り出された〈龍赦笛〉は、元となった『竜』の力を一部、受け継いでいる。当然、強力であり、人が扱えない強大な力である。リュウモは、つるつるとした笛の表面を、感謝の意味も込めて撫でた。

 

(どうして、おれにこの笛が吹けるんだろう)

 

 村長の家の居間に、後生大事にされていた〈龍赦笛〉を、好奇心から手に取って吹いてみたのが、出会いだった。

 ――すっごい、爺ちゃんに怒られたなあ。

 あの時ほど、リュウモはジジに怒られたことはなかった。激昂していたと言ってもいい。

 ジジの、顔に皺が寄った、恐ろしい顔が目に浮かび、頭を振って想像をかき消した。

 

「なにはともあれ、これで一件落着だ。よくやってくれたな、リュウモ、立派だったぞ」

 

 わしゃわしゃと頭をなでられた。日常的に繰り返されている訓練のせいで、掌は固くなっていたが、リュウモにはとても暖かかった。

 

「帰るとするか」

 

 言われて、リュウモが背を向けた、その時。

 脳天から股下にかけて、鋭い痛みが走り抜けた。

 その場にいた全員が、頭上を仰ぎ見る。空には九つの星があり、『竜』の星のひとつ、〈禍ツ星〉が光量を強めていた。

 

「なーんか、嫌な予感がするぜ。さっさと」

 

 その言葉は、続けられることはなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九話 炎路の旅立ち 後編

 ど……っと、地面から〈禍ツ气〉による暴風が吹き荒れ、全員の体を打ちつけた。皆が体を木々へ叩き付けられる。

 転がり、体中をしこたまぶつけて、リュウモはようやく止まることができた。

 

「げ、げほ……」

 

 衝撃のせいで、肺から空気を絞り出され、リュウモは吐きそうになった。腹の中に残っている物を、すべて地面にぶちまけそうになるのを、なんとか止めた。

 

「いっつ……リュウモ、無事か?!」

「ど、どうにか……」

 

 受け身を取って、後頭部を守っていたおかげで、大変な怪我にはならなかった。

 リュウモは、吹き飛ばされた地点を見る。〈禍ツ气〉が、最初の時よりもずっと激しく噴き出していた。リュウモの顔が青ざめる。

 

「どうしよう、おれ、もしかして失敗した……?」

 

 元に戻っていた緑の景色が、また黒に変って行く。幾束にも絡まった漆黒の光線が、森を変異させていく。肌がまた、ちりちりと痛み始めた。リュウモは、腕をさする。

 

「いや、成功していたはずだ……、これは、もっと別の要因だ」

「冷静に分析してる場合か! そこら中から〈禍ツ气〉が出てくる! 『竜』が狂って襲いかかって来るぞ!」

 

 凄まじい勢いで周囲が変わって行く、一団の顔色が、真剣なものになった。吹き飛ばされた者たちが、リュウモの周りに集まり、円陣を組む。

 

「村まで走るぞ! 死んでもリュウモだけは守り抜け!」

 

 おう! と、皆が声を張りあげた。一行は、リュウモを守りながら、全力で逃走を始める。帰途には、そこらから〈禍ツ气〉が噴出していた。

 

「くそ……! どこもかしこも〈禍ツ气〉だらけかよ?!」

「方向を変えるぞ! 迂回して村に向かう!」

 

 リュウモの脳裏に、迂回したさいの道筋が浮かぶ。

 

「まずいんじゃ……ここから迂回したら、凶暴な『竜』の区域で」

「ここまで〈禍ツ气〉が溢れていたら、どこを通っても同じだ! なら、最短距離で突っ切る!」

 

 有無を言わさぬ指示に、リュウモは黙った。彼が言ったことはもっともだったからだ。さっきから、自分たちに濃い殺気が向けられているのは、嫌でもわかった。

 首筋に伝う、冷たい悪寒に、リュウモは肝が縮みあがりそうだった。

 恐怖を振り払うように、全力で足を動かし続けた。獲物を追う狩人のように〈禍ツ气〉がそこかしこから噴き出している。

 

「おいおいおい?! これも『使命』の試練の内か!?」

「馬鹿言ってないで走れ! リュウモ、絶対にはぐれるなよ!?」

「わ、わかった!」

 

 リュウモの走る速さに合わせて、一団も走る。足を引っ張らないよう、リュウモは懸命に動いた。

 

「――来るぞ、右前方から、数三!」

「迎撃する。全員〈竜化〉しろ! すり抜け様にのどを掻っ切れ!」

 

 重苦しい音を立てながら、三匹の『竜』が襲い掛かってきた。肉食の『竜』である鉤爪が、足音を獲物に聞かせる醜態をさらすなどあり得ない。本来の生態から大きく逸脱していることは、彼らが狂っているのを示している。

 殺気が、のど元に、冷ややかな牙を突き立てようとしてきた。青から赤へ変色した『竜』の瞳が、恐ろしかった。

 

「邪魔だあ!」

 

 裂帛の声があがると、鉤爪ののどに、赤い線が引かれ、ぱっと血が噴き出た。地面に倒れた鉤爪の、一瞬で生気を失った眼が、まだ獲物を刈り取ろうと生々しい光をたたえている。

 護衛たちは、指示通り、走る勢いを殺さず、駆け抜ける間に三匹の『竜』を瞬殺した。

 

「〈禍ツ星〉の輝きが……」

 

 木々の間から覗く空にある〈禍ツ星〉。その黒き光が、他の星を呑み込もうと輝いている。

 

「走れ、走れ! 村まであと三つ区域を抜ければいい!」

 

 ――遠い、その三つが。

 リュウモは、区域三つ分の広さを当然、知っている。ジジと一緒に『龍王』の亡骸まで行ったことが何度もあるからだった。この速さでは半刻はかかる。リュウモの足では、それだけの時間が必要だ。

「前方、十八」「後方から四十二、すべて鉤爪!」「速度を落とすな、強行突破するぞ!」

 四方八方から『竜』の凶悪な牙、爪が襲い掛かってきた。そのすべてを、護衛たちは迎撃し、撃破する。槍が舞い、血潮が噴き、『竜』の首が飛ぶ。

 リュウモには、ただいの一度も攻撃が通ることはなかった。

 鍛え抜かれた精鋭の集団は、完璧に護衛対象を守り抜いていた。――しかし。

 

「――ッ?!」

 

 超重量が上からのしかかり、大地が悲鳴をあげた音がした。

 地面をたわませ、波打たせたかに思える、重音。皆の顔色が悪くなった。

 

「翼竜まで……!」

 

 集団の右手側に、それは降り立った。『竜』には、ぶ厚い壁のようにそびえ立つ『格』が存在する。その中で、上位に君臨する翼の生えた『竜』。それが翼竜だ。

 戦闘能力は、地に足が着いた『竜』の比ではない。戦えば、全滅は必至だった。

 

「俺が引きつける! リュウモを守れ!」

「ま、待って!」

 

 集団から抜けて、ひとり翼竜の元へ駆けて行った者を止めようとした手は、届くことはなかった。決死の覚悟で翼竜に突撃していく男を残して、リュウモたちは走り続けた。

 再び、音が響く。翼竜が、次から次へと空から降りて来る。

 

「行けぇ!」

 

 ひとり、またひとりと、翼竜へと戦いを挑んでいく。勝てないと理解していても、自分たちの使命を果たすために。

 

「みんな……みんな――!」

 

 いつしか、リュウモを守っていた八人の内、ひとりしかいなくなっていた。さっきまで話し、笑い、励ましてくれた人たちはもういない。また、ドスンっと、音が聞こえた。

 

「……! ――リュウモ、ここまで来れば、もうひとりで村まで帰れるな?!」

 

 死に物狂いで足を動かしていたせいで、リュウモは『竜』が棲む区域から脱していたことにようやく気づいた。

 

「だ、大丈夫……」

 

 震えながら、リュウモはうなずいた。満足気に、青年は笑った。

 

「よし、いい子だ。いいか、村に戻ったら、村長にすぐ外へ出発するよう伝えるんだ。あと、ほとぼりが冷めるまで、他の者たちはしばらく、村から離れるようにと」

「は、走れば、まだ逃げ切れるんじゃ……」

「はは、そうかもしれないが、誰かが足止めしないと、大変なことになる。他の連中を、待っていてやらないといけないしな」

「ご、ごめんなさい……おれ、おれが〈目覚めの時〉を、目覚めてれば、こんな……!」

「馬鹿言うな。俺達の中でも、一番早く〈目覚めの時〉を迎えたのは十六からだ。気に病むことはない――すまないな、お前と共に『使命』を果たせなくて」

 

 さあ、行け。――ぱんっと、背を叩かれて、弾かれた玉のように、リュウモは走り出した。

 

「さあ、さあ! 我らが〈竜守ノ民〉の槍技、とくとご覧にいれよう。かかって来やがれぇい!」

 

 リュウモが駆け出して、間もなく。後ろで激しい戦闘の音が、耳に伝わってきた。

 あふれ出た涙が、尾を引いて地面に落ち、土に吸収されていった。

 

(早く、早く、早く!)

 

 間に合わなくなる前に、もっと早く。『竜』が村を襲うよりも。ずっと早く。

 努力を嘲笑うように、リュウモの頭上に巨大な真っ黒い影が通り過ぎる。

 

「なんだ……あの『竜』!?」

 

 目にしたことも、習ったこともない巨大な黒い『竜』。まさか――。リュウモの脳裏に嫌な予想がちらついた。

 ――〈禍ツ竜〉?!

 リュウモは、走り続けて、嫌な臭いをかぎ取った。これは、なにかが燃える臭いだ。

 黒煙が、村の方角から、立ち昇っていた。

 

「そんな……そんな!」

 

 最悪の想像が、頭をかすめ、足を折ろうとした。

 

「みんな、爺ちゃん!」

 

 そんなわけがない。みんなが簡単に殺されるはずがない。自分に強く言い聞かせて、出すことのできる最大速度で森を駆け、出た。

 

 叫びが聞こえてくる。親しかった鍛冶屋の人の声が、向かい側にいた同い年の子の悲鳴が、大人しかった『竜』があげる怨嗟の絶叫が。

 すべてが燃えて行く。燃え落ちて行く。燃えて消えて行く。あらゆる物と者たちが、叫びと炎の中に包まれ、金切り声を発して死へと溶けて行く。

 

(さ、寒い……あ、熱い――ッ!)

 

 炎の熱が、極端に上昇した温度が、肌を針で刺し貫かれたような痛みを伝えてくる。

 体外は、体の表面は確かに熱い。煉獄の炎のようだ。だが、内は極寒だ。心の芯、魂の奥底からじわじわと冷気が立ち上ってくる。かたかたと全身が恐怖で凍り付いて震えた。

 動けない。動こうとしても、入れ物が変わってしまったように、体が動かない。

 この世の終わりが、生を途切れさせる暴力が降りかかって来る、その前。

 リュウモの体が激しく動いた。手を引っ張られている。

 

「爺ちゃん!?」

 

 ジジが、血相を変えてリュウモの手をとって駆けている。彼の顔色は、尋常でない。土くれっぽい色になった老人の顔は、すでに死んでいるのではないかと勘違いしてしまうほどだった。――リュウモの胸に、嫌な、どんよりとした暗雲が立ち込めた。

 ジジは一度、後ろを向いて『竜』たちが追って来ていないのを確認すると、ようやく足を止めた。老体で急激に体を動かしたせいか、冷や汗が顔中にびっしりと張り付いている。

 

「じ、爺ちゃん」

「聞け、リュウモ」

 

 言葉は遮られた。その態度が、まるで別れを告げる前のように思われて、リュウモは声を荒げた。

 

「爺ちゃん! や、休まないと、体が!」

「聞けッ!!!」

 

 穏やかのジジの、聞いたこともない厳しい怒鳴り声に、リュウモは思わず口を閉じてしまった。彼は、片手をリュウモの肩において、真っ直ぐにリュウモを見据えた。

 

「もう、ここは駄目だ。わしも、そう長くはない」

 

 見れば、ジジの脇腹、腰ひも辺りの衣が赤黒く変色している。出血が酷いことは瞭然だった。

 

「これを持っていけ。〈龍王刀〉、『龍王』の亡骸より作り出した、お守りのようなものだ」

 

 手渡されたのは、見慣れない短刀と、前日に用意しておいた旅のための荷物だった。薬や食料が入っている。

 

「お前が持つ、短刀と笛。重い役割だ。幼いお前には、とても、とても背負わせたくはなかった」

「嫌だ、嫌だよ、爺ちゃんッ!!! まだ、まだ一緒にいたいよッ!!!」

 

 『使命』何て、別に背負ったっていい。厳しい旅になるのだってかまわない。〈竜峰〉へ行けと言われれば行く。――でも、リュウモは、この人と別れるのだけは、嫌だった。

 ジジは、そっとリュウモの頬に手を添えた。ごつごつとした、皺くちゃになった掌の感触が、異様に冷たい。血の気がなく、命が失われつつあることに、リュウモは気づいてしまった。眼から、また涙がこぼれ落ちた。

 

「楽しかったなあ、お前と語らっていた日々は……とてもとても、楽しかった」

「爺ちゃん、おれ、無理だって、ひ、ひとりじゃ、おれ、なにも……!」

 

 リュウモは、怖い。本当は、村を出て〈竜峰〉へ行くのだって、この人と離れるから、嫌だったのだ。それが、今はたった一人で知らないところに行かなければならないなんて、とてもできそうになかった。ジジは、大丈夫だ、と言って安らかな笑みをうかべた。

 

「できるさ。お前はわしの大切な、誇り、生きた証。ああ、わしの孫なんだから」

 

 野太い重音が、暗い森に響いた。『竜』がもうそこまで来ている。

 

「行け、リュウモ、行け、行ってくれッ!」

 

 弾き飛ばされたように、リュウモは走り出した。一目散に、振り返らず、ただ真っ直ぐに、悲しみを振り払うように、矢のように、走り出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十話 外界

 リュウモは、村を出てからどれくらいの長さを走ったのかわからなくなるほど、足を動かし続けた。次第に、走る速度は遅くなり始め、身体が休息を求め始める。

 喉が焼き切れるほどに熱くなって、ようやくリュウモは村から相当遠くに離れたことを実感した。疲れた体を休めるために、暗い森の中で立ち止まる。

 

(星は……)

 

 息を整えながら、頭上に光る星々を見る。逃げた方角が間違っていないか確認した。〈九竜星〉と〈禍星〉は変わらず空にあり、走った方向が間違っていなかったことを証明してくれた。

 

「川……〈竜域〉から外れたなら、川が、あるはず――小さな、川が」

 

 リュウモは、村から大きく離れた川の先には行ってはいけないと言い聞かされてきた。

 その川が、村と外の世界とを区分する境界線である。リュウモは耳を澄ませて、真夜中の森から聞こえて来る川のせせらぎを聞き分けようとする。

 普通の人間ではまず無理だ。森には様々な音が溢れている。獣の足音や鳥の鳴き声、風で木々の葉が擦れる幾百以上の音が、静かに流れる小さな川の音を遮ってしまう。

 だが、リュウモの耳は、とくとくと進む水流の音を聞き分けた。迷うことなく音がする方へと進んでいく。数刻としない内に、リュウモが知らない世界が開けた。

 川は、脛あたりまでしか水位がない小規模なものだ。その奥には、言葉では言い表せないほどに大規模な光景が広がっていた。

 まず、木々が極端にすくない。川の上に浮かぶ岩のように、点々と生えている木は〈竜域〉の物と比べれば、小枝に等しい。

 視界はどこまでも見渡せるかと思えるほど開けている。遮蔽物がすくないと、こうも見晴らしがよくなるとは、リュウモは知らなかった。

 夜の月に照らされた草木たちは、眠っているかのように身動きしない。

 これが『草原』と呼ばれるものなのだと理解するまで、リュウモは茫然と立ちすくんでいた。未知がぱっくりと大口を開いて、喰い殺されそうで怖かったのだ。

 自分は今、間違いなく境界線の上に立っているのだという事実が身に染みた。

 

「――疲れた……」

 

 広大な世界に向けて、初めて口から出た言葉がそれだった。知らない場所に圧せられて尻もちをついた。

 

「これが……外」

 

 リュウモは、自分がもっと興奮するかと思っていた。好奇心に煽られて、平らなように見えて所々に凹凸がある草原に向けて、身体が勝手に走り出すのではないかと夢想していた。

 何のことはない。感じ入ることもなければ、興奮しもしない。身体中に蔓延る疲労が、思考能力を極限まで低下させていた。

 リュウモは、雑草がぼうぼうと生えている地面に寝ころんだ。羽織っている外套を掛布団代わりにして、身体を丸める。眠い、寝たい、という欲求に一切逆らわず、眠気に身をゆだねた。意識はすぐに途切れた。

 

 ぼんやりとした視界の中で、白い巨大な骨が目に映った。長い間、そこに在り続けた白骨は、緑色の苔が生えている。

 

(〈竜ノ墓〉……だ)

 

 人の何倍もある巨大な樹木に囲まれた『竜』の大きな墓。木々は彼らの墓標のようにも見える。地面には何百、何千もの『竜』の骨が埋まっていて、その多くは地表へ顔を出している。ひと際大きな遺骸の額にあたる部分が、削り出されたようにへこんでいた。

 『竜』は不思議な生き物で、自らの死期を悟ると必ず一定の場所に身を置く。そういった個体を、他の『竜』たちは獲物とすることはない。人間がむやみやたらに森の恵みを採り尽さないのと同じで、彼らにも暗黙の了解が本能として刻まれているのだ。

 死する『竜』はなにもしない。そこに敵がいようと、人がいようと関係はない。ただ死ぬために墓場へと赴き、そこに身を横たえる。

 そうやって数え切れないほどの骨が積み重なった場所を〈竜ノ墓〉と呼ぶ。

 

(懐かしい……そうだ、父さんと母さんと、一緒に、何回か行ったっけ)

 

 リュウモの遠い思い出の中で両親の顔は、すでに霞み始め、忘れ去られ始めている。だが、色あせること無い記憶がある。〈竜ノ墓〉で初めて、『竜』が死ぬところを見た時だ。

 よろよろと覚束ない足取りでやってきた『竜』は、やっと終わるのだと安堵を抱いたように、地に身を伏した。瞳にあった生気の光がすこしずつ消えていき、体が力を無くしていく。やがて、死が『竜』を包み込み、命が終わりを告げた瞬間、リュウモを底抜けの恐怖が襲い、身体中を総毛立たせた。

 そして、同じぐらい美しいとも思った。

 天寿を全うした骸は、一切の余分なものを残さない。自己だけではなく、他者も同じだ。

 すべてを使い果たして、息絶えた死者を見た人が思うことは、深い『納得』なのだ。

 張り裂けそうな悲しみが襲おうと、悲嘆に暮れようと、その先にあるのは自分の足を前に進めようとする強い力――『納得』という腹に収める行為だ。

 天寿を全うした者の死は、それを促す強い作用がある。諦めや逃げではない。死者は生者の感情と心と一体となって、明日へと足を踏み出させるのだ。

 それが、どれだけ美しく、難しいかをリュウモは身をもって知っている。自分の両親は道半ばで命を失ったからだ。

 『人』は『竜』ではない。どれだけ秩序だった集団の中にいても、突風のように吹き荒れる偶然の前には、命を散らすしかないこともある。

 そうやってもたらされた死を、親しい者は納得できない。腹に収められない悲しみは、やがて内側から心と体を食い破る。

 そうなってしまったら、前に進めなくなる。うずくまって、泣きはらして、立ち上がれなくなってしまう。喪失の悲しみは、底なし沼のようなもので、扱いを間違えて足を踏み入れてしまえば、簡単にはあがってこれない。

 沈んでしまったら、あとは誰かに引き上げてもらうしかない。

 リュウモにとって、沼から引き上げてくれたのは、ジジだった。

 

(爺ちゃん……)

 

 もう会えなくなってしまった人の笑顔が浮かんできて、リュウモは悲しみから逃げるように目を覚ました。

 

 喉に強い乾きを覚えて、リュウモは動き出した。気管がくっついてしまったように息苦しい。よろよろと起き上がって川の水を両手ですくって飲んだ。喉全体に染み渡った水は、身体の中を潤した。

 清涼感が頭を冴えさせ、状況を確認させる余裕をくれた。頭上にある日は高くまで昇っている。おそらく、時間は昼頃だろう。人影と気配は周囲にない。あるのは、見慣れない『平原』だけだ。敵対するような者たちはいない。

 身体を少しの間休めて、リュウモはその場を後にした。その顔には、涙の痕がこびりついて離れなかった。

 未知の草原を歩き続けていると、リュウモの目に、人の集落らしきものが映った。遠目から見た家の構造は、故郷の村と大差ないようだ。リュウモは同じ人が住んでいるとわかって、ほっとした。すこし足を早めて集落へ向かう。

 村にはすくないが人の気配があった。朝と共に労働を始める村人たちを目に捉えるのは簡単だった。リュウモは、村へ入って一番手近な人へ声をかけた。

 

「あの、すいません」

 

 髪は真っ白に染まった老婆は、見知らぬ来訪者にうろんげな視線を投げかけ、リュウモと目があった。――直後、悲鳴があがった。

 

「ひ、ひえぇあ!? あ、〈青眼〉、ま、まま〈禍ノ民〉じゃああッ!?」

 

 凄い勢いで老婆が走り去って行く。あまりに突然な対応に、リュウモはその場でぽかんとしてしまった。老婆の金切り声は、村中に響いたらしく、すぐに人が集まってきた。

 

(え、え、え?)

 

 リュウモは、なにがどうなってしまっているのか、まったくわからない。わかるのは、集まって来た男たちが恐れと敵意をもっていることぐらいだった。彼らの態度は、いたずらをした子供を叱るような、生易しいものではない。縄張りに入って来た異物を排除しようとする、獣のそれだ。手には農具を持っているが、それとて人に振るえば凶器に早変わりする。

 

「おまえ、何者だッ!」

 

 いつの間にか、囲まれていた。注がれる視線。いくつもの目玉が恐ろしい光をもってリュウモを射殺すように突き刺す。囲んでいた中で、一人の男がリュウモに近寄って来て、大声で言った。

 

「こっちに来いッ!」

 

 大きな手が、腕を掴んだ。人に触れられるのが、これほどに気味が悪かったことは、リュウモにはなかった。裾を掴んだ手を、反射的に握ってしまった。

 

「さ、触んな!」

 

 掴んだ腕を、前方向に振り払った。

 

「っぎゃ?!」

 

 大柄な男が、地面に顔をぶつけて悲鳴をあげる。

 

(え……?)

 

 信じられないことが起きて、リュウモは呆然としてしまった。男は顔を強く打ったのか、頬を押さえて呻いている。――あり得ない。リュウモはあんなになるような力で振り払っていない。精々、手を叩く程度のものでしかなかったはずだ。どう考えても、大の男を地面に叩きつけて悶えさせるような力ではない。

 人垣が揺れた。

 

「北に、北にある〈竜域〉には、どうやって行けばいい?」

 

 自分でも驚くほどの冷たい声が出た。リュウモは、冷然と辺りの人間に問いただした。〈青眼〉が村人を捉えるたび、呪われるのではないかと彼らは目を逸らす。

 

「北にある〈竜域〉には、どうやって行けばいいッ」

 

 苛立ちを込めてもう一度言った。だが、村人たちは黙るばかりでなにも言わない。

 とうとう、リュウモの我慢の限界を超えた。

 

「どけッ! おれは、行かなきゃいけないんだ!」

 

 道を塞ぐ村人たちに、リュウモは怒鳴った。子供とは思えない凄まじい大声に、彼らが怯む。その隙を見逃さず、リュウモはわずかにできた人垣の隙間を走り抜けた。途中、誰かの手が身体に触れたが、かわまずに走った。

 ――なんでこんな目に遭わなきゃいけないだよッ!

 自分はなにも悪いことなんてしていない。彼らの言われようのない誹謗は的外れだ。〈禍ノ民〉だとか聞こえたが自分は〈竜守ノ民〉だ、人違いだ。

 訳が分からない責任を押し付けられて、悔しさと怒りで涙が出そうだった。

 あの様子では、早くここから離れないと、彼らは自分になにをするかわかったものではない。

 初めて人の冷たさに触れて、リュウモは彼らが自分とはまったく別の生き物なのではないかと思った。どうして全然関係のない人にすべて押し付けるのか、理解できない。

 

(ここは、おれの知ってる世界じゃない……ッ!)

 

 リュウモは、ようやくここが村の外だという自覚を得た。一刻も早く村人たちから離れるように、走る速度をあげた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十一話 すれ違い

 畑仕事をしていた者たちは、全員が首を垂れ、跪いた。畦道で遊んでいた子供らですら、王に平服する臣民のように、額を土すれすれまでさげている。

 

(こうなるから、この旗を掲げて行くのは、嫌なのだ)

 

 農村にいる者たちにとって、時間とは代えがたい財産だ。有用に使えば、その日、その年の農作物を富ませてくれる。無駄に使えばその分、懐に入ってくる金銭はすくなくなる。

 手を止めて跪いているこの状態は『無駄』に他ならない。

 彼らと出身が同じ身分のガジンは、こういう風に頭をさげられると、自分が権威を振りかざす横暴な領主になったように思えて、心底嫌だった。

 

「クウロ」

「はいはいっと」

 

 ガジンはいつも通り、副官に命を飛ばす。クウロが後ろの槍士たちに合図を送ると、数名の槍士が隊列から外れた。槍士たちは跪いている村人たちに近寄って、二言、三言、言付けをする。村人たちは驚きに目を真ん丸にすると、びくびくとしながら仕事に戻って行く。

 

「さっさと行くとしよう。私たちがいては、満足に仕事もできなかろうさ」

「普通は〈八竜槍〉にお目にかかれれば、そりゃあ喜ぶもんですがねェ」

「お前は皇都の出身だからわからんのだ。村人は〈八竜槍〉を目にして喜ぶよりも、明日の作物の心配と世話をするものさ」

 

 クウロはよくわからないと、肩をすくめた。こういった価値観の違いは、生まれの違いだろう。時折、こういった物の見方の違いが軋轢の元になることも多々ある。

 もっとも、ガジンは生まれについて言及しない。気にしてもいない。隊の者たちは『譜代』と『外様』の者たちが半々で、上手くやっている。

 家柄や生まれなどに関係なく〈八竜槍〉が直接打って出るような案件は危険が大きい。だから、ガジンは腕の立つ者を身分に関係なく集めた。

 結果として、生まれも考えもバラバラな者たちが集った。当初は上手くいくか不安だったのだが、悲観的な予想に反して、彼らは心のどこかで噛み合い、互いを助け合っている。

 どうして彼らの結束がここまで強くなったのか、人材を集めたクウロに聞いてみたことがあった。彼は、こう言った。

『あいつらは、下でくすぶっていた奴らですよ。腕はあるが、生まれの関係で上にいけない奴。生まれが良くても、家の事情で生き辛い奴。没落寸前の家を建て直そうと資金集めに必死な奴。とまァ、色々とあいつらの中でも苦労の種類があって、そん中で互いに共感できるもんがあったんでしょうや。――お互い、大変だなってな具合で。そうなっちまったら、もう身分や生まれなんて関係ねェ。すでに、兄弟みたいなもんなんですよ』

 

 素晴らしいことだ。お互いを尊重し、理解し合える部下を持ったことを、ガジンは誇りに思う。軍内部で派閥やらでごたごたがあったりするが、このような関係を築ければ、馬鹿な争い事もすこしは減るだろう。

 

(それができないのもまた、人の業なのだろうがな――――ん?)

 

 ガジンの目が、進行方向から小さな影が凄まじい速さで駆けて来る様子を捉えた。

 菅笠をかぶっていて、あごまでしか見えないが、背丈からすると子供だろう。

 茶色の外套を着ていて、その下には紺色の綺麗な羽織りがちらちらと顔を出していた。

 ――村の子供? いや、それにしては……。

 空気が違うとでも言い表せばいいのか。ガジンは、直感ではあるが、駆けてきている子供が近隣の村の子ではないという確信が胸を走った。

 そう、異質だ。羊の群れの中に『竜』が紛れ込んでいるような、質の違い。

 子供は、減速しなかった。むしろ、邪魔だ退けと言わんばかりに走る速度をあげた。

 これにはガジンは驚いた。つい、手綱を強く握ってしまって、馬が足を止めてしまうくらいには。

 先頭を行くガジンが止まったことによって、隊全体が停止する。

 好機とばかりに子供は一切迷わず、小さな身体を生かして、凄い勢いで駆け抜けて行った。

 馬が驚く暇も与えず、風のように過ぎ去って行ったのである。

 

「はァ……こいつは驚いた。すばしっこいのもあるが、あの速さに正確さ。それにいい『气』の流れだった。大将、ありゃ何者でしょうね? ――――大将?」

 

 クウロに、ガジンは応えられなかった。

 手に持った〈竜槍〉が、子供の元へ行きたがっている。目に見えない力に引っ張られ、子供が走り去って行った方へ向かっている。磁石が互いにくっつき合おうとしているかのようだ。

 

「〈見初められし者〉……」

 

 ぽつりと、とある言葉が口から漏れた。

 

「はァ!? あの坊主が?」

 

 〈八竜槍〉になるためには〈竜槍〉を台座から引き抜き、槍自体に認められなければならない。「女を口説くのと、似たようなもんだな」とは、ロウハの言である。

 だから普通は〈竜槍〉を口説かなければいけないわけだ。だが、その逆がある。〈竜槍〉が人を口説く場合が。その者を皇国では〈見初められし者〉と呼ぶのである。

 もっとも、〈見初められし者〉は皇国の歴史を紐解いても、片手で数えられるほどしかいない。クウロの反応も当たり前のことであった。

 

「いや、わからん。ただ、そう思っただけだ。これは、いい加減こいつに愛想を尽かされたか。私もそろそろ引退時かな」

「よしてくださいや。大将に引退されたら、便乗してロウハまで止めちまいそうですよ。そうなると、残されるのはイスズ様だけですぜ?」

「若い内は苦労した方がいい、とはよく言われているだろう?」

「苦労で押し潰されちまいますよ。――いや、あの人だと、帝に不敬な発言をしたやつらを、片っ端から槍でしばき倒しそうで心配ですぜ」

 

 あり得そうだな――と、ガジンは柳眉を跳ね上げて槍を振り回しているイスズの姿を幻視した。〈八竜槍〉の中では最も教養があり、高い家柄の彼女だからこそ、帝への忠誠は比類なきものなのだ。それがかえって事態を混乱させることはあるが、それもまた若さゆえだろう。

 

「もうすこし年を重ねれば落ち着いてくる。ロウハのように、権威と感情とを使い分けてくれるだろうさ」

 

 そもそも、十七という若さで〈八竜槍〉に名を連ねたのは、イスズが初めてである。

 ガジンとロウハが打ち立てた最年少記録を八歳も更新しての襲名だった。当初は周りがいくらなんでも若すぎるといった声が大きく、イスズ自身も自らが〈八竜槍〉に相応しいか、疑問に思っていた節もあった。

 そのため、彼女の襲名はもめにもめたのだが、最後は帝の一言で彼女は現在〈八竜槍〉に連なる者として〈竜槍〉を振るっているのだ。

 ガジンとしては、後継として若い者がようやく一人出て来てくれて、内心はほっとしている。それは、ロウハも同じだろう。なにせ自分とロウハはもう三十半ばである。加齢による体の動きの鈍りはそう誤魔化せるものではない。

 無茶がまかり通っているのは〈竜槍〉の恩恵が大きい。槍が常時放っている〈竜ノ气〉は、身体の状態を常に最善に保ってくれる。だが、限度はある。〈八竜槍〉を最も長い間務めていた者は、八十だという記録が残っているが、それは特例だ。

 大体の〈八竜槍〉が四十半ばから五十の間に引退するのが常である。ガジンもロウハも先達のように、未来を見据えていつ引退するか、などと酒の席で笑い合っていた頃があったのだが――問題が起きた。

 ガジンとロウハが襲名して以降、誰一人として〈竜槍〉に認められた者が出なかったのである。

 この事態に対し、帝は何年も前から危機感を抱いており、何度も〈八竜槍〉を選定する儀を執り行ってはいる。だが、残念なことに〈竜槍〉に認められた者は出なかった。――つい、七か月前までは。

 イスズが選ばれた際、帝も胸をなでおろしたのではないだろうか。とはいえ、彼女が選ばれるとそれはそれでもめ事が起きたのだが。

 なにせ、女性である。槍士の中にも腕の立つ女性はいるが圧倒的に少ない。しかも女性が〈八竜槍〉になるのは、歴史上初めてのことであった。お固い連中が騒ぎ、また頭を抱えたのは言うまでもない。

 彼女を見出したのが『外様』のガジンであったのも、事が大きくなった原因の一つではあっただろう。

 

「あと、もう一人、二人ぐらいは欲しいところだ」

 

 〈八竜槍〉の座がすべて空席になると『外様』への抑えが効かなくなる可能性が出てくる。

 万が一のことも考えて〈八竜槍〉は最低三人いるのが望ましい。

 

(そう簡単に出てくるわけがないがな。――あと四十年は、現役でいなければならないな)

 

 イスズの前にあった最年少記録を更新し、今度は最年長記録を打ち立てるのも面白いかもしれない。

 ――穏やかな老後は当分先だな。

 ガジンは苦笑した。

 

「――どうします? さっきの坊主、誰かに追わせますか?」

 

 クウロの目は、冗談を言っていない。本気だった。彼も〈八竜槍〉が多くいる重要性をよくわかっているからこその提案だったのだろうが、ガジンは首を横に振った。

 

「こんな時でなければ、声をかけるのだがな……今は進むのが先だ」

「今回の件が終わったら、あの坊主を調べてみますか」

「そうしよう。……もしさきほどの子が、イスズよりも年若く〈竜槍〉に選ばれたら、また宮廷内で大騒ぎがあるのだろうな」

 

 イスズの時を思い出して、ため息が出た。

 

「違いねェ」

 

 からからと、クウロは笑った。

 それから予定通り、夕暮れには最も東の〈竜域〉に近い村に到着した。皇都付近の村々と比べると、集落の位にまで落ちる規模だが、れっきとした村である。

 ガジンは、まず村長に話を通そうとしたが――村が夕暮れ時だというのに、随分とざわついているのを察知した。大体、村人の生活は日の出に始まり、日の入りに終わる。それがこんな時間にまで、真昼のように動き回る気配がそこかしこにあるのはおかしい。

 

「なにかあったな」

「のようで。――なんとまァ物騒な。連中、武器まで持ち出してますぜ」

 

 尋常な様子ではない。村人たちの動きは常軌を逸している。彼らは、追い立てられた獣のようにせわしなく動いていた。

 ガジンは馬を操って村の端まで近づき、手に武器を持っている青年に話しかけた。

 

「一体なにがあった? この騒ぎは、事件でもあったのか」

 

 突然あらわれた一団に、青年は夢の中にいるように、ぽかんとしていた。だが、ガジンたちが掲げている旗を見るや、頭を地面に叩きつけそうな勢いで平伏した。

 

「こ、こりゃあ、皇都の槍士様方……! こ、こんなところにど、ど、どうしなすってぇ」

 

 青年は動揺しすぎて呂律が回っていない。ガジンは馬を降りて、青年の肩に手を置いた。

 

「落ち着け。なにも私たちは君たちをとって食いに来たわけじゃあない。この騒ぎはなにがあったのか、聞きたいんだ」

 

 優しく、ゆっくりと話しかけると、ようやく青年は平静を取り戻して説明し始めた。

 見知らぬ少年が、人が住んでいるはずがない方向から村に訪れたこと。村で聖域と呼ばれる場所からやって来たこと。その少年の両岸が〈青眼〉であったこと。

 すべてを青年が語り終える。ガジンの脳裏に、すれ違った少年の姿が走った。

 

(まさか……)

 

 あの少年が〈竜守ノ民〉であったのか。であるならば、真っ先に確保すべきだ。だが、もし違えばここまでの苦労は無駄になる。

 ガジンは様々な可能性を考慮したが、決定打となるものは浮かんでこなかった。

 

「その〈青眼〉の坊主は、なにか言っていなかったかねェ?」

 

 クウロも、屈んで青年と目線を合わせて語り掛けた。

 

「い、いや、その、もの凄いすばしっこさと怪力で…………あ、いえ、確か、なにか叫んでおりました。ええと、おれは、行かなきゃいけないんだ、なんだと」

 

 それは、決定打となりうる、まさしくガジンたちが欲しい情報だった。

 

「どこに行く、とは言っていなかったかね?」

「い、いえ、特には……あ、いやでも、やけに北への道筋を聞いて来たと、婆さんが言っておりました……」

「北……北っていやァ、一番でかい〈竜域〉がある場所ですぜ」

「そこに〈竜峰〉があるのか……」

 

 ガジンの方針は決まった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十二話 集落での戦い

 リュウモは、人目につかないよう、誰にも捕まらない速さで走り続けた。途中で出会った畦道の集団を通り抜け、すれ違う者へ誰にも話しかけず北に向かう。平原にはいくつかの小さな集落が目に入ったが、すべて無視した。もう、あんな目に遭うのは御免だ。

 それなりの距離を進むと、なだらかな平地は消え始め、地平線の向こうには山の輪郭が顔を出し始めた。青と白の空に、春の山に芽吹いた新緑が合わさって、とても綺麗だった。新しい季節の訪れを感じさせる景色だ。

 リュウモは心の底から、ようやく見知った場所に戻って来たかのような安堵を覚えた。

 自らを急かして、走る速度をあげて、山沿いの道に入った。か細い道は人が通った形跡を結構残している。人に出会わないよう、速さを緩めた。

 それから日が傾き始めて、ようやくリュウモは足を止めた。あたりはいくつかの小山が連なっている山間の道だ。もう日が暮れる。安全な場所を確保して、野宿しなければならない。

 昨日は疲れと眠気に押し負けて川縁で眠ってしまったが、あれは悪手だ。もし野生の獣にでも眠っているさいに囲まれでもしたら、その時点で詰みだった。寝ているときでも、気配で起きれるよう訓練してはいるが、昨日ほど深く眠りに落ちてしまうとどうにもならない。

 リュウモは失態を反省しつつ、野宿に適した場所を探し始めた。こういったことは慣れている。『竜』の観察のために森に何日もこもった経験があるからだ。

 道から外れてうろついていると、人の気配がした。さっと、身を翻して木の枝の上に跳躍して着地する。幸い、気配の元は近くない。このままやり過ごしてしまおう――そう、思っていた。――悲鳴が聞こえてくるまでは。

 

(襲われてる? これは、熊?)

 

 リュウモは、臭いと気配からおおよその体躯を測り、人を襲っているのが熊であろうと予想をつけた。息を吸い『气法』を使って感知した輪郭は、予想が間違っていないことを裏付けた。故郷の熊とは比べるまでもないが、それなりに体は大きい。

 外の住人にとっては十分な脅威になり得る。彼らの体は、熊の爪によって無残に切り裂かれ、骸は餌となるだろう。

 

(……どうする。どう、する――)

 

 放っておいていい。関係のない人だ。それに、助けたところで酷い目に遭わされるかもしれない。行くな、早まるな。見ぬふりをしろと過去の体験がリュウモへささやきかける。

 

「うわぁぁッ?!」

 

 だが、命を脅かされた者の悲鳴が、虐げられた体験を、より強烈な経験がかき消した。

 赤くなって燃え落ちて行く故郷の緑。黒焦げになって焼死した近隣の人々。命の脈動を消し飛ばす、破滅の波。

 トラウマに近い光景が、心と魂に刻まれた記憶とともに再生されると、リュウモの理性が弾け飛んだ。走り出す。

 

「どこだ、どこに……ッ!」

 

 気配のする方向はわかっても、未熟なリュウモの技量ではあくまで大まかな場所までしか特定できない。木々の枝と葉を大きく揺らして山の中を駆けた。夕焼けが、緑を赤々と照らし出している。あのときと同じような色に見えて、余計に怖気がくる。そのせいか、肌が焼ける痛みが襲ってきている気がした。

 体と心を苛む苦痛に突き動かされるままに枝から枝へ飛んで駆け続けると、気配により接近したことで感知範囲に入った。さっきよりもはっきりと、リュウモの感覚が人の輪郭を捉えた。

 体内の『气』をより感応させ、肉体を活性化。より鋭敏になった目が必死で走っている人を見つけ出した。背負った籠を盛大に揺らしながら、熊から逃げている。熊から逃げられているとは、かなりの健脚ぶりだ。だが、ついには木の根に足を取られて転んでしまった。

 リュウモは枝の上で一度止まり、方向を調整する。体重を前に傾け、枝を蹴った。

 上空から獲物に襲い掛かる鷹のように、熊の頭上目掛けて落下する。

 腰の短刀を鞘から抜き放った。狙いは熊の頭蓋。降下した先には読み通りに標的が動いていた。全体重と落下の衝撃を切っ先に込めて、思いっきり振り下ろした。

 リュウモが持つ短刀の切れ味は、熊の頑丈な頭蓋骨を容易く貫いた。掌に、命を奪った生暖かい感触が伝わって来た。突き刺さった短刀を引き抜いて、熊の背を蹴って跳躍し、着地した。

 

「え、え、ええぇぇ!?」

 

 あまりの出来事に、襲われていた人物が大声をあげた。

 

(男の人だ)

 

 尻もちをついている男性は、中々に体格のよい人物だ。日々の研鑽ゆえか、意外と筋肉もあるように見受けられる。そのおかげで熊からも逃げきれたのだろう。

 山菜を採って来ていた帰りに襲われた様子で、男性が背負っている籠には結構な数の野菜が入っている。転んだせいで中身は辺りにちらばってしまっていた。

 ――ど、どうしよう?

 助けたはいいが、リュウモは男性にどう接してよいか迷った。〈青眼〉を見せて騒がれでもしたら、前の集落の二の舞になる。それだけは避けたかった。どうしようか迷っていると、男性は立ち上がった。背はリュウモよりずっと高い。黒々とした瞳と、太くて頑丈そうな髪が目につく。

 

「あ、ありがとうよ、坊や。おかげで助かった。俺は、ジョウハ。この先の小さな村で暮らしてる。おまえさんは?」

「リュウモ、です」

 

 リュウモは、名乗ろうか迷ったが、結局ジョウハに名を教えた。一見では、彼はかなり穏やかな人物のように感じられたし、助けられたことに対して、しっかりと礼を言ってくれた。こういった人に、名乗らずに無視して立ち去るのは、礼儀知らずだ。

 礼儀はしっかりしろと、ジジによく躾けられてきたリュウモにとって、挨拶は大事なことだった。ジョウハはにっと笑う。

 

「そうか、リュウモっていうのか。俺はコハン氏族の出なんだが、おまえさんは? ここいらじゃ、見かけたことのない子だが」

 

 散らばった山菜を籠の中に入れながら、ジョウハが聞いてきた。

 

「え、ええと……」

 

 リュウモはジョウハの問いかけに即答できなかった。彼の言い方にならうなら、竜守ノ氏族とでも言えばいいのだろうが、住んでいる場所まで聞かれたら、答えられずに怪しまれる。

 どういったものか、答えに窮していると、がさがさと遠くから葉が擦れる音が聞こえた。

 

「――ッ! こっちへ」

 

 ぐいっと手を引っ張って、リュウモはジョウハを自分の後ろへやった。

 

「お、おう? どうした」

「なにか来ます。多分、狼、かな。数は……二頭です。凄い速さでこっちに向かってます」

 

 リュウモ一人ならば逃げ切れるが、ジョウハを連れては振り切れない。じりじりと二人は後退りする。

 

(なんだ、速い……本当に、狼か?)

 

 感じ取れる『气』の質は、間違いなく狼であることを示していた。しかし、速い、速すぎる。下手をすれば『竜』に匹敵しかねない。二足歩行の人間より、四足歩行の獣が素早いのは道理であるが、『竜』の域にまで達しているのは解せない。

 リュウモは、鞘に収めていた短刀を再び抜き放った。

 数秒と経たないうちに、灰色の毛並みをした、体格のよい狼が二人のへあらわれる。

 

「ここの狼は、こんなに獰猛なんですか?」

 

 二匹の口端は、肉に飢えているかのように引き攣っている。目は血走り、口からはよだれが垂れ、牙がのぞいている。尋常な様子ではない。

 唸る狼から、徐々に後退して距離を稼ぎつつ、リュウモはジョウハに聞いた。

 

「い、いや――実は最近、山の獣が殺気立ってるって言われててな。すこし前まではこんなことなかったんだけどな……」

 

 ジョウハも、見知った山々が突然、顔を変えたことに困惑しているようだ。

 リュウモは、短刀を構えながら、狼を睨みつける。獣とて馬鹿ではない。勝てない相手には挑まないが道理だ。わざと体内の『气』を荒れさせて、体外へと流出させた。

 

『――――ッ!?』

 

 噴き出す『气』の勢いに気圧された狼たちは、まるで正気に戻ったかのように怯え、脇目も振らずに山奥へと帰って行った。リュウモは息を吐き出して『气』を鎮めた。一応、ジョウハの無事を確かめるため、彼の方を向いた。

 

「おお、すごいな、おまえさん。『气法』が使えるのか。ん? その目……」

 

 しまった、と思ってリュウモは慌てて深く笠をかぶりなおしたが、ジョウハの眼にはしっかりと〈青眼〉が写り込んでしまっていた。

 またなにか酷いことをされる。そう思っていたリュウモの予想を裏切って、ジョウハは穏やかだった。

 

「なるほど……。その眼。そっか、色々と大変だったろう? ほら、こっちに来るといい。助けてもらった礼だ。ご飯ぐらいはご馳走しよう」

 

 伸びて来た暖かい手を、リュウモはあの村のときのように拒絶しなかった、できなかった。

 わからないものは怖い。前の村で囲まれた感覚は、言い表せないぐらい気味が悪かった。でも、この暖かさは、温もりは、知っている。だから、握られた大きな手を、振り払えない。心の底では、どこかほっとしている自分に、リュウモは戸惑った。

 ジョウハに手を引かれるままに、リュウモは山間の道を進んだ。リュウモは一度振り返る。

 

「あの、熊はあのままでいいんですか?」

 

 熊とて、貴重な食料には変わりない。あれだけの体格だ、解体すればそれなりの熊肉がとれるだろう。リュウモの問いに、ジョウハは首を横に振った。

 

「ここいらの村じゃ、様子がおかしくなっちまった動物は食うなって、言い伝えがあるんだ」

「どうして、ですか?」

「ああ、十数年くらい前に ちょっとわけがわからないくらい獰猛になった熊を退治したことがあってな。その肉を食ったら、村人の気がおかしくなった。ただの言い伝えだと高を括った連中は、狂って死んじまった」

 

 ジョウハの言葉の端々には、実感のこもった恐れが含まれていた。どうやら、彼は狂死してしまった村人と知り合いであったのか、現場に居合わせてしまったようだった。

 リュウモは、もう一度、熊の方を振り返った。

 

(人が狂って死んでしまう……。もしかして〈禍ツ气〉が熊に宿っていたのかな……)

 

 〈禍ツ气〉は人だけでなく、生き物すべてを狂わせてしまう。呼吸で体内に入り込むだけではない。大量に〈禍ツ气〉を中に取り入れてしまった動物を食すと、喰らった者は狂う。

 空気中に残留する〈禍ツ气〉は、在るだけで危険なものなのだ。

 

(〈禍ツ气〉のこと、もしかして知らない?)

 

 なぜだかわからないと、ジョウハは言った。外の世界では〈禍ツ气〉について認知されていないのかもしれない。

 ――余計なことは、言わないほうがいいかな……。

 ジジが言っていた、村長たちが見聞きした内容を、リュウモはちゃんと覚えている。外の人々は『竜』を神の使いと崇めていて、『竜』に関する事柄は、禁忌であると。

 自分たち〈竜守ノ民〉の生活を教えれば、手を引いているこの人は、自分に襲い掛かってきた村の人々のようになるかもしれない。

 リュウモは、ジョウハの動向を見ながら、できるだけ口を開かないようにした。

 

「ほら、あそこが俺たち、コハン氏族の村だ」

 

 わ……っと、いきなり口を開きそうになった。

 水気を多く含んだ冷たい風が吹いていたのは感じていた。水辺が近いと思っていたリュウモの目に入ったのは、故郷ではまず見られない光景だった。

 小さな湖。その周りにいくつもの家が建てられ、人が生活している。

 

「どうだ? 結構、珍しいだろ。俺たち一族は、ずっとここで川魚を捕って暮らしてるんだ。勿論、畑も耕すけどな」

「あの、浮かんでいるのは……」

「ん? 船か? あれで魚を運んだりするんだ。荷車で運ぶよりも、ずっと早いぞ」

「船……あれが」

 

 生まれて初めて、リュウモは船を目にした。〈竜域〉ではああいった構造物は作れない。

 仮に作って浮かべたとしても、水辺の水面下にいる『竜』に見つかれば、すぐにばらばらにされる。それに、ジョウハが言った、物を運ぶのも村の近くにはこれだけ大きな川はないので、船を造る意味がなかったのだ。

 初めて見る物に目を奪われていると、リュウモの耳に人の声が聞こえてきた。

 

 『……逃げ』『また――来た』『子供……家に』。

 

 声には、焦り、恐怖があり、差し迫った状況を嫌でも伝えてきた。

 リュウモの胸の内が、圧迫されたように苦しくなる。否応なく故郷での惨事が呼び起こされた。騒ぎが巻き起こした熱狂が、村を襲ったときと似すぎていた。

 汗が、つう……と、頬から落ちた。

 

「なにかに襲われています!」

「ああ、水が変な風にざわめいている。急ごう!」

 

 言って、二人はすぐ動き始めた。

 湖は、沈み始めた夕日に照らされている。水面が赤い光を、流れ出た血のように反射させていた。まるで、川が体中を切り刻まれ、流血しているようだった。

 その光景が、刃物を眼前でぴたりと止められたような、冷たい恐怖を突きつけてきた。

 ジョウハの早さに合わせてゆっくりと走ると、ようやく集落の入り口に辿り着いた。反対方向から怒号が聞こえてくる。

 

「なにがあったんだ?!」

 

 近くにいた男性に、ジョウハが話しかけた。

 

「狼が何匹も襲って来たんだよ! ジョウハ、お前も手伝え!」

 

 男性は手に持っていた槍を、ジョウハにひょいっと投げた。彼は槍を受け取り、うなずく。

 先に行くぞ――言って、男性は勇ましく、狂騒の渦中に身を投げ出して行った。

 その、他者のために尽そうとする背中が、自分を守ってくれた人たちと重なった。胸が焼けつくように熱くなった。

 リュウモは、男性と追おうとしたが、ジョウハが手を取って止めた。

 

「待て待て!? どこに行く気だ!」

「戦ってます、手伝わないと!」

「馬鹿言うんじゃない! 子供がやる必要はないんだ! こっちへ、俺の家は向こうだ」

 

 ジョウハは、自分の家の方向を指さしたが、リュウモは頑なに引かなかった。

 

「おれなら戦えます!」

「そういう問題じゃない!」

 

 二人が言い争っていると、遠吠えが辺りに響き渡った。数秒としない間に、いくつも鳴き声が遠吠えに応えた。

 動く者すべて肉塊にしてやる。狼たちの感情が、聞こえてくるようだった。

 明らかに尋常な様子ではない。人の集落を好んで襲ってきている節すら感じられる。

 

「ごめんなさい、おれは行きます!」

 

 ジョウハの手を振り払って、リュウモは全力で戦いの音がする方へ走る。後ろで彼が叫んでいたが、本気を出したリュウモの走力に、追いつくことはできなかった。

 村の中は、戦闘の音以外、なにも聞こえてこない。村全体が、眠りについていた。

 うすら寒く、不気味な光景だった。すべてが死に絶えているようにすら思えてくる。

 その中を、戦いの熱気がする方へ、リュウモは動き続けた。

 

 狼と人とが争い、現場は大混戦に陥っていた。手や足を噛つかれて動けなくなり、戦えなくなった男たちは、引き摺られて後ろに運ばれている。人と獣が流した血の臭いが、そこら中から立ち上ってきている。

 戦場で渦巻く、ぐちゃぐちゃに混じり合った感情の熱風が頬を叩き、リュウモの足を止めさせた。あらゆる規則が崩れ落ちた無秩序、無慈悲な空間が、戦いを知らぬ哀れで無知な獲物を飲み込もうと、ぱっくりと口を開いている。

 その咢から逃れて来た負傷者が、リュウモを見つけると、凄まじい剣幕で怒鳴る。

 

「馬鹿野郎?! こんなときに外に出る奴があるか! さっさと家に帰れ!」

 

 肩を支えられながら撤退して来た男の脚絆は、血で赤くなっていた。

 

(戦わないと……じゃないと、人が死ぬ……!)

 

 自分を助けてくれた、あの若者たちのように。

 怯えと恐れを振り切り、リュウモは再び駆け出した。

 

「あ……? ちょ、待て! おい、誰かそのガキを止めろ!」

 

 負傷した男は必死に声を張り上げたが、他の騒音にかき消されてしまった。

 リュウモは、走っている途中で何人もの戦士とすれ違ったが、誰も止めることはできなかった。彼らは自らの身と村を守ることで頭が一杯であったし、死力を尽くしていたからだ。

 やがて、戦場の中心に辿り着いた。すべき行動は、決まっていた。

 腰の〈龍王刀〉を抜き放つと同時。右側から飛びかかって来た狼の喉笛を、すれ違いざまに切り裂く。獲物を得られなかった自然の狩人は、その屍を大地に晒した。

 

(この狼、やっぱり〈禍ツ気〉にあてられてる)

 

 凶暴化した狼の死体からわずかににじみ出ている〈禍ツ気〉の気配。この狼たちは、『竜』と同じように、狂っている。

 無差別に襲いかかって来る狼を、二、三と斬り捨てていると、戦っている男たちはようやくリュウモの存在に気づき始める。彼らの目は、信じられない強さを発揮する幼子を見ていた。

 リュウモは、絶えず動き続けた。戦士に覆いかぶさっている狼の首を落とし、他の狼の脳天を、短刀を振り下ろして貫いた。

 戦いの空気に飲み込まれないように、意識の手綱を握り締める。

 狼を斬り伏せていると、爪先になにかが当たった。槍だ。おそらく戦士たちの物。

 目線が前から下に移ったのを見計らったかのように、二匹の狼が向かって来た。

 身を低くして突進をかわし、落ちていた槍を拾い振り回す。自分の身に宿った異能『合気』によって再現された村の槍術を駆使し、狼を大上段から地に叩きつけた。頭蓋がかち割れ、返り血が頬にかかる。

 槍が唸りをあげてもう一匹の狼の胴体にぶち当たった。肉が潰れ、骨がバッキリと折れ、二度と立ち上がってくることはなかった。

 「おいおい……」「数が減ったぞ!」「今だ、押し返せ!」「ガキばっかりに戦わせんなぁ!」

 歓声と、自らを奮い立たせる声があがり、戦士たちは一気呵成に攻撃に転じた。

 熱気と狂気が場を圧する中、リュウモは必死に槍を振るい続ける。

 無我夢中だった。槍を使う疲れも、命を奪われる恐れも忘れて戦い続けた。途中、笠の紐が解けて落ちたことにさえ、気づかなかった。

 

「アァァ!!!」

 

 突撃して来た一匹を串刺しにして絶命させ、次の敵に備える。

 ――次は、来なかった。いつの間にか、戦いの場で動いている敵は、いなくなっていた。

 ほどなくして、戦闘が終わった事実が戦場にじわじわと広がると、歓声が湖の近くの村に響き渡った。空には、夜の帳が降り始めていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十三話 コハン氏族

 戦いのあと、リュウモは戦場に呆然と立ち尽くしていた。

 体格のよい屈強な男が近寄って来て、リュウモを見ると驚いた顔をした。

 リュウモは、はっとして、顔をそれ以上見られないよう俯いた。笠が無くなっていることに、このときようやく気づいたのだ。

 またなにか言われるかもしれない。そう思っていた。

「助かったぜ!」「ありがとうよ」「なんとかなった。本当、ありがとう」

 だが、戦士たちからかけられた言葉は、リュウモが考えていたものとはまったく異なっていた。彼らはずんずんとリュウモに近付くと、次口に、大雑把に頭を撫でた。彼らは一様に〈禍ノ民〉とは口にせず、助けられたことに感謝を示していた。

 なされるがままになっているとジョウハがやって来た。リュウモの無事がわかると礼を言って、他の人と同じようにわしゃわしゃと頭を撫でてくれた。

 じわっと、心の奥が熱くなった。

 

「さあ、後始末は他の奴らに任せよう」

 

 ジョウハは、力が抜けているリュウモの手を引いて、足早に戦いの場から遠のき始めた。後ろでは、まだ戦士たちが勝利と生存の喜びを分かち合っていた。

 そこから離れ、彼らの声が小さくなるぐらいの距離を歩くと、いくつかのこじんまりとした家屋が姿をあらわした。その内のひとつの前で、ジョウハは立ち止まる。

 

「ほら、ここが俺の家だ。小さいが、中はそこそこ快適だから安心してくれ」

 

 戸を開いて、ジョウハは先にリュウモを中に入れた。

 

(あんまり、家の作りは変わらないや)

 

 でも、違う。似ているからこそ、はっきりとわかる。ここは、あの森深い故郷にある我が家ではない。帰って来て、迎えてくれる暖かい声はもう、聞こえてこないのだ。

 

「リュウモ? どうした、大丈夫か?」

 

 肩を揺すられて、リュウモは、はっとした。曖昧に笑って、心を見透かされないよう誤魔化した。

 草鞋を脱ごうとすると、血で湿っている。ねちゃねちゃとした物体まで引っ付いている。

 さっきの戦いで死んでいれば、自分がこんな風に、なにかわらかない、ねちゃねちゃとした物に変っていたかもしれない。……ぶるっと、体が芯から震えた。

 戦いから離れ、家に入ってようやく普通の感覚が戻ってきた。

 抑え込まれていた恐れが、戦いで渇いていた心に、じわじわと、沁み込んできた。

 もう一度、身震いした。

 

「リュウモ、怖かったろう。草鞋は俺が洗っておくよ。さあ、あがって」

 

 優しく、気遣いに溢れた言葉だった。ジョウハの優しさに導かれるまま、リュウモは家にあがった。

 居間に案内されて、リュウモは囲炉裏の前に腰を落ち着けると、途端に力が抜けた。

 立ち上がろうとしても、脱力し切った体では転んでしまうだろう。張り詰めていた緊張が途切れれば、この有様だ。どれだけ無茶、無理をしていたのか、身に染みた。戦いが終わるのが、あとすこし遅かったら、危なかったかもしれない。

 

「とりあえず、風呂だな、風呂。汚れたし、洗わにゃならん」

 

 言って、ジョウハは居間から出て行こうとした。彼を、故郷のいつもの癖で、リュウモは呼び止めた。風呂を沸かすのは、いつも自分の役目だったからだ。

 

「それなら、おれが」

「いやいや、村を救ってくれた相手にそこまでさせちゃ、俺が他の連中に怒られてしまう。大丈夫だから、ここにいてくれ。あ、水瓶はあっちにあるから、喉が渇いたら飲んでかまわないぞ」

 

 ジョウハは、言い終わるとすぐに居間から去った。

 ぼー……っと、リュウモは屋根を見つめながらすごしていたが、心が平静を取り戻し、落ち着いてくると、色々と考える余裕も生まれてくる。

 これからどうするか、食料は何日もつ? 北の〈竜域〉まではここからどれくらい? そこから〈竜峰〉には、どの程度進めばいい?

 堰が壊れたように、思考が濁流となって押し寄せてきた。自分自身から生まれた疑問に答えを返す間もなく、次から次へと浮かんでは消えていく。

 その、ある意味、頭脳の暴走とも言うべき働きを、ひとつの問いかけが堰き止めた。

 

(どうして、ここの人たちは、おれを怖がらないんだろう?)

 

 意味もわからず恐れられ、危害を加えらそうになったときとは違って、ここの人たちは友好的だった。『竜』と同じように、住んでいる場所によって違いがあるのだろうか。

 

(いや、すくなかったけど、おれを怖がってる人たちもいた。おじいさんに、多かった気がするけど……どうしてだろう?)

 

 戦っていたとき、ちらっと視界に入った人の中で、強い険悪が瞳にあったのを、リュウモは感じ取っていた。

 『气法』によって強化された感覚は、自分に向けられる敵意を、嫌でも伝えてくるのだ。

 年配の人たちは、かなり痛烈な、否定の感情があった。情念に囚われているようですらある。存在すら許したくない、というほどであった。逆に、年若い人たちは、まったく正反対といっていいものだった。

 両者の感情が向いている方向は真逆だ。しかし、歳の差だけで、あそこまで激烈に変わるだろうか。

 理解が及ばない。胸の内に、歯に食べ物が挟まったときのような気持ち悪さが広がった。

 

「おーい、風呂、湧いたぞ」

 

 ジョウハの声に、リュウモは考え事を中断し立ち上がった。

 彼の声が聞こえた方向に歩く。こぢんまりとしていると本人が自称していただけあって、迷うことはなかった。

 脱衣所の前で、ジョウハが待っていた。額には汗が浮かんでいた。

 ――やっぱり、手伝えばよかったかな……。

 ひとりですべての準備をさせてしまって、申し訳なく思った。

 

「一番風呂は譲ろう。さ、体を洗うといい。それとも、一緒に入ったほうがいいか?」

 

 リュウモは苦笑しながら、首を横に振った。今日、初めて出会った人と一緒に風呂に入るのは、恥ずかしかったからだ。

 

「そ、そうか……着替えは籠に入れておいたから、それを使ってくれ。俺が子供のころ使っていたやつだが、丈は大丈夫だと思う」

「ありがとうございます。なにからなにまで、お世話になってしまって……」

 

 にかっと、ジョウハは気持ちのよい笑顔を浮かべた。

 

「これぐらいじゃ、助けられた恩は返せていないってもんだ。おまえさんが助けてくれなきゃ、俺は今頃、熊の腹ん中に納まってたろうしな、なはは!」

 

 快活に笑って、ジョウハはリュウモの背を軽く叩いた。

 リュウモは背にかかった力に逆らわず、前に進んで脱衣所に入る。

 ここの構造も、実家とさして変わりはない。服を脱いで、籠の中に入れて、戸を開けた。

 幸い、風呂の作りも故郷と極端な変化はなかった。

 湯船があり、煙を逃がすための横長の四角い窓がある。木製の湯桶、手桶、椅子、などの用具も家にあった物と一緒だ。

 体の汚れを落として、湯船に入った。ほどよく熱くなった湯は、体の芯に溜まっていた疲れを、外側に出してくれた。

 脱力していい気分になってくると、頭が船を漕ぎ始めたので、リュウモは眠ってしまう前に風呂を出た。

 

「服も、あんま変わんないな」

 

 籠に入っていた服を手に取って広げて見た。奇抜な色合いや作りはしていない。森の外に暮らす人々も、自分たちと比べて、さして大きな違いはないように思える。

 

(いや、外の人たちは、おれたちと、なにか、すごい深い……溝、みたいなのがある)

 

 〈禍ノ民〉――自分をそう言った人たちの顔が、まだ脳裏にこびりついて離れない。

 自分が、傷つけてしまった人の、怖気と戦慄が入り混じった面持ち。

 突然、集団の中に化け物が我が物顔で侵入してきたように、恐慌をきたしていた人々。

 訳がわからない状況だが、リュウモでもはっきりとわかることがある。

 

(あの村の人たちは、おれを、()()()()()()()()()()()())

 

 触れてはいけない、竜の逆鱗。そんな感じがしていた。もっとも、〈竜守ノ民〉は、『竜』が恐ろしいからといって、襲いかかったりは絶対にしなかったが。

 リュウモは、着替えに袖を通して、脱衣所を出た。廊下を歩いていると、味噌のいい匂いが漂ってきて、ぐう……と腹が鳴る。

 足早に居間へ戻ると、ジョウハは鍋を作って待っていてくれた。

 味噌の香りが鼻先で漂って居る。胃袋が、早く食わせろと音を鳴らして急かしてきた。

 

「はは、子供は腹が減るのが早いからな。小難しいことは置いておいて、まずは食おうじゃないか。ほれほれ、座んな」

 

 言われた通り、座布団の上にこしを下ろした。香があっという間に鼻の奥まで広がり、ますます腹が鳴る。ここまで拙僧なく自己主張されると、さすがにリュウモは恥ずかしった。

 

「なにはともあれ、まずは飯だ! たんと食って腹一杯になれ」

 

 料理がたっぷりと注がれた椀を渡され、リュウモは口をつけた。

 久しぶりに、まともな食事をした気がした。まだ、三日と経っていないのに。

 貪るように料理を食べ続けると、すぐに椀は空っぽになった。体はまだまだ足りないと、さらなる追加を要求してくる。

 他人の家に上がり込んでおいて、おかわりをするのはいかがなものか。どうしようか迷っていると、手にあった椀が、ひょいっと取り上げられた。空になった椀を見て、ジョウハは笑っている。

 

「まだ食うだろ?」

「え、あ、はい……食べます」

 

 内心を見透かされたみたいで、リュウモは小恥ずかしかった。うつむいて胸中を悟られまいとしたが、椀を受け取ったときに見えたジョウハの表情は笑っていた。余計に恥ずかしくなった。

 リュウモは、羞恥を誤魔化すために食事へ集中する。

 鍋は瞬く間に量が減っていくようだった。大の大人ひとりと、育ち盛りの子供と共闘されては、太刀打ちできなかったのである。

 四半刻もしないうちに、二人は食べ終えてしまった。

 

「ごちそうさまでした」

 

 パンっと、ジョウハが手を合わせた音が、家に響いた。

 

 満腹になって、ようやく精神的に落ち着けたリュウモは、村から出て初めて気兼ねなく休息を取ることができた。

 食べ終えたあと、ジョウハは食器を洗って風呂に入りに行った。

 あまり変わらない、しかし決定的に違う天上を眺めながら、リュウモは今後のことを考え始めた。

 

(〈竜峰〉には、どうやって行けばいんだろう……? そもそも北の〈竜域〉のどこにあるのかもわからないし)

 

 村では、〈竜峰〉の位置は秘匿され、知り得る者は、村長と護衛を務める戦士の長だけだった。

 リュウモが住んでいた〈竜域〉の大きさは、北のそれを下回る。小さい〈竜域〉ならまだしも、巨大な〈竜域〉へ目的地もわからず入るのは、自殺行為と同義である。

 

「どっかで、手掛かりを、手に入れないと駄目かぁ……」

 

 だが、どこで、どうやって? 協力してくれる人が多いとは限らないのは、身に染みた。

 それに、外の人々は、あるか昔の出来事を、今も伝え聞かせているだろうか。

 

(ジョウハさんに聞いてみないとわかんないか)

 

 結局、思考を整理すれば、そこに行き着いた。ただ、なにもせず無為に時間を浪費している気がして、リュウモは胸の辺りがむずむずする。

 急げ急げと、常に形のない、なにかに背中を押されているようで落ち着かなかった。

 囲炉裏の薪が燃え、パチ、パチ、と断続的に立てる音だけが部屋に響いている。

 昼間とは打って変わって、静けさが空気に染み込んでいた。

 ――ふいに……ポタっと、涙が落ちた。

 なにもすることがなくなって、無意識に自分の内へ手を伸ばしていたせいで、やっと悲しみが溢れ出て来ようとしていた。――ぐっと、顎に力を入れて、漏れそうになったすべてをもう一度、奥底に封じ込めた。

 それから、沈黙に耐え兼ねそうになったとき、幸いにもジョウハが風呂から出て来てくれた。

 

「すまんすまん。風呂でうとうとしちまった。色々あったせいで、なんか疲れていたらしくてな」

「大丈夫ですか?」

「応とも――と言いたいが、昔ほど体が動かなくなったねえ……俺も歳かな」

「いくつなんですか?」

 

 ジョウハの外見は、見えてせいぜい三十半ばぐらいだ。髪や顔、手、肌には老化の兆しが見え隠れしているが、致命的ではない。まさか、この姿で五十はないだろう。

 

「俺は今年でちょうど五十だよ。体は、まあ、まだ元気なんだが、心がなあ。昔ほど強く動いてくれんのよ」

 

 そう思っていたリュウモの予想を大きく上回る返答がきた。

 ――え、ウソでしょそれ……。

 思わず否定の言葉が飛び出しそうだった。

 リュウモの信じられないと言った表情に、ジョウハは苦笑する。

 

「俺たちコハン氏族ってのは、そこそこ寿命が長いんだ。その分、体も歳を取るのが遅いのさ」

 

 寿命が人より長い。

 夢や空想が現実に侵攻してきたような凄まじいことを、さらりと彼は口にした。

 それが、さも当たり前であるかのように。

 

「異能……ですか?」

 

 この言葉で意味が通じるか不安であったが、ジョウハは首を横に動かした。ちゃんと通じて、すこし、リュウモはほっとした。

 

「異能ってのは、人から外れた才や能力を言うもんだろ? 俺たちのこれは、なんというかな――――そう! 体質みたいなもんだ。氏族の連中は、大体長生きだから、異能って呼ぶほどのもんじゃないわな」

 

 異能とは、読みの通り『異なる能力』である。その力を、一個人か、極めて限られた人々しか保有していないものを指して言う。

 ひとつの氏族しか力を持たないならば、十分に異能と呼んで差し支えないはずである。

 

「その、十分人並み外れていると思うですけど、違うんですか?」

「う~ん……ここら辺は、判断が人それぞれだからな。おまえさんみたいに俺たちを異能者だと言うやつもいれば、皇都の本当に一握りのやつらこそが異能者だって言う人もいる。まあでも、基本的に俺たち『外様』の氏族を異能者だとするのは、少数だ」

「どうしてです?」

「皇都付近じゃ、本気でとんでもない異能者がいるからな。俺たちの体質なんざ、子供のお遊びみたいなもんよ」

 

 とりあえず、その『皇都』と言う場所には、絶対に近づかないようにしよう。リュウモは心に決めた。――――――バチっと、燃えていた薪が大きな音を立てる。

 あ……っと、言うべきことを言っていないのに気づいた。

 

(……! いえない。余計なこと、聞きすぎた)

 

 自分の悪い癖。聞きたがりのせいで、まったく質問できていない。

 リュウモは姿勢を正して、ジョウハをしっかりと見た。

 

「ジョウハさん、聞きたいことがあるんです」

「おうおう。小難しい話しってやつだ。いいぜ、なんでも聞きな」

「北の〈竜域〉には、どうやって行けばいいですか」

 

 ピタっと、ジョウハの動きが止まった。

 

「…………本気か?」

 

 凍った顔で、真剣に問い質すような口調だった。リュウモはうなずく。

 

「そうか――。〈竜域〉は神聖な場所だ。入ることは原則禁止にされてる。それでも、行く気なのか?」

「はい。行かなければならないんです」

 

 リュウモの瞳に映った決意を見ると、ジョウハは黙り込んで腕を組んだ。

 岩壁のように硬い沈黙が数秒、続いた。

 

「わかった。教えよう。でも、その前に聞かせてくれないか。――おまえさんの目的は、決して人を傷つける類のものじゃ、ないんだよな?」

 

 リュウモは、神妙にうなずいた。

 誓いを立てるような、重々しい動きに、ジョウハは安心したようであった。顔に寄っていた小皺が、ふっと緩んで消えた。

 

「北の〈竜域〉に行くには、まず北方の『外様』の領内に入らないといけない。ここは、皇国内でもかなり東にあるからな」

 

 ジョウハは、湯飲みを手に取って、中を口に含んで舌を湿らせた。

 

「この村から西北にある山間の道を進むと、大き目の町に出る。町に着いたら、さらに西に進むんだ。途中、それなりに村や町もあるから、道を聞くのもいいだろう。あとは街道に沿って北へ歩いて行けば、北方領内に入ることができるぞ」

 

 言われたことを、心の中で繰り返す。ジョウハの『气』の流れを読み取り、忘れないよう、しっかりと記憶する。

 その作業が終わると「ただなあ……」とジョウハが苦々し気に言った。

 

「簡単なもんじゃないぞ? おまえさんの場合、顔を見られないよう立ち回ることが必要だ。全員が協力的とは言えんからな。下手すりゃ、ひっ捕らえられて牢獄にぶち込まれてしまうかもしれん」

「わかりました。気をつけます」

 

 揺るぎもしないリュウモに、ジョウハは落胆したように息を吐いた。

 彼は、多少怖がるよう言えば、諦めてくれると思っていたのかもしれない。

 

「ハァ……いつ発つ気なんだ」

「明日にでも」

 

 もう夜だ。知らない土地で、真夜中に動き回ろうとするほど、リュウモは愚かでも、冷静さを欠いても無い。

 

「ま、待て待て。そんなこと言うがね、金はどうする? 食い物は来たに行くまで持つ分はあるのか? 最低でも二十日はかかるぞ」

 

 告げられた日数に、リュウモは押し黙った。金は仕方ないにしても、食料はそれだけの火をしのぐ分は持ち合わせていない。

 元々、護衛の中に食料番や運杯の係りがいたのだが、ごっそりと消えた。物資の不足はどうしてもいなめなかった。

 

「そこまで、持ってないです……」

「だろう? 準備もまったくしないで旅に出ようなんて、自殺行為もいいとこだ」

 

 なにも言い返せず、リュウモは口を閉じ、うつむいた。

 

「まあ、だから、まずは準備をすることからだな。じゃなきゃ、送り出す俺も気が気でない」

「え……?」

「命の恩人相手だ。くれぐらいしたって罰は当たらんだろうさ」

 

 ジョウハは、出会ったときと同じく、にっと、快活な笑みを浮かべていた。

 

 それから、色々な事情を、ジョウハはリュウモに話してくれた。

 皇国の成り立ち、その神話。

 〈禍ノ民〉と呼ばれる由縁。青い眼が国で忌避されている理由。

 『竜』が神聖視され、また崇められていること。

 すべての氏族が畏怖と敬意を持つ存在、帝について。

 今ではそれほどでもないが、『譜代』、『外様』にあった酷い軋轢。

 知りたいことを残らず聞き終えると、リュウモは怒りを通り越して呆然としてしまった。〈竜守ノ民〉が継承している伝承と食い違いがあり過ぎて、とてもではないが皇国の人々が言う〈禍ノ民〉が、自分たちを指しているのだと、思えなかったからだった。

 まるで、御伽噺の中に入り込んでしまったかのように、現実感が無い。

 そんな気持ちで、全部を聞き終えたリュウモは、ジョウハが用意してくれた布団の上で、横になって天上を見上げていた。

 

(おれたちが悪いって、伝えられてるけど)

 

 あらゆる悪事の元凶、悪の親玉みたいな言われ方をしても、〈竜守ノ民〉は首を傾げるだけだ。

 そもそも、〈竜守ノ民〉を〈竜域〉から引きずり出したのは、他ならない外の世界の人々である。そして、『竜』を武器として扱えるようにしろと要求してきたのも、彼らだ。

 ――なんか、すげームカムカしてきた。

 先祖たちの、苦しみ喘ぐ声が、聞こえてくるようだった。故郷から半ば強制的に連れ出され、『竜』を兵器として使わなければいけなかった当時の人たちの苦渋は、どれほどのものだったのだろうか。想像しただけで、胸が詰まった。

 荒波のように押し寄せた理不尽な仕打ちが、心を荒くれさせた。腹の辺りがむかむかする。

 布団の中にくるまって、叫び出したい気分になった。

 

「お~い、リュウモ。もう寝ちまってるか?」

「起きてます」

 

 戸が開いて、ジョウハが入ってきた。

 

「悪いな。明日のことでちょっと話がしたい」

「明日、ですか?」

「ああ、食い物を獲って来ようと思ってな。明日の朝、川に釣りに行かないか」

 

 つまり、自分の食い扶持を、自分で獲ろうということだろう。

 

「でも、その、釣りとかしたことないです」

 

 水辺には、『竜』も集まって来る。ある時期しか川に近寄れない〈竜守ノ民〉にとっても、よほどのことがなければ、子供を釣りに同伴などさせなかった。

 

「なんだ、ボウズが怖いのか? 気にするこたあない。もし釣れなかったら、俺のを分けてやるから安心しな」

 

 愛想笑いではなく、親愛な相手に向ける、そんな笑みだった。

 ぺこりと頭を下げると、ジョウハは部屋から出て行った。

 

(外の人にも、色んな人がいる……『竜』に沢山の種がいるみたいな)

 

 〈竜守ノ民〉を迫害するような人もいれば、受け入れてくれる人もいる。

 不思議な気持ちだった。腹立たしくもあり、安心感を抱かせる、奇妙な感覚。

 

(これが、外の世界……おれの、知らない場所)

 

 たった二つの氏族だけでこれだけの違いがある、なら、ここ以外ではどうなのだろう。

 考えただけで、知恵熱が出てきそうだった。

 途方もない世界が、広がっている。もしかしたら〈竜域〉よりも巨大かもしれない、

 

(こんな、大きなモノに、おれは立ち向かわないと、駄目なんだ)

 

 この天上の外には、広大な外――いや、人の世界が存在している。多くの人がいて、様々な思想や力を持つ氏族たちが生活しているのだ。

 リュウモは、伝承の一節を、ふと思い出した。たった数日前に覚えた、あの伝承を。

 

 されど、心せよ。天へと我らが祈り届かず、竜の峰へ辿り着くこと叶わず、人の業によって阻まれし時、天は我らを灰燼と化すであろう。

 

「頑張らないと、な……」

 

 眠気が急に襲って来て、まともな寝床の感触に誘われ、リュウモは眠りに落ちて行った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十四話 川の民

 翌朝、釣りのための準備を終えると、リュウモはジョウハに連れられて釣り場に向かった。

 玄関での先で、つんっと、嫌な臭いが漂ってきた。これは、最近嗅いだことのある、人の焼ける臭いだ。

 

「ああ、リュウモ。すまんがちょっと寄るところがある。そんな時間はかからんから」

 

 向かうべき川は村から北にあるが、ジョウハは東の方角へ足を進めた。

 そちらには、黒い煙が上がっていた。村の外れにまで行くと、人だかりができている。

 すすり泣く声がいくつも聞こえてきて、リュウモは彼らが発する悲しみに、胸が詰まりそうになった。

 

「葬儀、ですか」

「ああ。昨日の戦いで、二人、亡くなったんだ。年寄りの爺さんたちだったが、陽気で、勇敢な人たちだった。俺も、ガキの頃に色々と世話になったもんだ」

「そんな……おれなんかのために、最初から葬儀に出なくて、いいんですか」

「いいんだいいんだ。昨日の内に話はつけておいた。第一、あの二人ならきっと、おまえさんを手伝ってやれと言うだろうしな。ただ、ちょっと嫌な思いをするかもしれん」

「おれが、ですか?」

「年寄り連中の一部がな、おまえさんたちをどーしても毛嫌いしたいんだ。なにか言ってくるかもしれんが、年寄りの戯言だと、聞き流してやってくれ」

 

 リュウモはうなずいた。自分のために、この人は親しい者の葬儀に出ず手伝ってくれようとしている。断る理由はなかった。

 葬儀を執り行っている場に向けて、リュウモは足を運ぼうとした。

 

「その場で止まれ」

 

 人だかりの手前で、刃物のような鋭い声が、集団の発していた悲しみを切り裂いて耳に届いた。びっくりして、リュウモは足を止める。

 隠しもしない、酷い敵意。燃えている遺体の近くから、漂ってきていた。

 

「どういうつもりだ、ジョウハ。その者を葬儀の場に連れてくるなど……!」

 

 親でも殺されたかのような形相だった。はっきりとした憎しみを感じる。

 

「おい、村を救ってくれた恩人にその言い方はないだろ、村長」

「なにをするかもわからん相手を、村に留めておくだけでも危険なのだ。さっさと出て行ってもらえ」

「そりゃ、昨日散々っぱら話し合ったろうが」

「三日だ。それ以上の滞在は認めん。祈り、さっさと行ってしまえ」

 

 取り付く島もないとはこのようなことを言うのだろう。

 ジョウハは苦い顔をしていたが、なにを言っても無駄だと悟ったのか、燃えている遺体の前で手を合わせて祈ると、すぐにリュウモの手を引いて集団から離れる。

 その際、強烈な恨み言が、耳に入った。

 

「ちきしょう、我ら『外様』が死のうと、『譜代』の肥え太った奴らは歯牙にもかけん。ちきしょう、ちきしょう……」

 

 氏族の長が、友の死に涙を流し、炎の前で怨嗟の声をぶつぶつと呟いている。

 それから逃げるように、リュウモは顔を背けて、ジョウハの背について行った。

 

「すまん、言った通りになっちまった」

「いえ、そんな……」

「いや、本当にすまん。いつもは、あんなんじゃないんだ。ただ、今回亡くなったのが、村長の親友でな。心が荒れてしまっているんだ。許してやってくれ」

「わかり、ました」

 

 さらりと告げられた事実に、リュウモは衝撃を受け、以降口を開けなかった。

 それから、村から出てすこしばかり北上し、小川に辿り着いた。

 ごろごろと石が川辺に転がっている。川は曲線を描き、それが最も大きな箇所に、岩壁のように切り立った岩があった。

 地中深く突き刺さった岩は、その大きな顔を地表に覗かせている。丁度よく、人が簡単に登れるぐらいの角度になっていて、その下には緩やかな流れの水面が見える。

 

「あそこが俺のお気に入りの場所でな、天気が良い日に一杯やりながら釣り糸を垂らしているのが、またいいんだこれが」

 

 くいっと、杯を傾ける動作をする。リュウモは、突き出ている岩を見た。

 

「それは、なんだかいいですね。とても静かで、落ち着きますし」

 

 川の、さらさらとした囁きのような声。周囲の木々が奏でるせせらぎ。偶に水面から魚が飛び跳ね、ポチャン、ポチャン、という響きがあるだけだ。

 それら以外はなにも無い、必要のない光景だった。

 

「うんうん、だろう? 村のやつらは大体、自分のお気に入りの場所を決めるんだ。ここは、俺の場所だ」

 

 気に入った場所を褒められ嬉しいのか、人懐っこい笑みを浮かべている。

 暖かい気持ちになりながら、リュウモは岩に登り、平らになっているところに腰を下ろした。巨大な岩は、二人分の重量にはまったく動じず、ぴくりともしない。

 

「さあて、じゃあ始めるか」

 

 ジョウハは、素早い手つきで釣り針に餌をつけると、川に糸を垂らしてくれた。流れに沿って、浮きが揺れている。

 反対側で水しぶきがあがった。間違いない、魚だ。しかも、かなりの大物だった。

 

「なんか、魚に馬鹿にされた気がします」

「おめーなんかに釣られるかよってか? 大丈夫。我慢だ我慢。ここは結構な穴場だからな」

 

 ジョウハの言葉を信じ、四半刻ほど。リュウモの浮きが大きく上下に揺れ、沈んだ。

 

「お、きたきた! ほれ、竿を引くんだ!」

 

 下半身に、ぐっと力を込めて踏ん張り、すこしの間、魚と格闘すると、リュウモは見事、釣りあげた。

 

「お、中々の大物じゃないか! こいつは、干し魚にしても美味いやつだぞ」

「わ、わわ?!」

 

 びちびちと活きよく暴れ回る魚をどうすればいいかわからず、右往左往していると、ジョウハがさっと釣り針を外した。

 竿の重さが消えて、リュウモはやっと肩の力を抜いた。

 

「はは、昨日、あんなに勇ましく戦っていた戦士様は、どこいっちまったんだい?」

「そ、そんなこと言ったって……」

 

 不意を打たれたように、どっと疲れた気がした。初めてのことは、必要以上に気を使う。

 リュウモは気を取り直すように息を吐くと、もう一度、釣りに集中し始めた。

 半刻ほど経って、どうやら最初に自分が釣り上げることができたのは、まぐれであったと、リュウモは認めざるおえなくなった。

 ジョウハは、まるで魚を口説き落としているかのように、ひょいひょいと釣り上げた。

 半刻としない内に、十匹もの魚がジョウハの竿にかかったのである。対して、リュウモは二匹釣るのが限界であった。単純に五倍の差がついた。天と地、大人と子供の差があった。

 しかし、大量であるはずなのに、ジョウハの顔色は優れなかった。しきりに釣った魚の様子を見ては、眉をひそめている。

 

「魚が、どうかしたんですか?」

「ん? いやあ、やっぱり最近釣れる魚は、どうも元気がないっつーのかな。様子がおかしいんだよ。身は引き締まってるし、でかいんだけどな」

「そうなんですか?」

 

 リュウモは、釣り上げた魚をもう一度よく見た。素人目では全然良し悪しはわからないが、活きはいいように思える。塩焼きにでもして食べたら、とても美味いだろう。

 

「なんていうのかな……元気がないといえばない。そう、怯えているような、感じなんだよな。釣り上げられて、こう、ほっとしてるみたいな」

「魚が水からあげられて?」

「ああ、変だよな? 川も水も、最近おかしいところが沢山あるし、なにより、声が悲鳴を上げてる。金切り声って、言った方がいいか」

「声、ですか」

 

 リュウモは、耳を澄ませて、ジョウハが言う『声』が聞こえるかどうか試してみた。

 川の流れる音が聞こえて来るだけで、彼が言った金切り声はどこにも無い。

 

「川や水の声は、俺たちコハン氏族しか聞こえてこないぞ。まあ、これも昨日言った、体質みたいなもんだ」

 

 ずっと同じ場所で暮らしていた影響か、コハン氏族は血を引く者なら誰であれ、水の声を聞くことができるのだという。凄い者は、川が人と同様に喋り出すのだそうだ。

 リュウモは、故郷で動物と会話できた村長の顔が思い浮かんだ。

 

「水、川が変になり始めたのは、最近なんですか? それとも、いきなり?」

「一月前ぐらいからだなあ。そんなに声が聞こえてこない俺でも、かなり強く耳に入る」

 

 ジョウハは、透き通った川を見つめた。

 

「表面はなにもないように見えて、その下はボロボロなんて話、よくあるもんだ。ただ、今回に関しては、全っ然原因がわからん。村のみんなも、不安になってる」

「初めてなんですか、こんなことって?」

「勿論だ。――――ああ、いや待てよ……?」

 

 なにか、似たような話を聞いたような……。

 ジョウハは瞼を閉じて、記憶の糸を手繰り始めていた。青い空を見上げながら、人差し指で、こん、こんと額を叩いている。すこしずつ叩く早さがあがっていき、止まった。

 

「ああ、そうだそうだ、思い出したぞ!」

 

 あのときだ、あのとき。そう言って、ジョウハは語り始める。

 

「おまえさんと会ったときに、熊が狂っておかしくなっちまったっていう話はしたよな?」

 

 リュウモはうなずいた。一日前の出来事を忘れてはいない。

 

「実は、同じ頃に、今ほどじゃなかったらしいが、川がおかしくなってな。どうも、村の連中も、体調をよく崩していたんだ。俺が、まだガキだった頃だ」

 

 記憶がおぼろげなのか、ところどころ止まりながら、話す。

 

「それで、えーと……その、おまえさんと同じ色の瞳をした連中が、助けてくれたんだ」

「おれと、同じ色の瞳?」

 

 ――そういえば、村長が若い頃に外へ出たって、爺ちゃんが言ってた……。

 確か、四十年ほど前だったはずだ。ジョウハの歳が五十なので、彼が子供だったときに起こった事件との年月は大体一致する。

 

「薬を処方してくれたり、熊を退治してくれたりしてな。最後は、川の上流に行って、なにかしてたみたいだ」

「上流――なにか、あるんですか?」

「ここらの川の源泉は、〈竜域〉にあるんだ。川を上へ上へ辿ってくと、到着する。まあ、助けてくれた連中は、さすがに〈竜域〉に踏み入ったりはしなかったみたいだが」

 

 ――上流でなにかしていたことは、確かってことか。

 〈竜域〉から流れ出てくる川。その上流に、なにかが起こった。

 

「まあ、そんなわけでな。俺たちは〈青眼〉であっても、比較的友好なのさ。なにせ、恩人なわけだ。俺の友人なんかも、ガキの頃、本気で死にかけてたからな。助けられてからは、考えが変わったよ。勿論、俺も」

 

 ようやく、リュウモは得心がいった。どうしてコハン氏族は、自分を害しようとしなかったのか。ずっと昔、〈竜守ノ民〉たちは、すでに信用を勝ち得ていたのだ。

 自分は、皆が死した後も、故郷を出ても助けられている。

 心の中を、暖かさと切なさが横切った。

 

「しっかし、そんときに連中が上流でなにをやってたかは、わからん。村長が知ってたらしいが、間の悪いことに、当時の村長は一年前に亡くなったんでな。手掛かりがないんだ」

「上流……〈竜域〉には源泉――もしかして」

 

 ひとつの可能性が頭を過り、リュウモは大岩から飛び降りる。足場が石で不安定だったが、難なく着地すると、川辺に跪いた。

 水面に指をつけて、湿った指を無くなった左耳の傷跡に当てた。

 『竜』に耳を切り落とされた日から、リュウモの左耳の傷跡は、〈禍ツ気〉に敏感になっていた。故郷では、布で耳まで覆っていたからまだましだったのだが、今回はどうか。

 

「いッ――!」

 

 焼けつくような痛みが、左から右へ走る。火傷とは比べるべくもない。

 間違いなく、川に〈禍ツ気〉が含まれている証だった。

 

(でも、変だ)

 

 水、特に川や海には、強い浄化の作用が『气』に働く。だから、川、海に濃い〈禍ツ気〉があるというのは、おかしなことだった。

 源泉が駄目になったとも考えられるが、そもそも元がそこまで変容してしまっては、この村は〈禍ツ気〉によって滅んでいる。

 おそらく、川の途中で〈禍ツ気〉が発生しているのだ。ならば、原因を排除してしまえば川は元の様子を取り戻すだろう。濃いといっても、辺りが黒く染まっていないのなら、まだ自然の浄化作用の許容範囲を超えていない証拠だ。すくなくとも手遅れではない。

 

「ジョウハさん。〈竜域〉には入れなくても、上流になら行ってもいいんですよね?」

 

 リュウモの提案に、ジョウハは目を見開き、うなずいた。

 

 

 

 

 家に戻り、釣った魚と道具を置いて、再び二人は川に向かい、上流に歩いた。

 

(もしかしたらだけど、予想は当たって欲しくないな)

 

 可能性が皆無なわけではない。むしろ、川の上流で〈禍ツ気〉が発生している線は濃厚だ。

 きっと、何十年も前にこの村を訪れた村長たちは、〈竜域〉から出て来てしまった『竜』を処理して、村に平穏を取り戻したのだ。

 自分に、村長と同じことができるだろうか。不安に苛まれながら、リュウモはただ歩いた。

 上流に向かうにつれて、辺りは鬱蒼とし始めた。木々が陽の光を遮り、葉がその身を透かせ、隙間から入って来る陽光が空中に光の帯を描いていた。

 足元が下流よりさらに不安定になったので、慎重に足を進める必要があったが、二人とも足腰は強いため、転ぶようなことはなかった。

 それを見つけたのは、上流に入ってから、四半刻程度経ったときだった。浅瀬に、魚よりも巨大な影が倒れている。それも複数。

 

「酷い……」

 

 あったのは、大量の魚の死骸ではない。『竜』が、何匹も川に横たわって死んでいる。体中を傷だらけにし、爪や牙が折れている個体も多い。

 〈禍ツ気〉によって理性が消し飛び、自らを省みずに戦った跡だった。

 

「こ、こりゃあ、大変だ……!」

 

 初めて『竜』をその目で見たジョウハは、今にも腰を抜かしそうだ。

 

「ジョウハさん、これを口に当ててください」

 

 リュウモは、布を袋から取り出して、ジョウハに渡した。

 

「こ、これは……?」

「〈禍ツ気〉……簡単に言うと、『竜』が死んだ後に発する『气』は、普通の人の体には毒なんです。これは、体に入って来る〈禍ツ気〉を防いでくれるものです」

「い、いや、それだったら、おまえさんが使ってくれよ。これでも体は丈夫だ」

「おれは大丈夫。これぐらいなら、平気です。もっと酷くなっていたら、そもそもここに来る前に死んでます。おれも、ジョウハさんも」

 

 リュウモの場合は、怒り狂った『竜』相手に、であるが。

 

「わ、わかった……。しかし、本当に、水が泣いて、ああ、いや、叫んでるな。こんなの初めてだ」

 耳鳴りが酷いように、ジョウハは眉間に皺を寄せていた。

「と、ともかく、〈竜鎮め〉の方々に連絡しないとな」

「〈竜鎮め?〉」

 

 聞いたことのない名前に、リュウモはジョウハを見上げた。

 

「『竜』は神ノ御使い様だけどな、本当に、偶に〈竜域〉から出てきて、外側で死んでしまう御方がいるんだと。そういった『竜』を、ちゃんと供養して魂を鎮め、天に送るのが〈竜鎮め〉っていう人たちだよ。皇都の宮廷におられるから、連絡すればすぐ来てくれる」

「でも、『外様』の人の言うことを、『譜代』の人たちは聞いてくれないんじゃ……」

 

 今朝、恨みを込めて『譜代』を罵っていた老人の話を聞いた限りでは、『外様』の存在など、どうでもよいという風だった。

 

「そうでもないんだけどなあ……昔は、確かに酷くて、皇都にも入れないようだったらしいんだがな。今じゃ、一部ではあるけど『外様』連中が皇都で商売してるくらいだぞ?」

「でも、そんな急に変わるんですか? 百年も、経っていないんでしょう?」

 

 ジョウハと、今朝の老人は、大体だが四十は離れているだろう。たった半世紀程度の月日で、人の心、国に染みついた感情や習慣は変化するだろうか? したのだとしても、あまりにも急激だ。舵取りを九十度方向転換したようにすら思える。

 

「風向きが変わったのさ。まあ、風を送っているのは帝なんだが……。とにかく、今はこの状況をなんとかしよう。どうすればいいか、知っているのかい?」

「その、〈竜鎮め〉の人たちがどういった感じで『竜』を処理するのか知らないですけど……。普通、こうなったら、『竜』を一か所に集めて火で焼きます。それから灰になった骸をある場所に撒きます。ただ、そこは〈竜域〉の中にあるので、無理ですね……」

 

 『処理』と言ったとき、ジョウハの眉がひそめられたのを、リュウモは見逃さなかった。

 

(『竜』について説明するときは、もっと気をつけよう……)

 

 信頼している人を、傷つける言動をするべきではない。

 

「……大体、俺が聞いた〈竜鎮め〉の方々の送り方と一緒だな」

「なら、大丈夫じゃないでしょうか」

 

 不安ではあったが、外には外の掟がある。郷に入っては郷に従えという言葉もあるくらいである。下手に相手のやり方に文句を言うのはよくない。結果として〈禍ツ気〉が抑えられればいいのだ。

 

「応急処置、ですけど、とりあえず『竜』を水の上から退けましょう。そうすれば、下流はましになるはずです。コハン氏族の人たち風に言うなら、水が大人しくなるはずです」

「そう、か…………よし、いいぞ、わかった。覚悟を決めたぞ!」

 

 パン! と頬を叩いて、ジョウハは自分に言い聞かせて、気合を入れていた。

 リュウモは川に入って、『竜』の死骸を観察した。幸い、触れてもまだ問題ない範囲だ。

 川を穢すほどの〈禍ツ気〉の濃さであったから、心配していたが杞憂だった。単純に、量が多いだけだ。地道にひとつずつ消して行けば、川はいつもの様子を取り戻す。

 死骸の下に手を入れ、持ち上げた。運ぶにしても、小型の『竜』であってもかなりの重量があるが、リュウモにとっては、そこまで重労働なわけでない。

 一匹目の死骸を川から出して、陸に置いた。ドスン、と重量を感じさせる、小さな地鳴りが起こった。

 振動で、それまで動いていなかったジョウハの体が、びくっと震えた。

 

「ああ、御使い様……申し訳ありません。下賤の身である我ら人が、御身に触れることをお許しください――!」

 

 まさに恐々といった感じで、ジョウハは『竜』の死骸に触れた。腰が入っていない、へっぴり腰のせいで、中々、捗らないようだ。

 そんな大人ひとりを尻目に、リュウモは淡々と、つまらない作業でもするかのように運び続ける。

 実際、『竜』の死骸運びは、リュウモにとっては嫌な記憶がたんまりと詰まっていた。

 

「う、うお……結構、重いな」

 

 そう言いながらも、ジョウハは軽々と『竜』の骸を持ち上げて、川から退かせた。

 

「肌が痛んだりしないですか?」

「おう? 問題ないぞ。この通りだ」

 

 むんっと、力こぶを見せて、ジョウハは笑った。

 過敏な者は、〈禍ツ気〉を含んだ物体に触れるだけで、酷い痛みを訴える。

 ジョウハは、そういったものとは無縁であるらしかった。

 

「村の人たちで〈目覚めの時〉を迎えた人は、いたりしないんですか?」

「〈目覚めの時〉? なんだいそりゃ」

「いえ、なんでもないです。忘れてください」

 

 リュウモは、また『竜』を一匹担いで、川から上げた。

(やっぱり外の人たちって、〈竜守ノ民〉とは違うんだな)

 

 生活の循環の仕方や、体の作り。それだけではなく〈目覚めの時〉が存在しない。

 だが、〈竜守ノ民〉が住んでいた場所を考えれば、外の人々と違いが出るのは当然だ。

 〈竜气〉はそこにいる生物に影響を与える。コハン氏族が長い間、川の近くに住みつき、周囲の環境に適応し、水の声が聞こえるようになったように、〈竜守ノ民〉もまた環境に合わせて代を重ね適応したのである。

 幼子であっても生来から体は頑強で、力は大の大人を上回り、〈目覚めの時〉を迎えれば『竜』さえも退けられた。

 ジョウハが必死で運んでいる『竜』の骸も、リュウモは重さを感じさせない動きで、簡単に持ち上げ、すでに何体も川から引き上げている。

 

「ほ、本当、思ってたけど、おまえさん、体力あるよ、なっ!」

 

 ジョウハは、最後の一匹を運び終え、額の汗を袖で拭いながら言った。

 

「体は丈夫なんです、おれらは」

「そう、なのか……」

 

 聞こうか、聞くまいか、ジョウハは迷っているようだった。だが、禁忌に触れると思ったのか、口から言葉が紡がれることはなかった。

 親切な人たちでも〈禍ノ民〉については、聞きたくはないらしい。

 

「よし、これでいいんだよな」

「はい、川はすこしすれば元に戻ると思います」

「はあ、よかった。じゃあ、帰るとしようか。釣った魚を調理しないとな」

 

 リュウモはうなずいて、帰途についた。途中、一度だけ、惨劇があったであろう現場を振り返った。

 『竜』は、だらん……っと、生気を無くした躰を晒している。痛ましい。

 本当なら、骸を〈竜ノ墓〉まで持って行ってやりたかったが、それは外の規則に反する。

 手を合わせ、彼らの冥福を祈り、リュウモは村に向かって歩いて行った。

 

 村に戻ると、ジョウハは急いで村長の家に走った。

 リュウモは、先に家に帰るよう言われたので、彼の家に歩いている。

 昨日とは違った、優しい色の夕焼けが家々を照らしていた。

 村は、まだ日が落ち切っていないにも関わらず、誰ひとりとして外に出歩いていない。

 喪に服しているのだろう。リュウモも、あまり外に居続けるのはよくないと思い、足を早めた。

 ジョウハの家の玄関口に着き、戸を開けようとしたときだった。うなじ辺りに、刺されたような違和感が広がった。誰かに見られている。

 咄嗟に、後ろを向いた。視線の先には、家屋の影に隠れている、黒衣装に身を包んだ人物がいた。

 

(村の人、じゃないよな)

 

 人物が纏う雰囲気が、コハン氏族たちが持つ空気とまったく違っている。

 緊張から解放された者と、まだ緊張の最中にいる者。人物は後者であるようだ。

 しかし、氏族の者ではないのだとしたら、誰であろうか。

 ジョウハが言っていたが、ここは皇国からかなり東の辺境と言われても仕方ない位置にある。そのような場所に外から来訪者が来るというのは、珍しいはずだ。

 そこまで考えて、リュウモは苦笑しそうになった。

 他ならない自分が、その珍しい来訪者ではないかと。

 気にするべき事柄ではない。リュウモはそのまま人物を確認せず、戸を開けて中に入った。

 

 

 

(ようやく見つけた……!)

 

 リュウモが見た人影――ゼツはやっと見つけた標的の姿を確認し、風もかくやという速さで野を駆けていた。日は落ちかけ、闇は濃くなり始めているが、関係はない。

 

(あの様子なら、あと二日は留まらねば準備は完了すまい。急ぎ、ガジン様に報告せねば)

 

 気配を悟られたが、幸い、〈青眼〉の少年はこちらが追手だとは気づいていない。そもそも、自分が追われているという認識すらないようだった。

 寡黙な、大人しそうな少年だったが、ゼツは彼を探し出すのはかなり苦労した。

 痕跡を消しながら進む、普通の標的であれば、探すのは困難ではない。どこかに隠れていようと、〈影〉の業ですぐさま見つけ出せる。皇国に牙を剥く存在を、何度と追い詰め、始末してきたゼツには、自負も実績も腕もあった。

 だが、〈青眼〉の少年は、信じ難い力技で、〈影〉であるゼツの追跡を、一時的とはいえ振り切った。

 ――本当に、まだ信じられない。休むことなく、一晩中、山を五つも超える距離を、走り抜けるなど。

 少年は、訓練された軍人の速度を、はるかに超える速さで駆け、突き抜けたのだ。

 まさに力技。子供とは思えない、人外の体力と速力である。

 足跡は残ったまま。木々の枝や葉には擦れ、折れた跡がいくつも残っていたが、追うのは容易でも、追いつくのは困難を極めた。標的を地の果てまで追えても、捕らえられなければ意味がない。あれを捕らえるには、もっと人数が必要だった。今の部隊には、追跡に長けた人材は何人かいるが、不足している。

 ――村から出られると、また面倒なことになる。

 ゼツは、疲労が溜まった重い体に鞭を打ち、上司の元に走り続けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十五話 急転

 『竜』と釣りの一件から、翌日の朝。リュウモは、いつもよりすこし早くに目が覚めた。

 枕元に置いてあった〈龍王刀〉がほんのりと熱を帯びて、〈竜気〉を発していたせいだ。

 

「な、なんだ、どうしたんだ?」

 

 何事かと鞘から刀を抜いてみても、特になにかが変わった様子はなかった。

 時間が経つにつれ、すこしずつ刀が放つ〈竜気〉が強まっていく。

 

「これって……」

 

 ほんの二日前。これと同じ現象が起きた。

 旗を掲げていた人たちと、すれ違った時だ。〈龍王刀〉は同じ反応をした。

 彼らが、村に近づいて来ているのかもしれない。

 

(でも、この村になんの用だろう?)

 

 ジョウハが言う通り、ここは田舎だ。街道に多少近いとはいえ、わざわざ立ち寄るほどのものでもない。なんらかの目的が無ければ来る意味もないはずだ。

 

「魚でも食べに来たのかな」

 

 暢気なことを言いながら、リュウモは寝床から出た。十分な休息を得て、体の調子は万全になっていた。これならば、どんなことが起こっても身を守れると思った。

 

 

 少年がいる村から離れた場所で、ガジンは部隊を止めていた。

 部隊の使いとしてゼツを村の村長宅に向かわせ、彼以外は村から見えない位置に待機している。ガジンもまた例外ではない。

 

「さァて、大将。〈影〉を向かわせて、ちょいと経ちやしたが……どうしやす?」

「どうもこうもない。今は待ちだ。部隊を村に入れれば、少年に気づかれて逃げられるかもしれん。あまり、我々には好意的ではないだろうからな」

「ゼツが気づかれたって言っていやしたが、勘違いじゃあないですかねェ」

 

 冗談だろうとは、ガジンも思った。ゼツの技量は知っている。たとえ相手が誰であろうと易々と気配を辿られはしない。その彼が申し訳ないと言って、気づかれたと断言したのだ。

 

「相手はかの民だ。用心に越したことはあるまいよ」

 

 ガジンは慎重に事を進めた方がよいと判断していた。聞き取りによって得た情報を思い出す。

 ひとつ前の村で聴取を行い、眉をひそめるに足る結果が返ってきたことを。

 人々は小さな〈青眼〉の少年を囲み、捕らえようとした。しかし、逆に返り討ちに合い、そのまま少年は凄まじい早さで逃亡。西に向かって走り去った。

 手綱を握る手が、ぎゅっと音を立てる。そこまでする必要があったのか。腹立たしい。

 ――つまり、その時だったのだろう。私たちとすれ違ったのは。

 であるならば、〈八竜槍〉の一団にまったく遠慮せずに突っ切って行ったのもうなずけた。

 〈八竜槍〉の存在など、少年は欠片も知らなかったのだ。だから、なにも言わずに駆け抜けた。それに、止まっていればまた囲まれると考えていたのかもしれない。

 精神的に追い詰められていたというのもあるだろう。なにがあったのか知らないが、少年はひとりで、他に仲間は確認されていない。

 はぐれてしまったのか、それとも元々仲間などいないのか。

 どちらにせよ、あのように幼い少年がいきなり悪意を向けられ害されそうになれば、過剰に反応してしまうのは無理からぬことだ。彼を責める気は、ガジンにはなかった。

 

(見知らぬ相手に対しては、相当に神経質になっている可能性が高い。逃げられれば面倒なことになるのは違いない)

 

 なにせ、〈影〉の追跡を振り切るほどの身体能力を持つ驚くべき少年なのだから。

 藁を掴む思いで手に入れた解決への糸口だ。ここで失うのは痛手どころではない。

 ガジンは、馬上で目を瞑り、じっとして報告を待った。

 冷気を含んだ朝風が何度か頬を打った頃、待ちわびた〈影〉の者が駆けて来た。

 逸る気持ちを押さえつつ、馬から下り〈影〉に向かって走る。

 

「どうだ?」

「村長に話を通してまいりました。自分の家に連れて来させるので、足を運んで欲しいと」

「予定通りだな。私とクウロ、決めていた者以外は村の周囲に散れ。少年が逃げ出した際には追え。それと、旗は下げておけ」

 

 指示を出し、馬に跨ってガジンは〈影〉の男について行った。

 目立たぬよう人数を減らしたのは、少年に気取られないためだった。

 協力を仰ぎ、解決に向けて知識を教えてもらうのが目的だ。そのため、必要のない武力は最低限にしておくべきである。

 村に入る。まだ起きている人は少ない。

 皇都では、この時間帯はもう騒がしさが顔をのぞかせる。静かな朝が、ガジンに故郷を思い出させた。

 

「こちらです」

 

 〈影〉の男が、ひとつの家の前で止まった。ガジンは馬を下り、玄関口で恭しく首を垂れている老人に声をかけた。

 

「ご老人。なにもそのようなことをする必要はありませぬ。どうか、頭を上げてくださいませんか」

「は、は……! お話は伺いました。どうぞ、お入りください」

 

 同行した部下に外で待つよう伝えると、副官のクウロと共に、ガジンは家に入った。

 居間に通された。そこには先客がいた。三十過ぎ程度の、体格のよい男性だ。

 彼は村長と同じく、さっと頭を下げた。

 

「その者が、お話にあった少年。リュウモを保護した者にございます」

「ジョウハと言います。かの〈八竜槍〉様にお目に掛かることができ、光栄に存じます」

「〈八竜槍〉ガジン。こちらは私の副官、クウロ」

「どーも」

 

 全員が座る。ガジンは、解決しなければならない使命のため、口を開いた。

 

「早速、その少年、リュウモについてお聞かせ願いたい」

 

 先に、村長が問いに答えた。

「どうにも、その、気味が悪い子供で……」

 

 村長の様子は、厄介者を抱え込んだ、というよりは、心の奥底から怯えているように見えた。険悪の感情に結びつかせない程、強い恐れが彼の態度から垣間見える。

 

「気味が悪い? そいつはまた、どうして?」

 

 クウロが訝しげに聞いた。子供好きの彼からすると、村長の姿勢は気に食わないのだろう。その証拠に、声に険があった。

 

「歳の割には落ち着きすぎているのですよ。それに〈青眼〉でございます……。あの眼に映ると身が縮こまります。国じゃあ、あの色の瞳を持つ奴らは、〈禍ノ民〉と呼ばれていますし――正直、村が滅んだのも、自業自得じゃないかと」

 

「おい、村長! その言い方はないだろ! あの子は『竜』に一族を皆殺しにされたんだぞ!」

 

 がっと、勢いよくジョウハが、非難の声を村長に浴びせかける。彼は、国の重鎮の前であるにも関わらず、知ったことかと言わんばかりに村長に食って掛かった。

 いいぞ、もっと言ってやれと示さんばかりに、クウロの機嫌が良くなったのを、ガジンは感じ取った。一度、ため息をついて、言い争いに発展しそうな場を収めにかかる。

 

「待て、その子の家族は、『竜』に親を殺されたと? 詳しく聞かせてもらいたい」

 

 村人達の言い合いが始まる前に、ガジンは手で制して、騒ぎを止めた。それで、怒髪天を突く、力任せな荒っぽい空気は散って消えた。子供を思って怒声を上げた男も佇まいを正す。さしもの〈竜槍〉使いの前には、例え村長の言い方が気に食わなくても、礼儀を欠いてはならないと思い直ったようだ。

 ガジンは、その少年の話を聞くと、探していた人々――〈竜守ノ民〉であると確信する。

 

(天は、まだ我らを見放していなかった……!)

 

 よもや、子供ひとり探し出すのに、ここまで苦労するとは思いもしなかった。

 たった半日も経たないうちに、これだけの距離を移動されては、さすがの〈影〉も手間取ったのも無理はない。

 

「その少年に、会わせてもらないだろうか。皇国で騒がれている事件を解決するための鍵を、握っているかもしれないのだ」

 

「いえ、いえ、どうぞ、どうぞ。喜んで――ほら、ジョウハ。さっさと連れてこんか」

 

 さっき声を荒げていた男――ジョウハは、村長に言われても黙って動かなかった。

 

「あの子を、どうするおつもりで? まさか、〈青眼〉だからと皇都へ連行する気ですか」

 

 敵愾心を隠しもしない強い視線に、ガジンは苦笑する。『外様』の小さな氏族は、よそ者には冷たい。また、感心もする。どこから来たかもしれない件の少年は、ジョウハの信用を三日と経たずに勝ち取ったのだ。

 

「ジョウハ! 〈八竜槍〉様に、なんという無礼な」

 

 しわがれた老人が説教しようとするのを、ガジンは先ほどと同じように、手で制して止める。ジョウハの反応は、相手が〈八竜槍〉であっても疑うのが当然だ。

 天下の〈八竜槍〉が、皇都を遠く離れて伝説に取り残された一族を探しに来た、というだけでも眉唾ものである。

 しかも、国で起きている大問題を解決する術を、小さな少年が持っているという。普通に考えて、怪しすぎる。

 

「ジョウハ殿。私たちは、その少年に危害を加えにきたわけでも、捕らえにきたわけでもありませぬ。ただ、協力を頼みに来ただけなのです」

「…………」

「ともかく、その少年、リュウモと話しをさせていただきたい。それから」

 

 言葉が続くことはなかった。

 ピィィィ―― と、外敵の接近を知らせる警笛の音が、ガジンの口をつぐませたのだ。

 

「申し訳ありません。話はまた後ほど!」

 

 ガジンは、なにが起きているかわかっていない面々を置き去りにして、家から駆け出た。

 

「敵の位置は、数は!」

 

 外に待機していた槍士に向かって言ったが、彼はまだ敵が誰か理解しておらず、首を横に振った。

 もう一度警笛の音が聞こえると、顔を青白くしたイツキが、血相を変えて走って来た。

 瞳に、どうしてよいかわからない、迷いがありありと浮かんでいた。

 

 

 

「が、ガジン様……『竜』です――『竜』が襲ってきました!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十六話 二人の邂逅

 故郷の『竜』と挨拶を交わすための音とはまた違う笛が鳴った音が聞こえた。

 リュウモは、手にしていた木杓子を置いて、鍋の火を消し、短刀と〈龍赦笛〉を持って外へ出た。すでに、戦いが始まってしまっていた。

 何十人もの槍を持った戦士たちが、『竜』相手に大立ち回りを演じている。彼らの誰もが、未熟なリュウモから見ても一流の凄腕だとわかった。

 現に、『竜』を相手取っていても、怪我人も死傷者もまだ出ていない。しかも『竜』を殺さず、追い払うように戦っている。

 

「イツキ、クウロ! 数人連れて、村人を避難させろ! 他は応戦!」

 

 特に、陣頭で槍を振るい続けている男性は、もう意味がわからない強さだった。

 腕がぶれたかと思えば、『竜』が二、三匹、吹っ飛ばされて地面を転がっている。

 喉笛に噛みつかれたように見えたが、それは残像で、敵の頭を打って昏倒させた。

 

(竜の、骨の、槍?)

 

 外で初めて見た、『竜』の体を素材として作り出された武具。槍の驚異的な耐久度と切れ味は、同じく驚異的な技量を持つ男性の力を存分に引き出していた。まるで、『竜』が赤子の手を捻るように退けられていく。だが――。

 

(駄目だ……。狂った『竜』は、相手を、人を殺すまで絶対に止まらない)

 

 つい数日前に、経験した。『竜』の青く美しい目は、赤く、血みどろ色に変っている。

 狂騒に駆り立てられた、殺戮者の眼だ。リュウモが知っている『竜』は、どこか静けさと知性を感じさせる光がある。しかし、それはもうどこにもなかった。

 

(また、あの時と同じ、ことが……)

 

 駄目だ、それだけは絶対に駄目だ。もう、あんな光景、見たくない。

 リュウモは、首から下げられている〈龍赦笛〉を握り締める。

 

「え……これって――」

 

 握り締めて、びっくりした。〈龍赦笛〉が熱を持ってきていたのだ。じんわりと、最初は暖かかった熱が、次第に高熱に変わっていく。

 吹け――と、顔も知らない誰かから、言われた気がした。

 

「――――」

 

 リュウモは、迷った。ずっと族長から言われ続けてきたことが、再生されたからだ。

 

『お前は、選ばれし子なのだろう。だが、その笛を使う時は、リュウモよ。覚悟せねばならん。それは、我らが赦しを請うために創られた物。私利私欲で使っていいものでも、まして――人を助けることにも、本来は使ってはまずい代物なのだ』

 

 厳しい目をした老人が、強い口調で言った言葉を思い出す。リュウモの手が、笛から離れかけた。――迷いを塗り潰すように、村人と槍士の悲鳴が木霊する。

 

「見逃せない……! 黙ってられるかっ」

 

 赦しを得ても、誰もいなくなったら意味がない。人は、死ねば終わってしまうのだから。

 よくわからない誰かに導かれるまま、笛の熱に示された道に、リュウモは足を進める。

 笛に、口をつけた。

 

 

 

 ガジンが、『竜』を槍で打ちのめしていた時だった。笛の音が聞こえた。

 甲高い、警笛に近い調べだ。親鳥が子を叱るような調子で、一定の間隔で鳴り渡る。雷鳴には程遠く、だが雨声よりもはっきりとしている。

 弱くはないが、強くもなく、『竜』の尖り声には敵うべくもない――その音が、ぴたりと『竜』達の動きを止めた。

 

「な、何だァ? 止まりやがった……」

 

 『竜』達が恐れて首を垂れている。殺気は霧散し、皇国の帝に頭を下げる臣民のようだ。

 神ノ御遣いたる『竜』が、笛の音に従っている。

 

「りゅ、〈竜奴ノ業〉だ……」

 

 勇猛な槍士の誰かが、『竜』を操る業に怖じ気立ち、いつ操られた『竜』に襲われるかびくついていた。最後にひと際高い音が鳴ると、『竜』達は全てが振り返ることなく走り去って行く。

 ガジンは、遠くに佇む少年に目を向けた。自然と、足が少年へ向く。

 少年はなにも言わず、動きもしない。それは他の者たちも同じだ。

 草土を踏む音が晴れた空の下、よく聞こえた。ガジンは、彼の前で止まる。

 

「君は――〈竜守ノ民〉……だな?」

 

 ようやく、手の中に事件解決の鍵が入った。ガジンは、ほんのすこしだけ不安が払拭されて胸をなでおろす。けれども、伝説が目の前にあらわれたことに、驚きと興奮――わずかな恐怖を抱かずにはいられなかった。

 

 

 ――君は――〈竜守ノ民〉……だな?

 目の前の男に言われて、リュウモは自分が誰なのか、丹念に思い出させられた気がした。心の中でぼやけていた『使命』への輪郭が鮮明になっていく。

 槍を持つ男が、なんの目的をもって接触してきたのかはわからない。ただ、はっきりとしているのは、もうここでの生活に別れを告げなければいけないことだった。短く、心地よいだけではなかったが、それでも静かで故郷を思い起こさせるところだったのだ。

 リュウモは名残惜しく思いながら、男の眼を見て言った。

 

「はい。――おれは〈竜守ノ民〉です」

 

 それだけを言うと、男は黙った。じっと、リュウモの両目を見つめると、それからやっと口を開いた。

 

「私の名は、ガジン。タルカ皇国、〈八竜槍〉に名を連ねる者のひとり。少年、名は?」

「リュウモ、です」

 

 知らない言葉が出て来て、リュウモは混乱しかけたが、疑問は隅に追いやって名乗り返した。ガジンと名乗った男は、白い槍を手にしている。それがなんの素材で出来ているのか。〈竜ノ墓〉で元となった物をよく目にしていたリュウモにとって、察するのは簡単だった。

 

「――竜の、骨の槍……」

 

 ぽつっと言葉をこぼすと、ガジンは濃い眉を動かして驚いた。だが、すぐに得心がいったような顔になった。

 

「そうか。君たちは〈竜域〉の外については疎いのだな」

 

 図星をつかれて、リュウモは黙った。なにせ、数日前までは自らが『外』に出るなど夢にも思わなかったくらいである。外界の常識など、多少教わった程度でしかない。

 

(偉い人、なのかな……)

 

 ぼんやりと、知恵熱でも出したかのようにかすみがかかっている頭で、リュウモはそう考えた。体調が〈龍赦笛〉を吹いてからおかしい。体が異様にだるい。症状は、高熱を出した時に生じる気怠さに似ている。だが、倒れるわけにもいかなかった。

 

「君を、探していた。〈竜守ノ民〉の血を引く、君を」

「どうして、おれを、おれたちを探していたんですか?」

「説明すれば、長くなる。私たちと供に、皇都まで来てもらいたい」

「皇、都って……」

「帝がおられる、タルカ皇国の最も栄えている都だ」

 

 一体、どんな用があってこの人は自分に用があるのか。事態がよく飲み込めない。

 リュウモは、穴だらけの絵画を見ているような気がした。

 

「その、おれは、みんなのために、北へ、行かないと、いけなくて」

「北……〈竜峰〉へ行く気か?」

 

 目的地の名を言われて、肩がびくっとあがった。どうして、この人は〈竜峰〉について知っているのだろう。リュウモは、誰ともわからない人物から、すこしだけ後ずさった。

 日が暮れ、夕焼けが濃い影を落とし、二人を隔てた。噛み合わない歯車の、不快な音が、ギ、ギ、ギ、と聞こえるようだった。

 

「聞かせて欲しい。どうして、〈竜峰〉へ行く? そこへ行けば、『竜』は鎮まるのか?」

 

 ガジンは真剣そのもので、懸命になって自分を探し回っていたの。リュウモは、彼の態度から、彼の必死さと、誠実さがひしひしと伝わってくるようだった。

 悪い人ではない。身を屈めて、目線を落とし、ぶっきらぼうながらも、声には優しさがあった。鍛冶のおじさんがこういう人だったな、とリュウモは思い出した。

 首を横に振る。郷愁に囚われて判断を誤らないよう、自分に警鐘を鳴らした。

 

「貴方たちには、関係のないことです」

 

 これは自分に課せられた『使命』だ。身内でもない人間に、易々と頼っていいものではない。もし、すべてを他人に委ねれば、その時点で天は人を赦さなくなるだろう。

 そうなってしまえば、待っているのは地獄である。リュウモは、簡単に彼らに頼るわけにはいかないのだ。

 

「いや、おおアリだ」

 

 拒絶を否定する、強い口調だった。ぶっきらぼうな声に、苦々しい悲しみがあった。

 

「とある場所で、『竜』が暴れ回り、その場にいた全員が虐殺された。中には……私の親友がいた。私は皇国の〈八竜槍〉として、なにより亡くなった友のためにも、この騒動を終わらせなければならない、義務があり、『使命』でもある」

 

 驚くほど、恐ろしいぐらい強い意志が、ガジンの裡で燃え滾っていた。その炎に呑まれかけ、喉がごくりと鳴った。だが、リュウモとて引くわけにはいかない。精一杯の反抗に、ガジンの目を見据えて、言った。

 

「貴方に義務と使命があるなら、おれもです――お願いだから、行かせてください」

 

 ガジンは、一瞬、驚いたように眉をあげたあと、首を横に振った。

 

「君ひとりでは、とてもではないが北の〈竜域〉まで辿り着けるとは思えん。たとえ着けたとしても、かなりの時間がかかるだろう。もう、悠長に待っていられんのだ」

 

 ガジンのもっともな言い分に、リュウモは黙るしかなかった。『竜』による被害が出ているのなら、手早く片をつけなければならないのは必定。時が経てば経つほど、故郷の光景がどこかでまた繰り返されるかもしれない。

 ――この人を説得するには、ちゃんと根拠がないと、駄目だ。〈竜峰〉に辿り着けるっていう、根拠、確信がないと……。

 それは、今のリュウモに最も無い代物だった。唯一、確かなことは方角だけで、北の〈竜域〉のどこに〈竜峰〉があるかもわからない。そもそも辿り着けるかもわからない。わからない尽くしの状態なのだ。これでは、退いてくれと頼んでも、聞いてくれるわけがない。

 なにも言い返せず、唇を噛むリュウモに、ガジンは辺りを見回して、怪訝な顔をする。

 

「……本当に、ひとりなのだな。未だに信じられん。君の両親は? 他の〈竜守ノ民〉の方々はどうした? まさか、君のような子供を、たったひとりで送り出したのか?」

「本当は、おれを護衛する人が、八人いたんです……でも、『竜』に襲われて」

 

 喉が引っ付いたように、動かなくなった。

 自分以外、全員死んだのだ。そう言ってしまえば、現実も確実にそうなってしまいそうで、リュウモは怖かった。でも、リュウモには予感があった。だから、言うしかなかった。

 

「みんな、死にました……おれ、が、最後の〈竜守ノ民〉です」

 

 目に見えない暖かい繋がり。いつも、背を押してくれていた温もりが、消えた。縁が途絶えたのだと、リュウモは感じ取ったのだ。両親が死んだ時と、同じように。

 

「死んだ? そうか『竜』に…………すまぬ、人目につかぬところで話したい。決して、悪い様にはしない。君のことを、聞かせてくれないか」

 

 騒ぎが収まったからか、人が家から顔をのぞかせて、こちらを見ていた。

 村の周りには、槍士たちが包囲網をしいている。リュウモは、うなずくしかなかった。

 

「ありがとう。――クウロ! 被害は!」

 

 鼓膜だけでなく、骨の芯まで揺らされるかのような、どこまでも通る大声が響いた。

 すこし遠くに控えていた、禿頭の大男が走って来た。体躯に似合わず、機敏な動きだった。

 

「死傷者はなし、負傷者が三人。いずれも軽傷です、大将」

 

 クウロは、報告も慣れたものだと、すらすらと言葉が口から流れ出ていた。

 素早い対応の応酬に、リュウモは呆気にとられながら聞いていた。故郷のゆっくりとした話し方とは違って、次から次へと豪雨がごとく言葉が交わされる。

 まったく同じ言葉を話しているのに、完全に聞き取れない。彼らが異質に映った。

 

(いや、違う。おれが異質なんだ)

 

 本当に今更になって、実感できた。ここにいる人たちは『竜』について知識がない。自分に、彼らの知識がないように。

 

「リュウモ、大丈夫か?!」

 

 思考に沈んでいた意識が、ジョウハの声ではっと我に返らされた。彼は、心配でたまらないと必死になって走って来てくれていた。

 ジョウハはガジンに一礼すると、リュウモの前に屈んだ。

 

「怪我はないか」

「大丈夫です。ご心配をおかけしました」

 

 ジョウハは、二、三度、リュウモの体を確かめた。怪我が無いとわかると、ほうっと一息ついた。心配で青ざめていた顔にも、色が戻ってきている。

 

「ジョウハさん、ごめんさない。家をすこしの間、借りられませんか。この人と、話をしたいんです」

「そ、それは、かまわないが……」

 

 ジョウハは、なにかを言おうとしたが、唇を何度か動かすだけで、声にはならなかった。

 

「ガジンさん、こっちです。それと、怪我した人を連れて来てもらえませんか」

 

 

 幸い、後遺症が残るような怪我人はひとりもいなかった。全員が精々かすり傷ぐらいのもので、腕や脛あたりを切られた人が大半だった。現在治療を施している、ゼツという青年が一番負傷箇所が多かったが、これは『竜』に押し倒され、地面に押しつけられたせいだった。

 相手は初見で、それも彼らが畏怖し、恐れる初見の『竜』相手だ。それを知識も無しにたったこれだけの被害しか出ていない。リュウモを驚かせるには、十分な事実だった。

 

(すごい。健、太い血管、傷つけられたら危ない個所の近くに、傷がひとつも無い)

 

 薬を傷口に塗り、包帯を巻きながら、思わず口に出してしまいそうだった。

 ――おれに褒められても、全然、嬉しくないだろうけど。

 治療を受けている青年、ゼツは、今にも逃げ出したそうであった。証拠に腰が引けている。

 檻の中にいる猛獣に、素手で肉をやっていては、いつ腕を食い千切られるかわかったものではない。早く終わってくれ。切実な感情が、ゼツの表情と態度から強く感じられた。

 彼の望み通り、手早く処置を終わらせた。「もう大丈夫です」――リュウモが言うと、頭を下げて礼を言い、そそくさと家の外へ出て行った。

 拍手してしまいそうになるほど、見事な身のこなしだった。

 

「すまん。部下は君を、恐れている。だが、決して悪気があるわけではない。許してやってほしい」

「いえ、別に。外の人たちが伝えている伝承の通りなら、おれたちは大罪人でしょうから」

 

 苦笑したガジンを、突き放すようにリュウモは言い放った。

 

「なぜ、おれたちを探していたんですか?」

 

 確信に迫るように端的に問う。

 

「順を追って話そう。――数日前、皇国北方の砦で虐殺が起きた」

 

 ガジンの手に力が入ったのを、リュウモは見逃さなかった。

 

「砦で生き残った者は、ひとりだけだった。君と同じ色の瞳をした男だ」

(おれと、同じ……?)

 

 〈竜域〉の外側には、〈竜守ノ民〉はいないはずだ。

 

「どうして、彼だけが生き残ったのか。わからなかったが、これを落とした」

 

 ガジンは懐から白い警笛のような小さな筒を、床に置いた。

 これがなんなのか。リュウモにはすぐに理解できたが、具体的なことは避けた。

 

「おれたちの業で作られた物だと思います」

 

 ――でも、これじゃあ……。

 大型の『竜』には効果は薄いはずだ。この形状、使われている『竜』の骨は、せいぜい中型の『竜』の物。小型程度ならば追い返せるだけの代物だ。

 

「これを、どうして男が持っていたか、わかるかね?」

「そんなの、わかりません。外におれと同じ人がいたなんて、聞いたこともないです。それに、本人に聞けばいいんじゃ」

 

 ガジンは首を振った。

 

「精神が死んでしまっていた。治療を受けているが、治る見込みは低いそうだ。砦の同僚がすべて殺され、焼かれ、悲鳴を上げて死んでいくのに、心が耐え切れなかったらしい」

 

 精神が、心が、壊れた……。惨劇、炎、悲鳴――。

 どくっと、心臓が蹴り上げられたかのように、ひと際大きく跳ねる。

 それは、自分と同じ――。

 

「お、おいおい、大丈夫か、坊主。顔が真っ青だぜェ」

「は、い……」

 

 なんとか返事をし、心を落ち着かせるために、リュウモは息を吸った。

 

「すまない、言葉がすぎた」

 

 ガジンは軽く頭を下げた。

 

「いえ、大丈夫、です」

「――わかった、続けよう。虐殺から『竜』による人への被害が多発している。中には〈竜域〉から相当離れた場所で襲われた一団もあった。国中で、『竜』が暴れているのだ。我々は、『竜』が猛り、人を襲っている原因を調べ、解決するために動いている。そのために、君たち〈竜守ノ民〉を探していた」

「協力は、できません」

 

 結論が出される前に、リュウモは断った。

 

「貴方と供に皇都へ行ってしまうと、なんだかよくわからない、とても大きな、大きな、うねりの中に、入って行ってしまう気が、するんです」

 

 自分を――〈竜守ノ民〉を血眼になって探していた、皇国有数の槍士。〈青眼〉を恐れず、過去について知っている者たち。『竜』による国に住む人々への被害。ここまで知られれば、リュウモとて、事態を飲み込むことができた。

 〈竜守ノ民〉のあずかり知らないどこかで、想像もつかない巨大な出来事が起き、それの渦中にいるのは、生き残りである自分なのだと。

 

「それに、おれたちの業は、外の貴方たちには決して教えてはならないもの。協力すれば、業が広まってしまうかもしれない。それだけは、絶対にしてはいけない」

 

 リュウモ個人の問題ではない。これは〈竜守ノ民〉の一族すべてにかかわる。

 外には間違っても業を流出させてはならない。聞かれても答えてはならない。

 生まれてから耳にたこができるぐらい、何度も何度も言い聞かされてきた。

 村にとっての絶対。破ろうとする者がどうなるか。恐ろしい実例を出されて説明されている。肉にも骨にも染み渡るほど、逆らってはいけない掟なのだ。

 破るつもりなど、更々なかった。

 

「…………協力してもらわねばならん。絶対に」

「協力はできません、絶対に」

 

 間が、軋んだ。

 

「よォしよしよし、わかったわかった!」

 

 クウロが、急に大声を出した。二人の視線が彼に向く。

 

「坊主に譲れないもんがあるってェのも理解した。その歳で大した覚悟だ、立派だぜ」

 

 たんたんっと、クウロは手を叩いた。

 

「だがな、こちらもそれじゃあ、はいそーですかとはいかねェ。大将がさっき言ったが、人が死んでる。それも親友、親しい奴がだ。そいつは坊主も、同じなんじゃあないのか」

 

 リュウモは、唇を噛み締め、下を向いた。

 

「オレたちは、別に坊主が言う業を教えて欲しいわけじゃねェ。広める気もないし、広めちゃあいかんもんだ、でしょう大将」

 

 ガジンはうなずく。

 

「だから、教えてくれねェならそれでいい。坊主が〈竜峰〉とやらに行けば事態が収まるなら、オレたちは余計な口出しはしない」

「…………」

「もっと簡単に言うぜ。なにか手伝えることはないか? オレらが手を貸すことで坊主が〈竜峰〉に早く辿り着いてくれりゃ、万々歳よ」

「――――」

「だから……おい、坊主? 大丈夫か、おい?」

 

 反応が無くなったリュウモを訝しく思ったクウロが何度も声をかけた。

 リュウモは俯いたまま、倒れた。

 

「坊主、おい?!」

「少年!?」

 

 二人の声は次第に遠くなり、リュウモの意識はそこでぷっつりと途切れた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十七話 皇都

 格子戸から入って来る日の光の眩しさに、目が覚めた。意識が覚醒し始めると、寒さが肌を刺し始めた。

 リュウモは目をこすって視界をはっきりさせると、辺りを見回した。

 どうやら、ここは誰かを捕えておくようの部屋で、自分はその誰かなのだとわかった。

 証拠に、堅牢な鍵付きの扉が外側に付けられている。木組みの格子で組まれた牢屋は、長い間、破損と補修を繰り返されているのか、所々の木が真新しい色をしていた。

 リュウモはかけられている毛布を体に撒きつけながら、格子越しに外の様子を窺い見た。

 外は、死んだように静かだった。意識を失う前の喧騒が、嘘か霧のように消え去っている。

 

「どこだ、ここ……」

 

 倒れる前、ガジンが叫んでいたのは覚えている。頭を固い床に打った衝撃が体に伝わって来た感覚も、鮮明に刻まれている。ただ、そこから先が、思い出せない。

 頭に残っているのは、熱でぼんやりとしていた視界によく映った、心配そうな顔をしている二人だけだった。

 今はその二人もいない。そもそも、ここにはリュウモしかおらず、他の牢屋には誰ひとりとして囚人が収監されていなかった。

 

「……! 笛、刀――ッ」

 

 腰にいつもあった刀は、牢屋のどこを探しても見当たらない。幸いだったのは、〈龍赦笛〉が枕元に置いてあったことだ。

 これが無ければ『使命』を果たせなくなってしまう。

 

「よかった、笛は、あった……」

 

 他の荷物は押収されてしまっているが、笛があればまだ『使命』を続行できる。

 命よりも大切な物が無事だったことで気が楽になり、とりあえず布団の上に腰を下ろした。結構、ふかふかで座り心地はいい。

 

(どうしよう、どうする、どうすれば……)

 

 小さな窓から得られる情報は、今が昼であるぐらいしかない、夜になっても、窓がある位置の関係で星は見えないだろう。

 あれやこれやと考えを思い巡らせていると、ぐう……っと音が鳴った。

 腹の虫が声をあげたのを皮切りに、猛烈な飢餓感が体の内側からせり上がってきた。

 理性を吹き飛ばしてしまいそうな本能的な訴えに、リュウモは辺りを見回した。

 

「な、なんか、食べ物」

 

 欲求に応えてくれそうな物は、牢の中に存在していなかった。

 思わず、格子に手が伸びる。

 その指先が、格子に触れる瀬戸際で、紫電が迸った。

 

「いってッ!?」

 

 強烈な静電気を喰らった気分だった。痛みに指先を擦る。

 いったいなんだ。リュウモは障壁のようなものの正体を見定めようと視線を巡らせる。

 すぐに、それは見つかった。

 格子の右上、左上、右下、左下に、長方形の紙が貼りつけてある。

 朱と黒で紋様が描かれており、封、という一文字がでかでかと書かれていた。

 

「これ、呪符だ……すご、こんなすごい効果が強いやつを……」

 

 感心と痛みで、食欲が再び引っ込む。代わりに好奇心が顔をあげた。

 

「枕とか、布団は弾かれないのかな」

 

 枕を持って、ぽんっと格子に放ってみる。呪符に反応はなく、枕は当たって床に落ちた。

 呪符によって形作られた結界は、特定の物体に対し効果を発揮するようだ。

 

(じゃあ、おれの体に、呪印があるはず)

 

 なんでもかんでも効果が発生する結界だと、すぐに痛み、壊れてしまう。だから、判別するために対象へ印、すなわち呪印が刻まれる。

 リュウモは自分の体に呪印が書かれていないか確かめたが、目で見る限りはどこにも見当たらなかった。背中にあるかもしれないが、鏡が無いので見れない。

 仮に見つけたとしても、これだけの結界を張ることのできる使い手が施した呪印を解呪する手段を、リュウモは持ち合わせていなかった。

 

「なんか、食べ物……水、でもいい」

 

 喉元まで飢えの渇きが上ってきた。痛みを我慢して、強引に突破してしまおうか。

 鈍った思考に後押しを受けてもう一度、格子に触れてみようとした時だ。匂いが漂ってきた。料理の、食べ物の匂いだった。足音が聞こえる。

 

「誰……?」

 

 格子のせいで視界が限定されているお陰で、外を詳しく見ることができない。

 それでも、足音の主が発する『气』を感じ取れる距離まで相手が近づいて来ると、誰かがわかった。

 

「クウロ、さん?」

「おう、オレだ」

 

 ひょっと、格子の外からクウロが顔を出した。

 

「悪いな、こんなとこに閉じ込めちまって。いや、まずは飯だな。ほら、食え」

 

 出された食事を、一心不乱にリュウモは口に入れた。味や使われている食材やら、いつもなら気になることを全部無視して体の欲求に応えた。

 

「おいおィ、そんな急いで食わんでも……ああ、いや、数日間なんも食ってなかったから、しょうがないか」

 

 リュウモは、十分としない内に料理を食べつくし、水を飲み干した。

 

「ごちそうさまでした……」

 

 腹に物が詰まって、全身が熱くなり始める。

 目覚めてから、ようやく人心地つけた気分だった。

 リュウモが話しを聞ける状態になるのを見計らって、クウロは口を開いた。

 

「わりィ……こんなこと、したくねえんだが」

「おれが倒れたあと、なにが?」

 

 質問すると、クウロは隠すことなく答えてくれた。

 リュウモが倒れたあと、目覚めるまでは安静にしておこうと寝かせていたが、皇都から至急帰還するよう伝令が届いた。

 仕方なく、ガジンたちはリュウモの体調を気遣いながら皇都に帰還した。

 皇都に着いた途端、帝からの命と言う者たちがリュウモをこの牢屋に入れてしまったのだという。どうやら、この牢屋は特殊な作りをされているようで、かなり頑丈らしい。

 〈禍ノ民〉が人目につかないよう、牢屋にいた囚人はすべて別の牢に移されている。

 徹底してリュウモという存在を明るみにしたくないようだった。

 

「おれはそんなに、危険なんですか」

「坊主が、じゃなく〈禍ノ民〉の血を引き、禁忌を知っていることが、まずい」

「それって、意味は変わらないじゃないですか」

 

 在ることさえ危難であると言われた気がする。リュウモは不機嫌になって眉をひそめた。

 

「いんや、オレたちにとっちゃ重要さ。坊主に関しちゃ問題ねェと知っているからな」

「おれは皇国の人たちにとっては〈禍ノ民〉ですよ? 貴方たちの祖先に滅びをもたらしかけた」

「さて、そうかねェ。もしそうなら、子孫のオレたちを助けるはずがない。あの時、どっかで高笑いしてオレたちが苦しむ様を愉しんで見てりゃよかった。違うかい?」

 

 クウロの、擁護をほのめかすような返しに、リュウモは違和感を覚えた。

 

「まァ! お互いの腹を探り合うのは、止めにしようや。時間の無駄だし、意味もない」

 

 言って、クウロは床に座った。

 どうやらここから出してはもらえないらしい。

 そもそも、彼にその権限があるのか怪しいものだ。

 すくなくとも、結界の『气』から察するに、これを組み上げたのは彼ではない。

 思った通りだった。彼らに関わったことで、人の世が持つ、巨大な潮流に呑まれかけている。

 

「んな顔すんなってェ。こっちが知りたいことを教えてくれりゃ、ちゃんと出してやっから」

 

 リュウモに選択の余地はなかった。うなずいて同意を示し、できる範囲で答えることに決める。

 

「ありがとうよ。じゃあ、質問させてもらうぜェ」

 

 クウロは、なにも書かれていない白紙の書物を開いて、懐から筆と墨を取り出した。

 

「こーいうのは他に書き留めるやつがいるんだが、こっちの事情でね。オレひとりでやらせてもらうぜェ」

「は、はあ……」

 

 意味がわからず生返事してしまったが、そういうことらしい。

 日付をクウロが書くと聴取が始まった。

 

「まず、根っこの部分からだ。どうして『竜』が本来いるべき場所を離れて人を襲う?」

 

 クウロは〈禍ノ民〉のせいだ、と決めつけて話さない。詳しく調べていたようだ。

 

「〈禍ツ气〉という『竜』を狂わせる『气』が、地上に出始めたからです」

「〈禍ツ气〉、ねェ。そいつが『竜』を狂わせている原因、と」

 

 クウロは書物に〈禍ツ气〉について書く。お世辞にも字は綺麗とは言えない。さっき言っていたように、記録専門の人がいないせいで、素人の彼が書かされる羽目になったのだろう。

 

「んでェ、〈禍ツ气〉を止めるには、どうすりゃいい?」

 

 リュウモは、意外だった。そこまでわかっていれば、止める手段を突き止めていると思っていた。肝心な部分は、まだぼやけているのかもしれない。疑問を口にする。

 

「え、〈竜峰〉について知っているなら、対処もわかってるんじゃないんですか? だから、おれを探していたんじゃ」

「うん? ああ、いや、坊主たち〈竜守ノ民〉が〈竜峰〉でなんかやったまでは突き止めたんだが、わかったのはそこまでだ。〈竜峰〉とやらの場所も、わかっちゃいねェ」

 

 なるほど。外の人々もそこまでが限界だったらしい。しかし、そうなると非常にまずい。

 クウロたちは、詳しい位置までは知らないと言ったが、それはリュウモも同じなのだ。解決するための手段をもっていても、特定の場へ赴かなければ機能しない。

 

「〈竜峰〉を、北の〈竜域〉にある以外、わかったことは無いんですか?」

「わりィが、ない。――なあ、こんなとこに閉じ込めてるオレらが言うのもなんだが、『竜』をどうにかしたいってのは、本心なんだ。解決の方法を知ってるなら、ぱっぱと教えてくれい。そうすりゃ、すぐにこんな辛気臭いとこから出られるぜ」

 

 考えた末、リュウモは観念して村の掟をひとつ破ることにした。彼らがどう考えていようと、閉じ込められたままでは『使命』を果たしようがない。

 枕元に置いてあった〈龍赦笛〉を、格子越しにクウロの前に置く。彼の肩が揺れた。

 

「そりゃ、坊主の近くから離れなかった……」

「〈龍赦笛〉って言います」

 

 クウロがよく見ようとしないのですこし前に出すと、彼は若干、後ろに下がった。気後れしているようである。

 

「これを〈竜峰〉で吹けば、地上の〈禍ツ气〉は晴れるはずです」

「どうして?」

「先祖たちが、そうして『竜』を鎮めて大地を救ったからです」

「はァん……なるほど、合致する、か――。んじゃあ、坊主たちの一族は、意のままに『竜』を操れるってわけじゃあ、ないのか。オレらが襲われてた時、操ってるように見えたんだが」

「あれは、〈龍赦笛〉を使ってしまったから」

 

 振り返れば、あの時点で衝動的に掟を破ってしまっていた。

 ――その罰なのかな、これは。

 天が試練への道筋を変えて、難しい方に舵取りをしたのかもしれない。

 

「だから、狂っていた『竜』が正気に戻って、自分たちの住処に戻って行ったんです」

「なんだ、この笛には狂った『竜』を正気に戻す効果があんのか。んなら、襲って来る『竜』がいたら、片っ端から吹きまくればいいじゃねェか」

「『使命』は、出来得る限り人の力だけで果たさなければならない。それは、鉄則です。もし、天がおれを資格無しと判断すれば」

 

 リュウモは〈龍赦笛〉を手に取る。

 

「その瞬間、この笛はおれの命を奪い、人の世が終わる」

 

 温厚であったジジが激昂し、物の怪かのように怒ったのは、リュウモの身を案じてだった。

 『使命』を遂行するための資格を得た者は、『竜』を平伏させる力を笛から伝えることができるが、増長し、傲慢になり切った時には、〈龍赦笛〉はその者の命を真っ先に奪い去る。

 

「おいおィ、そんなことになんのに、オレたちを助けてくれたってのか」

「助けたわけじゃ、ないと、思います……」

「あン?」

「もう、人が死ぬところを、村が焼けるところを、見たくなかった、だけです」

 

 嘘偽りの無い、リュウモの本心だった。むしろ、それ以外を考えていなかった。

 あんな光景を、もう二度と見たくない。ただ、それだけだった。

 

「そうかい……」

 

 後先考えず、衝動的に他者を助けたことに呆れられるとリュウモは思っていたが、クウロは笑った。

 

「ますます安心した。坊主は、咄嗟に見ず知らずの人間を助けようとするぐらいには、根っこが善いらしい。助けたあとを考えてないのは、子供だししょうがねえ。それと、国には星の動きを見て、未来を知る〈星視〉ってのがいるんだが、わかるか?」

「はい、村にもいました」

「じゃ、詳しい説明は省くぜェ。その〈星視〉たちがな、どーしてか『竜』の暴走については動きが鈍いっつーか、報告が遅くてな。こりゃ、〈禍ツ气〉となんか関係があんのかい」

 

 クウロの鋭さに、リュウモはちょっと驚きながら答えた。

 

「〈禍ツ气〉は、地上と空に膜を作ってしまう。だから、〈星視〉の人たちは未来が見え辛くなっているんです」

 

 もし、〈禍ツ气〉にそんな効力がなかったら、村の〈星視〉が襲撃をいち早く察知し、村の皆は逃げていた。つくづく、危険で厄介な代物なのだ。

 

「なるほどねェ。よし、わかった」

 

 そう言って、しばらくクウロは筆を動かして書物に要点をまとめていた。

「ええと……」「んで――」などと零しながら書き込んでいく。

 数項が黒で埋まると、彼は書物を閉じて、立ち上がった。

 

「協力、感謝する。待ってな、オレの上司に掛け合って、こんなとこから出してやっから」

 道具を懐に仕舞って、クウロは急ぎ足で出て行く。

 重々しい音が一度鳴り、また静けさが満ちてきた。

 再び、静寂が辺りを支配すると、リュウモは壁に背を預ける。

 

(これから、どうなるんだろう)

 

 なにもできずに過ごすしかないおのれの無力さに、空虚と苛立ちが積もった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十八話 帝への謁見

 少年が目覚めた。

 一報が入ると、ガジンはすぐにクウロを少年の元へ送らせた。

 牢の周りには厳重な警戒態勢が敷かれているが、万が一にも牢を破られ逃げられれば、面倒極まりないことになる。

 警備の者は全員、ガジンが認める凄腕揃いだが、いかんせん人数がすくない。

 最小限の人数で、事実を知る者がすくなくなるようにせよ、との達示だ。割ける人員は多くない。聴取の記録も、全部をクウロがすることになってしまった。

 不慣れな任務に就かせてしまったのを申し訳なく思いながら、ガジンは部屋の柱に背を預けた。

 〈八竜槍〉が使う部屋は、北、北東、東、南東、南、南西、西、北西の方角にひとつずつ配置され、ガジンにあてがわれた部屋は、西だった。

 それなりに広い個室。前任者が置いて行った、結構な値打ちがするという屏風。西日が差し込んでくる窓は有り難い。〈竜槍〉を置いておくための立て掛けは、見事な黒艶に染められている。そこには今、〈竜槍〉がある。

 長年、共に戦ってきた相棒は、皇都に戻ってから、正確には少年リュウモと出会った時からざわめきを続けている。

 まるで、現状が間違っていると警告しているかのようだ。

 実際、ガジンは自分が行った選択が、本当に正しいのか、確信が持てずにいる。

 

(任は果たしている。あとは、少年から事件解決の方法を聞き出せばいい。……だが、なんだ、なぜこれほど、胸騒ぎがする)

 

 ――お前が、私になにかを伝えようとしているのか。

 〈竜槍〉は、ただ黙するだけだった。

 

(間違いなく、事態は良い方向に転じたはずだ。解決のための鍵は手に入れた。鍵穴を見つけて差し込みさえずれば終わる)

 

 しかし、だが……本当に良い方向に転じたのか。

 こちらがそうと決めつけ思い込んでいるだけで、実は少年を皇都に連れて来てしまったことで、事態を悪化させてしまったのではないか。

 少年はなぜ、たったひとりになったというのに、あそこまで頑なに協力を拒んだのだ。やはり、彼を連れて来たのは早計だったか。いや、帝の勅命に逆らえるはずもない……。

 ぐるぐると思考が回る。回って回って、意味もなく空回りする。結局のところ、クウロが少年から情報を引き出さなければ、どうにもならないとわかりつつも、ガジンは不安を拭いきれなかった。

 四半刻ほど経った。部屋の外に、音もなく誰かが近づいて来ているのを察知した。

 

「ガジン様、帝がお呼びです」

「ゼツか。わかった、用意する」

 

 帝の御前に出るに相応しい格好に着替える。

 ふと、ガジンは気になっていたことを、ゼツに聞いた。

 

「そういえば野営の時、襲って来たあの集団。お前は声を上げる間もなく昏倒させられたと言っていたが、それほどの相手だったのか」

 

 わずかだが、彼の『气』が揺れる。

 

「私めの力不足でございました。弁明させていただくならば、ガジン様とあれだけの間打ち合える手練れ相手では、私程度ではとても……」

「そうか? お前の腕ならば、不意を打たれたとしても、声をあげずにやられるとは考えられないがな」

「勿体無き御言葉。しかし、その評価は身に余ります」

 

 はぐらかされている気がしたが、ガジンはそれ以上なにも言わなかった。これではまるでゼツを詰問しているかのようではないか。

 

(いかんな。私も、あの少年に会ってからどうかしているらしい。部下たちを笑えん)

 

 なにせ、部隊のほぼ全員が任を終え散った後、御払いに神社に足を運ぶ有様である。

 呪いがどうだの、幸運が全部飛び散っただの。女々しい、と叱ろうかと思ったぐらいだ。

 帯を締め、謁見用の着物に着替え、ガジンは部屋を出た。

 

「さて、格好に関しては大丈夫かな」

 

 大丈夫とは思いつつも、一応、服装に関して見てもらう。

 ゼツは一瞥して、うなずいた。

 

「問題ないかと」

「一発合格か。私も、上手くなったものだ。就任したての頃は、こんな堅苦しいもの着たくもないと思っていたものだが……」

「もう、宮廷で十分通用するまで上達されました」

「昔は、お前たち〈影〉や仕えの者には迷惑ばかりかけた」

「それもまた我らが仕事ゆえ、お気になさらず」

 

 謁見の間に向けて、二人は歩き出した。

 先日の会議で使われた広間は、宮廷の中心より上にすこしずれた辺りにある。その奥は皇族の居住区だ。

 廊下を歩いていると、『外様』の〈八竜槍〉とすれ違う者の反応は様々だ。

 恭しく頭を下げる女官、さっと身を翻す男、敬意を持って接する槍士。

 武官に関しては、相当数がガジンに敬意を払って対応している。

 〈八竜槍〉として皇国に仕えて来た月日は伊達ではなく、宮廷に常日頃から頻繁に出入りする武官さえも、ガジンは実績と実力で黙らせることができている。

 いくら『譜代』の名家出身でも、槍士として国に仕えているからには、実力が第一に物を言う。

 出自は最早、論ずるに値しない、文字通り論外であるガジンだが、槍の腕前は帝から直々にお墨付きをもらっている。これに文句をつけることは、帝に異をとなると同義。

 〈八竜槍〉としての働きに横槍を入れて来る武官はほぼいなくなっていた。

 政などを行う文官はどうかと問われると、微妙なものとなる。

 『外様』出身のガジンを疎ましく思う者は数多く存在する。特に帝の傍にいる文官などからは、冷ややかな目を向けられるなどしょっちゅうだ。

 彼らの態度は、さすが政治に携わる人であって、表面上は非常に穏やかだ。それでも、瞳に映り出す感情までは完璧に隠せてはいない。

 川の水面は一見、緩やかに見えるが、その下は激しく流れ続けている。彼らはそれと同じだ。

 卑しい出自の男が栄誉を賜り、帝に仕えているのが、彼らは我慢ならない。

 とはいえ、積み重ねた年月はそれなりの効力を発揮し、最近は大分ましになった。が、なにか問題を起こしでもすれば、再び蛇蝎の如く嫌われるだろう。

 二人の文官が前から歩いて来た。

 ひとりは年若い。もう片方は老齢に差し掛かており、鉄面皮で顔を覆い、一分の隙も見せまいとしている。

 若い文官が、帝に対して行うようにガジンに頭を下げた。老いた文官は軽く会釈しただけである。

 任官歴が長いか短いかでまた彼らの反応が変動するため、なおさら文官から見たガジンの立ち位置は微妙なのだ。

 二人が歩いて角を曲がった後、老いた文官が注意している声が聞こえた。

 その内容は「あの者は〈八竜槍〉といえども『外様』の卑しい身分の出自だから軽々しく頭を下げるな」という、いつも通りの定型文だった。

 若い文官は「は、はぁ……」と生返事していた。

 

「ご不満ですか。彼ら文官たちの言い様が」

「む? まあ、腹が立たぬわけではない。が、怒鳴るほどでも、対立するほどでもない。彼らの言い分は、的を得ている部分もあるわけだからな。紛れもない事実もある」

「そうですか。安心いたしました。実を言うと、我らはずっと肝を冷やしていたのです。あの者、文官たちは聞こえていないつもりで話しているのでしょうが、〈八竜槍〉を舐めているとしか思えません、丸聞こえだというのに。貴方様の怒りがいつ爆発するか、何度もひやひやとしていましたゆえ」

「っく……そうか。なら、もう肝を冷やす必要もないぞ、ゼツ。あれぐらいで当たり散らすようなことはせんよ」

 

 感情を表にまったく出さない〈影〉の青年も、内心では多大な心労を抱えていたに違いない。何度か〈影〉に案内されて宮廷を歩き回ったことがあったが、他の男たちも、能面のような顔の下では、神か帝にでも祈っていたのかもしれない。

 

「もし他の者たちも同様に心配を抱えているなら、気にする必要はないと言ってやるといい」

「は、他の者にもそう伝えます。では、私はこれにて失礼いたします」

「ああ、案内、ご苦労だった」

 

 広間の扉の前で、ガジンは立ち止まった。

 門番の二人の槍士が、交差させていた槍を縦にすると、扉が開く。

 道ができあがり、労いの言葉をかけて、ガジンは敷居を跨いだ。

 槍士が再び獲物を交差させると、それが合図となり、扉が閉まって行く。

 

(さて……気を引き締めねば)

 

 恐れ多くも帝の御前である。いかな〈八竜槍〉といえ、無礼は許されない。

 背筋を伸ばし、玉座の前で一度止まる。跪き、言葉を待った。

 

「ガジン。畏まる必要はない、今はこの場に余と汝のみ」

「……は?」

 

 いや、確かに。ガジンは気配を他に探してみても、誰ひとりとして広間にはいない。

 正真正銘、帝と一対一だった。いつも口うるさく書簡を読み上げる者もいなければ、侍従も存在していない。

 ガジンは、足元が消えて暗黒の中に落ちて行くような気がした。心無しか、内臓が浮き上がったような気もする。

 

(嗚呼……きっと、私が宮廷に上がって来た時、傍にいた〈影〉も、こんな冷え冷えとした心持ちだったに違いない……)

 

 こんなことをしたら、周りがなんと言ってくるかわかったものではない。

 

「帝、恐れながら申し上げます。これは、さすがに周囲の配慮に欠けた行動かと……」

 

 帝は国の魂であり、この地上に降り立った現人神である。その影響力も絶大だ。

 

(二人きりで対談していたなどと噂が流れれば、私はともかく、帝の御威光に傷がつくやも)

 

 他者に影響を与えすぎるがゆえ、帝はおのれの行動については慎重を期さねばならない。

 水が入った桶の中に小石を投げ入れても波紋ができる程度で済むが、桶そのものをひっくり返しでもすれば、辺りは水浸しで大変なことになる。当然、処理も面倒になってしまう。

 恐々としながら、帝の返答をガジンは待った。

 

「異なことを言う。この世で最も余が信頼する者のひとりと会うに、警戒や兵を必要とするか」

「は、その、卑賎なこの身に勿体無き御言葉、感激の至りにございます」

「っふ……」

 

 信じられぬことに、面紗の奥で、帝が笑った。口角を上げたのではなく、笑ったのだ。

 

(こ、この帝、もしや偽物?! い、いやそんなはずはないか――)

 

 一瞬、ガジンの手が床に置いた〈竜槍〉に伸びかけたほどの衝撃であった。

 もしや、今回の事件のせいで調子をおかしくしているのは、帝も同じなのかもしれない。

 

「いや、意地の悪い問いをした。聞き流せ。報告を聞こう」

 

 詳細な報告は、帝の意向によりガジンが直接することになっていた。内容自体が危険物と同等であるため、帝が人払いをしたのは致し方ない対処であった。

 鷹につけて皇都に放った文も、かなり内容をぼかしたものであったので状況の説明も必要だ。

 

「かの民の少年、リュウモからわずかですが情報を得ることができましたので、ご報告申し上げます」

「ガジン、余は畏まる必要はないと言った。今ここには小うるさいことを言う者は存在せぬ。必要なことだけ話せ」

 

 帝の声には、どこかうんざりとした響きがあった。

 

「失礼、いたしました。件の少年、リュウモから聴取を行いましたが、さして重要な情報は聞き出せず、今現在、部下が再び聴取を行っております」

 

 ガジンは、少年と出会った時の状況や『竜』について話した。

 一通りの報告を終えると、帝が口を開いた。

 

「少年は、倒れたと聞いたが」

「は、途中までは整然と、我ら外の者に業を決して伝えてはならないと話しておりましたが、突然。診断の結果、体内の『气』が急激に消費されたことによる气虚状態に陥っていたようです」

「气虚……しかし、件の少年は〈影〉の追跡さえも振り切ったと聞く。それだけの能力を持ちうるならば、内にある『气』もまた莫大なのではないか?」

「推測になりますが、少年が『竜』を操る際には、多大な『气』を消費しなければならないのではないでしょうか。事実として少年が笛で『竜』を操ったあとから、体調を崩し始めておりました。あれだけ体に負荷がのしかかるならば、〈竜奴ノ業〉の多用は命に関わるかと」

「他の〈禍ノ民〉は、〈竜守ノ民〉はどうした」

「少年が嘘を言っていないのであれば、彼以外、『竜』に皆殺しにされたとのことです」

 

 帝は口を閉じ、なにかを考え込んでいる。

 

「聴取に関しては、別の〈青眼〉の男に正気が戻り次第、行う予定で」

 

 

 

「その者は、もうこの世におらぬ」

 

 

 

 帝の言ったことを理解するまで、数秒も時間を要した。ガジンは、思わず声を荒げた。

 

「馬鹿な、あの者は今回の件の鍵を握る人物に他なりません! それをなぜ!?」

「汝は、どうして〈竜奴ノ業〉が神話の時代に氏族中に広まったのか、考えたことはないか」

 

 冷然と、帝はガジンの怒鳴り声を受け止めていた。

 いきなり話題が変わったことに戸惑いながら、ガジンは答えた。

 

「いえ、ですからそれは〈禍ノ民〉である彼らが」

「今さっき、汝が口にしたではないか。『竜』を操るには多大な『气』が必要で、多用は命に関わる、と」

「帝、なに、を……」

 

 口の中が渇く。

 

「かの民は、そもそも数はすくなかった。いや、仮に多かったとしても、戦に『竜』を使うたびに倒れられ命を落とされては運用に支障をきたす」

 

 まるで、赤子に諭すように、朗々と帝は話す。

 

「有償の奇跡。使えば消えて行く、戦の盤面をひっくり返す一手。汝ならばどうする」

 

 からからになった頭は、それでも叩き込まれた知識から一般的な答えを弾き出した。

 

「安定して、運用できるよう、改善いたします」

 

 有償であるならば、無償の領域にまで堕としてしまえばいい。

 一度使い果たせば消えて無くなるなら、再び使えるようにしてしまえばいい。

 帝は口角をあげた。冷笑を浮かべているようだ。

 

「さて、そうなると困ったものだな。〈竜奴ノ業〉を使えたのはかの民だけだ。一氏族の極めて限定された異能と呼ぶべき代物。量産は不可能だ。となると、神話と汝が見た事実とおかしな点が出てくる。〈竜奴ノ業〉は『()()()()』とあるではないか」

「〈竜操具〉を、使ったのでは……〈竜奴ノ業〉によって作られたあれを、各氏族に渡したのならば、神話と合致する、かと」

 

 面紗越しに感じられるほど、酷薄な笑みを浮かべている。

「その通りだ。ではこの〈竜操具〉は、なにが最も危険なのだ? 答えよ」

「は? いえ、それは『竜』を誰でも操れてしまうことが」

「違う。『誰でも』――という部分は合っているが、〈竜操具〉の最も高い危険性は、()()ではない」

 

 『竜』を操ることが最も危険なのではない。『誰でも』の部分は合っている。

 ガジンは、おのれが住んでいる世界がぐらぐらと揺れ動いているような錯覚に苛まれる。

 頭はそれでも動く、動き続ける。断片的に手に入っていた情報を繋ぎ合わせ、答えを得ようと必死に回転する。

 〈深き山ノ民〉の氏族長の言葉が、反芻される。

 ――彼らは『竜』をよく知っており、そのための対策を持っていたにすぎないのです。

 チィエが言っていた言葉が、接着剤のようにばらばらになっていた情報を補修する。

 ――学問、技術は素晴らしいのです。修めれば性別や体格なんて関係なく誰でも使うことができるです。

 

「これは、まさか……」

 

 照らし合わされた事実に、愕然としながらガジンは言った。

 

「技術体系を確立、すれば――()()()作ることができる? それが〈竜操具〉の、いや〈竜奴ノ業〉の危うさ……?」

 

 口から出た真実は、なんともおぞましい。

 教え子が難問を解いた時に喜ぶ教師のような空気を帝は放っていた。

 

「汝は、惨状をその眼に焼きつけた。死した親友は、この世で唯一〈八竜槍〉ガジンを上回るかもしれぬ男。それが無残に殺された。――汝はこの事実をどう受け止める。〈竜操具〉によって為されたかもしれぬ、あの惨劇を」

「あれが、〈竜操具〉によって引き起こされたと、お考えなのですか」

「今回のことに関しては、別であろう。しかし〈竜操具〉が量産可能であり『竜』になんらかの作用を及ぼすとわかれば……さて、国はどうなるか」

 

 それは、神話の戦が再びこの世に現出する可能性を示唆している。

 あくまで、闇の中に垂らされた、か細い光の糸だ。それでも、糸を掴んでしまう者がいるかもしれない。

 掴んだ者が、私利私欲のために、また『竜』を操り始めたら?

 

「抑圧、不満、私腹を肥やそうとする者の手に渡れば、国が、割れることになりかねません」

「そうだ。『竜』の戦闘能力は、あのラカンさえ敵わん。ゆえに帝たる余は、そのような事態を招かぬため、禍根を断つ必要がある」

 

 少年を殺さねばならない。暗に、帝はそう言っている。

 

「しかし、帝ッ……あれは、まだほんの、幼い子供です。あれに、なんの罪がありましょう」

 

 たとえ、先祖が大罪を犯していようと、子孫である少年に罪などあるはずがない。

 

「罪は、その業を継いだこと。知っていよう、我が国では『竜』に関する事項はすべて禁忌。知ろうとした者が、どうなるか汝は見たはずだが? あの大馬鹿者を忘れてはいまい」

 

 知ろうとした友人が皇都を追放されたのを、ガジンは忘れていない。

 

「『竜』が国中で暴れる今、かの民に教えを請わねば、被害は出続けますッ」

「〈星視ノ司〉と〈鎮守ノ司〉から、半年以内に『竜』は鎮まると、昨日奏上があった」

「――ッ!」

「汝は任を終えた。通常の勤務に戻れ。下がってよし」

「ですが」

 

 ガジンは、なおも食い下がろうとした。

 

「下がれッ!!!」

 

 大喝。生まれて初めて聞いた、現人神の怒鳴り声。

 ガジンは、頭を下げ、広間から出て行くしかなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十九話 奔走

 〈八竜槍〉にあてがわれた部屋に戻ると、ガジンは不満をあらわにするように、どすんと床に座った。帝の決定に異を唱えているのか、〈竜槍〉のざわつきが激しくなっている。

 どうにかしなければならない。だが、今はクウロの聴取の報告を待つ他なかった。

 喉が渇き、茶でも飲みながら時間を潰そうかとも考えたが、そのためにいちいち人を呼んで煎れさせるのも忍びない。

 こっそり自前でやってしまおうものなら、女官たちが煎れた茶と比べるのも失礼な、苦いだけの茶ができあがる。

 

「舌が肥えるのも考えものだな」

 

 山間にあった氏族の村にいた頃は、それなりの味で量があって腹が膨れればよかった。

 皇都に出て来て、いわゆる馬鹿舌は多少なりを潜めたが、そうなると今のような、味を求めて喉の渇きを無視する本末転倒なことになっているのであった。

 どうせ食うなら美味い方がいい。意識がそう変わっているだけ、精神が贅沢になっている証である。

 とはいえ、喉が渇いていることに変わりはない。重い動作で立ち上がり、部屋を出ようとしたが、足を止めた。

 

「大将、ちょうどよかった。今、いいですかい」

 

 クウロが部屋の前の廊下を歩いて来たのだ。

 ガジンはうなずいて、中に入るよう目配せをする。

 副官であるクウロが部屋に入ると、誰かにつけられていないか、一度辺りを確認して戸を閉めた。

 

「どうだった?」

「まったく、とんでもないことがわかりましたぜ」

 

 クウロの報告を聞き、途中からガジンの顔色はどんどん悪くなり始めた。

 帝が排除しようとしている少年は、解決のための鍵その物だ。鍵穴は〈竜峰〉であり、そのどちらかが欠ければ、永遠に『竜』は暴れ続ける。

 そうなれば、今までの犠牲も時間も、あらゆるものが無駄になる。

 ――あいつの、死も、無駄になる……!

 そんなことを、させるわけにはいかなかった。

 

「クウロ。これから言うことは、すべて誰にも話すな。墓の下まで持って行け。いいな?」

「了解しやした」

 

 ガジンは、さっきまでの帝とのやり取りを話した。

 知り得ているだけで、身に危険が迫るような情報であるが、ガジンは包み隠さなかった。

 

「むゥ……なんか、色々と神話が捻じ曲がってるようですぜ。〈深き山ノ民〉の爺さんが言っていたことと、坊主の言うのとで合致している箇所があります」

 

 あの氏族長は言った。〈竜守ノ民〉は業を広げてなどいない。『竜』に多少なりとも詳しかっただけなのだと。

 帝が『竜』を鎮めたのではないが、その場に居合わせたのは事実であると。

 

「だが、そうは言っても建国神話全部が間違いではない。恣意的に歪められたのは違いないが、所々合ってはいる」

 

「しっかし、その一番大切な部分に誤りがあるんですぜ? これじゃあ、まるで手柄の横取りだ」

 

 身も蓋もない言い方だったが、その通りである。

 

「そう、だな……。そも、一体全体、なにがどうなって〈竜守ノ民〉が〈禍ノ民〉と貶められ、初代帝は彼らを咎人と決めつけたのだ? 〈竜峰〉に同行し、彼らと供に『竜』が静まるのを見届けたのならば」

「どっちかと言えば、『竜』を鎮めた功労者――英雄ですなァ。間違っても悪に部類されるような民じゃないってわけだ。んじゃあ、初代帝は、どうしてあいつらを悪としたのかって話しになりますが」

「…………元々、〈竜守ノ民〉は少数の氏族だったという。『竜ノ怒り』で荒れ果てた国をまとめるために、都合の悪い事柄を押し付けられる格好の的がいたとしたら?」

 

 〈竜守ノ民〉がどれだけの人数が生き残ったのか、ガジンには測ることはできないが、相当数が死傷したはずである。それこそ、滅亡一歩手前程度には。

 

「あらゆる罪業を〈竜守ノ民〉に押し付けた、と。あり得ないって断言できないのが怖いですねェ。やれやれ、こんな会話、聞かれただけで叩き斬られますぜ」

 

 空恐ろしい話しだが、真実のようにも思えてくる。

 

「だが、ならば帝が少年を殺そうとするのもうなずける。こんな盗人猛々しい、醜聞に近い神話の真相を知る人間を、生かしておけるはずがない。しかし、そうなるとだ」

「〈深き山ノ民〉の一部が、知っていたのが気になりますねェ。……大将、まさかあの地域が氏族の自治に近い扱いを受けてんのは」

「戦いでは制することができず、自治という餌で懐柔した……?」

 

 『外様』に部類された氏族なら、自治という飴には是が非でも飛びつきたいものである。

 はっと、あの山近くを任されている領主の出身を、ガジンは思い出した。

 

「あの〈遠のき山地〉近くの領主、確か、元は宮仕えで帝のお側付きではなかったか? 私が皇都に連行され、初めて帝にご対面した時、傍にいたはずだ」

「ええ、本当ですかい? こりゃ、ますます怪しくなってきましたなァ。監視の目的として自らの傍に仕える者を山地に寄越したのだとしたら……」

 

 信憑性が出てきてしまった。ガジンは腕を組んで、今までの帝からの指示や言動を思い返す。

 

「まだおかしなところはある。帝の御指示だ」

「帝の、ですかい? 確かに結構無茶な任務でありやしたが……〈竜守ノ民〉が生きているか知る絶好の機会だったんじゃないですかねェ」

「ではなぜ私に――〈八竜槍〉を動かした?」

 

 〈八竜槍〉とは皇国の軍事的象徴であり、また憧憬である。すべての槍士が目指すべき頂点の位。そんな称号を持った人間を動かせば、嫌でも人々の目につく。

 

「秘密裏に〈竜守ノ民〉を消したいなら、まァ普通〈影〉を使いますわな。でもですよ、大将? 十一のガキであんだけの身体能力ですぜ。訓練した一人前の兵士がいたとして、〈影〉だけで手に負えますかね」

「――それは、場合によっては私に〈竜守ノ民〉を、無辜の民を殺せと、指令が出ていたかもしれない。そう言いたいのか」

 

 ぞっとする話しだった。

 彼ら〈竜守ノ民〉は神話であるならば当然、罪人である。

 現在、過去にさかのぼってまで罪を洗い出し、断罪することはしてはならないことだ。それは私刑となんら変わらない。

 役人や宮廷内の人間なら栄達に多少なりとも影響が出るだろうが、相手はただの小さな氏族だ。宮中や政治に携わる人々ではない。

 戦いにすらならない、大義もなにもない虐殺を行え。そう言われたかもしれない。しかも、帝直々の勅命として。

 クウロは、重々しく、肯定の意味を込めてうなずいた。

 

「正直、自分はあの坊主が、今回の一件をどうにかできる唯一の者だと思っていやす」

 

 クウロは慎重に言葉を選んでいるようだ。彼が言っていることは、控えめに言っても。帝の裁定に異を唱えるものであり、不敬と断ぜられても仕方がない。それでも、言わずにはいれないのだろう。

 

「〈竜峰〉とやらについても、『竜』の知識についても、坊主は自分らに無い知識を幾つももっておりやす。今、切迫したこの状況で、貴重な情報源を、しかも子供を殺すなんざ、納得できやせん」

 

 クウロとしては、一番最後が本心であろう。休日には、近所の悪ガキ達の相手をしているものだから、あれくらいの年齢の子供は、どうしても彼らと重ねて見てしまうのだ。

 ガジンは勝手に想像したが、外れてはいないだろうな、と思いながら、部下の忠言に耳を傾け続ける。

 

「それに、坊主は自分らを助けてくれやした。聞けば、あの笛は、人を助けるためにでも使ってはならないと、厳しく言い含められていた様子。だけど、助けてくれた。借りを返さずに処刑台に上られちゃ、こっちの面子が丸つぶれですぜ」

「――これから、〈星視ノ司〉に会いに行くところだ」

 

 予定を言うと、クウロは表情を輝かせた。

 

「そいつァいい! あの御方なら、帝の決定にも口を挟めるってなもんでさァ!」

 

 ガジンが、リュウモをこのまま見捨てる気が無いとわかって、大喜びだった。

 ――だが、クウロの言う通り、あの子が今回の件を解決する鍵を握っているのならば、どうして彼女達は、何も言って来ない?

 それだけが、ガジンの懸念材料だった。

 

 

 

 タルカ皇国の皇都は、東に青竜川と名付けられた巨大な川が流れている。この川沿いには国でも有数の港が開かれ、多くの物資が皇都へと運び込まれる。

 西には最も整備され安全な大街道が各領地へと伸び、川から運ばれた荷は皇都を通って、多くの領地へ流れて行く。

 北には星視山があり、そこには皇都の宮と比較できるほどの建物がそびえている。

 名を〈星視ノ宮〉。

 ガジンは、今まさに、その宮へ向かっていた。

 宮で馬を借り受け、野を駆ける。さすが、宮廷の者たちが世話した選りすぐりだ。普通の馬ではこうまで颯爽とはいかない。

 

(急がなければならん……)

 

 帝は、月日の関係上、少年の処刑を一日先延ばしするしかない。

 なにせ、明日は大凶日だ。かの民を処断するにしても、避けるべき日。むしろ、かの民だからこそ、絶対に避けなければならない。

 幸いにも、帝がどれだけ性急に事を進めても、一日の猶予が、絶対に残されている。

 逆に言えば、一日しかない。その内に帝を説得するための人物を味方につけられなければ、すべてが終わってしまう。

 ガジンの胸中の焦りを感じたのか、馬は従順に疾走している。

 皇都を出て、二刻。山の麓の詰所に辿り着く。

 本来ならば厳しい検査をされるのだが、〈八竜槍〉はそういった煩雑なことは必要とされない。用件を言えば、特に検査もなく通過できる。

 詰所の槍士が、ガジンの『気』を感じ取って、血相を変えて凄まじい勢いで走って来た。

 

「すまんな。急ぎ、〈星視ノ司〉に会いたい。御仁は、今どこに居られるか」

「っは、本日は夕刻まで〈星視ノ宮〉で〈鎮守ノ司〉様とご歓談中であらせられます」

「〈鎮守ノ司〉と……? いや、わかった。通してもらえるか」

「承知いたしました。連絡を入れますので、宮に着いた際には、案内の者にご同行ください」

 

 槍士が目線で合図を送ると、山に向かうための門が開かれた。

 頭上を小さな影が通過し、宮へと飛んで行く。連絡用の鳥であろう。追うように、ガジンは駆け出した。

 幾つも建てられた朱色の鳥居を潜り、石畳の階段を走る。途中、星視の女性の一団とすれ違ったが、挨拶を交わしている余裕はなかった。

 宮に近づくにつれ、山の精気がどんどん強くなる。空気が澄み始め、厳粛さ、静けさを保とうとしているかのようだ。

 残念ながら、ガジンは山の空気に従う気はなかった。悪いと思いながらも、階段を駆け続ける。

 階段を登り切ると、高い塀に囲まれた〈星視ノ宮〉が顔を出した。

 入り口の門は固く閉ざされ、二人の屈強な槍士がおのれの獲物で道を閉ざしている。

 

「〈八竜槍〉ガジン様ですね。お話は伺っております」

「案内の者が参ります。少々お待ち下さい」

 

 事務的であり、丁寧な対応であったが、逆にガジンの心を苛立たせた。対応に使われる時間すら惜しい。悶々としながら、門が開くのを待つ。

 ようやっと門が開かれ、中からは巫女姿の女性がひとりであらわれた。

 

「〈八竜槍〉ガジン様。ようこそおいでくださいました。〈鎮守ノ司〉〈星視ノ司〉ご両名が、丁度、お呼びになっております。――こちらへ」

 

 この宮に来てから叩き込まれた作法で、巫女はガジンを歓待した。

 

「案内を頼む」

 

 急かすような口調で言うと、意図を組んだ巫女は本来とは違う早い歩調で進む。

 ガジンが会いたい人物の居場所は見当がついているが、ここは皇国において重要施設のひとつであるため、おいそれと勝手な振る舞いをするわけにもいかないのである。

 

「最近、星はよく見えているか?」

 

 巫女の肩と『気』が揺れ動いたのを、ガジンは見逃さなかった。畳みかけるように言葉を繋げる。

 

「国の非常事態に、なぜ〈星視〉共はさっさと視た未来を知らせないのかと、宮中の阿呆が騒いでいてな。もしや、なにか問題があったのかと思ったのだ。もし、任に支障をきたしているなら、私から帝へ内密にお伝えしようと思うが……どうか?」

 

 動揺が空気を震わせているかのように、ガジンは感じた。前を向いて歩いている巫女の、青ざめた顔がありありと脳裏に浮かんでくる。

 

「いえ……その、司のお二方は未だに鋭く未来を見据えておられます」

「貴方は、どうなのだ。女性に対して失礼を承知だが、その歳なら、先が視えないことはあるまい」

「いえ、いえ、いえ――私程度、いつ先が視えなくなるかわからぬ、未だ修行中の身なれば」

 

 つまり、ほとんど、もしくはまったく見えていない。

 そういうことをほぼ自白しているに等しいのだが、ガジンは追及を止めた。

 彼女にこれ以上あれこれと詮索するような真似をしても事件が好転するわけでもない。

 〈星視〉は、ただ頭上の星々を視て、未来を知るのみ。報告をまとめ、宮廷に提出するのは司や頭の〈星視〉だけだ。

 

(怪しい。帝に奏上した内容も、星が視えていないのであれば、信憑性に欠ける。……だが、私が知る司のお二方は、虚偽を織り交ぜた報告をするような方々ではない。なにが、起きている。宮廷だけでなく、〈星視ノ宮〉にまで事件の影響が出ているのか――?)

 

 幾度も訪れていた宮が、突然旗色を変えて敵地に変貌したような気味の悪さに襲われた。

 少年の証言も確たる証拠はないにしても、聞いてすらいないのに国是を決定しようとしている。それが、どれだけ危険かは、帝や司たちが理解していないはずはないのである。

 こういった際〈八竜槍〉でよかったと、ガジンはつくづく思う。

 〈八竜槍〉は皇国におけるすべての場所で武装することが許されているからだ。皇族の住居でさえも例外ではない。

 ――まさかとは思うが、警戒しておくにこしたことはない、か。

 司ほどの力を持つ者となれば、相手の記憶を呪術で消す程度ならば、平気で行える。

 と、思考が物騒な方向に流れかけていた時であった。

 白い蝶々が、ヒラヒラと朱色の柵を超えて進行方向に飛んで来た。

 しかし、蝶と言うには身体がおかしい。まったく丸みが無いのである。まるで、紙で織られた蝶のようだった。

 

(司の『迎え』が来たか)

 

 ガジンは、紙の蝶に向かって軽く頭を下げた。

 

「半年ぶりになります。〈星視ノ司〉様」

『あらあら、相変わらず鋭いですわねえ、ガジン。大体、これに話しかける時は姉か私か迷う人が大半なのだけれど』

 

 まるっきり子供、それも自分の孫を世話するかのような、穏やかな老婆の声が蝶から発せられる。呪符によって形どられた仮初の蝶は、術者の意志を声として伝えてきた。

 

「生れつきにございますので」

「そうねえ……なら、別方面にも鋭くあって欲しかったけれど、欲張りすぎかしらね」

 

 〈八竜槍〉相手にこんな態度が取れる人などそういない。

 今年でちょうど百歳になる老人のはずだが、ゆったりとした声には、強い張りと意思が感じられる。伊達に国是へ影響する重役に、長い間就いているわけではないのだ。

 

「ご苦労様。下がってよいですよ。それと、ガジンが言ったことは、気にしないように。この人は本当に私たちを心配してくれていただけだから」

「は、は……失礼いたします〈星視ノ司〉」

 

 戸惑いながら、案内役の巫女は足早に去って行った。

 

『あまり、うちの〈星視〉をいじめないでくださる? 彼女、私たち姉妹の間では期待の星でしてよ』

「では、そう公言なさればよいかと」

『こらこら、そういうことは言わないの。そんな風に言ってしまったら、期待と重責で彼女の胃が破れてしまうもの。あの子、ぱっと見はなにをされても平然としているように見えるけれど、内面はちょっと柔い部分があるのよ』

「失礼、〈星視ノ司〉様。世間話に花を咲かせにきたわけではございません。ここでは人の目がありますれば、お部屋にて話をさせていただきたく」

 

 ガジンは、一方的に話を打ち切った。長々と立ち話などしていられない。

 彼女を味方につけられなければ、今度は別の人物に会いにいかなければならないのだ。

 〈八竜槍〉の権限を使って強引に面会はできるが、それでもすぐに会えるかはわからない。特に、宮廷内の者たちは『外様』出身であるガジンに全員が協力的ではないのだから。

 

『はい、そう焦らないで。今、案内します』

 

 蝶が動き始めた。ガジンには、この蝶が動いている理屈はさっぱりわからないが、札に描かれた複雑な文字や形が『気』に作用しているのだけは理解できる。

 何度か角を曲がり、階段の前に辿り着くと、それを上る。

 〈星視ノ司〉の執務室は宮の北の塔にあるが、曲がった回数と方角から算出すると明らかに今いる場所は北ではないにも関わらず、北の塔の階段を上っている。

 

(相変わらず、呪術に関してはどこがどう動いているのか、さっぱりわからん)

 

 このような摩訶不思議なことになるのは、〈八竜槍〉でさえ欺く隔絶した実力を持っている〈星視ノ司〉が張った結界のせいである。

 もっとも、術について全然理解が及ばないのは、呪術に関しては粒ひとつも素質が無いと太鼓判を押されたガジンだから、というのも勿論あったが。

 階段を上り切り、戸を開けた。守衛は誰もいない。常人の者が、蝶の案内無しにここに辿り着けるはずがないからである。

 

「失礼いたします。〈星視ノ司〉、〈鎮守ノ司〉」

 

 部屋の中にいたのは、鏡合わせになったかのような人物たちだった。

 卓を跨いで対面している二人の老女は、左右対称の芸術かのようである。

 双子の姉妹。国家の方針に多大な影響を与える二つの役職に就いている二人は、〈八竜槍〉相手でも特に気負った様子はなく、手招きをして座るよう促した。

 畳床に腰を下ろすと、どこからともなくお茶が入った湯飲みが宙を浮いて運ばれて来た。

 

「お変わりないようで、安心しました」

 

 会釈して、乾いた喉を潤した。思えば、帝との謁見からなにも飲んでいなかった。

 丁度よい温度になっていた茶は、誰が煎れたものかは判別がつかないが美味い。

 一息つき、ガジンは湯飲みを卓の上に置いて、主題を切り出した。

 

「お二方に、ご相談があります」

「帝の、少年への処遇の件ですね。私も姉も、耳には入っています」

 

 妹である〈星視ノ司〉が言った。

 

「ですが、一度下された帝の裁定に背くことはできません」

 

 姉の〈鎮守ノ司〉が言葉を継いだ。

 

「帝に奏上した内容が、たとえ偽りでも?」

 

 二人の表情は変わらない。ふふっと、にこやかに笑ってさえいる。

 

「元々、今回の件であまりに〈星視〉の動きが鈍いことは、誰の目にも明らかでした。ですが星が視えていないのであれば、それもうなずける。『竜』が暴れ回り始めてから、いえ、それよりも前に、この宮でも星から未来を読み取れていないのではりませんか」

「さて、それはどうでしょう」

 

 〈星視ノ司〉は以前として笑みを絶やさない。

 

「もし、星が視えぬ状態で奏上したのであれば、これは虚偽です。帝に嘘を申し上げた罪は、どんなものかは、お二人には十分におわかりでしょう」

「我らを脅しますか? 〈八竜槍〉ガジン様」

 

 〈鎮守ノ司〉が先に笑みを消した。

 

「いえ、まさか。ただ私は、帝の御判断が誤っていると思っただけです」

「あらあら、過激な発言ねえ」

 

 〈星視〉である老婆は、姉と違い、朗らかな雰囲気を崩さない。ガジンは眉をひそめる。

 

「少年を処刑しようとするのは、百歩譲ってもいい。しかし事件の鍵を握る者を殺そうとするのは非効率です。ひとつ間違えば取り返しのつかないことになるやもしれません」

 

 もっとも、ガジンは少年の処刑には大反対である。

 

「ガジン。貴方が考えつく限りのことを、帝が想定していないとお思いで?」

「そう思っているからここに来ているのです、〈鎮守ノ司〉」

 

 帝を疑い、あまつさえ決定を覆すよう意見するなど、そうそうしてよいものではない。しかも、事の真相を知らない人間からすれば、ガジンがリュウモを庇おうとすること自体、世迷言もいいところである。

 それでも、ガジンは引く気は一切なかった。

 

「星が視えず、『竜』が鎮まることもない。このような状況で、少年を処刑するなど正気の沙汰ではありません。たとえどのような事情があるにせよ、もっと時間をかけ協議すべきです」

「協議するに値しない、いえ、協議することすらできない議題であった場合、どうするのかしら」

「――知っておられるのですか。〈竜奴ノ業〉について」

「ええ。私と姉は、帝から教えられていますわ。そうでなくて、どうして国の政に関われましょうか」

「まさか、奏上の内容に偽りがあることを、帝はご存知、なのですか」

 

 〈星視ノ司〉は朗らかに笑っている。

 ここに、味方はいない。

 

「……ご歓談中、失礼しました。私はこれにて」

 

 ガジンは立ち上がり、戸を開けた。

 

「ガジン」

 

 〈鎮守ノ司〉の声に振り返る。

 

「貴方はラカンを失いました。ですが、帝が言ったように、個人的感情で動いてはすべてが狂い出してしまいます。自重なさい」

 

 ガジンは会釈をして、蝶の案内に従い宮を出て行った。

 

 

「他も軒並み駄目か……」

 

 私室に戻り、どかりと腰を下ろす。

 

「クソッ! どうなってんです、他の奴らまで」

 

 クウロが拳を畳に叩きつけた。

 

「帝と結託されちゃあ、どうにもならないってことか……くそ、どうします、大将。このままじゃ、坊主が殺されちまう」

「挙句、『竜』が暴れ回り、国が滅びるかもしれん」

「帝の言い分もわかりますぜ、そりゃ。確かに〈竜奴ノ業〉がまた広まっちまえば、国は亡びるかもしれませんが、どっちみちこのまま坊主を殺して事態を放っておいたら、待ってるのは同じ結果じゃあねえですか」

 

 クウロの言う通りである。早いか遅いかの違いでしかないところまで状況は切迫した段階にまで至っている。

 

「そもそも、帝はどうやって『竜』を鎮めになるおつもりなのだ?」

 ガジンは疑問を口にした。少年を殺そうとするならば、解決の手段が消えることになる。

 

 ――帝たちは『竜』を鎮める別の方法を知っているのだろうか。

 

「〈鎮守ノ司〉がどうにかする、とかですかねェ」

 

 皇国で唯一、公的に『竜』に関与する機関の長である〈鎮守ノ司〉ならば、確かに『竜』を鎮める手段のひとつぐらいは持っているのかもしれない。

 だが――ガジンは仮に〈鎮守ノ司〉がその手段を持っていたのだとしても、即効性があるものだとはとてもではないが思えなかった。

 

「どうにかするにしても、時間がかかれば被害は甚大なものになるぞ。少年が言う〈龍赦笛〉ほど、目に見える効き目があると思うか」

「無理ですな。もしもそんな切り札があるんなら、虐殺が起きた後、すぐに〈鎮守ノ宮〉が動き出してるはずですぜ」

 

 時が経つほど、無辜の人々への損害は多大なものになっていく。そして、最も多くの命が失われるのは、〈竜域〉に近い『外様』の者たちだ。

 

(お前なら、ラカン、お前なら、こんなとき、どうする?)

 

 おのれの立場。北の領地にいる家族の安否。親友の死……。

 様々な思いがない交ぜになって、ガジンの胸の内をかき回した。

 

「――――クウロ」

「へい」

「……帝の命だ。通常の勤務に戻れ」

「大将! そりゃねえですぜ、なにかするってんならオレも」

「戻れ」

 

 クウロは不満たらたらであったが、ため息を吐いて、部屋から出て行った。

 

「――――――――――――――――――行くか」

 

 〈竜槍〉を手に取り、ガジンは部屋を出た。

 向かうべき場所は、すでに決めていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十話 離反

「ああ、もうッ! なんなんだよこの牢!」

 

 どうにか脱出しようと、牢屋のあちこちを叩いては壊せないか試していたリュウモは、床に大の字で寝ころんだ。

 力にはそれなりに自信があったのに、床や窓の格子は殴ってもびくともしない。逆にこっちの拳が痛くなる有様だ。なにか、特殊な木材を使って、呪術で保護しているのかもしれない。

 

「無理だな」

 

 しかし、村の大人たちなら突破できただろう。

 

「目覚めていないおれじゃなあ……」

 

 クウロはすぐに出してやると言っていたが、その間すら惜しい。いつ、村と同じように〈禍ツ竜〉が人を襲うとも知れないのだ。

 ちんたらしている暇は、一時も無い。

 

(せめて、刀が……〈龍王刀〉があればなあ……)

 

 荷物は〈龍赦笛〉以外はすべて没収されている。

 

「ん……? 誰?」

 

 物音がした。誰かが近づいて来ている。

 格子の外から、知った顔が出てきた。

 

「ガジンさん?」

 

 コハン氏族の村で会った、『竜』の骨の槍を持った男。

 張り詰めた顔で、尋常ではない様子だ。なにかを決意したかのようにも見える。

 

「後ろに下がれ」

 

 固い声で、ガジンは言った。誰も彼も従わせるほどの圧を伴った声だ。

 言われた通り、リュウモは格子から離れる。

 瞬間、都合二度。――ヒュっと音が鳴った。

 格子がずり落ち、結界がまったく意味を為さず、牢が破壊された。

 信じられない光景が、現実に像を結ぶ。

 

(こ、この人、滅茶苦茶だ……)

 

 一度、ガジンの戦いをリュウモは知っているが、こうしてまざまざと、息を吐くように高度な結界を力技で破る様を見せつけられると、彼の馬鹿げた強さがよくわかる。

 かなり凄いことをしたのだが、ガジンは涼しい顔をしている。彼にとっては行った動作は造作もなく、この程度の結界では疲労させることすらできなかったようだ。

 唖然としているリュウモに、ガジンは単純明快に言った。

 

「君をここから出し、〈竜峰〉まで供する。付いて来い」

 

 男の言っている意味がわからず、ぼうっとしていると、旅のためにまとめた荷物が入っている袋を投げ渡された。

 

「あ、これ……」

 

 すぐに中身を確認すると、村を出立したときと変わらず、すべて入っている。

 〈龍王刀〉も、袋の中にあった。取り出して腰に差し、リュウモはガジンを見た。

 

「あの」

「細かい話は後だ。早く」

 

 リュウモは、うなずいて、ガジンの背について行った。

 

 

 

 

 できる限り、ガジンは人目につかない通路を選んで歩いた。時折、少年――リュウモの様子をうかがいながら、誰かにつけられていないかを念入りに確認する。〈影〉に後を追われていたら、すべて水の泡と消える。彼らの猟犬としての技術は〈八竜槍〉の気配さえ正確に捉えるのだ。

 年若い〈影〉相手ならば、易々と捕捉されはしまいが、彼らを束ねる〈影ノ司〉ならば話は別だった。経験を重ねた老獪な猟犬ほど、手に負えないものはない。

 

「あの、どこに……向かっているんですか?」

 

 リュウモは、おずおずとガジンに聞いた。ガジンは、二転、三転してここへ辿りついた、運命と理不尽とに弄ばれる少年に事情を話してやりたかったが、状況が許さない。

 今、このときも、リュウモの命を奪おうとする輩がいないとも限らないのである。

 

「すまん、まずはここを出てから話す」

 

 だから、ガジンはこう言う他なかった。わけがわからないまま連れ去られていく不安で、騒がれないかガジンは心配だった。

 だが、予想に反してリュウモは静かなままだった。牢から出したときと同じで「何故?」と不思議がってはいるものの、年齢からすれば極めて冷静だ。共に交わした言葉はすくなく、お互いのことを深く知りようもないが、今のガジンにとっては有り難いことこの上なかった。

 

「わかりました。ここを出たら話してください」

 

 小声でリュウモはささやいた。

 ――聡い子だ、この子は……。

 誰かに〈青眼〉を見られないよう、うつむきながら周囲に注意するリュウモを見て、ガジンは感心する。――この子は、今の状況をわかっている。理解できるものはすくなくとも、要点は押さえている。

 つまり、目の前にいる男に従わねば、宮廷から出れず、〈竜峰〉に向かえなくなるということだ。信用、信頼が無に等しい状態で大人しくついて来てくれているのは、そういうことだろう。

 

(ともかく、早くここを出ねば……)

 

 ここに居続ければ、リュウモは殺される。帝は、絶対に容赦しないだろう。長年、〈八竜槍〉として仕えてきたからこそ、帝の加減の無さは骨身に染みている。

 賊の徹底的な討滅を、眉ひとつ動かさずに命じた、帝の恐ろしい顔が、ガジンの脳裏をよぎった。

 肝がひやりとする幻覚を感じ、ガジンは振り払う様ように自らに喝を入れた。腹に力をこめて、目的の場所に向かい続ける。

 宮廷は、大小様々な部屋がいくつも作られている。その中に、ぽつん、ぽつん、と離れ小島のように孤立した部屋が片手で数えられるほどあった。用途不明のそれらは、特に誰かが使うわけでもなく、放置され整備もされていない。

 宮廷を建てたさい、余ってしまった空間を埋めるために仕方なく作ったのだろう。

 宮廷は何度か改築をしている。そのときにできたのではないか?

 数百年も前に設計されたのだ。こういった穴もあるだろう。

 このように宮廷の者たちは考えている。

 ――事実は、違うことをガジンは知っていた。いや、〈八竜槍〉となったとき、先達より真実を教えられたのだ。

 宮廷内の者たちがいうところ、無駄な部屋の前に着く。ガジンは戸を開けて先にリュウモを中に入れると、誰もつけて来ていないことを確認して、戸を閉じた。肩の力が抜けて、ガジンはようやく、ほっと一息つけた。

 

「……? あの、ここは?」

 

 なんの変わり映えのしない場所に案内され、リュウモは小首を傾げていた。

 

「この宮廷には帝がおられる。国の魂たる帝に万が一があったさいに、脱出するための方法がいくつかある」

「それが、ここ? 部屋が空を飛んだりするんですか?」

 

 子供らしい想像力溢れる突飛な空想が、ガジンには微笑ましかった。

 ――いや、もしかしたら、この子の故郷では、本当に部屋が飛ぶのかもしれん。

 なにせ、眼前にいるのは、あの伝説に出てくる民である。『竜』を見事に操ったこともあるのだから、木造の部屋ひとつ空飛ぶことぐらい、どうという現象ではないのかもしれなかった。

 

「君の故郷では、部屋が空を飛んだりするのかね?」

「なにを、言ってるんですか?」

「い、いや、なんでもない。忘れてくれ」

 

 ガジンは、小さく、こほん、とわざとらしく咳払いをして話の流れを切った。

 

「ま、まあ、残念ながら空は飛ばない。第一、それでは目立ちすぎて、帝が逃げる方向を見つけられてしまう」

「飛んでいる方を囮にして、本命を逃がしたりはしないんですか?」

 

 む……と、意外な鋭い意見に、ガジンは一考することにした。すこし思考を巡らせてから、結論を出した。

 

「確かに、そういうこともできるだろう。ただ、部屋が飛ばない限りは無理な話だ」

「そう、ですか。――『竜』には、子供を守るために、雄が囮になることがあったので、ちょっとできるんじゃないかって思ったんですけど……」

「そ、そう、か……」

 

 突然、『竜』について話をされて、ガジンは不意打ちを喰らったような気持ちがした。

 

(やはり、この子は我々とは違う世界を生きてきたのだ……)

 

 聞きたいことは山のようにあったが、あまりのんびりとはしていられない。一時の休息を追えて、ガジンは四角形の部屋の奥にある押入れの戸を開けた。

 本来なら、布団や物が入っているはずであるが、空っぽだ。

 

「……? なんにもない……」

「ちょっとした仕掛けがある」

 

 押入れの奥の壁の隅に、四角くわずかな切れ込みが入っている部分がある。そこにガジンは、指を押し込んだ。

 ズッ……。――指が壁を押した。第一関節ぐらいの深さまで指が入り込むと、カチッと音がした。

 押入れの床半分が、ほとんど音を立てずに横へ移動する。床の下からあらわれたのは、地下への階段だった。

 

「わ、わわ、すげえ!!!」

 

 いきなり、リュウモが大人しかった態度を打って変わって大声を出した。反射的にガジンは彼の方へ振り返る。

 

「あ……ご、ごめんなさい――」

 

 リュウモの顔にあったのは、見知らぬ物を見たとき、子供特有の好奇に満ち満ちた光だった。ガジンが彼を見咎めると、亀の頭が引っ込むような早さで首が縮こまった。

 いけないことをして、親に叱られた子供だ。そんな少年に、ガジンは急に親近感が湧いてくるのを感じた。

 ――この子の様な頃が、私にもあった。

 泰然としていて、まるで波紋ひとつ無い湖面そのものといった風な少年が見せた、年相応な一面は、ガジンに安堵をも、もたらした。人は、互いに共通するものがあると、途端に距離感が縮まることがある。

 少年のいかにも年頃らしい反応が連鎖して、ガジンの胸にあった、『竜』を操る者への恐れを薄れさせた。

 

「あまり、大きな声を出してはいかんぞ」

「は、はい……すいませんでした……」

 

 しゅん……とするリュウモに先へ降りるように言って、彼が階段を歩いて行くのを見届け、ガジンは最後に入念に気配を探った。

 自らの感覚範囲内に誰もいないことを確認すると、ガジンはリュウモの後を追った。

 下への通路は戸を閉めれば、光が消える。真っ暗になるが、ガジンにとっては、さして問題にはならない。空気の流れ、物体が発する『气』を感じ取ることによって、目視はほとんど無理でも、視覚とはまったく別の物の見方ができる。

 今、ガジンには周囲にある光景が、小さな粒子がいくつも重なり、物体の形を成しているように視えている。これは、霊的な第六感ではなく、『气』によって人が持つ機能を鍛えあげることにより得る、超常的感覚のひとつである。

 

(さて……あの子は大丈夫か)

 

 あれくらいの年では、閉鎖空間の暗闇は精神的にこたえるだろう。ガジンは立ち止まって、リュウモを探した。

 達人であるガジンにとって何間離れていようと、すぐに見つけられる。その力量に違わず、すこしも間をおかずにリュウモを見つけ出した。

 ――階段を降りている?

 灯りも無しに、リュウモは階段を降りた先で足を止めていた。驚くことに、しっかりとガジンの方向を見つめていた。

 

「すまない。本来なら灯りを持ってくるのだが、あまり足跡を残したくないのだ」

 

 壁には燭台と木が、一定の間隔で備え付けられている。もし、火を点けた跡があれば即座にばれる。ガジンは、子供をこのような場所に案内したくはなかったが、火急のため我慢してもらう他はなかった。しかし、リュウモは特に気分を害した様子もなく、臆してもいない。

 

「大丈夫です、暗くても見えます」

 

 まるで、見えるのが当たり前のような口ぶりだった。

 

「いや、さすがにここまで暗いと、夜目が利く、利かない範疇を越えていようさ。私は『气法』を使って、目ではなく別感覚で視えているが」

「そう、なんですか……。おれは、全然、見えますけど――」

 

 細い通路の壁の強度を確かめるかのように。リュウモはぺたぺたと触れている。

 ――嘘は言っていない。間違いなく、この子は見えている。

 幼く、青い両眼にはなにが映っているのだろうか。――ガジンの内に、すこしの好奇心が顔をあげたが、今はそれを許さない。聞いてはみたかったが、自重した。

 

「ついて来てくれ。はぐれるな――と、言っても、見えているなら大丈夫か」

「はい、ぴったりついて行きます」

 

 ガジンが進む秘密通路は、敵が侵入して来た場合の備えがある。簡単に後を追われないよう、いくつもの行き止まりが存在する。正解への道はひとつしかない。

 その道筋を、ガジンは先達の〈八竜槍〉より叩き込まれている。

 

(ひとつ目の枝道を左、次を右、その次をまた右…………)

 

 心の中で呟きながら、暗闇を進んでいく。歩みに迷いは無い。

 

「こっちで、あってるんですか?」

 

 それなりの時間、一向に変わらない景色を歩き続けて来た不安からか、リュウモは覚束ない行先に心細さを感じているようだった。

 

「安心するといい。行先はこちらで合っている。そら、わずかだが、空気の流れ、風を感じるだろう」

「――――え?」

 

 リュウモは、きょろきょろと辺りに視線を飛ばした。それでも空気の流れを感じ取れないと、人差し指の腹を舐めて掲げた。

 

「わから、ないです」

(いかん、私の部隊の者と、同じに考えてはまずいな)

 

 練度、実力、共に文字通り桁が違う〈八竜槍〉直属部隊が見ている世界と、一般人が目に映る世界は違う。

『气法』を使うことによって、感覚器官すべてが超常化する〈八竜槍〉直属の槍士と、訓練を受けていない子供と比べるというのは酷だ。

 普段から部下たちと他の槍士とを比較していたガジンではあったが、さすがに少年に対して無意識の内に自らの世界観を押し付けてしまったことを恥じた。

 

「いや、わからずとも無理はない。専門の訓練を受けた者でも、この流れを読み取るのは難しい」

 

 暗く、細く、狭い石造りの通路にある風の流れは本当に小さい。並みの使い手ならば感知することは不可能である。

 ――はた、とガジンはいまさらながらに思い至る。

 

(この子から、強い『气』の流れを感じ取れん。まさか『气法』を使っていない……?)

 

 であるならば、リュウモは素の身体能力で、この闇を目視していることになる。

 ――やはり、この子は普通の人間とは違う。

 しかし、共通する部分があるのもまた事実である。いかに〈竜守ノ民〉といえ、腹は減る、喉は渇く。食事を摂らなければ死ぬのは、同じ人間なのだと強く共感させられる。

 ――いかんな。余計なことに思考を割きすぎだ。

 今の最優先事項は、少年を生きて皇都から連れ出し、北にある〈竜峰〉へ案内することだ。

 ガジンは自らに言い聞かせ、疑問はすべて頭の中から追放した。感覚をより研ぎ澄ませる。何十間も先の様子を感知しながら、そうそう無いとは考えつつも、襲撃に備える。

 クモが巣を張ったような地下の迷宮は、ひとたび迷えば一生出れない、死の行路だが、脱出経路を知っている者にとってはこの上なく強固な要塞と化す。真っ暗闇の中、光への道筋を知っている、いないのとでは、精神への負荷が大きく違う。

 か細いクモの糸と、頑丈に作られた縄のどちらに安心感があるかと問われれば、答えるまでもないだろう。

 〈影〉でさえ、この迷路には足を踏み入れない。来るとすれば、出口への道を知っている者――ガジンと同じ〈八竜槍〉だけである。

 

(ロウハが待ち構えていたら、かなりまずいが……)

 

 〈八竜槍〉同士の戦闘は、互いが本気になれば、それだけで周囲に甚大な被害をもたらす。こんなところで戦いにでもなったら、生き埋めは必至である。勿論、その程度で死ぬほど、ガジンは――〈八竜槍〉はやわではない。問題なのはリュウモである。

 ガジンに見立てでは、それなりに訓練を受けているようではあるが、圧倒的に経験が足らない。戦いになったとき、高度な状況判断を求めるのは無理だ。

 来るなよ、と天へと祈った。

 その祈りが通じたのか、通路を歩いている間は、誰にも待ち伏せされることはなく、無事に出口への階段に辿り着いた。

 

「あ、よ、ようやく終わり……」

「よく頑張ってくれた」

 

 リュウモは、辛気臭い暗闇から抜け出せることに、気分的に楽になったらしい。大助かりだと言わんばかりに、肩から力を抜いていた。

 ただ黙々と、無駄口をせずに背中に着いて来てくれた彼に、ガジンは内で感謝した。

 

「ただ、一息つくには、早いかもしれんな」

「どうしてですか?」

「出口で待ち構えられているとも限らんでな」

「ああ……おれは、どうすれば?」

「私が先に出る。よい、と言うまでは出てはならんぞ」

「わかりました」

 

 簡単なやりとりをして、ガジンは階段を昇る。後ろからリュウモがぴったりとついてくる。

 階段を昇り終え、出口を塞いでいる板に手を掛けた。「ここでまて」――ガジンが言うと、リュウモは神妙にうなずいた。

「っぬ……!」

 

 腕に力を込めて、板を上に押しあげる。長らく使われていないせいで、溜まっていた埃がぱらぱらと落ちてガジンの頬にくっついた。拭わず、ガジンは板を押し続ける。ギ、ギ、……といかにも古めかしい音を立てながら板は持ちあがる。

 開いた隙間から、随分久しぶりに感じる光が、ガジンの眼を眩ませた。――同時に、なにかが動く気配を察知した。

 片手でリュウモを制止して、手振りですこし出口から離れるように合図した。なにも言わず、リュウモはいくつか階段を降りる。彼の動きに、満足気にうなずき、ガジンは板を完全に開いた。

 外はしなびた神社の一室であった。誰もおらず、放置されて長いここは、ほとんど人が来ない。人が来るとしても、変わり者か、浮浪者、悪ガキたちぐらいのものである。ガジンはボロボロになっている母屋の縁側から外に出ると、気配がする神社の正面に向かった。

 草はぼうぼうと好き勝手に生え、枯れ木が人のいなくなった建築物に寂しそうに寄り添っている。ひっそりと朽ちていく貧寒とした場所に、ひとつの気配があった。その主は、賽銭箱に寄りかかっていた。

 

「お、ようやく来やしたかい、大将」

 

 ひび割れと、沁みが酷い賽銭箱の影から、ひょいと、人影が立ち上がった。ガジンがよく知っている顔だった。

 

「クウロか――相変わらず、本気で隠れたお前を、未だに探し出せんな」

「かくれんぼは得意なんで。昔っからねェ」

 

 クウロに敵意は無い。ガジンは彼が姿をあらわした時点で、この副官が追手ではないことを確信する。もし、クウロが追手であるならば、得意の気配消しで不意打ちを狙って来るはずだからだ。

 

「こんなところでどうした? まさか、散歩でもあるまい」

「うちの上司がとんでもねェことするもんで、その手伝いに来たんですよ」

 

 クウロは、手に持っていた袋をガジンへ投げた。

 

「〈竜槍〉を隠すのに必要でしょう? そのまま持って行ったら、すぐに騒ぎになっちまいやす」

「すまん……いや――ありがとう」

「お気になさらねェでください。俺は、帝より大将に惚れ込んでやすので」

 

 クウロに深く頭を下げると、ガジンはリュウモを呼びに母屋に戻り、彼を連れて戻った。

 

「クウロさん……」

「お、嬉しいねェ。覚えてくれていたかい」

「牢屋では、ありがとうございました」

「気にすんなって。俺は当然のことをしたまでよ」

 

 牢屋に捕らえられていたときに交流のあった二人は、それなりに仲を深めていたようだった。リュウモはクウロが助けてくれたことを知ると、姿勢を直して、礼儀正しく腰を折った。

 

「でも、大丈夫なんですか? おれに協力しちゃって……」

 

 少年の顔には、巻き込んだ相手が殺されてしまうのではないかという恐怖と申し訳なさがあった。彼を気遣って、ガジンは断言する。

 

「別に問題はない。〈八竜槍〉ガジンに無理矢理命令されたとでも言っておけばよい」

「ま、そういうことだ。こっちの心配はしなさんなってェ。お前さんこそ、気をつけてな」

 

 リュウモは、クウロが自らのように極刑に処されずに安心している。

 ――強い子だ。それに、心優しい。しかも気骨がある。

 自分を迫害する者たちを助けようとするばかりか、素直に礼まで言えるのは、中々できることではない。宮廷に住まう人々を見ると、より感心は強くなる。

 この精神的強靭さと、心根が合わさったからこそ、今までの辛い道のりを越えて来れたのかもしない。

 

「さァ、行ってください。隊のやつらは、こっちのお任せを」

「なにからなにまで、後始末を任せてすまん。――別の部隊に異動するときは、イスズの元についてやれ。あの子には、経験豊富な者が必要だ」

「了解しやした。そいつが遺言にならねェことを、力及ばずながら、祈っております。――ガジン様」

 

 クウロらしくもない、畏まった言い方だった。死地に赴く者を送り出すような、真摯さがあった。ガジンはもう一度、頭を下げる。

 

「さあ、リュウモ、行こう。あまりちんたらとしてもいられん」

 

 言って、リュウモの頭に菅笠を被せて、手を取った。

 

「ではな、クウロ。後を頼む」

「了解しやした」

 

 

 走り去って行く二人を見送って、クウロはようやく体の力を抜いた。

 

「相変わらず、厄介ごとに巻き込まれやすいというか、人が良いというか……」

 

 〈八竜槍〉の絶対的立場を捨ててまで、少年を助けようとする上司に、なんと言葉を送ったらいいかわからず、曖昧なものになった。

 

「ま、なんとかすんだろう」

 

 クウロは、ずっとガジンの下で副官として腕を振るってきた。潜って来た修羅場も、二度や三度ではない。そのたび、見事に事件を解決してきた、あの豪傑ならば今回も上手いことやるだろう。さすがに、国の命運どころか、人すべての命をかけた戦いは初めてだが、どうにかなる気がしていた。

 

(ま、ラカンのことも含めて、リュウモを助けたんだろうが――)

 

 それでも、気持ちの割合は、リュウモを助けようとする感情の方が大きかったろう。そんな、ごく当たり前のことを、得た権力を捨ててまで助けるガジンを、クウロはなによりも尊敬していた。

 

(混乱は起きるだろうが、まあ身から出た錆びだわな。ガキを問答無用で処刑する国が、正しいはずがねェ)

 

 クウロは、国と帝に皮肉を自らの内で言い放ち、混迷極まっているだろう宮廷に足を向けた。朽ちた神社からすこし歩いて止まり、ガジンたちが去って行った方を見る。

 

(ラカンのやつが生きてれば、大将と一緒に行ったかねェ)

 

 きっと、同行しただろう。お人好しで、馬鹿みたいに甘く、阿呆のように優しかった、あの大馬鹿ならば。

 友の後ろ姿がぼんやりと、春の日差しの中に見えた気がして、しんみりとした悲しみが心に広がった。

 クウロは、熱くなった目頭を押さえて、熱が冷めるまで佇んだ。

 そして、宮廷に向かって再び歩きはじめた。今度は、一度も振り返らなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十一話 皇都脱出

 ここはどこなんだろう。

 本当に、人が住んでいる世界なんだろうか。

 宮廷から脱獄し、皇都の通りを歩いていて、リュウモはそう思った。

 人が川のように流れ続け、そこかしこから客引きのために声が聞こえてくる。

 嗅いだことのない食べ物の匂いや、よくわからない芸をして客を引き寄せている人もいる。近くに置かれた皿には、金色の板、のような物が入れられていた。

 コハン氏族の村は、まだ理解の範疇だったが、もうここまで来るとリュウモにとっては埒外、常識外の光景だった。

 人は理解できないものに恐怖を抱くが、リュウモもそれは同じだ。絶対にはぐれないよう、ガジンの服の裾をこれでもかと強く握り締めている。強く握り過ぎて、服が若干だが悲鳴をあげているが、些細なことである。

 

「大丈夫か?」

「は、はい! た、多分、きっと、大丈夫です」

 

 全然、まったくもって大丈夫ではないのだが、リュウモは強がって見せた。

 それから、リュウモはどこをどう曲がったのか全然覚えられなかった。

 ガジンが道の角で止まる。顔をすこし出して、追われていないことを確認していた。

 

「追手はいないようだ。リュウモ、向かい側の店が見えるか」

「あの、立派な店、ですか?」

 

 正直、どこの店も変わらないように見えたが、指さした一軒は違った。

 使われている素材の質や、店構えと言えばいいのか、品が良い。

 リュウモにはそうとしか感じられなかった。商売店が持つ品格というものは、ああいうものなのではないだろうかと思った。

 

「北の〈竜域〉は、ここからかなりの距離がある。普通に行けば一月はかかる。そのためにはまず諸々準備をしなければならん」

「じゃあ、食料とか、あの店で貰うんですか」

「貰う、のはさすがにな……。客として行く以上はちゃんと金を払うさ」

「は、はぁ……」

 

 ともかく、よくわからないがそういうことらしい。

 ガジンが角から出て、店に足を向けようとした時だった。

 戸が倒れるのではないかと思うほど、凄まじい怒号が店内から聞こえてきたのである。

 

「お、女の人、の声、ですよね?」

 

 とんでもない声量に、リュウモは自信がもてなかった。怒鳴り声はまだ続いている。

 

「はあ……まずい時に来てしまったぞ、これは」

 

 ガジンはリュウモの手を取って、向かい側の店の角へ行き、屈んで身を潜めるよう言った。

 びりびりと鼓膜が揺れ続けること、数分。店の戸が開いて、誰かが出て来た。

 魂が引っこ抜けたような、顔に力が入っていない男が、ふらふらと雑踏の中へ消えて行く。

 怒鳴っていた人物ではなさそうだった。つまり、落雷のごとき声を張り上げた人物が、まだ店内に残っている。

 ――ほ、本当に行かないと駄目ですか?

 ――駄目だ。行くしかないのだ。

 〈八竜槍〉と〈竜守ノ民〉は、目で互いの意志を伝え合うと、同じように重い足取りで件の店に向かって行った。

 リュウモは怖かったので、先に戸を開いて店に入ったガジンを盾にして、背に隠れながら敷居を跨いだ。

 中は、カタ、カタ、カタ、と音が規則的に鳴っており、一層恐怖を煽ってきた。

 ――なにか、よくわからない物が音を立ててる。

 光に照らされた店内は、変わらず音を鳴らし続ける。不気味な、人に似たなにかが、誰かに操られているように、動いていた。

 

「う、うわ……き、気色悪い」

 

 生理的険悪が込み上げてきて、つい口から悪態がこぼれた。

 

「誰かしら、うちの商品を店内で悪く言うど阿呆は」

 

 凄まじいドスの聞いた声だった。思わず、リュウモはガジンの影に隠れる。

 

(お、怒った爺ちゃんぐらい怖ぇ……)

 

 まさか『竜』以外でジジより怖い人が存在するとは……。リュウモは改めて世界の広さを感じた。

 

「へぇ……。なんだい、子供嫌いの君がこの年頃の子を連れて来るなんて初めてじゃないか。今度はどんな厄介事だい?」

「嫌いなのではない。前に何度も言ったぞ、苦手なだけだと」

「前にも言ったけど、意味変わらなくないかい、それ? まあいい、それでなにをお探しで」

 

 丸っきり女性を無視して話を進める男二人に、彼女の眉が怒りをあらわすように上下に動いている。

 話し込み始めた男になにを言っても無駄だと理解した女性が、不機嫌さを隠しもしない様子で、リュウモに近づいた。

 

「店の中まで笠を被ってるのは失礼よ、坊や」

 

 有無を言わさず、笠を剥ぎ取られた。リュウモの〈青眼〉が女性の視界に晒され、場が凍りつく。悲鳴があがらなかっただけ、幸運であった。

 女性の肝が据わっているというのもあったかもしれない。

 

「失礼、〈八竜槍〉様。これはいったいどういうことでありましょう。しっかり説明していただきたいですわ」

 

 口調がさっきより非常に丁寧になったのが、余計にリュウモの恐怖感を煽る。まるで『竜』の尾を踏んだ時のような気分だった。

 意外であったのは、彼女が恐慌をきたさず、淡々と事実の確認を行っていることだ。ガジンに礼儀正しく食って掛かっている。

 

「おれが、怖くないんですか?」

 

 ふんと、鼻を鳴らして、女性はリュウモを見下している。すこし長い茶髪を結っている彼女の瞳は、気の強さをあらわにするかのようなキツイ光が垣間見えた。

 腕を組んで目尻があがった様は、さながら怒り狂った『竜』のようである。

 

「女の怒鳴り声で震えあがる子供のなにを恐れろと? 私を馬鹿にしてるのかしら、坊や」

「いえ、そんなことないです!」

 

 怒らせては駄目な部類の人だと、本能的に悟ったリュウモは即座に降伏して白旗をあげた。怖くて仕方がないので、ガジンに助けを求めるように視線を向ける。

 彼は苦笑して、女性の名を呼んだ。

 

「エミ、そうめくじらを立てるな。怯えているぞ」

「めくじらを立てるな? こんな目の子供をうちの旦那の店に連れて来て、その言いぐさはなに?」

 

 国家の重鎮相手に、まったく遠慮の無い物言いだった。

 

「相手は子供だ、言い方を選べ」

 

 ガジンは、あまりな言い方をするエミを注意したが、彼女はその程度では止まらなかった。

 

「店の評判を落とすような行動は慎んで下さいますこと? 相手が帝以外なら、うちは容赦しませんわよ?」

 

 再び、口調が丁寧になる。

 

「こんな目をしていれば、生きている間にそれなりの体験をしたでしょう。していないというなら、この場で体験させてあげるのがよいのではないでしょうか、〈八竜槍〉様?」

 

 皮肉たっぷりである。ガジンも相手の口の強さには白旗をあげたようだ。目線をこちらに向けている。すまない、という言葉が目に見える。

 

「まあまあ、客として来てくれたんだから、こっちは商売人として対応しようじゃないか」

「アナタ、でも今回は」

「明らかにまずいことだって? そんなのは理解しているさ。こんな真昼間に〈八竜槍〉が自分の相棒を隠して〈青眼〉の子供を連れ込んで来ているんだ。ヤバイのは百も承知」

 

 ツオルの目に、決して退くことのない意志が灯っている。彼の妻は、深々と溜息を吐いた。それが、了承の合図であったらしい。

 

「詳しい話しは奥で聞こう。そっちの方が都合がいいだろう?」

 

 ガジンは彼の提案にうなずいた。

 

「エミ、この子にお茶でも出してあげてくれ」

 

 言うなり、二人は店の奥の方へ消えて行ってしまった。止める間もなく、置いてきぼりをくらったリュウモは、気まずそうにエミを見た。

 

「お茶は飲めるかしら。貴方たちの好みなんて、わからないけど」

「大丈夫です、飲めます」

 

 エミは、不服そうな態度とは裏腹に、すぐにお茶を持って来てくれた。翡翠色の、綺麗な茶だった。湯飲みを傾けて、丁度いい熱さの茶を飲んだ。

 

「美味しい……」

 

 甘露、とはこういった茶を言うのだろうか。今まで、こんな茶は飲んだことがなかった。

 茶の良い香りが口の中いっぱいに広がる。

 

「あら、お茶の味の良し悪しはちゃんとわかるのね。どっかの馬鹿舌二人は、昔に味わうことなく、水みたいにがばがば飲んでいたけど」

「……勿体無いですね」

 

 湯水の如く、この品質の茶を飲み干すとは……。きっと、舌がおかしくなってしまった人なのだろう。リュウモは、その馬鹿舌二人を可哀そうに思った。

 くしゅん、と奥の方でくしゃみをする音が聞こえた。

 

 

 

 

「ではな、ツオル。後は、言った通りにしてくれれば、危害は無いはずだ」

「はいはい、毎度あり」

 

 金銭のやり取りを二人が終える頃には、リュウモはそれなりにエミの人柄に慣れていた。

 厳しく、恐ろしいが理不尽な人ではない。利益に目敏くとも、人情が無いわけでもない。

 実際、リュウモはかいつまんで、どうしてこんなところに来ることになったのか話したが、その際、終始彼女の顔は沈痛なものになっていた。

 

「はい、坊や」

 

 エミは、リュウモに小さな袋を手渡した。中を見ると、金が入っている。

 

「話しを聞く限り、経済、金銭に一滴たりとも理解がないけど、持っていて不便になることはまずないわ。餞別よ、持ってきなさい」

「ありがとうございます」

 

 リュウモは深々と頭を下げた。

 

「おや、珍しい。君が一銭にもならないことをするなんて」

 

 意外な事の成り行きに、ツオルが驚いている。本気でびっくりしていた。

 

「困難に立ち向かう子供への、ちょっとした贈り物よ」

 

 ガジンが顔をしかめた。リュウモを見咎めているようでもある。

 

「エミ、詳しいことはツオルから聞いてくれ。ツオル、言った通り、追手が来たら、すべて偽りなく話せ、いいな」

「はいはい。そっちも気をつけて。旅の成功を祈ってるよ」

 

 挨拶もそこそこに、二人は店から出た。日は高く、隠れて動くには向かないが、ガジンは巧みに人通りのすくない通路を選び、人目につかないように歩いた。リュウモは笠を被り、目を誰にも見られないように注意しながら、彼の後ろにぴったりと着いて行く。

 店から完全に離れると、ガジンが立ち止まった。周辺に誰もいないことを目と感覚で確認すると、彼はリュウモの前に屈んだ。

 

「エミにどこまで話した?」

 

 ガジンの口調は尋問に近い、厳しいものだった。いきなり変わった彼の態度に驚きながら、リュウモは、はっきりと答えた。

 

「おれの一族の業については言ってません。ジョウハさんのこととか、皇都に来た理由とかは話しましたけど、それ以外は北のに行くって言ったくらいです」

 

 すこしだけ、ガジンの厳めしい表情が和らいだ。安堵しているようでもあった。

 

「いいか、少年。今後、自分の身の上を聞かれても決して素直に話してはならん。たとえ、肝心な部分をぼかしたとしてもだ」

 

 どうして、と聞こうとしたリュウモの肩に、ガジンは手を置いた。彼の硬い手に力が入っている。

 

「追手がツオルの店に来た時、もし我らが余計なことを口走っていたら、あの二人は殺されるかもしれんのだ」

 

 ガジンの言った言葉がリュウモにじわじわと浸透すると、勢いよく振り返り、駆け出そうとした。

 

「待て、言っても、我らはもう力になれん」

「で、でも……!」

 

 巻き込んでしまった。なにも関係のない二人の夫婦を。リュウモの心はそれだけでいっぱいだった。

 

「行ってどうなる。私たちが立ち寄ったのは紛れもない事実。消すことはできん。それとも、君の一族には記憶を消すような業もあるのか」

 

 そんな技術は存在しない。『竜』に関しては蓄積された統計や資料があるが――後者は口伝だが――人間に対しての知識は、さすがに皇都の民には劣る。

 

「でも、困っているなら、助け合わないと……それが、普通でしょう?」

 

 リュウモの幼い言い分を聞いて、ガジンが腹を立てるかと思ったが、違った。

 ふっと……彼の頬が緩んだ。まるで、遠い過去にあった、尊いものを見るかのように。

 

「そうだな、だが今はそうも言っておれん。ツオルは、納得づくで協力してくれた。エミの方は、まあ、あいつが説得するだろう」

 

 本当に説得できるのか、ガジンの様子から察するに微妙そうだが、ツオルの口に期待するしかなさそうだった。

 

「だが、できれば巻き込んでしまう人間はすくなくしたい。そのためにも、意味の生い立ちや経歴は話をしてはらんのだ。相手にも余計な苦労をかけることになる。それは嫌だろう」

「わかり、ました……」

 

 助けてくれた人に英枠をかけるのは、リュウモは絶対に避けたかった。

 うなずいて、二人は再び皇都の外を目指して歩き始めた。

 

「あの、そういえばこれからどこに向かうんですか?」

「皇都の西にある大門を抜けて、北の領地へ伸びる大街道へ向かう。その街道を道沿いに歩けば、北の都に辿り着く。そこで準備を整えてから発つ。〈竜域〉、その先は任せて大丈夫か?」

「〈竜域〉についてなら任せて下さい。でも、〈竜峰〉がどこにあるか、わからなくて」

「安心するといい。こういうことに詳しい男をひとり知っている。おあつらえ向きに、北の都にいることだしな」

 

 リュウモは首を傾げたが、ガジンは自信のある笑みを浮かべていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十二話 襲撃、再び

 準備を終えたガジンの行動は素早かった。一刻も早く皇都から出るのが先だと言わんばかりに、足早に大門と言った巨大な赤い門から出た。検査があったようだが、彼の特権でなにも言われずに素通りできた。

 まさか皇国の〈八竜槍〉が背任に等しい行為を働いているとは、門にいた検非違使たちは夢にも思っていない。

 都から外に出ても、人の流れは途切れることはなかった。絶えず皇都に人が入り、出て行く。心臓が全身に血液を送る役割も担っているように、この都は人を循環させる役目を持っているのかもしれない。

 リュウモは、そんなことを考えながら、人の波が徐々に引き始めた平地を、ガジンと供に歩いた。

 

(協力してくれる理由を、聞いたほうがいいかな……)

 

 しかし、未だにガジンの表情は硬く、警戒を解いていない。とてもではないが、聞ける雰囲気ではない。歩いている間は、やることもないため、リュウモは状況の整理を始めた。

 

(おれは、あそこにいたらまずいことになってた。これは絶対間違いない)

 

 牢に入れられては『使命』を果たせない。それに、簡単には出してもらえなかっただろう。

 

(でも、なんでこの人は〈禍ノ民〉だなんて嫌われてるおれを助けてくれたんだろうか)

 

 ここが不可解だった。一度は自らの手で捕らえた相手を、今度は助け出す。

 意味がわからない。支離滅裂だし、無駄極まりない。

 

(この人を、心変わりさせる、きっと大きな『なにか』があったんだ)

 

 結局のところ、それが一番聞きたい部分なのだが、ガジンの一文字に閉じられた口から聞き出すのは骨が折れそうだった。

 そして、なによりも重要なのが、彼が〈竜峰〉の位置を知る人物と知り合いなのだという点だ。それは、外の世界で協力してくれる人が絶望的にすくないリュウモにとって、何物にも得難い情報だ。

 やはり、落ち着けたら色々と聞き出さないといけない。ただ、この岩のように硬そうで、大木よりも巨大な威圧感を持つ男から、情報を引き出せるかは大いに不安である。

 

(しっかりしろ、頑張らないと、まだまだ道は長いはずなんだから)

 

 うつむいていた顔をあげて、辺りをもう一度見た。この、人が流れ続けている物珍しい光景を。――だが、さっきまであった流れが、途絶えていた。

 

「あ、れ……ガジンさん、人が」

「……人払いの結界だ。こんな大通りに、ここまで大規模な術を使うか。余程、皇都から君を離れさせたくないらしい――来るぞ」

 

 暖かい風が、リュウモの頬を撫でた。その行く先に、全身黒づくめの、六人の人間が立っていた。

 

「少年、走るぞ!」

「わかりました。それと、おれの名前はリュウモです!」

 

 命懸けの逃走劇が、始まった。

 

「結界の外に出てしまえばいい。そこまで死ぬ気で走れ!!!」

 

 言われるまでもなく、リュウモは全力疾走している。それでも、大人を超える身体能力を持ってしても、振り切れないのだ。

 ガジンは、必然的に護衛対象のリュウモに合わせなければならず、みるみる内に彼我の距離が詰まって行く。

 チッ……と、ガジンが舌打ちをした。

 

「この結界、()()()()()()()()()()()()()()

「え!? そんな馬鹿なことが……!」

 

 結界とは、外と内を隔てる境界線だ。術の力によって外界と内界を分け、内側のみ効果を及ぼす。そうしなければ、術の力が外側に漏れてしまい、霧散し対象に影響を与えられなくなる。線とはすなわち区切りなのだ。

 その境界線が移動するなど聞いたことながい。〈竜域〉に足が生えて歩き出しているようなものだ。

 

「身を守る術を学んでいるか?!」

「訓練なら! 戦うのは初めてです!」

 

 戦いの機微など、対人の実戦経験が無いリュウモにはわからない。とにかく、ガジンに従うしかない。心臓が早鐘を打ち、嫌というほど体内に音を響かせる。

 

「私の指示に従え」

 

 すぅっと、ガジンの声に冷気が混じった。

 

「遮蔽物なし、地形は平坦、身を隠す場所もない。人目を気にしなければ、多人数で襲うには絶好の位置か。面倒な相手だな」

 

 男の身体にある『气』が急速に高められ感応し始めた。猛り狂うかのような、瀑布がごとき『气』の走り。戦い以外のあらゆる思考を削ぎ落した彼の顔は、味方であるリュウモに怖気を感じさせるほどに冷たかった。

 

「道沿いに走り続けろ」

 

 怒鳴っているわけでもないのに、指示はくっきりと聞こえた。

 言葉に背を押され、リュウモは全力で走る。視線の先には誰もいない。聞こえてくるのは複数の足音だけだ。すこしずつ、音は近くなり始めていた。

 突然、ガジンが慣性を無視したかのような動きで反転する。

 完全に意表を突いた動きに、追手の先頭にいた二人が判断を間違えた。

 〈竜槍〉が唸り声をあげて、敵へと襲いかかったのである。

 横薙ぎに振るわれた槍は、ひとりを吹き飛ばし、並走していた仲間を巻き込み、地面に叩きつけた。

 

(や、やっぱりこの人滅茶苦茶だ! というか、穂先が全っ然見えないッ) 

 

 敵はしっかりと防御の姿勢を取っていた。短刀を構え、腰を落とし、両足で踏ん張っていた。それなのに、あの様である。

 つまり、受け止めようとしたこと自体が誤りであったのだ。

 〈八竜槍〉とは理不尽と不条理の塊であり、そうでなければ名乗ることを許されない。

 ガジンは、自分の実力を存分に振う。敵は一合すら持たず、彼が槍を使えばバタバタとなぎ倒されていく。

まるで小型の台風だった。玄人であるはずの襲撃者たちは、自然の猛威の前に成す術がない諸人に成り下がっていた。

 リュウモは、ぞっとしたが同時に頼もしくもあった。敵でなくて本当によかったと思う。

 こんな人を相手にするなど、到底不可能だ。

 一安心し、胸を撫で下ろした――直後、隙を狙ったかのように球体が前方から飛来した。放物線を描き、球体はリュウモの手前に落ちた。

 

「待ち伏せ?!」

 

 リュウモはガジンの言いつけを破り、停止する。

 獲物が立ち止まるのを見計らったかのように、球体が破裂した。

 煙が凄まじい勢いで視界を真っ白にしてしまった。視界が遮断され、目で物を負えない。

 

(こんな程度で……!)

 

 目を潰されても、『气』の動きを追えば相手の出方は察知できる。

 ――考えが甘かったことを、リュウモは思い知らされた。

 ガジンにとってなんら脅威にならずとも、リュウモにとって敵は対人訓練を積んだ玄人である。

ガクっと……いきなり身体から力が抜けて、地面に転がりそうになった。

 段差から足を踏み外したような感覚。

 外部からの干渉で、感応させていたはずの体内の『气』が、収まってしまっている。

 

「くそ……煙、のせいか――!」

 

 袋から布を取り出し、リュウモは口元を抑えた。

 直後、右手側のすぐ近くで、バチィと嫌な音が響いた。勢いの乗った細い物体が肉に衝突した時の音だ。訓練で腕を槍で叩かれた際に、似たような音を聞いたことがある。うめき声が、白い世界で零れた。

 

「無事だな」

 

 いつの間にか、隣にガジンが寄って来ていた。後ろの敵はすでに片付けたらしい。汗ひとつかいておらず、呼吸も乱れていない。

 

「はい、なんとか……」

 

 驚けばいいのか、呆れればいいのか。なんとガジンは煙を遮る布などを使っていない。

 体質なのか、別の技術を使っているのか知らないが、もしそんな『气』の使い方があるなら、リュウモは今すぐにでも教えてもらいたい気分だった。

 安心したのも束の間。白い煙を肩で切り裂いて、ひとりの男がガジンに吶喊して来た。

 

「貴様、あの時の!」

 

 信じられない、目にも止まらぬ打ち合いが始まった。

 互いの武器がぶち当たるたび、突風が巻き起こり、視界を遮断していた白煙が吹き飛ばされた。

 豪快に打ち合っているように見えて、水面下では激しい駆け引きが行われているようだったが、達人たちの目に見えない内側で起こっている攻防にまで、リュウモは気が回らない。ただ呆然と、彼らの戦いを眺めるしかなかった。

 リュウモを強引に動かしたのは、後ろから感じ取った攻撃の気配だった。

 後頭部に向けて放たれた拳を、すんでのところで前転して躱す。

 

「あっぶね!」

 

 立ち上がり、しっかりと敵に目を向けた。

 村で言われた通り、棒立ちには絶対にならず、腰を落として目を離さない。

 敵はひとりだ。他の者たちは地面に転がって気を失っている。

 

「退いてくれ!」

 

 相手はリュウモを捕まえようと踏み込んで来た。返答は、否であった。

 

「退けぇ!!!」

 

 叫び声をあげる。拳を握り、道のりを遮る敵対者を排除しようとした。

 敵と同様に踏み込み、一撃を叩き込もうとして……一番最初に訪れた村での一連の出来事が、頭の中を駆け巡った。

 傷つけてしまう、あまつさえ殺してしまうかもしれない。

 殺人への躊躇と忌避感が、招いた隙は、あまりにも致命的すぎた。

 

「っが!?」

 

 地面に顔が叩きつけられる。血と、口に入った土の味が混じって気持ち悪い。

 

(なん、だ……おれ、今、なにされた?!)

 

 理解できない。腕を取られ重心を崩されて組み敷かれたのは現状からわかったが、結果に至るまでの過程が素早く、鮮麗されすぎている。

 玄人と素人の、効率化された絶対的な技術の差。それは相手がどれだけ常人離れした身体能力を保有していようと関係なく捻じ伏せてしまう。

 助けを求めるように視線をガジンに向けたが、未だに二人は人間離れした攻防を続けている。援護は期待できそうにない。

 

(なんとか、しないと……!)

 

 掴まれ、関節を決められた腕が痛む。身体の内側から嫌な音が聞こえる。あとは外から力が加われば、腕は簡単に使えなくなる。

襲撃者は、やろうと思えば腕を枯れ枝を折るようにできたはずだが、腕は無事だ。

すくなくとも、生け捕りにしようとしているということは、彼らには殺す気がない。

 なら、まだ終わっていない。手加減と油断が混在している相手なら、まだ打つ手はある。

 

(でも……怖い)

 

 それは、戦うことでも、腕を折られることでもない。

 あの時、初めて外に出て村に訪れた際、自分の力を軽く振るったら、大変なことになった。

 ならば、本気で殴った場合、命中してしまった相手はどうなる……?

 人の命を奪ってしまうかもしれない。日々の糧を得るために動物を殺すのとはわけが違う。逡巡していたリュウモは、瞼を閉じた。

 ――ジジの顔が、浮かんだ。次々に村とその人々があらわれては消えて行く。

 燃え落ちて行く故郷。死人の顔色をしていた、大好きな人。

 

「おれ、は……止まれない、こんなところで、捕まるわけには、いかないッ」

 

 うわ言のように去来した思いを吐き出すと、リュウモは体内の『气』を走らせた。

 白煙で途切れた感応が再び始まり、小さな身体が常人の枠を超える。

 

「それ以上動くな、折るぞ」

 

 脅迫を、リュウモは無視する。関節を決められている腕の筋肉に、動けと命じた。

 細い子供の腕が、下された命令を忠実に実行。鍛えられた敵の腕力を凌駕した。

 驚きのあまり、敵の気が一瞬だけ逸れた。脱け出すには十分だった。

 力に物を言わせて、動けなかった態勢から強引に脱する。右手の肘が、じくりと痛んだ。

 

「この、化け物が……!」

 

 ほんのすこし、瞬きの間。相手は子供では本来あり得ない腕力に、恐れ慄いていた。

 一度だけ目蓋が閉じられると、顔にも瞳にも、なんの感情も浮かんでいない。精神的訓練を相当に積んでいる証だった。

〈禍ノ民〉である存在を前にして、感情を沈み込ませることができるとは、かなりのものである。

リュウモは、拳を握りしめ、覚悟を決めて相手に突っ込んだ。武術には多少の心得がある。村では幼い頃から身を守る術を大人たちから学ぶからだ。

 左足で踏み込み、右手を相手の芯を打ち抜くよう振り切った。

 空を切る。空を切る。空を切る。

 敵は未来を知っているのか、蹴りや体当たりを組み合わせても、ことごとくを躱す。

 実力の差は歴然だ。しかし、一連の攻撃の中で、一筋の光明をリュウモは見出した。

 

(動きが固い……!)

 

 委縮しているとも見える。敵は、本当の実力を発揮しきれていない。

 当然だ。今、敵が相対しているのは、誰であれ小さな子供の時から聞かされる、伝説の民なのだから。

 加えて、避けているとはいえ、当たれば一発で昏倒、戦闘続行不能になる威力を持った拳だ。技術の差は大人と子供であるが、油断などできるはずがない。

 相手は、極大な精神の疲労からか、玉の汗が顔に張りついている。

 焦りか、それとも押し隠した恐怖からか、リュウモの動きに合わせて反撃が飛んだ。

 間は完璧だった。だが、しなやかさを失っている愚直な直線の突きを、リュウモは両の目でしっかりと追っていた。

 パン! と、小気味の良い音が、野に響いた。

 

「っな……」

 

 驚愕が、敵の口から漏れた。鍛えあげたおのれの拳が、子供に止められれば仕方がない。

 小さな掌が、大きな拳を眼前で捉え、受け止めていたのだから。

 リュウモは、掴み取った拳を握る。圧された敵の手の内側で、悲鳴があがった。

 

(お、折れる……!?)

 

 まさか、ここまでになるとは思わず、リュウモは相手を慮ってつい手を離してしまった。

 信じられない膂力と、食らった痛みに、敵が抑え込んでいた恐怖がありありと発露する。

 恐慌に近い精神状態となった相手は、腰の短刀を抜き放った。

 凄まじい速さと手際に、リュウモは反応できず、腕を中途半端にあげることしかできなかった。

 刃が迫る。

 

「よせ、()()()ッ!!!」

 

 訓練によって身体に刻みつけられた動作が、相対する者の首筋から胴体をばっさりと斬る軌跡を描こうとした。

リュウモは迫り来る脅威に目を瞑ってしまった。

 風と短刀が迫る音だけが、暗くなった視界に響いた。

 

(あ、れ……生きて、る――?)

 

 痛みはないわけではなかったが、精々、指先を刃物で誤って切ってしまったくらいだった。

 恐る恐る目を開けると、出血してはいるが、命に別状はない。冷たい刃が、首筋で止まっている。

 相手は、すんでのところで止めることができて、安堵している。

 目が合うと、まだ戦いの最中だと思い出して、リュウモは敵の手首を掴み、強引に投げ飛ばした。大人の身体が地面に叩きつけられ、転がった。

 襲撃者を投げ飛ばし、〈龍王刀〉を抜く。持ち主の『气』に感応し、刀身がぼんやりと白く光りを放つ。

 襲撃者たちが、目に見えてうろたえた。彼らからすれば、初めて見る〈竜操具〉に怯えているのだ。

 柄をぎゅっと握り、意を決して踏み込もうとした時だった。

湯飲みが割れたような音が辺りに響く。

 

「結界が壊れた?」

 

 〈龍王刀〉が、さっきよりも強く白光を放っている。

 

(お前が、やったのか……)

 

 巨大な『竜』から作られた道具は、それ自体がわずかだが、ぼんやりと意思を持っている。

 使い手の意識とは関係なく、なにかしらの作用を周囲に及ぼすことがあった。

 助けてくれたのか……。リュウモは白い光を見つめたが、返事は返ってくるはずもない。

 

「退くぞ」

 

 ガジンと戦っていた黒装束の男は、苦々しさを隠せない声で、味方に指示を出した。

 瞬きを一回する間に、リュウモの捕縛のために動いていた者たちが遠ざかって行く。さっきまでの戦いの熱が、嘘であったかのように引いた。

 凄まじい事態の推移の早さに、リュウモが呆気に取られていると、指示を出した男が、ガジンへ忌々しさをあらわにした。初めて感じた、相手の激情に、ごくりとのどが鳴った。

 

「自らが、なにをしているか、理解しておいでか」

 

 『竜』を射殺してしまいそうな視線を受けても、ガジンはこゆるぎもしなかった。

 

「私は、私がすべきことを為す。この子が、己の為すべきことを為そうとするようにだ」

 

 両者の間で鋼よりも硬い意志が、数秒間ぶつかり合っていた。先に視線を外したのは、襲撃者の男だった。仲間の完全撤退を確認すると、なにも言わずに背を向けた。

 

「待て! 貴様、一体どこの手の者だ! 答えろ!」

「皇国に仇名した者に、答える義理はない」

 

 言い捨てると、男は黒い風となって、野を駆け抜けて行った。姿形が見えなくなるまで待つと、リュウモはガジンの元へ走った。

 

「大丈夫ですか?」

「ああ。君こそ、怪我はないか?」

「ありません。大丈夫です」

 

 腕を掴まれたさいの箇所がすこし痛むだけだ。それよりも、掌に残る肉と骨が潰えようとしていた生々しい感触が消えてくれなかった。リュウモは、そちらの方が、怪我をするよりも、ずっと恐ろしかった。

 気を紛らわすように、襲撃者たちが去って行った、皇都の方角を見た。

 

「誰だったんでしょう……」

「いくつか、推測は立てられる。が、今は考えている暇はない。すぐにここを離れよう。すまんが、夜通し歩くことになる。いけるか?」

「それぐらいなら、任せてください。走っても、大丈夫です」

 

 故郷では、一晩中、『竜』の観察のために起きていたこともある。危険のすくない、外での強行軍も、〈竜域〉と比べれば楽なものだった。

 

「わかった。では、日が暮れるまでは走るとしよう。ついて来てくれ」

 

 常人と比較して、とんでもない身体能力を持つ〈竜守ノ民〉の力を知っているからか、ガジンは走ることに決めたようだった。

 なにか落とした物が無いか、ふたりはお互いに確認し合い、走り出した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十三話 〈竜峰〉への手掛かり

 襲撃から夕暮れまで、言われた通り、リュウモは走り続けた。ガジンが気を使ったとはいえ、ほぼ並走するだけの速度に、彼は大いに驚いていた。〈竜守ノ民〉の身体能力を、まだ甘く見ていたのだ。

 

「速度をあげようと思うが」

 

 提案に、リュウモはうなずいた。ガジンは試すように、徐々に速度をあげる。リュウモが完璧について来られるとわかると、遠慮なく駆け続けた。

 そのお陰で、日が暮れるまでに、町に到着できてしまったのだった。

 この町は皇都へ行く人々の休憩所も兼ねていて、旅籠屋も数多くある。人の往来も多く、隠れるには絶好の場所であった。

 適当な旅籠屋に入り、外を警戒できる部屋を取ると、ガジンはようやく緊張を解くように、大きく息を吐いた。

 

「追手がかかるだろうが、さすがにここまで来れば一日では追いつかれはしないだろう。今日は、ここでゆっくり休もう」

「はい……」

「宿の出入り口を確認してくる、待っていてくれ」

 

 リュウモも、安住の宿を見つけられて安心していた。心と身体の両方から来る疲れに負けて、床に座り込んだ。

 戦いがあったからか、疲れ切っているはずなのに、妙に頭が冴えて落ち着かない。

 

(そうだ、色々、聞かないといけないことがあるんだった)

 

 宿の出入り口を密かに確認していたガジンが戻って来て、彼が腰を落ち着けた際に、リュウモはずっと疑問に思っていたことを口にした。

 

「どうして、おれを助けてくれたのか教えてください」

「君しか、現状を打開できる人物がいないからだ……」

 

 返答は、単純明快だった。すこし悩むような仕草をしたあと、ガジンは付け加えた。

 

「あのまま皇都にいれば、君は帝に闇に葬られていた――殺されていたのだ」

 

 いきなり訳のわからないことを言われた。

 

(殺される、おれが?)

 

 そして、リュウモの思考は『なぜ』『どうして』という単純な疑問に行き着いた。

 

「その、帝っていう人は、なんでおれを殺そうとしたんですか?」

「〈竜奴ノ業〉。かの一族が代々伝えて来たそれを、君が継いでいるからだ」

 

 あんまりにも理不尽極まりない言い分ではあったが、帝が殺そうとする理由はわかった。弁解する意味は無いだろうとわかってはいたが、一応、リュウモは答えた。

 

「たとえ、業を継いでいても、今のおれには貴方たちが言う〈竜操具〉は作れませんよ」

「なに……?」

「素材になる『竜』の骨が無いですし、作ろうとした〈竜域〉に行かないと」

「なんと、まあ……死した『竜』の骨を加工して作るのか――とんでもなく恐れ多いことだぞ、君たちの一族がしていることは」

 

 リュウモは、ガジンの言い分に眉をひそめた。不満をあらわすように、強い口調で問い質すように言った。

 

「なにを言っているんです。貴方だって、『竜』の骨を加工して作られた武器を使っているじゃないですか。こんな格の高い『竜』の武具なんて、おれたち〈竜守ノ民〉ですら二つしか持っていません。こんなのが、国には八本もあるんでしょう。貴方たちの方が、よっぽど恐れ多いことをしているじゃないですか」

 

 ガジンの目が見開かれた。思っても、考えてもいないことを突かれて、顔の表情筋が緩んで呆けたような顔になっている。

 すると、いきなり笑い出した。

 

「そうだな、その通りだ! 我ら〈八竜槍〉は、最も禁忌に近き者。誰もが畏れ、敬い、憧れてはいても、君が言う事実に変りはない。まさか、『竜』と深く関わる人間に指摘されるとは、思わなかった」

「なにがおかしいんです」

「おかしいと思わないのか、君は」

 

 こんっと、ガジンは〈竜槍〉を指で叩いた。

 

「こいつは、『竜』の身体の一部を利用して作られた。天から命じられ、八柱の『竜』がおのれの牙や爪を槍に変えたとされるが、おそらく違う。――これは、〈竜守ノ民〉が作成した代物なのではないのか」

 

 今度は、リュウモが目を見開く番だった。

 

「む、違うのか。あながち、間違いではなかったと思うのだが……」

 

 大袈裟に言って予想が外れていたのが気恥ずかしいのか、ガジンは後頭部を擦った。

 

「あ、いや……あり得そうだとは。でも、当時の、国で語られている神話の時代に起こった出来事は、おれたち語り部にも伝わっていないんです」

「ほう、時間と供に過ぎ去り、消えて行ってしまったのかな」

「争いで、〈竜守ノ民〉は、沢山の人が亡くなりました。そのせいでいっぱいあった伝承が何個も失伝してしまったんです。失われた物語の中に、詳しいものはあったんでしょうけど、今となっては、もう……」

「ぬぅ……そうか。――――おれたち語り部と言っていたが、君は、〈竜守ノ民〉の語り部なのか?」

「はい。爺ちゃんがそうだったので、だから、おれも爺ちゃんの役目を継いだんです」

「しかし語り部とは、そもそもなるのに厳しい役目だと聞く。膨大な伝承を後世に間違った形で伝えぬよう、繰り返し、何度も何度も覚えるのだと。実際、私の住んでいた地域では、もうほとんど語り部という人々はいなくなってしまっていた」

 

 ガジンが言った国の語り部についての現状に、リュウモは衝撃を受けた。

 一族が語り継ぐ物語とは、祖先たちが連綿と続かせてきた歴史そのものなのだ。

 語り部がいなくなり、伝承が完全に途絶えるとは、すなわち一族の過去すべてが喪失してしまうことと同じだ。

 

「外では、そんな簡単にいなくなってしまって、いいものなんですか」

「ふむ、そうだな……」

 

 今まで、語り部の存在について深く考えたこともなかったのか、ガジンは腕を組んで考え込む仕草をした。

 そんな風に思考を巡らせる自体、リュウモにとってはあり得ない。

 村では語り部の重要性は耳が腐るのではないかと思うほど聞かされる。

 口伝で後継者に語られる内容は、今日まで生きてきた一氏族の集積だ。

 なにが過去にあったのか。重大な事件が発生した際、先祖はどのような選択をしたのか。風習、制度、言い伝え。これらは子孫に伝えなければいけない物語なのである。そのために語り部とは存在するのだ。

 

「私の村にも、数代前にはいたらしいが……気にしたことはなかったな」

「どうして……って、聞いてもいいですか」

「無論だ。まあ、身も蓋も無い言い方になるがな、自分たちの生活にまったく関係ないことだったからだ。一銭にもならない語り草を、きつい訓練に近い生活を一年中やる物好きは、もういなくなってしまった。そんなことをするぐらいなら、私たちは生きる糧を得るために鍬を振るさ」

 

 リュウモは、絶句する。

 

「私からも聞きたい。今回の件について、残っている伝承はあるか」

「あ……は、はい」

 

 リュウモは一度、深呼吸をして心を落ち着け、語り出す。

 

 竜、怒り狂う時、人が積み上げし、栄達への階は脆くも崩れ去り、『創世』が訪れる。忘れるなかれ。竜は天が遣わせし、人の傲慢を監視する者なり。

 かの竜達が怒り狂う――すなわち天の怒り。

 竜と供に生き、死に逝く者達よ。天が傲慢なる我らに鉄槌を下す時、竜の峰にて首を垂れ、赦しを請うべし。さすれば天は振り上げた槌をおさめ、再び我らは生きることを赦されよう。

 されど、心せよ。天へと我らが祈り届かず、竜の峰へ辿り着くこと叶わず、人の業によって阻まれし時、天は我らを灰燼と化すであろう

 祈りを届けよ。竜の峰にて、我らが赦しを込めた祈りを。――竜を鎮める旋律を奏でよ。

 

 語り終えると、ガジンが意外なものを見る目で、こちらを向いていた。

 

「ど、どうしました」

「ああ、いや、その……語り部という存在を、その語りというものを、生まれて初めて見たのでな。珍しかったのだ、気を悪くしないでくれ」

「おれは語り部らしかったですか?」

 

 ジジから受け継いだ大切な形の無い物を、ちゃんと自分の中でおのれの一部とできていたか、不安だった。

 

「一度も見たことがないから、なんとも言えんが、そうだな……私の目から見れば、君は、立派な語り部のように思えるよ」

 

 その評価が、リュウモは嬉しかった。

 

「それで、他にはなにかあるか」

 

 ガジンには、すでに警戒が無い。吹っ切れているのか、それとも極刑に値する行為を働いているからなのか、掟など遠慮せずにどんどん聞いてくる。

 だが、最初に会った時のような、ピリピリとした張り詰めた空気は纏っていない。彼の口調は自然で、柔らかい。話してくれるだろうという信頼さえ感じさせる。

 ここまで来たら一蓮托生だ。そんな雰囲気すらあった。

 リュウモも、ここまで来てしまったら掟だなんだとこだわっていられない。彼から協力を取り付けなければ、『使命』を果たすことは不可能なのは、嫌でもわかっている。

 また、掟をひとつ破ることにした。

 

「『使命』を果たすには、二つの試練があるんです」

「試練?」

「ひとつ、その時代において最も強い戦士を打倒すること。ひとつ、最も禍々しき『竜』――〈禍ツ竜〉を斃すこと。これらが為されない時、天は人を赦さないであろう」

「〈禍ツ竜〉というのは、名前からして〈禍ツ气〉に関係のある『竜』か?」

「はい。〈禍ツ气〉そのものから生まれ出た『竜』。それが〈禍ツ竜〉です。おれの、故郷を焼き払った巨大で、恐ろしいやつです」

「そうか、君の故郷はもう……いや、なんでもない。それで、最も強い戦士を打倒とは、どういうことだ? 言葉通り取るなら、まあ、一応、現時点なら私なのだが」

「昔は違ったんですか?」

 

 リュウモは驚いた。こんな化け物そのものと評していい実力を持っている人が、過去に自分より強い者がいたのだと言っているようだったからだ。ガジンの力は、〈竜槍〉を振るえば、翼竜を殺害するのは容易なほどである。

 

「前だったらな、ラカンという私の親友がいたんだが、亡くなった。砦の虐殺でな……」

 ガジンの顔が、悲痛な感情を一瞬だけ見せた。すぐに消えて、はたと疑問を見つけたように指で顎を擦った。

「ラカンの力は、私に比する、いや凌駕する腕前だった」

「でも、殺されてしまった」

「ああ、そこなのだ。今、気になったのは。コハン氏族の村で『竜』と戦った時に思った。この程度では、ラカンを殺すなど、到底不可能だと」

「多分ですけど、ガジンさんの友達を殺したのは〈二ノ足〉とおれたちが呼んでいる、特別な『竜』です。そうでないと、貴方以上の腕を持つ人を殺すのは無理なはずです。二本足で立ったみたいな足跡がありませんでしたか?」

「〈二ノ足〉……ああ、確かに、あいつの死体近くに、あったよ。三本の爪と、その足跡が」

 

 ヒュっと、息が詰まって変な音が出る。ガジンの体の芯に蓄えられていた怒りが、喉を締め付けているかのようだった。眉間に皺が寄って、いかにも戦士らしい、厳めしい顔つきになっている。

 

「……『竜』――〈二ノ足〉は爪の本数が増えるごとに、個体としての強さが跳ね上がります。三本以上だったなら、『竜』の骨を使った武具でないと、傷つけることはできないんです」

「なるほど。だからか、あいつの槍があんなにボロボロになっていたのは」

 

 得心がいったようである。ガジンは、床に置いてある〈竜槍〉を見つめた。

 

「君は、こいつは格が高い、と言ったがどの程度なんだ?」

「ええと、多分、爪が五本、〈五爪竜〉じゃないかって。おれが持ってる刀と笛が爪が六本、つまり『龍王』の爪と牙から作られた物で、これ以上格が高い『龍』は存在しない。だから、『竜』の中で一番格の高い〈五爪竜〉の爪か牙を元にして作られたんだと思います」

「七柱の偉大なる『竜』と、すべての『竜』を束ねる、『龍王』か……」

 

 話し込んでいると、外は夕暮れから夜に変ろうとしていた。

 ガジンが部屋の隅にあった置行灯を中央に持って来て、火をつけた。

 

「諸々、把握した。しかし、わからん。村の語り部であり、重要な役目を継いでいた君が、どうして一族の重要な『使命』である〈竜峰〉の位置を知らされていない」

「わかりません。村長は、絶対に教えてくれませんでしたし、爺ちゃんも、時がくれば長の口から語られるだろうって」

 

 リュウモは、語らぬことも掟のひとつだろうと認識し、追及しなかった。

『使命』が果たされようとするその時まで、村長は口を開かないだろうと思ったのだ。結局、彼の口から語られず、真相は炎の中に燃え朽ちて行ってしまったのだが。

 

「なるほどな。まあ、そちらは任せてもらおう。一度言ったが、当てがあるからな」

「外では、おれたちが失ってしまった伝承が残っているんですか? 歪められすぎて、あんまり意味が無さそうなんですけど……」

「君が不振がるのもわかる。だが、期待してくれていい」

「どうしてですか……?」

「そいつが見た物は、タルカ皇国、そのすべての始まり。――初代帝が残した手記だ」

 

 すなわち、リュウモにとっての諸悪の根源。先祖を〈禍ノ民〉と貶め、国全体に悪ある者と広めた、仇敵に等しい人間の手記である。到底、信じられない。

 リュウモの眉間に皺が寄るのを見て、ガジンは宥めるように言った。

 

「とある筋から仕入れた情報だが、初代は『竜』を鎮めるその場に、居合わせたらしい」

「は……? 居合わせたって、まさか、〈竜峰〉に?」

「ああ、だから、その時のことが書いてある手記を見たやつが」

「ちょ、ちょっと待ってください!?」

 

 突然言われた、わけのわからないことに、リュウモは待ったをかけた。

 

「初代の帝が、『竜』を鎮めたその場にいた!? じゃあ、その人は〈竜守ノ民〉のことを知ってたんじゃないんですか、それがなんで〈禍ノ民〉なんて呼ばれて」

 

 大声を出すリュウモの口を、あっという間にガジンは手で塞いだ。しぃ……と、人差し指を立てて、口先に当てた。

 

「大声は禁物だ。誰かの耳に入るとも限らん」

 

 脅しの類ではない本気の警告に、リュウモは冷や水をかけられたように静まった。うなずいて同意を示すと、ガジンは口から手を離した。

 

「実際、なにがその時にあったのか、当事者でない我々には想像することしかできない。君たちの記録にすら残っていないなら、もう、時の彼方に消え去ってしまったのだろう」

 

 ガジンの言う通りだった。なにがあり、どのような過程を辿ったにせよ、結果はすでに出ている。〈禍ノ民〉という現実が反映されているのだから。

 

「おれたち、語り部はそのためにいたんです。そうならないために」

 

 時間は、降り積もって行く砂だ。積み上げて来た歴史も、いつかは埋もれ、掘り出せなくなる。もしかしたら、その中にはとても大事な、未来に関わる事柄が眠っているかもしれないのだ。掘り返せなくなってからではとうに遅い。

 だからこそ、語り部は必要とされた。伝承や物語を通し、眠りについた出来事を起こすために。

 

「ともかく、初代帝の手記を、直接その目にしたやつが、北の領地にいる。話を聞きに行けば、それなりの情報が得られるはずだ。なにせ、そいつは国で禁忌とされている『竜』について調べ、研究していたような馬鹿だったからな」

「な、なんだか、酷い言い方ですね」

 

 容赦がない。柔らかく言い直せば、遠慮がなく、相手に対する親しさを感じさせる。

 

「それなりに付き合いは長いからな。まあ、君を連れて行けば、間違いなく大歓迎してもらえる。ただ、あいつに君の業について、それなりに話してもらわなければならんかもしれん」

「その、掟をあんまり破りたくはないんですけど……」

 

 困ったように、ガジンはうなじ辺りを手で擦った。

 

「こいつがまた、中々の偏屈者でな。正直、私でも手を焼く。脅しには絶対に屈しないし、滅多なことでは自分の研究については話してくれん。情報を提供してもらうためには、こちらも対価を差し出さんと、どうにもならん」

「わかり、ました。ただ、絶対に口外しないよう、言ってくれますか」

「無論だ。あいつも、そこまで無分別な阿呆ではない」

「その人の、名前は?」

「シキ。かつて、〈竜槍〉候補のひとりであり、知識欲に従うまま禁忌に手を出し、皇都を追放された、大馬鹿野郎の名だ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十四話 夢

 ――ああ、またこの夢だ。

 帝の意識は、体を離れ、時間を飛び越え、一人の少年を追っていた。みずほらしい衣に身を包んだ少年は、よろよろと歩きながら、体を木々にぶつけては進み、ぶつけては進みを繰り返している。朦朧しながらも、前に進み続ける足にもとうとう限界が来て、少年は深い森の中、湿った地面の上に倒れた。

 指先一つ動かす力すら使い果たし、仰向けになることすらできていない。

 森は見知らぬ新顔には厳しい。侵入者を撃退する兵隊のように、獰猛な獣たちが彼の周りに唸り声をあげて集まってくる。

 

「は、はは……」

 

 少年は、もう何もかも諦めきっていた。から笑いも虚しさを漂わせる。この世でたった一人だけの氏族になってしまった彼には、同情する相手も、親しくしてくれる人もいはしない。

 むしろ、この冷徹な動物たちを、心地よくすら思っていた。自分が縄張りに入ってしまったから、この動物たちは怒っている。何という、簡潔明瞭な動機と理由。利権や氏族の繁栄存続などは一切ない。極めて単純で、最も古い原理。

 生きるのに疲れ切っていた少年は、動物たちの牙が、身を裂くのをずっと待っていた。

 だが、命を途切れさせる痛みと闇は、いくら待ってもやってこない。

 

「……?」

 

 少年は、なけなしの力をかき集めて首を動かした。動物たちは、少年を警戒しているようではあったが、積極的に殺そうとはしていなかった。

 

「は、ははははは――」

 

 笑いがこみあげてきてしまった。少年はこの領域にいる、人を凌駕する力を持つ動物である彼らの気持ちなど欠片もわからない。だが、今わかった。わかってしまった。

 彼らの青い瞳。そこには――憐れみがあった。弱肉強食の世界に身を置いている彼らが、自分を憐れんでいる。長い間争ってきた人が無くしてしまったものを、人が恐れて近寄らない彼らが持っていることが、途轍もない皮肉のように少年には思えた。

 

「お前たちと、ぼくたち……どっちが獣なんだろな――――は、はははッ」

 

 くつくつと少年は笑う。もしかしたら、この世にもう人なんてどこにもいないのかもしれない。動物たちは、そんな少年の様子をうかがっていたが、やがて体の大きい一頭が鳴くと、何事もなかったように去って行った。少年は、またも一人取り残される。

 殺す労力すら惜しい。価値すらないと、彼らに言われた気がした。身を焼くほどの悔しさが、動かないはずの五指に力を取り戻させ、地面を抉った。

 

「ちくしょう……ちくしょうッ」

 

 小さく、深い嘆きが森に染みた。

 森に入って来た異物に反応したように、ガサリと、音がした。

 動物の足音ではない。少年が嫌と言うほど聞き慣れた、人の足音だった。

 

「……人? ――人ッ?!」

 

 驚きのあまり、搾りかすのような声が喉から伝って出た。

 声に導かれるように、一人の、少年と同い年くらいの男が駆けて来た。

 

「おいおい、大丈夫か!?」

 

 駆け寄って来るその人は、相手のことが心配で仕方がないといった風だった。

 久しく感じていなかった、相手を思いやる心を感じて、少年の視界は闇に閉ざされた。

 

 

 ――帝の意識は、そこで覚醒した。

 

 

「……何事か」

 

 帝は、わずかな気配に目を覚ました。もっとも、気配がしたのはわざとであることを、帝はわかっていた。皇国の魂たる存在の寝床に、無断で立ち入れるほどの手練れが、自らの存在を消せないはずがないからだ。

 決まった時間に寝起きする帝に対し、このように起こすのは無礼極まる。だが、それを許された者が皇国内で唯一存在する。

 代々、帝となった者にしか伝えられない者たち。帝は彼らを〈闇〉と呼ぶ。

 彼らが存在することは〈影〉ですら知らされていない。まさに帝にのみ付き従う、皇国の最も深き暗部を司る者たちである。

 

「ご報告がございます。帝」

「――〈闇ノ司〉か。なにがあった」

 

 暗色の衣に身を纏った、壮年の男が衝立より顔を出し、帝は内心で少々、驚いた。

 〈闇〉を統率する〈闇ノ司〉は、多忙を極めることもあり滅多に帝の前に姿を見せない。

 実際、帝も今までの生涯を通して、この男に会ったのはそう多くない。

 ――なにか、相当な大事があったらしい。

 〈闇ノ司〉が直接、帝に報告に来るというのは、そういうことだ。

 

「――〈八竜槍〉ガジン様が、件の少年を連れ、皇都を発ちました。行先は、北にある〈竜域〉と推測されます。御止めしようとしましたが、失敗いたしました」

「――――――――そうか。ならば、ガジンを追跡し、見張れ。他の〈八竜槍〉には余が直々に伝達する。それまでは決して、手を出すな」

 

 帝は、特になにも感じていないように、冷然と対応をくだした。〈闇ノ司〉は、帝の返答に、事務的な態度で、恭しく首を垂れた。

 

「承知いたしました。もうひとつ、申し上げたいことがございます」

「よい、なにか」

「〈影〉の『外様』出身の者が、なにやら領主たちと連絡を取り合っています。すでに見張らせてはいますが、不穏な動き在りと、報せが来ておりました。詳細は、こちらに」

 

 帝は〈闇ノ司〉からの報告書を受け取ると、目を通した。

 試し読みするようにぱらぱらとすべての項を確認する。普通は流し読みのように項をめくっているだけでは、全容を把握することは無理である。だが、帝にはそれだけで十分だった。

 

「……怪しげな動きをする主要な領主たちへの監視の目は緩めるな。ガジンの対応については〈影〉と〈八竜槍〉を使う。〈闇〉たちは、領主たちの動向に目を配れ」

「っは」

 

 頭を下げている〈闇ノ司〉の体が、本当にわずかだが、やや左に傾いているのに、帝は気づいた。以前の任務で負った怪我は、完全に治り切っていないようだ。

 

(〈竜槍〉で傷つけられれば、それも当然か)

 

 帝は、声をやわらげて、相手の体調を気遣うように言った。

 

「腕の怪我は、大事ないか」

 

 〈闇ノ司〉の体が、可哀想なぐらいにぶるりと震えた。

 

「は、は……今はもう、ほとんど以前通りに動かすことができます。頂いた御役目を果たせぬ腕など、無用の長物にございますが……」

 

 ――ああ、これはまずい。

 彼は、言い渡された任を果たせなかったことを、心底恥じている。このまま放っておいたら、事が収束した後には自刃してしまいそうな雰囲気すらあった。

 帝は慌てて――しかし、表には出さず――〈闇ノ司〉を宥めにかかった。

 

「〈八竜槍〉相手では、汝でさえ荷が勝ちすぎる。気に病む必要はない。必要なのは、次にどう備えるか、考えることだ〈闇ノ司〉」

「は、此度の失態、一命にかけて償う所存であります」

 

 相変わらず大袈裟な言い方だが、口に出した以上、やり遂げるのが〈闇ノ司〉だ。

 

(良くも悪くもだが)

 

 ともかく、彼を落ち着かせられはしたようである。

 

「汝は、この国に、余に必要な者だ。軽はずみな考えを実行に移すことは許さぬ」

 

 失態をおのれの命で償うことを、帝は禁じた。言っておけば、この男は絶対に帝の言葉に逆わないからだ。

 〈闇ノ司〉が、想像以上の言葉を賜り、さきほどまでとは打って変わって、歓喜で体が震えている。目尻には涙さえ浮かんでいた。

 

「もう報告はないな? よろしい、ではさがれ」

 

 音もなく、〈闇ノ司〉は消えて行った。齢六十となってなお衰えを見せない技術に、帝は舌を巻いた。あと数年は現役でいられるだろう。

 

「……ガジンめ。ここ一番でよくやらかす」

 

 亡くなった父から言われていたことが、帝には十年以上の時を経て、ようやく実感を伴って理解できた。

 ガジンは普段、堅実で公正明大であるのに、大事な局面に差し掛かると大体、面倒事を起こす。もっとも、大半は彼が望んでやっていたわけではないのは、よく知っている。厄介がどこからともなく足を生やして、ガジンの元に爆走してくるのだ。

 〈鎮守ノ司〉に至っては「最早あれは天命ですわ」などと言う始末である。

 

(余の失策だな。イスズに行かせればよかったか……)

 

 もし、の可能性を考えて、帝は頭を振った。益体の無いことに、いつまでも懊悩としているわけにはいかない。

 帝は立ち上がり、仕えの者を呼んだ。予定よりはるかに早く起きた帝に、顔色を青くしながら、慌てて若い者が走ってくるのを見て、申し訳なく思った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十五話 宮廷狂騒

 宮廷内の一部の者たちは、ざわついていた。〈八竜槍〉のひとりであるガジンが、帝に対して裏切りに等しい行為を働いたからだった。建国以来の大事件に、混乱の極みに達している一部の貴族たちを尻目に、ロウハは、部下へ事実確認を急がせた。

 それから、〈八竜槍〉となった者へ用意された自室で、じっと身じろぎせずに報告を待つ。

 丸窓から差し込んで来る強い日の光が、障子によって程よく調整され、部屋の明るさを丁度良いものにしている。長い間敷かれている畳は、何度も日光を吸収して色が変わっている。

 ロウハは、朝から昼にかけて、この時間帯で部屋内に作り出されるこの光景が、たまらなく好きだった。畳も、余程のことがなければ新調させない。真新しくしてしまうと、調和した景色を壊してしまうからだ。

 いつもは心地よいと感じる風景も、今のロウハは、身を焼く強烈な焦りの前に、感じ入ることができなかった。親友である男――ガジンの裏切り。

 まさか、あの男に限ってそれはあるまいと思っていた。

 

(仮に、あの馬鹿が裏切ったとして、どうして〈鎮守ノ司〉と〈星視の司〉はなにも手を打たなかった)

 

 未来を視る、などと噂されている老婆たちなら、もじガジンが馬鹿な行動を取ろうとしても、止めるだろうと考えていた。その予想は、甘かったのだと今更実感している。

 自分の甘さに嫌気が指す。じりじりと、嫌な方向に思考が逸れかけていた時だ。廊下から、僅かな気配がした。

 

「ロウハ様、火急の件につき、無礼をお許しください」

 

 ロウハが返事をする前に、部下が障子戸を開いて部屋に入って来た。

 

「構わない。それで、事実か」

「――はい。他の〈影〉からも、同様の報告があがっております。…………ガジン様が、件の〈禍ノ民〉の少年を牢屋から連れ出し、皇都を発ったと。少年の荷物も、消えております」

 

 部下の声は震えていた。皇国における軍事的象徴〈八竜槍〉。――帝に次ぐ権威を持ち、誰よりも国と帝に忠誠を誓う者が翻意した。その一事が、〈影〉である彼を動揺させ、心をざわめかせているのだ。

 

(正直、俺は頭を抱えたい気分だ、まったく)

 

 〈八竜槍〉は、先達が多く引退したことによって、三人しかいない状況だ。国内の情勢を鑑みれば、ガジンの離反は、痛手どころではない。各領主たちが、彼を取り込み、丸め込めば、内乱は必死である。

 ――まあ、あの馬鹿が、そう易々と従うわけはないがな。

 あれは、利益では動かない。国への忠誠、そして無辜の民のために、槍を振るう男だ。

 領主達の、欲望に塗装された建前を聞いて、ガジンの心が動くはずがない。その点は、ロウハは心配していなかった。

 

「宮廷内の動きは、どうなっている」

 

 不安な要素は、官僚、貴族達の動きだ。

 その質問を、あらかじめ聞かれると思っていたのだろう。よどみなく、〈影〉の青年は答える。

 

「『外様』であるガジン様が、どこかの領主にそそのかされ、組したのでないかと、噂が広まっております」

 

 嫌な予想とは、どうしてこう当たるものなのか。ロウハは、こめかみあたりが、ますます痛くなってきて、手をあてた。

 

「――少年については?」

「〈竜奴ノ業〉を駆使し、『竜』達を自在に操れるのではないか、不安がっておりました。……また、ガジン様が少年を連れ出したのは、少年を使って、国を転覆させようとしているのではないか、と」

「クウロはどうした?」

 

 ガジンの信頼篤い、あの男ならば、何か知っているはずだろう。ロウハの中でも、彼への評価は高い。極めて有能な人物といえる者だ。

 

「聞いてはおりますが、さしたる情報は、まだ……」

 

 〈影〉の様子から察するに、クウロはあまり協力的な態度ではないのだろう。

 

「何か隠してやがるな」

「は?」

「なんでもない」

 

 クウロは、ガジンと最も親しい。二人とは、ロウハも長い付き合いだ。彼らとの交友は、すでに十の時を過ぎている。だから、こういった時、ガジンやクウロが突然、わけのわからない行動にでるのは、他人に明かせない重大な秘密を知ってしまった時だ。

 

「噂は、『外様』の領主達の耳に届いているか?」

「伝書鳩が、皇都より数匹飛び立ったのを、他の〈影〉が確認しております。おそらく、そう長い時間はかからないかと」

 

 ロウハは、宮廷内で起こった波紋が、伝播していくのを感じた。

 

(いや、これは、波紋ではなく、津波か)

 

 どこかで防波堤を作り防がなければ、この大波は、海原に浮かぶ、国という船を揺らし、ひっくり返しかねない。

 帝が『外様』の領主たちに強く出ることができるのは〈八竜槍〉の存在が大きい。

 そのひとりが反逆の意を示し、『外様』の領主についたとなれば、確実に皇国は二分される。それこそ、神話の大戦時代に逆戻りだ。

 今回の件は、慎重に火消しを行わなければ、後に大きな禍根を残す。大人数での捜索は避けるべきだった。

 

「わかった。他に報告はないな? ――なら、イスズを呼べ。それと、追跡のために、数人優秀な〈影〉を選んでおけ」

「っは!」

 

 〈影〉の青年が立ち上がると同時、部屋の外に人影が映った。

 閉じられた障子戸に浮かびあがる影の輪郭は、相手が女性であることを示している。

 

「いや、手間が省けた。――入れ、イスズ」

 

 失礼いたします、と言って、イスズは障子戸を開けて、入って来た。入れ替わるように、〈影〉の青年は部屋を出て行く。その際、彼はイスズに頭を下げることも忘れない。

 

「状況は、わたくしも〈影〉より聞き及んでおります」

「俺もだ。――聞きたいことがあったが、お前の口から語ってくれそうだな」

「はい、実は、ガジン様は〈禍ノ民〉について調べていたのですが、おかしいのです」

「おかしい? 何がだ」

「実家の資料を読み漁っておりましたガジン様は、〈禍ノ民〉の危険性について、十分理解しておられたはず。であるのに、あの御方は少年を牢から連れ出しました」

「理屈に合わん行動、というわけだ」

 

 〈禍ノ民〉――名の通り禍を呼ぶ、忌まわしき民の名。彼らの前には『外様』『譜代』といった区別は意味を無くす。まるで先祖から受け継がれてきた恐怖が、心を慄かせるのだ。

 ロウハも、彼らの名を口にすると、胸がざわざわとすることは幾度かあった。それ以来、必要以上にその名を呼ぶことをしなくなった。

 

「ガジン様とクウロ様は、砦の虐殺の件を解決する鍵は〈禍ノ民〉が握っているとお考えだったようです。資料を読み終えると、東へ向かいました。〈遠のき山地〉にいる〈深き山ノ民〉へ会いに行ったのです」

「話しには聞いていたが……」

 

 彼らは、過去に皇国の軍事史に、暗い汚点を刻み込んだ者達だった。

 

「彼らは、他の氏族と交わらず、半ば独立地区のような扱いを受けております。彼らならば、失われた遥か昔の伝承を、今も伝え聞かせている」

「そして『何か』を知った。だから、少年を連れ出したのか」

「おそらくは」

「だが、解せん。ならば、どうして俺に一言、相談に来ない」

 

 経験則として、こういう大事の前には、皆で集まって大抵は相談をする。〈八竜槍〉に連なる者が、独断で動くと、事が大きくなりすぎるからだ。それに、ロウハとガジンは、親友と言って差し支えない間柄である。いまさら、気兼ねするような付き合い方をしてはいない。

 こんな周囲の配慮にかけた行動は、ガジンらしくないのだ。

 

「今回のあいつの判断は、性急すぎる。周りに注意を払えないほど、あの馬鹿を突き動かさせた何かが、まだある」

 

 ガジンが、周りに助言を求める間すら惜しませた、何かが潜んでいる。

 

(だが、それは何だ?)

 

 いくら思索を巡らせても、その正体が爪先ほども掴めない。基本的には穏健なガジンを、振り切らせた原因。身内、部下、友。考えられるのはいくつかある。しかし、そのどれもがガジンの愚行に繋がるほど、強くはない。

 

「ガジン様、クウロ様――ロウハ様は、此度の一件で、ご友人を亡くされたと聞きました」

 

 言い辛そうに、イスズは口を開いた。

 訃報が届いた朝を思い出して、ロウハは眉をひそめる。彼の死は、ガジンだけでなく、自分にも激しい衝撃を与えていた。

 まだ、「おい」と名を呼んで語り掛ければ、どこからかひょっこりと、彼は顔を出しそうな気がする。

 そんなことは、死体を検めた時に、起こりえないとはわかっていた。だが、信じたくはなかった。親友が無残に、体を文字通り八つ裂きにされて殺されたなどと。

 

「その一事が、ガジン様を先走らせた原因では、ないでしょうか」

「あり得なくはない……ないが――こんな事態になることを、あいつは望んでいない。それは、あの馬鹿もわかっているはずだ。死者の、親友の願いを受け取り間違えるほど、俺もガジンも、耄碌してはいない」

 

 そこまで言って――ふっと、ロウハは失笑してしまった。目の前には、自分などより遥かに若く、生きる力がみなぎる、十七の乙女がいるではないか。

 

「いや、お前からすれば、俺たちはただの中年親父か」

「そのようなこと、ありません。あなた方は、わたくしにとって、偉大な先達です。あまり、己を貶める発言は控えますよう、お願いいたします」

 

 イスズは、丁寧に頭を下げる。所作の一つ一つが洗練され、気品と育ちの良さがうかがえた。さすがに、皇族に勉学を教えるための一族だ。

 

(このあたり、俺などとは違うな)

 

 没落寸前であった『譜代』の家系出身のロウハは、生まれついてから礼儀作法を教え込まれなかった。日々を、飯の種になるもの――つまりは槍の鍛錬に明け暮れていた。

 とりあえず、食うに困らなければいいと思って始めた鍛錬が、高じてここまでのものになったのは、自分ですら予想もできなかった。

 高潔な意志をもって〈八竜槍〉を目指したのだと思っているイスズには、口が裂けても言えまい。気まずくなって、頭をガシガシと掻いた。

 

「そうだな、気を付けよう」

 

 言って、部屋の立派な立て掛けに横たわっている〈竜槍〉を見る。

 

「ガジンと、戦うことになる。――その時は、俺がやる。イスズ、お前は件の少年を捕えろ」

「やはり、戦いは避けられませんか」

 

 イスズには、緊張と僅かな恐怖があった。致し方の無いことだ。ガジンは、槍の腕前だけでいえば〈八竜槍〉の中で最強だ。互いが無傷で終わるなと、あり得ない。勝つにしろ、負けるにしろ、必ずどちらかが、深い手傷を負うだろう。

 しかも、彼女を鍛えあげたのはガジンである。腕前は体が嫌になるほど知っている。

 

「当然。あの馬鹿が、帝に逆らってまで少年を連れ出した。目的はどうあれ、説得に応じるような、生半可な覚悟じゃあるまい…………まったく! 何がどうなったら、ガジンに帝へ翻意して〈禍ノ民〉を連れ出す決意させたのやら」

 

 乱暴にロウハは立ち上がった。立て掛けにある〈竜槍〉を手に取る。

 

「何にせよ、俺たちはガジンを追わねばならない。あの馬鹿が、領主たちのいざこざに巻き込まれでもしたら、もっとややこしくなる」

 

 ロウハは、自分の足で、情報収集をしようと決める。〈影〉から言われるのと〈八竜槍〉から命じられるのとでは、重みが違う。クウロに直接会って聞けば、あれも否とは言うまい。

 障子戸の前に移動し、開けようとした。そこで、イスズが正座した姿勢から、まったく動いていないことに気づいた。

 

「どうした? 何か、気になることでもあるのか」

 

 訝しげにロウハが言うと、畳をじっと見つめていたイスズが、顔をあげた。

 

「実は、妙なことを、耳にしまして。もしかすればそのことが、ガジン様に翻意を決意させたのかもしれません」

「なに?」

「これは、ガジン様が〈禍ノ民〉の少年を皇都に連れてお帰りになり、帝へご報告している時、謁見の間の番兵から聞いたものなのですが」

 

 イスズは、一度口を閉じた。言おうとして、迷っているらしい。

 

「はっきり言え。ここには、俺とお前しかおらん」

 

 ロウハは、彼女に先を話すよう促した。

 

「……扉越しで、内容までは聞こえてこなかったようなのですが――――帝とガジン様が、声を荒げて口論になっていた、と」

「ガジンと、あの帝が?」

 

 ロウハは、信じられなかった。ガジンはともかくとして、帝が声を荒げるなど、信憑性のある話ではない。人ではなく、帝として皇国の頂点に居続ける、氷そのものと言っていい、あの人物が、感情を露わになどするものだろうか。

 

「それと、もうひとつ。ガジン様が調査に連れていた槍士全員に、かん口令が敷かれ、〈影〉た

 ちが情報を引き出すのに、苦戦しておりました」

「かん口令? いや、しかし、それは」

「はい。事が事だけに、かん口令を敷くのは、妥当な措置かと。ですが、彼らの中には、負傷している者達がおりました。傷口から、明らかに獣の類と判断いたしましたが、狼や熊のものには見えませんでした。」

 

 あまり、ガジンを疑いたくはないのだろう。イスズは、ガジンによって見いだされた槍士の一人で、師と弟子のような関係だからだ。

 

「驚いたな。兵の傷口まで見ていたとは。盗み見は趣味が悪いのではないか?」

 

 沈痛なイスズの表情に耐えかねて、ロウハはちょっとした冗談を交えてみた。

 

「い、いえ、偶々、ガジン様の部隊がご帰還された時、居合わせただけですので」

 

 イスズは、顔を赤くして、慌てて否定した。こういったところは、年相応である。

 

「まあ、クウロか兵に直接聞けばわかるだろう。イスズ、お前はどうする?」

「……もう少し、ガジン様がなにを見つけになったのか、調べてみることにします。資料も、もっと探せば、詳しいものが出て来るかもしれませんので」

「わかった。なにかあれば、〈影〉を通して伝えてくれ」

「はい、ロウハ様」

 

 ロウハは、先に部屋を出た。集められた情報を繋ぎ合わせ、見えてくるものが、何なのかいまだに不鮮明でわからない。

 だが、一つだけわかっていることがある。

 

(おそらく、あの馬鹿は〈禍ノ民〉の少年を助けたかったのだ)

 

 帝との口論も、少年の処遇を巡って起こったのだろう。そこで、帝がガジンの逆鱗に触れてしまったのかはわからないが、少年は重い刑に処される判断が下されたのだ。

 だから、ガジンは少年を連れて、皇都を出た。

 

(だが、それだけではあるまい。少年を助けるためだけに、帝に反旗を翻すほど、あいつは馬鹿じゃない。……じゃあ、何故?)

 

 すべては、あの監視砦の虐殺に繋がっているのだろうか。

 

「ったく、勝手に、先に逝きやがって。しかも、面倒な問題を残したまま」

 

 悪態を吐いた。親友が悪いわけではないが、彼が生き残っていれば、また話は違ってきていただろう。

 ――愚痴を言っていても、始まらないか。

 意味のないことをしていてもしょうがない。ロウハは、ガジンの兵達の元へ足を進めた。

 憎らしいぐらいに晴れ渡っている青空に、親友の顔が浮かんだ気がした。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十六話 譜代 

 宮廷の中庭にある庭園は、燦々と降り注ぐ太陽の光を受けて、新緑の葉を光らせていた。均一に切り取られたいくつもの灌木。景観に色を添える灰色の石。色鮮やかで、見事な鯉は、池で優雅に泳ぎ回っている。凄腕が作り出した造形は、国の魂たる帝が住まう宮廷に相応しい品格を備えさせていた。

 中庭にある池の鯉は、世間の騒ぎなど知る由もなく、ゆったりと泳いでいる。彼らの関心は、次はいつ餌が貰えるかどうかであるだろう。

 ロウハは、中庭の廊下を歩きながら『譜代』たちが不穏な動きをしていないか、目と耳を澄ませながら歩いていた。宮廷の柱や部屋の影から、視線が突き刺さる。流れ出た噂が本当なのかどうか、ロウハの動向から推測しようというのだろう。

 

(相変わらず、ここは魑魅魍魎も怯えて引っ込む魔境ぶりだな)

 

 足を踏み入れる前までは、市井の噂だろう程度にしか思っていなかった宮廷内部が、事情に疎かったロウハでさえ、中にいると否が応でもわかる。

 宮廷の貴族たちにとっては〈八竜槍〉でさえも、政治的駆け引きの材料にすぎない。〈八竜槍〉と帝の逆鱗に触れる寸前で身を引きながらも、他の敵対する家や勢力を削ぐのである。

 檻に入れられた動物を見るような目で見られるのにも、すっかりと慣れてしまった自分に嫌気を感じつつも、ロウハは歩いた。

 その行く先を、人影が塞いだ。でっぷりとした体格をした男だ。

 

「なにか御用で、ハヌイ殿」

 

 皇国の重鎮である男は、なにも言わず首をすこし動かして、自分の意志を伝える。

 

(ついて来いって? ったく、面倒だなおい)

 

 が、無視するわけにもいかない。ロウハは黙って彼の後ろを歩く。その都度、鋭い視線が背中に突き刺さった。増々、ロウハの口からため息が出そうになった。

 

「で、どこまで掴んだ。ここではわしら以外は誰もおらん」

 

 宮廷の一室に通され、ハヌイはどかりと畳の上に座り込んだ。ロウハも同じように座り、机越しに男と対面する。

 

「まだなにも。これから色々と調査するとこだ。あんたこそどうなんだ」

「ふん、どっこいどっこいだな。わしもまだまったく情報を精査できておらん。錯綜が酷過ぎてな」

「知ってるだろうが、ガジンは〈禍ノ民〉について調べてた。そのガキを捕まえて牢に入れたまではいい。そのあと、帝と言い争いをしたらしい」

 

 いつも不機嫌そうに眉間へ皺を寄せているハヌイの顔が、魂消えるように変わる。

 

「それからは知らん。なにか、宮廷内と星視山に行ったそうだがな」

 

 謁見から一刻と経たない内に、ガジンは少年を連れ出して皇都を出た。あまりの事態の推移の早さに、対応が遅れているのが現状だった。

 

「あの男は『外様』でありながら弁えた言動を評価しておったものを……。所詮は〈敗連ノ民〉であったか」

 

 親友への侮辱に、ロウハは眉をひそめた。

 だが、目の前の男は悪人であるか。そう聞かれれば、迷いなくロウハは否と答える。迂闊な発言が最近になって目立つ男ではある。だが、言い方はどうあれ誰かが声をあげて言わなければ、狡猾な『外様』の者たちに『譜代』の権利は食いつぶされていただろう。

 時に、両者のどちらかが強すぎる発言力を持つことはあれ、今は非常に良い均衡を保っている。だが、今回の一件は天秤が揺らぐどころか、壊れてしまいかねない。

 ガジンが言った通り、身分、区別の垣根を越えて事にあたるべき時なのだ。長年に渡り『外様』と舌戦を繰り広げて来たこの男がわかっていないはずがない。ロウハは、強烈にすぎる発言をするハヌイに、ついため息を吐きそうになった。

 

「そのようなことを言うから、『外様』から敵視されすぎるんだよ」

「やつらにどう思われようが構わん。やつらは人ではない、獣よ。それも血に飢えたな。人の女房を斬りつけ殺そうとする馬鹿者共など、畜生を扱うように鞭で打つように使ってやればよいのだ」

「なるほど。――では、侍女に手を出しまくり、ぐへへ、いいではないかいいではないか、と噂されていても構わないと」

「待て。今、聞き捨てならんことを聞いたぞ。わしは女房一筋だわい!」

 

 体格と言動から、もっぱら悪代官の代名詞扱いを密かに受けているハヌイである。のだが、その実、本人が言う通り妻一筋で、他の女には目もくれない愛妻っぷりを知る者はすくない。

 貴族に仕える女性が、貞操に関してまったく心配せずに働ける職場というのも、中々貴重だろう。

 

「いや、それはいい。いや、よくはないのだがあとにしよう」

 

 自分が侍女に手を出しまくっていると噂されるのは我慢ならないらしかった。

 

(それとも、奥方の耳に届いて、引っ叩かれるのを恐れているのか)

 

 意外と小さな面があって、ロウハは笑いそうになるのをこらえた。公人ではなく、私人の一面から見ると、ハヌイは非常に人間味あふれる男だ。権力よりも、家内の安全幸福を願う人物である。

 

「まったくもってわからんのは、ガジンの行動だ。このような軽挙妄動、あの男らしくない」

「ほう、その心は?」

 

 ハヌイは鼻を鳴らした。

 

「ふん、言っただろう。弁えた言動を評価しておったと。『外様』でありながら、この国にいるふたつの民について、あの男はよくわかっておった。己に課せられた責任の重さもな。であるならばやはり、国中を騒動させる動きは理解ができん」

 

 ロウハは、ハヌイの人物評にすくなからず衝撃を受けた。彼の評価は正しく、的確にガジンがいつも行う行動についての矛盾を言い当てている。

 ――やはり、この男も、皇国の重鎮に足るものを備えているのだ。

 愚鈍にすぎる輩が、高い地位に居座り続けるほど、この国はおかしくはない。その事実は、ロウハの胸の内を多少なりとも軽くしてくれた。

 

「今からクウロへ会いに行く」

「あの副官か……」

「同行は遠慮願うぞ」

「っは、わかっておるわ。さっき貴様が言ったように、わしは嫌われ者だろうからな」

 

 ハヌイは皮肉を言って席を立った。

 

「わかっているとは思うが、下手に動くな。『外様』を刺激しすぎれば、なにが起こるか予想がつかん」

「言われるまでもない。あんたも、今はその憎まれ口を量産する口は閉じておけよ」

 

 あとは、なにも言わずに去って行った。

 

「まったく。予想外の足止めをくらっちまったな」

 

 〈竜槍〉で二度肩を叩いて、ロウハも立ちあがった。

 

(宮廷内で、様々なやつらが、動き回っている)

 

 部屋から出て、廊下を歩きながら、ロウハは考えを巡らす。

 今はまだごく一部の人間にしか、ガジンが帝に逆らってまで少年を連れ出したことは知られていない。だが、噂が広まるのも時間の問題だろう。市井に広がるのは、どんなに甘く見積もっても五日とかかるまい。

人の口に戸は立てられないのは、世の常であり、有り難いことに歴史が証明してくれている。宮廷内なら、裏をとることを考慮したとしても、遅くて二日、もしくは一日程度だろうか。

 

「ああ、くそ。こんなときに限って、お天道様は晴れ晴れとしてやがる」

 

 嫌な予感はどんどんと降り積もって行くばかりだというのに、空から差し込む春の暖かな日差しは、まるでなにかの到来を告げ、祝福しているようだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十七話 道中

 リュウモの『使命』への旅路は、ぐんぐんと進んだ。

道案内人のガジンが、まさに勝手知ったる道という風に先導してくれたおかげで、迷うこともなく順調に移動できている。

 追手に先回りされることもなく、リュウモは黙々と足を動かせた。目的地が明確になっているから、精神的にもかなり楽だった。

 人通りが多い巨大な道から、時には外れ、山の中を歩いたりもしたが、辛くはなかった。

 辛かったのは、体ではなく心の方だった。外敵を心配する必要がなく、目標も定まってしまった今、余裕が出てきてしまったのだ。

 状況が弾き出した余裕は、リュウモにとって歓迎できなかった。むしろ、毒にさえなりかけている。

 余裕ができれば、思考が回る。思考は最近の出来事を思い出させ、出来事は心を抉る。

 気を紛らわせようとして周りに目を向けても、生憎とここは山の中だ。目新しい物はなにも無かった。

 今は、いくつかの山を蛇行するように避けている大街道を外れて、時間短縮のために山を突っ切っている最中なのである。

 近くには低木の枝と、目先にはガジンの背中しかない。用心深く歩く彼の背には、独特の気配があり、何人も不意を突くことは不可能のように思える。

 

(そういえば、おれ、この人を全然知らないや)

 

 目まぐるしく変わった環境に適応しようと必死だったからか、頼もしすぎる道案内人について、ほとんど考えられなかった。

 知り得たのは、彼は親友を亡くしていて、『竜』が暴れ回るのを止めたいということだけ。

 ただ、ガジンと三日ほど行動を共にして、リュウモは多少わかってきたことはあった。

 口数は多くなく、だから行動が雄弁にガジンという人物の輪郭を浮かび上がらせる。

 彼は、厳しい。その時の環境が許さなければ、絶対に歩みを止めず、歩調も緩めない。手を貸してくれたりはするが、基本的に過度な手助けはしない。

 だが、厳しいだけかと問われれば、違う。

 余裕があるならば、ガジンはよくこちらを気遣ってくれる。さりげなく歩く早さを遅くしたり、話しかけてくれるのだ。若干、ぎこちないがずっと黙って歩き続けるよりはよかった。

 

「大丈夫か?」

 

 ぶっきらぼうな訪ね方だった。リュウモは、三日間の内に繰り返された言葉を返す。

 

「はい、大丈夫です」

「そうか」

 

 それだけ言って、頑強な男は背を見せて進む。

 

(そういや、子供が嫌いって、言ってたな)

 

 となると、自分は嫌われていることになる。

 

(そんなことないよな。嫌いなら、助けてくれたり、気遣ってくれたりなんてしないし。あ、嫌いじゃなくて、苦手だって訂正してたっけ)

 

 嫌われていないならいいや。リュウモは深く考えず、歩くだけに集中した。

 一刻ほど経って、日が落ち始めたので野宿に適した場所を二人は探し出し、夕食の準備を始めた。

 リュウモからすると、ガジンの料理はお世辞にも美味いとは言えなかったので変わってもらった。

別に不味いわけではないのだが、彼の料理は腹が満たせればそれで良いと言わんばかりに雑だったのだ。旅の初日でリュウモは音をあげた。

 遠回しに、自分の方が料理に関しては頼りになるからやらせてくれと頼み込んだ結果、今に至る。子供に任せきりにするのは大人としての矜持が許さなかったようだが、作られた物を食べると、そのまま黙ってしまった。

 悪いことをしたと思ってはいたが、食べるなら美味しい物の方がいいと考えるのは誰しも同じはずである。その証拠に、出された料理を食べると、ガジンは黙って手と口を動かした。以降は、料理はすべてリュウモが作っている。

 山にある山菜をガジンが取って来て、リュウモが調理すると、ちょっとした豪華な食事になった。

 二人は腹を満たすと、決めた役割通りに片づけを始め、すぐに焚火だけが残った。

 リュウモは、地に座り込んで、ぼうっと炎を見つめた。ゆらゆらと揺れる火は、山の静けさの中に頼りなく音を立てている。

 

「不思議です」

 

 誰かに向けてではなく、ただ思ったことが口から零れ出た。

 

「ん、なにがだ」

 

 荷物の点検をしていたガジンが、リュウモの呟きを拾う。

 

「村を焼いた炎が、嫌いになると思ったのに、なんでか、焚火を見ていると、心が、落ち着くような気がします」

 

 全部、大切だった場所と人を灰燼にした火を、苦手とは感じない。本当に、不思議だった。

 

「人が天から与えられた、偉大な業。そのひとつが、火だ」

 

 ガジンは荷物の点検を終え、焚火を見つめた。

 

「闇を照らし、払い、安心と安寧をもたらす光。我らはずっと昔から、友のように火と寄り添い合って来た。だからかもしれんな、嫌いになれないのは」

 

 絶えず形を変えて燃え続ける炎を、リュウモはじっと見続けた。

 ガジンが冷えた手を温めるために、槍を置いて焚火に手をかざした時、〈竜槍〉が『气』を発した。

 

「珍しいですよね」

「なにがだ?」

「意思が宿る『竜』の武具なんて、中々無いですよ」

 

 掌同士を擦り合わせていた、ガジンの手が止まった。

 

「意思が、なんと?」

「気づいていなかったんですか? 〈竜槍〉には元になった『竜』の意思、魂が残っていますよ。格が高い『竜』は、偶にこういう風に魂が残ることがあるんです」

 

 そうでなければ、槍自体の『气』が流れるわけがない。生きていれば、魂があればそこには『气』の流れが生じるのだ。

 

「いや、なんとなく気づいてはいたが……こう、真正面から生きているといわれるとな――そう簡単に理解はできんさ」

「槍に感謝しても罰は当たりません。ずっと、その槍はガジンさんを守ってくれているんですから」

 

 ガジンは、〈竜槍〉を手に取って、両膝の上に置いた。

 

「守られている、か……」

 

 白色の槍を見る目には、自虐的な色が垣間見えた。

 

「どうしたんですか」

「いや、私も昔と比べて随分と増長したものだ、とな」

「調子に乗ってるってことです?」

「そうだ。私はもう、長いこと守られているなどと考えたことはない。常に、私は守る側だった」

 

 圧倒的な力。リュウモの目に焼きついた超常的な戦いは、思い出しただけで寒気がするほどに苛烈だった。

 

「だが、私が常に誰かを守れていたのは、ひとえにこいつの力添えのおかげだ。それを、忘れてしまっていた。これでは、師に雷を落とされるな」

「槍が、〈竜槍〉がなくても、貴方はすごい強いと思いますけど……」

 

 自前の腕だけで、勝てる人間はいないだろうと思わせるほどだ。実際のところ、リュウモの村でガジンに勝てる者は、多分ひとりもいない。

 

「私を買ってくれるのは嬉しいがな、腕っぷしの強さだけで、世の中は動かんよ。こいつは、戦場以外の多くで、私を守ってくれたのさ」

「戦いの場以外で、武器が貴方を守ってくれるんですか?」

 

 リュウモは、全然、訳が分からなかった。

 

「国を動かす、政とは、恐ろしい世界なのだ。政治が、人を殺すこともある。その逆もな」

「人を、殺す……?」

 

 政治が、リュウモにはわからない。そもそも、国という巨大な存在がどうやって自らを維持しているかさえ理解が及ばないのだ。まさか、生き物と同じでむしゃむしゃと食料を食らって生きているわけはあるまい。

 

「そんな、人を殺すようなモノが、良い在り方なんですか」

「国とて無差別に人を殺すような馬鹿な真似はしない。だが、少数が不幸になり、多数が幸福になるのなら、国はそれを是とする。是とするしかない」

「じゃあ、その不幸になった人たちは、どうすればいいんです。幸せの輪に入れなかった、不幸な人は、どこに行って、どう生きればいいんですか」

 

 腹の底から、噴き出すような苛立ちが立ちのぼって来た。

国は、都合の悪いことをすべて押しつけられた少数の人をなんとも思わないのだろう。でなければ〈禍ノ民〉などという蔑称が生まれるはずもない。

 

「与えられた重みに潰されるか、幸福を享受する者の席を奪い取り、おのれがその席に座るか。大抵は前者だが、稀に後者があらわれる」

「そんな……! 席なんて必要ありません、みんなで手を取り合って、助け合えば」

「おのれの生活がかかれば、人は簡単に他者に手を差し伸べることはできん。そこに金銭のやり取りが発生するなら、なおさらだ」

「助け合わなければ生きていけません、そんな風に生きていたら、みんな死にますよッ」

 

 リュウモにとって、村で困っている人がいるなら、手を取り合うのが当然だった。

 誰かが怪我をすれば、役目を代わり、治療を施した。共に田畑を耕し、水を汲み、友誼を結ぶ。そして、『竜』に対する知識を、頭と体で覚える。

 

「誰かが死んで、欠けてしまったら、他の誰かがそれを埋めないといけない。でも、普通はその人の分、二倍も働くなんて無理です」

「ああ、なるほど。得心がいった。君たちは、『外様』の小さな氏族と同じような生活をしていたんだな。疑問に答えよう、なぜ手を差し伸べないのか――簡単な話だ。人が死のうと、おのれの生活は、まったく脅かされないからだ」

 

 そんな馬鹿な話があるはずがない。仮に自分になんの関係もなかったとしても、困らないからといってなにも感じないのでは冷酷すぎる。人としての温かみがない。

 

「私は、『外様』の生まれ。表面的に見れば、そこそこ君と近い生き方をしていた。だから、君が思っていることも、なんとなくわかる。人の繋がりが薄く、冷たいとでも思っているのだろう」

 

 リュウモはうなずいた。

 

「だが、致し方ないのだ。幸せになれる人間の数が決まってしまっているのと同じで、各々が負う役割もまた、数が決まっている。溢れるのだよ、人の数が多すぎてな」

 

 リュウモは、華やかな都と、整備された道を行き交う人の群れを思い出した。

 美しい着物、煌びやかな装飾、立派な門構えの店や屋敷。繁栄の裏にある、小さな、しかし決して見過ごしてはいけない課題を見た気がした。

 

「人数が多くなれば、その分替えも利くようになる。だかこそ、誰もが替えの利かない人間になろうと必死になる。他者を蹴落とし、欺き、陥れる。そんなことが日常的になれば、絆という繋がりはすくなくなり、利害という繋がりが強くなる。それを悪いとは私は思わん……が、面倒だと感じることは頻繁にある。……金の切れ目が縁の切れ目とは、よく言ったものだ」

 

 ほとほと嫌そうに、吐き捨てた。

 

「変な、世界ですね……じゃあ、ツオルさんの店の前で怒鳴られてた人は、お金が無くなったから、エミさんに突き放されたんですか」

 

 もしそうなら、世知辛いどころではない。

 

「ああ、それはおそらく違う。あの男の身なりからして、『譜代』の商家の人間だ。あれだけエミが怒鳴るのは、『外様』とのやり取りで、相当なことをやらかしたからだな。高圧的に対応して、商談を台無しにした、そんなところだろうな」

「失敗したから、怒られたってことです?」

 

 ガジンは首を縦に動かした。

 

「なんだか、こう、息苦しいですね」

 

 どんな時でも、互いに利害について考え、行動する。四六時中、ずっとそんな風にしていたら、精神的にまいってしまいそうだった。

 

「なにも考えずに暮らしているよりはましだと言う者もいるが、程度の問題だな。過剰になれば、どんなことでも悪しくもなる……もう寝るといい。明日は長く歩く必要がある」

 

 リュウモは言われた通り、地面に敷いていた布の上に寝転がり、毛布にくるまった。

 木が燃える音を聞きながら、瞼を閉じると、すぐに睡魔はやってきて、意識は落ちた。

 

 

 

 

「はぁ……嫌な大人になったな、私は」

 

 小さな少年が寝息を立て始めた頃、ガジンは自嘲気味に愚痴を零した。

 

「適当にはぐらかしておけばよかったろうに」

 

 世界を知らぬ子供に、残酷な真実を教えなくても構わなかったはずだ。

 聞かれるままに答える必要はなかった。なのに、口はすらすらと歌うように動き、少年に現実を突きつけた。

 

(だが、この子は、曖昧に言っても、納得しなかったような気がするな)

 

 皇都を出てからというもの、リュウモの行動を見ているとそう思うのだ。

 知的好奇心が強いのか、少年は物珍しい品物に目を輝かせるばかりでなく、人々や建築物、流通、思想にまで関心を寄せている。

 本当は質問したくて仕方なかったようだが、街中であれこれと聞き出すと怪しまれると思ったのか、自重していた。代わりに、視線はあっちこっちに飛んで行っていたが。

 

(この子は、知識がないだけで、地頭はかなりいい)

 

 今よりも低い歳から語り部の訓練を受けていたというから、物覚えは早い。

 ――私などより、ずっとこの子は頭がよいのかもしれない。

 だが、頭の回転の早さ、よさが幼い少年に牙を剥くとも考えられた。

 無知なままでいた方が、幸せであれることを、ガジンは知っている。

 

(できれば、この子が歩む先に、これ以上の困難が降りかからぬよう……)

 

 ただ、祈るしかなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十八話 波

 二人は山を下り、町を見つけると、獲物に忍び寄る狩人のようにひっそりと入り込んだ。

 一目に触れないように選んだ細い路地から見える町並みは、皇都と比べると華やかさを欠き始めていた。質素、簡略な建物が増えはじめている。

 さすがにあばら家なロウハ見当たらないが、簡素な建築物が多いのは確かだ。

 そんな町を、ガジンは、影が濃い路地から顔を出し表通りを窺っている。

 いつも通りの安全確認だ。彼の合図が無い限り敵はいない。

 

(ちょっと疲れてきたかな……)

 

 強行を重ねて積み上げた距離だったが、リュウモの足は鈍い痛みと熱さを持ち始めていた。捻挫したのではない、単純な疲労の蓄積だ。久々に、足が棒になっていた。

 

(休まないと、まずいかな)

 

 壁に背を預け、右足を上げて脹脛を揉んだ。

 

「追手はない。宿も決まった、行くぞ」

 

 今まで通り、リュウモは男の後ろにぴったりとついて行く。笠を深く被り、うつむき気味に道を歩いた。

 尾行されていないことを逐一確認し、宿に入った。ガジンが店主に部屋を借りたい旨を伝えると、彼は机の上に銭を置く。店主が数え終えると、彼は部屋の場所を言った。

 草鞋を脱いで、二階にある部屋に向かうために階段を上った。見た目以上にはるかに頑丈な作りだった。飛び跳ねてもびくともしなさそうだ。

 二階の言われた部屋へ、リュウモは先に入る。後から敷居を跨いだガジンが、襖を隙間が無いようにしっかりと閉めた。

 疲労を隠すこともできなくなって、リュウモは尻もちをつくように座り込んだ。

 リュウモの人生で、ここまで目まぐるしく土地を移動した経験はない。心身共に疲れ切ってしまうのも仕方がなかった。

 気を紛らわせようと、部屋の窓から外に目を向けた。それだけで大量の人間を観察できる。

 沢山の人々がいた。声を張りあげている売り子や、屋台の店主、走り回って遊んでいる子供たち。

 彼らを目で追っていると、母親らしき女性が八百屋の主人と話し込んでいる様子が目に入った。どうやら野菜の値段で交渉をしているようだ。

 家の台所を預かる主婦の根気に負けたのか、八百屋の主人はうなだれて銭を受け取る。

 

(そういえば、お金って、大丈夫なのかな)

 

 ここ数日で、ようやく経済、金銭のやり取りの重要性がおぼろげながらにわかりはじめた。

 彼らが扱う金銭は、信用のやり取りだ。国が担保した信用を、労働によって勝ち取り、勝ち取った信用でもって日々の糧を得る。

 それらが周り巡って人々を動かしている。

 とはいえ、生きる糧を得るために働く、というのはわかるが、どうにもぴんとこなかった。そもそも、食料が欲しいなら、狩りに行くなり畑や田圃で野菜や稲を育てればいい。いちいち貨幣を手に入れ支払う過程が必要なのかわからない。

 リュウモは、外の人々が何気なく行っている行動原理、理屈を醸成する社会構造の知識、経験の両方が欠如しているせいで、胸元に違和感が燻り続けていた。

 胸のつっかえを取ろうと悶々と思考していると、ガジンが言った。

 

「今日はここで、ゆっくりと休む。明日の朝、北と中央を繋げる大橋を超える。疲れは残さないようにしておけ」

「わかりました。お風呂に入ってもいいですか?」

「ああ。だが、できるだけ人が居ない時間に、一緒にな」

 

 出来得る限り瞳を誰にも見せないようにしているが、見えてしまうことはあった。

 大抵、目を逸らして見なかったことにして立ち去って行く者が大半だったが、悲鳴を上げる人間もいたため、ガジンが近くにいないと対処に困るのである。やはり、子供と大人では発言の影響力が違う。

 適当な時間まで体をほぐして疲れを取り、風呂に向かった。

 何人か大人たちがいて、目を見られたが、予想していたよりは騒ぎにならなかった。

 リュウモが風呂に入るなり、さっさと出て行ってしまったからだ。

 

「あの根性無したちのおかげで、貸し切り状態だな」

「こ、こういう時は、便利、かもしれないですね」

 

 ほとんどがよくない方向に働きかけていた瞳の色も、今回ばかりは役に立った。

 二人だけになったので、誰も気にすることなくゆっくりと湯船に浸かっていれてよかった。

 暖かい湯の中に、溜まっていた疲労が溶け出すように消えて行く。

 風呂から出る頃には、脹脛の重みもすっかりと無くなっていた。

 やっとまともに休息を取れるとばかりに、体の芯から眠気が立ちのぼって来た。

 リュウモが浴槽でよろよろと頭が船を漕いでいると、ガジンが気を使って立つ。

 朦朧とした意識の中、霞みがかかった頭で彼に付いて行くと、部屋に辿り着けた。

 口を動かす気力すら起きず、すぐさまリュウモは床につく。

 予想以上に身の底に溜まっていた疲労が、意識を闇の中に引きずり込んでいった。

 

 

 

「もううちには連れてこないでくれ。ったく、なにを考えてるんだか。あんた、どんな事情があるか知らないが、さっさとそいつと手を切った方が身のためだぞ」

 

 リュウモは、敵意、侮蔑を隠そうともしない視線が体のあちこちに突き刺さるのを、黙って耐えていた。

 他の客たちも、店主の言葉に驚いて身を引いている。興味本位でちらちらと見て来る者はいたが、リュウモが彼らの方を向くと即座に目を逸らして奥に消えて行った。

 

「…………」

 

 ガジンは聞く耳を持たないかのように、机の上に銭を置いた。すこし乱暴な置き方に、銭同士が当たって、硬質な音を立てた。彼の内から滲み出た苛立ちに、店主の肩がびくっと上下に動いた。

 

「邪魔をしたな」

 

 うんざりした言い方をして、ガジンは出口に歩く。

 彼の背中を追って、リュウモも旅籠屋を出た。

 

「まったく、子供相手に大人げない、いや情けない」

 

 ガジンは不快さをあらわにしていた。何件か旅籠屋に寄ったが、出る度にああいったことを言われると、リュウモだってむっとする。なにも悪いことなどしていないのに、いわれのない中傷を受けたら言い返したくもなった。

 ただ、下手に口論になると人目につく。警邏の人間に通報されでもしたら捕まってしまうかもしれない。結果として、リュウモは口を閉じて耐えるしかなかった。

 

「なんだか、慣れてきちゃいましたよ、おれ」

「そんな嫌な慣れ方はしないでいい。此処から先は、野宿が多くなる。馬鹿な言葉を聞かずに済むから安心してくれ」

 

 ガジンは苦々しい顔をして、町の外を出る。深い溝のような皺は、彼の不機嫌さを示しているようだった。途中、子供がガジンの顔を見ると凄い泣き顔になって走り去って行った。

 

「どうしたんですか、その、怖いですけど」

「嫌なことを思い出していた。さあ、行こう」

「ここから先が、北方の領土なんですよね?」

「ああそうだ。北と中央を繋ぐ大きな橋がある。見物だぞ、橋を見るためだけに足を運ぶ者もいるくらいだ」

「は、はあ……橋を?」

 

 意味がわからなかった。そもそも、橋は橋以外の何物でもない。もしかして、外では橋とはなにか重要な意味を持つ建築物なのだろうか。生活に欠かせない、というわけでもなさそうだが……。

 リュウモが首を傾げていると、ガジンは「直に見ればわかる。一見の価値あり、だぞ」

 そう言って、歩調を早めた。リュウモはここ数日で見慣れ初めてきた、岩壁のように立派な後ろ姿を追った。

 二刻ほど経って、リュウモの視力はガジンが言っていた物を捉えた。

 

「わぁ……!」

 

 ただの橋だろうと思っていたリュウモの口から、感嘆の声がこぼれた。

 一見の価値あり、とガジンが言っていた意味がわかったのだ。

 故郷にある橋は、木の板、丸太、縄を組み合わせて作った吊橋だった。

 ここの橋は違う。巨大な川幅を誇っている竜降川には、一定の間隔で上部を支える柱が川に打ちつけられている。

 

「橋脚という。あれで両端にはる橋台を補完しているのだ」

「こんな作りの橋、見たことないです。それに、幅もすごい」

 

 なにせ、荷車が何台も悠々と通れているくらいである。そこに旅人、通行人まで加わってもまだ窮屈そうには見えない。

 リュウモは、もっとゆっくり見学していたかったが、人の流れの中で止まっていると邪魔になるうえに時間も無限ではない。好奇心を満たせないことに無念さを感じながら、橋へ第一歩を刻んだ。

 

「どうだ、見事なものだろう」

「はい、すごいです」

「国では最も大きな橋だ。はぐれるなよ、ここは橋の上でも人通りが多い」

 

 今まで通り、ガジンの左後ろにぴったりとくっついて歩く。彼曰く、この位置取りが護衛対象を守りやすいのだとか。護衛対象は勿論、リュウモである。

 行き交う人々の視線に、〈青眼〉を入れないよう注意しつつ、リュウモは彼らを観察する。

 あの絢爛な皇都に比べれば、住人たちにも変化があらわれている。皇都の住人が着ていた服は、染め方から着こなしまで鮮麗され、染みひとつ無いといった具合だった。

 ここの人たちは、着方も雑、適当に見えるし、擦り切れた旅衣を纏っている。外見よりも実用性を重視しているためか、見た目はよろしくない。

 飾り気に気を使っても生活に余裕のある皇都と、そんなものにまで気を回していられないその他の人々。

 

(なんで、こんな風に違うのかな……)

 

 同じ人間である。なのに、違う。この〈青眼〉が他の人間と壁を作り隔てるように、彼らは住む場所、金銭の違いが溝を作っている。

 内なる問い掛けには誰も答えてくれない。

 

(落ち着いたら聞いてみよう)

 

 橋の半ばに差し掛かった、その時だった。

 最初、リュウモは耳鳴りかと思っていた。ところが、橋を渡っている間もずっと続き、次第に無くなった左耳に、火で炙られたような痛みが走り始めた。

 

「どうした、頭痛が酷いのか」

 

 顔面蒼白になってしまったリュウモを心配して、先を歩いていたガジンが止まってしゃがんだ。彼は心配そうにリュウモの顔を覗き見た。

 

(この、痛み……来る――)

 

 よろついて歩き、橋の欄干に体をぶつけながら立ち止まり、上流を見た。

 

「お、おい、本当に大丈夫か?」

 

 リュウモは苦悶の表情を浮かべ、額から脂汗が滲み出てきていた。幼く細い体が心もとなく揺れている。

 リュウモは、ガジンの気遣いに反応する余裕がない。

 橋からも見える上流の先――巨大な山を睨みつけるように見つめている。

 

「あの、山は……?」

「あれか? 東と北の『外様』の領地を隔てている山、青竜山だ。一説には、巨大な『竜』の骸が、あの山になったのだと言われているが、それがどうした」

「じゃあ、あれ、は……〈竜域〉?」

 

 ガジンはうなずいた。リュウモは欄干から顔を覗かせて、橋脚に当たる水位を見た。

 緩やかな流れが橋脚に当たり、左右に割かれて下流に流れて行く。

 だが、あり得ないことが起こり始める。

 昨日、雨が降っていないのに、どんどん上にせり上がって来た。

 川から感じ取れる〈禍ツ気〉の気配。それは上流から流れ出ている。突如として増大する水位。

 

「まずい……ッ」

 

 リュウモは実際に見たことはない。ただ、教え込まれた知識と今の状況から、それが来るであろうことはわかった。

 

「ガ、ジン、さん……すぐ、橋の上にいる人を、岸にどけて、ください――川が、波、黒い波が、来ます……」

 

 激しい痛みに意識をすり潰されそうになりながら、掠れた声でガジンに警告した。

 

「黒い波? なんだそれは」

 

 問いかけに答える前に、リュウモが口にしたものはやって来た。

 晴天の下に轟音が響き渡る。源は川の上流、山の方からだ。

 途轍もなく巨大な音に、橋を歩いている通行人はつい足を止め、発生源の方向を見る。

 堰が決壊し、水が破裂したかのような勢いで、それは猛進する。

 墨汁の墨かのように漆黒に染まった川の水。自然の驚異を形どった暴威そのもの。

 すべてを押し流す、黒い濁流。故郷ではそれを――禍波と呼んだ。

 

「これは…………皆、その場から近い町まで走れ! 中央にいる者は北の大都に避難せよ! 急げ!!!」

 

 張りあげられた大声に、呆然としていた通行人たちが我に返った。いきなり湧き出した自然災害が、おのれの命を奪うに十分な脅威を持っているという結論に至ったのだ。

 一秒でも早く危機から脱するために通行人は必死になって駆け始めた。ガジンの声は届いていたようで、指示通りの方向に走っている。

 それでも、国で最も巨大な橋の上は、阿鼻叫喚に陥り、狂騒が満ちた。

 緩やかだった人の波は、凶暴な高波に変り、リュウモを圧し潰そうとする。

 

「向こう側の町に走れ!」

 

 彼に言われた通り、リュウモは前方の町に向かって走った。

 混乱に陥った集団の力は凄まじく、まともに自身の意思で進むことができない。

 流されるように、前へ前へと背を押されるしかなかった。背や肩に他の人の手や膝が当たって鈍い痛みが何度も襲ってくる。背の低さは、こういう時には不利に働く。

 

「ガ、ガジンさん……!」

 

 橋の終わりがリュウモの目にも見えた頃、ガジンとも逸れてしまっていた。

 恐怖と混乱は伝播する。集団の中にいるはずなのに、孤立しているリュウモの足と心を、怯えが揺らした。

 

「とにかく、町まで走れ、走るんだ!!!」

 

 勇ましい声が、リュウモの弱気を吹き飛ばす。懸命に足を動かして、人波に呑まれないように力強く走る。通行人の足や背だけだった光景が、徐々にひび割れ向こう側が見えた。

 あとすこしというところで、肩甲骨辺りに強い衝撃が襲った。痛みに肩を押さえると、それは見えてしまった。

 人波が真っ二つに割れた、丁度真ん中より北側寄りに、ひとりの初老の男がいた。

 欄干に片手をついて、左足を庇いながら不格好な歩き方で必死に動いている。皆が一斉に避難し始めた際に、倒れたか踏まれたかして足に怪我を負ったのだろう。

 痛ましい姿に、リュウモの心臓が下から蹴飛ばされたように跳ね上がった。

 

(爺、ちゃん……)

 

 橋で歩いている初老の男性は、ジジと似ても似つかない。

 老いてなお、若い頃に鍛えあげた肉体を誇っていた村の『語り部』とでは体格も違いすぎた。

 それでも、生き残るために必死になる姿が、痛ましさが、弱々しさが、最後に大好きな人が見せた儚い笑みを思い出させて……。

 

「どいて、どいてッ!」

 

 リュウモは、集団に逆らい、反対方向に走った。

 

 

 

 弾き飛ばされたように橋中央に逆走して行く少年を、ガジンは大声で諫めた。

 

「よせ、私が行く!!!」

 

 リュウモは止まらない。声が届いていないようだった。

 軽業師のように人を避け、欄干に手をついている男性に驚くべき早さで近づいていく。

 黒い大波は、すでに大分近くまで迫っている。

 混乱している通行人を押し退けてリュウモの元に駆けた。

 のろのろとしか進めないのがもどかしい。一般人が集中している場所では『気法』は使えない。もしやろうものなら、避難している人間が橋の上から落ちることになるか、雪崩でも起こしたかのように倒れてしまう。

 欄干の上を走った方がいい。端に飛ぼうとして、足に力を入れた。

 

「痛いよぉ……」

 

 悲痛な、幼い声がガジンの動きを止めてしまった。耳から入ってきた声は、橋の上のどこに誰がいるのか、隠しもせずに伝えてくる。

 遊んでいた子供だろう。突然、尻を叩かれた馬のように動き出した通行人に蹴られたか、倒されたかして怪我をし、動けなくなってしまったようだった。

 男性に駆けて行く小さな背と、うずくまっている幼子。

 

(まだ間に合う……!)

 

 子供を助けても、リュウモの援助には十分な時間がある。

 痛みで涙を流している、庇護すべき対象の元へ走った。

 

(嫌な選択だ、くそ……)

 

 本当に、思い出したくもないことを、この状況が過去を抉って掘り起こさせる。

 満月の夜、明かりを持ってあの子を必死に探し回った……――。

 胸に鋭い痛みが走った。

 ガジンは顔を顰めて、蘇ってくる記憶を抹殺する。

 

「おい、大丈夫か」

「ひぇ……!」

 

 いつも通り怖がられたが、相手の心情を汲み取っている暇はない。有無を言わさず子供を脇に抱えた。

 町方向と比べて人が引いた橋の上で、ガジンは欄干の上に飛んだ。細い足場を迷うことなく駆け抜け、橋の終わりに着地すると子供を下ろした。

 呆気にとられている人々の視線を無視し、再び欄干の上を走る。

 リュウモは、男性の肩を持って、怪我人を引きずるようにして歩いていた。

 間に合う。ここから飛んで二人を抱えて黒波の影響が及ばぬところまで逃げるのに、数秒とかからない。

 

「そこを動くな、今……!」

「ガジンさん!!!」

 

 リュウモは、男性を小さな体で抱きかかえると、そのままこちらに放り投げたのだ。

 ガジンは、自分が少年を予想以上に過小評価していたことを思い知らされた。

 彼は、たった今出会っただけの他人相手でも、おのれの身を危険に晒してまで他者を助けることができる人間なのだ。能力があるだけではない。心までも、立派な強さを持っている。

 

(早く、早く……!)

 

 放物線を描いて落ちて来る人物を受け止めるために待機している時間が、異様に長く感じる。すこしずつ、勢いを失った男性が落下してくる。

 黒波は、それ以上に早い。

 ようやく、両手に男性の重みがのしかかるのと、橋に波が到達したのは、ほぼ同時だった。

 

「行って!!!」

 

 リュウモの言葉と共に、ガジンは後方に跳躍した。足の下すれすれを、黒い濁流が通過して行く。

 大波は、少年の体を容易く飲み込み、橋から吹き飛ばしてしまった。

 

「リュウモォォォ!!!」

 

 叫びに、応える声はなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十九話 外様

(くそ――!)

 

 地面に着地し、男性を下ろすと、ガジンは一切迷うことなく川に飛び込んだ。

 濁流の勢いが、大柄な体を紙屑のように弄んだ。

 普通なら、すでに方向感覚が狂い、上下左右すら覚束なくなる中、ガジンは冷静にリュウモの『气』の位置を探った。

 すぐに第六感とも言える感覚がリュウモを捉えた。四肢に力が入っておらず、ぐったりと体を流れに投げ出している。

 

(気を失っているか、だが、それなら水を飲んでいる心配はないはず……!)

 

 全身に襲い掛かってくる圧力を押し退けるように、ガジンは両足に『气』を集中させ、水を蹴った。その後ろを、泡が白い軌跡となって追う。

 くるりと足の位置を変えて川底に着地すると、助けるべき相手に狙いを定めた。

 再び、足を突き出し加速する。底にあった岩が、衝撃で爆砕する。

 黒い流れを掻き割って、木の葉のように翻弄されるリュウモに手を伸ばした。

 

(捕まえた……ッ!)

 

 帯をがっしりと掴み、絶対に離さないようリュウモの腰を脇で固定する。

 黒い濁流は、小さな体を吹き飛ばそうと襲い掛かって来た。

 

(なに……!?)

 

 腕の力が緩み、危うくリュウモを手放しそうになる。

 この黒い『气』、体に強烈な影響を与えている。肌を刺すような痛み以外に、体内の『气』を消耗させ、气虚状態に向かわせようとしていた。

 なるほど、とガジンは納得した。

 リュウモが危惧するほどの『气』だ。その効用も尋常ではないのだろう。

 自然に干渉してあり得ない現象を引き起こし、『竜』を狂わせる。

 恐ろしきものだ。だが――――。

 

(それが、どうした。この程度……!)

 

 穂先を底に向け、腕を振り上げた。

 ――〈八竜槍〉を舐めるなァ!

 裂帛の気合を以って、〈竜槍〉を投擲する。

 黒き波を引き裂く一筋の白い線が、水中に描かれた。

 水底に槍が着弾すると同時、爆裂。

 衝撃は底を円形に陥没させ、石を吹き飛ばすに飽き足らない。

 爆流が、裂けた。

 圧倒的な膂力の前に、黒い大津波は方向を無理やり転換させられる。

 ガジンの放った一撃は無色の壁となって黒波を隔てた。

 水が無くなる。ガジンは地面に着地すると一気に跳ね上がり、川から脱出した。

 着地する。念のために岸から大きく距離を取り、リュウモの容態を診る。

 

「リュウモ、リュウモ!」

 

 呼びかけに答える声はなかった。ぐったりと体を地面に投げ出して動かない。

 

(水は飲んでいないな。吹き飛ばされたとき、橋のどこかに頭を打ったか?)

 

 出血はしていない。頭部に外傷はなく、ただ気を失っているだけだ。

 ほっとして、ガジンはぐったりと地に尻をつけて足を投げ出した。

 肉体の疲弊が酷い。動けないほどではないし、そんなやわな鍛え方はしていない。

 ――たった、あれだけの時間、動いただけでこの様とは……。

 『竜』でさえも理性を失くして人へ襲い掛からせる強い力を持っている『气』だ。危険性は重々わかっていたつもりだった。だが、実際に経験してみてわかっていたつもりになっていただけだったことを思い知らされた。

 

「う、うぅ……ん」

 

 と、リュウモが呻いた。意識が戻り始めガジンは一安心だった。肩の力が抜ける。

 

「爺ちゃん、みんな……逃げ、て……」

 

 つぅ……っと、幼い少年の目から、涙が零れていた。

 

「――そうだ、この子は……」

 

 すべてを失ったのだ。少年の話が正しいのならば、彼が帰るべき場所はもうない。〈禍ツ竜〉に焼き払われ、一族全員が殺されている。

 村が焼かれたときの記憶が再生されているのだろう。ガジンは軽くリュウモの肩を揺する。これ以上、幼子に悪夢を見せる必要もない。

 

「あ……ここ、は?」

「下流の岸だ。大分流されてしまったがな。まだ寝ていろ、疲れているだろう」

「いえ、大丈夫です。早く、行かないと、また、さっきと同じことが起きて、しまう」

 

 ぐっと両足に力を入れて、リュウモは危なげなく立ち上がった。外傷、内傷も『气』を感じ取る限り、無さそうである。

 

「わかった、ゆこう。体が辛らくなったら言うのだぞ」

 

 リュウモはうなずいた。ガジンは旅行のための食料や備品の大部分が使い物にならなくなってしまっていることに頭を悩ませながら、岸から離れ始めた。金銭が無事であったのが唯一の幸運であった。

 

 

 

 リュウモは鉛でも入れられたように重い体に喝を入れて足を動かし続けた。

 川の一件から数刻が経過し、すでに日は落ちて夜になっている。

 やっと町が見えてきたことで足が休ませろと怒鳴り声をあげてきていた。

 空は曇り、すこし前から雨が降り始め、次第に雨足を強めている。

 大粒の雨が天上から膝を折ろうと降り注いでくる。

 見るのも慣れてきた瓦屋根の町並みは、もう光を落としていた。

 通りに人はほとんどいない。リュウモは笠から目を見られないように注意しながらガジンの後ろに付いて行く。

 

「おーい! あんたら、こんな雨の中で歩いてたら風邪引くぞ、入んな!」

 

 通りにある店の暖簾を下げていたひとりの男性が、二人に声をかけた。

 リュウモは連れの判断を待った。ガジンは足を止めてはいるが、巻き込むことを恐れて逡巡している。

 うだうだとしているガジンに腹を立てたのか、男性がさらに大声で怒鳴った。

 

「子供も連れてるだろうが! さっさと来い!!」

 

(どうして、商売人の人とかって、こう、元気っていうか、おっかないんだろう)

 

 これ以上騒がれてもまずいので、ガジンは男性にうなずいて店に入ることにした。

 雨では追手も痕跡を追えないだろうが、万が一を考えているようだった。

 敷居を跨ぐと、料理の残り香が空気の中に漂っていた。店自体はこじんまりとした、いくつかの座敷席がある料理店だった。

 

「そこに座んな。濡れるのは気にしなくていい」

 

 言われる通り外套を脱ごうとしたが、ガジンが止めた。店の主人は眉をひそめ、咎めるような視線を向けた。

 

「店主、入れていただいて申し訳ないが、込み入った事情が」

「槍を隠して、こんな雨降る夜に歩き回ってるんだ、訳ありなのはわかってる。気にするな、どうせ店仕舞いしたところだ」

 

 さっさと座んな、と言って店主は店の奥に消えて行く。

 

「お邪魔するとしよう。リュウモ、体は大丈夫か?」

「ちょっと、きついです」

「本当に、すこしか? かなり辛そうに思えるが」

 

 う……っと、リュウモは言葉に詰まった。無理をしていたのを言い当てられてなにも言えなくなる。叱責をするような目がうつむいたリュウモに向けられた。

 

「我慢強いのは結構だ。だが、強すぎるのはいかん。しっかりとおのれの体調を管理できなければ、この先、目的を達するのは無理というものだ」

「はい……」

 

 しゅん……として落ち込んでしまったリュウモを見て、ガジンは慌てた。

 

「ああ、いやすまん。君は文句のひとつも言わないから助かっているが、体がきついなら行言ってくれなければ私もさすがにわからん。無理をされて今この状況で倒れられると困るのだ」

 

 リュウモは「はい」と言って、反省する。ガジンの言った通り、追跡されている中、体調を崩しでもすればそれで終わってしまう。いかにガジンが強かろうと、身動きの取れない護衛対象を抱えながらの戦闘は厳しいだろう。

 

「ガキ相手に、なに説教してんだあんた。そーいうのはな、大人の俺らが気づかなきゃいけないもんなんだよ。無理をすんのがそんぐらいの年頃の常だろうがよ」

 

 店主は、お盆に碗を三つ乗せて戻ってきた。椀からは湯気が立ち上っている。彼は座敷の上にお盆を置いた。

 

「残り物だが、捨てちまうよりはいい。飲みな、雨の冷たさは身に応えるだろ、特にそっちの坊主はよ」

 

 雨が下たる外套を脱ぎ、リュウモは椀を受け取った。

 

「おめぇ、敷居を跨ぐときも笠を取らんのか。ちったあ礼儀っつーものをわかれや」

 

 まるで慣れた手つきでぱっぱとリュウモの顎紐を解くと、笠を取ってしまった。

 抵抗する間もなく、リュウモの両目が店主の視界に映る。

 

「なぁるほどな。だからか」

 

 ただそれだけ言って、持って来ていた自分の椀の中身を口にする。

 

「さっさと飲みな。冷めちまったら美味くなくなる」

 

 リュウモはなにも言わず湯気立つ味噌汁を口にした。

 

「お、美味しい……」

 

 単純な感想が零れた。

 

「なんだろう……出汁に、魚を使ってるけど、なにかわかんない。味噌は甘くて、ちょっと食べたことない味だな――えぐみがあるけど、本当、なんだろこれ」

 

 味噌汁から立ち上ってくる湯気の中にある匂いは、リュウモの知らない素材が使われていた。やさしく、甘みがあり、だけどほんのすこしえぐみが残っている。

 

「そうか? 味噌の味はいいが」

「なんだ、おっさんよりもガキの方が舌がいいときたもんだ。嘆かわしい」

 

 ガジンは苦虫を噛み潰したように顔に皺を作った。ごつごつした岩の陰影のようで、彼を怖がる子供の気持ちがちょっとだけわかったリュウモであった。

 

「ほらよ、飲んでけ」

 

 店主は湯飲みを三人分持ってきてくれた。リュウモは礼を言って受け取り、口をつけた。

 お茶と味噌汁の温かさが、冷え切っていた体の熱を取り戻していく気がした。

 

「しっかし、上流の町に寄るならともかく、どーして下流にあるこっちに来たんだよ。ここで昔、なにが起こってい今どうなっているか、知らないわけじゃあるまい?」

「……? ここは危ないところなんですか」

 

 つい、口が滑ってしまった。直そうとして中々直らないこの聞きたがりの癖は、外では面倒ごとを呼び込む種になるのをリュウモはそろそろわかり始めていた。だが、染みついた癖というのは易々と消えるものではない。

 店主の顔が訝しげに変わる。

 

「おいおい、ボウズ。このおっさんから聞いてないのか」

「いや、店主。上流で川に落ちましてな。流されてここまでやってきてしまったのです」

「流されたぁ? 馬鹿言うじゃねえよ。下流まで流されるほどあの川は流れが強くはねえぞ」

「そう言われましても、流されてきてしまった以外、言い様がないのですよ」

「ふん、まあいい。だが、ある意味ここに来たのは正解かもな。ボウズの目、この町じゃあ余計なちょっかいを出してくるやつもすくないだろうさ」

 

 話についていけず、リュウモは目を瞬くしかなかった。店主は湯飲みある茶に口をつけ、下を湿らせた。

 

「昔、この町ででかい抗争があったんだよ。その鎮圧のために〈八竜槍〉までもが出向いてくるほどの、馬鹿でかい抗争がな」

 

 店主の目に暗い色が指した。

 

「色んなやつらが死んで、恨み辛みが未だに残ってる。この町はな、よそ者全員に対して、平等に冷たいのさ。たとえ、〈青眼〉であろうと対応は変わらねえぐらいにな」

 

 そんな馬鹿な、とリュウモは思う。今まで謂れのない中傷を受けてきた。宿の者達は一様に悪し様に口汚く罵ってきた。

 それと同じような対応を同郷同士である外の人間に向けるとは到底信じられない。

 

「ここは元々、飛脚の町だった。ここから先の北の領地は山が多くてな、とてもじゃないが馬車なんかは通れん。だがあるとき、『譜代』の人間達が交通の便をよくしようと『外様』にあれこれと口出しして整備を始めた。費用を各町から徴収してな」

 

 店主の眉間に、皺が寄った。

 

「だがな、そんなもん、はいそうですかと渡せるわけがねえ。飛脚達は『譜代』の余計なお節介を必要としなかったし、街道が整備されて馬車が通れるようになれば自分達は食い扶持が稼げなくなる。自分の首を絞めるために、高額の費用を出す馬鹿はここには誰ひとりとしていなかった」

 

 おのれの生活圏を脅かされる者は、得てして必死になり今までの状態を維持しようとする。『竜』が群れの個体数が著しく減少すると、その年に生まれる赤ん坊が異常に多くなるように。

 

「激論が交わされて、結局、この町の連中は自分の首を絞める事業に加担することになった。お上から言われちゃあ、下々の俺らは言い返せるわけがないからな」

 

 店主は吐き捨てるように言った。権力によって抑えつけられた者の感情の発露だった。

 

「飛脚から別の職に就こうとするやつもいたが、伝手もなければ資金も余っていない飛脚が早々に別職になれるわけがねえ。そこを『譜代』の人間は履き違えてた。経済圏のでかさがそもそもありすぎて、相手もこれぐらいの資金はあるだろうって勝手に思い込んでたんだよ、馬鹿共はな」

 

 基盤の大きさが違えば、必然的にその上に乗ることができる物の数も変わる。それを当時の『譜代』の人間は理解していなかったのだろう。

 

「あの、なんでいきなり、道を整備しようって言いだしたんですか? それまではなにもされていなかったんですよね?」

「表向きは、北の『外様』の経済活性化、だったらしいがな。ふん、そんなことじゃあないのは誰もがわかってた」

 

 店主は茶を飲む。冷えて苦みが増したのか、眉をしかめた。

 

「『外様』のひとつであった領地が『譜代』に変更されたのさ。だが、その意図は誰が見ても、明らかだったし、あからさまだった」

 

 主人は湯飲みを置いた。

 

「変更された領地は、皇国でも有数の穀倉地帯でな……国にとっての利益や利権が絡んでいるのは、誰が見てもわかった。最も、最初からそこが都市に作物を供給できるほど恵まれていた地だったわけじゃない。すべては、領主と領民が血と汗を流して切り拓いた産物だった。その穀物を他の領地に滞りなく運ぶための街道整備だったのさ」

 

 雨音が強くなった。冷気が戸の隙間から入り込んで来る。

 

「蜂の巣をつついた騒ぎになった。穀物を皇都経由でこっちに回せばそれだけ利益が出る。商人達は躍起になって整備のために投資していたよ。その後ろで、貧困に喘ぐやつらの声なんて無視してな」

「そして、不満がとうとう爆発した」

 

 ガジンが痛々しいように言う。

 

「不満? 違うな、あれは必然だ。食い扶持に困ったやつらが盗賊になり、街道の商隊を襲ったのはな。町のやつらも知っていながら黙殺した。俺らがやられたようにな」

 

 やられたから、やり返す。それは子供染みていながら、しかし、職を追われた人々の最後の抵抗だったのかもしれない。リュウモの表情が曇る。

 そこから先、どうなったかは簡単に予測がつく。

 

「討伐隊が組織され、ここへなだれ込んできた。あろうことか、勝っちまったんだよ、俺らは。まあ、槍士じゃあない普通の兵だったからな。盗賊になって荒らし回っていたやつらの敵じゃあなかった。それで、皇国が本気になっちまったんだが」

「〈八竜槍〉のひとりが、ここへ派遣された。それでも死に物狂いで住人達は抵抗した。信じられないが槍士が数人死亡している。〈八竜槍〉直属の凄腕の槍士が」

 

 リュウモは、この町の過去を聞いて、どう反応を返したものか困った。

 すっかり冷めてしまった味噌汁に視線を落とす。

 

「一方的に『譜代』を罵ったがよ、その味噌汁に使われてる具材は、こっちじゃ取れないものも入ってる。生活が豊かになったのも、確かなんだ」

「……誰が、悪かったんでしょう」

 

 複雑に入り組んだ事情と感情が渦巻いているのは理解できた。

 リュウモは椀に入っている具を見ながら呟いた。

 

「どちらも正しく、どちらも悪かった。俺はそう思うぜ。一方的にどちらかが悪だなんて、決めつけられないのさ。決められたら、どんだけ楽かね」

「でも、先に縄張りにずかずか入って来たのは『譜代』の人達じゃないんですか」

 

 リュウモは左耳を触る。縄張りに勝手に入れば争いが起こるのは、身をもって知っている。

 

「存外、ボウズもわかってるじゃねえか。だけどな、なにも『譜代』のやつらだってこっちに被害を与えようとしてたわけじゃあない。利益もあったろうが、北の痩せた地味の土地に豊かさをもたらしたいと考えていたのがほとんどだったんだろうよ」

「じゃあ、なんで、そんなことに……」

「なにもかもが違い過ぎたのさ。経済も暮らしも習慣も資金も、体制、思想、諸々が」

 

 理解できぬものは恐ろしい。ジジの言葉がリュウモの脳裏に蘇った。

 

「それでも俺たちは過ちからも学ぶことができる。逆に、正しさから過ちを生み出してしまうこともある。今みたいなよそ者に冷たい町なんかな。俺はそうなりたくなかったから、こんなちんけな店をかまえて、旅人に飯を振るってるがね」

 

 きっと店主は、過ちからその時々の正しさを学び取ったのだ。

 でも、正しいことをしてきたと言うのなら、どうして彼が語っている顔は、悲しみを帯びているのだろうか。

 

「だがほとんどの人間はそうじゃなかった。事の正否を問うのは個人の尺度だ。生まれや考えが尺度の高さや低さを決める。そいつが生きて作り上げてきた物差しで測れないような、理解できない行動、原理を、人は排斥するようにできている。虚しいことだがな」

「虚しい、ですか」

「ああ、そうさ。出自がまったく違う思想、体制が分かり合うことはない。――――いや、今の国の状況を見るに、分かり合うために大量の血が流れる。関係のない者にまで、流血を強いた。その結果残ったのは、土地にへばりついた子孫にまで伝わる憎しみだけ。これが、虚しくなくてなんなんだ」

 

 淡々と語る店主の言葉に宿った、息苦しいほどの強い感情が店内に染み込んだ。

 

「だからこそ、帝は、相互不理解を乗り越えるために、教育に力を入れ始めた」

 

 じっと話を聞いていたガジンが、重苦しい空気を裂くように口を開いた。

 

「女の身で、初めて〈八竜槍〉になった、イスズの生家、シスイ家と帝が大々的に協力し、国中の都、町に寺子屋を建てた。宮廷内の暮らしは、かなり質素になったらしいがな」

 

「ああ、その寺子屋ならここにもあるぞ。ガキ共が通ってるよ。多分あいつらの代で、俺らが残したものは消えていくだろうな。飛脚っていう職業があったっていうだけで、ただの記録に成り下がるだろうよ。恨みも、消えるだろう」

「それは、消えていいものなんですか。ここに住んでた人達の想いは、どこに行けば……」

「世は無情なり、だ。時間の前には関係ないのさ、想いなんてもんはな」

 

 ざあ、ざあ、と雨音が強くなった気がした。それは気の所為で、雨は弱まってきていた。

 それでもリュウモには雨音がはっきりと耳に聞こえていた。

 

「だが時間ってのは、良いことも起こしてくれる。『外様』の中から、しかも北から新しく〈八竜槍〉に名を連ねた方がいる。ガジン様だ」

 

 暗くなっていた店主の目に、希望の光が差し込んでいた。

 

「『外様』初の〈八竜槍〉よ。これからどんどん『外様』出身が〈竜槍〉に選ばれればちったあ今の現状も変わっていくだろうさ。しっかしな、皮肉なもんだ。抗争のとき鎮圧にきた〈八竜槍〉が、北の我らの誇りである、ガジン様の師になったとはね」

 

 リュウモは店主が言った内容に驚いて、ついガジンの方を向こうとしてしまった。

 どうにかして目線がすこし動いた程度に収めた。

しかし、一日で何百以上の客を見て来ている店主の観察眼は伊達ではない。眉が「まさか」と言いたげに上に動く。

 

「そろそろ出るぞ、リュウモ。ご主人、馳走になった。この恩はいずれ必ず」

「あ、ああ……あ、ちょいと待ちな」

 

 店主は店の裏方へ向かい、戻って来ると手には手紙を持っていた。

 

「一筆、書いておいた。この通りの先にある宿へ行け。渡せばこんな時間でも入れてくれるはずだ」

「何から何まで、かたじけない」

 

 リュウモも、ガジンと一緒に頭を下げる。

 雨に濡れないように懐に手紙を入れると、ガジンは敷居を跨いで外に出る。リュウモも後に続く。

 ふと、ガジンは何気なく店主の方へ振り向いて言った。

 

「そういえば、ご主人。この店、ひとりで切り盛りを?」

 

 主人は、なんとも言えない曖昧な、笑いとも悲しみともとれる顔をした。

 

「俺も、払いたくもないもんを、払っちまったのさ……昔にな」

 

 リュウモは、なにも言うことができなかった。

 

「お前さんぐらいの孫が、もしかしたら俺にもいたのかもなあ。――それじゃ、道中お気をつけて」

 

 雨は、止んでいた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十話 掟

 リュウモは疲れた体を投げ出すように畳の上に座り込んだ。

 宿屋の主はよそ者相手に顔をしかめたが、店主が書いた文を見せると快く泊めてくれた。

 驚くことに、本当に〈青眼〉でも気にしていなかった。彼らにとっては町に住まない人間は十把一絡げなのだろう。

 

「……食料はすべて駄目か。お前が言っていた通りだな」

「〈禍ツ气〉は、そういうものですから」

「一体全体、なんでこんな危険な『气』がまったく国に知られていないのだ。聞いたこともないぞ、こんなもの」

「『竜』の死骸が〈竜ノ墓〉以外にあると〈禍ツ气〉を発する。ほら、ジョウハさんの村の上流で『竜』の死骸があったでしょう? あのまま放置しておくと昼にあった黒波が起こることがあるんです」

 

 ガジンは腕を組んで深刻そうに眉間に皺を寄せた。やっぱり見た目は怖い、とリュウモは思う。本当は優しい人な分、周りからの誤解が不憫である。

 

「そ、そういえば、すごい人気でしたね。やっぱり、『外様』の人達の間だと、憧れなんですか?」

 

 ガジンの名を伏せて質問する。リュウモも、ここ数日で一応周りに配慮するようにはなっていた。

 

「別に、人気でもない。なんにでも初、という枕詩がつくと誰も彼も騒ぎ立てるものさ」

「でも、すごいことなんじゃないんです?」

「いや、まあ、それはそうなのだが……」

 

 ガジンは照れ臭そうに頭をがしがしと乱暴に掻いた。

 

「はあ……俗世の世情を知らない人間の称賛というものは、こうもむずがゆいものだとは思わなかった」

 

 リュウモは首を傾げる。確かに、ガジンの言う通り国の事情には明るくない。しかしそれとガジンが照れていることとなにが関係あるのだろうか。

 

「実はな……」

 

 ガジンは語り出した。

 彼の話はまるでなにかの英雄譚の始まりのようで、顔中に皺を作って恐ろしい表情をしているガジンには失礼だが、リュウモは胸が躍った。

 村を襲ってきた野盗を倒して取り立てられるなど、まさに英雄の物語の始まりではないか。語り部にも色々は伝承が残っているが、ここまであからさまなものはないので、物珍しかった。

 

「すごいです。じゃあ、先代の〈八竜槍〉に真っ向から挑んで、勝っちゃったんですか?」

「馬鹿を言うな。そんなこと当時の私にできるはずがない。いやまあ、一撃当てはしたが。年老いていたとはいえ〈八竜槍〉に、ずぶの素人がかすり傷でも与えたとなれば、沽券に関わる。色々と政治的判断があって私は皇都に連行された。それから師となった先代に技術を叩き込まれたよ」

「え、やっぱりガジンさんって、生れつきおかしいんじゃ」

「失礼だな君は。体が頑丈なのは、私の氏族の特徴だぞ」

 

 でもだからといって、素人が玄人に一撃でも当てられるものだろうか。まぐれ当たりなど、玄人相手には可能性がないことを、リュウモは村の訓練で知っている。

 

「でもその、気持ちはわかるんですけど、こう、畑を荒らされて、たったひとりで野盗に突っ込むって、ぶっ飛んでますよね」

 

 両親が死んだとき、なんの知識も準備もなしに『竜』の住処に入り込んだ自分といい勝負をするのではないだろうか。リュウモは左耳の痕を擦る。

 

「……そうだな。本当は、畑のことなど、どうでもよかったのだ」

「え……?」

 

 いきなり声色が変わった。ガジンの目は畳を向いているが、瞳には別の景色が映っているようにリュウモには思えた。

 

「――ラカン以外には、誰にも言っていない。だから、べらべらと言わんでくれよ? 聞きたくなければ、それでいいがな」

 

 リュウモは、なぜかガジンの話を聞かなければならないと直感が訴えてきた。彼が今から口にしようとしていることは、とても重要だと。だから、うなずいた。

 ガジンは肩をすくめ、窓際の壁に背を預けて天井を仰ぎ見た。

 

「私の村には、妙な掟があってな。満月の日には、陽が暮れる前に必ず家へ戻らないとならない。でなければ、その家には禍が降りかかる、とな」

 

 ガジンは、〈竜槍〉を右手に持ち、床に突き立てるように穂先を上へ向ける。

 

「村社会にとって、掟とは絶対の法に近い。破る人間は誰もいなかった。私も含めて」

 

 白色の穂先を見つめる。ガジンの瞳は、悲しみに浸っていた。

 

「だが、強情っぱりのように頑なな掟は、悲劇をもたらす」

 

 ドグっと、図星を突かれたときのようにリュウモの心臓が跳ねた。

 

「村にいた頃、可愛がっていた弟分、やっと七歳になった子供が野盗に殺された。隠れていれば見つからなかったろうに、掟に従って家に帰ろうとした」

 

 悲劇。掟に殉じて逝った人間を、そのような型に嵌めて呼んでいいわけがない。

 でも、リュウモはガジンが言った悲劇の渦中に放り込まれた側の人間だった。彼がそう言う気持ちは、痛いほどわかる。

 

「掟とは、絶対順守すべきものではない。国が定めた法にこそ、人は従うべきだ。氏族の掟を他のすべてに押し付けようとすれば、別の掟とかち合って争いが起きるだけになる」

「掟が、嫌いなんですか?」

「厭うているわけではない。優先順位の違いだ。リュウモ、この町の話を聞いてなにも感じなかったのか。二つの強い法則がぶつかり、大量の血が流れたのだぞ」

「それは、なんとなくわかってます」

 

 店主の態度から、きっと彼は親しい人間を失ったのだろう。払いたくもない代償を支払わされ、ひとりで店を経営している姿がリュウモの頭を過った。

 

「でも、それは正しいんですか。本来あったものを歪めて、押し潰してまで、皇国の法に従わせることが……」

「すくなくとも、流れる血の量は圧倒的に減った。要は、折り合いをつければいいだけだ。なにも皇国は死ねと言うわけではない。互いの意志と意見を尊重し合い、妥協点を見つければよい。簡単でなくとも、苦労を重ねて経た結論は流血を強いることはない」

「間違ってしまっていたら? 子孫が先祖は誤っていたと言ったら?」

「その誤りを正すのは、子孫の役目だ。先祖もそこまで責任は持てんよ」

 

 リュウモは口を閉じた。死んだ両親との色あせ始めている思い出がよみがえる。

 

「掟を守り、尊重するのはいい。だが、他者に流血を強いてまで遂行すべきものなのか。私は、ずっと疑問なのだそれが」

「……掟を守ることで、誰かの命を救えるとしたら、どうなんですか。大切な人を助けるために、掟へ殉じるのは、おかしいことなんですか」

 

 ガジンの言い分は、まるで掟が手前勝手に作られたような言い方だった。

 守る価値はなく、他者を害する方が多いと。

 だが、違う。リュウモは知っている。

 掟とは、小さな社会をまとめるための法という側面を持つのは否定できない。

 しかし、厳密に掟を規定するのは、他の人間の生命を守るためなのだ。

 リュウモは左耳があった場所に触れる。決められた掟を破れば、命はない。冷たい事実を身をもって知った。

 

「おれの両親は、掟を守るために『竜』の死骸を運んでいる最中、他の『竜』に襲われて死にました」

「それは……」

「掟で、〈竜ノ墓〉以外で死んだ『竜』の死骸を墓へと運ぶことは掟で決められていました。でも、そうしないといけないから、誰かが掟を守るために命を賭けないと、今度は他の誰かが死んでしまうから、おれの両親は掟を守るために身を投じて、そして、死んだ。それが、悪いことなんですか。そんなの、絶対に、違う」

 

 ガジンは目蓋を閉じた。次に口にする言葉を慎重に選んでいるようだった。その間が、リュウモにはとても長く感じられた。

 やがて、吟味を重ねたガジンの口が開かれた。

 

「私は〈竜守ノ民〉を知らぬ」

 

 当然だ。彼らは〈竜域〉に訪れることはないのだから。

 

「知らぬものを判断せよと言われても、おそらく、お前にとって不快な回答しか出せぬよ」

「そう、ですね……」

 

 ジジの言葉が脳裏をかすめる。

 彼らは『竜』を知らぬ。知らぬものにどうして対策がとれよう?

 きっと、人間にも同じことが言える。リュウモはガジンのことを詳しく知らず、また彼もリュウモについて語れるほど付き合いが深くない。

 ふっと……ガジンは笑った。

 

「そうだな、この際だ、色々と聞かせてはくれないか」

「い、色々って、おれたちについて?」

「ああ。我らは一蓮托生。お互い、すこしくらいは自分を語ってもよいだろう」

 

 リュウモは、困った。掟で『竜』や業を詳しく話してはいけない。

 語ると言っても限界があり、語れる範囲は非常に狭くなるからだ。

 

「なにも、洗いざらい吐けというわけではない。どんな風に暮らしていたとか、食べ物の種類とか、普通のことでいい」

「は、はあ……」

 

 それなら、と言ってリュウモは話し始めた。

 

 

 

 

 少年がおのれの生活について話、自分がそれを聞く。

 ただそれだけのことなのに、なんとも不思議な心地になる。

 リュウモに辛いことを言わせてしまった罪悪感からか?

 それとも、同じような目に遭いながら、掟をまったく違う捉え方をしているこの小さな子供に、強い興味を抱いたからか。

 

「それで、爺ちゃんはいっつも寒いのに軒下で伝承を覚えるって聞かなくて、おれじゃなくて爺ちゃんが風邪を引いちゃったりしたんです」

 

 語られる内容は、ガジンとさして変わらないごくありふれたものばかりだった。

 家族や近所の人、なにを食べただとか、寒い時期は辛いことが多いだとか。

 おかしなことだが、ガジンはまるでリュウモが言う故郷が自分の故郷のように感じられる。

 ――なにも変わらないのだ、この子は、我々と。

 偶々、特殊な技術を発展させてしまった一族のひとりにすぎない。

 本当に、ただの子供なのだ。おのれの命ひとつ思うように使えない、守れない庇護すべき小さな者。

 〈竜槍〉を握る手に力が入る。槍は、熱をわずかに帯びていた。

 

(この子は、『使命』が終わったら、どうするのだろう)

 

 少年に帰るべき場所は存在しない。燃えて無くなってしまったのだから。

 急に、リュウモの先について心配になってくる。

 氏族の最後のひとり。それは比喩ではない。

 だが、終わったあとについてどうする気か、聞くのは躊躇われた。

 リュウモは、『使命』を終えたあと、自分がどうなるのか、わかっているのだろうか。

 誇らしく氏族の村の人々について話す少年の青い瞳が、なぜか陰りを強めている気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十一話 良心

 「リュウモ、これを渡しておこう」

 

 朝、宿の玄関前でガジンは唐突に言った。

 彼は、首から紐で下げていた物を外して、リュウモへ手渡した。

 麻で作られた入れ物の中には、堅い木材のような物が入っている。

 

「故郷から出るとき、兄から送られた物だ。これだけは、なぜか無事でな」

「そ、そんな大切な物、受け取れませんよ……」

 

 ガジンが故郷を出ることになった理由を知った後では、余計に受け取れなかった。

 

「困難に立ち向かう者が、これを持つに相応しい。兄はそう言っていたのだ。お前が、今は持っていた方がいいだろう」

 

 渡されたお守りの中にある木片は、ガジンの故郷にある大きな木の枝を削った物らしい。

 ガジンは中身を説明すると、宿の玄関から出て行く。

 リュウモは、お守りを首に掛けると、ガジンの後を追った。

 

 

 

 皇国で最も巨大で、文化的価値があった場所とは思えない光景が広がっている。

 川以外、なにもない。精々あるのは、強固な橋であった欠片、木片ぐらいのものだ。

 穏やかな水流は、先日、大橋を押し流したなどと言われても信じられない。

 橋が流された前日は雨が降っていたわけでもない、快晴だったと証言がある。

 物理的にあり得ない、水位の上昇があり、しかも津波のような勢いの濁流は、漆黒の色をした大波だったらしい。

 寝言は寝てから言え。ロウハはそう言ってやりたかったが、百以上の人間が同じことを言っている以上、信じる他はなかった。

 岸辺に屈み、水面下にごろごろと転がっている石を観察する。石の色や、転がり方、沈み具合を見ると、どうやら証人たちの言葉に嘘はないようだ。加えて――。

 

(なんだ、この『气』は……)

 

 川に手を入れて指先で触れる。接した面がぴりぴりと痛む。日焼け程度の痛みだ。活動に支障は出なさそうではある。恐ろしいのは未知の『气』だ。

 石にこびりついているそれは、ロウハが見たことも、聞いたこともないものだった。

 嫌な感覚がしたので、指の腹を擦り『气』を落とす。

 自分が断崖絶壁の端に立っていて、谷底が見えない闇を垣間見ているかのような気分だった。おのれの制御できない本能の部分が、早く遠ざかれと警告してくる。

 久しく、恐怖と縁がなかったロウハではあったが、素直に警告に従うことにする。

 立ち上がって川縁から離れようとすると、イスズがじっと川底を見据えていた。

 彼女に、〈影〉のひとりが陶酔しているかのように目を向けている。思案顔が絵になるような美女だ、見惚れるのも無理はあるまい。

 残念ながら、ロウハの好みには合わないので、彼女が無意識に振り撒く色には、とんと無関心だ。少女の美貌よりも、今後のことの方が余程大事である。

 

「どうした、なにか気になることでもあったか」

「気にかかることがあり過ぎて、なにから言っていいやら、悩んでいるところです」

「そうか――。各人員は下流の川辺を捜査、どこかで岸に上がったなら痕跡があるはずだ、探し出せ。もう半分は下流にある町を徹底的に捜査しろ。濁流で必需品が駄目になっていれば、商店で補充をする、そこを集中的に調べ上げろ! 上手くいけば追い付ける。散れ!」

 

 同行していた〈影〉は、音もなく動き始めた。目だけで自分たちがどこへ向かうのかを決め、声をあげることなく見事に人員を配分した。

 指示に従い、蜘蛛の子を散らすように素早く野を駆けて行った。

 

「で、お前の気になってることってのは、人前じゃ言えないんだろ。人払いはしてやったんだ、おら吐け」

 

 遠慮が無さすぎるロウハの言い方に、イスズは苦笑する。

 

「ご配慮、痛み入ります」

「前から言ってるがな、その畏まりすぎた態度はよせ。お前は同じ〈八竜槍〉だ。対等なんだぞ、俺たちは」

 

 まるで貴族として扱われているようで心地が悪い。手が届かない箇所にかゆみがあるかのように落ち着かないのだ。

 

「これは以前、先生にもお伝えしましたが、お二方に敬意を払わずして、なにを敬いましょう。――平行線になるので、この話は後日に」

 

 強引に会話を打ち切った。

 

(あ、こいつ結構、頑固だこりゃ)

 

 しかも、師から受け継いだのではなく、生れつきらしい。面倒なことである。

 

「この異様な『气』、実は近年研究対象とされておりました」

「研究対象? こいつがか。そいつはまたどうして」

 

 シスイ家の者である彼女が言うのなら、研究されていた事実は確かだろう。

 資金や人員、学問に関して一家言あるシスイだ。内情には詳しい。

 

「四十年前、国中で黒風邪と名付けられた病が大流行したのはご存知ですか」

「耳に蛸ができるぐらいには聞いた。高熱、錯乱、しかもやたらと好戦的になるっていう、あれだろ。当時がどうだったかは知らんが、爺様方は相当なトラウマになったらしいな」

 

 黒風邪は国中に蔓延した。身分出自に関係なく猛威を振るった病の感染経路を調べあげると、ひとつの共通点が浮かんだ。

 

「黒色の風が通り過ぎた地域が酷い有様だったようです。皇都にまで被害が及び、対策を練ろうと薬師たちは躍起になりました」

「で、黒風邪にはこの妙な『气』が関わってたってとこか」

「はい。特効薬が開発され、事態は収束に向かいました。以降、研究が進められています。極秘に、ですが」

 

 ロウハは、当時の対応におかしさを感じた。

 

「ああ? あんだけ国に被害を出したもんを、極秘に? なんだってこそこそする」

「わたくしも詳しい内容は伝えられておりません」

 

 驚きに、つい眉があがる。

 

「お前の家が一言声をあげりゃ、すぐにでもわかるだろ」

 

 イスズは首を横に振った。

 

「帝が直々にご指名なさった者のみを集め、研究を進めています。いくら我が家が長い歴史を持つといっても無理です」

「よくもまあ、内容がわかったもんだな……ははぁ、予想がついたぞ。妙な『气』、こいつぁ『竜』に関することか。だから、研究者も口を開いた」

 

 帝の命を覆せるのは、帝しかいない。〈八竜槍〉に下された指令は、『竜』の暴走を止めることだ。だからこそ研究者たちもイスズに話したのだろう。

 

「〈禍ツ气〉と言うらしいです。物体に作用し、異常な現象を起こすと。黒風邪も、〈禍ツ気〉が引き金になった病だと彼らは結論づけた……」

「異常な現象ってのは、つまり『竜』にも起こり得る。今回の件は〈禍ツ气〉が関与している可能性が高い。そういうことか。……あ? じゃあ、もしかして黒い波も?」

「おそらくは……。上流付近に〈禍ツ气〉を発するなにかがあるのかと」

「はー……面倒なこった。まあいい、そっちは別の専門家、〈竜鎮め〉にでも任せりゃいいだろう。俺たちは、あの馬鹿を連れ戻す。当面はそれだけでいい」

 

 ロウハとしては、目的は複雑よりも簡潔明瞭な方がいい。頭を動かすよりも、体を使っていた方が楽だ。

 ――そっちの方が、気も紛れる。

 下手に考え出すと、失った親友の顔がちらつく。

 

「行くぞ。ここにもう用はねえ」

 

 ロウハは、川に背を向け歩き出した。イスズが右隣を進む。

 ごつごつした川縁から離れた時、浮かない顔をしている彼女が目に映った。

 人形、能面女、などと揶揄される少女だが、観察してみると意外と表情豊かである。

 左右に顔を並べて比較しないとわからないぐらいの変化ではあるが、同情や悲しんでいる時の表情などは、普段とは大きく違う。

 今も、眉が僅かばかりか下がり、目を細めている。

 

「どうした。なにかまだあるのか」

「〈禍ノ民〉の少年について、考えておりました」

「そいつはまたどうして」

「少年は、たったひとり、外へ出て寂しくはないのでしょうか。聞けば、氏族の中で最後になってしまったと。そんな子供を、わたし達は」

「同情しているならそこまでにしておけ」

 

 イスズの、人として湧く当然な温かみある感情を、ロウハは切って捨てた。

 

「なにがあろうと、我らは帝の槍。特定の誰かに加担することも、贔屓することも許されない。我らは槍であり国の中にある柱のひとつ。それがあっちらこっちら動き回れば、支えられている人間がどうなるか言わずともわかるだろう。敵は敵、それだけでいい」

「……はい、ロウハ様」

「だから、様付けは止めろってーのに」

 

 ――やっぱり人が良いな、おい。

 ガジンが言っていた。人が良過ぎるのが彼女の欠点だと。

 それが、いつかイスズに刃を向けないよう祈るしか、今のところロウハにできることはなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十二話 追跡者たちの事情

 上空に黒い影が飛んで行くのを見て、ガジンは舌打ちをした。

 

「あの鷹が、どうかしたんですか」

「〈影〉が連絡用に使う鷹だ。この先は網を張られている」

 

 町で準備を整えて、主要な街道から外れて山間の村々を通っていたが、とうとう包囲網を敷かれてしまったらしい。

 日が暮れ始めている。そろそろ野営の準備をしなければならないが、敵が周囲にいるかもしれない中、眠りに落ちるのはリュウモも勘弁したい。

 

「今日はここで野営しませんか?」

 

 リュウモは提案した。これ以上先に進めば網にかかるだけだからだ。だが、ガジンはあまりいい顔をしなかった。

 

「いや、ここは〈竜域〉に近い。小さくとも危険だ。もうすこし先に行けば、村がある」

「でも、待ち伏せされてるんじゃあ……」

 

 〈影〉の驚異的な後追いの技術は、リュウモ自身、体験してわかっていた。ガジンは、彼らの力を理解したうえで村に向かおうというのだ。たとえ、どれだけ追跡の手が伸びてこようと〈八竜槍〉の前では意味がない。見つけたとしても、捕えられなければかまわないのだ。

 

「そのときは、まあ、倒すしかあるまいな」

 

 選択肢は、ひとつしかない。ガジンの中では、であったが。リュウモは〈竜域〉の方向を指さした。

 

「あそこなら安全です」

「あそこ? ――まさか……〈竜域〉へ?」

 

 リュウモはうなずいた。『外』の人々は〈竜域〉に恐れて近寄らない。どこの生まれであろうと徹底して教え込まれるのだと、クウロは言っていた。ならば〈影〉 とて例外ではない。むしろ、国の事情をよく知る彼らだからこそ余計にためらうはずだ。

 

「〈影〉の人たちもあそこまでは追って来ないはず――だと思うんですけど」

 

 あまりに常識外れな提案に、思わずガジンは唸っていた。リュウモの案に一理あると感じたからだろう。

 

「確かに、入っては来ないだろうが……。それは安全ではないからだ。裏をかけるのは事実だが、余計な危険が迫るのは避けたい」

 

 ガジンの心配を跳ね飛ばすように、ふふんと、リュウモは誇らしげに胸を張った。

 

「おれがどこに住んでいたか、忘れてしまったんですか? ここよりもずっと深い〈竜域〉に住んでいたんですよ。これぐらいなんともありませんって」

「むぅ、いや、しかしな……」

 

 明らかに心配そうなガジンに、リュウモはむっと腹が立った。村では一人前とは言えずとも。ひとりで森に入る許可を得られていたのだ。子供扱いはともかく未熟者として見られるのは、自分を認めてくれた村の人たちを否定されたようで納得ができなかった。

 しかし『外』の人々にとって〈竜域〉とは畏れられる場所である。生まれついてずっと言い聞かされてきたガジンたちからすれば、異端は自分たち〈竜守ノ民〉である。死地よりも恐ろしい領域に気軽に踏み入るのに不安を覚えるのは仕方ないことだろう

 リュウモは『外』の常識を内で吟味し、まずはガジンの不安を取り除こうと旅の袋に手を入れた。目当ての物を掴むと、中から引っ張り出した。

 

「それは?」

「竜が近寄って来ないようにする、竜避けの道具です。」

 

 リュウモが鳴子をすこし振ると、からん、からんと音が鳴る。これは竜の骨から削り出して作られた物で『外』の人たちの言葉に当てはめるならば〈竜操具〉という名称が正しい。

 ――竜を思うがままに操れるなんて、あり得ないのにな。

 もし皇国の他mが思い描く通り、『竜』を意のままに操れるなら、あんなことは起きなかったはずだ。今頃、大人たちと一緒に〈竜域〉を目指していただろう。

 リュウモは竜除け用の鳴子を握りしめて、故郷の人たちの顔を、心の奥に悲しみと共にしまい込んだ。

 

 

 

 太陽が高くあがった空に、黒点がひとつ旋回している。〈影〉が使う、連絡用の鷹だ。大きな翼を羽ばたかせ、眼下に捉えた人影へ降下を始める。その先には二人の男たちがいた。

 山々の自然に隠れるような色合いの衣をまとった者たちだ。片方は、大柄な男で、精悍な顔つきをしている。厳しい自然環境に鍛えあげられた者だ。もう片方は、そこまで体は大きくないが、その分機敏そうで、顔つきも素朴さとは離れた、計算高そうな冷たさを帯びている。二人は、ガジンを追っている〈影〉に所属する者たちだった。

 〈影〉のゼツは、鷹が止まれるように片手を棒のように突き出すと、訓練を施された鷹は、丁度、腕当てがある部分に止まり、羽を休ませた。

 

「どうだ?」

 

 ゼツの同僚のケイが、大柄な体に似合わない動きで近寄り、話しかけた。ゼツは、鷹の足につけられている小さな紙を手に取ると、広げて中身に目を通した。他の〈影〉の報告には、発見なしの文字が書かれている。また、近辺地域の捜査結果も記載されていた。

 

「近くにある氏族の村にも、ガジン様は訪れていない。今まで皇都を出てから、一度も食料を補給していないらしい」

「本当に、この先に行ったのか……」

 

 ケイが、恐れをこらえて、震えそうになった声を抑えたのが、ゼツにはわかった。

 二人が足を止めている先には、二つに分かれた道がある。ひとつは、小さな村に通じる道で、先にある村を経由すれば、そこから複数の道を通る選択肢が生まれる。

 片方は人が通ることのない、完全な獣道だ。うっそうとした草木は、奥にある景色を遮っている。普通は、右の道へ行き、村に立ち寄る選択をするはずである。だが、痕跡は獣道の方へ続いている。

 

「冗談だろ? 左は〈竜域〉への道だぞ?」

 

 今度の声は、震えていた。

 

「俺も、冗談だと思いたいが……」

 

 〈影〉に所属し、時には汚い任務に身を投じてきたゼツでさえ、〈竜域〉へと近づくのは気が引けた。『外様』出身であるケイは、特にその思いは強いだろう。『譜代』出身の人間が住む地域は〈竜域〉よりも遠く離れた位置にあるので、敬うべき存在と認識してはいても、生活に深く結びついているわけではない。だが、『外様』の人々は違う。〈竜域〉に近い氏族の人々にとって、『竜』とは畏怖と恐怖の対象でもあった。

 数年に一度程度の割合だが、子供が迷い込んでしまって『竜』の逆鱗に触れ、惨殺される事件が起きるのだ。ケイは〈竜域〉に近い村の出身者だから、顔が青ざめ、怖気づいてしまうのは仕方のないことだった。

 

「お前だって知っているだろ、同じ『外様』の出なんだから」

「そうだな……もう無くなってしまった村だが、『竜』に殺される子は、何人かいた」

「ちくしょう……行くしかないよなあ――ッ!」

 

 ケイは、親の仇でも見るような目で、獣道を睨みつけた。

 

(正気じゃない、〈竜域〉に向かうなんて)

 

 鷹に現状を書いた紙を足に括り付け、餌の肉片をやって、空へと飛ばすと、ゼツは獣道へと足を進め始めた。「お、おい、待てよ、まだ心の準備が……」――後ろでケイがわめいていたが、聞く耳を持たず歩く。

 ゼツとケイは、鷹が来る前から逃亡者の跡を見つけていた。それは点々と、皇国に住む者ならばあり得ない非常識へと向かっていたのだ。ゼツは真っ先に偽装を疑った。ケイも賛同し、近隣の村へ行っていないか、他の〈影〉を使って調査を始めた。返って来た文は、ゼツが描いていた最悪なものへと転がり落ちた。〈八竜槍〉たるあの男は、気が狂ったとしか思えない行動に打って出たのだ。

 足跡は、黙々と止まることなく〈竜域〉へと向かっている。少年の背を守る形でガジンが随伴していた。

 地面にこびりついた『气』と、比較的新しい足跡を追いながら、ゼツは必要以上に自分が神経質になり、周りをきょろきょろと確認していることに気づいた。

 ケイもまた、数歩進むたびに、木々の影に潜む薄闇に怯えるようにして目を走らせている。

 

「ちくしょう……ゼツ、お前、すこし早すぎだ、もっとゆっくり歩けよ」

「遅すぎると、逃げ切られるぞ」

「だ。だから、早いッ……くそ、お前本当に『外様』の出かよ」

 

 心臓が跳ね上げられた。

 

「――――おい、俺が本当に、なにも思っていないと、本気で信じてるのか?」

 

 ゼツは、声色を相手を責める厳しいものに変えて、不機嫌さを演出した。

 

「あ、い、いや、すまん……」

 

 ケイは、その演技にまんまと騙されてくれた。

 

(危ない、危ない)

 

 ケイに疑る感じはなかったが、隠し事を暴かれた時のように、体と思考が、一瞬止まってしまった。ゼツは自らの未熟さに嫌気が指した。――いつもなら、こんな馬鹿げた間違いなど、俺は犯さぬと、言い訳がましく、内で呟いた。

 

(くそッ。すこし遅く歩くか?)

 

 ケイの様子を見て、ゼツは歩幅をわずかに調整した。

 〈影〉に所属する人間は、例外なく厳しい訓練を受けているが、全員が『譜代』ではない。『外様』の出の者もそれなりの数、混じっている。彼らの地域特有の規則や土地勘といったものは『譜代』にはないものだ。

 そう。『譜代』出身のゼツには生来無いものだ。土地に根付いた特有の感覚は、模倣するのが難しい。

 ゼツには二つの顔があった。〈闇〉の一員として〈影〉に入り込み、内部から彼らを見定める顔だ。〈影〉はケイのような『外様』の人間を取り入れている。潜入工作を行うのなら、その地域に精通していた方が都合がよい。

 だがそうなると、『外様』の〈影〉と内通して領主に情報を流す者があらわれた。即座に処断されるのが当然だったが、泳がせた方が後のために有益と判断される場合もあった。

 内通者を狩り、時には飼い主をも殺すために泳がせるさいの眼。ゼツの役目とはそういったものだった。

 

(貧乏くじだ、くそ……)

 

 いつもなら、こんなぼろを出すことなど、ない。ゼツの心をざわつかせて焦らせているのは、ひとえに、この周りの空気のせいだった。

 〈竜域〉からまだ遠いはずなのに、肌全体が、ゆるく締め付けられているかのように感じるのだ。――巨大な大蛇の腹の中にいる。そんな錯覚に陥りそうになる。

 

「ちくしょう、くそ、ついてねえよ」

「おい、ぼやくな、声を出すな、気づかれる」

 

 ぼそぼそと独り言を繰り返す同僚に注意したが、効果は薄そうだった。ゼツは、彼とは何度か任務を共にしたことがある。そのさいは、寡黙で、口を開かず、黙々と任務に勤しんでいた。

(この男が、怯え切るのだから〈竜域〉は『外様』にとって、魔境のようなものなのか……)

 〈闇〉として、内通者を見張っていれば自ずと彼らの事情もわかってくる。彼らには『譜代』に理解できない格差や、生まれのしがらみがある。

 『外様』の土地も、条件がよいとはいえず、地味が痩せているところも多い。また〈竜域〉にも近く、交通の便も『譜代』と比べるのも馬鹿らしい。身分も経済も、格差が大きいことは否定できない。

 それでも、ゼツは彼らに同情しなかった。

 ――国の仕組みを変えるのは、自分たちのような者ではない。

 様々な内部事情を見聞きしてきたゼツは、そのことを骨髄に至るまで理解していた。だから『外様』に肩入れしようとは思わないのである。薄情と誹りを受けるだろうが、〈闇〉として個人的な感情に振り回わされることは、愚の骨頂だ。

 

(だから、俺はこの役目を任されたのだろうか)

 

 〈闇ノ司〉から〈影〉の監視を言い渡された時、なぜと疑問を抱いていたが、なかなかどうして、天職だったらしい。

 監視対象の〈影〉のひとりに目を向ける。『气』が乱れっぱなしで、集中力と注意が取っ散らかっている。見つけられている痕跡を何度も見逃しては、ゼツが見つける。それを繰り返している。

 

(俺がしっかりしないと、駄目だなこれは。――くそ、俺だって、恐怖がまったく無いわけじゃないぞッ)

 

 むしろ、ゼツが内に抱えた恐れは、今、追跡をしている〈影〉の誰よりも強い。

 ゼツは、思い出す。突如、襲いかかって来た『竜』。のどかな村に、それは起きたのである。悲鳴と騒乱、そして、笛の音。

 

「ゼツ、お前、ガジン様の部隊に同行してたんだろ? じゃあ、やっぱり、見たのか?」

「ああ、見たさ。『竜』が笛の音に従って、退去していた様をな」

 

 目を背けたくなる。思い返したくもない光景だった。

 

「幸いに、誰も死ななかった。――――執拗に襲い続けて来た『竜』が、笛の音を聞いただけで大人しくなって、去って行った。あれが〈竜奴ノ業〉なんだろうな」

「ちくしょう、本当に、貧乏くじだぜ……」

 

 まったくもって、その通りだった。

 

「笛の音が聞こえたら気をつけろ。『竜』を操って、俺らを襲わせるかもしれない」

「――――ッ!!!」

 

 かろうじて、無様に悲鳴をあげることだけは防いだようだった。ゼツは、視線を下に向けて、二人の足跡を追う。追跡において、標的の残した痕跡というのは、生物であり、時が経てば経つほど、腐って消える、時間との厳しい勝負なのだ。

 ここ数日、雨は降っていない。山の激しい雨は簡単に痕跡を洗い流してしまうため、幸運だった。慎重に足を運びながら、辿って行く。

 

「――? おい、見ろ、ゼツ。この跡」

 

 ようやく調子を取り戻したのか、ケイがなにかに気づいたようだ。ゼツが通りすぎた地点の足跡を観察している。

 

「どうした?」

「すこし前までは、ガジン様が先導していたのに、ほら、ここからは件の少年が先を歩いているぞ」

 

 途中、少年の小さな足跡が、ガジンの足跡に並んでいる。追うことばかりまでまったく気づかなかった。

 ――くそ、おかしくなっているのは、俺も同じか。

 ゼツは、二人が並んでなにかを話していただろうところまで戻り、毛糸同じように腰を下ろして地面を見た。

 少年は、一度立ち止まっただけではなく、ここで膝立ち状態になったらしい。爪先と膝頭が沈み込み、土がへこんでいる。

 

「ここで、持っていた荷物を下ろしたようだ」

 

 わずかだが、土が擦れた跡がある。袋の中を漁って、なにかを取り出していたようだ。

 

「なあ、ゼツ。少年の荷袋の中は、なんだったんだ?」

「検視官がな、怯えて中身を確認しなかった」

「ッチ! 俺らが必死こいて禁忌を追い回してんのに、宮廷の奴らは職務怠慢かよッ」

 

 ケイは、検視官をなじった。目の前に彼らがいたら。ところかまわず殴りかかりそうな激しい感情の動きがあった。さすがに、癇癪を起した子供のように、当たり散らすことはなかったが。

 

「職務怠慢は否定できないが……彼らの気持ちも、理解はできる」

「なんでだ? 国の大事だぞ。恐れるは仕方ないとしても、個人の勘定で職務を放棄していいはずがねーだろ」

 

 ぐうの音も出ない正論である。国家が割れるかもしれない、この一大事に誰もが必死に動き回っている。ガジンでさえ、追われる身であっても、国のために少年を連れ出したのだ。

 怖いから、禁忌だからといって、任された仕事を怠っていい理由には微塵にもならない。

 だが、かの民の業を眼に焼き付けられたゼツは、検視官の気持ちも、わからないでもなかった。

 

「『譜代』の奴らは、任を放棄しても咎められねえのか、くそめ」

「よせ、今はそんなこと、言ってもしかないだろ」

「お前、『譜代』の奴らの肩を持つのか」

 

 明らかな敵意がこもった視線が突き刺さる。ゼツは、微妙に、腰を浮かせた。

 

「――――いや、悪かった。お前の言う通りだ。今は、そんなこと言ってる場合じゃない」

 

 ゼツは肩の力を抜いて、短刀に掛けようとしていた手を止めた。ケイは、気分が悪かっただけで、こちらを〈闇〉の人間だと看破したわけではないようだった。

 

「……一度、ここで休もう。お互い、こんな状態だと接近した途端に、ガジン様に気づかれる」

「いいのか、遅れはこの様子だと、一日足らずだと思うが」

「無理に追いかけて、気づかれでもしたらどうする? 忘れるな、あの人はこの国で最も強い槍士で、我らが追っているのは、その人だ」

「……〈八竜槍〉を止められるのは、同じ者だけか」

 

 ケイは、嘆息して木の根元に腰を下ろした。ゼツも、足跡を消さないよう注意して座った。

 

「四半刻、休もう。心身を整えて出発だ」

 

 互いにささくれ立っている精神を落ち着かせに入った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十三話 恐ろしき〈竜域〉

 ゼツは、竹の水筒の栓を抜いて、中身を口へ流し込んだ。温くなっていたが、揺れ動いていた心を多少なりとも落ち着けてくれた。一息ついて、さっきまでの自分を顧みた。

 

(ケイに疑いの目をかけるのは、明らかに早計だった。俺も、〈竜域〉が近くなって、気がおかしくなっているらしい)

 

 いかなる時においても、冷徹な刃のごとく平静でいよ。命を奪う時は、吹き荒れる嵐のごとく欠片も残すな。

 ――〈闇ノ司〉の教えは、忠実に実行に移すのは難しい。

 実際、ゼツは先ほど、判断を誤っていた。外部からの影響で正常な思考から逸れ、あやうく同僚に無駄な猜疑を抱かせるところだった。

 

「すまない、ケイ」

「ん? 謝るのは、こっちだ。悪かった」

 

 ケイはそう言って、袋から干し肉を取り出して、食いちぎった。腹を満たしすぎるのはまずいが、減りすぎているのもいけない。適度な食事は、追跡中であっても必要である。

 

「人間、腹を空かしていると、気が短くなって争い合うのは、真理かもな」

 

 同じように、干し肉を適度な大きさに千切って、口の中に放り込んだ。味と食感は、それなりに美味い。数回噛んで、飲み込む。

 

「『外様』じゃ、よくこう言うだろ? ――腹が減らないなら」

「誰も争わない」

 

 ケイの言葉を、ゼツが継いだ。ゼツは『譜代』の出だが、『外様』の生活を観察し、習慣や口癖を取り入れている。だから、ケイの言うことはすぐにわかった。

 

「ああ、まったく、腹がずっと満たされてたら、諍いなんて、起きねえよなあ」

「――例外も、あるだろう。あの少年など、最たるものだ」

 

 存在が、時に争いの火種となることがあるのを、ゼツは身に染みて知っている。そういった者たちを〈闇〉として何人も、死の底に葬ってきたからだ。

 

「オレぁ、十一の子供が、そんな大火事の火元になるとは、全然、思えないがね」

 

 吐き捨てるような響きだった。いくら〈禍ノ民〉であっても、子供を殺すことに、罪の意識を感じているようだった。ゼツは首を振って彼の罪悪感を否定する。

 

「直に見ていないから、戯けたことが言える」

 

 今度は、ゼツが吐き捨てた。

 

「前の任務、ガジン様の部隊に同行していた。だから、少年のことを見ていた」

 

 伝承とはかけ離れた、小さな子供の姿が浮かんだ。あの恐ろしい〈青眼〉も。

 

「かの民を調べに、東の小さな村に立ち寄った時だった」

 

 ゼツからすれば、子供ひとりを探しだすのは、難しくはない。子供の身体能力では一日に歩ける距離は、大抵目算がつく。大人と子供の歩幅の違いを考慮すれば、逃げ回られたとしても追いつくのは簡単であるはずだった。

 〈影〉を複数動員しての捜索は、しかし、難航した。かの民の子供は〈影〉の追跡速度をはるかに上回り、挙句、振り切った。そのせいで見つけるのに大いに時間がかかったのである。

 

「そこに、標的の子供がいた。そこまではいい――『竜』が襲い掛かってくるまでは、順調だった」

 

 震えそうになる右手を左手で掴んで抑えた。まだゼツの耳には『竜』の鳴き声がこびりついて離れていない。眼に焼きついた、あの赤い双眸が思い起こされる。

 

「大丈夫だったのか?」

「死んだと思ったが? 怪我は、軽かったが」

「だよな」

 

 『竜』に、両足で地面に押さえつけられ、死を覚悟した。口の奥より見えた、鉄を食い千切る牙。がっしりと押さえられ、脱け出すことができなくなった絶望。肝が縮みあがるどころか、魂まで冷える。

 

「で、少年が『竜』を操って、助けられたと」

「そうなる。結果的にはな」

 

 冷たく言い放った。

 

「結果的にはって……助けてくれた相手を問答無用で取っ捕まえて、処刑しようとすりゃ、ガジン様が少年を不憫に思うのは仕方ねーだろ」

 

 ケイの言い分は正しい。少年にどのような目的があったかは知らないが、あの場にいた全員が助けられたのは、紛れもない事実である。だが、ゼツは、命が助かった喜びよりも、国を転覆させかけない、嵐の到来に慄いた。

 

「少年の目的は知らん。助けてくれたことに恩を感じていないわけではない。――だけれども、存在そのものが危険な人間は、得てしてこの世にいる。それを、未然に消すは我らの役目」

「…………わかってる。オレらの役目もな」

 

 ばつが悪そうに、ケイが顔を逸らした。

 

「でもよ、じゃあ、なんで()()()()()()()()()()、なんて命令が出るんだ? しかも、傷つけるなって、厳命もされたぞ」

「考えられる可能性は、いくつかあるが」

「他のかの民の所在を吐かせる、〈竜奴ノ業〉について厳重に封印、まあ、色々あるか……」

 

 ケイの言う通り、調べあげればならない件は多くある。しかし、本当にそれだけなのか、ゼツは疑問だった。命を受けた時から、違和感が胸の内に巣くい続けていたのだ。

 いつもならば理路整然とした帝の行動が、ちぐはぐとしていたからだった。

 少年の処刑命令も、まだ取り調べがろくに進んでいない状況で下された。あの帝が、伝承や言い伝えなどを恐れて、国の大事を解決するための手掛かりを消そうとするはずがない。

 仮に一刻も早く少年を消したいのであれば、生かして捕えろという命令が矛盾する。

 

(いったい、帝はどうされたいのだ?)

 

 ゼツは、自分の浅さに失笑しそうになった。

 ――余計なことだ。帝のお考えを、俺ごときが測ろうなど、不敬である。

 

「少年は、笛で『竜』を操っていた。音が聞こえたら注意しろ」

「げ……それじゃ、もう『竜』を操ってこっちに向かわせてるんじゃないか」

「いや、それはない、と思う」

 

 突然、倒れた少年の酷い疲労を思い出した。

 

「どうして?」

「笛を吹いたあと、凄まじい『气』の消費に、倒れ込むぐらいだ。追われているこの状況で、そんな馬鹿な真似はしないだろう。やろうとしてもガジン様が止めるだろう」

 

 ゼツは『竜』に襲われたさいに追った、腕の傷を押さえた。平然と『竜』について話し、負傷した槍士たちの手当てをしていた少年の、素朴な顔が浮かんだ。

 空のように青かった、人ならざる瞳。十一の年齢ではあまりに落ち着きすぎていた態度、『气』の動き。あれを子供だとは、とてもではないが、思えなかった。

 

「痛むのか?」

「大丈夫だ。もう十分に癒えている。任務に支障はない」

 

 言って、ゼツは立ち上がった。

 

「時間だ、行こう」

 

 訓練によって、正確に刻まれた体内時計が、四半刻経ったことを告げていた。

 

「ああ、ああ、わかったぜ、オレも腹ぁ括った……!」

 

 自分に気合を入れるように両膝を、ばんと叩いて、ケイは勢いよく立った。予定通り、休息を追えて、追跡を再開する。

 

「体を休めたんだ。お互い、気をつけて進むぞ。もう、無駄口は無しだ」

「ああ、了解」

 

 黙々と、ゼツとケイは標的の跡を追い始めた。獣道に生える草木をかき分け、地面に刻まれた痕跡を追い続けること、半刻。戸が開かれたように、ぱっと視界が変わった。

 草原が、半円形に広がっていた。ここは、四方を山の中に隠されていた草原だった。今まで歩き続けてきたか細い獣道は、この広間に通じていたのだ。

 肌を押しつけられる圧迫感がさらに強まり始め、いよいよ〈竜域〉が間近に迫って来ていることを、ゼツは察知する。

 

「〈竜域〉の入り口ってのは、あれだよな?」

 

 ケイが、半円形の土地の頂点部を指さした。門があるわけでも、変わったところがあるわけでもない。周囲に木々と、変化はないように見えた。

 

「ああ、間違いない、あそこが入り口だ」

 

 冷気。森の奥から、そうとしか形容できない、冷たい『气』が吹きつけてくる。暖かい春の気温を打ち消しているのではないか。そう感じるほどに、体が怖気を訴えてくる。

 ――行くな、死ぬぞ。

 体が訴えてきた。心臓あたりがおかしな動きをしたせいか、鼓動のたびに痛む。

 

「二人一組じゃなく、三人一組にした方がよかったか」

「人数はもう、ここまで来たら関係ねえだろ……」

 

 低木が無くなったお陰で、痕跡は見つけやすくなったが、精神はぎりぎりと万力で締めつけられていた。汗が止まらない。額に浮かんだ汗が、玉になって雑草のうえに垂れた。

 

「ゼツ、見ろ」

 

 ケイが、足跡を指さした。二人の痕跡は〈竜域〉への道を逸れて、右側の山へ向かっている。

 

「どうやら、さすがに〈竜域〉に入るようなことはしなかったらしいぜ」

 

 心底、ほっとしたように、ケイは息を吐き出した。

 

「ここは……右の山を越えれば、一日ほど歩けば、小さな氏族の村に出たはず」

 

 頭の中にある地図を眺めて、先にあるものを導き出した。村に立ち寄れば、さらに別の村を経由して、街路を迂回しながら北へ向かえる。

 

「ガジン様は『外様』の出だし、誰かが庇って口をつぐんでいても、不思議はない」

「もう一度、近辺の村をすべて洗わせるか?」

「ああ、村に向かわせる者は、できればその近くの出身者がいい」

 

 鷹が戻って来るのはまだ当分先だ。一刻も早く、報告に戻り〈八竜槍〉に伝えなければならなくなった。ゼツは、ケイに向き直って言った。

 

「ケイ、先に戻ってロウハ様にこのことを伝えろ。俺は周囲を調べてみる」

 

 ケイが、驚いた顔をした。

 

「あ……? おいおい、報告はお前の役目だろ? それに、調べるならオレが」

「いや、俺がやる」

 

 ケイの提案を、ゼツは遮って続けた。

 

「無くなった俺の村は、この地域にあってな。追うなら、俺の方が適任だ」

 

 若干、苦しい言い訳だったが、ケイは苦々しくうなずいた。

 

「そう、か、わかった、任せる」

 

 ケイは、気まずそうにして顔を逸らした。『外様』にとって故郷とは自らの体の一部に等しい。それを失った者の胸中は、計り知れない。ゼツは、偽りの身分である。だが、生まれ故郷が無くなるのは、小さな出来事ではないのは、理解できる。

 

「陣営に戻り〈影〉の報告者が集まっても、俺が戻らなければ、なにかあったと思ってくれ」

「了解。気をつけろよ」

 

 ゼツは、笑った。

 

「なに、ガジン様は無為に人の命を奪う御方ではない。捕まったとして、殺されはせんよ。――行け」

 

 〈影〉らしく、風のような速さで、音も立てずに駆けて行った。

 ケイを見送り、痕跡を追おうとして、痛みが走った。ゼツは、すこし前に負傷していた右手を握った。

 

(なんだ……〈竜域〉に近づくごとに痛みが、強くなってきている?)

 

 傷口は塞がっているが、体内にわずかに留まっている〈竜气〉が、〈竜域〉から流れ込んで来る『气』に反応しているのか、痛みが増している。

 

(さっさと離れろと、体が警告してきているのか、これは)

 

 もしそうであれば、早く退散するにこしたことはない。ゼツは、右側の山に続く痕跡を追い始めた。〈竜域〉から離れるごとに、右手の痛みは次第に引いていった。何度か、手を開閉して調子を確かめると、歩く速度をあげた。

 目標の二人が逃げ込んだ山は、傾斜は緩く、足場もしっかりとしていて、進むのに苦労はなかった。小山を登り切ると、日差は弱まり始めていた。

 光が、新たに芽吹いた、新緑の葉を薄く透かせている。温暖な気候を感じさせる風が、木々の枝と葉を軽く揺らしている。――肩に、土が落ちて来た。

 

「土……木の枝から?」

 

 肩の土を手に取り、擦り、臭いを確かめる。

 

(この山の土ではない。なぜ、こんな物が枝から……)

 

 すこしばかりの疑問。なにか、おかしい。

 

「跡は、先に続いている……」

 

 だが、ゼツは足を止めた。長い間、〈闇〉として働いてきた経験によって培われた勘が、止まれ、よく考えれとささやいている。

 

(違和感、今までと、なにかが違う。だが、それはなんだ?)

 

 足跡を、もう一度よく観察する。二つの跡は、地面にはっきりとついて、村の方角に向かっている。ゼツは、はっとした。

 

(そうだ、これだ! 今までのガジン様は、これだけはっきりと手掛かりを残していなかった!)

 

 痕跡が見つかり難かったからこそ、追跡が難航していたのだ。だが、ここにきてまるで誘導するかのように、これみよがしに痕が残されている。

 

(それに、この足跡、よくいれば、少年のものが、すこしだが沈み込みが浅い。こちら側に誘われたッ)

 

 ゼツは、首筋に冷たい汗が伝ったのがわかった。狩人である自分が、相手の思惑の糸に絡めとられた哀れな獲物に成り下がったのを自覚する。

 

「……ッ!」

 

 腰の短刀に手を掛けた。意識を切り替える。木々の葉の揺れ、獣、虫が動く音と気配が、膨大な量の情報が一気に広がった知覚から入り込んで来る。緊張で、どっと、汗が噴き出た。

 視線を巡らせ、どの方向から襲撃が来てもいいように構えていたが、小鳥のせせらぎが辺りに響くだけで、攻撃はなかった。

 ゆっくりと短刀から手を離し、ゼツは全身の力を抜く。待ち伏せされていたわけではなく、こちら側に誘導されていただけだったようだ。罠もない。だが、これが誘導となると、彼らはどこにいるのかがわからなくなった。

 

(どこにいる? この先にいないなら、どこに向かった?)

 

 足元に落ちた、土が目に入った。

 

「土、枝から落ちて…………!」

 

 ゼツは、頭上を見あげた。視線の先には、太い幹が支える、頑丈な枝が生えている。それらはまるで橋を渡すかのように連なっていた。人がひとり乗っても、まったく問題がなさそうな枝だ。思わず、大きな舌打ちが出た。

 

(馬鹿か、俺はッ。下ばかりに目がいって、上を見ていなかった!)

 

 ここまで歩いて来たのだ。そして、この辺りまで来ると、木へと跳躍し、別の方向へ逃げた。土が落ちて来た枝の上へ跳んで、ゼツは痕跡を確かめた。葉が不自然に千切れている枝や、土、擦れている跡などが見つかった。

 

(逆方向へ、来た道を戻っている?)

 

 さらに別の枝に跳ぶ。やはり、跡は逆に向かっている。この先に戻ったとしても、逃げ道は無い。

 ――あるのは〈竜域〉だけで……。

 考えて、ゼツは寒気を覚えた。

 

(そうだ、最初、俺らはガジン様が〈竜域〉に行ったと予想していた)

 

 見事、予想は的中していたのだ。この状況で来た道を戻るなど、もう〈竜域〉へ入ったとした考えられない。

 枝から枝へ移り、跡を追い続けると、やはり〈竜域〉の入り口近くで、木から降りていた。

 我慢できないほどではないが、また右手の痛みが強まり出した。治りかけのかさぶたがはがれた程度の痛みだ。任務に支障をきたすものではない。

 問題があるのは俺だと、激しくなる動悸を抑え込む。

 

(行くべきか? いや、戻るか? だが、跡を見る限り、時間はそれほど経っていない。一刻、くらい前か。追いつけるかもしれないが……)

 

 追うか、退くか。発見される危険と、〈闇〉として与えられたもうひとつの任務との間で、決断を迷う。〈影〉であるゼツの仕事は、二人の行く先を突き止め、他の〈八竜槍〉に報告することだ。〈闇〉の役目をまっとうするには、他の〈影〉がいては不可能だった。

 今は、任務を果たす好機だ。相手が〈竜域〉などに入っていなければ。

 

「よし、行くぞ、行くぞ……」

 

 考え込んだ末、ゼツは進む意思を固めた。〈竜域〉の内部へと侵入する。

 地図に載っていない〈竜域〉に、明確な区分があるわけではない。が、この先がそうだと確信させる雰囲気が、周囲にはあった。ここでは、お前こそが異物なのだ――辺りにある植物たちが、耳元でささやいてきている気がした。

 ゼツは、自分の弱さがもたらす思い込みだ、と喝を入れて追跡を続ける。

 大きく息を吸って『气法』による身体強化を全開にし、異変をひとつも見逃さないよう意識を高めた。

 〈竜域〉の中は、ゼツが見たことのない植物がほとんどだった。毒を持つ種があるかもしれないので、細心の注意を払いながら進む。

 入る前に感じていた圧迫感は、今なお続いていたが、景色はそれに反して驚くほど穏やかだ。葉の隙間から差し込んでくる夕陽が、光の帯のようになり、森を照らしている。

 物語に出てくる悪党が住む、薄暗く、うっそうとしていて、不気味な森ではない。

 だが、ゼツは自らの手すら見えない暗闇に包まれたような怖さに包まれていた。

 ここには、人間の気配が、文明がない。人が、自分たちを守るために築いた規則、枠組みといった代物が、一切通用しない領域である。襤褸姿で雪原に放り出されたのと同じだ。

 非文明圏に己が身をたったひとりで置いていることが、心細さを加速させた。

 ――人の手が届いていない場所とは、こうも空恐ろしいものか

 一歩を踏み出すごとに、生還への確立が減り続けていると思った。

 

(苦しい、それに、体が、重い)

 

 頭上から、途轍もない巨大な力の一部が、膝を折ろうとしてくる。

 耳鳴りが酷い。脹脛が、鉛でも注入されたかのように重く、動かなくなり始めた。つむじあたりから、鋭い頭痛がし出した。

 

「な、なん、だ……?」

 

 〈竜域〉に入って、まだ四半刻と経っていない。突然の、凄まじい体調の変化に、ゼツは判断を誤ったことを思い知らされた。

 

(忘れて、いた。ここは……)

 

 ――人が近寄れぬ、『竜』が住まう地だ……。

 ぐらぐらと視界が揺れる。視覚に異常が出始めたのか、世界から色彩が失われた。灰色に変貌した森にある痕跡が、追えなくなる。挙句、上下左右すら覚束なくなり、すべてが溶け出して消えていこうとしていた。

 

(ま、ずい……)

 

 体から、意識がべりべりと音を立てて引き剥がされ始めていた。この〈竜域〉に満ちる神聖な力が、不埒者を排除しようとしている……。

 足が支えを失い、地面に突っ伏しかけた時だった。脳裏に〈闇ノ司〉の言葉が聞こえた。

 

『任を果たせず死ぬは、帝の顔に泥を塗ることと心得よ』

 

 初めて見た帝の尊顔が思い起こされる。

 ――あの御方の顔に、泥を塗る……?

 

「あ、が、ぬう……!」

 

 腹の奥に力を入れ、踏ん張り、乖離しかけていた意識を取り戻す。混濁していた思考が明瞭になり、視覚に色が舞い戻った。神聖な力との綱引きに、ゼツはなんとか打ち勝った。

 

(意志を、心を強くもて……でないと、呑み込まれて、俺は死ぬ)

 

 頭を強く振り、こめかみを叩いて気合を入れた。

 ゼツは、跡を見る。ふらついていたせいで、三間ほど離れてしまっていた。

 醜態にもほどがある。ゼツは自分の迂闊さと未熟さに苛立った。年季の差があるとはいえ〈闇ノ司〉は、何事にも動じず、予想外の事態にも冷静に対処していた。これが常時できるようにならなければ、この命、長くは帝のために使えない。

 改めて、自分の至らなさを確認し、ゼツが追跡を再開しようとした、その時だった。

 音が森中に響いた。

 

「――ッ!?」

 

 ようやく元に戻り始めていたゼツの顔色が、また青ざめた。

 似た音を最近、聞いた。結果、なにが起こったかを、ゼツは体験から知っている。

 咄嗟に、腰の短刀に手が伸びた。どこからまた、あの牙と爪が自分の喉元を目掛けて食い千切りに来るのではないかと警戒する。

 まだ、音は断続的に鳴っている。ゼツは、その場にじっとして動かず、『竜』が襲い掛かって来ないことを祈った。

 音が止むと、、今度は鳴き声が聞こえた。こちらは明らかに肉声だった。人が声を真似て空気を吹き込むことによって作り出した音ではない。一定の間隔で、音と鳴き声は響く。なにかを伝え合っているかのようでもある。

 さぁ……と、骨身にまで染み渡る底冷えする風が、ゼツの内に吹いた。鳥肌が立つ。

 

「『竜』と、会話を、している?」

 

 理解不能、意味不明な現実が、驟雨のごとく降り注いできた。あの少年は、確かに、今、『竜』と互いの意志を伝え合っている。その現実に、ゼツはしばし呆然としてしまった。

 

(……! 呆けている場合かッ。音が聞こえるなら、そう遠くないところにいる!)

 

 初めて、相手を捉える距離まで接近できたのだ。慎重に行かなければならなかった。もし、一目散に逃げられれば、今までの苦労は水の泡になる。

 

(落ち着け、あの音は、おそらく俺を襲わせるためのものじゃない。笛の音と違っていた。『竜』の声とかなり似ていた。多分、指笛だ)

 

 『竜』を操るには、相応の負荷が体にのしかかる。ゼツは、少年の消耗具合から、そう分析していた。

 着実に、しっかりと対象との距離を縮めて行く。予想していたよりずっと走り易い。下半身への負担は最小限で済み、ゼツにとっては幸運であった。『竜』と遭遇もせず、順調に進むことができた。

 やがて、足跡がどんどん新しい物へと変わっていった。大地に刻まれた微弱な『气』も、徐々に濃く残り始めている。

 

(捉えた……!)

 

 目標との距離、およそ三百間。ゼツは、ついに相手を自分の射程距離に収めた。これならば、よほどのことがない限り、振り切られる心配はない。

 足運びを変える。走りから、歩きへ。

 相手は〈八竜槍〉である。焦って無理に追いつこうとすれば、たちまち勘づかれてしまう。

 

(この行動が正解かは、わからないが……)

 

 まだ、ゼツはガジンの『本気』を知らない。彼が稽古をしている姿を見たことはあった。だが、そのどれもが、全身全霊を傾けていたとは、とてもではないが思えない。相手の底が真っ暗闇であるせいで、結局、ゼツは定石通りに動くしかなかった。

 恐ろしい。底が見えない相手とは、どこまでも不気味。覚悟はしていても、全身に纏わりついてくる粘っこい圧力は消えなかった。

 静かに息を吐き出し、追い続ける。つかず、離れず、機を窺いながら、一歩ずつ距離を詰めて行く。百間を切ったあたりから、ゼツはさらに歩く速度を緩め、水滴が岩を穿つような動きで、接近していく。

 いつの間にか、日は傾き、空は暗くなり始めていた。

 より一層、彼らを見失わないよう、細心の注意を払いながら追いかける。あの二人は、今のゼツにとって命綱に等しい。『竜』と話せるのならば、野宿するさい近くにいれば襲われる心配はないはずだからだ。

 日が完全に落ち切る前、とうとうゼツは標的を視界に捉えた。

 

(ここで、野宿するつもりか)

 

 森の割れ目のような場所だ。彼らが野営に選んだところは、地域を区切る線のように草木がない。手前と奥では植生も見るからに違う。なにかの境界線のようにゼツには見えた。

 少年が薪に火をつけていた。彼の周囲には、四方に地面へ打った杭を縄で繋ぎ、鳴子、のようなものがぶら下がっている。用途は侵入者が近づいて来た時のためのものだろうが、こんな杜撰な仕掛け方では〈影〉どころか、素人にだって簡単に見つけられる。

 どうして、こんな仕掛け方をするのだろうか。まるで獣を対象としたかのようなやり方だ。

 ゼツは、木陰から読み取れるだけの情報を分析していた。すると、いい具合に火を熾せた少年は、声をあげた。

 

「ガジンさん、火、つきましたよ。大丈夫そうです」

 

 だが、少年の目線の先には、誰もいない。

 

(……? ――ッ! しま)

 

 首筋に、ひんやりとした固い物が当たった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十四話 〈竜域〉での探り合い

「追手はお前だったか、ゼツ」

 

 〈竜域〉に身を置いてなお、皇国最強の男は、以前と変わらない口調だった。恐々としながら、ゼツは振り向いた。

 

「……お久しぶりです、ガジン様」

「久しぶりでもあるまい」

 

 のど元に槍が突きつけられている。動くことをガジンが許したのは、こちらがなにをしようが一瞬で仕留められるからだ。それだけ隔絶した実力差がある。

 だが、ゼツは、安堵を覚えていた。この人が近くにいれば『竜』に殺される心配もない。〈竜域〉のど真ん中で野宿し始めるくらいだ、『竜』への対策はいくつもあるのだろう。

 

「ガジンさん、その人が?」

 

 件の少年が近寄って来た。〈青眼〉は、事件の渦中にいるとはとても思えないくらい、澄んでいた。居心地がいいようにすら見える。

 

「ああ、追手の者だ」

「そうですか……あれ、貴方は、手を怪我してた人」

 

 顔を覚えられていた。あの時、結構な数の負傷者を手当てしていたはずだが、この小さな少年は、意外と記憶力はいいようだった。

 

「お前が『竜』に襲われないか、ひやひやしていたぞ。リュウモに感謝するといい。途中で音が聞こえただろう? あれがなければ『竜』がお前に飛びかかっていたところだ」

「……やはり、あれは『竜』と話し合っていたのですね……」

「そうなるか。まあ、そういうことだ。私たちから離れれば、たちまち『竜』に襲われる。逃走は考えん方がいいぞ?」

 

 驚くことに、敵対者を前にして、ガジンはのどから槍を下げた。それから焚火の方へ歩いた。暢気な、とゼツは思ったが、こんな環境だ、開き直っているのかもしれない。槍を下げたのは、仮に〈影〉が逃げに徹したとしても、追うまでもなく『竜』が始末してくれると考えているのだろう。

 ゼツも、夜になる、しかもまったく土地勘がない森で動き回る馬鹿ではない。鳴子の縄を触れないように超えて、彼らが座る焚火の近くに腰を下ろした。

 

「これだけ隙を見せても、攻撃する素振りすら見せないとはな。私たちを消せとは命じられていないか」

「――我ら〈影〉が命じられたのは、貴方たち二人の捕縛。そして皇都へお連れすること。それ以外はなにも」

「私に言ってしまっていいのか」

「貴方様とて、薄々感じ取られていたはず。背任に等しい行いをして、手配書の一枚も出回っていないのですから」

「秘密裏に処理したいだけとは考えていたが、私はそこまで頭が回る男ではないよ」

 

 気軽いに言いながらも、手から〈竜槍〉を離していない。もし、少年へ短刀を向けようなら、即座に穂先が腕の健を断ち切りに飛んでくるだろう。

 

「あ、あの、喧嘩は止めてくださいね? 血の臭いとか、騒ぎを聞きつけて『竜』が集まってくるかもしれないので……」

 

 不穏な空気を感じ取った少年が、恐る恐る控えめに言った。

 

「む、この中にいれば、安全ではないのか?」

「この大きさの〈竜域〉なら、この鳴子で十分ですけど、食事中も寝る時も、『竜』に睨みつけられたまますごしたいですか?」

「だそうだ、ゼツ。騒ぎを起こすなとさ」

「この地で、荒らすような行為はいたしません。ここは、我らが住む領域ではないのですから」

 

 〈竜域〉で無体を働けば、待つのは死だ。一個人が、巨大な自然に勝ることはない。自然の一部である『竜』に人は基本的に勝てないのだ。

 人は、文明を発展させるために山を切り開き、木を切り倒し、征服してきたが、未だに〈竜域〉には打ち勝てないでいる。もっとも、神ノ御遣いたる『竜』を害しようなど、普通はまったく考えない。だから、こういった土地に人の手が入ることは永遠にないだろう。

 

「なら、大丈夫です。ゼツさん、鳴子の外には絶対に出ないでください。死にたいなら、いいですけど」

「ここでは君に従うのが利口そうだな」

 

 両手をあげて、ゼツは降参した。改めて、この奇妙な組み合わせの二人組を観察し始めた。

 黙々と鍋を作る少年に、ただ料理ができあがるのを待つ大人という、なんとも変な光景がそこにあった。

 

「ガジン様、〈禍ノ民〉とはいえ、いくらなんでも子供にすべて任せるのは、どうなのです?」

「前にな、私が作ったら、味が雑だと言われて、以降はこの子に任せてある……」

「そ、そうですか、それは、なんと言うか」

 

 ――情けない限りというか……。

 口から出そうになった言葉を、ゼツは飲み干して腹の中にしまった。情けない姿をさらしている相手に、さらに追撃を加えるほど、ゼツは非道ではない。上司ならなおさらである。

 

「いや、まあ、鍋物にはこだわりがあるようでな。これがまた美味い。結局、私が手を出すと味がばらばらになるので、任せきっているだけだ――勿論、片付けは手伝うぞ?」

 

 言い訳染みた言葉を並べるガジンを、生暖かい視線を投げつけたあと、漂ってくるいい匂いにつられて、焚火の方を見た。

 

「なるほど、確かに美味そうですな」

 

 ここ数日、まともな料理と呼べる物を口にしていなかったせいで、猛烈に腹が減り始めた。ゼツの腹の中の虫が、抗議の声を大にして張り上げる。

 

「ガジンさん……」

 

 物悲しそうな目で、少年に見られた。

 

「ああ、すこしぐらい分けてやってもかまわんさ。どうせ、この先に立ち寄る場所で補給する」

 

 聞き逃せないことが耳に入った。

 

「行先を教えていただけると助かるのですが?」

「さて、何処になるかな。今のところ予定は決まっていない」

 

 軽く流された。当たり前だが、簡単に行先を教えてはくれない。しかし、このままついて行けば、どの街に寄るのかはわかるはずだった。〈竜域〉を出た方向で、おおよその予測はつけることができる。

 

(さて、俺の仕事を始めるか)

 

 接触は、思った以上に簡単にできた。警戒されてはいるが、積極的に排斥してくる様子はない。ゼツは、話を切り出す機会をうかがった。

 

「どうぞ」

 

 と、鍋を作り終えた少年――リュウモが、椀を差し出してきた。なるほど、確かに美味そうである。大雑把な男料理とは違う。具材はすべて均等に切られ、切り口も見事だ。盛り方も、丁度よくなっており、偏っていない。

 ゼツが感心している間、リュウモは手慣れた動作で新しい椀に鍋の中身を入れて、ガジンへ手渡した。

 彼が口をつけてから、ゼツも食べ始める。

 

(まあ、毒なんて入れてるわけもないが、一応、用心しておくにこしたことはないからな)

 

 椀に毒の類が塗りこまれていないのは、渡された時点で確認はした。もっとも、そんな小細工をしなくても、手を握る程度の気軽さで、ガジンは相対している者の息の音を止めるれる。

 汁物を熱がりながらすすっている方の肩に立てかけている槍は、彼らに危害を加えようとした瞬間、ゼツの喉元を食い破る。

 元々、〈八竜槍〉の間合いに入ったが最後、どのような手段を講じようとも意味は無い。

 逃走、迎撃も不可能である。ある意味、すでに死んでいるようなものだった。

 恐ろしいが、同時に彼が無意味な殺しをするはずがないと、ゼツは知っている。

 汁物を口に含んだ。

 

「お、これは、確かに美味い」

 

 つい、乾燥がこぼれた。携帯食しか口にしていなかったせいで、余計に美味に思える。味噌がいい具合に効いていた。

 さすがに、皇都の料亭で出る料理の方が上等だが。味付けは、あまり食したことのない、不思議な暖かさがある。

 

(月並みな言い方だが、素材本来の持ち味を生かしている、のかこれは)

 

 ゼツは、すべてをあっという間に平らげた。

 美味い料理を食べれば、精神は落ち着いてくるものだ。腹に食べ物が詰まる幸福感をかみしめ、一息ついて、ゼツは本題を切り出した。

 

「ガジン様、此度の件、いったいどういうおつもりにございますか」

 

 空気が変わったのを、二人は察したのだろう。中身の無くなった椀を地面に置くと、彼らはゼツに向き直った。

 

「私はただ、事件の解決に向けて動いているだけだ。帝がこの子を殺し、すべてを闇に葬ってしまう前にな」

「帝にはお考えが」

「砦で保護した〈青眼〉の男は、すでにこの世にいない。帝が直に言った言葉だ」

 

 ゼツは初耳だったが、さして驚くべき事柄ではない。いてはいけない人物を消した。ただそれだけである。

 消した人物から吐かせた情報を使って〈闇〉である自分たちが『後始末』をするだけ。ゼツにとって、変わった話ではない。むしろ、よくある。

 

「あのまま放っておけば、帝は国のために一切を消し去ってしまう。その中に、国を救う手立てがあるとも知らずにだ」

 

 ゼツは、ガジンの言い分を黙って聞いていた。

 ――この御方には、確信がおありだ。

 このままでは、国が滅びる未来が、彼には見えている。最悪を回避するために、自らの地位と信頼を捨てたのだ。

 

「だから、許されぬと知りながら、国に、帝に背いたのですか」

「国も、帝も、このままでは全部が燃え朽ちる。人がいなくなった時、地位や身分にどれだけの意味がある? 無い、まったくな」

 

 相手を咎める、きつい口調だった。すべてが露と消えゆく前に、なにを取り繕っているのかと。

 

「では、貴方様が見つけた真実を、帝に申しあげればよろしかろう」

「言ったさ。返答は否、だったよ」

 

 諦観を含んだから笑いが、暗い森に伝わった。

 

「帝が、そこまで愚かとお思いか」

「いいや。だが、帝だからこそ、このような選択しかできなかったのだと、私には思えたがな」

 

 ガジンは、眉をひそめた。

 

「おれが〈禍ノ民〉だから」

 

 そこまで、話を聞いているだけだったリュウモが、初めて口を開いた。

 

「〈禍ノ民〉だから、帝はおれを認められなくて、殺すしかないって、ことですか?」

 

 端的に、あらゆる要素を拝して言うなら、その通りだ。非常な現実だが、これが事実なのだ。ゼツは、それでも首を縦に振れなかった。少年に、乾いた現状を突きつけることに、迷いを覚えたからだった。

 

「そうだ。帝はお前が〈竜守ノ民〉であるがために、殺そうとしている」

 

 ガジンは静かに言い、子供に惨い現実を叩きつけた。

 

「そう、ですか……」

 

 対して、リュウモはそれだけ言って、鍋を片付け始めた。

 妙な沈黙が垂れ込め、ゼツは口を閉じた。舌には、まだ暖かい感触が残っている。

 

「もし、おれがいなくなることが、決まっていたら、帝はおれをこれ以上追わないでくれますか」

「なに……?」

 

 死んでくれるならば、こちらで手を下す手間が省ける。ゼツは、現状の損得勘定を脳裏で行う。リュウモの青い眼は、嘘を言っていない。

 

「待て、どういうことだ、聞いていないぞ」

 

 ガジンが厳しい表情で問い詰める。

 

「多分、〈竜峰〉で笛を奏で、『竜』を鎮めたら、おれは、死にます」

 

 静かに、おのれの死を、少年は予見した。

 

「あのとき、ジョウハさんの村で『竜』を鎮めたとき、急激に体から『气』が抜け出ました。あれくらいの数で、气虚になるなら、きっと〈竜峰〉ですべての『竜』を正気に戻したら……」

 

 ゼツは、少年がいきなり倒れ込み、皇都の牢に入れられても目を覚まさなかったことを思い出す。气虚は、体内にある自分の『气』が枯渇しかけた状態を言う。

 体が「もう『气』を使えない。使ったら死ぬ」と訴える。もし、肉体からの上訴を跳ね除けてしまったら、どうなるのか。

 答えは、リュウモが言った通りである。

 

「笛を使って鎮めた奏者も、亡くなったそうです。元々、体が強くなかった人らしいですけど、目覚めてもいない、体が出来あがっていないおれが奏でれば、どうなるかなんて」

 

 ガジンが絶句する。

 

(なるほど、確かに手間が省けていい)

 

 『竜』が鎮まり、それでいて少年が死ねば後処理も非常に楽だ。

 だが――。

 北方の『外様』は少年の後を追っている。〈闇〉の中に様々な情報が飛び交い、とりわけ危険な北方の領主たちが積極的に動いているという。

 ゼツは国の在り方について是非を問うことはしない。やるべき定めに従い、おのれが磨いて来た技術を帝のために使うのみである。

 

「なぜそれを言わなかったッ!」

 

 ガジンの怒鳴り声に、周囲のいた獣たちが一斉に逃げ出した。暗闇の奥でうごめく巨大な生き物の気配もする。ゼツの肝が冷える。

 

「言っても、意味がないじゃないですか。おれがやらないと、誰かが死ぬ。そんなの、嫌です」

「…………ッ」

 

 皇国最強の男の顔が、少年の意志によって歪む。

 ガジンの様子に、ゼツはすこし、いや大いに驚いた。

 彼は子供が嫌いであった。何年も共に任をこなしてきたからこそ、ゼツは筋金入りの子供嫌いを知っている。

 問おうとは思わなかったし、こういった過剰反応を示すのは、過去になにかがあった証でもある。

 忌避する感情や対象を跳ね除けるほど、ガジンは少年に入れ込んでいるらしい。彼自身、自覚はないようだが。

 

「お願いです、おれを追わないでください」

 

 青い、真っ直ぐで無垢な目が、ゼツを射抜こうとする。強い、覚悟と意志を感じた。

 ――()()()()()()()()

 どのような種類のものであれ、強さは人を惹き付ける。大小、性別、身分など関係ない。

 少年は、万人を魅せる、言語化できない空気を放っている。一瞬、無意識の内に首を縦に振ってしまいそうになった。

 

「私に言っても無意味だ、少年」

 

 だから、ゼツはいつものように心を冷え込ませる。相手の事情や背景など知ったことではない。帝より賜った命を実行するだけの道具に変貌する。

 そうでもしないと、任務に支障をきたしそうだったのだ。

 少年の顔が悲痛に変わる。同情を誘うとしているわけではないだろう。

 ゼツは、少年、リュウモがそういった打算や策謀を張り巡らすことのできる人物には到底思えない。十一の少年に、〈闇〉を出し抜く策を考えろというのが土台無理な話だ。

 ――だから、恐ろしいのだ。

 相容れない存在だ。ただあるがままにするだけで誰かに訴えかける人間の性質の悪さを、ゼツは任務上、身をもって知っていた。

 

「リュウモ、無駄だ。この男はなにを言われようと任務を放棄するようなことはせん。無駄話はここまでにしよう。お前はどうする、ゼツ」

「どうする、と申されましても」

「我々はここから出るが、その後どうせ報告に戻るだろう。それとも、今から鳴子から出て行くか?」

「遠慮しておきます。わざわざ自殺しに行くほど、酔狂な性格ではありませんので」

 

 ゼツはおどけて言ってみせた。どうせ、槍が届く範囲にいたら逃げ切るなどできないのだ。お世話になった方が幾分かましだろう。

 

「……少年、ひとつ聞きたい」

 

 リュウモはうつむいていた顔をあげた。

 

「なぜ、それほどまでに、頑なに北へゆこうとする。君に、なにか利益があるのか。それとも、本当に世の中を再び動乱に陥れたいのか?」

 

 利益、野心、野望。大望を抱く人間に得てしてある意思。

 おのれの命を投げ打ってまでに、帝に逆らってまで禁忌へと進む少年の心根を、ゼツは探ろうとした。

 

「国のこととか、利益とか、おれにはわかりません。ただ、ただ……もう、燃える村や人を、見たくないんです」

 

 そう言ったリュウモの青い瞳には、暗い、陰鬱な黒い感情が差しているように、ゼツには見えた。

 少年の返答に、増々ゼツの胸へうず高く危機感が積もった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十五話 〈八竜槍〉、二人

 ロウハは、夕暮れの天幕の下で、報告を待っていた。

 簡易的な椅子がいくつか並べられ、隣にはイスズが座っている。彫像のように目を閉じ、瞑想している彼女に緊張の色は見受けられない。

 

「…………」

 

 会話が、無い。実務のこととなると、堰が壊れたように、次から次へと言葉が溢れてくるのものだったが、会議が終わると、ぱたりと止んでしまった。

 ロウハは、どうもイスズとの距離間の取り方に手こずっていた。男相手ならいざ知らず、女で十七ときたものだ。しかも、超を三つは付けてようやく表現できるぐらいの、高貴な家の出である。

 

(いやいや、俺は悪くないだろ、これ)

 

 天幕を上から押し潰しそうな、重い沈黙にロウハはそろそろ耐えかねていた。元より、自分はガジンやラカンのように気が長く、耐え忍ぶような性格をしていない。口を開いて、なにか話そうとするのだが――。

 

(なんも話題が浮かんでこねぇ!)

 

 ロウハ。今年で三十六になる中年である。流行の移り変わり激しい皇都の女子と共有できる話題など、砂粒ひとつほども持っていなかった。そもそも、槍士には圧倒的に男が多い。偶に、女槍士がひとりも存在しなかった時期すらあったのだ。女の身でありながら槍士であるというのは、それだけで珍しいのだ。

 ロウハも、軍の任務で女槍士と同行するのは初めてだった。しかも、二十に満たない。

 ――どうすっかなぁ……。

 別に、会話は必要ではない。冷たい言い方だが、任務が果たせればそれでいい。しかし、今後を考えれば、結局、お互いを知り合っていた方がいいのだ。一度きり顔を合わせて、はい、お終い、ではないのだ。〈八竜槍〉として、これから何年もの間、仕事を共にする中になるのだから。

 

「おい、イスズ」

 

 彼女の名を呼び――邪魔をするように報告を持ってきた〈影〉が入って来た。必要以上の礼儀は不要と言ったのはロウハだったが、間が悪いと小言を零しそうだった。

 

「申し訳ありません、完全に見失いました」

 

 〈影〉の報告は、ロウハの愚痴を吹き飛ばして消すに足るものだった。

 

「見失った? どういうことです」

 

 瞑想していたイスズの目蓋が開かれ、きつい光が〈影〉の若者を見据えた。

 

「主要な街道、村、賛同、都、すべての〈影〉から、我標的を発見せずと。痕跡を追いましたが、途切れました」

 

 〈影〉の若者は、今にも駆け出して行きそうなほど、悔しさを滲ませている。弦か今で捜索を続けていたせいか、息は荒く、『气』の乱れが酷い。

 ロウハは、半ばこの結果を予想していたが、これだけ早い段階で手掛かりが無になったのは痛い。次の手をどう打とうか、考えていると、イスズが〈影〉の若者に杯を持って近づいた。

 

「報告、ご苦労。詳細を聞きましょう。――その前に、飲みなさい。強行軍の中、水分を補給しなければ、動きは鈍り、頭は回らなくなります」

「は、は……ありがとうございます」

 

 杯を若者は受け取ると、中身を喉を鳴らしながら一気に飲み干した。イスズの表情が、まったく動かないので、相手を気遣っているように見えないが、意外と人が良いらしかった。

 彼女が〈八竜槍〉に就任してから、目まぐるしい日々だった。宮廷は騒々しく、イスズと交流を持つ暇すらなかったのである。何度か顔を合わせただけで、込み入った話をしたことなど一度もなかった。

 ――まあ、性格は大丈夫だろう。

 イスズが就任したさいに、ロウハはそう思っていた。なにせ、あのガジンの弟子である。人柄に問題があれば、ガジンが槍を教えるはずがない。

 

「気が利かなかったな、許せ」

「い、いえ?! この疲れは我が未熟ゆえ……!」

 

 恐れおおくてしょうがないと、若者は頭を下げた。大袈裟な態度をとる〈影〉に、ロウハは苦笑する。

 

「詳しい報告をなさい」

 

 落ち着いた若者に、イスズは先を促した。〈影〉の若者は一息ついて、詳しい報告を始めた。最後まで聞き終えると、ロウハは卓上に広げられている北領の地図を、鋭い視線で睨んだ。

 

「痕跡が完全に消えたのは、皇都と大街路の、丁度、ど真ん中あたりか」

「左右には山……身を隠す場所はどこにでもあるように思えます」

 皇都と大街路の間は、整備された山間の街道を通らなければ、時間がかかる。街道の道を外れれば、当然ながら周りは山々に入ることになる。イスズが言うように、潜む場所はいくつもある。

「あれは、確かにど田舎育ちで、この辺りには詳しい。地の利はあいつにある。だがな、十一の子供ひとり連れて、〈影〉を振り切るのは無理だ。たとえ、あいつでもだ」

「ですが、現実に痕跡は消えている……」

 

 ロウハは、二人が消えた地点に、他になにがあるか、地図を眺めた。

 

「仮に、俺らがガジンなら、どう行動するかな」

 

 敵の行動を予想するのならば、まずは相手の視座に立って物事を考えよ――先代の〈八竜槍〉からの教えのひとつだった。それは、イスズにも伝えられている。

 

「先生の状況は、決してよくないはず。物資があるとはいえ、皇都で買った物量を鑑みれば、三日分程度。補給しなければ、北まではとても持ちません」

「加えて、育ち盛りの、十一になるわんぱく小僧がいる。買った分の食料を合わせても、三日以上ちんたらしていれば、食う物が無くなる」

「周りは山。食料は豊かですが、狩りにでもすれば〈影〉がすぐに痕を見つける。補給はできないはずです」

「つまりあいつは、現状を打開するためには、三日以内に、十一の子供を連れ、〈影〉に捕捉されないようこの地域を抜けて、大街路のような食料を補給できる場所に立ち寄らなければならない」

「先生の行動速度がいくら早くとも、この地帯を一日で通過できるとは考えられません」

「となれば、どこかに身を隠していると考えた方が自然だが、あいつめ、どこにいる?」

 

 すべての主要な街道には〈影〉の目を光らせた。彼らは優れた後追いの技を叩き込まれている。いくらガジンの痕跡を消す技が凄まじくとも、いちいちそんなことをしていれば、時間がかかりすぎ、追いつかれてしまう。連れの子供もいる中、〈影〉からの追跡を振り切るなど、土台無理なはずである。

 

「山に逃げ込んだのなら、〈影〉が見つけられないはずがありません」

「これだけの数を投入しているわけだしな」

 

 ――範囲を広げるか? いや、そうすると、すり抜けられるかもしれん。

 

「待ち伏せするのが、一番いいんだがな……」

「〈影〉では先生を見つけたとして。止められません。生きて捕らえよと命が下っている以上、わたしたちが先生に追いつくことが第一です」

「別れて、どこかの都に行くのは、選択肢としては、ありだが。一対一ではさすがに分が悪い。戦力の分散は、無理だな」

「賭けに出るのは、まだ止めた方がよいですね」

 

 この鬼ごっこは、ガジンにとって不利な状況から始まっている。だが、時間が経てば不測の事態が勃発するのは、こちら側だった。迅速に解決しなければ『外様』がどんな反応をするかわからないからだ。

 

「……〈影〉、形跡が消えた辺り、どんな地形で、なにがあった?」

「山間にある、ちょっとした平地で、左右には小高い山、左に行けば氏族の村へ、右は行き止まりです」

「その氏族の村は?」

「他の〈影〉にすべて調べさせましたが、いませんでした」

 

 ――誰かに匿われている線も消えた。

 念入りに、完璧に痕跡を消しているから、どこかの氏族に逃げ込んだかと思えば、違う。

 

「…………どうして、今まで速度を重視して、逃げ一辺倒だったのが、貴重な時間を浪費してまで、足跡を消したのか、わからん」

 

 疑問に、〈影〉の青年が答えた。

 

「行動に変化があらわれているということは、目的が変化した可能性があります」

「目的、変化――――逃走経路を、先生は変更した?」

「かと言って、左は行き止まりのどん詰まりだぞ? 行先を変えるにしても、あいつがそんな馬鹿げたことをするか?」

「しませんね、先生なら」

 

 〈八竜槍〉に就任したさい、軍事、軍略、指揮等を、教え込まれている。だから、利の無い行動には出ない。まして、自らを袋小路に追い詰めることは絶対にしない。逆に言えば、利があるのならば、多少の危険があろうと突き進む。

 

「発想を変えてみるか、目的を達成するために、どうしてもここを通らなければならないとしたら?」

「行き止まりの場所で、ですか?」

「ないか……」

 

 暗礁に乗り上げて、ロウハはもう一度、地図全体を眺めた。ガジンの考える行動をすべて考証してみても、そのどれもが当てはまらない。ふと、〈影〉に目を移すと、今更ながら、報告に来ている者が、違うことに気づいた。気になって、ロウハは聞いた。

 

「いつもの男はどうした?」

「は? ああ、いえ……。実は、痕跡が消えた場所で、二手に別れたのです。片方は報告へ、もうひとりは周囲を調べに。今はこちらに向かっているはずです。彼はこの近く出身なので、土地勘がありますので」

「そうか」

 

 〈影〉が言った場所の地点を見た。そこには、地形的に、進行方向には、足を進めるに困難なものは見当たらない。

 

「――? 地図上では、ここにはなにもないが、これは?」

「ガジン様の足跡が消えた、左の先は〈竜域〉です。前年に認定されたので、この地図にはまだ載っていませんが」

「なるほど、それなら、確かに行き止ま」

 

 『坊主にとっちゃ、〈竜域〉なんて、庭みたいなもんらしいぜ?』

 クウロが言ったことが、稲妻のように駆けた。

 

「〈竜域〉だ……やつら〈竜域〉の中にいる!」

 

 ロウハが言い放った内容を、二人が理解すると、〈影〉の青年が声を荒げた。

 

「馬鹿な! ガジン様といえど〈竜域〉は危険すぎます! それに、子供を連れて行くなど自殺行為――!」

「あいつが連れているガキは、いったい誰だ? ――かつて、国土が荒れ果てるまえの業をもたらし、今なお〈竜域〉の中で生活していたやつらだぞ」

 

 今更、帝の言葉が身に染みた。――侮るな、と任務に出る前に帝は、再三言っていたではないか。

 

「ガジンの妙な行動にも、納得がいく。連れのガキが〈竜域〉へ逃げ込むよう提案して、ガジンが了承したのならな」

「先生が言ったのではないでしょうか?」

「それはない。――昔、氏族の子供が〈竜域〉近くで『竜』に惨殺されたのを見て、あいつは心の底では、酷く『竜』を恐れている。意地っ張りだからな、表には出していないだろうが」

 

 ガジンの過去に、イスズは目を見張った。

 

「この〈竜域〉を横断した先には、でかい都がいくつかある。それに、距離を見れば、時間もそうかからん」

「横切れば、街道にある施設を訪れずとも、領主が住む都へ、三日と経たずに行くことができます」

「決まりだ。陣を引き払え。速度がすべてだ。都へ向かうぞ」

「ロウハ様、決めつけるのは、まだ早いのでは……」

「あいつらは〈竜峰〉の場所をまだ知らない。だが、ガジンが向かっている都には、気心の知れた、頼りになるやつがいる。おそらく、皇国で〈禍ノ民〉を除けば『竜』に一番詳しい男がな」

 

 地図に書かれた都を指さして、ロウハは懐かしそうに目を細めた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十六話 禁忌を探る者

 ゼツと〈竜域〉の外で別れた後、北で唯一の都とガジンが言っていた場所へ、リュウモは足を踏み入れていた。

 なるほど、都というだけあって確かに栄えている。人通りは夜になってもそこそこある。

 だが、皇都で肌が味わった、騒がしい熱気を持つ独特な空気とは違って、冷たく閑散としているようにも思えた。

 元々、皇都と比べるのは酷なのかもしれない。

 ――むしろ、山が多い地域でこれだけ人がいるって、実は皇都よりもすごいことをしているのかも……。

 リュウモはきょろきょろと建物を目にしながら、はぐれないようにガジンの背を追う。

 都の中心近くに、目的の建物はあった。

 大きい。他の家屋と比べれば三倍の面積はあるだろう。

 門構えも立派である。が、防犯のための閂はなく簡単に敷地内に入れてしまうようになっていた。

 ガジンは勝手知ったる場初と言わんばかりに敷居を跨いだ。

 彼はいきなりしゃがんで庭にある石ころを拾うと、灯りが点いている三階の部屋の窓へ投げ入れた。

 

「ちょ、ちょっとガジンさん……!」

「いや、いいのだ。あれは研究に没頭していると他のことが抜け落ちて気づかないからな」

 

 人の家に石を投げつけておいてこの言い様である。

 ――どんな人なんだろう……?

 

「鍵はかかっとらん。用があるならさっさと上がって来い」

 

 不機嫌そうな声が聞こえてきた。悪びれた様子もなく、ガジンは玄関の扉を開けてどんどん入って行ってしまう。

 

「お、お邪魔します」

 言って、草鞋を脱いでガジンの後を追った。

 道中ですこし話を聞いた限りだと、シキという人物は『竜』についてそれなりの知識があり、また研究をしているとのことだった。

 変わり者で偏屈者、と悪態を吐いていたガジンだったが、リュウモには違って見えた。

 彼の口々から飛び出す言葉には、遠慮の無さがあり、また親しみがこもっていたのだ。

 

(……瘦せっぽちで、眼鏡をかけてて、すっごい細っこい人、とか?)

 

 そんな勝手な想像をしていると、ガジンがひとつの部屋の前で止まり、襖を開いた。

 シキの部屋へ入ると、彼の研究者としての一面が顔を出した。

 書斎にはあらゆる書物があるのではないかと感じられるほど、膨大な数の資料が巨大な棚に所せましと並べられている。

 他には、生物の標本や骨格などがいくつも飾られている。その中でひと際大きな物に目がついた。

 

(これは……『竜』? でも――)

 

 常日頃から『竜』を観察してきたリュウモからすると、飾られていた骨格は、細かい部分が似ても似つかない。特に、足腰の部分だ。本物と比べるとずれている。これでは地面をしっかりと踏みしめて歩くことができないだろう。

 

「珍しい客人もいたもんだ。久しぶりだな、ガジン。五年ぶりぐらいか」

 

 部屋の奥にある椅子に座っていた、ガジンと同い年ぐらいの男性が気軽に話しかけた。

 男性は読んでいた資料を机の上において、かけていた眼鏡を外した。

 シキは、リュウモの想像とは全然違った。

 眼鏡はかけているが、すぐ外してしまった。それに、体つきはとてもがっしりとしていて、着物の上からでもわかるほど、無駄のない筋肉がついている。

 身長も、長身のガジンよりすこし小さいぐらいだ。知的なように見えて、野性味も秘めていそうな瞳は、緑色だった。

 

「それぐらいになるな、シキ。相変わらずお前は本の虫か。身体を動かさんと鈍るぞ」

 ガジンがこれほどに親し気に相手に話しかけているのを、リュウモは初めて見た。緊張の糸が緩んでいるようだ。

「ふん、わしは追放された身よ。槍を振るうよりも、過去を遡っている方が多い」

 

 シキは、忌々しげに鼻を鳴らした。

 

「それで、なんの用だ。皇国からの要請なら、死んでも協力はせんぞ」

 

 ああ、これは駄目だな――そう、リュウモは思った。憎しみという頑健な杭が、シキの心の根まで打ち込まれている。協力は、とてもではないが仰げそうになかった。

 だが、ガジンには秘策があるようだった。

 

「昔のお前なら、この子へすぐに目がいっただろうに」

 

 ぽん、と笠越しに手を置かれた。シキが訝しげに視線を飛ばしてくるのが、リュウモにはわかった。今までのことが思い出されて、体が強張った。

 

「大丈夫だ、リュウモ。こいつは、今までの奴らと違って、お前を傷つけたりはしない。――外しても、大丈夫だ」

 

 リュウモは、ガジンの言葉を信じて、あご紐を外して、菅笠をとった。

 

「これは……。なるほど、珍客が来たと思ったら、もっと希少な客が来たか」

 

 まじまじとシキは、リュウモの青い瞳を凝視する。

 ガジンの言う通り、険悪や忌避感といったものは見受けられなかったが、まるで動物を観察するような目で見られて、リュウモはあまりいい気がしなかった。

 

「で、この子の先祖の故郷でも見つけてくれってか?」

「そんなわけあるまい。――リュウモ」

 

 ガジンに言われていた通り、リュウモは懐から〈龍赦笛〉を取り出して、シキによく見えるように両手で前に出した。――瞬間である。凄まじい勢いで彼が椅子から立ち上がった。あまりの早さに椅子が倒れて大きな音を立てた。

「そ、それは、いや、そんな、馬鹿な…………嗚呼、それは――〈竜操具〉ッ!」

 

 シキの瞼が梟のように千切れんばかりに見開かれていた。

 ――き、気持ちわる?!

 動物の表情を切り取って人間に貼り付けると、違和感が凄まじいことになるのを、リュウモは今日、知った。

 

「この幼子、まさか〈竜守ノ民〉かッ!?」

 

 今度は、リュウモが目を見開く番だった。彼は自分のことを〈禍ノ民〉ではなく〈竜守ノ民〉と言った。皇国において、その事実を知る者はごく少数のはずだ。

 リュウモが驚いていると、ガジンが補足してくれた。

 

「言った通り、こいつは歴史を調べるのが趣味でな。その昔、皇族しか入ることの許されない蔵に立ち入って見つかり、皇都を追放されたことがあるのだ」

「そ、それは、す、すごいです……」

 

 むしろ、よく殺されなかったものだとリュウモは感心した。

 

「趣味だと? 研究と言え、研究とッ!」

 

 ガジンの言い方が気に食わなかったのか、シキは憤慨して訂正を求めた。彼の中には譲れない一線があるらしい。

 

「研究者の誰もなら、一度は『竜』や国の詳しい成り立ちについて調べたい欲求に駆られるものよ。ゆえに、わしは悪くない」

 

 シキは、皇都から追放された身だというのに、まったく懲りていないどころか処遇に大変な不満を抱いている。リュウモはつい、口が滑ってしまった。

 

「いや、あの、規則を破るのは、さすがにまずいんじゃあ……」

 

 ぎろりと、音が出そうなほど鋭い視線がリュウモを射貫いた。

 

(エミさんと同じ感じの人だ絶対)

 

 つまり、余計に口を開かない方が利口であるということだ。

 

「で、なにを聞きたい。言ったが、帝からの命なら死んでも聞かんぞ」

「ラカンが死んだ」

「――――――な、に……?」

 

 ぶっきらぼうに伝えられた衝撃に、シキの表情が固まる。

 

「原因は『竜』だ。国中で『竜』が暴れ回っている。鎮めるために、知恵を貸せ」

 

 シキは舌打ちをして「反吐が出る」と吐き捨てた。

 

「親友の死を利用するか。立派な政治屋になったもんだな、ええ、おい〈八竜槍〉ガジン様よ?」

「もう〈八竜槍〉ではない。今回のことは、私の独断だ」

「あ……――は?」

 

 シキは言葉を失くした。突き付けられた現実に、思考が停止している。

 頭が動き始めると、呆れ果てたように右手で顔を覆った。

 

「馬鹿だ馬鹿だと常々思っていたが、もう、ここまでとは……。空前絶後とはこのことだ。前例がないぞ、自分から〈八竜槍〉を止めたやつは」

「外に中々出ないから、世間に疎くなるんだ。今、国がどうなっているか知らんだろ」

 

 ガジンは、現在の国がどうなっているか語った。

 

「なるほど。だからわしのところに来たわけか。欠損した伝承を補うために」

「そうだ。〈竜峰〉の場所を教えてくれ」

 

 激しい葛藤が、シキの眉間を走っていた。やがて、つきものが落ちたようにため息を大きくした。

 

「北の〈竜域〉の入り口には、大きな二つの山がある。双子山と呼ばれていたそうだ。その山間を進み続けると、森鹿という生き物の生息域に出る、らしい。そいつが次の場所へ導いてくれるのだと」

「森、鹿……案、内?」

 

 あのときもそうだった。本来、警戒心が強い彼らが近寄られても動じず、まるで道案内をするように〈禍ツ气〉の方へと導いていった……。

 

「森鹿が導く先で、ひとつの試練を行うのだそうだ」

「この世で最も強い戦士、か。だが、困る。リュウモではまず私には勝てんぞ」

「信じられないが……この試練は、人の生死を問わんのだそうだ。死者も含まれる」

「死者? 馬鹿を言うなよ、死んだ人間は生き返らん」

「わしに言うな。手記に書いてあったんだから、そうなんだろうよ。試練の場所は、馬鹿でかい蛇のような『竜』の住処近くで行われたようだったが……」

 

 シキが言った内容に、リュウモは仰天してひっくり返しそうなほど驚いて眉をあげる。

 

「竜蛇……『龍』に成る寸前の、〈天ツ气〉を扱う、『竜』――」

「『竜』が、〈天ツ气〉を扱う、だと?」

 

 シキの瞳に、研究者としての飽くなき探求心に火がついたのを、リュウモは垣間見た。

 

「どういうことだ『竜』は〈竜气〉を扱う生物なのではなかったのかいやそれ以前に〈天ツ气〉を」

 

 机から乗り出して凄い勢いで言葉を連射してきた。

 

「落ち着け馬鹿者、リュウモが困っているだろうが」

「お前に、馬鹿と言われるとは心外だ。馬鹿と言った方が馬鹿なのだ、阿呆め」

 

 どうしてだろう。子供の用言い合いが始まった。リュウモがオロオロしながら視線を右へ左に動かしていると、やっと罵り合いを止めた大人二人が「続きを」と、先を促した。

 

「ええと、ですね……」

 

 ため息を吐きたくなったが、リュウモはぐっとこらえた。

 

「『竜』の一部の個体は、いくつかの段階を得ると、蛇のように体を変えていくんです、脱皮するみたいに。それで、最後には『龍』に成り、天に昇る。その一つ手前の状態を、竜蛇というんです。この『竜』は、他のどのような種よりも強い。人では勝てない、大いなる存在」

 

 リュウモは掟の一部を破り、『竜』の生態について語った。

 シキの目に、もっと危険で燃え盛る真理探求の炎が一層強くなる。

 

「ほぅ、ほう、ほう! いかん、いかんなこれは。わしが血道をあげて積んできたものは、童の積み木遊びだったらしい!」

 

 酷い頭痛がするときのようにガジンは額を押さえた。興奮して赤ら顔になっている友人に頭を悩ませているらしい。

 

「はぁ、はぁ……! で、続きは、先はどうなる!?」

 

 リュウモは助けを請うためにガジンを見る。言われた通り、知識の一部は教えた。これで協力は取り付けられるはずである。まだ知っていることがあるなら教えてくれるはずだ。

 

「――――お前の欲する知識が失われかけているとしたら、どうするシキ」

 

 ダン! っと、シキが両手で机をぶっ叩いた。衝撃で筆や紙が床に落ちる。

 

「なぁにぃ?! それはどーいうことだ誰だ帝か殺そうとしているのは!?」

「このままリュウモが〈竜峰〉で伝承通り『竜』を鎮めると、この子は死ぬ」

 

 シキは、ガジンの落ち着いた態度に、顔を険悪で染めた。非難めいた視線を飛ばす。

 

「子供嫌いも、ここまでいくと大したもんだな、ええ?」

「苦手なだけだと言っているだろう。で、知っていることを全部話せ。そのためにここへ来た。まだ、知りたいだろう、彼らと『竜』について」

 

 親しい二人は、取引をしていた。ガジンは最高の手札を切り、シキは応じるしかなくなるところまで追い込んでいた。が、シキはどんどん顔に深い皺を作る。

 

「貴様、わしを人でなしかなんかだと思っているのか。こんな子供が死ぬとわかっていたら、助けるために力ぐらいは貸すぞ」

「――――――――――――――――――――――」

 

 ガジンが、目をひん剥いた。本気の驚愕だった。言葉を失くして数秒間立ち尽くしている。

 手から力が抜けて槍を落としかけてようやく現実に復帰した。

 

「お前、どうした……? 本物なのか丸くなり過ぎだろう」

「親しき中にも礼儀ありという言葉を知らんのか貴様ぁ?!」

 

 あんまりな言われように、さすがにシキが抗議の声をあげる。

 ガジンは肩を竦めて、苦笑した。発言を撤回する気は更々ないらしい。

 シキは、むすっとして椅子に座り直した。

 

「丸くなっただと? そんなはずあるまい」

「いいや? 人のことを気に掛けている時点で、かなり角が取れたぞ。ようやく人と交流する大切さを知ったか」

「したくもない交流をさせられただけだ。皇都と違って、当然のようにある物が無かったからな、このド田舎は。材料集めのときに、わしが嫌でも指示を出さないと効率が悪い」

 

 シキの主観で、生活必需品を開発しては住人に流し、その過程で都の住人の大半と顔合わせをしていたらしい。

 

「お前に良い影響を与えたらしいな。さて、協力してくれるんだろう? 早く教えてくれ、これでも追われる身なのでな」

「おい、暴れるなら敷地の外でやれ。――『竜』を鎮めた者は確かに死んだ。气虚を越えて体が持たなくなってな。だから、解決方法は簡単だ。貴様が持つ〈竜槍〉のように、外付けの『气』を内包する代物を使えばいい」

「そんな都合のいい物があるわけが」

 

 ガジンの口が止まる。リュウモははっとして腰にある〈龍王刀〉の存在を思い出す。

 

(まさか、このときのために……?)

 

 奏者が死ぬことがないよう、新しく『龍王』の亡骸から削り出し作成したのだろうか。

 

「これじゃあ、駄目でしょうか?」

 

 リュウモは、腰に佩いている短刀をシキに見せた。黒く、質素で、鍔も飾りもない短刀だが使い込まれて来た年月は、〈竜槍〉にも負けない代物だ。

 

「これは……?」

「『龍王』の骨から削り出された短刀、〈龍王刀〉です」

 

 シキは、驚きすぎて机にあった邪魔なものを更地にするように軒並み腕で吹っ飛ばす。なにかが壊れた音がしたから、標本に直撃でもしたのかもしれない。

 彼は、凄い勢いで食い入るように短刀を見つめ始めた。

 ――こ、こわッ!?

 獲物を狩る猛禽類もかくやという速さであった。

 

「見ても、かまわんかね?」

「あ、はい。大丈夫だと思います」

 

 リュウモは、短刀をシキに手渡した。彼は、割れ物を扱う時の慎重な動作で受け取る。何秒か短刀を眺めていると、意を決したように手をかけて引き抜こうとした。

 

「っぬ! ――ぬ、抜けんッ!」

 

 鞘と鍔元が接着されでもしたのか、びくりとも動かなかった。

 ひょっとして、力が弱いんじゃあ――リュウモは思ったが、そんなはずはない。シキの体内の『气』を感じ取るだけで、肉体は壮健であるのがわかる。

 

「おい、ガジン、そっちを持て、引っ張るぞ」

「え、なんで私まで――――はい、はい、わかったよ、やればいいんだろう」

 

 と、大の大人二人が、小さな短刀を必死で引き抜こうとする、なんとも間抜けな絵面ができあがった。しかも、両者全力だ。大きな子供が玩具を取り合っているようでもある。

 リュウモは、声をかけようかと思ったが必死すぎる大人に、どんな言葉をかければいいかわからなかった。

 机に立てかけられたガジンの〈竜槍〉が、呆れたように微妙な『气』を放っていた。

 やがて、抜けないことがわかると、大人二人は額に汗を浮かべながら、恨めしそうな視線を短刀に向けた。

 

「なんじゃ、こりゃ。本当に抜けるのか、これは?」

「貸してください」

 

 リュウモはシキから短刀を返してもらうと、柄に手をかけて鞘から一気に引き抜いた。なんのことはなく、短刀はするりとその刀身をあらわした。〈竜槍〉と同じ、真っ白な骨の身体を、短刀は外気にさらした。

 大人二人は、ぴくりとも動かなかった短刀が意図も簡単に抜けたことに驚きながら、その刀身を見つめた。

 

「ほう……こいつが。ふむ、外見は〈竜槍〉と変わらんが――さて。すこし調べてみたいのだが、触っても大丈夫か?」

「〈竜槍〉は、認めた人にしか触らせないんでしたっけ? だったら、大丈夫です。この短刀は、村の人は沢山触れてました」

 

 シキは、恐る恐るリュウモの手から短刀を受け取った。さすがの彼も、『竜の王』から作られた代物には、気後れしているらしい。彼は、手に持った短刀を机の上に置くと、どこからか虫眼鏡を取り出して、短刀を凝視する。さっき華麗に吹っ飛んでしまった物は回収しなくていいのだろうか。

 

「ふぅむ……〈竜槍〉ほどの力を感じんが、かなりのものだな」

「どう、ですか?」

「これが作られた目的と、使う対象による」

 

 具体的でない言い方に、リュウモは疑問を浮かべる。シキが続けた。

 

「〈龍王刀〉が、子供のお前でも使えるのか、それとも成人になった者が使う前提で作成されたのか。後者ならば、これでは不十分だ」

 

 リュウモは短刀を手に取って見つめた。

 

「……ありがとうございます」

「礼を言われるようなことはしておらん」

 

 素っ気なく言って、シキは顔を逸らした。

  ぶっきらぼうな言い方に、リュウモの頬が緩む。彼の態度が、まるで照れ隠しのように思えたからだった。

 

「ありがとう、ございます。外で協力してくれた人は、多くなかったので」

「ふ……その眼のせいでか?」

 

 シキは、青い瞳をじっと見つめて、鼻で笑った。

 

「目の色など、所詮、人間が他人を見分けるための目印でしかない。試しに術で目の色を変えて外を歩いてみよ。誰も貴様を〈禍ノ民〉などと呼ばんだろうよ」

 

 言われて、なるほど、とリュウモは思った。瞳を見せなければ全員が普通の対応をしてくれていた。

 中には、大変だねぇ……などと労いの言葉をかけてくれる人達もいたのだ。

 わからぬものは恐ろしい。

 ジジは、世の真理のひとつを口にしていたのかもしれなかった。

 

「所詮、我ら人間など、そんなものよ。表層ばかりを目にして深層を覗こうとしない。よしんば目に使用としても邪魔ばかりされる。このわしのようにな」

 

 昔のことを思い出しているのか、恨めしそうに舌打ちをした。

 

「まったく……忌々しい。あと一刻、蔵に押し入られなければすべての資料に目を通せたものを……」

 

 皇国の最重要施設に踏み入って皇都を追放された男は、まったく、全然懲りていないらしい。

 

「その、蔵の警備って、そんなに緩いっていうか、ガバガバなんですか?」

「ああ、こいつはこんな見た目でも結構な武闘派でな。昔、〈竜槍〉の使い手候補に選ばれるぐらいには腕が立つ。忍び込むことは、まあ容易ではなかったろうが、不可能ではなかったのだろうよ」

 

 呆れて物も言えない様子であったが、リュウモはどうしても納得できなかった。

 彼らが言う蔵が、どれだけ重要な位置にあるのかは、外で暮らしていなかったから理解が及ばない。それでも、大切で守らなければならないのだということはわかる。

 村の村長でさえ、家の地下にある碑文には誰も絶対に近寄らせなかった。〈竜守ノ民〉でさえ簡単に破壊できない錠前と、特殊な加工を施された扉で固く閉ざされていたのだ。

 小さな村でこれである。ならば、巨大な都、国の秘密を納める場所が、腕が立つといっても侵入可能な領域なのだろうか。

 リュウモは疑問をぶつけてみた。

 

「でも、国を揺るがしてしまうぐらいの情報がいくつもあるんですよね? だったら、きっと呪術とかがいっぱいあって、鍵だって特別なやつを使う。そんなところで、中を探しまわる余裕なんてあるんでしょうか」

「――――当時は、この馬鹿がやった事のでかさに困惑して考えもしていなかったが……確かに、おかしい箇所はあるな。おいどうなんだ、シキ」

「ん? ああ、それなら簡単だ。わしは先代帝の血を引いている。いわゆる御落胤というやつだ。そこら辺は、無茶がきいたのさ。ごり押ししたとも言えるがね」

 

 ガジンの顎が、外れそうになるぐらい開かれていた。

 

「はあ?!」

 

 友のいきなりの告白に、皇国最強と言われる男の口から出たのは、言葉にならない叫びだった。

 

「ああ、それとこの際だから言っておこう。昔、〈竜槍〉を引き抜く〈抜槍ノ義〉で槍を引き抜けなかったと言ったが……あれは嘘だ」

「はあ?!」

「〈八竜槍〉になったら、身元は綺麗さっぱり洗われるからな。俺が御落胤であったとばれたら大問題になった。だから一回引っこ抜いて、台座に戻した」

 

 多分、〈竜槍〉に選ばれたにも関わらず、突き返したのはこの男が初めてだろう。

 

「待て待て待て!? 皇族は一様に緑色の瞳のはずだぞ!?」

「え……?」

「これは生れ付きだ。だから、わしは皇族と認められなかった。歴史上、そうやって闇の中に葬られていった人間は、何人かいるらしいぞ? ほれ、リュウモ、言っただろう。瞳の色が変わらなければ、誰も彼も気づかないものだ」

「……お前の人嫌いは、そのせいか?」

 

 シキは口を噤んだ。

 

「ま、待ってください!?」

 

 リュウモは聞き逃せなかった言葉に声を荒げる。

 

「皇族が、緑色の瞳?! じゃあ、あのとき助けられたのは帝の」

 

 リュウモは先を言うことはできなかった。突然、ガジンが口を押えてきたからだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十七話 〈八竜槍〉足り得る者

「〈影〉か。囲まれたな、相変わらず仕事が早い。面倒なことだ」

 

 シキは嘆息する。興醒めだ、と言わんばかりにさっきまであった知識への欲が消え失せてしまっていた。

 

「ロウハのやつもいるな。暴れるなら外でやれよ、家が壊れるのは御免だからな」

 

 戦闘での被害を想像して、シキはうんざりした顔をする。〈八竜槍〉同士の本気の戦いを知っているがゆえだろう。

 

「……おい、ガジン。ロウハの足止めをしろ」

「かまわんが、なにか策でもあるのか?」

「この屋敷には、地下の脱出通路がある。わしがリュウモを都の外まで逃がす。合流地点を決めろ」

「ここから北へ真っ直ぐ行くと小さな町があるだろう。そこの旅籠屋でどうだ」

「いいだろう。そこの幸行きという宿がある。そこで合流しよう」

 

 ガジンはうなずくと〈竜槍〉を握り締め、玄関口に歩いて行く。

 

「ガジンさん、気を付けて……!」

 

 去って行く背中が、死んで逝った人たちのそれと重なって、リュウモは思わず声をあげていた。

 皇国最強の男は、気軽に手をひらひらと振って、足軽に外へと向かって行った。

 

「行くぞ、さっさとせんと〈影〉が踏み込んで来るかもしれんからな」

 

 

 

 

 

 屋敷の外には、長い付き合いになる友の顔があった。

 

「よう、大馬鹿野郎。なんか言いたいことはあっか。弁明なら聞くぞ」

 

 ガジンは口を閉じ、静かに腰を落とし、激流のように『气』を高める。

 

「問答無用ってか。〈禍ノ民〉にでも絆されたか」

 

 ロウハも槍を構える。

 

「……退け、ロウハ。私は友と戦いたくはない」

 

 ロウハの眉が不快さを示すように上がる。

 

「いい加減にしろ。テメェの行動が国中を騒がしてんのがまだわからねえのか」

「知っている。だが、リュウモを送り届けなければ、国そのものが無くなる」

 

 ロウハは国を存続させようとし、ガジンは世界を続かせようとする。

 両者の意見はどちらもが正しく、故に平行線を辿り続けるしかない。

 

「国と協力するって考えは無いのかオメーは」

「その国がリュウモを亡き者にしようとしている。連れ帰った〈青眼〉の男は帝に殺された。生け捕りの命令が出ていても、リュウモが辿る先は死に変わりがない」

 

 ロウハは初めて聞いた事実に顔を驚きに染めたが、すぐさまそれを消した。

 

「我らは〈八竜槍〉、意味を理解していないとは言わせねえぞ」

「役目よりも優先すべきことができた。それだけだ。――ラカンも生きていれば同じことをしただろうさ」

 

 その言葉が癇に障ったのか、剽悍な男の顔が凄まじい怒気を孕んだ顔つきに変る。

 

「俺が、ダチの遺志を読み違えていると、言いてえのか」

「そう思うなら手を貸せ」

 

 背後に控えていた〈影〉が、最悪の事態を予想して顔を青くした。

 対して、ガジンは戦闘態勢を崩さなかった。ロウハが、国に忠誠を誓うこの男が、反旗を翻すはずがない。

 おのれの力で上り詰めた地位だとはいえ、ロウハは没落寸前で生活もままならなかった自らの家に、多額の資金を与えてくれた帝への恩を決して忘れていない。

 表面上、家族をなんとも思っていないように見えても、彼はその実、両親をとても大事にしている。今の地位と家族のどちらかを取れと選択を余儀なくされたとき、迷いなく家族を取るほどに。

 

「話にならねえ――俺は俺の責務を果たす。通りたけりゃ、俺を殺して屍を越えていくんだな。できれば、だがな」

 

 ロウハの『气』が急速に高まっていく。

 

「離れてろ、〈影〉。巻き込んだら、死なせねえ自信は、無い」

 

 〈影〉が一目散に離脱して離れていく。

 

「始める前に言っておく。後ろの家を壊すな。シキになにを言われるか、わかったものではないからな」

「っは――んなもん、重々承知してらぁ!」

 

 戦いが、始まった。

 皇国で最も強い人間たちの、戦いが。

 

 

 

 

「まったく、嫌になるほどの熱心さだ。もう囲みを完成させている」

 

 通路の物陰から、密かに顔を出して表を窺っていたシキが愚痴を言う。

 

「リュウモ、合流場所は教えたな?」

 

 こくり、とリュウモは首を動かした。合流する宿屋の位置はしっかりと頭の中に叩き込んでいる。

 

「よろしい。――わしが囮になる。先へ行け」

 

 同じことを、つい最近してもらった。

 親し気で、頼りになった八人の青年達とこのままでは同じ道を辿ってしまうのではないか。リュウモの顔が青ざめる。

 

「心配する必要は無い。すこしばかり時間がかかるかもしれんがな。ち、槍を持ってくるべきだったか」

 

 シキが腰を落とし、指を三本立てる。一本ずつ、指が下りていく。

 三本目が折り畳まれると、リュウモは勢いよく飛び出て北へ向かって駆け出した。

 後ろでは、戦いの音が響き始めていた。

 

(ちくしょう……おれに、おれにもっと力があれば、こんなことには――!)

 

 悔しさと情けなさで、胸が裂けそうになるほど満杯になる。

 手助けしてくれた人のためにも、リュウモはひたすらに走り続けた。

 

 騒ぎを尻目に、リュウモは合流場所に急ぐ。

 次の都との間を繋ぐ要所は、小さな町だという。

 リュウモは、人の群れの中にいると、むしろ見つかり易いのではないかと不安になった。

 煌びやかな都にいるよりも、森の中にいた方が、ずっと落ち着くし、安心できた。

 

(いや、でも逆に、森に入る方が危ないのか……)

 

 人が大勢いる場所ならば、あちらも下手に動き回ることはできない。

 秘密裏に動かされていた部隊の人数は少ない。帝は、今回の件を明るみに、もしくは公にしたくないのだ。むしろ、森に入ると相手にとっては絶好の機会となる。獲物がわざわざ罠にかかりに来てくれたようなものだ。

 ――それに、ここはおれの知ってる森じゃない。

 故郷の森は、もっと深い。木々も大きいし、身を隠す場所は土地勘があるからすぐに見つけられる。〈竜域〉ならばともかく、都近辺の森は、彼らの方に地の利はあると考えた方がいい。

 ――帰りたいな……。

 あの壮大な森へ。『竜』達が暮らす故郷へ。茅葺屋根の家へ。

 今は、抱いてはいけない、寂しい気持ちが胸を過った。走りながら、頭をちょっと振る。

 下手なことを考えていると、捕まる。追手達は人を追い立て捕まえる、対人専門の狩人なのだから。

 哀愁を振り払って、人気のない裏路地を、勢いよく走り続けた。真夜中で、足元はほとんど見えない。だが、リュウモは迷いなく駆け続ける。故郷はもっと暗い。あの森の暗闇と比べたら、ここは夕時のようだ。

 空を見て、星の位置を確かめながら、ガジンに言われた方角に向かうと、いくつかの足音が耳に入ってきた。すぐさま身を屈め、気配を消した。そっと、塀の角から顔を出して、向こう側の道を見た。

 

(人だ……真っ黒な)

 

 凄い速さで、二つの黒い影が、都の外側に走って行った。数秒、その場で固まり、気付かれていないことがわかると、肩の力を抜いてほっとして、リュウモは下を向いた。

 地面には、影が色濃く伸びていた。さきほどまで雲で隠されていた月が、空に顔を出している。

 月の光に照らし出された影に、自分以外のものがあって、リュウモは目を上に向ける。あったのは、塀瓦だ。それが、地面に影を作っている。こういった物があるということは、まだ都の裕福層の地区にいる証だ。もう、大分走り回った気がするのに、都の外へは、まだまだありそうだった。リュウモは嘆息する。

 この時期は、本当なら家でくつろいで、明日どうしようか、ジジと囲炉裏で温まりながら、笑い合っているはずだった。

 ぽたっと、乾いた地面に水滴が落ちて、しみができあがった。

 

「あ、あれ?」

 

 リュウモは、自分が涙を流しているのだと気付く。しみは、だんだん増えていく。

 

「っう……っ――!」

 

 一人になったせいだろうか。それとも、ずっと緊張状態にあった心が、夜の静かな闇のせいで、限界を迎えたのだろうか。嗚咽が、涙が止まらない。

 動こうとしても、体がいうことを聞いてくれなかった。いまさらになって、失った悲しみが、一挙に押し寄せて、胸を詰まらせてきた。

 ――駄目だ、止まったら、駄目だ……!

 きっと、体だけでなく、心まで立ち止まったら、もう動けなくなる。だったら、動かなくては。流れ出た涙を、袖で拭って、リュウモは立ち上がった。

 幸運なことに、誰かに見つかったような気配はない。

 

「行こう……」

 

 心身に言い聞かせるように言って、再び走り始めた。

 春先の温かさを含んだ夜気が、肌にあたる。夜がもってきた眠りへの誘いを断って、無心でリュウモは走る。

 ようやく、都の中心部から外れて、外郭部分に差し掛かった。追手の気配は、ない。

 

(いける、このまま突っ切れば!)

 

 都から出てしまえば、夜目がきくリュウモに分がある。影達がどれだけ優秀であろうと、走力――生まれついての地力はこちらが上だ。網を張られていたとしても、突破する自信はある。月も、さっきまでは顔を出していたが、今は雲に隠れて光を遮られている。

 リュウモは後ろを振り返って見る。追手の影はない。気配を消して、追われている風でもなかった。ほっとして、すこしだけ走る速度を緩まる。

 だが、それは間違いだった。そもそも、追われていないという認識が、誤りだったのだ。

 

「っ!」

 

 細い道の横から、悠然とした足取りで、誰かが出て来た。まるで、此処を通ることがわかっていたかのように。

 突然、両足が意思と反して、急制動をかけた。乾いた土の地面に、二本の線が描かれる。

 ――これ、は……。

 リュウモは、知っている。理性を通さずに、本能のままに体が動く条件。

 圧倒的強者が、目の前にあらわれた。

 幼いころ『竜』への恐怖から、やたらめったらに逃げ回ったのを思い出す。

 

「ほぅ……多少の心得はあるようですね。あと、一歩――踏み込んでくれば、わたしの間合いだったのですが」

「間合、い?」

 

 リュウモは――冗談だろうと、言いたくなった。今、相手との距離、約六間(10メートル)は離れている。敵の言葉を信じれば、あと、一歩踏み出せば敵の間合いに入るのだという。もし本当ならば、実力が違いすぎる。

 

(横道に逃げないと……!)

 

 網目のように複雑な道へ入ってしまえば、逃げ切れる可能性は高まる。

 と、相手が懐から何かを取り出し、口につけた。

 ピィィ……と、甲高い音を発する。警笛だ。

 ――まずい!

 このままでは、包囲される。ともかく、相手の気を逸らし、すぐにでもこの場から離脱しなくては。

 

「諦めなさい。もう他の〈影〉が包囲を完成させます。子供の身でありながら、よくぞここまで逃げおおせたと褒めてはおきましょう」

 

 リュウモは動けない。相手の言葉が、金縛りの力でももっているのか、指先までもがぴたりと静止してしまう。体の外側から、知覚できない作用が働いているかのように。

 せめてもの抵抗に、相手の顔を睨みつけた。ちょうどいい具合に、月が雲に押し勝って、顔をのぞかせた。

 月光が、その顔を闇の中に浮かびあがらせ始める。

 すこしずつ、光が人物の輪郭を鮮明にしていく。影が取り払われ、顔が見えた。

 人形だ、とリュウモは思った。

 声で女性だとはわかっていたが、六間先にいるそれは、リュウモが知っている女性という観念から、かけ離れていた。

 皇都で見た、あの真っ白な人形が目の前で動き出している。

 ほっそりとした体形、感情が見えない顔、心の内を映さない瞳。

 人形に、すこしの人間味を加えて動き出しているのが、立ち塞がっている人物だ。

 故郷にいた、素朴で精強な女性達とは、似ても似つかない。

 彼女らは、どのような出来事が起きても、そうそう簡単に手折れはしない。だが、人形のようなこの人は、机の上から落としてしまっただけで、ばらばらになってしまいそうなぐらい繊細そうに見えた。

 とてもではないが、強そうではない。ガジンの頑健さ、堅固な雰囲気はまるでない。

 だが、侮るな――と、体の内側にある本能という、もう一人の自分が凄まじい勢いで警鐘を鳴らし続けている。

 

(なんだ、これ……動いたら、斬られる気しかしない――ッ!)

 

 動け、動くな。理性と本能が、リュウモの頭蓋骨の向こう側でせめぎ合っている。

 足を進めなければ、ここで終わってしまう。〈竜峰〉への道も、ここで途絶える。

 ――でも、どうしたら!?

 一歩、いや半歩でも前に進めば斬られる。リュウモの目には、爪先の地面に薄い線が引かれている。

 線はそこから先を、あたかも聖域のように隔てているのだ。女性は、門番だ。不埒者を撃退する、凄腕の番兵。突破するには、力技では駄目だ。

 リュウモが必死で思考を巡らせている、その時であった。

 つむじ辺りから股下に掛けて、針を通されたような痛みが走った。はっとして、頭上を見あげる。〈九竜星〉の一つ――〈禍星〉が、その黒光りする光量を強めていた。

 ――時間が無いッ!

 リュウモは、腹を決めた。

 

(片腕ぐらいはくれてやるッ!)

 

 腰を短刀の柄に手を掛けた。だが――一陣の風が吹く。前髪が揺れる程度のそよ風。

 さっきまで十間先にいた女性との距離が、異様なほど縮まっていた。

 

「おやめなさい。貴方の実力では、抜く前に四度は死にますよ」

 

 腰の短刀を引き抜こうとした手は、柄に触れて、それ以上動くことを許されなかった。

 びたりと、首の皮一枚で槍の穂先が止まっている。

 

(こ、この人滅茶苦茶だ?!)

 

 村の外に出て、色々な理不尽に見舞われてきたが、これは最上級だ。

 槍を構えていた待機の状態から、いきなり喉元に穂先を突きつけられた。

 結果に至るまでの動きが、一切見えない。察知さえ許さず、非常な現実のみを槍先と供に突きつける、異常な動き、技の冴え。もう、笑いが込み上げて来そうだった。あまりにも非現実的過ぎる。

 一枚の絵が切り替わるかのように、彼女は動けるのか。そうであるなら、逃げ切れるはずがない。丸腰の赤子が、『竜』に勝てないのと同じだ。逃げるは悪手、戦おうなど以ての外。

 ――こ、これが……〈竜槍〉を持つ人の実力――っ!

 わかっていた事実が、敵となって襲いかかって来た。

 相手をものともせず、数の差を覆し、荒唐無稽なことを眉一つ動かさず為してしまう。

 皇国において、八本しかない至高の槍。〈八竜槍〉に名を連ねる者の、これが実力。

 

「どいて、下さい……」

 

 それでも、リュウモは諦めるわけにはいかない。故郷の者達が、自らの全てを散らして繋いでくれた命を、使命を、果たさないわけにはいかないのだ。

 

「命を握られているこの状況で、なお意思を貫こうとする姿勢は評価しましょう」

 

 槍が喉元から離されはしなかった。他の槍士とは違って、彼女の瞳には、決意に似た強い色がある。

 黒々とした、夜空色の眼は、課せられた任を全うしようと懸命であった。

 リュウモは、察する。この人は、決して道を開けてくれないと。

 自分が使命によって〈竜峰〉へ向かおうとするように、彼女もまた、使命によって立ち塞がっているのだ。ならば、どちらかが折れるまで、己の意思をぶつけ合うしかない。

 

「いいんですか。この〈青眼〉を見ると、呪われるかもしれないですよ」

 

 リュウモは、揺さぶりをかけた。――槍は、微動すらしない。

 

「……〈竜槍〉は、皇国において、最も強く、また禁忌に近い者。今更、迷信程度で怖気づく程、腑抜けてはいません。それに――」

 

 彼女は、じっと、リュウモの眼を凝視する。浄闇のように黒く、美しい瞳と視線が交差した。こんなに綺麗な人に、まじまじと見られることに慣れていないリュウモは、顔と脳が熱くなるのを必死に制御する。

 

「藍玉のように青く、深く、それでいて澄んだ瞳。わたしは、むしろ綺麗な眼だと思いますが?」

「え、あ、ありがとうございます……?」

 

 まさか、褒められるとは思っていなかったリュウモは、気恥ずかしかった。ほとんどの者達は、この〈青眼〉を見ると、すぐさま視線をわざとらしく逸らしていたからだ。

 

「ともあれ、貴方達が魔を宿す一族と謡われたのも、わかる気がします。強烈な意思が、貴方からは伝わって来る――惑わされた者達も、それに酔わされてしまったのかもしれません」

 

 感心したような響きを含んだ声だ。彼女の声は、柔らかさと心地よさが混じり合って、澄んだ音のように耳に伝わる。

 ――気遣ってくれてる、のかな……。

 それとも、自らの絶対的優位は揺るがないと、確信しているからこその余裕なのか。幼いリュウモには、わからなかった。

 

「ここまで、たった一人で知らぬ世界へ飛び出し、目的を達しようとする心意気を、我々は認めざる負えないでしょう。ですが、貴方の持つ力を放置しておくことはできない。――――このままじっとしていなさい。もうすぐ、あちらも終わるでしょう」

 

 彼女は、これから少年の辿る運命を知っているようだ。

 槍をまったく動かさないが、苦々しくは感じているようだった。眉間に皺が寄っている。

 

(あ――この人、良い人だ)

 

 唐突に、そんなことを思った。振り返ってみれば奇妙だったのだ。、彼女はリュウモを無傷で捕える必要などない。これだけの実力差があれば、赤子の手をひねるように、リュウモを槍で打ち据え昏倒させるなど、簡単であっただろう。

 この状況は、彼女が手心を何度も加えたからこそ発生しているのだ。手加減にもほどがある。

 村を出てから、非人間的扱いをされてきたリュウモからすれば、彼女はとても、人間的温かみに富んでいるように思う。

 

「貴方は……これからおれ達に起きることを、知っているんですか?」

 

 だから、リュウモは彼女の、その温かさに賭けた。もしかしたら、事情を話せば、今までの人達と違って、わかってくれるかもしれない。

 

「おれ、達?」

「はい、おれ達、です。例外は、無い」

 

 耳を傾けてくれそうだった。続けて言葉を紡ぐ。

 

「もう、時間が無いんです。〈九竜星〉の一つ――〈禍星〉の黒い輝きが、一番強くなってしまったら」

 

 

『よせ、リュウモ。皇都の者達に、何を言っても無駄よ』

 

 

 訴えは、後方からの声に中断させられた。

 声に振り向く。ヒュ――っと、鋭い物音がして、リュウモの真横を何かが通り過ぎた。次に、硬質な音が響くと、いつの間にかイスズは距離を取っていた。

 

「何奴!」

 

 夜の闇に、彼女の激しい声が響く。

 

「やれやれ、ガジンも詰めが甘い。いくら何でも〈竜槍〉が一人のはずがあるまいて」

 

 襲撃者は、堂々と闇から月明かりの元へ、軽い足取りで出て来た。

 リュウモは、目を見開く。出て来た人物は、先程まで話し込んでいた人だったからだ。

 

「シキ、さん?」

 

 思わず、疑うような声が出た。彼は、まるで別人のように感じられた。胴体を覆う皮鎧と、手には籠手、具足は明らかに戦闘用に整備された物だ。

 手に持っている槍も、超一級品の〈竜槍〉には及ばずとも、おそらく一級品であろう。

 

「シキ……? ――! 恐れ多くも、皇族しか入ることの許されぬ蔵へ侵入した愚か者の名!」

「おうさ。『竜』について知ろうとして、帝に突っぱねられたからのう。蔵に入ったのはいいものの、探し物が終わる前に見つかるとは、我が一生の不覚であったわ!」

 

 まるっきり悪びれていないシキに、イスズの柳眉が跳ね上がった。比較的静かで、湖面のように穏やかだった彼女の『气』が、瞬時に荒れ狂い、怒りの儘に体内で猛って駆け回る。

 肌が泡立つ。同じ人とは思えない、無限と称せるような、莫大な『气』の総量。

 ――け、桁が違う……。

 怖い、と純粋にリュウモは思う。

 

「この不敬者が! 帝の御慈悲によって放免されておきながら、勅使たる我らの邪魔をするか!」

「知らん。わしは元より、国への忠誠も、帝への尊崇の念も、欠片も持ち合わせておらぬ。わしが知りたい事柄は、『竜』についてだけよ。禁忌だというならば、いっそあの場で斬っておけばよかったのだ。下手に仏心を出すから、こうやってツケが回って来る」

「――――――」

 

 帝への、清々しいほどに冷たいシキの態度に、イスズの顔から表情と感情が、抜け落ちた。精緻な技術によって作られた、美しい人形のようだ。涼し気な風貌も、能面となった顔を助長している。

 

(こ、怖い……っ!)

 

 嵐の前の静けさを人間に置き換えると、今の彼女になるのではないだろうか。爆発一歩手前という言葉が、これだけ似合う状況はあるまい。

 リュウモは、女性が発する本気の怒りを、今日まで知らずに生きてきた。

 この瞬間、絶対に女性を本気で怒らせないよう決意する。

 

「よろしい、来るがいい。年季の違いを教えてやろう――小娘」

 

 それが、開戦の合図だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十八話 〈八竜槍〉イスズ

 一瞬、月明かりの薄暗い闇の中に、火花が散った。突き出された槍同士が、凄まじい速度でぶつかり合ったからだ。

 一撃で勝負を終えようとしたイスズは、初撃が弾かれたことに驚きながら、一旦距離を取った。相手は、取り乱さず、落ち着き払っている。

 

「女だてらに、中々の速度に重さよな、小娘」

 

 侮れている、と感じた。別に、女だからと侮れたのは、今回が初めてではない。元より、武術とは男の領域であり、女が不可侵の聖域へ入り込む余地など無いのだ。だが、何事においても例外は常に存在するのだと、この男に教えてやろう。イスズは〈竜槍〉を握る手に、適度に力を入れ、男を睨みつける。

 

「良い構えだ。さすがは最年小、しかも女の身で〈八竜槍〉の一人に名を連ねるだけはある」

 

 意外にも、続く言葉には、称賛が聞こえてきた。いつもなら「身の程を知れ」だとか「女の身で」だとか、くだらない定型文句がくるものだが、この男は一味違うらしい。

 先程言われた『小娘』という言葉は、本当にそのままの意味であったようだ。

 年齢差から考えれば、確かにこちらが小娘である。二十は離れているのだから、当然だ。

 

「投降なさい。帝は寛大な処置をなさるでしょう。わたくしも、口添えをしてさしあげます」

 

 事情を知らずに、武器を向けられている少年を助けたのだと報告すれば、まだ温情の余地はあろう。しかし、イスズの呼びかけを、シキは鼻で笑って、嘲った。

 

「っは――それは、わしではなく、リュウモにしてやれ。もっとも、帝は聞く耳を持たぬだろうがな」

 

 彼の顔には、強烈な侮蔑の色があった。幼子を、問答無用で死罪に処そうとする帝を、心底軽蔑しているようだった。

 

「それは……」

 

 イスズは押し黙る。帝へ侮辱を投げつけた男に怒りを抱いていたが、少年のことを言われると、燃え盛っている炎に水をかけられ、鎮火させられる。

 

「この者は、無関係の人を助けようと〈竜奴ノ業〉を、一族の禁忌を侵す、苦渋の決断をしたのだ。それを弁解も聞かずに処刑しようなど、言語道断よ」

 

 シキが言った強い非難の内容は、人として理にかない、また当然の主張であった。

 普段ならばここまで強行な採決がくだされることはない。しかし、帝はすでに少年への極刑を決めている。例え、国の重鎮の一人が声をあげたところで、結果は覆らないであろう。

 イスズは、よく理解している。だから、余計な人死にが増えぬよう、努力は怠らない。それも、意味が無くなりそうだった。

 

「〈竜奴ノ業〉は、我が国では禁忌。それを、この国に住まう人間はよく知っている。貴方の時は、あくまで知ろうとしただけ。だからこそ、皇都からの追放という軽い処置で済んだのです」

「故に、業を知り尽くし、それを使う者はどのような事情があれ、処刑すると。愚かよな、わしのように知識欲に駆られた者ならばともかく、献身でもって他者を助ける子を殺そうなどと。あれも、変わらず大馬鹿らしい」

「――――」

 

 ――帝、何故このような男を生かしたのですか。

 温情をかけられたことを恩とも思わない者を生かし、誰かを助けるために力を振るった子供を殺す。不敬だが、この時だけは、イスズは帝の決定に異を唱えたかった。

 

「いいでしょう。帝の御心を煩わせるまでもありません。この場で倒れなさい」

 

 それが、イスズの出した結論だった。退かないのならば、打ち倒すしかない。

 

「元より、そうするつもりであっただろう。――ああ、そうそう。一つ言い忘れておったが、援軍ならしばらくは来んぞ。道中、邪魔な若造共を張り倒して来た故にな」

 

 悠長にしていたのは、余裕があったからであるらしい。だが、イスズからすれば、別に驚くようなことではない。

 一撃。槍を合わせたのみだったが、シキの実力は口から言われずとも、十分に察せられた。

 

「強いですね、貴方は」

「これでも一度は、〈竜槍〉候補の最有力であったからなあ。今でも、それなりに鍛錬はしておる」

 

 とんとん、と槍の柄で肩を軽く叩いた。彼の余裕に、イスズは静かに闘志を燃やす。

 シキ――彼は現〈竜槍〉の一人であり最強と言われる、ガジンと同期で、腕前はガジンに勝らずとも劣らずと言われた達人である。

 皇都を追放され、第一線を退いてはいるが、槍の冴えは、確かにガジンにも劣らない。そんな男が言う『それなりの鍛錬』など、常人の基準とはかけ離れているだろうことは、誰でもわかる。

 それでもおのれの腕が、目の前の男に負けているなどと、イスズは欠片も思わない。

 誰であろうと、自分の槍は大の男を地面に叩き伏せてきた。今までとすべきことはなにも変わらない。

 イスズの気配の変化を敏感に感じ取ったのか、シキは腰を深く落とし、ずっしりと大樹の根のように槍をかまえた。

 

「来い」

 

 合図は、シキの一言だった。

 虫の声すら聞こえない暗い夜に、熾烈な技の競い合いが始まる。

 火花が散り、明々と闇夜が幾度となく照らし出される。

 

(……重い、それに、速い――!)

 

 〈八竜槍〉以外で、これほどの使い手に会った経験は、イスズにはなかった。

 久々に、受けに回らざる負えなくなる。だが、問題はない。むしろ好都合だ。

 のど目掛けて来る槍先を最小の動きで捌き、反撃する。

 シキが防御をした瞬間――するりと壁を抜けるようにイスズの槍が軌道を変える。

 イスズがガジン以前の師から教わった槍術。

 

『根っこから、女は男にはそうそう簡単には勝てないんだ。だから、やり方を変えるんだよ。真正面から打ち合う必要なんざないのさ。受け流し、隙を作り、突き刺す。やることはこれだけだ。そら、やってみな』

 

 あまりに適当な説明に面食らったイスズだったが、やってみたらできてしまった。

 理屈ではなく、感覚が鋭いことを師は見抜いていたのだろう。

 無防備な胴体を、槍先が突き破ろうとして――こめかみに悪寒が走った。

 

「……!?」

 

 膝を使い上半身を沈める。さきほどまで頭があった場所を、シキの槍が通り過ぎていた。

 ぶわっと……冷や汗が額に浮かんだ。

 

「ほう……? なにもかも理論や理屈で考え抜く娘かと思えば、勘や本能の方が鋭かったか。これは失敗したな」

 

 ひゅんっと、槍を回した音が鳴った。

 

「わしは、力はガジンに及ばず、速さはロウハに劣る。が、後の先を取るのは得意でな。自信満々に打ち込んで来る奴の鼻っ柱を折るのは爽快だったんだがのう。娘、どうやらシスイ家の者の中では、別の意味で変わり者らしいな。頭よりも体で覚える方に適正があるとは」

「……まさか、あのお二人に勝ったことが?」

「おうさ。ガジンには二回、ロウハには四回勝ってやったぞ。……まあ、その分星の数ほど負けたがな」

 

 イスズは〈竜槍〉を握り直す。言ったことが事実なら、男の実力は皇国でも最上位に君臨する。

 

(どうすれば……どうする、敵の型は、なにをやってくる、他にはなにが)

 

 槍先がわずかに揺れる。無駄な迷いがあらわれそうになり――イスズの脳裏を、ガジンの言葉が過った。

 

『お前の師は、正しい教え方をしたようだ。戦闘時、頭で考えるな、体で槍を振るえ。自らが培ってきた感覚を信じろ。そうすれば、お前はいずれ私を超えるだろう』

 

 揺れが、止まる。幾億と繰り返し、体の髄まで染み込ませた動作の準備に入る。

 真っ直ぐに、シキへと疾駆する。

 

「ぬ……!」

 

 動きの質が変化したことを察知したシキが、迎撃の態勢を取る。

 愚直な一突きが放たれた。

 

「ちっ……」

 

 シキは舌打ちをする。男は言っていた。力はガジンに及ばず、速さはロウハに劣る、と。

 イスズも二人にはまだ遠く及ばない。だが、シキ相手ならば腕力も速力も上回っている。

 ならば、難しく考えることはない。おのれが磨き上げてきた技術を叩きつけるだけで、相手は敗北する。

 趨勢が変わり、シキがじりじりと後退し始める。前に進まぬ者に勝利はない。イスズは勝負の終わりを予見した。

 ――――おそらく、それは油断とは言えなかった。

 イスズの力は確かにシキを越えており、勢いはイスズにある。

 だから、ここから巻き返されるのは――格上の化け物と打ち合い続けて来たシキの、経験からくる差であった。

 

「――な」

 

 後退が止まる。まるで突如として足の裏から根が張ったように動かなくなる。

 ()()()()()()

 

「甘いな、舐めるなよ」

 

 槍の軌道が、見切られ始めた。さっきまで躱していた一撃が迎撃されるようになり、迎撃から起点となる攻撃の出を潰される。

 守勢にならざるおえなくなる。粘り強さが、桁外れだった。加えて――。

 

(この男、私と同じ……?!)

 

 後の先。相手の動きを見切り、体勢が変えられない状態から斬り返す技。

 得意とする分野が被り、同時にイスズは敵の技量の高さにうなりそうになる。

 同じ技術を使い、実力は同等。そうなれば、最後に物を言うのは経験だ。

 まだ槍を使い始めて四年と経っていないイスズでは、埋められないものがあった。

 じりじりと、後退が始まり、ついには大きく飛び退き敵の間合いから離れなければいけなくなった。

 

「その若さで、信じられない冷静さよな。なるほど、これはガジンめが気に掛けるのも合点がいく。わしがおぬしぐらいの歳では、まだよちよち歩きもいいところだったのだが」

 

 肩に槍を当てて、感嘆の息を漏らしていた。汗ひとつとしてかいていない。息も『气』も乱れはまったくなかった。

 イスズは、素直に槍での競い合いの敗北を認める。だが、勝負に負けて、死合にまで負けてはならない。

 腹目掛けてきた槍を下段に打ち払い、大きく飛び退いてさらに距離を取る。

 

(仕方がありませんっ――帝、お許しを!)

 

 〈竜槍〉を用いる、『奥の手』――本来ならば、帝から使用許可が下りねば使ってはならない禁忌の業である。無論、今回は相手がガジンに限り許可が出ている。

 〈八竜槍〉に名を連ねた際、易々と解放してはならないと、先達からきつく言い含められた。けれど、このままでは命を落とすどころか、帝からの勅命を果たすことすらできなくなる。それだけは、避けねばならない。

 体内で駆け巡る『气』を、〈竜槍〉へ注ぎ込む。そして、静かに命じた。

 

「――〈竜化〉」

 

 ドクン……と、脈打つ音が周囲に響く。イスズの『气』に呼応した〈竜槍〉は、赤い血管のような模様を槍全体に浮かびあがらせた。やがて、模様は槍全体に広がると、赤色から深緑色へ変わり始める。

 

「ッチ」

 

 舌打ちが一つ。音源はシキだ。帝の許可もなく、まさか〈竜槍〉の力を解放するなど、予想していなかったのだろう。イスズの、帝への忠誠を含めて考えれば、的外れではない。

 彼の誤算は、イスズ自身が、処断されても任を全うしようとする、捨て身の決意だった。

 

「リュウモ、時間を稼ぐ。合流場所に逃げろ。ああなってしまうと、手がつけられん。長くは持たんぞ」

 

 切迫した様子のシキに、少年もまずいと思ったのだろう。逃げ出す機を窺っている。

 

「もう――遅いッ!」

 

 イスズの姿が、残影を残してかき消える。

 

「っぬ!」

 

 シキの眼は、すでにイスズを捉えられていない。だが、槍同士がぶつかり合い、火花を散らした。

 長い経験からくる、未来予知にも似た技術を使うシキの腕前に、イスズは感嘆しながら、槍を突き出す。

 爆発的な支援を受けたイスズの動きは、人が出す速さの限界点を超えていた。

 〈竜化〉――竜の骨より作り出された槍の力を引き出し、竜が如き膂力を得る。

 名の通り、人の身でありながら竜の力を身に宿す。常人では〈竜槍〉から供給される『气』に身体が追い付かず、自壊してしまう危険極まりない業。

 人の身に余る力を、完璧に制御、統制し、運用する。だからこそ、彼、彼女等は、皇国において〈八竜槍〉を名乗ることを許されるのだ。

 

「オオォォッ!」

 

 シキから、先程まであった余裕が消え失せた。裂帛の気合をもって、槍を繰り出している。

 間違いなく、この一突きを出会った当初にされていたら、イスズは殺されていた。

 だが――。

 

「温いッ!」

 

 今は、違う。イスズの能力は〈竜槍〉から供給される〈竜气〉によって人を超えている。

 当然、力を振るうために超常となった感覚は、必殺の一撃を、はっきりと目に捉えていた。

 槍先を左に逸らし、シキの態勢を崩し、自身の槍を、へし折れろとばかりに上から叩きつける。

 

「ぐぅッ……!」

 

 槍を真横に、頭上へかかげて受け止めた、シキの足元が陥没する。

 〈竜槍〉の助け無しに、限界を超える動きをする彼に、イスズは驚嘆した。同時に、冷徹なまでに勝負の終わりを計算していた。

 ――あと十手。それで、終わりです。

 極限まで高速化した思考が、死合の終了を告げてくる。元より、限界を超える動きには反動が伴う。意図的に身体の抑制を外して、今の動きを発揮できているのだろう。

 タガが外れた、体内で暴れ回る力は、自らの身体を破壊してしまうものだ。

 喉に向かって来た一刺しを、冷静に見極めてかわす。機動力を削ごうと足を払う一撃を、受け止めて弾き返す。

 ――あと八手。

 だからこそ、ある一定の境界線を越えた瞬間、身体は耐え切れなくなり、崩壊する。

 動きが途切れた時が、彼の終わりだ。厳格に定められた限界がある者と、制限と反動が無い者では、どちらが有利かは言うまでもない。

 

「――ッ!」

 

 シキは、苦悶の表情を浮かべる。顔には玉のような汗がいくつも噴き出ては、動く衝撃で離れていく。互いの槍がぶつかり合うたび、彼の終わりが近いことを、雄弁に語ってくる。

 それでも、男は手を止めない。これこそが我が意義だ、と言わんばかりに攻勢を緩めない。

 ――あと五手……。

 男の破滅は、覆しようがない。彼我の戦力差は、圧倒的だ。勝負の天秤は、イスズの方に傾き続けている。

 ――あと三手。

 ゆえに、天秤を傾ける要因は、勝負の外側にしかあり得ない。

 

「シキさん、離れて!!!」

 

 少年の手に、白い筒――笛のような物が握られているのが見えた。

 彼の言葉に、シキは崩壊寸前のところで、後方に飛ぶ。

 嫌な予感が、イスズの首筋に走った。冷たい氷を、肌に近付けられているような、錯覚。

 

(まずい――ッ!)

 

 わけがわからない悪寒に突き動かされるまま、イスズは追撃する。

 全身の力と『气』を使った、最速の一閃。飛び退いたシキの腹に直撃するはずのそれは。

 夜の世界に響いた、甲高い音によって届くことはなかった。

 

「なッ!?」

 

 身体中に虚脱感が駆ける。同時に、槍から供給されていた〈竜气〉が途絶え、消失する。

 〈竜槍〉は、その身を深緑色から白色へ変わらせていた。

 ――〈竜化〉が強制解除された!? 馬鹿なッ!?

 あり得てはいけない事態が、イスズの動揺を引き起こした。

 ほんの一瞬、身体が弛緩する。達人が、その隙を見逃すはずもなかった。

 

「オオォッ!!!」

 

 シキの下から上の軌道を描いた、渾身の一撃。

 槍と槍が衝突した。鼓膜を大きく震わせる硬質な音が鳴る。

 握りが甘くなっていたイスズの手から、槍が弾き飛ばされた。

 ヒュン、ヒュン――と、月光を裂いて、〈竜槍〉が宙を舞う。

 〈竜槍〉が音を立てて地面に突き刺さるころには、すでに決着はついていた。

 

「っ……」

 

 イスズの喉元に、穂先が突きつけられている。まるで、出会った当初のリュウモとイスズの立場が逆転したような構図になっていた。忌々し気にシキを睨みつける。

 

「動くなよ、さすがにこの状態なら、一息でお前の首を刎ねれるぞ」

 

 喉仏辺りに向けられた穂先は、シキの言う通り、あと一押ししただけでイスズの柔肌を破り、骨まで達して命を奪うだろう。

 

「合流場所に行け、リュウモ。他の〈影〉はすべて倒しておいた。邪魔者はいまい」

 

 事態の推移を、イスズはただ見ていることしかできない。己の不甲斐なさに拳を握りしめた。

 

「ガジンさんは、大丈夫でしょうか?」

「わからん。相手がロウハとなるとな……。時間になっても来ないのであれば、奴は置いていけ」

「わかりました。その時は、一人で行きます」

 

 少年の言葉に、イスズはぎょっとした。まさか、たった一人で人が足を踏み入れたことのない北の〈竜域〉へ行こうというのか。それは自殺行為だ。

 

「シキさんは……」

 

 少年は、この後のシキの身を案じているようだった。

 

「気にするな。いまさら殺されようと、どうされようがかまわん。――行け。行って『使命』を果たしてこい。…………できれば、生きて帰って来い」

 

 少年は返事をせず、曖昧に笑っただけだった。背を向けて、目的地へ向かおうとする。

 

「ま、待ちなさい、本当に一人で行く気ですかッ!?」

 

 少年の後ろ姿に、迷いは見受けられない。当然のことのように、走り出そうとしている。

 イスズは、できれば少年を止めたかった。このまま行っても、彼を待つのは死だ。たった一人で〈竜域〉にたどり着けたとしても、その先はない。なぜなら、タルカにおいて最も深い北の〈竜域〉は、そもそも人が立ち入れる場所ではないのだ。

 あそこは、『竜』が支配する領地。人の理は一切役に立たない。肩書も、権威も、血筋も、まったく意味をなさないのだ。

 『竜』を深く知るこの少年が、理解していないはずがない。だからこそ、イスズは止めたいのだ。わかっていないのではなく、わかっていて足を進めているその姿。理性的に暴走しているその姿は、哀れすぎた。

 だが、仮に止めたとして、その後自分に何ができる?

  帝は少年の処刑を決定している。賽は投げられているのだ。

 ならば、ここで彼の歩みを止めても、待っているのは同じ死に違いはない。変わらない未来が待っているのならば、本人に選択させた方がいいのではないか。

 嫌な、煩わしい現実が、イスズの口を閉じさせた。リュウモは、振り返って言った。

 

「おれは、もう行きます。お気をつけて――――おれの眼を、綺麗だって言ってくれて、ありがとう」

 

 笑って、少年は夜の闇の中へ、真っ直ぐに駆け出して行った。

 足音が遠のいていくと、残ったのは静けさだけだった。風が吹いて、天空にある雲が完全に取り払われる。月光が強さを増し、影は色濃くなり、世界は煌々と照らされる。

 そこに、幼い少年の姿は、一筋も残っていなかった。

 イスズは、影の中へと消えた小さな背に、無意識の内に手を伸ばした。なにを言うでもなく、なにをするでもなく、ただ無意味で無価値な行為だった。

 

「わたくしの槍は、力は、言葉は、少年を、止めることすら、できないの……」

 

 途方もない、無力感が心の芯から染み出してきた。それが身体を苛み、追おうとする意志を萎えさせる。イスズは、少年を追えない。

 悔しい。少年を止める、追う、助ける、そのどれもができない、自分の力の無さが恨めしい。情けなさが、自らへの怒りとなって身体を熱くさせた。

 

「あれを止めることは、誰にもできん。帝さえ止められぬのだ。我らごときが、彼の進行を妨げるなど、できようはずがあるまい。あれぞ、天命を受けた者だ。我らはただ伏して、結果を待つしかない平人よ」

 

 天命。シキが言う、天が定めた運命が、少年を突き動かしているとでもいうのか。

 違う、とイスズは思う。あの少年は、天命だとか、運命だとか、そういったものに背を押されているわけではない。

 もし、そんな冷たい無機質な動機でここまで来たのならば――闇の中で涙を流して、震えるはずがない。

 

(あの子は、泣いていた。うずくまって、泣いていた)

 

 影が都を駆けずり回り、少年を探し回っている時、イスズは偶々、声を聞いた。

 絡み合った紐のような道の角に、子供が震え声を必死に押し殺している様が目に入った。

 迷子だろうか、と思って咄嗟に保護しようとして、気が付いたのだ。子供に気配が無い。声は確かに聞こえているのに、目を閉じると、どこにいるかわからなくなってしまいそうな矛盾をはらんだ、おかしな様子。

 この感覚を、イスズは知っている。熟練した『气法』の使い手が、自らの『气』を小さくすることによって気配を消す、『隠气』と呼ばれる技術を使った際に起こる、矛盾した感覚。

 まさか、と思い様子をうかがった。十、十一程度の少年が、時折開く瞼の下にあった瞳の色は――青色だった。

 泣いている少年は、帝が勅命によって連れ帰れと言った者だったのだ。

 この時、イスズはすぐに少年を捕えることができなかった。

 〈禍ノ民〉と呼ばれ、皇国の民から恐れられる者の正体が、暗闇で泣くただの子供だと知った衝撃は、身体を地面に縫いとめるに十分な威力を持っていた。

 子供だ。帰り道がわからなくなって、家に帰れなくなってしまった、幼子。

 

『……はッ!』

 

 泣き声を漏らさないよう、必死に耐える少年を見て、イスズは素早く身を隠した。

 昔、ガジンに「男は女に泣かれているところを見られるのは、何よりも嫌がる」と言われていたからだ。何か、いけないことをした気分になってしまったのだ。

 さっさと出て行って、少年を捕まえればよかったのに、彼の悲しみがこもった声を聞いていると、中々決心がつかなかった。

 ――泣き止んでくれれば、出て行けるのに、と言い訳がましいことを内心に浮かべながら、結局、イスズは少年が泣き止むまで、塀に背を預けていた。……警笛を吹くのも忘れて。

 それで、声が消えたと思ったらいなくなっていたので、大急ぎで少年の進路の先に走って待ち伏せていたのである。

 イスズは、首筋に当てられている刃を気にせず、顔をシキに向ける。

 

「あの少年が、帝のように天命を受けていると、本気で思っているのですか」

「っは、帝とあの子を一緒にするなよ。あの子は、リュウモは一族が連綿と伝えてきた使命を果たそうと懸命なだけだ。それを、まるで別の何かが後押ししている。囚われ処刑される身でありながらガジンに助けられ、私と出会い、今まさに追手を振り切った。そして〈竜峰〉へ向かう。多数の偶然がリュウモを導いている。これを天命と言わず、何と言う?」

 

 少年が、リュウモが刻んできた事実に、イスズは下唇を噛んだ。なんという無慈悲な定め。

 本人の意志などまるでない。彼は、急かされるまま、天命に背を押されて進み続けている。

 これを、無慈悲と言わずなんという。国の人々を守りたいと思い、腕を磨き〈八竜槍〉となったのに、このざまか。子供一人すら救えないのか。

 イスズの顔が、苦渋で染まって歪んだ。

 

(〈竜槍〉よッ! お前は、これでいいのかッ! たった一人の子供すら救えないざまで、このままでいいのかッ!?)

 

 地面に突き刺さる〈竜槍〉へ、内で吠えた。槍は、反応を示さない。「彼の邪魔をするな」――と、突き返された。

 

「〈竜槍〉になにかを期待しているなら、止めておけ。あの子には『龍王』の加護がついている。明らかに格上の相手に牙を向けるほど、槍は我らに従ってはくれまい」

 

 シキの指摘に、イスズは臍を噛んだ。〈竜化〉が強制解除された時、一つの可能性が頭をよぎったのだ。それが正しいことを、今の状況が証明している。

 

「あれは、あの笛は……『龍王』の骨から、作られた物……」

「ほう、その考えにすぐ至るとは。さすが、皇族に勉学を教授する一族の出なだけはある」

 

 ぎり……っと、イスズはおのれの不甲斐なさに吐き気がして……月明かりを巨大なにかが遮った。

 

「あ、れは……黒い――――『竜』?!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十九話 〈禍ツ竜〉

 巨大な影を目にした瞬間、リュウモは都の外へ一刻も早く出なければならないと確信した。黒い巨体に赤黒い目が、こちらを見たのだ。

 〈禍ツ竜〉は、右目が潰されて、隻眼となっていた。残った左目は、リュウモを捉えて離さない。まるで、強い恨みを抱いているかのようだった。

 ――襲ってくる……!

 〈禍ツ竜〉は徐々に高度を落としている。ここが戦場になれば、また燃やし尽くされる光景を目にすることになる。それは、リュウモは嫌だった。

 

「こっちだ、こっちへ来い!」

 

 言葉を理解しているのか、赤黒い目がリュウモを見据える。

 全力で都の外へ走り出ると、待ち構えていたかのように地面に下り立った。

 振動が大地を揺らし、小規模の地鳴りが起きる。

 

(こ、の……揺れ――ッ!)

 

 知っている。故郷の〈竜域〉で、皆と共に逃げ回ったときのものと同じ。

 

「お前が、みんなを……!」

 

 リュウモは怒りをあらわにし、〈禍ツ竜〉を睨み付ける。

 隻眼の黒竜は、双眸を輝かせ、獲物を前に口を裂く。

 

(翼竜だ、そんな変わらない)

 

 形はリュウモが知っている『竜』とさして変化はない。

 一対の翼と四足歩行を可能とする前肢と後肢。あらゆる生物の攻撃を受け付けない鱗と甲殻は、所々がひび割れ、切り裂かれている。

 〈竜守ノ民〉と戦った結果、負った傷だろう。つまり――。

 ――弱ってる……!

 リュウモは〈龍王刀〉を抜いた。骨の白い刀身が発光し輝いた。

 白光が目障りだと、〈禍ツ竜〉は吠える。咆哮は空気を激しく打ち据え、ビリビリと鼓膜が振るえた。

 

「ここからさきは、行かせない!」

 

 駆け出す。〈禍ツ竜〉は怯まず一歩も引かず、怨敵を睥睨している。

 

「――!」

 

 『使命』を果たす。死んで逝った者たちのために、リュウモは命を賭す。

 再び、轟音が月下に響いた。

 同時、〈禍ツ竜〉は息を大きく吸い込む。口の端からちらちらと炎が漏れ出ている。

 火炎の吐息がくる。リュウモは大きく横に逸れて避けようとした。

 

『――――ォ、ォォ……!』

 

 突然、〈禍ツ竜〉はむせ返るように息を吐いた。見れば、首元に大きな傷がつけられていて、上手く炎を吐けないようにされている。

 好機を逃さず、リュウモは懐に深く入り込み、刀を一閃する。

 

「アァァァ!!!」

 

 腕、胸元を何度も何度も斬りつける。その度に、赤黒い血液が噴き出す。

 

(いける、斬れる……!)

 

 相手は弱っている。なら、頭に刀を突き刺せば……。

 希望を垣間見た瞬間、〈禍ツ竜〉は、炎の代わりに爆音を周囲に巻き散らした。

 

「い……!」

 

 鼓膜が破れるかと思うほどの音量。リュウモは反射的に耳を両手で塞いでしまう。

 音で脳と鼓膜が大きく揺れ、平衡感覚がわずかにずれる。

 耳鳴りが治まる前に、巨大な『竜』の手が迫っていた。

 

「が……ッ」

 

 回避が間に合わず、まともに一撃を受ける。優に十度は地面を転がってようやく止まる。

 

(い、たい……)

 

 視界がぶれる。体が止まれと命令する。

 

(い、やだ……こんな、ところで、なにもできないまま、死んで、たまるか――!)

 

 故郷も、村の皆も、死んだ意味がなくなってしまう。大切だった人たちの死が無意味になってしまう。

 ――嫌だ、絶対に、嫌だ……!

 駄々をこねる子供のように体に喝を入れ、鞭を打ち立ち上がる。

 〈禍ツ竜〉は、切り裂かれた箇所からだらだらと流血している。致死量にはまだほど遠い。

 さきにどちらかが倒れるかなど、火を見るよりも明らかだった。

 それでも、リュウモは真っ直ぐに敵を睨み付ける。刀を絶対に離さぬよう握り締めた。

 

(胸元に傷が多い。きっと、みんながつけた傷だ。あそこに、突き刺せれば――!)

 

 『竜』であろうと生物に違いはない。臓器があり心臓がある。

 どんな生き物だろうと、首を刎ねられるか心臓を潰されれば死ぬ。

 血で赤く染まった〈龍王刀〉が強く発光する。刀も、作戦に賛同しているようだった。

 だが、もう一度距離を詰められるか。至近距離で咆哮を食らえば体が硬直する。

 同じことの繰り返した。そうなってしまえば膨大な生命力を持つ『竜』へ軍配が上がるのは必定である。

 

「止まれないんだ、おれは……!」

 

 発走する。策はなくとも、止まっていられない。敵は〈禍ツ竜〉だけではないのだから。

 

(どうにかして、どうにかして隙を作れば……)

 

 ほんのすこしでいい。〈禍ツ竜〉の気を逸らすなにかがあれば……。

 〈禍ツ竜〉の口角があがる、無駄なあがきをする人間の姿を嗤うように。

 その小さな人間の後ろから、なにかが高速で通過した。

 

『――オォォォ!?』

 

 飛来した細長い影を、〈禍ツ竜〉は全力で避ける。巨大からは考えられない機敏さであったが、それ以上に影は早かった。

 ――槍?!

 『竜』の首元を狙った見覚えのある槍は、直撃にこそ至らなかったものの、首を切り裂いていた。

 〈禍ツ竜〉の意識が逸れる。

 リュウモは全力で疾走し、体ごとぶつけるように〈龍王刀〉を『竜』の胸元へ突き入れた。

 

『――――――!?!?!?!?!』

 

 激痛に『竜』が絶叫する。痛みから逃れるように、〈禍ツ竜〉は両翼を広げ飛び立った。

 浮遊感がリュウモの感覚を狂わせようと襲う。

 ――斃れろ、斃れろ、斃れろ……!

 祈りを捧げるように、あるいは呪詛を吐きつけるように言い続けた。

 刺した刀の柄の尻を掌で叩き、さらに深く、心臓に到達させようとする。

 血飛沫があがり、リュウモの目を赤く染めた。異物が入ったせいで視界がおかしくなる。

 

「う、あァァ!!!!」

 

 渾身の力を込めて柄頭を殴る。刀がさらに深く入り込む。

 

『――オォ、オオオオ!!!』

 

 ついに、〈禍ツ竜〉の手がリュウモの小さな体を打ち据えた。

 我武者羅に振るっていた手がぶつかってしまったのだ。

 空中に放り出された。

 地面が秒ごとに近付き、その度に心臓や肝が縮み上がる。

 ――衝撃は、地面に叩きつけられるより早かった。

 木々の枝に身体中がぶち当たり、衝撃で四方八方からタコ殴りにされた。

 バキ、ガッ、ドっと、音が耳に響いた。痛みよりも先に音が届き、背中から草木茂る地面に激突した。「けはっ」と、口から空気が抜ける声が出る。

 凄まじい痛みは、そのあとにやってきた。殴打された時のような、鈍い痛みが全身のそこかしこから発せられている。骨がじんじんと音を立てて軋んでいるかのようだった。

 

「いっづ……」

 

 口から血の味がした。痛みにのたうち回ることすらできず、ごほごほと息を吐き出す。

 最後に背中を強打したせいか、肺の動きがおかしくなっている気がした。

 二分ほど経って、やっと動けるようになると、今度は全身に負った打撲が神経を刺激する。

 

「い、ぎ……!」

 

 思わずうずくまってしまったっが、そのせいで別の個所が激痛を訴える。

 

(これは、ちょっと、おとなしく、してないと、駄目、だけど……)

 

 あの〈禍ツ竜〉がどこに向かったのか突き止めないといけない。もし、どこかで暴れ回りでもすれば、惨劇が引き起こされるのは必定だ。

 

「行か、ないと。あれじゃ、きっと、死なない……」

 

 深手を追わせはしたが、致命傷ではなかった。『竜』の強靭な生命力、強力な治癒力は、人のそれをはるかに凌駕している。身体を休めれば、再び人を襲い始めるはずだ。

 リュウモは、痛めた身体を引き摺るように、重い足取りで進み始めた。

 墜落したのは、小さな山の頂上であったらしい。月明かりの下で照らされた他の山々が顔を見せている。周囲には、あるべき獣の声も、虫の鳴き声もない。すべての命が『竜』に怯え、隠れてしまっていた。

 よろよろと歩きながら、時には木に身を預けて休みながら、下山する。

 足音だけが、夜の山に虚しく響いていた。

 痛みと疲労で意識が朦朧となってきた時だ。木の根に足をとられ、身体の均衡が崩れた。

 

「あ――――――」

 

 途端、あらゆる支えを失ったかのように、リュウモは前に転倒する。比較的緩い傾斜といえ、山である。小さな身体は、ごろごろと転がる小石と化し、下へ、下へと進む。

 ドンっと、音が鳴って、ようやく止まった。意識を引き千切るほどの痛みが身体に走り、動こうとする意志を粉微塵にしようと身の内を這いずり回る。

 痛みが収まった。仰向けになり、亡羊としていたリュウモの顔に、緑色の葉っぱが落ちた。激突の衝撃で落ちてきてしまったのだ。

 葉を退かす力すら、四肢には残っていなかった。視界がかすみ、物の輪郭、次第には色さえもぼやけて混じり始めた。

 

(動かない、と……)

 

 リュウモの意思に反し、身体は強制的に意識を闇の中に突き落としてしまった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十話 〈目覚めの時〉

「う……」

 

 リュウモは漂ってきたいい匂いに釣られて目を覚ました。

 

「なんだが、さすがは子供だな。腹が減れば勝手に起きるか」

 

 声にびっくりして、リュウモはその場から跳ね起きる。

 

「行儀の悪い奴だな。それとも、これがお前らなりの朝の起き方なのかおい」

 

 岩でもあらわれたのかと思った。リュウモがそう感じるほど、目の前にいる男の体は大きくがっしりとしていた。村でも、ここまで背が高い人間は見たことがない。まるで熊だ。

 

「貴方、は……?」

「ガウン。その前にまず食え。話はそれからだ。でないと力が出ないだろ」

 

 言われた通り、盆の上に置いてある料理にかぶりついた。

 魚と米、それに味噌汁まであった。すぐに料理は空になる。

 

「美味しい、です」

「ほう、〈青眼〉の奴も、俺らと同じ味覚をしてるんだな、ちょいと安心したぜ」

 

 はっとして目を隠そうとしたが、笠もなにも落としてしまった。あるのは〈龍赦笛〉だけだった。〈龍王刀〉は『黒竜』の胸に突き立てられたままだ。

 

「あの、ありがとうございました、おれは、リュウモ、です」

 

 声がすこし掠れていた。叫び倒していたからかもしれない。

 

「さっきも言ったが、ガウンだ」

「どうして、おれを?」

 

 〈青眼〉をした人間がどう扱われるかなど、身に染みて知っている。関わりのない人間である自分を助けた訳が、リュウモにはわからなかった。

 

「まあ、〈青眼〉のやつを、子供でも招き入れるのは不吉を案内したのと同じだ。正直言えば、俺は普通なら放っておいたさ。これが、お前の近くに落ちてなければな」

 

 ガウンは、握っていた掌を開いて、それを見せた。

 小さな袋に縄が通してあり、お守りとして持っていることができるそれを。

 

「あ……ガジンさんの――よかった」

 

 これを手渡された時、ガジンは言っていた。故郷を出る時に、兄から贈られた幸運を呼ぶお守りだと。

 ところどころが汚れ、染みが多いが、それだけ長い間大切に扱われてきた物。

 無くしたらどうしようかと思っていたところだった。リュウモはほっとした。

 

「やっぱり、お前、ガジンの知り合いか。これを渡されるぐらいには、親しいらしいな」

「おれが、盗ったとか、言わないんですか?」

 

 ガウンは鼻を鳴らした。

 

「馬鹿言うな。あれ相手に盗みなんかできるものかよ。俺の弟はそこまで愚鈍じゃないぞ」

 

 ――弟。

 そう言ったガウンの顔を、リュウモはまじまじと観察した。

 ガジンの顔つきは、不愛想、不器用をあらわしたかのようだった。

 ガウンは、相手を威嚇しているかのように感じる。眉間に皺が寄っているのも、助長している。はっきり言って、怖い。人殺しの過去があると言われても、疑うことなく信じ切ってしまいそうだ。

 リュウモは、悩んだ。家族であるなら事情を話してはいいのではという考えと、ガジンが他言すべいではないと言っていた経験がせめぎ合う。

 

「実は、話せない事情があって……」

 

 巻き込みたくない。その思いが勝ち、リュウモは言葉を濁した。

 

「ああ、〈八竜槍〉の秘密裏な任務ってやつか。のわりにはあの野郎、子供を守れてねーな。帰ってきたら文句を言ってやる」

 

 ガウンは自己解釈してくれたようだ。口調にすこしだけ心当たりがあるような感じがあったのは、過去になにかあったからかもしれない。

 

「なにか、あったんですか?」

 

 また、悪い癖が出て、慌ててリュウモは口を閉じた。ガウンは気に障った様子もなく、話してくれた。

 

「別に珍しいことじゃない。〈八竜槍〉の身内となりゃ、ガジンが表に出せない任務中は、俺らの警護はずっと厳重になんのさ」

 

 がしがし、と襟足辺りを擦った。その動きが、ガジンとそっくりだった。

 

「まったく、最初はおっどろいたもんだ。帝の勅使が来るわ、護衛が詰める番屋が作られるわの大騒ぎだったよ」

 

 〈八竜槍〉の身内は特に厳重に警備される。人質にでもされれば面倒だからだ。

 個人的感情で動くことを禁じられている〈八竜槍〉でも、家族がさらわれしかも国がなんの対策も講じなかったのでは不信感を抱く者が出て来ても無理はない。

 そういった事情を、ガウンは語ってくれた。

 

「番屋のやつらも、最初は色々と戸惑っていたみたいだがよ、今じゃ村の位置印みたいなもんだ」

「大変、なんですね〈八竜槍〉って……」

 

 誰よりも頼もしかった旅の道連れは、とても窮屈な生き方をしていたらしい。

 

「まあ、弟の話はいい。番屋のやつらに話しておく。そうすりゃ、あいつもすぐに駆け付けんだろ」

「あ、えと、それは大丈夫というか、必要ないですっていうか……」

 

 敵に連絡されでもしたら、また追われる羽目になる。だが、リュウモは善意で行動しようとする男を止めるための上手い言い訳を思いつかなかった。

 

「おいおい、色々あんのはわかるがよ、さすがに連絡ぐらいは」

 

 ばたり――となにかが倒れた物音が、ガウンの言葉を止めさせた。

 

「……なんだぁ? またじいさんが酔っぱらって倒れて来たかぁ?」

「……? この、臭い」

 

 鼻に、甘ったるい花のような臭いがする。どさ、どさ、と断続的に同じような音が、人が倒れる音がした。

 

「――?! ガウンさん口と鼻を覆って!」

「あ、どうしたいきなり」

 

 説明している暇はない。リュウモは懐を探って布を取り出すと、ガウンの口と鼻を押さえた。

 

「毒です……この、臭い!」

 

 村の薬師が風に乗せて『竜』を眠らせる薬を作って使っていたとき、同じような臭いがしていたのだ。

 ――でも、どうして?!

 村でしか作れない薬だと思っていた。この薬は〈竜域〉にある素材を使うからだ。

 

「んだと?! ……くそ、他のやつらは」

「意識を奪うだけだから、多分、大丈夫。それより――!」

 

 追手がすぐそこまで来ている。リュウモは部屋の窓から夜の村を見る。

 風上、村の外側に松明を持ってこれみよがしに自分の位置を示している一団がいた。

 出て来い。行動がそう語っている。

 

「ガウンさん、ここにいて下さい。絶対に外に出ないで」

「おい、坊主!?」

 

 リュウモは窓から飛び降りる。着地し、一直線に黒い集団に向かう。家にいたままだと、ガウンを巻き込んでしまう。

 

(こんな、おれひとり摑まえるために、ここまでやるのか?!)

 

 村中の人間を全員昏倒させてまで、彼らはリュウモを捕えようとしている。今までのように人目につかないやり方とは違う。

 なりふり構わない方包囲に、リュウモは手負いの『竜』を想像し、ぞっとする。

 彼らなら、冗談抜きでどんなことでもやる気がしてならない。

 

「なんで、関係ない人達まで――!」

 

 リュウモは怒りをぶつける。すると、一団の中からひとりの青年が前に出た。

 

「久しいな少年。四日ぶりだ」

「ゼツさん、どうして、こんなことを……」

 

 ゼツの言葉から察するに、『黒竜』との戦いから丸一日経過していたらしい。彼らにとって、リュウモを見つけ出すには十分な時間であったようだ。

 

「我らも時間がなくてね。来てもらおう、皇都まで」

「断ります、おれを追わないでください!」

 

 はぁ……と、ゼツは息をひとつ吐いた。聞き分けの無い子供に辟易しているかのようだ。

 

「できれば、死者は出さずに済ませたい。これ以上、強い薬を使うと後片付けが面倒だ」

「――――ッ?!」

 

 ごみを屑箱の中に入れるような気軽さで、ゼツは恐ろしいことを言う。使用されている薬よりも効果が強い代物を使えば、村全体がどうなるかなど想像に難くない。

 

「君は善良な人間だ。誰かが死ぬ様を見たくはないだろう。それとも、村が屍が積み重なった後で皇都へ行きたいかな。私達はそれでもかまんわないが……」

「おい、手前らうちの村に一体全体なんの用だ?! ガキ相手に物騒なモンまで持ち込みやがって!」

 

 熊が走るような迫力でガウンが駆け寄って来た。彼はリュウモの前に出る。

 大きな背が、追手の視線から庇うように立ち塞がる。

 

「我らは帝の命により、その少年を捕らえにきた。引き渡してもらおう」

 

 鋭い視線に、しかし、ガウンは退かなかった。追手よりも厳しく、問い質すように目を向ける。

 

「帝の命……? 勅使ならちゃんとした文があるはずだぜ。番屋の連中と同じようにな。そいつを見せろ」

 

 そんな物、あるはずがない。彼らは帝の命によって動いてはいても、正式な部隊ではない。

 あくまで裏で動く者たちなのだから。

 押し黙るゼツ達に、ガウンは顔の皺を深くし、威嚇するように言った。

 

「――は、笑えねえ冗談だな。帝の名を騙ったモンがどうなるか、知ってるだろうな、ええおい」

「秘密裏に我らは動いている。〈八竜槍〉の身内には手を出さない。少年、来てもらう」

 

 人質を取られているも同然だ。ゼツは、きっと容赦しない。返答を渋ればガウンたちを傷つける。

 村を焼き払うところまでやるかもしれない。村人の命、その全てを引き換えにしてまでも、彼らはリュウモを連行しようとしている。

 

「〈八竜槍〉の親族には、手は出さないんだったよな」

 

 ゼツの前に立ち塞がり、ガウンは毅然として言い放った。〈影〉の者たちの表情が、嫌なものに変る。

 

「その通りですが、なにか」

「そうかい。――いいこと聞いてよかったぜ」

 

 ガウンは、口角を上げ、友好的な笑みをする。――拳が飛んだ。

 唸りを上げ、敵の顔面目掛けて飛来するそれは……難なく避けられた。が、侮れない威力を持っていることを敵味方に証明した。

 仮に、リュウモが放たれた拳の一撃をまともに受けたら、行動不能になるのは必死だった。

 ゼツの顔が、歪む。

 

「なるほど、確かに兄弟だ。やることが似ている……!」

 

 この小さな村に、面倒と厄介が揃ってしまったのだ。彼の胸中は、穏やかではないだろう。

 

「ほら、行け坊主。さっさと行っちまいな。こっちのことは手前でなんとかする!」

 

 リュウモは、ガウンに頭を下げた。走り出そうとする。

 ――なにかに、足首を掴まれた。

 

「は? うわぁ!?」

 

 見えない、強烈な力が足首に加わり、地面に倒されうつ伏せになって、引きずられる。

 ――なんだこれ?! いてぇ!

 なんとか仰向けになって、自分を捕まえた正体を知ろうとした。だが、足首にはなにも無い。縄や網の類は一切見当たらない。本当に、なにも無いのだ。

 数秒間、引きずられると〈影〉たちの近くでようやく止まった。足首から力が無くなる。

 

「……な、なんなんだよ」

 

 正体不明の力に連れられ、囲まれた。

 

(くそ……)

 

 彼らの実力は十分わかっている。あのガジンと十数回は打ち合えるのだ。まともに戦えばどんな手段を使っても殺される。だが……。

 ――この人たちは、おれを殺せない。

 〈竜域〉でのやりとりを思い出す。帝が〈影〉に出した命令は、生かして標的を捕らえること。ならば、簡単にこちらを攻撃しては来ないはずだ。

 包囲されながら、リュウモは脱出する機会をうかがう。

 後方では、ガウンとゼツが戦っている。ガウンは氏族特有の身体の頑強さでもって、敵に殴りかかり続けていた。ゼツはかなり手を焼いているようだ。

 心配はなさそうで、リュウモはほっとする。

 円形に陣を張っていた〈影〉の内のひとりが、輪から数歩近づいてきた。

 

「オレの名はケイ。投降しな坊や。そうすれば、痛い目に遭わずに済む」

 

 リュウモの返答は、決まっていた。

 

「お断りします」

「そうか。――なら仕方ない」

 

 ケイは、ため息を吐く。抵抗は意味を為さないと言いたげだった。

 リュウモは、腰を落とす。強引に包囲を突破しようとし――――突然、息苦しくなった。

 

「あ、ご、お……」

 

 反射的に自分の首を絞めつけているものを外そうと手をやったが、掌は空を切るばかりだった。ギリギリと圧迫され、涙で視界が霞み始める。

 

(見えない、手……?!)

 

 首の肌が、くっきりと手の形にへこんでいる。

 今度は、原因がわかった。首を絞めつけているのは『气』だ。どんな理屈かはわからないが、誰かが体外に放出した『气』を操って、首を絞めている。

 

(こん、な、無茶苦茶なッ)

 

 自らの『气』を体外に放出すること自体、難度が高い。それを、放出どころか離れた相手を捉え、首を絞めるなど考えられない。

 空気を求めるようにもがいて辺りを見回すと、〈影〉の内のひとりが、こちらに手を向け掌を半開きにしていた。間違いない、あの男が『气』で自分の首を絞めつけている。

 常人にはできない、あり得ない力。

 ふと、ジョウハが言っていたことが頭をよぎった。

『皇都付近じゃ、本気でとんでもない異能者がいるからな。俺たちの体質なんざ、子供のお遊びみたいなもんよ』

 ――これ、が、皇都の異能者……!

 だが、『气』によって相手に干渉するのなら、対応策はないが、対抗策ならばある。

 リュウモは体内の『气』を、わざと制御を緩め、荒くれさせた。

 見えざる手とリュウモの『气』がぶつかり合い、音を立てる。静電気が発生した時のような音が鳴ると、首から圧迫感が消えた。

 

「けほ……」

 

 存分に空気を肺に取り込み、リュウモは驚いている〈影〉の男を睨みつけた。

 

「なんと莫大な『气』か……!」

 

 異能者の男は、驚愕に目を見開き手首を押さえている。『气』で見えざる手を弾き飛ばした影響か、右手が上手く動いていない。

 能力使用の際に、なんらかしらの危険が伴っているようだった。

 

「どけ……ッ!」

 

 〈影〉たちは、陣形を変えた。それが、彼らの返答だった。

 虫の鳴き声が夜の闇に響く。二つ月の両方が雲に隠れ、月光が遮られる。

 リュウモは、駆け出した。北へ、北へと。

 

「止まれ。止まらないなら」

 

 言い終わる前に、リュウモは蹴りかかる。勢いを乗せた前蹴りは、当然のように躱された。

 ケイは、脇に足を挟み、そのまま体重を横にかけて体勢を崩そうとした。

 しかし、倒れない。足が地面に接着されたように、動かない。凄まじい体幹と均衡感覚。

 筋肉、体重だけではない。底の見えない『气』が為せる力技だった。

 

「うァァ!」

「なん?!」

 

 リュウモは挟まれた足を思いっきり横に振り払った。ケイの両足が宙に浮く。

 このままでは危険と悟ったケイは、脇を緩めて力に流されるまま横に飛ばされる。

 地面を数度転がって、ようやく止まった。

 

「報告にあった通りの馬鹿力だな……」

 

 近接戦闘は危険が大きいと判断したのか、ケイは刃引きされた棒手裏剣を両手に持った。

 リュウモは彼以外の動向にも気を配り、奇襲を受けないよう細心の注意を払う。

 相手の数は五人だが、その内の何人が異能者であるかわからない。常に他の〈影〉の動向を感じ取っていなければ、たちまち劣勢に立たされてしまう。

 ケイは、標的に向けて走り出す。間合いは八間(約十五メートル)。

 両手に持つ棒手裏剣に意識を割きながら、リュウモは相手の出方を待つ。

 野を駆けるケイの両手がぶれ、計四本の棒手裏剣が投げられた。

 手、足、腹。当たれば動きに支障が出る箇所への攻撃ばかりだ。

 しかし、そのどれもが急所を外れている。やはり、彼らは目標を殺す気がない。

 足を使って三本を回避し、腹目掛けて飛来した棒手裏剣を手で鷲掴みにする。

 次の四本が投擲された。今度は、腰を低くするだけで簡単に躱せた。

 

(くらえ!)

 

 牽制代わりにさっき掴み取った獲物を投げつける。会心の一投だったが、紙一重で完璧に見切られた。この程度では牽制にすらならない。

 技量は敵がはるかに上。身体能力ではこちらが上。どうにかして混戦に持ち込めば勝機はある。風のように駆け込んで来るケイに向かって、リュウモはかまえた。敵の拳が放たれる。

 ――衝撃は、前からではなく、後ろからやって来た。

 

「な、あ……?!」

 

 背中に四か所が、打撲の鈍い痛みを伝えてくる。体勢を崩された状態から、さらに前方から拳の追撃。――避けられない。逸らすことも不可。

 リュウモは、故郷で何度も訓練を受けていた動作を反射的に行った。打撃箇所に『气』を集中させる局所防御。襲いかかって来る攻撃を軽減できる……はずだった。

 

「ッシ!」

 

 『气』による防御を実行したリュウモを見て、ケイは攻撃方法を変えていた。

 拳を開き、掌打に切り替えたのだ。

 その不可思議な一撃は、集中させた『气』をまったく介さず、すり抜けた。

 もろに威力が体内に伝わり、リュウモは跪きそうになる。内臓に響き、身体中に痙攣が走った。

 

(徹し……ッ)

 

 敵の防御を貫通させ、内部に威力を浸透させる高難度の技術。

 事もなげに、さも当たり前のように行われた打撃に、末恐ろしい月日と鍛錬の量が積み重ねられていた。相手が本気であったなら、今頃、内臓破裂で死んでいる。

 視界が揺れ、まともに立っているのが困難になる。人は筋肉を鍛えられても、内臓を鍛えることはできない。

 どれだけ身体が頑強であろうと、そこに変わりはない。たとえ〈竜守ノ民〉であっても。

 

「今だ、やれ!」

 

 ケイの声に、二つの影がリュウモに飛びかかった。

 太い注連縄だ。それはリュウモの手に絡みつく。左右から身体を引っ張られ、磔にされたかのような格好になる。

 急激に、身体から力が抜け始めた。

 

「この、縄……『气』を、吸い取って?!」

 

 〈影〉の二人は、杭を地面に打ち込み、注連縄が解かれないよう固定する。

 

「〈鎮守ノ司〉謹製のこいつは、さすがに効くようだな。安心したぞ」

 

 握っていた拳が開かれ始める。指先に力が入らなくなり始めた。

 

「この少年、本当に化け物か? 常人なら、たとえ鍛え抜かれた槍士でも、もう昏倒している頃合いだぞ」

 

 〈影〉のひとりが、杭を押さえながら言った。

 

「伊達に神話に出てくるような民じゃないってことだろ。まあいい、あっちも終わる」

 

 霞む視界の端で、リュウモはその光景を捉えた。

 ガウンが倒れ、ゼツが見下ろしている。

 

(おれと、同じような、技を喰らったのか……)

 

 命に別状は無さそうだが、腹辺りを押さえて苦しそうにしている。脂汗が顔中にびっしりと張り付いていた。

 

「この、糞野郎共が……!」

 

 うつ伏せに倒れているガウンが、忌々し気に言う。

 

「愚かな。我らは帝の命により少年を捕らえに来た。我らに逆らうは、すなわち帝に弓を引くことと同義というのが、どうしてわからない」

「くだらねえ」

 

 ぷっと、血が混じった唾を、ゼツに吐きかけた。

 

「帝の命、だあ? あんなガキに、てめらは一体全体なにをやってやがる」

 

 ガウンが、ちらっとリュウモを見た。

 

「年端もいかねえガキを殴り倒して、磔にするような奴らが、帝の命だあ? ちゃんちゃらおかしいぜ。てめえらが帝の御威光を悪用する糞野郎共だと考えた方が、よっぽどしっくりくらあな」

 

 す……っと、ゼツの目が細められた。

 

「そうか……なら、その悪党とやらに、倒されるといい」

 

 ゼツが、ガウンに近づく。まるで、死神のように。

 

「やめろ……!」

 

 血が熱くなる。心の臓が早鐘を打ち、ドクドクと音を鳴らす。

 ゼツの拳が倒れたガウンに振り上げられる。

 

「やめろ――」

 

 裡にあった『气』が荒れ狂う。血に秘められ眠っていた力が、顔をあげる。異様な感情の高まりが鍵となり、戒めが解かれた。

 

「やめろォォォォォッッ!!!」

 

 〈竜守ノ民〉最後のひとりである少年に――〈目覚めの時〉が訪れた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十一話 目覚めた力

「アァァァァァッッッ!!!」

 

 絶叫。喉が張り裂けてしまいそうな、声にならない声が〈影〉たちの鼓膜を震わせた。

 同時に、リュウモを拘束していた二つの注連縄が、音を立てて千切れ始める。

 

「んな馬鹿な!?」

 

 〈影〉の動揺に、我関せずとばかりにリュウモは暴れた。

 出鱈目に腕を動かし、注連縄が手首に食い込む。皮膚が捩れて破れ、出血する。

 今のリュウモは、痛みを物ともしない。深くまで打たれた杭が、あまりの腕力に揺れ動く。

 再びの絶叫。杭に繋がれていた注連縄が、千切れ飛んだ。

 

「どけぇぇ!!!」

 

 〈影〉の全員を上回る速さで、リュウモはゼツに迫る。

 

「――ッ!?」

 

 爆発的な膂力の増加に、ゼツの目が見開かれた。一瞬、彼の反応が遅れる。

 拳は放たれた。愚直な、簡単に見切れるその一撃に、ゼツはぎりぎりでしか躱せない。

 力技。根底にある能力の、絶対値の差。

 常人をかけ離れ、人を超えた速さに、まだ人の領域内にいるゼツは、後手に回るしかない。

 突き、蹴りが何度となくゼツに向かって放たれる。

 人を超えた威力の前に、諸人は屈服するしかない。

 ――だが……リュウモが相手取っている敵は、人を超える絶技を持つ化け物を倒すために鍛えあげられた、化け物だった。

 優勢になり、リュウモの攻撃が大振りになった刹那。鳩尾に掌底が入った。追撃が、脇腹、喉にぶち当たる。

 未来予知しているように、リュウモの拳と蹴りは空を蹴り、吸い寄せられるかのようにゼツの攻撃が打ち当たる。

 都合、数度。それだけで動きの型を完璧に見切られた。

 

(うそ、だろ……ッ)

 

 幾度もの打撃に足がふらつきそうになった。

 押し切られる。

 ところが、絶好の機会であったにも関わらず、ゼツは退いた。

 大きく飛び退いたゼツは、腕を押さえている。

 

「手が、痺れて握れんッ」

 

 ゼツの右腕が、小刻みに震え、だらんと落ちていた。耐えたかいは、あったようだ。

 

「おいおいおい……ゼツ、見ろよ、こりゃ夢か?」

 

 〈影〉の者たちが、ガウンの傍に立つ少年の瞳を見据えた。

 縦に細長くなり、まるで『竜』と同じようになった、その瞳を。

 

「馬鹿な?! ――()()()()()()()()()()!?」

 

 リュウモの体内を、〈竜气〉が絶え間なく循環する。

 〈目覚めの時〉――すなわち、自ら〈竜气〉が発せられるようになった状態を指す。

 こうして、ようやく〈竜守ノ民〉の中で一人前と呼ばれるようになるのだ。

 目覚めた者は、人と一線を画す力を得ることになる。

 長い間〈竜域〉で生活していたリュウモ達が〈竜气〉の影響によって得た力だった。

 

「オオォォッ!!!」

 

 獣の咆哮を上げながら、リュウモは〈影〉の者たちへ突っ込んだ。

 速力、膂力、すべてが彼らを上回っている。

 敵は攻撃すれば手を痛め、拳の一撃をまともに受ければ肉と骨がひしゃげる。

 闘争心を剥き出しにした、一匹の『竜』と化しながら、リュウモは殴りかかった。

 

「散開!」

 

 ゼツの指示に、固まっていた〈影〉たちが一斉に四方に散った。

 大振りな一発が、彼の顔目掛けて飛ぶ。

 腰を落として、ゼツは冷静にその一撃を完璧に見切った。

 風が千切れ、悲鳴と轟音を上げる。

 今のリュウモに、手加減、容赦といった概念は無い。もしまともにゼツが攻撃を受ければ、致死の一撃になる。

 

「てめーと一緒に任につくと、いっつもろくなことにならねえぞ、ゼツ!」

「無駄口を叩くな! それとその言葉、そっくりそのまま返すぞ!」

 

 言い合っている二人へリュウモは突撃する。

 視界はいつもより遥かに明瞭になり、相手の動きが息をするように当然にわかる。

 体内に循環する〈竜气〉が、通常では見えないものまで可視化してくれる。

 

(右、正拳、蹴り、手刀……)

 

 白く、朧げな影が見える。影にぴたりとはめ込まれるようにゼツが重なろうとする。

 首を逸らし、紙一重で拳を躱す。

 

「な――」

 

 まさか見切られると思っていなかったゼツの挙動がわずかに硬直する。

 裾を掴み、地面へ叩き付けるように投げ飛ばした。

 

「アホな?!」

 

 別人が乗り移ってリュウモを操っているのではないかと思うほどの変貌に、敵対者たちがうろたえる。

 ケイも同じやり方で投げると、右手に気配を感じた。手だ、半透明の手がある。

 ――さっき掴まれたやつだ。

 不可視であるはずの手を、リュウモは握る。ぐにゃりと、簡単に変形した。

 折れる。直感からリュウモは手を離す。

 遠いところでひとりの男が冷や汗を流して手を押さえている。

 左手側から奇襲の気配があった。とんっ……とその場から軽く飛び退き、三本の細い鉄棒が地面に刺さった。

 

「くそ……どうにもならんか!?」

「起こしてはいけないものを起こしたか……!」

 

 打つ手がないとばかりに男達は攻めあぐねている。

 

(ガウンさん……!)

 

 苦しそうに倒れているガウンに駆け寄る。

 

「大丈夫ですか?!」

「おう……もうちょいすりゃ立てる。あのいけ好かない野郎共をぶっ飛ばせそうだ」

 

 ガウンは汗を拭う。凄まじい感覚を得ているリュウモは、彼が決して強がりで言っているわけではないことを感じ取る。

 打撃を受けているすべての箇所は打撲程度で済んでいる。ゼツは明らかに手加減をしていた。

 

「ここまでだ、少年」

 

 頬に付着した土を払って、ゼツは言った。

 

「我々の本気を、理解してもらえなかったらしい。――番屋の方を見ろ」

 

 ゼツが指差した先に目を向ける。暗い夜に、その方向だけが異様に明るかった。

 ――赤々と、建物が存在を散らすように、()()()()()

 

「テメェら正気か?! 帝から派遣されてきたやつらの建物を焼くなんざ、極刑モンだぞ?!」

「それがどうした」

 

 感情を感じさせない無機物のような声で、ゼツは言う。

 

「我らが死して、命を遂げられるならば、本懐である」

 

 手が止まる。足が張りつけられたように動かなくなる。炎が、すべてを縫い付ける。

 

(おれは、また、見るのか……?)

 

 ――いやだ、そんなのは……。

 

「村をすべて燃やしてもかまわない」

「やめろ……」

「どうする少年、()()()()()()()()()を目にしたいかね」

「やめろォォォ!!!」

 

 リュウモが絶叫する。半狂乱手前まで追いやられた心が絞り出した、金切り声だった。

 

「ッ――」

 

 ケイが、顔を背けた。耳すらも塞いでしまいたいように、瞼を強く閉じる。

 

「では来てもらおうか」

 

 その言葉に、リュウモは従うしかなかった。〈竜化〉を解く。

 

「待ち、やがれ……俺はまだ――!」

 

 立ち上がろうとして、ガウンは倒れ込む。リュウモはそっと、彼の肩に手を置いた。

 

「ありがとう」

 

 無償で助けてくれたガウンに、リュウモは心からの礼を言った。汗だくになっていた彼の顔から緊張感が消えていく。自らの敗北だと悟ったのだ。彼は歯を剥き出す。

 

「くそが……テメェら、俺の弟を連れ去ったときと、同じことをしやがるか!」

 

 ガウンが激情をあらわにした。

 

「連れ、去った……?」

 

 ケイがつい反応する。

 

「そうだ、あのときも! 〈八竜槍〉に一撃当てたのなんだのと……俺の弟を、家族を皇都に連れて行きやがって……!」

 

 皆が静まる。その中でゼツだけが平然と動いた。

 

「国の威信のために必要だったのでしょう。それ以上でもそれ以下でもない」

「ふざけんな、そんな程度で揺らぐ国なら滅びちまえ……!」

 

 恨み言を連ねるガウンを、ゼツはどこか眩しそうに、そして虚しそうに見つめる。

 

「貴方は、今の国がどれだけ綱渡りでいるかを……いえ、これは貴方には関係のないことだ」

 

 それだけ言って、ゼツはリュウモに手を伸ばした。

 

「ここまでだ、少年」

「わかり、ました。これ以上、他の人を傷つけないでください。もし、傷つけるなら、おれは『竜』を呼ぶ」

 

 ゼツ達の顔と体が一瞬で強張る。できるはずがなくても、彼らは怯えている。

 リュウモは、そこに交渉の余地を見出した。

「誰も、傷つけないで……!」

「……いいだろう。こちらへ」

 

 リュウモはゆっくりと、ガウンから離れて行った。

 〈影〉とリュウモの間に、球体のなにかが放り込まれる。

 導火線に火が付いてるそれは、勢いよく煙を出し始めた。

 秒を跨がず煙の壁ができあがり、さらに数個、周囲に球体が投げ込まれる。

 

「こちらだ、リュウモ少年!」

 

 知らない声だった。右側からいきなり手を取られ、急速に戦いの場から遠ざかっていく。

 訳がわからず、リュウモはただ状況に流されて行くしかなかった。

 煙の奥からは、戦いの音が鳴り続けていた。

 

 

 

 

 

「行ったか」

 

 ゼツは夜の木陰から、連れて行かれる少年と敵を確認していた。

 今回の襲撃は、あらかじめ予想されていたのだ。『外様』のどこかの者が動き回っていることまでは突き止めたが、その先が難航した。

 

(()()()()()()()()())

 

 帝からは少年を保護するよう命じられ、『竜』について嗅ぎ回っている者達を調べ上げるようにも命じられた。

 ――これならば一石二鳥というものだ

 さらった者達は、すくなくとも落ち着ける場所に腰を下ろすまでは、少年に手荒な真似はしない。少年を贄として使う作戦を〈闇ノ司〉が提案したとき、帝が一瞬だけ『气』を荒立たせたが、結局は了承していた。

 ――どうも、帝の様子がおかしい

 帝への不安を、再びゼツは封殺する。不敬極まることを考えるべきではない。

 

「ケイ、生きてるな」

「当たり前だろ」

 

 劣勢に見せかけた陽動は成功した。あとは尻尾を出した獲物を捕らえるだけだ。

 

「…………」

 

 同僚が、険しい顔をして、少年が連れ去られて行った方角を見ている。

 

「どうした、ケイ?」

 

 意気消沈しているケイの様子が気になり声を掛けた。

 思えば、ガジンの隊に配属されるまでは、味方など気にも留めなかった。

 上司の影響か、とゼツは内心苦笑する。

 

「お前に言っても、言われることはわかってるがな――今回の任、いつもよりはまだマシなもんのはずなのに……手前に嫌気が指してる」

 

 相手は〈禍ノ民〉であっても子供だ。しかも、殺せと指令されたわけでもない。確かに、いつもよりかは幾分かましな内容だろう。楽であったかはさておいて。

 

「わかっているなら、俺が言うことはなにもない。――行こう、我らは我らの役目を果たさなければ」

「……これっきりにしたいね、こんなことは」

 

 それが無理なことは、ケイも、そしてゼツも理解していた。

 

「テメェら、一体、なにを……」

 

 ゼツの同僚に肩を貸されて歩いて来ていたガウンが困惑の声を出した。さきほどの混乱の最中、密かに保護したのだ。

 

「燃えた番屋に人はいない、安心しろ。外に縛り上げている。村人も朝になれば起きる。放っておくのが忍びないなら、番屋へ行くのをすすめよう。彼らはまだ起きているからな。――全員、撤収するぞ」

 

 〈影〉は一斉にその場を後にする。

 ゼツはちらりと番屋を見た。

 彼らの中には〈影〉と〈影〉の人間が混じっている。報告をしたのは彼らだった。

 村に災いを呼んだと非難されないように適度に傷を負わせ、番屋を焼き払った。

 あそこまでやれば非難よりも同情が上回るだろう。

 お膳立てをしてやればあとは優秀な同僚が上手くやる。

 ゼツは、いつものように後処理をすると、標的を追った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十二話 北の領主

 まさか、外でここまで丁寧な応対をされるとは夢にも思わなかった。

 見ず知らずの垢の他人が、上客を扱うかのような対応に、なぜかリュウモは薄ら寒いものを覚えていた。

 彼らの瞳の奥底に、轟々と音を立てて燃え盛る、強烈な期待感があったせいかもしれない。

 地の底に垂れて来た光の糸を懸命に手繰ろうとする必死さが存在していた。

 いつもの警戒、敵意を向けられるよりも、よっぽど気味が悪い。

 リュウモは、シキの屋敷よりも立派な建物に案内されると、すぐに主の部屋に通された。

 灯りを手に持ち、先導していた女官が止まる。彼女が廊下の襖を開けると、夜遅くだというのに机へ向かって筆を動かしている人物がいた。

 

「ご苦労、下がってくれ。彼と二人で話がしたい」

 

 女官は頭を下げて足音ひとつ立てずに消えて行く。

 筆を置いた男は、リュウモを真っ直ぐに見据えた。

 

「初めまして少年。私の名はナホウ。北を治める領主だ」

 

 座布団に座る人物は、リュウモにとって奇異な人間に見えた。

 〈青眼〉を恐れるでもなく、興味が湧いているでもない。日に焼けた精悍で引き締まった顔に不似合いな冷え切った表情をしている。

 厳冬を思わせる男に、リュウモは軽く頭を下げた。

 

「リュウモ、です」

 

 礼を言っていいのか、リュウモは迷った。

 危機を抜け出せたのは彼らのおかげだが、親切心で助けたのではないことは明白だ。

 

「ひとつ、聞いておきたい。君は、なぜ頑なに〈竜峰〉へ向かう。まさか本当に人の世を終わらせようと思っているわけではあるまい。地位か、それとも先祖の汚名を晴らすためか」

 

 汚名。ナホウはそう言った。

 ――この人、どこまで知ってるんだ……?

 驚きが顔に出てせいか、ナホウは容易くリュウモの内心を見破っていた。彼は口角をわずかにあげる。

 

「彼、シキに資金の提供と調査の許可を出しているのは私だ。君達についても多少なりとも知り得ているとも。さあ、答えを聞こう」

 

 『使命』のため。言おうとして、リュウモは口が動かなかった。

 本当にそうなのか? お前はそれだけのために動いているのか?

 おのれに問いかける声が何度も聞こえる。

 故郷と、そこに暮らしていた人々、友人、大切な人、ジジの顔が浮かんで消えた。

 

「おれを、ここまで……自分を犠牲にして運んでくれた人達がいる。その人達のためにも、止まれない」

 

 ナホウは、少年の言葉に偽りがないか吟味すると、鷹揚にうなずいた。

 

「ならば、我らは同じだ」

「同じ? 貴方とおれが?」

 

 そんなわけがない。リュウモの目の前にいる男の瞳は黒い。〈竜气〉も感じ取れない。

 

「同胞の命を対価にして前へ進んで来た」

 

 息が詰まる。

 

「身を刻む悲しみ。いわれのない誹謗中傷。北の我ら『外様』は一眼となってそれを迎え撃って来た。ときには、同じ志を持つ者の屍を踏み越えてまで」

 

 ぎゅうっと、ナホウは拳を握った。感情が激しく揺れ動き、『气』が吹き荒れ体外に放出される。じじ……と、部屋の灯りが音を立てる。

 

「積み重なった死体は、都の人口の比ではない。過ぎた年月は、神話にすら遡る……いや、これ以上はよそう」

 

 正気に戻ったかのようにナホウは喋るのを止めた。

 

「我々の要求を言う。君の知識が欲しい」

 

 リュウモはぎょっとした。排除するではなく、欲する目の前の男に。

 シキも確かに『竜』について調べていた。だが、彼の興味はあくまで『竜』の生態を知りたいがためであり、ただそれだけだった。――この男は違う。

 『竜』の知識を使って、()()()()()()()()()()()()

 リュウモの警戒度が最大まで上昇する。

 まさに、このような人物が過去に技術を悪用し、地上を混乱をもたらしたのだ。

 首は、自然と横に振られていた。

 

「皇都に、攻め込むつもりですか」

 

 遥か昔、一部の人間が『竜』を物に貶め、兵器として扱い他の氏族に攻め入ったように。

 

「――なるほど、そういう解釈も、君達にはできるわけか」

 

 虚を突かれた、とばかりにナホウは間を置いて考え込んでから言った。

 

「戦いに、駆り出すわけじゃ、ない?」

「当然だ。誰が皇国を崩壊に導くものか。そこまで無分別ではない」

「おれに、なにをしろと?」

「簡単だ。人と『竜』を()()()()()()。厳密にだ」

「なにを……〈竜域〉でもう人と『竜』は分かたれてる……!」

 

 広大な森と、そこに満ちる〈竜气〉。人よりも遥かに強いことを前提として築かれた生態系。人間と『竜』を分けるには十分な壁だ。

 

「本当に、そうかな」

 

 だから、確信をもって放たれた言葉は、不可視の強力な力を纏っていた。当たり前の常識を否定されたような気がして、リュウモはさらに警戒を強める。

 

「君の一族は、長い間〈竜域〉の()で暮らしていた。だから、()から見た〈竜域〉の姿を知らない」

 

 だからといって、なんだというのか。

 中で『竜』と共に暮らさなければ彼らの本当の姿は見えてこない。ただ眺めているのと、直に触れて観察するのでは情報量が違う。

 

「各地に点在する〈竜域〉には隙間がある。人が街路として使えるだけの隙間が」

 

 ナホウは机の引き出しから一枚の紙を取り出して畳の上に広げた。

 地図だ。北の『外様』がおそらく入念に調べ上げた代物だ。

 

「皇都が広めている地図はこれだ」

 

 隣に、もう一枚の地図が比較しやすいように置かれる。

 精度の差は歴然としていた。皇都のそれは〈竜域〉のおおよその位置をぐるりと囲ってあるだけで、非常に大雑把だった。

 対して、『外様』の地図は正確だ。

 各〈竜域〉の詳細な位置が記され、細かい丸がいくつも描かれている。

 なるほど、ナホウが言う通り、〈竜域〉同士の境目は隙間、と呼べないこともない。

 村を二つ、三つ作るなら十分な空きだ。

 

「ここに道を通せなかった理由はひとつ。気まぐれのように住処を飛び出してくる『竜』がいたせいだ」

「これに、道を作ることになんの意味が……」

 

 可能かどうかと問われればできる。元々、『竜』がいない場所に竜避けの鳴子を設置すれば、『竜』は近寄らなくなる。ナホウは微かに眉を動かす。

 

「君には理解できんか。〈竜域〉は交通を著しく妨げている。だからいちいち中央にある皇都を経由して物資を送らねばならなくなる。だが、この前提が崩れ、人が『竜』に怯えることがなくなれば、北は豊かになる。今よりもずっとだ」

 

 リュウモはすこしだけわかった。

 この人は、橋を架けようとしているのだ。深い峡谷に、頑強な橋を作って人を通れるようにしようとしている。

 それは、きっと良いことだろう。

 便利になって交通の便が良くなれば、北の人々は余裕のある生活を送れるようになる。

 悲劇は減るのかもしれない。それでも、リュウモは軽々しく首を縦に振るわけにはいかなかった。

 掟を破るだけではない。『竜』が住処を、まして〈竜域〉を出ていくことに、嫌なものを感じ取ったのだ。

 

「ここまで話しても、協力してくれる気は、なさそうだな」

「……『竜』が、自分の〈竜域〉から出る自体があり得ない。なら、その行為には必ず意味がある。もし、おれが止めてしまったらどうなってしまうかわからない。そんな危険なこと、できません」

 

 リュウモの忠告を聞いて、初めてナホウが会心とでも言える笑みを浮かべた。

 

「同じような警告を、シキ殿が言っていた。そうだ、だからこそ君の知識が欲しい」

「な、なんで……」

「間違いなく、君の持つ知識が現状を打開する鍵になる。シキ殿も素晴らしい成果をあげたが、まだ足りない。あと一歩なのだ。煮詰まり途方に暮れていたとき、君があらわれた。天からの助けのように」

 

 『竜』の世界から現世に浮上してきたリュウモは『外様』がどれだけ『竜』について頭を悩ませているか知らない。

 苦労したのだろうし、人も多く亡くなったことは容易に想像できる。

 だけど、リュウモはナホウの期待に応えるわけにはいかない。

 

「人と『竜』を分かつ業。持っているのだろう。いや、知らなければおかしい。そうでなければ〈竜域〉を突っ切るなどするはずもなし。まして中で生活するなどできまい」

 

 口を閉じ、黙るしかリュウモに対抗の手段はなかった。

 情報を渡すまいとする態度は、それだけで相手が望むものをリュウモが持っているのだと明かしてしまう。

 

「沈黙か。気丈なものだ、叶うなら君以外の〈竜守ノ民〉にも会ってみたかったものだ」

 

 北を治める男の、心からの賛辞だった。

 

「無論、対価を支払おう。ガジン殿ほどではないが、腕の立つ者を護衛につけ〈竜峰〉まで送り届けさせよう。その後の安全も保障する、どうかな」

 

 リュウモは決して首を動かさなかった。

 この話に、乗ってはいけない。むやみやたらに『竜』を刺激してはならない。

 本来あるものを自分の都合だけで歪めてしまえば、必ずどこかでしっぺ返しがくる。

 かつて、人が『竜』の怒りに触れたように……。

 

「――――まあいい。一日時間を与えよう。そのあとにもう一度だけ話そう。今日は疲れているだろうからな」

 

 ナホウが手を叩く。外に控えていたのか、二人の男が入って来た。

 

「御客人を部屋に案内しろ」

 

 リュウモは手を取られ、部屋から出て行った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十三話 領主の胸中

「ふぅ……」

 

 ナホウは、額から吹き出てきた汗を拭った。緊迫し続けていた精神がようやく解きほぐされる。

 

(『竜』を知り、〈竜域〉に直に赴いてなお、かの民を前にした途端にこのザマか。私も器が知れるな)

 

 相手は世間を知らない十一の子供だ。誘導は簡単で、取引もこちらが圧倒的に有利。少年の逆転の目はない。

 それでも、ナホウは安心できなかった。対面してみて、よくわかった。

 

(地位も名誉にも興味がない。権威も役に立たず、おそらく命の保証をしても彼は首を縦には振らないだろうな)

 

 今の状況も、少年からすれば助けられた、ではなく〈竜域〉への道を塞ぐ邪魔者にしか見えていないだろう。

 ――さて……どうやって抱き込むか。

 逃がすわけにはいかない。少年に言ったことは、なにひとつ嘘はないのだから。

 〈竜域〉の隙間を安全に通行できるようになれば、東と西への直通路が完成する。

 これまで以上に人の行き来は活発になる、皇都を超えるほどに。

 そうなれば、あの気に食わない『譜代』も顔を青くするだろう。

 

「どうするか……」

 

 まずは少年の協力を取り付けなければ机上の空論もいいところだ。

 ナホウは報告にあった内容を脳裏でまとめあげる。少年の能力ではなく、その人柄について。

 保証も権威も暴力でさえ通じないなら、情に訴えるのが最も効果的な方法になる。

 幸い〈竜守ノ民〉とはいえ、感情そのものに大きな違いはない。親しい人間を数人作らせ、じわじわと外堀を埋めていくのも手だ。

 

(どちらにせよ、彼を〈竜域〉まで護衛して『竜』を鎮めてもらわねば……)

 

 皇都に連行され、殺されでもしたら『外様』は甚大な被害を受け続けることになる。

 ――すでに、出自の問題だけではなくなっているのは確かだ。

 面倒なときに最大の機会がやってきた。盤上のすべてをひっくり返せる切り札が。逃すわけにはいかなかった。

 北を治めるナホウにとっては、皇国の滅びと領民の命は等価だ。

 なにより、帝は北が『竜』について調べている事実を、()()()()()()

 追放されたシキを匿い資金と人員を提供している時点で察しているにもかかわらず。

 危険に過ぎる橋ではあるが、渡る価値は十分にある。たとえ禁忌だとしても。

 

「……ああ、喉が」

 

 引っ付いてしまいそうなほどカラカラになっていた。ナホウは茶を煎れるために部屋を出た。

 女官に持ってこさせた方がよいが、淹れたて熱々の茶を飲むには自力が一番だ。

 それと、自分で淹れた方が圧倒的に美味い。

 ここの者達は精力的に働いてくれているが、茶があまり美味くないのが唯一の不満点だった。

 歩いていると、塀に囲まれ外と切り取られている庭が軒下の廊下から見える。

 数代前は皇都の貴族なら当たり前に持っているこの光景がなかったと、ナホウは亡くなった父から聞いたことがあった。

 険しい土地がほとんどである北は、その厳しさを一身に受け、貧しい。

 開墾して作物を育てても、土地の差があり成果にどうしても開きが出てしまう。

 どうやっても、平等には程遠い。

 『外様』の転換点は〈八竜槍〉のひとり、イスズの生家であるシスイ家と帝が協力し、教育に力を入れ始めたときにあった。

 皇族とシスイが全額を負担するという異例中の異例だったが、皇都周辺の町と村、都には大いに効果があった。数多くの人材が育ち、皇都へと集まったのである。

 対して、北は。――作用と反作用が大き過ぎた。

 効率的な農業の技術は、確かに生産性を比較にならないほど向上させた。

 同時に、皇都への人口流出が始まりもしたのだ。与えられた知識は、煌びやかな皇都への憧れを増大させたのである。

 『譜代』の人間が『外様』の一部に対して移動制限を掛けるのは、人員の流出、皇都で職にあぶれる者が出ないためでもある。

 ナホウにとって悲しいことだが、北では将来がないと思う若者は年々増加の一途をたどっている。

 歯止めをかけるには、手遅れになる前に策を打たなければならなかった。

 北が、資源も土地も余っている〈竜域〉に目を付けたのも自然な流れであったのだ。

 国が自分達を守らないのなら、禁忌を破るのさせ当時の人々は厭わなかったのである。

 ナホウの二代前、祖父の時代から続いて来た研究が今、実を結ぼうとしている。

 後戻りなど、できるはずがなかった。

 

(すべてを解決するための鍵が、私の手にある。正念場だな)

 

 庭から視線を外し、再びナホウが足を動かしたとき、廊下の奥の暗闇で、人影がうごめいた。

 音もなく標的に近寄り、首に手を掛けようとした瞬間――裏拳が飛んだ。

 パン! と軽快な音が鳴り、襲撃者は顔の横で拳を受け止めていた。

 受け止められるやいなや、ナホウはその場から飛びのく。

 

「何者だ!」

 

 庭に飛び出ると、ナホウは敵を睨み付ける。

 涼しいはずの夜が、急速に闘争の熱気を帯びる。ナホウの顎から汗が落ちた。

 

(結界に反応がない……どうやって侵入した!?)

 

 術者であるナホウは、結界にも知識がある。張り巡らされている術に一切関知されず侵入してきた襲撃者たちの技量に、背筋に冷たさが走る。

 敵は、ただの町民の格好をしている、どこにでもいそうな男性だった。

 

(〈影〉に忍ばせた間者から報告はなかったはずだが……何者だ?)

 

 ――いや、目的だけははっきりしているか。

 リュウモだ。それしかない。

 ナホウは徐々に敵から距離を取り、リュウモがいる部屋へ向かおうとする。

 大きな音が二階から聞こえてきた。

 

「――!」

 

 すでにリュウモの居場所まで掴まれていた。ナホウの目線が上に逸れる。

 プっと、空気を噴き出した音が鳴った。

 

「ぐ……!?」

 

 首に痛み。細い針が血管にまで刺さっていた。即座に引き抜いたが、遅かった。

 

「――、ぐ……――!」

 

 視界が曇る。指先から感覚がなくなり始め、足の踏ん張りがきかなくなった。

 体が地面に崩れ落ちる。頭を打ったのに痛みを感じない。誰かが近寄って来る。

 ――動け、動け、動け……! こんなところで死ねん、民のため、皆のため――!

 願いは届かず。怨念さえ気圧される覚悟は空回りし続ける。

 嘲るかのように、男がしゃがみ込みナホウを見下ろした。

 

「家の者は殺していない。朝になれば目が覚める。貴方にはまだ北の領主をやってもらわなければならない。しばらくは」

 

 男の手がナホウの目を覆う。暗くなった世界に引きずり降ろされるように、ナホウは動かなくなった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十四話 転がり出た真相

 部屋の外から誰かが近づいてくる。ひとりだが、リュウモが会ったことのある『气』の持ち主だった。ガジンと戦った黒装束の男だ。

 

「ここの人たちの仲間だったんだ……」

 

 ――話でもしに来たのかな。

 平和ぼけした思考は、すぐに間違いだと気付かされる。

 外で、人が倒れた音がした。ゴドっと生々しい音が鳴った。次に衣服が床と擦れる音が続く。

 

(やっばい……!?)

 

 ナホウ達の味方ではない。屋敷が襲われている。リュウモは急いで部屋から脱出しようと窓を開けた。

 

「ナホウさん……?」

 

 庭で、家主が倒れていた。彼の傍には見知った顔があった。ゼツだ。

 

「待て。すこし話を聞くのだ」

 

 いきなり手を掴まれ、リュウモの体が反射的に驚きで震えた。思わず気味が悪くなり、手を振りほどく。

 ――ぜ、全然わからなかった!?

 今のリュウモは、目覚めたことにより『气法』を使わなくとも感覚が鋭敏になっている。

 触れられなければ気づけなかったことに、リュウモは戦慄する。

 

「我が主、帝が来臨を望んでおられる。皇都までご足労願いたい」

 

 男の丁寧な言葉遣いに、リュウモは違和感を覚える。頭から押さえ付けるような風ではなく、客人として扱おうというのか。リュウモは警戒を解かない。

 

「行くと、思ってるんですか」

 

 今まで自分を殺そうとしていた相手が下手に出たからといって、うなずいて着いて行くほど、リュウモはお人好しではない。

 男は、懐から白い物を取り出し、リュウモに見えるよう、掌の上に置いた。

 

「な――――!」

 

 リュウモは驚愕した。〈竜守ノ民〉にとって見慣れた代物であるそれは、先祖が外で出会った友に残した、数少ない物だった。

 

「竜避けの喉笛……!」

 

 男の手よりすこしだけ大きい物は、笛と呼ぶには原始的だった。

 骨。動物の共鳴腔だ。『竜』が会話するために必要な声を出すための器官。

 

「こんな、古い物を……」

 

 〈竜守ノ民〉は、『竜』の骨を加工せずに用いることを禁じている。

 だが、これは共鳴腔をそのまま使用している道具だ。〈竜ノ墓〉では当たり前のように落ちているが、道具として見るのは、リュウモでも初めてだった。

 

「どうして……外じゃ禁じられてるはずなのに、これは、山奥に移り住んだ人たちに、先祖が渡した物のはず」

「外へ連れ出された者達が故郷へ戻る際、戦友に贈った物。いつか、〈竜守ノ民〉が再び外へと駆り出されたとき、友を見分け、助けるための目印として」

「盗ったんですか、持っていた人から!」

「勘違いしてもらっては困る。これは帝の持ち物だ」

 

 リュウモは警戒を解かなかった。見ず知らずの人間をすぐに信用できるほど、もう子供ではなくなっていた。

 

「笛に刻まれている文字を。古いが、それゆえに〈竜守ノ民〉ならば読み解くことができる」

 

 手渡された喉笛に触れる。指先の感触から、贋作ではないとわかった。

 

「友よ、危機がその身に迫ったとき、我らは再び、万難を排してお前の元へ駆けつけよう」

 

 刻まれていた文字は、先祖の叶えられなかった願いが込められていた。リュウモは喉笛を握る。願いを包み込むように。

 

「これの持ち主が、帝? じゃあなんでおれを殺そうとしたんですか」

「それは帝に直接、お聞きになればよい。ここから一刻ほど歩く。そうすれば皇都まではすぐだ」

「え?」

 

 

 

 

「重罪人を運ぶにしては雑だとは思わないか」

 

 ガジンは打ち付けた頭を擦った。じくじくと音を立てそうな痛みが骨に染み込んでいるかのようだ。命に別状がないことは理解しているが、あんまりな移送方法だった。

 

「うるせえ、俺だって背中打ったんだぞ」

「い、いたた……お尻が」

 

 ガジンは、吹き上げられた地点に目を向けた。

 男三人分の高さがある溝には、白い光線が束になって大河のように悠々と流れ続けている。

 

「地脈の流れを利用して移動する術……まさか実用化されているとは。設置場所が極めて限定されることと、大規模な設備が必要なせいで、中々研究は進んでいなかったはずですが」

 

 大人が十人横になっても届かない横幅がある巨大な地脈移動のために作られた溝は周囲に何か所かある。

 北から南へ、またはその逆。いくつもの流れを持つ光線が溝を流れている。

 

「川、いや、血管か。人間の血流みてーだな」

 

 地脈は、大地の『气』の流れなので、ロウハが言うことも、的外れではない。

 

「で、ここはどこだ? 帝が呼んでるてえから〈影〉に言われるまま地脈に飛び込んだはいいがよ」

 

 辺りは暗い。自分の手と近くにいる人間の顔くらいは見えるが、それだけだ。

 灯りは、一応申し訳程度にあった。天井を支える巨大な支柱に備え付けられている燭台の蝋燭が、ひらひらと光を放っている。

 天上は異様なほど高い。宮廷のどの建物よりもだ。それだけで異様な空間だとわかる。

 

「皇都の何処か、だとは思いますが……」

「くそが。〈影〉も行先ぐらい教えろってんだ。強引に押し込みやがって。忠告無視してガジンに槍まで持たせやがって」

 

 〈竜槍〉を『黒竜』に投げつけたあと、素手になったガジンは当然負けた。結果としてだが、お互い深刻な負傷がなかったので、不幸中の幸いであった。

 捕らえられ、監視されていたが、急に槍を返され地脈の中に放り込まれたのである。

 何日も苦労して捕縛した相手を、断りもなく〈影〉は解放し、〈竜槍〉まで持たせた。

 ロウハの口から罵倒が出るのも仕方が無い。

 

「施設の場所が漏れると、簡単に宮廷内へ侵入されてしまいますからね」

「どうか、許してあげてちょうだい、ロウハ」

 

 闇から光へ這い出てきたように、突然二人の老人が前方からあらわれた。二人が広げる手の上では、一枚の符が光を放ち、周囲を照らしている。

 

「〈鎮守ノ司〉〈星視ノ司〉、どうしたんで? お二人が揃ってこんな場所にいるなんぞ珍しい。散歩なんて頓珍漢なこたぁ言わんでしょう」

「向かえに来たの。さあ、行きましょう」

「着いて来てちょうだい。話は歩きながら」

 

 先導者に、ガジンはロウハとイスズに挟まれる形で前に進む。

 連行されているがガジンは捕まったことに関しては対して焦っていなかった。気になるのは、帝の動向だ。

 リュウモは、おそらく捕まっている。今は、地脈移動の施設に連れて行かれている最中か、もう宮廷にいるかのどちらかだ。彼の身体能力は高いが、〈影〉の追跡を完璧に振り切れるとまではいかない。

 槍は手にある。リュウモが処刑される前に、都をもう一度離れなければならなかった。

 

「ひとつ、先に言っておきます。帝はあの子供を殺す気はありません」

「――――は?」

 

 〈八竜槍〉が全員、足を止めた。

 

「そんな馬鹿な! 帝ご本人が言ったことだ、リュウモを処断すると! 〈青眼〉の男は処刑されている!!!」

 

 帝が言い放った言葉、態度は演技ではなかった。体の『气』の揺れも、真実だと告げていたのだ。

 

「私達も詳しくは……。帝はこれだけは伝えるようにと。貴方に暴れられては『竜』が荒れ狂った方がましな被害が出ますからね」

 

「少年はもうすぐここに来る。だから暴れないでちょうだいね」

 

 ガジンは、二人の言葉を慎重に考え、うなずいた。

 もし、本当に帝がリュウモを葬ろうとしないならそれでいい。

 

「おいおい、お二人さんよ。なんでそいつをさっさと言わなかった。こっちは寝る間もなく国中駆けずり回った挙句、ド田舎で親友と殺し合ったんだぞ。真意を伝えてりゃ、ガジンだってこんな馬鹿げた行動はしなかったはずだ」

 

 ロウハが我慢できずにまくし立てる。国の最高位にいる人間への口の利き方ではない。

 彼の感情が理性を若干だが上回っている証拠だ。もし感情が振り切れたなら、今頃二人の体は宙を舞って千切れ飛んでいる。無事だということは、まだロウハは平静を保っている。

 

「帝の御考えは、私達にはとてもとても」

 

 もったいぶった態度に、ロウハの額に青筋が浮きあがる。今にも音を立ててぷっつりと血管が切れそうだ。

 

「久っっしぶり、頭にキタぞおい。ババア、知ってること黙ってると叩きのめすぞ」

「ロロ、ロウハ様!? 落ち着いてください!?」

 

 槍をきつく握り締めたロウハが二人に詰め寄ろうとしたのを必死の形相でイスズが止める。いかに術を巧みに操れようと、近距離では無意味だ。一振りされるだけで二人の胴体は泣き別れすることになる。

 

「残念だけど、本当になにも知らないの。私達は私事をされただけ」

「叩きたければどうぞ。わにも出てこないわ、血なら盛大に出るけれどね」

 

 〈八竜槍〉の怒気を受け、実力を深く知っていてなお、老婆たちは顔色ひとつ変えなかった。肝っ玉の大きさが、積み重ねてきた年月を語っている。

 

「……チ、妖怪婆相手じゃ、化かし合いは分が悪い。――あ?」

 

 ロウハが、おのれの〈竜槍〉に目を向けた。

 

「これは……!」

 

 三人の〈竜槍〉が仄かに光を発していた。ガジンの槍が掌に引っ付いて体を引っ張ってくる。

 

「オイオイ、なんだこりゃ、なにが起こってる?」

「槍が、わたくし達を、導こうとしている……?」

 

 ガジンは、リュウモの話を思い出した。槍には魂が宿っているのだと。

 リュウモと初めてすれ違ったとき、〈竜槍〉は確かに意思を持つ生物のように、反応を示していた。

 

(近くに、いるのか? ……気配はないが)

 

 『气』を探っても居場所が特定できない。

 

 はあ……と、老婆達が深々とため息を吐く。

 

「帝が術を変えて、少年の行先を変更した……。この術は繊細だからおひとりで触らないでと言ったのに」

「そんなに私達を心配させたいのかしら」

 

 二人は、今にも頭を抱えてしまいそうな声色で、愚痴を言っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十五話 宣告

「うわぁぁぁ?!?!?!」

 

 無音の激流に体を翻弄され続け、光が終わると重力がリュウモを襲った。

 視界が上下に何度も反転する。どちらが地面なのかわからない。

 一秒と経たない間に気分が悪くなり、吐き気が込みあげてくる。地上が近づくにつれ、もうどうにでもなってしまえとリュウモが投げやりになりかける。

 体に衝撃は、確かにあった。だが小さい。回転の勢いを考慮すれば痛みは強いはずだったが、段差に躓いて膝を擦ったようなものだった。

 

「意外と、重いな」

 

 誰かに抱きかかえられている。かんっと、硬い音が鳴る。下になにか落ちたようだ。

 

「あ、ありがとうござい」

 

 唇が止まる。見あげた先に、緑色の瞳があった。故郷の〈竜域〉にあった巨大な樹の葉に似た色。

 

「〈()()〉……じゃあ、やっぱり貴方の祖先は!」

 

 口が手で塞がれた。大声ではその先を言ってはならないと、帝の手には力がこもっていた。

 降ろされ、リュウモは再び帝を見あげる。彼の肩の近くで符が浮いて光っている。

 

(この人が、帝……)

 

 日に当たったことがないような白い肌。今にも倒れてしまいそうな色だ。

 異様であり、しかし、帝と呼ばれ敬われる男の顔は、素朴だった。

 肌の色が普通であるなら、畑仕事に混じるとおそらく誰も気づかない。

 人を殺せと命令する冷血漢には、リュウモは感じない。

 

「皆、ぼくらの素顔を目にすると、きみのような表情をする。やっぱり、らしくないよね、この顔は」

 

 親しい隣人に話しかけるような気軽さであった。戸惑いを隠せず、リュウモは反応に困る。

 

「他の者が来るまで、きみと二人だけで話したかった。――――ああ、困ったな、いざとなると、なにから

話したものだろうか。言葉が、上手く出てこない」

 

 初めて『竜』を目にした人のようにそわそわしている。目線が泳ぎ、動きがぎこちない。本当に、本物なのかリュウモには疑わしくなってきた。

 リュウモの目に懐疑の心が出始めると、帝は慌てて喋り始める。

 

「誤解を解いておきたい。ぼくはきみを亡き者にするつもりはない。初代帝の言葉に従い、きみを助ける」

 

 帝が腰を低くして、リュウモと目線を合わせる。

 

「きみの祖先が、初代を助けたように」

「じゃあ、帝の、初代は村に災いを運んで来てしまった人だったんですね」

 

 〈竜域〉の外へ出なかった〈竜守ノ民〉の存在を、当時は誰も知らなかった。

 争いは無縁であり、また関わる必要もなかったのである。

 戦いがいかなる理由で行われたのであれ、人の世に生きていなかった〈竜守ノ民〉は巻き込まれるだけの因果もなかった。

 しかし、平和は、ひとりの少年を助けたことから狂い出し、崩れ落ちる。

 

「倒れてた〈緑眼〉の人を助けたとき、追手を叩きのめしたら物凄い数を引き連れて侵攻して来たって、伝えられています」

「ぼくもその出来事は知っている。戦いにはなったが、きみ達の圧勝だったと。……聞いていいかな、どうして相手の要求を一部飲んで、外へ出ることを了承したんだい? 突っぱねることもできただろうに」

「人が沢山やって来て、『竜』が怒ったからだって聞いています。襲って来た人達も、わざとらしく『竜』を刺激していたみたいです」

「そうか……なるほど、それだけ『竜』を操る術が欲しかったか。味方の命を無為に消費するほどに」

 

 帝の、宝石のように美しい〈緑眼〉に、赤い怒りの火が灯った。それもすぐに鎮火する。

 

「しかし、災いを運んだ、か。血を引く者として、耳が痛い。的確すぎて反論の余地もない」

「あ、その、言い方がそうなだけで、本当に嫌っていたわけじゃ、ないと思います」

 

 変なことになった。屋敷から出て皇都に戻ってくる羽目になり、自分を殺せと命じた人間の先祖を擁護している。

 

(でも、言い伝えの通りなら、この人のご先祖様はなんにも悪くないし)

 

 戦いによって氏族の最後のひとりとなってしまった初代帝を憐れんで助けても、逆に助けなくとも、追手に村が発見されていた可能性は高い。神代に、〈竜守ノ民〉は決断を迫られたのだ。

 結果が間違っていたと――断ずる傲慢なことを口にするつもりは、リュウモにはない。

 彼らになにか言う権利があるとするなら、神代に生きていた人間だけだろう。

 

「貴方が、どうこうと胸を痛めなくても、いいんだと、思います」

「そっか……そう言ってくれると、ぼくとしても心が安らぐ」

 

 凝り固まっていた筋肉がほぐれるように、帝は肩の力を抜いて脱力する。

 リュウモは、自分の想像とかけ離れた、人間臭い帝に当惑する。誰からも敬われる人間が、どこにでもいる人々と同じような反応をしているのだ。面食らわない方がどうかしている。

 

「おれを、殺すように命令したのは、なんでだったんですか」

 

 リュウモは一番解決したい疑問を聞く。殺されると言われたから必死で逃げ回ったのだ。これで理由までわからなかったら、骨折り損もいいところだ。

 ――何回か、本気で骨も折れかけたし……。

 

「きみを、亡き者にしたかったからだ」

「は、え、ええ……?」

 

 また難しそうな話が幕を開けそうな気配を、リュウモは察知した。伊達に外へ出てから、国中を走り回っていない。

 

「難しい話じゃないから安心してくれ。きみは死んだ人間を追おうとするかな」

「死んでるから、追えるわけが……自殺とかして後を追うとかならできますけど」

 

 帝は苦笑した。子供らしい飛躍した答えに赤点を付けるように続ける。

 

「死者は誰も追わない。つまり、安全なんだ。ぼくはきみの死を隠れ蓑にして、安全かつ速やかにことを運びたかったんだ、けどなあ……」

 

 帝は、一度言葉を区切った。苦笑を浮かべ、申し訳ないと言うような顔をする。

 

「今回は、ぼくの秘密主義が招いた混乱だ。ガジンの離反もね」

「おれを殺す気がないなら、どうして本当のことを言わなかったんですか。おれを殺さないなら、きっと別の〈青眼〉の人も生きているんでしょう?」

「はあ、まいったな。帝の仮面が通じない相手だと、こうも簡単にわかっちゃうか。そう、ぼくは〈青眼〉の男を殺していない。彼は〈遠のき山地〉と呼ばれる場所にいる。きみのご先祖様が、最後まで共に戦ってくれた礼として教えた、『竜』が狂い暴れても問題がないところだ。あそこは〈竜域〉がひとつも存在しない地だからね」

「言えないわけが、あったんですよね?」

 

 皇国において最強を冠するに相応しく、帝の最も信頼厚き〈八竜槍〉にさえ伝えることのできなかった事情。

 個人的感情に依るものではない。親しみを感じる人物であろうと、彼は帝なのだ。たかだが自分の感情程度で大事の選択を誤る可能性は低い。

 実際、過程はどうであれ、帝はリュウモを皇都に連れ戻す目的を達している。しかも、ガジンの行動を世間一般に広めることなく。

 帝が後手にした選択は正しかった。なら、初手で誤った選択をしなければならなかった理由があるのだろう。

 

「あとにしようか。やらなければならないことが、来てしまった」

 

 帝は、落としてしまった面紗を被り、素顔を薄い黒幕の奥へ閉じ込めた。

 二つの光源が徐々に近づいて来る。見知った顔が三人、他の二人はあったことがない老婆だった。

 五人は帝の前まで来ると、当然のように跪いた。

 ――お、おれも同じことした方がいいのかな……。

 どうすればいいかわからずリュウモがキョロキョロと首を動かしたが、他の者達は気に留めず会話を始めた。

 

「帝、ご説明くださいますね」

「術を強引に変えるのみならず、件の少年と二人きりなど、賢明なご判断とは言えません。一体、どうなさいましたの?」

 

 老婆の開口一番に言われた内容には、戸惑いと動揺が混在していた。

 賢者が愚者に変貌してしまったような驚きさえあった。帝は抑揚のない声で喋る。

 

「余が見たかった者は、宮に引きずり出され恐怖に身を縮こまらせる子供ではない。〈竜守ノ民〉を直にこの眼で見る必要があった。それだけのこと」

「相変わらず、怖い御方」

「必要があっただけで、ひとつ間違えればおのれが死に至る可能性があった術を、変えてしまいますか」

 

 人ではない異物を前に壁を作るように、老婆達は袖で口元を隠し慄いていた。礼を失する行為とわかっていても、そうせざるおえなかったように、リュウモの目には映った。

 

「此度におけるガジンの行動、一切を不問とする。今後も変わらず忠義を尽くせ」

 

 三つの光に照らされた巨大な空間を揺らす衝撃が駆け抜けた。ある者は困惑を、ある者は安堵を、ある者は不審を抱いた。

 三者三様の反応があった中、リュウモは帝の決定にさして驚かない。

 帝はおのれの失態を辞任していて、ガジンに責任を押し付けるようには到底、考えられなかった。

 

「帝、恐れながら申し上げます。此度の件、どうかその深慮遠謀の一端、非才なるわたくしめにお聞かせ願いませんでしょうか。埒外とも言える沙汰、わたくし程度では理解が及ばないのです」

 

 形式に則った、丁寧な言葉遣いではあるが、イスズの内にある疑問と不信は隠しようがない。

 

「俺からも伏してお願い申し上げる。なぜ、我らに、ガジンに真実を告げなかったのでありましょう」

「………………………………」

 

 長い沈黙。微動だにしない静けさが充満する。止まった空気を先に動かしたのは、帝だった。

 

「余がああ告げれば、ガジンがリュウモを連れ出すと確信していた」

 

 帝の放った意味は、全員にさらに疑問を湧き上がらせる。帝は返答を待たなかった。

 

「余のひとつめの目的は、シキに人員と調査を依頼している領主を突き止めることにあった。容疑者は幾人か浮かび上がったが、尻尾を掴めず特定するための決め手が欠けていた。ほんのすこし前までは」

 

 誰であったかなど口にするまでもない。リュウモを〈影〉の手から奪い去った事実が動かぬ証拠だ。

 

「『竜』を調べていることを承知していたのですか?!」

 

 イスズが声を張り上げた。帝は一時的とはいえ、禁忌を侵した者達を黙認していたのだ。彼女が声を荒げるのも無理はなかった。

 

「そうだ。そして、今は罰する気も、必要もない」

「な、なぜですっ、今回の騒動でいかに『竜』を刺激してはならないか、わたくし達だけでなく、国中が実感いたしました」

 

 被害の多さだけではない。人に平等に襲い掛かった『竜』の無慈悲な力は、皇国の人間に身分、出自を問わず恐怖と畏怖を刻み付けた。

 それでも国が禁じた事柄を破る者達を罰しないと帝は断言する。

 

「北が行う研究は、利益をもたらす。宮が直接的に関与するわけにはいかぬが」

「つまり、ときが来たらあがりを全部かっさらう性質の悪い胴元ってわけですかい」

「質の悪い胴元のおかげで、生活が潤っている者もいる。であろう、ロウハ」

 

 宮が集めた資金によって家に不自由がなくなったロウハは、納得がいかないように顔を逸らす。

 

「すべてを奪い去るのですか、悪しき部分は全部、擦り付けるおつもりか!」

 

 ガジンの大喝が闇を揺らした。光を放つ符が、荒々しい『气』に干渉され、波打つ。

 

「然り。万の命が、後に生まれいずる一千万を救うのならば――殺せと命ずるは余の『使()()』」

 

 帝は、なんの憚りもなく言い放ってみせた。薄汚いやり方だと非難され、なお彼が意見を動かされることはない。

 

(……信念。この人は、とても強い想いを、抱えている)

 

 殺人の指令を言い渡すのが『使命』だと言い切る帝の強靭な精神に、リュウモは畏敬と寒気を覚えた。

 

「二つ目は、皇国を救うため。余は初代のように千も先を見通す叡智を持ち合わせてはいない。だが、五十年程度ならば未来を見渡すことができる。このままときが経てば、皇国は勇み足を踏みながら――滅びの道を征くだろう」

 

 リュウモ以外の人間が、現人神とうたわれる男の口から告げられた死刑宣告に凍り付いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十六話 背負わされるもの

 国が滅ぶと言われても、リュウモにはぴんとこなかった。国が無くなることと、人が死ぬことが結びつかない。

 それがなくとも〈竜守ノ民〉は長いときを生きてきた。枠組みが消えたところで、今まで出会った人々が国と心中するとは思えない。帝は一拍、間をおいて続ける。

 

「技術の急速な発展、それに伴う人口の増加。人の出入りが激しくなった皇都は『譜代』と『外様』の垣根がわずかだが無くなり始めている。だが経済はどこまでも肥大化し、必ず今の制度では対応が利かなくなり、崩壊する。地すべりが起こるように、盛大にな」

 

 物語を読み上げるようにすらすらと喋っていた帝が、イスズに目を向ける。

 

「発展を続けていけば、どうなる。答えよイスズ。皇国の知の集積たる一族の者よ」

「わたくしが如き凡才が国の行く先を語るなど、道化もよいところでありましょう。――妹の論を持ってしかお答えはできません」

「かわまぬ、申せ。あの鬼才の論理ならば、聞くに値する」

「では恐れながら。――百と経たない内に皇国は岐路に立ち、選択を誤るでしょう」

 

 肩を強張らせながら、イスズは震えるように唇を動かす。

 

「大規模な内乱が巻き起こります。帝が仰いました通り、人口の増加によって『外様』の人員にはあぶれ出ている者がおり、盗賊になる者もいる始末。しかしそれは『外様』の領主が受け入れ体制を準備できていないだけであり、確立されれば余剰の人員を兵力、軍事に回せば侮れぬものになります」

「軍との戦いが起こるってぇ? 馬鹿言うな、皇都の軍はそんな甘くねえぞ。叩き潰すだけだ」

「ロウハよ、汝の言う通りだ。『外様』がどれだけ数を揃えようと、我々は勝つ。だから、問題なのだ」

 

 帝は先を続けるよう、イスズに目で合図する。

 

「戦えば勝ちます。ですが、戦いが起こってしまったその時点で、国は滅びに進んでしまう」

 

 戦端が開かれたが最後なのだとイスズは断言する。

 

「過剰になる人口、付随する経済格差。そして『外様』の者達は、すくなからぬ数が皇都に出入りし働いている、『譜代』出身よりも安い賃金で。ここから先、予想できることはひとつ」

「金を多く払え、か。んでえ、そいつのなにが悪い。同じ時間、同じだけ働いてんなら要求自体、おかしいとこはないだろ」

「……――余の〈八竜槍〉は歴代に比べ遥かに変わり者が多いが、汝も相当だ、ロウハ。他の『譜代』も同様に考えてくれればよいがな」

 

 金銭の扱い、価値観に限ると、『譜代』に認識から何百歩も離れているロウハに、帝は感心したように言った。

 

「そりゃまた、どういう意味でありましょうや」

「『外様』の人間に適正な値段を支払う者はほとんどいない。悪意からではない、それが()()()()()()()()

「生まれが、そいつの値段を決めると? いつか破綻する馬鹿げた商売ですよ。友人の商家は、平等に金を払っておりますが」

「あの者の商いは特殊だ。他の商家がそうあるわけではない。八割以上は、特権階級による強権を振りかざしている。そうだ、汝の言った通り、必ずいつかは破綻する」

 

 経済が広がりを続け、地域や地理ではない、身分における格差が谷のように深くなれば、是正するために多くの『外様』が動き出す。壊れるそのときまで、富を独占する『譜代』の人間は否定を続けるだろう。

 

「ときが経てば、不満と憎しみ、格差、貧富の差は現在よりも増々激しくなります。そうなったときもう一度、飛脚の町と同じことあれば、統制不可能な騒乱が起き、皇国は滅びることになるでしょう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()だと、妹は申しておりました」

「んなことを起こさないために、我ら槍がいる」

「無論、忘れてはおらぬよロウハ。我が槍、この世で余が最も信ずる至高の槍達よ、汝らの力、一度たりとて疑ったことはない」

 

 帝の至上の称賛に、〈八竜槍〉は咄嗟に首を垂れた。不信、不満を抱えていようとも、彼の口から発せられる言霊は、それらを一挙に吹き飛ばしてしまったかのようだった。

 

(みんなは、心の底ではこの人を敬っている。ガジンさんも、みんな……あ、いや、シキさんは違ったかも?)

 

 平伏し崇められる姿は正しく王そのものだった。威光を放つ姿を、リュウモは苦しそうだと感じる。

 さっきまでの態度が本当の帝なら、彼は仮面を被り人と対面していることになる。

 素顔も出せないのは窮屈ではないのだろうか。

 

「だが〈八竜槍〉であろうと、感情を抑え込むのは不可能だ。おのれの生活が脅かされれば、人は獣になる、ならざるおえない」

 

 帝はガジンの横に置かれている〈竜槍〉に目をやった。

 

「飛脚の町で起きた事件は先代が秘密裏に実行した計画のひとつであった。埋められぬ格差。その中に『外様』と『譜代』が混在していた町に、暮らしを脅かされた者達がどんな反応をするのか、見るために。計画は成功だったが、その後にあれほどの大事件になるとは先代も見通せなかったが」

「もしかして、『外様』の領地のひとつを、『譜代』に変えたのも、そのため?」

 

 リュウモが直感で思いついたことを言うと、帝が隣にいるリュウモに視線を向ける。

 

「それもある。あの領地は皇国の食糧庫のひとつとなった。放置すれば他の『外様』と繋がりが強くなりすぎる可能性が大だ。だから早い内に『譜代』に組み込んだのだ」

「なるほど……『外様』と『譜代』の両者間にある格差と、長年『譜代』が当然としてきた特権意識。階級の坩堝となった町は、未来の、近い将来の皇都だったのですね」

 

 リュウモは、川辺のコハン氏族のジョウハが言っていたことを思い出す。

 彼は、昔と違って皇都で『外様』の人間も商売をしている、と。

 良いことのように思えても、別の問題を浮き彫りにもしていたのだ。

 

「今の皇都と訂正するがよい。ごく一部の小さい区画に『外様』の者だけが集まる場所がすでに出来上がっている。十数年経過すれば規模は倍々と増していく。一部に制限を掛けたがいずれ意味を失くすであろう」

 

 結局、また難しい話題になり、リュウモはついて行くのがやっとだった。

 知恵熱でも出始めたのか、首の付け根の奥がじんじんする。

 外で得た知識と経験を総動員して半分くらいしか理解できない。多分、飛脚の町で起きた出来事が国中で発生するのだろう。

 わかったのはそこまでで、格差だとか計画うんぬんは、しっかり耳で捉えても右から左に流れて行くだけだった。

 

「結局は、お金を取り合って、二種類の人達が大喧嘩するってことです?」

 

 だから、リュウモは精一杯考えをまとめた内容を言ってみた。

 発言者に皆の目が集まる。言ってはいけなかったのかとリュウモの腰が引ける。

 いきなり、帝の笑い声が広間に響き渡り、反響した。

 

「み、帝……?」

 

 誰の声だったのか、それか疑問を問いかける声は皇国に住む者達の総意だったのかもしれない。――本当に、笑い声をあげる御方は帝なのだろうか、と。

 肩を揺らし、腹を抱えて床を転がり周りそうな大笑が終わる。帝は面紗の奥で口角をあげて、リュウモに語り掛けた。

 

「そうだ、我らは生活のために領土を奪い合い、無くなれば次は経済による争いを始めた。真、我ら人とは我欲に突き動かされる、この世を貪り食らう獣よな」

 

 帝の主張が、リュウモの喉元に質量のないつっかえを生じさせた。

 きっと、この人は正しい。長い時間を国と過ごし、多くの悲劇を眼に刻んできた者に意見できる知識も経験もないリュウモの唇は、動きはしたが、言葉を発することはなかった。

 

「だが、飢狼の如く振る舞い続ければ、いずれはおのれの身を食い潰す。獣の王たる余は、自壊を止めねばならん」

「止めるって、どうやって? あの人達は、きっと言葉じゃ止まらない。『竜』を、禁忌を侵してまで進むのは、進まないと自分達が滅んでしまうと信じているから」

 

 命を散らした者達のためにも止まれない。払った犠牲の分だけ、彼らは邁進する。

 誰かのすべてを肩に背負ったとき、歩みを停止させるなどできない。

 リュウモは、()()()()()()()()()()()()()()

 

「止める気はない。だが『竜』に関係することのみは、おいそれと進歩させるわけにはいかぬ。国の存亡にかかわる、今も、そして未来にも」

「でも、さっきは研究しているのを黙ってるって」

「北の『外様』も馬鹿ではない。どこまで足を踏み入れてよいか、境界線を慎重に探っている。むやみやたらと『竜』を刺激すまい」

 

 確かに、ナホウ達は細心の注意を払いながら観察を続けているようだった。

 リュウモは、それでも不安を拭いきれない。『竜』に絶対はない。

 長年、生態を研究し続けてきた〈竜守ノ民〉ですら、ほんの一部しか解明できていないのだ。

 

「お考えのほど、理解いたしました」

 

 イスズは帝に真っ直ぐ姿勢を再度正して言った。

 

「増え続ける人口、『外様』と『譜代』が交じり合い拡張を続ける経済。その混沌の中で是正されない格差と『譜代』の特権意識を火種として発生するであろう内乱が国の荒廃を招く。それを未然に防ぐために帝は心血を注いでこられたのですね」

 

 然り、と帝は満足気にうなずく。

 だが、イスズの顔色は暗く沈んでいた。

 

「では、どうやって破滅を回避するおつもりですか。人口の抑制は親の顔を知らない孤児を増やすだけで効果は見込めません。今更になって『譜代』と『外様』を二分し、経済を回すのは現実的ではない。両者は密接に関係しすぎています。チィエ、妹は未来を予見できても、解決の方法までは提示することは無理でありました」

 

 ふいに、飛脚の町で食べた味噌汁の味が、リュウモの脳裏に蘇った。

 知らない味付けだったが、とても美味しかった。

 あの味が、二つの民が交差した結果生まれたのなら、悪いことではないし、店主もそう言っていた。

 

(でも、話してるのは小さい店に収まる大きさじゃないんだ。ああでも、それぐらいしかわかんないや。お金とか経済のことなんか、さっぱりだよ!)

 

 会話している者達にあって当然の感覚がリュウモにはない。そのせいで重大な危機について話し合われているのに、いまいち危機感が生まれてこない。

 ――『竜』のことならわかるんだけど。

 

「それは、この者が鍵となろう」

 

 肩に手を置かれ、びっくりしてリュウモは帝を見る。黒幕の奥に在る表情からはなにも読み取れない。

 

「なにを、するおつもりか、帝」

 

 ガジンの顔に、激しい非難が稲妻のように迸っている。少年がこれから背負わされる理不尽さを知っているかのようだった。

 

「〈竜守ノ民〉に恩赦を与え、過去の罪を清算する。そのために余の名代として『竜』を鎮めてもらう」

 

 くらっと……眩暈を起こしたように〈鎮守ノ司〉の体が揺らぐ。

 

「姉さん!?」「いえ、いえ、大丈夫よ、大丈夫じゃないけれど大丈夫よ」

 

 結局、それは平気ではないのでは? リュウモの口がつい滑りそうになる。

 

「ほーう、妖怪婆が卒倒しそうになるたあ驚きだ、本当」

 

 ロウハが茶化した。ぐりん、と音が鳴りそうな勢いで〈鎮守ノ司〉が彼の方を向く。目には異様な光が灯って稲光のようになっている。

 

「貴方、事の重大さがわかっていて? あといちいち妖怪婆言うな、ぶっとばすわよ小童」

 

 老体に似合わない、活力漲る罵倒であった。

 〈竜守ノ民〉の年寄り達も、老いてなお壮健で大人しい人を探すのが馬鹿馬鹿しいぐらいだった。二人の姿に、リュウモはほんのすこしだけ、故郷を感じた。

 元気な老婆に凄まれても、ロウハはどこ吹く風である。

 酷い頭痛に苛まれているように〈鎮守ノ司〉は額を押さえた。

 

「『外様』、『譜代』の区別は、神代の戦いで帝側と敵対し敗れた者とを分けた」

「『外様』は罪を贖うために今も生き続けている。その中で最も罪深い一族を赦し、国に迎えるならば、連鎖的に他の『外様』にも赦しを与えなければならなくなる。それは――」

 

 二人は言葉を濁す。ここから先は、舌を動かすのも不敬だと感じているかのようだった。

 

「民を分ける境が消える。つまりは、余が初代帝が作り上げた国の基盤を破壊すると同義」

 

 初代帝は、皇族でさえ敬意を払う存在だ。偉大な者の功績を踏み付けるように、今代の帝は言う。まるで断罪するように。

 

「想像を絶する非難が内外から噴出しますわ。恩赦を与えるだけで皇国が傾きかねません。何卒、御再考を」

「境界を消すにしても、まだ早すぎます。民の心が追い付きません」

「否、今だからこそだ。『竜』の力を、民は恐れるだけでなく直に知った。ゆえに、求め始めるだろう、知識を、技術を。リュウモは、その者達の暴走を繋ぎとめるために必要なのだ」

 

 二人の知恵者から諫められても、帝は微動すらしない。自らの意見を変えず不動を貫こうとしているのは明らかだった。

 

「正しく取り扱わないと大怪我するから、正しい知識を持ってる俺らに従えと。結構なことですが、示威行為だと騒がれませんかね」

「変化とは常に突然だ。その程度、些細なことだろう。今を逃せば、皇国は廃れ緩やかに壊死していくであろうな」

 

 帝はおのれの政策を明かすと、跪く臣下達の反応を見ていた。

 

(な、なんかとんでもないことになってきちゃったぞ!?)

 

 脇道に逸れるどころではない。リュウモに、彼らの未来を背負うなどできない、覚悟もない。訳も分からないまま押し潰されてしまいそうな重圧を抱え込みたくはない。すでに自分のことで手一杯なのだ。

 

「不満の矛先がリュウモになだれ込むかもしれぬのです、おわかりか!?」

 

 ガジンが吠えるように言い放つ。帝は、動かない。平然としている。

 

「帝、俺はいと高き御方の考えなんぞ噛み砕ける頭を持っちゃいませんが、こりゃあんまりでしょう。我らが積み上げてきた業を、都合よくおっ被せられる相手があらわれた途端にほっぽり投げるのは、いささか大人気ない。第一、坊主の生還が前提となっている謀。こいつが死んじまったら全部がご破算。その辺り、どうするおつもりで」

「抜かりはない。リュウモの死を回避するために、皇都に呼び戻したのだ」

 

 帝は、深く息を吸い込むと、鋭く切りつけるような声で言った。

 

「これより〈八竜槍〉選定のため、〈抜槍ノ義〉を執り行う。リュウモが選定に赴く槍は――〈龍王槍〉とする」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十七話 還りし槍

 帝の宣言に皆が固まった。誰もが身じろぎひとつできず、沈黙している。

 

「あの、おれに〈八竜槍〉になれって、ことですか?」

 

 重大さをよく理解できていないリュウモが、一番先に声を出した。帝はうなずく。

 

「ちょ、ちょいちょい待てっての正気かあんたどうなるかわかってんのか?!」

「ロロロ、ロウハ様言葉遣いィ!?」

 

 山が打ち崩されたような衝撃に、ロウハが正気を失いかけ、イスズが必死の形相で現実に引き揚げようとしている。

 

「ラカンを皇族の槍術指南役に抜擢したのだ。今更であろうよ、余は正気だ」

「あ、あいつを!? いやんなこと一言も」

「公にはできなかった。『外様』であったからな。だがよく仕えてくれた。ゆえに墓へ名を刻むことを許したのだ。〈八竜槍〉に比する栄誉を『外様』に与えるなどと、小うるさい者もいたがな」

 

 帝はようやく硬直から立ち直った老婆達を流し見する。

 

「本来、あるべき者の手に〈龍王槍〉が帰るだけの話。ここまで友が来たとなれば、槍も黙ってはいまい」

 

 ――オォォォ……と、咆哮が轟いた。闇の空気と『气』をビリビリと震わせる。

 全員が、身を固まらせた。――リュウモを除いて。

 

(懐か、しい)

 

 もう一度、咆哮が鼓膜を震わせる。凄まじかった。大音すら負かしてしまうほどの、歓喜の感情が含まれている。

 喜びの中にある積年の悲しみが胸を貫き、胸にぽっかりと孔を穿つかのようだった。

 リュウモの頬に、涙が伝った。瞳がリュウモの意識を越えて縦に細くなる。体が勝手に〈竜化〉していた。

 

「行かないと……呼んでる」

 

 足が、闇を掻き分けるように動き出した。

 

「ま、待て、リュウモ!」

 

 尋常ではない様子のリュウモをガジンが腕を掴んで止めようとした。ガッと、槍が地面に突き刺さり、ガジンの行方を塞いだ。

 

「止めるな、とでもいうつもりか?」

 

 〈竜槍〉はほんの一瞬、その身を光らせた。

 

「は、あの坊主、槍に呼ばれてやがるぞ。ラカンと同じか」

 

 後方の会話を耳にしながら、リュウモは暗闇の案かを迷いのない足取りで進む。

 

(光だ、光の、道が、見える)

 

 真っ暗闇の先に輝く光点があって、点が地面に伸び線となっている。白光する太い煌々たる道の上を、リュウモは歩いていた。

 もう一度、咆哮が響く。どんどん音源が近くなっている。

 

「あの坊や、道筋が見えている?」

「術で方向感覚が狂い易くなっているはずなのに……本当に、槍に呼ばれているのね」

 

 後を付いて来ている老婆達が恐ろしさが入り混じった声で言った。

 リュウモは光が指し示す方向へ歩き続けた。やがて、目が眩むほどの光量の間近までやって来た。

 目の前にあらわれたのは、二つ足で立つ竜のように巨大な扉だった。

 変な扉だ、とリュウモは思った。錠前か閂で閉じるはずだが、無い。代わりに、扉を閉じているのは、縄だ。図太い縄が、左右に開こうとする扉を縛り付けている。二本の縄が交差し、それが下から上まで、十個もある。

 ――いや、閉じてない?

 目を凝らしてよく見れば、縄と扉との間に、隙間ができている。枠の部分から、縄が反対側の枠に伸びているようだ。しかし、あれでは閉じる役割を果たせないのではないだろうか。押戸だったら、そのまま開いてしまうし、引き戸でも縄を切ってしまえば、簡単に中に入れそうな気がする。

 

(……封印術だ。それも、村長の奥さんが使う、強力な)

 

 光はぶ厚い扉の先だ。〈龍王槍〉はこの中にある。しかし、これではまるで……。

 

「封印、されてるみたいな」

 

 厳重と言う言葉を三重に包んでも足らない徹底ぶりだ。極悪人でも捕えているかのようである。

 

「なるほど、ここは〈竜槍〉が置かれてる〈槍ノ間〉か。『气』に覚えがあるはずだ」

 

 リュウモに先導されていたガジンが言った。

 

「瘴气の気配がない……ラカンのときと同じ」「一体、どうして……?」

 

 体を侵す病魔の気配の存在が消え、老婆達は驚きに眉を吊りあげている。

 

「扉を開けよ。おあずけをされ続けると、好い加減、槍が暴れだす」

 

 帝が言うと、戸締りが悪い扉のように、内側から音を立てて振動を始める。縄は軋み、紫電を迸らせながらも役目を全うしていた。だが、放置すれば内側から衝撃によって封印は食い破られるだろう。

 

「帝、これ開けて大丈夫なので!? 俺の〈竜槍〉がはっきりわかるぐらい怯えてんですが!?」

 

 三人の〈竜槍〉がカタカタと震えている。『竜』の習性上、『龍王』の荒ぶる『气』は恐ろしいのだ。

 

「リュウモがいる限りは、余達に害はない。開けよ〈鎮守ノ司〉」

 

 〈鎮守ノ司〉は言われた通り門のような扉の前に立つ。手で印を組み、呪文を口ずさんだ。

 戒めが解かれ、縄は床に落ちると勝手に動き出して闇の奥に消えて行く。扉が、自動で開いた。

 途端、リュウモの顔に久しぶりに感じる『气』がぶつかった。〈竜气〉だ。

 〈竜域〉と遜色ない量が扉の中側から流れ出て来る。

 

「皆、ここで待て。行くぞ、リュウモ」

 

 帝が無造作に歩みを始め、リュウモが後に続く。

 

「お待ちください」「せめて供回りに〈八竜槍〉を誰かひとりお付けください」

 

 帝は扉の敷居を跨いでから振り返った。

 

「不要。再会に無粋な邪魔が入れば、怒りを買うぞ」

 

 肯定するかのように『气』が吹き付けて他の者達の足を止めた。

 

「これより先、何人たりとも中へ入ることは許さぬ」

 

 ぎ、ぎ、ぎ、と重音を響かせて扉は閉じていく。

 リュウモの目に、心配で仕方がないと顔をしかめるガジンが映った。

 大丈夫、と伝えるようにリュウモはうなずいた。

 重々しい音が鳴り、扉が閉まる。

 

「はあ……ようやく息がつける」

 

 帝は、安心して腰が抜けるような情けない息を吐き出した。面紗を外すと、また緑色の瞳が見えた。

 

「あれ、瞳が縦に」

「ああ、これかい。一応、ぼくらも弱いけど〈竜化〉に近しいことはできるんだ。ただ、〈竜气〉が濃いところ限定でね。初代は東の〈竜域〉近くの出身だから、そのせいかもしれない」

 

 部屋の中は、大仰な外側と比べて、簡素だ。八本の柱が作る、八角形の陣の真ん中にある台座に、一本の白い槍が突き刺さっている。

 円錐形を逆さにしたような窪地の台座に行くには、結構急な階段を降りなければならないようだ。奈落の底に行くようで、リュウモはちょっと怖かった。

 

「あれが、〈龍王槍〉……」

 

 だが、槍を目にするとたちまち恐怖は消えた。腹から胸へ、叫びたい衝動が駆けた。

 リュウモの意思とは関係がない。咄嗟に口元を手で押さえる。

 

(なんだ、これ。わかんない、わかんないけど、すぐに、槍のところまで、行きたい、行って声をかけたい)

 

 論理、理屈、理性などどうでもいい。心が、体に流れている血が、早く行けと背中を押している。

 

「槍を手に取る前に、話をしよう」

 

 逸る気持ちを抑制するように、帝はリュウモの肩に手を置いた。

 

「ぼくがさっきまでに語ったことはすべて事実だ。きみに背負ってもらいたいものも、全部吐き出した。……でもね、背負い込まなくても、いいんだ」

 

 意味がわからなかった。リュウモは国の大事だの、未来がどうこうなど知ったところで、咀嚼して飲み込むなど無理だ。

 肌でわかったのは、帝には決して退けない事情があることだけだ。

 なのに、帝はやらなくていいと言う。

 頭の中がこんがらがりすぎて、思考が衝突事故を起こしそうだった。

 

「きみが持つ知識を、我々が『竜』について調べるときに精査してくれればいい。〈遠のき山地〉に身を潜めれば人目にもつかない。それでかまわないだろう、お前もこの子が苦しむ姿を、間近で見たくはないのだろう?」

 

 最後は、リュウモではなく〈龍王槍〉に向けられていた。槍は、憤怒を表現するように、くぐもった鳴き声を発した。

 

「ご立腹か。どうしても彼女はきみの近くにいたいらしい。まるで待ち焦がれた恋人がようやくあらわれた乙女のようだ」

 

 呆れを通過して敬うほどの想いの強さに、帝は頭を抱えそうであった。

 

「どうして、おれを、こんなに呼ぶんですか? 強くもないのに」

 

 心臓に太い糸が絡みついて、体を前へ前へと引っ張られているかのようだ。こんな現象、リュウモどころか〈竜守ノ民〉ですら知らない。

 

「〈龍王槍〉が使われたのは、神代の時のみ。初代〈八竜槍〉の長は、きみのご先祖だったんだよ。戦友の子孫に自分を使ってもらいたいと思うのは、自然だろう?」

「じゃあ、ずっとこんな場所で、おれ達を、待っていた……? たったひとりで」

 

 リュウモは胸を押さえた。帝は心底申し訳なさそうに顔を歪めた。

 

「こんな場所に閉じ込めたくはなかった。彼女は、国を興した英雄だ。だが、友とその一族を貶められて、槍は怒り、国を覆うほどの瘴气を出し始めた。止めるには、皇族と封印が必要だった」

 

 瘴气は人体に強烈な悪影響を引き起こす。それを永遠に放出する〈龍王槍〉を、当時の人々は放っておけるわけがなかった。

 

「貴方達、が? どうして……」

「初代帝と、神代の〈八竜槍〉の長は親友だった。気に入った者の友を殺すなど、彼女には無理だったのさ。偶に、こうやってぼくが話し相手になってやらないと拗ねて瘴气を強めるから、帝は皇都から離れられないんだよ」

 

 底の台座に突き刺さり、今か今かと待ちわびる槍が、酷く人間臭く見えた。

 

「おれは……どう、すれば」

「きみが、決めなければ。手前勝手だが、俗世に生きるか、隠れて暮らすか。選択肢は二つ」

 

 わからない、わかるはずがない。リュウモは外に出て三カ月と経っていない。

 理解できない選択を、どうして選ぶことができよう。

 でも、だからといって。知らぬ存ぜぬを貫き通せるほど、リュウモは外の世界について目にしすぎた。

 憎しみを見た、しがらみを感じた、迫害を受けた、悲しみを知った、癒えない傷跡があった。

 ――でも、その分だけ。

 喜びがあった、安寧があった、安全があった、生み出されたものがあった、必死になって前を向き生きようとする人達がいた。

 そして――彼らを背負わなければならない自分がいる。

 

「我らは間違った土台を作り、偽りを飾り立て、国を興した。なら、一度すべてを壊してしまった方がいいんじゃないかと、何度も自問したんだ。でも、できなかった。ぼくにそんな権利はない。俗世の加護を受け、なに不自由ない生活をしてきた、ぼくには。あるとするなら――」

 

 帝はリュウモをじっと見つめた。

 

(偽り、間違い……)

 

 もし、この世が虚飾に塗り潰され、正しさを叫んだところで、否と断ぜられるならば、いっそのこと、一度すべて壊れてしまった方が、後のためではないのだろうか。そう帝は言う。

 破壊の後に再生は必ずある。嵐で木々がなぎ倒されようと、風で落ちた種が芽吹くように。

 そこまで考えて、リュウモは恐ろしく冷徹な考え方をしている自分に嫌気が指した。

 第一、木々が、森が再生するのだって、生きようとする力が破壊を上回るからで、破壊が再生を飛び越してしまったら、後には何も残らない。

 ――みんなが、そうだったように……。

 村が焼け落ち、『竜』が乱舞し、命が炎のように燃えては落ちていった光景を思い出す。

 あれこそ、破壊が再生を上回った最たる例ではないのか。

 もし、あれがこの世すべてに蔓延するのであれば、止めなければならない。

 

(なんだ……色々あったけど、結局、最初と同じじゃないか)

 

 リュウモは、自分の中にある想いと、〈竜守ノ民〉としての『使命』が、カチリと音を立てて噛み合った気がした。

 底に向かって下り始める。一歩進むたびに、冷たい石階段は硬い音を立てる。

 静寂の中に熱を生じさせる意思をあらわすような、堅固な足音だった。

 

『――――――――――――――――――――ッ』

 

 決意を挫くように、リュウモの全身を莫大な『气』が叩きつけられる。

 さっきまで再会を待ちわびていた〈龍王槍〉が、歓迎を拒絶していた。

 『气』が、槍の感情を伝播させてくる。

 止めてくれ、選択を誤らないで、と必死に訴えてきた。

 声なき感情の前に、リュウモは足を止めてしまった。

 血涙を流しているかのような強烈な『气』の震えに、リュウモは思わず停止してしまったのだ。

 

「力を、貸しては、くれないのか?」

 

 助けを求める戦友の子孫の声に、一瞬だけ迷うように『气』が弱まり、次には元に戻ってしまった。

 

「彼と同じ道を進ませたくないのか、槍よ」

 

 圧力を伴う『气』の矛先が帝に変わる。なにも言うなと、槍が怒りを向けている。

 

「帝は、国を興す際に初めと終わりに二つの間違いを犯した。〈竜守ノ民〉を悪とし神話を捏造したこと。『譜代』『外様』という区別を作ってしまったこと。前者は判断を誤り、後者は感情に負けた。本人も晩年に過ちを認めていた。『〈竜守ノ民〉に咎のすべてを負わせるべきではなかった』とね」

 

 煽るような語気に〈龍王槍〉の『气』が異様な域にまで高まっていく。

 怒り、それ以外に形容できない感情が、爆発寸前にまでなっていた。

 

「ぼくが憎いか。追いやる、迎え入れることに違いはあっても、同じようにすべてを背負わせようとしている、ぼくが」

 

 槍の周囲に、水晶のように透き通った物体が、突如として形成された。

 尖った先端は帝の方を向く。引き絞られる矢のように、水晶が身を引く。

 

「なにする気なんだよ止めろ!?」

 

『龍』が自分の力、〈天ツ气〉を使って形作った物体など、世界のどんな武具よりも強力だ。人間に向かって放てば体は粉微塵になる。

 リュウモの焦った叫びに、水晶は身震いする。尖った先を何度か迷わせ、何事もなかったかのように霧散した。

 

「……なあ、話したいんだ。近くに行ったら、駄目かな」

 

 壁を建てるように吹き荒れていた『气』の暴風が止む。階段を下り切り、底に辿り着く。

 

「お前、どれだけ暴れたんだ?」

 

 八角形の広間に、同じ形をした台座。各辺の頂点からは半透明の光の縄が伸びて、槍を縛り上げている。

 外の人間が敬っている存在に対する仕打ちではない。さっきのように相当暴れ回ったらしい。もっとも、『龍』にはどんな封印も無意味だ。これでもかなり大人しくしてくれているのだろう。

 親に叱られて頭を引っ込める子供のように『气』が縮こまった。

 リュウモはほんのすこしだけ躊躇ったあと、槍に語り掛けた。

 

「ずっとさ、考えてたんだ。どうして、おれなんだろうって」

 

 明確な理由などわかるはずもなく、しかし、『使命』を前にリュウモは理由を探さずにはいられなかった。

 多大な責任を背負った人間は、必ずと言っていいほど根拠を求める。おのれを納得させるために、なぜ、と。

 

「生れ付き、『合气』なんていう異能があってさ、笛に選ばれたのも、本当に偶々だったんだ。村長の家に初めて行ったとき、綺麗な笛だなと思って触ったら、〈龍赦笛〉はおれから離れなくなった」

 

 『語り部』の役目は自分から志願した。

 でも、他は任されるがまま、命じられるままだった。決めた生き方さえ、別の生き方に塗り替えられそうになったこともある。

 

「それから、『語り部』以外の訓練も沢山した。爺ちゃんに一生『語り部』として生きていくって誓ったのに……。でも、運が良かった、おれには『合气』があったから、一度感じ取れてしまえば楽だったんだ。習練の必要がなかったから『語り部』を続けられた」

 

 不自由なく生きれたけど、自由はあんまりなかったんだ、リュウモは苦笑する。

 

「それでよかった。色んなことを知れて、体験できて、楽しかったから。ひとつのことができると、みんな褒めて笑ってくれて、温かかった」

 

 ぎゅうっと、〈龍赦笛〉を服の上から握る。

 

「これは、怖かった。だって、なにをしたらいいかわかんないし、みんなも知らなかった」

 

 でも、とリュウモは続ける。

 

「外を回って、おれのしなければいけないことが、わかったんだ」

 

 真っ直ぐに、リュウモは〈龍王槍〉を見つめる。濁った白色の槍は、静かに言葉を待つ。

 

「おれは、生きている人達を、助けたい。世界を、救いたいんだ」

 

 それが、リュウモが初めからできる唯一のことだった。

 

「帝は間違いの上に国があるって言った。でも、間違いの上に生きて、必死に生きて積み上げたものを守ろうとしている人達がいる。嫌な目にも遭ったけど、だからって全部が消えて無くなっていいわけじゃない、絶対に」

 

 両手で槍の柄を握り締める。コツン、と祈るように額をつけた。

 

「おれだけじゃ、無理なんだ。今までずっと守られて助けられてきたから。情けないけど、ひとりだと失敗する。だから――」

 

 おのれの内から湧き出た願いを、リュウモは言った。

 

「力を貸してくれ。人を、『竜』を、世界を救うために」

 

 〈龍王槍〉は、言葉の代わりに、行動によって意思を示した。

 手が、磁力で吸い寄せられるように柄で引っ張られる。

 

「ありがとう」

 

 槍を台座から引き上げる。

 

「今――〈竜守ノ民〉の手に〈龍王槍〉が還る」

 

 感慨深げな、声が聞こえた。

 リュウモは、握る手に力を入れ、台座に突き刺さっている〈龍王槍〉を引き上げた。

 抵抗は、一瞬だけだった。

 自らを振るうべき主が戻って来たことを喜ぶように、『龍』の王の亡骸から作られた槍は、内包された『气』を発散させる。〈竜气〉が部屋にある全ての物体を押しのけ、吹き飛ばそうと暴れ回ろうとした。

 

「よ、止せって、危ないだろ」

 

 聞き分けの無い犬を叱るような口調であったが、それだけで、〈竜气〉は収まった。

 

(何だろう……懐かしい、気がする。とても、とても昔に、お前と、会ったことがあるような――そんな、感じがするよ)

 

 〈龍王槍〉は、歓喜を体であらわすように、その身を白銀に変えた

 

 

 

「おお……!」

 

 それは、きっと幻だろう。だが、帝は確かに、見た。

 幼い、青い瞳をした少年の、槍を手に持った後ろ姿。

 その姿に、帝にのみ伝わる背が重なった。

 純朴そうな、しかし、大きく、頼りがいのある、その背中。

 神話ですら語られない、初代帝の、唯一にして終生の親友。

 かつての――〈竜守ノ民〉の長の、後ろ姿だった。

 どうして、そんなものが見えたのか。帝には、はっきりと理由がわかった。

 自らに流れる、血が、魂が、脈々と受け継がれてきた、初代の想いを結実させたのだ。

 

『名を口にすることすらかなわなくなった、我が友よ。いつの日か、いつの日か、汝らが認められ、再びこの槍を手にせんことを、切に願う』

 

 蔵にあった、血を吐くような想いで綴られていた、初代帝の手記の言葉が思い出された。

 

「今ここに、初代の想いは成就せり――見ておられますか」

 

 帝は、天上を仰ぎ見て、瞼を閉じた。闇の奥には、素朴そうな青年が、笑っていた。

 

 

 

 〈龍王槍〉を手にし、下りて来た階段をあがると、帝は深々とうなずいた。

 

「初代の誓い、確かに果たした」

 

 帝の言葉は、ここではない誰かに言ったのだろう。彼の声には、感慨深い響きがあった。

 リュウモは、新しく手に入れた相棒を、試しに振ってみた。ヒュっと、鋭い音が鳴る。

 長年使い込んできた得物のように、掌に吸い付いてくる錯覚があった。槍があまりに手に馴染み過ぎて、逆に困惑する。

 

「槍が手に馴染みすぎ、戸惑っているかな」

「あ、はい」

 

 リュウモが掌から感じている重さと、槍の長さから測った重さは、どう考えても同じではない。見た目に反して、軽すぎるのだ。

 その軽さも、リュウモにとっては丁度、使いやすいぐらいであるから、余計に変な感じがした。

 

「〈竜槍〉は、自身の重さを、すべて使い手に合わせて変える。とはいっても、槍から姿形を大きく変えるわけではないけれど」

「なるほど……」

 

 自らを振るう者を選ぶ、などと言われているその実、結構親切らしい。長さはともかく、重さまで見た目通りであったなら、リュウモにとってはまだ扱い辛い。

 『气』によって大幅に身体能力を底上げしたとしても、元々の使い心地は重要だ。

 使い手に合わない物を振るえば、細かいところでやはり不具合が出てくる。武具は自らの身体の延長であり、同化していなければならない。でなければ、彼ら〈八竜槍〉のようには戦えまい。

 

「では、戻るとしようか」

 

 帝が面紗を被りながら言うと、それが号令となったかのように扉が開き始めた。先にはガジンたちが跪いて待機している。二人は敷居を跨いで部屋から出る。扉が自動的に閉じ、暗い広大な空間に音を響かせた。

 音響が消え去り、帝は臣下たちを睥睨する。彼の眼に、つい先ほどまであった人間的な温かみのある光りは、一切残っていなかった。

 

「面をあげよ」

 

 ガジン達は言葉に顔をあげた。

 

「〈龍王槍〉はあるべき者の手へ還った」

 

 帝は、神が神託を下すように告げる。

 

「これは、かつての神話の再現である」

 

 冷たい声が広間にただ染み渡る。

 

「汝らは、神代において〈八竜槍〉の名で呼ばれていない。ゆえに、初代がそう呼んだように、余も今このときに限っては、呼び方を改めよう」

 

 槍を持つ者たちを見下ろし、冷厳なる神が如く帝は言った。

 

「勅命である。汝らのすべてをもってこの者、リュウモを守り、〈竜峰〉へ導け。槍に選ばれし勇士達――〈竜守ノ君〉よ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十八話 北へ、北へ

 告げられた事実に、心を揺り動かされる三人をリュウモは見る。

 全員が困惑と動揺を隠せないでいるが、帝の言葉におのれがすべきことを見出したようだった。

 

(そっか、この人達が、〈竜守ノ君〉だったんだ。だから八人、〈八竜槍〉……)

 

 リュウモを守るはずだった若者達の数も八人。〈竜槍〉を扱う者も八人。両者は本来同一の存在で、時間と国の事情が名を変えさせていたのだ。

 ――なら、おれは初めから守られていたんだ。〈竜守ノ君〉に。

 ガジンと出会ったことに、運命以上の、必然を感じずにはいられなかった。

 

「御下命、承りました。この者を、我らの身命を賭して守り抜きます。では、これより北へ」

 

 ロウハが代表して言った。

 

「リュウモ、その前に必要な物があろう。――ゼツ」

 

 す……っと、音もなく黒色の中からゼツがあらわれた。いつから待機していたのか、手には荷物が握られている。

 

「これが必要であろう。持って行くがいい」

「おれの、旅袋……ずっと探してくれてたんですか? ありがとう」

 

 リュウモはゼツに頭を下げた。敵対し、一度は本気で戦った男は、感情の無い顔で軽く会釈をする。

 

「ゼツ……? そうか、お前は帝の命で動いていたか。やはり、あのとき隊の料理に毒を盛ったのはお前だったのだな」

「いつ、お気づきに?」

 

 ゼツが微かに驚きを顔に出してガジンに問う。

 

「疑っていたのは、最初からだ。お前が入隊してきたとき、北の村出身だと言ったが、あの村の者は『气』を色で見分ける異能があった」

「調査ではそのような事実はなかったのですが」

「当たり前のことすぎて、いちいち口にするまでもなかったということだ。私が自分の頑強さを吹聴したか?」

 

 そういえば、ジョウハが言っていたことをリュウモは思い出す。

 自分達の力は異能でもなんでもない、皇都にはもっとすごいのがいる。そう言って特に自らの能力を誇示などしていなかった。

 彼らにとっては感覚のひとつであり、あって当たり前で口にするほどではなかったのだ。

 

「なるほど、今後の参考にさせていただきます」

 

 ゼツは帝の背後に控えた。自分に背を任せている時点で、帝がゼツに寄せている信頼の大きさが見て取れる。

 

「地脈移動を使用し、汝らを北の〈竜域〉の入り口まで運ぶ。〈鎮守ノ司〉、〈星視ノ司〉、準備をせよ」

 

 二人はうなずいて移動する。全員が彼女達の後ろへ付いて行く。

 照らされていない部分は自分の手がぎりぎり見えるかどうかの闇の濃さである。

 はぐれたら白骨になるまでさ迷い歩く羽目になるだろう。

 胃が外側から圧迫されるような感じがして、リュウモはちょっとだけ怖かった。

 すると、いきなり〈龍王槍〉が光り輝き、十間程度の距離を照らした。

 

「あ、ありがとう」

 

 魂が残っているとはいえ、ここまで使い手の意向を反映する武具を、リュウモは知らない。

 世の中は、わからない、知らないことだらけである。

 

「まるで忠犬ね」「瘴气を出し続けていた暴れん坊とは思えない」

 

 腹を深く突き刺すように、老婆達は毒を吐いた。

 敬うべき相手にこの言い様である。封印の維持には相当な労力を割いていたであろうことは、二人の言動から容易に想像がついた。

 それが自分達より下、どころか孫ぐらいの小僧がやって来た瞬間、掌を返したのだ。

 皮肉のひとつでも言ってやりたくなるのが人情というものだろう。

 

「で、まーたこれかよ。お二方、こいつはもっと安全かつ気の利いた移動ができんのですか。着地にあんだけ難があると恐ろしいんで、なんとかして欲しいんですがね」

 

 照らされた地脈移動のための溝を、ロウハが呻くように言って睨みつけた。

 リュウモも彼の意見に大いに賛成だった。

 お世辞を五重にしようとも、地脈移動は気持ち悪い。平衡感覚がおかしくなるし、凄まじい衝撃が襲ってくるのだ。命に別状はないにしても、できれば遠慮したい代物である。

 

「あら、怖いだなんて心にもないことを」「この程度、〈八竜槍〉なら耐えて当然ではなくて?」

「はは、蹴り落として同じ目に遭わせてやろうか、この婆共」

 

 暗に軟弱物と言われた中年(若者)が、高齢者(年上)に文句をつける。

 

「北の地脈は不安定。ここのように施設もない」「でも、大丈夫よね。若いんだから」

 

 婆となじられて二人は温厚そうな笑みで、若者と、強調する。リュウモは知っている。あれは、言い返せない事実(年齢)を突かれて内心に怒りを抱えている者の笑顔だ。

 ――絶対そうだ。村長の奥さんと同じ感じがするぞこの二人……!

 

「汝ら、じゃれ合いはそこまでにせよ。〈星視ノ司〉、荷を皆に渡せ」

「枯れ木とじゃれあいなぞしておりませんよ。頼まれたって願い下げ……ぶ!?」

 

 完璧な不意打ちだった。暗闇の中から旅袋が飛来し、ロウハの後頭部に直撃したのである。

 他の二人は、丁寧に胸元にふよふよと宙を浮いてゆっくりとやって来た。

 丈夫な作りの袋だった。術が掛けられているのか、明らかに普通の物ではない。

 

「これは、袋の位置が大まかにわかるもの」「貴方達が他の誰かに邪魔されていないか、確認もできるのよ」

 

 仕掛けられている『气』の流れから、リュウモは構成を読み取る。隠蔽の術がなければ、術自体を解析するのは可能だ。

 

「へえ……一回地上に還る『气』に術で目印をつけて、空に直で送るんだ。それで、空に昇った『气』を視て大体の位置を測るのか。術が壊れないなら、ずっと『竜』を追えるかも」

 

 高度な〈星視〉としての技術が必要だが、対象を捕捉するなら非常に有効な術だ。

 

「怖い、怖い坊や」「一度だってこの術を解析されたことはなかったのに」

 

 冷ややかな視線がリュウモの熱を奪った。

 増々、故郷の老婆を思い起こさせる。表面は明るく温かいのに、底ではすうっと、冷厳な理性と経験が冬の川のように流れているのだ。

 

「ん、あれ?」

 

 二人の『气』と同じものを右手に感知できた。極わずかな、本人達が目の前にいないとわからない微量。だが確かに感じる。

 

 

「汝の手には二人が技術の粋をつぎ込んだ術が掛けられている」

「そうか……牢屋で結界がおれだけに反応していたのは、そのせいだったんだ。じゃあ、逃げてるとき、居場所はずっとばれていた?」

「そこまで万能ではない。『气』が天に昇るにはそれなりに時間が必要だ。相手の現在位置を時間のずれなしに確認できるわけではなく、あくまで数刻前にいた場所しかわからぬ。もっとも、それだけで十分に破格な性能ではあるが」

「それともうひとつ。これは最近判明したのですが」「〈竜域〉にいると術が上手く作用せず、位置がはっきりとわかりませんわ」

 

 〈竜气〉のせいだろうな、とリュウモは不具合の原因に見当をつけた。〈竜域〉で使用するには多少の改良が必要のようだ。

 

「汝ら全員が〈竜域〉より帰還次第、勅命は完了とする。誰ひとりとして命を落とすことを許さぬ。必ず生還せよ」

 

 旅立つ全員がうなずいた。リュウモは溝の縁に立つ。幾筋の光線が流れている。

 

「それじゃあ、行ってきます」

 

 飛び降りる。光流の川はすぐにリュウモの体を皇都から押し流して行った。

 

 

 

「結局こうなるのかぁぁぁァァ!」

 

 物凄い勢いで空へ打ち上げられた。羽毛の如く飛ばされたリュウモは叫ぶことでしか、荒っぽい移動手段に対する不満を散らす方法がなかった。

 当然、重力によって落下が始まる。着地体勢を取ろうとして、ふわっと体に掛かる力が消えた。

 

「動かず、大人しくしていなさい」

 

 空気を裂く騒音の中、鈴の音のように透き通った声が聞こえた。

 着地場所には木々が覆い茂っている。このままでは太い枝に激突する。

 

「っし!」

 

 そんなリュウモの心配を吹き飛ばすように、イスズは宙で槍を一閃した。

 縦に放たれた空気の刃が枝を両断する。高度な『气』と体操作から繰り出された芸術と言えるほどの一撃だった。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 落ちる最中、礼を言った。イスズはなにも言わず、落下点を見ている。

 ずん、という重々しい音とは裏腹に、リュウモへの衝撃はほとんどなかった。

 ぱち、ぱち、と拍手の音がする。

 

「お見事。さすがガジンの直弟子なだけはある。だがな、下にいる奴のことを考えろよ。ちょっと危なかったじゃねーか」

「あれぐらいで怪我するなら、私達は〈八竜槍〉になどならんだろうさ」

 

 大分、高いところまで飛ばされたはずだが、二人はぴんぴんしていた。リュウモは改めて〈八竜槍〉の凄まじい人外ぶりと、頼もしさを感じた。

 

「リュウモ、ここはシキが言っていた双子山、〈竜域〉の入り口だろうか」

「はい、そうだと思います。上で西側に同じような山が見えたから」

 

 リュウモがいる場所は、東側の山の頂上だった。シキが言っていた通りならば、一度下山して山間の道を北上しなければならない。

 

「こっちが東だって根拠はあんのか坊主」

「太陽がありました。なら、反対方向は西のはずです」

 

 へえ、とロウハが感心してリュウモを観察するように視線を飛ばす。

 

「ロウハ、いちいち試す真似はするな。すまんなリュウモ、こんな男なのだ。気に障っても無視しておけ」

 

 ガジンの言い方がいつもより一層遠慮がない。リュウモはどう返したものか判断がつかず、助けを求めるためにイスズの方を向いたが、彼女も同じだったらしく口を開けないでいる。

 

「っは、ろくでもない言われ方だなおい。で、どうするよ、お騒がせ者二名の意見を聞きたいね」

「お前、まだ負けたの根に持ってるな?」

「別に、全然、まったく、これっぽっちも」

 

 今にも槍を突き付け合いそうな二人に、おろおろとしながらリュウモはイスズに目で助けを請う。どうにかしてくれと視線で意志を届ける。

 

「ロウハ様は、槍の競い合いに関しては非常に気にされる御方なのです。大丈夫、すこし経てば口喧嘩も収まりますよ」

「聞こえてるぞイスズ。槍士が勝敗を気にしないでどうすんだ。まして同格の相手に」

「気にするな。正式な試合でもあるまいに。行くぞ、まずは山を下りよう。リュウモ、それでいいな」

 

 リュウモはうなずき、同意する。

 

「私が先頭にロウハは後ろに続け。イスズ、最後尾は任せた。――行くぞ」

 

 流れるように隊列が組まれ、ロウハとイスズに挟まれる形でリュウモは山を下る。

 入り口というだけあって、周囲にある植物の大きさや種類は外にある物のままだ。

 それでも、懐かしい空気が山の谷間から吹いてくる。

 ガジンと共に足を踏み入れた小さい〈竜域〉の気配ではない。人を寄せ付けない、本来なら侵入すら無理な、広大で無慈悲な自然の世界が迫って来ている。

 気が引き締まるのと同じくらい、心地良さがあった。故郷に近い匂いがするからだろうか。

 

「……一度、〈竜域〉には入ったが、ここは桁違いだ。まだ入り口でこれか。肌が、誰かに押されているような」

「あんまり気分がいいところじゃないな。やれやれ、野宿の寝心地は悪そうだ」

「そうですか? わたくしはなにも。むしろすこし体が軽いような」

 

 リュウモはイスズに振り向くと、彼女の変化に気づいた。

 

「イスズさん、瞳が……〈竜化〉してます」

 

 そんなはずはない、と言わんばかりに、イスズは手の甲で目を軽く擦る。

 

「こりゃ、どういうこった」

「ここに流れて来る〈竜气〉のせいか?」

「馬鹿言え、じゃあなんで俺らは平気なんだ」

「イスズは私達より〈竜槍〉との適合率が高い、そのせいかもしれん。濃い〈竜气〉に槍が影響を受けて活性化している、とも考えられる」

「御心配には及びません。体に異常はありませんから。急ぎましょう、遅れが出た分だけ、民の苦しみが増します」

 

 一行は獣道と戦いながら下山を始める。リュウモは悪路もなんのそのと、軽快な足取りで歩いて行く。

 ガジンも同様で、北の田舎出身の彼は、人の手が届いていない道に慣れている。

 ロウハは面倒臭そうに低木の枝を掻き分け、後ろにいるイスズは「ひゃ」とか「ふぃ」とか、偶に変な声をあげていた。こういった道には不慣れらしい。

 

「頼りになる〈竜守ノ君〉だなおい。名家のお嬢様には辛いか」

「そ、そのようなことはありません。訓練を、こういう状況を想定した訓練をしていませんから、すこし、戸惑って、ひゃ?!」

 

 首元に木葉が当たって、イスズは情けない声をあげた。悪戦苦闘する彼女を、置いていかれないように歩調を緩めながらリュウモは進む。護衛対象が遅くなれば自然と進行速度も遅くなる。

 

「北へ、北へ、か。こんなん、目印が無くてもわかるぞ。〈竜气〉が吹きつけてくる方向に行きゃいいんだろ」

 

 山を下り切り、視界が大きく開けた平地で、ロウハは北を睨む。

 平地は左右に双子山があり、挟まれる形の立地だった。山から流れて来る小川と、周囲には美しい色とりどりの花々が咲いている。

 春先に羽化した蝶が蜜を吸いに飛び交っていた。

 人間が思い描く穏やかな春という幻想を切り取って現実に貼り付けたかのような光景である。リュウモは懐かしさを味わうように思い切り息を吸い込む。

 夢のような場所。この空気をリュウモは知っている。

 

「なんだ、懐かしそうな顔しやがって。故郷に帰ったガジンじゃあるまいし」

「変な言いがかりはよせ。どうした、リュウモ」

「とても久しぶりな気がして……こういうところは、知り尽くしてるはずなのに」

 

 〈竜域〉に限りなく近く、生まれ育った地に似ていた。リュウモはもう帰れなくなった茅葺屋根の家を思い出さずにはいられなかった。

 

「知り尽くしてる、ね。まあ問題が無いならなんでもいい。そろそろ日が落ちるな」

「今日はここで休もう。一度、しっかり体を休ませてから〈竜域〉へ侵入するぞ」

 

 結論が出ると、二人は早速野宿の準備に取り掛かった。みるみる内に天幕ができ、小さな宿が作成される。

 

「て、手伝わなくていいんでしょうか」

「子供が気を使わなくていいんですよ。じっとして体力の回復に努めなさい。これからが、正念場になるのですから」

「はい……。イスズさんは、あの、手伝わないんですか?」

「――――わたくしがやっても、邪魔になるだけです」

 

 野宿全般に必要は知識と経験をイスズは持ち合わせていないようだ。

 皇都で育ち、名家の生まれである生粋のお嬢様である彼女に、むしろ野宿のじゅんびをさせようとすること自体が誤りである。

 ――苦手なこととか、誰にだってあるよな。

 リュウモはそれ以上なにも言わず、ぼうっと濃い影を作り出し始めている世界を見つめていた。

 

 パチ、パチと焚火が燃える小気味いい音が、満点の夜空の下に響いては消える。

 川で獲った魚が焼けたのを確認すると、リュウモは串を地面から引き抜いて塩を振り、皆に配った。

 結局、なにかしていないと落ち着かなかったリュウモは、近くの川で魚を確保。食料を調達したのだった。

 

「ほう、こいつは良い焼き加減だ」

「リュウモの料理は美味いぞ。私が保障する」

 

 男二人は遠慮なくかぶりつき。舌鼓を打っている。一方、イスズだけが串と睨み合いを続けていた。口に運ぼうとしては止める、を繰り返している。

 

「もしかして、魚は嫌いでした?」

 

 だとしたら悪いことをしてしまった。好みを聞かずに食材を集めてしまったリュウモの落ち度だ。

 

「気にすんな。初めてこんな食い方をすっから尻込みしてるだけだ。お嬢様はもっとお上品なもんを食うからな」

「イスズ、折角リュウモが内蔵の処理からなにまでしてくれたのだ。食べないのは無しだぞ」

「わ、わかっています……わかっていますとも……!」

 

 数瞬、迷ったあとに頭を丸かじりする勢いで魚の身に食らいついた。

 数回、恐る恐る咀嚼すると、それから無心で食べ始めた。

 

(お腹、減ってたんだな)

 

 腹の虫を必死に抑えていたのかもしれない。

 

「あー、坊主。こんなんだが、知っての通り腕前は超一流だ。実力は申し分ない」

「弁護させてもらうとな、イスズは〈八竜槍〉になってから日が浅い。諸々必要な訓練を受けていないのだ」

 

 と、同僚二人が後輩について説明する。

 

「こいつ、女だろ? つまりそういうことだ」

「は、はあ……どういうことです?」

 

 きっと表立って口にできないのだろうが、ロウハの言葉の真意をリュウモが汲み取れるはずがない。首をかしげるしか反応のしようがなかった。

 

「〈八竜槍〉は歴代で誰ひとりとして女性はいなかったのですよ。だからというわけではないのですが、女の槍士は軽視される傾向があるのです」

 

 もう一本を胃袋に納めたイスズが、鋭い調子で言った。

 

「変なの。その人しかできないなら、任せて手を貸せばいいのに」

 

 村でも女性の戦士はいたし、村長の妻は術を使えば誰も勝てなかった。

 性別でなにかを区別することはすくなかったように思える。

 その者でしか実行が不可能なら、子供であろうと役目を負う。それが村での普通だった。

 

「まあ、なんだ……本人の前で言うことじゃないが、イスズ、怒るなよ? 嫉妬があったのさ。槍士の男共は特にな」

 

 イスズの柳眉が不快感を示すように跳ね上がる。

 

「わたくしの稽古相手を彼らがしなかったのは、そんなくだらない感情からですか。国の重責を負う人間を決める義でやることではないでしょう。〈抜槍ノ義〉に至る資格がなかったのも納得です」

 

 と、話についていけないリュウモは、事情の説明を求めようとガジンに目を向ける。

 

「お前のような例外を除けば、〈竜槍〉を抜く資格を得るには、槍術を教える武館に入門し、師範から推薦を受けなければならん。受けられるのは一門につきひとりだけだ。熾烈な争いを勝ち上がると、今度は宮に各武館から推薦を受けた者を集め、稽古と試合を行う」

「そんで、成績上位陣だけが〈抜槍ノ義〉に挑めるわけだ。が、推薦は師範以外に現役の〈八竜槍〉からも貰える。で、こいつがイスズを推薦した」

 

 リュウモが例外ならば、イスズは異例の形で〈竜槍〉に挑んだ、とガジンが付け加える。

 

「試合は全戦全勝。男共は手も足も出ずにぼこぼこにされたってな。情けねえと言いたいが、イスズ相手じゃしょーがない」

「まあ、『外様』の私が推薦した者が〈八竜槍〉になっただけでなく女性ではな……。宮廷は大騒ぎになり、結局は帝の一言で決まった。ただ、騒ぎが収まるまで必要な訓練を受けさせられなかったのだ」

 

 リュウモは〈龍王槍〉の表面を撫でた。これを手にするために人生の多くを掛けてなお、敗れた者達がいる。彼らの努力を、踏みにじってしまった気がした。

 

「どのような事情があれ、槍を手に向かい合えば対等。生まれ、性別、家格は関係がありません。負けた後に家柄だの女だったから打ち込めなかっただの、女々しいとは思いませんか、お二方」

 

 容赦のない言い様であった。男二人は苦笑する。

 

「違いない。だがな、人間そう簡単に割り切れるのは少数だ。腕っぷしがあろうと妬まれているのは自覚しろ」

「お前は槍を使い始めて三年とすこしだが、彼らはその倍以上の時を費やした。ちょっとぐらいの嫉み程度、笑って流してやれ」

「……肝に銘じます」

 

 〈竜槍〉を扱う者としての会話が終わると、リュウモあちは天幕の中で横になった。

 リュウモは置かれている〈龍王槍〉を見つめる。

 

(おれは、お前の使い手として相応しいのかな……)

 

 槍は黙止、静寂の中でリュウモの意識は闇に溶けて行った。

 

 朝になり、準備を整えて出発しようとしたとき、リュウモはそれを見つけた。

 

「森鹿だ……すごい、立派だ」

 

 平地から奥地へ続く山間の道の入り口に、一匹の森鹿が堂々たる威容をもって佇んでいた。巨大な両角は遠目からでも迫力を感じさせる。

 

「シキが言っていた鹿――〈竜域〉内の案内人か」

 

 全員が覚悟を決め、奥へ、北へと導こうとする森鹿の元へ進んだ。

 森鹿は、四人が五間の距離まで近寄ると、誘うように背を向けてゆっくりと歩き出した。

 

「やれやれ、護衛対象が一匹増えたな」

 

 嘆くように言ったロウハの声は、無限にあるような自然の前に響いて溶けた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十九話 竜域進行

 〈竜域〉に入った。肌や『气』だけではない。周囲の植物が明らかに変化している。

 巨大な木々や植物は圧力を感じさせようとしているわけではない。ただそこに在るだけだ。人間を害しようとはしていない。

 であるのに、大蛇の腹の中で圧殺されるような締め付けが、体を芯から竦ませようとしてくる。

 

(人の世では無き地。元より住むことすら許されない隔離された世界。ここが、〈竜域〉)

 

 イスズは、なにもかもが雄大な〈竜域〉を目にしながら、感動を覚えていた。心が畏れを抱きながら、体の調子が限りなくよいお陰で、精神が無駄に高揚しているせいもある。

 だが、それ以上に興奮が抑えられない。

 学問に携わる者なら、一度は『竜』について調べたいと切望する。禁忌指定されていなければ即調査に行く研究者もいるだろう。

 途中で諦めたとはいえ、イスズも学士の端くれだ。血が騒がないはずがない。

 『竜』に魅入られた人間は、二度と俗世には帰れない、という学士の間で有名な格言がある。その格言の真偽は、シキが証明している。

 理性を焼き斬ろうとする焦がれる知識欲が、イスズの内で渦巻いていた。。

 

「おい、イスズ。あんまりキョロキョロ視線を飛ばすな、集中しろ。ここは〈竜域〉だぞ死にたいのか」

 

 叱責が、イスズを正気に戻す。

 

「申し訳ございません、気を引き締めます」

 

 馬鹿な欲に駆られ、役目を疎かにしてしまっていたことに、イスズはおのれを省みる。

 これでは自分が愚か、と言ったシキとなんら変わらない。

 血に抗うなど、並大抵の精神ではできぬ。

 幼い頃、苦笑しながら言っていた祖父の言葉が脳裏をよぎった。心を落ち着かせ、高ぶる欲を制御しようと、大きな深呼吸をして――リュウモが立ち止まった。

 

「止まって下さい」

 

 静かな声には、子供とは思えない力があった。特定分野の専門家の発する、経験と知恵からくる冷静さを、少年の声は含んでいる。

 

「なんだあ、鹿も止まりやがったぞ」

「地面を掘り返しているが、リュウモ、これはなにをしているのだ?」

「土の中にある、木の根っこを食べているんです」

 

 緊張に穴が空いて、イスズの体から力が抜ける。

 

「こ、こいつ、人の気持ちも知らねえで悠々と……つか、なんの根を食ってんだ?」

 

 悪態をつきながら、ロウハは森鹿の傍によって観察しようとした。ロウハの腕を、慌ててリュウモが掴んだ。彼は訝しげにリュウモに振り向く。

 リュウモは進行方向にある、巨大な樹木を指さす。イスズは、彼の指先にあるものを認識すると、口に力が入った。

 骨だ。小型、中型動物の白骨が、巨木の根本に転がっている。中には、まだ肉が骨に張り付いている物まである。

 

「竜喰い樹。『竜』を喰う樹です。人にも反応するから、近づいちゃ駄目です」

「おいおい、樹がどうやって『竜』を喰うんだよ」

 

 リュウモは石ころを拾うと、樹の根本に投げる。すると……まるで蛸の足のように、太い根っこがうねうねと動いた。数秒経過した後、根は元に戻る。

 

「根の力は、小型の『竜』なら簡単に絞め殺せます。絡めとられたら、逃げるのは難しい」

「なんとまあ、恐ろしい樹木だな。切り倒すか、進むのに邪魔だ」

「駄目です、ガジンさん。周りを見て下さい」

 

 ガジンより早く、イスズは辺りを見回した。だが、植物にそこまで詳しくないせいで、違いや危険性のある物は見分けられなかった。

 

「竜喰い樹は、捕食した『竜』の栄養の一部を、地面に流して他の植物を育てるんです。切ってしまったら、均衡が崩れてしまう」

 

 イスズは、少年の知恵に感心すると同時に、親近感のようなものを覚えた。彼の知識は、禁忌という点を除けば、学問のようだったからだ。

 物事の関連性と与え合う影響を分析し、分解、理解に至ろうとする。まるで、最先端の技術者のようでもある。

 

「樹の周りにある植物を食べようと『竜』は来るけど、樹には近づかない。そうなると、他の動物は安全に食べ物にありつける。でも」

 

 リュウモは、地面を掘って根を頬張る森鹿を見る。

 

「竜喰い樹は、偶に眠ったように動きが鈍くなるときがある。それを狙って『竜』は狙いを定めて獲物に襲い掛かる」

「はーん、上手いこと周り巡るようにできているわけか。下手に刺激すんのは危ないらしいぜ、ガジン」

「わかったわかった。だがリュウモ、樹の動きが鈍っているなら『竜』が近くにいるのではないか?」

「森鹿は肉食の『竜』の気配に敏感です。近くにいたらすぐ逃げますよ」

 

 また森鹿が動く。腹を満たして気分が良いのか、心なしか歩調がゆっくりだ。

 周囲に気を配りながら進むと、景色が徐々に変わる。鬱蒼として光が葉や枝に遮られていた状態から、頭上に陽が降り注いでいる。

 

「これは、また……凄まじいですね」

 

 適切な言葉が見つからず、イスズは至極単純な感想しか言えなかった。

 樹木だ。幹の周囲が一軒家を越えている巨木が、尖塔のようにそびえ立っている。それらは見渡す限りに点在し、視界を茶に染め上げている。

 先程まで、頬や首筋に纏わりついてきた覆い茂っていた葉が嘘のような光景だ。

 

「おいおいおい、『竜』が大量にいるが大丈夫なのかこれ……!?」

 

 木々の根や水場に百を超える『竜』が当たり前のように闊歩していた。外見だけで判別すると、三種類の『竜』がいる。

 

「全部、大人しいので危険はないし、触っても平気なのもいます。根本と洞にいる子供に手を出さなければ」

 

 リュウモが指差した方に、『竜』赤子が顔を出していた。初めて見る相手に好奇心が刺激されたのかもしれない。

 

「坊主、一応聞いとくが、手を出したら?」

「群れが一斉に襲い掛かってきてぼこぼこにされますよ。噛み砕かれるか、尻尾で吹き飛ばされるか、一本角で刺し殺されるかです」

 

 イスズは『竜』の目が常に自分達へ向いていることに気づく。彼らは初見の相手を見定めている。味方か、敵か。無害か、有害か。樹木の間に引き絞られる弦のような緊張感が漂っていた。

 

「了解、さっさと抜けちまおう。おら、鹿さんよ、きりきり案内しろや」

 

 せせら笑うように、はんっと鼻を鳴らす。森鹿は歩いた分の栄養を補給するように草を食べる。進行は停止だ。

 

「なあ、坊主。こいつの尻、引っ叩いてもいいか」

「止めた方が……森鹿の蹴りは、小型の『竜』なら一発で殺してしまうぐらい力があるので……」

「それはまた恐ろしいですね。〈竜域〉の生物は、皆こうなのですか?」

「はい。熊とかもいますけど、外よりずっと強いです」

「〈竜气〉は人体に影響を与える、か」

 

 イスズは自分の長い長髪の一房に触れる。緑色に変色している髪は、〈竜气〉を行ったときにこうなった。〈竜槍〉との相性がよいのは喜ばしいのだが、適合率があまりに高いと、槍に食われる。皇国の歴史上〈竜槍〉に食われた者は何人か存在する。

 そのため、イスズは帝から〈竜化〉を無暗に使用しないよう注意を受けていた。

 

「もしかして、〈竜槍〉の力が、髪の色を変えたんですか?」

「ええ、皆は、わたくしが槍に食われるのではと案じていましたが、むしろ調子はよいくらいなのです。以前に〈竜化〉しましたが、肉体に変調があったわけでもないですね」

 

 〈竜槍〉に食われた者は、魂が欠落した痛みに悩まされ続けたという。イスズはそのような激痛があるわけでもなく、至って普通に生活を送れている。

 

「多分、〈竜气〉に体が適応したんじゃないかと。すごいですよ、おれ達の先祖は、最初は大変だったのに」

「わたくしの肉体は、貴方達に近しくなっている……?」

 

 リュウモはうなずいた。イスズは自分の白い手を握る。常人となんら変わらない掌。しかし、かけ離れた一撃を繰り出すことのできる手。

 シスイ家は、生来から環境に対する適応能力が高い一族だ。生まれてくる者が例外なく卓越した頭脳を持ち得ているのも、長年研究にすべてを費やしてきたからである。

 百を優に超える時、一族は道を決め選んできた。それは少年の一族も同じだ。

 

(わたくしの体、どのような仕組みになっているのか、解明してみたいものです)

 

 できるわけがないことは理解している。だが、数百の時間を飛び越える身体の構造は如何ほどのものか。人体の神秘、それを暴いてみたい。

 白と黒が混じった欲望が再び噴出しかける。

 ――嫌になりますね、性というものは。

 

「げ、このクソ鹿、腹一杯にしやがったら横になったぞ。まいったね、こんなところで止まらなきゃならんのかい」

「ここに来てから、神経がすり減りっぱなしだ……」

 

 『竜』の群れに囲まれている現状は、男二人には堪えるようであった。

 

(あ、ああ、嗚呼……! 一本角の『竜』あれは攻撃のみに使うのでしょうかいや鹿などは角をぶつけ合って牝を取り合うので求愛の際に争いにも用いられる!? あちらの亀が巨大化したような種は一体なんでしょう尻尾の先が円形になっているのは振り回して外敵を追い払うため!? な、なんでしょうあの鷲よりも大きく色鮮やかな羽を持つ鳥は派手すぎると天敵に発見されてしまうのでは!? 地、地鳴り、……!? な、なんと巨大な体躯! 二本の角に甲殻に長い尾……群れではなく単一で行動していますが個体数がすくないのでしょうああ! まとめる情報が多すぎる頭が割れてしまいそう!)

「あ、双角だ。珍しいな、草食性の群れにはあんまり来ないのに」

「待て、リュウモ、これは平気なのか高さが三階建てぐらいあるが……!?」

「なにもしなければ平気です。大人しい『竜』だから」

 

 根を椅子代わりにしていたリュウモが、双角を見もしないで呑気に言う。接近してきているのに、彼は立って近くにある湧き水で喉を潤す始末である。

 イスズは実感する。目の前にいる少年は、やはり、紛れもなく『竜』を知る者、〈竜守ノ民〉なのだと。『竜』が自分達を傷つけようとしていないことを、信頼などという甘い幻想に縋ったものではなく、蓄えられてきた事実から算出しているだけなのだ。だから、恐れる必要もない。

 

「なんという、立派な二本角……四足歩行に加えて狼のように鋭い目つき、肉食性に見えますが口と牙の形状から草食性でしょうか、口先が鳥類のようですから草や葉が主食……? 見てください後頭部から尾の先までびっしりと生えている鱗をあれで背を守っているのですね一部は甲殻のようになっている素晴らしいああ触れてみたい……!」

「おい、ガジン、イスズが狂い出したぞ叩きゃ直るか」

「ああいや、うん……こうなるときがある。放っておけ、直に収まる」

 

 諦観を含んだガジンの乾いた声だった。

 ロウハは深々と、森の地面に染みつくようなため息を吐く。彼は、一応護衛対象の近くに寄った。

 

「坊主、どんどん近寄って来てるがありゃ、いいのか」

「うーん……気性は大人しくて争いを好まないから、見たことない相手に近付くのは稀なんだけどなあ。〈禍ツ气〉もないしなにが原因――あ」

 

 リュウモは手に在る〈龍王槍〉に目を向けた後に、順々に〈竜槍〉を見た。

 

「こいつのせいってわけかい。だがどうして」

「自分の縄張りに、他の『竜』が侵入して来たって考えているのかもしれないです。〈竜槍〉の『气』が引き寄せてしまった、のかも」

 

 イスズは双角の前に立ち塞がろうとする。リュウモの話の通りなら、双角は侵入者を排除しに来た可能性がある。『竜』の存在感は圧巻ではあるが、勝ち目はあると勘がささやいている。

 

「大丈夫、戦いにきたわけじゃない、確認しに来ているだけ。通してください、おれなら平気ですから」

 

 リュウモは恐怖を抱いていない。彼の言葉を信じ、イスズは道を開ける。横を、木の幹よりも太い足が通り過ぎていく。

 人間より遥かな生命力漲る者が地鳴りと風を発生させる。振動は経験したことのない種類の揺れだった。

 双角は、リュウモの顔を覗き込む。青い瞳同士がお互いを見つめ合う。

 意思の疎通が言語を介さずに行われているのか、イスズにはわからなかった。

 だが、一人と一匹はおのれの意思を伝え合ったのか、危害を加える気がないと両者が分かり合ったようで、双角はリュウモの近くに横たわった。

 その行為に、一体なんの意味があるのか考察を重ねていたイスズであったが、結局はわからず終いであった。リュウモが大丈夫です、と言うと大人三人は彼の元に集まった。

 

「リュウモ、これはなぜ我らの元にやって来た? 襲いに来たわけではないのだろう」

「他の双角がいちいち確認しに来なくてもいいように、ここに居座ってるのかも……」

「他の? ではこの種は群れを形成して活動しているのですか?」

「ああいえ、そういうわけではなくて……。縄張りごとにヌシがいて、他の双角はヌシを中心として固有の、自分達の縄張りを持ってるんです。人でいう、親と子、みたいな」

「一頭の主を中心とした社会を築いている? 素晴らしいっ、『竜』とは我々の予想を遥かに超える知性を持っているのですね、つまり、この個体はヌシであると」

「は、はい、体つき、角を見ても、間違いないと思います」

 

 興味深い。意思疎通はどうしている。声を使っていないようだが、『气』を感じ取って互いの位置を把握しているのか。謎は深まるばかりで質問が連鎖的に増えていく。

 

「ガジン、研究者ってのは頭がトンでんのが共通事項なのか」

「頭のよい大馬鹿、愚者というのを、私達はよく知っているだろう?」

 

 明晰な頭脳の持ち主を前に、言いたい放題である。二人は『竜』を任務をこなすうえで霜害のひとつとしか思っていない。これほど腹立たしいことは、イスズにはなかったが言っても仕方がない。

 『竜』について、その深淵を覗き込みたいと思う人間は、研究者でもごく一部に限られる。共感を得られるはずがない。

 

「そもそも、オメーはなんで槍を始めたんだ。んなに『竜』を知りたきゃ帝に許可を貰えばよかったじゃねーか」

 

 うっと、イスズは言葉に詰まる。

 国の学士として役に立とうとしていた道を半ばにして諦めたのだ。『竜』への探求も、本来は妹のチィエがすべきことである。未練だ、とイスズは自嘲しそうになる。

 

「イスズに妹がいるのは知っているな。帝の話に出て来た子だ」

「ああ、鬼才だと帝が言ってたな、それがどうした」

「帝の評価は決して過大なものではない。解決法が見つからずとも、あの子は帝と同じ結論に達していたのだから」

 

 シスイ家の血が凝固して結晶化したような存在、それがイスズの妹だった。わずか十一で学術院に席を置いている時点で、その才は推して知るべしである。

 

「正直、まったくこれっぽっちも理解できないが、イスズ曰く、自分は頭の出来がよくないらしい。試験で二位、四位辺りを彷徨っていただけでな」

「おい、なんだそりゃ、国の最高位の試験を受けれてるのにそりゃねーだろ。だったら、あれか、俺らは猿以下か」

「さてな。優れすぎた妹がいたせいで、色々といっぱいいっぱいだった。で、気晴らしに近くの小さな道場で槍を始めたら、まあ、ご覧の通りだ」

「ははあん、わかったぞ、イスズ。さてはお前、面倒臭い女だな?」

 

 怠そうな顔で、地味な侮蔑を放つロウハである。イスズは憤慨した。

 

「だ、誰が面倒臭いですか! いくら貴方様であっても言ってよいことと悪いことがありますよ!?」

 

 男女に上下はないと定義しているイスズにも看過できない一線くらいはある。

 うるさい、とでも言いたいのか、双角がわざとらしく鼻息を吹きかけた。それで止まる〈八竜槍〉ではなかったが。

 

「お前、完璧を求めすぎなんだよ。だから変なところでおかしくなるんだ、一と十で物事を判断しすぎなんだ。坊主のときなんかがいい例だったぞ。やるときゃとことんまで冷徹だってのに、相手に事情があると知った途端に甘くなる」

 

 反論の余地はない。心当たりがありすぎて口を開く余裕すらなかった。

 

「大体、昨日稽古相手にくだらないだどうだと言ってたがな、お前の方がよっぽどだ」

「なっ、そのようなことは決して!」

 

 さすがにこのような謂れの無い中傷には、イスズは声を荒げる。どんな言われ方をしようとも、手の豆が破れ出血してもなお汗を流して技術を高め続けたことに偽りはない。

 それをくだらない連中と一緒くたにされるどころか、以下だと断じられるのは我慢がならなかった。ロウハは眉間に皺を寄せる。

 

「お前の後ろで敗れ膝をついた奴らは、十年以上、ずっと槍を使い続けようやく資格を手にした。生活を賭けてたのもいんだろうよ。それを名家のお嬢様が、片手間に始めた稽古でずかずかとやって来たらいい顔なんぞできるわきゃねーだろうが」

 

 なるほど、一理ある。だが無意味だ。イスズは不快そうに柳眉を逆立てる。

 

「選定官であった槍士はわたくしにこう言いました。〈竜槍〉に挑む者は、皆等しく、身分は関係ないと。貴方様とて、口酸っぱく言われたはずですが?」

 

 例え、女だからと気を使われたとしても、稽古をまったくしない理由にはならない。

 国の重鎮を決める重要な義だ。そえに協力しないのでは、すなわち皇国への反逆と取られても仕方がなく、同情の余地はない。

 

「ああ、もう面倒くせえ……」

 

 どうしたものかと、ロウハが苛立たし気に頭を乱雑に掻いた。ガジンが聞き分けのない赤子に困ったときのように苦笑する。

 

「これが言いたいのはな、槍士の中にも多種多様な事情を抱える者もすくなくない。だからこそ、一方的に相手を非難するのは止せ、と言っているのだ。お前も、この件が終われば部隊を持ち、部下を率いる立場になる。そのときに和を乱し士気に関わる不用意な発言をしたくはなかろう」

 

 見かねて助け船を出したガジンの言葉に、すうっと、感情的になっていた頭の芯が冷える。ロウハは、〈八竜槍〉となって日の浅い新顔に心構えを説こうとしていたのだ。

 イスズは、おのれの浅慮さに恥じ入った。

 

「はい……ご忠言、有り難うございます、ロウハ様」

「気にするな、こいつはいつもわかり辛いのだ。もっと噛み砕いて教えればいいものを」

「おーおー、美しい師弟愛だこって。自分の頭で考えられない奴は等しく失敗する。新人に自分で反省と改善をさせるのは重要だぞ」

 

 と、男二人が軽口を叩き合う。新人教育に相違があるのか、若干熱くなって過去の話まで持ちだして罵り合いに発展しているのが、なんとも気を置ける友人らしいやり取りだった。

 

「つーか、一体男共になにされたんだよ。お前があそこまで食い下がるなんぞ珍しい」

「単純です。彼らはわたくしと一度も手合わせをしなかった。評価試合に至るまで、一度も」

 

 ロウハの顔に、怒りと不快が走って皺を作った。

 

「……当時の選定官には、どうやらキツイ灸をすえる必要がありそうじゃねえか。得心がいった、そこまで徹底されていたとはな。武館の奴らにも注意しておくか」

「っく……! お前も、なんだかんだと面倒見がいいな、昔から」

 

 遠回しな過保護さを、ガジンは笑う。口でなんと言おうと、ロウハは後輩に気を使っているのだ。

 

「うっせえ、お前こそ同じようなもんだろうが! 弟子のためだなんだと宮でこそこそ人員集めしやがって、俺の隊から腕っ扱きを引っこ抜いたのは貸しだからなっ」

「おまっ、黙ってると約束しただろう!」

「あの、ええと……?」

 

 口論となっている軸が見えてこない。それに〈八竜槍〉直属から槍士を引き抜くなど尋常ではない。ガジンは、悪戯を実行する前に見破られた悪童のようにばつが悪そうだった。

 

「まあ、なんだ、お前の部隊の人員だ。集めていたのはな」

「わたくしの、部隊……?」

 

 〈八竜槍〉は、各人が選りすぐりの槍士を部下とする。信頼のおける人間はなによりの宝だ。イスズはそういった者と、まったく縁がない。

 流星の如くあらわれた天才は、周囲の槍士と競い合う時間を共有できなかったのである。

 

「お前を推した手前、これぐらいは世話を焼いても罰は当たらんだろう」

「槍士を宮に集めて試合をすんのは〈八竜槍〉になった後、部下にするなり自分が信用できる関係を築くためでもあんだ。まあ、お前の場合は色々と前提と状況が特殊すぎて無理みたいだったが。でえ、そんな状況に放り込んだ張本人が弟子のために駆け回ってたわけよ」

「それは……大変、ご迷惑をお掛けしました」

 

 小さな道場で、小さな世界で腕を磨いていたイスズは、槍士の間にある口にする必要のない伝統、感覚がない。

 師に知らぬところで迷惑をかけていた事実に、イスズは畏まるばかりだった。

 

「ガジンの自業自得だ。気に病むこたぁない。――おい坊主。お前の将来のことでもあんだぞ、関係ないみたいな面してんな」

「え、お、おれ……?」

 

 魂を吸われたように双角を見つめていたリュウモが、突然話題に放り込まれて当惑していた。

 

「当たり前だ。これが終わったら〈八竜槍〉になんだぞ。拒否権はない」

 

 〈竜槍〉に見初められた者は、どんな者であろうと〈八竜槍〉とならなければならない。それはリュウモとて例外ではない。

 

「これから……――『使命』が、終わったら……」

「これから皇国で生きていくんだ。ちったあ将来を考えろ」

 

 想定どころか、思考の隅にすらなかったと、リュウモのぽかんとした顔が物語っていた。

 

「ありがとう、ございます、ちゃんと考えてみます……その、優しいんですね」

 

 な……! と、鼻っ面を叩かれたように、ロウハが顔を仰け反らせた。

 

「ああ、そうだとも。こいつは優しいのだ、リュウモ」

 

 二の句が継げなくなったロウハの代わりに、ガジンが誇らしげに言った。反比例するようにロウハの表情が不機嫌に染まる。

 

「なーにがやっさしいだ。俺は自分に火の粉が降りかかってくる前に手を打った。それだけだ」

「おれみたいない〈青眼〉の将来を心配してくれるのに?」

「うっせ、とにかく俺はお前が言うように優しくなんかねえ。百歩譲っても甘いだけだ」

「橋で、ご助言を頂きましたが、あれもわたくしを案じて……?」

 

 容赦も同情もするなと切りつけるように言い放ったロウハを、イスズは処刑人のように感じていたが、同僚の身を心配してのことだったとしたら……?

 

「認めぬと、苦しくなっていくだけだぞ」

「黙ってやがれクソッタレ!」

 

 図星のようである。情けと言わんばかりにイスズはそれ以上の追及を止めた。リュウモも同様である。

 

「やっとクソ鹿も動き出しやがったか、さっさと行くぞ」

 

 天からの助けがロウハを袋小路から救い出す。森鹿は、更なる奥地へと悠然と歩く。

 

「お口が悪いぞ、子供に移ったらどうする」

「やかましい、さっさと先導しろ」

 

 陣形を組み、再び前進する。樹木が立ち並ぶ空が覗く場所から、葉が覆い茂り陽の光を遮る地へと変わる。低木があるわけではなく、進行に支障はないのだが、とにかく薄暗い。とてもではないが日中とは思えなかった。

 

「肉食の『竜』がいるような地形を完璧に避けてる……なにかに、導かれてる?」

 

 小型の『竜』や動物の気配はするが、双角のように大型の『竜』はあらわれなかった。至極残念に思いながら、イスズは小さな背を追い続ける。

 

「ん、どうしたここが終点か」

 

 森鹿が止まる。その先には、まるで上から付け加えられたような傾斜になっていた。

 小山なのだろうが、山というには違和感があった。その正体がイスズには解明できなかった。

 

「あ、おい、どこ行きやがる!」

 

 夢から覚めたように森鹿はピョンっと跳ねて消えて行った。

 

「この先にいけってことなのかな……同じだ、あのときと」

「行くとしよう。この先に〈竜峰〉があるのならば、拍子抜けではあるがな。まだ一日と経っていない」

 

 体感ではあるが、入り口からそんなに離れていない。イスズはリュウモの様子を窺い、周囲の警戒に努めながら傾斜を登る。

 むわっとした空気が顎に当たる。じわり、じわりと汗が出る。さっきまで過ごしやすい気候が嘘のようだった。

 

「〈竜域〉とは、ここまで寒暖差があるものなのか」

「おい、〈竜域〉には入ったことあんだろ?」

「小さいものはな。規模が大きくなれば環境も変わる」

「――気をつけてください。こんなに気温が変わるところ、故郷にはありませんでした」

 

 完全な未知。少年の宣言にイスズは気を引き締める。

 上へと進んでいく。〈竜域〉の植生は外とは谷底のように隔たりがある。

 巨大樹が並んでいた景色が、半刻としない内に様変わりするのだ。

 小山には木がなく、草や苔などが生えている。動物も鳥類がいるのだが、他の種は気配さえしない。

 

(限りなく、生命はすくないはず。なのに、なぜこれほどまでに生気が充満しているのでしょう)

 

 湿度の高さが汗を吹き出させ、雫となり地面に落ちる。

 

「たく、なんだよこの妙な暑さ。人がぎゅうぎゅう詰めになってるせまっ苦しい通路みたいなのは」

「熱が下から来ています。地熱だとしても、ここまで熱いのはおかしいですが……」

 

 ここは〈竜域〉だ。摩訶不思議なことがあったとしても、そういう場所だと片付けられてしまう。

 

「もうちょっとで頂上です。気をつけて」

 

 地面の傾きが終わった先には――なにもなかった。

 左手側に切り立った高い段差があるだけで、変わり映えのない森の景色がどこまでも続いている。

 

「どうなってんだ?」

 

 ロウハの呟きは、この場にいる全員の代弁であった。

 

「……この、地面」

 

 リュウモがなにかを見つけたのか、足元の土を掘り返す。少年が、ぎょっと目を見開いた。

 

「――! ここを離れないと、急いで!」

「ああ? まて坊主説明を」

 

 大地が、激しく蠕動するように、揺れた。建物が軽く倒壊するほどの地震。

 イスズは体の均衡を崩し、近くにあった段差に手を付いた。

 

「それから離れて!」

 

 リュウモが叫ぶ。――ぎょろりと、段差の色が変わった。その色は、青。

 縦に細長い黒色の巨大な線が、イスズを捉えて離さないように動く。

 

「め、目玉かありゃ!?」

 

 跳び退き、イスズはリュウモを守るように彼の前に立つ。揺れで転ばないようにしっかりと腰を落とす。

 

「この、小山……『竜』です! でっかい『竜』がとぐろを巻いてるんです!」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十話 竜蛇の試練

 驚天動地と言うしかなかった。大地が――いや『竜』の体が動き出して世界を揺らす。久方ぶりに山の主が目を覚ましたのを察知した鳥達が一斉に飛び立って行く。

 ず、ず、ず、と地鳴りが継続的に耳を打ち、ぴたりと止む。

 巨大な衣擦れが止まれば、そこにいたのは一匹の『竜』だった。

 

「『竜蛇』……!」

 

 体躯は名称の通り蛇のようだった。白い体にびっしりと生え揃った鱗。頭部には特徴的な黄金の二本角がある。顔は蛇に酷似しているが所々違う。後頭部辺りから背中にかけて体毛が生えていた。

 人間のように腕があり、その指の数は六。『龍』へと成りかけであることを示している。

 

「――――――――――――――――」

 

 皆が絶句している。リュウモも気持ちは同じだ。人伝に聞いたことはあっても直に見た経験はない。なによりこんな巨大だとは伝えられていなかった。

 

「よくぞここまで辿り着きました、幼き同胞」

 

 追加するなら、人語を解するともいわれていない。

 

「貴方が『竜蛇』……試練を課す者?」

 

 家屋を容易に一呑みする規模の口は一切動いていない。音ではなく別の手段で頭に直接語り掛けてきている。

 人と同じでない以上、認識の仕方には違いがあるだろうと思っていたリュウモだが、予想に反して『竜蛇』は人と同じようにうなずいた。

 

「然り。俗世を越え、人の深き業を眼に刻みし者。幼子よ、汝に問う。――人は生きる価値ありや?」

 

 なんの脈絡もない問いかけにリュウモは意味を理解しかねた。自分は人について壮大な見識があるわけではない。意味のない質問だ。それは帝が答えるべき問いである。

 

「おのれを喰い散らかし破滅させるのみならず、他を圧し殺す獣にすらなれぬ生物が、この世に息をする価値ありや?」

「おれはそんなことわからない。ただ、外の人達が亡くなっていいなんて思わない」

 

 リュウモは人の世を見渡す裁定者などではない。賢者でもなければ王ですらない。自分は、〈竜守ノ民〉だ。以下でも異常でもない。

 『竜蛇』はゆっくりと目蓋を閉じた。取り調べ、品定めするような間があった。

 

「おれは、みんなを助けたいんだ。お前が試練のひとつなら教えてくれ。これからどうすればいい」

 

 『竜蛇』の目蓋が開かれる。人と同じように表情を読み取れないが、すこしだけ口角があがって笑っているように見えた。

 

「良。業を前に折れず、それを抱え生きる者。汝の試練はすでに終わった。――次は」

 

 ガジン達に顔が向けられた。試練を課す白い番人は宣告する。

 

「汝らだ、〈竜守ノ君〉」

 

 視界が真っ白に染まった。

 

「なんだなんだ?!」

 

 霧ではない、『气』だ。空気中に存在する『气』が『竜蛇』の力によって濃霧が発生しているかのように世界を変えた。

 

「〈天ツ气〉だ……みんな気をつけて!」

 

 槍が振動し警戒している。『龍王』がこれほど身構えているのだ、尋常ではない。

 白い『气』の霧が晴れていく。は……と、誰かが息を吐いた音がした。

 

「槍士の、御前試合の試合場……? あの蛇、一体全体なんのつもりだ」

 

 正方形に整地された石の会場。観客席はなく当然見物人もいない。

 だが、戦士ならばいた。戦場となる地の中心に、八人の人影があった。

 

「みん、な……」

 

 白いもやを纏った人影だ。それでも見間違えるはずがない。彼ら〈竜守ノ君〉が命を散らして『竜』を引き付けてくれなければリュウモは此処にはいない。

 

「みんな? ……なるほどな、彼らが本来の〈竜守ノ君〉だったわけか」

 

 八人は闘志を漲らせている。『气』の高ぶりから戦闘の意思があるのは明らかだ。

 

「つまり偉大なるご先輩方だってわけだ。いっちょ挨拶に行くとするか」

「次は我々の番なら彼らと戦え、ということでしょうね」

 

 三人が前に出ていく。ここにいろと言われ、リュウモは行く末を見守る。これが三人にとっての試練であるならば邪魔するのはまずい。

 死した八人の〈竜守ノ君〉は、全員が会釈をすると槍を構えた。互いが適切な距離を取り陣形が組まれる。

 

「リュウモ、済まないが合図を頼む」

 

 右手をあげる。そして、勢いよく振り下ろした。

 

「始め――!」

 

 戦端が開かれた。数の上では八対三。絶対的に不利な状況だ。しかし、覆してしまえるのが〈八竜槍〉である証明なのだ。それをリュウモは見てきた。

 同じように彼ら〈竜守ノ君〉が理解不能の領域に居ることを知っている。

 両者は、共に前人未到であった超人の高みにいる。どちらかが優勢であるなど、リュウモにはわからなかった。

 槍が繰り出され、火花が赤と散ったときには次撃が打ち込まれている。

 銀色の閃光が、ぱっと閃くとその先で花のように衝撃が咲いた。

 音は琴を弾いているかのように響いている。受けから攻めへ、攻撃から防御へ。申し合わされているとしか思えないほどに規則的な戦場の音楽だった。

 ガィンッ! と、ひと際鈍い不協和音が鳴ると戦士達は距離を開けて最初と同じように対峙する。

 

「強いな、皇国で勝てる人間はいないか」

「まあそうだろうよ。〈八竜槍〉を除けばだがな。たっく、おい! お前らひとりぐらい生き返えれんのか、ウチの隊になら歓迎すんぞ!」

 

 呼びかけには答えず、彼らは槍を構える。物言わぬ物体になってしまった姿にリュウモの心が痛む。

 

「眠りなさい戦士達よ。貴方方の責務は我らが継ぎます」

 

 新しき者と旧き者は激突を再開する。

 銀の閃光と真紅の衝撃が正方形の会場に満ちた。双方の連携練度では彼らが勝り、個々の力量ならばガジン達が上回る。

 槍が彼らのひとりを串刺しにしようと心臓に向かう。弾き落とすことには成功したが、ガジンの一刺しの威力は体勢を崩させるには十分だった。すかさずイスズが打ち込もうとする。若者が苦し紛れに身を捻り――体で隠され死角になっていた後方から槍が唸りをあげてあらわれる。完全な不意打ち。

 硬質な音が鳴る。イスズは予想外の打ち込みに完璧に対処、仕切りなおす。

 

「さあ、ついてこれっか、若造共」

 

 ロウハの言葉を皮切りに、ガジン達の速度がリュウモですらわかるほど変化する。

 劇的な速度の向上。基本的な地力の差を若者達は持ち前の連携でしのごうとする。

 残光が軌跡を描き、槍は雷光のように振るわれる。

超人達の戦いは均衡を保っているかのように見えて、それがまやかしであることに目が慣れてきたリュウモは気づいていた。

 流水のようになめらかだった連携にほころびが出てきている。

 次第にそれは遅れとなり迎撃に支障をきたす。

 一方的な防戦となり攻勢に舞われなくなる。遠からず今の状態は崩れる。――そうなったときが、両者の片方へ死神が微笑む。結果はすでに決められ、彼らの敗北は容易に想像がついた。

 〈竜化〉――ヒュっと、風邪に乗って来た声が耳に届く。もう一度甲高い音が発生し、距離が開いた。イスズの槍が思い切り弾き返されたのだ。

 

「……リュウモができるのだ、彼らがやれても不思議ではないか」

「ほーう、いいね。久々に、そこそこ動けそうだ」

「どうしますか」

「俺が動く。援護しろ」

「いいだろう、好き勝手にやれ」

 

 戦闘速度が更に加速する。ロウハの階位がひとつ上昇し、目で追えなくなるほどにまで速くなる。

 今のリュウモは〈竜化〉によって全感覚が極大にまで高められている。なのに、追えない。

 わかるのは若者達が必死に攻撃を捌いているという現実だけだ。

 圧倒されている。〈竜守ノ民〉の中でも飛びぬけて優秀だった彼らが、単純極まる速さのみに対応ができない。

 戦場に白銀の繭が出来あがる。それは槍の残光が尾を引き、消える前に次の一撃が放たれ続けていたがゆえに形成された戦いの光だった。

 速度に乱された陣形と連携に止めを刺すようにイスズとガジンが切り込み、半分に分断する。

 数が割れ、半々となってしまった彼らは抵抗することができなかった。元より、一対一では実力差が開きすぎているからこそ連携によって差を埋めていたのだ。

 四対三になってしまっただけで、数の優位は個々の圧倒的な実力の前に意味を無くす。

 ついにロウハの槍が若者の胸を貫いた。血は出ず、時が止まったように停止した。

 ぐっと、リュウモは歯を食いしばった。本当は、戦ってほしくなどなかった。

 もしかしたら彼らとガジン達は協力しあえていたかもしれないのだ。それが哀しい。

 ひとりが動けなくなれば後は総崩れだった。次々と若者達が突き刺され止まっていく。

 つい数十秒前まであった微妙な均衡は完全に傾く。最後のひとりが腹を突き破られる。

 

「……あの子を、リュウモを頼む」

 

 声が聞こえた、幻聴ではない。ガジン達に言葉はなく、無言でうなずいていた。

 このとき、役目は確かに引き継がれた。

 

「あの、えっと、みんな……!」

 

 居ても立っても居られなくなったリュウモは決着がついた戦場に走った。動かなかった若者達の視線が自分へ向く。

 

「……ありがとう」

 

 感謝が自然と口から転がり出た。ふ……っと、夢のように笑うと若者はリュウモの頭に手を置いた。

 

「よくここまで来たな。あとすこしだけがんばれ」

「うん、うん……!」

 

 目が熱くなった。視界が滲む。涙が零れそうになるのを必死で我慢する。

 若者達は満足したように笑みを浮かべて、再びこの世から消えて行った。

 音の無い空間が戻って来る。敵はもういない。〈八竜槍〉達の試練は終わったのだ。

 

「ガジン、さん……?」

 

 だが、彼だけがなにもない空間に向けて闘志を燃やしている。目線の先に戦うべき相手がいると、鋭い視線を飛ばしていた。〈龍王槍〉が強い『气』を発し始めた。

 

「――来るぞ」

 

 それが現出したとき、リュウモは嵐にあったかのような錯覚に陥った。

 現実は、先程と同じように人影があらわれただけだ。しかし、これはなんだ?

 

(に、人間なのか?)

 

 強風に煽られてまともに立っていられないかのようだ。

 前方にあらわれた人物は、ただ『气』を漲らせ戦闘態勢に入っているだけだというのに。

 

「やはり、お前か――ラカン」

 

 ガジンは『气』の暴風の前に平然としている。他の二人も気圧されている様子はない。

 

「〈龍王槍〉がこんなに『气』を乱すなんて、一体なんなんですあの人!?」

「ラカンだよ。唯一、〈龍王槍〉に呼ばれ、認められて台座から引き抜いた。皇国最強の男だ」

 

 人間とは思えない。だからこそ本来の使い手でない者であっても〈龍王槍〉は自らを振るうことを許したのだろうか。

 ――人間、だよな? 本当に……。

 『竜』に殺されたと聞いたが、あんなのを殺害できる『竜』などごく少数だ。それだけ強力な『竜』が外に出るはずがないのだが……。

 

(まさがこの人、〈禍ツ竜〉に殺されたのか……)

 

 〈竜守ノ民〉だけでなく、これだけの使い手と戦ったというなら、あの負傷もうなずけた。

 

「お前達、下がっていろ。私がやる」

 

 そういうと、ガジンはゆっくりと最強と謳われた男の前へと歩いて行った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十一話 最強対最強

 ガジンは『气』を整えるように歩調を緩めながら友人に近付いた。

 諸々と言ってやりたいことがあった。実は帝に密かに命じられて各地を巡っていたのではないか。昔の馬鹿話や少年時代に貸した金を返せだとか、様々な土地にあった槍術はどうだとか、色々だ。

 だが、それもすべて吹き飛んだ。ラカンが戦いに全力で臨もうとしている。槍士ならば、すべきことはひとつしかない。

 一歩ずつ進むごとに気持ちが整頓されていく。

 理性の冷水に浸された感情が静まると、闘志が溶岩のように溢れ出す。

 応えるために、本当に久しぶりに『气』を全開する。呼吸をひとつ、肺から全身へ酸素が行き渡るように深く吸い込む。

 感応した『气』は体内を駆け巡り、わずかに滲み出た『气』がラカンのものとぶつかり合う。風が巻き起こり、石の床をがたがたと揺らし罅が入った。

 

「うわっ……やっぱりガジンさん色々おかしいって?!」

「言っとくが俺もできるぞ。イスズはまだ無理だろうがな」

「お恥ずかしい限りです。しかし、あれがラカン様ですか……この両の眼で見てもまだ信じられません、先生と同格など」

「気持ちはわかる。昔は俺とガジンとシキの三人でもぶち転がされた」

 

 ロウハが懐かしい話を持ち出した。ガジンにとっての完敗とはあのときだ。

 どうやっても勝てないからと悔し紛れに三対一の勝負を提案し、負けた。

 なにもかもが数十年も前のことだ。昨日のことのように思い出せるのは、この場にラカンが経っているせいだろうか。

 

「本当に、当時のあいつは皇国最強だった。まあ、よーく見てろ、最強同士の戦いをな」

 

 ロウハが合図の為に右手をあげる。

 

「いざ尋常に――始め!」

 

 昔と同じ開始の合図が下された。

 ガジンの顔がいつも以上に引き締まる。余裕や油断をすべて消し去った表情で、ガジンは発走した。

 踏み締められた地面が陥没し、次いで後方に爆発する。 後ろにいるリュウモへ被害が行くだろうが気にする必要はない。あの二人がいれば上手く処理する

 一秒と経たずにラカンを槍の間合いに捉えた。彼はすでに迎撃の初撃を突き出していた。

 頭を血煙にする一刺しを最小の動きで避け、そのまま突進する。槍を短く持ち直し、腹目掛けて一閃。懐に潜り込まれてこれをやられれば、ばっさりと腹を割られて臓物をぶちまける羽目になる。

 刃が腹部を切り裂く前に止められる。ラカンはわかっていたように左手で槍の柄を握っていた。凄まじい速さでラカンの槍が引き戻され、勢いを殺さず掌で槍を滑らせて短く持ち、ガジンの脇腹を狙う。

 ラカンの行動を焼き回すようにガジンは槍の柄を掴み防御する。

 

「うわ?!」

 

 互いが停止し、世界はようやくリュウモ達へ衝撃を届けた。砕け飛んだ床の欠片は全部、二人が払いのけている。

 穂先がカチカチと揺れた。力は互角。足の踏ん張りで床が割れて捲れあがり、破片が出来あがる。

 ざりっと擦れ合う音と共に、二人は同じ個所、腹に前蹴りを放った。直撃。

 一旦間合いを外すため、勢いを殺さず後ろへ飛ぶ。追撃はなく、着地してゆっくりと体勢を整える。

 遅滞した世界で行われた命のやり取りを、ガジンは懐かしく感じていた。

 全力で動き回り、戦った跡は会場が目も当てられない姿になる。そのせいで整備担当者からは毎回渋い顔をされたものだ。

 

(ラカンと手合わせをしたのは、いつが最後だったか……)

 

 公での全力全開の試合など〈八竜槍〉になってから一度もない。面子を保つために誰かに下される姿を見せられなくなったからだ。

 型通りに動き、それで終い。だが今は異なっている。一切が必殺のやり取りだ。殺すために全身全霊でもって槍を繰り出す。盗賊相手に戦うのとはわけが違う。

 ロウハのときでは、お互いが市街地へ気を使い全力を出さなかったのだ。

 槍を握り直した。体を流れる血が熱くなる。暴力的な興奮が湧き上がってくる。

 抑圧されていた力が枷を外す。極限にまで達した精神が不可思議な感覚を起こす。

 次になにをすべきかが自然とわかる。相手がなにをしてくるのかも。

 ラカンが、動いた。

 即座に槍先が飛んでくる。二人にとって最早距離に意味はない。必要な認識はおのれのどこへ攻撃がくるのか。

 火花が散り、槍同士がぶつかり合う。一度では終わらない。ラカンが腕を引き、更に突きを繰り返す。

 単純な動作であるはずのそれが、ラカンが行うことによって大嵐と化す。

 死へ蹴落とす連撃を悉くガジンは回避する。柄で受け軌道を逸らし、足を使って射程外に逃げきろうとする。力が込められた一撃が放たれる。

 凶刃が届かない位置にまで退避したはずが、射程が()()()。ラカンが深くまで踏み込み、片手で槍を突き放ったのだ。自由自在に間合いを変化できる槍術の強みを存分に生かした刺突。今までの攻撃はこれのための囮。

 ――お前の得意技だったなッ!

 幾度もやられた技だ。返し方は体に刻まれている。

 地と這うように上体を低くする。頭上を槍が通り過ぎ、抉り込むように懐へ潜り込む。

 狙いすましたかのように膝が顔面目掛けてきた。ガジンは攻めを諦め、横に体を倒すようにして避ける。

 素早く体勢を立て直し、槍を構え直す。反撃が予想されていた。でなければあそこまで円滑に迎撃には移れまい。

 対策を講じているのはお互い様であったようだ。ラカンの腕前は数年前の手合わせからそこまで変わってはいない。

 

(〈竜化〉は、無理か。自分のみの力で倒せ、とでも言いたのか?)

 

 槍からの反応はない。お喋りだった人間がいきなり黙りこくったかのようである。もしかしたら『竜蛇』に抑えつけられているのか。

 つまるところ、単独でやる以外にはない。望むところである。

 呼気をひとつ。ガジンが仕掛けた。爆発に等しい連打がラカンに叩き込まれる。

 噴火のような力の前に、余波で会場が壊れていく。

 瓦礫が飛び交い、その中を二人の槍士のみが時間から隔離されたように神速を持って動き回る。

 基礎的な技から応用へ。応用から奥義、絶技の数々が披露される。

 

(重い、それにやはり速い……ッ)

 

 手に伝わってくる衝撃は、まるで骨を芯から打ち鳴らし関節を砕くかのようだ。並みの武器であったなら――いや、最上の代物であっても――槍ごと腕をへし折られ、背骨までばきりと逝くかもしれない。

 戦いで冷え冷えとした感触を味合わされるのは久しぶりだった。一手、読み誤ればラカンの槍はガジンの喉か臓器を破壊し死に至らしめる。だが――。

 ――それはお前とて同じだろう、ラカン!

 実力伯仲。その意味はガジンが感じていることを、ラカンも同じく感じているのだ。気後れする理由はどこにもない。

 槍を突き出す。その際、特殊な捻りを加えて穂先の軌道をわずかに狂わせる。丁度一回転するように槍が回る。

 受け方を間違えれば『气』と槍で自らの獲物を弾き飛ばされる。

 小手先の、しかし高度な技術を必要とする一撃。

 手緩い、と言わんばかりにラカンは力技でもって上段から叩き落とした。

 砂塵が舞い上がり、視界が潰れる。二人は鏡合わせしたような動きで槍を振る。

 不意打ちなど、生前のラカンならばやらなかったし、死後も変わらないらしい。

 煙が張れ、変わらず槍を構える彼の槍先が、揺れて音を立てている。

 ガジンの槍はそうなってはいない。武器の性能差からではない。

 押し切れる。確信を抱いたガジンは『气』を極限にまで高め、勝負に出た。

 一気呵成に攻め立てる。反撃さえ許さない速度の連撃を、渾身の力を込めて繰り出す。

 対して、ラカンは。

 

「――――ッ!」

 

 全身全霊で迎え撃つ。無呼吸運動に近しい動きに『气』が急速に消費され、再び高められる。無尽蔵の『气』の削り合い。

 果てが無いかと思える打ち合いが続く。

 

「凄い……」

 

 至高の戦いに見惚れたのか、イスズが言葉を零した。

 槍が物理法則に逆らう速度で唸りをあげる。

 ラカンは上半身を逸らして避け、次を柄で斜めに受けて衝撃を逃がす。

 ラカンの技量は神憑り的だ。それは疑いようがない。才は間違いなく彼が上だ。

 ――だが、私が勝つ……!

 ラカンは〈抜槍ノ義〉終了後、長い間皇国のいたるところで過ごしていた。

 その間、ガジンは腕を磨き続けていたのだ。槍の鍛錬に関しては一切妥協しなかった結果が、如実にあらわれてきている。

 それでなお、一歩違えれば数瞬と経たない内に敗北する。ラカンの技量は〈八竜槍〉と比較して決して格落ちしない。

 

(思えば、お前は帝からなんならかの密命を受けていたのだろうな)

 

 皇族の槍術指南役に抜擢したと帝が明言したときから、なんとなくそう思っていた。

 高速で移動する中、意識はぼんやりと戦いとはまったく別のことを考え初めている。

 体に染みついた動作が、余分なものを取り除こうと働いているせいかもしれない。

 〈八竜槍〉の最終試練にまで残ったが、ラカンは決まった役職を持たなかった。人格になんら問題がなかったのにである。

 なにをしているのかと聞いても、はぐらかされるだけで詳しいことは一切口にしなかった。ただ「探している人がいる」とだけ言った。もしかしたら……。

 

(〈竜守ノ民〉を、リュウモを探していたのか……?)

 

 だから、最後に最大の〈竜域〉である北へ向かったのか。すべては当人が死亡した今、知るのは帝のみだ。

 最早、原型を留めていない会場には破壊と打ち合いの音のみが響いている。

 そうだ、昔にこんな風に滅茶苦茶にして大目玉を食らった。懐かしい。

 ラカンの対応が遅れている。槍がこちらに向かって来る頻度がすくなくなる。

 いつもは逆だった。試合で我慢比べをしても、音をあげるのは自分だった。

 槍に力が無くなりだし、捌くのが容易になる。

 三人で向かって自分達は必ず青空を仰いでいた。「勝てるわけないだろ、こんなのに」とロウハが空笑いしていたのは印象深い。

 最後とばかりにラカンが反撃に出る。全力を賭けた一刺が頭部を穿とうと向かってくる。

 これも、逆だ。ガジンが追い詰められて渾身の一撃に賭ける。自分がやっていたことだ、対処法は心得ていた。

 機を見計らい、単調な攻撃になった槍に向かって突進する。なんの牽制も技も使われていない刺突を見切るのは容易い。

 それでも頬にかすり傷を負ったのは、彼の技術の賜物であった。

 槍を短く握り、体ごとぶつかるように――突き刺した。

 戦いの音が、止んだ。

 

「私、の、勝ちだ……」

 

 まだ現実が受け入れられないような、浮足立った勝利宣言だった。

 ああ、君の勝ちだ。

 久しく聞いていなかった友人の声を皮切りに、白い空間は色を取り戻して行く。

 ラカンの体が、消えていっている。

 

「ラカン!」

 

 ロウハが急いで会場に上がって声を張り上げた。ラカンは無言のまま振り向く。

 

「ああ、いや、くそっ……」

 

 死んでいたはずの人間になんと声を掛ければいいのか、今更になって考えているらしい。

 

「今の俺なら、テメェにも勝てたからなッ!」

 

 ラカンは苦笑していた。すくなくともガジンにはそう見えた。

 死者に掛ける言葉ではないが、ロウハらしいとでも思ったのかもしれない。

 彼の姿が風に揺られる木葉のように消えると、再び視界が白く染まった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十二話 終点へ

 元の場所に戻る。幻のように消え去った会場の代わりに『竜蛇』の顔があった。

 

「見事。我が汝らに課した試練は終了した。進むがいい」

 

 『竜蛇』は北を向くと〈天ツ气〉を解放する。この『气』はなんでもありだと、リュウモは聞かされていたがその通りだった。

 空中に大きな山が映し出された。その山は頂上が埠頭のように突き出ていて、緩やかなコの字を描いている。

 

「あれが〈竜峰〉……」

 

 旅の終着点。『使命』が終わる地。

 

「『气』を放射して、ぶつかった箇所を拡大している……? 滅茶苦茶なっ」

「望遠鏡の真似事か? なんつー非効率な」

「人のように誰でも扱える道具を我らは持っておらぬのでな」

 

 リュウモはびっくりした。決められた定型文しか話せないかと思っていた相手がこちらの会話を拾って答えてきた。植物みたいだと思っていた『竜蛇』への印象が変わる。

 

「なあ、おれの試練はさっきので終わり? すごい、簡単だったような……」

 

 ガジン達の受けたそれと難度が桁違いだった。命のやり取りがあったわけでもないし、学者同士の賢しい会話や討論があったわけでもない。数少ない対話にさして意味があったとは思えなかった。

 

「汝の試練は、人の世を渡り歩き、我の問答に応じた際に終わった。仮に乗り越えられなかったときには、汝は死んでいる」

「いやだから、それだけ? 此処に辿り着けばいいだけ? それじゃあ、みんなと比べたら」

「容易くはない。我が同胞、世へ足を浸し進んだ中で、一体なにを見た」

「なにって……色んな人達だけど……」

 

 期間は短くても、沢山の人との出会いがあった。彼等が抱える事情、背景、感情も垣間見た。妥協できない所以。止まることが不可能なほど多くの命を背負った人。

正か負かの二択で分類するなど無理なものを調整しようと心を砕く者もいた。

 

「汝の試練は東から此処へと至る過程すべて。もし分かり合えぬ俗世に絶望し歩みを止めれば、〈龍赦笛〉は奏者の命を奪っていた。一族の唄に示されていよう」

「人の業によって阻まれし時、天は我らを灰燼と化すであろう……」

 

 なんと意地の悪い試練であろうか。リュウモを試しているのではなく、リュウモを目として人間の世界を試していたのだ。

 

「なら、他の試練は?」

 

 『竜蛇』が宙に映し出されている山に目を向けた。〈竜峰〉の下が映る。

 

「〈禍ツ气〉……」

「なんだありゃ……森が黒くなってやがるぞ」

 

 浸食された大地や植物が、黒く変容していた。

 

「あれを越えた先に、汝にとって最後の試練が待っている。〈龍赦笛〉で天へ赦しを請うがよい。奏でるべき旋律は笛が教えよう。『合气』で『气』を感じ取るのだ」

 

 いつも肌身離さずに持っていた笛が熱を持った。行先を指し示しているかのようだ。

 

「ひとつ、聞きたい。『竜蛇』よ。なぜ世はこんな仕組みになっている? どうして『竜』の領域に在る場所へ人が赴かなければならない」

「本来、これは『龍王』が行っていた。だがかの王の肉体は滅んでいる。その原因を作った人が『龍王』がすべき役目を引き継いだ。それだけのこと」

 

 〈禍ツ气〉を国中に広がったのは、人が『竜』を兵器として扱ったからだ。死すべき墓で死なず、戦で散った骸は〈禍ツ气〉を発し、〈禍ツ竜〉が生まれた。死闘のすえに倒されたが、戦いで傷を負った『龍王』は東へ姿を消し、滅びた。

 

「この世に生まれ落ちた者は皆、背負うべきものがある。大小、数に関わらず。世界を救うための大任を負った幼子がリュウモであり、守る役を継いだのが汝らということだ。心せよ、その槍を使いこなす者は、世を救うことも、滅ぼすこともできる」

「口酸っぱく言われたっつーの。まあいい、やることは決まってんだ。疑問も不満も全部終わった後にぶちまけりゃいい。だからイスズ、こいつに諸々質問すんなよ」

 

 図星を突かれたイスズの眉が小突かれたように動いた。彼女からすれば、目の前にいる『竜蛇』は〈竜域〉に関わる疑問を解決してくれる願望機のようなものであろう。

 

「役目を終え、息があるのならばここへ戻れ。我が入り口まで送ろう。空間が歪んでいるため、導かれなければ此処へは辿り着けぬのでな。逆もまた然り」

「っは、国が必死こいて地脈移動やら空間やらの研究してんのに、ここじゃ自然と完成してるわけか。学士共が〈竜域〉を調べたがる気持ちがちったぁわかった気がするぜ。で、ガジンよ、体は大丈夫か? 無理なら休むが」

「いや、このまま進もう。体も温まって絶好調だ」

 

 ぐるん、と腕を回した。ロウハは彼の頑強さに呆れていた。「さっさと行くぞ」とロウハが言う。

 今までと同じ陣形が組まれると、一行はひとつの試練を終えて、旅の終わりに歩いて行く。

 

(あとすこしだ。もうちょっとで終わるよ。みんな、爺ちゃん)

 

 やっとここまで来たのだ。多くの犠牲と人の手を借り、ついに辿り着く。失敗は許されない。

 ――失敗できない、しちゃいけないんだ……!

 身に宿る異能も、すべてはこのときのためにあった。しくじるわけにはいかない。

 

「リュウモ、息を深く吸え。『气』の乱れが酷い」

「坊主も大変だな。〈八竜槍〉との二足の草鞋とは。ここまで来たら成るようにしか成らねーんだ。肩の力を抜け、力を」

「我らがいます。大丈夫、決して貴方に手出しはさせません」

 

 浅くなっていた息を整える。早鐘を打っていた心臓を鎮める。

 

「どうせ失敗したら人間全員あの世行きだ、責められることもねえ。気楽にいけ」

「お前な……そういう励ましはどうかと思うぞ」

「うっせ、事実だろうが。やらかしても誰のせいでもない」

 

 リュウモは二人の会話に苦笑する。およそ大事を前にした態度ではないが、これが彼らのいつも通りなのだろう。どっしりと構えている者がいると不思議と周囲も落ち着くものだ。リュウモの鼓動がすこし収まる。

 

「しっかし坊主、幸運だったな。〈八竜槍〉の全力試合なんぞ、一生に一度見られるかどうかだ。どんな大枚をはたかれてもやれないからな」

 

 話を振ってくれるのは、ロウハが気遣ってくれているからだ。リュウモは彼の斜め上な優しさに甘えることにする。

 

「二人の戦い、ほとんど見えませんでした。最後なんて、なにがなんだか」

 

 冗談ではなく、二人の残像が見えた。術で目を誤魔化す術はあるが、そんな小細工を二人は使っていなかった。

 極限にまで鍛えあげられた身体能力と『气』による動作は、いかなる者も寄せ付けない壁の如くであった。

 

「わたくしも精進しなければなりませんね」

「あと数年もすればお前には抜かれそうだがな。それに、ラカンが私と同じように修行を積んでいれば、勝てなかったろうな」

 

 勝者は心からそう思っているようだ。ガジンの背が、悲しみからすこし丸まった。

 

「あれなら俺でも勝てただろうな。シキは無理だろうが……そういや、お前は負けたんだったか」

「次は勝ちます。それと、敗因はこの子が横槍を入れたからです。でなければ勝っていました」

 

 負けず嫌いの視線がリュウモの背に突き立てられた。仕方がなかったとはいえ、ちょっと居心地が悪い。

 

「坊主のせいにすんな、とは言えねえか。なんせこいつだしな」

 

 〈竜化〉が使い手の意思を離れて解除させるなどまずない。槍が使用者の生命の危機を感じて勝手に解くのは、相当に気に入られている証拠だ。

 

「なんだか酷いことを言われてる気がするんですけど、みんなみたいにおれは滅茶苦茶じゃないですからね?」

 

 自前で〈竜化〉をできない相手に一方的に青年達は倒された。それが常識外れな所業であることを、リュウモは肌で感じていた。理屈から見ても大概おかしい。

 〈竜守ノ民〉は、体を動かす燃料を二つ持っている。通常の『气』と〈竜气〉だ。当然、多い方が有利である。それを合計で上回るのみならず、圧倒するなど馬鹿げている。

 

「お前、『合气』なんて異能を持ってんだから人のことどうこうと言える立場かよ」

「これは、おれが『气』の流れを感じ取れないと再現できないんです。仮にできても体が追い付かないと筋肉痛が酷いことになるんですよ……」

「目で追えないと、そもそも真似のしようがないのと同じようなものか」

 

 ガジンの言う通りである。『合气』とは万能ではないのだ。地力の差があり過ぎれば、なにも意味を為さない。

 

「ですが、術の解析などは十分有用なのでは?」「ええ、そうですけど……」

 

 四人は、雑談を交えながら人にとって閉ざされた土地を開拓していく。

 

「止まれ。酷いな、これは」

 

 〈禍ツ气〉に浸食された空間が広がっていた。肌が真夏の太陽に焼かれるようにひりひりと痛む。

 

「大昔はそこら中がこんなになってたわけか。そりゃ争いなんぞしてる場合じゃなくなるわな」

「迂回は無理でしょうね。『竜蛇』が見せた景色が真なら〈竜峰〉を〈禍ツ气〉が囲っているはず……」

「リュウモ、どうすればいい。突破するか?」

「待って下さい。この布を口に当てて」

 

 リュウモは〈龍王槍〉を置いて荷の紐を解いた。呼びを含めた人数分の布を配ろうとすると、槍が白い『气』を発し始めた。『气』は黒く侵されている植物に触れると、一瞬で〈禍ツ气〉を消し去り正常な状態へ戻してしまった。

 

「おいおい……なんだ今の、有り得ねえ」

「変容した物体の『气』を取り除くのみならず、元に戻した……?」

「触れただけでか? 時間でも巻き戻しているのか、あの槍は」

 

 変化した物体は、元に戻るには十分な時間が必要だ。怪我をした箇所に薬を塗ってもすぐに快復しないのと同じだ。特に自然は、壊れた部分を治すには長い時間が必要不可欠である。それを〈龍王槍〉は完全に無視していた。

 

「さすが『龍王』の一部より作られた槍。封印されていたのも納得だ」

「この槍を持つ者は、世を破壊することができる、か……」

 

 皇都の地下深くに封印されていた経緯といい、洒落になっていない。瘴气を永遠と放出するよう命じれば、国中が簡単に大混乱に陥る。今の現象を見れば、その逆も可能なのだろう。どちらにせよ、人が持つには大きすぎる。

 

「〈八竜槍〉なんてそんなものだ。他がいなけりゃ止められる枷がひとつもない。どうにもならんから気に病むな」

 

 たった一振りの槍に数多くの人々の一生が左右される恐ろしい力だ。

 どのような力や技術も、誤った扱いをすれば破滅が待ち構えている。〈竜守ノ民〉がその技術を悪用され、結果がどうなったのかは語るまでもない。

 ならば、正しく使えばよい。だが、正しさとは誰が決める?

 

「怖い、ですね……こんな力」

 

 世に絶対の正しさなど存在しない。定規はあっても長さは決まっていて、必ず外れ者は出る。正しさを謳っても救われない人はどうする。掲げられた大義に傷つけられる人すらいるのだ。誰かが神が一刀両断するが如く決めるわけにもいかない。

 

「リュウモ、その心を忘れるな。力持つ者は多くの人間を背に乗せていることを覚えておけ。まあ、言うまでもなくわかっているとは思うが」

「そうだそうだ。坊主、こんな奴にはなるなよ。理解してるうえで突っ走るのが一番性質が悪いんだ」

 

 振り回された皮肉、嫌味とも取れる口ぶりだった。ガジンは元に戻った植物を見ているから表情はうかがい知れない。ただ、反省はしているけれど、後悔はしていないようにリュウモには思えた。

 

「この子がいれば進路変更の必要はなさそうですが……そうもいかなそうですね」

「ああ? ……ああ、こりゃどんぱち賑やかになりそうだ」

「〈龍王槍〉の力を感知したか? ――来るぞ。殺しても構わんな、リュウモ」

 

 リュウモはうなずく。〈禍ツ气〉によって狂わされた『竜』は正気に返らない。自然が変わってしまう濃度に侵されれば、ただの化け物になる。

 〈龍王槍〉が向かって来る『竜』に力を使おうとしないのは、すでに手遅れゆえか。

 三人の隊形がリュウモを中心とした円形防御に変る。

 一匹の小型『竜』が勢いよく飛び出して来る。邪魔者を排除しようと真っ赤な視線を向ける。轟、と空気が千切れて音を鳴らした。『竜』の頭部が跡形もなく砕け散った。

 

「まずひとつ」

 

 超高速で打ち据えられた『竜』は、なにもわからないままあの世へ旅立たされた。

 二つ、三つ、四つ。三人が数の確認のため仕留める度に報告を行う。

 襲い掛かって来る『竜』が片っ端から殺されていく。リュウモの周囲に、あたかも死神の鎌が振り回されているような有様だった。

 三本の槍が作る死の結界を、死を恐れない『竜』が踏み越えられない。死体が十五と地面に転がると、ようやく後続が途絶えた。

 

「打ち止めか。大したことねえな」

「油断するな。ラカンを殺した個体もいる、まだ序の口のはずだ」

「奥に進めば進むほど、襲撃は多くなるでしょうね」

 

 リュウモは死体の前にしゃがみ込んだ。戦いの最中、気になっていたことがあった。

 

「目が赤いだけじゃない。体中に〈禍ツ气〉の黒い線が……」

「なんだよ、さっきまでの木とかと同じじゃないのか」

「生物に多少影響を与えても、体が変わることは、ないはずなんですけど……」

 

 『气』の流れが滅茶苦茶だ。『竜』のものでもなければ生物ですらない。生まれが根っこから違うようにすら感じる。

 

「『气』の流れが有り得ない。普通の生き物と、逆、みたいな」

「逆、とはどういうことだ?」

「なんていうか、生きようとしていない……」

 

 生物が相手を殺すのは、まず自らが生きるためだという前提がある。野生に暮らしているならば無益な殺生はしない。なぜなら意味がない上に、自分の体力も無駄に消耗する。野に生きる獣は馬鹿ではないのだ。だが、この『竜』はまるで……。

 

「殺すために生きているように感じます」

 

 前提が狂っている。生き物として破綻しているのだ。

 ――この感じ、あいつと同じだ。

 故郷を焼き払った〈禍ツ竜〉と。

 

「死兵、のようなものか」

「恐れをもたず、人より強靭。このような『竜』が蔓延れば確かに国は滅びましょう」

「〈竜峰〉近くはこれより酷いわけか。嫌になるね」

「でも、こんな『竜』一体どうやって生まれ」

「伏せろ!」

 

 ガジンの大声に反射的に体が動いて屈む。頭上を槍が通過し、リュウモに襲い掛かろうとした相手を吹き飛ばした。

 一撃。絶命してぴくりともしなくなった『竜』はさきほどまで何処にもいなかったはずである。

 

「こいつら、今いきなり生まれ落ちやがったぞ!?」

「〈禍ツ气〉が集中することによって誕生する? でたらめな……!」

 

 リュウモは得心がいった。害を与えるしかないものから生まれ出たのならば、その子が凶暴性も恐怖もないのは当然だ。

 

「一度、奥へ行ったら簡単には戻ってこれなさそうですね」

「『气』を察知し襲撃して来ているなら隠れて進むのも難しいか」

「つまり、目的地まで一気に駆け抜けるのがいいわけだ。おい、すこし休むぞ。各自、水を補給しとけ。強行軍になる」

 

 作戦の意向を受け取ったのか、〈龍王槍〉は力を解放し、周囲に漂っていた〈禍ツ气〉を完全に浄化する。死んだ『竜』の体も、結び目が解かれるように光の筋となって消えて行った。

 

「坊主、その槍、実は口が利けたりしないか?」

「ひ、否定は、できないですね」

 

 単純に自分の実力が足りていないだけで、言葉を聞き逃しているだけかもしれないのだ。

 他の〈竜槍〉よりも明確な意思がある。まだ肉体を持っているかのようだ。

 

「リュウモを守ってくれることを祈る。全員、準備はいいか?」

 

 ガジンの言葉に全員がうなずく。――そして、一気に走り始めた。

 あとすこしで、旅が終わる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十三話 最後の試練

「ったく、軍事演習でもここまで強行なこたあねえぞ!」

 

 おそらく、百は『竜』を瞬殺しているであろうロウハが走りながら叫んだ。滝のような勢いで『竜』が襲ってはきたが、すべて三人に遮られた。リュウモには牙も爪も届かず、〈八竜槍〉である彼らに疲労はない。

 だが、目的地に近付くにつれて襲って来る数が激増している。

 最初は一度に襲って来るのが五。五が八へ、八から十と増加し、今では三十の『竜』が四方八方からリュウモを亡き者にしようとして来る。

 ただ一度として攻撃が届くことはなく、しかし、このまま増加の一途を辿ればさすがの〈八竜槍〉でも処理限界を超える。そうなった場合、敵を殺し尽せてもリュウモを守れなくなる。今以上の力を持って動いた途端、殲滅はできても、護衛が不可能になってしまう。

 〈竜峰〉は目に映っている。距離にして一里ない。縮まるにつれて『竜』の個体に体が大きく、強力なものが混じる。

 

「よくもまあ、これで昔の人は滅亡しなかったものだ」

 

 大人の丈を超える中型の『竜』を真っ二つにしながらガジンが呆れた口調で言った。

 襲撃を繰り返す『竜』に一歩も引かず、一撃で屠っていく三人だが、どうしても移動速度が落ちる。

 それに、リュウモには懸念があった。まだ翼竜種が出張って来ていない。故郷で初めて〈禍ツ气〉浄化を行ったとき、多数の翼竜が殺しに来た。予想でしかないが、〈禍ツ气〉の大本に接近するほど、強力な『竜』が出現し始めるはず。そのことを三人に伝えると、厳しい顔をして彼らは考え込む。

 

「リュウモ、『竜』は『气』を感知して襲って来たといったが、それは〈龍王槍〉の『气』だけに反応しているのか」

「いえ、そうじゃ、ないと思いますっ。巨大な『竜』の『气』を察知して襲って来てるだけだと! さっきから狙われてるのはおれだけですしっ」

 

 〈龍王槍〉の固有の『气』に反応したのではない。他の『竜』と同様に縄張りに侵入して来た巨大な相手を排除しようとしているのだ。

 四人の〈竜槍〉につられて『竜』は襲撃を続けている。

 

「じゃあ、ひと際馬鹿でかい『气』があらわれたら奴らはそっちに向かうわけだな?」

 

 ロウハの確認に「はいっ」とリュウモは走りながら答える。

 

「ガジン、俺が〈竜化〉して引き付ける。その隙に行け」

 

 冷徹な、合理的判断だった。反論の余地はない。進むことが困難ならば、誰かが道を切り開く他はいのだ。だが、それは……。

 

「駄目ですっ、そんなことしたら……! 進めてはいるんだからこのままでもッ」

 

 彼らと同じ末路を迎えてしまう。リュウモは〈八竜槍〉の強さをわかっているが、絶える事のない襲撃を何日も退けられるとは思わない。

 

「無駄に時間を費やすだけだ。ぱっぱと終わらせるに限るんだよ、こーいうのは。相手の戦力をばらけさせねえと、〈竜峰〉に着いたときお前を守るのは手間だ」

 

 笛を奏でている最中に『竜』が殺到して来れば人手が足らなくなる可能性がある。〈八竜槍〉は敵を殲滅できても、対象を守り切ることは難しい。

 三人にとって、今の状況は卵の黄身を手に持って落とさずに戦えと言われているようなものだ。

 全力を出して万が一、リュウモが死んでは目も当てられない。笛を使っている最中に邪魔されるわけにはいかないのだ。

 

「行け坊主。別に死にやしねえよ。『竜蛇』みてえなとんでもが出て来なけりゃな」

 

 それ以上なにか言うのを、リュウモはぐっと堪えた。無駄に言葉を重ねれば、ロウハを信用していない風に聞こえるだろう。彼にとって侮辱に等しい行為だ。槍士として誇り高い彼に贈るに相応しい言葉は、ひとつしかない。

 

「御武運を!」

 

 集団の中から、ロウハが離れる。リュウモの後ろで〈竜气〉が荒れ狂い、噴出する。

 

「上手くいったようだな」

 

 ぱたりと糸が切れたように『竜』の姿が消えた。背後では轟音と『气』が吹き荒んでいる。鬱憤を晴らすかのような大暴れをしているらしい。

 千切れ飛んで行く哀れな『竜』の姿が幻視できてしまうぐらいには、苛烈な戦闘が行われているようである。

 

「先生、どうぞ先に。イスズはここにて『竜』を引きつけますゆえ」

 

 『竜』が再び襲い掛かって来ると、イスズがそう提案する。ガジンは弟子の身を案じる素振りも見せず、むしろ信頼を覗かせ、うなずいた。

 

「加減はいらん。叩き潰せ」

 

 ここまで上から物を言うガジンの態度を、リュウモは初めて見た。上下関係は、気安さの証明でもあり、紛れもない師弟としての在りように映る。

 

「ええ、お気を付けて。貴方も幸運を、リュウモ」

 

 イスズが『竜』の前に立ち塞がる。旅の始め近くと同じく、二人だけが目的地に向かう。

 

「死なないで、どうか無事で!」

 

 二人の無事を祈る他になかった。

 森を抜ける。いよいよ〈竜峰〉が目の前に威容をあらわした。道とはとても呼べない急斜面に、苔むした岩と地面だった。木々の類はない。

 

「まったく、歓迎は有り難いが、こうも数が多いと嫌になってくる」

 

 山の麓には、おびただしい数の『竜』が、雲霞の如き大軍を為していた。

 ため息をひとつ。それからガジンはぼそりと呟いて〈竜化〉し――消えた。

 爆流に比する運動量から発せられた風に、リュウモは尻もちをついた。

 そして、顔をあげたときにはすべてが終わっていた。神隠しにでも遭ってしまったかのように、『竜』は命を刈られて死骸を晒した。

 暴れ狂う荒神と言える力だった。立ち上がる間に『竜』が皆殺しにされるとは……。

 

「行け、リュウモ。あとはこちらですべて請け負う」

「はい、行って来ます!」

 

 全力で、リュウモは〈竜峰〉への最後となる道を駆けた。麓から山の裾にまで一気に走り抜けた。『竜』は一匹もいない。

 好機とばかりに一気に急勾配を登る。斜面はどんどんときつくなり、手で四つん這いにならなければ進めなくなる。麓では戦いが続いていて、ガジンの姿はリュウモの視力でも捉えづらくなっていた。

 

「さ、寒っ……!?」

 

 肌が冷気に刺され、吐いた息が白くなる。まだここまで高度はないはずだ。周囲に温度に影響する『气』が流れている。

 関係ないと、リュウモは体を動かす。この程度、肌寒い程度で済む。支障はない。

 上体を安定させて、立ち上がって進もうと〈龍王槍〉を杖代わりにしようと地面に突き立てた。

 ガギッと、音がして穂先が()()()

 

「うわっ、さ、刺さらない――!?」

 

 硬質な音がした。金属の類が擦れ合った音ではないのは確かだが……。

 

「この、地面、まさか……ッ」

 

 苔むしている土を掘り起こすと、下にあったのは濁った白色。

 リュウモは視線をあげる。勾配はさらにきつくなり、その先には壁があった。

 木登りならぬ壁登りをしなければならないらしい。リュウモは怯むことなく壁の前に立って槍を背負った。

 凹凸に手を引っ掛け、足場がしっかりしているのを確認し登り始めた。

 幸い、壁は崩れる様子は一切なかった。障害になる物が無いならば、野生児以上の身体能力を持つリュウモの独壇場だった。猿のようにすいすいと登り切る。

 

「ここが〈竜峰〉……」

 

 下とは違い、頂上の足場は土ではなかった。

 

「やっぱりそうだ――この山、『()』の骨だッ」

 

 東の〈竜域〉にあった『龍王』の骸より何十倍もの規模だ。さっき登っていたのは人でいう後頭部にあたるのだろう。今いるのは、頭頂部あたりか。

 〈龍王槍〉が刺さらなかったのも当然だ。骸の主は、生前において槍よりも遥かに強力で長生きな『龍』だったのだろう。

 山を一呑みどころではない。骸の『龍』の顎にかかれば都が大地から一瞬で消える。頭部の大きさはそれぐらいは確実にある。

 

「他にも、ある……」

 

 足元の頭骨ほどの大きさはないが、いくつもの『龍』の亡骸が大地に横たわっていた。

 最も巨大な頭骨を囲うように他の頭骨が点々とあった。

 ――墓だ、ここは、龍の墓なんだ。

 何十里もの距離がある広大な墓地。骨は墓標だ。

 こあれだけの数、過去に『龍王』を超える個体がいた証だった。何事もなければ『龍王』もこの中に列していたのだろう。

 

「どうすればいい、おれはどこに行けばいい」

 

 背負っていた〈龍王槍〉が背を押して来た。前に進め、ということだろう。

 一歩目を踏み出し――静電気に似た痛みが、頭から股下まで通り抜けた。

 

「ッ……上!」

 

 上空から、ひとつの巨大な影が、舞い降りた。故郷が燃えていたあのときと同じ足音を立てて。

 まるで、その姿は門番のようで、〈竜峰〉への道を立ち塞さいでいた。

 

「〈禍ツ竜〉――――お前が、最後の試練なのか」

 

 赤い眼に睨まれても、不思議と、リュウモの心に恐怖は無かった。

 あったのは、この『竜』を倒さなければならないという、使命感に似た感情だけ。

 〈禍ツ竜〉の胸には、都で突き立てた〈龍王刀〉が抜けずに刺さっている。

 怨敵を見つけた『竜』は、一層に憎しみを掻き立てられ、狂い、禍々しくなっていた。

 痛みが、かの『竜』を更に強くしたのかもしれない。

 

「行くぞ」

 

 〈竜王槍〉を握り締め、敵を睨みつけた。

 瞋恚の吼え声が、辺りに響き渡る。

 最後の戦いが、試練が、始まりを告げた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十四話 使命の終わり

 〈龍王槍〉が即座にこの場から退避しろと『气』で伝えてきた。槍に言われるまま横に飛ぶ。爆炎が先程までいた場所を通過する。熱が骨を赤く変える。速い――。

 

「あのときと、全然違うッ」

 

 巨体に似合わない俊敏さだった。都で短刀を突き立てた〈禍ツ竜〉とはまるで別物だ。

 あらゆる能力が格段に上昇している。リュウモひとりでは逆立ちしようとも勝機はない。

 前肢が振り上げられ、小さな邪魔者を押し潰そうとした。

 まさに、一撃必殺。振り下ろされた手はリュウモを確実に捉えていた。即死だ――リュウモがひとりであったならば。

 

「――――――ッ!?」

 

 受け止める。質量の差からそれは土台からして無理であるはずだった。

 

「おれも、あのときとは違うぞ……!」

 

 自らのみならず槍からも供給される〈竜气〉が不可能を実現する。

 押し切ろうとする〈禍ツ竜〉を逆に弾き返す。信じられない腕力の増大に、リュウモ自身が一番驚いていた。

 

「二対一だけど、文句はないよな」

 

 こんな急激に力が増えれば普通は制御できない。だが、リュウモが言った通り二対一だ。

 細かい制御はすべて〈龍王槍〉が行っている。むずかゆい感覚がするが不思議と不快感はない。

 〈禍ツ竜〉が息を深く吸い込んだ。炎が来る。

 避けるのは簡単だ。口の向きに気を付ければいい。だが、ちろちろと炎が出る口を、『竜』は()へ向けた。

 

「いぃ――!?」

 

 吐き出された炎が、大津波のように迫る。爆炎の巨壁が標的を燃やし尽くそうと押し流しにかかる。逃げきれない、ならば……。

 

(イスズさんがやった動きを……!)

 

 槍を構える。『合气』が彼女の動作を完璧に再現した。不可視の空気の刃が、一閃された槍より飛ぶ。両断。

 

「――――ッッ!?!?」

 

 炎の壁に飽き足らず〈禍ツ竜〉の額に真一文字の裂傷が走り、出血する。

 

「腕が、なんともない」

 

 明らかに、今のはリュウモの限界を超えていた。本来なら反動によって副作用が出る。

 だが、ない。つまり〈龍王槍〉が反動を抑制し、癒しているのだ。多少無理に動き回ってもいけそうであった。

 絶叫が耳をつんざく。傷つけられた〈禍ツ竜〉は怨敵を見据えた。四足の足で地を踏み付け、余りある質量をもって突進して来た。

 その動きだけで人間を殺傷できる。地が鳴り、死が音を立てて迫る。

 対し、リュウモはぎりぎりまで引き付け、前へ急加速した。緩から急へ。小柄な体を利用して『竜』の視界から離脱。

 後ろへ回り込む。狙いは首の付け根、人でいう後頭部だ。

 人間と同じ、『竜』にも急所がある。そこを狙う。都での初邂逅では後ろへ回り込めなかったが、今ならできる。

 槍の加護を受けて強化された身体能力を生かし、敵の体を駆けあがる。大きくはあるが、一般的な翼竜の体躯とはそう変わらない長い首を蹴った。狙いを定める。

 

「――――オォォォ!!!」

 

 爆発が起こったとしか思えない咆哮と共に、大量の〈禍ツ气〉が『竜』の体から発せられた。途轍もない量がゆえに、リュウモの体は枯葉のように宙を舞った。

 発散された〈禍ツ气〉は邪魔者を殺そうと存分に効力を発揮する。

 

(く、くそっ)

 

 急傾斜から転がり落ちるように吹き飛ばされ、槍を突き立ててやっと止まる。『龍』の骨同士がぶつかり合い、火花が散り、穂先が赤熱化する。

 

「……いッ!?」

 

 体中に痛みが駆け回る。擦り傷の痛みではない。火に炙られるような痛みだ。

 左耳が特に酷い。鈍器で殴打でもされたかのようだ。

 

「〈禍ツ气〉のせいかっ」

 

 四散した〈禍ツ气〉が自らの脅威となる者を排除しようとしている。今まで〈龍王槍〉が守ってくれていたが、この濃度では限界に達してしまったのだ。

 時間が経過するほど不利になっていく。やるならば短期決戦しかない。

 〈禍ツ竜〉が仕掛けてきた。前肢を存分に活用した猛攻がリュウモの体力と精神を徐々に削り取る。

 炎の吐息、尻尾による牽制、〈禍ツ气〉の効果で失われる集中力と気力。

 逃げ回るしかできなくなり攻められない。このままでは敗北は必定にように思われた。

 

(おかしい、なんでこんなに攻め立てて来る?!)

 

 猛攻、言い換えれば死に物狂い。悪く言えば、後が無いような攻め方だった。

 『竜』であろうといつまでも動き続けていれば消耗する。まして『气』を全開にしているなら尚更だ。休息を挟まない連撃は余裕の裏返しとも取れるが……。

 

(違う。こんな必死な目をする奴がそんなこと考えるはずがない。()()()だ)

 

 建物を一発で倒壊させる爪がぎりぎり上を通り過ぎる。左耳があったままならば千切れ飛んでいたかもしれない。

 ――なんでだ、有利なのに、なんでここまでする……?

 理由が解明できれば反撃の糸口が掴める。今が我慢のしどころだった。

 前肢が思い切り振り上げられた。見切り易い動作。――好機。

 

「オオォ!」

 

 跳ぶ。前肢と入れ替わるように〈禍ツ竜〉の首へ。

 槍を振り抜いた。重たい手応えの後、大量の出血。苦痛にのたうち回る〈禍ツ竜〉の尾が運悪くリュウモを叩き落とす。

 

「ガッ――――い、つ……」

 

 槍を杖代わりにして立ち上がる。ぶつかる瞬間、槍を盾にして『气』を集中させた。おかげでなんとか無事だ。足が震えているがまだ戦える。リュウモはおのれに喝を入れる。

 応えるように〈龍王槍〉が白い『气』を発し、リュウモの負傷を癒した。

 途端、〈禍ツ竜〉は叫び、激しい憎悪をぎらつかせながら襲って来た。

 

(〈龍王槍〉の『气』に反応してる? ……! そういうことかっ)

 

 槍が侵された自然を一瞬で元に戻した光景が脳裏を過る。

 

(こいつには、〈龍王槍〉の『气』は猛毒なんだ。だから、おれを……!)

 

 〈禍ツ气〉より生まれ出た存在ならば、それを浄化する相手は天敵なのだ。一刻も早く始末したいのだ、でなければ自らが浄められ死ぬ。戦いが長期に渡れば不利になるのは必至。

 すわなち、リュウモは相手と同じ土俵の上に立っている。しかも、敵は満身創痍、〈竜守ノ民〉とラカンの傷は完治していない。だが、それでもなお。

 

(まずい、あいつが消える前におれが倒れる……っ)

 

 この〈禍ツ气〉の濃度だ。普通ならなんの対策を講じていなければ十数秒と経たずに死亡する。リュウモの息があるのは、槍が守ってくれているからだ。

 ――もうすこしだけ、踏ん張ってくれ!

 槍が応え、『气』が強まる。〈禍ツ竜〉の雄叫びが周囲に響く。

 さっきと同じようになにか来る。だが、今度は苛烈な攻撃はなかった。〈禍ツ竜〉は前肢で器用に胸部を掻き毟っていた。

 血が噴出する。突き立てられている〈龍王刀〉に爪が当たる度にバチバチと音が鳴り、弾かれている。槍と刀が共鳴し、力が強まっていた。

 激痛にもがき苦しむ〈禍ツ竜〉は、口から血反吐を吐きながらも闘志を絶やさない。命を奪い去る〈禍ツ气〉が濃くなる。

 すると、『龍』の頭骨に黒い線が浮きあがる。それは、水が高所から低所に流れるように伸びて落ちていく。大地へ、大地へと。

 

「……!」

 

 此処がどのような機能があるのか、全容を把握しているわけではない。だが、リュウモは今の『气』の流れからおおよそを理解する。

 〈竜峰〉は巨大な『气』を地へ流し込む注ぎ口なのだ。かつての『龍』達は此処で力を解放し、大地を自らの清浄なる『气』で満たした。

 役目を終えた『龍』は墓にて眠りについたのだろう。つまりは。

 ――このまま放っておいたら、こいつの〈禍ツ气〉が世界中に染み渡る、そうなったら……!

 人の世は地獄の様相を呈する。作物は育たず、水は飲めず、そこかしこから狂った『竜』が生まれては人間を喰らう。

 そうなれば人だけではない。正常な『竜』すら全滅する。世の理は、すべて崩壊する。

 

「そんなこと、させるかァ!」

 

 皆が築いてきたものを無にさせなどしない。この『竜』を今ここで討たなければ未来はない。だから、斃す。

 もうなりふり構っていられない。『气』を枯渇させる勢いで解放する。後のことは、目の前の敵を倒してから考える。

 

「――――オオォォオッ!!!」

 

 体内を浄化の力によって焼かれても、憎しみは絶えず。破壊の化身は吠える。

 全身全霊の戦いが巻き起こる。

 条件は互いに同じ。実力は加護を受けたリュウモがやや劣る。

 しかし、リュウモはひとりではない。死角から来る攻撃をすべて〈龍王槍〉が検知する。骨まで灰にする吐息も、目にしてきた戦いから最適なものを選んで迎撃する。

 小さな体は、巨体を翻弄する。

 

(き、つい……ッ)

 

 『气』の消費から来る疲労からではない。〈龍王槍〉が供給する膨大な〈竜气〉がリュウモの体を傷つけ始めたのだ。

 幼いリュウモの体は、とてもではないが成熟しているとは言えない。

 入るはずのない容量を体内に注がれ、破壊された箇所を片っ端から修復しているのだ。負担が掛からないはずがない。

 一歩を踏み出す度に骨が軋む。痛みが生じ、即座に回復する。

 〈禍ツ气〉による外からの猛威、分不相応な力を扱うことからの内部の自壊。

 倒れそうになる。リュウモは休息を求める肉体の要望を跳ね除ける。

 

「まだ、だ……まだ倒れるなッ!」

 

 自分から膝をつき地に伏すなど言語道断。協力してくれた人の想いを踏みにじる所業だ。

 崩壊していく肉体は、秒刻みで動きをほんの僅かに鈍らせていく。しかし――。

 

(見つけた、ぞ、お前の弱点!)

 

 槍と刀は強く共鳴すると〈禍ツ竜〉を異様に苦しめていた。両方が接近すればするほど、浄化の力は強力になっている。

 ならば、全力を込めた槍を突き刺せば効力が増し、槍と刀の力に内側から破壊されることになる。そうなれば、いかな〈禍ツ竜〉といえども立ってはいられまい。なにより、突きだけは戦いの中で非常に警戒していたのだ。深く叩き込めば勝機はある。

 前肢の地を引っ繰り返すような横払いを高く跳躍して躱す。〈禍ツ竜〉は宙に飛び上がった獲物を撃ち落とそうと、息を吸い込み――驚愕に目を見開いた。

 

「行く、ぞ!!!」

 

 リュウモは()()の姿勢に移行していた。

 〈禍ツ竜〉にとって、その選択は埒外であっただろう。リュウモは槍の力のおかげで尋常ならざる動きを可能としている。代償として自らの崩壊すら〈龍王槍〉が治している状態だ。

 槍を手放せば、短期間で体内に蓄積していた傷が一気に反動となって襲い掛かる。

 知ったことか。リュウモはありったけの『气』を槍に込める。手から離れた途端、〈竜化〉が解除されるわけではない。だが、供給が弱まるのは確実だ。

 かまうものか。〈禍ツ竜〉はすでに回避を行えない。攻撃を中断しても、槍は体のどこかには突き刺さる。これだけ大きな的を外すほど、リュウモは未熟ではない。

 

「うあぁァァァ!!!!!!!」

 

 全身全霊、全力全開、全精力を傾けた一矢を放つ。

 〈禍ツ竜〉は爆炎でもって迎え撃った。

 炎と槍が激突する。

 数瞬の拮抗の後――槍が炎を喰い破った。

 〈禍ツ竜〉が迫りくる脅威に反射的に首を逸らした。首元を掠めて槍は後方に飛ぶ。

 安堵を浮かべた〈禍ツ竜〉は即座に顔を苦痛に歪ませた。

 大地に縫い留めるように〈龍王槍〉は尾に突き刺さっていたのだ。

 浄化の力が『竜』の内側を焼く。刀と槍の白い『气』が〈禍ツ竜〉を絡めとり、苦しめた。

 だが、致命傷ではない。耐え切る。

 〈禍ツ竜〉は激痛の中に勝利を夢想していただろう。小さな影が、動けなくなった自分に落ちて来るまでは。

 

「終わり、だァァァ!!!」

 

 刺さっている〈龍王刀〉に手を掛けた。

 最後の力を振り絞り、深々と短刀を斬り下ろした。『气』によって形成された白刃は、臓器にまで達する。

 

「うッ……」

 

 受け身も取れずに地面に激突する。悲鳴はなく、〈禍ツ竜〉はおのれを斬った相手を見下ろしていた。

 やがて……赤い目から力が抜けていき、倒れた。

 

「は、が、ぐ、げッ……!」

 

 リュウモの体を反動が体を蝕む。ビキビキと骨が鳴り、筋肉が音を立てて断裂する。立ち上がることもできず、激痛に呻いた。

 〈龍王槍〉が尾から引き抜かれ、勝手にリュウモの手に触れる。

 『气』が供給され、リュウモの体が治癒される。破滅しかけていたリュウモは、槍によって助けられた。ふらふらと立ち上がり、槍を支えにする。

 

「ありが、とう、助かった、よ……」

 

 息も絶え絶えに礼を言った。しかし、槍かリュウモのどちらかが限界なのか、治癒が今以上に進まない。

 ――でも、十分だ。これなら歩ける。

 頭を上げているのも辛くなりうつむいた。視線の先にある『龍』の骨がまだ黒い線を浮かばせている。

 

「生きて、るのか」

 

 〈龍王槍〉は〈禍ツ竜〉の方へ引っ張ろうとする。止めを刺せと言っているのだろう。

 リュウモは故郷を滅ぼした仇敵の前へ歩いた。顔の前で止まる。浅くではあるが呼吸をしていた。

 

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」

 

 なにもできず、弱々しい姿をさらす仇の様子を、リュウモはただ見つめた。

 

「おれは、心の底から『竜』を憎いと思ったことなんてない」

 

 槍を手に、リュウモはぽつりと零した。双角をじっと見つめていたとき、憎しみは湧いてこなかった。

 『竜』の営みを目にしたとき、破壊してやりたいと思う暗い気持ちは湧き出なかった。

 

「でも、お前は()()

 

 故郷を焼き払ってきたこの敵が、憎い。

 〈竜守ノ民〉を殺したこの敵が、憎い。

 大好きなジジを殺したこの敵が、憎い。

 それでも――。

 

「それでも、おれがお前を倒すのは、憎いからじゃない」

 

 倒れている、真っ赤になった瞳を見下ろす。

 

「お前を倒すのは、命をかけておれをここに導いてくれた人たちの遺志を、壊そうとするからだ」

 

 槍を振りあげる。敵であった相手に、狙いを定めた。

 

「だから、ここで斃れてくれ」

 

 なんだか懺悔みたいだな……そう思いながら、リュウモは〈龍王槍〉を〈禍ツ竜〉に突き立てた。ぶちり、と音がした。

 槍を引き抜くと、命を刈り取った手応えが、生々しく掌に残った。

 全身が、枯れ木がたわむ時の音を出している気がした。どこもかしこも怪我だらけで、〈龍王槍〉が助けてくれなければ死んでいた。

 ――痛い……。

 傷のせいで、頭がぼんやりと重たい雲がかかっている。ドシャリ、と音がする。

 それが自分が倒れた音なのだと気付くまで、リュウモはすこし時間を必要とした。

 

「あ、れ……」

 

 まだだ、まだ『使命』は終わっていない。『龍』の頭骨は〈禍ツ气〉が残留したままだ。

 

「動け、動、け、動け……っ」

 

 辛うじて右手が動く。五指で骨の表面を捉え、体を引き摺る。

 ――お願いだ、もうすこしだから、動いて……!

 目の前が霞んで消えていく。体が強制的に暗闇に意識を落とそうとする。

 駄目だ、ここで意識を失ったらなんにもならない。

 ――動いてくれ、動いて、動いて、動い、動……。

 

 

 ――できるさ。お前はわしの大切な、誇り、生きた証。ああ、わしの孫なんだから。

 

 

 どこにもいない、ジジの声が聞こえた。

 

「――――ッッッ!!!!!」

 

 踏ん張る。失いかけていた意識が戻る。火が付いたように立ち上がって進み出す。

 〈竜峰〉はもう見えている。目に映っている。手が届く場所にある。

 ――行かないと。そうじゃないと……。

 家族の、一族の死がすべて無為なものになってしまう。だったらやるべきことはひとつだ。ひとつ以外ない。

 リュウモは全身を引きずるようにして、足を進める。進め続ける。

 やがて、頭骨の額部分に辿り着いた。

 眼下に広がる光景は、この世すべてを見下ろしているかのような錯覚を感じさせる。

 雄大な大地の緑がどこまでも広がり続けている。

 リュウモは理解した。ここは、司令塔だ。この大地に指令を飛ばす、尖塔。

『龍王』の遺骸から作られた笛でもって『气』を吹き込み、その意思を余すことなく伝えきるために大地が作り出した塔。自分は、指令を正確に伝播させるための演奏者なのだ。

 だからきっと、世に絶望したまま笛を吹けば、『气』は奏者の意思を伝え、世界を滅ぼしてしまうのだろう。

 

「――――――」

 

 リュウモは〈龍赦笛〉を握って、口をつけた。なにを吹けばいいのかわからない。

 どうすれば『竜』を鎮める音楽を奏でられるのか、知るわけがない。村に伝わっていたどの調べを演奏すればいいのか、理解できるわけがない。

 リュウモは『人』であって『竜』ではないのだ。――だから、なにを奏でればいいのかは、笛が教えてくれた。

 〈龍赦笛〉が『气』を走らせた。その動きをリュウモは追った。自然と指が動き、息を笛へと送り込んだ。

 笛より流れ出たのは、体が寒気立ち、怖気立つほどの澄んだ音だった。同時に、なにかを強く頭ごなしに命令する、きつい調べのようにも感じられる。

 リュウモは、ただただ、必死に笛が指し示すまま、命令を飛ばし続けた。

 

 

「む? 止まった?」

 

 ガジンが丁度、二百匹目の『竜』を仕留めた矢先、彼らの動きがぴたりと止まった。

 辺りは酷い有様だ。木々はなぎ倒され、焼け落ちている。その真っ只中に〈八竜槍〉のガジンは、突然止まった『竜』を不審がる。

 

「――リュウモがやったのか?」

 

 疑問に答える者はいなかったが、ガジンの言葉を証明するように『竜』に変化が起きた。突如あらわれた時と同じく、体がほどけて消えて行く。蚕の糸をほどいて絹にしていくように、歪んだ『气』が浄化され、真っ白になって大気に溶ける。

 濃い霧が晴れて行くような光景だった。〈禍ツ气〉に蝕まれた『竜』はすべて、大地へと還っていった。

 

「はあ……とりあえず、終わったか」

 

 ガジンは安全を確認すると〈竜化〉を解いた。体を一度休めるために倒れていた木に腰かけた。

 ガジンは〈竜峰〉の方へ目を向けた。事が終わったのならば、リュウモはこちらに向かって来るはずだが、怪我で動けない可能性もあり得る。

 

「迎えに行ってやらねば」

 

 休息を終えたガジンが立ち上がると同時、〈竜峰〉の反対側から、ロウハとイスズの二人が歩いて来た。

 

 

「終わ……った――」

 

 笛が伝えて来たすべてを模倣し終わるのと、『竜』たちが静まったのは、同時だった。

 〈禍ツ气〉から生まれた『竜』は大地へと還って行ったようで、峰の下からいくつかの『气』が白い霧となって天上へと噴きあがって行っていた。

 それが『使命』の終わりを告げていた。

 強い日差しと、立ち昇る濃霧に似た『气』とが合わさって、雪を陽光で照らしたかのように、きらきらと世界が光を乱反射させていた。

 蜃気楼のようにすべてがぼやけて、輪郭をふわふわと溶けさせている。

 普通では見られない超常的な景色を、リュウモは呆然として目に焼き付けていた。

 自然が生み出す以上の、神秘そのものといっていい景観が、ぼろぼろになった体のすべての痛みと疲れを忘れさせた。

 すこしずつ白い『气』の霧が晴れて行くと、後ろでいくつかの気配がした。

 リュウモが後ろを向くと、ガジン、イスズ、ロウハの三人が、歩いて来た。大きな怪我はしていない。

 彼らが無事で、リュウモはほっとした。どこもかしこも痛む体を動かし、三人を安心させようと歩こうとして――――視界が下へ向かって落ちた。目には頭骨の色しか入らなくなった。

 

(あ、れ……?)

 

 リュウモは、自分でもびっくりするほど体に力が入らないことに驚いた。それから、体から感覚が抜けていくと、強烈な眠気が襲って来た。

 

(そう、言えば……)

 

 ――こんなことが前にもあったっけ。

 そうだ。ガジンたちを〈龍赦笛〉を使って助けたときだ。笛を吹いたあと、それなりに動けたはずだが、今回は長時間の使用だったためか、指先どころか目さえも動かない。

 それに、体の疲れはもう限界をとっくに超えている。酷使し続けた心身は、ここに来て深い休息を欲してきた。リュウモは、その二つに今回は黙って要求を受け入れた。

 

「しっかりなさいッ!」

 

 鈴を激しく鳴らしたような声を最後に、リュウモの意識はそこで途切れかけた。

 

「よくやった、よくやったぞ、だから死ぬな!」

 

 よくやったぞ。

 ああ、それは、きっと、自分が大好きな人に一番言ってもらって嬉しかった言葉だ。

 

(爺ちゃん……)

 

 もういないたったひとりの家族。そうだ、自分はただその言葉だけのために……。

 ――そっか、おれ、爺ちゃんに、褒めてもらいたかったんだ。

 ふわっと、誰かが頭を撫でた。

 

(爺、ちゃん……)

 

 その感触を忘れるはずがない。リュウモはなけなしの力を絞り出し、ほんのすこしだけ首を動かした。

 白い、朧気な影があった。

 

(爺ちゃん……!)

 

 おれ、やったよ。頑張ったんだ。だから――。

 

『よくやったぞ、リュウモ』

 

 ただそれだけを言って、影は消えて行った。三人には見えていないのだろう。必死にリュウモに話しかけている。

 リュウモは、微笑んだ。すべてをやり遂げて、心から脱力する。

 ――目蓋を閉じた暗闇の奥で、みんなが笑っている気がした。




 次回、最終話。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 終幕

「あれから、色々とまあ大変だった。戻るのも一苦労だったが、歳のせいか〈竜化〉を長時間使用した後だとどうも体が思うように動かなくてな」

 

 ガジンは墓の前で呟くように死者に語り掛ける。陽は高く、国はいつものような日常を取り戻していた。世界が滅亡の危機に瀕していたのだと知る者はすくなく、『竜』に対する迅速な対応に帝を称賛する声が多くあった。

 

「…………これでよかったのか、私にはわからん。だが、判別はつかぬが国は良かれ悪しかれ変わっていく」

 

 ちょんっと墓石の上に蜻蛉が止まり、羽を休めた。季節はすっかり夏になっていた。

 

「ガジン様、お時間です」

 

 背後で気配を殺して忍んでいたゼツが言った。

 

「ああ、わかった」

 

 ――そっちでよく見ていろ。いずれ話しきれない土産話を持って行く。

 ガジンは墓を後にした。無人となった墓石を、強い陽射しが照らしている。蜻蛉が、空へと飛んで姿を消して行った。

 

 

 すべてが終わった後、いくらかの混乱が起こったものの、皇国はいつも通りに廻っていた。

 〈八竜槍〉のガジンが帝に翻意した――というのは噂話にすぎず、秘密裏に行おうとしていたことが明るみに出てしまい、結果として帝の命に逆らったように見えた。

 そういった流れが作り出され、他の貴族――特に『外様』の者達は訝しげな態度であったが、帝が是とするならば、否も是になるのである。

『竜』に関する事件が、その『秘密裏に行われた』こと以降、ぱたりと止んだとなれば決定に異を唱える者はいなかった。真実を知る者は、口を閉じている。

 

「此度の件、皆よく働き、協力してくれた。まずは礼を言おう」

 

 玉座に座る帝が口を開いた。

 

「だが、解決したとはいえ、問題が浮き彫りにもなった」

 

 浮き彫りになった『問題』がなんであるのか。心当たりがある貴族は、罰が下るのではないかと戦々恐々としていた。

 帝は、そんな彼らを尻目に、言葉を続けた。

 

「今回のように〈竜槍〉の使い手が複数必要とされた場合、やはり今の人数では心許ない。これは単純に、個々の技量云々ではなく、数の問題だ。それゆえ、余は〈八竜槍〉選定の儀を執り行うことを決定した」

 

 貴族の間に、緊張が走った。

 

「領の負担を考慮し、五年に一度であった儀の間隔を、三年に一度に短縮し執り行うものとする」

 

 驚愕が広間を満たした。帝はさらに続けた。

 

「また、今回の件を鑑み『外様』から三名、『譜代』から一名、選ぶものとする」

 

 帝の決定に、今度は不満と疑問が広間を浸していく。

 

「解決が円滑に進められたのは『外様』であるガジンが、各領主との間で緊密に連携したことが大きい。『外様』の出身でしかわかり得ぬ事柄も多々あると判断したためだ」

 

 説明には一応の納得を示す者もいたが『譜代』達は不満顔である。

 反対に『外様』は喜色満面な者達が多い。当然である。〈八竜槍〉に同じ出身者が増えれば、自分達の要望も通りやすくなると考えているからだ。

 既得権益を貪っている『譜代』にもきつい一撃を加えてやれるとも思っている。

 と、ここで『譜代』の中から挙手をした者がいる。ホウリだ。

 なにか、厄介なことを言いだすのではと『外様』は警戒する。

 帝が発言を許し、ホウリが言い出した。

 

「あのぅ……『譜代』が一名に『外様』が三名だと、一人足りない計算なんだと思うんですが……」

 

 がくっと、『外様』の警戒が薄れた。今聞くことか! と眉間にしわを寄せている者が多かったが、ホウリが言ったことは大多数の貴族が聞きたかったことだ。

 計算に合わないという指摘に、帝はうなずいた。

 

「すでに一人――『外様』から〈竜槍〉に選ばれた者が出た」

 

 帝の思いがけない発表に『外様』が色めきだった。彼らからすれば、自分と同じ『外様』から〈竜槍〉に選ばれた者が出たのは、望外の喜びだろう。

 不快感を隠しもしなかったのは『譜代』のハヌイとその周囲にいる取り巻きたちだ。

 決められた手順によって槍士を選び出し、その中から厳しい訓練を経て選りすぐられた一握りの者のみが〈竜槍〉を手に取る資格を得られる。

 それでも資格のみで〈竜槍〉から認められるかはわからない。だからこそ〈八竜槍〉になるには、どれだけ難しいのかは誰もがわかっている。

 そういった手順を一切合切、すべて無視して進められたのが、ハヌイ達は気に食わないのだ。だが、帝は彼らに一瞥もくれない。取り合う気が無いのは明らかだった。

 

「入って来るがいい。新しき〈竜槍〉の使い手」

 

 帝の声と同時に、閉じられていた広間の扉が開かれた。

 奥から、小さな影が歩いてくる。手には、槍が――〈竜槍〉が握られていた。貴族は、見慣れない槍に目を細めたが、槍自体が放つ異様な空気に、それが〈竜槍〉であるのだと強制的に理解させられた。

 呆然として、貴族はその影が帝の前にひざまずくのを見ていた。

 

「あ〈青眼〉……」

 

 恐れを含んだ声が、そこかしこから聞こえた。ざわめきが広間に充満すると、以前と同じようにロウハが床を槍の石突きで叩き、全員を黙らせた。

 

「この者が、その『外様』の一人。新しき〈竜槍〉の使い手よ」

 

 帝は決定事項を告げた。

 

 

 喧騒の中、リュウモは帝の次の言葉を待っていた。彼は騒ぎが収まるまで、言いたい放題周りにさせておくつもりらしい。視線と言葉が突き刺さり、言われも無いものまで聞こえてくる。

 心の底まで深く根付いた恐怖や忌避感は、たとえ〈禍ノ民〉の血を引く者が〈竜槍〉の使い手となっても、簡単には変わらない。

 〈竜槍〉に認められた者をこき下ろすような発言は、端的にこの国の中枢にいる人々の根っこにある恐れを示している。

 ガジン、ロウハ、イスズの三人には決して向けられない険悪の感情が向けられることに、リュウモは別段、なにも感じなかった。彼らをどうしても責める気にはなれなかったのだ。

 リュウモだって神ではない。悪口を言われれば、イライラするし、腹も立つ。言い返したくもなる。でも彼らだって、きっと好きでこっちを嫌っているわけではない。だったら、変えていけるはずだ。変わっていけるはずだ。

 彼らは、自分と同じ人なのだから。

 

(そうだ。この人達は、おれと同じ人なんだ。いつかは、必ず死に至る)

 

 人も『竜』も『龍』も、いつかは死へと溶けて消えて行く。〈竜峰〉に眠っていた『龍』達のように、〈禍ツ竜〉のように。

 遅いか、早いか。

 自然か、強制か。

 何事かを為したか、為さないか。

 至るまでの大きな違いはあれ、結果は決して覆ることはない。

 ならば、やはり過程というものは重要だ。

 ――おれは、なにができるのだろう。いや、死に至るまでなにを為すべきなのだろう。

 疑問に思っていた一つの答えを、帝は用意してくれた。

 答えは決めた。だからここにいる。

 『使命』は終わりを告げ――しかし、自分の人生はまだ続いて行く。

 ならば、濁流の勢いに逆らってでもなにかを為すべきだ。

 皆も、自分も、いつかは、死の闇に命を横たえる日が来る。だから――。

 

(おれは、為すべきことを為す。生きて、生き続けて、そして……)

 

 必ず死ぬ。

 だから、定められた命が終わる、その瞬間まで歩き続ける。

 ――おれは、生きていく。為すべきことを為すために。

 それがきっと、枠組みから外れてしまった者であろうとなかろうとできる、人としての最良の選択なのだ。だから、歩いて行く。示された道を、ゆっくりとでも、着実に、しっかりと。

 リュウモは聞こえてきた帝の声に、顔を上げ、槍を手にした。

 未来は、誰にもわからなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。