ネクサス 遠い絆と少女の願いの物語 (いかるおにおこ)
しおりを挟む

第一話 夢の終わりとゲームの始まり

 やわらかな感触と温かみを全身に感じながら、そこに差し込む僅かな冷気でクロエ・ブルームは目を覚まし、身を起こす。

 彼女が二段ベッドで眠るのは初めてのことだった。寝心地は悪くないどころかとても良いものだと思うし、普段の日常ならもっとゆっくり眠ることだろう。だがクロエは時計を見ることもなく早起きをしたと確信していた。

 今日は楽しみにしていた旅行の日だ。だからこうして夜行列車に揺られている。この列車は朝の9時には終点の駅に着く。

 午前5時。枕元に置いていた携帯電話が知らせていた。縦長の板にタッチパネルの液晶モニタをはめ込んでいるもので、クロエはため息をついてベッドに再び倒れ込んだ。

 親友と遊園地へ旅行する――そのことがもう楽しみで仕方がなくて普段よりも早い時間に起きるなんて、まるで子供みたいだ。でも悪くはない。

 まずは顔を洗おう。そう考えたクロエは起き上がってカーテンを開ける。親友は二段ベッドの上で寝ているはずだったが、今はそこにいないようだった。

(どこに行ったんだろう、展望車かな)

 少し気になったが先にやるべきは身だしなみを整えることだ。軽く化粧もしておきたい。異性の親友を相手にすっぴんでいることに恥じらいもためらいもないが、今日は記念すべき旅行になる。成すべきことはしておきたかった。

 

 着替えを持って客室の洗面所にやってきたクロエは備え付けのアメニティグッズで身だしなみを整え、化粧も簡単に手早く済ませる。寝起きのまんだりした重みから解き放たれた彼女は、ぱんと軽く頬を打って鏡の中の自分を見つめる。

 中性的な魅力が輝くよく整った顔立ちだ。男装すればそれなりに整った少年と間違われても不思議ではない。

 背の低くすらっとした姿もかわいらしいと感じる人は多い。事実これまでクロエは周囲の人間からその容姿を褒められることが多かった。

 淡い青の寝間着から灰色のセーターと白いスラックス姿になったクロエはすぐに洗面所を出た。扉の向こうで足音がしたからだ。

「フィー?」

 呼びかけながらクロエは寝室の方へ向かう。そこにはオーバーサイズな暗い灰色のセーターをきた少年が椅子に腰掛けていた。華奢な背格好やたれ目がちなこともあり、少女のようにも見える。

「クロ、起きてたのかい?」

「そっちこそ。展望車にでも行ってたの?」

「そうだよ。それと、飲み物の注文とかしてきた。クロのは……そうだね、追加でお願いしようか」

 お互いにニックネームで呼びあい、フィーと呼ばれた少年が立ち上がって、壁にかけてある固定電話に手を伸ばした。

「もしもし、5号車のフィル・メーベルですが。――そうです、ルームサービスの追加をお願いしたくて。――はい、ホットココアをひとつ追加で。クロ、それでいいかい?」

 頷き返したクロエは、すんなりとルームサービスの手続きが通ったのを見ていた。3分と経たないうちに注文した飲み物が届くことだろう。

 

 フィル・メーベル。それがクロエの親友の名前だ。第九大陸のハイスクールに通う学生。17歳。クロエは彼よりも1歳下で、親友同士の関係にある。

 ふたりはこの夜行列車で旅行を楽しんでいた。目的地は第八大陸にある巨大遊園地「ネクサス」である。季節は冬で第八大陸は寒さと雪に覆われているが、それでもネクサスを訪れる客の数は膨大だった。

 世界的にその名を知られる巨大遊園地。駅で降りてバスで向かい、パレードやアトラクションを楽しむのだ。そしてクロエにはもうひとつ期待することがあった。「アニマノイド」との交流である。

 人間とは違う別の種族。動物のような、植物のような、そういう人間だとクロエは聞いていた。人間との数の比率は8:2程度だとも聞いている。

 だがアニマノイドと呼ばれる彼らは、クロエが住む第九大陸では生きていけない。

 原因はいまでも分かっていないが、大昔からそうなっていることなのだし、第九大陸以外では人類と共存して生活を営んでいる。まだ見たことのない種族がネクサスで働いているという。どんな姿をしてどんなことをしているのか、興味がわいていた。

 

「クロってそれ好きだよねえ」

「落ち着く味がするの。フィーだってコーヒー好きでしょ」

「まあ……苦いのはダメだから、砂糖とかもりもりに盛るけどさ」

 ふたりは椅子に腰掛けながら窓ごしの景色を見ていた。

 ゆっくり運行する夜行列車は、しばらくは人工物が目立たない場所を進んでいた。あるのはあたり一面を薄く覆う雪と交通量の多い道路くらいのもので、ネクサスに近い都市はつい先程に通過したばかりだ。

 まだ日の出は迎えていない。しかし少しずつ暗い空が光を待ち望んでいるように色を変えつつある。

「ねえクロ。ネクサスでなにが一番楽しみだい?」

「一番はこれって言えないわ。だから、全部。全部楽しみにしてる」

「それもそうか。僕は……君といて一番楽しい時間になると思ってる。これから先なにがあっても揺るぎのない、かけがえのないような時間にね」

「なにそれ! 変にかっこつけちゃってさ、らしくないよ」

「そんなつもりじゃないんだけど、ヒドいなクロ」

 小さく腹を抱えてフィルが笑う。クロエもつられて笑って、そしてココアを飲み干した。空のコーヒーカップを持って彼女はほっと息をつく。口の中に大好きな甘みと温かみがまだ残っている。

「でもさ、人生なにが起こるかわからないんだ。そうでしょ?」

「宝くじに当たるかもしれない?」

「いいね。大金が入り込めば楽しい思い出が作れると思う。でもそういう良いことばかりでもないはずだ。だろう?」

「この夜行列車が事故を起こす、とか?」

「それは縁起でもないなあ。でも言いたいのはそういうこと。なにが起こるか分からないのが人生だ。僕はそう思ってる。この間だってそう……学校で抜き打ちテストがあったんだ」

 うんうん、とクロエは頷いて話の続きを促した。フィルは最後の一口を飲み干してからクロエの目を見てひっそりと話し始める。

「内容は難しいものでもなかったんだけど、でもちょっと焦った。予定にないことだったからね。他にもいろいろあったんだ。僕のARコンタクトレンズが故障して不便な目にあったりとかね」

「大丈夫だったのそれ」

「良くはなかったけど悪くはなかった。大事な知らせに気づくのが3時間遅れたくらいなものだよ」

「ああ……でも言いたいことは分かった。そうね、今日がこれまでで一番楽しい日にしたいね、フィー」

 ふたり小さく笑いだし、微笑みながらカップを軽く打ちつけあった。もう片方の手をひらいてクロエがゆっくり伸ばすと、フィルもそうして手をあわせた。

 年頃の少年少女がお互いを親友だというケースは多くはない。しかしクロエとフィルのふたりは間違いなく親友だった。異性としてお互いに気にする機会はほとんどない。

 この素晴らしい関係はずっと続くものなのだろうし、ある種の夢のようなものだ。覚めることのない、穏やかで楽しい夢のような。

 触れる手の温かみが、今日この日が、これまでフィルと過ごしてきた中で最高の一日になることを確信してさせていた。

 

 

 

 

 

 

 終点「ノースポイント駅」で下車したクロエは黒いコートを着て、駅の正面出入口に向かって小走りをしていた。

 ネクサスへ向かうバスを待つ前にすべきことがあった。トイレの時間をとりたいと言い出したのはフィルで、クロエもそれに乗っかることにしたのだった。

 そうしてクロエは駅の正面出入口に戻る。駅前はとてつもない数の人に溢れていて、まともに歩くことさえ難しそうに見えた。大量の人が壁を作っていて、それらはバス停やタクシーにつながっている。

 ベージュ色のコートを着たフィルはそんな壁の前でクロエを待っていた。そして彼がクロエの姿を認めて手を振った時、それが起きた。

 

 クロエは動けないでいた。親友の少年が、どこからか現れた三人組の黒服の男たちに連れ去られ、大勢の人だかりの中にさらわれていったのを目の前で見てしまったからだ。

 何が起こったかを理解するのにしばらくの時を要した。それでも体は動かない。まるでつま先から頭のてっぺんまで凍りついてしまったかのようだった。呆然と絶望の入り混じった奇妙な表情をして、まだ動けない

 非現実がなんの予告もなく直撃したのだからなんの不思議もない。危険を知らせる声もなくものを投げつけられて避け着られる人間なんてそうはいない。

 しかし、事情を知らない通行人たちは好奇の目を向けていた。そんな顔を見ればそうだろう。それに人が多すぎて、フィルが力ずくで誘拐されたことに気がついていない人々が多すぎた。

 やっと足が動いた時、少女は警察に通報しようと黒コートのポケットに手を伸ばす。だがここはあまりに人が多すぎる。まともに話が出来るとは思えなかった。

 ならば今から黒服の男たちを追いかけて行くか? いや、華奢な体躯では群衆の壁に押し返されてしまうだろう。少女は踵を返して駅の中へ駆け戻っていった。

 

 お手洗いから帰ってきたら目の前で誘拐が起きた――現実味のない出来事に焦りと怒りを覚えながらクロエは携帯電話を掴み、そこで目を開いた。携帯電話が振動したからだ。

 縦長の板に液晶画面がはめこまれ、指でなぞって操作する電話。その画面は「フィル・メーベルからの着信」を知らせている。自力で抜け出せたのだろうか? 動揺と一縷の希望を掴んでクロエは応答する。

「フィー、フィーなの?」

「いいや。私はフィルくんを誘拐した人間だ。ゲームマスターとでも呼んでくれ、クロエ・ブルーム」

 親友のニックネームを呼んだ少女は愕然とした。

 ボイスチェンジャーで機械的に歪められた自慢げで芝居がかった男の声に、クロエは顔を歪めながらどうにか口を開いた。

「あなた誰よ!? それにどうして私の名前を?」

「誰って誘拐犯さ。ちょっとしたゲームを催したくてね、そのためにフィルくんを誘拐させてもらったのさ。君のことも少し調べさせてもらった」

「なにそれ、意味わかんない……そんなことをしたらウィンストンさんが黙ってないわよ!」

「ウィンストン・メーベル。フィルくんの父親だね。第九大陸の巨大企業グループの会長でもある。確かに彼が世界中にもつ影響力は計り知れない。ああ、敵に回して恐ろしい人だ。だが、もし、君が賢いのであれば」

「は?」

「君が警察やフィルくんの父親に通報してみたらどうなると思う?」

 歪められてなお冷たい雰囲気を内包する言葉だった。

 膝をついて泣き出したい気持ちでいっぱいになりながらもクロエはそうしなかった。かわりに駅の中の柱を見つけ、そこに寄りかかり、どうにか反論しようと頭を働かせる。

「あなた達はフィーにひどいことをするんでしょうね。でも、私が通報したかどうかなんて分からないじゃない? やりようによってはバレないように通報は出来るはずよ」

「なかなか君は勇気も見どころのある女の子のようだ。だが……それだけではフィルくんを助けることなど出来ないな。君は、第八大陸にあるノースポイント駅にいる」

「当たり前でしょ、瞬間移動が出来るとでも思ってるの」

「もっと言おうか。君はいま、正面出入口の柱に寄りかかっている」

 全身の筋肉がビダッと止まるのが分かった。金縛りにあったように身動きがとれない。それでもクロエは信じたくなくて、空いている左手をヒラヒラさせた。

「試しているのか? 君はいま、左手をヒラヒラさせているな」

「……どういうことよこれ、私、監視されているの?」

「その通りさ。我々は君を監視している」

「そんなバカな! どうやってそんなこと――」

「手段なんてどうでもいいさ。このやりとりで、君は誰にも通報出来ないということを知った。これが重要なんだ。さて、本題に入ろうか」

「――本題?」

「さっきも言ったが私はゲームを催したい。人の命がかかったゲームをね」

「そのためにフィーを誘拐した? お金が目当てじゃないっていうの?」

「ああ。カネが欲しくてこんなことをしているんじゃない、だから商人や誘拐犯だなんて名乗っていないんだ。代わりに自分を正しく呼ぶためにゲームマスターを名乗っている。君もそう呼んでくれると助かる、プレイヤー1、クロエ・ブルーム」

 言いようのない絶望感がクロエを包む。なにをしてもゲームマスターを名乗る誘拐犯らから逃れることは出来ないらしい。

「プレイヤー1?」

「その通り。君にはゲームのプレイヤーになってもらう。こちらが提示する課題をクリアできればフィルくんを返そう。なに、あまり難しい課題ではないよ。一つだけではないが」

「もしその課題に失敗したら?」

「フィルくんが無事に帰ってくることはない、と思ってくれて構わない」

「くそ……」

「まずは落ち着いて話を聞く必要がある。近くに喫茶店があるはずだ、そこへ行きたまえ」

「逆らったら?」

「もうゲームは始まっているのだよ」

 勝ち誇るようなゲームマスターの声にクロエは怒り、しかし声を荒らげなかった。

 駅の中には平和な日常を送る人々がいる。彼らの多くはこの先にあるネクサスへ向かい、精一杯楽しんでいくはずだ。彼らに水を差す真似はしたくなかった。

 

 昨日、夜行列車に揺られていた時からフィルに駅の喫茶店の話を聞いていた。

 ブルーリバーという名の喫茶店はそこそこ評判がよく、出されるものはどれも落ち着いた雰囲気の味をしているのだという。

 そこで朝食でもどうだい――窓越しに夜景を楽しみながらフィルが笑ってそんなことを言っていたのを思い出しながらクロエは出入り口のドアを開ける。

 やや重めのドアを抜けた先は温かみのある空間が出迎えていた。

 駅はコンクリートの灰色が目立っていて冷たい印象があったが、ここは木目のタイルや壁を使っている。観葉植物も程よく並べられていて、壁際のステージでは落ち着いたジャズを生演奏しているスーツの四人組がそれらしく雰囲気を盛り上げていた。

 いい雰囲気の店だとクロエは感心する。そんな雰囲気につられた人々が落ち着いて時間を過ごしているようだ。店のテーブルの半分は埋まっている。

「いらっしゃいませ! 空いている席へどうぞ」

「あっ……どうも」

 クロエにうやうやしくお辞儀をしたのはブルーリバーの店員だった。だがそれは人間ではなかった。

 

 人と同じように四肢を持ち二足歩行をしている。だが頭には獣の耳が生えていて、おまけに尻からはオレンジの毛をまとった尻尾がのぞいていた。柔らかそうな長髪と同じように暖かい色をしている。

 猫女。端的に表すのならそういうのだろうとクロエは思う。だが彼女にとって驚くことではあっても世間一般の人々にとって日常の風景なのだろう。そのことをクロエは知っている。猫女が胸元につけている名札に目をやり、クロエはつぶやくように口を開いた。

「シー・タビー・ケー……アニマノイド、なんですか?」

「え? うん、そう。もしかして見たことがない?」

「ずっと第九大陸で過ごしていたものですから。この目で直接見たのはあなたが初めてなんです」

「あー……あそこはアニマノイドが生きていけない土地だから、そうなんだろうね。ご注文が決まったら呼び鈴を鳴らしてくださいね!」

 アニマノイド。人の形をした動植物とも、万物に宿る魂が人の形をとったとも言われる種族。クロエがこの目でアニマノイドを見たのは初めてだった。こんな状況でなければ素直にはしゃいでいたかもしれない。

 そんなクロエから見てこの店員はとても元気のいいように見える。

 出ているところは出ていて引っ込んでいるところは引っ込んでいる、どう見ても女性の体をした猫のアニマノイドの店員が笑うのを見て、クロエも微笑み返した。自然な表情筋の動かし方だと妙に自分を褒めた。

 あたりを見回したクロエは窓際の席へと向かう。外からの光が入って明るく、薄く雪が積もっているのを見て落ち着こうと考えたのだった。

 この社会において人間とアニマノイドは姿だけが違う同じ人類とされている――その理由の一端を掴んだ気がして嬉しく思ったが、いいことだけではない。誘拐犯との話の続きがある。

 ポケットの中に突っ込んだ通話中の携帯電話を取り出し、席についてそっとこれを取り出して耳に近づけた。

「そこが喫茶店、ブルーリバーだね」

「ゲームについて教えなさい」

「分かった。前提として、このゲームは3人1組で行う。ゲーム的に言うなら3人パーティを組んで課題をクリアしていく」

「3人?」

「そうだ。君はどうにかして残りの2人のプレイヤーを見つけ出さねばならない。もちろんその2人にフィルくんが誘拐されたという事情を伝えても良い。だがその2人以外にこのことを知られれば……ゲームオーバーだ」

「フィーを傷つけるのね?」

「その通りだ。まず、君に課す課題は2人の仲間を作って3人パーティを組むこと。その後でこちらが提示したゲームをこなしてもらおう」

 ゲームマスターがなにを言っているのかよく分からなかった。

 パーティを組む? まるでロールプレイングゲームの話でもしているかのような話しぶりだ。なにを言っているんだ?

「もしかして君は、物騒なことを課題として出されるのではと思ったのではないか?」

「え?」

「やはりそうか! いやいや、そんな誰かが傷つくことをやらせるわけがないじゃないか」

「フィーをさらっておいて――」

「それとこれとは話が別だよ。ゲームの舞台はネクサス。世界的に有名な遊園地だ、その来園客を危険に晒すマネができるわけがない。もちろんどんどんゲームの内容は難しくしていく。だが一般の来園客を危険に晒すようなものは指示しない。これは約束しよう」

「――もうひとつ約束して」

「なにを?」

「あんたのふざけたゲームとやらをやりきったその時。フィーを、絶対に返すと約束して」

「それはゲームのルールとして決めていることだ。これは守って当然のことだし、もちろん約束する」

 得意げにゲームマスターが笑う。木のテーブルを思い切り殴りつけたくなったがクロエはぐっとこらえた。

 不安と絶望を怒りに変えていかないと今にも泣き出してしまいそうだが、ここで怒りに任せてわめき散らすわけにはいかない。

「君が3人パーティを組んだのを確認したら改めて連絡しよう。その時にどこでパレードを眺めればよいかを伝える」

「分かったわ。……絶対にフィーは助け出す。その後のことは覚悟しておきなさい」

「思った通り君は勇気に溢れた子なのだね。だが、足元をすくわれないよう気をつけたまえ。ではまた」

 ここで通話が切れた。クロエの現状をこらえようとする気持ちはもうはち切れそうで、両目は涙で潤んでいる。

 本来なら今頃ここでフィルと一緒に朝食を楽しんでいるはずだ。ネクサスのどこで遊ぼうかとか、お昼はなににしようかとか、そんな楽しいことを話し合っていたはずだ。なのにどうして誘拐だなんて――

 悲しみも怒りもホットココアを飲めば少しは落ち着くだろう。疲れた顔をしながらクロエはメニュー表を手にとろうとして出来なかった。ドカドカと喫茶店に押しかけてきた客がいたからだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 パーティメンバー募集

 周囲の注目を浴びるその客には見覚えがあった。クロエの知り合いで、彼女を敵視している少女だった。きれいな長い金髪を揺らし、白いブランド物のコートを目立たせ、その整った美少女然とした顔立ちは怒りに歪んでいた。

「アニー? どうしてここに?」

「どうしたもこうしたもない! 聞いたわよ、あんた、フィル様と旅行ですって!?」

「いや、まあ、そうだったんだけ――」

「フィル様はどこ!?」

 アニー・ルンデン。目の前で怒鳴り散らす少女にクロエはため息をついた。

 同級生のフィルに恋心を抱いているらしいのだが、それが災いして、フィルと親友の間柄にあるクロエを目の敵にしているのだった。

「フィルは――」

 誘拐されたの。言おうとしてそこで止めた。思い切って事情を打ち明けて「パーティメンバー」にしても良かったかもしれないが、まったくそりの合わない人間と一緒にいて良いことが起きるとは思えなかった。それに下手に事情を知られればそこでゲームオーバーでもある。それだけは避けねばならない。

「――先に行ったわ」

「行った? どこに?」

「決まってるでしょ。ネクサス。そこに行くのに旅行しているんだから」

「知ってるわよそのことは。で、フィル様はネクサスにいるのね?」

「そう。私は事情があって遅れて行くのよ」

 クロエの言い訳は聞かずにアニーは駆け出した。礼のひとつも言わずに立ち去られたクロエは、しかしこれがマシな方だとため息をついて呼び鈴のボタンを押す。

 

 そして彼女は自分の中でなにかプツリと切れたような感覚を覚えた。アニーの態度に怒ったのではない。十分前から起きた非日常と、突然現れたアニーというありふれた日常と、それが衝突して非日常に抵抗しようとする気持ちが保てなくなったのだ。

 だから涙を流している。抑えられなかったのは涙だけではない。小粒の涙は次第に大粒になり、口からは徐々に嗚咽が漏れ出していく。

 まるで映画で見た狂人のようだと自分の声を聞きながらクロエは思った。怒りも湧いてテーブルを強く何度も何度も叩いている。表情だって憎しみに歪んでいるのが分かる。だが止められない。溢れ出した感情はどうしても止められないのだ。

「お客様? お客様!」

 聞いた覚えのある声だった。テーブルに突っ伏したクロエが顔を上げると、この店で軽く話をした猫のアニマノイドの店員がそこにいた。

「大丈夫ですかッ」

 言葉にならない声を上げながらクロエは猫のアニマノイドに寄りかかる。涙で制服が汚れるのも分かったし、自分の態度が周りに迷惑をかけていることも知っている。だが止められない。絶望と怒りがどうしようもない衝動を沸き立たせているのだ。

「お客様、落ち着いて!」

「うあああっ、わあああ!」

「ええっとこういう時は……うん、このままついてきて!」

 寄りかかるクロエを連れながら猫のアニマノイドは店の裏側に移動し、部屋のドアを開ける。

 休憩室と札の貼られたそこはロッカーとテーブルとふんわりしたソファーが並んでいて、クロエはソファーに投げ出されるように横にされた。

 それでもクロエが泣き止むことはなかった。次第に落ち着いてきてはいるが、嗚咽が止まる気配がない。そんな様子のクロエにそっと猫のアニマノイドが近づき、黒コートを脱がせてソファの上に畳んでいく。

 灰色のセーターにスラックス姿になったクロエに目線をあわせるようにしゃがみ、猫のアニマノイドは口を開いた。

「大丈夫? お茶でも飲むかい?」

「……水がいい、えぐっ」

「お水だね。ちょっと待ってて」

 冷蔵庫からミネラルウォーターのビンを持ってきた店員はテーブルの上にドンと置き、クロエの注意をひかせた。

 顔を真赤にしながら涙するクロエは一礼し、そのビンに手を伸ばす。フタを開けて口をつけ一息つく。なにも事態は好転していないが、ようやく落ち着きを取り戻した実感を得た。

「なんかただごとじゃない雰囲気だったけど」

「……親友が、さらわれて――」

 口をつぐんだがもう遅かった。驚愕に満ちた表情の店員が凍りついたようにクロエを見つめている。

「――本当は言っちゃダメなんだけど、私、監視されていて、何をしても何を言っても奴らに見られてる」

「深い、事情が……ありそうだね。もし喋っていいなら相談にのるよ。もう仕事は上がる時間だし」

「あなたを巻き込むつもりはなかった。でも……巻き込んでしまった。もうあなたが協力してくれないと、親友が、私の親友が、殺されてしまう」

「っ……私は大丈夫。協力するし、仲間にだってなるよ。それで? あなたのお話を聞かせてくれるかな?」

 詳しい事情を知らないのに仲間になることを快諾してくれた猫のアニマノイドに、クロエは感謝してもしきれなかった。深く頷いてからクロエはこれまでの経緯を語る。

「もともとここへは親友とふたりで旅行に来ていたの。あの遊園地『ネクサス』に遊びに行こうって誘ってくれて、でもこの駅を出たところで誘拐されてしまった。警察に通報しようとしたんだけど、すぐに誘拐犯から親友の――フィル・メーベルっていうんだけど、フィルの携帯電話を使って私に連絡をとってきた」

「メーベルってことは、もしかしてメーベルグループの?」

 世界的に強い影響力を持つ巨大産業グループ。その会長、ウィンストンの息子こそがフィルである。

 きっと誘拐犯は超がつくほどの大富豪の息子を大金目当てに誘拐したのだろうとシーが考えているに違いない。そうクロエは察して、とりあえず頷いた。

「でも誘拐犯の狙いはお金じゃなかった」

「へ?」

「奴が言うには『命のかかったゲーム』とやらをしたいんだって。それにしては誰かが傷つくとかそういうのは嫌そうな物言いをしていたけど」

「そのゲームっていうのは?」

「最初に3人パーティを組んで、それからいろんな指示を飛ばすって。その後のことは追って伝えてくるみたい」

「てことは、もうひとり協力者を集めてネクサスに行かないといけないんだね。分かった、それなら協力できる。誰にも誘拐事件が起きていることを言わないって約束する。そうだ、私の名前はね、シーっていうの」

 胸元の名札をつまんで示し、クロエが見やすいように傾ける。そうしながらシーと名乗った猫のアニマノイドは言葉を続けた。

「シー・タビー・ケー。シーって呼んで。あなたのお名前は?」

「……クロエ。クロエ・ブルーム」

「じゃあクロちゃんか! あれ? いや、クロくん?」

 なんでそこで迷うんだ、とクロエは声に出しそうになってやめた。だが表情が変わるのだけは止められない。

「あー、その、中性的な顔立ちっていうの? そんな感じでかっこいいし、かわいいし! それに声もちょっと低くて落ち着いててスレンダー美人で――」

「体つきが女らしくないし?」

「――そこまでは言ってないよ!」

 言ってなくても思っているはずだとクロエは確信した。暖かさを求めてセーターを選んだが、シーの目線は不自然に胸元をうろついていた。セーターは体の線を強調する服でもあるが、クロエの胸元がそれでもあまり膨らまないことは彼女自身がよく知っていた。

「とにかく! クロエちゃんはクロちゃんだね」

「クロ、かあ。フィーもそう言ってた」

「フィー?」

「ああっと、フィルのニックネーム。フィーとクロって呼び合ってるんだ」

「ホントに仲が良いんだね。よし、それじゃあ、ネクサスへ向かおう。地下道を使えば渋滞はないよ」

「地下道? そんなものがあるの?」

「ネクサスに住んでいるとか、従業員だとかの専用の道があるんだ。ここからネクサスに伸びてる地下鉄とは別の地下鉄があるし、車が走る道路だってある」

「それをシーは使えるってことなのね?」

「うん。クロちゃん、もうひとりのパーティメンバーってアテがある? 申し訳ないけどこっちはそんなに人脈がなくてね」

「実は1人だけ信用できる人がいるの。移動中に連絡をとってみる」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 パーティメンバーの準備が完了しました

 制服から着替え終えたシーと、彼女の後ろについて歩くクロエ。ふたりはノースポイント駅の地下駐車場へ足を踏み入れていた。

 シーの私服はとても気軽な印象のあるものだった。

 制帽に隠れていたオレンジ色のショートカットは利発なイメージを放ち、空色の長袖に灰色のロングスカート。濃い黒のタイツも履いているが、スカートには尻尾を通すための穴が空いていることにクロエは目を開く。

 これがアニマノイドの服装――その一部なのだ。今日になって初めてアニマノイドを目にしたクロエにとって新鮮で強烈な光景だった。

 

 赤い小さな自動車。それがシーの車だった。リモコン式の鍵でドアを解錠してクロエを助手席に座るよう促したシーは、ひとつ伸びをしてから運転席に乗り込んだ。

 少しかたい座席だが特に問題はない。いま電話をかけてみるよと伝えたクロエは、エンジンを始動させながらこちらを見つめるシーの視線にハッとした。何かを疑っているような、考えているような、そんな印象があった。

「クロちゃんさ」

「え、なに?」

「この車はそんなに好きじゃない? なんだかなー、みたいな顔してた気がしてさ」

 なんという洞察力だろう。あるいは観察力。察しをつける能力。大抵の人間はシーを前にして嘘をつけないのではないか。クロエは観念して頷いた。

「もしかしてクロちゃんはお金持ちだったり?」

「半分あたってる。私はそうじゃないけど、フィーがそうだね」

「そりゃメーベルさんとこならお金持ち、いやそんなんじゃ言い表せないか」

「ああそうか、まだ言ってなかったか」

「なにを?」

「私がメーベル家の養女だって話。だいたい1年前に養女になったの」

 聞いてないよそんなの! 心底驚いたように大声を出したシーは、その後で大笑いしながら車を発進させる。壁にかかった標識を見たクロエは、シーが一直線にネクサスを目指していることを理解した。

「それマジ? てかマジな話だよね!」

「マジな話だよ。こんなことで嘘つく意味がないよ」

「てことはだ。フィルくんはクロちゃんの義理のお兄さん? それとも弟さん? あれでも親友がってクロちゃん言ってたもんな……」

「お義兄さん。でもそういう感じじゃないんだ」

「とても仲がいいんだね。ネクサスに着くまでクロちゃんのことをいろいろ聞かせてよ」

「んー、うん、分かった。でもその前に電話だけさせて。もうひとりのアテをあたってみる」

 クロエは携帯電話を操作して電話帳を表示させる。

 登録件数はあまり多くなく、目当ての人物はすぐに見つかった。「彼女」の電話番号へ呼び出しをかけるクロエ。1コール、2コール。3コール目の途中で「彼女」が応答した。

「もしもし? どうしたの?」

「アコニットさん!」

「クロ? どうしたのそんなに慌てて、坊っちゃんとなにかあった?」

「その、緊急事態なの。急ぎで仕事の準備をお願いしたいの。出来る?」

「……フィル様になにかあったのですか、クロエ様」

 人の良さそうな口調ががらりと変わった。人に仕える者のように接する態度に安心しつつクロエは口を開く。

「周りに話を聞いている人は? 誰かに今話すことを聞かれたらフィーが死んじゃう」

「いません。本当に非常事態のようですね。何がありましたか?」

「フィーが誘拐された。それで、私は奪還をかけた『ゲーム』を誘拐犯のリーダーから参加させられたの。やるかどうかなんて聞かれなかった、強制参加だったのよ」

「詳しい話を聞く必要がありますね。いまどこにいますか?」

「ネクサスに向かってる。そこでゲームが始まるから、アコニットさんも急ぎでネクサスに向かって。どのくらい時間がかかりそう?」

「1時間もあれば到着できます。ネクサスは混雑しているようですが、入口からやや東側にずれたところに公園があるようです。そこで待ち合わせましょう」

「分かった。じゃあ待ってる」

 失礼します。そう残してアコニットと呼ばれた女が電話を切った。電話を仕舞うクロエに、シーは興味深そうに「ふーん」と言ってみせる。運転に集中しながらも会話の端々を聞いていたのだった。

「クロちゃん、さっきの人は?」

「アコニットさん。メーベル家の護衛をしている人よ」

「ボディガードってこと?」

「そう。メーベル家は護衛を雇って『ガーデン』という護衛組織をつくってる。ガーデン所属の人はガーデナーといって、アコニットさんもそう。おまけにガーデナーのリーダーなんだ」

「護衛グループのリーダーね。めちゃくちゃ強そう」

「すごいよ。訓練しているところを見たことあるんだけど、ケンカも銃も完璧に使いこなしていた。大男が大勢でかかってもアコニットさんなら余裕で倒せるんじゃないかな」

「まるでアクション映画の主人公じゃん! もし荒事があっても安心できそうだね」

 そうだよ。そうクロエは返した。

 アコニットの実力と忠誠心は本物だ。それに人もいい。メーベル家の養女として過ごしてきた時間でクロエはそう確信している。

 1年前、メーベル家に引き取られた頃、戸惑っていたクロエを暖かく迎えたのはフィルと彼の父親のウィンストン、そしてアコニットだった。

 ガーデナーとしての仕事をしていない時、アコニットはクロエとよく話していた。自分がどんな仕事をしていて、どんな気持ちでいるか。護身になるような手ほどきもしてくれた。

 そうした交流の中でクロエが見たのは仕事をしている時のアコニットの豹変ぶりだった。普段はあだ名で呼んでくるアコニットが様をつけて呼ぶようになる。自分と部下に対する厳しい態度や手際の良すぎる仕事のこなし方――そこがアコニットの魅力であり、恐ろしいところだ。そんなことをシーに話した。

「てことはオフの日はお友達って感じなのね」

「そう。気さくな良いお姉さん。困ったらフィーかアコさんに相談したりして」

「楽しそうだね。にしてもクロちゃんすごいじゃん! 大富豪の養子でお友達もなんかすごいのがいてさ」

「すごいのは私じゃないよ。ところでシー? シーは家族がネクサスで働いているの?」

「お姉さんがネクサスで働いているよ。両親は別のところに住んでいるけど、私がお姉ちゃんと一緒に住んでいるんだ」

 ここにくるまでの夜行列車で手にしたネクサスのやや厚めなパンフレット。クロエは全部読んだわけではないが、その中に「従業員のアニマノイドが住んでいる区画がある」という情報があったのを覚えていた。

 ネクサスまであと5キロ――道路標識がそう告げているのを見送ったクロエは、到着するまでの時間に自分から話題を振ることにした。フィルが誘拐されて穏やかな心中ではないが、協力してくれるシーとの交流を出来る限り深めていったほうが良いと判断したのだった。

「お姉さんとは仲がいいの?」

「時々ケンカはするけどそれなりに良いと思うよ」

「ケンカって?」

「冷蔵庫のプリンを食べたでしょとか、お菓子のことで時々かなあ。でもそんなもんだよ。クロちゃんはフィルくんと喧嘩したりってある?」

「たまーにフィーが私のものを食べちゃったり、私が逆にとかはあるけど、フィーは笑って許してくれるから。私も怒ったりはしないんだ」

「じゃあいままでケンカしたことがない?」

「ない、かな。うん。ないよ」

「めずらしいねえ」

「フィーを見たら分かると思うよ。言い争うとかそんなの想像つかないような、そういう見た目や態度をしているんだ」

 良い人なんだね。感心するようにシーが言って運転に集中する。

 ネクサスに着くまであと少し。それまではちょっと休憩でもしていよう。ラジオをつけて鼻歌を始めたシーを横目にクロエはゆっくり目をつむった。

 

 

 

 シーの車はネクサス従業員用の地下駐車場に停まり、ふたりは地上に出た。地下からはネクサスの中や入口に出られるが、しかしふたりはそこからは遠いところに足を運んだ。

 午前11時。アコニットと打ち合わせをした公園にたどり着いたクロエはほっと息をつく。まだ時間に余裕はある。携帯電話で時刻を確認したクロエはベンチに落ち着く。

 ネクサス入口から東にある小さな公園。整備はされているが遊具は少ない。小さなジャングルジムがひとつ。ブランコが二台。

 だが敷地はとても広い。大勢の人がジョギングしたところで問題はないし、ちょっとしたライブ会場に使えるかもしれないとクロエは思った。

 だが今は所々が雪に覆われている。これからの季節から考えて、土が露出している部分は日に日に少なくなっていくはずだった。現に小ぶりではあるが雪が降っている。強い風が吹いていないぶんまだ寒くはないなとクロエは感じた。

「アコニットさんはここで待ち合わせだって言ったの?」

「うん。もうそろそろ着く頃だと思うけど――」

 言いかけてクロエは空を見上げる。遠くでプロペラの音が聞こえた気がしたからだ。

 はたしてそれは正しかった。東の空にヘリコプターのような影が近づき、途中で引き返していく。代わりにひとつの人影が公園へ向かっていた。

 腕を上に伸ばして何かを掴んでいる人影の姿はだんだんはっきり見えてくる。

 滑空機構を備えた直方体の機械を掴んだ影は黒いコートと黒いスーツに身を包んでいた。間違いなくあれはアコニットだとクロエは確信し、東の空に手を振った。

「ん? なんか来たよクロちゃん」

「アコニットさんだと思う。きっとそう」

「グライダーってやつ? あれを掴んで空を飛んでるの? すごい人だね……」

 感心するように言ったシーは、しかしすぐに驚きに目を開いた。縦に割れた瞳は急速でこちらに向かってくるグライダーを掴んだ人影を捉えて離さない。

 陸上選手が全力で走るよりも速く滑空し高度も決して緩やかに落としているわけではない。どちらかといえばかなり危険な行動をしていたグライダーの人影はついに着地した。グライダーを折りたたんで懐にしまい、公園の雪の上を何度も転がり、相当に痛そうな光景に関わらずすぐに立ち上がった。

「クロエ様! お待たせいたしました」

 黒スーツに黒コート。暗い赤髪は腰のあたりまで伸びていて、近づいてくる顔はとても冷徹な印象を放っている。つり目がちな双眸に整った鼻立ち。遠くから見ても美人の部類に入るのだろうとクロエは思うし、

「あれがアコニットさんなんだね?」

「うん、そうだよ」

「すごい美人さん! それにカッコいいね」

 多くの人を惹きつける魅力があるとも思う。現にシーはある種の一目惚れをしているようだった。

「私達も少し前に来たところ。さ、早く入口に向かおう」

「承知しました。ですがことの詳細をまだ把握していません。あたりに人気はないですし、お話ください。あなたのこともお聞きしておきたい」

 三人で歩きながらアコニットがシーに視線を投げる。どこか警戒しているようにも見える視線にシーは一瞬どきりと身を震わせた。空からやってきたアコニットが言うのだから本当に人はいないのだろう。そう考えたクロエは詳しく話すことにした。

「えっと……まず、フィーが誘拐された。夜行列車の終着点、ノースポイント駅前でね」

「ええ」

「それから誘拐犯がフィーの携帯を使って連絡をとってきた。内容は……フィーを人質にゲームがしたいって」

「ゲーム? まさか映画とかの模倣犯――」

「いや、危ないことはしないって言っていた。他の来園客が危なくなることはさせないって」

「――わざわざ危険を承知でフィル様を誘拐しているのだから、おそらくその言葉に嘘はないでしょう。しかし本当にふざけた野郎ですね」

 表情はわずかに怒りに歪んだくらいだった。だがアコニットの両手は彼女の黒革の手袋が音を立てて強烈に握り歪められている。

「私も思うよ。それで、誘拐犯のリーダーがゲームマスターを名乗ってる。そいつが言うには、私を含めた三人パーティを組んでゲームをやってもらうって。それに私がどこにいてもゲームマスターは私達を監視し続けているみたい。パーティメンバー以外にフィーが誘拐されたことを知られたり通報したらゲームオーバー」

「つまりフィル様が殺される、と」

「そこはぼかしていたけどきっとそうなんだと思う」

「なるほど。パーティメンバーはクロエ様と私と、あとは……猫のアニマノイド。あなたですね?」

 アコニットから話を振られたシーは、やや慌てながら頷き返した。手袋が音を立てて歪むさまを目の前で見たのだからビビっても仕方のないことかもしれない、とクロエは行方を見守る。

「うん、はい、そうですッ」

「私はアコニット。メーベル家が抱える護衛組織『ガーデン』のリーダーです。今日はフィル様から護衛は要らないとのことで別業務を遂行していました。こんな事になってしまって残念です。申し訳なくも思いますが……ご協力、感謝いたします」

「いや、そんな、大丈夫です。私、困っている人がいたら放っておけなくて……それに誘拐事件というならちょっとした因縁があるんです。あッごめんなさい、名乗っていなかった。シー・タビー・ケーといいます。シーと呼んでください」

「では、シー。これからよろしく」

 爽やかな笑顔だった。アコニットのこういう仕草が人の心を掴むのだとクロエは知っている。自分もそうして彼女といい友人になっているのだし、シーがそうなるのも近いうちの出来事だと予感した。

 きっとうまくいくに違いない――期待を抱き始めたクロエは、そこで自分の携帯電話が震えたのに気づいた。見ればフィルからの着信だった。ゲームマスターを名乗る誘拐犯からの連絡である。

「もしもし?」

「やあ。どうやら三人パーティを組むことはできたみたいだね。まずはおめでとう、と言っておこうか」

「……次のゲームとやらは? なに?」

「簡単なものだよ。正午に始まるネクサスのパレードを見るだけでいい」

 なにを言っているのかわからなかった。人質をとっておいてまでやらせたかったことがそんなものか? 一体どういう意味があるんだ?

「入園手続きが完了したのを見たら詳細を伝える。きっと君は困惑していることだろうが、ちゃんとした意味ならあるのだよ」

「どうだか……」

「ともあれフィルくんの命は少しは繋がれたのだ。そこはお互いに喜ぶべきことだろう。それでは、また」

 それだけ言ってゲームマスターの側から電話が切れた。ふざけてる。クロエは忌々しそうに呟いて携帯電話をしまう。彼女の表情は怒りと困惑で眉がひそまっていたが、シーが心配そうにこちらを見ているのに気づき、笑顔に切り替えようと努力した。

「クロちゃん。今の電話は誘拐犯から?」

「そう。……次はパレードを見ろって言っていた」

「パレード? それって正午からのやつかな」

「うん、そうそれ」

「人質をとっておいてそんなことさせるの? いやでも、来園客をボコれとかじゃないぶん全然マシか」

 前向きな考え方だった。シーはそういうものの考え方をするのだ。クロエはそこに感心して、自分が得意ではない考え方だとも思う。

「とにかく入園手続きだね。とりあえず並ぼうか。12時までなら全然間に合うよ。さあ行こう!」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 第一のゲーム「パレード観覧」攻略開始(前)

 僕と親友になってほしいんだ、クロエ。

 広い、陽の光が多く入る部屋で、フィル・メーベルはそう言った。彼の前には緊張して伸びやかに身動きの取れない少女がいた。

 フィルは草色のスラックスにシャツに身を包み、アンティーク調の木の椅子に腰掛けて微笑んでいる。たれ目がちで、顔立ちは中性的を通り越してどこか女性然としたものだ。少年にしてはやけに長い栗色の髪も女性と間違われる手助けをしている。

 一方でクロエと呼びかけられた少女はうつむいてしまっている。首のあたりまでの黒髪をつまみ、離し、つまんで耐えるように椅子に座っていた。

 やっと勇気が出たのか、それとも慣れてきたのか、顔を上げたクロエの顔は中性的なものだった。男性と言われても女性と言われても不思議ではないが、華奢ながらも灰色のセーターに包まれた女性らしさのある身体の線がクロエの性別を物語っていた。

「親友、ですか」

 フィルのものと同じ椅子に座るクロエはたどたどしく口を開く。そんな彼女をフィルは絶やさず微笑みを浮かべて見つめた。

「うん。こう……上手く言えないけど、心を開ける人がほしいなって思っていた。友達はそれなりにいるんだ、でも、僕の悩みとかを打ち明けられるような人は少なくてね」

「は、はあ」

「いや違うな、愚痴を聞いてくれってことじゃないんだ。そうじゃなくて……君がこの家の養子になったことに運命を感じて……ほら、養子になったんだから言うこと聞けとか言うんじゃないよ! あー、いや、やっぱり上手く言えないな、ごめんね」

 もしかすると。クロエは直感した。フィルも緊張しているから言いたいことがなかなか言えないのではないか? 少し恥ずかしそうな顔をしているフィルを見て、クロエはクスリと笑ってしまった。

「ごめん! いまのは笑ったわけじゃなくて――」

「うんうん、気にしてないよ、大丈夫。それに笑った顔が可愛くて、君のことをもっと知れてよかったなって」

「――ありがと」

 さっき恥ずかしがっているよりももっと恥ずかしいセリフじゃないか! 驚きながらもクロエは顔を赤くして、やや目を開いてうつむいた。

「とにかくね。僕は君と仲良くしたいなって思ってる。養子になってアレコレ慣れてないことがたくさんあると思うんだけど……僕はお義兄さんとかそういうガラじゃないから、そうだね、親友に……いや、お友達から君と付き合いたいと思ってね」

「私も! ……私も、不安だから。それにフィルさんは悪い人じゃないって分かったから。だから、なります。お友達にも、親友にも」

 緊張して声がヒュッと変な調子になってしまったがきちんとフィルに届いたようだった。クロエの言葉を聞いた彼はパアッと顔を輝かせて笑顔になり、次の瞬間には立ち上がっていた。

「やったあ!」

 子供のように喜びをあらわにしたのを見てクロエはもう緊張しなくなっていた。心の底から、きっといい付き合いができるに違いないと思えたのだった。

 

 

 

 

 

 

 それからもう一年が経とうとしている。

 あの時も、今も、冬の季節だった。一年前のあの日、フィルから「親友になってほしい」と切り出されたあの日、自分が緊張を解いてのぞいた窓の外にサラサラした雪が降っていたのをクロエは覚えている。

 今もそうだった。ネクサスの空は柔らかい雪が穏やかに降りつつあった。ゲームマスターを名乗る誘拐犯に指定された場所――ネクサスにあるレストランに行くように言われ、そこへ向かっている。

 隣にシーとアコニットはいない。ふたりはそれぞれゲームマスターに指定された場所に移動してしまっていた。「三人がそれぞれ指定された場所でパレードを見る」ことが最初のゲームの内容なのだ。

 

 ネクサスの入口を抜けるとすぐに「セントラル」と呼ばれる区画に出る。海沿いの半島を利用した巨大な区画で、大きな古めかしい城の形をしたホテル「キャッスル」がよく目立つ。

 このホテルにはいろんな施設が集合している。映画館、ゲームセンター、レストラン、エステ、ショッピングモール――ありとあらゆるモノと娯楽が凝縮されたキャッスル。そのひとつひとつを紹介しているパンフレットを軽く握りながらクロエは指定されたレストランへと近づいていた。

 ネクサスのレストラン「ブルースター」という店に行きたまえ。その席でパレードを待ち、観察するのだ――入園手続きを終え入口を抜けたクロエに出された指示はそんなものだった。

 入口でパンフレットを手に入れたクロエはすぐにその店の場所を突き止めた。目的地はキャッスルの5階にある。緩く降っていた雪を払いながらキャッスルの中に入ったクロエは、迷わずエスカレーターを使い、あたりを見回した。

 とても清掃の行き届いた、景観に気を遣ったつくりをしている。クロエの第一印象はそんなものだった。豪勢な城を再現した勢いのある内装、磨き上げられて鏡のように反射する大理石の床、まるでメーベル家の豪邸のような印象もあった。

 そこを行き交うのは大勢の人々だ。だがスーツや小洒落た格好をした人間はそれほどいない。入園手続きを待つ行列でも同じような感じだったとクロエは思い出しつつ、指定されたレストラン「ブルースター」の入口へ近づく。

 イメージカラーは乳白色なのだろうとクロエは直感した。いたるところに乳白色の石を使った置物――象やキリンをモチーフとした――が配置されていて、天井の照明を映えさせている。

「いらっしゃいませ。二名様でご予約のクロエ・ブルーム様ですね?」

「へ?」

 黒スーツのような制服に乳白色のサンドウィッチマンめいた布をかぶった人間の店員が出てきて、しかし彼の発言は唐突なものだった。

 ブルースターの予約をとった覚えはない。事前にフィルが自分の名前を借りて予約の電話を入れたとも思えない。だから、ブルースターで予約をとっているはずがない。

 なのにどうして予約が入っている? それに二名様とはどういう意味だ? 自分の他に誰かが来るのか? そいつは一体誰だ?

 混乱しはじめたクロエは、しかし顔に出さないように表情筋に力を入れる。微妙な作り笑いだなと自覚しながら「そうです」と答えられたのは、これが非常事態だからだろうとクロエは思った。

「ご予約ありがとうございます。お席はこちらでございます」

 うやうやしくお辞儀をした店員の案内に従うクロエはバルコニー席に通された。バルコニーの下にはとても幅の広い石畳の道がある。車が七台横に並んで走ってもまだ幅に余りがあるようだった。 

 ネクサスに来園する前にあちらこちらで見かけた雪は、この幅広の道路には一欠片もなかった。きっと道の下に雪を解かす仕組みが組み込まれているのだとクロエは一人で納得した。

 ご注文が決まりましたらお知らせください。そう言って店員が立ち去っていく。

 周りを見れば満席一歩手前であるようだった。誰が予約を入れたのかは結局わからないが、これがなければゲームクリア――指定地点でパレードを見ること――は叶わなかっただろう。それに混乱して下手な返事をすれば入店すら出来なかったかもしれない。

「あの、すみません」

「クロエ様?」

「えっと……いや、やっぱりなんでもないです」

 誰が予約をとったのか。わからないのは気味が悪いが、ここで無理に明かそうとしてもいフィルの身が危なくなるだけだ。追求したい気持ちを抑えてクロエはメニュー表を手に取り、同時にネクサスのパンフレットにも目を通した。

 

 ネクサスの入口を通ると必ずセントラルという大きな区画に出る。ここは東の島、西の島、北の島という区画と接続していて、それぞれ穏やかなアトラクション、激しいアトラクション、従業員居住エリアがある場所だ。

 ネクサスのパレードはどの区画でも行われるが、一番規模が大きいのはセントラルでのパレードだ。セントラル中心部にある「キャッスル」を囲う円形の道を使って巨大なパレードカーでパフォーマンスをする――パンフレットの記述を黙読したクロエは、もうじきパレードが始まることを、壁掛け時計を見て確かめた。

「お嬢さん、相席いいかな」

 妙に草の香りのする声だった。

 振り返ればそこには樹があった。いや、樹ではない。人の形をした樹がそこに立っている。

 唖然としたクロエは、しかししばらくして気を取り戻し、常識はずれの存在を見上げてみせた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 第一のゲーム「パレード観覧」攻略開始(後)

 妙に草の香りのする声だった。

 振り返ればそこには樹があった。いや、樹ではない。人の形をした樹がそこに立っている。唖然としたクロエはしかししばらくして気を取り戻し、常識はずれの存在を見上げてみせた。

「もしかして私のこと?」

「他に誰がいるんだ、クロエ・ブルーム」

「えっ、どうして私の名前を?」

「知っているに決まっているだろ。俺は君の親友をさらった一味なんだぜ、そのくらい知ってて当然じゃないか?」

 分厚そうな樹木の肌をした人間――さしずめ樹のアニマノイドといったところかとクロエは直感した――が悪びれる様子もなくそんなことを言うので、クロエは思わず思い切り席を立ってしまった。

 がたん、と大きな音を立てて椅子が動き、それが周りの客の注目を集めてしまっていた。今にも殴りかかりたい気持ちを抑えながらクロエは詫びるようにお辞儀をし、ゆっくり椅子に座っていく。

「話が早くて助かるよ。ここで暴れられたらゲームの続きが出来なくなる。それで困るのは君だけなんだ」

「クソッタレの悪人が――」

「悪い口を利くのもなしだ。ここでは場にあった言葉を使うべきだ、違うか?」

「――ええい、ちくしょう」

 頭に血が上っている。自分のことだから自分でよく分かる。こういうときに効くのがホットココアだ。夜行電車のルームサービスでフィルに心配されるくらい飲んでいたが、あれなら何杯でもいける。

 クロエは近くの店員に声をかけてホットココアを頼み、樹のアニマノイドはもう少し考えさせてくれと伝えた。店員が遠く去ったのを認めてからクロエは低くささやくように口を開いた。

「ゲームマスターは」

「ん?」

「あいつはここでパレードを見るように指示してた」

「そういうゲームだからさ」

「誘拐犯の一味とお茶しながらパレードを見るなんて聞いてない。悪趣味にも程があるわ」

「俺達は悪党さ。悪趣味? いいね、いい感じの褒め言葉だ」

「それで……あなたは私の機嫌を悪くさせるためだけにここに来たの?」

「はいと言ったら?」

「フィルを返したあとでゲームマスターを何発でも殴ってやる」

「残念だが、その問いはいいえと返させてもらおう。ちょっと話がしたくてな。ゲームマスターの都合でもあるし、個人的に聞きたいこともある」

 舌打ちしたいのを我慢しながらクロエは小さく頷き、そしてあることに気づく。眼前の誘拐犯はこちらに暴力を振るうつもりはないらしい。三人組を組ませるとか、三つの場所に別れさせてパレードを見させるとかは、何かの建前や口実ではないようだ。

 だから、認めたくはないが、ゲームマスターは「ゲームの進行」に関しては誠実であるようだ。クロエはこれを改めながら樹のアニマノイドが口を開くのを待った。

 大柄な人間の肌が樹木のようなごつごつしたものになっていて、所々に大きな枝や葉が生えている。頭には大きな角のような枝が一本と、大量の緑の葉がショートカットの髪型のように茂っている――世界にはこんな生物が常識なのだろうか? 本当にそうなのか? ある種の恐れを覚えながらホットココアを持ってきた店員の様子をクロエは伺う。

 先ほどと同じ店員は、やはり樹のアニマノイドに対して笑顔を向けていた。一瞬でも戸惑ったり萎縮したり、とにかく恐れを抱いているようには見えなかった。この場を離れるまでクロエはずっと観察していたが、結局なにも変わらない。

「温かいうちに飲んでおけ」

「言われなくたって」

「それでいくつか質問だが……君はここに来るまで危ない目に遭わなかったか? 何か変なものを見たりとかは?」

「どういうこと? そっちの立場でこんなことを聞くのはおかしいわよ」

 フィルをさらった誘拐犯どもが自分の心配をしているような発言をする。なんだか滑稽で、しかし今のクロエには笑い飛ばせるようなことではなかった。

「なにもないって言うなら良い。最近は物騒な事件も起きているからな。通り魔だとか、不審者だとか、誘拐とか――」

「鏡見たほうがいいんじゃない?」

「――なに、プレイヤーが怪我しましたとかなってゲームが続行できなくなるのはこっちの望んでいることじゃないんでね。もちろん、君の望んでいることでもないはずだ」

「なるほど、そういうこと。余計なお世話よ」

 気を遣っているんだぜなんて樹のアニマノイドは悪びれもせずに言う。腹が立つのを抑えながらホットココアに口をつけ、幾ばくかの落ち着きを取り戻したクロエは、まだ何かいいたそうにしている悪人を睨みつけて言葉を待った。

「それでだ。俺たちはフィル・メーベルというビッグネームを誘拐するにあたって念入りに下調べをしたんだ。いや、政治家の子供とかと比べればそこまで難しい相手じゃない。だがメーベル家にはいろいろ厄介なものがあるんだ。ガーデンとかいう護衛組織とか――」

「私に話して良いことなのかしら?」

「――もちろんだ。君のことも調べている。クロエ・ブルーム……孤児院からメーベル家に拾われた女の子、つまり君だな。どうしてメーベル姓でないのかはわからなかったが、これだけは突き止めた」

「なにを?」

「君がこの世界についての知識なんかをそんなに持っていないってこと。16歳の孤児が世間知らずってことは考えにくいが、記憶喪失だってなら納得がいく。そうだろう、君は一年前より昔のことをなにも覚えていないんだ」

 どうしてそれを知っている。問い詰めようとしたクロエはそれが無駄なことだと悟った。

 ゲームマスターとその仲間たちである誘拐犯どもはなんらかの手段を使ってメーベル家を調べ尽くしている。

 水面下でメーベル家の護衛にあたっているガーデンがついていない今日を選んで犯行を実行できたのは、その下調べのおかげだろう。そのついでに自分の記憶喪失のことも突きとめたのかもしれない。

 だがクロエは困惑を隠しきれなかった。記憶喪失であることを知っているのはメーベル家の人間だけのはずなのだ。ということは、誰かスパイのような人間がメーベル家に潜伏していたのだろうか?

「記憶喪失の君は孤児院で過ごした日々もあいまいだ。だから君が自身を持って自分の記憶だと言えるのは、メーベルの屋敷で過ごしたここ一年のことくらいだな。違うか?」

「……その通りよ」

「違わない、と。記憶喪失のせいでこの世界の知識の殆どを君は失っていた。いやなに、日常生活を送るのに差し障りはないようだな。食事もできればトイレに駆け込むことだって知ってる。知らないのはアニマノイドの存在や世界が9つの大陸に分かれていること――そういう『常識』だな。第九大陸に住んでいるのなら、アニマノイドを見たのは今の記憶なら初めてなんじゃないか?」

「だったらなに?」

「下調べは成功したってことが確認できる」

「ああ、そういうこと」

「なんだか嬉しくなってきたよ。全部こちらの思い通りに動いている。さて、そろそろパレードが始まる頃合いだな。おーい、香木の炙り焼きを一つ頼む!」

 クロエはもうどれだけホットココアを飲んでも苛立ちが収まることはなかったが、樹のアニマノイドが意味のわからないものを注文したことに吹き出しそうになった。

 樹が人の姿をとったような存在が食するものは植物なのだろうか? しかしそんなものがおいているはずがな――

「かしこまりました。当店ですと伽羅と白檀の二種類がございますが、どちらになさいますか?」

「そいじゃあ白檀だな」

 あるのかいっ! 思わずズッコケそうになったクロエはそれを悟られないように振る舞い、平静を装って樹のアニマノイドを見つめる。

 

 遠くに陽気な音楽が聞こえてきた。クロエの後ろから少しずつ音が近づいてきている。大きなスピーカーによるものだろうか、とてつもない音圧を伴って陽気にさせるメロディが止まらない。

「お待たせしました。白檀の炙りです」

 店員が運んできた皿には煙を上げた樹の皮がいくつも並べられている。樹のアニマノイドは大切そうに匂いをかぎ、気持ちよさそうに表情を緩めていた。確かに爽やかな印象のある甘い香りは怒りを少し沈めてくれたような気がする。クロエはそんなことを思いながら樹の皮を「かじる」様を眺めていた。

「それ、おいしいの?」

「俺はな。普通の人間にはおすすめできない」

「そうよね、人間が食べるものじゃあないわ」

「まあなあ……で、ひとつ忠告させてほしいことがある」

「なんですって?」

「君はこれから様々なゲームをこなしていくだろう。君の親友を救うために。もちろんゲームが全部終われば無事に返す。これは約束する。……もしかすると君にとってつらいことが起こるかもしれない」

「他人に危険が及ぶことはさせないと聞いたわ」

「もちろんそれは大丈夫だ。誰かを殺せとか、君に命をかけて危ないことをしてもらうとか、そういうことはない。だが。君にとって重要ななにかが待ち受けているかもしれない」

「かもしれない? ずいぶん不安な物言いに聞こえるんだけど」

「俺も全部を知っているわけじゃないってことさ。ほら、お目当てのパレードの到着だ」

 樹のアニマノイドが指さした先を見るクロエ。さっきよりもずっと音が大きく迫っている中、彼女が見たのは巨大なパレード用の車両だった。

 赤と黄色を印象づけるような配色をしている車は、ひな壇のような広いダンスステージを前面に配置し、人間もアニマノイドも――シーのような猫や兎、犬、象、鳥らしきアニマノイドたちだ――が大らかでキレのあるダンスを披露している。誰も彼もが汗だくだが笑顔を忘れている者は一人もいない。

 ひな壇の一番上には男女のペアが歌っていた。男は猫のアニマノイドで、女は人間のようだ。

 どちらも見事な歌唱力だとクロエは直感する。ネクサスの歌なのか、希望や夢や愛をテーマにした聞いていて恥ずかしくなるようなポップなオペラ調の歌を見事に歌い上げている。

 そんな車が通る横を挟むように多くの来園客がひしめいていた。

 彼らはダンスを楽しんだり、一緒に歌ったり、誰もが思い思いに楽しんでいる。ダンサーの個人名らしき単語もちらほら聞こえてきていて、クロエは心から楽しそうだと思った。

 本来ならきっと素直に楽しいと思えるはずだった。だがそのはずは誘拐犯のせいで潰えた。

 静かに怒りがふつふつと湧き上がってくるのを覚えながら、クロエはゆっくり樹のアニマノイドに視線を戻し、ゆっくりとにらみつける。

「……絶対にフィーは取り戻すから。その後のことは覚悟しておいて」

「分かっているさ。……ずいぶんいい顔をするようになった。パレードを見せたのは正解だったみたいだな」

 それじゃあ帰る。樹のアニマノイドどこか満足するように立ち上がり、そのまま歩き去ろうとしている。ちょっと待ちなさいよ、とクロエは思わず早口で呼び止めた。

「どこに行くつもり」

「帰るんだよ、自分の持ち場に」

「ちょっと待ってよ」

「もう俺の役割は終わったんだ。君は第一のゲームを無事に成し遂げた。俺はそれを見届けた。だから帰って報告する。大丈夫だ、ここの代金なら払う。でもついてくるなよ。せっかく成功したのに全部台無しになっちまう。だろ?」

 なにかあればすぐにフィルの命を持ち出して脅せば解決すると思っている――そのことにクロエは怒鳴りそうになったが、ココアや白檀の香りが食い止めてくれた。

 

 

 

 不思議なやりとりだった。遠くなりつつあるパレードの音と歓声に耳を立てながらクロエは深呼吸する。

 残り半分もないホットココアを飲み干そうとしたその時、携帯電話が震えた。フィルからの着信だが、ゲームマスターからの呼び出しだろうと冷ややかに応答ボタンを押す。

「やあ。君のもとに向かわせたアニマノイドから報告を受け取っている。第一のゲームは無事に成功したようだな。おめでとう」

「パレードを見るだけでしょ、なんてことないわ」

「いやあ、君は逃げ出さずにここまで来た。勇気は折り紙付きだ。そして君は忍耐強いことも証明してくれた。これ以上言うことがなにかあると思うか?」

 芝居がかった、妙に上から目線の言葉に眉をひそめたが、もう慣れてきた。クロエは冷ややかに「いいえ」と答えると「そうだろうそうだろう」と満足そうに返ってきた。

「それだけ?」

「いいや。ちょっとした褒美もある。あとであのアニマノイドが座っていた席を調べたまえ。それと次のゲームについて――」

 ちょっと待って! クロエが制止を呼びかけたのには理由があった。誰かがドカドカと大きな音を立てながら店に入ってきたからだ。

 あれ? クロエはそこである予感と既視感を覚えた。この状況はついさっき見たばかりのような気がするし、なにか厄介なことが起こりそうな気がする。この焦りはなんだ?

「クロエェ! クロエ・ブルーム! いるんでしょう、出てきなさい!」

 聞き覚えのある声だった。アニー。駅の喫茶店で会って以来だが、彼女は自分がここにいることを知っているらしい。一体どういうことだろうと不思議に思いつつ、クロエはアニーに手を振って呼びかけた。

「そこね! 今行くから待ちなさい」

「どこにも行かないけど……でも何の用事? これでもこっちは忙しいんだけど」

「あんたいま『ゲームマスター』と話をしてるんでしょう」

 アニーの口からその言葉を聞くとは思っていなかった。クロエは思わず目を開いて、自分が焦りの表情を浮かべているのを自覚しながら指を口の前にもっていってアニーに示した。黙ってろ。お願いだから黙っていてくれ。

「ゲームマスター、聞こえる?」

「どうしたのかね?」

「なんでアニーが、部外者があんたを知っているのよ」

「次のゲームの進行にどうしても必要だったからだ。3人目に知られたからといってフィルくんを傷つけることはない。安心したまえ」

「そんなことを言っているんじゃない! とにかく次のゲームの説明を受けるわ。でもその前に場所を変えさせて」

 クロエは立ち上がり、樹のアニマノイドが使っていた椅子を探りながら言葉を続ける。

 そこには小さな縦長の箱があった。紙でできたそれの中には眼鏡が収められている。

「ああ、それが君への褒美だ」

「この眼鏡が?」

「あとでつけてみるといい。きっとゲームの進行の役に立つ」

 よく分からないことを言っていると思ったが、とりあえずはテキトーに流してしまおう。気のない返事をしながらクロエはアニーとともにレストランを去ることにした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 第一のゲーム、攻略完了。第二のゲームまで休憩時間。

 メーベル家の養女となって三ヶ月が過ぎた頃。雪が溶け外も暖かくなる季節。

 そんなある日にクロエはフィルから呼び出しの電話を受けた。その日は天気予報にない大雨が降り、学校から帰ろうとするフィルの障害になっていた。

 呼び出しの内容は傘を持ってきてほしいとのことで、フィルが通う学校まではアコニットが運転する車で向かうことになっていた。その予定は滞りなく進行し、何事もなくクロエは校門前で下車したのだった。

 黒い傘をさしたクロエは、フィルのベージュ色の傘を開いた左手に抱えて歩き出す。

 そこでクロエはある人物が目についた。長い金髪が目を引く白いコートの少女。ここの学生であろうことはクロエもひと目でわかった。

 やや吊目がちの、しかしきれいな顔をした白コートの少女にクロエはフィルの居場所を尋ねることにした。

「あの、すみません」

「なにか?」

「フィル・メーベルを探しています。迎えに来たのですが……どこにいるかわかりますか?」

 失礼のないようにクロエは振る舞ったつもりだが、白コートの少女はかなり不服そうに険しい表情を浮かべる。まるで変なものを食べてしまったかのような苦々しい様子にクロエはうろたえた。自分の着ている黒コートとか、容姿や声がダメだったのだろうか?

「あんた、あんたがクロエ?」

「え、ええ。そうですが――」

「汚らわしい、近寄らないでッ!」

 いきなりこいつはなにを言い出すのだ。今度こそクロエは一歩下がった。

 意味がわからなかった。出かける前に顔は洗ったし身だしなみだって整えている。それで汚らわしいなどと罵られるいわれはどこにもないはずだ。

「あの、落ちついて――」

「フィル様と同じ屋根の下で暮らしているのでしょう、孤児の分際で! なにをちらつかせてフィル様やメーベルにとりいったのか知らないけど、あんたは汚らわしいやり口でメーベルの養女になったんでしょう、いやらしい」

 言いがかりというのはきっとこれを言うのだ。怒りで頭に血がのぼるのを覚えながらクロエは深呼吸した。それでも怒りは収まらない。

 こいつは初対面の人間を相手にどうしてバカにした態度を平然ととれるのだろう。ぶん殴りたくなる気持ちをフィルのために抑えつけながらクロエはどうにか普通に口を利く。

「そうですか。で、フィーはどこ?」

「フィーですって? この汚らわしい口が親しいように呼ぶんじゃないッ!」

「聞こえない? フィーはどこにいるの? 学校の教室? 知っているとか知らないとかも答えられない? とんだバカお嬢様ね」

「チイッ、言わせておけば――正面玄関よ。玄関で誰かを待っているみたいだった。待ち人はあんたってわけか」

「最初からそれだけ言えばいいのよ」

 不愉快な気持ちを隠すこともなくクロエは吐き捨てるように言い、正面玄関へと向かおうとする。歩いて1分もかからない距離だ。だが制止を呼び止めるかのように無礼な少女がクロエの背に苦々しい声をかけた。

「私の名前は」

「え?」

「アニー。アニー・ルンデン。私を敵に回したことを後悔することになるわ」

「そう。さよなら」

 心底どうでもよかった。ため息をつきながらクロエは正面玄関にたどりつき、すぐにフィルを見つけ出した。

 タレ目がちでどこか頼りない印象のあるフィルは、しかししっかりした姿勢の正しさで友人らとなにかを語り合っていたようだった。

 クロエの姿を見て友人らに軽く手を振り、薄いベージュのコートを羽織ったフィルは、人当たりのよい笑顔でクロエのあだ名を呼んだ。

「クロ! 来てくれてありがとう。どう? 学校に来るのは初めてだよね」

「きれいなところね。皆で掃除しているんでしょ、でもきれいな人間ばかりじゃないみたい。そこだけ残念かな」

「え? なんかあったの?」

 傘を受け取りつつフィルは心配するようにクロエを見つめる。その視線を感じながらクロエは話を続けた。

「なんて名前だったかなアイツ……そう、ルンデン。アニー・ルンデン。なんかいきなり汚らわしいとか言われて、知らない間にとても嫌われているみたい」

「ああ、あの子まだ帰ってなかったのか。ごめん、嫌な思いをさせたね」

「フィーが謝ることじゃないよ」

「でも僕がもっと学校のことをお話ししていればこんなことはなかったはずなんだ。……アニーはルンデンっていう第九大陸の大企業の社長令嬢なんだよ」

「ふうん」

「だからかなあ、ちょっと傲慢なところがあるんだけど、基本いい子だと思うんだよね。でも前に君の話……養子をとったんだっていう話を友人としていたんだけど、横から聞いていたんだね。必死な顔をして問い詰めてきて、それでちょっと話をしたんだ」

「だから私の名前を知っていたのね。それにフィーのことが大好きみたい」

「慕ってくれるのは嬉しいんだけどね、クロにそんな態度をとるっていうのは本当に残念だ。残念すぎて言葉にならない。クロ、本当にごめん」

 怒りよりは落ち込んだようなものの言い方だった。クロエはそんな言い方になるだろうなと思っていたし、とてもフィルらしいとも思えていた。

 

 

 

 そんなことがあったな、とクロエは歩きながら思い出を振り返った。

 彼女は後ろにアニーを連れてキャッスルの中を動いている。さっきまでいたレストランから少し離れたところにベンチが並んでいるところがあり、そこで話をすることにした。

 フィルの命をかけた「ゲーム」はアニーの知るところではなかったはずだった。しかし彼女はこの「ゲーム」のことを知っている。ゲームマスターのことを知っているのなら、フィルがいま危険な状態であることも理解しているはずだ。

 クロエはコートのポケットに仕舞っておいた縦長の箱を取り出し、中身を確認する。

 箱の中には赤いフレームの眼鏡が入っていた。ここまではゲームマスターの言っていたとおりだ。見た目は特に変なところはないが、念のためにフレームを撫でるようにしてクロエは調べていく。

「あんた、なにやってんの?」

「眼鏡を調べてる」

「そりゃ見れば分かるわよ」

「第一のゲームの特典なの。あのレストランでパレードを見ていた」

「なにその……なに?」

「最初から説明してもいいけど、その前にアニーの話を聞かせて。下手を打ってフィーをこれ以上危険な目にあわせたくないから」

 そういうことなら、とアニーは深くため息をついた。どんな話が始まるのかとクロエはあたりを見回しながら注意する。

 ここの人気は他の場所に比べて少ないが、まったく人がいないわけでもない。第三者に聞かれるわけにはいかない。喋り方や声の大きさに気を払う必要があった。

「財布を盗られたの」

「は? 財布? それが――」

「盗られたすぐあとで携帯電話に着信があったの。フィル様の番号だったからすぐに出たら、喋ってくるのはゲームマスターって名乗った機械音声の奴だった」

「――その後は?」

「あんたが……クロエがフィル様を助け出すための『ゲーム』に挑んでいること、協力している人が2人いること、次にやる第二のゲーム限定で私が協力しないといけないこと、そんなことを話してた」

「断ったらどうなるとかは?」

「フィル様を……たぶん、殺すのでしょうね。だからあんたのところへ急いだの。ゲームマスターがいうにはあのレストランにまだ居るってことだったから」

 アニーの事情を知ったクロエは頷き、周りの目を気にしながら携帯電話を取り出す。

 そのままフィルの番号を入力、発信。そうしながら眼鏡をかけて、やはり何の特徴もない伊達眼鏡であることに心の中で冷ややかな笑いを向けた。

「やあクロエ。さっきはどうしていきなり切ったんだい」

「そのくらい察しをつけられるでしょ、あなた方がそうなるように仕組んだんだから」

「アニー・ルンデンが君のところに合流したか」

「こっちから聞きたいことがいくつかあるわ。まず、どうして関係のないアニーを巻き込んだの? それに褒美だとか言って伊達眼鏡を渡されても困るんだけど」

 愉快そうに機械で歪められた声が笑った。心底楽しそうで、それがクロエの神経を逆なでさせる。苛立たせるという意味ならアニーも、樹のアニマノイドも、そしてゲームマスターも変わりはないようなものだった。

「なにがそんなにおかしいの?」

「いや、君がそれを見抜けなかったかと思ってね」

「この眼鏡になにかある――」

 耳にかける部分を触るとカチリとなにか押したような音がした。すると眼鏡が薄く淡い緑の光を発し、クロエは一つの「ウィンドウ」を目にした。

 どうやらこのウィンドウは眼鏡が投影しているものらしい。ウィンドウは「初期設定を始めるにはこのウィンドウに触れてください」と表示している。

 クロエは感心しながらあたりを見回し、ウィンドウが視界に追従するのを確かめた。

「――眼鏡に投影されているならあたりまえか」

「それはAR機能を搭載した最新鋭の装備だ。拡張現実という言葉を聞いたことはあるかね」

「なんかのニュースで見たわね」

「例えば地下鉄の時刻表を投影したり、インターネットで検索を始めたり、物の大きさや重さを知ることが出来るわけだ。あとで初期設定だけでも済ませておくといい」

「……このAR眼鏡が褒美ってことか。なかなか気前がいいのね」

「もう一つの問いに答えよう。そちらも伝えておきたいものだからね。アニー・ルンデンをこのゲームに巻き込んだのはきちんと理由がある。彼女は財布を失くしたそうだが、聞いたかね?」

「盗まれたそうよ?」

「そう、盗まれたのだったね。次のゲームは盗まれてしまった財布を取り返す、だ。面白そうだとは思わないか?」

 全く思わない。クロエははっきり否定したが、電話の向こうの声は全く意に介さないように続けた。

「だから第二のゲームはアニー・ルンデンの盗まれた財布を取り返すこととしよう。今の時刻は12時15分、だから15時15分までを制限時間としよう」

「ちょっと待って、そんな勝手に――」

「出来なければフィルくんが危険な目に遭うだけだ」

「――なにかあればフィーの命を持ち出せばいいと思いやがって! 盗んだやつがどこにいるのかだって分からないのに3時間で見つけ出して取り返せって? そんなの素人が出来ることじゃないわ、ネクサスの警備なり警察に通報するべき案件よ。これはゲームに出来ない」

「つまり難易度が高すぎると?」

「そうね、そう言い換えてもいい。素人がどうこうできることじゃないと思うわ」

「全くヒントや手助けがないゲームをさせようというつもりはないのだよ。それにもう一度だけ言おう。クロエ・ブルーム。このゲームのプレイヤーたる君に、選択の余地は、どこにもないのだ」

 どこか残念そうにゲームマスターは言う。笑ったり悲しんだりしてこいつの精神状態は大丈夫なのか? 今後のゲーム進行に不安を覚えたクロエは、しかしすぐに理解した。

 こいつは犯罪者だ。狂人だ。まともな感性であるはずがないのだ。だから自分に理解できなくて何の問題もないしそれが道理なのだ。

「さあ、制限時間は3時間だ。早くしなければ間に合わなくなるぞ」

「くそっ……絶対にフィーに手出しはさせないから!」

「いい返事を聞けて嬉しいよ。それではまた、プレイヤー1」

 電話は向こうの方から切れた。

 無理だ。クロエはどんな角度から考えてもこのゲームが成功しないであろうと思ってしまう。どうやって人がたくさんいる――かなり少なく見積もっても3万人はいるであろう――ネクサスの中からどうやって泥棒だけを見つけ出せるというのだ。

 それに泥棒を見つけ出したとして財布を取り戻せるのか? 荒事に慣れているアコニットがいれば大抵は問題なさそうだが、周りへの影響を考えると表立った動きが出来そうにない。

「なに最初から諦め顔してるのよ」

「アニー?」

「まずは行動を起こす。でしょう? フィル様を見殺しにするつもり?」

 こうなった原因のひとつがあんただとは思わないわけ? そう言い返したかったがぐっとこらえた。相手が一方的にこちらを恨み憎しみをぶつけてくる奴だとしても、手を組まされた以上はいたずらに亀裂を広げるわけにはいかない。

「言われなくても……まずはシーとアコニットさんと合流する」

「ガーデンの人と、シーって誰?」

「今日知り合った私の仲間よ。猫のアニマノイドのお姉さん」

「アニマノイド? 信用できるの?」

「いい人よ、初対面でもあんなに安心できる人ってそんなにいないじゃない?」

「とんでもないお人好しね、あんた……」

 どこか呆れるようにアニーが言うが、それを無視してクロエは携帯電話でシーとアコニットを呼び出していく。

 自分がどこにいるか、隣にアニーがいること、次のゲームの概要――簡単にそれらを伝えたクロエは待つことにした。今の彼女は待つことしか出来ないが、アニーの言う通り諦めるわけにはいかない。それを苦手な相手から言われるのは癪ではあったが。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 第二のゲーム「盗難物奪還」攻略開始(前)

「――私は東の島へ渡ろうとしたの。そこで財布を盗まれたのよ」

「もっと詳しく話せる?」

 シーとアコニットと合流したクロエはキャッスルを抜け出し、これを囲う幅広の円形道路をともに歩いていた。盗まれたアニーの財布を取り戻すというゲームを成功させるため、アニーから聞き込みをしながら歩いていく。

 いまはシーがアニーと話を進めている。クロエがやれば話は進まないのは火を見るより明らかだし、アコニットが相手ではアニーが過度に緊張してしまうからだ。

「東の島に行こうとしたのは、そこにフィル様がいると思ったからよ」

「フィルくんに会いに行きたかったと。電話番号は知ってるの?」

「知っているしもちろん電話もしたわ。でもいくらかけても出ないの。こんなことはそうそうないし、きっとなにかあったに違いないって思った」

「予感は当たっていたんだねえ」

「そうして電話をかけながら歩いていたら人気のないところに出てしまって、そこでチャラい3人組に財布を盗まれて……それからしばらくしたらフィル様から電話がかかってきた。でも話していたのは違う奴だった。ゲームマスターって名乗った誘拐犯のリーダーだったのよ」

 最初からなぞるようにアニーが語るのを聞きつつ、クロエはAR眼鏡の初期設定をしながら歩いていく。

 来園客が行き交う道を背景に眼鏡がウィンドウを投影する。それを指で触ると霧散していくのだ。こうして投影したウィンドウとそれに接触する距離を設定していくのがあと少しで終わりそうだった。

「ゲームマスターはなんと?」

「財布を盗まれたことを知っていると話していた。それから、フィル様の命を救いたいのならクロエのところに行け、と」

「よく信じたね?」

「フィル様になにかが起きたのはほとんどそうなんだろうって思ったの。財布が盗まれたことを知っているし、実際にクロエがどこにいるのかもきちんと言い当てていた。クロエのいるレストランに行くまでは半信半疑だったのよ」

「それで今に至ると。……クロちゃん、初期設定って終わったの?」

 少し前にね、とクロエは返す。彼女のAR眼鏡には、ネクサスの地図や店の情報を表示するウィンドウが並べられている。視界の邪魔にならないように横に退けたり、要らないウィンドウを消したり、そんな操作をしながらのやりとりだった。

 眼鏡に投影されているウィンドウを触れての操作だから、はたから見ればちょっとしたパントマイムをやっているように見えるかもしれない。クロエはやや恥ずかしさを覚えつつ、しかしAR眼鏡の操作の楽しさやある疑念を抱きつつもあった。

 クロエがAR技術に触れるのはこれが初めてではなかった。メーベル家の屋敷の照明やカーテンの操作の一部はAR投影されたウィンドウを操作するもので、クロエがこれを扱うのは珍しいことではなかった。

「それ、どうなの?」

「どうって?」

「便利そうかってこと」

「まだわからないけど……たぶん、そのうち使い方を分かると思う。ネクサスの地図を表示したり、アトラクションの待ち時間予測を出してくれたりしてるんだけど、でもこれ作っているのが誘拐犯のお手製って感じがする」

「どゆこと?」

「メーカーがわからないんだ。どこの誰が作ったのかわからない。もし誘拐犯が作ったものだとしたら思っている以上に危ない組織なのかもしれない」

「確かに。あんまり一般に見ない技術を使いこなしているってなると……だね。それでクロちゃん、次どこ行く?」

「アニーが財布を盗まれたって場所を探しに行こう。どこなの、そこは」

 言ったでしょうよ、とアニーは苛立ちを隠さずに声を荒げた。ホントに言った? クロエは記憶をたどってみるがよく思い出せない。

「東の島に行こうとした、そして財布を盗まれた。そう言ったわ」

「クロちゃん、多分そこは東の島に接続しているとこだと思う。今いるセントラルっていう半島から東の島に行くには、船着き場から船で行くか、地下鉄を使うかしかない」

「船と地下鉄? でも海底列車ってことになるのかしら」

「パンフレットに書いているから、後で読んでおいてもいいかもね」

 なにも知らないのねと後ろでアニーがバカにしたように呟く。それは聞こえていたが、無視しなければならない事情があった。AR眼鏡が新しいウィンドウを投影してクロエに示していたのだった。

「クエスト02のアップデート……ヒント、ですって」

「ホントかいクロちゃん! ヒントってどんな?」

「なんかよく分からない。ネクサスの全体図がウィンドウで投影されているんだけど、そこに結構な数の点が表示されているの。同じものを私の電話に送ってくるみたい」

「そこの店の壁に寄ろうか。ここで立ち見しても目立つし迷惑だし、良いことなさそう」

 そうだね、とシーに従ったクロエは壁を背にして携帯を取り出してメールボックスを開く。ちょうどその時にメールを受信し、添付された画像を表示する。

 やはり、添付された画像は投影されたウィンドウが表示しているのと同じ内容だった。ネクサスの全体地図に赤い丸が30以上表示されている。何の意味のある画像でどういうヒントなのかはさっぱりわからないが、なんの解説も載っていない。

「よくわからないね、これ」

「だね……アコニットさん、どう思う、これ?」

 意見を求めるクロエは、しかしゆっくりとためらうように首を横に振られてしまった。

「申し訳ありません。アニーさんはどう考えますか?」

「えっと……こんなの分かるわけないじゃない」

「そうですね。では、とりあえず、財布を盗まれた現場に向かってみましょうか」

 やっぱりそれしかないか。アコニットの提言にクロエはしっかりと頷き、人でいっぱいの幅広の道路を歩くことにした。

 

 

 

 

 

 

 アニーが財布を盗まれた現場は確かに人気が少ない場所だった。

 東の島へつながる船着き場から少し離れたところに大きなレストランが複数立ち並んでいる。その建物の間は昼間でもやや暗く、人目につきにくく、複雑だった。

 こんなところにいるのを悪い奴に見られれば絡まれもするだろう。好きで行ったのだとしたら警戒心が足りていないぞとクロエはため息をつく。

「ここには呼ばれて来たのよ」

「なんて?」

「ちょっと携帯貸してくれ、みたいな。助けを求めていたから放っておくわけにはいかないでしょ」

 当然だろと言わんばかりの表情をシーに向けるアニー。それを横目にクロエはあたりの様子とAR投影されたヒントの光点を見比べていた。

 なんとなくではあるが、このヒントが指し示していることがつかめたような気がした。光点のひとつはアニーが誘われたという人気のない路地の場所と一致している。ということは光点が指し示す場所は、人気がない場所ということなのだろうか。

 クロエはそれを踏まえてあたりを見回し、すぐにこの仮説が間違っていることに気づいた。光点は人が多いところにもあるように見える。ヒントの画像では幅広の道にも光点が散見していることから、やはり自分の仮説が間違っていたのは疑いようもない――クロエはため息をついてアコニットを見上げた。

「アコニットさん……なんだか分からなくなってきた」

「ヒントのことでしょうか」

「うん」

「……もしかすると、監視カメラがあるかどうか、かもしれません」

「監視カメラ? ヒントの光点の場所に監視カメラがあるってこと?」

「逆です。ないから監視が行き届いていない場所がある。さっきのヒントはそういう場所を把握して表示しているのかも。クロエ様、しばらくこのあたりを見てきます。そこのアイスクリーム屋で待っていてもらえますか」

 アコニットが指さしたのは黄色い屋根の店だ。片手で数えるくらいのグループの行列ができている。クロエのAR眼鏡が店を捉えると店名やメニュー表、価格などをまとめるウィンドウが投影され、予測待ち時間も表示された。

 それを確認したクロエはアコニットに紙幣を握らされ、イチゴ味を頼んでおいてくださいと残され、アコニットを見送った。残っているシーとアニーに事情を話し、クロエたちは行列に参加する。

 前に並ぶ人々も、後ろに並んだ人々も、誰もが楽しそうにしている。しかしクロエたち3人は誰も笑顔もお気楽な表情も見せていない。私たちはひどく浮いている連中なんだな、と自嘲気味にクロエは笑うとシーが「はいはいはーい」と小さく手を上げているのを認めた。

「カップでバニラ味が良いかな。アニーちゃんはどうするの?」

「えっと、そうね……同じのでいいわ。クロエ、あんたは?」

「バニラのカップでいい。3つ同じのを注文することになったね、アコさんのはイチゴのカップでいいか。代金はアコさんから預かってるから、私が行くわ」

 話している間にも順番待ちの列は進む。クロエたちも「ご注文は?」と聞かれ、はっきりとクロエは注文を口にした。

「かしこまりました、少々お待ちください」

 白いエプロン姿の店員がそう言う頃には、シーがアニーを連れて近くのベンチまで歩いていた。ドーナツのような幅広の道路から分岐した、船着き場まで伸びる大きな道路。その中心に等間隔で植え込みとベンチとが設けられている。

 遠くで石畳の地面に転んでいる子供を横目にクロエは注文した品を受け取り、シーの元へ歩く。転んだ子供は近くにいた両親になだめられながら船に乗り込むようだった。遊覧船。白い船体に赤いラインがよく映えているのがクロエの印象に強く残った。

 船着き場とは反対の方からアコニットが駆け足でクロエたちのところに来る。ベンチに座ったクロエはやや息の荒いアコニットにイチゴ味のアイスクリームを手渡し、隣に座るようにすすめた。

「それではお言葉に甘えて。クロエ様、先のヒントのことですが」

「なにかわかったの?」

「おそらくは『監視が行き届いていない場所』を指しているものかと」

「どういうこと?」

 クロエはスプーンを口に運んだまま辺りを見回した。

 監視カメラの存在を最初から頭において見てみれば、監視カメラのない場所はどこにもないように見える。店の壁や電柱に備えられて目立ちにくいが、確かに在って来園客を見守り犯罪を監視している。

 だがAR眼鏡の視界検索機能を使い「監視カメラが見えればポイントせよ」と命令を入力すると、監視体制は完璧の一歩手前であるらしいことが分かった。

 ヒントの地図によれば、アニーが財布を盗まれた場所に光点があった。そしてその場所を監視できるように監視カメラは設置されていない。遠目で見ての判断だが、他の光点が在った場所も監視体制は薄いのだろうとクロエは踏む。

「盗みをする側は地の利を得るために十分な下調べをしていたのでしょう。だからアニーさんをあそこへ呼んで、盗みを成功させた」

「でも待って」

「はい」

「たぶんアコさんのいうことで間違いないと思うんだけど、でも……なんでゲームマスターがそんなことを知っているの?」

「奴らもここで活動する以上、監視カメラみたいに監視体制に関わるものを調べていたのかもしれません。メーベル家の人間を誘拐するのですから、財布を盗んだ連中よりももっと高度に複雑に計画や調査を用意しているはずです」

 フィルはネクサスにいる。ということはゲームマスターたちもネクサスにいる。そしてネクサスで人知れず犯罪に手を染めるのなら入念な下調べが必要になる――クロエは納得したように頷くとAR眼鏡を外してじっくり眺める。

 小さなアイスクリーム屋のメニュー表を教えるまでにAR眼鏡にはネクサスの情報が詰まっている。そんなものを「ゲームクリアのご褒美」として与えるのだから、ゲームマスターたちの準備はとても入念なものなのだろう。

 自分が戦っている連中の底の知れなさを思い知り、しかしクロエは臆しなかった。恐怖こそあるが、フィルを拐った連中への怒りのほうが勝っている。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 第二のゲーム「盗難物奪還」攻略開始(中)

 クロエはゲームセンターでぶらぶら歩いていく。アテもないように、気だるそうにさまよっていく。

 ネクサスのセントラル、そこに建つ城の形をした巨大な施設「キャッスル」にないものはない――そこまで言わしめるのだからゲームセンターだってあってもおかしくないな、とクロエは思った。

 ゴーグルをかぶり古めかしい形の長銃の形をしたコントローラを振り回すプレイヤーを遠目に見て、VRガンシューティングの最新作だな、とクロエはすぐに分かった。こんな状況でなければ1回くらい遊んでみたいものだ。

 

 

 

 シーもアコニットも、アニーも近くにいない。

 ひとりで行動していて、本当に気だるそうに、ごく自然に人気のない場所へ歩みを進めるクロエ。しかし内心はとても焦っていた。

 携帯電話で今の時刻を確認する。午後1時50分――第二のゲームの制限時間まで1時間半を切っている。アニーの財布を取り戻せばそこでゲームは終わるはずだ。だがクロエは嫌な予感がしてならない。

 いまのクロエたちは財布を取り戻すためにある作戦を実行に移している。

 財布を盗んだグループが、先に送られたヒントにある「監視体制のゆるい場所」を把握し行動していることを前提に考え、クロエが目的のグループを誘い出して釣り上げようとしているのだった。

 作戦の内容はとても単純だ。クロエがヒントにある光点――人気のない、監視体制のゆるい場所――に単独で向かい、残りの3人は少し離れた場所で機を伺う。そして都合よくクロエに絡んでくるやつがいればアコニットが合流し、2人で一斉に締め上げる。

 

 だがこの作戦には問題があった。財布を盗んだグループがどこに出るかの予想はついたが、いつどこに絶対現れるかという情報を掴むに至っていない。

 そしてこのゲームの目標は「盗まれたアニーの財布を『取り戻す』こと」にある。盗んだグループを締め上げるのに成功したとしても、彼らがすでに財布を持っていない可能性すらあり得るのだ。

 どうせ金持ちの令嬢の財布だ。中には高額の紙幣や親のなんとかカードがぎっしり詰まっている高級品に違いない。財布自体にも相当な価値がつくに決まっている。

 頭のいい悪い奴なら中身を抜き取り足がつかないように財布も売り飛ばすのだろう。そうして得た金銭をなにに使うのか――そこまで考えてクロエは頭を振った。そこまで考えるのは自分の役割ではない。

 なにがなんでもアニーの財布を取り返し、フィルの命をつなぎとめる。それが今の自分に出来ることなのだ。

 

「ねえ、どうしたの、そんなところで。もしかして人を待っている? それとも迷った?」

 チャラい3人組――間違いない。アニーに見せれば「こいつらよ」と叫びだすことだろう。3人組のリーダーらしい、背の低い少年がどこか浮ついた笑顔を貼り付けてクロエにゆっくりと迫ってきた。

 クロエはコートのポケットに入れていた携帯電話の画面にそっと触る。そうすることでアコニットに合図が出せるようになっている。

 AR眼鏡がいまのアコニットの位置と到着予測地点を割り出してウィンドウに投影する。なにもしていなくてもAR眼鏡はアップデートを続けているらしく、これもゲームマスターのヒントの一部なのかもしれないとクロエは思った。

「だまってちゃわからないよ、ねえ、どうなのさ?」

 少し困ったように笑いながら少年が近づく。だがその視線はクロエを凝視している。彼女が手を突っ込んでいるコートのポケット。

 次の瞬間には笑顔を貼り付けている少年が下卑た表情をあらわにするに違いない。意識を集中していたクロエは、不意をつくように踏み込んだ少年の手を掴んで捻り上げ、そのまま背負っていた壁に思い切り押しつける。

「がはっ!?」

「あなたたち、財布を盗んだでしょう?」

「くそっ、なんでこんなに強いんだよ!」

「前もって言っていなかったわね、ごめんなさいね」

「ちくしょう、お前ら、やっちまえ!」

 苦しそうにしているからかその声にハリはない。しかしそれは助けが来なかった理由ではない。クロエが少年を壁に押し付けたときには、彼女のAR眼鏡はアコニットの到着を通知していたのだ。

「なっ……誰だよあんた!」

 アコニットはそれに答えることなく、手刀を首に打ち込んで気絶させた残りの2人を壁に寄りかからせた。ちょっと見ただけなら気持ちよく寝ているように見えなくもないな、とクロエは思う。

「うそだろ、おい、ちくしょう」

「さあ話してもらうわよ。あんたたちが盗んだ財布はどこ?」

「なんだってんだこれ……いてて、お前ら、こんなことしてただで済むと思うなよ」

「こっちだって下がれない事情があるのよ。さあ取引よ。私たちに盗んだものを返して解放されるか、警備の人間に突き出されて面倒なことになるか、どちらを選ぶ?」

 どういうことだと言いたいのか、少年はしばらく答えない。だが5秒経つ頃には絞り出すように口を開いていた。クロエが力を込めたからだった。

「わかった、おれは持ってねえ。でも話すよ、だから解いてくれ」

「あなたがいま持っているわけじゃないのね。誰が持っているのか教えたら逃してあげる」

「ロンさんだ。狼のアニマノイドのロンさんがリーダーなんだ、盗んだものはロンさんのところに集めてる」

「そう。じゃあ、その人はどこにいるわけ?」

「東の島だ。そこにある工事現場の小屋を俺たちの基地にしているんだ」

 直後、AR眼鏡がネクサスの地図を投影し、東の島の部分を拡大して示してきた。

 さらに工事現場一覧という別ウィンドウを投影し、それが透過して地図のウィンドウと重なる。東の島にある工事現場は一つしかなく、冬季期間であることを理由に今は工事が進んでいないという情報も手に入れる。

 情報収集という点ではこの道具はかなり便利だな、と感心しながらクロエは拘束の手を緩める。

「ホントに放すのか……おい、ロンさんのとこに行くんなら気をつけな」

「え?」

「あの人はマジでキレるんだ。頭もそうだし、一度怒り出したらもう止まらねえ。ロンさんのとこに行くのは止めねえがタダじゃ帰られねえぞ」

「親切にどうも」

 逃げ帰るように少年が去っていく。気絶した2人は取り残したままだったが、クロエとアコニットにも足早に誰にも見られずに走り去っていた。

 

 

 

 護身のためにアコニットから手ほどきを受けていたのがこんなところで役に立つとは思わなかった。クロエは東の島へ渡る地下鉄に乗りながらそんなことを考えていた。

 海の下を透明なトンネルを通る地下鉄は、窓から幻想的な景色を楽しむ人々でいっぱいだった。冬の寒さで凍った海の氷を下から見上げる機会など誰にとっても早々ない。

 それはクロエもシーも同じだ。おまけに地下鉄はゆっくり運行している。誰もがこの景色を長く楽しめている。

 アコニットとアニーのふたりとは別行動をしているのは、クロエとアニーの仲が悪いからだ。それを理解してアコニットが「二手に分かれて東の島で合流しよう」と提言していた。その心配りにクロエは心の中で感謝を捧げる。

 クロエとシーは隣の席で窓から海を見上げる。質素な装飾ながらふんわりした座り心地の座席に体を休ませながら、もうじき始まる緊張の交渉に気持ちが硬くなるのをクロエは自覚する。

「ねえクロちゃん」

「え?」

「さっきは大丈夫だった? 怪我はしていない?」

「うん。アコニットさんがうまく教えてくれたおかげ」

「そうなんだ。クロちゃんは強いんだね」

 照れて顔が赤くなるのを覚えながらもクロエはシーの顔を真っ直ぐに見つめる。縦に割れた瞳は嘘をついていないと堂々と宣言しているように見えた。

「ところでクロちゃん……あのアニーって子とはうまくいってないの?」

「ああ、うん、そうだね」

「どうして?」

「どうしてって……向こうから突っかかってきて、なにも改善する気配がないし。だったらもうなにも望めないって思わない?」

「そりゃそうかもだけどさ。ちょっと話しただけだけど、悪い子じゃないんだなってのはわかったよ」

「外っ面だけ良いのよ、あいつは」

「ホントに嫌いなんだね、仲直りができればいいのにねえ……」

 ため息をついてシーは困ったように笑った。小さく体が揺れてオレンジの長髪と尻尾もゆっくり振れていた。きっとシーは誰とでも仲良くなれるんだろうな、とクロエは思う。

 それはひょっとすると魔法なのかもしれない。誰とでも仲良くなれる――少なくとも嫌われることがない人間がいるなら、それはきっと魔法使いみたいに「存在しない」存在なのだろう。

「ところでクロちゃん」

「なに?」

「気になってたんだけど、クロちゃんの名前、もう一回教えてもらえる?」

 よく分からないことを言うな、とクロエは首を傾げたが、再び名乗るのは渋ることでもない。すぐに「クロエ・ブルームだ」と口を開くと、今度はシーが首を傾げている。

「フィルくんってメーベルの人でしょう、だからフィル・メーベルって名前だよね」

「ああ、うん」

「クロちゃんはメーベル家の養女なんだから、クロエ・メーベルになるんじゃないの?」

 確かにそうだ。これまで慌ただしかったからそんな疑問も出てこなかったに違いない。そう考えたクロエは、しかし言葉に詰まってなかなか答えられないでいた。

「あー、クロちゃん?」

「それは……えっと、名乗りたくなかったの。メーベルを名乗りたくなかったのよ」

「どうして?」

「不相応だと思って」

 よく分からないと言わんばかりにシーはより深く首を傾げた。

「なによ、不相応って」

「ふさわしくないってこと。私みたいなのがメーベルの名前を名乗りたくないっていうか……分かる?」

「いや、全然」

「メーベルはただのお金持ちの一族じゃないの。高い地位や財力にあぐらをかいているような人たちじゃない」

「うんうん。嫌な金持ちじゃないよってことか」

「養父のウィンストンさんも、フィーも、能力や才能を持っている。ウィンストンさんがトップに居るメーベルグループがどれだけすごい組織かは分かるでしょう?」

 日常生活におけるあらゆるものに関係する企業グループ。それがメーベルグループだ。衣食住で関わっていないものはない。

「確かにそれだけ大きな組織のトップなら、カリスマだとか才能だとかがあったほうが良いのかもね」

「それにフィーはただの学生じゃないの。パワードスーツの設計とかしている会社に技術者として参加しているし、それに古代遺跡の発掘も参加しているんだって。そう聞いたし、写真も見せてもらったことがあるの」

「たくさん手を付けているみたいだけど、学業は大丈夫なの?」

「全部満点ってわけじゃないけど上から数えたほうが早いくらいだって。それはフィーのお友達から教えてもらったわ。……メーベルの人って他もすごいのがばっかりなんだ。だから、ね、分かるでしょ?」

 困った顔をしてクロエはシーを見つめるが、それでもシーは理解したような仕草を見せない。本気で考え方や捉え方が違うのだとクロエは驚いた。

「私はクロちゃんと知り合って半日も経ってないからわからないけど。クロちゃん、そんなに自信がないの?」

「メーベルを名乗る自信ってこと?」

「そう」

「ないって話をしてたよね」

「あー……確かに気持ちは分からないでもない。理解は出来るよ、納得ができないだけでさ。そんなことないと思うんだけどな」

 シーは一度外の景色――あと少しで東の島につくらしい――を眺めてから再びクロエと目を合わせる。それから言葉を考え、口を開いた。

「クロちゃんさ」

「うん」

「立場が逆だったらどうだと思う?」

「立場って、なんの?」

「さらわれたのがクロちゃんで、助けに行くのがフィルくんだったらってこと。ゲームマスターにクロちゃんがさらわれて、今のクロちゃんの立場にフィルくんがいたらどうなると思う?」

「どうって……」

「フィルくんはクロちゃんと同じように助けようとすると思う? それとも尻尾巻いて逃げ出すかな?」

「フィーなら助けるわ。きっと。多分、いや、絶対助けに来てくれる。そのために頑張ってくれるわ」

 確かめるようにクロエは言葉を重ねる。そうしてクロエは予感を確信に変えていった。シーの言うとおりに状況が逆転していたとして、フィルは助けるために奔走してくれるのだ。間違いなく。

「じゃ、クロちゃんは大丈夫だよ」

「どうして?」

「フィルくんがすごいって言ったのはクロちゃんだよ。クロちゃんは同じことをいままさにやっているんだ。だからクロちゃんはすごいの。メーベルを名乗っても誰も馬鹿になんてしないわ。もしした奴がいても、そいつがものをちゃんと見られないだけだもの」

 シーの言葉にクロエは身動きを止め、それから静かにうつむいた。何故かは分からないが涙が抑えられない。体が熱くなって震えていた。

「ちょっと泣かないで、どうしたのよ」

「なんか分からないけど嬉しくなったの。嬉しくて、それで」

「そっか……そうか」

 シーは言葉を止めたがクロエを見守るのは止めなかった。

 そして彼女はあるものを見つけた。クロエが左手の人差し指に指輪をしているのだ。

 宝石は埋め込まれていないものの精巧な彫刻が施されている。シーは指輪やこれを扱う店には明るくないが、クロエの指輪が普通の店では売っていないもののように見えた。

「落ちついたかい?」

「……うん、なんとかね」

「そういえばその指輪、だれかにもらったの?」

「指輪ってこれ?」

 言いながらクロエは左手の人差し指を示すように動かす。頷いたシーにクロエは言葉を考え、口を開くことにした。

「これ、少し前にフィーからもらったの」

「プレゼントってわけだ」

「実は今日が1周年なの。私がメーベル家に引き取られてちょうど1年。それでちょっと早いけどってフィーがくれたんだ」

「ならクロちゃん、もっと胸張れば良いんだよ。そういうの祝ってくれるんだったら、フィルくんもウィンストンさんもクロちゃんを嫌いだとか思ってるハズがないんだからさ」

「私、考えすぎていたのね。なんだ、そうだったのかもね……」

 目を拭いながらクロエは何度か頷き、やっと笑顔を見せた。小さな笑いはやがて地下鉄のアナウンスに紛れて消える。東の島に到着したのだ。

「着いたね。クロちゃん、準備はいい?」

「もちろん。さあ、アニーの財布を取り返しに行こう」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 第二のゲーム「盗難物奪還」攻略開始(後)

 東の島だ。そこにある工事現場の小屋を俺たちの基地にしているんだ――締め上げた少年から聞き出した情報が本当かどうかを確かめる必要がある。

 コーヒーカップや観覧車など、あまり過激ではないアトラクションが並ぶ東の島に立つクロエは、シーと共に待ち合わせ場所に向かうことにした。東の島の目玉コンテンツであるダンスイベントの会場前である。

 パンフレットによれば、東の島の東端では定期的にダンスイベントが催されているという。スタッフだけでなく来園者も参加できるちょっとした大会のようだ。この会場を囲うように森が広がっていて、そこの一部が工事中であることも記されている。

 低速な木製コースターで子どもたちが喜んでいるのを遠くに聞きながら、クロエは人の少ないところを選んで歩いていく。その前をシーが歩いていて、進みやすい場所を選んでくれているのだ。

 AR眼鏡はダンスイベントの開催時刻があと20分まで迫っているのをウィンドウに投影して教えてくれている。15時にイベントが開催され、そして財布を取り戻す第二のゲームは15時15分が制限時間だ。

 ここの来園客が踊りで盛り上がればフィルの命が危ない頃合いだ。そうなる前に決着をつけなければ――クロエが両手をぐっと握りしめた頃には目的地に着いていた。シーのオレンジ色の髪を目印にしてクロエは隣に立ち、辺りを見回してアコニットとアニーを待つ。

「遅いな、なにやっているんだろう?」

「でもクロちゃん。どっちかっていうと私たちの方が早く着いちゃったんじゃないかな」

 そうだろうか? AR眼鏡が表示している時計を見れば、確かに5分ほど早く到着している。アニーは荒事に連れて行ったところで何の役にも立たないだろうが、アコニットの力はどうしても必要だ。待つしかない。

「私たち、ちょっと焦っていたのかもしれないね」

「だって時間がもうないわ」

「確かにそうだけども、焦ったら普段できることがなにも出来ないよ」

「でもフィーが――」

 そこまで言ってクロエの携帯電話が震えた。アコニットからの着信だ。

「もしもし、アコニットさん?」

「すみません。そちらに行くことは出来ないようです」

「は? なんで?」

「ここで待ち合わせるよう提言したのは私でしたね。危ないところにクロエ様をお連れするわけにはいきませんので、こうさせてもらいました」

「こうさせてもらったって……そっちはいまどこにいるのよ?」

「アニーさんの財布を取り戻しに。ダンスイベントの会場の奥、森を突き進んでいます。船にいる間にドローンを飛ばして偵察は済んでいます。先の情報は間違いないですね」

 そういうことじゃなくて! 近くに落ちついて喋られるところはないかと探しながら、クロエは周りの注意を引かないように話を続けようとした。

「私ひとりでどうにかなります、ご心配なく」

「いやそういうこと言ってんじゃないのよ。なんでそんなこと――」

「私がガーデナーだからです。フィル様を助け出すことは再優先事項でありますが、クロエ様をいたずらに危険な目に遭わせるわけにはいきません」

「――だからって危ないことをひとりでさせるなんて、そんなこと出来るわけないじゃない!」

「……クロエは優しいのね。フィル様がとても大切にしたいと考えるのがよく分かるわ。だから、私ひとりで行かせて。あなたに傷のひとつもつけてほしくない」

 親しい友人を相手するようにアコニットは言う。いまこの時だけはガーデナーとしてではなくひとりの友人として接しようとしている。

 心の底から本気なのだとクロエは悟った。なにを言ってもアコニットを動かすことは出来ないだろう。時間をかければ出来ないことはないのかもしれないが、そんな暇はない。フィルの命が天秤にかけられているのなら合理的な選択をする必要がある。

「……分かった、ダンスイベントの会場前で待ってる。でもアコさん、なになら手伝える?」

「それなら支援をお願い。もし取り逃がしたら、ロンとかいう奴は真っ先にイベント会場に行くはず。そこが逃げるのに最適な場所だからね。クロエたち3人でそこを見張っててくれる?」

「まかせて。何かあったらすぐに連絡をちょうだい」

「もちろん……それでは行ってまいります、クロエ様」

 覚悟を秘めた声だった。アコニットの側から電話が切れ、クロエは静かに携帯をコートのポケットに戻した。

 ちょうどその時に、西から伸びる道をアニーが小走りしているのをクロエは認めた。アニーは慌てた様子でクロエたちがいるところまで来ようとしている。

「大変よあんた! あんたのとこのアコニットがいつの間にか消えちゃった!」

「知ってる。さっき聞いた」

「なんであんたそんなに冷静に――」

「冷静なわけ無いでしょ、でもアコさんは私たちを危険にさらさないように頑張ってるの、わかる? それにたったひとりに任せるなんてある? アコさんからこっちに頼まれてるの、もし取り逃がしたら捕まえてくれって」

「――捕まえろって?」

「アコさんが言うには、ロンとかいう奴の最短逃走ルートはここ。このダンスイベント会場。だからここで見張ってればいいの、何かあったらアコさんから知らせがあるし、動きが見えたらそこを警戒すればいい。やるわよ、3人で」

 それなら任せて! 突然手をあげたシーがその場で簡単に準備運動をすると、近くの電灯に飛んでしがみつき、そのままするすると登っていく。

 予想以上に身軽な身のこなしにクロエは驚くが、アニーと比べるとその驚きようはとても大げさだった。そのことに気づいたクロエは思わずアニーの横顔を見すえる。

「なに、そんなに驚くこと?」

「だってシー、まるで漫画みたいに軽々って動いてる! アコさんだってこんな動きできないよ」

「そりゃアニマノイドだから……あんた、もしかしてボケたフリでもしてるの? 面白くないからやめて。集中しないと。フィル様が生きるか死ぬかの問題なのよ」

 呆れた様子でアニーが言い放ったのを、クロエはどこか現実のように感じることができないでいる。

 記憶喪失になってからの1年間をアニマノイドが暮らすことのできない第九大陸で過ごしていたのだから仕方がないだろう。反論したい気持ちを抑えてクロエは適当にあいづちをうった。こんなことで腹を立てている場合ではない。アニーの言うとおり、フィルの命がかかっているのだ。

 

 

 

 

 

 

 EDMというジャンルの曲だったろうか、とクロエは頭の片隅に思う。電子的な音の分厚い波に圧されながらもクロエは辺りへの警戒を怠らない。

 ダンスイベントが始まってから5分。まだオープニングの演目の途中で、ステージ上で司会の人間らしい派手な衣装の男女ふたりがマイク片手に踊りながらなにか喋っている。

 赤色が目立つ、大きな羽を袖にあしらった衣装。それを大ぶりに揺らして動きの大きなダンスをしながら出場者の紹介をしている――ダンスイベントが成功に近づいていくなか、クロエは自分のゲームが成功するかどうか焦りを覚えていた。

 AR眼鏡が視界の端に残り時間が10分を切ったことを通知し、おまけに導火線に火がついた爆弾のアニメーションまで添えてきている。

 焦燥を促す嫌がらせだ。クロエは舌打ちして、ついでに壁を殴りつけたかったが近くに壁がないので諦めた。

 イベント会場の楽しそうな雰囲気や音はこれ以上ないほどに現実味を帯びて平和な日常をクロエに感じさせた。

 もしかすると平和な非日常というのが正しいかもしれない。どちらにせよ、今の自分が不幸で危険な非日常に身をおいているのはどうも避けられない事実なのだ――視界の端で導火線の残りが徐々に短くなっていくのをクロエは焦りをもって見つめる。

「えっ、携帯が震えてる?」

 ダンスイベント会場の分厚い音楽の震えに紛れてクロエのコートが振動した。すぐに手に取り確認すると、画面はアコニットからの着信を表示している。

 ロンという狼のアニマノイドを捕まえることが出来たのだろうか? 期待と不安を胸にクロエは急いで着信に応じる。

「アコさん!」

「すみませんクロエ様、しくじりました」

 忌々しそうに、自分を責めるようにアコニットが絞り出すように言う。その声にはどこか苦痛を押し殺すような雰囲気もあった。

「もしかして怪我したの、大丈夫?」

「肩を撃たれました。しばらくは全力で動けず、取り逃しています」

「奴はどこに行ったの?」

「道をまっすぐ……このままいけばダンスイベントの会場に着くはずです。盗んだものを白いバッグに詰めて運んでいます!」

 シーさん! クロエは顔を上げて自分の仲間に呼びかける。電灯の上に位置どっていたシーは「うん」と大きな声で返した。

「奴が来る! 見える!?」

「えっと、たぶんあれだ! あれ、あいつ火を持ってる? 松明みたいな――」

 シーが言い終わる前にそれは起きた。ダンス会場イベントがさらに盛り上がりを見せたのだ。

 いや違う。クロエは目を見張った。これは盛り上がりなんかじゃない。混乱だ。奥の方で黒い煙がごうと立ち上るのを見て見ぬフリができる人間がどこにいようか。おまけに大きな爆発音も連続している。何かに引火して爆発したに違いない。大変なことになったとクロエは恐怖を覚え、一瞬だけ息が出来なかった。

「――あいつ、会場の裏手の方で火をつけた!」

「アコさんは取り逃がしてしまった、だから私たちが頑張らないと!」

「わかった! クロちゃん、アニー、私から離れないで!」

 高いところにいるシーには目標の姿が見えるのだろう。電灯から電灯へ、時にはアトラクションの柱や建物の屋根へと動きながら、彼女の視線は一定の方向に定まっていた。

 アニーの瞬発力が高い。クロエよりも前に出た彼女は、しかし混乱で駆け出した大量の来園客に阻まれ、衝突して転がってしまう。どこかひねってしまったのか、すぐに立ち上がれないようだった。

「いたっ……こんな時に!」

「アニー!」

「いいから行け! あんたも頼りよ!」

 返事の代わりにクロエは駆け出した。普通の道は混乱した客で埋まっていて、考えなしに突っ込めばアニーと同じように動けなくなるかもしれない。

 シーが次々に高いところを飛ぶのがどんどん遠く見えていく。どうにかして追いつかなければ――クロエはあたりを見回して決断的に横に走った。

 

 クロエが駆け込んだのはまだ稼働しているコーヒーカップだ。ダンスイベント会場からはやや離れているからか、人がまだコーヒーカップに乗り込んでいる。

 誰もが例外なく笑顔を失くしてい呆然としたり怯えているのは遠くで燃えているイベント会場のせいだ。もしかすると稼働中のコーヒーカップに乱入する自分のせいも上乗せかもしれない。クロエは動き回転するカップにぶつからないように流れを見ながら駆けるのを止めない。

 鮮やかに塗り上げられた十数のコーヒーカップの間を縫うように走ったクロエは柵を飛び越えると今度はメリーゴーラウンドに飛び込んだ。これもまだ稼働しており、火事でどよめいているところをクロエが乱入してさらに混乱させる。

 後ろで気をつけろバカヤローなどと罵声を浴びるのを聞きながらクロエは走り続ける。息も荒くなってきたが、人が少ないところを選んで進めている。先を行くシーとの距離は縮まりつつあった。

「クロちゃんついてきてるかい!?」

「なんとか!」

「奴はそこッ、その十字路の右よ! 逃げてる人たちに紛れ込んでる!」

 上下する小さな飛行機のアトラクション、その白い飛行機の上でシーが大きく呼びかける。彼女の導きに従うには小さくない群衆の中に突っ込まざるを得ないが、イベント会場の間近で起きた混乱と恐怖に比べればその勢いは衰えている。人だって半分以上は少ない。

 覚悟を決めたクロエは一息吸う。

「そこをどけえ!」

 そう叫ぶが早いか、彼女は流れる群衆の横から突っ込んだ。彼らの進行方向とは逆へと進みながら間近ですれ違いぶつかり合う人々の顔を瞬間的に注意深く見る。

 狼のアニマノイド。シーや先の樹のアニマノイドを見れば、恐らくまるっきり狼の顔や特徴を持った人物に違いない。それだけの特徴があれば一瞬でも見ただけでわかるはずだ。

 それにアニマノイドがいて当然の世界で生きてきた記憶もなければその経験を補うこともしなかった。この世界での生きにくさがこの時だけは都合よく作用するはずだ。

「クソが、ついてねえ」

 恐怖からくる声色ではなかった。近くでそんな声を聞いたクロエは足を止めて周りの観察に集中する。

 狼のような奴。不安や恐怖にのまれていなさそうな奴。どこだ。そんな奴はどこにいる。

 

 本能的な直感。頭に閃きを抱いてクロエは左に飛び出し、その人物を横から抱えて群衆から飛び出す。

「ぐわっ!」

「やっぱりだ、あんたがロンね!?」

 灰色のコートに身を包んだ白い狼男。特徴が一致している。こいつだ、こいつに違いない。

 肩にさげて白いバッグを突然横から突き飛ばされた格好で無様に転げてしまったが、すぐに覆いかぶさっているクロエを押しのけて立ち上がり、駆け出そうとした。

 それは失敗に終わった。近くの観覧車の上から飛び出したシーが勢いを殺すことなく激突し、力強く組み伏せている。

「グワーッ!」

 5メートルはあるであろう高さからの強襲。それをまともに受けてすぐに動ける奴なんているはずがない。そんなクロエの考えは間違っていない。ロンらしい狼のアニマノイドは抵抗する様子を見せない。

「クロちゃん、いまのうちに!」

 シーが叫ぶ前からクロエは立ち上がって駆け出していた。

 かなり不格好な走りだったがこんな状況で彼女はスマートさを求めてなどいない。滑り込むように白いバッグに手を伸ばしたクロエは、倒れ込みながらもバッグを奪ってその勢いのまま遠くに逃れる。

 バッグの中にはいくつかの財布や機械が入っている。どれも元は誰かの所有物に違いない。だがクロエはどれがアニーの財布なのか分からなかった。それらしい高級品がバッグの中にはないのだ。

「クソがっ! テメエ、そこをどきやがれ!」

「どけって言われてどく奴がいるわけないでしょ!」

「だあクソッ、痛えなオイ! ってかお前、シャローンじゃねえか! どうしてこんなところに――」

 クロエは中身を確認するのをやめ、走ってきた道を戻ることにした。ダンスイベント会場の混乱はまだ続いているが、逃げ出す人々の数は目に見えて少なくなっている。行きに比べて戻るのは簡単だった。

 それにしても。ロンらしい狼のアニマノイドはシーと顔見知りなようなことを言っていたが、他人の空似のようだ。シーはシー・タビー・ケーだ。シャローンなんて名前ではない。

 

 そうしてクロエはアニーの元まで駆け戻った。倒れ込んでいたアニーはゆっくり歩いていて、その隣にはアコニットもいた。スーツの右肩が赤く染まっているのは、そこを撃たれてしまったからに違いない。

 だがいまなによりも優先しなくてはならないのは、アニーにどれが目的の財布なのかを確かめてもらうことだ。乱暴にアニーの名を呼んだクロエは白いバッグを投げ渡す。

「これがやつの持ってたバッグ! 盗品が入ってるの、どれがあんたのか探して!」

「えっ、分かったわ……これよ! これがそうよ! クロエ、受け取りなさい!」

 手渡された財布は質素簡潔とした白い折りたたみ型のものだった。入っているカードは富豪が使うような色をしていて、ルンデンのサインも入っている。紙幣もそれなり以上に入っている。間違いなく富豪の財布だ。外見と素材だけが質素なだけで。

 AR眼鏡に映っている時間制限を示す爆弾が残り5分を示した。早くゲームマスターに第二のゲームが終わったことを知らせなくては。クロエは急いで自分の携帯を手に取り、電話帳を開く前に携帯が震えるのを見た。フィルからの着信。つまりゲームマスターからの呼び出しである。

「もしもし、たったいま終わったわ。まだ私の監視をしてるのよね、分かるでしょ、見えるでしょ、ホラ!」

「大丈夫だ。君の監視はずっと続いている。目標を達成したのもきちんと把握した。第二のゲームは成功だ。もう少し遅れていればフィルくんは……ところで」

「え?」

「けが人がふたりいるようだが。このまま第三のゲームを続行させるのは厳しいな。それにあのアニマノイドが余計な騒動を起こしている。ふむ……しばらく休憩時間をとることにしよう」

「ありがたいわね。どのくらい?」

「けが人をどうにかするまでの間だ。だがここでぐずぐずしている暇はないぞ。騒ぎが収まればネクサスの警備の手が入るだろう。この騒動には君たちも関わってしまっている、警備の連中が君たちに目をつける前に撤退するのが良さそうだとは思わんかね?」

 ゲームマスターの言うことは的を射ている。早く東の島から脱出しなければ面倒なことになるのは火を見るより明らかだ。

 それにゲームマスターはまだゲームを続けたがっているらしい。これを断るような真似をすればフィルの命はない。親友を助け出すには一刻も早く抜け出す必要がある。

「言われなくてもわかってる」

「アニーはそこにおいていくのが良いだろう。もともとパーティメンバーでもなし、不審な動きを見せているわけでもなし。足を怪我してしまったのなら無理に連れて行くのにも支障がある」

 確かにそれはもっともな意見だ。だがクロエはその合理的な言葉に眉をひそめる。

 アニーは自分にとって嫌な奴だし、こんな状況でなければ手を組むこともなかった。だがやることやってはいさよならというのも癪にさわる。クロエはためらい、それをわかったようにアニーがクロエの名を叫んだ。

「あんた、私を置いていきなさい。私ならここで大丈夫、無理に連れていく必要もないでしょ」

「だって怪我してるのよ、ほっとけるわけが――」

「いつから仲良くなったと勘違いしているのよ。仲間ヅラしないでちょうだい」

「――人が心配してるってのに!」

 声を荒げたクロエはアコニットの手をつないで津でも動けるようにした。が、しかしクロエは歩みを止めてしまった。アニーが「でも」とうつむいて喋ったからだ。

「でも、なに?」

「正直に言うと楽しかったし、あんたがそれほど悪いやつじゃないってわかった。フィル様が気にかけるのもわかったわ。顔がいいとかそういうことじゃない。これだけ大事に思われて、大嫌いな奴のことも心配して……負けたわ、私」

「勝ち負けの問題じゃないでしょ」

「じゃあ言い方を変えるわ。しばらくひとりにさせて。落ち着いたら電話でもするわ」

 近くのベンチに腰掛けながらアニーはゆっくり手を振った。いつもクロエに向けていた怒りにも似た不機嫌な表情は失せている。どこか吹っ切れたような笑みが浮かんでいるのをクロエは見た。

「わかった、それなら行ってくる。アコさん、動ける?」

「大丈夫です。混乱に乗じて逃げ出しましょう。ところでシーはどこに?」

「向こうで狼のアニマノイドと戦ってる。シーの方が有利っぽいけど、逃げる前に先にそっちに行かなきゃ。アニー、あとでちゃんと連絡をよこしなさいよ!」

 辺りに逃げ惑う人々は両手で数えるくらいになっている。アニーと同じように怪我をして動けない来園客もそれなりにいる。これ以上立ち止まっていたらゲームの続行が難しくなる。

 クロエは前に駆け出した。アコニットがそれに続いているのを確認して、また前を向く。

 アニーと仲直りしたわけではない。でも次に会うときは少し余裕を持って、落ち着いて喋られるんじゃないか――たぶんそれは良いことだとクロエは思う。問題は共通の話題を持っていないであろうことだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 第二のゲーム攻略完了、第三のゲームまで休憩時間

 ネクサス従業員専用地下道。車4台は楽に通れるほどに幅広の、薄いオレンジの照明に照らされた道をシーが駆けている。オレンジの尻尾を揺らしながら彼女は手押し車に大きな木箱を載せ、東の島からセントラルへと戻ろうとしていた。

 箱の中にはクロエとアコニットが潜んでいる。時折がたごとと揺れるのが居心地を悪くしていたが文句を言うつもりはない。あの混雑と混乱を極めた状況で一番早く東の島を脱出するにはこの方法しかないからだ。

 

 シーと合流したクロエは、すでにシーがロンをぶち倒したあとだったのを認めた。両手の爪で派手に引っ掻いたらしく、ロンの白い毛に覆われた顔は赤いひっかき傷をいくつも浮かばせていた。

 怪我をしたアコニットを連れて逃げ出そうにも、地下鉄も船も大量の来園客が押し寄せてすぐに乗り込めそうにないのは明白だった。だが肩から血を流すアコニットが警備員に見つかれば事情聴取やらで拘束されるのは間違いない。そしてクロエたちは秩序や治安を守ろうとする側の者たちに抑えられるわけにはいかない状況下にあり続けている。

 そこでシーが従業員専用地下道を使うことを提案したのだった。そこにある手押し車や道具を使えば、従業員ではないクロエとアコニットを隠して移動ができる。力説するシーにクロエもアコニットも異を唱えなかった。

 

 シーも従業員ではないが、姉が従業員なのでこの道を知っていたということにすれば良い――やや強引だが手段は選べない。真っ暗な木箱の中でクロエはアコニットを気遣った。

 アコニットはガーデンの一員として、クロエの友人としてフィルを助け出そうとしてくれている。そのおかげでまだフィルの命は繋がれているが、肩を撃たれてしまった。

 なのに弱音を吐くこともなく耐え続けている。強靭な精神力。とんでもない人物が味方にいるのだとクロエは思った。

 

 

 

 AR眼鏡がなければどれだけの時間が経ったかわからないだろう。クロエは木箱に隠れてから5分が経ったのを懐中時計めいて確かめ、暗視スコープのように視界を確保してくれるAR眼鏡を頼りにアコニットの様子を伺う。

 時間が経ったからか、アコニットの応急処置が優れていたからか、木箱に入る前に比べてアコニットの様子は落ち着いてきているようだった。きちんとした場所で治療を受ければ完治は間違いないはずだ。クロエはほっと息をつき、ほぼ同時に木箱がノックされた。

 打ち合わせ通りなら、シーが無事に半島に建てられた巨大な区画「セントラル」に到着したことになる。そして木箱のフタを外してもらえるはずだ。

「クロちゃん着いたよ! アコニットさんはどう、大丈夫そう?」

「平気です。だいぶ治りました」

 シーが重そうに木箱をどけるのをアコニットが手伝う。クロエも加わってあっさりとフタが外れ、3人は同じ場所の空気を吸う。

 そこは倉庫のような薄暗い場所だった。シーはエレベータの前まで台車を運んでいたらしく、少し疲れたように息を大きくしていた。

「ねえシー、これで地上に上がれるの?」

「そう。これ、キャッスルに通じているんだ」

 セントラルに位置するホテル兼超複合型娯楽施設。城のような外観から「キャッスル」と名付けられた施設の地下にいるのだとクロエは理解し、すぐにある閃きを抱いた。

「そういえば私、キャッスルのホテルで予約をとってるんだ」

「え? いきなりなんの……ああそっか、本当ならフィルくんと一緒に遊んでるはずだもの、宿だってとるに決まってるか」

「確か1306号室を予約してるはずなんだ。そこにアコニットさんを運んで安静にできないかな」

 ゲームマスターは「けが人をどうにかするまで休憩時間とする」と言っていた。けが人は足を怪我したアニーと肩を撃たれたアコニットの2人があてはまる。

 アニーは東の島に置いていったが、アコニットはまだ完全に処置が終わったわけではない。クロエはすぐに携帯電話を取り出し、フィルの携帯電話の番号に発信する。

「もしもし? いまの話を聞いていたはずよね?」

「ああ。もともと君が予約していた部屋でパーティメンバーを休ませようというのだろう」

 機械的に歪められた声はクロエの考えていることをなにもかも分かっているようだった。思わずため息をついたクロエは、乗り込んだエレベータの閉ボタンを押して上を目指す。

「わかってるなら話が早いわ。要求することはただひとつよ。アコニットさんが怪我してる。だいぶ回復してるといっても銃で撃たれたのよ、もっと回復に時間が必要だわ。ちゃんとした治療を受ける時間が」

「つまり? なにが言いたいのだね」

「次からのゲームにアコニットさんを参加させたくない。私とフィーが予約していた部屋で休ませる。だから次からのゲームは2人パーティで進めさせて。そのくらいの融通は効かせてくれてもいいと思うけど」

「……わかった。君の提案を飲むとしよう。次のゲームはクロエ・ブルームとシー・タビー・ケーの2名で進めることを認めよう」

「次のゲームはって……」

「なにか勘違いしているらしいが、この一連のゲームは次で終わりの予定だ。なにか文句があるというのかね? 君の部屋は1306号室らしいな、あとでそこに医療チームを送り込もう」

「次が最後って言ったわね。予定が確約になれば良いのだけど。ああそうだ、アコニットさんになにかしたらただじゃおかな――」

 そこまで言いかけてクロエは口を閉じる。

 エレベータが目的の階で止まり、ドアが開く。シーとアコニットの間を歩くクロエは深呼吸して再び口を開いた。

「――ゲームの進行についてだけは信用してもいいのよね」

「もちろんだ」

「それならアコニットさんをお願いするわ。でも万が一のことがあれば……その時は覚悟しておいて」

「言うことはそれだけかね。ならば後でこちらから連絡をしよう。しばらくは君も休むといい」

 ゲームマスターの側から電話が切られる。携帯電話をコートのポケットにしまったクロエはホテルのロビーへとたどり着いた。ここでチェックインの手続きをとればアコニットを休ませられる。ある種の一区切りがつきそうなことに彼女は安堵の息をついた。

 

 

 

 ホテルの部屋の鍵を受け取ったクロエはあたりの騒ぎからある程度のいきさつを知った。

 東の島のダンスイベント会場で起きた爆発。それを起こしたのが狼のアニマノイドらしいという情報はすでに広まっている。その狼のアニマノイド、ロンは、シーに倒されていたはずだ。だが捕まったという話は出ていない。

 撤退を優先させてロンを放置したのだった。その判断を下したクロエは額に一筋の汗が流れるのを拭った。もし再び出会うことがあれば衝突は避けられない。シーの不意打ちも期待できないだろう。

 だが待て。ネクサスにはどれだけの客がいると思っているんだ。それにこの遊園地は広い。どうやってもまた出くわす可能性のほうが低いに決まっている。考え直したクロエはそれでも緊張を緩めることなく1306号室の鍵を開けてドアを開けた。

 

 どこか柔らかな雰囲気。白い壁。城の形をしたホテルの上よりの階から見る景色は圧巻だ。円形に広がるキャッスルの内周はよく飾られ、壁には複雑な模様やライトが照らされ続けている。避難経路も窓を開けてはしごを降りればキャッスルの下の階の屋上に出られるようだ。

 あたたかな赤い絨毯に出迎えられたクロエはアコニットに2つのベッドを指さしてみせる。黒いスーツの右肩あたりが妙にどす黒く染まった女と、来園客を穏やかに迎えるような印象の部屋。写真をとるには相性が悪そうだがそんなのが目的じゃない。

 クロエはこれで一段落ついたと息をついて、もうひとつのベッドに倒れ込んだ。ベッドの横には彼女のバッグがある。旅行前に荷物をネクサスに送り、予約していた部屋に置いてもらうサービスを利用していたのだ。こんなことになったのは不幸だが、そんな不幸の中で自分の荷物を動かしてもらうサービスは輝いて見えた。

「クロちゃん、隣いい?」

「うん……なんかすごく疲れたね、シー」

「そりゃもう6時間くらい動いてるんだよ。ちょっと休憩は挟んでたかもだけど、しばらくこういうとこでゆっくりしなきゃ。ところでアコさん、怪我の具合は?」

 ほとんど回復しています。落ち着いた様子でアコニットが返す。静かにスーツを脱ぎ、ホテルのクローゼットに仕舞われていた薄青の部屋着に着替えていた。

 スーツ姿に比べればきれいな白い肌が大きくあらわれて開放的だとクロエは思ったが、右肩に巻いた包帯が赤く染まっているのが痛々しい。

「クロエ様、そんな顔をしないでください。私は大丈夫ですから。それに全く動けないわけでも、戦えないわけでもありません。もし奴らが暴力に訴えることがあれば、私が返り討ちにします。だから安心して最後のゲームに取りかかってください」

 穏やかな調子で語りかけながらアコニットは錠剤を飲み干した。鎮痛剤かなにかだろう。あたりをつけたクロエはゆっくりと体を起こしながら黒コートを脱ぐ。そのままセーターも脱ぎながら自分の荷物に手を伸ばした。

「……? シー、どうしたの?」

「きれいな体してると思ってさ。それで見てたの」

「なによそれ! ちょっと恥ずかしいな……」

 バッグから取り出した服に着替えるクロエは少し楽しそうに笑っていた。こんな状況でも緊張をほぐそうとして楽しげな言葉を投げかけてくれる。

 そもそも。駅の喫茶店の裏側で抑えきれずに暴露してもシーは嫌な顔ひとつせずに協力してくれた。今日が初対面なのにも関わらずだ。底抜けに良い人なのだ――シーに感謝の言葉を心の中で呟いたクロエは、しかしあることを疑問に思ってしまった。

「クロちゃんって服のセンス良いよね。ユニセックスな感じのものが好きなんだ? コートだって丈が長いしね」

「フィーの趣味がうつったの。なんていうか、どっちかっていうと中性よりな女の子ぽくってさ。かっこいいよりかわいい感じ」

「これが終わったら紹介してよ。一回見てみたいな、気になるなあ」

 着替えた白い服を見てシーが納得したようにうなずく。厚手の生地の、オーバーサイズな服だ。よほどのスタイルの持ち主でなければ体の線を浮かばせるなど出来ない。

 その上に黒いコートを着てクロエはいつでも出発できるように準備を進める。そこでクロエは携帯電話に新着メールが一通届いているのを見た。アニーからのメールでタイトルは「返信不要」とだけあった。

 

「クロエへ。いま私はキャッスルにある医療室にいる。怪我した足は湿布を貼って、ベッドの上で横になってろと言われてる。

 フィル様のことはあんたとシーさんとアコニットさんに任せる。あんたがリーダーみたいなものなんでしょ、しっかりやってあのふざけた奴らをギャフンと言わせてやりなさい。それと、やる気が出るお話のひとつでもしようかと思ったの。少し長くなるわ。

 

 あの財布を見た? お嬢様の財布にしてはやけに質素だとか思ったんじゃない? 実際そのとおりで、あれは高級なブランドのものではないわ。

 この私がなんでそんなものを使っていたか分かる? それはフィル様が私にプレゼントしてくださったものだからよ。

 前から学校で優しすぎる男子生徒として有名で私もそう思っていた。その時はいまみたいに憧れがあったわけじゃない。でも私が財布を盗まれて困っていた次の日に、フィル様は人のいい笑顔であの財布を譲ってくれたの。

 これまでの私の人付き合いでそんなことはなかった。私のそばにいればいい思いができるとか、機嫌を取れば傷つかずにすむとか、そういう奴らばっかりだった。私も気分は悪くはなかったしそういうお嬢様として生きていたけど、でもフィル様は例外だった。

 例外というのならあんたもそうね。あんたと初めて会ったときのこと、覚えてる? 私は謝るつもりなんてこれっぽっちもない。でも、あんたと一緒にふざけたゲームをやって、見直したのよ。フィル様があんたを大事に思っているらしいのは知ってた。そうされるだけの理由があんたにはある。だから、絶対にフィル様を取り返しなさい。できなかったら承知しないわよ」

 

 困ったような顔してるね。メールを読むクロエの顔を見てシーが小さく笑う。

「笑ってるつもりなんだけどね」

「でもアニーちゃん、やっぱり良い人だったね。全くの善人ってわけじゃないんだろうけど、クロちゃんも見る目変わったんじゃない?」

「そうかも。もうそろそろ行こうか」

「いつでも行けるけど……ゲームマスターからの連絡が来るまで出かけなくても良いんじゃない?」

 もう少し休むのを勧めるように声をかけたシーに、クロエはもう行こうとだけ返して一気に言葉を続けることにした。さっき抱いた疑念をぶつけてみようと思ったのだ。

「そういえば気になったことがあるんだ。シーのことについてなんだけど」

「ん?」

「どうしてシーは……いや、私が強引についてこさせてしまったけどさ、ここまで前向きに協力してくれたじゃない。それはどうしてなんだろうって」

「人助けをするのに理由は必要なの?」

「悪いけど私なら、私なら欲しいわ。いまフィーを取り返そうってワケのわかんないゲームに取り組んでいるのはフィーに死んでほしくないからよ。でもシーにとってはそこまでたいせつな人じゃない……まるっきり赤の他人でしょう?」

「言われてみればそうだね。確かにフィルくんとは話したこともなければ顔を見たこともない。でも見捨てればフィルくんは死んでしまうでしょ? 私じゃなかったらそんなの知らないって言うかもしれないし、いたずらだってつっぱねて見殺しにしたかもしれない。……そういう、後味が悪くなりそうなこと、やりたくないんだ」

「そっか、シーが良い人で本当に良かった。ありがとう」

 悲しそうなシーの声にクロエは後悔した。これは踏み入ってはならない領域の話だったかもしれない。シーの過去には秘密にしたいなにかがあるのかもしれない。

 

 不意をつくようにAR眼鏡がウィンドウを投影した。

「第三のゲームを開始しますか? イエスなら左の、まだ休むなら右のウィンドウに触れてください」

 ゲームマスターからのメッセージだろう。自分にしか見えていない連絡にクロエは左のウィンドウに触れて答えた。回答を送信。受託――機械的なメッセージが視界に投影されるのを眺めながら、クロエはシーとアコニットに出発することを伝えた。

「いってらっしゃいませクロエ様。どうかご無事で。シーも気をつけて、クロエ様を頼みます」

「まかせて! さあクロちゃん、最後のゲームだ! がんばろう!」

 大きく頷き返し、行ってきますと声を張るクロエ。部屋のドアを開け、下へ続くエレベータに乗り込むと、AR眼鏡が長いメッセージを表示し始めた。

 

「ゲームマスターからのメッセージを表示。投影ウィンドウのスワイプでスクロールが可能です。

 

 次の第三ゲームが最終ゲームとなる。制限時間は22時。ネクサスが閉園するまでだ。それまでの間に課すゲームの内容は「ノーム」を見つけ出すことだ。

 ノームはネクサスにいるアニマノイドで、レアキャラクターだ。パンフレットにも記載されているが、遭遇すること自体が幸運であるという。毎日数万人単位で来園客がいるのに発見件数は片手で数えられるほどもない。

 ゲームのクリア条件はノームを発見し、写真をとること。達成条件はシンプルだが難易度を高くした。難しいだろうが、クロエ・ブルーム、君ならば達成できるはずだ。君はひとりではない。ノームはネクサス従業員で、君の仲間にはネクサス従業員の妹のアニマノイドがいる。打てる手を尽くして最後のゲームに臨むが良い。幸運を祈る」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十一話 第三のゲーム「小人(ノーム)探し」(前)

 

 エレベータから降りた頃には読み終わっていた。簡潔に要点だけ説明したクロエは、シーが「それならさ」と提案するのを聞きながらホテルのエントランスを出口目指して歩いていく。

「たぶん力になれると思う。一緒に北の島に行こう」

「北の島? それって、ここで働いている人たちが住んでるってところじゃなかった?」

「お姉ちゃんに手伝ってもらうの。大丈夫、こっちの事情はわからないようにするから」

「んー、分かった。頼りにするよ」

 まかせて! 人が多いなかでシーは声を張った。周りの人々が驚いたようにシーを見るがクロエは気にしない。肝心のことが発覚しなければいい。自分たちが誘拐事件を秘密裏に解決しようとしていることさえバレなければそれでいいのだ。

 

 

 

「キャッスル」のホテル部からまっすぐ北に行けば、セントラルと北の島をつなぐ大きな橋に出る。東の島や西の島への移動手段である地下鉄や船もあるが、こうした橋は北の島との接続にしか用意されていない。

 パンフレットの地図通りに動けたクロエたちは「プリズム大橋」と名付けられたその橋を歩くことにした。歩くに連れて人は少なくなっている。それも当然だとクロエは思った。

 

 東の島のダンスイベント会場で起きた事故。それが来園客の不安を煽っている。ここまで歩く中で立ち話に興じる人々の姿と声が物語っていた。

 ロンが逃げ出す時に爆発物を使ったのが事故の真相だが、それすら知られている様子がない。原因不明の爆発事故――来園客があまり活発に出歩かなくなったのは日暮れが近いだけではなかった。

 午後4時。冬の季節、すでに太陽は沈み始めている。華美な装飾が施されたプリズム大橋の電灯が辺りを照らし、降り積もる雪の量も朝に比べて増えていた。

 暗く寒い環境の中で「ノーム」なるアニマノイドを探して歩き回るのは確かに賢い選択とは言えないかもしれない、とクロエは思う。他に方法がないのなら自分の足で見て回るしかないが、そういう意味でもシーと彼女の姉を頼るのはとても良いことのはずだ。

 少しずつ肌を刺していくような寒さにクロエは顔をしかめつつ、前を歩くシーの後ろ姿を見てあることが気になりつつあった。

「ねえ、シーってあのロンというやつと知り合いだったの?」

「え!? なんでそんなこと思ったの?」

「ロンが言ってたでしょ、ほら、『シャローンじゃねえか』って。なに言ってるんだろうと思ったし、そんなの気にしてられない状況だったけどさ。でも、考えてみたらおかしいんだ。あんだけ近い距離で知り合いの顔と名前を間違える? 私なら間違えない」

「クロちゃん……それはいま話さないとダメかな」

「いますぐじゃなくても良い。でも気になることなんだ」

「……そうだね、気になることがあったらノーム探しも集中しにくいか。それなら私の家で話していいかな? 立ち話できることじゃないからさ」

 橋を渡り終えてシーが右手を東に伸ばす。橋の向こう、北の島には「ふつうの住宅」が立ち並んでいる。

 本来なら豊かな自然が過ごしやすそうな景観を作っているのだろうが、幅広の道に植えられた木々の枝は雪をのせてしなだれている――白と赤の石畳を歩くクロエはこの場所の美しさに感心したが、それだけだった。やはり隣にフィルがいなければ素直に喜ぶなどできやしない。

 

 

 

 橋を渡って東に5分歩いたところにシーの家がある。

 小さな1階建ての、雪かぶりの赤い屋根が街灯に照らされた家だ。壁や雰囲気に汚れが見えないことからクロエはきっと新築なのだろうとあたりをつける。

 小さな畑を備えた庭には白いテーブルと椅子が用意されている。休日には姉と一緒にバーベキューでもやるのかもしれない。そんなことを考えたクロエはぐうぅと自分の腹を鳴らしてしまう。

「おなか空いたんでしょ」

「まあ……うん」

「そんなに恥ずかしがらないでもいいのに。クロちゃん、カレーライスって好き?」

「うん」

「お姉ちゃんが晩ごはんをそれにしようって言ってたんだ。一緒に食べようよ」

 楽しげに笑うシーは玄関のドアに備えられた黒いパネルにそっと触れる。指紋認証。ピッと小気味よい電子音が響き、ただいまと元気にシーが叫んだ。

「あの、お邪魔します!」

「おかえり。で、その子は? 誰、お客さん?」

 人の良い笑顔で出迎えたのは白いセーターにロングスカートの、黒いエプロンをつけた猫のアニマノイドだった。オレンジ色の髪と尻尾。シーと同じ特徴だ――クロエはすぐにその特徴を見抜き、頷いてから口を開く。

「はい。クロエといいます、シーとは友人で……あなたがシーのお姉さんですか?」

「そうさね。私はヒュー。ヒュー・タビー・ケー。いま晩メシ作ってんだ、カレーライスなんだけど、食べてくかい?」

「ありがとうございます。ごちそうになります」

「そんなに他人行儀じゃなくてもいいよ。シー、案内してやんな」

 分かってるって。クロエに接するよりもくだけた調子でシーが返した頃には、ヒューはもうキッチンへと戻っていた。

「じゃあこっち。例の話をするなら私の部屋が良いかな。廊下の角を左に曲がったら、左にある部屋が私の部屋なんだ」

「わかった」

「でも話をする前にお姉ちゃんに相談してくる。ノームを探すのを協力してほしいってね。大丈夫、フィルくんのことは絶対に喋らない」

「うん。任せたよ、シー」

 しっかりと頷き返したシーは「お姉ちゃんさあ」と声を張ってキッチンに向かう。その背中を見送ったクロエは言われたとおりに進み、薄黄色と白の壁紙の部屋にたどり着いた。

「これがシーの部屋か……」

 質素な白いベッド、緑の敷物、小さなタンス。生活感のある家具を眺めつつ照明をつけたクロエはシーの声が聞こえないか耳をすませる。

 だが壁がぶ厚いのかシーの声はなにも聞こえない。ため息をついたクロエはそこで目がくらむのを覚えた。これまで小休止はあった。でもじっくり休むことはなかった――

 休むのならアコニットをホテルの部屋に運ぶ時にしたはずだったのに。仰向けに寝転がったクロエはゆっくり目をつむる。

 緑の敷物の温かみに背中が癒やされるのを感じ、静かに息をつく。体の芯からじんわり疲れと眠気がしみ出ていく。心地よい休息。許されるのならこのまま深い眠りに沈みたい。

 

 

 

 だがクロエはフィルのことを考えて必要以上に癒やされるのを拒むように唸った。

 重い体をひねって起き上がり大きく深呼吸。自覚していなかった疲れはいくらかとれたはずだ。大丈夫だ。ここで休めたのだからフィルを助け出せる。必ず。

「おまたせクロちゃん。ほら、お水持ってきたよ」

 ノックして入ってきたシーはお盆に2つのコップを載せていた。小さなテーブルにこれを置き、シーが先に一気に飲み干して晴れるような笑顔を輝かせる。

「どうしたの?」

「お姉ちゃんを説得できた。前に作ってた貸しのこととかチラつかせてさ! ご飯作り終わったら、お姉ちゃんのコネで調べてくれるって」

「ホントに!? すごい、やったわね!」

「クロちゃんの役に立ててよかった。これでフィルくんもきっと大丈夫」

「でも従業員のコネがあっても分かるものなの?」

「たぶん大丈夫だよ。私たちが――というよりはお姉ちゃんか。従業員がここでこうして暮らせているようにノームもネクサスで生活しているんだ。どこでどんな生活をしているかを知っている人が少ないってだけでさ」

「従業員でも知っている人が少ないってどういうこと?」

「だってスタッフに聞いてすぐに答えがわかったら『レアキャラ探し』なんてコンテンツは成立しないじゃない。そうなる可能性を減らしていこうって考えよ」

 なるほどね――納得したように返しながら、クロエはシーが決して楽観視している態度をとっているわけではないことを認めた。緊張しているようにオレンジの髪と尻尾が逆立ちをしている。

 きっと橋の上でしていた話のことを考えているのだ。シーが口を開くのをクロエは待つことにして、そっとコップに手を伸ばす。

「ねえクロちゃん。さっき言ってたことなんだけど」

「ああ、うん」

「その……あの狼のアニマノイド。ロンってやつ。あいつと知り合いなんじゃないかってクロちゃん言ってたよね。あれは正解なんだ」

「いつからの知り合いなの?」

 他にも聞きたいことはあった。その中で一番気になることをクロエは口にする。

 なにを言おうとも嫌な気持ちにならないようにしよう。シーは自分の大の恩人で、頼れる友人なのだから――そんな覚悟を決めたクロエはシーが語るのをじっと待つ。

「もう10年も前の話……そうそう、クロちゃんは第二大陸がどんなところか知ってる?」

「人から聞いた話だけど、あまり治安が良くない場所だって」

「実際そうなんだ。農業とかが主な産業だけど、ホントはあまり豊かじゃなくてね。私とお姉ちゃんは第二大陸で産まれて育って……その、恥ずかしい話だけど、結構悪いこととかして暮らしを成り立たせていたんだ。カツアゲだとか盗みだとかね」

 いまのシーの印象からは遠く離れたことのように思ったクロエは、それをしなければ生きられない生活を想像できなかった。

「ロンとはその時の知り合いというか、悪事を働く時の仲間でね。私も私でシャローンなんて偽名を使ってたの」

「そうだったの……なるほどね」

「クロちゃん。ごめん、ガッカリさせるような話だったでしょう」

 申し訳なさそうにシーは目を伏せている。逆立っていた髪もシュンとしなだれていた。

 意外と言えば意外、驚いたと言えば驚いた。だがクロエにはシーを責める気も怒る気もない。話しにくいことを語ってくれたことに好意的ですらあった。だから「ありがとう」と口から出たのだった。

「え?」

「シーのこと、もっとよく知れて良かった。確かに悪いことしたのは悪いし、簡単に許されちゃダメだと思うけど。でも、これで私を助けてくれる理由が分かった気がするよ」

 涙を流してシーはうつむきながら頷く。それを見たクロエはこれ以上言葉を紡ぐのをやめることにした。

 きっと過去に犯したことをシーは悔いているのだ。責めるのはもう誰かがしたことなのだ。反省して、家族と一緒にまっとうに生きようとして、いまを生きている。それで十分だ――心からクロエはそう思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 第三のゲーム「小人(ノーム)探し」(中)

 シーの家でたいらげたカレーライスは、クロエがこれまで食べたものとは趣が違っていた。独特のスパイスが効いたカレーが鼻の奥を熱くくすぐり、気持ちよく食欲をそそるものだった。

 だからクロエは心から「ごちそうさまでした、美味しかったです」と言えた。そんなカレーを作ったヒューも嬉しそうに「どういたしまして」と返している。

「それじゃあ私はノームのことを聞いてみるよ。クロエっていったっけ?」

「はい」

「なんでノームを? いや、調べるには調べるし、そうしないとシーのやつが……なんていうか、私の立場がヤバいから調べなきゃならないんだけどさ」

「私の大切な人のためです」

 詳細を語らなければゲームオーバーにはならない。確信を抱きながらクロエははっきりと答えた。

 これ以上は喋る気はないという意志の表れでもある。それを汲み取ってくれたのか、ヒューは納得したように何度も頷く。

「そういうことなら任せきな」

「ありがとうございます」

「閉園時間までにノームに会いたいんだろ? ちょっと時間がかかるが、それまでにはなんとか居場所くらい絞ってやるさ」

 にっこり笑うヒュー。優しそうな顔立ちをしている妹のシーとは違ってどこか豪快さを感じさせる印象をクロエは受け取った。

「シーと仲良くしてくれてありがとうな。それじゃあちょっとアテをあたってくる、待っててくれな」

「よろしくお願いします!」

 頭を下げたクロエは、自分が気品ある所作で動けていることを願った。途方もなく成し遂げるのが困難に思えていたことを託すのなら、相応の態度をとらなければならない。

 シーが呼ぶ声で頭を上げる。見ればシーはリモコンを持って椅子に座り、テレビを見ようと電源ボタンを何度も押しているらしかった。

「どうしたの?」

「いや、なんか、リモコンの調子が悪くてさ」

「電池が切れたんじゃないかな」

「昨日交換して切れるなんてことあると思う?」

「それならリモコン自体がイカれちゃったんじゃない」

「クロちゃん、ちょっと触ってみてよ」

 差し出されたリモコンを受け取ったクロエは、AR眼鏡がひとりでに「スキャン中」とウィンドウを投影させていることに気づいた。

 この機械の眼鏡はいったい何時、どこでアップデートを繰り返しているのだろう? ゲームマスター側の人間が密かに手を回しているのだろうか。一般家庭のリモコンをどうにかするためだけに?

 AR眼鏡が「スキャン完了・当デバイスに障害は検知されませんでした」と表示するのを一瞥したクロエは、そんな考えをバカバカしいと笑い捨てて電源ボタンを押す。するとテレビが鮮やかな光を発し始める。

 古めかしい線路と機関車を舞台に屈強な男たちが銃撃戦をしている。古い映画を放送しているのだ――過去にフィルと一緒にそれを見た記憶が浮かび、あぁこれか、とクロエは呟いた。

「やっぱりクロちゃんはすごいね」

「すごいって、これたまたまよ。電池の接触が悪かったんじゃない?」

「そうかなあ……その、例の連中から渡されたっていう機械の眼鏡も使いこなしているし、機械に強いんだよ、きっと」

「自覚はないけど、うん、ありがとう」

「ところでクロちゃん。ちょっと変な話をするけどさ、いいかな」

 真剣な表情だ。思わずクロエはしっかりと頷き返してしまう。

 変な話とは言うが大事な話に違いない。シーが問いかけるのをじっと待つ。

「クロちゃんは記憶喪失で、ずっと第九大陸にいた。だからアニマノイドを見るのは今日が初めてだった。だよね?」

「ああうん、そうそう」

「アニマノイドがどういうものかって知ってる? どこでどうやって知ったのかも聞きたいんだけど」

「えっと……メーベルの屋敷でフィーから教えてもらった。万物に宿る魂が人の形をとったんだとか、動植物が人の形をとって生きているとか、そんな感じの。実物を見るのは今日が初めてだけど、どういうのがいるのかってのはテレビとか雑誌とか、それで見た。ねえシー、こんなこと聞いてどうしたの?」

 たまらずクロエは聞き返した。質問の意図が見えてこないことに苛立ちを覚えたのか、なんてことないような話を深刻そうに話すのが気に入らないのか、自分でもわからない。だが確かなことは、シーがこれを真剣に捉えていることだけだ――クロエは黙って言葉を待つ。

「えっと、上手く言えないんだけどさ。クロちゃんはアニマノイドをどう思ってる?」

「どう思ってるってどういうこと?」

「そのまんまの意味。なに言っても怒らないし、教えてくれないかな」

「怒るようなことは思ってないし考えてもいないけど……そうね、普通の人間と変わらないんだって思った」

 もっと詳しく聞かせて。真面目な調子でシーが言う。おちゃらけた感じのない目つきをクロエはしっかりと見つめた。

「正直なところ私は人付き合いが得意な方じゃないし、記憶だって1年分しかない。だから人と接した経験が多いわけじゃない。それでも人間は良い人ばかりでも悪い奴ばかりでもないって分かってるつもり」

「うん」

「実際、シーはとんでもなく良い人だし、悪いことから足を洗えないでいるロンみたいな悪い奴もいる。ね、そういうところには共通していると思うんだ。それに今日知り合ったばかりだけどさ、シーはとても表情が豊かっていうか、なんていうかさ」

「え?」

「自覚があるかどうか分からないけど、いつも楽しそうな感じだし。かと思ったら深刻そうに眉をひそめたり、怒ってみせたり。表情筋がすごいんだなって、そう思った。一緒にいてとても楽しい人だなって」

「そっか……ありがとう。変なことを聞いたね」

 噛みしめるようにシーは言う。褒められなれていないのかどこか顔が赤らんでいる。そんな仕草を見て、クロエはやはり「人間とアニマノイドに差異はない」と強く考えた。

 

 しばらくテレビを見てクロエとシーは談笑していた。テレビはチャンネルを変えていないので映画がまだ続いている。

 映画は中盤に足を踏み入れ、主人公のタフな中年が撃たれた右肩をヒロインに治療してもらう場面だ。弾は貫通したから問題ないと言い張る主人公の姿を見たフィルが「アコニットも同じことを言いそうだよね」なんて笑いながら語りかけたのはいまでも鮮明に思い出せる。

「そういえばさ、クロちゃん」

「うん」

「フィルくんとはどんな感じの仲だったの? というか、クロちゃんは彼を好きだったりするわけ?」

「えっと……好きってどういう意味でかしら」

「そりゃもちろん男の人としてとかさあ」

 緊張をほぐそうとしてこんな話を振っているのだろうとクロエは思った。

 急に顔が熱く感じるのはさっきまで食べていたカレーライスのせいだけではない。フィルを異性として意識する――今までそう考えたことはそうそうなかった。

「なんか顔赤いけど!」

「そんなことないよ」

「だったらどうして顔が赤くなってるのさ」

「だって変なこと考えさせるようなこと言うんだもの」

「別にそんなに変じゃないと思うけどな。義理の兄弟なんだし。でも親友って気持ちのほうが強いのかな?」

「正直……正直に言うとさ、その、ほら、監視されてるわけだし。これが終わったら話すよ。絶対に」

 えぇ、とシーは不満げな声を上げた。何の文句があるのだろうとクロエは覗き込むように視線を投げると、シーは小さく口を開く。

「私だって奴らの監視を受けながら喋ったのに」

「さっきの話のこと? あっ、そうか、ごめん」

「わっと! そんなにマジで謝らないで、そんなに気にしているとかじゃないからさ」

 どうやら自分の反応は大げさだったらしい。シーが振った話題のせいで興奮しているのかもしれないな、と反省しながらクロエは誰かが部屋に入ってくるのを認めた。

「ヒューさん! どうでしたか?」

「なんとか絞り込めた。なんでもやってみないとわからんものだね、君には悪いけどダメだと思ってたよ」

 本来なら客に教えてはならない情報を教えてほしいと頼ったのはクロエの側だった。ヒューは首を横に振る役割の人間のはずだが、シーのおかげで最初の一歩が踏み出せている。弱みを握っているとかそういう人間関係がこの成功を導いているに違いない。

 それならば――クロエは思う。全部が解決したら人間関係を広めよう。人付き合いはどちらかと言えば苦手だが、出来るところから少しずつ進めればいい。

 利用するだけじゃない。いつかヒューとシーに恩返しができればいいなと思うように、誰かに助けられたら助けたくなるのが人情だ。それが道理だ。もしかしたらフィルはすでに似たような生き方をしているのかもしれない。

「お姉ちゃん。ノームはどこにいるって?」

「もう自分の家にいるってさ。今日はそこから出歩いてないって聞いてる」

「確かここにいるんだよね。他の従業員と同じようにさ」

「東の島のどこかにいるはずだ。それと……ゴメン、名前、なんていったっけ?」

 野性味の強い視線を向けられるクロエ。一瞬遅れて問いかけの意味を理解して、ひとつ間をおいて頷き返す。

「クロエです。クロエ・ブルーム」

「そうそう、クロエちゃん。ノームの発見情報もまとめておいた。このパンフレットを使ってくれ」

 手渡されたのは入園時に手にしたパンフレットと同じように見えた。だがすぐにクロエは違いに気づく。カラフルな付箋がいくつかついているのと、ネクサスの地図が印刷されているところに赤い丸がいくつも描かれているのだ。

「来園客とかの目撃情報をまとめて描いてみた。この赤い丸が目撃場所、小さく日付と時間も添えた」

「これまで5件しか目撃情報がないってこと?」

「少なくとも公式に上がっているのが5件てこと。ネクサス側に見たって言えば、こっちで調査して裏とって本当だったらご褒美をあげるって仕組みなんだよ」

 クロエは納得したように頷き、もらったパンフレットに視線を落とす。パンフレットの付箋のついたページには、ネクサス側が提示している「小人(ノーム)探し」というコンテンツの概要が掲載されている。

 それなりの証拠をもって報告すると豪華景品が当たるらしい。なるほど、商品券だろうか――謎のベールに包まれた景品は、しかしクロエにとっては大切な親友の命なのだ。

「非公式な目撃情報もあるかもね。ネットの掲示板とかさ」

「確かに。景品目当てにネット上でグループを組んでいる人もいるかも」

「そういう非公式な情報もまとめようかと思ったけど……情報をまとめるのに時間が圧倒的に足りない。もう18時も近いし、閉園までの時間も迫ってる。そう簡単に探し出せる相手じゃないってのは分かるでしょ?」

 そりゃそうだ。クロエはゆっくり頷く。ここが開園して何年も経っているのに、公式に認められた発見報告がたったの5件しかない。情報をまとめてもらったとはいえ、探し出すのは困難を極めるだろう。

「でもやります。やるしかないんです」

「相当な覚悟って感じだな……分かった、こいつを持っていきな」

 隣の部屋からおおきな懐中電灯を持ち出したヒューは「使い方はわかるか?」と問いかける。メーベルの屋敷では非常時にしか使われなかった道具だが、クロエは何度か見かけたことがあった。

「スイッチを押すと明かりがつく、ですよね」

「ああ。電池は交換済みだから、一日中つけっぱでもビガっと照らしてくれるさ。もう外も暗いからな、足元暗かったら転んで怪我してしまう」

「気遣いありがとうございます。それじゃあ、行ってきますね」

「そういや宿はセントラルのをとってるのかい? ないなら今日は泊まっていくか?」

「いえ、もうキャッスルのを予約しているんです」

「大事なお客さんってわけだ。シー、ちょっとついてってやんな」

 言われなくてもそうするつもりだったよ。明るい調子で返したシーも懐中電灯を手に玄関に向かう。お辞儀をしたクロエは、ヒューが小さく手を振ってくれていることに気づいた。

 過去にどんな悪いことをシーと共にしてきたのかは分からない。たぶん隣にはロンもいたのだろう。猫と狼のアニマノイドの犯罪グループ――だがそんな過去はクロエを怯えさせはしない。いまのふたりを見ているのだ。親切で心優しいふたりを。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十三話 第三のゲーム「ノーム(小人)探し」(後)

 北の島、ネクサス従業員が居住する区画がある場所。そこにクロエが探し求めるノームがいるはずだ。小人とも表記されるそれは、しかし懸命に探索を続けても見つかる気配がない。

 島の北部には山があり、そこは自然豊かな森になっている。人の手が入らないナチュラルな自然環境――晴れの昼間に森林浴をするのは楽しそうだとクロエは思う。だがいまは午後8時、タイムリミットまであと2時間を切ったところだ。日も落ちて肌を刺すような寒さもある。焦りや疲れがストレスとなってクロエの心に不安として重りがかかっていく。

「くそっ……公式の目撃情報を重点的に探っていくのはいい手のはずなんだけどな」

 確かめるように呟き、自分の携帯電話が震えていることに気づく。シーからの着信だと気づいたクロエはすぐに電話のスイッチに触れた。

「D地点とE地点を見てきたけどこっちはダメだ。それっぽい痕跡もない。クロちゃん、そっちは見つけたかい?」

「私のところもダメよ。AとB地点を見てきたけど……小人がいたんだろうなってのはなにも。小さな足跡だって見つからない」

 いまは冬の季節だ。山の近くにある森にだってうっすらと積雪はしている。この近くにノームの家があるとして、そこへ向かうために歩いているはずだ。であれば小人相応の足跡が不完全でも残っているはず。

 他にも枝が折れているかを見るとか、そういうことを素人ながら考えて確かめて歩いていた。だがクロエはスカウト(斥候)の素人だし、シーもそうだ。こういった場面に備えての特殊な訓練を受けていない。

 アコニットはそうではないかもしれないが、痕跡をもとに追跡ができるなんて話を聞いたことがない。電話越しにアドバイスを受けられれば話は別かもしれないが、眠っているのかアコニットは電話に出られないようだった。

「となると、残りはC地点だけか……私は東側から見てみる。クロちゃんのとこからだと南側から調べたほうが早そうだね」

「そうね。見つけるまで、あきらめな――」

 クロエは発言をやめた。静かに携帯から耳を話す。

 誰かが喋ったような気がしたのだ。自分でもシーでもない誰かが。雪の森にはもう誰もいないはずなのに。

「どったのクロちゃん」

「――いや、誰かいたような」

「誰かって?」

「声が聞こえたような気がしたの」

「どんな声?」

「分からない……女の子のような印象はあったけど」

 幻聴なのかもしれない、とは付け加えなかった。ここで不安や心配させるようなことは言わない方がいいに違いないと思ったのだ。

「もしかするとノームの声なのかもね」

「だといいんだけど。とにかく、C地点に向かうよ。また連絡しよう」

 分かった。そう返って電話が切れる。

 あの幽かな声は誰のもので、なにを言っていたのだろう。それとも本当に幻聴で、ありもしない声を疲れと焦りに染まった脳が創り出したのだろうか。

 

 とにかく集中しなければならない。クロエは懐中電灯の明かりを使ってパンフレットを開き見る。ヒューからもらった印付きのパンフレットで、公式に認められたノームの発見場所の計5つを赤い丸で示している。

 ヒューの協力があって「今日はノームは北の島にいる」ことを確かめたクロエは、5つの目撃情報の地点を西からアルファベットを振って呼ぶことにした。クロエはAから探し、シーはEから探す。挟み撃ちをするようにふたりで捜索を進めるのだ。

 だが進展はひとつもない。最後の最後でとんでもない無理難題を押し付けたのだと改めて思い知らされ、クロエは思わずため息をついた。

 帰りたい。

 そんなことは言ってない。クロエは歩みを止めてあたりを見回す。

 自分の声ではない。これはあの幽かな声だ。再び聞こえた声は、やはりどこから発せられているか分からない。

 もう一度。

 再三、あの声が聞こえる。今度はよりはっきりと聞こえた。

 AR眼鏡に地図情報を投影させる。B地点とC地点の間にいるクロエはそこから東を向いた。声がしているのはC地点ではない。そこはクロエのいるところから北東に進んだところにある。

 先に幽かな声について調べてみよう。未だに手がかりのひとつもつかめていないクロエはわらにもすがる気持ちで歩む向きを変えた。

 

 なにを言っているかは不明瞭で聞き取れないが、どうやらネガティブな気持ちがこもっているのは疑いようもない。怒りよりは悲しみの感情に満ちたささやきだ。

 AR眼鏡で表示させた現在地の分かる地図によれば、クロエはC地点の真南にいるようだった。この声はノームのものだろうか? それとも迷子になった子供のものだろうか。

 だが――クロエは困惑を深める。どこにも痕跡がない。

 自分の足跡は深く刻み込まれている。体重が重すぎるとかいうことが理由ではない。たぶん雪の質が原因だろうとクロエは思う。それならば自分のものではない足跡を見つけてもいいはずだ。ずっと足元を強烈な懐中電灯で照らしているのだから。

 しかし、それでも。どうしても痕跡が見つからない。声の主は、その声の印象通り幽霊だとでもいうのか。地面に足跡がないのなら、彼に足がないことを意味しているのか。それとも地に足のつかないやつだというのか。

 ノームが幽かな声の正体という証拠はどこにもない。だがクロエは直感していた。公式の発見報告件数がたったの5件。どこにいるかわからない声の主。これが符合していない方がおかしいに決まっている。

 

 突然、閃きを得たクロエは懐中電灯を夜空に向けた。

 晴れ渡る夜空に強烈な光の筋が伸びる。もしかするとシーにも見ているのかもしれない。

 不自然に折れている木の枝はないか。木に積もっている雪が落ちているところはないか。じっくりと光で照らして眺めるクロエは集中して息も細くなっていた。

 足跡がないということは、声の主は木の上で生活している――そんな閃きだったが、間違っているらしい。

 しかしいまでも幽かな声は続いている。夜の森に得体のしれない声。ホラー映画に似つかわしいシチュエーション。だが状況が状況だ。はやくノームを見つけ出さなければ。制限時間はもう残り2時間を切っている!

「どこにいるのよ!」

 たまらず声をあげるクロエ。そんな彼女の聴覚は「ここよ」と小さく返るのを聞き逃さなかった。どこから声がするのか分からないが、声の主は近くにいる!

「でも空にはいない。木の上にも。じゃあいったいどこなら地上の痕跡を消せると……まさか、そんなことって」

 瞬間、クロエは雪の上に伏せて右耳を雪につける。

 もうこれしか考えられない。地上に痕跡を残さない何者かは空にいなければ地下にいるはずだ。

「そこ!? そこにいるの!?」

 地面に向けて叫ぶ。だが声は返らない。

 だがクロエは確信していた。声の主は、もしかするとノームかもしれないそれは、地下にいる。彼女の勘が、第六感と呼ぶべき感覚が騒いでいる。目に見えないなにかに触れ、感じ取っているのだ。

「そこなのよね、待っていて、すぐに見つけ出す!」

 ノームは地下に住んでいるはずだから一緒に探してくれ――そう頼もうとして携帯電話を取り出そうとしたクロエは絶叫した。地面の感覚が消え去ったからだ。

 

 どうして落ちたのかを理解するのに数秒。頭から「滑っている」クロエは自分が穴に落ちたことに気がついたが叫びが止まることはない。

 土と雪が彼女の顔面を容赦なく汚していくが、深い傾斜のすべり台めいた穴は一切の制動を試みる動きをあざ笑うかのようだ。

「わあああああああッ!!」

 右に左にとくねり、落ち続ける。もうどれだけ落下しているのか想像もつかない。ずっとこのまま落ち続けるのだろうか? 絶え間ない痛みと恐れに包まれ、しかしそれはフッと一息吹きかけて飛んでいくホコリのように消え去った。

 すなわち、クロエはすべり台めいた穴から脱し、投げられるように宙を飛んでいる。慣性と重力の行き着く先は――

「うわっぷ!!」

 ――柔らかな感触。身を起こすのもやっとなくらいにもこもこして掴みどころのない毛布のようなものの正体は、はたして、毛布そのものだった。白く巨大なそれはクッションの役目を十分に果たしている。

 大怪我をしなくて済んだことに安堵しつつ、クロエは転がって巨大な毛布を脱する。どうやらここは地下の大空洞のようだ。上を見ればついさっき吐き出された穴が見える。

 服についた土を払いながらクロエはあたりを見回す。壁にはランタンが長い間隔で吊るされていて、薄暗い空間を演出している。

 ここはいったいどこなんだ? クッション代わりの毛布にランタン。少なくともここが人の手が加えられていない天然自然の場所ということはないだろう。であればここがノームの住処なのだろうか?

 一箇所だけ明かりが強く漏れている場所がある。細い道が右に伸びているらしい。まずはシーに報告しなければ。携帯電話に手を伸ばしたクロエは思わず舌打ちした。圏外。無常にも携帯電話の隅の表示はこの状態を告げていた。

 AR眼鏡のネットワーク機能も動いていない。完全に孤立している――ここからはたったひとりでゲームを進めなくてはならない。

 孤独な現状と、にじみ出るような不安。クロエは慎重に歩を進める。先程見つけた強い明かりの場所に向けて。

「……そこに誰かいるの?」

 明かりの強い道を歩いてしばらく。古めかしい木の扉とその向こうからもれる光は確かに誰かいることを予感させた。

 だがそれだけがクロエの不安を煽ったわけではなかった。彼女が通るにはその扉は小さいのだ。少しかがまなければ通ることができないほどに小さく作られたそれは、媚の戸の生活空間を想像させる。

(パンフレットではノームは小人とも表記されていた。ということは……)

 小人がこの先にいるとしても不思議ではない。深呼吸してクロエはかがみ、軽く扉をノックする。猫女も狼男も、それどころか人の形をした樹木人間だっている。小人がいてもなにもおかしくないのかもしれない。

「はいっていらっしゃいな。そこは少し狭いだろうけど、中は広いわよ」

 若々しい穏やかな声だった。女のようにも、男のようにも聞こえる。意を決してクロエはそっとドアノブに手をかけた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十四話 世界の真実の一片

 小さな見た目通りに軽く開いたドアはクロエを妙な空間へと招き入れた。

 普通のダイニングルームであるように見えるが、最初のほんの数秒だけだった。土と岩の壁は威圧感こそあるものの尖っている部分が丸められ、危険な印象はない。

 きれいに磨かれ清潔感さえ帯びている土の床には薄緑色のカーペットが敷かれている。大きなひし形を刺繍した敷物だ。その上には小さなちゃぶ台。近くには大きなモニタが光を放ってスライドショーを映していた。

 50インチはゆうに超えているであろうそれは、きっと目の前の生き物には過ぎたものなのかもしれない――心の底からクロエは思う。彼女はいま「小人」と相対していた。

 赤い三角帽子、青のだぼだぼな服。ふわりと広がる緑のスカート。服装自体はふつうの人間と差はない。身長だってクロエの腰より少し低いくらいならそこらにいる子供と大差はない。

 しかしクロエはある違和感を覚えている。この「小人」の頭身が普通の人間ではありえないのだ。3か、長くても3.5頭身。人間の子供でこんな頭身と頭の大きさは通常ではありえない。まるでデフォルメされた漫画やアニメのキャラクターがそこに在るような、そんな錯覚を覚えたクロエは、長くなめらかな白髪の小人がおじぎをするのを見た。

「こんばんは。私はノーム、ここの……ネクサスのレアキャラよ。あなたはたぶん6番目の公式発見者になるわね」

「はじめまして、クロエです。やっぱりあなたが――」

 その先の言葉を続けられなかった。小さな口と鼻に大きな深い緑の目。アニメのキャラクターが画面から抜け出たような違和感は、しかし不快ではなかった。無条件で受け入れてもいいと思えるような、妙な可愛らしさがある。クロエはそれに圧されたのだ。

 だが。彼女はここに来た目的を忘れたわけではない。ノームを探し当て、見つけた証拠をゲームマスターに提示しなければならない。

「驚いた? 小人といってもただ背が低い人間ではないの。私はアニマノイド。もっというなら特別なアニマノイド、ファンタズマのひとり」

「ファンタズマ?」

 意味がわからなかったが、ノームは部屋の隅にあった普通の大きさの椅子を引っ張り、ここに座るようにと柔和な笑みを向けてくる。人間の子供が持ちえないような妙な魅力がノームの動きに満ちていた。

「ありがとう」

「どういたしまして。……さっき、公式に6番目の発見者になると言ったよね」

「ええ」

「実は非公式の発見者も含めると7番目になるの。その子が1番目で、あとはみんな公式の発見者。なんであの子が非公式の発見者になったか知りたくない?」

 いいえ。クロエは答えながら携帯電話をとりだしてノームに向けて構える。

「それよりも記念写真、撮りませんか」

「別にいいけど楽しくなさそうね。なにかに追われているとか、焦っているとか、そんな感じに見えるけど」

 クロエは無言で携帯電話の操作を続け、セルフタイマーの設定を続ける。そうしながら彼女はあるものを見た。スライドショーに自分が映っていたような気がしたが、見えたのは一瞬で、すぐにノームが白い建物で微笑んでいる写真や広々とした青空を切り取った風景写真が中心のスライドショーが続く。

(あのそっくりさん白衣を着ていた? 医者かなにかなのかな)

「ねえクロエちゃん。写真をとるのはいいけど、そのかわりに話を聞いていってほしいの」

「話って?」

「もう長いことここのスタッフじゃない人と会っていないし。それに非公式な1人目との約束があるの。通算7番目に「ノーム探し」を成功させた人に、僕と同じ話をして欲しいっってね」

「よくわからないけど……そういうことならわかった。でもまずは写真よ」

 小さな木箱を見つけたクロエはそれを使って携帯電話を立たせ、自分はノームの横に立った。大きな丸い目はやはり人間の持つものではないが、しかし嫌悪感を覚えることはない。どこをどうみても良い隣人になれるような親しみ深さがある。

「ピースサインをすればいいかしら?」

「どうぞ」

「あなたも笑ったらどう?」

「悪いけどそれどころじゃないの。こっちは時間がないのよ」

「お友達が大変な目に遭っているからでしょう。あなたは彼を助け出そうとして頑張っていたもの、疲れていて当然よね」

 どうしてそれを――振り向きざまに驚きに目を開いたクロエは、自分が設定したセルフタイマーの光に目を細めた。

 まだクロエはなにも言っていない。振り向きざまにだって言おうとして口をつぐんでいる。なのにどうしてノームは全て知っているかのように振る舞っているのだ?

 これがゲームマスターに聞こえていればどうなるのだろう、ルール通りにフィルは殺されるのだろうか――いや、これは奴も想定外の事態なのでは? それにここは圏外。ゲームマスターの監視方法は分からないが、ルール違反であればすぐに携帯電話が震えるはずだ。

 そうなってはないということは、いまは監視下にないのかもしれない。だがクロエは大胆な行動に出るつもりはなかった。現状どうなっているのかを把握できていないでこれ以上フィルを危険に晒すマネが出来るわけがない。

「エレメンタルって知っている?」

「なんの話?」

「知っているかどうかを聞いてるの」

「知らない」

「四大精霊のこと。火のサラマンダー、水のウンディーネ、土のノーム、風のシルフ。その元素の中に住む目に見えない生き物――そういう幻想の存在よ」

 話が飛躍しすぎている。なぜフィルが誘拐されたことを知っているのかに端を発した疑問や推察に焦点をあわせていたクロエは、ノームが語るファンタジーの分野についていけないでいた。

「いったいなんのこと? なにを言いたいの?」

「さっき言ったでしょう。1人目にしたのと同じ話をするのだって」

「ファンタジーの講義がそれだとでもいうの?」

「できるだけ長くはしないでおくわ。それと、確認しておきたいのだけど」

「なに?」

「これから話すことはファンタジーなんかじゃないわ。全部現実に起きたこと、起きていること、本当のことしか言わない。虚構はどこにもない」

「そんなにもったいぶること?」

「この世界が嘘にまみれているってことを話すのよ。800年も生きてきた私が本当の歴史というものを教えるというの。1人目との約束で、7人目は聞き終わった時に開示するのも秘密にするのも自由ってことにしているわ」

「歴史の授業……こちらの事情がわかっているのなら手早く頼むわ」

 まかせて! 張り切る子供のようにノームは明るく返した。これからなにやら大変な話をするらしいというのになんだか似合う態度ではないな、とクロエは思う。まるでこの時を心から楽しみにしていたような――しかし、なんだって? ノームはさっき「800年も生きてきた」とか言わなかったか?

「さて、どこから語ろうかしらね」

「カンペは用意していないの?」

「ないわ。素材は用意しているけど、ライブ感が好きなのよ」

 講義にライブ感ってなんなんだと口に出さなかったクロエは、しかし顔に出てしまったかもしれないなと気を引き締める。

「そうね、んー。クロエちゃんはアニマノイドがなにかということを知っている?」

「なにって、普通の人間とは違う人類。植物や動物が人の形をとっている種族。そうでしょう?」

「そうじゃない。教科書に載っているようなことを言ってほしいんじゃないのよ。あなたが今日まで見たり話をしたアニマノイドのことを思い出して」

「……良い人もいれば悪い人もいる。普通の人間と変わるところはないと思った。でも……運動が得意なのかしら? 香木をかじって嬉しそうにしている奴もいた。そういう特徴ならあるのかもね」

「今日一日でよく観察したのね。思っていたよりとてもいい子だわ。そうだ、話の続きね。アニマノイドはそういう種族だって言われてるけど、あれはウソよ。真っ赤なウソ。本当は800年以上前に創造されたの。ああいうふうに『創られた』種族なんだ」

 なにを言っているのかよくわからなかった。

 アニマノイドは大昔から人類と一緒に生きているもうひとつの人類ではなかったのか。まるでロボットか何かを作ったみたいに言えるものではないはずだ。そう。人類がもうひとつの人類を創り出すなど出来るのだろうか?

「待って」

「はいはい」

「人がもうひとつの人類を作るなんて出来ると思う? それも同じような人間を作るんじゃなくて、動物と組み合わせたようなものや植物と組み合わせたようなものをよ? 仮に出来たとしてなんでそんなことをしたの? というか、アニマノイドのあなたがどうしてそんなことを知っているの?」

「質問が多いけど、答えられるように頑張るよ。どうしてどうやってアニマノイドを作ったんだってことだけど、アレは新しい技術が当時の人類にもたらされたんだ」

「新しい技術?」

「異次元からの来訪者。分かりやすく言うと異世界から魔法が渡ってきたの」

 魔法があればアニマノイドを創り出せるというのか? というか魔法とは火の玉を打ち出したり他者を癒やすことが出来る、ああいうビデオゲームで見たような魔法のことなのだろうか?

「伝えられた魔法の本質は『想いを形にする』力を持っているってこと。魔法技術の基礎を得たこの星の人類は、異世界の魔法使いを招き入れて『魔法科学技術』という学問をひらいた。この学問はまたたく間に広がっていって、発展して、インフラや経済を発達させていったの」

「その先にアニマノイドの創造があったってこと? さっき言った『想いを形にする』っていう?」

「かなり曖昧な表現だけど、でもそうとしか言えないのよ。魔法科学技術、みんな『魔科技』とか『魔科技研究所』と呼んでいたんだけど、彼らは研究を進めるうちに『万物に魂が宿っている』ことをつきとめたの」

「ものに魂が宿る……アニミズムか。って、ことは、アニマノイドのアニマって!」

「アニマ。古い言葉で魂や生命を指し示すの。もう気づいたみたいね。魔科技の人たちは万物に宿る魂に人の形を与えた。どうしてそうする計画が立ったのかはわからない。おおかた、自分たちの技術の結晶でも作りたくなったんでしょうね」

「自己顕示欲ってこと?」

「たぶんそれに近いわ。そうして彼らはアニマノイドを創り上げた。人類の良き隣人とするためにデザインを調整してね」

 これが本当のことだとすればとんでもないことだ――クロエは戦慄した。これまで社会が、世界が教えてきたことの一部がひっくり返ってしまう。800年生きているとかいうのがハッタリだとしても、ノームの言ったことがウソであると断言できないクロエはなにを言って良いのかわからなくなっていた。

「ここまで言えばクロエちゃんも察しがついたんじゃないかな?」

「え?」

「さっき私はファンタズマだといったじゃない? その後にエレメンタルの話をした。そして私はノーム。四大精霊、土のノームなのよ?」

「魔法は想いを形にする力。そしてアニマノイドはそんな魔法の力と科学技術をあわせて創られた人類。……ファンタズマは確か、昔の言葉で幻って意味だったかしら」

「そうよ。幻とか、幽霊とか、そんな感じの」

「つまりあなたは……幻の、空想の存在とされていたものから創り出されたアニマノイドなんだ。でも四大元素なんてファンタジーで、現実にあるものではない。でも魔法は『想い』を形にするんだ。猫も樹木も現実にある。そしてファンタジーは現実のものではない。でも魔科技のアニマノイドの技術の前では、元ネタが現実にあるかどうかなんて関係がない」

 ひとつひとつ確かめるようにクロエはノームの目を見てゆっくり話す。相槌をうつように頷いていたノームは、クロエが話し終わった途端に手を伸ばして頬に触れた。

「えっ、なに?」

「正解よ。魔科技の人々はアニマノイドを創るだけでは飽きなかったのよ。アニマノイドの技術を使って幻想の存在を現実に形にすることが出来るんじゃないか? そう考えたのでしょうね。そうしてプロジェクト・ファンタズマは発足した。その過程で私が創られた」

「……よくそんなにスラスラ言えるね」

「どういうこと?」

「自分が創られたってこと、もし私がそうだったらって思うと、なんだか恐ろしくなる」

「価値観の違いなのかもね」

 明日のゴミ出しよろしくね、なんて言うような調子でノームは微笑む。そんな小人の振る舞いにクロエは異質さを感じ始めていた。

「すこし休憩にしましょうか。初めて知ることばかりで疲れたでしょ?」

「ああ、まあ……」

「コーヒーを淹れてくるわね。ブラックコーヒーはお好み?」

「どっちかっていうと苦手。砂糖とかスプーン1杯盛ってもらえる?」

「分かったわ。ちょっと待っててね」

 ノームは軽く手を振ってクロエから離れ、小さなキッチンへと向かう。ガスではなく電気を使った加熱装置を使っているようだ。当然だ、とクロエは思う。換気がロクにできなさそうなところでガスを使うだなんて自殺行為だ。

 

 

 

「おまたせ。それじゃあ続きをやりましょうか」

 お互いにコーヒーカップを手に椅子に座って向き合う。ノームはレアキャラのはずだが、こんな日のために備えて普通の人間が扱う大きさの家具や食器を用意しているらしい――用意が良いのだな、とクロエは感心する。

「アニマノイドの始まりと、アニマノイド・ファンタズマについての話をしたわね」

「それが本当かどうかは置いといて……でも興味深い話ではあるわ。で、質問なんだけど。あのモニタに映ってるの、私のそっくりさんよね?」

 コーヒーを待っている間にクロエは、スライドショーに何度か自分に似ている少女が白衣を着て映っているのを見ていた。十中八九、よく似た別人が働いている風景を切り取ったものなのだろうが。それでもクロエは妙な不安を拭うことが出来ずにいる。

「そうね……あれはクロエちゃんではない。ファンタズマとして研究されていたころの私の担当者ね。ちょうどいいし、そのあたりの話をしましょうか」

「あともうひとつ質問させて」

「ええ」

「さっきまでの話がどうにも信用出来ないって思ってた。その理由が分かったの。もうひとつの人類を創るなんて荒唐無稽な話は同じくらい無茶苦茶な魔法ってもので解決出来たとしましょう。じゃあなんで、いま、この世界に、魔法は存在していないの?」

 どこか勝ち誇るようにクロエは言葉を区切っていく。

 これまでのノームの話が全部ウソだとするなら、彼女がただの小人のアニマノイドだというのなら、これを説明出来なければノームは真実を語っていると証明できないはずだ。

「まさかこの世界に魔法がないなんて思っていたの?」

「え?」

「ふふっ。確かにそこは気になるところよね。うん、それもこれから話すことで説明できそう。その前に深呼吸させて。喋ることをまとめないとね」

 コーヒーカップをちゃぶ台に置いたノームは椅子――子供用の小さな大きさだ――に座ったまま伸びをする。

 そんな所作にクロエは困惑と怒りを覚えていた。

 ノームはフィルが危険な目に遭っていることを何らかの手段で知った。恐らくは同じ方法でクロエのことも知った。ならば3人パーティでゲームをすることや部外者に誘拐のことが知られればゲームオーバーということも知っているはずだ。

 だというのにノームはフィルの命を顧みる振る舞いをしてくれない。運良く圏外で、仮にいまはゲームマスターからの監視から逃れられているとしてももっと配慮が出来るはずだ。

 そうしなかったことに怒っている。しかしいま優先すべきことはゲームの進行だ。そのためにはノームの昔話に耳を傾ける必要がある。ひとつ遅れて荒ぶりつつある心を鎮めるようにクロエは静かにコーヒーカップに口をつけ、傾けた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十五話 遠い絆

 第15話 遠い絆

 

「それじゃあクロエちゃんのそっくりさんの話から始めましょうか」

 そう切り出したノームは、しかし初めの言葉を考えているようだった。そしてクロエも考え事をしている。

 

 そもそもここまで来たのは第三にして最後のゲーム「ノーム探し」のためだ。苦労してなんとかノームを見つけ出したクロエは、自分が大きく喜びを表していないことに気がついた。6人目の公式発見者となったのに、そしてフィルの命を救ったのに、どうして嬉しいという気持ちが出てこないのだろう?

 たぶん疲れているのだ。

 もう半日近く動き回って平気な顔していられる方がおかしい。

 肉体的にも精神的にも消耗を強いられる状況を半日も続けていられたのは、親友を助けたいという願いと想いの力が土台になっている。最後のコーヒーを一口つけてクロエは確信する。私はフィルを助け出したいのだ。

 だが目の前の小人は中途半端にこちらの事情を知っていた。どうやって知ったのかは定かではないが、ノームはフィルの命を危険に晒すマネをしてくれた。最後のゲームをクリアしたとはいえ笑って過ごせるような状況なんかではない。

 こうしてノームが言葉を考えている間にフィルの眉間に銃弾がぶち込まれているのかもしれないのだ。あるいは首が地面を転がっているかもしれない。もしそうなっていた時はこいつに責任をとってもらおう。心の中で拳を握りしめたクロエはやっと話し始めるノームに注意を向けた。

 

「あの白衣の彼女はシロというの。魔科技の若い天才でね、プロジェクトファンタズマの重要な部分を任されていたの。私を担当していた専属研究員でもあった」

 漫画の世界では人工生命を研究するものといえばマッドサイエンティストか、そうでなくてもその気質のあるものというのがセオリーだ。そんな連想が頭に浮かんだクロエは、話を早く進めるために問いを投げかける。

「あなたとシロっていう研究者の関係はどうだったの? 最悪な感じだった?」

「いいえ。どういう想像をしているのか分からないけど、クロエちゃんが考えているようなことはないのよ。私の魔法を記録したり、一緒に散歩したり、ごはんを食べに行ったりした。私とシロは親友同士の間柄だった。あれだけ芯の強い女の子はそうはいないと思う。もう8     00年も過ぎた遠い絆だけど……いまでも昨日のように思い出せるわ」

 クロエの想像は外れていた。だが自分に似た人間が悪事を働いていないとなると、それはそれで安心するところがある。

「ほらこれ、見てくれる?」

 そう言ってモニタの裏から取り出したのはアンティーク然とした木のフレームの写真入れだった。どこかの公園のベンチで、空色のワンピースを着たノームを白衣姿のシロが座って抱えているのが切り取られている。

 現代とそう変わらない都市の姿を背景に見たクロエは、これが公共の場所で撮られたのだと直感した。少なくとも物々しい研究所の中という印象は受けない。

 しばらく写真入れを見せたノームは写真が収められたガラスの部分に触れた。すると切り取られた一場面が動き出す。想像してない一連の出来事にクロエは驚きを隠さなかった。

「わっ! これ、ホログラムってやつか」

 ノームは黙って頷き、続きを見るように促している。

 ホログラム機能付き写真立て。こんなものに魔法やらが関わっているわけがない。純粋な科学技術で出来上がっているはずだった。そしてホログラム技術は現代でもよく使われている。800年以上も前の文明のものという証明にはならない。

 動く写真は楽しそうに微笑むノームと、そんな彼女を穏やかに見守るシロが立ち上がり、その日の夕飯について語らっているのを映している。シロが夕飯の希望を訊ね、ノームはクリームシチューと答えているのを聞いたクロエは、すぐにそれが止まったのを認めた

「音も出るのね」

「ちょっとお高いやつを買ったんだ。日常の思い出を残したいって話になってね」

「まあ、仲がいいということは分かったわ。それで? 話の続きは?」

「魔法が現代に伝わっていない理由。アニマノイドが創られた人類だってことが忘れられた理由。なぜアニマノイドにとって第九大陸が死の土地となっているか。そうなったきっかけを話すわ。……あの写真を撮った頃にはもう、世界は平和ではなかったのよ」

 やや顔を伏せ、しかしすぐにノームはクロエを見つめる。なにかを訴えかけるような強い目線。演技だとしてもその迫力と印象にクロエは息を呑んだ。

「つまり……争いがあった?」

「そう。世界中を巻き込んだ戦争があった。クロエちゃんはもう分かっていると思うけど、アニマノイドは元になった種に準じた能力に秀でている。例えばチーターのアニマノイドならとんでもなく足が速いとかね」

 シーは猫のアニマノイドなので身軽にひょいひょい跳んでいたのかもしれない。第二のゲーム、東の島で起きたことを振り返ったクロエは納得したように頷く。

「結論からいうとアニマノイドの能力は人類を上回る場合が多かった。私だって土に関連する魔法を自在に操れるしね、ここの洞窟だって自分で作ったもの」

「戦争のきっかけは能力の差が理由ってこと?」

「そうなるわ。人類に牙を向いたアニマノイドたちのリーダーは火の精霊・サラマンダー。彼は自然界の法則にのっとって弱肉強食の世界を創ると宣言したの」

「どうしてそんなことを?」

「能力で劣る人類に服従するような生き方はやめにしよう。人類もアニマノイドに服従するのなら生かしておこう。サラマンダーの主張はとてもシンプルだった。そして彼は多くのアニマノイドと人類を傘下につけ、ルールオブネイチャーズ――RONと呼ばれてたんだけど、そんな独立国家を立ち上げて世界に戦争をふっかけた」

 怒りの滲んだ声だった。ノームにとってサラマンダーと、そいつがふっかけた戦争はいむべきものだったのだろうとクロエは思う。そこでノームは次の言葉を考えるためか、大きく深呼吸するのをしばらく続けていく。

 

 現存する世界の仕組みを壊そうとしているのなら、それはテロリズムというものではないか? 元から飛躍していた話がさらに明後日の方角へ向かうのを心の中で反芻しながら、クロエはツッコミをいれようとしてやめた。

「人類も黙ってはいなかった。RONに対抗するために戦闘用のアニマノイドを創り出したり、アニマノイドによく効く武器の開発なんかを進めていった。そうして『防衛軍』が人類の側で発足したの」

「つまりその時代は、防衛軍とRONの戦争が起きていた?」

「ええ。アニマノイドも人もたくさん死んだ。確かにアニマノイドの方が能力は秀でている。でも人類は古来から持っている武器があるの。道具を創り操る力。そうして文明をひらき、滅び、また栄える。あの時代の戦争もそんな繰り返しの中のひとつだと私は思ってるわ」

「それで、どちらが勝ったの。言っとくけど歴史の教科書ではRONだか防衛軍だかなんて単語は一切出てこなかったわ」

「勝者なんてどこにもいなかったのよ。殴り合いを続けて誰も立っていられなかった。あの戦争を終わらせたのは、RONにも防衛軍にも属さない第三の勢力――ピースサイン」

 懐かしむようにノームはその単語を呟く。ピースサイン。手でやる人差し指と中指を立てるその仕草を、ノームはゆっくりと示してみせた。

「RONも防衛軍も魔科技の有力者たちを抱えていた。単純な暴力だけではなく、知識や技術も必要な戦争だったからね。もちろんピースサインも魔科技の人たちの力を借りていた。どこにも属さないということは、どことも戦うってこと。平和は中立を意味しないし、逆もそうなんだ」

「ああ、まあ……言いたいことはわかるわ」

「そして私はピースサインの側のアニマノイドだった。もちろんシロもこちらがわの技術者、研究者だった。ピースサインの目的は戦争状態にある世界を平和にすること。つまり――戦争をなくすことが目的だった」

「というと、ピースサインは2陣営と同時に戦った?」

「そうとっても良いかもしれない。でも直接戦ったわけじゃない。攻められることはあったけどね。私たちはアニマノイドが反逆を起こすなんてことがありえないってことを知っていたんだ。初めにアニマノイドを創り出す時にそう設計したんだから」

「ロボット三原則みたいな話ね。それで? サラマンダーはファンタズマでしょう、ノームもそうだけど。ファンタズマにその設計はあてはまるの?」

「もちろんそのはずよ。だって私もサラマンダーもアニマノイドなんだから。私は反逆を起こす前のサラマンダーとは交流が深かったし、あいつが元々、人類が上でアニマノイドが下のような世界を気に入らなかったのを知っている。そこでなんらかの『変異』があったんだろうって推測がたった。実際どうだったのかは分からないんだけどね」

 小さな肩をすくめてノームがため息をつく。それからなにかを言おうとして、不味い飲み物を口に含んだかのように苦い表情を作った。

 やはりノームにとって苦手な存在だったのだろう。そんな考えを巡らせたクロエはAR眼鏡がもうじき午後9時を指そうとしているのに気づいた。早くゲームマスターと連絡をとらないとフィルが危ない。

 

 だが、ノームは語るのをやめようとしなかった。適当に相槌を打ったりして話を進め、切り出す時に切り出そう。方針を固めたクロエは、ノームが重い調子で口を開くのを見た。

「サラマンダーの周囲にいるアニマノイドに、まるでウイルスが感染していくかのように人類に対する敵意は広がっていった。だからピースサインは、変異して『目覚めてしまった』サラマンダーが変異を広げているものと推測したの」

「ふうん……それで?」

「サラマンダーがアニマノイドを制御する方法を知ってしまったのだと考えたわけ……魔法での制御。成り立ちに魔法が関わっているなら、それで行動を封じられない道理がないでしょう?」

 言いたいことはなんとなく分かるが――クロエは困ったように頷いた。想いを形にするという力はあまりにも曖昧で、大雑把で、乱暴らしい。

「つまりアニマノイドを制御していたのは魔法の力で。サラマンダーってやつはひとりでその制御を抜け出して、自分の魔法で周りのアニマノイドたちを仲間にしたってこと?」

「ええ。解かれた魔法は二度ともとに戻せない。そのことはピースサインの人だけが知ってたわけじゃない。RONも、防衛軍も、みんな知っていた。だから方法を探し出して、あの荒れた世界をどうにかしようと必死になっていた」

「つまり……3陣営の努力の結果が現代の世界ってこと?」

「そうともいうかな。先に行動を起こしたのは防衛軍だった。奴らはアニマノイドだけに効くウイルスを開発して、RONの支配地域にばら撒いた。感染したアニマノイドの致死率はほぼ100%で、そこはいまでもアニマノイドが暮らせない土地になっているんだ」

「まさかそれって第九大陸のことなんじゃ?」

 記憶を失ってから一年間。メーベル家の養子となったクロエはずっと第九大陸で暮らしていた。あの大陸ではアニマノイドが生きられない。その理由は、本当に大昔の戦争にあるのだろうか。

「あそこは重点的にウイルス攻撃に晒されていたからね、いまでも濃度がひどいことになっているはずなんだだ。普通の人類にはなにも害がないから、そこはまあいいんだけど」

「いまでもって言い方が引っかかるわ。当時はそのウイルスがもっと広がったみたいに聞こえるんだけど」

「実際そうだったんだ。アニマノイドに死をもたらすウイルスはじわじわ広がっていた。ピースサインはなんとか防いでいたけど、防衛軍はダメだった」

「ダメって……ふつう、ウイルス兵器なんてつくるのなら治療薬のひとつくらい用意するんじゃないの?」

「用意していたのが効かなかったんだ。流れ着いた防衛軍の人間から話を聞いたよ。それでピースサインは2つの問題に直面した。アニマノイドの反乱を防ぐ第二の封印手段の模索と、広がりつつあるアニマノイドウイルスの対策法を講じること。そのどちらも一気に解決する方法は見つかったんだ」

 魔法を使ったんだろう。クロエは自然にそんな予想を立てた。そんな自分が、魔法なんてものを当たり前のように考えていることに気づき、思わず口に手を当てる。

「アニマノイドを制御していた魔法よりも強力な魔法で上書きする。問題はどうやってそれをやるかだった。手順を見つけ出すのにも時間がかかったし、そのやり方も問題だったのよ。いまどき人柱をたてるなんて時代遅れもいいところじゃない?」

「どういうこと?」

「より強力な魔法をつくるのにはより強力な想いが必要なの。そんな魔法をつくるのには犠牲が伴うのは避けられなかった。でも、犠牲は最小限で済んだわ。私たちは、ピースサインの人々は運が良かった。異世界から来た魔法使いの子孫がいたのだから」

「子孫って誰?」

「シロよ。私たちは、私たちのために、私の親友を差し出さなければならなかった」

 自分のそっくりさんが? クロエは若干の驚きを抱き、隠しきれなかった。

 ノームの話が最初から嘘だったとしても。自分の親友を世界平和のために差し出せと言われてそんなことが出来るだろうかー―フィルのことを考え、クロエは首を横に振った。

「命まではとらなくても大丈夫だった。でも、世界を長く平和に保つためには、シロを冷凍保存する必要があったの」

「人類の災厄になってしまったアニマノイドを新たに押さえつける仕組みと、アニマノイドにだけ感染するウイルスを食い止めるために?」

「ウイルスに感染しても問題ないようにアニマノイドを作り変える魔法も必要だった。異世界の魔法使いの血を継いでいたシロは、そういう魔法に適正があったの。彼女は言ったわ。自分が永久に眠るだけでノームやみんなが救われるのなら、そうしない理由なんてどこにもないじゃないー―って」

 コストだけで見ればそうだろう。どれだけの規模かは分からないが、大勢の人を犠牲にしても、シロという研究員だけを犠牲にしても、同じ魔法が編み出せるのなら誰だって後者を選ぶに決まっている。

 それに話を聞く限りではシロを犠牲にしても彼女は生きているというのだ。いまなお世界がこうして続いているということは、この世界のどこかでシロは眠り続けているのだろう。

 

 冷凍装置の中で眠り続ける自分に似た少女。もし自分がそうなっていたらー―ぞっとする。同じ選択を迫られて自分は眠りにつくことを選べるのだろうか。親友との時間を、フィルとの時間を永久に捨て去ってまで。

 ノームの語る歴史が真実であれ虚実であれ、クロエの想像の世界や感情は本物だ。だからクロエは「ひどい話ね」と呟く。

「ええ。あれから800年と少しが経った。私は普通のアニマノイドではないからまだこうして元気に生きてる。これからも長くたくさん生きるはず。でも、シロと一緒に過ごしていた日々を一欠片だって忘れたことはない」

「私にも親友がいる。いまは大変なことになっているけど……彼をどうにかするためにここにやってきた。ねえノーム。お話はもうおしまい?」

「ええ。アニマノイドの起源、異次元から伝わった魔法。サラマンダーというアニマノイドが起こした反乱。アニマノイドを滅ぼすウイルス。滅びそうになった世界を救ったのが私の親友だってこと……全部話したわ」

「分かった。それじゃあもう行かないと。その話が本当かどうか確かめようがないけど、映画の脚本とかで売り込めばいい線いくと思うよ」

 困ったように笑ってクロエは席を立ち、それじゃあ、と手を振って気づいた。ノームが不満そうに見つめているのだ。

「嘘はつかないって言ったはずなんだけどな。最後にふたつ聞いておきたいことがあるの」

「ええ、どうぞ」

「ひとつは……この話を他の人に話すつもりはあるかな」

「全くないわ。こんなことを話したら気が触れたんじゃないかって思われちゃう」

 本心からの答えだった。

 フィルだってこんな話を信じないだろう。ネットに書き込んでも新手の都市伝説か荒らしのどちらかとしか思われないはずだ。

「じゃあふたつめ。クロエちゃんはここから出る方法を知ってる?」

「いいや……」

「それなら案内役が必要よね? ここから山の麓まで連れてってあげる」

 

 

 

 洞窟の中には螺旋階段が用意されていた。ノームだけがその扉を開けられるらしく、彼女がなにもない壁を触ってから、クロエは初めて階段を目にしたのだった。

「こんな階段があったのね」

「誰にも気付かれないように細工しているのよ」

「レアキャラ探しもゆるくないわね。……そうだ、ところで」

「うん?」

「ここに来る前に妙な声を聞いたの。消えてしまいそうなくらい小さな声。帰りたいとか、そんな感じの。あなた、なにか知っている?」

 土が固まってできた階段をのぼりながらクロエは問う。

 螺旋階段はノーム用に作られたものらしく、クロエが使うには段や手すりが小さくて不便だが、かがめば使えないことはなかった。そんな彼女の前をノームが軽々と階段をあがっていたが、クロエの問いを受けてから明らかに歩をゆるめていく。

「クロエちゃん。その声はなんと言っていたって?」

「帰りたい、とか、もう一度、とか。ねえ、なにか知っているんじゃない?」

「霊的なものなのかもしれないわ。私にもよく分からないけど、でも、そんな声を聞いたのならあなたにはその種の才能があるのかもね」

 才能? 記憶をなくしてから幽霊なんて一度も見たことがないし、そもそもオカルトの類をそんなに信用していない。クロエは「ないない」と軽く飛ばし、すぐに表情を硬くさせた。

 AR眼鏡が「ネットワーク回復」という表示を投影したのだ。同時に彼女のポケットが震える。携帯電話がゲームマスターからの着信を告げていた。

「大丈夫かね、クロエ・ブルーム?」

「まさかあんたから心配されるとは思わなかった」

「1時間近くも監視から逃れていればなにがあったのかを心配するに決まっているだろう。君はこのゲームのプレイヤーだ。とにかく、無事な様子で良かった」

「私はどこも怪我をしていないし、最後のゲームも終わらせた。いまノームと一緒に地上へ上がっているところよ」

「なるほど。ならば携帯電話をビデオ通話に変えてみたまえ。……おお、これがノームか! なんてことだ、まるっきり小人だ。絵本から抜け出たような」

 誰これ? とノーム。彼女たちふたりの姿はゲームマスターに送られているが、ゲームマスターの姿は送られていない。

「ねえ。全部のゲームが終わったのなら、ノームにも自己紹介が出来るんじゃない?」

「ネクサスのレアキャラ相手ならば拡散力は低いだろう。じきに我々も撤退するのだしな。私はゲームマスター。そこのクロエ・ブルームとあるゲームをしていた。人の命をかけたゲームだ」

 物騒な話ね。すっとぼけるノームに笑いをこらえ、クロエは上を目指していく。

「クロエの親友を誘拐し、彼の命をかけてゲームをさせていたのだよ」

「あんまり趣味が良いとは言えないわね」

「金や権力があるならやってみるといい。案外、楽しいと思うかもしれないぞ」

「遠慮しておくわ。それで、最後のゲームとやらはクロエちゃんが私を見つけることだったみたいね。これで全部納得がいったわ」

「それは良かった。ではクロエ・ブルーム。いまから君の携帯にメールを送る。その通りに行動したまえ。君の親友を返そう。約束は絶対に守る。最後の最後で保護になどするものか、安心するといい」

 ゲームマスターが言い終わるのと、クロエたちが地上に出たのはほとんど同時だった。ノームに礼をしようと振り返り、そしてクロエは絶句する。

 雪の積もる山の麓。さっきまで隣にいたはずのノームの姿形がどこにも見えない。まるで幽霊のようだ。だがー―山の下で撮った写真にノームははっきりと写っている。

 四大精霊、土のノーム。アニマノイド・ファンタズム。彼女の持つ力は、魔法は、人間の理解を超えるものなのかもしれない。

 隠された歴史のことははっきりとしないし、一生かかっても出来ないものだろう。しかし。ノームが語っていた「魔法」や「異次元」というものだけは信じてみてもいいのかもしれない。クロエは長く白い息を吐き、はっと思い出して電話帳からシーの番号を探し出す。

 シーはまだ最後のゲームが終わったことを知らない。全部終わったことを早く教えなければ。そしてフィルを迎えに行こう。そして、それから……こんな最悪な一日なんて早く忘れ去りたい。

 第15話 遠い絆

 

「それじゃあクロエちゃんのそっくりさんの話から始めましょうか」

 そう切り出したノームは、しかし初めの言葉を考えているようだった。そしてクロエも考え事をしている。

 

 そもそもここまで来たのは第三にして最後のゲーム「ノーム探し」のためだ。苦労してなんとかノームを見つけ出したクロエは、自分が大きく喜びを表していないことに気がついた。6人目の公式発見者となったのに、そしてフィルの命を救ったのに、どうして嬉しいという気持ちが出てこないのだろう?

 たぶん疲れているのだ。

 もう半日近く動き回って平気な顔していられる方がおかしい。

 肉体的にも精神的にも消耗を強いられる状況を半日も続けていられたのは、親友を助けたいという願いと想いの力が土台になっている。最後のコーヒーを一口つけてクロエは確信する。私はフィルを助け出したいのだ。

 だが目の前の小人は中途半端にこちらの事情を知っていた。どうやって知ったのかは定かではないが、ノームはフィルの命を危険に晒すマネをしてくれた。最後のゲームをクリアしたとはいえ笑って過ごせるような状況なんかではない。

 こうしてノームが言葉を考えている間にフィルの眉間に銃弾がぶち込まれているのかもしれないのだ。あるいは首が地面を転がっているかもしれない。もしそうなっていた時はこいつに責任をとってもらおう。心の中で拳を握りしめたクロエはやっと話し始めるノームに注意を向けた。

 

「あの白衣の彼女はシロというの。魔科技の若い天才でね、プロジェクトファンタズマの重要な部分を任されていたの。私を担当していた専属研究員でもあった」

 漫画の世界では人工生命を研究するものといえばマッドサイエンティストか、そうでなくてもその気質のあるものというのがセオリーだ。そんな連想が頭に浮かんだクロエは、話を早く進めるために問いを投げかける。

「あなたとシロっていう研究者の関係はどうだったの? 最悪な感じだった?」

「いいえ。どういう想像をしているのか分からないけど、クロエちゃんが考えているようなことはないのよ。私の魔法を記録したり、一緒に散歩したり、ごはんを食べに行ったりした。私とシロは親友同士の間柄だった。あれだけ芯の強い女の子はそうはいないと思う。もう8     00年も過ぎた遠い絆だけど……いまでも昨日のように思い出せるわ」

 クロエの想像は外れていた。だが自分に似た人間が悪事を働いていないとなると、それはそれで安心するところがある。

「ほらこれ、見てくれる?」

 そう言ってモニタの裏から取り出したのはアンティーク然とした木のフレームの写真入れだった。どこかの公園のベンチで、空色のワンピースを着たノームを白衣姿のシロが座って抱えているのが切り取られている。

 現代とそう変わらない都市の姿を背景に見たクロエは、これが公共の場所で撮られたのだと直感した。少なくとも物々しい研究所の中という印象は受けない。

 しばらく写真入れを見せたノームは写真が収められたガラスの部分に触れた。すると切り取られた一場面が動き出す。想像してない一連の出来事にクロエは驚きを隠さなかった。

「わっ! これ、ホログラムってやつか」

 ノームは黙って頷き、続きを見るように促している。

 ホログラム機能付き写真立て。こんなものに魔法やらが関わっているわけがない。純粋な科学技術で出来上がっているはずだった。そしてホログラム技術は現代でもよく使われている。800年以上も前の文明のものという証明にはならない。

 動く写真は楽しそうに微笑むノームと、そんな彼女を穏やかに見守るシロが立ち上がり、その日の夕飯について語らっているのを映している。シロが夕飯の希望を訊ね、ノームはクリームシチューと答えているのを聞いたクロエは、すぐにそれが止まったのを認めた

「音も出るのね」

「ちょっとお高いやつを買ったんだ。日常の思い出を残したいって話になってね」

「まあ、仲がいいということは分かったわ。それで? 話の続きは?」

「魔法が現代に伝わっていない理由。アニマノイドが創られた人類だってことが忘れられた理由。なぜアニマノイドにとって第九大陸が死の土地となっているか。そうなったきっかけを話すわ。……あの写真を撮った頃にはもう、世界は平和ではなかったのよ」

 やや顔を伏せ、しかしすぐにノームはクロエを見つめる。なにかを訴えかけるような強い目線。演技だとしてもその迫力と印象にクロエは息を呑んだ。

「つまり……争いがあった?」

「そう。世界中を巻き込んだ戦争があった。クロエちゃんはもう分かっていると思うけど、アニマノイドは元になった種に準じた能力に秀でている。例えばチーターのアニマノイドならとんでもなく足が速いとかね」

 シーは猫のアニマノイドなので身軽にひょいひょい跳んでいたのかもしれない。第二のゲーム、東の島で起きたことを振り返ったクロエは納得したように頷く。

「結論からいうとアニマノイドの能力は人類を上回る場合が多かった。私だって土に関連する魔法を自在に操れるしね、ここの洞窟だって自分で作ったもの」

「戦争のきっかけは能力の差が理由ってこと?」

「そうなるわ。人類に牙を向いたアニマノイドたちのリーダーは火の精霊・サラマンダー。彼は自然界の法則にのっとって弱肉強食の世界を創ると宣言したの」

「どうしてそんなことを?」

「能力で劣る人類に服従するような生き方はやめにしよう。人類もアニマノイドに服従するのなら生かしておこう。サラマンダーの主張はとてもシンプルだった。そして彼は多くのアニマノイドと人類を傘下につけ、ルールオブネイチャーズ――RONと呼ばれてたんだけど、そんな独立国家を立ち上げて世界に戦争をふっかけた」

 怒りの滲んだ声だった。ノームにとってサラマンダーと、そいつがふっかけた戦争はいむべきものだったのだろうとクロエは思う。そこでノームは次の言葉を考えるためか、大きく深呼吸するのをしばらく続けていく。

 

 現存する世界の仕組みを壊そうとしているのなら、それはテロリズムというものではないか? 元から飛躍していた話がさらに明後日の方角へ向かうのを心の中で反芻しながら、クロエはツッコミをいれようとしてやめた。

「人類も黙ってはいなかった。RONに対抗するために戦闘用のアニマノイドを創り出したり、アニマノイドによく効く武器の開発なんかを進めていった。そうして『防衛軍』が人類の側で発足したの」

「つまりその時代は、防衛軍とRONの戦争が起きていた?」

「ええ。アニマノイドも人もたくさん死んだ。確かにアニマノイドの方が能力は秀でている。でも人類は古来から持っている武器があるの。道具を創り操る力。そうして文明をひらき、滅び、また栄える。あの時代の戦争もそんな繰り返しの中のひとつだと私は思ってるわ」

「それで、どちらが勝ったの。言っとくけど歴史の教科書ではRONだか防衛軍だかなんて単語は一切出てこなかったわ」

「勝者なんてどこにもいなかったのよ。殴り合いを続けて誰も立っていられなかった。あの戦争を終わらせたのは、RONにも防衛軍にも属さない第三の勢力――ピースサイン」

 懐かしむようにノームはその単語を呟く。ピースサイン。手でやる人差し指と中指を立てるその仕草を、ノームはゆっくりと示してみせた。

「RONも防衛軍も魔科技の有力者たちを抱えていた。単純な暴力だけではなく、知識や技術も必要な戦争だったからね。もちろんピースサインも魔科技の人たちの力を借りていた。どこにも属さないということは、どことも戦うってこと。平和は中立を意味しないし、逆もそうなんだ」

「ああ、まあ……言いたいことはわかるわ」

「そして私はピースサインの側のアニマノイドだった。もちろんシロもこちらがわの技術者、研究者だった。ピースサインの目的は戦争状態にある世界を平和にすること。つまり――戦争をなくすことが目的だった」

「というと、ピースサインは2陣営と同時に戦った?」

「そうとっても良いかもしれない。でも直接戦ったわけじゃない。攻められることはあったけどね。私たちはアニマノイドが反逆を起こすなんてことがありえないってことを知っていたんだ。初めにアニマノイドを創り出す時にそう設計したんだから」

「ロボット三原則みたいな話ね。それで? サラマンダーはファンタズマでしょう、ノームもそうだけど。ファンタズマにその設計はあてはまるの?」

「もちろんそのはずよ。だって私もサラマンダーもアニマノイドなんだから。私は反逆を起こす前のサラマンダーとは交流が深かったし、あいつが元々、人類が上でアニマノイドが下のような世界を気に入らなかったのを知っている。そこでなんらかの『変異』があったんだろうって推測がたった。実際どうだったのかは分からないんだけどね」

 小さな肩をすくめてノームがため息をつく。それからなにかを言おうとして、不味い飲み物を口に含んだかのように苦い表情を作った。

 やはりノームにとって苦手な存在だったのだろう。そんな考えを巡らせたクロエはAR眼鏡がもうじき午後9時を指そうとしているのに気づいた。早くゲームマスターと連絡をとらないとフィルが危ない。

 

 だが、ノームは語るのをやめようとしなかった。適当に相槌を打ったりして話を進め、切り出す時に切り出そう。方針を固めたクロエは、ノームが重い調子で口を開くのを見た。

「サラマンダーの周囲にいるアニマノイドに、まるでウイルスが感染していくかのように人類に対する敵意は広がっていった。だからピースサインは、変異して『目覚めてしまった』サラマンダーが変異を広げているものと推測したの」

「ふうん……それで?」

「サラマンダーがアニマノイドを制御する方法を知ってしまったのだと考えたわけ……魔法での制御。成り立ちに魔法が関わっているなら、それで行動を封じられない道理がないでしょう?」

 言いたいことはなんとなく分かるが――クロエは困ったように頷いた。想いを形にするという力はあまりにも曖昧で、大雑把で、乱暴らしい。

「つまりアニマノイドを制御していたのは魔法の力で。サラマンダーってやつはひとりでその制御を抜け出して、自分の魔法で周りのアニマノイドたちを仲間にしたってこと?」

「ええ。解かれた魔法は二度ともとに戻せない。そのことはピースサインの人だけが知ってたわけじゃない。RONも、防衛軍も、みんな知っていた。だから方法を探し出して、あの荒れた世界をどうにかしようと必死になっていた」

「つまり……3陣営の努力の結果が現代の世界ってこと?」

「そうともいうかな。先に行動を起こしたのは防衛軍だった。奴らはアニマノイドだけに効くウイルスを開発して、RONの支配地域にばら撒いた。感染したアニマノイドの致死率はほぼ100%で、そこはいまでもアニマノイドが暮らせない土地になっているんだ」

「まさかそれって第九大陸のことなんじゃ?」

 記憶を失ってから一年間。メーベル家の養子となったクロエはずっと第九大陸で暮らしていた。あの大陸ではアニマノイドが生きられない。その理由は、本当に大昔の戦争にあるのだろうか。

「あそこは重点的にウイルス攻撃に晒されていたからね、いまでも濃度がひどいことになっているはずなんだだ。普通の人類にはなにも害がないから、そこはまあいいんだけど」

「いまでもって言い方が引っかかるわ。当時はそのウイルスがもっと広がったみたいに聞こえるんだけど」

「実際そうだったんだ。アニマノイドに死をもたらすウイルスはじわじわ広がっていた。ピースサインはなんとか防いでいたけど、防衛軍はダメだった」

「ダメって……ふつう、ウイルス兵器なんてつくるのなら治療薬のひとつくらい用意するんじゃないの?」

「用意していたのが効かなかったんだ。流れ着いた防衛軍の人間から話を聞いたよ。それでピースサインは2つの問題に直面した。アニマノイドの反乱を防ぐ第二の封印手段の模索と、広がりつつあるアニマノイドウイルスの対策法を講じること。そのどちらも一気に解決する方法は見つかったんだ」

 魔法を使ったんだろう。クロエは自然にそんな予想を立てた。そんな自分が、魔法なんてものを当たり前のように考えていることに気づき、思わず口に手を当てる。

「アニマノイドを制御していた魔法よりも強力な魔法で上書きする。問題はどうやってそれをやるかだった。手順を見つけ出すのにも時間がかかったし、そのやり方も問題だったのよ。いまどき人柱をたてるなんて時代遅れもいいところじゃない?」

「どういうこと?」

「より強力な魔法をつくるのにはより強力な想いが必要なの。そんな魔法をつくるのには犠牲が伴うのは避けられなかった。でも、犠牲は最小限で済んだわ。私たちは、ピースサインの人々は運が良かった。異世界から来た魔法使いの子孫がいたのだから」

「子孫って誰?」

「シロよ。私たちは、私たちのために、私の親友を差し出さなければならなかった」

 自分のそっくりさんが? クロエは若干の驚きを抱き、隠しきれなかった。

 ノームの話が最初から嘘だったとしても。自分の親友を世界平和のために差し出せと言われてそんなことが出来るだろうかー―フィルのことを考え、クロエは首を横に振った。

「命まではとらなくても大丈夫だった。でも、世界を長く平和に保つためには、シロを冷凍保存する必要があったの」

「人類の災厄になってしまったアニマノイドを新たに押さえつける仕組みと、アニマノイドにだけ感染するウイルスを食い止めるために?」

「ウイルスに感染しても問題ないようにアニマノイドを作り変える魔法も必要だった。異世界の魔法使いの血を継いでいたシロは、そういう魔法に適正があったの。彼女は言ったわ。自分が永久に眠るだけでノームやみんなが救われるのなら、そうしない理由なんてどこにもないじゃないー―って」

 コストだけで見ればそうだろう。どれだけの規模かは分からないが、大勢の人を犠牲にしても、シロという研究員だけを犠牲にしても、同じ魔法が編み出せるのなら誰だって後者を選ぶに決まっている。

 それに話を聞く限りではシロを犠牲にしても彼女は生きているというのだ。いまなお世界がこうして続いているということは、この世界のどこかでシロは眠り続けているのだろう。

 

 冷凍装置の中で眠り続ける自分に似た少女。もし自分がそうなっていたらー―ぞっとする。同じ選択を迫られて自分は眠りにつくことを選べるのだろうか。親友との時間を、フィルとの時間を永久に捨て去ってまで。

 ノームの語る歴史が真実であれ虚実であれ、クロエの想像の世界や感情は本物だ。だからクロエは「ひどい話ね」と呟く。

「ええ。あれから800年と少しが経った。私は普通のアニマノイドではないからまだこうして元気に生きてる。これからも長くたくさん生きるはず。でも、シロと一緒に過ごしていた日々を一欠片だって忘れたことはない」

「私にも親友がいる。いまは大変なことになっているけど……彼をどうにかするためにここにやってきた。ねえノーム。お話はもうおしまい?」

「ええ。アニマノイドの起源、異次元から伝わった魔法。サラマンダーというアニマノイドが起こした反乱。アニマノイドを滅ぼすウイルス。滅びそうになった世界を救ったのが私の親友だってこと……全部話したわ」

「分かった。それじゃあもう行かないと。その話が本当かどうか確かめようがないけど、映画の脚本とかで売り込めばいい線いくと思うよ」

 困ったように笑ってクロエは席を立ち、それじゃあ、と手を振って気づいた。ノームが不満そうに見つめているのだ。

「嘘はつかないって言ったはずなんだけどな。最後にふたつ聞いておきたいことがあるの」

「ええ、どうぞ」

「ひとつは……この話を他の人に話すつもりはあるかな」

「全くないわ。こんなことを話したら気が触れたんじゃないかって思われちゃう」

 本心からの答えだった。

 フィルだってこんな話を信じないだろう。ネットに書き込んでも新手の都市伝説か荒らしのどちらかとしか思われないはずだ。

「じゃあふたつめ。クロエちゃんはここから出る方法を知ってる?」

「いいや……」

「それなら案内役が必要よね? ここから山の麓まで連れてってあげる」

 

 

 

 洞窟の中には螺旋階段が用意されていた。ノームだけがその扉を開けられるらしく、彼女がなにもない壁を触ってから、クロエは初めて階段を目にしたのだった。

「こんな階段があったのね」

「誰にも気付かれないように細工しているのよ」

「レアキャラ探しもゆるくないわね。……そうだ、ところで」

「うん?」

「ここに来る前に妙な声を聞いたの。消えてしまいそうなくらい小さな声。帰りたいとか、そんな感じの。あなた、なにか知っている?」

 土が固まってできた階段をのぼりながらクロエは問う。

 螺旋階段はノーム用に作られたものらしく、クロエが使うには段や手すりが小さくて不便だが、かがめば使えないことはなかった。そんな彼女の前をノームが軽々と階段をあがっていたが、クロエの問いを受けてから明らかに歩をゆるめていく。

「クロエちゃん。その声はなんと言っていたって?」

「帰りたい、とか、もう一度、とか。ねえ、なにか知っているんじゃない?」

「霊的なものなのかもしれないわ。私にもよく分からないけど、でも、そんな声を聞いたのならあなたにはその種の才能があるのかもね」

 才能? 記憶をなくしてから幽霊なんて一度も見たことがないし、そもそもオカルトの類をそんなに信用していない。クロエは「ないない」と軽く飛ばし、すぐに表情を硬くさせた。

 AR眼鏡が「ネットワーク回復」という表示を投影したのだ。同時に彼女のポケットが震える。携帯電話がゲームマスターからの着信を告げていた。

「大丈夫かね、クロエ・ブルーム?」

「まさかあんたから心配されるとは思わなかった」

「1時間近くも監視から逃れていればなにがあったのかを心配するに決まっているだろう。君はこのゲームのプレイヤーだ。とにかく、無事な様子で良かった」

「私はどこも怪我をしていないし、最後のゲームも終わらせた。いまノームと一緒に地上へ上がっているところよ」

「なるほど。ならば携帯電話をビデオ通話に変えてみたまえ。……おお、これがノームか! なんてことだ、まるっきり小人だ。絵本から抜け出たような」

 誰これ? とノーム。彼女たちふたりの姿はゲームマスターに送られているが、ゲームマスターの姿は送られていない。

「ねえ。全部のゲームが終わったのなら、ノームにも自己紹介が出来るんじゃない?」

「ネクサスのレアキャラ相手ならば拡散力は低いだろう。じきに我々も撤退するのだしな。私はゲームマスター。そこのクロエ・ブルームとあるゲームをしていた。人の命をかけたゲームだ」

 物騒な話ね。すっとぼけるノームに笑いをこらえ、クロエは上を目指していく。

「クロエの親友を誘拐し、彼の命をかけてゲームをさせていたのだよ」

「あんまり趣味が良いとは言えないわね」

「金や権力があるならやってみるといい。案外、楽しいと思うかもしれないぞ」

「遠慮しておくわ。それで、最後のゲームとやらはクロエちゃんが私を見つけることだったみたいね。これで全部納得がいったわ」

「それは良かった。ではクロエ・ブルーム。いまから君の携帯にメールを送る。その通りに行動したまえ。君の親友を返そう。約束は絶対に守る。最後の最後で保護になどするものか、安心するといい」

 ゲームマスターが言い終わるのと、クロエたちが地上に出たのはほとんど同時だった。ノームに礼をしようと振り返り、そしてクロエは絶句する。

 雪の積もる山の麓。さっきまで隣にいたはずのノームの姿形がどこにも見えない。まるで幽霊のようだ。だがー―山の下で撮った写真にノームははっきりと写っている。

 四大精霊、土のノーム。アニマノイド・ファンタズム。彼女の持つ力は、魔法は、人間の理解を超えるものなのかもしれない。

 隠された歴史のことははっきりとしないし、一生かかっても出来ないものだろう。しかし。ノームが語っていた「魔法」や「異次元」というものだけは信じてみてもいいのかもしれない。クロエは長く白い息を吐き、はっと思い出して電話帳からシーの番号を探し出す。

 シーはまだ最後のゲームが終わったことを知らない。全部終わったことを早く教えなければ。そしてフィルを迎えに行こう。そして、それから……こんな最悪な一日なんて早く忘れ去りたい。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十六話 ベストフレンド

「ネクサス、セントラル、キャッスル、エレベータ、53426ー―ねえシー。エレベータを使えってことだと思うんだ」

 ゲームマスターから送られたメールは断片的でとても奇妙なものだったが、その意味するところはなんとなく読み取れる。キャッスルのエレベータで53426と階のボタンを押せばいいのだろう。

 急がねばならない。午後10時になれば閉園になり、キャッスルで宿泊する来園客も行動をセントラルだけに制限される。そうなってしまっては目立ちやすい環境ができあがってしまう。早く動く必要があった。

「クロちゃん。エレベータを使えばフィルくんに会えるってこと?」

「そう。でもセントラルのエレベータなんてどこも埋まってるかもだし。普通のお客さんを巻き込んで順番に階数のボタンを押すのはちょっと無理があるわ」

「あー……お客さんはまだたくさんいるからね。ならスタッフ用のエレベータを使おう。あそこならまだ不自然に見られることも少ないと思う。ノリと勢いでなんとかしよう」

「わかった。それじゃあどこで合流する?」

「キャッスルのメインエントランスホール。そこでテキトーに待ってて」

 シーとの通話は彼女の方から切れた。口の中で復唱したクロエは足早にセントラルを目指し、南に歩いていく。

 

 しばらく歩くと、クロエの前にシーの姿が見えた。体のところどころに雪をかぶっていて、いまのいままで必死にノームを探してくれていたのだとわかった。

「シー!」

「クロちゃん! よかった、さっきはホントに大丈夫だったの?」

「電話で話したでしょ? 私は大丈夫だって」

「この目で見ないと本当かどうかなんてハッキリしないからね。さ、先に進もう。私が案内するよ」

 シーが先導するのをついていくクロエは、シーが本当にスタッフ関係の場所に詳しいことを改めて認めた。

 姉のヒューと一緒に動くことがあるのだろうかー―そんなことを考えながら、人目につかないようにエレベータにたどり着いたクロエは、ゲームマスターのメールにあった数字を順番に押していく。

 するとエレベータの数字盤が不規則に光り、照明も狂ったように明滅を繰り返した。異常なことが起きている。身構えたクロエは、エレベータが通常の操作を受け付けないことに気づいた。まだ上にも下にも動いていないのに扉が開かない。

「クロちゃん、これってどうなってんの!」

「わからない!」

 ほとんど叫ぶように返したクロエはがたんとエレベータが大きな音を立てたのを認めた。ひとつ間があいてクロエとシーを載せた箱が下へ滑っていく。

 とんでもない速さだということは肌で感じられた。地下5階まであるらしいキャッスルの、さらにその下をとっくの間に通り過ぎているに違いない。

 突然の事態に慌てながらもクロエは頭の片隅にどこか冷静な自分が呟くのを聞いた。ゲームマスター側の人間がこんなエレベータを仕込めるはずがない。どれだけネクサスやメーベル家に継いて情報収集が出来たとしても、ここまで介入や細工ができるはずがない。可能だというなら、ネクサス側の人間がグルであるとしか考えられない。

 

 唐突に。エレベータは急に速度を落とし、ふたりは体勢を崩してしまった。猫が元のアニマノイドであるからか、シーはすぐに体勢を整えるがクロエはしばらく立ち上がれないでいる。

「大丈夫?」

「なんとか平気。ありがとう」

 シーに助け起こしてもらいながらクロエは立ち上がり、エレベータの扉が開いたのを認めた。暗い廊下だ。

 それにしても。アニマノイドが創られた人類だと? 安心したように微笑むシーを見てクロエは頭の片隅で考えた。あれはノームの作り話に決まっている。仮にそうだったとしてそれがなんだっていうんだ。シーはシーだ。初対面の自分を気遣ってくれる心優しい人物で、今では自分から信頼を置いても問題ないと心から思っている。

「なんだか暗い道だね。さっきの懐中電灯を使おう」

 頷き返したクロエは懐から取り出してスイッチをつけて前に出る。すると、そんな必要はないと語りかけるように、廊下に埋め込まれていた照明がカッと光りだした。

 眩しさに目を細めたクロエは、そうしながら目が慣れるのを待ってゆっくり歩き出す。

 壁も床も黒く、それが照明の白さを際立たせている。もっと歩く人間のことを考えられないのかと心の中で毒づき、クロエは黒に染められたドアに近づいた。

 

 自動ドア。その先は清潔感のある白い部屋だった。

 そこにはアコニットがいた。黒いスーツ姿の彼女は回復しているらしく、肩に受けた銃撃のことはもう平気そうに見えた。

「アコさん! どうしてここに?」

「実は部屋で休んでいたら、気づいたらここに」

「怪我は平気なの?」

「奴らが治療してくれたようです。書き置きがあって、クロエ様を待っていたのです」

「待っていたって――」

「ゲームマスターからの書き置きでした。きっとクロエ様はここにたどり着くだろう。もし出来なければ、それはゲームの失敗を意味する。ここにプレイヤーの3人が集まれば、ここの扉が開く。そんなようなことを」

「――そうだったの」

 そんな仕掛けのある部屋をネクサス側の人間と組んで作ったのか? それとも元から作られたこの部屋をのっとったのか? いくら考えてもよく分からないが、奴らの言うとおりならもうここに3人集まっている。先に進めてもおかしくないはずだ。クロエはそっと扉に手を触れた。

 

「直接対面というわけだ、クロエ・ブルーム」

 扉の先は薄暗い大きな部屋だった。書斎のように落ち着くような雰囲気だ。

 長い机の向こうで落ち着き払って椅子に座り、こちらに背を向けて語りかけてくるゲームマスターの電気的に歪められた声がなければもっといい雰囲気になるだろう。

 ここに来るまでぐつぐつ煮えていた誘拐犯への怒りは急に沸点を超えた。楽しい旅行になるはずだった今日に横槍をいれて、半日近くも親友の命をかけられた「ゲーム」に付き合うハメになった。まずは一発ぶん殴ってそれからフィルはどこだと問いただそう。

「おっと、そんなに怖い顔をしてくれるな。折角のかわいい顔が台無しじゃないか」

 目がついているのか、ゲームマスターの黒い背中が笑った。クロエは左右に首を振り、シーもアコニットも顔を怒りで歪めている。アコニットはもう隠し持っていた拳銃をいつでもぬけるように構えている。

「まずはゲームクリアおめでとう。よくやった、とほめてお――」

「ふざけるな! フィルはどこだああっ!」

 クロエは殴りかかっていた。落ち着いて判断してゲームマスターと会話をするという選択肢は、彼女の手札から落ちて抜けていたのだ。

「――悪かった。だからそんなに怒らないで。ごめんよクロ」

 不意をつくタイミングでゲームマスターが椅子を180度回転させた。同時にボイスチェンジャーもスイッチを切っていたらしく、機械的な歪みはさっぱり消え失せている。

 

 そのせいでクロエは殴りかかった姿勢を解こうとして前につんのめった。ゲームマスターを殴れない理由があったし、なにより怒りに染まった彼女の思考が今度は混乱で一杯になってしまっていた。

「僕がゲームマスターなんだ。『やあ、クロエ・ブルーム。君は困難なゲームを成功に導いた。おめでとう。君の健闘を称えよう』……このボイスチェンジャー、なかなかいい出来だと思わないかい?」

「そんな、どうして――」

 最後まで言えなかった。クロエの心には安堵が湧き上がり、そして同じくらいの失望がにじみ出ている。

 アコニットも絶句していた。取り出していた拳銃を取り落とし、拾うことすら出来ていない。

 そんな二人の様子を交互にみやったシーは「もしかして」とだけ呟いた。彼女の直感が光ったのだ。

「――フィー、どうして?」

「本当にごめん。アコさんもつきあわせて悪かった。」

「どうしてこんなことを? これじゃ誘拐の自作自演よ? なんでこんなことをしようとしたのよ!」

「話せば長くなる。でもクロ、その前にちょっと休憩しようよ。こんなことを今まで続けてきて疲れたはずだ。僕も疲れていてね」

 クロエは目と耳を疑った。

 藍色の短いマフラーに黒い大きなセーター。丈の長い白のチノパン。見ようによっては女の子のようにも見える雰囲気の、たれ目の親友は、申し訳なさそうに微笑み。深く頭をたれていた。

 間違いなくフィル・メーベルがゲームマスターであると自白し、深く謝意を述べていた。ここで起きていることは現実だ。

 だがクロエは信じきれなかった。目の前で繰り広げられた展開は全て現実のことだと物語っているのに、どうしても信じきれない。受け止めきれない。事実の衝撃が彼女の心を強く打っている。

「つまり、この誘拐事件は、フィル様の自作自演であったと?」

「そういうことになる」

「なぜそんなことを――」

「ああああああっ!」

 問い詰めようとするアコニットに覆いかぶさるようにクロエが叫んだ。

 これまで彼女は親友に対して強い怒りを抱いたことはなかった。今日この時までは。怒りのあまりに鬼のような形相に歪んでいるのを自覚しながらクロエは怒鳴り散らす。

「ふざけんじゃないわよ! どうしてこんなことを!」

「深い理由があるんだ。長い話になる、簡単に説明できることじゃないんだ」

「理由うぅ! 理由ってなに! 人を騙して、心配させて、そうさせる理由がなにかあるっていうの!」

「あるんだ。君のためでもあるし、世界の将来のためでもある」

「はあぁ!?」

「まずは落ち着いてほしい。身勝手なことを言っているのは分かってる。でもお願いだ。僕の話を聞いてほしい」

 こんなに強い態度に出たフィルを見るのは初めてだった。怒りに染まった思考でもそれに気づけることにハッとしたクロエは深呼吸を始める。

 フィルはこれまでにないほど本気で、何かしらの覚悟と意思を秘めて、こんなくだらない自作自演の誘拐劇を演じてみせた。とんでもない労力と人員とカネがかかっているはずだ。

 そんなことをやろうとした理由を聞いてみよう。クロエはフィルに向かってしっかりと頷いてみせた。

「ありがとう。それじゃあ向こうの部屋に案内するよ。落ち着けるように温かいココアも用意する。残りのふたりはすぐに使いを出すから、そこで待っていて。迷惑かけたり怪我をさせたりして、本当にごめんなさい」

 立ち上がって頭を下げ終えたフィルはクロエにやわらかく手招きする。彼がそうするのは普段からの所作だった。自分の調子をどこまでもブレさせない彼の後ろ姿を見て、クロエは思う。

 いまこうして優しく接しているフィルも、ゲームマスターを名乗って自作自演の誘拐劇を演じきったフィルも、同じ人物だ。どちらが本物の彼なのだろう。収まりきっていない怒りを抱えながらクロエはあとに続いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一七話 夢の終わり

 キャッスルの地下深くの施設。フィルが案内した場所は個室のようだった。

明かりはすでにともっている。モニターとなんらかの再生機械、そしてテーブルがひとつと椅子がふたつ。

 フィルは先に座るように言って部屋を出た。クロエはゆっくりした動きでそれに従い、怒りを抑えるようにそっと腰掛ける。

 

 しばらく時が経ち、フィルがコーヒーカップをふたつ持って部屋に戻った。彼が持ってきたものはホットココアだとすぐにクロエは見抜く。彼女の好きな香り――いつもメーベルの屋敷で飲んでいたものと同じだのはずだ。

「これを飲んで落ち着いてほしい。今から話すことは全部本当のことで、どれも大切なことなんだ」

「じゃあこの自作自演の誘拐事件も大切なことだったっていうわけ?」

「うん。このプロセスをすっ飛ばしてこれを話すわけにはいかない。クロには純粋なままで経験をしてもらう必要があったんだ」

「経験ってなんの」

「この世界のすべて――その欠片だけでも。一年間の時間を意味はあの屋敷と第九大陸で過ごしていた。あの大陸ではアニマノイドは生きていられない。だからあの大陸は人間しか人類がいない。それは純粋な世界じゃないんだ」

 ホットココアに口をつけながら、フィルがゆっくり穏やかに語るのを耳を傾ける。ココアの甘みと温かみがクロエの怒りを鎮め、フィルに無事に会えた喜びや、自作自演だった失望が心に染み出していく。

「つまり、フィーが言いたいのはこう? 社会勉強をさせようとした?」

「そうともとれるかもしれない。だから僕はこの旅行計画を利用して自作自演の誘拐事件を起こした。狙いはクロが世界に触れること」

「それだけなら! なにもこんなことしなくたっていいじゃない。時間もお金もかかったムダな催し物だと思うわ」

「もちろんさっき話したことだけが僕の狙いじゃないんだ。クロ、これから先に話すことは全部本当のことだ。こんなことをした僕が言って信用してもらえないと思うけど、クロ、君には信じてほしい」

「内容によるし、証拠があるかどうかも大事よ」

 口ではそう言ってもクロエはある種の確信を抱いていた。フィルは不真面目な人間ではないし、むしろ誠実で好感の持てる人物だ。

そして今の彼はこれまで見たことがないような気迫と誠実さを併せ持っているように見える。イタズラにしては度が過ぎた自作自演の誘拐事件のことを差し引いても、フィルがなにか大きな秘密を抱えているのは間違いないだろうとクロエは踏んでいた。

 

「まずは順を追って説明しよう。僕がどうして偽の誘拐事件を起こしたかって理由は、君に気づきを得てほしいということからだった。その話はしたよね?」

「欠片でも純粋な世界を見てほしい、だったっけ」

「うん。それだけなら普通に旅行をすればよかった。でも今回は前提が特殊だった。今でさえ僕はこうするのが最善の方法だったかよくわからない。でも悪くはないと思っているんだ。……この遊園地が出来たのは2年前。今でも建築が続けられてて広がっている。でも、それより昔には、海の底に古代遺跡があったんだ」

 海の下――地下深くまでエレベータが降りたここはどうなっているのだろう。

 突き出た半島と、それを利用して作られた遊園地。ネクサスとはそういう場所のはずだ。あたりを海に囲まれた遊園地。その遥か下に古代遺跡だって?

「クロは僕が遺跡発掘もしていることを知っているよね?」

「子供の時からそういうのが好きなんだって、フィーが教えてくれたのよ」

「そうだったね。あれはもう4年前のことかな。ネクサスが建つ前の古代遺跡に初めて行ったんだ。そこで僕はあるアニマノイドに『世界の真実』を教えられた。800年以上前に一度世界が滅びかけたこととかね。もしかしたらクロも聞き覚えがあるんじゃないかな」

 イタズラが好きな子供が楽しそうに言うようにフィルはクロエを見つめた。聞き覚えがあるどころの話ではない。驚きに目を開くクロエはフィルを指さした。

「じゃあフィーが非公式発見者ってわけ? あのノームの?」

「そういうこと」

「ってことはノームとフィーは最初から手を組んでいた?」

「そうだね。誘拐事件を計画するのにノームの力も借りている。それどころか今日クロが出会った人々の殆どがこの事件に協力してくれてるんだ。例外はアコさんとアニーのふたりだけだ」

「なっ……それじゃシーは? 最初からフィーに協力していたの?」

「その通り。ゲームマスター側の協力者さ。ゲームの初めの方に『僕』が言ったはずだよ、駅の中の喫茶店に入れって。そうやって誘導して、シーに接触してもらった」

「あのロンとかいう狼のアニマノイドも、シーのお姉さんも、ノームも、みんな? バカじゃない? みんな暇人だっていうの?」

「すべて計画のためだと説得したんだ。みんな納得してくれたよ」

 どうしてそんな説得で納得したのは分からないが、それ以上にクロエは計画のスケールの大きさに呆然としていた。

偽の誘拐事件で踊らされていたのも衝撃だが、自分の敵対者や協力者でさえ「演者」であったという事実は、金槌で頭を殴られたような衝撃を併せ持っていた。

「だからロール・プレイング・ゲームみたいなことを言ってたんだ。3人パーティを組んでどうのこうのって。フィー、そうなんでしょ?」

「うん。でも全部計算していたわけじゃない。最初の仲間はシーになるように仕向けたけど、もうひとりの仲間はクロが探し出さなきゃいけなかった。あそこでアコさんを味方につけたのは見事だと思うよ」

 ということは、この誘拐事件を計画する段階から、ある程度の柔軟性を持った骨格を作ろうとしていたに違いない。第二のゲームにアニーが協力していないのなら、もしかすると遺失物捜索だなんてやらされなかったのかもしれない。

 クロエは妙に納得するような気持ちになった。長い時間とカネと根気があって、こんなくだらない計画が推し進められたのだと思うと、虚空にため息をつきたくなる。

「話がずれたね。僕はノームと出会ったってとこまで話したか。彼女は強力な魔法を持つアニマノイドで、土に関係するものを操ったりするそうだ。ネクサスの建造に協力してもらったこともあったよ。……ここからが重要な話だ、準備はいい?」

「いつでもどうぞ」

「……ノームから聞いたと思うけど、シロ・ピースフィールという人物が世界を救った。魔法使いの血を継いでいた彼女は、アニマノイドの反乱を止める魔法と、彼らにしか効かないウイルスを無効化させる魔法を編み出した。もはやそれは封印魔法といってもいいものだ。そして封印を永遠のものとするためにコールドスリープ装置に入り、永遠の眠りについた。シロの身になにか起これば封印魔法は効力が弱まるか、最悪、消えてしまう」

「そんな話をしていたわね」

「ねえクロ。そのシロって人は君にそっくりだっただろう? 声は?」

「声?」

 これだよ。フィルはテーブルに黒い板状の機械を取り出した。

 ボイスレコーダ。フィルの手によってスイッチを押されたそれは、この部屋に入ってからの会話を再生し始めた。

 

 シロの声――あの動く写真、声付きのホログラムでしか聞いたことがない。そしてボイスレコーダで聞く自分の声は、それまでもがシロの声とそっくりだった。

自分で聞く自分の声は、本当の自分の声ではない。そんなことを思い出したクロエは、自分の体がカタカタと震えるのを認めた。が、止められない。止められそうにない。

「フィー、まさか、私がシロだっていいたいの? 800年も前の人でしょう? 私はクロエよ、クロエ・ブルーム。シロ・ピースフィールであるはずがないわ」

「どうして?」

「顔も声もそっくりという人はいるかもしれない。いや、知らないだけでいるのよ」

「……800年の眠りを妨げたのは僕たちなんだ。遺跡の発掘調査の過程でコールドスリープ装置が停止した。そこにいたのはノームの話通りひとりの少女だった。シロ・ピースフィール。この世界の救世主」

「私はシロじゃない!」

 半ば叫ぶようにクロエは声を荒げた。

 自分が800年も前の人間だ? コールドスリープから目覚めた? そんなことがあるわけがない。だって孤児院の記憶がある。

「じゃあ聞くよ。君は孤児院にいたって記憶があるはずだ。でもそこの職員の名前は覚えているかい?」

「孤児院の職員? そんなの覚えているに決まって――」

 覚えていなかった。

 一緒に暮らしていた子どもたちの名前も。顔も。声も。なにもかも。

 覚えていない?

 いや、この感覚は違う。

そうだ、覚えていないんじゃない。知らないんだ。

いままで知っていたような気になっていただけ。でもどうして今になってこれに気づいたんだ?

「覚えているはずがないんだ。知ってすらいないんだから。催眠術とか刷り込みとか、そういうものを駆使したんだよ」

「どうしてそんなことを?」

「コールドスリープが終わったあと、シロは目覚めなかった。3年も眠り続けていたんだ。そして1年前に君が目覚めた。でも記憶がなかった。それだと不便だろうと思って偽の記憶を植えつけていたんだ」

「そんな……」

「君が目覚めた時から僕の中にこの計画が芽生えたんだ。あの遺跡を隠すように作られたあの遊園地で、君が800年後の世界のあるがままを見られるようにしたいと」

「じゃあ他に私がシロだっていう証拠はどこにあるの? これだけだったら断言するにはたりないはずよ」

 自分の記憶が偽物だった。ほとんど間違いなくそうであることをクロエは突きつけられたが、まだ自分がシロだと信じてはいなかった。

 クロエ・ブルームとしての自分が崩れ去っていく。唯一無二の親友の手によって。いいようのない不安が、逃げ出したくなるような焦りが、やり場のない怒りが、そしてぽっかりと穴のあいた虚無感が心を覆っていく。

だから必死に抵抗する。違う。そんなはずはない。私がシロであるはずがない。私はクロエ・メーベルなんだ。

 

 そうか、とフィルは考えるように呟いて、それからテーブルの上に箱をのせた。

 どこかで見た覚えのある箱だとクロエはひらめき、すぐに思い出した。第一のゲーム、パレード観覧の報酬の「AR眼鏡」が収められていた箱だった。

「いまかけている眼鏡と同じものがここに入っている。確かめてみて」

「わかった……でもこれ、本当にそうなの? 全然機能が違うみたい」

「それが動かぬ証拠だよ。君の眼鏡は、いわば成長する仕組みである学習更新プログラムがインストールされている。でもこっちの眼鏡は入っていない。メーベルが関わってる会社で作ってる眼鏡で、同じ型番だから、こういう差異はないはずなんだ」

「……そういうこともあるんじゃないの」

「確かに、まあ、そうかもしれない。でもまだ話は続くよ。……いくら魔法使いの末裔とはいえ、大きすぎる問題をふたつも同時に解決する魔法なんか編み出せるわけないんだ。例えばプロスポーツ選手が、普通とは違う圧倒的にプロ側が不利な条件を課されてアマチュアに勝てると思うかい? 5対20のバスケットボールとか、11対55のサッカーとかを想像してみて」

「あー、それは……無理ね。勝ち目がない」

「同じことような状況にシロは直面していた。だから彼女は人間の魔法使いをやめることにした。彼女はアニマノイドになったんだ」

 そんなことはノームも言っていない。初耳だ。シロは――もしかすると自分かもしれない人物は――人間ではない?

「アニマノイドの方が魔法の適性があって、それに同じ種族のほうが言うこと聞かせる魔法を使うのに都合が良かったっていうんだ。実際、ノームが言うにはアニマノイドになったシロの能力はずば抜けていたそうだ。それと……アニマノイドは固有の魔法や能力を持っている。このことは知っているね?」

「シーは運動能力に秀でていた。ノームは土の魔法が得意だった。あの地下の洞窟ってノームが作ったものなんでしょう?」

「その通り。そしてシロは『人間の』アニマノイドになった。彼女の固有の能力は『道具を発達させる』ってものなんだ。だから君が身につけたAR眼鏡は自分で学習し、進化する仕組みを身につけた。これは動かぬ証拠と言えるんじゃないかな?」

 いくらでも反論は出来た。そんなことがあるはずがない。フィルの言っていることはデタラメだ。

 だがクロエはフィルの言葉を信じ始めた。

そうだ。フィルがデタラメを言うはずがない。

 自分がどれだけ否定しても、フィルのいうことを仮にあてはめれば説明がつく。

 詐欺師の手口かもしれないが、自作自演の誘拐事件を起こしてまでこんな話をしているのだ。全部がデタラメだとは考えにくいし、こんな時でもフィルは誠実さを手放していない姿勢と話し方をしている。

 そうかもしれない。呟いたクロエはそのまま下を向き、静かに涙を流した。そんな彼女を見てフィルはしばらく口を閉じ、目をつむって時が流れるのを感じていた。

 

 

 

「僕はね、僕が誘拐されたって事件をでっち上げて君を極限状態に追い込めば、もしかしたら記憶を取り戻すんじゃないかと思った。でも……君はシロ・ピースフィールにならなかった。これだけの体験をしてもクロエ・ブルームのままだったんだ」

 どこか寂しい目をしてフィルはクロエを見つめる。

 その時クロエは悟った。この計画は、偽の誘拐事件は、強い衝撃を自分に与えて本来の自分――シロ・ピースフィールの記憶や意識を取り戻そうとする目的があったのだ。

 だが、ちょっと待ってくれ。クロエは気づいた。もし自分がシロの記憶を取り戻したらクロエ・ブルームはどうなるのだろう?

「もしもこの計画がうまくいったら、二度とクロエ・ブルームとは逢えなくなる。すべて終わった後に僕が出会うのはシロで、クロじゃない。そのことはとても悲しいと思ったし、覚悟もしていた」

「そんな言い方するってことは……フィーは、私を、殺そうとしていた?」

「……そう言いかえられるかもしれない。でも、そうしなければいけない理由があったんだ!」

 今日、初めて、フィルが声を荒げた。

 声を荒げたいのはクロエも同じだった。身勝手な世界を救う計画に巻き込んで、それが成功すれば自分が死んでいた? 意識が消える? どちらにしろロクな結末ではない。

 だがクロエはフィルを怒鳴らなかった。喉をせり上がる罵倒や怒声をとどめたのは、いつの間にか彼が目に涙をためてうつむいているのを認めたからだ。

 シロの記憶が戻ればクロエとしての自分は消えてしまうに違いない。だがそれを望んでいたように振る舞ったフィルは、同時に望んでいないとでもいうように振る舞っている。

親友を差し出して世界を救う――ノームも似たような立場の話をしていた。そのつらさは分かるつもりだ。だが当事者となってハイそうですかと身を捧げるつもりはない。

「僕はクロに嘘をついたつもりはないんだ。親友になろうって言ったあの日のことは今でも覚えてる。あの日から僕とクロは仲良くなった……とても楽しかった、毎日が充実していたんだ。生きていてあれほど楽しいと思ったことはない」

「じゃあどうして! シロの記憶を戻そうなんてしたのよ!」

「このままだとこの世界が滅びるかもしれないんだ! そのためにはシロの力が必要なんだ、彼女に出てきてもらわなくちゃ、僕たちが困るんだ」

「……世界が、滅びる?」

 こんな状況でなければ冗談だと笑い飛ばせるような言葉だった。だが、いまは、途方もない予算と時間をかけた計画の話を黒幕から聞いている。きっと親友の言葉は冗談なんかではない。

「800年前に起きたことが繰り返されようとしている。あれをまた望んでいる奴がいるんだ」

「どういうこと?」

「アニマノイド・ファンタズム・エレメンタル。火のサラマンダー」

「まだ生きているっていうの!」

「同じ800年が経ってもノームは生きている。奴だって生きていてもおかしくない。情報網によれば、奴はふたたびルールオブネイチャーズ……RONを発足させている。人間がアニマノイドを支配していた社会を憎悪し、人間とアニマノイドが共存しているこの世界も破壊しようとしているんだ」

「確かに世界の危機ね。……フィーはシロになにをさせるつもりだったの?」

「僕がしてもらいたかったのは、サラマンダーだけを停止させる魔法を編み出してもらうことだった。ノームの見立てでは、かなり強力なアニマノイドでもひとりだけなら止められるだろうってことだった。その魔法が発動してもまだ安心できない。RONの連中がサラマンダーを復活させるためにシロの身体を求めるはずだ。だから守りの硬いコールドスリープ装置に再び入ってもらって、そこで強固な防御陣地を構築する」

「それがフィーの計画ってわけ?」

「……その通りだ」

 クロエの心の奥底がぐつぐつ煮えくり返っている。

 怒り、憎しみ、悲しみ――それらがせきを切れば、なにかがぷつりと途切れる音でもするのだろうか。頭の片隅にそんな疑問が湧き上がり、しかしクロエはすぐに忘れた。どうしようもない激情が湧き上がったのだ。

「フィーはさ」

「え?」

「シロって子に全部おっかぶせて世界を救おうって考えてたわけだ」

「そうだね。そのと――」

「ふざけんじゃないッ! たかだか人間ひとりに全部頼ってなにが世界を救うだ、バカバカしいんだよッ!!」

「――クロ?」

「マジで大概にしろよ、ああ!? もうサイテーだってマジでクソ、クソかってこんなの、誘拐事件は自作自演の演出で? ショック療法でシロの意識を出そうとして? うまくいったら私が消えてなくなって? 大昔の救世主様に全部丸投げして自分らはノホホンと平和に生きていきましょうってか。バカかよクソッ!!」

 怒鳴り終わる頃にはテーブルを蹴り、椅子を投げ飛ばし、その脚を掴んで壁に何度も叩きつけていた。

「……だいたい、さっきまでの話は本当のことを言ってるんでしょ。そこは信じてもいい。でも、シロの意識は出てこなかった。どうするの? 世界を救う2つ目の作戦は?」

「ある。でも確実じゃない」

「そう……しばらくひとりにさせて。今日はもう、フィーの顔を見たくない」

「すまなかった。おやすみ、クロ。道案内はそのAR眼鏡がやってくれる。いい夢を」

「夢? そんなものとっくの間に終わったわよ」

 フィルを見ないように振り返ったクロエは不機嫌なのを隠さないように、力強く扉をひらき、そしてバタンと叩きつけるように閉めて去っていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一八話 夢から目覚めて、立ち上がる。

 キャッスル、1306号室。乱暴にドアを開け放ったクロエは無言でベッドに倒れ込む。

 体中に疲労が溜まっている。楽しい思い出があったわけでもない。明かりをつけずにこのまま寝るのが一番良さそうだった。

 荷物にいれていたパジャマに着替える気力も、寝る前の歯磨きをする元気もない。深く気持ちよく眠れそうだが、あまり夢見は良くないだろう。そんな予感を抱いて、クロエは体が震えたのを認めた。

 軽い刺激だった。眠気を吹き飛ばす程ではなかったが、ポケットの中の携帯電話が何かの通知を知らせているのにクロエは気づいた。

 眠い目をうっすらあけながらクロエは上半身を起こし、確認する。通知内容はフィルからの音声メールだった。再生するかどうか迷って、なにもしないで枕元に携帯電話を置いて横になった。

 

 クロエが地下を出てから20分は経っている。少しは落ち着く時間の猶予があったし、怒りも収まりつつある。

 結局、フィルが欲していたのは800年前の救世主であって自分ではなかった。あの自作自演の誘拐事件は救世主を呼び戻すためだけにあったのだ。シロと親友だというノームを計画に引き込めたのもフィルにとっては相当に都合のいいことだったに違いない。

 しかし自分の内側からシロ・ピースフィールの意識や精神が蘇ることはなかった。期待はずれと感じたのはフィルだけではないはずだ。あの計画に加担したすべての関係者がそうに決まっている。シーもノームもあの地下で深い溜め息をついているに違いない。

 表にこそ出さなかったが、一番落ち込んでいるのはノームかもしれない。彼女だけが唯一、生きていたシロと交流のある人物だ。自分ならシロを目覚めさせられると思っていたかもしれない。

 

 だが――クロエは疑問に思う。

 仕掛け人であったシーはその立場からとても優しくしてくれていた。普通に考えて見ず知らずの人間が窮地に陥っているのをああまで献身的に助けようなんてのはおかしい。

 だが彼女の優しさは本当に演技だけだったのか? あの善人ぶりが全て演技だったとは思えない。シーの家で語ってくれた昔話も嘘をついていたようには思えない。

 プロの役者だって半日以上もリアルタイムで役になりきれるとは考えにくい。どこまでが本当でどこからが嘘なのかは判断がつかないが、少なくともシーを始めとした仕掛け人たちの全てが嘘で塗り固められた物事ばかりではないはずだ。

 

 そこまで考えたクロエはフィルの音声メールを開くことにした。

 彼も真実と虚偽の狭間で自作自演の誘拐事件の幕を開き、結末こそ満足のいくものではなかったが、概ね台本通りに幕を引いている。いま振り返れば「他人を傷つけるようなことはさせない」というゲームマスターとしての発言も、彼らしい優しさが滲んでいるようにも思えた。

 そんな一日を彼はどんな気持ちで過ごしていたのだろう。親友の身になって考えてみると、想像だけで相当に厳しいものがあった。

 世界を救うために親友の意識・精神を消す選択をする――クロエには荷が重いと思えた。心を許せる存在と引き換えに別の大切なことを成し遂げるだなんて、フィルであれば腕が千切れるくらいに過酷な選択だったに違いない。長く息をついて、クロエはそっと携帯電話の再生ボタンに触れた。

 

 

 

 〈やあ……もう寝ている頃かな。そうだったらごめん。もう君の監視はしていないから、分からなくて。君の監視はゲームをしている時はほぼ継続していた。僕のためにネクサス中を駆け回ってくれたことも知ってる。そんな君を、僕は……

 

 すまなかった。話したいことは他にもある。君を監視していた方法についてだ。君にプレゼントした指輪のことを覚えているかい。たぶん今も君は左手の人差し指にはめていることと思う。

 それにある細工をしていて、カメラやセンサを埋め込んでいる。身につけているひとの心拍の様子を確かめたり、その人がどこにいてなにを喋っているのかとか、そんな情報が手に取るように分かるんだ。僕のARコンタクトレンズ、あれに全部情報が入ってきている。いまは機能をシャットダウンしているからプライバシーは覗いていない。信じてもらえないかもしれないけど。

 

 聞きたくないことかもしれないけど、いくつか伝言がある。僕が話したいことももう少しだけ。

 まずはシーからの伝言だ。彼女は本当にすまなかったって言ってる。こんなにいい子を騙さなきゃいけないだなんて、ってね。

 結局は僕の計画は失敗に終わったけど、シーはそれでよかったって言っている。

『クロちゃんみたいないい子を消すだなんて、いくらシロが救世主だからって、そんなの間違ってる』ってさ。この日が来るまでずっとシーは乗り気じゃなかった。君とは面識がなにもないのに。そしてやっぱり、君と出会ってからその気持ちを強めたみたいだ。台本にないことまでやり始めたからね。

 シーが自分の過去を語ったでしょ? あれは本当に台本に書いていないことなんだ。ヒューという猫のアニマノイドを姉に持つことも本当だし、ロンという狼のアニマノイドと組んで3人で犯罪に手を染めて生計を立てていたのも本当だ。

 もっと言えば、ヒューもロンもネクサスの従業員だ。裏方な作業を主にしているから、あまり表に出ない。だから都合が良かったんだ。シーはあの駅の喫茶店の従業員だから、やっぱり都合よく動かす土台はあったんだよ。

 

 ロンからも預かっている。少し短いけどね。

『怖い思いをさせてすまなかった。そして、連れの女の人に怪我をさせてしまったことを深く詫びる』………だってさ。

 ロンも仕掛け人で、君が尋問した男の子たちも仕掛け人だ。本当はアニーを巻き込むつもりはなかったんだが、男の子たちが失敗してね。こっちの息のかかった人間を脅すふりして第二のゲームを始めるつもりだったんだけど、間違えたんだ。偶然、アニーがこちら側だけ        

 に通じるサインを出したっていうんだよ。

 無関係の人間を巻き込むなんて、本当はあってはいけないことなのにね。でもそうしてしまった。計画を十分に練られなかった僕の落ち度だね。

 アコニットを撃ったのはロンだけど、実は彼は銃の名手なんだ。純粋にケンカが強いとかならアコニットが上だけど、それが理由で命の危険を感じたそうだよ。

 でもロンは深い傷にならない場所を小口径の威力の低い拳銃で狙ったんだ。地下に連れてきたアコニットの治療にあたったのも彼だ。責任感の強い人だと思う。育った環境が良かったなら札付きになんてならなかったのかもしれないね。

 

 イグは知っているかい? たぶんあいつは自己紹介をしなかったと思う。パレードを見た時に一緒に座った樹のアニマノイドだ。

 彼も実際、この日が来るまでクロと面識はなかった。かなりドライな性格をしている僕の古い友人で……そのぶんだけこの計画を遂行するには心の負担が軽いってことは分かっていたつもりだった。

 でもイグは地下に戻ってくるなりこう言ったんだ。『なあ大将。俺たちは本当にあんな芯の強い女の子を“消さなきゃ”ならねえのか? 結構な損失だと思うんだがね。もちろんあんたが、大将が一番つらいってのは分かってんだけどよ』……そんなに顔に出したつもりはないんだけどね。

 

 あとはノームからも伝言がある。

『私の役割は、あなただったシロ・ピースフィールを呼び戻すこと。だけどシロは私を見ても起きてくれなかった。でも考えてみれば、こんなことになってもクロエちゃんは親友を取り戻すために一日中頑張っていたのよ。それだけ芯が強いって、やっぱり、シロと重ね合わせて見てしまう。クロエちゃんの中にシロがいる。もう目覚めないだけで、やっぱり同じ人間なんだって、そう思う』

 

 僕からももう少しだけ話をさせてほしい。

 クロ。君を消そうとした僕を許せと言わない。今日やったことの理解も納得もしてくれなくていい。軽蔑したり失望したりしたいならそうしてほしい。僕が君の立場ならきっとそうすることだろう。

 でも……ああいや、でも、だなんてなんか言い訳がましいな。でもさ。クロが目覚めてからの1年はとても楽しかったんだ。本当に。いつか人格や意識を消してシロにしようって決めていたのに、君の信頼を得るための1年間は、心からかけがえのないものだって思えるものになってしまった。

 今日、君は、僕の誘拐事件を受けて一日中動き回ってくれた。その姿を見て僕は何度も泣いていたんだ。僕のために動いてくれたのが嬉しくて、そして後ろめたさや申し訳なさもあふれるほど湧いて、耐えられなかったんだ。

 ボイスチェンジャーでも泣いているのは隠せないから、何度か仕掛け人たちに代わってもらったこともある。覚悟していたことのはずなのにね……

 

 クロが僕を、僕たちを嫌っているだろうことは分かっている。でも僕たちは君が必要なんだ。地下で話したと思うけど、この計画が失敗した時のプランBがある。それのために君が必要だ。

 君を消そうとした僕に協力する義務もない。なにを援助したって君への罪滅ぼしにもならない。でも、もし君が、この世界を好きだと思うのなら――どうか頼む。明日の朝に君の部屋に行くよ。それじゃあ、またね〉

 

 

 

 ベッドの上でクロエは静かに胸を上下させた。深呼吸をして落ち着きを得なければすぐにでも大声で泣き出しそうだった。

 今でも彼女の両目からは静かに涙が溢れている。

 フィルには、そして彼の仲間たちには、普通の人間が持ち合わせている良心がある。そんな彼らがどんな思いで「ひとりの人間の意識を消す」計画に携わっていたのだろう。

 ひとりを差し出して大勢を助け出すのか、かわいそうにと見逃して全員が脅威にさらされるか。合理的な判断は間違いなく前者だ。でも良心が「それはいけない」とささやく。語りかける。雄弁をふるう。

 親友たちが計画した今日の出来事を全部許すつもりはないし、これからもきっともやもやと良くない印象がつきまとうのは確かだ。だが――これでクロエは確信した。

 状況が状況なら。出会いが出会いなら。彼らとはきっと気のおけない友人同士になれた。お互いに笑い合ったり、悲しんだり、怒ったり、喜んだりできる。困難に立ち向かって助けあったりも出来るだろう。

 でもそれは、今日の出来事のせいで遠ざかった。どれだけ離れてしまったかは分からないが、でもいつかは自分が納得できる形で許せる日が来るのかもしれない。彼らは根っからの悪人ではないのだ。

 

 

 

 ぷー、と高い電子音が鳴った。インターホンだ。ルームサービスの類は頼んでいないはずだった。

 服の袖で涙を拭ったクロエは玄関に向かい、扉を開けてシーが顔を赤くしているのを見た。

「シー? どうしてここに?」

「直接謝りたくってさ。フィルくんから聞いたと思うけど、私も仕掛け人だった。クロちゃんを騙してたんだ。だから、ごめんなさい」

 頭を下げるシー。彼女の尻尾もしゅんとしなだれていた。

 そんな様子をじいっと見つめたクロエは部屋の明かりをつける。予告のない光にシーの背中がわずかに跳ね、ゆっくり顔があがっていく。

「よかったら……なにか飲んでいかない? 部屋のインスタンスのコーヒーとかあったと思うから」

「それじゃあお言葉に甘えて。でもいいの? 今日はもう体を休めたほうがいいんじゃ――」

「寝る前に誰かとお話するのは悪くないことだと思う。それにシーなら歓迎する。騙してたっていっても一緒にいてくれたんだし、これまで見せてくれた優しさが全部ウソだって思ってないから」

 泣いているせいでところどころ詰まってしまったが、クロエは本心を伝えた。嬉しそうにシーは頷き、しなだれていた尻尾も元気を取り戻したように持ち上がる。

 

 部屋にあった電気ポットのお湯で、インスタントのコーヒーとココアが出来上がるのに時間はかからなかった。

 窓際にある小さなテーブルに、向かい合わせになった椅子。

 椅子に座ってカーテンをあけたクロエは椅子に座りながらきらびやかな夜景を眺めた。青と紫がよく目立つ色鮮やかな照明が、クロエには遠い世界の出来事のように見えた。

 この部屋からは北の島と西の島がよく見える。閉園は午後10時だが、アトラクションの類は午前0時まで稼働している。宿泊する来園客のためだ。

 シーはコーヒーの入ったカップを、クロエはココアの入ったカップを持ち上げ、軽くうちあわせる。かん、と乾いた音が小さく響いた。

「……乾杯って雰囲気でもないのにね。でも、クロちゃんとこういうことができて嬉しい」

「私も。さすがにフィーから全部聞かされた時はブチ切れててそれどころじゃなかっただろうけど。すごく怒ってひどいこと言っちゃったし」

「無理もないよね。私が言うのもなんだけどさ。その、クロちゃんを……しようとしたんだし」

「言いにくいなら喋らなくていいよ」

 シーは気まずそうに頷いてカップに口をつける。その様子を見ながらクロエもカップに口をつけ、ある考えを巡らせていた。

 

 この猫のアニマノイドは本当に犯罪に手を染めていたのだろうか? 第二大陸にいた頃は悪いことをしないと生きていけなかったと語ったのはシーだった。それはたぶん嘘ではないはずだ。

 フィルのボイスメールを聞いて、そして目の前で罪悪感に苦しんでいるシーを見て、もしかするととクロエは思う。過去に犯罪に手を染めていた頃のシーは良心の呵責に苦しみ続けていたのではないだろうか?

「あのさ。……信じてもらえないかもしれないけど、この計画が失敗に終わって本当に良かった。シロっていう人に全部おまかせしてもらうって、それは800年前にやったこととなにも変わらないでしょって思ってたんだ」

「かわいそうだって考えてたの?」

「シロさんを?」

「そう」

「だってそうでしょ。800年ぶりに目覚めたら、また封印の魔法なんてのを作らされて、身の安全を守るために冷凍保存だなんてさ。それが一番確実な方法だとしてもやりたくなかったって思ってる。現実にはほら、もうやっちゃったあとなんだけどさ」

 確かにそうだ。だが。クロエには分かっている。計画を進める組織の中で個人の反対意見が尊重されることなんてそうそうないはずだ。

 だからクロエは聞いてみることにした。ちょっとした好奇心がうずいたのだった。

「じゃあどういう計画ならよかった? その、火のサラマンダーっていうアニマノイドがこの世界を転覆させようとしているって話。それにどうやって対抗する計画なら良かったと思う?」

「真っ向から戦うってのはどうかな。相手がどれだけ強いのか、どれだけいるのか、まだ詳しいことは分かっていない。でも、たったひとりに全部背負わせて解決しますってよりは健全だと思う」

「健全? ひとり犠牲にするよりも、もっと多くの犠牲が出るかもしれないのに?」

「私の気持ちの問題だよ。もちろん叶わない理想を語ってるだけだってのは分かってる。でも、そっちのほうが世界を守っているんだって前向きに考えられそう。女の子ひとりを差し出して世界を守りました、だなんてあまりにも後ろ向きじゃない」

 合理的な判断ではない。でもそれをシーは自覚しているし、彼女の言葉は真剣な調子だった。

 今日の出来事がなければシーとはすぐに仲の良い友人になれただろうとクロエは思う。それは理想だが、現実でもシーとならば心を通わせても不愉快ではないだろう。

「うん、そうだね、私もフィーにそう言って怒ってたんだ。たったひとりにおっかぶせようなんて、ふざけるなって」

「クロちゃん……」

「明日、フィーと会うよ。今日の出来事は全部現実離れしていた。全部夢だったとか、ファンタジー要素のあるドッキリだったとか、そっちのほうが納得できるかもしれない。でも、もう分かったんだ。これが変えようのない現実で、立ち向かわなきゃいけないってこと。これは自分で決めたことなんだ。800年前の私はシロ・ピースフィールだった。でもいまはクロエ・ブルームなの」

 一気にココアを飲み干す。そうする勢いがなければ言い切れない。

「アニマノイドが創られた人類なんてのも、800年前に起こった争いも、誰が主張したってバカバカしいってとりあわないのが当たり前。だから誰も知らないうちにフィーが計画を練って解決しようとして、ホントにやってしまったんだろうなって分かるよ。そしてフィーはプランBがあることを教えてくれた。そのために私が必要なんだって。だから、フィーと明日会ってちゃんと話をする」

「本当にいいの、クロちゃん」

「正直もやもやしているところはたくさんある。でも、そういう気持ちに甘えるわけにはいかない――」

 クロエが言葉を途切れさせたのには理由があった。彼女の携帯電話が音を立てたのだ。

 見ればフィルからの電話の通知だった。今日このやりとりを何度したことだろう。やっとゲームマスターとしての彼ではなく、親友としての彼と話ができる。だがついさっき激怒して出ていったばかりでバツが悪い。クロエが悪くなくとも。

「もしもし、フィー?」

「おい嬢ちゃん、フィルの大将が誘拐されちまった! 襲われたんだ!」

 聞き覚えのある声。今日どこかで出会ったことのある人物の声。

 しかしクロエはそれよりも彼の言葉に耳を疑った。

 誘拐された? フィルが? 誰に? もう自作自演の誘拐事件は終わったはずでは?

「ちょっと待ってよ、あなたは誰?」

「今日の昼に会っただろ! イグだよ、樹のアニマノイド! 一緒にパレードを見ただろう!」

「え、あんたなの!? フィーが誘拐されたってどういうこと、くだらないこと言ってんなら切るわよ」

「本当のこと言ってんだよ! いいか、いま地下の基地は大変なことになってる。疲れてるとこ悪いがすぐこっちに来てくれ!」

 だがクロエは最後の言葉をよく聞き取れなかった。予告なく爆音が響いたのだ。

 音がしたのは外だった。ゆっくりと雪が降っていた空の一点が赤く染まっている。その近くには黒々とした、飛行機と艦船を併せ持ったような巨大な鉄の塊が、ネクサスの上を当然のようにゆらゆらと飛んでいた。

「どうした、なにがあった!」

「空飛ぶ戦艦? いや、そんなものが……」

「クロエ! それはきっと奴らだ。RONの奴らだ! 今すぐこっちに来るんだ、もうフィルの大将と会えなくなっても知らないぞ!」

「そんなのお断りよ。分かった、すぐに向かうわ」

 どうしたの、と不安を浮かべてシーが叫んだ。携帯電話をポケットにいれたクロエはシーの手を掴んで玄関へと向かう。

「地下基地の道案内をしてほしいの」

「でも行くのは明日って――」

「フィルが誘拐されて、そしてRONの連中が、サラマンダーってアニマノイドが攻めてきたのよ! 全部は分からないけどそれは分かるわ。だから行こう。行かなきゃいけない」

 乱暴に扉を開け放ってクロエは飛び出す。事態をとりあえず飲み込んだシーは、こっちだよ、とクロエの前を駆け出した。

 ふたつのトラブルが重なった理由。それは、かつて世界を滅ぼそうとしたアニマノイドが、たまたま今日を選んで暴れたかったからに違いない。全力で駆けるシーの背中になんとか追いつきながら、クロエは怒りと不安に心が押しつぶされそうになった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一九話 少女の願い

 地下基地にたどり着いたクロエは昼に出会った樹のアニマノイドに出迎えられた。彼のいる場所はどこでも草木の香りが微かにするらしい。しかしそれはクロエの心を落ち着けることはなかった。

「フィーが誘拐されたって本当なの」

「ああ。お嬢ちゃんの連れがやりやがったんだ」

「連れって……アコニットさん?」

 なにを言ってるんだ? メーベルの人間を守る立場の彼女が、どうしてそんなことをしなければならないんだ?

 焦りと混乱とでいっぱいになっていたクロエは今度こそ考えるのを休んだ。

「そいつだ、黒スーツの姉ちゃん、あいつが大将をさらったんだ」

「アコさんがそうする理由がないわ。だって『ガーデン』のリーダーよ? フィルを守る側の人間がどうして?」

「RONの手先だったのかもしれねえ。いま奴らは空に飛行戦艦を飛ばしてる。なにか手引きしていたのかもな」

「手引きって! だから、そうする理由がないわよ」

 聞いてみなくちゃわからんことだ。イグは残念そうに言うとタブレット端末を取り出してクロエに示した。

「防犯カメラの映像だ」

「ここって……あそこだ。最後にフィーと話をした部屋だわ」

 カメラで撮った映像はフィルとクロエが部屋で会話しているのを捉えている。マイクもついているようで、クロエが激昂している声も収められていた。

「私が出ていって……それからアコさんがやってきて、なにこれ?」

「銃を突きつけているな」

「見りゃわかるわよそんなの。でもどうして? どうしてこんなことをするのよ。フィーは……なにか警報のようなものを押したのね」

「で、アコニットは全力で逃げ出した。大将を気絶させてから縛ってスタコラサッサだ」

「でもおかしいわ。いくらアコさんがめちゃくちゃ強いって言っても、フィーを簡単に背負って走れるものかしら」

 持ってきていたAR眼鏡をかけながらクロエはイグを見上げ、そこで気がついた。フィルからのメッセージが来たことの通知が表示され、それがウィンドウ投影される。

 

 〈大変なことになった。手短にメッセージを送っておく。アコニットが僕を誘拐した。助けてほしい。地下基地にはプランBのための道具を置いてある。君にしか使えないものだ。地下の人なら全員知っている。ひどいことをしたあとでこんなことを頼むのは間違ってる。でも、これは僕が望んだ結末じゃないんだ。頼むクロ、助けに来てほしい〉

 

 きっとフィルがARコンタクトレンズの機能を使ってキーボードなしで送ってきたのだろう。手足を封じられていても視界にARキーボードを投影すれば目線で入力が出来るはずだ。

 音読し終えたクロエはイグの両肩に手を乗せる。人の肌ではない、樹木の感触を得ながら叫ぶようにクロエは口を開いた。

「フィーがプランBのための道具を用意しているって教えてくれた。それはどこ?」

「あそこだ。案内する」

 イグはクロエの手を引いて部屋を飛び出す。廊下にはシーとノームが待ち構えていた。

「クロちゃん!」

「シー、いまからプランBのための道具を取りに行く。なんなのか知ってる?」

 パワードスーツよ――シーの代わりにノームが答えた。

 それは聞いたことがある。というかフィルはそれに携わっている。遺跡発掘の団体にも関わっているし、パワードスーツの設計に携わる会社にも関係しているはずだ。

「シロが人のアニマノイドとして得た固有の能力、覚えている?」

「確か道具を発達させるとかなんとか」

「フィルはそれにかけていた。プランAがうまくいかなかったら、クロエちゃん、あなたにアレを鍛え上げてもらうしかないの」

「私が、シロが持っている能力でパワードスーツの性能を上げるってことかしら」

「そういうこと。さ、そろそろ着くわよ」

 目の前を小走りで行くノームがドアめがけて走り出す。自動ドアは小人を傷つけることなく開き、そしてクロエを暗い部屋に招き入れた。

 

 暗い部屋に明かりが灯る。

 倉庫のような大きな部屋だとクロエはすぐにわかったし、その中央にあるものに目が釘付けになった。

 丸いテーブルのような鉄の板が床にはめ込まれていて、三本の白い鉄棒が囲っている。鉄棒には無数の黒いロボットアームが接続していて、辺りには無数の紺色の目立つ金属パーツがある。

「まるで組み立て工場みたいな感じね」

「クロエちゃん。まずはあの床の上に立ってもらえる? あとのことは全部機械がやってくれるから」

 ノームの言葉にクロエは迷うことなく従った。駆け足で丸い鉄の床の上に立ち、背筋をピンと伸ばして装着を待つ。

「ねえ! 服は脱がなくていいの?」

「そのままで大丈夫だ。なんだお嬢ちゃん、脱ぎたがりか」

「んなわけないでしょうが。服着たままでこういうのがつけられるとは思わなくて」

「真面目だねえ。ところで、フィルの大将から俺のことは聞いてるか?

「なにも聞いてないわ」

「だろうな。俺は大将と同じ会社でこいつの設計に関わってた。だから助言はいくらでもしてやれる、心配するな! さ、しばらく動くなよ」

 装置の近くにあるリモコンのような機械を手に取り、イグが何回かボタンを押す。

 するとモーター音とともにロボットアームがキュルキュル回りだし、パワードスーツの部品であろう金属パーツを掴んでクロエの体に押し当てていく。

「ちょっと! 痛いんだけどッ」

「これでもだいぶマシになったんだぜ、我慢してくれ」

 ぶっきらぼうにイグが言い、その隣でシーが不安そうに見守っている。ノームは調整があるから、と残して部屋を出てしまった。

 

 またたく間にクロエの全身が紺色の金属の体になっていく。シャープな印象のある、角ばっていないデザイン。漫画でこういうヒーローがいたかもしれないな、と自分の身体を見たクロエは急になにも見えなくなった。ロボットアームが顔に覆いかぶせてきたのだ。

「だからいきなりガツガツやるのやめてって――うわっ!」

 真っ暗闇の中で文句をつけたクロエは、予告なく目の前が緑にぼんやり光ったのを見て驚きの声を上げた。装着された頭部パーツが投影するウィンドウにシステムチェックの進行具合が表示されている。

「お嬢ちゃん。HUDの調子はどうだ! 表示されてるものに不具合はあるか?」

「ハッド?」

「ヘッドアップディスプレイのことだ、いまシステムチェックが始まっていると思うんだが、問題はなさそうか」

「いま終わった。特にエラーとかは出てないみたい」

「オッケーだ。視界は?」

<オペレーションシステム起動。センサ類の起動を開始>

「なにこの機械音声? あっ、見えてきた。六角形のパネルがいくつも明るくなって、自分の体も床も見える。イグも、シーも」

 すごいよクロちゃん! とシーが喜びを隠さずに声を上げた。すぐに彼女はクロエを携帯電話で撮影すると画面を見せてくる。

 確かにすごかった。華奢な少女の姿などどこにもない。強化外骨格に身を包んだ性別不詳の人間らしい紺色の何者かがそこにいる。人間なのかアニマノイドなのかすら全くわからない。

 だがクロエは直感した。これは格好がいい。漫画やアニメで見たサイボーグヒーローみたいじゃないか。シーもそう思っているらしく、どこか力強い笑顔が見えた。

「すごく強そうだしかっこいいじゃない!」

「私もそう思う。シー、イグ、裏口はない? この格好でキャッスル経由で外に出るのはマズくないかしら」

 そんなこと言ってる場合じゃあねえが、とイグが壁を指差してリモコンを操作する。すると壁がひとりでに動いて小さなくぼみが現れた。

「そこに入ってくれ、カタパルトだ」

「カタパルトってことは、地上に射出するってこと?」

「ああ。壁に用意しているが性能は問題ない。ネクサスのどの島にでも飛ばせるんだ」

「アコさん……アコニットとフィーはいまどこにいるのかしら」

「監視カメラで見てるやつに聞いてみる」

 樹木の肌で隠れて分かりにくいが、イグは耳元につけているインターカムで何者かと連絡をとっていた。まだ見ていないスタッフだろう。もしかすると誘拐事件の仕掛け人の誰かかもしれない、とクロエは予想をつけて壁のカタパルトへと向かう。

「西の島の近くだ。どうやらそのまま西端を目指しているらしい」

「そこにふたりがいるのね」

「どうやらアコニットは猫をかぶっていたらしい。運動が得意なアニマノイドでも対応できるかどうかわからん」

「そりゃあの人はとても強い――」

「分かってる。こっちだって今日の出来事は全部モニターしてんだ、だがいまのあいつはそれ以上だって言ってんだよ。なにか仕掛けがあるかヤクでも決めてんじゃねえのか」

「――用心するわ」

「そうしてくれ。あとそうだ、そのパワードスーツの話は移動しながら行う。まずは動かして体に慣れさせておいてくれ」

 分かった。そう返す間もなくクロエは強い重力に顔をしかめた。

 飛翔する銃弾はとてつもない速度で銃身を駆け抜け目標へ翔んでいく。まるでいまの自分はまさに銃弾だ。全身が歪むような圧力に絶叫しながらクロエは夜の光が視界に飛び込んでくるのを認めた。

 

 体の細い月が煌めく星々のなかにいるのが見える。

 全身を包む浮遊感。次第に忘れていた重力が全身に戻り、背の高い観覧車ほどの高さまで射出していたクロエは落下していった。

「ちょっと待って、嘘でしょ!?」

 いくら強化外骨格に身を包んだとはいえこれでは死を待つばかりだ。

 漫画で見たこういうキャラクターはジェットパックなんかを背負っているが、そんなものはクロエにはない。

<アシスト機能を起動。姿勢制御アシストを実行>

 機械音声が頭の中で響くと同時にクロエの両手両足からごうッと炎が吹き出た。身体が勝手に動き、空中で四つん這いから直立姿勢へと変わっていく。

「助かったってわけ?」

「そういうわけだ。慣れないうちはアシスト機能がお嬢ちゃんを助けてくれる」

「イグ? どこにいるのよ」

「通信も問題ないな。まだ地下基地にいる。そこからサポートするってわけだ」

「なるほどね」

「ノームもそっちに向かってる。あの小人さんと一緒にやれば大将も助け出せるはずだ」

「フィーは西の島のどこにいるの? 初めてきたところだから土地勘もなにもないわ」

「いまはナラクっていうジェットコースターに向かってるみたいだ。そのHUDは声である程度操作ができる。マップの表示を命令してやればHUDに表示されるはずだ。やってみてくれ」

 遠くに空中で爆音。空中戦艦の砲撃がネクサスのバリアドームで遮られている。攻撃を防ぐたびに激しく青く発光していいる「。園内放送ではキャッスルに避難するように来園客に呼びかけていた。

 そんな様子を見ながらクロエはイグの指示通りに大きく声を上げる。すると緑色の園内地図が表示され、アトラクションの配置や名前も把握できた。ナラクという名のジェットコースターはここから近い。

「マップを閉じて。――ナラクの場所は分かった。すぐに向かうわ」

「オッケーだ。お嬢ちゃん、走りながら聞いてくれ」

 ジェットコースターに向けて駆け出すクロエは、自分がいつもの何倍以上の速さで動いていることを認めた。

 両足や背面に埋め込まれた推進装置が火を吹いて強烈に後押しをしてくれている。どんな陸上アスリートをも凌駕する性能をクロエは手にしていた。

「なに?」

「そのパワードスーツはとても強力だ。走る力も殴る力も、身体能力といって連想できるあらゆるものがとんでもなく強化されている。だが武器がない。手からビームは出ないし小型ビームもガトリングも搭載されてない。もしアコニットと戦うことになれば、こちらから武器の類を支援する」

「わかった。でも」

「どうした?」

「アコさんを、アコニットを、攻撃するだなんてできないわ」

「奴は大将を誘拐しているんだ。冗談でもなんでもなく、本気で」

「気持ちの問題じゃなくて技術と力量の問題よ。私、護身術を彼女から教えてもらってた。だからどれだけ強いかってのは分かっているつもり。パワードスーツがあったって勝てるかどうかが分からない」

「大丈夫だ。お嬢ちゃんなら、シロの力を持ってんなら大丈夫だ。なんとかなる。そう大将が信じてるんだ、俺だって信じるさ」

 とのことらしい。その考え方はクロエも理解できるし、納得もしている。少し前に激怒をぶつけた相手だが、親友だ。

 

 しばらく走るとナラクが見えた。西の島にあるアトラクションの大半が刺激強いものが多く、ナラクも見た限りでは絶叫系のジェットコースターのようだった。

 他のジェットコースターよりも高く持ち上がり、地面にあいた大穴に全速力で突っ込むようだ。そんなナラクのコースターは少しずつ動いていた。

「これは……あっ!」

 クロエは見た。プラットフォームに人影がある。あれは間違いない。アコニットだ。

「アコニット!」

「もしかして、クロエなの?」

「いますぐフィーを返して! どうしちゃったの、なんでそんなことしたの? 空にいる戦艦と関係があるの?」

 ぐったりしているフィルを脇に抱えながら「ついてこい」とだけ返したアコニット。その背中にクロエは一気に追いつく。手足と背面から炎を吐いて推進力を得て、待ち行列もなにもかもをすっ飛ばしたのだった。

(このスーツ、私のやりたいことに合わせていろいろ最適化してくれているみたい?)

「ずいぶん装いが変わったわね、でも似合ってる」

「とぼけないで。アコニット、あなたはRONの連中の仲間なの?」

「そうといえばそう。でも私たちの目的はフィルじゃない。あなたなの」

「どういうことよ」

「あなたが、いや、シロ・ピースフィールがかけた魔法を解くためにはあなた自身を解析する必要がある。サラマンダーはそう言っていた」

「どうしてRONなんかに参加したのよ!」

「強いものが世界を支配する――サラマンダーは有能であればアニマノイドも人間も問わずに評価する。私は自分を試したかった。彼らの言う理想郷で自分がどこまで通用するのか……確かめたかったのよ」

 そんな理由で? 崩れ落ちそうになるのをこらえながらクロエはアコニットをにらみつける。ヘルメットのせいで表情はわからないはずだが、怒りの態度は如実に現れていた。

「あなたもきっとやっていけるわよ。なんたって800年前の強敵があなたなのだから……その力を使いこなせれば私たちとうまくやっていけるわ」

「暴力と争いにまみれた世界がお望みだっていうなら、そんなのお断りよ」

「まるで救世主みたいな物言いね?」

「うるさい! 私はクロエ・ブルームだッ、フィーを返せッ!!」

 決断的にクロエが言い切るが早いか、アコニットはなにかを投げつけた。

 閃光と爆音。思わず顔を覆ったクロエは自分の体の異変に気づいた。HUDに〈異常知覚を検知。短時間感覚を鈍化します〉と表示されていて、実際に耳鳴りは急速に収まり、視界もなんらかの補正が効いてやや暗めになっている。

 生身で受けるよりは全くマシにちがいない。搭載されているコンピュータがとんでもなく優秀なのだろう。クロエは立ち直り、しかしそこにアコニットとフィルはいなかった。

「どこに行ったの!」

「嬢ちゃん、コースターに乗ったようだ」

 イグの通信に従って視線を向けると、コースターに乗り込んだアコニットが見えた。彼女はフィルを片手で掴み上げ、そしてコースターの外に放り投げられるように構えている。

「死なせたくなければ乗りなさい」

「アコニットォ!」

 噴射炎とともに駆け出したクロエは手近なコースターに乗り込んだ。アコニットの近くのコースターはもう上に登り始めていて、そこには行けそうにない。

「そろそろ空中戦艦がバリアドームを崩す頃合いよ。取引しましょう」

「取引?」

「あなたがRONに来てくれればこれ以上戦艦が砲撃をすることもないし、フィルが無残に死ぬこともない」

「嫌だと言ったら?」

「フィルを殺す。コースターの頂点から手を離せば間違いなく死ぬわね。もしかするとネクサスの来園客も戦艦の砲撃で大勢死ぬかもしれない」

 自分の身ひとつで数えるのも嫌になるくらいの命が失われる――そんな取引を一蹴できる手段はクロエの手札にはない。そしてフィルの生殺与奪を文字通り握っているのはアコニットなのだ。

「そうかい、まったく嫌な話だね」

「フィー!」

「助けに来てくれてありがとう、クロ。でもこいつの言うことを聞かないでくれ。もう僕らの知っているアコニットじゃない。耳を傾ける必要なんてない!」

 フィルが力強い調子でクロエに語る。聞こえないように振る舞うのはアコニットだけだった。そしてガラスが割れるような耳をつんざく音が空から響く。

 見上げればバリアドームが砕け散ったのが見えた。攻撃を防いで青く光った破片が空気に溶けるかのように消えてゆく。

 思えばそんなものが遊園地に搭載されているのは初耳だし、必要があるのかとも感じたが、裏で巡る思惑たちを顧みれば防衛のためにあってもおかしくないのかもしれない。そんなことを考えたクロエは、ぐっとアコニットをにらみつけた。

 この状況で助けが来るのだろうか。地下基地の人が別のパワードスーツを着てやってくるというのは考えられないか。だが時間がない。どれだけ用意が整っていたところでそれを披露する時間がどこにもない。

「コースターが落ちるまであと1分もないわよ。どうするか考えなさい。私たちと来てみんなを救うか、くだらない意地を張ってみんな死なせるか。あなたの願いはどちら?」

 冷たい響きを持ったアコニットの声に、クロエはなにも答えなかった。だがしばらくの沈黙はクロエの側から破られる。

「フィーもネクサスにいるみんなも死なせない。それが私の願いよ!」

 少女の願いは青い破片が降り注ぐ夜空に響いた。どこまでも真っ直ぐに。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最終話 チェックメイト

 

 第20話 チェックメイト

 

 西の島の一際強烈なコースター「ナラク」はクロエとフィルとアコニットを乗せて頂点へ向かっていた。朝と同じ黒コートに身を包むアコニットはフィルの足首を掴んでコースターの外に吊るし、クロエに揺らして示している。

「なにを言ったかよく聞こえなかったわ」

「ネクサスにいる人も、フィーも、死なせないって言ったのよ」

「は! まるで救世主気取りね」

「アコニット! あんたも今更よ、悪党を気取って何がしたいのよ。全然あんたのイメージにあってない!」

 心底面白そうにアコニットは笑い、空いている左手で腰に吊っている拳銃を抜き、クロエに狙いを定めた。真っ黒な銃口はクロエの紺色のヘルメットに向いている。

 強化外骨格の頭部に銃弾は通用するのか? よく分からないが油断だけはしてはならない、とクロエは警戒した。撃たれて痛くない、なんてことがあるはずがない。

「前のめりな気持ちでいると死ぬわよ。怖いでしょ、影で震えて縮こまっている方が全くいい」

「そんなことしている時間はない! 私の気持ちは変わらない。フィーも助けて、ネクサスの人たちも守る!」

「わかった。取引は不成立。クロエ・ブルームの回収に失敗し、フィル・メーベルの殺害とネクサスへの攻撃を開始――それで構わないわね?」

「できるものならやってみなさい!」

 銃を向けられてもクロエは臆することなく力強く言い放った。宙吊りになりながらもフィルはその姿に勇気づけられと敬意の念を覚える。

 彼女は大昔の救世主ではない。しかし自分の意志で困難に立ち向かおうとしている。自分の立てた計画がどれだけ愚かで卑しくて後ろ向きだったのか、嫌というほど思い知った。

 だがフィルは自省とともにある疑問を抱いていた。クロエなら頑張れば人をひとり助けることが、つまり自分をどうにか助け出せるのかもしれない。しかし彼女ひとりではバリアドームの代役は務まらない。

 いったいどうやって成し遂げようというんだ。すぐにでも答えを知りたいが状況が状況だ。フィルはクロエを信用する。クロエとの関係は偽りの親友になろうという呼びかけから始まった。それを踏みにじってなお、クロエは自分を大切に思ってくれているらしい。ならば出来ることは親友を信じ切ることしかない。

 

「あと10秒で頂点ね」

 アコニットの言う通り、ナラクは落下する一歩手前の状況だった。

 5秒、4、3――アコニットが秒読みし、0になったと同時にナラクは落下を始め、アコニットがフィルを手放し、クロエはコースターから飛び降りていた。

「うわああああッ!!」

「フィー! そのままでいて!」

 クロエの鋼鉄の身体、その両足から炎が吹き出て落下速度が高まる。そして彼女は自由落下よりも早く落ち、フィルの身体を思い切り抱える。

 その時クロエとフィルを暗闇が包んだ。空に雪も月も星もない。あるのはネクサスの照明と、地面に向けて伸びるクロエの逆噴射の光だけだ。

 少し先も見えぬほどの暗闇の中、クロエは逆噴射の向きを変えて横転。落下の衝撃を和らげながらフィルを抱えて雪に覆われた歩道を何度も転がっていく。

「うわっ、ハアッ、はーっ、助かった、のかな?」

「私が助けたの」

「クロ……ありがとう。来てくれたんだね。でもゆっくりしてられない、急いでバリアドームの再構築を――」

「その必要はない。少なくとも死ぬほど急いで動く必要はないのよ」

 ひゅー、と暗い空から音が聞こえた。砲弾が降り注ぐのかとフィルは身構えたが、数秒立たずに彼は唖然とした。空が赤に青に緑に彩られている。

 否、それは空ではなかった。色とりどりの打ち上げ花火に照らされたネクサスは、巨大な土のドームの中にあったことをクロエとフィルはひと目見て理解した。

「土のバリアドーム?」

「ナラクであがっている間にノームからメールが来たの。バリアドームが壊れても自分がどうにかするってね。テキストメールだったから音を立てずに読めた。だからアコニットや空の戦艦を出し抜けたってわけ」

「そうだったのか。よし、アコニットを捕まえよう。RONの手先なら捕まえて情報を聞き出せるかもしれない」

「待って! フィーは安全な場所に逃げていて」

「それじゃダメだ、アコニットは――」

「フィーの腕が折れてるの、自分で分からないの?」

「――え?」

 言葉を途切れさせてフィルは両腕に目を落とした。彼の右腕は力が入っていないようにだらんとたれている。無事な左手で持ち上げたり揉んだりして、しかし右腕に力が戻ることはなかった。

「折れてるねこれは……たぶん折れたてで痛覚が間に合ってないんだ、それか興奮し過ぎで痛いって分かってない」

「どちらにしてもそんな身体じゃ一緒に戦ってもらうなんてできない。フィーははやく地下基地に逃げていて」

「分かった、クロの言うとおりにしよう。地下基地から君をサポートするよ。それにノームがどこでなにをやっているのかも気になる。地下からなら把握できるは――あぐっううッ」

 右肘の辺りを抑えてフィルが苦痛に顔を歪ませた。叫びださないのは消えたアコニットに状況も情報も知らせないためだとクロエは踏む。

「ああっ、ああぐッ」

「フィー、ひとりで行ける?」

「いま迎えを呼んだ。この、コンタクトレンズを使ってね……クロ、アコニットはナラクから飛び出してくるはずだ。そこが地面から飛び出すポイントなんだ」

 左手で指差すフィル。地面から現れたナラクが勢いのまま3連続ループをして乗客を恐怖と絶叫の渦に叩き落とす場所だ。赤い花火が照らしていたそこは岩が積まれていて、地獄に続くような陰影を浮かび上がらせていた。

「あそこで出迎えればいいわけね」

「……アコニットがRONとつながりがあるのなら、話を聞ければとても価値がある。助けに来てもらって悪いけど、もうひとつ頼まれてくれるかい」

「分かった。私もアコニットには言いたいことや聞きたいことがたくさんある」

「空中戦艦のことはノームに任せて大丈夫のはずだ」

「そうね、あんなに分厚そうな土の塊なら……フィー、行ってくる」

 頼んだよ。弱々しい調子でフィルは残し、頷き返したクロエは駆け出した。

 

 

 

 ナラクが飛び出してくるのは音を聞けば分かった。洞窟めいた地下から聞こえる駆動音は、いつか見た映画の怪物の鳴き声みたいだ――身体が凍りつくホラー映画を思い出したクロエは、紺色のヘルメットの中で真剣な表情を浮かべる。

「アコニットオオォッ!!」

 飛び出すナラクに向けて吼えたクロエは両手両足から炎を噴いて追いかけ、最先端に座るアコニットに迫る。

「驚いた。まさかクロエの言うとおりになるなんて」

「ここであんたを倒して、RONのことを吐いてもらうわよ!」

「土のドームはノームの仕業ね。はあ……でも、これに乗ってるときにボスと話したの。クロエ、あなたを連れて行くわ」

 3連続ループに差し掛かるが、速度も重力もなんの障害にも思わないようにアコニットは立ち上がる。思わぬ行動にクロエは目を開き、次の瞬間には頭を掴まれていた。

「なっ!」

「歯を食いしばれッ!!」

 言うなりアコニットはクロエを投げた。投げた先はナラクのループの支柱。パワードスーツを着込んでいるとはいえ直撃は危険だ――考える前にクロエは両足の噴進炎を使って軌道をそらし支柱への激突を免れた。だが地面へ激突し、雪と地面をえぐりながら何度も転がって勢いがなかなか衰えない。

「がっぐふっごっごごあッ!! ああッ!!」

 声にならない悲鳴を上げてようやく止まったクロエ。彼女の前に転がってきたのはアコニットだった。3連続ループの途中で飛び降りたアコニットはクロエよりも華麗に着地を成功させて受けたダメージも抑えていた。

「だいぶ体にきているようね」

「まだ、まだだ!」

 よろりと起き上がったクロエは再び吹き飛び顔を雪に埋めた。アコニットが手近なベンチを両手でぶん回して攻撃したからだ。

「グワーッ!」

「降参すればこれ以上痛めつけることもないわ」

 今度は三点着地を決めたクロエはすぐに電柱をもぎ取って軽々と構える。

 ヒーロー映画やバトル漫画を読んだ経験と想像を、パワードスーツが現実に可能にしてくれている。それをクロエは理解したし、同時にアコニットに疑問を抱いた。

 

 ナラクに乗っていた時からアコニットはおかしかった。ナラクを降りた時からもっとおかしくなった。

 これがアクション映画ならまだ納得はできる。だがこれは現実だ。現実にフィクションじみた動きをするなら相当な強運か、あるいは相応の装備を用意する必要があるはずだ。

 アコニットはなにかを仕込んでいる――それは間違いないはずだ。であれば、それをどうにかできれば、人間を通り越して化け物じみてしまったアコニットをどうにかできるのではないか?

 バチバチと音を立てる電柱を構えるクロエは、しかしそれが難しいことを悟った。自分の手におえないかもしれない敵を相手にそんな戦い方はできるほど、クロエは自分が強くないことを理解していた。

「あくまで抵抗するってことでいいのよね」

「あんたを黙らせて、捕まえるんだから」

「そう。ならやってみせなさい!」

 言うが早いかアコニットはベンチを投げつけた。クロエは電柱を振るって撃ち落とし、いびつな音に目を細めながらアコニットが走って迫るのを見る。

 返すように電柱を横に振るうとアコニットが飛んで避ける。狙い通りだった。クロエが背面から炎を吐いて飛び上がり飛び蹴りを喰らわせる。

「だああああッッ!!」

「ッ、なかなかやる――」

 何事もないように着地を決めるアコニットに電柱を振り下ろすクロエ。その衝撃は勢いよく巻き上げられた大量の雪が物語っていた。

「――でも、私には勝てない」

 紙一重で避けていたアコニットは手近なアトラクションに駆け出す。西の島では数少ない刺激の控えめなライド、その一つのメリーゴーラウンドだ。

 陶器の白馬たちがひしめく狭い場所で電柱なんて振り回せるわけがない。敵が地の利を得たことを悟ったクロエは、電柱を振るうのは飛んできた陶器の白馬を撃ち落とすので最後にすることにした。

〈嬢ちゃん、聞こえるか! いまからそっちに武器を投げる、うまく使ってくれ〉

 突然頭の中に声がした。イグからの通信だと理解するころには横からなにか投げ渡された。目立たない灰色のコートに身を包んだシーがクロエに物を投げていたのだった。

「シー!?」

「あとでまた来る! そのバケモンは私たちの手には負えない、クロちゃんに頼るしかないの!」

「これはッ! 分かった、任せて!」

 シーが投げよこしたのは黒塗りのサブマシンガンだった。すでに発砲出来る状態らしく、予備弾倉はない。すぐにHUDが、強化外骨格をまとう今ならストックを使うことなく反動なしで30発撃てることや射撃アシスト機能が使えることを通知した。

 背面から炎を出して猛然と迫るクロエ。残る陶器の白馬を慣性の効いたスライディングでかわしつつ引き金を引く。ばばばら、と小気味良い音が花火の音に混じり、しかしクロエは苦い顔をした。

 デタラメな構えだったが射撃アシストのおかげで狙いは正確だった。なんの訓練もなしに素人が玄人並みの射撃精度で初めて扱う銃をぶっ放せていた。だがアコニットには通用しなかった。再びベンチをもぎ取った彼女は盾代わりにそれを振り回したのだ。

「くそッ!」

「とんでもないパワードスーツね、そこまでフィルたちの技術が優れていた? それともあなたが『それ』を成長させているのかしら」

 残弾数20。シーは次の武器を用意しているはずだが、すぐに使い切るわけにもいかない。

 ベンチを片手に縦横無尽にステップするアコニットに狙いをつけつつ、クロエは前に駆け出した。スキを見せたらただちに銃弾をうちこむ。

 致命傷にならない部分を狙うのは射撃アシストの力を借りればどうにでもなる。だがアコニットが簡単にスキを見せるとは思えない。

 見せないのなら作り出せばいい。クロエは手近なゴミ箱を手にとって思い切り投げつけ右に踏み込む。背部から炎を吹き出して移動距離を大幅に増やして。

 投げつけたゴミ箱は、普通の人間が受ければ大怪我を負うのは間違いなかった。それだけの威力をつける投擲をした自覚がクロエにはあったし、アコニットがベンチを振り上げてゴミ箱を払い除けたことも狙い通りだった。

 クロエがサブマシンガンを撃ったのはアコニットがベンチを振り上げたのと同時で、狙いは両脚に向けていた。射撃アシストが10発の弾丸を予測コース通りに飛翔させる。だがその先にアコニットはいなかった。

「強引に横を取るのは悪くない。でもまだ届かないわね」

 アコニットは前にステップしていた。そのままベンチをクロエに向けて投げつけて懐から拳銃を取り出す。

 炎の勢いをまとった左の裏拳でクロエは迎撃し、飛んでくるベンチを粉砕し、そして大きくのけぞった。頭に岩がぶつかったような衝撃がクロエの意識を飛ばしていた。しかしどうにか気絶を踏みとどまったクロエは意味不明の叫びを上げて横転し、意識を掴み戻すようになんども雄叫びを上げる。

 そうしながらクロエは理解した。アコニットが持つ銃が自分の頭を撃ったのだと。死ぬほどの威力ではないが連続して受ければ気絶することは間違いない。そもそも頭に銃弾を受けて死なないのはパワードスーツの防御力があってのことだ。

「この弾を受けてまだ動けるの」

「倒れるわけにはいかないッ!」

 クロエが苦しんでいた間に別のベンチを手に入れたアコニットが発砲。クロエも同時に引き金をひきしぼる。HUDがアコニットの射撃を落とせると通知、残りの銃弾を叩き込みながら背部からの炎で推進力を得てスライディング。

 アコニットの銃弾を銃撃で潰し、高速スライディングの勢いのままクロエは激突する。アコニットの左足を狙ったクロエの攻撃は外れた。

「スライディングキックのつもり?」

「その通りよ!」

 上体を起こして軌道を変更。クロエはアコニットの足元で垂直に飛び上がりながら竜巻じみた回転蹴りを繰り出した。足裏から吹き出す噴射炎がもたらす強烈な威力の蹴りがアコニットが持つベンチを砕き、しかし2撃目をアコニットの両手が抑えた。

「そこだ!」

 身体のどこかを押さえれば銃撃を避けることなど出来るはずがない。クロエは頭を狙わないように残りの弾をばら撒き、弾切れになったサブマシンガンを遠くに投げ捨てた。

 3発命中。HUDに表示されたのを横目にクロエは殴る。銃弾を腹に受けたアコニットは抵抗しようとするがクロエのなすがままにされていく。

「イヤーッ、でりゃあッ、オラァッ!!」

 素人同然の大振りな打撃。ふだんのアコニットであれば簡単にいなせる攻撃のはずだとクロエは分かっている。だが銃弾が命中して抵抗が出来ないということは大きなアドバンテージを握っていることに他ならない。

 勝った。何度も殴りつけて、上に乗って、また殴って、クロエは確信した。勝った。アコニットはどんどん抵抗する力を弱めている。

「降参、しろッ!」

 顔面を狙うタメにタメた右ストレート。しかしそれは雪を抉って地面を砕くに終わった。雷が落ちるかのような速さで頭を横に振って避け、クロエはアコニットとの距離が遠く離れていくのを認めた。

「えっ? ――うぐああッ!」

 大砲でも打ち込まれたかのような衝撃。アコニットの両足の蹴りは一つ遅れてから重い痛みを腹部から全身に伝えていた。

 激痛に叫びを上げながらクロエはコースターの支柱に手を伸ばした。両手両足から推進炎を吹き出し、支柱を掴んで1回転。勢いをつけたままアコニットに突撃する。

 上空から噴進する紺色のパワードスーツが繰り出す打撃は間違いなく人間を殺せる。その自覚はクロエにあったし、そうでもしないと妙な細工をしているアコニットを止めることが出来ないと考えていた。

 だがクロエは頭が割れるような激痛に絶叫。強い衝撃で軌道がそれてアコニットの隣に激突して派手に転がっていく。激突する前、アコニットが両手で拳銃を構えているのをクロエは見た。それが何度も火を吹き、白い煙が上がっているのも。

「ぐはっ、ぐあああッ!!」

「安直な攻め方だった。あと少しでやれると思ったんだろうけど、そこがもう間違ってる」

 ようやく転がり終わって力なく仰向けになったクロエを踏みつけたアコニット。彼女は笑い、黒スーツをつまんでピンと張ってみせた。

「これにも、靴にも、身体の中にも、結構な数の細工をしている」

「なんの、話……」

「クロエみたいに『自分は強化外骨格を着ています。強いです』と悟られないように自分を強くする方法がいろいろあってね。身体に埋め込んだり、スーツが特別仕様だったり」

「くそっ、要点はなんなのよ」

「大げさなパワードスーツを着て勝ち目があったと思ったんだろうけど、こっちは同等以上の性能を持ってるって言いたいだけ。このハンドガンも特別仕様でね。人間じゃないものを撃てるようにしただけ。やられたフリに気づかないなんてまだまだ甘いわ」

「でもそれなら、第二のゲームで、右肩を撃たれた時、どってことないように振る舞えたはず」

「あれは普通の黒スーツだったから。痛いなんてものじゃなかったけど、あの狼のアニマノイドの射撃センスは一級品ね。サラマンダーのお眼鏡にかなうかも」

 ふざけろ――クロエは最後まで言えなかった。アコニットに抱えられてそのまま連れられたからだ。

「どこに連れてく、つもりなの」

「空中戦艦に。あの土のドームを壊さないとダメね」

「……そんなに好きなの、弱肉強食の世界が? ムダな争いのない世界は嫌いなの?」

「嫌いじゃない。でも自分の力を試せる場所のほうが好きってだけの話よ」

「私を、RONに連れていくって、前々から決まっていたの?」

「そうよ。サラマンダーは800年前の魔法を解きたい。そのためにはシロ・ピースフィールが必要なのよ。精神がクロエでも構わない。魔法を使った肉体があればいい」

「それならいくらでもチャンスはあったわね」

 アコニットの足が止まった。激痛に苦しみながらもクロエは続ける。

「今日、いくらでも私をさらうチャンスはあったわ。フィーの自作自演の誘拐事件はあなたも分かっていなかった。でも私が目的ならこんなことする必要なんてない」

「……」

「RONに尻尾を振りたいならフィーなんて放っといて私に手を出せばよかった。弱肉強食を良しとしている組織なんだから『力及ばず誘拐されてしまった男の子』なんて必要ないのよね? 思い入れを持つこともないはずよね? 間違ったことを言っているかしら」

「ずけずけと気にしていることを言ってくれるじゃない」

「ねえ、弱肉強食の世界が好きだなんて、ホントは思ってないんじゃない。そんなのが好きなら甘い動きなんて見せるはずがない」

「……確かに私は甘かった。フィルがどうなろうと無視して、最初にやってきたあの公園であなたを誘拐してもよかった。それが出来なかったのはメーベルへの恩義や葛藤があったからってのは否定しない。でも、もう、私は甘さを捨てたのよ」

 どこか物悲しげに聞こえた。クロエはしかし悲しみに呑まれず、アコニットへの敵意を燃やし続け、視線はベンチの裏の暗がりに向ける。そこには大きなライフルを手にして伏せる、白コートに身を包んだロンの姿があった。

 狼のアニマノイド、その鋭い目はスコープと標的のふたつを同時に見澄ましている。そしてクロエは理解した。ロンの狙いはアコニットが怪我をしている右肩だ。こんなことが出来るくらいには傷が治ったのだろうが、半日も経たずに完治するわけがない。

 

 アコニットと戦いを繰り広げている時に、地下基地のメンバーが目立たぬところで準備をしていたのは間違いない。シーが武器をよこしたのも、ロンがライフルを構えているのも、全てはアコニットをとらえてRONの情報を引き出すためだ。

「悪いわね、クロエ」

「なにをどの口で――」

「全部あなたの思い通りになんてならないのよ」

 言うが早いかアコニットはクロエを手放し、同時に振り返りつつ拳銃を3発撃った。ロンが隠れているベンチに向けてだ。

 遅れてずがんとライフルの射撃音が響くが、アコニットの身体から鮮血が噴き出ることはない。クロエが見たのは粉々に壊れたベンチと、その下敷きになって動けないロンの姿だった。

「――そんな!」

「今日は五感が冴えてるみたいね。しかしどうやって土のドームを突破すれば……穴が空いたってことは空中戦艦がうまくやってくれたってことね」

 絶え間なく打ち上がる花火と照明弾が西の島に近い天井に空いた穴を照らしていた。そこからは空中戦艦が黒煙を上げているのが見えた。ノームの努力によるものだとクロエは直感したが、肝心のノームがどこにいるのかさっぱり分からない。

「それにしてもあの小人の魔法は凄まじいわ。戦艦の砲撃をこれまでの時間ずっと耐えてきたってやはり脅威ね。早く仕事を終わらせないと」

「褒められるなんて照れくさいね。でもクロエちゃんは渡さないよ」

 どこから声がしたのかクロエもアコニットも分からない。だがクロエは声に聞き覚えがあった。ノームが助けに来てくれるらしい。

 ひとつ遅れてアコニットが横に吹き飛んだ。地中から現れたノームが振るった杖が痛そうな鈍い音を響かせている。

「くっ!」

「遅れてごめんね。クロエちゃん、立てる?」

「ダメ……結構もらっちゃったみたい」

 上から降ってくる土塊の一部が浮いてノームの頭上に漂うのをクロエは見た。彼女が右手に握る笛のような白い杖が左右に揺れるのにあわせて土塊も左右に動いていく。どう見ても魔法だ。科学技術の立ち入る領分がどこにもない。

「それじゃあそこで休んでて。あいつは私がどうにかする」

「戦艦はどうなったの」

「なんとかしているわ。しばらく大丈夫」

 土色のローブとくしゃくしゃの三角帽子に身を包んだ小人が強く杖を振り、浮かんでいた土塊がアコニットに向かって飛ぶ。弾倉を交換したアコニットの射撃でひとつひとつが弾け飛んで崩れるが、次第にノームが押していた。

 瞬間、ノームが雪を蹴ってアコニットの足元に飛ぶように近づき、土塊を飛ばしながら杖を振るっての接近戦を挑む。魔法使いと戦うだなんて今日この時が初めてだろう。アコニットがやりづらそうに応戦しているのをクロエは見ながら、HUDが新しいウィンドウを表示しているのを見た。

 

 

 

 自己進化プログラムより通知。

 強化外骨格「ピースフィール」の強化を完了。

 前バージョンと比較して全能力が向上。

 装着者の痛覚抑制を実行可能。

 

 

 

 頭のてっぺんからつま先まで爽やかな感覚が走ったのを覚えたクロエは目を見開いた。

 アコニットにやられた身体のダメージがすうっと引いていく。痛みはあるのにそれが重いとかつらいと感じない。

 立ち上がる。指の先もなめらかに動かせる。頭だってスッキリ冴えている。

 遠くではノームが杖を支えにアクロバティックな動きでアコニットの格闘と銃撃をかわし土塊を飛ばしていた。一歩前に踏み出す。背中からごうっと炎が噴き出す。もう一歩を前に。足裏から炎が噴き出る。

「しゃがんでノーム!」

 直後、クロエはアコニットの右肩にラリアットめいた右腕の打撃を叩き込んだ。アコニットが苦悶の表情を隠しもしないのを見たのは初めてだった。

 本気で痛がっている。特別な黒スーツやらを使って強くなったとはいえ、今日できた傷を全力で殴られて平気な顔をしている人間なんているわけがない。

「んがあああッ!!」

 クロエは攻撃の手を緩めない。右腕を振り抜いた後で両足で急制動、その勢いのまま回転して左の手のひらから一段と大きな炎を噴き出して裏拳を繰り出す。狙いはアコニットの右肩だ。

「チェック――」

「あがああああッ!!!」

 紺色のパワードスーツ、分厚い装甲を通じて、アコニットの右肩が砕けたことをクロエは知った。いや、砕けたというよりは爆発したような手応えだった。

 紺色のヘルメット越しに顔をしかめたクロエは、それでも躊躇することなく左の裏拳を振り抜いた。

「――メイトだあああっ!!」

「あがッ、がああああッ!!」

「はあ、はあっ、勝負ついたわね」

「どうして、さっきまでとは違う! あがっ、そうか、シロの能力は――」

 なにかに気づいたアコニットは、しかし痛みに絶叫してのたうち回り立ち上がることすら出来ていない。

「――あああああああッ!! 道具を発達させる! こんなに凄まじいものだったの、があああッ!!」

 アコニットの驚愕はクロエもよく分かっている。先程まではどうしてもアコニットに有利を握らせてしまっていた。自分が優位に立てることはなかった。それがどうだ。一気に立場が変わっている。

 人間のアニマノイド、シロ・ピースフィールが持つ固有の能力、あるいは魔法の持つポテンシャルにクロエは戦慄した。これが自分の魔法なのか。「人間のアニマノイド」の力なのか。

 強化される前のパワードスーツで同じ攻撃をしてもこうはならなかっただろう。それどころか攻撃が当たることもなかったに違いない。

「やったわね、クロエちゃん」

「ノームの……みんなのおかげよ。空中戦艦はどうなったの?」

「砲撃は止んでいる。でも……もう一度見てくるわ。ここはクロエちゃんに任せて大丈夫かしら?」

「ええ。他の仲間達も来てくれている。行ってきてもらえる?」

 分かった。ゆっくり頷き返したノームは地面から土塊を生やして天に向けて伸ばし、それに乗って去っていく。

 

 遠くに見えた人影はシーとロンのものだった。ロンは大きな怪我はしていないが、派手に壊れたベンチに巻き込まれた怪我が白コートの赤いしみになって傷を物語っていた。

「なんとかやったみたいだな。お手柄だぜ!」

「みんなのおかげよ、ありがとう」

 痛みに顔をしかめながらも狼のアニマノイドは大笑いしていた。隣のシーはどこか複雑そうに、それでもクロエの健闘を心から褒めるように微笑んでいる。

「さ、お嬢ちゃんはそこらで休んでいてくれ。シー、お嬢ちゃんを頼む」

「分かったわ。さあクロちゃん、そこで休まない?」

 西の島の一部を目茶苦茶に荒らしてしまったが、それでも無事な場所のほうが多い。雪を薄くいただいているベンチを指さしたシーはクロエの支えになって歩きだした。

「大丈夫よ。ロンが手錠を持ってるから」

「私……仕方がないとはいえ、そうしなきゃならなかったのは分かってるけど、とても怖い。なんていうか、うまく言えないけど、たぶん怖がってる」

「人を傷つけたのは初めて?」

「ここまで痛めつけたのも、苦しめられたのも、どっちもね」

 ベンチに座ったクロエはアコニットが激痛でのたうち回っているのをじっと見つめた。そこにロンが近づき手錠をかけようとして、失敗した。

「ぐわあッ!?」

「捕まらない、私は、私はッ!!」

 極限状況の中でもアコニットは自分の成すべきことを忘れていないし、成そうとすらしていた。手錠をかけようとするロンを組み伏せ絶叫しながら拳銃を構えたのだ。

 飛び起きるようにベンチから離れたクロエはシーをかばうために前に出て顔の前に両腕を突き出す。

 

 目のさめるような銃声。

 クロエを狙ったアコニットは膝から崩れ落ちた。組み伏せる力が緩み、ロンは自力で拘束を解いてアコニットに手錠をかけようとしてまたも出来なかった。アコニットが振るう左の裏拳を頭に受けて気絶してしまったのだ。

 そしてクロエは自分の身に起きたことを信じきれていなかった。

 パワードスーツが予測を立てた弾丸飛翔コース。そこに右手の親指と人差指をかざし「弾丸を挟んで」みせたのである。弾丸の高温で指の装甲がじゅわあと音をたてるのをクロエは聞き逃さなかった。

「クロちゃん、もしかして……」

「弾、つかんじゃった」

「なんてこった。クロちゃん行くとこまで行っちゃったね。守ってくれてありがとう」

 これ以上は無理だと判断したのか、アコニットは銃口をクロエから外す。後ろでシーが喜んでいるのを横目に、クロエはびだりと動きを止めた。

 

 アコニットが拳銃をこめかみに当てている。誰がどう見ても自殺する姿勢であることは明白だ。

 なぜそんなことをするのだ? 疑問に思ったのは駆け出してからで、その動きもアコニットが「来るな」と地獄の住人のような低い声を効かせ、きゅっと止まってしまっている。

「その銃をおろして」

「出来ないな、無理な相談よ」

「どうしてそんなこと――」

「クロエ・ブルームを生きたまま捕らえ、連れ帰る。これができれば私は晴れてRONの正式なメンバーになる。出来なければ自決しろ。サラマンダーからの命令はこうだった」

「――だからって言われたとおりに死ぬなんて!」

「弱いものは要らない。サラマンダーはそう言ってた。私もそう思う。こんな平和に浸かりきって惰弱になった人類なんて……必要なのは強者だけでいい。そして私は惰弱な人間よ。サラマンダーが説いていた世界はとても美しい。たまたま戦いの才能があった私がどこまで通用するんだろう。前にも言ったけど、試したかったのよ。自分を」

「アコニット、あんた、相当バカみたいなこと言ってるわよ」

「あなたの言うバカにしか分からない境地があるの。でも結局、最初の一歩でつまづいて、そこで終わり。そしてサラマンダーは、私が憧れた世界のリーダーは、そこでコケた奴なんて必要ないと言い切るわ」

「少なくとも私とフィーは必要としている。分かるでしょ!」

「惰弱な人間は必要ない――そう考えてる側にいるのよ。必要ないと考えている人間に求められたところで、でも、クロエに求められているのなら悪くないかもしれない」

 愉快そうに笑ったアコニットは、しかし吐血して体勢を崩す。仰向けになった彼女にクロエは近づけなかった。気迫が凄まじい。この世界の住人ではないような、おぞましく恐ろしく、それでいてはかなげなアコニットの表情を前に動けないでいた。

「おしゃべりはこのあたりでおしまいね」

「RONはあなたを助けにはこないの?」

「弱者は不要。それがサラマンダーの考えだと言ったでしょう? こんなことになった私が任務を遂行できると思う? 彼らはそれほどバカじゃない」

 クロエのHUDにノームからのテキストメールが届く。〈奴らが撤退した。私たちが勝ったんだ〉の一文だけが表示されていた。

 仲間になることを望んだ者を、任務に失敗したからといって切り捨てる。弱肉強食という自然の掟に従う。それがルール・オブ・ネイチャーズという組織なのだ。クロエはその事実に打ちひしがれていた。

「アコニット……考え直さない? RONに入る道が閉ざされたのなら、私たちと一緒にRONと戦おうよ」

「それは出来ない相談ね。見て、私の体を」

 右肩を中心に激しく出血している以外に変哲のないアコニットの体が予告なく燃える。膝から発火が始まり、静かにゆらめく炎は全身にゆっくり舐めるように広がっていた。

「そんな!」

「RONに志願した時、サラマンダーに魔法をかけられた。そういう契約、決まりごとだった。任務に失敗すれば焼き殺されるってね」

「水、水を……シー! そこらの雪をかき集めて!」

「ムダよ。もう手遅れ。内臓だってだいぶやられてる。厄介なことに、この炎は痛みもないし生きてる間は焼き尽くすまで広がっていく。正直、そんな死に方は嫌なのよ」

 息をついてアコニットはこめかみに拳銃を強く押し当てた。彼女を焼く炎は下半身を完全に覆い焼き、腹のあたりを少しずつ焼き広げている。

「クロエに手を汚させるのは嫌だからね。だから甘いのかも」

「アコニット……いやだ! そんなの認めない!」

「わがまま言わないで、フィルに伝えておいて。メーベル家で仕えていたあの日々、あの日常も悪くはなかったって。ただ、それ以上に輝いて見えたのが、RONという組織とそこで過ごす日々の想像だったの。それじゃあね、クロエ」

 腹を焼き尽くされたアコニットの右手に力が入る。

 こめかみに当たっている拳銃が、くぐもった銃声を一度だけ響かせた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ

 黒コート姿でクロエは夜明け前のネクサスを歩いていた。夜空を舞う飛行戦艦の砲撃からネクサスを守った土のドームは、脅威のないいまなら無用であった。すでにノームの手によって崩れ、海のなかに消えている。

 彼女の脳裏に強くこびりついていたのはアコニットの死に顔だった。全身を炎で舐められ尽くされるのと、自ら頭を砕いて死ぬのは、いったいどちらがマシなのだろう――これまで見てきた中で最も衝撃的な場面だったのは間違いない。そのショックと、昨晩の戦いで負った傷が、クロエを眠らせなかった。

「そこにいたのかい。ちょっと待って!」

 セントラルと北の島を結ぶ「プリズム大橋」を小走りで進むベージュ色のコートの少年がいた。クロエは振り返らずとも声でそれが誰なのか分かった。フィルだ。

「おはよう、フィー」

「ああクロ、おはよう。その、体の調子はどうだい」

「眠れなくて最悪よ」

「そりゃ……眠れないならひどくなるばかりだ」

「フィーは? 腕の骨折は半日で治るわけ無いと思うけど」

「今は痛み止めとかでどうにか動けてる。今日の朝にでもちゃんとした治療を受けないとならないね」

「なんだ、私と同じようなものなんだ。薬のおかげで平気な顔して歩いてられる。ボロボロじゃん」

 クロエの言葉にフィルは愉快そうに笑った。無理してそうしているのはひと目で分かる。

「そこのベンチで休憩しない?」

「うん。ここなら日の出がよく見えるかも」

 空に雲はなく、うっすらと空が白くなりつつある。様々な思惑や悪意と危険にまみれた昨日は遠く過ぎ去ろうとしている。

 ゆっくり体を休めながら、気になったことをクロエは口にすることにした。

「ねえフィー、お客さんで怪我した人っているのかな」

「それがいないんだ。RONの空中戦艦の砲撃はバリアや土のドームで防いでいたからね。直接の戦闘員が降下してきたわけでもないし」

「でもネットのニュースで見たよ。RONは自らの存在を明かす声明をだした」

「うん……これからは、これまでのような平和な日々が送れないかもしれない。彼らならきっと、世界に弱肉強食を押し付ける争いを仕掛けるだろう。それがいつかは分からない。僕らに出来るのは、その日のための備えをしておくってことだけだよ」

 自分に言い聞かせるようにフィルは言い、空を仰ぎ見た。そんな彼の頬にクロエは右手を伸ばす。先程まで彼女は紺色のパワードスーツ「ピースフィール」に身を包んでいた。それに比べたら自分の腕などなんて折れそうなまでに細いのだろう。

 一度に無力になったような気がしたクロエは、しかしフィルの体温を感じて安堵した。

「クロ?」

「暖かいなあ……ちょっとだけ、こうしててもいい?」

「……ああ、うん。もちろんだ」

「ありがとう」

「それとクロ、言わなきゃいけないことがあったんだ」

「なに?」

「これまで君にしてきたこと、これから君にしてもらわなきゃいけないこと――それを考えると一回謝っただけじゃ足らないなって。でも……謝るだけじゃダメなんだ」

「ふうん?」

 期待するようにクロエは答えた。

 フィルが何年もかけてクロエを、シロ・ピースフィールを利用しようとしたことをスッキリ許しているわけではない。だが、そうしようとしたフィルの気持ちも理解出来るし、少しは納得も出来ている。昨日の地下基地の出来事のように激怒することはないと断言できる。

 何度も深呼吸を繰り返すフィルを見てクロエは困ったように笑った。まだ自分が笑えていることに驚きながら、決意を固めたらしいフィルが見つめてくるのを頷いて応える。

「もう一度君と親友になりたい。今度は本当の絆を結びたい」

「なんだかプロポーズみたいね」

「……ダメ、かな」

「そんなことない。今度はちゃんとクロエ・ブルームとして、もう一度やり直しましょ?」

 声もなくフィルは涙を流した。頬に触れていたクロエの手に伝わったそれは温かみをもって濡らしていく。

「泣くほどのこと?」

「泣くほどのことだよ。僕は……拒絶されるかもしれないと思っていたから」

「そんなこと――でも、私も謝らないとね」

「なにを?」

「昨日はひどいこと言っちゃったでしょ。本当に悪いと思ってる。ごめん」

「いいよ。君の事情を考えればあれが当然だもの。……それとさ、もうひとつ」

「ん?」

「アコニットはこの世界が嫌だったとクロは教えてくれたね。でもメーベルに仕えていた日も悪くないとも言っていたんだよね」

「……うん」

「やっぱり僕はそれが嬉しいんだと思う。うまく言えないけど……アコニットの気持ちは分からないでもないんだ。自分はどこまで出来るんだろう。そうやっていろんなことに挑戦してきたから、分かるんだ。僕の場合は音楽に興味があったけど挫折して、アコニットは自分の力を試そうとして――」

 言葉に詰まったフィルは左手でクロエの右手を軽く握る。

 試そうとして、死んでしまった。フィルは自分の仲間だと思っている人物が裏切り者という事実に深い悲しみを抱いているのだとクロエは直感した。彼女は怒りのほうが強いが、彼は違うのだ。

「――弱い奴らは要らない、か。確かに合理的だよ。でもそれを押し付けるのは強い奴らの、サラマンダーの都合だ。そんなものに振り回されて付き合うつもりはない。そんなものに賛同したアコニットにも僕は怒ってる。でも……ダメなんだ。僕は彼女に怒れない」

「分かってる」

「アコニットもこの世界に嫌気がさしてたんだ。でも同時に、僕たちに近いところで居場所を見出してたんだと思う。本当に僕たちのことがどうでもいいなら、自演の誘拐事件につきあう必要なんてどこにもなかったんだから」

 やはりフィルもそこに行き着く。そのことにクロエは心の底から安堵して、確信した。

 フィルと自分は違う人間だ。自分に至っては人間ですらない。だからいなくなってしまったアコニットへの感情は違うものだ。だが、最後に行き着いた結論は同じだ。

 だから私たちは友人に、親友になれる。何度だって。そこでクロエは全身がぐっと重くなるのを自覚した。ほとんど1日、心休まることなく駆け回っていたが、ようやく休める時間が来たのだ。

「……クロ、クロ? 寝ちゃったの、こんなところで……でも、ありがとう。ゆっくり休んで――もしもし、シー? 悪いけど来てくれないかい? うん、プリズム大橋のベンチにいる。クロも一緒だ。クロを背負ってセントラルまでお願いしたいんだ。あー、うん、ありがとう。待ってるよ」

 日の出。晴れやかな空に穏やかな橙色をもって太陽が空を染め上げていく。フィルの膝下に頭をうずめたクロエが、そんな景色を見ることはない。

 だからフィルは自分の携帯電話のカメラ機能を起動して一枚だけ撮影した。クロエが目覚めればきっと喜びながら見せるだろう。そんな近い未来を予想して彼は満足するように頷いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。