リをンに変える旅 (いのかしら)
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プロローグ

1560年。この年の日本をを室町時代と戦国時代、どちらの枠で括ろうとするかは、人によって別れるだろう。室町幕府の存続で語るなら室町時代であるし、室町幕府の影響力の低下と群雄割拠の時代を語るなら戦国時代であろう。

だがどちらの時代においても、この年はその時代の日本の一つのターニングポイントになった事だけは事実である。

 

桶狭間の戦い

 

人によっては田楽狭間の戦いとも呼ばれるが、この一つの合戦は日本各地に大きな影響を及ぼした。

甲駿相三国同盟の解体、越相同盟の成立、三河松平家の独立再興、そして何より織田信長を尾張の一勢力から天下の一大名へと押し上げたのである。後の世への影響は計り知れない。

そして細川晴元を追放し畿内の覇者となった三好長慶の覇権に陰りが見え始めるのも、またこの頃である。

 

そしてその頃、日本の西の九州では、豊後の統一から筑前に進出せんとする大友宗麟、薩摩を統一した島津貴久、肥前を抑え、筑後にも勢力を伸ばさんとする龍造寺隆信が覇を競うなか、鉄砲伝来の地種子島の北にある大隅半島。この地にはとある奇妙な勢力が存在していた。

 

ジャパリ(パーク)

 

獣のような人の子とそれを支える間違いない人間(パークガイド)による勢力である。

 

彼らがいかにこの地に勢力を成したかは分からない。彼らの存在もまた謎に包まれている。

しかし彼らもまた若き当主ジャパリかばんの『みんなのために、できることをしたい』という大志のもとに集い、九州の小勢力から天下の一大名へと上り詰めていくことになるのである。

だがその道のりは平坦なものでは決してない。隣接するは名将が揃う島津家。さらに国力も島津家が上回る。彼らの本来の敵、セルリアンよりもはるかに強大である。

それにいかに対処するか。それを語ることなしにジャパリ(パーク)を語ることは出来ない。

 

ジャパリをジャパンに変えんとする長い長い旅が、ここに始まろうとしていた。

 

 

 

 

ボスダヨ

 

 

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この作品は『信長の野望・大志』iOS版を使用していくよ。

ここからはこのゲームをプレイする上での話をしていくね。

『信長の野望・大志』には自分のオリジナルの武将を作ることができる「武将編集」という機能があるんだ。

そこでこれを使ってけものフレンズのアニメ登場キャラクターとJRAコラボキャラ計61人を武将として追加したよ。

アプリ版のキャラクターとPPPのライブを観に来た時に出ていたキャラクターは作者が詳細を分かっていないから入れてないよ。ゴメンネ。

 

武将の能力値は登場次第それぞれ公表するよ。

登場する時代だけど、1560年に1話登場キャラクター、そこから2年ごとに2話、3話登場キャラクターと追加していくよ。

だから2年後にはジャガーとかコツメカワウソとかが出るし、11話に出てくるセルリアンハンターたちは1580年登場だね。

他のWindows版だとキャラクターの画像が取り込めるらしいんだけど、iOS版だとやり方が分からないから汎用の画像の中から作者の独断と偏見のもとに顔をチョイスしたよ。似てなかったらゴメンネ。

 

ジャパリパークにする大名は大隅半島の肝付氏にしたよ。

ここにした理由はジャパリパークを九州地方に照らし合わせた時、最初のさばんなちはーと場所的に会うのが肝付氏だったからだよ。

伊東氏にしようかとも迷ったけど、流石に作者のプレイスキルで大友と島津を同時に相手にするのは厳しいよ。

今回は肝付氏の武将は追放しないで、パークガイドとして協力してもらうよ。

 

プレイする上で縛りを入れるよ。

まずは親善禁止。これは他の大名との関係を改善するものだけど、きゅうしゅうちほーはジャパリパークだから、それを不法占拠するセルリアンに資金を使ってまで仲良くなろうとはしないよ。向こうから言ってきたら吝かでもないけどね。

続いて武将の処断禁止。有能な敵武将を処断すると敵が弱体化するけど、登用に応じる人はようこそ ジャパリパークへ。応じない人も解放するよ。

またある勢力を滅ぼしても、残った武将を全員登用したりはしないよ。一旦全員解放してからジャパリパークへの参加を希望する人だけ登用するよ。降伏した家が滅ぼした家に全員登用されるのは変だからね。でも来る人は拒まず、去る者追わず。このスタンスでプレイするよ。

 

果たしてかばんの大志は成し遂げられるのか、ゆっくり楽しんでいってね。




更新は間が空くかもしれませんが、完結はさせます。テストプレイは成功したので。



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第1話 旅の始まり

1560年 2月

 

ジャパリかばんが家督を継ぐことに異論のあるものはいなかった。

少なくともそれを声を大にして主張する者はいなかった。

先代の(パーク)の長が早死にしている中で、その子がただ1人しかいないとなれば、家中統制と外敵対応のためにも必然の帰結であった。

目立った後見人はいない彼であったが、若い頃からフレンズとは思えぬほど知性の誉れ高い彼に、フレンズとパークガイド、国人領主、小大名は信頼を寄せ始めるのである。

 

まだこの時はその最大の仮想敵にして九州の三本の指に入る勢力、島津家に対抗する象徴として、ではあったが。

 

 

ジャパリパークは国人領主や小大名の集合体に過ぎず、その主とされたジャパリ家もまた強い権限を持つものではなかった。その中でも家老(パークガイド主任)として大きな権限を有していたのが肝付氏である。名将肝付兼続、その子良兼を筆頭としたその一門は肝属郡一帯から志布志方面へ勢力を張っており、その地は島津家から奪取したものであることからもその強さが伺える。

この家はジャパリパークとはかばんの父、祖父と血縁を結んでおり、ジャパリパークはこの家無くして成り立たないのは自明であった。

他にも南部の根占城、国見城を拠点とする禰寝(ねじめ)氏。この一族は一時期屋久島を奪取するなど精強な海軍を有し、かつ対明貿易(ほぼ密貿易)で海産物などを輸出し利益を上げていた。

他にも安楽氏、伊地知氏などの小勢力だけでなく、カバやアライグマといった一門の庶子の系統の者も、いざという時は反旗を翻しかねない存在であった。それがこれまでの歴史が積み重なった結果、ジャパリ一門は数多の小勢力となっていたのである。

この緩やかな統合を維持する為にも、かばんは先代らと同様合議中心の政治体制を取らざるを得なかったのである。その点は鎌倉時代以降薩摩、ひいては大隅、日向守護であり血筋上優位のある島津家には劣っていた。

 

彼が家督継承の席で

「みんなのための天下を、みんなとともに造る。それがぼくの望みであり、それに邁進すると誓います」

と述べたのも、間違っても

「ジャパリの繁栄のため」

などとは発言できなかったからである。

「それを妨げんとするものが、ぼくらの外にいます。それがぼくらが地を襲うとしても、この地に踏み入れることは許しません」

というのも、ここ5年で西大隅へ勢力を伸ばす島津家に対し、対島津で纏まる国人領主や小大名の揺るがぬ願いであった。

 

かばんは禰寝氏の遠戚のフレンズ、サーバルを娶る。これは彼らの若き頃からの関係、というだけではなく、やはり禰寝氏との関係強化が何より優先された結果である。幸運だったのは彼らがそれ以前から交友を重ねていて、その先の夫婦生活も基本円満であった、ということだろう。

同時に一門庶子のアライグマと安楽氏一門のフレンズ、フェネックの婚姻も執り行われた。やはりこれも彼らの若き頃からの関係だけではなく、血縁関係の強化が優先されたためであった。

だがこの後フェネックは特に内政面においてアライグマよりも政務に携わることになる。

 

 

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ジャパリかばんはまず牧畜と漁業の振興に力を入れた。これもやはり領内北部の廻、東部櫛間といった馬の産地や、南方の佐多麗漁港が他の小大名の領内にあったため、国力増強以上に彼らの機嫌取りの性格を有していた。

同時に宿場町を建設して各拠点への流民の誘致を進めていった。これは内部から情報の漏洩や治安の悪化、ひいては領内の農民の流民化を呼びかねない紙一重の政策であったが、治安は対島津家も見据えた兵力の増強をもって対応するとした。

結果当時のジャパリパークは国力の限界に近い兵力を抱えることになった。が、この政策の振興以降1年以上九州南部で大きな戦乱はなかったため、治安上大きな問題が沸くこともなかった。

 

そして何より農業も勿論だが、彼らへの財源確保のため商業の振興にこれまで以上に力を注いだことが挙げられる。領内各地の商業都市に出先機関を設け、農兵の警備投入による治安保証及び座の権限保証の継続と引き換えに、商人からの収入の確保に成功した。

これにはシラス台地であり米作には不向きな土地柄なため、米作の発展に限界があった一方で、ジャパリまんに使用するにふさわしい代替え作物もなかったこともある。

のちの条件も組み合わさり商業の発展も相まって、対明貿易も含めたこの資金源は、ジャパリ鉄砲隊や騎馬隊の充実、侍の増強に繋がるのである。

その先駆けとして領内中部細山田では鉄砲の実践運用に向けて鍛治師が集められ、元から数丁持っていた鉄砲を元に鉄砲の製造が僅かながら開始された。

勿論農業に何も手を打たなかったわけではなく、肝属川、雄川の流域の開墾、堤防工事はこの後武人としても知られるジャパリ一門庶子カバによって進められた。これはのちにある者によってさらに大々的に行われるが、それはのちのお話。

 

その資金を用いてここ数年で奪取した志布志周辺の防衛強化が行われた。北の都から志布志に至る道中の御在所岳と宮田山、霧岳を中心に、兵糧を前線に送る簡易的な道の敷設と入念な地形調査が行われた。この指揮をとった者がフェネックである。

天体を用いた正確な位置情報に裏付けられた地図と砦の配置は、この後の対島津家を語る上で欠かせないものとなっていく。

 

「アライさーん、西側の山での砦の配置を決めたから、そこに行って印を打ってきてー」

「任せるのだ!印はこの木の杭を持っていくのだ!」

駆け出したアライグマをフェネックが呼び止める。

「アライさーん、そっちは西じゃなくて東だよー」

「また間違えたのだぁ!」

「慌てなくていいよ、アライさーん」

こんな感じで部下に惚気具合を見せつつ計画はぼちぼち進められた。

 

その間に桶狭間の戦いで織田家が勝利しようと、里見家が北条家に滅ぼされようと、南部家が三日月を丸くしようとしても、田村家が相馬家に呑まれても、関門海峡と豊後水道より向こう側は構うことではなかった。むしろ翌年大友家が筑前の秋月氏に侵攻し、大商業港博多を奪取しようとしてもなんら変わらなった。ただこの間に島津家が動かなかったことが外交の全てであった。

 

 

翌年も引き続き同様の政策が執り行われた。成果を見出すにはまだまだ早い。内政は民のための長期の投資と思わねばならない。昨年は大きな天候不順もなく出来高は普通。この年も天候に恵まれ、豊作とはいかないまでも平年増しくらいの収穫はあった。

「今年も無事収穫が手に入って何よりです」

「でも気を抜かず、肥料の手配と重点的に与える場所を選定しますわよ」

強いて変わったことは定期的な合議のために各地の国人領主、小大名と連絡を取り合う使者のための道が商用にも有効であったことを受け、片鎌槍なる豪華な槍を商人らが合同で献上してきたことくらいであろう。これはジャパリパークのおたからとして保存された。

またこの道は兵站の改善にも役立ち、移動時の兵糧消費の減少に繋がった。

 

 

薩摩国 内城

島津家一門衆とその庶子、そして国人衆は秋の収穫を確保したのち登城を命じられた。

「皆の衆よくぞ参った」

一段上に座すは島津家当主、島津貴久である。その脇は義久、歳久、義弘ら息子たちが固めている。

「今年は年貢がよく収められていると聞く。誠に素晴らしきことよ」

「これも父上の政の賜物にございます」

「うむ。そこでだ、これを用いて今年こそさらに薩州の外に出たい、と考えておる」

「昨年目立った戦もなかったために民心も落ち着きを見せています。冬までに動くならば今しかないかと」

家臣団も目立った反発はない。彼らにとっても恩賞を得る折角の機会である。

「戦を仕掛けるのは良いが、相良、伊東、ジャパリ。どこへ行く気だ?」

前方にいた貴久の父、島津日新斎が扇子を片手に口を開いた。

「父上ならご存知でしょう?」

「……ジャパリか」

「ええ、あそこは去年若い子が継いだばかり。あの有象無象が集う大隅を纏められているとは思えませぬ。一度撃破すれば勢いはこちらに流れるでしょう」

「それに伊東は背後に大友が、相良は阿蘇がおります。どちらも手を貸されては厄介です」

「逆にこちらがジャパリ攻めに動いた際に攻め込まれることはないのか?」

「大友は現在筑前攻略と伊予の宇都宮攻めに終始しております。防衛の兵ならともかく、攻めの兵まで援軍を送ることはないかと。そうなれば伊東単独で動くとは考えづらい。

相良はこれまで家老として力を持っていた丸目氏と相良氏との協調が崩れつつあるようです。こちらに兵を送る余力はありますまい」

「逆に攻め込めば向こうを対島津家で纏めさせかねない、か」

「その点ジャパリは援軍が送られる可能性がありません。伊東との繋がりはこちらがほぼ遮断可能です」

「……そうか」

「異論はあるか?」

あるはずがない。

「では皆のもの出陣の支度をせよ。ジャパリを打倒し、再び薩摩、大隅、日向三国を島津のものとせん!」

 

 

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ボスダヨ

なんか文字が多いね。

実はね、このハーメルン挿絵を投稿できる数に限界があるんだ。

今までの様子を見るに100枚くらいかな?

これからも写真はどんどん使っていくから、一話あたりの数は抑えめになるよ。

見辛かったらゴメンネ。

 

プレイ方針はただひたすらに対島津家だよ。

 

軍事は農兵をギリギリまで増やすよ。お金は開発に使うから足軽はまだ雇わないよ。こうしておかないと島津軍の数に劣って、向こうが全軍突撃を使いやすくなるんだ。それをされると負けるから兵数を増やしてさせないようにするよ。

農業は開墾1、草刈り1、灌漑1と3つの労力を使って、肥撒きと良種、草刈り、灌漑は1番値の低い拠点に、開墾は流民が多い拠点で行うよ。

開発は領内の商圏に進出してもお金がないから、拠点の近くに宿場町と術策塾を優先して建てていくよ。フレンズは基本知略が低めだから、それを底上げするためだね。

知略は合戦の際は部隊の防御力になるから、損害を抑える点でもプラスだよ。今作は兵士の数は継戦能力でしかなくて、武将の能力が何より重要だからね。パークガイドの安楽さんが地味に術策塾を高レベルまで育てられるから、プレイしててありがたかったよ。

あとは作中で言った通りフェネックに志布志の近くで砦を作ってもらってるよ。もう一つ島津家に近い垂水は砦を建設するスペースがなかったよ。

 

それでキャラごとの紹介も写真が使えないから、字面で紹介するよ。キャラ紹介だけで写真61枚は使えないからね。

まずは1560年登場のフレンズ達だよ

 

ジャパリかばん

志 大一大万大吉

 

統率 79

武勇 46

知略 94

内政 84

外政 80

 

作戦 囮挑発戦法

戦法 策士

能力 法家、教養人、講和功者

 

ツヨイネ。特に知略。

これでもテストプレイよりは弱体化させているよ。

戦法は紙飛行機使ったり火を使った囮が多かったから安心と信頼の囮挑発戦法。戦術は敵を混乱させる策士だよ。

大名だから『信長の野望・大志』の特徴、志が影響してくるよ。かばんの志は「大一大万大吉」、石田三成の志だね。

もうね、「みんなのために、出来ることをしたい」だけから引っ張って来た感じだね。大谷吉継の「断金の契り」にしようかとも迷ったけど、説明文の「呪われた身」がどうも違和感あってやめたよ。

 

志特性はこんな感じだよ。6つの利点と2つの欠点があるよ。その利点のうち4つは条件を満たすことで解放されるよ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

初期から3ヶ月に1回行われる評定で得られる施策力が増えるのが単純に強いよ。初めから施策のツリーを埋められると、滑り出しがスムーズになるからね。

欠点の一つの親善は今回使わないから意味なし。ただ紀伊か近江に行かないと鉄砲商圏がないのが辛いね。

大名以外は志影響しないから、基本カットするよ。

 

 

サーバル

 

統率 52

武勇 63

知略 46

内政 47

外政 65

 

作戦 全軍突撃

戦法お調子者

能力 韋駄天

 

あまり強くないよ。知略は「わかんないや」の一言で下げたよ。

武勇はバスを持てる力で底上げ、外政はみんみパワーだよ。

お調子者は正直防御力が下がるからあまり積極的には使わないよ。

 

 

トムソンガゼル

 

統率 46

武勇 58

知略 42

内政 51

外政 49

 

作戦 全軍突撃

戦法 臨戦

能力 守城心得

 

不動明王だね。

アプリではサーバルと並ぶお転婆娘と聞いたから、統率は低めだけど、武器持ってるから武勇は少しあげたよ。

動かないから能力は守城心得だね。

 

 

シマウマ

 

統率 56

武勇 43

知略 47

内政 53

外政 39

 

作戦 囮挑発

戦法 足止め

能力 守城心得、騎馬配備

 

ナメクジだね。

能力はそこまで高くないけど、騎馬配備持ってて騎馬隊のステータスが上がるよ。

 

 

アートウルフ

 

統率 41

武勇 44

知略 47

内政 46

外政 58

 

作戦 神出鬼没

戦法 死兵

能力 騎馬配備

 

 

出そうか迷ったけど、声だけは登場しているから最初から参加させたよ。騎馬配備のための人材だね。

 

 

カバ

 

統率 69

武勇 77

知略 65

内政 58

外政 64

 

作戦 本陣斬込

戦法銀の鯰尾

能力 守城心得、利水上手、薫陶成性、家中統制

 

初期の主力人材だね。

銀の鯰尾は蒲生氏郷の戦法だよ。かばんがピンチの時に救援に入ったから、叱咤の上位互換の鯰尾を採用したよ。あとは敵を正面から捉えたから本陣斬込にしたよ。

カバは水場の守り神みたいなものでしょ。

 

 

アライグマ

 

統率 37

武勇 56

知略 35

内政 41

外政 47

 

作戦 大将先駆

戦法 お調子者

能力 荷運奉行

 

弱いよ。勇気はあるから武勇は高めだけど、それが明後日の方向に発揮されるね。でもこれより悲惨な一条さんという方がいらっしゃいましてね……

 

 

フェネック

 

統率 68

武勇 43

知略 73

内政 67

外政 70

 

作戦 神出鬼没

戦法 叱咤

能力 検地奉行、教養人、地形偵察

 

これまた初期の主力人材だよ。アライグマをサポートしているから統率は高め。頭もいいから知略はトップクラスだよ。内政、軍事両面で活躍してもらうよ。

 

 

ボス

 

統率 76

武勇 22

知略 76

内政 85

外政 65

 

作戦 囮挑発

戦法 男伊達

能力 小荷駄押、法家、都市計画

 

ボクダヨ。ラッキービーストはヒトがまともにいなくてもフレンズにジャパリまんを混乱なく供給しているから、統率をあげて小荷駄押を付けたよ。内政も高いね。

でもピンチの時は混乱するから外政は少し下げたよ。また手がなくて武勇は低いね。これまたテストプレイよりは弱体化しているよ。

戦法は男伊達。ひっくり返すと伊達男だね。照れるね。この戦術は劣勢時に自分を強化しつつ敵を引きつけるものだけど、これが黒セルリアンをおびき出したシーンを連想させたから採用したよ。

 

 

ここからはパークガイドの皆さんだよ。

 

 

肝付兼続 きもつき かねつぐ

 

統率 72

武勇 69

知略 49

内政 54

外政 49

 

作戦 神出鬼没

戦法 用心

能力 守城心得、商圏経営

 

主力人材だよ。統率が高めなのがいいね。知略は術策塾でカバーしていくよ。

もとは大隅の戦国大名で、初めは島津家を支援していたけど、のちに対立関係になって戦い続けたよ。そして勝って最大判図を築いているよ。強いね。

 

 

薬丸 兼将 やくまる かねまさ

 

統率 46

武勇 51

知略 47

内政 52

外政 47

 

作戦 囮挑発

戦法 臨戦

能力 士気向上

 

なんとも言えないね。開発の初期段階で活躍してもらうよ。

 

 

安楽 兼寛 あんらく かねひろ

 

統率 54

武勇 58

知略 64

内政 60

外政 63

 

作戦 神出鬼没

戦法 臥薪嘗胆

能力 守り神

 

先程言った安楽さんだよ。安楽氏は肝付氏の血縁だね。

臥薪嘗胆は劣勢時に防御力を上げてくれるから、結構使えるよ。守り神持ちなのもありがたいね。

知略もそこそこあるから、守り神との組み合わせで術策塾の強化に尽力してもらうよ。

 

 

禰寝 重長 ねじめ しげたけ

 

統率 42

武勇 46

知略 59

内政 62

外政 62

 

作戦 囮挑発

戦法 太鼓持ち

能力

 

禰寝氏の当主だよ。

内政が高めなのは救いだけど、対明貿易とか内政に力を入れていたにしては交易商とか商圏経営とかは持ってないよ。辛いね。

 

 

肝付 兼盛 きもつき かねもり

 

統率 56

武勇 47

知略 42

内政 47

外政 42

 

作戦 神出鬼没

戦法 気勢崩し

能力 守城心得

 

肝付さんの一門だよ。気勢崩しは相手を弱らせるからありがたいね。

 

 

肝付 良兼 きもつき よしかね

 

統率 59

武勇 62

知略 59

内政 51

外政 55

 

作戦 囮挑発

戦法 用心

能力 韋駄天、鉱山経営

 

そこそこ強いよ。用心は農兵中心だと士気が落ちて潰走してしまうことがある気がするよ。足軽中心になると強いけどね。

 

 

伊地知 重興 いじち しげおき

 

統率 54

武勇 56

知略 62

内政 43

外政 53

 

作戦 神出鬼没

戦法 急襲

能力 間者諜報

 

知略高めなのがありがたいね。最初期は部隊も率いてもらうよ。急襲は敵の損害を増やしてくれるけど、そっちに部隊が使われると挟撃しづらいから、あまり使わないよ。

 

 

この16人で始めていくよ。

 

 

志特性が解放されて兵糧消費が減ったり、御用商人から槍を献上されたりもしたけど、まずはこの島津軍を撃退するよ。でもチート軍団だよ。

まずは鬼島津こと島津義弘。武勇と統率の合計値なら上杉謙信に次ぐ天下2位のステータスだよ。しかも固有戦法の鬼島津を使うと初期から攻撃力200とか叩き出してくる化け物だよ。これに精鋭農兵や精鋭足軽がつくと手が付けられないよ。

ちなみにボクの初期の攻撃力は35だよ。どれだけヤバいかご理解頂けるかな?

それに当主島津貴久、その子義久、歳久、家久の兄弟。おまけに山田有信、島津日新斎、新納忠元、川上久朗、島津忠将などの有力武将がゴロゴロいるよ。強いね。

 

果たしてかばんたちはいかにジャパリパークを守るのか、楽しみにしていてね。



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第2話 泰野の戦い

島津貴久、志布志奪還のため直々に出陣。

 

その情報は大隅の諸勢力に緊張を走らせた。

その数は10000を超えると言われた。大隅諸勢力が連合して最大限動員しても、その数には及ばない。

さらに噂や各勢力の独自の調べで、その陣容がさらに驚きのものとなった。

島津貴久を筆頭に島津義久、島津義弘、島津日新斎、島津忠将ら一門に加え、新納忠元、山田有信なども有力な配下も参加していると推察されたのである。

島津は、確実に大隅を従えんとしていた。

 

これに対しジャパリ家も評定にて全力で対抗することを確認。すぐさま各勢力に援軍の要請が出された。

使者の為の道も利用して何とか集まったのが7000人、もともと国力に比してかなりの数の農兵を抱えていたジャパリ家が、商圏の最低限の治安維持や城の防衛を考慮して動員しうる最大数であった。

ジャパリ一門、ジャパリ庶子、肝付氏、禰寝氏、安楽氏、伊地知氏ら数多の勢力が収穫後何とか兵力を捻出した結果である。

これらが島津家が集結する都城に対峙しうる志布志城に集められた。

 

島津家と野戦を取るか、それとも引きつけて籠城か。これは野戦と早々に決まった。資金を割いた志布志北方の防衛施設の活用と援軍の可能性の低さを考えれば当然であった。

島津家が都城出立準備の情報を聞くや、ジャパリかばんは出陣を決定。

出陣の儀式を執り行い、勝栗や昆布、干し鮑を食したのち、酒ではなく武将一同で一杯の茶を回す。この茶は出来れば栂尾のものを使うのが、ジャパリ一族では伝統であった。茶の生産はまだ出来ていない。

これは米が栽培しづらいこの地で酒には加工しづらかったこともある。

 

 

ジャパリ家の部隊の特徴として、鉄砲隊の編成とその集中運用が挙げられる。ジャパリかばんは細山田の鍛治に作らせた鉄砲を配下の兵の半数400人に与え、弾薬も全て配り尽くした。無論鉄砲は作らせた数だけでは到底足りず、禰寝氏を通じて明の商人から南蛮経由で取り寄せたものもある。その資金も商圏からの収入が大きく働いた。

また廻や櫛間から上納された馬も騎馬隊として編成し、肝付兼続がこれを指揮した。

兵には前から農閑期を中心に訓練を施し続けており、1年という時間が得られたことは、それをより効果的に運用する余裕を与えた。

問題は資金調達の為に夏頃に備蓄米の一部を売却していたため、長期に渡りこの大軍を動かすことは望めなかったことだった。

 

3日後、両軍は大隅と日向の国境、泰野で違いを認識した。ここに九州情勢を大きく動かす泰野の戦いが幕を開けたのである。

 

 

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森の多いこの地でジャパリ家は偵察は少数の者に任せ、部隊としてはほぼ全てを霧岳周辺に集結させた。そして砦からの兵糧の補給を受けながら、霧岳と宮田山の狭間で部隊が縦に伸びる時を待ったのである。

そして時はきた。島津忠将率いる部隊が島津貴久本隊とともに突出。

 

 

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この隙を側面に展開していた肝付兼続の騎馬隊と、山の裾に潜んでいたジャパリかばん本隊が突いた。

約半分、200丁の銃撃を仕掛け、怯ませたところに騎馬隊の急襲。

「今です!ボスさん、お願いします!」

「マカセテ」

 

 

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さらに反対側の側面をボスが突き、そこに200丁の銃撃を加算。鉄砲の運用においては元祖と言うべき部類に入る島津家だが、それでも一斉射撃と相次ぐ奇襲を前に島津忠将隊は混乱状態に陥った。

その背後にいた島津貴久隊にまで混乱は波及。何とか統率はとれたものの戦うどころではなく、都城までの撤退を余儀なくされた。

しかしジャパリ家側も島津日新斎と樺山善久がその後退を支援した為追撃をかけることはできず、敵に損害を与えることはおろか損害はこちらの方が多くなってしまった。

 

 

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この戦いはその日のうちはおろか、たった数時間で幕を閉じた。だがこの戦いによる勝利はジャパリが天下に並び立つ1つの起点となったのである。

 

戦闘の内容がどうであれ、有力な武将を捕縛するようなこともなかったが、島津貴久直々の軍を退けたことは事実。

ジャパリの武名は上がり、大隅支配は一層強固となった。

一方島津家側は大規模な軍を動員しながら城1つ取れなかったことに国人領主の不満が溜まり、都城に帰還した島津軍は軍を派遣するには拠点の内城で再編成しなければならなくなった。

 

島津軍、都城から後退。

この報を受けたジャパリ軍は大きく2つの考えに割れた。

一つはこの戦績で満足すべきとする派。追撃の失敗により兵質の差を認識させられた中で、進撃して勝てる保証がないならこの勝利を最大限喧伝し、勢力安定に繋げようと主張した。

特に兵糧が継戦するには不十分との認識と、島津側からの講和を願い出る使者の来訪もそれを後押しした。

これを主張したのが当主ジャパリかばんと禰寝氏。禰寝氏は本拠地から遠いこの地に長期間動員し続けるのは、民政に影響を与えるとの読みもあった。

もう一つが勢いに乗って進撃し、都城の奪取を狙うべきとする派。泰野での勝利で士気が高く、勝つなら今しかないとの考えがあった。

これを主張したのは肝付氏、伊地知氏、安楽氏、それにジャパリ一門のアライグマ、カバらである。安楽氏、カバを中心とするサバンナ衆は所領が島津家との境界付近にあり、その影響を排除するに越したことはないとの考えもあった。

 

「ここは島津の大隅からの影響排除に動くべきですわ。今を置いて他に時はありません」

「はっはっは!ジャパリパークは強いのだ!島津なんてまた来ても蹴散らしてやるのだ!」

「こちらの士気は上がっている。このまま国力差がある状況で対峙するより、それを少しでも埋める方に動こうではないか」

「しかし先の戦いを見るに、都城への援軍との戦いではこちらにも重大な被害が出ます。勝てたとしても果たしてその復旧が速やかに可能なんでしょうか……」

「都城を落とせば志布志、伊東領も含めて飫肥城を孤立させられる。城を1つとってつ2つ取れるようなものだ!」

「兵糧の余裕もありません。仮に都城で援軍に撃退されれば、動員を再びかけても動かし続けられないでしょう。そうなれば大隅は終わりです」

「だがこれ以上の機会をこの先島津が与えてくれるとも思えん。動くしかない!」

 

結局禰寝氏が兵数の半数弱を帰還させて都城攻略に協力を申し出たため、ジャパリかばんも都城攻めに動かざるを得なくなった。

部隊は南之郷、橋野、梅北を経由して都城を包囲。援軍の可能性を考慮して、泰野周辺の砦から道を整備、延長させつつ、兵糧攻めを行った。

敵城主は島津一門の島津義虎。救援軍出陣の報も伝わっていたらしく、一月包囲を続けても降伏する兆しはなかった。

そして島津貴久が都城救援のため出陣。島津忠将、島津義弘の一門に加え、新納忠元、山田有信、伊集院忠朗ら有力家臣が従っていた。先の泰野の雪辱を晴らさんとしていた。

 

都の戦い、または主戦場の名を取り上川東の戦いが幕を開けた。

 

この戦いは泰野の戦いと異なり、双方1500人以上の死傷者を出す。ジャパリ側は樺山善久隊を側面から奇襲し、これを潰走に追い込む。

しかしここに救援に駆けつけた島津義弘が奮闘。さらに潜んでいた野伏隊がカバ隊や伊地知隊を奇襲。

しかし野伏隊の一つを伊地知隊、肝付兼続隊が辛うじて食い止める間に、フェネック隊や安楽隊、ボス隊が奮闘して野伏隊の伊集院隊を潰走に追い込み、中央を突破。島津義弘も側面を突かれる形となり、捨てまがりをしつつの後退に追い込まれた。

これを受けて島津貴久は家臣の進言を止むを得ず飲む形で撤退を決断。この都の戦いもジャパリ側の勝利となった。

だがジャパリ側は城の包囲を続ける関係上、追撃や武将の捕縛などは出来なかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

援軍の撤退。さらに打って出た城主島津義虎が援軍とともに後退。これは都城の士気を挫く時間を大きく短縮した。

都の戦いから4日後、城主代理を務めていた上井覚兼が城兵の生命の保証を条件に開城に応じた。

かばんはこの履行を徹底させ、上井覚兼も登用に応じないと知るや即座に解放。

臨時城主に一門のボス、補佐に肝付良兼を任じ、島津家に都城の獲得を承認することを条件に講和を提案する使者を派遣して、軍を解散。

1561年12月、九州南方での2ヶ月以上に渡る戦いはひとまず落ち着きを見せたのである。

秋月、宇都宮攻めを終わらせた大友義鎮が鶴崎踊を通じて大友宗麟と名乗ったのもこの頃である。

 

 

 

ボスダヨ。

なんとか最初の山場、対島津防衛戦に勝利出来たね。

作者の基本戦法は左右どちらかの陣周りに兵を集めて、ノコノコやってきた敵を囲んでタコ殴りにすることだよ。

囲んで棒で殴る。これ以上の戦法を未だ人類は発明してないからね。

作戦は信頼と実績の囮挑発戦法を良く使うよ。囮隊に引きつけて側面から奇襲をかけ、囲んでいくよ。

これはこの先鉄砲隊や騎馬隊の比率を増やしても変わらないから、今後戦闘シーンはカットしていくよ。写真もそんなに載せられないしね。

 

今回の戦いで都城を奪取したかばんたち。果たしてこれで島津の勢いは弱まるのか。戦いはこのまま終わるのか。兵糧は足りるのか。僕の活躍は続くのか。

 

次回もヨロシクネ。



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第3話 仮の平和

講和の交渉は平行線を辿った。

 

島津家側は、戦勝が続くこの時に講和を言い出してきたのは、ジャパリ家がこれ以上兵を動かす余力がないからだ、と推測。それを利用すれば戦で負けた分は外交で取り戻せると判断した。

都城の返還までは行かずとも、ジャパリ家の年間年貢収入にあたる量の兵糧やジャパリ家の保有する鉄砲の半分を提供することを条件に、都城の割譲を受諾する旨を伝えた。

最悪向こうが受諾しなくとも、収穫前に再び軍事行動は可能であったため、時間稼ぎの側面があった。

そして仮に受け入れたら、こうして力を削り次勝てば良いとまで踏んでいた。

 

ジャパリ家としてはこのような条件を飲むことは出来なかった。

ジャパリ一門や国人衆総出で出陣して何とか確保した城である。

その為の国人衆の負担は相当なものであり、さらにそこから講和の為に物資を徴発されてはたまったものではなかった。

肝付氏やその一門、庶子を中心に評定は憤怒の声であふれた。

本人が来た者は本人が、来れない者は使者を代役にして怒りをぶちまけさせた。

ジャパリかばんとしても国人衆がそのように反発する中でその声に逆らえるはずもない。

霧島神宮が仲介に入って相互の使者が交渉を行っても、纏まる兆しは見出せなかった。

 

その状況でジャパリ家側ではある一つの案が浮上した。

都城の奪取で実質的に薩摩と切り離された飫肥城を奪取する、というものである。

都城の奪取により、飫肥城から薩摩へ向かう2つの道の結節点を抑えることに成功しているため、都城の防衛さえ出来れば援軍を送ってくることはない。

そしてこちらが軍事行動を起こす余力があれば、島津家も強引に要求を押し通すことは出来まい、との予測が立つからだった。

これはかなり有効と思われる判断だった。

味方の城に援軍さえまともに送れない。それだけで薩摩の国人衆の不信感を煽るのには足りる。

兵糧が足りるか分からない、という問題を除けば。

 

だがジャパリかばんはこれに乗った。ただし再び全軍を動員する訳ではなく、西大隅の守りとして垂水のカバや禰寝氏、伊地知氏は動員せず、ジャパリ嫡流と肝付氏、安楽氏の兵が、冬の農閑期を使って兵を出した。

やはり冬でも雪は少ない大隅だからこそ可能だったことである。

1562年1月、大将ジャパリかばん、副将肝付兼続率いる3000の兵が櫛間を経由して北郷時久の篭る飫肥城を包囲した。

これに対し島津家は都城または垂水城の攻略軍を編成しようとしたが、薩摩北部の国人衆が先の2度の敗戦を受けて表作の不足による裏作従事や対相良氏の警戒を理由に派兵を拒否。

援軍の編成は思うようには進まなかった。

 

そして北の相良氏にも動きがあった。

これまで若き相良義陽の補佐についていた丸目氏の丸目頼美が出奔。さらに上村氏の反乱も鎮圧したことで、相良氏は名和氏を除く南肥後支配権を確立させた。

これを受けてかばんの指示のもと対島津で動くべく工作が行われ、名和氏への対抗や天草の安定を優先させたい相良氏も島津の牽制には価値ありと捉えこれに応じ、前線であった薩摩大口への兵員を増強させた。

これが北薩摩の国人衆が派兵を渋った理由として大きい。

 

その間に飫肥城を包囲したジャパリかばんの軍は兵糧攻めを取った。城内には千を超える兵が残っており、強攻すると損害が増える恐れがあった。

また兵糧攻めの姿勢を見せることでジャパリ家に継戦能力があることを示そうとしたのである。

海上は大隅半島の先、佐多麗近海に禰寝水軍が展開され、薩摩からの援軍と補給の遮断を狙った。

そして戦意の落ちている中で耐えること一月、北郷時久が開城したことで、島津家は日向に持っていた所領の多くを喪失することになった。

さらにここで相良氏が犬童頼安を使って講和の斡旋を申し出てきた。

この講和を阿蘇、大友といった有力大名が支持を表明した上、断れば北から阿蘇氏と同盟を結んだ相良氏が動く恐れがあったため、島津貴久はやむなく講和を受諾した。

 

その結果ジャパリ優位で講和が結ばれ、都、飫肥城はジャパリに割譲。

その代わりに島津側の要求となった2年間の停戦が盛り込まれた。

そしてこの朗報の訪れを象徴するように、肝付兼続に息子が誕生した。

 

この戦の結果、ジャパリの国力は島津にかなり近づいた。

北郷氏を中心に国人衆の多くは引き続き島津側にその多くが逃れたため、所領の割譲をする大きな余裕が生まれたのである。

まず飫肥城とその城下の飫肥、南郷は肝付氏に、男鈴山までは安楽氏に与えられた。残された北郷氏の一部はこれに服従した。

一方末吉城の財部土持氏は娘としていたフレンズを養女として差し出した上でジャパリ家に屈服。この娘こそのちにジャパリ四武神の1人となるジャガーである。

一方で末吉以北の都城にはジャパリ一門の嫡流に近いボスがそのまま正式に残り、高崎方面もその支配下に収めた。

 

それ以外にも他の庶流や領内の士官希望者の中から、ジャパリかばんの目を経てキングコブラやインドゾウといった名将が現れるのも、またこの時であった。

ジャパリは確実に大地と人の力を取り込んでいったのである。

 

 

ボスダヨ

ついに挿絵が消えたけど、ボクもやっと城主になったよ。

さてゲーム的には無条件講和を受け入れない島津に作者がキレて飫肥城も分捕った訳だけど、兵糧があと2000くらい、4000以上の兵を動かすと一月以内に兵糧が切れる量しか残ってないよ。

これは今年は軍事行動起こせないね。

あとは1562年になったからジャングルちほーのフレンズが仲間になったよ。

数も多いし、育てればあとあと一線級で使える人材が手に入ったよ。

 

オセロット

 

統率 47

武勇 48

知略 53

内政 54

外政 37

 

作戦 森林強襲

戦法 臨戦

能力 守城心得

 

森林強襲は強いけど、奇襲を決められないと意味ないよ。

 

 

マレーバク

 

統率 54

武勇 43

知略 52

内政 61

外政 43

 

作戦 森林強襲

戦法 逸り気

能力 輜重心得

 

ジャパリまんおいしいジャパリまんおいしい

逸り気はあまり役立たないよ。

 

 

フォッサ

 

統率 51

武勇 53

知略 58

内政 61

外政 68

 

作戦 神出鬼没

戦法 突撃

能力 韋駄天 名奏者

 

かなりかばんたちと話してたから外政高めだね。

 

 

アクシズジカ

 

統率 46

武勇 54

知略 53

内政 56

外政 49

 

作戦 森林強襲

戦法 臨戦

能力 地形偵察

 

土おいしい土おいしい

領外の土は舐めればわかるよ。

 

 

キングコブラ

 

統率 68

武勇 69

知略 63

内政 61

外政 64

 

作戦 双頭の龍

戦法 急襲

能力 攻城心得 家中統制 名奏者

 

それは紛れもなくやつさ

今後の主力メンツの一人だよ。

そして何より今作最強の戦法(作者基準)、双頭の龍を持ってるよ。

強いね。

 

 

ミナミコアリクイ

 

統率 47

武勇 43

知略 45

内政 51

外政 41

 

作戦 囮挑発

戦法 気勢崩し

能力 守城心得

 

なんだよぅ、あっちいってよぉ

 

 

インドゾウ

 

統率 64

武勇 74

知略 65

内政 54

外政 56

 

作戦 囮挑発

戦法 臥薪嘗胆

能力 守城心得 剣豪調練 農兵動員

 

優秀な人材だよ。巨体を生かして武勇高めなのがいいね。

もうちょい知略と統率低めでもよかったかもね。

 

 

クジャク

 

統率 54

武勇 48

知略 61

内政 57

外政 76

 

作戦 森林強襲

戦法 気勢崩し

能力 法家 家宰

 

クジャクです。

頭良さそう(独断と偏見)

 

 

タスマニアデビル

 

統率 49

武勇 55

知略 47

内政 51

外政 43

 

作戦 大将先駆

戦法 逆撫で

能力 守城心得

 

タスマニアデビルだぞ〜

逆撫で、強い

 

 

エリマキトカゲ

 

統率 46

武勇 42

知略 47

内政 45

外政 40

 

作戦 森林強襲

戦法 足止め

能力 韋駄天

 

ふぁぁ〜、びっくりしたぁ〜

 

 

オカピ

 

統率 54

武勇 52

知略 46

内政 52

外政 59

 

作戦 囮挑発

戦法 お調子者

能力 士気向上

 

オカピだぞ〜

 

 

コツメカワウソ

 

統率 39

武勇 43

知略 42

内政 61

外政 71

 

作戦 川舟下り

戦法 太鼓持ち

能力 荷運奉行 流民統制

 

カワウソ「わーい!」

流民「たーのしー!」

な宿場町を作る人材ダネ。

 

 

ジャガー

 

統率 77

武勇 81

知略 46

内政 67

外政 61

 

作戦 川舟下り

戦法 突撃 老虎咆哮

能力 小荷駄押 水軍調練 交易商 家宰

 

頼れるエースジャガーだね。

今後も使って育成していくよ。

 

とりあえずこんなものかな。

全国情勢としては九州は秋月が無事大友に食われ、上杉が関東に南下。飛騨は武田が食べて美濃の北部にも乗り出したよ。

あとは南部が斯波、稗貫、葛西を食べようとしてるね。



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第4章 動乱の中へ

1562年の秋、ジャパリ家の中は平穏であった。

隣国はそうでもなかったが。

 

日向の伊東家の伊東義祐がジャパリに敗北した島津家の弱体化を突こうと、自身に服属する北原氏を通じて加久藤城に侵攻。

しかし島津貴久は息子義弘に命じ、直ちに兵を派遣しこれを撃退。

さらに北原領に侵攻し、伊東氏によって担ぎ上げられた馬関田右衛門佐を処断。

それどころか追撃に追撃を重ね、綾城と佐土原城を落としてしまった。

この大敗の結果伊東氏は米良氏などの国人衆の支持を失い、翌年に島津貴久が直々に侵攻すると、これに服属せざるを得なかった。

 

これに対しジャパリ家は特に何もしなかった。

講和を無視して攻め込むわけにもいかない上、戦を始めたのは明らかに伊東氏側。

さらに肝付氏と伊東氏の仲も良いわけではなかったため、支援する理由もなかった。

 

その間は2年間の猶予を活かす為道路網の更なる整備に注力。

特に拠点の鹿屋から都を直接結ぶ道は、後の軍の機動強化に直結した。

またこの道には関所の設置を殆ど認めなかった。

これにより大隅中央を縦断する商業ルートは肝付、志布志を通っていたルートから、新道へと切り替わってしまった。

また評定の為に使者を度々鹿屋へ派遣する中で、各勢力は関所の設置合戦の様相を呈していた。

しかしこれをジャパリ家が仲裁し、こののちジャパリ領内では関所の撤廃が進められた。

これらが出来たのは、結局島津に侵攻されて道を使われる状況になったら、ジャパリ家は終いという一種の諦めがあったからだった。

戦国大名ではなく纏め役。

負ければ各勢力は叛旗を翻す。ジャパリ家を滅ぼし、そのまま島津家に帰属する、そんなことも考えられた。

主がジャパリ家である必要はある程度あっても、ジャパリかばんである必要はなかったのである。

 

一方国人衆もただで関所の撤廃に応じたわけではない。

ある人物からもたらされた作物の栽培推奨が、その価値の高さから取り入れられたのが大きかった。

「これにぇ、おちゃ、っていうんだってぇ〜。

都でねぇ、流行ってるらしいゆぉ〜。

あ、こっちでも飲むのぉ?嬉しいにぇ〜。

たくさん作ったら堺あたりが大口取引してくれるかもしれないにぇ〜。

あ、このお茶碗はにぇ〜、確かちょっとお高い……」

「わたぁ〜しはぁ〜とぉ〜きぃ〜」

「ちょっとうるさいんですけどー!」

最新文化が種を背負ってやってきた。

ついでに最狂文化もやってきた。

 

 

農業にも変化が見え始めた。

道の整備の結果馬糞や魚のカスなどの内陸への流通が容易になり、自然肥料価格も低下。

肥料の使用量が増えたことで収入がわずかに上昇した。

この生産効率の上昇も相まって、ジャパリ家は兵力のさらなる動員を可能にし、また肥料を含めた商人からの上納の増加は、先の戦いで領土を分配されなかった勢力への恩賞を埋め合わせて余りあるものだった。

 

鉄砲の生産も一定の改善を見せた。

細山田の工房を中心に増産が進められ、何とか鉄砲そのものと弾は自力での調達と備蓄が可能になった。

しかし依然として火薬である硝石は倭寇である明の商人や、彼らを通じた南蛮商人との貿易により獲得されるものであり、そこまで大量運用するには至らなかった。

しかし一門の一人、といっても郎党の家系だが、キングコブラの策で生み出された、騎馬隊の一部に鉄砲を持たせ、鉄砲隊の一部には機動力を若干犠牲にして盾を持たせる戦法の開発は、この後対島津で大いに力を発揮する。

 

 

その間に九州情勢も動きを見せた。

1563から1564年にかけて龍造寺家は有馬家へ侵攻。

これを屈服させ肥前の統一を達成。

また翌年には攻め寄せた大友軍を撃退し、その勇名を九州に轟かせた。

一方で1564年、大友家は家臣の伊東一門を担ぎ上げ、伊東氏救援を名分に島津領へ侵攻するも、島津義久によって打ち破られた。

四国旧宇都宮領、河野領西部に拠点を築いてしまったがためにそちらにも注力しなければならなくなった大友家の弊害が、露骨になっていた。

 

 

中央も動きを見せた。

1563年、三好義興死去。

翌年、三好長慶死去。

ついに一代にして畿内を支配した三好氏は、その綻びを曝け出すことになった。

翌年には三好家と松永久秀により永禄の変が勃発。

足利義輝は討ち死にし、幕府機構はその機能を完全に停止した。

この復活には美濃を併呑した織田信長が六角氏と北畠氏を併呑するのを待たねばならない。

 

 

それ以外の地方では、東北では太平洋側を南部、日本海側を安東が南下。

南部は斯波、稗貫、葛西領の一部を、安東は浅利、戸沢、小野寺を併呑。共にさらに南へ拡大を狙っていた。

関東では南下した上杉政虎が関東の諸大名と手を組み北条の北上を阻止。

飛騨と美濃の一部を併呑していた武田信玄は、1563年に長男義信を切腹させ今川家との関係を手切れ。上杉が関東、越中に、松平が一向一揆に手一杯と見るや一斉に南下し、翌年には駿河、遠江を占領した。

今川氏真は北条氏を頼り、北条氏は武田との関係を手切れし、越相同盟の締結に道をつけたが、関東支配を目論む北条氏と関東管領を名乗る上杉氏はやはりウマが合わず、次第に北条氏は武田との関係改善に動き出した。

西国でも動きがあった。毛利元就は尼子晴久死後の尼子家中の内紛を利用して一気に石見、備後、そして出雲へ侵攻。尼子氏を数年で本拠地月山富田城に追い詰めた。毛利氏が西国の覇者となるのは、目と鼻の先であった。

 

そして1565年、講和から3年。

ジャパリ家では侍の試験雇用に目処が立ってきた頃、島津貴久は秋の収穫を待って、ジャパリ家の大隅支配の瓦解を狙い錦江湾横断を指示。

垂水城奪取に向け約2万の兵で進軍を開始した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

ジャパリかばんは再び評定を開き、島津家の迎撃を決定。今度は都城、飫肥城も含め何とか計1万の兵を動員。

しかしその数は島津家の半分に過ぎず、他の国や有力者たちの間ではジャパリの敗戦が濃厚と見なされ、一部ではジャパリや肝付の債権の叩き売りまで行われたと言われている。日向端を狙われるのと大隅本土を狙われるのとでは、やはり衝撃の度合いに大きな差があった。

だがジャパリかばんは鹿屋城に集めた各地の兵を統率し出陣。垂水城に入った。

 

「キングコブラさん」

皆で茶を回して夜も更けに更けた頃、ジャパリかばんは一人でキングコブラのもとを訪れた。

「何だ、頼みごとか?」

「明日、騎馬鉄砲隊を使います」

「……正気かい?まだ数は200もいないんだよ?

馬上だと弾の装填にも時間が掛かるし、銃声に驚かない馬の確保も不十分。まだ本格運用出来る段階じゃないよ」

「それでもです。負けたら、我が家は終わりですから。

被害が相手よりも出ている今、いくら勝ってもこちらは力を削がれる一方です。何としても被害を、それも島津の家が揺らぐ被害を与えないと、希望はない。

指揮をお願いします」

「……運用するだけじゃなくて、私が指揮?

……他の者が首を縦に降るかね?」

「中央には知らせず別個で動いてもらいます」

 

 

この策は成功した。

銃撃のち移動して銃撃。

その繰り返しは島津側に鉄砲の数を誤認させたとも言われている。

のちに雨が降ればジャガーとボスの率いる騎馬隊が突入。

島津忠将隊は潰走。後方の貴久隊にも波及し、島津軍は混乱に陥った。

これを追撃し、ジャパリ家はついに島津側に2倍以上の損害を与える大勝利を挙げたのである

 

 

【挿絵表示】

 

 

その勢いのまま北上を開始。

廻周辺、加治木城近郊までの拠点を即座に制圧したのち、霧島山を迂回して加久藤城を包囲。日向の島津領と薩摩の遮断に動いた。

しかしただで見過ごすわけにはいかない島津貴久は救援軍を2回派兵。

しかしこれらはジャパリ軍によってともに撃ち破られた。

2ヶ月後、翌年1月、加久藤城は開城。城代の園田実明は投降のち解放された。

この結果旧伊東領との関係が遮断され、島津家は窮地に陥った。

この度重なる敗戦の責任を取って島津貴久は嫡子義久に家督を譲り隠居。

義久としてもジャパリに弱腰を見せるわけにはいかず、再度の加久藤城奪還を狙ったが、ジャパリ軍は島津が対等講和を飲まないと見るや日向に侵攻。騎馬鉄砲隊の壊滅と引き換えではあったが、この地を守っていた島津義弘を宮崎の戦いで撃破した。

これを受けてこれ以上領土を失陥することを恐れた島津義久は講和を受け入れ、包囲されていた佐土原城からジャパリは兵を引いた。

 

1566年、勝ち続けるままに領土を広げたジャパリ家は、島津と勢力として肩を並べるに至ったのである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

その間に名和氏を取り込んだ龍造寺隆信が天草に侵攻。さらに水俣城を抑え相良氏と対峙するに至った。

相良氏とは国境沿いでの商取引を認めていたが、こののちジャパリは九州を飲み込む外交の輪にパーツの一つとして組み込まれていくのである。

 

あと愛洲宗通が剣を教えにやってきた。

 

 

ボスダヨ。

また勝ったよ。これで貯金じゃなくて年収で島津と張り合えるようになったね。

でもまだまだ気は抜けないよ。こう見えても島津は強いからね。それ以上に双頭の龍が優秀なだけで。

 

それで今回も新たなフレンズが加わったよ。こうざんちほーさばくちほーだね。

駆け足で行ったから同時に紹介するよ。

 

 

アルパカスリ

 

統率 49

武勇 56

知略 54

内政 87

外政 72

 

作戦 本陣切込

戦法 臥薪嘗胆

能力 守城心得 利水上手 鉱山経営 教養人

 

強力な内政キャラだね。

かばんが来るまでずっとかふぇで待ってたから臥薪嘗胆持ちだよ。

 

 

トキ

 

統率 42

武勇 46

知略 53

内政 50

外政 56

 

作戦 神出鬼没

戦法 足止め 傾奇者

能力 韋駄天 荷運奉行

 

味方も敵もみんな防御力を下げてしまう傾奇者を持っているよ。前田慶次などが持ってるね。

トキの声はカラスみたいな濁った声で……

 

 

ショウジョウトキ

 

統率 53

武勇 52

知略 50

内政 50

外政 47

 

作戦 本陣切込

戦法 突撃

能力 民衆統制

 

ですけどー

 

 

スナネコ

 

統率 36

武勇 42

知略 46

内政 56

外政 50

 

作戦 神出鬼没

戦法 足止め

能力 薫陶成性

 

逸り気でもよかったかもしれないね。

 

 

ツチノコ

 

統率 51

武勇 61

知略 84

内政 83

外政 35

 

作戦 大将先駆

戦法 急襲

能力 守り神 商圏経営 国財運用

 

こちらも内政メインだよ。

後々活躍するかもしれないね。

 

 

これからもよろしくね。



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第5話 大隅統一

1566年夏 大友家 府内館

 

「……つまり旧伊東領北部は差し上げる、と?」

「はい」

角隈石宗、吉弘鑑理、臼杵鑑続ら大友家の重鎮が揃う中、ジャパリ家の使者、クジャクはその頭を上げた。

「ふむ……しかし昨年のジャパリの攻勢で加久藤城は落ち、陸路での薩摩からの道は遮断されたはず。そちらに頼らずともこちらは奪還できますぞ」

「確かにそれも可能でしょう。しかしそちらは肥前の龍造寺にも対処が必要なはず。大規模な軍勢を長期間日向に向けるのは危険では?」

「だがそれは伊東の復興を半分の領土でなさねばならぬ正当な理由とはなり得ませんな」

「なら肥後の相良の保護を仲介する、となったらどうでしょう?」

「相良か。確か龍造寺と組んだ名和氏に攻められていると聞いたが」

「相良が龍造寺に飲まれては大友は筑後と日向の二ヶ所で龍造寺と対峙せねばならないはず。その前に相良を生かして盾にするのは悪い話ではないでしょう?」

「……だが相良がその話を飲むとは思えないがな」

「ならば飲んで頂ければこの案を認めていただける、と」

「……」

 

 

1566年秋 大友宗麟、再び日向へ侵攻。

 

 

【挿絵表示】

 

 

これを受けてジャパリ家も大友家との約定通り、ジャパリかばん自ら兵を率いて日向へ侵攻を開始した。

大友軍は日向を守る島津義弘隊を撃破して高城を占拠。ジャパリ家はほぼ一戦も交えることなく佐土原城を奪取した。

そのまま勢いに乗るジャパリ家は薩摩本土で兵を集める島津家を尻目に禰寝水軍とともに種子島、屋久島に上陸。

現地の種子島家を追い出し、赤尾木城を占拠。また宮之浦もその手中に収めた。

 

ここにジャパリ家は大隅の統一を成し遂げたのである。

佐土原城はこの戦いの中で服属した伊東祐安に任せ、その補佐としてジャパリ家臣インドゾウを送り込み実質傀儡化。

また屋久島とその木材運用の権限は禰寝氏に与える一方、鉄砲産地種子島には養女ジャガーを送り込み、その支配を手中に収めた。

少しずつ、だが確実にジャパリ家は勢力伸長を図ったのである。

 

これらの一方で翌年夏には干魃が発生。さらにその翌年に続く南海大地震といった自然災害が相次ぎ、農民の生活を直撃し、軍事活動の停滞を促した一方で、これらの対応によって実地経験を積んだジャパリの文人官僚層は、のちの勢力拡張の中でも大きな役割を果たしていくのである。

 

翌年には大友家は鍋城に追い込まれていた相良氏を服属化。その際の派兵にジャパリ家も加担する中で、四国と龍造寺攻めに注力したい大友家と薩摩攻めに入りたいジャパリ家の思惑が一致。関係はますます強化された。

 

 

そして1568年秋、この年の春の大地震による影響も一定の落ち着きを見せてきた頃、大友家は四国河野家に侵攻。それを受けて背後を突くべく龍造寺家が筑後に侵攻。さらにその隙を突こうと島津家が肥後に侵攻する連鎖的戦争の中で、ジャパリの命運を定める戦が幕を開けようとしていた。

 

 

ボスダヨ

 

こっからマジでかっ飛ばしていくよ。

今回は大隅最後の城赤尾木城を奪取。商圏を全て完全に支配下に入れたことで大隅大商圏が成立したよ。これで収入もかなり安定してきたよ。鉄砲買い放題だね。

 

さて1568年、2人のフレンズが加わったよ。こはんちほーのフレンズ、アメリカビーバーとオグロプレーリードッグだね。

ちなみに2人は速攻で婚姻結ばせたよ。この時にツチノコとスナネコも婚姻させたよ。

 

 

ビーバー

 

統率 72

武勇 36

知略 79

内政 90

外交 46

 

作戦 五色備え

戦法 用心

能力 守城心得 利水上手 都市計画 築城名人

 

強いね。内政90あれは施設建設には苦労しないよ。

精神的に脆いから用心付けて外交は低めだよ。

 

プレーリー

 

統率 36

武勇 61

知略 42

内政 85

外交 56

 

作戦 大将先駆

戦法 突撃

能力 守城心得 築城名人 地形偵察

 

とりあえず突撃でありまーす!

 

これからもよろしくね

 



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第6話 薩摩へ

「侵攻すべし」

伊地知重興の言で1568年9月の収穫後に集められた評定は幕を開けた。

「島津は肥後を取った龍造寺を攻めるべく兵を薩摩北へ集めているそうじゃないか。だったら薩摩の中央は手薄になる。この隙を逃さない手はない」

「僕は……反対です」

ジャパリかばんが手を挙げた。視線が一斉にそちらに振り向けられる。

「龍造寺は大友を攻めるために天草からも兵を動員したと聞きます。龍造寺が阿蘇を服属させているとはいえ、島津からの防衛にそこまで大軍を振り向けることはできません。

その防衛軍が撃破された後に引き返されて反撃を受ける事態になれば、島津側の戦意が高まった状態で、島津軍を島津領内で迎え撃たなくてはなりません。

兵数は向こうが優勢な以上、深入りは避けるべきかと……」

「これまで通り、島津が攻めて来たら迎え撃つ。それでいいのでは?前回は大友と連携していたからいいとはいえ」

逆に大友領に近づいた肝付氏は、派兵を渋るべくかばん支持に回った。

「しかしかばん殿。偵察によると、我ら禰寝海軍は今なら錦江湾を抑えられますぞ。確かに北薩摩なら迎撃のち侵攻でも良いかと思われますが、鹿児島、内城を抑えられるならそれに越したことはない。その機会は今しかございませんぞ?」

島津が弱体化すればするほど自らの領土が安定する禰寝氏は侵攻を支持。そしてジャパリかばんの妻の血縁の関係上この案を無碍には出来なくなってしまった。

「確かに内城を落とせば島津の落日をまざまざと見せつけられる。たとえその後兵を引き返して来ても、その事実はかわらない」

「それを使えば薩摩の国人を引き込みやすくなろう」

北東は大友、北西は龍造寺。前はいくつもあったこの九州の勢力も、いつしか我らを含め4つしか自立していない。そしてそのうち2つはともにジャパリより大国。残る2つのうち1つがもう片方を呑まねば、どちらも大国2つに蹂躙される。

 

「評定中失礼するぞー」

鹿屋城に控えていた臣下の一人がふと広間の奥から顔をのぞかせた。

「なんだね君は!今は大事な評定の途中だぞ!」

「私はジャパリかばん臣下のタスマニアデビルだぞー。きっとこの評定に関わる重要案件が来たぞー。

加久藤城に龍造寺からの使者が来て、水俣防衛のための援軍を借りたい、との話だそうだぞー。

当主龍造寺隆信の花押の入った文書もあるし、まず本物だと思うぞー」

「龍造寺が……?なぜ我らに……」

「ちなみに、その使者は?」

「加久藤城で待たせているらしいぞー」

「……まぁ、理由は肥後を守る兵が足りない、といったところでしょう。大友とは戦っている最中ですし、手を借りるならウチしかいないでしょう」

「私は反対だな。この前大友と協力したばかりだ。その機嫌を損ねるのは良い手とは思えない」

「……しかしこうなるということは、肥後の守備に一応の兵は割く気でいるようだな。仮に負けたとしても、島津側に打撃を与えられればそれに越したことはあるまい」

「だが大友が何と言ってくるか……」

「大友は長宗我部攻めに動いた。ここでさらにこちらとの関係を悪化させにはくるまい。龍造寺には大友との戦には使わないとの確約を得よう」

「そんなのどうやって分かる?単独行動するなら連携取れずにさらに大負けするぞ!」

 

 

 

結果的に龍造寺による島津軍の足止めは有用。そしてその為に援軍の派遣。さらに鹿児島上陸を決行。これらが全て了承された。

確かに鹿児島、内城攻略の効果は城一つに遥かに勝る。

そして龍造寺と領土が接している以上、大友にさらに接近したとしても、龍造寺、島津の二正面作戦は避けたい。それにこの先薩摩を占領したとしたら、そこの占領地慰撫に時間を取られる。その間龍造寺とは戦いたくないのが本音。

全てが上手くいくことを期待して計画は回っていた。いや、正しくはジャパリ家が拡張する為に、勝つことを前提とせざるを得なかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

援軍は加久藤城の約2000を、ジャパリ家臣のキングコブラに率いさせて水俣城へと向かった。流石に負ける可能性が高い、敵兵を少しでも削るための作戦。誰も引き受けたがらなかった。

一方龍造寺からは援軍の条件として国境の関所を撤廃。また鉄砲を数百丁獲得した。そしてそれより少し少ない金額を、大友家に旧伊東領に建設中のセミナリオの運営援助の名目で支払い、大友宗麟とキリシタンの歓心を買った。

これはこの先鹿児島を獲得した場合、南蛮との付き合いの深化は図られるべき。そうなった際にカトリックからの印象は良くしておきたかったし、何より大友との関係悪化は避けたかった。

 

 

ジャパリ家は薩摩攻めを評定にて決定。ジャパリ家、肝付氏、伊地知氏などの約1万3千の兵を率いて、禰寝海軍の支援のもと錦江湾を横断し、鹿児島に上陸した。

しかしこの時既に肥後との国境付近に接近していた島津義久率いる島津軍はこの情報を伏せた上で、本隊は水俣へ向けて進軍していた。

一方で薩摩に残していた弟義弘を中心とした部隊を、内城に向けて進めようとしていた。

 

しかしここで思わぬ事態が起こる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

肥後に残っていた納富信景率いる龍造寺軍とジャパリ家援軍の連合軍が国境付近の久木野で数では倍以上の島津軍を撃破し、大きな損害を与えることに成功したのである。

内城に派遣された救援軍も2度にわたってジャパリ軍に撃破され、島津家の最大の拠点、内城はジャパリ家の手に落ちた。

かつて薩摩、大隅、日向三国の守護であった島津家。その終わりが確実に近づいてきていた。

 

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第7話 別れる道

薩摩北東部、平佐城

 

それまで知行地もなく城下の部屋暮らしであったある者が、各地で敗れ続ける島津軍の対応に他の者が追われる間、城代を務めることになっていた。

島津家久。島津4兄弟の末っ子である。

 

兄の義弘率いる伊作城救援軍は、東郷重尚、入来院重嗣らの国人衆がジャパリ側に付いたこともあって失敗。祁答院良重らも同調し、島津の薩摩支配はたった数ヶ月の間に揺らぎ始めていた。

 

日置郡の山田有信、伊集院忠朗らが抵抗を続けてはいたが、それでも一部の軍を拘束するのが精一杯。内城奪還はとても望める状況ではなかった。

 

兄らは徹底抗戦。薩摩を逃れざるを得ない状況になったとしても、他の大名を頼って薩摩を奪回する気でいる。

 

そしてその後間も無く伊作城は陥落。その後すぐ日置郡の諸城も陥落し、伊集院家はジャパリに降った。これにより南の坊津、山川、知覧への道は完全に閉ざされた。

 

最早兄らの懸念は現実のものとなりつつあり、そしてその脅威は自分の居る平佐城に迫りつつあった。

 

果たしてこのまま兄らについて行って薩摩を離れることになっていいのか。その向かった先で自分の立場は有るのだろうか。

 

 

 

ジャパリかばんは各地の城を落としながら平佐城、そして出水城を目指して進軍を進めていた。

平佐城近郊では何とか兵をかき集めた島津義弘率いる島津軍を何とか撃破。そのまま平佐城を包囲していた。

 

城兵からの大きな抵抗はなかったものの、包囲は一月近く続いた。しかしその間に援軍を送る余裕は最早島津家にはなく、平佐城は開城した。

 

そしてジャパリ軍を何より驚かせたのは、この時の城代、島津家久がジャパリ家への臣従を受け入れたことである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

取り敢えず島津家の子、ということで身柄を保証して内城へ送還し、城にオカピを仮の城代として残して、北の出水城へと向かった。

 

 

出水城を再び包囲する中で、島津家久の扱いを巡っては、諸将の間で議論が繰り広げられた。

 

まずは捕虜として扱い、今後の復帰を認めないとする者。これは島津との前線近くに所領を持ち、張り合ってきた伊地知、禰寝、サバンナ衆が中心である。

これからジャパリが薩摩を支配する上では島津の名は障害になる。その前に島津の名を貶め、新たな主としての力を示すべきだ、と主張した。

 

もう一つは今後の薩摩支配に協力させようとする者。ジャパリかばんを中心に肝付氏、安楽氏などである。

島津の名を使って国人衆を安心させることが、これからの統治の早期安定化に必須と主張し。一定の所領なども与えてしまおうとした。

特に家久は島津4兄弟の中で唯一正妻の子ではない。

彼を正統とすることが、逆に島津の地位を落とすことに通じ、それ以外に下手な手は打つべきではないと主張した。

 

どちらもこのまま島津家を薩摩から追い出せるとの確信のもとに主張がなされていた。

 

しかし目立った結論の出せぬまままもなく出水城が陥落。城代として残っていた島津勝久もジャパリに屈服した。残るは薩摩南方のみ。その中核をなしていたのは、知覧城であった。

 

しかしここにて島津軍は大将義久、副将義弘、歳久と拠点から逃亡した山田有信、猛将島津忠将、知勇兼備の新納忠元ら島津軍最強の部隊5000が知覧城近郊平山に集結。8000近くにまで減っていたジャパリ軍であったが、ここで決戦に挑むも、双方ともに死者2000近くの大きな損害をだす結果に終わる。

 

島津側も再編成する力はなく、一度両軍撤退した。

しかしこれによって北薩摩の国人衆がジャパリに表立って反旗を翻す訳ではなく、島津家の立場は悪くなる一方であった。

 

さらに翌年1月、のちのジャパリの大黒柱となる2人の武将、そしてかれらを支える勇将たちが、山賊狩りから身を起こしてジャパリ家を支えることになる。

ヘラジカとライオンである。

 

 

 

ボスダヨ

 

やっと島津征服まであと一歩まで来たよ

最後の平山の戦い、実際のプレイでは両方とも6000くらい損害だして、結局負けたよ

やっぱ島津は強いよ

特にこの頃になると場合によっては捨てがまり仕掛けてきて、躊躇なくこちらの兵力を削りにかかってくるよ。でもあと城ひとつだから、それ落としたら終わるよ

 

さて1570年になるから、へいげんちほーのフレンズが加わるよ

今後の主力にもなる面子だね

 

 

オーロックス

 

統率 68

武勇 83

知略 41

内政 42

外政 40

 

作戦 囮挑発

戦法 奥義一閃

能力 騎馬配備 剣豪調練

 

西も東も分からない程度の知略だね

 

 

アラビアオリックス

 

統率 69

武勇 81

知略 45

内政 41

外政 49

 

戦法 囮挑発

作戦 突撃

能力 鉄砲配備 守城心得 一揆鎮圧

 

紙の棒投げて兜に命中させていたから、鉄砲重視にしたよ

こちらも西も東も分からない程度の知略だね

 

 

ライオン

 

統率 91

武勇 95

知略 66

内政 54

外政 65

 

作戦 囮挑発

戦法 虎狩り 勝鬨の声

能力 守り神 剣豪調練 士気向上 築城名人

 

強い(確信)

ガチで強いよ

何度もヘラジカの攻撃から守り抜いているから、守り神が付いてるよ

 

 

ヘラジカ

 

統率 95

武勇 97

知略 40

内政 41

外政 56

 

作戦 大将先駆

戦法 鎮西一 六天魔王

能力 攻城心得 剣豪調練 士気向上

 

やぁやぁ私はヘラジカだぁ

こっちも強い(確信)

これから鎮西一の名に恥じない活躍を見せていくよ

 

 

オオアルマジロ

 

統率 56

武勇 58

知略 51

内政 43

外政 54

 

作戦

戦法 臥薪嘗胆

能力 守城心得

 

守りは固いよ

 

 

タテガミヤマアラシ

 

統率 59

武勇 56

知略 50

内政 42

外政 57

 

作戦 全軍突撃

戦法 用心

能力 薫陶成性

 

ブショウニナッタヤマアラシ

 

 

シロサイ

 

統率 44

武勇 78

知略 59

内政 41

外政 68

 

作戦 囮挑発

戦法 臥薪嘗胆

能力 守城心得 教養人

 

防御は固いけどスタミナはないよ

 

 

パンサーカメレオン

 

統率 49

武勇 43

知略 56

内政 54

外政 53

 

作戦 神出鬼没

戦法 忍び物見

能力 攻城心得 鉄砲配備 間者諜報 忍び斥候 地形偵察

 

ステータス低い分能力マシマシだね

完全にニンジャ

 

 

ハシビロコウ

 

統率 53

武勇 49

知略 63

内政 51

外政 31

 

作戦 全軍突撃

戦法 逆撫で

能力 農事知見 鉄砲知見 医術知見

 

見ることに特化させたよ

 

 

ニホンツキノワグマ

 

統率 63

武勇 56

知略 51

内政 43

外政 60

 

作戦 囮挑発

戦法 臨戦

能力 守城心得

 

育てればそこそこ使えるよ

 

 

これからもよろしくね



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第8話 九州三国時代

一度は撤退したジャパリ家であったが、北薩摩を掌握した以上島津の逆転はなくなった。北に警戒しつつではあるが、本腰入れて倒すことが可能になったのである。

 

1570年春、種を蒔き終わった大隅の農兵を引き連れ、鹿児島に上陸。家督争いの中で未だに態度を決めかねていた南方の頴娃氏を、血縁関係にあった肝付氏を通じて調略に成功。

ただでさえ追い込まれている上に背後に敵を抱えては、流石の島津でも抵抗の術はなかった。

薩摩南方の拠点知覧城を攻略後、坊津、枕崎、加世田といった島津の重要拠点を次々と攻略。夏の草刈りを前にして島津の勢力を薩摩から叩き出すことに成功した。

島津四兄弟のうち義久、義弘、歳久は薩摩を離れ、大友、龍造寺各家を頼り、島津家復興に動き出す。他にも山田有信、川上久朗、樺山善久など、彼らに従って薩摩を離れた者もいた。

甑島の小川氏も薩摩の情勢を受けてジャパリに屈服。

薩摩、大隅、日向三国の守護大名として絶大な力を誇った島津家は、こうして力を失ったのである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

最大の敵を排除したジャパリ家の前に立ちふさがったのが、薩摩の処遇である。

まずは島津宗家の直轄領を没収。他にも山田氏、川上氏、薩州島津家など島津宗家に付き従った国人領主の所領を没収。他にも遅参を理由に頴娃氏の所領指宿を没収した上で。久虎を後継者と認定。この領土は禰寝氏に与えられた。

また居城市来城にて抵抗を示した伊集院氏や、知覧城にて抵抗した佐多氏も城主から城代に格下げ、即ちジャパリの家臣化を命ぜられた。

一方で協力的な国人領主、東郷氏や祁答院氏などは本領安堵とし、大評定への参加も認めた。これによりこれらの国人領主の多くは、そのままジャパリへの協力を誓った。

 

しかしこれに抵抗を示したのが、大口城を中心に支配する菱刈氏である。

この家は所領微増の上出水城へ転封を命じられたが、菱刈重豊はこれを拒否。周辺諸勢力に反ジャパリの協力を呼びかけたものの、金銭の提供もありほとんど動かず、薩摩南方から引き返したジャパリ軍が北村の戦いで勝利して大口城は落城。菱刈重豊は龍造寺家を頼って落ち延びた。

 

島津宗家領や菱刈領は基本的に功績のあった諸勢力間で分配された。

 

鹿児島の街や菱刈、加世田はジャパリ宗家。

「大口へはアクシズジカさんとキングコブラさんに入ってもらいます。山ケ野金山の稼働を再開。そして早急に採掘規模を拡大させてください。鹿児島はコツメカワウソさんが家久さんの支援に入ってください。前からの実務官僚はその身分を保証してあげてください!」

「わーい!おもしろそー!」

 

谷山、喜入周辺はサバンナ衆。

「トムソンガゼル、対岸を任せますわ。禰寝の交易独占を防ぐように船舶の確保を急ぎますわよ!」

「……」

 

坊津へは地頭職の名目で、畿内の商人とも繋がりのあるアルパカスリを派遣して名目上独立。

「まかしてにぇ〜。龍造寺と仲がいい間は明や南蛮のお茶も手に入るといいなぁ〜」

 

姶良一帯は伊地知氏。

 

出水周辺は肝付兼続の息子兼亮を分家として独立させ、その領土を与えた。

 

安楽氏の系譜であるアライグマとその妻フェネックは旧山田氏の日置城とその領土を与えられた。

 

「はっはっは、ここをアライさんの偉大なる一歩とするのだ!まずは畿内では城下町?というのが流行ってるらしいのだ!それを作ってみるのだ!」

「あらーいさーん、まずは城下の大川の治水が先だよー。それに結構ここから兵力も動員されたみたいだし、場合によっては労役を免除したりして農民を休ませてあげないとねー」

「そ、そんなことしたら……」

「あらーいさーん、街づくりは百年の計だよー。それにここは鹿児島、伊集院と加世田、坊津を結ぶ道の中継地。道路建設とかでちょっと支援すれば、結構すぐ発展すると思うよー」

 

そして先述の通り、指宿と山川の周辺が禰寝氏に与えられた。

 

特に分家を作成した肝付家の大評定での影響力が高まるのは必然であった。

 

 

こののち一つの問題も解決が図られた。

ジャパリに臣従を誓った島津家久はジャパリ宗家に臣従させた上で、内城代と鹿児島の街の代官を兼任させることで決着した。

島津復興の名目で他家が攻め込んできた時を考慮すると、国人領主からしたらはっきり言って扱いに困る存在であったが、ジャパリが抱え込むことで良しとしたのである。

 

これはジャパリに基本的に良い効果をもたらした。

まずは商業港鹿児島の掌握の迅速化である。島津家当主の弟を通すことで、商人の、鹿児島の街を攻撃したジャパリへ冥加を上納することへの躊躇いを軽減させた。この資金をさらに投入することで、鹿児島の街は瞬く間に復興を遂げていった。

 

続いて島津の旧臣の登用である。

誰もが真っ先に島津義久に従って落ち延びていったと思った新納忠元が、ジャパリかばんの居城鹿屋城に現れたのである。

島津家の将来の復活を彼は条件として希望し、家久の系譜を正統とすることでかばんもこれを認めた。

また島津貴久の弟、相州家の島津忠将もこの条件を受け入れて仕官に応じた。

ここに知勇兼備の武将として名高い新納忠元や、島津家中でも猛将と知られる島津忠将は、ジャパリの家臣として大いなる活躍を見せていくのである。

 

他にも若手の上井覚兼、伊集院忠棟、長寿院盛淳らが内城の内政実務の陣頭指揮を執り、商業の発展と農業の早期回復に大きく貢献した。

 

 

一方で急激に領土が広がり、大評定に参加する者も新顔の割合が急に高まった。

そこで各勢力の有能な者を集めて作成されたのが、評定の決まりを軸に、評定のための使者の扱いなどを纏めた『ジャパリ家51ヶ条』である。

これは各勢力平等であることを示すため、円の外側に直径と同じ方向で代表者の名が裏面に記され、ジャパリかばんの名は紙の四辺いずれとも平行にならない位置にある。

 

この時は未だジャパリ家は諸勢力のまとめ役に過ぎなかったのである。

 

しかしこのジャパリ家による薩摩掌握により、九州は肥前、肥後、筑後を有する龍造寺。豊後、豊前、筑前、日向、伊予を有する大友、そして大隅、薩摩を有するジャパリの3勢力並立の時代が訪れたのである。

 

 

この間に畿内でも大きな動きが見られた。

永禄の変後対立を続けていた三好三人衆と松永久秀の対立に割って入る形で、足利義昭を担いだ織田信長が京を掌握。瞬く間に三人衆の勢力を畿内から駆逐し、松永久秀を従えた。

しかし幕府の実権を取り戻そうとする足利義昭は、まもなく信長と対立。

浅井、朝倉、石山本願寺、松永、比叡山延暦寺、山名、三好、そして武田を含めた信長包囲網の構築に動き出すのである。

 

 



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第9話 手切れと同盟

その後の大評定により、ジャパリ家は今後の拡大は控えることを決定した。薩摩、大隅双方の復興を優先したのである。

今回の薩摩攻め、ジャパリの側からしても厳しいものであった。南海大地震の影響もないわけではない中で、数ヶ月に渡り大軍を動員し続けたのである。その犠牲も少ないものではなかった。

また薩摩の方も度重なる動員と僅かな食糧を巡る乱取りの日常化により、人口、生産力共に停滞していた。この中でジャパリ家は大隅同様乱取りの禁止を薩摩にも適用。この年の収穫は一定の回復を見せた。

 

しかし1570年の夏、筑後に攻め込んだ龍造寺家であったが、四国攻めを取りやめ、その大軍を向けた大友家の前に撤退せざるを得ず、大友家はそのまま肥前勢福寺城へと攻め込んだ。

 

しかし鍋島直茂らの夜襲を受け、混乱した大友の軍勢は肥前から撤退した。この後逆襲をかけ、龍造寺家はついに筑後を掌握したのである。

 

 

これに気を良くした龍造寺隆信は家臣の忠告を無視して、それまで通商協定を結んでいたジャパリと絶縁、および出水城への侵攻を開始した。筑後、肥後の服属させた諸勢力も動員し、その数は4万を下らないとされる大軍であった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

これを受けて出水の肝付兼亮はジャパリ本家へ救援を要請。肝付氏が力を持つ大評定で否決されるはずもなく、大隅、薩摩双方から派兵することを決めたが、その数は必然劣るものになった。

 

総数は2万にも満たないものであった。その中では辛うじて損害が少なく、金銭収支も安定してきていたジャパリ宗家が最大兵力を送っていた。

 

こうして翌月には出水に集結したジャパリ軍であったが、出水より前方の水俣の方が地勢的に優位と知ったジャパリ軍は水俣へ進軍。龍造寺家との衝突に至った。

 

この後数度にわたるジャパリと龍造寺の戦いの初戦となる、水俣の戦いが始まったのである。

 

 

結果からすれば、この戦いはジャパリの圧勝で終わる。細山田のみならず種子島で拡大した鉄砲生産、豊富な騎馬、坊津掌握後拡大を見せる貿易収入。その力が存分に発揮されたのである。

 

 

【挿絵表示】

 

 

損害は倍以上。そのままジャパリ家は進撃し、佐敷城の包囲に入った。

 

しかしここで龍造寺家から補給用に肥後南部に送っていた大量の兵糧と引き換えに撤兵を求めてきた。それはジャパリ全領土の年貢収入の半分にも登るものであり、龍造寺の余力の大きさを見せることにもなった。

 

これに関して軍議は紛糾した。兵糧はあるとはいえ、数万もの大軍を再度動員する力はないと思われ、反撃する力はない、とする肝付兼続ら継戦派と、撃退の目標は達成されたので講和を飲むべきだ、とする講和派。これは薩摩の国人衆などの多くが主張した。しかし肝付氏は出水の領土防衛を無くせると踏み、強硬になった。

 

しかしここでジャパリかばんが動く。

実質独断でこの講和を纏めてしまったのである。

 

最大兵力を動員したジャパリ宗家が撤退すれば、継戦派の軍勢のみで龍造寺には対抗できない。負ければ先の勝利の意味もなくなりうる。兵糧は一時的にジャパリ預かりとすることで、全軍後退せざるを得なかった。

 

 

この戦の結果、ジャパリ本家を軸に軍事的威信が高まる一方、ここでジャパリ宗家と肝付氏の間に溝が入ることになった。

また兵糧は功績に応じて各勢力に配分されたが、この臨時収入を払い下げ時期の分散、米代手形の発行、海運売却など多岐にわたる手段を通じて的確に運用し成果を上げた一人のフレンズが、この後内政において『ジャパリの銭守』の異名をとることになる。

 

ツチノコ、正体不明の流浪の身から、のちに一大名まで上り詰める者である。

 

「オーホーハーハー!これで米流通を握ったら次は……」

 

また外交上も変化を見せた。ジャパリと龍造寺が明確に敵対したことを受けて、ジャパリと大友はさらに接近した。こののちジャパリと大友は対龍造寺を見据えて同盟を結ぶ。これには河野家を服属させた長宗我部家が伊予の大友領に猛攻を仕掛けたこともあった。

 

畿内では織田包囲網が本格的に動き出し、織田家はその対処に動き出すことになる。

 



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第10話 ある男

1571年秋

 

大友宗麟、関門海峡の支配を巡り長門へと進軍。

 

これを受けて、龍造寺隆信も再び5万近くの兵を動員しジャパリ攻めを行った。

 

目標は薩摩国境付近、加久藤城。

 

ここはかつての戦い以降ジャパリの直轄地であり、城代としてはかつて龍造寺への援軍を成功させたキングコブラが入っていた。

 

そしてもう一人、若年なれど聡明さで知られる一門衆の娘がこの城にはいた。

 

アフリカオオコノハズク、博士と称される一門衆の期待の星である。

 

ジャパリかばんの父の妹を母としており、現状ジャパリかばんに子がいない以上、後継者候補の筆頭であった。

 

歳は20に及ばずとも、既に一つの業績を生み出している。

 

「ジャパリいろは歌」の制作とその普及である。

 

捕虜となった際に伝えられた島津日新斎の作ったいろは歌を元に、妹のワシミミズクこと助手と制作したものである。

 

内容としても改変を重ね、ジャパリの支配の正統性と忠誠を組み込んだものとなっている。

 

「しかし作っただけでは意味はないのですよ、博士。どうやって下々まで広めるのです?そうしなければ言葉を使える人材確保、という目的を達成できないのですよ?」

 

「簡単なのです。これを楽しいものかおいしいものにしてしまえばいいのです。そうすれば城下からでも勝手に楽しませながら広がっていくのです」

 

「なるほど。ではおいしくするのは厳しいので、祭りの踊りの歌として広めていきましょう」

 

「そうなれば踊りも考えねばならないのです。踊るのですよ、助手」

 

こんな感じで作られたいろは歌は、今はまだ鹿屋、都、加久藤の城下の街の祭りで、その最中に踊られるようなものでしかなかった。

 

だがこの先の拡大とその際の民心の掌握において、その役割は大きい。

 

 

この度の戦は肝付氏が大軍の派兵を渋ったこともあり、ジャパリ宗家が総兵数の半数以上を占める形で、薩摩大隅合わせ2万にも満たない部隊が編成され、ジャパリかばんを総大将として加久藤城に送り込まれた。

 

龍造寺家と手切れとなった中、龍造寺との国境、肥後との国境付近では防衛陣地の建設が進んでおり、ここ加久藤城もその一つであった。

 

川内川沿いにあった防衛陣地を利用して鉄砲を撃ちかけてそこに誘い込み、加久藤城下にせまった龍造寺軍を城下にいた騎馬隊が包囲、そして撃退した。

 

その後は国見山付近まで追撃戦が繰り広げられ、龍造寺軍はジャパリ軍の3倍近い損害を出した上に攻略に失敗。

 

二度の失敗により龍造寺の軍事的威信は大きく損なわれることとなった。

 

 

この追撃戦の最中、龍造寺軍でも名のある武将が討ち死にすることはなかったものの、武将が捕らえられることはあった。

 

そしてその武将がジャパリを大きく支えていくこととなる。

 

 

「……え?鍋島飛騨守を捕らえたんですか?」

 

鍋島飛騨守。龍造寺隆信の義兄弟にして側近中の側近であり、大友軍の撃破と筑後の獲得、その支配に大きな役割を果たした人物である。

 

その確保。その情報はキングコブラより加久藤城に入ったジャパリかばんにも伝えられた。

 

「そうだ。それでいかが処遇したものかと……捕らえたのはウチの軍だ。軍議にかけるまでもあるまい」

 

「彼ほどの人物がこちらに降るとは思えませんが、龍造寺と必要以上に関係を拗らせる必要もありません。このまま戦い続けて民を疲弊させては意味がありませんから」

 

「では解放か?」

 

「身代金くらいは取ってもいいかと思いますが……」

 

そこに一人、奥に出てくるものがいた。

 

「ちょっと信じられない話が来たんですけどー!」

 

「ショウジョウトキさんですか。何事です?」

 

「その鍋島飛騨守が、こちらに恭順したいと話しているんですけどー。意味わかんないんですけどー」

 

「はぁ?」

 

「私も聞いたのです」

 

「博士さんまで……」

 

「話を聞く価値はあるのです」

 

 

連れてこられた鍋島直茂は、周りを完全にジャパリ宗家の家臣団に囲まれているにもかかわらず、それをも破砕せんとする存在感を発揮していた。

 

「……さて、こちらに恭順したい、との件ですが、貴方ほどの方が龍造寺から寝返るとはとても思えないのですが……」

 

「いえ、事実です。これよりジャパリの臣下として働きたく存じます」

 

「いやしかし……」

 

「かばん、この人を受け入れちゃダメでしょ。だってあの龍造寺隆信の側近にして、彼の一門は龍造寺の根幹をなしているんだよ?こちらの情報を流されちゃたまらない」

 

「……情報ですか。では私が龍造寺の情報を知っている限りお伝えすれば宜しいですかな?」

 

「な……そ、そんなことしたら龍造寺に戻れなくなる……あ」

 

「その通り。その場合私はここに残らざるを得ませんなぁ」

 

「で、では龍造寺に残るお前の一門はどうするのだ!そんなことしたら殺されるぞ!」

 

「すでに筑後から豊後の方面へと逃す手配を整えています。全員ではありませんが」

 

「……既にこうするつもりだったのか?」

 

「半分は。このまま万が一でも龍造寺が勝てれば、隆信様に付いていく気でしたが」

 

「貴様……だがその情報が本当であると何故言える?」

 

「なんなら自身で忍びでも送り込んで確認させればよろしいかと。あ、あと日向の関所で一門を越えられるようにしといてくださいね」

 

「ぐぬぬ……」

 

「まぁライオンさん、ヘラジカさん、そこまでにしておいて下さい。なら、その話を聞かせてください」

 

「分かりました」

 

その話は多岐に及んだ。

龍造寺隆信本人に関しては、大友を撃退して以降図に乗り始め、酒色に耽り家臣の諫言を疎み始めたこと。

2年連続の大規模動員と昨年の米の支払いでの停戦を受け、米の支出が膨大な量になっていること。

さらに農兵では足りず、流民に金を払って連れてきているため、金の支出もバカにならず、さらに昨年の敗戦で明などの貿易船も龍造寺を敬遠し始めており、金は常に足りない状態であること。

さらに流民を大勢動員しているため、国内の治水の人員が足りず、台風の際に大きな被害が出たこと。

 

どれも事実と判断して差し支えないことだった。

 

「私としては今回の出兵も止めたのですが、もはや私の言葉はあの方には届かないようでしてなぁ。それならこの際、ジャパリに仕えてもよいかと思いまして。こちらでは評定で、しかも新参も構わず含めた場で重要事項は決めているようですしな」

 

「はは、違いないですね」

 

「それではこれで受け入れてくださるのですかな?」

 

「……一旦抑留させていただきますが、一門が逃れてきたのを確認次第、私の臣下として仕えていただきます」

 

「かばんさん、よろしいのですか?」

 

「ここまで話してくださるなら、信じるしかないでしょう」

 

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ボスダヨ

 

ナベシマンがウチに降ったよ。

恐らくナベシマンの野心が高めだから、捕らえられた際に寝返りやすくなってたんだね

これで人材としては不足は無くなったね。

てか全部のステータス80以上とかどんな化け物なんだっていうね。

 

ま、貰ったものはつかっていくよ。



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第11話 茶室談義

 

加久藤城を巡るジャパリと龍造寺の戦いは、またしても龍造寺が前線に持ってきていた米をジャパリに提供することでまとまった。

 

この勝利により、得られた米の半分近くをジャパリ宗家が獲得。

 

その資産運用に関して功績を挙げ、流浪の身から勘定補佐にまで上り詰めた者が一人、兵に関する事務を済ませた鹿屋城のかばんの元を訪れた。

 

「ツチノコさん、何用です?」

 

筆を走らせるかばんを柱の影から覗く者に、息を吐いてから声をかける。

 

「話があるんだよ。内密にな」

 

「米の売却の件ですか?」

 

「んなのは勝手に終わる。鹿屋と鹿児島、都の市に合わせ、一部を船に乗っけりゃちょいちょいだ。で、人払いはできるか?」

 

「ふーむ……では、少し戦と仕事で気が張ってましたし、お茶にしますか」

 

「はぁ?お茶ぁ?」

 

「嫌ですか?」

 

「あ……い、いや、そういうわけじゃないんだが……」

 

「ではこちらへ」

 

 

茶の生産は軌道になるまではいかずとも、一部では成功している。気候や風土が意外と合うらしい。その茶は堺に運ばれるだけではなく、ジャパリ上層部にもちょっとだけ広まっている。

鹿屋城の中には小さな庭がある。元から近くにあった中で適当に気に入った木を植え替え、飛び石を並べたりした程度だが。そしてその庭の一角に、茅葺の小さな小屋。ジャパリかばんの茶室である。

 

「……ふぅ。茶ってのもいいもんだな」

 

「いえ、お粗末な手並みで失礼いたしました」

 

「あ、ああ……それで、ここならいいのか?」

 

「ここは他の建物からも遠く、周りの木々も中からはある程度視界が通りやすいようにしてあります。直属の監視のものを付けてますから、問題ないかと。それで、お話とは?」

 

「あ、ああ……いや、奉行様にはお叱りを受けた件なんだが、折角なら伝えたい案だったからな……銭の問題だ」

 

「銭、ですか」

 

「ああ。今までジャパリでは撰銭令を定めている。大評定で各領主の合意のもと定められたな。これをなんとかしたい」

 

「……なるほど。しかし昨今の大隅5街道、薩摩6街道の整備を少しずつ進め、貿易船もなんとか買った結果もあり、商業は活発化してきています。悪銭をなくしたいのは分かりますが、撰銭令無しでははっきり言って銭が不足します。悪銭や加治木銭無しでは回りません」

 

「そんなこたぁ分かってる。だがやはり撰銭のお陰で悪銭、特に永楽通宝と同等扱いの加治木銭ばかり出回り、永楽通宝なんかは溜め込まれる一方。価値を無闇に下げようとしたら、その加治木銭を抱えてる薩摩の国人にそっぽ向かれちまう。

見た目が違うなら何とかなる。だが見た目が似ているだけに大金を支払う時に悪銭を混ぜたとかで訴訟になることもあるし、結果流通の促進を阻害しているのが実情だ。しかし今こそ、ジャパリだからこそ打てる手があるんだ」

 

「ほう……それは?」

 

「改鋳と新貨幣の発行だ」

 

「改鋳、ですか」

 

「そうだ。悪銭を掻き集めて永楽通宝と同質、いやそれ以上のものを作る。種子島を掌握してるし、鋳造技術については問題ないはずだ」

 

「しかしそれには追加で多くの人間を雇わねばなりませんし、何より永楽通宝と同質のものを作るには悪銭が何枚も必要でしょう。交換して得になる、とならなければ、命令を出しても効果は出ませんよ?」

 

「そうだ。それに材料がなければ作りようがない。初動はジャパリが持っている悪銭を掻き集めて使えばいいだろうが、流石にその後はそうもいかんだろう。だから次の手を打つ」

 

「それが新貨幣ですか……」

 

「ああ、それも金貨だ」

 

「金貨ですか……逆に価値が高すぎて使われなくなるのでは?」

 

「いや、それがな……アクシズジカを中心に菱刈周辺を調査したところ、あそこにそこそこ大きな金鉱があるみたいだ」

 

「金鉱、ですか。たしかに周辺では金山がありますし、考えられない話ではないですが」

 

「そう。だからそれを発表したら、領内では金の価値が下がる可能性は高い。ちょっと下がったらその間に入来院辺りから買い込んで、そして貨幣にして価値を上げる。流通に使われれば価値は元に戻るさ。そうすればウチにも利がある。それに金は南蛮と取引する上でも使えるだろう?」

 

「そうですね……南蛮で銀の価値が落ちてるという話は聞きますが、金はそこまででもないはずです」

 

「それに、昨今の銭取引は不便な点が多い。取引が盛んになっている最近ならなおさらだ。手形などやり易くする手段はあるが、一貫文でさえ持ち歩きが大変なんだぞ。

小さな金貨で大量の銭の代わりになる、となれば蓄えられたとしても結果銭の出回る量が増える」

 

「つまり良銭の上位互換を作り、永楽通宝を世の中に回す、と」

 

「そういうことだ。銭は商業の川の水だからな。流れなくちゃ困る。そしてその金貨に細工を施す」

 

「細工?何故そのような面倒なことをするんですか?」

 

「表面にするのは、他で作られにくくするためだ。この銭を作ったら他に作ろうとする輩も出るさ。しかしな、その偽造にえらく手間のかかるものだったらどうなる?」

 

「費用がかかり、手間をかける意味がなくなる……」

 

「そういうことさ。それにウチの影響力の広さを示す証拠にもなる。だがそれだけじゃない。中身そのものにも、だ」

 

「……何かを混ぜる、と?信用されなくなりますよ?」

 

「信用ならあるだろう。殿、いやジャパリ家が」

 

「……この家を担保とする気ですか?」

 

「まぁ言っちまえばそうだ。銀でも鉄でも……いや、仮にいくらか銀を混ぜたとしよう。きっと手順を踏んで調べれば分かってしまうことだ。

だがな、それを発表する、またはその発表に同調するってことは、ジャパリ家を敵に回すってことだ。10年で薩摩を支配し、その後も幾度となく龍造寺の大軍を撃破する軍事力を有するジャパリ家を、だ。誰がそんなこと好き好んでするんだ?」

 

「……しかし戦はその場の天運がモノを言うもの。流石にこれからの戦を博打にかけるわけにはいきません。それに同調の波というのは恐ろしいものです。

しかし……改鋳とその金貨は悪くない案です。奉行には私から話を通しましょう。実行はお任せしますよ」

 

「あ、あ、ありがとな……」

 

 

この改鋳は完遂までに何年もの時間を要したが、結果としては技術的向上と流通の改善に貢献した。改鋳時の損と出費はジャパリ家への冥加金の増加を考慮すれば辛うじてプラスであったし、新貨幣の放出も流通促進にプラスに働いた。その新貨幣はジャパリ銭と呼ばれ、石見銀と並び西国一帯で高額取引用通貨として広まっていった。

改鋳銭もその精度の高さから、隣国を軸に使われるようになっていった。後には悪銭の使用も禁止され、悪銭の価値が暴落。交換の効率も上昇していった。

 

「まだだ……まだ銭が偽造の段階でしかない……流通と交易を促進し、その上でジャパリが真に流通と銭を握るにはもっと他の手が必要だ……何だ、それは……」

 

ツチノコの野望は止まらない。

 

 

 



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第12話 続、茶室談義

ジャパリかばんが人に誘われて茶室に来ることもあるが、人を茶室に呼ぶことも時々ある。

 

そして、たまたま1572年の夏の一日、ある人物が鹿屋城の茶室にいた。

 

「……正気ですか、殿」

 

「はい。もちろんです」

 

「……私が後を継ぐべきなのはもちろんその通りなのです。しかし……こんな早くになるとは……」

 

「いいではないですか。私もそのぐらいの歳で家督を継ぎましたし。それに分家まみれでジャパリも統率が取りづらかったのです。ここはまとめる方に動いて問題ありません。特に

 

 

 

博士、貴女なら」

 

「……しかし、ここは穏便に事を済ませるべきなのです。わざわざ殿を幽閉せよ、とは……」

 

「幽閉されたら、次の日には家督継承を認める旨を発表します。そしたら解放してください。その後は私を馬車馬のようにこき使ってくれて構いません」

 

「しかしそれだと、最近殿に反発気味の肝付などはいいかもしれませんが、薩摩国人衆などがどう反応してくるか……彼らにしたら、殿は領土を保護してくれる存在ですし、きっと私に反発してくるのは間違いないのです」

 

「そうです。だからこそ、次の手を私のいる間に打っておきたい」

 

かばんはずっと立ち上がると、出入り口へと向かい、扉をさっと開けた。

 

「お上りください」

 

「勿体ないお言葉っす。それでは、失礼するっす」

 

「……お前は」

 

「こ、これは博士殿。こちらにいらしゃったっすか!」

 

「アメリカビーバー……」

 

すごく縮こまった姿で、扉付近にちょこんと正座した。

 

「ビーバーがいるということは、治水絡み、なのですね」

 

「その通りです。さ、ビーバーさん。例の件についてお話をお願いします」

 

「了解っす。これまではさばんな衆と我が湖畔衆を中心にして大隅西部の治水事業をこなしてまいりましたが、これからはその範囲を拡大しよう、と考えてるっす。特に薩摩においても、甲突川などを中心に治水事業や水利権配分の調整などを行なっていたっす。

しかしこの事業を進めていく上で一つ大きな問題が浮上してきたっす。それは……」

 

「国人衆が各々の治水対策をするために、流域の統一的な事業ができないんです。まぁ、これは大隅でも言えることでしたが」

 

「先ほどの甲突川の例でも、上流まで行くと入来院の領地っす。大隅でも肝付川の下流は肝付領っすし。そうなると上流での治水の失敗が下流全域に影響をもたらしかねない、など心配ごとは尽きないっす……」

 

「そこで、流域ごとに統一した治水組織を立ち上げ、村ごとの水量の配分なども考慮してやってしまおう、という案が登場したのです」

 

「しかし……そう簡単に話が進むでしょうか?水利権は寺社なども絡みますし、治水は国人衆からしたら民を治める上での重要な仕事なのです。その権利をやすやす放棄するとは……」

 

「それがですね、最近の龍造寺軍に対する防衛のための出兵がかなり負担だったようでしてね。金はウチが出して担当者を出す権限さえくれれば、話しに乗ってもいい、という家もあるんですよ。蒲生とか東郷とか」

 

「なるほど……思っているより話は進んでいるようなのです」

 

「これは私のいるまに進めておきます。しかし、次からが重要です。その前に、お二人とも一杯ずつ如何です?」

 

 

「……さて、本題に入るのが遅いのは好きではないのです」

 

「そうですね。本題は、博士さんによる我がジャパリ家の外交方針の転換です」

 

「転換……っすか?」

 

「そうです。ここ数年、大隅、薩摩の防衛に軸を置き続けて来ましたが、博士さんにはこれを転換してもらいたい」

 

「何故です?わざわざ攻めかかる必要はないのです。確かに髪結いの際には拡張すべきと申し上げたのですが、あれは戯言に過ぎません。畿内での織田包囲網も失敗したと聞きますし」

 

「あれ?そうなんすか?」

 

「ビーバーさんは知らなかったんですね。それが、将軍を中心に浅井、朝倉、延暦寺、本願寺、山名、松永などが蜂起したらしいのですが、これらに加えて頼みにしていた勢力がありました」

 

「甲斐、信濃の武田なのです。将軍は武田と上杉を停戦させ、織田、徳川に全力を振り向けられるようにしたようです。が……」

 

「結局武田がこれを無視したらしく、上杉領の海津城を攻撃。しかしこれを上杉謙信が直々に蹴散らしたそうです」

 

「その勢いのまま武田は塩尻を失うなど大きな損害を受け、反撃のための上野攻めも含め、対織田どころではなくなったようなのです。そうしたら織田が各地に討伐軍を派遣。将軍含め即座に呑み込まれたようなのです。

だからこそ、わざわざ攻めかかる必要を感じないのです。現領土を守り、結果大隅一国の主として認めてもらう。これが殿の計画のはずなのです」

 

「ところがですねぇ……薩摩に資金を提供するうちに欲が出てきまして、なんとか領土を広げられないか、と思うようになったのです。流石の織田といえど、西国の覇者毛利を蹴散らすには時間がいるでしょう。その先を狙えないかと」

 

「……肥後攻め、っすか?」

 

「それと、できれば日向の残りも頂いてしまいますか」

 

「え、でも大友とは現状同盟関係に……」

 

「まぁ、それはこれからのやりようです。大友帰りの南蛮船を倭寇に襲わせるとか、こっちでキリシタンを禁教するとか」

 

「しかしいくら力がついてきているとはいえ、龍造寺、大友を同時に攻略するのは……」

 

「不可能ですか?内政がお粗末な龍造寺と宗教を巡る混乱が絶えない大友を食らうことが」

 

「……いえ、きっとできてしまうでしょう。しかし織田との関係が……」

 

「西国には毛利という巨大な壁があります。彼らに時間を稼いでもらいましょう。ある程度ならできるはずです

あと15……いや、10年です」

 

「何がですか?」

 

「九州単独で中央に対抗できる力をつけるのに必要な時間です。硝石の自給と産業の振興。それさえ可能になれば……」

 

「硝石が自給?そんなのできたら簡単なのです」

 

「幸い坊津を抑えて商船の交流も盛んになってます。あとは南蛮からその技術を持ち帰ってもらうのみ。どうやら硝石は作れるもののようですしね」

 

「はぁ……」

 

「というわけで博士さん。あとはお願いします」

 

 

1573年秋、収穫を終わらせたのち、大友宗麟はジャパリの突然のキリスト教禁教や倭寇扇動を理由に大友の日向領以南の交流を禁止。実質的な手切れであり、さらに5万を超える軍勢を日向に派遣した。

 

 

 

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九州は三つ巴の戦いに突入したのである。



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第13話 弟より優れた兄は存在しない

しかし龍造寺隆信の動きも警戒してか、大友宗麟は直々には出馬してこなかった。

その代わりに大友に逃れていた島津歳久を総大将に据えて、朝倉一玄を補佐につける形で、大友に従っていた相良や伊東も従えた5万人以上の大軍を日向佐土原に送り込んできたのである。名目としてはもちろん、島津再興軍、であった。

 

ジャパリ側としてはもちろんこれを撃退すべき、との方針で一致していたが、ジャパリ博士が独断で開いた大評定に肝付ら大隅の国人衆や一門衆の一部が参加。これによりジャパリ鞄の外交失策を批判し、これの解任、及び大友、龍造寺の早期の弱体化を狙うべき、との方針を採択した。

 

これには薩摩の国人衆やジャパリ鞄の外戚である禰寝氏が反発したが、ジャパリ鞄が大友撃退後にそれを履行するとの声明を出し、実質的にジャパリ博士への家督継承を認めたため、この混乱を抑えて大友に対峙することが可能になった。

 

 

この戦いはジャパリ鞄が遂行し、佐土原城下で迎え撃つことが決定された。ジャパリ鞄を総大将、島津家久、肝付兼続、ジャパリ河馬、薬丸兼正らジャパリの重鎮が2万近い軍勢で迎撃に向かったのである。だがこれもやはり龍造寺を警戒し、鍋島直茂、ヘラジカに加え、薩摩の国人衆などの兵を薩摩側に割いた上での出陣であった。

 

内政に注力してきたジャパリは密貿易などでも富を稼ぎ、大量の鉄砲をこの戦いに投入した。その数、2千。さらに兵の半数弱は農兵ではなく流民を訓練した足軽であり、その資金の潤沢さが伺える。

 

こうして1573年10月、ジャパリ、大友という九州の二勇が佐土原の地で激突することとなったのである。

 

ここでジャパリ宗家の配下武将として参加していた島津家久が一計を案じた。それは一ノ瀬川を渡って新富に展開して野戦を行い、家中でも勇将として知られる自身を囮として引き付けたところで、西側の唐ヶ山の斜面を利用して奇襲を仕掛ける。

 

そのためにもまず自身は歳久本隊を発見次第攻勢を仕掛ける、半ば博打性も持った作戦だった。釣り野伏せ、である。

 

 

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だがジャパリ鞄、ジャパリ博士ともにこの案を飲み、そして退路確保のために鞄自身も前方に出ることが決まったのだった。

 

この策は功を奏した。家久隊が歳久隊、角隈石宗隊の攻勢で後退し、敵方が功を競う中、ライオン、ジャガーの両隊による奇襲が成功。これを機に全軍反攻に転じ、島津歳久は這々の体で退却しなくてはならなかった。

 

ここにジャパリの覇道を開く障害が一つ取り除かれたのである。

 

 

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まさかとも呼べる敗北ではあったが、大友家中はそこまで不安視していなかった。

 

当時はまだ鞄が当主であり、これまで龍造寺軍を撃退しても反攻に転じてこなかったからである。

 

それと同様の展開が繰り返される、それが家中の大半を支配していた幻想であった。

 

だからこそジャパリ家が米と引き換えの講和を拒否し、高城に進撃を開始したのは、かなりの驚きをもって受け止められた。

 

 

作戦としては高城、鍋城の大友の南方二大拠点を陥落させ、懸土持家をこちらに引き込むこととされた。

 

高城は殆ど抵抗なく陥落し、次の鍋城でも大友に逃れた山田有信が援軍を送ってきたが叶わず、相良氏は拠点を失って逃走した。

 

その間にジャガーを通じて土持親成がジャパリ家に転じ大友から独立。

 

この一連の戦いにより、ジャパリは日向一帯にその影響力を伸ばすことに成功したのである。

 

これを終える中、ジャパリ鞄は家督をジャパリ博士に継がせた。

 

九州の島の長、天下の総大将、ジャパリ博士による統一事業の始まりであった。

 

 

 

ボスダヨ

 

なんかこうして話すのもすごく久しぶりな気がするよ。

 

さてこうして出てきたのには理由があって、博士に相続させたことで志が変わったんだ。

 

志の名は『三州の総大将』、島津義久と同じだね。

 

この島の長とイメージ的に近そうだからチョイスしたよ。

 

 

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志の中身は上の通り。基本的には軍事最強となる志だよ。その代わり内政がサポートされないけど、そんなこと関係ないくらいの経済力をもうジャパリは持ってるよ。

 

何より鉄砲が強化されるから、弱めの武将を出陣させざるを得ない時も、鉄砲持たせれば十分使えるようになるから、使いやすい志ではあるね。

 

 

あとはこの先1574年にはペパプのみんなが仲間として加わるよ。でもあいにくデータ消しちゃって詳細な能力は覚えてないけど、みんなだいたい全部のステータス50程度にして、利水上手をつけたはずだよ。

あ、でもフルルは最弱クラスにしたかな?マーゲイは武勇こそ低いけど、統率と知略は60台にしてたと思うよ。

 

さてついに大友、龍造寺の両家を相手に進撃を開始したジャパリ家。その運命はいかに。



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第14話 肥後侵攻

大友家とは結局日向の完全割譲を以って講話となった。流石に統治機構の整備も整わないまま進みすぎるのは危険とされたのだ。

 

だがこれで落ち着くわけもなく、1574年9月、再度龍造寺隆信が加久藤城に侵攻。

 

ジャパリ博士は5万を超える龍造寺軍に対し、3万を超える兵を連れて城下に到達した。

 

そこからは圧巻の戦いであった。三千を超える鉄砲隊が突撃してくる龍造寺軍を攻撃。鉄砲の数と運用力の差で龍造寺軍を押し込むと、騎馬隊が横合いから突撃。

 

まさに王道と呼べる戦いで、4倍近い損害を与えて撤退に追いやった。

 

 

ここからジャパリ博士は肥後南部に侵攻。真っ先に人吉城を包囲した。

 

これに対し龍造寺家は援軍を送り込むも、この全てを撃退。

 

肥後南部の統治を任されていた納富信景が降伏し、龍造寺家の肥後南部の支配の軸が折れた。

 

それをうけ佐敷城の名和氏も降伏。一方でまだ肥後北部では龍造寺の支援を受けた阿蘇、隈部、赤星氏などが抵抗していた。

 

ジャパリ博士は引き続き阿蘇氏の拠点、岩尾城へ進軍。

 

隈本からの城氏の援軍や名将甲斐早雲の抵抗もあり、かなりの被害を受けはしたが、これを陥落せしめた。

 

阿蘇惟将を始めとした阿蘇家の将は龍造寺の本拠、肥前へ逃亡。

 

そのため島津家、そしてジャパリに流れていた阿蘇惟前を阿蘇大宮司として立て、その補佐にライオン衆を派遣。

 

南部は納富、名和氏、また恩賞として肝付氏などが、北部はライオン衆を軸に支配する構造を作り上げようとしていた。

 

 

しかし龍造寺隆信も体制を立て直し、肥前で再び兵を集め隈本へ進軍。

 

ここに隈本の戦いが幕を開けた。

 

ジャパリ軍の展開によって始まった隈本の戦いは、ジャパリ軍の鉄砲隊の発砲で幕を開けた。

 

その後の騎馬隊も含め、連勝による士気の高さを生かした突撃を進めたが、ここで一人の男が立ちはだかった。

 

島津義弘。あの島津四兄弟の一人である。

 

島津家再興のため龍造寺家を頼った義弘であったが、未だその望みの叶わぬまま客将としての暮らしを続けていた。

 

しかしここで6千の兵を与えられ参戦。ジャパリ軍の前に立ちはだかった。

 

龍造寺家周、円城寺信胤らがジャパリ軍の勢いに押され潰走する中、義弘隊は頑強に抵抗。

 

しかし周囲が撤退し半ば包囲されると、一部の精強な兵による捨てがまりを展開。

 

追撃しようとするジャパリ軍を食い止め、本体を含めた他を撤退させることに成功した。

 

 

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結果的に敗北こそしたが、この奮闘によりジャパリ軍も大きな損害を受け、肥前侵攻は中止とせざるを得なくなった。

 

だがこれらの戦いで肥後がジャパリのものとなった。それは確かであった。

 

これを受け肥前の島原城の有馬義貞がジャパリ側への寝返りを打診。

 

橋頭堡には良い、とジャパリ側もこれを受け入れた。

 

結局肥後の割譲で講和の話はまとまったが、有馬をめぐる火種は次の戦へと繋がっていくのである。

 

 

この肥後侵攻が終わってすぐ、1575年6月、甲斐にて武田信玄死去。家督は息子の勝頼が相続し、甲斐、駿河、遠江、南信濃、飛騨を支配する大名として、織田、徳川を圧迫し続けることになる。

 

一方で武田の上野侵攻後、越後からの道が途絶えたとはいえ、佐野氏や大田氏、結城氏などが依然抵抗を続けていた。

 

これに対し勝頼は下野は侵攻。唐沢山城などを陥落させ、下野西部にまで影響力を伸ばしていた。

 

これにより上杉の関東側の拠点は喪失。関東管領は再び名ばかりのものとなった。



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第15話 九州の覇者

1576年5月、ジャパリ博士のいる恐るべき知らせがもたらされた。

 

「長宗我部が……屈服?」

 

「そうなのです。羽柴秀吉率いる四国征伐軍を撃退できず、讃岐に上陸した毛利からも攻められ、長宗我部元親は織田に降ったようなのです」

 

長宗我部元親降伏。それは畿内を握り、世の中で一番天下統一に近い存在、織田家が豊後水道の向こうまで迫っていることを示していた。

 

 

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「まさかこんなに速いとはね……」

 

「龍造寺、大友と争っている中で織田も……ですか」

 

「流石にこの3正面を凌ぐのはキツいんじゃないか?」

 

鹿屋城にて行われた大評定でも不安を露わにする意見が相次いだ。

 

「このまま織田家が海を渡ってきたら、上陸してくると思われるのは日向だ。まだこちらには臣従したばかりの地。織田に流れるやもしれん」

 

「それに豊後水道の海軍は元は大友の配下。本当にこちらに味方するのか?」

 

評定でも不安を示す声が飛び交う。話を聞き続けていたジャパリ博士は、それらの声が少し落ち着いた頃に口を開いた。

 

「……当面は友好を結ぶほかないのです」

 

「博士。しかし織田は天下を支配する気ですぞ。いずれはこちらに牙を……」

 

「それは分かっているのです。だからこそ大友と龍造寺をとっとと弱体化させて、織田との交渉を有利に持ち込める素地を整えるのです。攻略直後の四国を拠点に兵を出すのは厳しいはず。それに織田は背後に武田、上杉。そして何より毛利が壁として残っています」

 

「たしかに直接攻めてくるには時間を要しそうだぞ〜」

 

「毛利に期待するほかありませんわね」

 

博士はスッと立ち上がった。

 

「秋の収穫が入る前に大友を攻めるのです。準備を怠ってはならないのです」

 

「はっ」

 

 

 

1576年9月 ジャパリ博士は直々に3万の兵を率いて豊後へと侵攻を開始。

 

その隙をつき、龍造寺隆信は4万の兵を率いて島原へと侵攻を開始した。

 

有馬家はこれを受けてジャパリ家へ援軍を要請。ライオン衆や納富信景に1万5千の兵を率いさせ、これを迎撃させた。

 

最早国力の差はなく、大量の鉄砲を使用したジャパリ軍の前に、龍造寺軍は日之江であっけなく敗北。

 

 

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その後高鍋城へと兵を進めたが、この間に大友家が龍造寺家へ侵攻。龍造寺家は休戦を要求し、大友家との戦に集中したかったジャパリ家もこれを受託した。

 

そして日向国境の川坂でジャパリ軍と立花道雪率いる大友軍は激突。ヘラジカ隊が立花道雪本陣近くまで切り込んで後退させ、さらには山間部での鉄砲隊の掃射もあり、これを撤退に追い込んだ。

 

 

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大友家の抵抗もこれまでで、こののち散発的な抵抗こそあったものの、筑前、豊前の国人衆、秋月種実や城井鎮房らも大友を見限り始め、大規模な兵は動員できなくなった。

 

そのまま翌年2月、ジャパリ軍は大友家の本拠地府内を攻略。

 

 

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勢いに乗って豊前中津城まで進撃するも、豊後の掌握に兵を割く必要が生じて兵を引くこととなる。

 

しかしこの結果ジャパリ家の勢力は北は豊前、肥前、南は大隅までの九州のほとんどを統一。

 

もはや九州でジャパリに敵う家はなくなったのである。

 

 

 

ボスだよ。

 

1576年、この年で九州での趨勢は決まったね。

 

さてこの年は雪山の面々が入ったけど、例のごとくデータがないから、覚えている限りの情報だね。

 

キタキツネ

 

統率、武勇 40代

知略、内政 70くらい

外政 40代

 

ギンギツネ

 

統率 70代

武勇50代

知略、内政、外政 60代

 

 

カピバラ

 

全部40代

 

 

カピバラ動いてないから臨戦つけてたと思う。

 

 

今後ともよろしくね



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第16話 覇者との戦

豊後の掌握に力を注ぎ続けて翌年の1577年、東では武田勝頼の美濃侵攻に対し、上杉謙信が信濃中部へと侵攻。

 

一方で武田勝頼は上野から下野へと影響力を伸ばすなど、大勢力が拮抗していた。

 

この戦においてジャパリ家は織田家への支持を表明。鉄砲百丁を提供し、その姿勢を鮮明にした。

 

 

この戦いで武田家は高遠城を失陥。甲斐と信濃を結ぶには駿河、遠江を通らざるを得ず、武田家はさらなる危機に陥るかと思われた。

 

しかし翌年1578年春、越後の龍、上杉謙信死去。

 

 

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その後継の地位をめぐり、養子の上杉景虎と姉の子上杉景勝が対立。御館の乱が勃発すると、直江兼続の活躍により即座に春日山城を占拠した上杉景勝は武田勝頼に接近。

 

一方で上杉景虎は自身を支持するものの多い越後北部に拠点を構え、北条家の指示のもと徹底抗戦する。

 

武田勝頼はこれにより信濃の交通路を回復。命永らえることになる。

 

 

一方で織田家は武田勝頼の猛攻を凌ぐと、四国を統括していた羽柴秀吉にジャパリ家への侵攻を命じた。

 

これは背後を固めるとともに、大友、龍造寺のあるうちにしかジャパリの戦力を分散させることはできないと踏んだからとされている。

 

 

そして1578年6月、羽柴秀吉の弟、羽柴秀長を中心とした6万の兵が、九州攻略軍として差し向けられたのである。

 

おまけにその翌月には豊後を中心に大地震が発生。その対応に人手が割かれるなど、万全の体制で迎え撃つことは厳しくなった。

 

 

「やむを得ないのです。豊後の復興には肥後より人足などを用意させるので、織田に対しては薩摩、大隅、日向より集めた兵で迎え撃つのです」

 

「今の我々に四国に攻め込む余裕はありませんからね」

 

「それに織田と戦い続けることは不可能なのです。撃退して力を示してから、その天下を認めるしかないのです」

 

 

ジャパリ家は2万の兵を集めて日向一帯に情報網を展開。上陸予想地を日向臼杵に定め、兵を展開した。

 

そして8月某日、日向に上陸を開始した織田軍に対し、ジャパリ博士率いるジャパリ軍が交戦を開始したのである。

 

 

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結果は大量の鉄砲による包囲体制を築いていたジャパリ軍が圧勝。織田軍は船とともに四国へと撤退した。

 

 

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この敗戦を受けて織田家は九州攻略を断念。西においては毛利攻めに注力するようになり、ジャパリ家に対しては交渉による服属を目指すこととなった。

 

 

その後ジャパリ家はその軍を筑前に差し向け、大友家の拠点を攻略。

 

大友宗麟は四国伊予西部に残った拠点に逃げ込み、九州には立花道雪らがこもる立花山城を残すのみとなった。

 

 

ボスダヨ

 

織田とはいえ全軍突撃を仕掛けて来なければ防衛は余裕ダヨ。

 

そして宣戦布告仕掛けてきた大友の残滓を殴って圧勝したヨ。ゲームでは鷹取山城を残して九州領を頂いて、伊予は残したよ。

 

こうすることで、織田が大友をひき潰しても武将をこちらが管理できるようにしたんだ。

 

あとは九州のもう一つ、龍造寺を倒せば九州統一は完了。やはり九州は武将の質が高いね。

 

あと1578年の新たなフレンズたち、ロッジのフレンズだね。

 

タイリクオオカミ

 

統率 50くらい

武勇 60後半

知略 70後半

内政 50代

外政 70代

 

くらいにしておいたよ。マンガかけたり嘘をつけたりするから、知略と外政高めにしたね。武勇もそこそこあるよ。

 

 

アリツカゲラ

 

統率 60後半

武勇 40代

知略 70くらい

内政 80くらい

外政 60後半

 

運営しているだけあって、内政や統率はそこそこ高めだよ。

 

 

アミメキリン

 

全部40代

 

ヤギね!

 

 

ミライさん

 

知略 90

内政 86

他 1

 

映像だからね……



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第17話 九州統一

pkは待機中




1578年のジャパリの筑前、豊前侵攻により、最早大友は筑前の一部と伊予大洲周辺に影響力を残すのみとなった。

 

そしてこの男は、このジャパリの急拡大に対し、先手を取った。

 

1579年10月。永きにわたりジャパリとの戦をやめていた龍造寺隆信、筑前に侵攻開始。

 

 

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これに対しジャパリ博士はヘラジカに筑前防衛を任せ、自身は有馬領を経由して高城城へと圧力をかけた。

 

総計7万近い兵を肥前へと向かわせ、圧力をかけたのである。

 

 

ヘラジカ軍には新納忠元、ライオン、納富信景らが従い、岩屋城下に集結。

これに対する龍造寺軍は大将龍造寺隆信に加え、江里口信常、百武賢兼、成松信勝、木下昌直、江上家種らの譜代に加え、島津家復興を目指す島津義弘、阿蘇家の回復を目指す甲斐早雲らが集っていた。

 

だがもう既に薩摩、大隅で編成した精鋭足軽軍を投入していたジャパリ軍に対し、農兵を多く揃えた龍造寺軍は士気で大きく差があり、さらに鉄砲隊の猛射撃もあって、4倍近い損害を受けて龍造寺軍は撤退した。

 

 

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乾坤一擲の逆転を狙った龍造寺軍の筑前侵攻が失敗に終わった以上、ここから先龍造寺に勝ち目はなかった。

 

ジャパリ博士が直々に高城城を攻略する中、ヘラジカ軍は筑後へ侵攻。瞬く間に柳川などの拠点を攻略していった。

 

そしてヘラジカ軍は肥前にも侵攻。勢福寺城をも手中に収め、龍造寺隆信のこもる村中城を包囲したのである。

 

その間にジャパリ博士率いる軍は大村、肥前鹿島と北上し、龍造寺家に臣従していた松浦家も反旗を翻し、伊万里城を攻略してジャパリに従属。伊万里城を差し出した。

 

そしてジャパリ博士も村中城包囲に合流し、ここに龍造寺の力が及ぶのは村中城内のみとなったのである。

 

 

村中城内では議論は紛糾していた。打って出て一戦仕掛けるべき、とする者。降伏しかないと主張する者。はっきり言ってこの場で龍造寺隆信の剛腕は何の意味もなさなかった。

 

村中城包囲が始まり2ヶ月。兵糧は尽き、打って出る気力は最早残されていなかった。

 

はっきり言って降伏以外の条件はなかったのだ。

 

だがその段階に至っても龍造寺家中は纏まるところを知らなかった。

 

 

そして九州とはいえ冷え込みがあったその日、ある男が使者として村中城内に入り込んだのである。

 

その顔を見て家中のものは顔に筋を張り巡らせた。

 

鍋島飛騨守、龍造寺を最も早く裏切った人間であった。

 

 

「どういう了見か」

 

道中私を切れば城兵は皆殺しですぞ、と声をかけながら城に入り込み、さらに龍造寺家の家臣、そして隆信本人と向き合った鍋島に掛けられたのは、ひどく低い声であった。

 

「あなた方もお分かりでしょう」

 

「降伏の使者、か」

 

「その通り。最早どう足掻こうと龍造寺の勝ちはありませぬ」

 

「貴様がそれを言うか!義兄弟とかほざいときながら加久藤で裏切ったこと、忘れぬぞ!」

 

「私がいようといまいと、この結末は変わりませんでした。なればやることは一つ」

 

「なんだ?降伏を認めないなら皆殺しか?やれるものならやってみやがれ!」

 

「いえ、家中の者、そして殿、あなたも命を許されて解放、それをジャパリ家中に認めさせることです」

 

「なに……」

 

「冗談を言うな阿呆。龍造寺とジャパリは10年近く対立してきた間柄。そうやすやすと許すわけがない!」

 

「いえ、事実です。殿、あなたこそ追放となりますが、それ以外の方は好きにせよ……そのように取り付けてまいりました」

 

「証拠は?流石になにもなしに信じるわけにはいかぬ」

 

「こちらが当主、ジャパリ博士からの書状です」

 

 

 

その後龍造寺家は降伏を受託。

 

 

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阿蘇家など龍造寺に臣従していた者の扱いも決定され、龍造寺家は龍造寺の一門筋の家晴を高城城に送って独立。伊万里、村中などの肥前東部と筑後はこれまでの功績を称え、鍋島家に与えられた。

 

そしてジャパリが拡大を進める中、その初期の拡大を支えた者たちにも時が迫っていた。

 

安楽兼寛、肝付兼続、禰寝重長、相次ぎ病に倒れる。

 

その報はジャパリの当主の権限を一層強めていくこととなった。

 

 

だが同時にジャパリを支えるジャパリ四武神の一人がその名を挙げる。

 

ヒグマ。

 

四国を制し、畿内を征する者は、翌年の大友征伐でその名を高めた。

 

 

立花山城は立花道雪が守る要害であったが、2ヶ月に渡る攻防戦の末、これを陥落させる。

 

そしてヘラジカ率いる第2軍が四国に上陸、大友宗麟は八幡浜に進軍し、これを撃滅せんとした。

 

そしてこの戦いで名を挙げる者が一人。

 

 

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立花誾千代。

 

烈女と呼ばれた道雪の娘は、女中で組織した鉄砲隊を以ってジャパリ軍を攻撃。

 

大将ヘラジカを負傷させる戦績を挙げる。

 

だが大友の抵抗もここまで、上陸を許した大友家になすすべなく、大友家は降伏を受け入れた。

 

 

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ここにジャパリ家は九州統一を成し遂げたのである。

 

だがこれは、野望の始まりでしかなかった。

 

 

1582年2月

 

ジャパリ博士はクジャク、アリツカゲラらとともに海を渡った。

 

当主が直々に向かうは、四国宇和島の稲荷山龍光寺。

 

そこには四国方面司令官の羽柴秀吉、その弟秀長、その軍師黒田孝高らが待っていた。

 

 

ジャパリの行く末を決める会談が始まったのである。



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第18話 龍光寺会談

「さぁさぁさぁ、当主自ら船旅ご苦労にござる。足を落ち着けてくだされ」

 

会談はジャパリ博士の想定よりも快活な口調な男の喋りで始まった。織田家の四国方面軍司令官、羽柴秀吉である。

 

「いえ羽柴殿、お気遣いは無用なのです」

 

流れに乗せられてはならぬ。こちらも必死であった。

 

「まぁまぁ、この度は正式な和を結ぶための場。設けられたこと誠に感謝極まりないでござる!」

 

「こちらこそ、天下を握る織田殿と近づけるのは幸いです」

 

「堅い話は後にしましょう。まずは食事をどうぞ」

 

 

南蛮からのカリィなるものに舌鼓を打ちつつ、一杯の茶を回してから会談が始まった。

 

「……それで、我が織田家に臣従する、とのことですが、ただではございますまい。こちらとしては大隅、薩摩、日向は安堵しましょうぞ」

 

「お断りいたすのです」

 

「なっ……」

 

「その三国はもちろんなのです。しかし大隅の一領主から九州ちほーの主人まで身を立てたのです。

伊予の旧大友領はもちろん、豊前豊後と筑前筑後はお渡しするのです」

 

「ということは……肥前と肥後は持つと仰せか!そのようなことは認められん!」

 

「お忘れですか?我々ジャパリは織田を一度撃退しておるのです。それでもなお臣従してやるというのですよ?」

 

「この……」

 

織田家の面々はこの発言に思わず声をあげる。

 

「落ち着いてください!国力的にはこちらは下なのです!」

 

アリツさんがフォローにはいって一旦は落ち着いたものの、しばらく険悪な雰囲気は晴れなかった。

 

「それではこちらも毛利攻めを行うことでいかがですか?そちらも毛利を挟み撃ちにできるなら利は大きいかと思いますが」

 

「毛利なぞ上様のいらっしゃる限り敵ではないわ!それより領内の反発を警戒したらどうじゃ!」

 

「すでに治水には手をつけております。万全な状態でお渡しいたしますよ」

 

「反抗したところで無駄じゃ!畿内を含む日の本の大部分と九州、どちらが強いかは明白でござろう」

 

「その明白な差の中で負けたのはどちらでしたかな?」

 

「なにおぅ!」

 

「確かに戦い続ければジャパリは負けるのです。しかし我々ジャパリには大量の鉄砲、豊富な兵糧と銭、そして民からの信頼全て揃っているのです。

確かに織田家は我々との戦に勝つでしょう。しかしそれが終わるのは何年、何十年先のことなのです?それまでにどれほどの数の民が犠牲になるのです?」

 

「……くっ」

 

「では肥前もお返ししましょう。そして毛利攻めへの協力と毛利攻略完了後に織田家に毛利領占領地に加え豊前、豊後、筑前、筑後、肥前をお返しし、臣従。これでいかがですか?」

 

「いやしかし肥後一国を許すわけには……」

 

 

結果としてはこれは受け入れられた。ここにジャパリは織田への臣従を表明。

 

 

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そして翌月、筑前小倉城、豊前中津城に集まった足軽軍による周防、長門同時上陸。そして毛利攻めがはじまったのである。

 

 

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第19話 時は今

ジャパリの精鋭軍計7万は筑前、豊後両水軍の支援を受けつつ、周防、長門に上陸。

 

一方で急遽二正面作戦に持ち込まれた毛利軍も、家督を継いだ隆元の弟、小早川隆景を大将とする軍を対応に向かわせた。

 

そしてここに、関門海峡近くの櫛崎にて、ジャパリ博士率いる3万6千の兵との戦が引き起こされたのである。

 

 

 

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毛利軍は兵力の優位と地の利を活かし、初戦は奇襲などで優位に進め、先鋒島津家久を後退させる戦果を挙げ、なおもこれを追撃せんとした。

 

これはジャパリ博士の軍のみならず、負傷から回復したヘラジカ率いる第二軍が周防国に上陸を仕掛けており、こちらを早々に撃退する必要に迫られていたからである。

 

分散させている以上、片方ずつ潰さねばならない。その焦りがらしくもない追撃戦に向かわせた。

 

しかしこの途中に潜んでいた新納忠元、島津忠将ら野伏隊が襲撃。毛利軍先鋒から押しつぶし、逆に追撃戦に持ち込んだ。

 

九州という土地での乱世の激闘の中で鍛えられる精鋭金子足軽軍。もはやその力は日の本でも有数のものへとのし上がっていたのだ。

 

この櫛崎の戦いでジャパリは毛利軍に3倍近い打撃を与え勝利。

 

 

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ヘラジカ率いる第二軍も高嶺城を包囲し、ジャパリ博士率いる第一軍もまもなく関門の玄関口、清末城を落城させ、さらに東進を進めようとしていた。

 

この後は毛利軍の目立った反抗もなく、小規模な軍勢が妨害のために繰り出されるのみであった。

 

 

 

 

1582年

 

四国の要衝、阿波伊沢城はまさに難攻不落とされていた。羽柴秀吉率いる四国軍を幾度となく撃退。中国方面こそ鳥取城を落として西進するなど優位に進める一方、四国から攻め上がる作戦は半ば頓挫していた。

 

織田信長は丹波にいた明智光秀を新たに備前に送り、ジャパリとの挟撃の中で功績をさらわれぬよう攻め上がろうとしていた。

 

しかしこの想定は脆くも崩れ去ることとなる。

 

{IMG51540}

 

兵を整えた明智光秀は閲兵の名目で信長のいる京へ進軍。

 

そして信長のいる本能寺を急襲した。

 

 

 

本能寺の変の勃発である。

 

{IMG51541}

 

 

{IMG51542}

 

 

{IMG51543}

 

 

これにより織田家の領土は各方面軍によって分割されるような状況となった。

 

織田信長を討ち、畿内一体を掌握するに至り、そして淡路島を抑えた明智光秀。

 

一度毛利と停戦し西国、四国を抑える羽柴秀吉。

 

越前より北陸を抑える柴田勝家。

 

尾張、伊勢を抑える織田信雄。

 

美濃より東国に迫る織田信孝。

 

その勢力が反明智を軸にまとまるに至るのである。

 

 

だがその一方、明智光秀はそのさらに外の他勢力に救援を呼びかけた。

 

甲斐、信濃、駿河を抑える武田勝頼。

 

西国にて依然影響力のある毛利。

 

この二大勢力の外部にあるジャパリもまた、新たな道を進む必要に迫られたのである。

 

 

ジャパリ博士は東進し、指月城を包囲した状況にてこの報を受けた。

 

「明智光秀謀反、織田信長死す」

 

と。

 

 

 

そして彼女は笑い出した。

 

「やれるのです!これで、これでジャパリは……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天下を目指せるのです!」



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第20話 天下への道

もう勝ち確なので飛ばします


周防、長門に攻め込んだジャパリ軍はジャパリ博士軍、ヘラジカ軍共に大打撃を与え、瞬く間にこれを攻め取る。しかし補給線の長大化と兵力損耗を受けて周防、長門のみで一度進軍を停止する。

 

その中で羽柴秀吉は明智光秀との熾烈な争いを展開する。ジャパリ博士は織田家に臣従していたことを用いて、対毛利で協力する羽柴秀吉を支持する。

 

それ以前から手を結ぶ誘いがあったため、これを受け入れた格好となった。

 

 

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そして羽柴秀吉が明智軍を破り上洛を果たした翌年の1583年冬、周防、長門にて足軽軍をかき集め、ジャパリ家は石見、安芸へと侵入した。

 

先の戦いからの回復もままならぬままに毛利家はあちこちで敗走し、数ヶ月ほどで安芸、石見を失陥。ここで再びジャパリは行軍を止めたものの、拠点吉田郡山城を奪われるまでに至る。

 

そしてその後、黒田官兵衛が伊沢城を攻め落とし、そのまま讃岐を奪う。一方東では流れた高橋紹運や立花道雪が羽柴の大軍相手に奮闘、備前への侵入を許さずに食い止めていた。

 

そしてこの間に島津家久の息子、島津豊久、鍋島直茂の息子、鍋島茂里が元服。フレンズら古参の中で若手の台頭も目立ってきた。

 

 

 

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畿内も大きく動いていた。

 

明智光秀が周辺全てを敵に回す中で劣勢に陥り、京を失陥。羽柴秀吉と織田信雄が大きく勢力を伸ばす。

 

一方で東からは勢力を盛り返した武田勝頼が勢力を伸ばし、三河に侵攻。織田家の後援のなくなった中、徳川家は劣勢に立たされる。

 

北からは上杉景勝が越中、加賀に侵入。柴田勝家はこの対応により出遅れ、明智攻めは滞ることとなる。

 

 

そして時を空けて1588年、ジャパリ博士は再び7万の兵を率いて毛利との最後の戦に臨んだ。

 

もはやかつて10国を超える領土を有した毛利家も、備後の一部に備中、備前、美作のみでは絶えることは叶わなかった。

 

南からは四国を制した羽柴軍が備中高松城を、ジャパリ軍も神辺城から備中松山城を落として東進。ヘラジカ軍が美作を制するなか、備前へと侵入した。

 

 

一方で羽柴秀吉は織田家の後継者をめぐる対立から柴田勝家と対立。明智光秀を近江に押し込めると、若狭にて柴田勝家を撃破。

 

そのまま越前に侵攻し、北ノ庄を攻略して柴田勝家を切腹に追い込んだ。

 

 

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こうして織田家の後に権力を握る存在は、織田家中には羽柴秀吉しか存在しなくなったのである。

 

 

これを受けて羽柴秀吉はジャパリに使者を送った。

 

「約定通り織田家の後継、三法師様に毛利旧領と筑前筑後、豊前豊後、肥前を割譲すべし」

 

 

 

備前国天神山城

 

元は浦上家の拠点だったが、今はもう毛利家の最後の拠点であった。

 

そこにて書面を受け取ったジャパリ博士は臣下を集めた。

 

 

「やるですか?やらないですか?」

 

「毛利に7年。羽柴と戦うとなればそれよりも長く争うこととなりましょう。民にこれ以上疲弊を強いるわけにはいきませぬ」

 

反対の弁を述べたのは新納忠元。最早かなりの古参の一人となっていた。

 

「しかし毛利攻めに羽柴はほとんど加担してないではないか。なぜそのような奴らにこの広大な土地を与えてやらねばならん」

 

「とはいえ約定がありますゆえ、返さねばそれを違えることとなりますぞ?」

 

「今の我々なら必ずや勝てる!やるしかない!」

 

「畿内は目前!さらに羽柴は織田信雄や上杉、武田と張り合っていきます。背中は空いていますぞ!」

 

「しかし拒否するにも理由はいるのです。仮にも織田との約定。織田家の後継者が三法師である以上、違えるのは難しいのです」

 

「かといって今更この差があって受け入れてなるものか!」

 

 

 

 

 

 

「ここまでの皆の働き、私は存分に報いたいのです」

 

「はっ」

 

「それはもう、九州全てを分け与えても足りぬほど」

 

 

 

「皆の者。かの約定は私と織田殿の間の約定。羽柴はその使者にすぎません」

 

 

「そのような者からこのような通告を受けるとは無礼千万」

 

 

「皆、毛利が済むのももうすぐ。羽柴を叩くのです!」

 

その後まもなく、毛利家は滅亡した

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 




話はもうここまでにします。めんどくなったのでカット。


概要だけ。とはいっても基本西から畿内に向けて力押ししただけだけど。


伊予の残りから四国西を制してジャガーさんで耐久。その間に播磨から畿内に侵入して、ライオンとかヘラジカとか島津家久で羽柴軍を滅多滅多にしました。そのまま加賀まで登って行ったら惣無事令出せたので終わり。

四国で頑張るジャガーさん


【挿絵表示】


ヒグマの圧倒的キルレ


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上洛


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惣無事令


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最終国力


【挿絵表示】


結構入れたメンツがやばかった。

こうしてジャパリはジャパンを支配する立場にのし上がったのである。


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