名前のない物語 (三枝 月季)
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六月十八日と三日前

 少し前から構想を練っていた物語です。水着イベも復刻しましたし、始めるにはいいタイミングかと……。

 因みに不夜術ちゃん。うちにはいないです(涙)


八千夜(やちよ)様」

「大した傷じゃあないわ、そう畏まらないで」

 

 果実を剥く手を滑らせて指を切った私を慮るように、ともすれば咎めるようにあがった声に、私は内心で舌打ちをした。

 

「ですが、化膿してしまっては大変です。更には傷口から菌が入れば、感染症に罹患してしまうかもしれません」

 

 すかさず、続けられた彼女の忠告は、間違いではないのだが、万が一を語るにしても過保護がすぎる。一昔前ならばともかく、医療と衛生の発展した現代で、そうなる事はまずありえないだろうから。

 

「キャスター」

「……はい」

「大げさと言っても無駄なのでしょうね」

「……申し訳ありません。殺さないで下さい」

 

 私の辟易とした心情を汲み取ったからか、キャスターの如実に怯えた瞳は、私と私の握る包丁の間を行ったり来たりした。その様子に罪悪感と嗜虐心の矛盾を覚えて、私は溜め息一つ、包丁を置いて簡単に手を洗うと台所を後にする。当然の様に彼女も私の後に続いた。

 

 溢れる血液で床を汚さないように注意しながら階段を上る。すぐに、止血してから動けば良かった。と自分の衝動的な行為を悔いたけれど、すべて今更である。

 

(屋敷を汚してはお父様に叱られてしまうかしら)

 

 尤も。仮に亡き父の魂での訪問があったとして、霊感など持たぬ(だろう)私がきちんとした出迎えが出来るとも思えないのだが。

 

「……いいえ、貴女を責めているわけではないのよ。私が浅慮だったわ。貴女の為に私は傷付いてはいけないという事ね」

 

 そんな事を考えながらも、しずしずと私の後をついて回る彼女の気配に、いたたまれない思いを抱えながら告げれば、彼女は少なからず安堵したようだった。正直なところは責めてはいないだけで、責める気持ちがないわけでもなかったのだけれど。

 

 だって、そうでしょう?カルガモの雛の如く常に私にベッタリなキャスターの実態は、そんなに微笑ましいものでもなく、私にとっては監視されている事と同義なのだから。少なくないストレスを覚えてしまっても致し方ないと思う。

 

「どうぞ」

「……どうも」

 

 私室のドアノブを一足早く握られて、私の右手が行き場をなくす。普段が臆病な分、たったそれだけの事でも彼女の徹底ぶりが分かろうものだ。

 

「救急箱はどちらに?」

 

 案の定、キャスターは部屋に入るなり私にそう尋ねてきた。最早、こうなってしまえば、怪我人には拒否権など与えられてはいないだろう。

 

「ベットサイドテーブルの引き出しの中よ」

 

 これ以上の疲労を重ねたくなかった私は、彼女の求め通りに答えて寝台に腰かける。

 

「ええと……体温計と湿布に、鋏……ああ、良かった滅菌ガーゼがありました。アルギン酸カルシウムを用いた創傷被覆材があれば、尚更、良かったのですが……」

 

 ブツブツと独り言を述べながら、致し方ありません。と息をついたキャスターに患部の手当て(心臓より高く患部を上げ、ガーゼ越しに直接圧迫し止血、消毒は逆効果になるらしく行わなかった)を受けながら、私は風に揺れるミルクティー色のカーテンを眺めた。

 

(雨の匂い)

 

 昨夜の名残か、はたまた予兆か、湿った風が頬を撫で、中途半端な長さの髪の毛が鎖骨を擽る。目の前では、長身を縮こまらせて私の手当てをするキャスターの黒絹の長髪が、浅黒い艶肌の上をスローモーションのように滑り落ちるのが見えた。

 

(床じゃなくて隣に座れば良いのに)

 

 彼女の態度は総じて前時代的だ。権力者に、それも暴君と呼ばれる類の存在に仕える使用人の如く、へりくだり方が過剰なのである。私としてはそれもやり辛い事の一因となっているのだが、キャスターはあくまでも私達の関係を主従として扱いたい様子でもあったから、無理を言うのは憚られた。

 

(ああ、なんだ。つまりはそういう事じゃないの)

 

 耐えればいいのだ、昔みたいに。

 

「ふふ」

「――ッ!!申し訳ありません。強くし過ぎてしまいましたか?」

 

 噛み殺しきれなかった思いが口角を上げ、吐息が霧散した。すかさず、キャスターが弾かれたように顔を上げ謝罪を述べる。

 

「まさか、我慢強いもの。私」

 

 くつくつと思い出し笑いに耽る私を、訝しむ目で見ながら、キャスターはゆるゆると口を開いた。

 

「…………わ、私が、治療魔術を修めていれば、良かった。のですが……」

「今更な話ね」

「っ、申し訳ありません」

 

 途端に、青ざめて目を伏せた彼女を見て、私もついに溜め息を吐いてしまう。どうにも私と彼女の波長にはズレがあるようだった。或は、私は人の神経に障る事しか言えないのかもしれない。

 

「……キャスター」

「……はい」

「謝罪が出来るという事は確かに美徳よ。でも、だからと言って、そう安売りするものでもないと思うの」

 

 謝意というものは、謝罪にしろ、感謝にしろ、素直であるべきものだと思うのだ。そして、それは結果として己の身を助けるものであって、端から予防線として扱うには向いていないとも。

 

「…………はい。仰る事の意味は理解出来ますが」

「……まぁ、貴女が何を恐れているのかは分かっているつもりだし、無理強いはしないわ」

 

 立ち上がり、開いた窓を閉めながら振り返れば、少しだけ穏やかな表情を取り戻した姿の彼女と視線が絡んだ。私のものよりも深く碧い瞳は、恐怖に濁らなければ途端に聡明に見える。

 

「ありがとうございます。八千夜様」

「どういたしまして、キャスター」

 

 衝撃の出会いから三日、私達はようやく、互いに笑い合う事が出来た。

 

「……では、林檎の方は私がお持ちします」

 

 しかし、キャスターの微かな笑みの寿命は短く、態度も直ぐに改まった。一礼と共にサッと動いた彼女は、そのまま部屋の扉へと手をかける。

 

「ちょっと、待って」

 

 焦った私が呼び止めれば、何か?と不安げな瞳が揺れる。その怯えが故意のものではないと分かってはいても、どうしても罪悪感に見舞われる。

 

「あ、えっと、私ならもう、大丈夫。だから、その……」

 

 瞬間、呼び止めておきながら、上手く言葉が出てこない私の額に、彼女の額が合わさり、驚きに目を見開いた私と対比するように、彼女の閉じられた瞼を彩る長い睫は細かく震えた。そうして、至近距離で見た彼女は、つくづく美しい女性だった。同じ女であるのに動悸を覚えたほどである。

 

「……確かに、熱のほうは下がったようではありますが。大事を取るに越したことはありません。せめて、あと二、三日は安静になさっていた方がよろしいかと……」

 

 乳香の香りと共に顔を離した彼女が恐る恐ると進言する。それを聞いて嘆息しそうになったのは言うまでもない。

 

「でもキャスター、悠長に休んでいられるほど私も暇なわけじゃないのよ?」

「……はい。八千夜様には八千夜様の日常がある事は理解しております。ですが、聖杯戦争が始まってしまったのは事実ですので……」

 

 今にも泣き出しそうに語尾を弱める彼女を見て、私も釣られて憂鬱な気分になる。

 

「その事だけど、私も貴女も巻き込まれただけで、積極的な参加の意思はないんだから。その、どうにかして穏便に事を進める事は出来ないのかしら?」

「……それは、なんとも。方法はなくはないのでしょうが、私達には圧倒的に情報が足りていませんので……」

 

 申し訳ありません。と今にも土下座をしそうな彼女をどうにか宥めて、私は彼女を隣に座らせて深呼吸をする。

 

「……貴女が私に非を感じる必要はないわ。私だって貴女を巻き込んだのは一緒なんだから、お互いに加害者で被害者よ。そして、そんな事よりも、今は分かっている事だけでも整理しましょう」

「ですが、よろしいのですか?マスター。貴女様にとっては、恐ろしい記憶を想起させる事に――」

「言ったでしょう?マスターと呼ぶのは止めて。それと、情報交換は必要な事よ。確かに思い出すのは怖いわ。けど、過ぎた事をいつまでも恐れていても状況は好転しない。違う?」

 

 彼女の指摘に震え出す身体に気付かぬフリをして、碧い瞳を覗き込めば、キャスターは逡巡するように視線を逸らして押し黙る。そのままどれほどの時間が経過したか、私が折れようかと思い始めた矢先――

 

「分かりました。ですが決して無理はしないと約束してください」

 

 ジッと向けられた、存外力強い目線に圧倒されるようにして、私は頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 ※

 

 

 

 

 

 

 

 さて、ことの始まりを語るには些か時間を巻き戻さなくてはならない。

 

 六月も半ばともなれば立派な長雨の時節、その日、私はギンガムチェックのリネンの膝丈ワンピースに、ミントグリーンの薄手のカーディガンを羽織って、右手にビニール傘、左手に買い物袋という装いで家路を急いでいた。

 

(今日は晴れると思ったんだけど)

 

 水滴の付いたビニールを透かして見える曇天を睨むが、それで雨が止むわけでもない。昼前までは出番に恵まれていた太陽はすっかりなりを潜めていた。

 

(やっぱり、もうちょっと甘えておけば良かったかしら?)

 

 雨露に濡れて、暗い色にテカっている緩やかな傾斜の長い坂を眺めて嘆息する。他人の時間を拘束している事にむず痒さを覚えたから、こうして遠回りをしているわけなのだが、我ながら可愛くないというか、損な性格をしていると思う。どうにも私は他人からの好意を上手く噛み砕けない卑屈なところがあった。

 

 しかし、それを実感する事は私にとっては珍しい事ではない。

 

 私の住んでいるところは観光地として名を馳せる古都にあるが、その中でも閑静なエリアに位置している。それでも観光客の姿を見かける事は他県に比べれば多いと言えるだろう。特に、赤みの強い茶髪に、濁緑を帯びた茶の瞳を持つ私の見た目は、外からの観光客には親近感を持たせる部分があるらしく、道を尋ねられる事は日常茶飯事だった。

 

(つまり、それだけ浮いているって事よね)

 

 中学の頃なんかは毛色が違うという理由だけで、上級生に呼び止められたこともあったっけ?尤も、私に言わせれば、純血の何がコンプレックスなのか理解できないのだが。

 

 兎も角、今回の迷い人は中東の出身だろうと思われる。体格に恵まれた人当たりの良い青年だった。たどたどしい日本語で私を呼び止めた彼は、途中までの道順が私と同じ事を知ってからは、嫌味も下心も感じさせずに、私の荷物を肩代わりしてくれたのだ。それが余りに自然だったものだから、私は断るタイミングを見いだせずに、彼の屈託のない笑顔に眩しさと気恥ずかしさを覚えながら、他愛のない会話を楽しんだのである。

 

 それが嵐の前の静けさであると同時に、嵐の前触れであった事に、気付かないまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家に着いた時にはウェッジソールが水を吸って重たくなっていた。ビニール傘への出費といい、ほとほと運が悪いと苦笑したものである。出掛ける前に洗濯物を取り込んでいなかったら、余計に凹んでいただろう事は言うまでもない。しかし、そのどれもが、日常的に起こり得る不幸の域を出る事はなく、いつものように何の変哲もない家事作業を行ったりして、時を過ごした私は23時頃には布団に入り眠りについたのだった。

 

 そうして、三時間ぐらい寝ただろうか、その日の雨脚は夜になって弱まるどころか強くなっており、けたたましく窓を叩く雨風に私は目を覚まして、それから――

 

「……だ、れ?」

 

 腹の上に乗った重みへと声をかけた。人影は答えない。それどころか、言語を話せるのかも怪しい様子で唸る。

 

「――やっ!!」

 

 暗がりの中で爛々と光る。血走った眼と目が合った瞬間、私は衝動的に、それを押し退けていた。そうして転がるようにベッドを降りて、駆ける。理由なんてない、ただ、防衛本能の命じるままに。

 

(何!?いったい何なの!?)

 

 何が起きたのか、何故、走るのか、何処に逃げればいいのか。いや、そもそも、人の形をしたあの獣はなんだ?

 

 喘鳴が思考を乱す。分からない。何も、分からない。でも、アレに捕まれば命が危ないという警鐘が鳴り止まない。獣の息遣いが振り切れない。

 

「ヒッ」

 

 ガタン、ガシャンと破壊音を伴って獣が暴走する音に喉が詰まる。階段を駆け下りて玄関扉に手をかけた私の後ろで、何か重さのあるものが落下する音と木の板が割れる音がした。

 

「ギャウルルル」

 

 苛立ったような咆哮が鼓膜を突き刺し、瞬間、雨露に濡れながら、無我夢中で駆ける私の裸足が、ぬかるんだ芝生に取られ、横転する。

 

「い、や」

 

 すかさず、扉を蹴破る音と、ギャウと言う獣の嘶きが重なり、私はこれから身を襲うだろう衝撃と痛みに、目を閉じて叫んだ。

 

「いやああああああああ!!」

 

 喉が張り裂けんばかりの悲鳴は豪雨に掻き消される。誰の助けも望めない事は明らかだった。しかし――

 

「ァヴッ!!」

 

 一足早く、異変を察知したように唸る獣の当惑の声と共に、突如として、閉じた瞼に光が満ちた。日付を跨いだ真夜中の雨天に不釣り合いな膨大な光の奔流に、私は誘われるように目を開く。

 

「え?」

 

 途端、瞳に飛び込んできた、地表を光源とした不可思議な現象に、思わずと呆けた声が漏れる。刹那、膨れ上がった光の束は爆発するかのように弾けた。その余りの眩さに私も獣もとっさに目元を庇うが、サブリミナルの様に第三者の存在が網膜に刻まれたのは確かだった。

 月の隠された雨の夜に降り立ったその新参者の詳細は、フラッシュに焚かれたようにチカチカする瞳では輪郭すら捉えられない。ただ、一つ言えるのは常識の範疇で語れる存在ではないだろう事だけ――

 

「……?」

 

 ふと、影から微かな吐息が漏れた。例えるならそれは眠りから目覚めた直後のような無防備なもの、そして――

 

「喚ばれて、しまった……?」

 

 悲嘆の言の葉が続く、それは物憂げな女性の声だった。困惑と落胆の色濃いその発言に、返すべき慰めは見つからないまま、私は状況に即した挙げるべき声を張った。

 

「逃げてッ!!」

「ッ!?」

 

 私の大声に女性の身体がビクつき、次の瞬間には目前に迫った獣の存在に息を呑む気配がした。

 

(駄目っ!!)

 

 二つの声にならない悲鳴と獣の雄叫びが重なり――

 

「そこまでだ!!」

「ヴァヴッ!?」

 

 低い声、ヒュッと何かが飛来する音と、ザスッと何かが地面に突き刺さる音の連なりに、獣が怯んだように後ろへと跳ぶ。

 

「サプタハ!!」

 

 続けざまに、雨音をぬって暗がりの中から響いた声に、トドメを刺されたかの如くに獣の動きが止まる。そして――

 

「に、さま」

 

 不完全ながら、その口からは言葉が紡がれる。意外なことにそれは可憐な響きを有していた。しかし、驚きはこれだけでは終わらない。だってこの声は――

 

「よう、今日はありがとな。でもまさかこんな形で再会することになろうとは思わなかったぜ」

 

 精悍な顔つきに少年の色を残した瞳はそのままに、出逢った時とは比べ物にならない流暢な日本語を操って、彼は私に笑いかけた。親しい友人を前にしたようなその笑顔に私は余計に混乱する。

 

「妹が世話になったみたいだな」

 

 好青年を絵にかいたような彼は、その手の内に弓を握っていた。つまり、さっきの風切り音は、状況的には彼の放った矢が産んだものという事になる。

 

「……何の、冗談よ」

 

 寝起きの頭が痛む。これが夢じゃないのなら、いったい何だと言うのだ。

 

「ああ、あんたの気持ちも分かるが、始まっちまったもんは仕方がない。お互いに運がなかったな」

「何を、言っているの?」

 

 私の思考を先読みしたようにかけられた、労わるような言葉に、返って息が詰まる。同じ言語を操っているはずなのに、彼の言葉は私にはうまく馴染まない。得体の知れない不気味さに眩暈を覚える。

 

「……詳しい事は、あんたのサーヴァントに聞きな。今日のところは引き揚げさせてもらうぜ」

 

 そう言って、彼らは雨と闇に溶け込むようにして姿を消し、私は、魔術回路を稼働させた事と雨風に身体を冷やした事で高熱を出して、今までキャスターに介抱されていたのである。そうして、熱がある程度おさまった折に、彼女から語られた聖杯戦争の概要と、自分が魔術師の流れを汲んだ血筋にあるという事実は、二十余年の人生で一番の驚きを私にもたらしたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

「私の寝所に忍び込んだ方は、確かサプタハって呼ばれていたわね」

「ええ、古代エジプト第19王朝にその名を冠する神王(ファラオ)がおりますが、仮にそうだとしても解せません。性別が異なっているのは勿論の事、彼は障害を負った幼帝なうえに、短命であったとされています。サーヴァントとして昇華されるような逸話は持たないでしょう」

「じゃあ、嘘の情報なのかしら?」

 

 彼女の考察に感嘆を覚えながら、相槌を打てばキャスターは小さく苦悶する。

 

「……可能性はなくはないでしょうが、嘘をつくのなら、もう少しそれらしい(・・・・・)嘘をつくのではないでしょうか?」

「……確かに、それもそうね。エジプトの歴史に馴染みがない私ならばともかく、貴女には疑念を抱かせたのだものね」

 

 と、そこまで言ってから、私の頭にはキャスターは何処の英霊なのだろうか?という今更な疑問が浮かぶ。褐色美女というだけでも範囲は絞られるとは思うのだが、どうにも私はこの手の問題には疎かった。そうして、己の無知さ加減に、いたたまれない思いを持て余し始めた頃――

 

「……ですが、もう一人の、あの弓兵の真名については、大方の予想が付けられました」

「――……えぇッ!!」

 

 思いも寄らず、彼女が真理に迫っていた事に頓狂な声を上げてしまった。そして、そんな私の声に驚いた彼女は弁解の様に言葉を続ける。

 

「とはいえ、あくまでも予想の範疇を越えませんが――」

「聞かせて!!」

 

 瞬間、喰い気味で迫った私に気圧されながらも、彼女はぷっくりとした唇を震わせた。

 

「……その前に一つ、お尋ねしたいのですが、この国で弓の名手と言えば、八千夜様は誰を思い浮かべますか?」

「――え?いきなり、そう言われても……、でも、そうね。那須与一かしら、源平合戦での扇の的の話は有名だもの」

 

 突然の話題の転換に困惑しながらも、私が答えれば、キャスターは我が意を得たりとばかりに頷いた。

 

「なるほど、やはり彼の名が出ますか」

「……でも、今の質問がアーチャーの正体と、どう関係があるの?彼の顔立ちは日本人離れしてたわよ?」

「八千夜様が私の問いへと、当惑しながらも淀みなくお答えになられたように、私にも弓兵と問われれば思い浮かぶ人物がいるのです」

 

 焦れた私が言いつのれば、彼女は講師のように説明を始める。落ち着いたその声音はとても聞き心地が良かった。

 

「その者は、争う二つの国に献身の一射を以て平安をもたらした救世の勇者。名はアーラシュ。アーラシュ・カマンガーの異名で、今なお敬愛される。古代ペルシャにおける伝説の大英雄です」

「へ?」

 

 叙事詩を謳うような彼女の語りと、あの好青年が、私の中では上手くリンクせず、結果として、私達は互いの文化的な温度差に、なんとも言えない表情で、顔を見合わせる事となった。




 この物語は、99の失敗の一つである。亜種聖杯戦争という形で描いていくつもりでいます。その中でもそれなりの規模で行われたものになるかと……。

 登場サーヴァントは最大でも5騎を予定しております。


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六月十九日は四日目

 ※今話には残酷な描写が含まれます。特に猫好きな方はご注意を(陳謝)


 結局のところ、マスターである祢屋八千夜(ねややちよ)は、昨夜、またしても熱を出し、キャスターはとても、やきもきさせられた。

 

「……ところで、八千夜様。なぜ、こんなに沢山の林檎を?」

 

 しかし、その事で彼女を責められるはずもなく、キャスターは、熟れた果実を皮ごと咀嚼する赤茶の頭部へと問いを投げた。怪我をする前は丁寧に皮を剥いて食べていたのに、今はもう、それすらも億劫なのか、豪快に歯型を刻んでいる。窓から射しこむ、昼下がりの陽光は、食卓に座る彼女の、果実を握る手の甲に宿る朱を照らし出す。縦長の長方形の短い両辺に、ギリギリ重なるように円形の並ぶそれは、キャスターに巻物を想起させた。

 

「……昔、お母様がよくアップルパイを作ってくれたのよ。だから、思い出しながら作ってみようかと思って……。それはそうとキャスター、後ろに控えていないで、空いている前の席に座ってくれると、ありがたいのだけれど」

 

 濁緑混じりの薄い茶色に見上げられて、キャスターは困惑しながらも、彼女の意に従う事にした。では、失礼いたします。と向かいの席に腰かければ――

 

「やっぱり、このほうが、お互いに話しやすいでしょう?」

 

 と、柔く微笑みかけられる。なるほど。対話の際に相手の顔を拝さない事は、彼女の場合では無礼にあたる事なのかもしれない。

 

 八千夜とキャスターの共同生活は、今日の夜を迎えると同時に、四日目を迎えようとしているのにも関わらず、聖杯戦争絡みでの会話以外での歩み寄りは、殆どない。と言ってもいい具合だった。無論、それは八千夜が万全の状態とは言い難かった事も理由の一つではあるが、やはり、依然として、キャスターがあらゆる物事に恐れを抱いている事も、原因の一つに挙げられるだろう。

 

「……そう言えば、私や私の家族については、貴女に話していなかったわね」

 

 ふと、くるくると果実を回転させながら、八千夜が切り出した。手の中のそれは、もう赤い面積の方が少なくなっている。対して、キャスターは無言のままだった。それを、どのように八千夜が受け取ったのかは知れないが、赤子の頭部くらいの大きさをした果実を、歪んだ小さな骨のような形にまで堪能した彼女は、その残骸を受け皿に横たえ、手や口元を拭いてから、語り出した。

 

「多分、貴方も少しは気になっていたんじゃないかしら?二十歳そこそこの小娘が住まうには、この屋敷は大仰すぎる。って」

 

 どこか、自嘲気味にそう言った八千夜に、キャスターはどのような言葉返すべきか思案する。彼女の許可の元、キャスターは己の特性を用いて、屋敷を堅牢な工房化しているのだが、正直なところ、自分と、八千夜(マスター)を護るためとはいえ、屋敷を覆うのに用いている魔力には、無駄と言える部分も少なくはなかった。

 

「……はい、八千夜様に厳命された通り、一階最奥のお部屋には、手をつけてはおりませんが、やはり、削れるところは、もっと削った方がよいのでしょうか?」

 

 が、キャスターの本音としては、無駄であろうとリスクを避けられるのであれば、現状を維持したい気持ちのほうが勝っていた。しかし、展開する魔力の供給源は、マスターである彼女である事も事実であり、それはいくら、自分の陣地作成スキルが秀でていようが、屋敷の立地が運良く、霊脈の上に位置していようが、補い切れるものには限度というものがあった。

 

「……ううん。それは貴女に任せるわ。私が口出し出来る事じゃないし」

 

 しかし、意外にもキャスターの言い分を退けた八千夜は、苦笑して続ける。

 

「私が言いたいのはね。状況的に、私って随分、怪しい女じゃないのかなって……」

 

 そうして、不安げに瞳を逸らした八千夜の様子に、キャスターも漸く、彼女の言わんとしているところに気が付いた。

 

 独りで住まうには広すぎる邸宅に、成人してまだ日の浅そうな少女が一人。というのは確かに妙と言えば妙ではあった。加えて、彼女の見目には西洋の血が色濃く、屋敷の造りも和洋折衷とくれば、作為的なものを感じなくもない。この屋敷が八千夜の為に建てられた城なのだとすれば、彼女は裕福な家柄に生まれた愛された娘。と言えるだろうに、そうと断じるには使用人が一人として雇われている様子がないのが、不気味であった。これでは、まるで、不自由のない広さだけを有した檻のようではないか?

 

 まさか、と心に浮かんだ考えを払拭する。けれど、一度芽生えてしまった疑念は、なかなかキャスターの中から消えてはくれなかった。

 

「……何から話せばいいのかしら、ああ、そうね。簡単な家系図を書いた方が分かりやすいわね。きっと」

 

 対して、八千夜はキャスターの懸念に気付く事なく、流しへ向かい食後の後片付けを終えると、冷蔵庫に束ねて張り付けてあったメモ用紙と、筆記具を手に取り戻ってくる。そうして、キャスターの目の前で、スラスラとペンを走らせ、あっと言う間に家系図を描き切った。

 

 まず、父と書いてある文字から左右に伸びた線上に、前妻(故)の文字と、母の文字がそれぞれ並び、前妻(故)と父の間に伸びた線上に、異母兄(17歳年上だという)の文字が一つ、同じように、父と母の間に伸びた線上に私の文字、つまり、八千夜が位置していた。要約すると八千夜は後妻の娘という事になるらしい。

 

「お父様とお母様の出会いは、お兄様のお母様が亡くなった後ではあったから、不倫でも、略奪愛でもなかったのだけれど、お母様とお父様の年齢が親子ほどに離れていた事と、お母様が日本人ではなかった事が、その、お父様の家と最初の奥様の家とで、いざこざの種になったと言うか……」

「もしかして、八千夜様のお父様と最初の奥様のお家は、政略結婚をなさっていたのでは?」

 

 キャスターの問いに八千夜が頷く。

 

「……よくある話だとは思うのだけれど、古い体質の組織ほど今まで培ってきた物事に固執して、新しい事柄を認めたがらないのよね。せめて私が純血だったら、もう少しどうにかなったのかもしれないけれど、ああ勿論。お母様の娘として生まれた事に不満はないのよ?」

 

 そんな、八千夜の乾いた言葉を前に、キャスターは何も言えなかった。彼女の言葉に同意したからではない。この世界の身勝手さに呆れて、言葉を失ってしまったからだ。

 

「……つまり、この屋敷は」

「そう、私とお母様の隠れ家みたいなものよ。それにしては大袈裟な規模だけれどね」

「ですが、それだけお父様の目がかけられていたという事なのでは?」

 

 一族に疎まれる母子を護る為に、権力者が案じた一計は、彼女達を高値に見せる事だったのだ。その方法が最良か否かは兎も角として、彼の庇護下において母子は表面上では安穏な日々を送れていたのだろう。すると、案の定、八千夜はキャスターの思考を読んだかのように言葉を繋げた。

 

 6年前に父が死んでからは、面白いくらいに使用人が辞めていったわよ。と、せせら笑うその表情は、年若い娘が浮かべるには余りに厭世的だった。

 

「…………しかも、父が亡くなって一年経つか、経たないかっていうときに、今度は私が奇病にかかってね。高校の進学は諦めざるを得なかったわ」

 

 だから、私は最低限の学しかない。無教養のお荷物なのよ。と八千夜は言い捨てる。ここで、キャスターがどんなに言葉を尽くして否定したところで、彼女にかけられた呪いが解けるとは到底思えなかった。

 

「……奇病とは?」

「安心して、今はもう寛解しているの。それに貴女にうつしてしまうようなものでもないわ」

 

 キャスターの言及に、八千夜は彼女を不安にさせたと思ったのか、儚げに笑う。対するキャスターも互いの認識の齟齬へと、咄嗟に否定とフォローを加えようと口を開き、けれど、屋敷の殆どを覆う形で展開してあった魔力網に引っかかった存在へと、狼狽える事となった。

 

「……キャスター?」

「――……八千夜様、表にサーヴァントらしき反応が一騎。恐らくはアーチャーかと」

 

 瞬間、キャスターの震えた吐息に、八千夜の目元が厳しく寄せられた。

 

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 

「何の用かしらアーチャー。まさか白昼堂々と私を殺しに来たの?」

「俺としちゃあ、正々堂々と戦えるんならそれでもいいんだが。あんたも、あんたのサーヴァントもそう言った手合いじゃないだろう?」

 

 玄関扉から、顔だけを出す形で大声をあげた八千夜へと、邸宅の門柱の陰から姿を現した、浅黒い肌をした偉丈夫が朗々と声を張る。そうして、数メートルの距離で対峙する両者は、片や、親の仇を見るが如く剣呑に視線を細め、片や、謂れのない嫌疑に参った。と言うように肩を竦めた。

 

「……八千夜様。余り相手を刺激なさらないほうがよろしいかと」

「そうは言っても目的が見えないじゃない」

 

 おずおずと掛けられた声に、八千夜が扉を閉めつつ振り向けば、彼女は想定よりも遥か後方で震えていた。どうやら、何らかの魔術を使って声だけを近くに届けていたらしい。

 

「どうするの?見たところ武装はしていない感じだけど」

 

 そんなキャスターの様子に、半ば呆れを覚えながらも、確実にあてられた八千夜が、恐怖にプチパニックな状態で食い下がれば、キャスターは呻くように声を絞り出した。

 

「…………基本的に、聖杯戦争は夜間に行われるものですし、その定石に乗っ取るのであれば、彼の訪問は同盟の提案、乃至、休戦協定を結ぶことが目的である。と推測する事は可能です。ですが、そのような勧誘や約定が必要なほどに、我々が煩わしき難敵か?と問われれば、どのように考えても、我々は尤も勝利からは遠いはずなので……」

「ああ、もう!!じゃあこうしましょう。彼の真名が仮にアーラシュであったとして、彼は、今ここで、私達を騙し討ちするような人間かしら?」

「それは……」

 

 刹那、八千夜が勢いで提案した物差しに、キャスターはハッとしたように面を上げる。そうして、意を決したように口を開いた。

 

「……サーヴァントである以上、令呪を使われては、如何に彼が高潔な方であろうと、我々は殺される可能性があります。ですが、それは彼自身も弁えている事であり、尚且つ、彼の気質上では避けたいと思う事であるはず。となれば、彼が(・・)彼のマスターを(・・・・・・・)信用して動いた(・・・・・・・)。という事を、我々が(・・・)信用して動く(・・・・・・)。という事もありかもしれません」

「……分かったわ。じゃあ」

 

 キャスターと視線を交錯させたまま、八千夜は今一度、深く息を吸う。

 

「迎え入れましょう」

 

 覚悟の定まった震えのない声音に、キャスターは励まされるように頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、ご用件は?」

 

 応接間に通したアーチャーに向き合うなり、八千夜は毅然と切り出した。こうして相対してみると、初めて会った時と変わらず、彼は人好きのする青年と言った印象が先立って、どうにも、調子が狂った。

 

 それに対して、単刀直入だな。と苦笑したアーチャーは、まぁ、まずは、これを見てくれ。と傍らに抱えてきていた青色の大きな箱(クーラーボックス)を開いた。途端、視界に飛び込んできた光景に、さっきまでの威勢は何処へやったのか、八千夜は声にならない悲鳴と共に、同じソファのすぐ隣へと座る。キャスターへと抱き付いていた。

 

「……猫、の死体。ですか?」

 

 瞬間、自らに抱き付いてきた主を宥めながら、キャスターは目の前の死に、呆然とし、顔色を悪くさせつつも、アーチャーへと胡乱な視線を送った。

 

 魚の(はらわた)を取るように、身体の中心を大きく縦に割かれた様子のその死に方には、流石にショックが大きかったのか(血の色が目立つ白猫であった事も大いに災いしたのだろうが)八千夜は一瞬にして滅入ってしまった様子である。

 

「……やっぱりな、その反応じゃあ、あんたらが犯人って事はなさそうだ」

 

 嘆息と共に容器を下げ、悪かったな。と八千夜に声をかけるアーチャーへと、キャスターが声を上げる。

 

「――わ、わたくし達に、どのような容疑がかけられていたのかは存じませんが、疑ってかかり、ましてやそれが、そちらの勘違いであったというのなら、貴方には仔細を述べる義務があるのではありませんか?」

 

 それは、か細く弱々しい、頼りない叱責ではあったが、来客を部屋にあげて早々に、猫の死体を見せられた事に対する抗議としては、妥当と言える発言ではあった。

 

「ああ、勿論。語らせてもらうさ。だが、その前にあんたの主は席を外さないでも大丈夫か?今から話す事は、余り気持ちのいい代物じゃあないぜ?」

 

 バツが悪そうに、視線を震える赤茶へとやってから、アーチャーはキャスターに視線を合わせた。

 

「――……八千夜様」

 

 弓兵の澄んだ視線を前に、暫し逡巡してから主の名を呼んだキャスターは、ゆっくりと顔を上げた八千夜に、淑やかな声音で問いかけた。

 

「大丈夫ですか、八千夜様」

「――大丈夫、じゃない、けど。逃げ、られない。でしょ?」

 

 泣きたくなるのを必死に堪えるようにして、自身を鼓舞した八千夜の姿に、キャスターは痛ましい表情を作る。アーチャーは出来るだけ干渉しないようにか、深く目を瞑っていた。

 

「――それじゃあ、意見の出揃ったところで、事のあらましを語らせてもらうぜ」

 

 気さくな好青年の表情を、武人の厳しい顔つきへと変えて、アーチャーは重たい口を開いた。

 

「――……だが、本題の前に、カマをかけた事については詫びておこう。あんたらが犯人じゃないって事は、実を言うと、最初っから分かっていた。その上で、この事実を知っていたのかが知りたかった」

「…………この事実って?」

 

 猫の死体を巡る不気味な議論の始まりに、八千夜が音を上げるように儚く問う。

 

「……そうだな。俺たちはマスターあっての存在なわけだが、それは厳密に言えば、マスターからの魔力供給があってこそ。と言い換える事が出来る。つまり、マスターが居ても、現界に必要な魔力が補えない場合ってのもある。ってわけだ。ここまではいいか?」

「……ええ」

「だから、そういう奴が現界を保つには、他所から魔力を補わなきゃならない。そこで一番単純な方法として取られるのが――」

「魂、食い」

 

 瞬間、アーチャーの低い声音を継ぐように、八千夜の傍らでキャスターが生唾を呑み込んだ。

 

「…………そういうこったな」

 

 蒼白の顔色で瞠目したキャスターに、アーチャーは深い息をつき、すべてを察した八千夜も、眩暈を覚えて頭を抱えた。そうして室内の空気は静かに濁る。そのままどれだけの静寂が過ぎたのか、詰めていた息を吐き出すようにして、キャスターが新たな流れを作った。

 

「――……一つ宜しいですか?」

 

 ご丁寧に挙手をしたキャスターの様子に、アーチャーの瞳の奥が微かに緩んだ。それに促されるようにして、キャスターは良く通る声で語り出した。

 

「……貴方は、わたくし達が犯人ではない事を知っていた。と仰いましたが、それはつまり犯人が誰であるかを知っている。という事と同義なのでは?そして、そのうえで、こちらと情報を共有なさった。その目的はいったい、なんです?」

 

 理路整然と要点を纏め上げたキャスターに、アーチャーは感心しつつも、どこか悪戯がバレた子供の様に苦笑した。

 

「……犯人についてだが、恐らくはセイバーだ。流石に真名までは分からないが、接敵した協力者(・・・・・・・)の話では、中世の騎士然とした男だったらしい」

「……最優と名高きクラスに当て嵌められた英霊が、魂食いを?」

「ああ、きっとマスターがトンデモない奴なんだろうさ」

 

 にわかには信じがたい。というキャスターの声色に、アーチャーが義憤も露わに顔を顰める。確かに、騎士に付属する清廉なイメージと、魂食いの残忍さは合致しなかった。

 

「…………まぁ、要するに気をつけろ。って事だ」

「え?」

 

 情報を提供しておいて、その見返りを求める様子のないアーチャーに、キャスター主従は揃って首を傾げる。

 

「――……俺が、あの日あんたに近づいたのは、此処の霊脈を欲しての事だったんだが、やはり、聖杯戦争の事を一般の素人に漏らすわけにはいかなくてな、その結果の強硬策の果てに、同じ舞台にあんたを上げちまった。となれば、流石に責任は感じる」

「…………そう、だったの」

「ああ、だからまぁ。これは俺の勝手なお節介であり、けじめ。みたいなもんだ」

 

 それは彼なりの贖罪であると同時に、決意表明でもあったのだろう。厳しく哀しい現実を前にした、ささやかな最後の優しさとして、これを境に、互いは完全に敵同士になるのだという事を、彼はわざわざ言いに来たのだ。

 

「――……邪魔したな」

 

 そうして、突然に訪問してきた時と同じように、アーチャーは颯爽と屋敷を発とうとした。けれど――

 

「待って、アーラシュ(・・・・・)

 

 八千夜の言葉に瞬間、時が止まる。キャスターが蒼褪めるのを視界の端に捉えながらも、男は、豪胆にも己の名を呼び留めた少女へと、惜しむように目を細めた。

 

「……その猫、うちの庭でいいから、埋めてあげたいの」

 

 加えて、罵倒も覚悟していたところに、お願いよ。と懇願するような視線を受けてしまったことで、いよいよ堪え切れなくなったと言うように笑って――

 

「……ああ、そりゃあ、男手が必要だな」

 

 両者はどこか吹っ切れたような表情で、互いを見据えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 

 場面は変わり、とある日のとある時刻、とある場所のとある建物内にて。

 

「はい、あ~ん。ほらほらぁ、しっかりと口を開・け・て」

「――ン、ングッ」

 

 空間内に反響する甘ったるい猫撫で声に、抗うように苦悶する低い男の声音があがる。

 

 場所は浴室、湯の張られていない浴槽の中、人物は二人居た。白銀の甲冑姿の痩せた男と、彼に馬乗りになった。紺白の半袖セーラー服を着た長い黒髪の少女である。それだけでも異様な光景と言えたが、何よりも目を引くのは男の口元から上半身、少女の両手の肘までを集中的に濡らす、鮮烈な赤色であろう。

 

「はぁい、それじゃあ、ゴックンして?」

 

 幼子に言い聞かせる様な声音と共に、少女の朱に染まった指先が男の喉元を蠱惑的に這い滑る。瞬間、男は少女に促されるままに、何か(・・)を嚥下した。すると、途端、少女の眼が三日月を描き表情が華やぐ。対する、男は元より良くない顔色を更に青白くさせて、祈るように深く目を閉じた。

 

「――……今日も私とこの子達の為に頑張ってくれてありがとう。騎士様」

 

 良い子、良い子。と、呼吸の落ち着かぬ様子の男の首へと手を回し、少女は震える男を聖母の様に抱きしめ宥める。それは己の華奢な身体に回った男の腕が、どれだけ肋を圧迫し、背中に爪痕を残そうとも揺らぐことはない儀式であり、営みであった。

 

「今度の子はちゃんと埋葬してあげようね?この間の白猫ちゃんみたいに、置き去りにしなくて済むように、邪魔の入らない場所を探してあげないと、ああ、勿論。あのトチ狂った狼女にも、ちゃあんとお礼はしなきゃ……」

 

 爪を噛みながらブツブツと言う少女の独り言に、男は静かな慟哭を始める。怯えの色濃いそれに合わせるように、少女は子守唄のような歌詞のない鼻歌を歌い始めた。

 

 そうして、最後には決まってこう言うのだ。

 

「貴方は最高にcuteよ、ジル」

 

 呻くような涙声と軽やかな歌声が不協和音する中で、浴室のタイルに鼓動なく横たわる。猫の濁った瞳には、何処からともなく湧いて出た蠅が止まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 

「……やはり、昼間のアーチャーの話は聞かなかった方がよろしかったのでは?」

 

 深夜、寝付けない様子の八千夜を慮るように、キャスターは枕元で霊体化を解いた。

 

「いいえ、私達に不足していた情報が少しでも補われたのだから、良かったのよ。ただ――」

 

 そうして、否定の言葉を並べながらも、八千夜はキャスターを視界に入れる事が出来ずにいる様子だった。虚空を見据えたまま、ギュウと唇を噛み締めるその姿には、苦悩の二文字が滲んでいる。

 

「……もしや、八千夜様は我々がセイバー主従のようになっていた可能性をお考えなのですか?」

「………………ごめんなさい。でも私に魔術回路が生きていなかったら、そういう事をするしかなかったのかもしれない。って思うと……」

 

 そっぽを向いた潤んだ肯定の謝罪に、キャスターはひととき瞼を震わせる。彼女の言葉に傷付かなかったと言えば嘘になる。けれど、それは同時に、八千夜がキャスターの“死にたくない”という願いを、痛いほどに汲んでいてくれた事への証左でもある気がした。

 

「……上手く、言葉には出来ませんが、そうならずに済んで良かったと思っています。聖杯戦争に喚ばれてしまった事そのものは不運でも、八千夜様が私のマスターであった事は、きっと。幸運以外のなにものでもありません」

「………………」

「――……もし、他にもまだ、不安に思っている事がおありなら、包み隠さずにお話になってください。抜本的な解決には至らずとも、貴女様のお心を軽くする事は出来るやもしれません」

 

 八千夜の邪魔とならないように、寝台へと浅く腰掛けたキャスターの慰めの言葉へ、少女は背を向けたままに言葉を紡いだ。

 

「……サプタハに捕まっていたら、私はどうなっていたのかしら?」

「――……恐らく、何らかの術中に嵌り籠絡されていたか――」

「さもなくば、殺されていたんでしょうね。まず間違いなく」

 

 歯切れ悪く言葉を切った、キャスターの言わんとしていた事を少女は冷徹に言い捨てた。そうして暗闇を睨んだままに続ける。

 

「と言うか、私、思うのだけれど。()、サプタハについて何も語らなかった。と言う時点で黒よね?」

 

 あの夜の襲撃の一連の流れをどう想起しても、やはり、八千夜には二人が共謀していたとしか思えないのである。キャスターを召喚していなければ、本当に危ないところだったのだろう。まぁ、キャスターを召喚した事で、本格的に危ない状況が続く事にもなってしまったわけだが。

 

「――……そう、ですね。しかも彼は彼女の事を妹といい、彼女は彼の事を兄と呼称していたようにも思えました。ですが、果たして同盟を結んだからと言って、そのように呼び合うものでしょうか?」

「……そもそも、サプタハはクラスからして謎よね?彼女とキャスターの貴女、アーチャーのアーラシュに加えて、魂喰らいのセイバーが、今、判明しているサーヴァントなわけだけれど、まだ、あと三騎もいるわけでしょう?」

「……はい。正常な聖杯戦争ならば、そうなります。ですが、野良猫を使っての魂食いで現界を保っているサーヴァントがいる。という混沌とした状況が真実ならば、正直なところ、マスターを選定し、サーヴァントを招く基点、乃至、器でもある。聖杯の品格が問われるような気も致します」

 

 命に貴賤はありませんが、やはり、人間が魂食いの対象となるような事態は起きて欲しくはありませんね。と嘆息したキャスターに八千夜も深く頷く。そうして、頭を回転させている間に随分と落ち着きを取り戻せてもいた。

 

「……まったく、考えれば考えるほど難儀ね。聖杯戦争って」

 

 そうして、身体を丸めて憂いた彼女に。キャスターは優しく寄り添う。

 

「…………流石に、三度もお身体に障るような事があっては大変です。急いては事を仕損じるとも申します。休めるうちに、心身ともにご自愛下さいませ」

「……それも、そうね。これから先、何があるかは分からないんだし、今出来る事を精一杯やらなくてはね……」

 

 額から頬、そして髪へと、優しく流れたキャスターの滑らかな手の動きに、誘われるように八千夜の瞼が重くなる。

 

「おやすみなさいませ。八千夜様」

「おやすみなさい。キャスター」

 

 二人の四日目はそうして更けていったのだった。

 




 チラッと出てきた剣主従のマスターは、とんだ食わせ者である。とだけ言っておこうかと思います……。


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六月十九日と七日前

 お久しぶりです皆様。日々、寒さが厳しくなっている今日この頃ですが、ご体調など崩されてはおりませんか?

 秋の夜長、拙作を含む娯楽を愉しむ際などは、是非、温かくなさってお愉しみ下さいませ。

 
 今話は、弓と殺の主従にスポットを当てております。彼らの事も見守って頂けると嬉しく思います。



「戻ったか」

 

 キャスター主従の邸宅を辞し、街中を一通り警戒してからホテルへと戻ったアーチャーを出迎えたのは、異様な雰囲気を漂わせる一人の男だった。

 

「……起きているんなら、明かりの一つぐらい付けたらどうなんだ?」

 

 呆れの強い声音が、夜の帳に投げかけられる。静謐な宵闇の中、サーヴァントの視力が捉えたのは、造りの良い椅子に身体を預ける男の姿だった。白髪交じりの鳶色の髪と無精髭、こけた頬に落ちくぼんだ眼は輝きを失った琥珀色。凡そ、潤いの類を喪失した様相からは、死期が迫った老人といった印象すら受けるが、その実、相手がまだ男盛りと言える年齢である事を、アーチャーは知っている。その彼が齢以上に強烈に見えるのは、病んだ事で凄みのようなものが加わってしまったせいなのだ。

 

「マスターは?」

 

 先の軽口を黙殺した男へ、アーチャーは新しい話題を振る。端的なその言葉に、小さく、絞り出すような吐息が返った。

 

「アレならば、そろそろ起き出す頃合いだろう」

 

 名さえ口に出したくないように、マスターのことをアレと呼称されるのは、アーチャーとしては、好ましくなかったが、今の男(病人)に無理を言うのも憚られた。

 

「……そうか、あんたは?」

「……アサシンを任せる」

 

 アーチャーの労わりが含まれた問いに短く答えた男は、そのまま事切れるかのように意識を手放した。と同時、魔力供給を抑えられていたのだろうアサシンが霊体化を解き姿を現す。日暮れ間近とも、夜明け間近とも取れる。淡い紫色の長髪に、アーチャーと同じ浅黒い肌を大胆に露出させたその女は、狂気に暗く濁った虚ろな眼で彼を捉えると、安堵したかのように僅かに破顔した。

 

「約束通り、帰って来たぜ」

 

 対するアーチャーは柔和な声音と共に瞳を細めながら、事の始まりを想起していた。

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 全ては七日前に遡る。場所は管理者を失い、荒れ果てた寺の敷地内だった。頭上に輝く美しい弦月は、所詮、恒星の光を反射しているに過ぎない身でありながら、名刹となり得なかった古寺を憐れむかのように、ともすれば、嘲るように照らし出している。

 

 そんな寂れた景色の中には、不規則に整った動きを見せる、大小、二つの影があった。

 

「――……覚悟はいいか、リリス」

 

 ふと、雨期の湿った空気に乾いた低い声が混ざる。状況が状況なだけに、それはとても不気味な響きを孕んでいるように感じられた。

 

「はい、マスター。問題ありません」

 

 返る声音は、硝子の煌めきを思わせる。少女のものだった。月光を受けて、緩く波打つ亜麻色の長髪と榛色の瞳が輝いている。陶器の如き白肌は柔く、幼さゆえの透明な繊細さを宿していた。年は未だ両手に満たないだろう。

 

「……この先、第三者と相対する場面では、私の事は父とでも呼称しろ。いいな?」

「分かりました」

 

 男は少女の返答に一つの懸念を覚えたのか、端的に言い返す。少女もまた、それをすんなりと聞き届けた。

 

 すると、それきり両者は黙し、開けた大地に隣り合って描かれた紋様の前に手を翳すと、示し合わせたかのように、口を開く。

 

『素に銀と鉄、礎に石と契約の大公――』

 

 途端、高さの異なる声音が折り重なるようにして言の葉を紡いでいく。そこには寸分の狂いすら許されない。というような気迫だけが込められていた。

 

『――――告げる』

 

 一際、厳格な音がして、紋様の淡い輝きには鮮烈さが増していく。

 

『誓いを此処に』

 

 それは今や、視界を灼くほどの光を放っていた。

 

『汝、三大の言霊を纏う七天』

 

 空気が震え、風が荒れる。そして――

 

『抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ――!!』

 

 時が満ちる。

 

 張りつめた糸が切れるように、押さえつけられていた感情が溢れるように、光が爆ぜる。その勢いに、男はたたらを踏んで後ずさり、少女はその場にへたり込んだ。そして、そのまま、両者は絶大な虚脱感と共に、茫然自失と目の前の光景を見やった。

 

「――……!!」

 

 刹那、引き攣るように息を呑んだのは、いったいどちらだったか。ともあれ、男と少女以外の存在が場に招かれた事は事実だった。

 それぞれの魔法陣の上に立つ二つの影が、半月の淡い光に照らし出される。浮かび上がったそれは、杖を携えた貴人と大弓を握る武人の姿をしていた。

 

「サーヴァント・アーチャー。召喚に応じ推参した。あんたが俺のマスターか?」

 

 まず始めに静寂を割ったのは武人のほうだった。アーチャーと名乗った彼は、軽快ではあるが、軽薄ではない声音と共に、座り込んだままの少女へと手を伸ばす。威圧感を欠片も感じさせない友好的な態度に、選択を委ねられる形となった少女は、幾ばくかの逡巡を経て、その手を取った。瞬間、アーチャーの膂力だけで立ち上がった彼女は、改めて己が喚んだサーヴァントをまじまじと見つめる。

 

「ま、よろしく頼むぜ」

 

 すると、少女の無垢な視線に耐えかねたように、アーチャーが笑んだのを皮切りに、今度は貴人が口を開いた。

 

「サーヴァント・アサシン。召喚に応じました。特別にあなたを同盟の相手と認めましょう。ですが――」

 

 コホン、と咳払いを一つ。彼女は背筋を伸ばし、胸を張って続ける。そして――

 

「この身は未熟なれど神王にして、天空の神、ホルスが化身。頭を垂れぬのは、不敬であると知りなさい!!」

 

 アーチャーの主よりは年を重ねてはいるものの、まだどこか少女の色を残した声色で、きっぱりと言い切った。が、故にこそ、悲しいかな。アサシンの態度には威厳よりも、どこか無理をしている。という印象が先立った。

 

「……ふん。キャスターではなくアサシンか。些か見誤ったな」

「なっ、なんという不敬!!」

 

 チッ、と舌打ちすら聞こえてきそうな冷ややかな男の嘆息に、頭部の飾りを動物の耳の如くに動かして、怒りと屈辱に震えるアサシン。瞬く間に混迷と険悪を極めた状況を取りなすようにアーチャーが動いたのは、然もありなん。と言ったところだろう。

 

「まぁ、まぁ、落ち着け。互いを知らぬうちに喧嘩する事ほど悲しいものもない。何事もまずは歩み寄ってみない事には始まらないもんだ」

「そこを退きなさい!!痴れ者ッ!!貴方には関係のない事でしょう!?」

「いいや。関係なくはないさ、同時に喚ばれたという事はあんたと俺のマスターは共闘する魂胆だろうからな。それくらいは分かるだろう?」

「う、ぐ……それは……」

 

 アーチャーの澄んだ瞳に訴えかけられ鼻白むアサシン。どうやら、激してはいても、聞く耳を失ってはいないようで、己がマスターに対する憤りは、眼前のアーチャーに対する警戒へと色味を変えつつあった。

 

「…………い、いいでしょう。些か短気が過ぎた事は認めます。ですが、同盟者も己が不敬を恥じる事です。そして、我が恩赦の幸運に感謝なさい」

 

 葛藤とも取れる逡巡の末、このままでは事態が平行したままに停滞すると悟ったのか、アサシンが折れた。しかし――

 

三画の令呪を以て(・・・・・・・・)、アサシンに命ずる。マスターである私に背く事は禁ずる」

 

 男からの思わぬ返答に、瞬きを忘れたアサシンの瞳孔が縮む。アーチャーも異国の言葉を聞いたかのような表情で視線を男へと移し、その隙を突くかのようにアサシンは飛び出した。

 

「――貴方はッ!!自分が何をしたか分かっているのですかッ!?この場で令呪を全画消費するなど、愚かな――」

「いつ、私の令呪が三画だけ(・・・・)だと言った?」

「――……え?」

 

 瞬間、怒号を遮るようにして放たれた言葉に、総毛立つように激昂して、男へと詰め寄っていたアサシンの表情が翳る。整った眉目は剣呑に固まったまま、驚嘆、困惑、不安、そして、恐怖の混ざった息を呑む音がその喉を震わせる。それらは全て、言葉よりも雄弁な情感だった。

 

「おい、ちょっと待て。あんた、いったい何を――」

「令呪を以てアーチャーに命じます。アサシンのマスターに対する妨害行為の一切を禁じます」

「ッ!!」

 

 辺りを包む空気の色が変わった事実に、アーチャーが動いた時には、既に遅かった。先んじて、その動向を睨んでいた少女の呪縛が彼を抑えつける。そして、何より。弓兵として誇ってきた視え過ぎる目で、眼前の悲劇を防げなかったという厳然たる現実は、今生において彼が抱える事となる数多の後悔の、記念すべき最初の一つとなったのであった。

 

「重ねて、令呪。三画を以て(・・・・・)、アサシンに命ずる」

「……何、を」

 

 アサシンの美貌が痙攣する。一笑に付そうとして失敗したような、不完全で何とも形容しがたいその歪みは、例えるならば、理外の理を前に感情を纏められない。というような表情だった。

 

「狂い果てろ、古の復讐者。玉座を捨て去りし、魔術女王よ」

 

 やおら、脳の奥まで凍えるような、温度を感じさせない酷薄な呪いが放たれる。勝ち誇るでもなく、嘲笑するでもなく、無感動に、もっと言えば当然の如くに、アサシンの魂に消えない傷を負わせる男は、かえって悪魔じみて見えた。

 

「……どう、して」

 

 正気を失う前のアサシンの最後の言葉は、悲痛な叫びでも、怨嗟の罵声でもない、純朴な問いかけ。絹擦れのようなその呟きは、どんな鋭利な刃物よりも壮絶な斬れ味を有していた。

 

「な、んで――」

 

 そうして、彼女は堕ちる。男によって言祝ぐように形容された、かつての己へと退行していく。それも、より露骨に惨憺たる有り様として。

 

 まず響いたのは杖の倒れる音だった。次いで、膝を折って頽れる鈍い振動が大地に奔る。表情は既に両の掌に覆われて、窺い知る事は出来なかったが、その双肩は細かく震え、細長く整った指の微かな隙間からは、透き通った悲しみが零れ落ちるのを視認できた。

 

「……ッ……ぃ、さま、にぃさま、にいさま――……!!」

 

 途端、許しを哀願するような譫言を繰り返し始めた。若い娘の身体の奥からは、抜身のような激情が滲み出す。と同時、アーチャーの首筋にはチリチリとした痛みが這い、肌が粟立ち、血管が収縮した。引き絞る事を許されない大弓に手をかけながら、彼が震わせた感情は、より直接的な言い方をすれば、生かしてはおけない(・・・・・・・・・)。という残酷なまでの優しさだった。

 

「――……ッアァア!!」

 

 久遠の果ての刹那、切実な口惜しさの込められた、短い断末の絶叫が荒れ野を駆け抜けた。隠しようのない憤りに、両の頬を赤く染め上げたその姿は、歓喜しているようですらあり、狂人の笑みは弧を描く月に似て、目を奪われるほどに美しかった。

 

 けれど――

 

 あの時、アサシンが何を思って笑んだのか。アーチャーは今もそれを計る事が出来ないでいる。

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

「戻っていたのですか、アーチャー」

 

 ふと、回想に意識を沈めていたアーチャーは、耳に届いた鈴の音色に視線を移した。隣室の扉を開け、手持ち照明(カンテラ)の明かりを伴い現れたのは、まだ幼いと言ってもよい美しい少女だった。亜麻色の長髪を纏め上げ、クラシックなモスグリーンのワンピースを纏ったその姿は、幾分か大人びて見えない事もなかったが、それが寧ろ彼女の儚さを増して見せているようでもあった。

 

「マスターも今起きたところか?」

 

 アーチャーの問いにマスターと呼ばれた少女は首肯して、突如、思い出したかの様に言葉を付け足した。

 

「ご無事の帰還、なによりです」

 

 小さな唇を震わせた、子供には似合わぬ言葉の静けさに、アーチャーは何とも形容しがたい渋面で返す。

 

「ま、当然のことさ。マスター」

 

 そうして、居心地が悪そうに肩を竦めたアーチャーを見つめる少女の眼差しは、瞳の透明度の高さも相まって、より無機質に感じられた。

 

「……父様から、アサシンを借り受けると共に、今夜の警戒及び索敵の任を仰せつかっています。作戦前に何か確認しておきたい事はありますか?」

 

 人形のように整った顔立ちの少女は、椅子に座り気絶したように眠る男へとひざ掛けをかけながら、機械的に指令を告げる。梅雨冷えから男を労わる行為であると言うのに、儀礼的に見えてしまうのは、彼女の纏う空気の冷たさゆえだろうか。

 

『私は、かつて存在していた女性の複製(コピー)。つまりはクローン人間です』

 

 少女の凍った横顔に、アーチャーの脳裏に思い起こされるのは、やはり、あの瞬間(とき)の事。

 

『マスターは、ああ、いえ違います。今は父と呼ぶように言われていたのでした。父様は、私を贋作ではなく真作にする為に、此度の聖杯戦争に参加なさいました』

 

 召喚に際した騒動を収める(男の凶行を弁解する)ように、放たれた少女の言葉は少なかったが、武人の感情を上書きするには十分な効力を発揮した。

 

『どういう意味だ?』

 

 アーチャーは聡明な目を光らせて敢えて尋ねた。何かを堪えるような低い声だった。

 

『……もう、後には引けぬのです。六角の令呪へと転じた二人の人造人間(ホムンクルス)の為にも』

 

 詰問に対する少女の答えは簡潔だった。しかして、僅かな情報の中に込められた思いは重い。それゆえに、彼女の深刻なまでの覚悟が窺い知れた。生まれながらにして負った宿願。運命と呼ぶには余りに残酷な未来(それ)に殉じると決めている。そんな絶望的なまでの気品を、ガラス玉のような瞳に湛えていた。

 

「…………そうか、奴が何を望むかは分かった。特に異論はない」

 

 そして、そんな少女と鏡合わせになるかの様に、相対したアーチャーの瞳もまた、静かだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、まずはどこから手をつけるか……」

 

 二人のマスターからの共通の命令に従い、ホテルの屋上へと姿を現したアーチャーは、夜を深める街並みを背に柵に凭れて思案する。帰還に際して、あらかたの警戒をしつくした後ともなれば、致し方ないだろう。

 

「に、さま」

 

 そんな中、アーチャーの思考の合間を縫うようにして、たどたどしい呼び声が滑り込んでくる。それは、狂気に呑まれながらも聡明な貴人が捨て去れなかったもの、或は、狂気そのものの核なのかもしれない。

 

「に、ぃ、さま」

 

 再びの声かけに瞳を上げれば、そこに居るのは古の魔術女王。今や、狂った暗殺者である彼女からの視線には、相も変わらず、安心と恐怖、敬愛と自責の念が滲んでおり、アーチャーは、自分を透かして見える男はやはり、相当、罪な奴らしい。と述懐しては苦笑を繰り返す。

 

 そんな両者は互いに互いの距離を置いていた。それは常に一定で、近すぎる事もなければ遠すぎる事もなかった。が、それゆえに均衡を崩した時のアサシンの乱心ぶりは凄まじいものがあった。

 

「……あんたなら、何を正解とするんだろうな」

 

 問いかけと言うにはどこか投げやりな言葉に、アサシンからの反応が返る事はない。彼女は何処までも静かに、悲しい程に、狂ってしまっているのだから。

 

 予想通りのその答えに、アーチャーは雨期の曇天を見上げる。一雨きそうな分厚い雲は、彼の心境を現しているかの様に、星々の輝きを覆い隠していた。だというのに、眼下に広がる都市の夜景は眩すぎる程である。皮肉のようですらあるその輝きは、古い人間である自分達には馴染みのない明るさであるのに、その一つ一つに人々が息づいている事に変わりはないのだから、なんとも言えない感慨も覚えてしまう。

 

(まるで、誘蛾灯だな)

 

 どれだけの月日を経ようとも人間というものは不思議と光の元に集うらしい。かつての自分もきっとそうだった。人々の作る団欒の明かりを愛おしんだから、人々の起こした戦火に散ったのだ。

 

 無論、その献身が悲劇的な美談として、後世に語り継がれたのだろう事は、想像に難くない。けれど、自分自身は何の悔いも抱いてはいないのだ。そして、そんな自分だからこそ、あの少女に意見出来るような立場の人間でない事は、理解しているつもりなのである。ただ、それでも、どうしても、思ってしまう事が一つだけ――

 

「幸せかどうかは、どうやって見分ければいいんだろうな」

 

 もし仮に、愛の元でならば、何もかもが許されるとでも言うのなら。愛情とは、なんて欺瞞に満ちた代物なのだろうか。

 

 そう、思わずと口をついて出た感傷に、アサシンが挙動するのを視界の端で捉えながらも、アーチャーは思考の海の底に沈んだままだった。いくらアーチャーと言えども、本人が見つけていない幸福を代わりに見出してやる。などという大それたことは出来ようはずもなかった。

 

「本当に、どうしたものやらな」

 

 守るもののある戦は嫌いではなかったが、それは往々にして、しがらみを伴う戦でもあったのである。その事をまざまざと見せつけられる戦が控えている事に、この時のアーチャーはまだ気づいてはいなかった。

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

(これが、私の受けるべき罰なのですか?)

 

 狂気に呑まれつつある正気にあって、思ったのはそんな事。生前に為した行いに悔いなどはないが、だからと言って、罰せられない事が正しい。と信じているわけでもなかった。現に、あの時は自死を選んでいる。荼毘という不名誉な葬礼を自らに課したのは、己が弱かった事の何よりの証左だろう。

 

 無論、それらは決して、望んで為した凶行ではなかった。けれど、誰に強制されるでもなく、やると決め、実行に移したのは自分自身なのだから、やはり、これは紛う事なく自らの業が引き起こしたものと言えるだろう。

 

(なんて、愚かな)

 

 誰に向けたものか分からぬ嘲笑が唇の端を震わせる。

 

 覚えているのは濃密なまでの死の匂い。親しき者のそれには深く胸を抉られ、憎き仇のそれには胸がすく思いがした事を覚えている。いいや、正しくは忘れる事が出来ないでいる。

 

(ああ、そうだ。きっと、そうなのだ)

 

 あの日々を、流れた血涙を、絶望の色彩を、死して尚、捨て去る事が出来ない女。それがエジプト第6王朝最後の神王。傀儡に甘んじる事で復讐に徹し、その責務を穢した未熟な娘である。ニトクリスの愚昧たる有り様が運命(さだめ)なのだろう。

 

「……ッ……ぃ、さま、にぃさま、にいさま――……!!」

 

 貴方は賢かった。貴方は優しかった。貴方は凛々しかった。そして何より貴方は王朝を負って立つにふさわしい、偉大な神王だった。だからこそ――

 

(恨みます。私は、私を恨みます)

 

 今ならば分かる。私は確かに貴方の手によって、守るよりも守られていた。だというのに、暗愚な私では、貴方をお守りする事は叶わなかった。

 

「――……ッアァア!!」

 

 なればこそ、私は貴方に誓います。ニトクリスは今度こそ、■■。を完遂すると――

 




一部、説明不足なところは否めないとは思うのですが、マスター達に関する詳しい情報は、追々、描写していけたらと思っております。

 ニトクリスちゃんのビジュアルはキャスター時のもので、クラスだけアサシンに変更しております。また、早々に厳しい目に遭わせてしまっている事は申し訳なく思っております……。


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六月二十日

 今回は五騎目、最後の陣営にスポットを当てています。


 闇の中で木々が騒めく姿は、さながら、一つの生命体を思わせる。陽の光の元では生き生きとした緑であるところの森は、日を跨ぐ最中の夜の帳にあってはまさしく、鬱蒼たる異界と化すのである。

 山脈の景色とは斯くの如し、明と暗、生と死を孕んでは循環する自然であり、人々は時に、それらの威容を神と敬ったのである。

 

「サーヴァント、ランサー。真名、カルナという。よろしく頼む」

 

 そんな山奥にて、顕現した槍が一振り。カルナ。と名乗ったその青年は白皙の細面に、真実を照らすような双眸を光らせ、己が召喚者に相対した。

 

「ほぉう、マハーバーラタに名高き施しの英雄とは、いやはや、なかなかどうして、皮肉が効いている」

 

 やおら、酷く割れた感嘆の言霊が一陣の風に乗ってカルナの白髪を揺らした。

 

「……ご老体。お前がオレのマスターで相違ないか?」

「如何にも。と答える他あるまいてな」

 

 作り物めいた端麗な美丈夫の、思わずといった誰何に、暗がりの中、焚火の揺らぐ光源だけを頼りに、鷹揚と酒を煽ったその人物は、端的に言い現わすのならば、薄汚い浮浪者。という言葉が似合うであろう特徴的な姿をしていた。

 

 禿げ上がった頭皮は乾燥してひび割れており、手入れを怠ったがゆえに蓄えたと見える白鬚は、所々に食べこぼしが混じっている。汚れの目立つ衣服は夜の山中に籠るには心許ない軽装で、それに比例するかのように持ち物までもが少ないようだった。そして何より、片耳を欠いた面立ちはそれだけで目を引こう。側頭部の皮膚がケロイド状になっている事からも、その欠損が外的要因によるものである事は明白である。それも、年季を感じさせる傷痕であるようだった。

 

「……即身仏にでもなるつもりか?」

 

 そんな、特異な風体の老人に何を見たのか、カルナが問う。

 

「ほほぅ、殊勝な例えをしてくれるの」

 

 途端、高尚な形容を用いての疑問に、思わずと言うように片眉を吊り上げて、カルナを見上げる老人。その分厚い瞼から覗く両の眼は薄く濁ってはいたが、耄碌しきってはいなかった。

 

「……儂ゃあ、自ら姥捨て山に入った酔狂な爺に過ぎん。そうさなぁ、酔狂ついでに選択死(・・・)とでも、洒落た言い訳をしてみようかのぅ」

 

 そうして、数本の黄ばんだ歯を見せ笑った老人は、すぐさま、仰々しく喉を鳴らして咳き込むと、淡を吐き捨て、喘鳴のままに悪態を吐いた。

 

「まったく、長生きなど、するものでは、ないわい」

 

 満足に笑えなくなっている理由が、重ねた年齢のせいであるのかは知れないが。頑健な面影を微かに残しながらも、痩せて骨ばったその身体からは、なるほど。確かに死の匂いを感じ取れた。

 

「オレを召喚したのは介錯を願っての事か?」

 

 飾らない言葉による慈悲は、時に、何にも勝って残酷ですらある。脆弱なパスを前に(・・・・・・・・)、カルナとしては多分に自嘲を含ませた言葉であったのだが、出逢ったばかりの彼らが互いに、そう言った問答を解せるような間柄になるには、今しばらくの時間を要する事になるだろう。

 

「……さぁて、どうであろうな。死ぬまでの暇つぶしに丁度いいかと、昔の女を懐かしんでみたら、お前さんが現れてしまったんでの。いやはや、魔女のような女ではあったが、この分だと案外、本物だったのかもしれんのう。困ったものよ」

 

 刹那、苦虫を噛み潰したような表情で、どこか少年の様に照れた老人は、物語に出てくる仙人の様に伸びた眉をつまみながら思案に耽る。それは、カルナをどう扱ったものか考えあぐねているという様子だった。

 

「その割には、落ち着いているように見えるが。マスターは、その魔女から聖杯戦争の概要については聞かされていたのか?」

 

 すると、老人の長考が迷宮に入り込んでしまった事を察してか、カルナが新たに疑問を口にする。

 

「……聖杯戦争、ああ、そうか。やはり、これがそうなのだな」

「そうだが?」

 

 信じたくない事実に、念を押すように返った冷然とした言葉に、老人は束の間、嘆息する。

 

「……いや、すまんな。老いぼれてしまうと、少々の事では驚かぬものとばかり、思うていたのだが、やはり人間というものは最期を感じ取ると、愚かになるのやもしれぬなぁ」

 

 そう言って、懐かしむように目を細めて自嘲した老人は、静かに語り出した。

 

「……儂は、その昔、若かった時分に傭兵として飯を喰っていた時期があってな。件の魔女とはその折に出会ったのだ」

「依頼主だったのか?」

「いいや、敵であったよ。この傷もその魔女にやられた」

 

 なんてことはないように言って、欠けた耳、ぽっかりと空いた穴とケロイド状に固まった皮膚を指差せば、カルナの瞳がほんの僅かばかりだが見開かれる。老人は皺だらけの顔を愉快そうに崩して続けた。

 

「依頼人を守れずに生き恥を晒した事実にも、女に手心を加えられたという屈辱にも、当時の儂は納得が出来んでの。そして何より、その時には魔女に惚れておったのだろうなぁ」

 

 ため息は後悔か、はたまた、己に対する呆れか。ともあれ、そのどちらであろうと、笑わずにはいられないと言うように、その口元が笑んでいた。

 

「殺し合わねば生まれぬ恋であったのだろうな」

 

 言葉の苛烈さに反して、老人は安らぐように言って、ひと時、目を閉じてから、説明を再開させた。

 

「それでだ。儂は魔女の消息を追い。どうにかして、その居所を掴む事に成功した。まぁ、その過程で魔術師の世界に顔を突っ込んでしまったわけなのだが、そのおかげで、長年の謎であった自身の特異性(己が魔術回路持ちの一般人であった事)に気付けたのだから、そう悪い事ばかりでもなかったのやもしれんな」

 

 尤も、振り返ってみれば。という注釈がつくがの。と付け足して、今一度、老人は酒を煽る。円滑に話を進める為の潤滑油とするように。

 

「再び見えた魔女は相も変わらず、激しい女ではあったが、最終的には儂が粘り勝った。儂が殺すまでは、生きていて貰う。と口説き落としての。だと言うのに、より強い手駒を用意した途端に、あの女は再び儂の前から姿を消してしまった」

 

 それから、二度と会う事はなかったのう。と深く呼吸して、老人は結びの言葉を口にした。

 

「ゆえに、そうさな。儂にしてみれば、聖杯戦争とは、感傷のようなものよ」

 

 それは、先の質問の答えとしても、思い出を語るにしても、大いに詳細を欠いた情報と言えたのだが、カルナにはそれで十分であったのか、追求は及ばなかった。

 

「それで」

「ん?」

「結局のところ、マスターはどうしたいのだ?オレはお前の槍として存在している以上、お前の命令に従う構えなのだが」

 

 然しながら、その代わりとするかのように、カルナはマスターの意志を問う。尊重という意味を持たせたそれとして。

 

「……ふむ、やはりインドの大英雄の前では儂の昔話なんぞは娯楽にもならぬか」

 

 カルナの淡白な申し出に、いやぁ、参った。参った。と禿頭を叩いて、老人は苦笑する。

 

「依頼人に回るのは初めての事で、勝手が分からんでの。茶を濁してしまった。許しておくれ」

「……いや、こちらも些か言葉が足らなかったようだ。どうにもオレにはそういう悪癖があるらしい」

 

 詫びを入れる老人に、カルナも述懐するように謝罪する。その口ぶりは己の事を語るにしては、どこか受け売りのような話し方であった。

 

「謙虚よのう。若い頃の儂に見習って欲しいくらいだ」

「いいや、それには値しない。オレは事実を述べただけで、謙遜をしたつもりはない」

「……ふむ、だとすれば、それはそれで難儀よな」

 

 軽い口調で陽気に酒を含んだ老人は、カルナからの返答に一転して渋面で応じる。対するカルナは老人の二の句を静観して待った。

 

「……既に、英霊として召し上げられた。古の猛者に若輩の老骨が要らぬお節介やもしれんが、施しの英雄カルナよ」

 

 やおら、酒臭さが混じった老人特有の酸っぱい息がカルナの鼻をうつ。それでいて表情を一つとして歪めないその姿に、老人は重たい瞼の下で胡乱な眼を光らせる。

 

「九十と余年生きてきて、儂が学んだのは、この世は所詮、正直者が馬鹿を見、悪まれ者が憚るように出来ている。という事じゃった。そして、それを基準と捉えるのであれば、其方は理から脱し過ぎている」

 

 其方は、正直者であるには強すぎるのだ。と嘆くように息をついて、老人は唸る。

 

「……これはあくまでも儂の愚考、浅ましき勘ぐりに過ぎんが、其方は人の心の機微を誤認したりはしないのだろう。その誠実な眼は何事をも見誤らない。だが、恐らく其方自身は人から誤解される事が多かろう。その率直な物言いは余人を敵に回すには余りある」

 

 暫しの逡巡を経て、放たれた言の葉に、カルナは一度、ゆっくりと瞬きした。それは、肯定の仕草とするならば深く、どこか、驚きと共に喜びの色を帯びているようですらあった。

 

「まぁ、往々にして、長所と短所というのは表裏一体でままならぬものよ。そう言った意味では、儂は其方に非常に好感を持っておる」

「……なるほど。オレが人から不興を買うというのはこういう事なのだな。つまりは要点だけに注目し、それ以外を無視している。オレに悪気はないにしても、飾り気を欠いた指摘(感想)では鸚鵡返しと変わらない。ともすれば、鏡に向かって会話を試みるようなものだ。それでは確かに、心は休まらないだろう。故に、礼を言おうマスター。忠告、痛み入る」

 

 死期の近い老人の酔いの極みによる戯言は、それなりの鋭さを以て、カルナの胸中に響いたらしい。幾分か饒舌に独特な例えで謝意を述べた彼は、相も変わらず穏やかに万物を射抜く双眸を輝かせていた。

 

「やはりな。不敬のそしりを受ける覚悟では居たが、其方は簡単に揺らぐ男ではない。であれば、儂の我が侭にも寛容であると願いたいものだ」

「……聞こう」

 

 疲れたように目を伏せた老人を見据えたまま、カルナは命令が下されるのを待ち望む。時を同じくして、曇天がその濃度を増し、空気の湿り気も更に重たく変化した。

 

「先も申したが、儂はそう長くはない身だ。故に覚悟は出来ている。つもりなのだが……」

 

 苦悩を滲ませながら言葉を切って、老人は意を決したかの様に被りを振った。

 

「どうにも、儂は、儂が思った以上に臆病であったようでな、上手い言葉では言い表せんのじゃが、端的に言わばそうじゃのう」

 

 加齢でくすんだ眼と、水晶の様に澄んだ瞳が交錯する。そして――

 

「其方には儂を看取って欲しい」

 

 噛んで含める様に口を動かして、けれど、そこに込められた淀みを笑い飛ばすように、口角を上げ――

 

英霊に看取られる老いぼれ(・・・・・・・・・・・・)というのも、酔狂で悪くはなかろう?」

 

 ニヤリ。と悪だくみを持ちかけるような気楽さと余談のなさを以て、老人は有無を言わせぬような微笑で厳命する。

 

「無論、それ以外の事は何も望みはせんよ。儂の唯一にして最大の我儘に付き合わせてしまうのだからな。其方は其方のあるがままに第二の生を愉しんでおくれ」

 

 一つの約束を果たして貰えるのならば、後は自由にすればいい。という言い分に、カルナは何事かを考え込むように間をあけてから口を開いた。

 

「……確認をしたいのだが。オレの存在によってマスターの生命力は削られている。それでもオレを手元に置いておく事を良しとするのか?」

「今更、愚問よな、カルナ。其方らしくもない。儂にはもう、迫りくる死の恐怖に怯えながら、孤独に飢え死ぬ気概など湧かんよ。長い苦痛に狂い果てて終わるくらいなら、魔女に遣わされた優しい死神(・・・・・)に縋ってしまいたい。と思う弱さを許しては貰えぬかね?」

 

 カルナの懸念を即座に切り捨てる老人。同時に振り始めた大粒の雨が、橙色の光を消しきるのに、大した時間は要さなかった。

 

「いいや。どちらかと言えばこの場合、許しを請うのはオレのほうだろう。マスター。その覚悟に水を差すような無粋を働いた詫びとして、オレに出来るのはこの槍を振るう事だけだ」

 

 そう、いつもの調子で、冷然と言い放つが否や、カルナは己の身の丈を越える大槍を手に、予備動作もなく、老人の背後。その暗がりに潜む影に向けて踏み込んだ。

 

「――……ッ!!」

 

 瞬間、一面の闇の中で金属の打ち合わさる高音と、刹那の火花が爆ぜる。骨までをも震わせる衝撃に、襲撃者の唇からは、焦燥と驚嘆の混じった吐息が零れ、その一瞬の隙を逃さぬとばかりに伸ばされたカルナ追撃の矛先は、雨音に紛れるようにして、主へと飛来した鏃を弾く為に、軌道を変えさせられる(・・・・・・・)。そして、それが助け舟となったかの様に、襲撃者の気配は失せた。

 

「……撤退を決めたか。敵は恐らく、アサシンとアーチャーだろう」

「ふむ、聖杯戦争とは各陣営が孤軍奮闘するものだと思っておったのだが、この様子では認識を改める必要がありそうだな」

 

 警戒を解き切らないままに口をついたカルナの述懐に、雨風から庇われるように、掲げられた大槍の下で老人が呟き返す。その内容は、瞬きの内に繰り広げられた攻防の本質的な部分(・・・・・・)を逃していなかった。

 

「お前もそう思うかマスター」

「応とも、珍しく見解が一致したな。ランサー。それで?追わぬのか」

 

 相も変わらず、平坦な声音による感心に老人が気付いたのかは知れないが、返る声色は力強く弾んでいた。

 

「オレは好きにしろと命じられた。故に深追いをするつもりはない」

「……ふん、優しき(・・・)事だ。だが生憎と、儂は売られた喧嘩は買う主義での」

 

 その段に至って初めて、カルナは暗がりへと光らせていた瞳を、己が主へと移した。

 

 雨露に濡れ、より一層の悲痛な姿となり果てながらも、老人の深い眼にはギラついた闘志が宿っている。厳格な容貌に張り付いた暗い微笑は静かな猛り。それは、命を掛け金にした危うい闘争を好む者の姿だった。

 

 カルナは暫し、その激しい表情に圧倒されたかのように見入っていたが、数瞬の沈黙を経て、槍を構え直すと静かに告げた。

 

「……承知した」

 

 雨脚の強まる最中にあって、不思議とその言葉が掻き消される事はなかった。

 




 
 以下の文章はオマケと言うには蛇足ですが……。(いつかどこかの聖杯戦争にて)

「これで良かったのですか、マスター」

 足元で気絶する青年を気に掛けるように、赤毛の美少女が問うた。挙動に合わせて頭頂部で結わえられた二つの髪束が揺れる。

「そんな目で見ないで頂戴、アーチャー。貴女にも愛する夫が居たのでしょう?」

 それに答えるのは、物語に出てくる魔女を思わせる美貌の女。その深紅に濡れた唇は苦い笑みを形作っていた。

「だからこそですマスター。本当にこのような別れ方で宜しいのですか?」

 己が主からの、どこか棘を含んだ諭し方に、薔薇色の双眸を翳らせながら、少女は食い下がる。その切実なまでの訴えに、妖艶な顔を泣き笑いの表情に歪めて息をついた魔女は、小さな弓兵の肩を抱き寄せた。

「……良いのよ。私を殺せる者は彼以外にはいないんですもの。だから、彼に死なれてしまっては困るのよ」

 深紅の唇を震わせた過激で傲慢な言葉には、深い愛情が偲ばれる。そして、傍らの少女を慰めるように、己を鼓舞するかのように、魔女は祈りにも似た感情を吐露した。

「大丈夫。きっと、また会えるわ」
「……はい、私もそう信じています」

 希望を口にすれば、深い賛同の言葉が返る。こうして、それぞれの願いを胸に、女達は戦場へと旅立ったのだった。


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六月二十日 緒戦

 年明け最初の投稿となります。

 本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。そして、皆様の一年がご清祥でありますように、お祈り申し上げます。

 


「外、凄いわね」

 

 深夜、寝付けずにいたあたしは、窓の外に話題を見い出しながら、爪先に意識を集中させていた。

 

「何をしているのです。夏燕(かえん)

 

 だけど、あたしの話し相手は雨脚の激しさよりも、あたしの行為に興味をそそられたみたい。まぁ、男の人には、それも、騎士様には理解しがたい事だろうから、当然なんだろうけど。それはそうと、そそられる。って言葉、ちょっと大人っぽい表現だよね。

 

「夏燕?」

 

 おっといけない。顔が緩んでたかも。それにいくら集中しているからって、無視はいけないよね。

 

「……あたし、この匂いが好きなの。お母さんを思い出すから」

 

 うん、嘘じゃない。だからと言って本当ってわけでもないけど。どっちにしろ、女の思惑はそう軽々しく男の人に話していいものでもないと思う。

 

「本当は、真っ赤な色が良かったんだけどね」

 

 左手の小指に色を乗せながら、思わずと愚痴が口をついて出た。百均で買った、赤とも橙ともつかない、どっちつかずの色は悪くはないが、良いとも言えなかった。その理由は分からないけれど、女心って大概、理不尽でしょう?

 

「……夏燕」

「なぁに?」

「一度、筆を置いて私を見なさい。夏燕」

 

 再三に渡る。言い聞かせるような呼び声には、流石に応えざるを得ないだろう。と思ったあたしは、騎士様の言う通りに筆を置いて顔を上げた。それに、なんだかんだと、全て塗り終わるまで待っていてくれる辺り、彼は紳士なのである。なら、それに答えるのが淑女の務めと言うもんだろうし。

 

 視線の先、机を挟んだ真向かいのソファに浅く腰掛ける。あたしの騎士様は、相も変わらず気難しい顔をしている。整った顔立ちをしているのだから、眉間に皺なんて寄せないで、もっと柔らかな表情をすればいいのに。と思わずにはいられない。

 

「……いいですか、夏燕。貴女は若く、美しい女性です。だからこそ、こんな事はもうお辞めなさい」

 

 対するあたしは、彼の言うこんな事が、(どれ)を示すのかが分からなくて、首を傾げた。けれど直ぐに、それは余計な神経の使い途であった。と気付く事となる。

 

「…………貴女は、かつての生き方に縛られる必要はもうないのです。これからは――」

「それを貴方が言うの?ジル。お母さんを殺した貴方が!?」

 

 騎士様の糾弾の正体をいち早く察知したあたしは、衝動のままに、言ってはならない事を口走ってしまう。案の定、彼の只でさえ硬い表情は、より強張る事になった。険悪な空気の中、重苦しい沈黙を強調するかのような雨音がとてもうるさくて、イライラが募る。最悪だった。

 

「…………ごめんなさい。今のは、あたしが悪かった。八つ当たりだとしても酷すぎるよね」

 

 ソファに沈み込みながら、深く息をついて自嘲すれば、騎士様の唇が、いえ、と小さく震える。それを見ながら、あたしは、どこで間違えたのだろうか。と自問した。

 

 これまでにも、似たような問答はしてきたのに、だから今回も、取り合わなければいい話だったのに。今日のあたしはいつもよりも気が立っていた。要は、それだけの話だった。そして、人は得てして、あらゆるそれだけの事を理由に、愛し合ったり、殺し合ったりするのだ。

 

「………………嫌な天気」

 

 いたたまれずに、彼から目を逸らして、見上げた雨天。その遥か遠くで、稲妻が光るのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 深夜の雨は鈍く光る。一言で表すならば、それは練度の保たれた連射。矢速は勿論の事、その威力と狙いの正確さも申し分がない。それも、カルナからの捕捉を避けながらの芸当ともなれば、射手の腕と眼を称えるには十分すぎるだろう。

 

「木々さえ折り倒すか、尋常ではないな」

 

 然しそれは、感嘆を溢すカルナもまた、同じである。俊足と槍を駆使し、流麗な舞を踊るかの如く、矢の雨を容易に凌いでみせる。致命傷はまず受けない。互いに決定打を欠いたままに、地形ばかりが穿たれていく。今、繰り広げられているのは、卓越した戦士達による高次元での戦いだった。

 

「よもや、あの男の他に、これほどの腕を持った弓兵が居たとは。だが――」

 

 矢の怒涛が途切れた刹那。カルナは突如、大きく仰け反った。すると数瞬遅れて、その上体を獣が飛び越えて行く。雨露に濡れて揺れる黄金のピアスが、頸動脈を捉え切れずに空を裂いた魔の手を嘲るように輝き、蒼く真っ直ぐな慧眼と虚ろに濁った双眸が、一瞬のうちに交錯する。

 

「アサシン。お前は些か不可解だ」

 

 途端、強襲への返礼とばかりに翻った槍の切っ先は、辛くも標的を逃す。再びの矢の雨、威力の増したそれを越えた先。獣の猛々しい息遣いと共に、雨音に混じる武具の衝突音。両手で振るわれた杖の荒い棒術を、片手に握った槍で受けながら、カルナは己に牙剥く獣を冷然と見据えた。

 

「グルルルルル」

 

 カルナからの視線を受け、顔の半分を黒い獣の上顎で覆い、指先から肘と膝までを人外のそれへと変えた女が低く唸る。

 

「女の激情は御し難い。とは聞くが、暗殺者がその自覚を失うほどだとはな。尤も――」

 

 瞬間、金属の弾かれる音が響き、アサシンの身体が浮く。既視感は両者平等。槍の追撃を間一髪で受け止めた獣は、衝撃に飛ばされながらも、どうにか深手を避ける。

 

 対して、カルナは何処までも涼やかだった。

 

「お前の正体が暗殺者ではなく、狂戦士だというのなら、その在り方に間違いはないのだろうが」

 

 しばしの沈黙。更なる激情のままに振るわれた攻撃を、いとも簡単に流し、あまつさえ、淡々と己を語ってみせた男へと、獣は猛りのままに吼えた。

 

「ヴァァァァァァァアァァァッ!!」

 

 ぬかるんだ大地に異形の足を取られながらも、疾駆する。叩きつけるような雨脚は、彼女の心中を代弁するかのようだった。

 

「む。どうやら、狂ってはいるが思考を完全に放棄したわけでもないようだ。精彩さには欠けるが、お前の攻め手からは正当なる憤りを感じる」

 

 怒りに任せた杖の乱雑な軌道を正確に捌きながら、カルナは自戒するように嘆息し、牙を剥き絶叫する獣を眼光鋭く射抜く。

 

「惜しいな」

 

 落胆と言うには、愛おしむように深い響きを有した声音だった。

 

「暗殺者の似合わぬ女、何がお前を駆り立てている?」

 

 やおら、問わずにはいられない。と言うようにかかった言葉。その返答は、やはり。むき出しの暴力だった。

 

「これも侮辱と取られたか、残念だ」

 

 回を増すごとに重くなる一撃に、カルナは喚起されたかのように口を開く。

 

「ここで引くのならば、オレも槍を収めたのだが、致し方ない。生憎とこちらには時間の猶予がないのでな」

 

 それは、力と力の拮抗。意識的に保たれていた均衡(・・・・・・・・・・・・)を破る。という宣言に他ならなかった。

 

「――!!」

 

 瞬間、獣の肌が粟立つ。カルナの纏う雰囲気が変化した事で、本能的な恐怖を覚えたからである。熱量には熱量を。とでも言うかの如く、カルナの魔力が膨らむと同時、視界の片隅を何者かが駆け抜ける気配があった。

 

 しかし、そこに意識を注ぐような真似は出来ず、獣は魅入られたようにその炎を見つめ続けた。

 

「手向けだ。受け取れ」

 

 礼を尽くす。と言うには傲慢にも聞こえる台詞と共に放たれようとしているのは――

 

梵天よ、地を覆え(ブラフマーストラ)

 

 あらゆるものを焼き尽くすであろう。破壊の一閃。そして――

 

「――ッ!!」

 

 身体に奔った衝撃(痛み)と、視界に入ったその姿()が燃える。生々しい臭い(事実)に、獣は声にならない悲鳴をあげた。

 

 神の威光は、つんざくような轟音を生み出しながら、恐ろしい程の軽やかさで、大地を溶かし、木々を焼き、降り続く雨ですら一瞬で蒸発させる。あらゆる生命を喰らい尽くした破壊の爪痕は、惨憺たる光景を産み出し、そんな荒涼とした景色を、この世そのものが憂いているかのようですらあった。けれど――

 

「――……ッ、今のは、流石に堪えたな。俺の矢を全弾凌いで見せただけでも、驚きだっつうのによ」

 

 死に絶えた世界の中から這い上がる、力強い声があった。それは、息も脈も止まろうか。という様相を晒していた獣に活力を戻し、白皙の(かんばせ)には驚嘆の二文字を刻む。

 

「こちらも、想定外だ。今のでお前を仕留めきらんとは」

「フッ、応とも。俺は特別頑丈でねえ!!」

 

 水晶が如くに澄んだ瞳に映る。灼けた鉄の臭いをさせた男は、今にも死にそうな体で、されど、逞しく笑んでいた。

 

「……なるほど。さしずめ、神からの寵愛と言ったところか」

 

 神威に対抗。乃至、比肩しうるのは神威のみ。

 

 合点が言った。というように、感心するカルナ。いつもの通り、感情の読みづらい表情ではあるが、そこには心なしか、悔しさよりも喜びに似たものを見て取れる。より直接的な言い方をすれば、相手にとって不足なし。と兜の緒を引き締め直した。というような様子ですらあった。

 

「ああ、我が五体、不死身とはいかずとも、そう容易には傷かん!!」

「面白い。だが――」

 

 僅かに口角を上げながらも、逸らされたカルナの視線が山の稜線を捉える。いつの間にか止んでいた雨と共に、雲の合間を縫って陽光が射し込み始めていた。

 

時間切れ(夜明け)だ。名残惜しくはあるが、致し方ない」

 

 そうして、日の出に浮彫となった槍兵は、感傷的な言葉を口にしながらも、どこか、満足そうな表情を浮かべていた。

 

「なに、戦争は始まったばっかだ。嫌でも、あんたとはまた殺り合う事になるだろうさ」

 

 対するアーチャーは、今なお、飛び出さん勢いのアサシンを制止しながら、軽快に言ってのける。但し、その瞳にだけは熱く鋭いものが残っていた。

 

「ああ、そうだな。その時を楽しみに待っておこう」

 

 カルナからの真っ直ぐな賛辞に、アーチャーは、面倒なものに目を付けられた。とばかりに息をつきながらも、仄かに笑う。それを見たカルナもまた、微かに目を細めた。

 

「ヴゥヴヴ」

 

 そんな、殺意と言うには清々しいまでにさっぱりとした闘志を交わし合う男達の傍らで、暗殺者の女だけは、相も変わらず狂い猛っていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 

 松明に照らし出された熱狂が石壁に反響している。まだ文明が幼いと言えた古代にあって、その宴はその時代における最上級の贅を尽くされていた。列席者は皆、豪勢な料理に舌鼓を打ち、愉悦に顔を歪めながら、誰も彼もが口々に、己が掲げる女王を褒め称えている。

 

 空虚な上に醜悪な宴だ。と男は思った。そしてその思いは、彼の傍らにて眼下を見やる女王。その人も、同じであった事だろう。

 

 宴の席を見下ろす高台に座した女王は、その肩書きを真に背負うには、まだ年若く、未熟である。と言えよう少女だった。だが、それもそのはずだろう。本来、その席に座る者は別に居たのだから。

 

 そう、男は知っていた(・・・・・)。既に起こってしまった悲劇と、この後に待ち受ける惨劇を、とうに知り得ていた(・・・・・・)

 

 全ては先代から今代へと至る交代劇に端を発する。先代の神王は彼女と血を分けた兄弟だった。仲の良かった彼らに、世襲争いなどは起きるべくもなかったのだが、それを快く思わない者達の策略によって、兄は殺害され、妹は傀儡として祭り上げられた。それが、この女王の正体なのである。

 

「……不敬に罰を。悪逆に死を。神々を軽んじる者、神王を愚弄せし者に制裁を――」

 

 やおら、女王の唇からは怒りと悲しみに震えた言葉が発せられる。低く、細いそれは、満を持した復讐劇の幕開けを高らかに謳っていた。

 

「どうかなさいましたか?我らが神王」

 

 ふと、一部の聡い列席者が表情を引き攣らせたが、最早、手遅れだった。この場において最も美しく、悲しい存在である女王のただならぬ雰囲気に、兄妹を貶めた者達は、初めて己の過ちを知った事だろう。

 

 途端、轟音が宴の席を破壊する。痛覚に訴えかけるような水流の冷たさに、許しを請うような悲鳴が狭い石室に溢れかえった。そうして、意識を濁流に喰われながらも、咎人達は皆、己が女王へと縋るような視線を向ける。

 

 その目線の先、高台に立つ。長い杖を携えた少女は、凄絶な微笑みを浮かべていた。

 

「我が名はニトクリス!!お前たちによって殺された。先代の神王が血族である!!」

 

 恐らくは、ずっとそう言ってやりたかったのだろう言葉。肉親を誅殺した憎き仇に、傀儡ではない自分という存在を、刻みつけようとするかの如くに、彼女は絶叫した。

 

「さあ、沈め!!沈むがいい!!お前たちには死こそが特効となろう!!」

 

 まるで、それこそが救いなのだ。と言わんばかりに、唾棄するように言い捨てて、復讐を遂げた少女は踵を返した。そして、己が館へと帰還するや否や、彼女は、逆臣達を討ち取った高揚を胸に、自らを罰するように炎へと身を投じ、自決したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 

「……よくある悲劇(はなし)だ」

 

 と、目を覚まして早々に男は呟いた。歴史においては、吐いて捨てるほどにある。愛憎劇の一つだと。

 

(あてつけのつもりか?アサシン)

 

 問うたところで無駄であろう問いを思い浮かべて、男は静かに嗤う。傀儡に甘んじる事で復讐を為した古の魔術女王は、今や、男の手に掛かり狂った暗殺者へとなり下がっている。死後においても、つくづく運のない。安寧とは縁遠い女だと、思わずにはいられなかった。

 

「如何なさいました?」

 

 そんな折にかけられた言葉。口角を歪ませた感情を咎めるようでもある。その鈴の音に面を上げれば、携帯照明に浮かぶ儚い面影。愛しき幻想。

 

 男は何かを葛藤するように逡巡してから、口を開けた。

 

「……この戦に勝てねば、我々に未来はない」

「……はい、心得ております」

 

 突き放すような男の声音にすぐさま返る。幼い少女の答え、男は静かに目を閉じた。

 




 と、いうわけで。カルナさんはアーラシュさんに狙いを定めました。

 狂化されたアサシン、ニトクリスちゃんの戦闘時のビジュアルは分かりやすく言えば、デジモンのサクヤモンに近い感じでしょうかね?

 アヌビスの仮面はミイラ作りに携わる神官or職人(ストゥムと呼ばれたそうです)から着想を得ています。

 ニトクリスちゃんは死後、冥界の神の補佐として研鑽しているようなので、ストゥム化させてもいいかな?なんて軽いノリでこのようになりました(不敬でしょうか?)

 新年早々、不穏?な展開のお話となりましたが、次話は恐らく、不夜術ちゃん達の陣営に話が戻ると思われますので、ご安心?ください。


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六月二十日 禁忌

 この文章を書いていたら、タイムリーに紫式部さんが実装されて、嬉しい悲鳴です。


 暗雲垂れこめる夜の間中、降り荒いでいた雨風と稲光のような戦火は、夜明けと共に落ち着いた様子だった。その事実を、キャスターは窓辺から射し込む陽光にて認知する。杖先で揺れるランタンの柔らかな明かりを精神的な支えに、宵闇の中で文字を追っていた彼女は、束の間、安堵したかのように息を吐いた。

 

 パタン。と手元の本を閉じて、それを定位置へと戻せば、英知を集めた書物が金の背文字を光らせる。キャスターの背より高い書棚に隙間なく並べられたそれらは、どれも厳粛な面構えで、壮観だった。

 

 歴代の祢屋家の頭首が蒐集してきたのだろう蔵書の数は、膨大と形容して差し支えない。少なくとも、本を保管する為だけに大部屋を一室、誂える必要があったのは事実なのだから。

 

(祢屋一族は確かに、栄華を極めた人々なのですね)

 

 書庫を巡りながら思いも巡らせる。代々に渡り、血と権威を繋ぎ続ける。それがどれほど尊く、得難き事か。かつて、王朝に仕え、後宮に籍を置いていたキャスターだからこそ、偲ばれるものがあった。

 

(八千夜様は幸せなのでしょうか?)

 

 余計なお世話だと言われるかもしれないが、やはり、キャスターには気がかりだった。ただし、その憂慮は主の身を純粋に案じたと断じるには、多分に自身の感傷を投影している向きもあった。

 

(――……おや?あれは)

 

 そんな最中、物思いに耽っていたキャスターの視界の端に一枚の芸術が映る。額に入れられているわけでもなしに、埃っぽい書庫の最奥に安置されたその絵画には、布が被されてあったが、何の偶然か、今はそれが半分ほどズレており、そこに描かれている人物と目を合わせる事が出来た。

 

 赤みの強い茶の髪と、仄かに濁った緑の瞳はそのままに、油彩画の主の姿は随分とあどけない。少なくとも10年は前の姿だろう。その後ろには父親と思われる男の姿も描かれている。以前、彼女が話していた通り、少女の母とでさえ親子ほどに歳が離れている。というその初老の偉丈夫は、まだ幼い娘の父親としては確かに、些か枯れた男と言える風貌をしている。

 

「…………」

 

 目視で確認が取れた情報はそれだけ。しかしながら、その構図を鑑みるに、件の絵画が当代の祢屋家を描いたものであろう事は察せられた。ゆえに、キャスターが引っ掛かったのは、その絵画が何故、館の中心に飾られる事なく、このような寂れた場所に置かれているのかという謎。

 

 親族たちが如何に彼女ら母娘を厭うているにしても、ここはそもそも、彼女達の為に建てられた館であるはず。であるならば、人目をはばかる必要などはないのが道理。だと言うのに、この絵画は何者かの手によって秘されている(・・・・・・)

 

「――……ッ」

 

 瞬間、自身の考察に思わずと喉が鳴った。見てはいけないのだ(・・・・・・・・・)。と思う心と裏腹に、好奇心が恐る恐ると布に手を伸ばさせる。

 

(――ああ、なんてことでしょう)

 

 魅入られてしまった(・・・・・・・・・)。古今東西の物語において、このタブーを犯した者達の心理が身につまされる。怖いもの見たさ。とは人の持つ愚かさの極致な気がしてならない。いけない。とされる物事の有する快楽に、人間とはこうも抗えないものなのか――

 

 唇からは震えた息が零れる。取り返しのつかない事をしてしまう。と分かっているのに、止められない自分の欲望が恐ろしい。ともすればそれは、死の恐怖にも並び立つ。

 

(ッ、そうです。いけません。こんな事をしては――)

 

 葛藤の合間にも指先が布地に触れる。そして――

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 

 ――その都には女がいなかった。

 

 いや、正しくは若い娘の姿だけがない。そして、その事が関係しているのか、その男の顔色も優れなかった。端正なつくりながら、深い皺と疲労感が滲むその容貌には、どことなく、誰かの面影が宿っているようにも見える。

 

「――……宰相殿(ワズィール)我らが王(スルターン)がお呼びです」

「……ああ、分かった」

 

 空が白み始めると共にかかった静かな声に、この国の宰相は都を眺める目を細めて、低く重苦しく呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 景色は、本のページが風でめくられるように理不尽に移り変わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――……ヒッ、王よ、我らが王よ!!どうかッ、どうか!!お慈悲をッ!!」

 

 この世の贅を凝らして建立された宮殿の中でも、一際、輝かしき後宮の最たる不可侵領域。本来であるならば、国の誇る最上級の美女たちが、王の寵愛に夜毎、嬌声をあげる場であるはずのその空間には、絹を裂くような悲鳴がこだましている。

 

「連れて行け」

「い、嫌、いやあッ、放してッ!!死にたぐないッ(・・・・・・・)!!」

 

 厳とした命に、粛々と職務を全うする使用人。やおら、引きずられるようにして寝室を後にするは、理不尽を前に泣き喚き、髪を振り乱して暴れる若い娘。

 

(ああ――)

 

 見慣れ(・・・)聞き慣れてしまった(・・・・・・・・・)。と、宰相である男は思った。この数年の間、飽きるほどに繰り返されてきた暴虐と悲嘆の光景に、これがこの国の夜明けなのだ。と感傷に浸るくらいには、あらゆる感覚が麻痺しきってしまっていた。

 

「私たち女がいったい何をしたと言うのですか!!」

 

 深刻な諦観に占められた空間に、投げられるのは呪詛のような問い。しかして、怨嗟にも似た切実な糾弾に返るのは、痛いくらいの静寂のみ。だが、きっと彼の王ならば、こう返すのだろう。という言葉を思い浮かべる事は容易かった。

 

 何もしてはいない。ただ、女は女である。それだけで罪なのだ。と

 

 そんな愚考が真に迫る程に、この国は変わってしまったのだから。

 

「――……馳せ参じましてございます。陛下」

 

 回廊の先へと消える刹那に、女が残した残響。それを振り払うようにして、宰相は重厚な扉の前で臣下の礼を取る。

 

「入れ」

「は……っ」

 

 すぐに返った許しに、割れた声で応じて寝室に踏み込んだ宰相は、強張った面持ちで己が主君を仰ぎ見た。

 

「――陛」

「宰相よ」

「ッ、はい」

 

 瞬間、言葉を絞り出そうとして遮られた宰相の喉が引き攣る。それに気づいているのか、いないのか、国王は泰然と己が臣下を睥睨した。

 

「次は心身ともにマシな者を連れてくるがよい」

「――……お気に召されませんでしたか」

「よく啼く女は好むところだが、瞳ばかりを濡らしているような女では、愉しめぬだろう」

 

 しばしの沈黙。宰相は静かに答えた。

 

「――……畏まりましてございます」

 

 深く傅いたその瞳は暗く、陽光に照らされているにも関わらず、帳が降りたかのようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めた瞬間、哀しい悪夢を見ていたのだ。と思う時がある。例え、仔細を忘却した後であっても、横たわる身体には、確かな余韻が重苦しくのしかかっているのだ。

 

「うぅん」

 

 決して爽やかな覚醒とは言えないが、それゆえに目は冴えてしまっている。その事実を前に起き上がる気持ちには到底ならず。私は緩慢に寝返りを打った。そうして、意識を切り替える意味も込めて、同居人の存在を確認しようと、乾いた喉から掠れた声を上げる。

 

「……キャスター?」

 

 湿気で淀んだ空気に呼び声は霧散する。返答がない。という事は此処に彼女は居ないのだろう。いや、もしかしたら。こちらからは姿が見えないだけで、すぐそこに潜んでいる可能性も無きにしも非ずだ。どっちにしろ、私にそれを確認する手立てはないのだけれど。こと、隠密に置いては彼女に軍配が上がるのだから。

 

「――!!」

 

 と、そこで私は思わずと胸元をまさぐった。首に下がる銀の鎖を辿った先に、目的のものがある事を確認してから息を吐く、安堵というには多分に自嘲的な吐息だった。

 

「意味なんかないのに」

 

 誰とはなしに呟いて、自問する。彼女の場合、鍵のかかった部屋(・・・・・・・・)に立ち入るのに(・・・・・・・)鍵の有無は関わらない(・・・・・・・・・・・)。神出鬼没な亡霊を繋ぎとめているのは、現状、私の言霊だけなのだ。

 

(問題は、いつまでソレに縋っていられるか?なわけだけど……)

 

 天井の木目を睨みながら、指先で弄んだ金属の硬い冷たさに、急かされるようにして、私は跳び起きた。

 

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 

「――……スター、キャスター。何処にいるの?居たら返事をして頂戴」

「――ッ!!は、はい!!」

 

 何処からともなく、掛かった呼び声に我に返る。布地をつまんでいた指先を離して立ち上がり振り返るのと、八千夜が本棚の影から姿を現したのは、ほぼ同時だった。

 

「――……姿が見えないから、心配したわ(・・・・・)

「……申し訳ありません」

 

 キャスターと視線を交錯させた八千夜が破顔する。対するキャスターは自身の身体で背後の絵を隠すように立ちながら、気圧されたかのように深謝した。

 

 その様子に八千夜は逡巡するように視線を逸らして問いかける。

 

「……何か、興味を引くような(・・・・・・・・)面白いもの(・・・・・)でもあった?」

 

 瞬間、キャスターの肩が微かに震えた。八千夜はその狼狽を知ってか、知らずか。ただ、手持ち無沙汰なのを紛らわそうとするかのように、本棚に指を這わせている。軌跡を描いた分だけ溜まっていく指先の埃。それを、誕生日ケーキのろうそくの灯火に錯覚させるような軽やかさで吹き飛ばして、目を細める。

 

「…………あ、ええと。八千夜様を襲ったサーヴァントについて、何か手掛かりになるような情報がないかと……」

 

 意味ありげなその動作に、キャスターが杖を抱きしめ、おずおずと答えれば。八千夜は、ふぅん。と相槌を打ってから続けた。

 

「それで?収穫はあったの?」

 

 問うているにしては、然したる興味も期待もしていないような声音だった。居心地の悪さにキャスターは更に身じろぐ。

 

「……彼のサーヴァントの姿、獣頭半人のモチーフを見た時にまず思い浮かんだのは、四大文明が一つ、エジプトの神々でした」

「ええ、サプタハという名の夭折した神王については、前に貴女から聞いたのを記憶しているわ」

 

 そう語りながら歩き出した八千夜の背中が、軽やかに本棚の奥に消える、キャスターは返答しながら、その背を追った。

 

「……はい、ですから、別の見方をしてみようかと思いまして」

「別の見方?」

「……彼のサーヴァントの肉体は女性の形をしているように見受けられました。なので、ひとまずは、そちらの線で絞ってみようかと……」

「女性の神王……クレオパトラとか?」

 

 唐突に八千夜が歩を止めて振り返る。その双眸が陽光に煌めきながら、キャスターを見上げていた。彼女特有の濁緑を帯びた茶の瞳。優しく、どこか悲しい。神秘的ですらあるその色味に見つめられれば、全てを吐き出してしまうしかないような心持ちになる。けれど、それは死の恐怖からではない。今、キャスターを苛んでいる不安は、もっと清らかな、抗いがたい何かだった。

 

「……確かに、女性の神王と言えばクレオパトラ七世や、ハトシェプスト、セベクネフェルなどの方々が有名ですが、サプタハ王の後に即位したのも、タウセルトという女王であったとされています」

「じゃあ、可能性が高いのはタウセルト?」

「……そうですね。サプタハ王の治世の頃より、後見人として政治の実権を握っていた女性であるとも目されていますから、サプタハ王を召喚しよう(・・・・・・・・・・・)とした結果(・・・・・)タウセルト女王が(・・・・・・・・)喚ばれてしまった(・・・・・・・・)。としても、おかしくはないのかもしれません」

「なら、彼女は、サプタハ王として(・・・・・・・・)喚ばれたタウセルト女王(・・・・・・・・・・・)という事?」

「……あくまでも可能性の範疇を越えませんが、有り得ない話ではないかと、ただ――」

 

 やはり、どちらにせよ。功績を残した偉人と言うには、些か地味な方々かと思います。とキャスターが告げれば、八千夜はどこか憐れむような視線をキャスターへと注いでいた。

 

「…………ねぇ、あなたたち(・・・・・)って、そんなにも曖昧な存在なの?」

 

 悲し気な、けれど、この上なく優しい彼女の瞳に、サーヴァントは、自分は、どう映っているのだろう。他人を喜ばせるのも不安にさせるのも、同情を誘うのも恐怖を抱かせるのも、相手を立てたままに、己への寛容を得る事も、キャスターの専売特許の処世術だ。そうして、相手の感情を揺さぶって操って、自分に有利に働くように。ただ、それだけに苦心した生涯(過去)に裏付けされた今の姿()なのだから、キャスターは、相手に与える印象を作りだすのには慣れているはずなのだ。

 

「………………そう、ですね。なんと申しましょうか」

 

 しかし、そうやって対する相手は、真の意味で味方とは言えない事にも気付いていた。主人と奴隷ではなく、思いが対等に交錯し得た時にこそ、信頼というものは誕生する。けれどそれは、誰とでも成り立つものでもなければ、容易な代物でもない。そんな恐れから生じたキャスターの脆弱な悪あがき(仮面の奥)を、八千夜は見透かしたかのようで、仕方がないからと、その場しのぎに簡単な方法(得意の話術)を使う事は、出来そうにもなかった。

 

「………そもそもが、サーヴァントとは究極の幻想のようなものです。たとえ、その存在が厳密には否定されているもの(・・・・・・・・・)であったとしても、仮定が存在しているのであれば、いくらでも当てはめる事は出来る(・・・・・・・・・・)でしょう」

 

 諦観ゆえか、安心ゆえかは判然としないが、紡がれた言葉は震えのない静かな声音だった。

 

「つまり、偽者を本物に出来る(・・・・・・・・・)という事?」

 

 柳眉を顰めて八千夜が言う。困惑の形に歪んだ表情は貪欲なまでに続き(答え)を求めていた。

 

「と言うよりは、本物を作り出す(・・・・・・・)。と言う方が的確かもしれません。例えば、そうですね。切り裂きジャック。という通り名を与えられた、正体不明の殺人鬼(・・・・・・・・)が居ますが。彼、乃至、彼女をサーヴァントとして(・・・・・・・・・)作り出す事は(・・・・・・)不可能ではない(・・・・・・・)と私は考えます。それがどのような存在として具現化するかは未知数でしょうが」

「じゃあ、例えば。口裂け女とかの都市伝説もサーヴァントに出来ちゃうってこと?」

「……はい、恐らくは。どれほどの確率があるのかはまでは、分かりませんが」

 

 殆ど断言しながらも、確証の不透明さに語尾を弱めるキャスター。八千夜は苦悩の表情を浮かべたまま、視線を遠くへと移した。

 

「……そう、何となくではあるけど、分かったわ」

 

 この世のどこかにある真実を見定めようとするかのように、八千夜は目元を厳しく寄せる。淡い陽光に照らし出され輝きを増すその瞳、不思議な引力に満ちたそれ、キャスターの胸に去来する感傷。もしかすると、自分は死を恐れるだけではなく、この少女が持つ危うい魅力に抗せず、此処にとどまっているのではなかろうか?

 

「……神話の英雄や伝説の騎士、数多くの伝承や逸話などで長らく語られてきた英傑たちだって、実際に過去に存在していたか?なんて、確かめようがないもの。要はそういう話なのでしょう?」

 

 淡々としながらも存外、深い響きで八千夜は語り出した。その堂々とした姿は、ともすれば、答えを得たかのような威風を孕んでおり、キャスターはそんな彼女の様子を固唾を呑んで見守る。

 

「実在の痕跡が一切ない遥かなる過去、私達はそんなあやふやなモノの上に生きている。でも、それも当然よね。私達が目にして触れられる現実なんて、所詮は薄皮一枚での出来事に過ぎないわけだし、いずれは私もあやふやなモノ(過去)になるんだわ。例え、それが悲しかろうが嬉しかろうが、致し方ないのよね」

 

 刹那、虚空を睨んでいた視線を落として、八千夜は大仰に肩を竦めた。

 

「……八千夜様は、忘れられてしまう事を恐れるのですか?」

 

 すると、侵し難い雰囲気に圧倒されるようにして、息をひそめていたキャスターが問う。問われた八千夜は、キャスターを視界に収めないままに、あっけらかんと答えた。

 

「ん~、どうだろう?分からないわ」

「分からない。ですか?」

「ええ。だって、誰かに覚えていてもらう。という事に私の意志は関係ない(・・・・・・・・・)から」

「……それは、どういう?」

 

 両者の問答(会話)は混迷を極めた。再び本棚の間を進み始めた八千夜に、美貌をくすませて追従するキャスター。

 

「……要するに、覚えているか、忘れてしまうか。は記憶する側の問題(・・・・・・・・)でしょう?だから、仮に、私が忘れられたくない。と喚いたとしても、相手が覚えていてくれる保証はないし、その逆も同じ。というか、そもそもが、忘れられない。って、どこか呪いみたい(・・・・・)じゃない?だから、私はそんな呪いをかけるのは嫌、当たり前の様に忘れ去られてしまうくらいで、ちょうどいいのよ」

 

 やおら、己が背に掛かった圧力を察してか、八千夜が言葉を噛み砕きながら、部屋の扉に手を伸ばす。

 

「それを寂しいとか、怖いとかはお思いにならないのですか?」

 

 瞬間、彼女はドアノブを握ったまま、キョトンとした面持ちでキャスターを振り返った。それはまるで、此処にきて、キャスターの口から感情論が出てくるとは思わなかった。と言うかのような驚嘆であり、喜色だった。

 

「……そうね。まったく思わないと言えば嘘になるかもしれない。けど、考えたところで無駄な事には変わりないわ、だから、安心してキャスター(・・・・・・・・・)

「え?」

「私は貴女を忘れる事(・・・・・・・)も、貴女に忘れられる事(・・・・・・・・・)も恐れてないし、覚悟をしているから。ただ――」

 

 ふと、そこで言葉を切った八千夜は、扉の向こう側へと歩を進めてから、言の葉を次いだ。

 

忘れる事(・・・・)なかった事にする(・・・・・・・・)のは、同じようで違う(・・・・・・・)って馬鹿みたいに信じているの」

 

 くしゃりと歪む顔、笑顔と言うには多分にぎこちないそれに、キャスターの口が酸素を求める金魚の様に開閉する。そうして、キャスターが言葉を見つけようともがいている間にも、八千夜は畳みかけるように言葉を重ねた。

 

「それにしても、夜が明けるまでずっと、あんなかび臭いところに籠って、気が滅入らなかったの?」

 

 新たな問いは、あからさまな話題の転換だったが、キャスターは敢えてその意を汲んだ。そうして、やはり先を行く背へと答える。

 

「……実を言うと調べもの以外の事もしていましたので」

「へぇ~、気に入った物語でもあった?」

「……そうですね。この国に伝わる古き良きお話などを少々、日本霊異記に、竹取物語。あとは、源氏物語なども」

 

 そう口に出した瞬間、和気藹々とした空気が一転し、ピタリと八千夜の歩みが止まった。

 

「――ああ、あの話。私、苦手なのよね」

「――……え?」

 

 如実に冷えた声音に鋭い気配を感じ、キャスターは背筋が凍りつくような緊張感に見舞われる。色を変えた視界の先で、ゆっくりと、八千夜が向き直る。そう長くはないその時が、キャスターには永遠にも思われた。

 

「――だって、何に飢えていたのか知らないけど、父親の女に劣情を抱く男の話(・・・・・・・・・・・・・)。ってだけで、単純に気色が悪いじゃない?」

 

 振り返ると同時、清々しいほどの笑顔で告げられる。けれど、朗らかに弧を描くその瞳は、笑ってはいなかった。

 




 結局、不穏な感じですみません。次回は剣主従について掘り下げが出来ればと考えているところです。また、保険としてR18警告タグを付ける予定でもあります。悪しからず。


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六月二十日 少女

 今話には残酷な描写が含まれます。


 有限のルールで無限の生を謳歌する人間達の中でも、あたしの人生は酷い部類に入るだろう。だからと言って、殊更に悲劇のヒロインを気取るつもりはないのだけれど。

 

『――……ここで次のニュースです。昨夜は眠れない夜を過ごした。という方も少なくはないのではないでしょうか?関西電力によりますと、20日未明から明け方にかけての激しい雷雨の影響により、午前4時頃には管内で約2400世帯が停電したとの事で、復旧を終えた現在でも、一部機関に影響が及んでいます。また、山間部では豪雨による土砂災害、及び、落雷によるものとされる山火事などが確認されており――』

 

 ふと、キャスターのスーツに浮いたネクタイの色が目に付いた。それから、薬指に嵌められているリングに気付いて素直に自分が嫌になる。

 

 男の妻の趣味に口を出すのは、きっとあたしの領分じゃない。

 

「社会人って大変だよね。いちいちきっちりしていなきゃいけないんだから」

 

 意識を切り替える意味も込めて、仕事着(・・・)に袖を通しながら思いを馳せるも、あたしの言葉は扉に隔たれたのか、向こう側に居るはずの彼は反応を示さない。ここ最近はあたしのスキルもあがったのか、ちゃんと食べさせてあげられているから、弱っているとは思えないんだけど。

 

「き~し~さ~ま~?」

 

 ふかふかのベッドに沈みながら(腰かけて)ハイソックスを履く、卸したての丁度いい窮屈さに笑みが零れた。

 

「どうかしましたか?夏燕」

 

 そんな瞬間に返って来る騎士様の声、あたしは姿見でのチェックもそこそこに、彼の目の前へと飛び出した。

 

「夏燕ッ!!貴女という人は!!何度言えば分かるのですかッ!?」

 

 途端、困惑と嘆きの混ざった叱咤が飛ぶ。あたしも負けじと頬を膨らませた。

 

「もうッ!!なんでいつも避けられちゃうかなぁ。騎士様はそんなにもあたしが嫌いなの?」

「……好き嫌いの問題ではありません。私の鎧で貴女に怪我をさせない為です」

 

 彼からの視線が逸らされて、掴まれていた腕が離される。自分からは良くて、あたしからは駄目なんて、つくづく狡い(ひと)

 

「……ハグしてくれないなら、お願い聞いてよ」

 

 じっ、と上目遣いで騎士様を見れば、その表情が致し方ない。というように歪む。彫の深い目元に高い鼻、厳格に結ばれた唇。COOLとか怜悧とか、そういう言葉が似合うだろうその顔。あたしの好きな顔。そこから、涼しさを奪う事は嫌いではなかった。言うなれば、好きな子ほど意地悪をしたくなる。そんな心理――

 

「出掛けてくるから、良い子で待ってて」

 

 本当に罪深いと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 騎士様と別れたあたしは、待ち合わせ場所に指定された喫茶店へと赴いていた。平日の昼下がり、駅にほど近い喫茶店の中は、それなりに込んでいる。ざっと見回しただけでも、仕事をしているのかサボっているのか定かでないノマドワーカー達と、大学生っぽい集団に、主婦達の女子会じみたものの塊とが点在しているのが分かった。

 

「――おすすめってありますか?」

 

 そうして、レジ前に立ったあたしは、店員の頭上にあるメニューを眺めながら尋ねた。すると、若い男性店員はカウンターを示しながら話し始める。その段に至って、あたしはカウンターにもメニューが置かれている事に気付いた。馬鹿な客だ。と思われた事だろう。

 

「そうですね。定番はドリップコーヒーですが、女性の人気が高いのはキャラメルマキアートです。男女問わず人気なのは抹茶クリームフラペチーノで、ティードリンクですと、チャイティーラテが人気商品になっております。また季節限定商品の――」

「あ、抹茶のやつでお願いします」

 

 仕事熱心なお兄さんの説明に、早々に付いていけなくなったあたしは、印象に残った単語を口に出す。

 

「サイズは?」

「ええと、トールで」

「シロップやホイップ、パウダーの量調整や、ミルクの変更なども可能ですが?」

「いえ……あっ、じゃあミルクは豆乳に変更してもらえますか」

 

 善意の押し売りを反射的に断ろうとして、けれど、目に付いた言葉にあたしは飛びついた。イソフラボンは女の子の味方だ。

 

 ――……たぶん。

 

 そんなこんなで、渡された商品のカップには手書きのスマイルマークが描かれていた。ただ、普通のスマイルマークとは違って、猫耳のようなものが生えている。なんというか独特な感性のような気もしたけれど、皮肉みたいで(・・・・・・)悪くはなかった。溢さないように気を付けて、窓際のカウンター席に座れば、ストローの色と同じ、濃い緑色で描かれた企業ロゴが目に映る。その題材に、ゲンを担ぐには(・・・・・・・)持って来いだ。と自嘲しながら、あたしは頼んだ商品に口付けた。

 

(あ、美味しい)

 

 初めて飲んだけれど、あのお兄さんの言った事は正しかったようだ。これは確かに、誰からも愛される(・・・・・・・・)。そんな味だ。何より、美味しいものはそれだけでホッとする。毎日は無理でもこういう、たまの贅沢みたいな事は気分を盛り上げてくれる。

 

(騎士様にも買ってあげたかったなぁ)

 

 なぁんて考えてから苦笑した。買っても(・・・・)狩っても(・・・・)、彼にとっては罪の味(・・・)に変わりないだろう。

 

(やめよ。やめ)

 

 そもそもが、仕事のモードに入ってからは騎士様の事は考えないようにしているのだ。この手の話を考えても、互いに気分が悪くなるだけなんだから。

 

「~♪~♪」

 

 店内に流れる。しっとりとしたヴァイオリンの音色に小さくハミングする。こうして一人で冷静に過ごす時間は貴重だけれど、無駄でもあり。必要だけれど、寂しかった。

 

「――……君、燕ちゃん?」

 

 だから、丁度よくかかった声に、機嫌よく振り返ったあたしは、相手と同じように視線を上下に動かした。

 

(へぇ~)

 

 意外。それが男に対する第一印象だった。

 

 身長は175cmくらい。年齢は前もって成人済みの大学生と訊いているから、3、4つほど上なのは確実だ。髪はこげ茶で肌は白い。顔立ちはやや垂れ目で鼻筋が通っている。なんとなくだけど、俳優の高橋……ええと、なんだっけ?下の名前は忘れた。に似ている気がする。まぁ、要するに、女子ウケは(・・・・・)そう悪くない(・・・・・・)であろう顔(・・・・・)だ。

 恰好はベージュのワイシャツにVネックのボーダーカットソーを着ていて、その胸元にはスクエア型の黒ぶち眼鏡がかけてある。あとは、濃いネイビーのGパンに少し汚れた白のスニーカー。それと、黒いリュックを背負っている。

 

「ええと、人違い、かな?」

 

 すると、あたしが一向に答えない事を不安に思ったのか、男が頬を掻く。その手首にはG-SHOCKが馴染んでいた。

 

「ううん、あってるよ。あたしが“燕”よろしくね。お兄さん」

 

 明るく言って隣の席を指し示せば、安堵したように男が腰かける。そうして、カップを持つあたしの指先に視線を固定すると、言い訳の様に呟いた。

 

「良かった。セーラー服姿で赤いネイルの女の子。って聞いていたから、てっきり……」

「えー?分かり辛かったかなぁ?」

 

 途端、露骨な猫なで声と大仰なしな(・・)を作って迫れば、男が苦笑する。

 

「だって、赤って言うにはちょっと。中途半端な色じゃない?」

 

 その一瞬、思わずとあたしは素に戻って、けれど、男が放った中途半端な色(・・・・・・)という言葉が、あまりにも的確に、あたしという女を表していたものだから、愉快でならなかった。

 

「――あはは、お兄さんって割と細かい人?」

 

 それから、お互いに余計な詮索はせずに、当たり障りのない談笑をする。その流れで今日の仕事内容と代金の確認をしてから、あたしたちは店外へと出た。

 

「こっち」

 

 男の言葉に頷いて歩き出す前に、何の気なしにレジを見れば、さっきの店員さんが新しいお客さんの応対をしていた。あたしを相手にしていた時と変わらない、爽やかなその表情を見て思う。彼は多分、この仕事が好きなのだろう。自営業しかしたことのないあたしには、その笑顔は十分に眩しかった。

 

「ごちそうさま」

 

 ストローを噛んで、中身を飲み干す。最後の一口は妙に苦かった。

 

 

 

 

 

 

 

 物事がうまくいかないのは今に始まった事じゃない。頭の中で思い描いていた予定はいつも、勝手な誰かの思惑でズタズタに踏みにじられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……騎、士様」

 

 掠れた声に喉が痛んで目が覚めた。それだけでなく、頭が割れそうに痛い。うぅと唸りながら、もぞもぞと起き上がったあたしは、ほぼ裸体のまま薄暗い部屋の中を記憶だけを頼りに浴室へと向かう。ゆらゆらと揺れる視界に酔ったせいか、辿り着いて直ぐに胃液を吐く事になったけれど、その甲斐もあってか、いくらか自分を取り戻せた気もした。

 

デートレイプドラック(何か盛られた)かな?)

 

 嫌悪感は激しかったけれど、それ以上に疲れと呆れが勝った。この仕事をするようになってから、いろんな感覚が麻痺している感はあったけども、ここまで警戒心がなかったとは、まったく、慣れない事はするもんじゃないな。と緑の色味の強い吐しゃ物に呟く。そのまますぐ隣に設置されている湯の張られていない浴室に入って、シャワーのノズルを回す。それが温度調整タイプである事を失念していたあたしは、湯の熱さに思わずと奇声を上げた。慌てて冷水を足しながらも、懐かしい不快感に笑みが零れるのを止められない。

 

 湯水に濡れた己の身体に散った斑点、腹部と背中を重点的に数十と並んだそれらは、全て、母に押し付けられた煙草の火の痕である。

 

 あたしは狂い壊れた母に育てられた。

 

 アルコールに溺れ、虚ろに濁った瞳で狭いアパートの部屋を酒臭い息で満たしているか、美しく着飾って夜の街を彷徨い男に溺れているか。の二択の生き方しか知らない(ひと)だった。そして、アルコールが切れるか、咥え込んだ男が居なくなるかすると、母は決まってあたしを折檻した。

 

 理由は、ちょっとした物音を立てたからとか、母よりも先に眠りについたからとか、まぁ、総じて些細で理不尽なものだった。結果として、あたしは覚えているだけでも、鎖骨と手足の指の何本かを骨折し、頬骨にもヒビを入れている。それだけで、どんな虐待を受けていたか分かろうものだろう。

 

 流石に、頬骨の怪我は隠し切れずに医療機関を受診したが、それ以外の外傷は全て自然治癒である(自力で治した)。頬の怪我が比較的初期の話(・・・・・・・)だった事と、外面だけはそれなりを取り繕う母の名演技によって、悲劇は看過されたのだ。そうして、一つ賢くなった母は、それまで以上にバレないようにあたしを痛めつける事に執心し、愚かなあたしは、母からの暴力こそが母娘の愛情表現なのだと妄信したのだ。

 

 痛みに声を上げれば黙れと打たれ、泣けば泣くなと殴られ、ごめんなさい!!と顔を上げて謝罪を叫べば、なんて目で親を見ていやがるッ!!と蹴りを見舞われる。そんな事を繰り返して、ひたすら身体を丸めて暴力に耐える事が一番なのだとあたしが悟るのに、そう時間は要さなかった。自分が我慢すれば、母はいずれ満足するし、あたしも母の関心を一身に受けられて幸せだった。

 

 そうして、母の奴隷のような少女時代を過ごしたあたしではあったけれど、順調に、母親譲りの外面だけは優秀な人間として成長していった。学校の成績は上位をキープしていたし、友達もどちらかと言えば多い方で、教師の評判も悪くはない。端的に言っていい子だった。でも、目指した通りの優等生を体現しながら、あたしは誰にも迷惑を掛けないように、誰からも嫌われないように。といつも怯えていた。

 

 けれど、そんな生活も高校の進学が決まると同時に終わりを迎える事となる。

 

 そもそもが母子家庭で裕福とは言えなかった為に、あたしは高校に進学する気はなかったし、させてもらえるとも思っていなかった。ただ、働くのは高校に進学してからがいい。と母が言ったから、あたしは言う通りにした。そうする事が、母の愛を得るのには必要なのだと信じていたから。

 

 本当に。あたしは、どうしようもなく、母を愛していたのだ。

 

 その日、高校の入学式を終えて帰宅したあたしを、母は上機嫌で出迎えてくれた。あたしはそれが、あまりにも嬉しくて、でも、家に居るのなら何故、入学式を見に来てくれなかったのか?と珍しく拗ねる気持ちも思い浮かぶくらいには浮ついていた。いや、油断していたのだ。

 

 だから、バチが当たったんだろう。

 

 母に連れられて入ったリビングには数人の見知らぬ男達の姿があった。一瞬、母の新しい彼氏とその舎弟達かと思ったが、最近の母には男の影がなかったから違和感を覚えた。

 

『お母さん?』

 

 縋るような目で母を見れば、母は私に笑いかけていた。それは、今までのどんな母よりも優しくて、恐ろしい笑みだった。

 

 同時に男達の手があたしの身体へと伸びる。悲鳴をあげる間もなかった。思い返しただけでも虫唾が走る話だけど、あの状況で何をされるか察せられないほどに、あたしは愚かじゃなかった。けれど、あの状況で逃げられると信じ込めるほどに馬鹿でもなかった。だから、瞬時にすべてを悟ったあたしは、今までもそうしてきたように、抵抗らしい抵抗をしなかった。けれど、それが返って男達の不興を買ってしまったらしく、久方ぶりに頬を打たれた。衝撃に首が回り、反射的な涙が眦を伝う。下卑た笑いがこだまして、ヤニくさい舌が頬を嬲った。その段に至って初めて、母から怒気の含まれた声がかかる。

 

 曰く、顔を傷付けるな。それと、ヤるならせめて寝室に移動しろ。と

 

(ああ――)

 

 淡い希望は脆くも崩れ去り、あたしは男達の手で寝台に埋められ、悉くを蹂躙された。抉られた下腹部からは血が流れ、不快な水音と嘲笑が鼓膜を犯す。そんな、今までの経験が何も役立たない暴虐に何度も嘔吐き、声を殺して啼いて、あたしは喪失の意味を理解したのである。

 

 後から気付いたことだが、この時期のあたしは母からビタミン剤(・・・・・)を手渡されていた。母親の愛情に飢えていたあたしは、母があたしを気遣ってくれている事が嬉しかったのだが、それはこの行為に向けての露払いのようなものだったのである。そして、あたしを高校に入れたのも、女子高生と言うブランドであたしの商品価値を高める事が目的だったらしい。

 

 初仕事の後の福沢諭吉を数える母は、今まで見た中でも一番の上機嫌で、酒を煽りながらあたしを褒め称える言葉が鼻にツンときたのを覚えている。

 

 女の子を産んでよかったわぁ。としきりに口にする母。それがあたしは、どうしようもなく悲しくて、嬉しかった。だから視界が濁ったのもきっと、あまりの多幸感におかしくなったせいだったんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それからというもの。あたしは同年代の少年少女がキラキラとした青い春を謳歌するのを横目に、見ず知らずの男達を相手に、なけなしの春を売り歩いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――……ぁー」

 

 我ながら最悪の気分だった。下腹部に生じた熱と脚の付け根を伝う薄紅の悍ましさに、湯を浴びているというのに鳥肌が立つ。

 

(ビタミン剤、最後に飲んだのいつだったっけ?)

 

 瞬間、なんだか気が抜けてしまったあたしは、ズルズルとその場に座り込みながら、紅白が混じり合い流されていくさまを他人事の様に眺めた。そうして思う。

 

 あたし、何してんだろう?って。

 

 今更、好きでもない男とお金の為に寝る事に関して、悲しみを覚えるほどに繊細でも厚顔でもなかったけれど。

 

 この行為にもう意味を見い出せない事実(・・・・・・・・・・・)が酷く虚しかった。

 

 だって、あたしが身体を売っているのはそういうことが好きだからではない。もっと言うなら、あたしはむしろ男の人もセックスも大嫌いだった。ただ、売れるものがそれくらいしかないからやっているだけで、その動機は母に愛されたい一心からだった。

 

 事実。そうやって、あたしが稼げば稼ぐほどに、母はあたしに優しくなったし、褒めてくれたし、愛してくれた。

 

 愛してくれたんだ。

 

「――でも、せめて、一回で良いから言って欲しかったなぁ」

 

 女の子じゃなくて、貴女を、夏燕を産んで良かった。って。

 

「――……あたしは愛してたよ。お母さん」

 

 泣いてしまうかと思ったのに、もうすべては疲れ果てて、涙さえも、出なかった。

 




 剣陣営につきましては、徐々に掘り下げていきたいと思っています。

 因みに、某喫茶店の企業ロゴはセイレーンだそうです。確かに、集客を願うには強そうですよね。


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六月二十日 転機

 時系列的に術陣営の描写は前話からほんの少し戻ります。


 時は聖杯戦争の只中、嵐の前の静けさのような、梅雨の晴れ間の出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八千夜に召喚されてからというもの、キャスターが心身の危険を覚える事は少なくなかった。最初の夜も、突然の来客も、主の隠し事も、どれも恐ろしかった。

 

 だから、それに比べれば現状の問題は些事ではあったのだ。

 

「ごめんくださーい」

 

 とは言え、想定外の事態である事には変わりはないのだが。

 

「――……可笑しいなぁ、指定の時間なのに」

 

 結界を通してもたらされる情報が、キャスターの網膜に映し出した像は、一人の青年の形をしていた。

 

(――……恐らくは、宅急便の方なのでしょうが)

 

 その出で立ちと聖杯から与えられた知識から、件の人物が配送業者である事は察せられた。問題は八千夜を起こすべきか否かである。

 

 昨夜の激しい雷雨と夢見の悪さから、寝直す。と言い残して寝室に消えた主を目覚めさせる勇気がキャスターには湧かなかった。それは、八千夜を慮ったからでもあるし、新たな地雷を踏む可能性を前に保身に走った為でもあった。

 

(時間を指定して届けさせた荷物という点は重要ですが……)

 

 八千夜の口からそのような届け物があるとは聞いていない。単に彼女が忘れているだけならばよいが、状況が状況なだけに最悪な仮定も浮かぶ。キャスター陣営の拠点は既にアーチャー陣営には知られているのだから、荷物を受け取った途端にこちらの牙城が崩される可能性はゼロではない。

 

 ただ一つ言えるのは、これが卑劣な罠であるとして、そのような手を使ってくるのは、アーチャーこと、アーラシュ・カマンガーではないだろう事である。それは彼の高潔さと技量からの推察でしかないが、まず間違ってはいないだろう。彼の武人にしてみればキャスター陣営は簡単に屠れる敵だ。いつでも倒せると目されているからこそ、束の間の平穏が保たれているのが現状なのだから。

 

 願わくば、そうして捨て置かれたままでいたいものである。聖杯戦争の参加者としては甚だ惰弱な姿勢だろうが、満足に戦えない事で損なわれる矜持など持たぬのが自分達である。弱さが招く不幸を憎んだところでどうしようもないのだから、弱いからこその強みを模索し、突き詰める事が肝要だろう。

 

 ゆえに懸念するべきはクラス、真名ともに定かでない。半人半獣の女のサーヴァントのほうである。彼女はその姿のとおり、得体が知れないのだ。あれだけ顕著な特徴を晒しているのに、その実態を掴む事は難しい。そして分からないという事ほどに脅威と恐怖を覚える代物もない。

 

「――……どう致しましょう」

 

 思わずと嘆息が言霊となって口をついて出る。その迂闊さに気付いた時にはもう遅かった。

 

「祢屋さん?」

 

 キャスターが術式に干渉している事を差し引いても、玄関扉を隔てた向こう側に居る人間は聡い手合いであったようである。こうなったら居留守を決め込むのも後々の八千夜の心象に関わろう。おかげで、キャスターの選択肢は一つに絞られた。

 

(――……はぁ、致し方ありません)

 

 震えながらも、キャスターは自身のクラスに恥じぬ、あらゆる魔術的防御策と認識阻害の術を講じたうえで、来客を出迎える事にした。

 

「祢屋さーん?いらっしゃいま――」

「――……はい」

 

 瞬間、恐る恐ると応対に出たキャスターに、青年が目を瞬かせた。

 

「……あ、えっーと。新しいメイドさん?日本語はお分かりですか?」

「…………はい、問題はないかと」

「あっ、じゃあ。こちらにハンコかサインをお願いします」

「……はい、ええと」

「あっ、ペンなら私のを」

 

 印鑑を探そうと視線をうろつかせたキャスターの目の前にスッと差し出されたボールペン。やおら、迅速な親切心に押されるようにしてサインを書くキャスターの指は震えた。

 

(……これもある種の聖遺物になったりしてしまうのでしょうか?)

 

 そんな思考が頭を掠めたからだろうか、荷物の受け渡しを終えた青年が、朗らかに次の仕事場へと急ぐ姿を意識の外側で理解しながらも、キャスターは暫くの間、硬直していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、フジさんでしょう?」

 

 来訪者が去ってから、約40分後に起床してきた主は、あっけらかんとそう述べた。

 

「フジさん?ですか」

「宅配のお兄さん。藤巻?だか、藤丸?だか、確かそんな感じの名前の」

「お名前までは流石に……ただ、誠実そうな爽やかな印象の方でした」

「じゃあ、多分。フジさんだよ。ていうか、荷物が届く事すっかり忘れてた。ビックリしたでしょう?」

 

 ええ、まぁ。とキャスターが口にすれば。次は気を付けるね。と八千夜が眦を下げた。

 

「でも、ま。忘れていたのは不可抗力にせよ。渡す時まで隠しておきたかったのはホントなのよね」

「………それは、もしかして?」

「私のは勿論、お母様のでも貴女には合わないだろうから」

 

 そう言いながら、八千夜が箱から取り出したのは、オフホワイトの生地にターコイズブルーのペイズリー柄があしらわれたマキシ丈のワンピースだった。

 

「女同士とはいえ、目視でサイズを測るのは難しかったから、ある程度は胸元で調整が効くタイプのベアトップにしたんだけど、どうかしらね。取り敢えず着てみてくれる?」

「……あの、八千夜様。お気遣い?は嬉しいのですが、その、上手く状況が呑み込めていないと言いますか」

 

 身体にあてがわれる形で渡された服にキャスターは困惑する。本来ならば喜ぶべきなのだろうが、余りに唐突な事で、歓喜するより先に恐縮が勝った。

 

「キャスター」

「は、はい」

「悪いんだけど、時間がないから説明は後でもいいかしら?」

「……はぁ、構いませんが」

 

 キャスター越しに壁掛け時計を睨むが否や、慌ただしげに動き始めた八千夜に食い下がる事は憚られて、キャスターは頷いた。

 

「それじゃあ、20分後に。ちゃんと着替えておいてね!!」

 

 足早に階段を駆け上がる主の背を見送ってから、キャスターは手元の鮮やかな模様をなぞる。滑らかなその手触りに自然と頬が緩むのを感じながら、知らず、八千夜の厚意に自分はどれだけ応じる事が出来るのだろうか。と考えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 男が呑気に帰宅した気配を察知したのは、あたしがシャワーを浴び終えて、台所で水を飲んでいた時だった。だから、あたしはシンクに転がっていたガラスコップに水を注いで、それを玄関で靴を脱いでいる男にぶちまけてやる。

 

「金」

 

 それだけの文句で済ませてやろうとしているだけ、ありがたく思って欲しい。そう言外に滲ませて、びしょ濡れの男を見れば、奴は驚いた表情であたしを見返して来た。と同時に、薬の副作用でか、後頭部が痛む。おかげで一つ思い出した。男の家に連れ込まれた瞬間に奪われた唇の意味を。

 

「……なんで、君まで濡れてんの?」

 

 簡単な話だ。この男の持ち物を必要以上に使いたくないから。けれど――

 

「――……女だから?」

 

 男からの尤もな疑問に馬鹿正直に答える気にはならなくて、あたしはテキトーな事を言った。男の方も相手にするだけ無駄と悟ったのか、素直に金を渡してくる。前もって言われていた金額よりも幾分か上乗せされたそれを握って、あたしは男の脇をすり抜ける。そして扉を開けて外へと踏み出す刹那に一言添えた。

 

「……お兄さんさぁ、彼女が居るんでしょ?なら、もうこういう事は止めといた方がいいと思うよ」

「あ?」

 

 途端に引き攣る男の表情。これは最悪、殴られるかもしれないな。と冷めた気持ちで思った。

 

「だって、お兄さんの口は一つだし、痔持ちでもないでしょう?」

 

 洗面所に並んだ歯ブラシと、トイレにストックされた生理用品が何を意味しているか(・・・・・・・・・)なんて、考えたくもない。

 

「はぁ?」

 

 あらゆる意味で、この男とはこれっきりだ。

 

「じゃあね、お兄さん」

 

 今度は、出鼻を挫かれたかのように呆ける男に言うだけ言って、遮光カーテンに覆われた部屋から、日の当たる世界へと飛び出せば、少しだけ溜飲が下がった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

「よし、準備は出来たわね?それじゃあ行くわよ!!」

「ええと、どちらに?」

 

 約束の20分から3分ほど遅れて、戻ってきた主から、水色とも薄緑色ともつかない絶妙な色味をした大判のストールを受け取りながら、キャスターは固まった。

 

「何処って、外に決まっているでしょう」

「なっ……」

 

 それは、女が顔に薄化粧をほどこし、身なりを整えている時点で、読めた展開ではあったが、覚悟を決めるには早急だった。

 

「まっ、お待ちください。マスター。そ、外に出るなんて聞いていません!!」

「そりゃあ、そうよ。言ってないもの!!言っていたら貴女。どんな手を使ってでも回避したでしょう!?」

 

 淀みない足取りで玄関へと向かう八千夜の背に、キャスターは必至に追い縋る。

 

「当たり前です!!何故、自らリスクを高めるような事をしようとなさるのです!?」

 

 そうして、八千夜の指先がドアノブへと伸びるより先に、なんとか身体を扉の前へと滑り込ませて訴えれば、流石の八千夜も目の色を変えた。

 

「――ッ!!たまには外の空気を吸わないと気が滅入るでしょう?あと、単純に食料が尽きるから買い出しをしなきゃいけないの!!私が飢えたら貴女も道連れなのよ!?」

 

 キリリと光るその瞳の中には呆れと怒りがないまぜになっていた。だが、キャスターとて引けない。八千夜の苛立ちがキャスターの強情さによって高められたものであると理解して尚、引けなかった。キャスターは臆病だが、それ故の胆力がある。乾いた唇を噛んで濡らせば出てくる言葉に困る事はない。が、しかし。お互いに気持ちが高ぶっていたからだろう。事はそう容易には収まらなかった。

 

「先程の宅配業者に頼んで食料を送って貰えば宜しいではありませんか!?」

「却下!!私が老婆ならともかく、健康なうちは身の回りのことは自分でやらなきゃ」

「そのお考えは素晴らしいとは思いますが、今は非常事態なのですよ!!どうかお聞き届けくださいマスター!!」

「マスターはやめてって言っているでしょうッ!!」

 

 瞬間、双方共に感情を爆発させて肩で息をする。そのまま、何度目かの呼吸で示し合わせたかのように長い息をついた。

 

「……取り敢えず。これだけは理解してもらいたいのだけれど、私は貴女に嫌がらせをしたくてこんな事を言っているのではないのよ」

「……はい、それは、勿論。理解していますが」

 

 やおら、綺麗にまとめられたハーフアップの頭を掻いて八千夜が切り出した。すると、その瞳がいつも通りに澄んでいる事に安堵したからか、珍しく熱くなっていたキャスターも、いつものように、ともすれば、いつも以上にしおらしく首肯する。

 

「……確かに、今になって思えば。いきなりだった事は悪いと思っているし、声を荒らげた事に付いても謝罪はする。でもね、私だって怖くないわけじゃないのよ?」

「…………………………」

「…………私は貴女を嫌っているわけではないし、信頼していないわけでもない。でも、貴女は悲観的なわりには自信家だわ」

 

 自分では気付いていないのでしょうけれど。という部分だけ視線を逸らして八千夜は続けた。

 

「要するに、屋敷に籠っている事が本当に最善と言えるのか?という話よ。貴女の護りはそう断言できる程に堅牢なの?本当に?」

「それは――」

 

 思いがけず、言葉に詰まる。先ほどのキャスターが憂慮した事と同じような懸念を八千夜は持ったのだろう。ただ、ある種の誤魔化しで問題を先送りにしたキャスターとは違って、八千夜の視点はシビアに先を見据えている。

 

「――……そ、れは」

 

 尤もな指摘だった。真実、攻め込まれた時にどれほど耐えられるのかは、その時になってみなければ分からない。

 

 すると、静かに動揺するキャスターを一瞥して八千夜は話題を逸らした。

 

「……貴女が私の行動に枷を付けたくなる気持ちは分かる。ただ、それは私だって同じなのよ。だから、その、なんていうか、上手く纏まらないのだけれど――」

 

 雑念を取り払うように頭を振って、八千夜は言葉を絞り出す。そうして放たれたものは正しくキャスターを黙らせた。

 

「この戦争中、淡々と時を浪費しているようではきっと駄目だと思うの。命がけの生活の中で無為に心を摩耗させるのではなく、全力で生きているという自負を持って日々を過ごせたなら、何かが変わる。そんな気がするの」

 

 どんな結果になるとしても、悔いが残るのは嫌じゃない?と苦笑する八千夜。

 

 キャスターは感じ入るように目を伏せて、ゆったりと進路を開けた。

 

「……分かりました。それほどまでに仰られるのであれば、致し方ありません」

「――……いいの?」

 

 自分で説得しておきながら、不思議そうに見上げてくる視線に、キャスターは静かに答えた。

 

「はい、私の負けです」

 

 拙くとも心の籠った言葉を前に、語り部として嘘を並べる事は出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

「え、何あれ。今日は雨降ってないよね?」

 

 そんな囁きが耳に届いたのは、あたしがあたりめ(・・・・)さきいか(・・・・)を見比べていた時だった。優柔不断なせいで、いつの間にかコンビニの込み合う時間と重なってしまったのかもしれない。レジが込むのは嫌だなぁ。なんて、呑気に思いながら顔を上げれば、やはりというか視線の先には三着のブレザーが並んでいた。一目で同世代だと分かるそれを一瞥すれば、ひそひそ話をしていた少女達が分かりやすく狼狽える。

 

(くだらない)

 

 すぐに興味を失くしたあたしは、視線を外して目の前の問題へと向き直る。侮辱されたのだとは思わなかった。だから傷付く事もない。寧ろ、安堵さえ覚えるほどだった。けれど――

 

「……あの、良ければ使って?」

 

 突如として、目の前に差し出された花柄のハンカチには虚を突かれた。思わずと眉を上げて相手を見返せば、彼女は言葉もなく面食らったようだった。奇妙な沈黙が流れる中、彼女の連れが焦ったように彼女を呼ぶ声が滑稽ですらある。

 

「――……リツカ。じゃあ、リッちゃんさんだ」

「え?」

 

 ハンカチを差し出したまま固まっている彼女の、頑なな善意を呑み込むように笑って見せる。相手が相手ならあたしも躊躇いを持つ女ではない。

 

「ありがとう。気を遣ってくれて、でもあたしならへーき」

 

 言いながら、さきいかを籠へと投げ入れれば、彼女の視線も釣られたように逸らされた。その目線の先、つまり、籠の中にはさきいかの他にもいろんな商品が入っている。菓子パンに、飲料水に、生理用ナプキン、そして、タオルハンカチ。

 

 やおら、あっ、という言葉が少女の唇から漏れ出た。あたしは自分の口角が卑しい程に吊り上がるのを感じた。

 

「じゃ、そういう事で」

 

 会釈するように少女に囁いて、その脇をすり抜ける。連れの二人にも笑いかける事で道をあけさせて、会計へと向かった。

 

「ごめんなさぁい、おっきいのしか持ってなくって」

 

 赤く表示された金額に、スカートのポケットから万札を取り出せば、新人らしい男性店員がもたつきながら、おつりを返してくる。

 

「ありがと」

 

 受け取ったそれを、またポケットへと戻す。自動ドアを抜ける前に一度振り返れば、あの子達が飽きもせずにあたしを見ていた。

 

 バイバイ。と口パクをしながら軽く手を振れば、おずおずと手を振り返して来る。目を細めてそれを見て、自動ドアを抜けた時には、もうあたしの表情筋は活動を終えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 

 扉を開けるとドアチャイムが澄んだ音色を奏でる。緑と茶を基調とした落ち着いた内装と、陽光を取り込む造りが魅力的な店内は、梅雨時の貴重な晴れ間と昼食の時分である事も相まって賑わっていた。

 

「いらっしゃいませ。二名様ですか?」

「ランチの予約をしている祢屋です」

「ランチでご予約の祢屋様ですね。テラス席へのご案内となりますが、よろしいですか?」

「ええ、お願いします」

 

 盛況な店内のざわめきを裂くように八千夜達へと声を掛けた店員は、忙しさを微塵も感じさせない柔和な応対で店の奥へと導いてくれた。ホテルのラウンジのような雰囲気の空間を抜けた先、大きな硝子窓を隔てて中庭に相当する場に設けられたパラソルの下、店員のエスコートに従って腰かける。

 

「直ぐに、お料理をお持ちします」

 

 八千夜達が着席したのを見届けた店員は一礼の後に颯爽と立ち去り、残された二人は口々に感嘆を溢した。白い紫陽花なんて初めて見た!!とはしゃぐ八千夜に対して、キャスターは、その花の本当の名を呑み込むように、同調する言葉を並べた。

 

「人気のお店なのですね」

 

 テラス席のガーデニングの美しさは無論の事、窓ガラス越しの店内の様子を眺めながら呟けば、八千夜も同じように視線を動かして首肯する。

 

「そうみたいね、お料理が楽しみだわ」

 

 しかし、その言い方に軽い引っ掛かりを覚えて、キャスターは疑問を口にした。

 

「行きつけのお店ではなかったのですか?」

「ええ、前から知ってはいたけれど。来るのは今日が初めてよ?」

 

 それがどうかしたの?という風に八千夜が小首を傾げれば、キャスターはいつもの通りの落ち着いた様子で答えを返した。

 

「……いえ、ただ、八千夜様は素敵な場所を知っていらっしゃるのだなと思いまして」

「前にテレビで見たことがあってね。私が動ける状態だったら、一人でも来ていたかも知れないわ」

「え?」

「だから、貴女は気兼ねしないで、私の我が侭に付き合って頂戴ね!!」

 

 そう言って八千夜は心の底から楽しいというような笑顔を浮かべる。だからきっと彼女は自身の失言には気付いていないのだろう。

 

(私が動ける状態だったら?)

 

 それは以前に彼女が言っていた。今は寛解しているという奇病(・・・・・・・・・・・・・)に関わる事なのだろか?だとしたら、その病状はキャスターの想像を超えている。あの時の八千夜の言を軽く捉えたつもりはないが、だからといって、過剰に重く受け止めたわけでもなかった。

 

(いえ、早合点はいけません。八千夜様の仰るところの“動ける状態だったら”の詳細が分からない以上は、私が判断できる事は何も――)

 

「わぁ~!!美味しそう!!」

 

 そんなキャスターの思考に割って入るように、タイミング良く運ばれてきた料理。途端、八千夜が小さな歓声を上げる。それに釣られるように微かな笑みを浮かべながら、キャスターは自身の後ろ暗い思考を振り払う。

 

 主の身に起きていた一方的な理不尽に、キャスターが触れるのは、まだ先の話であった。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 猫はあたしと餌とを交互に見ながら葛藤している様子だった。身を屈めて、四肢を曲げて、草陰に隠れながら、金色の瞳であたしを見つめくる。その、食事の邪魔だ。と言わんばかりの視線。耐えきれなくなって、あたしは立ち上がった。

 

 大きく伸びをすれば身体が子気味よく鳴る。同時に、猫が更に奥へと隠れる音がした。

 

「ついてないなぁ~」

 

 あの男と寝てから、おかげさまで予定は狂いまくりだった。せめてもう一人くらいは相手をして資金を作るつもりだったのに。

 

(まぁ、羽振りが悪くなかっただけマシか)

 

 何より、女体の仕組みに文句を垂れたところでどうしようもない。痛む頭部にささくれ立つ心境を持て余しながら、あたしは歩き出す。何かを呼ぶ女の人の声が聞こえたのはそんな時だった。

 

「茶々~、茶々麻呂~?ご飯の時間よ~」

 

 声のしたほうを振り返れば、何処からともなく現れた小太りのおばさんが、手にしたエサ皿を揺らしながら草むらへと、声を掛けていた。

 

「みゃあん」

 

 と直ぐに反応が返る。甘えた声を出しながら自分の足へとすり寄るキジトラにおばさんは眦の皺を深くした。

 

「まったく、アンタはこれじゃないと食べないんだもんねぇ~他の野良はそんな贅沢言わないってのに」

 

 そんな文句を言いながらも優しい手つきで猫を撫でるおばさん。あたしは何だが居た堪れなくなって駆け出した。

 

 スーツに浮いたネクタイの色と左手薬指の銀。

 万人受けする美味と定員の営業スマイル。

 並んだ歯ブラシとストックされた生理用品。

 花柄の善意。

 猫の名を呼ぶおばさんと名前のついている猫。

 

 夢中になって走るのに比例するように頭の中に氾濫するもの。

 

(――ああ、世界はこんなにも愛で溢れている)

 

 なのに、なんであたしはこうなんだろう?

 

「あっ」

 

 瞬間、馬鹿みたいな驚嘆が零れた。傾いだ身体を守ろうと、本能的に前に出した手が少しばかり勢いを削ぐも、せいぜいがそれまでの事だった。

 

「いっ、たぁ~」

 

 爪が割れる。アスファルトに打ち付けた膝小僧がみるみると熱を持って痛んだ。立ち上がる気力が湧かない。

 

「――はッ、はは、あははは」

 

 地に四肢をつけたまま、あたしは笑った。多分、無意識だった。それ以外の感覚で生きていたのは、手の甲の感触しかない。

 

 誰からも愛されないあたしには、この世界は厳しすぎる。そして不幸とは重なるものだ。

 

 振り始めた雨が乾きつつあったあたしを濡らしていく。だからあたしは最初の一滴が温かかった事をすぐに忘れた。

 




今話に登場した“彼ら”が私達のよく知る“彼ら”と同一人物なのか、名を同じくする別人であるのかは皆様のご想像にお任せ致します。


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六月二十日 回顧

 本当は、母の日前後に投稿する予定だったのですが、諸事情で遅くなってしまいました。

 剣陣営の出会い編なのですが、時系列が少しややこしい書き方になってしまいました。陳謝。

 ※今話には残酷な描写が含まれます。


 1431年、5月30日。フランスの国民的英雄、ジャンヌ・ダルクは異端(魔女)として火刑に処された。

 

 それから、数百年と時を重ねて、聖女の戦友。ジル・ド・レェは一人の少女と出会う。それは運命と呼ぶには余りに残酷なものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ※

 

 

 

 

 

 

 

 

 噎せ返るほどの血の匂いに目が醒めた。

 

「――あさん」

 

 次いで、若い女の切羽詰まった声が鼓膜を叩く

 

「お母さんッ!!ねぇッ!!お母さんってばッ!!」

 

 血だまりの中に横たわる女へと赤く染まった少女は呼びかけていた。

 

「これ、今日の分のお金だよ。足りないならあたし、もっと稼ぐよ。お母さんの言う事は何だって聞くし、身体にある模様の秘密だってちゃんと守るよ?だから……ねぇ、ねぇッ!!」

 

 縋るような悲鳴をあげながらも、少女はなす術がない事実を理解しているのだろう。己の母親が徐々に失われていくさまを絶望の滲む瞳で見つめている。そしてそんな少女の姿に自分は圧倒されてしまっていた。

 

「セイバー」

 

 と、自身を呼ぶ第三者の声に、私は始めて己がマスターを視界に入れる。若いのだか老いているのだが判然としない見た目の彼は、母親が息を止めたと同時に心を失くしたかのように静かになった少女を疎むように見やって、口を開いた。

 

「殺せ」

 

 何を、などと問い返すまでもなかった。ゆえに、私は鞘から剣を抜き放つが否や、切りかかった。

 

「な――」

 

 まず、手始めに男の腕を切り落とす。令呪の脅威を退けてしまえば、後は簡単なことだった。

 

「き、さまッ!!」

 

 人間としては男の迎撃は早かったのだろう。が然し、英霊を相手取るには、彼は凡庸な魔術師の域を出てはいなかったのだろう。術が展開されるよりも先に、私の手には心の臓を貫いた感触が奔った。

 

「――――」

 

 声にならない吐息を溢して彼は呆気なく死んだ。私が殺したのだ。ともすれば、私も賛同できるような崇高な志の元に聖杯戦争へと挑んでいたのかもしれない男を。問答無用と私が切り捨てたのだ。

 

「――ッ」

 

 一度深く目を閉じる。彼との繋がりが完全に立ち消えた事を確認してから、私は共に戦を駆け抜けたかもしれない男から剣を引き抜いた。私は彼の願いではなく、少女の未来を選んだのだ。

 

「――……お怪我はございませんか?マドモアゼル」

 

 我々が一瞬の攻防を繰り広げている最中も、男が頽れ、鈍い死の音を立てた瞬間も、少女は糸の切れた操り人形の様に静止していたが、私の呼びかけには微かな反応を示した。

 

「……どう、しよう」

 

 焦点の定まっていない恾とした眼で私を見つめ、彼女は呟いた。

 

「お母さん。死んじゃったよぅ」

 

 言語化に伴い感情も湧き上がったのだろう。死んじゃった。どうしよう。と同じ言葉を譫言の様に繰り返しながら、少女は次第に声を潤ませていった。それは、許容量を超えた現実を前に、折り合いをつけようと彼女が必死になっている何よりの証拠と言えた。

 

「なっ、で、ど、ぉして」

「――……申し訳ありません」

「ッ、ぅ、っく」

 

 自身の身に降りかかった悲劇の理由を探し始めた少女に、私はただ、謝る事しか出来ない。しかし、謝ったところで彼女の母親が生き返るわけでもなければ、私の罪が消えるわけでもなかった。

 

 何かを押し殺すように少女は静かに涙した。例え、号哭したところで彼女を咎められよう人間は誰一人としていなかったであろうに、いじらしいまでに彼女はおとなしく泣いたのである。この時の私は彼女の理性にいたく感心したものだが、真実が、声を上げて泣く事すら許されない環境に順応した姿である事を知ってからは、憐憫へと形を変えてしまっている。

 

 ともあれ、私は持って数刻だろう自身の残り時間を、この哀れな少女へ捧げると決めたのである。その決意が、後の私を長く悩ませる事になるとは、無論、思いもしていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あたし、これからどうすればいいの?」

 

 30分を過ぎよう頃、やっと少女は泣き止んだ。恐らく泣く事に疲れたのだろう。相も変わらず虚ろな表情で私を見ながら、母親の死以外の事柄に言及した(未来を見始めた)彼女に私が言うべき事は一つだった。

 

「生きるのです」

「どうして?」

「どうしてもです」

 

 華奢な肩に手を置き、厳とした声音で念を押した私を恐れるように、少女は被りを振った。

 

「なんで、なんでッ――」

 

 刹那、つい先ほどまで、静かな絶望に打ちひしがれていたその身体が強張り――

 

「なんでッ、あたしも殺してくれなかったのよッ!!」

 

 深い悲しみと強い憎しみの込められた瞳が私を捉えた。ああ、何という事だろう。私はこの顔を、この激情を知っている(・・・・・)。私は彼女の命を救った変わりに、彼女に世界を呪わせてしまったのだ。

 

 だが、それでも、そうであっても。

 

「…………生きて下さい。私は貴女に生きていて貰いたい」

 

 かの聖女のように、彼女の未来が断たれるのは耐えられない。つまるところ、私の行いは。そんな独り善がりの悔恨(エゴ)でしかなかった。

 

「大丈夫、貴女はきっと幸福になれます」

「そんな事ッ――」

「分かります。私には分かります」

 

 私の断言に、少女は震えるように瞳を揺らめかせた。

 

「…………本当に?本当にそう思う?」

「はい」

 

 強く頷けば少女は漸く、弱々しく前を向いて――

 

「なら、貴方が見届けて」

「それは――」

「本当に、あたしが幸せになれるというのなら、貴方が証人になって頂戴よ。でないと――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

「あたし、きっと生きてけないわ」

 

 いつかの台詞を口にする。傘を差さずに歩き続ける気力は湧かなくて、あたしはcloseの看板が下げられた店先の日除けの下で頬に張り付いた髪を拭った。

 

(疲れた)

 

 その場に膝を抱えて蹲る。意識の片隅では、早く帰らなきゃと急く声があったけれど、あたしはそれに気付かないフリをした。

 

 一人で過ごす時間は寂しいけれど、必要だから。

 

(宿の心配はないから、後は騎士様のご飯をどうにかしないと、最悪、あの時と同じようにすればいいけど、それはあくまで最終手段)

 

 冷静にこれからの予定を組み立てながら、鼓膜を打つ雨音にあたしの心が逆行していく、ああ、そうだ。あの時も今日みたいな雨の日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 ※

 

 

 

 

 

 

 

 何てことはない。日常のハズだった。

 

「ただいま」

 

 と、いつものように仕事(・・)をして家に帰ったあたしに、母が次の仕事(・・・・)を用意していた。ここまでは良くある話で、問題は此処からだった。

 

「ん」

 

 胡乱な瞳で紫煙を燻らせながら、母が掌を差し出してくる。おかえり。の変わりでもある、シンプルな催促。あたしは従順に鞄に視線を移して――

 

「ぇ――」

 

 視界が赤く染まった。

 

「ぅあぁぁあぁあああぁあッ!!」

 

 途端、母が絶叫して、あたしの瞳孔が縮む。

 

「お母さん!!」

 

 床に崩れ落ちた母へと駆け寄れば、あたしの制服が母の首筋から噴き出た鮮血を吸って重みを増した。

 

「ぁ、んで」

「おか、ぁさん!!」

 

 思わずと声が上ずる。素人目でも重要な血管が傷付いたのだと理解出来た。母が呻くたびに、その傷口からは空気と血液が洩れる。

 

「お母さんッ!!ねぇッ!!お母さんってばッ!!」

 

 ヒューヒューと音を立てて母が失われていく、それと共に、狭い部屋の中には光が満ちていった。だから多分、あたしはその段階で悟ったのだと思う。

 

 母は助からない。

 

 でも、それでも。あたしは、この期に及んでも――

 

「これ、今日の分のお金だよ。足りないならあたし、もっと稼ぐよ。お母さんの言う事は何だって聞くし、身体にある模様の秘密だってちゃんと守るよ?だから……ねぇ、ねぇッ!!」

 

 母に愛されようと必死なだけの、最低な娘だった。

 

 

 

 

 

 

 

 ※

 

 

 

 

 

 

 

「満足ですか、マドモアゼル」

 

 唇を拭って私は息を吐いた。

 

「……あり、がとう?」

 

 証人となる事は出来ない。と私が口にした途端に、少女は躊躇うことなく手首を切った。だから私はそれを利用する形で自らの延命を計る他なかった。少なくともそうすれば彼女の自暴自棄を諌められると信じて。

 

(出来れば、使いたくはなかったのですが)

 

 本来のマスターである男の令呪を転写した本(・・・・・・・・)を傍らに私は嘆息する。少女を助けた事に後悔などはなかったが、おかしな事になってしまったという一抹の苦悩はあった。

 

「ごめ、なさいッ、あ、あたしッ――」

 

 そうして、私が難しい顔を晒していたからだろう。正気に戻った少女は私を見つめ怯えたように謝罪の音を上げた。

 

「いえ、こちらの方こそ、怖がらせましたね」

 

 それを受け止めながら、掌を差し出せば、少女の双肩が跳ねる。

 

「――……怪我の、手当てをしましょう。痕になっては大変です」

 

 束の間の静寂。返答の代わりに、恐る恐ると伸ばされた少女の小さな手を私は確かに取った。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

「あら、やっぱり見間違いじゃなかったわ」

 

 ふと頭上から掛かった低くて太い声にあたしは顔を上げる。そうして、酷く冷静に相手を探った。一目で鍛え上げられている事が分かる体格の良さと、まだ六月だというのにしっかりと日に焼けた肌をしたとても逞しい見た目の彼?の口調は女性的だった。だからといって、どうというわけでもないし、かといって、こんな事を思うのは良くないのかもしれないけれど、あたしは彼のような人は嫌いじゃなかった。

 

「女の子が身体を冷やすのは良くないわ。入んなさい」

「でも……」

「はっ、別に、取って食いやしないわよ」

 

 分かるでしょう?と言いたげな目配せに、反論する気は起きなくて、けれど、自分の状況を鑑みれば、素直に頷く事も出来なかった。

 

「開店前のお店を汚すわけには――」

「だあ、もうッ!!めんどくさい子ね。そんなの掃除すればいい事でしょう!?」

「けどッ――」

「人の善意を前に四の五の言わないッ!!それと、あんた自分じゃ気付いてないみたいだけど、ほっといていいような顔色じゃないのよ?」

 

 ピシャリと言葉を遮られ、来なさい。と諭すような声音で念を押されればもう、素直にご厚意に甘える他なかった。

 

「……分かりました」

 

 店内に入るとズラリと並んだ鏡面に私が反射する。

 

 美容室の磨き上げられた鏡に映った自分は、貧血か、冷えか、疲労かは分からないけれど、確かに酷く蒼褪めた顔をしていた。

 

「好きなとこに座って待ってなさい。今、タオル持ってくるから」

「あ、はい、すみません。有り難うございます」

 

 そうして、借りてきた猫の如くに席に着くと、より一層、自分の悲惨さが目に付いた。全身濡れ鼠なのは勿論の事、両ひざには擦り傷、両目には充血。極めつけには陰気な顔色である。醜悪なものだ。

 

「はい、取り敢えず包まってなさい。目はこっちで膝にはこれね」

「何から何まで、ほんと、すみません」

 

 大判のタオルと蒸しタオル、絆創膏を受け取りながら、苦笑するしかないあたしに、彼女?の勢いは苛烈だった。

 

「んな謝罪は後!!一先ず絆創膏、張っちゃいなさい!!」

「は、はい」

 

 そんな勢いに押されるようにして、膝の処置をすれば。空調の操作音が雨音に混じる音がした。

 

「暑くなり始めるかな?って時に梅雨冷えって起きんのよね~」

 

 困ったもんだわ。と嘆息して、鏡越しのあたしへと視線をやった彼女は、先ほどと打って変わって、優しい調子で尋ねてくる。

 

「傷の具合はどうかしら?」

「……ええと、そんなに深くはないので、大丈夫だと思います」

「あらそう?痕が残ったら大変よ。しっかり治しなさい」

「――……前に、怪我した時もそう言われました」

「あら、お転婆ね。アンタの彼氏はさぞや苦労してるでしょう?」

 

 タオルドライした髪にドライヤーを当てながら彼女は笑った。つられてあたしも笑う。

 

「あたしに、そんな人はいませんよ」

「やぁだ。若いクセして枯れてるわねぇ、好きな人もいないの?」

「……好きな人。というか、いつも一緒に居る人なら、いますけど……」

「男?」

「まぁ、はい」

「でも、そういうんじゃない(・・・・・・・・・)と」

 

 ややこしいのね。と言って彼女はそれ以上の追及をしなかった。彼女なりに何かを察したのかもしれないし、これ以上は面倒だと思ったのかもしれない。どちらにせよ。あたしが考え込むには十分な猶予だった。蒸しタオルで視界を塞ぎながらあたしは悩む。

 

 あたしは、多分、騎士様の事が好きだ。好きか嫌いかで問われれば、そうと断言できるくらいには彼の事を好ましく思っている。

 ただ、それが恋情であるか?と問われると、よく、分からなかった。

 

 欲しくもない男の体温を求めて、美味しくもない酒や煙草の味を覚えて、笑いたくもないのに笑って、そうして母からの愛を買う事に必死だったあたしに、恋というものはあまりにも無縁だったから。

 

「……彼は、優しい人です。あたしはそれに付け込んでいる」

「――……ふぅん。アンタは悪女なのね?」

「そう、あたしは騎士様を利用する悪い魔女」

「詩的ね」

 

 ああ、本当に。こんな現実を思い知る事になるくらいなら、悪夢であろうと夢を見ていたかった。

 

「おに、お姉さん」

「何かしら?」

「お願い事をしてもいいですか?」

 

 顔を上げて、最後に、一度だけ、姿見に映る自分を見る。

 

(愛されたがりの燕ちゃん。あたしは貴女が嫌いではなかったわ)

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

『あたし、柳 夏燕っていうの。夏に燕で夏燕、だけど誕生日は2月22日で猫の日なの、笑えるでしょ?』

 

 そう、自嘲するように笑った少女が、野良猫を殺すようになるのに時間は要さなかった。

 

『おじさぁん。ホテル代くれない?出来ればご飯もおごってくれると嬉しいなぁ~』

 

 燕となった彼女の資金調達法は背徳と形容するには余りに軽やかですらあった。

 

 だが、そのどちらにせよ。彼女のささやかな倫理観に則ったルールが存在していた。それは首に付いた鈴の形をしていたり、左手薬指の銀輪であったり、つまるところ、彼女の言葉を借りるならば、それは誰かに愛されている証であるから、その誰かを悲しませたくはない。という事だった。

 

『貴女は賢いわりには愚かだ。その優しさも残酷である事に変わりはない』

 

 彼女が、猫を殺すのは私を繋ぎ留めておく為で、自らを売るのは母親に叩き込まれた呪い以外の何ものでもない。そう説得するたびに彼女は決まってこう言うのだ。

 

『そもそも、生き物は生き物を殺して生きているし、そうしなければ生きられない。だからあたしは殺した猫たちに精一杯の敬意は払うようにしているし、騎士様だって無駄にした覚えはないでしょう?それと、あたしが自分を売るのも、それが一番確実に稼げて安全な手だからよ。未成年のあたしと取引相手達は、皆イケナイ事をした共犯だから、自然と守秘義務を負っちゃうの、逃避行の身には、これ以上ない理由でしょう?』

 

 そんな風にして、笑うしかないと言うような笑い方で笑って見せる。彼女は弱く、強かな少女だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(夏燕は傘を持って出掛けただろうか?)

 

 ふと、降り始めた雨にそんな事を思う。互いを思いやる気持ちがないわけではないのに、一緒に居れば居る程に私達は互いに傷付く事が増えたように思う。それを、価値観の違いだと切り捨ててしまれば容易いのだが。

 

 ジル・ド・レェ()が駆け抜けた時代よりも遥かに平和で豊かなこの国にも、彼女のように暗部に生きる少女がいる。その事実は、悔しいとか、やるせない以上に虚しさとなって去来した。この世の地獄のような戦地にあって、その心身を穢す事のなかった聖女と彼女はあまりに正反対の境遇にある。

 

 ああ、どうすれば、彼女を救えるのだろう。救えたのだろう。

 

 二重苦の感傷の最中、窓の外を一羽の燕が滑空した。私は素早いその軌道を目で追いながら、剣の柄を握り締めて、苦悩し続けた。

 





 ジルの宝具を偽臣の書の様な扱いにしています。


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六月二十日 交錯

 しばらくぶりです。

 もう去年の話になってしまうのですが、クリスマスイベントでのピックアップを回していたら、不夜城のキャスターのお招きに成功しました。すり抜け、棚ぼたです。


 その少女は、ご機嫌よう。という可憐な挨拶と共に、私達のテーブルに椅子を寄せて座った。昼食後の茶会の最中に居た私達は、当然を装った余りにも突然の衝撃に、只々、呆けるしかなかった。深緑色の小さなワンピースの傍らでは、白いドレスの褐色の指先がコンパクトを開く、刹那、迸った光が辺りの喧騒を眩ませた。原理は分からないまでも、常日頃からキャスターのそれに囲われていたおかげか、彼女が何をしたのかは察せられた。

 

「こうしてお会いするのは初めてになりますわね。お察しの事とは思いますが、わたくしは此度の聖杯戦争の参加者。つまりは貴女方の敵です」

 

 結界の完成を言祝ぐように、少女は透き通った声で、淀みなく言い切った。キャスターが蒼褪めた顔で茶器を取り落とす。

 

「とは言え。今日、こうして参りましたのは戦う為ではありませんので、そう身構えないで下さいましね?」

 

 対する少女は、どこまでも落ち着いた様子で、花がほころぶように笑んでみせる。まだあどけない彼女の纏う雰囲気は淑女のそれだった。

 

「――……なぜ、話し合いの席を設けようと?」

 

 恐怖に震えるばかりのキャスターの様子に、かえって冷静になった私が尋ねれば、少女の瞳が交渉相手を見定めるように動く。

 

「……どうやら、貴女方は戦う意思というものに乏しいご様子ですし、こちらとしても無駄は省きたいのです」

「――……ええと、つまり?」

「単刀直入に申します。我々と協力する気はございませんか?」

 

 瞬間、開示された思いも寄らない提案に、私とキャスターは互いに視線を交わし合う。

 

「勿論、直ぐにお返事いただかなくて構いません。お二人で話し合いたい事もおありでしょうから」

 

 すると、私達の困惑を前に少女は涼し気な表情を崩す事なく、事態を静観するように口を噤んだ。居心地の悪い静寂の支配下で、キャスターの怯えは最早、音を立てそうなほどに高まっていく、だから、咄嗟に席を立った私は、彼女の隣に並んで、机の下で震えるその手を握った。途端、暗い碧の瞳が見開かれる、私は頷いた。

 

「私達が貴女達に協力する事で得られる利は何かしら?」

 

 キャスターと手を繋いだまま、答える。少女が目を細めた。

 

「……そうですね。何がお望みですか?」

 

 泰然と返される言葉、それに見合うだけの要望は元よりたった一つ。

 

「……わ、我々の身の安全です。可能であるならば、貴女のサーヴァントにそれを……」

「――……わたくしのサーヴァントに?」

「…………はい」

 

 少女の傍らでコンパクトを広げ持つ、虚ろな美少女を仰ぎ見てキャスターが乞い願う。

 

「――……いいでしょう。ですがその代わりに、当面のご協力を頂けると、今、ここでお約束頂けますか?」

「それは……」

「――……一つ、助言を。貴女方の願いが、ただ、生き残るだけならば、方法はあります」

「――え?」

 

 展開の速さに追い付けずにいる。歯切れの悪い私たちを諭すように、少女は続けた。

 

「青を取り溢した冠位の魔術師にして、稀代の人形師がこの国に隠棲しています。彼女であれば、サーヴァントを疑似的に受肉させる事も可能でしょう」

「――……聖杯へ願うのは止めろ。と仰るのですね」

「ええ、天秤の上に乗せた命と充分につり合いが取れるのでは?」

「何よ、それ、意味がわからない。そんな情報をちらつかせてまで私達を欲するのはなぜ!?」

 

 どこまでも淡々とした言い様に焦れた私の語気が荒くなる。少女はやはり、鷹揚と答えた。

 

「手強い敵が現れてしまったからに決まっているではありませんか」

「――……セイバー、の事ではなさそうですね?」

「……敵のクラスは恐らくランサー、残念ながら真名までは絞り切れてはいませんが……」

 

 ふと、逡巡するように言葉を途切って、少女は己の顔色を窺うキャスターを試すように瞳を眇めた。

 

「ランサーのサーヴァントが放ったブラフマーストラという単語から得られるものは大きいでしょう?」

「――……ブラフマーストラ……インド神話に謳われる超自然的な武器、ですね。使用者は考え得るだけでも、トリムルティが一柱ブラフマー本人は元より、ヴィシュヌ神が第六の化身であるパラシュラーマ、武芸師範ドローナ、パーンダヴァ五兄弟のユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サバディーヴァ、カウラヴァの百人兄弟が長兄ドュルヨーダナ、その友にして悲劇の英雄カルナ、などが挙げられるでしょうか?」

 

 同調を誘うような言葉はその実、答えを欲した問いかけ。それに応じたようなキャスターの語りに呆気にとられる私をよそに、少女は口角を上げる。

 

「――……貴女からは確かに教養の深さを感じてはおりましたが、予想以上の才媛のようですね」

「――……神話に謳われる英雄ともなれば、それが誰であろうと、強大な敵であることはまず間違いないのでしょう」

「ええ、だからこそ、真名の特定が急がれます。対抗策は多ければ多いほど良いでしょうから」

 

 称賛の言葉を意識的に無視した様子のキャスターの心情を汲むように続けて、少女は椅子を引いた。

 

「ひとまずは、有意義な語らいとなったようで何よりです。では我々はこれで――」

「ッ!!その前に、どうか約束を果たしてください。後生です」

 

 立ち上がり、背を向けた少女の後ろ姿に、キャスターの縋りつくような声がかかる。

 

「――……それは、我々と同盟を結ぶ。というお返事と受け取っても宜しいでしょうか?」

「――……はい」

 

 唾を呑むような肯定に、少女はゆったりと向き直った。

 

「――……いいでしょう。では、キャスターのマスター」

「私?」

 

 榛色の瞳が私を射抜く、次の瞬間、発せられた文言に私の瞳孔が縮んだ。

 

自己強制証明(セルフ・ギアス・スクロール)による呪術契約を結びましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 決して絶世ではないけれど、それゆえに高値過ぎず、手を出す事に不安や躊躇を覚える程に醜くはない。少女と女の狭間を揺蕩うくらいには半端な魅力を振り撒く、丁度いい女。それがあたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ん~、いいんじゃない?やっぱりイメチェンは思い切った方がいいわね」

 

 自分の腕と客を、同時に褒めるような美容師の感嘆に、あたしも姿見に映る自分を見た。

 

「頭、軽い」

 

 首を振って、合わせ鏡の自分を確かめる。清楚が売りだった長い黒髪は、肩に付くくらいの長さの朱を帯びた茶髪へと変わっていた。

 

「満足かしら?」

「――……はい。いきなり無理を言ってすみませんでした」

「いいのよ。寧ろ気を遣わせちゃったかしらね?」

 

 そう言って彼女は肩を竦める。あたしは苦笑した。優しくされる事に慣れていないのは事実だから。でも――

 

「違います。あたしがあたしを変えたくなったんです。お姉さんに会って、そういう気持ちになれたんです」

「あら、そう?お手伝いが出来たのならよかったわ」

 

 照れ隠しもあるのだろう。あたしから代金を受け取った彼女は、茶目っ気たっぷりなウィンクをくれた。

 

「――……何から何まで、お世話になりました」

 

 外へ出る前に振り返り頭を下げる。短くなった髪が頬を掠めた。視界の端に映り込んだ色味も慣れ親しんだものではない。自分なりに思い切った事をしたものだ。という実感が湧く。

 

「……別に、大した事はしてないわ、あとこれ」

「え?」

 

 瞬間、呆れたような嘆息とともに、彼女は迷彩柄のジャケットを私に羽織らせた。

 

「あげるわ、魔除け(・・・)くらいにはなるでしょ?」

「でもっ――」

 

 反射的なあたしの言葉は、眼前に立てられた長い人差し指に阻まれる。

 

「作業着にしてたヤツだから、気にするほどのもんじゃあないわよ。家に帰ったら今日あった嫌な事と一緒にして捨てればいいわ。遅かれ早かれ、そうするつもりだったしね」

 

 そうして、あたしの遠慮を押しとどめ言い含めるように彼女は笑った。あたしは少しだけ逡巡して、けれど、結局は頷く他なかった。

 

「――……分かり、ました。あ、でも。ポケットに何か入って……」

「ああ、それ。まだ一杯あるから持ってっていいわよ」

 

 袖を通したジャケットから微かに香る匂いと、手の中で転がる棒付きキャンディ。

 

「……禁煙、してるんですか?」

「そ、狙ってる男が嫌煙家なのよ」

 

 問いに返る答えは、あまりにあっけらかんとしていて、冗談か本気かの判断はつけがたい。でも、だからこそ、あたしは知りたくなったのかもしれない。

 

「――……あの、最後に一つ聞いても良いですか?」

「ええ、いいわよ?」

 

 店の扉に手をかけながら、今一度振り返れば、相も変わらず、穏やかな笑顔があたしを優しく促していた。

 

 思わずと深く息を吸う。

 

「――……こっ、恋と愛の違い。って何だと思いますか?」

 

 途端、緊張で上ずった声が出た。我ながら、なんて質問をしているのだろう。と、得も言われぬ羞恥心に顔が熱くなる。そんなあたしを前に、彼女は笑うでもなく、どこか遠く目を細めて、難しい事を聞くのねぇ。と呟いた。

 

「――……でも、そうね。上手くは言えないけど。恋は憧憬で、愛は信仰。ってところかしら?」

「恋は憧憬で、愛は信仰……」

「――って、やっだ、そんな真面目に捉えないで頂戴。なんとなく、そう思っただけってお話よ?あんたはあんたなりに答えを見つければいいわ」

 

 答えを復唱するあたしに、彼女は焦り弁解するように続けて、やっぱり、笑ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 

 

 

「じゅ、呪術、契約?」

 

 その言葉が持つ不穏な響きに慄いたのか、頓狂な声を上げて後ずさった主に、キャスターは不安げな視線を送った。

 

「ええ、制約を破った違反者には死の呪いが科せられる。といった束縛術式です。得体の知れぬ魔術師を懐に入れるには、これ以上ない安全策であると提言いたします」

「そんなッ!!私はてっきり令呪を使うんだとばかり」

「――無論、その手もありますが。わたくしが命令の上書きをしないと言う保証はないのでは?」

「それは――」

 

 突如として弱気になったキャスターの主を前に、流れが変わった事を理解しながらも、少女は淡々とした姿勢を崩さないまま、話を進めていく。

 

「さて、それでは制約乃至、条件の確認を致しましょう。こちらからの誠意と致しましては、わたくしが従えるサーヴァントによる、貴女方、キャスター主従を対象とした殺害・障害の意図、及び行為を永久に禁則とします。そして、こちらからの条件は聖杯戦争に於ける全面的な協力です。ご了承頂けますね?」

 

 最後通告とばかりに、卓上に広げられた誓約書を一瞥して、八千夜は断言した。

 

「――……いいえ、まったく。と言うほどに了承できないわ」

「――……条件にご不満が?」

 

 明らかな抗戦の構えに、少女の眉が跳ねる。

 

「それ以前の問題よ。同盟それそのものは良くても、魔術的な知識のない私では、貴女の言葉を何処まで信じていいのか、その線引きが出来ない」

「――……一般人と魔術師の価値観の違い。ですか、なるほど?」

 

 契約内容ではなく、契約書が信用ならない(・・・・・・・・・・)。と言う八千夜の訴えに、少女は、その考えには至らなかった。と言うような呟きを溢した。そうして、キャスター主従の頑なな怯えに、手心を加えるように付け足した。

 

「――……分かりました。ひとまずは引きましょう。ですが、只立ち去るだけでは、貴女方からの信用を得る事など不可能といえるのでしょうから、一つ、置き土産を差し上げます」

「置き土産?」

 

 怪訝な鸚鵡返しに、少女の表情にはどこか、邪悪なまでの無邪気さが宿ったかのようだった。

 

「――……令呪を以て、我がサーヴァント、アーチャー(・・・・・)に命じます」

「そんなッ――!!」

 

 柔らかそうな唇が紡いだ文言に、キャスターが悲鳴をあげる。交渉の要、その根本的な間違い(・・・・・・・)に自分達は気付いていなかったのだ。

 

「キャスター主従を対象とした殺害・障害の意図、及び行為を原則的に禁止とします」

 

 果たして、制約は正しく施行された。暴挙にも等しい少女の命令は、八千夜達の善性に付け入る形で、大きな貸しを作る事に成功した。その事実を前に絶句するしかない両者を前に、少女は賭けの勝利を確信したように、微かに口角を上げて別れの言葉を告げる。

 

「お互いに有意義な語らいとなったのなら何よりです。さ、帰りましょう。アサシン」

 

 去り際、釘を刺すかのように明かされた暗殺者の存在に、八千夜達の肝が冷えきった事は言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

 チャリン、チャリンと子気味良い音を立てて、小銭が吸い込まれていく。聞き慣れたその音が指定の回数に達したところで鍵を回せば、ガチリという振動が指に伝わった。

 

「――よいしょっと」

 

 開いたコインロッカーの中から、大型のキャリーケースを取り出したあたしは、そのまま駅前の多目的トイレに立ち寄って――

 

(あー、やっぱり)

 

 個室内の鏡に映った自分の姿に苦笑した。黒髪ロングのセーラー服に暖色のネイルの時点で、それなりに目を引いていたけれど、黒髪じゃなくなったうえに迷彩が加わった今や、セーラー服が完全に浮いてしまっている。似合う、似合わない。と言うよりも、目立ちすぎるのは、あまり好ましくない。

 

(いろいろと持ち出しておいて良かった)

 

 キャリーケースを広げながら、思わずとため息をつきそうになる。

 

 多分、母の教えもあったのだろうが、あたしは制服への依存度が高い。制服はある種、没個性的で、それでいて価値が高い。でもだからこそ、制服から読み取れる情報も多かったりする。

 

 仮初の逃避行が本物のそれとなった暁には、制服は着られなくなる。

 

(……それが早まっただけだけど、なぁんか憂鬱だな)

 

 結局、ため息は抑えられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

「お客様ッ!!お召し物が!!」

 

 コンパクトが閉じられる軽快な音と共に、周囲の喧騒が戻ってくるが、私達の心は此処に在らずだった。

 

「――……だ、大丈夫です。お気遣いなく」

 

 衣服に広がる紅茶の染みに慌てる店員に、どうにか言葉を返すキャスターを意識の外側に捉えながらも、私は誰もいない対面から視線を逸らせずにいた。

 

 キャスターが訴えていた通り、外に出たのは間違いだったのかもしれない。拭いきれない恐怖と後悔に、震えそうになる唇を噛む。自分よりも、うんと小さな女の子に出し抜かれた事実が悔しくて、それ以上に、浅はかな自分が恨めしかった。けれど――

 

「!!」

 

 そんな私を見透かし、宥めるように手を握ってきた存在を知覚して我に返る。思わずと移した視線の先では、おしぼりを手渡す店員に、キャスターが穏やかにお礼を述べていた。

 

「――……キャス、ター」

 

 仮初の名を呼べば、黒絹の頭部がゆったりと私を仰ぎ見る。

 

「………………折角、戴いたお洋服でしたのに、汚してしまって申し訳ありません」

 

 幾分か間のある逡巡を経て、いつも以上に物憂げで、いつものように謙った物言いをするものだから、こちらから更に弱音を重ねるような愚行は犯せなかった。

 

(……ズルいなぁ)

 

 叶わないなぁ。と思う。彼女は恐怖との戦い方を知っている人だ。

 

「――……あの、八千夜様?」

 

 おずおずと私の名を呼ぶキャスターに応える。

 

「折角だから、貴女の洋服も買い足しましょうか」

 

 私の咄嗟の機転に、キャスターの顔には、先ほどと異なった動揺の色が浮かぶ。

 

「そっ、そのようなつもりで言ったわけでは……」

「分かってるわよ。でも今後の事を考えれば無駄にはならないでしょう?それに、女友達とのショッピングなんて久しくしてないから…………その、私の娯楽に付き合ってもらえると嬉しいのだけど?」

 

 駄目?と小首を傾げれば、キャスターは言葉を探すように視線を彷徨わせて、結局、気圧されるようにして頷いた。

 

「――……ありがとう」

 

 心底からの感謝が口をついて出た。どんなに取り繕ったって、どうしようもない事柄はある。だからこそ、少しでも気持ちを切り替える必要があった。きっと、今の私達に、深く考えて良くなる事なんて、殆どないだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 

 

「よし!!」

 

 落ち込みそうになった気分も、着替えを終える頃には復活してきていた。我ながら打たれ強いとは思う。積んでいる経験は(そうなった所以は)、誇れるようなものじゃないのだろうけど。

 

(騎士様のご飯を、見つけなきゃ)

 

 気合いを入れる為にも頬を叩く。大丈夫、あたしはまだまだ頑張れる。

 

 多目的トイレを後にしたあたしは、何を思ったか、幾分か軽くなったキャリーケースを引き摺ったまま歩き出した。コインロッカーを利用するお金がなかったわけでもないけど、暫くは節約を迫られる状況(・・・・・・・・・)なのは確かだったから。

 

 けど、一つあたしは失念していた。これまで自分が咄嗟に選択した事で、良い結果が出たことなどなかった。という残酷なまでの現実を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何、これ……」

 

 その事実を前に頬が痙攣する。目の前に広がる不吉な赤は、この数週間で見慣れたものには違いないのに――

 

「――ッ」

 

 思わずと胸元を抑える。心臓が壊れそうに速い。今更、揺らいでしまえる自分の卑しさには戦慄すら覚えた。

 

「――……騎士、様」

 

 自然と、此処にはいない男に縋る言葉が零れた。

 

 命の価値に優劣などなく、死は誰にとっても平等だというのなら、いずれ、こうなるかも知れない。という事は、覚悟して然るべきだったのだろう。

 

「――……許して、くれる、かなぁ?」

 

 弱気なあたしを嘲るかのように、またも、降り始めた雨に、条件反射とばかりに傘の柄を掴めば、ずっと握っていたらしいそれは、生暖かくて鳥肌がたった。

 




 弓&殺陣営は術主従というよりは、術主従が霊脈の上に築いた工房が欲しい。という感じです。拠点としての戦力を買っている。という感じでしょうか?


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