やはり俺が人生をやり直すのは間違っている。 (ハコ)
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00
死体を埋めた。
煙草を咥え吸いつけ、煙を吐く。ひと息ついた。腕に巻いたミリタリーウォッチを見ると二時半過ぎだった。
隣に立つ
「ツァ~、腹減ったワ。寒いしだるいし眠いし。どれから潰しゃアええんじゃ、おい」
ユンボから降りてきた
四月の初旬。日中は暖かい日が増えたが夜は冷える。神奈川との県境付近の八王子山中は尚更だ。相模湖で冷えた空気が山間から風に乗って流れてくる。
俺は照明代わりに使っていたハイエースにもたれながら答える。
「焼き鳥食おうぜ」
「あァ?今から焼き鳥食いに行くんかい。山降りたら何時になるんや。日の出からやっとる焼き鳥屋なんざあらせんぞ」
「冷蔵庫に鶏肉があるんだよ。ししとうと茄子もある」
「なんじゃそのチョイスは……」
俺がスクラップ場の隅にあるプレハブ建てのチンケな事務所を指し示して説明すると向田が呆れた。八王子山中にあるスクラップ場。この施設は俺の兵隊たちが盗難車の仮置場として使うこともあるが、俺も時折死体を埋めに来る。今がまさにその時折だった。
「土山、お前その辺で木の枝とか葉っぱ集めてこい。事務所の中、新聞紙くらいしかねぇから燃やせるもんが要る」
脇に立つ土山は目を丸くした。
「ま、まじで食うんですか。今から」
「誰のせいでこんな時間に死体埋める羽目になったと思ってんだよ。早くしろ」
土山は俺と視線を合わせることなく俯いたまま敷地から出ていこうとした。
「土山~。お前そのままどっか消えたりとかしたら、お前の母ちゃんや妹が困るぞ~」
間延びした声を投げた。土山は立ちどまり肩を震わせたが、そのまま燃やせるものを探しに行った。
コンクリートブロックを正方形の形に並べ、その中に燃えるものを放り込んで火をつけた。金網をそこに置いて鶏肉を焼き始めた。焼くのは土山に任せて俺と向田は缶ビールを飲んでいた。ビールが入ると向田は上機嫌でしゃべりだしたが、日々の
「土山。今日のこれ、千万円な」
「は!?千万!?」
俺が告げると土山の表情が驚愕で歪んだ。向田はゲラゲラ嗤った。
「俺と向田に五百万ずつな。向田の五百万は俺が建て替えとくからよ。お前は俺に千万払えばいい」
「そ、そんな金無いですよ!」
知っている。土山のような馬鹿丸出しの若いヤクザには千万円どころか五百万円すら都合することはできない。
「だったら貸しだ。利子もとらねえし期限も設けないからよ。ちびちび俺の仕事を手伝って返してくれりゃいい」
俺のやり方を知る土山は絶句した。自分の人生を永遠に失った者の顔。土山は喧嘩しか能のない馬鹿だが、俺と向田に喧嘩を売れるほどの馬鹿でも喧嘩が強いわけでも無い。ついさっきまでは死体のような顔をしていたくせに、人生を担保に取られた途端に生き生きと絶望しだした。
「なァ土山くん。そんな悪いハナシでもあんめェが」
ビール片手に話を聞いていた向田が口を挟んだ。
「君もキョーダイも同じとこの組員やんか。キョーダイが組の弟分をそこいらのカモと同じように扱うわけなかろうが。俺かて組が
向田は北九州の超武闘派組織の組員だった。組長や幹部が軒並み重罪で逮捕され組が解散し、手持無沙汰になっていたところを俺が呼び寄せた。普通に考えればこんな時間に死体遺棄に付き合わされることを"よくしてもらってる"とは言わないが、土山は黙って聞いている。
「なんにしろ看板とは関係ないコトで殺しなんてしたのが親分にバレたら破門やろうが。パクられたら軽くても20年は喰らうやろ。それをキョーダイがうまいことしたったんやないか。それを利子も期限も無しで貸しにしちゃるて、そんな優しい極道おらんやろ。金はともかく恩返しせなバチが当たるで」
殺人に死体遺棄。既にバチ当たりもいいところだが、土山はうなだれるように「はい」と頷いた。
肉が焼けはじめ、香ばしい匂いに食欲をそそられた。土山が嗚咽を漏らし、吐いた。
* * *
「なんでこんなとこに居るんですか」
俺の顔を見るなり、
「こんなとこってのはなんだ。ここを俺に売ったのはお前だぞ」
「明日でしょう。組事務所にいなくていいんですか。なんかくまもひどいですけど」
俺の言葉を無視して自分の言いたいことだけ言ってきた。失礼なやつだ(数秒ぶり二回目)。寝ずに死体を埋めていたとは言わずに答える。
「こっちの段取りはもう決まってんだからいいんだよ」
世田谷区と渋谷区の境のあたりにある雑居ビルの一画。俺の所有する会社のひとつ、『紳士服のユージェン』のちんけな応接室で座ったまま大和を迎えた。会社と言っても経営実態は有って無いようなものだが。「座れや」と促して向かいのソファに座らせた。
「それよりそっちだろ。
「ウチの総長をじじい呼ばわりですか。あの人が信用できないってのはわかりますけど」
俺が煙草を咥えると、大和が懐からシルバーのオイルライターを取り出し火を点けた。オイルライターには鯉の絵柄が彫り込まれている。
明日は池袋の高級中華料理店──綾瀬の所有する店で会合がある。馬鹿が揉め事を起こした始末の為に俺の組の上部団体の長が駆り出される。俺はその護衛として同行する。大和も綾瀬の組の枝の一人として店の警護をやらされる。
「あのじじい、ドンパチあったらお前を弾避けに使いそうだな」
「それ。ありえそうだからやめてほしい」
大和が肩をすくめた。綾瀬の組織は多くの組員がいるが、大和はその中でもひときわ優秀な弾避けになれる体格をしている。
「わざわざこっちに呼んだのはよ、わかるだろ」
「物騒な噂はなにも耳に入ってきてないですよ」
「なら大丈夫じゃねえか?」
「マジでなんかやろうってやつなら、そもそも嗅ぎ付けられるようなマヌケはせんでしょう」
大和は煙草を咥え、自分で火を点けた。煙草を持つ左手は小指が欠けている。
大和は日本語のほかに英語、韓国語、中国語(普通話と広東語と台湾語)が話せる。日本と世界の橋渡しをしたいという夢をもって名の知れた外国語大学に進学したらしいが、今は日本のヤクザと不良外国人の橋渡しをしている。組のシノギ以外でも、ヤクザだけでなく多くの外国人コミュニティと付き合いを持っており下手な情報屋より耳聡い。
「逆にお前に明日のこと訊いてくるやつはいないのか」
「探りを入れてくるやつすらいませんでしたよ。このタイミングで商売付き合いしてない日本のヤクザに話をしようなんてガイジンはいませんて」
「四つの組織の人間が目を光らせてるんです。馬鹿なことを考えるやつはいませんて」
「だといいがな」
四つの組──揉め事を起こした二団体に俺のとこと大和のとこ。
俺が灰皿に煙草を押し付けると、大和が「それよりも」と言いながら背もたれに身を沈ませた。
「この前
大井は仙台拘置支所に収容されている死刑囚であり、俺の五分の兄弟だ。大和には組の兄貴分でもある。
「なんか言ってたか?」
「懲役暮らしと違って暇で死にそうつって笑ってたみたいです」
「ツッコミどころしかねえな」
二人とも笑った。
* * *
翌日。
会合はつつがなく終わった。
綾瀬の中華料理店の奥、VIPルームから四人の組長が出てきた。揉め事を起こした馬鹿のとこの組長二人。仲裁人の
「ほな失礼します」「今日はありがとうございました」「お気をつけて」
組長や付添で来た幹部たちががちらほら挨拶をしている。
「おい、車出せるようにしとけ」
「はい」
俺が声をかけると若い組員たちが外に出て行った。
首をかしげると、こき、と音が鳴った。何もしてないけど疲れた。とっとと帰ってビール飲んで寝たいんだが、どうせすぐは帰れないんだろうなあ……。親分衆を眺めていると鶴巻が俺の方に歩いてきた。俺は歩み寄りながら小さく頭を下げた。
「肩こったわ、まじで」
「御苦労様でございました」
「綾瀬さんが会食を提案したけどよ、それはまた今度ってことになったから。とりあえず俺らで飯食いにいこうや」
「わかりました。今
結局この面子で食いに行くのか。ガードを連れているとはいえ、Vシネだったら絶対襲撃されるパターンだ。
三人ずつ乗せた現行のベンツSクラスが三台連なって走る。
中野。中央本線沿い。小洒落たカフェの前で車列が停まった。え、ここにヤクザがわらわら入るのか?ここから歩いて渋い和食屋とか割烹に行くんだよな?
「お~~、ここだここ。パフェがうめーんだよ」
ここだった。俺も甘いもの好きだし、懲役経験のあるヤクザなんて大概甘いもの好きになるが。……もっとこう、あるやん?
だがしかし、ここのパフェは実際美味かった。甘いものを食うと幸せな気分になる。この幸せ欲しさに糖尿病になるヤクザも少なくない。俺はみっともない身体になどなりたくないから気をつけてはいるが。
「おねーさん、コーヒーも人数分頼むワ」
鶴巻が追加注文すると大学生バイトと思われる若い娘が震えながらコーヒーを六人分(三人は駐車場で待機)持ってきた。この子、たぶんこの店辞めちゃうだろなあ。バイトへの申し訳なさもほどほどに、甘味に舌鼓を打ちながらヤクザトークに花を咲かせていると時間が経っていた。鶴巻はさっきの子が一年間バイトしても買えないような腕時計で時刻を確認し、口を開いた。
「けっこう時間食っちまったな」
とりまきの俺たちは視線を合わせて肯いた。若いの二人が店から出て行った。車を回させるべく先に駐車場に行ったのだ。鶴巻が万札を二枚テーブルに置いて立ちあがったので俺たちもそれに続く。バイトのねーちゃんがくそ真面目に釣り銭を払おうとしたので、次に若いのに相手をさせることにして店を出る。俺、鶴巻、もう一人の順で店を出ていく。
「すぐに車きますんで」
「おう」
言っている間に視界の端、交差点からベンツが出てくるのが見えた。
やっと帰れる。鶴巻を自宅に送り届ける役目は事務所にいる誰かに押しつけよう。本部事務所に戻ったら理由をつけて帰ろう。ああ、オヤジに自分とこの事務所に顔を出せと言われていた。めんどくせえなあ。
ベンツが細い路からのろのろ出てくるのを見ていると、ベンツの脇から単車がするりと飛び出してきた。フルフェイスの二人乗り。ヘルメット越しに俺たちを意識しているのが感じられた。
まずい。直感した。
警察の目もあるので護衛は誰ひとりとしてチャカも匕首も持っていない。勿論俺も。ベンツが来るまでの数秒さえ、店内に退避すればいい。
鶴巻と後ろのもう一人も感じたのか、店の中に戻ろうとする。戻れない。間の悪いことに会計を済ました若いのが出口に突っ立っている。押し込め──目でもう一人に告げる。
バイクの排気音が大きくなった。振り向いた瞬間には急加速して接近されていた。後ろに乗っている男が手に何か持っている。アボカドのようなもの。こちらに投げた。瞬間、左肩と右腕を掴まれ、身体を動かせなくなった。
鶴巻が俺を盾にした。
理解した瞬間、アボカドのようなもの──手榴弾が音と共に爆ぜた。
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01
「お兄ちゃん起きてー!」
暗闇の中、若い女の声で意識が戻る。いや、若い女というより子供か。
「おに───ちゃ───ん!!」
うるせえな。わめく子供に対して若干の怒りを感じる。
………んん!?
そこでようやく俺は認識した。自分が生きていることに。ここは病院か?どこの病院だろうか。
──よく死ななかったな、俺。
眼前に手榴弾が飛んできて、爆発したのだ。
未だにぼんやりとしているが、そこに至るまでの経緯を整理してみる。
歌舞伎町でヤクザがシノギで揉めた。それはまあ、まれによくある。
だがそこからが問題だった。当事者同士では話をまとめきれずに刃傷沙汰になってしまった。血が流れた以上、組織も黙っているわけにはいかずに双方
ここまではよかった。面倒だったが。
だが、問題は交渉が無事終わったあとだ。仲裁の任を果たした鶴巻と飯を食い店を出てから車に乗り込むまでの僅かな時間のことだった。目の前を通過していく二人乗りの単車が、突如手榴弾を放ってきたのだ。俺が茫然と手榴弾を眺めていると、すぐ後ろにいた鶴巻は身を守るために俺を盾にしやがった……。
「ぐぉ…」
爆発音と飛来する金属片に全身を貫かれた瞬間のことを思い出し、暗闇に包まれたまま思わず変な声が漏れた。
やったのはどこのどいつだ。わからない。あの組長を狙う人間など、心当たりが多すぎる。
どこのどいつかは知らんが、街中で手榴弾使うとかなに考えてんだ。殺すだけなら
しかし鶴巻もたいしたものだ。あの一瞬で状況判断し、俺を盾にしてのけたのだから。俺も修羅場をくぐってきたつもりだが、固まったまま動けなかった。手榴弾は爆発の威力ではなく、吹き飛ぶ破片で攻撃するものだ。俺が生きているくらいなのだからあいつも生きているだろう。
組長に無駄に感心したところで、俺はようやく自分の肉体に意識を向けた。
意識が戻っても視界は依然真っ暗なままだ。目でも潰れたか。損傷を受けたのが目だけなんてことはないはずだ。外傷は他にも多いはずだ。腕でも吹っ飛んだか。内臓がひしゃげて一生ベッドの上か。そんなザマではヤクザは廃業するしかない。
こうして生きているだけでも僥倖ではあるが、今後のことを考えなくてはいけない。
組のこと。俺の兵隊のこと。シノギのこと。愛人のこと。今後の生活のこと。別れたカミさんと彼女が連れて行った娘のこと。
組や俺の生活についてはいい。組長にタカりながら生きていけばいい。俺の命を使って生き延びたのだ。そんな俺に対して金を惜しむようならば渡世での男がすたる。十分な補償を払うだろう。
ただ、別れたカミさんと彼女が連れて行った娘のことは気にかかる。女房とは話し合った末に別れた。ヤクザの娘というだけで娘には多くの不便を強いてきた。中学に上がるのに伴い籍を抜くことに決めたのだが、心残りなのは確かだ。今後彼女の気が変わり「会ってもいい」となったときに、こんなカタワでは二人を養うことなど到底不可能だ。彼女たちと再び暮らせるようになることだけを希望にしていたが、もうそれも叶わない。
今回の件、別のやつに話振っとけばよかったか……いや、この考えはよそう。
自分の判断や行動についてきた結果はすべて受け入れることにしていた。俺が選択し、行動した。喜びも悲しみも怒りも俺だけのものだ。ヤクザになったことも、ヤクザを続けてきたことも俺の意志だ。他の誰のためでも誰かに言われたわけでもない。
今までだって周りには死んだ人間もいるし、俺もいつか自分が死ぬだろうとも思って生きてきた。しかしこんなカタワになって改めて後悔を感じる。これは死んだ方がよかったのでは?
「お兄ちゃん!早く起きてよー!」
思考が中断させられた。うるせえガキだ。
俺をここに入院させたやつは誰だ。個室でとれ個室で。ヤクザもんを小娘が見舞いにくるような相部屋に入れやがって。
「いつまで寝てるの~!」
お前がいつまでわめいてんだよ。病人や怪我人は寝るのが仕事だ。親はどんな躾してんだ、黙らせろ。
「きみ、ちょっと静かにしなさい」
目は潰れているようだが声は普通に出せた。しゃがれてもいない声だ。自分で若干驚いた。
俺が声をかけた子供は「え…」と小さく声を出して止まった。それでいい。病院では静かにしましょう。
「なにさー!お兄ちゃん起きてるじゃん!」
俺が喋ったのを兄が起きてるのと勘違いしたようだ。おいおい。その勘違いは無いだろう。こんな子供の兄だ。彼もきっとまだ若いはずだ。それをこんな中年ヤクザの声と勘違いするのは流石に可哀想だろう。
怒りを抑えながら声を出した。
「ちょっと、あのね」
「とりゃー!」
「ぐおあっ」
視界が白く灼かれ、無様な声を挙げた。
直後気付いた。視界が暗かったのは視力を失ったからではなく、身体を丸まりながら布団を深々と被っていたからだ。間抜けか。
やかましい子供に布団をめくられてから、徐々に自分の周囲のものの輪郭と色を認識していく。病室ではない。生活感を感じる誰かの部屋だ。視界を得るにつれて先程までの怒りが消えうせていく。それに反比例するように困惑が増していく。
「起こさずに出てったら文句言うのに起こそうとしたらこれだもんな~。ほらっ!お兄ちゃん早く!」
やかましい子供が俺の顔を覗き込みながら急かす。制服らしきものを着ている。中学生くらいだろうか。
俺の顔を見ながらもまだ自分の兄と勘違いするってどうなってんだ?君のお兄ちゃんはそんなにフケ顔なのか?人相悪いのか?そんな少年は生きててもつらんじゃないのか?
そこまで脳内でツッコミを入れてから部屋を見渡して気付く。狭い部屋。民家?この部屋には俺が寝ていたベッド以外には布団もベッドも無い。この子と俺以外には誰もいない。つまりこの子は誰かと間違えていたのではなく、最初から俺をお兄ちゃんと呼び、起こそうとしていたのだ。
しかし俺にはこんな幼い妹はいない。俺の妹はもう30代も折り返し地点を過ぎている。
妹ものラノベの読みすぎで気でも狂い、幻覚を見ているのだろうか。ヤクザになってもこそこそラノベを読み続けてそのままアラフォーになった男の末路が中学生の妹に起こされる幻覚を見るとか、哀れすぎやしないか。……勘当されてから、もう20年近くは会っていないのか。シスコンだった俺は不意に感傷に浸る。
身体を起こし、おっかなびっくりベッドから立ち上がろうとする。しっかり脚は動くし腕も動く。どうやら五体満足のようだ。とこにも痛みはない。目の前で両手を握りこぶしを作ったり開いたりする。指も全部動く。何がどうなってんだ。
「お兄ちゃん、いつまでぼんやりしてんのさ」
俺を兄と呼ぶ子供が呆れた顔をして呟く。しかしこの子供、見覚えがあるような気がするが……。
記憶を掘り起こそうとしていると、突如左手首を掴まれた。
「遅刻するなら一人でしてね!とりあえず顔洗う!ほらほら!」
状況を飲み込めずに混乱したまま、俺をお兄ちゃん呼ばわりする小娘に手をひかれ部屋を出る。そのまま洗面所まで連れて行かれた。
鏡にうつるものを見て思わず固まってしまった。状況を整理するべく働いていた思考が完全に停止した。
──六代目
加齢に抗うように鍛え続けた肉体と、研鑽を積んだ空手でちょっと体格がいいだけの喧嘩自慢をぶちのめしてきた武闘派。組持ちではないものの自前でも兵隊を持ち混み合いだってやってきた。仲間とシノギも確立しており、中国や東南アジアのパチモンではないアメリカ製のチャカを都合できるので一目置かれていた。上部団体の白塚組にも役員という肩書で幹部待遇の籍を持ち、新宿を肩で風切って歩く男。それが俺だ。俺だった。
「お兄ちゃん?」
鏡を見たまま固まった俺を訝しんだ妹──中学生の頃の姿をした比企谷
鏡に映るのは鍛えた肉体も無く、空手が身についておらず、仲間もいなければカネも無い。眼力が鋭いわけでもなく、いじけたガキ特有のシケた曇り方をした目を持っているだけの、高校生の頃の俺だった。
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02-1
でももしディープなダークノワールを期待されてる方がいたら申し訳ない。
そんなものを書ききる筆力も無ければ、当面は原作に沿ってのんびりほんわか進む予定ですので……
千葉市立
生徒手帳で自分の学年と組(組なんて言うとヤクザみたいだ。笑える)を確認し、スマホのナビを見ながら高校を目指す。自分の通う学校をいちいちナビで確認する生徒などおかしな話だが、高3の夏に殺人で逮捕されてからは一度も来ていないのだ。俺が所属する組(学校のクラスではない)は東京新宿に在り、ヤクザになってからは基本的には東京暮らしだ。20年以上前に2年ちょっと通った学校がどこにあるかなんて正確に覚えちゃいない。ましてや俺は学校生活に思い入れなんか無い人間だった。
学校だけでなく実家にすら近づいていないのだから、授業が終わってからちゃんと帰れるかすら怪しい。……そもそも帰っていいんだよな?俺が勘当されたのは組員になってからだ。まだ家に居場所があるはずだ。あれ?元から無かったっけ?
ナビの案内に従いつつも、周囲をキョロキョロ見回して自転車をこぐ。千葉にも永弦会の枝や付き合いがあり、ちょくちょく顔を出しに行くことがあったので千葉自体の馴染みが失われたわけではない。
ビル群や住宅街、田んぼの有無等の景観は違えど、インフラや文明的には俺のいた時代と今いる時代には大差無い。20年の間に法律や環境は多々変わり生きづらく鬱陶しくなったと思っていたが、目に見える世界はたいして変わり映えしていない。自分では激動の20年を生きたつもりだったが、人類の営みそのものには劇的な発展などなかった。
道中コンビニで昼飯と新聞とヤクザ記事が載った週刊誌を買った。タバコは売ってもらえなかった。レジ打ちのフィリピン人に文句を言う意味も無いので諦めて学校に向かうことにした。
学校の近くまで来ると、俺と同じ制服を着た生徒がウヨウヨいる。スマホのナビを終了し、彼らに混ざり駐輪場まで移動する。道中そうしていたように、学校の敷地に入ってからもキョロキョロと周りを見回す。完全に不審者だが仕方が無い。
そこで俺ははたと足をとめた。2-Fって教室はどこだ?思い出せないぞ。俺はどこにいけばいいんだ?
──お前も極道としてやってくつもりならどんな状況になっても混乱したらアカンぞ。攫われても囲まれても、金や女を目の前にぶら下げられても、焦らずに注意深く観察をしてこそ生きのびる道が拓けるんや。
ペーペーの頃、世話をやいてくれた兄貴分の
今日もそれに従い、落ち着いて家を出てここまできたつもりだった。だが学校に来てから自分の教室がどこにあるかもわからないことに気付くとは。観察どころかなにも考えてない。完全に思考停止していた。そりゃそうだ。普通に考えれば死んだと思ったら高校生に戻ってましたなんて意味がわからない。気が狂う。いや、本当は気が狂っているのかもしれない。脳に損傷を受け無限に夢を見ているだけなのかもしれない。
俺は考えるのをやめた。
仕方なしに近くを歩いていた男子生徒に極力穏やかに声をかけ、二年生の教室への行き方を訊いた。思いっきり変な奴を見る顔をされた。なんだお前、殺すぞ。などとは言わない。
「転校してきたばっかでまだ覚えてへんねん。頼むわ」
「いいですよ。二年生は──」
イントネーションのおかしいエセ関西弁で転校生のふりをすると、男子生徒は丁寧に教えてくれた。馬鹿かこいつ。親切に教えてくれた彼に礼を言って歩き出したが、昇降口に着いても自分の下駄箱がどこにあるかわからず同じようなやりとりをした。馬鹿は俺だったね。
棟内を教室のプレートを見ながら歩いていると2-Fがあったので、そこに入る。入ってからまたひとつ事実に気付いた。自分の席がどれなのかがわからない。ボケッと突っ立っていても仕方が無いので入口脇でダベっていた4人組の女子に尋ねることにした。
「ちょっと教えてほしいことがあるんだけど」
俺が声をかけると彼女たちはギョッとして振りむき、手前にいた一人に至っては比喩でもなく驚きで飛びのいた。
「俺の席ってどこだっけ」
「え」
「ヒキ、ええっと~」
「比企谷くんの席はたしか……」
しどろもどろになりつつも彼女たちは席位置を教えてくれた。名前を覚えられていないような気がしたが、ありがとうと感謝の言葉を述べて席に移動する。けったいな視線を感じたが覚えてないんだからしょうがねえだろ。
席につき自分の机を漁ると、おそらく放置していたであろう座席表が出てきた。とりあえずこれでクラスの連中の顔と名前を一致させることを優先するか……。続々と生徒たちが教室に入ってきて席が埋まっていく。記憶と照らし合わせる行為はせずにぼんやり眺めるに留めた。
やがて担任がやってきて朝のHRが始まり、授業が始まった。
午前中の授業が終わり、昼休みになった。
午前中だけでケツが痛い。木の板にひたすら座り続けるのは苦行以外のなにものでも無い。というかこんなんに一日中座らせっぱとか児童虐待じゃないのか。こんなん痔になるだろ。他の生徒は頑丈なケツをしているようで、ケツを気にする素振りもなく談笑している。明日は座布団でも持ってきて椅子に敷こう。
痔にならない備えを考えつつ、ぼんやりと思いだしてきた元々の高校生活の記憶を整理する。入学初日に事故に遭ったこと。ぼっちのまま過ごし進級したこと。二年の頃生活指導の教師を怒らせ変な部活に入れられたこと。……奉仕部のこと。
ヤクザをやっていくうちに記憶に蓋でもしてしまったのか、何をして過ごしていたのかはいまいち思い出せない。それとも思い出も残らないような高校生活を送っていたのか。おそらく両方だろうが。
コンビニで買ったパンを食いながら新聞紙を開き日付を確認する。2011年4月。家で見たカレンダー、ケータイに表示される日付、黒板の日付。すべて同じだ。見事に22年前の世界だった。
時事ネタを拾うべく新聞を読んでいると周りの連中が奇異の目を向けてくる。視線どころか見ながらヒソヒソ会話する連中もいる。いきなりぼっち野郎が昼休みに新聞紙を開いて読み出したのだ。誰だって変に思う。俺だってそう思う。だが高校生の視線なんぞを気にする俺でもない。
新聞には東日本大震災絡みの記事が多く載っている。ああ、大体一ヶ月前だったのか。
以前読んだ漫画でヤクザが被災地に支援物資を届けに行く描写があったのを唐突に思い出した。普段はシャブを売っているヤクザが、黒い金で支援物資をかき集めて被災地に行って
流し読みしていると昼休みが終わったので新聞を閉じた。週刊誌は帰ってから読むことにした。
午後の授業が終わり、最後のHRも終わった。
教室に残り友達と雑談をする生徒たち。教室を出ていく生徒たち。部活動か帰宅か。それは俺の知ったことではないし興味も無かった。
帰ろうと席を立つと廊下から「比企谷」と声をかけられた。女教師が立っている。歳は20代半ばから後半。スタイルもよく、切れ長の目に鼻立ちも通ったキリリとした美人だ。愛人にしたい。歳は俺より一回り下くらいだろうが俺の好みだ。いや、今は俺の方が一回りくらい下か。高校の教師なんぞ記憶に留めてもいなかったが、彼女だけは例外だった。
「なに人の顔を凝視してるんだ。君は私と職員室に来なさい」
言い終わると同時に、国語教師の平塚静は俺の手首を掴み歩き出した。
ずかずかと歩いていく彼女に、少しだけ歩幅を広げ距離を詰めて付いていく。うっすらと香水の匂いが鼻を衝いた。
職員室に入ると平塚先生は真っすぐ自分のデスクに向かった。彼女は自分の椅子に座り卓上ケースの中からクリアホルダーをひとつ取り出し、それをパシパシと手で叩いた。
「なんで呼ばれたか、心当たりがあるか?」
あるわけがない。話を促すように彼女が手に持ったクリアファイルを無言で眺める。彼女は大きな溜め息をひとつついてからファイルから一枚の紙を取り出しそれを読み上げ始めた。
彼女が読み上げるそれは長々としながらも中身の無い作文だった。前後の文脈は繋がりが無く、作文の締めも支離滅裂だった。ただ、人生つまらないどうしようもないカスが高校生活を楽しんでる連中をやっかみ、難癖つけているのだということはわかった。
「なぁ、比企谷。私が授業で出した課題は何だったかな?」
「え、さあ」
「お前な……」
彼女はこみかみに血管を浮かせながら俺を睨み、豊満な胸に圧迫された胸ポケットからセブンスターの箱を取り出すと一本抜いて艶のある唇に咥えた。火でも点けてやろうかと思い自分の懐に手を伸ばしたが、金で縁取られた漆塗りのデュポンは無かった。
彼女は百円ライターを取り出し吸い付けると、上を向き煙を吐いた。その仕草を見た俺は、自分が長い時間煙草を吸っていないことを思い出した。頭上に拡散していく煙を凝視していると、彼女が口を開いた。
「私は、君に、『高校生活を振り返って』というテーマの作文を書かせんたんだが」
んん?これ、もしかして俺が書いたのか?
そうか。二年の頭に奉仕部に入れられたが、なにかの作文で彼女に叱られたことが発端だった記憶がある。
「フフッ、そういやこんなん書いた気がする」
「笑うところじゃないし気がするってなんだ。そしてなんだこの内容は?君はテロリストなのか?それともバカなのか?将来犯罪を起こしたりしないだろうな」
誰がテロリストだ。確かに前科二犯前歴六回の犯罪者だが永弦会のヤクザだ。とは言わずに適当に謝罪した。
「書き直しますよ。それでいいですか」
「書き直すのは勿論だ。だが反省の意識が感じられない。適当にそれっぽいことを書いて出す気じゃないだろうな」
「反省もなにも、こんなもんみんな適当にそれっぽいこと書いてるだけでしょう」
「君は今日はやたらと目つきが悪いと思っていたが、言葉も妙に刺々しいな。どうしたんだ」
「そう見えたのならそれは私の不徳の致すところです」
言葉を選び、頭を下げた。俺が大人しく頭を下げることは
しかしそんなに目つきや態度が悪かっただろうか。人相が悪く見えるような形で表情筋が歪んだのは少年院に行ってからだった気がするが。今朝、鏡で顔を見たときも雑魚丸出しのヒョロいガキだった。
頭を下げた俺を見た平塚先生はため息をつき、言った。
「形だけの謝罪など無意味だ。君には罰として奉仕活動を命じる。罪には罰を与えないとな」
罪に対しての罰なら既に受けた。ちゃんと懲役に行きましたよ。実刑判決受けたやつだけだけど。彼女は「着いてきたまえ」と言い、また俺の手を引いて歩きだした。
姿勢よく歩く平塚女史のケツをチラ見しながら追う。パンツスーツなのでナマ脚は拝めないが、長い脚と、垂れるのを拒むように重力に逆らうヒップがスタイルのよさを主張している。彼女のヒップに下着のラインが浮いていない。Tバックショーツを履いているのだろうか。想像した。10代の肉体は性欲を持て余しているようで、血液が移動を開始し、仁徳天皇がバンプアップしていく。歩きながら空いている手でこそこそとポジションを直した。
歩いているうちに特別棟のとある教室に到着した。何も書かれていないまっさらなプレートが掲げられている。俺はようやく自分の置かれた状況を理解した。
奉仕活動。授業中にぼんやり思い出していた変な部活。奉仕部。
人生をやり直せたら、なんてことは考えないようにしてきた。わざわざ意識して考えないようにしていたということは、心のどこかではやり直したいと思っていたのだろう。しかしこんな形で、こんなところからやり直せというのか。
俺は無神論者だ。神の存在など信じていない。だが、口に出してしまった。
「恨むぜ、神様」
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02-2
俺がぼそりと呟いたのが耳に入らなかったのか、平塚先生は俺に視線を向けることも無くからりと戸を開けた。
その教室の端には机と椅子が無造作に積み上げられていた。それ以外は2-Fと特に違いは無い。
だがその空間には彼女がいた。俺が見知った、かつては憧れもした少女──雪ノ下雪乃がいた。
差し込む西日を後光のように背負いながら、文庫本を読む雪ノ下雪乃がいた。
県内有数の進学校の総武高校でも一際偏差値の高い国際教養科の生徒。その国際教養科でも更に一際目立つ存在。総武高随一の美少女であり、校内一の優等生。設定過剰すぎて笑える。
まだ年端もいかないような小娘のはずだが、差し込む光が端正な顔立ちに陰影を落とし、妙な色気を醸し出していた。黒いはずの長髪は西日の反射で黄金に輝いており、物憂げに本に視線を落とすその
彼女は本に栞を挟み閉じ、こちらに向き直る。一瞬だけ色気を感じてしまったが、よくよく見ると年相応のあどけなさが残る小娘だ。
「……平塚先生。入るならノックくらいしてほしいのですが」
「ノックしても君は返事をした試しが無いじゃないか」
「そうですか。それで、その、先生の後ろから私を睨みつけている人は?」
雪ノ下雪乃は平塚先生から俺に視線を移して質問を投げた。
「彼は比企谷。入部希望者だ」
「なにっ」
雪ノ下に意識を持っていかれていた俺は、咄嗟のことだったのでタフの雑魚モブみたいな反応をしてしまった。
「さっき話しただろう、罰を与えると。ここでの部活動を命じる」
「罰っていうのは、その子と同じ部で過ごすことですか。奉仕活動を命じると言われましたけど、彼女の小間使いでもしてやればいいんですかね」
俺が顎で雪ノ下雪乃をしゃくると、本人がむっとした表情で俺を見返してきた。平塚先生は俺を無視し、雪ノ下に語りかける。
「というわけで彼はなかなか性根が悪く、人を遠ざける傾向にある。彼の孤独体質の更生をしてくれ。それが私の依頼だ」
誰が孤独体質か。ヤクザ生活の中でシノギについて考えるようになってからは人付き合いを大切にしているぞ。金や有意義な情報を産む人間に限るが。
「……まあ、構いませんが」
「では、あとのことは頼んだぞ」
それだけ言って、俺を連れてきた国語教師は教室から出て行ってしまった。
部屋に残されたのは俺と雪ノ下雪乃の二人のみ。
雪ノ下がベラベラとお喋りを好む人間じゃないことを知っている俺は、教室の端に積み上げられた椅子と机を動かすと廊下側の壁を背にしてどかりと座り、腕を組み目を閉じた。平塚先生が俺をここに連れてくるまで、雪ノ下は読書に集中していたのだ。わざわざ話しかける必要も無い。雪ノ下も俺に話しかけようともせず、本に視線を落とした。
無言。
静かな空間で、思索にふける。何について考えるかなど、決まっているが。
何故俺は生きているのか。何故俺は高校生に戻っているのか。何故高校生活の中でもここからなのか。
何故。何故。何故。なぜなぜづくしだ。
勿論考えても何もわからない。死んだ人間は生き返らない。それは20年近くに及ぶ極道生活の中でイヤというほど思い知っている。なのに何故俺は生き返っているのか。いや、過去に戻っているのだから生き返ったというのは違うのか?
考えてもわからないことを考えても仕方ない。では俺は今後どうしたらいいのか。どうするべきか。この人生。この命。どう使うべきなのか。
今度は高校を退学にならないように過ごすべきか?だが俺にはあの時の行動に悔いは無い。もし同じような状況を迎えたら同じように行動するだろう。むしろより早く殺してしまうだろう。まだ何も起きてないが、今から探しにいって殺したって構いやしない。
ここで高校生活自体は別にやり直したいわけではないことに気付いた。決して満足して過ごしたというわけではないが。正直もうどうでもいいのだ。
では悔いが残っているのはなにかと考えた場合、ヤクザとして生きてきた中にある。獄中で病死してしまった兄貴分。ゴロツキにリンチされて死んだ、兄弟盃を交わした信服の友。そいつの仇討ちで5人ぶち殺し逮捕された、死刑待ちのもう一人の兄弟分。
俺の今後の行動次第では彼らを救えるのではないか。だが彼らの結末を変えるためにはもう一度ヤクザとして生きていかねばならない。ヤクザ人生を思い返す。しんどいことやつらいことばっかりだった。灰色の高校生活などとは比にならないほどつらかった。目が気に入らないと先輩たちに折檻を受けたペーペー時代。金のためにあちこち飛び回り組筋と揉めて大怪我をしたことも一度や二度ではない。死にかけたことだってある。やり直したところで、彼らを助ける前にちょっとしたボタンのかけ違いで俺が死んでしまう可能性の方が高いのではないか。
それに少年院にも刑務所にも行きたくない。オリ暮らしで得た出会いもあるし、そこの人脈でシノギを作ったこともある。だからといって同じように懲役に行こうなどという気は微塵もわかない。ネットのネタでサラリーマンより囚人の方が自由があるというが、自由どころか人権すらない。地獄だ。
同じ人生をやり直すためにもう一度同じように生きるのは、無理だ。
「……やだな」
思わず声に出してしまった。
「流石にそれは失礼ではないかしら」
突然雪ノ下に不快感のこもった声をかけられ、俺は思考を中断し目を開けた。
「ん?」
「平塚先生に連れてこられたところを見るに、あなたも入部には乗り気ではないのでしょう。でも先生に説得されてしぶしぶあなたを引き受けた私を目の前にして不満をいうのはちょっと神経を疑うわ」
どうやら俺の「やだな」をこの部活動に対しての意見だと受け取られたようだ。しかしお前こそしぶしぶってそれ言うか……。とりあえず釈明することにする。
「誤解だ。平塚先生に書かされた課題で、ちょっと将来のことについて考えてたんだ。でも明るい未来が見えてこなかったから、それについての不満が出てきたんだよ」
「たしかに、貴方の言動や目付きから察するに、あまり真っ当な人生を歩めそうにないわね」
俺の言い訳をまるっと信じたわけでもないだろうが、初対面の人間に対してなかなかに失礼な意見だ。流石氷の女王と呼ばれていただけのことはある。や、俺が勝手に呼んでただけだな。心の中で。
だが彼女の言葉は正しい。前科二犯のヤクザになった挙句、手榴弾を放られて死んだ。仮に生きていても今後更に逮捕され実刑を受ける可能性だってある。「あまり真っ当ではない」どころかクソ以下のクソだ。否定できる言葉は持ち合わせていない。
でも雪ノ下、それを言うならお前の人生も大概だったぜ。とは言う気にもならなかったので無理やり話題を変えることにした。
「しかしお前、初対面の人間に対してなかなか失礼な意見を言うな」
「雪ノ下よ。雪ノ下雪乃」
「あん?」
「私はさっき先生からあなたの名を聞かされたけど、あなたはそうではないでしょう」
そうだった。その程度のことすら気付かないなど、俺の脳味噌は芸術的な程に皺が足りていない。もし聞いてもいないのに名前を呼んでいたらストーカー扱いされていたかもしれない。つってもこいつは元から有名人だったけど。
「あと、初対面の女子をお前呼ばわりするのも失礼だと思うわ」
「ごめんねぇ、雪乃ちゃん」
ちゃん呼びしたら訝しげな視線を向けられた。その目は間を置かずに侮蔑の色を宿した。残念ながら、女子に嫌な顔を向けられるのは俺にとってはご褒美ではない。俺は芝居がかった動作で肩をすくめた。
「……いきなり知らない人がやってきて無遠慮な態度を取られたら、誰だっていい気はしないものだと思うけれど」
雪ノ下は若干の間を空けて答えた。知らない人と言ったが、こいつは俺のことを知っている。高校の入学式の日、俺をはねた車に乗っていたのがこいつだ。彼女自身に非は無いとはいえ、入院させてしまった人間がいきなり自分の空間に現れ、自分に文句を言ってきたのだ。どんな心境だろうか。今更事故のことなどどうでもいいので、それには触れずに自己紹介をする。
「さっき先生も言ってたが、二年F組の比企谷八幡だ。宜しくたのむ」
「さっき聞いたわ」
「…………」
ちょっと待ったが、雪ノ下は名前を名乗っただけでそのあとに言葉を続けなかった。会話する気ZERO。せめて「宜しくね、比企谷くん♡」くらい言えよ。俺の顔を見た雪ノ下は俺の言いたいことを読み取ったのか、小さく「ふふっ」と笑い、俺の目を見る。
「餌を取り上げられた犬みたいな顔になっているわね。もしかして私とおしゃべりしたかったのかしら?」
「話したかったというか、学校という社会性を育む場でコミュニケーションをぶった切られるとは思っていなかった」
「あら、あいさつもせずに難しい顔をしていきなり席についたのは誰だったかしら」
正論で殴られた。俺はお前に気を使って静かにしてやっただけだ、とは言えずに黙ったまま雪ノ下雪乃の顔を見る。
「そんなにじろじろ見てどうしたのかしら。もしかして一目惚れ?いくら私の容姿が整っているからってそういうのはちょっと」
「真顔でそれを言うのか。すごい自信だ」
「経験則に基いた意見よ。私、昔から整った容姿をしていたから。親しくもなければ面識だって無いような人からも好意を寄せられたことだってあったわ」
「おモテになって、うらやましい」
なんだったら高校卒業後、大学でもたいそうモテただろう。彼氏の一人や二人、本人にその気があればすぐにでも作れそうなものだがどうしていたのだろうか。
俺は少年院を出てからほどなくして組入りした。雪ノ下雪乃は暴排条例を気にする親に俺との関係を断つことを厳命され、組入り以降は結局死ぬまで会うことは無かった。
しかめっ面で話を聞く俺に雪ノ下は続ける。
「そういう貴方はどうなのかしら。このほんのちょっとの会話の間にじっとり汗をかいているみたいだけど、女の子との会話は苦手?馴れてないのかしら」
「お前の悪性に中てられて冷や汗かいてんだよ」
まじかこいつ。よろしく待ちの初対面の人間にこんなこと言うか普通。こんなに性根が歪んでいただろうか。アラフォーヤクザの俺が腹を立てる前にちょっと引いてしまった。コミュニケーション障害というかコミュニケーション傷害だな。俺よりこいつの方がよっぽど人を遠ざける性格をしている。
「ちゃんとあいさつしなかったのは悪かったよ。しかし随分と斬新な自己紹介のあいさつだな」
「自己紹介を長々とする必要なんて無いわ。ここは仲良しクラブでもなければ自分語りの場でもないわ。私の人と成りは今後の付き合いの中で貴方が勝手に判断していくでしょうから」
「今後付き合っていく中で勝手に判断するつってもな。平塚先生は奉仕活動を命じるつったけどヒーコラ言いながら二人でゴミ拾いでもすんのか?」
「奉仕活動イコール清掃活動とは随分と安直な発想ね。たしかにここは奉仕活動を目的とした部活だけれど、そういう類のものではないわ。もっと色々な可能性を考えてみたらどうかしら」
知っている。記憶はおぼろげで、穴だらけだ。だが彼女がそんなことのためにここにいるわけではないことを覚えている。
「じゃあ何をすんだよ。てか何がしたいんだ」
「平塚先生の言葉を借りるなら、自己変革を促し悩みの解決に努める……といったところかしら」
「先生の言葉ね。雪ノ下さんよ、あんた自身はどうしたいんだ?この部活で」
食い気味に言った。雪ノ下雪乃が結局何をしたかったのか。彼女は何を目的としてこんな部活にいるのか。奉仕部は俺と由比ヶ浜を加えてウダウダ続いていった。俺たちという不純物が居なかった頃、雪ノ下は何を求めてこんなとこにいたのか知りたくなった。現状親しくもない雪ノ下が俺に胸の内を話すとも思えなかったが、訊いた。
「そうね……」彼女は俺から目を逸らすと、そのまま窓の外を見るように身体ごと向きを変えた。「変えたい、のかしらね」
主語が無かった。何をどうやって、とも言わなかった。
だが俺は突如思い出した。人ごと世界を変える、だったか。おいおい、高校生活は覚えていなかったくせにこんな些細な会話は記憶しているとか、俺は雪ノ下雪乃の熱心なファンかなにかか?
雪ノ下は窓の向こうを向いたままだ。今どんな表情をしてそんなことを口走ったのだろうか。
俺の心でも読んだかのようにいきなりこちらに向き直り、俺の目を見て微笑み、告げた。
「奉仕部へようこそ。これからよろしくね、比企谷くん」
俺が二回りほども歳の離れた女子高生に惚れるようなイカレ野郎じゃなくてよかった。
そう思ってしまう程の、綺麗な笑顔だった。
気を付けてはいるのですがどうにも誤字脱字がちょくちょくあるようで……
ご指摘ありがとうございます。
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03
帰宅した。
長い一日だった。
訳がわからない一日だった。
とにかく、俺は高校二年の春から人生をやり直すことになった。判っているのはそれだけだ。
どこに何があるかも覚えてない、勝手のわからない実家をキョロキョロしながら歩き回るとふてぶてしい顔をした猫と目が合った。遥か昔、実家で飼っていた猫だ。唐突に思い出した。
「カマクラ?おおカマクラ!カマクラ!」
変なテンションになり抱き上げるべく近付くとぴょんと移動し、逃げられてしまった。猫を追おうとすると視界の端に中学生の妹が映り込んできた。
「お兄ちゃんお帰り。遅かったね、寄り道でもしてたの?」
「小町!おお小町!ただいま!」
20年ぶりにシスコンの血が騒いだ。そうだ、俺はシスコンだった。
「……!?お兄ちゃん、テンションおかしくない?」
「そんなことは無い」
真顔で答えた。
俺の妹の小町。朝にも会ったがやはり若い。俺が高二なら中三のはずだ。
しかし小町にも指摘されたがテンションがおかしいのは自分でもわかる。それは20年ぶりの実家に興奮しているのか、高校生として生き返ったことに興奮しているのか、ワケがわからなくなって気が狂いそうになっているのか、いまいち自分では判りかねた。
「小町、親父の車のキーってどこににあったっけ?」
「リビングの鏡台の引き出しじゃん。いきなりどしたの」
「いやちょっとな。サンキュ」
自室に戻り鞄を放った俺は、適当に着替えてから自分の机を漁った。手を付けずに貯めていたであろうお年玉らしきものを発見し、万札を数枚持って部屋から出た。
リビングで車のキーを見つけ出し、父親の車に乗り込みエンジンをかける。車のナビを弄っていると、玄関から叫ぶ小町がバックミラーに映ったが構わず車を出した。
俺の記憶が正しければ父親も母親もいつも帰りは遅い。親が帰ってくる前にチャッチャと買い物を済ませて帰ればいい。免許なんて持っている歳ではないが、横着な運転をしなければそうそう捕まるものでもないだろう。
小さなホームセンターに向けて車を走らす。幕張のイオンや大型ホームセンターにでもいけば目当てのものを一通り揃えられそうだが、駐車場で警備員に見咎められても鬱陶しい。多少移動回数が増えても人の目が少ないルートで行動することにしたのだ。
「千葉の街並み、ねえ」
視界を流れていく景色を見やり、一人ごちる。
かつてのホームタウンだが、特に感慨のようなものはない。中高生の自分は千葉っ子を自称していたような気がするが、実際に自分で足を運んだ場所は多くない。「地元最高!沢山の仲間と作った思い出と最高の人生!」なんてものにも縁が無い。友達いなかったし。生まれ育った以外に自分と千葉には繋がりらしい繋がりなどなかったのだと感じた。
かつての高校生活では奉仕部の面々とあちこち行ったはずだが、記憶もおぼろげだ。今となっては
「馳嶺組か……」
言いながらかつての兄弟分を思い出す。二年前にゴロツキと揉めて殺された
俺は仙真会の四次団体組員、大井は
「ククっ、なんかもう懐かしいじゃねえか」
鬱病患者のように独り言を延々と吐いていたらカーナビが目的地が近いことを知らせた。
最初の目的地であるホームセンターでは大きめの姿見とクッションと色の薄い安っぽいサングラスを買った。早速サングラスをかけ、続いてスポーツ用品店に行き重りを交換できるタイプのダンベルを買い、コンビニに寄ってから帰宅することにした。
改めて見ると、なかなか悪くない一軒家だった。何年ローンを組んだか知らないが、土地の安いクソ田舎でもないのにこんなもん建てて、父親は結構たいしたもんだ。
「お兄ちゃん!急になにしてんの!」
「ああちょっとな」
「いやいや、ちょっとじゃないよ!」
帰宅早々小町に詰め寄られた。まあそりゃそうか。
「悪い悪い。もうしないからさ。これ食って落ちつけよ。親父たちには内緒な」
「えっ、いやこんなもので小町は……、うぐっ」
コンビニで買ったプリンとアイスを押し付け反論を封じ、買った物を順次部屋に運び込んだ。
姿見の前で服を脱ぎパンツ一丁になり、自分の身体をまじまじと見る。おそろしく貧相だ。空手は勿論、かじっただけの格闘技も自分のフィジカルに合わせて、理屈として噛み砕いた上で反復練習をして身体に覚え込ませていた。こんな身体では見た目だけで舐められるし、暴力を有効に機能させることもできない。
第二の人生をどう過ごすかはまだ決められない。どんな生き方をするにしろ、当面はフィジカルの増強だ。俺は刀傷や弾痕は勿論、刺青も入っていないきれいな身体を見ながら鍛えることを決めた。桃園をバックにした関雲長の刺青、気に入ってたんだけどな……。
その後、小町が晩飯を作ってくれたが、理由をつけて時間をずらして一人で食い、身体を動かしてから風呂に入り、自室で柔軟体操をしていた。そのタイミングで母親が帰宅し、ちょっと後で父親も帰宅してきたが、俺は自室から出ることもなく顔も見せなかった。いろいろ考えだすと、両親にも小町にもどうやって接すればいいのか判らなくなった。
俺はぶっ壊れそうな脳味噌を休めるべく、柔軟が終わったらとっととベッドに潜りこんだ。
馴染みの無いはずのベッドだったが、驚くほど馴染んでおり、すぐ眠りに落ちた。
* * *
高校生活二日目の朝。
筋トレした翌朝から筋肉痛を感じる。これが若いということか。
筋肉痛のメカニズム的には筋肉痛が遅くやってくる直接的な原因は加齢のせいではないらしい。加齢により基礎体力が低下することにより、筋繊維に十分な損傷を与える前に疲労してしまい運動を終了してしまう。その後に訪れる筋繊維を回復するタイミングの炎症を筋肉痛と認識する。これが遅れてやってくる筋肉痛の正体らしい。
ほんとかよ。
昨日は筋トレらしい筋トレなんざしていいない。柔軟体操とウォームアップだけで全身が悲鳴を上げて動かせなくなった。そもそも柔軟すらまともにできないほど体が固かった。若い頃の俺はこんなクソ身体でどうやって生きていたんだ。
十分に柔軟体操をしてから小町と朝食をとる。プロテインと亜鉛が欲しいな。今日の帰りに買ってくるか。そもそもサプリメント以前に食事の方が肝要だ。小町の作る食事も栄養バランスの考えられたものだが、筋肉を増強していく上ではもう少し構成を考えたい。
「小町。飯の当番を分担しないか」
「いきなりどしたの、お兄ちゃん」
小町はきょとんして訊き返してきた。
「お前も今年から受験生だろ。負担を減らせればと思ってな」
「ごみいちゃんであるお兄ちゃんがいきなりまともな人間みたいなこと言い出すから小町びっくりだよ。気持ちはありがたいけどお兄ちゃんの料理はな~~。その、アレじゃん」
「嘗めるなよ。本気出したら俺の料理スキルすごいから」
そう、ヤクザになりたての俺は行儀見習いとして白塚組本部で部屋住みをし、更には永弦会本家でも部屋住みを務めたのだ。掃除・炊事・洗濯・気遣い等の家事スキルは過剰なまでに磨き上げられている。カミさんが料理が苦手だったから部屋住みが終わったあとも料理は続けていた。
「それ本気出さない人……っていうか本気出すほどの実力も無い人のセリフなんだけど」
「そこまで言うなら本当の晩飯を見せてやりますよ。今日の晩飯は俺が作るからそこで判断してもらう」
「う~ん、そこまで言うなら…」
飯を食い食器を片づけた俺は、小町を見送ってから自分も着替え、高校に向かった。
* * *
道に迷わず高校に来た俺は、クッションを敷いた自分の席で考える。
何をするべきかではなく、何をしたいかを。
新たな人生を得たならば、新たな人生を歩んでもいいのではないか。
かつての兄弟分や尊敬する兄貴分との関わりを断つことになるが、カタギとして清く正しく生きるのもありではないか。あるいはヤクザなどという警察に睨まれる存在ではなく、フリーのアウトローとして生きるか。もっとも完全に独立独歩のアウトローなどあり得ないが。
まあ、急いで答えを出す必要も無い。考えがまとまるまではこの高校生というモラトリアム期間を楽しめばいい。我ながらずいぶんと呑気な結論を出したものだ。
乳酸が溜まったままの左肩を揉みながら教室内に視線を向ける。
昨日の目標を思い出す。クラスメイトを覚えるという目標を。座席表は手元にあるが全員が自分の席にいるわけではない。そうそう覚えられるものではないが、目立つ奴は覚えられた。
まずは
次は
そして
あと、
記憶をほじくり返しつつ葉山たちを見ていると由比ヶ浜がこちらを見た。目と目が逢う。頭の中で如月千早の持ち歌が流れ出したが、すぐに目を逸らされた。
入学初日の事故のことであいつが俺を気にし続けていることは知っている。義理固いやつだ。由比ヶ浜自身を助けたわけでもないのにそこまで恩義を感じるのも大したもんだ。自作自演クソ野郎に騙されたりしないで欲しい。
一日の授業が終わり、帰るべく廊下に出ると平塚先生が待ち構えていた。
「比企谷。部活の時間だ」
帰らせろよ。筋トレと空手の鍛錬が俺には必要なのだ。無視して横を通ろうとしたらとんできたボディブローを中段受けで払おうとすると、突如として回転を加え、ガードをぶち抜いて腹に叩きこんできた。
「はうっ」
タフのかませ犬のようなみっともない声をあげ、壁によりかかる。
「おっとすまん、つい腰を入れて打ってしまった」
「ついじゃねえよ」
抗議と怒りを込めてねめつけると彼女は目を丸くした。
俺が出るとこ出たらクビだろうに。どんな神経してんだこの教師は。
「行くぞ」
そう言うと彼女は右手で俺の左手をとり歩き出した。やわらかくてあたたかい。今日は帰ったら手を洗わずに左手でシコろう。
「さっきはすまなかったな。君が私の拳に反応できるとは思わなかったのでつい」
「つい、であそこから捻りを加えられるんだからたいしたもんですわ」
「そ、そうか」
申し訳程度の謝罪に対し、適当に褒め返すとまんざらでもなさそうに頬が緩んだ。こんなんでも嬉しいとか普段どんだけ褒められてないんだこの人。
「先生ってなんかやってんですか」
「なんかってなんだ」
「格闘技とか。細いけど鍛えてるみたいだし、さっきのパンチもですけど血の気が多いだけの女子が打てるもんじゃないでしょ」
女子と言われたことに機嫌をよくしたのか、血の気が多いという言葉をスルーして彼女は笑顔になった。
「ま、まあな。こう見えても格闘技が好きでな」
こう見えてもってなんだ。黒髪ロングではあるが、奥ゆかしい大和撫子には到底見えんぞ。
「なるほど。じゃあ今度組手でもしてもらえませんか?」
「組手?」
「最近空手を始めたんですよ。貧相にも程があるんでね。身体を鍛えようと思って」
「なんだ比企谷。いつの間に空手を始めたんだ?もしかして空手部に入りたかったりたか?」
「いや、そういう形で空手をやる気はないですね」
「?」
俺は空手家でも武道家でもなければスポーツマンでもない。喧嘩の道具として空手を使っていただけだ。その割にはくそまじめに20年近く研鑽を積んだものだ。
「しかし空手か!空手はいいゾ~~。流派にもよるが基礎の型で多くの状況に対応できる。まず型といえば──」
何故か、上機嫌になって喋り出した。かつてラーメン屋についてメールのやり取りをした時のことを思い出す。この人は自分の興味のある話題になると止まらない。
平塚先生の講釈を聞いているうちに部室の前についた。
「じゃ、部活なんで」
「あ、ああ」
平塚女史の言葉を遮り、軽くノックし「はいるぞ」と言いながら戸を引いた。
怪訝な表情を向ける雪ノ下雪乃と目が合う。なんにしろ奉仕部に入るところからやり直す羽目になっているのだ。俺が向き合うべきは雪ノ下雪乃と奉仕部であり、そこから離れるべきではない。なんとなくそう思った。知らんけど。
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04
二日目の部活動。二回目の奉仕部。
部室の中では、昨日と同じように雪ノ下が本を読んでいた。
「早いんだな」
俺が声をかけるとちらりと視線を向けたが、また本に視線を戻した。無視!まあいいけど。
昨日座った椅子に腰かけ、鞄から昨日読まなかった週刊誌を取り出す。
『五代目仙真会、本格始動!傘下62団体、新体制の内幕に迫る!』
これがこの週刊誌の今回の号の目玉記事だ。
『日本のヤクザ人口二万人。そのうち一万人を擁する日本最大のヤクザ組織、仙真会。本拠は兵庫県神戸市。
仙真会の五代目会長に就任した
五代目仙真会の若頭は大阪市に本拠を構える四代目
仙真会一万人のうち半数を二つの組で占めており、日本のヤクザ社会の覇権争いは実質的にはこの二団体で行われていると言っても過言ではない』
「漢字が多いな…」
今の俺はどこの組員でもない素っカタギの高校生だが、おとといまでヤクザやって生きてきたのだ。なんとなく気になってこんな週刊誌を買ったが、読み進めても特に興味深い情報は無かった。俺のいた時代ではヤクザの数はこれの半分程度になっていたが、形を変えて悪さをしているだけだ。しかしこういうヤクザ記事を書く時、ライターはどんな顔をして書いているんだろう。どうでもいい疑問が湧いた。
「比企谷くん、暴力団なんかに興味があるの?」
突然雪ノ下に声をかけられた。
「えっ」
雪ノ下が週刊誌に食いついてくるとは思っていなかったのでタフの雑魚モブ(終盤の鬼龍含む)みたいな声を出してしまった。というか俺が読んでるものなんて興味も向けないと思っていた。
「そんな週刊誌なんて読んで。暴力団員にでもなるつもりなの?悪ぶるのは目付きだけにしなさい」
「目付きは関係ねえだろ。目付きは。別に悪ぶってもないからな。週刊誌のヤクザ記事読むやつみんながみんなヤクザってわけじゃねえし。それにヤクザ関連以外にも記事はあるぞ」
「そう……。比企谷くんが暴力団員になるなんて言い出さなくて安心したわ。先生に貴方の孤独体質を更生させなさいと言われた翌日に犯罪者になるなんて言われたら、もうお手上げだったわ。このご時世にあんなものになる人間のことなんて理解できないもの」
まっ、おとといまでバリバリのヤクザだったんですけどね!
「ずいぶんヤクザを嫌うじゃねえか」
「暴力団を好む人間なんていないでしょう」
雪ノ下は不快感を隠さずに答えた。こいつの親は建設業を営んでいるし地方議員でもある。現実的に建設業者とヤクザは切っても切れない関係にある。彼女の父親はどうか知らないが、ヤクザを使う議員だっている。彼女も馬鹿ではないし、何かしら思うところはあったのだろう。
俺は記憶を辿る。
雪ノ下建設は千葉を代表する企業の一つではあるが、それ以上でも以下でもない準大手未満中堅以上のゼネコンだ。暴対法や暴力団排除条例が施行されるまでは、経営陣や社員にヤクザを使って業務を円滑に進めようとする者がいたとしてもおかしくはない。
社内に直接ヤクザを走らすような人間がいなくとも、土地開発や解体・建設工事にはヤクザやフロントがまとわりつく。フロントを通して案件に食い込みカスリを取ろうという連中もいれば、食い詰めた半堅気に工事の振動や騒音で被害を被ったと役所を通して難癖をつけさせ、工期の遅れをたてに強請りタカリをする連中もいる。
俺がいっぱしのヤクザになる時代にはめっきり減っていたが、「毒をもって毒を制す」の理論で他のヤクザを使って嫌がらせをするヤクザを抑えることもあった。その場合にヤクザを使うのはゼネコンではなく、下請けの解体業者や工務店が仲介人を通して行う。なので仮にヤクザの関与が発覚してもゼネコンの関知するところではない、という図式だった。勿論最終的には「近隣対策費」等の名目で請求が上がるので、ゼネコンがヤクザに金を払っていることになるのだが。
法や条例が厳しくなってもあの手この手でヤクザはまとわりつくし、ヤクザの暴威に価値を見出す人間も無くならない。
実際ヤクザである俺自身、彼女の姉である雪ノ下
雪ノ下陽乃は大学卒業後、米国の大学院に進学しなんかようわからん博士号をとり帰国。その後国内最大手級ゼネコンに就職。8年勤務したのち国内最大手級デベロッパーに転職。そこでの勤務5年目のタイミングで、雪ノ下建設の資材調達部門が建材・鋼材をメインに扱う商社として分社し、そこに入社。雪ノ下建設の跡継ぎ候補としてキャリアを積んでいた。
俺が雪ノ下陽乃と再会し、関係を持ち出したのは最初の懲役を終えた24歳の頃。雪ノ下陽乃がゼネコンに勤務していた時だ。俺と雪ノ下陽乃は、暴排条例にあるような『暴力団の威力を利用することにより利益を供与』や『暴力団の活動を助長し資する』といったものとは違う形の付き合いをしていた。俺はただ雪ノ下陽乃の目的に助力し、彼女もそんな俺のために色々と融通していた。
そんな未来を雪ノ下雪乃が知ったらどんな反応をするだろうか。考えたらなんだか楽しくなってきた。雪乃ちゃ~~ん、君のお姉ちゃんは密接交際者の類だよ~~。
「いきなりニヤニヤしてどうしたの。通報したいのだけれどいいかしら不気味谷くん」
「警察はやめろ警察は」
「貴方本当になんなの……」
なんなのと言われても困る。訊きたいのは俺なのだ。なにも無い天井に視線をやる。
「なんなんだろうな、俺は」
昨日から何度も何度も考えたものを、改めて言葉にした。
女房と娘は出ていき、友は死に、それでも生きてきた。失い、奪われるだけの人生なのだと諦めるつもりはなかった。俺が奪う側に回るのだと、他のなにかを掴むために気を吐いてきた。俺には俺の意地があった。俺は自分の意志を証明し続ける必要があった。肉体を鍛え続けたし、金を稼ぐためにいろんなことをやり続けた。
だが俺の意志も、必死で稼いだ金もなんのためだったか。目的はどこにいってしまったのか。
結果、死んだ。おそらく死んだ。その挙句がこれだ。積み重ねたものを、人生すら失ったのだ。強くてニューゲームなんてものはなく、すべてを失った男と化してしまった。かつての人生で自分を衝き動かしていた怒りも憎悪も、最早俺の内には無い。
生きる理由が無い。
「いきなり人生相談?貴方という人間を語れる程の付き合いがあったかしら」
「ちげえよ。てかされてもビビるわ」
「そう?貴方高校生とは思えない目の濁り方をしているもの。なにかつらいことがあって思い悩んでいるのかと思ったわ」
つらいしなやんでます。
だが、自殺する程に思い悩みもしているわけではない。今後も考え続けるし悩み続けるだろう。だがそれでも精神を病むことはないだろうし、自殺だってしないだろう。今までだって自殺を選択肢に入れたことは無い。自殺した人間が何を考えていたのかも考えたことが無い。考えないようにしてきた。
俺は雪ノ下を見やる。
「どうしたの?」
首をかしげられた。その辺のうす汚いバカ女がやったら殴りたくなるような動作だが、いちいち可愛らしい。造形が整って生まれると羨ましいですね。
「いや別に……」
「そう」
それだけ言うと彼女は興味無さげに文庫本に視線を戻した。
妙に攻撃的でつっけんどんだった昨日とは随分勝手が違う。優しいとは到底言えないが攻撃性は控えめに感じる。独りでいた空間に俺という人間が入ってきて意識するところでもあったのだろうか。
おいおい!ちょっと優しくされただけで(されてない)こんなに気になってしまうなんて、思春期の少年みたいじゃないか!いや、肉体的には思春期の少年か。精神が肉体に引っ張られているのだろうか。
高校生の時に雪ノ下に優しくされていたらコロッと惚れてしまっていたかもしれない。優しくされてなくてヨカッター。俺みたいな奴が雪ノ下に惚れても絶対幸せになれないし相手を幸せにできてもいないぞ。てかなんだこの思考。幸せにできないも何も告白しても絶対振られてるだろ、嗤える。
つっても雪ノ下以外の人間と一緒にいても結局幸せになれなかったし幸せにできなかったんですけど。マジでなんだったんだ俺は。
前言撤回。鬱って死にそう。
「比企谷くん本当に大丈夫?顔色が悪いのだけれど?」
「は、マジか」
思わず頬にぴしゃりと手をやる。
「具合が悪いなら帰っても構わないわ。無理して悪化でもしたら大変だし」
16歳の女子高生に心配されるとはなんと無様なアラフォーヤクザか。しかしメンヘラ女子ばりに情緒不安定なのも事実だ。女子高生との会話で、よりにもよって雪ノ下雪乃との会話で俺が自殺目前メンヘラ女子になってしまうとはね……。女子ではないか。そもそも会話してない。俺が勝手に参っているだけだ。
「悪いな。お言葉に甘えて帰るわ。ゆっくり休む」
週刊誌を鞄にねじ込んで立ち上がった。帰って筋トレをしよう。セロトニンを分泌させて寝よう。
教室から出て、戸を閉めようとする。その時俺を見る雪ノ下が目に入った。俺を心配するような、不安がるような顔をしていた。別にマジで死にはしねえよ、多分。
しかしたいして親しくもなっていない人間の為にあんな表情をするような女の子だったのか。かつては依存し合っていると雪ノ下陽乃に指摘されるような関係だったはずだが、それでも知らんことが多いものだ。依存していたとは言っても、他人なのだ。家族とは違う。
いや、家族でも何もかもを知り尽くしているわけじゃないけど。別れた女房も愛人も……。
また気が滅入ってきた。何を考えてもロクなことにならなさそうだ。
俺は最短距離で帰った。
晩飯を作らずにベッドに潜りこんだ。
許せ、小町。
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A
「そういうこったからさ。手ェ貸せよ」
「ったく、こんなとこまで呼び出すから何かと思ったらよ。アホくせぇ」
大井も浅田もどこからどう見てもヤクザ丸出しの風貌であり、他の客はそそくさと帰るなり見向きもしないように努めている。大和も含めて三人とも大柄なので意識せずとも威圧感があるのかもしれない。
「何がアホくせえんだよ、おい」
「てめー脳味噌ねーのか?」
「なに?」
「浅田、ここてめーが払っとけよ。行くぞ大和」
大井がビールを飲み干し立ちあがる。大和は咀嚼していた砂肝をほうじ茶で流しこんだ。
「大井テメー、まてコ……」
「慶尽会の枝だったよしみだ。比企谷には言わないでおいてやる。とっとと帰れ」
吠えようとした浅田をひと睨みで黙らせ、大井はそれだけ言って店を出た。
「ここから帰るのめんどくせえな」
「運転するのは俺ですけどね」
千葉の僻地、野田市。そんな野田の更に片隅にある焼き鳥屋に来ていた。土浦の知人のもとに身を寄せていた浅田が「永弦会にも
焼き鳥屋から少し歩いてコンビニの駐車場に向かう。停めていた大和のSUVに乗り込むと、大井は即座にシートを倒し寝る姿勢になった。寝られるのも癪なので、大和は車を発進させると話しかけた。
「比企谷さんに言わないつってましたけど、いいんですか」
「言ったら殺しちまうだろ。あいつ」
「でも浅田さん、帰りますかね」
「帰らんだろうな。やめろって言われてやめるやつなら最初から
浅田は慶尽会系の組員だった。
慶尽会は愛知県名古屋市に本拠を置く指定暴力団で組員は1500人程。傘下勢力の大半は東海地方に拠点があり、岐藍連合の上部団体である。
浅田も覚せい剤取締法違反で逮捕され絶縁処分をされるまでは名古屋でヤクザをしていた。任侠道を謳う慶尽会は薬物禁止をお題目に掲げているが、実際にはどの組も大なり小なりドラッグ密売を資金源の一つにしている。ただ、
「
大井は愉快そうに笑った。名古屋に行くたびに大井が比企谷の武勇伝を吹聴しているせいだと思ったが、大和は指摘しなかった。
八斬。
噂話には尾ひれがつくもので、どこからどこまでが本当の話なのか大和には知りようも無い上に比企谷がやったという証拠も無いが、それ以来新宿の裏に住む中国人は怖れや忌避を込めて比企谷を八斬と呼んでいることは確かだ。
何故名古屋の浅田がその類の話を知っているのかというと、岐藍連合総長の綾瀬は慶尽会舎弟頭の要職を努めており、名古屋で開かれる幹部会に行く際には高い頻度で大井をガードの一人として連れて行く。慶尽会系で東京に拠点を構える勢力は岐藍連合のみであり、大井が語る比企谷の武勇伝にああでもこうないと否定をする人間もいない。
そんな武勇伝を真に受けていた浅田が、絶縁されて行き場を失った自分の名を上げる為に比企谷を殺しにきたなどとは、比企谷はこれっぽっちも知らないだろう。
「でも殺せたとしても、白塚組は黙ってないですよね。それこそ即日死体になるんじゃないですか」
「あいつ脳味噌無ぇからそこまで考えねーんだろ。あいつがめげずに新宿に出て比企谷のこと嗅ぎまわれば比企谷の耳に入る。そんで終わりだ」
大井は興味なさげに言うとあくびをして目をつぶった。どっちにしろ浅田は死ぬんじゃないかと大和は思ったが、これ以上話しかけると殴られるので大人しく大井を送ることにした。
* * *
午前中に神楽坂にある組事務所に顔を出し、昼までメールのチェックや電話を繰り返してフロントの表帳簿を管理してから昼食を食いに出た。昼食を取ってからは西五軒町の汚いビルに入っている自分の会社に行く。行ったところで大和がするべき仕事は社員が馬鹿な真似をしないように金庫と帳簿のチェックをするくらいなのだが、時折ヤクザが大和に連絡をよこさずに直接会社に来る場合がある。社員は営業が二人、庶務と経理が一人ずつだが一応は全員堅気であり、ヤクザの相手をする時に大和がいないわけにはいかない。
会社に向かう道中、ランチ営業している居酒屋に入り生姜焼き定食を頼んだ。生姜焼きにしては強気の値段設定だったが、出てきたものは肉厚且つ分厚さに負けない味付けがなされ、食い応えがあり満足のいくものだった。醤油とみりんが効いた豚肉を咀嚼しながらテレビから垂れ流されるワイドショーを見ていると昼のニュースに切り替わった。ニュースキャスターが原稿を読み上げていく。名古屋の暴力団員が死体で発見──。大和の興味は味付けの濃い豚肉からニュースに移った。
八王子の恩方、雑木林すぐ手前の農道を通りかかった農家の男性が遺体を発見。遺体は顔面と腹部の損傷がひどく、身分がわかるものを持っていなかったが、指紋から名古屋市の暴力団員の浅田と判明。付近では熊の目撃例があり、警察は熊に襲われたのと暴力団事件、両方の可能性で捜査を進めている──キャスターはそんなかんじのことをしゃべった。
浅田の身分が元暴力団員じゃないのは、脱退届を出していなかったのか。出したところで警察がすんなり認めるものなのかも大和は知らない。
このニュースでわかるのは、比企谷は死体などいくらでも処分できるくせにそうせずに人目につくところに棄てたということだ。自分を狙う間抜けがどうなるかを晒したに違いない。損傷具合から熊に襲われた可能性を警察が考える死体──昼飯を食いながら想像するものではなかった。肉厚の生姜焼きを食べるのが苦行になった。
野田で浅田と会ってから四日後のことだった。
* * *
リビングに入るとでかい犬が大和にとびかかった。大和は35kgはある大型犬を受け止め、撫でまわした。
「ただいま、マツ。いい子にしていたか」
大和の問いかけに答えるように、マツと呼ばれたジャーマン・シェパードは大和の顔を舐めまわした。大和がマツをわしゃわしゃ撫でまわしてやると、窓際で寝そべっていたもう一頭の大型犬──ボルゾイがてってってっと歩み寄り、大和の目の前で座った。
「なんだよウーロン。お前も構ってほしいのか~~」
ウーロンを撫でまわすと、マツが嫉妬したように体を寄せてきた。大和は自分の頬がだらしなく緩むのがわかったが、構わず二頭の大型犬を抱いて撫でまわす。この体格から若い頃はラグビー、ヤクザになってからも脅し役等をさせられてきたが、大型犬の相手をできるというだけで大きな身体に生んでくれた両親に感謝の念が湧く。
「あら、おかえりなさい」
犬たちに構っているとキッチンから声をかけられた。内縁の妻の
「ただいま仁美。みちるは?」
「母さんと一緒にカラオケに行ってるわ。晩御飯までには帰ってくるんじゃないかしら」
娘は大型犬に茶の名前を付けた義母と外出していた。
娘といってもみちるは仁美が前夫との間に設けたこどもであり、大和と血のつながりはない。みちるは中学生に上がったばかりの女の子であり、新しい父親──籍も入れずに週に二、三回顔を出すだけのヤクザなど毛嫌いしそうなものだったが、抵抗もなく大和をおとうさんと呼んでいる。実父が気性の荒いゴロツキだったため、大和のような人間でもまともに思えるのかもしれない。仁美はおとなしそうな顔をしていながら男を見る目が無い。大和は義母にもそう聞かされたことがある。
「そういえば今日、
仁美がこの家を仲介した人間の名を出した。いい歳して派手な金髪とカラコンをしている胡散臭い人間だ。大和は顔をしかめそうになったが、仁美は同い年で喋り上手の幸野を気に入っているのですんでのところでとどまった。
「売りきりの仕事なのに、あの人もまめというか律儀よね。でも不動産仲介業者ってそういうところが大事なんでしょうね」
「そうなのかもな」
「でもあの人、私と同い年の女性なのに本当に仕事熱心よね。尊敬しちゃう」
普段はドブ臭い神田川沿いのアパートに住んでいるやくざものの大和が、家族に千葉市内の一軒家を用意できたのは幸野のおかげによるところが大きい。しかし大和にとって幸野は恩人である以上に、自分のシノギの上前をはねる鬱陶しい存在だった。
大和は買い手付かないような不動産を二束三文で手に入れ、それを人畜無害そうな小市民や最低限の知能を持った筋者に三束四文で転売している。この手に入れる物件が、幸野が紹介してくるものの場合が多い。幸野が持ってきた案件が成立した場合は決して安くない仲介料を払っている。
仁美には幸野のことを不動産仲介業者だと紹介しているが、実のところは比企谷の金主もしており、比企谷を手足のように使っている。そんな人間にこまめにこちらの家に顔を出されるのは、大和にとっては脅し以外の何物でもなかった。
せっかくの家族といる時間に幸野の名を聞かされるのはごめんだった。
大和が気分を害したのを察したのか、犬たちが「ひーん」としょげた声を上げ、不安げな顔で大和を見上げてくる。
大和は笑顔を作りながら話題を変え、義娘と義母の帰宅を待った。
「大和も大井もいい大人だ」とか「大和は大井に大人しく従った」とか書いてると大の字が多くて訳がわからなくなりました。
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05
拙作を読むのに貴重なお時間を割いてもらい、感謝と恐縮しております。
目覚めが悪い。
悪夢を見た。
朝から不快さと疲労を感じた。
「う~ん、この……」
訳もわからないまま高校生に戻り、何も考えないまま奉仕部に顔を出した。二日続けて。
俺は元々自分がどんな高校生活を送っていたかななんて覚えちゃいない。モノの考え方も変わった。前回通りの高校生活を過ごすことなどないだろう。というか加齢とともに気が短くなっていったし前回とも関係無く事件を起こして学校をクビになる可能性すらある。仮に学校をクビになっても今回はヤクザになる気は無いし、前回なったのも縁あってのものなのでなろうにもなれない。もう今の俺はかつての人生とは無縁の存在になってしまっている。
にも関わらず今まで以上にハッキリと29歳の時に起きた事件を夢に見た。理由は判っている。俺は大きく溜め息をつき、ぶんぶんと頭をふった。
枕元に置いたスマホで時間を確認したらまだ五時半だった。二度寝しようにも意識は完全に覚醒しており、なにより寝汗がひどくて気持ち悪い。仕方なく身体を起こしベッドから出た。
シャワーを浴びてランニングに行くか……。
早朝の日課は空手の鍛錬とランニングを週替わりでやっており、今週は空手の筈だったが、朝風を浴びたい気分だった。軽くストレッチをして部屋を出た。
シャワーを浴びるべく家をふらつく。ぼんやりしていると未だにどこになにがあるのかがわからなくなる。さっさと馴れなければ。
ゆっくりとシャワーを浴びてから身体を拭き、リビングに出た。父親と母親が朝食を取っている。ベーコンエッグと食パン。そしてコーヒー。喫茶店のモーニングみたいな組み合わせだ。
「あら八幡。おはよう」
「今日は早いな」
「おはよう。ちょっと目が覚めちまって」
この二人も大概早い。いつも夜に帰ってきていながら、六時前に起きて飯を食い新聞を読み、七時前には家を出ていく。真っ当なサラリーマン生活に家のローンと二人の子供。俺には縁が無かったもの。苦労している。させている。
コップに水を注ぎ飲み干す。冷蔵庫から野菜ジュースを取り出し、それも注いで飲み干した。毎朝の日課だ。
自室に戻り入念に柔軟をこなし、ランニングウェアに着替えると6時15分過ぎ。のんびりシャワーを浴びていたらいつものランニングに出かける時間より若干遅くなってしまった。でもこれくらい気にするようなことじゃあない。ルーチンを守るために生きているわけではない。世の中にはルーチンが乱れることをやたらと嫌うやつがいつが、そんなものは自分で帳尻を合わせればいいだけだと俺は思っている。ペースを上げて走るか距離を短めに走ればいい。人と待ち合わせているわけでもなし、10分やそこいら遅く家を出ただけで困るようなことは何もない。
「うっわ、まじか」
困った。目の前で交通事故が発生した。ルーチンを乱した途端これかよ。まもろうルーチン。
交差点で信号待ちしていた型落ちのベンツのセダンが発進した瞬間、左側から信号無視の黄色い軽がベンツの助手席側後方に突っ込んだ。110?119?でも本人らで示談にするかもしれないし警察は呼ばない方がいいのか?様子を窺いながら近付いた。
ベンツの運転席から上下ジャージに坊主頭の若い男が降り、軽の中でテンパっている中年女性に話しかけ始めた。怒声は聞こえないが、見るからに苛ついている。怪我でもしているのか、それとも警察を呼ぶかどうかで揉めているのか。無視して立ち去ることもできたが、近付いて坊主頭の後ろから声をかけた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫なわけあるかい。このババアいきなり突っ込んできくさって。どこ見とんじゃ」
坊主頭は俺の方に振り向くこともなく、中年女に向いたまま関西弁でわめいた。中年女が困惑している。
「まだ早いし、いつも交通量も少ないから」
「あほんだら。朝なら信号無視してもええんかい。そんで人にぶつけとったら世話ないぞ、こら。これどないすんねや」
中年女の素っ頓狂な返答に、坊主頭はキレ気味にベンツの左リアを指差した。若干へこんでいるが自走は可能だろう。ベンツのトランク周りは頑丈だ。
「ご、ごめんなさい。警察呼びますから、保険で修理代出しますんで」
「何が警察じゃ、こら。眠たいことぬかしとんなよ」
なんだこの坊主頭。チンピラか……自分の横着が原因とはいえ、おばさんも面倒くさいやつ相手に事故ったものだ。坊主頭がわめいていると周りには野次馬が数人湧いてきた。この調子でわめかれたら俺まで悪目立ちしてしまう。無視して帰ればよかった。
「まあまあ、ここで立ち往生してても他の人に迷惑だから、路肩にでも車どかしましょうよ」
「お前はなんじゃ、こら。関係ないやつがしゃしゃんなや」
坊主頭はこちらを向き、すごんできた。
俺は坊主頭の顔を見て、言葉を失った。コイツにびびったからではない。
「おい渋沢。てめぇなにやってんだよ」
低い
「てめぇが話まとめますっつーから待ってたのに、馬鹿みてぇにわめいてるだけじゃねえか」
「で、ですけどアニ、課長」
渋沢と呼ばれた坊主頭が釈明するより早くシンサイ刈りの拳が渋沢の顔面に突き刺さり、坊主頭は鼻血を散らしながら尻もちをついた。いきなり暴力行為を見せられたおばさんは青褪めている。そんなおばさんにシンサイ刈りはにこやかに話かける。
「ごめんなさいねお母さん。うちの子、躾がなってなくてお恥ずかしい」
「い、いえ……」
「警察を呼ぶべきなんだろうけど、私らちょっと急ぎの用があるんですよ。後で連絡さしあげるんで、連絡先教えてもらっていいですか?」
「れ、連絡先ですか」
「ええ。用事があるんもんでして。お願いしますよ」
口調こそ丁寧だが有無を言わせぬ圧力をかけている。おばさんは拒否することもできずに携帯電話の番号と家の電話番号を聞きだされ、免許証まで写真を取られてしまった。ち~ん(笑)。
「ありがとうねお母さん。また連絡しますんで。じゃ、失礼します」
シンサイ刈りは軽く頭を下げると坊主頭を軽く蹴り、運転席に向かわせた。
「あとは当事者同士で話するから、きみももう気にしなくていいよ」
シンサイ刈りが助手席に乗り込みながら俺に声をかけた。ドアが閉まるとベンツは発進し、野次馬も散っていく。あとには立ちすくむおばさんと俺が残された。
「おばさん、警察よぶ?」
「え、で、でも……」
俺が声をかけるとおばさんはハッと我に返ったが思考能力は回復していなかった。「朝だから」なんて言って信号無視するようなノータリンだし元々なんも考えてないのかもしれないが。俺は「ならいいっすわ」とだけ言い、おばさんを置いて走り出した。
いらん時間をくってしまった。ペースを上げて走るか。距離の短いルートで走るか……
* * *
結局ペースを上げて走った。帰宅する頃には大量に発汗していた。
シャワーを浴びてから部屋に戻り肌着も替え、高校の制服に着替える。ベッドに腰かけ、通販で買った電子タバコを咥えた。
煙草も手に入れようと思えば手に入れられるが、「俺は他のやつとは違う…」感を得るために、この時代ではまだ流行っていない電子タバコに手を伸ばした。以前VAPE紹介動画で煙を大量に吐きだしているのを面白そうだと思ったのは秘密だ。日本でVAPEが流行りだしたのは俺が最初の懲役に行っている間だったらしいが、この時代でも探せばいろいろ出てきた。流行りに便乗した奴がアクセス数欲しさに作った紹介サイトと違い、趣味感丸出しの個人業者が多かったが、それが一層そそるものだったというのもある。
昨夜のうちにタンクにメンソールのリキッドを入れておいたので、早速吸ってみる。
スイッチを押し、口内に蒸気が入ってきたのを確認してからゆっくり吸いこみ、吐いた。煙草とはまた違った感覚だった。もう一度蒸気を口に含み吸いこんだ。そして、吐いた。
「ほ~~……。こりゃいいな」
俺は愛煙家だったが、ニコチン中毒ではなかった。深呼吸代わりにゆっくり吸って気分転換するのが目的だったので、ニコチン無しで吸いたい時に一吸いしてそのまま仕舞えるこれを気に入るのは当然といえば当然か。平塚先生みたいにニコチンで強制的に脳を落ちつけている人には無理だな。
メンソール以外にも買ってあったリキッドを予備のアトマイザーに補充しようとしたら、不慣れなせいかこぼしてしまった。は?電子タバコ最低やな!二度と使わんわ!
俺は顔を顰めながらランニング中に遭遇した交通事故を思い出す。関西弁のチンピラと中年のヤクザ。チンピラは渋沢だった。二年前に死んだ兄弟分。
「いや、37ん時に死んだから今から20年後か」
こんな形で会うとは思わなかった。とは言っても本当に会っただけだし連絡先だって訊いてない上に、あいつも俺のことを知らない。ヤクザになる気もないし二度と会うこともないだろう。
「しっかしあいつ、屁みたいなチンピラだったな」
すごんできた坊主頭の渋沢を思い出し苦笑した。
俺の知る渋沢はいつも落ち着いており、教科書のような標準語を話していた。だが人を威す時は関西弁でがなりたてたりと、顔を使い分けていた。
俺が目先の問題を解決して、先のことを考えられる渋沢が絵図を書く。邪魔するやつは大井がぶちのめす。俺たちは違う系列の組の人間だったがそれでうまいことやっていた。渋沢がポッと出のゴロツキに殺されるまでは。
「まああいつが生きてるってことは大井も生きてるわな。当然だけど」
大井も渋沢も歳は俺の一つ上だ。渋沢は中卒で堺から東京に出てきてヤクザに、大井は木更津のヤンキー高を卒業しヤクザになった。俺の最終学歴も中卒だからゴリラの大井が高卒で一番高学歴だった。三人で飲むたびに、俺と渋沢は大井を「高卒なのにアホ」と弄ってはぶん殴られていた。
消えた過去でもあり、あり得ない未来と化した記憶を思い出し一人部屋で笑った。ここに雪ノ下がいたら「気持ち悪い」と難癖をつけて通報しようとしているだろう。雪ノ下が俺の部屋にくるなどありえないが。
というか、兄弟分たちを思い出しているのになんで雪ノ下のことを考えてんだ俺は。自分でおかしくなってまた笑った。
馬鹿な考えをしていることに気付くと、頭蓋の中に
もう一度電子タバコを咥え、蒸気を吸った。頭の中の靄ごと吐きだそうとした。
頭の中の靄だけが残った。
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06
きょうもいちにち、たのしいがっこうせいかつがはじまるよ!
* * *
放課後。
特別棟の屋上に通じる階段の踊り場。人通りが皆無の場所で、俺は電子タバコの煙をゆっくり吐いた。電子タバコの煙──蒸気は煙草の煙とは違いすんなり散って消えていく。俺の目の前から消えていく煙に物足りなさを感じた。
だが俺は肺を煙でガツンと満たすのが目的でもなければ、ながらで吸うようなチェーンスモーカーではない。ニコチン無しでもリラックスできるし、リラックスできれば気持ちの切り替えもできる。どこぞのニコチン中毒の女教師とは違うのだ。この動作さえ忘れなければ以前のようにメンヘラ女子化して頭が馬鹿になることはないだろう。多分。
では、何故こんなところでひとり気持ちの切り替えをしているのか。細かな日付など覚えていないが今日が"その日"なのだとなんとなく感じていたからだ。
強めのメンソールの煙を吐くと、脇に置いていたスマホが鳴動した。誰からの着信かも確認せずに電話に出る。
「はい比企谷」
「雪ノ下です。奉仕部へ相談をしたいという人が来たから、戻ってきてもらえる?」
「わかった」
通話を切り、上着を羽織り部室へ向かう。
部室で筋トレを始めた時は「鬱陶しい」と追い出されてしまったが、代わりとして奉仕部に相談があったときにすぐ連絡が取れるようにと電話番号とメールアドレスを交換した。メッセンジャーアプリを使えれば手っ取り早いのだが、この時代ではLINEは配信されていないし、雪ノ下はガラケーなのでWhatsAppも使えない。なかなか不便なものだ。
部室の前まで戻り、戸に手をかけひと息つく。メンソールの香りがまだ吐息に混じっていた。
「入るぞ」
言いながら戸を引いた。中にいる雪ノ下と目が合う。
「悪い、待たせた」
「別に。待ってないわ」
デートで待ち合わせたカップルのようなやりとりをしてから(やだ、私自意識過剰すぎ!?)、雪ノ下の向かいにちょこんと座る女子生徒に視線を向ける。するとその女子は肩まで伸ばした明るい茶髪を揺らしながら仰け反った。そのバストは豊満だった。
「あぃっ?えぇっ!?ヒッキー!?ヒッキーなんで!?」
「俺はここの部員なんだよ」
言いながら、部室の壁際に積まれた椅子をひとつ持ってきて、雪ノ下の隣に腰を下ろす。雪ノ下が口を開こうとしたところでもう一度腰を上げ、壁際から長机を一つ持ってきて俺たちの間に置いた。
改めて、長机を挟んで頭頂部から若干右の位置にお団子を結んだヘアスタイルの依頼者の方に身体ごと向き直った。雪ノ下雪乃も大概な美少女だが、この依頼者も雪ノ下とはまた違ったタイプの美少女だ。丸みのある小顔。くりっとした大きな目。高くはないが筋の通った小さい鼻。喋るときに大きく開く艶のある形のいい唇。そしてなにより、俺が部室に来てからほんの僅かな時間の間にコロコロ変わる表情は見ていて飽きない。そしてそのバストは豊満だった。結構モテそうである。
「由比ヶ浜さん。悪いけど彼にも自己紹介をしてもらえるかしら。依頼内容はそれから訊くわ」
「あ、うん」
「いや、同じクラスだから顔と名前は知ってる。大丈夫だ」
なんなら顔と名前以外も知っているが。
「え゙っ?あたしヒッキーと喋ったこと無いけどあたしのこと知ってるの?なんで!?」
「喋ったことない人をヒッキー呼ばわりしてるのはどちらさんだ」
「ううっ、たしかに」
ツッコミを入れると由比ヶ浜結衣は困ったようにはにかんだ。こいつは雪ノ下とはまた違うベクトルでいちいち可愛い。油断ならないやつだ。
「でもヒッキー、ここだと普通に喋るんだね。クラスだと全然喋るとこみないから」
「喋る人も用件も無いからな」
「え?人はいるよね?なんで喋らないの?」
「きみはぼっちに対する理解が足りないね」
そんなやり取りをしていると雪ノ下が口を挟んだ。
「あの、用件を……」
俺たちは家庭科室に来ていた。由比ヶ浜がクッキー作りを練習したいというので協力することになったのだ。誰のためのクッキーで何のために練習するのか知っている身としては若干面映ゆいが、それはおくびにも出さない。
俺たち三人は由比ヶ浜が作ったクッキーを凝視している。……クッキー?高密度に圧縮された灰の塊が転がっている。謎の禍々しさを感じる。
以前、フロントに運営させていたペット霊園の火葬炉にバラして袋詰めにした死体を放り込んだ時のことを思い出す。物言わぬ死体が物言わぬ燃えカスになったのを見ても特に何も思うところは無かった。なのにこれはどうしたことだ。食材が焦げカスになっただけなのに、この俺が恐怖している。マジでこれを食うのか?
「そんな不安そうな顔をしないで比企谷くん。私も一緒に食べるから」
「なにお前。自殺が趣味なの?」
軽口を叩くと、眉を寄せながら睨みつけてきた。この発言はどうやらお気に召さなかったらしい。
「自殺ってなんだし!いいよ!そこまで言うなら自分で食べるから…………ォ゙エ゙ェ゙ッ!」
由比ヶ浜は自分の作ったクッキー?を何個かまとめて一度に頬張り、数回咀嚼したところで流しにかけより、口からもんじゃ焼きを作成した。無茶しやがって……汚ねぇな。
「ちょっと、由比ヶ浜さん大丈夫?無理をしては駄目よ」
雪ノ下は言いながら左手を由比ヶ浜の左肩に置き、右手で背中をさする。ああ~~微笑ましいんじゃあ~~。でも自作したクッキーを食っただけで"無理"って結構酷い物言いですよ。
雪ノ下は蛇口を捻り、もんじゃ焼きを水で流しながら続ける。
「由比ヶ浜さん、貴方思いつきでなんでもかんでも混ぜ込むからいけないのよ。ちゃんと後のことも考えて行動するべきよ。何事にも正しいやり方というものがあるわ。見本を見せるからそれを参考にしてちょうだい」
「うう~、わかったよ雪ノ下さん…」
雪ノ下は涙目の由比ヶ浜の奇行をやんわりとたしなめたのち、クッキー作りにとりかかった。ボケッと見ているのも暇だし、俺もクッキーを作るべく動き始める。雪ノ下だけでなく俺までクッキーを作り始めた光景を、由比ヶ浜は口を半開きにしたままポカンと見ている。アホ丸出しだが顔がいいから許されるみたいなところがある。
ボウルを何個も使い自分のクッキー生地を練りながら、視界の端に雪ノ下を捉える。手際よく作業を進めている。俺ももたついているつもりは無いが、あの調子なら俺より早く出来上がるだろう。丁度いい。俺のクッキーができあがるまで時間を繋いでもらうことにしよう。
実際、俺のクッキーが焼こうかという段階にかかるタイミングで雪ノ下のものが焼きあがった。その香ばしさには俺も注意力を奪われそうになった。
「どうぞ由比ヶ浜さん。食べてみて」
「お…美味しいっ!すごい!」
おっかなびっくり食べ始めた由比ヶ浜は、そのまま何個も食べる。太るぞ。
「ほんと美味しい……雪ノ下さんすごい」
「ありがとう」
由比ヶ浜の素直な感想に、雪ノ下は微笑む。
「でもこれは特別なことなんて何もしてないの。レシピに忠実に材料や分量、手順を守っただけ。きっと貴方にもできるわ。レシピを守って正しく作れば」
「レシピ通りか~……でも隠し味とかさ、そういうのあった方が……」
由比ヶ浜の妙ちきな拘りに雪ノ下が眉尻を動かしたところでオーブンが鳴った。前座は終わりだ。部屋住み時代の俺が練り上げた、甘いものに飢えた懲役帰りのオッサン達の胃と心をガッチリ掴んだ必殺兵器を拝ませてやる。
「隠し味の効いたクッキーが食いたいならこれを食え。俺が本当の隠し味ってやつを体感させてやりますよ」
得意げにそう言いながら俺は焼きあがったクッキーを皿に移し、二人の前に置いた。
「こ、このこうばしさはいったい……!?」
「成程…そうきたのね」
二人はそれぞれの偏差値を感じさせる反応を見せながらクッキーを口へ入れる。
「……!?」
由比ヶ浜が目を限界まで見開きながら更に二つ三つとクッキーを食べていく。お前さっきも雪ノ下のクッキー沢山食ってただろ。そんなに食うと帰ってから晩御飯食えなくなるぞ。
「どれもおいしい!すごい!いくらでも食べれちゃう!なにこれ!?」
「この完成度……想像以上ね」
ガハハ!雪ノ下から高評価とったぞ!
「嬉しいこと言ってくれるな。ちなみに由比ヶ浜、これ基本的な味付けは全部同じなんだぜ」
「えぇえっ!?」
由比ヶ浜が偏差値という概念の存在しない優しい世界の住人になりそうだったので、俺が仕込んだネタを説明しようとすると雪ノ下が先に言った。
「緑茶よね」
「ああ。ただ入れる茶葉の砕き具合を変えたりつなぎを卵と牛乳、サラダ油とオリーブオイルでわけただけだ」
「それだけ?味も食感も色合いも全然違うよ?」
コイツ、まだ食ってやがる。
「由比ヶ浜さん、隠し味というものは得てしてそういうものよ。奇抜なことなんかしないでほんのひと手間を変えたり加えたりするだけ。すべては基本的なことができてこそなのよ」
雪ノ下が幼子を諭すように優しく語りかける。さっきからやたら基本通りとかレシピ通りとか繰り返しているが由比ヶ浜はそれを正しく受け取るのだろうか。それだけでわかれば苦労はしないが……。
だが由比ヶ浜は溜め息をついて肩を落とす。どうやら雪ノ下の言葉を『基本的なことができるようになれば自分の感覚でアレンジできるようになる』ではなく『基本的なことすらできない自分は向いてない』と受け取ったようだ。
「うう~でもこれヘコむよ~。雪ノ下さんはわかるけど、ヒッキーにすら遠く及ばないなんて……あたし女子力っていうか、こういうの才能無いのかな」
「俺に負けてヘコむって失礼だろう。いや俺ここまでできるようになるの結構頑張ったからな?」
そう、頑張ったんだ……。部屋住みは修行であり苦行だった。
俺がぼやいていると雪ノ下が由比ヶ浜の肩に手を添えた。なんかこの人さっきから自然にボディタッチしてない?それとも女子高生ってこんなもんでしたっけ?
「その認識は間違っているわ由比ヶ浜さん」
「えっ」
由比ヶ浜が可愛い顔に似合わないタフの雑魚モブのような声を発したが、雪ノ下は微笑みながら続ける。
「何事にも初めてはあるわ。大事なのはそこからの継続性よ。その道は私にもあったし、そこの目の濁った彼にもあったはずよ。むしろ彼はその道が大変すぎてあんな目になったのかもしれないわ」
そのdis必要あったか?否定はしないけど、アメリカのギャングスタラッパーなら報復で殺してるぞ。
雪ノ下はそのままあれやこれや語り続ける。もうお話だけでおなかいっぱいじゃないかとも思えたが、由比ヶ浜は意外にも真面目な顔で聞いている。校内でも一目置かれている女子が自分と真剣に向き合っていることに、由比ヶ浜なりに感じることがあるのだろう。
自分ばかり喋っていることに気付いたのか、雪ノ下は「んっ」ひとつ咳払いをした。
「ごめんなさい、私ばかり喋ってしまって。話ばかり長くなってしまったわね」
「ううん、ありがとう雪ノ下さん。あたしこういうの、向いてないっていうか、キャラじゃないって思ってたから周りの友達にも相談できなくて……全然ダメダメでも、馬鹿にせずに付き合ってくれて、うれしかった」
由比ヶ浜が珍しく言葉を選びながら気持ちを伝えているのを聞いてはっとする。ぼんやりと雪ノ下の話を聞き流していたらいつのまにか二人だけで世界が完結していた。由比ヶ浜が「友達」と言った時に雪ノ下の微笑みが揺らいだような見えたが、気のせいだろうか。俺が女子高生二人の世界に入れずにいると由比ヶ浜がこちらを向いた。
「ヒッキーもありがとね。今日は付き合ってくれて。あたし、もうちょっと頑張ってみるよ」
そう言って莞爾と笑った。
男子にそんないい笑顔をほいほい見せるな。俺が思春期男子なら惚れて告白して振られるまである。いやだ、振らないでくれ……。
由比ヶ浜の笑顔を直視できなかった俺は曖昧な返事を返し、下校時刻が迫っているのを確認してから片付けを始めた。一緒に片付けようとする二人を手で制し、帰宅を促した。俺は整理整頓大得意おじさんなんだ。二人はゆるゆりしててくださいよ。
片付けも終わり家庭科室を戸締りし、職員室に鍵を返しにいくと部室の鍵を返しにきた雪ノ下がいた。目が合い軽く会釈する。
職員室を出てから、ならんで昇降口まで歩く。
「おつかれ」
「貴方こそお疲れ様。ごめんなさい、結局全部片付けを任せてしまって」
「普段部室の管理全部やってもらってんだしこんくらいいいって。由比ヶ浜は帰ったのか?」
「ええ。丁度バスの時間だったらしくて焦って走っていったわ」
由比ヶ浜の焦る姿を思い出したのか、雪ノ下は微笑ましいものを見るように笑った。
* * *
土日を挟んでからの月曜日。
由比ヶ浜からの視線をチラチラ感じつつ過ごしていたら放課後、という日々だった。「やあ!こないだはおつかれ!」なんて爽やかな会話をすることもなくチャッチャと部室に移動する。
寄り道せずに部室に直行したら既に雪ノ下がいた。定位置で文庫本を読んでいる。軽く声をかけると小さく会釈された。無視されなくなっただけいいですね。
俺も腰かけ、鞄から文庫本を取り出し読み始める。昼休みにメールが来たのだが、俺が筋トレのために部室を離れていいのは週二回、一時間ずつらしい。たしかに、筋トレの為に毎回場を離れているならなにしに来てんだって話だわな。かと言って筋トレをしてない時間はただこうして本を読んでいるだけだ。これはこれで何をしに来ているのかわからない。ただただ時間を浪費している気がしてならない。これでいいのかと不安になってくる。
「なあ雪ノ下」
「あら、どうしたの」
「この部活ってさ」
言いかけたところで戸をノックする音が聞こえた。雪ノ下が「どうぞ」と言いかけている途中で戸が開けられた。
「やっはろー!」
頭の悪そうなあいさつと共に由比ヶ浜が入ってきた。
「こんにちは由比ヶ浜さん」
「おう」
雪ノ下は愛想よく、俺は適当にあいさつを返す。
「雪ノ下さん、ヒッキー!こないだはありがとね!」
俺がやらずにいた爽やかな発言をさらっとこなしてきた。つよい。
言いながら鞄からピンクのリボンが結ばれたセロファンの小包を取り出す。
「でさ、これ!お礼にクッキー作ってきたんだ!」
「「うっ…」」
雪ノ下と俺でハモってしまった。由比ヶ浜が鼻歌混じりに取り出したものは相も変わらず禍々しい漆黒の結晶だった。俺と雪ノ下の視線が注がれたソレを雪ノ下に手渡し、由比ヶ浜は困惑気味の雪ノ下に色々話しかけている。先日のやりとりでどうやら雪ノ下に懐いてしまったようだ。微笑ましい。
「いやー、料理ってやってみると楽しいよねー。今度はお弁当とか作っちゃおうかなーとか。あ、でさ、ゆきのん一緒にお昼食べようよ」
「そ、それは構わないのだけれど。でも私はいつも部室で一人で食べているから。ここまで来るだけで移動に時間がとられてしまうわよ」
「いいよいいよーそれくらい。あ、それでさ、あたしも放課後とか暇だし。部活手伝うね。いやーもーなに?お礼、これもお礼だから?全然気にしなくていいから」
「ちょっと……近い」
雪ノ下に由比ヶ浜がぐいぐい迫る。
ゆるゆり空間に男は不要だ……。自販機でも行こうかとこっそり部室を出ようとすると「ヒッキー!」と呼び止められた。振りかえると眼前に暗黒物質が飛んできたので咄嗟に回し受けで弾いた。なんと!俺の空手は未知の物質すら防ぐレベルなのか!
「あ───っ!ちょっ!なにするし!!」
よく見ると暗黒物質ではなく、透明な袋に入れられた由比ヶ浜の焼いたクッキーだった。判断が難しいんだよ。暗黒物質見たことないけど。
「あ、悪い」
「悪いのひとことで済まされた!?ちょっとゆきのん~!ヒッキーひどくない!?」
「女子の手作りクッキーに対する反応ではないと思うけれど、気持ちはわかるわ」
「あたしよりもヒッキーに共感しちゃうんだ!?」
いつの間にかゆきのん呼びになっていた。雪ノ下は苦笑しているがそれをツッコむこともなく受け入れたようだ。
床に叩きつけられ砕けたクッキーを拾い外に出る。廊下に出ても由比ヶ浜のむきーっという可愛らしい怒り声と、雪ノ下の声量の割りによく通る澄んだ声が耳に入る。俺は二度目の高校生活で初めて穏やかな気持ちになりながら廊下を歩いた。
プレビューに目を通してて、ツナギの素材変えるってそれ隠し味とは違くねと気付きました。
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07
四限目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。昼休みだ。周りが賑やかになっていく。
昼休みに大人しく自分の席で黙々と飯を食う奴は少ない。席を移動して友達と飯を食う奴、購買にダッシュする奴、他の組(ヤクザ組織のことではない)に移動する奴。さまざまだ。俺も高校生の頃はどっか外に飯を食いに行っていたはずだ。だが今の俺は少ない奴の一人だ。
登校時にコンビニで買ってきたミックスサラダ、肉野菜炒め、鳥五目おにぎりを机に並べ、スマホでニュース記事を読み進めながら適当に食い始める。行儀が良いとは言えないが、そんなものを咎める人間などいない。
前の席では相模南を始めたとした、クラスでも目立つ女子生徒4人が椅子を持ってきて集まって食っている。今朝のHRで、くじ引き形式で席替えをしたのだが、相模が俺の前に来た。戸塚と近くになりたかったのだが、俺の希望は打ち砕かれた。これではなんの為に生き返ったのかわからない。やっぱ学校って糞だわ。
俺がどっか行けば彼女たちは空いた席を使って広々と飯が食えるのだが、そんな配慮なんぞしてやらん。
スマホのニュース配信サイトでは都市部でシャブが蔓延だとか政治家が失言で退任だとか、そんなニュースばかりだ。記事を流し読みしていると窓際から賑やかな会話が聞こえてきたので視線を向ける。
このクラス、というか校内においても一際存在感のある7人組だ。爽やかイケメンの葉山隼人を中心に軽いノリでよく喋る金髪の
アラフォーと化した今となってはどうでもいい言葉だが、スクールカーストという言葉に則って格付けをするならば最上位の連中だ。
大和……、お前高校の頃は葉山のオマケとはいえスクールカースト最上位の連中の一人だったのに、大人になったらパッとしないヤクザになっちまったなあ。お前がよくくっついてた兄貴分の大井は5人ぶっ殺して死刑執行待つだけの身だし、これからどうすんだよ。大井が殺人でパクられてからもなりゆきで一緒に行動することはあったけど、おまえ別に俺の部下ってわけじゃないし俺が面倒見る義理もないぞ。……いや俺も死んでたわ。どんなに腕っぷしが強かろうがシノギ持ってようが死んだらそこで終わりだし、俺や大井よりよっぽどまともじゃねえかオメー。
「あの……あたし、お昼ちょっと行くところあるから……」
「えー、また?てかさー、最近結衣付き合い悪くない?こないだもそんなこと言って放課後どっか行っちゃってさー」
俺が指の欠けていない大和をぼんやりと眺めていたら、突然三浦が由比ヶ浜に絡み出した。なにか気に入らないことがあるらしい。
「やー、それはなんて言うかやむにやまれぬというか私事で恐縮ですというか……」
アホ議員の思いつきで国会に呼び出され答弁をする官僚のような受け答えをする由比ヶ浜はまさに文字通り、恐れ縮こまっていた。三浦はそんな由比ヶ浜の態度が余計に気に入らなかったのか、より強く詰問する。
「それじゃわかんないから。言いたいことあんならはっきり言いなよ。あーしら、友達じゃん。そういうさー、隠しごと?とかよくなくない?」
「ごめん……」
「だーからー、ごめんじゃなくて。なんか言いたいことあんでしょ?」
三浦の怒気を感じたクラスメイト達は静かになっていく。
相手の顔色を窺い気を使うタイプの由比ヶ浜はどんどん小さくなっていき、好き放題言い合いたいタイプの三浦はどんどん苛々を募らせていく。
俺も二人のこのやりとりに思うところがないわけではないが、口を挟むつもりはない。俺が口をつっこむような問題でもない。五目おにぎりを咀嚼しながら、身体ごと彼女たちの方を向きぼんやりとやりとりを見ていた。
すると、突然三浦がこちらを向き、言ってきた。
「ちょっとあんた、さっきから何見てんの」
「ん?」
「何見てんのって言ってんだし」
突然こちらに矛先が向いたのできょとんとしてしまった。由比ヶ浜は俺以上にきょとんとしている。俺だけが見ているわけじゃないだろ……。いや、ほかの連中はチラチラ盗み見たり聞き耳立てている程度か。ガッツリ見ているのは俺だけで、それが気に食わなかったらしい。
「いいだろ別に。減るもんじゃないだろ」
「は?見せもんじゃないんだけど」
「人目のあるとこで目立つことしといて、見せもんじゃねえってのは無理だろ」
いきなり絡まれ苛ついた俺は、声は若干低くなってしまったが、極力穏やかに答えた。
ヤクザ同士ならば「見せもんじゃねえぞコノヤロー」に「テメーのアホヅラが見せモンじゃなけりゃなんなんだよ」などと言えば即喧嘩だが、三浦はヤクザではないようで「む」と反論を止めた。「比企谷のくせに生意気だ」的なことを言われるかと思ったが、意外と人の話を聞く。単に名前を覚えられていないだけかもしれないが。
「二人だけで話がしたいならこそこそやればいい。由比ヶ浜だって人目があるから言えないのかもしれないだろ」
目立たないインキャの比企谷と三浦以上に存在感のある雪ノ下の二人と会うのを優先しているなどと人前で言っては、三浦のメンツを潰してしまうのではないかと気にしているのかもしれない。しかし突然自分に話が返ってきた由比ヶ浜は素っ頓狂な声をあげた。
「えっ」
「結衣、そーなん?」
「えっ、いやその…」
由比ヶ浜はまたしどろもどろしている。三浦のメンツを気にしていたのではなく、単に三浦にビビっていたようだ。大丈夫かあいつ。
「まあまあ優美子も結衣も、ヒキタニくんの言うとおりだよ。ちょっと悪目立ちしてるし、クールダウンがてら飲みもの買いにいこ。ね?」
「俺はヒキガヤだ」
「え、えっと」
「そーね。あーしも喉渇いたし」
海老名が三浦を宥め、俺の自己主張を完全に無視しながら二人を外に連れ出した。教室が静かになったが、じきにほかの生徒たちが喋りだしまたうるさくなった。葉山たちもばつが悪そうであるが、男同士で駄弁りながら飯を食っている。耳に入ってくる周囲の会話の中には、インキャの分際で三浦たちを外に行かせた俺を話のネタにしているものもあれば、俺への視線も感じる。なんで俺が注目を浴びてるんだよ、馬鹿か。
視線に不快感を覚えながら肉野菜炒めを頬張っていると俺に向けられる視線が消え、クラスがまた静かになった。
「あの、由比ヶ浜さんはいないのかしら」
声量の割りによく通る澄んだ声が聞こえた。こんな声をしているのは雪ノ下雪乃しかいない。雪ノ下は由比ヶ浜に用があって2-Fの教室に来たらしい。どうやらクラスメイトの視線は声の主に向いていたようだ。
雪ノ下は俺の存在に気付いたようで、こちらに歩いてきた。お前みたいなのに声かけられたらまた変に目立つじゃねえかよ。
「昼休みの教室で堂々とぼっち飯をしている比企谷くん。由比ヶ浜さんはいないのかしら。彼女といっしょにお昼を食べる約束だったのだけれど。入れ違いかしら。携帯の番号も訊いてなかったから連絡も取れないし」
昼休みにわざわざ部室に移動してぼっち飯をしていたお前に言われたくない。だがそんなことを口に出すと機嫌を損ねそうなので勿論言わない。
「由比ヶ浜ならさっきクラスの友達と出てったぞ。お話会だそうだ」
俺が誘い水だったことは言わずに答えた。雪ノ下は溜め息をついてから右手を自分の額にやりかぶりをふった。
「今日のお昼を誘ってきたのは彼女だったのだけれど。私は謀られたのかしら」
「たばかられたってそれ女子高生が使う言葉か?今日はちょっとワケアリみたいだから部活のときでも話せばいいだろ。部員じゃないけどどうせ来るだろ」
今、どこかで三浦にぶち殺されていなければ多分来るだろう。
実際のところ、冗談ぬきにしてもきちんと話ができているかは怪しいが。言いくるめられていたらもう来なくなるかもしれない。だがそれも一つの結果で、それも由比ヶ浜の人生だろう。しらんけど。
俺が女子三人のお話会に適当に想いを馳せていると、雪ノ下は顎に手をやり何やら考えるそぶりをしていた。
「どうした?」
「そういえばそうよね。彼女、部員ではなかったわね」
「そうだぞ。なんなら俺も」
「あなたは部員でしょう」
「あっはい」
俺も『気が向いたらいく』くらいのポジションにしたかったがそれは認められなかった。
「今日の部活で、改めて彼女を部員に勧誘してみるわ。関係者でもないまま部室を気軽に出入りしているのも正しい形ではないし」
「おっ、そうだな」
適当に相槌を打ち、手持無沙汰に教室を見まわす雪ノ下に飯を誘ってみることにした。
「なあ雪ノ下。由比ヶ浜が捉まらないなら一緒にここで飯でも食うか?」
俺の言葉に雪ノ下は一瞬きょとんとしたが、すぐに眉を顰めて見下ろしてきた。
「……やめておくわ。私のような校内屈指の優等生の美少女とお昼を一緒になんてしたら、貴方は私を脅しているのではないかという噂を立てられてしまうわ。流石にそれは可哀想だから」
「同じ部活の人間なのに仲良くしてるという目では見られないのかよ」
「残念ながらそうね。どのみち、私のお弁当は部室に置いたままだから」
「そうか。はよせんと飯食う時間無くなるぞ」
「そうね……」
雪ノ下は大きな溜め息をついて教室を出て行った。雪ノ下の歩く速度では今から部室に戻っても急いで弁当をかっこまねば、5限目に間に合わないだろう。災難でしたね……
雪ノ下が出ていくと教室は再び騒がしさを取り戻し、やはり俺は奇異の視線を向けられる羽目になった。
その後、結局戻ってきたのは海老名だけだった。由比ヶ浜と三浦は早退したらしい。おいおい大丈夫か。
* * *
放課後の部室。
相変わらず俺も雪ノ下も文庫本を読んでいた。
雪ノ下が何を読んでいるかは知らんが、俺は警察小説を読んでいる。警察小説は重いものは本当に重いが、大抵のやつは話が軽くサクッと読める。文体も簡潔で会話だけでページが流れていくことも多い。冗長で鬱陶しい言葉遊びも無いので、なんならラノベより気軽に読める。今読んでいるものも人気のシリーズ物だが、若干ご都合主義のきらいはあるがやはり読み易い。
突然雪ノ下が溜め息をついたのでそちらを見やる。雪ノ下も俺の方を向いて言った。
「来なかったわね、由比ヶ浜さん」
「そうだな」
時計の針は四時半の位置にある。
3人のお話会はどうなったのだろうか。わざわざ海老名が教室の外に連れだしたのだ。三浦も馬鹿ではないだろうし、落ち着いていれば由比ヶ浜の話を聞いたはずだ。由比ヶ浜がちゃんと言いたいことを言っていればの話だが。
由比ヶ浜も三浦も帰ってしまったし海老名にわざわざ顛末を訊く間柄でもないので事情は知らないままだ。
俺は本を閉じ、「う~ん」と唸りながら大きく伸びをした。
「筋トレしてえな」
「おじいちゃん、筋トレなら昨日したでしょう」
「雪乃さんや、筋トレは毎日しないといけないんじゃよ」
筋トレなど別に帰ってからでもできるが、理想とするトレーニングメニューを完遂するにはこの時間にも数セットこなしておきたい。
「そうだ、誰も来ない日なら部活終了1時間前から筋トレ解禁にしてくれ。誰か来たなら連絡くれれば即戻ってくるし。帰り際に荷物だけ取りに来るだけなら、俺が汗臭くても問題ないだろ?」
「それは……そうかもしれないけど、その間に平塚先生が来たらどうするつもり?」
「モノは試しだろ。そうそう困るもんじゃねえって」
「あっちょっと比企谷くん」
言いながら俺は席を立ち、屋上に続く階段の踊り場に向かった。
俺は上着とシャツを脱ぎ、上半身は肌着だけで腕立て伏せをしていた。大胸筋にも部位があり、それぞれに効くトレーニングをしたいのだが、今の俺の筋力ではそれらを十分にこなせないので手の位置を肩幅に広げるオーソドックスな腕立て伏せだけをしている。多少はゆとりを持ってできるようになったので、そろそろ部位別に大胸筋を鍛えるかな……と考えてるとスマホが鳴動した。
画面を見ると雪ノ下から通話の着信だ。怒りの呼び戻しだろうか。扱いが雑すぎただろうか。無視するわけにもいかないので通話に出る。
「はい比企谷」
「私よ。依頼があるから戻ってきなさい」
それだけ言って通話が切られた。名乗りもしないとかオレ詐欺かよ。シャツと上着を羽織り、部室に戻る。
部室の戸を引くと、長テーブルを挟んで雪ノ下と由比ヶ浜が座っていた。わざわざ来たのか今度はなんだ、と思ったが目の周りは赤く、メイクも落ちている。泣いていたのか。雪ノ下の手にはハンカチが握られており、それで拭いていてやったようだ。由比ヶ浜はまだ鼻をすすっている。なんだこの空気。
「比企谷くん」
「はい。話を聞こうか」
雪ノ下にキッと睨まれた俺は、大人しく雪ノ下と隣の椅子に座った。雪ノ下とは二人分の距離が空いている。さっきまで筋トレをしていたので、座ると汗が噴き出してきた。発汗している俺を見た雪ノ下は顔をしかめ、椅子を若干動かし俺と距離をとった。おい、傷つくだろそういうの。
俺が傷ついたところで由比ヶ浜が口を開いた。
「ゆきのん、今日はごめんね。約束してたのにあたし行かなくて」
「え、ええ。それはもういいわ。貴方の話を」
「うん……あのね、あたしちょっと、友達とけんかしちゃって……」
「そう……」
俺は黙って聞いていたが思い当たるところがある。というか思い当たるところしかないまである。俺が「外でやれ」と言い、彼女たちは大人しく移動して話し合うことにした。そこで話がうまいこといかなかったのだろう。おいおい、俺のせいになるのか?
しかし喧嘩?由比ヶ浜が三浦に一方的にガーガー言われてぶちのめされたならわかるが喧嘩ってどういうことだ。
「あたしちょっとさ…なんていうのかな。人に合わせないと不安ってゆーか、自分の意見をちゃんと言えないとこがあってさ」
「でしょうね」
雪ノ下辛辣ゥ!由比ヶ浜は「たはは」と苦笑して続ける。
「
優美子が三浦で姫菜が海老名だったか。たぶん。
そこまで話して由比ヶ浜はうつむき黙ってしまった。俺と雪ノ下は顔を見合わせた。頷き、由比ヶ浜が言葉を続けるのを待つ。
「優美子に、言いたいことがあるならはっきり言わないとわからないって言われて……」
「まあ言いそうだな」
「それであたし、今日はちょっと、その、不安定だったから、イラッとして言い返しちゃって」
「……」
デリケートなはずのことをさらっと言われた気がする。よっぽど混乱しているのだろうか。反応に困る俺はただ黙って聞く。
「なんで優美子にそんなこと言われなきゃいけないの!って……優美子もすごいショック受けたみたいで、固まっちゃって」
んっ?
んん?
横の雪ノ下は俯きながら小さく肩を震わせている。
まだ、まだだ。まだ笑うんじゃない。話はちゃんと下げまで聞かないといけない。
「あたし……どうしたらいいのかなって」
「反抗期の娘かァ!」
そして三浦は娘の反抗期にたじろぐ親かよ。
我慢できずに野太い声で言ってしまった。
「えっ」
「ンッ!ンッ!ンンッ!」
由比ヶ浜は突然上げられた大声に驚き、雪ノ下は笑っているのを咳払いで誤魔化そうとしている。いや全然誤魔化せてないから。
「これからも仲良くしたいなら謝ればいいだろ。ちゃんと仲直りしろ」
「ええ……どうやって謝れば……」
「知らん。そんくらい自分で考えろ」
俺は席を立ち、バッグを肩にかけた。
「俺今日はもう帰るから。雪ノ下、あとは面倒みといて」
「面倒みるってなんだし……」
「わかったわ」
「えっ、わかっちゃうんだ!?」
なに普通に突っ込んでんだオメー。
俺は溜め息をついて部室を出た。
* * *
翌日。俺は遅刻ギリギリに登校した。
いつも騒がしいメンツがたむろしているところに視線をやると由比ヶ浜も三浦も普通にけたけた笑いながら会話していた。
えっ、なに、もう仲直りしたの?昨日の目を腫らしていた由比ヶ浜はなんだったんだ?由比ヶ浜から聞いたけんかの理由は他愛も無いものだったが、そんなすぐに仲直りとかできるものなのだろうか。
俺の視線に気付いた由比ヶ浜がこちらを向き、ニッと笑顔を見せた。俺はやんわりと口角を上げそれに応えると、由比ヶ浜はうげっという顔し、すぐ会話に戻った。
なんなんだ……女子高生の行動はオッサンにはようわからん。なんなら高校生の頃からわからなかった覚えがあるが。
その日の昼は、由比ヶ浜は三浦たちと楽しげに飯を食っていたが、放課後にはやはり楽しげに奉仕部の部室に来た。その、アレじゃないだけでこうも変わるもんなんですかね。
雪ノ下の提案で改めて由比ヶ浜は入部届けを出し、部員になった。
更に雪ノ下は部活中の筋トレの禁止を提案し、由比ヶ浜も賛成し多数決で可決された。半分泣きました。おかしい。こんなことは許されない。
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B
関越自動車道を嵐山小川で降り、ナビに従い国道254号線まで出る。型落ちの古臭いレガシィツーリングワゴンが切り開かれた山肌に挟まれた道を法定速度で走る。
「比企谷さん。もうすぐ着きます」
運転している
起こすなよ、もっと寝かせておけ。大和はそう思った。
比企谷が目を開ける。永い年月をかけて深く堆積したヘドロのような、どろりと醜く濁った眼がレガシィの天井を睨んだ。視覚情報だけで脳が腐臭を感じる
大和は比企谷の眼が苦手だ。
大和と比企谷は高校の同級生だった。比企谷は高校の頃から濁った眼をしていたが、当時はイジけたガキ特有の自己愛と開き直り、自己嫌悪と屈辱を混ぜ込んだつまらないものだった。しかし32歳のときに組の兄貴分である大井の手引きで再会した比企谷の眼は、高校生の頃とはまったく違うものだった。大和には高校の頃の比企谷と同一人物とは思えなかった。歌舞伎町に巣食う悪鬼のような不良外国人や、刑務所で見た凶悪犯罪者のそれとはまた違う昏い意志を秘めており、目が合うだけで精神が摩耗していく。
「大和、今何時だ」
比企谷が振りむきもせず、運転席側後部座席に座っている大和に訊いた。
「9時半を回ったところです」
「俺の時計はまだ28分だぞ。お前の安物時計ちょっと早いんじゃねえのか」
大和が答えると、比企谷は左手に巻いた時計を見て返した。時折自慢しているスイスの高級ブランドの逸品だ。
──くそが。最初から自分で確認しろよ。
そんなこと思っても言えない。比企谷は組の兄貴分である大井と五分の兄弟なのだ。ヤクザとしての
永弦会系のヤクザは他の組織を舐め腐っている
比企谷は本来は白塚組の若頭の
大和と金本が所属している
比企谷はシートを倒したまま懐からメタルフレームの眼鏡を取り出し装着した。眼鏡はテンプルが太い形状をしており、こめかみの傷痕を隠した。七三気味に撫で付けたオールバックのヘアスタイルと、グレーのピンストライプが入った仕立てのいいダークグレーのスーツ。それを着こなす
この風体だけで言うならば体育会系上がりの弁護士に見えなくもないが、眼鏡程度では隠しきれない刺し貫くような鋭い目付きと、見据えられるだけで吐き気を催す濁った眼は堅気ではありえないものだ。
大和の視線をよそに、比企谷は携帯電話──道具屋に調達させたであろうシンプルなものを取り出し電話をかけ始めた。その手はゴツゴツと厳つく、拳だこができている。
「俺だ。そっちは動きがあったか。……わかった。こっちはこれから
比企谷は通話を切るとシートを起こし、ウィンドウを半分下げた。外の景色を眺めながら煙草を咥え、吸いつける。煙を外に吐き、言った。
「埼玉はそこそこ栄えてるイメージだったけど、この辺はなんもねえな」
「埼玉は都心以外はなんもないですよ。もうちょっと進めばゴルフ場やデカイ工場があって、その先には住宅街があります」
「そこに
大和が比企谷に答えると、金本が説明を補足した。とは言っても、元々比企谷が手にした情報を元に周辺地理を調べただけなのだが。
「工場ってホンダのだったか。ホンダの従業員でもねえのに好き好んでこんなクソ田舎に来るとか頭おかしいんじゃねえの」
ホンダ勤めをしていない住民が聞いたら激怒しそうな暴言を比企谷が吐いたが、そこには大和も同意した。
254号を北上していると田んぼ景色の中に家やアパート、町工場がちらほら視界に入ってきた。まさに田舎町といった具合だ。人通りも少なく、寂れている。
町中をゆっくり進んでいくと、黄ばんだ壁に
「あのぼろアパートだ。このまま周りの区画を一周しろ」
比企谷の指示に従った金本がぼろアパートの周辺をゆっくり流す。周辺を見渡しながら比企谷がまたなにか電話をしている。比企谷の指示で脇道に入り、ぼろアパートが見える位置に車を停めた。
「金本はここから見張れ。目付きの悪い連中が来るようなことがあったら大和に連絡しろ」
言うと比企谷は車を降りた。大和も続いて降りた。
比企谷はサイドミラーを覗き込み、一房ハネた髪を手櫛で撫で付けるとぼろアパートの方向にまっすぐ歩き出した。大和は周囲を見回しながら問う。
「羽田のやつ、いますかね」
「若いのに張らせてたが、チンピラが一匹コンビニに行ったり来たりしてるらしい。飯とかを何人分か買ってったってよ。多分清川と羽田の分だ」
「ってことは
「ガードされてんのか軟禁されてんのか知らんがいるはずだ」
「でも、本当に羽田絡みですかね。まったくの別件でここにいるとかは……」
「もしそうなら俺は無駄足を踏まされたことになる。清川が俺に勘違いさせたせいでな。だったら俺には憂さ晴らしのために清川をぶちのめす権利がある。そうだろ」
滅茶苦茶だ。自己中心的で凶暴なのがヤクザの常であるが、比企谷もその例に漏れない。比企谷は表にも裏にも事業をもっており、普段はインテリぶっているが、根っこは輪をかけての暴力の信奉者だ。大井は笑いながら人を殴るタイプの異常者だったが、比企谷は涼しい顔をして人を殴る。
だがここまで来て今更逃げ出すことなどできない。大和は清川が羽田を連れてここに来ていることを期待した。
「羽田は
「要らん。鬱陶しい。羽田に全部吐かせばいい」
「はい」
比企谷の顔が険しくなってきたので話を切り上げた。清川のヤサに近付くに連れて怒りがこみ上げ来たようだ。
羽田は一時期名の通ったファンドを動かしていた投資家だ。今回、羽田は投資話を東京の複数の組に持ってきており、組筋から金を引っ張るだけ引っ張り、姿をくらました。羽田は皆戸一家と道塚組のフロントからも金を引っ張っており、大和も比企谷も羽田を追っていた。組長の道塚に忠誠を誓っている比企谷は何が何でも羽田の身柄を押さえ、金を回収する腹だ。豊富な資金力を持つ道塚組は詐欺師に払った金が戻らなかったくらいで金に困るような組ではないだろうが、舐められたまま引きさがればヤクザは大手を振って歩けなくなる。
羽田が消えるのに前後して渋谷の城山組の組員を見かけなくなったことを比企谷の兵隊が報告したのをきっかけに、二人で城山組の周りを漁りだした。その中で城山組の組長と羽田が旧知の仲であることと、城山組幹部の清川が埼玉の田舎に組員と交代で詰めていることを嗅ぎ当てた。それが日を跨いだ頃のこと。そこから比企谷が聞き出した清川のヤサに見張りを送り、二人で暫く都内をかけ回ってから西新宿にある白塚組本部事務所で仮眠をとり、大和が金本を呼び出して今に至る。
比企谷はアパートに着くと駐輪場の自転車を弄りだし、ハンドルを抜き取った。
「行くぞ」
比企谷は片側の取っ手のゴムを引き抜きながら階段を上がっていく。情報では清川のヤサは三階。二人は目的の部屋の前に立った。303号室。電気のメーターは回っている。
大和がドアに耳を当てると人の声が聞こえる。会話しているのかテレビを観ているのかは定かではなかった。
比企谷はドアから離れたところに壁を背にして張り付くように立ち、大和に向けて顎をしゃくった。「お前が呼び出せ」ということだ。中にいる城山の組員に大和の面が割れてないとも限らないが、どちらにしろ
大和は短い髪を七三気味に左右に流し、ネクタイを締め直し、懐に入れていた黒縁の伊達眼鏡をかけた。着ているものは比企谷のものとは違い安っぽいくたびれたスーツだ。以前大井によく「ガタイの割りに到底ヤクザに見えない」と言われた人相と相まって、体育会系上がりのサラリーマンの風体だ。左手の小指は欠損しているが、右手を上に重ねればドアの覗き穴越しには判らない。
身だしなみを整えて比企谷を見た。比企谷が頷く。右手にハンドルのゴムの付いた側を握り直している。
二回深呼吸してからチャイムを押した。中が静かになる。一呼吸おいてからもう一度チャイムを押した。
「はいどちらさん」
釣れた。
「すいません、管理会社の者なんですが。大家さんからここの上の階の水道管が破裂したと連絡を受けまして、そちらまで水漏れしてないかと確認に伺ったんですが……」
「なにィ!?」
短い茶髪の男が吠えながらドアを開け飛び出してきた。
「まだ漏れてきてねぇけどそれァお前」
茶髪が言いかけたところで比企谷が踏み出し、振りかぶったハンドルを茶髪の頭に振りおろした。ガツッと音がし、茶髪が声も無くその場に崩れかける。倒れるより早く比企谷が腹を蹴り、茶髪はドアの奥、廊下に吹き飛ぶようにして倒れた。比企谷が土足で廊下に上がり込み、大和もそれに続く。
「なんだテメーら!」
奥の部屋から眉を剃ったパンチパーマの男が凄みながら出てくる。構わず比企谷が近付くと眉無しパンチが懐から木の棒きれを取り出した。眉無しパンチが棒きれを持つ手を動かすと刃が現れた。棒きれ──
大和が近付いても、茶髪も眉無しもぴくりとも動かない。
──すさまじい……。
大和は震えた。不意を突いたとはいえ、比企谷はあっという間にヤクザを二人スクラップにしてしまった。しかも一人は刃物を持っていたにも関わらず。比企谷の喧嘩を見るのは初めてではないが、相変わらず際立っている。大井はその腕っ節と容赦の無さで東京最強の名を
比企谷には永弦会会長のガードをしていた21歳の頃に、会長を狙い拳銃で襲撃してきた三人組のヒットマンを素手で撃退し、逆に傷害で逮捕されたという武勇伝がある。武勇伝はとかく誇張されて広まるものだが、この手際を見るとそんな荒唐無稽な話も信じてしまう。
大和がドアを閉めて鍵をかけると、奥では既に比企谷が小太りの中年ハゲ男を殴り倒していた。
「そいつが羽田ですかね」
「知らん。けど多分そうだろ」
大和は親分から羽田の風貌を「小太りの薄らハゲの中年」と聞いていたが、まさにそれに一致する。
「このデブを浴室に運べ。浴槽に放り込んでやれ。俺はこいつらを縛っとく」
比企谷はデブを大和に押しつけ、廊下に倒れている茶髪を奥の部屋まで引きずり込んだ。大和がやっとの思いでデブを浴槽に運び入れると、比企谷が火の付いた煙草を咥えながら入ってきた。左手に名刺を、右手にハンドルを持って入ってきた。ベルトには鞘に戻した匕首を差し込んでいる。小さな浴室に男三人は狭い。
「茶髪はチンピラだな。パンチが清川だ」
言いながら名刺を渡してきた。横書きで『城山総合企画 主任 清川』とある。代紋は入っていない、横書きの名刺だった。
比企谷が蛇口を開き、水の勢いを最大にして浴槽を浸し始めた。大和も煙草を吸い、浴槽が水で満ちるのを待った。比企谷は短くなった煙草を浴槽に放り、新しい煙草に火をつける。漆塗りのデュポンのライターがピンッと小気味いい音をたてた。
「そういえばよ」比企谷が大和に話しかけた。「大和、犬買ってたよな」
「ええ。二匹とも大型犬です。可愛いですよ」
「大型犬か。世話すんの大変じゃねえのか」
「たしかに大変なことも多いですけど、元々が利口な犬種ですしちゃんと躾ければ不要な面倒をかけられることもないし、番犬としてもいいですよ」
大和には籍を入れてはいないが、女と娘がいる。普段は別居しているが、暴対法や暴排条例をかわすためにそうしているのであって家族仲は悪くないと思っている。その家には週に二度三度しか顔を出さないが、そんな大和に尻尾を振りながらかけよってくる犬が可愛くて仕方が無い。女と娘も犬を散歩に連れて行ってはいるが、犬たちは常に全力で遊びたがっており、大型犬のそれを受け止められるのは家族では大和だけだ。
「お前急ににやけんなよ、気持ち悪い」
「え、笑ってましたか」
「ニターッて笑ってたよ、ニターッて。まあいいや。でよ、女が犬飼いたがってんだけどよ、躾って簡単にできるもんなのか」
比企谷は数年前に離婚したが、それからは愛人のマンションに転がりこんでいると聞いたことがある。凶暴なヤクザだが、どういうわけか女がいない期間がない。結局は金を持っている男に女は靡くのだ。
「犬種や個体によって差はありますけど、そんな簡単にほいほい言うこときかすようにはできないですよ。向こうも生き物なんですから」
「だよなあ。愛玩動物欲しいならハムスターでも飼っとけつったんだけどよ、聞きゃあしねえ」
犬の話をしていると、水浸しになったデブが、うう、と呻いた。比企谷はシャワーヘッドを手に取り、デブの顔に水をかけ始めた。デブが震え、目を覚ました。
「なんっ、なんだお前ら」
「抑えつけろ」
比企谷がシャワーを止めると、大和がそれをデブの頭を掴み浴槽に沈めた。デブが暴れようとするが、体格のいい大和はキッチリ抑え込み逃がさない。水がはねて背広やシャツにかかるが、ここで逃がしてしまったら比企谷に何を言われるかわからない。溺死しない程度に沈めてから、首根っこを掴んでひっぱりだす。水を吐きながらもがくデブを見下ろしながら、比企谷は煙草の煙を吐いた。
「答えろデブ。お前が羽田か」
「がはっ、や、やめっやめろ。俺にこん、こんなことして」
「暴れんじゃねえ。水がはねるだろうが」
デブの背中をハンドルで打ち付けるとデブが苦悶に呻く。
「そ、そうだ。俺がはへ、羽田だ。やめてくれ」
「立たせろ」
羽田の首ねっこを掴み立たせると即座に比企谷が羽田の右肩を掴んで捻った。ごり、と嫌な音がして羽田の右腕が力無く下がる。羽田が苦悶の叫びを上げようとした瞬間に比企谷は腹を殴り、羽田は目を剥きうずくまった。空気を洩らすような音を吐き、そのまま胃の中のものを浴槽にまき散らした。
「汚ねえなバカヤロー」
言いながら比企谷は羽田の右肩をハンドルで殴る。自らの吐瀉物が浮いた浴槽に身を沈め、羽田は恐怖と苦痛で涙目になりながら左手で右肩を押さえている。比企谷がその左手にハンドルを振りおろすと、硬いものが割れる音がした。羽田が口の端から吐瀉物と涎まき散らしながら泣き叫んだ。
比企谷は即座に左手で羽田の頭を掴み、ハンドルを羽田の口に突っ込んで黙らせる。喉の奥にまでハンドルを突き立てられた羽田は、んごおっ、とだけ呻いて声を出せなくなった。
「比企谷さん、死にますって」
大和が比企谷を窘める。羽田の顔はひきつり、目を剥いて比企谷を見ている。
「ゲロ
比企谷に言われ、大和は羽田の首をを掴みもう一度吐瀉物まみれの浴槽に頭を突っ込ませた。羽田が力無くもがく。既に弱っている。比企谷もそれを確認したようで、羽田を立たせるとその横腹に煙草を押しつけ火を消し、浴槽に煙草を捨てた。
水と吐瀉物にまみれた羽田を浴槽から引っ張り出し、部屋に転がっている清川とチンピラの衣服を剥ぎ取り着替えさせる。待機させていた金本をボロアパートに前に動かし、抵抗する気力も失った羽田を匕首で脅しながらレガシィまで歩かせ、狭っ苦しいレガシィの後部座席に、呻き声を漏らし続ける羽田を大和と比企谷で挟むように三人で乗り込んだ。
「出せ。高坂SAに行け」
比企谷に言われ、金本は車を走らせた。
比企谷が電話している。見張りに送っていた道塚の組員か、自分の兵隊か、それ以外か。それは大和には判らない。
大和には不安があった。羽田をこれからどうするかとういうことだ。大和は若頭の
大和は隣に座る羽田を見た。力無くうなだれている。縛りもせずに座らせているが、抵抗する気も無いようだ。
大和は緊張しながら話を切り出すことにした。
「あの、比企谷さん。羽田なんですが」
「心配しなくてもこいつは皆戸一家にやるよ」
「え」
予想外の返事に間抜け声を出して固まってしまった。
「オヤジは二億くらい返ってこなくてもいいってよ。子分が稼いできた金をなんだと思ってんだかな」
二億円。大金だ。皆戸一家の出資額の4倍もある。皆戸一家は五千万円で目の色を変えて組員を走らせている。
「ただメンツがあるからな。組に帰ったら捕まえることができたのは道塚組の比企谷さんのおかげですって言っとけよ」
「はい」
「やりましたね大和さん。親分も褒めてくれますよ!」
金本が無邪気に喜んでいる。だが大和は嫌な予感がした。たしかに道塚組にとっては二億円はムキになる額ではないかもしれないが、だからといって組長に恥をかかせた人間をほいほいと余所の組に差し出すものではない。
「ただな、ちょっと訊きたいことがあってな、先に寄りたいところがあるんだわ。高坂PAに俺の兵隊がいるからそっちに積み替えたい」
大和は自分の心臓が大きく跳ねたのを感じた。比企谷が自分の知りたいことを
「ひ、比企谷さん」
「心配すんなって。殺しゃしない。皆戸一家には生きたまま渡す。なんなら一緒に来てもいい」
大和が何を心配しているのかわかっているかのように比企谷はヘラヘラ笑った。
* * *
高坂SAで待っていたのは型落ちの白いハイエースに乗った二人組の若い男だった。一人は青いジャージ、一人はグレーのツナギを着ていた。二人とも精悍な顔付きとがっしりした首回りをしており、ただの喧嘩自慢ではなさそうだった。
ハイエースに羽田を乗せ、金本だけ先に帰らせた。若頭の諸井には「比企谷が後でゴネないようにしっかり説得しておく」とだけ報告して大和もハイエースに乗り込む。さっきまでのレガシィ同様、比企谷と大和で羽田を挟む形になった。
車内の空気は先程までとはまるで違う。羽田が不安に青褪めている。不安に耐えきれなくなった羽田が口を開いた。
「お、俺をどうする気なんですか」
「黙れ」そのひと言で羽田は縮こまり、下を向いた。「言ったろ。殺しはしない。お前には生きたまま皆戸一家に行ってもらう必要があるからな」
比企谷は口の端を釣り上げ
嫌な予感。大和は今の比企谷の言葉の奥にあるものを察知した。比企谷は今回の詐欺の件以外の何かを羽田から訊き出そうとしている。その現場に岐藍連合系組員の大和を居合わせさせ、それを羽田ごと持ち帰らせることが目的なのだ。
よくよく考えればおかしかった。人手に困ることの無い比企谷が、どうして枝内でもない違う系列の組の大和を呼び出し行動を共にする必要があったのか。比企谷ならば道塚組の組員も白塚組の三下も動かせるし、自分の兵隊だっている。事実見張りは道塚の組員に、今現在の移動は自分の兵隊にやらせている。
比企谷は大和に声をかける前に羽田のことを調べるうちに何かを嗅ぎ付け、そのネタを道塚に上げた。道塚は自分でケジメをとることよりもそのネタを割らせることを第一の目的にして比企谷を動かすことに決めた。
金筋の極道である比企谷がケジメをとらせることよりも優先する程のこと。道塚が二億円より優先する程のこと。間違いなく厄ネタだ。それに皆戸一家ひいては岐藍連合まで巻き込もうとしている。大和を介して。
大井さえいれば比企谷も皆戸一家をこうも都合よく扱わなかっただろう。大和はそう思った。悔やんだが、今更逃げ出せなかった。
誤字報告ありがとうございました。
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8-1
妙に長くなったので前後分割しました。
何故か高校生に戻って日数を重ねた。
ヤクザとして生きていた生活や何故高校生に戻ったのか考えるのをやめた俺は、それなりに真面目に高校生をやっていた。遅刻もあんまりしないし授業だってちゃんと受けている。色々と不便を感じたり苛つくことはあるが、今のところちゃんと高校生をやっている。やる必要があるのかはわからないが。
それで気付いたのだが授業が意外と楽しい。いや、授業が楽しいというのは正確ではない。つまらない教師の授業は何を喋っていてもつまらない。前の席の相模もうとうとしている。だが判らないことが判るようになったり、知識が増えるというのはそれだけで満足感がある。新しいシノギに手を出す上で知識を得るのとはまた違う。この感覚、高校生の頃に欲しかった。
あっ、今高校生でした。
「"恥の多い生涯を送ってきました"──」
現代文の授業、前の席の相模が直立しながら太宰治のアレを音読させられている。こいつが人間失格を読んでいる時点で面白い。スカートに覆われた相模のケツを見ながら彼女の音読を聞く。
しかしこいつに恥という意識はあるのだろうか。いや、文化祭でマイクがキーンとなったりしどろもどろなスピーチで涙目になっていたのでそれについては恥をかいたという意識があるだろう。俺が思うのは、他人に迷惑をかけたり約束を破ることを恥と思うか、ということだ。
極道は面子を気にする。なによりも。
他人に恥をかかされたときは殺すし、自分で無様を晒した時にはもう指を詰めて引退するか行方をくらましたりする程だ。自分で自分の男を下げない為にも外聞を気にし、時間厳守に始まり、口約束に命を張る。契約書は破って捨てるけど。
こいつは他人に自分の顔に泥を塗られるのは大層嫌うが、自分で自分に泥を塗るのは気にしないのだろうか。元々の未来では相模はどんな大人になっていたのだろう。
「比企谷、サンキュね」
「ああ」
自分が中てられたぶんを読んだ相模が着席し、俺に教科書を返してきた。こいつは国語の教科書を忘れてきており、後ろの席の俺に借りたものを読んだのだ。わざわざ教科書とか持ち帰ってんのかよこいつ。意外すぎるわ。
相模の隣は女子なのでそっちの方が借りやすそうなものなのだが、他の女に文字通り借りを作るのは癪なのか、インキャの俺に借りてきた。「インキャの比企谷は教科書にうちの手垢をつけてもらえるだけでも感謝しなさいよね!」みたいな感じなのだろうか。俺などには借りを作ったという意識すら持たないのだろう。
俺が教科書を返してきた相模の顔をじっと見ていると、うっとたじろいだ。
「ちょ、なにそんな凝視してんの」
「気にすんな」
「え、う、うん……」
俺は構わず見続けた。
「こらーそこ。相模と比企谷。教科書の貸し借りはともかく、私語は慎めー」
国語教師の平塚先生に注意され相模は慌てて前を向く。前向いてもお前教科書持ってないだろ。相模が前に向き直っても見続けた。教科書は見向きもせずに相模の後頭部に視線を送り続けた。
「き、気になる……」
ぼやく相模を見ている間も他の奴らが続きを音読していく。
「"自分には、禍いのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負ったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました"──」
ここにきて自分本位に犯罪を重ねてきた、禍いのかたまりそのもののようなヤクザもんが女子高生を恥知らず扱いするのはどうなんだと思い至った。相模にも前科持ちのおっさんに蔑まれる謂われは無いだろう。
* * *
「比企谷、また明日ね~」
「おつかれ」
授業がすべて終わり、部活動の始まる時間になった。馴れ馴れしく声をかけてくる相模に適当に返し、由比ヶ浜の方を見た。昼休みに由比ヶ浜が「ヒッキー、今日一緒に部室いこうよ!」と言ってきたので待っているのだが、肝心の由比ヶ浜が三浦たちと長々と駄弁っている。何を話しているかは知らんが随分盛り上がっている。なんじゃあいつ。女子トークで盛り上がってるとこにおじさんが割りこんで強制終了させてやろうか。
由比ヶ浜はほっといて一人で行くか、と思い始めたところで携帯が震えた。ディスプレイに表示される発信元は雪ノ下だった。いつまで経っても誰も部室に来ないからおかんむりなのだろうか。
「はい比企谷」
「比企谷くん?今どこにいるの?」
「教室でおしゃべりする由比ヶ浜を見ている。」
「ああ……。道理で由比ヶ浜さんが電話に出ないのね」
どうやら俺より先に由比ヶ浜にかけたらしい。今の会話で由比ヶ浜が電話に出ない理由と俺たちが部室に行かない理由を察したらしい。
「でも貴方が女子高生をじろじろ見てると不審者として通報される可能性があるからあまり見ない方がいいわよ」
「クラスメイトなんだが?由比ヶ浜が一生くっちゃべってるようなら適当に引っ張り出して連れてくわ」
「そういえば貴方も高校生だったわね。それはそうと、この際由比ヶ浜さんはいいわ。とにかく部室に来てほしいのだけれど」
「どうした、寂しいのか?そんなに俺に会いたいのか」
「部室に変な人が来たのよ。とりあえず中には入れてあげたけど、気持ち悪くて。私は今部室から離れたとこにいるの」
「そうですか」
「待っているから、早く来て」
雪ノ下は俺の冗談を華麗にスルーし、用件だけ言って通話を終了してきた。なんじゃあいつ(数分ぶり二回目)。
由比ヶ浜を置いて一人で特別棟まで来た。階段脇のトイレを通り過ぎようとしたら声をかけられた。
「来たわね」
「うわっ何おまえ」
トイレ前の洗面所から雪ノ下がヌルリと姿を現した。なんでこんなとこに隠れてんだこいつ。
「言ったでしょう。気持ち悪い変な人が来たのよ。あまり同じ空間に居たくなくて」
「ひどい言いようだな。奉仕部に来たってことはなんか困ってて相談に来たんだろ」
「それならなおさら私だけで話を聞くことではないわ。奉仕部はチームなのだから。問題解決にはみんなで当たるべきよ」
だったら由比ヶ浜も待ってやれよ、チームだろ。と思ったが口にはしないでおいた。自分の城である部室に気持ち悪い変なデブが来たのだ。女子高生なら不安になってしまうのは何もおかしくはない。
いや、おかしくね。雪ノ下ではなく俺が。雪ノ下は来客がデブなどという情報は一言も発していない。つまり俺が察してしまったのだ。察したというか思い出したというか。う~ん帰りたくなってきた。家に。
雪ノ下と並んで歩いて部室の前まで来た。入りたくねえなあ。開けたくねえなあ。逡巡する俺を雪ノ下が怪訝な表情で見やり、早く入れと言わんばかりに俺の鞄を小突いてくる。お前それ美少女だから許されるのであってブサイクならブン殴ってるからな。
俺が意を決し戸を引こうと手を出した瞬間、由比ヶ浜が廊下を走ってきた。
「も~!ヒッキー、なんで先に行っちゃうかな!一緒に行こうって行ったじゃん」
腰に手をあててプリプリ怒っている。お前それ美少女だから許されるのであってブサイクならブン殴ってるからな(数秒ぶり二回目)。
「いや~、悪い。部活が楽しみすぎて我慢ができなくてな。でも折角由比ヶ浜も追いかけて来てくれたんだ。部室に一番に入る権利をやろう」
我ながら意味不明な受け答えだが、由比ヶ浜は何も考えてないのか「そ、そう?」とウキウキ顔で戸に手をかけ、引いた。バカな女などヤクザにとってはいい食いもんだが、由比ヶ浜を盾にするのには罪悪感を感じた。許せ由比ヶ浜ェ……。
戸の向こう、部室にはコートをはためかせながら変なポーズをとっているデブがいた。
風が強いなら窓を閉めろ窓を……。
* * *
帰宅後、俺は自室でう~んと唸っていた。
目の前には
由比ヶ浜は露骨に嫌がり、雪ノ下も原稿だけいつもの長机に置かせると材木座を部室から追い出した。あいつら結構酷いよね。
しかし材木座の書いたラノベの原稿だが、なかなか量がある。
俺は読書自体は嫌いではないのだが、何故こうも唸っているかというと材木座───剣豪将軍を自称する中二病を拗らせ芝居がかった挙動が鬱陶しいオタクが書いたこのラノベは読みづらく、要らない方向にくどいのだ、怖ろしいほどに。
材木座のラノベの出来があんまりすぎて俺まで材木座を説明するのにダッシュを多用してしまい、無駄に倒置法を使用してしまった。いかん、毒されている。ちょっとした精神汚染だ。
"朱に交われば赤くなる"という言葉があるが、交わってもないのに毒されるのは困りものだ。電車に乗ったらうんこ臭いやつがいて、違う車両に移動しても自分にうんこの臭いがついてしまったような感じだ。
しかし読むのがこんなにも面倒だとは。俺は目頭を揉んで布団に寝転んだ。気晴らしにまだ読んでなかった剣豪小説を手に取る。
剣豪小説と言っても材木座が自称する剣豪将軍とは無縁だ。チャンバラシーンを目玉に実在非実在問わず剣士の活躍を描いた小説のジャンルだ。
文庫本だが、上下巻を合わせると600ページ弱はある。少しだけ読み進めて、また材木座の原稿を読もう……。
俺は表紙をめくり、読み始めた。
材木座回なのに本人台詞無し。
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8-2
剣豪小説を上下巻を一気に読み終えた俺は相反するいろんな感情で満たされている。高揚感。爽快感。虚しさ。喪失感。激動の時代のうねりが、登場人物たちの生き様と死に様が、ひと息に去来した。
俺は生前もこの作家の小説は読んでいたが、別ジャンルの作品ばかり読んでいた。移り変わりゆく時代に剣に生きた男たちの葛藤、立ち合いの迫力、すべてが濃厚だった。今までこのジャンルに触れずに生きていたことを後悔したまである。
そして窓から差し込む朝日を浴びながら時計を見て、またひとつ後悔した。一睡もしてねえ!
そして材木座のラノベも半分も読んでない。まあこっちはいいや。というかこんだけ読みすすめただけでも頑張ったよ俺。内容は全然覚えてないが。
日課の鍛錬をこなし、シャワーを浴びてから朝飯を作るためにキッチンに向かった。以前晩飯を作ると言って結局作らなかったときは小町に罵倒されたが、その後話し合い、週替わりで飯当番をすることになった。今週は俺が朝飯と晩飯を作ることになっているのだ。
普段はご飯orパン、適当な卵料理と適当なサラダで済ますのだが、熱の燻っている俺はひと手間加えることにした。
フライパンを熱している間に鶏胸肉を適当なサイズに切り分ける。フライパンが熱された頃合いに生卵を投入し、塩胡椒し半熟の目玉焼きを作る。その目玉焼きをスライスチーズを乗せたパンに乗せオーブンで焼く。その間に既に熱されたフライパンでチャッチャと鶏胸肉を焼き日本酒と醤油をサッとかけると、即座に水気が弾けた。朝から味の濃いものを食う気もないので味付けはこれで十分だ。
右手に持った菜箸で鶏肉を転がしながら、左手に持ったスマホで小町にモーニングコールをしてやる。我ながら器用だ。焼いた鶏胸肉を皿に移しオーブンから程良く焦げ目の着いたパンを取り出し適当に鰹節を散らしオリーブオイルをかける。冷蔵庫からレタスを取り出し、ちぎって鶏胸肉の更に盛る。これで十分だろう。
冷蔵庫から牛乳と野菜ジュースを取り出していると小町が寝ぼけ眼でやってきた。
「おはようお兄ちゃん」
「おう小町おはよう」
小町と二人で朝飯を食う。
両親は朝が早く既に出勤している。千葉に一軒家を建て子供二人を養う生活というのは大変なようだ。そんな汗水たらして働いて育てた息子なのに、殺人で逮捕された挙句ヤクザになってしまうとは、俺はなんて親不幸者だろうか。と言っても俺自身は生んでくれとも育ててくれとも言ったおぼえは無いが。
俺が人生を振り返っていると、小町がパンを咀嚼しながら喋った。
「お兄ちゃん、鶏肉好きだよね」
「そうか?」
「そだよ。お兄ちゃんが料理作るようになってから、大体鶏使ってるよ」
別に鶏肉が特別好きというわけではない。高タンパク低脂肪なので体作りをするうえで重宝しているだけだ。
「小町は鶏肉嫌いか?低カロリーだから太らないぞ」
「嫌いとかじゃないけど。つーか低カロリーでもこれしか食べてないってわけじゃないから。日ごろの生活次第でしょ」
「じゃあおやつ食べるのやめなさい」
「それは無理だよ」
う~んこの妹。
* * *
朝から自分の席で突っ伏して寝ていると放課後になった。よう寝たわ。
あくびをしてから伸びをするといろんなところがボキボキと鳴った。
授業を聞かずに寝ているくらいなら家で寝ていればよかった。義務教育じゃないんだから出席だけすることに意味があるなどとは思わない。
もう一度あくびをしてから、部室にいこうと席を立つと由比ヶ浜が寄ってきた。
「どしたのヒッキー。元気無さそうじゃん」
「ちょっと徹夜で本読んじまってな」
「あの変な小説みたいなやつ?」
「みたいなやつって、一応小説だろ。それ材木座に言ったら泣くぞ。というか俺は別の小説を読んでた」
「じゃあヒッキーあの変なの読んでないの?あの人感想欲しいって言ってたのにひどくない?」
「変なのとかあの人呼ばわりとかお前の方がひどいわ」
「やー、でもよかった。全然読んでないのあたしだけとかだったらゆきのん怒っちゃいそうだし」
「読んでないのかよ……。読んでないつったけど多少は読んだからな、俺は。部室行ったら材木座が来るまでにちょっとくらい読んどけよ」
部室に入ると雪ノ下はつまらなそうに分厚い原稿を読んでいた。こいつなんで今読んでるんだ。まさか……。
「あら」
「やっはろー!ゆきのん!」
「おつかれ。雪ノ下、今読んでるってことはそれ……」
「ええ、あんまり読んでないわ」
「まじか~~」
三人とも読んでないとか流石に材木座が可哀想だろう。でもいいか別に。材木座だし。
「読んでないとは言っても多少は読んだわ。それにこう言ってはなんだけど、最後まで読み進めてもあまり感想は変わらないと思うわ」
「だろうな。クソしてからケツ拭くくらいにしか使えねえ」
「ヒッキーきたない!」
「たしかに汚いわね。これで拭いたらインクがつくでしょう」
「ゆきのんまで……」
「お前は少しは読め。クソ拭き紙扱いする権利も持てんぞ」
由比ヶ浜はむぅっと唇を尖らせて雪ノ下の隣に座り、中身の入っていない軽そうなペラッペラの鞄から材木座の原稿を取り出した。折り目の一つもついてねえ……。
俺も自分の椅子に座り材木座の原稿を続きから読み始めた。やっぱこれ読むのキツいわ。
顔を顰めながら読んでいると材木座が来た。
「では感想を聞かしてもらおうか」
そう言いながら椅子にどかりと座った。クソえらそうに腕組なんぞしており、その顔には自信が満ちている。こいつ……。こんなもんを人に読ませといて、何故そうも自分の能力に、いや自分の生命に微塵の疑いも抱かないんだこいつは。
そんな材木座に対して正面に座る雪ノ下は素直に謝罪した。
「ごめんなさい。実は、まだ半分ほどしか読めてないの」
「なんとっ!?我が
「だってつまらないんだもの」
「はぎっ!?」
材木座が喋っている最中に雪ノ下が斬って捨てた。
「つまらないだけでなくて、読むのがとても苦痛なの。罰ゲームだとしてもあんまりよ。まず日本語としておかしいもの。文法も滅茶苦茶だし」
材木座が言い訳をするが雪ノ下はそれを斬って捨て、ひたすら駄目出しを続ける。あれだけ自信に満ちていた材木座の顔からどんどん生気が失われ、俯き土気色になっていく。いかん、死ぬ!
「雪ノ下、その辺で」
「それもそうね。この様子ではもう何を言っても頭に入らないでしょうし。少し休憩してから再開しましょう」
えっ、まだやるの。材木座が帰りたそうな目でこちらを見ている。俺は目を逸らした。
その後、雪ノ下が残りすべての駄目出しを述べる頃には日が茜色に変っていた。
「では、次は由比ヶ浜さんね。私が長々と語ったせいで遅くなってしまって申し訳ないのだけれど、手短に進めましょう」
「う、うん。わかった」
虚ろな目で床を眺める材木座をよそに、雪ノ下は由比ヶ浜にも書評を促す。どうせそんな注文出さなくても由比ヶ浜は長々とした感想なんて言わないだろう。全然読んでないのだから。材木座が視線を床から由比ヶ浜に移した。”この朗らかな女子ならば辛辣は意見を言わないのではないか”という期待が透けて見えるが、その期待はやめた方がいい。
「え、えーっと……難しい言葉をたくさん知ってるね」
材木座の瞳から感情が抜け落ちた。そこに在るのは材木座義輝の形をした虚無だ。
由比ヶ浜おまえ、その感想はもう材木座の書き上げた世界も物語も関係無いだろ……しかし他に褒めるところが無かったんだろう、わかるぞ。
「じゃ、じゃあヒッキーどうぞ!」
「一言だけかよ、おい……」
由比ヶ浜は逃げるように席を立ち、俺にその椅子に座るよう促してきた。嫌だなあ、今あいつの正面になんか座りたくなんだが。
俺はしぶしぶその椅子に座る。由比ヶ浜の熱が椅子に残っており暖かかった。
「は、八幡。お前にならわかるだろ……我の描いた世界が……ライトノベルの地平が……」
材木座は力なく言葉を投げかけてくる。俺は深く溜め息をつき、気持ちを整えた。俺も一端のヤクザだ。いくら材木座が哀れでもここでイモ引くわけにもいかない。
「材木座。ソープに行け!」
「は」
由比ヶ浜以上に作品に関係の無いことを言われた材木座は固まった。
「材木座よ。俺はなにも関係のないことを言っているんじゃないんだぜ。お前は自分の作品を読んだことがあるか?推敲して、一発抜いて、また推敲をして、また一発抜いて。心を落ち着かせて距離をとって自分の作品を読んだことがあるか?無いだろう?」
俺に一気にまくしたてられた材木座は言葉を探すように視線を虚空に向ける。背中に女子二人の視線が刺さるのを感じる。構わず俺は続ける。
「材木座。お前の作品は童貞だ。お前という童貞の意志が、欲求が、ラノベの形を持ってこの世に産み落とされた童貞の権化だ。童貞の悪いところが凝縮していて醜く臭い。それがお前の作品だ」
「は、はちまん。それをいうお前もどう──」
「俺のハナシはしてねェだろバカヤロー!」
「びぃっ!?」
「比企谷くん、ちょっと落ち着きなさい」
野太い声で怒鳴りつけた俺は雪ノ下に窘められた。俺はひと息つく。
「材木座よ。童貞なんてものはビタビタに濡れ、汚れたシャツみたいなもんだ。早く脱いで乾いたシャツに着替えた方がいい。そうすれば気持ちが変わる。気持ちの変わったお前で、もう一度作品を書き上げてみろ。そうしたらもう一度読んでみるからよ」
俺の声が届いているのか、いないのか。材木座は椅子の背もたれに体重を預け、熱のこもらぬ瞳で天井を見上げていた。話をすり替えた挙句の人格批判という、ヤクザの常套手段により材木座の精神は摩耗し擦り切れてしまった……。
「また、読んでくれるか?」
下校時刻までたっぷり死んでいたところを俺に叩き起こされた材木座(雪ノ下と由比ヶ浜は触れるのも嫌がった。ひどい奴らだ)は、去り際にこう言った。
「お前、あんだけ言われてまだ懲りないのかよ。メンタル強いのか弱いのかどっちだ」
「たしかに耳良い感想はもらえなかったし、お前らほんと死ねって感じではある。だが我の作品に、世界に触れ意見を言ってもらえたのが初めてなのも確かだ。どんな感想であれ、馬鹿にせず読んでもらえるのは、やっぱり嬉しいよ」
そう言って材木座義輝は笑った。
馬鹿にしてないっていうか、するほどの中身が無かっただけなんだが~~?
背筋を伸ばし去っていく材木座を見送ると、二人の視線が俺に突き刺さってきた。
「ヒッキー。その、ああいうの、女の子の前で連呼するのはやめてよ」
由比ヶ浜がもじもじしながら注意してきた。うるせー。俺が誰で童貞捨てたと思ってんだ。
由比ヶ浜の横でガイナ立ちしている雪ノ下も俺を睨みつけながら言う。
「比企谷くん。私もいろいろ言いたいことはあるけれど、由比ヶ浜さんのに類する意見はこの際言わないわ」
「それ言ってるようなもんだろ」
「奉仕部の部員として人の悩みに向き合うのに、他人のエッセイや人生相談を剽窃するのは今後禁止よ。使うなら参考の一つと前置きをしてから出典を述べなさい」
驚いた。北方謙三の人生相談の有名なフレーズをそのまま使ったのがバレていたらしい。
「まあ、真剣な材木座に他人の言葉で答えたのは悪かったと思ってるよ。でもお前北方謙三読むのか。イメージまったく無いわ」
「北方謙三本人は正直好きではないけれど、救いの無い虚しさと命を燃やしきった達成感が混在する独特の読後感は好きよ」
「ああ~~、たしかに雪ノ下そういうの好きそう。ちなみに、雪ノ下が北方作品で一番好きなのはなんだ?」
「『独り群せず』よ」
「おまえそれ絶対タイトルから入っただろ……」
小説など走れメロスと羅生門以外には触れたこと無さそうな由比ヶ浜は俺たちの会話にまったく付いてこれていない。会話に混ざりたそうにチラチラ俺たちを見る由比ヶ浜。俺と雪ノ下は苦笑した。
* * *
あれから数日が経った。俺と材木座は相変わらず体育でペアを組んでいる。材木座はボロクソにけなしてきた俺とは組みたくないだろうが、他に組んでくれる相手もいないので仕方なく俺と組んでいる。そこは俺も同じだ。
柔軟体操で材木座と密着すると、じっとりしている。もういや。帰ってシャワー浴びたい。
「八幡よ。我はトラックに轢かれるのもアリかと思い始めた」
「いきなりなんだよ。この前のまだ凹んでるのか?自殺するほどのことでもないだろ」
「そうではない。貴様の言った童貞を捨てるということだ」
「は?」
なんで童貞を捨てるのがトラックに轢かれるのに繋がるんだ。
「正直我には自由恋愛で彼女を作るのは敷居が高い。しかしまだ高校生のこの身ではソープにも行けん。ならばどうするべきか。考えたのだ」
「ほう」
「異世界転生すれば我もモテまくりヤリまくなのでないかとな!異世界転生とくればトラックに轢かれるところからだろう!」
「異世界のヒロインはデブ専だといいな、材木座」
「あれ、八幡?もしかして我がトラックに轢かれるのアリだとか思ってる?冗談だよ?」
「いやいや、イケそうな気がする。試しに死んでみようぜ。見ててやるからよ」
「語気を強めて薦めるのをやめろ!」
キャラブレてんぞお前。
だが死んだはずの俺がこうして高校生活をやり直している。だったら死んだ材木座が異世界で蘇ったとしても何も不思議ではない。俺は身体の硬い材木座の背を押した。
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9
「あたしもなんか本読みたい!」
俺と雪ノ下が本を読み始めるや否や、由比ヶ浜が椅子の上に立ち吠えた。俺は机に突っ伏すふりをしながら、短いスカートの中を覗くべく目線の位置をずらした。
「いきなりどうしたんだよ。ワナビオタクの毒に中てられたのか?」
「中二は関係なくって!なんかちょくちょくゆきのんとヒッキー、二人で本のはなしで盛り上がってるじゃん。なんかそういうの、いいなあっていうか。あたしも混ざりたいなって」
ワナビオタクも中二も材木座を差す言葉だ。誰も材木座を名前で呼ばない。これは所謂陰口悪口に該当するのかもしれないが、当の本人も変な名乗りをしているので何の問題も無い。 由比ヶ浜がこちらに向き直るとスカートがはためいた。視界の端にピンクが流れた。凝視したいのをこらえ、なんでもないふうを装って続ける。
「別に盛り上がってた記憶も無いけどな。でも一緒に本のハナシをしたいってんなら、なんか貸すぞ。雪ノ下だって由比ヶ浜でも読めそうなのを適当に貸してくれるだろ」
「あたしでもってなんだ!馬鹿にすんなし」
由比ヶ浜が身振り手振りで怒りを表現するたびにスカートが揺れる。視界にピンクが混ざる。
「由比ヶ浜さん。貴方が読書を習慣付けたいというのなら私も協力するわ。でもまずは椅子から降りなさい。品の無い行為だし、何よりその男が下劣な視線を向けているわ。部員が劣情を向けたり向けられたりするのは正直気色が悪いわ」
「うわわっ!?ヒッキー覗いてたの!?キモい!サイテー!変態!ばか!キモい!」
「そうだな。本を読んでればお前の語彙も増えるかもしれない」
由比ヶ浜はスカートを押さえ、椅子からぴょんと飛び降りた。その時に、また、おパンティーが見えた。
俺は由比ヶ浜のピンクを脳裏に刻み込んでから視線を本に落とした。
パンツをチラ見しただけなのに勃起している。我ながら童貞くさい。肉体が童貞だと精神も童貞になるのだろうか。
由比ヶ浜がぷりぷり怒りながら雪ノ下に俺の文句を言っていたが、雪ノ下は文句を聞くのが面倒くさくなったのか話を戻した。明日の部活に読みやすいものを一冊持ってくるという。俺も一冊持ってくることにして本の続きを読みだした。
部室に沈黙が戻った……なんてことはない。うう~~とかむう~~とか唸りながら由比ヶ浜が俺を見てくる。そんなこと言ったってしょうがないじゃないか。(えなりかずき)
翌日、俺と雪ノ下は由比ヶ浜の為に本を持ってきた。
雪ノ下は川端康成の『伊豆の踊子』を含む短編集を(荒木表紙ではない)、俺は馳星周の『走ろうぜ、マージ』を。
「あー!ゆきのんのこれ知ってる!国語でならったやつだ」
「教科書に載ってるから小難しい話だと思う人がいるけれど、そんなことないわ。さくっと読めるし、解説も三島由紀夫が書いていて、それだけでも読み応えがあるの」
小学生並の感想を言った由比ヶ浜に雪ノ下は説明してやった。
その後、雪ノ下と由比ヶ浜は適当に雑談してから本を読みだした。部室に静かな時間が流れる。雪ノ下が本を読んでいるのはいつものことだが、由比ヶ浜のそれは新鮮な光景だった。
「ヒッキー、どしたの」
「知的だなと思って見てた」
「へへー、そうでしょ」
茶化してへそを曲げられても馬鹿みたいなので、思っても無いことを口にしたのだが、由比ヶ浜は上機嫌で眼鏡をクイッとする仕草を見せた。その仕草がすでに馬鹿みたいなんだが。
由比ヶ浜は熱心に『伊豆の踊子』読んでいた。下校時刻に雪ノ下が解散を告げるまで読んでいたが、読むペースは俺や雪ノ下と比べるとどうにも遅い。本を読むことに慣れていないのだ。
雪ノ下はそんな由比ヶ浜を微笑ましく見ていた。
午後九時ごろ。
筋トレを始めようとしたらスマホが震えた。メールが届いたようだ。
『今からヒッキーに借りたほんよむね』
由比ヶ浜から、文脈とは関係も必要性も感じない絵文字と一緒にメッセージが来ていた。「読んだら部活んとき感想くれ」とだけ返して筋トレを始めた。
翌日、由比ヶ浜は体調不良で学校を休んだ。
* * *
由比ヶ浜は二日続けて学校を休んだ。
三浦や海老名は心配しているのかやかましさは控えめだった。
「そう……由比ヶ浜さん、どうしたのかしら」
眼前にいる、冷血の擬人化のような女も由比ヶ浜のことを心配していた。
「慣れないことをしたから知恵熱でも出たんじゃないか」
軽口をたたくとじろりと睨まれた。
俺が来るまで読んでいた本を閉じ、雪ノ下は目を伏せた。
「こういうときってどうしたらいいのかしら」
「どうって」
「私、今まで友達がいたことがないから、その……」
「心配だけど、いちいち連絡とってもいいのかわからないわけだ」
「ええ」
雪ノ下の悲しいカミングアウトと、それに驚くこともなく当然のものとして受け答えする俺。悲しい二人だった。
「電話じゃなくてメールで体調訊くくらいならいいだろ。寝っぱで暇なら雑談相手だって欲しいだろ」
「でも由比ヶ浜さん、友達が多そうじゃない?」
「あん?」
「だからその、他の友達とやりとりしてる時に私が連絡を送っても、迷惑じゃないかしら」
「そう思うんならやめとけ」
雪ノ下は肩を落とした。それを見た俺は溜め息をついて言った。
「友達が多いつっても、みんながみんないちいち由比ヶ浜を心配するような仲ってわけじゃないだろ。お前が気にしてるなら連絡とりゃいい」
「……そうね」
言うと、雪ノ下はケータイを取り出し、画面とにらめっこを始めた。
長々と悩んでないで、はようてや。
* * *
六時前に起きて、柔軟をしてからランニングに出た。
最近は走るのも余裕ができてきたので距離を伸ばすことにした。
道中人とすれ違う。俺と同じようにランニングをしているやつや犬の散歩をしているやつ。馴れ馴れしくあいさつをしてくるやつには会釈だけ返した。
道中にあった公園に入り、ベンチに腰をかけた。ボトルポーチから水筒を取り出し、飲む。
立ちあがり軽く柔軟をし、走り出そうとすると声をかけられた。
「あれ、ヒッキー?」
振り向くと小型犬を連れた若い女が立っていた。明るい茶髪をおさげにして、素朴な顔立ちで目がくりっとしている。七分のTシャツにハーフパンツを着て、スニーカーを履いている。そしてその胸は豊満だった。
「……おのれ、
俺の芝居がかった台詞を受けた女は「あっ」と声を上げうずくまった。小型犬がぎょっとして彼女を見た。
「しまっ、スッピンだった!」
「冗談だよ冗談。わかってるって」
「ひ~~っ、み、みないで」
「減るもんじゃねえだろ」
「減る!精神力とか減る!」
「そうか。まあ元気そうだな、由比ヶ浜。安心したぜ」
そう言うと女──由比ヶ浜は俺に背を向けて立ちあがった。
「……心配、かけちゃったかな」
「そりゃまあな。雪ノ下なんて泣きそうな顔してたぜ」
「それは嘘でしょ」
俺は肩をすくめた。由比ヶ浜はこっちを見ていないが。
「ヒッキー、なんでこんなとこいんの?」
「見りゃわかんだろ。ランニングだよ。日課なんだよ。体力に余裕できたから足を伸ばしてみたんだ」
由比ヶ浜と話していると、犬が俺に愛想を振りまいてきたのでしゃがんで目線を下げた。頭や背を撫でてやる。舌をだらんと垂らしながら微笑んだ。
「……なんで休んでたか、きかないんだね」
「今訊くことじゃないさ。なあサブレ?」
首をわしゃわしゃ撫でてやると犬が「ひゃん」と小さく吠えた。
「えっ、ヒッキーなんで名前知ってんの」
あ、いっけね。
由比ヶ浜がこっちを向いた。
「なんでって、菓子折り持ってきた時に言ってただろ。"うちのサブレを助けてくれてありがとう"って」
「……ヒッキー、その時入院してたんじゃないの?」
「小町に、妹に聞いたんだよ」
思いつきの釈明をする。
俺が雪ノ下の乗った車にはねられた時、現場に由比ヶ浜もいた。車道に飛び出したサブレを助けようとしてはねられてしまったのだ。直接礼も謝罪も言えず仕舞できてしまい、こいつがそれを気にしているのを知っている。
「しってたんだ」
「まあな」
「……ねえヒッキー」
「事故のことなら部室で話そうや。雪ノ下も交えた方が話が早い」
「なんで、ゆきのんが出てくるの」
「部室で話すっつったろ」
つっけんどんに言い放つと由比ヶ浜は俺と向き合うようにしゃがんだ。ハーパンがたわみ、ふとももがあらわになる。
「じゃあいっこだけ。なんであの本をあたしに読ませたの」
あの本──『走ろうぜ、マージ』は、サブレの死後、結衣がよく読んでいた。俺はペットの小説など読もうという気もないし集めてもいなかったのだが、これは好きな作家の作品なので持っていた。結衣はやはり読書家ではなかったが、表紙が犬なので読んでいた。初めて読んだ時は「サブレは幸せだったのかな」「もっとサブレのためにできたことはなかったのかな」などと言って沈んでしまったものだ。
「……さあ、なんでだろうな」
「ちょ、なにそれ」
俺は立ちあがり、「じゃな」と走り出した。由比ヶ浜が何か言って立ちあがったが無視した。
由比ヶ浜はあの本を読んで、自分が犬のために何ができるか思い悩んだのだろう。結果、学校を休んで犬と居る時間を増やした。そんなところか。
犬の悔いは飼い主の悔いだ。飼い主がしょんぼりしてたら犬だって楽しくないぜ、由比ヶ浜。
* * *
今日は由比ヶ浜が学校に来た。
周りの連中が由比ヶ浜に絡んでいく。賑やかな様子を横目で見ていた。
由比ヶ浜と部室に行くと雪ノ下が愛想よく出迎えてくれた。由比ヶ浜を。
「由比ヶ浜さん、もう大丈夫なの?」
「ぴんぴんしてるよ。心配かけてごめんねゆきのん」
「いいのよ、由比ヶ浜さん」
抱きついた由比ヶ浜に雪ノ下は微笑む。
いつもなら暑苦しいとかいって申し訳程度の抵抗をするもんだが。いやはや、いい眺めですね。流れで俺も抱きついてみようかしら……。
雪ノ下と由比ヶ浜がわちゃわちゃしていたがひと段落ついた。
俺は切り出すことにした。
「なあ雪ノ下」
「ヒッキー」
由比ヶ浜が口を挟んだ。なんだ、と顔を向けると目を伏せてゆっくり首を振った。事故のことを話すなというのか。
由比ヶ浜はおバカだが聡い子だ。朝から考えて、結論を導き出したのか。それとも単に察したか。
いいさ。お前がしないというならしないよ。
俺は目を閉じて背もたれに背を投げた。
「比企谷くん、なにかしら」
「なんでもない。気にすんな」
「それを言われて気にならない人はいないと思うのだけれど」
「それも人生だ」
「……何を言っているのかしら、この男は」
雪ノ下は眉間に皺を寄せながら額に手をやる。由比ヶ浜はそんな雪ノ下を見ながら微笑んだ。
由比ヶ浜があの車に雪ノ下が乗っていたという事実に辿りついたとして、話すのをやめたのはなんのためか。雪ノ下に気を使って?今まで触れなかったことを掘り返すのが怖い?
勿論俺には判らない。判る必要もない。
だが、事故のことを話さずに済んでほっとしているのは俺もだった。事故自体は今更どうでもいいのだが、それを話すことでこのぬるま湯のような空間がどうなってしまうのか。わざわざ居心地を悪くする必要も無い、そう思ってしまった。
いい歳こいて女子高生二人とボケッとしているこの時間に価値を見出してしまっている。まったく進歩の無い自分がおかしかった。
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10
ちょっと殴ったり蹴ったりする描写があります。
秋葉原で防犯グッズを扱う店を見て回っていた。タクティカルペンや防刃グローブなどに中二心を刺激されたが、タクティカルライトと単眼鏡だけ買った。
それからメロンブックスで薄い本を買い、その足でアニメイトやビッグカメラが並ぶ大通りに向かった。アニメイトやドンキでウィッグを物色していると、小腹が減ってきたので帰る前に秋葉原駅近くの鶏の死骸を揚げて売る店に寄った。
注文を済ますと出入り口が見えるテーブル席にどかりと座った。屋内では人が入ってくるたびに怪しいやつではないか確認したり、屋外では尾行が無いかを確認してしまうのはヤクザの職業病だ。無職だけど。
一人でテーブル席に陣取ってチキンを食っていると、見覚えのある黒髪の女が店舗に入ってきた。その女も俺の視線に気付いたようで、やあ、と言うように軽く手を挙げ、注文を済ましたらこっちにやってきて俺の向かいに腰かけた。女は白いシャツの上に色の薄いデニムジャケットを羽織り、下は深緑のロングスカートを履いていた。頭には漫画家みたいなベレー帽をちょこんとかぶっている。赤いフレームの眼鏡ごしに、海老名姫菜は真っすぐ俺を見てきた。
「こんなとこで会うなんて奇遇だね、ヒキタニくん」
「ヒキガヤだよ、海老名さん」
「ああ、ごめんごめん。滅多に無い名前だからさ」
「オタクならそういうの得意だろう」
「う~ん、好きなキャラクターならどんな難しい字をしていても覚えられるんだけどね~」
海老名は言いながら視線をずらした。俺のリュックを、ちら、と見てから俺に視線を戻した。
薄い本をはじめ、他の購入物もすべてリュックに入れているので中を見られるおそれはない。材木座のようなでしゃばりクソ野郎ならともかく、わきまえたオタクは
「でも意外だね。アキバに比企谷くんが来るなんて」
「ん?それは俺が陽キャっぽいってことか?」
「いや、そうじゃないけど。てか今時インキャじゃなくてもアキバくらい来るでしょ」
俺が陽キャに見えないって否定必要あった?と思っていたらカウンターの人間が番号を呼び、海老名は取りに行った。鶏だけに。なんちて。海老名はハンバーガーとドリンクを乗せたトレイを持って戻ってきた。ハンバーガーならすぐそこにマックあるのに。
「ハンバーガーならすぐそこにマックあるのにって思ってるでしょ」
「このオタク、人の心を読むのか!?」
「そんな顔でバーガー見られたらわかるよ。今は分厚いチキンを挟んだバーガーの気分だったわけ」
海老名は腰をおろし、ハンバーガーの包み紙を広げる。姿を現した、分厚いチキンをバンズで挟んだハンバーガーに豪快にかぶりついた。肉汁がぴゅっと跳ね、キャベツの破片が二つ三つこぼれた。咀嚼したものを飲み込み、ストローを咥えてドリンクをちゅ~っと飲むと、満足げに頷いた。
「やっぱりバーガーとコーラの組み合わせは最高だね。これが嫌いなオタクなんていないんじゃないかな」
「ああ。俺も好きだ」
「え、なんだって?」
「急に難聴系主人公になるのやめろや」
「だって急に好きとか言うから。大胆な告白は男の子の特権」
「あほくさ」
俺は視線を落としてチキンにかぶりついた。チキンとコーラ。これもすき。というか揚げ物ならだいたいすき。コーラの代わりにビールにしてもすき。
「比企谷くんてさ、目がこわいんだよね」
「なんだって?」
今度は俺が難聴系主人公をやる羽目になった。いきなりなんだこいつは?
「さっきの話だよ。こわいっていうのは目付が悪いとかじゃなくてさ、箍の外れた人間の目をしてる。普段はそうでもないけど、時折ね」
「へえ」
「だからさ、人との距離を測れなかったり危険を嗅ぎとれない人間がうようよいる街にのこのこでかけてくるのがイメージ無かっただけ」
「ふうん」
否定はしなかった。肯定もしていないが。あたりさわりのない上辺ばかりの付き合いをしている連中の中でも、海老名はひときわ自分を隠しているイメージがある。そんな女がいきなり、あたりさわりのあることを言ってきたのだ。言わせたいことがあるなら言わせてやればいい。そう思った。
「結衣の入った部活、比企谷くんもいるんでしょ。結衣ったら比企谷くんや雪ノ下さんのことを随分楽しげに話すんだよ。知ってた?」
「自分のいないとこでされる自分の話は、知らんわな」
「……まあ、そうだよね」
海老名は視線を落とした。
俺は海老名を見た。見ながら考えた。こいつは俺に箍の外れたの外れた人間の目をしていると言ったが、過去にもそういう人間を見たことがあるということだ。腐女子の海老名がどこでそんな人間を見たのか考えてみたが、三秒程考えてからどうでもよくなった。
「だからさ」海老名は視線を落としたまま言った。「結衣を危ない目に遭わすのは、やめてね」
「……なに?」
「結衣や雪ノ下の間で比企谷くんの取り合いになったとき、それ言ってみてよ」
海老名の戯言を無視した。
「俺が由比ヶ浜をどうこうするって言いたいのか」
「その目だよ。自分も他人も、トラブルに引きずり込むのを厭わないって目」
「……俺自身は面倒が嫌いだし、面倒な思いをさせる人間は選ぶつもりだ」
「そう。なら、いいけど」
それで会話は終わった。俺はチキンを、海老名はハンバーガーを黙々と食べた。
総武線に乗り、千葉に戻ってきた。
海老名とはケンタッキーの店舗を出てから別れた。「私はまだこっちで用事があるからさ」とのことだったが、ソッカー、意外の感想は無かった。
電車を降りてアニメイト千葉に向かった。アニメイトなら勿論秋葉原にもあったが、目的のCDのシリーズ購入特典のスタンプカードをアニメイト千葉で作っていたからだ。
メイトに向かう足が速い。
気が立っているのがわかる。海老名に自分がどういう人間か指摘されたのが気に食わないらしい。海老名に腹を立てているのか、あんな小娘に見抜かれた自分に腹を立てているのかはわからかった。人通りの少ない裏路地を通ってアイメイトを目指した。
どん、と人とぶつかった。俯いて歩いていたとはいえ、人とぶつかるような進路どりはしていなかった。向こうからぶつかってきたということだ。
「おいこら、なんだてめえ」
「ぶつかっといてあいさつも無しか」
「なんか言えよ、こら」
三人組。ずいぶんとコテコテなやり方だった。三人とも歳は俺と変わらないくらいだが、一人は身長180センチほどで、ほどよく筋肉もついている。あとの二人は上背は俺と変わらないが、片方はいくらか肉付きがよく、もう片方はほっそりしていた。
でかいのが一人、もしくはあとの二人だけなら今の俺でもやれるが、真正面から三人同時に叩き潰すのは難しいものがある。
「くそ、いてえな」
俺とぶつかった中肉中背が肩を押さえた。
見回したが、周りに人気は無い。
「金が欲しいのか、おい?」
面倒だったので手っ取り早く訊いた。大人しくカツアゲされてやってもいい、そう思えた。どうやら俺が腹を立てているのは海老名ではなく自分だったようだ。
「ああん?」
「なんだよ、その口の利き方」
「俺らが
三者三様の反応だったが、ひょろいのが聞き捨てならないことを言った。南高はこの辺ではバカ高校──ヤンキーの巣窟として有名だ。どう見ても一番弱そうなやつが看板を出した。
気が変わった。大人しくカツアゲされるのはやめだ。看板を出していいのは、看板に貢献し、看板に見合う人間だけだ。腹の底に熱いものを感じた。面倒事を起こす気になってしまった。
半歩下がり、リュックを下ろした。
「まあ落ちついて。話せばわかる」
すごむ連中を前に、ひきつった笑顔を作ってみせながら財布を取り出した。連中の視線が財布に向いた。
俺は中の札を抜いて、財布をリュックに戻した。万札が二枚、五千円札が一枚、千円札が三枚。
こいつ、けっこう持ってるぜ。でかいのがそんな顔をした。
その瞬間、札を上に放った。
あっ、と三人の視線が宙の札に向く。
素人のガキめ。
でかいのの左脚に全力で右のローキックを叩きこんだ。牽制でも崩しでもない、角度も重心の移動も、破壊を目的としたものだった。
蹴りつけた脛下部に猛烈な痛みが走った。それもそうだ。この肉体はろくすっぽ苛めていない。筋トレとシャドーばかりしている。
俺がそう考えている間に、でかいのの顔面が俺の胸の位置まで下がっていた。でかいのの痛みは俺の比では無かったようで、今の一撃で姿勢を大きく崩した。
その顔面に、フックの軌道で右の肘を撃ちこむ。ぐしゃりとも、めぎりとも音がしたがそのまま振り抜く。でかいのはラッキースケベに遭遇したラブコメ主人公のように鼻血をばっと巻き上げながら仰向けに倒れていく。いや、この時代のラブコメでは、いちいち鼻血など噴き出さないものだったか。
「てめっ」
俺の思考を遮る声。
中肉中背が俺の顔面めがけて右腕を振ってくる。素人特有の効き腕の大振りだった。
曲げた左腕を頭部にあてがいガードする。殴られた箇所のみが痛みを感じた。ガードした腕越しに頭部をぶっ飛ばすような威力はかけらも無い、雑魚の拳だ。
中肉が右腕を引くより速く、相手の腹に右拳を下から打ち込む。当てる瞬間に肘と手首を捩り、抉るように突き立てた。
中肉は目を剥き、大口を開け、涎を垂らしながら掴みかかってきた。動きがのろい。
つかんできた腕を払い、左腕を頭部に回す。そのまま引き寄せ、顔面に右膝を突き立てた。下顎を突き飛ばした感触があった。
中肉は重力に従うように力無くもたれかかってきた。膝蹴りの衝撃で意識を弾き飛ばされたらしい。その身体を横に押しのけると、顔面からアスファルトに崩れ落ちた。
ふう、と息を吐いて、ひょろいのを見た。表情には怯えが浮かんでおり、腰も引けている。横槍を入れる機会はいくらでもあったのだが、生粋の口だけ野郎のようだ。
「おい。見てるだけかよ、お前は」
「まっ、待てよ!お前俺らにこんなことしてただで……」
声が震えている。
右の脇腹に左の拳を打ちこんだ。肝臓打ち。
腰を入れてないない、手打ちのパンチだったがそれでもひょろいのには十分効いたようで、苦悶の表情と呻き声をあげてうずくまろうとする。その鼻っ柱に軽く頭突きをした。ひょろいのが鼻血を噴き、両手で鼻を押さえながら尻もちをついた。
俺は左手でひょろいのの襟を掴んで立たせ、今度は腰から上半身ごと反らし、反動をつけて鼻を押さえた手ごと頭突きを見舞った。ぐしゃりという音と共に、手越しに何かが潰れる感触があった。
俺が半歩下がる頃には、顔面を押さえたひょろいのの手の間から大量の血が流れ落ちていた。
ひょろいのは幼児退行したように、ああ、ああ、と呻きながら、膝まずいてうずくまった。俺は近付いて、言った。
「で、お前はどこの誰なんだよ」
「ま、待っへ。やめてくれ」
「誰だつってんだろうが!」
顔面を蹴り飛ばした。血と一緒に白いものが飛んだ。歯だ。
ひょろいのは顔面を押さえ、喚きながら転がる。
俺が近付くと身を丸めて縮こまった。その体を何度も蹴りつける。
何度も蹴っていると、その体から身を縮こめる力すら失われ、ぐったりした。
「おい」
つま先で押すと、力無く体を広げるように仰向きになった。その目は白眼を剥いていた。
「カスがっ!」
脇腹を蹴飛ばしたが、それは意志のないサンドバッグのように揺れただけだった。
「……チッ」
荒い呼吸を整えると、放った札を拾ってからリュックを背負い、駅に向かって歩き出した。ところどころ返り血が付いており、外を出歩いていると職質される。
駅に向かう途中、空車のタクシーを停めて家に帰ることにした。
タクシーの後部座席で、俺は手を握ったり開いたりしていた。
シャドーと筋トレだけでは拳足を鍛えることはできない。もっと実戦的なトレーニングをする必要を感じた。
人間を上手く殴れるようになるために直近の目標を設定している間に苛つきはどこかに消えていた。
実を言うと、最初はエビちゃん主人公のラブコメSSを書こうと思ってたんですよ。
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11
JR本千葉駅についた。
安物の腕時計で時刻を確認する。針は六時二分を差していた。約束の時間は午後七時。だいぶ余裕がある。俺は西口を出て交番前の開けた歩道に向かった。待ち合わせの約束をしている
辺りを見回す。ラーメン屋。飯屋。ラーメン屋。飯屋。もうちょっと歩けばまたラーメン屋や飯屋があるだろう。俺は立ちどまり、目を閉じた。頭の中に声が聞こえてきた。
──八幡よ。ラーメンを食べるのです。本千葉は数多くのラーメン屋があります。本千葉に来てラーメンを食べないのは愚か者のすることです。
俺は声を無視して歩き出した。
ぶらついていると視界に入った雑居ビルの一階に喫茶店があるので入った。壁際、大きな窓に面したテーブル席に腰を下ろし、アイスコーヒーを注文した。若干距離があるが、待ち合わせ場所である交番前が見える。俺はショルダーバッグから
俺は時間に余裕があるなら待ち合わせには一時間早く着くようにしている。その間に周囲の地理を把握し、待ち合わせ場所が見える場所で見張る。ヤクザの頃の癖だ。堅気の高校生に必要な行動ではないが、家に居てもすることがないので結局こうしている。
本を読みつつ、時折コーヒーをすすりながら窓の外を眺める。そうしているうちに交番脇に俺の待ち合わせ相手が現れた。時計を見るとまだ六時半。うせやろ?俺が時間を間違えた……なんてことはない。単に彼女が早く来ているのだ。
俺はコーヒーをずぞぞっとすすりながら彼女を眺めた。七分袖の黒いTシャツに織部色のカーゴパンツ、いつもは下ろしている長い黒髪はポニーテールに纏められている。女子にしてはひたすらに無骨ないでたちだが遠目にもわかる長い手足と抜群のスタイル。間違いなく彼女だ。
コーヒーを飲み干し、勘定を済まして店を出た。街路樹のそばで煙草を咥える女性に足早に歩み寄り声をかけた。
「平塚先生、早いですね」
「え、比企谷?まだ30分前だぞ」
「そりゃこちのセリフですよ。俺は
「よ、余裕を持って行動するのは社会人の常識だからな!比企谷もわかってるじゃないか」
「さいですか」
やたらと顔の整った女教師は妙に落ち着きが無い。休日に男(生徒だけど)と逢うのに馴れてないのか、或いは共通の趣味を持つ男(生徒だけど)との会話に興奮しているのかは俺の知るところではないが。
平塚先生がこちらに
「どうした比企谷?」
顔を上げると平塚先生の顔がすぐそばにあった。学校と違って化粧はほぼしていないように見える。にもかかわらず切れ長の目はパッチリと大きく、二重もくっきりしている。鼻筋や頬も健康的に赤みの射した白。なんだこの独身女、ルックスの妖怪かよ。なんで公立高校の教師なんかやってんだろうな。俺はのけぞる素振りを見せた。
「あまり男子高校生に距離を詰めないでくださいよ。緊張とかしちゃうし意識もしちゃう」
「散々高校生らしくない言動をしておきながら何を言っているんだ」
「ちょっと斜に構えてるだけで健全な男子高校生ですよ、俺は」
俺が目を逸らすと彼女は「そういうことにしておくか」と笑い、歩きだした。
「どこいくんですか?サテンとか言われても腹ちゃぽんちゃぽんになっちゃうんですけど」
「どこって道場だろう。紹介してくれって言ったのはきみじゃないか」
「え?七時からなんじゃないんすか」
「今日は七時半から八時半がMMAスパー、九時から十時までがフリー練習になっているが、道場自体は開いてるんだ。みんな早めにきて着替えたりアップしているよ。入会してない比企谷は見学しかでないが、私の柔軟には付き合ってもらおうかな」
ヤンキー三人を叩きのめしてから一週間後。俺は平塚先生に声をかけ、彼女の通っている格闘技ジムを見学させてもらうことにしたのだ。
平塚先生の半歩後ろを歩いていると、彼女は立ちどまり「ここだ」とビルを指差した。一階と二階に跨るようにして『MMA 柔術 キックボクシング 太田道場』の看板が掲げられている。
平塚先生が挨拶をしながら入って行ったので俺も続いて入った。広い空間に既に何人かがおり、ウォーミングアップやマススパーをしていた。彼女はすれ違う人全員に愛想よく挨拶をしており、彼女が声をかけた人も愛想よく声を返している。
「おっ、静ちゃん、若い男連れてるね!彼氏?」
「学校の生徒ですよ生徒。ぶちのめしますよ」
妙齢のおばさまとけたけた笑いながら会話している。学校では気取った笑みや皮肉めいた嗤いしか見せないので新鮮だった。俺がきょろきょろ見回していると坊主頭の厳ついオッサンが近付いたきた。眉は薄く、垂れ目。耳は変形し潰れており首も太い。当然のように身体は分厚い。絵に描いたような柔術家だ。歳は30代後半だろうか。人相を見取っていると渋いバリトンボイスをかけてきた。
「ヅカちゃん、その子かい?」
「こんにちは
「比企谷八幡といいます。今日は宜しくお願いします」
俺が頭を下げて自己紹介すると太田とかいうオッサンはいきなりハグをしてきた。
「ヒキガヤくんか、宜しくね。太田です」
不意を衝かれた俺が固まっていると「なるほどね」と呟いて離れた。何がなるほどなんだ……。
平塚先生が着替えに行った(二階が更衣室と休憩所になっているらしい)ので壁際に一人で突っ立ってアップやマススパーをしている人たちを見ていた。見るからに格闘家然とした身体つきの20代の男。体型維持の為に通っている感のある40代の男。フィジカルの増強こそがセルフマネジメントの証と勘違いしてそうな小洒落シンサイ刈りの30代の男。パッと見、格闘技には興味無さそうな地味な女。俺と歳の変わらなさそうな若い男や女……
「驚いた?」
バリトンボイスのした方を向くとさっきの太田がいた。
「ウチ結構いろんな人が通ってんだよね。職業や年齢もバラバラ。勿論本気でプロ格やってるのもいるけど」
「女の人も多いんですね」
「最近はボクササイズとかも浸透してるからね。それにほら、あそこに居る子。ナオっていうんだけど、ウチの顔の一人でね。女子格団体ヴァルキュリアのフライ級日本チャンピオン」
「日本チャンピオン!?」
「女子格はマイナーだけど、それでも彼女のネームバリューがあるからウチに来たって子も多くてね。おかげで女子クラスが作れるようになったよ」
俺みたいなオッサンと組むのに抵抗ある子も多いからよかったよ、と太田が笑ったところで俺は口を開いた。
「でも驚いたのはその、なんていうか、みんな和気あいあいというか楽しそうっていうか。もっと殺伐としてるもんなんだと思ってました」
俺はヤクザ時代に飼っていたゴロツキ集団──格闘技団体・
「勿論世の中にはそういうジムや道場もあるよ。でも俺は体育会系のシゴキがしんどかったし理不尽だと思ってたからね、そういうの抜きでやれたらいいなあと思ってこの道場を始めたんだ」
「……ここの人たちが楽しそうなのは太田さんの人柄によるものなんですね」
「なにより優しく楽しく愛想よく、てのがないと今時商売として成立しないってのもあるけどね。すぐ辞められたり人が増えなかったらおまんまの食い上げだ」
そう言って太田はケラケラ笑ったが、その目には攻撃的な光が見えた。
「つっても勿論優しくしてばかりじゃないよ。なんたって格闘技だ」
住み分けができていた。
健康や体型維持の為に来ている連中。生活の中で競技として格闘技をやっている連中。格闘技を生活の中心に据えている連中。
平塚先生は最初の連中の一人だった。打撃、組技、寝技。いろいろ技を繰り出している。流れ、弾ける汗が眩しい。揺れる胸に目がいく。仁徳天皇に血液がいく。
スパーに区切りがついた。平塚先生は相手に一礼をして壁際に移動し、座った。休憩している先生を見ていたら俺の視線に気付き手招きしてきた。周りの人の邪魔をしないようにささっと歩み寄る。ウェアが汗で躰に張り付き艶めかしいボディラインがくっきりと浮いていた。俺が中腰になるのは先生が座っているからだ。ほかに理由は無いぞ。
「見ていてどうだ、比企谷?」
「みんな楽しそう……ってだけじゃなさそうっすけど、アツさはビシビシ感じます」
「だろう?」
平塚先生はニカッと歯を見せて笑った。少年のような笑顔。エロい躰とのアンバランスさがそそる。
「ありがとうございましたー」
八時半。ウォームダウンと着替えを済ました平塚先生と道場を出た。駅に向かって歩き出す彼女についていく。
「これから他道場の人たちも来てフリー練習するんですよね?出稽古的な。帰っちゃっていいんすか」
「高校生を夜遅くまで連れまわすわけにもいかんだろう。学校の先生的に考えて」
ヘアゴムをほどきながら歩く彼女は、案外ちゃんとした答えを返してきた。
「わざわざ俺のために先生まで帰らんでも……。帰れってんなら一人でも帰りますよ」
「あとな、行きたいラーメン屋がってな。ラストオーダーが九時だから最後までいたら間に合わない。それに若い客ばかりで私一人だと入りづらいところだから、付き合ってもらうぞ」
高校生を夜遅くまで連れまわしたらいかんだろう。学校の先生的に考えて。付き合うけど。
駅を通り過ぎ5分ほど歩いた地点、黒とグレーでシックに塗装され建物の前で先生が止まった。洒落た店構えをしているが、どうやらラーメン屋らしい。香ばしさが漏れ出ている。
「ここだ。入るぞ」
先生に続いて暖簾をくぐった。客層は若い女や男女の二人組。成程、先生が一人で来たがらないわけだ。
カウンターに座ると店員がメニューを一つ渡してきたので受けとり、先生と見ることにした。身を寄せてきた先生の髪がふわりと広がり、シトラスの香りに鼻腔をくすぐられた。ほのかに混ざる汗の匂い。ウェアを脱いでボディペーパーで躰を拭き、制汗剤やスプレーを使う平塚静を想像させられてしまった。
「おい、決まったのか」
「え、ああ、でえ丈夫です」
平塚先生が顔を覗き込んできた。不意を衝かれ童貞のようにどぎまぎしてしまった。何も大丈夫ではない。メニューをチラ見し、「鶏白湯の塩とビールで」と注文する彼女に続いて鶏白湯の醤油を頼んだ。ちなみに、店内のカップルでビールを頼んでいる女は彼女のほかにはいない。そう、カップル。
「俺は彼氏代わりですか」
「や、そういうんじゃないんだが。なんとなく一人では入りづらくてな」
「まあわかりますけどね。ラーメン屋なのに外も中もなんか洒落てて、男一人でも入りづらいし」
「だろう。評判はいいんだが、なかなか手が出せなかった」
照れながら小さく笑う彼女。年相応の淑やかさと少女のような恥じらいが同居していた。
彼女ばかり見ていてもしょうがないのでメニューの説明書きに視線を落とし、道場の話をする。
「あの道場、結構大きかったすね。もっとチンケなジムを想像してました」
「そうだろ。実を言うと私も行くまではそう思っていた。五年前までは別の場所で小さい道場をやっていたらしんだが、私は三年前入ったクチだからな、その頃のことはよく知らんが。……と」
ジョッキに注がれたビールが出てきた。平塚先生が申し訳なさそうに俺を見る。
「どうぞ」
「悪いな」
言うが否や彼女はジョッキを呷った。ごっごっと音を鳴らし、ビールを飲んでいく。ジョッキを宛がわれた唇、汗ばんだ首、上下する喉、ジョッキの中身が減るにつれて背を逸らすことではちきれそうに主張する胸を見ていた。
ジョッキの飲み干した彼女は「ふう」とひと息ついて俺を見た。
「あまりじろじろと見るなよ。恥ずかしいだろ」
「いいじゃないですか。減るもんでもなし、じっくりみせてくださいよ」
「独身女が酒を呷るのを見るのが楽しいか?いい趣味とは言えんな」
「ホモでもブス好きでも無いんで。隣に美女が居るのに知らんぷりするほうがどうかしてますよ」
「なんだ比企谷、口説いてるのか?」
「趣味どうこうと言われたから感想を言っただけですよ。先生なんだかんだで真面目だし、仮に生徒に言い寄られたところでどうこうなろうなんて思わんでしょ」
「ふふ。わかっているならいいさ。なんだかんだってのは余分だが」
彼女はビールをもう一杯注文した。そのタイミングでラーメンが出てきた。
「ふぅ~~、食った食った~~。美味かったな~~この店」
先に店を出ていた俺に続いて平塚先生が腹をさすりながら出てきた。おっさんか。
「先生、ごちそうさまでした」
まとめて金を払った女教師に俺は軽く頭を下げた。
「ラーメンくらいで真面目だな。しかし軽い気持ちで比企谷を連れてきたけどなかなか面白い発見があったな。見知った顔がいなくなった途端いきなり口説いてくるんだからな~」
「あんなん口説いたうちに入らんでしょ」
ジョッキ三杯(この女教師は結局三杯飲んだ)のビールで酔ったわけではないだろうが、彼女はえらく上機嫌で饒舌になっていた。
「まっ、比企谷が奉仕部を気に入ってるようでよかったよ。しかし比企谷、奉仕部の二人も同じように口説いてないだろうな?」
「口説いてねえし。……そもそもちょっと口説いたくらいで靡くような女でもないでしょ、二人とも」
「まあ、そうだが」
ラーメンが出てきてからは奉仕部の話をしていた。活動内容のこと、雪ノ下のこと、由比ヶ浜のこと。あと材木座がうっとうしいこと。彼女は俺が語る二人(プラスアルファ)の話を、興味深く楽しそうに聞いていた。雪ノ下が奉仕部部長になったのはこの人が雪ノ下に奉仕部を作らせたからだろう。由比ヶ浜に奉仕部に相談するよう持ちかけたのもこの人だったはずだ。やり方はいくらでもあるはずだが、生徒たちが交わり、悩み成長していくのを見守るのが彼女の喜びなのだろう。
成長もなにも俺は40手前のオッサンだが。10代の肉体に精神が引っ張られたように、些細なことで惑っているせいで実感が無いが。
「じゃあ比企谷、私はこっちだから」
「はい、今日はありがとうございました」
平塚先生が乗る電車が先に来たので見送る。発車間際、彼女が小さく手を上げ振ってきたので会釈で返した。彼女の乗った電車が視界から消えるまで見ていた。
発見。彼女はそう言った。それは俺も同じだった。以前はまるで知らなかった彼女の表情を今日の数時間で沢山見た。格好つけたところやみっともないところは散々見せられたが、30前の女の貌、努力の形に触れたのは初めてだ。改めて、いい女だ。
ボケッと平塚先生のことを考えていると俺の乗る電車が来るのが見えた。俺は乗車位置に足を向けた。白線の二歩手前で俺は立ちどまり、目を閉じた。
悶々としている。
平塚静とヤリたくて仕方が無い。
「サカリのついたガキだな、こりゃあ」
俺はかぶりを振り、電車に乗り込んだ。
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12-1
いつものように奉仕部の部室で時間を潰す放課後。
俺はいつもどおり廊下側の壁を背にして椅子に座っている。
以前材木座がラノベを持ってきた以降も、材木座がヒロインの設定を相談しに来たり材木座が世界観の設定を相談しにきたり材木座が主人公一族の隠された秘密を相談しにきたりと、奉仕部は常に悩める子羊の相談に乗っていた。おいおい材木座ばかりじゃねえか。他に誰も来ねえのかよ。
部活中の筋トレを禁止されてしまった俺にとっては、材木座の相手をして時間を潰すのは必ずしも嫌というわけではないが(勿論好ましいわけではない)、女子二人はあいつが来るたびに顔を顰めている。そろそろ雪ノ下が材木座の出入り禁止を提案し、由比ヶ浜が賛成し可決されてしまうかもしれない。
材木座、お前はもうちょっと考えるようにしてからここに来い。あの二人はお前を嫌っているのだから、作品くらいは嫌悪されない程度に仕上げないと不味いぞ。そもそもラノベの時点で嫌悪されてるか。ていうかお前は女子二人とも目を合わせて話せ。二人がが喋ったことを何故か俺に対して返すので、あいつらは露骨に不快感を出している。
俺は今日は
いや、寝てない自慢はいらんか。自慢しようにもする相手も体育のときにペアを組む材木座くらいしかいないのが悲しい。だが今月から体育の種目がテニスとサッカーに変わり、材木座はサッカー組に、俺はテニス組にと別れたので寝てない自慢をする相手すらいなくなってしまっている。する必要無いけど。
「やっはろー!」
俺が材木座との別れに2週間伸ばした髭を剃った時のような寂しさを感じていたら、アホっぽい挨拶と共に由比ヶ浜が部室の戸を引いた。
由比ヶ浜は悩みなど無さそうな元気でアホっぽいにこやかな表情で部室に入ってくるが、彼女の後ろには力無く深刻そうな顔をした学校指定のジャージを着た美少女がいる。
自信無さそうに下に向けられた瞳。数歩離れた距離からでもわかる長く艶のある睫毛。肌は透き通るように白く、迂闊に触れると壊れてしまいそうな儚さを持った美少女だった・・・・・・美少女?いいや違うッッ!あれは戸塚だッッ!!
どうしよう、声かけていいのかな。でも迂闊に声かけて「え、誰?気持ち悪い」なんて言われたらその場で二度目の死を選んでしまうおそれがあるので様子を窺うことにする。
由比ヶ浜は戸塚に依頼者の椅子に座るように促し、戸塚が座るのを確認してから長机を挟んで向かい側にある自分の椅子に座った。
ということは戸塚は奉仕部へ何か依頼があって来たということだ。今だ!自然に距離を詰めるチャンスだ!俺は即座に椅子を抱え戸塚の隣に移動し、座った。
「今日はさいちゃんは頼みたいことがあって来てるから、ヒッキーはこっちに座って話を聞くんだよ」
「おっそうか」
駄目でした。俺はしょんぼりしながら由比ヶ浜の隣に椅子を動かす。戸塚はそんな俺をきょとんとしながら見ている。もっと俺を見てくれ。俺だけを見てくれ。
俺が椅子に座るのを待って雪ノ下が口を開いた。
「二年F組の戸塚彩加くんね」
「知ってるの?ぼくのこと」
「あなた、結構な有名人よ。J組でもあなたのことを話題にしている女子はいるわ」
「そうなの?……話題ってなに話してるんだろう」
学年一、いや校内一の有名人が戸塚を有名人扱いしている。戸塚はもじもじしながら不安がる。おのれJ組の女子め、戸塚を不安がらせやがって……ゆるせん。まあどんな話をしているかはだいたい察しがつくが。
「で、そんな貴方がこの奉仕部にどんな用件があって来たのかしら」
「え、ええと…」
雪ノ下は単に質問しただけなのだろうが、冷気を纏うかのような雪ノ下の視線と、言葉を飾らずに最短距離で話を進めようとする会話運びに威圧感を感じたのか、戸塚は口ごもる。
「もうゆきのん!さいちゃん怖がらせちゃだめだよ!」
「そんなつもりはないのだけれど」
ぷりぷりしながら発言する由比ヶ浜に、雪ノ下は熱のこもらぬ口調で返した。そういうところだぞ雪ノ下。だから材木座もお前にびびってるんだ。材木座はともかく戸塚を怯えさせるのはよくないぞ。俺は目で雪ノ下を制しようとする。
「急に私をじろじろ見てどうしたのかしら。あまり学校の生徒を不審人物として通報したくはないのだけれど」
「警察はやめろつってんだろ」
起訴する気もないくせにどうでもいいことで逮捕して目いっぱい拘留してくるから警察は嫌いだ。
「話が進まないから二人はちょっと静かにしてね。じゃあ、さいちゃんどうぞ!」
由比ヶ浜に諭されてしまった。屈辱だ。雪ノ下にもガッツリ睨まれていた。なんでお前が怒ってるんだよ。
「ええっと、ぼくテニス部の部長をしてるんだけど、ウチのテニス部って弱くて……」
戸塚の話をまとめると、ウチのテニス部は弱い→テニス部が弱いのは部長である自分が弱いのが悪い→自分が強ければみんなが自分についてきてくれる→だから自分を鍛えてほしい。ということだった。
戸塚は部長である自分が弱いことに責任を感じていた。いじらしい。守ってあげたい。戸塚の為に俺ができることはないのか。ちなみに、今日は顧問がいないのでテニス部の活動は休みにしたらしい。そんな理由で休みにしても部員が文句言わないあたりがお察しだ。
「でもスポーツは一朝一夕で上達するものでもないでしょう。球を追いコート駆け回り、狙った所に打ち返す身体能力も技術も日々の努力の積み重ねでしょう。漫画じゃないのだから、ある日いきなり隠された才能が開花して、それで勝てるようになるなんてことはないわ」
俺が知恵をひり出そうとしていたら身も蓋も無いこと言う女がいた。だがそれが真実だ。新宿で俺に喧嘩を売ってくるような間抜けがいなくなったのは、休みなく鍛えた肉体と鍛錬を重ねた空手で間抜けをぶちのめし続け、シノギにチャチャ入れてくる虫けらを行方不明にし続けたからだ。
雪ノ下の言葉でしょんぼりしてしまった戸塚(可愛い)に俺は優しく声をかける。
「戸塚。雪ノ下の言うとおり、成功の近道は正しい努力を継続して行うことだ。だが何が正しいかなんてのは誰にもわからない。だから提案だ。何が正しいか、俺と二人で探さないか。俺と戸塚なら、きっと本物を見つけられる」
「比企谷くん……」
俺の誠意が通じたのか、戸塚は頬を染めて俺を見返す。
「比企谷くん。私の気のせいでなければ話が変な方向に向かっている思うのだけれど」
「気のせいだ。俺はテニスの練習方法を考えようと言っている。現在の自分を正しく認識して短期的、中期的、長期的に目標を設定してうんたらかんたらというだな」
「たしかに~。なんでもかんでもがむしゃらにやればいいってもんじゃないもんね」
由比ヶ浜がかぶせてきたので頷いた。既に戸塚の為にどんな練習をすればいいのかと考えているのが見てとれる。それを見た雪ノ下はしぶしぶ、といった様子で結論を出した。
「わかったわ。奉仕部は今回の依頼、お受けします」
「わあっ、ほんとう?ありがとう!」
戸塚が弾けるような笑顔を見せた。この笑顔、俺が
しかし雪ノ下。由比ヶ浜が乗り気なのを見せただけで受けるとか、由比ヶ浜に甘いってレベルじゃねーぞ。
「でも練習っていっても、テニスってなにやればいいのかな?」
由比ヶ浜が首をかしげる。駄目だこいつ、何も考えてねえ。
「『テニス 上達』でググろうぜ」
俺も何も考えてなかった。雪ノ下の溜め息が聞こえた。
しばらくスマホでテニス関係のブログや動画を見ていたが、『本人のレベルに合わせた練習を』『正しい練習が上達の近道』といった「そんなん言われんでもわかっとるわ!」と言いたくなる言葉ばかりが並べられていた。この程度なら俺たちがどうこう言わずとも、戸塚だってわかっていることだろう。雪ノ下も同感だったようで眉をひそめている。
「とりあえず戸塚くんのレベルがどのくらいか把握しましょう。本人が弱いと言っているだけで実は私たちでどうこう言える程度の選手ではないかもしれないし」
「そっか!ゆきのんアッタマいいー!」
由比ヶ浜が頭の悪い発言をしたところで、俺たちはテニスコートに移動することにした。
結論から言うと、戸塚はへなちょこだった。
最初こそスイングも綺麗で、俺の放ったボールをぱこぱこ打っていたが(俺は戸塚とぱこぱこしたい)、左右に投げ分けて戸塚を走らせるとすぐにバテ始めてしまい、ラケットを握る腕もボールを追う脚もプルプル震えていた。産まれたての小鹿のようだった。息があがり、上気した戸塚が大きく息を吸ったり吐いたりしている。眼前の映像に8万いいねキメた。
「戸塚くんはスタミナが無いわね。筋肉も無いからラケットを振ると身体が遠心力に負けて姿勢がブレてしまっているし」
俺の記憶が正しければ雪ノ下も大概スタミナの無い人間だったが、スタミナ無い無い人間の国の王女様の彼女が言うのだから相当だ。
「比企谷くん、アドバイスしてあげなさい」
「君は毎回脈絡もなくこっちに振ってくるね」
「身体を鍛えるのが貴方の唯一の趣味でしょう」
「唯一じゃないしそもそも趣味じゃないから」
戸塚の前で不正確な情報で俺を語るのは許し難いが、雪ノ下の言わんとするところはわかる。戸塚の基礎体力の向上には、普段から部活をさぼって筋トレに精を出している人間が指導しろということだ。不安がる戸塚を俺はじろじろ見た。屈み気味の戸塚の襟は重力に負けて下に広がり、胸が見えそうだった。男だが、戸塚の胸だ。
「ヒッキー?」
由比ヶ浜が訝しんだ。雪ノ下の突き刺さるような視線も感じる。
「戸塚が体力が無いってのがわかったから今日はもう十分だ。トレーニングメニューは明日までに考えとくから、明日の昼に部室に集まってくれ」
「なんで貴方が仕切っているのかしら……でもいいわ。考えなしに続けても無意味だし、今日は解散にしましょう」
「いや~~、さいちゃんすごかったねヒッキー。すっごい華奢で、おひめさまみたいで!」
「ほんとそれな」
「女子たちの間でもさいちゃん人気あってさ!守ってあげたくなるっていうか、母性本能?がくすぐられるとか言っててさ」
「ああ~~わかる」
「わかるって、ヒッキー、男に母性本能はないでしょ」
「いや母性ってか庇護欲ってか、あるやん?」
戸塚が聞いたら屈辱を感じそうな会話。腕をぶんぶん振りながら歩く由比ヶ浜と連れ立って歩いている。2-Fの教室に忘れ物をしたので取りに行ってから帰ると告げたら「じゃああたしも行く」とのことだった。何がじゃあなのかはわからないが、由比ヶ浜のような快活で愛想のいい美少女と二人で行動するのは思春期の男子にとっては憧れるものだろう。だが俺は由比ヶ浜とどんな会話をしたらいいのかがわからずに、由比ヶ浜の言葉に適当に相槌をうつだけの機械と化していた。
この快活な由比ヶ浜と俺のよく知る結衣は同一人物であって同一人物ではない。銃夢LOでもディスティ・ノヴァ教授が「記憶と人格が揮発したならば死と定義するのが妥当」と言っていた。つまり俺のよく知る結衣は死んだということになる。死んだのは俺だけど。
「ちょっとヒッキー!どこまでいくのさ!」
「おっと、ぼんやりしてた」
「も~、大丈夫なの?」
相槌をうつ機械は無意味な思考におぼれている間に2-Fの前を通り過ぎようとしてしまっていたらしい。由比ヶ浜が顔を覗き込んでくる。やめろ可愛いやんけ。恥ずかしいだろ。
相槌をうつ機械(39)が照れを隠すように由比ヶ浜より前に踏み出し教室の戸を引く。教室内には誰もいなかった。無人の放課後の教室。俺と由比ヶ浜は静かな空間に足を踏み入れた。俺は自分の机に近付き英語の教科書を取り出した。
「ヒッキー、ちゃんと教科書持ちかえって勉強してるの?意外~」
「勉強てか宿題してなかったからな。今日中にやっとかんと。明日提出だし。英語の高田、宿題忘れるとうるさいからな」
「えっ、しゅくだい?」
由比ヶ浜はきょとんとしていたが、なにかに気付いたように目を見開き、顔から血の気が引いていった。
「由比ヶ浜、お前……」
「ひ、ヒッキー!宿題の内容おしえて!てか今からやろ!今から!」
由比ヶ浜が食い気味に迫ってくる。今からて。もうすぐ下校時刻だぞ。
「由比ヶ浜、おちつけ。おち」
「ヒッキーあぶな!」
一歩下がろうとしたら右足を机にひっかけて体勢を崩しかけこけそうになった。咄嗟に由比ヶ浜が俺を支えるべく手を伸ばしたが、慌てた由比ヶ浜は足をもつれさせ体ごと俺にぶつかり、俺は由比ヶ浜に押し倒される形で床にぶっ倒れてしまった。こういうの、普通逆じゃない?かろうじて由比ヶ浜がそのままふっとび頭や体を打たないようには抱きとめていた。やるじゃん俺。八万ポインツ!
くだらないことを頭の中で考えていると、由比ヶ浜の香りで鼻腔をくすぐられ、ハッとした。うっすらとした柑橘系の香り。腕の中の柔らかい身体。胸板に柔らかいものが押しつけられているのを感じる。由比ヶ浜の肉体を意識してしまうと思春期男子の血液が移動していく予感がした。仁徳天皇が即位準備してしまう。いかん、そいつには手を出すな!
「由比ヶ浜、大丈夫か」
「う、うん。ごめんヒッキー」
「けがをしてないならいいさ」
俺は紳士ぶって由比ヶ浜の両肩を掴み、そっと俺の上から降ろそうとして……動きが止まった。頬を朱に染めた由比ヶ浜と目が合ってしまった。目が潤んでおり、熱っぽい。
あっ、まずいこれ。
「ヒッキー……」
由比ヶ浜の吐息がかかる。いいにおい。
正面から俺の目を見つめてくる。すいこまれそうになってしまう。
かつての俺はなんだかんだと理由をつけて距離をとろうとしていたが、今の俺は由比ヶ浜の気持ちを知っている。俺自身も、由比ヶ浜に手をつけてしまっても何の問題も無いと思ってしまっている。
「由比ヶ浜」
俺は由比ヶ浜の肩を掴んだ両手に意志の力を漲らせ、そっと俺から降ろした。
「宿題の範囲教えるからさ、ちゃっちゃと帰って宿題やろうぜ」
「う、うん、そだね」
由比ヶ浜は目を泳がせながら制服についた汚れをぱしぱしと掃った。
「それ比企谷菌を掃ってるとかそんな感じ?傷つくからそういうのやめてね」
「もう!なに言ってるのさヒッキー!そういうのいらないから」
俺の照れ隠しの自虐にプリプリ怒りながら返してきた。これ、雪ノ下なら最初に自分で言いながら掃ってるだろ。というかお祓いするまである。あいつが言いそうなことを想像した俺は苦笑し、由比ヶ浜の相手をしながら校舎を出た。
「じゃヒッキー、またあしたね!」
「じゃあな」
由比ヶ浜は俺に手を大きくぶんぶん振りながらバス停に駆けていった。俺は肩まで上げた手を小さく振って応えた。
由比ヶ浜と別れた俺は駐輪場に向かって歩き出す。
大きく溜め息をついた。
チャリの籠にバッグを放り込み、漕ぎ出す。とち狂いそうになった中年を諌めるように風がふいくる。
由比ヶ浜の気持ち。現時点では
俺の気持ち。家を出て行った女房を、かつて共に過ごした結衣を、今の由比ヶ浜に求めているだけだ。それこそ由比ヶ浜の気持ちを踏みにじっている。
「馬鹿みてえ」
俺は首を振り、まっすぐ家を目指した。
こいついつも勃起してんな
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12-2
翌日、俺は授業を聞き流しながらずっとペン回しに集中していた。一点にのみ集中していないと、由比ヶ浜のほうばかりを見てしまいそうだったからだ。ひたすらペン回しをしているといつの間にか昼休みになっていた。
由比ヶ浜がチラチラ見てくる。それを無視して独りで部室に行くのは意識しすぎにも程がある。以前、自意識の化け物とか言われたことがあるがいい歳こいて自意識過剰なのはみっともない。目を合わせながら頷くと弁当を持ってぱたぱたと子犬のように駆けてきた。
「いこっか」
「いや、戸塚置いてってもいかんでしょ」
「あ、そっか!さいちゃーん!」
弁当を持ったままぱたぱたと戸塚のもとへ駆けていった。中身大丈夫?
戸塚を交えて三人で奉仕部の部室に着いたら既に雪ノ下がいた。相変わらずお早いことで。
「来たわね」
「おう」
「やっはろーゆきのん!」
「こんにちは。よろしくね、雪ノ下さん」
この面子のあいさつ、統一感が皆無だ。
「上品ではないけれど、食べながら話しましょう。時間も限られているのだし」
「あー!それいいね」
雪ノ下の提案でランチミーティングの体をとることになった。とはいえ俺が口火を切らないことには始まらない。昼に集まれと言ったのも戸塚のトレーニングメニューを考えると言ったのも俺だ。俺は懐から四つ折りにしたA4のルーズリーフを取り出し、広げた。
「戸塚、これを見てくれ」
「えっと……」
「きんとれめにゅー?」
弁当を食っていた由比ヶ浜が声に出して読み上げ、口をぽかんと開けている。そこをすかさず雪ノ下が咀嚼中に口を開けたままにするなと
「そうだ。曜日で部位別に身体を鍛える。一週間で全身を鍛えるわけだ」
続けて俺は個々のトレーニングメニューの詳細について説明した。正しいフォームで高い負荷を少ない回数で限界が来るようにこなすと筋肥大が、低い負荷だ多い回数で限界が来るようにこなすと筋持久力がつく、というのもざっくり説明した。これがまるっと正確と正確というわけではないが、プロアスリート目指すわけでもないならスタートはこんなんでええでしょ……。興味持ったら自分で調べるだろ。
「まあこんな感じか。筋肥大と筋持久力のどちらを求めるかは戸塚の判断に任せるが、フィジカルの強化にかまけてテニスが疎かになってもいけないし、筋肥大は程々でいいと思う」
筋肉はそう簡単につくものではないが、もし戸塚がゴリゴリのマッチョになっても俺は嫌だ。やんわりと過度な筋肥大はしないように釘を刺した。
だがこれを語る俺もまだ肉体強化に努め始めてからまだ一ヶ月足らずだ。脱いで力めば多少は筋張るが、世間的にはまだまだ貧相な部類だ。あまりえらそうなことは言えないし説得力も無い。
と、そこで戸塚が口を開いた。
「でも比企谷くん、ぼくダンベル持ってないんだけど……」
「スポーツ用品店行けば売ってるから。戸塚の体格なら軽くて安いやつからでもいいからなんか買っといて」
俺が答えると戸塚は「うん、わかった」とにこやかに微笑んだ。かわいい。食べちゃいたい。
「このメニューを自宅で筋トレ、あとテニス部が休みの時は俺が監修しながらテニスコートで一緒に筋トレ。フィジカルの増強については当面はこんなとこか」
しれっと戸塚と一緒になる時間を挿入した。戸塚に挿入?するのもされるのもいいぜ。
「雪ノ下、どう思う。なんか意見あったら言ってほしいんだが」
「いいんじゃないかしら。というか私の方から筋肉云々で意見を出すことは無いから。でも戸塚くんのフィジカルはそれでいいとして、肝心のテニスはどうするの」
「あ、ぼく今はお昼休みにテニスコート使わせてもらってるんだけど……」
雪ノ下の問いに戸塚が答えたが、歯切れが悪い。そこに由比ヶ浜がかぶせる。
「そういやさいちゃんお昼にテニスコートいたね。自販機に行った時見たよ」
「うん。先生に練習したいって頼んだら部活時間じゃないけど許可がもらえて……よかったらなんだけど、そこでの練習に付き合ってもらえたらなって。今独りだから壁打ちしかできなくて」
「いいねそれ!昼ごなしにみんなでちょっとテニスやろうよ!」
昼ごなしってなんじゃい。女子高生の間で流行っている造語だろうか。俺が由比ヶ浜の謎単語を不思議がっていると雪ノ下が口を挟んだ。
「由比ヶ浜さん、それは腹ごなしのことかしら」
「そ、そうともいう」
「そうとしか言わないわ。母国の言葉くらい正しく使うことを推奨するわ」
「お、お昼の腹ごなしの略だし」
由比ヶ浜が雪ノ下に食い下がる。お前じゃ無理だって。諦めろ。
「話が逸れてるな。明日から昼飯食ったらテニスコート集合ってことでいいのか?」
俺が雪ノ下に訊くと「そうね」と頷いた。
「とは言ってもまだ基礎体力の向上の段階だし、食後に激しい運動もできないから。それこそ腹ごなしに壁打ちと簡単にラリーをする程度だけれど」
「ううん、それでも付き合ってくれるのは嬉しいよ」
「俺はテニス自体はよく判らないし、雪ノ下が監督してくれよ」
「……知っての通り、私はテニス部じゃないのだけれど。何故私がテニスができると?」
「や、なんか上流階級の子女ってテニスを嗜んでそうだし」
俺はアイドルマスターミリオンライブの最上静香を思い浮かべながら言った。そういや黒髪ロングで鼻っ柱の強いところとかこいつに似てるな。控えめな体型なとことかも。由比ヶ浜が「なんかそんなイメージあるー」と乗っかると雪ノ下はやれやれといった感じでかぶりをふった。
「実際、多少の心得はあるつもりだけれど。いいわ。昼の軽い練習は私が監督するわ」
ようやく話がまとまった。
「戸塚、今日は部活あるのか?」
「うん」
「じゃあ部活帰りに軽めのダンベルでも買ってって今日からトレーニング始めてくれ。柔軟を欠かさずに、無理せずにな」
「うん、わかった」
戸塚が俺に微笑む。この笑顔だけでご飯何杯もいけるわ。
ご飯で思い出した。俺昼飯食ってないわ。
俺がコンビニ袋から弁当とおにぎりを取り出すと、空になった弁当箱を白地に水色チェック柄の弁当袋に詰め込んだ雪ノ下が声をかけてきた。
「貴方以外みんな食べ終わったし、もう部室を閉めたいのだけれど」
その顔は無表情だったが、瞳には嗜虐的な光が宿っていた。う~んこの女……
* * *
翌日。
いい天気だ。今日から戸塚と付き合って……じゃなくて戸塚に付き合って昼にテニスコート集合ということになっている。ちゃちゃっと食ってさっさとテニスコートに行くか、と思ったら戸塚がはにかみながら俺に「一緒にお昼食べようよ」と誘ってきてくれた。嬉しいやんけ。泣きそう。
「じゃ場所変えようぜ。いい場所がある」
「いい場所?そんなのあるの」
「ああ。まあ来なって」
俺は前の席に集まって飯を食い始めた相模たちに「俺んとこも使っていいよ」と声をかけてから戸塚と教室を出た。教室を出る際にちらりと由比ヶ浜を見たら三浦たちと談笑しながら弁当に箸を運んでいた。のんびり食ってちょっと駄弁ってから来るだろう、多分。
俺は戸塚を連れて、かつての高校生の頃の俺が飯を食っていた場所──特別棟の一階。保健室横、購買の斜め後ろ。丁度テニスコートを眺められる場所。かつてのベストプレイス。陽が射しこんでおり、風もふわりと吹いており居心地が良い。二度目の高校生になってからここに来るのは初めてだが、なかなか良い場所だ。
とはいえ毎日こんなとこで独りで飯くってたんか俺は。ぼっちというか居場所の無い人間だな。だがヤクザなんて社会に居場所の無い人間がなるもんだし、そう考えるとなるべくしてなったような気もする。
俺が「ここだ」と腰を下ろすと、戸塚はすぐ横に腰を下ろしちょこんと座った。パーソナルスペースが狭いね。……それとも俺と戸塚はそういう親しい間柄ってことでいいのか?
「いい陽気だね」
戸塚はそう言い、優しく吹いてくる風にふわりと浮かされる髪をおさえた。絵になるな。白いワンピースとか着せて一緒に砂浜とか歩きたい。ぜったいかわいい(確信)。
俺は飯を食う時普段は犬のようガツガツと平らげてしまうが、今回は意識的にゆっくり食べた。折角の戸塚とのランチだ。食事中は隙を生む、なんて高校生が気にすることじゃない。
戸塚と駄弁りながら飯を食っていると雪ノ下がやってきた。既に飯は食ったようで手ぶらった。
「あら、二人だけ?由比ヶ浜さんはいないのかしら」
「あいつなら三浦たちと飯食ってたし、そのうちくるだろ」
「そう」
それだけ言うと雪ノ下は俺に興味を失ったようにテニスコートに視線を向けた。
飯を食い終わった俺と戸塚は、二人で柔軟をしてから雪ノ下の指示でトス打ちを始めた。昼飯を食ったばかりということで左右に戸塚を走らせることもせず、俺は可能な限り同じ場所にボールを放っている。戸塚のスイングに雪ノ下が指導をしていると由比ヶ浜が「おまたせ~」と言いながら駆けてきた。そのまま由比ヶ浜と雪ノ下は駄弁りだし、俺が戸塚にトス出しを続けていると予鈴がなったので撤収した。
翌日以降、時間が惜しいので俺と戸塚は三時間目後の休み時間にちゃちゃっと飯を食い、昼休みになり次第テニスコートに向かうようにした。しばらくは昼休みをこんな感じで過ごした。
テニス部が休みのときは、俺が指導しながら重量物無しでもできるトレーニングをした。戸塚と一緒に柔軟体操をして、息の荒くなった戸塚を間近で眺めて、トレーニングでくたくたになった戸塚に簡単なマッサージをしてあげたりした。俺はこのために生き返ったのではないか。俺はテニス部が休みの日が待ち遠しくて仕方なかった。
* * *
「八幡、昨日ここに来た時に鍵が閉まってて誰もいなかったのだが、休みだったのか?」
「ああ、ちょっとな」
また材木座がラノベの設定相談に来たので相手をしていたのだが、昨日戸塚に付き合っている時にも来ていたらしい。雪ノ下は文庫本を、由比ヶ浜はケータイを手に材木座には一瞥もくれない。あいつら結構ひどない?
「ちょっととはなんだちょっととは。迷える子羊を導くのが貴様の務めであろうが。私用で使命を放りだす輩には我が
いちいち説明するのも面倒なので適当に流そうとすると、材木座は下手糞な北京語を混ぜながら食い下がってきた。今度はなんのラノベを読んだんだ。それとも漫画かな?
「そっか、材木座にそう言われちゃしょうがないな……俺みたいな矮小な存在にはお前の友達は務まらないんだな。俺みたいなのと絡んでるとお前の魂の格が下がるからもう話しかけてこなくていいぞ」
「ちょっ、まっ、はちまーん!」
手でしっしっと掃うと材木座が泣きついてきた。どう転んでも鬱陶しいなコイツ。そこに声量の割りにしっかりと聞き取れる、澄んだ声が聞こえた。
「でも彼の言うことも一理あるわね」
「「「えっ」」」
俺と材木座と由比ヶ浜は三人してきょとんとし、雪ノ下を見た。
「滅多に相談が無いとはいえ、困っている人に手を差し伸べるのが奉仕部の役割よ。そしてそれを通して自己の成長と変革に努めるのを目的としているのだから、相談に来た人を放置するようなことがあってはならないわ。いないならいないでそれが判るようにしないと」
「おお、雪ノ下氏の言うとおりだぞ八幡!」
「実際に真剣な相談を放置する事態が発生する前に気付けてよかったわ。感謝するわ、比企谷くんの朋友さん」
「アッハイ……」
雪ノ下は材木座の名は口するのも憚られるとでも言うように別の言葉を用いている。ひどい。そもそもラノベの設定談議だって材木座には大事な話だぞ、多分。こういうのの積み重ねがイジメ問題に発展していくんやろなあ(適当)。
* * *
次の戸塚強化日。
俺たちはホームセンターで買った『只今留守にしております』のプレートを部室前に吊るしてテニスコートにやってきた。これで材木座が来ても大丈夫だろう。材木座しか来ねえのかよやっぱり。結局放置してるのには変わりないし。まあ材木座だしいいけど。
雪ノ下が戸塚にスイングの指導をしているのを、俺はテニスコートを覆うフェンスに持たれながら見ていた。隣には由比ヶ浜が体育座りで見ていた。……パンツ見えそう。俺は脚へ向けた視線を誤魔化すように、雪ノ下には聞こえない声量で由比ヶ浜に話しかける。
「クッキー作りん時から思ってたけど、あいつ教えるの下手だよな」
「いやー、下手っていうか、多分、ああいうの馴れてないんじゃないかな」
「たしかに。あいつもぼっちだからな。ああやって人に関わるの自体経験なさそう」
「そうじゃなくて。なんていうのかな……ゆきのんは話しかけづらい…って言うとちょっとちがうな。なんだろ。自分なんかが頼っていいのかな?迷惑かけたらいけないよね?って思っちゃうっていうか。そうして距離をとっちゃうから、結果的にゆきのんは人に頼られることに馴れてないのかなって」
「でもおまえメッチャ頼ってたし面倒もかけてたぞ」
「そっそれはその……しょうがないじゃん!」
「で、出た~~wwwwwww自分だけしょうがないで済ます奴~~wwwwwww」
「うわ、ヒッキーなにその変な笑い方?キモい!」
キモい言うな。
だが由比ヶ浜の言いたいことはわかる。雪ノ下は一般ピーポーには無い高貴さを纏っている。それは家庭環境由来なのか、本人の生まれ持ったものなのかは知らないが、世の一般人には近付きがたさを感じさせるものだ。勿論世の中にはそういう女子に魅かれる人間もいるし、魅かれるどころか良家のお嬢様を食い散らかすのを愉しんでいる男だっている。
話が逸れたが、一般的には人はそういう
だからこそ由比ヶ浜は雪ノ下に積極的に距離を詰めるのだろう。普段の三浦たちとの接し方を見ていれば由比ヶ浜が考えなしに人にひっつく馬鹿ではないのはわかる。人を気遣える、嫌がらせてしまうところには踏み込まない女の子だ。そんな由比ヶ浜が雪ノ下に距離を詰めるのは、雪ノ下の孤独さを感じ取ったからだろう。それを言うと由比ヶ浜は「そんなんじゃない」と否定しそうだが。というか雪ノ下も「好きで一人でいるだけよ」とか突っぱねそう。
「アレ、ユイじゃん。ヒキオもいるし」
「え?あ、優美子!」
考えていたら三浦が来ていた。テニスコートの外から俺たちを見ている。どうやら一人のようだ。ヒキオって俺のこと?
「どったの優美子」
「ジャン負けしたからドリンク買いに来た。したらテニスコートにユイいたから見に来ただけだし。部活入ったつってたけど、テニス部だっけ?」
「ううん、奉仕部っていって、なんかボランティア?人助け?みたいな?今はさいちゃんがテニス上手くなりたいっていうから協力してるの」
「ふーん……」
訊いておきながら興味なさげにテニスコートに視線を向ける三浦。ドリンク買いに来ただけだし実際興味無いんだろう。
雪ノ下コーチのもと、左右にステップしながら素振りを繰り返す戸塚。三浦はそれをつまらなさそうにしばらく眺めている。由比ヶ浜はそんな三浦を不安げに見つめている。戸塚が足を止めて喘ぐように深呼吸し、雪ノ下が檄を飛ばす。鬼かあいつは。
黙って見ていた三浦がひとつ溜め息をつき、踵を返した。
「じゃ、行くわ」
「優美子……」
頭の横で手をひらひらさせながら去っていく三浦を、由比ヶ浜は憂うような複雑な表情で見送っていた。
そういう意味深なのやめてくれよ。気になっちゃうだろ。
* * *
「──とまあ、こんな感じで青春を謳歌してました。先生があの部活に入れてくれたおかげですね。感謝してます」
職員室の一角、仕切りで区切られた応接スペースで俺は平塚先生に近況報告をしていた。彼女は苛立たしげに腕を組み脚も組んでいるが、その腕はバストを持ちあげるように押し上げ、組んだ脚は太ももやヒップのラインを際立たせエロさが増している。狙ってやってんのかこの女教師は?
「……そうか。比企谷、言うことはそれだけか?」
「うへへ、先生。課題の再提出は今週中に出します」
戸塚にばかりかまけていた俺は、平塚先生に命じられた課題の再提出を忘れてこっぴどく叱られましたとさ。ちゃんちゃん。
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C
荒木町でタクシーを拾い、新宿通りを皇居方面に向けて走らせた。
「あ~~っと、麹町駅んとこで左折して。んで日テレ越えたとこの交差点で停めて」
指示した場所でタクシーが停まり、大和は金を払った。
「ほら社長、しゃきっとしてくださいよ。また奥さんに怒られますよ」
「ああ~~、くそ。俺としたことが……、大和さんに張りあっても勝てるわけねえのに、いつもこれだ……」
横で酔い潰れていた中年男を引っ張りだした。目が血走っており、足がふらついている。目を離した隙に路上に倒れこみ寝落ちしそうな勢いだった。
苛立った。こんな程度の低い間抜けが事業に成功し、若いタレントと結婚し成功者としてでかいツラをして生きている。憤りを覚えると同時に惨めさを感じた。こんな間抜けの機嫌をとって組の為にちまちまと使い走りのような仕事を貰う自分はなんなのだ。
かぶりを振った。不要な思考に脳の容量を割くのをやめ、間抜けの社長に肩を貸しマンションまで歩いた。
間抜けの社長をマンションの入り口まで送り届けると、大和は煙草を吸いながら四ツ谷駅に向かって歩きだした。時刻はまだ午後11時半。この時間なら電車はまだある。間抜けを千代田区のマンションまで送り届けてから、ドブ臭い神田川沿いにあるしけたアパートに帰ることを考えると、大和はまた惨めな気持ちになった。
「おや、
駅の手前で、典雅な北京語で名を呼ばれた。名以外は流暢な日本語で。そんな人間は一人しか知らない。
「
振り向いたら北京系の
大和程ではないが、陳は体格もよく、派手さは無いが仕立てのよいスーツをぱりっと着こなしている。眼鏡も装飾の無いシンプルな銀縁。短めの髪を横分け気味に流しており、大手商社に勤めていると言われても違和感がない風貌だ。歳は大和の二つ上だが、生気が漲っており大和より若く見える。
そのまま日本語で会話を続けた。
「こんなところで会うなんて奇遇ですね。誰かの送迎ですか」
「ええ、そんなところです。陳先生もですか?」
「私は愛人を送ってきたところです。泊まっていけと言われたんですが、
八斬。
陳は親しみを込めて八斬と呼んだ。
人間を文字通り八つ裂きにする男に親しみを持つあたり、陳も相当な外道畜生であり、あまり一緒にいたくない類の人間だった。大和は陳の気分を害しない別れのあいさつを探したが、遅かった。
「そうだ。大和も一緒に来ませんか。マルコも一緒なんですよ。久しぶりでしょう」
「そんな、三人とも有名人じゃないですか。私のような小物が一緒しては場が白けてしまいますよ」
「何を言っているんですか大和。私たしは朋友でしょう。行きましょう」
眼鏡の奥、銃口のように黒く昏い眼が大和を見つめた。陳相手に改めて断りの言葉を入れる勇気を持たない大和は肯いた。
陳がタクシーを停め、乗り込んだ。
「区役所通りまで」
歌舞伎町。時代が変わっても日本最大の歓楽街であり続けている。そして日本最大の掃き溜めでもある。
「大和は岐藍連合の人間ですし、歌舞伎町は庭のようなものでしょう」
運転手の耳を気にしてか、陳が北京語で話しかけてきた。大学で学んだ中国語は北京語をベースに作られた
「岐藍連合といっても私は皆戸の人間ですから、歌舞伎町にはたまに飲みにいくくらいですね」
「なるほど。神楽坂だってなんでもありますからね。わざわざ出向く必要もないですね」
皆戸一家の事務所は神楽坂にある。それとは関係無しにお前らみたいな北京野郎が嫌いなんだよ、とは言えないので曖昧に笑った。
今時中国人などどこにでもいるが、大和は歌舞伎町に巣食う北京系が特に嫌いだった。
その金を持っている連中の中でも北京系は特にデカい顔をするようになった。雨後の筍のように湧いてきた地方中国人や不良外人と違い、昔から歌舞伎町を仕切ってきたという自負が連中にはある。それが大和には鬱陶しかった。
──俺はチャイマとおしゃべりするためにTUFSに進学したんじゃねえぞ。
陳がタクシーの運転手に万札を払い、降りた。大和も続いて歩く。
「今日はどんなお店にいくんですか」
「残念ながらお姉ちゃんのいるお店じゃないんですよ。遅くなると八斬はさっさと帰りたがるし、私も香水の匂いをつけて帰ると女房に怒られる。マルコは残念がりましたが」
「私もさっきまで飲んでいたので、その方が助かります」
比企谷は大井や渋沢とは何件でも飲み歩いたが陳やマルコとはそうしないらしい。
歩いて数分、陳が立ちどまり「ここです」と雑居ビルの一階を指さした。大和も知っている人気のラーメン屋だった。
「ここって九時には閉まりませんでしたっけ」
「それは勿論大丈夫ですよ」
陳は朗らかに笑った。ここは北京野郎の息がかかっている店ということだ。大和はげんなりした。
店に入ると比企谷とマルコは座敷席で餃子を食いながらビールを飲んでいた。
比企谷は白いジャージ、マルコは黒いツナギを着ていた。殴り込みでもいくような格好だ。
比企谷は大和たちを見るとジョッキを置き、言った。
「陳哥、何故大和がいるんですか」
「四ツ谷で出くわしたから連れてきた。たまにはいいだろう。八斬だって同郷の友人じゃないか」
先程までとは違い、陳は尊大な態度で比企谷と話した。比企谷は「別に友人じゃないが」と肩をすくめた。
マルコは黙って見ていたが、けたけた笑うと日本語で喋り出した。
「いいじゃねえかハッチ。大和だってアミーゴだろうが。文句言ったら可哀想だろ。一緒にメシ食おうぜ。」
「別に文句があるわけじゃない」
マルコは浅黒い肌にウェーブのかかった黒髪、彫刻のように彫りが深く整った目鼻立ちといったラテン男の鑑のような風貌をしているが、日本生まれ日本育ちで流暢な日本語を使う。
陳が店長に声をかけつつ比企谷の隣に腰を下ろしたので、大和はマルコの隣に腰を下ろした。
「とりあえず拉面食べましょう。今週は洒落た西洋料理ばかり食べていたから、拉面欠乏症で死んでしまう」
陳は真顔でたわ言をほざいた。
その後は、最近出た新車が欲しいだの、若い女を狙っているだの、飼っている猫が食欲不振だの、どうでもいいことを話していた。ただの食事会のようだった。
「そろそろはおひらきにしますか」
陳が言うとマルコ以外は帰る意志を見せた。渋るマルコを比企谷が小突きながら店を出た。
店の前には型落ちの国産ミニバンと現行BMWの7がいた。ミニバンには比企谷の、BMWには陳の兵隊が乗っていた。マルコはそのまま比企谷が送っていき、大和は陳のBMWで送られることになった。
BMWがゆっくり都道305号を北上していく。
流れていく夜の新宿を見ていると陳が日本語で訊いてきた。
「大和の住まいは水道二丁目でしたっけ。神田川のすぐそばでしたよね」
「江戸川橋のとこのコンビニで降ろしてもらえれば大丈夫です」
眼前の悪鬼に住処を隠す意味などないが、それでも直接送られる気にはならなかった。
陳が運転手に北京語で話しかけると車の速度が増した。
高戸橋で信号待ちをしていると陳が口を開いた。
「大和は八斬の下にはつかないんですか」
「いきなりなんです?」
「皆戸は老舗で存在感があります。兵隊も多い。でもそれだけでは足らない。わかっているでしょう」
陳は大和の意志を確認するように言った。
「……大井のアニキがいなくなって一年。周りの俺たちを見る目が変わったのはたしかです」
「皆戸に唾を吐くと大井さんが出てくる。誰もが怖れていました」
陳は大井の名を日本語で言った。陳は親しくない日本人は日本語にさん付けで呼ぶ。
「やくざ稼業はおそれられて成り立ちます。岐藍連合理事の組を舐めているわけではないですが、大井さんのいない皆戸よりも、おそれるべき存在はいくらでもあります」
「だから俺に比企谷の威を借りろと?」
「泥船にしがみついているだけではどうにもならないでしょう」
銃口のような眼が大和を捉えた。身じろぎひとつすら躊躇われた。
泥船。大和も頭でわかってはいたが、
「大井さん同様、誰もが八斬をおそれます。日本のやくざも、中国人も、南米人も」
「比企谷は大井のアニキとは仲が良かった。だからって俺なんかを舎弟にはしませんよ」
「彼は外道だが、兄弟分の舎弟をむざむざ見捨てるような薄情者でもないでしょう。我々中国人が同胞に手を貸すようなものです」
それだけ言うと、陳は話は終わったと言うように窓の外に顔を向けた。
大和がBMWから降りると陳が言った。
「私もマルコもあなたを気にかけています。恩がありますからね」
大和は小さな事務所や物件を都合することができる。小汚いビルの一室を二束三文で手に入れ、それを人種問わずに三束四文で売っている。外人相手に足下を見ずに商売してやるヤクザは希少だが、単に大和はそうでもしないと稼げないというだけだった。若い時分に陳やマルコを相手にしたこともあったが、そんなものを恩に感じているとはこれっぽっちも思わなかった。
「八斬は大井さんにもあなたのことを頼まれているとは思いますが、私たちだって八斬を介して恩を返したい。沈没していくのを黙ってみているような不義理者ではないのでね」
比企谷は勿論、陳やマルコも睨みを利かせるのであれば大和のシノギに唾を吐いてくる人間はいなくなる。だが、組に忠誠を誓っているわけではないとはいえ、あっちこっちにシッポを振る人間を軽蔑している大和は自分がそうなるのに抵抗を感じた。
それ以前に、恩返しとはいうがそんな言葉を信じる大和でもなかった。陳やマルコがヤバくない話を持ってこないはずもない。日本の歓楽街に巣食う不良外国人の耳障りのいい話を真に受けるのは馬鹿のすることだ。
ヤクザになったばかりの頃の大和は、他人のもってきた儲け話に乗って痛い目を見たことは一度や二度ではない。カタギだろうがヨゴレだろうが、警戒心を解くと死ぬ。
「そうですね、考えておきます」
大和の返答に陳が満足そうにうなずくとBMWが発進した。
大和にできることはBMWを苦々しげに見送ることだけだった。BMWが視界から消えたあとも、大和はBMWが走り去った方向を睨みつけていた。
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13
授業が終わると戸塚についてテニス部の部室に行く。戸塚の生着替えを堪能しつつ、自分もジャージに着替えて奉仕部の部室へ。奉仕部ではヨガマット(私物)の上で念入りに柔軟をこなしてからのんびりヨガの体操をして、適当に時間が経ったら本を読みだす。部活が終わるとチャリで太田道場に行き稽古をつける。稽古後は平塚先生と一緒に飯を食べてから帰る。
曜日によって内容は変わるが、大体こんな感じで過ごしていた。何も考えることなく。それはGWが終わっても続いていた。
「じゃ、彩加」
「うん、また明日ね。八幡」
俺と戸塚はファーストネームで呼び合う仲になっていた。とてもいい。
今日もいつも通りに戸塚の生着替えを堪能してから部室に来た。十分に柔軟と体操をした俺は、ヨガマットを丸めて部室の隅に置き、鞄から本を出して読みだす。時折雪ノ下や由比ヶ浜がちらほら会話するが、基本的には静かなものだ。無為にすぎるこの時間になんの疑問も抱かなくなってしまったのはいいことなのか悪いことなのか俺にはわからない。ただ、この時間が嫌いではないことは確かだった。雪ノ下はいつものように本を読んでおり、由比ヶ浜もケータイを弄っていたが、やがて鞄から文庫本を出し読み始めた。
「ねえゆきのん、この漢字読めないんだけど」
由比ヶ浜も部活では本を読む時間が増えた。慣れないことをしているはずだが、いやな顔ひとつ見せずに部室に来ている。
と、ドアがごつごつと音を立てて揺れた。ここの戸をノックする人間など奉仕部に悩み相談する人間しかいない。そして奉仕部に悩み相談する人間など材木座くらいしかいない、悲しいことに。由比ヶ浜も俺と同様の結論を導き出したようで、うげっといやな顔をした。
「どうぞ」
雪ノ下はそんな由比ヶ浜を構わずにノックに返事をした。
あの野郎、今日も相変わらずラノベの設定談議に来たか。そう思っていたが、戸を開けたのは意外な人物だった。由比ヶ浜も俺と同様の考えのようで(二回目)、入ってきた人間に声をかけた。
「あれっ、大和くんじゃん。どったの?」
「あ、由比ヶ浜?なんか部活入ったつってたけど、ここか」
頭をぶつけないように首を傾げながら入った来たのはラグビー部の大和だった。でかい。身長は185センチはある。ヤクザになってから再会した時は、背は191だと言っていた。ここからまだ伸びるというわけだ。ちょっとわけてくれよ。
大井も194センチあったので、皆戸一家の親分──あのおっさんも182、3はあった──が大井と大和を連れて歩くとたいそう目立ったものだ。
「知り合いかしら」
「うん。同じクラスの大和くん。ラグビーやっててこんないかついけど、おっとりしてて聞き上手なんだよ」
怪訝な貌をした雪ノ下の問いに由比ヶ浜が答えた。
折角でかい図体を持っているくせに押し出しが弱く流されがち、というのが俺の評価だ。ものは言いようである。
「図体はでかいけど、別にいかつくはないだろ」
「ごめんごめん。でも最近なんていうか、迫力っていうか、貫禄あるよね!」
「老け顔ってことか?」
「そ、そういうんじゃないし」
「三浦にいっとこ。由比ヶ浜に侮辱されたって」
「なんで優美子が出てくるし!」
母親に些細な悪事を告げるぞと脅された小学生のように戸惑う由比ヶ浜を見ていた雪ノ下が口を挟んだ。
「それで、大和くん……かしら。奉仕部に来たということは、何か悩みがあって、それの相談ということよね」
「ああ、相談にきたんだ。つっても悩んでるわけじゃないが」
「どゆこと?」
由比ヶ浜があほみたいな貌をしていると大和は俺の方を向いて言った。だが微妙に目を合わせてこない。視線は俺の鼻か眉間に向いている。面接のHow to動画で『相手を目を合わせられない時はどこを見ればいいか』を実践しているような視線だ。
「比企谷くんは職場見学誰と行くか決めたかい?」
「……いや」
「ちょうどよかった。俺といっしょに行ってくれないかな」
「俺はいいけど。でも職場見学は三人一組だろ。あとの一人はどうすんだ。葉山か?」
「葉山は戸部大岡と行くだろ。あとの一人は任せるよ」
「じゃあ戸塚で。戸塚にしよう。戸塚だ」
俺が食い気味に戸塚の名前を出すと由比ヶ浜が「あのさ」と口を挟んできた。なんだか言い淀んでいる。目で促した。
「大和くんが職場見学でヒッキー誘いにきたのって、もしかして、アレのせい?」
「それのせいちゃあそうだし、違うっちゃあ違う」
2-Fの二人が指示語で会話していると雪の下が俺を見てきた。2-Fトークならお前が説明しろと目で言っている。2-Fの流行が俺にわかるわけないだろ!いい加減にしろ!(半ギレ)
「由比ヶ浜さん、二人だけであれそれと言われても理解できないのだけれど。説明してもらえるかしら」
しびれを切らした雪ノ下が由比ヶ浜が問いかけるが、由比ヶ浜は口ごもりながら大和をちらちら見るだけだった。
「いいよ別に。相談に来たのは俺だし、この際説明しとくか」
大和はケータイのメール画面を開き、説明を始めた──先週末から2-Fでチェーンメールが何通か出回っている。その内容は大和・大岡・戸部といった、普段葉山とつるんでいる三人を誹謗中傷したものが多い。学校の裏サイト的な掲示板にも三人の悪口が書かれている、ということだった。
「これがなんで職場見学に関係あるんだよ」
「……職場見学のグループ決めのタイミングで流れ始めた、ということね」
俺の問いに雪ノ下が答えた。由比ヶ浜も続けて言う。
「ほら、普段大和くんたち四人いっしょにいるじゃん」
「あーそーゆーことね。完全に理解した(わかってない)」
俺が腕を組んで横柄に頷くと雪ノ下が道端に転がる乾いた犬の糞を見るような眼で見てきた。そこでまた戸がノックされた。紳士的にこん、こん、こんと三回鳴った。雪ノ下が促すと葉山が入ってきた。
「お、葉山」
「ん?大和?なんで……」
葉山が奉仕部に来た理由はまさに大和たちについて書かれたチェーンメールについての相談だった。これをやめさせたい──葉山はそう言った。雪ノ下は不快感を露わに、由比ヶ浜は陰鬱そうに葉山の言葉を聞いていた。当の大和は自分の用件が済んだからか、どうでもよさげだった。
「このような人を貶めるため以外の何物でもない最低な行為をする人間は特定して叩き潰すべきよ。目には目を。歯には歯をよ」
雪ノ下が攻撃的な意見を述べる。だがそもそも"目には目を、歯には歯を"は、本来なら「罪に罰を与えるなら同程度の報いでなければならない、或いは対価を受け取る」というというものであり、やられたらキッチリぶっ殺せという意味ではない。雪ノ下もこんな誤用をするのか。ドヤ顔で指摘してやりたくなった。
「でも、これ、多分とべっちか大岡くんだと思う……」
「ちょ、結衣なにを言ってるんだよ。なんで戸部や大岡がこんなことを」
「だって、ほら……三人一組でハブられるのが自分だったらって思ったら、その、結構きついよ」
あーそーゆーことね。完全に理解した。今度こそ。葉山の腰巾着の誰かが自分以外の誰かを蹴落とすために悪評を垂れ流した、由比ヶ浜はそう言っているのだ。そして犯人は自分が怪しまれないように三人全員を貶めている。そんなところか。だが……。
「いや、戸部も大岡もこんなことせんだろ」
黙って聞いていた大和が口を開いた。大和は俺と同じ推論を葉山に聞かせ、その上で続けた。
「戸部は葉山が嫌がることはしたがらんし、大岡はアホだからなんも考えてない。そして俺もそこまでして葉山の腰巾着するつもりもない。別の誰かだろ」
腰巾着の自覚あったのかお前。だがそこで雪ノ下が噛みついた。
「では一体だれが犯人だと言うのかしら。他にこんなことをする理由がある人間がいるというの」
「いくらでもいるさ。葉山を目の上のたんこぶくらいに思ってるやつなんてよ」
「え?お、俺?」
友達が悪口を言われていたはずなのに、突然自分に悪意が向けられていると言われた葉山がたじろぐ。
「葉山の悪評バラまいたところで誰も信じないし、犯人探しをするやつだって出てくるかもしれない。でもとりまきの俺たち三人をけなしても、俺らの名誉のために犯人探しするやつなんていない。でも友達をけなされた葉山は気分を害する。手軽にささやかな嫌がらせができるだろ」
葉山は小さく「そんな……」と言って俯いた。俺が思ったのはそれだ。葉山に嫌がらせをしたい奴は一人や二人ではないだろう。しかし大和、お前それ自分で言ってて悲しくならんか。
雪ノ下は納得がいったらしく「人気者は大変ね」と嫌みたらしく言った。お前が犯人じゃねえだろうな……。
* * *
屋上。
俺と大和は部活に戻っていく葉山を見送った。葉山は自分のせいで友達が悪意に晒されてしまったとしょげてしまい、俺たち二人は葉山を人目につかない屋上で慰めていたのだ(海老名的な意味では無い)。ってかなんで俺が葉山のためにこんなことせんといかんのだ。
「ハハ……雪ノ下の嬢ちゃんも言ってたけど、人気者は大変ですねえ」
突然の敬語。
俺が視線を向けると大和は懐から煙草をとり出し、咥えた。緑色の箱にネイティブアメリカンの男らしきものが描かれている。アメスピのメンソール。大和は煙草を左の内ポケットにしまうと右の内ポケットからマッチ箱を取り出し、それで煙草に火を点けた。俺の視線を受けた大和は煙を吐いてから言った。
「吸いますか?比企谷さんもアメスピ吸ってましたよね」
「俺はターコイズしか吸わん。たまにペリックも吸ったが」
俺は電子タバコをとり出し、咥えた。
「……不意をついたつもりだったんですけど、驚きませんね」
「マスオさんみてーな驚き方が見たいならやるぜ」
大和は肩をすくめた。
実際は口からキンタマが飛び出そうな程驚いたが、それを表に出す俺でもない。大井のような人間離れした暴力も、渋沢のような多くを先々まで考えられる脳味噌も持ってない俺は、ハッタリだけでもうまいことできなければならかった。暴力と頭脳が1.5流でも、看板とハッタリが一流であれば極道としてやっていけるというのが俺の経験則だった。死んだけど。
「お前はどうなんだよ。どうしてわかった?」
「わかったと言うと正確じゃないんですけど。俺の記憶では
「ほーう、そうか」
えらそうに言って煙を吐いたが、脳が停止している。訊くべきこと話すべきことが色々あるのだが、考えがまとまらない。
「俺は総長を自宅に送ってくときに銃撃されたんですけど、比企谷さんも死んだ感じですかね、やっぱ」
「ああ。飯食ったら手榴弾も喰らった」
「……なんですか、それ」
「俺が訊きてえよバカヤロー」
「そもそもなんで高校生になってんですかね」
「俺が訊きてえつってんだろ」
大和も満足のいく答が返ってくるとは思って無かったようで、落胆する素振りも見せずに遠くを眺めている。
「どーすりゃいいんですかね。これから……」
「好きにすりゃいいだろ。お前、いつだって好きでヤクザになったんじゃねえってツラしてたろ」
「それはそうなんですけど。でも自分の今までを無かったことにするっていうのも。キツいはキツかったけど、俺の人生でしたよ」
「それは俺もだよ」
「ですよね」
大和は携帯灰皿を取り出し、話している間に短くなった煙草を入れた。大和がもう一本吸おうとしたので、一吸いするまで待ってから俺は言った。
「ってかなんで敬語なんだよ。今となっちゃあ組も大井も関係無いだろ」
「酒や煙草と一緒ですよ。今更ぽんと変えられるもんでも……。さっき言ったように、全部無かったことにする踏ん切りもつかないので」
「そうだとしても俺みたいなヒョロガキに舐めたクチ効かれるのなんて癪だろう。その気になれば今の俺なんてパパッとぶち殺せるだろ」
鍛え始めたとはいえ、この身体はスタートが骨と皮しかないような小僧だ。人の痛めつけ方は覚えているが、でかいやつと正面から喧嘩するには些か貧相すぎる。
「まさか。正直今だってビビってます。新宿で八斬にビビらないのなんて頭の弱い勘違い野郎だけです。フィジカルどうこうじゃないんですよ、ヤクザも外人もあんたにビビってたのは。さっきその気になればって言いましたけど、いくらヤクザでも人を殺すのなんて簡単なことじゃないですよ。ましてや俺一人じゃ死体の始末もできんでしょう」
「そういや、お前が俺と付き合いだしたのはお前が死体の処分に困ったのが発端だったな」
「ああ……大井の兄貴に泣きついたら、信用できるやつを向かわせるつって比企谷さんが来たんでしたね」
「……なんで高校でお前と昔話してんだよ」
大井や渋沢が死体や道具の処分に困った時は俺が手伝ってやることがあった。極道ならそんくらい余所の組の人間に頼らずに自分でうまいことしろと思うが。大和のときも大井から連絡を受けて行動した。
しかし大和の口ぶりからすると俺はヤクザとしても過激な部類だったらしい。単に大和がパッとしないからなおさらそう見えていただけかもしれないが。
「やっぱ一本くれ」
大和は黙って煙草を一本差し出した。俺が煙草を咥えると大和はマッチで火を点けた。
深く吸いこむとくらっとした。それは清い身体にニコチンを入れたせいなのか、自分は陽のあたる場所にいるべきではない人間だと認識したからなのか。考えてもわからかった。
活動報告書いたんですけど、匿名垢だと見れないんですね。
仕事の都合で東南アジアの辺りに行く羽目になったので帰国するまで更新停止にします。
多分年内には帰れるはずです。
お待たせしてしまって申し訳ないですが何卒。
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